炭焼小五郎

炭焼小五郎伝説炭焼小五郎口説き真名野長者伝説1真名野長者伝説2般若姫伝説類似伝説伝承・・・
 

雑学の世界・補考   

炭焼小五郎・伝説1

全国的に広く分布する炭焼小五郎伝説は、三重町が発祥の地であるといっても過言ではあるまい。内山に伝わる古文書によれば、次のとおりである。
炭焼小五郎の話 昔、玉田の里に藤治という子供がいた。三歳で父に、七歳で母に死に別れた藤治は、内山に住む炭焼又五郎に引き取られて成人した。その又五郎も八十一歳で他界したので、藤治は名前を小五郎と改めてそのあとを継いだ。
そのころ、奈良の都に久我大臣の娘で玉津姫という女がいたが、年ごろになって急に顔一面に黒いあざができて嫁にもらう人がいない。姫は日ごろ信仰する三輪明神に、良い縁談を授かるように二十一日間のおこもりをした。
満願の朝方、夢の中に神が現われ、「豊後三重の里に炭焼小五郎という者がいる。この者と夫婦になれば末は長者になるであろう。」とのお告げがあった。
姫は明けて十六歳の春、ひそかに都を抜け出て豊後に下り、臼杵の港から三重の里を目ざして歩いて来た。三重に着いた時にはもう夕暮れで道らしい道もない。途方にくれているところへ一人の老人が現われ、「小五郎はよく知っているが、まだだいぶ道のりもあるので今夜は私の家に泊まりなさい。」といい、家へ案内する。老人の家には花々が咲き乱れ、家は立派で多くの女たちもいた。姫はそこにいた天女から、「ここは真名野長者の家で、金亀ケ淵で顔を洗えばその黒いあざも落ちる。」と教えてもらった。
一夜が明けるとそれは夢で、自分は前夜の松の根元に眠っており、老人もそこに寝ていた。老人は姫を伴なって小五郎の家に来たが、まことに粗末な家である。老人は姫をそこにおくとたちまち見えなくなった。
まもなく手足も顔もまっ黒で髪も藁で結んだ若者が帰って来たので、姫は小五郎であることを確かめ、三輪明神のお告げではるばる都から来たことを告げ、夫婦になることを話すと、小五郎は驚いて、「自分一人でもやっと暮らしているのに…。」と断わる。
姫は都から持って来た黄金を出して見せ、これがあれば生活には困らないというが小五郎はわからない。姫にすすめられて小五郎はその黄金を持って食物を求めに出て行ったが、間もなく帰って来た。姫が尋ねると、小五郎は、「そこの下の淵にカモがいたのであなたに取ってあげようと思い、あの光る石を投げたが当たらずカモは逃げてしまった。」という。姫はその無知に驚いて、「あれはこの世の宝で、あれがあれば何でも求める事ができるのです。」といえば、小五郎は、「あんなものが宝なら、私が炭を焼いている山やこの下の淵にいっぱいある。」という。姫は半信半疑で小五郎について行くと、そこは黄金の山であった。そして淵からは黄金の亀が浮いて夫婦の将来を告げて消える。姫はここが金亀ケ淵であることを悟り、顔を洗うと夢で教えられたとおり、たちまち黒いあざは落ちて美女となった。小五郎もこの淵で体を洗うとこれも美しい若者になった。二人はその黄金を拾い集めて金持になった。他の人々はさがしたが見付けることはできなかった。金持になった小五郎は各地から宝物を買い集めて、四方に万の蔵を建てるほどになったので人々は「万の長者」「満野長者」とよび、後には「真野長者」「真名野長者」となった。
小五郎は仏教を信じ、唐の天台山に黄金三万両を贈ったので、天台山から蓮城法師が観音・薬師の像を持ち来朝した。長者は蓮城を迎えて内山に寺を建立したが、これが今の蓮城寺である。
長者夫婦にたいへんきれいな娘が生まれ、これを般若姫と名付けた。姫の美しい事は唐土にまで聞こえ、唐の帝は姫の絵姿を作って来るように人をつかわし、姫そっくりの人形を作って水晶の箱に入れて持ち帰るほどであった。姫の美しい事は奈良の都にも伝わり、皇子の后にと再三の要求があったが、長者は「一人娘なので…。」とお断わりを申し上げると、都からは種々の難題をかけられるが、長者はその財力でことごとく解決した。たまりかねた皇子は(橘豊日皇子、後の用明天皇)は姿を変えてひそかに都を離れて名前を山路と変え、牛飼となって長者の家に住み込む機会をねらっていた。般若姫が重病にかかり、神に伺いをたてると、「宇佐八幡の放生会で流鏑馬を奉納すれば姫の病気は直る。」と出た。しかし流鏑馬のできる者は田舎者の家来の中にはいない。いつも笛ばかり吹いている山路がそれができることがわかり、山路に流鏑馬をやらせる。その時宇佐八幡が出現して長者に山路は皇子であることを告げる。長者は大いに驚いて姫の婿とする。
そのうち、都にこのことが知れ、天皇の病が重いので早く帰るように使いが来る。皇子は、「生まれた子供が男なら都に連れて来るように、女だったら長者の跡取りにせよ。」といって都に帰って行った。般若姫は子供を産み、女だったので玉絵姫と名付け、長者の家へ残して都へ上ることになり、臼杵の港から船団を組んで船出をした。長者夫婦は近くの山に登って姫を見送ったのでここを姫見ケ岳(姫岳)という。だが姫は大嵐にあい途中の島に上がって休んだ。ここを姫島という。やがて船団も整ったのでここを出発したが、周防の海でまた嵐にあった。船は沈み姫は近くの浜に上がって井戸の水を飲んで、柳のようじをそこにさしたのがついて大きくなったのでここを柳井という。姫はここでとうとう亡くなったが、ここにもゆかりの寺(般若寺)が建っている。姫を失った長者夫婦は大いに嘆き、その供養のため石仏を彫ることを発願して臼杵深田の地に石仏を彫り、満月寺を建立したのである。長者は推古天皇の十三年九十七歳で、玉津姫は九十一歳で世を去ったという。長者の子孫は草刈氏といい、今も臼杵に残っている。内山には長者夫婦の墓や夫婦と般若姫の木像などがある。
 
炭焼小五郎・伝説2  
真名野長者伝説(まなのちょうじゃでんせつ)
大分県に伝わる民話である。特に定まった題名はなく、話し手や著者によって「炭焼き小五郎伝説(すみやきこごろうでんせつ)」「般若姫物語(はんにゃひめものがたり)」「真名の長者と般若姫(まなのちょうじゃとはんにゃひめ)」などと、様々に呼ばれている。
大和朝廷の時代、都に、顔に醜い痣のある姫がいたが、仏のお告げに従って豊後国深田に住む炭焼き小五郎の許へ行き夫婦になる。
2人は数々の奇跡により富を得て長者となり、1人の娘が生まれた。般若姫と名付けられた娘は都にまで伝わるほどの美女に成長し、1人の男と結婚するが、実はその男は都より忍びで来ていた皇子(後の用明天皇)であった。
皇子は天皇の崩御により都へと帰ることになったが、姫は既に身重であった為、「男の子が産まれたなら、跡継ぎとして都まで一緒に、女の子であったなら長者夫婦の跡継ぎとして残し、姫1人で来なさい」と告げて帰京してしまう。
産まれた子供は女の子であった為、姫は1人で船に乗り都を目指すが、途中嵐に会い周防国大畠に漂着する。村人による介抱も虚しく数日後に姫は逝去してしまう。
姫の死を悲しんだ長者は中国の寺に黄金を送ると共に、深田の岩崖に仏像を彫らせた。その仏像が現在も残る国宝臼杵石仏である。 という物語である。
民話の伝承
臼杵石仏の制作年代は、仏像の様式などから平安時代後期〜鎌倉時代と推定されている。よってこの長者の時代とは数百年の差があり、直結するとは言い難い。
しかし、過去に石仏を彫らせるほどの富を得た長者がいたことは事実であろうと考えられ、石仏近くの満月寺には室町時代の作とみられる「真名野長者夫婦石像」が伝わっており、伝説そのものもかなり古くからあったことが分かる。
伝説中に出てくる「用明天皇が皇子の時に九州大分まで旅して来ていた」との伝については疑問視する声も多いが、大分市坂ノ市にある万弘寺は用明天皇の創建であることが伝えられており、近年の調査によっても法隆寺と同等の伽藍配置を持っていた可能性が指摘され、地元民俗学者の肯定材料となっている。
また、同じく伝説の中で語られている「姫島の由来」(後述)についても、現地姫島では「古事記に記されているイザナギとイザナミから産まれた女島(天一根)であることに由来する」とされており、一致しない。
民話の性質上、語り手や著者によって様々な脚色が加えられ非現実的な内容に変わっていることも少なくないが、神話などと同じく、ある1つの事実に基いて作られた可能性は否定できない。
民話として語られる伝説の骨子[編集]1.継体天皇の頃、豊後国玉田に、藤治という男の子が産まれたが、3歳で父と、7歳で母と死に別れ、臼杵深田に住む炭焼きの又五郎の元に引き取られ、名前を小五郎と改めた。
2.その頃、奈良の都、久我大臣の娘で玉津姫という女性がいたが、10歳の時、顔に大きな痣が現れ醜い形相になり、それが原因で嫁入りの年頃を迎えても縁談には恵まれなかった。姫は大和国の三輪明神へと赴き、毎晩願を掛けていた。
3.9月21日の夜、にわか雨にあった姫は拝殿で休養していた所、急に眠気を覚え、そのまま転寝してしまった。すると、夢枕に三輪明神が現れ、こう告げた。「豊後国深田に炭焼き小五郎という者がいる。その者がお前の伴侶となる者である。金亀ヶ淵で身を清めよ。」
4.姫は翌年2月に共を連れて西へと下るが、途中難に会い、臼杵へたどり着いた時には姫1人となってしまっていた。人に尋ね探しても小五郎という男は見つからず、日も暮れ途方に暮れていた所、1人の老人に出会った。「小五郎の家なら知っておるが、今日はもう遅い。私の家に泊まり、明日案内することにしよう。」
5.翌日姫が目を覚ますと、泊まったはずの家はなく、大きな木の下に老人と寝ていたのであった。老人は目を覚ますと姫を粗末なあばら家まで案内し、たちまちどこかへ消えてしまった。
6.姫が家の中で待っていると、全身炭で真っ黒になった男が帰ってきた。男は姫を見て驚いたが、自分の妻になる為に来たと知り更に驚いた。
7.男は「私1人で食べるのがやっとの生活で、とても貴女を養うほどの余裕はない」と言うと、姫は都より持ってきた金を懐から出し「これで食べる物を買って来て下さい。」と言って男に渡した。
8.金を受取った男は不思議そうな顔をしながら出て行った。麓の村までは半日はかかるはずであるのに、半時もしないうちに手ぶらで帰ってきた男は言った。「淵に水鳥がいたので、貴女からもらった石を投げてみたが、逃げられてしまったよ。」
9.姫は呆れ返って言った。「あれはお金というものです。あれがあれば、様々な物と交換できるのです。」
10.すると男は笑いながら言った。「なんだ、そんな物なら、私が炭を焼いている窯の周りや、先程の淵に行けば、いくらでも落ちているさ。」
11.姫は驚き、男に連れて行ってくれるように頼んだ。行ってみると、炭焼き小屋の周囲には至る所から金色に光るものが顔を出しており、2人はそれらを集めて持ち帰った。
12.更に水鳥がいたという淵へ行ってみると、中から金色に輝く亀が現れ、そのまま水の中へと潜って行った。
13.「ここがお告げにあった「金亀ヶ淵」に違いない!」と思った姫は淵の水で身を清めた。すると顔の痣は瞬く間に消え去り、輝くばかりの美しい姿となった。
14.2人は夫婦となり、屋敷を建てた場所が真名野原(まなのはら)という所であったことから、「真名野長者」と呼ばれるようになった。
15.やがて2人の間には娘が産まれ、般若姫と名付けられた。姫は成長すると輝くような美女になり、その噂は遠く都にまで伝わって行った。多くの貴族たちが后にと使いを送って来たが、長者夫婦は「大事な跡取り娘であるので」と断り続けた。
16.その頃、都では皇子達の間で後継争いが勃発していた。兄は有力豪族の支援を得て優勢であったが、弟はいつ暗殺されてもおかしくないほど危うい状況であった。弟は豊後国の美女の噂を聞き、「どれほどの美女かこの目で見てみたい」との口実を作り都を脱出する。豊後国に到着すると宇佐八幡宮へ参拝して皇位を預け、名も山路と変えて長者の屋敷の下働きとして潜り込んだ。
17.長者は使用人達や客人をもてなす為の建物を幾つも建てたが、これらが竣工する頃になって姫が病に臥せってしまった。長者はあらゆる名医やまじない師を呼んだが治る気配は無かったが、山王権現へ祈願したときに「三重の松原にて笠掛の的を射よ」とのお告げがあった。
18.長者の周囲の者は笠掛の的を知らず困惑したが、山路が知っているというので命じてみると直ぐに馬に乗り的を射て山王権現より錫杖の下賜を受けて戻って来た。
19.長者は姫が回復すると2人を娶わせ、新たな屋敷を建てて住まわせようとしたが、屋敷が完成する前に勅使が下向し兄天皇の崩御を伝えてきた。
20.山路は長者に本当の身分を明かし、都に帰らなければならないことを告げた。しかし、般若姫は既に皇子の子を身籠っており、共には上京できない状態であった。
21.翌年、般若姫は女の子を出産し、玉絵姫と名付けた。般若姫は玉絵姫を長者夫婦に預けると、千人余りの従者を引き連れて臼杵の港より都へ向けて出発した。
22.長者夫婦は山の上から船を見送り、その山は姫見ヶ岳と呼ばれるようになった。また、姫の一行は、途中豊前国の小さな島に立ち寄り、これが現在の姫島(大分県)である。
23.般若姫を乗せた船はしばらく順調に航海を続けるが、周防国田浦にて暴風雨に巻き込まれ遭難。大畠に漂着したところを地元の村人に救助され介抱を受けるが数日後に他界。享年19。
24.姫の死を悲しんだ長者は姫の菩提を弔う為、中国の寺へ黄金三万両を贈った。すると中国より蓮城法師が長者の為にやって来た。
25.長者は満月寺を建立して法師の居とし、石仏の製作を依頼した。法師は数年の歳月をかけて深田の里一帯に石仏を彫った。これが現在の国宝臼杵石仏の由縁である。
26.その後、推古天皇の時代に長者は97歳で、玉津姫は91歳でこの世を去った。
上演[編集]地元の有志たちにより、大分方言で上演されることもあるが、完璧な豊後方言で上演すると、ほとんどの観客には意味が通じない為、現代方言を更に簡略化した形で行なわれることが多い。
「炭焼き小五郎」の伝説がいつ頃から伝わっているのかは定かではないが、真名野長者という名前自体は、室町時代に書き記された幸若舞・「烏帽子折」の中に、「つくし豊後の国内山といふ所に長者一人有」「まのどのとこそ申けれ」とある。
【炭焼長者】タイプの伝承は北海道を除く日本各地にあるが、小五郎が真名野長者に結び付けられ、石川県の「芋掘り籐五郎」が藤原吉信の子孫とされて墓まで残されているように、伝説化されていることは少なくない。中国でも、[トン]族の「楊梅樹」のような例がある。 
 
炭焼き小五郎口説き

 

扇めでたや末広がりて 鶴は千年亀万年と 
祝い込んだる炭窯の中  真名野長者の由来を聞けば 
夏は帷子冬着る布子 一重二重の三重内山で
藁で髪結うた炭焼き小五郎 自体小五郎は拾い子なれば 
どこの者やら氏筋ゃ知れぬ  氏が知れなきゃ奥山住まい 
もとの氏すを調べてみれば 父は又五郎玉田の育ち
姫の氏すを尋ねて聞けば 氏も系統も歴々知れた 
都大内久我大納言  大納言とも呼ばれし人の 
一人娘の玉津姫よ 何の因果か悪性な生まれ
広い都に添う夫がない 夫がなければ三輪明神に 
七日七夜の断食籠り  六日籠りてその次の晩 
夜の九つ夜中の頃に 六十余りの老人様が
姫よ姫よと二声三声 姫は驚き夢をば覚ます 
姫よよう聞け大事なことよ  そなた一代連れ添う夫は 
ここにゃないない都にもない 下に下りて九州や豊後
九州豊後や臼杵の奥で 夏は帷子冬着る布子 
一重二重の三重内山で  藁で髪結うた炭焼き小五郎 
これがそなたの連れ添う夫よ 云えば姫君打ち喜んで
髪の御殿を急いで下る 急ぎゃ程なく我が家へ帰り 
急ぎ急いで旅装束よ  手ぬき手ぬぐい水掛脚絆 
足に草鞋で背には油単 小判四十両肌にぞ付けて
笠にゃ同行二人と書いて 三節込めたる寒竹の杖 
急ぎ急いで旅路にのぼる  人に恥ずかし我が身に嬉し 
嬉し恥ずかし尋ねて下る さして行く手は九州豊後
伏見街道は夜の間に下り 出でて来たのが大阪城下 
大阪川口便舟探し  九州下りの便舟に乗り 
舟を出したが日の出の頃よ 舟は新造で帆は六反で
船頭一人で水夫三人よ 潮は連れ潮風ゃまとも風 
追い風よければ帆を巻き上げりゃ  男波女波が船べり叩く 
ここはどこよと舟子に問えば ここは一ノ谷敦盛様の
御墓所があな愛おしや またも急いで明石に下る 
ここはどこよと舟子に問えば  ここは明石の舞子が浜よ 
あれに見ゆるが淡路の島よ 播磨灘さよ波穏やかで
心のどかな舟路の旅よ あれに見ゆるが小豆が島で 
急ぎゃ程なく水島灘よ  阿伏免観音拝みを上げて 
旅の安全御加護を祈り 瀬戸の島々左右に眺め
舟は急いで川尻過ぎりゃ 音に聞こえし音戸の瀬戸よ 
瀬戸の連れ汐まともに受けて  着いた所がここ上関 
上関にて汐がかりする 汐の淀みに碇を巻いて
舟は急いで姫島に着く 沖は荒波風待ちなさる 
そこで姫君陸には上がる  姫ヶ島にて紅カネ着けりゃ 
花も恥らう美人に変わる 鏡代わりに覗いた井戸が
今の世までも姫島村に 七つ不思議の一つで残る 
風もおさまり舟出をなさる  着いた所は府内の城下 
またも急いで臼杵に下り 城下外れの宿屋に泊まる
そこで姫君四五日逗留 宿の亭主や近所の人に 
道の様子を細かに訊いて  今日は日が善い御山に登る 
山の峰々また谷々を 都育ちの慣れない足に
杖を頼りにようやく越える 山の麓で草刈る子供 
そこで姫君物問いなさる  もうしこれいな子供衆さんよ 
一重二重の三重内山で 藁で髪結うた炭焼き小五郎
どこが住いか教えてたもれ 云えば子供の申せしことに 
よそのおばさんあれ見やしゃんせ  はるか彼方が三重内山よ 
雲にたなびき煙が見える あえが炭焼き小五郎の住い
云えば姫君打ち喜んで 杖を頼りに煙が見ゆる 
急ぎ急いで御山に登り  山の峠で山師に出会う 
そこで姫君物問いなさる もうしこれいな山人さんよ
これなお山で炭焼く小五郎 どこの住いか教えてたもれ 
云えば山人申せしことに  これなお山で炭焼く人は 
他にゃないない私が一人 小五郎さんとは私がことよ
云えば姫君打ち喜んで さても嬉しや妻御が知れた 
小五郎さんなら私の夫よ  そこで小五郎が申せしことにゃ 
一人すぎさえ出来ないものを 二人すぎとは思いもよらぬ
御免なされと袖振り放す 姫は泣く泣く小褄にすがり 
あなた嫌でも出雲の神が  結び合わせたご縁でござる 
どうか子細を聞かれて給え 云えば小五郎が不憫に思い
何はともあれ夕暮れ時に 外に人家もない山里で 
心細かろ難儀であろう  今宵一夜の宿貸しましょと 
姫を連れ立ち住いへ帰る 萱の庵の柴戸を上げて
さあさお入り都の姫よ 粥を煮立てて夕餉をすませ 
炉端挟んで四方山話  そこで姫君物やわらかに 
神のお告げや身の上話 一部始終を細かに語る
縁は異なもの一夜の宿が 二世を誓うて夫婦の契り 
一夜明ければ夫と呼ばれ  妻と呼ばれてうら恥ずかしや 
そこで姫君申せしことにゃ もうしこれいな小五郎さんよ
二人すぎでは立たぬと言うたが 二人すぎする用意もござる 
肌に付けたる小判を出して  城下下りて米買うてござれ 
米がわからにゃ麦買うてござれ 麦がわからにゃ粟買うてござれ
それを知らねば手代に任せ 一分小判を肌には付けて 
とんで行く行く野山の道で  左小脇に小池がござる 
小池中にはおし鴨番 そこで小五郎が思いしことにゃ
あれを打ち取り都の姫に 今宵夕餉の土産にせんと 
あたり近所を見回すけれど  取りて投げそな小石もないよ 
肌に付けたる小判を出して とんとすとんと投げたる途端
鴨は舞い立つ小判は沈む 行くに行かれず我が家へ帰り 
我が家帰りて都の姫に  右の子細を細かに語る 
云えば姫君打ち驚きて さても愚鈍な我が妻様よ
あれはこの世の世渡る宝 あれが無くてはこの世が立たぬ 
云えば小五郎がにっこと笑い  わしが炭焼くあの谷々にゃ 
山の山ほどござんすしゃんす 聞いた姫君打ち喜んで
明日は日が善い金見物よ 銚子盃袂に入れて 
急ぎゃ程なく新黒谷よ  ここが良かろと茣蓙打ち広げ 
お酒飲む飲む金見物よ あれに見ゆるが大判小判
これに見ゆるは一分や一朱 聞いて小五郎は打ち喜んで
二人連れ立ち我が家に帰る  千駄万駄の駄賃を雇い 
拾い寄せたるその金銀を 朝日輝く夕日の下に
鶴は千年亀万年と 祝い納めて長者の門出 
その日暮らしの小五郎さんが  屋敷求めて家倉建てる 
四方白壁八つ棟造り 庭に泉水築山造り
朝日さすさすヤレ朝日さす 黄金千倍また二千倍 
七つ並べがまた七並べ  お前百までわしゃ九十九まで 
共に白髪のアノ生えるまで 真名野長者と世に仰がれて
語り伝わる今の世までも
 
真名野長者伝説1 (炭焼き小五郎)

 

玉津姫
はじめてわが国に仏教が伝わったころの遠いむかしのことです。
豊後の国三重郷・玉田の里に藤治という少年が住んでいました。少年は幼くして両親に死に別れ、炭焼きの又五郎に育てられ、その後をついで炭焼小五郎と呼ばれるようになりました。
そのころ、大和の都には、久我大臣に玉津姫というたいへんきれいなお姫様がいました。
かわいそうに顔一面にアザが出来、「どうかしてなおしたい」とのせつない娘心から、三輪明神に丑の刻まいりをはじめました。
満願の夜、まどろんでいると「豊後の国三重の山里に炭焼小五郎という者が住んでいる。
この者と夫婦の契りを結ぶなら末は長者となるであろう」とのお告げがあり、髪に杉の小枝がさされてありました。
翌春二月、十六才になった姫は都を抜け出して豊後に下り、三重郷の近くにたどりつき胸をときめかせながら身づくろいをしました。しかし、鏡の中の自分の顔はまだアザがなおっていません。
姫は悲しくなって鏡を捨ててしまいました。(大野町後田、鏡の地名となる。)
しだいに夜になり、途方に暮れていますと、白髪の老人が現われ、「小五郎ならよく知っている。今夜は私の家に泊っていきなさい。明日会わせてあげましょう」とすすめるので、姫は▽夜の宿を借りることにしました。その夜姫は夢を見ました。〈豪壮な屋敷、きれいな花、多くの侍女、おまけに金亀ヶ渕で顔を洗えばアザも落ちる〉……ヽ心のふくらむ夢でした。
翌朝、姫をみすぽらしい小屋に案内すると老人はす〜っと消えてしまいました。しばらくして粗末ななりをした若者が帰って来ました。「小五郎様ではありませんか」「そうです」神の引合わせと喜んだ姫は、若者の見苦しさも気にかけず、三輪明神のお告げによって都からはるばる下って来たことを話しました。
小五郎は苦しい生活なので困惑しながらも姫の頼みに負け、一緒に住むことになりました。
黄金
姫は持参の黄金を取り出し「これで何か食べものを買いましょう」と小五郎に渡しました。
しばらくして何も持たずに帰って来て「下の渕にカモがいたので捕えようとあの石を投げましたが当りませんでした」といいます。
姫は驚き「あれはただの石ではなく黄金という宝ものなのです」と教えました。
小五郎は「あの石なら炭廬のまわりや下の渕に沢山あります」と答えました。姫はビックリしてさっそく連れて行ってもらいました。
渕には沢山の黄金があり、水が渦巻いて金色の亀が浮び上って来ました。
〈昨夜の夢に現われた金亀ヶ渕にちがいない〉そう思って姫は顔を洗いました。
するとアザはみるみる消えて美女になり、小五郎も体を洗うとステキな美男に変身しました。
二人は黄金を拾い集め、あっという間に長者になり人々から〈真名野長者〉と敬まわれるようになりました。
長者になると小五郎はますます信心深くなり、唐の天台山へ黄金三万両を贈りました。
天台山では、鉄則天皇の御代(敏達天皇の時ともいう)に百済の僧・連城法師に薬師観音の尊像を持たせ返礼のため来日、寺をつくらせました。
今三重町内に現存する蓮城寺(内山観音)はこうして創建されたのです。
また、小五郎はかつて商いのため津の国、浪速(大阪)に行ったとき、伊予松山の高浜の沖で遭難し、観立日の霊験によって救われました。長者はお礼のために▽夜のうちに御堂を建てたといわれます。現在の四国霊場八十八ケ所五十二番札所太山寺(国宝)がその寺院です。
般若姫
長者夫婦には天女のような娘が生れ、玉世姫と名付けられ一寸八分の黄金の観音様を守り本尊にしました。(この仏像は今も蓮城寺の奥の院にまつられています)
姫はすくすくと育ち、その美しさは目本の国はもとより、さらに唐土にまで聞え、般若姫と呼ばれるようになりました。
(橘豊日皇子)そのころ、欽明天皇の皇子、橘豊日皇子(後の用明天皇)は十六才ですが、まだ、后がありません。
公卿・殿上人が集って、全国にふれをまわしたところ〈豊後国、内山の長者の娘が美しい〉との奏聞があり、さっそく勅使が下向いたしました。
長者は〈娘は観音の申し子である〉といって、いくら難題をふきかけても一つ一つ解決して勅命に従いません。
とうとう皇子は姿をかえて豊後に下りました。
皇子の着いたところを王ノ瀬(大分市人在)といいます。山路(さんろ)の名前で長者の館に牛飼いとして奉公しましたが、なかなか深窓の姫の姿を見ることが出来ず、牛の背に乗り笛ばかり吹いていました。
あるとき皇子が神に祈りますと、たちまち猿の大群が集って来てお屋敷では大異変が生じ、皇子はこれを鎮めてようやく姫の姿を見る始末でした。
さて、都では皇子の姿が見えなくなっておおあわて占いをすると〈宇佐八幡の放生会を真名野長者に行わせれば戻る〉と出ましたので、これを長者に引き受けさせることになりました。
しかし放生会に必要な流鏑馬の儀式を知っている者がいないので、長者は〈古式を知っている者がいたら婿にしよう〉といいました。
ところが思いもかけず牛飼いの山路がそれを知っていました。山路は古式を披露し無事放生会をすませて婿となりました。
やがて、宇佐八幡が現われ「皇子よ、早く都へかえりなさい」と告げました。
これには庄内の浅井長治という男がかねて皇子が三重の内山に来ている事を知って通報したからだといわれます。
長治はその功によって後に朝廷より朝日長者の称号を賜りました。(庄内町・直野内山観音のおこり)また、近くの玖珠地方に優雅な「山路踊り」が伝わっているのは、のちに久留島候が京都から伝えたといわれています。
婿が皇子だったことに長者は驚きました。姫はすでに身ごもっていたので、皇子は「男子なら連れて上洛せよ。
女児ならば長者の世継ぎとし、般若姫だけ上洛せよ」と言い残して帰京しました。
帰途、皇子は海部郡日吉の邑(大分市坂ノ市)を通られましたが、ご発病のため、歩み疲れて大石に腰をおろしてお休みになりました。
ご病気が重いのでしばらくその地にとどまられ、豊国法師に薬師如来の石仏を刻ませ平癒の祈願をとり行った後、回復をまって船を出されましたが、後にこの地に御子聖徳太子が万弘寺を造営されました。
(豊後灘)まもなく般若姫は出産しましたが女児(玉絵姫といわれています)だったので世継ぎとして長者のもとに残し、姫だけ臼杵港から上洛することになりました。長者は近くの山上から姫を見送りました。この山は現在臼杵市と津久見市の境にあり〈姫岳〉と呼ばれています。
船は途中深江の浦(日出町大神)に立ち寄り、都よりお迎えに来た勅使の船と合流して出港しましたが、海上が荒れて別れわかれとなり、姫の船は熊毛の浦に吹き流されました。十日程滞留し、日数もたったので向うに見える島に渡り天気の回復を祈って順子舞の祝儀をとり行い、種々の舞を奉納して、一同、旅の疲れを忘れて打ち興じました。(キツネ踊りの由来と伝えられております)
この時、姫は御手ずから楊枝を野にさされて仮屋におやすみになりましたが、翌朝不思議にもその楊枝は瑞々しく生長して三つの青芽が出たと云われます。
天気もおさまり、出港になられましたが、これよりこの島を姫島と言い伝えています。
(周防灘)船は再び都をさして進み周防の国の平群島の近くで大暴風雨に遺い、大畠の鳴門の瀬戸に吹き着けられました。
天気もおさまり水を求めて上陸、泉のほとりに楊枝をさされ、▽夜のうちに大木に生長して、柳井市の地名の起源となりました。
姫は心身の疲労が重なり、ついに帰らぬ人となり、その遺体は魚の証(伊保証)の山頂(平生町)に葬られました。
行年十九才。般若寺は姫の菩提寺です。
(贈官)般若姫、蔓去の報が伝わると宮中ではたいへん悲しまれ、若君のなげきは殊更でした。「この上は悔いて益なし、今は贈宮をしよう」ということになり、般若皇太后と御溢を下され洛北に一基の小社を造営し、般若之宮としておまつりになりました。
玉絵姫
数年が過ぎ忌もあけると長者は家臣を都へ遣わして「豊目の皇子の姫君、玉絵姫もしだいに成長なされました。
都へお召し上げなさるかどうか」とお伺いを立てました。
宮中ではかねて皇子との約束もあるので望み通り姫を長者に給い、さらにその夫として大内より伊利大臣の第三の男子、金政公という当年十三才になられた智勇最も勝れた若君を遣わして長者の世継ぎとしました。
長者夫婦はもとより家人に至るまで大喜びをいたしました。人皇三十一代敏達天皇のご即位には、ご祝儀として金政公に五千八百代の地を贈り、橘の豊目皇子がかつて長者の草刈となった故事により、金政公の御姓名を草刈右衛門前と名づけ、橘の氏次と名乗るよう勅定がありました。
氏次公は武備にも長じ、長者父子相たずさえて領内を治めました。草刈氏は今でも連綿としてつづいています。
草壁、草野、草場、草本、大草、深草等の姓は草の一字をゆるされたご小姓達の末裔と伝えられています。
臼杵石仏
姫を失った長者夫妻は歎きかなしみました。こうしたある目、長者は蓮減法師から天竺にある祇園精舎の法話を聴きました。「人の命は限りあるもの、できることなら精舎の姿を豊後の地に再現したい、仏縁を世に残したい。姫の供養もしたい」と発願して石に仏のお姿を彫ることにしました。
臼杵市深田の里に満月寺が創建され、岩壁に仏像が彫られて行きますが、工事は難航してはかどりません。
この時、異憎が現われ、妙術で工事を助けますとたちまち完成しました。
開眼の目、姫岳の上には紫雲がたなびき妙なる楽の音が天上に響き渡ったそうです。
長者は推古天皇十三年に九十七才で、玉津姫は同十年に九十才で世を去りました。
後世、人々は長者の徳を慕い、その悲願を継承して、仏法を広め、さらに石仏を刻み続けました。こうしてわが国最大、国指定特別史蹟・重要文化財の臼杵石仏群が出来上って行きました。 
 
真名野長者伝説2 (炭焼小五郎・般若姫物語)

 

炭焼小五郎の生い立ち
炭焼小五郎は、継体天皇三年(西暦五〇九年)、豊後(現・豊後大野市三重町玉田)の玉田に生まれ、幼名を藤次といった。藤次は三才で父に、七才の時、母に死なれ、哀れなみなしごとなり、路頭に迷う身の上となった。藤次は、三重の山里の炭焼又五郎という炭焼の慈悲で引きとられ養育された。この養父が八十一歳で世を去り、藤次は二十一歳で、その跡目をついで名を小五郎と改め、炭焼きをすることになった。 
玉津姫都から豊後へ下る
その頃、都のある大臣の娘に、玉津姫という絶世の美人がいたが、どうしたことか、にわかに顔や体にあざが出来、まことにみにくい女になってしまった。これまで降るようにあった縁談も絶え、親娘は毎日暗い日々を送っていたが、三輪明神は縁結びの神様ときいた姫は、それから毎夜、願掛け参りをして良縁を祈った。
九月末の満願の夜、姫が一心に祈願をこめていると、にわかに雨が降りだし、その激しさは車軸を流すごとく、姫は、びっくりして社殿内に身を避けたが、雨はなかなか止まず、いつしか、うとうとと夢路にはいってしまった。その時、容貌美しき翁の姿が現われて、
「姫、そなたの夫は決まっている。これより遠くはなれた豊後の三重の里に、炭焼の小五郎という若者がいる。愚かで自分の名も書けぬ山男だが、この者と夫婦になれば、行末は富貴自在にして栄耀は心のままである。決して疑ってはならぬぞ」
と、おおせになって、小さな杉の葉で姫の頭から足先まで、
「善哉々々、行末を守護するぞ」
といって払い、杉の葉を姫の髪にさすと姿が見えなくなった。
やがて夢からさめた姫は、髪に手を当て杉の葉に気づくと、はっとして神前を伏し拝み、帰って両親にこのことを話し、豊後に旅立つことを願った。両親は遠方へ娘を出す不安から泣いてとめたが、娘の決心は堅いので、やむなく金四十両を身につけさせて旅立たせることにした。その翌年の春二月、姫は、はるばる豊後をさして出発したが、その時、十六才であったという。 
小五郎と姫の対面
姫は途中、ずいぶん難儀をしたが、三月十三日、ようやく音に聞こえた豊後の三重の松原についた。しかし、歩いていこうにも日は西に傾き、人里離れた道端で疲れはて途方にくれたが、三輪明神の加護を念じていると、そこに薪を負うた白髪の老人がやってきた。そこで、事の次第を話し、こちらに炭焼小五郎という人が居ると聞いて、はるばる都から参りましたので、ご存じでしたらその人に会わせてくださいとお願いしたところ、老人は、
「それはさぞ、お疲れであろう。今宵はおそいからわたしの家に泊りなさい。明日、その人に会わせてあげましょう」
と言い、その夜は老人の情で一夜の宿を借り、翌日、老人に伴われて山麓の一軒家を訪ねたが、小五郎は不在であった。老人は、
「ここが小五郎の住家である。ここでしばらく休んでおればやがて帰ってくるであろう」
といって、その声とともに姿は見えなくなった。 
夫婦となる
姫がただ一人、入り口で待っていると、下手の方から歌声がして、わらびやせりを持った男が帰ってきた。体は汚れ着物はあかだらけ、髪はぼうぼうと乱れているが、やさしい目つきをした若者であった。これが小五郎である。姫が小五郎に神のお告げの次第を話し、夫婦になってくれというと、小五郎は、びっくりして、
「有り難いお志だが、このあばらやで、一人でさえ朝晩の飯も食うや食わずで、あなたに食事もあげられない有様では、お断りするほかはない」
といった。これを聞くと姫は身につけてきた黄金を取り出して、
「これで食物を買ってきてください」
といってそれを小五郎に渡した。小五郎はその黄金を持って出ていったが、しばらくすると手ぶらで帰ってきた。わけを聞くと途中の淵に、おし鳥がいたので、それをとって都のお客にごちそうしようと思って、石のかわりに黄金を投げつけたら鳥は逃げ黄金は沈んだ、というのである。姫は、この人は黄金さえわからぬ愚かな人か、となげいた。
「あれは黄金といって、この世の宝でございます。あれだけあれば私たち二人が暮らしていけるのに…」
というと、小五郎は、
「あんな石ころが黄金で宝なら、先ほどの淵や、わしの炭焼窯(かま)のまわりにいくらでもある。ありすぎて迷惑しているくらいだ」
といって笑った。この不思議なことばに驚いた姫が、小五郎といっしょに炭焼窯へ行ってみると、小五郎のいったとおり、その辺り一面に黄金が散らばっていたので、二人はそれを拾い集めて家に運び込んだ。翌早朝、淵にも行って集め大量に貯えた。
そして、めでたく夫婦になった。継体天皇二十五年三月十五日(西暦五三一年)であったという。 
三つの淵の御利益で繁栄
その後まもなく玉津姫は、山王権現の夢枕のお告げに従い、淵に入って体を洗い清めると、不思議なことに、あのみにくいあざが治って、姫は元のようにきれいな姿に立ちかえった。姫はこの奇跡に驚き、小五郎にも水浴を勧めた。小五郎が、その淵に飛び込んで体を洗うと、猿のような顔をしていた彼が、たちまち知恵のある聡明そうな美男子になった。二人は大変喜び、神恩に深くお礼を申しあげた。
その時、淵には金色の亀が浮び上って二人を祝福するように、水面を泳いでみせ、鳥になって飛び去ったという。それで金亀ヶ淵という。あまりの御利益に姫が淵について尋ねると、小五郎は淵ならまだあると言って、連れだって山道を登り姫を案内した。二つ目は、お茶をわかす茶釜が浮いてきたので釜が淵という。三つ目は箕が浮いてきたので箕が淵という。これらの三つの淵は、いずれも黄金(砂金)が湧きだし採れども採れども尽きることがなかったという。それからは黄金だけでなく、茶釜でお茶をたしなみ、箕でふるいわける五穀にも恵まれるようになった。
こうして三つの淵の御利益で、小五郎夫婦は大金持ちになった。やがて方々からこの噂を伝え聞いて、たくさんの人がやってきて小五郎の家来になった。これらの家来を使って山を開き谷を埋め田畑をつくらせたので土地が広がり、三年後には三千人の家来ができたという。下男下女もたくさん雇い、その家は五十七ケ所に建ち並んだという。しかし、子宝には、なかなか恵まれなかった。 
長者屋敷の造営と玉津姫の懐妊
小五郎の大金持ちの噂を聞いて、港に百済の船がやってくるようになり、小五郎は沢山の宝物や珍しい品物を買い求めて庫に納め、ますます富み栄えた。やがて、百済から渡来した大工をはじめ、近国の工匠を雇って、小五郎は三年七ケ月がかりで真名野原の地に、見事な御殿を造営した。
その新築祝いが八月十五日の夜、盛大に行われた。その有様は「満野長者旧記」に、
「秋のさ中のことなれば、尾花交りの薄紅葉、萩の上風音づれて、鈴虫ぞ鳴く折柄や、月も隈なく池水に、兎も波を走るかと、心浮かるる折柄に、薄の影の魚までも、打ち連れ泳ぎ遊ぶ様、あら面白き景色かな」
と記されている。
興に乗って来た時、にわかに大空が震動し満月が池中に飛び下って、しばらくはそこで転げ回っていたが、それが座敷に飛び上って、玉津姫の胸中に飛びこんだ。姫はそのまま気絶して大騒動となったが、百済から手に入れた妙薬を工匠大司、義長が姫の口に注ぎ込んだところ、ようやく姫は息を吹きかえした。そこで小五郎は重臣二人に山王宮に姫の病気平癒を祈願するよう命じた。
二人が夜通し祈願をし、うとうとしていると、白髪の老人が白絹の衣を着て鳩飾りの付いたつえを持って現われ、
「これは姫の懐妊で、めでたいことである。出生の子は容貌美麗な女子であろう。これは月の精が宿ったのである」
と告げた。これは夢告げであったが両人とも同じ夢であったので、不思議さを語り合って急いで帰り、これを報告したので小五郎夫婦は非常に喜んだ。 
般若姫の誕生と黄金仏
欽明天皇十年五月八日(五四九年)玉津姫は女の子を安産した。ところが、この子は生れて三日たっても泣かないので心配したが、玉津姫は金亀が淵の水で自分のあざが落ち、主人も美男子になったことを思い出して、淵の名水を汲んできてもらって口の中に注ぎ込んでみたところ、そのとたんに泣き出したという。そこで口の中を見ると三日月の黒あざがあった。これこそ月の精の宿る印であるという。その名を般若姫と名づけた。一書によれば、「生れし時、光一室を照らすゆえに玉夜の姫と名づく、後、観音の霊夢により般若姫と改む」とあるから、姫の美貌が想像されよう。
その翌年、百済の国から船頭、竜伯というものが来て、黄金の鋳仏一寸八分の千手観音を奉持し、
「百済の南にある普陀羅国(ふだら国)の島で、先年、漁夫が引上げたものでございます。霊験あらたかな御仏で、船中に安置すれば暗夜も月夜のごとく明るく、悪風も起こりませんので航海も安全です。それで般若姫様の守護仏として差上げます」
といって錦のしとねの上に安置した。すると、わずか生後十ケ月の姫が乳母の膝からはい降りて、小さな手を合せて三度これを礼拝した。そのとたん、不思議なことに仏の眉間から光明が姫の頭上を照らしたので、居合わせた者は大変驚いて仏を信仰するようになった。そこで小五郎夫婦は黄金一千両を差出して、
「これは仏の代金ではない。姫の行末繁栄の一礼である」
といったので、竜伯は大そう喜んでこれを受けた。
長者は、さらに、竜伯に託し、娘、般若姫の二世安楽のためとして黄金三万両を唐土の天台山へ寄進した。 
唐土勅使来朝、玉絵箱並びに勅使下向
姫が十一才の時の四月、唐土(中国)の都から大王の使者が、船頭、竜伯の案内で画工細工の名人、夷管(いかん)、褒薩(ほうさつ)の兄弟を召連れて長者のところに来た。それは姫の美しいことが唐土までもうわさが高くなったので、姫の写し絵をさせようというのであった。長者夫婦は大そう喜んで一行を厚く待遇したが、この時、勅使が長者に差し上げた進物は、黄金五百両、瑠璃(るり)玉五百粒、珊瑚五百粒、蜀紅の錦百巻、楚の国、楊敦山(ようとん山)の姥柳(うばやなぎ)の楊枝十二本という珍宝で、これを錦の袋に入れて、その上に大王の宸筆(しん筆=直筆)で「朕これを贈る」と書かれてあった。名工二人による写し絵は実に立派なものであった。名工二人は姫の写し絵を二枚作って、これを玉絵箱に収め、一箱を姫に与え、他の一箱をもって一行は唐土の都に帰った。
ところが、その翌年の秋、竜伯が来て、
「玉絵箱を大王がごらんになって非常に心をひかれ、明け暮れ箱を御身から離されず、ついに恋い悩まれたのがもとで今年の三月に崩御されました。御病気の中にも般若姫様への形見として、七宝の天冠、錦の御衣、鸞絞(らんもん)の差貫(さしぬき)錦のしとねを唐櫃に入れて残されて、飛竜という剣も添えられてありました」
といって、その遺品を差し出したので、長者夫婦は大王の崩御を嘆かれ、形見の品をありがたく受けられた。
このことが大評判となり、いつしか都にもきこえて二月中旬、欽明天皇は皇子のお妃として、姫を都に差上げるよう、武人、安藤隼人正を勅使として豊後に差向けられた。隼人正は同月二十五日、港に着船。翌日、三重の長者の館に入り、小五郎に姫を皇子のお妃として都に差上げるよう宣旨を伝えた。長者夫婦は勅使を厚くもてなしたが、一人娘であるので、たとえ帝のおおせでも、都へ差し上げるわけにはいかない旨を涙を流して頼んだので、さすがの隼人正も、もっともなことと承知し、その代りに、このまま帰るわけにはいかないので唐土の名人の作った玉絵箱を献上するようにと言った。長者夫婦も娘には、かえられないので献上することにした。隼人正は、その見事さに仰天し、それを受取って帰京した。 
都から度重なる難題
隼人正は帰京して玉絵箱を献上し、
「姫は風聞とは相違して、みにくい女であります」
とうそを言った。ところが玉絵箱の姿絵をごらんになった帝は、御承知にならず大いに怒られた。隼人正は恐れ入って屋敷に戻り、閑居する羽目となった。そして帝は、
「勅宣にそむいて姫を差上げぬことは不都合である。違勅を見のがすことはできぬが、まず難題を申しつけて、それに少しでも違背したならば直ちに押えて姫を取りあげよ」
ということになって、
「白胡麻千石、黒胡麻千石、油千石、けし千石の品を早速に献上せよ、さもなくば姫を差上げよ」
と大伴持主を勅使として豊後に下した。
持主は従者二百人を引率して堺の浦から出帆して、七日間で豊後に着き、この旨を伝えると、小五郎は多くの倉庫から、この品々を出し船に積んで差上げた。勅使が帰京して、この品を差出し、小五郎の様子や居所の有様を奏上すると、帝の逆鱗は、なおもおさまらず、こんどは虎の皮千枚、ラッコの皮千枚、豹の皮千枚を上納せよ、と、再び勅使を下向させられた。小五郎は、これらの品を直ちに揃えられ、家人、溝部次郎左衛門、柿本原孫兵衛、三好和泉の三人に持たせ、勅使とともに上洛、献上された。これをご覧になった帝は、ますますお怒りになり、勅使に、
「そのような万宝に満ちた長者なら、いよいよ差し置くことはできぬ。今度は伊利の大臣が馳せ向かって、有無をいわせず姫を召し連れて参れ、もしこれに違背するようであれば、これまで、わが国には無かった難題を持ち出して迷惑させよ」
とおおせになった。これを伝え聞いた三人は大そう驚いて帰り、このことを報告した。小五郎は家人を集めて相談し、今度はなかなか難題であろう。この上は、たとえ官兵を差し向けられても身命を捨てても防禦して、姫を渡してはならぬ。もしも、力のおよばぬ時は唐土の大王に頼んで防禦せねばならぬ、ということに衆議一決した。
そこへ案の定、伊利の大臣が勅使として九月下旬、長者の館に到着して綸旨(りんじ)を伝えた。小五郎が、ほかのことならなんでも承るが、これだけは、と申し上げると、勅使の供人、後藤蔵人が大いに怒って、小五郎を押え、大刀を抜こうとしたので、長者の家人、与四郎、助七、孫左衛門、十兵衛の四人が襖を蹴破って飛び出し、蔵人をひっつかんで投げ飛ばし、各々ほこをとって左右から動けば突くぞ、と取り巻いた。人々がこの物音に驚いて集まり、門につるした相国の太鼓を叩いたので、
「すわ、一大事が起こったぞ」
と、武器を手に手に集まった家来が三千余人。
「一人残らず討ち取ってしまえ」
と、口々に叫ぶので、さすがの勇猛強気の蔵人も大いに恐れて、ふるえ上がってしまった。そこで伊利の大臣が、
「どうしても姫が差上げられないなら、白布千枚、黒布千枚、錦千反、唐綾千巻、珊瑚玉五百粒、瑠璃玉五百粒を献上せよ」
というと、家人らは、
「これまで都合三度の御難題、このたびだけは違背なく献上するが、今後はお断り申す」
といって騒ぎは静まった。けれども方々から家人が集まり、大平九郎、同五郎、緒方十郎、河登二郎、同小二郎、山田の四郎を先頭に、数百人が皆、甲冑に身を固め、弓矢を携えて蔵人の所為の不都合をののしったが、その姿のたくましさに勅使一行は、みな震えあがって恐れ入った。
この時、七十六才の柿本原忠左衛門が進み出て、
「われわれは鎮西の辺鄙に住んでいるから武骨ではあるが、武人の道は少々覚えている。勅使のお慰みに御覧に入れよう」
と厚さ六分の鉄楯を的に、五人張りのつるに十五束の矢をひょうと射ったが、三筋まで矢羽根ふるわせて射徹した。それから若者たちが板三枚を重ねて各三筋まで射抜いたりし、次々と兵衛武芸をして見せたので、勅使一行は胆を冷やして恐れ入った。 
真名野長者の号を賜る
三回目の献上品も警衛の人々が、これを守って海陸から送られた。
勅使伊利の大臣が、これらの献上品の山を前に小五郎の盛んな繁栄ぶりとその屈強な家来達の守りの堅いこと、その様子や出来事を詳しく申し上げたところ、帝は驚いて、
「度々の難題を申しつけたことは朕の過ちであった。罪科をゆるし位を授けよう。豊後の国、三重の里の小五郎に「真名野長者」の称号を与える」
と、綸旨を賜わった。 
豊日の皇子下向と葉竹の笛
欽明天皇第四の若宮、橘の豊日の皇子は玉絵の箱をご覧になってから、物思いに沈むようになられたが、長者が一人娘であるからと姫を差上げないので、皇子は、いよいよ姫を恋され、豊後の国に下る決心を定められた。
やがて春となり、二月二十一日の晩、若宮は修業者に変装して、秘かに内裏を忍び出られ、まず、都近くの三輪明神にお参りして深く祈願ののち、夜を日についで下向し豊後の国、王の瀬(大分市、王ノ瀬)に着船した。そこで身分を伏せ、御名を山路(さんろ)と改め土地の人に紛れ込み、長者の屋敷を探した。
歩いていくと浜で漁師がたくさん集って蛤をとっていた。その中の一人の老女に真名野長者の屋敷を尋ねたところ、まだ遠いし山道だからと言われたので、その晩は、その老女の家に泊めてもらった。酒を出され、うとうとしていると、まだ暗いうちに老女に起こされ朝食を頂いて、いっしょに家を出て、しばらく歩くと朝日が上ってよい天気になった。その時、老女は、
「私は、あなたの行末を守るために、夜明けまでお供をいたしたのでございます」
というと消えてしまった。若宮は、
「これぞ三輪明神の化身であられたか、ありがとうございます」
と、そのあとをふし拝んだ。
三重の松原近くに来たところ、長者の牛飼い達がたくさんいたので若宮はそれを見ながら休んでいると、手籠にわらびを入れ、鳩飾り付きの杖をついた二人の老翁がやってきて、
「ここに見えた修業者は、どこの国の方か」
と尋ねたので、
「都の者ですが、鎮西(九州)を見に参りました」
と答えると、二人の翁は口を揃えて、
「修業者は錦の袋に「葉竹の笛」を持たれているが、一曲承りたい」
と言い、
「この山里で錦を知っていられるか、まことに不思議である」
と若宮がいうと、
「いくら山里でも真名野長者の居所ゆえ、都にないような珍しい物を見ている」
と笑いながら答えた。この「葉竹の笛」は天照大神が天の岩屋にお隠れになった時、八百万(やおよろず)の神々が集まり、神楽を奏した笛と言われている。老翁はこの由緒を話して、
「お身の持つ笛こそ確かにその笛である。これは代々天子の御宝であるが、修業者としてそれを持っているいわれはない。しかし、これは昔の物語。今は三重の里の草刈り笛と申そう。ぜひ一曲、所望」
というので、若宮はその笛を取り出してお吹きになった。
その音律は実に微妙で、三百の牛飼いも三百の牛も頭を垂れ、耳を澄まして、ただ聞き入るばかりであった。
やがて二人の老翁は牛飼いの長を呼んで、この客人の世話をたのんで、山にわけ入ってしまった。これこそ、一人は宇佐の神、もう一人は、この山里の山王神であった。 
若宮牛飼いとなり流鏑馬の的を射る
この牛飼いの長の下で修業した山路は、同年四月二日、ついに長者の牛飼いになることができた。山路が草を刈って牛に与えると、どんな荒牛もおとなしくなり、牛に乗って笛を吹けば、その姿は気高く人々は心をうたれた。
いつか春も過ぎ夏の半ばとなった。若宮は山王権現に参詣して、
「自分が都を出たのは春であったが、今や秋になろうとしているのに望みの姫の姿は一度も見ることができません。この上は神の力にたよらねばなりません。どうぞご助力をお願いします」
と祈願した。
そのころ都では若宮がいなくなって、帝をはじめ大臣諸卿末々まで大騒ぎとなった。国中にお触れを出してさがしてみたが、手掛りもなく空しく月日がたつばかりだった。そこで占いをさせると、宇佐宮の放生会(ほうじょうえ=捕らえた生き物を放ち生かす催し)を真名野長者に執行させれば、皇子は見つかると出た。早速、都から真名野長者に命が下った。長者は命を受け、これくらいのことは前の難題に比べれば、たやすいことと引き受けたが、放生会に必要な流鏑馬(やぶさめ)の古式を知っている者がいなくて困惑してしまった。いたずらに日ばかりが過ぎていった。
すると不思議なことが起こった。七月三日の夜のこと、急に数百匹の猿がやってきて屋根の上で踊り出した。まるで人間のようだ。あれよあれよとみんなが見ていると、急に般若姫が、山王の嶽から日や月ほどもある火の玉が出たと叫んで、気を失ってしまった。みんなが駆け寄って介抱している間に、今度は、侍女の初祢と山吹、小菊がにわかに狂いだし、庭を飛び回ったり木に登ったりの奇行を始めた。そして三人が狂いながら口走って言うには、
「これ、みな地神のたたりなり。三重の松原で流鏑馬の矢を射て、地神を鎮めれば平癒なるべし」
と叫んだ。数人がかりで取り押さえ、姫から順にそれぞれに姫の守護仏を戴かせたところ、たちまちみんな正気に戻った。しかし、夜ごと火の玉は現れ、姫を苦しめた。
長者夫婦は大いに驚き、この上は一日も早く流鏑馬の古式を知っているものを探し出し、まず、この三重で仮宮を建て流鏑馬を行って、この地を清め地神を鎮めなければならないということになった。だが、今回ばかりは、幾多の難題を解決した長者の財力も権力も役立たないのだ。そこで長者は考えた。「古式を知っているほどの人物ならば観音の申し子である姫の婿にふさわしい人物に違いない」と。そこで、「流鏑馬の古式を知っている者が居たら姫の婿にしよう」ということになった。この話は近隣の里の老若男女に広まったが誰も知るものがない。
ところが名乗り出た者がいた。なんと牛飼いの山路である。山路は乗馬に長じた数名の者を選び、山路自身が射手を率いて執り行うことになった。長者が三重の松原に仮の社を設営すると、近国から多数の老若男女が群れをなして見物に詰めかけ、押し合いへし合いの大変な騒ぎであった。山路の装束は肌に白絹を召され、にしきの直垂、大紋の綾をもって腕貫として、獅子の尾という剣を帯び、白木の御覆(おくつ)踏みという姿であった。乗馬は野津原弥五郎の馬屋に育った大竜黒という馬に乗ることになった。山路は網代の笠に七宝の瑠璃を飾り、まず、一番の馬場明けという荒駈けをして乗り回すと、不思議や、南方から白羽の鳶(とび)一羽が、北方から白鳩一羽、山鳩一羽が、飛んできて仮神殿の棟にとまった。
まもなく長者夫婦と般若姫が、見学のため家来を従えて桟敷(さじき)に入ってきた。射手は三人で、まず、一番手は松尾軍太夫であった。彼は弓を満月のごとく引きしぼり、走る馬上から松にかけた的を射たが、矢は的をはずれて一尺ばかり上の松の枝を折って向うの原へとんで行った。二番手は岡本次郎。彼こそ必ず射当てるだろうと見ていると、的の下五寸ばかりの松の幹につきささった。
いよいよ山路である。山路は神前を礼拝して心を静め、三つの的を諸々に立てさせ、九つのかぶら矢を背負って、馬を駈けさせた。馬は電光のように速く走った。山路は走る馬上で弓に矢をつがえ、はっし、はっしと射られると、ことごとく三々九度の的を射抜かれた。観衆は、かん声をあげておどりあがってほめたたえた。山路は馬から降りて神前を拝んだが、その時、三羽の鳥が空へ飛び立ったので、山路はこれを見て、
「さてこそ御願を成就したか」
と、そのあとを三度拝んだ。
流鏑馬の矢によって地神のたたりを鎮めた山路の知勇兼備の立派な若武者ぶりに、長者一家の喜びは限りなく早速、婿と決め婚儀をすることになった。長者夫婦に家人ら残らず列席し、山路を上座に据え、親子杯、山路夫婦の三々九度の杯を取り納めて、めでたく式を終え、それから何日も続く盛大な酒宴となり、皆大いに興をつくした。酒は近郷近在からお祝いに来た老若男女にも振るまわれ、人々は、酒を飲みつつ、
サンロが吹きし笛竹は 身より大事な草刈り男 真名野長者の娘と酒宴
と歌い踊ったという。めでたいことである。これが後の山路踊りの源となったという。大いに喜んだ長者は、新御殿を造営し姫夫婦を住まわせた。 
宇佐宮放生会と勅使の下向
やがて、いよいよ宇佐宮の放生会となり、山路に助けられた真名野長者はその財力を惜しみなくつぎ込み、古式に則って流鏑馬を成功させ放生会は見事に執り行われた。流鏑馬の射手として登場した山路の名は真名野長者の名と共に西国に轟いた。その直後のこと、山路の前に宇佐の神が現れ、
「皇子よ、やがて都から迎えが来るであろう」
とのお告げが下された。これを拝し承った山路は振り返って、長者に向い、
「今は何を隠そう。自分は欽明天皇第四の宮、橘の豊日の皇子である。なんじの娘を伝え聞いてたびたび勅使を下したが、一人娘であると辞退したから身をやつして下って来たのである」
と、はじめて身の上を明かしたので、長者は大いに驚いて、
「かような高責なお方とは知らず、これまで数々の御無礼の段は、何とぞ、お赦し下さいますように」
と、家来ともども、ひたすらおわび申し上げた。般若姫も驚き、神託なれど今しばらくと涙ながらに引き留めた。
*なお伝えるところによると、公式には宇佐八幡の流鏑馬が、その起源とされているが、詳しくは「欽明天皇の御代、七月十七日、豊後の国三重の松原にて騎射の的当てしより我朝令に至り神前において、やぶさめと名づけ、射事この時より始まれり」となっている。
都では、去年の秋、執り行われた宇佐宮の放生会で、真名野長者の下に若宮が居ることが巡ってきた旅商人の話で判り、急ぎ、お迎えの勅使を遣すこととなった。勅使に選ばれたのは大伴持主、隼人正の二人で、上下三百人を引具して豊後に向かうことになった。勅使は、難波から船出して、さほど日数もかからず豊後についた。長者夫婦は勅使を丁重にお迎えした。勅使が宣旨を若宮に伝えると、
「自分も間もなく帰洛する故、汝等はしばらく滞在せよ」
と仰せになって、両使は、しばらく休息することになった。この時、姫はすでに身ごもっていた。 
若宮の帰洛と玉絵姫の誕生
勅使が到着して若宮は、一日も早くご帰洛にならねばならないのであったが、姫との愛着の緒断ちがたく、一日一日とのび、それから二ヶ月も過ぎてしまった。二人の勅使に帰洛を督促され、若宮も仕方なく長者夫婦にいとまを告げ、姫には、
「御身ともども上洛したいと思うが、今はただならぬ身であるからそれもできない。懐胎の子供が、もし、男の子であればすぐ連れて上洛してもらいたい。しかし、もし、女の子であったら長者の家の世継ぎにしたらよかろう。いずれにしても安産が大切であるぞ。そのうち迎えの者を差し向けるであろう」
と申されたので、姫は言葉もなく、やるせない思いでうち沈んでしまった。長者夫妻も別れを惜しんで、むせび泣く有様であった。若宮も堪えかねて、その手をとってなだめ、硯を取りよせて、
「我子を此処に置く。今よりは此里を大内山と名づくべし」
と書き付けを与えられた。これが今、内山といわれている由来だという。若宮はつきせぬ名残りのたもとを振り切って、涙とともに長者屋敷を後にしたが、姫はたまりかねて若宮のあとを慕って走り出て、天を仰ぎ地に伏して、消え入るばかりにさめざめとお歎きになるので、家来が馳せよって、さまざまにいさめていたわりながら、一間に連れ去った。この時、若宮十九才、般若姫十七才。六月下旬であった。
般若姫は十一月八日、月満ちて、めでたく女の子を安産され、玉絵姫と名づけられた。翌年春、姫は溝部、萩原両名の家来たちに、
「わらわも明年は上洛したいので、あらかじめ用意をしておくように」
と、お言いつけになったので、両名はその準備にかかった。献上の品々は、黄金を始め七宝の玉の御箱や綾錦、金紗の織物、絹織物、巻物など数えつくせぬほどであった。そして、その御乗物は七宝荘厳の玉の御輿、これは唐土から求めてあったものである。 
般若姫上洛途上で難風に遭う
明くれば欽明天皇二十八年(五六七年)正月中旬、百済から竜伯、定馳子(じょうちし)の二人の船頭が、数万の珍宝を積んで入港してきた。長者はこれを聞くと二人を三重の館に呼んで、
「このたび姫が上洛するので、諸方に舟を求めてみたが、いずれも小船で心もとない気がする。幸いその方が来合せてくれたので頼み入るが、姫の乗船としてしばらく貸してもらいたい」
と申し入れると、
「私どもも、一度は都を拝見したいと思っていましたから、それはお安い御用でございます」
と気安く承知してくれた。長者夫婦は大そう喜んで家人らに命じて、船荷を全部買いあげさせて港の倉に入れ、船はきれいに掃除をして綾羅の慢幕、玉のすだれを飾りつけさせた。
そこで今度の上洛は、山路・般若姫夫妻の新居だった臼杵の深田にある新御殿から出発することにして、二月上旬、見送りのため長者夫婦は家人を率いて臼杵・深田へやって来た。般若姫の供人は、御局三人、腰元七人、侍女二十人、はした女に至るまで女性五十人、男子二十四人、また、守護職として野津原弥五郎が率いる千余人であった。姫は、この家人らを引き連れ、大船小船合せて百二十隻に分乗して、臼杵の浦から三月十三日、順風を得て舳艫(じくろ=船首と船尾)相含んで出帆した。
長者夫妻はじめ家来の男女たちは、紫雲山に登って、この船出を見送った。けれども白雲が山懐にたなびいてよく見えなかったので、玉津姫はそれをなげいて、
「天津風雲吹きはらえ心なき乗りゆく姫の影を見し間も」
と詠ぜられた。すると白雲は、さっと引いて遠く船路は眺められるようになった。その夜は長者の仮屋で船出の祝宴を張り、その席で玉津姫は、
「紫雲山峰の嵐に雲晴れてふもとの海に月や澄むらん」
と詠じた。紫雲山がその後、臼杵の「姫岳」と呼ばれているのは、この言い伝えがあるからである。
さて、姫の船が豊後(国東半島)深江の浦に入って碇舶している所に、勅使、伊利の大臣が上下百人三隻の船で入港してきた。
「御上洛が余り長引きますので、主上をはじめ若宮様は大変お待ちかねでございます。お迎えにまいりました」
と宣旨を伝えた。そこで再び碇を上げてこの港を出帆したが、周防の国、平郡(へぐり)島にさしかかった時、にわかに大風が起こって、姫の船は周防の国、熊毛の浦に吹き流されてしまった。勅使の船は、ようやく波を乗り切って早くも帰洛したが、姫の船は、この熊毛に十日ほど滞在し、この間、向うに見える小島に渡って、馴子舞(なれこ舞)の祝儀を行ったが、この島は豊後の姫島であると言い伝えられている。
そこで三月二十九日には、この島を出帆したが、周防国大畠鳴門の瀬戸にかかった時、またまた暴風が起り、百二十隻の船は十方に吹き流されてしまった。この時、萩原、竹内の両人がようやく気がついて、姫の守護仏、千手観音の尊像を取り出して、
「船中安穏に御守護下さいますよう」
と祈願をこめて波間に沈めると次第に風浪納まり、翌日は天気晴朗となった。ちりぢりになった船も集まってきた。
そこで陸に上陸すると暑くなった。姫が「暑い」言ったので、この地を阿月の浦という。そこで村人が冷たい清水の湧く井戸の水を姫に差し上げたので姫は、お礼に楊とん山の楊枝を井水の傍らに差した。すると一夜のうちに芽が出て柳の木になったので、ここを柳井と呼ぶようになった。 
般若姫の薨去
姫は、この浦に船をとめさせ、八日間、十里、十五里と海上を捜索させ、九十五体の遺体を発見した。それでもまだ二百四十余人の者が行方不明になっていたので、姫は悲嘆やる方なく、
「こうなってみれば后位などどうでもよい。喜見城(きけんじょう=仏教にいう天の居城)の楽しみにも望みはない。ただ死んだ家人のなきがらを探してもらいたいばかりである」
と涙にむせぶばかりであった。その後、姫は家人を呼び、生き残った者たちに酒肴を賜い、
「仮の世に何歎くらんうき船のいづくを宿と定め置かねば」
と繰り返して詠じた。それから姫は、初音、小菊、山藤三人の侍女を連れて船やぐらに上って行かれたが、
「このたび、あまたの家人がここの海の藻屑と消えて、わたしは悲しみの極みである。このような哀愁にあってまでも、自分は皇后になろうとは思わない」
と、おおせになると、そのまま海に身を投げてしまわれた。それを見た三人の侍女も、そのあとを追って投身したので、船中は大騒ぎとなった。けれども船には水練に達した百済の船人が、たくさん居たので、競うて海に飛び込み四人は救い上げられた。
しかし、姫は数日の絶食で、いままた海に投じたので心気次第に衰え良薬も看護もその甲斐なく、いよいよ最後の時が迫った。姫は家人を呼んで、
「自らは娑婆の縁も尽きたので、やがて冥途に旅立つが、この黄金、綾錦、七宝の玉の御箱、姥柳の楊枝をば、都の若宮に献じてもらいたい。また、本国へ帰ったならば、玉絵の姫を守り育てて、父母の跡をつがすよう頼みますぞ」
と仰せになると目を閉じた。そして、
「また、わが死にがらは向うの山の頂上に埋めよ」
と言い、手を合せて、
「南無観世音菩薩、慈眼視衆生福寿悔無量」
と唱え、御年わずか十九才で、はかなくも薨去(こうきょ)せられた。時は欽明天皇二十八年(五六七年)四月十三日である。
あとに残った家人は、暗夜に燈火を失い懐中の玉を失ったようで、泣いても涙は出ず、呼ぶも声は出ず、ただ、嘆くばかりであった。今は、いたしかたないので彼の山に姫と四十余人の遺体を埋葬したが、これは、今も姫の墳墓として残り、魚の庄(伊保庄)、般若寺が姫の御菩提寺として建立されている。それから、溝部、萩原、竹内、柿本原、竹田、臼杵、石上の七人が家人を伴って上洛し、遺品を献上して、
「私どもは姫を守護して上洛しましたが海上数度の難風にあい、ついに、お疲れのために名医の術も甲斐なく薨去(こうきょ)せられました」
と謹んで奏上すると、帝をはじめ大いに御愁嘆になったが、わけても若宮の御嘆きはまた格別であった。帝は、
「不憫なる姫の次第、この上は悔いなきことと贈官を下す」
と、お仰せられて「般若皇太后宮」という御諡(おくりな)を御下しになった。時は四月二十九日、家人らはこの御宣旨をいただくと、憂いの中にも悦びをもって豊後に帰国した。それから同年の秋には、都の北に姫のために「般若宮」という山社をお建てになった。 
金政君、豊後に下り姓を賜わる
数年後、萩原次郎右衛門。同忠左衛門の両人は長者の意を受け上洛し、
「橘の豊日の皇子の姫君、王絵姫は、次第に御成長遊ばしましたが、都へお召し上げになりましょうか。お伺い申しあげます」
と言上すると、
「かねて皇子と約束がある、と聞くから、姫は長者に賜う」
と、お仰せ下された。両人は非常に喜び、重ねて、
「この上ながらのお願いは、内裏より長者の世継ぎを賜わりますよう」
と、お願い申しあげると、もっともな願いということで、伊利の大臣の三男、当年十三才になる金政公を長者の世継ぎとして、お選びになった。両人は大喜びで金政公のお供をして帰国したので、長者夫婦はもとより、家人に至るまで家の安泰を喜び合った。
その後、敏達天皇元年(五七二年)天皇は御即位の御祝儀として、金政公に五千八百代(しろ)の田地を与え、綸旨を添えられ、隼人正を勅使として豊後の国にお差し向けになった。その綸旨は、かつて豊日の皇子が長者の牛飼いとなり、草刈りをされたことに因み、金政公の御姓名を草刈右衛門助と号し、「橘の氏次と名乗れ」という勅定であった。氏次公の武技は特に衆にすぐれ、いよいよ、長者とその後裔は富み栄えた。
長者夫婦は、これも御仏の加護であるとして、唐土の諸寺へ黄金数千両の寄進を行った。 
般若皇太后忌日供養のこと
やがて百済から高僧、蓮城法師が、薬師、観音の尊像を奉持し、返礼のため渡航してきた。長者は喜んで蓮城法師を自宅に迎え、尊像を敬い、丁重に教えを受けた。まもなく長者は、薬師、観音の尊像を安置するため蓮城寺(五七三年)を建立した。これが今の豊後大野市三重町、内山にある内山蓮城寺(内山観音)の開基である。
さらに唐土から陳の陰悦法師が、薬師如来、弥勒菩薩、賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)、の三尊を奉じて、僧沙弥三十余人を引き連れて来航した。長者夫婦は大そう喜んで、これからの僧を連城法師と共に蓮城寺に住わせ、日夜勤行をおこたらなかった。
この年七月二日のこと、長者夫婦は、これらの客僧たちを伴って臼杵・深田の新御殿に案内して、
「この御殿をご覧ください。これこそ先帝の第四の若宮、橘の豊日の皇子が御下向になった時、私の娘と共に御座所となされた御殿でありますが、皇子は帰洛せられ、娘も今は空しくなりまして、恩愛の楽しみも束の間と消え果てました。どうぞ、姫の後生の弔いを願います」
といったが、堪えかねて座敷に伏し転んで嘆くので、高僧たちもこれを見て衣のそでをしぼる有様であった。連城法師には七人の弟子がいた。それに渡来の僧が加わって四十一人で八月七日から、十三日まで七日間、深田の御殿で般若皇太后の御供養が行われた。十四日は海に沈んだ家人の供養をしたが、十五日には、高僧たちは法服を整えて舞楽管弦の曲、見仏聞伝の楽を奏した。玉津姫も覚えず座を立ってしばらく楽に合せて舞い、
「名月の月は昔にかわらねど迷いの雲は月かくすらん」
と吟詠した。
供養後、長者は、臼杵・深田に満月寺を創建し、陰悦法師のもたらした三尊を安置し奉った。 
守屋大臣長者を攻める
敏達天皇六年(五七七年)の三月上旬、守屋大臣は、一門貴族を集めて、
「豊後の国に真名野長者というものが居るが、外よりさまざまの沙門(僧)を招き、天台山から仏像という異形のものを取り寄せ、天竺の仏院とやらを我が国に移し奢りを極めるということは、その罪がはなはだ大きい。もとよりわが国は神国であって、異国の邪教を入れるということはよろしくない。そのようなことをすれば神の怒りによって世に災難が起るであろう。このままにさしおくことはできぬから、急ぎ押し寄せ寺院を焼き払い、長者父子を残らずからめとれ」
と命じた。このことは、すぐ長者に知らせがあったので、防戦の用意をしていると、果して守屋の軍勢が攻めて来た。その数、約二千三百人、兵船五十七艘。激しい戦いは数度に及んだ。しかし、何度攻めても大臣の軍は、さんざんに敗北して到底爪のたつものではなかった。
このように守屋大臣が攻めあぐんでいるところに、大伴の臣らが謁見(えっけん)して、
「真名野長者は、英雄貴族を数万人もち、殊に百済からの商船三十余隻に長者の家来というものが二千余人も乗り込んでいます。それに日本では、まだ聞いたことのない石火矢、火矢などという攻め道具をもっていますから、こちらが十万の兵を差し向けても、とても勝つ見込みはありません。また、豊後の国司たる長者に勅許も得ずに兵を差し向けたのでは、長者父子の怒りはとても大変なものであります。これは早く和睦をするのに越したことはありません」
と諌言した。
大臣も大勢には屈して、致しかたなく大伴の臣を和睦の使者として豊後に差し向けたが、山王宮への寄進として八連の鈴を一対、金の幣帛(へいはく)一対、錦十巻、鉾二本を奉納した。この時、守屋の大臣は三十二才であった。大伴の臣の下向は、敏達天皇七年(五七八年)の正月中旬であった。草刈左衛門助殿へは、金こしらえのよろい一領、名剣一振り、錦の直垂五重、槍十二本、弓十二張を、五十余人で持参して末長の城に入ったので、長者父子はこれを出迎えて、めでたく和睦は成立した。
長者は使者を厚くねぎらい、大伴の臣をはじめ家来の下々に至るまで黄金巻物を引出物にしたので、使者一行は厚く礼を述べて帰洛した。さらに深田の城から南原四郎、溝部次郎左衛門、川登次郎が使者となって百余人の家来を連れ、正月下旬に出発し、二月上旬に上洛して守屋大臣に謁見し、黄金千両、巻物五百巻、鉾五百本を献上したので、大臣も喜んで三人を好遇し、種々の引出物を与えた。そして使者がこの趣きを報告したので、長者や家人一同は、
「これ、ひとえに山王権現の御加護である」
と、ますます、その信仰を増した。 
臼杵石仏造立と満月寺
戦さが終わり平穏になったので、長者は般若姫の供養をしたいと、船に乗り瀬戸内海を巡って姫の足跡を辿り、周防、魚の庄(伊保庄・山口県平生町)に至って般若寺を建立した。さらに船を進めると、嵐にあって予州高浜(愛媛県松山市高浜)に吹き流されたが、危ういところで観音の光に助けられ、ようやく帰郷することができた。それでお礼に高浜に太山寺を建立した。こうして航海を終えたが、それでも姫を失った長者夫妻の嘆きは、なかなか収まらなかった。
やがて、一人娘を失った真名野長者、小五郎は、現世の楽しみも尽き、身は老境に入ったので、蓮城法師からかねがね聞いていた天竺にあるという祇園精舎の姿を、人の命は限りあるもの、できることなら、この豊後の地に移し、仏縁を後世に残したいと考えるようになった。そこで長者は石に仏の姿を彫り上げることを発願した。その場所は満月寺周辺の岩場が選ばれた。
こうして、臼杵・深田の満月寺に、次々と、祇陀院、施薬院、療病院、安養院戯楽院などの五院と六坊(宿泊施設)が造られた。やがて多くの仏師が集まり岩壁に仏の姿を刻み始めた。だが、岩は固く、岩底から男女の泣き声が漏れてきたり、岩にノミを打ち込むと血が流れ出たりの怪異が起き、なかなか完成に至らなかった。すると東から異人が現れ、妙術をもって工事を助け、次々と石仏は出来上がっていった。
開眼の日は紫雲が漂い、妙なる楽の音が天上に響き渡ったという。これが現在の国宝臼杵石仏群である。 
長者夫婦の死去と後裔
長者夫妻も蓮城法師も大へん長生きをされた方々であった。蓮城法師は、推古天皇二十四年(六一六年)八月十日に九十一才で遷化せられ、真名野長者は、推古天皇十三年(六〇五年)二月十五日に九十七才で卒し、忌名号、松林殿、法名は、自光院殿円通慈観大禅門、玉津姫は、推古天皇十年(六〇二年)三月十三日に九十一才で卒し、忌名号、妙禅殿、法名、妙善院法蓮浄心大禅尼となっていて、蓮城寺の石造宝塔二基が長者夫婦の墓と伝えられている。
また、同寺には、敏達天皇十三年(五八四年)完成とされる千体薬師木像が奉安されており、山門近くの橋の下には、金亀ガ淵と伝えられる淵もある。尚、臼杵市深田には、小五郎の七十八代の後裔といわれる御子孫が、昭和三十四年には七十一才で居られたという。
 
般若姫伝説

 

炭焼小五郎の生い立ち
炭焼小五郎(真名野長者、真野長者とか四萬の萬能満長者とも書かれ、炭焼長者、草川山路、盤若姫伝説などとも呼ばれている)は、継体天皇(人皇26代)三己丑歳に三重内山(豊後の国二江の里)から約3km離れた、玉田に生まれ幼名を藤次といっていた。藤次は3オで父に、7才の時母に死なれ、哀れなみなしごとなり、路頭に迷う身の上となった。藤次は炭焼又五郎という炭焼の慈悲で引きとられ養育された。この養父母がこの世を去って(81才79才)その跡目をついで、名を小五郎と改め炭焼きをすることになった。 
玉津姫豊後へ下る
その頃、奈良の都のほとりに御所につとめる、久我大臣の娘に玉津姫という絶世の美人がいたが、どうしたことか、にわかに体や顔にあざが出来、まことに醜い女になってしまった。
これまで降るようにあった縁談も絶えた。親娘は毎日暗い日々を送っていたが、大和の国三輪明神は縁結びの神様ということを間いた姫は、ある夜ひそかに家を出て、三輪の里に行き鏡の池で水垢離をとり、7日7夜断食ごもりをして縁結びの願行を行った。9月末の満願の夜、姫が一心に祈願をこめていると、にわかに一天かき曇り、雨は車軸を流すごとく、姫はびっくりしたが、いつかうとうとと、夢路にはいってしまった。その時容貌美しき者翁の姿が現われて、「姫そなたの夫は決っている。これより西、遠く九廿豊後の三重の里に、炭焼の小五郎という者がいる。愚かで自分の名も知らぬ山男だが、この者と夫婦になれば行末は、富貴自在にして栄耀は心のままである。決して疑ってはならぬぞ」と、おおせになって小さな杉の葉で、姫の頭から定先まで「善哉々々」といって払い、「行末を守護するぞ」とのべ杉の葉を姫の髪にさすと、姿が見えなくなってしまった。夢心地からはっとさめた姫は神前を伏し拝み、帰って両親にこのことを話し、豊後に旅立つことを願った。両親は遠方へ娘を出す不安から泣いてとめたが、娘の決心は堅いので、小判40両を身につけきせて旅立たせることにした。その翌々年の春2月、姫ははるばる豊後をさして出発したが、その時、16才であったという。 
小五郎と姫の対面
姫は途中ずいぶん難儀をしたが、3月13日ようやく豊後三重の松原にっいた。ここも人里離れたところで疲れはて途方にくれたが三輪明神の加護を念じていると、そこに薪負うた白髪の老人がやってきたので、事の次第を話し、小五郎に合わせてくれるようお願いしたところ、老人は「それはさぞお疲れであろう今宵はおそいからわたしの家に泊りなきい。明日合わせてあげましょう。」と言い、その夜は老人の情で一夜を明かし、翌日老人に伴われて、山麓の一軒家を訪ねたが、小五郎は不在であった。老人は「ここが小五郎の住家である。ここでしばらく休んでおればやがて主人が帰ってくるであろう」といったが、その声とともに姿は見えなくなった。
夫婦となる
ただ一人入り口で待っていると、下手の方から歌声がして、わらびやせりを持った男が帰ってきた。体はよどれ着物はあかだらけ、髪はぼうぼうと乱れているが、やさしい目つきをした人のよさそうな男であった。これが小五郎である。姫が小五郎に、神のお告げの次第を話し、夫婦になってくれというと、小五郎はびっくりして「有り難いお志だが、このあばらやで、一人でさえ朝晩の飯も食うや食わずで、あなたに食事もあげられない有様では、お断りするほかはない」といった。これを聞くと姫は肌につけてきた小判を一枚出して「これで食物や、世帯道具を買ってきてください」といってそれを小五郎に渡した。小五郎はその小判を持って出ていったが、しばらくすると手ぶらで帰ってきた。下の湖におし鳥がいたので、それをとって都のお客にごちそうしようと思って、石のかわりに投げつけたら鳥はにげ小判は沈んだ、というのである。姫は、この人は小判さえわからぬ愚かな人か、となげいた。「あれは黄金といってこの世の宝でございます。あれだけあれば私たち2人が暮らしていけるのに」というと、小五郎は「あんな石ころが小判で宝なら、わしの炭焼がまのあたりに、いくらでもある」といって笑った。この不思議なことばに驚いた姫が、小五郎といっしょに行ってみると、小五郎のいったとおり、そこらは―面に黄金の山であったので、2人はそれを拾い集めて残らず貯えた。そして、めでたく夫婦になった。継体天皇25辛亥歳3月15日であったという。(一書には24庚戊歳3月14日となっている) 
美男美女となり繁栄する
ある日玉津姫は、山王権現の神夢によって湖に入って沐浴すると、不思議なことに、あのみにくいあざがきれいに落ちて、姫は元のようにきれいな姿に立ちかえった。姫はこの奇跡に驚いたが、小五郎にも水垢離をすすめた。小五郎がその淵に入って身を洗と、今まで猿のような顔をしていた彼が、たちまち立派な美男子になった。2人は大へん喜んで、神恩に深くお礼を申しあげた。その時淵には、金の亀が浮び上って2人を祝福するように、水面を泳いでいたという。これが現在寺の入口にある観音橋下の金亀が淵である。小五郎夫婦は、大金持になり方々から沢山の人が伝え聞いて、小五郎の家来になった。これらの家来に田畑をつくらせたので土地も広まり、3年後には3,000人の家来ができたという。下男下女も沢山雇い、その家は57ケ所に建ち並んだという。また、臼杵の港に入ってきた支那の船3隻から、沢山の宝物や、珍しい品物を買い求めて庫に納め、ますます富み栄えた。 
長者屋な造営と玉津姫の懐妊
それから数年後、百済から渡来した大工をはじめ、近江の工匠を雇って小五郎は、3年7ケ月がかりで見事な御殿を造営した。その新築祝いが8月15夜盛大に行われた。

秋の最中のことなれば尾花交り薄紅葉萩の上風音つれて鈴虫ぞ鳴く折柄や月と限なき地中に兎も波を走るかと小浮かれ薄の影の魚までも打ち連れて泳ぎ遊ぶ様あら面白き景色かな

興に乗って来た時、にわかに大空が震動し、満月が池中に飛び下って、しばらくはそこで転げ回っていたが、それが座敷に飛び上って、玉津姫の胸申に飛びこんだ。姫はそのまま気絶して大騒動となったが、百済から手に入れた妙薬を工匠大司義長が、姫の口に注ぎ込んだととろ、ようやく姫は息を吹きかえした。そこで、小五郎は重臣2人に山王宮に姫の病気平安を祈願するよう命じた。2人が通夜で祈願をし、うとうとしていると、白髪の老人が白絹の衣を着て鳩のつえを持って現われ「これは姫の懐妊でめでたいことである。出生の子は容貌美麗な女子であろう。これは月の精が宿ったのである。しかし、この子は短命であるが、このことは秘して復命してはならぬ」と告げた。これは夢告げであったが、両人とも同じ夢であったので、不思議さを語り合って急いで帰り、これを報告したので小五郎夫婦は非常に喜んだ。 
般若姫の誕生と黄金仏
人皇29代欽明天皇10巳巳歳5月8日、(一書には欽明天皇3壬戊歳5月8日とある。)玉津姫は女の子を安産した。
ところが、この子は生れて3日たっても泣かないので、心配したが玉津姫は、金亀が淵に水垢離で自分のあざが落ちました。主人も美男子になったことを思い出して、淵の水を汲んできてもらって、口の中に注ぎ込んでみたところ、そのとたんに泣き出したという。そこで口の中を見ると三ケ月の黒痣があった。これこそ月の精の宿る印であるというので、その名を般若姫(半如姫ともいう)と名づけた。
一書によれば、「生れし時、光一室を照らすゆえに玉夜の姫と名づく、後、観音の霊夢により般若姫と改む」とあるから、姫の美貌が想像されよう。その翌年百済の国から船頭竜伯というものが来て、黄金の鋳仏一寸八分の千手観音を奉持し、「百済の南に普陀羅国という島で先年漁夫が引上げたものでございます。霊顕あらたかな御仏で、船中に安置すれば、暗夜も月夜のごとく明かるく、悪風も起こりませんので、航海も安全です。それで般若姫様の守護仏として差上げます。」といって錦のしとねの上に安置し、わずか生後10ケ月の姫は、乳母の膝からはい降りて、小さな手を合せて三度これを礼拝した。
すると不思議なことに、仏の眉間から光明が姫の頭上を照らしたので、居合せた者は大変驚いて信仰するようになった。
そこで小五郎夫婦は黄金一千両を差出して「これは仏の代金ではない。姫の行末繁栄の一礼である。」といったので、竜伯は大そう喜んでこれを受けた。小五郎は更に唐土の精舎に、三万両の寄進を竜伯に託した。
上することにした。隼人正は、その見事さに仰天しそれを受取って帰京した。 
唐勅使来朝、玉桧箱並びに勅使下向
欽明天皇21庚辰4月、(一説には欽明天皇13王申歳般若姫11才になり給う所とある)姫が12才の時、唐の長安の都から明帝大王(一説には文帝王とある)の使者が、船頭竜伯の案内で画工細工の名人夷管褒薩の兄弟を召連れて、長者のところに来た。それは姫の美しいことが唐土までもうわさが高くなったので、姫の写し絵をさせようというのであった。長者夫婦は大そう喜んで、―行を厚く待遇したが、この時勅使が長者に差し上げた進物は、黄金500両、璃璃玉500粒、珊瑚500粒、蜀紅の錦100巻、楚国揚項こ山の姥柳の揚枝12本、という珍宝で、これを錦の袋に入れて、その上に大王の宸筆で「朕贈与焉」と書かれてあった。
名工二人による写し絵は、実に立派なものであった。名工2人は姫の写し絵を2枚作って、これを玉絵箱に収め、一箱を姫に与え、他の一箱をもって一行は長安に帰った。ところが、その翌年の秋竜伯が来て「玉絵箱を帝王がごらんになって非常に,心をひかれ明け暮れ箱を御身から離されず、ついに恋い悩まれたのがもとで、今年の3月に崩御されました。御病気の中に般若姫への形見として、七宝の天冠、錦の御衣、鸞絞の差貫、綿のしとねを、唐櫃に入れさせ、飛竜という剣を添えられてありました」といって、その遺品を差し出したので、長者夫婦は、文帝の崩御を嘆かれ、形見の品をありがたく受けられた。このことが大評判となって、いつか、帝都にきこえて欽明天皇22辛巳歳(―本には14癸酉歳とある)2月中旬帝は、皇子のお妃として、姫を帝都に差上げるよう北面の武士隼人正を勅使として、豊後に差向けられた。隼人正は、同月25日白杵港に着船(翌日三重の長者の館に入り、小五郎に姫を皇子のお妃として帝都に差上げるよう宣旨を伝えた。
長者夫婦は、勅使を厚くもてなしたが、一人娘であるので、たとえみかどのおおせでも、都へ差し上げるわけにはいかない旨を、涙を流して頼んだので、さすがの隼人正も、もっともなことと承知し、その代りに、このまま帰えるわけにはいかないので、唐土の名人の作った玉絵箱を献上するようにといい、夫婦も娘には、かえられないので献上することにした。隼人正は、その見事さに仰天しそれを受取って帰京した。 
五度の難題
隼人正は帰京して「姫は風聞とは相違して大へん醜い女であります」とうそを言ったが、帝は御承知にならず、大いに怒られて隼人正には閉門を申しつけられた。そして「勅宣にそむいて、姫を差上げぬことは不都合である。違勅を見のがすことはできぬが、まず難題を申しつけて、それに少しでも違背したならば、直ちに押えて姫を取りあげよ」ということになって、白胡麻子石、黒胡麻千石、油千石、けし千石の品を早速に献上せよ、さもなくば姫を差上げよ」と大伴の持主を、勅使として豊後に下した。持主は上下200人を引率して、堺の浦から出帆して、7日間で臼杵につきこの旨を伝えると、小五郎は多くの倉庫からこの品々を出し、船に積んで差上げた。勅使が帰京してこの品を差出し、小五郎の様子や居所の有様を奏上すると、帝の逆鱗はなおおさまらず、こんどは虎の皮千枚、ラッコの皮千枚、豹の皮千枚を上納せよ、と、再び勅使を下向きせられた。これらの品を直ちに揃えられ、溝部次郎左衛門、柿本原孫兵衛、三好和泉の三人に持たせ、勅使とともに上洛、献上された帝は、ますますお怒りになって、そのような万宝に満ちた長者なら、いよいよ差し置くことはできぬ。今度は伊利の大臣が馳せ向かって、有無をいわせず姫を召し連れ帰れ、もしこれに違背するようであれば、これまで、わが国にば無かった難題を持ち出して迷惑させよ。」とのおおせに、三人は大そう驚いて帰り、このことを報告した。小五郎は、家人を集めて相談し、今度はなかなか難題であろう。この上は、たとえ官兵を差し向けられても、身命を捨てても防禦して姫を渡してはならぬ。もしもカのおよばぬ時は、唐土長女の帝に頼んで防禦せねばならぬ。ということに衆議一決した。伊利の大臣が勅使として欽明天皇22年9月下旬(一説には欽明天皇26亥歳9月27日とある。)長者の館に到着して、綸旨を伝えた。小五郎がほかのことならなんでも承るが、これだけはと、申し上げると、勅使の供人後藤蔵人が大いに怒って、小五郎を押え大刀を抜こうとしたので、長者の家人、与四郎、助七、孫左衛門、十兵衛の四人が障子を蹴破って飛び出し、蔵人をひっつかんで投げ飛ばし、各々ほこをとって左右から動けば突くぞと、取り巻いた。人々がこの物音に店いて集り、門につるした相国の太鼓をたたいたので「すわ一大事が起こったぞ」と、武器を手に手に集まった家来が3,000余人「一人残らず討ち取ってしまえ」と、口口に叫ぶので、さすがの勇猛強気の蔵人も大いに恐れて、ふるえ上がってしまった。
そこで、伊利の大臣が「どうしても姫が差上げられないなら、白布千枚、黒市千枚、錦千反、唐綾子巻、珊瑚玉、五百粒、瑠璃玉、五百粒を献上せよというと、家人らは「これまで都合三度の御難題、このたびだけは違背なく献上するが、今後はお断り申す」といって、騒ぎは静まった。けれども方々から遅れ馳せに家人が集まり、大平九郎、同五郎、緒方十郎、河登二郎、同小二郎、山田の四郎を先頭に、数百人が皆甲冑に身を固め、弓矢を携えて蔵人の所為の不都合をののしったが、その姿のたくましきに、勅使一行はみな震えあがって恐れ入った。この時、76才の柿本原忠左衛門が進み出て「われわれは鎮西の辺鄙に住んでいるから武骨ではあるが、古武士の道は少々覚えている。勅使のお慰みに御覧に入れよう」と厚さ6分の鉄楯を的に、5人張りのつるに15束の矢をひょうと射ったが、3筋まで羽ふくらませて射徹した。それから若者たちが板3枚を重ねて、各3筋まで射抜いたりし、次々と兵衛武芸をして見せたので、勅使一行は胆を冷やして恐れ入った。 
真名野長者の号を賜る
3回目の献上品も、警衛の人々がこれを守って海陸から送られた。
勅使伊利の大臣が、小五郎の盛んな繁栄ぶりと、出来ごとを詳しく申し上げたところ、帝は「三度の難題を申しつけたことは朕の過ちであった。罪科をゆるして官領を下す、小五郎を「豊後の国王江の里真名野長者と称号す。」と、綸旨を賜わった。 
豊日の皇子下向と葉竹の笛
欽明天皇第四の若宮、橘の豊日の皇子は、玉絵の箱をご覧になってから、物思いに沈むようになられたが、長者が一人娘であるので、姫を差上げないので、皇子はいよいよ姫を恋され、豊後の国に下る決心を定められた。
欽明天皇25年2月21日(一説には17年2月21日とある)の晩若宮は、修業者に変装して、秘かに大内を忍び出られ、まず大和の国三輪明神にお参りして深く祈願ののち、夜を日についで下向し、弥生(3月)の末どる白杵の港につかれた。浜で漁師が沢山集って蛤をとっていた。この中の―人の老女に、真名野長者の屋敷を尋ねたところ、まだ遠いし山道だからとその晩は、その老女の家にさそわれ、もてなしをうけた。美酒を出きれ、うとうとしていると、老女に起きれ朝食を頂いて、いっしょに家を出て、lkmあまり行くと、朝日が上ってよい天気になった。その時老女は、「私は大和の国三輪の者でございます。あなたの行末を守るために、これまでお供をいたしたのでございます」と、いうと消えてしまった。若宮は「これぞ三輪明神の化身であられたか、ありがとうどざいます」と、そのあとをふし拝んだ。
三重の里近くの松原に来たところ、長者の牛飼いたちが沢山来ていたので、若宮はそれを見ながら休んでいると、手かどにわらびを入れ、鳩の杖をついた二人の老翁がやってきて、「ここに見えた修業者はどこの国の方か」と、尋ねたので、都の者ですが鎮西(九州)を見に参りました」と答えると、二人者翁は、口を揃えて「修業者は錦の袋に葉竹の笛を持たれているが一曲承りたい」「この山里で錦を知っていられるか、まことに不思議である」というと、「いくら山里でも真名野長者の居所ゆえ、都にないような珍しい物を見ている」と笑いながら答えた。
この「葉竹の笛」は、天照大神が天の岩屋にお隠れになった時、八百万(やおよろず)の神神楽を奏する時、草木から水が吹き出て、何をたいても燃えなかった。そこで女神が、機の御篠を持ち出して、火をつけたところが燃え出したので、機を残らず火にたいて着け薪とした。ところで笛がなくては神楽は舞えぬと、いうので猿田彦の拒宮が長間(しのえ)を持ってきて「これで笛を作れ」といった。けれども笛は枯れ竹では作れないので、「生ま竹を持って来るように」といわれたので、姫はこの竹を大地に突きさすと、たちまち一枚の葉ができて青竹になった。そこで、諸神は大いに喜び、手力男尊がこの竹で笛を作ったので神楽を奏することができたという。老翁はこの話をして、お身の持つ笛こそ確かにその笛である。これは代々天子の御宝であるが、修業者としてそれを持っているいわれはない。しかし、これは昔の物語である。今は三重の里の草刈り笛と申す。ぜひ一曲所望」というので、若宮はその笛を取り出してお吹きになった。その音律は、実に微妙で、三百の牛飼も、三百の牛も、耳を伏せ頭を垂れて、ただ聞き入るだけであった。
二人老翁は牛飼いの長を呼んで、この客人を長者の牛飼いにたのんでこの山にわけ入った。
これこそ、一人は宇佐の里の者、他の人はこの山里の山王であった。 
若宮牛飼いとなり笠掛けの的を射る
同年四月二日若宮は、山路という名前で長者の牛飼いになったが、山路が牛をつけるとどんな荒牛もおとなしくなり、牛に乗って笛を吹けば、その姿は気高く人々は心をうたれた。
いつか夏も過ぎ秋の初めになった。若宮は山王権現に参詣して「自分が都を出たのは春であったが、今や秋の初めとなって望みの姫の姿は一度も見ることができません。この上は、神の力にたよらねばなりません。どうぞご助力をお願いします」と祈願した。
ところが不思議なことに、文月(七月)三日夜から姫は急病となったので、長者夫妻は大いに驚き家人二百人も集めて、上を下への大騒ぎとなった。神に伺いを立てると「姫の病気は諸神のたたりであるから、これをなおすには三重の松原に仮の神社を造営して、笠掛け的を射て神慮を休めよ」という神託があった。そこで三間四方の社を建てて用意をととのえた。この話を聞いて、近国の老若男女が郡をなしてつめかけ、おし合いへし合い大変な騒ぎであった。山路は射手となって出場することになったが、乗馬はなるべく荒馬がよいというので、野津原弥五郎の馬屋に育った、大竜黒という無双の荒馬に乗ることになった。
山路の装束は、肌に白絹を召され、にしきの直垂、大紋の綾をもって腕貫として、獅子の尾という剣を帯び、白木の御履ふみという姿であったが、山路は姫の臥家の方に向かって、弓をもって四方を払うと、姫は夢からさめたように病気がたちまち平癒して、床から起き出て、山路に向かって礼拝した。それから山路は荒馬に向かい「なんじは畜生であるがよく承れ。われこそ、当分第四の皇子である。望みあってこのたび的を射る、安らかにして害心を捨てよ」と、念じて側によると、不思議なことにこの荒馬は、頭をたれ、尾を伏せ前足を折って山路を拝んだ。
山路は網代の笠に七宝の瑠璃を飾り、まず、一番の馬場明けという荒駈けをして、乗り回すと不思議や、南方から白羽の鳶が、北方から白鳩一羽が飛んできて、神殿の棟にとまった。まもなく、長者夫婦に般若姫が、男女の家来を従えて、桟敷に入って見物することになった。射手は三人で、まず、―番の射手は、松尾軍太夫であった。彼は弓を満月のごとく引きしぼり、走る馬上から向うの松にかけた的を射たが、矢は的をはずれて、―尺ばかり上の松の枝を折って、向うの原へとんで行った。
二番手は岡本次郎。彼こそ必ず射当てるだろう、と見ていると的の下五寸ばかりの松の幹につきささった。
いよいよ山路である。山路は神前を礼拝して、心を静め、三つの的を諸々に立てさせ、九つのかぶら矢をもって馬を駈け出した。馬は電光のように速く走った。山路は走る馬上で弓に矢をつがえはっじ、はっしと射られると、ことごとく三々九度の的を射抜かれた。観衆はかん声をあげておどりあがってほめたたえた。山路は馬から降りて、神前を拝んだがその時、三羽の鳥が空へ飛び立ったので、山路はこれを見て「さてこそ御願を成就したか」と、そのあとを三度拝んだ。長者―家の喜びは限りなく、姫の病気平癒を賀してさざめきながら帰宅した。
なお伝えるところによると、「欽明天皇二十五年七月十七日、豊後の国三重の松原にて笠掛の的ありしより我朝令に至り神前においてやぶさめと名づけ射事この時より始まれり。かくて山路乗りたまいし大竜黒の駒、笠掛の的終りて即時に死すと書かれてある。 
山路般若姫と婚姻
長者夫婦は、家来二百人ばかりを集めて「このたび姫の病気が速やかに平癒したので、約束通り山路に姫をつかわすこととする。しかしここに一つの望みがある。それは、家人の中から数十人の美女を選び出し、揃いの着物を着せて姫と一緒に、屋敷に並べ見当てるかをためしてみたい」といった。その日となり、山路は装束を改めて座敷に通ってみると、皆一様の衣服を着た美女がずらりと並んでいる。一人家人が「この中に姫がおられるからお当て下さい」といったが、どれが姫やら見分けがつかず、しばらく思案していた。するとどこからか鈴虫が―匹飛んできて、般若姫の髪にとまって金色に光を出した。山路は、これは神様が教えて下さるのだ、と気付いてなおよくよくみると、桃額、蘭姿のこびを含み、世にもたえなる姿をしているので、これを指したところ、長者夫婦をはじめ家人らは大いに驚き、また、喜んだ。婚儀をすることになり、長者夫婦に家人ら残らず列席し、山路を上座に進め親子杯、山路夫婦の三々九度の杯を取り納めて、めでたく式を終え、それから、盛大な酒宴となり皆大いに興をつくした。
野津原弥弥五郎の弟弥四郎と、玉出藤四郎の弟忠三郎は、酔うたあまり「若宮の剣は金であるか木であるか」と、言い争ってそれをためそうとして、剣に手をかけようとしたところ、両人とも五体がしびれて悶絶してしまった。それを見た山路は座を立って「ゆるす、ゆるす」というと、両人は息をふきかえしたが、もう、酔もさめてしまった。山路は長者に向って、「今は何を隠そうか、自分は欽明天皇第四の宮橘の豊日の皇子である。なんじの娘を伝え聞いて、たびたび勅使を下したが、一人娘であるからと辞退したから身をやつして下って来たのである」
と、はじめて身の上を明かしたので、長者夫婦はじめ家人たちは、大いに驚いて「かような高責なお方とは知らず、これまで数々の御無礼の段は、何とぞお赦し下さいますように」とおわび申し上げ、尊い皇子のために、急いで新御殿を造営してお移り願ったという。まことにめでたいことであった。 
帝都の騒ぎと勅使の下向
都では若宮がいなくなって、帝をはじめ、大臣諸郷末々まで大騒ぎとなった。全国にお触れを出してさがしてみたが、手掛りもなく、空しく二ケ年の月日がたった。ある時太伴の持主が参内して言上するには「若宮がいなくなられてから早二ケ年になりますが、このころ豊後白杵の浦人が、綾錦の幕や種々の飾道具を持参して、売りたいというのでその訳を聞いて見たところ去年の秋、生国豊後、真名野長者の―人娘がにわかに病気にかかり、三重の松原で笠掛けの的というものを射て、姫の病気はなおりましたが、その時、神前に供えたものを請い受けたものでございます。というので重ねてその笠掛けの的は、何者が射たか、と問いますと、都の若で長者の牛飼いをしていた者が射手を望んで射当てたのであります。年は、十八ばかりの美しい若者で、今は長者の婿になっていると申しました。」といったので、それが若宮だろうということになり、急ぎ迎えのために大伴持主、隼人正を勅使として上下三百人を引具して、豊後にお差し向けになった。勅使は、摂津の国難波から船出して、日数もかからず豊後についた。長者夫婦は勅使を歓待した。宣旨の趣を若宮に伝えると「自分も追つけ帰洛する汝等はしばらく滞在せよ」と仰せになって、両使は、しばらく休息することになった。 
若宮の帰洛と玉絵姫の誕生
若宮は一日も早くご帰洛にならねばならないのであったが、愛着の緒断ちがたく、一日一日とのび、それから二ヶ月も過ぎてしまった。二人の勅使に帰洛を督促され、若宮も仕方なく長者夫婦にいとまを告げ、姫には、「御身もともども上洛したいと思うが今はただならぬ身であるからそれもできない。懐胎の子供がもし男の子であればすぐ連れて上洛してもらいたい。しかしもし女の子であったら長者の家の世継ぎにしたらよかろう。いずれにしても安産が大切であるぞ。そのうち迎えの者を差し向けるであろう。」と申されたので、姫は言葉もなく、やるせない思いでうち沈んでしまった。長者夫妻も、別れを惜しんでむせび泣く有様であった。若宮も堪えかねて、その手をとってなだめ、硯を取りよせて、「我子を此処に置く。今よりは此里を大内山と名づくべし」とお書きになった。これが今内山といわれている由来だという。若宮はつきせぬ名残りのたもとを振り切って、涙とともにご出発になったが、姫はたまりかねて、宮のあとを慕って走り出て、天を仰ぎ、地に伏して、消え入るばかりにさめざめとお歎きになるので、家来が馳せよって、さまざまにいさめていたわりながら、一間に連れ去った。この時若宮十九才般若姫十七才。欽明天皇二十巳首歳六月下旬であった。
般若姫は十一月八日月満ちて、めでたく女の子を安産され、玉絵姫と名づけられた。翌年春、姫は溝部、萩原両名の家来たちに「わらわも明年は上洛したいので、あらかじめ用意をしておくように」とお言いつけになったので、両名はその準備にかかった。献上の品々は、黄金十万両、七宝の玉の箱、唐紅赤色の錦、紺地の綾錦網、金紗、羅綾、鸞絞電竜、唐織、錦繍、きうりょうの織物、錦織白布、黒布、以上巻物の番(つがい)八万余及びその外御召物、七宝の玉の天冠羅綾の錦、鸞紋の御衣、きうりょう、けんもん金紗の御絹という、その数はまた、数えつくせぬほどであった。そして、その御乗物は、七宝荘厳の玉の御輿、これは長安から求めてあったものである。 
般若姫上洛難風に遭う
明くれば欽明天皇二十八丁亥の歳となった。正月の中旬に百済から、竜伯、定馳子二人の船頭が、数万の珍宝を積んで入港した。長者はこれを聞くと、二人を館に呼んで「このたび姫が上洛するので、諸方に舟を求めてみたが、いずれも小船で心もとない気がする。幸いその方が来合せてくれたので、頼み入るが姫の乗船としてしばらく貸してもらいたい」と申し入れると、「私どもも、一度は、日本の帝都を拝見したいと思っていましたから、それはお安い御用でございます」と気安く承知してくれた。長者夫婦は大そう喜んで、家人らに命じて二人の積んできた荷物を、全部買いあげさせて、白杵の浦の倉に入れ、船はきれいに掃除をして、綾羅の慢幕玉のすだれを飾りつけさせた。
そこで、今度の上洛は臼杵の深田にある新御殿から出発することにして、二月上旬には長者夫婦をはじめ、主な家人は三重の大内から深田に引き越しをした。そして、般若姫の供人は御局三人、腰元七人侍女二十人、はした女に至るまで女性は五十人、男子二十四人、また、守護職として野津原弥五郎が男女千余人の同勢を引き連れ、大船小船合せて百二十隻に分乗して、白杵の浦から舳艫相ふくんで出帆した。長者をはじめ家来の男女たちは、紫雲山に登ってこの船出を見送った。けれども、白雲が山懐にたなびいてよく見えなかったので、玉津姫はそれをなげいて「天津風雲吹きはらえ心なき乗りゆく姫の影を見し間も」と詠ぜられた。すると白雲はさっと引いて、遠く船路は眺められるようになった。その夜は長者の仮屋で船出の祝宴を張り、その席で玉津姫は「紫雲山、案の嵐に雪晴れふもとの海に月や澄むらん」と詠じた。紫雲山が一名「姫見の山」と呼ばれているのは、この言い伝えがあるからである。さて、姫の船が深江の浦に入って碇舶しているところに、勅使伊利の大臣が上下百人三隻の船で入港してきた。
「御上洛が余り長引きますので、主上をはじめ若宮きまは大へんお待ちかねでございます。お迎えにまいりました」と宣旨を伝えた。そこで、再び碇を上げてこの港を出帆したが、周防の国平祥島(平郡?)にさしかかった時、にわかに風が起こって、姫の船は周防の国熊尾(毛?)の浦に吹き流されてしまった。
勅使の船は、ようやく波を乗り切って、中国に渡り早く帰洛したが、姫の船は、この熊尾に十日ほど滞在し、この間、向うに見ゆる小島に渡って、馴子舞の祝儀を行ったが、この島は豊後の姫島であると言い伝えられている。
そこで、三月二十九日にはこの島を出帆したが、周防国大畠鳴門の瀬戸にかかった時、またまた暴風が起り、百二十隻の船は十方に吹き流されてしまった。
この時萩原、竹内の両人がようやく気がついて、姫の守護仏千手観音の尊像を取り出して、「船中安穏に御守護下さいますよう」と祈願をこめて波間に沈めると、風浪納まり天気晴朗となった。 
般若姫の薨去と贈宮のこと
姫はこの浦に船をとめさせ、八日間、千里、十五里の海上を捜索させたが九十五体の屍骸を発見した。それでもまだ二百四十余人の者が行方不明になっていたので、姫は悲嘆やる方なく、「こうなってみれば王位などどうでもよい。十善の夜喜見城の楽しみにも望みはない。ただ死んだ家人のなきがらを探してもらいたいばかりである」と、涙にむせぶばかりであった。その後姫は家人を呼び、生き残った者たちに酒肴を賜い、「仮の世に何歎くらんうき船のいづくを宿と定め置かねば」と繰り返して詠じた。それから姫は初音、小菊、山藤三人の侍女を連れて船やぐらに上って行かれたが、「このたびあまたの家人がここの海の藻屑と消えて、わたしは悲しみの極みである。このような哀愁にあってまでも、自分は皇后になろうとは思わない。」とおおせになると、そのまま海に身を投げてしまわれた。それを見た三人の侍女も、そのあとを追って投身したので船中は大騒ぎとなった。
けれども船には水練に達した百済の船人が沢山居たので、競うて海に飛び込み、四人は救い上げられた。
しかし、姫は数日の絶食で、いままた、海に投じたので、心気次第に衰え、良薬も看護もその甲斐なく、いよいよ最後の時が迫った。
姫は家人を呼んで
「自らは娑婆の縁も尽きたので、やがて、冥途に旅立つが、この黄金、綾錦、七宝の玉の御箱、姥柳の揚子をば、都の若宮に献じてもらいたい。また、本国へ帰ったならば、玉絵の姫を守り育てて、父母の跡をつがす頼みますぞ」
と仰せになると目を閉じた。そして「またわが死にがらは向うの山の頂上に埋めよ」といい手を合せて「南無観世音菩薩、慈眼視衆生福寿悔無量」と唱え、御年わずか十九才で、はかなくも薨去せられた。時は欽明天皇二十八丁亥歳四月十三日である。あとに残った家人は、暗夜に燈火を失い懐中の玉を失ったようで、泣いても涙は出ず、呼ぶも声は出ず、ただ、嘆くばかりであった。
今は、いたしかたないので、彼の山に姫と四十余人の屍骸を埋葬したが、これは、今も姫の墳墓として残り、魚の庄(伊保庄)般若寺が姫の御菩提寺として建立されている。それから、溝部、萩原、竹内、柿本原、竹田、白杵、石上の七人が家人を伴って上洛し、遺品を献上して「私兵は姫を守護して上洛しましたが、海上数度の難風にあい、ついにお疲れのために名医の術も甲斐なく、薨去せられました」と謹んで奏上すると、帝をはじめ大いに御愁嘆になったが、わけても若宮の御嘆きはまた格別であった。帝は「不欄なる姫の次第、この上は悔いなきことと贈宮を下す」と、お仰せられて「般若皇太后宮」という御諡を御下しになった。」
時は四月二十九日、家人らはこの御宣旨をいただくと、うれいの中にも悦びをもって豊後に帰国した。
それから、同年の秋には、都の北に姫のために「般若の宮」という山社をお建てになった。 
金政君豊後に下り姓を賜わる
欽明天皇三十―庚寅歳の秋八月萩原次郎右衛門。同忠左衛門の両人は長者の意を受け上洛し、
「豊日の皇子の姫君王絵姫は、次第に御成長遊ばしたが、都へお召し上げになりましょうか、お伺い申しあげます」と言上すると、
「かねて皇子と約束がある、と聞くから姫は、長者に賜う」とお仰せ出された。両人は非常に喜び重ねて「この上ながらのお願いは大内より長者の世継ぎを賜わりますよう」とお願い申しあげると、もっともな願いということで、伊利の大臣の三男、当年十三才になる金政公を、長者の世継ぎとしてお選びになった。両人は大喜びで、金政公のお供をして帰国したので、長者夫婦はもとより、家人に至るまで家の安泰を喜び合った。
その後、人皇三十代敏達天皇元壬辰歳天皇は御即位の御祝儀として、金政公に五千八百代の地に綸旨を添えられ、隼人正を勅使として豊後の国にお差し向けになった。その綸旨は、豊後の皇子が長者の牛飼いとなり、草刈りをされたことに因み、金政公の御姓名を草川右衛門助と号し、「橘の氏次と名乗れ」という勅定であった。氏次公には五万八千石を賜わったが、公の武技は特に衆にすぐれ、いよいよ、長者の後窩は富みかつ栄えた。
19.般若姫皇后忌日供養のこと
人皇三十代敏達天皇二癸巳歳のこと、真名野長者の念願にこたえて、唐土から高僧沙弥三十余人が、霊仏を奉じ仏具をもって渡来した。長者夫婦は大そう喜んで、これからの人々を連城法師と共に住わせ、日夜勤行をおこたらなかったが、この年七月二日のこと長者夫婦はこれらの客僧たちを伴って、臼杵深田の新御殿に案内して、「この御殿をご覧下さい。これこそ先帝の第四の若宮橘豊日の皇子が、御下向になった時、私の娘と共に御座所となきれた御殿でありますが、皇子は帰洛せられ、娘も、今は空しくなりまして、恩愛の楽しみも束の間と消え果てました。どうぞ姫の後生の弔いを願います」といったが、堪えかねて座敷に伏し転んで嘆くので、高僧たちもこれを見て、衣のそでをしぼる有様であった。連城法師には七人の弟子がいた。それに渡来の僧が加わって、四十―人で八月七日から、十三日まで十日間、般若皇后の御供養が修行された。十四日は海に沈んだ家人の供養をしたが、十五日には、高僧たちは法服を整えて、管絃謡楽の曲、見仏間伝の楽を奏した。玉津姫も覚えず座を立ってしばらく楽に合せて舞い、
「名月の月は昔にかわらねど迷いの雲は月かくすらん。」と吟詠した。 
守屋大臣長者を攻める
敏達天皇六丁酉歳の三月上旬守屋大臣は、一門貴族を集めて「豊後の国に真名野長者というものが居るが、おどりを極め、異国からきまざまの沙門を招き、天台山から仏像という異形のものを取り寄せ、日本では聞いたこともないところの、天笠祇園精舎とやらの体を移し置くということは、その罪がはなはだ大きい。もとよりわが国は神国であって、異国の邪教を入れるということはよろしくない。そのようなことをすれば、神の怒りによって、世に災難が起るであろう。先帝は、長者一代はいかなる罪も赦すと、仰せられたが、先年わが尾興大臣が中州に流罪になったのも、皆長者の所為である。そのままにさしおくことはできぬから、急ぎ押し寄せ、寺院を焼き払い、長者父子を残らずからめとれ」と命じた。このことは、すぐ長者に知らせがあったので、防戦の用意をしていると、果して守屋の軍勢が攻めて来た。しかし、何度攻めても、大臣の軍はさんざんに敗北して、到底爪のたつものではなかった。
このように守屋大臣が攻めあぐんでいるところに、大伴の臣らが謁見して、「長者父子は、英雄貴族を数万人もち殊に百済から、商船三十余隻に長者の家来であるというものが、二千余人も乗り込んでいます。それに、日本ではまだ聞いたことのない石火矢、火矢などという攻め道具をもっていますから、こちらが十万の兵を差し向けても、とても勝つ見込みはありません。また、豊後の国同たる長者に、勅許も得ずに兵を差し向けたのでは、長者父子の怒りはとても大変なものであります。これは早く和睦をするのに越したことはありません。と諌言した。大臣も大勢には屈して、致しかたなく大伴の臣を和睦の使者として、豊後に差し向けたが、山王宮への寄進として八連の鈴を一対、金の幣帛一対、錦十巻、鉾二本を奉納した。この時守屋の大臣は三十二才であった。
大伴の臣の下向は、敏達天皇七戌戌歳の正月中旬であった。
草川左衛門助殿へは、金こしらえのよろい一領、名剣一振り、錦の直垂五重、槍十二本、弓十二張を、五十余人で持参して、末長の城に入ったので、長者父子はこれを出迎えて、めでたく和睦は成立した。
長者は、使者を厚くねぎらい、大伴の臣をはじめ家来の下々に至るまで、黄金巻物を引出物にしたので、使者一行は厚く礼を述べて帰洛したが、深田の城から南原四郎、溝部次郎左衛門、川登次郎が使者となって、百余人の家来を連れ正月下旬に出発して、二月上旬に上洛して、守屋大臣に謁見し、黄金千両、巻物五百巻、鉾五百本、を献上したので、大臣も喜んで三人を好遇し、種々の引出物を与えた。そして使者がこの趣きを報告したので、長者や家人一同は「これひとえに山王権現の御加護である」と、ますます、その信仰を増した。 
長者夫婦の薨去
長者は般若姫の供養のために、予州高浜に大山寺を建立した。そして魚の庄(伊保庄)には、般若寺を建立した。
さかのぼって、欽明天皇の御代には、百済の沙門違城法師が、観音菩薩と医王如来の二尊を奉じて渡来し、長者の家を修築して安置したが、これが蓮城寺である。蓮城寺は、その後、立派な寺を建立し、有智山蓮城寺といって多くの仏像を安置し、長者―家の信仰いよいよ厚く、また、信徒も多くなった。このことが小野辺の連に聞えて焼討ちにあったが、長者の仏像は金亀が淵に沈めてその難を免れた。
なお敏達天皇の御代に陳壬の陰悦法師が薬師如来、弥勒菩薩、賓頭盧尊者(ひんずるそんじゃ)、の三尊を奉じて来航し、長者の家に入ったが、のちに深田の新居に入って、満月寺五ケ院を完成した。敏達天皇十三年には、千体薬師の木像が完成し、崇峻天皇二年に、ただ今のような堂守を建立して奉安した。内山観音蓮城寺の千体薬師というのがこれである。長者も、蓮城法師も、大へん長生きをされた方々であった。蓮城法師は、推古天皇三十五丙戌歳八月十日に九十一才で、遷化せられ、真名野長者は推古天皇十四乙丑歳二月十五日に九十七才で卒し、忌名号松林院殿、法名は、慈老院殿円通慈観大禅門、玉津姫は推古天皇十一壬戌歳三月十三日に九十一才で卒し、忌名号妙禅殿、法名渡妙善院法蓮浄心大師となっていて、今内山観音境内にある石造宝塔二基が、長者夫婦の墓といいつたえられている。
内山蓮城寺には小五郎が使っていたという古代鎌とまさかりをはじめ、焼俵、焼縄、花炭(稲穂や草花やすすきを焼いた炭)などが宝物として残っている。なお臼杵市深田には小五郎の七十八代の後えいといわれる、草川茂さん、昭和34年には71才で居られた。 
 
炭焼き小五郎・類似伝説伝承1

 

炭焼き小五郎 (大分県豊後大野市三重町)
継体天皇の御代、奈良の都に住む久我の大臣に、玉津姫という姫がいた。その絶世の美貌を知らぬ者はいなかったが、どういうわけか十歳の時に体や顔一面に黒いあざが現れ、醜い形相となり果てた。このため降るようにあった縁談も絶えて、家族共に嘆く日々だった。
姫は大和の国の三輪の明神が縁結びの神と聞いて、藁にもすがる思いで毎夜参っては良縁の願を掛けていた。満願の九月二十一日、にわか雨に降られて社殿で雨宿りをし、うとうととまどろんでいたところ、錦の衣を着て七宝の冠をかぶった美麗な人が入ってきて、「汝の夫となる者、遠く山海を隔つ。これより西国、豊後[ぶんご]の国の三重郷、玉田の里の炭焼き小五郎という者なり。ものの分からぬ愚かな山男なり。しかれども、この者と嫁せば、富貴自在にして長者となるべし」と告げて、「善きかな、善きかな」と姫の頭から足まで小杉の葉で払い、「汝が行く末を守護するべし」と、それを姫の髪にさした。ハッと覚めれば夢である。しかし髪には確かに杉の葉がさしてあった。さては三輪の明神様だったのかと感謝して神前に伏し拝んだ。闇夜の中を家に帰って、お告げ通りにしようと一心に思っていた。
十六歳になった翌年の新春二月、玉津姫は運命の夫を求めて豊後へ向かうこととなった。両親は旅の困難を思って泣いて止めたが、姫の決心は固く、ならばと金四十両を持たせ、十二人の侍女を伴わせて忍び出させた。ようやく豊後の三重郷の近くに辿り着き、間もなく運命の人に会えるのだと胸をときめかせて身づくろいをしたが、鏡に映った自分の顔は相変わらずの醜さである。姫は悲しくなって鏡を捨ててしまった。
どんなに探しても炭焼き小五郎は見つからず、十二人の侍女たちは疲れ果てて自ら淵に沈み、姫は一人きりになったが、命のあらん限りはとなおも深く山に入って探し続けた。
三月十三日、姫は三重郷の松原に入った。しかし誰に聞いても小五郎の居場所は分からず、途方にくれて松の木の根方に座り込み、三輪の明神に祈っていたところ、薪を負った白髪の老人が通りかかった。姫はこれ幸いと尋ねた。
「私は都の者ですが、この国の三重の山里に炭焼の小五郎と申す者がいると聞き及びます。ご存じありませぬか」
「なるほど、その者のことなら存じておる。ものも分からぬ愚かな山男だ。何故お尋ねかな」
「私は都の貴族ですが、ご覧の通りの醜い姿で、都には私の夫になってくれる者がおりません。これは女としてこの上ない屈辱です故、都を忍び出て野に伏し山に臥して、命の限りにここまで迷い来ました」
姫がそう言って袖が濡れそぼるほど悲嘆すると、老人は宥めて言った。
「日も、もはや暮れております。今宵はこの翁の家に泊まりなされ。明日は小五郎に引き会わせましょう」
東方の谷陰に小さな葎家[むぐらや](みすぼらしい家)があり、老人はその柴戸を開いて中に招いた。中にはたいそう美しい座敷があり、部屋が幾つもあると見える。数十人の女たちが出てきて「これはご主人様、お帰りなさいませ。お客様がおありですか」と言う。これを聞いて奥から六十歳ほどの錦を着た老女が出てきて、姫に向かって「長旅でお疲れの様子。急いで食事を差し上げましょう」とてご馳走を整えて饗応した。女たちが今様を謡うなどして座を盛り上げた。
主人である老女が姫に言うには、「私たちは鎮西の山中に生まれ、都のことは夢にも知りませぬが、今はさだめし、都も花盛りでございましょう。当地も花の盛りでございます」とて、「お客様に庭の花をお見せなさい」と命じると、侍女が立ち出でて南の方の門を一つ開いた。桃や桜が色を争い、見慣れぬ草花が咲き乱れ、庭の砂は金銀のようで、花の大きなことと言ったら蓮の花のようである。
玉津姫は老女に尋ねた。「この家の主のお名前はなんと申されますか」
老女は答えて言った。
「天竺においては舎衛国大満長者、百済国にては竹林山の麓の柴守長者、今ここにおいては、真名野長者と申す者です」
姫はこれを聞いて、これは誰もが人生で望むことだと内心に思った。また、傍らを見れば金銀の山があった。
その時、家の主人が立ち出でて、残らずご覧なさいと言って、北の門を開けば、数十の館が並んでいて、その美しさは言葉で言い表せるものではなかった。また主人が言うことには、「この間、異国から賓客がありまして、滞在していただいております。引き会わせましょう」とて東方に連れて行き、水晶の石段を上ると、上に金銀七宝の宮殿があり、戸には玉簾が掛かって、綾羅錦繍[りょうらきんしゅう](綾織や錦織、薄絹や刺繍などのこと)の幕で飾られ、その中に四人の天女がいた。世に比類のないほど美しく、あらゆる宝玉で飾った冠をかぶって端然と座っていた。
主人夫婦が立ち出でて言うことには、「私たちが死んでも、この方たちは一万歳の後まで死ぬことがありません」と。その時、姫は尋ねて、
「皆さまは美人のお姿。私はどんな前世の宿業で、この顔に生まれてこのような遠い国までさまよい来ているのでしょうか」と言えば、四人の天女は口をそろえて言った。
「日蝕の日に生まれて、地神の顔を汚したために、このような賤しき黒あざが出たのです。しかしこの庭の金亀[きんき]ヶ淵(きんきら淵)の水にて洗いなさい。必ず黒あざが落ちるでしょう」
玉津姫が淵に近寄って見ると、金の築山があって、水に住む魚までもみな、ことごとく金色である。姫が不思議に思って見ていたところに、俄かに大風が吹いて来て、庭の桃や桜の花がことごとく落ちて、玉簾も綾羅錦繍[りょうらきんしゅう]の幕も千切れ飛んで、花も残らず散り失せて、こんなにも広い宮殿と見えていたものが、みんな草むらとなった。明るんだ東の空に鳥の群れが来て鳴き声を交わしている。そこは、草刈り童の通う山道であった。
老人は木の根を枕とし、ぐっすりと眠っていた。姫が老人を呼び起こすと、老人は目覚めて起き上がった。老人は姫を山の麓に連れて行った。見れば、葎家[むぐらや]に柴で編んだ戸が立て置いてある。老人は「ここでしばらく待ちなされ。やがて主人も帰るであろう」と言うと、忽然と消え失せてしまった。
姫が呆然としていると、主人と思しき者が蕨根や芹を持ってやって来た。見れば、手足が墨のように黒く、頭髪は乱れて茨のよう。姫は恐ろしく思ったが近づいてくると立ち向かって、「お若い方、あなたは炭焼小五郎様ではございませぬか」と尋ねた。彼は答えた。
「仰せの炭焼き小五郎とは俺のことだが」
彼は継体天皇三年(509年)に玉田の里に生まれ、幼名を藤次(藤治)といい、三歳で父に、七歳で母に死に別れて道で泣いていた。これを憐れんだ炭焼又五郎が引き取って育て、藤次が二十一歳の時に養父は八十一歳で亡くなり、跡目を継いで炭焼小五郎と名乗るようになったのである。
姫は重ねて言った。
「私は都の者ですが、大和の国三輪大明神のお告げによって、ここまで導かれてまいりました。あなたと私が夫婦となって、偕老の契り(年老いるまで仲睦まじく暮らすこと)を結ぶべしと申すのです。この大明神のお告げのために、山海を隔てた遠国まで、はるばる訪ねて来たのです」
「お気持ちは嬉しいが、俺はこの葎家[むぐらや]にただ独り、草を敷いて肘を枕にして、朝も夕も暮らしかねている。何をしてやれるものか」
「それはご心配なさらずに。こちらに貯えがあります。持ってきましたのよ」
姫は懐から黄金を取り出し、「これを里に持って行って、何でも買ってきてください」と渡すと、小五郎は黄金を受け取って出かけたが、やがて家に帰って来た。姫はこれを見て、「随分早かったですね。何を買ってきたのですか」と言えば、小五郎は笑って、
「この下に淵がある。沢山のオシドリが集まっていた。俺はこれを仕留めてお前にやろうと思って、さっきの石を投げたが、石は沈んでオシドリは逃げてしまった」と言った。姫は言った。
「あれは黄金といって、大事の宝です」
ところが、小五郎はまた笑ってこう返した。
「さても可笑しな宝物だな。俺が今オシドリを打ったような石は、今の淵の周り、炭焼き窯の下までもに沢山あって迷惑しているぞ」
姫はこれを聞いて大いに驚き、「ならば私も行って見ましょう」と夫婦そろって見に行けば、疑いもない黄金が淵から湧き出している。この不思議に見とれていると、水底から金色の亀が浮かび上がって来て、人の言葉で言った。
「天竺においては舎衛国江南淵の旧室婁というヒキガエルと化し、百済国においては竹林山の麓万能淵の白蛇として現れ、この国では金亀と化してこの淵を住処とす。また、三国で守護した宝は残らず夫婦が受け取りたまえ」
こう言い捨てると、たちまち金色のオシドリと化して、西を指して飛び去った。
継体天皇の二十四年、三月十四日に夫婦となった。山王神の夢告げを少しも違えず、この淵の水にて身体を洗うべし、と姫が身体を洗ったところ、不思議なるかな、黒あざがたちまち落ちて容顔美麗になった。あなたも垢を落としなさいと姫が勧めたので、小五郎もそのまま飛び入って身体を洗えば、猿のごとき小五郎も、たちまち美男となった。
姫は「ここの他にも淵はありますか」と尋ねた。小五郎は「なるほど、この里には三つの淵がある。残らず見せよう」とて揃って山に登って見れば、一つの淵がある。行ってみると俄かに水が渦巻いて、水底から一つの金釜が浮かび出た。この時、姫は小五郎の心を見ようと思って、「これはどういうものですか」と尋ねたところ、小五郎は答えて「これは金釜というものだ。我ら夫婦は今後、この釜で茶を飲もう。ありがたいことだ」と言って懐に抱え取り、この淵を釜ヶ淵と名付けた。もう一つの淵も見せようと言って、行って淵の周りを廻っていたところ、板で作った箕[み]が一つ浮いてきた。姫がまた尋ねた。「これは何と言うものですか」。小五郎は聞いて、「これは箕と言って、民百姓の宝だ。我ら夫婦、五穀を作ってこの箕でふるい分けろということだ。これはお前が持っていなさい」と姫に持たせ、自分は釜を抱えて夫婦の家に帰った。この淵を箕ヶ淵と名付けた。
姫が小五郎に言った。
「あなたほど善悪も知らぬ愚か者は他にいませんでしたのに、俄かに智者となったのは不思議なことです」
小五郎は答えて言った。
「それなら、お前ほど黒あざ面で見苦しかった女が、俄かに美女になったことが不思議だな」
夫婦は一緒に笑った。
それから黄金を取り集めようと、昼夜の別なく集めて、地面を掘って埋め、あるいは金亀ヶ淵に沈めた数は量り知れようもなかった。あるいは、三つの淵からは砂金が湧き出して、取れども取れども尽きることがなかったと言う。しかもお茶や五穀にも恵まれた。
こうして二人は豊後の国に並びのない長者になった。噂を聞いて集った人々を雇って山谷を開墾し、田畑が広がり家が立ち並んだ。三年七ヶ月をかけて真名野[まなの]原に壮麗な御殿を建立し、抱える使用人は三千人になった。
夫婦は長く子宝に恵まれなかったが、御殿の新築祝いをしていた八月十五日、俄かに天空鳴動し、月が庭の池に落下して、それが座敷に座っていた玉津姫の胸の中に飛び込んだ。姫はアッと気を失ったが、百済[くだら]の妙薬を飲ませるとようやく息を吹き返した。
小五郎は心配し、重臣二人に命じて姫の病気平癒を祈願させた。二人が夜通しの祈祷をしながらうとうとしていたところ、白髪の老人が白絹の衣を着て鳩飾りのついた杖を持って現れ、「これは姫の懐妊で、めでたいことである」と告げた。姫の腹には月の精が宿ったのであり、容貌美麗な女児が生まれるであろうと。この報告を受けて長者夫婦はたいそう喜んだ。果たして、欽明天皇十年の五月八日、玉津姫は安産で女の子を産み落とした。
ところが、この子は産まれてから三日過ぎても泣き声一つ立てない。姫は心配し、金亀ヶ淵の水を汲んで来させて飲ませたところ、途端に泣きだした。口の中を見ると三日月型の黒いあざがあった。これが月の精が宿る印であるという。産まれた時にその美しさによって部屋が光で満たされたので玉夜の姫(玉世姫/玉代姫/玉依姫)と名付けたが、後に般若姫と改めた。
般若姫が生後十一ヶ月の時、百済から船頭・竜伯が来て、海から漁師が引き揚げたという一寸八分の黄金の千手観音像を姫の守り本尊として贈った。竜伯は姫が十一歳の時にも中国皇帝の使者を案内して訪れ、連れてきた画家兄弟に姫の肖像画を二枚描かせて、一枚は姫に贈り、もう一枚を中国皇帝のために持ち帰った。ところが翌年の春、再び竜伯が来て、皇帝は絵に恋い焦がれるあまり病気になり、ついに崩御されてしまったと告げ、皇帝から姫への形見の品々を渡した。
このようにして般若姫の美しさは世に響き渡り、時の欽明天皇の耳にも入った。第四の宮・橘の豊日[とよひ]の皇子は十六歳になっていたが、まだ妃がなかったので、天皇は長者に使者を送ったが、長者は眼の中に入れても痛くない愛娘を手放したがらない。仕方なく、使者は中国の画家の描いた姫の肖像画だけを持って都に帰った。
天皇は絵を見て美しさに感心し、勅命に背くとはけしからんと怒って、「白胡麻千石、黒胡麻千石、油千石、罌粟千石をすぐに献上せよ。出来なくば姫を差し上げよ」と使者を送った。小五郎はこれらの品を直ちに揃えて献上した。天皇はますます怒り、「虎の皮千枚、豹の皮千枚、ラッコの皮千枚をすぐに献上せよ。出来なくば姫を差し上げよ」と使者を送った。小五郎はこれも揃えて納めてきた。天皇はますます憤り、我が国にないものを納めさせる難題を出してやれと部下に命じた。「白布千枚、黒布千枚、錦千反、唐綾千巻、珊瑚玉五百粒、瑠璃玉五百粒を献上せよ」との難題が出された。小五郎はこれも差し出したが、長者の家来たちはいきり立ち、武力での反抗も辞さない勢いになった。それを伝え聞いた天皇は恐れをなし、謝罪して小五郎に《真名野[まなの]長者》の称号を与えた。
しかし豊日の皇子は肖像画を見てからというもの、恋い焦がれて般若姫を諦めきれない。密かに都を出ると豊後の国に入り、身分を隠して修道者の姿となり、山路[サンロ]と名乗った。漁師たちが網を広げているところで出会った老婆に長者の屋敷への案内を頼んだところ、一晩泊めてくれ翌朝早く連れて行ってくれたが、彼女は三輪明神の化身であって、日が完全に昇るとそれを告げて姿がかき消えた。
三路は長者の牛飼い(草刈り童)となった。彼が草を刈って与えればどんな荒牛も大人しくなり、彼が牛に乗って高天原[たかまがはら]由来の神笛《葉竹の笛》、今は三重の里の草刈り笛と呼ばれるようになったそれを奏でれば、誰もがその気高さに心打たれた。
一方、都では姿を消した皇子を求めて占いをしたところ、宇佐神宮の放生会[ほうじょうえ]を真名野長者に執行させれば見つかると出た。長者は引き受けたが、祭りに必要な流鏑馬[やぶさめ]の正しい作法を知る者が誰もいなかった。すると、数百匹の猿が屋根の上で踊る、般若姫が山王の嶽から火の玉が出たと言って気を失う、初祢(初音?)、山吹(山藤?)、小菊という姫の三人の侍女が気が違ったようになって跳び回ると言った怪異が起こった。狂った侍女たちは「これみな地神の祟りなり。三重の松原で流鏑馬の矢を射て、地神を鎮めれば平癒なるべし」と口走る。長者は困り果て、正しく流鏑馬を行える者がいたら般若姫の婿に迎える、とのお触れを出した。
三路が名乗り出た。彼が流鏑馬を始めると、南方から白い鳶が一羽、北方から白鳩と山鳩が一羽ずつ飛んできて仮神殿の屋根にとまり、矢を全て放ち終えると飛び去った。こうして流鏑馬を成功させた三路は般若姫の婿に迎えられた。
一方、流鏑馬を成功させた三路の存在は行商人の口伝えで都にも知られることとなった。立ち現れた宇佐の神に「都から迎えが来るであろう」と告げられ、帰還せねばならないことを悟った皇子は、長者と妻に身分を明かした。それでも離れがたく、迎えが来てから二ヶ月出発を延ばしたのだが、もうどうしようもない。般若姫は既に身ごもっていて長旅は難しかったので、「産まれた子が男なら都に連れて上洛せよ。女なら長者の後継ぎとして残し、姫一人で都に上洛せよ」と言い残して、六月下旬、涙ながらに別れて都に帰った。このとき、皇子は十九歳、般若姫は十七歳であった。十一月八日に般若姫は女の子を産み落とし、玉絵姫(玉代姫)と名付けた。
二年後の春、般若姫は千人以上の家人を引き連れ、船で臼杵[うすき]の港を都に向かって出発した。ところが鳴門の瀬戸に差し掛かった時に暴風が起こり、連れていた家人の殆どが死んでしまった。姫は嘆き悲しみ、「こんなことになってまで后になりたいとは思わない」と言って船やぐらから海に身を投げた。それを見た初音、小菊、山藤の三人の侍女も後を追った。四人は救い出されたものの、そのまま衰弱して欽明天皇二十八年(567年)四月十三日、般若姫は十九歳で命を落とした。
数年後には内裏から伊利の大臣の三男、当年十三歳の金政公を玉絵姫の婿として迎え、長者の家の安寧は約束された。
また、長者は般若姫の供養のために臼杵市深田の里に満月寺を創建し、岩壁に石仏を彫らせた。岩は固く、しかも彫ると岩の奥から男女の泣き声が響いたり血が流れたりといった怪異が起こったが、東方から現れた異人が妙術で工事を助けた。これが臼杵の石仏群の始まりである。
長者は推古天皇十三年(605年)に九十七才で、玉津姫は同十年(602年)に九十一才で世を去った。
長者の後裔と称する草刈家には、俵のまま焼けた炭(花炭)二俵と鉈が家伝として伝えられ、年に一度、先祖祀りの際に陳列されていた。(「豊後伝説集」によれば、姫が花のついた枝を小五郎に焼かせたところ、そのまま炭になったとのこと。)
参考文献 「大分の伝説」「日本伝説大系」「真名野長者伝説」
※[炭焼長者]と呼ばれるパターン。運命の夫の職業が炭焼きである。 

上記の伝説では炭焼き小五郎の養父を炭焼き又五郎とするが、福岡県朝倉郡には以下のような歌が伝わっていたという。
これは京都の大納言。くにの娘に玉代というて。ぢたい玉代は不器量な生まれ。広い都に添う夫[つま]がない。
からみやす明神に。七日七夜の断食籠り。七日七夜のあたえし晩に。枕上にて御告げがござる。
われが添う夫[つま]九州豊後。豊後峯内炭焼又五。藁で髪結うた小丈な男。
そこで玉代が有り難がりて。うちに帰りて金子[きんす]をとりて。小判五十枚肌にと付けて。あすは日も良し旅立ちせんと。九州豊後と急いで下る。
急ぎゃ程なく九州豊後。柴の戸口を覗いてみれば。藁で髪結うた小丈な男。
又五さんとはお前のことか。わたしゃお前の妻にてあるぞ。
妻に取ることいと易けれど。貧な暮らしをさてするからは。米が無いから味噌まで無いが。
米が無いなら米買うて来やれ。小判一枚又五に渡す。又五受け取り米買いにゆく。
段々行く行くゆくのが原に。ゆくの原には大池小池。池についたるオシドリ一羽。
あれを玉代に土産にせんと。オシを見かけに小判を投げる。オシは舞い立つ小判は沈む。先に行かれぬ後にぞ帰る。うちに帰りて玉代に語る。
段々行く行くゆくのが原に。ゆくの原にて大池小池。池についたるオシドリ一羽。オシを見かけに小判を投げる。オシは舞い立つ小判は沈む。
又五さんとも言われる人が。あんな宝を知らいですむか。
あんな小石が宝であらば。私が峯内炭焼く山は。東お山が赤銅[あがね]の山。西のお山は黒鉄[くろがね]の山。南お山が白銀[しろがね]の山。北のお山が小判の山よ。
四方[よも]山をば取り寄せまして、マノの長者と仰がれまする。

高知県中村市(旧幡多郡)に地元の常盤神社の縁起として伝えられていた【炭焼長者】譚では、長者になる男は《炭焼き又十郎》、京都の富家から押しかけて来た妻は《お藤》となっている。又十郎は山の香ノ木(しきみ)を炭にしていたが、その棄灰[スパイ]が全て黄金になっていた。そこで夫婦で炭を焼いては黄金を作り、炭俵に詰め炭を装ってお藤の実家に送り続けて両親を驚かせた。大金持ちになった又十郎夫婦は、やがて京都に移り住んで鴻ノ池家を名乗ったと言う。棄灰が黄金に変わったのは、香ノ木を三年間炭にし続けたので、その煙が天の倉を突き破り、黄金を降らせたからだとする。又十郎の炭焼き窯の跡地に建てられたのが常盤神社で、《炭の倉さま》と呼ばれ、旧暦二月の初卯の祭日に、境内や祠の後ろの岩穴辺りから木炭の切れ端を拾い、持ち帰って神棚に祀っておくと福があると言い伝えていたとのこと。

お藤の実家に炭俵に詰めた黄金を送ったという点は、朝鮮の「薯童伝説」にて、掘り出した黄金を善化王女の父の宮殿に一夜で届けたというエピソード、そして中国の類似伝承で、妻の実家まで金銀の橋を架けて父に認めさせるというエピソードと対応しているように思われる。  
米原(よなばる)長者 (熊本県菊池市)
都のある公卿に美しい娘がおり、清水寺の観音を信仰していた。ある時、夢に観音が現れて「汝の夫は肥後の国菊池郡四丁分の薦[こも]編み小三郎なり」と告げたので、娘は下女十数人を連れて、肥後にまでその男を訪ねてきた。
探し当てた小三郎は、「俺は薦[こも]を編んで隈府の市で売ってその日の食べ物を得る貧しい暮らしだから、嫁など養えない」と断った。そこで娘は金二両を渡したが、小三郎は買い物に行く途中で川の鷺(または鴨)を取ろうとして投げつけ、金を失ってしまった。
娘がそれを聞いて呆れ嘆くと、こんなものは家(または、裏山の炭焼き窯の横)に沢山あると言う。夫婦で行って掘ってみると沢山黄金が出たので、大金持ちになった。大きな家を建てて村中の田畑を買い取ったが、それが四丁分の長者屋敷である。その後岩本村に移った。その居住したところを屋敷の谷と言う。その次に米原[よなばる]に移り住み、大きな屋敷を構えて米原長者と呼ばれた。
一説に、米原長者は一日で膨大な田植えを終わらせようとしたが間に合わず、扇であおいだが沈む太陽が戻らないので、日の岡山に火を放ち、その明かりで田植えを済ませた。ところが祝宴をしていたところ、燃え続ける日の岡山から火の粉が飛んできて、米原長者の家屋敷はみんな燃えてしまったのだと言う。それ以来、日の岡山は禿げ山のままである。翌日からは大雨になってせっかく植えた田も流れ果て、長者の栄華は終わった。
今でも米原を掘ると炭化した米が出ると言い、これは米原長者の倉の米が焼けて出来たものだと言われる。あるいは、団子土という外が赤で中が黒い砂石が出るが、これは使用人たちが食べ残した団子を捨てたものが石になったとのだと言う。屋敷の礎石や畳石が出るとも言う。また、この辺りに米原長者が宝を埋めた塚があるとも言われる。
参考文献 「日本伝説大系」
※米原長者の名を《孫三郎》とする伝承も多い。職業は薦編みか炭焼きが主流だが、他にも、藍を造っている孫三郎、穂掛け孫六(極貧のあまり、他人の田んぼの落ち穂を拾って自宅に掛け干しして食べていたため。炭焼きでもあり、その炭焼き窯の横に黄金があった)、たにしの清六(極貧のあまり、山麓の洞穴に住んで田螺を食べ、ドジョウを町に売りに行って暮らしていたため。熊本から神託に従って来た押しかけ女房から小判を五枚もらうが、蛇を苛めていた子供たちに、蛇を助ける条件で、言われるまま全て与えてしまう。しかし住んでいた洞穴の奥に黄金が沢山あった)などがある。 
疋野長者 (熊本県玉名市)
京都の姫君が、夢で観音のお告げを聞いた。
「筑紫肥後の国、玉杵名の立願寺村疋野の里の炭焼きの若者(一説に、小五郎)に嫁ぐべし」
姫は侍女十二人と侍四人を引き連れて九州に下り、若者を訪ねた。若者は炭薦を編んでおり、いかにも貧しい様子である。姫が訳を話して妻にしてくれと頼むと、「米もない貧乏暮らしだから」と断ったが、姫は金を出して、米を買ってくるように頼んだ。ところが若者は買い物に行く途中で沼のほとりに白鷺を見つけて、金を投げつけた。白鷺は脚を傷つけられたが、湯気の立つ田んぼ(または、谷)でしばらく休むと元気になって飛び去った。そこに行ってみると温泉が湧いていた。これが立願寺温泉の始まりで、白鷺温泉、疋野温泉とも言う。(現在の玉名温泉)
また、姫は若者の家の庭の踏み石に至るまで、みんな金の鉱石で出来ていることに気付いた。聞けば、山にはいくらでもあると言う。
姫は若者と夫婦になり、金を都に献上して官名を下賜され、疋野(石野)長者と呼ばれるようになった。
しかし後に、この辺りを支配していた菊池家に妬まれ、焼き打ちされて長者一門は滅ぼされた。長者は「朝日射す夕日輝く木の下に油千石米(朱)千石、金千無量」と言い遺したそうだ。
熊本県玉名市の疋野神社は、疋野長者の屋敷跡に建つと言われる。
参考文献 「日本伝説大系」 
炭焼き藤太 (宮城県刈田郡蔵王町遠刈田温泉)
鳥羽天皇の御代のこと。京の東に住む三条盛実に豊丸姫という娘がいた。長く子宝に恵まれず、北野天満宮に願を掛けて授かった子で、たいそう可愛がっていたが、五つの時に疱瘡にかかり、醜い顔になってしまった。年頃になっても縁談が決まらずに気をもんでいたところ、姫の夢枕に北野天満宮の祭神が立ち、「姫の夫となる者は、奥州信夫郡平田村の炭焼き藤太である」と告げた。
姫は両親の許しを得、おまん姫と名を改め、乳母のりんと共に旅立った。平田村の奥の山の麓の小屋まで炭焼き藤太を訪ねて夫婦となった。
貧しい藤太はその日の食べ物にも困る。姫が黄金を渡して食べ物を買ってくるように言うと、(藤太は途中でそれを池にいた鴨に投げつけて失ってしまった。姫が悲しむと、)「こんなものなら俺の炭窯に沢山ある」と言う。姫が行ってみると炭の窯の中(または周囲)に黄金がピカピカと光っていた。
姫はこの岩崎山に金脈があると悟り、藤太と共に採掘を始めた。また、土地の人々を教導して、農業や製炭事業を盛んにした。
夫婦の間には長男の橘次信高(吉次)、次男の橘内信氏(吉内)、三男の橘六信元(吉六)が生まれた。長男は岩崎山産金の粗金を商う豪商となり、奥州藤原氏とも取引を行って、金売り吉次と呼ばれた。彼は源義経を京都から平泉の藤原秀衡のもとに案内し、後に堀景光(弥太郎)と名乗って義経の家臣になったという説もある。
岩崎山金山は今の篭山で、籐太の採掘跡から湧いた霊泉が遠刈田温泉の始まりとも言われる。
ほぼ同内容の物語が山形県宝沢村の地名由来伝説として伝わっており、藤太夫婦が岩窟に唐松観音を創建したとする。
参考文献 「炭焼藤太」「蔵王遠刈田温泉神の湯」「唐松観音・蔵王大権現」「山形歴史紀行」 
炭焼き吉次 (長野県上伊那郡中川村大草)
昔、大阪の鴻[こう]の池という、お金を造るところがあって、そこに一人娘があったが、どういうわけか熱病にかかって、医者に診てもらっても思わしくなかった。そこで八卦を見る人に見てもらうと、「信州の園原とゆう所に、炭焼き吉次という者がおる。これと夫婦になれば、必ず病気がよくなる」と見立てた。それならば一緒になりますと誓ったところ、娘はたちまち快癒した。
そういうわけで、娘は旅支度をして、大阪からはるばる訪ねて来て、恵那の方から神坂峠を越えて来た。あまりに長く旅をしたので髪がぼうぼうで、小さな溜まり池を見つけて、それを水鏡にして身じまいをした。それから尋ね歩いて行けば、炭焼き吉次は山の中で真っ黒い顔をして炭を焼いていた。
吉次は訪ねてきた娘を見て「なんて奇麗な娘さんか」と驚き、娘が身の上を話して嫁にしてほしいと頼むとますます驚いた。何かに化かされたかと思ったが娘が熱心に頼むので承知して、夫婦になった。
それからしばらく暮らしていて、米がなくなった。娘は小判を出して、「これで買ってきてください」と渡した。吉次はそれを持って川端を下流に下って行ったが、川淵で鶴がつがいで遊んでいるのを見つけた。(語り手が言うには、この辺りには鶴はいないから、オシドリだという説もあるとのこと。)ともあれ、吉次はそれに小判をぶつけて、家に帰ってきてしまった。
話を聞いた娘が「あれは小判という尊いお金だよ」と呆れると、吉次は、俺が炭を窯で焼いたときに一番いい出来のものを一本ずつ、南無住吉様と唱えて供えているが、それがああいう金にみんななっている。そんな尊いものではないと言った。
夫婦で行ってみるとその通り、神に供えた炭がみんな黄金になっている。それを持って鴻の池に移り住んだ。だから鴻の池には《炭の倉》という立派な倉がある。
参考文献 「いまに語りつぐ日本民話集動物昔話」
※吉次という名は、黄金を商う伝説の商人《金売り吉次》に関わると思われる。 
楊梅樹の話 (中国[トン]族)
越の国王が三人の娘に「どんな婿が欲しいか」と訊ねると、長女は大臣、次女は将軍と答えたが、末娘は「五穀を作る人」と言った。
国王に勘当された末娘は、日頃可愛がっていた白馬に乗り、「私の住むべき家に連れていって」と声をかけると、馬はコックリ領いて山路を進んで行って、見るからに粗末な小屋の前で停まった。末娘はそこに住む荒地を拓いて暮らす男と、近くの楊梅樹を三拝して夫婦の契りをした。楊梅樹は「2人は天意に叶った夫婦だ」と祝福し、そのとおり幸せに暮らした。
この夫は、実はこの地方の農民一揆の指導者であった楊四郎の世を忍ぶ姿であったという。
参考文献 「楚風」「炭焼き長者の話搬運神」 
類似伝説伝承2

 

住友家の起こり (徳島県板野郡上板町)
昔、上板町[かみいたちょう]の大山の峰の麓に一本の大きな松があり、その辺りに糠が丸という長者の家があった。この家はたいそう羽振りが良く、月の初めと真ん中と終わりの日には、必ず小豆入りのお粥を四、五升は炊いて、屋敷の隅の神様に供える習わしだった。誰もそうするいわれを知らなかったが、供えた晩の夜中には雨が降るような音が聞こえ、朝には小豆粥はなくなっているのである。
あるとき長者の娘が婿養子をもらった。この婿養子が大のケチん坊で、お粥の話を聞くと「勿体ない事をする」と言って、お供えすることをやめさせてしまい、他の者の言うことになど聞く耳を持たなかった。
ところが、お粥のお供えをやめてしばらくすると、婿養子はぽっくり死んでしまった。それどころか家の者が次々死んでしまい、娘一人だけが残った。それから長者の家はつるべ落としに貧乏になってしまった。
ある日のこと、娘が縁先でウトウトしていると、白ネズミが枕元に現れて、「奥さん奥さん、伊予の山奥で炭焼きをしよる友蔵[ともぞう]ちゅう者[もん]を頼っていきなはれ。ええことあるでよ」と言った。白ネズミは神の使いだからと、娘はさっそく伊予へ向けて旅立った。
何日も歩いて、やっと友蔵を訪ね当てたところ、髪ぼうぼうの乞食のような風貌であった。娘は白ネズミのお告げを話して友蔵の嫁にしてもらった。
友蔵は「わい貧乏じゃけん、お前に食わすもんがない」と気の毒そうな顔をする。嫁は「ほんな心配いらんでよ。これで欲しいもんを買うてつかい」と言って小判を差し出した。すると友蔵が「こんなもんで物が買えるんか。こんなんなら、なんぼでもあるわ」と言って、嫁を炭焼き窯のある所へ連れていった。
なんと、山肌という山肌が金に光っているではないか。それから友蔵は大金持ちになった。これが住友の先祖だという話。
参考文献 「阿波の民話住友家の起こり」
※炭焼きの友蔵だからスミトモか。友蔵心の俳句。 
佐渡の金山の起こり (兵庫県城崎郡三椒村)
出雲大社の神主の娘が、いつまで経っても縁組がなくて困っていた。そんなある年の神無月の夜のこと。例年通りに諸国の神様が集まって、あちらこちらの娘の縁組を決めているのを、神主の娘は本殿の下で聞いていた。それによれば、自分は佐渡の炭焼きの嫁になるということだった。
不服には思ったものの、神様の仰せだから仕方ないと嫁入りの支度をして、多くの供人と沢山の小判を持って佐渡に渡り、婿になる定めの炭焼きを探し出して訪ねて行った。そうして「出雲の神様がみあわされたので嫁にしてくれ」と言ったが、炭焼きは「自分では身分が釣り合わぬ」と断る。けれど娘が熱心に口説いたので、とうとう折れて嫁にすることになった。
炭焼きの家には今日食べる米もない。そこで娘は小判を一枚出して、「これさえ持って行ったら米をくれる」と炭焼きに渡した。すると炭焼きは「こんな物なら、この山の奥の炭を焼いとる所から、いくらでもどろけて出る。こんな物がそんなに値打ちのするものか」と不思議がった。
その後、夫婦は沢山の金を山から掘り出して長者となった。これが佐渡の金山の起こりである。
参考文献 「いまに語りつぐ日本民話集動物昔話」
「フィアナ神話・常若の国へ行ったオシアン」の異伝 (イギリス)
妖精の姫ニァヴは美しい娘だったが、娘婿が自分の玉座を奪うという予言を知った父王が彼女を醜い豚の顔に変えてしまった。しかし、その呪いは人間の騎士オシアンと結婚すれば解かれることになっていた。豚の顔のニァヴははるばる常若の国から訪ねて来て、オシアンが結婚を承知すると元の美しい姿に戻ったという。(「ケルトの神話女神と英雄と妖精と」井村君江著ちくま文庫1990.)
醜い姫が運命の結婚相手を求めて訪ねてきて、結婚が成就すると美しい姿に戻る点は、「炭焼き小五郎」の前半部によく似ている。また、姫を醜い姿に変えたのが彼女の父親である点は、中国や朝鮮地域に多く見られる[炭焼長者:父娘葛藤型]を思わせる。それらの話では父の迫害で家を出された娘は牛などに乗って運命の夫のもとへ旅することが多いが、別伝では、オシアンを訪ねたニァヴは白馬に乗っていた。
後半、般若姫の物語は【絵姿女房】のモチーフと[竜宮女房]のモチーフ、そして[灰坊]のモチーフが混ざっている。異伝によれば豊日の皇子が豊後へ行ったのは、兄との権力争いに負け、迫害されていたからで、継子苛めによって逃げた灰坊と重ねる見方もできる。
類似伝説伝承3

 

芋掘り藤五郎 (石川県金沢市)
昔、加賀の国石川郡山科の里に、藤五郎という男が住んでいた。加賀の介藤原吉信公の子孫だと言うが、山芋を掘っては売る貧しいその日暮らしをしていた。
ある日のこと、大和の国初瀬(長谷)の長者、生玉[いくたま]の方信[ほうしん]夫妻が、一人娘の和子[わご](和五)を連れて訪ねてきた。なんでも、和子は子宝に恵まれなかった方信夫妻が長谷寺の初瀬観音に祈願して授かった観音の申し子で、観音の夢告げがあったから、藤五郎と夫婦にならねばならないと言う。そして娘を押し付けて帰っていった。和子は財宝を沢山持参してきたが、藤五郎はそれをみな周りに配ってしまった。
二人が夫婦になった後のある日、方信が砂金一袋(黄金)を贈ってきた。藤五郎はそれを持って買い物に出かけたが、途中で田を荒らす雁を見つけて砂金の袋を投げつけ、手ぶらで戻ってきた。それを知った和子が「あれは貴い黄金というものなのに」と呆れ嘆くと、藤五郎は「こんなものが尊いと言うなら、いつも掘る芋の根にいくらでも付いてくるから来てみろ」と言う。行ってみると本当に砂金だらけであったので、和子の喜んだことと言ったらなかった。こうして籐五郎夫婦は長者となった。
枯れてしまって今は無いが、籐五郎が山芋を掘るとき鍬を掛けた松を鍬掛けの松と言う。また、砂金混じりの土の付いた芋を洗った沢を金洗いの沢と呼んだ。今の兼六公園の泉はその跡で、金沢の地名もここから起こったものである。
参考文献 「正説・芋掘り籐五郎」「いまに語りつぐ日本民話集動物昔話」
※[芋掘長者]と呼ばれるパターン。運命の夫の職業が山芋掘り。百済の武王の「薯童伝説」でも有名。
芋掘長者系の財宝発見は、山芋を掘った土に砂金が混じっているもの、山芋や蕪を掘った穴から酒が湧くものなど、《植物を抜いた跡の穴から宝が出る》というものが多い。単に山芋を探して地面を掘ると黄金が出た、と語られることもある。
金沢の地名由来伝説として知られた話で、「越登賀三州志」等に記述がある。金洗い沢には今も金城霊沢の碑が建っている。また、金沢市の伏見寺の重要文化財の金銅阿弥陀如来は、籐五郎が掘った金を自ら鋳造して作ったものだと言われ、同寺には籐五郎の墓まである。
異伝には、籐五郎が地中から一寸八分の黄金の薬師如来像を掘り当てて奉納したというものもある。思えば「炭焼き小五郎」の般若姫の守り本尊は、海から漁師の網で引き揚げられた一寸八分の黄金の千手観音像だった。とはいえ、これは日本の伝説ではよく見るモチーフで、例えば道成寺縁起の髪長姫伝説でも、海女である姫の母が妖しく輝く海底に潜り、己の髪に絡んで引き揚げられた一寸八分の黄金仏を姫の守護仏にしたとある。ちなみに、漁師が宝(女神、神童)を引き揚げるというモチーフも、世界中の伝承で見られるものである。 
芋掘り藤兵衛 (岐阜県)
昔、丹生川村に芋掘り藤兵衛というハンサムな乞食がいた。山に小屋を建てて、毎日山芋を掘ってはそれを売ってその日暮らしをしていた。
ある日、芋を掘ろうとすると土の中から甕[かめ]が一つ出てきた。その中には小判がぎっしり入っていた。翌日にもまた甕が一つ出てきて、やっばり小判が詰まっていた。七日のうちに七つの甕を掘り出したが、乞食の藤兵衛は小判など一度も見たことがなく、価値をまるで知らずに暮らしていた。
さて、船津町に大きな店があって、一人娘があった。ところが、この娘は何度婿を取っても七日もすると離婚されてしまう。どんなに大事にしてもだめなので、両親も心配し、易者に見てもらった。すると易者が言った。
「この家の婿になる人は、丹生川村の山の中の小屋に住んでおる。このハンサムな男を婿にすれば、必ず金持ちになるであろう」
それを聞くと娘は喜んで、さっそく支度をして出かけて行った。言われた場所に行くと本当にハンサムな乞食がいたので、娘は「私を嫁にしてください」と頼んだ。
藤兵衛は驚いて言った。
「なんと、不思議なこともあるものだ。オレみたいな乞食が、あんたみたいな綺麗な人と夫婦になれるものか」
「いいえ、これは定められたこと。私は船津町の大店の娘ですが、何度婿を取っても七日も続かず、出て行かれてしまいます。どんなに大事にしても無駄でした。何の悪縁によるものだろうかと易者に見てもらったところ、丹生川村の山の中の小屋に住んでいる男こそが婿になる定めだと告げられました。言われたとおりにあなたがここにいるのが何よりの証拠。どうか私を受け入れてください。私はあなたと夫婦になる定めを信じてここまで来たのですから」
「そこまで言うのなら仕方がないが……オレのところには布団も食べ物もないよ。それでもいいのかい?」
藤兵衛はそう言ったが、娘は藤兵衛の掘り出した小判を見つけて「これで買ってきてください」と町へ送り出した。
藤兵衛は町へ向かって出かけていったが、本当にこんなもので品物が買えるのか、どうにも信じることが出来ない。途中で小判を池に投げ込むと、亀が小判を吸い込んでしまった。
けれども、小判はまだまだ沢山あったので、布団やらお米やらを買いそろえて、山小屋で夫婦仲良く暮らすことが出来た。
その後、藤兵衛が芋掘りに行くと、今度は千両箱を掘り当てた。それで夫婦は千両箱と甕七つを持って船津町の家に帰って、千万長者になって幸せに暮らしたということだ。
参考文献 「日本昔話集成」
※厳密には、この妻は初婚ではないのだが、話の構造的に[初婚型]。何度婿を取り替えても上手くいかないというくだりは、「死人の借金を払った男」のような、初夜に花婿を殺してしまう花嫁のモチーフを思い出さされる。 
類似伝説伝承4

 

運命の結婚 (中国)
老夫婦に娘があり、瞳は泉のように澄み肌は白く、牡丹の花よりも美しかった。おかげで仲人がひっきりなしに来て、門の敷居が踏みならされて平らになるほどであった。
老夫婦も「娘三六十八歳、結婚させる時が来た」と話していたが、やがて仲人が双方を往来して、王という誠実な若者との婚約が決まった。両親はこの縁を喜び、娘はせっせと嫁入り支度を行った。
ところがある晩、灯火の下で縫い物をしていた娘は、誤って髪に灯火を燃え移らせてしまい、頭髪がすっかり焼けただれ、頭にぽつぽつと黄色い水泡ができ、痒くなって掻くと手にも水泡が移ってしまった。婿の実家は娘の姿が醜く変わったのを見ると婚約を取り消した。
娘は嘆き悲しみ、運を天に任せてでも夫を探す旅に出ることにした。老いた両親はそんな娘を止められず、金の鉢と銀の手袋を整え、馬を用意して娘を旅出たせた。娘は金の鉢をかぶり銀の手袋をして、馬の行くままに旅を続けた。
三日目の昼、馬は突然、高粱の茎がらで囲まれた小さな茅葺きの家の前で止まり、そのままどうしても動かなくなった。娘はここが運命の場所かもしれないと思い、その家を訪ねた。見れば、白髪の老婆が縫い物をしている。「お婆さん」と丁寧に声をかけると、老婆は家の中に入れてくれた。娘は尋ねた。
「お婆さん、ご家族は」
「私と息子で暮らしています」
「息子さんはどちらへ行ったのですか」
「息子は地主の作男ですから」
娘は言った。
「私は、夫となる人を探しに来たのです。これは天の定めた運ですわ。私を息子さんの妻にしてください」
老婆はびっくりして「家は貧乏で、息子は妻を娶ることができないのです」と言ったが、内心では(嫁が自分から訪ねて来るなんて、これは御先祖さまの徳のおかげだ。息子に天の定めた嫁がいたとは大変な吉事だ)と喜んでいた。
ちょうどその時、息子が仕事を終えて帰って来た。家の中で話し声がするので覗いてみると、金の鉢をかぶった綺麗な娘が静かに話している。息子は思わず、「こんな娘が俺の妻だったらいいなあ」と呟いてしまった。その声を聞いて老婆が気づき、戸を開けると、息子は顔を赤くして逃げ出そうとした。
「息子や、行かないでいいよ、入っておいで。お前がいつも私に孝行してくれるから、天がお前にいいお嫁さんを寄越してくれたんだよ」
老婆は息子の手をひいて家の中に入らせた。娘は立ち上がって若者を見た。中肉中背、濃い眉、大きな目、たくましい体格である。娘は頭を下げて言った。
「私は馬に運命を任せて夫を求めて来ました。するとあなたの家の前で馬が止まりました。これは運命です」
息子は慌てながら、それでもうっとりして
「あなた、私は家も畑もありません。この茅葺きの小屋だって地主のものです。あなたそれでも……」
と言うと、娘は若者の言葉に逆らうように、
「私たちが一生懸命働けば、きっと幸せな日々が送れます」ときっぱり言った。老婆が二人に言った。
「あんたたち二人は天が娶[めあわ]せた夫婦、前世からの因縁だ。私が花嫁衣裳を作るから結婚しておくれ」
数日後に、二人の婚礼が簡単に行われた。初夜の二人は互いに愛を誓い、息子が妻の被っていた金の鉢を取った。すると黒く豊かな髪が流れ落ち、手にはめた銀の手袋を脱がすと白い滑らかな肌の手が現れ、火傷をする前よりもいっそう美しくなった。
夫婦は金の鉢と銀の手袋を売って、自分の家と畑を買うことが出来た。こうして若い夫婦と老母は一緒に幸福な日を送った。
参考文献 「騎馬招夫」「運命の結婚」
※醜くなってしまった姫が神秘的な縁に導かれて貧しい男と結婚する、というくだりは「炭焼き小五郎」前半と全く同一のモチーフである。
娘は金の鉢と銀の手袋をはめて家を出る。日本の「鉢かづき姫」を思い出してならない。あの話も、姫が鉢をかぶって顔を隠して放浪し、幸せな結婚をするものだった。そして、夫を得て鉢を取ると、美しい素顔と共に宝が溢れてこぼれ落ちるのである。 
類似伝説伝承5

 

いざり長者 (青森県)
昔、あるところにたき子といういい娘がいた。ところが幾つになっても嫁の貰い手が無いので、どうしても結婚したいと思って一週間篭って神様に祈った。寝ないで祈っているうちとろとろと眠り込むと、夢の中でこう言われた。
「橋の下に住んでいる、足の不自由な人のところに嫁に行きなさい。この人はお金持ちになるから」
たき子は綺麗に着飾って、町の橋まで訪ねて行った。すると子供たちが集まって、橋の下の人に悪戯を仕掛けているではないか。たき子が「こらあ!」と叫んで橋の下に走っていくと、足の不自由な人は杖を振り回して応戦していた。
子供たちを散々叱ってから、たき子はここに来た理由を話した。結婚したくて神様に祈ったこと、夢のお告げで橋の下の足の不自由な人と結婚しろ、お金持ちになるからと言われたこと……。けれども、それを聞くと足の不自由な人は怒って、「あんたなんか嫁にいらないよ」と言う。もめていると騒ぎを聞きつけて役人がやってきた。たき子がもう一度最初から説明すると、とうとう足の不自由な人はたき子を嫁に貰ってくれることになった。役人は「嫁さんを貰ったんだから、何か仕事を見つけてやらないとなぁ」などと考えてくれた。その間、たき子が川に水を汲みに行くと、川を酒樽が流れてきた。その酒で杯を交わした。不思議なことに、この酒樽からは酌んでも酌んでも酒が湧き出すのだった。
さて、夫をお風呂に入れて髭をそったら、とてもいい男だった。しかも、持っていた荷物の中には五百両もの大金が入っていた。この金を元手に家を建て、例の不思議な酒樽で酒屋を始めて、いつしか二人は大金持ちになった。たき子の故郷の人たちも物見高さからとはいえみんな買いに来てくれたし、ついには話を聞きつけた夫の両親が舟に米だの金だのをぎっしり積んでやってきた。夫は大金持ちの息子で、家を出るときに五百両を持たされたのだった。
その後も不思議な酒樽の酒は尽きることがなく、家は富み栄えて夫婦は幸せに暮らしたということだ。
参考文献 「日本昔話集成」
※大金を持っているのにあえて橋の下でホームレス生活をし、たき子のプロポーズに怒った彼。その心情や背景をかなり色々考えさせられる。どんな状況で実家を出、どうして橋の下に住むことになったのか……。

類話まで見ていくと、男女のどちらが障害を持っているか、どちらが金(福運)を持っているかは入れ替え自由で定まっていない。
お告げに従って足の不自由な女を嫁にした男が、妻の持っていた不思議な株から湧いた酒で大金持ちになる話。ハンサムだが甲斐性なしの乞食男が足の不自由な金持ちの娘に見初められて出世する話。足を折って不自由になった芋掘の男が長者の娘と結婚する話などなど。
(島根県邑智郡)
昔、大阪に芋を掘って暮らしを立てている男がいた。ところがあるとき足を折ってイザリ(足の不自由な人)になり、働けなくなったので、車(台車)をこしらえて、それに乗って報謝をもらっては日を送っていた。
その頃、下関の大変な長者の娘が、嫁ぎ先から離縁されて出戻ってきていて、易者に良い婿がいないか見てもらっていた。すると易者が言うことには。
「お前が生涯暮らす男は大阪のイザリで、陪堂[ほいと](乞食)をして暮らしている男だ」
娘はそれを聞いて、その男のもとへ旅する決意をした。両親は心配して、お千代という下女を供に付けてやった。長者の娘はお千代を連れて大阪中を尋ね歩いたが、どうしても見つからない。それでも諦めずに訊いて回るうち、とうとう「それは、餓鬼車[がきぐるま]に乗って報謝をする男に相違あるまい」という話を聞けて、山奥の小屋へ訪ねて行った。
行ってみると男は留守だったが、やがて車に乗って帰って来た。娘がここに泊めてくれと言うと、食うものがないと言って断る。食うものは持っているから泊めてくれと言って許しを得、お千代が小屋の前の池で米を研いだ。すると、研いだ後で池の水が酒になっていた。その酒に鴻池[こうのいけ]酒と名を付けて売り出して、大金持ちになった。
これが大阪の鴻池家の先祖で、だから今でも鴻池の家では、イザリの男が乞食をする時に使った藤袋と餓鬼車が家宝になっているのだそうな。
参考文献 「芋掘長者」
※この話は[再婚型]に分類すべきではあるが、夫となる者が体が不自由であるという点でここに記載する。また、[芋掘長者]の要素も持っている。
日本の【炭焼長者】譚は、権勢を誇った長者の由来伝説とされることが多く、この話のように鴻池財閥の祖だと語るものも散見できる。 
 

 

 ■戻る  ■戻る(詳細)   ■ Keyword    


出典不明 / 引用を含む文責はすべて当HPにあります。