神事相撲

相撲文化史1相撲文化史2野見宿禰相撲神事相撲神事相撲は神事古代相撲 
相撲甚句朝青龍八百長八百長騒ぎ八百長は文化相撲諸説一本刀土俵入り・ 
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雑学の世界・補考   

 
相撲・文化史1

ここ十数年、相撲をめぐる議論は実ににぎやかである。いわく、「二子山部屋に強豪力士が偏っている現状は、他の部屋の力士たちにとって実に不公平である。同じ部屋の者が当たらない現在の制度を即刻改め、個人別総当り制を導入せよ」「相撲はただのスポーツではなく、国技であり、日本文化の象徴である。西洋スポーツの考え方をそのまま取り入れるのは間違っている」「大相撲は海外巡業を行っているし、海外の相撲の競技人口も年々増加しているはずだ。それなのになぜ外国人力士である小錦は横綱になれなかったのか」「一時期、大相撲は張り手などが流行し、まるでボクシングのようであった。江戸以来の正統な相撲は、本来そのようなものではないはずだ」「最近のマスコミは、相撲をスポーツの一つとして、勝利至上主義的な捉え方をしがちだが、相撲道というのは本来そのようなものではない」「体重200キロを超える大型力士と、100Kgにも満たない小兵力士の取組は、不公平ではないのか。巨体を生かしての大関昇進には何の意味もない」「女性を土俵にあげないのは女性差別だなどという人がいるが、そのような人は相撲の長い伝統と文化になんの敬意も払わない人である」などなど。 
これらの議論を注意深く聞いていると、それらの一つ一つの主張にはなんら間違いはなく、それぞれの言い分はもっともらしく聞こえる。しかし、それらはお互いに相反したり衝突したりしているのだ。 
相撲に関する言論状況がこのように複雑な理由は、相撲そのものが複雑な存在であり、それにも増して現在の相撲が複雑な状況に置かれているからに他ならない。 
「相撲は日本文化である」ことに異論をはさむ人は少ないであろう。「相撲はスポーツである」ことに対しては、前の命題よりは反対する人は多いかもしれないが、おおむね納得される場合が多いのではないかと思う。 
しかし、「相撲はスポーツだから柔道のように体重制を導入すべき」となったとき、賛成と同じくらいの反対意見が出てくることは想像に難くない。 
なぜこのようなことが起こるのだろうか?それは、先に述べたように、相撲そのものが複雑なものだからである。そして、それよりも大きな理由が、相撲と、それをとりまく状況に対する正しい理解が意外となされていないからだ。私も含めて、多くの人々が、「相撲をわかった気になって」いるが、相撲はそれほどすぐ理解できるほど簡単なものではない。日本の身体文化の中で最も理解しがたく、かつ奥深いものでないかと私は考えている。 
しかし、そんなに複雑だからと言って、「相撲は難しいものだからね」とため息をつきながら、上にあげたような議論を投げ出すようなニヒリスティックな態度に出ることは、もっとも無意味なことであろう。 
少しでも相撲を愛する、または少しでも日本文化を愛する日本人は、相撲の面白さ、美しさを愛でると同時に、その行く末を考え、今の社会とこれからの社会にあった相撲の姿を考えていかなければならない。それは、自分たちのためでもあると同時に、これから日本人として生まれてくる人たちや、相撲に興味をもってくれる海外の人たちのためでもある。 
相撲と、それをとりまく状況(社会)への正しい理解。相撲の行く末を考える上で当面最も必要なものは、これであろう。そしてそのためには、私たちは歴史をひもといてみなければならないのである。 
私たちは、なぜ学校で歴史を勉強するのか?それは、「行く末を考えるためには来し方を知らなければならない」からである。 
相撲においても同じことが言える。現在の相撲を理解し、相撲の理想的な未来像を描くには、相撲の歴史を知らなければならない。相撲はどのように起こり、どのように発展して現在に至るのか。また、相撲の発展に影響を与えた要素は何か。それらは相撲のどのような性質にどのように影響を与えたのか。相撲はその時々の社会でどのように受け入れられていたのか。その時々の人々は相撲に対してどのような考えをもっていたのか。 
これらを正しく知り、自分で整理することによってはじめて、今目の前にある相撲が見え、相撲のこれからを考える手がかりが得られるのだ。 
相撲の歴史研究の意義は、ここにある。 
相撲の歴史研究は、一部の相撲ファンによって熱心に進められているが、それらは多くの場合力士や番付、相撲部屋の歴史、すなわち「大相撲の歴史」であって、「相撲の歴史」そのものではない。 
本研究は、「大相撲の歴史」ではなく、相撲と呼ばれるものが起こり、社会の中でその姿をすこしづつ変化させながら現在に至るまでの、全体的な歴史に関する研究の一つとなることを志向している。ここで描かれる相撲の歴史は、様々な文化的存在形態をとりながら揺れ動く、言わば文化的カテゴリーの間の綱渡りの連続となっている。相撲は、宗教的儀礼、武術、芸能、スポーツ、そしてそれらが混じり合ってできたものの間を揺れ動き、現在に至っているのである。
 
相撲の起こり

 

相撲の長い歴史のはじまりは、他の多くの文化と同様に、歴史のある一時点をもってしっかりと定められるものではない。さまざまな文化的な要素が複雑にからみあって形成され発展してきた相撲は、特にそのはじまりを一時点に限定することが難しいと言えよう。 
前史から平安時代までの原始・古代における相撲の歴史は、日本の各地で様々な形で行われていた相撲の原型が、それぞれ相互に影響を与え合いながら、外部の力も受けつつ次第に統合され、現在の相撲につながる一つの技芸が形成されていく流れであるとまとめることができる。特に、奈良時代から平安時代にかけて行われた国家的行事であるすまいのせち相撲節は、その様々な相撲の原型を、文化的な意味付けを与えながら一つに統合した場として捉えることができる。そもそも、現在の日本の相撲は、格闘技として見ると、その本質とは関係ない要素を多分に含んでいることからもわかるように、もともと日本においては、相撲は、格闘技としての性質ではなく、それにまつわる文化的な意味付けを与えられることによって共通性を形作り、一つの技芸として成立したのである。 
したがって本章では、その統合される以前の、ある意味で混沌とした相撲の姿を、様々な歴史的資料から眺めてみることにする。

  

相撲の起源 
「すもう」の語は、「すまふ」の連用形「すまひ」が名詞化したものが語源であり、「すまふ」の意味が「あらそうこと」や「あらがうこと」であることからわかるように、本来闘争や格闘一般を指した語であった。 
その読みを当てられることとなった「相撲」の語は、釈迦の生涯を記した「ほんぎょうきょう本行経」をサンスクリット語から漢訳した際に、梵字ゴタバラ(相撲の意)に当てる言葉として造語されたとする説と、晋代の歴史書までその起源をさかのぼることができるという説と、語源を巡って二つの説が対立しているが、どちらにせよ「あいうつ」というように訓読できるように、そもそもは力くらべ、格闘を意味した漢語である。 
また、同じように「すもう」という読みを当てられる「角力」「角抵」「角觝」の語も、新田一郎によると、 
「字義通りには、「角」は「くらべる」「きそう」意味(「角逐」の「角」とおなじ)、「角抵」「角觝」の「抵」「觝」はいずれも「うつ」「あたる」という意味の字であり、「角力」は力くらべ、「角抵」「角觝」は力芸・技芸を競うことをさしてもちいられた語で、いずれにせよ本来は特定の様式の格闘競技ではなく、格闘一般ないし技芸一般を意味する漢語であった。」 
池田雅雄によると、「中国では、孔子の「礼記(らいき)」に、「武を講じ、射御を習し、以て角力す」とあるが、この「角力」は力くらべの意味で、必ずしも相撲をさしていない」と言う。 
このように、「すもう」「相撲」「角力」「角抵」「角觝」など、相撲をさすいずれの語も、現在の相撲のような、特定の様式をもつ格闘技ではなく、本来格闘一般ないし技芸一般の競いを意味する語であった。 
現在相撲を指す言葉が本来格闘一般を意味している言葉であったことからもわかるように、相撲は、人間が半ば本能的に行っていた格闘一般から自然発生的に生成されたものである。相撲が自然発生的な格闘技であり、日本やアジアのみならず全世界にまたがる普遍性をその最下層に持っているということは、大昔から現在まで、全世界で相撲と同様の格闘技が行われている事実からも明らかである。 
池田雅雄によれば、全世界で相撲に類する格闘技が行われていたということは、以下のような発掘品や歴史的資料で裏付けられるという。 
「前3000年ころの古代メソポタミア初期王朝時代の遺跡テル・アグラブで発掘された「闘技像脚付双壺」は、2人の男が右四つに取り組んでいる青銅製の遺物で、日本の相撲にそっくりの形態である。またエジプト中王国時代(前2000‐前1800)のバニハサンの壁画に、レスリングのような形をした裸体の男が、さまざまの姿態で描かれている。インドでは釈迦がまだ太子のころ、相撲のような競技によって力くらべをし、美しい姫を妻としたという「争婚」の記事が、釈迦の生涯を記した 「ほんぎょうきょう本行経」の一節に出てくる。」 
「中国では孔子の「礼記(らいき)」に「武を講じ、射御を習し、以て角力す」とあるが、この「角力」は「力くらべ」の意味で、必ずしも相撲をさしていない。しかし「漢書」に「秦の武王、角を好み」とある角は角力のことで、相撲に類した武術であったらしい。また河南省打虎亭2号後漢墓の壁画「角觝の図」によって、漢の時代に格闘技が盛んであったことがわかるが、当時の角觝は相撲だけではなく、技芸・雑技の総称であったように解釈される。ヨーロッパでは、古代ギリシアのオリンピックで格闘技が行われ、そのありさまが多くの皿や壺に描かれている。」

  

このような、世界各地で行われていた自然発生的な格闘技は、それぞれの地域で独自に発展をとげていき、現在、モンゴルのボフ(モンゴル相撲)、韓国のシルム(韓国相撲)、トルコのヤールギュレシ(トルコ式レスリング)、スイスのシュヴィンゲン(スイス相撲)、セネガルのブレ(セネガル相撲)などの形で世界各地で盛んに行われている。また、国際スポーツであるレスリングも、同じような自然発生的な格闘技が発展してできたものであることは言うまでもないであろう。これら、世界各地の格闘技がどのように伝播し、その後どの格闘技となって現在に至っているかということや、日本の相撲はどのような経路をたどってどの格闘技から発展したかという問題は、たしかに興味深い問題ではあるが、ここでは深くは触れないことにする。 
日本においても、大昔から相撲と同様の競技が行われていたということは、多くの発掘品などの歴史的資料が明らかにしている。 
「相撲に関連する考古出土物としてよく知られたものに、和歌山市いんべ井辺八幡山古墳から発掘された、男子力士像埴輪がある。6世紀初頭のものとされている古墳から出土したこの埴輪は、裸身の腰まわりに褌状の布を巻き、やや腰を落とし気味にして両手(かなり欠落している)を前へのべている。岡山県おく邑久郡かしの鹿忍村字槌ガ谷(現、牛窓町)から出土した、壺を肩にのせた人形土器に、二人の男が組み打ちをしている姿をうつしたものがあり、いんべ井辺八幡山古墳出土の埴輪の形状も、これに類似している。その他、5世紀末から6世紀にかけての作とみられる装飾須恵器小像や力士埴輪の類が、日本各地から出土している。」 
「兵庫県西宮山古墳から掘りだされた、須恵器のツボがある。6世紀終わりごろのものだろう。ツボの肩に、小さな小さな人物が4人、つくりつけられている。筋骨逞しい右側のふたりは、たがいに太い両腕を相手の体にかけて、はげしく揉み合っている。」 
しかしこれらは、あくまでも、日本においても、大昔から相撲の原型となるような格闘技が行われていたことを示すだけであり、現在のような、特定の様式を持つ相撲そのものが確立していたということではない。むしろ、世界各地で、自然発生的な格闘から派生した相撲に似た格闘技が様々な形で行われていたように、日本においても、その地域に即した様々なかたちで、相撲の原型となる格闘技が行われていたと考えるのが自然であろう。そもそも古代においては、日本列島自体がまだ均一性の高い社会として統合されていたとは言い難いのである。では、そのような、全国各地で自然発生的に行われていた様々な相撲の原型としての格闘技は、どのような過程を経て、相互に交流し、一つの格闘技としての相撲に統合されて行くのであろうか。

  

神話の中の相撲 
様々な地域で行われていた相撲が、現在のような特定の様式を持つ一つの格闘技に統合されていく過程においては、格闘技としての相撲の性質よりも、それをとりまく文化的な意味付けが重要な働きをしたと言える。その文化的な意味付けは、奈良時代から平安時代にかけて行われた国家的行事である相撲節において最も強力に働いたが、我々はその源流を日本神話の中から見出すことができる。神話の中では、相撲はどのように描かれ、どのような文化的意味付けを与えられているのであろうか。 
日本神話の中にあらわれる、「相撲」もしくは力くらべの話は、「古事記」に見え、後世に「国譲りの相撲」と呼ばれる、建御雷神(タケミカヅチ)と建御名方(タケミナカタ)の力くらべをその始まりとする。天照大御神(アマテラスオオミカミ)の命を受け、あしはらのなかつくに葦原中国を平定するべく、たかまがはら高天原から天下った4度目の使者建御雷神に対し、大国主命(オオクニヌシノミコト)とその子八重言代主命(ヤエシロコトヌシノミコト)は従う意向を示すが、大国主のもう一人の子である建御名方は納得せず、決着をつけるべく建御雷神に力くらべを挑む。出雲国いなさのはま伊那佐浜で立ち合った二神は、たがいの手を取り合って力くらべをし、建御雷神はいともたやすく建御名方の手をつかみ、投げはなし、敗れた建御名方は遁走し、しなの科野国すわ須羽(現在の長野県諏訪市)で降伏し服従を誓う。その結果、葦原中国は天孫邇邇芸命(ニニギノミコト)の支配下に入ることとなったという説話である。 
次に、のみのすくね野見宿禰とたいまのけはや当麻蹶速の力くらべも、相撲の起源神話として一般に有名である。「日本書紀」にみえるこの説話は、おおむね次のような内容である。 
第11代垂仁天皇7年7月7日、比類なき強さと名高い大和国の当麻蹶速と出雲国の野見宿禰が天皇の命で対戦することになった。二人はお互い足をあげて蹴り合った末に、宿禰は蹶速の脇骨を蹴り折り、腰を踏み砕いて殺してしまった。天皇は蹶速の領地をことごとく宿禰に与え、その地は後に「こしおれだ腰折田」と呼ばれることになった。その後宿禰は天皇に仕えて土師の臣の祖となり、天皇・皇族の死の際に行われていた殉死の風習を埴輪をもってかえることを建議するなど多くの功績をなしたという。この野見宿禰は単なる神話の登場人物にとどまらず、この大一番に勝利したことにより、「いまでも「相撲の祖」「相撲の神様」として遇され、東京都墨田区亀沢にある宿禰神社では、年3回の東京場所ごとに、日本相撲協会関係者らが出席して例祭が営まれている」という。 
後の章でもたびたび登場するが、相撲の長い歴史において、天皇およびその時々の権力者の前で行われる上覧相撲(天皇に供される場合は一般に天覧相撲と称する)は、その時々の相撲および相撲社会に多大な影響を与えてきた。この宿禰と蹶速の相撲は、文献に残る最古の上覧相撲である。 
この二つの相撲の起源神話から読み取れることは多いが、特に次の二点が重要である。まず、両者とも「たがいの手を取り合って力くらべ」「お互い足をあげて蹴り合った」という、現在の相撲とはかなり異なった形で勝負が行われている点である。これは、神話が歴史的事実をそのまま記したものではないとは言え、その当時の相撲の姿、つまり自然発生的な格闘に限りなく近い相撲の姿を反映したものであることは間違いないであろう。

  

もう一点は、国譲りの相撲も、宿禰と蹶速の相撲も、ふたりの勇士がただ自分の武力を試すために戦ったのではなく、天孫族=天皇の存在が勝負の前提になっていることである。建御雷神は天照大御神の命を受け、高天原を平定するべくそれに抵抗する建御名方と戦い、勝った。宿禰と蹶速は天皇に召されて、天皇の前で蹴り合った。ともに、天孫族=天皇が、決して無視できない要因として、二つの相撲に存在しているのである。この類似性を、新田は「外来の強者が土地の強者を圧伏して天皇に奉仕する」という言葉で表している。 
ここでは、ひとつひとつの神話の意味や類似性を神話学的に綿密に解釈することはしないが、この天皇への奉仕という性格は、後の相撲節につながる、各地の様々な相撲が一つに統合される際に働いた重要な文化的意味付けの一つであり、注目すべきであると考えられる。 
のちの歴史も雄弁に語ることであるが、相撲はその長い歴史を通じて、実に多大な影響をその時々の政治的権力から受けてきた。この二つの起源神話から読み取れるように、その成立の過程にも、政治色が非常に色濃くあらわれているのが面白いと言えるだろう。 
神話の中にあらわれる相撲の姿は、この二つの起源神話だけではない。相撲が話題の中心ではないが、日本の史書にはじめて「相撲」の文字が登場するという、「日本書紀」にみえる次の説話も大変興味深いものである。 
第21代雄略天皇13年9月、いなべのまね猪名部真根という木工の達人が、「終日斧を取り、石の台の上で木を割っても、斧の刃を傷つけることは断じてない」と、自らの腕を自慢していた。雄略天皇はその慢心を憎み、真根を召して木を割らせるとともに、その目につくところで、宮女を呼び集め、裸にして褌をしめさせ相撲を取らせた。その相撲に気を取られた真根は斧の刃を傷つけてしまい、天皇に対して不遜な豪語をした罪であやうく殺されそうになったという。 
「女性を土俵に上げない」という方針を死守する現在の日本相撲協会を思えば、史書に最初に「相撲」が記された例がこの女相撲であるというのは、多くの研究者たちが指摘するまでもなく、大変皮肉なことと言えよう。しかしそれだけでなく、この女相撲の説話には、「裸身に褌」という現在の相撲の大前提があらわれており、これがその当時の相撲の姿を反映したものであるならば、注目すべきであろう。現在の相撲の様式の中でも重要なものの一つである、「裸身に褌」はこのころからの伝統であることがわかるからである。現在の相撲の様式の中でも、その多くのものは、一般に思われているより比較的最近に成立したものが多いが、(例えば現在のような円土俵が成立したのは元禄時代である)「裸身に褌」という、他の国には見られない日本の相撲に特徴的ないでたちは、この説話や、各地から出土する裸身に褌姿の埴輪などを見ても、かなり古くから成立していたものであると推測できるのである。 
また、日本の相撲が史実として記録されたはじめての事例が、「日本書紀」に見られる、いわゆる「こんでい健児の相撲」である。第35代皇極天皇元(642)年7月、百済より来朝した使者ちせき智積をむかえた際に、こんでい健児(宮廷の衛士)たちに相撲をとらせたという記録が残っている。 
これらの神話や記録は、その当時の相撲の姿がどのようなものであったのかを推測する手がかりになるだけではなく、様々な相撲の姿が全国的に統合される際に働いた文化的な意味付けの一端を垣間見せる。なぜなら、神話は、その当時の史実を反映しているとはいえ、後の世から見て都合の良いように意味付けられているからである。 
次で詳しく述べるが、国譲りの相撲と、後の相撲節の起源神話として位置付けられる、宿禰と蹶速の相撲のとに、天皇の介在という類似性が見られるのは、必ずしも、それに対応する史実があったというわけではない。それよりもむしろ、天皇による国家支配のプロセスの再確認の契機という性格を持つ、相撲節の正当性を神話にまでさかのぼって設定しようとする試みがなされているからなのである。何と言っても、神話は国家による恣意性が色濃くあらわれるものなのだ。
 
神事としての相撲

 

 

日本史においては、一般には、おおむね4世紀頃の大和政権の成立から、12世紀中頃の源平による武士の政権の成立までの期間を古代と呼んでいる。政権所在地で言うと、大和、奈良、平安の 三つの時代がこの間に入ることになる。 
相撲史においては、この時代の相撲を代表するのは奈良・平安時代の宮廷行事であるすまいのせち相撲節である。8世紀に国家的な神事として成立し、その後時代の変化に伴ってその性格を変えていった相撲節は、12世紀末に断絶するまで、およそ400年にわたって宮廷の初秋の行事として毎年華やかに行われた。前 に述べたように、この相撲節が、それまでの各地で様々な形で行われていた相撲の原型を、文化的な意味付けを与えながら一つに統合する働きをしたのである。言いかえるならば、相撲節を大きな契機として、この時代に、現在の相撲が持つ相撲としての文化的・社会的な同一性がはじめて形作られたと言えるのである。 
また、相撲節は、相撲を取る人間(すまいのせちすまいびと相撲節相撲人)として全国から相撲を取れる膂力に優れた若者を半ば強制的に集めて行われたが、後には相撲人の専門化の傾向が見られ、これが相撲節の廃絶後、職業相撲集団の成立に関係してくることなど、後の時代の相撲にも多大な影響を及ぼした。相撲節はまさに日本相撲史上において多大な意味をもつ一大イベントであったと言えるのである。 
この相撲節は、そもそも天皇の命によって行われる、豊穣への祈願をこめた国家的神事であった。ゆえに、この時代の豊穣を願う、農耕儀礼と相撲との関係を押さえておかなければ、相撲節を正確に理解することは難しい。したがって、相撲節自体を語る前に、神事としての相撲と農耕儀礼の関係を論じておきたい。

  

神事相撲と農耕儀礼 
現在、「相撲」と言うと、大相撲にせよアマチュア相撲にせよ、裸身に褌姿で、相手を土俵の外に出すか相手の足の裏以外の体の一部を地面につけることを競い、勝敗を決める格闘競技が一般に連想されるであろう。しかし、日本にはそのような「相撲」とはまったく違うが、「相撲」と呼ばれるものが存在し、毎年定期的に行われている例がある。 
例えば、奈良県桜井市えつつみ江包にあるすさのお素戔嗚神社と、同市大西のみつな御綱神社との合同で行われる、2月11日の「お綱祭」に付随して行われる「どろんこ相撲」は、田の中で二人の男が相撲を取るが、勝敗を競うのではなく、泥が体にたくさんつけばつくほど豊作と健康にめぐまれるという。千葉県東金市稲荷社でもどろんこ相撲が行われている。また、乳児を抱いて向かい合い、乳児が早く泣いた側を吉とする「泣き相撲」という例もあるという。 
このような、現在の相撲から見ると一見相撲とは思えないものに「相撲」の名が冠されているのは、相撲が社会の中で同一性を獲得していく過程の中で、神事が重要な意味をもっていたからに他ならない。つまり、神や霊に何からの意味を込めて供される儀式に、まだ本能的な格闘から抽出されていなかった相撲が取り入れられたことが、逆に社会の中で相撲の同一性を形作り、相撲を自然発生的な格闘一般から抽出したのである。 
では、神事の中で、相撲はなぜ儀式の一部として取り入れられ、どのような意味を担っていたのであろうか。少し長いが、新田の文を引用したいと思う。 
「相撲の起源、あるいは相撲にかぎらず綱引やくらべうま競馬など、競技的性格をもった多くの技芸の神事的な意味づけについて、民俗学者はしばしば「年占」という道具だてをもちいて説明している。「年占」は「としうら」とよ訓み、農事の節目に当たる時期に、先祖をまつるとともに、ほうじょう豊穣への祈願をこめてその首尾・不首尾を占う行事であり、自然現象によることもあるが、競技的性格をもった技芸をおこなって、その結果いかんをもって豊凶を占うことも、重要な類型のひとつであった。 
競技的性格をもった技芸による年占の神事には、大別して二つの類型がある。第一は、二つの集団(の代表者)のあいだで競い合い、勝った側に豊穣のよしゅく予祝があたえられるというものであり、第二は、豊凶をつかさどる精霊とのあいだでの競技を擬制することによって豊穣の予祝を求めるというものであって、後者の場合、実際にはあらかじめ定められた結果を演じる場合が少なくない。豊凶をつかさどる精霊は、多くの場合、「田の神=水の精霊」として考えられており、精霊を圧伏し、または「一勝一敗」で勝敗を分け、あるいは精霊に勝たせて花をもたせることによって(このあたり、具体的な様相はさまざまである)、精霊の力を自分の側によびこみ、豊かな収穫への予祝をえるというのが、これらの年占の神事の基本的な構造である。」 
つまり、勝敗を含む競技的な性格をもった相撲は、農耕儀礼の中で、豊穣を願い、占う「年占」の神事にふさわしく、広く取り入られたということであろう。 
このような年占の要素をもつ神事相撲で現在でも行われている有名なものに、愛媛県越智郡大三島町おおやまづみ大山祇神社の「ひとりずもう一人角力」がある。いちりきやま一力山と呼ばれる力士が一人で土俵にあがり、見えない精霊と相撲を取る。一力山は一勝一敗のあと、かならず精霊に投げられて負けることになっているという。これは最近まで行われていたが、今では後継者が途絶え行われていないそうである。

  

また、池田によると、現在でも行われている神事相撲には、下のようなものがあるという。 
「同県(愛媛県)新居浜市別子銅山には山の神の奉納相撲があり、これに類したものは栃木県の足尾銅山にもある。京都では上賀茂神社の「からす烏相撲」のほか、まけ摩気神社の秋祭にも相撲が行われる。奈良県桜井市の「どろんこ相撲」は、田んぼの中で泥まみれになる異色な相撲である。同市出雲には宿禰の古墳伝承地があり、少年相撲が復活している。千葉県東金市稲荷社にも早乙女によるどろんこ相撲がある。茨城県鹿島神宮には「国譲り」神話の主人公、建御雷神に奉納する神事相撲があり、その相手の建御名方神をまつる長野県諏訪神社にも同様の催しがある。長野市蚊里田八幡宮と、近くのゆぶく湯福神社、松代の皆神山の相撲は合わせて、善光寺平三相撲といわれている。石川県はくい羽咋神社の「唐戸相撲」は古代から伝わるという。滋賀県蒲生郡日野町の「芋くらべ・神の相撲」、岡山県川上郡備中町鋤崎八幡神社の「七肩半の相撲」、和歌山県日高郡由良町えな衣奈八幡神社の「小引童子角力」、佐賀県西松浦郡有田町石場神社の奉納相撲などがあり、愛知県豊橋市の牟呂八幡社ではサカキの葉で四角の相撲場を設ける。」 
また、宮田諭によると、以下のような神事相撲も残っているという。 
「滋賀県蒲生郡日野町の白鬚神社には、「どじょう祭」という面白い相撲神事がある。当神社には古くからふたつの宮座があり、氏子はだいたい半分に分かれていた。あることで争いが起こり、いずれが正しいか神意を尋ねることになったが、その方法が粋である。子どもに相撲を取らせ、勝負は引き分け、いずれも正しいとの判定である。そして、田の中のどじょうを炊いて仲直りの祝杯を上げたという。」 
「鹿児島県金峰町には、人間がカッパに扮して唄い、踊り、相撲を取るという楽しい祭りがある。その名も「ガラッパ相撲」。ガラッパとは言うまでもなくカッパのことである。南の地方にはカッパ伝説が多く、カッパと相撲を取ったという話がたくさん残っている。面白いことに東北では、カッパが山男になる。折口信夫は「村々で行われる相撲の場所には、大抵、田の用水がある。川・池のほとりが選ばれるが、これは水の神の信仰があったからだ」と記し、カッパはじつは水の神が形をかえたものだと分析している。東北にも相撲を取った山男と田を拓き、水を引いたという伝承は多い。これらは、日本の古くからの精霊と相撲が一体化したものだと言えよう。」 
ここで登場したように、カッパ(もしくは河童、ガラッパなど)と相撲の間には非常に深く、実に興味深い関係があるのだが、本論文の主旨から大きく外れるのでここでは触れないこととする。 
以上に見てきたように、相撲と神事は、古代から現在に至るまで切っても切れない関係にあるが、ここで相撲と神事の関係を考える際に注意しておかなければならないことが一点ある。それは、神事相撲と奉納相撲は区別して考えなければならないという点である。これは、後の章でも触れるが、中世以降の相撲の芸能化(相撲興行の成立)を考える際にも重要な点であるので、ここに新田の指摘をあげておきたい。 
「相撲と神事・祭礼とのむすびつきには、現代にいたるまでさまざまな形態がある。しかし注意すべきことは、各地の寺社の祭礼に際して現在もおこなわれている相撲奉納の多くは、相撲がおこなわれることと神事の内容とが必然的にむすびついているわけではなく、いわば祭の余興のひとつとして、かぶおんぎょく歌舞音曲などさまざまな芸能とともに相撲がおこなわれている場合がきわめて多い、という点である。とりわけ近世以降には、職業相撲の興行のひとつのパターンとして、れいせん礼銭をとって祭礼相撲に参加する場合が多く、祭礼は職業相撲の重要なマーケットのひとつであった。当然ながら、そこでおこなわれる相撲は特殊な神事ではなく、観客に提供される娯楽であった。ここで、神事に際して奉納される芸能のひとつとしての相撲(奉納相撲)と、相撲のしょさ所作そのものが神事の不可欠の要素としての意味をもったもの(相撲神事)とは、いちおう区別して考えておいたほうがよいと思われる。」もとより従うべきであろう。 
さて、以上のところで、神事としての相撲と、農耕儀礼の中で、相撲が「年占」の神事として取り入れられ、それが相撲の同一性を形成する要因の一つであったことを述べた。次節以降では、それらの議論を下敷きにして、実際に日本全国の相撲を文化的意味付けを与えながら統合する働きをした、相撲節の盛衰とそれが相撲にもたらした影響を見ていきたいと思う。

  

相撲節の成立 
相撲節(すまいのせちえ相撲節会とも呼ばれる)は、毎年旧暦の7月7日に盛大に行われていた、朝廷の年中行事である。記録上では、天平6(734)年7月7日、聖武天皇が「相撲ぎ戯をみ観」たと 「しょくにほんぎ続日本紀」にあり、この天覧相撲が相撲節のはじまりであるとされている。それから高倉天皇の承安4(1174)年7月を最後に廃絶するまで、相撲節はおよそ400年間、朝廷の初秋を飾ってきた。 
詳しくは後述するが、9世紀末ごろを境に、相撲節の儀式の内容や国家にとっての位置付けが変化したので、ここでは便宜的に8世紀半ばから9世紀半ばまでを前期相撲節、9世紀末から12世紀末に断絶するまでを後期相撲節と呼ぶことにする。 
相撲節は、つまるところ毎年7月7日(初期は7日と8日の2日間)に行われる一年に一回の天覧相撲である。相撲を取るのは、全国各地から徴発された膂力にすぐれた者たちであり、彼らは「すまいびと相撲人」と呼ばれていた。全国から相撲人を集める制度は8世紀初頭にすでにはじまっており、養老3(719)年に「初めてぬきでのつかさ抜出司を置く」と 「続日本紀」にあるのが、その最初であるとされている。 
相撲節は、奈良時代にはまだ、全国から膂力にすぐれた者たちを集めた「全国相撲大会」的な性格であったと思われる。しかし平安時代に入って、制度諸式が整えられ、弘仁12(821)年、嵯峨天皇の時代に、宮中の重要儀式であるさんどせち三度節の一つとして、弓術の節会であるじゃらい射礼、馬上から弓を射るうまゆみ騎射とともに初めて相撲節という独立した儀式が完成したという。 
9世紀半ばまでの前期相撲節はおおむね次のような次第で準備され、執り行われていた。 
まず、衛府にすでに任用されている武人の中から膂力すぐれた者と、その年新たに相撲人として諸国から集められたはくてい白丁から実際に相撲節で相撲を取る相撲節相撲人が組織される。諸国から徴発される相撲人は、国司の責任のもとで、「すまいのことりのつかい相撲部領使」(すまいのつかい相撲使とも称される)によって全国各地から集められる。相撲部領使はその年の2月に任命され、左近衛府と右近衛府それぞれから、山陽道や南海道などの「道」ごとに派遣されて、各地の膂力すぐれた若者から相撲人を選び出し、それらを連れて遅くとも6月20日までに帰京しなければならなかったという。 
相撲節の1ヶ月前くらいには、相撲節の運営に当たる「すまいのつかさ相撲司」が編成される。中納言・参議・侍従など五位以上の高官の中から左方・右方にそれぞれ12人ずつ、合計24人が任命され、さらに別当(総監督のようなもの)にはおおむね親王が任命され、これらで組織される相撲司が実際の運営に当たるのである。相撲節の10数日前には、「めしおおせ召仰」と呼ばれる歌舞音曲などの細かい打ち合わせが行われるとともに、「すまいどころ相撲所」と呼ばれるけいこ稽古場で稽古相撲が行われ、これを「うちとり内取」と言った。内取の前に、相撲人たちはおのおのの出身地に従って左方、右方に分かれる。平安京の入口であるおうさか逢坂の関を境にして東33国から来たものが左、西33国から来たものを右とされた。内取は予選も兼ねており、左は左、右は右どうしで取り組み、その成績によって、それぞれ最強位のほて最手、次位のわき脇(最手脇)などの順位が決められる。ちなみに最手と脇はのちの大関と関脇にあたる。 
相撲節は、平安時代前期には7月7日と8日の2日間に渡って行われていた。7日には、天皇以下、皇族、大臣から六位以下にわたる全官人が臨席し、官人、相撲人など300人以上によるパレードがあり、その後実際の取組が行われる。まず、子供による「占手」相撲が行われた後、左右の近衛府から「たちあわせ立合」という介添役に伴われて相撲人が登場し、相撲を取る。相撲は必ず、左右の対決によって行われた。当時はまだ土俵がなく、勝負は相手を倒すことによって決したという。勝負がついたところで、勝方の近衛次将の指示で、「かずさし籌刺」という味方の勝利の回数を数える役の者が矢を地面に突き立て、左方の相撲人が勝てば左の舞である「ばとう抜頭」が、右方が勝てば右の舞である「なそり納蘇利」が、それぞれ奏される。現在の行司に当たる、勝負を見極める役割の者はいなかったため、勝負がもつれた場合には「ろん論」「しょうぶさだめ勝負定」(現在の物言いのようなもの)になり、最終的には「てんぱん天判」という天皇の判断がなされることになっていた。「じ持」と称して、勝負なしに終わる場合もあった。このような次第で相撲が20番行われて儀式は終わる。次いで8日には、3位以上の官人のみの臨席で計20番の相撲が同じように行われて終わる。

  

以上に見てきたような次第で行われていた相撲節は、日本国家にとって、どのような意味を持っていたのだろうか。 
それには、第一に、農耕儀礼との関係が挙げられる。前に述べたように、相撲は農耕儀礼の中で、豊穣を願い占う、「年占」の神事として神社を中心に一般に広く行われていた。相撲節は、この「年占」の神事としての相撲を、天皇の命によって国家的レベルで行ったものであると考えられる。つまり相撲節は、日本国家が、農事の節目に当たる時期に、豊穣への祈願をこめてその首尾・不首尾を占う神事であったのである。 
このことは、相撲節が毎年7月7日に行われていたこととも関係がある。7月7日と言えば、言うまでもなく七夕である。詳しい議論は省くが、旧暦7月は、水田による稲作を主な農事としていた古代日本人にとって、田畑の整備と種まきに代表される、一年間の農事暦の前半と、収穫に代表される後半のちょうど狭間にあたり、年の前半の厄をはらい後半の豊穣を祈る重要な契機であった。相撲節は、何よりもまず、国家的年占の神事として、農事の中間点である7月7日の七夕の日に、年の前半の厄を払い、後半の豊穣を国家全体で祈願するという儀式だったのである。新田は、それを示すものとして、 
「本来は正規の相撲人の取組にさきだって「四尺以下」の小童による「占手」相撲がおこなわれたことや、「江家次第」に「諺に云く、左方を帝王方と為す」として、貞観(859〜877)以前には正規の取組の第一番には右方の相撲人がわざと負けるならいであった、と述べていることなど」 を挙げている。 
第二に、相撲節は、全国各地から膂力にめぐまれ、武術に秀でた若者を集め、国庫の守護、皇居の守衛などにあたるえじ衛士や、国防にあたるさきもり防人などとして登用することも目的の一つにしていた。これは、8世紀から9世紀にかけて、相撲節などの機会に際して、膂力にすぐれた若者を国家に対して優先的に送るように命じた勅が各地へ出されていることや、相撲節で相撲人最高位の最手をつとめた者の中から、朝廷の警衛にあたる近衛番長に任命される者が多く出ていることからもわかる。 
以上の二点は、国家的行事としての相撲節の公の目的であるが、相撲節は、国家権力にとって、もう一つの重要な意味を担う儀式であった。相撲節は、天皇=大和政権による国家支配と、周辺の異族たちの服属を再確認するという意味が込められた儀式だったのである。 
このことを理解するために、もう一度神話をひもといてみたい。「日本書紀」の中には、天武天皇11(682)年に、貢物をたずさえて上京したおおすみはやと大隅隼人とあたはやと阿多隼人が相撲を取り、大隅隼人が勝ったという記録がある。隼人族は大和政権の平定より前に現在の鹿児島県およびその南方の島嶼にすんでいた先住者で、くまそ熊襲やえみし蝦夷と同じく、異族と考えられていた民である。記紀神話では、いわゆる山幸彦海幸彦の神話の中で、天皇家の祖先と隼人の祖先は兄弟であったとされている。実際には、5世紀ごろ大和政権に服属し、歌舞や朝廷の警護をもって天皇に仕えていた。大隅隼人は現在の鹿児島県東部に住んでいた隼人族、阿多隼人は現在の鹿児島県西部に住んでいた隼人族である。 
これら異族が朝廷で相撲を取るということは、天皇に対する服属と奉仕を意味する儀式であった。 
また、前に述べたように、相撲の起源神話として語られる、建御雷神と建御名方の国譲りの相撲と、宿禰と蹶速の相撲とには、ともに天皇への奉仕という類似性が見られた。特に、垂仁天皇7年7月7日の七夕の日に行われたとされている宿禰と蹶速の天覧相撲は、明らかに相撲節の起源として語られており、宿禰=外来の強者による天皇への奉仕が、各国から相撲人を徴発し天皇と国家に対して相撲を供させることに重ねられるのは明白である。 
これら、外来・異族の強者が相撲を取り、それを天皇に奉じることによって、天皇との支配・服属の関係を再確認するということが、全国家的な行事として行われたのが相撲節なのである。 
宮本徳蔵によれば、相撲節にこめられた意味は次のように明らかである。 
「当日、親王や公卿をしたがえた天皇が紫宸殿のうちに着座すると、左右に分かれた力士はひとりずつ呼びだされた。かれらはえぼし烏帽子をかぶってかりぎぬ狩衣をまとい、剣を佩いた戦士の姿であった。だが狩衣の下は袴も下着もつけず、素裸にフンドシを締めこんでいるのみで、もちろんはだし跣である。かたや方屋と呼ばれる支度部屋を出ると、おのれの珍妙な恰好に恥じ入るごとく大きな体をちぢめがちに列席の朝臣たちのあいだを歩き、相撲場にいたった。そこでは狩衣と剣をもはずしてフンドシひとつとなり、相手方と対戦させられた。 くだくだしい説明をするまでもなく、これは明らかに降伏と武装解除を暗示するシンボリックな儀礼なのである。」 
やや文学的な表現であるが、相撲節に込められた意味がよく浮き彫りにされている。 
全国各地の相撲に同一性を与える機会となった相撲節は、政治的な要素と切っても切れない関係にあったのである。

  

相撲節の廃絶 
前述したように、9世紀末ごろを境に相撲節の儀式の内容や国家にとっての位置付けは少なからず変化する。 
前期相撲節において、親王以下高官たちによって組織され、相撲節の実際の運営にあたっていた相撲司は編成されなくなり、それに替わって、本来軍政を担当する部署である兵部省が相撲節の管轄にあたった。これによって、相撲節の全国武芸大会としての要素が強まり、親王をはじめとする皇族や高官たちは相撲節を天皇のために準備し、運営する立場から、天皇とともに鑑賞する立場に変わった。 
また、儀式の次第は、相撲人と官人によるパレードや、国家的年占としての相撲節を象徴する、取組の前の子供による「占手」相撲が省略され、替わって「おいすまい追相撲」「ぬきで抜出」と称される天皇の望む取組が、本来の取組の後に行われるようになるなど、芸能を鑑賞する催し物としての要素が強まった。 
さらに貞観年間(859〜877)からは7月下旬を開催の日とすることになり、七夕という農事にとって重要な日に行われる、国家的「年占」の神事としての要素はますます薄くなっていったと考えられる。 
これらの変化をまとめるならば、相撲節は、七夕という節目の日に行われる、豊穣を祈る国家的「年占」の神事であり、親王・高官と全国の強者がこぞって天皇に奉仕して服属を表現する、国家支配体制を再確認する重要かつ神聖な儀式から、天皇以下朝廷の面々に供される全国武芸大会へと、その性格を変えていったのである。 
また、その相撲節自体の変化に伴い、相撲節相撲人の構成にも少しづつ変化が見られるようになった。相撲人は原則として、諸国から膂力にすぐれた者や相撲に巧みな者が選抜され貢進されることになっていた。しかし農繁期に重要な労働力である若者を何ヶ月も取られるので、当然のように相撲人の貢進は滞りがちだったようで、本来相撲人ではないはずの、近郊の大きな若者を相撲人として徴発したりと、苦労は多かったようである。 
相撲節で相撲を取るために上京した諸国の相撲人たちは、7月に相撲節が開催された後も、そのまま京に残り、貴族の私邸で開かれる相撲に招かれたり、京周辺の寺社の祭礼に奉納される相撲を勤めたりしていた。平安時代末期の記録には、松尾大社や岩清水八幡宮、賀茂神社などで催される祭礼の相撲に、相撲節相撲人が招かれ相撲をつとめた事例があるという。 
しかし、12世紀ごろになって、相撲節相撲人たる地位が固定され、もしくは特定の氏によって世襲される事例が目立つようになったという。それらの多くは地方の武士の家柄であった。下野国の藤原姓足利氏、いなば因幡国のいふくべ伊福部氏、せっつ攝津国渡辺党嵯峨源氏など、何人もの相撲人を一族から出している家柄は、「相撲の家」と呼ばれた。 
時代が下るにつれて、それらの家柄が固定化する傾向は強まり、相撲人の多くがそのような「相撲の家」から出たもので占められるようになったという。これは明らかに相撲人の専門化であり、中世以降の職業相撲集団の成立にも関係がある可能性がある。

  

以上のように、相撲節は10世紀以降大小様々な変化を迎えたが、12世紀に入ると、様々な理由で次第に途絶えがちになった。社会は源平に代表される武家の台頭と朝廷の権力の弱化を迎え、これらが原因となって、政情は不安定になっていた。「保元の乱」「平治の乱」などの相次ぐ政変により、保安3(1122)年から承安4(1174)年までの52年間のあいだ、相撲節は保元3(1158)年に一回行われたきりであった。そして高倉天皇の承安4(1174)年の開催を最後として、相撲節はついに廃絶したのである。相撲節が衰退し廃絶した原因としては、まず政情不安によって相撲人を諸国から徴発することが難しくなったことが挙げられるであろう。前述したように、9世紀・10世紀の比較的平和な時代においても、相撲人の徴発は滞りがちだったのである。また、先に述べたように、年々国家的神事としての要素が薄まっていたことも原因に挙げられるだろうし、相撲節を開催する費用が調達できなかったということも考えられる。もちろんそれらの背景には、朝廷の権力の弱化がある。時代は平安貴族の時代を終えてまさに武士の時代を迎えようとしていたのである。相撲節が廃絶した承安4年は、源平の合戦のはじまりとなる、源頼朝が挙兵した年のわずか6年前であった。 
このようなおよそ400年の歴史を持つ相撲節は、相撲史の中でどのような意味を持っているのだろうか。相撲節は、その長い歴史を通して、相撲の成立とその発展にどのような影響を及ぼしたのだろうか。 
相撲節は、前に述べたように、各地で様々な形で行われていた相撲の原型を、文化的な意味付けを与えながら一つに統合し、現在につながる相撲の同一性を形作ったと言える。諸国から相撲人を徴発し、特定の形式のもとで相撲を取らせるという相撲節のシステムは、日本の各地で行われていた相撲の形式を統一させ、そしてそこに「農耕儀礼」と「服属儀礼」という二つの文化的意味付けを与えることによって、ある格闘技ないし技芸が、「相撲」という言葉で表されるときに必ず含まれる同一性を構築することに成功したのである。 
そしてその構築された同一性には、格闘技としての技術・形式なども当然のごとく含まれる。初期の相撲節において取られた相撲には、激しい打撃技の応酬があったり、長く伸ばした爪で相手の顔をひっかくのを得意とした相撲人がいたりと、格闘技として見たときには、現在の相撲とはかなり様相を異にしているものが多い。しかし前述した、相撲節相撲人の固定化と、「相撲の家」による相撲人の専門化を経て、相撲節廃絶直前には、相撲人は高度に洗練され、様式化された技術を持っていたと考えられている。これを新田は、「「相撲」の成立である」と言い切っている。 
また、近世の勧進相撲から、現在の大相撲につながる、格闘技の本質以外の様式美に関しても、その多くが相撲節を起源としていると言われている。たとえば現在の大相撲にも残る「弓取式」の起源は、勝方の「立合」が弓を持って舞う「立合舞」だとすることや、「花道」や「力水」は、勝方の相撲人が造花(右方はゆうがお瓠、左方はあおい葵とされる)を次の相撲人に与えたという習しが変化したものだとすることがそれである。 
原始・古代においては未だ自然発生的な格闘から明確に分離されておらず、各地で様々なかたちで行われていた相撲が、400年間の相撲節を経てしだいに統合され、格闘技としても技芸としても、日本独自の様式をもつ「相撲」と呼ばれるものが同一性を携えて社会に現れることになった。現在の相撲の、直接の祖先の誕生と言ってよいだろう。
 
武芸としての相撲と相撲興行の起こり

 

 

古代日本相撲史を代表する相撲節の衰退と廃絶と時を同じくして、社会は武士の時代を迎えた。日本史上はじめて武士による源氏政権が誕生した鎌倉時代、足利氏の室町時代、戦国時代とその帰結としての織豊政権の成立までを一般的に日本史では中世としている。 
中世の前期における相撲は、古代の相撲がほぼ相撲節のみによって語られるのと対照的に、端的に言って、それぞれ別の担い手による、性質の異なる二つの相撲が存在していた。 
ひとつは、武士の活躍にともなって、武士たちによって担われた、武芸・武術としての相撲である。これは、あくまでも、「武芸」「武術」であって、「武道」ではない。武道は近代の発明なのである。 
そしてもうひとつが、相撲節相撲人の流れを汲む、専門的職業相撲集団によって担われた、寺社の祭礼に供される奉納相撲とその発展としての勧進相撲である。勧進相撲と言うと、近世に盛んに行われた営利勧進大相撲が有名であるが、中世の勧進相撲は、完全に芸能化した近世の営利勧進大相撲とは異なり、寺社や橋梁などの建立・修復のための資金を調達するために、芸能を供して人々の見物料を集めるものであった。これらはともに相撲節相撲人の流れを汲んだ職業相撲集団によって担われたと考えられている。 
一般的に、中世日本は「武士の時代」とされているため、中世の相撲史においても、「武家による相撲」という側面ばかり強調されてきた観がある。しかし、もうひとつの流れである、職業相撲集団による奉納相撲・勧進相撲が、近世日本の相撲を代表する営利勧進相撲に直結していることを考えれば、中世を単純に「武家による相撲」の時代と言いきってしまうのは危険であろう。 
中世前期は、「武家による相撲」と「職業相撲集団による相撲」が並立して行われていた時代なのである。そして、中世も後期になると、武士によって行われる相撲の影は薄くなり、職業相撲集団による相撲は、寺社の祭礼などに奉納されるだけでなく、権力を持つ武家の鑑賞の対象としても発展してゆく。奉納相撲・勧進相撲によって民衆の鑑賞にたえうる芸能として洗練されて行った相撲は、武家の権力と財力による後ろ盾を得て、その後近世の営利勧進大相撲の成立を迎え、芸能として確立するのである。

  

武家と相撲 
前に述べた二つの相撲のうち、ここでは「武芸・武術」というカテゴリーに入るものとして認識されていた相撲の実際を、その担い手である武士、および武家と相撲の関わりから見ていきたいと思う。 
平安時代も末期の12世紀ごろになると、相撲節で相撲を奉じていた相撲節相撲人が、特定の家の出身者に偏り、いくつかの地方武士の家柄から、「相撲の家」として相撲人を多く輩出する家が出現するようになったということは 前述した。ただ体力・膂力のみをかわれて徴発された農民の若者と違い、彼ら「相撲の家」から出た相撲人たちは、その相撲に対する専門性を買われ、院をはじめとする中央権力との結びつきを強めたり、郡司などの役職を獲得したりしていたようである。つまり彼らにとっては、相撲を取ることが、社会生活を営んで行くことに不可欠だったと言えるのである。後期相撲節に召された相撲人には、免田の給与も行われており、相撲節相撲人の専門化を裏付けている。 
では、これら専門的になった相撲人は、彼らの社会生活の中で重要な意味をもっていた相撲節の廃絶にどう対応したのだろうか。その一つとして考えられるのは、鎌倉幕府に御家人として従うなど、完全な武士として、武家の社会に適合していったということである。前述したように、もともと後期相撲節で活躍した相撲人たちは、そのほとんどが地方武士の出であった。膂力にすぐれた彼らは、「武勇」の人として、まだ戦乱がおさまらない時代には活躍したに違いない。 
また、相撲人としての専門的な職能を持って寺社などと結びついたということも考えられる。芸能として「観られる」相撲の発展の歴史は、相撲が本能的な格闘から離れ、高度に洗練された技術や様式が発展していく歴史でもあるのだ。この時代において、高度に洗練された相撲の技術や様式を持っていた者は、彼ら専門的相撲人をおいて他にはない。しかしこの点に関しては、次でくわしく述べることとして、まず武士としての相撲人と武芸としての相撲を考えてみたい。 
もともと、全国各地から膂力にすぐれたものをえじ衛士・さきもり防人などとして登用するための「全国武芸大会」的な要素をもっていた相撲節では、神事としての重要性が強調されるとともに、武芸を鍛錬する場としても重視されていた。前期相撲節が行われていた天長10(833)年には、「相撲の節はただ娯遊のみにあら非ず、武力を簡練すること最もこの中にあり」という勅が諸国に出されている。 
朝廷の権力が強かった時代においてもこうであるから、武士の時代である中世に、相撲が武芸として捉えられていたのは当然であろう。武芸としての相撲を語る当時のエピソードから、その姿を見てみたい。 
鎌倉時代の相撲にまつわる話で有名なものに、「曽我物語」に見える、河津三郎と俣野五郎の相撲がある。新田によると、それは以下のようであった。 
「若者に相撲を取らせて見物を楽しもうということになり、力自慢の武士たちが取り進み、やぎした柳下小六郎が六番、竹下まごはち孫八が九番とつぎつぎ勝ちぬくほどに、またのごろうかげひさ俣野五郎景久という者が出て、都合31番を勝ちぬいた。この俣野、おおばん大番つとめに京にのぼって相撲の経験を積み、3年のあいだ一度も不覚をとることなく、日本一番の名をえた相撲の手だれ。もはや相手に立つ者なしとみえたところに登場したのは、この巻狩のホスト役であった伊東すけちか祐親の嫡男かわづさぶろうすけやす河津三郎祐泰であった。河津は相撲の経験はないがごうりきむそう剛力無双、俣野の両腕をつかんでねじり、膝をつかせてしまう。俣野は「木の根につまづいた」と物言いをつけ、「今一番」をいどんだものの、河津の剛力にこんどは片手で差しあげられ、したたかに投げ伏せられてしまった。」 
また、「「古今著聞集」にのせるはたけやましげただ畠山重忠の剛力のエピソードも、頼朝の命によって、ながい長居という東国八ヶ国随一の手だれの相撲人と立ち合った重忠が、力にまかせて長居の肩をくだいてしまった」という話もある。

  

これらの二つのエピソードからわかることは、「両腕をつかんでねじり」や、「力にまかせて肩をくだく」といった、相撲節で洗練された格闘技としての相撲から離れた格闘技が行われていたことである。そして、両方のエピソードともに、「手だれの相撲人」すなわち専門化された相撲を体得した者が、「剛力無双の武人」すなわち力と実戦経験はあるが、相撲は素人同然の者に、敗北していることが興味深い。 
相撲節では、特に後期には禁じ手なども整備され、格闘技としての洗練された形式が確立していた。それらを体得した相撲節相撲人の流れを汲む、専門的相撲人たちの中でも最強の部類に属する俣野五郎や長居が、剛力無双の河津三郎や畠山重忠に「相撲を取って」敗れたというこの話は、実に興味深いことを教えてくれる。まず一点目に、相撲節相撲人の流れを汲む相撲人は、「武芸」として洗練され、特化された相撲を体得していたが、実際に戦場で敵をねじ伏せる、実戦的な「武術」である相撲が、それとは別に存在していたこと。そして、それら異なる 二つの相撲が、同じく「相撲」と考えられ、これらの間で実際に勝負がなされていることである。戦乱の時代には、その時代にふさわしい「武術」としての実戦的な相撲が武士によって担われ、それとは分離したかたちで、「武芸」として、ある程度格闘技として洗練された様式を持った相撲が、専門的相撲人によって担われていたのである。 
武士たちによって行われていた相撲の実際の姿は、以上に挙げたエピソードから散見することができる。しかし、武家と相撲の関係を語る上で、欠かせない視点がもう一つある。それは、権力としての武家と相撲との関係である。 前述のように、相撲の長い歴史には、上覧相撲と呼ばれる、天皇およびその時々の権力者の前で、相撲が行われることが多くあった。武家政権が連続する中世にあっても、上覧相撲はその時々の権力者の前で数多く行われてきた。 
鎌倉幕府をうちたてた初代将軍の源頼朝は、相撲を好んだらしく、「吾妻鏡」には、頼朝が鶴岡八幡宮や熱田神社などの神社の祭礼に奉納される相撲を観戦したことや、武士たちに相撲を取らせてそれを見物したという記録が残されている。三代将軍の源実朝、四代将軍くじょうよりつね九条頼経などもたびたび武士たちを召して相撲を見物したという。また、建長6(1254)年うるう閏5月には、ときの将軍宗尊(むねたか)親王の御所で、執権北条時頼の提案で武士による相撲が行われたと 「吾妻鏡」にある。このときの相撲にあたっては、おさだひろまさ長田広雅という、「相撲の家」の一族の者が、「譜代相撲」(相撲の故実に通じている者、の意)であるとして、「勝負是非」を申す(勝負判定を下す)役割を仰せつけられている。 
このような上覧相撲に供された相撲は、専門的な相撲人ではない武士たちによって行われた相撲であることが多かったが、御家人武士たちによって貢進された専門的相撲人が相撲をとった事例も存在したようである。 
時代が下って、室町時代になっても、上覧相撲はしばしば行われていた。従来の相撲史では、足利将軍の相撲上覧はなかったというのが定説だが、新田によると、六代将軍義教(よしのり)が、ときの管領畠山みついえ満家などの幕府の中核を形成した守護大名たちとともに専門的相撲人による相撲を上覧したという記事が 「満済じゅごう准后日記」にあるなど、室町時代にも上覧相撲は存在したという。 
その後、中世も末期になると、織田信長、豊臣秀吉、豊臣秀次と、当時の最高権力者たちによって、たびたび上覧相撲が催された。この時代になると、もはや上覧相撲は武士の手を離れ、純粋に権力者の鑑賞の対象としての「芸能」的な要素が強かったようである。実際に相撲を取るのはほとんどが専門的な相撲人であったようだ。鎌倉時代の頼朝ら将軍による上覧相撲が、御家人や家来など武士による相撲の見物であったこととは対照的である。このころは、武家、とくに大名など権力者にとっては、「相撲」と言えば「取るもの」ではなく、「観るもの」であった可能性が大である。このころ、武士たちによって、実戦的格闘技、すなわち「武術」としての相撲がどのように行われていたかは興味深い問題であるが、残念ながらそのことを記した資料は見られない。 
信長が大変な相撲好きであり、上覧相撲をたびたび催して、その際に京都近辺と畿内から相撲人を召し集めていたことは、「しんちょうこうき信長公記」など著名な書物に見え、一般にもよく知られていることである。そして信長は、こうして集まった相撲人のうちから、特に技量すぐれた者にはちぎょう知行を与えて召し抱えたという。彼らは、鎌倉時代の、相撲人の家柄から出た御家人のように、いわばセミプロ的な存在ではなく、相撲を生業とし、相撲をとって見せることによって信長に仕えていた。完全なる職業相撲人である。この、相撲人を召し抱えるという行為は、信長のみではなく、豊臣秀吉、その甥の秀次、土佐のちょうそかべもとちか長曽我部元親、九州久留米のもうりひでかね毛利秀包などその他の有力な大名も行っていたという。特に豊臣秀次は百人ともいわれる大変な数の相撲人を召し抱え、知行を与えていたようである。 
このように、中世も末期になると、権力を持っていた武家は、上覧相撲を通じて、専門的相撲人を召し抱え、彼らに経済基盤を与えていた。これにより、相撲人たちは完全に相撲を生業とする職業相撲集団になるのである。そしてこの、大名による相撲人の召し抱えは、江戸時代に入って諸国で盛んに行われるようになり、、相撲人(力士)たちの生活と、相撲社会を支える重要な経済基盤となるのであった。 
以上で見てきたように、中世の武士にとっての相撲は、「武芸・武術」として自らたしなむことであると同時に、専門的相撲人たちの洗練された技芸を鑑賞する、「芸能」であったとも言える。

  

奉納相撲から勧進相撲へ 
一般的に、中世は「武士の時代」であると同時に、現在の日本文化の底流をなす多くの要素が民衆の生活に登場した時代でもある。前節は、武士および武家と相撲の関わりを論じたが、ここではおもに民衆によって担われた相撲の姿を見ていきたいと思う。 
前節で触れたように、平安時代末期の相撲節の廃絶後、相撲節相撲人は主に二つの道をたどった。一つは武士として幕府に仕えるという道。そしてもうひとつが、寺社などと結びつき、相撲の職能を生かして専門的相撲人になる道である。 
相撲節相撲人たちは相撲節が行われていた時分にも、相撲節の開催後京に残り、京周辺の寺社の祭礼に奉納される相撲を取っていたと思われる。彼らは相撲節が廃絶し、鎌倉時代になると、その専門性を生かして半ば専門的な相撲人の集団を形成し、京周辺の神社に祭礼ごとに雇われて、祭礼の際に奉納される相撲をとるようになった。この専門的相撲集団は、「京相撲」または「京都相撲」と呼ばれ、地方の大神社の奉納相撲に携わることもあったという。新田によると、建久3(1192)年には、鎌倉のつるがおか鶴岡八幡宮のほうじょうえ放生会の際に、「京より下向」してきた「相撲十人」が相撲をつとめたことが 「鶴岡社務記録」に残されていること、また、出雲国のきつき杵築大社(出雲大社)の神事に奉納される相撲も、建長元(1249)年には、村々で費用を負担し、「社相撲」と呼ばれる専門的相撲集団を雇って行われていることなどが、これらの専門的相撲集団が鎌倉時代初期にすでに成立していたことを示す証拠となるという。 
中世も後期になると、このような奉納相撲とともに、勧進相撲が行われるようになり、これらの専門的相撲集団の社会的な需要が高まることになった。最初に触れたように、中世の勧進相撲は、近世の営利勧進大相撲とは異なり、寺社や橋梁などの建立・修復のための資金を調達するために、芸能を供して人々の見物料を集めるものであった。 
そもそも勧進興行と呼ばれるものは、相撲に限らず、猿楽やくせまい曲舞といった、他の芸能にも見られる興行形態である。もともと、勧進とは、公共性の高い寺社や橋梁などの建立や改修のための費用を集めるために、勧進ひじり聖と呼ばれる僧が勧進帳と呼ばれる勧進の趣旨を書いた巻物を携えて諸国をまわり、人々の自発的な喜捨を集めるものだったが、中世も後半になると、何らかの芸能が供され、その見物料をもって善意の喜捨のかわりにするという興行形態が登場した。これが勧進興行と呼ばれるものである。 
相撲においては、15世紀のはじめごろから、この勧進興行の形態での相撲、つまり勧進相撲が行われていたという。その実例をいくつか挙げると、歴史資料に「勧進相撲」の語がはじめてあらわれるのは、 「看聞御記」、応永26(1419)年10月、京都郊外の伏見郷で、法安寺造営のための勧進相撲が行われたという記事である。また、「大友興廃記」には、都より相撲人たちが下向し豊後府内(現在の大分市)で相撲興行をおこなったという記事がある。 
この当時の勧進相撲は、勧進興行の主催者から集められた専門的相撲人から構成されるかんじんもと勧進元(勧進方)と、地元の相撲人が集まったよりかた寄方の対抗形式で行われていたという。また、取組は勝ち抜き方式で進行し、最後に勝ち残ったものが、「関を取る」と称されたらしい。 
その他、この当時の相撲で、注目すべきことは、はじめて行司が登場したことであろう。「信長公記」の天正6(1578)年の上覧相撲の記事には、きせぞうしゅんあん木瀬蔵春庵・木瀬たろうだゆう太郎太夫の名が「行事」(行司)として見られる。行司は、ただ勝敗の判定をするだけの役割ではなく、取組の進行などを取りしきっていたようである。 
このような勧進相撲の発展は、京周辺を中心に、専門的な職業相撲集団の需要を高めることになった。そして職業集団は文字通りプロ化してゆき、戦国時代に入ると、前述したように有力な大名に召し抱えられ、相撲をもって仕える者も多く現れた。中世は、神事であり、武芸であった相撲が芸能化し、それを生業にするプロの相撲人の集団がはじめて現れた時代なのである。 
最後に、武士でも、専門的相撲人でもない、一般の民衆と相撲との関係を少し書いておきたい。 
もちろん、中世に入ると、一般の民衆は、寺社などにおいて奉納相撲や勧進相撲興行の観客となっていたが、当たり前のことではあるが、彼らも武士と同じく、観客であると同時に自分たちで相撲を取っていた。町中の辻において偶発的に集まった人々が、主として自分たちの娯楽のために取った相撲は「辻相撲」、町中から外れたところや野原での相撲は「野相撲」などと呼ばれていた。はやくも鎌倉時代の13世紀前半には、「辻相撲」は治安悪化の原因であるとして、幕府から禁令が出されている。その後も江戸時代前期にいたるまで、辻相撲は何度か禁令の対象になっていたようである。中世以降に進行した相撲人の専門化と職業化の傾向とは別に、一般の民衆も、娯楽の一つとして相撲を自由に取って楽しんでいたようだ。
 
近世・芸能としての相撲

 

 

日本史では、中世と近代の間の時代区分を近世と呼んでおり、日本では徳川幕府成立から、明治維新までの江戸時代がこの近世にあたる。近世における相撲は、芸能としての確立の一言につきる。これまで見てきたように、中世後期から、勧進興行の形態をとって、相撲興行が寺社を中心に広く行われていた。また、戦国時代には、好角家の大名たちは多くの専門的職業相撲人たちを召し抱え、彼らに禄を与えていた。これらの職業相撲人たちの流れを汲む相撲人たちによる相撲が、「故実」という相撲を支える様式の体系によって彩られ、江戸・大坂・京といった消費文化が生まれていた大都市で、洗練された芸能として花開くのが、この近世という時代なのである。 
中世の末期から近世の初期にかけては、各地の寺社で勧進相撲興行がさかんに行われていた。しかし、この勧進相撲は、寺社の造営・修繕など、「勧進」本来の趣旨にそった理由で、寺社が主導で行われており、後のような定期的な興行を打つ組織のようなものはなかった。具体的には、勧進を行う寺社が職業相撲集団を雇い入れてかんじんがた勧進方とし、近在の相撲人を集めてよりかた寄方として興行を行っていたと考えられる。 
戦国時代の末期になると、戦国大名による相撲人の召し抱えが盛んに行われた。織田信長、豊臣秀吉、豊臣秀次は特に多くの相撲人を召し抱えていたことは前に述べた。その後江戸時代になり、幕藩制度が成立すると、各地の藩主たちは競って有力な相撲取(相撲人と同じ)を召し抱え、「相撲ぐみ組」「相撲しゅう衆」と呼ばれる集団を組織していた。他にも、加賀前田家や紀州徳川家、越前松平家、わかさおばま若狭小浜酒井家などといった大名は、相撲取を多く召し抱えていたとされ、彼らお抱えの相撲取どうしの対抗戦もおこなわれたようである。 
そのような状況で、幕府は、一時期は武家屋敷の外での相撲を禁止する方針をとっていた。その理由は、池田によると、「職業相撲による傷害事件がたびたび起こるため」であるという。鎌倉幕府が辻相撲を禁止したときと同じように、相撲は治安の悪化をもたらしていたのだろう。慶安元(1648)年2月には、武士抱えでない勧進相撲を禁止するふれがき触書が出され、さらに同年5月には辻相撲の禁令も発せられた。また、寛文元(1661)年にも「町中」での勧進相撲の開催が禁止された。この時期は、村落の寺社などでは勧進相撲の興行が行われていたようである。禁止の理由はあくまでも都市部の治安悪化の防止であったのだった。 
このように、都市では武家屋敷以外の場所での勧進相撲が禁止されていたので、職業相撲人たる相撲取は、そのほとんどが諸藩の召し抱えであったと思われる。藩抱えの相撲取による対抗相撲などが行われるようになると、どの藩でも、勝利によって藩の評判を高めるため、相撲取たちに一層の稽古と精進を要求し、このころ相撲技術の著しい発展がおこったと言われる。相撲を取る場所としての「土俵」もこのころにはじめて発明された。それまでは、相撲場には境界がなかった。「ひとかたや人方屋」と呼ばれる、控えの力士、見物人らの人垣が境界だったのである。土俵の成立により、格闘技としての相撲に、相手を土俵の外に出せば良いというルールが次第に加わるようになる。相撲技術の大幅な革新が起こったのは想像に難くない。 
そして時代は元禄文化の花開く18世紀に入り、次第に、三都勧進大相撲が芽生えてくるのである。

  

三都勧進相撲 
江戸幕府が都市部での勧進相撲を禁止する方針をとっていたことは前に述べた。しかし、18世紀に入り、幕府はその方針を転換し、勧進相撲の一律禁止から、条件付きで興行を許可するようになる。その理由として、新田は次のような社会的背景を挙げている。 
「物資流通の焦点となった京坂地域を中心に、社会的剰余が蓄積され、消費文化が一気に開花した。それとともに、道・橋・運河などの修造や沿岸地域の埋め立て開発、さらには町地の経済活動の振興など、社会資本の整備が急がれることとなり、公的な投資を補完する方法として、消費文化を背景とした「勧進」がふたたび脚光を浴びることとなったのである。」 
元禄12(1699)年、京のおかざきてんのうしゃ岡崎天王社修復のための7日間の勧進相撲が行われた。これが京での勧進相撲が復活してはじめての相撲であるとされている。大坂ではそれよりはやい元禄4(1691)年に町中で勧進相撲が行われた例があるという。 
江戸では、貞享元(1684)年に深川八幡宮で晴天8日の勧進相撲興行が行われたと「相撲家伝鈔」にある。そのときに、いかづちごんだゆう雷権太夫以下が15人が株仲間を結成して寺社奉行に興行の許可を得たのが、後の相撲年寄の原型であるという。ちょうどその頃、財政を圧迫していたお抱えの相撲取を諸藩が放出しはじめたこともあり、相撲取の供給にも問題はなかったようである。 
この、興行主体が寺社奉行に相撲興行の許可を申請し、その許可をもって行われた興行を、一般に公許勧進相撲という。これらの相撲興行は、町人の興行師たちによってとりしきられていた。相撲取集団が主催の興行が一般化するのは、少し後になるのである。 
18世紀も中ごろになると、申請にはほとんど許可がおりるようになり、江戸・大坂・京の三都において勧進相撲興行がほぼ定期的に開催されるようになった。この頃から、興行の主体が寺社や町人の興行師から、相撲取出身のとうどり頭取(年寄)に変わり、番付も前の興行の成績をもとにつくられるようになったという。そして、江戸・大坂・京の三都で、春は江戸、夏は京、秋は江戸と大坂で、年に4回それぞれ晴天10日の相撲興行が定期的に行われ、「四季勧進相撲」と呼ばれるようになる。三都勧進大相撲の成立である。 
この三都勧進大相撲は、三都にそれぞれ相撲興行を行う団体があるわけではなく、諸国の相撲取集団を集めた大規模な合併興行としての「大相撲」が年に4回行われる体制である。勧進元である年寄は、江戸と京坂にそれぞれ集団が存在していた。開催地に関係なく、全国的な興行としての「大相撲」が年に数回存在していると言う点では、現在の大相撲と同じであると言える。 
このころの相撲興行は、新田によると、以下のようなものであった。 
「観客の興味関心や要求のあり方も、現代におけるそれとはいささか異なる。たとえば大坂の興行では、大坂を活動の中心とした相撲取が善玉、よそ者が悪玉となり、江戸・京においてもそれぞれにまた善玉・悪玉の位置付けができてくる。善玉中の花形には花をもたせるような操作も、興行政策上の暗黙の了解としてうまれてくるのである。たとえば江戸を中心に活躍した谷風と、もともと京坂で修行時代を送った小野川との対戦では、江戸では谷風、京坂では小野川がそれぞれ善玉になって、敵地での勝負よりも分のいい結果を残していたりする。この点も現代のプロレスと似たところであり、花形同士の取組では双方にキズがつかないように引分・あずかり預などといった勝負なしの結果が目立つようにもなる。観客も、かならずしも真剣勝負を期待するのではなく、そうした周辺の事情を承知のうえで、土俵上のストーリーを「芸」として楽しんでいた節がある。」 
三都勧進大相撲が、芸能として確立していたことをうかがわせる一文であると言えるだろう。近世における相撲は、現在の大相撲よりも、芸能色が強いものであった。近世は、芸能としての相撲が花開いた時代であると言えるのだ。
 
近代社会と相撲

 

 

これまで、日本における相撲の歴史を、相撲をとりまく社会との関係を織り交ぜながら見てきた。本章では、一般的に太平洋戦争を境として分けられる近代と現代を、相撲自体にそれほど変化が見られないことから、まとめて近現代として、近代以降の相撲の変容と社会・文化との関わりを取り上げ、論じていきたいと思う。 
そもそも、「近代」という言葉には主に二つの意味がある。一つは、原始・古代・中世・近世・近代・現代という、歴史学における時代区分の中の、近世に続く区分として用いられる「近代」。そしてもう一つが、17世紀のイギリスで生まれ、18世紀から19世紀にかけて、西欧のみならず世界中のほぼ全ての国々の社会・文化の諸領域を変化させた「近代化」によってもたらされた、社会・文化のあり方の総体としての「近代」である。近世、すなわち江戸時代の日本は地理的条件と鎖国政策により、他国から影響を受けずに独自の社会・文化を構築していた。そのため、徳川幕府による江戸時代の終焉を迎えると、時代区分としての「近代」の到来とともに、もう一つの「近代」が、怒涛のように日本の社会・文化のあらゆる領域を揺るがすことになったのである。 
これまでの章で見てきたように、相撲は、その時々の社会や政治体制と密接に関わりながら、発展し、変容してきた。その相撲が、このもう一つの「近代」、すなわち社会の近代化によって非常に大きな影響を受けたことは想像に難くない。その中で相撲は、その長い歴史の中でたびたび見せてきた、その「ゆうずうむげ融通無碍」の性質を存分に発揮し、その都度苦境を乗り切りながら複雑にその姿を変えてきた。 
社会の近代化・西洋化は、直接的に相撲を変容させようとしたが、同時に間接的に影響を与えることも多かった。例えば、近代化・西洋化の反動から来るナショナリズムの影響を色濃く受けて独自の発展を遂げた、「武道」概念の影響を受けたことなどは、直接的なものというよりは、むしろ間接的・二次的な近代化の影響であると言えよう。 
このように近代には、相撲は社会の変動にあわせて大きく揺れ動いたが、そのはじまりとして位置付けられるのはもちろん明治維新と、それに続く文明開化である。欧米流の近代国家の建設を急務とした明治政府の政策と華やかな西洋文化の急速な流入は、社会に「脱亜入欧」の機運をもたらした。旧来の日本の伝統的な文化や慣習が文明開化を阻害する前近代的な旧弊として、軒並み否定される風潮は、相撲にとってまさに史上最大の危機であったといえる。そもそも勧進相撲興行に代表されるこの時代の相撲は、相撲節以降の長い歴史を持ち、日本的な風俗や慣習に密着した様式性を欠くことのできない重要な要素としていたのである。断髪令ひとつをとっても、それが「故実」に支えられた相撲にとってどれだけ大きな意味を持っていたかが容易にわかるであろう。 
幸い新政府内には相撲に対する理解者が比較的多かったため、明治4(1871)年に実施された断髪令の相撲社会への適用は免れたようであるが、依然として、「文明開化の御代に、相撲のような裸踊りなど許しておくのは怪しからん」「蛮風として廃止すべし」など、相撲への攻撃は相当厳しいものがあったようである。 
そのような状況にあって、相撲会所をはじめとする相撲社会は、社会に貢献することによって世論を和らげるべく、様々な奉仕活動を展開した。維新直後の明治2(1869)年3月には、明治天皇の転都の大儀(御東遷)に際して、京都力士が錦旗をほうじ捧持して品川まで同行し、東京力士がこれを迎えたという。そして同年7月には、くだんしょうこんしゃ九段招魂社(現在の靖国神社)の火の鎮座祭に際して、相撲を奉納し、明治5(1872)年には神殿の造営にあたって力士を工事に従事させている。少しさかのぼって明治3(1870)年4月には、駒場野における明治天皇による陸軍最初の観兵式があり、きめんざん鬼面山やさかいがわ境川ら当時の上位力士がきんきほうじ錦旗捧持の役をおおせつかっている。また、明治9(1876)年には、東京相撲会所によって幕下・三段目の力士の中から「力士消防別手組」が組織され、それから2年間にわたって東京市内の消防活動に従事したという。 
相撲とそれを支える文化の結晶としての様式が、旧弊として否定され、近代化の妨げとして攻撃されたことは、相撲熱を下火にし、たしかに相撲界に大きな影響を及ぼしたが、維新以降の社会の変動は、もう一つの大きな打撃を相撲に与えた。それは、幕藩体制の崩壊による、相撲社会を支える経済基盤の喪失であった。詳細は次で述べるが、これはまぎれもなく、大きな打撃であった。

  

そしてこの時期の相撲社会は、外部からの影響とともに、その内部からも変革をつきつけられることになる。明治6(1873)年、当時幕内力士であったたかさごうらごろう高砂浦五郎は、力士の待遇改善を要求し、会所内部の改革を求めて東京相撲会所に要求書を提出し、それが入れられず会所を除名されると、「改正組」を組織して名古屋で新組織による興行を旗揚げしたのである。この事件は、力士による労働運動ともいうべきもので、まさに近代化による社会の変化の影響を受けて起こったものであろう。これに類する事件は、その後明治44(1911)年の新橋くらぶ倶楽部事件、大正12(1923)年の三河島事件、昭和7(1932)年のしゅんじゅうえん春秋園事件と、明治から昭和にかけて東京だけで都合4回も起こっている。それらの内部からの改革の要求も受けて、相撲社会は近代の日本の社会にあった興行体制を徐々に形作ってゆくのであるが、それぞれの詳細は次で述べる。 
その後東京相撲会所に復帰した高砂浦五郎による様々な改革によって、相撲社会は近世までの旧弊を少しづつ改めてゆくのだが、相撲人気の下火もあって、依然として、相撲社会の困窮と苦境は続いたのであった。 
その明治維新以来の、相撲史上有数の不遇の時代に突破口を与えたのが、外部の権力であった。明治17(1884)年3月10日、明治天皇による4回目の天覧相撲が行われたのである。この天覧相撲はそれまでの3回に比べて規模が格段に大きく、また「お好み」で行われた当時第一人者の初代うめがだに梅ヶ谷と新鋭のおおだて大達の相撲が評判となり、この天覧相撲をきっかけとして相撲人気は回復に向かったと言われている。前述したように、天皇やその時々の権力者の前で行われる上覧相撲(天皇の場合は天覧相撲)は、相撲にしばしば良い影響を及ぼしてきた。見方を変えれば、それは相撲がいかに政治権力と密接な関係にあったかということを示す証拠でもあるのだが、ともあれこの時の明治天皇の天覧相撲は、当時の相撲社会にとって一種の助け船となったことは間違いないのである。 
明治時代も後期になると、急速な近代化・西洋化にさらされた後発国に頻発する現象であると言われる、反動としてのナショナリズムの復興が起こり、日本社会には「こくすい国粋」的な風潮が蔓延した。日清・日露戦争の開戦とその勝利もナショナリズムの復興を促進し、明治天皇の天覧相撲を契機として人気を取り戻しつつあった相撲は、さらなる人気回復をとげ、興行的にもようやく安定を見た。江戸の谷風、昭和の双葉山と並び称される明治最高の力士と言われるひたちやま常陸山と、そのライバル梅が谷(二代目)、おおづつ大砲、あらいわ荒岩、たちやま太刀山、朝汐(初代)ら、実力と人気を兼ね備えた名力士が多く出たこともあり、明治の終わり頃には、大相撲人気は「空前の」と形容されるほどに盛り上がったと言う。そこで、屋根つきの常設相撲場の建設が必要とされた。 
東京両国元町の本所回向院境内に「国技館」と名付けられた常設相撲場が落成したのは、建設の決定から3年経った明治42(1909)年5月のことであった。国技館は、単なる常設相撲場の完成以上の影響を相撲に及ぼした。実は、相撲が日本の「国技」であるから、国技館という名前をもった相撲場が建てられたのではなく、国技館の建設後、相撲を「国技」とする言説が登場するのである。 
国技館の建設を契機に、横綱が正式に番付上の最高位になり、団体優勝制度が制定されるなど、興行形式にも手が加えられ、入場者数も増加し、相撲協会の経営基盤は安定を見た。 
明治後期には、好角家の文士たちにより、「文士相撲」や「紳士相撲」というアマチュア相撲が始められ、それと時を同じくして学生相撲も本格的に始まったと言われる。 
こうして明治時代が終わり、大正時代に入ると、第一次世界大戦後の世界的な不況や、2度の国技館全焼などもあり、大相撲は経営的に苦境に立たされた。東京のみならず、京阪の相撲も、それ以上の苦境にあった。京都相撲は、ロンドンで行われた日英博覧会への出席にはじまる長い海外巡業が仇となり、すでに明治43(1910)年に経営難の末解散していた。大阪相撲も、養老金問題に端を発した内紛が起こり、幕内力士の多くが土俵を去っており、衰退あらわであった。長引く不況の影響もあり、東京・大阪の両相撲協会の合併は、もはや避けられないものとなった。 
その情勢の中で、大正14(1925)年4月、赤坂東宮御所で皇太子(のちの昭和天皇)による台覧相撲が行われ、その際の下賜金をもって東宮杯(現在の天皇杯=優勝賜杯)がつくられた。東京相撲協会は、この名誉を相撲界全体で共有すべきだとして大阪相撲協会を説得し、同年7月に両協会の合併調印が行われ、12月に財団法人大日本相撲協会の設立が認可され、ここに現在の日本相撲協会の前身が誕生したのであった。この興行体制上の大変革も、上覧相撲(ここでは台覧相撲)をきっかけとしてなされていることを、重ねて言うが指摘しておきたい。

  

その後、大正の中ごろから昭和初期には、出羽海部屋に有力力士が偏り好取組が減少したことや、深刻な不況もあって、相撲人気は停滞するが、昭和10年代ころから、名力士(のちの大横綱)双葉山の台頭もあり、相撲人気は徐々に回復した。 
昭和も10年代に入ると、日本は急速に右傾化し、ナショナリズムの波に呑まれて行く。ナショナリズムの勃興と時を同じくして、「相撲は日本精神の真髄」「相撲道」などという、相撲を国民精神の規範である「武道」とするような言説が、このころから盛んに見られるようになる。昭和11年初場所7日目からはじまる双葉山の69連勝は、中国大陸での日本軍の進撃と重ねられ、「無敵双葉」と「無敵皇軍」の相似性が、双葉山を、単なる強い横綱から、国民的英雄にまで押し上げた。野球など、他の人気スポーツが敵性遊戯とされたことともあいまって、戦時下における相撲は押しも押されぬ国民的スポーツ(かつ武道)となったのであった。 
太平洋戦争が始まると、社会がカーキ色一色に塗りつぶされた時代にあって、相撲もまた、その例外ではなかった。昭和18(1943)年5月には、相撲協会に勤労報国隊が結成され、力士は各地の軍需工場で勤労奉仕するために散り散りになった。翌19(1944)年2月には国技館は軍部に接収されることになった。終戦直前の昭和20(1945)年3月の東京大空襲の時には、両国の国技館も被災し、相撲部屋の多くが焼失した。そのような甚大な被害を蒙ったにもかかわらず、6月には国技館で、ほとんど観客のいない非公開の夏場所が7日間で挙行されている。大相撲が、近世に確立した、観客に供される「芸能」であることから考えると、この非公開の場所はなぜ開かれなければならなかったのかが疑問である。 
宮本徳蔵は、その点に関して次のように述べている。 
「相撲をかたちづくるさまざまな道具立てのうちいちばん重要なものを一つ選ぶとしたら、それはもう疑いもなく「番付」ということになるだろう。誇張を恐れなければ、相撲のために番付があるというよりは、むしろ番付のために相撲が存在すると言い切ってもいいくらいである。あの戦争のまっただなか、アメリカ空軍の爆弾の雨を浴びて東京の街の半ばが焼野原と化しつつある折にも、本場所はもよおされた。むろん見物客はほとんどいないも同然で、土俵下には審判委員をつとめる親方衆が鋭く目を光らせているきりだった。国家存亡の危機においてさえ、いやそんな時であればあるだけ、春夏二度の番付はぜひとも作成しなければならなかったからだ。」 
恐らく、東京が焼野原になり、日本がどうなるかわからなかったときだからこそ、伝統文化である相撲の番付を作成するということを守らなければならないという自覚により、非公開の相撲が行われたのであろう。近代スポーツの一つの特徴、記録への固執がここにも見られる。 
同年8月、日本は降伏し太平洋戦争は終わる。 
戦後の相撲は、国技館が占領軍に接収されていたため、昭和22(1947)年6月に明治神宮外苑で夏場所10日間の開催を持って、再開された。同年には、同成績の場合の優勝決定戦、殊勲・敢闘・技能の三賞制度が定められ、それまでの東西制が系統(一門)別総当り制にとってかわられるなど、興行形式上の改革が行われた。 
テレビ中継が始まる前年の昭和27(1952)年には、土俵を見やすくするために、四季とその神々を表しているとされた4本柱が撤廃された。翌28(1953)年にはテレビ中継の開始もあって相撲人気は復活し、翌29(1954)年9月には東京浅草に蔵前国技館が落成した。昭和33(1958)年7月場所から現在と同じ年6場所になり、昭和40(1965)年初場所から部屋別総当り制が導入された。昭和60(1985)年1月、再び東京両国に壮大な新国技館が建設され、以降は年3回の地方場所以外の場所は、この両国国技館で行われている。 
プロレスなどの外来の格闘技に押されながらも、伝統的な好角家と新しい相撲ファンに支えられ、相撲はスポーツの一つとして比較的安定した人気を博して、現在に至っている。 
以上、駆け足で明治維新から現在までの近代・現代の日本における相撲の歴史を見てきた。以降の節では、近代に入って、変容していく相撲の姿を、二つの側面から捉えてみたい。 芸能としての大相撲の興行体制の近代化の過程と力士の経済基盤の問題を追い、次に、近代に入って西洋から流入した「スポーツ」概念と相撲の関係を考えたい。これらの複数の視座から、相撲とそれを取り巻く近代社会の関係を歴史的に明らかにしていくことによって、現在の相撲が置かれている複雑な状況を理解する一助とするとともに、相撲の「行く末」の考察につなげたい。

  

興行体制の近代化 
前に述べた、明治維新直後の相撲史上最大の逆境にあって、最も相撲社会に対する打撃となった社会の変化は、急速な西洋化による日本の伝統文化を旧弊として否定する風潮と、版籍奉還・廃藩置県による幕藩体制の崩壊であった。 前述のように、近世の専門的相撲人たる力士たちは、職業相撲集団とは言いながら、必ずしも彼らの経済生活は相撲興行の収益のみによってなりたっていたわけではなかった。個々の力士は、藩によるお抱え制度など、大名に代表される相撲社会の外部の経済勢力からのふち扶持によって、生計を立てている場合が多かったのである。 
廃藩置県によって幕藩体制が崩壊すると、力士の経済状態は急速に悪化した。この時を契機として、抜本的な興行システムの改革と経営努力が行われ、相撲社会が外部勢力からの経済的援助を必要としない自己完結的な組織に生まれ変わる努力がなされるべきであったが、実際にはそのような内部からの努力も行われず、新政府の「富国強兵」政策のもとで育成された商業資本など新興の経済勢力に「ひいき贔屓」の主体を変えたのみで、外部の経済勢力に依存する体質は全く変化しなかった。この体質が、後に、4度も起こる、力士による労働運動とも言うべき、相撲社会内部からの改革運動を引き起こす原因となるのである。 
また、急速な近代化と西洋化にともなう社会の混乱は、大名など武士に次いで相撲を愛好し後援した江戸(東京)の民衆の生活を脅かし、「相撲どころではない」と、西洋化の風潮とともに相撲人気を停滞させた。これによって興行収益はますます落ち込んだと言われている。「蛮風として廃止」という世論の攻撃とともに、経済的な打撃も相撲社会を揺るがした。 
少しさかのぼって慶応4(1868)年には、江戸相撲の実力者、横綱じんまくきゅうごろう陣幕久五郎が、江戸を去って大坂相撲に身を投じる事件があった。近世には江戸・大坂・京にはそれぞれ年寄(頭取)によって会所が構成されて、興行を主催する組織として機能していたとはいえ、あくまでも江戸を中心とした三都勧進大相撲興行の一環をなすものであり、興行システムとして明確に分離されていなかった。しかし、この陣幕の大坂行きによって、大坂相撲は三都勧進興行体制から離脱し、京都相撲と連携しつつ、独立した興行を打つようになっていた。 
東京における相撲人気の停滞は、かなりひどかったようで、加藤隆世は、その有様を以下のように述べている。 
「年二回の大相撲は、一応催されてはいるものの、まつたく、辛うじて形式を止めたといふに過ぎないものであつた。陣幕が江戸を去つたのは江戸の相撲に見限りをつけたからだ、というような取沙汰も生じてきた。ところが、このような状況にも関わらず、相撲会所の幹部たちは、まつたく何らなすところがなかつたのであつた。また、その状況を打開できる人気・実力を備えた力士も欠けており、一層沈滞を深からしめた。」 
そのような状況下の明治6(1873)年、力士の待遇改善を要求し、会所内部の改革を求めて、当時幕内力士であったたかさごうらごろう高砂浦五郎が会所に要求書をつきつけ、それが入れられず会所を除名されると、「改正組」を組織して名古屋で新組織による興行を旗揚げしたのである。「改正組」は明治10(1877)年には東京府知事に「横綱届」を出して熊ヶ嶽に横綱土俵入りをさせるなど、会所側と相撲故実体制にことごとく対立した。ところが明治11(1878)年2月に警視庁から、力士と行司の鑑札による登録制や、相撲興行の組合を東京府下に一組しか認めないことなどを含んだ「すもう角觝並行司取締規則及興行場所取締規則」が発布され、高砂浦五郎の「改正組」は東京での興行が行えなくなった。このため「改正組」は経済的に立ち行かなくなり、政治家の仲介などをもって同年5月には、彼ら改正組一同の会所への復帰が実現した。同年に制定された「角觝営業内規則」により、力士・年寄らに対する給金の規定などが細かく定められ、それが明治19(1886)年、同22(1889)年、同29(1896)年と改正され、しだいに相撲興行組織としての形式が近代化されていった。また、東京相撲会所は明治22(1889)年に「東京大角力協会」と改称される。これらの改革にあたっては、会所への復帰後年寄となり、後に取締となって実権を掌握した、高砂浦五郎がかなり主導権を握っていたと考えられる。明治の風雲児高砂は、相撲社会の改革に一度は失敗したものの、今度はもう一度内部に入ってそれを成功させたのである。 
大坂相撲会所でも、明治21(1888)年に80人余りの力士が脱退し、「こうかくぐみ広角組」という新組織を結成して会所とは別に興行を行った。その後東京会所と同じような経過をたどって、大坂相撲会所は同30(1897)年に組織改革の断行とともに「大阪角力協会」に改称し、大阪府知事の認可を得た。

  

新田は、この認可に関して、「「故実」というくくり糸を失った相撲界は、そうした外部的な秩序を介して、かろうじて統合を維持していたのであった。」と述べている。吉田司家を頂点とする故実支配体制によって、権威を維持していた相撲会所に代表される相撲社会は、故実の権威の弱化に伴って、新しい権威を外部に求めなくてはならなかった。それが府知事などの政治権力である。これらによる権威付けがなければ、秩序を維持できないほど、明治時代前半の相撲社会が置かれた状況は厳しかったということであろう。 
その後、前述したように、明治天皇の天覧相撲や、国粋的風潮への社会の揺り戻しもあり、相撲は徐々にその人気を回復して行った。相撲人気は興行収益と直結している。観客の入場料は相撲協会の最大の収入源であった。しかしながらその頃の相撲興行は、近世までの相撲興行の形態を多く引きずっており、寺社の境内に小屋をかけて相撲が行われていた。明治に入ってからは、東京は両国の回向院で興行が行われていた。 
しかし、この当時の小屋がけ、「晴天十日興行」という形態では、大量の観客を安定的に動員できず、せっかく復活した相撲人気による収入増のチャンスを逃してしまうおそれがあった。ここに屋根つきの常設相撲場の建設の必要性が生じ、明治42(1909)年に、両国元町に「国技館」が完成した。 
国技館の建設を契機に、興行形式にも手が加えられた。まず、屋根つきの国技館で相撲が行われるので、天候は関係なく、本場所は、幕内力士が連続して10日間出場するようになった。そして、幕内の取組を東西対抗形式にし、10日間通算の勝敗数によって団体優勝をあらそう制度が制定された。これにより、土俵上の取組は厳しさを増し、相撲人気はさらに高まって行った。国技館の完成により、1万3000人の観客を一度に収容できたことも、相撲協会の収入を大幅に増加させた。 
こうして、興行体制は徐々に整備され近代化されていくが、明治時代の高砂浦五郎の改革の後も、力士の経済基盤は、根本的には依然として近世のままで、外部の「贔屓」による経済的な援助に依存していた。給与が十分でなかっただけではなく、労働者としての力士に対する、養老金・慰労金などの制度的な保障も全く整っていない状況であった。 
明治44(1911)年春場所前、幕内力士の一部が給金増額と協会会計の明朗化を協会に要求したが聞き入れられず、力士たち10数名は東京新橋倶楽部にたてこもってストライキに入った。これを「新橋倶楽部事件」という。外部の好角家の調停で、本場所興行の決算に力士側委員たちを立ち合わせること、興行収入の一部を力士の養老金・慰労金に充てることなどを協会側が譲歩し、終結した。 
また、大正12年(1923)年の春場所前には、幕内力士たちが養老金・給金の増額などを要求して東京三河島の日本電解会社工場にたてこもった。ストライキに加わらなかった、横綱大錦以下、数名の横綱と大関が調停に入ったが決着がつかず、当時の警視総監の調停によって決着した。翌5月場所からは、従来の10日間興行を11日間に延長し、その増益分が力士の養老金にあてられることになった。 
これらの、力士たちによる労働争議によって、給金が引き上げられ、養老金・慰労金が整備されて、徐々に力士たちの経済基盤は整っていくのだが、この大正末期は世界的な不況や国技館の2度の全焼などもあり、相撲社会の経済的な自立の歩みは、依然として緩やかであった。 
大阪でも大正12(1923)年に養老金問題に端を発した内紛が起こり、幕内力士の半ばが土俵を去っていた。京都相撲は、ロンドンで行われた日英博覧会への出席にはじまる長い海外巡業が仇となり、すでに明治43(1910)年に経営難の末解散していた。 
引き上げられた力士たちの給金と、不況で伸び悩む入場料収入が二重にのしかかり、苦しい経営を強いられていた東京大角力協会と、幕内力士が半減し衰退していた大阪角力協会は、前述のように、大正14(1925)年4月の皇太子(のちの昭和天皇)の台覧相撲をきっかけとして合併し、はじめての全国的相撲興行組織である大日本相撲協会が大正14年(1925)年12月に誕生した。昭和2(1927)年の1月に、東京で合同後はじめての本場所が行われ、両相撲協会は正式に一つになったのである。 
明治以降の、相撲興行体制の近代化は、ここにひとつの帰結をみたのである。

  

大正末期から昭和6(1931)年9月の満州事変が起こるまでの数年間は、国情は深刻な不況に呻吟していた。各地に労使の闘争が頻発したり、政財界で疑獄事件が起こるという不穏な世情の中で、最後の力士による労働争議である、「しゅんじゅうえんじけん春秋園事件」が起こった。 
昭和7(1932)年1月、番付上の不服を引き金として、協会の実力者であった年寄でわのうみ出羽海の専制に断固反対するとともに、「相撲社会の改革」を叫んで、大関大ノ里と関脇天龍をはじめとする総勢32名の出羽海部屋の幕内力士が立ちあがった。彼らは10ヶ条からなる協会改革の要求を協会につきつけ、東京大井町の料亭春秋園に立てこもった。協会側は財政状況の困難さを説明して改善努力することを誓ったが、あくまでも具体的な改善策の提示を求める力士団はこれを不服としてまげ髷を落として連名で脱門状を提出し、それを受けて師匠の出羽海も彼らを破門した。 
相撲協会から破門された天龍らは「新興力士団」を結成し、のちに彼らの動きに呼応して協会を離れた力士たちによって結成された「革新力士団」と合流して大日本相撲連盟となり、自主興行を旗揚げした。首謀者の一人武蔵山は力士団を脱出し出羽海部屋に帰参したが、この大日本相撲連盟には西方のほぼ全ての幕内力士のみならず、東方の鏡岩、朝潮、太郎山などの有力力士も加わり、大勢力となった。その後内紛や協会の説得もあって、一部の力士はこの年の内に協会に復帰したが、翌年には大日本相撲連盟は大阪に拠点を移し、大日本関西角力協会となって興行を打ったのである。 
それから大日本関西角力協会は関西を中心に興行を続けたが、日本相撲協会側への帰参者が続出し、経営がたちゆかず、昭和12(1937)年には解散してしまう。彼ら関西角力協会による興行はわずか5年ほどしか続かなかったが、相馬基によれば、その興行は、「「試合」と称して、Aクラス、Bクラスなどの階級別や4-1、4-2などという数番勝負を行うなど、完全に新機軸」であったという。しかし、「はじめは目新しく客も集まったが、しだいに相撲そのものには飽きが来て客足は遠のいていった。」同じく相馬によると、「その後、のちの大横綱双葉山や、玉錦、鏡岩などの名力士や、新興力士団からの復帰力士の活躍などにより大日本相撲協会は人気を取り戻した」とあるから、関西角力協会の相撲がすぐに飽きられたのは、大日本相撲協会への帰参力士の続出などにより、純粋に相撲の力量に優れた力士たちによる面白い相撲が減ったからではないかと私は考える。すなわち、「階級別」や「数番勝負」という、近世以降の「故実」を完全に無視した、「新機軸」により相撲が行われたことは、人気の減少につながらなかったのではないかと推測できるのである。天龍ら大日本関西協会が、このような新機軸の相撲を行ったことは、もちろん東京の大日本相撲協会との差別化を図りたかったからだろうが、そこには「相撲はスポーツだから、競技の規則さえ変えなければ、いろいろな相撲の形態があっても良い」という考えがはたらいたのではないかと推測できる。もしそうならば、これは明らかに明治以降に流入した「スポーツ」概念の影響が働いていたと言えるのである。 
この春秋園事件から大日本関西角力協会の興行までの短い期間においては、戦時下であったこともあり、抜本的な改革はできなかったが、ほとんどの要求は戦後の協会の機構改革でその実現をみることになった。 
こうした力士たちの相撲社会改革への熱意は、その多くがすぐには実らなかったが、戦後、昭和32(1957)年から同34(1959)年の相撲協会の機構改革で、現在の大相撲興行を支える興行システムが完成し、相撲の興行体制の近代化は一応の完成をみた。 
このような改革につぐ改革の歴史を眺めてみて感じられるのは、要求が入れられなければ協会を脱会するほどの、力士たちの改革への熱意、そして、相撲社会の、内部からの改革の要求に対する反応の鈍さと、それに比べれば滑稽にも映る、外部からの圧力に対する弱さである。ここに私は、古代以来の相撲と権力との強いむすびつきを思い出さないではいられない。

  

近代スポーツと相撲 
近代になって西洋から輸入された近代スポーツは、新聞などメディアの後押しを受けながら普及し、国民の身体文化のひとつとして定着した。その「近代スポーツの普及」という言葉は、野球や陸上など、西洋で生まれたスポーツの個別の競技そのものが学校などを通じて人々によって盛んに行われるようになったことを指すと同時に、それらの総称として、また、抽象的な概念としての「近代スポーツ」という観念が、国民の間に定着したということも意味している。 
近代スポーツと相撲の間の関係を考えるときには、重要となるのはもっぱら後者、すなわち個別の競技ではなく、新しい概念としての「近代スポーツ」との関係である。近代スポーツ概念と相撲との間には、前者が後者のおおらかな多様性を制限してきた、ある種の摩擦の歴史とでも言うべきものがある。しかし、それと同時に、近代スポーツ概念は、近代以降の相撲の独自の発展に純粋に貢献してきたという側面も否めないのである。 
このような複雑な、近代スポーツ概念と相撲との関係を考えるときに、まず最初に考えなければならない問いは、「果たして相撲は近代スポーツなのか?」というものであろう。現在でも研究者から一般人に至るまで、実に多くの人々がこの問いに対する答えを探していると言える。 
私は、この問いに対して厳密な答えを出すことが最も重要だとは考えていないが、この問いに対する答えを考える過程で、相撲の歴史研究の目的である、「現在の相撲が置かれている複雑な社会的状況を正しく理解し、これからの相撲の行く末を考える」ことへのヒントが得られるのではないかと考えている。 
また、この問いが多くの人々の関心を引く重要な問いであるならば、それに対する答えを探していく中で、人々が相撲をどのように捉えているかに関するイメージが見えてくるのではないだろうか。そういう意味でも、「果たして相撲は近代スポーツか?」という問いを考えることは、実り多い作業であると考えられる。 
相撲が近代スポーツかどうかを考えるためには、まず近代スポーツ概念そのものについて考えなければならない。そもそも近代スポーツとは何であり、どのような特徴とどのような発展の歴史をもっているものなのか。 
山本によると、スポーツの定義としては以下のようなものが一般的である。 
「スポーツの定義には諸説があるが、「遊戯の性質を持ち、自己または他者との闘いや自然的要素との対決を含む身体活動はすべてスポーツである」というI・C・S・P・Eのスポーツ宣言にみる定義やスポーツをゲームの特殊ケースとして捉えた「その結果が身体的技術や戦術あるいは運、およびそれらの組み合わせによって決定する遊戯の要素を内包する競争をスポーツと呼ぶ」(J.W.Loy)という定義が一般的である。」 
しかしこれは、あまりにも広い定義であり、この定義の適用はあまり重要な意味を持たない。そもそも、この定義からあまりにも明白に外れるならば、「相撲はスポーツか?」という問いはなされることすらないであろう。一見するところ、この定義には問題なく当てはまるようである。 
そこで、A.グットマンが提唱した、スポーツの進化論モデルというものを引いてみよう。このモデルは、近代になっていきなり発明されたものではなく、原始・古代の宗教的儀式・祭り・遊戯などから生まれたスポーツが、その原初の段階から徐々に発展して行き、近代に至って近代スポーツとして完成するまでの進化の過程で起こる変化を、8つの連続体ないし軸にそって書き出したものであり、しばしば近代スポーツを動かしている本質的な原理に言及するときに用いられる。それは以下のような、8つの軸を用いて説明される。

  

1.世俗性原始的なスポーツは、しばしば宗教的な要素を多く含むが、進化の過程でそれらは切り落とされるかもしくは儀礼性を減じていき、近代スポーツの成立に至っては、宗教的儀礼性は本質的ではなく、付随的なものになるか、もしくはなくなる。 
2.官僚性「スポーツの進化は、公式の組織がほとんどないか、もしくはまったくない状態から入念で複雑な組織をもつ状態に至るまで、官僚性の増加によって特徴づけられる。スポーツにおける官僚性の発達のレベルと相関関係にある一つのものは、ルールの構造の複雑化である。管理者と機関の数がふえればふえるほど、個々のスポーツに属するルールの数もふえていく。そしてルールの数がふえればふえるほど、ますますルールはそれ自身が目的となっていく。官僚性は手続に対する忠誠を涵養する。」 
3.社会的同一性前近代社会では、スポーツを行う集団は、血縁関係にある人々や、地域共同体の構成員で構成されるが、近代スポーツに進化するに従って、集団内は非血縁的、もしくは、スポーツ以外に同じ社会的文脈を共有しない他人になっていく。 
4.社会的距離社会的距離の増加とは、個人が属する社会集団間の関係性が増えることである。近代になるに従って、人々が属する社会集団の数は、家族、友人関係、学校、仕事場、協会、近所づきあいといったように、前近代社会と比較にならないほど増加する。スポーツの性質は、それがどのような社会的距離を背景にして行われるかによって変わる。日本の野球を例にとると、阪神ファンの一部は、巨人に「関西を周辺に追いやるにっくき首都東京の、はなもちならないエリート意識」を見るがゆえに、広島戦では見られないほど力を入れて、打倒巨人と叫んで阪神巨人戦に見入るのである。背景となる社会的関係性のタイプが違えば、それに付与される意味も異なる。 
5.専門化現在のアメリカで、16歳で160センチしか身長がない少年がプロバスケットボールプレーヤーになりたいと思うだろうか。しかし、彼が運動センスに優れているならば、彼は別のスポーツを選択してそれに打ちこむことができる。社会が近代化すればするほど、スポーツの種目数は増える。また、アメリカンフットボールは、近代スポーツの中でも最も高度に専門化されたスポーツである。選手はゲームの中のごく一部の役割しか担わない。専門化は、このようなゲーム内での専門化も意味する。 
6.道具「人類文化の進化と共に技術はより高度化し、そしてそれに伴ってスポーツ道具も精巧になる。」 
7.生態学的意味「食物の供給が野生動物を槍で仕止める狩人の能力の働きに依存する社会では、槍投げ競技はすぐさま明瞭な適応目的に役立つ。遊びと経済のつながりがはっきりしているのだ。」当然のことだが、近代スポーツには、食物採取などの生態学的意味はない。 
8.数量化前近代社会で行われるスポーツにおいては、結果は記録すらされなかったが、成績・結果を数量化することは、近代スポーツの基本要素である。 
これまでの章で、相撲の発展と変容の過程に関しては詳細に見てきたので、この進化のモデルを相撲の歴史と比較してみることによって、相撲が近代スポーツたりえているかという問いに答えることができる。 
そこで、8つの各軸について、それぞれ相撲の発展の歴史、およびその帰結としての現在の相撲にあてはめて考えてみたい。

  

まず、世俗性であるが、国家的「年占」であった相撲節を見てもわかるように、古代の相撲は、神事としての意味付けを与えられていた。相撲節における相撲の宗教的儀礼性は、そのころ盛んに寺社などにおいて行われていたと考えられる神事相撲にも多く共通したものである。しかし9世紀に入って相撲節の国家的「年占」としての性格が薄れるのと同様、神事相撲の一部は奉納相撲になり、そして中世以降の勧進相撲となって、観客に供される芸能としての性格を強めてゆくという変化をたどる。これはこのモデルでいう世俗性の増加と宗教的儀礼性の減少そのものと言えるのではないだろうか。 
このことに関連して、荒井貞光の説を紹介しておきたい。荒井は、前近代社会における生活原理が、スポーツによってその枠組みを変えられ、祭典競技などに変質していく過程を明らかにする研究の中で、一つのモデルを提示している。荒井によれば、祭礼の中で行われるスポーツ的なものの性質は、社会の発展段階に伴って「呪術」「奉納」「余興」「本興」の順で移り変わって行くという。「呪術」段階においては、そのスポーツ的な行為自体が神とのコミュニケーションであるが、「奉納」段階になるとその儀礼性が減じ、「余興」段階に至っては、神とは異なる次元での参加者の娯楽になってしまい、ついに「本興」段階における、スポーツ的行為自体の目的化に至るというのである。 
このモデルは、国家的「年占」の神事、および各地の神事としての相撲がその儀礼性を減じ、奉納相撲などの神事の際に供される芸能になり、それが中世の勧進相撲を経て営利勧進大相撲に発展して芸能として確立し、近代の大相撲に至るという、日本における相撲の歴史の重要な一つの流れに見事にあてはまるのである。 
結論として、世俗性の増加と宗教的儀礼性の減少によるスポーツの近代化の一側面は、相撲において実に顕著にあらわれていると言える。 
次に官僚性であるが、中世以降の専門的職業相撲集団と、その歴史的帰結である現在の日本相撲協会を見ると、相撲とそれをとりまく組織がいかに官僚化しているかがわかると思う。また、現在では、アマチュア相撲に関しても、これを統括する日本相撲連盟が存在している。また、「そしてルールの数がふえればふえるほど、ますますルールはそれ自身が目的となっていく。官僚性は手続に対する忠誠を涵養する。」という部分に関しても、「故実」の一部がルールであることを考えれば、よしだつかさけ吉田司家によって権威を与えられた「故実」に基づいて行われる近世以降の大相撲は、実に官僚性に満ちていると言えるのではないだろうか。「故実」に基づいて取組を進める行司は、ここでいう「官僚」の代表的存在であるとも言える。 
社会的同一性の面でも相撲が近代スポーツ化しているのは疑いのないところであろう。そもそも、相撲は、古代相撲節においては、全国各地から集められた相撲人によって取られていたのである。相撲節相撲人は、農民や武士など、社会的に広がりをもつ様々な母集団から輩出されていた。 
社会的距離と専門化に関しては、他の軸に比べ、その意味するところが特定しがたいので、ここでは判断を留保したい。

  

次に、道具に関してである。相撲は、「裸身に褌」のいでたちで行われることを絶対的原則としているために、この道具の面に関しては一見前近代的であるかのように見える。しかし、最上級の絹でつくられた関取の化粧まわしや土俵、行司の装束などの大相撲を彩る道具立ては明らかに精巧な技術の産物であることを考えると、相撲が道具に関して前近代的だとは言えないのである。もっと高度な技術が導入されていなければ近代スポーツと言えないというのであれば、現在の国技館の電光掲示板や、勝負がもつれた際に、勝負審判がVTRを参考にすることをあげておきたい。 
生態学的意味に関しては、言及するまでもない。現在、相撲を取ること自体に生態学的な意味は見られない。 
数量化は興味深い指標である。L.トンプソンは、個人優勝制度と横綱昇進の関係を論じながら、相撲がいかに高度に数量化されているかを明らかにした。基本的に、相撲では、白と黒の2色で表される勝ちと負けの数を基本として全ての量的指標がなりたっており、他のスポーツに比べて単純だが、その分、わかりやすくなっている。 
このように、スポーツの進化論モデルにおける8つの軸のそれぞれを相撲にあてはめてみたわけだが、相撲が近代スポーツでないことを明確に主張する根拠は見当たらない。このモデルは、現在の相撲が、スポーツの進化の帰結としての近代スポーツたるべき条件を満たしているだけではなく、その歴史そのものが、一般的なスポーツがその原初のかたちから進化して近代スポーツに変化していく流れにもあてはまっており、まさに相撲が近代スポーツたりえていることを証明しているのである。 
以上のように、スポーツの一般的理論を用いるならば相撲は近代スポーツであることがわかったが、それは、相撲がサッカーやバスケットボールなどといったウェスタン・スタイルの近代スポーツと全く同じ性質のものであるというわけではない。相撲は、いわば「最低限の近代スポーツが満たしているべき条件」を満たしているだけであり、「相撲は近代スポーツらしいスポーツか?」という問いへの答えは、もちろんノーである。相撲は、現在でも、欧米産の近代スポーツには見られない特徴をもっており、それがために近代スポーツ「らしくない」のである。 
そのことを明らかにするために、いくつかの議論を引用したい。

  

伊藤公雄は、「グットマンの指摘する世俗性・平等性・官僚化・専門化・合理化・数量化・記録への固執といった近代スポーツの原理は、そのまま、近代国家・近代産業社会の論理を反映しているといえるだろう」と述べ、上記の8つの軸に平等性と記録への固執を加え、近代スポーツの基本原理としている。 
この平等性(平等主義)という概念は、近代スポーツにはなくてはならない重要な原理である。近代スポーツにおいては、全てのプレーヤーは完全に対等な条件下でその能力を発揮し、勝敗を競い合わなければならない。プレーヤー間の不平等な関係はあってはならないのである。この考え方によるならば、体重100キロにも満たない舞の海と230キロを超える小錦(現役時代)の対戦は、あってはならないのである。ここに相撲と近代スポーツとの間の深い溝が見られる。 
このような不平等は、相撲だけでなく、体重制を採用する以前の柔道など、日本の運動文化には珍しくないことであった。この理由について中村敏雄は以下のように指摘している。 
「たしかにわが国で行われてきた「勝負ごと」には独特の勝敗観のあることが指摘できる。たとえばそれは囲碁や将棋などでその時を心得た「投了」(競技の途中放棄)がおくゆかしいと賞賛されたり、全日本柔道(剣道)選手権大会の優勝者よりももっと上位の段位保持者がいたりとすることがほとんど何の違和感もなく認められているということなどである。土居健郎によれば、このような伝統は、たとえどれほど勝ち進もうとも最後に天皇を超えることはできないということが明らかななかから生まれたものであり、これがわが国で行われてきた「勝負ごと」では勝敗を徹底的に争わないという伝統を形成すると同時に、勝敗よりはその争い方のほうを尊重するという傾向を生み、「わび」や「さび」、あるいは日本的な「美」や「道」などの価値追求を重視する理念や方法を発達させたのだという。事態がこのようである以上、勝敗の争いは最重要な追求課題である「美」や「道」の創造の下位に位置せざるをえず、したがって体重制などという勝敗を争うための平等主義は考慮外のものとならざるをえなかったといえる。」 
つまり、相撲と近代スポーツらしいスポーツを分かつものの一つである、平等性の有無は、日本の社会・文化によって形作られた価値観に深く根を下ろしていると言えるのだ。 
この日本独特の価値観は、もう一つの重要な要素である、記録への固執(記録万能主義)に対する、日本と西洋の捉え方の違いとなってもあらわれる。中村によると、そもそも記録への固執は、もともとブルジョワジーによって行われるものであったスポーツを、身分や民族に関係なくすべての人々に開放する際に生まれたものであるという。「身分」や「地位」、「白人中心主義」などをスポーツから排除するために、個人の「能力」を客観的に数量化した、「記録」が唯一の判断基準とされたのである。 
日本においては、前述のように、どんなに勝ち進もうと最後に天皇を超えることはできなかったため、勝負ごとにおいては、「勝利至上」主義ではなく、勝負の過程に「美」や「道」などの価値を追求することに重点がおかれた。よって、「相撲道を極める」過程において69連勝を成し遂げた双葉山は賞賛の的となり力士の鑑とされたが、「決まった型をもたず」勝ちつづける大鵬はその実績に見合った評価を得ることができなかった。日本においては、記録への固執が、自己を鍛練しつねに高みへとのぼろうとする「道」的な価値観のもとで行われる場合にのみ賞賛されるといえよう。

  

このように、平等性と、記録への固執という2点に着目すると、相撲と近代スポーツとの間には、大きな溝が横たわっていることがわかる。そしてその溝をつくりだした原因は、他ならぬ、相撲を生みはぐくんできた日本文化と日本人の精神性であったのだ。 
この二つの相違点をもって、相撲が厳密には近代スポーツたりえていないと結論付けることもできるだろうが、前述したように私は、「相撲は近代スポーツか?」という問いが最も重要で、それに厳密な答えを出すことが求められているとは考えていない。 
私の考えによれば、最も重要な問いは、「今後の相撲はどうあるべきか」という、相撲の行く末に関するものである。 
相撲の歴史研究の意義もまた、この問いに答えるためにあるということは最初に述べた。 
そして最後に、以上の議論を参考にしながら、この問いに対する私なりの考えを述べて、この研究のまとめとしたい。 
私の考えによれば、現在の相撲が置かれている言論状況の複雑さの最も大きな原因は、相撲を「近代スポーツ」か、もしくは「伝統的日本文化の粋を集めた芸能」のどちらか一方として捉え、そのどちらかにのみ立場をおいて、相撲を論じていることにある。 
相撲の長い歴史をひもといてみると、相撲は、その「ゆうずうむげ融通無碍」な性質を存分に発揮しながら、自らの都合のよいように、所属する文化的カテゴリーを変えてきた。 
太平洋戦争中は、「相撲は日本国民精神の規範たる武道である」と公言していた日本相撲協会は、敗戦後は一転して「相撲はスポーツ、競技である」と主張して、GHQの武道禁止を逃れたのは有名な話である。 
このような、どちらに転んでも対応できる柔軟さとどちらにも転ぶ懐の広さこそが、歴史的な相撲の本質であった。 
この、どうにも取れる融通無碍、という相撲の性質は、これからも大切にしていかなければならないと私は考えている。つまり、その時々の人々や社会の要求に用いて、自らを柔軟に変えられること、このことが最も重要であり、これからの相撲が失ってはならない性質であろう。 
しかし、近代スポーツの一つとしての相撲も、確実に世界の人々に認知され、もはや後戻りはできなくなっている。 
最後に、このような状況を考慮に入れながら、私なりの、「今後の相撲はどうあるべきか」という問いに対する答えを書いておきたい。 
これからの相撲のとるべき道は、近代スポーツとしてのアマチュア相撲と大相撲の世界を完全に分割し、二つの相撲を完全に別のものとすることだと私は考えている。 
完全に近代化され、国籍に関係なく世界中の全ての人に開放された近代スポーツの一つとしての相撲と、日本の伝統芸能たる、旧来の故実に基づく大相撲を分けて考えることが、両方の相撲の発展につながるのではないだろうか。 
誤解のないように言っておくと、日本の伝統芸能たる、旧来の故実に基づく大相撲と言っても、それは格闘技としての激しさや面白さを失うものではないと私は考えている。相撲の長い歴史が証明するように、格闘技としての面白さが失われた相撲は、人々の関心からはずされ、芸能としては確立し得ないのである。 
二つの相撲を分けることによって、近代スポーツたる相撲は、ルールがさらに明文化され、「裸身に褌」という、高い敷居がはずされ、もっと多くの人々にその門戸を開くはずである。 
同様に、大相撲は、近代スポーツを基準とした、攻撃的な言説から、その、伝統芸能としての様式美を守ることができるだろう。 
近代スポーツとしての相撲と、日本の伝統芸能たる、旧来の故実に基づく大相撲を分割することが未来の相撲の発展につながる。 
これが私の考えであり、相撲の歴史研究によって得られた私なりの知見である。 
相撲の歴史が教えてくれる、その懐の広さは、日本人の精神性と日本文化の豊かさのあらわれであるように思われる。
 
相撲・文化史2

  

「相撲」起源 
「すもう」は動詞「すまふ」の連用形「すまひ」が名詞化したものを元とする語で、いつしか転訛して「すまふ」→「すもう」になった。或は「何時の頃よりか動詞の形のまゝでスマフといひなされるに至つた」(一味清風)とも言う。彦山光三のように「「すまひ」が転訛して「すもう」になる場合の仮名書きは、音便の法則からして「すまう」が正しく「すまふ」は誤りである」という説もあるにはあるが、「すまふ」が主流で「すまう」とも書くというから、「すまひ」が転訛した際の表記は「すまふ」で発音が「すもう」、音が「すもう」であるから「すまう」と記しても通用した、というほどのことではないか。 
「相撲」は「あいうつ」とでも訓むことになろう、格闘を意味する漢語である。その意味ゆえに、「すまひ」という訓を宛てられた。「すまひ」は他に「角力」「角抵」「角觝」があるが、「角」は「比べること・競うこと」、「抵・觝」は「うつこと・あたること・ふれること」を意味することから、「角力」は「力を比べること」、「角抵」「角觝」は「力や技を競うこと」を意味する語であり、格闘や技芸を普く指す漢語であった。彦山光三の言「「土ずまう」は、「角力」であつて、「相撲」ではない」(相撲道綜鑑)などは、世迷言であろう。また、「素舞」などの表記もあるが、音が同じであることから通用したものであろうと考えられる。 
「相撲」の語がもともと「格闘」を意味する以上、相撲という語を用いて呼んでいる競技(「モンゴル相撲」など)は、現在我々が見ている「(日本の)相撲」とは同じからざることが多い(「モンゴル相撲」も「モンゴル式格闘技」というほどの意味)。抑々現在の相撲が確立したのも、無論世界各地の格闘技の形態が固まったのも、各々の文化圏における習俗によるところが大である。つまり偶然の作用といえる。だいたい、「格闘」つまり相手をひっ掴んで組み合う、若しくは倒すというのは、人間の本能であるというくらいでもあり、「此世に人間といふ横着者が二人以上対立した時が相撲の抑もの始まりならん」(一味清風)、つまり、何らかの対立(広く取って力の比較までも含めて良かろう)の決着をみるべく、人間の本能および身体機能に則って格闘を行うのは何ら不思議なことではなく、その格闘から発達を始めた「格闘競技」が世界中の至るところに自然発生的に多発するのも、寧ろ自然なことである。バビロニア・エジプト・中国などにおける出土品にも、「相撲」に似た格闘技のさまが描かれている。日本でも組み打ち姿の埴輪や土偶が見られる。世界のどこであれ同じ「人間」という動物が行う競技であるから、伝播・接触(融合)などを経ない相異なる格闘競技の間によく似た部分が見られても、全然おかしな話ではない。裏を返せば、表向きの競技形態が似ているからとて、「一方が他方の起源だ」という話にすぐさま持っていってしまうのは、あまりに早計であるということになる(格闘技術の系統分類は、まだ知見が少ないために、殆ど為されていないという)。また、競技者の恰好または所作、さらには「舞台装置」とも言うべき装飾が互いに似ている場合も、各々の文化が近い関係にあることによるのが普通であろう。現状において、「(日本の)相撲の起源」を辿ることは不可能事といえようし、まだ早いと言わざるを得ない。というよりも、「日本相撲発祥の地」などというものはないのだろう。時代を遡って(つまり、原型たる「格闘」に還元して)みると、「日本相撲」も何もなく、世界中いずこも同じ格闘になってしまうのだろうから。

  

神話・伝説の中の相撲 
有名なところとしては、「国譲り」の問題を力比べで解決した話がある。 
皇祖天照大神が、葦原中津国を皇孫邇邇芸命に支配させんとし、そこを領有して支配していた大国主命を帰服せしめようとするが、大国主命は肯わず、天照大神は建御雷神を派遣して説得させる。大国主命は帰順の意嚮を示し、息子の言代主神もこれを勧めた。ところが建御名方神は納得しない、そればかりか建御雷神に力比べを挑み、先に手を取らせろと言い放った。こうして互いに手を取り合ったが、建御名方神は手もなく(「若葦を取るが如」(古事記))捻られ投げ捨てられてしまったのである。建御名方神は逃亡するが、建御雷神はこれを追い、「科野国須羽」、つまり信濃国諏訪で遂に建御名方神は降る。建御名方神は諏訪社に祀られ、葦原中津国は邇邇芸命のものとなった。 
「国譲り」が「相撲」によって解決された、と看做されることが多いが、現今の相撲とは懸け離れている。武力による争いを、手を取り合うという表現で譬えたものと見られ、旧勢力(大国主命)が新勢力(「皇孫」邇邇芸命)に征圧される、つまり、天皇支配の形成経過を説話として記したものと考えられている。より有名と思われる、野見宿禰と當麻蹶速の力比べの話も見てみる。 
大和国當麻村に蹶速という「勇み悍き士」(日本書紀)がいて、人々に「四方に求めむに、豈我が力に比ぶ者有らむや。何して強力者に遇して、死生を期はずして、頓に争力せむ」(日本書紀)、つまり、周りには俺と同等の力を持つものなどいまい、どうかして骨のある奴に出会って、力を比べたいものだと公言して憚らなかった。垂仁天皇7年(300)7月7日、噂が天皇の耳に達し、天皇が「當麻蹶速は無双の力士(優れた力を持った人)だと聞いた。これに太刀打ちできる者はおらぬか」と下問する。或臣が、「出雲の国に勇士がおります。野見宿禰と申します。試しに召し出して當麻蹶速と対戦させましょうか」と応える。その日に野見宿禰を召し、當麻蹶速と戦わせた。向かい合い、互いに足を上げて蹴り合った。そのうちに、野見宿禰が當麻蹶速の肋骨を折り、挙句には腰まで踏み挫き、殺したのであった。天皇は當麻蹶速の所領をすべて野見宿禰に与えた。その地は「腰折田」の名で呼ばれるようになった。野見宿禰は、そのまま天皇に仕えた。 
これも現在見られる相撲で決着したようにはとても見えない。「今日のキックボクシングとプロレスまがい」(「大相撲名力士100選」和歌森太郎監修・小島貞二著)という風情である。しかし、野見宿禰の子孫という菅原道真が、自著「類聚国史」の相撲条において、この説話を第一に掲げている。しかも、日本書紀における表記(手へんに角+力)は、通常「すまひとらしむ」と訓読されている。遅くとも平安期にはこの説話が相撲の起源として意識されていたということを示している。だが、ちょっと読めば明らかなように、これらの記紀説話からは、現在見られる相撲に至る道程を読み取ることはできそうにない。寧ろ、先にいた民族の最強者が、後に遠方からやってきた民族の強者(異能者・折口信夫のいうマレビト)すなわち(記紀撰進当時の支配者である)天皇の勢力に駆逐され、その征服と支配を正当化するという意図が前面に押し出されている。もう一つ目立つのは、宿禰と蹶速の説話に見える「垂仁天皇7年7月7日」といういかにも作為的な年月日であるが、この点は次項に譲る。

  

相撲節 
日本の史書に「相撲」という文字が最初に出てくるのは、「日本書紀」雄略天皇13年(469)9月の記事である。 
韋那部真根という木工の達人がいて、石を土台にして斧で木を削っていた。その達人は日がな一日削っても、斧の刃を欠くことがなかった。天皇がそこに御幸して、韋那部真根に(怪訝そうに)聞いてみる。「どんなときも間違って石にぶつけることはないのか」と。韋那部真根は「絶対にありません」と答えた。天皇は、采女を呼び集め、衣裙を脱がせて犢鼻をつけさせ、人の見ているところで「相撲(すまひ)とらしむ」(日本書紀・敬語の助動詞がないのは、いくら天皇の行為でも感心できぬ場合を記す際には敬語をつけないという語法が平安時代にあるためという)。案の定韋那部真根はそれを見ながら木を削り、ついつい誤って刃を破損してしまった。天皇はこれを責め、「不逞の輩め、軽々しくも豪語しよって」と、物部(刑吏)に委ねて処刑させようとした。この時、同僚の工匠が「あたらしき韋那部の工匠(たくみ)懸けし墨縄其(し)が無けば誰か懸けむよあたら墨縄」と歌ってその才能を惜しむ。天皇がこの歌を聞き、後悔して刑を止めて許した。 
ここに出てくる相撲は「女相撲」であるが、この記事の主題は相撲そのものではない。見るべきは、「褌一丁」の恰好であろう。但しこのことは、前々項での話題に関連することであるので、これ以上は触れない。 
史実と思われる相撲記事のはじめは、皇極天皇元年(642)7月22日のものである。 
百済からやってきた大佐平智積という使者を宮廷にて饗応したが、その際、健児(宮廷を守る軍人)に下命があり、翹岐(在河内の百済王族)の前で相撲が行われた。宴の後、智積らは翹岐の門前において拝礼した。 
翹岐のために行われた相撲であろうという。翹岐は前々月に子を失っているが、智積らの拝礼を併せ考えると、この相撲と葬送に関する百済の習俗との間に何らかの関係があることが想像されるという。さらに下って天武天皇11年(682)7月3日には、「隼人、多に来て、方物を貢れり。是の日に、大隅の隼人と阿多の隼人と、朝庭に相撲る。大隅の隼人勝ちぬ」なる記事があり、また、持統天皇9年(695)5月21日に、「隼人の相撲とるを西の槻の下に観る」とある。日本書紀がカバーしているのはここまでで、以降は続日本紀の範疇になる。養老3年(719)7月4日に「初めて抜出司(ぬきでのつかさ)を置く」という記事が出てくる。抜出司は、後の相撲司に当たり、健児のうちから膂力に優れ相撲技に熟達した若者を選ぶ係であり、その若者を監督・指導する立場でもある、とされる。朝廷内において相撲の制度が整えられつつあった証左と考えられる(だが、「抜出司」の史料は何もないので、これが後の「相撲司」であるという明確な根拠はないといっていいとの由。この解釈は村尾元融「続日本紀考証」(嘉永2年(1849)稿)以来のものという)。 
次いで神亀5年(728)4月25日には、聖武天皇がこんな詔を出した。 
如聞らく、「諸の国郡司ら、部下に騎射・相撲と膂力者と有らば、輙ち王公・卿相の宅に給る」ときく。詔有りて捜り索むるに、人の進るべき無し。今より以後、更に然ること得ざれ。若し違ふこと有らば、国司は、位記を追ひ奪ひて仍ち見任を解け。郡司は、先づ決罰を加へて勅に准へて解き却けよ。その誂ひ求むる者は、違勅の罪を以て罪なへ。但し、先に帳内・資人に充てたる者はこの限りに在らず。凡そ此の如き色の人等は、国・郡預め知りて、意を存きて簡ひ点し、勅至る日に臨みて即時貢進れ。内外に告げて咸く知せ聞かしめべし。 
要するに、相撲人を何がなんでも差し出せ、さもなくば国司・郡司には刑罰が待っている、という内容である。このきついお達しを裏づけるかの如き記事が「万葉集巻第五」にある。天平2年(730)のもので、「相撲部領使(すまひことりづかひ)」なるものが出てくる。「部領(ことり)」は「事執り」の意で、相撲人を各地から徴発して召し出すための使者、簡単に言えばスカウトである。この時代の部領使は相撲人以外のものを召集する場合にも派遣された。そして天平6年(734)7月7日の条に至って、いよいよこの記述を目にすることになる。 
秋七月丙寅、天皇、相撲の戯を観す。是の夕、南苑に徙り御しまして、文人に命せて、七夕の詩を賦せしめたまふ。禄賜ふこと差有り。 
漸くここまで辿りついたという感がある。これが記録の上で確実な「相撲節開催」の最初である。制度としてはこの時には整っていたと考えられる所以である。

  

さて、抑も相撲節というものは何のためのものなのか。あっさり記せば、「「相撲節会」とは国家安泰と五穀豊穣を祈った大規模な平安時代の天覧相撲」(「大相撲」平成6年12月号「再現・平安朝相撲節会」写真解説文)、「古来相撲には服属儀礼や、攘災に関係する要素があり、宮中では攘災や国家安泰を祈願し、武術の鍛練とともに娯楽の目的で相撲を行い、天覧に供し宴を賜う慣行があった」(新日本古典文学大系「続日本紀(2)」)、「朝廷行事としての相撲節の源流は、農耕儀礼と服属儀礼の二つの側面に求められるのが常である」(「相撲の歴史」新田一郎著)となる。 
まずは「農耕儀礼」の面から見る。相撲に限ったことでなく、何か競技を行い(場合によっては競技ではなく天気による)、その結果によって農事の豊凶を占う「年占(としうら)」なる行事が、農事の節目ごとに行われる。大別すると、二集団による争いに勝った側が豊作の「予祝(前祝い)」を受けられるというものと、精霊(田の神、乃至は水の神)と争い(争うふりをして)、予定通りの結果を演ずる事によって豊作の「予祝」を受けるというものとがあるという。また、後者の場合において、多くは子供が演ずるのであるが、子供は「精霊と人との中間的存在」すなわち媒(なかだち)として、精霊の意向(つまり農事の豊凶)を聞く役を負っていた。「田の神水の神との交信を、格闘を通して行うことにより、豊凶を占う」、この時に行われる格闘が「日本の相撲」の一種の原型(地域ごとに異なることが想像されるが)であろうと考えられている。(変形として「ガラッパ相撲」というものがある。「相撲」昭和57年11月号参照。また、その他祭礼相撲に関しては「相撲」昭和57年「ふるさとの祭りに相撲がある」12回連載(翌58年1月に総まとめ)がある)。ここで、「垂仁天皇7年7月7日」「天平6年7月7日」という日附を見る。7月7日といえば、七夕である。「オリヒメヒコボシ」と別に、「七日盆(なぬかぼん)」という精霊をお迎えする日でもあった。民俗学的に種々の議論がなされているもののようであるが、兎も角ここで「7月7日」を接点として「農耕儀礼」と「服属儀礼」とが接続するのである。日本書紀の記事は、7月7日という日附で相撲節と農耕儀礼を繋ぎ、天皇への服属をも併せて表現するという意図に則ったものと解される(そのようなことは読めないとする論者もある)。 
「服属儀礼」の方は、例の垂仁天皇7年7月7日の記事からも読めるが、上に出した隼人相撲の例でも推察できる。殊に持統天皇9年の記事に出る「西の槻の下(=法興寺の槻の下(「日本書紀巻第二十四」皇極天皇3年正月1日条))」なる場所について、「この木の下の広場では、種々の行事が行われた。大化改新の際、天皇・皇祖母尊・皇太子はここに群臣を召集し、皇室、群臣の一心同体の誓を行い(大化元年6月19日条)、壬申の乱の際、近江方の使穂積臣百足は軍営とし(天武元年6月29日条)、後にここで殺された。また天武6年2月、多禰島人を、持統2年12月、蝦夷をここで饗した」(岩波文庫「日本書紀(4)」)という説明があることから、隼人の相撲が服属儀礼として技芸を天皇に奉仕したものであろうことが考えられるのである。 
とどのつまり、「相撲節」の基本的な目標とでもいうべきものは、各地で異なると想像される「相撲の原型」を搗き交ぜ洗練し、一つの「相撲」に収束させることと、諸国の相撲人に天皇の御前で技芸を奉仕させることにより、天皇への服従を改めて確認することにあった、ということになる。 
相撲節の内容は、「儀式(朝廷における儀式を細目に亙って規定したもの)」や「内裏式(嵯峨天皇が編纂させた勅撰儀式解説書の嚆矢。弘仁12年(821)の成立)」に事細かに規定されている。当初は7月7日のみだったが、弘仁年中より7月8日までの2日間となったと伝わる。「式」や「江家次第」によれば、まずは場内の整備から始まり、神泉苑の閣庭を掃き清めて砂を敷き、殿の上に規定通りに座を設け幕を張る。場内整備が終わると、天皇の臨席の許、上は皇太子から下は六位以下まで、これまた規定の通り神泉苑に参入して着座する。そして楽を奏しながら官人から相撲人まで300人余りの隊列が入場する。壮麗を極めるが、その入場順は「儀式」に「次立合者各二人」の如く「次…」が繰り返されるという煩瑣なもので、書き切れない。そして子供の占手相撲から取組が始まり、合計20番(近衛・兵衛17番、白丁2番、小童1番・左右対抗)行われる。また、「御饌并に群臣の饌等」(内裏式(中))もある。明くる8日は、場所が変わって紫宸殿で行われる。親王以下参議まで、また、三位が召される(全官人が参列するわけではない)。相撲は20番(近衛10番、白丁10番)である。 
相撲節の1ヶ月前ぐらいに相撲司が任命される。中納言・参議・侍従の中から左右12人ずつが選ばれ、また、別当(総監督)として、多くは親王がこれに当たる。相撲人は相撲を見せることで天皇に奉仕し、こちら親王・臣下は儀式の運営面で天皇に奉仕する。奉仕のしっ放しではなく、天皇の側は饗宴によって応えることになる。この応酬が前項に言う「天皇への服従を改めて確認する」ためのシステムであった。

  

さて、神亀5年(728)に態々前出のような詔が出された理由として考えられるのは、「軍事力」の増強であろう。後、天長10年(833)5月に、 
「相撲の節は娯游に止まらず、武力を簡択する寔に其中に在り、宜く越前、加賀、能登、佐渡、上野、下野、甲斐、相模、武蔵、上総、下総、安房、諸国に令し、膂力人を捜索して之を貢せしめよ」 
という勅令が仁明天皇から出た。「相撲節は娯楽のためだけではなく、武力の足しになるような者を選んでおるのだ」というから、「膂力人」を衛士・健児として徴用しようとしたものであろう。相撲人の構成は、衛士・健児として衛府に属する者と、新規に諸国より勧められた者(白丁)とに分かれる。最手(相撲人の最高位者)から近衛番長に登用されたことも多い。スカウトであるところの「相撲部領使(すまひことりづかひ)」、または「相撲使(すまひのつかひ・略称と考えられる)」は、2-3月に任命されて各地に派遣され、相撲人を「部領(ことり)」し、1ヶ月前ぐらいに京に入ることになっていた。相撲人には多くの特権が用意されていたが、その多くが農民の出であり、農繁期に召し出されることから、逃亡や遅刻が間々あり、挙句には取っ捕まって投獄されたケースもある。また、相撲人の選出は国司・郡司の責任であるから、国司・郡司への処罰もあった。逆に、屈指の強豪を取るべく左右の近衛府が争い、白河上皇の裁断を仰ぐ破目に陥ったことすらあったが、これは珍しいことで、やはり相撲人の貢進は遅々として進まないのが実情、幾度となく勅令によって「進んで貢進せよ」と促した。しかし、人材が届いてこないばかりか、弱々しくて使い物にならない「相撲人」が来てしまうことまであったというからたまったものではない。面白いことに、訴えの為に京にやってきた百姓や、京にいる者などのうち「これは使えそうだ」という者、つまり、なりがでかくて力がありそうな素人を相撲人にしてしまうこともよくあった。 
さて、「西宮記(源高明著の有職故実書)」「北山抄(藤原公任著の有職故実書)」「江家次第(大江匡房が記した儀式記録)」を検討することにより最近指摘されたこと(大日方克己氏)として、相撲節の性格が9世紀末辺りから変容を見せ始めたということがある。相撲司の編成・設置がなくなり、代わって左右の近衛府内に相撲所を置いて相撲節を司らしめたこと、「占手相撲」が廃絶したことが変化の特徴として挙げられ、また貞観10年(868)6月28日に、それまで式部省が管轄していたのが兵部省管轄に改められ、それより早く8世紀後半には式場も神泉苑から紫宸殿などの内裏に移り、略式の儀式になってしまった。初日に17番程の取組を中心とした儀式(「召合」)が行われ、2日目は「追相撲(お好み勝負)」「抜出(トーナメント)」といった特別取組が行われる。加えて期日も変動があり、文武天皇(697-707)の頃に7月7日と決められたと伝わり(証跡なし)、ずっと守られてきたのが、天長3年(826)平城天皇の命日のためという理由(「国忌(こき)を避ける」)で7月16日に移され、30年ほどは7月半ばに行われてきたが貞観年中(859-77)からは7月下旬となり、7月が大の月の場合28-29日、小の月の場合27-28日に原則として行われるようになった。追い討ちをかけるようなできごとが長元4年(1031)に発生する。この年7月は大の月である。しかし28日は陰陽道でいう忌日の一つ(「坎(かん)」)であった。議論の末、右近衛大将藤原実輔は、定例通りの期日で可ならんか、という当初の意見を変え、相撲召合は「臨時の小儀」ゆえ期日変更は構わず、節会に準ずべきものならず(節会は重大な国家の年中行事ゆえ期日は固定される)、とした。このため、期日は29-30日とされ、忌日を避けた。遂に「相撲節」は「臨時の小儀」にまで格下げされた意識しか持たれなくなったのである。窺われることは、例の「七夕」における農耕儀礼との関連が意識されなくなったことと、「服属儀礼」の意識も喪われたこと、つまり単純な娯楽のための一行事となったことである。また、12世紀になると、相撲人のうちに世襲された者が見られるようになってきた。承安4年(1174)、最後の相撲節の際には、「世襲相撲人」の家柄の者が登用された相撲人の大部分を占めたという(そこに登場する者が、姓を変えて記されているという。相撲人が低い地位の者として見られていたことの証ではないかと推測されている)。それに、同じく12世紀の相撲人には高齢者が見られるという。「世襲」と一緒に考えると、「格闘」の部分は薄れ、この時期に至って「技芸」としての、様式化した相撲がおおよそ成立し演ぜられたものと考えられる。

  

相撲召合の内容は、2-3月頃に相撲使が定められ、差し遣わされた相撲使は相撲人を従えて帰京する。相撲人の貢進期限は、当初は6月20日となっていたが、弘仁元年(810)7月9日の詔で「見つけ次第期日に関係なく進めよ」と改められた。また、陽成天皇の元慶8年(884)に出た詔では6月25日と改められたものの、その後この期限は守られていないようだ。相撲司が編成される場合は節の1ヶ月ほど前である。これは既述の通り。7月10日前後には「召仰」がある。これは相撲を行うべしとの勅を上卿が受け、これを左右近衛府の中将以下に伝えるものである。その後左右の近衛府に相撲所が設けられ、楽などの打ち合わせも行われる(楽や舞は忌日や月蝕などのため行われないこともあった)。稽古も始まる。稽古は「内取」と呼ばれ、左右の近衛府で行う稽古を「府の内取」という。各近衛府毎別々に行い、互いの様子は秘せられていたらしい。その後、稽古を天覧に供する。これは「御前の内取」という。これも左の後に右が行ったともいう。この稽古を見て実力を測り、当日の序列や取組を決定するのである。そして、召合当日を迎える。天覧・大臣以下列席の許、相撲が行われる。この相撲の(現代から見ての)特徴は、まず、土俵等の境界線がないことである。つまり、相手の手を着かせる、膝を着かせる、或は何とかして倒すということによって勝負をつけることになる。そして驚くことに、髪を掴んだら反則とされ拘禁された相撲人もいるという。もう一つの特徴は、行司のような勝負判定人がいないということである。左右各々より「相撲長(すまひのおさ)」というのが出てくる。これは進行役である。「奏名(ふしやう)」が呼び上げ、「立合(たちあはせ)」というのが左右に一人ずついて、相撲人を立ち合わせる。勝負がつくと、勝った方の近衛次将が指示し、「籌刺(かずさし)」が矢を地に突き刺し、勝ち方が勝鬨の声を上げる。この声を「乱声(らんじやう)」という。「立合」は「立合舞(たちあひまひ)」を演じ、楽も奏される(左が勝てば「抜頭(ばとう)」、右が勝てば「納蘇利(なそり)」)。他方、負けた方の立合と籌刺とは退き、交代する。嘗て占手が相撲を取った頃は、占手相撲については楽だけで、舞はなかった。勝負がもつれた場合は、次将が意見を「出居(いでゐ)」に申し立て、判定がつかない場合は、上卿が次将を呼んで聞いたり公卿に意見を求めたりするが(現代風に言う物言い。「論」・「勝負定」)、それでも分明ならざるときは、天皇の裁断を仰ぐ。これは「天判」といい、「持」といういわば「無勝負」もあった。また、相撲が長引いた場合は、途中でも下げられて次の相撲に移ってしまう。左から出てくる相撲人は葵(占手は桔梗だった)の造花、右の相撲人は瓠(=夕顔)の造花を頭髪につけて登場した。そして勝った側は次に登場する相撲人の頭に自分の造花をつけさせる(「肖物(にるもの)」)が、負けた側は新しい造花をつける。節の最後には「千秋楽」「万歳楽」が奏されて終わる。2日目には、前述の通りの特別取組が行われ、勝負のはっきりしない相撲を取り直す場合もあった。大体大雑把に言えばこのような感じであった。また、事前に天皇が「相撲人御覧」と言って相撲人を見、場合によっては選り抜くこともあった。節の後には、近衛大将が自分の府のほうの相撲人や関係者を招いて宴会を開き、禄を給う習慣があった(「返饗(かへりあるじ)」)。また、童子による「童相撲(わらはすまひ)」や、臨時の相撲などでも相撲節を擬して行った場合がある。 
隆盛を極めた相撲節も、その性質に変化が見られ、その存在も案外軽く見られるようになり、12世紀にはあまり行われなくなった。保安3年(1122)の相撲節の後、長い空白期間ができた。天養2年(1145)7月27日に相撲召合の予定があったが、「天変あるによりて停止せら」(相撲大鑑)れてしまった。「天変」とはここでは彗星(それもハレー彗星、近日点通過はユリウス暦1145年4月22日(「星の古記録」斉藤国治著))の出現のことで、3月30日と4月1日に相撲使が任命されたが、彗星は不吉であるという意見から7月22日に久安元年と改元されるなどのゴタゴタで、中止となった。相撲節復活は保元3年(1158)を待たねばならない。2年前の保元の乱のあと、朝廷は信西藤原道憲の天下となった。「保元元年よりこのかたは、天下大小事を心のまゝにとりおこなひて」(平治物語)、大内の修造を遂げ、また旧制の復古を図った。「内宴、相撲の節、久しく絶たる跡をおこし、詩歌管絃のあそび、折にふれて相もよほす。九重の儀式むかしをはぢず、万事の礼法ふるきがごとし」(平治物語)。相撲節復活(7月も8月も忌月だということで、6月に開催された)もその一つである。しかし慣例化するに至らぬうち、翌年の平治の乱でまた頓挫してしまう。16年後(中絶期間中も御白河院は相撲見物をやっているし、相撲御覧の儀も数度あった)、承安4年(1174)の相撲節は7月27-28日に召合・抜出の式が行われた。召仰は7月5日、この時の詳細な記録は「玉葉(九条兼実の日記)」にあるが、その記録は生かされず、相撲節は全く行われなくなってしまった(朝廷を挙げての儀式である相撲節は消えても、相撲見物はちょくちょく行われていた)。 
ただでさえ相撲節に対する意識が低下しているところへ、相撲人調達・費用調達の機構が麻痺したところで、再構築しようとは思うまい。こうして相撲節は過去のものとなった。

  

武士・大名と相撲 
大雑把に見て、中世は武家の世であり、動乱の世であるということになっている。時代の中心を武家が握った以上、至極当然である。ということでまずは「吾妻鏡」所載の相撲の記事を眺めると、鶴岡八幡宮において放生会などの祭礼に奉納される相撲の記事が目につく。頼朝の臨席もあり、その頼朝が武士や相撲人を召しては相撲見物を楽しんだという記事もある。例として、 
建久二年 三月小 
三日、辛亥、鶴丘宮の法会、童舞十人箱根の垂髪、有り、又臨時祭、馬長(あげうま)十騎、流鏑馬十六騎、相撲十六番、幕下御参宮(巻11) 
建永元年 六月小 
二十一日、辛未、御所の南庭に於て相撲を覧る、相州、大官令等候せらる、南面の御簾を上ぐ、其後各庭の中央に進みて、勝負を決す、朝光之を奉行す、向後相撲の事を奉行す可き由と云々 
一番三浦高井太郎三毛大蔵三郎鎮西の住人 
二番持波多野五郎義景大野藤八 
三番広瀬四郎助広相州の侍石井次郎義盛の近臣の侍、 
禄物有り、兼ねて廊根の妻戸の間に置かる、羽、色革、砂金等之を積む、事終りて後、左右に之を賜はる、勝負を論ぜず、悉く以て之を下さる、負方逐電すと雖も、之を召し返さると云々、(巻18) 
のような記事が載っている。鶴岡八幡宮における「競馬・流鏑馬・相撲」は、政権を担った頼朝が東国武士を一ヶ所に集結させ、頼朝自らの主導によって奉仕させるという、いわば主導権の発露と想像される。これはその後の将軍にしても変わらない。なお、鶴岡八幡宮は、康平6年(1063)源頼義が前九年の役で阿倍氏を追討し、奥州を平定して鎌倉に帰った際に、鎌倉郷由比の地に石清水八幡宮の分社(若宮八幡)を勧請したのが始まりとされる。源氏の氏神とされるが、これは義家(頼義の息子)が石清水八幡宮社前で元服したのが機縁である。その後、頼朝が鎌倉に入って現在の地に八幡宮を移し祀ったものであるという。この八幡宮で行われる放生会は、石清水八幡宮でのそれを模したもので、奉納される相撲も同じく石清水八幡宮と同様に行われた。石清水八幡宮での相撲は、相撲節を模倣したものと考えられていることから、鶴岡八幡宮での相撲も、相撲節の様式を継承したものといえる。 
伊豆に流されていた頃の頼朝の前で、余興の相撲が行われたというのは、「曾我物語」にあるエピソード。 
頼朝はたいそう落ち込んでいた。それを元気づけるべく、武士たちが考えたのが「巻狩に連れ出すこと」だった。その宴会の中で、若い連中に相撲を取らせようという話になった。幾番となく取り進んでいくうちに、登場したのは俣野五郎景久。この男は「すまひの大番つとめに都へのぼり、三年のあひだすまひになれ、一度も不覚をとらぬものなり。其ゆへに院・内の御めにかゝり、日本一番の名をえたる」大物である。31番を勝ち抜いた。しかしその行く手を阻まんものと、河津三郎祐泰が立ち上がった。河津は力一方で、技も何もない。いざ両人闘ってみると、河津は俣野の両腕を引っ掴み、そのまま捩じって膝を着かせてしまった。俣野は、「木の根に躓いた」とてもう一番挑んだが、今度は目よりも高く差し上げられ、そのまま叩きつけられてしまったのであった。 
さて河津(これは巻狩の主催者であるところの伊東祐親の嫡男)は男を上げたが、帰る途中、伊東氏と所領をめぐって争っていた工藤氏(同族である)に討たれ殺害された。これが発端となり、河津の息子たちである曾我兄弟の仇討ちに発展する。 
河津の相撲は「ちからは強くおぼゆれども、すまひの故実は候はず」という不細工なものだが、「すまふはちからによらず、手だに勝ればみぎはまさりのあい手をうつもの」という記述もあり、加えて「聞つるに似ず、さしたるちからにてはなかりけり」と河津に言われた俣野は、前述の通り京で修行して「日本一番」という称を得たという。とすれば、京における相撲は、「相撲節」を通して洗練された格闘競技であり、俣野はその練り上げられた技術を自家薬籠中のものとした名力士であったのであろう。また、「古今著聞集」には、長居という東国最強の相撲人との対戦を頼朝に命ぜられた畠山重忠が、金剛力を振るって長居の肩を砕いたという記述がある。

  

これらから窺われることは、勝者の「(組み打ちに至る格闘的な)相撲」と敗者の「(京で洗練された技芸的な)相撲」との間の(大袈裟に言えば)「異種格闘戦」であったことであろう。要するに、「相撲」は二極分化してしまったのである。そして、前者の「相撲」は、「武芸」として発展するでもなく、「組み打ち=格闘」に「成り下がって」しまった。執権北条時頼が「近年、相撲などの武芸が廃れ」ていると慨歎し、建長6年(1254)閏5月1日に、武士を引っ張り出して相撲大会を催したという記事もあるのだが、武士・御家人自らが相撲をお勤めすることは殆どなくなり、代わって御家人が進めた相撲人(それも技芸を持った相撲人)によるお勤めが多くなった。さて、祭礼における相撲では、技芸としての相撲を必要とした。前述のような鶴岡八幡宮での相撲人は、鎌倉初期には大体東国の武士であった。しかし、数十年も経つと武士でない相撲人も見られるようになり、終には専門の職人たる相撲人が占めていくようになったものと考えられている。平安時代、相撲節に出た相撲人は、節の後も京にいて、貴族の娯楽のために召し出されて相撲を披露したり、寺社の祭礼の相撲を勤め上げたりしていたが、相撲節が絶えた後も完全に失業したわけでもなくて、御家人となる者もあれば、寺社に雇われて(元来寺社の相撲は国家が集めた相撲節のための相撲人を「流用」していたが、その相撲人を集める機構が瓦解し、再建努力が払われた形跡もないらしいため、寺社自らが調達する必要が出た)相撲人として働く者もあったらしい。その後者が「職人たる相撲人」の源であろうと思われる(京都辺りの寺社に雇われて奉納相撲を勤めた相撲人集団を「京相撲」や「京都相撲」と呼んだ)。武士の側から見ると、技芸としての相撲を自分たちが演ずることはなくなり、せいぜい鍛錬のために行うぐらいのものとなった。逆に、「生年十二ノ春ノ比ヨリ好デ相撲ヲ取ケルニ、日本六十余州ノ中ニハ、遂ニ片手ニモ懸ル者無リケリ」と称えられる、自称「薩摩氏長(仁明天皇(833-50)の頃の相撲節の強豪・伝説の相撲人)ガ末」の武士・妻鹿孫三郎長宗などの記事が「太平記」に出てくるが、彼は日本全土で相撲を取ったのではなく、「それぐらい物凄い強さを持った武士なのだ」という意味である。兎も角も、武士の側からすれば、相撲なる芸能は「見るためのもの」であったようだ。 
時代は足利氏の天下となるが、足利将軍の上覧相撲も、大名の相撲見物も、よく行われた。その場で相撲を取ったのは、やはり京で活動していた相撲人であり、さらに加えて諸国から上ってくる相撲人であったろう。このような場での相撲に出ることによって、あわよくば禄にありつけるからである。織田信長も相撲は好きだった。これは有名な話である。信長は、近江国の相撲人を集めた相撲をよく行い、後には近江国と京の相撲人を召して行っている。その数は数百人から千数百人になる。ただ、その顔触れは大部分が固定されている。しかも、特に優れた相撲人は、御家人にされたり、知行を与えられたりなどして、召し抱えられたのである。この頃になると、豊臣秀吉をはじめとし、相撲人を抱えるのはよく見られるようになっていたし、公家の中にも抱え力士を持つものが存在したという。大名にとっても、相撲はやはり見物するもので、そのために優秀な相撲人を召し抱え、育てた。相撲人は、抱えられることによって「禄にありつき」、安定した収入を得られるようになる。こうして、近世の相撲史上何かにつけ話題となる「大名抱え」「抱え力士」の基礎と思しきものができていった。

  

勧進相撲の成立・三都勧進相撲 
前述の「京相撲」若しくは「京都相撲」の如き専門的相撲人集団は、京都近辺の寺社で奉納相撲が行われるときには当然雇い入れられ、これを勤め上げるのだが、京以外の寺社にも招かれることがあった。相撲節の故実に通暁していることを買われてであり(誰も彼もが直接相撲節相撲人との連続性を持っているというわけではないが)、鶴岡八幡宮や出雲大社などの大寺社の記録に窺うことができる。但し、出雲の場合は、元来は出雲国内から相撲人を召し出していたのだが、恐らく様式の整備を目的としたのであろう、態々京都から相撲人を呼んで行うようになったという。その「京相撲」を雇うのに費用が嵩んで、終には訴訟沙汰に発展したこともあった。こうして、「相撲を見せる」ことを専門とした、高度かつ専門的な芸能者集団が成立したものと考えられる。 
兎に角、専門的相撲人が擡頭したことで、つまり「見る」ためのものとしての相撲が確立してくると、いよいよ勧進相撲から現代の大相撲に繋がる、「銭を取って客の観覧に供する」興行へと話が進む…かと思えば、そうでもない。元来「勧進」とは「営利」を目的とするものではないのだから。 
抑々「勧進」の目的とは、まず寺・神社・橋などを建てる際に資金を集めるための募金活動、つまり喜捨による功徳を説き、それを募ることであった。ところが、資金調達の効率化の側面を持つ変化が生じた。荘園などにおける租税取りや、芸能の見物料徴収がそれである。相撲は無論後者に入る。「新形態の」勧進、つまり大衆受けしない限りは銭は取れない。そのためには技芸が極めて高度でなければならず、自然、その技芸を演ずる者は、専業化して専一に芸を磨くことになったろうし、収入を得て生業とするを得たろう。田楽などの勧進興行は13世紀の末頃には見られるが、相撲の場合、観衆から銭を取って行う興行の記録は殆ど見当たらず、14世紀になってやっと見つかる(71番歌合)。しかし、営利興行の印象が濃い「勧進相撲」の語は、案外早く15世紀には出てくるのである。「看聞日記(伏見宮貞成親王(後崇光院)の日記)」応永26年(1419)10月の条である。 
三日。晴。(中略)抑法安寺為造営有勧進相撲。今夜始之。可有三ヶ月云々。他郷者共群集。密々見物ニ行。薬師堂内搆桟敷。椎野。三位。重有・長資朝臣相伴。深更相撲了。勧進相撲目珍事也。此間諸方有此事。(後略) 
四日。雨降。(中略)相撲依雨延引云々。 
五日。晴。(中略)彼相撲今夜千人許群集云々。及暁天取之。不見物無念也。 
六日。晴。相撲密々見物。三位。重有。長資等朝臣。慶寿丸。寿蔵王。梵祐喝食等相伴。今夜相撲更不寄。無人也。御所侍善祐取之。負了。而善祐申所存。勝負相論。行事批判猶不用之間。行事無興。其後早出了。其以後無指相撲。深更事了。後日善祐突鼻了。 
しかも、ここに出る「勧進相撲」は、本来の「勧進」に近く、資金集めの目的は、「法安寺為造営(法安寺造営のため)」であった。「勧進相撲目珍事也(勧進相撲めづらしき事なり)」ではあるものの「此間諸方有此事(この間諸方にてこの事あり)」ともいうから、「勧進相撲第一号」ではないとはいえ、まだ始まって間もないものと考えられる。この勧進相撲に出場した相撲人がどのような面々かは史料に何も書かれていないというが、この頃にはすでに興行で得た収入で生活し、維持される芸能者の集団ができていたとされている。 
「大友興廃記(杉谷宗重の著せる戦国大名大友家の興亡を描いた戦記)」や「義残後覚(愚軒が著した雑話集)」には、京都から下ってきた相撲人の話や、後者には京都における勧進相撲の話も出てくる。 
京伏見はんじやうせしかば、諸国より名誉のすまふども到来しけるほどに、内野七本松にて勧進すまふを張行す。くわんじんもとの取手にハ、立石・ふせ石・あらなみ・たつなみ・岩さき・そりはし・藤らふ・玉かつら・くろ雲・追風・すぢがね・くわんぬきなどをはじめとして、都合三十ばかり有けり。よりには、京・辺土・畿内、さてハしよこくの武家よりあ(つ)まりてとりけれども、さすかに勧進すまふをとるほどのものなれハ、いつにてもとりかちけり。(「義残後覚」) 
既に、諸国から集まって諸国へと巡業する(九州や秋田の勧進相撲の記事も存在するという)相撲人の集団ができていて、勧進相撲もよく行われるようになっていたらしい。また、「さすかに勧進すまふをとるほどのものなれハ」というから、相撲人が高度な技芸を専門とする職人であることもわかる。 
当時の勧進相撲の形態として、「元方(勧進元側の相撲人)」と「寄方(近隣から集まった相撲人)」との対抗だったことと、勝抜制だったということが特徴的であった。最後まで残った者は「関を取る」と言われたという(「関取」の語源と考えられている)。

  

近世に入る。三都がメインとなる。その記録をあっさりと辿る。 
京における勧進相撲は「義残後覚」の記事の後は、慶長10年(1605)7月23日山城国醍醐郷での郷民による勧進相撲の記録(「義演准后日記」)、寛永21年(1644)山城国愛宕(おたぎ)郡田中村なる干菜山光福寺の住持宗円が鎮守八幡宮再建のための勧進相撲を願い出て許可を受け、翌正保2年(1645)6月に鴨の糺ノ森で10日間興行があったという記録(「古今相撲大全」)があるが、その後暫く途絶える。 
大坂の勧進相撲は確実な記録が18世紀にならないと出てこない。「灘のひゞきといふ讃州の相撲」が興行したと「相撲家伝抄」にあり、また同書には、寛文年間(1661-73)に行司小作兵庫が恵比寿島で興行したものの喧嘩口論のため停止(ちょうじ)された、とあることはある。 
江戸の勧進相撲は、明石志賀之助に関する記事が「古今相撲大全」にあるが、信用に足るものではない(「横綱」について参看)。「相撲家伝抄」には、古閑貫(こかんぬき)なる相撲取が神田明神原で興行したのが初めという。これも信じられるものとは言えない。寛永期(明石志賀之助の興行は寛永元年(1624)とされているが)には江戸で勧進相撲がよく行われていたということがわかっているが、慶安元年(1648)2月28日に勧進相撲の禁令が出たため、数十年の中絶がある。この禁令は京も大坂も準じているため、勧進相撲はパッタリと止んでしまった。 
表札が江戸市中の盛り場の辻々に立てられたという慶安の禁令は以下の如し。 
一、辻相撲取申間敷事。 
一、勧進相撲とらせ申間敷事。 
一、相撲取共の下帯、絹布にて、仕間敷、屋敷方へ被呼候共、布木綿の下帯可仕事。 
慶安4年(1651)7月には、 
一、志こ名之異名を付候者有之候はゞ、早々可申上候、いにしへより相撲取候もの、異名付候共向後は名堅可為無用事。 
と、四股名をも禁ぜられてしまった。なお、四股名らしいものが文献に登場するのは、「大友興廃記」が最初とみられる。さらに寛文元年(1661)には芝居・相撲・能に関する触れが出た。相撲の部分は次の通り。 
一、勧進相撲毎々より町中にて御法度に候間、弥其旨相心得、町中に而為仕申間敷候事。 
また(依然として)勧進相撲を町中で行うことは禁ぜられている。ただでさえ勧進相撲の興行は定期的なものでないのに、これを禁止されては相撲取は生活に困ってしまう。恐らく専門の相撲取は各藩に技量を売り込んで、力量のある者は藩抱えになったのであろう。ちょうどこの時期は、大名による力士抱えが大変多くなりゆく時代であった。力ある相撲取を抱え、各藩毎に競い合い、他藩に負けまいとしたであろう(無論抱えられた相撲取は生活の安定を掌中にし、対抗意識を植えつけられて錬磨に励んだと思われる)。 
元禄時代になり、幕府の方針が変わって、勧進相撲が許可されるようになってきた。但し、あくまで公共投資用の資金調達目的に限られた。ちょくちょく出された禁令が、町人の相撲(見物)熱昂揚の証左であると見るならば、逆にこの熱を利用しようと考えたのかもしれない。京における勧進相撲の再開は、元禄12年(1699)5月の岡崎天王社修復のための勧進相撲(7日間)が初めである。大坂周辺では困窮救済を目的とした勧進相撲が見られ、江戸の場合は貞享元年(1684)に雷権太夫以下が寺社奉行本多淡路守に願い出て、深川新開地繁盛を名目に深川八幡宮境内で晴天8日間の勧進相撲を行ったのが、江戸勧進相撲再興の事蹟であるとされている。三都とも、その後勧進相撲は年に数回程許しが下りている。また、この頃の勧進相撲からは、抱え力士を中心とした相撲取の集団が挙って興行に参加するようになった。段々に勧進相撲は申請すれば許可が下り、定期的な興行が打たれるようになり、そればかりか「渡世のため」という「勧進」から逸れた目的でも許可が下りるようになった。そして、主催(勧進元と、それを補佐する差添)も町の興行師から、相撲取の手に移り始めていた。この間、辻相撲の禁令は度々出されたが、そこには衰えない相撲熱が垣間見える。だが、順調に興行が続けられていたところに、正徳の禁令(正徳元年(1711)の触れ)が出された。これは何かといえば、勧進相撲といいながら世渡りの金稼ぎのための興行が打たれるようになったことに対する幕府の猛反撃である。武家に召し抱えられた者こそが「実の相撲取」とされ、そうでない者との差、つまり渡世のための興行によって金を稼ぐ者との差が明確にされてしまったのである。幕府は態度を硬化させ、江戸においては享保の末から寛保の初めまで(つまり1740年代はじめまで)、勧進興行がまるで認められなかったという。 
正徳禁令が出た時には、もう相撲取は相撲興行を世渡りの手段として認識していたらしい。しかも、江戸で勧進相撲が行われなかった間、京坂では相変わらず行われていた。つまり、相撲取は京坂で主に活動するようになり、自ら京坂の勧進相撲は隆盛に向かった。京都における興行の番附記録は、上記の元禄12年のもの(大江俊光記)が最も古いという。当時は板番附であったが、享保頃から木版刷りで発行されるようになった。享保2年(1717)のものから現存する。大坂の番附記録は、元禄15年(1702)4月の堀江勧進相撲公許興行のものが最古で、京都と共に享保年間からの番附は多く残る。そして興行の際には散在する有力な力士団(主なところでは秋田・南部・津軽・仙台・大坂・京・尾張・紀伊・讃岐・播磨・因幡・長崎・肥後・薩摩)から、相撲取並びに行司が参加する。京坂興行は、殊に享保から宝暦期(1716-64)にかけてはまさに檜舞台で、幾多の名力士が出て人気を呼んだ。例えば、谷風梶之助(讃岐谷風)・八角楯之助(待ったの開祖とされるが、研究熱心の力士)・相引森右衛門(美男と伝わる人気力士)・丸山権太左衛門(3代横綱に据えられている強豪)・阿蘇ヶ嶽桐右衛門(司家門人となった大関)などが有名である。 
いつしか勧進相撲は、名目はどうあれ許可を求めればすんなり下りるようになり(「勧進」の名は寺社奉行の許可を求めるためにずっと残り、明治になって一旦7年12月に消え、「勧進元」も「願人」と改まったが、「勧進相撲」の後こそ復活しなかったものの42年6月から何故か「勧進元」が蘇り、とうとう昭和19年まで使われ続けた)、また相撲取のうち、実力者や人気者は興行あるごとに招かれ、常に上位に格づけされるようになった。つまり、興行に連続性が認められるようになったのである。こうして、相撲取にとっては渡世の手段として、民衆にとっては娯楽として、定期的な興行体制が築かれつつあった。 
さらに、江戸において勧進興行の一切が解禁され(寛保2年(1742))ると、翌年には京の番附に江戸力士源氏山住右衛門・綾川五郎次らが登場、そして江戸は、瞬く間に京坂と並び称される興行の中心地として体制が整っていった。江戸相撲の他の特徴としては、興行はすべて渡世のためのもので、勧進元は元相撲取である年寄がこれを務めたということが挙げられる。春は江戸、夏は京、秋は大坂、冬は江戸で「四季勧進相撲」が行われる体制が、遂に確立した。

  

勧進相撲 
以降は江戸を中心に記述するが、春は江戸、夏は京、秋は大坂、冬は江戸で「四季勧進相撲」を行う体制が確立したこの時代を記述するに当たっては「江戸べったり」だと、片手落ちの相撲史になってしまう。江戸相撲・京都相撲・大坂相撲の各々が独立した相撲集団であるのではなく、各国にある相撲集団が勧進元との契約によって招かれて相撲興行に参加するという「合併相撲」を打つ形であるから、なおさらである。 
さて、勧進元等の興行責任者は、江戸の年寄にせよ京坂の頭取にせよ大差なく、順繰りに務めることになっていた。その年寄や頭取が相撲取乃至行司の出身者で固定されるようになったのは、江戸の場合は明和の頃(1764-72)であろうと考えられており、また、名跡が固定化したのはさらに後のことである。また、大坂頭取には侠客などがいた。年寄や頭取は、勧進相撲を組織し運営するばかりでなく、相撲取出身者として弟子を取り、小団体を成していた。江戸番附に見られる「江戸」頭書の相撲取は、そうした小団体(部屋に相当すると考えられる)所属の相撲取であろう。同じく、江戸番附を見れば、他に「九州」「奥州」といった頭書の相撲取が多数おり、場合によっては番附の一方を占めることもあった。これらは、地方各地の相撲集団に属する相撲取である。そして、図体の大きな者を大関はじめ上位に据える「看板相撲」がこれに加わる(客の興味を惹く役割を果たしたが、不出場の場合が多い)。これが大雑把なところの興行形態であった。 
三都興行が軌道に乗り、相撲興行の中心地となると、実力上位の相撲取はだいたいいつも三都の興行に顔を出し、地方集団の相撲取も三都の年寄・頭取の許に弟子入りし、腕を磨く。三都が相撲取を育成する面でも中心地域になったためである。果然、番附の顔触れも明和ごろにはほぼ一定になり、三都の相撲取と藩抱えの相撲取との混成となった。 
その後には、三都のうち、江戸が中心地としてのし上がるようになった。これは、大名抱えの関係と考えられる。そもそも江戸には大名屋敷がある。参覲交代制度のお蔭である。相撲取にとって、禄にありつかんとして大名に抱えられようと欲するならば、上方よりも江戸で活動するのが早道となる。そうして、抱えられたとする。相撲取りを抱える側の大名は、参覲交代により自国と江戸を往復する。相撲取もつき従う場合が殆ど。こういう生活の大名が、相撲取を修行させるために部屋に預けようとするならば、当然江戸年寄に預けようとするだろう。この流れに沿い、京坂頭取の弟子も、江戸年寄に弟子入りする場合が間々見られる。このように、三都中心の鼎立体制から、江戸を中心とし上方がそれに附随する形へと変化していった。大名の抱えに関しては、それが顕在化する時代を主に記す次項に譲る。 
「年寄」「頭取」が登場してきたが、その起源は以下の如く説明されている。江戸の場合を掲げているが、上方でも同様に考えられている。 
もと力士として大名、旗本に抱えられていたのが、老齢になって暇を出され、これを相撲浪人といった。相撲興行はこれらの浪人が中心で、相撲集団を監督して、喧嘩が起こらぬよう取り締る責任者であった。貞享元年の公許興行は、勧進元の雷権太夫以下14名が「株仲間」を組織して、毎年願い出てやっとこの年に認可を得たのである。 
この年寄制度の原型といえる15人の株仲間も7年後の元禄4年になると20人に増え、その顔ぶれも雷、大獅子、中川の3人だけ残して変り、いまに残る年寄名としては大竹(大嶽)、尾上、浅香山の名が見える。当時は一代年寄で消えていく者が多く、これは年寄創成期ころの通常といえよう。 
この相撲年寄も、専業とする者だけに興行許可を与えるという幕府の方針が決まったのは、享保年間からである。それからは、年寄株仲間が結束し、年寄名跡がしだいに重んじられてきた。 
なお先代の跡を襲ぐケースもあれば、現役時に何らかの資格(詳細不明)を得て年寄となり、それが受け継がれる場合もあり、従って人数は増加する一方であった。江戸末には50人に達し、明治半ばには80の多きを数えたが、明治22年東京大角力協会設立時の申合規約で88家の名跡が定められた。大正末に大阪協会と合併した際に17家が加わり、その後休眠させられていた大阪協会の名跡を改称の上復活させたり、また根岸家が昭和26年に廃家となり一市井人と変わり、また昭和34年に木村庄之助と式守伊之助が年寄兼務でなくなるなどあり、現在は105家(及び特例の一代年寄)で固定された。また、平成10年より準年寄制度も実施されている。元来大坂の弟子だったものが後に江戸でも弟子入りした場合は、継承時には元来の系統が重んぜられたことから、大坂の名跡を継ぐ場合が多かった。 
さて、制度とくれば「相撲会所」である。ここでも江戸を例に取る。会所は年寄による組織で、力士らが運営に容喙することは許されない。逆に言えば、会所が成立するということは、年寄による相撲興行及び力士の独占支配が成り立っているということである(これは部屋制度などに窺うことができるが、省略する。相撲部屋制度の確立も18世紀末頃と思われる)。力士らをまとめ、興行の権益を独占し、収益を年寄を通じて分配する組織である。上下関係で完全な統制が図られた。勧進元・差添といった興行責任者を順繰りに務めるのは、「歩持(ぶもち)」という主だった年寄で、また、世話人は2人、当初は雷ともう一人(順繰りに交代)であったが、錣山喜平治の就任(宝暦13年(1763))以降は、両者がそのまま務めた。他方が退いたあとを誰かが継ぐというようになった。その後文政(1818-30)辺りから、筆頭・筆脇と呼ばれて権勢を大いに振るうようになった。何しろ筆頭・筆脇は引退までその座にいられるのだから、やりたい放題。経理は年寄にさえも示さず、収益も上層の年寄で占め、番附編成は両人に三河屋治右衛門(後根岸)と3人で(船の上で盃を交わしながらと伝わる)やり、つまり会所は独裁に近い組織になり、長くその傾向が匡されなかったのである。好取組で沸く相撲興行の裏は、見たところ極めて強引な手法で統制されていたのである。

  

江戸勧進相撲 
前項で「からくり」について述べたので、こちらでは割と多く語られている土俵上のことを中心に略記する。 
江戸が上方に肩を並べて興行するようになった宝暦7年(1757)10月、江戸勧進相撲は新案の縦一枚番附を発行した。尚古堂の番附帖に「宝暦丑のとし(宝暦7)春迄は東西二枚摺にて今上方の趣とおなじかりしを其冬より東西をあはして一枚摺になして二段目、三段目という事も是よりぞ知り安し」とあるという。この番附は7段あり、下から2段目は「中」と書いてある本中、最下段は「前」と書いてある前相撲である。残り5段も現在のような階級呼称はなかったらしいが、資料不足で判然としない。段毎に階級が違うのでもなく、ただ単に序列を示したに過ぎないようで、上方二枚番附を一枚に押し込めたという起源を考え合わせると、初期の縦一枚番附に「前頭」頭書が三段目から多い時には四段目途中にまで続くものも存在するのは、「前頭」頭書の力士が上方でいう上取(じょうどり)、つまり現在の幕内に当たるのではないかと考えられている。但し、段が下るにつれ、現在の番附ほど極端ではないが、やはり字が細く小さくなっていくのを見ると、現在同様段毎に階級があったのではないかとも考えることができる。何れが真実なのかは、やはり資料不足ではっきりしない。なお「前頭」頭書が二段目までになったのは宝暦13年(1763)4月、二段目も「同」で一括されるようになったのは寛政10年3月である。また、番附には11年(1761)10月から「勧進角力」が「勧進大角力」と書かれるようになり(いくつかの例外が認められる)、同時に下2段が省かれて5段になり、「此外中角力前角力御座候」としてまとめられるようになった(この場所は珍しく世話役が雷権太夫と「惣年寄」となっている)。13年(1763)4月から暫く6段になり、明和7年(1770)3月から5段に復して現在まで続いている。初期の縦番附には、有名なところでは古株の源氏山住右衛門や濱風今右衛門がおり、また雪見山堅太夫や大鳴戸淀右衛門、礒碇平左衛門に関ノ戸億右衛門、不知火光右衛門、御所ノ浦礒右衛門などの名力士がいた。既述の通り明和元年(1764)には登場する力士がだいたい御馴染の人々になってくる。大関の殆どは看板力士で、体躯長大の面々が彩ったが、所詮は客寄せに過ぎない。しかしその中から、大きくて強い釈迦ヶ嶽雲右衛門が登場、以前から大鳥居の名で上方力士としていたが、明和7年11月に江戸に登場し、安永4年(1775)2月に亡くなるまで土俵を賑わせた。釈迦ヶ嶽よりも早い明和6年(1769)4月には、名を達ヶ関森右衛門といい、後に谷風梶之助と改めた強豪が、初めて土俵に上がった(彼は江戸が初土俵である)。この達ヶ関は看板大関たること3場所、実力がなければ二段目にあっさり落とされるところ、力を認められ前頭筆頭に据えられた。そして安永10年(1781)3月には実力で大関となった。この時反対の東方で大関に居たのが鷲ヶ濱音右衛門で、7年(1778)3月、鳴澤音右衛門として看板大関として出て以来、安定した強みのある長身大関として土俵に在った。だが、谷風に遂に勝つことができず、後から擡頭してきた小野川喜三郎に戦功を奪われたのは不運、谷風に並ぶような実力があったのに、お蔭で後世誰も「谷風・鷲ヶ濱時代」と言わないのであった。同様に出水川林右衛門という「撓め出し」専門の剛力士も鷲ヶ濱より前に出たが、べらぼうな強さがあったものの急激に衰えてしまった。こうして天明2年(1782)2月に谷風が小野川に引っ繰り返されたことにより、以降の谷風小野川戦は爆発的人気を呼んで、相撲の景気は上昇の傾向を見せ始めた。この流れの中で、寛政元年(1789)、谷風と小野川に横綱免許が下ったことで、爆発的な人気を見せるようになったのである。なお、横綱についての仔細は「横綱」について参看。次いで3年(1791)6月には将軍徳川家斉の上覧相撲が催され、相撲人気は沸騰点に達した。

  

上覧相撲の意義の一つは、抱え大名ではなく年寄に開催の内意を伝えたということで、勧進相撲を行う団体を、技芸の担い手として認めたというところにある。上覧相撲に至るまでの経緯は大雑把にいうとこうなる。 
町奉行池田筑後守が寛政3年4月、この時の本場所の勧進元錣山喜平治、差添人伊勢ノ海村右衛門を奉行所に召し出して、上覧相撲の内意を伝え、本場所のために集まった力士を解散させずに散逸させないようにすること、東西力士の名簿を提出すること、相撲の儀式次第を調べ整えることを命じた。相撲年寄は吉田追風の登用を願い出たが、町奉行が許可しない。さんざ嘆願した末、6月10日つまり上覧相撲の前日になって老中戸田采女正が追風を召し出し、上覧相撲の行司を務めるように命じ、ここに至って追風は、その夜のうちに土俵を築(つ)き直させ、水引など装束を総て吉田家の品に取り替えさせて上覧相撲に備えた。上覧相撲の予定日は当初の6月3日から5日、さらに11日と延び延びになり、背景には、横綱免許の際追風の本場所検分を認めず、今度も登用は要らぬとする幕府当局 、 故実を整えるために追風の登用を求める年寄、 上覧相撲を差配することで相撲社会に対する権威の確立を図る吉田追風および主家細川家 の間で駆け引きがあったものと推察される。 
こうして6月11日に上覧相撲が開催された。詳細は「すまひ御覧の記」という成島峰雄の記録にある。年寄・相撲取・行司らは暁六ッに城内へ入る。会場は江戸城吹上苑の特設相撲場、開始は巳の刻。吉田追風が方屋開きの口上を述べる。次いで土俵入り・横綱土俵入りとあり、取組が催される。合計82番になる。勝負ははっきりとつけられた。前年より江戸に登場の雷電為右衛門が、陣幕嶋之助の喉輪に敗れる大番狂わせがあり、結び、小野川に谷風の一番は、下記の通り「小野川の気負け」とされた。その行司吉田追風の鮮やかな(?)裁きと明快な(?)説明により、吉田家の権威が大いに揚がったのである。また、この上覧相撲は大成功、15日に町奉行に召され、褒美白銀300枚が下された(これは年寄・相撲取・行司に分配)し、見下される傾向のあった相撲が、将軍も御覧になられた(上覧相撲は江戸期に合計7回行われた)立派な技芸として見直され、お蔭で再開された4月場所後半は大入り続きの大盛況であったとの由。 
ここで、吉田司家というのが目に引っ掛かるのである。吉田家の家伝は(※1)のようになっている。大部分は事実ではない。五條家(京で相撲の家を自称した家)の目代だったという説もあるが、証拠がない。但し、萬治2年(1656)に京で細川家に召し抱えられ家臣となったのは事実である。吉田家は、他の行司の家と同じように「相撲故実」を引っ提げていた家である。細川家抱えになったのも、それによるのだろう。その後、寛延2年(1749)8月になり、江戸相撲の行司・木村庄之助(第一人者)と式守五太夫(年寄伊勢ノ海の変名とされるが完全には確認されていない)が吉田家の故実門人となった。これにより、江戸相撲全体が吉田家傘下に入ったと見ることができる。その傘の下で、この両名は行司や力士に故実門人の証状を出した。後には、全国に吉田家門人の行司が散在するようになった。こうして「全国支配」の礎を築いた吉田家、その19代追風は、寛政元年(1789)谷風と小野川に横綱免許を与えた。この時の追風の「謀略」は、(※2)の文書に窺うことができる。これは、年寄連・行司連からのお願いという形で「相撲故実の家である細川家家来吉田追風から、谷風・小野川を門弟に加え、相撲場を検分(見物とあるが、検分のこと)した上で、横綱を伝授したいという申し出があり、これが叶うならば、我々相撲を生業とする者にとっては、渡世の助けとなるであろうから、是非認めていただきたい」と寺社奉行所に出された願書である。この検分の願いは却下されてしまった。しかし、幕府は吉田家の由来を尋ね、それに対する返答として、司家は上記の如き由緒申立を提出することができた。翌々年には上覧相撲が行われ、前述の経過によって吉田家の「権威」は幕府の認めるところとなった。これで、吉田家は江戸相撲の支配権を確立したのである。「南部の角土俵」で名高い行司長瀬越後家も、文化年中(1804-18)には勧進相撲に出ることを一條家・南部家より禁ぜられ、南部領内で細々と独自の故実を伝えることになった。こうして吉田家は全国行司家の頂点に立ち、ほぼ全国を掌握した。後に五條家と「相撲の司」を争い、五條家が斥けられた。この件の相撲史に占める比重は小さくないが、その経緯は「横綱」についてに掲げてある。 
世は谷風・小野川時代で沸いている。谷風は江戸で主に修行したいわば「江戸方代表」、小野川は京都で修行し大坂で初登場した「上方代表」であった。当時の書を見ると、江戸の書物にはたいてい小野川が悪し様に書かれ、上方の書物には逆に小野川は誉めちぎられている。ある程度、その「善悪」の位置づけが土俵の勝負にも影響していたのではなかろうかとも言われる。証拠などあろう筈もないが、谷風小野川の勝負は、上方では江戸ほどは小野川の分も悪くないようだし(対戦数は上覧含め27と割合多めだが、はっきり勝負がついた相撲が少ないため、「江戸のヒーロー谷風に花を持たせる」という「芸」があったかどうかは保し難い。合計谷風8勝(上覧含む、江戸6、大坂1、京0)、小野川4勝(江戸3、大坂1、京0)、引き分け7(江戸3、大坂2、京2)、預かり4(江戸2、大坂1、京1)、無勝負4(江戸3、大坂0、京1)である)、逆に江戸で横綱免許を明日に控えた目玉商品の小野川がはっきり負けたのに、物言い預かりになったというようなケースを見ると、寧ろ当時の「相撲技芸」は、「筋書きの多少あるドラマ」だったのかもしれない、とも思わせる。

  

幕末期の角界 
大名抱えの話から。三都勧進相撲成立前から、大名は自邸で相撲を取らせて楽しむために力士を抱えていたが、勧進相撲興行が基盤を整えた今、力士を抱える目的は、藩の威光を高からしめんためへと変わっていった。そのためには興行の土俵で抱え力士に勝って貰わねばならぬ。だから当然、藩は力士の訓練に力を入れる…かといえば、そうではない。嘗てはそうだった。しかしもうこの時代になると、力士は相撲部屋に属する、つまり年寄・頭取を師匠としている。従って、力士の育成は大名の仕事ではなく部屋の仕事である。ということは、力士が土俵で勝てるように大名自らが仕込むのではなく、強い力士若しくは将来性のある力士を興行時に見出だして抱え上げるのが普通であった(そうでないこともある)。抱え力士の「特典」は、藩邸への立ち入りを許され、番附に抱え藩名が明記されること、場合によっては化粧廻しを貰えることが挙げられる。なお、禄(扶持米)が貰えるのはその実力を認められてからである。この頃の抱え力士は年寄・頭取に所属しながら大名に抱えられる、二重の属性を持っていた。番附編成に関し東西の均衡を考える際は、抱え藩の関係を先に考えた。従って「同部屋対戦」は、抱え藩が異なる場合に限り、あった。ここにも大名の優先性が見られるが、そもそも、勧進元が大名から力士を借り受ける形式で興行を打っていた(雨天による繰り延べの場合は再度借り受けるために願書を出す)のだから当然であった。藩命による不出場もある。 
一子年春相撲東関庄助ト申者勧進元仕候所私共 
一御座敷様ヨリ久々御国元ヘ御召被遊候ニ付二月廿八日江戸表而出立仕候御国元へ閏二月廿日罷帰リ申候 (「諸国相撲控帳(通称雷電日記)」寛政4年(1792)より) 
つまり、この場所は東関庄助が勧進元であったが、我々(松江藩の)相撲衆は、殿の久々の帰国のお供を仰せつかったため、2月28日に江戸を出発したというのである。従って本場所には不出場であった。また、下記の如く、勝負判定にいちゃもんをつけることさえよくあった(おっとり刀で武士が控える殺風景さ)。会所側としては、下手な判定を下そうものなら、その藩から力士を借りられなくなるやも知れず、以降の興行にも響くため苦慮した。抱えられた力士は、通例、引退したら抱えを解かれ(相撲技芸に秀でて実際に行使することで藩の声名を上げてくれる者を抱えて援助するのであるから、技芸を見せなくなった者は必要ないのである)、年寄・頭取専務となる。 
「幕末」と一括りにしたが、谷風小野川時代が去ってから江戸幕府が倒れるまでには70年程ある。谷風小野川の次が雷電の時代だという言い方も一向悪くないが、何しろ雷電は寛政2年(1790)に、つまり谷風小野川横綱免許の翌年に江戸に登場し、しかも始めからバカ強かった。あくまで伝説であり真実味は全くないが、張り手・鉄砲・閂を禁手にされたという風説も、起こらないとは言えまい。雷電が相対した反対方屋の大関のうち、実力大関と見られるのは、小野川・陣幕嶋之助・不知火光右衛門・平石七太夫・柏戸宗五郎であるが、小野川は下り坂で勝ち味に乏しく、陣幕・不知火・平石とても対抗馬たり得ず、肉薄し得たのは柏戸だけであった。横綱雷電実現せずの怪は未だによく語られるところであるが、谷風小野川への免許がそもそも相撲関係者の渡世を助ける一手段としてのものであり、その場限りのものとして行われたもの。これが大当たりして隆盛期を迎え、所期の目的は達せられたのであるから新横綱は不要、横綱雷電というものは意識に浮かばなかったということであろう。晩年の雷電は腰が悪かったようだが、強味は失せず文化8年(1811)2月限りで引退するまで強豪の名を擅にした。ただ、雷電だけが矢鱈と強かったこともあって、頂点を迎えていた相撲人気は下り坂になっていった。雷電の対抗馬になりそうだった花頂山五郎吉は、大関になって雷電と対峙しようとするところまでは進んだが、そこで病没してしまった。上述の柏戸にとっての好敵手は雷電よりも、寧ろ千田川の玉垣額之助であり、この両者の対戦と、柏戸利助と越ノ海の玉垣額之助との対戦とは、過ぎし谷風小野川時代を(若干小さくした形で)想起させた。また、怪童力士大童山文五郎が人気を集めたのは寛政の末頃であった。二代に亙った柏戸−玉垣時代が去った後は、異例の猛速出世を見せた四賀峰東吉や弘前抱えの源氏山吉太夫らが土俵を彩り、次いで「文政の三傑」が活躍する時代となる。温厚な慎重居士の阿武松緑之助、怪力第一人者の稲妻雷五郎、童顔の人気者緋縅力弥の3人である。このうち、阿武松だけが東方であった。阿武松と稲妻の対戦は、詳細は分からないようだが、残された成績だけで見ると阿武松の方が分がいいようだ。また緋縅も阿武松と対戦しているが、阿武松の方が分が良い。実力の阿武松・稲妻と、人気者の緋縅といった図式が想像できる。阿武松と稲妻を繞って展開された吉田家と五條家の司家争いは、吉田家の手に勝利が帰したが、この経緯は「横綱」についてに譲る。文政の3人の後を受けて大関も幾人か出たが、記録さるべき名大関は、取りこぼしの少ない安定した地力の手柄山繁右衛門くらいのものである。そして今度は「天保の三傑」が土俵を支配する。波瀾の横綱不知火諾右衛門、短身肥満体横綱秀ノ山雷五郎、横綱級名人大関劔山谷右衛門が主役で、そこに巧者の関脇稲川政右衛門や、上に勝たず下に敗れずの地味な人気大関鏡岩濱之助、やや遅れて超肥満体の大器小柳常吉らが絡んだ。おまけに極端な巨人力士生月鯨太左衛門が土俵入りをやって度肝を抜いた。もうここら辺になると幕末も幕末である。秀ノ山が現役を退いたのが嘉永3年(1850)年、江戸幕府の余命は20年を切った。土俵では無造作な力大関猪王山森右衛門や、長身の吊り大関境川浪右衛門、柳川藩主に忠誠を誓った横綱雲龍久吉、右差し磐石の巧者横綱不知火光右衛門、堅実一方の負けない横綱陣幕久五郎、力感に満ちた大まか相撲の横綱鬼面山谷五郎と、幕末の動乱期を彩る力士たちが、それぞれに強みを発揮して活躍し、京都に行った強い関脇小野川才助や、ケレン相撲の旗頭両國梶之助らもまた名を残した。とは言っても世の中は変転めまぐるしく、土俵上にも覇者はいないし、そればかりか幕藩体制の緩みから、それを基にして成り立つ相撲故実によって箍を嵌められていた角界もぐらつき始めた。陣幕は、次項に記す通り、江戸中心体制の崩壊を予想して、慶應4年(1868)に大坂へ去った。

  

角界内部の事件として名高いのは、「伊勢ノ海訴訟事件」である。寛政8年(1796)5月、相撲興行の手腕に長けた豪傑3代伊勢ノ海(初代柏戸)が没すると、3代未亡人すみと、2代(初代関ノ戸)未亡人かのとが相続を巡って対立し、各々門下を味方につけてこじれた。4代目を柏戸宗五郎が襲名することに対し、かのは反発、仙台藩抱え力士と共に猛反対したが、先代一周忌の9年5月、すみの側が2代目門を相手取り、御番所に訴訟を起こすに至った。この件は、年寄14名で伊勢ノ海の名乗りと3代未亡人が所持していた故実巻物を預かることでまとまり、翌月訴訟取り下げとなったのであるが、3代側はこの巻物を手放したがらず、年寄連中の中にも、預かりに難色を示す者まで現れて、今度は年寄27名で吟味を願い出た。これは翌7月になって年寄方から両方に預かり証文を入れて決着したのであった。ところが今度は触れ太鼓一件で紛擾が起こった。太鼓は初代伊勢ノ海以来伝わるとかいうものがあり、その「五柄の太鼓」を興行毎に借り受け、伊勢ノ海家には損料を払ってきた。その後太鼓はかのの所有になっていたが、9年10月場所に当たってかのに無断で借用され、損料が支払われなかったことから、かのが訴訟を起こした。結局これは勧進元玉ノ井村右衛門から損料の支払いがあって済んだが、明くる10年3月場所に年寄側が太鼓を新調して使ったため、かのは先例を説明した上で勧進元(佐野山丈助)と差添(東関庄助)とを訴えた。訴えられた佐野山は「太鼓は元々は年寄で拵えていたのだが、初代伊勢ノ海が自分で新調して用いたところ、新しくて鳴りも良いので、以降は勧進元がそれを借り受けて損料を払ったものである」として対抗、今後は伊勢ノ海家のと年寄連で新たに作った太鼓の両方を用いることと、かのに損料として晴天札(木戸札と考えられる)25枚を渡すことで話がついた。数度の訴訟で伊勢ノ海は宙に浮いたままである。10年5月10日、柏戸宗五郎を伊勢ノ海に改名させることを決議した旨、年寄5人が御番所に届け、かのにも告げた。かのは翌々日逆に訴えた。柏戸は3月場所4日目の5月24日に伊勢ノ海を襲名したが、翌10月場所には柏戸に戻っている。その後11年2月までには仲裁が図られたようだが、結果として伊勢ノ海家は二派に分裂した。年月が流れ、文化9年(1809)4月に柏戸は現役を退き、兼ねていた年寄業に専念することとなった。大勢力を持っていたとみられるかのも老い、周囲の勧めもあって和解した模様で、10-11年の間に柏戸は正式に伊勢ノ海を継承した。かのは文政13年(1830)歿し、2代伊勢ノ海一族は絶えた。序に言うと太鼓は伊勢ノ海家の占有となった模様である。さらに太鼓の件を書けば、勧進相撲の太鼓と勧進能の太鼓が同時に廻され、紛らわしくて迷惑だと勧進能の方から提訴があったという。どうやら幕閣の中でも意見が割れてどうにもならず、雨天で相撲興行が止まっている間に能の方が終わってしまい、かち合うこともなくなったので自然消滅したらしいとのことである。 
文化2年(1802)2月16日、「め組の喧嘩」という有名な事件があった。講談で言われるほどの誇張されたものではなくて、ごく簡単になぞる。鳶の富士松という者が数人の者と連れ立って無銭で相撲を見物しようとしたのを咎められ、以来ずっと恨んでいた。事件当日、九龍山扉平(くりゅうざんとびらへい・二段目)が相撲場と同じ境内で行われていた香具師芝居を桟敷で見ていたところ、火消し「め組」の鳶人足である辰五郎等に足蹴にされ、口論となった。「め組」の鳶人足長治郎が火の見梯子に登って半鐘を乱打し、仲間を160人ほど集める。九龍山が芝居小屋から逃げ出してくると、後ろから突き倒して棍棒などでぶん殴って負傷させたが、九龍山は却って逆上、刃物で右肩を切りつけられたが、その刃物を奪って振り廻し、火消し数人に傷を負わせ、富士松はその傷で後に死んだ。四ッ車大八は同部屋の幕内力士、宿にいたが、師匠から喧嘩を聞き、九龍山を宿に連れ戻すよう指示を受けて境内に向かったが、打ちかかられて境内の店へ逃げ込む。すると人足はその店の脇を壊す。四ッ車は服を脱いで表へ出た。再度打ちかかられる。これまた怒った四ッ車、相手をはねのけ武器を奪っているうちに人足数人に怪我を負わせたが、自身も前歯を3本折った。取組を終えた藤ノ戸(後の年寄若藤)が相撲小屋から出てきたら、木戸で額を切りつけられた。手で受け止めて血が流れ、覚えず脇差を抜いたが、仲間に相撲小屋へ引っ張り込まれた。勧進元藤嶋甚助と差添の粂川福五郎と、力士3者の師匠柏戸宗五郎は、寺社奉行の検視を仰ぎ、3人とも療治が必要であり、彼らの身柄は3年寄に預けるという仰せを受けた。そして2月19日、この一件を御番所に訴えた。残り3日の興行は差し止められていたが、勧進元等の嘆願により3月28日に興行許可が下りた。判決は9月2日、力士側は九龍山だけが江戸払い、他2名は無罪。人足側は、長治郎が江戸追放、辰五郎は叩かれた上に江戸から追放、他の鳶は科料徴収という具合で、火消し側に重い判決が下った。九龍山は上方で相撲を取った。これが有名な「め組の喧嘩」の一伍一什である。 
他に取り上ぐべき事件が一つある。横綱免許力士の秀ノ山が、嘉永3年(1850)引退して中改め(検査役→審判)秀ノ山となり、年が明けた2月場所中にその騒動は発生した。5日目、本中力士100名余りが誰一人として場所入りしない。揃いも揃って回向院の念仏堂に結束して籠ったのである。そして取組編成を論難し、会所の非を追及した。何が悪いって、前場所から秀ノ山が権限を恃み、自分の愛弟子(萩ノ森・赤沼、ともに本中)は2日毎に相撲を取らせるのに、他の本中力士は3日毎しか取組を組まない。こんな馬鹿な話があるかと、本中力士は怒っているのである。しかし会所の最高幹部である世話役の雷権太夫・追手風喜太郎は歯牙にもかけず、秀ノ山本人も、所詮本中どもの戯言として構わず、この5日目は本中の取組を省いて強引に行おうとした。本中力士は激昂し、終には秀ノ山を殺ってから脱走しようと、草鞋と脚絆の仕入れを始め、竹も買い込んで竹槍を作り、会所と秀ノ山部屋へ向ける総攻撃の手筈を整えた。回向院の住職が慌てて会所へ知らせる。世話役も流石に慌て、秀ノ山を呼び出して状況説明。秀ノ山も余りのことに魂消て、本中力士の集う念仏堂へ急行、詫びを入れて公平を約した。本中力士も、要求が通るならと相撲場へ引き揚げ、改めて組んだ割で取組が行われた。危うく血で血を洗う大騒動になるところであった。

  

維新直後の危機 
陣幕は大阪に去り、明治2年3月からは大阪は革新縦一枚番附を発行、独自の興行をするようになった。しかし6年以降幾度も紛擾や分裂を繰り返し、番附は二枚番附に復した時代もあり、抗争の仲裁には土地の顔役が首を突っ込む有様だった。21年の「広角組」脱退事件が特にひどく、7年間も独自興行を打ち続け、東京方本場所にも出場して惨敗するなど、大阪会所に構わない勝手な行動を続けた。大阪会所が組織改革を行い、府知事の認可を得た上で大阪角力協会となったのは30年のことである。その後数年はまあ賑やかだった。しかし、明治の末年には合併相撲でしか収益を得られず、挙句には大正12年の紛擾で幕内力士の大半が脱退してしまい、15年1月(この場所の番附には期日も場所も記されていなかった)の台湾場所を最後に東京と合併した。 
京都はもっとひどかった。三都合併興行は明治7年から定期的に打たれていたが、独力での興行は10年代半ばには打てなくなっており、43年に横綱大碇紋太郎が日英博覧会で相撲を取るために主要力士を引き連れて渡英、帰国の噂が出て京都相撲は番附も発行したが、大碇以下はヨーロッパのドサ廻りを続け、日本に帰ってこなかった。かくして京都相撲は解散、大碇一行も困窮の末現地解散となった。 
明治維新の流れの中、文明開化の声の中、断髪令が飛び出したが、政府内には相撲に好意を持つ者が多かったために辛うじて適用されずに済んだ。だけれども「相撲は所詮裸踊りで野蛮そのもの」という見方も根強く、相撲の将来は暗澹たるものの如く思われた。この批判に対しては、明治天皇の錦旗捧持役を仰せつかったり、招魂社神殿造営に従事したり、9年-11年には消防活動に従事したりして潜り抜けることができたが、版籍奉還(2)と廃藩置県(4)はより大きな痛手だった。抱えを解かれた力士が多く、会所から力士へは収益が廻らない仕組みのため、力士の生活は一遍にどん底へと転落しかかった。これは、資本家などが贔屓になることによって一応解決されたが、会所及び協会の経営方法は全然変わっていないため、根本的解決にはならず、後にも数回起こる事件の原因となる。 
土俵の上では、2年に鬼面山が横綱免許を吉田司家から受け、不知火も現役として在ったが、既に旧時代の力士となりつつある。代わって腹櫓の境川浪右衛門が最優力士として大関に在り、横綱を免許された。反対の大関として上手投げの綾瀬川山左衛門や、全盛時は途方もなく強かった雷電震右衛門がいたが、境川の安定した強みは一級で、右四つで存分に相撲を取り、その上で怪力を見せて腹にかけ振り飛ばす立派さだった。また、この時期は美男大関朝日嶽鶴之助や、提灯窄めの武藏潟伊之助などの脇役も土俵を盛り上げた。そして、堅実強豪の梅ヶ谷藤太郎が土俵の中心となった。筈押しの若嶋久三郎が対峙したが梅ヶ谷には勝ち味が薄く、この頃の相撲の人気は若干下がり気味だった。豪放大達羽左衛門が進出し、17年の天覧相撲で物凄い引分相撲を取り、この評判が巷間に広がってから、相撲の人気は爆発したのである。梅ヶ谷は翌場所その大達を迎え討たんとして熱闘の末敗れこの場所2敗、引退を決めながら慰留され続けたが、18年11月の天覧相撲で完敗するに及び、ふっつりと髷を切った。次の時代は、土俵の上では西ノ海等の時代、年寄の側は高砂専横時代として記録されるのである。 
後に放恣を極めた高砂浦五郎だが、力士時代は会所に不満を持っていた。実は高砂、前名高見山は慶應4年(1868)幕下11枚目の時既に筆頭(玉垣額之助)と筆脇(伊勢ノ海五太夫)の専横に発憤、何と同志を250人も集め、連判状を用意して脱走準備、王子海老屋に集合した。その際は顔役北川南条氏の仲裁があり、幕下以下力士の待遇を良くするという約束で解決を見た。だが会所には変化の兆しもない。高砂は幕内力士として土俵に在るが、宿願を果たす機会を窺う。明治6年、美濃に於て、自身の念願を綾瀬川・小柳等に語る。高砂の不満は、勧進相撲や巡業に出ても力士に俸給が払われないこと、筆頭・筆脇は権威をかさに、収入があれば私腹を肥やし、欠損が出たら年寄連に分担させるという不正が罷り通ること、この点にあった。聞いた力士等は忽ち賛同し、血判の誓約書を仕立てた。一行は桑名に移り、蹶起の決意を固めた。高砂は名古屋で地盤固め、綾瀬川(他に年寄大嶽や尾車等)は東京に戻って年寄の説得に当たった。綾瀬川は境川の賛同を得ることはできたが、年寄連の賛成は得られる筈もなかった。そればかりか綾瀬川は逆に言いくるめられ、力不足ゆえ大事は果たせないと高砂に書き送って寝返ってしまった。高砂は途方に暮れたが、折も折、発表されたる番附上、高砂一派は全て墨で塗り潰してあるではないか。これが逆に高砂の意志を鞏固にした。7年、高砂は愛知県の許可を得、完全に東京会所を脱退して「高砂改正組」を旗揚げした。しかし高砂とともに番附から抹消された小柳は高砂の許を離れて東京へ去った。改正組は名古屋に本拠を構え、弟子の響矢(後の高見山宗五郎)や、京都からの熊ヶ嶽庄五郎、西ノ海嘉治郎(後の16代横綱)、そして行司の木村誠道など数十名から成り、翌年には東京神田に本部を置いた。その後11年2月、東京府は「角力取締規則」なるものを出した。それによれば、東京相撲は一団体のみに興行許可を出し、力士に営業鑑札を出すことになった。東京相撲の面々は鑑札を受け取ったものの、巡業中の改正組は鑑札を貰えず、遂に東京から出ざるを得なくなった。改正組はせん術を失い、宮相撲に奉仕していたが、元愛知県令鷲尾隆聚や好角家等の尽力により、5月に調停が成立、力士は全員帰参することになった。高砂は頑強に「対等合併」を主張、これが通って響矢は幕内に据えられ、高砂は検査役となったのである。高砂は勢威を増し、宿願の待遇改善案を実施、16年に取締となり会所の実権を握るに至り、22年に会所を「東京大角力協会」とし、申合規約を定め、後に雷(梅ヶ谷)が取締になったものの高砂に一目置いたことで、高砂は独裁者となった。自身の門下にも俊英が多数育ち、高砂の行く手は今まさに順風満帆であった。高砂のお蔭で基盤整備はおおよそ成ったが、ボスとなった高砂の言動は変質してきた。それによって大きな騒動が起こるが、それは次項に記述する。

  

御一新でもう一つ揺らいだものがあった。それは吉田司家が持っていた「相撲の司」の「独占権」である。「司家」争いで吉田家に完敗した五條家は、35年ほどの時を経て、江戸幕府の潰滅を横目に睨みながら、慶應3年(1867)1月、陣幕に横綱免許を公然と出した。吉田司家も同年10月に陣幕に免許、翌々年には鬼面山にも免許を出して健在を誇る。さて、横綱免許力士陣幕は、江戸時代の終焉は相撲も「江戸」時代の終焉である、つまり天皇主権復活のお蔭でこれからは京坂の時代だ、と考えた(しかし東京遷都が決まってしまったのでそうはいかなかった)。そうして京都の西郷隆盛を訪ねた足で、そのまま大坂に止まった。逆に陣幕の「降臨」を受けた大坂相撲は、これ幸いと三都連繋興行からの脱却を図った。陣幕は明治2年に引退、頭取総長となった。加えて不知火も3年に引退、大阪に加わって京阪で土俵入りをやった。東京相撲を見捨てる力士が現れ、東京方は窮地に立った(と見えた)。ここにつけ込んだ五條家は、京阪相撲を我が手に収めて「復権」と「司家の地位簒奪」を狙った。その為に、3年に小野川才助(京都)、4年に八陣信藏(大阪)と兜潟弥吉(京都)、6年に高越山谷五郎(大阪)へと、ポンポン横綱免許を出した。吉田司家の方は落ち目、まず吉田家を抱えている細川家が、時代の表舞台から後退を余儀なくされた。さらに23世追風(4年襲名)が10年に西郷軍従軍、しかしこの西南戦争は西郷軍の負け、追風は捕らえられてしまったのである。9年には五城家が東京の境川浪右衛門にも横綱免許を出したが、吉田家は承認したものの免許状を出せない状態だった。吉田司家の手になる「相撲故実」の下に運営されていた相撲界が、吉田家の形骸化によってバラバラになり始めた。各会所では紛擾が起こってますますバラバラになっていった。その点で上記の「角力取締規則」が出たことは、誠に会所にとって好都合なことであった。自力のみでの収拾こそ無理だったが、どうやら時代の流れに沿う形で秩序の維持が図られることになったからである。そして17年3月に大規模な天覧相撲が催され、この相撲の評判高く、また折からの機構改革(まだ途上だったが)の成果もあり、どうやら東京の相撲興行は軌道に乗った。その際、梅ヶ谷に横綱免許が出されることになったが、梅ヶ谷が吉田司家からの免許を希望した。このために、五條家と吉田家の同時免許となり、吉田家は息を吹き返した。五條家は京阪にこだわったため、東京相撲の隆盛も我が利とし得ず、興行内容的に大きく劣る京阪を押さえたところで、全日本を主導するなど夢のまた夢だった。一応29年3月には小錦八十吉にも横綱免許を出した五條家だったが、何の影響力もないのか、この免許は後世殆ど話題にもならず、平成5年になってやっと陽の目を見る始末。逆に上方が東京との合併興行に依存した状況にあっては、吉田家が唯一の「相撲の家」の地位に止まるのも、極々自然なことだった。

  

高砂時代終焉 
梅ヶ谷去った後は西ノ海等の時代になったと前記したが、すんなりそうなった訳ではなく、西ノ海はせっかく大関になったのに翌年には大達に大関の座を奪われた。しかしこの両名とも高砂門下、土俵の上でも、会所に於ても、高砂の勢威は凄かった。反対の西方は、劔山谷右衛門や大鳴門灘右衛門などが対抗したが、意外に早く衰え、土俵の上から高砂派を脅かすには至らなかった。高砂派は、大達が急衰し、これに代わり、これも高砂派の一ノ矢藤太郎が大関になったものの、西ノ海と入れ替えられていきなり大関から落とされてしまった。西ノ海は一旦は小結にまで下げられたが、意外と持久力に優れ、終には横綱の免許まで授かったのである。横綱力士として迎える最初の場所、元の2大関に小錦八十吉と大鳴門灘右衛門が加わって4大関となり、しかも成績の関係で西ノ海は張り出されることが分かった。西ノ海は横綱という栄誉を楯に頑強に抵抗した。結局張出のまま、番附には横綱と記すことで西ノ海を納得させた。これが、番附に「横綱」の名が載った最初である。偶然といえば偶然、そして、高砂門下ゆえにこのゴリ押しが通ったものと考えられる。西ノ海は泉川の威力だけで第一人者の声名を保った。しかも、この時にはもっと活きのいい小錦が大関に控えおり、まさに高砂時代は安泰であるかに思われた。小錦の好敵手として足癖の八幡山定吉や、3年間負けを知らなかった小錦を倒した司天龍政吉などが期待されたものの、八幡山は早く退き、司天龍は後には敵し得なくなっていった。西方陣営は慢性的な人材不足に近い状態であったが、そこに、相撲も強く頭も切れる大戸平が出現して、俄かに様相が変わってきた。 
高砂は角界最高の権力者となり、持ち前の政治力を生かし、視野の広さを称えられていた。その高砂は、実は雨天でも興行が打てる屋内相撲場をつくりたいという願いを持っていた。だが、これに本気で協力しようという動きが少なく、そればかりか、頭がおかしいのではないかという疑いさえ持たれる始末だった(雷は高砂と同じく屋内相撲場の必要性を認識していた。立案は22年6月に為されていたが、具体化したのは遥かに下って37年5月)。その頃の高砂の言動は、確かにどこかおかしかったという。自分の意見を絶対に枉げないのは相変わらずだが、この頃になると高砂の発言こそが絶対で、高砂の一言で全てが決まった。当然多くの反発も招いた。高砂はその状況を力で覆すため、自派の年寄の承諾の下、24年1月に永久取締就任を突然宣言したのである。これは忽ち雷・尾車・友綱らの反発に遭い、数日いがみ合った末、警視総監園田安賢氏の手により調停が成り、高砂の永久取締は葬り去られ、取締改選は毎年選挙で行われることになった。けれども高砂の天下は続いており、その高砂の行動に妙な点が見られるようにもなった。西方力士には鬱憤が溜まっていた。当初は弱小集団だった西方も、東方の優秀な力士に負けず劣らず、好力士を揃えて対抗するようになってきたところであった。その西方の不満を爆発させるような出来事が28年6月に起こった。6月場所6日目、泉川得意同士で話題を呼んだ鳳凰に西ノ海の一番、鳳凰の寄りを西ノ海は打っ棄ったが踵を先に踏み切った。当然軍配は鳳凰に上がったが、東控えから物言いがつく。明らかに西ノ海が負けているが、あっさりとそう決めようにも西ノ海は高砂門下ゆえ祟りが恐い。等々検査役が狼狽していると、高砂がやってきて蛇の目を払い、土を掘って「ここは俵だ」と。つまり踏み切りではないと戯けたことを抜かす。西控えが赫怒し、その場は真夜中になって預かりになったが、怒れる西方に爆発の契機を与えることになった。明くる29年1月初日、割りを見た西方力士は驚き呆れた。問題の西前頭筆頭鳳凰が東に廻されている。鳳凰は断固として休場を決意、西方力士は同調した。協会は慌てて「強風のため入れ掛け」とした。西方大関大戸平廣吉以下33名は、檄文を協会に叩きつけ、中村楼に立て籠った。これを「中村楼事件」と称す。檄文は次の通り。 
檄告書 / 今回の出来事に関する最大原因は、高砂部屋方の力士等が、或る一部の苦情の大場所挙行初日の当時、場所入せざりしに依るは、明々瞭々の事実なりとす。然り而して、是が為め、協会の蒙りたる損害、蓋し尠少にあらざるべし。我々は、事変の行掛り上、止を得ず団結したるが、事実明瞭する暁には、異議無、大場所へ出勤するは、勿論、興行に障害はなさざる可し。我々は、不正なる取締の配下にあるを、潔とせず。協会の年寄は、此の際、非常の決心を以て、今回の出来事に対し、充分の処決あらんことを望む。協会に対しては、我々苦情を唱ふる者に非ず。唯々、年寄の一致力を以て、東京大角觝協会を永遠に継続せられんことを希望す。敢て、回答あらんことを望む。 一月十五日 
大戸平廣吉 外三十二人連名 年寄より委任したる正取締を除くの外 
   角力協会年寄御中 
回答文 / 貴殿方より檄告の趣旨に基き角觝協会の改革は拙者共に於て責任を帯び当一月の大相撲打揚後直に着手仕五月大場所興行を期し実行可致候右回答に及候也。二十九年一月十七日 
雷権太夫友綱貞太郎 八角灘右衛門若藤永吉 尾車文五郎草苅庄五郎 武藏川谷右衛門青木庄太郎 伊勢海五太夫 
    大戸平廣吉殿 大碇紋太郎殿 大砲萬右衛門殿 海山太郎殿 外各関取衆 
となっている。回答文に名を出した年寄は実は皆西方派なのである。つまり、西方の年寄と力士が相呼応して起こした高砂一派排撃運動なのである。従って力士の要求は簡単に通り、「東京大角觝協会申合規約」70条が作られた。1月場所は19日に初日、30日に千秋楽まで行われた。また、取締を選出するに当たっては、雷と高砂が選出されはしたが、もうこの頃の高砂は協会を背負う力を持っていなかった。当時、どういう訳か脳病・狂死が協会内に「流行って」いたようだが、高砂も脳病と診断され、30年に取締を辞任、33年に歿した。高砂の後の取締には阿武松(高見山、後の2代高砂)が就いたが、これは為人温厚、先代と違って野心家ではなかった。従って協会は雷一門が栄えていった。 
高砂は排斥せられ、土俵上でも高砂派の勢力は決して衰えてはいないけれども、西方雷派の勢力が次第に圧していくようになった。技倆第一等の小錦も、横綱を免許されてからは軽敵に名を成さしめることが多くなっていった。また、小錦の次を期待された大関朝汐太郎は、惜しい哉案外早く衰えていき、協会における勢力と同様、反対側の巨人大砲萬右衛門率いる西方が主流となっていった。

  

梅常陸登場相撲 
土俵上、小錦が横綱を張っている時、既に世人の注目は常陸山谷右衛門と梅ノ谷音松に向いていた。梅ノ谷は雷の養子、鬼ヶ谷才治の直接指導の下、肥躯を利して素早く巧みに相撲を取る稀代の名人たるべく成長を続けてきた。常陸山の方は一時名古屋の群れに身を投じたが、天賦の膂力をなお伸ばして豪放な取り口で期待をされた。この両者は三段目で対戦があるが、大きな注目を集めてからは、その初対戦が待たれていた。実現したのが31年5月、両者の角逐は好角家の期待を上廻るもので、2-3年のうちに大関(梅ノ谷が1年先行)となった。常陸山が大関になったのは34年5月である。この34年5月は、小錦が番附から姿を消し、代わって大砲が横綱を帯びて登場した場所であった。大砲は不細工を絵に描いたような力士、本当に相撲が下手で、突き立てて突き飛ばすか叩く、或いはいきなり右四つに引っ抱えて寄る、およそこれぐらいしか芸がなかった。それでも怪力のお蔭で、うまくすれば相手を吹っ飛ばすだけの力はあった。ただ、横綱免許は多分に幸運によった。大砲の場合、まず横綱として小錦が残っていたとしたら、大砲は横綱にするほどの剛力士ではないから、協会としても恐らく横綱の免許は申請しない。かといって梅ノ谷はまだ実績が不足し、その上に常陸山の方がより強い。しかし常陸山はやっと大関になったところである。こういう場面で、小錦が欠けた。恐らく興行上横綱はいてほしいと思われる時代となったのだろう。大砲とて大関はまだ4場所、「功労賞横綱」とするにも実績が少ない。しかも実働2場所半である。だが、驚いたことに大関としては黒星が一つもない。何となく消去法で大砲にお鉢が廻ってきたのではなかろうか。兎も角、大砲が横綱として、名目上最高力士となっていた。そして、可もなし不可もなしといった成績を残していたが、日露戦争従軍のため、土俵から姿を消した。 
今度こそ、梅ノ谷改メ梅ヶ谷藤太郎と常陸山の時代になった。両者とも大関で、角界を代表する立派な力士として貫禄充分に土俵を務めていた。加えて、機智縦横の名大関荒岩亀之助や、電光石火の早業力士逆鉾与治郎、怪力の海山太郎、臍下に喰い込む玉椿憲太郎や、筈押し鋭い緑嶋友之助、奇手に長じた両國梶之助などが活躍した。人気は沸き立ち、その実力から、両者は同時に横綱力士となった。常陸山の推薦が決まると、常陸山本人が梅ヶ谷も同時に推薦するのが望ましいと答えた、そう伝わる。そうしているうちに、戦野から大砲が還ってきた。しかし、悪化したリウマチも引き連れて帰ってきた。ただでさえのろい相撲が、もっとのろくなった。若左倉に負けて、さらにのろくなった。右四つになったら、動かなくなった。大砲は初日から全てを引き分けて最後の花道を飾り、引退した。 
両雄並び立つ安定した時代が続いていた。好角家は、早くも次代に目を向けていた。その期待に応えそうな偉材が出てきた。それが太刀山峰右衛門と駒ヶ嶽國力であった。地力ある大関國見山悦吉も健在だった。錦洋改メ西ノ海嘉治郎や、右差しが十八番の朝嵐長太郎(後の朝潮太郎)、親子幕内伊勢ノ濱慶太郎、そして驕健軽快変化自在と評された鳳谷五郎の入幕を以て、小屋掛け興行の時代は幕となった。旧時代の代表常陸山と、新時代の代表太刀山との相撲は注目を集めた。下記の通り太刀山自慢の鉄砲を、常陸山は無造作に胸で受け止め、徐に捕まえて吹っ飛ばしたり捻り潰したりした。40年5月に太刀山は初めて勝ったが、常設館ができる前の段階では五分の力だった。 
常設館に関しては前項にも少し記したが、前記の如く名力士好力士が続々出現する史上空前の黄金時代を現出した今、その人気に応えるためには立派な器が必要であろうという判断が働いたものと考えられる。37年に計画が具体化し、費用調達に手間取ったが39年に愈々実行に踏み切った。雷個人の信用で川崎銀行から15万円の融資を受けたという。この間、回向院の本堂移転や墓地の移動整理などの為、天保4年(1833)10月以来定場所としていた回向院を興行に使えなくなり、東両国元町で明治40年5月より4場所興行した。半分川にはみ出したような相撲場で、川風が強く、人夫が天幕を押さえたともいう。夏は暑く、冬は寒い。しかし常設館完成までの辛抱と、客も協会も我慢したとの由。そして42年6月の常設館開館を迎えたのであった。
 
野見宿禰(のみのすくね)

  

土師氏の祖として「日本書紀」などに登場する人物である。 
天穂日命の14世の子孫であると伝えられる出雲国の勇士で、垂仁天皇の命により当麻蹴速と角力(相撲)(「日本書紀」では「捔力」に作る)をとるために出雲国より召喚され、蹴速と互いに蹴り合った末にその腰を踏み折って勝ち、蹴速が持っていた大和国当麻の地(現奈良県葛城市當麻)を与えられるとともに、以後垂仁天皇に仕えたという。また、垂仁天皇の皇后、日葉酢媛命の葬儀の時、それまで行われていた殉死の風習に代わる埴輪の制を案出し、土師臣(はじのおみ)の姓を与えられ、そのために後裔氏族である土師氏は代々天皇の葬儀を司ることとなったという。「播磨国風土記」によると、播磨国の立野(たつの・現在の兵庫県たつの市)で病により死亡し、その地で埋葬されたとある。 
ところで、埴輪創出についての考古学的な知見からは、これは伝説にすぎないとされているが、こうした伝説も土師氏と葬送儀礼との関係から生まれたものであろうとの説がある。それによると、まずその名前は、葬送儀礼の一環としての古墳の築営に際して、様々な条件を吟味した上での適当な地の選定ということが考えられ、「野」の中から墳丘を築くべき地を「見」定めることから「野見」という称が考案されたのではないかとし、次に相撲については、古墳という巨大な造形物を目の当たりにした人々が、これを神業と見て、その任にあたった土師氏の祖先はさぞかし大力であったろうとの観念に基づくものではないかと見る。そして、土師氏が古墳造営を含めた葬送儀礼全般に関わったことから、これを死の国と観想された出雲国に結びつけ、その祖先をあるいは出雲出身としたり、あるいは都と出雲の中間である播磨国に葬られたとしたのではないかと見、最後に火葬の普及などの変遷を経て古墳時代が終焉を迎える頃、その技術が不要とされた土師氏が、自らの祖先の功業を語る神話として大事に伝承したものであろうと説く。もっとも以上の説の当否はともかくとして、少なくとも野見宿禰が祖先として土師氏に崇められたことは確かである。 
野見宿禰神社(兵庫県たつの市) 
出雲墓屋伝承地に建てられ、神社敷地内に野見宿禰の塚がある。龍野公園内にある境内には明治大正時代の力士84名および行司が寄進した玉垣が残る。この地で病没した野見宿禰の墓を建てるために人々が野に立ち(立つ野)手送りで石を運んだ光景が、「龍野」「たつの」の地名の由来とされている。 
野見宿禰神社(東京都墨田区) 
日本相撲協会が管理している相撲神社。両国国技館にほど近い墨田区亀沢にある。 
年3回の東京場所の取組編成会議終了後に、相撲協会幹部と審判部幹部、各一門の審判委員や、相撲茶屋関係者などが集まって例大祭を行っている。祭典を取り仕切っているのは出雲大社教の神職。 
なお、新横綱が誕生した場合には、この社殿の軒先で土俵入りを披露するのが慣例となっている。境内には歴代横綱碑などもある。 
菅原八幡宮・道真公と野見宿禰の墓 
菅原道真公生誕の地と伝えられる。野見宿禰(のみのすくね・菅原家祖先)の墳墓松江・松平藩祖直政公造営による御社殿鼻繰御神梅が道真公ご幼少の頃のゆかりを伝える。野見宿禰は菅原道真公の祖先で「相撲の神様」ともいわれている。 
片埜神社(かたのじんじゃ) 
大阪府枚方市にある神社である。式内社で、河内国一宮を称している。旧社格は郷社。 
祭神は建速須佐之男大神と菅原道真を主祭神とし、櫛稻田姫命・八嶋士奴美神を配祀するほか、明治時代の近隣の神社の合祀により以下の神が祭神に加えられている(八幡神を祀る神社が複数あったため、八幡神が計4柱祀られている)。社家である岡田家の家譜には「土師家の鎮守」と書かれている、なお、当社の祭神について「神名帳考証」には「饒速日命」、「特選神名牒」には「交野忌寸の祖神」と書かれているが、片埜神社側ではこれらを否定している。 
社伝によれば、垂仁天皇の時代に、出雲国の豪族である野見宿禰が、当麻蹴速との相撲に勝った恩賞として当地を拝領し、出雲の祖神である素盞嗚尊を祀って一族の鎮守としたのに始まる。「片埜」(片野、交野)はこの一帯の古名で、交野市の地名の由来でもある。平安中期、野見宿禰の後裔である菅原道真が天神として祀られるようになると、天徳4年に当社でも菅原道真が配祀された。社家の岡田家は野見宿禰の後裔である。 
延喜式神名帳では「片野神社二座 鍬靫」と記されて、小社に列している。かつては広大な社地を有し、「交野の御野」「牧野の桜」と呼ばれる桜の名所として歌枕ともなっていた。 
戦国時代の戦乱で荒廃したが、豊臣秀吉によって復興され、大坂城の鬼門の方角にあることから鬼門鎮護の社とされた。大坂城天守の北東の石垣に鬼面を刻み(これは現存しない)、当社と対面させたという。慶長7年(1602年)には、子の秀頼によって本殿、拝殿などの社殿が大造営された。(本殿と南門が現存し、本殿は国の重要文化財) 
大坂城の鬼門除けの神社とされたことから、現在でも方除・厄除の神として信仰されている。また、これらのことにより、鬼は片埜神社の象徴・守り神とされている。絵馬や御朱印には鬼面が描かれており、節分の豆まきでは「鬼は内」と唱える。 
江戸時代までは「一宮牛頭天王」を正式名称としていたが、明治時代にかつての片埜神社に復した。明治時代に旧牧野村内の以下の神社を合祀した。
 
相撲1

  

日本古来の神事や祭りである。同時に武芸でもあり武道でもある(「弓取り式」の本来の意味から)。また古くから祝儀(懸賞金という表現)を得る為の生業(生きる手段)として選ばれた者によって大相撲という興行が行われている。近年では、日本由来の武道・格闘技・スポーツとして国際的にも行われている。 
相撲は日本固有の宗教である神道に基づいた神事であり、日本国内各地で「祭り」として「奉納相撲」がその地域住民により、現在も行われている。健康と力に恵まれた男性が神前にてその力を捧げ、神々に敬意と感謝を示す行為である。そのため礼儀作法が非常に重視されている。従って、力士はまわし以外は身につけない。その名残は現代の興行形式である大相撲にも見られる。古代から現代に至るまで皇室との縁は深い。 
他方で、格闘技として見れば、裸身(に極めて近い状態)で道具を用いず、つかみ合い、相手の体を倒しあうことを競うレスリング系統の競技である。英語では「Sumo(スモウ)」または「Sumo-Wrestling(スモウ・レスリング)」と表記される。類似の格闘技の中では、特に常に前に出て押すことを重視するところに特徴がある。 
日本国内外で同じような形態の格闘技としては、モンゴルのブフ、中国のシュアイジャオ、朝鮮半島のシルム、沖縄本島のシマ、トルコのヤールギュレシなどがある。それぞれ独自の名前を持つが、日本国内で紹介される場合には何々相撲(沖縄相撲(琉球角力)、モンゴル相撲、トルコ相撲など)、といった名で呼ばれることが多い。 
なお、日本では組み合う格闘技的な競技を総じて相撲と呼ぶ。用例には腕相撲、足相撲、指相撲などがある。他に、相撲を模して行われるものに紙相撲がある。

  

歴史 
相撲の起源は非常に古く、古墳時代の埴輪・須恵器にもその様子が描写されている。 
「古事記」の日本神話においては、建御雷神(タケミカヅチ)の派遣(葦原中国平定)の際、建御名方神(タケミナカタ)が、「然欲爲力競」と言った後タケミカヅチの腕を掴んで投げようとした描写がある。その際タケミカヅチが手をつららへ、またつららから剣(つるぎ)に変えたため掴めなかった。逆にタケミカヅチはタケミナカタの手を葦のように握り潰してしまい、勝負にならなかったとあり、これが相撲の起源とされている。 
「日本書紀」には、神ではなく、人間としての力士同士の戦いで最古のものとして、垂仁天皇7年(紀元前23)7月7日(旧暦)にある野見宿禰と「當麻蹶速」(当麻蹴速)の「捔力」(「すまひとらしむ」または「すまひ」と訓す)での戦いである(これは柔道でも柔道の起源とされている)。この中で「朕聞當麻蹶速者天下之力士也」「各擧足相蹶則蹶折當麻蹶速之脇骨亦蹈折其腰而殺之」とあり、宿禰が蹴速を蹴り技で脇骨と腰を折って殺したとされ、少なくとも現代の相撲とは異なるもので、武芸・武術であったことは明確である。宿禰は相撲の始祖として祭られている。 
「古事記」の垂仁記には、「ここをもちて軍士の中の力士の軽く捷きを選り聚めて、宣りたまひしく、その御子を取らむ時、すなわちその母王をも掠取れ。髪にもあれ手にもあれ、取り穫む隨に、掬みて控き出すべし。とのりたまひき。ここにその后、かねてかその情を知らしめして、悉にその髪を剃り、髪もちてその頭を覆ひ、また玉の緒を腐して、三重に手に纏かし、また酒もちてその御衣を腐し、全き衣の如服しき。かく設け備へて、その御子を抱きて、城の外にさし出したまひき。ここにもの力士等、その御子を取りて、すなはちその御祖を握りき。ここにその御髪を握れば、御髪自ら落ち、その御手を握れば、玉の緒また絶え、その御衣を握れば、御衣すなはち破れつ。」とあり、初めて「力士」(ちからひと・すまひひとと訓す)の文字が現れる。 
「記紀」には、景行天皇40年(110)に日本武尊が、大和国(現在の奈良県)の息吹山の神(豪族の長?)を素手で倒そうと、草薙剣を持たずに、素手で山に入ったことが記されている。 
「日本書紀」の雄略天皇13年(469)には、秋九月、雄略天皇が2人の采女(女官)に命じて褌を付けさせ、自らの事を豪語する工匠猪名部真根の目前で「相撲」をとらせたと書かれている。これは記録に見える最古の女相撲である 
「日本書紀」の皇極天皇元年(642)7月12日(旧暦)「乙亥饗百濟使人大佐平智積等於朝或本云百濟使人大佐平智積及兒達率闕名恩率軍善乃命健兒相撲於翹岐前」にあるとおり百済の王族の使者をもてなすため、健児(こんでい・ちからひと)に相撲を取らせたことが書かれている。 
「古事記」「日本書紀」以外にも「続日本紀」「日本後紀」「続日本後紀」「日本文徳天皇実録」「日本三代実録」「類聚国史」「日本紀略」「小右記」「中右記」等にも、相撲の記述が見られる。 
突く殴る蹴るの三手の禁じ手・四十八手・作法礼法等が神亀3年(726)に制定される。 
「萬葉集」の5巻に、天平2年(730)4月6日と、次の年(731)の6月17日に相撲をしたという記録がある。 
聖武天皇(在位724年-749)は勅令をもって、全国各地の農村から相撲人をなかば強制的に募集した。毎年7月7日の七夕の儀式に、宮中紫宸殿の庭で相撲を観賞したのである。こうした宮中における相撲の披露は、「天覧相撲」と称された。 
平安時代になると、相撲がすでに宮中の重要な儀式となった。毎年、定期的に「三度節」の一つとして「相撲節会」が行われた。相撲節会の儀式は、すなわち中国唐代の儀式をまねたものであった。三度節には、「射礼」と「騎射」、「相撲」の三つの内容があった。その規模は壮大で、豪華絢爛な催しであったとされる。 
宮中で行われた相撲節会のほかには、民間の相撲も大いに行われていた。一般の庶民による相撲は「土地相撲」、または「草相撲」と呼ばれていた。一方、「武家相撲」は武士たちの実戦で用いる組み打ちの鍛錬であり、また心身を鍛える武道でもあった。また「神事相撲」は、農作物の豊凶を占い、五穀豊穣を祈り、神々の加護に感謝するための農耕儀礼であった。宮廷相撲であり、民間の相撲である。武家相撲であり、庶民の相撲であるが、とりわけ「相撲節会」は、古代中国の宮廷で行われた角力が遣隋使・遣唐使の歴史以前にも往来があり、来渤海使も何度も日本へ赴いたなかで影響も推測される。 
「今昔物語集」などの当時の説話には、相撲節会におもむく全国各地の力士たちにまつわるエピソードが紹介されている。 
「吾妻鑑」によると源頼朝は、上覧相撲を開催している。 
鎌倉時代には、源頼朝が相撲を奨励した。御家人では畠山重忠が相撲の強者であったと伝えられる。曾我兄弟の仇討ちも、この頃に起きている。また、和田常盛・朝比奈義秀兄弟が奥州馬を巡って、相撲で競った逸話がある。 
正平年間、紀伊の粉河寺(現在の紀の川市にある寺)で書かれた「粉河寺寺務御教書」と言う書物によると、粉河寺周辺で毎年6月に行われる粉河寺祭の奉納相撲の祭札参加をめぐり、東村と荒見村との村同士の争いが起こった。 
室町時代以前には着衣で相撲を楽しむ庶民の絵などがあり遊戯としては土俵も無く着衣で行なわれていた。 
室町時代から、足利将軍家による上覧相撲及び諸国の大名達が相撲見物をするようになる。 
戦国時代には、織田信長が相撲を奨励した。また、信長は土俵の原型の考案者とされる。 
安土・桃山時代には、豊臣秀吉が文禄の役(1592)のおり、田浦(現在の広島県岩国市通津地区)に留まった時に、力自慢の家来をかき集めて上覧相撲を開催し、それ以後毎年地元で相撲大会を開いたと言う地元伝承があり、それを伝える碑が立っている。 
江戸時代から、職業としての大相撲が始まる。また座頭相撲とそこから派生した女相撲の興行も存在し戦前まで存続した。 
昭和11年6月相撲は尋常小学校の正課授業となった。 
昭和後期にはアマチュアの女子相撲(新相撲)が行われ「日本新相撲連盟」という組織が存在する。 
平成20年に日本ビーチ相撲連盟というアマチュアの組織が結成された。

  

神事 
相撲は神事としての性格が欠かせない。古くは大陸系から渡来した葬送儀礼としての相撲と、東南アジアから伝来した豊穣儀礼としての相撲があったと考えられるが、その性格は今となっては混在しているので区別は付けにくい。 
祭の際には、天下泰平・子孫繁栄・五穀豊穣・大漁等を願い、相撲を行なう神社も多い。そこでは、占いとしての意味も持つ場合もあり、2者のどちらが勝つかにより、五穀豊穣や豊漁を占う。そのため、勝負の多くは1勝1敗で決着するようになっており、また、和歌山県、愛媛県大三島の一人角力の神事を行っている神社では稲の霊と相撲し霊が勝つと豊作となるため常に負けるものなどもある。場合によっては、不作、不漁のおそれがある土地の力士に対しては、あえて勝ちを譲ることもあった。また、土中の邪気を払う意味の儀礼である四股は重視され、神事相撲の多くではこの所作が重要視されている。陰陽道や神道の影響も受けて、所作は様式化されていった。 
神事相撲例 / 唐戸山神事相撲:石川県羽咋市羽咋神社・延方相撲:茨城県潮来市延方鹿嶋吉田神社・琴平相撲:茨城県北相馬郡利根町布川琴平神社 
大相撲の神事 
江戸中期以降の大相撲は特に神道の影響が強く、力士の土俵入りの際に拍手をうち、横綱が注連縄を巻くようになったのは、相撲の宗家とされた吉田司家の許可に基づくものである。東京での本場所前々日には東京都墨田区の野見宿禰神社に日本相撲協会の幹部、審判部の幹部や相撲茶屋関係者が出席して、出雲大社教の神官によって神事が執り行われる。 
土俵祭 / 本場所の前日には立行司が祭主となって行なう祭事である。介添えの行司が清祓の祝詞をあげた後、祭主が神事を行い、方屋開口を軍配団扇を手にして言上する。この後、清めの太鼓として、呼び出し連が土俵を3周して式典が終わる。寛政3年(1791)征夷大将軍・徳川家斉の上覧相撲の際に吉田追風が「方屋開」として始めたものである。 
相撲場は明治中期まで女人禁制で、明治になるまで観戦することもできず、現在でも土俵上に女性が上るのを忌避している。

  

相撲の呼び方 
「すもう」の呼び方は、古代の「すまひ」から「すまふ」になり、「すもう」に訛った。「捔力」(「日本書紀」)、「角觝」(江戸時代において一部で使用)、さらに漢字制限(当用漢字、常用漢字、教育漢字)により前者の用字を一部改めた「角力」という表記も有る(いずれも読みは「すもう」)。古代には手乞(てごい)とも呼ばれていたと言う説も有る。(手乞とは、相撲の別名とされ、相手の手を掴む事の意、または、素手で勝負をする事を意味する。)大相撲を取る人は「力士」(りきし)や「相撲取り」といい、会話では「お相撲さん」とも呼ばれ、英語圏では「相撲レスラー」と呼ばれる事もある。

  

戦い方 
競技の形態としては、直径4.55m(15尺)の円形または四角形をした土俵の中で廻しを締めた2人が組み合って(取り組み)勝ち負けを競う。土俵から出るか、地面に足の裏以外がついた場合、もしくは反則を行った場合、負けとなる。その判定は行司(アマチュアでは主審と呼ぶ)が行う。相撲の取組は、伝統的に力士の年齢・身長・体重に関わらずに行われる。相撲司家の吉田家の故実では、禁じ手制定以前の相撲の戦い方について「相撲の古法は、突く・殴る・蹴るの三手である」と伝えられている。 
仕切り 
円形の土俵に入り、最初はやや離れて立ち、互いに顔を見合わせ、腰を落とし、仕切り線に拳をついて準備する。これを仕切りといい、立ち会いが成立するまで繰り返す。仕切りは何度行ってもよい(制限時間がある場合はその範囲で)し、繰り返さなくてもよい。1928年(昭和3)1月12日から日本放送協会のラジオ放送による大相撲中継がはじまった際、放送時間内に勝負を納めるため幕内10分、十両7分の制限時間設定とともに仕切り線が設けられた。現在の制限時間は幕内4分、十両3分である。 
立合い 
拳をついた状態から、互いに目を合わせ、両者同時に立ち上がり、ぶつかる。普通は正面からぶつかり合うものであるが、必ずしもそうしなくても良い。この、試合の始まりを立合いという。 
立合いは、世界では見られない、日本独自の方法である。その開始は、両者の暗黙の合意のみで決まる。仕切りを繰り返すうちに、両者の気合いが乗り、共にその気になった瞬間に立ち上がるのが本来の形で、行司は一般のスポーツのように開始を宣言するのではなく、確認するだけである。ただし、現実には時間制限などが設けられる。土俵に拳をつける立ち合いは江戸時代の元禄の大相撲力士の鏡山仲右衛門が始めたものが広まったものである。仕切り線ができたことにより発達した。これ以前は当時の写真をみればわかるとおり、立会いの距離制限がなく頭と頭をつけた状態から開始されることも多かった。 
勝ち 
相手の足の裏以外を土俵の土に触れさせた場合。投げて背中が着いても、引っ張って掌が着いても、極端な場合には相手の髪の毛が着いてもその時点で相手の負けが決まる。相手を土俵の外に出した場合。相手の体の一部が土俵の外の地面に着いた時点で勝ちが決まる。日本の相撲以外の多くの相撲系の格闘技は、レスリングにおけるフォールのように、相手の背中が地面に着かないと勝ちにならない。また、試合場の外に出ることを反則としても即座に負けと認める例も少ない。この二点のために、相撲は勝負がつきやすいと共に、勝敗の行方がデリケートである。体重制を取らなくても勝負が成立する理由の一つもここにある。 
攻め手 
離れた状態から、ぶちかまし・喉輪・突っ張り・張り手・足払い等の攻め手を用いる立ち合いにより、優位な状況をつくる。触れあった状態で押す。胸に手のひらを当てたり、まわしを握って押し出す。廻しを掴んで引き寄せあう。両者が同じ側(右と左)で横より後ろの廻しを取り合った場合、互いの手が交差するが、その際内側にある手を下手、外側にある手を上手という。急に後ろに引いたり、体を開くなどによって相手のバランスを崩す。相撲においては、まず押すことを良しとする。まわしを取った手は引くが、その場合でも体全体としては常に前に出ることを心がける。「引かば押せ、押さば押せ(相手が引こうが押そうが押せ)」との言葉もある。実際には引き落としなど引く技もあるが、ほめられない。また引かれた場合も引かれる以上の早さで前に出ることで攻勢を取るのが良しとされる。 
組み方 
力士同士のお互いの組み方として四つ身と言う組み方があり、右四つ・左四つ・喧嘩四つ・手四つ・頭四つ・がっぷり四つ等がある。 
決まり手 
勝敗が決したとき、それがどのような技によるかを判断したものが決まり手である。当然様々な場合があるが、公式な決まり手として、投げ・掛け・反り・捻りを中心にしたものがある。かつては四十八手といわれたが、現在では大相撲協会が77の技名と技でない決まり手5(勇み足など)を決めており、そのどれかに分類される。 
相撲の構え 
日本古来から伝わる「手合」と呼ばれる相撲の構えが江戸時代中期まであったが、現在まで、その名残として「三段構え」が存在する(手合と三段構えは世界中では見られない日本独自の構え)。力士が、「両手の手(拳)を土俵に付けてから立ち会う」事は、江戸時代中期の人物で紀伊出身の鏡山沖右衛門から始まった、これは、土俵を用いる相撲に適応し、徐々に浸透していった。現在まで伝わっている相撲の「追っ付けの構え」は、相撲の攻防に適した構えである。
 
相撲2

  

民俗学の見地からすれば、相撲は農業生産の吉兆を占う農耕儀礼=神事、ということになる。つまり稲作文化の発生と同時にそれはできたと言う事で、鵜呑みにすれば弥生時代以前からその祖型はあったということになる。民俗学の見地からすれば、相撲は農業生産の吉兆を占う農耕儀礼=神事、ということになる。つまり稲作文化の発生と同時にそれはできたと言う事で、鵜呑みにすれば弥生時代以前からその祖型はあったということになる。 
文献的には「日本書紀」に載っている宮廷の建児相撲の記事が最古だといわれている。これは百済からの使者を喜ばせるために行われたもので皇極元年のこととされている。 
更に遡って野見宿禰と当麻蹶速が力比べをしたのがその最初であるとする説もあるが、そうであれば垂仁天皇の時代になる。しかし、建御雷と建御名方が国譲のときにやっているという方もいる。どちらにしても相当古い話であるが、どのくらい今の相撲と近いか定かではない。しかし、ただの力比べならば象や牛でもやっていることで力比べ=相撲というわけではない。 
そもそも「相撲」の二文字は「本行経」という経本が初出で、当然の事ながら梵語で書かれていた。これを印度のお坊さんが漢訳する際、「力比べ競技(ゴダバラ)」を表す漢語が存在しなかったためにできた造語が「相撲」であった。「相方撲り合う」という意味であろうか。それが日本に入ってきて大和言葉「すまふ(争うというような意味)」にあてられた。どちらにしても、宗教的な意味付けをしなければ行為自体は喧嘩力比べとは大差がなかったということである。 
つまるところ相撲と力比べとを分かつ唯一の差異はその文化的背景の一転に収斂する。 
個人の肉体の優位性を競うものでなく、縄張り争いをするものでもなく、増してや相手を殺傷するために戦うのでもない。その年の収穫の出来不出来を占うものであれ土地を踏み鎮める呪術であれ、いずれ背景に別なものがあって、契約上争いは始まり契約に基づいて勝敗が決する。 
だから相撲は、儀礼と深く結びついてきた。神社仏閣、そして朝廷を抜きにして相撲の現在は語れない。 
神事相撲は神亀3年、聖武天皇が始めたものとされているが、これは古くから民間で行われていたものを朝廷が公式に取り上げた、と考えた方がいい。 
これら神事相撲の名残は、秋祭の奉納相撲などで窺うことが出来る。 
そして、奈良時代に入ると相撲は一種の神事を兼ねた余興と化し、朝廷によって全国津々浦々から猛者どもが集められ彼らは相撲人(すまいひと)と呼ばれた。相撲取り、おすもうさんのことである。 
平安時代にそれは一層盛んになり、相撲は相撲節会と呼ばれる宮中の一大イヴェントに発展した。40人程の屈強の相撲人と関係者一同が行列をなして紫宸殿に入城する様はまさに壮麗の一言に尽きたと伝えられる。 
ただ当時は土俵も行司もなく、転んだ方が、負けであった。 
相撲節会は高倉天皇の頃に絶えたというから、およそ三百年は続いたということになる。理由は宮中で相撲が飽きられたという訳ではなく、朝廷がスポンサーとして耐え切れなくなったというのが正解らしい。源平の戦いを機に権力の中心は公家から武家に移行していったのである。余興を続ける余裕が無くなったのだ。 
しかし宮中の節会は途絶えても、相撲は途絶えなかった。 
武士が権勢を握る世が到来すると、勇猛果敢な相撲は益々好まれ武将は武術として相撲を嗜んだ。力比べが呪術に、そして余興に転じ、さらに武術に転じた。公式の大会が催されることはなくなったが、力士は大名に召し抱えられて戦場に出陣し、一方で半ば職業化していた相撲人集団は全国巡業を始める。これが後の勧進相撲のルーツである。 
のみならず、民衆の間では盛んに草相撲が行われた。 
そして公式相撲作法が定められ、それを仕切る行司が登場する、相撲史上画期的といわれる織田信長の、天覧相撲が元亀元年より開始されたのだった。
 
神事相撲

  

石川県羽咋市・唐戸山神事相撲 
第11代垂仁天皇の皇子磐衝別命(いわつくわけのみこと)の遺徳をしのんで、その命日に相撲大会を催したのが始まりです。選びぬかれた加賀・越中・能登3州の力士が参加して、心・技・体を競い合います。 
「水なし、塩なし、待ったなし」といわれる、素朴で野性的な野相撲です。 
唐戸山相撲場は日本最古の相撲場と伝えられていますが、唐戸山は、山といっても、実際はすりばち状をなした小さな凹地で、昔、磐衝別命の陵墓を盛るために、ここの土を取ったことから、今のような特異な形になったといわれています。 
命は生前、相撲を好み、武勇を練るうえからもこれを奨励しました。 
唐戸山神事相撲は、羽咋神社の祭神・磐衝別命(いわつくわけのみこと)の命日に、若者が集まって相撲大会を催したのが始まりとされており、2000年以上の歴史を誇っている。四方にかがり火をたいた神聖な土俵では、約100人の力自慢が二手に分かれ、「水なし、塩なし、まったなし」の伝統作法で力闘を繰り広げた。結びの一番では、双方の代表が大関の座をかけて争ったが、習わし通り「同体」で引き分け、今年も2人の大関が誕生した。
妙成寺・きご相撲
大山祗神・一人相撲(角力) 
御田植祭(の前)と抜穂祭(の後)の際に行われる神事であり、大山祗神の神霊を慰め、豊作の祈願と感謝をするものである。この相撲は神様へ供えるご馳走の意味を持つ。 
この相撲は古くから伝わり、「三島文書大祝日誌」によれば、宝永4年(1707)5月5日と9月9日に相撲を取らせたとあり、また上浦町瀬戸の向雲寺住職慈峯が、享保20年(1735)に「端五(午)神事ノ節於宮浦邑ノ斎事有其内瀬戸ノ独リ相撲ト名乗ル儀式アリ」と記録している。 
相撲の行われる斎場には、正面に神輿三体が安置され、右に宮司以下の神官、奏楽員、巫女、早乙女等が控え、左には総代等が参列する。浦安の舞が終わると、侍烏帽子に素襖のいでたちの行司が、軍配を手にし、神前に一礼ののち、「こなた精霊」「かたや一力山」と呼び出す。 
土俵に上がった力士は行司の差す軍配とかけ声につれて、目に見えない精霊と取り組む。力士が独りで悪戦苦闘している姿はユーモラスに見えるが、目に見えぬ稲の精霊と懸命に取り組んでいる力士は真剣そのものである。三番勝負で精霊が2勝し、めでたくその年の豊年満作が約束される。 
目に見えぬ稲の精霊の威力を示すことで、豊作祈願と豊作感謝を表す。 
古くは一番勝負であったが、明治時代以降は三番勝負の新しい取り型が行われるようになった。民俗的に貴重な行事であり、県の無形民俗文化財に指定されている。
上賀茂神社・烏相撲1 
かつて神武天皇が熊野から大和国へ侵攻する際、深く険しい山越えに迷ったとき、上賀茂神社の祭神・賀茂別雷大神(かもわけ・いかづちのおおかみ)の祖父・賀茂建角身命(かもたけつぬみ・の・みこと)が3本足の八咫烏(やたがらす)と化(な)って先導し、無事大和に入ることができた功績により、山城国(やましろのくに)の北部一帯を賜ったが、上賀茂神社が創祀(そうし)されると、この八咫烏伝説と、稲などに不作をもたらす悪霊退治の信仰行事である相撲が習合して烏相撲という神事が生まれたという。 
重陽神事と烏相撲細殿の前に土俵を設け、刃祢がピョンピョンピョンと鳥飛びのユーモラスな所作をし、「カーカーカー、コーコーコー」と3回鳴き声を出したのち、氏子の子供たちの相撲が取られる。 
上賀茂神社・烏相撲2 
烏相撲は、9月9日の重陽の節句に上賀茂神社で行われる「重陽神事」のなかで催されます。この日は、葵祭の斎王代も参加され、細殿から相撲を見学。この細殿の前には、白い砂を三角錐にかためた「立砂」が二つ並んでいて、土俵はこの立砂の前に作られています。神事なので、相撲を奉納する子供達は、まず、境内の小川で足を清め、本殿にお参りしてから挑みます。裸足のまま、元気に参拝する子供達の足取りは、ワクワク感で弾んでます。烏相撲で有名なのが、勝負に先立って、土俵で行われる儀式。東西に分かれた、烏帽子に白張姿の二人の刀祢(とね)が、横っ飛びにピョンピョンピョンと跳ねながら何度も往復し、立砂の前に弓矢や円座を持っていき、そこに座り込んで、カラスのように「カアーカアーカアー」「コーコーコー」と鳴き真似をするのが有名なんです。それがすむと、今度は、子供達が、立砂の周りを8の字を描くように、3周します。真ん中を通る時は、正面の斎王代にぺこりと挨拶。ちょっと照れくさそうです。さあ、いよいよ、勝負です。禰宜方(ねぎかた)、左の祝方(ほうりかた)に分かれた各10名ほどの子供達は、白いフンドシをしめ、禰宜方はフンドシに赤い布をつけています。実は、前日の夜、「内取式」といって、烏相撲の予行練習がありました。これは、予選も兼ねていて、当日の東西の勝敗が偏らないように組み分けされます。なるほど、神事といえども、子供同士の勝負は、手加減なしの真剣勝負!やらせはできませんもんね。子供相撲を堪能した後は、延命長寿、若返り効果もある?菊酒がいただけます。菊の花びらを浮べたお神酒は、見た目にも素敵です。 
上賀茂神社・烏相撲3 
相撲の歴史を調べてみて分かった。その様子は埴輪にも残っており、平安時代には相撲節会(すまひのせちえ)なるものが宮中の儀式と定められ、七夕の節句に豪華絢爛に催されていたようだ。 
少々はしょり要約すると、相撲とは天下泰平・子孫繁栄・五穀豊穣・大漁等を願い、神前にて力を捧げ、敬意と感謝を示す古来よりの神事であったのである。奉納相撲はその名残で、現在の大相撲興行にも見られるように、勝者の舞を演ずる「弓取り式」や、地面の邪気を払う「四股(しこ)」も、その名残である。 
古墳時代より、公卿社会でも、武家社会でも相撲は重んじられ、昭和11年には小学校の授業に取り入れられている。現在の大相撲のように興行として行われだしたのは江戸時代からで、祭事神事として奉納相撲が行われていた時代の方が長いのである。 
折りしも、今日、上賀茂神社にて「烏相撲」なるものを見た。菊の被綿(きせわた)を本殿神前に供え祝詞が奏上され、細殿では十二単姿の斎王代を前に、地元の子供達による奉納相撲が行われたのだ。 
まさしく、相撲の原点を見せ付けられた思いで、目から鱗が落ちるとはこのことである。 
古来、上賀茂神社の氏子地域の住人を「烏族」と称していたところから、邪気を払う菊の節句に奉納されるこの相撲は「烏相撲」と呼ばれている。 
烏相撲と呼んでもカラスに相撲を取らせるわけではない。相撲は氏子少年力士達である。祈祷のあと本殿より場所が移され、斎王代は細殿に、宮司、権宮司は、その東西に着座する。 
次に、細殿の前庭にある西の立砂の前、東の立砂の前に別れて力士が座り、立砂の左より禰宜代(ねぎだい)、右より祝代(ほうりだい)と称する神職によって、勝利への呪術といわれる「地取」が行われ、本日の力士の差符(取組表)が奏上される。そして、烏が登場するのだ。それは、神官扮する烏帽子に白張姿の二人の刀禰烏(とねがらす)である。 
刀禰は祭具を幄舎(あくしゃ/覆い屋根)から順次持ち出し、烏の飛び跳ねる動作を真似て、横飛びでピョンピョンピョンと三々九度の跳びにて、弓矢と太刀を立砂に立て捧げた。そして、円座に腰を下ろし、西の禰宜方(ねぎかた)の刀禰が扇を使い、「カーカーカー」、「コーコーコー」と、続いて東の祝方(ほうりかた)の刀禰も同じように、「カーカーカー」、「コーコーコー」と、これも三々九度で烏の鳴き声を真似た。 
そのあと、刀禰が幄舎に弓矢と太刀を持ち下って、いよいよ少年力士の取り組みとなった。好天の下弾ける様な元気な少年力士の姿に、斎王代も思わず噴出していた。全ての取り組みが終わった正午過ぎには、参詣者に菊酒が振る舞われた。 
これらは、邪霊払いの儀式そのもので神事として行われ、奉納されているのである。今日ばかりは少年力士ではないのだと気づいた。言い直さねばなるまい。相撲童子なのである。 
この烏相撲は、上賀茂神社の祭神ゆかりの賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)の化身と語り継がれる「八咫烏(やたがらす)」の故事と邪気払いの相撲が結びつき、行われていると聞いた。 
重陽の節句に行われる無病息災、延命長寿、悪霊退散が祈願されるお祓いなのである。京都と相撲とは縁がないどころか、えらく縁の深いことが分かった。
山口神社・相撲神事 (島根県出雲市鹿園寺町) 
天正年間。天災からの救いの願いが叶ったお礼に、在所の城主が鎧、兜、矛を献上して神事式を執り行いました。これは、それを村人が受け継いで四百年も続けているという奉納神事です。神事には神社前の川を境に東西から2人ずつの氏子が頭人として選ばれ奉仕します。午後3時、ひととおりの祭典の後、氏子が4人、拝殿で下着姿となり川まで駆け下り禊をします。戻って着物や矛などを奉納する所作を行った後、赤い鎧を着用、相撲神事に移ります。といっても内容は型にはまった神事相撲。土俵の上でまわしを締めて組み合うものではなく、拝殿の畳の上でお互いの身体を鎧の上から二度ほどぶつけ合うだけのあっけないもの。
 

  

諏訪大社上社・十五夜相撲神事 (諏訪市中洲神宮寺・長野県諏訪市) 
古来諏訪神社の神事祭礼に行われてきた相撲が伝承されている。江戸時代の格式を守る相撲神事。古い手ぶりや甚句も残る。諏訪明神は古来より角界からの信仰が厚く、諏訪大社の神事には相撲がつきものであった。江戸時代に盛行。「永代四本柱土俵奉納免許」「永代櫓奉納免許」など、由緒格式が継承されている。弘化3年(1846)に、江戸相撲の追風門人、年寄・阿武松緑之助たちから「永代四本柱免許状」が奉納され、四本柱が建てられるようになり、公認の土俵になったとされる。 
十五夜相撲は、最も古い記録で文化14年(1817)のものが残る。高度成長期に一時中断したが、区民が保存会を結成、復活させた。青年力士が独特の甚句を響かせながら踊り、その一つの「胸たたき(関西甚句)」は、十五夜相撲が全国で唯一継承しているとされる。こうした点が高く評価され、県文化財に指定された。
奈良豆比古神社・神事相撲 
奈良豆比古神社(ならづひこじんじゃ)の秋の例祭の宵宮(10月8日夜)で翁舞が奉納され、9日本宮では中世以来受け継がれてきた相撲が奉納されます。 
相撲といっても実際に取り組んで勝敗を競うようなものではなく、「形(かたち)相撲」と言われるくらいで、形式的・芸能的な形態で行われます。もとは豊作を神様に感謝して奉納するのが神事相撲で、各地の秋祭りに見られますが形態はさまざまのようです。奈良豆比古神社の神事相撲は以下のとおりの、なんとも簡素な古式ゆかしい儀式でした。 
本殿と拝殿の間に篝火が焚かれ、拝殿の前に進み出た力士二人は神主から玉串を恭しく受け頭上にかざしてお互いに向き合います。神主が「見合って、見合って、ホーッオイ」の声を発して軍配ならぬ御幣を振り上げます。と二人の力士は別方向に一歩前進。二人の力士は交互に一歩前に進むたびに「ホーッオイ」と掛け声を交わしながら拝殿の外回りを廻ります。一周して神主の前に戻るや神主から「ハッケヨイ、ノコッタ」の声がかかり、さらに周回を続けます。拝殿の前部(賽銭箱の前)で力士がすれ違う、こうして拝殿を3周し、最後に力士は玉串を神主に返上して儀式は終わります。なお「ホーオイ」は「(稲の)穂が多い」の意。
相撲練り・子供の神事相撲 (愛媛県宇和島市) 
相撲といえば日本古来の伝統的競技。今では国技館等で行われる「大相撲」をすぐに連想するが、元来「競技」であるとともに、豊作祈願や除災招福の「神事」としての側面も持っている。相撲の起源を紹介する「日本書紀」垂仁天皇紀には、野見宿禰と当麻蹶速の相撲が相手をつぶす程の力強い足踏みであったことが記されているが、四股も、語源は醜足の略語で、踏みつけることによって邪霊を退散させ、安穏を得る意味があった。この呪的な動作が相撲の神事的要素の根本であり、後に様々な祭りや民俗芸能に相撲が取り入れられる要因ともなった。 
愛媛県内の民俗行事の中にも様々な神事相撲が伝承されている。有名な行事としては今治市大三島町の大山祇神社「一人相撲」(旧暦5月5日、9月9日)、宇和島市吉田町の八幡神社秋祭り(11月3日)の「卯之刻相撲」、西予市野村町の「乙亥相撲」(11月下旬)があるが、成年男子が中心となって行われる相撲であって、子どもは主役として関与はしていない。子どもが行う神事相撲となると、各所で年中行事の一つとして子ども相撲が行われている。現在でも実施されている所も多く、枚挙にいとまがないが、一例を挙げれば伊方町川之浜の盆相撲、八幡浜市大平の八朔相撲などがある。 
そして地域文化としての子ども相撲で特筆すべきは、南予地方の神社祭礼(秋祭り)の練り行列の一つに組み込まれている「相撲練り」もしくは「相撲甚句」と呼ばれる民俗芸能である。 
これは、化粧回しを着けた8-12名の子ども力士が円陣を組み、立行司の語る文句に合わせて踊るもので、演じる者は小学生である。神社の境内や御旅所で相撲を取ったり、祭礼の練り行列に加わったりするものであるが、この行事の分布は、後掲の図1のとおりである。大洲市上須戒・平地、同市長浜町出海、八幡浜市川名津・舌間・真網代、同市保内町川之石楠町、伊方町河内・川之浜・三崎、西予市三瓶町朝立・明浜町狩浜・高山・宇和町下松葉・伊延・野村町惣川、宇和島市三浦大内、鬼北町上鍵山、愛南町家串にあり、西宇和郡、八幡浜市近辺に多いという特徴がある。旧宇和島藩・吉田藩領内の分布がほとんどであるが、一部、旧大洲藩領内にも見られる。大洲市上須戒では、天保年間(1830-44)に、宇和島藩側から移入したと伝えられ、また、同じく大洲藩であった大洲市長浜町出海も、宇和島藩に隣接する位置にあり、宇和島藩側から伝習したと考えられる。 
「愛媛県の民俗芸能」によると宇和島市三浦大内では、天保15年(1844)に相撲練りが始まっていたことがわかる。また、西予市野村町惣川でも、祭礼に取り入れられたのが天保年間と伝えられていたり、西予市宇和町下松葉には嘉永元年(1848)に調達した墨書の残る力飯を入れる飯櫃(愛媛県歴史文化博物館保管)が伝存しており、江戸時代末期には南予地方各地に伝播していたことが確認できる。ただし、その伝播の要因や、相撲練り自体を南予で最初に始めた祭礼がどこであったかは不明である。なお、西宇和郡や八幡浜市では、明和6年(1769)に、八幡浜の八幡神社で始められたのが最初という説明がなされることが多いが、史料上では確認することができない。これらの点については今後の調査・研究を待たねばならない。 
現在の相撲練りの一例として八幡浜市保内町楠町のものを紹介しておきたい。この相撲練りは10月23日に八幡森神社の秋祭りで行われ、小学校3-6年生が務める。力士十名・大行司一人・小行司一人・旗持ち一人の計13人で構成される。行司は裃を着用して、白足袋に草履を履き、軍配と扇子を持つ。力士は襦袢を着て、腰には刺繍で装飾された化粧回しを着ける。午後の本祭りでは力士は太刀と傘を各自が持ち、力士は身長の順に上から、大関・関脇・中・男山・振出と呼ばれ練り歩く。行司は口上を披露したり、大関の弓取りも行われる。この本番のための練習は約1カ月前から厳しく集中的に行っている。 
南予の相撲練りは、唐獅子や鹿踊などの他の練り・芸能とは違って、大人数の子どもの参加が必要であり、過疎化・少子化の影響を直接に受けやすい。県指定無形民俗文化財の「柱松行事」を伝え、祭りの賑やかな八幡浜市川名津地区(天満神社)でも他の練り・出し物は盛況だが、相撲練りについては子どもの数が揃わず、平成8年から中断している。大洲市上須戒でも、かつては大元神社の氏子域である6地区の小学生(しかも長男)が10月26日に演じることになっていたが、少子化の影響で上須戒全域から小学生を出すようになり、昭和50年頃に上須戒地域内でも異なっていた祭日も25日に統一され、上演日も変更となった。それでも平成18年は子どもの数が足らず、本来12名で行うところを9名で行うこととなった。このままでは近い将来、継承・存続も危いということで、中学生を加えたり、行司役については女子に任せるという案も出て、議論が続いているという。 
西予市宇和町下松葉の「子供角力甚句」は10月9日の春日神社の秋祭り等で奉納されていたが、少子化の影響で平成5年頃から中断していたところ、下松葉子供角力甚句保存会の渡辺博会長の尽力により平成18年に衣裳も新調し、復活にこぎつける事ができた。渡辺さん曰く、子どもの数を揃えるのも一苦労だが、1カ月前から練習をするため、厳しい練習に耐えられない子どもも多い。単に厳しく教えるだけではなく、行事の意味を子どもにも親にも理解してもらいながらでないと続くものではないという。このように、各地で相撲練りを継承していくことは、地域でいかに子どもを育てていくかという「地域の教育力」の現代的課題と密接に関わっているようにも思えてしまう。 
余談ではあるが、大相撲のかつての横綱前田山英五郎(保内出身)、大関朝汐太郎(八幡浜出身)、そして現在の関取玉春日(野村出身)など、相撲練りが伝承されている地域から名力士が誕生しているのも偶然ではないだろう。幼い頃から地域に根ざした相撲文化に触れていたことも関係しているのかもしれない。
「泣き相撲」 
松尾大社の八朔祭と大原野神社の御田刈祭での、赤ちゃんが相撲をする「泣き相撲」。京都の泣き相撲は、大人が赤ちゃんを抱えて、土俵でシコを踏み、最後に土俵に寝かせて土をつけると、スクスク元気に育つという縁起ものの儀式です。赤ちゃんは1歳前後の男の子限定。母親から引き離され、知らない男の人に抱えられて、ほとんどの赤ちゃんは、泣きわめきますが、中には眠り続けていたり、平気な顔をしている豪傑も。土俵の上にしっかと足を踏ん張ってしまい、寝かせようとしてもゴムのようにビヨーンと反り返り、なかなか仰向けにできない赤ちゃんや、ハイハイで土俵から逃げ出そうとする赤ちゃんもいて、会場には、笑いが絶えません。大原野神社では、泣き相撲の前に、子供横綱の土俵入り(本殿前と土俵にて)や、神相撲の儀式が行われます。神相撲は、それほど太ってない大人二人が取り組み、最初は東が押し出し、続いて西が押し出すという「引き分け」式。取り組みの前には、二人で四方の柱にお神酒をかけたり、土俵の真ん中に盛られた白砂を、土俵一面にまんべんなく拡げたりします。この準備から、取り組みが終わるまで、二人はずーっと、白い紙を口にくわえたままです。人の息って不浄なんでしょうか。でも、なんだか、こちらまで息苦しくなりそうです。二人の力士(太ってないので力士という感じでもないんですが)は、赤ちゃんを抱っこして、シコを踏む役もこなします。赤ちゃんの人数はけっこう多いので大変そう。勝負?を終えた赤ちゃんには、鹿が描かれた「ちえ守り」を、榊につけて授与されます。そうそう、赤ちゃんのフンドシには、「祈・大原野神社・健」という文字が書かれていました。
平岡八幡宮・三役相撲 
「子供が大人に勝つ」神事相撲。地元の小学3年生(8歳)の男の子が、青年と取り組み、宙を振り回されたり、土俵際まで追い詰められたりしますが、最後には必ず勝つというユニークな相撲です。勝つことになっている子供が転びそうになると、慌てて対戦相手の大人が助けたりと、違う意味でのスリルを味わえるのが、また面白い。私が見に行ったときは、ライオンみたいな髪型の強そうな青年が、一人終わったらまた一人と、次々続く子供達を、持ち上げたり振り回したりと、大活躍で立ち回り、しまいにはフラフラになっているのが印象的でした。負かしちゃいけないってのも、案外難しそうです。
牟呂八幡社・神事相撲 (愛知県豊橋市) 
相撲神事では、行司と2人の力士は、白装束に烏帽子、口には紙でできたマスクのようなものをつけた姿。2人の力士をそれぞれ「山の神」と「海の神」に見立て、相撲をとるのです。この相撲神事は、もともと「年占い」の役目をしたもので、山の神が勝てば五穀豊穣(ほうじょう)、海の神が勝てば豊漁が約束されるとか。現在では、1勝1敗とし、豊作で豊漁の結果が出るようになっているそうです。
武良祭風流 (隠岐の島町中村) 
祭りの起源は、鎌倉時代、隠岐の総地頭に任ぜられた佐々木定綱が、自分の本国近江の国から日神・月神を迎え、五穀豊穣を祈願して始められたと伝えられています。 
元屋八王子神社に祀られている日天子と、中村一之森神社に祀られている月天子が、「武良郷」の飯美、元屋、中村、湊、西村の神々と一緒に、中村の会所(祭場)において出会い行われる祭りで、隔年の10月19日に行われます。 
両神社より使者を遣わして行列出発時刻(午前11時頃)が決まり、それぞれの神社から楽隊で会所に向かいます。到着すると、祭りのハイライトである陰陽和合を象徴する日神月神の互礼が御尊像を高く差し上げて行われます。また、甲冑をつけた行司の礼拝や裃の裾をからげ、赤い鉢巻をした若者が囃子と笛の合奏で舞いながら胴を打つ陰陽胴打ち、神相撲、浦安舞などが続き、流鏑馬を最後に祭りは終了します。 
次第 > 日天子・月天子の和合による礼 /行司拝礼(甲冑を付けた武者の拝礼)/陰陽胴打ち/神相撲(こずま・子どもによる相撲の舞)/占手(うらて・青年による相撲の舞)/浦安舞(うらやすのまい)/流鏑馬(やぶさめ)
隠岐古典相撲大会1 (隠岐の島町五箇) 
相撲が盛んなことで知られる隠岐島では、隠岐一ノ宮である五箇村の水若酢神社境内において、隠岐古典相撲大会が開催されます。一時途絶えた隠岐古典相撲は、昭和46年より隠岐古典相撲大巾会の発足によって復活し、全島挙げての大会を開催するまでに至ったものです。大会は、夕方からはじまり、夜を徹して、子供から大人まで、300番を越える取組が行われます。隠岐独特の「人情相撲」では、はじめの取組が終わると両力士は再び土俵に上がり、はじめの負力士はその相撲では必ず勝ちます。島の中で、お互いにしこりを残さないための生活の知恵がここにあります。 
翌朝、大会は各地区から選ばれた役力士の取組で最高潮を迎えます。これが終わると、土俵に飾れた杉の柱に役力士がまたがり、地元の人々にかつがれて、土俵から自宅まで凱旋行進します。隠岐では今も、その杉の柱が誇らしげに家先に飾られた光景を見ることができます。 
水若酢(みずわかす)神社創建は、崇神天皇の御宇、仁徳天皇の御宇など諸説ある。「隠州記」では、伊勢命神社を内宮、当社を外宮とし、崇神天皇の御宇、伊勢神宮からの勧請であるとする。「一宮大明神濫觴之事」という書では、仁徳天皇の御宇の勧請。境内の東隅、北隅に古墳があるらしい。 
隠岐古典相撲2 
慶事があった時のみに、隠岐島挙げて徹夜で行われる相撲を古典相撲という。近世の勧進相撲に起源があるとされることから宮相撲、取組の勝者に、土俵脇に立てられた四本柱が与えられることから柱相撲とも呼ばれている。 
古典相撲には幾つかの特徴がある。第一に三重土俵で取られること、第二に人情相撲と呼ばれ、勝負のしこりを後に残さないように勝負は1勝1敗の引き分けで終わること。第三に、個人としての勝負のみではなく、その力士を出した地域同士の勝負でもあること、第四に相撲自体が競技ではなくカミゴトと考えられていることである。カミゴトとして、地域の代表として取られる相撲、それが隠岐古典相撲である。  
鹿嶋吉田神社・延方相撲 (茨城県潮来市(旧行方郡潮来町)延方) 
江戸時代徳島一帯では漁場をめぐる紛争が絶えなかったのですが、1672年7月27日この紛争に江戸幕府の御評定があり、「水戸南領に属す」という裁決がありました。村人がこれを喜び合い1673年相撲祭を鹿嶋吉田神社に奉納して感謝したことにはじまり、江戸勧進相撲の格式をもって今日に伝えられ、現在は毎年7月の最終日曜日に開催されています。 
相撲は神社境内に築かれた土俵で「二番勝負」」「一番勝負」「新手二人がかり」「小三番」「大三番」など古式の取り組み四十八番がとり納められます。
琴平神社・琴平相撲 (茨城県北相馬郡利根町布川) 
9月の後半の休日に「琴平神社奉納相撲」が行われます。寛政7年(1795)から始められたといわれる伝統行事です。小林一茶も享和3年(1803)に布川を訪れた際、琴平相撲を見物し「正面は親の顔なり負け相撲」「べったりと人のなる木や宮角力」の句を残しています。
 
神事(しんじ、かみごと)

  

神に関するまつりごと、儀式。神前での祈りや神に伺いを立てることなどで、特定の宗教の神と結びついたものが多い。「じんじ」とも言った。 
宗教に従事する専業者が行うものと、一般民衆の行事になっているものがある。一般民衆の行事となるものには、生活に結びついた行事であり、農業、商売などそれぞれの生業に基づく現世利益、生活の安定を求めるものが多い。またこの場合、様々な宗教や土着の信仰などが合わさった行事が並列的、複合的に行われることも多い。 
神道における神事は「信仰そのもの」であり、行為のすべてが神事であるといっても過言ではない。古神道における自然物の神体や祠・塚や道祖神・地蔵などに手を合わせたり、感謝したり、お供え物を奉げれば、それら全てが「かんなぎ・神なぎ」であり、そのほかの古神道などが由来の庶民的な行事である祭や禊(みそぎ)・祓い(はらい)なども神事である。また、「詣で」の行い全てが神事であり、禊や祓いであるとされ、その身支度や往来や宿泊もそういった意味では神事になるともいえる。 
神社神道の生業としての神社の神職である神主や巫女によって行われるものは、日々の勤しみとしての祝詞や神楽がありこれらは祈りとしての祀りであり巫(かんなぎ)でもある、個人の祈願記念として祓いや地鎮祭などは、神社に依頼しされ神職によって行われる。神仏習合のや他の宗教との習合や影響で、神道の神事には密教・仏教を初めとし時には儒教など、特に道教の陰陽五行思想などを由来とするものもある。 
固有の生業(職業)に伝わる神事としては、一次産業とされる農林水産業に雨乞いや農耕(稲作信仰や米作りは神事)や漁り(いさり)や土地や海の豊饒(ほうじょう・肥える・栄養豊かな海)や収穫の豊穣(ほうじょう・実り豊か)や狩りとしてのマタギなどの神事として始まり、時代とともに「勤しみ(いそしみ)」や営み(いとなみ)が神聖視され、二次産業とされる加工業として鍛冶・たたらや酒造・醸造や建築・土木などの職業にも神事が行われるようになった。現在も作業の行程の節目で神棚などに、独自の儀式で神事を行う職業が多くある。 
普段、意識しないが、大相撲は皇室神道として天皇に奉げられる神事であり、相撲は神社神道として、その地域の五穀豊穣・無病息災などを祈願祈念したの神事である。 
神を供応する形式の祭では、依り代を立てて神を迎える行為や送る行為、神幸に関する行為、神饌を献ずる行為や直会などを神事とすることが多く、最も重要な神事は神職や巫女、稚児などが神意を伺う行為であることが多い。 
神意を伺う行為には間接的なものもあり、神前での相撲などの結果如何で吉凶を占う神事もある。このような行為の宗教的な意味合いは強く意識されていないが、同じようなものが多くあり、流鏑馬、競馬(くらべうま)などの競技や、物や動物を使ったものがある。 
演舞も神事であることが多く、神楽が神事舞の代表的なもので、巫女の舞、獅子舞などがある。このほか能楽などの伝統芸能にも神事の要素がある物が多い。
 
相撲は神事です

  

最近は、素行の悪さや品位の欠如が指摘されている某横綱の問題、弟子を暴行して死に至らしめ相撲協会から永久追放される事がほぼ確定的となった某親方の問題などがメディアを賑わせ、相撲全体に対してのイメージが著しく低下している感がありますが、私としては、これら一連の角界の不祥事の根底は、「そもそも相撲とは“神事”である」という認識が完全に欠落していた事にあるのではないか、と思っています。 
相撲とは神事である、という事を如実に物語っている文章が、神社新報社から発行されている広報誌「むすひ」(平成20年版)に掲載されていたので、以下にその文章の一部を転載させて戴きます。この文章は、現在はスポーツコメンテーターとして活躍されている舞の海秀平さん(現役時代の最高位は小結)のインタビュー記事です。ちなみに、以下の転載文中に出てくる「時津風日本相撲協会理事長」というのは、平成10〜13年まで相撲協会の理事長を2期4年務めて年寄名跡改革問題などで混乱した角界の収拾に当たった、新潟県出身の元大相撲力士・内田勝男さん(最高位は大関)の事で、今巷で騒がれている時津風某とは全くの別人です、念のため。 
「高校生の全国相撲大会は、伊勢の神宮で開催されるのですが、一県から一人しか選ばれないため、青森県には私より強い人はいっぱいいましたので出場は叶いませんでした。しかし大相撲に入ってからは、毎年春に伊勢で神宮場所がありましたから、何度か伊勢の神宮にお参りしましたが、いつも心が洗われるようにスカッとして気持ちが落ち着きますね。場所前には当時の時津風日本相撲協会理事長から相撲の歴史や宮廷との関わりなどの話を聞き「神様に奉納するという気持ちで相撲をおこないなさい」と教えられました。奉納相撲というのは、神様に見ていただく、御神慮を慰めるための相撲なんです。神社の相撲大会も、その土地で育った子どもたちが元気に相撲をとるのを神様に見ていただくわけです。 
(中略)相撲は神事ですから。各部屋の土俵も一年に3回ぐらい作りかえるんですよ。稽古場の俵をとって土を耕して、水をまいて、また叩いて、固めて、そこからまた新しい俵を入れて、真ん中に穴を掘って、行司さんがお祓いをし、穴の中にスルメや勝栗などの鎮物を埋めるんです。30-40分かかりますが、それは全員出席でやらなければいけない。そうしないと稽古は絶対しない。土俵祭もしないところでやるのはアマチュアの相撲というか、スポーツ感覚ですね。土俵創設は部屋を創設した時の最初の一回でいいのではないかと思ったんですが、必ず毎年やるんですね。相撲というのは神事であり、そこに勝負事がくっついているだけ。勝ち負けより精神的なものの方が強いんです。」 
当社でも、毎年秋まつりでは境内の土俵で「子供相撲」を行っていますが(冒頭に貼付の写真2枚参照)、相撲を始める前には、やはり神職が必ず神事(土俵の清祓い)を行っています(左の写真参照)。大相撲に於いても、行司は、下積み時代には掃除・洗濯・食事の支度等の雑用をこなすと共に、土俵入り前のお祓いの作法を習得し、更に祝詞奏上や発声の練習もする事になっています。 
そもそも相撲の起源を辿っていくと、鹿島神宮の御祭神として有名な武甕槌神(たけみかづちのかみ)と諏訪大社の御祭神として有名な建御名方神(たけみなかたのかみ)が力競べをしたという神話にまで遡る事ができ、また古代に於いては、相撲は豊作の吉凶を占う年占の農耕神事として行われてきたという歴史もあり、そういった経緯から、古くから相撲はお祭りの重要な要素とされてきたのです。 
平安時代には、宮廷では、天皇が出御して左右の相撲人に20番程の相撲を取らせる「相撲節会」が恒例行事として行われていましたが、これも、諸国の農耕を占う豊作祈願の意味が込められたものでした。その後、鎌倉時代に入ると相撲は専ら武士の鍛錬を目的に行われるようになり、庶民の間にも浸透していき、それが、現在の大相撲の直接の基盤となった勧進相撲へと発展していきました。 
つまり、現在の大相撲が“スポーツ”の一種である事は否定できませんが、それはあくまでも大相撲の一面に過ぎず、大相撲の土台となったのはやはり神事儀礼としての相撲であり、相撲の根底はあくまでも“神事”なのです。最近の角界の不祥事を見ると、当事者達にその認識があるのかどうかはかなり疑わしいですが…。 
ちなみに、諏訪大社で御船祭の最後に行われる「神相撲」や、日本最古の相撲場と伝えられている石川県羽咋市の羽咋神社で行われる「唐戸山相撲」、滋賀県野洲町の御上神社で随喜祭の夜に行われる「相撲神事」、愛媛県大三島町の大山祇神社のお田植祭で奉納される「一人相撲」などは、今でも純粋な神事儀礼として執り行われている相撲です。
 
古流相撲(古代相撲)

  

本朝武芸事始 / 垂仁天皇7年7月7日 
曲がった鈎を素手で伸ばすという大和の豪の者當摩蹶速(たいまのけはや)と出雲から来た勇士野見宿禰(のみのすくね)の一騎討ちの角力が天皇の御前で行われた。いずれも天下に名を轟かせた力士である。その勝敗の行方は誰にも予測できない、向かいあって立った二人の間に緊張が走る。次ぎの瞬間、二人はともに足を挙げて蹴り技を繰り出した。交差する二人の体。心技体に優る野見宿禰の必殺の蹴りが當摩蹶速のあばらを踏みくだいた。もんどりうって倒れる當摩蹶速。そのすきを逃さず野見宿禰はとどめの踏み蹴りを放ち、當摩蹶速の腰骨を踏みくじいて殺した。(「日本書紀」) 
この古流相撲がもののふ達の間で鍛錬のために行われていたのは間違いない。 
頼朝はたいそう落ち込んでいた。それを元気づけるべく、武士たちが考えたのが「巻狩に連れ出すこと」だった。その宴会の中で、若い連中に相撲を取らせようという話になった。幾番となく取り進んでいくうちに、登場したのは俣野五郎景久。この男は「すまひの大番つとめに都へのぼり、3年のあひだすまひになれ、一度も不覚をとらぬものなり。其ゆへに院・内の御めにかゝり、日本一番の名をえたる」大物である。31番を勝ち抜いた。しかしその行く手を阻まんものと、河津三郎祐泰が立ち上がった。河津は力一方で、技も何もない。いざ両人闘ってみると、河津は俣野の両腕を引っ掴み、そのまま捩じって膝を着かせてしまった。俣野は、「木の根に躓いた」とてもう一番挑んだが、今度は目よりも高く差し上げられ、そのまま叩きつけられてしまったのであった。(「曾我物語」) 
建久二年三月小三日、辛亥、鶴丘宮の法会、童舞十人箱根の垂髪、有り、又臨時祭、馬長(あげうま)十騎、流鏑馬十六騎、相撲十六番、幕下御参宮(巻11) 
建永元年六月小二十一日、辛未、御所の南庭に於て相撲を覧る、相州、大官令等候せらる、南面の御簾を上ぐ、其後各庭の中央に進みて、勝負を決す、朝光之を奉行す、向後相撲の事を奉行す可き由と云々 
一番三浦高井太郎三毛大蔵三郎鎮西の住人 
二番持波多野五郎義景大野藤八 
三番広瀬四郎助広相州の侍石井次郎義盛の近臣の侍、 
禄物有り、兼ねて廊根の妻戸の間に置かる、羽、色革、砂金等之を積む、事終りて後、左右に之を賜はる、勝負を論ぜず、悉く以て之を下さる、負方逐電すと雖も、之を召し返さると云々、(巻18)(「吾妻鏡」) 
建長6年(1254)閏5月1日、執権北条時頼が「近年、相撲などの武芸が廃れ」ていると慨歎し、武士を引っ張り出して相撲大会を催した 
ここに武蔵国住人、綴党の大将に太郎、次郎とて二人あり。 
ともに大力なりけるが、太郎は八十人が力あり、東国 
無双の相撲の上手、四十八手の取手に暗からずと聞こゆ(「源平盛衰記巻廿一小坪の戦の条」) 
この戦いに参加していた播磨国(はりまこく/兵庫県西部)住人の妻鹿孫三郎(めがまごさぶろう)という人は、薩摩氏長(さつまうじなが)の子孫であり、力は人に勝れ、器量は世を越えていた。12歳の春の頃から好んで相撲を取り始め、ついには日本60余国の誰を相手に、たとえ片手で相撲をとったとしても決して負けないようなレベルにまで達してしまった。(「太平記」) 
承安4年7月(1174) 高倉天皇相撲天覧/この後、400年におよんだ相撲節会の典儀はまったく廃絶する。 
安元2年12月(1176) 河津三郎と俣野五郎の相撲 
元亀元年3月(1570) 織田信長上覧相撲/近江国常楽寺において相撲上覧。勝者宮居眼右衛門に与えた弓が弓取りの始まりと伝えられる。 
そもそも我国における古き良き頃の合戦では正々堂々潔さを体現したじつに日本男児らしい一騎討ちが行われていたものである。この一騎討ちでは矢合わせ、太刀での斬りあいのあと組み討ちに至るのが一般的であったという。(「源平盛衰記」における藤平実光翁の証言より) 
太平記巻第九には設楽五郎左衛門尉と斎藤玄基翁の馬上組み討ちが記されている。 
その後、足軽等の出現等によりこの一騎討ちが廃れても日本の合戦においては組み討ちは重要な戦法であったのである。 
その理由は 
一、盾を使わない戦い方 
一、首狩りによる恩賞システム 
に起因すると思われる。 
このように我が国独特の合戦方法の中で組み討ちというのは重要な戦法の一つであったのである。 
さて、この組み討ちのために武士の間で相撲が行われていたのはあきらかである。 
「甲冑の戦いは十度に六、七度組み討に至ることは必定なり。」 
「往古の武士の相撲を修行せしことここにあるなり。」(木村柳悦守直撲「角力取組伝書」延享二) 
それではこの野見宿禰からの伝統を持つ古流相撲とは一体いかなるものであったのだろうか?同じく「角力取組伝書」には慶長年間の相撲行司岩井播磨がこの古流相撲について語った言葉が述べられている。 
「近年、相撲に土俵というものを用い、あるいは膝をつき、指をつくを見て負けと定む。かくの如きは古来あらざることにして、新法なり。古法には、膝をつき、手をつき、尻腰など落ちても、詰まりをよく勝ち、敵を働かせざるを勝とす。故に古来の四十八手のうち、反りの図にては尻腰などをつきたる者にて勝ちとなりたる例多く見えたり。畢竟相撲は組み討の一助たり。なお、また相撲の勝負詰めには、組み伏せられては跳ね返して勝つ。これ遊興の芸にあらず」 
古流相撲で当身が用いられていたのは野見宿禰の相撲の様子を見ればわかることであるが、それがいつ頃までどのような形で用いられていたのかは定かではないが、江戸期の相撲伝書には当身の急所が示されているものがあり、かなり遅い時期まで当身を用いた相撲が行われていたとも考えられる。現在の相撲の張り手はこの当身の変化したものである。 
このように土俵がなく寝技もありであった古流相撲には筋肉隆々の力士達が激しい戦いを繰り広げていたのである。その後、この相撲は現在の大相撲へと変化していくのであるが、一方では戦場での組み討ち技術を残す柔術、鎧組み討ちとして武士の間で行われていき、伝承されてゆくことになったのである。
 
相撲甚句

  

相撲甚句1 
相撲甚句は江戸時代の享保年間に流行歌として定着しました、一般的には甚句というと、民謡の秋田甚句、米山甚句、木更津甚句等が有名です。 
一方角力甚句は幕末明治時代に花柳界で流行した本調子甚句、二上り甚句を相撲取りが座敷で覚え地方巡業で流行らせた様ですが、この角力甚句から名古屋甚句、熊本甚句、そして隠岐相撲取り節等があります。 
この様に相撲甚句とは、単に相撲取りが花相撲とか、地方巡業で唄うだけでなく日本各地の民謡との係わりが深いようです。 
お相撲さんが土俵の上で化粧回しをして唄っているものですが、独特な節回しと歌詞が、相撲ファンに親しまれて伝わってきました。時代と共に土俵の上の甚句も変わってきて、最近はのど自慢の力士が得意の声で唄い聞かせる様になってきました。 
近年では甚句独特の哀愁のある節回しが一般の人達にも受けて全国に相撲甚句会が結成され、北は北海道から南は九州まで、全国で約70団体1,000人以上の会員があり毎年全国大会も開催されています。 
種類と形式 
相撲甚句には大きく分けると、「まくら唄」「本唄」「はやし唄」になっています、「まくら唄」は「本唄」の前に唄う短い唄の事で、「前唄」「後唄」になっていますが唄い方は同じです。 
本唄も歌詞はいろいろありますが節回しは同じです。 
甚句は民謡や小唄、端唄と違って鳴り物がありません、アードスコイ、ドスコイではじまり「前唄」「後唄」「本唄」「はやし唄」「本唄」「はやし唄」の順に唄っていきます。 
甚句は小唄、端唄、民謡とは違って楽器がありませんので、ドスコイ、ドスコイとホイだけで唄うことから、バス旅行やら忘年会、結婚式の披露宴等ではとても喜ばれています。
 
相撲甚句2 
邦楽の一種。大相撲の巡業などで披露される七五調の囃子歌である。 
歌詞は7、7、7、5の甚句形式。土俵上で力士5〜7人が輪になって立つ。輪の中央に1人が出て独唱する。周囲の力士たちは手拍子とどすこい、ほい、あ〜どすこいどすこいといったような合いの手を入れる。起源、発祥についての定説は無いが、享保年間には流行歌として定着したものと見られている。現在では、相撲教習所の教養科目として必須科目に取り入れられている。 
有名な物は「花づくし」「山づくし」「出世かがみ」である。そして最後に「ごあいさつ」で締めくくる。  
 
相撲甚句3 
相撲甚句は、江戸の幕末のころからはじまったといわれております。越後(現在の新潟)の甚九という人が、甚句(地句)を作ったといわれ、盆踊りから転化して、米山甚句・博多甚句・名古屋甚句となりました。節は地方によって異なっておりますが、相撲甚句は名古屋甚句が元であるといわれています。相撲甚句は幕末から明治中期の頃までは、七・七・七・五の四句で、都都逸のように短い四節で歌われていたようです。その後、名古屋甚句の影響で今のように長くなったようです。これが花柳界で流行し、本調子甚句・二上がり甚句を相撲取りが お座敷で覚えて 巡業で流行らせました。名古屋甚句・熊本甚句(おてもやん)・会津磐梯山・隠岐島の相撲取り節などが出来たようです。地方巡業で、三味線や太鼓の伴奏も無く、手拍子だけで「ドスコイ・ドスコイ」という合いの手だけ素朴な唄は相撲独特の情緒を醸し出し、いつまでも耳に残り、日本の郷愁でもあります。  

  

相撲甚句1 
前唄 
そろうたヤ揃いました 相撲取り衆が 稲のヤ出穂より なおよく揃うた 
富士の白雪 朝日でとける 娘ヤ島田は 情けでとける 
安芸のヤ宮島 回れば七里 うらはヤ七うら 七えびす 
土俵のヤ砂付け 男を磨き 錦をヤ飾りて 母待つくにへ 
後唄 
さらばヤ ここいらで唄の節をかえて いつもヤ 変わらぬ相撲取り甚句 
ご祝儀結婚 / 本唄 
目出た目出たの若松さまはヨー アードスコイ ドスコイ 
真砂 高砂 御席は このたびご縁がありまして 
(新郎の姓)(新婦の姓)ご両家が 深いちぎりのご婚礼 
松竹梅に彩られ (新郎の名)さんには(新婦の名)さん 
お若い二人が結ばれて 両家も千秋万々歳 
福寿の宴はご親族 お友達やら皆様の 
心からなるご祝辞に 鶴は千年亀万年 
長い人生末広の いついつまでもの幸せを 
挙げてお祝いヨーホホイ 申しますヨー アードスコイ ドスコイ 
はやし 
アー三間間口の蔵よりも 良い嫁もったが一生の得だよ  
親達喜び親達ばかりか 子孫も栄える アードスコイ ドスコイ  
花づくし 
花を集めて甚句にとけばヨー  
正月寿ぐ福寿草 二月に咲くのが梅の花  
三月桜に四月藤 五月あやめにカキツバタ  
六月牡丹に舞う蝶や 七月野山に咲く萩の  
八月お盆で蓮の花 桔梗かるかやおみなえし  
冬は水仙玉椿 あまた名花のある中で  
自慢で抱えた太鼓腹 しゅすの締め込みバレン付き 
雲州たばねの櫓ビン 清めの塩や化粧紙 
四股ふみならす土俵上 四つに組んだる雄々しさは 
これぞ誠のヨーホホイ アー国の華ヨヨー アードスコイ ドスコイ 
はやし 
アー相撲負けても下駄さえ履けば 勝った勝ったと音がする 
アーカッタ カッタ アードスコイ ドスコイ 
数え唄 
一から十まで甚句にとけばヨー アードスコイ ドスコイ  
アーものの初めを一という 車に積むのを荷という  
女の大役産という 子供の小便シィーという  
碁盤の上で白黒競うを碁という 昔の侍禄という 
ものの出し入れ質という 泣きっ面には蜂という 
貧乏するのを苦という 焼きごてを水にいれたら ヨーホホイ  
アージューというよ アードスコイ ドスコイ  
はやし 
アー人の女房と枯れ木の枝は のぼりつめたら末恐ろしや  
親子は一世で夫婦は二世で 主従は三世で 間男はよせよせ  
名古屋の犬 
尾張名古屋のお城の下でヨー  
アー犬が三匹集まって 何やらヒソヒソ話する  
そこで赤犬申すには 近頃名古屋も不景気で  
私ゃお江戸に出稼ぎに 続いて黒犬申すには  
私ゃ浪花へ出稼ぎに 残った白犬申すには  
私ゃどこにも行きやせぬ そりゃ又なぜかと問うたなら   
世のざれ唄にもある通り 伊勢は津でもつ津は伊勢で  
尾張名古屋はヨーホホイ アー(白)城でもつヨー アードスコイ ドスコイ 
はやし 
アー犬は本当に面白い そこに居るのに居ぬという  
三匹いてもワンとう 白い犬は尾も白い 面白い  
アードスコイ ドスコイ 
交通安全 
時は流れる車は走る ヨー アードスコイ ドスコイ 
アー近頃表に出たならば 車の多い世の中よ ホイ 
右と左に注意して 子供に老人気を配り ホイ 
青色信号見定めて 横断歩道を歩くこと 
朝に笑顔で出た人が ホイ  
夕べに涙の時もある わずか一秒の油断から ホイ 
一生治らぬ怪我をする 酒飲み運転せぬように 
シートベルトもかける事 ホイ  
チャイルドシートも忘れずに 道行く人も皆様も ホイ 
交通規則をヨーホホイ アーよく守れ ヨー  
はやし 
アー荷車 歯車 乳母車 ホイ  
乗っちゃいけない口車 ホイ  
電車に 自動車 三輪車 ホイ  
でたらめ言うのが 易者 易者 アードスコイ ドスコイ 
アー今夜も二人で四つ相撲 
どちらがガブルか かばい手か 
内がけ外掛け 腰砕け 
よけいな事だよ ホットケ ホットケ アードスコイ ドスコイ  
鶴と亀 
鶴と亀との縁談話ヨー  
アー鶴さん亀さんにプロポーズ 亀さんすげなく断った ホイ  
そこで鶴さん申すには 首の長いのが嫌なのか ホイ  
口の長いのが嫌なのか 足の長いのが嫌なのか  
そこで亀さん申すには ホイ  
首の長いのは嫌じゃない 口の長いのも嫌じゃない ホイ  
足の長いのも嫌じゃない 世の諺にもあるように  
鶴は千年亀万年 ホイ  
もしもそなたが死んだなら 九千年ものわしゃ後家よ ホイ  
それが悲しゅてヨーホホイ アー添わりゃせぬ ヨー アードスコイ ドスコイ 
はやし 
アーお前百まで わしゃ九十九まで あたまつるつる 入れ歯でかめかめ  
江戸の花 
ままになるなら横綱張らせヨー アードスコイ ドスコイ  
廻しの模様は隅田川 百本杭には都鳥 ホイ 
東雲鴉が二羽三羽 かすかに見えるは富士の山 ホイ 
ストトコトンと打ち出す太鼓は 向こう両国国技館 
明日は初日のことなれば 主さんと地取りがヨーホホイ 
アーしてみたいヨー アードスコイ ドスコイ 
西行法師 
ハアー エー 西行法師が初めて東に下るヨー ハアー 
尾張の国で名も高き 熱田の宮にと参詣する 
西を向いても風が来る 東を向いても風が来る 
こんなに涼しいこの宮を だれが熱田と名をつけた 
そこへ神主飛んできて もしもしそこなる法師殿 
西に行く人なぜに東に下るかと 言えば法師の申すには 
一羽の鳥でもニワトリと 一本立てても線香という 
一つのものでも饅頭と 一枚の紙でも半紙という 
白という字も墨で書く  赤く咲いたるあの花を 
だれが葵とヨーホホイ ハアー 名をつけたヨー 
当地興行 
ハァー ドスコイ ドスコイ ハァーエー 
ハァー ドスコイ ドスコイ 当地興行も 本日限り ヨー 
ハァー ドスコイ ドスコイ ハァー  
勧進元や 世話人衆 お集まりなる 皆様よ 
いろいろお世話に なりました お名残惜しゅうは 候(そうら)えど 
今日はお別れ せにゃならぬ 我々発ったる その後も 
悪い病(やまい)の 流行らぬよう 陰からお祈り いたします 
これから我々 一行も しばらく地方ば 巡業して 
晴れの場所にて 出世して またのご縁が あったなら 
再び当地に 参ります その時ゃ これに 勝りし ご贔屓を 
どうか ひとえに ヨーホホホイ ハァー 
願います ヨー ハァードスコイ ドスコイ 
はやし 
ハァ せっかく馴染んだ皆様と 今日はお別れせにゃならぬ 
いつまたどこで会えるやら それともこのまま会えぬやら 
思えば涙が パラーリ パラリと ハァー ドスコイ ドスコイ

  

相撲甚句2 
前唄 
アードスコイ ドスコイ 土俵のヤー 砂つけ 男を磨く 
錦をヤー 飾りて 母待つ国へ アードスコイ ドスコイ 
前唄 
アードスコイ ドスコイ そろおたヤー 揃いました  
相撲取り衆が 稲のヤー 出穂より 尚よく揃うた 
アーアドスコイ ドスコイ 
後唄 
さらばヤー ここいらで 唄の節を変えて 
いまもヤー 変わらぬ 相撲取り 甚句 
アードスコイ ドスコイ 
東京名所 
アードスコイ ドスコイ アアーアアアエー アードスコイ ドスコイ 
東京名所を甚句にとけばヨー アードスコイ ドスコイ 
アアーアア 芝か上野か浅草か  春は花咲く向島 ハイ 
隅田川には都鳥 三十六間かけ渡し ハイ 
あれが名代の両国か ひときわ目に立つ国技館 
千代に 八千代に ヨーホホイ 
アアアーア 二重橋ヨー アードスコイ ドスコイ 
はやし 
目元パッチリ色白で 髪はカラスの濡れ羽色 
立てば芍薬座れば牡丹 歩く姿は ゆりの花 
この頃世の中不景気で 舞台の上の旦那衆  
いつも懐は文無しで  立てば借金座れば家賃 
歩く姿は 質屋へ 御使い御使い  アー ドスコイ ドスコイ 
花づくし 
アー ドスコイ ドスコイ アアーアアアエー アードスコイ ドスコイ  
花を集めて甚句にとけばヨー アー ドスコイ ドスコイ 
アアーア正月 寿(ことほぐ) 福寿草  二月に咲くのが梅の花 ハイ 
三月桜や四月藤  五月菖蒲(あやめ)にかきつばた ハイ 
六月牡丹に舞う蝶や七月野山に咲く萩の  八月お盆で蓮の花 ハイ 
桔梗、かるかや、女郎花(おみなえし)  冬には水仙玉椿 ハイ 
あまた名花のある中で 自慢で抱えた太鼓腹  繻子(しゅす)の締め込みバレン付き ハイ 
雲州束ねの櫓鬢 清めの塩や化粧紙 ハイ 
四股踏みならすは土俵上 四ツに組んだ留る雄々しさは 
これぞ 誠のヨーホホイ  アアアーア国の花よ  アードスコイ ドスコイ 
はやし 
アーその声聞かせて十日も病ませて 二十日も看病に行きたい行きたい 
アードスコイ ドスコイ 
ノミとシラミ 
アー ドスコイ ドスコイ アアーアアアエー アードスコイ ドスコイ  
チョイト出ましたお笑い噺ヨー アー ドスコイ ドスコイ 
アアーアノミとシラミが喧嘩して  そこでシラミの言うことにゃ ハイ 
わしは学校の先生で読み方嫌いな生徒でも ハイ 
書き方知らない子どもでも  わしが食いつきゃかきたがる 
そこでノミめが腹を立て ハイ 
わしは天下の色男どんな大家の娘でも ハイ 
「亭主が死んで十五年」  どんなにお堅い後家さんも 
わしがー食いつきゃヨーホホイ  アアアーア帯を解くよ  アードスコイドスコイ 
はやし 
あー人の女房と枯れ木のえだは 登りつめたら末おそろしや 
親子は一世で夫婦二世で 主従三世で 間男よせーよせ(四世) 
アー ドスコイ ドスコイ 
一人娘 
アードスコイ ドスコイ アアーアアアエ アードスコイドスコイ 
一人娘を嫁にとやるにゃよー アードスコイ ドスコイ 
アアーア 箪笥(たんす)長持ちはさみ箱  あれこれ揃えてやるからにゃ ハイ 
二度と戻るな出てくるな そこで娘の云う事にゃ ハイ 
父さん母さんそりゃ無理よ西が曇れば雨とやら  東が曇れば風とやら ハイ 
千石積んだる船でさえ港を出るときゃまともでもハイ 
風の吹きよで出て戻る ましてや私は嫁じゃもの 
ご縁が なければ ヨーホホイ  アアアーア出て戻るヨー  アードスコイ ドスコイ 
はやし 
あー釣りにもいろいろ有りまして 海釣り川釣り池の釣り 
相撲の手ならつり出しか 昔おか釣り 今ナンパ 好いたあの娘は 
つれないつれない アーアドスコイ ドスコイ 
浮き雲 
アーアドスコイ ドスコイ アアーアアエー アードスコイ ドスコイ  
勝てば極楽 負ければ地獄よー アードスコイ ドスコイ  
アアーアとかく浮き世は罪なとこ  負けちゃならぬと思えども ハイ 
俺もやっぱり人の子か 流れ流れる浮き雲に ハイ 
ゆくえ定めぬ旅空で  遠い故郷(ふるさと)想うたび  熱い涙がついほろり ハイ 
とゆうて戻れる訳じゃなし  ここが我慢のしどころよ ハイ 
どんと 大地を踏みしめて  一押し二に押し三に押し  
押せば 芽も出るヨーホホイ  アアアーア花も咲くよー  アードスコイ ドスコイ 
はやし  
あー囲炉裏の端の居眠りは 番随院長兵衛じゃネエけれど 
サアサー顔役 かおやく アードスコイ ドスコイ 
数え歌 
アードスコイ ドスコイ アアーアアエー アードスコイ ドスコイ  
一から十まで甚句に詠めばよーアードスコイ ドスコイ  
アアーア ものの始めを一と云う  車に積むのを二(荷)と云う ハイ 
女の大厄三(産)と云う  子どもの小便四(シー)と云う ハイ 
「碁盤の上で」白黒競うを五(碁)と云う  昔の侍六(禄)と云う ハイ 
物の出し入れ七(質)と云う  泣きっ面に八(蜂)と云う ハイ 
貧乏したとき九(苦)と云う  焼きゴテを 水に入れたらヨーホホイ  
アアアーア 十(じゅうっ)と云うよー  アーアドスコイ ドスコイ 
はやし  
あー侍川におっこちた どこから先に浮いてきた 
足から先に浮いてきた サーサー足軽 足軽 
アードスコイ ドスコイ 
鶴と亀 
アードスコイ ドスコイ アーアアアエー アードスコイ ドスコイ  
鶴と亀との縁談話ヨー アー ドスコイ ドスコイ 
アアーアアア鶴さん亀さんにプロポーズ  亀さんすげなく断った ハイ 
そこで亀さんの申すには  首の長いのが嫌なのか 
口の長いのが嫌なのか  足の長いのが嫌なのか 
そこで亀さん言うことにゃ 首の長いのも嫌じゃない 
口の長いのも嫌じゃない  足の長いのも嫌じゃない 
世の諺にもある有るとおり  鶴は千年亀万年 ハイ 
もしもそなたが死んだなら  九千年のわしゃ後家よ 
それが悲しゅてヨーホホイ  アアアーア添わりゃせぬヨー  アーアドスコイドスコイ 
はやし  
あー人の女房と枯れ木のえだは 登りつめたら末おそろしや 
親子は一世で夫婦二世で 主従三世で 間男よせーよせ(四世) 
アー ドスコイ ドスコイ 
博多名所 
アードスコイ ドスコイ アアーアアアエー アードスコイ ドスコイ  
博多名所を甚句にとけばヨー アードスコイ ドスコイ 
アアーアアア黒田は五十と二万石  水も囁く那珂川で ハイ 
中州ネオンは恋の街 遥かに望は日蓮が ハイ 
その名も高き千代の松 人出賑わうドンタクや  祇園祭りの山笠や ハイ 
うたで知られた黒田節  筑紫の山をば背に受けて   今宵偲ぶは大濠で ハイ 
小船が通う志賀の島 玄界灘の荒波に 
櫓太鼓の音をのせて 相撲は 博多のヨーホホイ 
アアアーアア 本場所ヨー  アーアドスコイドスコイ 
はやし  
目元パッチリ色白で 髪はカラスの濡れ羽色  
立てば芍薬座れば牡丹 歩く姿は ゆりの花 
この頃世の中不景気で 舞台の上の旦那衆 
いつも懐は文無しで 立てば借金座れば家賃 
歩く姿は 質屋へ 御使い御使い アー ドスコイ ドスコイ 
御祝儀結婚 
アードスコイ ドスコイ アアーアアアエー アードスコイ ドスコイ  
めでためでたの若松様よ アードスコイ ドスコイ  
アアーアアア真砂高砂 御席は  この度ご縁が有りまして ハイ  
何々(新郎の姓)何々(新婦の姓)ご両家が  深い契りのご婚礼 ハイ 
松竹梅に彩られ何々(新郎の名前)さんには何々(新婦の名前) 
お若い二人が結ばれて ハイ 
両家も千秋万々歳 福寿の宴は ご親族 ハイ 
お友達やら皆様の 心からなるご祝辞に  鶴は千年亀万年 ハイ 
長い人生 末広のいついつまでもの幸せを 
挙げてお祝いヨーホホイ アアアーア申しますヨ  アードスコイ ドスコイ 
はやし  
一貫、二貫は やかんの手  鍋 釜こするはおさんの手 
白壁塗るのは左官屋の手 夜中に手を出すあんちゃんの手 
その手を見たなら 黙ちょれ 黙ちょれ アードスコイ ドスコイ  
豆腐や 
アードスコイ ドスコイ アアーアアアエー アードスコイ ドスコイ 
今度この町(ちょう)に豆腐やが出来たよ アードスコイ ドスコイ 
アアーアア そこで豆腐の言う事にゃ  わしより因果なものはない ハイ 
朝は早ようから起こされて  水攻め火攻めに遭わされて ハイ 
水攻め火攻めはよけれども  一丁二丁の刻み売り ハイ 
後に残りしおからまで  一銭二銭のつかみ売り ハイ 
親はどこよと 尋ねたら 親は畑でヨーホホイ  アアアーア豆でいるよ 
アードスコイ ドスコイ  
はやし  
くにゃくにゃ くにゃくにゃ コンニャクは 
お味噌を付けたら田楽で 何にも付けなきゃ倹約 倹約 
アードスコイ ドスコイ  
身延さんと金比羅さん 
アーアドスコイ ドスコイ アアーアアアエ アーアドスコイドスコイ 
身延さんと金比羅さんが 「日本銀行へ」金かり行けばヨー 
アーアドスコイ ドスコイ 
アアーアそこで銀行の云う事にゃ  身延さんには金貸さぬ ハイ 
金比羅さんにも金貸さぬ  それで二人が腹を立て ハイ 
そりゃ又なぜにと問うたなら  聞けば銀行の云う事にゃ ハイ 
身延さんなら甲斐の国  金比羅さんなら讃岐の国 
甲斐、讃岐(かいさぬき)の人には  ヨーホホイ アアアーア 金貸さぬヨー 
アー ドスコイドスコイ 
はやし 
くにゃくにゃ くにゃくにゃ コンニャクは  
お味噌を付けたら 田楽で 何にも付けなきゃ 
倹約 倹約 アードスコイ ドスコイ 
立つ物づくし 
アーアドスコイ ドスコイ アアーアアアエ アーアドスコイドスコイ 
立つ物集めて甚句にとけばヨー アーアドスコイ ドスコイ 
アアーア正月 門(かど)には松が立つ 
「二月初午(はつうま)」 お稲荷さんでのぼり立つ ハイ 
三月節句で雛が立つ 四月八日に釈迦が立つ ハイ 
五月は男の節句で鯉が立つ 六月祇園に御輿立つ ハイ 
七月七夕さんで笹が立つ 八月お盆で仏立つ ハイ 
九月は秋風吹くのでほこり立つ 十月出雲に神が立つ ハイ 
十一月もはや立って十二月ともなったなら 
どこの家でも同じ事 借金取りが門に立つ ハイ 
借りた憶えはあるけれど 
返す時にはヨーホホイ 
アアアーア腹が立つヨー アードスコイ ドスコイ 
はやし 
アー立って良くない事もある 奈良の大仏座ってる 
横になるのは涅槃像 あの世にたったら お釈迦お釈迦 
アーアドスコイ ドスコイ  
島づくし 
アーアドスコイ ドスコイ アアーアアアエ アーアドスコイドスコイ 
島を集めて甚句にとけばヨー アーアドスコイ ドスコイ 
アアーア日本三景その中で  芭蕉が句に詠む松島や ハイ 
後神火懐かし大島の 夏は緑の江ノ島に ハイ 
おけさで名高い佐渡ヶ島  近江八景武生島 通う千鳥の淡路島 ハイ 
四国を巡るお遍路の  鐘も侘びしや小豆島 ハイ 
浮かぶ竜宮 厳島  オランダ屋敷は平戸島 ハイ 
流す血潮の殉教の 天主の島は天草で ハイ 
鉄砲伝来 種子ヶ島  鹿児島湾に抱かれて ハイ 
煙たなびく桜島  平和日本の建設に 波も寄せるか春の風 
桜花(さくらばな)咲くヨーホホイ  あああーああ大八州ヨー アードスコイ ドスコイ 
はやし 
アーその声聞かせて十日も病ませて 二十日も看病に行きたい行きたい 
アードスコイ ドスコイ 
当地興業 
アーアドスコイ ドスコイ アアーアアアエ アーアドスコイドスコイ 
当地興業も本日限りヨー アーアドスコイ ドスコイ 
アアーア 勧進元や世話人衆  ご見物なる皆様ヨー ハイ 
いろいろお世話になりました  御名残おしゅうはそうらえど ハイ 
今日はお別れせにゃならぬ われわれ たちたるその後は 
お家繁盛 町繁盛 ハイ 
悪い病の流行らぬよう  陰からお祈りいたしますハイ 
これから我々一行も ひとまず地方ば巡業して  晴れの場所で出世して ハイ 
叉のご縁があったなら  再び当地にまいります ハイ 
そのときゃ これにまさりし ご贔屓を  どうかひとえに ヨーホホイ 
アアアーアー 願いますヨー  アー ドスコイドスコイ 
はやし 
せっかく馴染んだ皆様と せっかく馴染んだ 
あのとも 泣きの涙を振り捨てて 今日はお別れせにゃならぬ 
いつ又どこで会えるやら それともこのまま会えぬやら 
思えば涙がパラーリパラリと アードスコイドスコイ

  

相撲甚句3 
 
揃う揃うた 揃いました  あ〜あ 関取衆が揃うた 
秋の出穂より まだ良く揃うた 
 
はぁ〜あ 船乗りさんには どこ見て惚れた 
踊る甚句のよ 意気の良さ 
 
はぁ〜あ 串木野港に  舟が百杯(ぱい)着きゃ 
帆柱も百本(ぽんぽん) 止まる烏も同じ百羽(ぱっぱ) 
雀がチュ烏がカア 鳶がほだね吹きゃ  チンする する 
出船甚句 
眺めも清き恵比須が丘に 晴れの相撲を終えるなら 
しばしの名残り別れをば 惜しみながらも船の上 
見送る涙知らぬげに 笑顔で握る錨綱 
五色のテープは風まかせ 別れの汽笛が身に沁みる 
串木野港(みなと)を後にして汐路遥かなインド洋 
白波けたてて幾千里 波を枕の夢かなし 
鴎飛び交うその中を 昨日は東今日は西 
逆巻く怒涛波しぶき この身は寒さに凍るとも 
負けずに我ら元気にて 紅葉色づくその頃は 
大漁旗立て帰ります どうぞ皆さん留守中は 
ご無事安泰いや栄え 今日の土俵で祈ります  今日の土俵で祈ります 
入船甚句 
夕焼け色どる南の沖はよ 満船大漁の旗立てて 
船足深く来る船は あれは串木野まぐろ船 
長の航海さぞやつれ 逢いたい見たいは皆同じ 
電波は飛ぶ飛ぶふるさとへ 
波路(汐路)遥かに種子屋久か 浮き立つ島は数々の 
煙たなびく硫黄ヶ島 風手にのぼれば日向灘 
朝日に輝く桜島 北にそびゆる高千穂や 
南遥かに眺むれば 姿うるわし薩摩富士 
岬(のま)の灯台後にして 船路は急ぐ薩摩潟 
火立ヶ丘の山々も 近くなるのか海鳥は 
群くみながら飛んで行く 
ああ懐かしや串木野港 1年(ひとせ)の旅路もつれづれに 
無事に帰えた嬉しさに 迎えるあの娘は 
笑福えびす顔 明日の大漁夢見つつ 
思いは同じおしどりの 愛と情との錨綱  愛と情との錨綱 
民謡甚句 
お国自慢を甚句に詠めばよ 北は北海盆踊り 
津軽恋しやあいや節 八戸小唄で夜が明ける 
今も昔も変わりなく 草木もなびく佐渡おけさ 
どじょうすくいは安来節 手拍子そろえて木曽え節 
ヨサコイ節にはトンコ節 三井三池の炭坑節 
東京音頭や舞妓はん 花笠音頭にゃ花が咲く 
伊勢は津でもつ伊勢音頭 南国土佐の阿波踊り 
博多祇園か黒田節 
五島さのさのなつかしや ばってん熊本おてもやん 
日向かぼちゃのよか嫁じょ ひえつき節には鈴が鳴る 
三味や太鼓にはやされて じゃんじゃん踊るは鹿児島の 
がっついよかよかはんや節 
お国自慢のその中で 港串木野本浦の 
相撲甚句は日本一 踊れ大漁の旗の波  踊れ大漁の旗の波 
嫁入甚句 
今日の良き日を甚句に詠めばよ めでためでたの高砂よ 
この浦舟に帆上げて 結び合わせて縁となる 
金襴緞子の帯締めて 今日は嬉しやお嫁入り 
ほんにおまえは果報者 
これもひとえに皆様の 厚い情けの賜と 
受けたご恩の数々は 決して忘れるものじゃなし 
これから先の日暮らしは 幸か不幸か知らねども 
永久に契りし、その上は 
暑さ寒さに気をつけて 波風荒き人生を 
互いに手を取り乗り切って りっぱな夫婦になるように 
母は 両手合わせて祈ります 
まだまだ未熟なもの故に どうぞ皆様これからも 
行く末永く頼みます どうぞ皆様 頼みますよ
 
 
朝青龍明徳

  

(あさしょうりゅうあきのり) 本名ドルゴルスレン・ダグワドルジ。1980(昭和55)年9月27日、モンゴル生まれ、29歳。高砂部屋。平成9年に来日し高知・明徳義塾高相撲部で活躍。11年初場所初土俵。13年初場所新入幕。14年名古屋場所後に大関、15年初場所後にモンゴル出身力士として初めて横綱昇進。17年、史上初の年6場所全制覇と7連覇を達成。19年名古屋場所後、夏巡業への休場届を提出しながらモンゴルでサッカーに興じ、2場所出場停止処分を受けるなど数々のトラブルも起こした。得意は前まわしを引いての速攻、投げ。生涯成績は669勝173敗76休。幕内優勝は歴代3位の25回、殊勲賞は3回、敢闘賞は3回。1.84m、154Kg。 
現役続行を望んでいたが、最悪の事態を避けるため、しぶしぶ勧告を受け入れて引退 
横綱としての品格や虚偽報告は度を過ぎ、5度の厳重注意と2場所出場停止で引退への猶予はもうなかった 
関係者によれば、前夜の朝青龍は知人に「(暴行騒動を報じた)週刊新潮を訴えてやる」「新聞も散々書きやがって」と息巻いていたという 
「解雇」でなく、「引退」は1500万円を超える養老金などがもらえる 
日本国籍を持っておらず、協会には残れず、現在は秋場所後の10月に「引退相撲」を計画するが、まずは近日中にモンゴルへ帰国する予定 
昨年4月に離婚した元夫人タミルさんは近しい日本人関係者に電話で「安心した。ホッとしている」と、騒動について話した上で「かわいそう。だって本当に相撲が好きだったから」と気遣った 
モンゴル政界進出の野望を加速させ、2012年の国会議員選挙へ出馬する可能性も 
日本相撲協会の新理事となった貴乃花親方は「(相撲界の)内外で賛否両論あった。昨日は協会も本人も決断の時を迫られた。大変な日だった」と話す 
兄ドルゴルスレン・セルジブデさんが5日、家族を代表してウランバートル市内で記者会見し「朝青龍は日本とモンゴルの友好促進に大きな役割を果たした。大横綱に成長するまで応援してくれた日本の方々に感謝します」との声明を読み上げる 
モンゴルのファミリー企業の経営は必ずしも順調ではないようで、傘下の投資銀行は一昨年秋のリーマンショックで巨額損失を出したうえ、昨年夏にはモンゴルでも政権交代があり、余波で経営がうまくいっていないといううわさがある 
師匠、高砂親方(元大関朝潮)に対し、弟子の監督不行き届きで役員待遇から主任へ2階級降格処分が下される 
日経新聞で経済担当を務め、会長まで上り詰めた横審の鶴田卓彦委員長は、1月29日に武蔵川理事長と会談した際、朝青龍が引退した場合の影響を「経済効果は3割減だね」と漏らす 
グッズ売り上げも激減が予想される。湯飲み、手形、ストラップやフィギュアなど協会が販売するグッズの売り上げは、横綱昇進以来、常に朝青龍がトップ。公表されていないが、億単位といわれる年間売り上げが「3割減」となれば、大きな収入減 
横綱が直接対決する千秋楽のNHKの視聴率は、昨年の6場所は、朝青龍が優勝決定戦で白鵬を破った初場所が最高で27%、同じく優勝決定戦を制した秋場所は24%。白鵬と日馬富士が優勝決定戦をした夏場所も26%をマークしたが、朝青龍が千秋楽前に優勝戦線を脱落した場所は15-17%台に低迷 
朝青龍は解雇ではなく、引退で2億円近くの功労金などもゲット。功労金の金額は過去最高の貴乃花の1億3000万円を超え1億5000万円になる可能性も。さらに1500万円の養老金、横綱としての勤続加算金1900万円に、懸賞金の積立金も。また9月には引退相撲も開催できるため、興行収入も含め、締めて2億円近いばく大な額を引退でゲット 
29歳の若さと身体能力の高さを誇る朝青龍の引退に、格闘技界は驚きを隠せず、K-1、総合格闘技DREAMを主催するFEGの谷川貞治取締役は「本人の状況が分からないので何とも言えないのですが、引退後の動向には興味があります」と関心を寄せる
朝青電撃引退 
衝撃の決断!大相撲の横綱朝青龍が4日、1月の初場所中に起こした一般人への暴行問題の責任を取って引退した。同日、日本相撲協会に引退届を提出し、受理された。日本相撲協会はこの日、東京・両国国技館で理事会を開き、朝青龍、師匠の高砂親方(元大関朝潮)から事情聴取を行った。理事会では事態を重くみた武蔵川理事長(元横綱三重ノ海)から「解雇」の提案もあったが、朝青龍自身が身を引くことで決着した。品格を問われ続けた横綱が、突然の幕引きで土俵から去る。 
数々の問題を起こしてきた横綱が、いよいよ腹をくくる。「引退届」は用意していなかった。理事会での事情聴取の後、控室に戻ると、行司が書いた引退届にサインし、印鑑をつく。師匠の高砂親方とともに理事会にその引退届を提出。受理されて土俵を去ることが決まった。 
「大変、ご迷惑をおかけしました。報道陣を騒がせて、そういうことで引退させていただきました。けじめをつけるのはボクしかいない」 
初場所中に起こした泥酔暴行問題で、「引退」だけが残された選択肢だった。この日の理事会開催前に、協会の諮問機関である横綱審議委員会(横審)・鶴田卓彦委員長(82)=日本経済新聞社元相談役=は、武蔵川理事長に横審としての重大な決意を伝えた。「引退を勧告する」。この日の理事会で処分が引き延ばされた場合、朝青龍に引退を迫る覚悟を突き付けていたのだ。 
こうした厳しい姿勢は、理事会にも伝わった。事態を重く受け止めていた武蔵川理事長を中心に「解雇」を求める意見が次々と飛び出した。12人が出席した午前の理事会。処分については意見が真っ二つに割れた。多数決では「解雇」が6票、「5場所連続出場停止」も6票。過半数に達しなかったため、いったん中断された。午後に再開された理事会では「解雇」が7票となった。 
関係者によると、1月31日、高砂一門の理事でもある九重親方(元横綱千代の富士)から直接、朝青龍は引退を迫られている。だが、被害者との示談が成立していることなどから、朝青龍は首を縦に振らなかった。 
横審、理事会からかかる過去にない強烈な圧力。実力行使もなされた。午後の事情聴取の途中、3人の理事が控室にいた朝青龍を囲み、「このままだと解雇になるぞ」。九重親方をはじめ、理事の二所ノ関親方(元関脇金剛)、友綱親方(元関脇魁輝)が強く引退を迫った。引退しなければ、横綱として史上初の解雇へ。朝青龍も観念した。 
協会は監督官庁の文部科学省に「理事会から引退勧告が出て、朝青龍が引退した」と報告。事実上、引退の名を借りた“解雇”ともいえる。 
「解雇」になれば、約3500万円の力士養老金(退職金)や1億円前後とみられる特別功労金も手にできない可能性があり、両国国技館で引退相撲を開くこともできない。11年の土俵人生で築き上げたすべてを失ってしまう。会見を開いた朝青龍は「まさか、こういうことに飲み込まれることは頭になかった。自分の運命だと思う」。 
入門時の体重は106キロ。軽量だったが、スピードあふれる取り口を磨いた。出世が早く、平成15年初場所後に、年6場所制となった昭和33年以降初土俵の力士として最速(幕下付け出しを除く)となる、初土俵から25場所で横綱になった。平成17年には全盛期を迎え、全勝優勝2度を含め年6場所を完全制覇。84勝6敗の驚異的な成績を残した。初場所では史上3位となる25度目の幕内優勝も果たした。 
品格を問われ続けた横綱だが、約20分間の会見では思い出の土俵を振り返るとき、涙もみせた。昇進のときから一人横綱。土俵を支えながら、日本文化への関心も低く、問題行動を繰り返した。そして、最後も「暴行問題」で。横綱在位42場所(歴代8位)。相撲界に残した汚点は消えることはないが、モンゴル人力士で初めて横綱に上り詰めた功績も記憶に残る。(2010/2/5)
モンゴル各紙で批判記事「協会陰謀」説も 
モンゴル各紙は5日、自国出身の元横綱朝青龍の引退表明を1面トップで大きく報じた。朝青龍の行動に問題があったとの指摘はほとんどなく、いずれも日本側が優勝回数記録(大鵬32回)を朝青龍(優勝25回)に破られるのを恐れていたなどと強調し「相撲協会の圧力で引退させられた」(オノードル紙)と日本側について批判的に伝えた。 
各紙とも、朝青龍が大相撲ファンの拡大や収入増に貢献したなどと分析。半面、引退は日本側からの圧力として不満を示し、ズーニ・メデー紙は「モンゴル国内での大相撲放送の中止」を呼び掛けた。 
モンゴル柔道協会の会長を務めるバトトルガ道路・運輸・建設・都市計画相もモンゴリン・メデー紙のインタビューで「日本人は自国の伝統スポーツで外国国籍の横綱に記録を破られることを恐れていたのではないか」などと日本批判を繰り返した。(2010/2/5)
朝青龍の暴行問題 
朝青龍は初場所中の1月16日午前4時すぎ、西麻布で飲食店責任者の男性を相手に激高。自動車の後部座席で顔面にパンチを浴びせ、運転手に「川へ行け」と命令。「お前をそこで殺してやる」と脅しながら暴行を続けた。男性は近くの路上で車を降り、交通事故処理中の麻布署員に「車内で殴られた」と被害を訴えた。男性は鼻骨骨折、頭部打撲など全治1カ月の重傷と診断された。初場所千秋楽の翌25日、武蔵川理事長に朝青龍とともに呼び出された師匠の高砂親方は「(被害者とは)示談をしている」と報告したが、28日の理事会で示談は成立していないと前言を撤回。また、当初は横綱の個人マネジャー、一宮章広氏が「(被害者は)自分です」としていたことで、理事長には 二つの虚偽報告がなされた。また、暴行問題を捜査している警視庁は、突然の引退表明にも「進退と捜査を結び付けて考えていない」(幹部)と冷静に受け止め、捜査方針に変更はないとしている。警視庁は来週以降に知人男性から事情を聴いたうえで、朝青龍からも任意で事情を聴く方向で検討している。
 
八百長

  

八百長1 
八百長とは、事前に勝敗を示し合わせ、勝負をつけること。 
八百長は、明治時代の八百屋の店主『長兵衛(ちょうべえ)」に由来する。 
長兵衛は通称「八百長」といい、相撲の年寄「伊勢海五太夫」の碁仲間であった。碁の実力は長兵衛が勝っていたが、商売上の打算から、わざと負けたりして勝敗をうまく調整し、伊勢海五太夫のご機嫌をとっていた。のちに勝敗を調整していたことが発覚し、わざと負けることを相撲界では「八百長」と言うようになった。 
やがて、事前に示し合わせて勝負する意味も含まれるようになり、相撲以外の勝負でも「八百長」という言葉は使われるようになった。 
無気力相撲 / 敢闘精神に欠ける相撲。本場所で監察委員会がチェックし、故意の場合は懲罰を科せられる。 
 
八百長2 
「いんちき」の意で、まともに争っているようにみせながら、事前に示し合わせた通りに勝負をつけること。対義語は「真剣」「ガチンコ」。 
選手に金品などをあたえ、便宜を図って行われる場合や、審判の買収によって行われる場合もあれば、選手、審判およびその家族や関係者を脅してわざと敗退を強要するなどその形態はさまざまである。 
勝負事においては競技の如何を問わず、つねに暴力団(マフィア)主導のブックメーカーや非合法の賭け事が絡んでいるなどの現実的側面が付きまとっているため、公営ギャンブルとして影響が大きい公営競技やJリーグ(スポーツ振興くじの対象となる)はもちろん、野球など他のスポーツでも刑事告発(公営競技やJリーグでは関連法違反、闇賭博が絡む場合は賭博罪・詐欺罪など)になったり、組織の内部規定によって永久追放・出場停止・降格など厳しく処分されるたりすることが多い。 
モータースポーツのレースでは順位をチームメイトに譲るチームオーダーは事実上容認されているが、F1レースでは2003年から禁止行為となっている。 
由来 
八百長は明治時代の八百屋の店主「長兵衛(ちょうべえ)」に由来するといわれる。八百屋の長兵衛は通称を「八百長(やおちょう)」といい、大相撲の年寄・伊勢ノ海五太夫と囲碁仲間であった。囲碁の実力は長兵衛が優っていたが、八百屋の商品を買ってもらう商売上の打算から、わざと負けたりして伊勢ノ海五太夫の機嫌をとっていた。 
しかし、その後、回向院近くの碁会所開きの来賓として招かれていた本因坊秀元と互角の勝負をしたため、周囲に長兵衛の本当の実力が知れわたり、以来、真剣に争っているようにみせながら、事前に示し合わせた通りに勝負をつけることを八百長と呼ぶようになった。 
隠語 
大相撲では「注射」(真剣勝負は「ガチンコ」)ともいう。 
対戦者の一方のみ敗退行為をおこなう場合は「片八百長」と呼ばれることがある。 
諸事情 
現代で八百長といわれるのは個人による金銭授与の敗退行為のことだが、出来試合のようなものはなくはなかった。神事や占いとしての相撲では、「独り相撲」(力士は一人で土俵に立ち神と取り組む仕草をする。神の機嫌を取るため、わざと転がって負ける)や、凶作不漁の見込まれる土地の力士に勝ちを譲ることも普通におこなわれていた。江戸時代の木戸銭を取っての興行でも、力士の多くが大名のお抱えだったせいもあり、力士当人や主君の面子を傷つけないための星の譲り合いや、四つに組み合って動かず引き分けたり、物言いの末の預りの裁定なども多かった。 
観客としては大名の意地の張り合いによる八百長相撲には腹に据えかねていたが、落語の「谷風の人情相撲」など、美談としての片八百長、いわゆる「人情相撲」には寛容だったようだ。 
明治に入って近代スポーツの精神が輸入されて以降、見世物としての相撲からスポーツとしての相撲の特色が濃くなり、昭和の東西合併の時期に預りの廃止などがおこなわれた。だが、この時期にも出羽海部屋の派閥争いの関係で八百長のような話が出たりもした。玉錦はこういった依頼を断っていたのではないかといわれている。 
なお、現在でいう意味での個人による八百長疑惑が取りざたされるようになったのは大鵬と柏戸の一戦の疑惑が取りざたされたころからである。 
ほかに現在みられる状況としては、大関は優勝に関係がない場合勝ってもあまり意味がないことから、終盤観客視点からは星の譲り合いのようにみえることがあり、「大関互助会」と揶揄されたりもする。また、7勝7敗の力士の勝率も似たような結果になってしまっている。このため、統計的には八百長はあるとみなす日本国外の学者もいる。 
告発 
大相撲の八百長疑惑では、1980年から小学館の週刊誌「週刊ポスト」が元十両・四季の花範雄の八百長告発手記を初めて公開し、その後も元力士や元角界関係者による告発シリーズを約20年にわたり掲載した。なかでも1996年に部屋持ち親方としては初めて11代大鳴戸(元関脇・高鐵山孝之進)の菅孝之進と元大鳴戸部屋後援会副会長の橋本成一郎がおこなった14回にわたる告発手記は、八百長問題・年寄株問題・暴力団との関わり・角界の乱れた女性関係などを〈暴露〉し、大きなインパクトを与えた。 
このときは協会が告訴する事態にまで発展した。それをまとめた11代大鳴戸親方の著作として「八百長―相撲協会一刀両断」(1996年、ラインブックス)が出版された。しかし、この著書の発売直前に、告発者の菅孝之進と橋本成一郎が「同日・同じ病院・同じ病気」で急死した。事件性も疑われたが、結局は病死ということで処理された。当時は週刊誌で騒がれ、今でも謎の残る「怪死」だと告発者を支持する側は主張している。 
その4年後の2000年、11代大鳴戸親方の弟子だった元小結・板井圭介が外国人記者クラブで、大相撲の八百長問題を語った。それまでも「週刊ポスト」で元力士らの証言は繰り返されていたが、元三役力士からの証言はこの時が初でしかも記者会見で当時の現役力士の実名を挙げての暴露だったこともあり、角界だけではなく世間一般にも大きな衝撃を与えた。その後、板井は「中盆―私が見続けた国技・大相撲の“深奥”」(2000年、小学館)を出版した。ここでは中盆(板井の主張する角界隠語で、八百長を取り仕切る仲介・工作人の意)として君臨した板井の証言が著されている。菅孝之進の告発本との共通点も多くみられる。この師弟の主張はおおむね次のようなものである。

  

大相撲の八百長は完全にシステム化されており、大きく分けて星の「買取」と「貸し借り」の2つにわけられる。買取は、おもに、つねに好成績を求められる横綱・大関などが地位を守るために使用する。貸し借りは三役以下の平幕力士同士が勝ち越すためや、十両に落ちないようにするための手段として使用する方法である。横綱・大関の買取は70万-100万円くらいが通常の相場であり、貸し借りは先に対戦相手に頼むほうが40万円を支払うということになっている。横綱大関同士などの優勝が懸かった一番や、大関、横綱昇進の懸かった取組みなどでは相場はもっと上がり、200万-300万にもなることもあるという。あと、部屋の親方が所属力士のために八百長工作に動く場合もある。八百長の代金の清算は場所後の巡業などで付け人が関取の意をうけておこなうのが通例。 
力士はおおよそ、八百長力士(注射力士ともいう)と非八百長力士(ガチンコ力士ともいう)に判別される。大相撲の八百長は、実力に裏付けされていなければ、この八百長力士のグループには組み入れてもらえず、やはり真剣勝負(ガチンコ)で勝つ力がなければ地位は保つことはできないとされている。横綱・大関にしても、「この横綱・大関とガチンコで勝負しても勝てない。だったら星を売ってカネにしたほうがいい」と思わせる実力がなければ地位は保てないとされている。関脇までは、ガチンコ力士でも、やはり横綱・大関に上がると地位に見合った成績を上げなければいけないプレッシャーからか八百長に手を染めてしまう力士もいる。大相撲ではどんな強い力士でも取りこぼしというものが存在し、とくに負けることがニュースになってしまう横綱・大関はより確実に勝利を重ねるために八百長で白星を保障しておくという意味合いが強く、横綱・千代の富士などはその典型だったといわれている。そうすることによって強い横綱に取りこぼしがなくなりより一層確実に好成績をあげられるというわけである。平幕力士の場合は横綱・大関陣との対戦が多い、上位(三役〜前頭5枚目)で星を売ったり、貸したりして番付が下がった翌場所に平幕下位(6枚目以下)で貸している星を返してもらい勝ち越して幕内力士としての地位を保つをいう手段が多くみられた。ただし、これもガチンコでしっかり何番か勝てる力がなければ勝ち越すことはできない。ガチンコで何番か勝つ実力がなければ、たとえ八百長をしていても勝ち越すことはできず地位を下げていくことになってしまう。 
ただし、八百長が横行していた1980年代の千代の富士全盛時代に比べると、現在の角界における八百長は少なくなったといわれている。それには生涯ガチンコを貫いて22回の優勝を果たした横綱・貴乃花(現貴乃花親方)の影響が大きいといわれている。最近、兄弟の確執問題で話題になった平成7年九州場所千秋楽の優勝決定戦、若乃花-貴乃花戦が八百長だったのかという議論は八百長ではなく、貴乃花親方が「やりにくかった」と回顧しているように「無気力相撲」のたぐいにあたるだろう。あの一番においてはあまりにも貴乃花のほうに「やりにくさ」、「力が入っていない」というのがミエミエであり、八百長相撲の取組みというものは一般のファンなどの素人にはわかりにくいようにするために「熱戦」にみせかけるものであるために、ああいった一番は八百長とはいわないのである。無気力相撲と八百長相撲は意味合いがまったく異なり、ガチンコ力士であっても自らの調子が悪かったり、相手に対して手心があったり、さまざまな状況からやりにくさがあれば無気力相撲になることもありえる。八百長相撲というのは金銭のやり取りから予定調和された一番のことを意味する。こうした角界の八百長のシステム化は昭和30年代の初めからおこなわれはじめ、昭和40年代に確立した。また、大乃国は師匠譲りのガチンコ力士との評判があり、国民が注目し大きな話題となっていた千代の富士の連勝を止めたことや、歴代横綱で唯一の負け越しをしたことなどがその評判に根拠をあたえている。 
日本相撲協会は「週刊ポスト」が国民栄誉賞まで受賞している横綱・千代の富士らなどの実名をあげての告発が20年にわたったにもかかわらず、告訴は1度しかしておらず、それも元大鳴戸親方の手記の一部分を告訴するという特殊な方法でしか告訴していない(のちに不起訴)。また、板井の記者会見や手記に関してもなんら法的手段に訴えておらず、そこをとらえて〈角界に八百長が存在している〉ということは事実だと考える者もいる。 
ただし、好角家のなかには、相撲は本来、五穀豊穣を願う儀式が起源になっており、歌舞伎や能楽と同じように伝統芸能でもあり、他のプロスポーツなどとは違ったものである故、八百長は角界の必要悪でもあるという意見もある。  
 
八百長騒ぎ (2000/1)

  

相撲、 言わずと知れたわが国の国技である。 
その歴史は古く、神話の時代にまでさかのぼる。「古事記」によると、天照大神が出雲国を支配していた大国主命に国を譲るよう求めたのに対し、 
大国主命の子の建御名方神は、天照大神の使者である建御雷神に「力くらべ」で決着をつけようと申し出て、二人の神は出雲国伊那佐の小兵で相撲を取り、建御雷神が勝ったので、国譲りが平和裡に行われたという。いわゆる「出雲の国譲り」の神話である。 
また「日本書紀」によると、垂仁天皇七年の七月七日に、野見宿禰と當麻蹶速が天皇の御前で相撲を取ったと記録されている。この相撲に勝った野見宿禰は、相撲の始祖として長く祀られている。やがて相撲は「相撲節会」として、天皇が宮中で相撲を観覧する儀式となり、武士の世の中になると、心身の鍛練や訓練に役立つとして盛んに行われるようになった。なかでも織田信長の相撲好きは有名で、しばしば相撲を上覧していたことが記録に残されている。 
江戸時代に入ると、各大名のお抱え力士が江戸で勧進相撲の興行を定期的に開催するようになり、現在の興行の原型が出来上がった。谷風や小野川といった強豪力士が横綱の免許を受け、土俵入りを行ったのもこの頃である(もっとも、当時の横綱は地位として確立したのではなく、最強の大関にのみ許される「称号」のようなものであった)。相撲は江戸時代の文化の象徴でもあり、多数の錦絵や川柳、また歌舞伎にもその勇姿が残されている。 
明治維新となり、「断髪令」が出される中、力士だけはその例外とされ、伝統は守られた。また明治42年(1909年)には、両国に大きな「国技館」が完成し、晴雨に関係なく興行が出来るようになるなど、大相撲は次々と近代化への改革の道を歩んだ。昭和に入り、不世出の大横綱双葉山の時代には、国民の相撲熱は最高潮に達した。戦争の色濃くなる中で、破竹の連勝を続ける双葉山に、国民は神国日本の勇姿を重ね合わせていた。それだけに、双葉山が安藝ノ海に敗れて、連勝が69でストップした日は、新聞の号外が出るほどの大騒ぎになった。やがて大東亜戦争が始まり、わが国に無差別の空襲が行われるようになった戦争末期には、さすがに相撲どころではなくなり、国技館は焼け落ち、二人の現役幕内力士が空襲で尊い命を失った。 
敗戦後、GHQの接収で国技館が使えなくなり、大相撲は明治神宮外苑での晴天興行など、各地での「ジプシー興行」を余儀なくされたが、昭和25年(1950年)に蔵前国技館の建設が始まり、やがて栃錦、若乃花の両横綱による「栃若時代」の到来により、大相撲は不死鳥のように蘇った。 
その後も柏戸、大鵬の「柏鵬時代」、北の富士、玉の海の「北玉時代」、輪島、北の湖の「輪湖時代」など、角界から次々と時代の英雄が誕生していった。 
そして昭和60年(1985年)、元栃錦の春日野理事長(当時)が相撲発祥の地・両国に再び国技館を建設し、また横綱千代の富士が30歳を過ぎてから全盛期を迎え、双葉山に次ぐ53連勝の記録を達成し、角界初の「国民栄誉賞」を受賞した。また、「角界のプリンス」といわれた大関貴ノ花(横綱若乃花の実弟)の息子たちがそろって入門し、「若貴ブーム」となって、大相撲の人気はさらに高まった。さらに素晴らしいのは、この兄弟が順調に出世して、二人とも横綱に昇進したことである。若乃花・貴乃花のいわゆる「若貴兄弟」である。 
こうして長年の伝統ある歴史と、多くの愛好者に支えられ、発展を続けてきた大相撲であるが、20世紀最後の今年になって、そのブームにいささか翳りが見えてきた様である。入場券の切符が売れ残ったことによりいわゆる「満員御礼」にならず、新弟子は集まらない(今年の秋場所の入門者はたったの1名だった)…。ここに来て、何故大相撲の人気が下落したのであろうか。

  

八百長騒ぎ 
今年(平成12年)の1月21日、大相撲初場所の最中に、日本外国特派員協会において、元小結の板井圭介氏が、大相撲での八百長についての告発の会見を開き、大きな反響を呼んだ。板井氏は現役横綱や大関など20名の力士の実名を挙げ、これらの力士が八百長をしていることや、現役時代に自分がいかにして八百長に深くかかわっていたかということなどを明らかにした。 
大相撲のいわゆる「八百長疑惑」は、今に始まったことではない。柏鵬時代の昭和38年には、柏戸と大鵬の両横綱の千秋楽での全勝同士の対戦(柏戸の勝ち)に対し、作家の石原慎太郎氏(現東京都知事)が「八百長相撲だ」と物言いをつけて一騒動があったり、昭和55年には、ある週刊誌に元十両の力士が「大相撲には八百長が存在する」と告発したりなど、八百長問題はその度毎に大きな問題となり、いつしか消えていった。しかし、先述の週刊誌は、その後も八百長の追及を続け、今でも断続的に告発記事を書いている。小学館発行の「週刊ポスト」である。 
相撲協会はこれらに告発記事について、始めは徹底して「無視」を決め込んだ。「大相撲には八百長はあり得ない」。この一言ですべての問題を片付け、マスコミも「ポスト」などの一部週刊誌を除いて、深くは追求しなかった。しかし、平成8年に、元大鳴戸親方が「ポスト」に告発記事を書いた頃から、事態は急変することになる。 
元大鳴戸親方は先述の会見をした板井氏の師匠で、彼の現役時代の八百長とのかかわりを師匠の立場から告発するとともに、板井氏が八百長の中心人物として目をつけられており、平成3年に彼が引退する際に、年寄株(親方になれる権利のこと)を借りられたはずが当時の二子山理事長(元横綱初代若乃花)のツルの一声でムリヤリ廃業させられたことや、元親方が現役時代(関脇高鉄山)に横綱北の富士(現NHK相撲解説者)の八百長工作に東奔西走したことや、自身が角界を去る際に年寄株の売却で3億円もの大金を手に入れたにもかかわらず、領収書もなく、また税金も一切かからないというずさんな「脱税行為」など、大相撲の「裏面」を次々と明らかにしていった。元親方の「ポスト」での告発記事は14回にも及び、記事の内容は角界と暴力団との関係や、マリファナの問題などエスカレートするばかりであった。 
そして元親方は、告発連載の集大成ともいうべき暴露本の出版の準備を始め、また4月26日には元親方の告発を裏付ける証言を続けてきた元力士で後援者の橋本成一郎氏とともに、日本外国特派員協会で会見する予定になっていた。ところが、その会見が目前に迫った4月14日、元親方と 
橋本氏は、同じ日に、同じ病院で、同じ原因不明の肺炎でそろって死亡してしまったのである。あまりの偶然に、一時は他殺説も流れたほどであった(この二人の怪死については、今年の「正論」9月号の安部譲二氏の「日本怪死人列伝第2回」に興味深い記載がある)。それから約1ヵ月後の5月22日、相撲協会はようやく重い腰を上げ、「ポスト」の記事の一部に対して東京地検へ名誉毀損で刑事告訴をしたのである。 
結論から先に言えば、この告訴は2年後の平成10年3月26日に不起訴処分になった。告発者の二人が死亡している以上、真実の立証は事実上不可能であり、名誉毀損の成立は見込めなかったからである。そしてこの頃から大相撲の人気は低下していった。不起訴処分後に行われた同年の夏場所は、出だしから入場券が売れ残り、実に28年ぶりに「満員御礼」の垂れ幕が下がらない寂しい初日になってしまった。 
その後も地方場所ですら大阪の春場所を除いて満員にならないなど観客数の減少が顕著になり、また新弟子の入門者も減るなど、今年に入って次々と新大関が誕生しているにもかかわらず、角界は人気低迷から脱却できずにいる。その一方で週刊誌の告発記事は盛んに続けられ、今年の 
板井氏の「証言」により、これまで八百長の記事が少なかった他の週刊誌までがこの問題を取り上げるようになった。これらの騒ぎは協会にも飛び火し、東京の国技館や相撲部屋近辺に右翼の街宣車が横行する始末であった。 
業を煮やした協会は、今年の4月25日、時津風理事長(元大関豊山)が国技館で記者会見し、「大相撲には八百長はあり得ない」というこれまでの見解を繰り返し、板井氏の発言を全面否定した。しかし、これだけの大きな騒ぎを引き起こした張本人の板井氏に対して、なぜか法的手段には訴えないという。無実であるなら、なぜ告訴をしないのであろうか。

  

大相撲に八百長は存在するのか? 
相撲ファンならずとも大いに気になる疑問である。日本相撲協会は、公式見解として「八百長はあり得ない」と繰り返し答弁しているが、その一方で「無気力相撲」の存在は否定していない。 
「八百長」と「無気力相撲」の違いは、前者は対戦する両者があらかじめ示し合わせたとおりに勝負をつけるのに対し、後者は対戦の際に一方がわざと力を抜いて、相手に有利になるように仕向けることとされている。協会では故意による無気力相撲を防止するため、昭和46年に「監察委員会」を設置し、違反者には厳しい懲罰が下されることになっているのだが、実際には昭和47年に琴桜(現佐渡ヶ嶽親方)と前の山(現高田川親方)が注意されたのが目立つ程度で、過去に懲罰を受けた力士は一人もいない。 
なお、問題となった琴桜と前の山の一番は、カド番の場所で黒星が先行していた大関前の山に対し、同じ大関の琴桜がわざと力を抜いて負けてやったという疑惑が問題となり、対戦後に両者が注意を受けたのだが、翌日から無気力相撲を「された」方の前の山がなぜか休場し、結局大関から陥落している。ちなみに現在の監察委員長は、その元前の山の高田川親方である。 
さて、前述の命題であるが、筆者は八百長は存在しないと「信じている」。相撲は日本の「国技」であり、長い伝統を誇っているし、何よりも天皇陛下が度々国技館にお出ましになられて観戦されているのである。いやしくも陛下の御前で八百長相撲を見せるような愚はしないだろう。もし八百長をしているのであれば、それこそ不敬罪ものであり、また財団法人として文部省の管轄下に置かれているのも問題となるであろう。協会もそんなことは百も承知であり、八百長らしき相撲があれば、直ちに厳罰に処しているはずで、それが過去にないのだから、やはり八百長は存在しない「はずである」。 
しかし、板井氏の過去の告発の内容を見聞すると、その自信がどうも揺らいでくるのである。板井氏の告発によると、優勝回数31回を誇り、53連勝の大記録を達成し、角界初の国民栄誉賞を受賞した大横綱千代の富士(現九重親方)が、実は八百長に手を染めていたらしい。いや、手を染めていたというような生易しいものではなく、積極的に八百長を仕掛けていたというのである。あの53連勝も、内実はガチンコ(真剣勝負のこと)は数えるくらいで、ほとんどの一番はあらかじめ千代の富士が勝つように仕組まれていたというのだが、俄かには信じがたい話である。 
そこで筆者は千代の富士の53連勝のビデオを再生してみたが、いずれも千代の富士が対戦相手を圧倒しており、八百長のようなわざとらしさは見受けられなかった。しかし、一番だけ「おや?」と思う取組があった。千代の富士が横綱大鵬(現大鵬親方)の記録に並ぶ45連勝を達成した陣岳との取組で、板井氏から八百長と指摘されている一番である。立ち合いで千代の富士がすぐに左上手を引いて、出し投げに仕留めるのだが、千代の富士が出し投げを打つタイミングよりも一瞬早く、対戦相手の陣岳が自分から投げられているようにも見えるのである。陣岳が千代の富士に上手を取られた時点で負けを覚悟し、下手に怪我をしないように自分から投げられたと考えられなくもないが、それにしても不可解な決着である。 
日本相撲協会は、今回の板井氏が引き起こした一連の騒ぎに対し改めて八百長の存在を否定し、板井氏の発言を事実無根としたが、法的手段に訴えることはしなかった。おかしな話である。八百長が存在しないのが事実であれば、法廷で証明すべきであろう。現に元大鳴戸親方の場合には刑事告訴をしているのだ(結果として不起訴処分となったが)。 
この問題は、中国や反日の進歩的文化人などから決め付けられた「南京大虐殺」などの「言いがかり」と比較してみると分かりやすくなる。大東亜戦争終結後の東京裁判で突如問題化され、その後も中国側から執拗に戦争責任を迫る(またはODAの名のもとにわが国から法外なカネをむしり取る)恰好の対象となり、一部マスコミや反日の進歩的文化人の強力なアシストのおかげで歴史教科書にも記載されるようになった「南京大虐殺」。これらの動きに対して、わが国が沈黙を守り続けただけでは、その「事実」を証明したのと同じことになってしまう(現に教科書に記載されているのだから)。これに対抗するには、真実を地道に検証した上で、動かぬ証拠を突きつけて相手の発言を完全否定する以外に方法はない。幸いにも「南京虐殺の徹底検証」という名著が東中野修道教授から出版されて、彼らの言いがかりに対抗する手段を得た訳だが。 
相撲協会も、板井氏の発言を「でっちあげ」と否定するのであれば法的手段に訴えるなどして「真実」を証明することが絶対条件のはずである。しかし、現実には一連の騒ぎを黙殺するだけで、まるで嵐が過ぎ去るのをじっと待っているだけの様にも見受けられる。 
重ねて言うが、八百長が存在しないのであれば、協会はその真実を明らかにすべきである。いわれなき疑いをかけられて、それをほったらかしにすることは、その疑惑をみずから肯定しているのと同じことである。筆者が考えるに、大相撲の人気の低下は、八百長疑惑がうやむやにされていることが最大の理由である。誰だって仕組まれた出来レースなど見たくはない。真剣勝負だからこそ観客は感動し、国技館に足を運ぶのである。協会は大相撲の人気回復のために、あの手この手の対策を打ち出しているが、原因の「根っこ」とでもいうべきこの問題を解決しない限り、大相撲に未来はない。八百長疑惑解消のため、尚一層の協会の努力を期待して、結びとする。
 
大相撲八百長問題について (2000/12)

  

「八百長」とは何か? 
「八百長」。この言葉は明治初期、浅草に店を構えていた「八百屋の長さん(通称「八百長」)」に由来している。この「八百長」氏の本名については、「長兵衛」あるいは「斎藤長吉」とする資料もあるが、相撲評論家の小島貞二氏が最近「大相撲」誌2000年3月号で書いているように、「根本長造」というのが正確らしい。 
その長造(「八百長」)氏が、相撲会所(相撲協会の前身)の権力者・伊勢ノ海親方に取り入っていい桟敷をもらうため、伊勢ノ海親方と碁を打ってはわざと負け、(本当は自分の方が強いのに)いつも五分以下の勝率にしていたというのである。ところが、両国に碁会所が新設されたとき、本因坊秀甫(秀元説も)に長造氏が五目で挑戦、大熱戦を演じてしまった。それで長造氏の手抜きがばれ、伊勢ノ海は烈火のごとく怒ったという。 
以上が、伝えられるところの「八百長」の語源である。 
このエピソードが、「相撲」という競技に関わりを持っているのは偶然であろうか。なるほど、このケースでの「八百長」は囲碁の試合において行なわれたもので、土俵上で行なわれたものではない。しかしその背景には、相撲という世界が当時から持っていたある種の「曖昧さ」が関係している。長造氏は有力親方のコネによって有利な桟敷を獲得しようとし、そのために囲碁で故意に負けた。相撲界とはそのような「不公正」が許容される世界であったし、(茶屋制度の存在などを考えれば)現在もそうである。 
問題は、そのような「不公正」や「曖昧さ」は土俵の上にも及ぼされるのではないか、ということである。他の面でそれほど「いい加減」な世界が、土俵の上だけクリーンで、真剣勝負に満ちあふれているなどということが考えられるだろうか?多くの人はそう感じ、だからこそ「八百長」という言葉をしばしば相撲に結び付けて連想するのである。 
一方、長造氏の事例を「囲碁」という競技の面から見れば、別の分析ができる。「囲碁」とは完全な個人競技であって、競技者の胸先三寸によって「負けてあげる」ことができる。そして、これは「相撲」という競技が持っている特質と同じなのである。しかも相撲という競技は、基本的には「先に土俵から出たほうが負け」「先に足の裏以外を土俵に着いたほうが負け」という単純なルールによって成立している。これは相撲の長所でもあるのだが、その反面、怪しまれずに「わざと負ける」ことを容易にしていることも否定できない。 
このように、「八百長」の語源をめぐる故事そのものからも、大相撲と八百長とのいわば「切っても切り離せない関係」を推測することができる。日本相撲協会は、金銭の絡む八百長について「ないし、かつてもなかった。絶対あり得ない」(1980年、二子山監察委員長=当時)と全面否定を繰り返してきたが、金銭の絡まない「無気力相撲」(一般に言う「片八百長」や「人情八百長」)は防止する必要があるとして、「相撲競技監察委員会(通称・監察委員会)」なるものを設置してきた。しかし同委員会は完全な「お飾り」となっており、むしろ「八百長」と「無気力相撲」とを区別するというアプローチによってファンの目をそらせつづけているのが実情であった。 
しかし、相撲界には「八百長」にまつわる隠語が多々伝わっている。たとえば真剣勝負のことは「ガチンコ」と呼ばれるし、事前工作によって勝敗の決まった八百長勝負は「注射」と呼ばれる(八百長を申し込むという動詞形は、「注射に走る」となる)。そして、博打の差配人のことを「中盆(なかぼん)」と呼ぶところから転じて、他人同士の八百長を仲介する工作人のことを「中盆」と呼ぶようになった(頼まれないのに気を抜く片八百長のことは「盆中相撲」と呼ばれていた)。言うまでもなく、「存在しないもの」に対する表現が存在するはずはない。「工作された八百長」は明らかに存在している。そして力士がプロである以上、そこに金銭が介在しないと考えるほうが不自然であり、事実そのような「体験告白」は多数行なわれてきた。 
遙かにさかのぼれば、1910(明治43)年1月場所の太刀山(後の大横綱)−駒ヶ嶽戦は有名な八百長相撲であり、日本相撲協会機関誌(!)「相撲」1998年5月号「引き分け、預かりの記録を追う@」には以下のように書かれている。「突き合いから左四つになり、駒ヶ嶽の右上手投げと太刀山の左下手投げの打ち合いになったが、これが相撲通なら誰が見ても分かる初っ切り風で、場内からもいろいろな冷やかしのヤジが飛んだ。(中略)なぜこのような経過になったかについては明らかではないが、当時、すでに太刀山に対して分が悪くなっていた駒ヶ嶽の人気維持のため、駒ヶ嶽のひいき客が太刀山に頼み込んだのではないかとも言われている。」 
それにもかかわらず、相撲協会は八百長など「ないし、かつてもなかった」という表面上の姿勢を崩さないままに(いや、ある意味では以前よりその態度を頑なにして)20世紀末を迎えた。しかしそこで炸裂したのが、かの板井圭介氏による「爆弾発言」である。 
次章では、板井氏の衝撃的な記者会見から、相撲協会による4月末の正式な「八百長否定」に至るまでの経過を紹介したい。そして続く章で、「板井発言」で触れられなかった事実やその背景について触れ、その上で力士としての板井氏について紹介してみたい。板井氏が記者会見で発言した主な内容(曙らとの八百長、現役八百長力士の実名)については、ここで深入りすることはしないつもりである。私はテレビで板井氏の2度の会見の映像を見たが、そこで印象づけられたのは板井氏の用心深く慎重な態度だった。板井氏は「根拠のない放言」を行なっているどころか、何を語り、何を語らないかについて言葉を選んでいるという感じを強く受けたのである。 
そして事実、相撲協会は板井氏への告訴に踏み切ることができなかったのだ。 
以上のような理由で、私としてはむしろ、マスメディアの報じない「板井氏の語らなかった部分」に着目していきたいと思う。

  

板井発言の波紋 
今年(2000年)1月21日、日本外国特派員協会(外国人記者クラブ)の昼食会で、元小結・板井の板井圭介氏による「八百長告発会見」が行われ、大きな反響を呼んだ。板井氏はその会見において、横綱・曙や大関・千代大海をはじめとする幕内力士18人・十両力士2人の計20人を(前年九州場所、との限定付きではあるが)「八百長力士」と名指し、さらに自らの対・曙戦での八百長を告白したのである。彼によると、曙との初対戦(90年9月場所9日目)は真剣勝負(「ガチンコ」)で板井氏が勝ったが、2度目の対戦(91年5月場所14日目)では「(曙に)40万円で負けてあげました」という。 
こうした具体的な指摘が公の場、それも権威ある外国特派員協会で行われたことは角界にとどまらず、一般的にも大きな波紋を呼んだ。これまで大相撲のいわゆる「八百長」については、周知のとおり「週刊ポスト」が20年にわたって断続的に告発記事を掲載してきたが、テレビや新聞といったメディアがその後追い報道をすることは皆無といって良かった。しかし今回は、スポーツ新聞が大々的にこの記者会見を報道したのみならず、一般紙の社会面にも記事が掲載され、フジテレビのワイドショーには板井氏自身が登場するまでに至ったのである。俄然注目されたのは、日本相撲協会がこの告発にいかなる対応をするかであった。 
先に述べたように、日本相撲協会は金銭の絡む「八百長」の存在を公式に認めたことはない。その態度はこの危機に際しても貫かれ、1月末までに協会は板井氏に対し「抗議文」を発送したにとどまった。その際協会は「法的措置」の発動をほのめかしたが、実際にそのような措置をとる意志がなかったことは、その後の経過から見ても明らかである。結果として、2月2日に行われる板井氏の2回目の会見に注目が集まった。多くの人は、その会見で板井氏が八百長の「決定的証拠」を明らかにすると期待し、折しも行われつつあった2年に1度の相撲協会「役員改選」に注目したのだった。再選された時津風理事長(元大関・豊山)は審判部長に境川前理事長(元横綱・佐田の山)を指名したが、境川親方はかねてから「無気力相撲(八百長)摘発の救世主」と一部で目されていたため、「何か」を期待するムードは否応なしに高まったのである。 
しかし2回目の板井氏の会見は、注目されていた「決定的証拠」は最後まで提出されず、八百長の証拠は「私自身」であるとする板井氏の言明がクローズアップされることになった。マスメディアは、この会見で板井発言の信憑性が薄れたというニュアンスの報道を行い、一般的にもそうした空気が広がったことは否定できない。(板井氏はこの会見で、自らの高見山〈現・東関親方〉との3回、琴錦〈現・準年寄〉との4回の対戦は全て八百長だった−−とする告白も行っていたのだが) 
その後の動きは緩慢だった。力士会(十両以上の関取によって構成される親睦組織)は「八百長」を完全否定する連判状を提出したが、その一方、3月中旬ごろから国技館や一部相撲部屋の周辺で「八百長を黙認する相撲協会」を激しく非難する右翼の街宣活動が始まった。相撲協会は、「板井発言」の衝撃が忘れ去られるのをひたすら待つ構えだったと思われるが、この街宣活動により最低限の具体的対応を強いられることになる。4月12日・13日の2日間、曙・千代大海・琴錦ら名前の挙がった関取18人に対し(弁護士立ち会いの下で)事情聴取が行われた。当然ながら、八百長の存在を「自白」する力士は一人も現れなかった。 
そして、4月25日の「最終決着」を迎える。相撲協会の時津風理事長は記者会見を行い、先の事情聴取を踏まえて「全員が八百長の存在を否定した。板井氏の発言は間違いと言わざるをえない」と言明。そして、板井氏が96年の故・大鳴戸親方(板井氏の元師匠。この関係の重要性は後述)に対する刑事告訴に関係した事情聴取で、「八百長は一切ない」と断言した陳述書に署名・捺印していることを明らかにした。早い話が、「板井は自分の言ったことをいとも簡単に引っ繰り返す、信用できない人物だ」というわけである。しかしその一方で、相撲協会として板井氏を告訴する意志がない旨の発表も行われた。時津風理事長によると「裁判によると長期化して、力士がたびたび出廷しなければいけなくなる懸念もある」からだという。 
協会のこの説明に納得した人が多いとは思えないが、ともかくこの時点で「板井発言」に端を発する一連の騒動は(表面的には)一段落となった。しかし7月中旬には、板井氏自身が自らの力士体験をまとめた著書「中盆」(小学館)を出版し、ある程度の反響を呼んでいる。そして、この著書に対しても相撲協会は完全な無視を続けているのである。

  

告発は必然だった 
板井氏の「八百長告発」が大々的に報道された際に、特に相撲に関心を持たない多くの人は、なぜ他の誰でもなく「板井圭介氏」が告発を行なったのか?という疑問を持ったことだろう。事実、会見での板井氏の発言は「周りが八百長をやっていたから仕方なく八百長に手を染めた。申し訳ない」というニュアンスであった。しかし、80年代から大相撲を観戦し続け、かつ最近の様々な八百長報道に目を通してきた者(私自身を含む)にとっては、「板井氏」が告発を行なったのは何ら意外なことではなかった。いや、より正確に言えば「いつ板井が口を開くのか……それとも、永遠に開かないまま終わるのか」という密かな期待を持っていたと言うべきだろう。 
それはなぜか。簡単に言えば、板井氏が80年代における「八百長仲介人(=中盆)」の中心的存在だったという噂は、既に長いこと囁かれてきたからである。板井氏は当初の会見や、それに前後して行なわれた「週刊現代」での告発では、自らの「中盆」としての役割については触れなかった。また、当時彼と「一心同体」の関係にあったと言われる逆鉾(現・井筒親方)の役割についても同様に触れなかった。その結果として、彼がいかなる立場から「八百長告発」をしているのかが判りにくくなったのである。 
こうした板井氏の「歯切れの悪さ」を指摘したのが、「週刊現代」のライバル誌であり、板井氏の役割についてもかねてから報道してきた「週刊ポスト」だった。たとえば同誌は3/24号で、かつて板井氏が所属していた大鳴戸部屋の元呼び出し・鐵朗の「板井関よなぜ中盆・逆鉾の八百長漬けを隠すのか」という記事を掲載している。こうした中で、板井氏自身も告発の軸足を「週刊ポスト」に移し、小学館(「ポスト」の出版社)から出版された前述の自伝はそのものズバリ「中盆」という題名となった。自らの「中盆」としての役割を明確に認めたわけである。ちなみに同書では、「逆鉾との腐れ縁」という一章も設けられている。 
また、板井氏が記者会見で公開しなかった「決定的証拠」についても一言述べたい。米「タイム」誌2/28号の記事(「Sumo’s Dirty Secret」)は、同誌が板井氏から、協会幹部の八百長批判演説のテープを入手したことを報じていた。このテープの内容はその後「中盆」においても公開されており、その信憑性は高いように思われる。彼がもしこの「証拠」を外国特派員協会で公開していれば、より発言の説得力は増したはずなのだが(なぜそうしなかったのかについては、別の推測を要する。何らかの相撲協会との「取り引き」を考えていたのかも知れない)。ちなみに同記事では、板井氏は宗教団体「GLA(God Light Association)」に最近入信し、自らの過去を告白する決意を固めたとされている。 
それでは、現役時代の板井氏とは具体的にどのような力士だったのだろうか。これも相撲ファンには周知の事実だが、彼は十両(「関取」と呼ばれる最低地位)昇進までわずか1年・6場所という、戦後単独1位のスピード出世記録を保持しているのである(幕内昇進までで数えても、12場所の1位タイである)。以下、前述の自伝「中盆」や佐竹義惇「戦後新入幕力士物語」(ベースボールマガジン社)第5巻「板井圭介」の項などを参照しつつ、力士としての板井氏について触れておきたい。 
板井氏は大分県の出身で、高校から相撲を始め、卒業後実業団相撲の強豪・黒崎窯業に入社した。本人はこの選択を失敗と感じていたようで、入社後しばらくして東京農業大学への入学を画策したが失敗したという。そんな中、彼が22歳の1978年夏に当時の大鳴戸親方(元関脇・高鉄山)からスカウトを受け、同年9月初土俵を踏んだ。実業団における彼の実績からすれば幕下付け出しでスタートを切るのが当然だったが、当時の相撲協会のアマチュア相撲への認識不足・大鳴戸親方の力不足が原因となって、前相撲からのスタートとなった(四股名は、一時師名の「高鐵山」を名乗ったほかは本名で通した)。 
板井氏は圧倒的な強さを発揮し、前相撲・序ノ口・序二段・三段目を全勝で突破、幕下でも6勝1敗・5勝2敗という好成績を続けて十両に昇進した。しかし板井氏によれば、新十両の場所5日目の翆竜戦が同氏の「八百長(注射)初体験」になったという。2勝2敗となった板井氏を心配した師匠・大鳴戸親方が、自ら仕度部屋に出向いて翆竜と交渉し、負けてもらうよう話をつけたというのである。 
その後の板井氏は「八百長相撲の底無し沼にはまっていった」。紆余曲折を経て幕内に定着したものの、膝を痛めていたこともあって出世を望まず、星を売る「注射」に専念していたようである。そのため、当時小さかった私などには「単なる平幕中堅力士」としてしか映っていなかったが、実際にはここ一番で驚くべき強さを発揮していた。しばしば指摘されるように、80年代を代表する「ガチンコ力士」といわれた大乃国に6連勝したほか、旭富士・北勝海・双羽黒・寺尾・栃乃和歌・久島海・曙といった話題力士を、ことごとく初対戦で倒している。本人が言うように、これほどの強さを示していたからこそ「中盆」としての地位を確立できたのだろう。その一方で、かの千代の富士(現・九重親方)には16戦して全敗しており、これは大いに疑惑を招くものである(千代の富士の最後の白星の相手は−−滅多に指摘されないが−−板井氏である)。 
板井氏は一度小結に上がった(89年5月)後、91年7月には引退の決意を固め「わざと」15戦全敗して十両に落ちた。そして翌9月場所中、正式に引退を表明したが、何と年寄・春日山襲名が理事会で認められない事態となり、廃業に追い込まれた。これは明らかに相撲協会が「八百長仲介人」としての板井氏の役割を知っており、その詰め腹を切らせたものと解釈されている。 
その後1996年、板井氏の師匠である元・大鳴戸親方(既に協会を退職していた)が、かつての有力後援者・橋本成一郎氏とともに「週刊ポスト」誌上で八百長告発を開始した。微に入り細にわたったその内容は衝撃的で、同年4月26日には日本外国特派員協会で角界の八百長・脱税・マリファナ問題について講演することになっていた。ところが、その直前の4月14日、元大鳴戸・橋本両氏が同じ病院(愛知県の藤田保健衛生大学病院)で、同じ病気(重症肺炎)により相次いで急死したのである! 
相撲協会が故・大鳴戸親方を刑事告訴し(のちに不起訴となった)、板井氏が八百長を否定する「陳述書」に署名したのは、この直後のことであった。元師匠の死を目の当たりにした衝撃を考えれば、当時彼がとった行動は無理もないと言えよう。そして4年後の今年、板井氏はかつて師匠が立つはずだった、「日本外国特派員協会」の舞台でスポットライトを浴びることになったわけである。 
その意味で、今回の告発はきわめて因縁めいたものであり、そこには明らかに「弔い合戦」の意味もあったと考えざるを得ないのだ。

  

過去・現在の八百長論議 
板井発言の余波がさめやらない時期、読売新聞社の発行する相撲専門誌「大相撲」2000年3月号は、「八百長問題」について特集を行なった。その中で、長山聡氏の「大相撲の特殊性を再認識せよ!−−近代スポーツ化による矛盾と限界−」と題した署名記事は、大胆にも事実上八百長の存在を認めた上で、「伝統文化」「興行」として存在してきた大相撲に過度のスポーツ化が要請されると、それは大相撲そのものの存続を脅かしかねないという論を展開している。この議論(伝統文化か、スポーツか)については、最終章で改めて論じたいが、少なくともこのような勇気ある論考は、最近の専門誌であまり見かけないものである。 
かつては、現在よりも相撲ジャーナリズムに批判精神があり、八百長について公然と批判することもそれほど難しくはなかった。そのことは、同じ「大相撲」誌が17年前(1983年12月号)に行なった「八百長はなくせるか?」と題する相撲通アンケートと、今回同誌が行なった「私はこう思う」と題する同様のアンケートを比較してみても明らかである(そもそもアンケートの表題自体に、編集部の姿勢の違いが反映されている−−83年の場合は「八百長」はあると前提した上で、それをなくせるか否かを問うているが、今回はただ板井発言への意見を聞いているに過ぎない)。 
83年のアンケートは、元十両・四季の花の告発(1980)に端を発した、「週刊ポスト」誌による第一次「角界浄化キャンペーン」が続いているときに行なわれた。このアンケートには58氏が回答を寄せているが、「最近は八百長が減っている」という回答は散見されるものの(もっとも、板井氏らの告発を見るとこの見方は楽観的に過ぎたようだが)、八百長が「ない」「ないと信じる」というニュアンスの回答はほんの数人に過ぎない(日刊スポーツの宮沢正幸氏など)。多くの回答者は八百長の存在を事実と認めた上で、春日野理事長(当時)の「八百長は存在しない」一点張りの対応では、八百長の撲滅は不可能であるとする点で共通している。 
いくつか例を挙げれば、共同通信の京須利敏氏は「ずうっと以前のアンケートにも答えましたが、残念ながらなくなることはありません」「毎日の取組編成に気をつかえば、少しは減るでしょう」。1章で登場した小島貞二氏は「大相撲はしょせん「鑑賞用の格闘技」である。ショーアップのための演出は江戸、明治のころから行なわれている」。相撲史跡研究会の小沼盛一氏は「八百長撲滅に“無気力”な春日野理事長のもとでは八百長は絶対になくなりません」−−こんな具合である。 
それに対し、今回(2000年3月)の29氏による回答では、全体の雰囲気が大きく変わっている。板井氏の告発を肯定的に受け止めているととれるのは、梅原猛・香山磐根・小島貞二・花島克彦・三根生久大の5氏のほか、多く見ても2〜3人程度である。かなりの人が、板井氏の発言内容よりもその意図やタイミングを問題にし、「協会よりも板井氏が悪い」というロジックを用いているのが際立った傾向である。 
またもう一つの変化として、83年の回答ではある程度八百長の存在を認めていた相撲記者たちが、今回はほとんど八百長全否定に転じていることがある。特に驚くのは、両方のアンケートに答えている吉田龍雄氏の態度の変化だ。 
同氏は、83年には次のような回答を寄せている。「八百長をやったら、勝ち越し時=月給停止二か月、十両・幕内昇進時=出場停止二か月、役力士昇進時=師匠ともに謹慎二か月など、思い切って一度実施してみては……。」「現在の給金は、固定給が多すぎるから、一勝の価値がない」。ところが今回は、次のような調子である。「証拠もないことに騒ぎすぎる。一方的発言をとらえて大々的に報道する側にも問題がある。なぜ板井氏が、いま発言するのか、理解に苦しむ」。−−理解に苦しむのはこちらの方である。吉田氏にこの間、どのような心境の変化があったのだろうか?80年代の八百長告発と、現在の板井氏の告発に、どのような質的違いがあるというのだろうか? 
いずれにせよはっきりしているのは、この十数年の間に、明らかに存在している「八百長」について、(誰よりもそのことを知っている相撲記者すら)口をつぐまざるをえない空気が出てきたということである。明らかに、そこには保身の感情が蔓延しており、相撲ジャーナリズムの全般的な停滞の一因となっている。 
相撲ノンフィクションの古典として、石井代蔵「土俵の修羅」(新潮文庫、1985)という本がある。同書には「生きている八百長」という一章(40ページに及ぶ)が設けられており、その中で83年の前述アンケートも紹介されているほか、八百長を断って部屋を追われた後の横綱・東富士の話、石井氏独自のシンプルな八百長絶滅案(東西南北の四面に4人の審判員が座り、「不正相撲」を示す黒旗を3人が挙げれば、その勝負は不成立とする)など興味深い記述が満載である。 
その中で紹介されている、元NHK解説者の玉の海梅吉氏(元二所ノ関親方)が八百長問題について語ったという言葉は興味深い。引用しよう。 
「どこの社会にも不正は必ずある。学校の先生、警察官でさえ例外ではない。ところが相撲界にだけ不正がないということは、もう通用するわけがない。事実、八百長はいくらもある。協会も一度それを素直に受け止め、予防策なりに取り組むべきですね。びしっと罰則をもうけるべきだ」 
この見解はある意味では「当たり前」の見解である。特に現在は、玉の海氏がこの発言をした時代よりもずっと「学校」や「警察」の不祥事が暴かれるようになっている。ところが、大相撲界の八百長についてはむしろ逆に、以前よりもタブーが強化されているのである。そうした風潮を作り出してきたのは、「くさいものに蓋」をして「きれいな立ち合いの実践」などに血眼になる相撲協会、協会からにらまれることを恐れる相撲ジャーナリズム、そして角界に存在する現実の腐敗から目をそらし、自分の応援する力士が勝てばよいとするファンの三者それぞれに責任があるだろう。 
最終章では、一部で根強い説得力を持っている「相撲はスポーツではなく伝統芸能なのだから、多少の八百長は大目に見るべきだ」という議論について検討し、その上で八百長問題と今後の大相撲の運命について考えてみたい。

  

おわりに 
全章で取り上げた「大相撲」誌2000年3月号の文章で、長山聡氏は次のように述べる。−−大相撲は江戸時代に、その体制やランキング制度がほとんど確立されたものであり、「横綱」という制度もその一例である。当時の相撲はスポーツと呼べるような代物ではなく、あくまでも興行・伝統芸能であった。したがって横綱の地位を維持するには「内部調整的な星」がどうしても必要になる。しかし現在の反八百長論は相撲のスポーツ化を求めており、果たしてその中で「日本の伝統文化」としての大相撲が存続していけるかは疑わしい。−− 
この議論はその内部においては説得力を持っており、「八百長の一つや二つ、目くじらを立てていたらきりがない」という意見の背後にはしばしばこの発想がある。たしかに、相撲にスポーツではなく「神事」、伝統芸能としての側面があることは否定すべくもない。横綱が体調如何にかかわらず、毎場所優勝争いに参加できるはずがないのも自明である。(そもそも、八百長がなければ横綱・大関を誕生させること自体難しいという説もある。多くの力士は昇進がかかれば緊張し、そう簡単に自分の力を出せるものではないからだ) 
しかし結論から言えば、私はこうした「相撲=伝統芸能」論には賛成することができない。その理由は二つある。まず第一に、大相撲独特のランキングシステムである「番付」による差別待遇は、それが「実力」を反映した序列であるという点を最大の根拠として正当化されているからである。もし十両以上の関取集が、相互の星の貸し借りによる八百長でその地位を維持していたとしたら、給料なしで「付け人」としての激務に耐える幕下力士の立場は理不尽なものになる。実際、相撲を「伝統芸能」と主張する論者も、たとえばプロレスと相撲とを比較して、そのショー性が同程度であると主張することは滅多にない(87年に廃業した元横綱・双羽黒の北尾光司氏が、のちにプロレスのリング上で「お前ら、こんな八百長試合見てて面白いのかよ!」と叫んだ事件は記憶に新しい−−ここでの議論に直接関係はないが)。 
そして第二の理由は、八百長問題とは別の部分で「相撲=伝統芸能」論が果たす機能である。たとえば、今年3月に大阪府の太田府知事が、優勝表彰式の際に土俵に上がることを拒否された事件は記憶に新しい。相撲協会のこうした姿勢を後押ししたのが、相撲には神事としての伝統があり、そのために女性が土俵に上がれないとしても差別ではないとする論理であった。もとより、「伝統」であるから差別でないという論理自体が成り立たないのだが、熱心な相撲ファンにはこの論理を支持する人が多いのも事実である。 
現在、相撲人気は低下の一途をたどっている。老人と若い女性にはそれなりに厚いファン層があるものの、若い男性・男の子の相撲ファンが激減している点は、競技人口の確保という観点から見ても深刻である。少なくともその理由の一つが、総合格闘技やプロレスにファン層を奪われている点にあることは間違いないだろう。相撲協会が好むと好まざるとにかかわらず、「伝統」に固執しいかなる改革にも抵抗する姿勢では、もはや若い男性の支持を確保できるとは思えない。 
その意味で、「相撲=伝統芸能」論とそれに基づく八百長正当化論は、大相撲の将来にとって百害あって一利なしだと私は考えている。 
板井発言は、ある意味では予想されていた通り、相撲協会に対し表面的には何らのインパクトをももたらさずに終わった。しかし明らかなのは、相撲協会が板井氏に対してとった煮え切らない態度によって、多くの人の心の中に「やはり八百長はあるのではないか」という印象が刻み込まれたことである。そのことのもたらした影響を、相撲協会は過小評価しているように思える。 
八百長問題のほかにも、相撲協会は数多くの難題を抱え込んでいる。その代表として、「年寄株問題」が挙げられよう。どんなに強い力士であっても、引退後に相撲協会に残るためには高額の年寄株(正式には年寄名跡という)を取得しなければならない。96年の二子山ファミリーによる脱税事件をきっかけに、その相場の高騰(億単位まで達した)が問題視されるようになり、当時の境川理事長は「年寄株改革」を打ち上げた。しかし反対派が巻き返し、98年の役員改選で境川は失脚、同年5月に「年寄株の売買は禁止せず、貸し借りを禁止する」という骨抜きの「改革」で決着したのだった。 
実際にはこの問題も、八百長問題と全く無関係というわけではない。結局、多くの力士は年寄株を入手する代金を容易には調達できないため、少しでも長く現役生活を続けようとする。そのためには、「八百長をしてでも」ケガを防ぎ、現在の地位を維持しようということになるのである。従って、協会に求められているのはこうした構造を踏まえての抜本的改革なのだが、とてもそれが実現する雰囲気ではない。 
相撲協会がこのまま八百長問題に対応しないばかりか、年寄株問題についてもその解決を先延ばしにし、女性を土俵に上げることを拒否し、個人別総当たり制の導入すらも考慮しないならば、相撲人気の回復は難しいだろう。それは相撲界の「外部」にいる多くの人にとっては自明のことだが、生涯の大半をその中で暮らしてきた協会幹部にとっては自明ではないのである。 
皮肉なことに、アマチュア相撲の世界では世界相撲選手権の開催、女性による相撲=「新相撲」の全国大会開催など、急速に自己改革の動きが進行してきた。それは(早ければ2008年の)相撲のオリンピック競技化を目指してのことなのだが、プロの側はこの動きに何ら刺激された様子がないばかりが、むしろ敵対している節すらあるのだから驚くばかりである。今のままでは、21世紀の大相撲の将来は暗いと考えざるを得ない。
 
板井圭介

  

(いたい けいすけ、本名は四股名と同じ、1956-) 大分県臼杵市出身のかつて大鳴戸部屋(※現存せず)に所属していた大相撲力士。最高位は西小結(1989年5月場所)。現役時代の体格は178cm、139kg。得意技は突き、押し、叩き。 
小学生の頃から中学校卒業までは野球をやっていた(主に右翼手だったという)。しかし、当時実業団相撲で活躍していた兄・義美を追って、大分県立大分水産高等学校(現・大分県立海洋科学高等学校)に入学してから本格的に相撲を始めた。 
高校の相撲部ではそこそこの実績を残し、卒業時には宮城野(元横綱・吉葉山)からのスカウトを受けた(日本大学や駒澤大学などからの勧誘もあった)。しかし「まだプロ入りする自信がない」などの理由でこれを断り、高校卒業後、直ちに黒崎窯業(現・黒崎播磨)に就職。同社の相撲部では国体青年の部で優勝するなど活躍し、退職後の1978年、大鳴戸部屋(師匠は元関脇・高鐵山)に入門した。 
同年9月場所で初土俵を踏んだが幕下付出の申請をせず、前相撲から取った。実業団相撲で4年以上養った実力は伊達ではなく、序ノ口から三段目まで3場所連続優勝するなど26連勝を記録(因みに連勝を止めたのは、元小結大錦)。翌年9月場所、序ノ口から5場所で十両にスピード昇進した(戦後では土佐豊と並ぶ1位タイ)。十両昇進と同時に、四股名を「板井」から師匠と同じ「高鐵山(こうてつやま)」に改名。 
その後も順調に番付を上げ、1980年9月場所、初土俵から丸2年で新入幕。大きな期待をかけられた新入幕場所(9月場所)であったが、足の関節を傷めた影響で全く振るわず、すぐに十両へと陥落。翌年5月場所、2度目の入幕を果たした時も左膝の怪我により不本意な成績に終わり、1場所で十両に下がった。それから間もなく、四股名を元の「板井」に戻している。その後は一時、幕下にまで番付を落としていたこともあった(その時期には1度、幕下優勝を果たしている(1982年1月場所)。それ以前に十両で2度優勝しており、この優勝により幕内以外の全ての地位で優勝という快挙を達成したことになる)。 
1983年3月場所、4度目の入幕を果たしてからは長く幕内の地位を守り、1989年3月場所では東前頭7枚目で11勝4敗の好成績を挙げて殊勲・技能両賞を受賞。翌場所、小結に昇進した(同場所は3勝12敗と大きく負け越し、三役経験はこの1場所のみで終わっている)。前述の通り膝が悪く、巡業中でもほとんど稽古をしていなかった(ある巡業でぶつかり稽古をしていたところ、「倒れ方を知っているのか」と噂が立った)が、立合いのタイミングの取り方は天才的と評した親方もいた。 
1991年7月場所では、東前頭14枚目の地位で15戦全敗を喫し十両へと陥落(幕内皆勤全敗は、これ以降、現在(2010年7月場所後)まで誰も記録していない)。途中休場した翌9月場所中、廃業を表明した。因みに同年7月場所の「幕内皆勤全敗」は、当時のラジオ番組で投稿ハガキのネタにされるほど印象的な出来事であった。初土俵・新十両・新入幕・廃業がすべて同じ9月場所でのことだったという、珍しい経歴を残している。また同1991年5月場所2日目には、「昭和の大横綱」と言われた千代の富士と対戦して敗れるも、千代の富士は同場所翌3日目に貴闘力に敗れて引退したため、板井が千代の富士の現役最後の白星相手となった。 
当初は現役を引退し、年寄・春日山を襲名することが確実だったが、日本相撲協会が年寄襲名の申請を却下したため廃業せざるを得ない事態となった。なぜ協会が年寄襲名を認めず廃業させたかについては、「土俵上のマナーが悪かったから」「廃業後、物議を醸した八百長相撲の主犯格として協会から目をつけられていたから」「 「15戦全敗」 という無様な成績を記録したから」といった憶測が流れたが、その真相は現在でも謎のままである。その後、廃業力士としては異例の、国技館の土俵上においての断髪式を行った。廃業後は一時、東京都江戸川区内で相撲料理の店を経営した。2008年現在、ガラス工をしていると語っている。 
軋轢 
対横綱大乃国戦で腕をテーピングでグルグル巻きにして、張り手一発で勝ったことがある(奪った金星3個は、全て大乃国からのもの)。このテーピングについては「卑怯」「見栄えが悪い」「みっともない」と協会内部・マスコミなどで問題になり、板井の年寄襲名が認められなかった一因とも言われている。また、大乃国がガチンコ力士だったためそのような行為をしたとも言われる。 
大乃国は板井のことが大嫌いで、引退から数年後に行われたインタビューでは、「1人顔面を張ってくる力士がいた。あまりに腹が立つので組み止めたら両肘を極めて、土俵の外に出さずにそのまま腕を折ってやろうかと思ったほどだ」と語っている。 
八百長との関わり 
師匠の大鳴戸親方(元関脇・高鐵山孝之進)が廃業後大相撲の「八百長」を告発し、板井が千代の富士グループの仲介・工作人(中盆)として八百長を行っていたと主張したが、板井は沈黙を守った(ちなみに板井は千代の富士に全敗している)。板井は1980年代に新宗教GLAに入会し、その後、八百長の真実を明かすことは 神から与えられた自らの使命であると認識するようになった。そして、大鳴戸の死後の2000年1月、外国特派員協会の講演で、自らも「八百長」を告発し物議を醸した。2008年には日本相撲協会と週刊現代を発行する講談社との間で争われている八百長記事をめぐる裁判の中で、現代側証人として出廷し、「(2000年1月八百長を告発したのは)とあるサッカーの試合のチケットを貰ったお礼」と証言した。また、現役時代に北の湖との取り組みの中で、自ら八百長を持ちかけたことを証言した。
 
「大相撲に八百長は存在するのか?」

  

相撲ファンならずとも大いに気になる疑問である。日本相撲協会は、公式見解として「八百長はあり得ない」と繰り返し答弁しているが、その一方で「無気力相撲」の存在は否定していない。 
「八百長」と「無気力相撲」の違いは、前者は対戦する両者があらかじめ示し合わせたとおりに勝負をつけるのに対し、後者は対戦の際に一方がわざと力を抜いて、相手に有利になるように仕向けることとされている。協会では故意による無気力相撲を防止するため、昭和46年に「監察委員会」を設置し、違反者には厳しい懲罰が下されることになっているのだが、実際には昭和47年に琴桜(現佐渡ヶ嶽親方)と前の山(現高田川親方)が注意されたのが目立つ程度で、過去に懲罰を受けた力士は一人もいない。 
なお、問題となった琴桜と前の山の一番は、カド番の場所で黒星が先行していた大関前の山に対し、同じ大関の琴桜がわざと力を抜いて負けてやったという疑惑が問題となり、対戦後に両者が注意を受けたのだが、翌日から無気力相撲を「された」方の前の山がなぜか休場し、結局大関から陥落している。ちなみに現在の監察委員長は、その元前の山の高田川親方である。 
さて、前述の命題であるが、筆者は八百長は存在しないと「信じている」。相撲は日本の「国技」であり、長い伝統を誇っているし、何よりも天皇陛下が度々国技館にお出ましになられて観戦されているのである。いやしくも陛下の御前で八百長相撲を見せるような愚はしないだろう。もし八百長をしているのであれば、それこそ不敬罪ものであり、また財団法人として文部省の管轄下に置かれているのも問題となるであろう。協会もそんなことは百も承知であり、八百長らしき相撲があれば、直ちに厳罰に処しているはずで、それが過去にないのだから、やはり八百長は存在しない「はずである」。 
しかし、板井氏の過去の告発の内容を見聞すると、その自信がどうも揺らいでくるのである。 
板井氏の告発によると、優勝回数31回を誇り、53連勝の大記録を達成し、角界初の国民栄誉賞を受賞した大横綱千代の富士(現九重親方)が、実は八百長に手を染めていたらしい。いや、手を染めていたというような生易しいものではなく、積極的に八百長を仕掛けていたというのである。あの53連勝も、内実はガチンコ(真剣勝負のこと)は数えるくらいで、ほとんどの一番はあらかじめ千代の富士が勝つように仕組まれていたというのだが、俄かには信じがたい話である。 
そこで筆者は千代の富士の53連勝のビデオを再生してみたが、いずれも千代の富士が対戦相手を圧倒しており、八百長のようなわざとらしさは見受けられなかった。しかし、一番だけ「おや?」と思う取組があった。千代の富士が横綱大鵬(現大鵬親方)の記録に並ぶ45連勝を達成した陣岳との取組で、板井氏から八百長と指摘されている一番である。立ち合いで千代の富士がすぐに左上手を引いて、出し投げに仕留めるのだが、千代の富士が出し投げを打つタイミングよりも一瞬早く、対戦相手の陣岳が自分から投げられているようにも見えるのである。陣岳が千代の富士に上手を取られた時点で負けを覚悟し、下手に怪我をしないように自分から投げられたと考えられなくもないが、それにしても不可解な決着である。 
日本相撲協会は、今回の板井氏が引き起こした一連の騒ぎに対し改めて八百長の存在を否定し、板井氏の発言を事実無根としたが、法的手段に訴えることはしなかった。おかしな話である。八百長が存在しないのが事実であれば、法廷で証明すべきであろう。現に元大鳴戸親方の場合には刑事告訴をしているのだ(結果として不起訴処分となったが)。 
この問題は、中国や反日の進歩的文化人などから決め付けられた「南京大虐殺」などの「言いがかり」と比較してみると分かりやすくなる。 
大東亜戦争終結後の東京裁判で突如問題化され、その後も中国側から執拗に戦争責任を迫る(またはODAの名のもとにわが国から法外なカネをむしり取る)恰好の対象となり、一部マスコミや反日の進歩的文化人の強力なアシストのおかげで歴史教科書にも記載されるようになった「南京大虐殺」。これらの動きに対して、わが国が沈黙を守り続けただけでは、その「事実」を証明したのと同じことになってしまう(現に教科書に記載されているのだから)。これに対抗するには、真実を地道に検証した上で、動かぬ証拠を突きつけて相手の発言を完全否定する以外に方法はない。幸いにも「南京虐殺の徹底検証」という名著が東中野修道教授から出版されて、彼らの言いがかりに対抗する手段を得た訳だが、相撲協会も、板井氏の発言を「でっちあげ」と否定するのであれば法的手段に訴えるなどして「真実」を証明することが絶対条件のはずである。しかし、現実には一連の騒ぎを黙殺するだけで、まるで嵐が過ぎ去るのをじっと待っているだけの様にも見受けられる。 
重ねて言うが、八百長が存在しないのであれば、協会はその真実を明らかにすべきである。いわれなき疑いをかけられて、それをほったらかしにすることは、その疑惑をみずから肯定しているのと同じことである。筆者が考えるに、大相撲の人気の低下は、八百長疑惑がうやむやにされていることが最大の理由である。誰だって仕組まれた出来レースなど見たくはない。真剣勝負だからこそ観客は感動し、国技館に足を運ぶのである。協会は大相撲の人気回復のために、あの手この手の対策を打ち出しているが、原因の「根っこ」とでもいうべきこの問題を解決しない限り、大相撲に未来はない。 
 
相撲の八百長 (2005/6)

  

経済学者のレーヴィット氏の本「Freakonomics」を読んでいたら、相撲における八百長について分析していた。 
私は相撲に八百長があるのは当然だと思っている。たとえば先日実家に戻ったさいテレビで貴乃花を見て思い出したことがある。95年に彼ら兄弟が優勝決定戦で同門対決をしたことがあるのだが、その直前の試合が非常にわざとらしかったのだ。確か貴乃花と若乃花の勝ち星が同じで、二人とも勝てば兄弟対決をするはずだった。 
しかし貴乃花は珍しく負けてしまい、これで若乃花が優勝するのは確実と思われた。(逆だったかも。記憶が不鮮明である。)しかし次の試合で若乃花は前につんのめって倒れるというおよそ信じられない負け方をした。テレビの前で父が「でたらめだ」とぼやいていたのを覚えている。 
その後の兄弟対決では若乃花が勝ち、直後のテレビの対談でひどくつまらなそうな顔をしていた。「優勝おめでとう」と書かれた視聴者からの能天気なFAXと「もう2度と兄弟対決はしたくない」という若乃花の暗い発言が対照的だった。 
直前の取り組みや優勝決定戦で本当に八百長があったかどうかは分からないが、ものすごく怪しかったことだけは確かだ。少なくとも我が家では「あれは八百長だ」ということになっている。(・・・今ネットで当時の試合について調べたてみたところ、この試合について貴乃花が八百長を認める発言をしたことが話題になっていたので驚いた。墓場まで持っていく話だと思っていたが、大丈夫なのだろうか。) 
本題に戻ると「Freakonomics」では八百長の根拠として、千秋楽の日に勝ち越しか負け越しかの瀬戸際にいる7勝7敗の力士が8勝6敗の力士に勝つ割合が79.6%、9勝5敗の力士に勝つ割合が73.4%もあることを示している。明らかに偏りすぎである。勝ち越しが決まっている力士が、瀬戸際にいる力士に勝ち星をゆずってやっている可能性が高い。だがこれだけなら「火事場の馬鹿力」「窮鼠(きゅうそ)猫を噛む」で説明できるかもしれない。そこでレーヴィット氏は更に怪しい試合をした7勝7敗力士と8勝6敗力士の再戦記録も調べてみた。すると前回に7勝7敗で勝ち星を上げた力士の負ける確率が60%と非常に高かったのだ。これは前回勝たせてもらったお礼に負けてやっているものと思われる。 
ついでにレーヴィット氏は元大鳴戸親方と橋本成一郎氏が相撲の八百長を告発しようとして、その直前に同日に同病院で同じ病気により二人とも死亡してしまったという怪事について言及している。これは暗殺説も流れた有名な話である。
 
白鵬・朝青龍「八百長」報道 (2007/5)

  

週刊現代の新たな「八百長相撲報道」が波紋を広げている。綱取りに挑戦している大関・白鵬の師匠にあたる宮城野親方が、八百長の内幕を愛人女性に語った内容が暴露されたのだ。今回は、これまでの「八百長相撲報道」とは違って、録音テープも存在するという。朝日新聞も社会面でこの記事を紹介するという異例の扱いをしているほか、相撲協会側も「事実無根」ではなく「コメントできない」の一点張りで、歯切れが悪いのだ。  
親方が愛人女性に打ち明けたテープが持ち込まれる  
「八百長相撲報道」に相撲協会はダンマリ 疑惑は「週刊現代」の2007年6月2日号(首都圏では5月21日発売)が報じているもので、週刊現代による一連の「八百長相撲疑惑」記事を執筆している、ノンフィクションライターの武田頼政さんによるものだ。 
記事によると、06年の名古屋場所での白鵬・朝青龍「八百長」の内幕を、白鵬側の宮城野親方が愛人女性に打ち明け、そのやり取りを録音したテープを同誌に持ち込んだらしい。やり取りはかなり具体的だ。  
女性: 「朝青龍が背中から落ちたでしょう?あのときカズ(宮城野親方の愛称)、おカネ配ったの?」 
男性: 「そうだけど」 
女性: 「あの時に朝青龍さえ上手にやっとけば(白鵬は横綱に)なれたんでしょ?」 
男性: 「いや、そんなこと言ったって…」 
女性: 「(朝青龍は)なんであんなにヘタクソ?負け方が」 
男性: 「(負け役を)したことがないからだろう」  
この場所では、白鵬は12勝2敗で千秋楽を迎え、朝青龍に挑戦。白鵬は朝青龍を破るが、朝青龍の「無気力」とも見える相撲が原因で、白鵬の横綱昇進が見送られた、という経緯がある。つまり、「宮城野親方が朝青龍にお金を渡し、対白鵬戦でわざと負けてもらったが、慣れていないので負け方が下手だった」ということのようだ。  
一般新聞、スポーツ紙も疑惑を報道 
「日刊ゲンダイ」も5月21日、愛人とされる女性のインタビューを掲載、「週刊現代」に持ち込まれたテープを聴いたとして、同様のやり取りを一問一答形式で紹介している。  
朝日新聞も5月21日の朝刊社会面で「また「八百長」週刊現代報道」という記事を掲載、記事の要旨と、宮城野親方の「お話しすることはない」北の湖理事長の「ノーコメント」という、朝日新聞が取材したコメント付きで掲載されている。週刊誌の記事をめぐって訴訟にまで発展した場合には一般紙が記事にすることも多いが、「疑惑を提起する記事が掲載される」という段階での記事掲載は異例だ。  
日本相撲協会側の会見でも「ダンマリ」は続いた。同日、北の湖理事長が緊急会見を開くも、出てきたのは「(弁護士などの)専門家と話をしていないので、コメントは控えさせていただきます」といった言葉。通常は、このような会見では「事実無根だ」と、怒りを表明して見せるものだが、それもなく、会見はわずか数分で終了した。 
J-CASTニュースでも、翌5月22日午後、協会の広報部に聞いてみたが、「今は弁護士と相談中で、まだコメントは出していません。いつ出すかも決まっていません」 と、同様の答えが返ってきた。
 
「無気力相撲」叱責内部テープ 
 「八百長やっぱりあったのか」 (2008/10)

  

とんでもないテープが出現した。17年前の1991年9月場所を前に、相撲協会が全親方と十両以上の全力士を集めた国技館での「力士・親方会」の録音だ。当時の二子山理事長が、「無気力相撲」をはげしく叱責している。無気力=八百長となると? 
このテープ。現在相撲協会と講談社(週刊現代)で争われている裁判で、講談社が「八百長の証拠」として提出するという。録音したのが、週刊現代に八百長を告発した元小結の板井圭介だという。なんとも生臭い。 
その思惑はともかく、テープの二子山理事長の気迫は凄まじい。 
「君らよく聞けよ、親方衆。重大なことだぞ。若い親方衆、今までの相撲を見てみろ。師匠は何とも思わないか。その勝ちで喜んでいるのか、手をたたいているのか。おめでとう、おめでとうって。逆に叱らなきゃいけないじゃないか」。 
次の出羽海親方(監察委員長)が、無気力相撲についてこういう。 
「故意による無気力相撲が一部不心得ものによって行われるのは許されない。(勝ちを)金で手に入れることは、稽古も何もしなくていい。床山とか若い衆とか、仲介した人は、相当な処罰をする、若い衆はクビ、床山は廃業になるかもしれない」 
これが事実とすれば、世間でいう八百長ということ。しかし、角界ではこの言葉は使わない。代わりに「無気力相撲」というらしい。 
相撲ジャーナリストの杉山邦博は、「二子山理事長の危機感のあらわれですね、(出羽海のいう)故意にということは、わざと。それも、金銭のやりとりがあったかのようないい方をしてましたね。情けなくて、何ともいいようがない」 
みのもんたは、「そうすると、八百長はやっぱりあったのかとなっちゃう。裁判に出されると影響しますね」 
杉山も「心証的には、行われていたであろうと思われても仕方がない」 
弁護士の道あゆみは、「この裁判は劇場化というのか、傍聴人の列が多くてびっくりしたが、本来裁判に出されるべき証拠とか証人が、マスコミに流されている。週刊誌が書いた内容が真実あるいは真実を信ずるに足るかどうかで、過去の八百長がどうとかという周辺の状況に左右されてはいけない」 
与良正男は、「メディアの側からすると、この手の裁判ではメディアは苦しい。情報源を明かすわけにいかないから。まあ、講談社としてはいろいろ出していく戦法なんでしょうね」 
ここで杉山が、17年前の取材ノートを出してきて、「立ち会いの待ったに罰金というのもこのとき決まった。敢闘精神欠如に出場停止とか、厳しい二子山理事長の厳しい通達のスタート」と読み上げて、「この後の9月場所の内容はよかったんです」という。 
しかし、その時点ではどうやら、出羽海親方の発言は知らなかったらしい。91年といえば、若貴兄弟人気が絶頂にあったときだ。裁判はそれよりはるか前の、北の湖・貴ノ花戦の話だ。時空を超えても、同じ話が出るということは? 
 
本命は野球賭博ではなく八百長相撲だ (2010/6)

  

相撲協会と力士と親方、一体となった琴光喜他野球賭博事件ですが、もっとすごい推理がありました。野球賭博は本来の八百長相撲を隠すためで、そこにこそ奥深い相撲協会の奈落の闇がある、というのです。 
 
相撲協会の対応が甘いと大マスコミは書き立てるが、そのマスコミもまた、コトの本質に踏み込めていないと私は思う。 
【相撲界野球賭博】もはや無法地帯?/暴行、薬物…協会の甘い体質変わらず 
角界がまたしても激震に見舞われている。大関琴光喜関ら複数の協会員が賭博行為にかかわったと自己申告。「維持員席」と呼ばれる特別席の流出問題とあわせ、暴力団との不透明な関係が広がりをみせている。暴行死事件や薬物汚染、元朝青龍関の暴行問題などで身内に甘い姿をさらした協会。角界はもはや“無法地帯”なのか。 
いや、この産経新聞は「何となく示唆」しているのかな。<暴力団との不透明な関係が><広がりをみせている>というところがミソなのだ。つまり、野球賭博などはまだまだ入り口に過ぎないということである。 
力士の数など知れている。しかもそのほとんどが給料もろくに貰っていない下級力士なのである。奴らに野球賭博をさせて入ってくるテラ銭など極道にとっては大したことはない。ひょっとすると食い込むための「御祝儀」で赤字かも知れない。 
野球賭博は力士たちとの関係をズブズブにするための「撒き餌」なのである。だから本当は決して当局に目をつけられたくなかっただろう。琴光喜を脅した人物などは、あるいは裏社会では「何しとんじゃ」と締め上げられるかも知れない。警察が「本ボシ」に目をつけるきっかけを作ってしまったからだ。 
「本ボシ」とは何か。そりゃあ相撲賭博ですよ。野球界はある時期から八百長を厳しく追放した。だからまだまだ偶然性に左右されるわけで賭博としてはおいしくないのである。あらゆるギャンブルでもっとも儲かるのは胴元が勝負の行方を左右できるものだ。 
取り組みではそれが可能なのだ。しかも野球などよりもずっと簡単に。 
こういう時はすっと身体を後ろに引くようにして、事態を巨視的に俯瞰した方がいい。するともっといろいろと見えて来る。 
野球賭博だけではなく賭けマージャンだの花札だのゴルフだの相撲協会はバクチのデパートのようにいろいろな案件を出して来た。そして警察に「恭順」しているように見える。これは今私が書いたように「事態を巨視的に俯瞰」されることを何より恐れているからではないか。多少だれかが捕まったり引退するものが出ても事態を矮小化してそれで決着をつけたいのである。 
では巨視的に見るとどうなるか。「週刊現代」の、そしてかつての「週刊ポスト」の報道が目に入って来るのである。八百長だ。更に言えば一連の貴乃花のつっぱりや御家騒動が何であったも視野に入れてもいい。貴乃花親方が理事になって、何を変えようと必死なのかということも。 
今日の朝日新聞2面の「時時刻刻」に、うっかりすると見逃しがちな数行があった。 
相撲にも、東西で1日の勝ち星が多い方を予想する賭けがあり、情報は携帯メールを通じて窓口の力士に流される、と暴力団関係者はいう。 
これ、大変なことでしょう。だって力士は賭けを成立させる当事者ですよ。当事者が張るということは八百長が簡単に出来てしまうということだ。 
もっとも暴力団関係者はそんな力士のカネなど当てにしていない。ズブズブの関係になることで勝負をコントロールして、素人衆から莫大なカネを巻き上げるのである。 
東西どちらの星が多いかなんて、そんなルーレットの赤か黒に賭けるような話は、プロのバクチ打ちならば鼻で笑うだろう。妙味がなさすぎる。それよりもやはり面白いのは一番いちばんの勝敗ではないか。 
実は「週刊現代」や「週刊ポスト」の記事でさえ、まだ俯瞰的な見方が足りなかったのかも知れない。いずれも八百長の動機は「出世」だと決めつけていた。 
そうではなく国技を称する大相撲そのものが「バクチの装置」だったとすれば?力士にとって、多少番付が上がるよりも、八百長の報酬の方がおいしいとすれば? 
なぜクンロクと呼ばれる大関が多いのか。なぜ大した成績も残して来なかった力士が、億と言われる親方株を買えるのか。そのカネはどうやって貯められたのか。 
さまざまなことが見えては来ないか。 
もしこれが明らかになれば、公益法人取り消しどころか、大相撲は消滅するだろう。天皇陛下が観ておられる国技館の土俵を賭博の盆として使っていたわけなのだから。 
司法当局がそこまで踏み込むのかどうかわからないが、ここへ来て暴力団への攻勢を急に強めていることは確かだ。以前紹介した、後藤忠政元組長の名著「憚りながら」にもそのことはハッキリと書かれている。戦後は三国人を抑えるために、安保の時代は左翼勢力と対決させるために、利権談合共産主義者たちは暴力団を飼い利用してきた部分がある。しかしもうその歴史的使命が終わったと司法当局が考えるならば、これまでとは違った対応になるのかも知れない。そのあたりまで私は巨視的に、今回の出来事を興味深く眺めている。 
 
なるほどね、わたしはこういう世界を知らないので相撲界のバクチといっても、具体的には何をどうするのか、わからない。こうして書かれると、どこに胴元の意思が入り込むかがわかる。 
そして、野球賭博と八百長相撲の関係も、ヤクザとの親密な関係もわかります。情報というのは、こうして料理するものだということを教えられる事件です。 
わたしは、相撲界とヤクザは何も今に始まったわけではない深い付き合いがある、それが遅まきながら表にでてきただけ、というふうにしか考えていませんでした。 
ところが、野球賭博の奥には本当に隠したい相撲協会の八百長相撲がある、ということになれば大変な事件です。 
八百長相撲などやろうと思えばいくらでもできます。現に朝青龍はそうして優勝してきたとも言われてきました。八百長、それは本人しか知らないことで立証が難しいわけです。「立会のときにミスりまして」とか「途中で力が入らなくなりまして」とか、言われれば、そうではないということの立証はできないように思います。 
東横綱VS西横綱、横綱VS大関などの勝負をかける博打に素人が10万20万と賭けて遊ぶことはあり得るでしょう。そして宝くじ並みに45%を配当にして、残り55%を胴元と力士で分配する、こういう考えればそのほうがグッと現実的なシナリオです。 
で、これだけ関係者が野球賭博に関与していたとなると、名古屋場所はできるのでしょうか? 
6代目山口組組長司忍(本名篠田健市氏)は名古屋の弘道会組長です。名古屋場所絡みで、何かヤクザに関する動きがあるのでしょうか。 
名古屋場所がなくなることになれば、名古屋の夏の風物詩が聞かれず残念ではあります。 
しかし、情報は自分自身で料理することでしか真実にたどり着けないことを、改めて理解しました。  
 
大相撲八百長発覚の意味 (2011/2)

  

大相撲の根幹を揺るがしている「八百長問題」。来月開かれる予定だった春場所は中止。大相撲は、その長い歴史と伝統に、自ら大きな汚点を残しました。今夜は八百長発覚の意味、今後の焦点について考えます。 
春場所中止の経緯 
まず、春場所中止にいたるまでの動きを振り返ります。八百長をうかがわせる携帯電話のメールなどに14人の力士や親方の名前が挙がったこの問題。これまでに3人の力士や親方が八百長への関与を認めています。また、外部の有識者で作る特別調査委員会は、十両の清瀬海も関与した疑いが極めて強いと報告しました。日本相撲協会は、ファンの理解を得られていない状況で、調査も難航しているとして、きのうの理事会で春場所の中止を決定しました。当初、相撲協会には、関与を認めている3人の力士を処分し、春場所開催の可能性を探る考えもあったといいます。しかし、調査が終わり、全容が解明されるまで処分は保留、開催を断念せざるを得ませんでした。 
国の反応 
春場所の中止は、相撲協会にとっては「断腸の思い」の決断でした。この決定に対して、相撲協会を監督し、問題の調査を指示した文部科学省の木大臣は、「春場所の中止で問題を収束させることは許されない」として、相撲協会に徹底した調査で全容を解明するよう求めています。また、枝野官房長官も、「厳しい対応をするのがファンや国民に対する責任だ。現在の状況を考えれば、中止は致し方ない判断だ」と述べています。 
相撲協会は、大正14年から公益法人に認定されていて、税制面の優遇などの恩恵を受けてきましたが、このところの不祥事でその適格性に厳しい視線が向けられてきました。取組の公正さを完全に損なう八百長の発覚は、公益法人の取り消しを議論されても仕方のない状況です。 
大相撲存続の危機 
去年の名古屋場所でも、野球賭博問題によって開催の是非が問われましたが、中止には至りませんでした。しかし、野球賭博などの不祥事が、土俵の外での親方や力士の素行の問題だったのに対して、八百長は土俵上での競技そのものの不正行為です。相撲協会は、本場所は力士の技術や能力=技量を審査する場だとしています。しかし、八百長で仕組まれた勝負に、技量も何もありません。また、相撲協会は今年行う予定だった地方巡業をすべて中止することを決めました。巡業は、全国各地を周り相撲の普及を図る、本場所と並ぶ事業の柱で、力士にとっては、鍛錬の場でもあります。しかし、本場所の土俵がファンの信頼を裏切った以上、巡業の中止も当然の成り行きでしょう。大相撲はいわば行き場を失ったのも同然。自らを存続の危機に追い込んでいると認識すべきです。相撲協会は、自らまいた種として、八百長が招いた危機的な状況を厳粛に受け止めるしかないでしょう。 
大相撲と八百長 
大相撲では、八百長が過去たびたび取りざたされてきました。力士は一般のスポーツ選手とは異なり、伝統的な独特の制度や慣習の中で競技を行っています。「大相撲は競技ではなく、興行である。力士がお互いを助け合う八百長はあっても仕方がない」と、冷めた見方をする人がいるのも確かです。相撲協会はこれまで「証拠がなく、噂に過ぎない」として八百長を否定してきました。しかし、今回はメールという動かぬ証拠が突きつけられたのです。

  

なぜ起きたのか〜待遇の違い 
なぜ起きたのでしょうか。その背景として、十両以上の「関取」と、幕下以下の待遇の違いが指摘されています。関取には、月ごとの給与として103万円以上が支給されますが、幕下以下には給与は支給されません。十両に上がれば、大部屋住まいではなく、師匠から個室が与えられます。また、後援会などから土俵入りの豪華な化粧まわしが贈られるほか、会食の席に招かれ、ご祝儀を受け取ることもしばしばです。さらに、幕下以下の力士から「付け人」が選ばれ、食事や入浴など、身の回りの世話をしてもらえます。そして、通算30場所以上、十両以上に在籍すれば、年寄名跡を取得する条件も満たせます。 
こうした待遇の違いは、本来、力士に少しでも上の番付を目指す競争意識をあおり、切磋琢磨させるための制度です。しかし、こうした特典を手放したくないとして、八百長に走ってまでも、地位を守りたいとする力士がいることが明らかになったのです。 
なぜ見抜けなかったのか〜チェック機能の限界 
なぜ見抜けなかったのでしょうか。相撲協会は八百長を否定しながらも、お互いが全力を発揮していない相撲を「無気力相撲」と定義しています。昭和47年、故意による無気力相撲についての懲罰規定を制定し、複数の親方からなる監察委員会を設置しています。本場所の土俵では、監察委員の親方が「敢闘精神が見られるかどうか」を監視し、故意による無気力相撲と結論付けられた力士は、除名や引退勧告、出場停止などの懲罰処分を受けることになっています。 
しかし、今回の八百長問題で疑惑を呼んでいる取組は、監察委員会から無気力相撲とは指摘されていませんでした。実際のところ、監察委員が見た目だけで判別するのは難しいといわれ、疑いを指摘した例もごくわずかです。力士への処分も注意に止まり、除名などの懲罰処分が下されたことはありません。現在関与を認めている力士たちは携帯電話のメールのやりとりで、相撲内容まで細かく打ち合わせていました。八百長に対するチェック機能は現状では限界があるといわざるを得ません。 
相撲協会は今すぐ再発防止策を講じる必要があります。「八百長をするメリットをなくす制度の改革」。そして、「チェック機能の見直し、抑止力の強化」。実効性のある具体策が求められます。 
今後の焦点 
今後の調査の行方を見てみます。特別調査委員会では、およそ70人いる十両以上の全ての力士に対して、八百長についての聞き取り調査を行うことにしています。複数の弁護士が面接を行い、返答があいまいな場合などは、再調査も行う方針です。また、現在名前が挙がっている14人に対しては、携帯電話や金融機関の通帳を提出させ、メールを復元、分析したり、金の出し入れを確認したりするほか、取組の映像を検証するなどして、詳しい事実関係を調べることにしています。大相撲の八百長はどこまで広がっていたのか、全容の解明が引き続き焦点になります。しかし、これらの調査はかなりの時間がかかり、長期化する見込みで、全容解明の目処はたっていません。 
次の本場所、夏場所は4月9日に前売り券が発売され、25日に番付発表、5月8日初日となっています。ただ、特別調査委員会では、こうした相撲協会のスケジュールはまったく考慮しないで、調査を行う方針を示しています。相撲協会では、調査が続いている中では、本場所を開く状況にはならないとして、夏場所についても開催を懸念する見方が出ています。 
必ず全容解明を 
これまでの数々の不祥事で、相撲協会は自浄能力のなさを露呈してきました。当事者たちの言い分を鵜呑みにするなどして、対応が後手に回ってしまい、その都度、社会の批判を浴びてきました。今回ばかりは、どんなに時間はかかっても、厳正な調査の徹底、包み隠さない報告、関係者への適切な処分を行って、全容を解明することを求めます。「夏場所の開催ありき」というような身内の論理、拙速な幕引きは決して許されません。 
不正のない土俵を 
春場所の中止に至った「八百長問題」は大相撲の長い歴史上、最大の汚点となりました。この汚点はそのまま歴史の終止符となりかねません。伝統文化の継承者としての自覚。勝負の世界に生きる者としてのプライドはどこにいったのでしょうか。相撲界全体で「不正のない土俵」を必ず実現する。それこそが、信頼を裏切られたファンへの償いではないでしょうか。

  

「無気力相撲=八百長」放駒理事長が認める (2011/2/3) 
放駒理事長は2日の記者会見で、「(「無気力相撲」と「八百長」は)ある意味イコールだと思っている」と発言した。 
相撲協会はこれまで、公式には八百長相撲の存在は認めていなかった。一方で、寄付行為上では「故意による無気力相撲懲罰規定」を設け、協会内の監察委員会が、敢闘精神や戦闘意欲に欠ける相撲を取り締まっている。 
一般的には「無気力相撲」と「八百長」は同じ意味にとらえられるケースもあるが、協会側は「相撲界には八百長は存在しない」と主張していた。故意に無気力相撲をした場合の力士に対する懲罰は、「けん責、給与減額、出場停止、引退勧告、除名とする」と定めている。
無気力相撲規定見直し=監察委も強化−放駒理事長・大相撲八百長 (2011/2/7) 
日本相撲協会の放駒理事長(元大関魁傑)は7日、東京・両国国技館で記者会見し、八百長防止のため「故意による無気力相撲懲罰規定」を改正する意向を示した。 
この規定は1972年、本場所での「故意による無気力相撲」を取り締まるために施行。監察委員会が本場所の相撲を常時監察し、無気力相撲と判断した取組があった場合は理事会で除名、引退勧告、出場停止、給与減額、けん責の懲罰を科すことができる。師匠の連帯責任や、当該力士以外に関与した者も懲罰を受けることも盛り込まれている。 
過去には「無気力相撲」を多数指摘したが、「故意による」ものではないとして注意などにとどめ、厳罰を与えた例はない。放駒理事長は「規定を見直し強化し、足らないことを加えていく作業が必要だと思う」と述べた。 
監察委のあり方についても「反省した上で今後どうしようという話になってくる」と再考の必要性を指摘した。この日文部科学省を訪れた際にも、監察機能の強化が話題になったという。 
監察委は現在、陸奥委員長(元大関霧島)らで構成。館内上部にある部屋から取組を見ているが、理事長は「現実的には見抜くのは難しいのではないか。相手のあることだから予期せぬ動きが出てくる」との認識も示した。 

  

NEWS   Feb. 6, 2011 
Sumo tournament cancelled amid match-fixing scandal‎ 
The Japan Sumo Association (JSA) has cancelled next month's grand tournament over allegations of match fixing. 
It is the first such cancellation since 1946 - when Tokyo's main stadium was being renovated. 
Police are investigating allegations of match fixing in which 13 senior wrestlers have been implicated. 
It follows another scandal over illegal gambling last year which saw live television coverage of the sport dropped by national broadcaster NHK. 
Japanese Prime Minister Naoto Kan has called the match-fixing scandal a betrayal of the people. 
Sumo has its origins in religious rites and wrestlers are expected to observe a strict code of behaviour. 
In the latest allegations the JSA chairman said last week that text messages found on mobile phones suggested that 13 senior wrestlers had been implicated. 
One reportedly went into detail of how he would attack and the other would fall, in exchange for hundreds of thousands of yen (100,000 yen equals $1,227 or £757). 
The messages came to light after police confiscated phones last year during an investigation into illegal gambling on baseball games by wrestlers using gangster middlemen.

  

    Feb. 4, 2011 
In Text Messages, Signs of a Rigged Sumo Fight 
TOKYO — It was a sumo bout like any other: two wrestlers grappled at each other at the ring’s edge, before one sent his opponent tumbling to the dirt in a move known as the over-arm throw. 
But a text message exchange between the two wrestlers the previous day suggests that the match was rigged — part of a raft of evidence examined by the police that points to widespread match-fixing in Japan’s time-honored sport, prompting a public outcry. 
“Please hit hard at the face-off, then go with the flow,” one of the wrestlers, Kiyoseumi, texted on the afternoon of May 10, according to a transcript of the messages leaked to local news media and published this week by the daily newspaper Mainichi. 
“Understood,” Kasuganishiki, his opponent in the following day’s match, quickly replied. “I’ll go with the flow and put up at least a little resistance.”  
Stage-managed bouts may be a staple of American professional wrestling, but sumo is Japan’s national sport, in a different league from World Wrestling Entertainment, many Japanese would say. Though allegations of match-fixing have accompanied sumo for decades, no wrestler has ever been caught orchestrating a match. 
The police recently found text messages on confiscated cellphones that link as many as 13 wrestlers in match-fixing schemes, Japan’s sumo association said this week. Two wrestlers and a coach have admitted to fixing bouts. 
“It is as if the heavens and the earth have been turned upside down,” said Hanaregoma, chairman of the Japan Sumo Association, who in the sumo tradition uses only one name. “I am very sorry.” 
The scandal has outraged a public that considers sumo — which traces its origins to rituals of Japan’s indigenous religion of Shinto — a venerable tradition. Wrestlers, their hair in samurai-style topknots, have been seen not just as athletes, but as upholders of a stoic work ethic and noble public behavior. 
But a recent spate of scandals has bred widespread disillusionment with sumo. Last year, several wrestlers were arrested and accused of betting illegally on baseball games, with the country’s yakuza gangsters as go-betweens. 
In 2009, a sumo trainer was sentenced to six years in prison in the hazing death of a young wrestler, and since August 2008, four wrestlers have been banned from the sport amid accusations of marijuana use. 
In addition, the sport’s fan base is dwindling as young Japanese migrate to sports like soccer and baseball. 
Earlier this week, two television networks said they were withdrawing their sponsorship of competitions before the next major tournament in March. 
Japan’s public broadcaster, NHK, indicated that it might cancel live coverage of that tournament.

  

Prime Minister Naoto Kan said he, too, was angered by the scandal. “If it is true, it is a very serious betrayal of the people,” Mr. Kan said. 
For some, the outcomes of sumo matches have long been suspect. In their 2005 book, “Freakonomics,” Steven D. Levitt and Stephen J. Dubner said statistical analysis suggested that match-fixing was rampant in the sport. 
In a sumo tournament, wrestlers in top divisions fight 15 matches and are demoted to lower ranks if they do not win at least 8 of them. The authors studied outcomes of the final match, particularly when wrestlers who had seven victories and seven losses, and therefore needed an eighth victory to avoid demotion, were pitted against wrestlers who had already won eight bouts. 
They found that in these bouts, the wrestler with only seven victories beat his opponent 80 percent of the time. Based on these statistics, the authors concluded that wrestlers who had already avoided demotion by winning eight bouts routinely colluded with those who had 7-7 records and let them win, presumably in the hope that the favor would be returned in the future. 
Kiyoseumi and Kasuganishiki occupy the Juryo division of sumo, below the top-ranked players. But some critics, including journalists who have long covered the sport, say lower-ranked Juryo wrestlers could be equally or even more prone to rigging bouts because demotion from Juryo would cast them back into a near amateur sumo league. 
Compared with Juryo wrestlers whose monthly pay can amount to more than one million yen (about $12,200), those who are demoted to lower rungs receive almost no salary, the critics say. 
They say that in the chummy world of sumo, where young wrestlers train alongside one another from an early age, the big difference in salaries between the various leagues creates a strong incentive for collusion and match-fixing. 
Kiyoseumi, the wrestler who won the suspicious bout, had been on the brink of demotion in the May tournament after a disastrous showing at a previous meet in March. 
The two wrestlers who have so far admitted to fixing bouts, Chiyohakuho and Enatsukasa, were in the Juryo league. 
According to transcripts of the text messages, the wrestlers appear to have charged one another thousands of dollars per match to fix bouts. In other cases, they seemed to trade victories and losses, with no money involved. 
Fans have long complained of matches in which one wrestler seemed obviously to put up no fight at all, leading the sumo association in 1972 to establish fines for wrestlers who engaged in what it called “deliberately spiritless sumo.” (The association stopped short of accusing wrestlers of match-fixing, however.)  
In 2007, the magazine Shukan Gendai accused Asashoryu, the Mongolian former grand champion, of paying his opponents to let him win tournaments. Asashoryu denied the allegation, and the sumo association sued the magazine’s publisher, Kodansha. In 2009, a local court ordered Kodansha to pay the association damages, saying no evidence supported the allegation. 
Now, government officials have said sumo may lose its status as a national sport, a status that has given it government backing, tax exemptions and guaranteed coverage by NHK. 
“I don’t think the nation would support the tournament unless serious action is taken,” Kan Suzuki, the deputy education and sports minister, said Thursday. The sumo association said it had begun its own investigation. 
But some sumo fans said match-fixing was all part of the game. “It’s been going on from the old days,” Shintaro Ishihara, 78, Tokyo’s governor, told reporters Friday. “We should just let them trick us into enjoying it,” he said, adding, “It’s just like Kabuki theater.”

  

    Feb. 2, 2011  
Japan's National Sport of Sumo Rocked by Yet Another Scandal 
Allegations of Bout-Fixing Plague National Sport; 13 Wrestlers Accused 
Japan's national sport of sumo wrestling faces new allegations of bout-fixing, less than a year after a betting scandal rocked the Japan Sumo Association. 
The latest investigation involves 13 wrestlers and stable masters accused of sending text messages to plan out matches. 
In a press conference broadcast live on Japanese television today, Sumo Association chairman Hanaregoma apologized to fans and bowed before cameras. 
"We cannot find the words to say sorry to our fans," Hanaregoma said. "I believe these are new allegations, not reports of something that's happened in the past." 
The text messages detailing bout-fixing were found on cell phones police confiscated while investigating a sumo gambling ring, the sumo chair said. 
National broadcaster NHK reported those messages laid out plans about which wrestler would attack and how the other would fall. 
The texts also included the amount of payment involved. Hanaregoma acknowledged the authenticity of the e-mails in question, saying the association board had spoken with all but one of the accused. 
But he said it was too early to draw any conclusions. The sumo association has launched an investigation, eager to quell concerns. 
"There will be severe punishment for wrestlers [involved]," he said. "We don't take this lightly. We see it as a betrayal to fans."  
Bout-fixing is the latest in a long list of scandals that have tainted the reputation of Japan's national pastime. 
Last week, reports surfaced that three sumo wrestlers were involved in drunken incidents, including a late-night brawl. 
Last summer, high-ranking wrestlers were accused of gambling on baseball games. 
Several wrestlers were arrested, and sumo's close ties to organized crime exposed, in the investigation. 
The scandal forced Japan's national broadcaster NHK to pull live coverage of the Nagoya tournament for the first time in 57 years. 
The widespread problems came after the sport's grand champion, Mongolian wrestler Asashoryu, was forced to retire after assaulting a man outside a Tokyo night club. 
In 2009, reports of rampant marijuana use led to the expulsion of three Russian wrestlers. 
This is not the first time the sport has been accused of match-fixing, but past allegations have never been substantiated.
  
相撲の八百長は文化です

  

相撲は八百長やってもいいのでは?
週刊現代がすっぱ抜いたという、横綱朝青龍が「1場所15番中、真剣勝負は4番」、「1番の相場は80万円で、50〜100万円で星を買」っているという情報は、おそらく本当のことではないかと私には感じられます。 
相撲の世界の八百長に関しては、引退した力士の証言なども数限りなくあり、問題が起こるたびにいつの間にかうやむやに消えてしまうことを繰り返してきていると思います。いわば、角界の伝統文化のひとつではないのでしょうか。 
そもそも、八百長という言葉自体が相撲と関係しているという話は有名です。 
八百長は、明治時代の八百屋の店主「長兵衛(ちょうべい)」に由来するといわれる。八百屋の長兵衛は通称を「八百長(やおちょう)」といい、大相撲の年寄・伊勢ノ海五太夫と囲碁仲間であった。囲碁の実力は長兵衛が勝っていたが、八百屋の商品を買ってもらう商売上の打算から、わざと負けたりして伊勢ノ海五太夫のご機嫌をとっていた。 
その後、周囲のことことが知れわたり、真剣に争っているように見せながら、事前に示し合わせた通りに勝負をつけることを八百長と呼ばれるようになった。 
格闘技が好きではない私の偏見なのかもしれませんが、プロレス・相撲に関しては芸能の一種だと思っておりますので、その中で金銭による勝敗の取り引きがあったとしても、お客さんを楽しませ、興行収入が上がるのであれば何も問題はないと思います。 
さすがにプロレスがスポーツニュースで取り上げられることはないようですが、相撲は割と普通にスポーツニュースで扱われることもあるので、スポーツの一種として分類されているのかもしれませんが、いわゆるフェアプレーを身上とする西欧のスポーツと違って、神様に捧げる芸能としての歴史を強くひきずっているものだと思います。 
今でも、あちこちの神社に土俵があったり、女性が土俵に上がるのを忌み嫌ったりということがあるのは、そうしたことの名残でしょう。誰が勝つのかが占いの判断根拠とされることもあるため、結果が凶にならないように勝敗を操作することはむしろ奨励されていたはずです。Wikipedia相撲の項もおもしろいです。 
相撲を行なう神社も多い。そこでは、占いとしての意味も持つ場合もあり、二者のどちらが勝つかにより、五穀豊穣や豊漁を占う。そのため、勝負の多くは1勝1敗で決着するようになっており、また、和歌山県、愛媛県大三島のひとりすもうの神事を行なっている神社では稲の霊と相撲し霊が勝つと豊作となるため常に負けるものなどもある。場合によっては、不作、不漁のおそれがある土地の力士に対しては、あえて勝ちを譲ることもあった。また、土中の邪気を払う意味の儀礼である四股は重視され、神事相撲の多くではこの所作が重要視されている。陰陽道や神道の影響も受けて、所作は様式化されていった。 
そいうした伝統を受けて、相撲の世界では神に愛されるような強い横綱を欲しているのではないでしょうか。 
できれば、清く正しく美しく、そして強い横綱が勝つことは、横綱個人の願望というよりも、相撲の世界全体の願いなのだと思います。横綱に品格を求めることも、そうした流れの中なのでしょうし、なんとなく横綱らしい相撲をとり続けることができる限り、横綱は負けないで欲しいというのは角界全体の願いに違いありません。 
だから、たとえ横綱がお金を支払ったとしても、それは大量の懸賞金が彼に渡っていたものを還元してもらうということ以外のなにものでもないのではないでしょうか。そんな世界で、「それは八百長なのではないですか」というような現代の価値観で批判されても、相撲の世界の人々は困り果てているに違いありません。 
相撲の世界に、構造改革・新自由主義で強いものだけが勝ち残るのだというルールを持ち込んでも、それは相撲が滅びてしまうだけのことのような気がします。 
私は、個人的には相撲がなくなってもかまわないのですが、たとえ外国人の力士ばかりになってしまったとしても、日本の伝統神事としての相撲が残って欲しいと思うなら、「八百長」も彼らのやり方のひとつとして認めることが必要なのかもしれません。
  
八百長は日本の伝統

  

.相撲の八百長が問題になっているが、「相撲界の存亡の危機」などという相撲協会のコメントに「何を今さら白々しい」と多くの人は思っているだろう。昔から週刊誌では何度も報じられたが、調査もしないで「証拠不十分」で逃げてきた。今度は警察が携帯のメールという証拠を握ったから、白を切れなくなっただけだ。 
賭博罪になる野球賭博と違って、八百長は違法行為でもないし、当の関取が悪いとも思っていない。八百長や談合は、当事者にとってはwin-winゲームだからである。人間関係でも商売でも、こうした「貸し借り」でお互いに困ったとき、助けあうのが日本の美しい伝統だ。電波利権をめぐる総務省と通信業者の八百長も、構図は同じである。損するのは、談合の輪の外にいる納税者だ。 
2.5GHz帯の美人投票では、「継続的に運営するために必要な財務的基礎がより充実している」という項目で、A社(ウィルコム)だけが評価Aとなり、B社(NTTドコモ)を上回った。これはVHF帯をドコモに渡すのとバーターで、最初からKDDIとウィルコムに免許を出すという結論の決まっている八百長だった。 
その財務的基礎が充実しているはずのウィルコムは経営が破綻したが、ソフトバンクが出資して「支援」することになった。常識的には、XGPなどというガラパゴス規格には何の未来もないが、ウィルコムが清算されて免許が宙に浮くと、2.5GHz帯の美人投票は何だったのかという批判を浴びる。無謬性の神話が崩れるのを恐れた電波部が「ウィルコムを助けてくれれば900MHz帯はソフトバンクに渡す」という取引をした、というのが業界の見方だ。 
ところがドコモが八百長でもらったはずのVHF帯で、クアルコムが「ガチンコ」で粘ったものだから、電波部はパニックになり、何度もヒアリングを繰り返して外資を落とそうとした。これに対してオークションを公約していた民主党が圧力をかけたが、電波部は土俵際で電監審の御用学者を使って八百長を守った。その結果、ドコモは泥船のマルチメディア放送をやらざるをえなくなった。 
そして「光の道」にあれだけ大騒ぎした孫正義氏は、周波数オークションには反対して電波法の改正を骨抜きにした。これで総務省に大きな恩を売ったわけだ。これで900MHz帯が予定通り美人投票でソフトバンクに割り当てられたら、孫氏は日本の国技である八百長を見事にマスターした、と電波部にほめられるだろう。 
これは相撲よりはるかにスケールの大きな、1兆円以上の国費をだまし取る八百長だが、相撲の八百長をトップで報じる新聞もテレビも、電波の八百長はまったく報じない。八百長にとって何よりも重要なのはばれないことであり、マスコミが協力する限り、それは続けられる。日本は官民・マスコミの組んだ「八百長国家」なのである。

  

「八百長」で動く官民関係 / 日本社会に遍在する「相撲部屋」的構造とは 
世の中はNHKニュースから夕刊紙に至るまで、相撲の八百長の話題で持ちきりだ。 
それほど重大な問題とも思えない話がこのように多くの人々の関心を引きつけるのは、そこに日本社会によくある(誰でも心当たりのある)構造が見られるからだろう。 
官民関係でも八百長は広く見られる。最も典型的なのは建設談合で、落札率(落札価格/予定価格)が95%を超えるケースは珍しくない。 
ただ、建設談合は何度も刑事事件になり、業者の手口も巧妙化して、あまり露骨な八百長は見られなくなった。昔のゼネコンのようなあからさまな談合が行われているのが電波行政である。 
八百長で落札業者や電波の免許を決める官民関係 
2007年に2.5ギガヘルツ帯の「美人投票」(比較審査)が行われ、2つの枠にNTTドコモ、KDDI、ソフトバンク、ウィルコムの4グループが申請した。 
美人投票の結果、KDDIとウィルコムのグループが当選したが、その「比較審査の結果」を見て関係者は驚いた。ウィルコムが「継続的に運営するために必要な財務的基礎がより充実している」という項目で最高の「A」評価を得て、「B」のドコモを上回ったのだ。 
経営危機が表面化して外資系ファンドに買収され、資金的な不安がささやかれていたウィルコムが、日本の全企業の中でも最大級の利益を上げているドコモより「財務的基礎」が充実しているというのは何を基準にしたのか、関係者は首をひねったが、その理由は2010年になって判明した。 
アナログ放送が終わったあとのVHF帯で行われる予定の「携帯マルチメディア放送」で、ドコモ・民放グループが、KDDI・クアルコムと最後まで争った。 
この時、「ドコモが民放を支援するのとバーターで、2.5ギガヘルツ帯はウィルコムに譲った」と当時のドコモ幹部が証言している。 
2.5ギガヘルツ帯で誰もが本命だと思っていたドコモが落選したのは、その代わりにVHF帯の周波数をドコモに与える密約による八百長だったのだ。 
2年も経たないうちにウィルコムの経営は破綻し、「財務的基礎」が極めて脆弱だったことが判明したが、その窮地を救ったのがウィルコムを買収したソフトバンクだった。 
この「貸し」によって、周波数の再編に伴って空く900メガヘルツ帯がソフトバンクの「指定席」になったという。 
日本の会社はまるで相撲部屋 
電波行政が相撲部屋に似ているのは偶然の一致ではない。この種の「貸し借り」は日本社会に広く見られる慣習である。 
会社の中の人間関係でも商慣習でも、「貸しをつくった」とか「借りを返す」といった行動が実に多い。これは未開社会に多い「贈与」の一種と考えることができる。 
約束を守らせる仕組みとしては司法機関があるが、そういう制度のない社会では、約束を破った者をコミュニティーから追放する「村八分」によるペナルティーが有効だ。 
こういう仕組みが効果を上げるためには、長期的関係が切れることによって失うものを大きくする必要がある。 
未開社会では、人々は多くの贈り物をし、互いにご馳走する。これはそういう互恵的な関係をつくることによって結びつきを強め、コミュニティーを離れられなくするメカニズムだと考えられている。 
同じような構造は、日本の会社にも見られる。大学を卒業した社員にコピー取りをさせたり、自転車で集金させたりするのは、このような徒弟修業のコストを回収するために会社に長く勤務させる贈与の一種である。 
若い時に長時間労働で会社に「貯金」を強いられた社員は、それを年功賃金と楽な仕事で回収するため、定年まで会社にとどまる。 
官民関係の中で最大の贈与は、天下りを受け入れることだ。これは役所から強要されるわけではないが、企業にとって賢い戦略は、役所に言われなくても先に贈与して、彼らに大きな貸しをつくることだ。 
ソフトバンクがウィルコムを救済するのも、NTTドコモが赤字覚悟でVHF帯のマルチメディア放送をやるのも、総務省への贈与である。 
今、日本に必要なのは「長期的関係」ではなく「法の支配」 
このような相撲部屋型システムは、必ずしも非効率とは言えない。高度成長期に日本の企業がどんどん成長していた時期には、優秀な人材を引き止めておくために若い時に徒弟修業で奉仕させ、年を取ってから高給で報いる年功序列は、インセンティブとしてうまく機能した。 
官民関係においても、国内産業を育成する時期には、既存業者だけで談合させてレント(超過利潤)を保証する必要がある。時には役所が仲介して「官製談合」によって利害調整することもあった。「不況カルテル」と称して、役所が公然とカルテルを組ませることさえ珍しくなかった。 
しかし、こうした長期的関係は、成長が止まってレントが枯渇すると維持できなくなる。今、入社する社員に「40年後には楽になるから今は雑巾がけしろ」と言っても、40年後に会社があるかどうかは分からない。 
官民関係でも、こうした既得権を守り続けてもビジネスとして成り立たないものが増え、談合のメリットがなくなってきた。 
八百長で免許をもらったウィルコムは経営破綻し、マルチメディア放送の免許をもらったドコモも「貧乏くじ」と言われている。天下りが批判されるようになったのは、企業の側にそのメリットがなくなったからなのだ。 
それでも天下りや外資の排除で通信業者に借りをつくった電波官僚は、途中で約束を破ることができない。このため、900メガヘルツ帯でソフトバンクの「指定席」を守るために、今度の電波法改正では民主党の要求していた周波数オークションをやめ、また美人投票で決めることになった。 
相撲の八百長は、プロレスのような興業として楽しめばいいが、電波の八百長は時価1兆円以上の電波を無償で業者に贈与し、その見返りに官僚が天下りなどの便宜を図ってもらうものだ。「光の道」論争で激しく「公正競争」を叫んだソフトバンクが、周波数オークションに反対して八百長に加担していることも不可解である。 
今、日本に必要なのは、高度成長期から続く長期的関係を清算し、透明なルールに基づいて新しい企業の参入と対等な競争を可能にする法の支配である。 
そのためには、日本社会の隅々に巣食っている相撲部屋的な関係を見直す必要がある。霞が関は相撲協会を見習って、これまでやってきた八百長を再点検してはどうだろうか。
 
相撲・諸説

 

行司1 
行司は一次的に相撲の勝負を判定する役で、同体・取り直しの場合でも、どちらかに軍配(ぐんばい)を上げなければならない。行司の判定に対して、勝負審判が異議を申し立てた場合に物言いとなり、協議がなされ、覆ることもある。 
その他、取組中にも掛け声を掛ける、観戦の邪魔にならないように移動する、力士の緩んだ廻しを締め直す、力士の外れたさがりを土俵の外に除ける、水入りの場合に両者の立ち位置や組み手などを決めるなど様々なことをこなさなければならない。行司には他にも番付を書く、決まり手をアナウンスするなどの仕事がある。  
力士同様、行司も各相撲部屋に所属し、定員は45人で、停年は65歳。上下の差が顕著な相撲界においては、階級によって行司の装束も大きく変わる。  
最高位の立行司(たてぎょうじ)は、古来からの習わしとして短刀を差している。軍配を差し違えてしまった場合には切腹するという決意を示したものであるというが、実際に切腹した行司はいない。  
行司2 
相撲において取組の有利・不利を判断し、勝者を判定する役目の者である。この「行司」とは、他競技でいうところの主審やレフェリーなどに相当する。 
行司は、勝負が決まった段階で、どちら側が勝ったかを軍配によって示さなければならない。行司の判定に対して、勝負審判などが異議を申し立てた場合には物言いとなり、協議がなされる。行司はあくまでも勝負の勝敗を決める者であり、反則などは見ない取り決めとなっている(アマチュア相撲では、この役割を行う者を他競技のように「主審」と呼ぶ)。 
大相撲においては、取組中に「発気揚々」(はっけよい)「残った残った」などの取組中の力士に声を掛ける、観戦の邪魔にならないように移動する、力士の緩んだ廻しを締め直す(まわし待った)、力士の外れたさがりを土俵の外に除ける、水入りの場合に両者の立ち位置や組み手などを決める、など様々なことをこなさなければならない。他にも番付を書く、決まり手をアナウンスするなどの仕事がある。 
力士同様、行司も各相撲部屋に所属する(ただし、1958年から1973年まで、行司部屋として独立していた時期があった)。行司の定員は45人。上下の差が顕著な相撲界においては行司も例外ではなく、『審判規則』第20条により裁く階級によって行司の装束も大きく変わる。『審判規則』第1条により直垂、烏帽子の着用(1910年(明治43年)5月に裃袴から変えた)と軍配を持つことが決められている。 
定年(停年)は65歳。通常は定年日を迎える直前の本場所千秋楽で引退し、後継者に引き継ぐのが慣例となっているが、1月場所後に役員選挙がある場合に、役員選挙権のある立行司が定年日まで行司の職務に留まることがある。 
最高格である立行司は、短刀を差している。帯刀を許され拝領した短刀をさし軍配を差し違えてしまった場合には切腹するという決意を示したものという説があり、現在も差し違いを犯してしまった立行司は進退伺いを出すことが慣例となっている。ただし、木村庄之助 (35代)はかつて行司を行っていたのが武士だったことから、帯刀はその名残に過ぎないと説明している。 
役割 
行司の役割は、大相撲の取組を裁く(取組の進行および勝負の判定を行う)ことばかりが目立つが、その他にも土俵入りの先導役、土俵祭の司祭、場内放送、取組編成会議の書記、番付編成会議の書記、割場などの仕事がある。巡業においては、交通機関や宿泊先の手配、部屋割りなど先乗り親方の補佐をする。所属している部屋においては、番付の発送、冠婚葬祭の仕切り、人別帳の作成などの仕事に携わる。 
土俵入り 
土俵入りには、十両土俵入り、幕内土俵入り、横綱土俵入りの3種類がある。十両土俵入りは十両格行司、幕内土俵入りは幕内格行司と三役格行司、横綱土俵入りは立行司が務める。特定の行司が先導役を務めるのではなく、行司監督が決めた順番により行司全員が交代に担当する。また、横綱土俵入りは立行司の木村庄之助と式守伊之助が交互に務めるが、横綱が3人以上いる場合や立行司に欠員・事故があった場合には、三役格行司がこれを代役する。横綱土俵入りの型には雲竜型と不知火型の2種類があるが、行司の所作に違いはない。 
土俵祭 
本場所、地方巡業、各相撲部屋の土俵祭においては、土俵の安泰を願って司祭を行う。本場所における土俵祭の祭主は、立行司の木村庄之助と式守伊之助が交互が交代に務め、幕内格行司と十両格行司が脇行司を務める。土俵祭とは、土俵を神聖なる場所にするための儀式であり、神道に基づいて清祓の儀、祭主祝詞奏上、祭幣並びに献酒、方屋開口故実言上、鎮め物、直会、触れ太鼓土俵三周の式順で執り行われる。 
場内放送 
場内放送の役割は、力士の紹介、懸賞の紹介、取組の決まり手アナウンスなどである。場内放送は行司2名がペアを組み、升席西1列目において行う。2名のうち1人がアナウンスを務め、もう1人が勝敗結果の記録など補佐を務める。また十両土俵入り、幕内土俵入りの際における力士の紹介も行司の役割である。場内放送を行う場所は枡席から土俵溜りに移動し、東方力士の紹介は青房下の土俵溜りで行い、西方力士の紹介は黒房下の土俵溜りで行う。 
取組編成と番付編成 
取組編成会議において審判部が決定した取組を記録したり、番付編成会議において審判部が決定した番付を記録する書記を務める。取組編成会議の書記には5人一組であたり、割場長、巻き手、つなぎ手などの役割を担う。幕内以上の翌日の取組については「顔触れ」と呼ばれる和紙に書き写し、顔触れ言上(かおぶれごんじょう)と呼ばれる儀式を行う。番付編成会議の書記には3名一組であたり、番付の原簿となる「巻き」と呼ばれる和紙をまず作成し、約10日間がかりで番付を作成する。番付は、根岸流と呼ばれる独特の相撲文字で隙間がないようにして記載する。これは、満員御礼になるように客がびっしりと入るようにとの願いを込めて書かれる。2010年現在の番付は、幕内格行司の木村恵之助を中心に作成されている。 
割場 
割場と呼ばれる取組に携わる部屋において、、毎日の取組の勝負結果と決まり手を「巻き」に記録する。「巻き」とは番付順に力士名が書かれた和紙の巻き物で、上段に東方力士名、下段に西方力士名、右から左へ幕内力士名、十両力士名、幕下力士名が記載されている。 

  

呼出1 
呼出は、大相撲の取組の際に力士を呼び出す呼び上げや土俵整備から太鼓叩きなど、競技の進行を行う者で、呼び出しとも書かれる。行司と異なり、受け継がれる名跡はなく、力士や行司と違って名字がない。 
元々は上覧相撲の際に、次に土俵に上がる力士の出身地や四股名を披露する人がおり、行司の役割に含まれる職種であったが、江戸勧進相撲になって、独立した職種となった。現在の呼出の定員は45人、停年は65歳。大相撲においては、力士、行司、床山と同様、各相撲部屋に所属する。   
呼出2 
大相撲での取組の際に力士を呼び上げる「呼び上げ」や土俵整備から太鼓叩きなど、競技の進行を行う者。呼び出しとも書かれる。行司と異なり特に受け継がれている名跡はないが、力士・行司と違い、下の名前しかないのが特徴である。 
元々は上覧相撲の際に、次に土俵に上がる力士の出身地や四股名を披露する人がおり、「前行司」といって行司の役割に含まれる職種であったが、江戸勧進相撲になり組織的な制度ができるにつれて独立した職種となった。「触れ」とか「名乗り上げ」と呼ばれた時代もあったが、享和年間(1801〜1804年)になって「呼び出し」といわれるようになった(しかし、それ以前の寛政年間(1789〜1801年)の番付に「呼び出し」の文字が確認されている)。現在の呼出の定員は45人、停年は65歳。大相撲においては、力士、行司、床山と同様に各相撲部屋に所属する。 

  

取的1 
取的は、現在では力士養成員と呼ばれ、大相撲の番付(格付け)で幕下以下(幕下、三段目、序二段、序ノ口)の力士を指す。本場所の取組は原則七番相撲まで。大相撲のシンボルである髷(まげ)は、大銀杏(おおいちょう)ではなく、丁髷(ちょんまげ)姿である。本場所で締める廻し(相撲褌)は、木綿製の黒廻しで稽古と兼用する。土俵上で付けるさがりは糊付けされておらず、紐そのものの状態である。 
奉納相撲では、いわゆる虫眼鏡と呼ばれる番付最下級の序の口の取組はない。また、褌担ぎ(ふんどしかつぎ)と呼ばれる初任者も土俵に上がることはない。 
力士養成員・取的2 
大相撲の番付で幕下以下(幕下、三段目、序二段、序ノ口)の力士を指す。取的(とりてき)と呼ぶこともある。 本場所の取組は2日間ごとにいずれか1日の出場で、原則七番相撲までである。幕下上位や序ノ口では人数の関係上、まれに八番相撲が組まれることもある。取組編成は原則としてスイス式トーナメント方式を取り入れていて、番付と成績により対戦相手は機械的に決定される。 
髷は丁髷姿である。ただし、十両力士との取組や、弓取式、初切、断髪式の際は大銀杏を結うことが出来る。本場所で締める廻しは一般的に黒廻しと呼ばれ、木綿製で黒色で、稽古用と兼用して使われる。さがりは糊付けされておらず紐そのものの状態である。 
正装は全て着流しだが、三段目以上の力士は雪駄の着用が、さらに幕下力士は、外套、博多帯がそれぞれ許される。 
私生活では、ハングリー精神を養い相撲道の精進に専念させるため、関取との徹底した区別化が成されている。ちゃんこ番などの部屋での雑用や大部屋生活、付き人として部屋や一門の関取や親方の身の回りの世話、さらには結婚することが許可されないなど、生活のほぼすべてが相撲にかかわることになっている。養成員という立場から、各場所に僅かな手当てが支給されるのみで給料は与えられない。力士養成員の敬称は、「○○さん」が一般的である。また場内アナウンスでも、番付が紹介されない、外国出身力士の場合出身地の読み上げが国名のみとなる、決まり手発表が幕下上位5番を除き簡略化されるなど、関取とは待遇が大きく異なっている。 
上記の理由から、東幕下筆頭と西十両14枚目の半枚差であっても「天と地ほどの差」と言われている。関取に昇進すると大きく待遇が好転するため、引退時の思い出として「関取になった時が一番嬉しかった」と答える力士も多い。 

  

相撲褌1 (まわし) 
廻し(まわし)は相撲を取るときに身につける褌(ふんどし)の一種。まわし、回し、相撲褌とも表記され、外国人競技者の間では 相撲ベルト sumo belt 相撲サッシュ sumo sash と呼ばれる。一部の裸祭りでも使用されている。 
稽古廻しや幕下以下の力士、アマチュア競技者が締める廻しは、硬い木綿布(キャンバス)で出来ている。転倒時の怪我の防止と身体の保護や取組みで技を掛けることが主たる目的である。小学生以下の子供用は大人用よりは柔らかい布を使っている。 
関取が取組のときに締める取り廻し(締め込み)は、カラフルな絹でできており、柔らかくて光沢がある。 
相撲の廻しは、験担ぎ(げんかつぎ)の意味で基本的に洗わない。それは稽古廻しも本場所の廻しも同じで、汗や土埃などで汚れると、日光にあたるように干して殺菌し、はたいて汚れを落とす。幕内力士が締める本場所の絹の締込みの場合は、色落ちを防ぐため、陰干しにするという。 
これは昔からの慣行で、大相撲に限らず、アマチュア相撲でも同様である。稽古まわしは汚れがひどいので、こっそり洗う力士もいるという。   
廻し・相撲褌2 
相撲競技で用いられる用具である。ふんどしの一種。まわし、回し、相撲褌とも表記され、外国人競技者の間では「相撲ベルト」とも呼ばれている。 
廻しは相撲競技者の腰部を覆い、重心部となる腰や腹を固めて身を護り、更に力を出すための武具である。稽古廻しや幕下以下の力士、アマチュア競技者が締める廻しは雲斎木綿または帆布と呼ばれる硬い木綿布で出来ている。これは転倒時の怪我の防止と身体の保護や取組みでの技を掛けることを目的としている。 
廻しの締め方 
廻しは相撲にとっては欠かせない用具であるので調製は念入りに、丁寧な取り扱いを必要とされる。締め込む際は心身共に緊張させ、邪念、汚心を去り、清明、明朗の心境を以て締め込まなければならない。着装の際には通常補助者を必要とし、以下の手順で着装する(アマチュア用木綿廻しの場合)。 
長さは6m(青年男子用)程度、幅45cm程度の帆布(消防のホース生地などに用いられる)を四つ折りにして、前部(前袋)は二つ折りで前端を押さえて陰部を覆い、八折りにして股間を跨ぎ、その後の腰回り部分(横褌)から再び四つ折りにして左回りに身体に3〜4回巻き付けて、最後に後端を八折りにして縦褌(たてみつ)に巻き付けて結ぶ。基本は前垂れ式の六尺褌の締め方に似ているが前垂れは畳んで横褌に挟み込み、わずかに覗かせるだけである。補助者は、後立褌の下に巻き終わりの先端を通して上に引っ張り上げる。着装者は腰を落とし締め上げる。ここを疎かにすると競技中に廻しが解けてしまう原因となる。ただし体に負担が掛かるほど締め上げる必要はない。解く時はその逆となる。 
長さは自分のウエストの約7〜10倍の長さとされ、4.5m-9m程度と個人の体型によって異なる。主に白色が多いが、一部では黒色や水色等がアマチュア相撲競技者の間で用いられている。大相撲に於ける廻しの色に関しては後述する。 
着装時には下に何も着けないことが原則であるが、力士の場合は化粧廻しを締める際には下に六尺褌を締めているといわれる。 
廻しは確実に締め込まなければならない。「ゆるふん」は故意に相手を不利に陥れようとする狡猾なる手段として、相撲道に反する最も戒むべき行為であるとされている。 
廻しの取り扱い 
新品の廻しは糊が効いていて、非常に堅く、稽古を通して発汗する汗を吸い込むことで身体に馴染むようになる。廻しに付く汗や泥の汚れが各競技者で違うことで廻しの使用者の特徴が出てくる。このため、相撲道場などで干し掛けられた各競技者の廻しの中から容易に自分の廻しを見分けることができると言われている。 
締め込みは材質の問題から、帆布の廻しはへたって(洗濯を重ねると生地が緩んで廻しの持つ身体の保護機能を失う)しまうため、また験担ぎの意味からも廻しは基本的に洗濯をしない。ただし、木綿製のものは新品だと型崩れ防止のため洗濯糊で糊付けされている場合があるので、これを落とすために洗うことがある。一度洗って糊を落とすかまたは何も処理せずに使い始めるかに関しては、各競技者の好みの問題でもある。 
洗濯しない理由は、特に安価な木綿廻しの場合、使用に耐えないほどの汚れの場合には廃棄して新調してしまうからという側面もある。洗濯を実施している相撲教室などもある。 
なお、洗濯しないからと言って湿ったまま放置して良い訳ではなく、使用後は泥を落として天日干しをすることが推奨される。前袋、立褌になったところの内側(陰部が当たっていたところ)を消毒用アルコールで清拭することもある。 
アマチュア相撲では原則として廻しの下には何もつけず、素肌に締める。しかし廻しの衛生対策は日干しをする程度だけで、原則洗濯を行わないことから、衛生上の理由で相撲用サポーターや六尺褌、または水着を用いて、その上から廻しを締める競技者もいる。また、近年では相撲が海外や女性(新相撲)の間でも普及するようになったことから、競技者の一部には臀部の露出を嫌い、スパッツ、ショートパンツやレオタードの上から廻しを締める例も出ている。 
わんぱく相撲までは全国で5万人を越える参加者がありながら、中学生以上になると競技者人口が激減していることから、アマチュア相撲を統括する、財団法人日本相撲連盟は中学生以上の競技人口を増やす措置として、競技規則を改正し、「児童及び生徒は廻しの下に紺又は黒色のアンダーパンツを着用することを原則とする」と2007年に競技規則を改正した。但し、「国技館での競技はこの限りではない」として、小中学生の相撲競技ではアンダーパンツの着用を義務付けた。また、後述する相撲パンツ・簡易廻しといったものを利用する事も容認されている。 
大相撲では廻しの下には何もつけず、素肌に締めているが、負傷箇所を保護するための包帯やテーピング等を着ける事までは制限されていない。十両以上の関取は稽古用の白い廻し(泥廻し、木綿)と取組用の繻子廻し(締め込み・取り廻し、絹)の2種類を使い分ける。幕下以下の力士は取り廻しと稽古廻しの区別はなく、本場所でも稽古廻しを使用する。 
大相撲では稽古廻しの色は厳密に区別されており、十両以上の力士だけが白色で、幕下以下の力士は黒色の廻しと決められている。上下関係が厳しい番付社会の相撲界で、力士は初めて白い稽古廻しを締めたことで自分の番付が昇したことを感じると言われている。なお、普通の稽古廻しを締めた力士に混ざって締め込みで稽古をする力士の映像が存在するがこれは新十両が決定した力士が締め込みに慣れる目的で行なっているものである。 
関取の取り廻しは日本相撲協会による規定では紺・紫色系統のものを使用することと定められているが、カラーテレビの普及と共に色とりどりの廻しが咲き乱れることとなり、実際は黙認されている。昭和32年11月場所で玉乃海太三郎が締めた金色の廻しが「カラー廻し」の始まりとされる。昭和33年9月場所、協会規定により関取資格者は廻しの色を黒か紺に統一することにしたが、その後も輪島や高見山など個性的な色調の廻しで人気を博した関取は少なくない。 

  

人情相撲 
江戸時代の伝説の名横綱・谷風梶之助は、その強さは敵なしだったが、にこやかで人情に篤(あつ)く、おごりもない。貧乏佐野山と揶揄されていた力士の佐野山が、大病の親のため、毎夜お宮で水垢離(みずごり)をして神頼みをしているという噂を聞く。 
谷風は、佐野山との対戦で、一世一代の芝居をして負けた。谷風に勝った佐野山は、満場の観衆からの御祝儀金で、親を名医に診てもらい、借金も返済し故郷に帰った。谷風にだまされた江戸っ子は、「いい話じゃねぇか。人情相撲だよ」と言って彼を称えた。 
 
谷風梶之助(たにかぜ かじのすけ) 寛延3年-寛政7年(1750-1795) 陸奥国宮城郡(現在の仙台市若林区)霞目生まれの大相撲力士であり、第4代横綱。実質的な初代横綱。江戸時代の大横綱で、大相撲史上屈指の強豪。また、力量・人格の面で後の横綱の模範とされた。本名、金子与四郎。 
 
明治時代、八百屋の店主で「長兵衛」という人物がいた。通称を「八百長」といい、囲碁仲間で大相撲の年寄・伊勢ノ海五太夫との対戦では、わざと負けご機嫌をとり、商売につなげた。八百長の語源である。 大相撲では、八百長相撲のことを「注射」というらしい。効き目は打ってみないとわからない。日本の国技・大相撲の興味は土俵の外から、法廷に移ってしまった。
徳川家康が江戸幕府を起こしてから約180年後の、江戸中期(天明、寛政時代 約1780-1800年)の相撲界は、谷風、小野川の二大スター力士と少し遅れて登場した、雷電の三大関の活躍により、相撲界は空前の黄金時代を迎えた。 
寛政の大横綱谷風梶之助が活躍した頃、十両の筆頭に佐野山という相撲取りがいた。大の親孝行が評判で小兵ながら人気があった。 
母親が大病を患い看病疲れと医者代、薬代の支払いに追われ、ろくな物も食べず水ばかり飲んで土俵へ上がったため、初日から9連敗の有様だ。見物人の間では佐野山は今場所かぎりで引退だとうわさされている。これを聞いた谷風は親方衆に千秋楽に佐野山と対戦させてくれと願い出る。飛ぶ鳥落とす勢いの谷風と、十両で全敗中の佐野山の一番が組まれ、驚いたのは江戸の相撲好きの連中、なんでこんな一番が組まれたのか憶測とうわさで持ちきりだ。 
谷風からの申し出で決まった一番だと分かると、これは遺恨相撲だなんて真しやかに喋べり出すやつも現れる。 
若い女ができて谷風の足が遠のいた柳橋の年増の女と、今は落ち目の佐野山がねんごろの仲になり、怒った谷風が土俵の上で佐野山を叩き殺すなんていう。 
佐野山にもひいき筋はいる。もし佐野山が谷風の片方の回しでも取れば5両、もろ差しに組めれば10両の祝儀を出すと約束する。 
むろん谷風のまわしに手が触れるどころが、立ち合ってすぐにぶっ飛ばされて勝負はつくだろうから、祝儀の金を出す心配などさらさらないと誰もが思っている。 
さて、両国回向院での千秋楽の取り組みも進み結びの一番だ。 
いつもなら「谷風、谷風・・・」の歓声ばかりなのに、この日ばかりは、判官びいきの江戸っ子のこと「佐野山、佐野山・・・」の掛け声一色の有様。 
いざ、しきりに入り顔を見合す両力士、谷風は佐野山を見てこれからも親孝行に励めよと声をかけにこりと顔をほころばす。 
一方の佐野山は谷風の了見が分かり、ありがたさで嬉し涙の一滴をこぼす。 
これを相撲好きな江戸の連中が見逃すはずはない。谷風は土俵の上でにっくき佐野山を叩き殺せると思って笑い、佐野山はこれからは親孝行もできなくなり悲しくて涙を落としたと思い込む。 
さあ立会いだ、一瞬のうちに佐野山ははじき飛ばされると思いきや、なんと佐野山は谷風のふところへ飛び込んでいる。実際は谷風が両脇を広げ、かいなで佐野山を抱きかかえているのだが、客にはそうは見えないところがさすが谷風のうまいところ。まわしに手がかかり5両、そしてもろ差しで10両の意外の展開に客も大騒ぎ。 
谷風は佐野山をかかえたまま、押されているように、ずるずると後ずさりで土俵際までさがる。ここで足を出してはいかに谷風といえども八百長がバレてしまう。そこで佐野山を腹に乗せたまま右へ打っちゃる。 
佐野山の体は大きく弧を描いて土俵の外へ投げ出される。これを見た客はやんやの大喝采。さすが大横綱、負けるはずがない。 
ところが軍配を見ると佐野山の方へ上がっている。さすが初代立行司の木村庄之助、打っちゃる寸前に谷風の右足が土俵の外へ出たのを見逃すはずはない。 
もちろん谷風がわざと先に足を出したのではあるが。土俵の上には大勢の見物人から祝儀の金品が雨あられと投込まれる。 
このおかげで佐野山はこの後も親孝行に励むことができたという。 

  

花道1 
歌舞伎等が行われる劇場で、舞台から客席を縦断するように張り出した部分。舞台から一続きの廊下のように見える。役者が舞台上に出入りするために使い、下手(しもて=客席から向かって左側)よりにあるものを本花道、上手(かみて)よりを仮花道という。仮花道は臨時に設置されることが多く、常設の劇場はまれである。 
起源は能楽の橋懸に由来するとされる。歌舞伎では花道から登場する人物は、七三の位置(花道を十等分して舞台から三分目と四分目の間)で一旦動きを止め、短い演技(長いこともある)を見せるのが定石である。本格的な花道には七三にすっぽんと呼ばれる小型のせりがあり、脚本・演出にあわせて使用される。 
観客から見て二次元的な存在の舞台上から、役者が客席側に出ることで三次元的な演出を可能にしている点で、演劇史上特筆すべき装置といえる。 
相撲で、力士が土俵に向かい、また控え室に戻るための道も花道という。転じて、華々しい去り際を言う言葉。ある分野で活躍した人物が、華々しく見送られるときなどに言う。去り際以外にも、華々しい人生の歩み方を言うこともある。 
花道2 
(1)歌舞伎の劇場で、観客席を貫いて舞台に連なる道。俳優が舞台にかかる通路であり、また舞台の一部として使用される。下手(しもて)寄りの常設のものを本花道、上手(かみて)寄りに設けるものは現在は仮設で、仮花道という。〔もと、客が俳優に花(=祝儀)を持っていくために設けられたことからの名という〕→七三(しちさん) 
(2)相撲で、力士が支度部屋から土俵に出入りするための通路。〔平安時代、相撲(すまい)の節(せち)に花をつけて入場したところからの名という〕 
(3)最後にはなばなしく活躍する場面や時期。また、人に惜しまれて引退する時期。 「引退の―を飾る」  
相撲の「花道」の由来1 
平安時代力士が土俵入りするとき頭に花を挿していたことからきている。相撲の花道は力士が支度部屋と土俵を往復する時に使う通路のことだが、日本相撲協会監修の「相撲大事典」によると「『花道』は、平安時代の相撲節(すまいのせち)で、相撲人(すまいびと)が髪に造花を挿して登場したことにちなんだ名称である」とある。相撲節とは天皇が宮中で相撲を観覧する行事のことで、相撲人とは力士のことだ。東方から登場する力士は葵の造花を、西方から登場する力士は夕顔の造花を頭に挿していた。造花を頭に挿していたのは、儀式を艶やかにするための装飾というの意味と、身を清めていると言う意味だと考えられる。  
由来2 
力士が土俵に向かう通路を花道というが、この花道という。名の起こりは、相撲の歴史と関わっています。奈良や平安時代には宮中で盛んに「節会」といわれる相撲大会が行われていました。節会相撲では力士が東西に分かれて勝敗を競っていましたが、東方の力士は葵の花、西方の力士は夕顔の花をつけて登場しました。花をつけた力士が通ったことから、通路を花道と呼ぶようになったのだといわれています。 

  

初切1 (しょっきり) 
幕下以下の取組の間に相撲の禁じ手を面白おかしく紹介する見世物で、江戸時代から行われていたが、現在では花相撲や巡業などで見ることができる。幕下以下の力士二人と行司が土俵にあがり、対戦形式で禁じ手を紹介する。例えば相手を蹴り倒したり、髷を掴んで振り回したり、力水を吹き掛けたり、現代のものでは他の格闘技の技を見せたりもする。   
初切(初っ切り)2 
相撲の禁じ手を面白おかしく紹介する見世物。相撲の取組の前に決まり手四十八手や禁じ手を紹介するために江戸時代から行われていたが、現在では大相撲の花相撲や巡業などで見ることができる。 
幕下以下の力士二人と行司が土俵にあがり、対戦形式で禁じ手を紹介する。例えば相手を蹴り倒したり、力水を吹き掛けたり、現代のものでは他の格闘技の技を見せたりもする。笑いを取る為にプロレスを真似て、ピンフォールの3カウントを行司が取ってしまったり、ドサクサに行司をノックアウトしてみたり、あるいはザ・ドリフターズのコントよろしく一斗缶などの小道具が出てくる事もある。巡業という興行全体から見れば一種の余興であるが、演じる本人たちはかなり真剣に筋書きを練っており、力士・行司共に身体を張った芸を見せる事が多い。 
禁じ手を用いるわけであるから取り組みもその度に仕切り直しとなり(初っ切りに限り反則負けはない)、勝負はなかなか着かない。普段の取組では見られない滑稽さから人気が高く、これを見たさに早い時間から巡業先に足を運ぶ者も居る。 
蛇足ではあるが弓取式同様に、この初切を務めた力士は出世できないというジンクスが存在する(統計を取ったわけではなく、あくまで俗説)。ただし過去には栃錦清隆が横綱に、出羽錦忠雄が関脇に昇進しており、これで破られたと考える者がいる一方、現在でも相撲界のジンクスを語るときにはかなりの割合で出てくるものである。 
幕下以下の力士でも初切では大銀杏を結うことが許されている。 
 
「一本刀土俵入り」

  

歌舞伎新派に、長谷川伸「一本刀土俵入り」がある。駒形茂兵衛とお蔦の人情物語である。横綱の夢破れ、故郷へ帰る途中、お蔦の前で果たす土俵入り。 
「10年前、櫛、かんざし、巾着ぐるみ、恩義をもらった姐さんに、せめてこれが見てもらう、 駒形茂兵衛の、しがねえ姿の土俵入りでござんす」 
長谷川伸、しがない庶民に向ける眼差しは、人間味あふれる温かみがあった。 
 
茂兵衛は、上州(群馬県)勢多群(せたごおり)駒形を故郷とする侠客がモデルといわれています。土地の言い伝えでは、茂兵衛は博奕打の足を洗ってから故郷へ帰り、鋤鍬を握ったが、百姓一揆の首謀者となって刑死したと伝えられています。 
その茂兵衛が幕切れでいうセリフは、観客の涙を誘います。 
「お行きなさんせ、早いところで、・・・仲よく丈夫でおくらしなさんせ。・・・お蔦さん、棒切れを振り廻してする茂兵衛のこれが、十年前に、櫛かんざし、巾着(きんちゃく)ぐるみ、 意見をもらった姐さんに、せめて見て貰う駒形の、しがねえ姿の、土俵入りでござんす。」 
まさに聞きどころです。 
お蔦の出身は越中八尾(やつお)(富山県)。劇中でお蔦が歌う故郷の唄「おわら節」が茂兵衛との再会のきっかけとなります。 
 
水戸街道の宿場、取手の裏通りにある茶屋旅籠の安孫子屋の店先に、よろよろとふらつく足で通りかかったのは、汚い単衣を着た駒形茂兵衛。力士になりたくて親方に弟子入りしたが、見込がないと旅興行の先で追い払われ、江戸へ帰る途中だった。何も食べていないという茂兵衛に、安孫子屋で酌婦をしているお蔦は、立派な関取になる見込はあるのかとたずねる。「何としてもがんばって立派な関取になり、故郷のおっ母さんの墓の前で、横綱の土俵入りを見せたい」という茂兵衛の言葉に、お蔦は巾着や櫛、かんざしまで受け取らせ、「立派なお角力さんになっておくれよ。そうしたら、一度はお前さんの土俵入りを見に行くよ」と励ます。茂兵衛は、お蔦の情に感謝しながら立ち去っていく。 
10年ほど経った、ある春の日。旅人風の男が、安孫子屋のお蔦の消息をたずね歩いていた。その男こそ、力士の夢破れ博徒になった駒形茂兵衛だった。誰もお蔦の居所を知らないので行きかけようとすると、この辺りの博徒の親分波一里儀十と子分たちがイカサマ師を追ってやってくる。一行が去った後でやってきたのは、そのイカサマで追われている辰三郎。実は、この辰三郎、お蔦の生き別れになっている夫だった。 
一方、お蔦は取手の宿から少し離れたところで、娘とふたり細々と暮らしていた。そこに儀十たちが踏み込んでくる。辰三郎がいないと見てとると、張り番を残して引き上げた。お蔦は、辰三郎が生きていると知って喜ぶ。やがて辰三郎が帰ってくる。感激の再会もそこそこに、逃げようとして追いつめられ、絶体絶命のところに来たのは茂兵衛。やっとお蔦の居所を探しあてたのだ。お蔦は茂兵衛を覚えていなかったが、「恩返しの真似がしたい」と金包みを渡し、ここは自分に任せろと言う。頼もしい茂兵衛の様子に、お蔦も昔のことを思い出した。 
お蔦一家を逃がした茂兵衛は、儀十一味をぶちのめしたあと、「これが十年前に櫛、かんざし、巾着ぐるみ意見をもらった姐さんにせめて見てもらう駒形の、しがねぇ姿の横綱の土俵入りでござんす」とひとり口にするのだった。 
 
 
 
 
 

  

独鈷(とっこ) / 正式には「独鈷杵(とっこしょ)」と呼ばれる真言密教の法具の一つで、もともとはインドで武器として使われていたものが、様式化されて煩悩を打ち砕く法具とされたものです。これが文様となったのが「独鈷紋」で、博多織の帯地文様として用いられました。一本の連続文様を一本独鈷、三本のものを三本独鈷というように呼んでいます。いまでは一般的に、真ん中に一本ラインの入った男物の帯を「一本独鈷」と言うようです。 
一本独鈷(いっぽんどっこ) / 大組織に所属せず独立を維持している組織のこと。単に「一本」とも言う。仏具の独鈷に由来する用語であり、博多織の一本独鈷と語源は同じである。 
独鈷文(どっこもん) / 独鈷は密教で用いられる鉄や銅で作られた法具の一種ですが、博多織の帯地文様として用いられました。一本の連続文様を一本独鈷、三本のものを三本独鈷というように呼んでいます。また博多帯の別名、博多献上になぞらえ献上文とも呼ばれています。   
 
 
俳句・短歌・川柳・狂歌

  

一年を裸で暮らすいい男 
関取は着物を着ると下卑る也 
看板に生国を書くいい男 
同じくを四五人で持つへぼ角力 
角力取あごの長いは弱く見え 
 
あの腹に宿りしものか角力取 (大伴大江丸) 
大きな男褌を担がせる 
大相撲男か蒸気機関車か (竹内草華) 
重たがり嚊が子産ぬ相撲取 
風上に座り関取叱られる 
辛味噌で体が出来た相撲哉 (碧梧桐) 
仮り橋へ来て関角力困ってる 
小人を押し分けて出る土俵入り 
角力取ぜんたいどんな親が住み (花酔) 
相撲取小さき妻を持ちにけり (露月) 
相撲取り皆腹腹にましましける (米仲) 
関取が立つと涼しい風が吹き 
関取が踏み外したで割れるよう 
関取と合傘をしてずぶに濡れ 
関取に赤子を抱かせ大笑い 
関取の後へ三人来て坐り 
関取の恐々掛ける涼み台 
関取の乳の辺りに人だかり 
関取の倅思いのほか小兵 
関取は人を下目に見る男 
関取も蚤には負けて夜を明かし 
関取や奥ある腹のゆたかなり (山) 
関取を鰹のように押してみる 
太刀山の臍に届かぬ相撲記者 (尺一) 
乳を飲みし昔もありや角力取 
手取り者痩せ肉ながら幕の内 
撫上て猛き腹なり角力取 (素丸) 
七尺と巷の説や関角力 (大魯) 
七尺の夢驚くや角力取 (青々) 
膝に寝た子とは思えぬ角力取 
人混みを天窓の歩く角力取 
褌で立派大判と角力取 
 
御目通りにて関取は大食し 
どの位食ふと関取尋ねられ (天平) 
百姓の時は関取喰い潰し 
河豚食わぬ顔とは見えず角力取 (史邦) 
 
風薫る両国橋や勝ち角力 (笠置山) 
勝角力いつも上手に米の飯 (芭蕉) 
勝角力その肩幅を親しまれ (鐘美) 
勝力士鬢の乱れへ名乗られる (琴人) 
勝角力虫も踏ずに戻りけり (一茶) 
勝った夜は酒まで強い相撲取 (綾瀬川) 
豪出でて角力なかなか気を吐きぬ (月斗) 
上手ほと名も優美なり角力取 (其角) 
ちひつさな羽織を貰ふ勝角力 
散る花の山吹となる勝角力 
夏場所や川風も祝う勝ち相撲 (山田重光) 
秘かに人を分けてく勝角力 
乱れ髪風情なるかな勝相撲 (暁台) 
和らかに人分け行くや勝角力 (几董) 
横綱を投げて涼しい髪を結ひ (茶坊主) 
 
板行にして売られけり負け相撲 (一茶) 
大内の砂を土産や相撲取 (蓼太) 
大内の砂を土産の角力かな (太刀光) 
死んだかと思えば起きる角力取 
投げられし土俵の見ゆるゆふべ哉 (一茶) 
投げられて礼して入る角力哉 (立吟) 
女房も見て居りにけり負角力 (一茶) 
負け相撲空手でゆくは砂だらけ 
負相撲ことに目立つや橋の上 (花讃女) 
負角力食事日頃に十倍す (大伴大江丸) 
負角力無理にげたげた笑けり (一茶) 
負けてこそ人にこそあれ相撲取 (大伴大江丸) 
まけに来て口三味線の角力取 (太刀光) 
 
引き分けて鼻血わりなき角力かな (碧梧桐) 
引き分けの角力や時の花もみち (左簾) 
 
老角力喝采も無く立ち上がる (鳴雪) 
大関にならで老いぬる角力かな (正岡子規) 
これきりと思う日もあらん角力取 
三十を老のはじめやすまひ取 (山) 
相撲取り老いて上手に転びけり (寥松) 
相撲取おとがい長く老いにけり (鬼城) 
相撲取小鳥を飼うて老いにけり (喜舟) 
踏ん張って四十を越えぬ角力取 (羅川) 
六尺ある娘持ちけり老角力 (大伴大江丸)

  

小角力の飯焚いている台所 (鳴雪) 
小相撲やかくても師の名をしみけり (碧梧桐) 
小角力や師匠の墓にすすり泣き (露月) 
十両になれず甚句をよく唄ひ (小次郎) 
角力取露の妻子もありと聞く (成美) 
角力取りや遙々来ぬる親の塚 (一茶) 
関取や妻は都の女郎花 (几董) 
故里に母と飯食う角力かな (露月) 
幕の内になって故郷に帰りけり (正岡子規) 
負け角力その子の親も見ているか (一茶) 
 
御相撲や五年前見し美少年 (几董) 
女ほど櫛箆持ちけり相撲取 (蓼太) 
さし櫛の蒔絵美し相撲取 (木導) 
 
梓弓取り遅れたる角力かな (大魯) 
いつも春の心なるべし関相撲 (花讃女) 
大晦日角力は常の歩きよう 
大笑い嫁関取と同い年 
踊りにも投げた手の出る角力取 
寒垢離やひととせ見たる角力取 (几董) 
灸を熱がって関取笑はれる 
こころえぬ花見の顔や相撲とり (松倉嵐蘭) 
三国の大関なれやふじの山すそ野のまはし雲の横綱 (鉄格子浪丸) 
白梅や北野の茶屋に相撲取 (蕪村) 
相撲取の屈託顔や午の雨 (夏目漱石) 
角力取一つところを踏んでいる 
角力取若く破竹の名を成せり (青々) 
関角力霞と共にいてける歟 (大伴大江丸) 
関取の行水しても人だかり 
関取は碁盤で消すが座敷芸 
関取も伊吹山には大へこみ 
大伽藍角力小さく手を合わせ 
頼もしき其横綱や片結び (青々) 
土付きし角力の肩の残暑かな (句仏) 
似気なきは毛虫に逃げる角力取 
初場所や控へ力士の組みし腕 (久保田万太郎) 
春風とともに吹きあぐ力士かな (半藤一利) 
春風や東下りの角力取 (一茶) 
踏切を横綱敢て逆らはず (東北) 
みやこにも住みまじりけり相撲取 (去来) 
夕露や伏見の角力散り散りに (蕪村) 
横綱を動かす蚤の力かな (高越山) 
角力取女が惚れて運の尽き (剱花坊) 
謳わるる名を天さかる旅角力 (青々) 
すわ土俵入り褌は脇へ寄り 
褌の強いはやがて幕になり 
褌を担ぐ頃より取り上げて諸国を股に掛ける横綱 
見違える筈褌が幕になり 
 
昔聞く秩父殿さえ相撲取 (芭蕉) 
秋風や西に名を得し金碇 (去来) 
ついの世は土山櫛を相撲取り 
名乗り上げよ東の方や放駒西の弥陀殿さあござれ取ろ 
 
志賀之助男盛りの春立てや (其角) 
志賀之助小波の打つ力瘤 
角力にも昔荒にし志賀之助 
つよつよと松の瘤有り志賀之助 
峠まで登り詰めたる志賀之助 
丸山を呑んで登った志賀之助 
実桜か志賀相撲うの拾い投げ 
 
淡路阿波ここは名に高き大鳴渡 
檜垣船追風を待つや磯碇 
弓八幡神も贔屓な源氏山 
辨慶が安宅の知略手柄山 
坐り良い重荷を引くや四ッ車 
皇帝を祝う子ノ日や小松山 
しらぬ火を海士のたく火とうたがいて 
見て通る実宮城野は萩名所 
高砂の尾上の鐘や響の灘 
八はしや主は花の杜若 
大灘を雷電となり渡り山 
三輪の神おがむ神體の山すがた 
三山より落る大瀧名ぞ響く 
しかまつに數々船の立ち合て 
風景も四季に変われば時の浦 
濱風になびく白旗須磨源氏 
人毎にまつら鏡や鰭ノ山 
枝たれて老松繁るときわ山

  

片やぐら巌石おとしさかおとし関は日本一の谷風 (太田蜀山人) 
水ぱなの誰かは咳をせかざらん関はもとより強き谷風 (唐衣橘州) 
 
釈迦ヶ嶽二階から目へ差し薬 
釈迦ヶ嶽額へ鴨居蛸が出来 
西方の大関らしい釈迦ヶ嶽 
 
立ち残す錦おりむらおり萩の花に色ある宮城野の原 (近衛公) 
 
浮無瀬でも手を取らせたハ京都へ御手がら 
北野海山を越して来た大鳥 
是ぞ一二とはさがらぬ三ヶの津名も日の本に光る玉垣 
どのやうな上呑みても振通ぞ泡盛酒 
何ニふでも入りを取る尾張丁のごふく見世 
春の顔割をたのしむ紀伊國橋 
 
百里をも驚かすへき雷電の手形をもって通る関と里 (太田蜀山人) 
雷電と稲妻雲の抱えなり 
 
大童山という金山は奥から出 
小野川に成られぬ訳が有馬山 
古の志賀にも負けぬ阿武松 
緋縅の腹借りて来い納豆汁 
 
稲妻の贔屓土俵に鳴り渡り 
稲妻はごろごろと寐力士なり 
稲妻はもう雷電になる下地 
晴天に稲妻の出る西の方 
西の関日本中へ鳴り響き 
 
龍門は並ぶかた無き男とて龍とも登る鯉の若者 (立川焉馬) 
類無き生まれながらの関取は神通力を得たる童子 (立川焉馬) 
横綱を示し力や優りけん西の最手こそ弓は取りたれ (徳川家慶) 
生月は草臥れたものだのう籠屋 
 
黒雲や風に聳ゆる我が故郷 
関取は月と仏の弟かな 
照る影をひら手に受けし旭形千代に輝く勲なりけり (孝明天皇) 
人気も溢るる横綱の西の海 
鳳凰の常によくする泉川此頃利かず老いにけらしな (阪井久良伎) 
この場所の土つかなであれな我好む力士荒岩動きなくして (阪井久良伎) 
変わらぬ人気春場所の梅が谷 
 
三百の蛙の中に男山 (阪井久良伎) 
人気沢山常陸山勝ち続けとる 
常陸山遂に負けたる消息は聞くに忍びずわれ歌咏まむ (若山牧水) 
常陸山渡米の供に近江不二 
真っ裸角逐界に一人見え (西田當百) 
 
太刀山が負けてくれれば儲かると号外売りが陰でひそひそ 
太刀山は四十五日で今日も勝ち 
 
鳳全勝日の下に敵は無し 
横綱と決まり鳳飛んで跳ね 
 
相撲名は消さずおでんの電気燈 
首投げを打った打ったと常陸潟 
 
両國に紫の羽織着せて見せん (田村俊子) 
両國を思えばうつらうつらかな (田村俊子) 
両國という角力恋して春残し (田村俊子) 
 
大関へも出足の早い大錦 (西田當百) 
 
右筈へ天下無双の七五三を張り (阪井久良伎) 
 
植え替えて若葉益々遅くなり (松内則三) 
若葉山紅葉の頃に立ち上がり (松内則三) 
 
いきれする人ごみの中に吾は居り出羽ヶ嶽の相撲ひとつ見むとて (斎藤茂吉) 
一隊の小学児童が出羽ヶ嶽に声援すれば我が涙出でて止まらず (斎藤茂吉) 
五つとせ余りの内にかく弱くなりし力士の出羽ヶ嶽はや (斎藤茂吉) 
絶え間無く動悸して我は出羽ヶ嶽の相撲に負くる有様を見つ (斎藤茂吉) 
木偶の如くに負けてしまへば一息にいきどほろしも今は思はず (斎藤茂吉) 
番附も下り下りて弱くなりし出羽ヶ嶽見に来て黙しけり (斎藤茂吉) 
文ちゃんに飼われて小鳥なお小鳥 
出羽ヶ嶽にかぢりつき又攀ぢのぼる (剱花坊) 
出羽ヶ嶽カメラは少し遠ざかり (文酔) 
 
吉野山花の盛りの短さよ (松内則三)

  

江戸中で一人寂しき勝相撲 (吉川英治) 
面影はあの花道のあの辺り (和田信賢) 
玉錦塩を掴んで雪のように (別天樓) 
 
沖ッ海福柳から何年目 (報知) 
 
秋場所や稽古の甲斐をかくも見せ (久保田万太郎) 
旭富士梅雨の合間の薄日かな (出羽錦) 
両国に国技を残し春日逝く (出羽錦) 
大荒れに基礎と力を皆に見せ (出羽錦) 
根強さがしっかり咲いたか若乃花 (出羽錦) 
大海がカゼもひかぬに大関か (出羽錦) 
春日野に名残を惜しむ細雪 (式守伊之助[25]) 
 
秋角力始まる日から山の雲 (一茶) 
改めし名に馴染み無し夏相撲 (酒井忠正) 
五月晴れ曙貴競う五月場所 (出羽錦) 
春場所も間近になりぬ柳橋 (虚子) 
春場所や落ちたる花も咲く花も (半藤一利) 
祭酒の酔を相撲の初日かな (句仏) 
 
船頭は男ばかりを八日漕ぎ 
一年を二十日で暮らすいい男 
回向院糟糠院を十日見せ 
気味の良さ団扇の下に十日いる 
近年は二日裸に余計なり 
山々嶽々を晴天十日見せ 
さあ城下晴天七日抱えられ 
 
大きな裸女には見せぬなり 
女には見せぬ諸国のいい男 
女日照りは晴天の十日なり 
 
青空を見つけて太鼓担ぎ出し 
江戸中へ太鼓で雨を触れ歩き 
御免を蒙ってまずい空にする 
御免を蒙り曇り無き勝負なり 
晴天十日一日は雨で延び 
晴天十日勝ったこの腕 
 
晴天の扇を翳す庄之助 
空へ手をあてて太鼓を回すなり 
十日の角力七日降り詰め 
 
深川へ大人の来るいい日和 
好い天気土間へ畳を八日敷き 
けふもふろあすもふろやの半右衛門跡に残るはむしろ竹縄 
 
薄闇き角力太鼓や角田川 (一茶) 
江戸中へ響く太鼓の角力触れ 
思はざる梢に相撲太鼓かな (斗吟) 
雷の出るを太鼓が触れ歩き 
角力好き耳を澄ませば太鼓売り 
角力太鼓富貴な町は強う打つ 
間の悪さどでそんどでそんと太鼓鳴り 
水汲みの暁起こすや相撲触れ (其角) 
 
あっさりとしたは角力の桟敷なり 
御免を蒙りあぶなかしい桟敷 
芝居より高い桟敷は縄からげ 
相撲桟敷に風の吹き入る一ところ (別天樓) 
角力場は桟敷の梯子持ち回り 
晴天の桟敷女っきれは無し 
縄で束ねても男の見る桟敷 
藁で束ねても女の見ぬ桟敷 
梯子よしよし関取差し上げる 
 
角力場に気の無い男頬杖し 
角力場や今朝はいつもの細念仏 (一茶) 
八日宛角力が母は神参り 
 
風薫る大川端や國技館 
國技館うっかり元のとこへ来る (半里宇) 
下総の雪を喰い消す角力客 
力瘤入れて建てたる國技館四股で土台を踏み固めたり 
萬国にたぐひすくなき國技館桟敷に蒲団しきしまの風 
両国や幟の林に樽の山

  

居並ぶと大名道具角力取 
お角力と名にこそ立つれ見世男 
国々の麟鳳亀竜土俵入り 
師の恩を褌で贈る角力取 
注連縄の横綱はりてすまひ男の土俵入り見る神國技館 
相撲取り並ぶや秋の唐錦 (嵐雪) 
殿様の褌で取る好い角力 (力士) 
土俵入臍の下からビラを下げ (花酔) 
土俵入り負ける気色は見えぬなり 
褌に人立ちのする縫箔屋 
褌は殿の力や相撲取 (挙遠) 
褌へ表札を打つ角力取 
褌の衣紋を作る角力取 
褌の力士の肉にめり込みて 
褌を故郷へ飾る角力取 
皆負けぬ顔や力士の土俵入り (玉垣[8]) 
嵐雪かその唐錦角力見ん (白雄) 
両方から豊かに関の土俵入り 
四股踏めば花の感声我が肩に (随円) 
裸身に麻の匂ひやすまひ取 (許六) 
下帯は見事なれども京相撲 (許六) 
 
秋場所や退かぬ暑さの人いきれ (久保田万太郎) 
当るのもはっけ相撲の大入で勧進元もよいや残った 
入れ掛けの心配もなく見物もドンドン向ふ両國技館 
四股を踏みならす太鼓に土俵際客押詰て来る國技館 
角力場も鯨を見るで人の波 (柳亭種員) 
初場所の人気のかすみだてるかな (久保田万太郎) 
初場所のラヂオ聴くだに何となく (若杉) 
人いきれ相撲いきれに霞むなり朱雀柱も玄武柱も (吉井勇) 
みんな見にみた西かけて客人のくるは東の両國技館 
力士見る桟敷も二階三階と四階にひびく強國技館 
 
くくりつけ相撲柱が差す刀 
角力のろうずが柱へ寄り掛かり 
 
一心に土俵を見ればとどろとどろ四股踏む音も胸に響き来 (吉井勇) 
國技館喚きの底にあるしじま (迷亭) 
國技館喚きの底に二人立ち (迷亭) 
國技館臍が向き合ふ仁王立ち (尺一) 
五月場所はれのしようぶの角力とて太刀に甲も出づる両國 
相撲はんと東ゆ西ゆ揺き出し阿修羅の姿見るが楽しき (吉井勇) 
西東裸で出たる相撲かな (芭蕉) 
をさなごも名をだにきかず手をうちて常陸山とぞとよみあげたり (森田義郎) 
 
関取に立ち合うまでに骨を折り 
睨み合いし目と目光を帯び来り今ぞ相搏つ肉の響くは (石槫千亦) 
睨み合うてなかなか取らぬ角力かな (沼波瓊音) 
まだまだと云って身体へ砂をつけ 
向い合うて静かなりけり関角力 (五鹿) 
両手下りて立たんの刹那気合わず静かに笑み合い相分かれ行く (石槫千亦) 
 
勝ち負けはほぼ立ち合いで目安つき 
夏場所や雷神想はす当りかな (半藤一利) 
 
相組みて土俵の中に立ちすくみただ息つける腹の大きさ (花田露志) 
合い力屁の出た方が負けるなり 
荒技や満山の若葉みな震ふ (半藤一利) 
内掛けの飛んで隅田の落花かな (半藤一利) 
大関と大関と組む相撲かな (正岡子規) 
君が代にすまひのせきもせきの戸はいづれ左も右もささせず (朱楽菅江) 
五人抜き突く押す叩く反る捻る (剱花坊) 
初場所や押し一筋をひたすらに (半藤一利) 
貧にして孝なる相撲負けにけり (高浜虚子) 
もも種の花に砕くや角力の手 (晩得) 
四つに組んだまま二分三分四分 (別天樓) 
四つに組んで贔屓の多き相撲哉 (正岡子規) 
 
あなや起ちあなや相搏ちあなや組みいづれ勝つとも思ほへなくに (吉井勇) 
國技館たった二人にこの騒ぎ (久坊) 
相撲記者見ると書くとの忙しさ (剱花坊) 
夏場所や貴人いよいよ御猫背 (江國滋) 
はたと止む扇子の波や五月場所 
久しくも見ざりし相撲い人々と手を叩きつつ見るが楽しさ (昭和天皇) 
分けられし相撲にほっと心落ち我に返れば汗握りいし (花田露志)

  

足ばかり洗って仕舞う関相撲 
汪然と涙くだりぬ古社の秋の相撲に人を投げつる (釈迢空) 
大角力反り返されて坂落とし 
大関の顔に泥塗る河津掛け 
大関の負けぬ日は無し江戸の春 
きたあねえ顔で関取かしこまり 
今日は引き分け見ずとても知れた事 
沈む日を浴びて角力は正五番 
角力場にわれや見つらん河津掛け 
同体に落ちて贔屓の声が枯れ (藤倉修一) 
土俵際アナウンサ−の声が枯れ (文酔) 
投げ際を坐頭誉たる相撲かな (介我) 
投げられて角力が親の念仏かな (大伴大江丸) 
夏場所やもとより技の掬い投げ (久保田万太郎) 
七日まで勝ちし角力の負けになり (鳴雪) 
負ける人勝つ人ともに相撲かな (支考) 
悠然と土俵を割って撥ね太鼓 (長門守) 
 
足元を見て世を過ごす(渡る)庄之助 
荒っぽい仲人をする(ものを合わせる)庄之助 
海山の間に小さい庄之助 
上下で裸の中へ分けて入り 
行司せば土俵の仲の国巡り 
大層なものを合わせる庄之助 
大の男を軍扇で押し潰し 
山と川間(あ)いに小さく庄之助 (松内則三) 
 
十分じゃ関出せと言や行司詫び 
出世して足袋を脱ぐ武士履く行司 
庄之助数万の人を言い伏せる 
庄之助女を見ぬと天気なり 
庄之助晴天八日四角に出 
 
正直に物言ひて秋深きかな (久保田万太郎) 
初場所やかの伊之助の白き髭 (久保田万太郎) 
初場所やさすがに髭の名行司 (久保田万太郎) 
初場所や髭の伊之助いよ健し (久保田万太郎) 
褌の端を行司の南草入 
 
軍配でいやいやをして揉めるなり 
かたのつく内は俵へ腰を掛け 
 
いい天気十六俵へ花が散り 
勝角力薄着の人に礼を言い 
きつい好き羽織ばかりを八ツ投げ 
桟敷から抱へて角力かつつかみ 
桟敷まで仁王は花の礼に来る 
寒そうな人に関取礼を言い 
角力好き女房に羽織断られ 
晴天十日袖のある花が降り 
晴天に御免の日数花が散り(降り) 
散る花を帯で束ねる勝相撲 
羽織着ぬ人に関取礼を言い 
贔屓の角力勝ったので風邪をひき 
紅裏をついに貰はぬ角力取 
割れ角力羽織の紐を結ばせる 
 
勝負附け尻の方から読み始め 
勝負附け鼠に羽が生えて飛び 
勝負附け根っから女房本にせず 
早い事果てると売りし勝負附け 
筆持って団見つめる勝負附け 
 
阿波人は阿波の相撲を贔屓哉 (正岡子規) 
月のみか雨に相撲もなかりけり (芭蕉) 
綱2人看板通り二子山 (出羽錦) 
綱渡り2本の綱の難しさ (出羽錦) 
花も実もありてなかなか相撲哉 (桃反) 
初場所や大技小技秘技秘策 (江國滋) 
初場所や雪と座布団降り積もる (出羽錦) 
人の世の縮図を見せる格闘技相撲は楽し相撲は哀し (穂積驚) 
見ず知らぬ角力にさへも贔屓哉 (一茶) 
よく荒れた外の天気と國技館 (出羽錦) 
流行か流行る団子が土俵まで (出羽錦) 
 
谷風に吹きまくられてはらはらと木の葉相撲うの足もたまらず 
 
小野川に船繋ぎたる横綱を谷風強く吹き切りにけり 
谷風と小野川箱根荒井なり 
谷風は負けた負けたと小野川がかつをより値の高いとり沙汰 (太田蜀山人) 
手なれせし手を蟷螂の小野川やかつも車のわっという声 (朱楽菅江)

  

陣幕に何の苦も無く跳ね出され今日は負けても雷電は勝ち 
陣幕に張り詰められし御上覧今年や負けても来年は勝つ 
雷電が水火になってかかれども弓鉄砲も受けぬ陣幕 
 
また降るだろう雷電に九紋竜 
雷電は雲の上にてごろつくに音羽が山の下でころころ 
雷電は雲の上かと思えども音羽の山の下でごろごろ 
 
玉垣も柏も地から生えたよう 
戸と垣を西と東の関に据え 
 
足を取る相撲上手の両國関も足を取られてスッテンコロリン 
東より鳴り響いたる雷電を取って投げたる熊が勢い 
東京で鳴り渡ったる雷電をごろごろぴしゃと投げた響矢 
小錦の相手にならぬ龍田川 
 
潔よく仕切れ壮夫立つ時に待てとは言ふな待ちはするとも (天田愚庵) 
大山はゆるぎ出でたり西東関の大関ゆるぎ出でたり (天田愚庵) 
梅と呼び常陸と叫び百千人声を限りに勢ひどよもす (天田愚庵) 
此相撲唯一つかひ見んためと西の都ゆ遙々に来つ (天田愚庵) 
突く手差す手見る目もあやに分かねとも組みては解れ解れては組み (天田愚庵) 
虎とうち龍とをとりて壮士か相撲を見れば汗握るなり (天田愚庵) 
春場所に梅を散らした常陸山 
東の関も投げたり常陸山天か下には唯一人也 (天田愚庵) 
東は梅ヶ谷かよ西は誰ぞ常陸山とぞ名乗り挙げたる (天田愚庵) 
 
朝あらしようとしきりてきほい立てばひむかしの関も立ちぞたゆたふ (森田義郎) 
いかりがたいかりて立てば國見山かしはやまをもまきくつがへす (森田義郎) 
うちさやぎなみかもよすと見るまでにくろきあふぎのたちひるがへる (森田義郎) 
大錦負けたと給仕飛んで来る (不倒人) 
玉椿金玉(睾丸)辺りにぶら下がり (剱花坊) 
太刀山もたちぞたゆたふはつ夏のこきみどりふく朝の嵐に (森田義郎) 
西国見東朝汐と扇持て高らかに呼ぶ呼出奴 (阪井久良伎) 
まきおこるつむじのごとくあさあらしさす手ぬく手も見せずすまへり (森田義郎) 
山をたかみさきほこりたる谷底の梅のにほひを風ももてこず (森田義郎) 
西方は雷同をしたように負け (水府) 
 
又しても臍くすぐられて土俵割り 
 
明日も来たくなるもの木村よみ 
八幡の宮相撲より出世してけふ大関にかなふ弓取 
回向院角力が済んで秋の暮れ 
皃(かお)に日のさして猶豫(ためろ)ふすまふかな (梅室) 
勝鬨の声鳴りやんで弓の式 
角力崩れが泡雪に人の山 
葉桜で花を包んで木戸を出る 
夜着包み角力崩れの邪魔に成り 
 
居角力の行司あんどん下げ歩き 
下女が尻居り角力の雷五郎 
茶壷割る座敷相撲や従兄弟どし (許六) 
 
がぶがぶと水飲む素人角力かな (鳴雪) 
草角力いささか含む所あり (青嵐) 
草相撲芒の間に別れけり (天水) 
草の上に衣投げやりて相撲いけり (青嵐) 
情婦を訪ふ途次勝ち去るや草相撲 (蛇笏) 
飛入りやかはづと名乗る草角力 (鳴雪) 
流れ来てここに老いけり草相撲 (木人) 
脱ぎ捨てて角力になりぬ草の上 (太祗) 
野相撲の崩れし跡や石地蔵 (枯涼) 
野相撲や一人強きが居たりけり (禾山) 
風呂敷に包む褌や草相撲 (起草) 
 
風そよぐ小萩が辻の角力哉 (一茶) 
見物の鼻血おかしや辻相撲 (許六) 
辻角力一日増に小粒なり (一茶) 
辻相撲人の顔は西瓜市 
投げられて坊主なりけり辻角力 (其角) 
夕月や京の外れの辻角力 (正岡子規) 
 
木に人を生らせる村の花角力 
草花や土俵の狭き里相撲 (小枝) 
松の木に太鼓打つなり村相撲 (鳴雪) 
村角力蜂に刺されて勝負無し 
 
隠れ無き金剛力や宮相撲 (石年) 
べったりと人の生る木や宮角力 (一茶) 
宮角力江戸から力士来たりけり (観実) 
宮相撲九紋龍とぞ名乗りける (正岡子規) 
宮相撲良き名を名乗る相手哉 (閑子) 
宮角力隼といふ手取かな (虚子)

  

篝火の暗くなるまま相撲いけり (綾村) 
尻餅を草に月夜の相撲かな (光炳) 
夜相撲に取る手や月の河津掛け (有也) 
夜角力の草にすたくや裸虫 (蕪村) 
夜相撲の篝に光る狛の貌 (虚子) 
夜相撲やかんてらの灯を吹きつける (夏目漱石) 
 
投げるなと言うは涼の角力なり 
飛入りの力者あやしき角力かな 
殿の負け笑われもせぬ角力かな (秀興) 
大相撲大和錦の廻しして (鳴雪) 
子相撲の叔父は褌借られけり (紅葉) 
 
天つちを押しわけて立つふじの山ほうゑい山はちから瘤かも (鉄格子浪丸) 
天の下万の国に手力の有りや又斯くますら健男は 
追っ付け相撲だと紺屋精を出し 
紙雛に角力取らせる男の子 
是からは女角力とそ引くなり 
境町ずかずか通る角力好き 
神明のめぐみも無くて不時の怪我どう相撲うやら今日の勝ち負け 
角力を連れて投げられに御通い 
谷風の噺に皺の力瘤 
錦絵に残る火消と角力かな (櫻子) 
博奕のような勝負を御上覧裸になって是で相撲うか 
降る筈だ両清水に井の頭天水桶に井筒万五郎 
昔屏風に谷風や魚楽の絵 
呼び出しは晴天八日客が殖え 
 
又や見ん片手投げする曲相撲 (重頼) 
この庭は相撲好きなり真四角 (岩翁) 
一握りいざまいらせん年の豆 (丸山・3代横綱) 
負くまじき角力を寝物語かな (蕪村) 
雨乞のすそわけほどや初時雨 (揚石) 
春風や野を行く扇あふぎ初め (揚石) 
山鉾の山なす山や鯖のすし (揚石) 
五十年角力を見たり福祿寿 (大伴大江丸) 
白拍子兄の相撲に隠れけり (大伴大江丸) 
関取に腰折歌はすもうまいいで一ちから入れて筆とろ (雲錦) 
秋の野の錦まはしの相撲草所せきわき小結のつゆ (太田蜀山人) 
君が代の米こそ余れ角力取 (方壺) 
勝ち方に今日賜れる梓弓もとのままなるためしをやひく (成島峰雄) 
立てる茶は四十八手の外なれば遂に茶碗のはじをかくらん (八十嶋) 
青柳の風に倒れぬ力かな (稲妻) 
稲妻の去り行く空や秋の風 (稲妻) 
腕押しにならでや涼し雲の峰 (稲妻) 
梅の香や東隣りの其隣り (稲妻) 
唐までも匂うや梅の朝ぼらけ (稲妻) 
還暦や花の蕾や初暦 (稲妻) 
雲を抜く力見せけり時鳥 (稲妻) 
香に愛でて雲の晴れ間や菊相撲 (稲妻) 
寒さをも苦にせぬ梅の力かな (稲妻) 
涼しさや四股踏んで呑む力水 (稲妻) 
竹の子の力や何にたとうべき (稲妻) 
蝶二つ取り組む秋やすまい草 (稲妻) 
春なれや名も無き山の朝霞 (稲妻) 
零れても形は失な露の玉 (不知火) 
関取と人にいはるる暑さかな (雲早山) 
受けながら風の押手を柳かな (陣幕) 
遠山は晴れて二度目の時雨かな (象ヶ鼻) 
ひゝきつる名のみ残りて山を抜君が力も春夜梦 (大眉捻香) 
念仏をまふしためたる功力にてゑむ魔にまけぬ用心をする (三段目葛城) 
桂野の華廼(の)盛りを嵐かな (桂野) 
麻苅の竪には越さぬ小川かな (友綱) 
蚊遣りして汐待つ舟の夜明哉 (友綱) 
澄まてに神詣て来る志みつ哉 (友綱) 
をく露や其草々の力ほど (玉垣・8代) 
勝の酒旨さ染み入る梅の頃 (荒岩) 
ききなれし鈴なる馬や夕しぐれ (常陸山) 
日の本を踏み固めたる相撲哉 (江見水蔭) 
花芒帰参叶わぬ角力かな (碧梧桐) 
相撲乗せし便船のなど時化となり (碧梧桐) 
角力小屋勿体ぶった名を付ける (西田當百) 
ロンドンへ京横綱を捨てに行き (西田當百) 
自由は亡びたが横綱一つ生み (西田當百) 
大錦親父の方が草臥れる (水府) 
鬨にしては大きな國技館 (水府) 
発憤の頭を振ると髷が取れ (水府) 
全勝の栄誉も要らぬ名も要らぬ父母の命の永きぞ祈る (笠置山) 
髻の切られる窓に落葉かな (笠置山) 
今は何をつつむべき角力は商売 (剱花坊) 
一生に二度と来ぬ日の小春かな (久保田万太郎) 
爽やかやひろき額も濃き眉も (久保田万太郎) 
宿禰蹶速の相撲の跡や草の花 (中尾方一) 
投げられて転がされつつ世の中の道を学びし相撲かな (出羽錦) 
 
雷電本紀 / 飯嶋和一

 

表立ってというわけではないが、物語の根底に渦巻く怨念というか怒りというものが、ページをめくる毎に伝わってくる。それは決して粘着質なドロドロとしたものではなく、淡々と語られる物語の裏に脈々と流れる地下水のようなものである。それが静かな分だけ、この怨念というか怒りというものが恐く感じる。これは民衆、それも圧倒的多数を占める貧乏人の悲痛な叫びである。物語となる時代は、表通りから路地に入り込むと、人の糞や小便が水溜まりをなし、ウジの湧いた犬猫の死体まで掃溜めにほったらかしにされている。貧富の差は広がるばかりで、裏店の暮し向きは悪くなる一方。あまりに現代に酷似した状況は、背筋に空恐ろしく寒々しいものを感じる。本書の持つ雰囲気などは、より洗練され昇華されたかたちで、続く「始祖鳥記」に受け継がれている。本書の主人公は雷電為右衛門。生涯十敗しかしたことのない伝説の相撲人である。講談では先代の雷電の名を持つ為五郎と混同されがちだという。寛政二年冬以来文化七年冬までの二十一年。江戸大相撲において二百五十四勝十敗二引き分け十四預り、五無敗勝負。「序」からスゴイ。いや「序」だけで充分スゴイ。籤とは名ばかりの、相撲籤なる博打は勧進の名目で公然と行われている。この勧進大相撲に幕府が寛容すぎるのは、何かのきっかけがあれば、いつまた大規模な打ち壊しが起こっても不思議でないこの時勢に、人心を幕政の不満から逸らす手段として利用している。雷電為右衛門と並ぶもう一人の主人公鍵屋助五郎にはそうとしか思えない。いつの世も大衆の不満を政府や行政に向けさせないために、はけ口を何かに求めるのは同じである。そして、博打の道具でしかなかった辻相撲から、安全で高尚な小金持の趣味に江戸勧進大相撲は仕立て上げられていた。ところが雷電為右衛門のせいで薄汚い辻相撲に引き戻されようとしている。勧進大相撲見物の裏には、木戸銭を支払うことが出来、日がな一日潰すだけの余裕があるものの特権だった。江戸市中のほとんどを占めている数十万の貧乏人どもが神のように崇める雷は、侍や上中階層の商人、安住を決め込む者達から見て、自分たちを脅かす不気味なもの、不安の影を感じさせる。権力を持つ人間を脅かす不気味なもの、不安の影とは、その特権を奪う力に他ならない。これらを奪う可能性があるのが、大衆の力である。それを雷電は象徴している。この時代一揆や打ち壊しは頻繁に起きている。本書でも、幾度となくその事が書かれ、実際に一揆の場面や打ち壊しの場面も描かれている。古来日本ではこの一揆や打ち壊しで政府が転覆するようなことはなかった。だが、海外では実際に大衆の力が発端となり、政府が転覆する事件が起きている。革命などがそうだ。現在においては、このような強力な大衆の力が表に現れることはほとんどない。ましておとなしいといわれる日本人には考えにくいことである。だが、かつてそうした力が噴出したこともある国であることも忘れてはならない。その事を現在の政治家や官僚、経営者は覚えておく必要がある。こうしたことを忘れてことに当たると、本書の最後で語られる釣鐘事件のように自らの足下をすくわれることになる。以下の大名を政治家や経営者、奏者番寺社奉行を官僚と読み替えると、そのまま現在でも状況が当てはまるから皮肉なものだ。  
「己が利権と顕示欲しかない大名どもなど、自らの薄汚れた野心のためならどんなこともする。釣鐘再鋳の禁制など、書式さえ整っていればあってなきがごときもの。だが、この一件は何が何でも大事に仕立て上げたい奏者番寺社奉行のサルどもの思惑が絡んでいる。」  
最後に、雷電為右衛門に勝ったことのある力士を記しておく。  
・梶ヶ濱力右エ門  
・花頂山五郎吉(市野上浅右エ門、常山五郎吉)...雷電に唯一二回勝っている。  
・鯱和三郎  
・柏戸宗五郎(初代)  
・春日山鹿右エ門  
・音羽山峰右エ門  
・鏡岩濱之助  
・立神盤右エ門  
・江戸ヶ崎源弥  
この他に、陣幕嶋之助が上覧相撲で勝っている。  
 
天明六年(一七八六)。湯島天神裏から出た火は神田はもちろん日本橋一帯を燃えつくし、深川仲町までその被害がおよんでいた。  
鍵屋助五郎が神田明神へ産土神参りに出かけた帰り道、一人の相撲人が子供を抱き上げて厄災祓いを繰り返している姿を見た。その光景は二十二才になる助五郎の内に長く残った。  
寛政二年(一七九〇)。天災が続くなか、一人の相撲人の噂が江戸市中を駆けめぐった。助五郎は天明六年に見た光景を思い出していた。今噂の雲州雷電はかなり変わった相撲人で、どんな者でも赤子を差し出すと、喜んで抱き上げてくれるという。赤子に貴賤などあるかと昨今の相撲人とは思えぬ尋常なことを口走るらしい。それとかつて見た光景が重なり合わさった。  
雲州雷電はシナノモノだという。天明に年号が変わる頃から異常気象に見舞われ、追い打ちをかけるように天明三年に浅間山が大噴火した。未曾有の大災害で、上州から信州一帯に大規模な一揆が起こり、それに敗れた人々が江戸に流れていた。これらの人をいままでの人々の出身地を示す語とは明らかに異なる意味合いで「シナノモノ」「ジョウシュウモノ」と呼ばれるようになった。  
助五郎が勧進大相撲を見に行った時、これまでとは違う見物人が数多くいた。おそらく飯を何度か絶っても、雲州雷電を見ておきたいと願いやって来た者達だろう。助五郎は雲州雷電のすさまじさを目の当たりにした。とても同じ人間が相撲を取っているようには思えなかった。  
この雲州雷電と助五郎が親しくなったのは、助五郎が雷電に化粧廻しを贈ったのが縁だ。助五郎は自分と同じ年頃の雷電のために、何かしてはいられなかったのだ。寛政三年。その雷電がひょっこり鍵屋を訪れた。これ以降親しく交わるようになったのだ。  
――天明三年(一七八三)。浅間山が大噴火した。  
陰暦八月一日の八朔。小諸八幡の祭礼相撲に太郎吉が出ることになった。寄せ手の東方大関日盛に歯が立ちそうな者がいなかったからだ。だが、太郎吉は相撲嫌いであった。太郎吉にしてみれば、浅間の大噴火以来、相撲どころではない。迷惑な話である。  
この祭礼相撲が終わったあと、上州一体に不穏な空気が流れ始めた。異常気象に加え、浅間山の大噴火。これは天災であるが、凶作を喜ぶ、浅間山の大噴火を喜ぶ者が大勢いた。凶作になればなるほど米の値は上がる。上州一体の者達はどうにもならないほど追いつめられていた。  
――太郎吉が浦風林右衛門の弟子になって江戸に出てきた。同じ弟子の中では太郎吉の相手になる者がいないため、浦風林右衛門は大関の谷風に頭を下げ太郎吉に稽古をつけてもらうことにした。谷風は太郎吉が師匠の浦風林右衛門の現役時代に似ていることを感じていた。  
谷風には心を痛めていることがある。それはいつの間にか相撲人そのものが腐敗し始めており、星の貸し借りや情実を土俵の上に持ち込み、さらには金銭による星の売買まで横行しているということである。  
この「拵え相撲」が横行している中、相撲会所に自浄力は期待できなかった。それは相撲人の中に期待するしかなかった。その者は土俵の上でどんな妥協もせず、まさに真剣で渡り合うような無双の力士でなければならない。  
谷風はそれを太郎吉の中に見いだしていた。  
――寛政五年(一七九三)。老中松平定信が失脚した。この頃には雷電為右衛門が勝のは当たり前という状況になっていた。この時に行われた勧進大相撲に千田川吉五郎という大兵の相撲人が現れた。雷電同様、千田川の相撲の、従来の相撲びいきからは眉をひそめられ続けた。千田川も雷電同様雲州のお抱え力士である。  
その千田川が鍵屋に突如現れた。雷電に聞いた医師の話が耳に残っていたらしい。これを紹介してもらいたいということだったようだ。この千田川も、その評判とは違い、雷電同様の赤子の厄災祓いをするなど似ている部分があった。助五郎は千田川とも雷電同様のつきあいをするようになった。  
――上覧相撲が行われた。だが、このおかげで相撲人個人による「拵え相撲」が大名やその意向をくんだ藩役人が直接関与する大がかりな「拵え相撲」となっていた。  
寛政九年(一七九七)。大関雷電、関脇千田川、小結鳴滝、前頭筆頭に稲妻らが並び、雲州力士がその強さを誇示していた。まさに雷電王朝はゆるぎないものとなりつつあった。  
 

 

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