明治大正の日本 [2]

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雑学の世界・補考   

高峰譲吉の米紙への寄稿

高峰譲吉は、タカジアスターゼの発明やアドレナリンの純粋抽出で世界の医薬界に大きな貢献をしたことで知られていますが、日露戦争時にアメリカ世論を味方につけるために民間大使として自費を投じて貢献した愛国者でもありました。
高峰譲吉がアメリカで没したのち、大正十一年十一月十日に、帝国ホテルで追悼会が開催されました。このとき、日露戦争時にアメリカに派遣されて、大統領と友人なのを利用するなどしてアメリカの世論を味方につけるために奔走した金子堅太郎が、高峰讓吉の民間外交を高く評価し、日本政府を批判した挨拶をしています。
「(ロシア贔屓が多かったアメリカで日本贔屓を増やすために私費をなげうって粉骨砕身した高峰讓吉の民間大使ぶりを賞賛した上で)・・・私が亜米利加より帰って来て、亜米利加に対しては国民外交をせねばならぬ、其の国民外交の無冠の大使は高峰博士であると云うことを言ふた所が、日本に於て大いに笑はれた、又攻撃された、金子が国民外交と云ふが、外交が国民外交であつて堪るものか、外交は秘密でなければならぬ、門戸を閉ぢて其中で外務大臣と大使とが話して他に漏れぬやうに機微の間にするのが外交である。国民外交とは何事か、国民が外交を知るとか、外交に喙を入れるのは間違って居ると云ふて、大いに私は攻撃された。・・・所が(いくつか例をあげて)・・・国民外交でなければ亜米利加の外交は成功しない・・・」
(没時の日本政府の高峰讓吉への顕彰は実績に比して極めて低いものでした)
アメリカとの外交では、アメリカ国民の世論を味方につける事がいかに大切かを、在米して奔走した金子堅太郎はよく知っており、したがって民間人としてその努力をした高峰譲吉を高く評価したのです。
アメリカとの外交では世論が何よりも大切なことは、高峰譲吉とは別の立場で民間外交を展開した歴史学者の朝河貫一も述べています。
産経新聞の朝河特集の中に、朝河の言葉として、「米国は与論の国であり・・・与論が政府を動かすことが多くて政府が与論を制したり導いたりすることが少ない」が引用されています。
アメリカの世論を動かすためには、政府・政治家・役人がアメリカ世論に働きかけることが必要であると同時に、日本の民間人がこれに協力すること――つまりは民間外交――が必要です。
しかし日本はこの点で大きく遅れています。
日本の在米民間人と中国の在米民間人では、アメリカ世論への働きかけがまったく違っていて、日本人は意識が低い――と親日アメリカ人が言っているそうです。
以下に、日露戦争の当時、在米日本人の中心だった高峰譲吉が、いかに民間外交に心をくだいていたかの例として、米紙への寄稿文を紹介いたします。  
解説
これは、日露戦争のときアメリカにあつて、いはゆる「無冠の大使」として活躍した工学博士・薬学博士高峰譲吉博士が、日露開戦後、わづかに旬日をすぎたばかりの明治三十七年二月二十八日「ニューヨーク・プレス」の日曜版に寄稿した快論文であつて、いはば高峰博士の国民外交第一ペーヂをかざる歴史的文献であると同時に、流麗暢達の筆をもつて、日本人の科学的独創性を強調し、その新兵器の鋭利を巧みに宣伝し、しかも日本人の本質が平和愛好の大理念にあることを闡明した点において、まさに愛国科学者としての高峰博士の面目躍如たる手記である。
なかんづく日本人の科学的独創性ないし「独創と模倣」の問題の扱ひ方、および下瀬火薬にはじまる一連の新兵器紹介は、科学史的に非常に貴重であると思はれるので、敢へて訳出して、清覧に供することとした。
原文はニューヨーク・プレスの日曜朝刊、全段抜きの大みだしで『日本、驚異的新爆薬を使用す』とある下に『旅順において既に使用、やがて陸戦においても露軍に満喫させん、高峰博士、暗に諷す』『種々の科学部門における日本の驚嘆すべき進歩』と小みだしをつけ、海戦の図を背景に、北里柴三郎博士と筆者高峰博士の写真を掲げてゐる。  
「ニューヨーク・プレス」編輯者のことば
日本人について語ることの資格において、当市居住の高峰譲吉博士の右に出づるものはない。博士は世界最大の化学者の一人であり、医学のために近代におけるもつとも重要な発見のうちの二つ、アドレナリンとタカ・ヂァスターゼをあたへてゐる。
アドレナリンは出血に対する即効薬であるほかにニトログリセリンもしくはストリキニーネ以来の強心剤である。
高峰博士の説によれば、日本人は一種の高爆薬を有し、今次の戦争にそれを使用しつつあるが、その偉大な破壊力は、ヨーロッパ諸国あるひはアメリカ合衆国に知られてゐるいかなるものより大きい。博士はそのことに通暁してゐるといふ。
また博士は、日本がこの爆薬を採用するにあたつては、諸外国によつて製出せられた既知のあらゆる強力な火薬を試みて、しかるのちにしたといつてゐる。
小銃、野砲およびありとあらゆる兵器部品において、博士の祖国は、諸外国の最善のものを雛型として、改良をなしとげたと博士は公言する。
当市における高峰博士の研究所は西百四十二番街六百十三番地にある。博士は東京帝国大学の工学士、工学博士1)である。
博士はサンデイ・プレスの読者のために、その祖国が、いかにして、また何故に五十年にも足らぬ年月のうちに、野蛮な鎖国の状態から、科学・芸術・交易・産業および戦争において第一級の地位を占めるに至つたかを説明する。  
高峰譲吉が「ニューヨーク・プレス」に寄稿した本文
日本における諸科学部門の驚異的発達(高峰譲吉)
日本人は偉大なる模倣家であるといふことが普通にいはれてゐる。これが事実であることには何らの疑ひもない。しかし、模倣的であるといふことは、独創的であることの先駆にほかならない。アメリカ人は世界ぢゆうを通じてその発明的天才の故を以て注目されてゐる。しかしながら、五十年あるひは七十年以前のアメリカ人を観察するならば諸君は当時彼らが非常にすぐれた模倣家であつたことを知るであらう。産業と関連した現代アメリカ合衆国の発展はおしなべてヨーロッパ諸国から由来し、導入されたものであつた。その鉄道・造船・製鉄・鉱山・紡績――事実上合衆国の大産業の大部分――は、母なる国々において使用されてゐた方法と手段の、単なる模倣の下に遂行せられたのである。
疑ひもなく、発明的天才はその当時においてもたしかに存在した。しかし、必要は発明の母なりとはいひながら、すでに存在し、かつ何時なりとも使用しえられるもの、数世紀にわたる発明と実験の結果になるものに眼を閉ぢるほど、それほどアメリカ人は愚かではなかつたのである。さりながら、ヨーロッパにおいて発展したよきものをのこる隈なく摂取したとき、アメリカはよりよき何物かを希求した。ここに発明の「母」は現れ、この母はアメリカが全世界にみづからの名声をあまねからしめるまで、発明と改良をつづけてきたのである。
これはまたまさに日本がなし遂げたところのものである。私の祖国は五十年にも足りない昔に、世界の他の部分に紹介せられた。何世紀ものあひだ、あらかじめ日本は何らの関係も、通信も、交易も、思想も(訳者註、外国から輸入することを)希望しなかつた。それで事は充分に足りたのであり、祖先伝来のことが毎日の実践であつた。古きものは新しきものよりもよかつた。なぜかならば、古きものは歳月の試練を経てをり、新しきものは一つの実験だからであつた。
そののち、日本は賢明にも近代的な方法と科学を採用し、古い封建制度を廃絶すべく決意した。多種多様な形式における近代文明を摂取し、これを前進させることにおいて、比較的わづかの年月に、日本が不思議なほど長足の進歩をなしとげたことは、誰しもしつてゐるとほりである。
これ以上詳説しないでも、一八九四年における清国との戦争、および現に進行中のロシアに対する戦争は、私の主張の正しさを証明する。数多の戦争方法はたぶん模倣の階段にあるかに思はれよう。すこぶる多くの長所を、日本が諸外国から摂取し、その利益を享受してゐることは認められなければならないが、しかし、また多くの面において、日本はこの特殊の主題については世界ぢゆうのありとあらゆるものを吸収しつくして、多くの点で、今やその必要が発明によつてのみ充たされうるところまで来てゐるのである。これこそ科学および産業の数多の部門において日本が遭遇してきたところの問題なのである。
しかしながら、まづ現下の興味ある話題として、過去二週間内外のあひだに実際に使用され、かつ奏効した二三の発明について語らなければなるまいと思ふ。こんにち日本はみづからの発明ならびに製造にかかる弾丸をもつてロシアの戦艦を撃沈しつつあるが、この飛道具を発射し、爆発せしめてゐる高爆薬がいかなる古今の火薬よりも強力であり、また広範囲の破壊力を有するとの主張は、すでに実験によつて証明されてゐるのである。またこの砲弾は、日本国内において設計製作せられた大砲を、同じ由来の砲架に載せて、撃ち出すのである。陸において、また海において露帝の軍隊は味方よりはるかに優勢な砲撃に直面するであらう。日本の兵隊の小銃は、到るところにある近代的小銃の品質と効果とを結合した連発施條銃であるが、これまた日本人の発明と設計と製作にかかるものである。ロシアの戦艦を海底に葬りさつた水雷は、天皇の海軍の将校によつて考案せられた信管を時限・触発ともに装備してゐる。もし陸上の作戦から比率を拡大していふことがゆるされるならば、日本以外の何処にも知られてゐない攻城砲は、かつてイギリスが南アフリカで用ひたこの種の火砲が全く時代おくれであることをイギリス自身に示すであらう。
かかる事態をもたらしたものは、嘗て存在した一国民としての日本人の保守主義ではない。これは純粋かつ単純に覚醒した日本における新思想の結果である。私の祖国では、世界の他の国々から提供された最善のものが試みられ、吟味せられ、何らかよりよきものへの希求は、近代の科学思想に従つて充足された。こんにちの情勢において日本の自由になる戦争手段に貢献した人々のうち、二三を紹介することにしようと思ふ。
現在手に入れうる最上の火薬として、陸海軍に使用せられてゐる新しい高爆薬は、ロシアの艦船が蒙つた損傷の大部分を、おそらくその功に帰すべきものだが、下瀬雅允の発明にかかる。彼は非常に有能な化学者で、私として誇りとしたいのは、東京の帝国大学の化学研究室で私と同窓であった2)。この爆薬は彼の姓をとつて命名せられ、東京の近郊で政府の警戒のもとに、秘密裡に製造されてゐる。下瀬の発明は天皇陛下に嘉賞せられ、もつとも高貴な勲章を授けられた。
砲兵会議々長有坂成章中将もまた、日本の戦争能力増加に貢献した注目すべき一人である。彼は大砲・砲架の両者にまたがる発明者で、これが日本の野砲および山砲の最新の発展を構成してゐる。ロシア人はやがて日本軍と陸上に相見ゆるの日、その性能を味はひつくすであらう。有坂中将はまた私がすでに言及した攻城砲をも完成してゐる。これらの火器はすべて、もつぱら日本政府直轄の砲兵工廠において製造されてゐるものである。
帝国海軍の肥後盛良大尉は、その名を負へる著発信管の発明者であるが、この信管は水雷に装備せられ、すでに敵艦の舷側にその標的を見出してゐる。
現役を退いた前田亨海軍造兵大監は、速射砲の弾丸に使用せらるべく予定された一連の時限信管および著発信管を考案した。
日本陸軍の村田経芳中将もまたすでに現役を退いて、貴族院議員となつてゐるが、彼も日本のためにその名を負へる小銃を考案し、これが陸軍の制式銃3)となつてゐる。この卒伍用の最新兵器は弾倉に十発の弾薬を包有する連発施條銃である。これは日清戦争において偉功を奏し、そののちさらに改良されてゐる。
戦闘用具の発明家のうちには、この他にも多かれ少かれ重要な人々があるが、他の線に沿つた発明の進展を示すために、戦争の技術から平和の科学へ移らせていただきたい。
電気学の分野では、たとへば、私の同国人岩田の発明した電話改良がある。この発明は送話器に関するもので、これについて、もつとも権威ある電話専門家諸氏が、ペルヴィルの装置と同じ大きさの音声を送る性能があることを認め、かつまた科学者のあひだで「ソリッド・バック」の名で知られてゐる送話器と同じ明瞭さをもつことを保証してゐる。
しかしながら、医学において、日本は世界の最新国家の一たる地位をかちえた。日本にむかつての近代文明の導入が、主として医学および医療の功績に帰せらるべきことを知るのは、多くの人に興味あることであらう。アジア諸国の門戸開放が、おもに剣の切尖と銃砲によつて行はれたことは周知の事実である。しかも、かかる場合においては、近代文明の導入が表面的にすぎなかつたことを看取しなければならない。キリスト教の宣教師団が懸命の労苦を重ねてゐるが、効果はほとんど挙つてゐない。
日本の場合には、医学がこの任務を果した。そして導入された文明は、その皮相にとどまらず、国民の心にまで入りこんだ。日本の近代文明をもたらすことに成功したものは実に医薬であつて、キリスト教でもなく、またアームストロング砲の砲口でもなかつた。一八五○年から一八六○年(訳者註、嘉永三年――萬延元年)へかけてオランダから日本に来て居留した医学者たちは、漢方薬に対する近代医薬の優位性を証明した。そして、それからまもなく、日本の医師たちはこの進歩した技術を学ぶことの重要性をさとり、みづからの体系を抛つたのである。ここでいつておくべきであらうと思ふが、それより以前、日本の開業医は薬用植物の使用と、単純な植物性の調合以上の療法をほとんど知らず、人体解剖学についてはさらに知ることがすくなかつた。治療は巧みに叡智を装つて行はれてゐたけれども、臓器病を真面目に、かつ聡明に治療するための努力はすこしもなされてゐなかつたのである。
蘭法医学ならびに薬法を導入するや、少数のオランダ医師の使徒たちは国内の諸方に散らばり、やがてまもなく患者と弟子の殺到するところとなつた。数年ならずして、「塾」と称する私立の医学研究機関が国内いたるところに設けられたが、そのあひだにも日本の中央政府(訳者註、幕府)は、なほ列強と、通商関係をひらくことさへ躊躇してゐた。実際において、当時外国と取引することは一つの犯罪であつた。海外に渡航しようと試みるものは、首を賭けなければならなかつた。しかし、かかる排外感情のまつただなかで、医学と医療は着実に地歩を築いてゐたのである。
将軍の政府がやむなく列強と通商條約を締結した時、外国の言語・技術等々に通暁する人物に対する需要は突如として増大した。需要に対する供給は、医学者とその弟子が充たした。帝国政府を維持してきた十数組の閣僚の四○パーセントないし六○パーセントは、医学者か、さもなければその出身であつた。そのなかでよく世界に名を知られてゐるものに、伊藤侯爵や大隈伯爵がある。かういふ次第で、近代日本の進歩の功を医学に帰することができるといふことは、統計的にみて正しいのである。
何処にもせよアジアの国々へ、近代文明を導入しようと欲するならば、医学者をたくさん送るのがもつとも賢策だとは、私の断固たる信念である。キリスト教やそのほかすべてのものは、自己の価値にしたがつて、あとにつづくであらう。そして、この原則には支那ももちろん例外ではないのである。もし宣教師団に費されただけの金額が医学者の派遣に利用せられたならば、支那の進歩はおそらく十倍も速かに、しかし血液や火薬を失ふことなく遂げられるであらう
世界の医学発達史には、日本が科学のこの方向における発展のうちに、一歩たりとも後退しなかつたことを証明する十二分の証拠がある。世界を通じての医学的実践を進歩せしめた顕著な発見のうちに、日本人はその役割を分担してゐる。これらの発見者もしくは発明者のなかで、世界周知の発見をなしとげてゐながら、その功績を認められることのほとんどない人、北里柴三郎博士を挙げようと思ふ。北里博士は東京大学医科大学の出身で、ヂフテリア血清療法については、ドイツの細菌学者ベーリンク教授とともに、すくなくとも共同発明者なのである4)。大学卒業後、北里博士はドイツに行き、有名なコッホ教授のもとで細菌学的研究に専念した。彼は今や、日本政府の経営する細菌研究所と、血清およびワクチン製造所の主宰者である。
血清療法発見の功労が主としてベーリンク教授に帰せられるのは、彼が各国の特許をとつたからである。彼はコッホ研究所で北里博士とともに研究をなしてゐるので、北里の探究によつて光明を投じられ、現在実用に供せられるやうになつた他の細菌学上の主題は多いのである。
もう一人日本にはすぐれた細菌学者がある。ヂフテリア以外の種々の伝染病について研究をとげ、有用な血清をたくさん発見してゐる緒方正規博士がそれである。
東京大学の医科大学医院長青山胤通博士についても語らなければならない。青山博士は腺ペストの病原菌5)を巧みに遊離したが、その研究の経緯は、一個の科学殉難史である。彼はペスト病が支那に猖獗をきはめてゐるとき、その地に派遣され、調査研究中に感染して危く生命を失ひかけた。この冒険は、しかしながら、目的の達成と将来における疾患の脅威の減少によつてかへつて栄冠をあたへられた。彼は生命のかはりに、この成果を科学の世界にあたへたのである。
私自身に関していへば私の研究の方向は、主として種々の酵素、とくに糖化性および消化性の酵素に限られてゐる。こんにち医療方面で成功をかちえてゐるものは「タカ・ヂァスターゼ」の名で知られてゐる澱粉消化酵素である。私の注意を惹いたもう一つの方向は、生化学、とくに動物臓器の化学すなはち臓器療法である。三年以前6)、いろいろの研究ののち、私は幸運にも副腎分泌腺の活性要素を純粋な結晶の形で遊離することができた。これが彼の「アドレナリン」で、こんにちまでに発達した強心剤および止血剤中、もつとも作用の強いものである。
以上私の述べたところから、日本人は一朝必要の生じたとき、その天賦の発明的才能を充分に活用する力のあることが明らかであらうと思ふが、なほ敢へて、今後何十年を閲せぬうちに、日本は世界ぢゆうでの独創的な国家の一となるであらうと、私はいひたいのである。  

1) 当時高峰博士のえてゐた学位はまだ工学博士(明治三十二年授与)だけであつた。薬学博士の授与は明治三十九年のことである。
2) 工部大学校の化学科でともに実習学をダイヴァースに授けられたといふ意味であらう。同窓といふならば高峰博士の助手清水鉄吉博士のはうがより密接な関係にある。なほ高峰博士と下瀬博士の交友関係については、書簡を参照のこと。
3) この記述は正しくない。日露戦役のとき歩兵と砲兵は有坂成章中将(当時大佐)が明治三十年に村田銃から改造した三十年式歩兵銃をもち、騎兵と輜重兵は騎銃を携へ、後備兵のみが村田式連発銃をもつて装備した。
4) この発見について、コツホは北里とベーリンクの共同論文を発表させ、功労に甲乙なしとしてゐる。
5) ペスト菌の純粋培養に成功したのは青山博士ではなく、このときやはり香港へ派遣されて来た仏領印度支那サイゴンのパスツール研究所員エルサンである。北里博士も発見の報告をしたが、記載に欠陥があつて否定された。
6) アドレナリンの発明は明治三十二年(一八九九)またタカ・ヂァスターゼの発見はそれより九年前、明治二十三年(一八九○)のことである。  
 
高峰譲吉

 

日頃、「石川の教育を考える県民の会」を通じて大変お世話になっている金沢市の山野之義市議より、去る4月7日付けで、標記・高峰譲吉博士に関する詳細な資料「高峰譲吉にみる日本人、金沢人」をお送り頂いた。  
概要
「高峰譲吉は、1854年、現在の高岡市で生まれた。翌年、父が加賀藩主前田斉康の御典医となったため、金沢市の堤町に移り、そこで育った。譲吉は、11歳の夏、藩からの派遣という形で長崎に留学した。譲吉は、そこで英国商人・オルトの家で寄宿し、『科学』の重要性に気付かされた。その後、京都・大阪と留学を重ね、『化学』の道へ進もうと決心した。その後、更に3年間の英国留学を終えた譲吉は、渋沢栄一や三井物産創始者の益田孝と協力し、1887年、日本で最初の人造肥料会社・東京人造肥料会社(現日産化学)を設立した。当時の譲吉の言葉として、『日本の農業で一番大切なのは、燐素肥料を使用することである。その為には、燐素肥料を安く売ることである』(益田孝著「日本農界の恩人−早く燐素肥料に目をつけた高峰博士の卓見」より)。更に譲吉は、その人造肥料のかたわら、工場の一隅に10畳ほどの小さな研究所を設け、それまで手掛けてきた、麹、藍、紙といった研究を続けた。そこで譲吉は清酒醸造に不可欠な麹の改良を行い、発酵力が極めて高い元麹(もとこうじ)を創製、『高峰式元麹改良法』の特許を申請した。この時に、譲吉は特許というものの重要性というものに一早く目をつけた。これは、留学中にそのことに気付いていたことと同時に、初代特許庁長官であった高橋是清に請われて、特許局次長として、実務に直接携わったことが大きく影響している。『高峰式元麹改良法』の特許が、イギリス、フランス、ベルギー、米国で行われたことが、後の譲吉の成功に道が開かれていった。この『高峰譲吉元麹改良法』に目をつけたのは、アメリカのウイスキー業者、ウイスキー・トラスト社であった。同社は、譲吉にアメリカへ来ることを希望した。譲吉もそれを受け入れ、アメリカに移住することになった。
譲吉はウイスキー造りの経験からヒントを得て、モルトからデンプンを分解する酵素(ジアスターゼ)を取り出し、消化を助ける酵素を作り出した。その酵素は「タカジアスターゼ」と命名された。「タカ」は高峰の「高」とよく誤解されるが、タカはギリシャ語の「最高」「優秀」という意味である。(小生も、山野さんから頂いたこのリポートを読むまでは、高峰のタカだとばかり思っていました。)
1897年、デトロイトに本社を置くパーク・デービス製薬会社から、タカジアスターゼの全世界の「独占販売権」を買いたいとの申し出があり、譲吉は一つだけ条件をつけてその申し入れを受け入れた。その条件とは「日本における販売権だけは除外してほしい」というものであった。日本だけは日本の会社に任せたいという強い思いからであった。
そして、日本でこの薬を販売しようと決心したのが、横浜にいた21歳の塩原又策という若者であった。彼こそが、後に、友人と合わせて3人で「三共」という製薬会社を設立し、また株式会社にするにあたり、初代社長として譲吉を招請した人物でもある。
タカジアスターゼを主成分とする「新三共胃腸薬」は、今に至るまで、三共の主力商品、否、日本の主要な胃腸薬である。
その後、副腎から生理活性物質の結晶化に成功してアドレナリンと命名したことはあまりにも有名である。
1904年、日本はロシアと開戦した。(日露戦争)
日本は開戦当初よりアメリカの調停による早期講和を期待し、ハーバード大学時代よりルーズベルト大統領と親交のあった金子堅太郎を派遣した。
金子は、渋沢栄一からも高橋是清からも、アメリカに行ったら真っ先に譲吉に会う様に勧められた。譲吉は金子に、ロシアがアメリカの独立戦争や南北戦争でアメリカを援助してくれたことから、米国民の8割はロシアに好意を持っていることを話し、難しい使命だと語ると共に、しかし、お互い祖国の為に死力を尽くそうと誓い合った。
その3日後、1904年2月28日の「ニューヨーク・プレス」紙の日曜版が市民を驚かせた。「日本における諸科学の発達」と全段抜きの見出しの下で、譲吉の寄稿記事が掲載されていた。そこでは日本人が如何に平和を愛しているかを説き、その証拠に明治維新後、僅か30余年で近代医学を発達させ、北里柴三郎による血清療法の発見という世界的な貢献を成しえた事を紹介していた。この様な記事が大きく出たのも、譲吉のアメリカにおける名声ゆえであった。
この後、譲吉は精力的に全米を講演で飛び回った。日本と日本人を知ってもらう為に、譲吉は、日露戦争が始まって以降、公式の場に出る時は必ず紋付き袴という和服の礼装で通した。和装の譲吉と、彼に付き添う洋装のキャロライン夫人。二人の姿は、日本に関心の無かった一般のアメリカ市民まで惹き付けたことは想像に難くない。譲吉が「無冠の大使」と称される所以である。一方の金子堅太郎も、ハーバード大学同窓のルーズベルトに働きかけて、日本に有利な局面でロシアに講和を働きかけてもらう事に成功する。その際、ルーズベルトに日本を理解してもらう為に、新渡戸稲造の著作「武士道」を手渡した事は有名である。また、高橋是清の外債募集にも、譲吉が種を蒔いた親日世論が大きく寄与したであろうことも間違いない。こうした民間外交の重要性を経験した譲吉は、1905年3月、日本人相互の親睦と情報交換及び日米間の経済・文化の交流と相互理解の促進を目的として、自らが会長となってニューヨークに「日本クラブ」を作り、以後、日米間の相互理解と親善に尽くした。また譲吉は、アメリカ一般市民の理解を得ようと、ニューヨークに桜の木を送ることにした。そして1909年9月12日、桜の苗木2,000本が日本郵船シアトル航路「加賀丸」によって無償で運ばれた。しかし、誠に残念なことに、この時の苗は植物検疫で、外来種の害虫や細菌が多く発見された為、全て消却処分となってしまった。その3年後の1912年に改めて送られた桜の木がニューヨーク市のセントラル・パーク及びジョン・ロックフェラー所有のクレアモント・パークに植樹され、現在その地は「サクラパーク」と名付けられ、ニューヨーク市民に愛されているという。
譲吉は、民間大使としての役割による心労と共に、健康も優れずベッドに体を横たえることが多くなった。
それでも無理を押して、アメリカが日露戦争調停に動いてくれる様にと、日本の使節団を米政府高官や政財界の有力者に紹介して回った。
(日露戦争調停の為の)ワシントン会議が始まって一ヶ月、譲吉は倒れて、そのまま意識を取り戻すことなく、1922年7月22日、68年の生涯を閉じた。譲吉の別荘地であるメリーウッド村では、全村あげて半期が掲げられたという。
譲吉は、我が国並びに世界にとり、上記の様に非常に大きな貢献を果たした。プラス、国民化学研究所(現理化学研究所)設立を提唱すると共に日本人の手による英文雑誌「オリエンタル・ビュー」の創刊にも力を尽くした。……」  

以上、少し長くなったが、山野市議から送って頂いたリポートの概要を紹介させて頂いた。全文は10頁のものを3頁程度に纏めた為、十分意を尽くせぬ点もあるが、何故上記のリポートを引用させてもらったかと言えば、我が国には、高峰譲吉博士を始めとして、素晴らしい人物が実に多くおられるにも拘わらず、素晴らしい人物のことをあまりにも教えていない。真面目に考えれば、世界の国々の中で、我が国ほど素晴らしい人物を数多く輩出している国はおそらくないと思う。我が国の歴史上、素晴らしい人物を一人でも多く教えることによって、日本人としての自信と誇りを持たせ、同時に、一人一人の人生において、目標とすべき人物像というものを見つけることが出来る様にすることも教育の非常に大切な部分である。にも拘わらず、我が国の教育は全く逆に我が国の素晴らしい人物をまともに教えず、我が国が如何に酷い事をしたか、という様なことばかり(史実と全く違う事や、教える必要のない様な事までも)力を入れて教えているのである。その様な教育姿勢では人間的に尊敬される素晴らしい人物などなかなか育つはずがない。
高峰譲吉博士の様に、明治時代から大東亜戦争に負けるまでは、いや、大戦に負けた後、戦後においても、松下幸之助氏の様に、(経営者としての)自分の立場を超えて、我が国の将来を案じて、多くの日本人に啓蒙を促すと共に、御自身の行動の中にも様々な形で日本の為、祖国の為にという止むに止まれぬお気持ちで力を尽くされた方々は非常に多い。
現在においても中小企業の経営者の中には、その様な方々が少なからずおられる。しかし、誠に情けないことに、我が国の経営団体を代表する様な立場にある経済同友会の小林陽太郎前代表理事や北城現代表理事及び経団連の奥田会長の様に、自分の会社の利益最優先でしかものを考えることが出来ず、日本人としての誇りや我が国の将来の事に関しては二の次という人間が大企業経営者に特に多いことは実に情けないことである。
その大きな原因は、我が国の誇りある歴史の真実を教えず、暗部ばかりを強調してネガティブに教え続け、前述のとおり、目標とすべき多くの素晴らしい人物像を真面目に真剣に教えようとしてこなかった大いなる弊害であると言わざるを得ない。以前にも触れているが、今年は日露戦争戦勝100年という記念すべき年であるにも拘わらず、外国でさえも、多くの国々で教えている東郷平八郎、乃木希典、児玉源太郎、大山巌、秋山好古、秋山真之…という日露戦争の中心的軍人の名前を中学校の教科書には一人も載せていないという様な偏向ぶりは実に異常と言わざるを得ない。5月27日から同28日にかけて東郷平八郎元帥率いる我が国の連合艦隊がロシアのバルチック艦隊を見事撃ち破ったことに対して、当時、世界の多くの国々の人々が大きな感動と勇気を得たというその日露戦争の大勝利に大きく貢献した中心的な軍人の名前さえ一人も教えないという感覚は、(繰り返しになるが)実に異常である。決して私は、軍人のことばかりを言っている訳ではない。文学者、武士、天体科学者、数学者、農業指導者、医学者、科学者、経営者、政治家、外交官、官僚、教育者、音楽家、多くの分野における技術者、建築並びに土木技師、宗教家、哲学者、武芸者、武道家、芸術家、画家、茶道及び華道並びに書道家、…(順不同)等々我が国の歴史を辿れば、世界に誇るべき素晴らしい人物は実に多くおられるのである。何故その様な素晴らしい先人のことを真面目に、真剣に教えずに、韓国の柳寛順や李瞬臣を教えたり、事実とは全く違う従軍慰安婦や(所謂)「強制連行」及び(嘘の塊の所謂)「南京大虐殺」の様な事を一生懸命教科書に掲載して教えている我が国の教育は実に異常としか言いようがない。とは言ってもただ単にその様な批判だけをしていても我が国の教育が決して良くなる訳ではない。今年は4年に一度の中学校用教科書採択の年である。我が国の将来の為に、何としてでもただ一冊まともな内容の「扶桑社の歴史並びに公民の教科書」採択の為に全力を尽くさねばならない。  

金子堅太郎『日露戦役秘録』 [1929(昭和4年)]

 

ルーズベルトとの交渉成功の中に日本外交の要諦が示されている。
金子はルーズベルト大統領とはハーバードの同窓生だが、学部も違い大学時代には付き合いはなかった。ルーズベルトが海軍次官から政治家となって活躍していたころに知り合いハーバード同窓生、同じ政治家として意気投合、互いに尊敬する親友となった。その親友が米大統領になったのだから、このパイプは強力である。
1 個人の付き合いも、政治家同士、国の付き合いも要は同じである。人間関係の良し悪しで決まってくる。この場合の外交の要諦は「良き友を持てと言うこと。
2 2つめは『敵を知り、己れをしれば百戦危うからず』(孫子)も外交の要諦である。忍者さながらにわずか1名の随行員ともに、なんらの武器弾薬も持たず、単身で大アメリカに渡り、その弁舌と英知によって大統領からアメリカ国民を日本の味方につけようと言うまさに大役者であり大説得者である。
3 その恐るべき知恵と大陸を駆けめぐる行動力だ。
4 そのアメリカの歴史と成り立ち、移民による多民族国家の風土、国民性をよく知っており、それにもづいての勉強し研究したこと。その戦略が成功した。
5 卓越した英語力とスピーチで広報外交の成功した。金子は18才の時に米国に留学してハーバード大に進みその英語力は傑出していた。高校では卒業生代表でスピーチしたという優等生で、渡米後、彼は、その博識と機智とに加えて、抜群の英語と巧みな演説方法を駆使して説得にあたった。
6 ハーバード人脈を最大限活用したこと主として同国の知識層の多く居住する東部を活動地域にした。
7 アメリカ人のフェア、半官びいきに訴えた。アメリカの国民性、対人意識の根底には、フェアな競争を求めて、弱者に声援を送るアソダードッグ観(負け犬に対する同情心)があり、それに訴えたのである。  
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[ルーズベルト米大統領をいかに説得したかー金子堅太郎のディベート・テクニック]
ご承知のように 日露戦争のことは、明治37(1907)年二月四日の御前会議においてきまった。二月四日午後三時から明治天皇の御前において、元勲と陸軍、海軍、外務、大蔵の大臣が会議を開いて、日露の交渉はいかなる手段をとっても解決ができない、いわんやこれを円満に解決することはまったくできぬ。われ一歩譲れば彼一歩進む。また一歩譲ればなお一歩進んで際限がない。
このまま推し進めばどこまでおしていってもロシアがわが国の要求に応ずることはないから、やむをえず国を賭して、干支(かんか)=戦争の意味=に訴えてこの日露両国の難問題を解決するほかないという結論に到達して、ついにそのことを陛下に申し上げました。午後六時前にいよいよ日露開戦と御決定したのです。
その晩六時ごろのことです。私の宅に霊南坂の伊藤(博文)枢密院議長から電話がかかって、急に相談がしたいことがあるから即刻きてもらいたいという。日露関係は明治36年冬ごろからだんだん険悪になってきたから、これは何か容易ならぬことが起ったにちがいないと思って、ただちに車を駆って伊藤公の官舎に行った。それは六時半頃でありました。
いつものとおり二階の伊藤公の書斎に入りました。その書斎は真中にテーブルがあって、その向うに伊藤公の安楽椅子がある。テーブルを隔ててこちらに客が座る椅子がある。私が伊藤公の書斎に入ってみると、伊藤公は手をこまねいて下を向いておられる。下唇を深く喰い込んでしきりに小首を傾けて物思わし気に坐っておられる。
私はその前に立って、「ただいま電話でございましたからまかり出ましたが何の御用ですか」とたずねた。しかし一言の返答もない。私も黙ってややしばらくその前に立っておりました。二、三分たってからまた再び「何の御用でございますか。」と言うと、伊藤公は「まァ、椅子にかけたまえ。」こう言われた。私は椅子に腰をかけた。
そうすると伊藤公の言われるには「君は食事はすんだか。」「私は食事はすみました。」「吾輩はまだ食事をせぬから食事をして、それから後に用向をお話ししょう。」と言われた。それから女中を呼んで食事を取り寄せられた。伊藤公の食事は例によってごく質素なものであります。吸物と刺身と何か一つ煮た物がその前に置かれる。
伊藤公が茶碗の蓋を取られたのを私がのぞけば中は白粥(しろかゆ)である。それから膳の上にのっている食塩を少しその中に入れて箸(はし)でかきまぜて、白粥一椀すすられたのみで、吸物も刺身も煮た物にも箸をつけられない。そうして女中に命じて、それを下げさせる。食事も進まぬとみえる。私は長く伊藤公の知遇を受けて側近していて親しく知っていますが、国家の重大なる問題が起って非常に憂慮されるときには、必ず下唇を喰い込んで考える癖があった。私はその態度をみてすぐにこれはただならぬ事が起ったのであろうと感じた。食膳を撤した後、傍にあるポートワインをコップについで一杯飲んで、「今日君を呼んだのは外の用ではない、これから急にアメリカに行ってもらいたい。」と、こうだしぬけに私に言われた。
「それはどういう御用でございますか。」
「今日御前会議において日露開戦ときまった。ただいま小村(寿太郎、外務大臣)に命じてロシア駐在の栗野(慎一郎)公使に国交断絶を通知する電報を発したから、明朝は必ずロシアの帝都において国交断絶、開戦の発表になる。ついては君にすぐにアメリカに行ってもらいたい。」
伊藤の懇願を金子は最初は拒否
私はあまりの突然に驚きました。日露戦役のことは昨今の形勢より察してほぼここに至ろうとは考えておったが、私にアメリカに行けということは思いがけないことであった。
「それは如何なるわけで私がアメリカに行くのですか。」
と尋ねると、伊藤公の言われるには、
「この日露の戦争が一年続くか、二年続くか又は三年続くかしらぬが、もし勝敗が決しなければ両国の中に入って調停する国がなければならぬ、それがイギリスはわが同盟国だからくちばしは出せぬ。フランスはロシアの同盟国であるからまた然りで、ドイツは日本に対しては甚だよろしくない態度をとっている。今度の戦争もドイツ皇帝が多少そそのかした形跡がある。よってドイツは調停の地位には立てまい。ただ頼むところはアメリカ合衆国一つだけである。公平な立場において日露の間に介在して、平和回復を勧告するのは北米合衆国の大統領の外はない。君が大統領のルーズベルト氏とかねて懇意のことは吾輩も知っているから、君直ちに行って大統領に会ってそのことを通じて、又アメリカの国民にも日本に同情を寄せるように一つ尽力してもらえまいか。これが君にアメリカに行ってもらう主なる目的である」
と沈痛な態度で申されました。
あまりにも唐突でございましたから、私はこれに答えて「まことにこの戦争の終局については御高見のとおりでありましょうが、私は長い間アメリカに留学して、又アメリカにはたびたび行きましたから、アメリカをよく知っているがために、私は今日不幸な地位に立たなければならぬ。私がアメリカの事情を知らなければただちにここでお受けをするかもしれませんが、アメリカの事情を知っているがために私はお断りをいたします。」
「それはどういうわけか。」
「それは閣下も御承知のとおり、アメリカが独立して間もない、一八一二年に英と米との戦の折にはヨーロッパ各国はみな英を助けたが、独りロシアだけは合衆国側に立って影になり日向になり援助したために、あの戦いも相引きになって講和条約ができた。以来、アメリカの人は非常にロシアを徳としている。その次には一八六一年から六五年まで五ヵ年間続いた南北戦争、これは合衆国の南部と北部とが奴隷廃止のことから兄弟争いをして戦うようになって、非常な激戦であった。そのときにはイギリスは全力を挙げて南方を助け、兵器弾薬はもちろん、軍艦までも造って渡した。かくして北方を圧迫しようとかかったことは、閣下も御承知でありましょう。のみならずアラバマという軍艦を南方に送ってやって、非常に北方の軍艦を荒した。イギリスの艦隊がニューヨーク湾に入って、ニューヨークの市民を恐喝しようとした。
しかるにロシアはただちに艦隊を派してニューヨークの港の口に整列させて、イギリスの軍艦が大西洋からニューヨーク港に入ることができぬようにして、イギリスの艦隊の示威運動を阻止した。のみならずロシアの旗艦はただちに小蒸気船をおろして司令長官がこれに乗ってニューヨーク市に上陸し、ただちに市庁に行って市長に会い、わがロシアはイギリスに反して北方を助ける。今日イギリスの艦隊を港口において留めておいた。ロシアは北方に賛成するからその旨を今日ご通知申すと通告した。
それから司令長官が幕僚を率いて馬車に乗ってアメリカの旗とロシアの旗とを持って市内を練り回ってアメリカに同情を寄せた。かくのごとく政治上、アメリカ合衆国はロシアから恩を受けることが多大であった。いまなおニューヨークなりその他のところに、六十三年以前の戦争にロシアの軍艦がニューヨーク港に入ってきて、助けてくれたことを目撃した人が生きている。それゆえにロシアとアメリカとの問は非常に国交が親密である。
以上は政治上、外交上の関係である。次に商業上はいかん。ウラジオストック、旅順等の軍需品、食料品はもちろんシベリア鉄道に用いる鉄道軌道、機関車、貨車は多くはアメリカから供給されている。その他シカゴ・セントポール・ミネアポリス等の貨物はことごとくサンフランシスコ・シャトル・バンクーバーからウラジオストック・旅順に向っている。
商業においてもロシアとアメリカとは密接なる関係がある。なお社交上は如何、米国の富豪は金は沢山持っているが名誉がない。そこでロシアの貴族と結婚している。現に前大統領グラント将軍の長女はロシアの第一公爵の妻になっている。その他シカゴ、ニューヨーク、フィラデルフィアの富豪の娘も、ロシアの貴族と婚姻しているからアメリカ・ロシアの国民は婚姻関係から家族的の親戚になっている。政治上・外交上・商業上・家族上、この四つの密接なる関係がある。
露国とアメリカとはこのような関係があるにかかわらず、関係の薄い日本から私のような者が行って、不可能である。今日は国家危急の際でありますけれども私がアメリカの事情をあまり知っているがために、この任務は到底見込みはない。金子の微力では米ロのこの四つの密接なる関係を打ち砕いて、日本に同情を寄せさせようということは、金子の勢力ではできない。遺憾ながら私は御辞退するほかはございません。」
こう言うと伊藤公は、
「しかし君が行ってくれなければ、この任務を果す者は外にない。」
実際、伊藤公がそう言われた。それで私は、
「それはいけませぬ。」
− ここに鳩山夫人もおられますが −
鳩山和夫君(鳩山由紀夫の曽祖父)もわれわれと同時にアメリカにおった。小村寿太郎君また然り。目賀田種太郎君(国際連盟大使・枢密顧問官、専修学校(現:専修大学)の創始者の一人)もいる。いくらも他に留学した人がありますから、それにお命じになったらよかろう。自分はこの任務を果たすには適任でない。」
とお断りした。
そうすると伊藤公が言われるに
「それは皆それぞれ立派な人にちがいないけれども、ルーズベルト氏との関係は君が一番親密だ。君の外にない。君が行かなければアメリカはとり逃がす。」と言われた。私は、
「それはそうかもしれませぬ。しかしこの大任に当る適任者がたった一人日本に在る。誰かというと、それは閣下である。閣下は明治初年アメリカに行って、貨幣制度の改革から、各省の官制の改革について取調べをされた関係からアメリカ人は閣下を日本の建設者として尊敬している。閣下がこの任にお当りなされるならば、右の四つの米ロの関係を打ち砕いて、アメリカをして日本に対して同情を寄せさせることは受合いである。」
と、こう私は断言しました。ところが伊藤公が言われるに、
「僕が行かれれば君には頼まない。僕は今日御前会議でいよいよ日露開戦ときまったときに、陛下から伊藤はわが左右を離れては困る。この日露戦争中は伊藤をわが左右に置いて、すべてのことを相談をするから、海外に行くことは相成らぬという御沙汰があったから、僕は行きたくても行けない。」
「さようでございますか、お言葉によれば御渡米のできぬことはごもっともである。しかし私がいかほど粉骨砕身してもこの任務は成功の見込みがない、成功の見込みのないのに私がお受けして行ったところがただ使命を汚すのみです。どうか他人にお命じ下さい。」
と固辞した。
勝つ見込みはないーと伊藤
ところが、伊藤公いわく、
「君は成功不成功の懸念のために行かないのか。」
「さようでございます。」
「それならば言うが、今度の戦については一人として成功すると思う者はない。陸軍でも海軍でも大蔵でも、今度の戦に日本が確実に勝つという見込みを立てている者は一人としてありはしない。
この戦を決める前にだんだん陸海軍の当局者に聞いてみても成功の見込みはないという。しかしながら打ち捨てておけばロシアはどんどん満洲を占領し、朝鮮を侵略し、ついにはわが国家を脅迫するまでに暴威をふるうであろう。事ここに至れば国を賭しても戦うの一途あるのみ。成功不成功などは眼中にない。
かく言う伊藤博文のごときは栄位栄爵、生命財産は皆、陛下の賜物である。今日は国運を賭して戦う時であるから、わが生命財産栄位栄爵ことごとく陛下に捧げて御奉公する時機であると思う。吾輩といえども成功の見込みはない。君の栄位栄爵財産生命もまた博文と同じく、陛下の賜物ではないか。ゆえに君も博文と共に手を握ってこの難局に当ってもらいたい。
かく言う伊藤はもしも満洲の野にあるわが陸軍がことごとく大陸から追い払われ、わが海軍は対馬海峡でことごとく打ち沈められ、いよいよロシア軍が海陸からわが国に迫ったときには、伊藤は身を士卒に伍して鉄砲をかついで、山陰道か九州海岸において、博文の生命のあらん限りロシア軍を防ぎ敵兵は一歩たりとも日本の土地を踏ませぬという決心をしている。
昔、元冠のときに北条時宗は身を卒伍に落して敵と戦う意気を示した。そうしてそのとき妻にどう言ったか『汝も吾とともに九州に来れ。そうして粥を炊いて兵士をねぎらえ』と言った。今日伊藤も、もしその場合になればわが妻に命じて、同じ事を言うであろう。博文は鉄砲をかついでロシアの兵卒と戦う。かくまで自分は決心している。
成功、不成功などということは眼中にないから、君も一つ成功・不成功をおいて問わず、ただ君があらん限りの力を尽くして米国人が同情を寄せるようにやってくれ。それでもしアリカ人が同情せず、又いざというときに大統領ルーズベルト氏も調停してくれなければ、それはもとより誰が行ってもできない。かく博文は決意をしたから、君もぜひ奮発してアメリカに行ってくれよ。」
と満腔の熱誠をもって説かれた。
そこで私もその熱誠に動かされて、
「よろしうございます。そこまで閣下の御決心を伺えば成功不成功は決して問うところではございません。三寸の舌のあらんかぎり各所で演説をしてまわり、三尺の腕の続くかぎりは筆をもって書いて、そうして旧友と日夜会談して及ぶだけの力を尽くしましょう。それは閣下の御希望通り目的を達しなければ金子の不徳、金子の無能と御承知願いたい。国を賭しての戦であるならば金子は身を賭して君国のためにつくしましょう」
と言いました。
かく私が承諾をするや伊藤公はただちに電話をもって桂総理大臣を呼び出して、ただいま金子がいよいよアメリカ行を承諾してくれたから、なお委細、金子と相談してもらいたいということを通達された。そこで私は桂(太郎)総理の官邸に行って桂に向かい、
「ただいま伊藤公から御前会議の決議で、吾輩にアメリカに行けということになったことを聞き再三辞退したけれどもぜひ行けと、懇々言われたにより承諾したが、成功するものと総理が吾輩に望んでもらっては困る。その理由は伊藤公から聞いてくれたまえ。」
と言いますと桂は、
「それは無論だ。君が米国に行けば彼の国におけることは君に一任する、これで俺も安心した。しかし外交のことは小村君に会って詳しく聞いてくれろ。」
よって私は外務省で小村大臣に会って、日露の交渉の初めから今日開戦にいたるまでの沿革を聞き、また緊要なる書類をもらった後、小村大臣に向かい、
「吾輩が米国に行く以上は、政府からいちいちこうしてくれろ、ああしてくれろと指図は御免こうむりたい。わが輩は自分の考えをもって働く。そのことは伊藤公にも懇々言っておいた。」
と言うと、
「君に一任する以上は、君の自由の行動に任せる。」と小村大臣が言った。
これより先、私が桂総理大臣に面会してアメリカに行くことを承諾したる由を告げたるとき、桂総理は、
「今回渡米するについては特命全権大使という名前をやってもよい。枢密顧問官に任じてもよい。そのほかいかなる官職でも希望があれば君にやってよい。」と言われた。
当時私は内閣を去って在野の人となり一個の貴族院議員たるにすぎなかった。しかし桂総理がいかなる官職でもやるといったのを断ったのである。
その理由は吾輩がもし官職を持って米国に行けば、金子の行動は政府からの訓令である。彼の演説は政府の命令である。吾輩のすることはすべて政府の差金より出たということになる。外国人と会っていろいろ議論したとき、もし私が言いすぎるか、ロシアを攻撃することが激甚であったときには、すぐ日本政府にその影響がある。
もし私が官職をもっておれば必ず政府に累を及ぼすから、私は無官の一人として米国に飛びこむ。しからば吾輩のすること、言うこと、ことごとく吾輩のみの責任に帰しけっして政府に迷惑がかからぬ。それゆえ万事、吾輩に一任してもらいたい。と、こう言った時、桂総理が、
「それじゃよろしい、官職もいらぬならやらぬが米国にて新聞を買収するか又は記者を操縦するための費用は十二分君に支給しよう。」
「それもお断りする。もし一、二の新聞を買収するか、一、二の記者を操縦するときは他の新聞は連合して反対し、かえって不利を招くゆえに、新聞に対しては一視同仁、誠意をもって待遇せんと欲するから僕は費用は一文もいらぬ。」
と言いますと、桂総理は、
「それなら万事君に一任する。」と互いに協定した。
桂総理、小村外務と会見の後陸軍に関することを聞こうと思って寺内(正毅)陸軍大臣の官舎に行った。たまたま山県(有朋)元師も来ておられて寺内と何か話の最中に私が行ったので
「御両君、お揃いのところでなお結構である。私はいよいよアメリカに行くことを承諾しました。」
「それは大変ご苦労だ。」
「私はご苦労も何もかまいませぬが、一体陸軍はどうなさる。」
私から陸軍の軍略を聞くべきことでもないけれども、この場合単刀直入に
「一体陸軍はどうですか、勝つ見込みはありますか。」
と山県さんと寺内大臣に聞いた。ところが山県さんは、
「それは向うの参謀本部に児玉源太郎氏が調べておって、あれがすっかりその方の計画をしているから、あそこに行って児玉に会ってくれ。」
「それならばよろしゅうございます。」
と陸軍大臣の官舎を辞して参謀本部に行った。ところが児玉大将は部屋の真中におって、大勢の幕僚を集め地図を広げたり、いろいろの書類を開けたりして研究をしているところであった。
「君がアメリカに行くということを聞いて大いに安心した。」と言う。
「君は僕がアメリカに行くから安心したと言うが、僕がアメリカに行けばこの戦が勝てるか、君に聞くことがある。」
それから児玉は幕僚に皆あちらにいくように遠ざけた。そこで再び、
「君は僕がアメリカに行くから安心したと言うが、僕は一こう安心できない。ただいま山県さんに聞けば、君がすべて陸軍のことは計画していると言われたが、一体勝つ見込みがあるのかどうか。第一にそれを聞きたい。」
と単刀直入に尋ねた。こういうときに手早い話でないと間に合わぬ。いちいち大官に伺いを立てるというようなぐずぐずしたことはしておられない。すると児玉が言う、
「そのために僕は着の身、着のままでカーキ色の服を着て、兵卒の寝る寝台に赤毛布をひっかぶって寝て、この参謀本部で三十日も作戦計画をしているのだ。」
「ああそうか、そうして見込みはどうか。三十日の結果はどうか。」
「さあ、まあ、どうも何とも言えぬが五分五分と思う。」
「そうか。」
「しかし五分五分ではとうてい始末がつかぬ、解決がつかぬから、四分六分にしようと思ってこの両三日非常に頭を痛めている。四分六分にして六ペん勝って四へん負けるとなれば、そのうちに誰か調停者が出るであろう。
それにはまず第一番目の戦争が肝要だ。第一の戦に負けたら士気が阻喪してしまう。だから第一番に鴨緑江辺の戦でロシアが一万でくればこちらは二万、三万でくればこちらは六万というように倍数をもって戦うつもりで、いまちゃんと兵数を計算し、兵器、弾薬を集めてその用意をしている。いったん倍数をもって初度の戦に勝てば日本の士気が振ってくる。しかしもしこれに負けたら、士気が阻喪するからいま折角その計画をしている。」
「そうか、それでは僕がアメリカに行ってーニーヨークで大講堂で、日本に同情を寄せよ、ロシアは実にけしからぬ国である、日本は国を賭して戦っているという大雄弁をふるっている最中に、日本の負け戦という電報は四度くるね。」と言ったら、「それは仕方がない、しかしその代り僕が君に六ペん勝ち戦の電報をやるようにするからそのつもりでいたまえ。」
「それじゃ六ペンだけは勝ち戦さ、四へんだけは負け戦さで、僕が大雄弁をふるっている最中、四へんは負け戦さの電報を聞き、こそこそと裏のドアから逃げねばならぬね」
と言ったくらいでありました。
それからここを去って海軍省に行って、山本(権兵衛)海軍大臣に会い、ただいま、山県、寺内、児玉氏らに会って陸軍の方のことを聞いてきたが、君の方の海軍は勝つ見込みはあるかと聞いた。すると、
「まず日本の軍艦は半分沈める。その代りに残りの半分をもってロシアの軍艦を全滅させる。僕はこういう見当をつけている。」
「そうすると海軍のほうはよほど陸軍より良いほうだね。児玉はこれこれ言った。」と言うて、さきの児玉の談話を話した。
「そうか、僕のほうはそのつもりで半分は軍艦を沈める、又人間も半分は殺す故に君もアメリカにおいてどうかそのつもりでおってくれ。」
と言って互いに手を握って山本海軍大臣に別れを告げた。
これが当時の日本政府の当局者の考えであった。このことはあまり人には言わなかったが、あの連戦連勝の電報を見た国民は最初から勝つ、最初からこのとおり思っておっただろうが、それは大間違いで、政府当局者はいま言うように、陸軍は四分六分、海軍は半分の軍艦を沈める、伊藤公は負ければ身を卒伍に落して兵隊とともに戦うというのが当時の実情であった。かくのごときありさまが日露戦争の初めであったが、その後ああいう好い結果を得ようとは誰も思っておらなかった。 
2

 

[ルーズベルト大統領は日本のために働くと約束す]
それから私は行李(こうり、旅行カバン)を整えて、二月二十四日に随行員阪井徳太郎(米ハーバード大学卒、外相、首相秘書官。その後三井財閥の最高経営者)、鈴木純一郎の二人をつれてアメリカに向いました。しかし伊藤公の話、陸海軍当局者の話を回想してみれば、十八日間サンフランシスコまでの航海というものは、じつに惨澹たるもので、将来どうなるかわからぬ。
アメリカはいかなる有様であるか、いかにしようかとただ計画を工夫するだけであった。
それから3月10日にサンフランシスコにつきました。総領事はただいまの宮内省大膳頭(だいぜんのかみ)の上野季三郎君であった。その報告によれば開戦の当初は小さな日本の国が、あの膨大なロシアに向かって戦をするということはじつに偉い勇気だといって一時は大分日本に同情をしました。
アメリカ人はご承知のとおり、Under dog=(アンダー・ドッグ)というほうにいつも賛成する。弱い小さい犬と大きな強い犬と途中でかみ合うというと、通行者はその犬の性質や犬の所有者は分からぬが、弱いほうの犬をかばって大きな強い犬をステッキでなぐる。そうしてアンダー・ドッグを保護する。日本がちょうどアンダー・ドッグに当たるから当初は同情を寄せておったが、困りましたことは三月の十日、すなわち私が着く前の目にアメリカ合衆国の大統領が局外中立の布告を出した。
それがアメリカ全国の新聞に載せられた。その局外中立の布告によれば、今度日露の戦争が始まって露国といい日本といい、いずれもアメリカの修交国である。ゆえにこの両国いずれか一方に加担し、又応援するというような言論行為は一切厳禁である。
陸海軍の武官はもちろん、文官も国民も、両方にひいきしてはならない。もし一方にひいきすれば一方に悪感情を起さしめてついに国交に影響を及ぼすから一切そういう行為は慎めという厳正中立の声明であった。そこでいままで日本に寄せていた同情が、この声明によって止んでしまったという。それを聞いたときに私は落胆した。かってハーバード大学の同窓関係から懇意なるルーズベルト氏が大統領になっておるから、ワシントンに行って、援助してもらおうと頼みに思って上陸した。
しかるに前の日にアメリカ国民は一切日露両国にたいして、援助又は片手落ちのことをしても、厳正中立の布告を出した発頭人に、日本に加勢を頼むといったところが承知しないにきまっている。私はじつに失望した。そこでともかく、サンフランシスコを立ってシカゴ行った。
シカゴの富豪はご承知のとおり皆ロシア人と婚姻関係がある。故大統領グラント将軍の一家も又ポックー・パーマーの一族もそうである。彼らの娘が露国の貴族のところに嫁いでいる。又ここかしこの商売人は、旅順・ウラジオストックに商品を売りこみ、商業関係が結ばれている。日本から運動してもとても手を出す余地がないから、早くここを立ってニューヨークに行けと清水領事が言われた。そこでシカゴを立ってニューヨークに参りました。ところがニューヨークには総領事なり、正金銀行なり、三井物産なり、大倉組なり、高田商会なり、高峰譲吉氏(工学博士、タカジアスターゼ発明者)なり、多数の日本人がおったが、それらの人びとが私の宿屋に来て、
「さて日露の関係はどうなりますか。」
と言う。どうなるか誰もこの先は分からない。
「しかし一体アメリカはどうか。」
と聞くと、
「私共はじつにこの戦が始まって以来ただ心配して寄り合って、どうしたらよかろうと額を集めて協議しているのですが、貴方がおいでになったから、どうか御指導を願いたい。」
「いや僕に指導を願うと言われても僕にもどうしようという見当はまだつかぬ。」
と答えるのみで、じつにニューヨークにある同胞の在留人は皆落胆しているのみ。後でこそ連戦連勝で偉い勢いがついたけれども、私が飛び込んで行った当時の日本人の顔色というものはみられたものではなかった。それはそうでしょう。外国にいる者の身になれば、ああいう大戦争が本国に起れば心配するにきまっている。そこでつらつらニューヨークの模様をみますと、どうもじつに日本が不利の立場にあった。私がホテルに到着したところが、新聞記者が続々来訪しました。これを一室に集めて、日露開戦の起因につき日清戦争後の三国干渉から説き出し、現時にいたるまでの沿革と国民の決心の情況を詳述したから、各新聞は翌日の紙上にこれを掲載しましたから、多少戦争の真相が米国人に分かったようであった。
私が泊まっていたところはホランド・ハウスといって、ニューヨークのフィフス・アベニューにありますが、その一軒先にウオルドーフといって有名な人や立派な外交官などの泊るホテルがある。私が着くと間もなく、それはかねて計画してあったものとみえてニューヨークの交際社会で花形といわれたヒチコック夫人が主催となり、当市の富豪や有力な紳士の夫人が賛成人になって、一大夜会をウオルドーフで催す企てがあった。
その夜会の入場切符の売上金はロシアの赤十字社に寄付して傷病兵の手当てに使用するという触れこみである。すなわちこれは親ロシアの宴会であって各新聞は筆を揃えて書き立て、いよいよその夜は数百名の紳士淑女が寄って大舞踏会を催した。その席に招待されたロシアの大使カシニー伯自身は出席しなかったけれども、参事官をわざわざワシントンからニューヨークによこして、宣言書をその席上で読み上げしめ、日本が開戦したことは国際法違反なりとさかんに攻撃して米国人の同情を惹起するよう巧妙なる言辞をもって聴衆に訴えた。これが翌日の新聞に載った。これはすなわち私に対する脅威の第一でありました。
このときに当たり露国大使カシニー伯はワシントンにおいて新聞記者を毎日大使館に招いて優待し、茶を飲ませる、ハバナの葉巻、タバコ、エジプトの紙タバコをやる、シャンパンを飲ませるというようなことをしてしきりに新聞記者の機嫌をとり、今度の戦争は日本のけしからぬ陰謀である。わがロシアは少しも戦意がないのに、突然、仁川においてわが軍艦を沈没させた。宣戦の布告をせずしてただ国交断絶だけで戦争を開始するという日本の態度は、国際公法違反であるとしきりに宣伝する。
そうしてニューヨークヘラルドという新聞が先鋒となってさかんにロシア大使の言うことを受売りして同紙に発表する。のみならずロシア大使は今度の戦争は宗教戦争であってキリスト教と非キリスト教の戦である。ロシアはキリスト教国で日本は非キリスト教国である。
ゆえにヨーロッパ・アメリカのキリスト教国はこぞってこの非キリスト教国の日本を撲滅しなければ、キリスト教が東洋に伝播せぬ。よって欧米のキリスト国は連合してロシアを助けろという。のみならず大使いわく、日本は何だ、ロシアに比べてみるとじつに小っぽけな国である。一“Yellow little monkey”(黄色の小猿)に何ができるか。なぜかというとロシアは世界無比の強国であって、ヨーロッパの強国といえどもロシアに指一本さすことができない。国土も膨大で人口も多い。陸海軍も整っている。それに小っぼけな黄色な小猿が戦をするということはじつにおこがましい。みておれ、二、三ヵ月のうちには日本の国を撲滅させてみせるぞ。気の毒なものであるというてしきりに日本を攻撃した。そこで新聞記者がその記事の切り抜きをもってきて私に見せて
「これにたいする貴下の意見を聞きたい。」
と言う。それで私はいちいちこれを見て、
「これは弁駁すればいくらも弁駁ができるが、簡単に言えば、第一ロシア大使は宣戦の布告なしに戦をしたのが国際法に背くと言われるが、今日では国交断絶すればすぐ戦端を開いてよいということは国際公法の常例になっている。宣戦の布告は後でもよい。現にロシアが先年トルコと戦をしたときに、国交断絶の後ただちに戦闘行為に出でて、その数日後に宣戦の布告をしたではないか。露国自身の歴史をみてもそういう先例がある。日本は決して国際法に違反したことは行っておらぬ。」
とこれは向うの歴史をもって説明した。
「第二に宗教戦争であるといっておだてるとは何事か。これは昔Crusade(十字軍のときキリスト教国が非キリスト国を撲滅せんとしたことがあるが、今日は日本が非キリスト教国か、ロシアが非キリスト国か事実が証明する。かってキシネフ〈モルトバ〉においてロシア政府が人民の虐殺を行ったことがある。
これ果たしてキリスト教国のすることであろうか。現にこのことについて欧米の文明国は非常にロシアを攻撃しているではないか。又ロシアは政治上の罪を犯した者をシベリアに送って極刑を科し、その待遇また甚だ残虐を極めている。この点についてもキリスト教国の人が皆、攻撃しているではないか。これに反して日本は憲法を以て宗教の自由を許している。キリスト教でも仏教や神道と同じように保護している。しかるにロシアはどうであるか。ロシアのギリシャ正教ではカソリック教でもプロテスタント派でも許さないではないか。わが日
本国は宗教は自由である。これもロシアよりも日本がはるかに自由である。
第三にロシア大使の言うごとく露国の彪大な国土と、人口の多数なことと、兵備の完備した点では日本は比較にならないほど劣っている。
この事はわれわれも知っている。日本の政府当局も知っている。しからば日本は何がゆえにこの戦をしたのであるか。国土といい、人口といい、兵器の完備の点からいっても、日本は少しもロシアに優るところがなくして、何のために戦をしたか。これは数年前から日露の関係が険悪になって、我一歩を譲れば彼一歩進み、飽く足らざる利欲をもって、飽く足らざる圧迫をもってわが日本に加え、このまま行けば日本は遠からずロシアのために撲滅される危機に臨んでいるから、座してロシアのために亡ぼされるのを待つよりは、むしろ失敗を度外して、進んで剣を取り国を賭して戦ったほうがよいというのがわが日本人の決心である。
最後の一戦まで、最後の一兵卒まで日本は戦っていくのである。今日は国の存亡を賭しての戦いであるから、このことをどうぞよく考えておいてくれ。けっしてわれわれは勝つ見込みがあってしたことではない。これだけは弁解しておく。」
と言った。それが翌日の新聞に載って米国人の注意をひいた。
その後間もなくセント・パトリックという祭日がありました。これはアイルランドの国の祭日であります。このセント・パトリックの祭日にはアイルランド系のアメリカ人だけが、毎年馬車に乗って市中を練り歩くのが例であります。その日に限ってロシアの旗とアイルランドの旗を両手に持って、何千人という人がニューヨークの町を練り歩いた。
先頭に立っているのがニューヨークの市長であります。その市長がアイルランド系であったものですから、これまた馬車の中からロシアとアイルランドの旗を打ち振ってきて、私の宿屋の前に止まって私のいる部屋を見上げて、その旗を打ち振って私にこれ見よがしに脅威したこともありました。私はかくのごときしうちにあって、殆んどどうしてよいか思案に暮れたくらいであった。
そのときにニューヨークの警視総監が私のところに使者を通わして
「じつは日露の戦争が始まると、ロシアの大使の申し出には『日本人はずいぶん暗殺はやりかねないというから、日本人があるいは爆弾を投げつけるかもわからぬ。暗殺するかもしれない』と危険がるのでロシアの大使が外出するときには護衛巡査をかたわらにつけることにした。
先日、新聞に貴下のロシア攻撃の御意見が出たが、ロシア人はこれをみて必ず憤慨するだろうと思うから貴下に或いは危害を加えるかもわからぬ。米国は局外中立国としてロシア大使を保護すると同様に、日本に対しては貴下は大使ではないけれども、やはり護衛巡査をつけたいと思うがいかがですか。」
と言った。そのとき私は、
「誠にご厚意は有難いけれども私は大使でもない、公使でもない。唯一個人としてアメリカに来ているのであるから、官府の保護を仰ぐ資格はない。」
「けれども危険があるかも分らぬ。」
「よろしゅうございます。もし私がここでロシアの人、ロシアびいきの人から爆弾を投ぜられて死ぬとか、又は暗殺されたならば、金子は満足する。金子は命を賭して米国に来ているのだから、暗殺をされても一向かまわない。しかし一人の金子が暗殺されたならば一億有余万のアメリカ人の半分ぐらいは定めし日本に同情を寄せてくれるであろう。一人の金子の死が五六千万のアメリカ人の同情に代わることができれば、私は喜んで死ぬから、どうか護衛巡査はよして下さい。」
と言って断った。それで私は二ヵ年ほどおったけれども一度も護衛巡査はつけてもらわなかった。しかし再三、脅迫状や無名の投書で、明日の演説は注意せよとか、どこの演説は覚悟をしろというよな脅威がありました。
以上のごとく、ニューヨークの形勢が分ったから、ひとまずニューヨークを去って、三月の二十六日にワシントンに参りました。ルーズベルトは先に申したとおり局外中立の布告を出して警告した大統領である。以前ならば友人であるから玄関から名刺を出してルーズベルト氏に会いたいと言えるけれども、今日は局外中立の布告を出しているのであるから、国際の法規によって正式に全うのはかないと思って、高平公使に会って、
「僕はルーズベルト氏とは旧友であるけれども、今度はこういう場合であるから御苦労であるがルーズベルト氏に手紙をやって、金子が会いたいというからいつなんどきど都合がよいか、時間をお示し願いたい。」
と聞いてもらうことにした。
「なぜもっと早く来なかったのか」
高平公使は早速公文をもって問い合わせてくれた。そうすると明日の午前十時に官邸に来いという回答が来た。そこで翌日約束の時間に高平公使と同伴し訪問して玄関で名札を出した。
ご承知のとおり、その玄関には広いホールがありましてそこに三、四十人の訪問者がじっと腰かけてつめかけている。これはみな大統領に会いに来た男女の人びとである。
彼らは順ぐりに大統領官房に行って手を握って敬意を表して帰る。私が名札を出すや玄関の奥の官房からルーズベルト氏が早足に走ってきて、玄関に立っている私のところに来て私の手を握って
「君はなぜ早く来なかったか。僕は君をとうから待っていた。なぜ早く来なかったか。」とだしぬけに言った。
私も実はびっくりした。そうするとそこに待っている三、四十人の男女の訪問者一同は、一国の大統領が奥から走って来て、
「君を僕はとうから待っている。なぜ早く来なかったか。」というのを聞いて異様に感じたらしい。
ルーズベルトは元来大きい背の高い人でありますが、ちっぽけな黄色な人間に、一国の大統領が、さも親密らしくしているのを見て、これは何者が来たかと怪しんでいるくらいである。そうするとルーズベルト氏は例のごとく親密を示していきなり私の左の手をぐっと巻いて、道すがら、「なぜ早く来なかったか、とうから待っておった。」と言って私を引張って行った。官房に入ってそこにすわると、
「じっはグリスカム公使が東京から電報を打って来たから、君がアメリカに来るということはとうから知っていた。今か今かと待っていたが一向に来ない。一体いままでどこにおったのか。」
「今までニューヨークにおった。」
「なぜ早く来ないか。僕は待っていた。」
「そうか。」
「君は僕の厳正中立の布告を読んだか。」
とこう向うから聞いた。
「読んだ。」
「どう思う。」
「失望した。」
「そうだろう。君が失望したろうと思うから、僕は早く君が来たら説明しようと思っていた。じつは日本の宣戦の布告が出て日露問に戦争が始まるや、アメリカの陸海軍の若い軍人は、今度の戦は日本に勝たせたいから、我々は予備になって日本の軍に投じて加勢しようという者が諸所に出てきた。以上のような意見を宴会で食後演説をする者もある。
そこでロシアの大使が困って、どうもお前の国の陸海軍の若い軍人共は日本びいきとみえ、日本軍に投ずると、いうような演説を、かしこでもした。ここでもした。どうかああいうことは取り締ってくれろと懇請せられたから、やむをえずあの布告を出したのだ。
しかし、かく言うルーズベルトのはらの中は、日本に満腔の同情を寄せている。あれはロシア大使の交渉があったから大統領として外交上やむをえず出したのだ。僕のはらの中とは全然違う。君に早くそういう内情を話そうと思って待っていたのだ。さて今度の戦争が始まるやいなや、僕は参謀本部長に言いつけて、日露の軍隊の実況、又海軍兵学校長に言いつけて、日露の軍艦のトン数及びその実況いかんということを、詳細に調べさせて、ロシアの有様、日本の有様をよく承知しているが、今度の戦さは日本が勝つ。」と言った。
これは意想外の話である。日本の陸軍当局も、海軍当局も、元勲も、勝つか負けるか分からぬと言っているのに、縁の薄い米国大統領から日本が勝つということを聞こうとは思わなかった。しかのみならず大統領はなお語を続けて、
「勝たせなければならない。」
とも言ってその理由を述べていわく、
「日本は正義のために、はた人道のために戦っている。ロシアは近年各国に向かって悪虐非道の振舞をしている。とくに日本に対しての処置は甚だ人道に背き正義に反した行為である。
今度の戦さも、ずっと初めからの経過を調べてみると、日本が戦さをせざるをえない立場になっている。よって今度の戦さは日本に勝たせなければならぬ。そこで吾輩は影になり、日向になり、日本のために働く。これは君と僕との間の内輪話で、これを新聞に公けにしては困る。」
これは困るわけである。ルーズベルトは米国の大統領である。
「のみならず君はハーバード倶楽部員で、東京におけるハーバード倶楽部の会長であるから、そのハーバード倶楽部の会長が今度米国に来たといえば、アメリカ全国にあるハーバード倶楽部の会員は、日本に同情するに決まっている。」
とつけ加えた。
「そう聞けばいかさまそうだ。今の外務大臣小林寿太郎はハーバードにおいて我々と同時に卒業した。ロシアの公使で国交断絶のため引き揚げた栗野慎一郎もハーバードの卒業生。仁川で第一番に海戦をした瓜生外吉氏はアメリカのアナポリスの海軍兵学校を卒業した。かく使命をもってきた金子もハーバードの卒業生の一人である。
四人の者は皆アメリカの教育を受けている。アメリカの教育の効能を今回の戦争によってアメリカ人に示さなければならぬ、と我々共は決心している。」
「その決心で君達がやればこちらにいるハーバードの連中は皆同情する。」
そういう話を会見の初めに聞いたときと、さきに三月の十一日サンフランシスコで局外中立の布告を見たときとは全然、転倒して、初めてルーズベルトの真意が分かった。そこでただちに公使館に馳せつけ、その話を英文に書いて、暗号電報で小村外務大臣に打ちました。
この電報を見た日本の内閣各大臣や元老の人達が喜んだの喜ばないの、ルーズベルトがこう言ったのはじつに百万の兵を得たと同じことであると喜んだ人もあったくらいだそうであります。
ほどなく、小村大臣から私に暗号電報を打って来たその電文によれば、
「君と大統領との会見は予想外の好結果である。大統領と君との話をヨーロッパ・支那・南アメリカにいる日本の公使にはことごとく暗号電報で通知して、アメリカ大統領の態度はこういうものであるということを公使達に通ずることにした。」と日本政府ではよほどあの大統領の話を嬉しがったと見える。
じつは当の私もこういうことまでもルーズベルト氏から聞こうとは思わなかった。ただルーズベルトに頼んで最後の調停をしてもらおうというくらいのところであったのが、向うから唐突に今度の戦さは勝つ、又勝たせなければならぬという確信を私に言ったときには、私とてもじつに百万の兵を得たよりも有難かった。 
3

 

[ルーズベルト米大統領、全米を説得した驚異の外交力の秘密]
それから公使に連れられて外務大臣のジョン・へイ氏に会った。ジョン・へイに会ったときに、私は日本にいる米国公使グリスカム氏からジョン・へイ氏に宛てた紹介状をもらって行った。会ってすぐにその書状を示した。ジョン・へイ氏はこれを受けとったままそこにおいて開いて見ようともしない。
一体外国に行って紹介状を持って行けば、その書状を見てこの人はどういう人だということを知って、それから言葉を交すのが恒例になっている。しかるに私が持って行ったアメリカ公使のグリスカム氏の紹介状を見ずにそこにおいて、私の顔をしげしげと見ている。
「貴下は紹介状の要はないではございませんか。紹介状は持ってくるには及ばぬじゃありませんか。」と言う。
さあびっくりした。
「じっは私は甚だ記憶に乏しいが、貴下には未だ会ったことはないと思うから、紹介状をもらって来ました。」
「貴下はご承知ではあるまいが、私は貴下にはすでに十四、五年前に会っている。その頃私は微々たる新聞記者であったから、貴下の脳裏には残らなかったろうけれども、私のほうでは貴下をよく知っている。」
私は又びっくりした。
「私はヘンリー・アダムス氏のところで貴下にお会いした。そのとき貴下は各国の議院制度を調べにおいでになって、ヨーロッパを回って帰りにワシントンにおいでになった。そうして親友のヘンリー・アダムス氏のところの晩餐会で私はお会いしました。」
この言葉を聞くや私は直覚して旧時面会したことを思い出し、
「それじゃ貴下はかってリンカーンの秘書官として南北戦争中大統領リンカーンの側におった縁故によりリンカーンの伝をお書きになられたあのお方ですか。」
「それです。私はあのとき新聞記者であったけれども、リンカーン伝を書いておったアダムス氏の晩餐会で、貴下といろいろ日本の憲法のことや米国議会の話をした旧友じゃないか。紹介状を持って来るに及ばぬ。」
と言う。なるほどそれならば添書は要らぬわけである。それからいろいろ話をしたところが外務大臣へイが言うことが面白い。 「一体今度の日露の戦争は、日本がアメリカのために戦っていると言ってもよい。」
「それはどういうわけか。」と聞くと、
「私は外務大臣として支那に向っては門戸開放、機会均等ということを宣言した。
それをロシアが門戸開放をせずして満洲には外国人を入れぬ。満洲においては機会均等ではない。
満洲はロシアの勢力範囲として、アメリカの商人も入れない。しかして日本は満洲もやはり支那の一部であるから、門戸開放をしろ、機会均等をしろという。この結果が、今日の戦争になったのである。
つまりアメリカの政策を日本が維持するがための戦であるといってもよいから、今度の戦争はアメリカ人が日本にお礼を言わなければならぬ。のみならず日米の政策が今度の戦については一致しているから、アメリカは日本に同情を寄せることは疑いない。」
かように外務大臣が言ったので、これまた私に非常な声援を与えた。そこでこれもまたただちに暗号電報で小村外務大臣に通報した。
それから今度は海軍大臣に会いました。もちろん陸軍大臣のタフトとは、従前米国にいたとき、たびたび会っている。しかのみならずフィリッピン総督として往来するときに日本に立ち寄ったから、そのとき日本でもたびたび会ったので、これは会う必要はない。海軍大臣に面会するために高平公使に連れられて海軍省に行った。そうしたところが「これが海軍大臣」「これが金子」と高平公使が紹介すると、海軍大臣が私の顔を見て、
「君は俺を忘れたか。」と言う。
「私は君を知らないと思う。」
「君と俺はハーバードの法科大学で同級生じゃなかったか。それを忘れたか。」
「あのときビレー・ムーデーという跛足(びっこ)のムーデーがいたことは知っている。」
「その跛足のムーデーが俺だ。」と言った。
跛足のムーデーと言われるわけは、ムーデーはその頃ベースボールのチャンピオンであったが、石の膝頭を打って非常な怪我をしてから、足が不自由になって、学校にくるのに松葉杖をついてやってきておったから「跛足のムーデー」と言っていた。
「今見れば君は足を引かないではないか。」
「それは昔の事だ。今はなおってこのとおりだ。」
と言って膝をたたいて見せた。
「それならばこれから俺は君にいろいろ声援してもらいたいことがある。」
というようなわけでありました。
こういうように旧友を外務大臣に持ち、又海軍大臣に持っておったのは、非常に私には大きな力であったのです。このとき私は、外交はいかに日本で偉い人でも、その使命を持って行く外国に友達がなかったならばけっしてうまくいかないということをつくづく感じ、友達がなくして素手で外国に行っても雄弁を発揮して、俺は日本では元老だ、大臣だといっていばってみたところが三文の値打もない。真に頼るところのものはその国の親友であることを痛感した。
ある日、さきに外務大臣が話した旧友のヘンリー・アダムスが私を晩餐に招待して、大勢の友人に紹介した。そのときこの人の言ったことを皆さんに知らせたい。
ヘンリー・アダムスという人は、先祖が二代大統領になったジョン・アダムスとジョン・クインゼ、アダムスである。ヘンリーはこの名門の子孫であります。しかして彼は外交官になったことはないが、外交問題に精通した学者である。外務大臣ジョン・へイの知恵袋といわれている人である。彼の言うところによれば今度の戦争は全くロシアの宮中の大官と、陸海軍の軍人とが結託して朝鮮を取ろうという策で、この戦が画策されたのだ。
それのみならず宮中の大官は、皇帝・皇后の信任を得て宮中に勢力のあるベゾブラゾフと軍人とを結託せしめて、実際、兵を一万を満洲に送れば五万も送ったように言って日本を恫喝し、恐喝手段で日本を屈伏させようという政策をとっている。又、軍艦にしたところで、日本を脅威するために旅順に送るのである。これただ恐喝手段で刃に血ぬらずして、朝鮮を取ろうというのが彼らの策略である。それゆえに日本が朝鮮を渡してよろしく願いますといって平和を乞わなければ、とうてい日露の問題は解決しない。
のみならず旅順にいる極東の大守アレキシーフという人は、宮中に非常に勢力のある人で、又貴族の仲間にも勢力のある海軍大将である。これが旅順に頑張っている。事実このアレキシーフの政略は、恐喝手段を以て海軍なり陸軍なりで、いざと言えば戦さをすると恐喝したならば、日本はひと縮みになるから、それで行けると思ったのがこの人の政策である。
ところが国交断絶するや否、仁川港においてワリヤークその他の軍艦が日本の軍艦のために打沈められたという電報が来て、ロシアの宮中の大官も、皇帝も皇后もことごとく恐怖の念に侵されて、非常に驚いた。
こんなに負ける積りはない。戦をせずして、恐喝手段でおどすつもりでおったのが本当の戦争になった。そのときの宮中の驚きというものは非常なものであったということをこの人から聞いた。
また彼は語を続けて一ヵ年この戦が続けば、ロシアは必ず内から壊れてくる。東洋に行っている兵士も本気に戦さするつもりで行っているのじゃない。恫喝手段の道具になって行っているのであるから、一ヵ年日本が頑張っていれば、きっとセント・ペテルスブルグから内輪割れがする。
今日、仁川の戦でワリヤークが沈んだのでロシアは、あたかも大きな鯨が大洋において漁師の銛(もり)を頭に突きこまれたようなものである。まだ死んではおらぬが、今や七転八倒の苦しみをしている。一年我慢しなさい。そうすれば必ずフィンランド、あの方面から内乱が起って、とうとうロシアの方から講和談判をしなければならぬようになるから、そのことはいま私が貴下に言っておくからよく記憶してもらいたい。
又聞くところによれば、日本は今度の戦について上は天皇陛下から下は匹夫匹婦にいたるまで、挙国一致で戦をしていると。これに反してロシアは挙国一致でない。あたかも内乱の起るような国にして人心も離散している。ゆえに今度の戦争は日本が小国といえども勝つにきまっていると私は思っている。
これは我輩の独断ではない。我輩はヨーロッパの形勢ことに日露の形勢は数年間研究した。ロシアの人にも会って聞き、ロシアの内情も詳しく調べ、日本の事情も調べている。
挙国一致の日本が勝つにきまっている。しかし勝つことは勝つが、ここに一つ日本政府に忠告したいことがある。そのことはロシアは先年ユダヤ人をキシネフ〈モルトバ〉その他で虐殺している。ところがヨーロッパのユダヤ人は吝嗇(りんしよく)で金持で、金権を握っている。ロシアは軍費を今はフランスから借りているけれども、これは長くは続かない。そうすると結局、フランス,イギリス,ドイツにいるユダヤ人から借りなければならぬから、早く日本政府ではユダヤ人を懐柔して、金権を握っているユダヤ人に対してロシアに金を貸すなということをいえと彼は忠告した。
これがすなわちシフというユダヤ人がヨーロッパにおいて、高橋是清と談判して、第一公債・第二の公債をシフの手を経て募集したことと符合している。日露戦争についてはユダヤ人はロシアには一文も貸していない。ユダヤ人がロシア人に貸さないのに反して日本には莫大な軍費を貸した。これはユダヤ人がロシアにおいて非常な虐待を受けた復讐であろうと思う。
なお日本に忠告したいことがある。それは早くフィンランド、及びスエーデンの地方に日本から密使を送ってフィンランド人をおだて、スエーデン人を扇動してかの地方に内乱を起させ、そうしてロシアの背後を衝け、シベリアに兵を送ろうとしても、フィンランド・スエーデンの国境に内乱が起れば、そのほうに兵をやらなければならぬから日本とフィンランドと両方に兵を分割して送ることはロシアの痛手である。そうすればロシアに内乱が必ず起る。
その扇動の費用は二、三百万円もあったらよかろうと思う。軍艦一隻沈めたと思えば安いものじゃないか。海戦をせずしてロシアに騒動を起させうるならば、軍艦一隻の値段は安いものじゃ、二、三百万円使って、早くあそこに密使をやってかきまわせ、ということをヘンリー・アダムスが私に言った。しかのみならずどうか日本政府にこのことを言ってもらいたい、と申しまから、私はただちにこのことを詳しく書面にしたためて桂総理大臣小村外務大臣連名にて郵送した。
その後各方面の報告によれば公使栗野慎一郎がロシアを引揚げると同時に、公使館付の陸軍の中佐をしていた明石元二郎という人を、フランスに滞在させて、フィンランド、スエーデン、ノルウェーに手を回して、いろいろかきまわしたということを聞きました。そのことは明石元二郎氏の伝にも書いてある。この献策をしたのはヘンリー・アダムスが私に会って言ったのが初めである。
まずかくのごとくワシントンに行ってみると、大統領・外務大臣・海軍大臣、それから外務大臣の知恵袋といわれるヘンリー・アダムスも、かくの如く日本に同情を寄せているということは、じつはサンフランシスコに上陸したときとは、まるっきり違う。又日本を出るとき、伊藤公に今度のアメリカの使命は私は成功の見込なしといったけれども、これだけの同情者を得たのは、非常に私をして力強く思わせた。ここに一、二面白い話をいたしましょう。
広瀬中佐が旅順の港口に船を沈めたことが、ドシドシ電報で米国に来て新聞紙に載る。一八八八年にスペインとアメリカが戦争をしたときにキューバの港の入口に船を沈めてスペインの軍艦を封鎖し、アメリカの海岸を荒らさぬようにしたのが、アメリカの海軍大佐のホブスンである。
そこで同じく旅順の港口に船を沈めた広瀬中佐は、わがアメリカのホブスンの故知を学んでやっているから、アメリカが日本に教えたのであるということを得意になって書き立て、広瀬中佐の旅順港口に船を沈没せしめたのは、あたかも米国の戦策をやったように喜んでいる。
手前味噌ではあるけれども、これは日本にとってはよい宣伝であって日本に同情を寄せることとなった。
それから私は一夜友人に誘われてワシントンの芝居を見に行った。幕間に幕が下りる。そうするとその幕の中央にロシアの皇帝の半身像が大きな形で緞帳(どんちょう)に写る。幻燈でロシアの皇帝の半身像が鍛帳一杯に見えると、見物人は「引っ込めろ」「引き下ろせ」と異口同音に言って、靴でフロアーをドタドタさせて引っ込めろと言う。そこで引っ込める。というように少しも喝采しない。ロシア皇帝は非常に不評判である。
そしてその次にぽっと出たのが、わが天皇陛下の半身像。すると満場拍手喝釆で、万歳万歳といって、耳をもつんざくほどの歓声が湧いた。
してみるとワシントンの普通の芝居小屋の見物人も、日本に同情を寄せているということを見たときには、私は非常に嬉しかった。
これから先は政治論でも何でもない。又見かけますと御婦人もいらっしゃるようですから、御婦人に私は聞いてもらいたいことがある。それは四月六日にワシントンでウオルダーという非常な金持ちの後家さんが私の友人の大審院の判事ホームスを通して、私を晩餐会に招きたいから来てくれろと言いました。
この後家さんには二人の美人の娘さんがありましてワシントンの交際社会では有名な人達であった。けれども女のことだから、男の紹介なしでは私を案内することができぬので、ホームス氏を通して私に晩餐に来てくれろと言ったわけである。私はどん人でも招かれれば喜んで行くと返事した。その晩の食後に総領娘が私に聞きたいことがあるという。
「じっはこの二、三週間前、ある晩餐会でロシアの大使カシニー伯に会った。ところがロシァの大使が列座の人びとに向かって言うのに『戦争は始まったが、日本の陸軍などというものは、ロシアの陸軍に比較するととても敵対はできない。見ていてご覧なさい、一、二ヵ月のうちには、日本の軍隊は可哀そうだが皆全滅する。そのわけはロシアの軍隊の訓練というものはこうである。
野営をしているときでも、又兵営にいるときでも士官と兵卒とは殆ど親子兄弟のごとく親密である。皆車座となってウオッカという酒を飲んで、階級的の差別はない。兵卒が唄を歌えば、士官が楽器を鳴らす、独りで踊るもあれば、相携えて舞いまわるもあり、その団らんの愉快なことは世界各国の軍隊に類はない。
しかしこの軍隊にいったん進軍の命令が下って、敵に向ったならば、殆ど別人のごとく兵卒は猛獣のごとくなって、いかなる敵といえども蹴飛ばして行く。その勇猛なことは平時団らんして愉快に酒を飲み歌いつ舞いつしたときと、まるっきり変ったものである。見ていて御覧なさい。今度日本の軍隊を追いまくるのはわけない』とごう然として言った。
私は真実日本に同情を寄せている一人でありますが、この言を聞いて日本の兵隊が負けはせぬかと心配でならぬから、貴下を御招待して日本の軍隊はどういうふうに訓練をなされているのかこの猛獣のどときロシア兵に当らなければならぬので定めて困難でありましょうが、どういう訓練法になっておりますか。」
と単刀直入に質問を発してきた。
一座の面々はこの突然の質問にいかに私が答えると私の顔を見つめていた。そこで私は当意即妙という筆法で、ただちに答えた。
「いかにもロシアの兵隊の訓練はそういう情況であることを私もかねて聞いているが、しかし日本の軍隊の訓練はそれとは少し違う。日本の軍隊は兵営において毎朝訓練をする前に集合ラッパを吹く。
そうすると兵隊が一小隊ずつ調練場に並ぶ。そうして少尉が剣を抜き、その前に立って号令をかける。『気を付け、本官がこの剣を抜いて命令するのは、天皇陛下の命令と心得ろ。この剣は、天皇陛下を代表するものである。わが天皇陛下の軍隊は我輩この剣を握って号令することはすべて陛下の命令と心得て、いかなることを命令するとも必ずこれに服従せよ。
もし戦場において我輩が鉄砲の弾丸で倒れたならば、下士官ただちにこの剣を取って号令せよ。もし又下士官が戦死したならば兵卒これに代れ。一兵死せば一卒これに代り、かくして代り代りに最後の兵卒にいたってこの剣を握って地に倒れて死ぬのが日本の軍隊の精神である』とこういう具合に日本では軍隊を訓練している。皆さん日露の両国、どっちが勝つでしょうか。」と言うと、列座の人びと一斉に手を打って、「日本が勝つにきまっています。」と言った。
このことについて私は米国から帰ってきて一言言っておかねばいかぬと思って、寺内陸軍大臣に会って
「俺はアメリカにおいて日本軍隊の訓練法を聞かれたのでかくかくと答えた。もし俺がうそをついたということになってはまことに困るから君に一つ確かめるがどうだ。」と言って、前に述べた当意即妙の答弁を話した。
ところが、「それはじつにそのとおりだ。君の言ったとおりの精神で軍隊を訓練している。」「そうか、それで俺も安心した。」と言いました。
それから、私はどこに根拠地にしようか、ワシントンにしようか、ニユーヨークにしようか、といろいろ考えました。ワシントンを根拠地に定めると私の挙動を各国の外交官が偵察する。ルーズベルト氏に会えばすぐそのことが何であったかと探る。そうなればルーズベルト氏にも気の毒である。又私の背後にはいろいろな探偵がつきまとうから、外交官のいるワシントンはよろしくないと思ったので、結局ニューヨークを根拠地にすることに決した。ここに根拠を据えて、東西南北に活動しようということに決めた。
ある日ルーズベルトに会って、
「僕もいままでワシントンにおったが、今後はニューヨークを根拠地にしようと思う。」
「それがよかろうと思う。君が僕のところにくると、ロシアの大使やフランスの大使が来て、金子はどういう話をしたかと言って、うるさくて仕方がない。ニューヨークにいても電報もあり、また電話で話もできるから用事は弁ぜられる。ワシントンにいることは君のためにもならぬし、又僕のためにもならぬから、ニューヨークに行ったほうがよかろう。」
ということになりまして・私はワシントンを去ってニューヨークに参りました。そうしてニューヨークを中心として多方面に活動致しました。 
4

 

[武士道とは何か 金子のハーバード大での名スピーチ]
次に、いかにしてニューヨークを拠点にアメリカ全般に向って日露戦争における日本の立場を宣伝したかという点をお話したい。
私の旧友のウードフォードという人(この人はかってスペインの公使としてアメリカからスペインに行っていた、軍人出身の外交官で陸軍の中将である。この人は軍人としてよりもむしろ外交官として知られている人である)は日露戦争前に大統領の命を受けて日本に来られて、伊藤、井上馨、山県、松方正義その他の元老と再三会って日本の状況を聞き、私にも大統領の添書を持って来て、いろいろ日本の事情を聞かれたから、日本滞在中に日本の事情をすっかり話していました。
そんな関係で、私がアメリカに行くと、「貴下は今度国難のさい、重任を負ってアメリカに来たのだから、自分がかって日本に行ったときには大変厄介になったから、私も一微の力を貸そう。私の考えでは朝野の名士を一堂に集めて、晩餐会を催してその食後に貴下が日露戦争の沿革から日本人民の希望、および態度を詳しく説明したならば如何なものでしよう。
そうすれば集まる人数は少数でも、その演説は翌日の新聞に載ってアメリカ全般に知れ渡り、貴下の意志が米国人に徹底するからその宴会を催そうと思うから来てくれ」とこう言われた。
そこで私は喜んで参りましょうと答えました。
そのパーティーは四月十二日と決めました。前の内閣大臣(当時の内閣大臣は厳正中立の立場にある関係からこれを避けて呼ばなかった)陸海軍の将校、各裁判所の判事、大学総長、商業会議所会頭、実業家、銀行家、新聞記者、その他朝野の名士を網羅して二百十九人、ニューヨークのユーニバシティー・クラブー(大学クラブ)に呼びました。
その中にはわざわざサンフランシスコから来た人もある、英領カナダから来た人もある。まずこれはこの当時の聴衆としては最も適当な人であって、この一人が何百人に宣伝することのできる社会において、重要な位置を占めている人びとである。
二百十九人をユーニバシティー・クラブに呼んで、主催者のウードフォード中将が私を招待した理由を述べられ、それから前の内閣大臣の中の大蔵大臣、陸軍大臣・大審院長、商業会議所会頭・大学総長・外交官が次々に演説された。
今度、金子という人が日本から来たのは、日露戦争のためにアメリカ人に日本の態度を説明するためであるというのがその骨子であった。
そこで私がこれに対して日露戦争の原因から当時の状況、それから日本国民の決心の程度を詳細に述べました、最後に私は、四月の十日に旅順港外においてロシアの海軍大将のマカロフが日本の水雷にかかって戦死したことについて申しました。
それが前々日のことであって当時はマカロフの戦死のこと大きく新聞に書いているさいであった。このマカロフという人は海軍の将校として度々アメリカに来て、この二百十九人のうちの半分ぐらいはマカロフを呼んで宴会をしたり、面会した人びとであった。多くはその友達である。有名な戦術家である。
この人が旅順にいて艦隊を指揮していれば日本恐るに足らずと言ってロシア政府がとくに選んで旅順によこした。それが不幸にも戦死したから、ロシアにとっては非常な打撃である。アメリカ人も旧友がかく悲惨な戦死を遂げたから哀悼の意に充満されている際である。そのときに当り私は演説の終りに臨んでふとそのことに考え及んだからこう言った。
「ここに御列席の多数のお方はマカロフ大将をご承知であります、大将は世界有数の戦術家である。この人が死なれた。わが国は今やロシアと戦っている。しかし一個人としてはまことにその戦死を悲しむ、敵ながらも我輩はこのマカロフが死んだのはロシアのためには非常に不幸であると思う。
マカロフ大将も国外に出て祖国のために今やまさに戦わんとするときに臨んで命を落としたことは残念であろうが、この戦役において一番に戦死したことはロシアの海軍歴史の上に永世不滅の名誉を輝かしたことであろうと思う。私はここに追悼の意を表してもって大将の霊を慰める。」
とい言って私の演説を結んだ。これが翌日の新聞に出て非常な評判となった。
これより先カシニー大使は日本の悪口をありとあらゆる形容詞をもって吹聴し、今度私が米国に来たについても非常に脅威を加えている。しかるにこのごとく悪く言われている日本人のことゆえ、
「マカロフが死んだについてはよかった。もうあれが死ねば日本のためには幸福だ」
と言いそうなものが、かえって敵将に対し追悼の意を表した上にマカロフ大将の霊を弔った、日本人というものはわれわれ欧米の人が考えることができない高尚な思想を持っているものだと言って、非常に新聞紙上で賞讃された。
これがアメリカで日露戦争に関する演説をした始めである。これは日本の金子が何のために米国に来たかということを知らしめた紹介者がよかったから、大いに効果があった。
その次は四月二十八日、これは私が八年間アメリカにいて、うち最後の二年間修学したハーバード大学の催しで、私に来て日露戦争について演説をしてくれとの招待を受けた。ところが不思議なことには私と同時にハーバード大学を卒業した者が三人日露戦争に関係している。
小村寿太郎は当時の外務大臣として日本にいて、日露戦役の当初から関係している。又栗野慎一郎はロシアに公使としてかの地を引き揚げて帰って来た。そうして私がアメリカに来て戦争の沿革を説明している。ハーバード出身の者が日露戦争に三人まで関係しているからは、ぜひ私に来てくれよという。
最初はハーバード大学が私を呼ぶつもりであったところが、総長の考えで、厳正中立を布告しているアメリカ合衆国の大学が、ロシアの敵たる日本人の金子を招ぶということは、たとい卒業生といえどもこれは遠慮すべきことであるというので、ハーバード大学の中に設けられたクラブから私を呼ぶことにした。
しかるに二十八日は非常な大雨で、午後からも土砂降り。
これではとても誰も聴衆は来まいと思うほどの大雨だが少しも止まない。その場所はハーバード大学の中のサンダース・シアターというところで、これは卒業式に用いる会堂である。そこに私が行ってみると、豪雨にもかかわらず立錐の余地もなく何千人という男女が押押しつめ入ってきて、廊下にまで椅子を持ってきて聞こうという有様で、私は非常に愉快に感じた。
それから「極東の現状」という演題で演説して、まず第一に日露戦争の起因から説き始め、十年以前に日本は日清戦争のとき三国干渉のために遼東を還付させられた。以来日本人は十年の長い間、臥薪嘗胆(がしんしょうたん)していずれのときにか、かの遼東を元のとおりに取り戻さなければならぬと国民一般に決心したという沿革から説き始めた。ところが三十三年の北清事変、すなわちボクサス・トラブルのときに、各国から兵を出した。
ヨーロッパ各国もアメリカも日本も兵を出した。ロシアは地続きのハルビンから来て遼東を取ってしまった。そうしてほかの国は皆すぐ撤兵したにもかかわらずロシアだけはいつまでも撤兵しない。アメリカが撤兵せよと言ってもイギリスが苦情を言っても言うことを聞かない。いわんや日本ごとき言ったくらいでは、顧みもしない。
それのみならず遼東から朝鮮に進んでソウルまでをロシアの勢力範囲とする魂胆である。それは日本としては困ると抗議を申し出た。こういうことをすったもんだしているうちに、ロシアはとうとうしまいに釜山までをその勢力範囲にしなければ承知しないというから、わが国はやむをえず二月四日の御前会議に於てとても日露の交渉は外交談判ではいけない。
やむをえず国を賭し矛を取って兵馬の間にこの難問題を解決するよりはかないと廟議決定し、天皇陛下の御裁可を仰ぎここに開戦するに至ったという沿革を事実と外交文書とを引証して詳細に私が演説した。ところがそれが一時間半ばかりも時間がたっていたから私は演説を中止した。
私がワシントンを去ってハーバードの演説会に来るときに、留学時代に法律を教わった人で、今は合衆国の大審院判事であるホームスという人が言うに、「君は今度ハーバードで日露戦争についての演説をするそうだが、君に一言忠告するが、ハーバード大学の先生達は無論、ケンブリッジの市民、その隣りのボストンの男女は、アメリカ第一等の知識階級の人と自ら信じている。どんな偉い人が行ってハーバード大学で演説するといっても、ハア、アレカと言ってなかなか聴かない。
それで一時間ハーバードの聴衆を君が引きつけて聴かせるということは無理であるから、長くて四十五分、これより長く演説してはいかぬ、きっと失敗する、僕の経験によって君に忠告する。」
と言ったことを思い出した、ところがすでに四十五分はおろか、一時間半ばかりも演説しておった。そこで私はピタッと演説を止めて、
「さてこの豪雨のさい遠路をいとわずおいで下さって、一時間余りも我輩の未熟な英語の演説をお聴き下さったことはまことに有難い。あまり長く演説してもお気の毒だからこれで止めましよう。」
と言って打ち切ろうとすると、聴衆は総立ちになってノーノーと言い、思っているだけ言いなさい。今夜は貴下の演説を聴きに来たのだから、夜が明けても全部を聴かなければ帰らぬと言いだした。そのとき私はさすがは留学した母校であると思って非常に嬉しく感じた。ここにおいて私は日本国民の決心と希望まで申し上げ、演説を続けた。今度はロシアがいかにしてシベリヤや満洲に兵を送ったか、その兵数から本国の常備兵の数を述べ、日本の兵隊の数を比較すると比較にならぬほどわが軍は少数である。
旅順・ウラジオストックに在る敵艦のトン数、堅牢なる構造方法について日本の軍艦を比較するとこれまた比較にならぬ、このとおりだ。どこに日本が勝つ見込みがありますか。ロシアは土地の広いこと、人口の多いことは世界に類がない。これに対して弾丸黒子のごとき日本の小国が敵対するということは最初から勝てる見込は立たない。
日本人中一人として勝つ見込をつけた者がない。内閣大臣も陸海軍の当局者も勝つ見込が立たない。しかしロシアに対して一歩譲れば彼は一歩進んできて、あくことを知らないのがロシアの要求であるから日本は正義のためにやむをえず国を賭して矛をとったのである。
もしこの戦争で日本が亡びても、日本は少しも構わぬ、日本は正義のため、国を守るために国民皆、矛をとって戦ったが、いかに滅ぼされたということを世界の歴史の一頁に残せば満足する。後世の人が昔、日本という国がアジアの東南にあったが、暴虐ロシアのために滅ぼされたという歴史を知りさえすれば、我々日本人はそれでもう満足だ。もともと勝つ見込みがあって戦争を始めたのではない。
又ロシアはいわく、ロシアはキリスト教国で、日本は非キリスト教国である。キリスト教国が世界の非キリスト教国を征服、開化せしめることは天職だ。それに反対する日本を撲滅せしめなければならぬといって、今度の戦争を宗教戦争にしようとしている。
このときに当りアメリカの国民はキリスト教信者であるからロシアのいうことに同意なされるかもしれぬ。しかしながら私はキリスト教の教義はそういうものではあるまいと言ってバイブルの文句を朗読し、サマリタンの宗教上の故事を引用してだんだん説明した。
これの事実をアメリカの人びとが聞いて下されば我々は他に何の望みもない。これから先は日露の両国いずれが是か非かは諸君の公平なる判断に委せますと言って演説を終った。終ったときは最初から丁度二時間と十五分かかった。聴衆は非常に緊張し、始めから終りまで静粛に聴聞して拍手喝釆してくれました。
翌日の新聞にそのことが出て、かつボストンの新聞には長文の社説を書きました。その社説は随分名文で書いてあります。それをいちいち申し上げると長くなりますから申し上げませぬ。又その演説は電報で合衆国の諸新聞に通報していずれの紙面にもみな載りました。
そこでハーバードクラブでこれを印刷に附して小冊子にしてハーバードクラブのある各州の都府にも送り、それから各種の協会・商業会議所を始め政治家、その他知名の士にまで送るために六千部刷って配布されました。そのときセントルイスに開会中の博覧会の当局者にスミスという人がありましたが、この人はさらに二千部を自分の金で印刷して、それを博覧会に関係している人びとに配布しましたから、都合八千部刷ってアメリカ人にふりまいた。これではじめてアメリカ人は日露戦争はこういうものかということが分りました。
第一はウードフォードの晩餐会に於ける演説、第二はハーバード大学の演説会で、日本の態度が初めて米国の国民に分った。私はそのことにそぞろに感じた。アメリカ国民は最初はロシアの大使の宣伝と新聞の買収とによってすっかりロシアの方に引きつけられていたが、この二回の演説でロシア側の言うことばかり聞いてはいけない。又日本側の言うことも聞かなければならぬ。両国の意見を聞いてみるとどっちがもっともかといえば、日本の言うこともまたもっともだということがいえるといいだして、それから少し頭を日本の方に傾けて聞くようになった。
その後は各地方から招待を受けて、南船北馬、各都市の宴会、演説会が始まった。アメリカという国はうっちゃっておけば宣伝する者が勝つ。嘘を言っても宣伝者が勝つから、他人の宣伝に委しておいてはいけぬ。向うが宣伝でやればこっちからも宣伝をやらなければならぬ。しかし決してうそを宣伝してはいかぬ。アメリカ人は正義を貴ぶ国民であるから正義のある方には必ず組みする。
事実を言わなければ同情は得られない。こういう呼吸を呑み込んで私が演説したから、その後は毎日毎日大学からも商業会議所からもクラブからも協会から個人からも呼びに来た。
それからここに少しお話しておきたいことは、大統領のルーズベルト氏は非常に日本の武士道を研究している。六月七日に私に午餐会に来てくれというから、ニューヨークからワシントンに行って午餐会に臨んだ。その会食中ルーズベルトいわく、
「僕は日本の武士道ということがしきりに新聞紙上に現われるから、いろいろ本を見たがいかんせん武士道ということを書いた本がない。よく武士道とか武士とかいうことを言うが一体どういうことを武士道というのか、何か書いた本はないか」と聞くから
「それは書いた本がある。新渡戸稲造というボルチモアの学校で勉強した日本人が、武士道について英文で書いた小さい本がある。
それを読めば、すっかり分かる」
「そうか、それが欲しい」
「それでは僕がのちほど送ってあげよう」
と言って約束をしました。それから後で私が送ったところがルーズベルトがそれを読んで、初めて日本の武士道ということを知って、ただちにニューヨークに電報をかけて三十部とり寄せて、それを五人の子供に一部ずつやって、
「これを読め、日本の武士道の高尚なる思想は、我々アメリカ人が学ぶべきことである。この『武士道』の中に書いてある『天皇陛下』という事を修正すればそれでよろしい。アメリカは共和国であるから天皇はない。俺は主権者であるけれども、大統領である。よって『天皇陛下』という事を『アメリカの国旗』という字に直せば、この武士道は全部アメリカ人が修業し、実行してもさしつかえないから、お前達五人はこの武士道をもって処世の原則とせよ」と言い聞かせたということを聞いた。
それから残り二十五部は上下両院の有力なる議員とか、親戚とか、あるいは内閣大臣の人達にこれを分配して、この「武士道」を読めと言った。
この書で初めてルーズベルトが武士道を会得して、ますます武士道ということを研究するようになって、ついには柔道まで官邸でけいこするに至った。今の海軍大将の竹下勇という人はその当時は公使館付の中佐であったが、柔道の型を大統領に教えた指南役である。
その後ルーズベルトは、とうとう日本から畳を取り寄せ、柔道の先生を呼んで、官邸の一に畳を敷いて、そこで柔道着を着てけいこをした。そこまでいわば日本にかぶれた、よく言えば日本にすっかり感化されたのである。
その六月七日の食後における大統領の談話は日本にとっては最もよい談話であった。ご承知のとおり第一の会見でルーズベルトが非常に日本に同情を寄せたことはこの前お話した。この日、大統領は私に向っていわく 
「日本は今度の海陸の戦争において、その実力を初めて世界の各国から認められた。この態度で戦争していけば、この戦は必ず日本が勝つ。しかるにその代りに反対が起こるかもしれぬ。
これは君よく注意してもらいたい。日本の実力を世界が認めるようになればヨーロッパの強国が猜疑の念を抱くであろう。現にドイツの大使のごときはこの間、僕に会いに来ていうには、日本が日露戦争について成功すれば、アジアで欧米諸国の勢力と地位に非常な妨害になる。ことにドイツは青島の租借地にすぐ影響する。米国もフィリピンは今に日本に取り上げられるぞ。それでなるべく日本をどうかして押えつけなければいかぬ」
としきりに僕に説いた。
しかし、僕はこれに対して、「そのご心配には及ばぬ。たとえ日本が勝ったところが、成功したところで、日本には武士道というものがあるから、けっして他国の既得権たる青島なりフィリピンなりを取るという心配はない。そのことはご安心なさい」
と僕が注意しておいた。しかし日本人が成功したといってあまり図に乗っていろいろやると世界の反感を招いて、ついには昔の十字軍(Crusade)のごときものを組織して、ヨーロッパ全体が日本を圧迫するようなことをするかもしれぬ、この点は注意して、勝ってもあまり誇らぬように自重してもらいたい。
ことに旅順が陥落するまでは自重してもらいたい。旅順が陥落すればロシアから必ず講和を申し込むにちがいないから、それまでは日本が勝ってもあまり誇ってはならない。もし誇ればヨーロッパの反感を買って講和談判のときに思わざる妨害が起る。
講和談判のときになれば朝鮮は無論、日本の勢力範囲に入るべきものと僕は思っている」
とルーズベルトが言った。これはじつに意外であった。
当時の情況によればロシアを追払って、やっと朝鮮問題が解決するくらいに思っているのにルーズベルトは朝鮮は無論日本の勢力範囲に入るべきものと言ったのであるから私は意外に思った。おそらく日本の政治家でも要路の人でも三十七年の六月七日に、そういう考を持っていた人はあるまいと思う。後日になれば日韓併合は俺がしたとか、俺の建策だとか、何とか言って誇っている人もあったが、ルーズベルトはそのときすでに朝鮮は日本の物と断定していた。じつにルーズベルトは世界の大勢を達観した人であると私は思った。そこで彼は語を継いで言うには、
「僕が今日厳正中立を布告して、努めて日本に対して表面、同情を示さないのは、目下どうしても英仏の態度押さえつけて、日本の妨害にならぬようにしようと思うから僕もまた自分の態度をなるべく注意している。しかし君と僕とは古い友達である。ことに同窓の友達であるから、君にも腹臓なく言うけれどもこれは公けに言うのではなく、全く旧友として言うのであるから、そのつもりで聴いてくれ。しかし僕は大統領であることも承知していてくれ」
と言った。さあ、私は一向分らなくなった。ルーズベルトの真意は旧友として言ったことは大統領としてもやはり同論だという意味を椀曲なる言葉の中に含ませて言ったということを察した。
はたしてそのとおり大統領は英仏の政府に対して日本のために骨を折ってくれた。ただちにこの話を英文にしたためて、暗号電報で小村外務大臣に発送した。この電報の届いたとき、日本政府は非常に大統領の態度を徳として小村から長い電報が私に来て日本政府はこの談話を非常に喜んでいる旨、大統領に通知してくれろと言って来ましたから、小村の電報を大統領に渡しました。
これから暑中休暇にはアメリカ人は皆、山間か海岸に行って、要路の人びとはワシントン・ニューヨーク・フィラデルフィア・ボストンなどにおらぬから、ひとまず日本に帰って秋になったころが米国の友達から山間の別荘、或いは海岸の別荘に二、一週間ばかり泊りに来いという案内が来たから、好い機会である。この機を利用し避暑がてら各所にでかけて日本の態度を説明しよう。この好機会を逃すまいと七、八の二ヵ月は日本に帰らずして、アメリカの友人の別荘回りと決心した。
ところがここに一つ大事件が起ったそれは八月十一日にロシアの駆逐艦デシテリヌイが芝栗(チーフー)に逃げ込んだ。それを日本の駆逐艦が同港に進入して捕獲してしまった。この電報がアメリカに来るとアメリカ人が騒ぎ始めた。今までは日本は仮面をかぶっていたのだ、人道だとか、正義だとか、国際条規だとかいっていたが、今回局外中立港に逃げ込んだロシアの軍艦を捕獲したことは国際法違反だといってごうごうと攻撃し始めた。 
5

 

[ルーズベルト大統領は「旅順陥落」に大喜び、黙っていると”Silence is Consent”。どしどし反論せよ]
その機をみるやロシアの大使はすぐそれを利用して、合衆国の政府に向かって、それ御覧なさい。このとおり日本は乱暴をする。これでも日本が国際法を守る国かといって非常につっこんだ。語を換えて言えば、アメリカから日本に抗議を申し込めというのである。
ときあたかも悪かったのは、かねてより日本に反感を持っているイギリス人の国際法の学者のローレンスという人が、丁度その頃、出版せんとしている国際法の再版の中にこの事件をすぐ追加して、国際法をこの通り踏破ったということを書いて非常に日本を攻撃した。国際公法学の泰斗たるローレンスがこれをその著述に書いたから、普通のアメリカ人は日本をドシドシ攻撃し始めた。さすがのルーズベルトもこのときだけは、「あぁ、これは日本が悪い」
と知人に漏らしたと聞きました。そこで私はすぐ新聞記者を呼んで、これは決して国際法違反ではない。米国も一八一二年の英米戦争のときゼネラル・アームストロングという英国の軍艦が、局外中立港に逃げ込んだのを撃沈した例がある。
日本はアメリカの先例を手本としてやったのであるから決して国際法違反ではないと弁明してこれを新聞に書かせた。
ときあたかも小村外務大臣が強硬なる声明書を発表し、露国は芝栗(チーフー)港をもってその策源地としてあそこの領事館に無線電信を据えつけて常に旅順と通信を交換し、このデシトリヌイをして軍需品や必要品を、旅順に送らしめている。よって再三日本政府からロシアに抗議を申し込んだがてんとしてかえりみない。ゆえにやむをえず日本は踏み込んで捕獲したのであるということを弁明した。
ここにおいてその攻撃はまったく止まった。けだし戦争のときにはいろいろの出来事が起りますから、黙っていては損である。
黙っていれば承諾したもの”Silence is Consent”とみなされる。ゆえに何か事が起ればこちらでは言うだけのことは言うというのが最も必要である。
それから各地方の友人の別荘廻る回りをして名士と会していろいろの話を聞きましたが、それをいちいち申しますと長くなりますから止めますが、ただ一つここに申し上げたいと思うことがある。
これは私の旧友たる大審院判事のホームス氏の話であります。この人のベバレー・ファームの別荘に一週間泊った。二日、縁側の寝椅子に寝ころんで話をするうちにホームスがいうのに、私はアメリカ人として日本人に会った初めは明治四年であった。それ以来日本人にはいろいろの人と交際している。日本という新興国の状況は自分も研究した。研究した結果、今度の戦さは日本が勝つと私は信じている」
とこう言った。やはりルーズベルトと同意見である。
「今度の戦争は日本が勝つと信ずる理由を君に言いたい、それは今日の日本というのはー明治三十七年のことですがー維新前の封建時代の武士道というもので訓練した精神がまだ残っている。それに欧米の文明的の学術技芸を輸入して加味したから、精神は武士道で日本の古武士である。
それに文明の利器を与えたからこれは実に強い人種である。一面には封建の武士であって、一面には二十世紀の文明の利器をもった人種である。こういう人種は世界にない。それゆえに決してロシアはこれに敵対して勝つことはできないと私は信ずる。−それまではよいーしかしここに君に忠告することがある。けだし日本といえども世界の大勢に伴うて、だんだん進歩していけば、封建時代の精神もだんだん薄らぐということは、やむをえない結果である。
それをよく考えてもらいたい。現にギリシャ・ローマは昔ヨーロッパにおいて一番雄大なる国であったが、一たび文明の域に達した後は柔弱に流れてついに北方の野蛮人種のために征服されたではないか。
中古においてはスペインやポルトガルが世界に雄飛していた。それがだんだん文明が進み、ぜいたくに流れ、金が殖えてくると弱くなって、スペインやポルトガルは第三位、第四位の国にさがって、イギリスとかフランスとかドイツとかいう国が盛んになった。又ナポレオン一世は一時はヨーロッパの覇権を握って、イギリスもドイツもロシアもナポレオン一世の前にはひざまづいたが、これも奢侈(しゃし)に流れ、ぜいたくにふけったために、とうとう捕虜となってイギリスに囚徒となったのではないか。
近い例がこういうものである。ゆえに日本が封建の武士道の精神を長く維持して、それに欧米文明国の学術技芸を輸入消化して両立して長く行くことができるかどうかに将来の問題である。今日の日露戦争について観察するのに日本人は精神は封建的にして、使用する武器は二十世紀の文明的の物であるからロシアに勝つ。
もしこの国情がいつまでも日本に存在している間は日本は世界独歩の強国である。しかし世の進歩というものは思想に変化を及ぼし、又精神もだんだん薄弱になる。それでこれは日本人が深く反省しなければならぬ。
今日のー(日露戦争当時)−日本は、半面は昔の武士、半面は二十世紀の文明を有する国民であるから強い。これを長く維持していけば世界中に日本に敵する国はないと思う。私はこの日露の戦争において日本の将来を祝福する」
と言った。私はこれを非常に適切なる忠告と思って常にこのことを友達などにも話したのであります。
それが今日では、思想がだんだん薄弱になって、昔の気風が薄らぎ、そうして欧米の薄っぺらな皮相の文明をまねて、ただ服装とか、髪の形とか、挙動とかいうものは文明人種のようになったが腹の中、頭の中は文明ではない。
それでは武士道の精神が残っているかというと、これも残っていない。或いは言いすぎかも知りませぬけれども、実に今日の日本(昭和3年当時)はよほど危い時に立っているようにも思われるので、このホームスの言った半面は封建の武士的の精神を保持し、半面は二十世紀の文明たる学術技芸を修習するというのは、日本国民が大いに味わうべきことであると思っている。
それから九月一日にロシアの巡洋艦が旅順から逃げて太平洋を横切ってサンフランシスコに突然入ってきた。すなわち中立港に逃げ込んできたのである。そこでアメリカの官憲がすぐ臨検して調べたところが、言を左右に托して一向真相を言わない。
それでアメリカでは調査委員が乗り込んで調べてみたところが、機械もどうもなっていない。結局旅順から逃げてきたにすぎないということがわかった。そこで大統領がすぐ命令を出して、二十四時間内に武装を解いてこの戦争中サンフランシスコに停泊するか、又は二十四時間以内に港を出て日本の海軍と戦うか、二つのうち一つを選べという厳令を下した。
それでロシアの艦長は武装を解除して戦争のすむまではサンフランシスコに停泊して上陸もせぬ、戦争もしないという誓約をしてそこに停泊していた。ところがロシアの方では非常に反対してルーズベルトはどうもロシアの方にあまりにも過酷だということを言ってしきりに攻撃した。それで私はそのときたまたまワシントンにおりましたが、ルーズベルトが私に言うに、
「あのサンフランシスコに逃げ込んだロシアの軍艦に対する僕の処置は至当のことではないか、ロシアの方では峻厳にすぎるというが、それは通用しない議論である。僕は中立国としてロシアに対して手ごわい処分をした。
しかるにイギリスという国は実に頼み少ない国である。イギリスは日本の同盟国でありながら、イギリスの商人が軍艦に最も必要なるカーディフ炭をイギリス海峡の海上でロシアの軍艦に売って金をもうけている。しかるにイギリスの外務大臣はそれを知りながら黙過している。これが君の国の同盟国であるか。それして公平なる態度をもって日本とロシアに対して処置をしている。
あまりひどいではないか。これでも日本の同盟国かと一本手紙で突っ込んだところが、イギリスの外務大臣は一言もない。必ず止めさせますと言って止めた。それだから今度僕がロシアの艦隊に対する処置は少し強いけれども、これは中立国のヨーロッパの諸国によい手本を示すつもりでやった」
という話でありました。これなどは大統領として非常に日本に同情を寄せたことの一例である。
それからもう一つついでに申しますが、ロシアの艦隊がアフリカの東海岸のマダガスカルや安南のカムラン湾に来たときに、フランス政府はその地方に持っているところのドックに入れ軍艦の修繕をなさしめた。上陸すればそこの知事が大夜会を設けて艦隊の将校を歓待したのみならず、軍艦に必要な食糧品を給したり、いろいろな便宜を与えた。そこでルーズベルトはフランスの外務大臣デルカッセーに手紙をやって、
「日本の敵たるロシアの艦隊をフランス政府のドックに入れて修繕をなさしめ、陸上においては艦隊を歓迎するやら食糧品その他の物品を給与するということは、日本に対してあまりに片手落の仕業ではないか」
と言って突込んだ。これもデルカッセーが閉口してただちに止めた。これらは日本の外務大臣が頼みもせず、も一言も言わぬのにまったく大統領が自発的にやってくれたのである。かくのどとき大統領がアメリカにいて日本に直接間接便宜を与えてくれたことはまことに日本のためには幸福であったと思う。
かくしてわが軍が連戦連勝の喜びを重ねている間に実に憂うべき宣伝がヨーロッパからアメリカに来た。それは陸軍においては日本が勝つから、ロシアはだんだん予定の退却としてずんずんハルピンに向かって退却する。軍艦は旅順とウラジオストックを日本が封鎖しているからできらない。ゆえに戦においては陸海ともロシアが負ける。しかし財政の点では日本が必ず負ける。ロシアはあの通り世界無比の大国であって、人口も多い。そうして金はフランス・ドイツという後楯があって援助するから心強い。これに反して日本は人口も少ない。国も小さい。
金を借りようとしてもアメリカが貸すくらいのもので、ヨーロッパではロシアほどにはさぬ。公債に対し抵当を入れる点においてもロシアは金鉱その他の鉱物が大変あるけれども日本にはそういうものが無いから、財政で日本は倒れる。今年一杯か来年中には日本が財政上疲弊してついに降参するであろう。ゆえにロシアは予定通り引きさがり引きさがりして,日本の疲れるのを待っているのであるという論が大分ヨーロッパからアメリカに伝わってきた。
これにはアメリカ人もよほど動かされた。もしそういうことになればさきに日本の公債に応じた連中も利息の支払いはどうなるか分からぬと思って自分の懐工合から心配し始めた。そこで「Review of Reviews」という有名な雑誌がある。その記者にモンローという私の知人がある。これが私を来訪して、
「日本の財政について危惧の念を持っている人が大分ある。貴下は何かこれに対する弁明を書いてくれないか」と言う。
「よろしい、書こう」
それから私の手許にある日本の財政の有様、私立の銀行諸会社の株券の払込み等、すべての経済を基にしてこういう有様であるから、決して一年や二年では日本の財政は弱りはせぬということを、数字と統計によって事実を論文に書いたところがモンローが喜んで、それが十月号の雑誌に載りました。これは大変アメリカ人の危惧の念を消散させるにあずかって力があった。
このようなことは戦争中、始終誰か外国に滞在して、何か日本に不利な事件があればすぐそれを説明するだけのことをしていないと、非常な損害になる。東京の真中におって俺は国士だ、日本の陸海軍は偉い、強いとただ国内で威張っていても、波打際以外の外国にはその声は達しない。これが日本人の欠点である。
しかし外国に行って嘘八百言ってはいけぬが、事実は事実として発表することが最も必要である。これから先日本が世界列強の間に立つにはこのことは必要なことである。政府はもちろん国民もその覚悟でいなければならぬということを私はそぞろに感じた。
十一月三日は天長節(明治天皇誕生日)である。私はこの天長節を機会にアメリカの朝野の人に感謝の意を表しましょう。−同情をしてくれたことに対して感謝の意を表しましょうと思って、ボストンのサンマセット・ホテルで大夜会を催した。二千人ばかりに案内状を出した。
十二月初めはアメリカの交際季節の始めでありますから、日本の天皇陛下の天長節をボストンのホテルでやるということと、それが交際季節の第一番の宴会に当るというので非常に歓迎されました。戦勝国の天皇陛下の天長節にはぜひ行かなければならぬというので、我も我もと競争して私にいろいろの伝手を求めて招待状をもらいに来た。
そこで私は我が天皇陛下の天長節を祝うのであるから、たとえ知らない人でも友人の紹介があればやってもよろしいと秘書にいつけた。それでとうとう二千の予定が二千五六百に達するほど招待状を出しました。アメリカ人は日本の天皇陛下の天長節の祝宴会に列するのを栄誉として非常に期待されました。
米国は幸いにそういう気運になってきたけれども、ヨーロッパ方面ではまだ日本に反対の態度を取っておった。ヨーロッパではさきに日本の財政について攻撃したけれどもこれは成功しなかった。そこで今度は黄禍論“Yellow Peril”いうことで日本を攻撃し始めた。これは先年ドイツの皇帝が発明した言葉である。日露戦争で日本人が勝てば黄色人種が世界の文明国にPeril(禍害)を及ぼす。ゆえに日本に勝たせてはいけない。どこまでも白色人種は黄色人種なる日本人を叩きつぶさなければならぬ。これはたしかに世界の文明の禍だということをやかましく言ってきた。
このときに当り、”North American Review”という有名な雑誌の主筆にコネル・バーベという人がある。(後駐英の米国大使となった。)この人が私にどうかこれについて反対論を書いてくれと言うので、私は筆をとって”The Yellow Peril is the golden opportunity for Japan”「黄禍論は日本のためには黄金の時期なり」という論文を畢生の知恵をしぼって書いた。それは黄色人種は決して世界の禍にはならない。黄色人種がアジアにおいて勢力を得れば、むしろ世界の平和を維持する基であるという論であった。その要点は明治四年、岩倉右大臣が欧米に行って、条約を改正したいからと言ったときには各国からいじめられたのである。
しかるに日本が日清戦争に勝ったところが白皙人種(びゃくせき)の諸国が、今度は条約改正はごもっともですから対等条約に致しましょうということを向うから言ってきた。対等条約につき従来、最も反対した英国が第一番に対等条約を締結致しましょうと言い出してExtra Temitoriality(治外法権)を廃棄した。それからアメリカ、フランス、ドイツ等をはじめ、我も我もと対等条約を結んで治外法権を撤去して初めて対等条約を結ぶに至った。
これは日清戦争に勝ったたまものである。そもそも兵力がなくて外交はできない。兵力なしでから御世辞の外交のみでやろうとしても先方は鼻の先であしらうだけで決して取り合わぬ。しかるに日清戦争に勝てばただちに治外法権撤去ごもっともと条約改正を向うから言い出すようになる。
私は外交談判というものは国力を如実に示す兵力が伴わなければ、たとえいかなる英雄が控えていて、いかなる雄弁家が弁舌を振っても、如何なる交際術の上手な人があって国交を図ってもだめである。日本が今日のような世界的地位に立つことができたのは、日清戦争と日露戦争の賜(たまもの)である。これは日本の真相をアメリカ人に紹介させる上に大分効能があったと思う。−こうして東奔西走する間に三十七年は暮れました。
それから翌三十八年の一月一日はご承知の通り旅順が陥落した。それより前にちょっと申し上げたいことがある。三十七年の十一月というのはちょうど大統領の改選期でルーズベルトが再び大統領になるや否やという分れ目である。その前の十月頃からルーズベルトはピシャッと意見を発表することを止めた。
それまでは随分、日本に同情を寄せる意見を発表しておったが、十月になると全然止めてしまった。それで十一月の大統領の選挙までは黙っている。
そこで私は大統領を訪ねた。
「君はこの頃、大分黙っているがどうしたわけか」
「そうだ、今度僕が選ばれるか選ばれないか分らぬ。あまりに日本に同情することを言うと、反対党がそれを口実にして日露戦争に厳正中立を布告した大統領が日本に同情を寄せたということをタテにとって僕を落選させようとするから、僕は大統領に選挙せられるまでは沈黙を守ろうと思う」
「それはごもっともだ」
と言って私は何とも要求しなかった。そうするといよいよルーズベルトが大統領に大多数で選ばれた。これはワシントン以来の大多数で選ばれた。このときルーズベルトはこの大多数で選ばれるならば、俺が日本に対していかなることをしても国民が承知すると思ったらしい。そこで私に手紙をよこして、食事をしたいから来てくれとのこと。で約束の十二月十九日に行きました。そうするとイキナリ言うことが面白い。
「今回僕の当選は将来君のために一つの援助となるべし。これ僕が最も楽しむところなり」
今度当選したから将来君のために加勢することができるので喜ばしい。自分が大統領になれば日本のためにどこまでも尽くして平和にこぎつけたいと思う。旅順はどうも今年中には落ちまいと思うが、来春になったら必ず落ちるだろう。そのときは僕が日本のために働く時機であると言いました。
大統領は旅順陥落をもって講和の時機と思っていた。又アメリカ人もそう思っていた。果たして三十八年一月一日に旅順が陥落した。そのときルーズベルトが私に会いたいと言って来た。早速行って会ったところが非常に喜んで、
「旅順の砲台というものは今日世界のありとあらゆる学術機械を応用した堅牢無比の砲台である。とてもヨーロッパやアメリカの軍隊ではこれを陥れるということは思いもよらぬ。しかしこの難攻不落を陥れるのはひとり日本の兵隊あるのみ、日本の陸軍の人はこれをもって非常な名誉とするであろうと思う。」
と言った。これほどまでに大統領は旅順の陥落を喜んだ。しかるにルーズベルトは言葉を改めて
「しかしここに僕は一つ君に忠告しておく。どうかそのことを日本政府に通告してくれたまえ。旅順が陥落したと言って図に乗ってどんどん北に行ってハルビンまで取ろうというような軍略は止めてもらいたい。
ひっきょうそれは損だ。かりにハルビンまで日本の兵が行ったとして、それでロシアが降参するかと言うと決してそうではない。まだ六千マイルもセントルーペまであるのみならず、ハルビンに行けば戦線が何百里に広がる。それを守備する兵隊が日本にあるかどうか。又それに補給すべき兵器弾薬があるかどうか。どこかよい潮合を見て戦争は止むべきものと思う。多分これでロシアの方でも講和談判を要求するような気になりはせぬかと思う」
こういうような話を致しました。私はただちに暗号電報で、小村外務大臣に報告した。そうしてだんだんみていると旅順は落ちたけれども、ロシアは少しも平和を希望するような態度が見えぬ。モスクワからはどんどん新しいよい兵隊をハルビンに向って輸送する。五十万、あるいは六十万と号し、少くとも四十五万は行ったようである。それはなぜであるか日本でも分らぬ。アメリカでもだんだん研究したがどうも分らなかった。
ところが戦争の終りがけになってはじめて分った。もし私がこれを初めに知っておったら無論、日本政府に電報を打ったろうけれども、判断がつかないから致し方がない。しかるに平和回復後帰朝して、児玉大将に会って、
「君は満洲軍の参謀総長をしていたから疑を抱かれたでしょうが、どうしてロシアがあれだけの大軍をモスクワからどんどん極東に送ったかお分りでしたか」
と尋ねると、大将は、「僕もあのことは不思議に思っておった。あの輸送は誰がやったか知らぬ」と言ったから私は児玉に告げて、
「じつは米国において僕は大統領を始め各種の人びとに聞いたところが、単線で六千マイル、モスクワからハルビンまで沢山の兵を送るのは不可能だ。であるから二年続けば鉄道は壊れるから、新兵を補充することはできぬ。兵器弾薬を補充することもできぬと思うと言っておった。 
6

 

[日本海海戦勝利にルーズベルト大統領は大喜びして、熊皮を明治天皇にプレゼントした]
ところがここに驚くべきことが分った。それはかのシベリア鉄道は鉄道大臣のヒルコフ公爵が経営しておった。公爵は日露戦争の数年前、家産が傾いて、到底公爵の暮しができぬというので、アメリカに来て鉄道の工夫になって、アメリカの鉄道工夫に混じって一労働者としてしきりに労働に従事した。
上役の人にただならぬ者であると認められて、漸く工夫から事務員、課長と抜擢されて重要な位置を与えられた。それからワシントン、ニューヨークその他アメリカの重要なる鉄道を見て回って経営方法を調べたり、技師にも交際を結んでロシアに帰って行った。
ちょうど、ウィッテが大蔵大臣としてシベリアの鉄道を旅順大連まで延長しようという際であったから、ヒルコフ公爵を鉄道大臣に任じて「貴下に一任する」ということにした。そのうちに戦が始まった。そこでヒルコフはごく秘密にアメリカのもとの友人と交渉して鉄道の技師や技術家を何百人とロシアに呼び寄せ、アメリカの製鉄所、汽車製造所からどんどん汽車やレールを買い込んでアメリカから輸入したそれをモスクワから単線で一つの列車を二三十台つないで、それに兵隊も載せ、兵器弾薬も被服も載せてハルビンまで送った。
これサイド・トラック(横線)に引き入れて、その貨車は倉庫とか、兵営にしてしまう。そこで六十万の大軍が輸送されたしだいである。戦がすんで後になって分った。もしぼくが早くこれを聞いておったら君に知らしたものを、残念のことをしたと思ったが後の祭であった」という話を児玉にした。
そういう方法でシベリアの単線鉄道があの大兵を難なく送ることができた。
さて乃木将軍がステッセルに送った降伏の勧告状につき一言しよう。旅順の陥落前にこの勧告状はアメリカに伝わっておった。そうするとこれが旅順の陥落とともに非常な評判になった。乃木将軍の降伏勧告状というものはアメリカ人が感服して大評判となった。それは、
「我が天皇陛下はいたずらに無辜の兵を殺し、無益の血を流すのを非人道と思し召さる。この際投降せば武人の名誉を保って帯剣のまま旅順を出で、北方の露軍に投軍することを聴許あるべし」
というのでありますが、これは非常にアメリカ人が感服した。これがすなわち武士道だと言って賞讃した。ところがこれに対してステッセルがどう言って断って来たかというと、
「我輩は決して降伏はせぬ」
のみならずロシア皇帝に上奏して、
「臣は日本皇帝の降伏勧告を拒絶したのみならず、臣はここに祖国に対し最後の訣別をなす。臣は旅順をもって墳墓の地となさんと決心す」
と言った。この電報は旅順からロシア皇帝に打った。これは非常にアメリカで評判になった。そうして一方もさすが乃木だ、実に偉い。また、ステッセルが露国皇帝に対し“Last farewell(最後の訣別)をなして、墳墓の地となすと言った。これも感心だと、両将の言行を対照して新聞に出して賞揚しておりましたが、一月一日の降参のときにはどうです。
ステッセルその他の士官は立派な軍服を着て、乃木と手を握っておった。これに反して兵隊は破れ軍服を着、破れ靴をはいて、ぞろぞろ出て来た、実に哀れな有様である。
まず普通ならステッル将軍は破れ着物を着、破れ靴をはいているべきである。しかるに兵隊は見るに忍びないような見すぼらしい服装をしているにかかわらず、自分達は立派な軍服に立派な靴をはいている。
このことはアメリカ人に非常な悪感情を与えた。のみならず、ステッセルが長崎に上陸して日本のお土産物や美術品を夫婦で五千ドルも買い込んで、船に積んで帰ったという電報が新聞紙に載せられた。よって米国人は実にロシア人は嘘八百言う。このような心がけであるから負けるにきまっていると言って大いにロシアを悪く言った。旅順開城のときのロシアの将校と日本の将校とを比較対照して、ロシアは最初は偉いことを言うが、しまいの方が卑劣だ。こういう次第で実は旅順陥落の有様により、日本軍はアメリカ人に非常に好感情を与えた。
さて旅順が陥落したから、大統領ルーズベルトは平和回復のことをロシア政府に勧告しましたが、露国はなかなか承知しません。その言うところによれば沙河の戦で露国の軍隊の士気は非常に奮起しておるから旅順は陥落したけれども奉天には四十万の新兵が本国から来てたむろしている。
これは武器も良い。兵隊も今までのようなものではない。これまで負け戦をしたのはシベリアの駐屯軍であったからである。今度のは本国の精兵であるからこれをクロバトキンが率いて奉天から南下してくれば、大山の率いる満洲軍を攻め滅ぼすくらいのことは今年の春の間に出ない。和談判などとは思いもよらぬと答えた。それで旅順は落ちたけれどもルーズベルトも私も、いつ講和談判が始まるか分らぬというわけで、しばらく形勢を観望する外はないということになった。
しかるにワシントンの外交社会ではルーズベルトが講和談判の斡旋をしているということがちらちら聞え始める。そうすると二月七日、高平公使が私に電報を打って急に会いたいからワシントンに来てくれといってきた。それで私はすぐ行って停車場に着くと高平公使は馬で迎えに来ておったから同乗してホテルに行きました。
その道すがら高平公使が言うには、ドイツ皇帝から重要なる親翰(親書)がルーズベルトに来たと聞く、これはどうも講和談判のことらしいという外交社会の取沙汰である。それで長さはこのくらい、幅はこのくらい、その裏には封蝋(ふうろう)が付いてドイツ皇帝の印が押してあるという。これは大統領が誰にも見せぬが最も重要なる機密の親翰であるということを私は確かなる人から聞いた。これは講和談判のことであろうと思われた。
それでルーズベルトに会って閣下はドイツの皇帝から御親翰をおもらいになりましたかと聞いたところが、そういうものはもらわぬと白を切る。どうか貴方ルーズベルトに会って聞いてくれぬかという話。それで私は、
「よし、それじゃ行って聞いてやろう」
と言った。もうそれは日の暮方でした。それから大統領に電話をかけて、急に会う用事が起ってニューヨークからわざわざ来たが、いつ会えるかと尋ねると、
「今夜は外交団を呼んで宴会を開くから、十時過ぎでよろしければさしつかえない」
という返事であった。それから時刻を計って大統領の官邸に行くと、ルーズベルトが玄関まで迎えに来て、「何の用だ」と聞くから、「ここでは話ができない」
と言って、いつも秘密談判をする二階の書斎に行った。そうするとルーズベルトは向うの方からソファーをゴロゴロ引いて来て、
「今夜外交団のお世辞話で疲れきったからソファーにひっくりかえって話そう。君はその安楽椅子を持ってきて、それに腰をかけて話したまえ……何か飲むか」「ぼくは酒は飲まぬ」「それじゃ炭酸水でも飲もう。一体十時過ぎて来たのは何事か」「少し用があるのだ」「どういう用か」
「ぼくはちょっと君に聞きたいが、ドイツ皇帝から秘密の親書をもらったか」
と単刀直入問いかけた。ところがルーズベルトは平気な顔をして、「イヤ何ももらわぬ」そこで私は、「高平が聞いたときにももらわぬと言ったそうだが、僕にも君がもらわぬと言うならば、重ねて問いはせぬが、君はぼくの友人でないか。友人なら本当のこと言うてもよいじゃないか。君はもらわぬと言うけれども、たしかにもらっている。もらったという事実のみならずその中に書いてあることもちゃんとぼくは知っている。それでも君はもらわぬと言うか」
「どんなことが書いてあるか」
こう言ったからこれはもらったに違いないと思って、
「それはドイツ皇帝が自若の講和談判を君と二人で斡旋する代りに、膠州湾はドイツの勢力範囲にするというその交渉の手紙とみている」
「そんなことはない」「そんなことはないなら、どんなことがあるか」
ここで一本参った。
「そんなことがないと言うなら親書は来ているのだろう」「来ている」「それみろ、来ているじゃないか」
「しかし君の言うようなことは書いてない。大変日本に好いことが書いてある」
「それはぼくは信用せぬ。ドイツ皇帝はこれまで日本に邪魔をした人だから、今度にかぎって日本によいことをするはずがない。自分のためを図って自分の利益になることをする人だから」
「それでも書いてある」
「書いてあると言ってもぼくは信用せぬ。君はぼくの友達だから嘘は吐かないと思うけれども、君がぼくに手紙を見せぬ以上は信用できぬ。その手紙を見せなさい」
「それは見せられぬ。これは外務大臣のジョン・へイにも見せないのだ。高平公使が来て「手紙を受取ったか」と聞いたときにももらわぬといったくらいである。しかしドイツ皇帝の機密の手紙だから誰にも発表せぬけれども、君は親友だから話だけする。手紙を見せるだけは許してくれ」
「ぼくは手紙を見なければ君の言うことを信用せぬ。よく考えてみなさい。ドイツ皇帝の態度は、日本において伊藤、井上、山県、松方の元老も心配している。ドイツ皇帝についてはすでに三国干渉のときにもてこずった苦い経験がある。それで日本政府はドイツ皇帝の態度が一番こわい。君がぼくに今度は日本によいことが書いてあるというならちょっとでよいからその手紙を見せてくれ。そうすればどれほど日本政府は君を徳とするか分からない。こうま君の友情に甘えて要求するのは無理かもしらぬが、ぼくの国は国を賭して戦っているのだからどうか許してくれ」
と言うと、ルーズベルトはスッと立ち上って金庫のところに行きポケットから鍵を出して自分で開けてー通の書翰を持ってきて私に見せました。果たして高平公使の言ったような大きさの手紙で封蝋が裏に押してあった。
「これ見たまえ」
と言いましたから開いて見るとフランス語で書いてある。私はフランス語はどうにかこうにか拾い読みはするけれどもおぼつかないので、
「ちょっと君一つ翻訳してくれ」
と言って、二人でずっと見て翻訳してもらった。その翻訳したところによれば、
「予は支那に寸地をも希望せず、又山東省をも占領せざるべし。平和回復のことは一に貴下の意見に任す」というような意味が書いてあった。
「これだから君、良いじゃないか」
とルーズベルトが言った。
「これを見せてくれたのは実にありがたい。友達としてかくまで親切に、かくまでぼくを信用してくれたことは一生忘れない。ひとりぼくのみならず日本国民も君の今夜の親切は忘れない。実に君は日本の恩人だ。さて一を得ては他の一つを望むようなれどもぼくはこのことを日本政府に電信を打って知らせたい、許してくれないか」
「それはいかぬ。君が懇望であったから君だけには見せたが、ぼくの外務大臣へイにも見せないものを日本政府に漏らすわけにはいかぬ。万一日本政府から漏れたときはドイツ皇帝に申訳ない」
「しかし今までぼくの電報は一つとして漏れたことはない」
「きっと大丈夫か」
「大丈夫だ、そのことはぼくが保証する」
「そんならよろしい」
と言ったから私は堅くルーズベルトの手を握って二階から下りた。それから玄関に出て来ると夜の十二時近くですが、十四、五人の新聞記者が待っておった。
ほうほうの体でホテルに逃げて来ました。そうすると高平がまだ待っておった。
「君が話したドイツからの手紙は果たして来ておった。ぼくは今から会見の模様を英文で書くから君は公使館に帰って暗号電報の用意をしたまえ」
と言って大体の様子の話をして、それから英文に書いて、それを秘書に持たしてやって、暗号電報に翻反訳して小村外務大臣に打った。夜は正に明け方であった。日置益という一等書記官が翌日やって来て、
「昨夜の貴方と大統領とのお話は国のために非常に貴いものです。貴方が今度アメリカにおいでになって長い間ご滞在なさったのも、あの電信一つだけで十分でございます。金鵄勲章(きんしくんしょう)の価値はたしかにあります。その代りにわれわれ公使館員は昨夜は暗号電報の翻訳で徹夜し朝までかかってついに一睡もできませんでした」
と言ったくらいでありましたが、日本にある元勲も政府当局もこの電報を見たときには非常に喜んだということを後から聞きました。
さて旅順が陥落すれば無論ロシアは講和の依頼を大統領にするだろうとはヨーロッパでも思い、アメリカでも思っておった。ところがなかなか講和をする模様がない。そこでルーズベルトはか今度はフランスの外務大臣デルカッセに頼んで、もう旅順も陥落したから、ここで講和談判をしてはどうかということをロシアに申し込んだ。
そうするとデルカッセの返事に、ロシア政府はなかなか講和談判などをしようという考えはない。そのわけはクロバトキンが四十万の兵を奉天に集中しており、なおロジェストヴェンスキーもいまやアジアの海岸に行きつつある。
このロジェストヴェンスキーが日本海に近付くや否や、クロバトキンは奉天から四十万の兵をもって大山軍に当る。そうして一戦の下に大山の全軍を撲滅してしまって、一兵一卒でも大陸には残さぬ。
そうしてバルチック艦隊が対馬海峡に突進して東郷艦隊を全滅し、日本と朝鮮との連絡を断つ決心であるから講和談判などは思いもよらぬというけんもほろろの挨拶であった。そこでルーズベルトも困って私を電報で呼びましたから、ワシントンに行ったところが、実はこれのことである、これは奉天の戦で、向うは終局の決戦をするつもりであるから、しばらく奉天の戦までは待っているよりはかはないと、こう言っておりました。
それからだんだん日露の両軍が戦闘準備をして、三月十日のあの大激戦があった。その戦でとうとう日本が奉天を占領して、ロシア軍がハルビンに退却した。そこでルーズベルトは電報をもって、私にワシントンに来るように言いましたからまいりましたところが、大統領は自分の部屋から飛び出して来て、私の右手を取って、Greatest Victory!「偉大なる勝利」と非常な喜びで握手を強く致しました。
これで今度はもう戦はかねて言った通り、奉天で終局した。今度の大激戦でかく偉大なる勝利を得た以上は、今度はロシアが必ず講和談判をするであろうから、まずこれで日本のためにぼくが尽くし甲斐があったと私に言いました。ルーズベルトは非常に奉天の戦勝を喜んでおりました。
しかるに時日は過ぎましたけれども、ロシア政府から講和の斡旋を大統領に頼む模様もなく、バルチック艦隊も日本海に来らず、それで一向講和談判の兆候もみえず、そうするとルーズベルトから三月二十日に私にちょっと会いたいから午餐に来てくれという手紙が来た。私はワシントンの大統領の官邸に行き、午餐の後、相ともに別室に行くとそこに陸軍大臣のタフトもおった。ルーズベルトが言うには、
「実は我輩は六週間の休暇をとって、今からコロラド州の山の中に熊狩に行く。今のところ別に講和談判が始まる様子も見えないから、六週間熊打ちに行く。
その留守中は陸軍大臣のタフトに大統領の権限を委任してあるから、ぼくの留守中に用事があったらすべてタフトと相談してくれたまえ。ぼくは熊狩りに行くときには一切外部とは電信、手紙の往復はせぬ。山の中に入って一切人間社会と交渉せぬ。急用があったならばタフトに、ぼくにすぐ帰れということを言ってくれたまえ。そうすればすぐに帰ってくる。それを君に話そうと思って呼んだのだ」
ということであった。それから三人寄って話しているうちにルーズベルトは、
「ぼくはちょっと公文に署名しなければならぬから失礼する」
と言ってデスクのところに行って署名をしていた。その間にタフトと私がストーブの前に立って四方山の話をしているとタフトがストーブの上の壁にかけてある額を指して、
「この額がコロラド州の山の中の絵だ。あそこにぞろぞろ歩き回っているのが熊だ、大統領はあの熊を打ちに行くのだ」
「それじゃあぼくは熊打ちは止せと大統領に勧告したい」
こう言ったところが署名していたルーズベルトの耳に入ったのであろう、署名の手を止め私を顧みて、
「止めろというのはどういうわけか」
「なぜかといえば君も知っているだろう。イギリスの記章は獅子、アメリカは鷲、ロシアは熊である。そのロシアの記章たる熊を米国大統領の君が日露の戦争中に打ちに行くということは、穏当でない。とりもなおさずロシアを打つということになる。ゆえに厳正中立を標ぼうする大統領としては止した方がよかろうと思う」
「ぼくは熊打ちよりもロシアを打ちに行くのだ」
「それなら大賛成。どうか君が熊を沢山打ってくるようにぼくは祝福する」
と言うと、ルーズベルトは、
「ぼくがコロラドで沢山熊を打ったならば、今度来るロジェストヴェンスキーの艦隊は日本の海軍のために打ち沈められる前兆だ。ぼくは沢山とって来るから待っていたまえ」
と言って別れた。
それが三月二十日です。果たせるかな後日すなわち五月二十七日にはバルチック艦隊が日本海にてあの通りに潰滅した。
五月十八日まで待っても艦隊がまだ日本の近海に来ぬ。ルーズベルトがちょっとワシントンで午餐を一緒にしようというから私は行った。いつものとおり最初は夫人や子供達と一緒に飯を食って食事を終えた。ところが、「実はこの間の熊狩りの報告をしようと思って招いたが、大きな熊を三頭、中小取まぜて六頭、都合九頭も捕った」
「それは大成功だ」
「ロジェストヴェンスキーも近々日本の近海に来るはずだが、日本の艦隊がこれを打ち沈める吉兆はもはや実現した」
「それならぼくはその熊の皮を一枚その記念にもらいたい」
「折角だがそれはやれない。ぼくはすべて猛獣狩に行って捕ったときの獲物は、親類でも友達でも一匹もやらぬことにしているから遺憾ながら君にもやれない」「しかしぼくは是非欲しい。ぼくはそれをもらっても自分で所持する考えではない」
「何にするのだ」
「君は先般熊狩に行って熊を撃つのはロシアを打つつもりだと言い、今日これだけの獲物があったのはロゼストウエンスキーの艦隊を日本の艦隊が打ちつぶす前兆だと言うから、ぼくはこれをもらって帰朝したとき、わが天皇陛下に献上したいと思う。ぼくは自分の私有物する気は毛頭ない」
「なるほど、天皇陛下に献上するか、それなら一番大きいのを上げよう」
と言って大いに喜びました。その日官邸を辞し去るに臨み、
「君が日本に帰るまでによく皮を柔らかにして目の球も入れて、生きているそのままに見るようにするから、君が帰朝するときこれを持ち帰って、天皇陛下に献上し、この熊皮についての事柄を奏上してくれたまえ」と言いました。それで講和談判もすんで私が帰朝するとき大統領にいとまどいに行きますと、
その献上の熊の皮を託されました。それから帰朝し、拝謁仰せ付けられましたとき、陛下にそのことを直奏(じきそう)いたしまして、これがルーズベルトがコロラド州で打ち取った熊の皮の一番大きい物で、ロジェストヴェンスキー艦隊の全滅の吉兆だと大統領が申しておりました品でございます
と奏上致しましたところが、陛下は大変なお喜びで、その熊の皮を明治四十五年七月三十日の崩御まで、お学問所の次の間に敷かせられて、ルーズベルトの記念として長く御愛用になりました。
そうしてその御返礼として平和回復後、初めて全権大使としてワシントンに行く青木周蔵子爵に託してお品物を賜わった。その品物は当時の宮内大臣田中光顕伯に御沙汰があって、田中光顧さんから私に相談がありましたから、私は、
「ルーズベルトは武士道を尊信しているがゆえに、日本の緋鍼(ひきどうし)の鎧(よろい)をお贈りになったら、定めし喜ぶでありましょう」と申して二人で相談をして、緋鍼の大鎧を探し出して上奏し青木大使に託して、熊の皮の御返礼として御贈進になりました。ルーズベルトは明治天皇の賜物として非常に喜びました。長くて大切に保存しているということを私は聞きました。 
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[日本軍はなぜ強いのかー武士道に根源あり]
[日本海海戦勝利に狂喜したル大統領はなんと『万才』と漢字で書いた手紙を金子に送っていた。]
さて、奉天の戦争がいかなる衝動をアメリカ人に与えたかというと、わが軍は鴨緑江を渡って以来、連戦連勝、ただ沙河の戦で少し負けたくらい、わが軍というものは強い。あの奉天の戦は当時の日露両軍の兵数から砲門の数、その他戦争の日数を比べてみますと、世界始まって以来の大戦争といってもよい。
それで非常にアメリカ人の感動をひき起した。これは何がゆえに日本がかくのどとき立派な兵隊を持っているか。又かくのごとく忠勇なる兵隊はいかなる訓練によってできたかということについて、アメリカの陸海軍の軍人は勿論、学者、政治家、教育家、実業家その他の人も研究を始めた。
で、それらの人が寄り寄り私を各クラブ、協会等に呼んで、日本の軍人の教育はどういう方法をもってやっているか。どういうわけでかくのどとき勝利を得たか、実は我々は今まで日本はかくのごとく勇武な国とは思っていなかった。少し話を聞かせてもらいたいというのである。
ニーヨークに政治論理学協会というものがありますが、その会長のアドラス氏の案内で4月2日にニューヨークのカーネギーホールで公開演説を致しました。カーネギー・ホールはアメリカ第一等の広い公会堂である。そこには六千人ぐらい入るすばらしい大きい会場があります。
その演題は彼らの要求によって「日本人の性質及び理想」というのを選びました。もう戦が勝つことは分っている事実であるから、日本人の性質及び理想につき聞きたいという要求であったためにこの演題に致しました。
約束通り行ってみますと、六千人ばかりの聴衆が来ている。その会場がまことに音響の反射悪いから、私の英語が向うの隅まで通るや否や不安に思われたが、あらかじめ準備をしておいて、それから演説しました。幸いに隅々まで声が通って、二時間以上の演説が一言一句も漏らさずアメリカ人の耳に入ったということでありました。
この「日本人の性質及び理想」という演説の内容は、いちいち詳しく申し上げませんが、ただその骨子だけを申し上げます。
「そもそも日本の文明の原則は正義である。正義を遵奉するというのが原則である。これに反して欧米の文明の精神は、勢力を得るということである。」
これは私が冒頭に述べた意見である。
「ゆえに生存競争の舞台においてもし東西の両国が衝突するときには、今日までの実例に徽するに正義は常に勢力に圧迫せられ、道徳上の識見は常に物質的の腕力に圧倒されるという結果をもたらしたのである。現に支那がアヘン戦争においてイギリスから負けたが、これはアヘンをイギリスの商人が売り込むためで、つまり支那人の体質を軟弱にさせ、病気にさせるような、人道に背く商売をしたから起った戦争である。
それに支那が反対したがためにアヘン戦争が起って、支那は香港を取られ結局正義が腕力に圧迫されたのであります。近く我国においても同様二十七、八年の戦争(日清戦争)で、我軍が支那に勝って遼東を占領した。ところが露独仏の三国が干渉して、日本が遼東を支那から割譲させることは東洋の平和に害があるから支那に戻せというのである。
表向きは遼東還付の忠告であるけれどもつまり圧迫である。当時日本の陸海軍は戦後の疲弊から回復しないため、やむをえず涙を飲んでこれを環付した。
日本は最初からどういう考えを抱いているかというと、日本は数千年前すでに支那から儒教を取り入れ、インドから仏教が伝来したのを同化させ、ここに文明の基礎を築き上げた。ゆえに精神的訓練を経て、正義の守るべく人道の貴ぶべきことは十分知っているが、いかんせん交通の関係上欧米人の有する学術・技芸・機械的の方面には今まで力を尽くさなかったからこの方面で思わぬ不幸を見るに至った。
日本は古来から、正義公道を道義の根本としているが、これに加うるにヨーロッパの物質的の文明、すなわち腕力、機械の発明、学術の応用をもってし、これによって彼に対抗するの外はないと決心したのである。
よって明治の初年から殖産工業を盛んにし、陸海軍を拡張し、一面には憲法を制定して人民に自由の権利を与え、信教を自由にし、議会を開いて、国民をして政務に参画せしめた。ためにヨーロッパ今日の文明的政治を立ちどころに施しえた。祖先伝来の正義公道という国をなす根源は少しも忘れずして今日まで来た。ゆえに日本の国民教育の方針は、いわく、自負することなかれ、弱者を虐げることなかれ、常に自ら慎んで放らつな挙動をすることなかれ。他人に対しては丁寧懇切にして決して粗暴な振る舞いをするなかれ、などである。」
「この日露戦争の影響がいかに日本人の頭に響いたかと言えば、いかほど正義を主張するも腕力が乏しくては決してこれを貫徹することができぬということである。
又国家は軍備が充実してなければ、いかに外交的折衝が巧みでも何の効能もないということを今度の戦で痛感した。翻って今度の日露の戦が欧米人にいかなる影響を及ぼしたかといえば、これまで欧米人は自ら称して文明の民である。
アジア・アフリカの未開国の人民を救うのが我々欧米人の天職である。よってキリスト教を伝播して哀れな未開化又は野蛮の人民を救ってやる。これが我々の天職である。
それで我々の行くところ、未開の国は取ってもよい。未開の人民を虐げても彼らを文明に導くためには少しもかまわないというので土地を分割して取る。それが天職と彼らは心得ている。ところがこれまで彼らが未開国と侮ったアジアの一隅にある日本が、何ぞ知らんキリスト教国のロシアを一撃の下にたたきつけたのをみて日本という国は恐るべき国だ。
今まで我々がアジアを救うのは我が天職と思っていたのがすでに間違いである。アジアの人民は欧米人に向ってはただ命これ従うものと思っていたが、日本という強国が出てきた。これすなわち今度の戦によって日本の国民の真価を欧米人が発見したのである。又この戦争がアジアにおける我が同種族の人民にいかなる影響を及ぼしたかと言えば、これまでは欧米人から言われればご無理でもっともで、いかに正義を主張しても何らの効能もなくただ、白皙人種の悪虐無道のロシアをたたきつけた。
我々もまた日本と同じ人種であるから、潜在力は十分あるということをアジア人をして自覚させた。そこで彼ら東洋人種は日本の先轍にならって、欧米文明を扶植し機械を輸入して発憤すれば、将来は独立を回復することができるという希望を抱くようになった。
これが今度の戦の影響である。第一は日本国民に与えた影響、第二は欧米人種に与えた影響、第三はアジア人種に与えた影響である。
しかし日本国民はこれを誇って欧米人は我々には敵対できないというようなどう慢な考えは決して起こさぬ。しからば日本人の将来における希望は何かといえば、将来においては東洋の特性と西洋の学術とを融和せしめ打って一丸となして一つの新文明を造り、世界の人民をしてその恩恵に浴せしめ、全世界の平和を維持して世界皆兄弟という東洋西洋の聖教の本旨を実現させるという大希望を日本人は抱いている」
とこう演説した。これは欧米人から言わせれば随分思いきったうぬぼれ演説かもしれぬが、私は思いきって六千のアメリカ人に向ってこう演説した。ところがそれが翌日の新聞に出て、大変ほめる者もあれば、攻撃する者もあるというわけでありましたが、これが日本人の性質及び理想ということについて、私がアメリカ国民に向かって公会堂において公開演説をした初めての演説であります。
そうすると、それから面白い結果がでてきました。その演説が新聞に出るや否や、ロシア大使のカシニーは新聞紙上において私の説を反駁をして、非常な毒舌悪筆をふるって縦横無尽に悪口を言って、私に戦をいどんできた。そうして「ニューヨークヘラルド」紙がロシア大使のこの攻撃論文を載せた。
しかしながら私はこれまでロシア大使カシニーの議論に対してはたびたび攻撃したから、もう不問に付して何も取合わなかった。これは四月二日です。そうすると同月二十三日に匿名の手紙がきて、こういうことが書いてある。
「拝啓貴下は米国に遊ぶこと前後数回、しかしてこの国に在留せらるること、幾星霜に及べり。ゆえに米国人が虚偽の言論をもって世人を瞞着する特性あるのを見破られ、しかして自らそのひそみにならい、昨年以来各所において日露戦争に関し虚偽の言論をもって米国人を欺瞞(ぎまん=だます)されている。
しかるに米国人中、また貴下の術策に陥らず術策を看破するの具眼者あることを記憶せよ。貴下自ら警戒せられよ。しからずんば変、あるいはその身にいたらん。」
金子男爵貴下
一米国人
とこういう手紙が来た。これは脅迫状である。すなわち私が演説したり活動するのをみて、演説を止めなければ−ロシア攻撃を止めなければ、変が及んで爆弾が飛ぶかも分らぬという脅迫状である。私はこれも一笑に付して、少しも顧みなかった。それでこの演説は随分アメりカには影響があった。
それから五月の初めに大統領が午餐を共にしたいから来てくれと言ってきました。この午餐には大統領の二家族と、私と、それから二、三の友達、ならびにかつて日本に来たビゲローという人がおりました。
食後、大統領が、「実に日本の陸海軍の軍人の勇武には驚き入った。日本国民というものは実に偉い人種である。」としきりにほめた。
それから食事が済んで、例の通り二階の書斎に上っていろいろ外交上の話をしたときに、ルーズベルトがこういうことを言った。
「私はかつて君に言ったとおり、ロシアは奉天の戦であの通りの大敗北をしたから、無論講和を請うだろうと思っていたが、いまだに請わぬ。請わぬのみならずロシアからの報告を見ればロジェストヴェンスキーがアジアの海岸に来りだんだん日本に近寄ると、停泊港で受取ったところの報告により、彼がヨーロッパを出てくるときとはよほど意見が違って、艦隊の数といい、兵力といい、日本の艦隊は恐るに足らぬから必ず対馬海峡がどこかで日本の東郷艦隊を全滅してしまいましょう。
又クロバトキンは奉天では負けたけれども、ハルピンに五六十万の兵隊をもっているから、北方から坂落しに来て、今度は大山軍をことごとくアジアから追い払ってしまいましょう。そのときに至って初めて講和談判をする。今は講和談判をする時期ではないとそういっているから仕方がない。いずれはロジェストヴェンスキーのバルチック艦隊の運命によってきまる。
これが日露両国の決勝戦である。日本がこれに負ければとにかく、勝てば講和談判になる。これが一番必要な時機である。実はロジェストヴェンスキーの艦隊が日本海に近づくことについてはぼくも非常に憂慮している。
もし日本が負けたならば、講和談判はいかになるか、ぼくは憂慮に堪えぬ。この海戦がすなわち最後の決勝戦である。そこで君に忠告したいことがある。これはどうか日本政府に君から言ってもらいたい。
ぼくは今度ロジェストヴェンスキーの艦隊と日本の艦隊との戦でどっちが勝つか分らないと思う。全体ロジェストヴェンスキーの勢は偉いものである。君の方にも勝算はあろうけれども、もし日本が必勝を期するならば、ぼくはここに日本政府に忠告したい。
それはぼくが日本の軍事についてかれこれいうのはさし控えるべきであるけれども、これまで日本のために働いてきたから、これだけは日本の政府にぼくの意見を通じてもらいたい。決してぼくが日本の戦略にくちばしを入れるというわけではない」と断わって言った。
ルーズベルトはかつて海軍次官として経験があるから海軍のことは十分承知している。そこでいうのに、「ぼくの考えではロジェストヴェンスキーは対馬海峡を一直線に乗り切ってウラジオストックに入るであろう。これに反して東郷艦隊はロシアの艦隊が一直線に進んでくるのを、対馬海峡かどこかで丁字形の陣形をもって応戦するかもしれぬ。そうすると向うは一直線にきて日本艦隊の真中を突いて、その主力艦をつぶし、日本艦隊を中断して両方に打ち割って、その間を突き抜けてウラジオストックに逃げ込んだならば大変である。
それであるからこのT字形の戦術を止めて、日本の艦隊を二つに分けて、一隊は朝鮮海岸に寄せ、一隊は北九州に並べ、対馬又は壱岐の海岸に潜航艇、水雷艇を沢山置いて、ロジェストヴェンスキーの艦隊が来たならば、左右から水雷艇で撃ち、そうして本当の戦は海峡の真中に来た頃を見計らって両方から挟み撃ちにしてはどうか。
丁字形では向うの主力で衝かれるから不利である。ゆえにぼくはこういう戦術を考えた。これはひとりぼくの考えだけではない。アメリカの海軍の戦術家も同意見である。これを君どうか日本政府に通知してくれたまえ」
と熱誠をもって言った。それで私はただちに暗号電報をもって日本政府に通知した。
ところがこれは後で聞きましたが、日本の東郷大将はルーズベルトの意見とは反対に別にみるところがあって、やはり丁字形でこれを迎え撃って、あの通りに全勝を得た。これについて
帰朝後島村速雄、加藤友三郎、いずれも当時東郷大将の参謀長又は参謀になっていた人たちの話を聞き、又海軍側の友人に聞くと、日本でも丁字形で撃つか、あるいはルーズベルトの言うように二つに別れて挟撃ちにするかということについては随分議論があって、東郷艦隊の幕僚中にも意見が別れていて、最後まで決まらずにいたが、いざロジェストヴェンスキーの艦隊が来たから出て行くというときに、東郷大将の命令で左に行けというので左に行ったということを聞きました。
これは東郷大将の偉いところであの丁字形をルーズベルトは危ぶんでいたのに、その戦略を用いて敵を全滅したということは、全く東郷大将の策略がよろしかったのと、又我が将校、水兵の武勇なる結果であると私は思うのであります。
そこでここに一つの話をしたいことがある。待てども暮せどもロジェストヴェンスキーは来ない。ところが五月の二十七日は土曜日である。私はいつまで待ってもロジェストヴェンスキーの消息がないから、土曜・日曜の二日は秘書一人を伴い、一人はニューヨークに残して、アトランチック・シティーの海岸に行って休養しようと思って、かの地に行きその晩は友だちの家で晩餐に招かれて夜の十一時頃ホテルに帰った。
そうすると、まだ旅客が起きていてホールに皆集まっていた。私の顔を見るや否や事務員が飛んで来て赤の電報−外国電報は赤い紙であるーその電報を見せた。それを見ると私がニューヨークに残しておいた秘書から打った電信である。今日バルチック艦隊と日本艦隊と衝突した。そうしてその電報の趣意はこうであります。
『長崎駐在のアメリカ総領事の電報によれば、ロジェストヴェンスキーの艦隊と東郷艦隊と対馬海峡で衝突した。敵の軍艦六隻を撃沈し九隻を捕獲し東郷艦隊無事』
という電報である。そのとき旅客は皆私の周囲に集まってこれを見せろというから、それを私が読み上げるや否や、そこにいた男女はわあわあ言って万才を唱え、そうして私を食堂に連れて行って思い思いにシャンペンを抜いて、万才、万才、日本の大勝利と絶叫した。
夜の十一時過ぎ旅客の男女は知ると知らざるとを問わず、皆万才を唱えシャンペンを抜いて喜んだ。ところが喜んだのは喜んだがあまり電報がよすぎる。六隻を撃沈し九隻を捕獲して東郷艦隊無事とある。
あの大戦争に多少は事実より誇大に言ったかもしれないけれども、東郷艦隊無事とはあまりよすぎる。明日にでも本当の電報が来て、ひょっと間違っていたら大変であると思った。この電報はアメリカの総領事が長崎から打ったので、それが一番先にアメリカに来た。
その晩は私は興奮してあまり嬉しくて寝られない。とうとう夜が明けて東天が白々になったから一番汽車で帰ろうと思ってアトランチック・シティーのステーションに来てみると、駅待ちの電報がニューヨークから来ていた。それを見ると沈んだロシアの軍艦、捕獲したロシアの軍艦の名前まで書いてある。これで本当だということが分かった。
そうして列車に乗っている旅客は知ると知らざるとを問わず私の坐席に蝟集(いしゅう)して皆私の手を握って、大勝利でめでたいめでたいと言う。わずか三十分ばかり汽車が行くと、もう号外を汽車の中に売りに来る。そうして私に買ってくれと言う。
それからニューヨークの停車場に着くと、この私の五尺三寸の小さい体が七尺以上になったように自分も思いました。通行人が私の顔を見るとわいわい言って万才を唱えた。それから向う河岸にボートで渡って馬車に乗った。左右のアメリカ人の家には日の丸の旗が立っている。又通行人が私の顔を見れば帽子を取って万才、万才と言う。
実にこのときの有様は偉いものであった。そこで帰りましてただちに天皇陛下に祝辞を申し上げた。それは田中宮内大臣を経て電報を打ちました。「米国人は日本海軍の大勝利をもって世界未曽有となし狂喜雀躍、願わくは微臣の祝詞を両陛下に上奏あらんことを請う。」
それからしばらくすると今度はルーズベルトから手紙が来た。その手紙をちょっと読み上げますが、こういう文句であります。
謹啓 陳者今回の大勝利は貴兄にも定めてご満足のことと察し申し候 かのトラファルガーの戦勝、もしくはスペインの 「無敵艦隊」Invincible Armadaの撃破も這般(しゃはん=このたび)の大勝には遠く及ばずと愚考つかまつり候 
今後三週間内に御出府の機会これあり候わば 一度拝晤(はいご=お会いすること)つかまつり候 今朝竹下海軍中佐の訪問に接し候際 たまたま海軍大臣来り合せ同中佐の辞し去られるをみて 中佐こそは多幸をうらやまるべき人に候 日本人全体殊に日本海軍の将士は今や欣喜の情胸に満ち殆んど手の舞い足の踏むところを知らざるの感あるべしと語り申され候 敬具
1905年5月30日
万才!!! ワシントン大統領官邸 セオドール・ルーズベルト
男爵 金子堅太郎殿
手紙の中に「万才」と書いて圏点(けんてん=強調する点)を三つも打ってあります、よほど嬉しかったものとみえる。 そこで三週間のうちに都合がついたら来てくれといいますから私は行った。行くや否や手を握って、実に未曽有の大海戦にあの通りの勝利を得ようとはぼくは思わなかった。
その電報が来たときにはルーズベルトは電報を持って自分の官房にいて来客に会ったが、午前から午後まで来る人ごとに東郷艦隊の勝利の模様をいちいち説明して、殆んど自分は日本の海軍の大将のような気持でいたが、顧れば自分はアメリカの大統領である。
それに日本の海軍の戦の事ばかり朝から晩まで話していて、何も公務が手につかなかったといった。よほど嬉しかったとみえる。これがこのバルチック艦隊の全滅のときの有様である。
そこでルーズベルトが申しますには、もうこれでいよいよ講和談判になる。陸軍はあの通り、海軍でもこの通り、ロシアが頼みと思ったバルチック艦隊が全滅したから、これは講和談判になる。これからぼくが一肌脱いで両国の間に尽力しよう。こう言ってこれから講和談判に着手致しました。そこでいよいよこれから講和談判のことを申し上げます。 
8

 

[外交の極致―ル大統領の私邸に招かれ、親友づきあい]
ちょっとここで面白い話がありますから申し上げますが、東郷艦隊の大勝利が明らかになった後のある日のこと、私がニューヨークの晩餐会によばれて、十一時半頃大分満腹であったから、運動かたがた歩こうと思って、常用の馬車を返してフィフス・アベニューを歩いていた。
ところが辻待の馬車の御者が自分の馬車に是非乗ってくれと言う。
「おれは今夜腹が張っているから運動のために歩くのだ。」
「そうおっしゃらず是非乗って下さい、どこまででもよい、貴方のお望みのところまで行きます。」
「それでもおれは運動のために歩きたいのだからさ」
こう言ったが御者はなかなか承知しない。
「実は東郷艦隊の大勝利があって、我々御者仲間では、日本人を載せた御者でないと幅が利かぬから、どこまででもよい、ただでのせるから是非乗って下さい。」
と言ってどうしても私をさえぎって承知しない。そこで私は考えた。
御者がかくまで日本に同情を寄せているのに、それに乗らないのも折角の同情を無にするわけであると思って、私は宿屋まで乗った。そうして宿屋に着いたとき、大低このくらいと思って懐中から金を出して渡すと、それはただで乗ってもらったのだから戴きませぬと言う。
「まあ、そう言うな。これは馬車代ではない。お前帰ったら仲間の者とシャンペンを抜いて、日本のために万才を唱えてくれよ。」
「それならば頂戴する。」
と言いました。こういう有様が当時のアメリカ人の日本人に対する同情である。
これから講和談判になります。六月七日にルーズベルトが会いたいからというので会いに行くと、例の通り会えば昼食を一緒に食う。それから二階に行っていろいろ話をした。そうすると大統領が、もう今度はロシアも大分弱っている。そこでロシア大使のカシニーに、もうこうなった以上は速やかに平和のために、人道のために、又ロシアのためにも、ここで講和談判をするほううがよいと思う。
このまま戦えばハルビンは無論、ウラジオストックもシベリアの東部も日本に取られてしまうから、速やかに講和談判をしたらよかろう。どうかロシア皇帝に貴官からその旨を電報にて伝奏してくれとカシニーに頼んだけれども一向返事を持ってこないから、セント・ペテルスプルグに駐在するアメリカの大使マイヤーに電報を打って、ロシア皇帝に謁見して余の電報についてどういう意向かを聞くように命じた。
よってマイヤーからだんだん聞いたところが、ワシントン駐在のロシア大使のカシニーからロシア皇帝が受け取った電報は、余が同大使に談じたる意見とは余程違っていて、余が言った通りロシア皇帝には言っておらぬことを発見したから、そこで今度はカシニーを経由せずただちにマイヤー大使を通じて講和談判の勧告をしてみようと思うが、もしロシアがよろしいと同意してきた際は日本も講和談判に同意してくれるかどうか、君の意見はどうだ、と聞きましたから、私は、日本政府は同意すると思う。
これまで君が日本のために働いてくれたことでもあり、又旅順・奉天・バルチック艦隊の戦の有様もあの通りであったから、もうここで日本も講和談判をするのが至当である。
ゆえに君に対して必ず日本政府は同意すると思う。そうかそれではこれからロシアの方に交渉してみよう。というので、ついにロシア皇帝にじかにマイヤー大使から言ったところが、ロシア皇帝は「自分から講和談判をしようということは提議せぬ。」「しからば他人が勧告したらば御同意なさるか。」と聞いたらば「それならばする。」という返事であった。そこでルーズベルト言うには「ロシアはこの通り、他人が発議すれば講和をするというのであるから、ぼくが講和の勧告者になろう。」と決心し、日露両国に勧告状を同時に出すことにした。
元来この勧告状はワシントンに駐在しているカシニー大使に渡して本国に送ってもらうのが順序であるけれども、カシニーがぼくの言うことを改ざんする疑念があるからロシア駐在のマイヤー大使をもってロシアに勧告することにした。そうして日本に対してはこの国にいる高平公使を経なければならぬが、日露両国に対して同様の方法をとって東京駐在のグリスカム公使をして同時にこの勧告状を日本政府に提出せしめるつもりである。これを見てくれと言って私にその勧告状を見せた。
それを私が一読すると実に名文である。
「どうだ、まだ何か加えることがあるか。もし君に意見があって加えることがあれば何でも望みしだい書き込む。」と言った。
「もうこれ以上に望みはない。実に事理明せき論理整然、全く間然するところはない。この文章は殆んど日本のために書いたようにみえる。」と私は皮肉なことまでも言った。
「それでは直ちに発送しよう。」
と言ってそれを公文に書かせて両国に送った。これは六月の八日である。これ全くルーズベルトの偉いところであると私は思う。このときルーズベルトは私に向かい、
「さていよいよ講和談判になるものとみて、君に忠告することがある。ロシアに対しこれまで何べん講和談判のことを言ってもロシアの領地は日本軍が占領しておらぬからと言って拒絶した。そこでただいまから二個旅団の軍隊と砲艦二隻をもって樺太(サハリン)を取れ。早く彼の領土を占領せよ、
講和談判にならぬ前に今のうちならばよいから早く樺太を取れということを君から日本政府に言ってくれよ。」
と言うので、六月八日にその旨を政府に通報した。帰朝後当局者より聞くところによれば、その頃、廟議は樺太を取るや否やについてよほど議論があって長らく決まらずにいたが、或る日にわかに廟議が決まって混成旅団一箇、砲艦二隻を樺太に出発せしめた。旅団が樺太に上陸した日は七月八日で、丁度ルーズベルトが私に忠告してより一箇月後のことです。
さて講和談判の開始と決まったが、誰がロシアから全権委員として来るかと思っていると、イタリー駐在の大使のネルドルラが来るとか、誰が来るとかいう噂があったが、いずれも固辞して行こうとは言わぬ、最後にいよいよウィッテが来ることになった。これより先カシニーはアメリカの評判が悪いから呼び戻されて、ローゼンがアメリカ駐在の大使になった。
この人は日露開戦のとき最後の引揚まで東京に駐在した人である。そうしてこの人がウィッテとともに全権委員となった。このときルーズベルトが私を招んでウィッテが来る以上は、日本からも第一流の政治家が来なければいかぬ。ウィッテはロシア第一流の政治家であるから、日本でこれに対抗する人は伊藤侯である。
伊藤侯に今度はご出馬なさるように君から電報を打てと言いました。それで私が答えて言うのに、
「それはいかぬ。伊藤侯は二月四日の御前会議のときに、陛下からこの戦争中は伊藤は東京を離れず、朕が左右にあって外交及び国務を補佐せよというど沙汰があったから、伊藤侯は来られない。ぼくが電報を打っても駄目である」と言ったのですが、その後小村外務大臣と高平公使が全権委員になった。
さてルーズベルトの勧告状の終りに、両国が勧告に応じて講和談判を開くということになれば、その場所は自分が周旋してもよろしいから御下命相成りたいと書いてあったから、ロシアも日本も場所の選定をルーズベルトに一任した。
これは私に関する話だからあまり言いたくないけれども、実際の話であるから申します。さてルーズベルトに場所を決めてくれよと日露両国から頼んできたからどこにしようかという相談が私にあった。それで私は、アメリカの大統領が幹旋して講和談判を開くのであるから、アメリカが一番よいと思う。とこう言った。そうすると、それはもっともではあるけれども一応両国の意見を聞いてみようと言ってロシアの意見を聞いたところが、ロシア政府はパリーと言い、日本の意見を聞いたところが日本政府はチーフーか山海関と言ってなかなか開きがある。
そこでルーズベルトが私を招いていわく、「ぼくの考えではハーグがよかろうと思う。ハーグは万国平和会議のあったところであるし、ハーグならばロシアも同意すると思うから、日本もどうかハーグに同意をしてもらいたいが君の意見はどうだ。」とよって私は、
「それはいかぬ、そもそも勝った日本がわざわざヨーロッパまで行って講和談判をするという例は今までないではないか。負けた国が勝った国か、又はその近方まで来るのが当然である。現に日清戦争には支那が負けたから馬関に来て講和談判をした。勝った国がはるばるハーグまででかけて談判するということは不同意である。やはりアメリカがよい。アメリカならば両国の中程だからロシアも出てくる。日本も出てくる。いわゆる相引だ。」
「それではどこにするか。」
「やはりアメリカがよかろう。」
と私はアメリカを主張した。ところがルーズベルトが言うには、「アメリカに決めることはぼくが困る。」と言った。
「なぜ困るのか。」
「どうも世の中ではぼくが今度の講和談判の周旋をしたから、ルーズベルトが自己の名誉のためにアメリカに決めたのだと言われるから、そういう悪評をぼくは受けたくない。それゆえにアメリカ以外に定めたい。」
「それは君に不似合なことを言う。そう思う者があるかもしれぬが、アメリカで開くのが当然と考える。よく考えてみたまえ、アメリカの建国以来百三十年の間に世界にだれが名高いかと言えば、まず建国の初めジョージ・ワシントンが出て北米合衆国を建設し、続いてエイブラハム・リンカーンが出て奴隷解放を実行したこの二人あるのみ。
しかしそれは米国の内政の事だ。世界に向ってアメリカの名声を発揚したのは、君が今度の日露戦争の調停者として初めて世界に名を挙げたのではないか。それゆえに君が自分の膝元で講和談判を開くのは当り前と思う。
のみならずぼくは君と同窓の友人である。友人としてこういう名誉の転げてきたのを取り逃すというのははなはだ残念に思う。他人がどういうふうに言おうが、かまわぬではないか。アメリカに決めるがよい。」
「よし分かった。それではアメリカにする。−と言ってアメリカに決まった。それからアメリカといってもどこにするか。
ワシントンは暑中は非常に暑い。あそこにしようかここにしようかと詮議の結果、結局ポーツマスに決めた。あそこは軍港であるから第一新聞記者の取締りにもよい、第二には兵隊が立番しているから両国の全権に危害を加えるような者を取り締ることもできる。
そうしてかの地は涼しいところであるというのでポーツマスに決めました。そしてロシアからはウィッテ、日本からは小村外務大臣が、おのおのアメリカに向ってくるということになった。それまでに大統領は度々面会して講和の条件につき協議いたしました。
ル大統領の私邸に招かれ、親友づきあいー
オイスターベイの私宅は草ぼうぼうの山に
これは余事でございますけれども、ちょっとルーズベルトはいかなる人であるかということをど列席のお方々に報告したいと思う。
あるとき官邸で食事のときにルーズベルトが言うには
「君とはほとんど二年ばかりここで交際しているが、君はまだ本当のルーズベルトを知らぬ」「それはどういうわけか」
「ここは大統領の官邸である。官邸におけるぼくは北米合衆国一億二千万の人民の主権者であるから、多少辺幅も飾らなければならぬ、体裁も整えなければならぬ。君がぼくの本性をみるにはこの大統領官邸にいるルーズベルトではいかん。ぼくのオイスター・ベイの私宅に一晩泊りに来て、ぼくの家に寝てぼくと一緒に飯を食いたまえ。そうするとルーズベルトはどういう人間だということが分かる。ぜひ来たまえ。」
「それでは喜んで行こう。」
という約束をした。その後七月七日泊りがけにて私邸に来てくれという電信が来ましたから私はその日の午後にニューヨークから汽車に乗ってオイスター・ベイに行った。そうしたらば、ステーションにルーズベルトの常用の馬車が待っていた。
それに乗って行くとオイスター・ベイはロング・アイランドの田舎でサイド・ウォーク(歩道)もない、補装道路もないひどいところである。そうして野原の草ぼうぼうたるところを上って行くと、小山がある。これが有名なるサガモーア・ヒルである。
その絶頂にルーズベルトの家が垣もなければ境界もなく野原の草ぼうぼうたるところに建っている。その粗末な木造の家に馬車が着いた。ここにその家の構造をちょっと申しますがまず玄関を入ると、中には幅一間半ばかりの廊下があって、その右が書斎で左が応接の間になっている。
その応接間の外に縁側(ベランダ)があってその向うが傾斜したる芝生になっている。そうしてその廊下の突当りが広いホールになっている。これはルーズベルトが大統領になった後、夏の間、各国の大使、公使が信任状を捧呈するとき在来の狭い応接間ではいかぬから、建増しをしたものでその左右にはいろいろの武器や狩猟にて得たる獣類の頭や角が飾ってある。
その横に小さな食堂があるのみ。その晩の食事には男子は例によって燕尾服(えんびふく=タキシード)を着けました。大抵上流社会では夜分家庭で食事をするときでも燕尾服を着るのであります。ここに列席したる人びとはルーズベルト及び夫人、ルーズベルトの妹のロビンソン夫人、その他は子供等で全く家族的の晩餐であった。
大統領の御馳走であるから晩餐は定めしいろいろな美味が出るだろうと思っているに大いに相違して、スープが出て、次に魚のフライと牛肉のロースとのみにて、後はプディングと果物、ただそれだけでまことに質素なものである。使っている家僕(かぼく=しもべ)は黒人で、アメリカ人は使わない。これはアメリカ人は給料が高いからである。
食事が済んでコーヒーは応接間で飲もうと言って応接間に入った。応接間に入ると真中にテーブルが一個あって、その上に石油ランプが一つあるー(明治三十八〈1905〉年の頃ですが)ガスも使っていなければ電気はもちろんない。
私の東京一番町の家では既に電気をつけていたのに、ルーベルトの邸宅ではまだ太古の石油ランプを用いてそれもただ1個である。その丸テーブルを中心にして、ルーズベルト及び夫人と私と三人寄っていろいろの四方山話(よもやまばなし)をした。夫人は何をしているかとみると編物をしている。大統領の奥さんが編物をしている。
「貴女は何をなさっているのですか。」と聞くと、
「これは子供たちの靴下です。子供たちの靴下はみな私が編みます。」
と言う。一国の元首の夫人”(First Lady of the Nation)が子供の靴下を編んでいる。ここで我々三人がいろいろの話をして十時頃になった。そうすると夫人が、
「私はこれからご免をこうむって休みます。」
と言って窓の戸締りを始めました。このときボーイも女中も主人にかまわず先に自分の部屋に行って寝ている。日本ではお客様や主人の寝るまでは下女も下男も寝ないのに、アメリカでは自分の仕事が済めば、自分の部屋に行って先に寝てしまう。夫人が再び
「私は少しお先にご免をこうむります。」
と言ったとき、ルーズベルトいわく、
「自分は少し金子男と要談をするから書斎に行く。」
と言ったところが夫人がロウソク立て二個を持ってきて大統領と私に与えた。あなた方はご承知でありましょうが、二、三十年前に日本の車夫部屋などにもありましたが、ブリキで製造したるローソク立てと同一のものである。これにマッチを添えて我々両人に与えてテーブルの上の石油ランプを消し自分も一つのローソク立てに火をつけてグッドナイト(さようなら)と言って二階にある自分の寝室に行った。
それからルーズベルトと私は与えられたるブリキのローソク立てを持って書斉に入って講和談判のことに関し協議して一時過ぎになった。それからルーズベルトが、君の寝室に案内しようと言ってローソクに火をつけ先に立って二階に上って
「これが君の寝室である。」
と言った。これをみると内部はすべて今から五、六十年前の植民地時代の有様でその片隅に高い木造の寝台がある。他の一方には洗面台の上にピッチャーがおいてある。栓をひねって水が出る近世的の物ではない。それからルーズベルトが寝台の中に手を突っ込み、
「毛布が一枚より外ない。ここは夜中にひょっとすると寒くなる、風邪を引くといけないから、もう一枚持ってこよう。」
と言って出て行った。やがてローソク立てを右の手に持ち、左の手に毛布を引っ抱えて、やっさやっさと言って二階に上って来て
「これを足元の方におくから寒くなったら掛けなさい、これで大抵用事は済んだ……あっ!忘れた。大事なことを忘れた。便所を教えてない。これは大事なことである。夜中に君が起きてもどこにあるかを知らないと大変である。ちょっと案内しよう。」
と言って、ローソク立てを手に持って二階を下り、長い廊下を歩いて隅の方に行って、 「ここが便所である、この内にはきれいなタオルがある、又石けんもある。」
と言って引出しを示し、再び寝室に戻り、 「これで何もかも用は済んだからお休みなさい。」
と言って握手して室を出て行った。
それから私は寝て考えるのに、日本人六千万人多しといえども、一国の主権者に便所まで案内させたのは、おそらくおれ一人だろうと思った。(笑声・拍手)昼は官邸において大統領を向うへ回して国事を談じ、夜はその私邸において大統領に便所の案内をさせる。実に私は幸福な日本人だとそのとき思った(笑声・拍手)。
翌朝の食事中にも又面白い話があった。大統領が私に向っていうには、
「ぼくは日本の武士というものを非常に尊敬しているが、日本の武士の生活はどのくらいの金があったらよいか。」
と聞いた。
そこで私は、
「日本の封建時代の武士というものは、国主の下にある家老から下小禄の士族まであるから、これは大変な差がある。そうして三万石ぐらいから二人扶持と六石の蔵米取の士族まであるから、その身分の高下に応じて生活費の多少がある。
しかし普通の士族は概して第一に自分の地位に相当する大小の刀二本、鎧一領、そうして正月元日とか式日に登城して国主に拝礼する麻裃(あさかみしも=和服における男子正装の一種)、冠婚葬祭に列する身分相当の服装、第二に子供の教育、女は女に相当の教育、男は男に相当の教育をする費用が要る、第三に一家二年間の食料被服の費用。この三つの課目が武士の費用である。」
と答えたところが大統領が言うには
「それはぼくのと同じである。ぼくは我が身分相当の暮しをするだけの費用より外は必要はない。あたかも君の国の武士の生活費とよく似ている。しかし君の話によるとぼくは日本の武士より一つの費目が多い。
それはどうかというと、君の言う身分相当の費用、子女の教育費、家族の食料被服費の三項目の外に、ぼくには第四項目がある。これは医者の診察料と薬代である。日本の武士は病気をしないか。診察料は払わないか、薬代はどうするか。」
と反問された。
「それはごもっともであるが、封建時代の医者というものも国主から世禄をもらっているから診察料も薬代も要らない。士族で病気にかかった者は医者のところに駆け込めばすべてただである。薬代もただなら診察料もただである。」
すると、
「そうか、アメリカもそういうふうにしたいね。」というような笑い話を重ねました。
それから大統領の一家族とともに、近傍の原野を散歩しながらいろいろ面白い話をなし終日静養してニューヨークに帰り、すぐ前夜と翌朝の談話を暗号電報にて政府に報告しました。 
9

 

[外交交渉の極致―ポーツマス講和会議で日本を支持したルーズベルト大統領]
翌朝の話のうちに大統領が言うには、
「フランスはロシアの同盟国であるから、陰になり陽になってロシアのために働いた。これに反してイギリスは日本の同盟国ではあるけれども、超然主義をとって少しも日本のために働かない。これについて実にぼくは不都合だと思う。
しかしこれには理由がある。何となればロシアが負けて満洲から追払われて大連・旅順の不凍港を失ったときには、ロシアは必ず西の方面に向ってインドを突いたり、或いはペルシャに出てペルシャ湾の不凍港を取ろうとするから、将来イギリスに大関係があることを予想しているからである。これは君だけには言うけれどもどく秘密にしてもらいたい。」
翌朝、縁側の話の中において非常に必要なことがあったからこれは暗号にて日本政府に通報したが、日本人も記憶すべきことと思うからその一節を申し上げたい。
大統領ルーズベルトいわく、
「さて今度の戦争は日本の大勝利、又講和談判も近々に決まるならん。よってぼくは将来を達観して意見を述べたい。つらつら東洋の有様をみると、東洋に国を成して独立の勢力のあるのは日本のみである。支那・朝鮮・ペルシャ(イラン)・シャム(タイ)その他あるけれども、これはまだなかなか独立国というわけにはいかない。又独立しうる勢力もない。
そこで日本がアジアのモンロー主義をとって、アジアの盟主となってアジアの諸国を統率して各おの独立するよう尽力することが急要である。
それには日本がアジア・モンロ主義を世界に声明して、ヨーロッパ・アメリカからアジアの土地を取ったり、かれこれすることは断然止めさせる方針を日本に執らせたい。そうして西はスエズ運河から東はカムチャッカまで日本のアジア・モンロー主義の範囲内として、ヨーロッパ・アメリカ人には手を染めさせない。
しかし既得の権利は別としてかの香港・フィリピン・アモイのどとくこれまでヨーロッパ・アメリカが租借しているところは認めるが、それ以外の土地は一切取らせぬようにしてもらいたい。」
と途方もない重大なことを言った。そこで私は、
「君からそういう議論を聞いても、実は我々日本人は君の期待に添いうるや否やは分らぬが、もし君がその論をいよいよ決行せしめようとするならば、ぼくは満腔の熱心をもって賛成をする。我が身体を粉にしても君の意見を実行するように日本において尽力しよう。ぼくが帰ったら日本国民にそのことを報告するがどうだ。」
「いや、それは待ってくれたまえ。ぼくは今は大統領である。大統領としてそういう論をすればアメリカ人のうちにも反対する者が多い。ヨーロッパ人には無論多い。ゆえにぼくが大統領をしている間はそれを公表してくれるな。しかしぼくが大統領を止めて一個のルーズベルトになったときには自ら進んでこの意見を発表する。」
「それでは君が発表するときには一本の電報をよこせ、ぼくは日本においてこれがルーズベルトの希望であるということを発表しようから。」
とこう言ったことがありましたけれども、不幸にして彼はその時機に達せずして黄泉の客となった。実にこれは日本のために惜しむところであります。今少しルーズベルトが生きていたならばアジア問題もかくのごとく紛糾しなかったであろうと思う。
さていよいよ講和談判は米国にて開始されることに決まった。七月八日に日本軍が樺太に上陸して、かの地を占領したことは大いにロシア政府を驚がくさせたものとみえ、ロシア皇帝はローゼン大使に電信を送り、大統領に面会して日本軍を樺太より撤去するように尽力ありたしと申し込ませました。
このときルーズベルト答えて言うには、そのことなれば自分は既に自発的に日本人に陳述したることあり、しかし講和談判の承認のときその談判中は互いに休戦すべしとの条件がないゆえに日本はその点を利用して樺太を占領したるものなれば、今さら自分よりその撤兵を交渉したればとて、とても承知せざるべし、と体裁よく謝絶した。
かの樺太占領はルーズベルトが六月八日、自発的に私を通して日本政府に忠告したれば、この答はさもあるべきことなり。
そこで講和談判のために七月二十日に小村全権がニューヨークに着きました。私は途中まで出迎えましたがなかなか盛んな出迎えであった。
私は小村のホテルたるウオルドフにおいて、「さてぼくは命を受けて戦争中アメリカで活動したが、戦が終ればぼくの任務は終った。君が講和談判委員として来たから、アメリカは君に引渡してぼくは帰国したい。どうかそう思ってくれ。」と告げた。
「それは待ってもらいたい。今君に帰られては困る。今度講和談判が開かれれば我輩は表面の舞台で働くから、君はニューヨークにいて始終ルーズベルトと往復して、ルーズベルトの意見を聞いてぼくに暗号電報で知らせてくれなければぼくは十分働けない。
そうしてぼくのすることはすべて君を通してルーズベルトに内報してもらいたい。何となればぼくからは講和談判中はルーズベルトには直接に一本たりとも電報は出せないから、どうか君がニューヨークにいてぼくを助けてくれなければこの談判はまとまらない。
ゆえにぜひニューヨークにいてくれ給え。これは元老も閣臣もみなその希望である。」
と言ったけれども、私は小村に向かい、
「君はそう言ったところがルーズベルトがそれを承諾するか否や分らない。」
と答えた。そのとき小村はそのうち大統領に面会してその意見を聞こうといい、翌日ルーズベルトの午餐会に招かれたからそのとき小村からそのことを大統領に言うと、ルーズベルトいわく、
「今日まで一年半、金子男がこの国におったから、予も日本政府に対しいろいろの意見を言い、日本政府からもいろいろのことを聞くことができた。しかるに今度貴官が来たけれど講和談判中は予と貴官とは直接に交渉はできないから、やはり金子男の手を通して交渉することを希望する。」
と答えた。よって小村全権とルーズベルトとの意見が一致したから私はニューヨークにいることになった。
それからある日小村全権と会合して
「講和談判はどうするのか。」と私が問いますと小村は、
「今度はぜひとも講和条約を締結して帰らなければならぬ。何となれば満洲において日本の陸軍は総出である。もうこれ以上は兵隊がない。兵器弾薬も殆ど使い尽くしている。それでどうしても今度は講和談判をしなければならぬ。」
「それはそうであろうが、条件はどうか。」と尋ねた。
ところが小村は書類を示し、
「条件はこれだけれども、樺太も償金も譲歩してよいが、平和回復条約だけはぜひ成立させたいというのが廟議である。」
と言った。よって私は、
「それならば講和談判は朝飯前に済む。しかし日清戦争のとき三国干渉のあったさい、軍人がやかましかったがその方はどうか。」
と問いましたところが小村は元老の意見、軍人の態度、政府の決議等をくわしく陳述して、
「その方は安心し給え。しかしぼくは樺太と償金はぜひとも主張したい。」
と言いました。よって私は
「それはもちろん賛成するのみならず、この二件についてはすでにこれまでルーズベルトとたびたび協議したる結果、大統領は樺太は当然日本が占有すべきものといっているけれども、償金はなかなか困難なりと言っている、しかしぼくも及ぶだけ尽力しよう。ついてはルーズベルトも今日まであれほど日本のために尽力したからこういう条件で談判をするということをルーズベルトにあらかじめ言って、その条件をみせたまえ。」
と注意しました。よって小村はこれをみせたところルーズベルトは熟読したる後、私に手紙を送っていろいろ忠告したにより、小村が削ったのもあれば又改正したのもある。
その一例は、償金を小村がIndemnity(インデムニーティ)と書いていたのをルーズベルトが見て私に手紙をよこして、日本の原案のIndemnityという文字は賠償金で多少懲罰の意味を含んでいる。しかるにロシアの皇帝は金は一文も払わないと言っているからこの懲罰的な文字は非常にロシアの感情を害するがゆえに、これは直すがよい、その直す文字はReimbursement(レインバースメント)とするがよい。
Reimbursementという文字は「払戻す」という意味であって、賠償金ではない。それのみならず先頃ウィッテがロシアを立ってパリに来てロスチャイルドに会って話したときに、償金はどうするかという問題が出た。
それに対してウィッテは、償金すなわちインデムニティは一切払わない。しかし日本がロシア人たことをパリに在るアメリカ人から密報があったにより、あるいは「払戻し」という文字を使ったら多少金がとれはしまいか。といいましたから、小村と相談して「払戻し」という文字に直した。小村全権が日本を出発するときにはインデムニティという文字を使って償金と書いてあったけれども、これはルーズベルトの意見で「払戻し」という文字に改めることになりました。
さて小村全権の到着後数日にしてロシアの全権ウィッテがニューヨークに到着した。その日の景況は小村のときとは雲泥の差であった。
ウィッテの乗船がニューヨーク港に入るやロシア人はもちろん、新聞社は数十そうの小蒸汽船を出して海上に出迎えた。そうして新聞記者が船中に乗りこむやウィッテは彼ら高を上甲板に招き、かねて船中にて用意した「アメリカ人の同情に訴う」という印刷物を配布して、ロシアの状態と全権の心中を米国人に訴えてその同情をさそった。
終ってシャンパンを抜いて大いにその歓心を求め、又ロンドンタイムスの記者にして、ロシア通のサー・マカンゼー・ワレス、ロンドン・デイリー・ニュースのデロン博士の有名な二人の記者を顧問兼通信係として同伴して米国に乗りこみました。
そうして小村のホテルより数丁離れて向側のセント・リージスという第一等のホテルに止宿し、さかんに新聞操縦に全力を尽くしました。
それから二、三日して大統領は日露の全権をオイスター・ベイの私邸に招いてこれを紹介し午餐を供したる後、米国の軍艦二そうに両国の全権を分乗せしめポーツマスに送り出しました。
それから講和談判が始まって進行するに従い、日本から提出した条件を議して、その日の会議終りたる後小村はその模様をただちに暗号電信で私に通知する。
私は私の秘書にその電報、私の手紙を持たせてオイスター・ベイにやってルーズベルトに内報する。その返事は大統領の秘書官が持って私の旅館に来る。それを私が小村に暗号電報で知らせる。しかるに私の名でポーツマスの小村全権に電報を打つときにはロシアの方ですぐ目をつけるから、ニューヨークの内田総領事の名で電報を打つ。
小村が打つ電信は内田総領事の名宛で打つ。総領事の名前なれば官用につき、ロシアの注目を引く心配もないから、私は総領事の名の下に隠れてポーツマスに始終朝から晩まで何本も暗号電信を発送した。
さて講和の談判の箇条は一条から十条まである。この十箇条のうち一番面倒なのは払戻金と樺太の問題である。それゆえにルーズベルトは私に向かっていわく、
「第一から第二、第三と一つずつ片付けなさい。もしこれを一緒に議するとこんがらがって面倒だから一箇条ずつ、たやすい方から片付けて面倒なものは後回しになさい。たとえばその一、二を言えばウラジオストックのロシアの艦隊の制限ということを日本から言い出しているが、これは譲ってもよい。なぜなればロシア人は陸では強いが海においては弱いから。ウラジオストックにロシアの艦隊が何そうあっても日本の艦隊には到底かなわぬから、そんなものはいざというときにロシアに譲ってよい。
チーフやマニラに逃げこんでいるロシアの軍艦を引渡せと書いてあるが、損傷した軍艦を日本が取ってどうなるものか。それを修繕して役に立てようと思えば多額の金がかかる。そんな戦利品をもって日本に帰るのは空名誉である。そういうものはロシアに譲れ。」
というふうに一つ一つに意見を述べた。もちろんこれは私から小村全権に通知した。中立国の大統領がかくまで日本の全権に注意してくれた。このくらい日本に同情を寄せた人は他にあるまいと思う。
さて要求の条件は両国の互譲によってたやすく片付いたが、いよいよのところになって、講和談判の最後の払戻金問題になってウィッテはなかなか金を出そうとは言わない。ウィッテがロスチャイルドにパリで言ったことは全く欺まん手段であったのかもしれない。それから樺太問題になってもなかなか承諾しない。
よって私はルーズベルトに面会して種々熟議したところが、同人の意見は、払戻金は撤回するも、樺太はすでに全部日本の兵隊で占領しているから樺太全部は日本が取るべきものである。ゆえに払戻金は撤回して樺太全部を譲渡させることにして結末をつけようという計画であった。
それゆえに小村も随分その方針で働いたがウィッテがなかなか承知しない。種々協議した末ウィッテは、とうとう北緯五十度を境として北はロシアに譲れと言い出した。よって小村はそのことを私に通報したから、私はすぐオイスター・ベイに行きルーズベルトと協議したところが、同氏がいわく、
「樺太は日本軍が全部を占債しているからその半分をロシアに返還するなら買戻金を出すは当然だからこれを要求せよ。」
と、よって私は暗号電報を打って小村にその旨を通知した。小村はだんだんやって樺太半分をRedeemすなわち買戻す金を出せと交渉した。ところが又これで引っかかってウィッテは頑強に拒んだ。そこで私はオイスター・ベイに飛んで行きルーズベルトに相談したところが、同人いわく、それならば仕方がないから、樺太半分の割譲とその買戻しの金高は三人の委員を設けて決めさせることとし、その委員はロシアが一人へ日本が一人、あとは中立国から一人出して、この三人の委員が樺太北半分の割譲とその買い戻しの金額を五百万円とするか、一千万円とするか、その委員に委せて結末をつけさせよう。
と言ってロシア政府及びウィッテに交渉したけれどもロシアが承知しないのみならず、このときウィッテは帰国の準備にとりかかった形勢を示し、彼はしきりに新聞を操縦して日本に反対せさせたので談判の始まる前までは新聞記者の九割は皆親日なりしが、たちまちひるがえりて親ロシアとなりたるもの九割と変転した。明日は談判破裂するか、明後日は全権委員が帰るかというので、ポーツマスでは「破裂、破裂」という評判が高く、その新聞の号外がどんどんニューヨークに配布される。
このときルーズベルトは破裂しては大変と思い、この上は最後の手段をとってロシア皇帝を動かして承知させるにはドイツ皇帝に依頼する外はないと考え、ドイツ皇帝をして北樺太半分問題に関する委員を設けてこれを決定せしむることをロシア皇帝に勧告させようと決心した。そのとき(八月二十七日午後五時)連合通信社の社長メルビル・ストーンがオイスター・ベイに来りルーズベルトの宅に飛び込んで来た。
そこでルーズベルトが言うに、いよいよ談判が破裂になるかもしれぬ。そうするとまた戦が始まる。戦が始まれば日露両国の衰滅を来すかもしれぬから、どうしてもまとめなければならぬ。いかなる手段でもよいからひとつまとめたい。
ついてはドイツ皇帝に依頼してロシア皇帝に勧告させる電報を打ちたい。
その電報にはぜひとも今度の講和条約は締結するようにご尽力を頼む。それには北樺太の半分割譲とその買戻し金高は三人の委員を設けて決めさせる。この方法でまとめてもらいたいということを我輩の名をもってドイツ皇帝に直電を打ってくれよ。その文章は金子男とお前に委せるから。
二人で電報の文案を作ったなら我輩に見せるに及ばぬ。ニューヨークからただちにドイツ皇帝に電報を打ってくれよ。そこでストーンはその用件を帯びて私の旅館にやってきてその趣を告げ、この大任を受けた証拠に持って来たと言って紙片を出して私に見せた。
それを見ると普通の紙を引きさいてその端が破れている。その事由についてストーンが言うには、汽車の出る前にわずか五分間しかなかったから大統領はゆっくり書けなかった。それでかたわらに有り合せのこの紙片を引き裂き壁に押し当てて立ちながら鉛筆で書かれた。
その文面を見ると「男爵金子へ」と書いてその下に「メルビル・ストーンを君のところに通わし、ドイツ皇帝に送る電信文の起草を君とストーンに委せるから電報を打ってくれよ」としたためてある。そこで私はストーンと協議し同人はロータスクラブに行って電信文を起草し、レノックス避暑中のドイツ大使代理ブッシュ男に打電してドイツの暗号電報を持ってただちにニューヨークに帰ってくれと言ってやって、その晩の十二時にわれわれ三人会合しドイツ皇帝に発電することを約束して別れた。しかるに私はこれだけの責任をルーズベルトに負わせてドイツ皇帝に
親電を打たせるについては、小村が今もっぱら談判をしている際であるから、その意見も聞かなければならぬと思って、右の事情を詳しく暗号にしたためて小村に電報を打ってその意見を聞いたけれども、その晩十二時になっても何らの返事もない。
ついに午前一時も過ぎたから明朝面会しようと言ってストーンを帰宅せしめた。明朝六時頃ストーンから小村の返事が来たかと尋ねられたけれどもまだ来ないから返事の致しようがない。又催促の電報を打った。しかし、なお小村からは何の返事も来ない。午後一時に小村からの電信によれば大統領の好意は感謝すれども、今日の場合、大統領からドイツ皇帝に電信で依頼しても、ロシア皇帝の決心を翻すことはできないとある。よってその旨をストーンに通知して大統領からドイツ皇帝に発送する電信は止めました。翌二十九日小村全権から電信が来た。
「今朝の会議にて払戻金は撤回、樺太は北緯五十度をもって分割することに決定した。もっともこれは本国政府の許可を得て決定したから遺憾ながらルーズベルトの勧告には応ずることができない。」
とあった。
後で聞けば小村は私が電報をもってドイツ皇帝にルーズベルトの直電を打つや否やを尋ねる前にすでに本国政府に電報を打って、到底北樺太半分は無償でやらなければ条約は成立せずということを言って政府の訓令を待っている際であったから、ルーズベルトの意見に対して何とも返事ができなかった。
いよいよ政府の許可を得たるにより、小村は買戻金を撤回し樺太半分を得てかの平和条約に調印した。それでその電報を持って私はオイスター・ベイに行ききこれをルーズベルトに見せ、北樺太半分ロシアにやって平和は回復したと言いした。
ルーズベルトは「樺太を半分やったのは実に遺憾である。ぼくは償金さえ撤回すれば樺太は日本にとるべき権利があると思ったのにはなはだ残念なことであった。」と嘆いた。ルーズベルトは樺太全部を日本に取らせるために講和談判の開けざる以前に二個旅団と砲艦二隻で樺太を取れと言った関係もあるから、ぜひともあれだけは日本に取らせようと尽力してくれたのである。
この関係は日本国民のぜひ知っておくべきことだと思いますからお話をいたします。ここにちょっとお話しますが樺太半分割譲については日本政府は非常な攻撃を受けたがロシアにおいても、非常な反対があった。講和条約締結の功により伯爵に叙せられウィッテは国民の痛罵を受け『樺太半部伯爵』と愚弄されておりました。それからまだいろいろございますけれどもあまり長くなりますからこれで終りに致します。 
 
金子堅太郎

 

(嘉永6年-昭和17年 1853-1942) 明治期の官僚・政治家。司法大臣、農商務大臣、枢密顧問官を歴任し栄典は従一位大勲位伯爵。慶應義塾夜間法律科(後の専修学校講師)、日本法律学校(現日本大学)初代校長、二松學舍専門学校(二松學舍大学)舎長。
伊藤博文の側近として、伊東巳代治、井上毅らとともに大日本帝国憲法の起草に参画する。また、皇室典範などの諸法典を整備。
日露戦争においては、アメリカに渡り日本の戦争遂行を有利にすべく外交交渉・外交工作を行った。また、日米友好のために尽力し、「日米同志会」の会長となる。
日本法律学校(日本大学の前身)初代校長を務め、専修大学(当時の専修学校)創立に携わった。目賀田種太郎や相馬永胤と時を同じくアメリカに留学し、ハーバード大学ロースクールで法律を学び、帰国後、東京帝国大学の初代行政法講座の初代担当者となる(1886年から1888年まで)。
枢密顧問官、日本大博覧会会長、日本速記会会長、語学協会総裁、東京大博覧会会長などを歴任。後の維新史編纂会の発足に関わり、臨時帝室編修局総裁、『明治天皇紀』編纂局総裁、維新史料編纂会総裁を経て、帝室編纂局総裁。『明治天皇紀』完成の功により伯爵を叙爵。
嘉永6年(1853年)2月4日、福岡藩士勘定所附・金子清蔵直道の長男として、筑前国早良郡鳥飼村字四反田(現在の福岡市中央区鳥飼)に生まれる。幼名は徳太郎。
万延元年(1860年)より金山和蔵、次いで翌年より正木昌陽に師事し、漢学修行に入る。文久3年(1863年)1月、藩校・修猷館に学ぶ。慶応4年(1868年)4月、父・清蔵を亡くし、家督を相続するが、清蔵は1代限りの生涯士分であったため、士籍を失い銃手組に編入され、鉄砲大頭役所使番、1か月後に中番、次いで勘定所給仕となる。銃手組の株を購入、4人扶持12石を得る。明治維新後、修猷館での成績が優秀であることから永代士分に列せられ、秋月藩へ遊学を命ぜられ、さらに家老から東京遊学を命ぜられて元昌平黌中博士で松山藩大参事・藤野正啓の漢学塾に所属。 
留学
岩倉使節団に同行した藩主・黒田長知の随行員となり、團琢磨とともにアメリカに留学。はじめはボストンの小学校(グラマー・スクール)に入学、飛び級で卒業し、中学校(ハイスクールに)入学、中途退学後、ハーバード大学法学部(ロー・スクール)に入学。ハーバード大学入学前に、ボストンの弁護士オリバー・ウェンデル・ホームズ・ジュニア(後にハーバード大学教授、連邦最高裁判事)に師事し、ヘンリー・スイフトとラスル・クレイの共同法律事務所に通い勉強する。ホームズの指示で、ブラックストンの『英法注解』、メインの『古代法』、カトルファージュの『古代都市』、モルガンの『古代社会』を読む。ハーバード大学入学後、小村壽太郎と同宿し勉学に励む。在学時代、やはりホームズの指示でハミルトン、マディスン、ジェイらの『ザ・フェデラリスト』、ハラムの『英国憲法史』、ルイースの『哲学史』、ラボックの『文化史』を学ぶ。またジョン・フィスク(ハーバード大学哲学教授)にも個人的に教示を受け、ハーバード・スペンサーについて学んでいる。
学外では著名な政治家・議員・文学者・哲学者・ジャーナリストと交際。在学中に大学のOBである、セオドア・ルーズベルトと面識を得る。また、上院議員チャールズ・サムナーの発言からエドマンド・バークの存在を知り、サムナーの愛読書でもあったバークの著作に親しむようになった。
ハーバード大学を卒業し法学士 (Bachelor of Laws) の学位を受領。 
帰国後
都市民権政社の社員となり、のち東京大学予備門英語教員となる。この頃、馬場辰猪の「共存同衆」に所属して、英米法制度に関する論文作成、陪審員制度の提案、憲法私案の作成、演説会・講演会での講演など活発に自由民権運動を行う。慶應義塾夜間法律科および専修学校の立案・運営に深く参画し、「私擬憲法意見」を起草したが、政府内での軋轢を恐れて講師として出講しなかった。
1880年(明治13年)、嚶鳴社の同志・河津祐之と沼間守一の紹介で元老院に出仕。同年、青森県令・山田秀典の次女・弥寿子と結婚。
当時のルソー的な自由民権派に対抗する保守漸進の理論がないか元老院副議長の佐々木高行から質問があり、これに答えてエドマンド・バークの名を挙げ、その著作のうち『フランス革命の省察』『新ウィッグから旧ウィッグへの上訴』の2書を名著として紹介する。やがてこれが元田永孚の目を経て、明治天皇に奉呈される。また毎週日曜に参議の山田顕義にバークについて講義する。後にこの2書を抄訳し、保守主義の政治思想をまとめた『政治論略』を刊行する。
元老院権閣の総理秘書官に就任、のちに大書記官に昇格。この頃、北海道視察の後に開拓に関する建白書を政府に建議。建白書では、網走集治監(網走刑務所)の囚人(思想犯多数)を開拓や道路建設に従事させるように提案した。
太政官権大書記官兼元老院権大書記官、制度取調局御用掛を経て、枢密院書記官兼議長秘書となる。 
伊藤博文内閣のもとで
内閣総理大臣秘書官として、伊藤博文のもとで井上毅、伊東巳代治らとともに大日本帝国憲法・皇室典範、諸法典の起草にあたる。のちに憲法制定の功績により男爵となる。
その後、1889年(明治22年)から翌年にかけて、欧米諸国視察。帰国後、日本法律学校(日本大学の前身)初代校長就任。貴族院勅選議員、初代貴族院書記官長。さらに、国際公法学会会員としてスイス・ジュネーヴでの国際会議に出席。
それからは、第2次伊藤内閣の農商務次官、第3次伊藤内閣の農商務大臣、第4次伊藤内閣・司法大臣を歴任。 
日露戦争前後
1904年(明治37年)、第1次桂内閣はロシアとの開戦を決意し、同年2月日露戦争が勃発すると、ハーバード留学時代にセオドア・ルーズベルトアメリカ大統領と面識があった金子は、伊藤博文枢密院議長の説得を受けて同月末出帆の船で渡米、ルーズベルト大統領に常に接触し、戦争遂行を有利に進めるべく日本の広報外交を展開した。
1905年(明治38年)8月、ポーツマス会議(第7回本会議)において、償金問題と樺太割譲問題で日露双方の意見が対立して交渉が暗礁に乗り上げたとき、外相でもあった小村壽太郎全権より依頼を受け、ルーズベルト大統領と会見してその援助を求め、講和の成立に貢献している。金子が帰国したのは、同年10月のことであった。
翌1906年(明治39年)には枢密顧問官に任じられ、自ら「憲法の番人」と称した。 
晩年
日露戦争後は、枢密顧問官のほか、日本大博覧会会長、日本速記会会長、語学協会総裁、東京大博覧会会長を歴任。この間、子爵に叙爵される。また、後の維新史編纂会の発足に関わり、臨時帝室編修局総裁、『明治天皇紀』編纂局総裁、維新史料編纂会総裁、帝室編纂局総裁などを歴任し、『明治天皇紀』完成の功により伯爵に昇爵、さらに『維新史』を奉呈する。東京上野日本美術協会で大橋翠石百幅展の発起人として開催する。勲一等旭日桐花大綬章を受ける。二松學舍専門学校(二松學舍大学の前身)舎長に就任。
生涯にわたり、日米友好のために尽力しており、上述のジュネーヴ国際会議出席後はアメリカを経て帰国しており、帰国後、渡米中に調査したことをまとめて「トラストの利害」「米国経済と日本興業銀行」等を発表。日本において憲法制定の功により男爵となった後、ハーバード大学から憲法制定等の功績により名誉法学博士号(L.L.D)を受けている。米友協会会長、日米協会会長を歴任した後、賀川豊彦・松田竹千代・三木武夫らとともに「日米同志会」を立ち上げて会長となる。晩年には日米開戦を憂慮していた。 
 
セオドア・テディ・ルーズベルト

 

(英語: Theodore "Teddy" Roosevelt、1858-1919) アメリカ合衆国の第25代副大統領および第26代大統領。第32代大統領フランクリン・ルーズベルトは従弟(12親等)に当たる。彼はその精力的な個性、成し遂げた業績と合衆国の利益、国の発展期に示したリーダーシップと、「カウボーイ」的な男らしさでよく知られる。共和党のリーダーおよび、短命に終わった革新党の創設者であった。大統領就任までに市、州、連邦政府での要職に在籍した。彼はまた政治家としての業績と同じくらい、軍人、作家、狩猟家、探検家、自然主義者としての名声も併せ持つ。
裕福な家庭に生まれたルーズベルトは、博物学好きで喘息に苦しむ虚弱な子供であった。彼は体力の無さに応じて生涯の奮闘を決心した。彼は自宅で学習し、自然に情熱を抱くようになる。大学はハーバードに入学し、そこで海軍への関心を高めるようになる。ハーバード卒業から1年後の1881年、彼は最年少議員としてニューヨーク州下院に選任される。1882年には「The Naval War of 1812」を出版し、歴史家としての名声を確立した。バッドランズで数年間生活した後、ニューヨークに戻って警察の腐敗と戦うことで名声を得る。ルーズベルトが海軍次官として事実上海軍省を運営していた間に米西戦争が勃発した。彼は直ちに職を辞し、陸軍士官としてキューバで小さな連隊を率いて奮戦した。2001年1月16日、その功績に応じて名誉勲章が授与されている。戦後彼はニューヨークに戻り知事選に出馬、僅差で当選する。それから2年の内に、彼は副大統領に選出された。
1901年、ウィリアム・マッキンリー大統領が暗殺され、ルーズベルトは42歳という若さで大統領に就任した。彼は米国史上最年少の大統領であった。ルーズベルトは共和党を「進歩」の方向に動かそうとし、独禁法の制定や企業規制を増やした。彼は国内の課題を説明するため「スクエア・ディール Square Deal」という句を作り出した。そして、一般市民がその政策の下で正当な分け前を得ることができると強調した。彼はアウトドアスポーツ愛好家および自然主義者として、自然保護運動を支援した。世界の檜舞台でルーズベルトの政策はそのスローガン「穏やかに話し、大きな棒を運ぶ。(大口を叩かず、必要なときだけ力を振るう。)Speak softly and carry a big stick」によって特徴付けられた。ルーズベルトはパナマ運河の完成の後ろ盾となった。彼はグレート・ホワイト・フリートを派遣し、アメリカ合衆国の力を誇示した。そして、日露戦争の停戦を仲介し、その功績でノーベル平和賞を受賞した。彼はノーベル賞を受賞した初のアメリカ人であった。
ルーズベルトは1908年の大統領選に再出馬するのを断った。公職を退いた後、彼はアフリカでサファリを行い、ヨーロッパを旅行した。帰国後、彼は指名した後継者のウィリアム・ハワード・タフトとの間に大きな亀裂を生じた。1912年の大統領選でタフトから共和党候補の指名を手に入れることを試みたが、失敗すると革新党を結成した。彼は第3党の候補として選挙戦で2位となり、タフトには勝利したものの、ウッドロウ・ウィルソンが大統領に当選した。選挙後、ルーズベルトは南米への遠征旅行を行う。彼が探検したルーズベルト川(en)は現在その名を冠する。旅行でマラリアに感染し、その数年後、60歳で死去した。ルーズベルトは歴代アメリカ合衆国大統領のランキングで現在でも偉大な大統領の一人として格付けされる。 
生い立ちと家族
ルーズベルト家はユダヤ系オランダ人が起源の移民であった。1649年にクラウス・M・ローゼンベルツがオランダから移住、二代目ニコラスが名前をルーズベルトと改め、その時代に家系が二つに分かれた。一方がセオドアの家系、もう一方がフランクリンの家系である。一族は多くの財産に富み、19世紀には多くのビジネスに影響力を持っていた。その中には板ガラスの輸入も含まれた。一家は1850年代の半ばまで強い民主党支持者であり、その後新たに結党された共和党に加わった。「Thee」として知られたセオドアの父はニューヨークの篤志家であり、商人であり、一族の板ガラス輸入会社「ルーズベルト・アンド・サン」社のパートナーであった。父親は情熱的なユニオニストであり、南北戦争の期間はエイブラハム・リンカーンと北軍を支援した。母親のマーサ・「ミッティー」ブロックはジョージア州ロズウェル出身のサザン・ベルであり、その家族は奴隷を所有し、南軍を支持していた。母親の兄弟、セオドアの伯父のジェームズ・ダンウッディ・ブロックはアメリカ海軍の士官で、南部同盟の海軍大将、海軍の資材調達将校およびイギリスの諜報部員であった。もう一人の叔父、アーバイン・ブロックは南部同盟のスループ、アラバマ (CSS Alabama) の士官候補生であった。両名とも戦後はイギリスに留まった。ルーズベルトはニューヨークにある祖父母の家で、幼少時にエイブラハム・リンカーンの葬列が通るのを目撃している。
セオドア・ルーズベルトは1858年10月27日にセオドア・ルーズベルト・シニア(1831年 - 78年)およびマーサ・ブロック(1835年 - 84年)の4人の子供の2番目、長男としてニューヨーク市の東20番街28番地、現在のグラマシー・パークの一部で生まれた。母のマーサは、美貌で「風と共に去りぬ」のスカーレット・オハラのモデルといわれた。 姉のアナは幼少時「バミー」、成長してからは「バイ」の愛称で呼ばれていた。弟のエリオットは後のファーストレディ、エレノア・ルーズベルトの父親であり、妹のコリーヌは新聞コラムニストのジョセフ・オルソプおよびスチュワート・オルソプの祖母であった。
幼少時は病弱で、喘息持ちであった。幼児期の大半をベッドで支援されるか、椅子で猫背になって眠らなければならず、頻繁に病気に罹っていた。しかしながら病気がちにもかかわらず多動で悪戯好きな子供であり、ひどい音痴であった。彼の一生の動物学への関心は、7歳の時に地方の市場で見かけたアザラシの死体によって形作られた。ルーズベルトは二人の従兄弟と共にアザラシの頭を手に入れ、彼らは「ルーズベルト自然歴史博物館」を開設した。彼は剥製術の基本を学び、間に合わせの博物館を自らが殺すか捕らえるかした動物で満たし、研究し、展示の準備をした。9歳で彼は「昆虫の博物学」と題する論文を体系化した。
ルーズベルトは1903年の手紙の中で、自らの幼年期の経験について次のように記述している。
私が覚えている限り、それらは全く平凡であった。 私はかなり病弱で、かなり臆病な小さい少年だった。そして、とりとめのない読書と博物学が非常に好きで、どんなスポーツにも優れなかった。私は喘息のため学校へ行くことができなかった。神経質で、自意識が強かった。私の記憶では、私の信念はリーダーシップの点で普通の遊び仲間よりかなり下にあったと思う。しかしながら、私には想像的な気質があり、これは時々私の他の短所の埋め合わせをした。要するに、私は父母のおかげで非常に幸せな幼年期を送り、自身がそこから出てこなければならなかったことを、若干の驚きをもって振り返りたいと思う!。私は16歳になるまでどんな才能や、普通の能力さえ示し始めなかった。そのときまで、博物学のコレクションを製作し、ある一定の限られた分野の読書を行い、運動に優れていない小さな少年の普通の走り書きに満足する以外、私を何が平均まで引き上げたのか思い出すことができない。
病弱な体質を克服するため、父親はルーズベルトに運動を始めるよう勧めた。 彼はボクシングの練習を始め、運動を好むようになり、グランド・キャニオンのような自然の地域に通い、アウトドアスポーツに熱中した。彼の精力的な規範は20世紀初頭、都市のスポーツ・ブームの中で運動の流行に影響を及ぼした。 1869年から70年にかけて一家で行ったヨーロッパ旅行と、72年から73年にかけて行った中東旅行は彼に永久的な影響を与えた。
セオドア・シニアは息子に大きな影響を与えた。ルーズベルトは「私の父、セオドア・ルーズベルトは私が知る限り一番の人物であった。彼は強さと勇気、優しさと思いやり、大きな利他性を持ち合わせていた。彼は私たち子供に対して利己心、残酷さ、怠惰、臆病、不誠実を許容しないだろう。」と綴っている。
彼は妹のコリーヌに、国のためにいかなる重大な処置や重大な決定を行う際、父がどのような立場を取ったかを考えなかったことはなかったと語った。
ルーズベルトの最初の妻はアリス・ハサウェイ・リーであり、彼女はアリスの母親であった。妻のアリスは1884年2月14日に死去した。彼女は、妊娠により診断未確定だった腎臓病で、最初の娘アリスの出産2日後に死去したのである。同日の午前3時、同じ家で母も腸チフスのため死去した。妻が死ぬおよそ11時間前のことであった。ルーズベルトは娘を妹のアナに預け、ニューヨークに残していた。同日の彼の日記には大きな×と、「私の人生から光が消え去った。」と書かれていた。その後間もなく彼は妻への追悼文を書き、個人的に出版した。ルーズベルトは死ぬまで妻のことについて公的にも私的にも話すことはなく、自叙伝でも彼女について言及することはなかった。ルーズベルトの自叙伝執筆者、エドモンド・モリスは「妄念にとりつかれたライオンが脇腹から槍を引き抜こうとしているように、ルーズベルトはその精神からアリス・リーを消し去ろうとし始めた。それが快いならば、彼にとって非常に傷つきやすい弱さであった郷愁を満たすことができるが、それが苦痛であるなら、抑えられなければならない。『記憶が脈動できないくらいまで静寂になるまで。』」と記している。
ルーズベルトは母、妻の死後ノースダコタ州へ転居し、ひとりで農場に住んでいた。1886年12月に、イーディス・カーロウと再婚。彼女との間に5人の子供(セオドア・ジュニア、カーミット、エセル、アーチボルドおよびクェンティン)をもうけた。 
政治経歴
ハーバード在学中に、発展途上のアメリカ海軍が米英戦争においてどのような役割を果たしたかを組織的に研究し、二章の論文として完成、1882年に「The Naval War of 1812」として出版した。
1880年にハーバード大学を卒業し、コロンビア大学ロースクールに入学したが、州議会議員就任とともに中退、1882年から1884年までニューヨーク州議会のメンバーだった。
ルーズベルトがニューヨークに戻ったのは1886年で、ベンジャミン・ハリソン大統領によってアメリカ行政委員会(1889年 - 1895年)のメンバーに指名され、ニューヨーク市警の警察部長を辞職した。
1886年には、倫理的な狩猟団体であるブーン&クロケットクラブ(en:Boone and Crockett Club)を創設した。このクラブはのちの1930年、国際野生動物保護アメリカ委員会(The American Committee for International Wild Life Protection)を設立し、さらにこの委員会が国際自然保護連合(The International Union for Conservation of Nature and Natural Resources)へと発展していった。バチカン教皇庁レジーナ・アポストロルム大学大学院教授のリッカルド・カショーリとアントニオ・ガスパリによれば、このブーン&クロケットクラブの幹部メンバーであったマディソン・グラントやヘンリー・フェアフィールド・オズボーンらが同時にアメリカ優生学協会のメンバーであったことに着目し、優生学運動と自然保護運動は、「人種改良」と「限られた資源の活用」という目的において連携していたと指摘している。
1897年、ウィリアム・マッキンリー大統領によって、海軍次官に任命されたが、米西戦争に従軍するため、翌1898年その職を辞した。 
軍歴
サン・フアン高地に突撃するラフ・ライダースルーズベルトは常に海軍の歴史に心を奪われていた。親友の下院議員ヘンリー・カボット・ロッジの推薦で、ウィリアム・マッキンリー大統領は1897年にルーズベルトを海軍次官に任命した。(当時の海軍長官ジョン・D・ロングはあまり活動的でなく、それによってルーズベルトが海軍省を支配した。)ルーズベルトは米西戦争のために海軍を整備するのに尽力し、戦闘でアメリカ軍をテストすることについて熱心に支持した。彼は「私はほぼいかなる戦争でも歓迎しなければならない。なぜなら、国がそれを必要としていると思うからだ。」と述べた。
1898年のスペインに対する宣戦布告で、ルーズベルトは海軍省を辞職した。彼はレナード・ウッド陸軍大佐の協力を得て、西部領域のカウボーイやニューヨークのアイビー・リーグの友人達から義勇兵を募り、第1合衆国義勇騎兵隊を結成した。新聞は同部隊を「ラフ・ライダース」と呼び表した。
当初ルーズベルトは中佐の階級で、ウッド大佐の下で働いた。ルーズベルト自身が「ラフ・ライダース」を指揮するようになったのは「ヤング将軍が熱で倒れた後、ウッドは旅団を担当した。これによって私は連隊を指揮するようになった。私は非常に嬉しかった。なぜならば、そのような経験は素早い先生となるからだ。」したがって、ウッドは義勇兵部隊の准将に昇進し、ルーズベルトは大佐に昇進、連隊の指揮権を与えられた。
ルーズベルトの指揮下、ラフ・ライダースは1898年7月1日にケトル・ヒルとサンフアン・ヒルへの二度の突撃で有名になった。全ての隊員の中で、ルーズベルトのみが乗馬して戦った。輸送船が不足しており、隊員の馬は輸送されていなかったためである。そして彼の馬はケトル・ヒルの最前線の塹壕の間を前後に何度も往復するのに使われた。彼は上官からの命令無しで、その危険な任務を強行した。しかしながら彼の馬、リトル・テキサスは疲れ果て、有刺鉄線のため彼はケトル・ヒルの最後の地域を徒歩で歩かなければならなかった。
この戦闘の功績でルーズベルトは名誉勲章にノミネートされたが、授与は却下された。歴史家のジョン・ゲーブルは「後年ルーズベルトは、1898年7月1日のサンフアン・ヒルの戦いについて『私の人生における最良の日』と『私の曇った時間』と表現しただろう...(しかし)マラリアとその他の病気が戦死者よりも多くの兵を殺した。8月にルーズベルトとその他の士官は兵を帰国させるよう要求した。有名な『回状』と、今や連隊の司令官となったルーズベルトからの強い手紙が、司令官から新聞にリークされた。これは陸軍長官のラッセル・アルジャーとマッキンリー大統領を怒らせることとなった。ルーズベルトはこの一件が名誉勲章を逃すこととなった原因だと信じていた。」と記している。
1997年9月、ニューヨークの下院議員リック・ラジオーは2通の推薦状を陸軍栄誉局に送った。これらの推薦状は陸軍総務局長のアール・シムズ准将と承認部長のゲイリー・シューツ一等軍曹に宛てられたが、これによってルーズベルトへの名誉勲章授与が認められた。ルーズベルトは2001年に名誉勲章が授与された。勲章は現在ホワイトハウスのルーズベルト・ルームに展示されている。彼は最初かつ唯一のアメリカ合衆国における最高位の勲章を授与された大統領である。また、歴史上唯一軍事上最高位の勲章と、平和に関する最高の賞を得た人物である。彼の長男、セオドア・ルーズベルト・ジュニアもまたその死後にノルマンディー上陸作戦での功績で名誉勲章を受章している。
軍を退役した後、ルーズベルトは「ルーズベルト大佐」や「大佐」と呼ばれるのを好んだ。「テディ」というあだ名は、彼が下品と感じ、「激しく生意気」と呼んだという事実にもかかわらず、大衆にははるかに人気のあったままであった。ルーズベルトの政治上の友人や彼と親しく働いていた人々は、彼をその階級で呼んだ。
戦争後は警視総監および州知事として、ニューヨーク州の政界で有名になった。 ちなみにのち大統領となった親戚のフランクリン・ルーズベルトもハーバード大学を卒業し、海軍次官、ニュ−ヨ−ク州知事をつとめている。 
大統領職
1900年、大統領選の副大統領候補として当選、翌年9月大統領マッキンリーの死去(暗殺)に伴い大統領に昇格する。なお就任時の42歳と10ヶ月は史上最年少である。ちなみに、テディベアが誕生したのは大統領就任後のことである。1904年セオドア・ルーズベルトの下問で、陸海軍統合会議が、仮想敵国を色で表現した長期的戦略計画と言われているカラーコード戦争計画の一環である、対日本「オレンジ計画(O-range Plans)」の作成に着手。その30数年後、この計画は実行に移された。1905年には日露戦争で日本・ロシア間の調停をつとめ、停戦からポーツマス条約での和平交渉に尽力した。この和平交渉の斡旋によってルーズベルトは1906年ノーベル平和賞を受賞した。
一方で国内では反トラスト法を発動して独占資本を規制し、対外的には海軍力を盾にカリブ海政策を推し進めた(棍棒外交)。 
親日派から日本脅威論者へ
ポーツマス条約の斡旋に乗り出したのはハーバード大学の同窓生で、面識のあった金子堅太郎(1878年卒業)の働きもあったと言われる。また自身は日本贔屓でもあったようで、アメリカ人初の柔道茶帯取得者であり、山下義韶から週3回の練習を受けるとともに、山下が海軍兵学校で柔道を教えるよう尽力した。東郷平八郎が読み上げた聯合艦隊解散之辞に感銘を受け、その英訳文を軍の将兵に配布している。また、忠臣蔵の英語訳本を愛読していたとの逸話がある。
ただ、日露戦争後は、次第に極東で台頭する日本に対しては警戒心を感じるようになり、やがて贔屓も薄れ、事務的かつ冷淡な場面も見られた。日露戦争後は艦隊(グレート・ホワイト・フリート)を日本に寄港させ強大化しつつある日本を牽制した。いわゆる排日移民法の端緒も彼の時代である。
1893年、アメリカのハワイ王朝乗っ取りの際、日本の巡洋艦浪速と金剛がホノルルに入り、アメリカの横暴を牽制したので、アメリカはハワイ併合を断念し、ハワイ共和国とした。また翌年、同共和国の一周年を祝う礼砲要請を艦長の東郷平八郎は断り、他国の艦船もそれに倣った。
1897年3月、「できることなら今すぐにハワイを併合し、ニカラグア運河(パナマ運河)を完成させ、日本を凌ぐ軍艦を建造したい。私は日本の脅威をひしひしと感じている」と友人に書き送った。
高山正之は大統領就任前から彼は日本を敵視していたと見て、著書で以下のように主張している。
新聞王のハーストと組み、世論を焚きつけて米西戦争を起こしてグアムとフィリピンを獲得した。
その功で副大統領に就任するが、直後にマッキンリー大統領が暗殺され、大統領に就任した。暗殺の黒幕はルーズベルトだったという説も出たせいか、暗殺犯は電気椅子で処刑された後、骨まで硫酸で溶かされて噂も封印された。
大統領に就任するとすぐにパナマを独立させ、運河建設に着手し、ハワイの日系人の本土移住を禁止した。また、ハーストをして反日キャンペーンを展開させて、日系人の子弟を学校から締め出し、土地所有を禁止し、市民権の取得も拒否した。さらに、脅威の日本がロシアから賠償を獲得してより強力にならないように、一銭の賠償も取れない講和を押し付けた。
在朝鮮のアメリカ外交公館を閉鎖し、「日本が朝鮮を手に入れるのを見たい」と言ったという。 
ルーズベルトとインディアン
ルーズベルトが大統領職に就いた時代は、すでにインディアン民族が保留地(resavation)に強制移住させられ、表立った軍事衝突は終わった後だった。1901年の大統領就任祝賀パレードにはアパッチ族のジェロニモが見世物として連れてこられ、コマンチ族のクアナが騎馬参列している。クアナとは、二人でコマンチ族の土地で狩りをする仲だった。
一方で、故郷アイダホからワシントン州に強制連行されたままのネ・ペルセ族の窮状について、世論の批判が高まっていたのに対してまったく放置した。ギボン将軍が後押ししたジョセフ酋長の嘆願も、まったく無視し、死ぬにまかせた。「ノーベル平和賞」を受賞したルーズベルトだが、インディアン民族に対しては歴代大統領の絶滅政策を支持していた。
彼はマニフェスト・デスティニーのなかの「インディアンに対する虐殺と土地の略奪」について、次のように述べている。
それ(インディアンに対する虐殺と土地の強奪)は回避不能だったし、最終的には有益なことでした。
女・子供を含む無抵抗のシャイアン族のバンドが米軍によって徹底虐殺された「サンドクリークの虐殺」については、次のように賛辞を送っている。
これほどまでに、まさしく正当で、有益な行いが、フロンティアで起こったのです。
また、こうも発言している。
私は、「死んだインディアンだけが良いインディアンである」とまでは言いませんよ。しかし、私は10人インディアンがいたとして、そのうち、9人まではそうじゃないかと思っています。それと、私はあまり10人目については真剣に考える気になれませんね。 
 
『台湾出兵』(1874・明治7年)についての英『タイムズ』報道

 

台湾出兵(たいわんしゅっぺい)は(1874・明治7年)に明治政府による台湾への軍事出兵である。日本にとっては最初の海外派兵である。牡丹社事件(ぼたんしゃじけん)、征台の役(せいたいのえき)、台湾事件(たいわんじけん)とも呼ばれる。
1874年7月31日付、英「タイムズ」
日本の台湾遠征  臨時通信員記事、長崎、6月1日
台湾から帰還したばかりの高砂丸(元ぺニンスラ・アンド・オリエンタル汽船デルタ号)によって、日本の台湾遠征の5月27日現在における進捗状況に関し、以下のようなニュースがもたらされた。
おそらく貴紙の読者の興味をひくものと思う。しかし、詳細を述べる前に、遠征の初期の諸段階について、また、遠征開始当時日本を悩ませていた問題についてひと事触れておくのが適当だろう。
さらには、諸外国の公使によって日本の方針に差し挟まれた異議についても触れておくのがよいだろう。というのも、彼らの異議は日本のこのたびの企てにとって、また 、日本が西洋列強から得たばかりの信用にとって致命的なものになりそうだと、ひところはそう思うわれたこともあったからだ。
私が日本に住むようになってから7年が過ぎたが、その間にこの国では数々の仰天するような変化やある程度の進歩があった。しかし、疑う余地のない失敗もいくつかあった。そうした失敗の故に、日本は外国からおそらくたいした同情も示されないまま、ただ独り苦しんできたし、今もなを苦しみ続けている。しかし 、このたびの台湾遠征に関して言えば、日本に浴びせられた非難は当を得ていないように思われる。
日本が外国から反対されるなどは全くとんでもない話だ。あらゆる文明国は、たとえ物質的な援助は無理にしても精神的な支援は与えてしかるべきなのだ。それというのも、日本の目下の遠征の目的は 、台湾の野蛮人によって虐殺された日本臣民の恨みを晴らすことにあるからだ。彼らは、難破して台湾の南岸に打ち上げられた外国人を過去から現在に至るまで機会あるごとにことごとく虐殺してきたのだ。
昨年、判事が外交使節として北京に赴いた目的の1つは、台湾の南東岸で難破した日本船の乗組員約50人の虐殺に対し補償を要求するところにあった。ところが、同島のその部分は中国の管理下にはないので、その地域に関する要求は台湾に直接行ってほしいというのが副島に対する返答だった。
それ以来、台湾遠征は常にあり得べきこととなったのだ。日本はル・ジャンドル将軍という台湾通の顧問を擁していたので、遠征問題が忘れ去られたり必要な準備が不十分にしかなされなかったりするようなことはまずあり得なかった。日本はいざ出陣という段になるまで意図を隠し通したし、真のもくろみの代わりに朝鮮遠征のうわさが広まるのを放置し続けたが 、それは責めるべきではないだろう。
というのも、折あしく今年の早春に佐賀で反乱が起こり、政府軍はそれに対処しなければならなかったから、無分別で不手際なこの反乱が鎮圧されるまで台湾に関してはなにもできなかったのだ。しかし、反乱の平定後、本来の計画の遂行に対する誘因は以前にも増して大きくなったに違いない。
なぜならば、不満を抱く臣民にとって外敵の征伐に出かけることほど格好の仕事は見当たらなかったからだ。しかし、ただ1つ悔やまれたのは、台湾の気候を考えてみるとき季節が都合の悪いほうへ向かいっっあったということではあるまいか。同島南端への上陸にとって都合のよい季節風はすでに吹きやもうとしていたし、下手をすれば仕事がなしとげられる前に台風シーズンが到来するおそれがあったのだ。
にもかかわらず日本は計画の遂行を決意し、本年4月、台湾への遠征に最も便利な長崎に兵を結集させ始めた。ところが・そこにきて彼らに難儀が降りかやゝった。それも 、ほとんど予想だにしなかったようなところから。
外国の公使たちが、日本は中国が台湾の蛮人に対する管理権を否認したと言っているが、日本のそのような説明は納得できないと言い出したのだ。イギリスおよびその他の国々も 、台湾で行われた自国民の虐殺に関し中国に補償を要求したとき、同じような否認の弁を中国から幾度となく聞かされているにもかかわらずだ。
そして、日中間に生じるかもしれない紛糾といった難題を持ち出し、他の国々が即刻行動をとるようなことをなんの通告もなしに、自国の民と名誉を守るために日本はいかなる権限に基づいて行動をとるつもりかと詰問したのだった。
こうしてイギリスおよびアメリカの公使たちは、きたるべき遠征に両国の臣民が加わることを禁止する命令を発するに至ったが、アメリカの場合この禁止令は、主要な外国人顧問−元アモイ駐在アメリカ領事で台湾ではその名をとどろかせているル・ジャンドル将軍と 、アメリカ海軍では文句なしに有数の切れ者将校であるカッセル大尉−の手を引かせるという意味合いを持っていた。
しかし、この公使命令の影響力はそこにとどまらなかったように思われる。というのも、台湾に兵員を運ぶために日本が行った外国船の用船契約のうち最初の2件−ヨークシャー号とニューヨーク号−がキャンセルされてしまったからだ。これに加えるに、自前の輸送船のうちの1隻は耐航力に欠けることが畏繊到着後に判明した。そのようなわけで、自国の岸を離れる前にすでに、どう見ても日本人は完全に失敗するだろう予想された。
集合基地は台湾の南西にあるリャンキヤウ(恒春)湾こするとあらかじめ決められていた。同湾に最初の船団が到着したのは5月の10日から11日にかけてだろた。石炭を補給するためにあらかじめ基隆こ立ち寄った艦隊は目的のものを難なく手に入れたが、アモイに寄港した輸送船団は補給品をそれほどたやすくは入手できなかった。アモイでは水先案内人が 、もし日本人に手を貸せば投獄すると領事から脅されたりもした。
リャンキヤウいう村で上陸がつつがなく行われ、海岸にキャンプが設営された。日本隊はボートの賃貸料を気前よく支払ったので近隣の中国人は進んで彼らに手を貸した。
西郷従道将軍がデルタ号で到着するまでは、たいしたことはなにも起こらなかったようだ。
しかし、5月22日、彼の船が投錨するやいなや、中国のコルベェット艦が砲艦を引き連れて姿を発した。大砲を突き出したコルベット艦の乗組員は全員が部署につき、すぐにでも戦闘ができるよう準備万端を整えていた。デルタ号に乗り組んでいたヨーロッパ人数人は中国艦の準備のほどを目にすると、砲撃されるに違いないと瞬時に予想した。
中国艦のサイズから推して、そのとき湾内にあった日本艦隊が残らず捕獲されることは容易に見てとれた。しかしながら、コルベット艦は静かにいかりを下ろしたのでデルタ号の兵員は直ちに上陸を開始した。コルベェット艦の責任者として福建総督により福州から派遣された官吏が、日本の司令官に会見を申し入れた。
しかし、西郷将軍は翌日、陸の上で会いたいと言ってこの要求をすぐには受け入れなかった。会見は翌朝日本のキャンプ内で、400人の護衛兵が将軍を取り囲む中、日本の旗が揚げられた徴のテントの前で行われた。中国側の官吏はいかにもおずおずとした様子で前へ進み出てこの上なく丁寧に挨拶したが、西郷将軍はのびのびとしたヨーロッパ風の礼をもってそれに対し、手を差し出して相手に自分のテントへと招き入れた。明らかにされたところによると、この会見の大筋は以下のとおりだった。
中国側の官吏は台湾全土の所有権は中国にあると断言し、日本の遠征の目的を問いただした。それに対し西郷将軍はその種の問題は日本政府および中国のしかるべき当局間で北京において満足のいくように処理されるだろうと述べるとともに、自分は特命を帯びて当地にやってきたのだと返答した。
遠征の最終的方針に関してはいかなる約束や誓約もなされなかったが、会見はきわめて友好的な雰囲気のうちに終わり、日本隊にあらゆる援助を与えよとの布告書が官吏によって全中国人に発せられた。
その後、2隻のコルベェット艦が両国国旗に敬意を表して礼砲を放ち、中国艦隊は直ちに停泊地を後にした。中国による抵抗に関する問題はこのようにして難なく処理されたのだった。もし中国側に日本軍の上陸を阻止しようという気があったのなら、コルベェット艦が到着したときに海上にあった大量の財貨や約2000人の兵員もろともに日本艦隊全体を捕獲できるだけの力が彼らにはあった。しかし 、戦闘準備を整えてやってきた目的が何であったにせよ、彼らには戦う意志は明らかになかったのだ。
一方、日本軍は上陸後すでに敵に遭遇し、野蛮人との間に最初の衝突を起こしていた。丸腰でキャンプを迷い出た若い兵隊数人が待伏せに遭ったのだ。1人がその場で射殺されたので 、残りの者たちはあわててキャンプに戻り、死体を取り戻すよう仲間に訴えた。死体が発見されたとき首は切りとされていた。
翌朝、約50人の兵隊が呼び集められ、翌々日には100人が呼び集められた。両部隊とも、目についた野蛮人はことごとく追い立てた。野蛮人は相手との間に十分な距離が保たれている間は反撃したが、日本軍が刀を振りかざして肉薄すると逃げ去った。
日本軍は容赦なく攻撃し、2日間で16の首を戦利品としてキャンプに持ち帰った。あらゆる角度から戦いを目撃していた外国人たちの証言によると、この小遭遇戦における日本軍の突撃ぶりはあっぱれだったという。彼らほど勇猛果敢に戦える者はほかにはなかったに違いないが、ただ1つ残念だったのは 、熱意のあまりだれもかれもが最前線に群がったことだった。
デルタ号がリャンキヤウを後にするまでに、台湾のその地域の住民を構成する18部族のうち16部族までが西郷将軍に服従を誓い、残る2部族の征服に向けてあらゆる援助をしたいと自発的に申し出た。
難破船の乗組員に対し働かれてきた凶行の大部分は残る2部族のうちの牡丹族の仕業であると目されている。彼らは今や人類の共通の敵となってしまったのだ。5月27月現在・日本軍は大々的な進軍は行っていないが、牡丹族を完全に包囲するための計画は着々とできあがりつつある。現在予定されている作戦行動の結果に関しては次回の報告でお伝え、できるものと思う。
南部のいわゆる中国人村は皆、台湾に到着した日本軍を喜んで迎え入れた。この地域の住民は大部分が混血で、中国に対し忠誠の義務を感じてもいなければ、中国から保護を受けてもいないので、野蛮人たちと常に戦争状態にあり、彼らから金品をゆすられている。しかしながら、西郷将軍が兵をくり出して自分たちの村を領有し、野蛮人たちの絶えざる侵略から守ってくれるなら日本兵をいくらでも支援すると申し出たのは、住民1000人から成るl村だけだった。
デルタ号が台湾を離れるまでに日本軍の犠牲者は死者が9人、負傷者が20人から30人ほどにのぼった。看護を受けた者はわずか10人で、キャンプ内の健康状態は良好だった。しかし 、水は不足気味で質が悪く、気温は日陰でさえも95度にのぼるほどだった。
夏が終わるまでは暑さが日本軍にひどくこたえることは間違いないし、避けがたい台風が、決して安全とは言いがたい目下の錨泊地の船船に大きな被害をもたらすことも間違いなさそうだ。しかし・われわれ外国人は、この遠征を敢行した人々のエネルギーを認めねばならないし、彼らの大いなる成功を心から祈るべきだろう。
台湾が日本臣民の荒れ狂う不満のはけ口になったことは事実だが、遠征の大目的は全文明世界から擁護されてしかるべきではあるまいか。ところが、中立を守りつつ妨害を加えるというのがこれまでわれわれのとってきた唯一の行動なのだ。 
 
東洋通報社に於ける本田増次郎

 

政府対外広報誌の嚆矢 『東洋評論』( The Oriental Review )の発刊から廃刊まで  
1. はじめに

 

松村正義『新版 国際交流史:近現代日本の広報文化外交と民間交流』地人館、2002 年は、広報外交と民間外交との包括的叙述を標榜しており、国際交流史の通史と言えるものであるが、米国を舞台とした広報外交については、日露戦争収束への画策を図るため、明治37(1904)年に金子堅太郎(1853-1942)を米国に派遣した記述(1)から、大正3(1914)年以降の、河上清(1873-1949)による太平洋通信社( The Pacific Press Bureau )と家永豊吉(1862-1936)による東西通信社( The East and West Press Bureau )の新聞操縦の記述(2)へと飛んでおり、それら両者の狭間にあって対米広報外交を担った本田増次郎(1866-1925)等による東洋通報社( The Oriental Information Agency )への言及はない。しかし、東洋通報社は「日本政府が初めて海外に設置した本格的な広報機関」(3)であり、また、同社によって「広報機関という組織を通じた初の世論工作」(4)がなされており、東洋通報社は、対米外交史上、看過出来ない重要な役割を担ったと言える。
本稿はこの対米広報活動の正に当事者であった本田増次郎に視座を据え、機関誌『東洋評論』の発刊から廃刊に至るまでを対象として、本田がその事業に如何にかかわったか、また、本田の主張を支えた外交論の思想的背景は如何なるものであったかを明らかにするものである。
本田がこの東洋通報社の業務への参画を外務省から打診されたのは、明治42(1909)年、ロンドンに於いてであった。本田は明治38(1905)年に東京高等師範学校を休職して渡米して以来、ニューヨークやフィラデルフィアを拠点に、日本の諸事情を紹介する講演活動を展開したが、明治41(1908)からは、拠点をロンドンに移していた。本田に打診を行ったロンドン日本大使館参事官山座円次郎が石井菊次郎外務次官に宛てた電信(明治42(1909)年6月2日外務省着電)には、「本田ハ至極適任ト認メタルに付相談シタル處文部省サヘ異存ナクハ豫テヨリ希望ノ仕事ニモアリ欣然承諾スヘキ旨ヲ答ヘ俸給其他總テ異議ナシ」(5)と記されている。
実は、先立つ明治39(1906)年、文部次官の辞令を受けて英国より帰国途上にあった沢柳政太郎(1865-1927)に、本田はフィラデルフィアやアトランティックシティーを案内しつつ、現在の自分の境遇や、欧米を舞台に日本に役に立つ仕事を望んでいることなど、縷々話したと言う(6)。それが明治40(1907)年3 月31 日の留学の発令に繋がり、さらには東洋通報社への参画の打診となったのであろうか。いずれにしても、本田の若き日からの夢は、海外に打って出て文筆で身を立てることであったから、一も二もなく本田は承諾したのだと思われる。
なお、東洋通報社は表面的には、東京及び横浜の財界人によって組織された日米情報会によって設立された一民間機関とされ、実際に資金が同会からも拠出されたが、その実態は外務省の一広報機関に他ならなかった。明治42(1909)年5 月6 日付で、外務大臣の小村寿太郎(1855-1911)が東洋通報社の主幹となる頭本元貞(1863 (7)-1943)に送達した任命書は、「貴下ハ通報社ノ業務ヲ表面上純然タル營業ノ形式ト為シ政府トノ関係ハ厳ニ之ヲ秘密ト為シ置カルヘシ」(8)との文言で結ばれている。  
2. 英字広報誌の発刊と編集長就任

 

東洋通報社は、明治42(1909)年8 月、主要スタッフに、日本からジャパン・タイムズ( The Japan Times )の頭本元貞及び馬場恒吾(1875-1965)を、英国より本田増次郎を迎えて、ニューヨークのナッソー通り35 番地にあるテナント数およそ500 のオフィスビルの15 階、1512 号室で産声を上げた。その2 階上が日本総領事館であり、連絡・打ち合わせには好都合であった(9)。こうして、ニューヨークに於ける新事業はスタートするが、本格的な業務の開始は大幅にずれ込む。それは主幹の頭本が、外務省の命により日本からの渋沢栄一(1840-1931)を団長とする渡米実業団に通訳として同行し、凡そ4 ヶ月間その対応に追われたことがあったが、そもそも、取り扱うべき業務の一つとされた「米國諸新聞雜誌中帝國ニ不利ナル報道ヲ為シ又ハ誤報ヲ傳フルモノアル塲合ニ随時之カ弁駁又ハ正誤ヲ為スコト」(10)という方策そのものに無理があった。
頭本は実業団の業務を終えニューヨークに戻ると、米国の新聞や雑誌に掲載された記事に対する反論や寄稿を開始するが、山崎馨ニューヨーク総領事代理が小村に宛てた明治43(1910)年4 月6 日付の報告に「過般来当地言論界ニ於テ我対満州政策ヲ攻撃スル聲起ルヤ主幹ハ屡々反駁文ヲ草シテ投書ヲ試シタル趣ニ候ヘ共多クノ新聞雜誌社ハ社説ニ反対ナル議論ヲ歓迎セザル氣色アリテ充分其ノ意見ヲ発表スル機会無之」(11)とある通り、ただ単に、新聞雑誌に掲載された記事に反論するだけでは、それが採り上げられない限り、日本の主張を発信するという本来の目的を達成することは出来なかった。
そこで、現状のままでは対米宣伝の効果が少ないと判断した頭本は、明治43(1910)年4 月にニューヨークを発ち、雑誌を発行するという腹案を持って、本省と打合せるため帰国する。傍らで東洋通報社の立ち上げを見守っていた水野幸吉ニューヨーク総領事は、フラストレーションを募らせ、6 月22 日、頭本留守中の所感を倉知鉄吉外務省政務局長に対し、以下のように報じた。
東洋通報社ニ関スル件
元来仝社ハ頭本氏當地ヘ着後事務所ノ設立ヲ終ンヤ直ニ渡米実業団ト共ニ旅行スルコトゝ相成リ其間四ケ月ハ空費シ頭本帰紐後ニ於テモ一向何等ノ活動ヲモ為サゞリシ模様ニテ頭本氏不在中ノ今日ニ於テモ只管事務員カ事務所ニ出頭シ米国新聞雑誌ヲ耽讀スル外豪モ注目スヘキ事績無キ次第ニ有之也(12)
そもそも水野総領事は、頭本の雑誌出版の案に反対であったが、それは、プレスがひしめき、激しい競争を繰り広げている当時のニューヨークの情勢は、嘗て頭本がジャパン・タイムズを立ち上げた頃の東京や、ソウル・プレス( The Seoul Press )をホッジ( John Weekly Hodge )から引き継いだ頃のソウルとはまったく異なっているとの判断からであった。頭本に関しては「今日ノ紐育ト事業ト殊ニ新聞雑誌ノ角逐場裡ニ立チテ輿論ヲ相手ニ画策奮闘スルカ如キハ到底仝氏ニ望ムヲ得ス」(13)と決め付け、さらに鬱憤は部下である本田たちにも及ぶ。なお、以下、引用文中の〔 〕は引用者の注、下線も引用者による。
仝氏カ使用セル人物ハ和文英譯英文和譯ニ於テ或ハ堪能ナランモ教育家出ノ本田ノ如キ又ハ「ジヤパンタイムス」ヨリ遣シ来レル馬場ノ如キ孰レモ仙骨〔優れた学問的素養〕ヲ帯ヒタル学究ニアラスバ宣教師式ノ英文学者タルニ過ギズ馬場ノ如キハ普通要急ノ会得ニサヘ差支フル次第到底頭本氏ヲ助ケテ社交界ニモ立入リ事業ニモ奮闘シ當地ノ急潮ニ處シ克ツ其任務ヲ全フセシメ得ヘキ柄合ニハ無之也(14)
東洋通報社の先行きが懸念される中、外務省との協議を終え、8 月、頭本が夫人を伴って帰米する。本省の決定は頭本の提案通り、新たに雑誌を発行し、日本の主張を公にして行くというものであった。こうして、その年の11 月10 日、漸くその雑誌の第1 号が発刊される。その名は『東洋経済評論』( The Oriental Economic Review )、発行は月2 回、頭本が社主兼編集長( Proprietor and Editor )、本田と馬場が副編集長( Associate Editor )という布陣であった。
こうした紆余曲折を経て、英文の広報雑誌がデビューするのであるが、この初号発行直後、予期せぬ出来事が持ち上がる。それは嘗て、頭本が中心となって立ち上げたジャパン・タイムズで経営危機が発生したことであった。頭本はその月の22 日に外務省より帰朝許可を得ると、「通報社ノ事務ハ本田ニテ差支ナシ」(15)と言い置いて、あわただしく単身で帰国、年明けには東洋通報社主幹を辞任、妻女も続いて帰国する。したがって、『東洋経済評論』はその初号を除き、実質的には本田を編集長として発行されたのである。
もっとも、翌年の明治44(1911)年2 月10 日の第1 巻第7 号までは、雑誌上の編集に係わる表記は、引き続き頭本が編集長とされた。そして本田が編集長( Editor )、馬場が副編集長( Associate Editor )となるのは、2 月25 日の第1 巻第8 号からであり、この時同時に、誌名も『東洋評論』( The Oriental Review )とされ、「経済」という語が削除された。これは経済記事中心の雑誌を総合雑誌に変えたいという本田の意向が働いた結果であると思われる。なお、頭本については、この後も在東京社主兼寄稿編集長( Director and Contribution Editor ( Tokio, Japan ) )との表記がなされ、表面的には頭本を社主として残す処置がとられた。 
3. 多忙ながら充実した仕事

 

明治44(1911)年10 月1 日、本田は東洋通報社の収支計算書(同年4 月1 日から9 月30 日)、即ち半期報を外務省宛に提出している。本田が『東洋評論』の発行以外に、如何に多くの仕事をこなしていたかが具体的に判るので、冗長であるが引用しておく。なお、この報告の最後に書かれた会計数字の部分は省略した。
明治四十四〔1911〕年十月一日
外務大臣子爵内田康哉殿
在紐育 東洋通報社主幹代理(16)本田増次郎
過去六ヶ月間東洋通報社ノ収支計算書ヲ閣下ニ提出スルニ当リ、同期間業務ノ実況及ビ小生ノ取扱ヒタル事項ノ大要ヲ報告スル事左ノ如シ。
一、社報「東洋評論」ハ従来ノ如ク毎月二回一千五百部ヅゝ刊行、購讀者ノ数ハ未ダ其三分一ニ達セザルモ、廣ク新聞雑誌社、図書館、実業團体、平和協會、公人等ニ寄贈シ又ハ之ト出版物ノ交換ヲ行ヒ、各地新聞雑誌ノ「東洋評論」ヲ轉載又ハ論評スルモノ尠カラザルノミナラズ、紐育市ニ於ケル「サン」〔 The Sun 〕「ポスト」〔 The
New York Post 〕「ウオールド」〔 The New York World 〕「陸海軍雑誌」〔 The Army-Navy Journal 〕、華盛頓府ノ議会図書館、全米大陸協會、国務省中ノ極東局等、我ガ社報ヲ以テ日本帝国ノ主張方針ヲ代表スルモノト認メテ初号ヨリ取寄セ精読スルノ形跡アリ。斯クテジヨーダン〔 David Starr Jordan 〕博士ガ日本新聞記者ノ日米感情融和策如何トノ問ニ答ヘタル三ヶ条中(九月十七日東京朝日新聞)、「日本ノ事情ニ精通スルノミナラズ、更ニ米国ノ事情ニモ精通セル学識名望アル人ガ数年間紐育ノ如キ繁華ナル土地ニ定住シ、廣ク人ニ交ッテ日本ノ事情ヲ説明スルノミナラズ、更ニ米国ノ事情ニ就キ誤解ナキヤウ之ヲ廣ク日本ニ紹介スル事」(17)ト云ヘル使命ヲ遂行スルニ庶幾キヲ覚ユ。
二、五月上旬ヨリ六月中旬マデ一ヶ月有半、膃肭獣保護會議開催中翻訳其他ノ事務嘱託ヲ受ケテ華盛頓ニ出張、七月中旬ヨリ二ヶ月余阪谷〔芳郎〕男爵ノ為メニ欧洲ニ旅行。コノ間六月二十八日ヲ以テ「コネクチカト」州「ハートフォード」市ニアル「トリニティー」大学ニ赴キテ文学博士(ドクトル、オブ、レタース)ノ名誉学位ヲ受ク。前年間同大学ニ於テ小生ガ講演ヲナシタルニ縁ミ、筆舌ヲ以テ国際間ノ融和ヲ図リ人道ニ貢献スルモノアルヲ認ムトノ推薦ニ基ケルナリ。尚ホ又、米国人道協会々頭、スティルマン〔 William O. Stillman 〕ノ名ヲ以テ名誉証状ヲ寄セ来レルハ、小生ガ昨年十月華盛頓府ニ赴キ万国聯合人道大會ニ出席シテ日本動物愛護會ノ状況ヲ報告セルニ因ル。
三、前述ノ如ク紐育ニ留マルノ日少ナキ為メ、日米情報會ニ向ツテ月々ノ報告ヲ継續スル能ハザリシハ小生ノ甚タ遺憾トスル所ナリ。而シテ今後社務以外ノ事件ニ精力ヲ頒ツ事ナシトスルモ、大使館、領事館、商務官等研究以外ニ一機軸ヲ出セスル有益ノ報告ヲナサン事ハ、小生ノ能力時間共ニ之ヲ許サゞルヲ諒セラレタシ。
四、社報発刊以来一年間ノ經験ニ基キ、本年十一月ソノ第二年ニ入ルヲ機会トシテ毎月二回ノ出版ヲ一回ニ改メ、二回分ヲ併セタル四十八ペーヂニ更ニ若干ヲ加ヘテ一冊十五仙雑誌ノ列ニ入ラシメン考案ナリ。コレ閣下ノ華盛頓府ヲ辞シ去ラルゝニ臨ミテ既ニ小生ノ陳説シ置キタル所ニシテ、従来ノ如キ小冊子ハ所謂パムフレットニ属シテ雑誌視セラレズ、隋ツテ賣捌キ上ニモ廣告募集ニモ困難尠カラザレバナリ。但シ時事問題ニ接觸セシ議論報導ヲ発表スルニハ、月刊ノ方多少時機ニ後クルゝ憾ナキニアラザルモ、緊急事件ニ関シテハ本社自カラ日刊新聞ニ寄書シ又ハ某々ノ米人記者ヲシテ材料ヲ本社ニ求メシムルノ方針ヲ採リテ奉仕スルノ見込アリ。異日事情ノ変化甚ダシキヲ見ル事アランマデハ、毎月一回ニテモ二回ニテモ著ルシキ差違ナカルベク、一回雑誌ノ体裁ヲ具フルヨリ生ズル利益ハ蓋シ尠ナカラザルベシト信ズ。
五、東洋通報社ノ如キモノゝ成立ヲ冀望シ、今モ尚ソノ存續擴張ヲ主張スル一人高峯〔高峰譲吉〕博士ノ如キハ、當初ヨリ社報発行ニ重キヲ置カズ、人ニ交リテ彼我相知リ操觚者流ト談笑シテ其操縦ヲ謀ル事尤モ必要ナリト云ヘリ。小生夙ニ此方面ニ志シ成ルベク社交樽俎〔酒席〕ノ間ニ事ヲナサント務ムルモ、閣下ノ本社ニ期待セラルゝ処果シテ孰レニ厚キニアルベキヤ。若シ編輯、報告、交遊共ニ見ルベキノ功績ヲ挙ゲント欲セバ、一人ノ力ヲ分ツノ多キニ過グルモノナキヤ。米国ノ事情ニ精通セラルゝ閣下ノ指揮ヲ仰グノ外ナシ(18)。(東洋通報社用箋使用) 本田は単に対米広報誌の仕事をしていただけではない。明治43(1910)年10 月にはワシントンに出張、上旬には、当時5 年毎に開催されていた第8 回万国監獄会議に、また中旬には、第1 回万国連合人道大会に、それぞれ日本を代表して出席している。万国連合人道大会では、13 日午前の動物部会に於いて広井辰太郎の「動物に対する日本人の態度」(“The Japanese Attitude toward Animals”)を代読、併せて、日本の動物愛護運動や人道教育の現状などを報告した。翌年5 月上旬から6 月中旬にかけては、再びワシントンに出張、オットセイ保護会議の事務回りの仕事に従事、その後、7 月中旬から2 ヶ月間は、カーネギー平和財団経済部主催の会議に出席する阪谷芳郎の通訳兼事務方として、スイスのベルンに出張している。また、帰国すると、11 月下旬にウースターで開催されるクラーク大学の「日本及び日米関係」をテーマとする大会に関してその準備段階から参画し、新渡戸稲造、朝河貫一、家永豊吉等と共に出席、自身も「日本外交の過去と現在」(“Japanese Diplomacy, Past and Present”)と題して講演している(19)。この大会は翌年大正元(1912)年11 月中旬にも開かれたが、この時のテーマは「中国」であり、本田は朝河貫一と共にこれに加わり、「中国に於ける過去10 年の日本と米国」(“The United States and Japan in China within the past decade”)と題して講演している(20)。
仕事に充実感を抱けるということは幸せなことであったが、頭本帰国後、実際に動けるスタッフは、本田と馬場だけである。出版の仕事をこなしながら、スイスへの出張、各種会議への参加、晩餐会などの社交周りの仕事と、余りにも盛りだくさんで、本田の言う通り、それは一人の人間がこなせる範囲を超えていたと思われる。日米情報会へ出さねばならない月報も滞り、本田が受けた精神的なプレッシャーは、並大抵のものではなかったであろう。ところが当時の本田について、副編集長の馬場は次のように回顧している。
紐育に於ける本田君は健康の許るす限り實によく働いた。日本の外交上の立塲をよくせんとして、内外人の間に忙がしく立廻つた。其間に私が感心したのは、そんなに忙がしく活動してゐる中に、本田君は何所か脱俗した飄逸な處を持つてゐた事であつた。日曜などにはよく私と一緒にセントラル・パークの雪の中を散歩した。五仙の南京豆を一袋買つて、栗鼠に食はして喜んだものだ。ブロンクス公園の動物園に行つては小兒のやうになつて一日を暮らした。ハドソン河の向ふ岸を散歩した時は田舎のレストラントに入つて黒ビール一杯飲んでこんな愉快な事はないと云つた。友人仲間では彼れを仙人と呼んでゐた。柔道三段だと云はれてゐたが、何處にそんな力があるのだらうと思ふほど、無邪氣で、優しかつた。蓋し腹が出來てゐるんだなと、私はひそかに感心してゐた(21)。
意外にも本田は、多忙な中にあっても、それなりの息抜きをしながら働いていたのである。しかし、結局は仕事の無理が祟ることになる。明治45(1912)年の5 月中旬、以前から患っていた結核を悪化させ、本田はハートフォードのサナトリウム( Wildwood Sanitorium )に入院する。そして、その年の秋、漸く体力を回復させて退院するのであるが、皮肉なことに、この退院と相前後して、入院前からくすぶっていた東洋通報社の譲渡・廃止問題に最後通牒が突き付けられるのである。 
4. 外交論を支えた思想

 

明治44(1911)年2 月25 日発行の第1 巻第8 号から、誌名が『東洋評論』に変更されたことは、既に触れたが、引用した半期報に書かれている通り、本田の方針で、同年11月号の第2 巻第1 号からは月刊誌に変更された。従来は月2 回の発行で、ページ数も20強、どちらかと言えばパンフレットに近いものであったが、総ページ数は60 程度となり、雑誌としての体裁が整えられた。
それでは、約2 年間に亘って発行されたこの雑誌を通して、本田が米国民に対して訴えかけようとしたことは何であったか。雑誌の性格上、当然に予想されることであるが、当時、日米間で懸案となっていた事項に関する論述が多く見られる。それは関税問題、移民問題、中国問題、朝鮮問題であり、それらに対する日本の立場の説明的、反論的叙述が主になっている。勿論、日本や朝鮮の統計数値や日本の文化、社会情勢の紹介、日本に関する書籍の紹介、さらには、柔道、侠客、民話、キリスト教の国内伝道状況なども伝えており、日本紹介という広報外交本来の趣旨にも沿うものとなっている。
ここでは本田の筆名が入った記事であり、また本田の思想が明確に現れている、「日本外交の進化」(“The Evolution of Japanese Diplomacy”)(22)に限定して、検討を試みたい。記述全体のほぼ7 割が日本外交史の叙述に割かれており、これは現在読んでも、短いながら読み応えのある日本外交の通史となっているが、本田の主張が端的に現れているのが、日本外交の将来に触れた部分であり、そこに着目して分析を進める。なお、「日本外交の進化」にかかる引用は総て拙訳による。
先ず本田は日露戦争とポーツマス講和会議にかかわる日本の外交について、次のように評価を下す。
同盟国である英国、道義的支援者である米国、さらには欧州や米国の人々による、ほとんど国際的と言ってもいい同情を受けて、海外に於ける国債の発行も可能となり、日本軍は陸海に於いて勝利を収めた。しかし、またしても、日本外交はポーツマスのチェス盤の上で、その敵によって出し抜かれた。その原因は概ね、日本が自国の考えや要求に世界のプレスが関心を持つようにする努力を怠ったからだ(23)。一方ロシアは講和のやりとりの一面を効果的に、巧みに、アピールする形で、あらゆる国籍の100 人を超える新聞記者たちに提供した。ニュースを作り伝えるため新聞記者たちがポーツマスには詰めていた。したがって代表者が全く何も与えてくれない国に好意を持たないことは火を見るよりも明らかだった。ロシアの外交はこの問題を、米国政府に対しては大統領を通じて、米国国民に対してはプレスを通じて、訴えかけるのに成功した。それは漠然としてはいたが、何時の日か日本が、ロシア及び中国の太平洋地域を占領し、次にはフィリピン、グアム、ハワイ、さらにはアメリカ大陸の西側の太平洋地域に迄手を伸ばしかねないとの危惧の念を抱かせるのに十分効果的なものであった。我々の知る限りでは、これがアメリカ合衆国と日本との間に未解決の対立があるという風評の、紛れもなく最初のものであった。こうしてジャーナリスト、労働界のリーダー、陸海軍の指導者、防衛強化論者は言うに及ばず、日本こそ犠牲者だと考える穏健な評論家でさえ不満を抱くことになったのである(24)。
いわゆるプレス対策がポーツマスではなされず、そのため、戦争では勝ったが、講和会議では負けたという事実認識である。こうして本田は「政治上の同盟、協約、協定に対し、プレスが好意的な関心と同情的な態度を寄せているかどうかは、外交的成功にとって重要かつ不可欠なものである」(25)として、プレス対策が如何に重要であるか認めた上で、さらに進めて、プレスや政府のレベルを超えて、「両国民の精神的、物質的ニーズについて大衆の相互理解を深めていく」(26)ことこそが肝要だと主張する。そして、この大衆レベルによる相互理解が達成された暁には「貿易と友情の絆によって互いに結ばれた確乎たる関係」(27)によって平和な世界が実現するとする。
「一国が外交関係に於いて道徳的、物質的影響力を行使し得るのは、産業や貿易の拡張と繁栄がある時だけである」(28)と本田が言い切っていることから、自由貿易に本田が如何に信頼を寄せていたかが判る(29)。自由貿易を通じて国富が増大し、その結果、各国の富が蓄積され、加えて、国民間の友情の絆が堅固なものとなる時、外交は最もその真価を発揮するという見方である。
本田の論述の根底には、ミル( John Stuart Mill, 1806-1873 )に代表される古典派経済学の自由貿易論があり、それに日本の外交的・地理的特殊事情を加味して日本の立場を説明する点、すなわち、帝国主義諸国の草刈り場と化しているアジアにおける唯一の近代国家である特殊な日本という基本認識の上に立って議論を展開している点に、本田の論理の特徴を見出すことが出来る。本田は、若き日、嘉納治五郎が主催する弘文館で、ベンサム( Jeremy Bentham, 1748-1832 )やミルに親しんでいる。古典派経済学に功利主義という思想的基盤を提供したベンサム、また、アダム・スミス( Adam Smith )を祖とし、リカード( David Ricardo )、マルサス( Thomas Robert Malthus )を経てミルで集大成された古典派経済学の、本田は忠実な学徒であった。
最後に本田は、自分が「危険を犯して予言を試みる」(30)より、一英国人著者の言葉を引用する方が相応しいとして稿を締め括る。それはモンゴメリー( H. B. Montgomery )の『東の帝国』( The Empire of the East )の一節(31)である。モンゴメリーが語る日本の近未来は、軍事国家ではなく貿易に立脚した平和国家である。日本は中国貿易の大部分を占めるとともに、米国やカナダとも巨額の貿易を行い、太平洋の貿易国家として繁栄している。また、日本の外交政策は、過去のしがらみや進歩を妨げる偏見もないことから、概ね穏当なもので、むしろ他国に健全な影響を与える種類のものとなる。さらに、モンゴメリーは、「日本が偉大な国になることを熱望し続け、従来大国の専売特許であった、貪欲、強欲、攻撃性、威圧的な特性、すなわち、弱小国に対する高圧的な態度を、もし日本が一切放棄すると堂々と公言するなら、日本は世界史上希に見る優れた貢献をなすことになるだろう」(32)と、薔薇色の夢さえ語るのである。この夢は、本田も共有するところであった。それ故、自己の理想を代弁する者として、モンゴメリーを登場させたのであろう。いずれにせよ、本田は、自由貿易を通じて達成される産業の発達、その結果として実現される豊かな社会を標榜しており、貿易立国をレゾン・デートルとする国民間の相互理解の進展に、外交の未来を賭けていたと言ってよい。
勿論現実の歴史では、モンゴメリーが予言し本田がそれに同調したように、日本が弱小国に対する穏当な政策をとって、真の意味で「偉大な国になることを熱望し続け」ることはなく、他の列強同様、アジアを草刈り場とする、ありふれたパワーポリティクスの世界に踏み込んで行った。本田は亡くなる年である大正14(1925)年1 月、「壊れた夢」(“My Shuttered Dreams”)(33)という一文で、依然として帝国主義が渦巻く世界の情勢に落胆の気持ちを漏らさざるを得なかったが、本田が示した、自由貿易に信をおいた経済的相互依存関係の存在なくして相互理解が深まることもないという考え方は、決して陳腐なものとは言えず、今以て一つの真理であることに変わりはない。 
5. おわりに

 

本田のサナトリウムからの帰還と相前後して、東洋通報社の譲渡・廃止問題に最後通牒が突きつけられたことは既に触れたが、それは、明治45(1912)年11 月上旬のことであった。そもそも前年の8 月に第2 次桂内閣が瓦解、外相の小村寿太郎も病気のため既に辞任していた。後継内閣である第2 次西園寺内閣が対処すべき喫緊の課題は、前内閣より引き継いだ財政問題であり、内田康哉率いる外務省は新任の珍田捨巳米国大使に、東洋通報社をニューヨークの日本協会( The Japan Society )に移譲し、東洋通報社の業務から撤退出来ないか協会と詰めるよう指示した(34)。日本協会による肩代わりの検討がなされたこと自体、同社の事業が有用であると判断されていたことを示すが、軍備拡張の圧力を受けて、新内閣による行財政整理による経費削減という政策目標の達成が優先されることになった。
結局、日本協会による肩代わりについては、政治問題に協会がかかわるのは好ましくないとする意見や、資金負担の問題があって合意には至らず、本田も断腸の思いで廃刊を断行する。こうして軌道に乗りつつあった『東洋評論』は、同年12 月号を最後に、本田の手を離れるのである。
東洋通報社廃止に至る直接的原因は、上記したように新内閣の経費削減であり、通報社はいわば財政再建の生贄となったと言えよう。しかし、その遠因を考えてみる時、ハルピン駅頭での伊藤博文の不慮の死、それを支えて来た小村の辞任と続く病死が、東洋通報社の幕引きを早めたという見方も出来る。以下に、嘗て頭本からソウル・プレス( The Seoul Press )を引き継ぎ、対朝鮮宣伝活動で功績を残した山縣五十雄(1869-1959)の一文を引用する。
初めて頭本先生に接近したのは1909年先生が伊藤公の命を受け、Seoul Press の經營を私に譲り、New York に於て Oriental Information Bureau を設立し、好き意味のpropaganda 事業に着手された時であつた。それにつけても今更のやうに伊藤公の卓見に敬服せざるを得ぬ。當時はまだ propaganda といふ辭さへ人口に上らなかつた、然るに伊藤公は我國の國際的威信を昂揚せしむる為めに、弘く海外へ我國に關する正しき知識を宣傳する必要あるを認め、先づ頭本先生をして米國に於て此重要なる事業に當らしめ、續いて London, Berlin, Paris 等に於ても同様の機關の設立を計畫して居られたので、私も五年間 Seaul Press に勤務した後は London に派遣される筈になつてゐたのである。公の此 far-sighted plan が實行され、永續されたならば第一次大戰中に於てもまた其後に於てもどれ程我國に利益を及ぼしたであらうかは想見することが出來る。然るに不幸にも公が Harbin に於て朝鮮人の兇手にかゝられたため、此事業は中止となつた。誠に遺憾千萬である(35)。
伊藤博文の秘書であり懐刀であった頭本、その頭本が軌道に乗せた政府の対朝鮮宣伝紙ソウル・プレスを、頭本から引き継いだのが山縣である。上記引用は、この辺りの事情について熟知している山縣の発言であり、その信憑性は高い。特に注目されるのは「先づ頭本先生をして米國に於て此重要なる事業に當らしめ、続いて London, Berlin, Paris 等に於ても同様の機關の設立を計畫して居られた」という点である。伊藤は世界的規模での広報外交を企図していたと思われる。したがって、東洋通報社によって一部実現を見たこの壮大な伊藤の計画は、自身の不運な死によって後ろ盾を失い、頓挫したと見ることも出来よう。
こうして、大正元(1912)年12 月17 日(36)、廃刊の告知もなされ、東洋通報社は解散する。ところが実際には、編集助手であった米国人記者チャップマン( Lucian Thorp Chapman )がその経営を引き継ぎ、留学から帰国の途にあった伊地知純正が補助する形で、発行が続けられた。そのため、外務省からの資料提供も引き続きなされ、日本の影響力も暫くは維持されたようである(37)。本田は大正元(1912)年12 月、ロンドンで開かれた第1 次バルカン戦争終結のための平和会議に出張中であったため、東洋通報社の閉鎖にかかわる残務処理や伊地知への引継ぎは副編集長の馬場が担当した。そして本田は出張先のロンドンからニューヨークには戻らず、翌年3 月に欧州経由でそのまま帰国、馬場も本田と同月に帰国、伊地知は5 月上旬にニューヨークを発ち大陸を横断、横浜到着は6 月となった。こうして日本政府による東洋通報社の業務は名実ともに終焉を見るのである(38)。
本田が実質的に主催した東洋通報社の活動は、歴史に埋もれて既に久しいが、東洋通報社は日本政府が海外に初めて設立した広報機関であり、その発行した英字誌『東洋評論』は政府による対外広報誌の嚆矢であった。本田は40 代の働き盛りをこの仕事に打ち込み、国際ジャーナリストとしての地位を築いた。そして、大正2(1913)年3 月の帰国後は舞台を日本に移し、国内の英字紙や英字雑誌、さらには外国誌への寄稿を通じて、日本の外交上の立場や諸事情、日本の文化などを発信すると共に、2 代に亘る英国大使、カニンガム・グリーン( Sir William Conyngham Greene )及びチャールズ・エリオット( Sir Charles Eliot )との接触、外国人記者など来日する文化人の接遇を通じて、引き続き日本の広報外交を支えて行くのである。 

1) 松村正義『新版 国際交流史:近現代日本の広報文化外交と民間交流』(地人館、2002年)pp.133-138.
2) 同上、pp.166-171.
3) 高橋勝浩「日露戦争後における日本の対米世論工作:ニューヨーク東洋通報社をめぐって」『国史学』第188号(2006年3月)p.52.
4) 同上。
5)「紐育ニ東洋通報社設置一件」第一巻(外務省外交資料館)アジア歴史資料センター、Ref. B03040686700(画像番号30)
6) Masujiro Honda,“The Story of a Japanese Cosmopolite”(「ある日本人コスモポリタンの物語」)The Herald of Asia,(October 14, 1916)p.76
7) 頭本元貞の生年を1862 年としている例が諸資料に散見される。「片々録」『英語青年』頭本先生記念號、第88 巻第12 号、昭和18(1943)年3 月15 日、p.351 によれば、頭本の生年月日は文久2 年12 月4 日であり、西暦に直すと1863 年1 月23 日となる。
8) 「紐育ニ東洋通報社設置一件」第一巻(外務省外交資料館)アジア歴史資料センター、Ref. B03040686700(画像番号14)
9) Smimasa Idditti(伊地知純正)MY NEW YORK LIFE(『私の紐育生活』)THE HOKUSEIDO PRESS, 昭和17(1942)年、p.8 に「私のオフィスは、かの有名なウォール・ストリートに程近いオフィスビルの15階、毎朝そこに通いました。15階とはいってもニューヨークでは別に珍しくもありません(17階は日本総領事館です)」(拙訳)とあり、両者が同じビルに所在していたことが判る。伊地知は大正元(1912)年11月から翌年の5月まで、日本政府撤退後の『東洋評論』の編集に携わった。
10) 「紐育ニ東洋通報社設置一件」第一巻(外務省外交資料館)アジア歴史資料センター、Ref. B03040686700(画像番号12-13)
11) 同上、Ref. B03040687300(画像番号251)
12) 同上、Ref. B03040687400(画像番号272)
13) 同上、(画像番号275)
14) 同上。
15) 「紐育ニ東洋通報社設置一件」第二巻(外務省外交資料館)アジア歴史資料センター、Ref. B03040689200(画像番号36)
16) 頭本帰国後も、東洋通報社内部での呼称は、頭本が主幹、本田が主幹代理、馬場が助手とされた。
17) 明治44(1911)年9 月17 日付の『東京朝日新聞』の記事「平和博士の野外講演」によれば、来日中のスタンフォード大学総長ジョルダン(David S. Jordan)は、明治44(1911)年9 月15 日の早稲田大学での講演後、安部磯雄による「日米戰争論の起るが如きこれ畢竟彼我の間に感情の融和を缺くが為なりとせば是が救濟に關して博士の意見如何」との質問に対し、要約すれば以下の3 ヶ条を以って答えたという。本田の引用は、その内の第2 条に当る。他の2 ヶ条は下記の通りである。
(一)日本の歴史に精通せる學識名望ある人---例へば大學教授の如き---先づ米國の大學に至りて日本の國民性に就て歴史的説明を試み更に一般社會に之れが普及を計る事
(三)米國に於ける日本移民特に布哇より轉航したる日本移民中には往々にして無能無品性の勞働者ありて法外に低廉なる賃銀を以て勞働する者あり此等悪質の移民を内地に招還し同時に優良なる移民を送ることに努められたき事特に日本學生の渡來は米國より最も歡迎する所なり
18) 「紐育ニ東洋通報社設置一件」第二巻(外務省外交資料館)アジア歴史資料センター、Ref. B03040689400(画像番号178-180)
19) このクラーク大学主催の「日本及び日米関係」をテーマとする大会は、1911 年11 月22 日から25 日にかけて開かれた。1909 年は「中国及び極東」、1910 年は「近東及びアフリカ」がテーマとされ、1911 年は3 回目に当たった。本田以外の日本人出席者は、新渡戸稲造、朝河貫一、家永豊吉、一宮鈴太郎、安達金之助であり、高峰譲吉の講演は本田が代読した。各人の演題は下記の通り。
新渡戸稲造“Japan as a Colonizer”(「一植民者としての日本」)
朝河貫一 “Some of the Contributions of Feudal J. to New Japan”(「新日本に対し封建日本が貢献したる所」)
家永豊吉 “Japan in Southern Manchuria”(「南満州に於ける日本」)
一宮鈴太郎“The Foreign Trade of Japan”(「日本の外国貿易」)
安達金之助“New Literature of the New Japan”(「新日本の新文学」)
高峰譲吉 “The Japanese in the United States”(「合衆国に於ける日本人」)
この大会の論文集であるJapan and Japanese-American relations: Clark University Addresses, New York: G. E. Stechert and Company, 1912 の編集者であり、クラーク大学の歴史学教授であるブレークスリー( G. H. Blakeslee )は、その序で、大会をアレンジする段階から本田に世話になったことに触れ謝意を表している。大会の出席者に、上記の日本人以外に元お雇い外国人のグリフス( William E. Griffis )、モース( Edward S. Morse )などもおり、本田がコーディネーター的働きをしたことが伺える。ジュリアス・モリッツエン( Julius Moritzen )は、The Peace Movement of America(『米国の平和運動』)G. P. Putnam’s Sons, New York and London, 1912,pp.313-315 で、1911 年のこの大会に言及し、その人選がハッピー・チョイスであり、大会も盛り上がりを見せたと指摘している。
20) クラーク大学「中国」に関する大会は1912 年11 月13 日から16 日に開催された。朝河貫一の演題は“Some Suggestions on the Evolution of the‘Open-Door’Principle in China”(「中国の『門戸開放』主義の進展に関する若干の示唆」)
21) 馬場恒吾「紐育に於ける本田君」『英語青年』HONDA NUMBER, 第54 巻第9 号(大正15(1926)年2 月1 日)p.285.
22) Masujiro Honda,“The Evolution of Japanese Diplomacy,”The Oriental Review,Vol.3-No.1(November 1912)pp.38-45. 資料参照。1911 年のクラーク大学の大会で本田が発表した“Japanese Diplomacy, Past and Present”をペーパーに落としたもの。当初The Journal of Race Development, October 1912, pp.188-200 に掲載され、その後The Oriental Review に再録された。また、同大会の論文集であるJapan and Japanese-American relations: Clark University Addresses, New York: G. E. Stechert and Company, 1912, pp.221-233 にも、収められている。
23) 後代、外務省も本田と同様の見解をとっている。外務省編『小村外交史』原書房、昭和41(1966)年は、ロシア全権ウィッテの回顧録を引用し、ウィッテが講話談判に臨むに際して「米国に於ける新聞紙の怖るべき勢力に顧み、操觚者の総てに慇懃に接近し、これに全幅の注意を払う」(p.573)ことに留意していたこと、また、小村の新聞対応について、ウィッテが「日本の小村全権は大過失を演じた。(中略)彼は新聞記者を避け、寧ろ新聞紙から隠れようと努めた」(p.574)といった感想を漏らしていたことに触れた後、「ウヰツテのこの外交戦術に対する我が態度は実は余りに端正、正直、単純であつた」(p.575)と、控えめではあるが自己批判し、当時の日本外交がプレス対応を誤ったことを暗に認めている。
24) Masujiro Honda,“The Evolution of Japanese Diplomacy,”The Oriental Review, Vol.3-No.1(November 1912) pp.42-43.
25) Ibid., p.43.
26) Ibid.
27) Ibid.
28) Ibid.
29) Masujiro Honda,“The Story of a Japanese Cosmopolite,”The Herald of Asia, August 12, 1916, p.652 で、本田は自身を「自由貿易主義者( a free trader )」と呼んでいる。
30) Masujiro Honda,“The Evolution of Japanese Diplomacy,”The Oriental Review, Vol.3-No.1(November 1912)p.44.
31) H. B. Montgomery, The Empire of the East,( London, Methuen & Co., 1908 ) pp.294-295.なお、本田は出典を1909 年としているので、同年発刊の米国版( Chicago, A, C, McClurg & Co. )を参照したと思われるが、内容は同一である。
32) H. B. Montgomery, The Empire of the East,( London, Methuen & Co., 1908 )p.295.
33) Masujiro Honda,“My Shattered Dreams: From a Japanese Pacifist’s Diary 1905-1923”The Japan Advertiser, January 11, 1925 に本田は以下のように記している。1866 年〔1 月15 日〕に生を受けてからこの方、とくに茲許の18 年間は、自分や自国のためばかりでなく、人類同胞のために、意識的に、直接的に、そして実践的に生きるよう心がけてきた。平和主義者として、遅れ馳せながら反戦運動に全身全霊を以て身を投じたのである。この運動は、日露戦争後、米国や欧州でそのエネルギーを倍加させ、活発になったものであるが、この18 年のうちに、新たに平和主義者となった私の熱意も、次第に冷めて行かざるを得なかった。
34) 「紐育ニ東洋通報社設置一件」第二巻(外務省外交資料館)アジア歴史資料センター、Ref. B03040689600(画像番号255)華盛頓発東京着明治45(1912)年3 月21 日、内田康哉外務大臣宛珍田捨巳米国大使は、珍田がワシントンからニューヨークへ出張した際、日本協会と折衝した結果を内田に報告したものであるが、「東京出發前御内諭ノ通日本協會ヲシテ該雑誌ヲ引受ケシムルノ件ハ到底見込ナク」と伝えている。
35) 山縣五十雄「頭本先生の追憶」『英語青年』頭本先生記念號、第88 巻第12 号(昭和18(1943)年3 月15 日)p.342.
36) 『ニューヨーク・タイムズ』が 1912 年12 月18 日付で「オリエンタル・レヴュー休刊」(“Oriental Review Suspends”)と題して報じているが、その中で、昨日公表されたとある。
37) 本田が『東洋評論』から手を引いて以降、筆者が確認出来た最も新しい号は、大正2(1913)年発行の第3 巻第7・8 号(5 月、6 月合併号)であるが、その中に日本の影響を示すと思われる記事として、以下のものがある。家永豊吉“The Ghost of War”(「戦争の亡霊」)pp.495-496. 河上清“How California Treats The Japanese”(「カリフォルニアは如何に日本人を扱っているか」)pp.499-503. 伊地知純正“Western Influence on Modern Japanese Thought”(「現代日本人の思想に対する西洋の影響」)pp.516-522.
38) この経緯を「片々録」『英語青年』第28 巻第9 号、大正元(1912)年10 月1 日、p.287がその要点を伝えている。
Oriental Review の廢刊
三四年前日本の眞相を米國に紹介するの目的で頭本元貞氏は紐育にOriental Information Agency を設立し其の機關〔と〕してOriental Review を發行して居た。頭本氏がJapan Times を經營すべく歸朝してからは本田搦沽Y氏が社長と〔な〕り日米の親交に力を盡くして居たが、惜むべし彌々昨年十二月よりOriental Information Agency を閉じReview を廢刊する旨態々本社へも言つて來た。然るに紐育で發行するJapanese American Commercial Weekly によるとOriental Information Agency は閉じたが、Oriental Review はChapman 氏が經營して發行を續ける由である。但し本田氏は此雜誌の發行には今後關係を絶つとのことである。創立以來同社に在りて活動した馬場恒吾氏は四月頃〔実際は3 月18 日〕歸朝する事となつた。そしてパリより紐育に渡つた伊地知純正氏はChapman 氏を助けてOriental Review を編輯するとのことである。 
 
特派員 エドワード・ハウス

 

明治政府、エドワード・H・ハウスを叙勲
エドワード・H・ハウス
エドワード・H・ハウスは1836年10月5日にアメリカのボストンに生まれ、ニューヨーク・トリビューン紙の記者になった。万延元(1860)年に江戸幕府が通商条約批准のため初めてアメリカに派遣した「遣米使節」の報道を通じ日本に興味を持ち、明治2(1869)年暮れにニューヨーク・トリビューン紙の東京特派員として日本に派遣され、その後明治34(1901)年12月18日に没するまでジャーナリストであり続け、日本に骨を埋めた人だ。
来日後、特派員の傍ら大学南校で教壇に立ち、マリア・ルス号事件では自国のデロング駐日公使を痛烈に批判し、明治政府の台湾出兵には自ら従軍取材し、日本で新聞を発行し、折に触れアメリカで幾つもの論文を発表し、幕府がタウンゼント・ハリスと結んだ通商条約にある治外法権や関税自主権の是正に付いて明治政府の立場を文筆をもって強力に代弁するジャーナリストでもあった。
外務大臣・小村寿太郎の叙勲推薦文
明治政府はこのエドワード・H・ハウスの日本への貢献を顕彰し、明治34年12月18日、その死の直前に勳二等瑞宝章を下賜した。その叙勲推薦文は、昔の大学南校 (注:後の東京大学) で英語の教授でもあったエドワード・H・ハウスの薫陶を受けた(「ニューヨーク・タイムズ」紙記事)、当時就任したばかりの外務大臣・小村寿太郎が起草したものだ。小村寿太郎が学生だった頃のハウスは、特派員であり、また大学南校の英語教授として、文部省お雇い外国人でもあったわけだ。小村の推薦文いわく、
「北米合衆国人エドワルド、エチ、ハウス儀は、明治の初年大学南校御雇い教師たり。始終懇篤に学生を指導し、貧困なる学生には学資を給して就業に従事せしめ、誘掖(ゆうえき、=導き助けること)薫陶至らざるはなし。解雇後、女子英語学校を設立して慈善的に女子教育に勤め、明治七年西郷事務都督に従い台湾に赴き、斡旋する所あり。是より先き明治五六年の交、英国公使「パアクス」、他の外国公使と謀り、常に帝国政府に反抗したるとき、米国公使「デロング」も英国公使に左祖(さそ、=味方すること)して我に利ならざるを以て、「ハウス」は帝国政府の内命を奉じて米国に往き、同国の新聞紙上に於いて大いに米国公使の所為を駁し、遂に合衆国政府をして同公使を召喚せしめ、其の後任「ビンガム」は極めて日本に好意を表し、英国公使に反対して帝国の利益を謀るに至れり。右の外、合衆国政府が下関償金我に返還するに付きても、同人の功多に居れり。右等数回の功労に対して明治十七年より二十三年に至る七ヵ年間、特別年金二千五百円下賜相成り候処、欧米列国と条約改正を商議するに当たり、時の外務大臣陸奥宗光は「ハウス」に内命を伝え、米国諸新聞紙上に盛んに日本の文明進歩を称道せしめ、日米条約の改正は啻(ただ、=只)に日本の利益なるのみならず、亦米国の利益なることを縦論(じゅうろん、=縦横に論議すること)して、大いに同国の輿論を喚起し、終に新条約の訂結に満足の結果を得るに至れり。然るに当時、宛(あたか、=恰)も日清戦争に際し、旅順惨殺の風説偏(かたよ)り、欧米に伝播し、合衆国元老院は既に調印したる日米条約の批准を否決せんとするの意向あり。因りて帝国政府は更に同人の力を借りて米国人の疑惑を消散せしめ、遂に元老院をして談条約を批准せしめたる等、同人の帝国に対する功勲は顕著なるものにこれ有り。因みに当時の内閣は、其の功労に対して叙勲を奏請せんとするの内意を泄(もら)したるに、同人は固く之を辞せり。其の理由は、自分が日本の為に盡力(じんりょく、=尽力)するは一点求むる所あるに非ざるのみならず、今後日本の利益を謀る為め、新聞に論議し、又は内外に周旋するに有り。若し日本の勲章を帯着するときは、世人或は日本政府と特別の関係あることを疑うに至り、大いに行動の自由を妨げらるるに至るべしと云うにあり。然るに目下病気危篤に付き、此の際特別の聖意を以て同人多年の勲功を表彰せられ、勳二等に叙し、瑞宝章下賜され候様仕り度く、此の段謹みて奏す。 明治三十四年十二月十七日
   外務大臣小村寿太郎 」 
ニューヨーク・トリビューン紙の遣米使節の報道と、特派員としての来日
無署名記事にエドワード・H・ハウスを見る
既に、「4、初めての遣米使節」を記述してあるが、当時の筆者には、なかなかアメリカの古い新聞を読む方法が無かった。幸いにも最近その機会があり、以降の記述にはできるだけニューヨーク・トリビューン紙の記事を引用してみたい。この時のワシントンで、正使・新見正興(しんみまさおき)を始めとする日本使節団の取材が縁になり、ハウス自身が日本に強い興味を持ち、後に同紙の東京特派員として日本にやって来たといわれる時のものだ。この「遣米使節」に関するニューヨーク・デイリー・トリビューン紙記事は無署名で、あくまでも筆者の推定だが、その文体や鋭い観察、正義感溢れる視点や鋭い批評などから、「ハウスの筆になったようだ」と思うものである。
本格的な報道は、「ニューヨーク・デイリー・トリビューン」紙の1860年5月17日付け紙面に、「本紙通信員より、ワシントン発、1860年5月14日、月曜日夕刻」で始まっている。使節一行を出迎えるための側輪蒸気船・フィラデルフィヤ号(500トン)がワシントンから派遣され、パナマのアスピンウォールまで迎えに行っていたアメリカ海軍のローノーク号が、バージニア州ノーフォーク軍港のあるハンプトン・ローズに着き、使節一行がこのワシントンから出迎えたフィラデルフィヤ号に乗り移るところから記事が始まっている。このエドワード・ハウスと思われる記者は蒸気船・フィラデルフィヤ号に乗り、使節一行に密着取材しながら記事を書き送っている。要約すると、次のようなものだ。この記者の報告は、更に翌日の18日付け紙面にも続けて載っている。
記事いわく、ワシントンから出迎えのフィラデルフィヤ号は、接待役のデュポン海軍大佐やリー海軍大佐、ペリー提督と日本に遠征したオランダ語通訳のA・L・C・ポートマン氏などを乗せハンプトン・ローズに着き、ローノーク号の到着を待った。総勢76人もの使節団の荷物の整理と移送だけでも大変な騒ぎになったが、フィラデルフィヤ号で迎えに来たアメリカ政府の代表者たちと使節団との間にたちまち良い雰囲気が出来た。日本使節の着物や羽織は豪華な織物で、アメリカ士官や役人の制服は簡素で、そのコントラストが目立った。使節団の人達は、時々手を休め、帯に挟んだキセルを取り出し、こみ上げる興奮を押さえるように一服二服と煙草をふかした。ものすごく忙しい荷物の整理中でも笑顔を絶やさず、こうしなければ真心が通じないとでも思い出したように、急に皆と握手をして回った。使節団の携帯する批准書は漆塗りの箱に収められ、1m30cm x 90cm x 60cmの赤い革張りの大きい外箱に入れてあった。日本人は皆ユーモアの持ち主で、笑顔を絶やさない点が共通していた。大勢の中でもとりわけ、頭を青々と剃った3人の医者が知的だったが、笑顔を絶やさないという点では他の人達と同じだった。主席通詞の名村五八郎はよく冗談を言い、ローノーク号のガードナー艦長に 「艦長殿、批准書と所持金だけが一番大切な物ですから、お分かりでしょう、他の物はどうなってもかまいませんよ」などと冗談を楽しんでいた。暫くして、著名なノーフォーク市民だと名乗ってフィラデルフィア号に歓迎の挨拶にやって来た人達は、小一時間も軽薄な演説をし、自己満足の極みで帰っていった。ローノーク号艦長主宰のお別れの昼食会準備で、一番若い通詞で 「トミー」とニックネームで呼ばれる立石斧次郎が、使節の座席の準備のため、自信たっぷりにやすやすと、正使や副使の席に名札を書いて置いて歩いた。このトミーは椅子やテーブルの造りに好奇心を注ぎ、ワシントンに着いたら、先ず特許局に行きたいと記者に話してくれた。昼食の席に使節たちが来る前に、使節団の絵師が素早く正確なスケッチをして廻り、その品物の夫々に英語の名前をしつこく聞いては書き入れ、そのお礼に記者のノートブックにスケッチも書いてくれた。そこでこの記者は新聞に掲載するための絵を頼み、「谷文一」と署名するこの絵師の描いた植物画がその新聞記事中に掲載されている。お別れの食事に出されたご馳走の中でも、横たわる婦人の型に押して出されたアイスクリームが最も人気があり、その形と味の良さで、全くとろけるような効果があった。フィラデルフィア号がチェサピーク湾の中をワシントンに向け出発した。使節たちは品格があり穏やかで、大声で話すことも無く、優雅で柔和な態度が使節団全体をもまとめていた。夜が明けてワシントンの海軍造船所に着船し、使節たちは大歓呼の群衆の中を2時間もかかって、馬車でウィラード・ホテルに到着した。ホテル内でこの記者は、「今この記事を書きながら窓越しに見ると、群衆がいろいろ歓迎する中を大勢の日本人が歩き回っている。日本人は日本人で、何か珍しい小物を気前よく贈っている。もう気楽に振る舞い、慣れたものだ。何処にでも入って見るし、階段を上がったり降りたり、何時やめるとも無く続けている。こんな光景は全く楽しく、一番遠方の二つの文化どうしの邂逅だ」 とその情景を記している。
ブキャナン大統領やカス国務長官との会見は電報で送られた記事で、5月18日付の紙面に載っている。しかしこれは、使節の言葉や大統領の言葉と共に会見手順の説明で、あまり面白くないから省略する。その他、議会を訪れた記事やインタビュー記事もあるが、後の機会に譲る。また6月12日付けでは、「本紙通信員より、フィラデルフィア発」として、年若いトミーと呼ばれた通詞・立石斧次郎の、ワシントンで会ったアメリカ人少女への淡い恋心のエピソードを紹介した記事があるが、機会があれば別に書く事にしたい。この様にこの記者は、あまり見慣れない日本人使節団であっても、事実を掴むべく密着取材し、親しい人達を作り、その心の中まで開かせるほどの何かを持っていたようだ。
来日したエドワード・H・ハウス
遣米使節の取材などの後で、アメリカの南北戦争の従軍記者としても名を馳せたと言う事だが、エドワード・H・ハウスは、1869(明治2)年の暮れにニューヨーク・トリビューン紙の特派員として日本に派遣され、、早速特派員の仕事を始めた。筆者が調べ得た範囲では、ハウスが日本から発信した最初の原稿と思われるものが、「本紙の特派員より、横浜、12月30日発」として1870年2月5日付けのニューヨーク・デイリー・トリビューン紙の4ページに載っている。後に、「トリビューンの正規特派員より。E.H.H」と署名入りの記事も登場するが、これにはその署名が無く、ハウスの記事とするのは筆者の推定である。
これは日本の10年前の状況と現在を比較し、その発展と変化が如何に顕著なものかを述べたものだ。これはしかし、批評する対象を一言二言で刺し殺すほどの文章力を持つハウスにしては全く物足りない記事だが、ハウスが日本を理解するために始めた第一報として見れば、納得すべきものなのかも知れない。
こんな特派員の傍らハウスは、1871年2月、即ち明治4年1月から英語教授として大学南校で教え始め、明治6年1月まで2年間勤めている。この後もまた時に教壇に立つが、上述の、1870年2月5日付けのニューヨーク・デイリー・トリビューン紙掲載の最初の記事の中に次のような表現がある。これは、ハウスが次に行った英語教授にもなると云う行動を示唆するものだ。いわく、
「(日本国内では)知識と教育充実への渇望が急速に高まり、国中の上流や中流の人々から、知識吸収のため、どんな教育の機会も受け入れられ始めた。あらゆる宗派の宣教師たちは教師として活動を始め、ここでは禁教になっている宗教を教えるとはっきり言われる事も承知で、帝(みかど)や藩主達は彼等を招聘し始めた。大都市では政府による学校が急速に設立され、そんな中の二つでは、科学教育大学を組織する動きが急速に進行している。」
この様にハウスは、特派員の職務だけでなく、自身で日本の発展に深く関わってゆく事になる。この辺りから、最初に出した外務大臣・小村寿太郎の書いた推薦文に従い記述を進めたい。 
アメリカ公使・デロングとの葛藤と、マリア・ルス号事件
前哨戦
特派員のエドワード・H・ハウスが日本に着任するや、当時新任のこのアメリカ公使・デロングを早々に批判する記事がトリビューン紙に載ったから、筆者には、始めから火花が散るような関係があったようにも見える。デロング公使は1869(明治2)年11月11日、前任のバン・バルケンバーグ公使と共に参朝し、公使交代を正式に伝える国書を捧呈しているから、ハウスとほとんど同じ頃、あるいは前後して日本に赴任したようだ。上述のように、ハウスが日本から初めて送った記事が載ったニューヨーク・デイリー・トリビューン紙に、その一週間後の2月12日の6ページに、誠に気になる記事が掲載された。それは、「How Much DeLong Is Short (デロングはどのくらい不足なのか)」と云う、デロングの「Long」と「Short」を語呂合わせまでした風変わりな題名だ。いわく、
「オレゴン出身のチャールス・E・デロング氏は、日本の国で、金貨で7,500ドルの年俸を受ける新任の我が駐在公使である。・・・しかしデロング氏は江戸に赴任するや否や、この収入が相当に加増されなければ、不測の災難は回避できないとフィッシュ国務長官に書翰を送った。「若しその地位が第一級でなければ、アメリカ公使が日本で影響力を持ち、他国の公使たちと競争する事は不可能であり」、更に彼は親切にも、日本に於けるイギリス公使は年間20,000ドルを支払われ、経費請求に上限はないと説明した。だから若し充分な収入が無ければ、彼は影響力の行使ができず、役にも立たないのだ。・・・我が公使の欠乏の要求書は、彼のサラリー3倍増だけではない。彼は「公使館建物、事務所等々、公使の住居を一度に建て」、25人のアメリカ兵が警護に当たらねばならず、公使命令で運用できる軍艦が港に常駐せねばならないと催促した。これ以外にも彼は、横浜に郵便局と刑務所、更に江戸に郵便局、刑務所、病院が必要だと要求した。こんな大工事を一度に間違いなく建て、50万ドル以下で完成出来る訳が無い事は明らかで、年間25万ドル以下でこの計画を(軍艦配備も含め)デロング氏の思惑通り実行したり出来ない事も明らかだ。我々にそんな高額を支払う準備があるだろうか?我々の方からもう辞任して、デロングの不足にした方がよくは無いだろうか?・・・従って我々は、デロングの小額の請求書に二倍の嫌悪感を持つ。それは全くべらぼうな費用で、考慮に価もせず、「全く反対の事を考えるものだ」。」
こんな細部に亘る情報は、ニューヨークに居て入手したり書いたりする事は非常に困難と思うのだが、筆者は、日本からのハウスの筆になるものか、ハウスからの情報に基づくものと思う。こう考えれば、ハウスの日本到着早々から新任公使のデロングに厳しい批判を浴びせ、既にデロングとの葛藤の前哨戦が始まっていたように思われる。
日本に着いた早々この様な細部情報を入手するハウスの辣腕ぶりに驚くが、ハウスの旧知の人で、筆者には情報源の一つになったと思われる人物が、既に日本のアメリカ公使館に勤務して居たのだ。それは、ペリー提督と共に日本に来て、アメリカに帰国していたオランダ語通訳アントン・L・C・ポートマンが、再度遣米使節団の通訳としてワシントンに呼ばれ、上述の如くハウスと一緒にフィラデルフィア号で使節団を迎えた。このポートマンが、日本使節団の帰りにも軍艦・ナイヤガラ号で使節団とともに1860(万延1)年11月に日本にやって来ていた。ポートマンはその後、引き続きアメリカ公使館の書記官・通訳として在日していたから、ハウスは横浜でこの旧知の顔を見つけたはずだ。あるいはまた、アメリカ人の領事・シェパードなども居たから、こんな人達がこの情報の出所であってもおかしくは無いだろう。
この明治2年暮れ頃のアメリカ公使館はまだ築地ではなく、幕末志士の外国人襲撃計画が明らかになった1863(文久3)年6月にプルーイン公使が善福寺から横浜に非難して以来、デロング公使も横浜から江戸の善福寺に行ったり来たりの中途半端さだった。この明治2年8月に、明治政府が列藩の版籍奉還を行い藩主を夫々藩知事に任命し、少しずつ政局の安定が見られ貿易も増加していく頃だ。デロングにしてみれば公使館を新しくし、機能充実を図りたいと思ったのだろう。
この後、6月4日のトリビューン紙に、「スチュワート上院議員が、デロング公使の現在の駐在公使の肩書きを特派全権公使に格上げし、7,500ドルのサラリーを12,000ドルに引き上げるよう議会に提案したが、本紙にはその理由を理解できない」との記事が掲載されている。しかしこの昇格は、明治3(1871)年12月8日、デロング公使から明治政府に 「特派全権公使」へ昇格する辞令を受けたと連絡があり、翌年4月22日、自身で参内し明治天皇に、デロングを特派全権公使へ昇格させた旨のグラント大統領の親書を提出したから、アメリカ政府はデロング公使の要求する身分と収入改定だけは許可したわけだ。公使館建物については、次のビンガム公使の時代になって、やっと築地に借りた建物で体裁が整っている。
マリア・ルス号事件
マリア・ルス号(350トン)は、当時日本とまだ通商条約を締結していないペルー船籍のブリグ型帆船だったが、支那からペルーの首都・リマのカラオ港へ向けた航行中、明治5年(1872)年6月4日夕刻、帆柱に損傷を受けたと横浜に緊急入港した。横浜港役人は、条約締結国の船ではないので、規定通り船所属の書類を預かり、神奈川県庁管轄下での入港を許可した。この船には、支那のマカオからカラオ港に連れてゆかれる途中の231名のクーリーが乗っていた。このクーリー達は、表面上は移民契約をしていたが、その実、ペルーで労働を強いられる人々だった。この当時、ヨーロッパやアメリカでは既に法的に「禁止条例」の施行で解決されていた、いわゆる「奴隷」に該当する人々だった。
事件は1872年8月3日(明治5年6月29日)付けの、イギリス代理公使・ワトソンから外務卿・副島種臣宛の書翰から始まった。ワトソン曰く、先般マリア・ルス号から数人の支那人が停泊中のイギリス軍艦・アイアンデューク号に泳ぎ着き、助けを求めた事実があった。自身でマリア・ルス号に行き調べたところ、支那からペルーへの違法なクーリー貿易船の可能性が強いので、この書翰を根拠に日本政府が調査し、日本海域で違法なクーリー貿易を根絶すべきと思うというものだった。更に、日本がペルーと条約を締結していない以上全て日本の権限で実行でき、いずれの国からの干渉も受けず、日本がこのクーリー貿易を根絶する行為は人道的義務であろうとも述べていた。
また同日付けで、アメリカ代理公使・シェパードからも副島外務卿に書翰が届いた。いわく、ペルーのクーリー船・マリア・ルス号に乗っている者への暴力沙汰が伝えられたが、ワトソン氏の要望を完全に支持するもので、船長以下が有罪なら厳しく罰せられるべきである。アメリカ公使館には本国よりペルー人へ仲介の手を差し伸べるよう指示があるが、非人道的で違法な 「クーリー貿易」に関わるマリア・ルス号は援助できないと拒否してある、と云うものだった。事実、このシェパード代理公使から7月10日付けで、ペルー人の、マリア・ルス号船長・ヘレイロ宛に出された書翰には、
「ペルー国旗を掲揚し合法的な商売をする船舶には、何時でも進んで援助の手を差し伸べるが、今回の状況では、本官の保護下に置く事は出来ない。「クーリー貿易」は合衆国の法律で禁止され、貴殿自身の口述によれば、貴船はその貿易に関与しているため、本官の公的名称の使用並びに保護と支持表明とを差し控え、従って、貴殿への如何なる援助や保護をも拒否するものである。」
という、明瞭で厳しいものだった(「Diplomatic Relations」)。このシェパードの言うクーリー貿易を禁止する合衆国の法律とは、1862年にリンカーン大統領が署名し公布された「アメリカ市民とアメリカ船による奴隷貿易禁止法」を指すものだ。この時、アメリカ公使・デロングは岩倉使節団と同道渡米しまだ日本に帰っていなかったし、イギリス公使・パークスも近く渡英する岩倉使節団への対応の打ち合わせに帰国中だった。従って、イギリス代理公使・ワトソンはアメリカ代理公使・シェパードと連携し、2人同時に副島外務卿宛てに書翰を出したのだろう。
副島外務卿は、クーリー貿易という人道に関わる事件究明に乗り出すべく、神奈川県権令・大江卓に糾明・調査を命じた。これにより大江は、神奈川県裁判にマリア・ルス号船長その他関係者を召喚し、裁判の結果クーリー全員の解放を命じ、清国特使・陳福勲に引渡し帰国させたが、船長の罪は問わなかった。船長は逃げるように帰国し、後にペルー政府は日本に代表を送り、副島に会い神奈川県裁判の違法性を談判した。双方は譲らず、国際的仲裁をロシア皇帝に託す事に合意し、その結果明治8(1875)年6月、日本側対応の正当性に軍配が上がり、最終決着を見たというものだ。
デロング公使の横槍と、エドワード・ハウスの糾弾
上記の如く神奈川の吟味・裁判が進み、明治5年7月6日、即ち1872年8月9日付けで大江神奈川県権令よりマリア・ルス号船長宛てに、更に吟味裁判が必要のため出帆差止め通達が出される頃、岩倉使節団に同道しアメリカに帰国していたデロング公使が、約9ヶ月ぶりに横浜に帰ってきた。早速マリア・ルス号船長から再度の仲介を求められたデロング公使は、デロングの留守中代理公使を務めたシェパードの、違法な 「クーリー貿易船だから」という仲介拒否を覆し、自国の国務長官からの命令があるので、ペルー国の代表として仲介したいと7月28日付けの書翰を副島外務卿に送った。副島はこのデロングの要求を拒否し、マリア・ルス号の支那人乗客の意思に依らない限り帰船を許可できないと伝えた。デロングも簡単には引き下がらず、アメリカ公使がペルー政府の利益代表になる事は日本政府に通知済みだと粘った。そうこうするうちに肝心のマリア・ルス号船長が日本を逃げ出し、デロングと副島との掛け合いは何の結末にも至らなかった。
こんなデロング公使の行動に噛み付いたのが、エドワード・ハウスだった。1872年9月28付けのニューヨーク・デイリー・トリビューン紙の2ページに、「トリビューン紙の正規特派員より、江戸にて、8月22日発」という、「クーリー貿易」と題する記事が載っている。長い経過説明の記述のあとで、「アメリカ公使の振る舞い」という中間見出しの記事いわく、
「これは、2週間前に合衆国公使のデロング氏が、アメリカから帰って来た時に事件となった。彼が到着するや、たちまち噂が流れた。ペルー人船長に好意を約束し、先日代理公使によって取られた処置は誠に残念だったと述べ、助言と保護とを約束したと云うものだった。始め、そんな事は信じられない話だと鼻であしらわれた。しかしすぐに、それは真実以上でも以下でもない事が判明したのだ。シェパード氏の行為が非難され、修正され、このペルー人は公使館に招かれ、その後筆者自身も直接聞いた事だが、彼は合衆国公使に保護されていると公言までしたのだ。最後には、日本人にもこの情報が伝わった。アメリカという共和国の首都から帰ったばかりの公使が、道徳的感覚や自分が代表する国の法律が何れも明白であると云う事実に反して、クーリー貿易に関わる人物の助言者で保護者である事をまさに日本人に見せ始めたと云う事実を、日本人は全く信じる事ができなかった。それを事実として認めざるを得なくなった時、日本人には予想外の事だった。その事件を厳格な裁判に委ねようとする彼等日本人の決定が揺るいだと言うのではないが、現在日本駐在の一先進国の公使のみがその事件に関し日本に反対するという事実に、それ以上言葉も無いほどの屈辱を感じた。そんな事実が彼等を傷つけ、その上一方でそれは、非常に重大な出来事だった。これまで日本人をクーリー組織で国外に連れ去ろうとしたのは皆アメリカ人であり、我が公使連中が何回も彼等を罰せよと命ぜられても、公使連中はそうする事をためらってきたのだ。第一にこれは、激怒をもたらした。そして若し我々がこの土地で良い評判を保とうと思うなら、それは、我々にとって充分満足に答えるのに絶対必要な事となろうから、クーリー船長の擁護者であり助言者である合衆国公使に対する新しい態度と絡み合って、我が政府の正当な苦情に対する変わらぬ冷淡さを想い起こすから、調査と評論を誘発したのだ。」
続けて出ている「公使の動機」と云う中間見出しでは、
「デロング氏が自身の責任についてシェパード氏と違った観点を持ち、シェパード氏の行為を拒否し厳しく譴責するに至った理由を、知られている限り説明する事は適切な事である。この二人は、ペルー市民に関する国務省の指示につき、一点において全くの同一意見ではなかった。幾つもある中で、前代理公使は公使館記録にだけ従っていたが、代理公使の述べる個人的意見に関し、公使館記録に対する二人の違いはない。しかし、二年前にデロング氏がその指示を受けた時、デロング氏には――多分、公使任務の範囲を拡大出来る見込みがあろうと云う――特別な熱意があり、そのすぐ後で公使は、ペルー政府に対し、公使がペルーと日本やその他の国々との条約交渉の労を取りましょうと、自発的に提案する書翰を送っていた事が分かった。この件については、ペルーはおそらくこの条約締結を望んでいなかった事により、何の返答も来なかった。ペルーが携わる重要なアジアとの貿易はこの人身売買で、東洋の一国との通常の条約には規制が多く、不便極まりない事だったのだ。四年前に日本は、ペルーのクーリー船の件で問題が有ったが、彼等は再発が無いよう見張っていたのだろう。彼等の側では条約締結の用意があったが、ペルーは反応しなかった。デロング氏は条約の件はまだ可能性ありと考え、更に、国務省からあった指示だけでなく、ペルー政府は将来彼の条約締結提案を受けるだろうと云う期待から、公使自身ペルー人の利益代表になれると感じていたようだ。兎に角、公になっていない公使の情報だけが彼の立場を強化するのに特別に役立っていて、その事は、一般に知れている事だ。」
と書き、デロング公使のとった、ペルー人船長の要請を断ったシェパード代理公使の判断を譴責し、逆に自国では禁止されているクーリー貿易をも擁護する行動に対し、ハウスは誠に厳しい批判を投げつけたのだ。イギリスでも、アメリカでも、昔は積極的に行われた奴隷貿易はすでに法的に禁止されていたし、人道的にも許せないクーリー貿易をするペルー人船長に援助の手を差し伸べようとする「自国公使」に、厳しく噛み付いたわけだ。
デロング公使の逆襲と、トリビューン紙の暴露記事
こんなハウスの厳しい批判に、デロング公使も黙っては居なかったようだ。1873年2月8日、即ち明治6年2月8日付けのニューヨーク・デイリー・トリビューン紙の4ページに、「デロング氏について一言」と題する次のような暴露記事が載っている。いわく、
「我々には、本トリビューン紙の私事について読者の前にさらけ出す習慣はないが、既に幾つもの他の新聞がこの問題についての論説を発表しているので、日本在住の合衆国公使のデロング氏が、本紙のかけがえのない特派員であり、江戸の大学で教授職にあるエドワード・ハウス氏の教授職からの追放を迫ると云う、外交官としての義務違反の罪を犯した事実をこれ以上述べずにおく理由が無くなった。デロング氏は、ハウス氏により書かれ本紙に載った、マリア・ルス号事件に関する公使の行為を非難する記事について、ハウス氏との反目に正当な理由があると思っている。その非難記事は完全に正当性があり礼儀正しく述べられているが、しかし、デロング氏はその記事により威信を傷つけられたと感じ、合衆国の名において、日本政府にその記者を教授職から追放するよう求めたのだ。日本の内閣は、デロング氏自身が持っていると思ったものより、はるかに正確にデロング氏の特権に対する展望を持っていたため、その要求目的は達成されなかった。従ってこの件は、我が公使の大いなる厚かましさと、天皇の内閣により適切に退けられたと云う筋書きだけが在日アメリカ公使館記録に載った事を除き、どんな実質的結果も伴わなかった。おそらくデロング氏には、自身が就いている地位に対する充分な感謝の感覚が無かったようだ。しかし氏は、その国民を、我々の範例と激励で近代文明に列席させるべく努力すべき裁判で、偉大な国家の代表者により行われた無益な悪意の発揮という、意地悪で野卑な行為について、事実として知られる如く、恐らく恥の観念のかけらもないただ一人のアメリカ人であろう。彼等日本人が賢く我々から学ぶ事は多々あるが、彼等がワシントンで非常に賢明で熟達した森有礼氏により代表され、日本で我々の名声と威信を保持するためデロング氏より優秀な人物が居ない限り、我々の外交を日本のモデルとして受け入れようとはしないだろう。」
筆者は、デロング公使の文部省に対するハウス排斥要求の具体的な史実・史料を知らないが、おそらく外務省経由で非公式に、あるいは極秘裏に行った行為であろう。
史料に依れば、この後もハウスは大学南校の教授を明治6(1873)年1月29日から7月28日まで継続する事に決まっていたが、1月28日、病気の故を以て継続無しの満期解雇と云う事になった (「資料御雇外国人」)。上述してきた例で見れば、記事を書いた日付けからトリビューン紙に掲載まで約1ヶ月かかっている。従って2月8日に掲載された日から逆算すれば、1月始めにはデロングのハウス排斥のニュースがアメリカに向け発送された事になる。従って筆者には、この予定変更され満期解雇になった時期、あるいはそれが決断されたと思える時期と、ニュースが発送されたらしい時期が奇妙に一致するように思えるのだ。
これは、ハウスが日本政府に雇われる大学南校教授としてアメリカ公使を非難した格好だから、これ以上日本に迷惑が及ぶのを避けるため病気を理由に自ら身を引いたように見えるし、あるいは他の理由があったのか、いずれにしろ、明らかにデロングからのハウス辞職への圧力と関係がありそうに思われる。当時ハウスは大学南校教授の月給250円、ドルで見ても月額ほぼ250ドルを貰っていたようだが、これを犠牲にする事は、かなりの経済的ダメージがあったことだろう。
デロング公使召喚の記事
ここでしかし、最初の小村寿太郎の叙勲推薦文に帰ってもう一度読んでみれば、
「明治五六年の交、・・・米国公使「デロング」も英国公使に左祖して我に利ならざるを以て、「ハウス」は帝国政府の内命を奉じて米国に往き、同国の新聞紙上に於いて大いに米国公使の所為を駁し、遂に合衆国政府をして同公使を召喚せしめ・・・。」
と出てくる如く、エドワード・ハウスは大学南校教授職を辞して、帝国政府の内命を奉じ米国に渡ったのだ。即ち、明治6(1873)年1月28日以降の大学南校教授の契約を、病気を理由にその更新を断り、明治政府の内命で早々にアメリカに帰国した事になる。「内命」であったからおそらく、今では史料を探す事はほぼ不可能だろうが、例えば当時このハウスと親しかった様に見える大蔵卿・大隈重信など個人を通じてにしろ、政府から何らかの経済的援助はあったはずである。そして1873(明治6)年5月3日付けのニューヨーク・トリビューン紙の6ページに、次のようなタイトルの記事が出ている。いわく、
「日本に於ける我が国の不名誉
またしても一部の騒々しく不同意を述べ立てる声に関わらず、ワシントンから、デロング公使が日本から召喚されるとの情報が来た。この件は誠に特有な優柔不断さと裏表を持ったやり方とで処置されて来たが、この後政府がどうしようとするのか、我々は知ってゆかねばならない。・・・従って我々は、何故デロング氏の長い就任がこの国の不名誉となり、日本の侮辱となったのか、その最も重要な幾つかの理由を簡明に述べたい。」
こう書き出して、デロング公使が岩倉使節団に随行したのは公使の勝手で日本側は迷惑であった事、随行した女子留学生の処置で森氏とのみっともない諍いが使節団の予定を狂わせた事、能力のない近親者を江戸公使館書記に任命し嘲笑された事、合衆国を代表しているのに日本政府に雇われたがった事、等と事例を列挙し、そのほか五つもの事例をも列挙するという念の入った記事である。これはおそらく、明治政府の内命でアメリカに帰国した直後に、ハウスがニューヨーク・トリビューン紙に送ったものであろう。
この様に結果として、小村寿太郎の書いた、「米国公使・デロングが英国公使に味方して日本に利ならざるを以て」排斥したいという日本政府の期待した結果が実現したように見える。しかしデロング公使の排斥について、アメリカに渡ったエドワード・ハウスとニューヨーク・トリビューン紙のキャンペーンがどの程度功を奏したのか筆者には良く分からないが、むしろ大きな疑問符がつくように思う。
デロング公使の性格からか、その任期を通じ徐々にフィッシュ国務長官との間の溝が広がって行った様だ。確かに、岩倉使節団と別れた後のデロング公使の日本帰任が遅すぎたと、フィッシュ国務長官からその分の公使年俸を減額されたり、新しく公使館書記に任命した甥の報告文の綴り方が間違いだらけだと国務長官から強い叱責を受けたり、マリア・ルス号の処置では国務長官の意に沿わなかったことを謝罪したデロング公使の書翰などを指摘する本もある。大局的な方針から些細な事まで、国務省の意に適わなかった様だ。そして国務長官からの辞職願を出すようにとの個人的な書翰を受取り、1873年4月22日付けの公使辞職願を提出したと云う(「Spoilsmen in a "Flowery Fairyland"」)。これから見れば、上述のように5月3日付けのニューヨーク・トリビューン紙にハウスのデロング公使非難の記事が載る前に、フィッシュ国務長官から個人的な書翰で、デロング公使に辞職の要求があったわけだ。
勿論こんなアメリカを代表するメディアの一つ、ニューヨーク・トリビューン紙の日本報道は、それなりに注目されたものだろう。そして、グラント大統領に率いられたアメリカ政府にとっても、日本に対する外交ポリシー遂行上、大きく非難を浴びる事は決して好ましい事ではない。当然そんな意味で、エドワード・ハウスとニューヨーク・トリビューン紙のキャンペーンが、特に1873年2月8日付けの記事などが間接的な影響を与えたとしても不思議ではない。 
台湾出兵とエドワード・ハウスの従軍取材に至る経緯
琉球処分とデロング公使の質問状、そしてチャールス・リゼンドルの招聘
明治政府は強力な中央集権国家を目指し、明治4(1871)年7月14日、全国の廃藩置県を断行したが、琉球の本格的統合をも目論み、翌5年9月「琉球王国」を廃し「琉球藩」を設置した。そしてまた、更なる統合に向けた廃藩置県を目指し、それまで続いた琉球と清国との冊封関係と直接貿易や通交を禁じ、明治年号の使用と藩王自ら上京することなどを再三説得した。しかし琉球官吏は言を左右してなかなか従わず、明治12(1879)年3月、明治政府は処分官として内務大書記官・松田道之と警官や熊本鎮台の歩兵2中隊など合計約600人あまりを琉球に派遣し、武装と威圧のもとで3月27日、首里城で廃藩置県を布達した。首里城は31日に明け渡され、4月5日「沖縄県」を誕生させ、他の藩主同様、藩王・尚泰を華族に叙し東京在住を命じた。しかし前章の「16、グラント将軍の世界周遊と日本立寄り、琉球所属問題」でも書いた様に、こんな強制的な統合に琉球士族の一部は強く反発し、清国へ渡り救援を求め続けた。清国も日本のこんな処分に強く抗議するなど、この問題の決着に長い時間がかかった。
この様に、明治政府が強行策をも交えた琉球統合を進める過程の中で、自国権益に直接影響するアメリカのデロング公使は、1872(明治5)年10月20日付けの書翰で、かってアメリカのペリー提督が琉球王国と締結した条約の取り扱いをどうする積りなのか明治政府に確認した。11月5日付けの書翰で外務卿・副島種臣は、琉球統合後もそのまま有効である旨を正式に伝えている。この回答書翰に先立つ会談の中でデロングは、最近台湾で多くの琉球人が殺害されたという話を聞いたがと、副島に事実を確認した。副島は、清国に出張させている柳原少辨務使から、4、5ヶ月以前に届いた日本の太政官日誌に当る「清国京報」に載る、琉球人が台湾で遭難し殺害に遭ったと云う事件を公式に認めた。またこの情報は、少し送れて鹿児島県から外務省へ 「問罪の師を興し彼を征したい」と報告が上がってもいたが、副島は日本政府が台湾出兵なども含めたその処分を検討中である旨をデロング公使にほのめかし、何か台湾の情報があれば、ぜひ入手したいとも伝えた。
この琉球人の大量殺害は、宮古島から琉球の首府・首里へ年貢を輸送した帰りの琉球御用船が那覇港出航後、明治4(1871)年11月1日、嵐に遭って漂流し、6日台湾南部・恒春半島の東海岸にあるパーヤオ(八瑶)湾に漂着した。この66人の乗組員は上陸し、先住民・パイワン(排灣)族に救助を求め、一応食事を与えられた。しかし夜半、琉球人数人が忍び込んだ現地人に衣服を剥ぎ取られ、翌日もまた不穏な雰囲気に琉球人は皆逃げ出した。その後広東商人の家に逃げ込んだが、追いかけてきたパイワン族に次々と54人が殺害され、12人だけが生き延び生還したという事件だ。この生存者は台湾駐在の清国役人の保護を受け、清国の福建省福州を通じ琉球に生還した。現在の台湾・恒春半島南端の近くに「牡丹郷」や「満州郷」などという地区があるが、この辺りの山岳地帯に勇猛な先住民が住んでいたようだ。
デロング公使と副島外務卿のこんな会話が発端となり、たまたま当時帰国途中で横浜に来た、アメリカのアモイ総領事をしているチャールス・リゼンドルを外務卿・副島種臣の顧問に雇う事になった。このリゼンドルは、漂流アメリカ船員の殺害懲罰のため台湾に進攻したが不成功に終わっていたベル海軍少将の後を継いで、1867年に自身で支那より兵士を引率し台湾に遠征し、生蕃の酋長・トキトック(卓其督あるいは卓杞篤)とアメリカ人殺害の事後処理談判まで行い成功させた人だった。リゼンドルはこの様な台湾と支那事情に通じた専門家であり、アメリカの南北戦争では大怪我をしながらも戦列を離れず奮闘活躍し、准将にまで昇進した経歴を持つ。こんな軍事・政治の専門家の招聘は、明治政府が清国や台湾情勢の細部を知り、台湾出兵にまで進む一つの重要要素になった。後述の如く実現こそしなかったが、台湾出兵で明治政府は、リゼンドルを 「台湾地方事務都督」に任命するつもりでもあった程の人だ。
このリゼンドルは、明治5(1872)年11月15日付けの、「2等官の敬礼を与え、月額1,000円」と云う副島種臣の雇用申請により、折り返し太政大臣・三条実美から許可を得た副島は、早速デロングに書翰を送り雇用斡旋を求めた。デロングから副島宛の12月29日付けの書翰でリゼンドルは、アモイ領事を辞任し明治政府に雇われる事を了承している。そして翌日の12月30日に明治天皇の謁見を得ているが、デロング公使が副島外務卿にアメリカ・琉球条約の確認をしてから、たった2ヶ月と云う短期間でリゼンドルの雇用が決まるという早さだった。この待遇はデロング公使並みの高給で、これはまた、副島種臣などの給与の倍額近いとも聞く高給だったが、それほどまでに明治政府はこの専門家の経験を欲していたのだ。
台湾生蕃に関する清国政府との談判
外務省が主導し、明治5年暮れまでにほぼ完成した日清修好条規通商章程の批准書交換のため、外務卿・副島種臣を特命全権大使としての清国派遣が決まった。太政大臣より副島種臣宛の明治6年3月9日付けの 「清国にての心得方達しの件」と題する命令書に依れば、
「今回批准書を交換するが、この際、生蕃暴虐の事件を談判する事は我が政府の国民に対する義務であり、止む終えないものである。」
と、清国と、台湾の生蕃が琉球人の大量殺害を行ったという暴虐についての談判をも命じたのだ。こんな目的もあったから、外務省顧問に雇った前アモイ総領事・チャールス・リゼンドルも外務省の準二等官として副島に同行した。一行は明治6年3月10日に東京を出て、横浜から軍艦に乗り清国へ出発したが、副島種臣が4月30日現地で李鴻章に会い、批准書を交換した席にもリゼンドルが顧問として同席している。
批准書交換の後副島は、困難なやり取りの末6月29日、やっと清国皇帝との謁見を実現させ国書を渡す事ができた。それまでアメリカ、イギリス、フランスなど清国に派遣された諸外国公使たちも清国の皇帝と謁見が出来ず、国書も渡せず長い間てこずっていたが、副島種臣の努力で日本の後に続けて謁見する事になり、副島は各国公使から大いに感謝された。また台湾生蕃に関する談判は、副島の判断で柳原大丞を総理各国事務衙門(がもん、=役所)に送り個別に談判させた。副島は6月29日付けで三条太政大臣に宛てたその皇帝謁見と生蕃談判の報告書翰の中で、
「将にまた台湾生蕃処置の一件は、本月20日柳原大丞を総理各国事務衙門に遣わし談判致させ候ところ、清朝大臣、土蕃の地は政教禁令相及ばず、化外の民たる旨相答え、別に辞なく、都合よく相済み候。」
と、台湾の生蕃の住む地域は化外(けがい)、即ち清国の法律も行き渡らず、国家統治の及ばない地方だと清国大臣も言っていると報告している。しかしこの柳原の談判は、口頭談判のみで何も公式書類を作った気配が無いし、副島自身も、清国皇帝との謁見を設定するから副島の帰国は待って欲しいと頼みに来た清国使節に、謁見の有無にかかわらず台湾の生蕃討伐は実行すると明言したが、公式書類は何も無い。その時は都合が良いと感じたこの談判は、続く日本政府の台湾出兵の重要な根拠の一つになったが、日清両国間の公式書類が無いため後に諸外国と大いにもめる主要原因となる。当時の外交経験欠如の一例であろう。
大久保利通と大隈重信の「台湾蕃地処分要略」による台湾出兵の決定と、エドワード・ハウスの同行
清国で条約批准書を交換し、総理各国事務衙門と台湾生蕃の暴挙について談判した特命全権大使・副島種臣は、明治6(1873)年7月26日に帰国した。たまたまこの副島の帰国に先立つ4ヶ月ほど前の3月8日、当時の小田県、即ち現在の岡山県と広島県の県境にあった小田県浅江郡柏島村の村民4人が乗る船が台湾に漂着し、また生蕃に全てを略奪されやっと帰国できた。こんな台湾生蕃の暴挙処置に付き朝議で議論があったが、参議・大久保利通と大隈重信が 「台湾蛮地処分取調」を命ぜられその処置の検討に入った。そして明治7(1874)年2月6日、大久保と大隈は次の如く9ヵ条に亘る 「台湾蛮地処分要略」を造り、朝議に提出し可決された。いわく、
「第一条
台湾土蕃の部落は清国政府政権及ばざるの地にして、その證(あかし)は従来清国刊行の書籍にも著しく、殊に昨年、前参議副島種臣使清の節彼の朝官吏の答えにも判然たれば、無主の地と見做すべきの道理備われリ。就いては我が藩属たる琉球人民の殺害せられしを報復すべきは日本帝国政府の義務にして、討蕃の公理も茲(ここ)に大基を得べし。然りして処分に至りては、着実に討蕃撫民の役を遂げるを主とし、其の件に付き清国より一二の議論生じ来るを容とすべし。」
更に続けて第二条以下に、北京に公使を派遣し公使館を造り、清国と弁論はせず、清国の政令が及んでいない事実を挙げ、台湾港に領事を置き、この領事は蛮地の征伐撫民に関わらず、台湾だけに軍艦を送り、台湾に6名の先遣隊を送り、台湾の上陸地点の情報収集を行う、と云う9ヵ条だったが、直ちにこれが決裁された。そして2ヵ月後の4月5日、蕃地事務局を設置し、長官に大隈重信を任じ、陸軍中将・西郷従道を事務都督に任命し全権が与えられた。
大久保と大隈が台湾蛮地処分取調べを命ぜられた直後から、右大臣・岩倉具視が赤坂仮皇居からの退出途中、赤坂喰違いで不平士族の暴漢に襲撃されたり、佐賀の乱が発生したりと、征韓論に破れ帰国した西郷隆盛の隠遁に深く関わる事件が続いたがしかし、この台湾生蕃討伐に向けた出兵計画は遅滞無く進んだ。副島種臣が雇い、外務省顧問として副島に随行して清国に渡り、台湾蕃地処分については当時の明治6年7月、「台湾に出兵し殖民すべし」(リゼンドルの副島宛意見覚書)とまで副島に意見を提出していたリゼンドルが蕃地事務局の準二等出仕に任じられ、事務都督・西郷従道の補佐や台湾島民懐柔策の立案、清国その他外国応接の任に当る事になった。そして、1年3ヶ月程前に大学南校の教授を辞職してアメリカに渡り、その後日本に帰っていたエドワード・ハウスは、このリゼンドルの秘書として台湾への同行が決まった。こんな経緯があって、ハウスが日本の台湾出兵に従軍し、現地取材する事になったのである。
この様に準備が整う中で、明治7年4月7日に海軍省と陸軍省に出された「事務都督の指揮を受くべき事」と云う出兵命令により、4月9日、西郷従道は日進、孟春など諸艦を率いて長崎に向け品川を出航した。そしてハウスは長崎から、兵隊200人余りを乗せ先発した有功丸に同乗し、アモイ経由台湾に向かう事になった。
アメリカとイギリスの中立宣言
しかしここに、思いもかけぬ障害が立ちはだかる事になる。同じ4月9日、早速この日本軍艦の出航を知ったイギリス公使・パークスから外務卿・寺島宗則に宛てた書翰で、日本政府は兵員や兵站物資輸送のため諸外国の船舶を傭船し台湾に向け軍艦をも派遣したと聞くが、台湾の何処に派遣するのか不明である。台湾はイギリスの権益にも関わるから、至急その目的と行き先を知りたいと言うものだった。寺島は翌日パークスと外務省で会談し、その目的や派兵の規模などを説明し、約7年前の1867年、自身で清国兵士を引率し台湾に遠征し、生蕃の酋長・トキトックと条約を結んだアメリカ人のリゼンドルを顧問にしている事を伝えた。この情報を基に4月13日付けでパークスは、万一清国が日本の台湾出兵を清国に対する敵対行為と見做せば、関係するイギリス人や傭船された船舶を引き揚げると通告してきた。いわゆる、戦争中の局外中立宣言である。
更に4月18日にアメリカ公使・ビンガムからも同様に、昨日付けの「ジャパン・デイリー・ヘラルド」紙の報道で始めて知ったがと、日本が清国に対する敵対行為ならアメリカ人関係者と傭船されたアメリカ船舶の参加を禁止すると通告が来た。更に翌19日ビンガム公使から、清国が日本の台湾出兵を敵対行為と見做す可能性があるので、清国の書面による了解があるまでは、アメリカ人の従軍を差し止められたい、との要請書翰が送られた。それまで政府内部でも強い反対意見もあったが、国内不平士族対策といわれる台湾出兵を決めた明治政府も、アメリカ人顧問を雇ったり、傭船をしたりしているアメリカの公使からさえ 「アメリカ人雇用禁止」 「アメリカ傭船禁止」と中立を宣言されては、この計画を一旦休止し、再考する必要に迫られたのだ。
この様に、副島種臣が清国で談判した台湾生蕃の討伐問題は何の公式書類も作らなかったし、諸外国への根回しも無かったから、ここでその外交上の準備不足が露呈した格好になってしまった。
アメリカ公使・ビンガムから蕃地事務局顧問・リゼンドルへの「渡台」差し止め通告
上述のごとく、日本政府が前アモイ総領事・チャールス・リゼンドルを顧問に雇う時はチャールス・デロングがアメリカ公使だったが、それから1年4ヶ月ほど経ったこの時点ではジョーン・ビンガムが公使になっていた。この間のアメリカ国務省の日本に対する外交基本方針は特に変化は無いから、2人の公使の判断の違いが浮き彫りになったように見える。ビンガム公使は寺島外務卿宛に 「アメリカ人の従軍を差し止められたい」との要請書翰を出すと同時に、同じ4月19日付けで、西郷都督と共に長崎に居るリゼンドル宛にも、日本の台湾出兵から手を引くよう直接書翰を送っている。いわく、
「貴君はこの上更に日本政府及び合衆国政府より指示を受けるまでは、決して日本に奉仕し兵隊を引率して台湾に進行せぬよう、貴君のため且つ合衆国政府のために、貴君に通告するものである。」
これを長崎で受取ったリゼンドルは4月25日付けの書翰をビンガムに送り、こう反論した。いわく、
「本官が右の件を決定した理由は、米国の著名なる(日本政府顧問の)評議役・ペシャイン・スミス氏と同意見である旨、本官の秘書役・ハウス氏より確かに聞いているからである。・・・本官が日本政府に雇用された経緯は、貴下の先役の在勤中、その人物の強い推薦によるものである。この人物より、日本政府が本官を雇用した理由を合衆国政府に通達済みである。1872年12月の公使館書類を参照されたい。」
というものだ。この評議役・ペシャイン・スミス氏とは、当時日本政府に雇用されていたアメリカの著名な国際法の大家であり、前述のマリア・ルス号事件でも日本外務省の国際的に通用する理論を構築した陰の人物である。リゼンドルにしてみれば、明治政府の法律顧問をしている、アメリカ本国でも著名な法学者も同意見だと云うわけだ。
またこの時から約1ヵ月後の5月下旬、大隈重信もこの法律顧問・ペシャイン・スミスに宛て、この4月19日付けのリゼンドル宛のビンガム公使からの書翰は、台湾に行くなと言う差し止め命令と解すべきか、また、リゼンドルと共に台湾に行くアメリカ海軍少佐・カッセルや前アメリカ陸軍大尉・ワッソンの渡台禁止も公使権限としてビンガムに出来るのかなど、法律・万国公法などの面からアドバイスを求め、それに対するペシャイン・スミスの回答書が 「大隈重信関係文書」(早稲田大学図書館所蔵・大隈重信関係資料)の中にある。
一方でビンガム公使は早速、蕃地事務局顧問・リゼンドルやアメリカ商船が日本の台湾出兵に参加せぬよう、自身で命じた経緯に関する4月22日付けの報告書翰を自国のフィッシュ国務長官に送り、
「遠征で侵犯される支那の領土と支配権に付き、満足のいく支那の同意証拠なしに、台湾に向け敵対行為を行う目的のこの遠征の宣言が出されたため、アメリカの船舶や市民がそんな遠征に参加する事に対する私の新たな異議申し立てをするに至りました。・・・この遠征で日本政府に雇用されるアメリカの市民や船舶は、支那の同意書が発行されるまでは、遠征隊と合流した台湾への進攻を引き止めると外務大臣宛に通知した、今月19日付の本官の書翰に特にご留意下さることをお願い致します。・・・以上本件に関する経緯をご報告いたしますが、現在に至るまでの自分自身の対応を、長官がご了承下さる事を期待します。また新たに緊急な事柄があり、その必要性がある場合には、電報にてご指示下さるよう、特にお願い致します。」
と自身の判断と決定の根拠を述べ、承認を求めている。これから分かる通り、ビンガム公使の判断でアメリカの中立とアメリカ国民の参加禁止を決め、国務長官に事後承諾を求めたという形だ。後にフィッシュ国務長官からは、「了承」の書翰が届いた。
都督・西郷従道の強硬出航とエドワード・ハウスの台湾渡航
この様にアメリカやイギリス公使から思わぬ横槍が入り、またイタリア、ロシア、スペインも懸念を表明して局外中立を述べ、スペインからはスペイン領での石炭供給は出来ない旨の通告もあった。この当時、右大臣・岩倉具視は暗殺未遂で怪我の後復帰したばかりだったが、内務卿・大久保利通は佐賀の乱鎮圧のため佐賀に居たし、大蔵卿で蕃地事務局長官・大隈重信は長崎に居たが、東京の明治政府は閣議で直ぐに台湾出兵保留を決め、直ちに三条実美の書翰を携えた特使を長崎に派遣した。長崎に居た参議で台湾蕃地事務局長官・大隈重信や陸軍中将で台湾蕃地事務都督・西郷従道は、この各国の局外中立、アメリカやイギリスの傭船や自国民の参加禁止命令を初めて知り大いに驚いた。しかし西郷従道は、天皇から都督に任ぜられ勅書を奉ずる身が、新たな勅書が無い限り後戻りは出来ず、清国が異議を唱えれば 「自分を脱国不逞の徒と呼んでもいい」とまで述べて、三条からの台湾出兵保留命令を受け入れなかった。
西郷は明治7(1874)年4月27日、兵隊200人を有功丸に乗せ、福島九成アモイ領事に福州総督へ宛てた公告書すなわち日本政府の台湾出兵告知書を持たせ、急きょアモイに向け出航させた。更に5月2日には谷干城、赤松則良に命じ、日進、孟春、明光、三邦の各艦を率いて台湾の射寮(社寮)へ向け出航させた。
この時エドワード・ハウスは、福島領事と共に有功丸に乗り、またビンガム公使からの参加禁止命令は公使の単なる個人的見解あるいは単なる忠告に過ぎないとのカッセルやワッソンの解釈で、この2人もまた福島領事に同道した。しかし、ビンガム公使から参加禁止命令を受けたリゼンドルは、そのまま長崎に滞在していた。西郷の許可の下リゼンドルは、急きょ事態収拾のため長崎にやってきた大久保利通と共に帰京することになったので、明治政府の計画していたリゼンドルの 「台湾地方事務都督」は実現しなかったが、帰京前の5月5日、台湾での重要戦略の大筋推奨案を西郷従道宛てに書翰にして提出している。特に、牡丹社を攻略するには11月になり涼しくなってからの時期が最適だと忠告しているが、現実には上陸地・射寮(社寮)の河原の中に湿気のあるキャンプ地を設営し、5月末と云う暑さの中の進攻になり、日本兵の多くがマラリヤ感染で疲弊し死亡する事になってしまう。
この様な経緯でエドワード・ハウスは、福島アモイ領事やカッセル、ワッソンと共に日本船でアモイ経由台湾に渡った訳だが、大久保利通が長崎から帰京し5月15日に太政大臣・三条実美に提出した 「大久保参議復命書」にはこう書いてある。いわく、
「既に先月27日夜、福島領事、雇い米人カツスル、ワツスン、ハウス、3名を率し、福州総督へ公告書を斉し(=整え)、有功丸より厦門(=アモイ)へ向け出帆。続きて本月二日、谷副総督、赤松少将、護兵千余を率し、日進艦、孟春艦、三邦艦、類船四艘、社寮に向け出帆せし趣なり。」
筆者には細部の史料が無く詳細不明であるが、この大久保参議復命書に 「福島領事、雇い米人カツスル、ワツスン、ハウス、3名を率し」とある事から見て、ハウスもまた明治政府の「雇い」として台湾に行ったことになる。上述のリゼンドルが4月25日付けでビンガム宛てに出した書翰には「本官の秘書役・ハウス氏」と出て来るから、明治政府はエドワード・ハウスをリゼンドルの秘書として雇用していたようだ。
エドワード・ハウスを日本政府が雇用するというその様なお膳立ては、台湾蕃地事務局長官・大隈重信の責任内にあったはずだから、ハウスは、リゼンドル等を通じこの時この大隈重信とも強い繋がりができたのか、あるいはアメリカに一時帰国した当時からある種の繋がりがあったのだろう。そしてこの時ハウスが台湾行きを大隈重信に頼み込み、後日ハウスから大隈に、「客歳、拙者の台湾行きに付いては異儀なく御恩准(=温順)なし下され、御懇情の程は決して忘却致し居り候訳にて御座無く候」と書き送っている事から見て、ハウスからの従軍希望を大隈が許可した様に見える(「1875年6月12日付けのハウスから大隈宛の招待状」)。生蛮懲罰と安全の確立を主目的とする明治政府の台湾出兵は、エドワード・ハウスという西洋人の目を通し適切に報道されれば、将来にわたり彼らからの無用な思惑や推量を無くせるとの期待が、大隈重信や明治政府内にあったとしても不思議ではない。 
エドワード・ハウスの台湾出兵従軍現地取材とその記述
エドワード・ハウスのニューヨーク・ヘラルド紙記事
エドワード・ハウスは、明治7(1874)年4月から明治政府の台湾出兵に従軍し、現地取材を行い、翌1875年東京でその内容を 『征台紀事、The Japanese Expedition to Formosa』として出版した。この本が現在よく知られた、いわゆる西洋人が現地で見た日本の台湾出兵情報である。ただこのハウスの視点が、当時の平均的西洋人のそれであったのか筆者には良く分からないが、当時のアメリカ人ジャーナリストの特徴ある報道姿勢に強く興味を引かれるものだ。
またこの本の巻頭に、「前半の多くの章の内容は、もともと書翰の形で1874年の夏と秋にニューヨーク・ヘラルド紙に掲載されたものである」と述べるごとく、この時のハウスは、「トリビューン紙」ではなく 「ヘラルド紙」との契約であった。以下にこのハウスの 『征台紀事』情報を中心に書いてみたい。
このニューヨーク・ヘラルド紙に掲載された第1回目の台湾出兵記事は先ず、1874年6月24日付けの同紙の4ページに載っているが、この日本の台湾出兵に関するハウスの最初の記事についての、「編集者の序文」が同じく6ページに載っている。いわく、
「今日発行されたアモイの我が社特派員からの記事の中で、この急速な東洋発展の時代の中でも、世界の目の前に全く新しい特徴ある姿を見せる日本帝国による、興味深い遠征の歴史が明らかにされるだろう。世界各国の仲間入りをした事がほんの昨日の出来事のように思われたその国と国民にとって、費用がかさみ困難で遠距離にある対岸へ、権力の拡張や裕福な地方の征服、あるいは競争相手国への武力誇示ではなく、人道的関心事と公法主張の立場から、今日、残忍な野蛮人たちへ懲罰を加える目的の遠征隊を組織するのだ――これは我々にとって、東洋の国そのものである日本が、近代的な諸国家間の施政方針の精神をよく理解した、あっぱれな兆しに見える。全貿易国は台湾人制圧に等しく関心を持ち、その何カ国かの試みは不成功に終わっている。我が国の台湾への遠征は広く知られている。それは、台湾への2艘の漂流アメリカ船の乗組員の殺害に対し行われたものだが、野蛮人達にとっては、取るに足らない道徳上の結末以外の何者でもなかった。従って日本は、野蛮人種に対する通商上、人道上の戦いを挑むのだが、それは更に遠方の国々にとっては難しい事で、日本が我が政府の共感を得ている事実を知り喜ばしく思うものである。アメリカ人士官たちが遠征に参加し、その目的のために一時休職を得て参加するので、少なくとも我が政府の共感を得ていると推量するのだが、この頭の中に何か疑いを抱く、日本への我が公使のビンガム氏の敵愾心で、遠征が大いに麻痺している様に見える。この反対がワシントンからの指示による結果であればとても信じ難く、若しそれが彼自身の風変わりな気まぐれな逸脱によるだけのものであれば、家路につくには最適な人物であろう。」
エドワード・ハウスのこの様な、日本の台湾出兵報道記事に付いて掲げられたヘラルド紙編集者序文は、上に見てきたように、外務卿・副島種臣がデロング公使の協力で琉球人民虐殺を解決しようと、前アモイ総領事・チャールス・リゼンドルを顧問に雇い、一時休職して参加するアメリカ海軍少佐・カッセルや、北海道開拓使で技師を勤める前アメリカ陸軍大尉・ワッソンをも雇って、「人道的関心事と公法主張の立場から」明治政府が進める台湾出兵を、新任のビンガム公使が前述の如く中立宣言を出して水を差すという顛末を、何故そんな事をするのだという観点から簡略にまとめている。
エドワード・ハウス著述の 『征台紀事』
征台紀事は、台湾出兵の主要原因であった、1871(明治4)年12月に起ったパイワン族牡丹(ボタン)社による漂流琉球人の殺害から始めて、それ以前に発生したアメリカのローバー号遭難悲劇の歴史を書き、その討伐に向かったイギリス軍艦・コーモラント号の事例や、その後アメリカのアモイ領事・リゼンドル将軍の現地人との1回目の談判の失敗、その後のベル海軍少将の軍艦・ハートフォード号やワイオミング号での討伐の失敗などの歴史を記述している。更に1867年9月のアモイ領事・リゼンドルによる支那から兵隊を引連れた2回目の遠征で、通訳、案内人など6、7人の少人数で現地人酋長・トキトックと談判をし、今後は虐殺・略奪・暴行などは決してしないとの約束を取り付けた経緯を書いている。更に琉球の日本への所属、日本と清の台湾生蕃談判に触れて、チャールス・リゼンドルの日本政府顧問就任、漂流した小田県民4人の再度の略奪被害、明治政府の台湾出兵の決断と実行、台湾出兵の国際問題化などの経緯に続けているが、以下にその概略内容を書いてみる。
○ 射寮(社寮)上陸とキャンプの設定、平地部族との接触
エドワード・ハウス自身はアメリカ人のカッセルやワッソンと共に、日本兵や兵站資材を満載した第1便の輸送船・有功丸でアモイ経由、台湾の最南端の岬にあるリアンキャオ(琅嶠)湾に到着した。「湾」とは呼んでも、小さい2つの川が流れ込む湾曲した砂浜の海岸で、この上陸地は「シャリャオ・射寮(社寮)」と呼ばれる土地だ。1874(明治7)年5月7日の早朝から上陸予定地の情報収集が始まり、現地人との接触が始まった。上陸地の脇にある「クサン・亀山」と呼ばれる小高い丘に登り地形を確認したが、この2つの川は大雨が降ると水位が上昇して海に流れ出るが、到着時は堆積する砂で川の出口がほぼ塞がった状態だった。上陸地の現地人にはあからさまな敵愾心はなく、凶暴な種族は、東から南にかけて山間部に住む現地人だ。
予定される3千人の兵を収容するため最初に選んだキャンプ地は、この2つの川の間にあって両サイドを川に守られる海岸に隣接する土地だった。川に囲まれたこの土地に塹壕を掘ると、不意の攻撃から守るには良い地形だったが、少し後の大雨で水没の被害に遭っている。またここは霧が発生し湿度が高く、後に大きな問題となる蚊の発生で、7月から9月にかけて日本兵の間にマラリアが蔓延する原因となった。マラリヤの原因が発見されるのはこの時点から6年後であり、その感染形態が解明されるのは更に20年ほども後の事だから、訳の分からない高熱や死亡で、伝統的な対処以外には、充分な予防などに対し打つ手が無かったのだろう。
5月10日になると、当時の陸軍少将・谷干城、海軍少将・赤松則良を乗せた第2便の日進艦が上陸地・リアンキャオ湾に着いたが、都督・西郷従道と顧問・リゼンドルはまだ長崎から出発できず、アメリカからの傭船・ニューヨーク号は不参加に決まったという情報がもたらされた。日進艦には200人の兵隊が乗り、大量の建築資材が積まれていて、早速同行の大工が第1キャンプ地に仮の小屋掛けを造った。更に第2キャンプ地も選定されたが、これは亀山の南側の、小さい入り江から陸に上がった丘の麓だ。翌日から第2キャンプ地の井戸掘りなど整備が始まったが、5月といえども現地の日中は猛暑で、すでに極度の衰弱者や病人が出始めた。この第2キャンプ地は5月中旬から本格的に建設され、病院棟や士官棟などが完成し、風通しも良く、はるかに衛生状態が良くなった。
谷、赤松というリーダーが到着した後の5月13日、現地の18部族の酋長たち、とりわけその昔、リゼンドルと約束をした酋長・トキトックの後継者であるその息子との接触を始めた。友好を確認する会談を終えて日本側は、各酋長に元込め式のスナイダー銃を1丁ずつ送っている。16日には、第3便の船が軍艦と共に到着した。
○ 山岳部族との銃撃戦と、三方からの出撃
ここで最初の事件が起った。17日になると200人ほどの兵士が川沿いに東側の山岳方面の探索に出かけたが、その中の6人ほどがとある部落に立ち寄り戻ろうとしたが、藪陰から突然銃撃を受け、1人が死亡し1人が負傷した。残りは直ちに本隊に駆け戻り、本隊が現場に着くと、死亡した兵士の頭部が切断されて持ち去られ、軍服は剥ぎ取られ武器が奪われていた。この手口から明らかに、1871年に琉球人を殺害した牡丹社の攻撃であることが分かった。翌日から3日3晩の豪雨で第1キャンプが湖になってしまい、テントだけが水面からピラミッドのように突き出ているという有様だった。21日、12人の兵隊が先日兵士が死亡した場所に調査のため派遣されたが、またも50人以上と思われる多人数からの射撃を受け、2人が重傷を負い、敵の1人を射殺した。この報告がキャンプに届くと、守衛兵を除く全員、ほぼ250人ほどが出撃した。夕方現地に着くと散発的な銃撃を受け、応戦しながら急速に進撃したが、敵はそれより素早く姿をくらませてしまった。夜になり、半数が野営して追撃に備え、半数はキャンプに帰った。
翌22日キャンプから、佐賀の乱で名を馳せた佐久間中佐に率いられた2中隊が出発し、野営した分隊と合流し、前日残忍な山岳部族が消えた谷間に分け入った。木々が茂り、両側が切り立った岩に囲まれた狭い谷を半分ほど上ると、突然70人ほどの部族民から銃撃され、狭い河川敷の中を上る150人ほどの日本兵はその位置と足場の悪さに邪魔され、やっと30人位が直ちに銃撃し応戦に転じた程度だった。ハウスは、狭まった部分の川底は幅が10m程だと記述している。衛星写真で見ると、今は水流を制御する杭や堤が出来ているが、この谷間の狭まった場所は当時おそらく幅20m〜30m程度の河川敷で、両側は切り立った岩壁で、いわゆる「石門」である。銃撃戦が1時間以上も続き、日本兵の一部が岸壁をよじ登り上からの攻撃を始めると、部族民は退却を余儀なくされた。その跡には山岳部族の16体の戦死者が残されていたが、そのほとんどの頭部が切断され、キャンプに持ち帰られた。また残されていた銃から、牡丹社の酋長が致命傷を負った事も分かった。ここで日本兵は6人が戦死し、30人ほどが負傷した。
こんな銃撃戦があった5月22日、リアンキャオ湾には先ず司令官・都督・西郷従道の乗る高砂丸が到着し続いて補給船1艘が到着したが、これで戦闘員兵士や作業員合計は約1千3百人になった。この都督・西郷従道の現地到着で作戦が決定し、6月1日の夜明けから、三方から山地に住む牡丹社と高士佛(クスクス)社の居住地をめがけ遠征部隊が出発した。これは、谷少将に率いられ西海岸を北上してから東の山地に向かう5百人の部隊、西郷従道都督に率いられ川沿いに東の山中に入り銃撃戦のあった石門に向かう3百人の部隊、赤松少将に率いられ少し南の谷から山地に入り竹社の部落を通る4百人の部隊の、総勢1千2百人の兵士が参加する進攻を開始した。
この高士佛(クスクス)社は牡丹社と協力する山地部族である。ハウスはここで高士佛社が琉球人を殺害したと言ってはいないがしかし、筆者は、遭難した琉球人が東海岸のパーヤオ(八瑶)湾に漂着し、西方に谷を遡り、高士佛社の部落に迷い込み被害に遭った様だと聞く。
ここでハウス自身は、西郷従道が率いる川沿いに石門を通過し、牡丹社の居住地区に向かう部隊と同行している。このルートの始めは、照りつける太陽に焼かれた川原の石や岩が革靴の底から伝わるほど熱くても、水を渡る時は非常に心地よかった。しかし石門部分の通過は非常な難所で、しかも5月22日の銃撃戦は、ここで待ち伏せに遭い苦戦した場所だ。数日の豪雨に水かさが増大し、銃撃は無かったが、渡河の途中深みにはまり流されそうになったハウスは屈強な日本人に手助けされながらやっと渡り、崖をよじ登るという難所だった。自分の革靴は水に濡れ天日で乾き、革がこわばって足がすりむけ、岩にこすれて革に穴が開き、役に立たなくなった。日本の兵士はわらじを履いて、磨り減れば新しい持参品と履き替えた。ハウスは日本に居る時はあまり気にも留めなかったが、その便利さが改めて分かったと書いている。こんな困難の中にも、ハウスに気を使ってくれる日本人の親切さを書き、この様な自分の体験と現地の観察を交え、22日の銃撃戦の様子を詳しく聞き取り、詳細に記述している。
○ 牡丹(ボタン)社と高士佛(クスクス)社の部落を焼き払う
やっと石門を過ぎ更に登ると住民が逃げさった部落に着いたが、ここで思わぬ発見があった。ここはまだ牡丹社の部落でない事は明らかだったが、昔殺害された琉球人が埋葬された墓を発見したのだ。更に登ると途中に何ヶ所もバリケードが造ってあり、牡丹社の部落に着く前に日が暮れて、不案内の山の中で野宿をせざるを得なかった。翌2日西郷隊は無人の牡丹社部落に入り、散発的な銃撃があったが、部落を焼き払った。一方南の谷から入った赤松隊は、2日に多少の銃撃の中を高士佛社部落に入り、部落を焼き払い、翌日山を越え西郷隊に合流した。この様に攻略が難しいと考えられていた牡丹社と高士佛社の両部落を破壊し、住民は山に逃げてしまい、早くも遠征目的の大半が達成されたのだ。
筆者は、ハウスが記述したこの牡丹社の手前の部落で発見された琉球人の墓は、後に、この谷を下ったシャリャオ・射寮(社寮)近くの広い場所に移され、新しく墓が作られたと聞く。
しかし北から山に入った谷隊は全く消息が無く、西郷・赤松の2隊は焼き払った牡丹社部落の手前でキャンプを張った。この時遅ればせながら、西郷隊が持ち上げた携帯型のコーホーン臼砲が届き、ハウスをびっくりさせている。これは4人位で運べる小型臼砲で、アメリカの南北戦争でもよく使われた武器だった。早速この臼砲を撃って谷隊に信号を出したが、応答は無かった。しかし夜になって谷隊の通信兵が到着し、山中の進軍に手間取っている事が判明し、この谷隊の本隊は4日の朝になってようやく西郷隊と合流出来た。都督・西郷従道は、この様に牡丹社と高士佛社の部落を焼き払い遠征の目的を知らしめたとして、牡丹社部落とその街道沿いに守護兵を残して、本隊はシャリャオ・射寮(社寮)のキャンプ地に帰還した。
既に書いたように、牡丹社を攻略するには11月になり涼しくなってからの時期が最適だとのリゼンドルの忠告で、西郷従道に率いられる遠征隊はそれを基本計画にしてきたが、思いもかけず牡丹社と高士佛社の攻撃でほとんど形が付いてしまった。日中は確かにものすごく暑かったが、夜は涼しく過ごしやすかったとハウスは記述している。
○ 生蕃服従の細部の詰め
西海岸のリアンキャオ(琅嶠)湾から東に続く平地の部族とは友好関係が出来ていたが、東海岸沿いの部族民とはまだ友好関係が不明な場所があった。そこでキャンプ地に戻った都督・西郷従道は、更なる安全と友好確立のため、友好部族民酋長たちとの3回目の会見を6月8日に開いた。各酋長の引連れる200人もの武装した護衛隊はキャンプに入る前に山の手に待機させ、裸同然の酋長たちが日本側との会見に臨んだ。この会見では、緊急時に使用する敵意がないことを示す旗が酋長たちに配られ、彼等は遠征隊のキャンプ地を東海岸に作る事にしぶしぶ合意し、最後には西郷都督のテントに招かれ反物と写真などが贈られた。遠征隊はこの東海岸のキャンプを中心に、その地方の安全確保をする目的だった。
11日になると、赤松少将指揮の下で50人の兵士を載せた日進艦が、東海岸キャンプ敷設のために派遣され、カッセルやワッソンと共に従軍記者のハウスも同乗した。おそらく正規の明治海軍軍艦に同乗した最初の西洋人だと書いているが、日本人士官たちは外国語を話し、立派な英語を話す人も居たと記述している。
ハウスはこの日進艦が碇を下ろした場所を特定していないが、台湾南端の東海岸の一部で、8日に西郷と会見した3人の部族酋長が出迎え、1人は西郷から送られた日本刀を差していた。日本兵が上陸し、昔リゼンドルと友好を約束した部族酋長・トキトックの村を訪ね、キャンプ地が合意された。
○ 台湾出兵の国際政治問題化
この様に、明治政府の台湾出兵の大きな目的の一つだった現地蛮族の懲罰には、当初予想された困難はほとんどなく、牡丹社や高士佛社もその敗北を認め、再発防止や現地部族との融和も2ヶ月ほどの短期間に大幅に進展した。しかし、西郷の引連れる派兵やアメリカ人の参加に対する、大きな国際政治問題が明らかになり始めたのだ。
7月1日の午後、清国の小型砲艦がリアンキャオ湾に接岸したが、その砲艦から、アメリカのアモイ駐在領事管轄下の副保安官と名乗る人物が上陸して来た。そして、西郷都督の顧問格として台湾に来ているアメリカ海軍少佐・カッセルや前アメリカ陸軍大尉・ワッソンに宛てた、アモイ領事の書翰が届けられた。更に、公式に現役を休職して参加しているカッセル海軍少佐には、ぺノック海軍大将の命令で書かれたアメリカ支那艦隊・コーツ司令官からの書翰も届けられた。これらは何れも、清国政府に対する如何なる敵対行為にも参加を禁止する、と云う警告書翰であり、コーツ司令官からの命令の違反者は、合衆国軍事法廷に告訴される事になるわけだ。更に副保安官は、全てのアメリカ市民に対する次のような布告をももたらした。いわく、
「布告   アメリカ領事館 アモイ及び付属地域管轄 1874年6月16日
全ての合衆国市民は、現在台湾で行動中の日本軍遠征隊から直ちに離脱し、今後その遠征隊との如何なる関係をも絶つべく通告する。この戦時中立法の違反者は、逮捕され裁判を受けるべく、全ての合衆国市民に通告し警告するものである。   J・J・ヘンダーソン、合衆国領事
合衆国・在北京代理公使・S・ウェルス・ウィリアムス氏の命令による。」
勿論ここで対象となる合衆国市民は、この従軍記者のエドワード・ハウス、アメリカ海軍少佐・カッセル、北海道開拓使の技師・ワッソンの3名以外には無かったが、台湾へ向け長崎を出航する直前にアメリカ公使・ビンガムから出されたリゼンドル、カッセル、ワッソンなどへの書翰内容が、アメリカ政府の在北京代理公使・ウィリアムスから在アモイ領事を通じた公式命令として、全アメリカ人へ宛て、戦時中立法に基づき 「手を引け」と云う命令になって出されたのだ。これはとりもなおさず、明治政府の台湾出兵が国際問題となった事実の反映だった。またこの布告にある 「合衆国・在北京代理公使・S・ウェルス・ウィリアムス氏」とは、その昔ペリー提督が日本に来た時、艦隊の主任通訳官として同行した人であるが、20年後のこの時は、アメリカの北京代理公使になっていた訳だ。
イギリスやフランス、アメリカなど清国に滞在し貿易を行う各国も、日本の行動いかんによってはその権益への悪影響が出る事を恐れ、清国政府に台湾に派兵した日本との対峙を強く働き掛け、清国も日本軍の台湾撤兵を求め始めた。台湾に派遣された都督・西郷従道の方針は、蛮族の懲罰と暴虐の再発防止のみで、それ以上の侵略行動は取っていない。しかし各国は、日本と清の軍事衝突やそれによる自己権益の侵害を恐れ、日本の真意を疑っていたようだ。
○ エドワード・ハウスの日本への帰還
この様な中で西郷従道は、マラリヤで苦しむ傷病兵の帰還を決断し、高砂丸での送還を決めた。こんな状況下で、エドワード・ハウスもこの船でマラリヤの蔓延する不衛生な台湾から、7月の終わりに長崎に帰還した。ハウスの記述では、長崎は台湾出兵の出航地だったから、情報もかなりあり、民衆は愛国の意気が高かった。しかし東京に帰還すると、政府は台湾での進捗や交渉経緯を極力伏せていたから、人心はむしろ落ち着いていたと云う。
このエドワード・ハウスの『征台紀事』は続けて、日本の台湾出兵について即時撤兵を主張し始めた清国と決着を付けるため、リゼンドルを伴った特命全権弁理大臣・大久保利通の北京での交渉や、イギリス公使・ウェードの仲介で決着に至る記述があるが、ここでは省略する。
この『征台紀事』の記述の中で筆者が特徴的と思うハウスの視点は、アメリカ政府も即座に充分に処置できなかった台湾・生蕃への懲罰を日本が成功裏に終息し、安全と友好を確立し、都督・西郷従道も台湾でそれ以上の野心を示さなかった。日本兵はアメリカ人のハウスに対しても日常的に親切で、好意的だった。ハウスが見た前章のマリア・ルス号事件への対処でも、日本は国際的に通用する正義を持って処理したが、台湾でも非常に公平だった。しかし、「アメリカ政府の共感を得ていると推量する」この日本政府の「人道的関心事と公法主張の立場」から進める台湾出兵に、意外にも日本駐在アメリカ公使・ビンガムは戦時中立という立場をとった。これに関するハウスの抗議は、上に述べたニューヨーク・ヘラルド紙の 「編集者の序文」が述べる通りだったのだろう。
この様な実体験を通じ、ハウスは日本と日本人に対する理解を深め、共感を深める点があったようだ。この様な体験が、大隈重信との関係も一段と強固になり、その後ハウスが日本政府に協力し、日本に骨を埋める大きな要因の一つになったように思われる。 
チャールス・リゼンドルの政府新聞発行の建策と、『東京タイムス』紙の創刊
チャールス・リゼンドルと大隈重信
アメリカのアモイ領事だったチャールス・W・リゼンドルが、明治5(1872)年の暮れ、当時の外務卿・副島種臣の要請に応え、外務省顧問として明治政府に雇われた事情は前章に書いた通りだ。そして当時の明治7(1874)年に起こった、明治政府の台湾生蕃討伐すなわち 「台湾蕃地処分出兵」に大きな影響を与え、その中心の1人として蕃地事務局の準二等出仕に任じられ、蕃地事務局長官・大隈重信や事務都督・西郷従道の補佐をした事も前章の通りだ。リゼンドルはこんな関係を基にし、明治6(1873)年10月に就任して以来の参議兼大蔵卿として、地租改正や殖産興業政策を通じ、国家の財政運営とその改革に取り組んだ大隈重信に様々な建策をしている。
当然台湾出兵に関するリゼンドルの建策や報告は数多くにのぼるが、その他に、日本の採るべき外交政策、日本国内の開発、華士族の活用、また政治システムに至るまで、多岐に渡っている事実は意外に知られていないように思われる。そんな中の一つに、ここで取り上げたい 「政府新聞発行」に関する大隈への建策がある。そしてその後、これがエドワード・ハウスの推薦につながり、ハウスの「東京タイムス」発行につながるのだ。
チャールス・リゼンドルの政府新聞発行の建策
前章の記述の如く、アメリカ公使・ビンガムから蕃地事務局顧問・リゼンドルへの「渡台差し止め」通告のため、大久保利通と共に長崎から東京に戻っていたリゼンドルは、1874(明治7)年7月12日付けの書簡に添付された7月8日付けの英文メモ・34号を大隈重信宛に送り、日本政府が政府新聞を発行すべく建策をした。少し長い引用になるが、メモの始めに 「政府の努力と要求が公式新聞紙上に明確に公表される事」で国家の信頼が高まると説き、続けていわく、
「・・・いわば移行過程の国家である日本に於いては、諸外国からの信頼は特に大切で、不可欠でさえある。さて、日本政府がそんな信頼感の構築に向かいあらゆる事を行ってきたと断言するほど誰も軽率ではない。全く、現時点では世界の資本家がこの国に全幅の信頼を置いている事は明らかだが、若し政治問題が継続すれば、最大限の資源開発へ向けた日本への資金保証が出来なくなるだろう。しかし世界の資本家の信頼にかかわらず、日本はまだ新しい国家だという事、一般に日本の状況を良く知らされている人でも現状を殆ど知らない事、多くの人々に日本は支那よりもっと閉鎖的であると思われている事などを忘れてはならない。そして日本は、こんな人々から資本を提供して貰わねばならないのだ。・・・現状では日本政府に対する万全の信頼があると言われているが、日本のように世界に対し本当に新しい国家は、その信頼に対し、破壊とまで言わずとも損害を与えるのに大したショックは要らないという事実を殆ど追加する必要もない。若しどの程度のショックが必要かと問われれば、横浜で発行される新聞類を塗りつぶせば良いだけである。知識もなしにただ待っている横浜の新聞発行人達は、あらゆる結果に全く無頓着である。そして、横浜の商人達は多くの理由から殆ど日本政府と国民に有害で、彼らは英・米両国の大衆に向かって日本は過剰に期待され、日本政府は弱体で、国の資源は少なく、新聞が書くように反乱と分裂の前夜である国に投資する如何なる資本も著しく危険だという意見を伝えようとする、そんな横浜商人達を喜ばす事だけを横浜の新聞発行人達は望んでいる。政府が投資を呼び込もうとする人達が、新聞で常に、国家は倒産に直面しその政府は虚構であるとする記事をまのあたりにしていれば、政府がいくら巧妙に施策を実行し国家の為に最善を尽くしていると考えても、意味の無い事である。そんな記事が如何に馬鹿げていても、日本を知り公正な意見を持つ人達はその馬鹿さ加減が分かろうが、依然として大衆はその記事を信じ、従って政府に害が及ぶのである。事実、これらの記事は決して反駁されないから、何処かおかしいとも思われないのだ。日本政府の支持を得ているという信用を持つ「ジャパン・メール」紙が、ある時は政府を支持していても、次いで歯をむけば、不快極まりなく全く身に覚えのない弊害になる。
こんな記事に対抗するには、日本政府が東京で自身の機関新聞を設立することである。自己利益の為に大衆の支持を仰ぐような経営をする横浜新聞では役に立たず、そんな新聞は後援者を確保する為に公的職務を思案せざるを得ず、従って政府に反対する事になるのだ。「ジャパン・メール」紙に要求される二万五千ドルもの巨額費用ではないもので、各省庁向けの全ての外国向け書式や書籍の印刷を賄えるだろう。これは月額八百ドル以下にはならないが、即ち、定期購読者などを合わせ、どんな損失も出さぬだけでなく、経験者に委ねて、利益を確保するようなものになろう。これを担保するため、この新聞の発行者として、横浜新聞に関わっただけの経験を有する素人の雇用では無意味である。この発行者はいわゆる経験者であらねばならず、プロ級にまで育てられ、英国や米国の第一級新聞で経験を積んだ人物でなければならない。・・・
そんな機関新聞が日本政府により所有され――政府の統制下で給与を得る編集者により発行される――べきである。我々は、横浜の諸新聞が如何に佐賀の乱や台湾出兵における日本政府の処置を誤解して来たかをみてきたが、今の段階では横浜新聞の記事があまり効果を発揮してはいないものの、しかし、チェックをしない限り、少しでも日本が遭遇する期待に反するものがあれば、理屈抜きに新聞により誇張され、日本と日本国民にとり最悪の有害事となろう。
1874年7月8日、東京にて。」
この様に政府機関紙の重要性を綴っているが、この内容から、横浜の英字新聞の多くは日本政府を非難する論調の中にあっても、英国人のハウエル発行の 「ジャパン・メール」紙は日本政府に好意的で、政府も肩入れをしていたようだ。しかし、上述の如くリゼンドルは台湾出兵に深く関わり、自身では渡台出来なかったといえども、公式には蕃地事務局長官・大隈重信や事務都督・西郷従道の補佐であり、日本政府の台湾出兵にアドバイスを与える責任ある立場だった。従って台湾での日本軍による生蕃懲罰の結果や、清国はもとより、清国の陰にありそうなイギリスやアメリカなどの出方にも気を使い、日本国内では特に横浜の英字新聞の論調は大いに気になるものだったはずだ。
この一つ前のメモ・33号は同じ年の7月5日付けで、大隈重信に台湾出兵につき清国とどう交渉すべきかの意見を述べるものだから、その3日後に出したこのメモ・34号も全く台湾出兵に関連して書かれたと見てよい。「政府の支持を得ているジャパン・メール紙が、ある時は政府を支持していても、次いで歯をむけば、不快極まりなく全く身に覚えのない弊害になる」と非常な危機感を表明したのもこのためだったはずだ。だから、日本政府の外交政策の足を引っ張る可能性もある、治外法権に守られ一方的に日本政府を非難しがちな横浜の英字紙に対抗する、政府機関紙の発行を強く建策したのだろう。
リゼンドル、ハウス、福地による政府機関紙発行の具体的提案
この頃の明治政府の財政は依然として農民からの税金に頼り、ちょうど1年前の1873(明治6)年7月28日に出された「太政官布告第272号による地租改正法令」で徴税制度としては出来上がったが、政府の財務内情は火の車だった。「15、幻の改税条約」でも書いたように、9ヵ月後の4月25日、大蔵省租税頭・松方正義が大隈重信に宛て「輸出税則改定建議」を提出し、この省内の議論に基ずき、1875(明治8)年7月23日には大隈重信自身が外務卿・寺島宗則に宛て条約改正即ち海関税改正交渉の督促をするというほどに財政改善に向け議論が高まった時だ。そんな中での台湾出兵で臨時費用が重なり未だ結論も出ていない中で、蕃地事務局長官であり大蔵卿でもある大隈重信も、このリゼンドルからの政府新聞発行の建策を「尤もだ」とは思ったにしろ、自身で具体的な指示を出し行動に移す余裕も無かったであろう。従ってその実力を認めているリゼンドルに、その建策の具体化も任せていたように見える。
このメモ・34号の建策から9ヵ月後の、1875(明治8)年4月5日付けのリゼンドルから大隈重信宛の書簡には、具体的に採算を述べた収支見積もり実行案が提案されている。要約すると、いわく、
「毎週新聞の発行についてハウス氏と福地氏と協議したが、その新聞は英語版で12面、日本語版で12面とし、重要記事は英語版と日本語版で相互に翻訳した同じ記事を載せ、英語版はハウスが、日本語版は福地が責任を持って編集し、これを日本政府の官吏が監督する。この新聞の費用見積もりは、英語版で1ヶ月当たり645ドル、日本語版で545ドル、合計1ヶ月当たり1,190ドルになる。年間購読料は英語版で1部20ドルとし、年間最低1万2,200ドルの売り上げを期する。日本語版の年間売り上げは英語版より少ないだろうが、かなり期待できるだろう。福地によれば日本語版は、場合によって1ヶ月6回の「一、六日」を発行日とし、紙面縮小版で費用を同額に維持する案もある。」
この様に大隈重信は当時、エドワード・ハウスや福地源一郎とチームを組んだリゼンドルの具体的な提案を受けたが、政府機関新聞発行はなかなか結論に至っていない。
この時どんな経緯でリゼンドルのチームに福地源一郎が加わったのか筆者には定かでないが、当時このリゼンドルの書簡が書かれた明治8年4月頃、福地は大蔵省を辞任後の明治7年12月から加わった東京日々新聞の主筆・社長であったはずだ。福地源一郎著の『懐往事談』(東京:民友社,1897年)の後半に附された「新聞紙実歴」の部分に、「常に伊藤伯など在朝の諸公を訪問し・・・当時政府に官報がなかったので政府に乞い、東京日々新聞に太政官記事御用の称えを得て、官報の用に充てようと試みた」と書いている頃のことだ。従ってリゼンドルやハウスと収支見積もりを協議したのは、福地が大蔵省を辞任したあと東京日々新聞に参加するまでの頃の事だった様に思われる。
エドワード・ハウスの独自調査と国内新聞取り締まり条例
また2ヶ月ほど経った同年6月20付けでリゼンドルは大隈に宛て、当時ハウスが独自にコンスタンチノープル駐在アメリカ公使の協力で調査した、トルコ政府が採用した外国新聞取締りに関する「新聞発行の全面停止」処置をも含む出版条例の内容を参考として送ってもいる。トルコでは、政府の意に適わない外国新聞は出版禁止に出来るという情報だ。
この頃またエドワード・ハウスは、この治外法権を最初に日米修好通商条約に盛り込んだ張本人である、当時の日本駐在アメリカ総領事でニューヨーク在住のタウンゼント・ハリスに直接書簡を送り、「貴下はこの恥ずべき治外法権導入は永久処置ではないと思っていたはずだが、貴下の心情をお聞かせ願いたい」と書き送った。ハリスは返書で、「そもそも自分が日本に派遣される前に当時のマーシー国務長官と会談したが、治外法権なしに東洋諸国との条約締結は出来ないと言われた」と述懐し、過去のトルコやペルシャ、アフリカのバルバリイ等との条約が先例となりこの治外法権項目の挿入が不可欠だったのだろうと思うが、偏にこれが除去されることを願うと述べている。この往復書簡の写しもトルコ出版条例と共に同封され大隈に届けられている。従ってハウス自身もまた、日本が強いられている治外法権と制御できない横浜の英語新聞の問題に強い問題意識を持って独自調査をし、既に引退してニューヨークに住む元アメリカ公使のタウンゼント・ハリスにまで手紙を出したのだろう。後に触れるが、ハウスはこのハリスとの情報交換書簡を、その後繰り返しその論文に登場させている。
この間に日本国内では、国内発行の新聞を取り締まる目的で明治6(1873)年10月19日に布告されていた「新聞紙発行条目」が改正され、明治8(1875)年6月28日に「新聞紙条例」が布告されより厳しい制限が付くようになった。しかし横浜で外国人の発行する新聞は依然として治外法権で守られ、日本国内向けの「新聞紙条例」が適応できなかったから、未だリゼンドルが指摘した日本政府を俎上にあげる横浜の外国語新聞の問題点は未解決だった。
再度の提案と推薦されたエドワード・ハウス
政府新聞を何とか実現する必要があると固く信ずるリゼンドルは、具体的な計画を提出しても明確な結論が出ない日本政府の動きにも、この推奨計画を諦めてはいなかったようだ。ほぼ1年も経つ頃、ここで再度またリゼンドルから大隈宛に出された、1876(明治9)年3月5日付けの覚書第52号の概略内容は次のようなものだ。いわく、
「ジャパン・メイル新聞所有者の代理人であるジョン・ピットマン氏は、W・G・ハウエル氏が所有する新聞の社業を1万5千ドルで早急に譲りたいので、(ハウエル氏から)自分(リゼンドル自身)と交渉するよう依頼された、と告げてきた。今迄にも日本政府のため機関新聞が必要な事は説明してあるが、あるいは閣下の意に沿うのではないかと考えこの返事を保留してある。ハウエル氏が新聞を手放すことは間違いなく、従って売値の1万5千ドルは交渉の余地があると思う。この新聞社の財務内容詳細を調べたい。新聞記者の経験や文章の才能において、また日本の主張やその進歩発展を願う気持ちにおいても、(政府がこの新聞を買収した後)自分の知る限りこの編集事務を託せる唯一の人物は、E・H・ハウス氏以外にない。閣下が了承できれば、ハウス氏と話をしてみたい。若し日本政府が直接関与する事が問題なら、民間で華族などの出資を得て、会社組織で運営するという可能性もある。ハウエル氏は帰国を急いでいる様子で、自分(リゼンドル)個人が買収すると思って特別に依頼してきたので、至急否やの回答をお願い致したい。」
この様に、既存の新聞社買収と言う更なる具体的な提案が出されたのだ。これに対し大隈は、リゼンドルに3月9日付けで直ちに返書を送り、
「貴下52号の覚書、新聞譲受一件申立ての趣、詳悉せり。予に於いても久しくその必要なるを知るを以て、政府の利益を謀る広告具 (注:新聞等の広報手段) を設立するの企て無きに非ず。・・・貴下速やかに着手して極低の價値と真実の計算とを精査して報告せらるべし。彼の編集者人選の(一件に付き?=判読不可)、予に於いても全く異存なし。」
と、その調査・交渉の具体化を了承し、編集をハウスに任せることに依存はないと告げている。
筆者には、このリゼンドルの覚書に出てくる「ジャパン・メイル新聞所有者の代理人ジョン・ピットマン」と新聞所有者のW・G・ハウエルや、この2人とリゼンドルとの関係が良く分からない。しかし、台湾出兵の決着を付けるため大久保利通自身が清国と交渉する時期、即ち明治7(1874)年10月11日から14日の大久保利通の日記に、ピットマンが大久保の意を受けて、大久保と清国駐在イギリス公使・ウェードとの間を往復する記述があるから、ピットマンは大久保の信頼を受け陰で手助けしていた人物だ。また明治9年3月12日付けで大史・土方久元(内務省)から右大臣・岩倉や参議・大久保、大隈、伊藤に宛てた「清国事情報知の為、英人ピットマンに手当金1ヶ月250円を出す」という許可願いが出されていることなどから、当時ピットマンは上海在住の英国商人として、大久保利通、大隈重信、伊藤博文などと強い繋がりのあった人物のようだ。またしばらくしてジョン・ピットマンは、内務・大蔵両省のお雇いにもなった人物だが、このように大隈も良く知っているピットマンの仲介だから、直ちに了承したのだろう。
エドワード・ハウスとの「東京タイムス」紙発行の助成契約
この大隈重信の返書を手にしたリゼンドルは、早速エドワード・ハウスと横浜に行き、ジャパン・メイル社の財務内容の調査を始めた。しかし内情を調べた2人は、がっかりする事になる。
それは半年ほど経った1876(明治9)年9月、リゼンドルから、大隈重信と近い関係にあったと思われる当時の内務少史・平井希昌(ゆきまさ)宛ての書簡で、「横浜で(ジャパン・メイル紙の)実地検査をしたところ、その不利益なる事が分かり、ハウス氏は既に買収の件を断念した。・・・しかし若し日本政府がこの新聞を買い取る決定をすれば、ハウス氏が記者を務める可能性は今後の話し合いで可能であろう。ハウス氏と自分の意見では、別に新たな新聞を立ち上げた方が得策と思う。若し日本政府が1年に6,500ドルの補助金を給與するなら、ハウス氏は新聞の営業を始め、ハウエル氏と同様、新聞500部を献上する。本件を大隈閣下へお伝え願いたい。」と云うものだ。
この時は既に、リゼンドルとハウスに任せようと大隈重信の腹は決まっていたように見える。早速その内意を受けたであろう平井希昌から明治9(1876)年10月11日付けの内密議案 「米人ハウス刊行の毎週新聞へ助成金資給の儀に付き命令書案」が大臣と参議宛てに出され、岩倉具視、大久保利通、大隈重信の許可を受けた。これに基づき早速10月15日にエドワード・ハウスと交わされた、新聞発行と政府助成金支給に関する契約書は次のようなものだ。いわく、
「日本政府の代表者たる参議兼内務卿大久保利通閣下、参議兼大蔵卿大隈重信閣下の命に因り、少史平井希昌、貴下、この命令書を履行せり。日本通用銀貨壱萬五千円額をイ エッチ ハウス氏の東京に於いて編緝刊行する毎週新聞の助成として、これを二十八期に割賦し、その第一期壱千五百円額はこの書調印の第二日に資給し、その第二期以降は調印の時より三個月の後に始まり、五百円額を月月資給せらるべし。因てその為め契約せらるる條款を開載する事下文の如し。」
と記述され、新聞の発刊は契約日から45日以内に行う事、毎号500部は無償で政府指名の受取人へ届け、海外諸国への送料は毎年銀貨500円の郵便料金を別途受け取る事、大久保、大隈、鮫島閣下の特別に公布したい記述や口演内容は直ちに掲載する事、日本関係の諸説諸意見はハウスの見識の及ぶ限り常に政府の裨益(ひえき、=役立つこと)を考え真実公正で偏頗(へんぱ=偏り不公平なさま)なき事など、第1条から第9条まで載っている。
従って契約期間は、この1万五千円の助成金を30ヶ月、即ち2年6ヶ月の間支給するという、明治12年3月までの契約である。これはその後1年半ほど経った明治11年4月26日、平井希昌から内務卿・大久保利通と大蔵卿・大隈重信宛てに、年間1千円を増額し明治13(1880)年3月まで更に1年間契約を延長すべく申請が出され、許可されている。しかしこの延長契約書に政府高官の名前はなく、三井銀行取締役・三野村利助とハウスとの契約調印になっている。これは何らかの理由により、日本政府の助成を表面に出したくない事情が出来たのだろう。あるいは、当時の外交関係で完全自由貿易を言い募るイギリスへのエドワード・ハウスの攻撃記事の掲載で、「日本政府が陰で糸を引く新聞」だなどと噂が出たのかも知れないが、筆者はその詳細を知らない。
ところで、買収案が出てこのハウスに嫌われた「ジャパン・メイル」紙は翌年の1877(明治10)年1月までW・G・ハウエルにより続けられ、その後数回所有者が代わり、1881(明治14)年にイギリス人のフランシス・ブリンクリーに買われた。そして横浜の3大英字紙の一つとして、また親日的な論調でその名前が知られるようになったという。
エドワード・ハウスの「東京タイムス」紙の創刊
さてここでは本来、リゼンドルの政府新聞発行の建策が出されてから2年6ヵ月後に実現したこの「東京タイムス紙」の内容や、ハウスの主張とその時代背景を書くべきだが、現在の筆者にはこの新聞を目にし読む事が驚くほどの難題で、例えば飛行機に乗って行くほど遠方の図書館に保存されていたりして、なかなか手が届かない事が分かった。上述の如く毎号500部も明治政府が買い上げ、年間500円もの大金を掛けて海外にも郵送したものだが、残念ながら何処でもあまり保存されなかったのだろう。筆者に大きな課題が残ったことになり、これを将来に残しておく。
さて、上述の如くエドワード・ハウスが買収を嫌ったジャパン・メイル社が、明治10(1877)年1月6日から発行が始まったハウスの「東京タイムス」創刊第1号についてコメントを掲載している。同じ日付けの「ジャパン・ウィークリー・メイル」紙中の第2面、右欄下方の「週間記録」中の記述だが、いわく、
「今日の午後東京タイムス紙の第一号が姿を現したが、我々は最近ここでは既に余りにも多くの新聞があり過ぎると云う意見を述べていたからといって、心からの歓迎を拒むべきではなかろう。その記述が滑らかかつ簡明で、しかも素晴らしい感触である事から、その紙面が編集者の能力を十分に証明している。既にキーノートが示すように、恐らくこの新聞で力説される見解は、条約中の治外法権に関する条項の削除と、この国の貿易は純粋な保護貿易関税に基づく必要性についてであろう。第一点に関して我々は、この願わしい状況が達成されるか、或はまた、我々と日本人との訴訟問題が信頼の上に立って処理される、外国人に対する充分な保障が出来る混成裁判官制の確立といった、更に現実的な形で処理できる時期に至っていることを心底願うものである。(外国人同士の訴訟において、一部でさえ日本人裁判官が関係する裁判に充分委託できるとは、まず考えられない)。しかし、現今ではこんな混成裁判官制は全く機能しないことは経験上明らかで、暫くの間今の世代がいる間は、まして純粋な日本人裁判官だけの法廷などは考えられない。第二の問題に関しては、最近の英国でアメリカで適応された保護関税方式の結果につきさんざん議論された問題で、その制度の支持者により議論が打ち切られ過去のものになったものだが、アメリカではそのやり方で疑いもなく自国市場を制したとは言え、世界の別地域でアメリカがイギリスの競争に打ち勝ち得るという気配さえなく、今の所、勿論アメリカがずっと安く買えた全製品に途方もない高値を払っていると、その何時もの手法で経済学者が最近分析済みである。合衆国では自由貿易推進組が急速に拡大している事は確実で、ある種の最も雄弁で強力な誤信への反証が保護貿易主義全体に内在している事もまた確実だとアメリカ人は言っている。我々は、この様な事実がこの問題を決定づけると言い張るべきではない。しかし我々はこんな事実が、如何なる思慮深い人をも、全世界の高名な経済学者がかって魅惑的で破滅的な誤信により苦しめられたのだと考える方向に向かうと断言はできる。」
この様に、新しい新聞の出現に歓迎の意を表明し編集者は優秀だと称えこそしたが、治外法権条項の削除と貿易保護関税の導入という 「主張の意図は分かっているぞ」、「主張はそう簡単には行くまい」と手厳しく言及した。
「15、幻の改税条約」でも記述済みだが、当時ハウスの発行した1月27日付けのこの東京タイムス紙第3号に載った明治政府の税収入について、アメリカ公使・ビンガムでさえ本国の国務長官宛てに、「(日本政府の)今会計年度予想歳入表に依れば、輸出入税の予想歳入はただの$1,762,554で、同年度の予想租税歳入は約$61,000,000ですが、その中、$46,556,743が国民に課せられた地租です。私がこのように言うのは適切だと思いますが、日本で種々の貿易にかかわる外国人は、彼らが言う所の1866年の貿易約書を根拠に、その巨大な利益や収入に対する税金は何も支払っていません」と報告するくらい、税率の低さは注目を集めた問題だった。貿易関税が安すぎて、国家租税歳入の3%にも満たない低額で、ビンガム公使もびっくりして報告したものだ。
またその中で同様に記述済みだが、明治11(1878)年11月7日付けの駐英公使・上野景範から外務卿・寺島宗則宛の報告書翰に、「当国の外務卿輔に於いてはあくまでも自由貿易の主義に固着し・・・喋々(ちょうちょう、=口数の多い事)保護税法の非なるを弁論相成り、・・・保護税法に類するの件は一切承諾いたし難しとの事にこれあり・・・」と報告された様に、イギリスは完全自由貿易論を譲らず、日本の導入しようとする貿易保護関税を含む条約改定を頑なに阻止し、結果として、当時の条約改定交渉責任者の外務卿・寺島宗則を辞任にまで追い込んでいたものだ。
このハウス発行の「東京タイムス」紙は、上述の如く、明治13(1880)年3月までという明治政府との助成金支払い契約期間が終了し、明治13年6月をもって廃刊になった。それ以降の助成金再交付や延長は無かったわけだ。この後、程無くハウスはヨーロッパとアメリカに渡航し、日本の為に情報収集と宣伝活動をするが、それは下記に触れる。 
エドワード・ハウスの日本外交関係の著述と論文
エドワード・ハウスへの年金支給
少し唐突で先走る記述になるが、エドワード・ハウスは持病として痛風を持っていたようだ。時に発作を起こすと痛くて歩行困難をきたす痛風がハウスを苦しめ、晩年には歩けなくなったと聞く。「17、特派員、エドワード・H・ハウス (その1)」でも書いたように、明治6(1873)年1月28日付けで大学南校教授を辞めアメリカに帰国した時も、「病気の故を以て継続無しの満期解雇」になっているから、単なる辞職の理由付けに使っただけでもなさそうだ。当時のデロング公使がハウスの解雇を日本政府に迫ったという理由だけでなく、理由の半分は既にこの通風も出ていたように思われる。
とに角また、この通風が再発した。明治16(1883)年11月29日、外務卿・井上馨から 「米国人ハウス氏、年金給與の儀に付草す」と題するハウスの功労に報いる年金支給の建議が出され、許可されている。いわく、
「米国人イ・エッチ・ハウス儀は、明治四年我大学南校の教師と為り、勉励事に従い、又平素我国益を計考し、外国の関係に意を注ぎ、其身従来米国一二大新聞の通信員たりしを以て、其慣手の筆鋒を揮い、常に反対論者を攻撃し、務めて我国権を拡張するの真意を表せり。明治十一年中、特に政府の内命を承け、毎週新聞(東京タイムス)を発刊し、苟(いやしく)も我邦の利害相閉さんに逢えば、直言痛論豪も忌憚せざる所なり。為に一二駐剳(ちゅうとう)の外国使節の嫌悪する所となるも、私を以て公に屈せず。其行為或は他人の謗識(ぼうしき、=非難)を来たしたる事有之と雖ども、其哀情に至つては嘉称(かしょう、=ほめたたえる)すべきものに有之。且又先年、米国大統領グラント氏、香港知事ヘネシー氏渡来するに、方々此両氏等と親昵(しんじつ、=昵懇)の交誼あるを以て、其誘導に因り、政府の内意に依り、自費を以て各国を巡遊し所在の政権家若しくは有力の新聞記者等に相交り、我国の為めに各国の輿論を傾向せしめん事を勉めり。又曽て馬関事情と題せる小冊を編述し、之を世に公にし、世人の尚来る此議に注意せざるに先ち、大に米国の輿論を聳動(しょうどう、=驚かし動揺させる)せしめたりき。米政府の昨年償金を返還するに決定せしも、我外交の効験と米政府の公平なる果断とに依ると雖も、亦ハウス氏賛助の効、決して他の賛助者に譲らざるべしと存候。十五年秋再び文部省の嘱託を受け、大学文学部の教師たりしに、病の為めに之を辞し尚病床に在り。近日養痾(ようあ、=病気の療養)の為め欧州に赴かんとするも、其資料(=もとで)充分ならざるが為めに未だ其意を果たさず。目六(=経済事情)困難の事情相聞候。然るに従来同人の履歴を観察するに、先年我政府の内命を承り、当時廟議の機密をも幾分預漏聞致居り候者とて、萬一右等困難の事情より、其志操を他に転じ候様の事至し候ては却て我邦の有害と相来し候間、一は以て前記我政府の内命(大久保、大隈両参議当時之を伝ふ)ありし新聞の刊行、馬関償金の件に関する編述及び欧米巡回の件其他多少尽力の効労に酬い、一は以て後来我邦に遣害せざらしめん為に、馬関償金の内ら以て一ヶ年金貮千五百円宛、明治十七年より向う七ヶ年間特別を以て御給與出来度。氏儀御裁可の上は、別紙甲号案之通り内翰を添え、乙号之通り年金給與證書を御付與出来度。同人欧州出立之期も可成り相急ぎ居候間、前述之情状御諒察の上、至急に御裁決出来度、此案草し候也。 明治十六年十一月廿九日
外務卿井上馨
太政大臣三條實美殿
上申之趣聞届、金額支出方の儀は別紙の通り大蔵省へ相達候事。明治十六年十二月廿一日」
この様に当時の外務卿・井上馨は多くのハウスの功績を列挙し、明治政府は、病のため経済的に困窮するというハウスに年間2,500円という年金を7年間も給与すると決定したのだ。「困窮のあまりハウスが過去の機密事項を漏らさないように」という理由付けには首を傾げたくもなるが、こう表現するほど当時のハウスは明治政府の外交の中枢に関与し、井上馨や大隈重信等と云う、当時の明治政府の中枢が如何にハウスの陰ながらの働きに感謝し、その功績を高く評価していたか良く分かる行為である。また井上外務卿が、「馬関償金の内ら以て一ヶ年金貮千五百円宛」を給与したいと提案したこのアメリカ議会と政府が日本への返還を決めた「下関賠償金」は、1883(明治16)年4月22日付けの井上外務卿のアメリカ公使宛の書簡で受け取り了承をしていたから、この時はすでに78万5千ドルの小切手が日本政府の手に渡っていたわけだ。また直ぐ下に書く通り、何とか排除したいと思っていたイギリスのパークス公使も清国に転出した直ぐ後だったから、ハウスを顕彰する絶好のタイミングだった。大学南校あるいは東大で月額250円(又はドル)ほどの給与を受けていたから、その80%にも当たる高額年金額だったわけだ。ハウスはこの頃再度10年ほど故郷のボストンに帰っているが、おそらくこの年金を原資に病気療養をかねながらであろうが、多くの文筆活動を行っている。
エドワード・ハウスの欧米向けキャンペーン
ここでは、当時の外務卿・井上馨がハウスに年金まで用意したその功績の一部を探って見たい。
上述した東京タイムスの明治政府との助成金支払い契約期間が終了しての廃刊後、ヨーロッパとアメリカに渡ったハウスは、イギリスが強硬に自由貿易主義を堅持するため日本は条約改定が出来ず、即ち関税の改定が出来ず、また治外法権も回復できず、行き詰まった日本外交を背面から援護すべく情報収集と宣伝活動をしたのだ。このためハウスが書いた論文のいくつかは下に記述するが、それがどれほど有効だったかはともかくも、ハウスが再び欧米から日本に帰って来た翌年の明治16(1883)年7月、あるいは、このハウスへの年金支給に関する井上馨の建議書が出される4ヶ月ほど前、その昔の慶応1(1865)年閏5月の赴任以来18年間にも渡り、あれほど長く日本外交を苦しめて来たイギリス公使・パークスがついに日本公使から清国公使に転出したのだ。
この転出とその背景に関してはしかし、当時熱心に条約改正交渉に取り組み、従ってパークス公使に甚く苦しめられて来た井上が書いたハウスへの年金支給建議書の文中には、当然ながら具体的に一言も出て来ない。しかし筆者は、ハウス論文とそのキャンペーンがパークス公使の日本政府への態度を大幅に改善させ、その後の転出に大きな影響を与えたという事情も、ハウスへの年金支給を後押しする主要理由の一つだったのではと考える。その証拠として、井上が英国駐在の森公使に送った明治15(1882)年3月31日付けで条約改正の2大方針を通知する書簡の最後に、
「パークス公使も近来大いに面目を改め、協和を主とするように相見え、万事協議も致し易く、好都合にこれ在り候。」
と書いた通り、本国から帰った後のパークスの態度が大きく変わっていたからである。この理由は、下のハウス論文 「帝国の苦難」の最後に書く通り、このハウス論文の為にイギリスでパークスを巻き込んだ一大論争が起き、パークスはその態度を改めざるを得なかったのだ。そしてついには、日本公使から清国公使に転出したのだ。
この井上馨の建議書に書かれた様に、困難に遭遇する日本外交を背面から援護する情報収集と宣伝活動の一環として、ハウスはいくつもの論文を書き発表している。勿論こんな政治的なもの以外にも、知人の日本の医者や政治家、日本の芝居や文化・紀行など文学的な著述もあるが、以下に、この章の主要題目である政治・外交に絡んだ論文に付き触れて見たい。
『日本の現状と将来』 − 明治維新とハウスの日本への期待 (1873年5月)
明治維新の信じ難いほどの激変と、ハウスが懸念する 「少しその速度を緩める必要性」を記述したこの「日本の現状と将来」と題する論文は、アメリカの「ハーパーズ・ニュー・マンスリイ・マガジン」誌の1873(明治6)年5月号に掲載された。1850年創刊のこの雑誌は、ずっとアメリカ東部の裕福で教養豊かな知識人を読者にした、専門家や知識人による読者啓蒙の雑誌である。こんなメディアに掲載されたエドワード・ハウスの論文は、多かれ少なかれアメリカのオピニオン・リーダー的性格があり、当然その影響力もあったと思われるものだ。
ハウスいわく、それまで2世紀半にも渡って保持されてきた体制が、過去6年間ほどの間に大変革をきたした。これは他国では何年も何世代もかけ多くの犠牲者を出したほどの改革が、日本では1日で、しかも国内の平和を乱すことなく行われた。日本のこんな国家体制の大転換は、近代社会の不思議とも呼べようと記述している。それまで飾り物にすぎなかった天皇が自ら国政を取り、身分差別を撤廃し、下層階級が侍と同様に大道りを馬に乗り上等な着物を着ていたり、一方の侍は廃刀までしたのだ。身分差別撤廃は、皮革業に従事し歴史的に虐げられ差別されてきた穢多にまでも及び、この差別を一日で無くしてしまった。国内の騒擾が全て無くなった訳ではないが、日ごとに収まっている。未だに統制色の濃い規則は、旧大名の首都在住を求めるものだ。この様に大改革が進められ今日に至ったが、現在の議論は、如何にして直ちに全国に外国流の法律を適用し、外国人に開放し、自由な商いに委ねるかである。日本政府の財政は困窮しているが、日本はこれまであらゆる方面で外国勢に裏切られ、貿易に障壁があっても外国公使たちは容認している。条約に記載された日本にとっての重要事項ですら、言外に信頼を寄せる各国政府から説明もなく無視されているから、日本は全て外国頼みに出来ない事は良く知っている。ハウスはこの様に記述した後、全世界で最先端を行く各国の後を追い、対等の位置に着く前に、日本は大改革で緩んだ足元を固める自覚が必要だと説く。日本の現状について語るならば、その行く先を注意深く思いやりのある態度で見守るべきだ。どんな国の如何なる将来も断定できないが、日本は色々な困難を乗り越え、世界の先進国中でも立派な、卓越した地位にまで到達するだろうと結んでいる。
この論文が発表された1873年5月という時期は、「17、特派員、エドワード・H・ハウス (その1)」に書いたように、ハウスがジャーナリストとして、マリア・ルス号事件でアメリカのデロング公使が取った態度を痛烈に批判し、デロングが日本政府にハウスの大学南校からの追放を迫り、病気を理由に教師を辞任したハウスがアメリカに帰国していた時期である。
『下関戦争』 − 下関戦争と賠償金の正当性の検証 (原稿:1874年11月、英語版発行:1875年4月)
下関戦争の背景やアメリカ政府によるその賠償金返還については、「6、薩英戦争と下関戦争」及び「14、下関賠償金の返還」に既に書いた。この賠償金の支払いは、旧幕府が半分だけ支払ったが、残り半分の支払い責務が明治新政府に持ち越されていたのだ。この残金について明治5(1872)年4月2日、当時の副島外務卿からアメリカ、イギリス、フランス、オランダ4カ国公使宛に、当時外遊中の岩倉大使と各国政府が話をする予定なのでそれまで待って欲しいと書簡を送り、夫々から自国政府に連絡する旨の回答があった。岩倉のイギリスでの交渉で外国人の内地旅行制限の撤廃などの条件が出されたが、直ぐには出来ない条約改定が絡み、また双方の誤解などから、明治政府はイギリス、フランス、オランダ3カ国へ残金全額の支払いを決断した。これを知ったアメリカからも、明治7(1874)年6月10日付けのビンガム米国公使より寺島外務卿宛の書簡で、「米国政府の訓令に基ずき、下関事件償金残額は他の諸国と同様に受け取りたい」との申し出があり、明治政府はアメリカへも7月末をもって支払いを完了した。
しかし一方、アメリカ国内では「下関賠償金の返還」で書いたように、これ以前から、即ちアメリカ議会の下院で1870(明治3)年2月7日、日本が支払った賠償金をそのまま国庫に入れる議案が提出され、反対八十四、賛成八十一、棄権五十二でからくも否決されていた。そしてそれ以降の議会では、この償金の日本への返還方法が議論の中心になっていたのだ。
そんな中でアメリカ公使から賠償金残額の支払い完納要求が出され、日本政府はその支払いを終えたわけだ。外交の論理を別にすれば、一見してこれはアメリカの大きな矛盾だと映るが、ハウスのこの「下関戦争」の日本語の原稿に 「千八百七十四年十一月東京に於いて」 と日付を入れてあるから、日本政府がアメリカ向けの賠償金残額を7月31日に横浜・オリエンタルバンクに振り込んだ時から約4カ月後の日付けである。明らかに、ハウスがこの論文・「下関戦争」の原稿を書いたのは、賠償金残額のアメリカへの支払いに触発された事は疑いないが、ハウスがこの賠償金に関する調査を始めて原稿を完成するまでに、この4カ月弱が充分な期間であったのか筆者には分からない。しかし引用されている内容などから見ると、もっと早くから、即ち上述の如く、明治5(1872)年4月2日付けで副島外務卿がアメリカ、イギリス、フランス、オランダ4カ国公使宛に書簡を送った頃から構想があったようにも見える。
ところでハウスのこの「下関戦争」の原稿は、リゼンドルから大隈重信宛の1874年11月28日付け書簡に添付され、大隈にも届けられた。恐らくその原稿がまず日本語に訳され、関係者に回覧された様だ。アメリカやヨーロッパ向けに配布したいハウスは、まず日本で内容の確認を取ったようにも見える。外国向けに日本で印刷された英語版には、「1875年4月、東京にて」と日付が付けられている。
さてハウスは、次のように論じた。アメリカの議会や公共出版物などで繰り返えされる、下関賠償金の残額を免除し更に支払い分さえ返還しようという議論の最中に、アメリカの公使が他国と同様に全額の支払いを求めるに及んで、支援し鼓舞してくれるアメリカは特別だと思っていた日本は、幻想を抱いていたのかとショックの只中にある。しかし今や償金の全額が支払われ、事件の幕が引かれようとしている。このままでは、漠然と落ち度は日本にあったという事になり、日本に駐在した各国外務省の代表者たちの不法さは吟味されずに終わってしまう。こう書き出して戦争の経緯と賠償金支払いの要点を箇条書きにまとめた。そして、長州から最初の砲撃を受けなかったイギリス公使の主導で軍艦を下関に送り、戦端を開いたが、そもそも関門海峡や豊後水道、また鳴門海峡や明石海峡を通り瀬戸内海に出入りする地政学的状況は、丁度トルコのマルマラ海に出入りするダーダネルス海峡とボスボラス海峡の状況と非常に似ていると指摘した。国際法の原則は陸地から海上へ1リーグ(=約5.6km)以内はその国の領海だから、トルコとヨーロッパ諸国との条約を当てはめても、米、仏、蘭の船が長州に砲撃された下関の海上は純粋に日本領土内で、外国船が条約の取り決めも無くそこに侵入し砲撃されても、その全てが日本の落ち度だとは言えない。こうトルコのマルマラ海の例を引き合いに出した原則論を述べた。そして償金支払いまでの歴史的経緯も述べた。
そして最後をこう結んでいる。いわく、「前述したように、4カ国のどこかの国が自発的に新しい活力を注入しない限り、これで下関戦争の歴史的記述は終わる。それ(4カ国のどこかの国が自発的に新しい活力を注入)はまず有り得ないし、若し有ったとしても、賠償金を取った後に最高に満足出来る結果が来る事などは決してない。肉体が切り刻まれ多くの血が流されたのだ。誰がその傷を上手にそっと癒し得ると言うのか。長い年月に渡る屈辱と虐待で残された消すに消されぬ傷口を、どんな技で隠せると言うのか。・・・(この記述には限られた資料しかなかったが)何世紀にも渡る闇夜から抜け出そうと奮闘し、文明国の中でも尊敬されるべき地位に身を置こうと奮闘する日本が、世界の先進国からどう励まされ激励されてきたか、公正な読者の判断に委ねるには充分であろう。この下関の記録は、” 強国と云う堅固な基礎に立脚した外交 ” によって友好関係と互恵を推進するという、ほぼ20年に渡って使われて来た一方式である」。
筆者はこのエドワード・ハウスの結びの記述に大いに心を動かされるが、単に日本を擁護するだけの記述に止まらず、ハウスの因って立つ正義感や心情を垣間見る思いである。このハウス論文がアメリカ国内向けにどれほど影響力が有ったのか筆者には良く分からないが、とに角この論文以前から、14、5年にも及ぶ長い議会議論の末にアメリカ議会と政府は日本へ賠償金額の全額返還を決定し、議会で1883(明治16)年2月22日に返還法案を制定し、2月23日アーサー大統領が署名し、78万5千ドルが日本に返還されたのだ。上述の 「エドワード・ハウスへの年金支給」 に述べた如く、外務卿・井上馨はこのハウス論文が下関戦争賠償金の全額返還に貢献したとして、「我外交の効験と米政府の公平なる果断とに依ると雖も、亦ハウス氏賛助の効、決して他の賛助者に譲らざるべしと存候」と書いて高く評価し、この 「馬関償金の内ら」 年金を支払いたいとまで提案したのだ。
『帝国の苦難』 − 保護関税と治外法権 (1881年5月)
アメリカ東部のボストンで1857年に創刊された月刊誌「アトランティック・マンスリー」は、文芸評論誌として評判が高かったが、その後雑誌の性格も少しづつ変化し、一般評論誌として外交、政治、経済、文化等を扱ったという。読者層はやはり東部の、教養豊かな知識人であった。日本の財政難や治外法権に苦しむ現状を伝える、このハウスの「帝国の苦難」が載った1881年5月号にも、「文芸、科学、芸術、政治の雑誌」と銘打ってあるから、ハウスの日本関連の論文も編集者に歓迎されたのだろう。
東京タイムス廃刊後、ハウスが久しぶりにアメリカに帰って来て邂逅した昔からの知人で、気持ちよくその採用を決めてくれたアメリカ東部の玄人から、この人物は月刊誌「アトランティック・マンスリー」の編集者と思われる人物だが、現状の日本がどんな逆境にあり、不当な苦痛と屈辱からどう抜け出られるのか簡便に書いて見てくれと言われた、との書き出しでこの記述が始まる。
ハウスいわく、簡単に言えば、明治維新この方日本は極貧でお金は一銭もなく、かろうじて国家の体面を保っている状況だ。ペリー提督の遠征で日本が開国した後、タウンゼント・ハリスの並々ならぬ努力で通商条約を結んだが、その後に来たイギリスのエルギン卿は易々と同じ条約に調印出来た。しかしハリスが原案を作り、1858年に日本と調印した条約には、重大欠陥がある。確かにどちらか一国の要求で1872年に条約改定が出来る事になってはいたが、通常の条約には挿入すべきはずの条約有効期限が設定されていない。これは後で改定されない限り、いわば永久条約なのだが、当然力の強い国が反対すれば改定さえ出来ない。
この条約は日本には全く不利で、特に貿易額の過半数を握る最大貿易国のイギリスには多大な利益がある。こんな状況下で、イギリスは日本の条約改定要求に応じはするが、常に言い逃れをしたり無謀な逆提案をしたりして来た。日本の現状は、イギリスからの安い輸入品が溢れかえり、自国産業が壊滅状態である。アメリカ政府の費用は関税収入で賄われているし、イギリスにしても半分が関税収入で賄っている。所が日本は6%にも満たない。国家予算全体で見ても日本の関税収入は3%程度のもので、殆んどが農民からの税収入に頼っているのだ。一方のイギリスは自由貿易を唱えるが、日本からイギリスへの輸入品には輸入税をかけ、その総額は日本政府の総関税収入より大きい金額に上ると、具体的な数字を載せて説明した。
更に日本駐在イギリス公使の 「ハリー・スミス・パークスは」と実名を挙げ、パークスが日本で取ったイギリスの繁栄のため、特にその貿易利益のためだけに、「日本人種全体に向けあらゆる執念深さを持って行う、挑発と激怒と脅迫の外交」態度を厳しく非難攻撃した。例を挙げて、公的交渉の席でコップを投げつけて割り、この通り日本は粉々になるぞと脅したり、取り決めてある関税上陸地点ではなく、自国民の保護を名目の軍隊の上陸に勝手な場所を選んだり、交渉の席で政府高官の面前で拳を振り上げテーブルを叩いたりしたと書いた。また日本政府の役人がヨーロッパに行った時、その使用人がパークスを知らず、パークスの手荷物をホテルの部屋に届けるのを拒否したり、「サー」と言う敬語を使わず「ミスター・パークス」と呼んだという理由で、その使用人を解雇するよう抗議を受けたというエピソードまでも挙げているほどだ。パークスへ向けた厳しい個人攻撃である。
また治外法権に言及し、上述したように、治外法権を最初に日米修好通商条約に盛り込んだ張本人である、当時の日本駐在アメリカ総領事でニューヨーク在住のタウンゼント・ハリスにも書簡を送り、ハリスがその返事としてハウスに回答した、「当時のマーシー国務長官と会談したが、治外法権なしに東洋諸国との条約締結は出来ないと言われた」という書簡の文章も引用している。治外法権の設定は、アメリカ政府の指示だったと指摘したのだ。
そしてハウスは、日本はこんな多くの困難の下で文明国の賞賛を得ようと努力し、一方ならぬ成功も得つつある。こんな日本の苦しみの経験と逆境への勇敢な取り組みが、先進国の同情と寛容さを引き出せるかは明言できないが、自分は単に世間の誤った議論を修正し反転させ、日本の発展の為に闇に隠れた真実を披瀝したおきたいのだ。これによって公正な読者の目を開ければ満足である。そうなれば、必ずや正義が行われるだろうと結んでいる。
ところで、この「アトランティック・マンスリー」誌に掲載されたハウスの論文がイギリス国内で大きな反響を巻き起こし、メディアを介した一大論争にまで発展した。ハウスがパリから大隈重信宛に送った1881年6月13日付けの書簡に、ハウスのこの論文がきっかけとなり、ロンドンの「パル・マル・ガゼット」紙(The Pall Mall Gazette、ポール・モール・ガゼットとも)上で活発な議論が起こった。また「タイムス」紙上ではリード卿 (注:「日本:その歴史、伝統、宗教」の著者)とパークス自身の論争になり、パークスが弁解の投書までした。更に自分も「パル・マル・ガゼット」紙に投稿したと報告している。そして自分の感触では、パークス公使の解任は明白だ、とも報告している。実際にパークスは、この2年後の1883(明治16)年7月、日本公使から清国公使に転出しているのだ。
当時横浜で発行されていた1881年7月27日付け 「ジャパン・ガゼット」紙の1面にも、このロンドンの「タイムス」紙や「パル・マル・ガゼット」紙に掲載された日本に於けるハリー・パークス公使の行為に関する記事を見て、パークスの外交方針に従ってきた横浜居住者の間に、強い怒りの感情が広がったと報じている。そして、1年前まで横浜でハウスが発行していた 「東京タイムス」紙に触れていわく、
「ここ横浜では、ハウスと云う男が4年間に渡りイギリスの方針とその外交官へ向けた敵意に満ちた記事を書き続けたのだが、役人達はそんな記事が載る新聞を購読し世界中に発送したのだから、サー・ハリー・パークスは、雇われアメリカ人から出て来る意図的に書かれた一連の中傷記事に、もっと注意して居れば良かったと残念に思う気持ちが有る。」
こう書いて、完全自由貿易を掲げ、日本の政策的な輸入関税を容認しないイギリスの外交方針に何度も噛み付いたハウスの 「東京タイムス」紙に注意すべきだった、と評論したのだった。
勿論ハウスに対するこんな非難も在ったが、アトランティック・マンスリー誌に掲載したハウス論文による 「日本は公正に扱われていない」という論点に対し、イギリスのメディア上でこんな一大論争を演出できたハウスは、心底満足したであろう。また「エドワード・ハウスの欧米向けキャンペーン」で上述した井上外務卿が英国駐在の森公使に宛てた書翰で言うように、これが経緯となり、パークス公使の日本での態度が改まり、更に日本公使から清国公使に転出する遠因になったように見える。
『日本の苦役』 − 12カ国条約改正会議とその挫折 (1887年12月)
安政5年6月19日、即ち1858年7月29日に締結した日米修好通商条約以来、引き続きヨーロッパ諸国と結んだ同様の条約は、その後何十年にも渡り日本を苦しめて来た状況は、各所で折に触れ記述している。これは、当初から挿入された治外法権による主権侵害や、その後の慶応2(1866)年5月13日、老中・水野忠精が「江戸協約」とも呼ばれる新しい「改税約書十二カ条及び運上目録」に調印し、貿易関税率を低くせざるを得ず、その後、この条約の一部として組み込まれた税率の変更はままならなかった。これがそのまま明治政府に引き継がれ、この不公平な条約を改正・修正しようとする明治政府を陰で支えようと行動するエドワード・ハウスの論文の一つが、直ぐ上に載せた「帝国の苦難」であった。そしてその6年半後に、またこの「日本の苦役」と題する論文が書かれたのだ。この論文もまた同じ月刊誌「アトランティック・マンスリー」の12月号に載り、今度は第1ページからの掲載だった。
ハウスはまず、殊にイギリスで、駐日公使・パークスをも巻き込み多くの議論を引き起こした前回の論文から書き始めている。いわく、「この最も興味深く、英知に満ち、進化を遂げる東洋諸国の状況に関する各種一般的な錯覚を一掃する事と、見せ掛けの友好と親切を規定した条約で拘束する諸外国政府に苦しめられるそんな国の苦難を明らかにする事を目論み、アトランティック・マンスリー誌の1881年5月号に「帝国の苦難」と題する一文が掲載された。過去20年間に渡り、同情と親切を受けるに値した国へ向けた連合行動で、徐々に攻撃的な敵愾心が形成され、ヨーロッパ諸国やアメリカの外交官達の意識的な妨害で、一個の独立文明国としての認知の立証に向けた日本の名誉ある努力が、失敗に帰した事が明らかにされた」。こう書き出して、その結果議論が起こり、駐日イギリス公使(注:ハリー・パークス)は暫くして他国へ転出した、とその結末に触れた。この出来事は、ハウスの最も顕著な成功例だっただろう。そして日本が困憊しているのは、その改定出来ない名目5%という低い関税率と治外法権である。そして論文は再び、タウンゼント・ハリスが条約の有効期限を規定しなかったという「失敗」を繰り返し指摘した後、続けて日本の現状、即ち日本を訪問したグラント将軍も確認した如く、良く整備された陸軍や海軍、確立された海運業、成功裏に帰した教育制度、発展する鉄道網、整備が続く灯台、精密な貨幣製造技術、整備される電信網や郵便制度、国内法の整備や犯罪の少なさを述べた。この様に日本の進歩を反証として掲げ、それにも拘らず、稚拙な裁判官で行われる領事裁判の有効性に強い疑問を呈した。
続いて、1886(明治19)年5月から伊藤内閣の外務大臣・井上馨の主導で始まった、治外法権や関税率是正の12カ国条約改正会議について述べた。しかしその結末は、「深く危機感を抱く人々よる勤勉な努力で会議は1887年夏(注:1887年7月29日)まで続けられたが、最後に日本は疲れ切って意気阻喪し、再度の敗北を認めた。必然的結末だった。今までかって行使されたり適用された事の無いある力が彼らに影響しない限り、ヨーロッパの競争相手は連合し、改定に合意する積りも無かったしまた合意もしないだろう」。更にハウスは1878年にアメリカと調印されたいわゆる「吉田・エヴァーツ条約」にふれ、ヨーロッパ諸国は同じ条件を受け入れず幻の条約になってしまったことを書いた。そして、「日本に対しアメリカ政府はいつも耳触りの良いことを言うが、その希望を破壊する。・・・事実、合衆国は決定的な一歩を踏み出して日本の自立と独立を支援しようとはしなかった。昨夏まで長々と続いた条約会議でも我公使は、日本に尽力するような顔色さえも見せないよう注意深く自制していた」と書いて、自国の態度を嘆いた。そして、「強国といえどもその隣国に確固とした友好で向き合う義務があるとしたら、それは日本に関する合衆国の義務である。我々(米国)が日本を平安で全体としては非常に幸福だった鎖国から引っ張り出し、国際的な興奮状態の渦に巻き込み、再々殆どその渦に飲み込まれそうになったのだ。それは、彼(注:タウンゼント・ハリス)が愛した日本の永続する屈辱が分かっていれば、自らの手を切り落としもしたであろう程気位の高かった最初のアメリカ公使の言語上の大失策だったが、日本に多大な困難が降りかかって来た。そしてその後、我々(米国)の側から、彼(ハリス)の不注意な手抜かりによる不幸な条項の救済策として、どんな手も打たなかった事が誠に残念だ」と書いた。
更にその他の手段も頻りに議論され、日本政府の法律顧問を務めたぺシャイン・スミス(米人)も推奨した事があるが、万事休するまでは、と日本の政治家はその手段を採用しなかったが、それは、期日を限って条約破棄をする事であった、と書いている。平和的に条約を破棄するには、内地の全面的な解放や刑法・商法等法律上の西欧文化との等価性が無ければ諸条約国の同意は困難で、当時の国内状況では成功は無い。強いて実行すれば戦争も起ころうから、明治維新を断行した勇気と決断力のあった明治政府首脳も、ここまで築いてきた国家とその外交関係を、「条約破棄」という強硬手段による一大危機に陥れる路線は避けたのだ。筆者には、当時としては隠忍自重の末の判断だったと映る。
ハウスは、再びこの12カ国条約改正会議の結末に戻り記述を進めた。当時の歴史が示す通り、井上馨の決断した外国人の内地雑居や、判事選定と国内の法律改正条件に向けた譲歩で、関税率や治外法権条項改定がほぼ合意に至った。しかし、これを知った日本政府法律顧問のボアソナード(仏人)の反対意見をはじめ、絶対反対を唱える農商務大臣・谷干城の辞表提出など、国内の反対意見が沸騰した。ハウスの記述いわく、「政府内意見の不一致が避けられなくなった。政府内の意見調整方針を信頼できないと一大臣(谷)が辞職し、この行動で生じた大衆感情がこの政治家(井上伯爵)の辞任を求め最高潮に達した。この政治家はそう公表されて過去7年に渡り、ファビアン戦略(注:共和政ローマのファビウス・マクシムス将軍の持久戦略)を取り、敵の侵攻以前に退却するという戦術で条約改正に奮闘していたのだが」。この様に井上馨が辞職に追い込まれた経緯を語り、この辞任は、日本政府を精神的に主導する一人を失った事になり、普通の遺憾の意の表明だけでは表しきれない程の重大事だ。しかし、「国内は明確に(井上の進めた方向とは)反対方向に動き、勇断をもって進めねばならない事情を良く知っていると思わる、閣外にいる人気ある指導者へ大臣就任の要請が出された。噂では、英知の幅や現実的な聡明さ、また充分な才略において井上と張り合える一人の日本人政治家に取って代わられるという。大臣として大隈重信と言う名前が出れば直ちに、長期に渡り犠牲になって来た権利と独立が速やかに主張されよう」。この様に、大隈重信に大きな期待を寄せて論を結んでいる。
ハウスのこの論文 「日本の苦役」は、外務大臣・井上馨の辞任の3ヵ月後にアトランティック・マンスリー誌に載ったが、その原稿は辞任直後に書かれたものだろう。その中で、この井上馨の辞任について 「普通の遺憾の意の表明だけでは表しきれない」と書き、ハウスは本当に残念だった様だ。この時ハウスが日本政府から支給されていた年間2,500円という年金は、上述の如く井上馨の発議で決定したものだから、その恩義の気持ちもあっただろう。しかしそれ以上に、若しこれが実現すれば、外国籍判事や検事を任用する事などかなりの譲歩があったにしろ、長年苦しんだ治外法権を日本の裁判所に取り戻し、貿易関税率も2倍を超える率になるわけだったから、それまでハウスが苦心し懸命に取り組んできた方向に一歩、二歩と近付く筈だった。それが、直前に破綻してしまったのだ。
しかし残念ながらその後の歴史が示すように、次の外務大臣・大隈重信も国内意見の強硬な反対に遭い、更に遭難もし、その他様々な日本国内の葛藤の末、イギリスとの新しい日英通商航海条約の調印は1894(明治27)年7月16日、アメリカとの新しい日米通商航海条約の調印は同年11月22日、批准書交換は更に1895(明治28)年3月21日まで待たねばならなかった。しかし治外法権は回復するものの、関税自主権の回復は不十分で、更なる交渉が必要になって行く。  
エドワード・ハウスの永眠
エドワード・ハウスの墓碑銘
明治政府からその功績を顕彰され勳二等瑞宝章を下賜されたエドワード・H・ハウスは、その日、明治34(1901)年12月18日永い眠りについた。養女にしていた琴に看取られ、その66歳の生涯を日本で終えたのだ。筆者はこれまで3回に渡りハウスの活動を調べ書いて来たが、その生涯は誠にユニークなものだ。明治初期には多くのアメリカ人が日本に来て、各方面でその名前が知られている学者や技術者は多い。しかしジャーナリストとして来日後、これ程熱心に、長期に渡り日本の教育と外交に貢献した人物はハウスだけだろう。
このハウスの墓碑銘は養女・青木琴(後に黒田姓)に依り書かれ、右写真の墓石の裏面と右側面に刻まれている。下記は筆者がカタカナ部分をひらがなに置き換え、旧仮名遣いを新仮名遣いに直し、句読点をつけてあるが、いわく、
「エドワルド、ハワルド、ハウス翁は西暦一千八百三十六年十月五日米國ボストン府に生る。齢十六歳にして操觚(そうこ、=文筆)の業に従い、往て戰地に臨み兵火を冒して通信し、還りて健筆を揮いて諤々時事を論議せり。後英佛諸國に遊び廣く政治文學美術等の諸名士と交り、又深く心を演劇に寄せ自脚本を著せり。明治二年始て我國に來り。大學南校に聘せられて教鞭を執れり。同七年臺灣の軍起る翁亦之に従い、征討記一巻を著す。其他畢生(ひっせい、=終生)文學的著作極て多し。又當時我國権の未伸揚せざるを忡(うれえ、=憂え)、或は米國の新誌を藉り或は自東京タイムスを刊行し盛に正義公道を主張し、以て我國の利益を囘護(かいご、=弁護)せり。同十二年(注:十三年か)米國に帰りて下之関事件償金返還の輿論を喚起し、有力なる政治家等に説きて其賛同を得たり。同二十六年再我國に来る。翌年日清戦争起る。翁欧米諸國をして、同情を表せしめんことを努めたり。後宿痾漸加り多く病褥(びょうじょく、=病床)に在りと雖、時に我國運の消長に關する問題に對しては、克く誠に克く悃(まごころ)に堅鋭の筆鋒を以て各國の人民に告誡し、特に條約改正の為には陰に陽に其力を盡したること大なり。翁資性(しせい、=天性)樂を好み能く自奏彈し、又作曲に巧なり。晩年宮内省雅樂部及明治音樂會の為に指導誘掖する所少からざりき。かくて荏苒(じんぜん、=そのまま歳月が過ぎ)、明治三十四年十二月十七日に及びて病特に篤し。翌十八日勲二等に叙せられ瑞寶章を賜る。同日午後一時逝去す。享年六十六。不肖遺言を奉じて宗儀に依らず、亡骸を荼毘に付し、謹みて遺骨を東京田端村大龍寺の墓地に納む。是翁が生前自指定せる所なり。靈よ庶幾(こいねが)わくは、永く殊愛の地に在らんことを。
 明治三十五年十二月十七日   翁の愛育を辱せる黒田琴女、泣血再拝して之を記す。」
養女・青木琴については、ハウス自身の著作「Yone Santo : A Child of Japan」のモデルと聞くが、この墓碑銘から推察すれば、晩年のハウスを実の父親のように面倒を見た人のようだ。
音楽を好んだエドワード・ハウス
養女・青木琴が書いた上述のエドワード・ハウスの墓碑銘の後半に、「翁資性(しせい、=天性)樂を好み能く自奏彈し、又作曲に巧なり。晩年宮内省雅樂部及明治音樂會の為に指導誘掖する所少からざりき。」と出て来る如く、ハウスは文筆のみならず音楽の才能にも恵まれていたのだ。当時のエドワード・ハウスを記述した 「Appletons' cyclopedia of American biography (1887) (アメリカ人伝記事典・1887年)」によれば、
「父親・ティモシー・ハウスの息子、エドワード・ハワード・ハウスは諸学分野を自ら学び、1850年から1853年に掛けては音楽を学び、この時期に作曲した軽交響楽曲作品がボストンで演奏された。」
との記述がある。ピアノは子供の頃から母親仕込みだったと聞くから、それなりの素養と実力があったのだ。碑銘文の如く自ら 「奏彈」もし、「作曲」も得意であり、「宮内省雅樂部」や「明治音樂会」の洋楽指導も出来たのだろう。当時の宮内省雅楽部は、伝統的な雅楽のみならず洋楽も演奏した(「明治30年の宮内省式部職雅楽部」、塚原康子、東京芸術大学音楽学部紀要、2005)から、ドイツ人音楽教師のフランツ・エッケルトの指導以外に、あるいは明治32(1899)年3月で雇用満期になったエッケルトの代わりに、ハウスもその指導に一役買ったのだろう。明治音楽会について筆者は良く知らないが、大正12年8月号の「思想」に載った寺田寅彦の「二十四年前」という随筆に、
「その頃(注:明治32年頃)音楽会と云えば、音楽学校の卒業式の演奏会が唯一の呼び物になったがこれは自分等には入場の自由が得られなかった。その他には明治音楽会というのがあって、この方は切符を買ってはいる事が出来た。半分は管弦楽を主とした洋楽で他の半分は邦楽であった。」
と出て来る。この明治音楽会は、あるいは宮内省雅楽部なども演奏メンバーであったのかも知れず、エドワード・ハウスによる管弦楽の指導があったのだろう。
明治時代を通じ日本国内には実に多様な近代化の動きがあったわけだが、大隈重信や井上馨、また小村寿太郎という著名な人物と深く関わり、不平等条約の修正に努める明治政府を何とか助けようと、これ程貢献し活躍した人物の名前が、日本の歴史の中で全く埋もれているように感じた。良く知られている ウィリアム・グリフィス、デイヴィッド・モルレー、ホーレス・ケプロン、ウィリアム・クラーク、エドワード・モース、アーネスト・フェノロサ等の人物に比べ、同じ頃からその後もはるかに長く日本の教育と外交に関わった人物、エドワード・H・ハウスの名前は殆ど聞かない。日本外交史の中で、更に深く研究されるべき人物であろう。
 
米国への移民

 

ハワイへの移民
日本から米国への移民の始まり − ハワイへの移民
アメリカ合衆国がハワイ共和国を、即ち旧ハワイ王国を自治領として合衆国の一部としたのは、マッキンリー大統領時代の1898年だった。後の1993年11月23日、クリントン大統領と上下両院は、ハワイ王国の現地に住んだアメリカ人の砂糖やパイナップル生産者に当時のアメリカ公使も加担し、旧ハワイ王国の第8代・リリウオカラニ女王をクーデターで失脚させたのは誤りだった、と公式に謝罪してはいるが、現在のハワイはアメリカの第50番目の州になっている。従って、アメリカへ向けた日本移民の歴史は、以下に記す如く、当時のハワイ王国へ向けたハワイへの移民から始まるのである。アメリカ本土に向けた最初の移民は、「若松コロニー」を参照。
ハワイの歴史
ハワイ王国 → ハワイ共和国 → 米国のハワイ準州(自治領) → 第50番目の州
レゾリューション号とディスカバリー号を率いて世界の海洋調査に出発したイギリス人のキャプテン・ジェームス・クックが、1778年1月に現在のオアフ島やカウアイ島を発見し、カウアイ島のワイメア湾に上陸し、当時クックが 「サンドウィッチ諸島」と命名した、現在のハワイ諸島の公式発見者になった事実は良く知られている。オアフ島の北海岸にも、サーフィンで有名な同じワイメア湾があるが、これとは別の地である。発見当時のハワイ諸島にはポリネシア系島民が住み、島々の部族間での争いもあったが、独自の生活様式と宗教観で外界から孤立し、西洋文明に邂逅した形跡は殆ど無かった。しかしこのキャプテン・クックの発見が基になり、急速に西洋文明の影響を受け、イギリス人やアメリカ人等の多くの白人が入り込み始めた。最初にある 「日本に来た最初のアメリカ商船とそれに続く交易船」に書いた様に、1791(寛政3)年に紀伊の大島にやって来た「レディー・ワシントン号(船長、ジョーン・ケンドリック)」は、こんなハワイを中継基地点に支那との交易に関わっていた船だ。
そしてアメリカ本土からは、次々に100人以上ものプロテスタント宣教師がやって来て、ハワイの伝統的な宗教観、生活様式や社会秩序をがらりと変え、白人の経済活動の影響を強く受けた多数の島民は、伝統的に土地所有の制度も無かったから、単なる労働力になって行った。その後、これら宣教師やその子孫達はハワイ王族と結び、サトウキビから砂糖を生産する産業を影響下に置き、いわゆる「ビッグ・ファイブ」と呼ばれる業界を牛耳る白人財閥の一角を占めるに至った。この製糖産業は爆発的に拡大したが、白人の持ち込んだ伝染病に抵抗力のない島民の人口は激減し、深刻な労働力不足をきたし、ハワイ王国は当初支那から280人ほどの移民を導入した。その後支那移民が増えたがしかし、カメハメハ4世の言葉に依れば、「支那からの移民は期待された寛容さや従順さがなく、現地人に対する親近感や親和性に乏しいようだ」ったから直ぐに嫌われ、他の国をも探す羽目になったのだ。そして下に書く様に、日本からハワイへの移民も模索される様になって行く。
その後ますます発展する砂糖やパイナップルを生産する白人アメリカ資本は、国王を中心にハワイ原住民の民族主義的動きが強まる中、何かと規制があるハワイ王国を亡き者にし、アメリカ合衆国に所属することを画策し始めた。初代の統一ハワイ王国を実現したカメハメハ1世は、武器など白人の力を借りてハワイ諸島を統一したが、これはまた白人の影響力を増大させる原因にもなったのだ。その後統一王国の国王が変わるにつれ、顧問や内閣に入っている白人は権力を増大させ政治・経済の実権を握った。こんな中、リリウオカラニ女王は民族主義に駆られるハワイ原住民の後押しで未承認の新憲法を発布しようとした。これに激高したアメリカ人勢力は、1893(明治26)年1月17日、アメリカのジョーン・L・スティーブンス公使まで加担したアメリカ人中心のクーデターを実行し、戦闘による流血の惨事を避けるため第8代・リリウオカラニ女王は、このクーデター派が組織したハワイ仮政府や国民に宛て 「合衆国政府がその代表者の行為を元に戻し、私を再びハワイ諸島の立憲君主として復権させるまでは、この国王権限を合衆国政府に委ねる・・・」という宣言文と共に退位を余儀なくされたのだ。このリリウオカラニ宣言では、国王権限をクーデター派の仮政府へではなく合衆国政府に委ねたのだが、これが、「ハワイ革命」と呼ばれる出来事だった。
当時の明治政府はこれに対し、偶然1月28日、サンフランシスコからホノルルに入港した日本軍艦・金剛(コルベット)を平穏が確認されるまで現地に停泊させ、2万人も居る邦人保護の役に当たらせた。当時このクーデターに遭遇した日本の在ハワイ・藤井三郎外交事務官は早速陸奥外務大臣に1月30日付けの電報を打ち、暫定政府を造ったので承認を請うべくハワイ側の要請が来たが、本国の指示があるまでは承認する旨の回答をした。しかし将来はどうすべきか至急指示を請うと記載しているが、この時点での本国指令なしのハワイ暫定政府承認は、2万人も居る邦人に敵対する事態が起こらない様にする独自判断だった。この報告を受けた日本政府の陸奥外務大臣は、応援のため直ちに軍艦・浪速と共に外務参事官をホノルルに派遣した。また派遣軍艦・浪速や金剛が去った後、藤井外交事務官は7月10日付けで陸奥外務大臣に宛て上申書を提出し、再び日本軍艦派遣を要請している。これは、若しハワイのアメリカ併合が認められなかった場合、現地で闘争が起るかも分からず、それに備えた日本人移民の保護と、日本政府は彼らの不利益を見逃さず、日本移民の選挙権を確保する圧力にもなろう、という理由だった。この「日本移民の選挙権を確保する」というのは、このハワイ革命の6年前、1887年7月、白人の中心勢力が民間のホノルル・ライフル連隊と協同し当時のカラカウア王に銃剣を突きつけ、武力を持って承認させた修正新憲法でいわゆる「銃剣憲法」と呼ばれるが、国王の権限を大幅に制限するだけでなく、その62条でハワイ居住の全アジア人から選挙権を剥奪した事を指し、この失った選挙権を回復する圧力にもなるというものだ。日本政府はこの藤井外交事務官の要請を受け、同1893年11月、再び軍艦・浪速を、4ヵ月後その交代として軍艦・高千穂をホノルル港に派遣している。
しかし一方、当時就任したアメリカのクリーブランド大統領は、ハワイをアメリカ合衆国へ併合したいと希望するクーデター後の動きを直ぐには受け入れず、アメリカ人中心のクーデターを調査すべく調査委員を指名し、その行動の是非を問う報告書提出を指示した。そして米国上院は1894(明治27)年5月31日、「ハワイ革命への不干渉」を決議し、このためクーデターを実行して以降仮政府の姿だったアメリカ人達は同年7月4日、ハワイ共和国を組織し、サンフォード・ドールをハワイ共和国の大統領に選出した。
一方の世界ではこんな中で、本国・スペインから植民地・キューバの独立闘争への圧力が強まり、これに反対しキューバの自由と独立を求めていたアメリカの軍艦がハバナ湾で爆発沈没し、1898年4月20日、この不審な事件をきっかけにアメリカはスペインとの戦争に突入した。当時のスペイン領フィリピンのマニラ湾でも5月1日海戦が始まり、アメリカ・スペイン戦争はあっけなくアメリカの大勝に終わり、1898年12月10日平和条約が締結された。この結果アメリカはキューバを保護国とし、フィリピン、グアム、プエルトリコ等のスペイン植民地を獲得したアメリカにとっては、戦争中から太平洋におけるハワイの真珠湾海軍基地の戦略的重要性が増大した。このアメリカの真珠湾海軍基地は、1875年の「ハワイ・アメリカ互恵条約」で砂糖などのアメリカへの無税輸出と引き換えに独占使用権を手に入れたものだったが、スペインとの戦争中、当時のマッキンリー大統領は議会と連携し、ハワイ共和国の要求通りその併合を決め、自治領の準州にしたのだ。その後アメリカ議会はハワイ準州の州昇格を承認し、1959年8月21日、アイゼンハワー大統領が宣言書に調印し、アメリカ合衆国の第50番目の州に認められている。
ハワイへの「元年者」移民
ハワイへの「元年者」と呼ばれる第1回目の移民は、ハワイへの移民を載せたサイオト号が明治1(1868)年4月25日に横浜を出航したが、明治政府にとっては許可無くハワイに向かった全く違法な移民だった。しかし、この内の180人は旧幕府から渡航免許を受けていた、すなわち幕府からパスポートまで発行され許可された移民だったのだ。何故こんな混乱が生じたのかは、その時ちょうど幕府が突然崩壊し明治新政府が出来た大混乱の最中だったからである。この事情については「ユージン・ヴァン・リードと元年者移民」に書いた通りだ。
同じ頃たまたま商用でサンフランシスコに来て、「ハワイに来た日本人2人が自殺したと聞くが、気候も合わず困窮するだろう」という現地新聞記事に驚いた宇和島藩士より、「ウェンリード(=ヴァン・リード)がサンドウィッチへ相送り候奴隷共、甚だ困却罷り在り候様子・・・」と明治新政府に報告が入った。このため、正式な許可も無くヴァン・リードに日本人を奴隷としてハワイ王国に連れて行かれたと怒る明治新政府は、当時の外国官副知事・寺島宗則とアメリカ公使・バン・バルケンバーグとの4月末の会談により、明治2(1869)年9月に監督正・上野敬介(景範)のハワイ派遣を正式決定し、この明治元年に3年契約でハワイに渡った、いわゆる「元年者」移民たちの中の帰国希望者40人を、政府費用でハワイから日本に連れ帰っている。
しかし総勢150人ほどもハワイに渡った中で、帰国希望者は肉体労働が出来ないと言う職人や病人などの40人のみだった。ホノルルに着いた直後の上野敬介の政府に対する12月2日付け書簡に依れば、
「御国民ホノルル在留のもの共は、日々追々に旅宿へ相越し種々歎訴。然り乍ら、悉皆(しっかい)困難と申すにもこれなく・・・。」
と出て来るから、当初明治政府が危惧した搾取や奴隷の様な扱いは受けて居なかった様だ。上野敬介のハワイ到着に先立つ半年ほどの間に、移民を代表したという奥州石巻村出身の「富三郎」から3通の嘆願書簡が神奈川県宛てに出されているが、出航前のヴァン・リードとの約束と食い違う点も種々あったようだ。例えば、農園経営者の中には、月給の半額は年末払いにすると言い、月4ドルの賃金の全額を月末に支払わない者も居た。この問題はリーダーの富三郎を介してハワイ政府の移民評議会に挙げられ、評議会は毎月の賃金の全額支払いを各農園に指示し解決している。こんな富三郎と評議会の努力が、種々の問題を少しづつ解決していたのだ。こんなハワイ側の対応を見ても、奴隷とは違うことが明らかである。
ハワイ王国へのアメリカ公使も、日本に居るバン・バルケンバーグ公使の仲介で、日本から来たばかりの使節・上野敬介に個人的な秘書をつけるなど、いろいろ仲介の労をとってくれた。ハワイ側から見れば正式なハワイ王国政府代表者の神奈川駐在総領事・ヴァン・リードだったが、明治新政府から見れば、ヴァン・リードは正式な許可無く違法な移民をサイオト号(英国籍三檣帆船・855トン)で出航させたという経緯を上野から聞き、ハワイ王国のハリス外務大臣は驚いている。しかし、日本への帰国希望者は40人と意外に少なく、全員の強制送還はハワイ政府の多大な損失になる事を考慮した上野敬介の柔軟な判断で、元年者の4分の3は自由意志でハワイに残ることに決着した。ハワイのハリス外務大臣も上野敬介から、日本政府は元年者の件を解決した後でハワイとの通商条約締結も考えているという言葉を聞き、大いに喜んだ。そして1870年1月10日付けで、
「貴使節もご自身の目で確認される事と思いますが、貴国からの人達は、この王国の人民や最恵国待遇の国々の市民と同様に法律で保護され、ここの労働環境には奴隷を匂わせる如何なる気配や陰も無く、繁栄への道が開かれています。」
との書簡を送っている。
日本から来た「元年者」処置の交渉が整い、日本とハワイとの修好通商条約草案も合意した後、上野敬介はオアフ島の幾つかのプランテーションを実際に訪問し、元年者達の労働や待遇を見て、ハリス外務大臣の言葉に偽りの無いことを確認した。そして富三郎を正式に日本人移民の代表者 「傭夫頭取」に任命し、以降もハワイ政府との交渉役として各島の巡回を命じている。事件を解決した上野敬介一行は1870年1月20日ハワイを去り、約束通り40名の帰国者はその9日後、小型帆船のR・W・ウッド号で直接横浜に向け出航した。この帆船は3月7日、横浜に着いている。
ハワイに残ったこの元年者移民については、面白い後日談がある。1870(明治3)年11月20日付けで、ホノルル在住の傭夫頭取・富三郎から日本の外務省宛に出された申請書だ。いわく、
「然るに各処の御国民共の内、六十人程、何卒格別の御仁慈を以て、外国廻行諸芸業伝授の義、御許容成し下され置きたく願い奉り候。・・・差当りアメリカへ渡海職業、且は御国産の茶園養蚕等伝授望みの者これ有り、夫々下拙共(=自分共)へ引合い、前趣の如く願奉り候。」
これは、ハワイでの3年の雇用契約が満期になった後は、60人程が日本に帰らずアメリカ本土に渡り、そこで雇われたり、茶園や養蚕を教えながら働きたいというものだった。これに対し外務省からは12月末、許可するのでパスポート発行のため名前や年齢などを知らせるように、と指示している。これに対し最終的に46人の名前と年齢が提出され、夫々がアメリカ本土で更に習熟したいと思われる課目を書き、「右の者共、課目の通り亜国へ航海の上、試業仕り、追て塾業の上、有難く帰朝仕りたき旨、面々申出で候」と願い出て、更に各方面で修業・習熟した後に帰国したいという、非常に前向きな意思表示をしている。これは取りも直さず、元年者移民としてハワイに渡り、3年間苦労した人達の中には、明らかに知的向上心のある人達が多かった事が良く分かるエピソードだ。
日本・ハワイ修好通商条約締結と官約移民
日本・ハワイ修好通商条約
ハワイ王国政府は日本から来た使節・上野敬介との約束通り、過去に問題のあったハワイ王国の神奈川駐在総領事・ヴァン・リードを解任し、改めて日本駐在アメリカ公使のデ・ロングをハワイ王国全権公使に任命した。デ・ロングは参朝しハワイのカメハメハ王の全権委任状を提出後、日本側全権の外務卿・沢宣嘉と外務大輔・寺島宗則とハワイで上野敬介が作った条約草案を協議し、1871(明治4)年8月19日、「日本・ハワイ修好通商条約」の調印を済ませ、同日批准書交換も済ませた。
しかし日本国内ではこの10日後、「廃藩置県」という突然の大改革が行われ、秋には岩倉使節団がアメリカに向け出発するなど、誠に慌ただしい出来事が続いている。ハワイでもその後1872年12月、ハワイ国王・カメハメハ5世が死去し、あとを継いだルナリロ国王も1年と少したった1874年2月に死去してしまい、カラカウア新国王になった。この様に双方で種々国内問題に忙しかったのだろうか、その後具体的な移民の話の進展は無かったようだ。
官約移民の始まり
前述の如く、オアフ島・ホノルルの真珠湾の独占使用権をアメリカに手渡し、1875年にそれと引き換えに締結した 「ハワイ・アメリカ互恵条約」の効果で、砂糖などハワイ産品のアメリカへの無税輸出が大きく伸び始め、サトウキビの育成・収穫にも馬力が掛かり、より多くの労働力が必要になった。ハワイのカラカウア国王は1881(明治14)年3月4日、アリー・カラカウアの名前での微行(=おしのび)で、世界各国巡遊の途中日本を訪問した。微行ではあっても初めての国家君主の来日で、明治天皇と会見している。これをきっかけに、ハワイ側から熱心に日本移民の派遣が要請され始めるのだ。
その後1884年にハワイから日本へ特命全権公使・イアウケア大佐が派遣され、「ハワイ政府は、全ての日本移民をハワイ国民と同一の資格で待遇し、彼らの幸bニ安全を保護する」と言い、日本移民の派遣を正式に要請して来た。移民条約など締結していない当時の明治政府は、外務卿・井上馨の1884(明治17)年4月22日付けの松方、川村、佐々木参議宛の提議により、移民希望者とハワイ政府代理人との直接契約にすべきだとの方針を決定し、同公使に伝えた。こんなハワイ政府との雇用契約は、ハワイ政府に日本移民に関する一定の責任を課することになり、この方針が後に、日本移民を一部農園経営者の理不尽な酷使から救うことになる重要ポイントになった。そして次に書く様に、この2年後の1886(明治19)年1月28日、「布哇国渡航条約」が調印されるが、これが「官約移民」と呼ばれるゆえんである。
特命全権公使・イアウケア大佐から、こんな明治政府の移民派遣同意回答の復命を受けたカラカウア国王は、明治天皇に1884(明治17)年6月13日付けの親書を送り、
「陛下は、その臣民の随意渡航の旅客となり当国に来遊せんと欲する者に許可を与え、以て当国政府の保助を受けしむるの聖意なりとの吉報を諒会するを得たり。此の恩旨たるや、即ち陛下に於いて朕及び朕が大臣併せて朕が国法を信用せられたる証拠なるを以て、深く陛下に感謝を致し、当国政府は右扶助を竭(つく)すべく、朕亦自ら力めて貴国人民の当国に来遊するものをして幸福繁栄を得せしむる事を怠らざるべし。」
と、日本側の移民派遣の同意に大いに感謝した。
明治政府は既にハワイ総領事・アーウィンをハワイ移住民事務局日本部代表者として受け入れていたが、こんな背景があり、1885(明治18)年1月、このアーウィンを通じたハワイ政府の移住者募集に応募した日本人男女が第1回の官約移民としてハワイに移住することになった。この応募で決まった移民達は同年1月27日に日本を出航し、男:676人、女:160人、男児:68人、女児:40人、総員944人が2月8日ホノルルに到着した。この内の過半数が、山口と広島の出身者達だったという。
移民たちの苦しみと苦情、その改善策
官約移民の第1陣が、日本で移民事務を一手に引き受けるアーウィン総領事も同行し、シティー・オブ・トーキョー号(5079トン)でホノルルに着き、夫々にハワイ政府・移住民事務局総裁との雇用契約にサインし、しかるべき雇用主に振り分けられた。その時の状況を、中村治郎・在ホノルル日本領事が1885(明治18)年3月11日付けで報告書にまとめ、外務省に提出している。
これに依れば、到着後現地の人達は非常に親密で、わずか数日で夫々の職が決まったのは当地の労働力不足を反映している。移住民の導入は順調で、米もあり、苦情は少ない。ただ、東京・横浜から来て召使料理人として雇用された者は三食の割烹だけと思い込んでいたが、割烹以外の諸事に召し使われ、辞職する者たちが居た。ハワイ政府はこれを見て、次回は農民だけを募集すべく方針を変えた。今回到着した日本人移住者は、東京・横浜からの人達は洋服を着用した者もいたが、それ以外は夫々に単物・筒袖・股引・印半纏(しるしばんてん)・羽織などで、帽子を被ったり、コウモリ傘を差し白足袋をはく婦人も居た。荷物の移動には天秤棒を担いだりと実に様々だったが、現地の人達はそんな服装を意に介す風も無かった。また中村領事は、日本人は風呂を好むことをハワイ政府の理事官に告げたが、移住民事務局総裁は早速新聞告知を通じて夫々の雇い主に知らせてくれた、と順調な滑り出しを報告している。しかしこの出足の順調さに反し、たちまち多くの苦しみや苦情が続出することになる。
官約移民の第1陣がホノルルに着いた後、第2陣の990名が1885(明治18)年6月4日、山城丸(2528トン)で日本を出発し、ホノルルには6月17日に着いた。この船には移民の他に、特命を帯びた外務省派遣の井上勝之助権少書記官や、他数名の日本政府官吏も同乗していた。この井上勝之助は当時の外務卿・井上馨の甥に当たり、後に井上馨の養嗣子になる人物だが、当時法律を学ぶため8年間イギリスへ留学し、帰国後大蔵省に入省していた。この時は「大蔵権少書記官兼外務権少書記官」という肩書きだったから、この特別任務のため外務省所属にもなったように見える。以降筆者は、この井上勝之助が帰国後の明治18年8月に提出した、「布哇国派遣井上勝之助復命書」により記述を進める。第1回の移住者がハワイに到着の後、移民の持つ預金の取り扱いや苦情など種々の問題が在ハワイ・中村領事から日本政府に報告され、その解決のためこの井上勝之助の派遣となったようだ。
井上勝之助は先ずハワイ国王・カラカウアに謁見し、また明治天皇から送られた日本国勲一等旭日大綬章を外務大臣・ギブソンや宮内大臣・ジャードに交付した後、日本政府からの訓令を次々に結論付け、第三訓令である移民達の就業状況調査に入った。ハワイの内務大臣や司法大臣と共に、最も苦情の多いマウイ島とハワイ島視察に出かけたが、移民からの苦情は概ね、言語が通じないため重大な誤解が生じ、細かい意思疎通が出来ず、また雇い主は自己利益のみを優先すること等から発生していた。マウイ島ではパイヤ耕地とハイクー耕地で問題が多く、ハワイ島ではリッドゲート耕地だった。病気になっても医師の診察や投薬が不十分で、酷い例では医師が仮病と判定し裁判所に連行され罰金刑になった者も居た。これは裁判所で充分な通訳がなく日本人の申し立てが伝わらず、罰金または禁固の判決が出たのだ。また契約時間以上に労働を課せられたり、契約通りの子供手当てが支給されない例があった。これらはハワイ政府が雇い主に任せ切って、監督制度の無いことにも大きな原因があった。
更にまた井上勝之助がハワイに向け航海中に日本政府からの電報で指示された訓令は、日本移民の虐待に付き情報が来たが、清国人同様な虐待があり改善策を取らないならば移住民全員を引き上げると伝え、改善策を取れと言うものだった。そこで井上勝之助はハワイ国王に内見し、充分な改善策が無ければ移民中止にも至る可能性を伝え、カラカウア国王の改善策実施の確約を取り付けた。こんな背景もあり、自身の現地視察を基にし、日本人移住民事務取り扱いの専門部門を新設し、日本人通訳や巡回員を雇い、日本人医師を招聘する等7ヵ条の改善要求項目を出し、外務大臣・ギブソンと交渉し、全面的な合意を取り付けている。ハワイ政府もこんな抜本的改善策を取ったことにより、環境は改善されたようだ。
しかしここまでは上述の如く、日本からの移住民とハワイ政府移住民事務局との間で契約する契約書のみで、国家間の條約にはなっていない。従ってその保護を確実なものにするため、1886(明治19)年1月28日、「布哇国渡航条約」が調印された。これは当時の外務大臣・井上馨とハワイ代理公使兼総領事・アーウィンが全権となり調印されたものだ。特に第4条に、ハワイ政府は渡航人に対し雇主の義務を負担し、諸条款を正当誠実に履行する責任を負い、その法律で日本人渡航者を保護し、その幸福安寧を図る事。第6条に、ハワイ政府は日本語と英語の出来る監督人と通訳を応分に雇い入れ、法廷では日本人がこの通訳を無賃で使えるようにする事。第7条に、日本医師を応分に雇用し官医の資格を与え、必要な地域に住居させる事。第8条に、ハワイ政府は日本外交官や領事を自由に日本人渡航者と接触させ、契約違反の場合には、ハワイの法律や地方庁の保護請求の権利を与える事などを定めている。これらは、前述の井上勝之助とハワイ政府が合意した改善策を反映したものだ。この後引き続き、第3回目の移住渡航者・男女子供合計943名もシティー・オブ・ペキン号(5079総トン)でハワイに渡った。
ホノルル在勤総領事・安藤太郎の義憤
歴史には、公開された史料だけでは如何にも分からない影の部分が多く在る事は周知の事実だが、利権の在る所に、この種の話は尽きない。さてここにも明治21(1888)年2月25日付けの、ホノルル在勤・安藤総領事から伊藤外務大臣宛の「ハワイ移民渡航費は不当に高額なるを以て、改正を要する旨意見具申の件」と題する外務省の史料は、こんな物の一つだ。伊藤外務大臣とは当時の内閣総理大臣・伊藤博文のことで、第1次伊藤内閣の後半にそれまで外務大臣だった井上馨が辞任し、伊藤博文が外務大臣を兼務していた時の事だ。いわく、
「第4回移住民渡航費75弗の義は、布哇(ハワイ)公使既に我政府の允許を相受け、その渡航約定中へも明細記載の上渡来に及び候処、布哇政府には右の費額を極めて過大となし、各耕地雇主等にも一般不服を相唱え候に付き、遂にその約定面、75弗の文字を削除し、之に代ゆるに男子は1人前60弗、妻携帯の徒は65弗と改正相加えて、(男子1人前の)残額15弗の分に対しては、布哇公使私に移住民と相対の借用證書を相製し、追って追徴候事に治定致したる趣、承知仕り候。」
と書き出し、ハワイ公使・アーウィンはもとより相当の手数料を含めているとは思うが、これが真実の必要経費なら誰から異議が出ようと事実を滅却できる筈が無い。しかしこんなに簡単に75ドルから60ドルへと数字を改定する所を見れば、この差額・15ドルは充分弁解できない額ではないのか。若しそうなら、こんな高額な金額を賎民(=移民達)に押付ける事は不都合千万だと一時は腹が立ったが、一旦日本政府も認め移民達も承諾したのだからと思い直し、嘴を挟むことはしなかった。しかしハワイ政府の外務卿と内務卿が自分に言うには、渡航費用は従来通り1人55ドルと決めてあるが、アーウィン氏はこれに反し75ドルも取ると言う。これはハワイ政府の出費にはならないが、移民が支払わねばならない金額で誠に理不尽だ。聞く所によると今回の日本郵船・和歌浦丸の移民輸送経費は、その居住地から横浜経由ホノルルまで1人合計23ドルだったというではないか、と重ねて言われましたと報告している。
安藤総領事は更に報告を続け、これに対し本官は、医師や通訳も付けなかった昔のハワイ政府の移民取り扱いを非難し、日本政府の経費増もそのためだろうと政府の立場を説明し、情報提供を感謝した。しかし自分の立場は赴任以来、日本人移民に特別な不利益が無い限りハワイ公使・アーウィンの私益は度外視してきたが、外人即ちハワイ政府の大臣達にここまで言われては、そのまま放って置く事は出来ず、今回第4回の渡航実費を「私に収支概計調製仕り候間」ご一覧下さいと言って詳細に数字を記述し報告した。そしてこの試算に基ずき、日本政府で検証して頂きたい。若しこの通りなら、アーウィンは総経費の5割もの膨大な純益を得ている事になる。これを一言すれば、「アーウィン1人の私益により、ハワイ労働市場に我が国体を汚し、我が公益を損すると申すも、敢えて過言にはこれあるまじくと存され候」と切って捨てた。そして、「不利の除くべき者は直ちにこれを排除し、以て我が人民の実益を拡張し、兼て外侮を防禦仕りたき鄙見(ひけん、=私見)に御座候」と渡航費用見直しを建言している。
これに対し後任の外務大臣になった大隈重信は、早速ハワイ公使・アーウィンと話を付けたのだろう。渡航費用男子1人に付き55ドル、女子1人20ドルという減額費用でアーウィンの第5回移民申請を4月7日に許可し、明治21年4月17日、安藤ホノルル総領事に宛てた渡航費用減額の上許可を出したという書簡、「第5回移民渡航許可通知の件」を送達している。ホノルル総領事・安藤太郎の噛み付いたこの第4回移民の渡航許可は、外務大臣・井上馨か外務大臣・伊藤博文の時に出された事は確実だが、何時、誰が、どの様な文書で許可を出したものか、あるいは外務大臣交代のドサクサに紛れてアーウィンがこんな条件を上手く潜り込ませたのか、その詳細について筆者は知らない。
しかし第6回移民については再びアーウィン公使と大隈外務大臣との再交渉があり、男子の費用を55ドルから65ドルに増額してはいるが、安藤総領事が噛み付いたように、第4回の75ドルはいかにも高かった。このハワイ弁理公使・ロバート・W・アーウィンについては、官約移民を成功させ、日本・ハワイ間の外交に貢献したとして何回も明治政府から顕彰され、勲一等瑞宝章まで受賞したという好い評価もあるが、このホノルル在勤総領事・安藤太郎の報告書を読む限り、零細日本移民を獲物にしようとした食わせ者の一面もあったことは否定できないだろう。
成功と見なされる官約移民
この様にして公式な移民環境が整い、1885年2月の第1回の官約移民以来、1894年6月にハワイに着いた第26回目の最後の官約移民までの10年間に、約2万9千人もの日本人の成人契約移民がハワイに渡っている。この移民環境の整備はしかし、労働環境の改善とは全く別ものではあったが、両国政府間の合意に基づく取り決めであり、前述の如く1886(明治19)年の「布哇国渡航条約」に定められた日本人の移民監督官や医師までも手当てされていたから、それなりに管理・保護された状態ではあったのだ。
ところでこのハワイ政府に雇われた上述の日本人の移民監督官については、興味深い廻り合わせがある。通称「トミー」こと立石斧次郎が、その後1887(明治20)年2月から2年間、移民監督官として家族でハワイに派遣されたという。この立石斧次郎は、1854(嘉永7)年冬に幕府がアメリカに派遣した始めての使節団に参加し、通訳としてアメリカに来たが、その若く快活で率直な態度で、たちまちアメリカ人の人気者になったという人だった。
こんな官約移民を、その後ハワイ革命以後の民間移民会社の取り扱った移民や、次に記述したいと思う直接アメリカ本土へ渡った自由移民などと比べれば、筆者には、労働環境は厳しくても、非常に幸運な時期だったように思われる。
ハワイ向け民間移民会社取り扱いの移民
日本人の参政権回復問題
ハワイ国内では、1893(明治26)年1月17日の革命武装蜂起と、リリウオカラニ女王の退位宣言で混乱するハワイ仮政府の状況を見た日本人移民の中の有志達は、同年3月15日、日本政府に宛てた 「参政権享有に関する建白書」をホノルル駐在日本国総領事に提出した。5年半ほど昔の憲法改正、即ち上述した「銃剣憲法改正」で失った参政権を取り戻すには千載一遇の好機だから、日本政府も応援して欲しいというものだ。合計68人の署名があるが、21人が「士族」と書いている。いわく、
「ハワイの人口は凡そ9万5千人で、その内日本人は2万人だが、この土地で政治経済の実権を握る欧米人は1万2千人である。この全人口の9分の1強でしかない欧米人が、「人の土は踏み、人の国を犯し、その勢力の猖獗(しょうけつ、=猛威を振う)なる、恰も無人の鏡を蹂躙(じゅうりん)するが如き、・・・殊に米人の如きは、僅かに2千人の衆を以て縦横この国土を左右し、・・・。翻って我日本人の地位を見るに、愛国の衷情は生等(=自分達)をして転た(うたた、=益々)慨嘆、措く能(おくあた)わざらしめ、敢て尊厳をも顧みず、聊か微意を陳じて内閣諸公の英断に訴えんと欲す。・・・」。」
これはまだ長く続く建白書だが、欧米人同様の公権を手に入れ、政権に参加し、我が日本民族がその価値を世界に発揚すべき千載一遇の好機会である事を述べている。
この建白書と殆ど同じ頃の3月18日、陸奥外務大臣は藤井総領事宛の書簡で、ハワイの現状がどの様な形にしろ、収まる時は憲法改正があるはずだから、日本人もまた欧米人と同様な権利特典を憲法に規定させる事は最も緊要である。先日アーウィン公使にも会ってその尽力を確認したが、貴官もこの点に配慮し、機会到来の節は充分尽力するようにと指示した。更に11月22日の書簡では、アーウィン公使の一時帰国に当たり会談したが、公使は、ハワイで日本人に参政権を与えるか否かは新しい立法府の憲法発議に掛かっており、更に日本政府には半年の猶予を要請したい。それまでは、是非日本政府は(ハワイ向け移民の)渡航条約破棄などしないように、と頼んできた。そこで、ハワイの新旧政府の決着が付いた時点では(日本人に欧米人同様の参政権を与える)確答が必要で、それ無しには渡航条約の破棄も在り得ると述べてある、との指示も出した。ハワイ政府にはこの様に、官約移民の廃止も視野に入れ、ハワイに行った日本人の参政権獲得に向けた政治圧力をかけていたのだ。
民間移民斡旋会社規制法 「勅令第42号、移民保護規則」
上述のようにハワイ王国に向けた移民は官約移民として行われて来たが、その他幾つかの外国に向かう移民は、民間の移民斡旋会社が手掛け始めていた。例えば日本最初の移民斡旋会社になった、日本郵船会舎(現・日本郵船株式会社)の2代目社長・吉川泰次郎と事業家・佐久間貞一が創立した東京の日本吉佐移民合名会社は、明治25(1892)年1月、仏領・ニユーカレドニヤ島のニッケル鉱山に約600人の移民を九州から広島丸で送り出している。しかしこの移民は、現場の困難を訴えた移民達の騒動に発展し、憲兵が出動するほどの事態になり、結局、病気その他の理由で約100名を残し500名が帰国する事態になった。当時これが日本の衆議院で問題になり、新聞にも取り上げられ、当時の外務大臣・陸奥宗光は少なからず苦慮する事態になった。この斡旋会社は更に明治25(1892)年10月、オーストラリアのクイーンズランド植民地でサトウキビ耕作に従事する広島県の移民50人を送り出し、その成功により明治29(1896)年6月までに合計1千495人を派遣し、その他南太平洋のフィジー諸島やカリブ海のグアドループ島等にも移民を派遣している。
この様な背景があり、明治27(1894)年2月13日、当時の内務大臣・井上馨と外務大臣・陸奥宗光が内閣総理大臣・伊藤博文宛に、
「近来種々の名義を以て海外に渡航する者著しく増加し、随いて、是等渡航者を周旋し亦は募集する事を営業となす者、亦少なからず。・・・之が為に生ずる弊害を防止し、・・・殊に米国の如きは此等移民の陸続渡航するが為に、契約労働條例を厳重に施行するのみならず、往々本邦移民の放逐を唱える者あり。・・・この際移民を保護し、並に移民取扱いを営業となす者を取締るが為、相当の規則を設けん事を欲し、本大臣等協議の上、別紙移民保護規則勅令案を具し、至急閣議を請う。」
と発議し、同年4月12日、勅令第42号・移民保護規則の公布に至った。これは即ち、民間移民斡旋業者の取り扱いを規定し、規則を設けることでその活動が法的に公認されたわけだ。これは更にその2年後、当時の情勢を受け「移民保護法」として取締り・罰則が追加修正強化され、施行された。
ハワイ向けの官約移民から民間斡旋移民へ
革命でリリウオカラニ女王を退位に追い込んだアメリカ人達は、早急にアメリカ合衆国への併合を求めていた。アメリカ本土では、当時既に1882(明治15)年に「中国人排斥法」が出来ていたが、1891(明治24)年のサンフランシスコでは日本人の売春容疑者が新聞沙汰になったり、「合衆国予約労働者移住禁止条例」が出来たり、1893(明治26)年にはオレゴン州で、白人に代えて雇われた日本人線路工夫が白人の集団襲撃を受けたりと、徐々に日本人移住民制限法をも求める声が高まって来た。こんな状況を知るハワイ仮政府では、自分達の保身のためにも、またアメリカ併合のマイナス要因にもなりかねない日本人を含むアジア人への参政権付与は、避けるに越したことは無かったのだ。
以上述べたように、日本国内では「移民保護規則」が出来て民間移民斡旋業者の活動が活発になり、一方のハワイでは、日本人の参政権復活の問題は宙に浮いたまま実現されなかった。こんな中で、ハワイ仮政府を運営しながらアメリカ政府や政界に政治工作を続ける白人合併派勢力は、クリーブランド合衆国大統領が合併に同意せず、またアメリカ上院議会の1894(明治27)年5月31日の「ハワイ不干渉」決議を行った状況を見て、7月4日仮政府をやめ、大統領にサンフォード・ドールを選び、新憲法を発布し、「ハワイ共和国」の建国を宣言した。この新憲法下で選挙権を得るには、その第74条で、帰化を含む共和国民の20才以上の男子で、憲法や法律を遵守し王政復古には加担しないという宣誓を行い、税金を払うべき一定の財産を持ち、英語かハワイ語でものわかり良く話し、読み書き出来る事、という条件をつけた。従って財産もなく王政を熱望する大多数のハワイ人や、日本人移民を含めほとんどのアジア人は政治に参加できなかった。これで、紛れもないアメリカ人中心の「白人共和国」が出来あがったのだ。
こんな経緯で成立した新ハワイ共和国の建国により、日本政府が8年半前に「布哇国渡航条約」を締結した相手国のハワイ王国が消滅し、別政府の共和国になった訳だ。従って、同年・明治27年6月にホノルルに着いた第26回目の官約移民・1千524人を最後に、それ以降の官約移民としては当然政府は許可を出せなかったのだ。これに換り、おそらくは同年4月12日の「勅令第42号・移民保護規則」の公布に触発され、活動が活発化したであろう糸半商会の送り出した510人の契約移民や、小倉商会の送り出した819人の契約移民と自由移民がホノルルに着いている。これ以降は、民間斡旋会社がハワイ移民を取り仕切る事になったのだ。
ハワイ併合後の状況
ハワイ共和国のアメリカ併合と移民環境の変化
新共和国の中心をなすハワイ政府要人達もそれを支持する主要産業である砂糖製造業界も、移民による労働力供給が無ければ立ち行かない訳だから、民間斡旋業者が送り込む日系移民は増え続けた。一方では同時に、新共和国政府はアメリカへの併合を諦めた訳ではなかったから、日本が日清戦争に勝利するとこの併合派は、ハワイで就業する日本人の多さと日本軍事力の実力を結び付け、アメリカに圧力を掛け始めた。アメリカ駐在栗野公使から、1895(明治28)年12月3日付けで外務大臣宛にこんな報告が上がっている。いわく、
「彼らは我国日の出の勢いと、該島に居留する我が国民の多数なるに口を藉(か)り、我国を目して領土侵略の方針を執り居るものの如くに見做し、米国に於いて布哇を併合せざれば、我国これを押領するに至るべしとの風説を伝播するに至り候。」
そして自身では、ハワイからのこんな通信は合併論者の捏造だ、と各新聞に記載していますと報告した。上述の如くこの後、ハワイの太平洋に於ける戦略的重要さからアメリカ政府と議会は、アメリカ・スペイン戦争の最中の1898(明治31)年7月、ハワイの併合を決めた。そして、この併合がその後の日本からハワイへの移民事業に大きな影響を与えることになったのだ。
アメリカ上下両院で審議していた、併合後のハワイに対する「ハワイ施政法案」が1900(明治33)年4月30日に確定し、大統領が署名し発布・施行に至った。これは、基本的にアメリカ合衆国の全ての法律を併合したハワイ準州にも適用するというもので、貿易、税金や関税、契約労働者禁止などハワイの日系移民に深く関わるものだった。特に、1898(明治31)年8月12日以降に交わされた労働契約は無効になり、契約労働者への刑罰を廃止し、その代わり民事訴訟による損害賠償の制裁を加える等の内容だったから、移民形式がそれまでの「契約移民」から完全な「自由移民」になるものだった。勿論これは斡旋業者が無くなるのではなかったが、良きにしろ悪しきにしろ、長年行われてきた「契約労働」が無くなった、或いは遠からず無くなる事だった。
ハワイ移民の労働内容の多様化と統計数字
ここに、ハワイ併合から4年後の1902(明治35)年11月22日付けでホノルル総領事館から出された、当時の移民統計数字がある。オアフ島、マウイ島、ハワイ島、カウワイ島といった島々の主要な耕地で働く日系移民数は3万1千620人で、その他日雇いなど数字を正確に掴めない日系移民は2万人以上、と報告している。従って当時のハワイには、合計5万数千人の日系移民が居たのだ。
更に当時のサトウキビ農場の労働賃金を報告しているが、日曜休日・1日10時間労働・家屋薪水は雇い主持ちで、男・1ヶ月:17ドル〜19ドル、女・1ヶ月:12ドル、日曜以外の病気や事故での休みは日割りで月給より控除、というものだった。また農場の日雇い労働者も居たが、これは家屋薪水は雇い主持ちで1日・1ドルが相場だが、一定の場所に長居はせず方々の耕地へ移転遍歴するのが普通だったという。
また併合後の新労働法により契約労働は出来なくなったから、耕主と利益を分配する一種の小作が行われ始めた。これは耕主がサトウキビ苗、肥料や耕作機械を準備し、移民は16ヶ月から20ヶ月に渡る一耕作期間の労働を請け負い、最終収穫高の一定割合を耕主と分け合う形式だった。これは砂糖相場により収入が変化するが、概ね1ヶ月・14ドルから28ドル位だったという。
また収穫したサトウキビを搾り、煮詰め、砂糖にする工程にも機械工として従事する人も居て、その機械操作の熟練度により、1ヶ月・12ドルから50ドル・60ドルの高収入者まで居たという。
更にそんな中で、教育が有ったり経験が豊富だったりして英語も話せる人達の何人かは、労働者の監督になる人も現れ、1ヶ月の給料が40ドルから60ドル、70ドルという高収入の人も居たという。
ハワイ併合後は明らかにこんな労働内容の多様化が急速に進んだようだが、サトウキビ耕地で働くだけでなく、ホノルル市内での職業に付く人たちも現れている。園丁、家僕、家政婦などは食料雇い主負担で1週間の賃金が2ドル50セントから4ドル。また料理人は同様に1週間の賃金が5ドルから7ドルだという。また日雇い人足は1日・1ドルから1ドル50セントだという。この様に、明治元年以来ハワイに渡った多くの移民達が居たが、最初の契約労働移民から、ハワイ併合後はこの明治35年の統計に現れるように、多くの自由な、自己責任で生活する職業の多様化が見られるに至ったのだ。この傾向は益々強くなり、子弟の教育に投資する日系人達の職業は、世代が進むに連れ白人と同等になって行く。
アメリカ本土への移民

 

アメリカ本土への移民は現在も進行形だから、今回この章ではとりあえず、1869(明治2)年の第1回目カリフォルニア州への移民から、1908(明治41)年の日本側の対米移民自主規制、即ち「日米紳士協定」までを扱う事にする。それ以降に米国では、その第13条C項・帰化不能外国人の移民全面禁止条項により、主として日本人移民をターゲットにしたと理解されてる 「1924年移民法」が制定された。これは、表面上は日本人のみを対象にしたものではなかったが、実質的に日本人が一番大きな影響を受けた。後にまた書く機会がある事だろう。
若松コロニー
日本人のゴールド・ヒルへの入植とその失敗
こんな中で、明確な意思を持って日本からアメリカ本土に移民した第1号は、ジョーン・ヘンリー・スネルに連れられアメリカに入植し、若松コロニーを造った会津藩の人達である。彼ら日本人の3家族は、アメリカの太平洋郵便船・チャイナ号で横浜を1869(明治2)年4月30日に出航し、5月20日にサンフランシスコに着き、スネルと共にカリフォルニア州ゴールド・ヒルに入植し 「若松コロニー」を造った。
会津藩は、戊辰戦争で最後まで新政府軍に抵抗した会庄同盟・奥羽越列藩同盟の中心だが、前会津藩主・松平容保(かたもり)と松平喜徳(のぶのり)父子が明治1(1868)年9月22日に新政府軍に降伏し、庄内藩も降伏し、東北戦争は終結した。会津藩内に残された武士や一族郎党はたちまちその生活の困難に直面し、そんな状況の中、戦争中は会津藩の軍事顧問という立場にあった平松武兵衛ことジョーン・ヘンリー・スネルが、アメリカで新天地を開こうとしたのだ。このジョーン・ヘンリー・スネルとその弟のエドワード・スネルについては、「ヘンリー・スネルとエドワード・スネル兄弟」を参照。
この若松コロニーの計画は、近日中に、この第1陣の日本人3家族に続く40家族がサンフランシスコに来る予定で、更に80家族が続き、合計120家族、約400人に上る人達が永住の為ここにやって来る事になっていた。その多くは養蚕と絹糸生産をする人達で、また茶を栽培し製茶をする人達も居た。彼らは3年生の日本産 「トウグワ」の若木5万本あまりを持って来て、その他に竹や、3年生の500本の木蝋も持ち込み、更に多くのお茶の若木やその実も持って来る事だった。ヘンリー・スネルは、こんな後続部隊をも受け入れて生活する場所をカリフォルニア州に選んだのだ。
こんな背景でヘンリー・スネルが購入した入植地は、この20年前に金が発見され一大金鉱ブームを巻き起こしたカリフォルニア州エル・ドラド郡コロマから3km程南に下った、ゴールド・ヒルという場所だ。スネルはここに柵に囲まれた600エーカーの土地を5千ドルで購入したが、ここには一応大きな果樹類、葡萄の木、穀物畑、レンガ造りの家、納屋、ワイン貯蔵棟、耕作用具一式、馬、馬車、牛、豚、鶏等々も付属していた。
スネルと先着の日本人3家族は、ここに桑や茶、木蝋などを植えて農園を作り、養蚕や製茶をやり、後続の家族も含め生活基盤を確立しようとしたのだ。しかし1年半も経つ頃、1870年の夏の乾燥期に、灌漑用水として使った金鉱山から流れてくる水に鉄分や硫黄分が含まれていて、殆んどの木々を枯らせてしまった。またその少し前に2番目の農場を1800ドル払って購入していたが、これで現金を殆んど使ってしまったようだ。従って、夏の乾季に灌漑用水の取水に失敗し、木々が殆んど枯れてしまい、結局破産し、日本人家族全員が散りじりに離散してしまった。こうして、会津から入植した若松コロニーは残念ながら完全に失敗したのだった。
この経緯の詳細は、多くの現地新聞の報道記事に基ずく、若松コロニーの経過を記述した 「若松コロニー」のページを是非参照して下さい。入植当時は多くの新聞記事で、ヘンリー・スネルと日本人がカリフォルニア州に新しい産業を持ち込むともてはやされ、カリフォルニアでの期待の大きさが分かる現地新聞報道である。
中国人排斥法と日本人渡航者への影響
既に前章の「20、ハワイへの移民」でも書いたように、日本からの初期海外移民は、日本とハワイ王国との間に締結された官約移民関連条約に代表される法整備により、一定の保障の下で移民が可能になったへワイへ向けた移民が大勢を占めた。ハワイで契約労働が終わった人達の中にはその後アメリカ本土に向かう人達も居たが、日本から直接アメリカ本土に向かう人達はむしろ非常に少なかった。
大量の中国人のアメリカ渡航と中国人排斥
アメリカ本土では、カリフォルニア州で発見され1849年に一大金鉱ブームを巻き起こした金を目指し、また、アメリカ政府の資金援助の下に西と東から始まった大陸横断鉄道建設の労働者として、大量の中国人がアメリカ大陸に渡った。特に、1863年1月8日にカリフォルニア州都・サクラメントで起工式を行い、東に向かって建設を進めたセントラル・パシフィック鉄道工事がシエラネバダ山脈横断ルートにさしかかると、その険しい地形や雪や雪崩等に悩まされ、厳しい工事の連続だった。こんな中で中国人労働者は過酷な労働条件に耐え、アイルランド系移民等より20%ほども低い低賃金で働き通した。最盛期には1万2千人もの中国人が雇用されていたという。そんな中で建設開始から6年4カ月後の1869年5月10日、当時のユタ準州グレート・ソルト湖の北岸近く、ソルト・レーク市のほぼ北方約110kmのプロモントリー・サミットで東西線のレールが接続され、金製の犬釘を打ち込む大陸横断鉄道の開通記念式典が開催された。
こんな大工事の完成後は、鉄道建設に関わった多くの中国人がカリフォルニア州内で新たな職を求め、更に大量の新移民も加わり、白人労働者との軋轢が増加したのだ。このため大都市のサンフランシスコやロスアンゼルスなどで中国人排斥運動が高まり、州政府を動かし、合衆国政府を動かし、遂に1882(明治15)年に中国人移民を10年間禁止する「中国人排斥法」がアメリカ合衆国で成立した。これはその10年後に再適用され、またその10年後には中国人移民の永久禁止にまで至った。自由移民の国を謳うアメリカの歴史の中でも、あからさまに特定人種を標的とした最も特異な行為である。
この頃こんな中国人の進出は、カナダ西海岸のブリティッシュ・コロンビア州でも問題になり、制限のため、すでに中国人の上陸に際し1人当り50ドルの入国税を課していたほどだったが、1891(明治24)年2月頃、州議会で中国人排斥法が議論され、当時のカナダに高々200人位しか居ない日本人をも含めて議論すべしとの動議まで出されている。とに角、もうアジア人との競争はしたくないという本音だったのだろう。アメリカ西部の鉄道建設では大いに貢献した中国人達は、その職が無くなるとカリフォルニア州全域やワシントン州、またカナダのブリティッシュ・コロンビア州にまで広がって行ったのだ。
日本人渡航者への影響と明治政府の苦心
この中国人排斥法の効果は明らかで、中国人の移民数は減少して行った。その結果、安い労賃で働く労働者を探す雇用主の目は、日本人にも向き始めた。例えば日本の在サンフランシスコ領事は非常な危機感を抱き、明治22(1889)年11月26日付けの本国宛の報告書で、
「日本人は支那人の様に雲集して来航する傾向は無いが、一旦アメリカ移住の利益が分かれば、他のヨーロッパ人と同様の意思を抱くだろう。日本は既に多数の渡航民をハワイに送っている。彼等は文明を理解し他国人と親交するとは言え、良く艱難に耐え低賃金で生活するのは支那人と同様だ。」
と報ずるサンフランシスコの「コール新聞」紙の記事を外務省に報告している。この様に先鋭的に、日本人移民への危機感を煽るメディアも出始めていたから、サンフランシスコ駐在の日本領事は現地新聞の報道に気を使い、不利な報道が出ない様に細部にまで目を光らせ、逐一外務省に報告を上げている。
こんな中での問題の一つは、日本人売春婦がハワイやカナダを経てサンフランシスコにやって来て、新聞に報道されたり、入国を拒否されたりする事も多々あり、現地駐在の日本領事はその取り扱いを廻り、大いに頭を悩ませる状況があった。これは取りも直さず、中国人が排斥されている中で、正規の手続きで来航する通常の日本人、即ち正業に就く日本人にまで排斥機運が広がらない様、現地領事と日本政府の陰の連携努力があったのだ。1891(明治24)年のこんな領事報告の一つに、言語の問題も含め米国入国検査の不十分さを嘆き、
「今日の成り行きに任す時は、日ならず本邦人の醜業者益々増加し、香港、上海、新嘉坡(シンガポール)等の如く、当国至る処日本人遊女店を開設するは必然の勢いにして・・・。サンフランシスコはヨーロッパ人種とアジア人種の接点であり、日本の栄誉を維持するため最も大切な場所である。この地に来る日本人は真に日本国民の気尚(=気質)を代表し、国名を維持するに値する人物でなければならない。」
と日本政府へ、売春婦やいかがわしい人物の規制対策実行を上申している。
また、太平洋を運行する汽船会社の中には定期航路を持たず、熊本、長崎、広島辺りで格安料金で乗客を集め、サンフランシスコに送り込む汽船もあり、アメリカは労賃が高いという甘言に乗せられ、1891(明治24)年の4月、一時に120名もの日本人がサンフランシスコに着くという事件があった。当時アメリカ政府の強化された移民規則は、契約移民は認めず、渡航船賃も自前で支払い、自由意志渡航で一定の現金を持ち、身体健康者で、上陸後に公共費による保護を受けない事などが義務付けられていたから、こんな乗客中にはこの規則に合致せず上陸拒否に遭う人達も居た。更に翌年、サンフランシスコ駐在の日本領事は入国検査官と面談し、明らかな移民規則違反者はともかくも、証拠不十分な場合は上陸許可を出すべきだと交渉し、一旦入国を拒否された日本人・66名もの入国許可が下りたケースも報告された。
こんな報告書に依れば、1892(明治25)年の4月・5月だけでカナダやハワイからの回航組みも含め500名もの日本人移民がサンフランシスコ港に到着したという。これを現地新聞は見逃すはずもなく、上述の様に日本領事が懸命に入国検査官と交渉すればする程、逆に、大量移民を米国に送り込むのが日本政府の国策だと非難する新聞まで現れた。また、「日本人が白人や婢僕(=召し使い)の地位を略奪する」、「支那人の次に入米を拒否すべきは日本人だ」、「日本人の短所」など、日本人を非難する種々の記事が現地新聞に現れ始めた。こんなサンフランシスコ領事の危機感に満ちた報告書は、明治政府外務省より和歌山、広島、大阪、福井、熊本、山口などの知事宛に送られ、日本人が支那人と同一視されアジア人拒否が一層厳しくなっているから、不適格者は勿論、一般人も出来るだけ論止して貰いたい旨通達された。更に追加して榎本外務大臣が各県知事宛に、渡米志望者には米国の移民規則の内容をよく理解させて欲しい旨の通達をも出している。
こんな風に1889(明治22)年頃から、ハワイ経由も含めアメリカ本土へ移民する日本人の数は急速に増え始め、これを政治的に利用しようとする先鋭的な政治家も顕在化した様だ。1891(明治24)年11月、この状況を心配するワシントン駐在の建野公使は榎本外務大臣に宛て、
「合衆国人民の日本人に対する感覚は、相変わらず移住民制限法を施行し、何分かの取締法を執行する方に傾き居り、目今の光景にては、早晩日本人移住制限論者が議場に於いて勝ちを制するに至るべきは必然の事と思われ候。然るに、右は全く政治家が西部の人望を収攬せん為に主張する論にして、言わば一時政略上の必要に他ならず・・・。」
と、米国議会に於ける日本人移住制限論者の台頭を報告した。合わせてアメリカ政府や議会に対し、アメリカが来航日本人を規制するのなら、日本も在日アメリカ人を規制する可能性があると宣言に及ぶ件に付き、日本政府の了解を申請さえしている。実際こんな強硬手段を実行した形跡は無いが、日に日に強まるアメリカ西海岸での日本人への攻撃や、それを政治問題化しようとする一部政治家の動きなどに関し、現地駐在外交官の苦労が分かる事例である。
日清戦争の影響
急速に増加し始めていた日本からの移民数は、1894(明治27)年8月に日清戦争が始まると遥かに減少し低調になったが、戦争が終結するとまた直ぐ活発になった。1895年5月、アメリカ定期船・ペキン号が120名の日本人労働者を乗せサンフランシスコに到着すると、たちまち労働関連の新聞が攻撃的な論評を掲げ始めた。いわく、
「日本政府は日清戦争の勝利で東洋に頭角を現したが、今や米国に向け続々出稼ぎ人を送り込み、当国労働者の賃金に一大競争を挑み始めた・・・。今こそ支那人同様の排斥法を規定し、彼らの渡米を禁止すべきである。」
と、明確に日本人排斥法の必要性を主張し始めたのだ。日清戦争に勝利した日本人は、更なる脅威だというわけだ。
日米紳士協定による移民自主規制に至るまで
この様に、サンフランシスコを始めアメリカ西海岸駐在の日本領事達は折に触れ、現地で顕在化する日本人渡航者への誤解を解くべく努力をし、危機感を持って外務省へ現地情勢の報告を上げ、外務省も各県知事宛てに通達を出し、アメリカ移民規則の理解の徹底を図った。一方、アメリカ・スペイン戦争中の1898(明治31)年7月にアメリカ合衆国政府がハワイ共和国を併合すると、アメリカ本土で施行されていた移民規則がハワイにもそのまま適用され、日本からハワイに向かう自由移民以外の契約移民は全面的に入国禁止になった。こんな環境変化から、日本からアメリカ本土に向かう移民の流れを変え、一旦ハワイに上陸しアメリカ本土に転航したり、中にはカナダやメキシコ経由でアメリカ入国を試みるなど、日本人移民の大幅増加に向かったのだ。
米国向け日本人移民の統計数字
少し先行するが、ここでアメリカ政府の公式報告書に載る、日本からアメリカ合衆国へ向かった移民の統計数字を見ると次の表の如くになる。この日本人移民数の推移と、参考のために掲げた中国人移民数を比較すれば、上述した説明がはっきりと分かる。
   日本からアメリカ入国移民の推移
   1820〜1840: 統計数字不明
   1841〜1850: 統計数字不明
   1851〜1860: 統計数字不明
   1861〜1870: 186人
   1871〜1880: 149人
   1881〜1890: 2,270人
   1891〜1900: 25,942人
   1901〜1910: 129,797人
   1911〜1920: 83,837人
   1921〜1930: 33,462人
   中国からアメリカ入国移民の推移
   1820〜1840: 11人
   1841〜1850: 35人
   1851〜1860: 41,397人
   1861〜1870: 64,759人
   1871〜1880: 123,201人
   1881〜1890: 61,711人
   1891〜1900: 14,799人
   1901〜1910: 20,605人
   1911〜1920: 21,278人
   1921〜1930: 29,907人
これはアメリカ合衆国司法省の移民・帰化局が10年毎にまとめた公式統計データであるが、1891年から1900年にかけた日本人移民の数は、その直前の10年間のほぼ11倍にも急増し、次の1901〜1910年のピーク時には、更にこの5倍にも増加している。
同時に顕著な事実は、1871〜1880年に中国人移民のピークがあり、1901〜1910年に日本人移民のピークがあるが、この二つのピーク時に於いて、一方の中国人は1882(明治15)年の「中国人排斥法」でアメリカから排斥され、日本人は1907(明治49)年から1908年にかけての日米間の話合いによる日本側の自主規制、即ち「日米紳士協定」で大幅な移民自主制限が行われたのだ。
しかしアメリカ合衆国への移民を大局面から見れば、日本人移民数がピークになった1901〜1910年でも、日本人移民はその期間にアメリカへ上陸した全移民数のたかだか1.5%弱だった。アメリカへ移民した出身国別では、この同じ期間にイタリア人のみでも、全移民数の23%にも上る2百万人を超える移民があった。この傾向は既に以前からあり、1881〜1890年にはドイツ・アイルランド・イタリアから、合わせて全移民数の46%にも上る240万人を超える移民があり、1891〜1900年はこの3国のみで42%の150万人が移民した。
この様に、出身国の政治・経済事情により特定地域から集中的にやって来る傾向があったが、一時にこんなに大量に移民が上陸すると、その出身国民だけで固まり同化しにくく、無教育の移民も数多く居たから、夫々に問題を起こしている。こんな背景がアメリカ合衆国の移民制限法強化につながり、それがアメリカ社会の底流にある人種差別感とあいまって、西海岸に上陸する日本人移民に大きな影響を与えて行くのだ。この移民問題は、時代毎に形を変えながら、現在も明確に存在する大きな問題の一つである。
増加する日本人移民、入国拒否と抜け道の画策
カリフォルニア州のサンフランシスコ港やワシントン州のピュージェット湾の南端に在るタコマ港などは、日本から来る移民が乗る商船がよく入港する場所だった。前章の「20、ハワイへの移民」でも少し触れたが、明治政府は日本人移民を保護する目的で1894(明治27)年に「勅令第42号、移民保護規則」を施行し、その2年後に「法律第70号、移民保護法」として強化した。しかしこの保護法の第13条に、移民を募集・斡旋する日本の移民取扱人は、移民と書面契約を結び行政庁の許可を受けるべく規定されていた。この条項はハワイに向けた移民には安心と保障の確立に貢献したが、時としてアメリカの入国検査官はこの契約書を「契約移民」の契約書と解釈し、入国を拒否する事例もあった。また自由移民として一定の所持金を持っている事も入国の必要条件だったが、移住を希望する日本人移民の中にはそんな現金も手当て出来ない人達も居たのだ。移民を送り出して利益を上げたい日本の移民取扱人は一計を案じ、タコマ港へ入港する前にカナダのバンクーバー島のビクトリア港で彼らに「見せ金」を持たせ、タコマやサンフランシスコへ上陸させようとするケースもあり、これが発覚して上陸拒否に遭った日本人移民も出てきた。
この様に種々の理由で入国拒否に遭った人達の中には現地で組織的に訴訟を起こしたり、現地領事や公使の尽力でアメリカ政府と交渉し解決を見たケースもあった。しかし規制が厳しくなればなるほどその抜け道を探し、画策するのは何時の時代でもあることだ。組織的に日本の故郷に勧誘の手紙を出し、個人的な自由移民の形態でタコマに到着させ、船の着く埠頭に鉄道工夫として働くよう勧誘人を派遣する事まで行われた。更にまた、他人の名前を消して自分の名前を書いた偽造旅券、移民会社の印形を消して自由移民にした偽造旅券、古い旅券の変造、見せ金持参、自由移民として上陸し直ぐに勧誘人の勧誘を受ける、等々、入国検査官との知恵比べの様相まであった。この中には、カナダのビクトリア港やバンクーバー港に一旦上陸させ、そこからアメリカに密入国をさせる請負人まで現れていたという。
ワシントン州タコマ港へ上陸した移民事情と排斥への危惧
タコマの町があるピュージェット湾は、太古に氷河により侵食されたフィヨルド式地形の「U字谷」のため港には最良の地形で、現在も有数の港湾都市である。近くにあるシアトルの町と共に早くから交易の中心地になり、木材資源等の積出港であり、内陸部への玄関口として鉄道が発達した。
こんな鉄道の敷設や保守のため、中国人排斥以降、1892年頃から日本人工夫が多く働ける環境があった。この鉄道路線建設と保守に従事するワシントン州、オレゴン州、アイダホ州、モンタナ州の4州の日本人は、1899(明治32)年当時で3千500人前後も居たという。彼らの収入は1日当り、1ドル〜1ドル35セントであった。こんな情報を元にした在タコマ日本領事の試算では、彼らの中60〜70%の人達は年に200〜250ドルを日本に送金出来たと言う。その試算いわく、仮に1千500人が年に200ドルづつ送金すれば、日本への正貨還流は年間30万ドルにもなる。そしていわく、
「兎に角、本邦に於いて一生涯辛苦艱難するも尚貯蓄する能わざる金額を、当地に於いて僅か3、4年間の労働を以て得る訳に候らえば、(日本国民の)その一部が当地に渡来し、しかも有利の業に就くを得るは、確かに国益の一端と相成り申すべく候。故に国家長計の一手段として、我が労働者の当国に渡来するは誠に望ましき事と存じ候。然るに、我が労働者百人来たれば同数の白人労働者その業を失う割合なれば、当国の労働者は勿論一部の有志家もこれを憂え、ここに排斥運動の生ずるに至りたるは、又当然の事にして、敢えて怪しむに足らず。」
更に続けて、先般来ワシントン州議会に排斥法案が提出されたりもした如く、このまま行けば中国人同様の排斥に至る事を危惧する。アメリカへの渡航人数の制限は困難な事ではあろうが、渡航手続きを厳しくして何とか影響力を行使できないだろうか、と外務大臣に具申している。既にこの頃から、現地領事の間にも、日本人移民が現地労働者の職を奪っている。それが排斥運動に繋がっている、という明確な認識があったわけだ。
アメリカ及びカナダ向け移民の一時禁止、及び農業の成功例
上述の如く、カリフォルニア州やワシントン州の現地の日本人排斥に向けた状況が逼迫し、サンフランシスコ領事、タコマ領事を始めワシントン駐在公使からの緊急報告が数多く外務省に出されていた。そんな中で外務省もついに決断し、1900(明治33)年8月2日、アメリカ及びカナダ向け移民の一時禁止に踏み切った。その効果は直ぐに現れ、日本人移民の一時中止直後に引き続き行われたアメリカ大統領選挙などに絡んだ選挙運動でも、日本人排斥は大きな選挙論争にはならなかった。また1882(明治15)年に制定された中国人排斥法は、20年後の1902年に、更に厳しい中国人移民の永久禁止にまで至る議論の中で、日本人をも含める議論も起こったが、これはしかし阻止された。この様に日本政府の決断によるアメリカ及びカナダ向け移民の中止により、ある期間、日本人排斥運動の悪化を押さえる上で一定の効果が上がったのだ。
こうして移民禁止から4年も経つ頃、日本政府の移民禁止措置による渡米者の減少でカリフォルニア州ややワシントン州の排日運動の沈静化を見極めた日本政府は、現地で非難を受ける純然たる労働移民の禁止により正当な理由をもつ商売や留学目的の渡米に大きな影響が出ている事を考慮し、1904(明治37)年7月7日、新方針を打ち出した。いわく、
「労働者の渡航取締りのため、往々真正なる商賈(しょうこ、=商人)学生その他、有益なる非労働者の渡航に影響を及ぼし、海外貿易奨励の趣意にも背き遺憾の事態に候。依て今後は取り扱い標準を一定し、厳に労働者の渡航を取り締まると同時に真正なる商賈学生等の渡航に便利を与え度・・・。」
と、新基準を示し分別を図るよう、警視総監・北海道庁長官・各府県知事宛ての通達を出した。しかしたちまちこの「商賈・学生」が労働移民の隠れ蓑に使われ始め、我もわれもと商人だ、学生だ、と申請しパスポートを取得する手口が大流行し、後々まで大きな問題になって行く。
その頃の1902(明治35)年当時、カリフォルニア州で農業に従事し始めた人達の中には、その努力の結果一定の成功を収める人達も出て来た。それまで移民の殆んどが単純労働者だった中で、幸運にも土地を購入したり借りたりして自作農業を営む人は、州内で凡そ350人以上にも上った。そして特に州都・サクラメント郊外のフローリンでは、農業に従事していた白人が投げ出したイチゴ畑を引き取った日本人が、そのイチゴ栽培で見事に成功を収めていた。更にサクラメント南のコートランドや、その更に南にあるウォルナット・グルーブでも大豆やジャガイモ栽培で成功を収めつつあった。この他日本人農業者による、サンフランシスコ南のサン・ホゼやサクラメント南西のベイカビルの果樹や野菜栽培、サクラメント北東のニュー・キャッスルの果樹やイチゴ栽培、古くからある町・モントレー近くのサリナスの砂糖大根やジャガイモ栽培、サンホアキン平野中心のフレズノの果樹栽培などがあった。また農業従事者の合計は、州全体で凡そ3千800人程も居たという。
日本人・韓国人排斥同盟
カリフォルニア州のアジア人排斥の動きは、サンフランシスコを中心に、ある時は非常に顕在化しまた時に鎮静化に向かったりと、その時々のアジアからの移民数や現地の政治的な流れに左右されながら推移した。一時期大量に入国した中国人は厳しい排斥に遭い、米国の法律による入国禁止にまで悪化したが、その根底にある、主として英語を話す白人の中のアジア人への差別意識は変化せず、現地の新聞などの意図的な論評と共に、日本人排斥も又消え去る事は無かった。
上述の如く、1900(明治33)年8月から実施された日本政府の米国及びカナダ向け移民禁止により、一時サンフランシスコの新聞紙上に現れなくなった日本人排斥論調も、4年ほど経って日露戦争が始まるとまた現地新聞で問題にし始めた。これは日本政府のアメリカ、カナダ向け移民禁止による間隙を縫い、ハワイからサンフランシスコやタコマに向けた日本人渡航者が急増したのだ。1904(明治37)年7月16日付けの在ホノルル総領事の報告では、1月からの半年間でほぼ3千人もの日本人移民がハワイからアメリカ本土に渡ったという。この中には日本からハワイに着たばかりの新移民が半数を占めていたが、日本政府のアメリカ本土向け移民中止を回避すべく、日本国内の移民斡旋業者が意図的にハワイを中継させる行為と共に、ホノルルにも日本人をハワイからアメリカ本土に送り出す斡旋業者が多く居たという。
こんな中の1905(明治38)年3月、ついにカリフォルニア州議会の上下両院は日本移民制限決議案を可決し、合衆国大統領と国務長官宛にこの決議した要求書を送付した。また同年5月始めにはサンフランシスコの建築貿易同盟が発起人となり、州内の67にも上る各種労働団体を糾合し、5月14日に綱領・規則を制定し、「日本人・韓国人排斥同盟」を発足させた。この同盟の目的は、白人がアジア人との競争による低賃金労働から保護され、黄色人種の無制限入国を禁止し、日本移民排斥法を制定し、日本人韓国人を中国人排斥法に含め、支部を国内各地に設置する事、等を目指していた。これは低賃金労働の阻止のみならず、明らかに人種差別を目的にしたものだ。
この様に当時、西海岸ではアジア人を差別し、東海岸では東欧やイタリアからの移民を差別する構図だった。しかしこれら東西海岸に上陸する移民の特徴的な差異は、東欧やイタリアからの移民であってもアメリカの土地に根を下ろす覚悟で渡航するが、日本を始め中国等からのアジア移民の殆んどが、いわゆる「出稼ぎ」が目的で、現地に同化しない事が多かったのだ。
サンフランシスコの日本人学童の隔離問題
当時約40万人の人口を抱えるサンフランシスコの街は、世界的にも有名な、南端はカリフォルニア州最南部のサン・ディエゴ市の東方から始まり、北端はサンフランシスコ市の北のメンドシノ岬にかけた凡そ1300kmにも及ぶ巨大なサン・アンドレアス断層のほぼ真上に位置する。このため、1906(明治39)年4月18日の早朝、マグニチュード7.8とも云われる大地震に見舞われ、大火災も発生するという大災害が起こった。
この大地震から5ヶ月も経つ同年9月頃から、11月に行われるカリフォルニア州知事選挙と国会議員選挙のタイミングに合わせ、各政党は活動と主張方針をまとめた綱領作りに忙しかった。世相に敏感に反応する選挙綱領は、殆んどの政党で日本人の排斥条項を採り入れ、労働者の支持を得ようと懸命になっていた。これは上述の1905(明治38)年5月発足の「日本人・韓国人排斥同盟」の影響を色濃く受けたもので、国会議員立候補者の中にはアジア人排斥法の国会での成立を確約する人々も居た。同じ頃、サンフランシスコの街は大地震と大火災の混乱で圧倒的に家屋が不足し、日本人が商売を再開した商店街では家賃が高騰し、日本人のせいだと白人の悪感情が増大した。更には、こんな感情から日本人に向けた投石や悪行が多発したが、大火災後の市警察の取り締まりも充分ではなく、市内では白昼の殺人・強盗も発生するほど治安が悪化した。又日本人経営のレストランの価格が安すぎると言う理由で、付近の白人経営レストランの意向を受けた労働組合の妨害行為も発生した。
こんな中で同年10月11日、サンフランシスコ市の教育局は突然、一般小学校から日本人を始め中国人、韓国人児童を隔離して東洋人小学校に移すべく決議を行い、15日から即実行に移した。これは更に形を変えた政治色の濃い日本人排斥であるが、東洋人小学校の場所は焼け野原の真ん中に残った建物で、治安問題を抱える区域の中心にあり、事実上、年少児童の通学に困難な場所だった。
この東洋人小学校は、中国人が排斥された当時サンフランシスコ市が中国人子弟隔離のため造った物だが、過去ににも日本人子弟隔離のため1893(明治26)年6月に市教育局が同様な決定を下し、当時、在サンフランシスコ珍田領事の抗議で撤回された経緯があった。今回も在サンフランシスコ上野領事はその中心になり、「この処置は人種的偏見に基ずくもので、日本国民への侮辱に当たる」と市当局に強く抗議し、市教育局の会議に日本人代表や現地白人宗教者代表などの出席を求め、抗議活動を連携した。
現地領事や日本人代表からの支援要請により、早速日本政府はこんなサンフランシスコの排日運動につきアメリカ政府とも協議を始めた。アメリカ政府は、この問題は地震や火災後の異常事態の下に起こった紛議であるとその事実を認め、セオドア・ルーズベルト大統領は日米友好原則は不変である旨を確認し、事実関係の調査を司法省に命じ、更に商工務長官をサンフランシスコに派遣し事実調査及び解決に当たらせた。
あからさまな差別に直面したサンフランシスコの日本人居留者は10月25日、1200人もの参加者が集まる大会を開き、三つの決議事項即ち、隔離学校の反対、反対運動を在米日本人連合協議会に委託、必要経費の負担等を決議している。この在米日本人連合協議会は、前年の1905(明治38)年5月にサンフランシスコで結成されていた在留日本人の団体である。又日本人が個人としてこの日本人排斥問題を裁判所に提訴するなどの動きもあり、一方の白人中心の「日本人・韓国人排斥同盟」も日本人学童の隔離問題以降、カリフォルニア州の政治家のみならず東部の新聞等にも影響力を及ぼし、中国人排斥法の中に日本人と韓国人を加えるべく画策を始めていた。
アメリカ政府の介入と日本人学童隔離命令の解除
地方自治を基盤に連邦国家を形成するアメリカ合衆国の政治は、歴史的に、時として連邦政府の方針と地方政府の方針が対立する局面が数多くあった。その極端な出来事が、南北戦争にまで至った南部諸州と連邦政府即ち北部諸州との衝突である。カリフォルニア州で巻き起こる日本人排斥運動とその象徴になったサンフランシスコの日本人学童隔離問題は、連邦政府を悩ます問題の一つになって行った。
ワシントン駐在青木大使を通じた日本政府とアメリカ政府との協議の場で、ルート国務長官やセオドア・ルーズベルト大統領は、「日本人をモンゴリア人種だと一くくりにし排斥する事は、いわれの無い差別だ」という日本側の立場を原則的に支持している。1906(明治39)年12月の米国議会開催に宛てた大統領教書に、「近年の日本文化や軍事の発展は素晴らしく、ヨーロッパ諸国と同等の待遇を与えるべきで、日本人の米国への帰化の道をも開くべきだ」、とまで述べる決定をしたほどだった。しかしこんな合衆国政府要人の友好的態度があっても、カリフォルニア州で沸き起こる日本人排斥論に加え西海岸への日本人移民急増に直面する状況は、更なる強力な対策無しに、もはや収束不可能な状況に近づいていた。
こんな中で、サンフランシスコ市やカリフォルニア州政府決定に対し合衆国政府は、学童隔離は違法だという訴訟を州高等裁判所や連邦裁判所に提出した。しかしそれ以上なすすべもないアメリカ政府は1906(明治39)年12月28日、ルート国務長官より青木大使を通じた「日米労働者移民相互的禁止協定」の締結提案がなされた。このまま放置すれば米国議会は日本人労働者の渡航禁止等の法律を作らざるを得なくなるが、アメリカ政府は日本の誤解を招くそんな法律制定を避けたい。しかしカリフォルニア州で起こっている事は、日本人労働者により職を奪われてゆく州民が自己防御手段として人種問題を提起し、自己に有利にしようとしているものだ。従って、日米両国政府が自国労働者に、相手国向け渡航パスポートの発行を中止する協定を提案する、というものだった。これに対し日本政府、即ち林董(ただす)外務大臣の考えは、アメリカがまずサンフランシスコの日本人学童排斥問題を解決し、しかる後に日本政府は移民制限等の検討及び閣議決定をしようというものだった。
そこでセオドア・ルーズベルト大統領やルート国務長官は、カリフォルニア州出身の国会議員を通じサンフランシスコ市を説得し、日本人学童隔離を解除すれば日本人労働者の転航制限を行い、より一層の制限協定を締結すると約束した。市長までもワシントンで大統領と面談したサンフランシスコ市はこれを受け入れ、その隔離解除の報告電報が駐日アメリカ代理大使を通じ林外務大臣に伝えられると、外務大臣は、現在行っている日本労働者のアメリカ本土向け渡航パスポートの発行中止方針を続け、新協定交渉を受け入れる旨の回答をした。しかしこの妥協に対し、サンフランシスコの日本人・韓国人排斥同盟は大統領やサンフランシスコ市長を強く非難し、日本人排斥運動を更に強めた。こんな圧力により州議会は、日本人土地保有制限や小学校入学年齢に上限を設けるなどの討議を重ね、なかなか日本人排斥の手を緩めなかった。こんな行動に危機感を募らせるルーズベルト大統領はカリフォルニア州知事に電報を送り、州議会の過激な行動は日本との協定交渉の妨げになるとその協力を要請し、カリフォルニア州議会の日本人排斥関係議案の討議が停止された。
こうしてサンフランシスコ市では遂に、セオドア・ルーズベルト大統領との合意に基づき、1907(明治40)年3月13日、5ヶ月も続いた日本人学童の隔離命令を解除し、翌日から元の学校への復学が実現した。しかし、これは一般外国人に適用される修正条項によるものだったが、サンフランシスコ市は中国人や韓国人児童には適用せず、日本児童だけが復学したのだった。
一方の首都・ワシントンでは、日本人学童の隔離命令が解除された報告を受けたルーズベルト大統領は、3月14日、カリフォルニア州出身の国会議員や州や市との合意の通り直ちに大統領令を発し、日本人や韓国人労働者で、アメリカ本土向け以外のパスポート、即ちメキシコやカナダ、ハワイ等に向けたパスポートでの合衆国入国を拒否すべく命じた。この様に、ルーズベルト大統領は自身の権限と政治力を駆使し、日本人学童の隔離命令を解除させたのだった。
「日米友好宣言」提案と棄却、駐米大使の更迭
日本人学童隔離問題がセオドア・ルーズベルト大統領やルート国務長官の政治力で3月に解決したのもつかの間、市内の日本人排斥運動は続き、日本人・韓国人排斥同盟はもとより各種労働組合の排斥活動が活発だった。1907(明治40)年5月にはこんな白人労働組合員の一群50人ばかりが日本人経営のレストランや風呂店を襲い、中に居た白人客に暴行を働き、馬車に積んできたレンガや石、鉄材などを投げ込み、殆んどの窓ガラスを破壊する事件が起こった。在サンフランシスコ領事館員や在米日本人連合協議会が中心になり、市警察や州知事の援助を要請し、自らも警察官を雇い自衛に当たった。また報告を受けた日本外務省でも、駐米大使を通じ、合衆国政府に日本人保護対策を要請させた。
この様に日米政府間の外交努力とカリフォルニア州の排日運動が平行して進む中で、この成り行きに注目するヨーロッパでは、日本公使がアメリカ政府に最後通牒にも匹敵する強硬文書を送付して米国輿論が沸騰したと、日米戦争の危機を報ずる新聞まで現れた。この報告を受けた林外務大臣は、直ちに駐米青木大使に米国内での根拠の無い噂否定の対策を講じ、ニューヨーク・タイムス紙やシカゴ・トリビューン紙等の主力新聞社にも、日本には戦争する意思など毛頭ない事を通報すべく指示している。この移民問題に端を発し日本人排斥にまで進んだ状況は、日米戦争を口にされるほどまでに危機感を高め、米国東海岸の主要新聞もこんな問題を取り上げ始めた。
一方でまた、アメリカ・スペイン戦争で手に入れたフィリピンや自治領にしたハワイ防衛の重要性が増加したとの理由で、アメリカ議会が大西洋艦隊を太平洋に回航する予算を計上し、大統領が1907年8月29日にサンフランシスコへの回航命令を出すと、この日米開戦の噂はアメリカ国内でも更に活発に新聞を賑わしはじめた。アメリカは当時領有したフィリピンに東洋艦隊を持っていた上での大西洋艦隊の回航だから、ヨーロッパでも、日本は西海岸に移民を送り込み、秘密裏に軍事力強化をしているし、このまま進めば衝突は避けられないと見る意見が多くなっていたのだ。日本を仮想敵国と見なした、アメリカ海軍の示威行動だったのだろう。シアトル領事の報告書にも、「万犬虚を吠ゆる時は、一般の人気に関するところ少なからず。平生慎重の人物すら、これに傾耳する風あり」と、多数のメディアが有りもしない事を報道し続ければ、一般人に大いに影響を与え、通常慎重な人達までが耳を傾けるようになる、と嘆息するほど米国内にも日米開戦の噂が広まったのだ。
こんな世間の不信感を払拭し、信頼を回復し、日米両国のキシミを緩和し最悪事態にまで至らないようにすべく、青木周蔵駐米大使は親密にしているセオドア・ルーズベルト大統領と1907(明治40)年10月25日に個人的な会談を行った。その結果、林董外務大臣に宛てた11月7日付け書簡で 「日米両国間の友好宣言に関し純私見を述べたるに対し、大統領は賛同の熱意を示した」のでと、「日米両国友好宣言」発布を提案している。同時に大統領は、移民問題がこのまま進めば早晩議会で日本人排斥法が可決されかねないが、日本政府が有効なアメリカ向け移民制限を実施し実質的に数の減少を見る限りは、大統領も議会の日本人排斥法を阻止しようと約束したとも報告した。
この青木案・友好宣言は基本的に、「日米両国は、通商の主要交通路である太平洋に関し、状況の現状維持に対し、政治的、商業的、工業的に特別な関心を抱く事実を認識し、太平洋地域の海洋・河川に接する相互の領土地域の権利を尊重する事を明記する事」を主要目的にするものだった。この太平洋岸の相互権利の尊重とは、当時アメリカに併合されたハワイや新しい領土・フィリピン、及び日清戦争で日本に割譲された台湾などを指していたと思われる。しかしこれは最初の提案であり、当然、清国に対する両国の態度や、日露戦争によって得た日本の朝鮮半島の権益と南満洲鉄道の獲得など、満洲に於ける権益等について明瞭ではない。
しかしこの様な提案がなされるに至った事実は、日米関係がそれまでの 「導く国と導かれる国」の関係から、全く新しい 「国益の摩擦」の時代に入った証であり、歴史の大きな転換点の一局面が始まった時である。
この戦争回避の危機感に満ちた青木提案に関し、日本政府、即ち林董外務大臣の見解は全く異なるものだった。11月2日、「日米友好共同宣言案及び移民協定案締結は時宜に適せず」と大統領に伝えよ、と外務大臣から青木大使宛の電報による訓令が出されたのだ。それは、日本は国際問題を引き起こそうとする意思など全くないから、そんな友好共同宣言は無用だ。そして現状の日本人排斥問題は移民問題から出ており、3月14日の大統領令のごとく、アメリカ本土向けパスポートを持たない日本人移民は最早アメリカに入国できず、日本政府もアメリカ本土向け労働者にはパスポートを発行しないから、日本人労働者のアメリカ入国は直ぐ減少するはずだと言うものだ。従って、1906(明治39)年12月28日にルート国務長官から提案されていた「日米労働者移民相互的禁止協定」も不必要、と言うものだった。また更に、本国政府の許可や指示もなく、大統領との個人的会談とはいいながら、日本政府を代表する者の発言は誤解を与えかねない。新聞等の戦争云々の報道には、日本大使として否定し尽くすだけでよい、と強い訓令を与えている。
こんな見解の行き違いから、同年11月30日付けで林董外務大臣から青木周蔵大使へ、アメリカへの帰任期日を定めない帰国命令が出されたが、これは即ち、任期半ばでの駐米大使の更迭だった。林董外務大臣の視点は、そんな宣言により、あたかも日本が更に領土や権益を拡大をする意思があると誤解されかねない。それは日本政府の意に反した、「青木大使の迷惑行為」だというものだった。未だ勉強不足の筆者には、外交文書の表面に現れた以上の経緯の他に、林董外務大臣が当時の駐英特命全権公使としてまとめた日英同盟に絡む理由、あるいは別な理由が在ったのかも知れないが、よく分からない。
しかしこの時から8ヵ月後に日本の内閣が西園寺内閣から第2次桂内閣に変わり、林董外務大臣も辞職した。そしてその後、小村寿太郎外務大臣(2回目)の下、翌年の1908(明治41)年11月30日、高平小五郎駐米大使とルート国務長官の間で、この青木提案とよく似た「高平・ルート協定」が調印されている。これは明らかに、日米関係の新局面の展開である。
「日米労働者移民相互的禁止協定−紳士協定」
林董外務大臣が青木大使に訓令した如く、「日米友好共同宣言案及び移民協定案締結は、時宜に適せず」との日本政府の考えがアメリカ政府に伝えられた。しかしルーズベルト大統領は青木大使に対し、
「アメリカ西部諸州の日本人排斥法の制定要求は急を告げているし、日本には移民斡旋会社さえあると聞く。更にアメリカ移民局の統計データを見る限り、日本政府が有効な移民制限をしていると反論も出来ない。日本政府は更に厳格に、労働移民の出国や、学生と偽る移民や、現金も持たない小規模商人の出国をを止めて貰いたい。」
と厳しく注文をつけた。1907(明治40)年11月16日、基本的に同じ問題提起が駐日アメリカ大使・オブライエンからも林外務大臣に伝えられた。この会談から翌年2月にかけ、林外務大臣とオブライエン大使の間で細部にわたる問題提起や推奨案と、日本政府の考えが話し合われた。移民制限に抜け穴が無いよう細部まで技術的な詰めを行い、如何に合理的に労働移民、小規模商人、学生等を区別し、偽造できないパスポートを造り、必要な渡航者と渡航制限を実施している労働目的の移民を区別するかの詳細が話し合われた。この実行のため、外務省が直接パスポートの発行・監督をすべく予算もつけた。更に、両国の入出国統計表を交換し、その推移を確認する事も始めた。これで理論的には林外務大臣が訓令した通り、日本政府は既にアメリカ本土やカナダ向け労働移民へのパスポート発行を中止していたし、ハワイへの新規労働移民も中止した。アメリカでも1907年3月14日の大統領令が機能すれば、ハワイ、カナダ、メキシコ向けのパスポートではアメリカ入国は出来ない。即ちアメリカ本土への日本人労働者の流入が大幅減になるはずだった。この合意と実行が、「日米労働者移民相互的禁止協定」即ち移民制限の「紳士協定」と呼ばれるものだ。
止まらない日本人移民流入とメディアの日本たたき
こんな交渉中にも既に、日本人労働者移民のアメリカへの入国状況は、ハワイ、カナダ、メキシコ経由で多くの日本人がカリフォルニア州やワシントン州、コロラド州に入り込み、益々現地の排斥運動が強まっていた。ハワイやカナダ及びアメリカ本土向け移民が厳しく制限された後は、特に、1888(明治21)年に締結された「日墨修好通商条約」の後、1897(明治21)年5月19日に「榎本メキシコ殖民団」の34名がメキシコのチアパス州にコーヒー栽培をしようと入植して以来、1901(明治34)年頃より徐々にメキシコ向け出稼ぎ日本人移民が増加していた。しかしこんな日本人の多くはメキシコからアメリカ合衆国に入国し、メキシコ経由でアメリカに入る人達が後を絶たなかったのだ。アメリカとメキシコ国境の町には日本人の不正入国周旋業者が暗躍し、1人当り70ドル、100ドルと手数料を取り、大統領令に抵触しないよう書類を偽造し、抜け道を模索し、入国の手引きをしていた。例えば、テキサス州とニューメキシコ州の境界沿いで、国境線のメキシコ側にある町・フアレスには、こんな日本人の周旋業者が居て事務所を構え、通りに広告まで出していたという。
一方、日露戦争当時ロシア軍の許可の下、トーマス・F・ミラードと名乗る1人のアメリカ人ジャーナリストが最前線で取材していた。ミラードは帰国後の1906年、「米国及極東問題」と題する本を発行した。これは当時の日本の現状、朝鮮の現状、日本の朝鮮支配、満州と日本のアプローチ、清国の現状、日本と清国・西欧の関係、アメリカのポリシー等を記述した本だ。この中でミラードいわく、
「日本は恐らく、過剰人口を移民に送り出す大陸への出口を確保したいだけでなく、明らかに母国を離れた移民に対しても統治権を及ぼしたいと思っている。・・・日本は、少なくとも日本移民の居る一定地域に、たぶん全地域に、政治的統治権を及ぼそうとしている事は一点の疑いも無い。こうして一瞥すれば、公式表明された日露戦争の意図やその目的と、日本の真の目的と何回も公言された必要性の間にある不一致がはっきりしてくる。海外に出て行く移民達の為に入植する地域を手に入れず、日本はどうやって彼らに政治的影響力を行使できるというのか。表明されたように、若しどんな領土をも手に入れる意思はなかったという事であれば、日本はどんな実質的目的もなくロシアと戦ったというのか。日本が意図的にあんな消耗戦を目的もなく戦ったと誰が考えるのか。」
この様に、日本には更なる隠された意図があると述べ立てたのだ。
その後、トーマス・ミラードはニューヨーク・タイムスやその他の主要新聞と特約し、連載記事を掲載し、日本排斥論を煽りアメリカ全土に影響力を行使していたが、こんな多くのメディアにも影響されたのだろうか。1908(明治41)年2月にはコロラド州のデンバーで、「黄禍排斥同盟会」なるものが組織され、日本人排斥活動を始めた。同じ頃サンフランシスコでも更に、「東洋人排斥協会」を組織し、白人商店やレストランなどに極秘にチラシを配り、日本人従業員の解雇や日本人との取引中止を勧告して回り始めるグループがあった。これは既に述べた「日本人・韓国人排斥同盟」とは別のものである。
日本が国力をつけ、日清戦争、日露戦争を通じアジアに於ける存在感を増すにつれ、一方でその進歩が脅威と受け取られ、アメリカへの移民問題にも大きな影を落としていた。カリフォルニア州やワシントン州など西海岸では、日本人排斥同盟が次々と結成され、アメリカ議会に圧力がかかり、国家として日本人移民排斥法制定に向け動かざるを得ない状況が形成されてゆく。  
 
内村鑑三

 

渡米した内村は、二つの大きな発見をする。一つはキリスト教の真髄。もう一つは、日本。たとえば武士道は、キリスト教の本質と決して矛盾するものではない。むしろ、アメリカのキリスト教徒よりも、キリスト教的ですらあると悟り、「日本人」として生きる自覚を持って帰国した。
札幌農学校とキリスト教
内村鑑三は独立した在野のキリスト者として、言論活動を生涯貫いた稀有な思想家であった。キリスト教の日本化を目指し、日本人を啓蒙することを自らの天職とした。その生涯は、誤解と偏見に彩られ、時には国賊として蔑まれた。内面からわき上がる良心の叫びに忠実であろうとしたからである。まさに「野に叫ぶ預言者」であった。苦難と迫害の中で、彼の信仰と思想はますます錬磨され、明治の思想史に計り知れない足跡を残した。弟子の中から、東大総長が2人(矢内原忠雄、南原繁)、文相5人(前田多門、安部能成など)を出し、他にも多くのリーダーを育て上げたことも特筆されるべきことである。
1861年3月23日に、上州(群馬県)高崎藩士内村宜之(よしゆき)とヤソの長男として生まれた。武士であった父は、同時に四書五経(儒教の聖典)をほとんど諳んずることができた儒学者でもあった。父から厳格な儒教的教育を受けた内村は、5歳から「大学」(儒教の経典)を読み始めたという。後に「武士道に接ぎ木されたキリスト教」を標榜する内村の思想は、幼い時に親しんだ儒教や武士道的倫理が素地になっていたのである。
内村が官費生募集に応じて、札幌農学校(北大の前身)の第二期生として入学したのは、16歳の時である。札幌農学校は、教頭W.S.クラークの影響で、キリスト教徒になっていた第一期生全員は信仰に燃え、新入生に入信を迫った。
執拗な勧誘により同期生の仲間が次々に陥落する中、内村だけは頑強に抵抗した。彼は神社に詣でて、この新宗教熱を鎮めよとまで祈願したという。しかし、孤立無援の寂しさに耐えられず、「自分の意志に反して、また幾分の良心にも反して」、ついに内村は降伏した。その彼が、同期生の中で最も敬虔で熱心なキリスト者としての生涯を送ることになるのである。この同期生の中に、新渡戸稲造、宮部金吾らがいた。
渡米と回心
内村鑑三は、札幌農学校を最優秀の成績で卒業した。規定に従い、一時期、開拓使に奉職したものの、官吏の腐敗ぶりなどに我慢ができず、開拓使を辞職。東京で農商務省に職を得たが、彼の内心は満たされなかった。健康もすぐれず、悶々とする日々が続く。浅田タケと出会ったのは、そんな時期であった。
キリストのために働きたいと言うタケとの理想的なクリスチャン家庭を夢見て、結婚に踏み切ったものの、破局はすぐに訪れた。7ヶ月後には、タケのことを「羊の皮を被った狼であることが判明した」と宮部金吾宛ての手紙で破婚を報告している。内村が受けた打撃は大きかった。なすすべを失い、「神は私を捨てられた」とまで思い詰めてしまう。そんな彼を心配した家族や友人は、彼にアメリカ行きを勧めた。失意の内に、内村がアメリカに向かったのは、1884年11月6日のことである。
ここで内村は、彼の信仰の生涯最大の転機と言うべき回心を体験する。クラークの母校アマスト大学で学び始めて6ヶ月目のことである。シーリー総長が内村を呼んで言った。「君は自分の内ばかりを見るからいけない。何故、十字架上のイエスを仰ぎ見ないのか」。
アメリカに渡ってきても、彼の深い懊悩は容易に解消されなかった。タケから復縁を迫る手紙には、女児の誕生が記されており、それが彼をますます苦しめた。逃げるようにアメリカに渡り、日本も、親も捨て、その上子供までも捨てるのか。深刻な罪悪感に押し潰されそうになっていた。シーリーの言葉で、内村は信仰の何であるかを悟った。神の無限の愛は、すでにキリストの十字架によって示されている。自分はただ、この無限の愛を信じ、それに任せるだけでいいのだ。
回心を体験したとはいえ、アメリカのキリスト教の現実は、理想主義的な内村を失望させた。友人の一人が財布をすられたことがあった。キリスト教国にもスリがいる!衝撃が彼を襲った。その上、人種差別の横行。内村自身もジャップとあざけられたことも一度や二度ではなかった。渡米前の内村にとって、アメリカは、魂の故郷とも呼ぶべき幻の聖地であった。それだけに失望感も大きい。彼は、日本人、日本文化を強く自覚するようになるのである。
彼を育んだ日本文化、武士道的風土は、アメリカのキリスト教徒よりも、キリスト教的だと彼には思われた。「多くの点において、イエスとその弟子とを武士の模範と見ることができる」と言い、「日本的なキリスト教」のあり方を模索することになる。これが、生涯彼が主唱した「二つのJ」(JesusとJapan)である。彼の心の深奥に染み込んでいた愛国心とキリスト教が一つにつながった。
不敬事件
内村が帰国したのは、28歳の時。愛国心に目覚め、日本のために働く決意を固めての帰国であったが、痛撃な仕打ちが彼を待ち構えていた。国賊と罵られた「不敬事件」である。彼は日本中を敵に回してしまった。
第一高等中学校(後の旧制一高、東大教養学部)の嘱託教員として働いていた時のことである。天皇の神格化を強化したい明治政府の意図のもと、官立の高等中学校に教育勅語(近代日本の最高規範書)が授与された。そこには明治天皇直筆の署名があり、一高では各教師がそれを全校生徒の前で深々と頭を下げ敬拝する儀式が挙行された。
内村には心の準備ができていなかった。勅語の前に出て、頭をちょっと下げたものの、礼拝はしなかった。内村は生涯、皇室に対する尊敬心を抱き続けた人物である。しかし、天皇を神とすることとはまた別問題である。彼にとって礼拝の対象は、唯一の神のみであり、天皇ではなかった。その良心の声に従っただけのことである。これが大問題となった。
国粋主義者たちは、内村を糾弾した。新聞各社もこれを取り上げたので、内村への非難の声は全国的に高まった。内村は折から流行していたインフルエンザに感染。それが悪化して肺炎を引き起こし、ついに病床に伏してしまった。内村は生死の境をさまよっていたが、激昂した学生たちは容赦がない。内村宅を訪ね、詰問し、玄関に石を投げつけた。
事態は深刻さを増し、内村は退職を余儀なくされた。不幸が追い打ちをかける。妻の加寿子(かずこ)を失った。彼女は病床に伏す夫を不眠不休で看病し、押しかけてくる荒々しい学生たちに対応した。その嵐の中、過労と心労のゆえに倒れ、3ヶ月間病床に身を横たえた後、23歳の若さで昇天した。内村との結婚生活はわずか1年9ヶ月であった。
苦難を越えて
不敬事件と妻の死の体験から、思わぬ副産物が生まれた。彼は処女作『基督信徒の慰め』を出版し、世に問うたのである。「愛するものの失せし時」「国人に捨てられし時」「不治の病に罹りし時」などの章を立て、悶絶の苦しみの中から彼自身がつかみ取った内面を語った。全ての試練は、当座は暗く悲しいものである。しかし、それを堪え忍んで辿り着いた先に待っている平安がある、と。
作家の正宗白鳥は、若かりし頃、この書を紙がすり切れるまで愛読したという。正宗はこの書を当代最高の私小説と見なしている。著者の迫真性のゆえであろう。内村は月刊誌『聖書之研究』などを通して、生涯にわたり膨大な著作を残したが、この一書がその嚆矢となったのである。
苦難は、時に人を鍛えると言う。内村の生涯は、この言葉が真実であることを証明している。苦難と迫害の中で、信仰を深め、思想を錬磨した。彼の精神が必ずしも屈強だったわけではない。むしろ弱さを自覚していたからこそ、押し迫る試練の中で良心を研ぎ澄まし、その声に耳を傾けた。そして、その声に忠実であろうとした。
日本が韓国を植民地とし、国民の誰もが欧米列強並みの強国になったことに歓喜したことがあった。しかし内村は違った。時流に逆らい、「国を失って悲しむ民あり」と言って、韓国民に同情した。その上、「もし人が全世界を獲るとも、その霊魂を失うならば、何の益があろうか」と言って、日本を断罪した。その結果、売国奴、国賊と罵られる結果となったが、彼は良心の声を裏切ることができなかったのである。
内村が51歳の時、人生最大の試練に直面した。最愛の娘ルツ子の死である。しかし、彼はルツ子との永遠の別れを認めず、「今日のこの日は葬式ではなく、ルツ子が天に嫁ぐ結婚式です」と宣言し、参列者を驚かせた。さらに埋葬の折、内村は棺にかける土をつかみ、その手を天に高くさし出し、「ルツ子さん、万歳」と絶叫した。その場にいた矢内原忠雄(後の東大総長)は、雷に打たれたように立ちすくんでしまったという。
天から打ちのめされ、人から罵倒され、足蹴にされ、それでも内村は倒れなかった。か細い、消え入るような良心の声を探し続けたからである。ルツ子の死の意味を聖書の行間に探り、彼は再臨の希望に辿り着いた。キリストが再臨すれば、ルツ子にまた会えるという希望である。彼はルツ子の墓に「また会う日まで」と刻み、後に再臨運動を展開するのである。
1930年3月28日、家族と弟子たちに見守られ、内村は静かに息を引き取った。かつて内村は、「後世に遺すべきものは何か」と問い、それは「勇ましい高尚なる生涯」だと書いた(『後世への最大遺物』)。まさに内村の生涯は、艱難は栄光に至る関門であることを我々に示した勇ましく高尚な生涯であった。享年69歳。 
 
杉本鉞子 (すぎもとえつこ) 

 

英文で書かれた日本文化論として有名なのは、『武士道』(新渡戸稲造)、『代表的日本人』(内村鑑三)などが挙げられる。杉本鉞子の『武士の娘』も、それらと比べ何の遜色もない名著である。武士道の教育を骨の髄まで受けた日本女性であるからこそ、アメリカ生活の中で書き得たことなのである。
『武士の娘』を英文で書く
杉本鉞子は、『武士の娘』の著者である。日本人でこの本を知る者はごく稀であるが、日本を訪れる欧米の留学生の多くは、来日前に福沢諭吉の『福翁自伝』と共に、『武士の娘』を読んでいるという。なぜなら、明治時代に書かれたこの本は、英文による日米文化比較論であるからだ。
由緒ある武家の娘として育った杉本鉞子は、日本文化に対する幅広い教養を身に付けていた。また長い米国生活を経験し、米国のキリスト教文化をこよなく愛した。そんな彼女であるからこそ、欧米人に日本文化を紹介することが可能であったのである。
13歳で婚約
杉本鉞子が生まれたのは1874年、明治の時代になって7年目のこと。越後の長岡藩(現在の新潟県長岡市)の藩主(牧野氏)に仕える筆頭家老(重臣)である稲垣平助の娘として誕生した。武士の時代が終わったとはいえ、鉞子は厳格な武士道の教育を受けて育った。鉞子の「鉞」は、木を伐る「まさかり」を意味する。強い精神を持った武士の娘として育って欲しいという親の願いが込められている。
鉞子に対する具体的な教育は6歳から始まった。もっぱら儒教の古典の素読(声を出して読む)である。学習中は畳の上に正座、手と口を動かす以外は微動だに許されなかった。鉞子が一度だけ、ほんの少し体を傾けたことがあったという。それを見た師匠の顔に驚きの表情が浮かび、厳しくたしなめられた。「お嬢様、そんな気持ちでは勉強はできません。お部屋に引き取ってお考えになられた方がよいと思います」。鉞子は「恥ずかしさのあまり、私の小さな胸はつぶされるばかりでした」と述べている。こうして、制御の精神を身に付け、穏やかな中にも威厳を備えた「武士の娘」杉本鉞子が育っていくのである。
鉞子に縁談の話が持ち込まれたのは、13歳の時。アメリカに渡っていた兄が、父の死後戻っており、アメリカで彼の親友となった杉本松雄を鉞子の結婚相手として紹介した。13歳の鉞子は母に呼ばれ、「神仏のお守りがあって、お前の嫁入り先が決まりました」と告げられた。鉞子に選択の余地はなかった。当時の考えでは、結婚は個人の問題ではなく、家全体に関わること。鉞子は相手が誰であるかさえも尋ねなかったという。
母に不安がなかったわけではない。それは、異国の地に娘を送ることではなかった。杉本家に嫁ぐ娘に対し、杉本家の家風を仕込んでくれる姑や年配の婦人がいるのかどうか。これが最大の不安であったのである。渡米直前、杉本松雄からの便りで、アメリカの名家の婦人が親代わりになって、鉞子の面倒を見てくれると書いてあったので、母の不安はすべて解消された。
実際に鉞子が渡米したのは24歳。十年ほど東京で英語の勉強と花嫁修業をしながら、渡米の準備をした。現在の青山学院の前身であるミッション・スクールに入学した鉞子は、外国人の教師たちの率直で自由な態度に感動し、やがてキリスト教に入信した。
ウィルソン家との親交
鉞子が杉本松雄の待つアメリカのオハイオ州シンシナティに向かって、横浜港から出帆したのは1898年、24歳の時である。シンシナティ駅に到着すると、夫となるべき杉本松雄が迎えに来ていた。この時が初めての出会いであった。二人は、鉞子の世話役を買って出てくれたウィルソン家の邸宅に向かった。ウィルソン家は、後にウィルソン大統領を出した一族で、この地方きっての名家として、知られていた。当主夫妻は来日経験もある親日家で、日本商品を扱う店を経営していた松雄の良き顧客でもあった。
鉞子に最も強い影響を与えた世話役が、この当主の姪に当たるフローレンス・ウィルソン。松雄と鉞子の二人は、12年間の長きに渡ってフローレンスとその母と共同生活を送ることになる。厳格なピューリタンの伝統を守るウィルソン一家の家風は、鉞子を育てた武士道精神と相通ずるものがあった。
鉞子がアメリカ生活に自然にとけ込み、快適で幸福に満ちた生活を送ることができたのは、ひとえにフローレンスのおかげであった。鉞子にとって時には母であり、時には姉でもあるという存在。生涯独身を貫き、鉞子の家族に寄り添いながら、そのホスピタリティの精神で、鉞子一家を支え続けた女性であった。
夫の死
心優しい夫と慈愛に満ちたウィルソン家の人々、また親切なシンシナティの人々に囲まれての生活は、鉞子にとって理想郷のように思われた。花野、千代野と名付けた二人の娘にも恵まれ、幸福に満たされ日々を過ごしていたのである。しかし、幸福な日々は長くは続かなかった。日本商品を扱う夫の事業が、取引上の思わぬ手違いから、破産宣告を受けてしまったのである。
1年後には再建の見込みがあったので、鉞子と二人の娘は里帰りをかねて、一時日本に帰国することになった。帰国直後のこと、鉞子のもとに驚きの電報が届いた。盲腸炎による夫の不慮の死が告げられていた。事業の倒産による傷がまだ癒えない時期の夫の死。楽しかった過去は闇の中にかすみ、明るい未来は忽然と姿を消してしまった。鉞子は語っている。「いとしい我が子と私に残されたものは、別離の悲しみと長い寂しい旅路ばかりでありました」。
しかし悲しんでばかりいられない。二人の娘を育てなければならないのだ。経済的に自立する必要に迫られた鉞子が選んだのは、東京での英語教師の道。フレンド女学校(現在の普連土学園)で英語を教えることにしたのである。
武士の娘として、いかなる困難にも耐え忍ぶ気丈さを身に付けていた鉞子ではあった。しかし、寂しさがこみ上げてくることもある。東京のこじんまりした家に入居したばかりのころ。4歳の千代野は、母の着物に顔を埋めながら、「ねえ、お母様、お祖母ちゃまとお祖父ちゃまの写真のある家に帰りましょうよ」と言った。アメリカの家には、鉞子の両親の写真が飾ってあった。幼い千代野はその家が懐かしかったのである。それは鉞子とて同じ。それまで抑えていた気持ちが一気に涙と共に溢れ出て、鉞子は千代野を抱きしめて、畳に打ち伏して、むせび泣いた。
教育の悩み
日本での生活で鉞子を悩ませた最大の問題は、娘の教育であった。アメリカで生まれ育った二人の娘は、生活習慣も価値観も異なる日本の学校になかなか馴染めず苦しんでいた。ある日のこと、鉞子が外から帰ってくると二人の娘が庭で遊んでいた。それは日本の家をアメリカの家に見立てて懐かしむ遊びであった。
花野は母が聞いているのも知らず、千代野に言った。「このことはお母様に言っては駄目よ。心配なさるから」。人一倍母思いの花野は、アメリカに郷愁を感ずる自分の気持ちを母の前では押し殺していたのである。二人はその後、手を取り合ってアメリカの国歌を歌い始めた。鉞子は、その場を離れて、隣の部屋に入って忍び泣いた。
鉞子の母が上京し、娘たちに厳格な躾教育を施すにつれ、娘たちは徐々に日本風に淑やかになった。しかし、その反面、その目から輝きが消えていくのを鉞子は感じていた。「私の一声に答えて、飛び上がってくる素早さはどこへ行ったのでしょう?あの愉快さ、熱心さはどこへ行ったのでしょう?」。アメリカにいた頃よく着ていたサージの服を取り出し、それに顔を埋める花野の姿を見るにつけ、鉞子の心は大いに揺れた。日本の風土の中で、賑やかで元気一杯だったの娘の個性が押し潰されていいのだろうか。
再度アメリカへ
娘たちへの躾教育に熱心だった母の死を契機に、鉞子はついに再度の渡米を決断した。夫の松雄は常日頃よく言っていた。「欧米の婦人の持つ、人を包む朗らかさを学びたいものだ。せめて私たちの子供たちだけは、桜の花のような温かさ、賑やかさを持たせたい」と。それを思えば、渡米の決断は死んだ夫の遺志に適うように思えたのである。15歳の花野の喜びようは大変なもので、足取りも軽く顔に輝きが戻ってきた。
鉞子と二人の娘が、「アメリカの母」と慕うフローレンスの待つアメリカに向かったのは1916年のこと。鉞子42歳の時である。いくら子供の教育のためとはいえ、フローレンスがいなければ、おそらく渡米の決断はできなかっただろう。松雄は臨終に際し、フローレンスに「家族を頼みます」と言って息を引き取ったという。フローレンスは、松雄とのこの約束を生涯守り通した杉本家の恩人であった。
娘たちにより高い教育を受けさせるべきだと言うフローレンスの助言に従い、彼らが生活の場としたのはニューヨーク。二人の娘を養うため、鉞子は筆一本で生計を立てていく決意を固めるのである。しかし、ニューヨークでの文筆活動は競争が激しく容易ではない。日本を紹介する文章を新聞、雑誌に寄稿することから始めたが、一向に採用されず、落胆の日々が続いた。それでも根気強く投稿を続けた結果、彼女の文章がある著名な編集者の目に止まり、雑誌「アジア」に10回に渡る連載の依頼があった。自分の半生を物語風につづったもので、連載終了後に『武士の娘』として刊行されることになる。
この本は世界7カ国に翻訳され、英語版と日本語版は今なお増刷を続けている。さらにこの連載が契機となり、鉞子は1920年から27年までの7年間、ニューヨークの名門コロンビア大学で、日本語と日本文化を教える講師を勤めることになるのである。
1927年、鉞子は53歳の時、前後二十数年間に及ぶ米国生活に区切りをつけて帰国した。日米戦争に向かう困難な時代ではあったが、日米が互いに溶け合う日を夢見ながら、76歳で生涯を終えるまで、日米の相互理解のために尽力したのである。鉞子を知るシンシナティの人々は、鉞子亡き後も、彼女を「グレート・レディ」と称して敬愛したという。偏狭なナショナリズムからも、卑屈な西洋礼賛からも、自由であった鉞子の生涯は、21世紀に生きる者たちへ一つのモデルを提供していると言えるだろう。 
 
五代友厚

 

若くしてイギリスに渡り、イギリスの経済、とりわけ株式会社制度に注目して帰国した五代友厚。鎖国の日本を早く開国し、貿易を促進することで国を富ませたい。その信念を抱き、果敢に実行した。大阪経済の基礎を作った五代は、商人である前に正義と大義に生きる武士であった。
大阪の恩人
五代友厚は、薩摩(現鹿児島県)出身の実業家である。「東の渋沢(栄一)、西の五代」と言われ、大阪商法会議所(現在の商工会議所)初代会頭として大阪実業界に多大なる影響を与えた。当時、大阪の事業で五代の息のかかっていないものはないと言われるほど、その影響力は絶大なものであった。
「天下の台所」と言われた大阪の衰退を憂い、ここを日本の経済の中心地にしようと努力した。明治以降大阪の発展に貢献した指導者の中で五代の右に出る者はいないと言われ、「大阪の恩人」と称えられるのも、決して故なきことではない。
五代は、幕末に海外を体験した数少ない日本人の一人であり、攘夷(外国排斥)運動が荒れ狂う中、開国の信念を早くから抱いていた。開国を急ぎ、国を富ませなければ、日本は欧米の植民地に成り下がってしまう。この危機感に突き動かされて、新しい国造りに邁進した。
長崎を拠点として
五代友厚は、1835年12月26日、薩摩藩城ヶ谷に生まれた。父秀堯は、薩摩藩の儒官(儒学を教授する先生)であり、武士でもあった。12歳で藩校造士館に入り、文武を修めた。満12歳のときのエピソードが伝えられている。五代が、開国の信念を抱くようになったきっかけと言われている。
藩主島津斉興が父秀堯に世界地図の模写を命じたことがあった。ポルトガル人から購入したものである。父はそれを友厚(幼名は徳助)にやらせた。友厚は2枚写し、1枚は藩主に献上し、1枚は自分の部屋に掲げて、日夜眺めていたという。地図を見ながら、彼はイギリスに注目した。ちっぽけな島国ではないか。こんな小さな国がどうして世界を制覇できたのか。五代のイギリスへの関心はこうして生まれ、イギリスを目標にした国造りを考えるようになった。
満14歳(1850年)のとき、藩主に数千語に及ぶ建言書を提出した。そこには、他藩に率先して汽船を購入すべきこと、留学生を派遣すべきことなどが書かれてあった。この時点で、五代の開国論はすでに信念として固まっていた。明らかに彼は時代を先取りしていたのである。
1853年6月、ペリー来航により日本中が騒然となった。海防の必要性を痛感した幕府は、オランダの力を借りて、長崎に日本最初の海軍を創設した。それが長崎海軍伝習所である。約200名ほどの伝習生が各藩から集められ、五代も薩摩藩16名の1人として選ばれ長崎行きを命じられた。伝習所で3年過ごした後、藩の貿易業務担当に任じられ、長崎駐在を続けた。
彼は長崎を足場として、そこに集まる有為な人物との交流を深めた。勝海舟、坂本龍馬、高杉晋作、それとイギリス商人グラバーなどである。こうした人脈があればこそ、後の倒幕運動で彼は裏方として決定的な役割を果たすことができたのである。
1868年、戊辰戦争の先駆けとも言うべき鳥羽伏見の戦いが勃発した。幕府軍1万5千に対し、薩長の兵力は4千にすぎなかった。にもかかわらず、薩長軍は兵力4倍の幕府軍をわずか4日間で打ち破ったのである。もちろん、士気の差もあったであろう。しかし、何と言っても、五代がグラバーから調達した武器弾薬が威力を発揮したのである。
薩英戦争と欧州行
1862年、とんでもない事件が起こった。薩摩藩の大名行列を避けなかったイギリス人を薩摩藩士が斬殺してしまったのである。有名な生麦事件である。この事件が契機となり、翌年イギリスは鹿児島を砲撃し、薩英戦争が勃発した。イギリスの砲撃直前、五代は購入した汽船を失ってはならないと考え、独断で3隻の汽船を避難させた。対外貿易の手段を失ってしまうからだ。しかし、運悪く彼は友人の松木弘安(後の外務卿寺島宗則)と共に捕虜となってしまう。
この戦争でイギリスは薩摩の実力が侮りがたいことを認識し、薩摩も外国と戦うことが得策でないことを悟った。その結果、和議が成立し、両者は急接近することになる。これには捕虜となっていた五代の貢献が大きい。クーパー提督は、五代に薩摩の戦力を問いただした時、五代は「薩摩藩士は一人として生を欲する者はいない。みな死を覚悟し、戦いに臨んでいる」と述べ、陸上戦となったら、イギリスの勝算はないと断じた。これを聞いて、クーパーは再戦を思いとどまったという。
しばらくして、五代は藩当局に上申書を提出した。もはや開国しか道がないこと、そして薩摩が率先して開国に当たるべきであると説き、具体的には、上海との直接貿易、英仏両国への留学生の派遣を提案した。
その後、五代は政策立案者として、藩政の中枢にカムバックする。彼が提案した留学生派遣が正式に採用され、渡航に関わる全てが五代の手に委ねられることになった。いよいよ薩摩が開国に向けて全面的に動き出したのである。
1865年3月22日早朝、船はイギリス目指して旅立った。留学生14名、それに五代ら付き添いが5名で合計19名での出発。この中には、後に文部大臣となる森有礼も加わっていた。五代にとって、感慨深い船出であった。彼が最も尊敬していた亡き島津斉彬は、外圧の危機を克服するには、西洋に学ぶしかないという積極的開国論者である。その斉彬の遺志を継ぐのは自分しかいないと自負していた。今、それが実を結びつつあるのだ。
五代の欧州滞在はわずか半年にすぎなかった。留学生の受け入れ交渉は同行した松木弘安に任せ、彼は欧州各国をどん欲に見て回った。欧州の機械産業の発展ぶりに、腰を抜かすほどの驚きを感じつつも、五代が特に関心を向けたのは、ロンドンの銀行、商品取引所、商工会議所などである。さらにそれを支えている商社合力(株式会社のこと)。
欧州を去るにあたり、五代が心に誓ったことがある。産業の振興と貿易によって、日本の基本を揺るぎないものにするために会社を興そう。薩摩藩のためではない。日本のために。島津斉彬から教えられた「日本一体一致」の考えをさらに強固にして、帰国した。1866年2月、徳川幕府が倒れる2年前、32歳になっていた。
不正を断固取り締まる
五代友厚の大阪との関わりは、明治の新政府成立後に始まる。新政府は諸外国との交渉窓口として外国事務掛を大阪に設け、そこに五代を任命した。この頃、日本人の無知につけ込んで、外国商人の不正行為が後を絶たなかった。条約違反、購入料金の不払い、雇い人への賃金不払いなどは日常茶飯事。領事館の家賃不払いまであった。五代は、こうした不正に対しては断固たる態度で臨み、一切の妥協を拒んだ。
五代のいる大阪港では外国船の荷物検査があまりにも厳しいという抗議がついに政府にまで届いた。政府が五代に取り締まり緩和勧告を出すほどの騒ぎとなってしまう。荷物検査が厳格に行われると、脱税など不正行為ができなくなる。外国商人の不満の真意は、そこにある。このことを五代は見抜いていたので、彼は一切の妥協を拒んだのである。
五代には信念があった。常日頃、「事業が盛んになるかどうかは、お互いの信用が厚いか薄いかによるものである」と語り、商売における信用の重要性を説き続けていた。不正を糾弾することは、この信用を勝ち取ることにつながる。不正をひとたび容認すれば、結局は信用を失い、その損失は計り知れない。
五代は商人である前に、正義と大義を重んじる志士であった。何よりも国家を優先する価値観が染み込んでいた。不正を見逃すことも、国益を損なうことも断じてできない人間であった。こうしたことから五代は外国商人から敬遠され、とうとう排斥運動まで起こされてしまうのである。
官を辞し民間へ
外国商人の五代排斥運動が高まる中、五代の横浜転勤の辞令が下った。しかし大阪の商人たちは黙っていなかった。五代の横浜転勤阻止に向け、猛然と立ち上がったのである。五代の指導で大阪にようやく展望が開けてきた矢先のことである。彼らは「今、五代氏が転勤となっては、船の舵を取る者がいないのと等しい」と言って、政府に嘆願書を提出した。政府がこの声を聞き入れることはなかった。
となれば五代本人を説得するしかない。大阪の商人たちは、入れ替わり立ち替わり五代宅を訪れて、大阪にとどまるように説得した。これには五代も心動かされた。官を辞し、株式会社を興すことで、民間人として大阪の復興、発展に身を投ずる決心をしたのである。1869(明治2)年、まだ弱冠33歳の時である。
民間人となって以来の五代の活躍は目覚ましい。五代が設立に関わった事業は数え切れない。大阪の産業、経済の基礎は全て五代が作ったと言っても過言ではないのである。1879年、大阪商法会議所を創設し、その初代会頭に就任した。その2年後、五代にとって心外な事件が起こった。北海道開拓使の官有物払い下げ事件である。北海道開拓に実権を握っていた黒田清隆が、五代の企業に官有物を払い下げることになっていた。黒田も五代も同じ薩摩出身であったため、薩摩閥の不正取引だと非難されたのである。五代には自信があった。財政難に陥っていた北海道開拓事業を自分ならば、効率よく展開できる、と。
実は、この事件の真相は政治問題であった。国会開設を要求する反政府勢力が、薩長政権を攻撃するため、払い下げ問題を政争の具として利用したのである。私利私欲の腹黒い経済人として攻撃されたことは、五代にとってずいぶん心外であったろう。しかし、彼は一言も弁解をせず、隠忍自重の態度を貫いた。結局、払い下げは中止され、北海道開拓に託そうとした五代の夢は消えた。
こうした事件の後でも、大阪における彼の名声と信頼は全く揺らぐことはなかった。翌年1月に行われた商法会議所会頭の選挙で、62票中55票の多数を獲得して会頭に再選されたのである。大阪の人々は五代がいかなる人物かを知り抜いていたのだ。
1885年9月25日、五代は50年間の短い生涯を終えた。惜しまれる死であった。葬儀の一般会葬者は4千8百人。遺産はなく、遺したものは膨大な借金ばかりであったという。財産のためではなく、地位や名誉のためでもない。日本の国力増大のため、捧げ尽くした生涯であった。財産は遺さずとも、彼は偉大な生涯を残すことに成功した。廉潔の士として、大阪の恩人として、今なお五代の精神は語り伝えられている。 
 
高橋是清

 

第一次世界大戦後から、第二次世界大戦に至る時期の日本は、未曾有の経済危機に襲われていた。先の見えない袋小路からの脱却という重い課題を背負って登場したのが、高橋是清である。逆境に負けない彼の強靱な精神力は、留学体験で培われたものである。
大蔵大臣を7回経験
高橋是清は、明治後期から大正、昭和初期にかけて活躍した日本の政治家である。総理大臣にまで昇りつめたわけであるから、一流の政治家には違いない。しかし、彼の名声は政治家としてよりも、財政家としてのほうが、はるかに轟いているのである。
1913年に60歳で初めて政界入りした直後に、山本権兵衛内閣の大蔵大臣に就任して以来、1936年二・二六事件で軍の青年将校に暗殺されるまでの間に、実に7回も大蔵大臣を経験した。この時期の日本は未曾有の経済危機に直面していた。1920年に第一次世界大戦後の経済恐慌に襲われ、27年には金融恐慌、さらに30年、31年には世界恐慌の荒波に襲われた。この間、高橋は大蔵大臣として日本の経済、金融政策の舵取りを見事にやってのけた。
高橋は、大蔵大臣としてたまたま何度も経済危機に直面したわけではなかった。経済の破局的局面になると就任要請が舞い込み、彼は救済者として登場したのである。危機に対する彼の的確な分析、迅速果敢な対応が、幾度も日本を危機から救出した。危機に臨むリーダーに求められる資質は強靭な精神力である。批判や罵倒に負けない忍耐力、名利を離れた公共心、また未来を信ずる楽天主義。高橋にはこれら全てが備わっていた。
これらは天賦の才とばかりは言えない。彼の苦難に満ちた数奇の運命が彼を育てたのである。ここでは、彼の生い立ち、留学体験、それと南米体験に焦点を絞って、高橋是清という人物の人間形成の過程を見てみたい。
私生児として
高橋の数奇の運命は誕生その時から始まった。彼は私生児として生まれたのである。母の北原きんは幕府の絵師川村庄右衛門の家の侍女であった。両親が離別していたので、おばの家に預けられていて、行儀見習いのために川村家に奉公するようになったのである。きんは16歳の時、主人である庄右衛門の子を宿してしまった。こうして生まれた子が高橋是清である。
庄右衛門は是清を自分の子として認知したが、すでに家には6人の子がいたので、彼を里子に出すことにした。生後3、4日にして仙台藩の武士・高橋覚治是忠の家に預けられることになった。
是清が3歳になったばかりの頃、大きな転機がおとずれた。高橋家の知り合いの裕福な菓子屋から是清を養子にほしいという話があったのである。実家の川村家には異存はなかったが、これに断固と反対したのが、是清の義理の祖母にあたる高橋家の喜代子であった。「2年も育ててきたこの可愛い子を武士ならともかく、町人へやるのはかわいそうだ。自分の家へもらったほうがよい」と言って菓子屋の申し出を断り、無理やり高橋是忠の実子として届け出をすましてしまった。
高橋是清は後に自伝の中で、人間の運命の不思議さを述べている。「私が菓子屋の養子となっていたら、あるいは一生菓子屋で終ったかもしれぬ。少なくとも今とは全然異なった立場にあったに相違ない」と。
高橋の生涯を見るとき、この祖母喜代子の存在が彼の精神を深いところでどれほど強く支えていたかと思わざるを得ないのである。喜代子の是清に対する愛情は生涯変わることはなかった。高橋には私生児にありがちな劣等感や性格の暗さがまるでないと、彼を知る者は誰もが口を揃えて言う。あけっぴろげで、思ったことはずばりと語るストレートな性格。しかし、いつもにこにこしているので、憎まれることがない。また無欲であまりものごとにこだわらず、恬淡としていたという。こうした彼の楽天的性格は祖母喜代子の献身的な愛情によって育まれたものであろう。
丸顔で大柄の風貌のゆえ、ダルマ蔵相と呼ばれて親しまれた。晩年、軍部に捨て身でものを言うこの老人は大衆から惜しみない喝采を浴びた。ダルマのあだ名の通り、彼の人生は「七転び八起き」そのままであった。不屈の精神は、逆境の中でこそ芽生えるものである。
アメリカ留学へ
幕末、仙台藩は外国の事情を学ばせるため、若い武士をアメリカへ留学させることにした。そのためには、まず横浜で英語の勉強をさせなければならない。そこで選ばれたのが、高橋是清と鈴木六之助の二人。共に11歳の少年であった。
横浜で彼らは、英語塾を開いていたヘボン博士や宣教師バラー氏の夫人について、約2年間英語をみっちり習った。そして彼が13歳になった1867年7月、ついにアメリカ留学が実現した。しかし彼ら二人はまだ余りにも幼いので、同行した米国人ヴァンリードに彼の学費が託されることになる。この米国人は横浜の商館主で、サンフランシスコに両親が住んでいた。高橋と鈴木は、サンフランシスコのこの老夫婦の家に住み込むことになっていたのである。
高橋の苦渋の留学生活は、この老夫婦との出会いから始まった。ヴァンリード老夫妻は最初のうちは人が良さそうに見え待遇も悪くはなかった。しかし時間が経つにつれ、待遇はすっかり変わってしまった。家の料理番や部屋の掃除など使い走りをさせられたばかりではなく、食物も粗悪になり、そのうえ学校にも行かせてもらえなくなった。これでは約束がまったく違う。彼は憤慨して、「こんなにこき使われるために来たのではない。約束が違う」と言って働かなくなった。夫人はこんな高橋に見切りをつけてしまったのである。
奴隷として売られる
高橋を見限ったヴァンリード夫人は、オークランドに住む知り合いの富豪ブラウン夫妻の家に住んではどうかと高橋に提案した。彼が行ってみると確かに大きな屋敷で、すでにアイルランド人と中国人の召使がいる。これなら以前のように、こき使われるようなこともないように思われた。それにブラウン夫妻も親切そうに見えたので、彼はオークランドに住み替えることにした。
この住み替えのため、彼は一通の書類にサインをさせられた。まだ14歳の少年である。書類の内容などわかるはずがない。ヴァンリード夫人の「ブラウン家に住み込めば、自由に勉強ができるという内容だ」という説明を鵜呑みにして喜んでサインしてしまったのである。ところがこの書類は実はとんでもない身売りの契約書であることに、後になって気づかされることになり、契約上ブラウン家から抜け出れないことが判明した。
困り果てた高橋は当時幕府からサンフランシスコの名誉領事を嘱託されていたブルークスにことの顛末を話し、契約破棄の調停を依頼した。ブルークスのはからいで、ブラウン家がヴァンリード家に支払った50ドルを支払うことで身売りの契約が破棄され、なんとか一件落着した。
その頃、日本は徳川幕府が倒れ新しい政権が樹立した。その報に接し、高橋をはじめとする留学生たちは帰国を決意する。サンフランシスコから乗船し、1868年12月横浜港に到着した。高橋のアメリカ体験は1年数か月という短い期間ではあったが、辛く苦しい思い出であった。それだけにまた彼の強靭な精神力を養う最良の訓練であったことも事実なのである。
信念に殉ずる
帰国後、高橋は一時英語の教員となり、後に文部省、続いて農商務省に奉職した。しかし順風満帆というわけにはいかなかった。36歳の時、ペルーの銀山を経営する話が持ち上がった。農商務省の次官の強い薦めがあったのである。彼は特許局の局長という安定した立場を捨て、ペルーに人生の夢を託すことになる。
ところが、いざペルーに行ってみるとその銀山は数百年間掘り尽くされた廃坑であった。まんまと一杯食わされたわけである。この失敗で彼は家屋敷を売却せねばならない羽目に陥ってしまった。
ペルー行きを薦めた農商務省の次官は責任を感じて、彼の就職のため奔走した。県知事や郡長などの話があったが、高橋は断った。彼の弁はこうである。これまで彼は衣食に困っていなかった。それ故、上官の言うことでもし正しくないと思ったときは、敢然と異議を申し立てることができた。いつでも官を辞す覚悟ができていたからだ。しかし、衣食のために苦慮せねばならない身分の今、到底以前のように精神的に国家に尽くすことはできない。彼は官僚のあるべき姿勢にあくまでこだわっていたのである。
こうした高橋の生き方は生涯変わることがなかった。晩年、軍部の際限のない軍備拡張要求に高橋は強く抵抗した。国防のみに専念して、悪性インフレを引き起こしてしまえば、国家の信用は崩れてしまう。この無形なる信用の崩壊は、結果的に国防をも危うくするというのが高橋の信念であった。1936年2月26日、その信念の故に青年将校らに暗殺された。信念に殉じた83年間の生涯であった。 
 
原敬 (はらたかし)

 

本格的な政党政治を実現させた原敬は、若い頃、キリスト教の宣教師になろうとしたことがあった。何かに命をかけるという若い頃の純粋な魂を生涯持ち続けることは難しい。しかし、原は政治という世界の中で、それを持ち続けようとしたのではないか。
政党政治を実現
原敬は、明治から大正時代に活躍した政治家である。幕末には幕府側に付いたため朝敵(天皇の敵)とされた南部藩(現在の岩手県)の出身。薩長(薩摩藩と長州藩)を中心とする藩閥政治を打破して、政党政治へと脱皮することに、政治家としてのエネルギーを注ぎ続けた。藩閥政治の権化とも言われる山県有朋の牙城を一つ一つ切り崩し、ついに本格的な政党政治(議会で多数を占めた政党が政権を担うこと)の実現に成功した。歴史家の原敬に対する評価は、「政党政治を実現した最大の功労者である」という点で、ほぼ一致している。
また、軍部の拡張路線を極力抑えて、国際協調路線、特に対米関係を最重視した外交路線を打ち出していた。しかし、1921年東京駅で刺客に襲われ絶命。原の死により、軍に対する政治的指導力も死んだ。軍部の独走に引きずられながら、日本は中国進出へと動き出してしまう。原がもう少し長く生きていたら、軍部の暴走を阻止できていたかも知れない。こう嘆く識者は多い。
母の苦労とキリスト教の洗礼
原敬は、1856年2月9日に父直治、母リツの次男として生まれた。「平民宰相」として人気を博した原であるが、生まれは平民(武士以外の農工商階級)ではない。代々南部藩に仕える武士であり、祖父は南部藩の家老(重臣)を勤めたほどの人物であった。後に家督は長男が継いだので、次男の彼は分家して平民となった。
原家に悲劇が襲った。原が4歳の時に祖父が死亡、9歳の時に父までも死亡する。一家の大黒柱を失った母リツに待っていたものは、7人の子供たちの養育という現実であった。
困窮を極めた生活の中で、15歳になった敬の希望を入れて、母は彼を東京に出してくれた。この時すでに長男は東京に出ていて、その負担だけでも大変だった。その上、次男の敬までも行くというのだ。母の苦労は、想像に難くない。母はよく子供たちに言った。「女手で育てられたから、お前たちがろくでなしになったと世間から笑われるようになっては、心苦しいからどうか偉くなってくれ」と。原は、子供心に母のために偉くなろうと決心した。後に原は、「私が大命を拝受(首相になること)するに至ったのは、ひとえに母の言葉を忘れずにいたおかげである」と語っている。
東京に出て英学塾に学び始めてまもなくの頃、生家が泥棒に入られるという事件が起こる。母は学費を送ることができなくなった。この時、親戚が援助の申し出をしてきたが、彼はそれをきっぱりと断った。「自分はたとえ餓死しても人からの金銭援助は受けない」と言って、苦学の道を選んだ。後の大政治家を彷彿とさせる気概であった。
経済的事情で英学塾を辞めた原敬は、フランス人宣教師の経営する伝道師養成所に塾生として入ることになった。布教を目的としていたため、塾生は無料で宿泊できた。そのため、キリスト教には何ら関心がなくても、貧乏な若者が多く集まっていた。
原の入塾の動機は定かではないが、他の塾生と大差ないものと思われる。しかし、授業で宣教師から殉教者の話を聞くにつれ、言い知れぬ感動を覚えた。17歳で洗礼を受けた原は「自分も殉教者のようにこの道(キリスト者としての生き方)のために命を捧げよう」と誓ったという。本気であったのだ。
その翌年には、エブラルという名の宣教師の学僕となり、新潟伝道に随行する。同僚から「西洋の奴隷に成り下がるのか」という面罵を受けての新潟行きだった。このエブラルは大変な博識多能の人物で、原は彼からフランス語だけではなく、歴史、世界の情勢、あるいは人間の生き方まで幅広く学んだ。ものの見方、考え方の基礎がこの時、キリスト教宣教師を通して、形作られたのである。
伊藤博文と陸奥宗光
原敬が政治家の道を志すようになったのは、伊藤博文(初代総理大臣)との出会いがきっかけである。新聞記者生活を終え、外務省に入ってまもなく、天津領事として清国(中国)赴任を命じられた。フランス語ができたからである。
フランス公使との折衝、清国の実力者李鴻章との交渉などに辣腕をふるい、原は本国からも一目置かれる存在となっていた。伊藤博文一行が原のいる天津を訪れたのは1885年3月、甲申事変(朝鮮の親日派クーデター)の後始末のためである。原と同じ屋根の下で約3週間ほど生活し、伊藤は原の仕事ぶりを高く評価し、その人物を見込んだ。
原がフランス赴任(パリ公使館書記官)の命を受けたのは、伊藤が帰国した直後のことである。伊藤の推薦であったことは間違いない。明治新政府の幹部候補生として、ヨーロッパ体験をさせるためであった。85年7月にわずか1年半の天津生活を終え帰国、その年の10月にはパリに向かって出発した。原は29歳であった。
約3年半のパリ生活で、書記官としての仕事を遂行するかたわら、原は勉強に余念がなかった。フランス語、国際法など大学の教授に付いて学び、同時に膨大な書物を読破した。後に原の書棚には、この時に購入した本がかなり収められていたという。原の蔵書は優に1万冊を超え、小さな図書館のようであったという。フランス語の書物、政治関係、歴史、哲学、宗教など分野は幅広い。これら全てを読破していたというから驚きである。
パリから帰国した原に待っていたのは、農商務省参事官のポストである。ここで原はもう一人の重要人物と出会うことになる。農商務大臣の陸奥宗光。陸奥は原の能力を認め、彼を秘書官に抜擢し、省内の仕事一切を原に任せた。原はまだ弱冠34歳であった。
この二人のコンビは陸奥が外務大臣になってからも続いた。陸奥が原を外務省通商局長として呼び寄せたためである。陸奥の藩閥嫌いは有名で、藩閥打倒を志していた。しかし、志半ばにして陸奥は53歳の若さで病没する。後に原が政治家として取り組んだ藩閥政治打倒の戦いは、まさにこの陸奥宗光から引き継いだ仕事であったのだ。
山県閥との戦い
1900年、原敬の人生における最大の転機がおとずれた。伊藤博文による新政党「立憲政友会」(以下、政友会)の結成である。伊藤は、原に新政党に関する事務の一切を担当してくれるよう依頼した。当時、大阪毎日新聞の社長の位置にあった原は、「藩閥を打倒し、政党内閣の樹立を目指すべし」と論陣を張っていた。伊藤の依頼は、原にとって千載一遇のチャンスであった。原はこれを引き受ける決断をした。
原の藩閥打倒の戦いは、具体的には山県閥との戦いである。長州出身の山県有朋は、陸軍と内務省に強固な勢力基盤を築いていた。山県閥のこの2大支柱を切り崩すことに原は、政治生命をかけたのである。1906年1月第一次西園寺内閣で、原は内務大臣に就任。そこは山県閥の地盤、敵の真っ直中に乗り込んだようなものであった。
省内では、「いつまでもつか」と新大臣を冷笑する者も少なくなかった。しかし、原の内務省「構造改革」は容赦なく断固として実行された。まずは警視庁の改革。人事で山県系の人間を一掃した。続いて地方官の改革。知事6名を含め地方官75名の大更迭を行い、無能な人間を淘汰した。山県系に情実で採用された無能な者が多かったからである。
平民宰相の誕生
1918年9月、ついに原敬に組閣の大命(天皇の命令)が下った。本格的な政党内閣の成立であり、平民宰相の誕生であった。当時、内閣総理大臣の任命権は天皇に帰せられていた。しかし、事実上は元老たちの推薦によるものであり、中でも最長老であった山県有朋の影響力が決定的であった。しかし、この山県の外交路線が、ロシア革命によって破綻した。ロシアとの提携を強化して中国を日本の勢力圏に組み込もうという路線である。
その結果、アメリカとの協調路線を基軸とすべきと主張する原を山県は推薦せざるを得なかったのである。日本に新しい外交の基軸が必要とされたからだ。山県が好むと好まざるとにかかわらず、日本は原を必要としたのである。
原が首相であったのは、暗殺される(1921年11月4日)までの3年間という短い期間であったが、その功績は大きい。原が築いた政党政治は日本の内政の基本となったし、彼の国際協調路線も、日本外交の基本的枠組みとして、原の死後しばらくは堅持されたのである。しかし、軍部が引き起こした1931年の満州事変、32年の5・15事件(軍部のクーデター事件)などにより、原の路線は崩壊した。政治は軍の暴走を許し、日本は国際的孤立化の道に進むことになったのである。
原は平民宰相と呼ばれたが、民衆を煽る大衆運動のリーダーではなかった。急激な変革は社会秩序を不安定にすると危惧したからである。彼が目指していたのは、常に「漸進的な変革」であり「秩序ある進歩」であった。それゆえに急進的左翼勢力は原を敵対視した。
また、陸軍や右翼勢力も原の外交政策に強い嫌悪感を示していた。原は、左右両勢力から常に狙われていたのである。暗殺を覚悟していた原は、遺書まで準備したが、身辺警護を嫌い、最期まで護衛は付けなかった。心配する友人たちに、「人事を尽くして天命を待つだけ。命は天に預けてある」と言って譲らなかった。
生前、原はよく「宝積」という言葉を揮毫した。仏教用語で「尊いものを積み重ねる」という意味と言われている。しかし、彼がこの言葉を使う時、若い頃学んだ聖書の言葉を思い浮かべていたのではなかろうか。聖書に「天に宝を積め」という言葉がある。本当に価値あるものは、目に見える地位や財産ではない。目に見えないものにこそ価値があるという教えである。
政権を取った原につきまとう利権目当ての動きが活発になった時でも、原の清廉潔白を疑う者はほとんどいなかった。36歳の時、外務省を辞めた退職金で買った家に生涯住み続け、豪華な邸宅を構えようとはしなかった。死ぬまで爵位や勲章を辞退し続けたことは有名な話である。政治家として頂点に昇りつめたとしても、常に平民であろうとしたのであろう。死を覚悟していた原は、彼が所有していたお金全てを政友会に返すよう家族に遺言していたという。こうした原の65年間の生涯を見てみると、この世の栄達に慢心することを避け、常に天に宝を積もうとしてきたように思えてならない。 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
今戸狐 / 小山内薫

 

これは狐か狸だろう、矢張(やっぱり)、俳優(やくしゃ)だが、数年(すねん)以前のこと、今の沢村宗十郎(さわむらそうじゅうろう)氏の門弟で某(なにがし)という男が、或(ある)夏の晩他所(よそ)からの帰りが大分遅くなったので、折詰を片手にしながら、てくてく馬道(うまみち)の通りを急いでやって来て、さて聖天(しょうてん)下の今戸橋(いまどばし)のところまで来ると、四辺(あたり)は一面の出水(でみず)で、最早(もはや)如何(どう)することも出来ない、車屋と思ったが、あたりには、人の影もない、橋の上も一尺ばかり水が出て、濁水(だくすい)がゴーゴーという音を立てて、隅田川(すみだがわ)の方へ流込(ながれこ)んでいる、致方(しかた)がないので、衣服(きもの)の裾(すそ)を、思うさま絡上(まくりあ)げて、何しろこの急流故(ゆえ)、流されては一大事と、犬の様に四這(よつんばい)になって、折詰は口に銜(くわ)えながら無我夢中、一生懸命になって、「危険(あぶない)危険(あぶない)」と自分で叫びながら、漸(ようや)く、向うの橋詰(はしつめ)までくると、其処(そこ)に白い着物を着た男が、一人立っていて盛(さかん)に笑っているのだ、おかしな奴だと思って不図(ふと)見ると、交番所(こうばんしょ)の前に立っていた巡査だ、巡査は笑いながら「一体(いったい)今何をしていたのか」と訊くから、何しろこんな、出水(しゅっすい)で到底(とうてい)渡れないから、こうして来たのだといいながら、ふと後(うしろ)を振返(ふりかえ)って見ると、出水(しゅっすい)どころか、道もからからに乾いて、橋の上も、平時(いつも)と少しも変りがない、おやッ、こいつは一番やられたわいと、手にした折詰を見ると、こは如何(いか)に、底は何時(いつ)しかとれて、内はからんからん、遂(つい)に大笑いをして、それからまた師匠の家(うち)へ帰っても、盛(さかん)に皆(みんな)から笑われたとの事だ。 
 
因果 / 小山内薫

 

俳優(やくしゃ)というものは、如何(どう)いうものか、こういう談(はなし)を沢山に持っている、これも或(ある)俳優(やくしゃ)が実見(じっけん)した談(はなし)だ。
今から最早(もう)十数年前(すねんぜん)、その俳優(やくしゃ)が、地方を巡業して、加賀(かが)の金沢市(かなざわし)で暫時(しばらく)逗留(とうりゅう)して、其地(そこ)で芝居をうっていたことがあった、その時にその俳優(やくしゃ)が泊っていた宿屋に、その時十九になる娘があったが、何時(いつ)しかその俳優(やくしゃ)と娘との間には、浅からぬ関係を生じたのである、ところが俳優(やくしゃ)も旅の身故(ゆえ)、娘と種々(いろいろ)名残を惜(おし)んで、やがて、己(おのれ)は金沢を出発して、その後(のち)もまた旅から旅へと廻っていたのだ、しかしその後(のち)に彼はその娘の消息を少しも知らなかったそうだが、それから余程月日が経ってから、その話を聞いて、始めて非常に驚怖(きょうふ)したとの事である。娘は終(つい)にその俳優(やくしゃ)の胤(たね)を宿して、女の子を産んだそうだが、何分(なにぶん)にも、甚(はなは)だしい難産であったので、三日目にはその生れた子も死に、娘もその後(のち)産後の日立(ひだち)が悪(わ)るかったので、これも日ならずして後(あと)から同じく死んでしまったとの事だ。こんな事のあったとは、彼は夢にも知らなかった、相変らず旅廻りをしながら、不図(ふと)或(ある)宿屋へ着くと、婢女(じょちゅう)が、二枚の座蒲団を出したり、お膳を二人前据(す)えたりなどするので「己(おれ)一人だよ」と注意をすると、婢女(じょちゅう)は妙な顔をして、「お連様(つれさま)は」というのであった、彼も頗(すこぶ)る不思議だとは思ったが、ただそれくらいのことに止(と)まって、別に変った事も無かったので、格別気にも止めずに、やがて諸国の巡業を終えて、久振(ひさしぶり)で東京に帰った、すると彼は間もなく、周旋する人があって、彼は芽出度(めでた)く女房を娶(もら)った。ところが或(ある)日若夫婦二人揃(そろい)で、さる料理店へ飯を食いに行くと、またそこの婢女(じょちゅう)が座蒲団を三人分持って来たので、おかしいとは思ったが、何しろ女房の手前もあることだから、そこはその儘(まま)冗談にまぎらして帰って来たが、その晩は少し遅くなったので、淋しい横町から、二人肩と肩と擦(す)れ寄(よ)りながら、自分の家の前まで来て内へ入ろうと思った途端、其処(そこ)に誰も居ないものが、スーウと格子戸が開いた時は、彼も流石(さすが)に慄然(ぞっ)としたそうだが、幸(さいわい)に女房はそれを気が付かなかったらしいので、無理に平気を装って、内に入ってその晩は、事なく寝たが、就中(なかんずく)胆(きも)を冷したというのは、或(ある)夏の夜のこと、夫婦が寝ぞべりながら、二人して茶の間で、都(みやこ)新聞の三面小説を読んでいると、その小説の挿絵が、呀(アッ)という間に、例の死霊が善光寺(ぜんこうじ)に詣(まい)る絵と変って、その途端、女房はキャッと叫んだ、見るとその黒髪を彼方(うしろ)へ引張(ひっぱ)られる様なので、女房は右の手を差伸(さしのば)して、自分の髪を抑えたが、その儘(まま)其処(そこ)へ気絶して仆(たお)れた。見ると右の手の親指がキュッと内の方へ屈(まが)っている、やがて皆(みんな)して、漸(ようや)くに蘇生をさしたそうだが、こんな恐ろしい目には始めて出会ったと物語って、後(あと)でいうには、これは決して怨霊とか、何とかいう様な所謂(いわゆる)口惜(くや)しみの念ではなく、ただ私に娘がその死を知らしたいが為(た)めだったろうと、附加(つけくわ)えていたのであった。 
 
梅龍の話 / 小山内薫

 

著(つ)いた晩はどうもなかつたの。繪端書屋の女の子が、あたしのお煎餅(せんべ)を泥坊したのよ。それをあたしがめつけたんで大騷ぎだつたわ。でも姐(ねえ)さんが可哀さうだから勘辨してお遣りつて言ふから、勘辨してやつたの。『赤坂のお酌梅龍が去年箱根塔の澤の鈴木で大水に會つた時の話をするのである。姐さんといふのは一時は日本一とまで唄はれた程聞えた美人で、年は若いが極めて落ちついた何事にも襤褸(ぼろ)を見せないといふ質(たち)の女である。これと同じ内の玉龍(たまりよう)といふお酌と、新橋のお酌の若菜といふのと、それから梅龍の内の女中のお富といふのと、斯う五人で箱根へ湯治(たうぢ)に行つてゐたのである。梅龍は眼の涼しい鼻の細い如何にも上品な可愛い子だが、食べる事に掛けては、今言つた新橋の若菜と大食(たいしよく)のお酌の兩大關と言はれてゐる。梅龍の話に喰べ物の出て來ない事は決して無い、』水の出たのはその明くる日の晩よ。あたしお湯へ這入つて髮を洗つてゐたの。洗粉を忘れて行つたんでせう。爲方がないから玉子で洗つたのよ。臭くつて嫌ひだけど我慢して。さうすると、なんだか急にお湯が黒くなつて來て、杉つ葉や何かが下の方から浮いて來るのよ。妙だと思つてると、お富どんが飛んで來て、「水ですから、逃げるんですから、水ですから、逃げるんですから。」ッて大慌(おほあわ)てなの。何だか分らないから、よく聞くと、山つなみとかで大水が出たから逃げるんだつて言ふんでせう。それから大急ぎでお湯を出たの。髮がまだよく洗ひ切れないんでせう。氣持が惡いから香水をぶつかけたら、尚臭くなつちまつたの。爲方がないから洗ひ髮をタオルで向う鉢卷なの。好い著物は汚(よご)すといけないからつて、お富どんがみんな鞄の中へ納(しま)つてしまつたんでせう。あたし宿屋の貸浴衣の長いのをずるずる引き摺つて逃げ出したの。でも若し喰べ物が無くなると困ると思つたから、牛の鑵詰と福神漬の鑵詰の口の明けたのを懷(ふところ)に捩(ね)ぢ込んで出たの。ところが慌てて福神漬の口の方を下にしたもんだから、お露(つゆ)がお腹(なか)の中へこぼれてぐぢやぐぢやなの。氣味が惡いつたらなかつたわ。
外へ出ると、眞暗で雨がどしや降りなの。半鐘(はんしよう)の音だの、人の騷ぐ聲だのは聞えるけど、一體どこにどの位水が出たんだか、まるで分らないのよ。兎に角向う側の春本つて藝者屋へ逃げるんだつて言ふから、あたしも附いて行くと、もうそこの家は人で一ぱいなの。鈴木のお客さんをみんなそこへ逃がしたんでせう。下駄なんか丸でどれが誰のだか分らないやうに澤山脱いであるの。
その内に向う川岸の藝者屋が川へ落ちたつて言ふのよ。なんだか少し恐いと思つてると、水力(すゐりよく)が切れて電氣がみんな消えてしまつたの。
蝋燭を上げますから一本宛お取りなさいつて言ふ人があるの。それからみんな手探りで一本宛貰ふのよ。あたしそつと二度手を出して二本取つてやつたわ。あたし達はそれから二階へ通されたの。貰つた蝋燭は、大根(だいこ)の輪切(わぎ)りにしてあるのを臺にして、それへ一本宛さして、みんな自分の前へ一つ宛置いてるのよ。姐さんはお守りをちやんと前へ置いて、お行儀よく坐つて兩手を合せて一生懸命に何か拜んでゐるの。
春本の藝者はあたし達を東京の藝者だと思つたらしいの。『梅龍は時々こんな物の言ひやうをする。自分は藝者といふ者と一向關係がないやうに言ふのである。それではお孃さんぶつてゐるのかと言ふと、さうでもないのである。要するに唯何でも構はず思つた通りをどしどししやべるのである。』だけど、聞くのも惡いと思つたんでせう。なんだかもぢもぢもぢもぢしてるのよ。「こんな所にゐては充(つま)りません。」だの何だのつて言ふの。なんだか愚痴見たいな心細い話ばかりするのよ。
その内に向うの山が崩れたッて噂なの。
すると何だか、轉がつて來たものがあるから、見ると、おむすびなの。一つ宛つきや呉れないのよ。それでもお腹が減つてたからおいしかつてよ。姐さんはどうしても喰べられないつて言ふから、あたし姐さんの分も喰べて上げたの。お數(かず)は懷の福神漬を出したんだけど、若菜さんは、そんなお腹ん中でこぼれた物なんか穢(きた)なくて喰べられないつて言ふの。だから、あたし一人で喰べたわ。
たうとうその晩は夜明かしよ。
朝の三時頃にお星樣が見えたの。その時のみんなの喜びやうつたら無かつたわ。
明くる朝は、又雨風がひどいのよ。いつまでそこの藝者屋にもゐられないし、それにもう塔の澤は一體に危(あぶな)くなつたから、今度は湯本(ゆもと)の福住(ふくずみ)へ逃げるんだつて言ふのよ。
出ようと思ふと、床の間に紙入が一つ乘つてるのよ。あたし姐さんのだと思つたから、澄まして自分の懷に入れつちまつたの。すると、そこへどつかの奧さんが上つて來て、「あの、若しやこの床の間に紙入が乘つてはゐませんでしたかしら。」つて、あたしに聞くのよ。さあ、あたしどうしようかと思つちまつたわ。あたしは確に姐さんのだと思つてるけども、若し姐さんので無ければ、その方のに違ひないでせう。でもそこで自分の懷から出して聞いて見る譯にも行かないわ。自分の懷から出して見せて、若しその奧さんのだつたら、きまりが惡いでせう。だから、あたし目を白つ黒しながら、「いいえ。そんな物ありませんでしたよ。」つて云つたの。さうすると、「さうですか、どうも失禮しました。」つて、その方は直ぐ下へ降りておしまひなすつたの。
姐さんは恐い顏をしてよ。「梅ちやん。お前さん、知つてゐて隱してゐるんぢやあるまいねえ。人間てものは、かういふ時には妙な氣を起し易(やす)いもんだから、氣を附けなくちやいけないよ。お前さん若し持つてるなら、お願ひだから出してお呉れ。」つて言ふんでせう。あたし何だか氣味が惡くなつて來て、「だつて、これは姐さんのでせう。」つて、懷(ふところ)から紙入を出して見せたの。すると姐さんは尚(なほ)と恐い顏になつてよ。「ほら御覽。持つてるぢやないか。よそ樣の物を懷へ入れるといふ事がありますか。」つて言ふの。「だつてあたし姐さんのだと思つたんですもの。」つて言ふと、「直ぐ下へ持つてつてお返しして入らつしやい、」つて言ふのよ。それから、あたし下へ持つてつて、「今よく探しましたら、戸棚のわきにありました。」つてその奧さんに渡したの。奧さんは幾度も幾度もお禮を言ふのよ。ほんとに、あたしあんなに困つた事は無かつたわ。顏がぽつぽして、汗びつしよりなの。
それから仕度(したく)をして外へ出ると、ざあざあつて雨なの。橋を渡らうとすると、橋の板が一枚々々めくれさうにしてゐるのよ。姐さんは死んでも渡るのは厭だつていふの。でも逃げないと危いからつて、あたしとお富どんで、抱へるやうにしてやつと渡らせたの。あたしも若菜さんも平氣なものよ。あんな面白い事なかつたわ。『大抵な人は一度斯ういふ目に會ふと懲(こ)りるものだが、梅龍は一向平氣なものである。これから却(かへ)つて水が好きになつたと言ふのだから驚く。こなひだも溜池(ためいけ)に水が出て、梅龍の家の揚板の下まで水が這入つた時も、自分の荷物だけはちやんと二階の安全な所へ納つて置いてから、尻つぱしよりで下をはしやぎ廻つたといふ利己的な奴である。』
やつと湯本の福住へ着いて、やれ安心とお湯へ這入つてると、こゝも危くなつたから、又逃げるんだつて言ふの。大變な雨風(あめかぜ)で傘も何もさせやしないのよ。姐さんは、お金がないと困るつて、信玄袋だけ持つて逃げたの。
やつと別館へ着いたと思つたら、姐さんが目を廻してひつくり返つて了つたの。別館にはもう大勢お客が逃げて來てゐるのよ。するとそのお客の中から、大學生見たいな方がどういふ訣だか、マントで顏を隱して、コップに注いだ葡萄酒をマントの下から出して下すつたのよ。それを飮むと姐さんは直ぐ氣が附いたの。あんまり心配したり雨に濡れたりしたからなんでせう。『この事はその後都新聞へ文章面白く書かれた。その大學生は或博士の祕藏息子であつた。梅龍の姉は大學生の親切が元で思はぬ戀に落ちたといふ風な極古風な艶種(つやだね)であつたが、梅龍はいつも「まさか。」と言つて、否定するのである。』それからお醫者を呼ぶと、芝居(しばや)のお醫者さん見たいなお醫者さんが來てよ。そりやあ、ほんとに芝居の通りよ。いやに勿體ぶつて。それで藪醫者なの。なんにも分りやあしないのよ。たうとう終(しまひ)に分らないものだから、家の方が水で危いからとか何とか言つて、逃げ出して行つてしまつたのよ。ほんとにあんなお醫者つて始めて見たわ。でも、姐さんは直ぐよくなつたの。
別館では大勢で焚き出しをしてるのよ。あたし前の晩におむすび二つ喰べたつきりでせう。お腹が減つてたから隨分喰べてよ。姐さんの分もお富どんの分も大抵あたしが喰べちまつたの。
明くる日お天氣になつたから、玉龍さんと三人で玉簾(たまだれ)の瀧へ行つて見たの。方々、水が往來を流れてゐて面白かつたわ。玉簾の庭はめちやめちやなの。瀧はいつもの倍の倍位大きくなつてゐるのよ。あのお池の側の離れ見たいなものね、あれなんかも流れつちまつてゐるのよ。
なんにも喰べる物がないから、お茶屋で懷中じる粉を買つて、お湯で解いて飮んだの。そしたら小さい日の丸の旗が出てよ。旅順口(りよじゆんこう)なんて書いてあるの。餘つ程古い懷中じる粉なのねえ。『懷中じる粉は買つたのではないのである。お茶屋ではもう何處かへ逃げてしまつて誰もゐなかつたのである。梅龍達はそこらに落ちてゐた懷中じる粉を拾つて來て水で解いて飮んだのである。これはもうお富に聞いて、わたしはちやんと知つてゐる。』
それから歸り道に大きな石を拾つたの。それは隨分大きな石なのよ。三人で一生懸命に持ちやげたの。どうかしてこの石で姐さんを欺して遣らうと思つて、新聞屋へ寄つて、新聞紙を一枚貰つたの。それからその新聞紙で石を丁寧に包んで、おはぎの積りで持つて歸つたの。
家へ歸ると姐さんは一人で本を讀んでるのよ。「姐さん、おはぎをお土産に買つて來ましたよ。」つて、石を出すと、姐さんは本から眼を放さないで、「あいよ。」つて手を出したの。受けると馬鹿に重いもんでせう。きやあつて言つて驚いて庭へ投げ出しちまつたの。地響きがしてよ。姐さん隨分怒つたわ。
庭に穴があいたもんだから宿屋の人にも叱られてよ。でも隨分面白かつたわ。
水の時の話はそれつきりだけど、まだ跡で面白い事があつてよ。あたし達の泊つた箱根の春本の藝者で小玉(こたま)とか何とかいふ人が、この頃赤坂へ來てゐるのよ。こなひだ三河屋で一緒になつたら、向うの方で頻(しき)りに水の時の話をしてゐるのよ。あの時は家へ來て泊つた鈴木のお客に餘所行の下駄を二足とも穿(は)いて行かれてしまつて、あんな困つた事はなかつたつて言つてるのよ。水が濟んでから二三日してお座敷へ行かうと思ふと下駄が足駄も駒下駄も兩方とも無かつたんですつて。
あたし、どきつとしてよ。あたしが穿いて出た下駄に違ひないんですもの。あたしあの時なんでも構はず出てゐる下駄を突つかけて出た覺えがあるの。
それから、あたしその小玉さんとか言ふ人にあやまつたわ。あたし、あやまるの大嫌ひだけども、泥坊つて言はれるのは厭だからあやまつたの。そしたら、向うぢやもうあたしの顏よく覺えてゐなかつたわ。損しちやつたわねえ。 
 
女の膝 / 小山内薫

 

私の実見(じっけん)は、唯(ただ)のこれが一度だが、実際にいやだった、それは曾(かつ)て、麹町三番町(こうじまちさんばんちょう)に住んでいた時なので、其家(そこ)の間取(まどり)というのは、頗(すこぶ)る稀(ま)れな、一寸(ちょいと)字に書いてみようなら、恰(あだか)も呂(ろ)の字の形とでも言おうか、その中央(なか)の棒が廊下ともつかず座敷ともつかぬ、細長い部屋になっていて、妙に悪(わ)るく陰気で暗い処(ところ)だった。そして一方の間(ま)が、母屋で、また一方が離座敷(はなれざしき)になっていて、それが私の書斎兼寝室であったのだ。或夜(あるよ)のこと、それは冬だったが、当時私の習慣で、仮令(たとえ)見ても見ないでも、必ず枕許(まくらもと)に五六冊の本を置かなければ寝られないので、その晩も例の如くして、最早(もはや)大分夜も更(ふ)けたから洋燈(ランプ)を点(つ)けた儘(まま)、読みさしの本を傍(わき)に置いて何か考えていると、思わずつい、うとうととする拍子に夢とも、現(うつつ)ともなく、鬼気(きき)人に迫るものがあって、カンカン明るく点(つ)けておいた筈の洋燈(ランプ)の灯(あかり)が、ジュウジュウと音を立てて暗くなって来た、私はその音に不図(ふと)何心(なにごころ)なく眼が覚めて、一寸(ちょいと)寝返りをして横を見ると、呀(アッ)と吃驚(びっくり)した、自分の直(す)ぐ枕許(まくらもと)に、痩躯(やせぎす)な膝(ひざ)を台洋燈(だいランプ)の傍(わき)に出して、黙って座ってる女が居(い)る、鼠地(ねずみじ)の縞物(しまもの)のお召縮緬(めしちりめん)の着物の色合摸様まで歴々(ありあり)と見えるのだ、がしかし今時分、こんなところへ女の来る道理がないから、不思議に思ってよく見ようとするが、奇妙に、その紫色の帯の処(ところ)までは、辛(かろ)うじて見えるが、それから上は、見ようとして、幾(いく)ら身を悶掻(もが)いても見る事が出来ない、しかもこの時は、非常に息苦しくて、眼は開(ひら)いているが、如何(どう)しても口が利けないし、声も出ないのだ、ただ女の膝(ひざ)、鼠地(ねずみじ)の縞物(しまもの)で、お召縮緬(めしちりめん)の着物と紫色の帯と、これだけが見えるばかり、そして恰(あだか)も上から何か重い物に、圧(おさ)え付けられるような具合に、何ともいえぬ苦しみだ、私は強(し)いて心を落着(おちつ)けて、耳を澄(すま)して考えてみると、時は既に真夜半(まよなか)のことであるから、四隣(あたり)はシーンとしているので、益々(ますます)物凄い、私は最早(もはや)苦しさと、恐ろしさとに堪(た)えかねて、跳起(はねお)きようとしたが、躯(からだ)一躰(いったい)が嘛痺(しび)れたようになって、起きる力も出ない、丁度(ちょうど)十五分ばかりの間(あいだ)というものは、この苦しい切無(せつな)い思(おもい)をつづけて、やがて吻(ほっ)という息を吐(つ)いてみると、蘇生(よみがえ)った様に躯(からだ)が楽になって、女も何時(いつ)しか、もう其処(そこ)には居なかった、洋燈(ランプ)も矢張(やはり)もとの如く点(つ)いていて、本が枕許(まくらもと)にあるばかりだ。私はその時に不図(ふと)気付いて、この積んであった本が或(あるい)は自分の眼に、女の姿と見えたのではないかと多少解決がついたので、格別にそれを気にも留めず、翌晩は寝る時に、本は一切(いっせつ)片附けて枕許(まくらもと)には何も置かずに床(とこ)に入った、ところが、やがて昨晩(ゆうべ)と、殆(ほと)んど同じくらいな刻限になると、今度は突然胸元が重苦しく圧(お)されるようになったので、不図(ふと)また眼を開けて見ると、再度(にど)吃驚(びっくり)したというのは、仰向きに寝ていた私の胸先に、着物も帯も昨夜(ゆうべ)見たと変らない女が、ムッと馬乗(うまのり)に跨(また)がっているのだ、私はその時にも、矢張(やっぱり)その女を払い除(の)ける勇気が出ないので、苦しみながらに眼を無理に睜(みは)って、女の顔を見てやろうとしたが、矢張(やっぱり)お召縮緬(めしちりめん)の痩躯(やせぎす)な膝(ひざ)と、紫の帯とが見ゆるばかりで、如何(どう)しても頭が枕から上らないから、それから上は何にも解らない、しかもその苦しさ切無(せつな)さといったら、昨夜(ゆうべ)にも増して一層(いっそう)に甚(はなはだ)しい、その間も前夜より長く圧(おさ)え付けられて苦しんだがそれもやがて何事もなく終(おわ)ったのだ、がこの二晩の出来事で私も頗(すこぶ)る怯気(おじけ)がついたので、その翌晩からは、遂に座敷を変えて寝たが、その後(ご)は別に何のこともなかった、何でもその後(ご)近所の噂に聞くと、前に住んでいたのが、陸軍の主計官とかで、その人が細君を妾(めかけ)の為(た)めに、非常に虐待したものから、細君は常に夫の無情を恨んで、口惜(くやし)い口惜(くやし)いといって遂(つい)に死んだ、その細君が、何時(いつ)も不断着(ふだんぎ)に鼠地(ねずみじ)の縞物(しまもの)のお召縮緬(めしちりめん)の衣服(きもの)を着て紫繻子(むらさきじゅす)の帯を〆(し)めていたと云うことを聞込(ききこ)んだから、私も尚更(なおさら)、いやな気が起(おこ)って早々に転居してしまった。その後(ご)其家(そこ)は如何(どう)なったか知らないが、兎(と)に角(かく)、嫌な家(うち)だった。 
 
芝、麻布 / 小山内薫

 

『あばよ、芝よ、金杉よ。』
子供の頃、一緒に遊んでいた町の子達と別れる時、よく私達は歌のように節をつけて、こういった。
私は麹町の富士見町で育った。芝といえば――金杉といえば――大変遠いところのような気がした。
『あばよ、芝よ、金杉よ。』
今でも、この一句を口ずさむと、まだ電灯のなかった、薄暗い、寂しい、人通りの少ない、山の手の昔の夕暮が思い出される。
その芝というところと私が関係を持つようになったのは、三田の慶応義塾へ通うようになってからであった。
私が下町の放浪生活をやっている時代であった。新佃島の海水館という下宿に、ただ一人で寝起をしていた頃、或日、永井荷風君から電話がかかって来た。森鴎外先生が慶応義塾の文科の顧問になられたについて、自分も三田へ教えに行くことになったが、君にも出てもらいたいという先生のおことばだから、宜(よろ)しくたのむというのである。
私は帝大の課程こそおえていたが、学校の教師になろうなどという考えは毛頭なかったし、またなれるという自信もなかった。併(しか)し、鴎外先生のおいいつけだというのがうれしくて、直ぐと承知してしまった。
それから、一週に二時間ずつ三田の文科へ劇文学の講義をしに行くことになった。尤(もっと)も、教務からは何の講義をしろという命令もなかったのである。時間表には、いつもただ「英文学」と書いてあった。
慶応義塾へは、それからずうっと――その間に、向うから休ませられたり、こっちから休んだりしたことはあったが――兎(と)に角(かく)、大震火災の年まで通い続けた。
慶応義塾の生活では、なんといっても、ヴィッカアス時代が、一番なつかしい。ヴィッカアス時代というのは、今の大ホオルの後にあるヴィッカアスと称(とな)えられる小さな独立会館が、文科の教室になっていた時代のことである。
多分昔いたヴィッカアスという外人教授の舎宅か何かであったのだろう。二階建の旧式な洋館で階上階下とも部屋は四つ位しかなかった。二階は三つの部屋が教室にあてられて、他の一つが物置きになっていた――私はこの部屋に、三田文学の返品がむごたらしく荒縄に縛られて、山のように積まれていたのを覚えている。それから、のん気な学生が袴(はかま)をここに投(ほう)り込んで置いて、学校まで着流しで来ては、よくここでこそ/\袴をはいているのを見た。
階下は部屋の一つが職員の食堂にあてられ、他の一つが学生の小さな集会場になっていた。他の部屋はコック部屋にでもなっていたのだろうか、記憶が甚(はなは)だぼんやりしている。
その時分の文科の学生は誠に少なかった。小さな部屋で膝と膝を突き合わせて、教師も生徒もなしに、懇談をする、というような状態だった。
或時、博文館の「太陽」が募集して、私が選をした懸賞脚本の話をしていると、一人の学生がおど/\しながら、その選にはいった脚本の一つは、実は自分のだとふるえ声でいった。それが今の久保田万太郎だった。
或時、一人の学生が芝浦の料理屋から教室で講義をしている私のところへ、車夫に手紙を持たせて、講義なぞは好い加減にして早く飲みに来いといってよこした。その学生が今の佐藤春夫だった。 
明舟町
私は新佃の下宿から、下渋谷伊達跡の岡田三郎助のところへ移り、それから妻を娶(めと)って、岡田の家のつい近くに家を持った。それから、半年ほど西洋へ行って来て、帰ると間もなく、赤坂田町の亜米利加(アメリカ)大使館の前へ越した。
そこで私は火事に遭った。直ぐ裏に住んでいたファアブリという伊太利(イタリア)人が、商売物のフィルムから火を失したのである。
その晩、直ぐ家を探して、難を避けたのが芝明舟町の裏長屋であった。私が芝区の住人となったのは、生れてこれがはじめてであった。
明舟町の家は狭くて、小さかったが、家主が親切なのと、裏住居の気楽さに、半年ほどを夢のように過ごした。
二階の書斎の目隠しの向うに、市村羽左衛門の家の庭があった。目隠しの隙間からのぞくと、市村が夜おそく芝居から帰って来てくつろいでいる様子などが見えた。
市村はああいう人だから、よく大きな声で、庭先の縁から、私の書斎へ詞(ことば)をかけた。
『小山内君、来ないか。うまいお菓子があるぜ。』
私は目隠しの隙間から、
『有難う、今行くよ。』
などと答えて、表から廻って、あの宏大な邸宅へ、ふだん着のままで押し上がったものであった。
今の家橘――その時分の竹松――が、伴内の稽古を家でしていることがあった。なんでも、親父が帝劇でお祭り佐七をやるので、例の踊り屋台の伴内をやるのだった。
『やあ、やあ、勘平。」[#「『やあ、やあ、勘平。」」はママ]という乗りになるところを、お母さんの監視の下に、幾度も幾度も稽古させられていた。私は竹松が可哀そうになった。役者の子はつらいものだなあと思った。自分の子は決して役者にはすまいと思った。その私が、今年はとう/\三男を旧役者の群に投ずることになった。こないだ、震災後再築された市村の家の前を計らず久しぶりで通って、私は今昔の感に堪(た)えなかった。
明舟町は誠に静かなところである。琴平様の縁日の時は、多少賑うが、ふだんはいつもひっそり閑(かん)としている。前が宮様で、その隣が公園だからでもあろう。私はあんな住心地の好いところを知らない。
併(しか)し、私のいた明舟町の家では、不愉快な事件が起った。風呂場がないので、家の者はみんな銭湯へ行った。ところが、子供が銭湯で水疱瘡(みずぼうそう)という奴をしょって来た。それがよくなると、今度はみんなが虫に刺された。二つずつ赤い跡がついて、ひどく痛むのである。
「南京虫だ。」
誰かがそういい出した。そこいら、気をつけて見ると、柱でも床でも、隙間(すきま)という隙間には、みんな巣を食っていた。
私は「南京虫駆除」の広告を新聞で探して、そこへ手紙を出した。洋服を着た若い男が二人、妙な器械を持って来て、水蒸気で家中を蒸(む)した。お陰で、虫の掃除は出来たが、その代り、大事な本が一緒に蒸されて、みんなべとべとになってしまった。 
化物屋敷
ちょうど、その頃、家内の姉が大勢の家族をつれて、摂津の尼ヶ崎から東京へ出て来た。姉の夫がアメリカへ行くので、住居を東京へ移すことになったのである。
そこで、姉の一家族と私の一家族とが一緒に住めるような広い家を探すことになった。姉の方は女子供ばかりで心細がっているし、私の方は南京虫で嫌気(いやけ)がさしているので、急にこういう相談が出来たのである。
或日或人が高輪車町の海岸に適当な家があると知らせてくれた。私は早速出かけて行って見た。
電車の停留場からほんの五、六間も行ったところの左側で、往来からずっと奥へはいったところに大きな門がある。門をはいると、門番の住居が別に一棟立っているのに先ず驚かされた。
大名屋敷の表のような堂々たる玄関、宿屋の風呂場のような広々とした明るい湯殿、板の間が十畳以上もあろうという台所。土蔵が二戸前あった。裏には、テニスコートぐらい出来そうな空き地がある。座敷は二十何畳という広さのが、階上にも階下にも二つずつくらいはあった。庭には池があり、築山があった。その向うが海になっている。便所は勿論、湯殿までが上下二つあって、それで家賃が七十円だというのである――尤(もっと)も、物価のまだ安い時分ではあったが。
姉の家の子供が五人、私の家の子供が二人、子供だけでも七人という数だから、兎(と)にも角(かく)にも安くて広いというのを取柄に、早速そこへ二軒の家を一つにして越した。
ところが、少し離れているとはいうものの、門の前を市電が通る庭と海との間には、レエルが幾筋ともなく走っていて、汽車が通る。貨物列車が通る。省電がひっきりなしに、右から左へ、左から右へと通る。庭向きの広間で客と用談などをしていても、電車が通ったり汽車が通ったりする間はまるで話が聞えない。それが殆(ほとん)ど昼夜ぶっ通しで、ほんとにしずかになるのは、ほんの夜中の二、三時間ぐらいなものである。
成程、これは安いわけだと思っていると、私の家内が夜中にうなされる。白い着物を着た怪しいものを見る。裏の土蔵の戸前に「乳房榎」の芝居の番付がはってあったのを誰かが見つけて、愈々(いよいよ)騒ぎ出す。その内に、初めて来た若い魚屋が置いて行ったバカのむきみに家中の者があたって、吐きくだしをする。しかもその魚屋はそれっきり勘定をとりに来ないというような変なことがあったので、女達が神経質になって、いろ/\調べると、なんでもこの家の元の持主は、事業に失敗して、土蔵の中で縊(くび)れたが死に切れず、庭の井戸へ身を投げて命を果てたのだというのである。そう聞いて見ると、今の持主が農工銀行で、家賃を毎月銀行へ収めに行くのも、変といえば変である。
とうとう気味が悪くなって、私の家は麻布の森元へ、姉の家は愛宕へ越したが、間もなく高輪の家は取こわされて、自動車のギャレエジになってしまった。
つい十年も前のことだか、まだその時分は、東京にもこんなことがあったのである。 
芝浦
高輪で思い出したが、芝浦というところにも、私は忘れられない追憶を持っている。
もう二十年以上も前のことだが、その時分の芝浦は粋なところで、本場所の芸者や客の隠れ遊びをするような場所になっていた。
そこの料理屋兼旅館に芝浜館という家があった。私が忘れられない追憶といったのは、そこで第二次「新思潮」の編輯(へんしゅう)会議をしたことである。
第二次「新思潮」の同人は、谷崎潤一郎、和辻哲郎、後藤末雄、大貫晶川、木村荘太などであった。別に、客員として、今では精神病の大家になった杉田直樹などがいた。
木村荘太の家兄が芝浜館の経営をしていた。そこで、荘太の斡旋(あっせん)で、そこの座敷の一つを時々編輯会議に借りることが出来たのである。私は単に後見役だったが、直ぐ前に海の干潟(ひがた)の見える広い座敷で、ごろ/\しながら編輯に口を出したことが、二度や三度は確かにあった。
亡くなった大貫と木村荘太とか藤村(とうそん)党で、よく藤村氏を代地の家に訪ねた。後藤は荷風(かふう)党で、永井君の小説を真似た。和辻は日本の「アンナ・カレニナ」を計画した。谷崎はどんな先輩をも決して崇拝しなかった。かれは初めから一人で自分の道を歩いた。
私がおつきあいで書いた「反古」というエロチックな短編が禍(わざわ)いをなして、第二次「新思潮」は第一号を出すと、直ぐ発売頒布を禁ぜられた。
編輯人としては私の名が署(しる)してあった。私はその時分下渋谷に住んでいたので、新宿の警察署へ呼び出された。
「どうも、この小説は少し色っぽいですなあ。」
なんでも、そんなことを若い法学士の署長さんがいった。そして、始末書を書かされた。それで済んだのかと思っていると、その始末書を証拠に起訴された。その結果、雑誌を没収された上に、同人の中でその当時一番金の自由になった木村が罰金を払った。
私は若い人達――といっても、実をいうと、そんなに年は違わないのだが――のために、雑誌の後見役になって、書かないでも好いものをおつきあいに書いたために、みんなに飛んだ迷惑をかけてしまった。これは今でも済まないと思っている。
その上に、私はその短編の内容について、読売新聞か何かで、内田魯庵先生にひどくしかられたのを覚えている。
こないだ、久しぶりに芝浦へ行って見ると、第一埋立地の広くなっているのに驚いた。むかしあんなに遠浅だった浜に、立派な埠頭(ふとう)の出来ているのに驚いた。そこの建物が悉(ことごと)く倉庫ばかりで昔の料理屋や旅館などの影も形もないのに驚いた。
ただ、少しも変らないのは、海の向うに見える浜離宮の黒松だけである。
私は、あの黒い松を見た瞬間に第二次「新思潮」創刊号の発禁という、実に不思議な連想をおこした。 
森元町
麻布の森元も特色がないようで、特色のある土地である。
ちょうど天文台の下にある窪地で、飯倉四丁目の停留場から細道を曲がりくねってはいる一区域である。昔は小芝居などもあったらしく、芝公園の山の上から、幟(のぼり)なども見えたらしい。
私の住んでいた頃は、お妾さんや女優や旧劇の女形などが住んでいるのが目についた。気のせいか世に隠れているような人達ばかりが巣を食っているように見えた。
併(しか)し、私は決して隠れてはいなかった。私は慶応義塾へ歩いて通えるのが第一都合がよかった。私は一週に一度古川橋を渡って、綱町の高台へ登って、それから坂を降りて、裏門から三田の教室へ行った。子供達はまだ小さくて、芝公園の幼稚園へ通った。
私は市村座の顧問に雇われて、ここから殆(ほとん)ど毎日下谷の二長町へ通った。菊五郎が芝公園に住んでいたので、二、三度遊びに行ったこともあった。六代目は話好きで、夜おそくまで客を帰さなかった。併し、私は近いので、気を揉(も)まずに済んだ。公園の六代目の家のことで、私が一番はっきり覚えていることは、宏大な台所の揚板の下に平野水の瓶が列をなしていたことである。六代目はウィスキイが強かった。
麻布の更科という名代のそば屋は、ちょうど森元の通りを突き当ったところにあった。左団次は先代以来、十二月の三十一日に一門を引き連れて、ここへそばを食いに来るのが家例になっていた。或年の大晦日に高島屋が森元の家へ、私を誘いに寄ったことがあった。
森元の住居は高輪の化物屋敷と違って、鼻がつかえる程狭かったか[#「狭かったか」はママ]、日当りがよくて、あたりが静かで、思いの外住心地がよかった。が、ここで三人になった子供が、とっかえ引っかえ病気をした。
私は出先から電話で呼ばれて、何度自動車を飛ばしたか分らなかった。今でも、森元の話が出ると、何よりも先ず子供の病気を思い出す位である。私は枕を列べて呻吟(しんぎん)している三人の子供の看護に、夜も寝なかったことが度々あった。
家の直ぐ前に井戸があった。この井戸がいけないのだという説が出て来た。或人が根岸の方の紺屋で家相(かそう)に詳しい老人を連れて来て見せた。
「これは後家(ごけ)家屋というのです。直ぐ越さなければいけません。」
老人はいきなりこういった。
「後家家屋といいますと……」
家内がこう訊(き)くと、
「後家が出来るんです。みんな死んでしまうんです。」
それは大変だというので、三番目の子供が流感で寝ている最中に、その家相の先生の指図で、四谷の方に家を探した。坂町に好い家があった。そこで、寝ている子供を蒲団にくるんだまま自動車にのせて、引越しをした。
子供の病気はその日から快くなった。
勿論、偶然事に違いない。併し、それからというもの、家内は家相の信者になってしまった。
だが、転々として借家住居を続けている私にとって、家相というものは、何という不便なものだろう。 
竜土会
麻布でもう一つ想い出すのは、竜土軒(りゅうどけん)のことである。そこは麻布一連隊の前にある古風な小さい西洋料理店であるに過ぎないが、ここで私の先輩達が、むかし竜土会というものを開いたのである。
国木田独歩、島崎藤村、柳田国男、田山花袋、中沢臨川、蒲原有明などという先輩の驥尾(きび)に付して武林繁雄(無想庵)や私なども、よくその会へ出た。
竜土軒の最初の発見者は、旧白馬会の人達ではなかったかと思う。和田英作氏や岡田三郎助などが早い顧客であったことは確かである。西洋人のところでまなんだという主人のフランス料理が、パリー帰りのハイカラ画家達を喜ばせたのが人気のつき初めだったに違いない。
竜土会という会合は、その時分の文壇に非常な勢力を持っていた。勿論、その頃の文壇には党派があった。早稲田派がある。赤門派がある。文学界派がある。硯友社(けんゆうしゃ)派がある。だが、竜土会はすべての党派を抱擁(ほうよう)していた。誰が主将というのでもなかったが、どの党派からも喜んで人が出て来た。長谷川天渓氏が来た。川上眉山氏が来た。小栗風葉氏が来た。徳田秋聲氏も来た。生田葵山氏も来た。詩人も来た。小説家も来た。評論家も来た。画家も来た。
私のような後輩は、この会へ出席出来るというだけでも、非常な感激であり、非常な光栄だった。
竜土軒の主人は八字髯(ひげ)を生やした品の好い男で、耳が少し遠かった。細君は赤坂の八百勘で女中をしていた人で、始終粋な丸髷(まるまげ)に結っていた。
ひどく料理に凝(こ)る家で、殊(こと)に竜土会の時は凝り過ぎるという評があった。紅葉山人のなくなった後だった。「紅葉山人白骨」というのが献立(こんだて)にあるので、みんなが驚いた。それは、鹿か何かの髄のついた骨で、楊子代りに、おもちゃのような塔婆(とうば)がついているものだった。
竜土会では、酒がはずんだ。議論はしょっちゅうのこと、喧嘩も折々はあった。現に、私も会員の一人に杯を投げつけられて、温厚な柳田氏を困惑させたことがあった。併し、あの時分は、みんなお互いに遠慮をしなかった。作の上のことでも、生活の上のことでも、忌憚(きたん)なく物を言い合った。もうああいう空気は現代にはない。
しまいには、後輩組の武林までが酔っぱらって、
「やい、小山内、貴様は藤村の前へ出ると、頭が上らないじゃないか。弱虫め。」などと罵倒するようになった。
談論風発(だんろんふうはつ)では、何といっても国木田独歩が第一だった。文字通りに口角泡を飛ばして、当時の旧文芸を罵倒した。あの刺すような皮肉は、今もなお耳底に残っている。
今の竜土軒は、先代夫婦の亡きあとを承(う)けて、好人物らしい養嗣子が経営ている[#「経営ている」はママ]が、その時分の吾々の文反故を、今でも大切に保存している――
古今独歩と大きく書いて、下に国北生と署名したのは、独歩が酔余(すいよ)の達筆である。自分の似顔に鬼のような角(つの)を生やして、毒哺生と名を署したのも彼である。電車の略図をかいて、その下にAnEngineerと書いたのは中沢臨川である。女学生の顔をかいて、その下に「崇拝女学生」と書いたのは誰であろう。
私はこないだ久しぶりで、これらを見せられて、今昔の感に堪(た)えなかった。
岡田三郎助の雛妓(おしゃく)の額が、また壁間に残っているのも、思い出の種である。 
 
梨の実 / 小山内薫

 

私がまだ六(むっ)つか七(なな)つの時分でした。
或(ある)日、近所の天神(てんじん)さまにお祭があるので、私は乳母(ばあや)をせびって、一緒にそこへ連れて行ってもらいました。
天神様の境内は大層(たいそう)な人出でした。飴屋(あめや)が出ています。つぼ焼屋が出ています。切傷の直(す)ぐ癒(なお)る膏薬(こうやく)を売っている店があります。見世物(みせもの)には猿芝居(さるしばい)、山雀(やまがら)の曲芸、ろくろ首、山男、地獄極楽のからくりなどという、もうこの頃ではたんと見られないものが軒を列(なら)べて出ていました。
私は乳母に手を引かれて、あっちこっちと見て歩く内に、ふと社の裏手の明き地に大勢人が集まっているのを見つけました。
側(そば)へ寄って見ると、そこには小屋掛(こやがけ)もしなければ、日除(ひよけ)もしてないで、唯(ただ)野天(のてん)の平地(ひらち)に親子らしいお爺(じい)さんと男の子が立っていて、それが大勢の見物に取り巻かれているのです。
私は前に大人(おとな)が大勢立っているので、よく見えません。そこで、乳母の背中におぶさりました。すると、そのお爺さんのしゃべっている事がよく聞えて来ました。
「ええ。お立ち合いの皆々様。わたくしは皆様方のお望みになる事なら、どんな事でもして御覧に入れます。大江山(おおえやま)の鬼が食べたいと仰(おっ)しゃる方があるなら、大江山の鬼を酢味噌(すみそ)にして差し上げます。足柄山(あしがらやま)の熊(くま)がお入用(いりよう)だとあれば、直(す)ぐここで足柄山の熊をお椀(わん)にして差し上げます……」
すると見物の一人が、大きな声でこう叫(どな)りました。
「そんなら爺(じじ)い、梨の実を取って来い。」
ところが、その時は冬で、地面の上には二三日前に降った雪が、まだ方々に白く残っているというような時でしたから、爺さんはひどく困ったような顔をしました。この冬の真最中(まっさいちゅう)に梨の実を取って来いと言われるのは、大江山の鬼の酢味噌が食べたいと言われるより、足柄山の熊のお椀が吸いたいと言われるより辛(つら)いというような顔つきをしました。
爺さんは暫(しばら)く口の中で、何かぶつぶつ言ってるようでしたが、やがて何か考えが浮んだように、俄(にわか)にニコニコとして、こう申しました。
「ええ。畏(かしこま)りました。だが、この寒空(さむぞら)にこの土地で梨の実を手に入れる事は出来ません。併(しか)し、わたくしは今梨の実の沢山になっているところを知っています。それは」
と空を指さしまして、
「あの天国のお庭でございます。ああ、これから天国のお庭の梨の実を盗んで参りますから、どうぞお目留められて御一覧を願います。」
爺さんはそう言いながら、側(そば)に置いてある箱から長い綱の大きな玉になったのを取り出しました。それから、その玉をほどくと、綱の一つの端(はじ)を持って、それを勢(いきおい)よく空へ投げ上げました。
すると、投げ上げた網の上の方で鉤(かぎ)か何かに引っかかりでもしたように、もう下へ降りて来ないのです。それどころではありません。爺さんが綱の玉を段々にほごすと、綱はするするするするとだんだん空の方へ、手(た)ぐられでもするように、上がって行くのです。とうとう綱の先の方は、雲の中へ隠れて、見えなくなってしまいました。
もうあといくらも綱が手許(てもと)に残っていなくなると、爺さんはいきなりそれで子供の体(からだ)を縛(しば)りつけました。
そして、こう言いました。
「坊主。行って来い。俺(おれ)が行くと好(い)いのだが、俺はちと重過ぎる。ちっとの間(ま)の辛抱だ。行って来い。行って梨の実を盗んで来い。」
すると、子供が泣きながら、こう言いました。
「お爺さん。御免よ。若(も)し綱が切れて高い所から落っこちると、あたい死んじまうよ。よう。後生だから勘弁してお呉れよ。」
いくら子供がこう言っても、爺さんは聞きませんでした。そうして、唯(ただ)早くしろ早くしろと子供をせッつくばかりでした。
子供は為方(しかた)なしに、泣く泣く空から下がっている綱を猿のように登り始めました。子供の姿は段々高くなると一緒に段々小さくなりました。とうとう雲の中に隠れてしまいました。
みんなは口を明いて、呆(あき)れたように空の方を見ていました。
そうすると、やがて不意に、大きな梨の実が落ちて来ました。それはそれは今までに見た事もないような大きな梨の実でした。西瓜(すいか)ぐらい大きな梨の実でした。
すると、爺さんはニコニコしながら、それを拾って、自分の直(す)ぐ側(そば)に立っている見物の一人に、おいしいから食べて御覧なさいと言いました。
途端(とたん)に、空から長い網がするすると落ちて来ました。それが、見ている間(ま)に、するするするすると落ちて来て、忽(たちま)ち爺さんの目の前に山のようになってしまいました。
すると爺さんが青くなって叫びました。
「さあ、大変だ。孫はどうしたのでございましょう。孫はどうして降りて来るのでございましょう」
そう言ってる途端に、どしんという音がして何か空から落(おっ)こって来ました。
それは子供の頭でした。
「わあ、大変だ。孫はきっと天国で梨の実を盗んでるところを庭師に捕(つか)まって、首を斬(き)られたに違いない。ああ、わしはどうして孫をあんな恐ろしい所へ遣(や)ったんだろう。なぜ、皆様方は梨の実が欲しいなどと無理な事を仰(おっ)しゃったのです。可哀(かわい)そうに、わたくしのたった一人の孫は、こんな酷(むご)たらしい姿になってしまいました。ああ、可哀そうに。可哀そうに。」
爺さんはこう言って、わあわあ泣きながら、子供の首を抱きしめました。
そうしてる内に、手が両方ばらばらになって落ちて来ました。右の足と左の足とが別々に落ちて来ました。最後に子供の胴が、どしんとばかり空から落っこって来ました。
私はもう初め首の落っこって来た時から、恐(こわ)くて恐くてぶるぶる顫(ふる)えていました。
大勢の見物もみんな顔色を失(うしな)って、誰(だれ)一人口を利(き)く者がないのです。
爺さんは泣きながら、手や足や胴中を集めて、それを箱の中へ収(しま)いました。そして、最後に、子供の頭をその中へ入れました。それから、見物の方を向くと、こう言いました。
「これはわたくしのたった一人の孫でございます。わたくしは何処(どこ)へ参るにも、これを連れて歩きましたが、もうきょうからわたくしは一人になってしまいました。
もうこの商売も廃(や)めでございます。これから孫の葬(ともら)いをして、わたくしは山へでも這入(はい)ってしまいます。お立ち会いの皆々様。孫はあなた方の御注文遊ばした梨の実の為(ため)に命を終えたのでございます。どうぞ葬(ともら)いの費用を多少なりともお恵み下さいまし。」
これを聞くと、見物の女達は一度にわっと泣き出しました。
爺さんは両手を前へ出して、見物の一人一人(ひとりびとり)からお金を貰(もら)って歩きました。
大抵(たいてい)な人は財布(さいふ)の底をはたいて、それを爺さんの手にのせて遣(や)りました。私の乳母(ばあや)も巾着(きんちゃく)にあるだけのお金をみんな遣ってしまいました。
爺さんは金をすっかり集めてしまうと、さっきの箱の側(そば)へ行って、その上を二つ三つコンコンと叩(たた)きました。
「坊主。坊主。早く出て来て、お客様方にお礼を申し上げないか。」
爺さんがこう言いますと、箱の中でコトンという音がしました。
すると、箱の蓋(ふた)がひとりでにヒョイと明いて中から子供が飛出しました。首も手も足もちゃんと附(つい)ていて、怪我(けが)一つしていない子供が、ニコニコ笑いながら、みんなの前に立ちました。
やがて、子供と爺さんは箱と綱を担(かつ)いで、いそいそと人込(ひとごみ)の中へ隠れて行ってしまいました。 
 
反古 / 小山内薫

 

これは私が十七の時の話です。
私の伯母の内に小間使をしてゐたお時といふ十七になる女が、二月ばかり私の内へ手傳に來てゐたことがありました。何でも内の小間使が、親が死んだかどうかして、暫く國へ歸つてゐた間の事です。
お時は鼻の少し大きな女でしたが、少し下つた眼尻に何とも言へぬ愛嬌があつて、年頃の男の氣を引くにはそれでもう十分でした。それに色のくッきりと白いのと、聲の可愛いのと、態度の如何にも色ッぽいのとが、餘計に私共の氣を浮き立たせたのです。
併し、伯母の所へ來たての時分は、高い所に生(な)つてゐる青い林檎の實のやうに、惡くコツ/\と堅くて、私共の手の屆かぬ所へ始終逃げてるといふ、風がありました。
その逃げる所が又可愛いので、なほ私共は追つかけたものです。伯母の留守を狙つて行つては、よく家中追つかけ廻したものですよ。二人とも跣足で庭へ飛び降りて築山の椿の後(うしろ)で箒合戰(はうきがつせん)をした事などは度々です。何でもふざけてふざけて、ふざけ拔いて、草臥れるまではいつも止めないのですね。お時はいつでも終(しまひ)に、
『あんまり常談をなさるとおかあ樣にいつ(ママ)けますよ。』
と少し怒つたやうな顏でいふのです。すると私は初めて自分に歸るのです。
その時分私にとつて阿母さん程恐い者は無かつたのですからねえ。いつでもお時にこれを言はれると、默つて直ぐふざけるのは廢(よ)して了ふのです。そして、
『ぢやァ、もう廢すからね。勘辯してお呉れよ。ね、ね。阿母さんに言つちや厭だよ。』
と、拜むやうな眼附をするのです。それから澄まして、學校の荷物か何か抱へて歸つて來るのです。
土曜日の晩は大抵伯母の所へ泊りに參りました。そして伯母の寢る時、一度一緒に寐たふりをして、伯母の寐ついたのを見極めると、そつと自分だけ起きて、まだ女中部屋に起きてゐるお時の所へ出かけるのです。そして面白い話をしてやるとか何とか言ひながら、又例の惡ふざけを始めるのです。
所がいつも斯ういふ時は御膳焚のお里といふ大女を味方にして、二人で私を押伏せて了ふのです。そのお里といふ奴は中々力がありましたから、こいつに兩方の手首を押へられて了ふと、私はどうする事も出來なくなるのです。
『爲樣(しやう)のねえ坊ッちやまだ。男の癖に女中の部屋などに來るものぢやねえよ。早くあッちへ行つて寐ねえと、そら酷いから。』
こんな事を言ひながら、厭といふ程私の手首を締めつけるのです。私はいつでも堪らなくなつて詫(あやま)つて了ふのです。
『寐るから、寐るから勘辨してお呉れよ。寐るからッてばさァ。』
などとよく泣き聲を出したものです。それをお時は側で笑つて見てゐるのです。
隨分追つかけ廻つたものですが、餘り先が強情(がうじやう)なんで、もう迚(とて)も望は無いと思ひましたから、諦めて了つて、それからもう伯母の所へ行つても餘り惡ふざけはしなくなりました。
段々伯母の所へ行く度數も少くなりました。
然るに半年ばかり立つと、妙な噂が私の耳へ這入つて來ました。『お時は近頃色氣づいた。』『隣の本山(もとやま)さんへ來る牛乳配達と訝(をか)しい。』『いつでも垣根の向うと此方でベチャ/\何か話してゐる。』こんな噂です。
これを聞くと、私は何となく愉快に感じました。小な勝利を得たやうな氣がしました。『好い氣味だとう/\俺の思ふやうな氣持になりやァがつた。もう此方のものだ。』と、こんな事も考へました。
青くて堅かつた林檎の實は、いつか赤く熟(う)れて落ちよう落ちようと枝を下へ引くやうになつたのです。
林檎は何處へ落ちて誰の口へ這入らうといふ目當があるのではありません。唯廣い大地を戀しがつてゐるのです。あらゆる人間の舌に觸れようとしてゐるのです。
本山さんへ來る牛乳配達は、偶々(たま/\)その林檎の木の下に休んだ旅人の一人に過ぎないのです。
私はその牛乳配達を少しも敵だとは思ひませんでした。寧ろ味方だと思ひました。自分が先づ遣(つかは)した斥候のやうに考へたのです。その斥候が巧く遣つたので、もう俺(おれ)が出かけても大丈夫だと思つたのです。
さう思つてゐる時に、丁度お時が内へ來る事になつたのです。その時分私の内は伯母の内とは一里も離れてゐましたから、もう牛乳配達に會ふ氣遣は無いのです。伯母がお時を私の内へ寄越(よこ)したのも、實はその邊があつたからだらうと思ふのです。
ところが、私の内には又私の内で、私といふ者が待つてゐたのです。
内へ來てからのお時は、もう以前のお時とは大分樣子が變つてゐました。前のやうに人を逃げよう逃げようとする能度[#「能度」はママ]はすッかり無くなつてゐて、人に近づかう近づかうとする樣子ばかり見えるのです。
私も前から見ると、少し大人にもなつてゐたので、もう亂暴な事などはちッともしませんでした。唯親切に親切にとお時を取扱つて遣りました。精々親切にして置いて、窃に時期の來るのを待つてゐた譯なのです。
お時は内へ來てから、もう牛乳屋の事は全く忘れて了つたやうでした。手紙を出すやうな樣子もありませんし、伯母の所を戀しがるやうな氣勢も一向に見えませんでした。一生懸命に私の母に氣に入るやう氣に入るやうと勤めてゐるのが好く分りました。
私に對しても前とは違つて、厭(いや)に叮嚀になりました。僅の間でも主從は主從だからと、伯母の嚴(やかま)しい誡(いましめ)があつたのださうです。
そんな風でしたから、向ふの内部的態度が始終私に近づかう近づかうとしてゐるにも關(かゝは)らず、私の態度は外部的に義理にもお時を離れよう離れようとしなければならなかつたのです。
私の部屋(へや)へ茶や菓子を持つて來ても、大抵お時は椽側(えんがわ)に膝(ひざ)をついて、障子を細目に明けて、持つて來た物を部屋の中へ入れると、直ぐ御辞儀をして、逃げるやうに行つて了ふのです。
私はどうかして成るべく長くお時を自分の側に置きたいと思ひまして、巧い事を考へ出しました。それは片附物の手傳をさせる事なのです。
私は子供に似合はず、その時分から大の藏書家でしたから、部屋の中には日本流の本箱が六本も七本も置いてあつた計りでなく、雜誌などの本箱に這入り切らないのが、いつもそこらに山のやうになつてゐたのです。
月に二度位、私はその雜誌の整理をするのです。『少年世界』は『少年世界』、『少國民』は『少國民』、『少年園』は『少年園』と一々別々に揃へて、號數を合せるのです。そして製本屋に遣る分は、巾の廣い紙で帶封をして背に入れる文字をその帶封の上に書くのです。
この手傳をさせては、時々お時を私の部屋に長く留めたものです。私の心は母に分りませんから、母は唯無邪氣に雜誌を片附けてゐる事とのみ思つてゐるのです。
二三度、これを遣つて見た所が、母は一向に信用してゐるやうですから、段々大膽になつて來て、月に二度が三度、三度が四度、四度が五度になつて終には三日に上げず、
『時、時。片附物があるから用が濟んだら來て呉れ。』
と叫(どな)るやうになりました。
併し、お時が側にゐたからと言つて、私は別に何も言ふのではないのです。唯それはその中へ這入るのではないよとか、その帶封へは斯う書いてお呉れとか、本の用だけの事を言ふのです。
勿論まだ修飾した言葉で女をたきつけようとする丈の智惠もありませんでしたし、又さういふ種類の言葉に對する知識を持つてゐなかつたのです。唯時々凝(じつ)とお時の手先を見詰めたり襟筋を見詰めたりするより外何も爲なかつたのです。それでも自分だけでは何となく滿足なのでした。
こんな事をして、私は唯時期の來るのを待つてゐたのです。
やがて時期が來ました。
或晩、母が伯母の所へ行つて留守でした。御飯焚(ごはんたき)の千代も、下男の寅も使に出てをりました。私は又お時に片附物の手傳をさせました。
その時、戸棚の奧にある古雜誌をお時に出して呉れと頼みました。お時は何の氣なしに戸棚の中に匍ひ込むやうにして、體を半分戸棚の中へ突込みました……
それからといふものは、毎日の樣に私は機會を機會をと狙つてゐて、大抵一日に一度はお時を自分の側に引寄せるやうにしました。お時も、前とは違つて、多少は自分の方から機會を作るに努めるやうでした。
或日、伯母の所から私へ當てゝ手紙が參りました。伯母から手紙が來るのは訝しい、用があるなら呼んで呉れゝば好いのにと思つて、明けて見ると驚きました。
伯母は私とお時の關係をすッかり知つてゐるのです。若い者の事だから、決して責めるではないが、身分違ひの者とさういふ事をすると、出世の妨(さまたげ)になるから廢(よ)せと書いてあるのです。この度に限つて、おかあ樣にはいつけずに置くが、二度と斯ういふ事があると必といつけずには置かないと書いてあるのです。この事は誰の口から聞いたのでもない、お時が、自分で來て言つた事だと書いてあるのです。
私は吃驚(びつくり)しました。大變だと思ひました。自分の顏の眞赤になつて行くのが自分に分りました。見られてはならぬ事を見られた恥づかしさと、知られてはならぬ事を知られた恐ろしさとで、齒の根の合はぬ程慄へました。併し、爲てはならぬ事を爲たといふ道徳的の呵責に身を苦しめられるやうな事は一向に無かつたのです。
たゞ伯母に知られたのが耻づかしかつたのです。若しも母に知れたら大變だと思つたのです。これが若し母に知れたら、もう俺の滅亡だと思つた位、當時の私は母を恐れてゐたのです。
世間といふものを全く知らなかつた當時の私にとつては、母が世間の全部であつたのです。名譽の對象も、榮達の對象も、悉く唯母だけであつたのです。
私はその晩早速伯母の所へ返事を出しました。お時の母へでも送るやうな手紙を書いたのです。一言一句に罪を謝して、身の置き所を知らぬやうに恐れ入つたのです。その手紙を書きながら、實際私は涙を混しました。
『もう決して致しません。決して致しません、決して致しません。私は血涙を以て、この誓の詞に印を捺します。』
これが最後の文句でした。
伯母からは、直ぐその明くる日返事が參りました。よく私の言ふ事を聞いて呉れた、お前はやッぱり阿父さんの子だつた。どうかその決心を一生忘れずにゐてお呉れ。過ぎた事はもうお互に二度と口にしまい。お前にそれだけの決心がついたら、もう阿母さんに言ふ必要もない事だから、これは永久に祕密にして置かう。就いては、お前の將來の爲もある事だから、お時へ宛てゝとは言はない、私へ宛てゝ一通詫(あやま)り證文を何とでも可いからお書き。そしてその中へお時は何處へ嫁に行つても構はないと一言書いて置いてお呉れ。私はお前ばかりに小言を言ふのではない。こなひだお時もよく叱つて置いた。お時にも罪はあるのだから、お時から私へ當てて詫り證文を取る事にしてある。そして今後お前が出世してどんな嫁を貰はうと、決して苦情は申し出ないと言ふ事を書かして置く。時期さへ來れば、どんな立派なお嫁さんでも伯母さんが貰つて上げるから、向後決して身分違ひの女などに眼をかけるではない。と、それはそれは親切な手紙でした。
併し、私はその親切を喜ぶより、母には言はないといふ一言(ひとこと)を千倍も萬倍も有難いと思ひました。
詫り證文の一件は少し可笑(をか)しいやうにも不必要なやうにも思ひましたが、成程然う遣つて置く方が先へ行つて或は安心かとも思ひましたので、早速書いて送りました。
二三日すると、お時が伯母の所へ呼ばれました。多分同じ物を書かせに呼んだのだらうと思つてゐますと、果してその明くる日、伯母が自身で私の内へ出向いて參りました。
母が一寸(ちよつと)外(そと)へ出た隙を見て、伯母は私の部屋へ這入つて參りました。私は下を向いたきり一言も口が利けませんでした。伯母も、もう言ふだけの事は手紙で言つてあるんだからといふ風で、別に何も言ひませんでした。たゞお時が下手な字で書いた詫り證文を出して、私に見せて呉れました。私はそんな物は見たかありませんでしたが、見ないでも惡いと思つて一通り眼を通しました。
『若樣と御ねんごろに致し候段』といふ文句が眼に這入ました。『よそより奧樣お迎へなされ候ても決して否やは申すまじく』といふ文句にも眼が留まりました。
私は一言『拜見致しました。』とだけ言つて、伯母にそれを返しましたが、腹の中では、お時といふ奴は存外生意氣な奴だと思ひました。厭な奴だと思ひました。
伯母は懷(ふところ)から私の書いた一札(さつ)を出してそれをお時のに重ねました。そしてそれを又懷に入れながら、
『これはいつまでも伯母さんが預かつて置きませう……今にそんな事もあつたかねえと言ふやうな時が必と來ますよ。まあ何でも可いから勉強して豪(えら)い者になつて下さいよ。』
こんな事を言ひました。
事件が濟むと、私はお時が憎らしくて憎らしくて堪らなくなりました。
『何だつて伯母さんの所へなぞいつけに行きやがつたんだらう。馬鹿な野郎だ……きつと、伯母さんに言へば夫婦にでもして貰へると思つたに違ひない。馬鹿な奴だ、誰があんな教育の無い者を妻君にする事が出來るもんか……勿論一時のいたづらさ。それに極つてるぢやないか……それが分らないんだからあいつは馬鹿だ……。』
こんな風な事を考へて、いづれ一度お時をとッちめて遣らうと、機會の來るのを待つてゐたものです。けれども、もうお時は餘(あんま)り私の側へ寄り附かなくなりました。
一つには極りが惡かつたのですね。自分では大眞面目で持ち込んだ事が、手もなく伯母の一笑に附せられて了つたのですからね。一つには、然うと極れば、何もさう若樣にちやほやする事はない、とも思つたのでせう。又一面には、今後若樣に近づきでもして、それが伯母樣に知れやうものなら、きつとお暇になる、お暇になればお嫁に行く時世話をして呉れる者が無くなる。だから若樣の側へ行かない方がやッぱり自分の爲だ、とも思つたのでせう。
『今までは、若樣が自分に對して惡い事をなされば、それは若樣が惡いので、自分はそれに對して何處までも權利を主張する事が出來るものだと思つてゐたところが事實はそれと反對だつた。若樣はどんな惡い事をなすつてもやッぱり若樣なのだ、どんなに主張の出來る權利があつても、女中はやッぱり女中なのだ。若樣と女中との地位が變るまでは、自分は何をされても、何も言ふ事は出來ないのだ。自分は默つてゐなければならないのだ……。』
こんな事も思つたのでせう。私と顏を合せるやうな事があつても、何だか物足らぬといつたやうな不平さうな顏ばかりしてゐるのです。
さてさうなると、私は益々癪(しやく)に障つて來ました。
どうかして一遍捕へて、ひどい目に逢はして遣らうと思つてゐましたが、どうも機會がありませんでした。
或日の事です。私が母に借りた小説をお時に渡して、返して來いと言つてゐるのを、便所の歸り道にちらと母の部屋の外から聞たのです。
私は知らん顏をして部屋へ歸つて、今に來るだらうと待つてをりましたところが中々遣つて來ないのです。日の暮れるまで心待に待つてゐましたが、とう/\遣つて來ませんでした。『極りが惡いので來られないのだな。きつと自分の部屋へでも持つて行つて置いて、返した積りにしてゐるのだらう。よし、そんならそれで面白い事がある。どうしても來させずにや置かないから。』と、私は或事を企(たくら)んで窃(ひそか)に夜の更けるのを待つてをりました。
母の寐たなと思ふ時分に、私はベルを鳴らしました。すると、御飯焚の千代が遣つて來ました。
『お前では分らない。時はどうしたのだ。』
『もうふせッてしまひました。』
『寐たなら起して聞け。今日おかあ樣からお使(つかひ)を頼まれてゐるだらう。その品物を直ぐ持つて來いと言へ。あいつは近頃横着(わうちやく)になつた。』
と態(わざ)と恐(こは)い顏をしますと、千代は驚いて女中部屋の方へ駈けて參りました。千代は正直者だから、斯ういふ風に言へば、きつとお時を寄越さずには置くまいと思つたのです。
果してお時が遣つて參りました。母から頼まれた小説を右の手に持つて左の手で頭を押へながら厭々來たといふ風で部屋の外で躊躇(ぐづ/″\)してるのです。
『馬鹿。』
私は先づ強い聲で斯う浴せかけました。
『まあ這入れ。』
お時は私の威に壓されて、覺えず部屋の中へ這入りました。
『何故物を頼まれたら、直ぐに持つて來ない。』
『はい。』
『はいでは分らん。惡いと思つたら詫れ。』
『惡うございました。』
『一體貴樣は馬鹿だ……こなひだの事だつて然うだ。何も伯母さんにいつけないだつて好いぢやないか、俺に極りの惡い思ひをさせて、それで貴樣は面白いのか。』
『いゝえ……さういふ譯では。』
『そんなら何故いひつけになぞ行つたんだ。お前のいつけた結果はどうなつた。俺の利益にもならなかつたし、お前の利益にもならなかつたぢやないか。二人が伯母さんの前で恥をかいただけの話ぢやないか……。』
お時は如何にも恐れ入つたといふ風でした。まるで首を垂れたッきりなのです。
『女のする事は大抵そんな事だ……。』
最後にこの一言をお時の襟元へ浴せかけるやうに云つて遣りました。お時は唯疊へ突いた指を震はしてゐるばかりです。
私は自分の憎んでゐる女が自分の前に小さくなつてゐるのを見て、愉快で堪りませんでした。
併し私の復讐精神は中々そんな事では滿足しませんでした。
『どうだ。俺の言ふ事が分つたか……俺の言ふ事を本當だと思ふか。』
お時は默つて頷(うなづ)いてゐるばかりなのです。
『内證(ないしよ)にさへしてゐれば好いんだ……默つてさへゐれば好いんだ。俺は少しもお前と喧嘩したりなんかしたかないんだ。元々お前が好きだからこんな事にもなつたんだ……。』
お時はやッぱり默つて袖を噛みながら頷いてゐるのです。
『俺は何處までもお前の爲を思つてゐるんだ。お前が内證にさへしてゐて呉れゝば、お前が嫁に行く時でも何でも、俺は出來るだけの事はして遣らうと思つてゐたのだ。それだのにお前は…』
と言ひながら、私はお時の肩に手をかけました。
『だから、これからだつて、内證にさへしてゐれば好いだらう、え、然うだらう。然うぢやないか。』
私は『これからだつて』などゝ、何か又然ういふ相談でも既に起つてゐるやうに、態と大膽に言つて見たのです。ところが女は案外驚きもしない樣子なのです。そして、
『ええ。さうですわね。』と品をして言ふのです。
私は初めて勝利を感じましたね。『好い氣味だ。樣(ざま)を見ろ。とう/\自分の爲た事をすッかり反古(ほご)にしてしまやがつた。』と斯う思ひました。
實際私達二人は伯母さんに出した詫り證文を忽ち反古にして了つたのです。
二年立つて、お時は嫁に行きました。伯母の世話で、大層立派にして遣つて貰つたといふ事でしたが、私はもうその時分には冷淡極るものでどんな所へ行つたか、それさへ耳にしませんでした。 
 
明治一代女

 

たちまち売れっ子芸者に
花井お梅は元治元年(1864)、下総国(千葉県)の貧乏侍・花井専之助の娘として生まれました。慶応3年(1867)、一家は江戸に出府、お梅は、明治5年(1872)、9歳のとき、日本橋吉川町に住んでいた岡田常三郎の養女になります。
『妖婦列伝』の著者・田村栄太郎は、おそらく食い詰めた専之助がなにがしかの金と引き替えにお梅を譲ったのだろうと推測しています。ていのいい身売りです。
常三郎のほうでも、自分の子としてかわいがるのではなく、年頃になったら芸者に出して稼がせる目論見だったと思われます。お梅は当時すでに、彼にそう思わせるだけの容貌をしていたのでしょう。
その証拠に、15歳で芸者になった彼女は、18歳のときにはすでに一本、すなわち置屋から独立した自前の芸者になっています。一本になるには、芸者置屋への前借金を返済しなくてはなりません。それだけ彼女が売れっ子だったということです。
自前となったお梅は、最初は元柳町十番地で、のちに新橋日吉町に移って置屋を営むとともに、自分も芸者として座敷に出ました。
このころ、お梅には三十三国立銀行の頭取・河村伝衛というパトロンがついていました。河村はお梅に深く入れ込んで、いわれるままに大金を出していたようです。
20歳のとき、彼女は養父と離縁し、花井姓に戻りました。どんどん稼ぐようになったお梅を養父が手放すわけがありません。おそらく、なにがしかの手切れ金を渡して、お梅のほうから強引に離縁したのでしょう。
お梅は、花井姓に戻るとともに、車夫になっていた実父専之助を引き取りました。
待合「酔月楼」を開業
明治20年(1887)5月14日、お梅は貯めこんだ金を元手に、日本橋浜町に待合茶屋・酔月楼を開業します。どういうわけか、彼女はその営業鑑札の名義人を父専之助にしました。
男の名義人のほうが世間の通りがいい、とでも専之助に言われたのかもしれません。実質的な経営者は自分だから、名義はどっちでもかまわないし、父親を名義人にすれば親孝行になる、とお梅が考えた可能性もあります。
ところが、これがお梅の不幸の始まりでした。
田舎育ちの堅物だった専之助は、水商売の特殊な風習がなかなか飲み込めず、しかも、士族に多い父権意識の強い人物だったようです。
そのため、お梅の商売のしかたが気に入らず、使用人に対する態度から金の使い方まで、ことごとく文句をつけたといいます。当然、親子の間には争いが絶えませんでした。
のちにお梅は、このころの様子を次のように語っています。これは、無期徒刑から減刑されて、15年ぶりに出獄したお梅が『国益新聞』の記者に語った回顧談の一部です。
「……私がお客の注文の物、お座敷で女中の働き方、それについて色々言うと、お前のように一人でばかり威張り散らし、勝手なことを言ったって、利きはしないって言うんです。その上、父は乱暴でした。酔月楼については、片肌を脱いでかかったのは私なのに、私が何か言うと、『酔月楼の名義人は俺だ、何事も俺がいいようにするから、かまってくれるな』と言うんです。私は父と衝突して、毎日のように言い合いをしましたが、親には勝てぬから、しまいには黙ってしまいますが、腹ん中の虫は納まりやしません。じりじりすると酒なのです」
明治20年(1887)5月26日、お梅は、酒を飲んで専之助と激しく口論した末、着の身着のままで家を飛び出してしまいます。
すると、専之助は27日の朝、突然休業の札を出すとともに、鍵をかけて、お梅を閉め出してしまいました。
家に入れなくなったお梅は、知り合いの家を泊まり歩きながら、店を取り戻す方策をあれこれ考えます。
箱屋・八杉峯吉との関係
ここで登場するのが事件の副主人公、箱屋の八杉峯吉です。事件当時は34歳でした。
お梅は芸者の頃、旦那の河村伝衛から引き出した金を歌舞伎役者の沢村源之助にせっせと貢いでいました。その源之助の男衆(付き人)だったのが峯吉です。
お梅はその頃、こんな事件を起こしています。
源之助がある出し物で芸者の役をやることになったと聞いたお梅は、高価な衣装を新調して贈りました。ところが、源之助は、芝居が終わったあと、それを喜代治という芸者にやってしまったのです。
それを聞いたお梅は、剃刀を逆手に源之助の家に暴れ込んだ、と当時の事情を知っている者が語っています。
事件は警察沙汰にはなりませんでしたが、それで源之助との縁は切れました(篠田鉱造著『明治百話』)。
衣装を別の芸者にやったとお梅に告げたのが峯吉で、そのため、男衆をクビになったという説があります。酔月楼の開業に際して彼を雇い入れたのは、お梅がそれにいくぶんかの責任を感じていたためかもしれません。
確かないきさつはわかりませんが、とにかく峯吉の直接の主人はお梅だったはずです。
ところが、峯吉は専之助の味方についてしまいます。前述の回顧談で、お梅は次のように語っています。
「峯吉は、私が家を飛び出したあとで、福田屋の女将さんに『金は自分が働いたように心得て、あればあるだけ使って、始末がつかない。早くいやァ馬鹿でしょう。あんな女を主人にしていた日にァ、これだけにした財産が台無しになる』って言ったんですって。何というあくたいでしょう」
しかし、峯吉は自分に恩を感じているはずという思いがあったので、お梅は彼に相談してみようと思いつきました。
お梅は辻待ちの人力車夫に小遣いを渡して、峯吉を呼び出そうとしましたが、彼は使いに出ていて留守でした。
そこで、しばらく待ってみようと大川端でぶらぶらしているうちに、柳橋のほうから帰ってきた峯吉とばったり出会いました。
お梅は、カッとなって飛び出したものの、やはり家に戻りたいが、どうしたもんだろうと彼に話しかけます。
お梅、峯吉を刺殺
ここからいよいよ6月9日夜の犯行の場にかかるわけですが、事件を裁いた重罪裁判所の公判記録(明治20年11月8日)では、次のようになっています。
「峯吉は『父が中々立腹し居れば、急に帰る訳にも参り難ければ、兎も角懇意の者の家に行き参れ』と申し、余り無礼なりと腹立たしく、且つ恋慕の事を申掛け、『其意に従わば帰宅し得る様取扱わん』との意味合いの如くに思われしが、其懇意の者の家に行くはイヤだと申したり。何分此場合の事実は夢中にて能く覚えず。慥(たし)か峯吉に自分の右肩を突かれて打転びし際、右手にて逆に出刃包丁を執り、打つ手を払いたり、一度突きたる儘、自分は駆出せしが、峯吉も歩行(あるき)て一方に逃げ出したる様覚えたり」
簡単に言えば、オレの女になれば父親に取りなしてやってもいいと峯吉がいった、というのです。
しかし、これは大いに疑問です。前述したように、峯吉は近所の女将にお梅のことをくそみそにけなしています。そういう相手に恋慕していたとは、ちょっと考えられません。
 少しでも罪を軽くするために思いついたお梅の作為でしょう。ちなみに、出獄後の回顧談で、お梅は次のように語っています。
「それからってもの、毎日がくさくさして、そっちこっちと歩くうちに、色々の考えが出てくる。また峯吉が憎くなってきたんです。初めは自分だけ死のうと思いました。が、考えりゃ考えるほど、峯吉が悪い、あいつを残しておくにゃ及ばぬと、ふと胸に浮かんだのです」
明らかに殺意をもって峯吉を呼び出しています。相談すると言いながら、出刃包丁をもっていった事実がそれを裏付けています。
各紙、派手に書き立てる
ところが、これが新聞記事になると、なんとも派手なことになります。
犯行から3日後の6月11日付『東京日日新聞』は、公判記録の「恋慕の事を申掛け」の部分を思いきり拡大して、次のように報道しました。『東京日日新聞』は『毎日新聞』の前身です。
「五月雨煙る大川端の闇に……白刃一閃
 花井お梅箱屋峯吉を刺す
 以前は柳橋の秀吉、新橋の小秀
 今は待合酔月の女将――年は四六の花盛り」
という見出しに続いて、次のように書かれています。
「そもそもこの騒動のてん末はと聞きただすに、かねて此家に居る箱屋の八杉峯吉(三十四)は、主人のお梅に深く懸想し、折節言い寄る事もあるを、かかる商売とて、召使う雇人にすら愛嬌を損なわぬが第一なれば、お梅は痛くも叱り懲らさず。峯吉は、さては彼方も左(さ)ばかり意なきには非ざりけん、されど向うは世に聞こえたる古る兵(つわもの)、殊には恋の山かけて、もともと深くいい替せし情夫もあれば、一筋縄ではウンというまじ、この上は威しに掛て口説き落し、本意を達するが近道と思惟しけん」
このあと、峯吉がお梅を手込めにしようとしたしたところ、激しく抵抗されたので、「もはやこれまで」とお梅を殺そうとしたが、もみ合っているうちに包丁が自分に刺さってしまった、という記事が続いています。
事件とは逆の成り行きになってしまっています。
記者はよく調べもせず、公判記録の一部から想像をふくらませて記事を作り上げたわけです。
江戸時代の瓦版の伝統を引いたせいか、当時の新聞では、こうした記事作成法が珍しくなかったようです。
ついに歌舞伎になる
しかし、大衆にはこうした大げさな表現が受けました。これに芝居の世界が飛びつきました。
たとえば河竹黙阿弥(文化13〜明治26年〈1816〜93〉)は、こうした新聞記事に基づいて『月梅薫朧夜(つきとうめかおるおぼろよ)』という散切物(ざんぎりもの)の歌舞伎台本を書き上げました。
(下図は『やまと新聞』に載った月岡芳年の錦絵)
江戸時代、主として町人社会の出来事や人物を題材とした浄瑠璃や歌舞伎の作品を世話物といいます。世話物のうち、明治の新風俗を題材とした芝居が散切物です。
散切とは、明治4年(1871)に断髪令が出てから流行った男性の髪型で、明治の新風俗を象徴する言葉としてよく使われました。
『月梅薫朧夜』筋書きは次のとおり。
待合の女将・お粂(お梅)には、丹次郎という情人がいたが、彼は女房持ちだった。そこで、父親の伝之助(専之助)や、主人思いの使用人・巳之吉(峯吉)は、再三再四、丹次郎をあきらめるように忠告した。
なかなか思いを断ち切れないお粂だったが、ようやく彼らの意見に従って丹次郎に愛想づかしをいって別れた。
しかし、どうしても丹次郎が忘れられないお粂は、憂さを酒で紛らすようになり、家業もおろそかになった。
ある夜、お粂は、泥酔した末、自殺しようと思って、出刃包丁を懐に浜町河岸をさまよっていた。
そこへ巳之吉がやってきて、お粂を立ち直らせようと忠告するが、お粂は聞く耳をもたない。とうとう言い争いになり、カッとなったお粂は、出刃包丁で巳之吉を刺し殺してしまう。
『月梅薫朧夜』は、事件の翌年の明治21年(1888)4月、浅草の中村座で初演されました。名優といわれた五世尾上菊五郎がお粂、四世尾上松助が巳之吉を演じて、大人気を博しました。
この芝居では、丹治郎への叶わぬ恋が峯吉殺しの動機になっており、また、専之助も峯吉も、お梅のことを心配する善玉風の設定になっています。
これは一つには、初演当時生きていた専之助への配慮からでしょう。 また、報道されたお梅の供述に嘘や誇張があることを物書きの勘で見抜いたということも考えられます。
加害者の言い分だけが報道され、被害者側の反論がほとんど取り上げられない傾向は、昔も今も変わりません。
しかし、こうした配慮のためか、『月梅薫朧夜』は、芝居としては単純な筋書きになりました。峯吉殺しに至るまでの説得力が弱く、劇的な盛り上がりに欠けます。
いっぽう、昭和10年(1935)に発表された川口松太郎の小説『明治一代女』は、そうした制約がなくなったためか、筋書きが複雑になっています。
柳橋の人気芸者・お梅は、歌舞伎役者の沢村仙枝と将来を言い交わした仲。その仙枝には、三代目沢村仙之助を襲名する話が持ち上がっている。
襲名には大金が必要だが、梨園では傍流で有力な後ろ盾のいない仙枝は、資金が作れない。
悩む仙枝を見て、お梅は何とか助けたいと思うが、方法がない。
そんな折、お梅は、何かにつけ自分に張り合ってくる芸者・秀吉に「一人前の芸者が惚れた役者の襲名費用ぐらい作れなくてどうする」と嘲笑される。
秀吉は仙枝に惚れていたが、相手にされないため、腹いせにお梅を挑発したのだ。
激しい言い争いのなかで、お梅は「私が必ず襲名させてみせる」と啖呵を切ってしまう。
そう言い切ったものの、金を作る当てのないお梅は、いつも自分に好意的な箱屋の巳之吉に悩みを漏らす。
巳之吉は、「その金は自分が何とか工面する。その代わり、自分と所帯をもってほしい」と、長く心に秘めていたお梅への恋慕を明かした。追い詰められていたお梅は、ついその言葉に頷いてしまう。
田舎へ帰った巳之吉は、先祖伝来の田畑をすべて売り払って金を作ってきた。お梅はその金を仙枝に渡し、別れを告げる。
ところが仙枝は、「芸者からもらった手切れ金で襲名するつもりはないし、お前と別れるつもりもない」と金を突っ返した。
お梅も、仙枝と別れられない自分の気持ちを知った。
そうこうしているうちに、ずるずると日が経つ。いっこうに所帯をもとうとしないお梅に不信を抱いた巳之吉は、ある夜、客の座敷に出るというお梅の後をつける。しかし、お梅が向かったのは仙枝のもとだった。
小雪の舞う浜町河岸でお梅を呼び止めた巳之吉は、その不実をなじり、夫婦約束の履行を迫った。
お梅は、「巳之さん、すまない、お金は、必ず返すから許して」と、手を合わせ、仙枝を思い切れない心中を告白、巳之吉と世帯をもつ気がないことを白状する。
真心を踏みにじられて逆上した巳之吉は、用意していた出刃包丁でお梅に斬りつける。もみ合ううちに、お梅はつい巳之吉を刺し殺してしまう。
この小説は、作者自身によって劇化され、新派の代表的悲劇として、何度も上演されてきています。また、昭和10年(1935)と同30年(1955)の2度映画化されています。
お梅狂乱
さてお梅は、明治36年(1903)4月10日、恩赦により釈放されました。40歳のときです。
お梅としては芸者に戻りたかったようですが、前歴ゆえか、年齢のためか、どこの置屋からも断られたようです。
そこで彼女が思いついたのが、汁粉屋の営業です。出獄した年の9月17日付『東京朝日新聞』に、次のような記事が掲載されました。
花井お梅が汁粉屋開業
浅草千束町二丁目四十三番地に汁粉屋を開業せんと目論見たる花井お梅は、いよいよ一昨日許可を得て昨日早朝より開業せしに、繁昌夥多(おびただ)しく、午前八時より九時半頃までに既に八十余名の入客ありしという。
客の多くは「噂の人物」を見に来たにすぎず、物見高い客が一巡すると、店は閑古鳥が鳴くようになりました。2年後には小間物店に転業しましたが、これもすぐに閉店しています。
このころ、お梅はまた新聞沙汰を起こしています。
お梅狂乱
昨暁一時半頃、花井お梅(四十二)は、狂女の如く黒髪を振り乱し、牛込区神楽坂一丁目六番地医師小島原安民氏方の門を叩き、先生は在宅かと尋るより、小島原医師は急病人ならんとて、玄関に出で来たりしに、お梅は突然同医師の胸倉を握み不実なりと叫ぶより、同医師を始め家人等は何事なるかと、大いに騒ぎ居れる処へ警官出張して、始めて花井お梅なれる事判然すると同時に、原因はお梅の私生女児が過日来病気にかかり同医師を招きしも応ぜざりしより、お梅は深く之を恨みやや精神に異常を呈し、前記の次第に及びし事と判然し、実兄を呼出して引渡されたりと」(明治38年8月14日『日本新聞』)
この記事を読むかぎり、お梅が一方的かつ理不尽に騒ぎ立てかのような印象を受けます。
しかし、何度頼んでも往診してくれないとなると、親として腹を立てるのは当たり前でしょう。近年、育児放棄(ネグレクト)する親が増えているそうですが、それに比べると、お梅には母性があったわけで、少しホッとします。
ただ、普通の親は、一度往診を断られたら、ほかの医師に当たるとか、戸板か荷車に乗せて子どもを連れて行くなど、ほかの手段を講じようとします。そうしなかったところに、お梅の性格が表れています。
これはあくまでも想像ですが、医師には往診できない理由が何かあって断ったのを、花井お梅の子どもだから断った、と勝手に思い込んで怨んだのかもしれません。
思い込みが強く、激しやすい性格は、服役中の様子にも表れています。
明治27年(1894)5月22日付の『読売新聞』によると、お梅は他の囚人たちとよく喧嘩口論し、獄吏にさえ食ってかかることが多かったため、たびたび独房に移されたと言います。
また、毎年、峯吉を殺した季節になると、精神錯乱して、挙動がおかしくなるため、医師の治療を受けていたとも報じられています。
このころから、お梅の人生は急速に下り坂になっていきます。豊島銀行頭取と自称する男にだまされて、なけなしの金をそっくり奪われたこともありました。
医師宅怒鳴り込み事件のあとは、ドサ廻りの女役者になって「峯吉殺し」を実演して回りました。当初こそ話題になったものの、すぐに飽きられ、クビになってしまいました。
その後、どんな人生を送ったかは明らかではありません。おそらく、医師宅怒鳴り込み事件の際に身元引受人になった実兄・花井録太郎(荒物商)の世話になっていたのではないでしょうか。
お梅が亡くなったのは大正5年(1916)12月12日で、53歳でした。墓は港区の長谷寺にあり、戒名は「戒珠院梅顔日英大姉」です。 
 
十二支考 猴に関する伝説 / 南方熊楠

 

(一) 概言 
1
一条摂政兼良(かねら)公の顔は猿によく似ていた。十三歳で元服する時虚空に怪しき声して「猿のかしらに烏帽子(えぼし)きせけり」と聞えると、公たちまち縁の方へ走り出で「元服は未(ひつじ)の時の傾きて」と附けたそうだ。予が本誌へ書き掛けた羊の話も例の生活問題など騒々しさに打ち紛れて当世流行の怠業中、未の歳も傾いて申(さる)の年が迫るにつき、猴(さる)の話を書けと博文館からも読者からも勧めらるるまま今度は怠業の起らぬよう手短く読切(よみきり)として差し上ぐる。
猴の称(とな)えを諸国語でざっと調べると、ヘブリウでコフ、エチオピア語でケフ、ペルシア語でケイビまたクッビ、ギリシア名ケポスまたケフォス、ラテン名ケブス、梵名カピ、誰も知る通り『旧約全書』が出来たパレスチナには猴を産せず。しかしソロモン王が外国から致した商品中に猴ありて、三年に一度タルシシュの船が金銀、象牙(ぞうげ)、猴、孔雀(くじゃく)を齎(もた)らすと見ゆ。その象牙以下の名がヘブリウ本来の語でなく象牙はヘブリウでシェン・ハッビム、このハッビム(象)は象の梵名イブハに基づき、孔雀のヘブリウ名トッケイイムは南インドで孔雀をトゲイと呼ぶに出で、猴のヘブリウ名コフは猴の梵名カピをヘブリウ化したので、孔雀は当時インドにのみ産したから推すと、ソロモンが招致した猴も象もアフリカのでなくインドのものと判る。
「第1図 アッシリアの口碑彫りたる象と猴」のキャプション付きの図
それから古アッシリアのシャルマネセルの黒尖碑(第一図)を見ると、一人一大猴を牽(ひ)いてインド象の後に随い、次にまた一人同様の猴一疋を牽き、今一疋を肩に乗せて歩む体(てい)を彫り付け、その銘文にこの象と猴はアルメニアまたバクトリアからの進貢するところとある。いずれも寒国でとてもこんな物を産出しないから、これはインドより輸入した象や猴を更にアッシリアへ進献したのだ。ギリシアで最初猴を一国民と見做(みな)し、わが国でも下人(げにん)を某丸と呼ぶ例で猴を猴丸と呼んだ。その通りアッシリア人も猴を外国の蛮民と心得たらしく、件(くだん)の碑に彫った猴は手足人に同じく頬に髯(ひげ)あり、したがってアッシリア人は猴をウズムと名づけた。これはヘブリウ語のアダム(すなわち男)の根本らしい。今もインドで崇拝さるるハヌマン猴とて相好もっとも優美な奴がこの彫像に恰当(こうとう)する由(ハウトン著『古博物学概覧』一九頁已下)。猴のアラブ名キルド、またマイムンまたサダン、ヒンズ名はバンドル、セイロン名はカキ、マレイ名はモニエット、ジャワ名ブデス、英語で十六世紀までは猴類をすべてエープといったが、今は主として尾なく人に近い猴どもの名となり、その他の諸猴を一と括(くく)りにモンキーという。モンキーは仏語のモンヌ、伊語のモンナなどに小という意を表わすキーを添えたものだそうな。さてモンヌもモンナもアラブ名マイムンに出づという。ソクラテスの顔はサチルス(羊頭鬼)に酷似したと伝うるが、孔子もそれと互角な不男(ぶおとこ)だったらしく、『荀子(じゅんし)』に〈仲尼(ちゅうじ)の状面倛(き)を蒙(かぶ)るがごとし〉、倛は悪魔払いに蒙る仮面というのが古来の解釈だが、旧知の一英人が、『本草綱目』に蒙頌(もうしょう)一名蒙貴(もうき)は尾長猿の小さくて紫黒色のもの、交趾(こうし)で畜うて鼠を捕えしむるに猫に勝(まさ)るとあるを見て蒙倛(もうき)は蒙貴で英語のモンキーだ。孔子の面が猴のようだったのじゃと吹き澄ましいたが、十六世紀に初めて出たモンキーなる英語を西暦紀元前二五五年蘭陵の令と為(な)ったてふ荀子が知るはずなし、得てしてこんな法螺(ほら)が大流行の世と警告し置く。
猴の今一つの英名エープは、梵名カピから出たギリシア名ケフォス、ラテン名ケブス等のケをエと訛(なま)って生じたとも、また古英語で猴をアパ、これ蘭名アープ、古ドイツ名アフォ等と斉(ひと)しく猴の鳴き声より出たともいう。さて猴はよく真似(まね)をするから英語の動詞エープは真似をするの義で、梵語等も猴に基づいた真似する意の動詞がある。『本草啓蒙』に猴の和名を挙げてコノミドリ、ヨブコトリ、イソノタチハキ、イソノタモトマイ、コガノミコ、タカノミコ、タカ、マシラ、マシコ、マシ、スズミノコ、サルと十二まで列(つら)ねた。インドで『十誦律』巻一に、動物を二足四足多足無足と分類して諸鳥猩々(しょうじょう)および人を二足類とし、巻十九に孔雀、鸚鵡(おうむ)、狌々(しょうじょう)、諸鳥と猴を鳥類に入れあり。日本でも二足で歩み得るという点から猴を鳥と見て、木の実を食うからコノミドリ、声高く呼ぶから呼子鳥(よぶこどり)というたらしい。
昔は公家衆(くげしゅう)など生活難から歌道の秘事という事を唱え、伝授に托して金を捲き上げた。呼子鳥は秘事中の大秘事で一通りは猴の事と伝えたが、あるいは時鳥(ほととぎす)とか鶏とか、甚だしきは神武天皇の御事だとか、紛々として帰著する所を知らなんだ。それを嘲(あざけ)った「猿ならば猿にしておけ呼子鳥」と市川白猿(はくえん)の句がある。イソノタチハキとは何の事か知らぬが、『奥羽観跡聞老誌』九に、気仙郡五葉嶽の山王神は猴を使物とす、毎年六月十五日、猴集って登山しその社を拝む、内に三尺ばかりの古猴一刀を佩(お)びて登り、不浄参詣は必ずその刀を振って追う、人これを怪しむと出づ。馬の話の中に書いて置いたごとく、アラビアの名馬は交会して洗浄せぬ者を乗せずといい、モーリシャス島人は猴に果物を与えて受け付けぬを有毒と知るという(一八九一年板ルガーの『航行記』巻二)。惟(おも)うに老猴よく人の不浄を嗅ぎ分くる奴を撰び教えて帯刀させ、神前へ不浄のまま出る奴原(やつばら)を追い恥かしめた旧慣が本邦諸処にあったから、猴をイソノタチハキというたので、イソは神祠の前を指す古名だろう。イソノタモトマイ、コガノミコ、タカノミコ等は古え猨女(さるめ)の君(きみ)が巫群(ふぐん)を宰(つかさど)った例もあり、巫女(ふじょ)が猴を馴らして神前に舞わせたから起った名で、タカは好んで高きに上る故の名と知る。
サルとは何の意か知らぬが巫女の長(おさ)を猨女の君と呼んだなどより考うると、本邦固有の古名らしく、朝鮮とアイヌの辞書があいにく座右にないからそれは抜きとして、ワリス氏が南洋で集めた猴の諸名を見るも、わずかにアルカ(モレラ語)、ルア(サパルア語)、ルカ(テルチ語)位がやや邦名サルに近きを知るのみ。マレイ語にルサあるが鹿を意味す。『翻訳名義集』に獼猴(びこう)の梵名摩斯吒吒あるいは麼迦吒とある。予が蔵する二、三の梵語彙を通覧するに、後者は猴の梵名マルカタと分るが摩斯吒らしい猴の梵名は一向見えぬ。しかるに和歌に猴を詠む時もっとも多く用いるマシラなる名は古来摩斯吒の音に由ると伝うるはいぶかし。ところが妙な事は十七世紀の仏人タヴェルニエーの『印度紀行』に、シエキセラに塔ありてインド中最大なるものの一なり、これに附属する猴飼い場ありて、この地の猴をも近国より来る猴をも収容し商人輩に供餉(ぐしょう)す。この塔をマツラと称うと載せ、以前はジュムナ河が塔下を流れ礼拝前身を浄(きよ)むるに便り善(よ)かったから巡礼に来る者極めて多かったが、その後河渓が遠ざかったので往日ほど栄えぬと述べあり。英国学士会員ボール註に、これは四世紀に晋の法顕(ほっけん)が参詣した当時、仏教の中心だった摩頭羅(まずら)国の名を塔の名と心得伝えたので、十七世紀のオーランゼブ王この地に入って多く堂塔を壊(こぼ)ったが、猴は今も市中に充満し住民に供養さるとある。法顕の遺書たる『法顕伝』『仏国記』共にこの地で仏法大繁盛の趣を書せど猴の事を少しも記さず。それより二百余年後(おく)れて渡天した唐の玄奘(げんじょう)の『西域記』にはマツラを秣莵羅とし、その都の周(めぐ)り二十里あり、仏教盛弘する由を述べ、この国に一の乾いた沼ありてその側(かたわら)に一の卒塔婆(そとば)立つ、昔如来(にょらい)この辺を経行した時猴が蜜を奉ると仏これに水を和してあまねく大衆に施さしめ、猴大いに喜び躍って坑(あな)に堕(お)ちて死んだが、この福力に由って人間に生まれたと載す。いと古くより猴に縁あった地と見える。
『和州旧跡幽考』に猿沢池は天竺(てんじく)獼猴池を模せしと、池の西北の方の松井の坊に弘法(こうぼう)作てふ猴の像あり。毘舎利(びしゃり)国獼猴池の西の諸猴如来の鉢を持って樹に登り蜜を採り、池の南の群猿その蜜を仏に奉ると『西域記』を引き居るが、仏はなかなかの甘口で猴はそれを呑み込んで人間に転生したさに毎々(つねづね)蜜を舐(ねぶ)らせたと見える。また『賢愚因縁経』十二に、舎衛(しゃえ)国の婆羅門(ばらもん)師質が子の有無を問うと六師はなしと答え、仏はあるべしという、喜んで仏と衆僧を供養す。それから帰る途上仏ある沢辺に休むと猴が蜜を奉り、喜んで起(た)って舞い坑に堕ち死して師質の子と生まる。美貌無双で、家内の器物、蜜で満たさる。相師いわくこの児善徳無比と、因って摩頭羅瑟質(まずらしっしつ)と字(あざな)す。蜜勝の意だ。父母に乞うて出家す、この僧渇する時鉢を空中に擲(なげう)てば自然に蜜もて満ち、衆人共に飲み足ると。『大智度論』二六に摩頭波斯咤比丘(まずはしたびく)は梁棚(りょうほう)あるいは壁上、樹上に跳(おど)り上がるとあるも同人だろう。
これらの例から見ると、摩頭羅なる語の本義は何ともあれ、国としても人としても仏典に出るところ猴に縁あれば、猴の和名マシラはこれから出たのかと思わる。
本来サルなる邦名あるにマシラなる外来語をしばしば用いるに及んだは、仏教弘通(ぐつう)の勢力に因ったがもちろんながら、サルは去ると聞えるに反してマシラは優勝(まさる)の義に通ずるから専らこれを使うたと見える。『弓馬秘伝聞書』に祝言(しゅうげん)の供に猿皮の空穂(うつぼ)を忌む。『閑窓自語』に、元文二年春、出処不明の大猿出でて、仙洞(せんとう)、二条、近衛諸公の邸を徘徊せしに、中御門(なかみかど)院崩じ諸公も薨(こう)じたとあり。今も職掌により猴の咄(はなし)を聞いてもその日休業する者多し。予の知れる料理屋の小女夙慧なるが、小学読本を浚(さら)えるとては必ず得手(えて)と蟹(かに)という風に猴の字を得手と読み居る。かつて熊野川を船で下った時しばしば猴を見たが船人はこれを野猿(やえん)また得手吉(えてきち)と称え決して本名を呼ばなんだ。しかるに『続紀』に見えた柿本朝臣佐留(さる)、歌集の猿丸太夫、降(くだ)って上杉謙信の幼名猿松、前田利常(としつね)の幼名お猿などあるは上世これを族霊(トーテム)とする家族が多かった遺風であろう。『のせざる草紙』に、丹波の山中に年をへし猿あり、その名を増尾の権(ごん)の頭(かみ)と申しける。今もこの辺で猴神の祭日に農民群集するは、サルマサルとて作物が増殖する賽礼(さいれい)という。得手吉とは男勢の綽号(あだな)だが猴よくこれを露出するからの名らしく、「神代巻」に猿田彦の鼻長さ七咫(し)、『参宮名所図会』に猿丸太夫は道鏡の事と見え、中国で猴(こう)を狙(そ)というも且は男相の象字といえば(『和漢三才図会』十二)、やはりかかる本義と見ゆ。ある博徒いわく、得手吉は得而吉で延喜(えんぎ)がよい、括(くく)り猿(ざる)というから毎々縛らるるを忌んで猴をわれらは嫌うと。
唐の黄巣(こうそう)が乱を為(な)し金陵を攻めんとした時、弁士往き向うて王の名は巣(そう)、それが金に入ると鏁となると威(おど)したのですなわち引き去った(『焦氏筆乗』続八)とあると同日の談だ。
昔狂月坊に汝の歌は拙(まず)いというと、「狂月に毛のむく/\と生(はえ)よかしさる歌よみと人に知られん」。その相似たるより毳々(むくむく)と聞けばたちまち猴を聯想するので、支那で女根を猢猻(こそ)といい(『笑林広記』三)、京阪でこれを猿猴と呼び、予米国で解剖学を学んだ際、大学生どもこれをモンキーと称えいたなど、『松屋(まつのや)筆記』にくぼの名てふ催馬楽(さいばら)のケフクてふ詞を説きたると攷(かんが)え合せて、かかる聯想は何処(どこ)にも自然に発生し、決して相伝えたるにあらずと判る。ただし『甲子夜話』続十七に、舅(しゅうと)の所へ聟見舞に来り、近頃疎濶(そかつ)の由をいいかれこれの話に及ぶ。舅この敷物は北国より到来せし熊皮にて候といえば、聟撫(な)で見てさてさて所柄(ところがら)とてよき御皮なり、さて思い出しました、妻も宜(よろ)しく御言伝(おことづて)申し上げますとあるは、熊皮は毳々たらぬがその色を以て聯想したのだ。仏経や南欧の文章に美人を叙するとて髪はもちろんその他の毛の色状を細説せるを、毛黒からぬ北欧人が読んで何の感興を生ぜぬは、自分の色状と全く違うからで、黒熊皮を見ても妻を想起せぬのだ。瑣細(ささい)な事のようだが、心理論理の学論より政治外交の宣伝を為(な)すにこの辺の注意が最も必要で、回教徒に輪廻(りんね)を説いたり、米人に忠孝を誇ってもちっとも通ぜぬ。マローンの『沙翁集』十に欧州の文豪ラブレー、ラフォンテンなどの女人、その根(こん)を創口(きずぐち)に比して男子に説く趣向を妙案らしく喋々(ちょうちょう)し居るが、その実東洋人にはすこぶる陳腐で、仏教の律蔵には産門を多くは瘡門(そうもん)(すなわち創口)と書きあり、『白雲点百韻俳諧』に「火燵(こたつ)にもえてして猫の恋心」ちゅう句に「雪の日ほどにほこる古疵(ふるきず)」。彦山権現(ひこさんごんげん)の戯曲に京極内匠が吉岡の第二女に「長刀疵(なぎなたきず)が所望じゃわい」。手近にかかる名句があるにとかく欧人ならでは妙案の出ぬ事と心得違う者多きに呆(あき)れる。もちろん血腥(ちなまぐさ)からぬ世となりて長刀疵などは見たくても見られぬにつけ、名句も自然その力を失い行くは是非なしとして、毛皮や刀創を多く見る社会にはそれについて同一の物を期せずして聯想する、東西人情は兄弟じゃ。
女を猴に比する事も東西共にありて、英国の政治家セルデンは女を好まず、毎(つね)にいわく、妻を持つ人はその飾具の勘定に悩殺さる、あたかも猴を畜(か)う者が不断その破損する硝子(ガラス)代を償わざるべからざるごとしと。ベロアル・ド・ヴェルビュの『上達方』に婦人は寺で天女、宅で悪魔、牀(とこ)で猴と誚(そし)り、仏経には釈尊が弟の難陀その妻と好愛甚だしきを醒(さ)まさんとて彼女の瞎(めっかち)雌猿に劣れるを示したと出づ。それから意馬心猿(いばしんえん)という事、『類聚名物考』に、『慈恩伝』に〈情は猿の逸躁を制し、意は馬の奔馳(ほんち)を繋(つな)ぐ〉、とあるに基づき、中国人の創作なるように筆しあれど、予『出曜経』三を見るに〈意は放逸なる者のごとく、愛憎は梨樹のごとし、在々処々に遊ぶ、猿の遊びて果を求むるがごとし〉とあれば少なくとも心猿(ここでは意猿)だけは夙(はや)くインドにあった喩(たと)えだ。
『大和本草』に津軽に果然(かぜん)の自生ありと出づるがどうもあり得べからざる事で、『輶軒(ゆうけん)小録』に伊藤仁斎の壮時京都近辺の医者が津軽から果然を持ち来ったと記載しあるを読むと、夜分尾で面を掩(おお)うて臥すというから、何か栗鼠(りす)属のもので真の果然でない。果然は一名蜼(い)また仙猴(せんこう)、その鼻孔天に向う、雨ふる時は長い尾で鼻孔を塞(ふさ)ぐ、群行するに、老者は前に、少者(わかもの)は後にす。食、相譲り、居、相愛し、人その一を捕うれば群啼(ぐんてい)して相(あい)赴(おもむ)きこれを殺すも去らず。これを来すこと必(ひっ)すべき故、果然と名づくと『本草綱目』に見え、『唐国史補』には楽羊(がくよう)や史牟(しぼう)が立身のために子甥(しせい)を殺したは、人状獣心、この猴が友のために命を惜しまぬは、獣状人心だと讃美しある。されば帝舜が天子の衣裳に十二章を備えた時、第五章としてこの猴と虎を繍(ぬいとり)したのを、わが邦にも大嘗会(だいじょうえ)等大祀(たいし)の礼服に用いられた由『和漢三才図会』等に見ゆ。二十年ほど前、予帰朝の直前仰鼻猴(ぎょうびざる)という物の標品がただ一つ支那から大英博物館に届きしを見て、すなわちその『爾雅(じが)』にいわゆる蜼たるを考証し、一文を出した始末は大正四年御即位の節『日本及日本人』六六九号へ録した。かくて津軽に果然の自生は誤聞として、台湾には猴の異種が少なくとも一あり、内地産の猴は学名マカクス・スベシオススの一種に限る。
「第2図 支那四川産橙色仰鼻猴」のキャプション付きの図
猴はなかなか多種だが熱帯と亜熱帯地本位のもの故、欧州にはただ蕞爾(さいじ)たるジブラルタルにアフリカに多いマカクス・イヌウスとて日本猴に酷似しながら全く尾のない猴が住んでいたが、十年ほど前流行病で全滅した。そんなこと故欧州の古文学や、里譚(りだん)、俗説に猴の話がめっきり見えぬは、あたかも日本の書物、口碑に羊を欠如するに同じく、グベルナチス伯が言った通り、形色、性行のやや似たるよりアジアで猴の出る役目を欧州の物語ではたいてい熊が勤め居る(グ氏『動物譚原』二巻十一章)、支那に猴を出す多種なれば、古来これに注意も深く、それぞれ別に名を附けたは感心すべし。
李時珍曰く〈その類数種あり、小にして尾短きは猴(こう)なり、猴に似て髯多きは豦(きょ)なり、猴に似て大なるは玃(かく)なり。大にして尾長く赤目なるは禺(ぐう)なり。小にして尾長く仰鼻なるは狖(ゆう)なり。狖に似て大なるは果然(かぜん)なり。狖に似て小なるは蒙頌(もうしょう)なり。狖に似て善く躍越するは※※(ざんこ)[けものへん+斬][鼬の由に代えて胡]なり。猴に似て長臂(ちょうひ)なるは猨(えん)なり。猨に似て金尾なるは※(じゅう)[けものへん+(戎−ノ)]なり。猨に似て大きく、能く猨猴を食うは独(どく)なり〉。支那の動物は今に十分調ばっていぬから一々推し当つるは徒労だが、小にして尾短きは猴なりといえば、猴は全く日本のと同種ならずも斉(ひと)しくマカクス属たるは疑いなし。それも日本と異なり一種に止(とど)まらず、北支那冬寒厳しき地に住むマカクス・チリエンシス(直隷猴)は特に厚き冬毛を具し、マカクス・シニクス(支那猴)は頭のつむじから長髪を放ち垂(た)る。由って英人は頭巾猴(ずきんざる)と呼ぶとはいわゆる楚人沐猴(もっこう)にして冠すの好(よ)き対(つい)だ。猴の記載は李時珍のがその東洋博物学説の標準とされたから引かんに曰く、班固(はんこ)の『白虎通(びゃっこつう)』にいわく猴は候(こう)なり、人の食を設け機を伏するを見れば高きに憑(よ)って四望す、候(うかがう)に善きものなり、猴好んで面を拭(ぬぐ)うて沐(もく)するごとき故に沐猴という。後人母猴(もこう)と訛(なま)りまたいよいよ訛って獼猴(みこう)とす。猴の形、胡人(こひと)に似たる故胡孫(こそん)という。『荘子』に狙(そ)という。馬を養(か)う者厩中にこれを畜(か)えば能(よ)く馬病を避く、故に胡俗(こぞく)猴を馬留(ばりゅう)と称す、状(かたち)人に似、眼愁胡のごとくにして、頬陥り、※(けん)[口+慊のつくり]、すなわち、食を蔵(かく)す処あり、腹に脾(ひ)なく、行(ある)くを以て食を消す、尻に毛なくして尾短し、手足人のごとくにて能く竪(た)って行く、その声隔々(かくかく)(日本のキャッキャッ)として咳(せき)するごとし。孕(はら)む事五月にして子を生んで多く澗(たに)に浴す。その性騒動にして物を害す、これを畜う者、杙上に坐せしめ、鞭(むちう)つ事旬月なればすなわち馴(な)ると。
時珍より約千五百年前に成ったローマの老プリニウスの『博物志』は、法螺(ほら)も多いが古欧州斯学(しがく)の様子を察するに至重の大著述だ。ローマには猴を産しないが、当時かの帝国極盛で猴も多く輸入されたから、その記載は丸の法螺でないが曰く、猴は最も人に似た動物で種類一ならず、尾の異同でこれを別つ、猴の黠智(かっち)驚くべし、ある説に猟人黐(もち)と履(くつ)を備うるに猴その人の真似して黐を身に塗り履を穿(は)きて捕わると、ムキアヌスは猴よく蝋製の駒(こま)を識別し習うて象戯(しょうぎ)をさすといった。またいわく尾ある猴は月減ずる時甚だ欝悒(うつゆう)し新月を望んで喜び躍りこれを拝むと、他の諸獣も日月蝕(しょく)を懼(おそ)るるを見るとさような事もありなん。猴の諸種いずれも太(いた)く子を愛す、人に飼われた猴、子を生めば持ち廻って来客に示し、その人その子を愛撫するを見て大悦びし、あたかも人の親切を解するごとし。さればしばしば子を抱き過ぎて窒息せしむるに至る。
狗頭猴(くとうざる)は異常に獰猛(ねいもう)だ。カリトリケ(細毛猴)はまるで他の猴と異なり顔に鬚(ひげ)あり。エチオピアに産し、その他の気候に適住し得ずというと。博覧無双の名あったプリニウスの猴の記載はこれに止まり、李氏のやや詳(くわ)しきに劣れるは、どうしてもローマに自生なく中国に多種の猴を産したからだ。
右に見えた黐と履で猴を捕うる話はストラボンの『印度誌』に出で、曰く、猟人、猴が木の上より見得る処で皿の水で眼を洗い、たちまち黐を盛った皿と替えて置き、退いて番すると、猴下り来って黐で眼を擦(す)り、盲同然となりて捕わると、エリアヌスの『動物誌』には、猟人猴に履はいて見せ、代わりに鉛の履を置くと、俺(おれ)もやって見ようかな、コラドッコイショと上機嫌で来って、その履を穿く。豈(あに)図らんや人は猴よりもまた一層の猴智恵あり、機械仕懸けで動きの取れぬよう作った履故、猴一たび穿きて脱ぐ能わずとある。日本でも熊野人は以前黐で猴を捕えたと伝え、その次第ストラボンの説に同じ。『淵鑑類函』に阮※[さんずい+研のつくり]封渓で邑人(むらびと)に聞いたは、猩々数百群を成す。里人酒と槽(ふね)を道傍(みちばた)に設け、また草を織りて下駄(げた)を作り、結び連ね置くを見て、その人の祖先の姓名を呼び、奴我を殺さんと欲すと罵って去るが、また再三相語ってちょっと試みようと飲み始めると、甘いから酔ってしまい、下駄を穿くと脱ぐ事がならずことごとく獲(と)られ、毛氈(もうせん)の染料として血を取らると載せたが、またエリアヌスの説に似て居る。猩々はもと狌々と書く。
『山海経(せんがいきょう)』に招揺の山に獣あり、その状禺(ぐう)(尾長猿)のごとくして白耳、伏して行(ある)き人のごとく走る、その名を狌々という。人これを食えば善く走る。『礼記(らいき)』に〈猩々善く言えども禽獣を離れず〉など支那に古く知れたものでもと支那の属国交趾(こうし)に産したらしい。和漢とも只今猴類中ほとんど人の従弟ともいうべきほど人に近い類人猴の内、脳の構造一番人に近いオラン・ウータンを猩々に当て通用するが、これはボルネオとスマタラの大密林に限って樹上に棲(す)み、交趾には産せぬ。古書に、〈猩々黄毛白耳、伏して行き人のごとく走る、頭顔端正、数百群を成す〉などあるが、一つもオラン・ウータンに合わぬ。『荀子』に〈猩々尾なし〉とありて人に近き由述べ居るが、南部支那に産する手長猿も、無尾だから、攷(かんが)えると最初猩々と呼んだは手長猿の一種にほかならじ、後世赤毛織りが外国より入って何で染めたか分らず、猩々の血てふ謬説(びゅうせつ)行われ、それより転じて赤毛で酒好きのオラン・ウータンを専ら猩々と心得るに及んだのだ。オランは支那になく、たまたまインド洋島にあるを見聞し、海中諸島に産すというところを、例の文体で海中に出づと書いた支那文を日本で読みかじり、『訓蒙図彙大成』に海中に棲む獣なりと註して、波に囲まれた岩上に猩々を図し、猩々の謡曲には猩々を潯陽江(じんようこう)の住としたが、わだつみの底とも知れぬ波間よりてふ句で、もと海に棲むとしたと知れる。この謡(うたい)に猩々が霊泉を酒肆(しゅし)の孝子に授けた由を作ってより、猩々は日本で無性に目出たがられ、桜井秀君は『蔭涼軒日録(いんりょうけんにちろく)』に、延徳三年泉堺の富家へ猩々に化けて入り込み財宝を取り尽した夜盗の記事を見出された。かかる詐欺が行わるべしとは今の人に受け取れぬが、『義残後覚(ぎざんこうかく)』七、太郎次てふ大力の男が鬼面を冒(かぶ)り、鳥羽の作り道で行客を脅かし追剥(おいはぎ)するを、松重岩之丞が斫(き)り露(あら)わす条、『石田軍記』三、加賀野江弥八が平らげた伊吹の山賊鬼装して近郷を却(おびや)かした話などを参ずるに、迷信強い世にはあり得べき事だ。若狭(わかさ)に猩々洞あり。能登(のと)の雲津村数千軒の津なりしに、猩々上陸遊行するを殺した報いの津浪で全滅したとか(『若狭郡県志』二、『能登名跡志』坤巻)、その近村とどの宮は海よりトド上る故、トド浜とて除きあり、渡唐の言い謬(あやま)りかとある。トドは海狗の一種で、海狗が人に化ける譚北欧に多い(ケートレーの『精魅誌』)。惟(おも)うに北陸の猩々は海狗を誤認したのだろう。
家康公が行水(ぎょうずい)役の下女に産ませた上総介(かずさのかみ)忠輝は有名な暴君だったが、その領地に無類の豪飲今猩々庄左衛門あり、忠輝海に漁して魚多く獲た余興に、臣民に酒を強(し)いるに、この漁夫三、四斗飲んで酔わず、城へ伴い還り飲ましむるに六斗まで飲んで睡(ねむ)る。忠輝始終を見届け、かの小男不審とてその腹を剖(さ)くに一滴もなし。しかるにその両脇下に三寸ばかりの小瓶(こがめ)一つずつあり。砕かんとすれども鉄石ごとくで破れず、その口から三斗ずつ彼が飲んだ六斗の酒風味変らず出た。忠輝悦んで日本無双の重宝猩々瓶と名づけ身を放さず、この殿酒を好み、この瓶に酒を詰め、五日十日海川池に入りびたれど酒不足せず、今猩々の屍を懇(ねんごろ)に葬り弔い、親属へ金銀米を賜わった由(『古今武家盛衰記』一九)。これは『斉東野語(せいとうやご)』に出た野婆の腰間を剖いて印を得たというのと、大瓶猩々の謡に「あまたの猩々大瓶に上り、泉の口を取るとぞみえしが、涌(わ)き上り、涌き流れ、汲(く)めども汲めども尽きせぬ泉」とあるを取り合せて造った譚らしい。
『野語』の文は〈野婆は南丹州に出(い)づ、黄髪椎髻(ついけい)、裸形跣足(せんそく)、儼然として一媼のごときなり、群雌牡なく、山谷を上下すること飛猱(ひどう)(猴の一種)のごとし、腰より已下皮あり膝を蓋(おお)う、男子に遇うごとに、必ず負い去りて合を求む、かつて健夫のために殺さる、死するに腰間を手をもって護る、これを剖きて印方寸なるを得、瑩として蒼玉のごとし、文あり符篆に類するなり〉、これは腰下を皮で蓋い玉を護符または装飾として腰間に佩(お)びた無下(むげ)の蛮民を、猴様の獣と誤ったのだ。近時とても軍旅、労働、斎忌等の節一定期間男女別れて群居する民少なからず、古ギリシアやマレー半島や南米に女人国の話あるも全く無根でない(一八一九年リヨン板『レットル・エジフィアント』五巻四九八頁已下。ボーンス文庫本、フンボルト『南米旅行自談』二巻三九九頁已下。クリフォードの『イン・コート・エンド・カムポン』一七一頁已下)。さて野人の女が優種の男に幸せられんと望むは常時で、ギリシアの旧伝にアレキサンダー王の軍女人国に近付いた時、その女王三百人の娘子軍(じょうしぐん)を率い急ぎ来って王の胤を孕みたいと切願し、聞き届けられて寵愛十三昼夜にわたった。鳥も通わぬ八丈が島へ本土の人が渡ると、天女の後胤てふ美女争うて迎え入れ、同棲慇懃(いんぎん)し、その家の亭主は御婿入り忝(かたじけ)なや、所においての面目たり、帰国までゆるゆるおわしませと快く暇乞(いとまご)いして他の在所へ行って年月を送ると(『北条五代記』五)。この事早く海外へ聞え、羨(うらや)ませたと見え、島名を定かに書かねど一五八五(天正十三)年すなわち『五代記』記事の最末年より二十九年前ローマ出版、ソンドツァ師の『支那大強王国史』に、「日本を距(さ)る遠からず島あり、女人国と名づく、女のみ住んで善く弓矢を用ゆ、射るに便せんとて右の乳房を枯らす(古ギリシア女人国話の引き写しだ)、毎年某の月に日本より商船渡り、まず二人を女王に使わし船員の数を告ぐれば、王何の日に一同上陸せよと命ず、当日に及び、女王船員と同数の婦女をして各符標を記せる履(くつ)一足を持たせて浜辺に趣き、乱雑に打ち捨て返らしむ。さて男ども上陸して各手当り次第に履を穿くと、女ども来って自分の符標ある履はいた男を引っ張り行く、醜婦が美男に配し女王が極悪の下郎に当るもかれこれ言わぬ定めだ。かくて女王が勅定(ちょくじょう)した月数が過ぎると「別れの風かよ、さて恨めしや、いつまた遇うやら遇わぬやら」で銘々男の住所姓名を書いて渡し、涙ながらに船は出て行く帆掛けて走る、さて情けの種を宿した場合に生まれた子が女なら島へ留めて跡目(あとめ)相続、男だったら父の在所へ送致する(ここギリシア伝説混入)」というが甚だ疑わしい。しかしこの話をしたは正しき宗教家で、この二年内にかの島へ往きその女人に接した輩から親しく聞いたと言う。ただし日本に居る天主僧の書信に一向見えぬからどうもますます疑わしいとある。世に丸の嘘はないもので、加藤咄堂(とつどう)君の『日本風俗志』中巻に、『伊豆日記』を引いていわく、八丈の島人女を恋うても物書かねば文贈らず、小さく作った草履を色々の染糸を添えたる紙にて包み贈る。女その心に従わんと思えば取り収め、従わざればそのまま戻す云々。女童部(めわらべ)の[#「女童部(めわらべ)の」は底本では「女童部(めらわべ)の」]物語にする。女護島(にょごがしま)へ男渡らば草履を数々出して男の穿きたるを印(しる)しに妻に定むという風俗の残れるにやと、ドウモ女人国へ行きたくなって何を論じ掛けたか忘れました。エーとそれアノ何じゃそれからまた、十五世紀にアジア諸国を巡(めぐ)った露人ニキチンの紀行に多分交趾辺と思わるマチエンてふ地を記し、そこにも似た婦人、昼は夫と臥せど夜は外国男を買うた話が見える。これらの例を考え合すと〈野婆群雌牡なく、男子に遇うごとに、必ず負い去りて合を求む〉ちゅう支那説は虚談ならずと分る。日本で備前の三村家親へ山婆(やまんば)が美女に化けて通い、ついに斬られた話あれど負い去って強求すると聞かぬ。
『和漢三才図会』にいわく、〈『和名抄』、猨(えん)、獼猴(みこう)以て一物と為す、それ訛(あやま)り伝えて、猿字を用いて総名と為す、猨猿同字〉と。誠にさようだがこの誤り『和名抄』に始まらず。『日本紀』既に猿田彦、猿女君(さるめのきみ)など猴と書くべきを猿また猨と書いた。『嬉遊笑覧』に言える通り鴨はアヒルだが、カモを鳬と書かず鴨と書き、近くはタヌキから出たタナテ、またよくこの獣を形容したラクーン・ドグなる英語があるに今もバッジャー(※(まみ)[けものへん+灌のつくり]、アナクマに当る)てふ誤訳を踏襲するに斉しく、今となっては如何(いかん)ともするなし。猿英語でギッボン、また支那音そのまま取ってユエン。黒猩、ゴリラ、猩々に次いで人に近い猴で歯の形成はこの三者よりも一番人に近い。手が非常に長いから手長猿といい、また猿猴の字音で呼ばる。その種一ならず、東南アジアと近島に産す。手を交互左右に伸ばして樹枝を捉え進み移る状(さま)、ちょうど一の臂(ひじ)が縮んで他の臂が伸びる方へ通うと見えるから、猿は臂を通わすてふ旧説あり、一臂(ぴ)長く一臂短い画が多い。『膝栗毛』に「拾うたと思ひし銭は猿が餅、右から左(ひだり)の酒に取られた」この狂歌は通臂の意を詠んだのだ。
『本草綱目』に、〈猿初生皆黒し、而して雌は老に至って毛色転じて黄と為(な)る、その勢を潰し去れば、すなわち雄を転じて雌と為る、ついに黒者と交わりて孕む〉。これは瓊州(けいしゅう)猿の雌を飼いしに成熟期に及び黒から灰茶色に変わった(『大英百科全書』十一)というから推すと、最初雌雄ともに黒いが後に雌が変色するより変成女子と信じたり、『列子』、〈貐(ゆ)変じて猨と為る〉、『荘子』、〈獱狙(ひんそ)猨を以て雌と為る〉と雌雄を異種に見立てたのだ。猿は臂長く膂力(りょりょく)に富み樹枝を揺(ゆす)って強く弾(はじ)かせ飛び廻る。学者これを鳥中の燕に比したほど軽捷(けいしょう)で、『呂覧』に養由基(ようゆうき)矢を放たざるに、猨、樹を擁して号(さけ)び、『呉越春秋』に越処女が杖を挙げて白猨に打ち中(あ)てたなどあるは、その妙技なみ大抵の事でない絶好の叙述と知れ、予も親しく聴いたが、猿が飛ぶ時ホーホーと叫ぶ声は大したもので耳が病み出す。寂しい処で通宵(つうしょう)これを聴く趣はとてもわが邦の猴鳴の及ぶところでなく、〈峡中猿鳴く至って清し、諸山谷その響きを伝え、冷々として絶えず、行者これを歌いて曰く、巴東三峡猿鳴く悲し、猿鳴く三声涙衣を霑(うるお)す〉とはよく作った。「深き夜のみ山隠れのとのゐ猿ひとり音なふ声の淋しさ」などわが邦の名歌は多く支那の猿の詩に倣(なろ)うたものじゃ。
猿は樹を飛び廻る事至って捷(はや)く、夫婦と餓鬼ばかり棲んで群を成さずすこぶる捕えがたい。『琅邪代酔篇』三八に、〈横州猿を捕えて入貢す、故に打ち捕るを事とするは皆南郷の人、旬日村老一人来り告ぐ、三百余人合囲して一小黒猿を独嶺上に得、もし二百人を益し、ことごとく嶺木を伐らば、すなわち猿を獲べしと、その請のごとくす、三日の後一猿を舁(かつ)ぎて至る〉。水を欲しい時のみ地へ下り直立して歩む。本邦の猴など山野にあれば皆伏行し、飼って教えねば立って行(ある)かず、猩々なども身を斜めにして躄(いざ)り歩く。故に姿勢からいえば猿は一番人間に近くその脚とても画にかいたほど短からず、立派に胴より長い。しかるにその臂が非凡に長いので脚がいと短く見える。
『七頌堂識小録』に、猿を貢する者、その傍に獼猴数十を聚(あつ)め跳ね喧(かしま)しからしむ。その言に、猿は人の泣き声を聞くと腸絶えて死ぬからこうして紛らかすと、〈猿声悲し、故に峡中裳を沾(ぬら)すの謡あり、これすなわち人の声の悲しきを畏る、異なるかな〉とあるが何の異な事があるものか、人間でも人の罪よりまず自分を検挙せにゃならぬような官吏が滔々(とうとう)皆これだ。猿は人に近付かぬ故その天然の性行を睹(み)た学者は少ない。したがって全然信認は如何だが、昔から永々その産地に住んだ支那人の説は研究の好(よ)き資料だ。例せば『本草啓蒙』に引いた『典籍便覧』にいわく、〈猿性静にして仁、貪食せず、かつ多寿、臂長く好くその気を引くを以てなり、その居相愛し、食相禁ず〉と節米の心掛けを自得せる故、馬鈴薯料理の試食会勧誘も無用で、〈行くに列あり、飲むに序あり、難あればすなわちその柔弱者を内にして、蔬を践(ふ)まず、山に小草木あれば、必ず環りて行き、以てその植を遂ぐ、猴はことごとくこれに反す〉。これなら桃中軒の教化も危険思想の心配も要(い)らぬ。誠に以てお猴目出たやな。
支那の本草書中最も難解たる平猴また風母、風生獣、風狸というがある。唐の陳蔵器(ちんぞうき)説に風狸邕州(ようしゅう)以南に生じ、兎に似て短く、高樹上に棲息し、風を候(うかご)うて吹かれて他樹に至りその果を食う。その尿乳のごとく甚だ得がたし、諸風を治すと。明の李時珍諸書を考纂していわく、その獣嶺南および蜀西山林中に生ず、状(かたち)は猿猴のごとくで小さし、目赤く尾短くてなきごとく青黄にして黒し、昼は動かず、夜は風に因って甚(いと)捷く騰躍し巌を越え樹を過ぎて鳥の飛ぶごとし、人を見れば羞(は)じて叩頭(こうとう)憐みを乞う態のごとし、これを打てばたちまち死す、口を以て風に向えば復活す、その脳を破りその骨を砕けばすなわち死すと。
「第3図 飛狐猴」のキャプション付きの図
漢の東方朔の『十洲記』には南海中の炎洲に風生獣あり、豹に似て青色、大きさ狸(野猫)のごとし、網で捕えて薪(まき)数車を積み焼くに、薪尽きても燃えず灰中に立ち毛も焦げず、斫(き)っても刺しても入らず、打てば灰嚢のごとし、鉄槌(かなづち)で数十度打ってようやく死ねど、口を張って風に向ければ暫くして復(また)活(い)く、石菖蒲でその鼻を塞(ふさ)げば即死す。その脳を菊花に和し十斤を服せば五百年生き得と。唐の孟琯の『嶺南異物志』には、この獣常に一杖を持って指(さ)すに、指された鳥獣皆去る能わず、人を見れば杖を捨つ、人この獣を捉えあくまで打てば杖を指し示す、人その杖を取って物を指し欲するところに随わしむと載す。奇怪至極な話だがつらつら考えるにこれはコルゴを誇張したのだ。コルゴ(第三図)英語でフライイング・レムール(飛狐猴)、またフライイング・キャット(飛猫)、「乳母ここにももんがあがと子供いい」というモモンガに似たようだが、全く別類で、モモンガは前後脚の間にのみ張った皮膜ありて樹上から飛び下るを助くるが、コルゴの飛膜は前後脚間に止まらず前脚と頸側、後脚と尾の間にも足趾間にも張られ居る状(さま)蝙蝠(こうもり)に髣髴(ほうふつ)たり。だが蝙蝠の翅膜に毛がないと異なり、コルゴの膜は下面ほとんど裸で上面は毛が厚く生え居る。昼は蝙蝠同然樹からぶら下がって睡り、夜は件(くだん)の膜を張って樹から樹へ飛び歩き葉と虫を食う。清水の舞台から傘さして飛ぶように無難に飛び下るばかりで、鳥や蝙蝠のごとく一上一下はし得ないから、南方先生の居続け同然数回飛べばどん底へ下り、やむをえず努力して樹梢に昇り、また懲りずまに飛び始めざるを得ず。ただし居続けも勉強すると随分長くやれる。コルゴ先生も今はなかなか上手に飛び、数百ヤードの距離を飛ぶにその距離五分の一だけ下るとは飛んだ飛び上手だ。この獣以前は猴の劣等な狐猴の一属とされたが、追々研究して蝙蝠に縁近いとか、ムグラモチなどと等しく食虫獣だとか議論定まらず。特にコルゴのために皮膜獣なる一類を建てた学者もある。惟うに右述ぶごとくほとんど横に平らに飛び下るから支那で平猴と名づけたので、『十洲記』に南海中の炎洲に産すというも、インド洋中の熱地ジャワ、ボルネオ、スマトラを指したものであろう。現にこれら諸島とマレー半島、シャム、ビルマ、インドに一種を出すがそれに四、五の変種あり。それより耳短く、頭小さく、上前歯大なる一種はルソンに産す。その毛オリヴ色で白き斑(ふ)あり猫ほど大きく、尋常の方法では殺し切れぬくらい死にがたい(一八八三年ワリスの『巫来(マレー)群島記』一三五頁)のが、平猴の〈大きさ狸(野猫)のごとし、その色青黄にして黒、その文豹のごとし、これを撃っては倏然(しゅくぜん)として死す。口を以て風に向かえば、須臾(しゅゆ)にしてまた活く〉(『本草綱目』五一)てふ記載に合い、昼臥(ふ)し夜飛び廻る上に、至って死にがたい誠に怪しいもの故種々の虚談も支那書に載せられたのだ。さて仙人能く飛ぶに合せてその脳を食えば長生すとか、その杖を得れば欲するところ意のごとしとかいい出し、支那人は中風大風(癩病)等を風より起ると見たから、風狸の一名あるこの獣の尿は諸風を治すと信じたのだ。昨今支那にコルゴを産すと聞かぬが、前述の仰鼻猴や、韓愈の文で名高い鱷(わに)など、ありそうもない物が新しく支那で見出されて学者を驚倒させた例多く、支那の生物はまだとくと調査が済まない。したがって予は南支那に一種のコルゴが現存するか、昔棲んだかの証拠がそのうち必ず揚がると確信する。さて話はこれから段々いよいよ面白くなるんだからして、聞きねえ。(大正九年一月、『太陽』二六ノ一) 
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『仏本行集経』三三に、仏、成道(じょうどう)して最初に説法すべき人を念じ、優陀摩子(うだまし)然(しか)るべしと惟(おも)うに、一天神来りて彼は七日前に死んだと告ぐ。世尊内心智を揮(ふる)い、かの者死して非々想天に生まれ、八万四千大劫の後ここに堕落して飛狸身を受け、諸畜生を害しまた婬し、その報いで餓死して今度は地獄に生まるるはずと知ったとある。『経律異相』三九に、『毘毘曇婆沙(びびどんばしゃ)』を引いていわく、昔一国王常に優陀摩子を敬し魚食を施す、この仙人食時ごとに空を飛び王宮に詣(いた)り、王迎えて自ら抱いて金牀上に坐せしめ食を供うるを、仙人食い終って偈(げ)を説き、呪願して飛び去った。しかるに王事故あって他行するに臨み、この仙人気短ければ、王同然に給事篤(あつ)くする者なくては大いに怒り、呪詛して王位を失わしめまた殺すだろうと心配の余り、王女に汝我に代りよく供養すべきやと問うに、能くすと答う。因って万端抜かりなきよう言い含めて出で立った。後日食事に仙人飛び来り、王女自ら迎え抱いて金牀上へ坐せしめた。ここでちょっと中入りに申し上ぐる。キリスト教では眼で視(み)とれたばかりが既に姦婬同然といい、儒書にも宋の華父督が孔父の妻を途に見、目逆(むか)えてこれを送り曰く、美にして艶(えん)なりと、竹添(たけぞえ)先生の箋(せん)に、〈およそ女子の美を称うるは顔色を言う、すなわち艶はその光なり、美の尤(ゆう)なるは、必ず光気ありて人を動かす、三字ついに後世美人を賦して俑(よう)と為す〉とあれば飛び切りの代物だ。それから孔父を攻め殺してその妻を奪い、主君殤公(しょうこう)の怒るを懼(おそ)れついにこれを弑(しい)したというから、二教ともに眼ほど性慾を挑発するものなしとしたのだ。しかるに『十善法語』にも見える通り、仏教には細滑というて肌に触(さわ)るを最も強く感ずるとす。されば仙人、王女の軟らかな手で抱かれ、すなわち神足を失い、食事済んで飛び去らんとすれど能わず。その体(てい)南方先生外国で十五年仙人暮しで大勉強し、ロンドン大城の金粟如来(こんぞくにょらい)これ後身と威張り続け、大いに学者連に崇(あが)められたが、帰朝の際ロンドン大学総長から貰(もろ)うた金を船中で飲み尽し、シンガポールへ著きて支那料理を食いたいが文なしの身の上、金田和三郎氏(只今海軍少将か大佐)に打ち明かし少々借り倒して上陸し、十町も過ぎぬ間に天草生まれのへちゃ芸妓を見て曰く、美にして艶なりと、たちまち鼠色の涎(よだれ)を垂らし、久米(くめ)仙人を現じて車より堕(お)ち掛ったに異ならず。仕方がないから王宮の後園へ歩み入り、修行して王女の細滑を忘れ切り、神足を恢復せんとしたが、ここは御庭先の栞(しお)り門、戸を立てるにも立てられぬ。象馬(ぞうめ)車乗の喧(かしま)しさに心いよいよ乱れて修行を得ず。地体城中の人民この大仙もし一度でも地を歩まば我ら近く寄りてその足を礼すべきに、毎度飛び来り飛び去るのみで志を遂げぬと嘆(かこ)ちいた。それを知りいた仙人一計を案じ、王女を頼み、城中にあまねく告げしめたは、今日に限り大仙王宮より歩み去れば礼拝随意と、聞いて人民大悦し、街路を浄(きよ)め、幡(はた)を懸け、香を焼(た)き、花を飾って歓迎する。その間を鹿爪(しかつめ)らしく歩んで城から遠からぬ林中に入り、神足を修せんとしたが、鳥が鳴き騒いで仙人修行し得ず。すなわち林樹を捨て河辺に到り、その本法を以て神足を修せんとするに水中魚鼈廻転の声が耳に障(さわ)る。因って山に上り惟(おも)うらく、我今善法を退失せるは皆衆生に由(よ)る。この返報に世間あらゆる地行、飛行、水性の衆生を一切害し尽すべき動物に生まれ変らんと。この悪誓願を発して死んだところ、従前善法浄行の報いで非想非々想天に生まれ、八万劫の長い間、寂静園中に閑静を楽しんだが、業報尽き已(おわ)ってこの地の答波樹林に還り、著翅狸身と作(な)って身広五十由旬(ゆじゅん)、両翅各広さ五十由旬、その身量百五十由旬あり、この大身を以て空行水陸衆生を殺し、免るるを得る者なく、のち死して阿毘(あび)地獄に生まれたということじゃ。
『仏本行集経』に、飛狸、『経律異相』に、著翅狸、いずれも優陀摩仙が転生とあれば、同物に相違なく、華南で狸というはタライと呼ぶ野猫で、中橋文相好物のタヌキ(これも北支那や黒竜州に産す)でない。故に支那訳経の飛狸、著翅狸はコルゴの英名フライイング・キャット、飛猫に合う。上にも述べた通り、至極怪しい獣でインドにも産すれば(バルフォールの『印度事彙』二)いよいよ仏典の飛狸はコルゴと考定さる。さて『僧伽羅刹(そうぎゃらせつ)所集経』一と二に有翅飛鬼、また羅刹有翅とあり、ハーバート・スペンセルが欧州で天魔に翅を画(えが)くは、蝙蝠を怪獣とせるに基づくといえるごとく、インドの羅刹鬼に翅ありとするは幾分蝙蝠に象(かたど)ったるべきも、右に引いた経文で見ると、多分はコルゴに根源すというべし。邦俗いわゆる天狗が多少仏経の有翅飛鬼より生ぜるは馬琴の『烹雑記(にまぜのき)』に説く所、理(ことわり)あり。されば天狗は系図上コルゴの孫だ。何に致せ、古来学者を閉口させた平猴をコルゴと定めたは、予の卓見と大天狗の鼻を蠢(うごめ)かす。
また優陀摩仙が一たび神足を失して、水陸到る処物の声に正念を擾(みだ)されたちゅう譚から出たらしいは、この辺で熊野の神が、田辺町より三里足らずの富田の海辺に鎮坐し掛かると、波の音が喧しい、それを厭(いと)うて山へ上ると松籟(しょうらい)絶えず聞えるので「波の音聞かずがための山籠(ごも)り、苦は色かへて松風の声」と詠じて、本宮へ宿替えされたてふのだ。
『一話一言』一五にいわく、〈『寿世青編』いわく、伏気に三種眠法あり、病竜眠るにその膝を屈するなり、寒猿眠るにその膝を抱くなり、亀鶴眠るにその膝を踵(つ)くなり〉、今も俗に膝を抱いて眠るを猿子眠りというなりと。日本のを見ぬが熱地の諸猴を親しく見しに、猴ほど夜眼の弱いものはなく、日が暮れれば膝を立てて坐し、頭を膝に押し付け手で抱えて睡(ねむ)る。人が起すとちょっと面を揚げ、眼を瞬(またた)きしまた俯(うつ)ぶき睡る。惟うに日本の猴も同様でこれを猿子眠りというのだろ。頼光(らいこう)が土蜘蛛(つちぐも)に悩まさるる折、綱、金時(きんとき)が宿直(とのい)する古画等に彼輩この風に居眠る体を画けるを見れば、前に引いた信実の歌などに深山隠(みやまがく)れの宿直猿(とのいざる)とあるは夜を守って平臥せぬ意と見ゆ。眼が見えぬからのみでなく、樹上に夜休むに防寒のためかくして眠るのだろ。ロバート・ショー『高韃靼行記』に一万九千フィートの高地で夜雲に逢うた記事あっていわく、こんな節は跪(ひざまず)いて下坐し、頭を両膝間に挟(はさ)むようにして、岸に凭(もた)せ、頭から総身を外套で洩(も)れなく被い、風強からずば外套内を少し脹(ふく)らせ外よりも暖かい空気を呼吸するに便にす、ただし足最も寒き故自身の諸部をなるべく縮める、かくして全夜安眠し得べし、外套だけ被って足を伸ばし臥(ね)ては束の間も眠られぬと。これすなわち猿子眠りだ。予はこれを知らず高山に寒夜平臥して足を不治の難症にしおわったから、記して北荒出征将士の参考に供う。このついでに第四図に示すロリスはもっとも劣等な猴で、南インドとセイロンに産し夜分忍び歩いて虫鳥を食うために至って巨眼だが、昼間眠る態が粋のまた粋たる猿子眠りだ。さて吾輩在外の頃は、いずれの動物園でも熱地産の猴や鸚哥(いんこ)を不断人工で熱した室に飼ったが、近時はこれを廃止し食物等に注意さえすれば、温帯寒暑の変りに馴染(なじ)み、至って健康に暮すという。何事も余り世話焼き致さぬがよいらしい。
「第4図 ロリス」のキャプション付きの図
上引、李時珍猴の記載に尻に毛なしとあるが、毛がないばかりでなく、尻の皮硬化して樹岩に坐するに便あり。発春期には陰部とともに脹れ色増す。古ギリシア外色盛行の世には、裸体少年が相撲場の砂上に残した後部の蹟を注意して必ず滅さしめ、わが邦にも「若衆の尻月を見て離れ得ぬ、念者(ねんじゃ)や桂男(かつらおとこ)なるらん」など名吟多し(『後撰夷曲集』)。しかるに猴は尻の色が牝牡相恋の一大助たるのだ。本邦の猴は尻の原皮で栗を剥(は)ぐとて栗むきと呼び、何の義か知らねど紀州でギンガリコと称す。西半球の猴は一同この原皮を欠き、アフリカのマイモン猴は顔と尻が鮮(あざ)やかな朱碧二色で彩(いろど)られ獣中最美という。
そもそも本篇は発端に断わった通り、読み切りのつもりだったが、人はその乏しきを憾(うら)み、われはその多きに苦しむ。積年集めた猴話の材料牛に汗すべく、いずれあやめと引き煩いながら書き続くる内、概言の第一章のみでも、かように長くなったから、第二章以下は改めて続出とし、ここに元本章の尻纏(しりまと)めに猴の尻の珍談を申し上げよう。
アリストテレスが夙(はや)く猴を有尾、無尾、狗頭の三類に分ったは当時に取っての大出来で、無尾は猩々、猿猴等、日本の猴等は有尾、さて狗頭猴はアラビアとアフリカに限り生ずる猛性の猴だが、智慧すこぶる深く、古エジプトで神と崇められた。人真似は猴の通性で、『雑譬喩経』に猴が僧の坐禅の真似して樹から落ちて死んだ咄(はなし)あり。上杉景勝平素笑わなんだが猴が大名の擬(まね)して烏帽子(えぼし)を戴(いただ)くを見て吹き出したといい、加藤清正は猴が『論語』を註するつもりで塗汚すを見、汝も聖賢を慕うかと笑うた由。パーキンスの『アビシニア住記』一にアラブ人酒で酔わせて狗頭猴を捕える由言い、氏一日読書する側にこの猴坐して蠅(はえ)を捉え、またその肩に上りて入墨(いれずみ)した紋を拾わんと力(つと)めおり、氏が喫烟に立った間に氏の椅子に座し膝に書を載せ沈思の体までは善(よ)かったが、一枚一枚捲(めく)り裂きて半巻を無にした所へ氏が帰った。また氏がちょっと立つごとに跡へ坐って烟管(キセル)を口にし、氏帰れば至って慎んで返却したは極めて可笑(おか)しかったとある。またいわくすこぶる信ずべき人から聞いたは、猴曳(ひ)きが寺の鐘を聴いて如法に身を浄めに行くとて、平生教えある狗頭猴に煮掛けた肉の世話を委ね置くと、初めは火を弄(もてあそ)びながら番したれど、鶏肉熟せるを見て少しずつ盗み食いついに平らげてしまい、今更骨と汁のほかに一物なきを知って狼狽(ろうばい)の末呻吟する、たまたま、鳶(とび)が多く空に舞うを見て自分の尻赤く鶏肉に擬(まが)うに気付き、身を灰塵(かいじん)中に転(ころ)ばして白くし、越後獅子(えちごじし)様に逆立ちこれを久しゅうせるを鳶が望んで灰塚の頂に生肉二塊ありと誤認し、二、三羽下り撃つところを取って羽生えたまま煮え沸く鍋(なべ)に押し込むを、向いの楼の上で喫烟しながら始終見届けた人ありと。『嬉遊笑覧』に『犬筑波集(いぬつくばしゅう)』猿の尻木枯ししらぬ紅葉かな、『尤(もっとも)の草紙』赤き物猴の尻、『犬子集』昔々(むかしむかし)時雨(しぐれ)や染めし猿の尻、また丹前能日高川の故事を物語るところになんぼう畏(おそ)ろしき物語にて候、猿が尻は真赤なと語りぬとあり。これら皆幼稚の者の昔々を語る趣なり。猿は赤いといわんためまた猿と蟹の古話もあればなり、赤いとはまづかくと言うの訛りたるなり。まづかくは真如これなり、それを丹心丹誠の丹の意にまっかいといえるは偽りなき事なるを、後にその詞を戯れて猿の尻など言い添えて、ついに真ならぬようの事となって今はまっかな啌(うそ)という、これは疑いもなく明白なるをまっかというなれど、実は移りて意の表裏したるなるべしと見ゆ。これで予も猿の尻は真赤いな。(大正九年二月、『太陽』二六ノ二) 
(二) 性質 
概言中に述べた平猴に似た物が明の黄省曾の『西洋朝貢典録』中と『淵鑑類函』二三四に記載さる。その文異同ある故両(ふた)つながら参酌して書くと、〈阿魯(あろ)国一名唖魯、西南の海中にあり、その国南は大山、北は大海、西は蘇門荅剌(スマトラ)国界、国語婚喪等の事爪哇(ジャワ)と相同じ、山に飛虎を出す、その状猫のごとく、灰色にして肉翅、蝙蝠のごとく、能く走り能く飛ぶ、これを獲ればすなわち死す〉。スマトラの東にあるなり、西南でなくて東南海中にある蘭領アル島にほかならじ。いわゆる飛虎はアル島に産するベタウルスの一種らしい。これはカンガルーなどと同じく、袋獣類の物で平猴(コルゴ)と縁がない。
それから前引の「波の音聞かずがための山籠り苦は色かへて松風の声」てふ歌は、熊野の神さえ海辺で波、山中で松風の音が耳に障る。いわんや人間万事思うままに行くものかという訓(おし)えの神詠とかで、今も紀州の人は不運な目に逢うごとにこれを引いて諦めるが、熊野猿ちゅう諺(ことわざ)通りよほどまずい神詠だ。さりとて随分名高かった証拠は近松門左の戯曲『薩摩歌』中巻お蘭比丘尼の詞(ことば)に「あのおしゃんす事わいの、苦は色替ゆる松風通り、風の吹くように、身にも染まぬ一時恋」。半二と加作の『伊賀越道中双六(いがごえどうちゅうすごろく)』岡崎の段の初めに「世の中の、苦は色かゆる松風の、音も淋しき冬空や」などある。全体この神詠なるもの何時頃(いつごろ)から文献に見え出したのか、読者諸君の教えを乞う。
『水経注(すいけいちゅう)』巻三三に広渓峡に手長猿多きもその北岸には決してこれを産せぬとある。何のへんてつもない記事と看過しいたところ、たまたま『大英百科全書』巻二二フォルツ博士の実験談を引いて、スマトラ島の諸地にシャマンとウォーウォーと二種の手長猴雑居し、パレンバン地方でも山地では雑居す。しかるにこの地方にあるレマタン川に限り、彼らが容易に飛び越え得るほど狭き上流までも西岸にシャマン、東岸にウォーウォー棲んで相(あい)雑(まじ)わる事なきは希代だ。前者は一声、後者は二声ずつ鳴くからこれを捕え見ずともこの界別はよく判るというを読んで、魏帝が長江の南北を限れるを認め嘆ぜしを思い出し、『水経注』の説もしかと事実に基づいたものと知った。
フンボルトの『回帰線内亜米利加旅行自談』に、所により鰐や鮫が人を犯すと犯さざるの異なる由を述べ、猴も同様でオリノコやアマゾン河辺のインデアン人は、同一種の猴ながらある島に住むはよく人に懐(なつ)き馴れるが、その近所の大陸に住む奴は捕えらるるや否や、甚だしく怖れまた嗔(いか)ってたちまち死するを熟知する故、猿取りに無駄骨を折らぬ。どうも地勢が違うばかりでかように性質が異なると説き去りがたいとあるが、定めて食物とか物の乾湿とか雑多の原因がある事と惟わる。したがってわが邦の猴舞わしが、四国猴は芸を仕込むに良いの、熊野猴は生まれ付きが荒いのというも年来の経験で根拠ある説らしい。
『連珠合璧(れんじゅがっぺき)』上に猿とあらば梢をつたうとあり、俗諺にも猴も木から落ちるというて、どの猴も必ず楽に木を伝い得るよう心得た人が多い。しかしワリスの『巫来(マレー)群島記』(一八八三年板、一三三頁)に、スマトラに多い体長く痩(や)せ、尾甚だ長いセムノビテクス属の猴二種は、随分大胆で土人を糸瓜(へちま)とも念(おも)わず、しかるに予が近づき瞰(なが)めると一、二分間予を凝視した後(のち)逃げ去るのが面白い。一樹の枝より少し低い他の樹の枝へ飛び下るに、一の大将分の奴が無造作に飛ぶを見て他の輩が多少慄(おのの)きながら随い飛べど、最後の一、二疋は他の輩の影見えぬまで決心が出来ず、今は全く友達にはぐれると気が付き捨鉢(すてばち)になって身を投げ、しばしば細長い枝に身を打ち付け廻った後、地上へドッサリ堕つる睹(み)て可笑(おか)しさに堪えなんだとあるから、猴の木伝いもなかなか容易でないと見える。
世に猴智慧というは『甲子夜話』続二一に、四国の猴は余国よりは小さくして舞伎を教えて能く習う、因って捕え他国へも出して利を得るとぞ。この猴に器用なると不器用なると二品あり、不器用なるは芸を為(な)す事能わざる故選びに念入る事の由、その選ぶ術は、まず一人を容(い)るべきほどの戸棚を造り、戸を閉(し)める時自ずから栓下りて開けざるごとくして中に食物を置き、猴多き山に持ち往きて人まずその内に入って食物を食い出づるを、猴望み見て人の居ざるを待って入って食物に就(つ)く、不器用なる猴は食う時戸を閉づる事を知らず、故に人来ればたちまち逃れて山中に走る、器用なるは戸棚に入り食せんとする時、人の来るを慮(おもんぱか)りわざと戸を閉づ。兼ねてその機関(からくり)を作りたるもの故すなわち栓ありて闢(ひら)けず、ついに人に捕えらると、ここを以て智不智を撰ぶとぞ。いわゆる猴智慧なるかなと見ゆ。未熟の智慧を振うて失策を取るを猴智慧といい始めたらしい。されば仏経にしばしば猴を愚物とし、『百喩経』下に猴大人に打たれ奈何(いかん)ともする能わずかえって小児を怨(うら)むとあり。また猴が一粒の豆を落せるを拾わんとてことごとく手中の豆を捨て鶏鴨に食われた話を出す。猴は毎々そうするか否を知らぬが、予かつて庭に遊ぶ蟹に一片の香の物を投ぐると走り寄りて右の螫(はさみ)でこれを執る。また一片を投ぐると左の螫で執る。更に一片を投ぐると右の手に持てるを捨ててこれを執り、今一つ投ぐると左手に挟んだのを捨てて新来の一片を執る。幾度も投げ与うるに毎度かくのごとくし、ついに最後の二片を持ちて穴に入ったそのまままた出て前来の諸片を採らず、全く忘れしまったようだった。最後の二片で満足するほどなら幾度も拾い換えるに及ばぬというところに気付かぬは蟹根性とでも名づくべきか。だが世間にこんな根性の人が少なくない。『僧祇律』に群猴月影水に映るを見、月今井に落ちた、世界に月なしとは大変だ助けにゃならぬと評定して、その一疋が樹の枝を捉え、次々の猴が各他の猴の尾を執りて連なり下る重みで枝折れ猴ども一同水に陥った。天神これを見て「なべて世の愚者が衆愚を導びかば、井戸の月救う猴のごと滅ぶ」コラサイと唄うたと出(い)づ(英訳シーフネル『西蔵(チベット)譚』三五三頁)。これに謝霊運(しゃれいうん)『名山記』に〈猨猱(えんどう)下り飲み百臂相聯(つら)なる〉とあるを調合して、和漢に多き猿猴月を捉えんとする図が出来たのであろう。『法句譬喩経』三にいわく、愚なる猴王五百猴を率いて大海辺に至り、風が沫(あわ)を吹き聚(あつ)めて高さ数百丈となるを見、海中に雪山あり、そのうち快楽、甘果恣(ほしいまま)に口にすと聞いたが今日始めて見る、われまず往き視て果して楽しくば還らじ、楽しからずば来って汝らに告ぐべしとて、聚沫(しゅうまつ)中に跳り込んで死んだと知らぬ猿ども、これはよほど楽しい所ゆえ留まって還らずと合点し、一々飛び入りて溺死したと。熱地の猴故雪山を楽土と心得たのだ。猿が猴智慧でその身を喪(うしの)うた例は支那にもあり。『北史』に高昂の母が児を浴せしめんと沸かした湯を婢が置き去った後、猿が綱を外(はず)し児を鼎(てい)中に投じ爛(ただ)れ死なしめたので、母が薪を村外に積ましめ、その婢と猿を焚殺したとある(『類函』四三一)。
一九〇八年板英国科学士会員ペッチグリウの『造化の意匠』巻二に、猴の心性について汎論した一章あって煩と簡との中を得居るからその大略を述べよう。すなわち猴類は人間に実用された事少しもなく、いまだかつて木を挽(ひ)き、水を汲むなど、その開進に必要なる何らの役目を務めず、ただ時々飼われて娯楽の具に備わるの一途あるのみ。それすら本性不実で悪戯(いたずら)を好み、しばしば人に咬(か)み付く故十分愛玩するに勝(た)えず。されどその心性人に類せる点多きは真に驚嘆すべし、ダーウィンは猴の情誼厚きを讃(ほ)め、あるアメリカの猴がその子を苦しむる蠅を払うに苦辛し、手長猿が水流中に子の顔を洗うを例示し、北アフリカの某々種の猴どもの牝はその子を喪うごとに必ず憂死し、猴の孤児は他の牝牡の猴必ずこれを養い取って愛撫すといった。ジョンソン説に、手長猿は同類甚だ相愛すれど一たび死ねば構わぬに反し、氏が銃殺した猩々の屍を他の猩々どもが運び去ったと。ある人『ネーチュル』雑誌へ出せしは、その園中に放ち飼える手長猿の一牡児、木から堕ちて腕節外れると、他の猿一同厚く世話焼く、特に篤志だったはその児に何の縁なき一老牝で、毎日くれた甘蕉実(バナナ)を自ら食わずにまず病猿に薦めた。一つの猿が怖れ、痛み、もしくは憂いて号(さけ)ぶ時は一同走り往きてこれを抱え慰めたと。キャプテーン・クローかつて航海せし船に種も大きさも異なる数猴を積む、中に一種小さくて温良に、人に愛さるるも附け上がらず好(よ)く嬉戯するものありて、衆猴これを一家の秘蔵子のごとく愛したが、一朝この小猴病み付いてより衆猴以前に倍してこれを愛し、競うてこれを慰むるに力(つと)め、各旨(うま)い物を竊(ぬす)んで少しも自ら味わわず病猴に与え、また徐(しず)かにこれを抱いて自分らの胸に擁(かか)え、母が子に対するごとく叫んだが、小猴は病悩に耐えず、悲しんで予の顔を眺め、予に援苦を求むるふりして嬰児のように鳴いた。かくて人も猴も出来る限り介抱に手を尽したが養生相叶わず、久しからぬ内に小猴は死んだという。またサー・ゼームス・マルクムも東インド産の二猴を伴れて航海中、一猴過って海に陥るを救わんとて他の一猴その身に絡(からも)うた縄を投げたが短くて及ばず、水夫が長い縄を投げると今落ちた猴たちまちこれを執え引き揚げられた。ジョンソン大尉インドバハール地方で猴群に愕(おどろ)かされてその馬騒ぎ逸(のが)れし時、鉄砲を持ち出して短距離から一猴を射(う)ち中(あ)てしに、即時予に飛び掛かるごとく樹の最下枝に走り降り、たちまち止って血をあびたる場所を探り抓(つま)んで予に示した。その状今に至って眼前にあり、爾来また猴を射った事なし、予幕中に入りて一行にこの事を語りおわらぬ内、厩卒来りてかの猴死んだと告ぐ、因って尸(しかばね)を求めしむるに他の猴ども、その屍を持ち去って一疋も残らずと。
熊楠いわく、故ロメーンズ説に猴類の標本はどうしても十分集まらず、これはその負傷から死に至る間の惨状人をして顔を背(そむ)けしむる事甚だしきより、誰もこれを銃殺するを好まぬからだと。『三国志』に名高い呉に使して君命を辱(はずかし)めなんだ蜀漢のケ芝(とうし)は、才文武を兼ねた偉物だったが、黒猿子を抱いて樹上にあるを弩(ど)を引いて射て母に中てしにその子ために箭(や)を抜き、木葉を巻きてその創(きず)を塞(ふさ)ぐ、芝嘆じてわれ物の性に違(たが)えり、それまさに死せんとすと、すなわち弩を水中に投じたがやがて俄(にわか)に死んだという。南唐の李後主青竜山に猟せし時、一牝猴網に触れ主を見て涙雨下し稽顙(けいそう)してその腹を指ざし示す。後主人をして守らしむるにその夕二子を生んだ。還って大理寺に幸し囚繋を録するに、一婦死刑に中(あた)れるが妊娠中ゆえ獄中に留め置くと、いくばくならず二子を生んだ。後主猴の事に感じ死刑を減じ流罪に止(とど)めた(『類函』四三二)。
日本にも、櫛笥殿北山大原の領地で銃もて大牝猴を覘(うかが)うに、猴腹を示し合掌せしにかかわらず打ち殺し、その祟(たた)りで煩い死んだと伝う(『新著聞集』報仇篇)。今年元日の『大正日々』紙に、越前の敦賀郡愛癸村字刀根の気比(けひ)神社は浪花節の勇士岩見重太郎が狒々(ひひ)を平らげし処という。今も祭礼に抽籤(ちゅうせん)もて一人の娘を撰み櫃(ひつ)に入れ、若者舁(かつ)ぎ行きて神前に供う。供わった娘は後日良縁を得とて競うてこれに中らんと望む。この村へ毎年二、三百疋の猴来り作物を荒すを村人包囲して捕え子猿を売る。孕んだ猴は腹を指さし命を乞うとあった。またしばしば熊野の猟師に聞いたは、猴に銃を向けると合掌して助命を乞う事多しと。これを法螺譚(ほらばなし)とけなし去らんとする人少なからぬが、一概にそうも言えぬ。数年前予が今この文を草し居る書斎に対して住みいた芸妓置屋の女将が愛翫したカジカ蛙が合掌して死んだは信心の厚い至りと喋々(ちょうちょう)して、茶碗の水ででも沾(うるお)したものか、川穀(ズズダマ)大の涙を落し坊主に読経させて厚く葬ったと聞いた。善男信士輩、成湯(せいとう)の徳は禽獣に及びこの女将の仁は蛙を霑(うる)おすと評判で大挙して弔いに往ったは事実一抔啖(くわ)されたので、予が多く飼うカジカ蛙が水に半ば泛(うか)んで死ぬるを見るに皆必ず手を合せて居る。これはこの蛙の体格と死に際の動作がしからしむるので念仏でも信心でもない。チャーレス・ニウフェルドの『カリーファの一囚人』(一八九九年板)に、著者が獄中にあって頭上で夥しく砲丸破裂の憂目(うきめ)を見た実験談を述べて、その時獄中の人一斉に大腹痛大下痢を催したと書いた。われわれ幼時厳しく叱(しか)られ驚愕(きょうがく)措(お)く所を知らぬ時も全くその通りだった。因って想うに猴も人も筋肉の構造上から鉄砲など向けらるると自ずと如上(じょじょう)の振る舞いをするので、最初は驚怖が合掌を起し、追々恐怖が畏敬に移り変って合掌する事となったので、身持ちの牝猴も女も、恐怖極まる時は思わず識らず指が腹に向くので、さもなき牡猴や男にも幾分その傾向を具え居るので、時として孕婦の真似するよう見えるのでなかろうか。
ペッチグリウ博士続けていわく、予かつて高等哺乳動物の心室と心耳の動作を精測したき事あって一疋の猴の躯を嚢(ふくろ)に入れてひっ掻かるるを防ぎ、これにクロロホルムを施すに猴あたかも予の目的を洞察せるごとく、悲しみ気遣いながら抵抗せず、予の為(な)す任(まま)に順(したが)いしは転(うた)た予をして惻隠(そくいん)の情に堪えざらしめた。その行い小児に強いられてやむをえず麻薬を施さしむるに異ならず、爾来どんな事あるも予は再び猴に麻薬を強うるを欲せず。またある時ロンドンの動物園で飼いいた黒猩(チンパンジー)が殊(こと)のほか人に近い挙止を現ずるを目撃した。それは若い牝だったが、至って心やすい番人よりその大好物なる米と炙肉汁の混ぜ物を受け徐(しず)かに吸いおわり、右手指でその入れ物ブリキ缶(かん)の底に残った米を拾い食うた後、その缶を持って遊ぼうとするを番人たって戻せと命じた。そこで黒猩暴(にわ)かにすね出し、空缶を番人に投げ付け、牀(とこ)に飛び上り、毛布で全身を隠す、その体(てい)気まま育ちの小児に異ならなんだ。ロメーンズの記に、牝猩々が食後空缶を倒(さかさま)に頭に冠(かぶ)り観客が見て笑うを楽しみとした事あり。サヴェージ博士は黒猩時に遊楽のみのために群集し、棒で板を打って音を立つ事ありというた。猴どもが動物園内で軽業を面白可笑(おか)しく楽しむは皆人の知るところで、機嫌好く遊ぶかと見ればたちまちムキになって相闘い、また毎度人間同様の悪戯をなす。アンドリウ・スミス男喜望峰で見たは、一士官しばしばある狗頭猴を悩ます、ある日曜日その士盛装して来るを見、土穴に水を注ぎ泥となし、俄(にわか)に投げ掛けてその服を汚し傍人を大笑せしめ、爾後その士を見るごとに大得色を現じた由。
猴は極めて奇物を好む。鏡底に自分の影映るを見て他の猴と心得、急にその裏を覗き見る。後、その真にあらざるを知り大いに誑(たぶら)かされしを怒る。また弁別力に富む。レンゲルいわく、一度刃物で怪我(けが)した猴は二度とこれに触(さわ)らず、あるいは仔細に注意してこれを執る。砂糖と蜂を一緒に包んだのを受けて蜂に螫(さ)されたら、その後かかる包みを開く前に必ず耳に近付けて蜂の有無を聞き分ける。一度ゆで卵を取り落して壊(こわ)した後は、卵を得るごとに堅い物で打ち欠き指もてその殻を剥(は)ぐ。また機巧あり、ベルトが睹(み)た尾長猴はいかにこんがらがった鎖をも手迅(てばや)く解き戻し、あるいは旨く鞦韆(ぶらんこ)を御して遠い物を手に取り、また己れを愛撫するに乗じてその持ち物を掏(す)った。キュヴィエーが飼った猩々は椅子を持ち歩いてその上に立ち、思うままに懸け金をはずした。レンゲルはある猴は梃(てこ)の[#「梃(てこ)の」は底本では「挺(てこ)の」]用を心得て長持(ながもち)の蓋(ふた)を棒でこじあけたというた。ヘーズン一猴を飼いしに、その籠(かご)の上に垂れた木の枝に上らんと望めど、籠の戸の上端に攀(よ)じ登って始めて達し得。しかるにこの戸を開けばたちまち自ずから閉ずる製(つくり)ゆえ何ともならず。その猴取って置きの智慧を揮(ふる)い、戸を開いてその上端に厚き毛氈を打ち掛け、戸の返り閉づるを拒(ふせ)ぎ、やすやすと目的を遂げたそうだ。シップは喜望峰狗頭猴、下より来る敵を石などを集め抛下(ほうか)して防ぐといい、ダムピエート・ウェーファーは猴が石で牡蠣(かき)を叩き開くを記す。多くの下等動物や小児や蛮民同様、猴は多く真似をする。皆人の熟知する通り。行商人、炎天に赤帽の荷を担(にな)い歩み憊(つか)れて猴多き樹下に止まり、荷箱を開いて赤帽一つ取り出し冒(かぶ)って眠るを見た猴ども、樹より降りて一々赤帽を冒り樹に登る。その人寤(さ)めて多くの帽失えるを知り失望してその帽を地に抛(なげう)つと、衆猴その真似してことごとく盗むところの帽を投下し、商人測らず失うところを残らず取り還したてふ話があると。
熊楠いわく、この譚は回教国の物らしいが、類話は古く仏典に出て居る。過去世に伽奢(かしゃ)国王梵施(ぼんせ)と拘薩羅(くさら)国王長生と父祖以来怨仇たり。梵施王象馬歩車の四兵を以て長生王を伐ち戦敗れて生捕(いけど)られしを長生王赦して帰国せしめた、暫くして梵施王また兵を起して長生王を伐ち敗り、長生王その后(きさき)と深山無人の処に隠れ、琴を学んで無上に上達し諸村を徘徊して乞食す。梵施王の第一大臣この夫婦を招き音楽を聴くに未曾有(みぞう)にうまいから、乞食をやめさせ自邸に住ましめ扶持して琴を指南せしむ。時に長生王の后臨月に近付き夫に語るは、何卒(なにとぞ)朝日初めて出る時好(よ)き幃帳(いちょう)内に妾を臥せしめ、四つ辻で象馬歩車の四兵の闘う処を見せ、闘いに用いた利刀の洗汁を飲ませて欲しいと。王それは出来ぬ相談だ、昔王位にあった時はともかく、かく落ちぶれて暮し兼ねるに「寝ていて戦争を眺めたい」などは思いも寄らぬというと、后それが出来ずば子を生まずに死ぬとせがむ。折から大臣に招かれ琴を弾(ひ)くにややもすれば調子合わず、何か心配があるのかと推問されて事情を語る。その時自分夫婦は腹からの乞食でなく実は拘薩羅国の王と后だと打ち明けたらしい。大臣これを憐(あわれ)み望みの通り実行させて刀の洗汁を后に飲ましむ。さて生まれた男児名は長摩納、この子顔貌(かおかたち)殊特で豪貴の人相を具う。かの大臣これ後日聖主となり亡国を復興する人物と、后に向い祝辞を述べ、家人を戒めこの語を洩らさば誅戮(ちゅうりく)すべしというた。長摩納ようやく成人して梵施王の諸大臣や富人を勧進(かんじん)し施財を得て父母の貧苦を救う。梵施王聞き及んで長生王を死刑に処した。長摩納母を伴って他国に奔(はし)り、琴を修業しまた乞食して梵施王の城下へ来た。王その長生王の子たるを知らず、召して深宮に入れその妙技に感じ寵愛自分の子のごとし。時に梵施王の后摩尼珠(まにしゅ)を失い、我が所は王と長摩納のほか入る者なきにこの珠をなくしたは不審という。王、長摩納を呼び汝珠を取ったかと問うに、全く王の太子、王の首相、国中第一の長者、第一の遊君の四人と共謀して取ったと答う。王すなわち五人の者どもを禁獄したが容易に裁判済まず。かれこれするうち賊あり、私(ひそ)かに長摩納に向い、后宮へ出入するは王と后と汝三人に限るが、そのほかに后宮内を歩き廻る者がないかと尋ぬるに、猴一疋ありと答う。賊すなわち王に詣(いた)り請うて、女人の飾具瓔珞(ようらく)を種々出し、多く猴を集めこれを著(つ)けて宮内に置くと、先から宮中にいた猴これを見て劣らじと偸(ぬす)んだ珠を佩(お)びて立ち出づるを賊が捕えて王に渡した。王すなわち長摩納を呼び汝珠を取らぬに何故取ったと言うたかと問うと、某(それがし)実に盗まざれど王と后と某のほか宮に入る者なきに盗まぬといったところで拷問は差し当り免れぬ。太子は王の愛重厚ければ珠くらいの事で殺されじ、首相は智者ゆえ何とか珠を尋ね中(あ)つべし、第一長者は最も財宝に富めばすいた珠を奉り得べく、第一遊君は多人が心を掛くるから日頃の思いを晴らしもらうはこの時と、必ず珠を償う者あるべしと考えてこの四人を同謀と虚言したと答えたので、王その智慧を感じますます鍾愛した。ある日王、兵衆を随えず長摩納に車を御せしめ、ただ二人深山に入って猟し、王疲れて長摩納の膝を枕に眠った。長摩納父の仇を復すはこの時と利剣を抜いて王の首に擬したが、父王平生人間はただ信義を貴ぶべしと教えたるを思い出し、恚(いか)りを息(やす)め剣を納めた時俄然(がぜん)王驚き寤(さ)めた。身体流汗毛髪皆立ち居る様子、その子細を問うと我今夢に若者あり、右手剣を執り、左手わが髪を撮(つま)み、刀を我が頸に擬し、我は長生王の太子、亡父のために復仇するぞというを聞き、夢中ながら悔いて自ら責めたと語る。御者王に白(もう)す、還って安眠せよ、また驚くなかれ、長生王の子長摩納実は某(それがし)なりと。王命じて車を御せしめ王宮に還り御者の罪を議するに、まず手足を截(た)ちて後殺すべしの、その皮を生剥ぎにすべしの、火で炙(あぶ)った矢で射るべしのと諸大臣が申す。王この御者は長生王の太子なり。その復仇を中止して我を免(ゆる)したればこそ我生き居るなれ、卿(けい)ら悪意を生ぜざれとして一女を長摩納に妻(めあ)わせ拘薩羅(くさら)国王に立てたとある(『出曜経』十一、『四分律』四三を参酌す)。従来誰も気付かぬようだが、この物語のうち長摩納に剣を擬せられ居る梵施王がその通り夢に見たところは、「垂仁紀」に天皇狭穂姫(さほひめ)皇后の膝を枕に寝(い)ね小蛇御頸に繞(まと)うと夢みたまいし段に似、長摩納が王を殺さんとして果さなんだところは、『吉野拾遺』、宇野熊王が楠正儀(くすのきまさのり)を討ち果せなんだ話に類す。而(しか)して猴が他の諸猴の真似して偸(ぬす)んだ珠を佩び現われたところは上述赤帽の行商人の譚に近い。
ペッチグリューまた曰く、猴は人真似に止まらず、また究察力を有す。ある褐色カプシン猴はよく竈箒(かまどほうき)の柄を捻(ね)じ入れまた捻じ戻した。最初柄の孔に合わぬ端を孔に当て正しく捻じ廻したがはいらぬを見て、他の端に振り替え孔に当て正しく捻じ初めた。前二手で柄を持ち定めまた廻すは甚だ困難ゆえ、ついに一の後手(猴は足なく前後四手あり)で箒を持ち螺旋(ねじ)を合わすに並みならぬ根気を要したが、やっと合せて速やかに捻じ入れしまった。もっとも驚き入ったは、いかほど螺旋を合わし損うても二度と柄の孔に合わぬ端を孔に当てなんだのと、右から左へのみ捻じ廻した事だ。一度捻じ入れて直ちに捻じ離し、二度めは初度より易(やす)く幾度も行うた。かくて随分巧者になったところでこれをやめて他の遊びに掛った。何の必要もなき事にかくまで辛苦したは驚くほかなく、一たびやり掛けた事はいかな難件をも仕遂げるが面白いと見ゆ。これ人間のほかに見ぬところである。誰も見て居ると知らずにやったのだから讃められたくてでなく、全く為(な)さんと欲したところを為し遂げんとの望みに出たのだ。この猴またやすやすと窓隠しを開閉するを覚え楽しみ、螺旋三つまで重ねて留めた鈴の手を皆捻じ戻して解いた。この褐色カプシン猴は猴類でもっとも睿智(えいち)のものと言うべく、野生のままでは大いにその睿智と模倣力を揮うべき事物に接せず、したがってやや低能なるも、人間(にんかん)に棲み、器具に近づくに及んですこぶるこれを揮うと見ゆ。かくてこの猴夜分毛布中に臥し、人のごとく物を抛(な)げ、物を取り寄せ杖で他を打ち、鎚(つち)で栗を破り、梃(てこ)で箱の蓋(ふた)を開き、棒をへし折り、毛箒の柄の螺旋を捻じ入れ捻じ戻し、握手を交え、燭(しょく)に点火してその燃ゆるを守り、自分の頭に暖灰を撒(ま)く。けだしこの猴の脳裏に本来伏在せる睿智が人間に接して興起したので、他の諸家畜とても同様の例多し。元来猴は常に飼われず、故にその人に接近するは永続せず、他の諸畜より遥かに短し。しかるに上述のごとき諸例あるを見れば、猴類が頓智(とんち)に富みその境涯に迎合する力大なるを知るべし。しかしながら猴と人の智力に大懸隔あり、質においても量においても猴の智慧は人よりも甚だ諸家畜、就中(なかんずく)犬と象に近きを見ると。
以上ペッチグリウが挙げた諸例は科学者が審判して事実と認めたもので、その多くはロメーンズの『動物の智慧』から採り居る。この他ウォータートンの博物論文、バクランドの『博物奇談』、ジャージンの『博物文庫』巻二七、カッセル出版『猴類博物学』と『猴史』等に猴の話多い中に虚誕も少なからぬようだ。
東洋の書籍にも猴の珍談随分多いが、詰まらない嘘その半ば以上を占めるが、また西人が気付かぬ実事も少なからず載りたれば、十分稽査(けいさ)に値いする。例せば『類聚名物考』に猴大根を食わしめてよし、またカヤの実を食すれば甚だ験(げん)あり、猴舞わしの家常に用ゆ、甚だ蟹の殻并(なら)びに手の螫(はさみ)を嫌うなりとあるなど経験に拠ったのであろう。ボールの『印度藪榛生活』にインドの海辺で猴好んで蟹を採り食う由載せ、ビルマのシノモルグスは蟹を専食する猴だ。熊野の勝浦などで、以前は猴が磯に群集し蟹を採り食うに石でその殻を打ち破った。しばしば螫で鉗(はさ)まれ叫喚の声耳に喧(かまびす)しかったと古老から聞いた。しかるに予幼時直(すぐ)隣りの家にお徳という牝猴あり。紙に蟹を包み与えると饅頭(まんじゅう)と思い戴(いただ)き、開き食わんとして蟹出づるに仰天し騒ぎ逃げ廻る事夥し。その後誰が紙包みの饅頭を遣わしても必ず耳に近づけ、蟹の足音せぬか聞き定めた後初めて開いた。『醒睡笑(せいすいしょう)』に、海辺の者山家に聟を持ち、蛸(たこ)と辛螺(にし)と蛤(はまぐり)を贈りしを、山賤(やまがつ)輩何物と知らず村僧に問うと、竜王の陽物、鬼の拳、手頃の礫じゃと教えたとある通り、件(くだん)の牝猴幼くて捕われ蟹を見た事なき故怖れたのだ。現に予の家に飼う牝鶏は、始め蚯蚓(みみず)を与うるも逃げて食わなんだが、昨今は喜んで食う。それから『皇都午睡』初篇中巻にいわく、岐蘇(きそ)の猿酒は以前信州の俳友より到来して呑みたるが、こは深山の木の股(また)、節穴などの中に猿秋の木実を拾い取り運び置きたるが、雨露の雫(しずく)に熟し腐るを山賤見出して持ち返り、麻袋へ入れ搾りし物にて黒く濃くして味渋みに甘きを兼ねていかさま仙薬ともいうべき物なりと、熊野にも稀(まれ)にありと聞けど海外に似た例をまだ承らぬが、予の「酒泉の話」(大正六年『日本及日本人』春季拡大号)に述べた通り、樹竹の幹などに人手を借りず酒様の物が出来る例少なからず予の手許に標本が集り居る。由って推し考うるに、獣類が蓄えた果物もしくは食べ残しが瀦(たま)って旨(うま)く醗酵するはあり得る事だ。
猴類は人に多く似るものほど鬱性に富み、智力増すほど快活を減ずとフンボルトは説いた。賢人憂苦多く阿房(あほ)は常に飛び廻るようなものか。ただしかかる断定は野生の猴を多く見て始めて下すべく、人手に入れたもののみを観察して為し得べきでない。『奥羽観跡聞老志』九に五葉山の山王神は猴を使物として毎年六月十五日猴集まって登山すとあり。紀州の白崎では、以前榕実熟する時、猴これを採りに群集し、田辺附近の竜神山にも、千疋猴とて、夥しき猴の団体を見た事あるも、近年一向なし。猴ごとき本来群居するものの性質行為を研究するは、是非ともその野生群居の処にせにゃならぬに、そんな所は本邦で乏しくなった。支那にも千疋猴あった例、程伯淳、山に遊んで猴一疋も見えず、山僧より〈晏元献南に来て獼猴野に満つ〉と聞き、戯れに一絶を為(つく)って曰く、〈聞説(きくならく)獼猴性すこぶる霊(さと)し、相車来ればすなわち満山に迎う、騾に鞭(むちう)ちてここに到れば何ぞかつて見ん、始めて覚る毛虫(もうちゅう)にもまた世情〉。猴までも貧人を軽んずと苦笑したのだ。
ベーカーの『アビシニアのナイル諸源流』十章にいわく、十月に入りて地全く乾けば水を覓(もと)むる狗頭猴の団体極めて夥しく河に赴き、蔭(かげ)った岸を蔽える灌木の漿果(しょうか)を食うため滞留す、彼らの挙止を観るは甚だ面白し、まず大きな牡猴がいかめしく緩歩し老若の大群随い行くに、児猴は母の背に跨(また)がり、あるいは後肢を伸ばして覆(うつ)むき臥し、前手で母の背毛を握って負われ居る。眼疾き若猴が漿果多き木を見付け貪(むさぼ)り食うを見るや否や、上猴どもわれ一と駈け付けてこれを争う、所へ大猿来り、あるいは打ちあるいは毛を引き、脱隊者をばあるいは尻を咬(か)みあるいは尾を執って引き戻しおし入れ振り舞わす、かくて暫時の間に混雑を整理し、自ら樹下に坐し、静かに漿果を味わう。この狗頭猴は夥しく音声を変える、けだし言語の用を為すらしく、聞いて居ると警を告げるとか、注意を惹くとか分って来た。例せば予が樹蔭に匿(かく)れて窺うを見付け何物たるを審(つまびら)かにせぬ時、特異の叫びをなして予を叫び出したと。パーキンスの『アビシニア住記』一にも狗頭猴の記事ありいわく、この猴の怜悧なる事人を驚かす、毎群酋長ありて衆猴黙従す、戦闘、征掠(せいりゃく)、野荒し等に定法あり、規律至って正しく用心極めて深し、その住居は多く懸崖(けんがい)の拆(ひら)けたる間にあり、牝牡老若の猴の一部族かかる山村より下るに、獅子のごとき鬣(たてがみ)で肩を覆える老猴ども前に立ち、頃合(ころあい)の岩ごとに上って前途を見定む、また隊側に斥候たるあり、隊後に殿(しんがり)するあり、いずれも用意極めて周到、時々声を張り上げて本隊の凡衆を整え敵近づくを告ぐ、その折々に随って音色確かに異なり、聞き馴れた人は何事を知らせ居ると判るよう覚ゆ。けだしその本隊は牝猴と事馴れぬ牡と少弱輩より成り、母は児を背負う、先達猴の威容堂々と進むに打って変り、本隊の猴ども不規律甚だしく、千鳥足で囀(さえず)り散らし何の考えもなくただただ斥候の用心深きを憑(たの)んで行くものと見ゆ、若猴数疋果を採らんとて後(おく)るれば殿士来って追い進ましむ。母猴は子を乳せんとてちょっと立ち止まり、また時を浪費せじと食事しつつ毛を理(おさ)める。他の若き牝猴は嫉妬よりか嘲笑的に眺められた返報にか、他の牝猴に醜き口を突き向け、甚だしき怒声を発してその脛(すね)や尾を牽(ひ)き、また臀(しり)を咬むと相手またこれに返報し、姫御前(ひめごぜ)に不似合の大立ち廻りを演ずるを酋長ら吠(ほ)え飛ばして鎮静す。一声警を告ぐれば一同身構えして立ち止まり、調子異なる他の一声を聞いて進み始む。既に畑に到れば斥候ら高地に上って四望し、その他はすこぶる疾(と)く糧を集め、頬嚢(きょうのう)に溢るるばかり詰め込んだ後多くの穂を脇に挟(はさ)む。予しばしば観(み)しところ斥候は始終番し続け少しも自ら集めず、因って退陣事終って一同の所獲を頒(わか)つと察す。彼らまた水を求むるに敏(さと)く、沙中水もっとも多き所を速やかに発見し、手で沙(すな)を掘る事人のごとく、水深けば相互交代す、その住居は岩の拆(さ)けた間にあって雨に打たれず他の諸動物が近づき得ざる高処においてす。ただし豹はほとんど狗頭猴ほどよく攀じ登ればその大敵で、時にこれを襲うあれば大叫喚を起す、土人いわく、豹は成長せる猴を襲う事稀に時々児猿を捉うと。この猴力強く動作捷(はや)く牙固ければ、敵として極めて懼(おそ)るべきも、幸いにその働き自身を護るに止まり進んで他を撃たず、その力ほど闘志多かったら、二、三百猴一組になって来るが常事ゆえ、土人の外出は至難で小童の代りに武装した大人隊に畑を番せしめにゃならぬはずだ。しかし予はしばしばその犬に立ち掛かるを目撃し、また路上や林中で一人歩く婦女を撃つ由を聞いた。一度女人が狗頭猴に厳しく襲われ、幸いに行客に救われしも数日後死んだと聞いた事あると。(大正九年五月、『太陽』二六ノ五) 
(三) 民俗 
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さきに猴酒の事海外に例あるを聞かぬと書いたは千慮の一失で、『嬉遊笑覧』十上に『秋坪新語』忠州山州黒猿善(よ)く酒を醸(かも)す事を載す。猢猻酒といえり、みさごずしに対すべしとあれば海外またその話ありだ。なお念のため六月発行『ノーツ・エンド・キーリス』十二輯六巻二九五頁へ和漢のほかに猴酒記事の例ありやと問いを出し置いたが、博識自慢の読者どもから今にこれというほどの答えが出ず。唯一のエフ・ゴルドン・ロー氏の教示に、猴酒は一向聞かぬが英語で猴の麪包(パン)(モンキース・ブレッド)というのがある。バオバブ樹の実を指(さ)す、またピーター・シンブルの話に猴吸い(サッキング・ゼ・モンキー)といえるは、椰子(やし)を割って汁を去りその跡へラム酒を入れて呑むをもいえば、樽(たる)に藁(わら)を挿(さ)し込んで酒を引き垂らすをもいう。俗にこれを猴のポンプとも名づくとあってまず猴が酒を作る話は日本と支那のほかにないらしい。件(くだん)のバオバブ一名猴の麪包の木はマレー群島の名菓ジュリアンと同じく、わが邦の梧桐(ごどう)の類に近きボムバ科に属し、アフリカの原産だが今はインドにも自生す。世界中最大の木の随一でその幹至って低いが周回七十乃至(ないし)九十フィートのものなり。フンボルトその一つを測量して五千百五十年を経たはずと断定した。その樹皮と葉を駆虫剤とし、葉を乾かして痢病に用い、殊に汗を減ずるに使い、その木を網の浮きとするなど、すこぶる多用な木だが、一番珍重さるるはその実で外部木質、内に少し酸(す)く冷やかな軟肉ありてゴム様に粘る。その大きさ瓢(ひょう)のごとし。生食してすこぶる旨く、その汁を搾って砂糖を和し飲めば瘟疫(おんえき)に特効あり。エジプト人はその肉を乾かし水に和し飲んで下痢を止むとあるから(『大英百科全書』巻三、リンドレイの『植物界』第三板三六一頁、バルフォールの『印度事彙』第三板一巻、二二および二七六頁)、猴麪包の功遥かに存否曖昧の猴酒に優(まさ)る。それと比較にならねどわが邦にもサルナシという菓あり。猫が好くマタタビと同属の攀緑(はんりょく)灌木で葉が梨に似るから山梨とも呼ぶ。甲斐の山梨郡はこの物に縁あっての名か。その皮粘りありて紙をすくに用ゆ。実も条(ゆず)に似て冬熟すれば甘美なり。『本草啓蒙』にその細子罌粟(けし)子のごとし。下種して生じやすしとあれど、紀州などには山中に多きも少しも栽培するを見ず。しかし平安朝廷の食膳を記した『厨事類記(ちゅうじるいき)』に獼猴桃を橘(たちばな)や柿とともに時の美菓に数えたれば、その頃は殊に賞翫したのだ。『本草綱目』三三に、その形梨のごとくその色桃のごとし、而して獼猴喜んで食う故に獼猴梨とも獼猴桃とも名づくとあれば、邦名サルナシは支那名を和訳したのか。それからサルガキとて常の柿と別種で実小さいのがある。漢名君遷子、この柿の渋が養蚕用の網を強めるに必要で、紀州では毎年少なからず信州より買い入るを遺憾に思い、胡桃沢勘内氏民俗学の篤志家で文通絶えざるを幸い、その世話で種を送りもらい植え付けて後穿鑿(せんさく)すると、紀州の山中処々に野生があった。それを培養せぬ故古来無用の物になりいたのだ。邦人の不注意なるこの類の事が多い。足利時代に成ったらしい「柿本氏系図」に信濃(しなの)の前司さるがきと出たれば本よりかの国の名産と見える。これも猴が好き食うから名づけたるにや。
猴に関する民俗を述ぶるに、まず猴崇拝の事から始めると都合が宜(よろ)しい。『大英百科全書』十一板二巻動物崇拝の条に、インドで猴神ハヌマンもっとも著(あら)わる。ヒンズー教を信ずる諸村で猴を害する事なし。アフリカのトブ民も猴を崇拝す。仏領西アフリカのボルト・ノヴチでは小猴を双生児の守護尊とすとある。マレー半島のセマン人信ずるは、創世神タボンの大敵カクー、黒身炭のごとく西天に住む。ここを以て東は明るく西は闇(くら)し、天に三段ありてカクーの天最高所にあり、ブロク猴の大きさ山ほどなるがこれを守り、その天に登って天菓を窃(ぬす)まんとする者を見れば、刺(とげ)だらけの大なる菓を抛(なげう)って追い落す。世界終る時、地上一切の物ことごとくこの猴の所有となる(スキートおよびブラグデン著『巫来(マレー)半島異教民族篇』巻二、頁二一〇)というが、いかな物持ちとなっても世界が滅びちゃ詰まらないじゃないか、このブロク(椰子猴、学名マカリス・ネメストリヌス)についてマレー人の諺に「猴に裁判を乞う」というがある。一人ありて他の一人の所有地に甘蕉(バナナ)を植え、その果熟するに及び互いにこれを争う。決せずしてブロク猴に裁決を求めると猴承知して二人に果を分つに、一人対手(あいて)の得分多きに過ぎると苦情いう。猴なるほどこれは多過ぎると荒増(あらま)し引き去って自分で食ってしまうと、今度は他の一人がそれでは自分の方が少な過ぎるという。どうもそうらしいといって猴また多い方から大分せしめる。かくせり合ってついに双方一果も余さぬに及んだ。裁判好きの輩判官に賄賂(わいろ)を重ねて両造ともにからけつとなるを「猴に裁判を乞うた」というのだそうな(スキート著『巫来方術篇』一八七頁)。ジャワのスラバヤでも猴を神とした由、明の黄省曾の『西洋朝貢典録』巻上に出(い)づ。註にいわく、この港の洲に林木茂り、中に長尾猴万余あり、老いて黒き雄猴その長たり。一老番婦これに随う。およそ子なき婦人、酒肴(しゅこう)、花果、飯餌(はんじ)を以て老猴に祷(いの)れば、喜んですなわち食い、衆猴その余りを食う。したがって雌雄二猴あり、前に来って交感し、婦人これを見て帰れば孕む。猴食わず交わらずば孕む事なし。土伝に唐の時民丁五百余口あって皆無頼なり、神僧その家に至り水を吹き掛けてことごとく猴と成した、ただ一嫗(おう)を留めて化せしめず、その旧宅なお存すと。『淵鑑類函』四三二ジャワ国の山に猴多く人を畏れず、呼ぶに霄々(しょうしょう)の声を以てすればすなわち出(い)づ、果実を投げればその二大猴まず至る、土人これを猴王、猴夫人という。猴王、猴夫人食うた余りを群猴食うとある。
スラバヤ同様猴に懐妊を祈ること出口米吉氏の「土俗覧帳」(『人類学雑誌』二八巻十号)に『大朝』紙を引いて、尾張海東郡甚目寺観音院境内にオサルサマあり、子を授くるとて信者多し、その本尊木彫の猴、高さ一尺内外の坐像、半身大の桃実を抱き真向に坐す。なおこの正体のほかにこれに似た一猴像あり、こは今より百年以前非常に流行せしために更に一の副像を造れるなり。この猴の像を借り受けて寝る時はたちまち子を授かるとて諸方よりこれを借る者多かりし故なり。今も借りに来る者多く、借料一週間一円なりというと見ゆ。マレー群島のチモル・ラウトでは婚礼の宴席で新夫婦の間に、一男児と一女児を坐らせ子を生むべく祝い、チンギアウスでは婚姻の初夜一童を夫婦間に眠らしむ(英訳ラッツェル『人類史』一巻四四〇頁)。『隋書』に〈女国は葱嶺(そうれい)の南にあり、云々、樹神あり、歳初め人を以て祭り、あるいは獼猴を用いて祭る〉。これは『抱朴子』に〈周穆王(ぼくおう)南征す、一軍皆化して、君子は猨と為り鶴と為り、小人は虫と為り沙と為る〉。『風来六々部集』に「一つ長屋の佐治兵衛殿、四国を廻って猴となるんの、伴れて還(かえ)ろと思うたが、お猴の身なれば置いて来たんの」てふ俗謡を載せ、アフリカのアクラでは猴を神僕と呼び、人間が生まれ損(そこの)うたものといい、セラコット人とマダカスカル島民は人が罪業のために猴になったと信ず(シュルツェの『デル・フェチシスム』五章六章)。
一六八四年パリ板サントスの『東エチオピア史』一巻七章に、カフル人は猴はもと人だったが、言(ものい)えば働かさるるを嫌い猴となって言わずと説くとある。この通り猴は人の化けたものというところから、昔中央アジアの女国、すなわち女王を奉じ婦女の政権強かった国では、元来人を牲(いけにえ)にし樹神を祭ったところ、追い追い猴も人と余り異ならぬてふ見解から猴を人の身代りに牲し祭ったのだ。それと同様夫婦の間に他人の子を寝かせて子が生まれるよう祝したのが、猴も人に異ならぬはずといったところから、甚目寺等の猴像を借り用ゆる事となったと見える。余り褒(ほ)めた事でないが文化の頂上と自ら誇る米国人中にすら、初目見(はつめみ)えに来た嬰児を夫婦の寝床に臥せしむれば必ず子を産むと信ずる者あれば、無茶に尾張の風俗を笑ったものでない(一八九六年板バーゲン編『英語通用民の流行迷信』二五頁)。サウゼイの『随得手録』第二輯に、インドのヌデシャの王エースウルチュンズルは、猴を婚するに十万ルピイを費やし、盛装せる乗馬、車駕、駝象の大行列中に雄猴を維(つな)いで輿(こし)に載せ、頭に冠を戴かせ、輿側に人ありてこれを扇(あお)ぎ、炬火(きょか)晶燈見る人の眼を眩(くら)ませ、花火を掲げ、嬋娟(せんけん)たる妓女インドにありたけの音曲を尽し、舞踊、楽歌、放飲、豪食、十二日に竟(いた)り、梵士教法に従い誦経(ずきょう)して雌雄猴を婚せしめたと出づるも、王夫妻の相愛または猴にあやかって子を産むようの祈願から出たのであろう。和歌山市附近有本という処に山王の小祠あり、格子越しに覗(のぞ)けば瓦製の大小の猴像で満たされて居る。臨月の産婦その一を借りて蓐頭(じょくとう)に祭り、安産の後(のち)瓦町という処で売る同様の猴像を添え、二疋にして返納する事、京都北野の子貰い人形のごとし。今年長崎市発行『土の鈴』二輯へ予記臆のままその瓦猴の旧像の図を出した。第一輯に写真した物は近来ハイカラ式の物だ。猴は安産する上痘瘡(とうそう)軽き故、かく産婦が祭る由聞いた。マレーの産婦は猴に触れば額と目が猴のような醜い児を生むとて忌む由(ラッツェル『人類史』巻一、頁四七二)。帝国書院刊本『塩尻』三四に、主上疱瘡の御事ある時は坂本山王の社に養える猴必ず疱瘡す、御痘軽ければ猿の病重く、皇家重らせたまえば猴やがて快(よ)くなるといい伝う。後光明帝崩御の時坂本の猴軽き疱瘡なりしとかや、今度新帝(東山天皇)御医薬の時山王の猴もまた疱瘡煩いける、被衣(かずき)調えさせてかの猴にきせさせたまいしがほどなく死にけり、帝はやがて御本復ありし、もっともふしぎなりけり。古の書にも見えず近代の俗説にやとある。今も天王寺の境内に猴を畜(か)い、俗衆その堂に眼(?)病を祈るに必ず癒(い)ゆ。しかるに猴は迷惑千万にも毎(つね)に眼を病むと十年ほど前の『大毎』紙に出た。これら前述通り、猴は人に近いもの故、人の病は猴また受くるはずと考え、英語でいわゆるスケイプ・ゴートとして病を移し去るつもりで仕始めたのであろう。
インドでも子欲しき女はハヌマン猴神の祠に往き燈明を供える。古伝にアハリアは梵天創世最初に造った女で瞿曇(くどん)仙人の妻たり。帝釈かかる美婦を仙人などに添わせ置くは気が利かぬと謀叛を起し、月神チャンドラを従え雄鶏に化けて瞿曇の不在を覘(うかが)い、月神を門外に立たせ、自ら瞿曇に化け、入りてその妻と通じた処へ瞿曇帰り来れど月神これを知らず、瞿曇現場へ踏み込み、呵(か)して帝釈を石に化し千の子宮を付けて水底に沈めた。後(のち)諸神これを憐み千の眼に取り替えやった。一説には瞿曇詛(のろ)うて帝釈を去勢したるを諸神憐んで羊の睾丸で補充したという(グベルナチス『動物譚原』一巻四一四頁、二巻二八〇頁)。この事仏典にも出で、僧伽(そうぎゃ)斯那所撰『菩薩本縁経』二に、月光王の首を乞いに来た老梵志が婆羅門の威力に誇る辞中、瞿曇仙人釈の身上において千の女根を化し、婆私吒(ばした)仙は帝釈の身を変じて羯羊(かつよう)形と為(な)すとある。
一九一四年ボンベイ板エントホヴェンの『グジャラット民俗記』五四頁にいわく、一説に帝釈瞿曇の妻に通じた時アンジャニ女帝釈を助けた故、瞿曇これを詛いて父(てて)なし子を生むべしという。アンジャニ惧(おそ)れて腰まで地中に埋め苦行して、シワ神に救いを求む。シワその志を感じ風神ナラダして真言を彼女の耳に吹き込ませたに、ナラダこれをその子宮に吹き込む。因って孕んでハヌマンを生んだ。これを孕む時近所の木にケシてふ猴居るを見たから、ハヌマンは猴の形を受けたというと。セマン人いわく、太古夫婦あれど子を生む事を知らず、他の諸動物皆子あるに我独りなしと恥じ入り、薪を拘(かか)えて子を持ったごとく見せかけた。椰子猴(ブロク、上出)これに逢うて気の毒がり、「神代巻」の鶺鴒(せきれい)の役を勤めて子を拵(こしら)える法を教えたので、一心不乱に教え通り行い二男二女を生んだ。この同胞二組がまた猴の教え通り行うて子供が出来た。その時鴿(はと)来ってかかる骨肉間の婚媾は宜(よろ)しからずといったところで仕方がないから、一旦離別して互いに今までのと人を替えて婚姻すれば構いなしと教えたと(スキートおよびブラグデン、巻二、頁二一八)。されば猴に子を祈る事必ずしもインドにのみ始まったと思われず、しかしコータンの故趾からハヌマン像を見出した事もあり(一八九三年板ランスデルの『支那領中央亜細亜』巻二、頁一七六)、昔博通多学の婆羅門が仏教に対して梵教を支那で興しに来た記録もあれば(『高僧伝』六)、甚目寺等で猴像に子を乞うのはあるいはハヌマン崇拝から転化したのかと惟(おも)う。南インドプルバンデルの諸王はハヌマン猴神の裔で尾ありという(ユールの『マルコ・ポロの書』一八七五年板、巻二、頁二八五)。ただし人間に相違ないから猴が化したともいわれず。猴神子なき女を不便(ふびん)がる余り、自ら手を付けて生ませた後胤か、不審に堪えぬ。
「第5図 ハヌマン猴」のキャプション付きの図
ハヌマン猴、学名セムノピテクス・エンテルス(第五図)はインドに産し、幼時灰茶色で脊より腰へ掛けて暗茶色の一条あり、長ずるに随い黒毛を混じ石板色となる。顔と四肢は黒く鼻より尾根まで三、四フィート、尾はそれより長し。他猴と異なり果よりも葉を嗜(この)み、牛羊同然複胃あり。鼻梁(びりょう)やや人に近く、諸猴に優(すぐ)れて相好(そうごう)美し(ウットの『博物画譜』一)。この猴の大群昔その王ハヌマンに従い神軍に大功ありしとて、ハヌマン猴の称あり。ヒンズー教徒のヴィシュニュ(仏典の韋紐)を奉ずる輩もっともハヌマン神を尊べども他派の者もまたこれを敬し、寺堂園林より曠野に至るまでその像を立てざるなく、韋紐の信者多き地にはその像に逢わずに咫尺(しせき)も歩み得ず、これに供うるは天産物のみで血牲を用いず、猴野生する処へは日々飯菓等の食物を持ち往き養い最大功徳とす(ジュボア『印度の風俗習慣および礼儀』二巻六章)。一七二七年板、ハミルトンの『東印度記』に、ヴィザガパタムの堂に生きた猴を祀(まつ)る、数百の猴食時ここに集まり僧が供うる飯などを享(う)け、食しおわって列を正して退く、その辺で人を殺すは猴を殺すほど危うからずといい、十七世紀に旅したタヴェルニエーの『印度紀行』には、アーマダバット附近の猴、火金両曜ごとに自らその日と知って市中に来り、住民が屋上に供えた稲稷甘蔗等を食い頬に貯えて去る。万一これを供えざれば大いに瞋(いか)って瓦を破ると述べた。されば今日もビナレスの寺院にハヌマン猴を夥しく供養し、また諸市のバザーに入って人と対等で闊歩し、手当り次第掴(つか)み歩く。紀州田辺の紀の世和志と戯号した人が天保五年に書いた『弥生(やよい)の磯(いそ)』ちゅう写本に、厳島(いつくしま)の社内は更なり、町内に鹿夥しく人馴れて遊ぶ、猴も屋根に来りて集(つど)う。家々に猴鹿の食物を荒らさぬ用意を致すとあるを見て、インドでハヌマン猴の持てようを想うべし。タヴェルニエーまたサルセッテ島にハヌマン猴王の骨と爪を蔵する銀棺を祀れる塔あり、インド諸地より行列して拝みに来る者引きも切らざりしを、ゴアの天主教大僧正押して取る、ヒンズー教徒莫大の金を以て償わんと乞い、ゴアの住民これを許しその金を以て軍を調(ととの)え貧民を扶(たす)くべしと議せしも聴(き)かれず、これを焼けばその灰を集めてまた祀るを慮(おもんぱか)り、棺を海上二十里漕(こ)ぎ出し海に沈めたと述べた。
『ラーマーヤナ』は誰も知った通りヒンズー教の二大長賦の一つで、ハヌマン猴王実にその骨髄というべき活動を現わす。この長賦の梗概(こうがい)は大正三年二月十日の『日本及日本人』、猪狩史山氏の「ラーマ王物語」を見て知るべし、余も同年八月の『考古学雑誌』に「古き和漢書に見えたるラーマ王物語」を載せた。迦旃延子(かせんねんし)の『鞞婆沙(びばしゃ)論』に、羅摩那(ラーマーヤナ)一万二千章あり、羅摩泥(ラーヴァナ)私陀(シタ)を将(も)ち去り羅摩(ラーマ)還って将ち来るに一女の故に十八姟(がい)(今いう百八十億)の多数を殺し、また喧嘩(けんか)の事ばかり述べあるは至極詰まらぬとあるより、日本の僧侶など一向歯牙(しが)にも掛けなんだらしいが、それは洋人が、『古事記』『日本紀』を猥雑(わいざつ)取るに足らぬ書と評すると一般で、余が交わった多くのインド学生中には羅摩の勇、私陀の貞、ハヌマンの忠義を語るごとに涙下る者少なからぬを見た。今ジュボアの書等より採って略述する。文中人名に漢字を当てたは予の手製でなく実に符秦の朝に支那に入ったカシュミル国の僧伽跋澄の音訳に係る。いわく、羅摩(ラーマ)はアヨジ国王ダサラダが正后カウサリアに生ませた子で、初め林中に瞿曇仙に師事した時、上に述べた通りこの仙人その妻アハリアの不貞を怒り、詛うて石に化しあったのを羅摩足で触れて本形に復せしめた。それからミチラ国王ジャナカを訪(おとな)い、シワ神が持った弓あっていずれの国王もこれを彎(ひ)き得ずと聞き、容易(たやす)くその弓を彎き、その賞として王女私陀(シタ)を娶(めと)ったところを、父王より呼び還され政務を譲らる。一日弓を彎いた弦音(つるおと)以てのほか響いて側(かたわら)にあった姙婦を驚かせ流産せしめ、その夫の梵士怒って、爾今(じこん)、羅摩、庸人(ようじん)になれと詛う。それより羅摩生来の神智を喪う。その後ほどなく父王の第四妃その生むところの子を王に嗣(つ)ぎ立てしめんとて、切に羅摩に退位を勧め、羅摩承諾して、弟、羅史那(ラクシュマナ)と自分の妻私陀を伴い林中に隠る。一日羅摩の不在中、羅史那スルパナカの両耳を切り去る。これは楞伽(ランカ、今のセイロン)の鬼王羅摩泥(ラーヴァナ)とて、身体極めて長大に十の頭ある怪物の妹なり。羅摩泥、妹がために返報せんと、私陀を掠(かす)め去る。羅摩帰って妻を奪われしと知り、地に仆(たお)れて慟哭(どうこく)これを久しゅうしたが、かくてやむべきにあらざれば、何とか私陀を取り返さんと尋ね行く途上、猴王スグリヴァ、その児ヴァリと領地を争い戦うを見、そのためにヴァリを殺す。猴王大いに悦び力を尽して羅摩を助く。羅摩誰かを楞伽(りょうが)に使わし、敵情を探らんと思えど海を隔てたれば事容易(たやす)からず。この時スグリヴァ猴王の軍を督せしハヌマン、身体極めて軽捷(けいしょう)で、たちまち海上を歩んでかの島に到り、千万苦労してようやく私陀が樹蔭に身の成り行きを歎くを見、また、その貞操を変ぜず、夫を慕い鬼王を詈(ののし)るを聴き、急ぎ返って羅摩に報じ、その請に応じて、山嶽、大巌を抜き、自分の身上にあるだけの無数の石を担(かか)げて幾回となく海浜に積み、ついに大陸と島地の間に架(か)け渡した。羅摩すなわち猴軍を先に立て、熊軍をこれに次がせて、新たに成った地峡を通り、楞伽城を攻め、勝敗多回なりしもついに敵を破って鬼王を誅(ちゅう)し、私陀を取り戻し、故郷へ帰った。
竜樹菩薩の『大智度論』二三に問うて曰く、人あり無常の事至るをみ、転(うた)た更に堅く著す、国王夫人たる宝女地中より生じ、十頭の羅刹(らせつ)のために大海を将ち渡され、王大いに憂愁するを智臣諫(いさ)めて、王智力具足すれば夫人の還るは久しからざる内にあり、何を以て憂いを懐(いだ)かんと言いしに、王答えて我が憂うる所以(ゆえん)は我が婦を取り還しがたきを慮(おもんぱか)らず、ただ壮時の過ぎやすきを恐ると言いしがごとしとあり。これは『羅摩延』(ラーマーヤナ)の長賦に、私陀実は人の腹から生まれず、父王子なきを憂い神に祈りて地中より掘り出すところ、その美色持操人界絶えて見ざるところとある故宝女といい、古インド人はセイロンの生蕃を人類と見ず、鬼類として羅刹と名づけた。十頭羅刹とはその酋長が十人一組で土人を統御し、それが一同に羅摩の艶妻を賞翫せんとて奪い去ったのであろう。王の智力もて夫人を取り戻すは成らぬ事にあらずというに答えて、ついには取り戻し得べきも、その間にわれも夫人も花の色の盛りを過ぎては面白い事も出来ぬでないかと羅摩の述懐もっとも千万に存ずる。それを散ればこそいとど桜はめでたけれ、浮世に何か久しかるべき、と諦め得ぬ羅摩の心を愚痴の極とし、無常の近づき至るほどいよいよ深く執著する者に比したのだ。
さて羅摩王久しぶりで恋女房を難苦中より救い出し、伴うて帰国した後、一夜微服して城内を歩くと、ある洗濯師の家で夫妻詈り合う。亭主妻に向いわれは一度でも他男に穢(けが)された妻を家に置かぬ、薄のろい羅摩王と大違いだぞと言うた。その声霹靂(へきれき)のごとく羅摩の胸に答え、急ぎ王宮に還って太(いた)く怒り悲しみ、直ちに弟ラクシュマナを召し私陀を林中で殺さしむ。ラクシュマナ、その嫂(あによめ)の懐胎して臨月なるを憐み、左思右考するに、その林に切れば血色の汁を出す樹あり、因ってその汁を箭(や)に塗り、私陀を林中に棄て、帰って血塗りの箭を兄王に示し、既に嫂を射殺したと告げた。私陀林中にさまよい声を放って泣く時、その近処に隠棲せるヴァルミキ仙人来って仔細を聞き、大いにその不幸に同情し、慰めてその庵へ安置し介抱すると、数日にして二子を生み、仙人これを自分の子のごとく愛育した、ほどへて羅摩ヤグナムの大牲(おおにえ)を行わんとす。これは『詩経』に騂牡(せいぼう)既に備うとあり『史記』に秦襄公騮駒(りゅうく)を以て白帝を祀(まつ)るとあって、支那で古く馬を牲にしたごとくインドでも委陀(ヴェーダ)教全盛の昔、王者の大礼に馬を牲にしたのだ。今羅摩が牲にせんとせる馬、脱(のが)れて私陀の二児の住所へ来たので、二児甫(はじ)めて五歳ながら勇力絶倫故、その馬を捉(とら)え留(とど)めた。盗人を捕えて見れば我子なりと知らぬ身の羅摩、すなわちハヌマンを遣わし大軍を率いて征伐せしめたが、二児に手甚(いた)く破られて逃れ還る。ここにおいて羅摩自ら総兵に将として、往き伐ち、また敗れて士卒鏖殺(みなごろし)と来た。処へ二児の養育者ヴァルミキ仙来って、惻隠の情に堪えず、呪言を唱えてことごとく蘇生せしむ。
羅摩王、宮に還って馬牲をやり直さんとし、隣国諸王と国内高徳の諸梵士を招待す。梵士らこの大礼を無事に遂げんには必ず私陀を喚(よ)べと勧め、羅摩、様々と異議したが、ついにこれを召還しよく扱うたので大牲全く済む。羅摩化(ばけ)の皮を現わし、また妻の不貞を疑い、再び林中に追いやらんとするを諸王宥(なだ)め止む。羅摩なお不承知で、私陀永く楞伽に拘留された間一度も敵王に穢された事なくば、須(すべから)く火に誓うて潔白を証すべしと言い張る。私陀固くその身に玷(あやまち)なきを知るから、進んで身を火中に投ぜしも焼けず。他にも種々その潔白を証したが、なお全く夫王の嫉妬を除く能わず、私陀は「熱い目を私陀のも私陀で無駄になり」で、今は絶望の余り自分が生まれ出た大地に向い、わが節操かつて汚れし事なくんば、汝、我が足下に開いてわれを呑めと願うに応じ、土たちまち裂けて私陀を呑みおわった。羅摩これを見て大いに悔い、二子にその国を頒(わか)ち、恒河の辺(あたり)に隠栖(いんせい)修道して死んだというのが一伝で、他に色々と異伝がある。
この譚に対して欧人間にも非難少なからず、われわれ日本人から攷(かんが)えても如何な儀も多いが、かかる事はむやみに自我に執して他を排すべきにあらず。たとえば欧州やインドの人は蟾蜍(ヒキガエル)を醜かつ大毒なる物として酷(ひど)く嫌う。しかるに吾輩を始め日本人中にこれを愛する者少なからず。アメリカインデアン人もまたしかり。モニエル・ウィリヤムスの『印度(ヒンズー)教篇』に、蛇は大抵の民族が甚(ひど)く忌むものながら、インド人はほとんど持って生まれたように心底からこれを敬愛称美するとあった。予かつて南ケンシントン美術館に傭(やと)われいし時、インドの美術品に貴婦が、遊逸談笑するに両肱(ひじ)を挙げて、腋窩(えきか)を露(あら)わすところ多きを見て、インドの貴紳に向い、甚だ不体裁な事と語ると、その人わが見るところを以てすればこれほど端正な相好なしと至って真面目(まじめ)に答え、更に館に多く集めた日本の絵に、美女が少しく脛(はぎ)を露わせるを指ざし、非難の色を示した。されば太宰春台(だざいしゅんだい)が『通鑑綱目(つがんこうもく)』全篇を通じて朱子の気に叶(かの)うた人は一人もないといったごとく、第一儒者が道徳論の振り出しと定めた『春秋』や、『左伝』も、君父を弑(しい)したとか、兄妹密通したの、人の妻を奪うたのという事のみ多く、わが邦で賢母の模範のようにいう曾我の老母も、若い時京の人に相(あい)馴(な)れて京の小次郎を生んだとあるから私通でもしたらしく、袈裟御前(けさごぜん)が夫の身代りに死んだは潔(いさぎよ)けれど、死する事の一日後れてその身を盛遠(もりとお)に汚されたる事千載の遺恨との評がある。常磐(ときわ)が三子助命のために忍んで夫の仇に身を任せたは美談か知らぬが、寵弛(ゆる)んで更に他の男に嫁し、子供多く設けたは愛憎が尽きる(『曾我物語』四の九、『源平盛衰記』一九、『昔語質屋庫(むかしがたりしちやのくら)』五の一一、『平治物語』牛若奥州下向(げこう)の条)。しかしながらこれら諸女の譚は、道義に立脚した全くの戯作(げさく)でなく、それぞれかつて実在した事蹟に拠って敷衍(ふえん)したものなれば、要は時に臨んで人を感ぜしめた一言一行を称揚したまでで、各生涯を通じて完全無瑕(むか)と保険付きでない。女権が極めて軽かった古代には、気が付きいても心に任せぬ事多く、何ともならぬ遭際のみ多かったのだ。いわんや風土習慣ことごとく異なったインドで、しかも西暦紀元前九百五十年より八十六万七千百二年の間にあったという遠い昔のラーマーヤナ事件を、今日他国人どもがかれこれ評するは野暮の至りだが、このような者を宗旨の経王として感涙を催すインド人も迂闊(うかつ)の至り。それを笑いながら、歴史専門家でなければ記憶せぬ善光寺大地震の頃生まれたカール・マルクスを新説として珍重がるも、阿呆の骨頂と岩猿(いわざる)を絵図(えず)と猴話に因(ちな)んで洒落(しゃれ)て置く。(大正九年十一月、『太陽』二六ノ一三) 
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ラーマーヤナの譚をわが国で最も早く載せたは『宝物集(ほうぶつしゅう)』で治承の頃平康頼が筆すという。その略にいわく、昔釈迦如来天竺(てんじく)の大国の王と生まれて坐(いま)しし時、隣国舅氏国飢渇してほとんど餓死に及べり。舅氏国の人民相議して我らいたずらに死なんより、隣の大国に向うて五穀を奪い取って命を活くべし、一日といえども存命せん事、庶幾(こいねが)うところなりとて、すでに、軍、立つを大国に聞き付けて万が一の勢なるが故に軽しめ嘲りて、手捕(てどり)にせんとするを聞きて、大臣公卿に宣(のたま)わく、合戦の時多くの人死せんとす。願わくば軍を止むべしと制したまいしかば、宣旨(せんじ)と申しながらこの事こそ力及び侍(はべ)らね[#「侍(はべ)らね」は底本では「待(はべ)らね」]、隣国進み襲うを闘わずば存命すべからずと申し侍(はべ)りければ、大王窃(ひそ)かに后を呼んで、我れ国王として合戦を好まば多くの人死せんとす、我れ深山に籠(こも)りて仏法を修行すべし、汝は如何思いたもうと宣いければ、后今更に如何離れ奉らんとのたまいければ、ついに大王に具して深山に籠りたまいぬ。大国の軍、国王の失せたもう事に驚きて戦う事なくして小国に順(したが)いぬ。大王深山にして嶺の木の子を拾い、沢の岩菜を摘んで行いたまいけるほどに、一人の梵士出で来りて御伽(おとぎ)仕(つかまつ)るべしとて仕え奉る。大王嶺の木の子を拾いに坐(ましま)したる間に、この梵士后を盗んで失せぬ。大王還って見たもうに后の坐(いま)せざりければ山深く尋ね入りたもう。道に大なる鳥あり、二つの羽折って既に死門に入る。大鳥大王に申さく、日来(ひごろ)附き奉りたりつる梵士后を盗み奉りて逃れ侍りつるを、大王還りたもうまでと思いて防ぎ侍りつれども、梵士竜王の姿を現じてこの羽を蹴折(けお)りたりといいてついに死門に入りぬ。大王哀れと思(おぼ)して高嶺(たかね)に掘り埋めて、梵士は竜王にてありけるという事を知って、南方に向って坐しましけるほどに、深山の中に無量百千万の猿集りて罵りける処へ坐しぬ。猿猴大王を見付けて悦んでいわく、我ら年来領する山を隣国より討ち取らんとするなり。明日午(うま)の時に軍定むべし、大王を以て大将とすべしという。大王思いがけぬところへ来りて悔(くや)しく思し召しながら、承りぬとて居たまいたりければ、弓矢をもて大王に奉れり。いうがごとく次の日の午の時ばかりに、池に藻靡(なび)きて数万の兵襲い来る。大王猿猴の勧めに依って弓を引いて敵に向いたもうに、弓勢(ゆんぜい)人に勝(すぐ)れて臂(ひじ)背中(はいちゅう)に廻る。敵、大王の弓勢を見て箭(や)を放たざる先に遁(のが)れぬ。猿猴ら大いに悦び、この喜びにはいかなる事をか成さんずるといいければ、大王告げて曰く、我れ年来の后を竜王に盗み取られたり。故に竜宮城に向って南方へ行くなり、と宣いければ、猿猴ら申さく、我らが存命偏(ひとえ)に大王の力なり、いかでか、その恩を思い知らざらん、速やかに送り奉るべしとて、数万の猿猴大王に随(したが)って往き、南海の辺(あたり)に到りければ、いたずらに日月を送るほどに、梵天帝釈大王の殺生を恐れて国を捨て、猿猴の恩を知って南海に向う事を憐れと思して、小猿に変じて数万の猿の中に雑(まざ)りていうよう、かくていつとなく竜宮を守るといえども叶うべきにあらず、猿一つして板一枚草一把を儲けて橋に渡し、筏(いかだ)に組みて竜宮城へ渡らんといいければ、小猿の僉議(せんぎ)に任せて、各板一枚草一把を構えて橋に渡し、筏に組みて自然に竜宮城に至れば、竜王、怒りをなして大なる声を起して光を放つほどに、猿猴霧に酔い雪に怖れて顛(たお)れ伏す。小猿雪山に登りて大薬王樹という樹の枝を伐って、帰り来りて酔い臥したる猿どもを撫(な)ずるに、たちまち酔(えい)醒(さ)め心猛(たけ)くなって竜を責む。竜王光を放って鬩(せめ)ぎけるを大王矢を射出す。竜王大王の矢に中(あた)りて猿猴の中に落ちぬ。小竜ら戦わずして遁れ去りぬ。猿猴ら竜宮に責め入って后を取り返し七宝を奪い取って本の深山に帰る。
さてかの舅氏国の王失せにければ、大国、小国、臣下等この王を忍びて迎え取りて、二箇国の王としてあり、細かには『六波羅蜜経』にぞ申しためると。
熊楠いまだ『六波羅蜜経』を見及ばぬが、三国呉の時支那へ来た天竺三蔵法師康僧会が訳した『六度集経』五にラーマーヤナ譚あるを見出し、『考古学雑誌』四巻十二号へ載せた。当時の俗支那語で書いたらしくてちょっと読みにくい。大意は『宝物集』と同様ながら、板や草を橋筏とする代りに石を負うて海を杜(ふさ)ぎ猴軍が渡ったとあり。私陀妃の終りも上に引いた一伝にほぼ同じくてやや違う。王敵を平らげ帰って妃に向って曰く、婦、夫とするところを離れ、隻行一宿するも、衆疑望あり、豈(あに)いわんや旬朔(じゅんさく)をや、爾(なんじ)汝の家に還らば事古儀に合わんと、妃曰くわれ穢虫(わいちゅう)の窟にありといえども蓮の淤泥(おでい)に居るがごとしわれ言信あれば地それ折(さ)けんと、言(げん)おわりて地裂く、曰くわが信現ぜりと、王曰く、善哉(よいかな)、それ貞潔は沙門の行と、これより、国民、王の仁と妃の貞に化せられたと述べ居る。
この『六度集経』がラーマーヤナ譚を支那で公にした最古の物であろう。原来『ラーマーヤナ』は上に述べた私陀の二子を養育した仙人ヴァルミキの本作といわれ、異伝すこぶる多く、現存するところ三大別本あり。毎本所載の三分一は他本に全く見えず、いずれも梵語で筆せられしは仏在世より後なれど、この物語は仏在世既にあまねく俗間に歌われ種々の増補と改竄(かいざん)を受けたのだから、和漢の所伝が現在インドの諸本と異処多きはそのはずだ。仏典にはこれを一女の故を以て十八姟(がい)(今の計(かぞ)え方で百八十億)の大衆を殺した喧嘩ばかり書いた詰まらぬ物と貶(けな)し、『六度集経』にも羅摩を釈尊、私陀をその妻瞿夷(くい)、ハヌマンの本尊帝釈を釈尊の後釜に坐るべき未来の仏弥勒(みろく)としながら羅摩、私陀等の名を一切抹殺して単に大国王、その妃などといい居る。故にラーマーヤナ譚が三国の世既に支那に入りいたとはちょっと気付いた人がなかったと見える。
ハヌマン猴はかく羅摩に精忠を尽して神物と崇めらるるから、インド人はこれを殺すを大罪とする由上に述べた。テンネントの『錫蘭(セイロン)博物誌』にいわく、インド人はハヌマン猴が殺された処に住む人はやがて死ぬばかりか、その骨を埋めた地上に家建てても繁昌せぬと信じ、必ずまず術士を招き、きっとその骨が土中になきと占い定めた後(のち)家を立てる。かく不吉と思い込んだからハヌマンの屍骸(しがい)を見ても口外せぬ。
さてセイロンのシンガリース人は林中で猴が死んでも屍を見せぬといい、その諺に「白い鳥と稲鳥(パッジー・バード、鷺(さぎ)の一種)と直な椰樹と死んだ猴、それを見た人は死なぬはず」という。これは件(くだん)のハヌマンの屍を見ても口外せぬインドの風が移ったのだろうと。註にいわく、ジブラルタルでも猴の屍を見た事なしというと。虎は死して皮を留むとか、今井兼平(いまいかねひら)などは死に様を見せて高名したが、『愚管抄』に重成は後に死にたる処を人に知られずと誉(ほ)めけりとある。多田満仲(ただのみつなか)の弟、満政の後で美濃の青墓で義朝と名のり、面皮を剥いで死んだ源重成を指(さ)すか。『大和本草』には猫は死ぬ時極めて醜い由で、隠れて人には見せぬとあるが余は幾度も見た。ある知人いわく、猫の屍は毎々(つねづね)見るが純種の日本犬の死体は人に見せぬと。
前出ハヌマン猴王の素性について異説あり、羅摩の父ダサラダ子なきを憂い神に牲すると、牲火より神現じ天食を王に授く。その教えに任せて王これを三妃に頒つにその一人分を鷲(わし)が掴(つか)んで同じく子を求めて苦行中のアンジャニ女の手に落し入る。それを食うてたちまち孕み生んだその子がハヌマンだったという。ハヌマン猴王は死せず、その身金剛にして膂力(りょりょく)人に絶す。羅摩の楞伽(りょうが)攻めに鳥語を解いたり、海を跳び越えたり、猫に化けたり、山を抜き持って飛んだり、神変出没限りなく、ついに私陀を取り還すその功莫大なり。一度『ラーマーヤナ』を通読すると支那の『西遊記』の孫悟空はどうもハヌマン伝から転出したよう思われる。羅摩、軍(いくさ)に勝ちて楞伽を鬼王の弟に与え、ハヌマンをしてその島を守護せしめた。ハヌマンは娶(めと)らず、強勢慈仁の神にして人に諸福を与う。また諸鬼、妖魅、悪精、巫蠱(ふこ)を司(つかさど)る。悪鬼に付かれし者これに祷(いの)れば退く。流行病烈しき時もこれに祷る。鬼に付かれ熱を病む者、その像や祠(ほこら)を望んだばかりで癒え鬼叫ぶという。インド人は星の廻り合せで一年より七年半の間厄に当る。その時、凶女神パノチ、金、銀、銅、鉄の足で人体に入る。頭に入れば失神し、心臓に入れば貧乏になり、足に入れば身病む。昔十頭鬼王の従弟アヒとマヒ、魔法を以て羅摩兄弟を執(とら)え、パノチに牲せんとした時、ハヌマンその祠に乱入してパノチを踏み潰(つぶ)し二人を救うた縁により、右様の厄年の人は断食してハヌマンに祷れば無難だ。俗伝にこの猴王十二年に一度呼ばわる、それを聞いた者は閹人(えんじん)となるという。予はとかく女難に苦しむから思い切って聞かせてもらおうかしら。猴王像に注いだ油をナマンと呼び、眼に塗れば視力強く、邪鬼に犯されず、猴王を拝むに土曜最も宜しく、鉛丹と油はその一番好物たり。ハヌマン味方の創(きず)を治せんとて薬樹を北海辺に探るうち日暮れて見えぬを憂い、その樹の生えた山を抱えて飛び返るとて矢に中った時、この二物を塗って疵(きず)癒え、楞伽平定後、獲た物を以て子分の猴卒どもに与え尽した時、またこの二物のみ残ったからだ(『グジャラット民俗記』五四―一五六頁)。
「第6図 ハヌマン神像」のキャプション付きの図
『コンカン民俗記』二章にいわく、大抵の村で主として猴王をその入口に祀(まつ)り、シワ大神の化身として諸階級の民これを崇む。その祭日に祠を常緑葉と花で飾り、石造の神像を丹と油で塗り替え、花鬘(けまん)をその頸(くび)にかけ、果を供え、樟脳(しょうのう)に点火して薫(くゆ)らせ廻り、香を焼(た)き飯餅を奉る、祠官神前に供えた椰子を砕き一、二片を信徒に与う。村の入口に祀るは、この神、諸難の村に入るを防ぐからで、昔は城砦を新設するごとにその像を立てた。この猴かつて聖人、仙人、梵士および牛を護るに力(つと)めて神位に昇ったと。わが邦でも熊野地方で古来牛を神物とし藤白王子以南は牛を放ち飼いにした。毎春猴舞わし来れば猴を神官に装い、牛舎の前で祈祷の真似せしめまた舞わせた。和深村辺では今に猴の手を牛小屋に埋めて牛疫を辟(さ)く。『記』にまたいわく、猴王作ったてふマントラ・シャストラ(神呪論)を講ずれば力強くて神のごとくなるという。ハヌマン像に戦士と侍者の二態あり。前者はこの神を本尊と斎(いつ)く祠に限り、後者は羅摩またはその本身韋紐(ヴィシュニュ)を本尊として脇立(わきだち)とす(第六図は余が写実し置いた脇立像なり)。多力神なる故に力士の腕にその像を佩(お)びまた競技場に祀る。その十一体の風天の化身なる故に十一の数を好む。子欲しき者は丹でその像を壁に画き、檀香とルイ花を捧(ささ)げて日々祀る。また麦粉で作った皿にギー(澄酪)を盛り、燈明を上(たてまつ)ると。
明治二十六年予、故サー・ウォラストン・フランクス(『大英百科全書』十一版十一巻に伝あり)を助けて大英博物館の仏像整理中、本邦祀るところの庚申青面金剛像(こうしんせいめんこんごうぞう)に必ず三猿を副(そ)える由話すと、氏はそれはヒンズー教のハヌマン崇拝の転入だろうと言われた。当時パリにあった土宜法竜師(現に高野山管長)へ問い合わせたところ、青面金剛はどうもハヌマンが仕えた羅摩の本体韋紐神より転化せるごとしとて、色々二者の形相を対照し、フランクス氏の推測中(あた)れるよう答えられた(一九〇三年ロンドン発行『ノーツ・エンド・キーリス』九輯十一巻四三〇頁已下、拙文「三猿考」)。ここに詳述せぬが二氏の見は正しと惟(おも)う。『垂加文集』に〈庚申縁起(こうしんえんぎ)、帝釈猿を天王寺に来たらしむ云々、これ浮屠(ふと)通家説を窃みこれを造るのみ〉とあれど、遠く三国時代に訳された『六度集経』に、羅摩王物語を出して猴王(スグリヴァ、上出)衆を率い海に臨み、以て渡るなきを憂う。天帝釈化して猴となり身に疥癬を病めり、来り進んで猴衆に石を負わせ、海を杜(ふた)がしめ衆済(わた)るを得とあり。『宝物集』にも似た事を記す。『委陀(ヴェーダ)』にハヌマンの父マルタ(風神)を帝釈の最有用な味方とし韋紐を帝釈の応神とす。後(のち)韋紐の名望高まるに及び全く帝釈と分離対抗し風神猴となって韋紐に従う(グベルナチス『動物譚原』二巻九九頁)。故に韋紐転化の青面金剛を帝釈の使者、猴を青面金剛の手下とするは極めて道理なり。『嬉遊笑覧』に『遠碧軒随筆』を引いて、庚申の三猿はもと天台大師三大部の中、止観(しかん)の空仮中の三諦を、不見(みざる)、不聴(きかざる)、不言(いわざる)に比したるを猿に表して伝教大師(でんぎょうだいし)三猿を創(はじ)めたという。
しかれども一八八九年板モニエル・ウィリアムスの『仏教講義』に、オックスフォード大学の博物館に蔵する金剛尊は三猴を侍者とすと記し、文の前後より推すにどうもチベット辺のもので日本製でなさそうだった。その出所について問い合わせたが氏既に老病中で明答を得ず。かれこれするうち予も帰朝してそれなりで過した。『南畝莠言(なんぽゆうげん)』の文を読み損ねて勝軍地蔵を日本で捏造(ねつぞう)したように信ずる者あるに、予はチベットにも北京にもこの尊像あるを確かに知る。それと同例で庚申の三猿も伝教の創作じゃなかろう。道家の説に彭(ほう)姓の三尸(し)あって常に人身中にあり、人のために罪を伺察し庚申の日ごとに天に上って上帝に告ぐる故、この夜寝(いね)ずして三尸を守るとあって、その風わが邦にも移り、最初は当日極めて謹慎し斎戒してその夜を守りしなるべけれど、追々は徹夜大浮れに宴遊して邪気を禳(はら)うとしたらしく、甚だしきはその混雑中に崩れさせたまえる方さえもある。けだしこの夜男女の事あるを大罪として天に告げらるるを懼(おそ)れ、なるべく多勢集って夜を守るを本意としたのだ。三尸は小鬼の類らしい。それを庚申の三猿もて表わしたというが通説だ。
さて上述インドで猴の尸(しかばね)を見るを不吉とするよりついに猴は死なぬものというに至ったごとく、庚申の夜夫婦の道を行うを避けたところから、後には、『下学集』に〈この夜盗賊事を行うに利あり、故に諸人眠らずして夜を守るなり、ある説にいわく、この夜夫婦婬を行えばすなわちその妊むところの子必ず盗と作す、故に夫婦慎むところの夜なり〉といった通り信ずるに及んだのだ。明和二年刑せられた巨盗真刀徳次郎はこの夜孕まれた由。庚申の申は十二畜の猴に中(あた)る。猴は前にもしばしば述べたごとくすこぶる手癖の悪いもので盗才が多い。パーキンスの『アビシニア住記』一にいわく、カルトウムで狗頭猴の牡一と牝二に芸させて活計する人予に語ったは、この牡猴は無類の盗賊で芸を演ずる傍(かたわら)一日分の食物を盗むから、マア数分間見ていなさいとあって、猴使いがその猴を棗売(なつめう)りの側へ伴い行き蜻蛉返(とんぼがえ)りを演ぜしめた。予注意して見ると、猴は初めから棗に眼を付けたが少しも気色に露(あら)わさねば誰もこれを知らず、猴初めは棗入れた籃(かご)に近寄るを好まぬようだったが芸をやりながら漸次これに近付き、演技半ばにたちまち地に伏して屍のごとし、やがて飛び起きて棗売りの顔を見詰め、大いに叫ぶ状(さま)、どこか痛むか何か怒るものに似たり、かくて後肢を以て能う限りの棗を窃(ぬす)めど後肢のほかは少しも動かさず、棗売りは猴に睨(にら)まれて大いに呆(あき)れ、一向盗まれいると気付かず、傍人これを告ぐるを聞いて初めて暁(さと)り大笑いした。その間に猴素迅(すばや)く頬嚢に盗品を抛(な)げ込みたちまち籃を遠ざかる。たまたま一童強くその尾を牽(ひ)いたので、さては露われたか定めて棗売りの仕返しだろうと早合点してその童子の側を通り、一両人の脚下を潜(くぐ)って棗売りに咬(か)み付くところを猴使いが叱り止めて御無事に事済んだと。
明の陶宗儀の『輟耕録(てっこうろく)』二三に、優人(わざおぎ)杜生の話に、韶州(しょうしゅう)で相公てふ者と心やすくなり、その室に至って柱上に一小猴を鎖でつなげるを見るに狡猾(こうかつ)らしい。縦(はな)して席間に周旋せしめ、番語で申し付くると俄に一楪(はち)を捧げ至る、また番語で詈れば一碗を易(か)えて来る、驚いて問うと答えて、某(それがし)に婢(ひ)あり、子を生んだが弥月(びげつ)にして死んだ。時にこの猴生まれて十五日、その母犬に殺され終日泣きやまず、因ってこの婢に乳養せしむると、長じて能く人の指使に随い兼ねて番語を解するというた。その後清州に至って呉同知方(かた)に留まる、たちまち客一猴を携えて城に入るありと報ず。呉、杜に語りて、この人は江湖の巨盗だ、すべて人家に至って様子を窺い置き、夜に至って猴を入れて窃(ぬす)ます、而して彼は外にあって応援す。われ必ずこの猴を奪い人のために害を除かんと言うた。明日その客(すなわち相公)呉に謁す、呉飯を食わせ、その猴を求めしに諾せず、呉曰く、くれずばその首を切ろうと、客詮方(せんかた)なく猴を与え、呉、白金十両を酬(むく)う。去るに臨んで番語で猴に言い付ける、たまたま訳史聞き得て来って呉に告げたは、客、猴に教えて汝飲まず食わずば必ず縛を解かるべし、その時速やかに逃れ去れ、我は十里外の小寺中に俟(ま)ち受けんというたと。呉、いまだ信ぜず。晩に至って果核水食の類を与え試むるに皆飲食せず、さてはと人を走らせ覗(うかが)うとこの客果していまだ行かず、帰り報ずると、呉、猴を打ち殺ししまったと出(い)づ。
『大清一統志』七九に明の王士嘉よく疑獄を決す。銭百緡(さし)を以て樹下に臥して失うた者あり。士嘉曰く、この樹が祟(たた)ったのだ、これを治すべしとて駕してその樹下に往く、士民皆見物に出る、その間密偵せしむるに一人往かざる者あり、これを吟味するに果して盗なり。また代王の内蔵の物失せて戸締りは故(もと)のごとし、士嘉これきっと猴牽(さるひき)が猴を使うたのだと言いて、幣(ぬさ)を庭に列(つら)ね、群猴をして過(よぎ)らしめて伺うに、一つの猴が攫(つか)み去った、その猴の主を詰(なじ)るに恐れ入ったとある。
『犬子集』に「何事も祈れば叶へ猴の夜に」「あらはれぬるは怪し盗賊」。『筑紫琴(つくしごと)の唄(うた)』にもある通り、庚申(かのえさる)が叶(かな)え猴(さる)に通うより庚申の夜祈れば何事も叶うとしたらしい。しかるに一方では猴がややもすれば手が長いところから、今も紀州などの田舎では庚申の夜交われば猴に似て手癖悪き子を生むと信ずると同時に、庚申を信ずれば盗難を免るとし、失踪人(しっそうにん)や紛失物を戻し、盗賊を捕うるにこの神に祈り、縄を以てその像を縛るは、その本意神様を盗人と見立てたので、この神、本(もと)は猴だったと知れる。されば僻地(へきち)盗難繁かった処々は、庚申に祈りて盗品を求め、盗もまた気味悪くなってこれを返却した例多く、庚申講を組んで順次青面金剛(せいめんこんごう)と三猿の絵像を祭りありく風盛んなり。さて田舎の旅宿が大抵その講の元を勤める。盗難多き旅宿は営業ならぬからで、庚申塚を道側に立てるも主として盗難少なく道路安全を冀(ねご)うての事と見ゆ。
『俗説贅弁』巻一や『温故随筆』に徳川幕府中頃までの神道者が庚申は猿田彦命と説いたのを非とし、就中(なかんずく)『贅弁』には神徳高き大神を如何ぞ禽獣とすべけんやと詈り居る。しかるに出口米吉君の近刊『日本生殖器崇拝略説』に『日本書紀通証』から孫引きされた『扶桑拾遺集』に、〈源順(みなもとのしたごう)、庚申待夜(たいや)、伊勢斎宮に侍りて、和歌を奉る、小序に曰く、掛麻久毛畏幾大神(かけまくもかしこきおおかみ)、怜礼登毛(あわれとも)、愛美幸賜天牟(めぐみさきわいたまいてん)〉とある由。これは衢(ちまた)の神たる猿田彦大神を青面金剛すなわち三猿の親方と同体と心得、道家のいわゆる三尸が天に登って人の罪悪を告ぐるを防がんため、庚申の夜を守って長寿を保たん事をかの大神に祈るの意を述べたと見える。したがって猿田彦と庚申と同一神とは平安朝既に信ぜられいたのだ。さて、『贅弁』に神徳高き大神を如何ぞ禽獣とすべけんやと詈ったが、『玉鉾百首(たまぼこひゃくしゅ)』に「いやしけど、いかつちこたま狐虎、たつの類ひも神の片はし」と詠(よ)んだごとく、上世物をも人をも不思議なものを片端から神としたのは万国の通義で、既に以て秦大津父(はたのおおつち)は山で二狼の闘うを見、馬より下って口手を洗い浄め、汝これ貴き神にして、麁行を楽しむ、もし猟師に逢わば禽(とりこ)にされん、速やかに相闘うをやめよと祈って、毛に付いた血を拭(ぬぐ)いやり放ったという(『書紀』一九)。この人は殷の伝説同様夢の告げで欽明天皇に抜擢せられ、その財政を司って大いに饒富(じょうふ)を致した賢人だが、それほどの智者でも真実狼を大神と心得る事、今日秩父の狼を大口真神と崇むる太郎作輩(たろさくはい)に同じかった。されば猴の特に大きなのを大神とせるも怪しむに足らず。
「第7図 狗頭形の文字の神トット」のキャプション付きの図
「第8図 古エジプト土人死後の裁判」のキャプション付きの図
「第9図 狗頭猴悪人の魂を送還す」のキャプション付きの図 
似た例を挙げると昔いと久しく大開化に誇ったエジプト国でも数種の猴を尊んだ。その内もっとも崇められたはシノセファルス・ハマドリアスてふ狗頭猴で、古エジプト神誌中すこぶる顕著なる地位を占めた。昨今エジプトに産しないでアラビアとアビシニアに棲(す)み、時として大群を成す。身長四フィートばかり、その顔至って狗に似て長く、両肩に立て髪がない。この猴文字の神トットの使者たるのみならず、時としてトット自身もこの猴の形を現じた(第七図)。トットは通常人身朱鷺(とき)頭で現じたのだ。エジプト人この猴を極めて裁判に精(くわ)しとした。第八図は野干(ジャッカル)頭の神アヌビスと鷹頭の死人の守護神が、死人の業(ごう)を秤(はか)る衡(はかり)の上に狗頭猴が坐し、法律の印したる鳥羽と死人の心臓が同じ重さなるを確かめてこれを親分のトットに報ずるところだ。さて衆神の書記たるトットがこれを諸神に告げるのだ。また第九図のごとく豕(いのこ)に像(かたど)った悪人の魂を舟に載せて、もう一度苦労すべく娑婆(しゃば)へ送還する画もある。またこの猴を月神の使者としその社に飼った。その屍は丁寧にミイラに仕上げて特設の猴墓所に葬った。けだしバッジの『埃及(エジプト)人の諸神』一巻二一頁に言えるごとく、狗頭猴のこの種は至って怜悧で、今も土人はこれを諸生物中最も智慧あり、その狡黠(こうかつ)を遥かに人間を駕するものとして敬重す。古エジプト人これを飼い教えて無花果(いちじく)を集めしめたが、今はカイロの町々で太鼓に合わせて踊らされ、少しく間違えば用捨なく笞(むち)うたるるは、かつて文字の神の権化(ごんげ)として崇拝されたに比較して猴も今昔の歎に堪えぬじゃろとウィルキンソンは言うた(『古埃及人の習俗)』巻三)。またいわく、アビシニアの南部では今もこの猴に種々有用な芸道を仕込む。たとえば、夜(よる)、燭(しょく)を秉(と)って遊宴中、腰掛けを聯(つら)ねた上に数猴一列となって各の手に炬火(かがりび)を捧げ、客の去るまで身動きもせず、けだし盗人の昼寝で当て込みの存するあり、事終るの後褒美(ほうび)に残食を頂戴して舌を打つ覚悟なんだ。ただし時に懈怠(けたい)千万な猴が火を落したり、甚だしきは余念なく歓娯最中の客連の真中へ炬火を投げ込む事なきにあらず、その時は強く笞うちまた食を与えずして懲らす故閉口して勤務するようになるんだと。ちょっと啌(うそ)のようだがウィルキンソンほどの大権威家がよい加減な言を吐く気遣いなし。明治十年頃まで大流行だった西国合信氏の『博物新編』に、猴は人が焚火した跡へ集り来って身を煖(あたた)むれど、火が消えればそのまま去り、直(すぐ)側(そば)にある木を添える事を知らぬとあったを今に信ずる人も多いが、それは世間知らずの蒙昧な猴どもで、既にパーキンスから、今またウィルキンソンから引いた記述を見ると、少なくとも狗頭猴中もっとも智慧あって古エジプト人に文字の神アヌビスの使者と崇められたいわゆるアヌビスバブーンは、人を見真似に竈(かまど)に火を絶やさず炬火(かがりび)を扱う位の役に立つらしい。ダンテの友が猫に教えて夜食中蝋燭(ろうそく)を捧げ侍坐せしむるに、生きた燭台となりて神妙に勤めた。因ってダンテに示して「教えて見よ、蝋燭立てぬ猫もなし、心からこそ身は賤(いや)しけれ」と誇るをダンテ心悪(にく)く思い、一夕鼠を隠し持ち行きて食卓上に放つと、猫たちまち燭を投げ棄て、鼠を追い廻し、杯盤狼藉(はいばんろうぜき)と来たので、教育の方は持って生まれた根性を制し得ぬと知れと言うて帰ったと伝う。海狗(オットセイ)は四肢が鰭(ひれ)状となり陸を歩むに易(やす)からぬものだが、それすらロンドンの観場で鉄砲を放つのがあった。して見ると教えさえすれば猴も秉燭(へいしょく)はおろか中らずといえども遠からぬほどに発銃くらいはするなるべし。ただし『五雑俎』に明の名将威継光が数百の猴に鉄砲を打たせて倭寇(わこう)を殲(ほろぼ)したとか、三輪環君の『伝説の朝鮮』一七六頁が、楊鎬が猿の騎兵で日本勢を全敗せしめたなど見ゆるは全くの小説だ。それから前述のごとく、ベッチグリウ博士が、猴類は人に実用された事少しもなく、いまだかつて木を挽(ひ)き水を汲むなどその開進に必要な何らの役目を務めず、ただ時々飼われて娯楽の具に備わるのみ、それすら本性不実で悪戯を好み、しばしば人に咬み付く故十分愛翫するに勝(た)えずとは争われぬが、パーキンスが述べたごとく、飼い主の糊口(ここう)のために舞い踊りその留守中に煮焚きの世話をし、ウィルキンソンが言った通り人に事(つか)えて種々有用な役を勤むる猴もなきにあらず。したがって十七世紀に仏人バーボーが西アフリカのシエラ・レオナで目撃した大猴バリの幼児を土人が捕え、まず直立して歩むよう教え、追い追い穀を舂(つ)く事と、瓢に水を汲んで頭に載せ運び、また串(くし)を廻して肉を炙(あぶ)る事を教えたというも事実であろう(一七四五年板、アストレイの『新編航記紀行全集』二巻三一四頁)。この猴甚だ牡蠣(かき)を好み、引き潮に磯に趨(おもむ)き、牡蠣が炎天に爆(さら)されて殻を開いた口へ小石を打ち込み肉を取り食う。たまたま小石が滑(すべ)り外(そ)れて猴手を介(かい)に挟(はさ)まれ大躁(おおさわ)ぎのところを黒人に捕え食わる。欧人もこれを食って美味といったが、バーボーは食う気がせなんだという。前にも述べた通り猴は形体表情人を去る事間髪を容(い)れず、したがってこれを殺しこれを食うは人情に反(そむ)くの感あり。楚人猴を烹(に)るあり、その隣人を召すに以て狗羹(こうこう)と為(な)してこれを甘(うま)しとす。後その猴たりしと聞き皆地に拠ってこれを吐き、ことごとくその食を瀉(しゃ)す、こはまだ始めより味を知らざるものなり(『淮南鴻烈解』修務訓)。近年死んだヘッケルがエナ大学の蔵中になき猴種一疋を打ち取った時、英人ミラー大佐、たとい科学のためなりともその罪人を謀殺せるに当ると言うた(一九〇六年板コンウェイの『東方諸賢巡礼記』三一七頁)。コンウェイがビナレスの猴堂に詣(もう)で多くの猴を供養したところに猴どもややもすれば自重して人間を軽んずる気質あるよう記した。これ猴の豪(えら)い点また人からいえば欠点で、心底から人に帰服せぬもの故、ややもすれば不誠実の行い多く、犬馬ほど人間社会の開進に必要な役目を勤めなんだのだ。『大集経』に〈慧炬(えこ)菩薩猴の身を現ず〉、インドでも猴に炬を持たせたものか。
右述西アフリカのバーボー猴に似た記事が『古事記』にあって「かれ、その猨田毘古(さるたひこ)の神、阿邪訶(あざか)に坐(いま)せる時に漁(すな)どりして、ヒラブ貝にその手を咋(く)ひ合されて海塩(うしお)に溺(おぼ)れたまひき。かれ、水底に沈み居たまふ時の名を底(そこ)ドク御魂(みたま)といひつ。その海水のツブ立つ時の名をツブ立つ御魂といひつ、その泡(あわ)さく時の名を泡サク御魂といひき」。本居宣長はこのヒラブ貝を月日貝のように説いたが、さすがに学問を重んじただけあって、なお国々の人に尋ね問わば今も古えの名の残れる処もあるべきなりと言われた。そしてまたタイラギという貝あり、ギはカイのつまりたるにて平ら貝の意にて是にやと疑いを存せられたは当り居る。
「第10図 紀州新庄村のタチガイ二種」のキャプション付きの図
田辺附近の新庄村より六十余歳の老婦多年予の方へ塩を売りに来る。蚤(はや)く大聾(だいろう)となったので四、五十年前に聞いた事のみよく話す。由って俚言土俗に関して他所風の雑(まじ)らぬ古伝を受くるに最も恰好(かっこう)の人物だ。この婆様が四年前の四月、例により塩を担(にの)うて来た畚(フゴ)の中にかの村名産のタチガイ多く入れあった。これは『本草啓蒙』四二にタイラギ、トリガイ(備前、同名あり)、タテガイ(加州)と異名を挙げ、「海中に産す、形蚌のごとくにして大なり、殻薄くして砕けやすく色黒し、挙げて日に映ずれば微(すこ)しく透いて緑色なり。長さ一尺余、一頭は尖(とが)り一頭は漸(ようや)く広く五、六寸ばかり、摺扇(しょうせん)を微しく開く状のごとし、肉の中央に一の肉柱あり、色白くして円に、径(わた)り一寸ばかり、大なるものは数寸に至る。横に切って薄片と成さば団扇の形のごとし、故に江戸にてダンセンと呼び炙(しゃ)食烹(ほう)食味極めて甘美なり。これ江瑶柱なり、ほかにも三柱ありて合せて四柱なれども皆小にして食うに堪えず、故に宋の劉子翬「食蠣房詩」に江瑶貴一柱といえり、その肉は腥靭(せいじん)にして食うべからず、鱁鮧(ちくい)「塩辛(しおから)」に製すればやや食うべし、備前および紀州の人この介(かい)化して鳥となるといい、試みに割って全肉を見れば実に鳥の形あり、唐山にもこの説あり、しかれども実に化するや否やを知らず」と出(い)づ。『紀伊続風土記』九七には「立介タチカイ一名鳥介、同名多し、玉珧(タイラギ)に似て幅狭く長さ七、八寸、冬より春に至りて食用とす、夏月肉ようやく化して鳥となる。形磯ひよどりに似て頭白く尾なし、鳴く声ヒヨヒヨというごとし、牟婁郡曾根荘賀田浦に多し」と見ゆ。介が鳥になるてふ話は欧州や支那にもありて(マクス・ミュラーの『言語学講義』一八八二年板、二巻五八六頁、王士モフ『香祖筆記』十。〈西施舌海燕の化すところ、久しくしてすなわちまた化して燕と為る〉)、その肉が鳥の形に似るに起る。件(くだん)の老婦が持ち来ったタチガイを見るに二種あり。いずれもピンナ属のもので、ピンナはラテン語、単数で羽、複数の時は翼の義、形が似たので名づく。いずれも海底に直立し、口の下端に近く毛あって石に付くを外国で織って手袋などにする。第十図甲は殻が末広く細条縦横して小刺多し。これを専らタチガイと称し方言ヒランボと呼ぶ。乙は末広ながら甲に比して狭く、その線条粗(あら)き上ひびわれ多く刺はなし、その肉煙草の味あり、喫烟家嗜(この)み啖(くら)う。方言これをショボシと称う。『和漢三才図会』四六に、玉珧俗いうタイラギ、またいう烏帽子(えぼし)貝と出づるを見れば、真のタイラギより小さい故小帽子の意でショボシの名あるか。余の所見を以てすれば、『紀伊続風土記』にいえるごとく、タチガイは二種ともタイラギと別物で殻の色黒からず淡黝黄だが、いずれも形はよく似居る。新庄でいうヒランボすなわち真のタチガイが『古事記』に見えた猿田彦を挟んで溺死せしめた介で、ヒランボはその文にいわゆるヒラブ貝なる名の今に残れるものたるや疑いを容れず。宣長がヒラブ貝はもしくはタイラギかと推せしは中(あた)りおり、なお国々の人に尋ねたら今も古名の残った所もあるべしというたが、果して紀州西牟婁郡新庄村に残り居るのだ。猴の話と縁が遠いが、『古事記』は世界に多からぬ古典で、その一句一語も明らめずに過すは日本人の面目を汚す理窟故、猿田彦に因んでヒラブ貝の何物たるを弁じ置く。さて猿田彦が指を介に挟まれ苦しむうち潮さし来り、溺れて底に沈みし時の名を底ドクすなわち底に著(つ)く御魂といい、ツブ立つ時すなわち俗にヅブヅブグチャグチャなどいうごとく水がヅブヅブと鳴った時の名をヅブたつ御魂、泡の起る時の名を泡さく御魂というたとあるは、死にざまに魂が分解してそれぞれ執念が留まったとしたのだ(『古事記伝』巻十六参照)。異常の時に際し全く別人のごとき念を起すこと、酸素が重なってオゾーンとなり、酸素に異なる特性を具うるごときを別に御魂と唱えて懼(おそ)れたので、ある多島海島民は人に二魂ありとし、西アフリカ人は毎人四魂ありと信じ、また種々雑多の魂ありとしこれを分別すること難く、アルタイ人は人ごとに数魂ありとし、チュクチー人は人体諸部各別にその魂ありとす(一八七二年板ワイツおよびゲルラント『未開民史』巻六、頁三一二、一九〇一年板キングスレイ『西アフリカ研究』一七〇頁、一九〇六年板デンネット『黒人の心裏』七九頁、一九一四年板チャプリカ『西伯利(シベリア)初住民』二八二および二六〇頁)。支那でも『抱朴子』に、分形すればすなわち自らその身三魂七魄(はく)なるを見る。『酉陽雑俎(ゆうようざっそ)』に人身三万六千神その処に随ってこれに居るなどあるを攷(かんが)え合すべし。介が動物を挟み困(くる)しめた記事は例の『戦国策』の鷸蚌(いつぼう)の故事もっとも顕われ、其碩(きせき)の『国姓爺(こくせんや)明朝太平記』二の一章に、旅人が乗馬して海人(あま)に赤貝を買い取って見る拍子にその貝馬の下顎(したあご)に咋(く)い付き大いに困らす。下人祝してお前は長崎丸山の出島屋万六とて女郎屋の一番名高い轡(くつわ)、その轡へ新しい上赤貝の女郎が思い付いて招かぬに独り食い付くと申す前表(ぜんぴょう)と悦ばす所あるはこれに拠って作ったのだ。その他『甲子夜話』一七に、平戸(ひらど)の海浜で猴がアワビを採るとて手を締められ岩に挟まり動く能わず、作事奉行(さくじぶぎょう)川上某を招く故行って離しやると、両手を地に付け平伏して去ったとあるが、礼に何も持って来たとないところがかえって事実譚らしく、九世紀に支那に渡ったペルシャ人アブ・ザイド・アル・ハッサンの『紀行』(レイノー仏訳、一八四五年板一五〇頁)にも、狐が介の開けるを見、その肉を食わんと喙(くちばし)を突っ込んで緊(きび)しく締められ、顛倒して悶死した処へ往き会わせたアラビア人が介の口に何か光るを見、破って最高価の真珠を獲たと記す。
本居宣長は猨田毘古(さるたひこ)神の名を猨に似たる故とせんは本末違(たが)うべし。獣の猨はこの神の形に似たる故の名なるべしと説いた(『古事記伝』巻十五)。これは「いやしけど云々、竜の類いも神の片端と詠みながら、依然神徳高き大神をいかんぞ禽獣とすべけんや」と言った『俗説贅弁』同然の見を脱せず、猨田毘古が猨に似たのでなく猨が猨田毘古に似たのだとは、『唐書』に、張昌宗姿貌を以て武后に幸せられた時、佞人(ねいじん)楊再思が追従して、人は六郎の貌蓮花(れんげ)に似たりと言うが、正に蓮花が六郎に似たるのみといったとあるに似た牽強じゃ。既に以て『日本書紀』に、天孫降下の間先駆者還って白(もう)さく、一神あり天の八衢(やちまた)におり、その鼻長さ七咫(せき)、背長さ七尺余(まさに七尋(ひろ)と言うべし)、かつ口尻明耀(めいよう)、眼八咫(やた)の鏡のごとくにして赩然、赤酸醤に似たりとありて、全く老雄猴の形容だ。宣長これを註して「さて猨の形のこの神に似たるを以て思うに、鼻の長きも猨に似たり、また背長(たけ)七尺余とあるも俗に人の長立(たけだ)ちを背といわばただおよそその長立ちの事にもあるべけれど、もしその義ならばただに長とのみこそいうべきに、背をしもいえるは、これも猨のごとく這(は)い居ます形についてその背の長さをいうにてもあるべし、神には様々あるめれば這い居たもうとせんも怪しむべきにあらず、もし尋常の人のごとく立ちて坐(ましま)さんには、尻のてり耀くというも似つかわしからぬをや」と言ったはもっともだ。それに介(かい)に手を挟まれて困(くる)しむ内、潮に溺れ命を失うたのも猿田彦は老猴を神としたに相違ない証拠だ。熊野などで番ザルと唱え、猴群が食を探る最中一つまた三、四の老猴が番していて怪しき事あれば急に叫んで警報する事、前にパーキンスから引いたアビシニアの狗頭猴に同じ。支那人は善く候するゆえ猴というと説いた。そのごとく猴の酋長が四通八達の道の衢すなわち辻にありて群猴が田畠を荒すを番守したのでこれを衢の神とし、従って道路や旅行の神とし、旅行に盗難は付き物なる上猴の盗み上手な事前述通り驚くに堪えた者多く、ジュボアはインド人が猴を神視する一つの理由はその盗を能くするにありと言ったくらい故、これを盗みの神とし盗みに縁ある足留めの神ともしたのだ。
それから猴の話に必ず引かるる例の『今昔物語』巻の二十六、飛騨国猿神生贄を止むる語(こと)第八に、猴神に痩(や)せた生贄を供うれば、神怒りて作物も吉(よ)からず、人も病み郷も静かならず、因って生贄に供うべき人に何度ともなく物多く食わせ太らする習俗を載す。凶年に病人多く世間騒擾(そうじょう)するはもちろんだが、この文に拠ればその頃飛騨で猴神を田畑の神としたのだ。他処は知らず今も紀州に猴神の社若干あり、祭日に百姓ども五、六里も歩んで詣(もう)ずる事少なからぬ。さるまさると『靭猿(うつぼざる)』の狂言に言えるごとく、作物蕃殖を猴の名に寄せて祝い祈るという。猴が作物を荒す事甚だしき例は前にも載せたが、なおここに一、二を挙げんに、『酉陽雑俎』四に〈婆弥爛国西に山あり、上に猿多し、猿形絶(はなは)だ長大、常に田を暴らす、年に二、三十万あり、国中春起ちて以後、甲兵を屯集し猿と戦う、歳に数万殺すといえども、その巣穴を尽くす能わず〉。アストレイの『新編航記紀行全集』二所収、一六九八年ブルユウの『第二回サナガ河航上記』に、西アフリカのエンギアンバてふ処に猴夥しく畑を甚だしく損ずる上、隙(すき)さえあれば人家に入り自分が食い得る以上に多く耗(へら)す故、住民断えず猴と戦争す、欧人たまたま奇物として猴を買うを見て訳が分らず、鼠を持ち来ってこれも猴と同じくらい食物を荒すから同価で買い上げてくれと言うた由。熊野の五村てふ処の人いわく、猴が大根畑へ付くと何ともならず、引き抜いて根を食いおわって丁寧に根首を本処へ生け込み置く故一向気付かず、世話焼くうち萎(しお)れ始めてようやく気が付く事ありと。されば最初猴を怕(おそ)るる余りこれに食を供してなるべく田畑を荒さぬよう祈ったのを、後には田畑を守り作物を豊穣にする神としたので、前に載せた越前の刀根てふ処で、今に猴神に室女を牲した遺式を行いながら毎年田畑のために猴狩りを催すは、崇めるのか悪(にく)むのか辻褄(つじつま)の別らぬようだが、昔猴を怕れ敬うた事も分り、年々殺獲する猴の弔いに室女を捧げてその霊を慰める義理立てにも当るようだ。盗賊禦(ふせ)ぎに許されて設けた僧兵が、鴨川の水、双六(すごろく)の賽(さい)ほど法皇を悩ませたり、貿易のために立てた商会がインドを英国へ取ってしまう大機関となったり、とかく世間の事物は創立当時とその意味が変る物と見える。
『酉陽雑俎』巻十一に道士郭采真(かくさいしん)言う、人の影の数九に至ると。この書の著者段成式(だんせいしき)かつて試みて六、七に至りしがそれ已外(いがい)は乱れて弁ぜず、郭いわくようやく炬を益せばすなわち別つべしとありて、九影の神名を書いた物あったが虫に食われて紙面全からず皆まで分らぬと出(い)づ。予五、六歳の時行燈(あんどん)を多く点(とも)し自分の影が行燈の数ほど増すを見て至って分り切った事と思うたが、博識ほとんど張華の流かと言われた段氏がこれほどの事を不思議がったは馬鹿げて居る。一七八七年七月九日ロンドンの街上を行く一紳士一貴婦にエリオット博士ちゅう学者が小銃を放ち、いずれも傷つかなんだがその婦人の衣は破れ、二人とも大いに愕(おどろ)いたので博士は入牢した。その時博士の諸友これを発狂の所作として申告した内に癲狂院(てんきょういん)を司るシムモンス博士あり。当時高名の精神病学者でもっとも世に重んぜられた人だが、自分はエリオットと親交十余年深くその狂人たるを知ると言ったので、その確証を述べよと問われて判官に答えたは、この頃エリオットが学士院へ提出するとて草した天体の光に関する論説を自分に贈った。これ確かに彼が狂人たる十分の証拠だという事で法廷で読み上げた内に「日は通常星学家が説くごとき火の塊でなく、実は日の上に濃くあまねく行き渡った光気(オーロラ)ありて日光を発し、その下なる太陽面の住民に十分光りを与え得るが、随分遠距離にあれば住民の迷惑にもならぬ」という一節こそ、殊に気違いの証拠だと述べた。判官は異常な学説を狂人の所作といえば精通真面目の星学家で狂人にしてしまわるる者多からんとて受け付けなんだ。しかし法律上の沙汰でエリオットが同時に射た二銃とも丸(たま)を込みいた確証なしとの一点より無罪と宣告された。ところがこの博士拘引後絶食十三日で死んでしまったは、昨今評判のコルクの市長の足元へも寄れませぬ。ロバート・チャンバースいわく、この事件を新聞紙月並みの法廷傍聴録として看過しがたきは、当時エリオットが懐(いだ)いた理想こそ実に現今(一八六四年)第一流の星学諸家が主張する所なれ、さればこれに拠って吾人は世にあまねく知られざる一事を知る。すなわち当世の狂が後代の智となる事もあれば、只今賢いと思わるる多くが、百年立てば阿呆の部に入れらるる事も多かろうと。これ誠に至言で、チャンバースが現今第一流の星学諸家が主張する所とは誰々なるを詳らかにせぬが、最近、日の上に濃くあまねく行き渡った光気より日光を発し、太陽面の住民に十分光を与えながら迷惑は掛けぬなど信ずる学者もないようだから、わずかに六十年足らぬ間に当時の碩学が今日の阿呆と見えるようになったのだ。まだそれよりも著しいは前年、現時為政者たる人が浅薄な理想を実現せんとて神社合祀(ごうし)を励行し、只今も在職する有象無象大小の地方官公吏が斜二無二迎合して姦をなし、国家の精髄たる歴史をも民情をも構わず、神社旧跡を滅却し神林を濫伐して売り飛ばせてテラを取り、甚だしきは往古至尊上法皇が奉幣し、国司地方官が敬礼した諸社を破壊し神殿を路傍に棄て晒(さら)した。熊楠諸国を遍歴して深く一塵(じん)一屑(せつ)をも破壊するてふ事の甚だ一国一個人の気質品性を損するを知り、昼夜奔走苦労してその筋へ進言し、議会でも弁じもらい、ついに囹圄(れいご)に執(とら)わるるに至って悔いず。しかるにその言少しも用いられず。不祥至極の事件の関係者が合祀励行の最も甚だしかった地方から出た。神社合祀が容易ならぬ成り行きを来すべきは当時熊楠が繰り返し予言したところなるに、その讖(しん)ついに成りしはわれも人もことごとく悲しむべきである。鄭(てい)に賢人ありて鄭国滅びたるは賢人の言を聞きながら少しも用いなんだからと、室鳩巣(むろきゅうそう)が言ったも思い当る。それにサアどうだ。有司が前陣に立って勧めた薬が利(き)き廻って今日ドサクサするに及び、ヤレ汽車賃を割引するから参宮に出掛けよとか、ソラ国費を以て某々の社を廓大しようとか大騒ぎに及ぶは既に手後れの至りで、汝の罪汝に報う「世の中の、うさには神もなき物を、心のどけく何祈るらん」と諸神が平家を笑うだろう。これを以てこれを見るに、当身のその本人が十年前に狂と見た熊楠の叡智に今は驚き居るに相違ない。魏徴(ぎちょう)、太宗に言いしは、われをして良臣たらしめよ、忠臣たらしむるなかれと。この上仰ぎ願わくば為政者、よっぽど細心してまた熊楠をして先見の明に誇らしむるなからん事を。マアざっとこんな世間だから、段成式が人に九影ありと聞いて感心して『雑俎』に書き留めたのも、諸方の民が人に数魂ありと信ずるのもむやみに笑う訳に行かず。これを笑うたのを他日に及んで笑わるるかも知れぬという訳は、変態心理学の書にしばしば見る二重人格また多数人格という例少なからず。甚だしきは一人の脳に別人ごとく反対した人格を具し、甲格と乙格と相嫌い悪(にく)む事寇讎(こうしゅう)のごときもある。されば猿田彦が死に様に現じた動作の相異なるより察して、その時々の心念を平生の魂と別に、それぞれ名を立て神と視(み)た『古事記』の記述も、アルタイ人が人ごとに数魂ありて各特有の性質、働き、存限ありと信ずるも理に合えりともいうべし。それと等しく一つの神仏菩薩に数の性能を具するよりその性能を別ちて更に個々の神仏等を立てた事多きは、ギリシャ、ローマの神誌や仏経を読む者の熟知するところで、同じ猴ながら見立てように随って種々の猴神が建立された。猿田彦がインドの青面金剛、支那の三尸と結合されて半神半仏の庚申と崇められた概略は出口氏の『日本生殖器崇拝略説』に出で、この稿にも次第したればこの上詳説せずとして、衢(ちまた)や、旅行や、盗難を司る庚申のほかに、田畑、作物を司る猴神ある事前述のごとく、そのほかまた猴を山の神とせるあり。
玄奘三蔵の『大唐西域記』十に、駄那羯礫迦国の城の東西に東山西山てふ伽藍あり。この国の先王がいかめしく立てたので霊神警衛し聖賢遊息した。仏滅より千年のうち毎歳千の凡夫僧ありてこの寺に籠(こも)り、終りて皆羅漢果を証し、神通力もて空を凌(しの)いで去った。千年の後は凡聖同居す。百余年この方(かた)は坊主一疋もいなくなり、山神形を易(か)えあるいは豺狼(さいろう)あるいは猨狖(えんゆう)となりて行人を驚恐せしむ、故を以て、空荒(くうこう)闃(げき)として僧衆なしとある。既にいったごとく、猨は手の長い猴(さる)で、狖は神楽鼻(かぐらばな)で鼻穴が上に向いた尾長猴じゃ。前年予田辺の一旅館で山の神がオコゼ魚に惚れ、獺(かわうそ)を媒(なかだち)として文通するを、かねてかの魚を慕いいた蛸入道(たこにゅうどう)安からず思い、烏賊(いか)や鰕(えび)を率いて襲い奪わんとし、オコゼ怖れて山奥に逃げ行き山の神に具して妻となる物語絵を見出し、『東京人類学雑誌』二九九号に載せ、また絵師に摸させ自分詞書(ことばがき)を写して米賓スウィングル氏に贈りしに、ス氏木村仙秀氏に表具してもらい、巻物となし今も珍蔵する由。それには山神を狼面に画きあった。今も狼を山神として専ら狩猟を司るとする処が熊野にある。ところが同じ熊野でも安堵峰辺で自ら聞いたは、山神女形で、山祭りの日一山に生えた樹木を算うるになるべく木の多きよう一品ごとに異名を重ね唱え「赤木にサルタに猴滑り」(いずれもヒメシャラ)「抹香(まっこう)、コウノキ、コウサカキ」(皆シキミの事)など読む。樵夫当日その内に読み込まるるを怕れて山に入らず、また甚だ男子が樹陰に自涜(じとく)するを好むと。佐々木繁君説に、山神、海神と各その持ち物の多きに誇る時、山神たちまち(オウチ?)にセンダン、ヤマンガと数え、相手のひるむを見て得意中、海神突然オクゼと呼びたるにより山神負けたとあるを見て、この話の海内(かいだい)に広く行き渡れるを知った。十分判らぬがオクゼは置くぞえで、海神いざこれから自分の持ち物を算盤に置くぞえと言いしを、山神オコゼ魚が自分の本名を知られたと合点して、敗亡したらしい。諸国に神も人も自分の本名を秘した例多い(『郷土研究』一巻七号)。いわゆる山祭りは陰暦十一月初めの申の日行う。けだしこの山神は専ら森林を司り、その祭日には自分の顔色と名に因んで、赤木に猿たに猿滑りと、一種の木を三様に懸値(かけね)して国勢調査すと伝えたのだ。
牡猴が一たび自涜を知れば不断これを行い衰死に及ぶは多く人の知るところで、一八八六年板ドシャンプルの『医学百科辞彙』二編十四巻にも、犬や熊もすれど、猴殊に自涜する例多しと記し、医書にしばしば動物園の猴類の部を童男女に観するを戒めある。予壮時諸方のサーカスに随い行きし時、黒人などがほめき盛りの牝牡猴に種々猥(みだ)りな事をして示すと、あるいは喜んで注視しあるいは妬(ねた)んで騒ぐを毎度睹(み)た。『十誦律』一に〈仏舎衛国にあり、爾時(そのとき)憍薩羅(きょうさら)国に一比丘あり、独り林中に住す、雌獼猴あり常にしばしばこの比丘の所に来往す、比丘すなわち飲食を与えてこれを誘う、獼猴心軟し、すなわち共に婬を行う、この比丘多く知識あり、来りて相問訊して一面にありて坐す、時に獼猴来りて婬を行わんと欲し、一々諸比丘の面を看る、次に愛するところの比丘の前に到り、住(とど)まりてその面を諦視し、時にこの比丘心恥じ獼猴を視ず、獼猴尋(つ)いで瞋り、その耳鼻を攫し、傷破してすなわち去る、この比丘波羅夷を得、まさに共に住すべからず〉、巻五五に、仏毘舎離(びしゃり)にあった時、一比丘毎度余食を雌猴に与うると〈ついにすなわち親近し、東西を随逐し、乃至手捉して去らず、時に比丘すなわち共に不浄を行う、時に衆多の比丘房舎の臥具を案行し、次にかの林中に至り、かの獼猴来りて諸比丘の前にありて住し尾を挙げて相似を現わす、諸比丘、かくのごとき念を作す、この雌獼猴今我らの前にありて、相を現ずることかくのごとし、はた余比丘のこの獼猴を犯すあるなしか、すなわち隠れて屏処にありてこれを伺う、時に乞食比丘食を得て林中に還り、食しおわりて持して獼猴に与う、獼猴食しおわりて共に不浄を行う、かの諸比丘観見して、すなわち語(い)いていわく長老、仏比丘を制して不浄を行うを得ざるにあらずや、彼答えて言う、仏人の女を制して、畜生を制せず、時に諸比丘仏の所に往き云々〉、仏これを波羅夷罪(はらいざい)と断じた。この通り牝猴時として慾火熾(さか)んに人前に醜を露わす事もあるべく、それらの事より山神女性で男子の自涜を好むといい出したものか。『日本及日本人』七二五号に、『談海』十二に山神の像を言いて「猿の劫(こう)をへたるが狒々(ひひ)という物になりたるが山神になる事といえり」、『松屋筆記』に『今昔物語』の美作(みまさか)の中参の神は猿とあるを弁じて、参は山の音で、中山の神は同国の一の神といえり、さて山神が猿なるより『好色十二男』に「かのえ申(さる)のごとき女房を持ち合す不仕合せ」とあるも、庚申の方へ持ち廻りたるなれど、面貌より女が山の神といわるる径路を案ずべし。必ずしも女房に限らざるは、『乱脛三本鑓(みだれはぎさんぼんやり)』に「下女を篠山に下し心に懸る山の神なく」とあると無署名で書いたは卓説だ。維新の際武名高く、その後長州に引隠して毎度東京へ出て今の山県(やまがた)公などを迷惑させた豪傑兼大飲家白井小助は、年不相応の若い妻を、居常(きょじょう)、猴と呼び付けたと、氏と懇交あった人に聞いたは誠か。予もその通りやって見ようとしばしば思えど、そこがそれ山の神が恐(こわ)くて差し控える。
コンウェイはビナレスの猴堂に異類多数の猴が僧俗に供養さるるを観た最初の感想を述べて、この辺で行わるる軌儀は上世の猴が奉じた宗旨を伝承して人間が継続し居るものだが、その人間が逆にことごとく猴の祠堂を奪うてこの堂一つを残したらしいと言った。これは戯言ながら全く理(ことわり)なからず。『立世阿毘曇論(りゅうせあびどんろん)』二に、この世界に人の住む四大洲のほか、更に金翅鳥洲(こんじちょうしゅう)、牛洲、羊洲、椰子洲、宝洲、神洲、猴洲、象洲、女洲ありと説く。猴洲は猴ばかり住む処だ。アラビアの『千一夜譚』にも、わが邦の「猴蟹(さるかに)合戦」にも猴が島あり。『大清一統志』に福建の猴嶼(さるしま)あり。宋の龐元英(ほうげんえい)の『談藪』に、筠(いん)州の五峯に至りし人、〈馬上遥かに山中の草木蠕々(ぜんぜん)とし動くを見る、疑いて地震と為す、馭者(ぎょしゃ)いう、満山皆猴なり、数(かず)千万を以て計る、行人独り過ぐれば、常に戯虐に遭う、毎(つね)に群呼跳浪して至り、頭目胸項手足に攀縁(はんえん)す、袞(こん)して毛毬を成す、兵刃ありといえども、また施す所なし、往々死を致す〉。千疋猴が人を蒸し殺す山だ。露人ニキチンの紀行にインドの猴に王あり、兵器持った猴どもに護られ林中に住む。人、猴を捕うれば余猴これを王に訴え、王すなわち猴兵を派し捜らしむ。猴兵市中に入りて家を壊(やぶ)り人を打つ、諸猴固有の語を話し、夥しく子を産む。その子両親に似ざれば官道に棄つるを、インド人拾い取りて諸の手工や踊りを教え夜中これを売る。昼売れば道を覚えてたちまち還(かえ)ればなり。アラビアの大旅行家イブン・バツタも、インドの猴王を、四猴、棒を執りて侍衛すと述べた。これらの記事中に無下(むげ)の蛮民を猴と混同したもあるべきか(タイラー『原始人文篇』一巻十一章)。
昔人多からざりし世に猴ばかり住んだ地方ありしは疑いなく、さてタイラーも言ったごとく、未開時代には猴を豪い者とし、人を詰まらぬ者とし過ぐる事多かったに付けて、かく他の諸動物に勝(すぐ)れて多勢で威を振うを見て、その地の所有権は猴にあるごとく認めたのだ。
松を太夫とし、雨を獄に下し、狐に訓示を発し、兎に制条を出した東洋人と均(ひと)しく、文化に誇る欧州でも、古くデモクリトスは重罪を犯した動物の死刑を主張し、ヴァロはローマ人労働の棒組たる牛を殺すを殺人罪と攷(かんが)えたのみならず、中世まで全く動物を人と同位と見たので、獣畜を法廷で宣言した例多い(『ルヴェー・シアンチフィク』三輯三号、ラカッサニュの「動物罪科論」)、されば本邦でも人文追々発達して、諸動植が占居蕃殖せる地面を人の物とし神の用に供するに及んでも、多くのキリスト教徒が異教の地に入りてせしごとき全滅を行わず、なるべく無害な物を保存して神木神獣とし、これを敬愛して神の使い者としたのは、無類の上出来で、奈良、宮島の猴鹿から、鳥海山の片目のカジカ魚まで、欧人に先だって博愛飛渚に及んだ邦人固有の美徳ありし証ともなれば、邦家の成立由来するところ一朝夕の事にあらざるを明らむべき不成文の史籍ともなったのだ。伊豆の三島の神は鰻を使者とし神池の辺で手を拍(う)てば無数の鰻浮き出たという。かかる事西洋になかったものか、徳川時代の欧人の書に伝聞のまましばしば書きいる。しかるに今は神池空しく涸(か)れて鰻跡を絶った由。去冬魚類専門の田中茂穂氏来訪された時、氏の話に、魚類の心理学は今に端緒すら捉え得ずと。件(くだん)の鰻ごときは実にその好材料なりしに今やすなわちなし。知らぬが仏と言うものの、かかる事は何卒為政者の気を付けられたい事だ。
猴を神使とせる例、『若狭(わかさ)郡県志』に上中郡賀茂村の賀茂大明神降臨した時白猿供奉(ぐぶ)す、その指した所に社を立てた。飛騨宕井戸村山王宮は田畑の神らしい。毎年越中魚津村山王より一両度常のより大きく薄白毛の猴舟津町藤橋を渡りてここへ使に参る(『高原旧事』)、江州(ごうしゅう)伊香(いか)郡坂口村の菅山寺は昔猴が案内して勅使に示した霊地の由(『近江輿地誌略』九〇)、下野(しもつけ)より会津方面にかけて広く行わるる口碑に、猿王山姫と交わり、京より奥羽に至り、勇者磐次磐三郎を生む、猿王二荒神を助け赤城神を攻めて勝ち、その賞に狩の権を得、山を司ると(『郷土研究』二の一、柳田氏の説)。これはハヌマンの譚に似居る。厳島の神獣として猴多くいたがその屍を見た者なきに何処(どこ)へ行ったか今は一疋も見えぬ(同四の二、横田氏説)というは、先述ハヌマン猴は屍を隠すてふインド説に近い。かつて其諺(きげん)翁の『滑稽雑談(こっけいぞうだん)』三に猿の口開き、こは安芸(あき)宮島にある祭なり。この島猴もっとも多し、毎年二月十一日申の日を限り、同国島の八幡の社司七日の間祓(はらい)を行い、申の日に至りてこの島に来り、猿の口開の神事を行う。この日より後この島の猴声を発すといえり。また十一月上申の日件(くだん)の社司祓神事を行う事二月のごとし、猿の口止(くちどめ)の神事というなり。この後猴声を入るるなりとあるを読んで、何とか実地研究と志しいたところ、右の報告を見てお生憎(あいにく)様と知った。『厳神鈔』に山王権現第一の使者に猿、第二の使者鹿なり。春日大明神第一の使者は鹿、第二の使者は猿なり。日吉(ひえ)にも、インド、セイロン同然猴は屍を匿(かく)す話行われ、唐崎(からさき)まで通ずる猿塚なる穴あり、老い果てた猿はこの穴に入りて出ざる由。猿果てたる姿見た者なし、当社の使者奇妙の働き〈古今勝(あ)げて計(かぞ)うべからず〉という(『日吉社神道秘密記』)。『厳神鈔』に、初め小比叡峰へ山王三座来りしが、大宮は他所へ移り、二の宮は元よりこの山の地主故独り住まる。その時猿形の山神集まりて種々の遊びをして慰めた。これを猿楽の一の縁起と申す。『日吉社神道秘密記』に、〈大行事権現、僧形猿面、毘沙門弥行事、猿行事これに同じ、猿田彦大王、天上第一の智禅〉。『厳神鈔』に大行事権現は山王の惣(そう)後見たり、一切の行事をなすと出(い)づ。すべて日吉に二十一社ありて仏神の混合甚だしく、記録に牽強多くて事歴の真相知れがたきも、大体を稽(かんが)うるに、伝教大師この社を延暦寺に結び付けた遥か以前に、二の宮この山の地主と斎(いつ)かれた。そのまた前に猴をこの山の主として敬いいたのがこの山の原始地主で、上に引いたコンウェイの言に倣(なろ)うていえば、拝猴教が二の宮宗に、二の宮宗が一層新米の両部神道に併(あわ)され、最旧教の本尊たりし猴神は記紀の猿田彦と同一視され、大行事権現として二十一社の中班に例したは以前に比して大いに失意なるべきも、その一党の猴どもは日吉の神使として栄え、大行事猴神また山王の総後見として万事世話するの地位を占め得たるは、よく天命の帰する所を知りて身を保ったとも一族を安んじたともいうべく、また以てわが邦諸教和雍寛洪(わようかんこう)の風に富めるを知るべし。『厳神鈔』に「日吉と申すは七日天にて御す故なり、日吉の葵(あおい)、加茂の桂(かつら)と申す事も、葵は日の精霊故に葵を以て御飾りとし、加茂は月天にて御す故に桂を以て御飾りとす」など、日吉の名義定説なきも、何か日の崇拝に関係ある文字とは判る。バッジいわく、古エジプト人の『死者の書』に六、七の狗頭猴旭(あさひ)に向い手を挙げて呼ぶ体(てい)を画いたは暁の精を表わし、日が地平より上りおわればこの猴になると附記した。けだしアフリカの林中に日出前毎(つね)にこの猴喧嘩するを暁の精が旭日(きょくじつ)を歓迎頌讃(しょうさん)すと心得たからだと。これすこぶる支那で烏を日精とするに似る。日吉山王が猴を使者とするにこの辺の意義もありなん。夜明けに逸早(いちはや)く起きて叫び噪(さわ)ぐは日本の猴もしかり。
『和漢三才図会』に、猴、触穢(しょくえ)を忌む。血を見ればすなわち愁(うれ)うとあるが、糞をやり散らすので誠に閉口だ。果して触穢を忌むにや。次に〈念珠を見るを悪(にく)む。これ生を喜び死を悪むの意、因って嘉儀の物と為しこれを弄ぶ〉とある。吾輩毎度農民に聞くところは例のさるまさるとて蓄殖の意に取るらしく、熊野では毎初春猴舞わしが巡り来て牛舎前でこれを舞わす。また猴の手をその戸に懸け埋めて牛息災なりという。エルウォーシーの『邪視編』に諸国で手の形を画いて邪視を防ぐ論あり。今もこの辺で元三大師の手印などを門上に懸くる。されば猴を嘉儀の物とするに雑多の理由あるべきも邪視を避くるのがその随一だろう。ここには猴に関してのみ略説しよう。その詳説は『東京人類学雑誌』二七八号拙文「出口君の小児と魔除を読む」を見られよ。
『書紀』天孫降下の条に先駆者還りて曰く、〈一の神有りて、天八達之衢(あまのやちまた)に居り、その鼻長さ七咫(ななあた)脊の長さ七尺(ななさか)云々、また口尻(くちわき)明り耀(て)れり、眼は八咫鏡(やたのかがみ)の如くして、赩然(てりかかやけること)赤酸醤(あかかがち)に似(の)れり、すなわち従(みとも)の神を遣して往きて問わしむ、時に八十万(やそよろず)の神あり、皆目(ま)勝ちて相問うことを得ず、天鈿女(あまのうずめ)すなわちその胸乳(むなぢ)を露(あらわ)にかきいでて、裳帯(もひも)を臍の下に抑(おした)れて、咲噱(あざわら)いて向きて立つ〉、その名を問うて猿田彦大神なるを知り、〈鈿女復(また)問いて曰く、汝(いまし)や将(はた)我に先だちて行かむ、将(はた)我や汝に先だちて行かむ、対(こた)えて曰く吾先だちて啓(みちひら)き行かむ云々、因りて曰く我を発顕(あらわ)しつるは汝なり、故(かれ)汝我を送りて到りませ、と〉とて、伊勢の狭長田(さなだ)五十鈴川上に送られ行くとあるは、猿田彦の邪視八十万神の眼の堪え能わざるところなりしを、天鈿女醜を露(あらわ)したので猿田彦そこを見詰めて、眼毒が弱り和らぎ、鈿女打ち勝ちて彼をして皇孫の一行を避けて遠地に自竄(じざん)せしめたのだ。インドでハヌマン猴神よく邪視を防ぐとて祭る事も、青面金剛崇拝は幾分ハヌマン崇拝より出た事も既に述べた。それが本邦に渡来してあたかも邪視もっとも強力なりし猿田彦崇拝と合して昨今の庚申崇拝が出来たので、毒よく毒を制する理窟から、以前より道祖神と祀られて邪視防禦に効あった猿田彦が、庚申と完成された上は一層強力の眼毒もて悪人凶魅どもの眼毒を打ち破るのだ。庚申堂に捧ぐる三角の袋括(くく)り猿など、パンジャブ辺でも邪視を防ぐの具で、一つは庚申の避邪力を増さんため、一つは参詣者へ庚申の眼毒が強く中(あた)らぬべき備えと知らる。またインドや欧州その他に人畜が陰陽の相を露せる像を立て、邪鬼凶人の邪視を防ぐ例すこぶる多く、本邦にも少なからず、就中(なかんずく)猴が根を露せるもの多し。その諸例は今年九月印刷出口君の『日本生殖器崇拝略説』に詳載さる。予出口君の許しを得て珍しき猴の石像の写真をここに掲げんとせしも再考の末見合せ、代りに掲ぐる第十一図は余が南ケンシントン博物館で写真を模したもので、多くのインド人に尋ねしも訳分らず、しかし道祖神の一態たる和合神(『天野政徳(あまのまさのり)随筆』一に図あり)のインド製に相違なかろう。
「第11図 マハエヴリプラームにある二猴の彫像」のキャプション付きの図
猴を馬厩(うまや)に維(つな)ぐ事については柳田君の『山島民譚集』に詳説あり、重複を厭(いと)いここにはかの書に見えぬ事のみなるべく出そう。『広益俗説弁』その他に、この事、『稗海(はいかい)』に、晋の趙固の馬、病みしを郭璞(かくはく)の勧めにより猴と馴れしめて癒えたとあるに基づくといえど、『梅村載筆』には猿を厩に維ぐは馬によしという事、『周礼註疏』にありと記す。現に座右にあれどちょっと多冊でその文を見出さず。註にあらば晋より前、後漢の時既にこの説あったはずだが、疏にあらば晋より後のはずでいずれとも今分らぬ。しかし『淵鑑類函』四三二、後漢王延寿王孫賦、既に酔い眠った猴を縛り帰って庭厩に繋(つな)ぐとあれば、郭璞に始まったとは大啌(おおうそ)だ。それから、伊勢貞丈(いせさだたけ)、武士、厩の神を知りたる人少なしとて、『諸社根元記』と『扶桑略記』より延喜天徳頃左右馬寮(さうまりょう)に坐せし、生馬の神、保馬の神を挙げ、『書紀』の保食神(うけもちのかみ)牛馬を生じたるよりこの二神号を帯びたのだろといった(『あふひづくり』上)、この二神は猴でなかろう。『塵添壒嚢抄(じんてんあいのうしょう)』四、猿を馬の守りとて馬屋に掛くるは如何、猿を山父、馬を山子といえば、父子の義を以て守りとするか、ただし馬櫪神(ばれきしん)とて厩神在(いま)す、両足下に猿と鶺鴒(せきれい)とを蹈ませて二手に剣を持たしめたり、宋朝にはこれを馬の守りとす、この神の踏ませるものなれば猿ばかりをも用ゆるにや。橘守国(たちばなもりくに)の『写宝袋(しゃほうぶくろ)』にその像を出せるが『壒嚢抄』の所記と違う。柳田氏は猿を添うるは判っているが、鶺鴒の意味分らず、あるいは馬神と水神との相互関係を推測せしむる料にあらずやといわれたが、川柳に「鶺鴒も一度教へて呆れ果て」、どど一(いつ)にも「神に教えた鶺鴒よりもおしの番(つが)いが羨まし」ナント詠んだごとく、この鳥特異の動作を示して二尊に高尚なる学課を授け参らせたに因って、「逢ふ事を、稲負(いなおわ)せ鳥の教へずば、人を恋に惑はましやは」それを聞き伝えたものか、嬌女神ヴィナスの異態てふアマトンテの半男女神はこの鳥を使者とし、その信徒に媚薬として珍重された。今村鞆君元山府尹(げんざんふいん)たり、近く『増補朝鮮風俗集』を恵贈さる。内に言えるは鮮人の思想貧弱にして恋愛文学なく、その男女の事を叙するや「これと通ず」「これを御す」と卑野露骨にして憚(はばか)らずと。それについての鄙見(ひけん)は他日に譲り差し当り述ぶるは、『淮南子(えなんじ)』に〈景陽酒に淫し、髪を被りて婦人を御し、諸侯を威服す〉。その他古文に〈婦女を御す〉というが多い。これは鹿爪(しかつめ)らしい六芸の礼楽射御(しゃぎょ)の御とは別にしてしかも同源の語で、腰を動かすてふ本義だ。所詮(しょせん)鶺鴒の絶えず尾を振るごとくせば、御馬の術も上達すてふ徴象で、さてこそ馬の災を除く猴とこの鳥を踏んで、馬櫪神よく馬を養いよく馬を御すと示したのだ。何と畏(おそ)れ入ったろう。また按ずるにホワイトの『セルボルン博物志』に牛が沢中に草食う際、鶺鴒その身辺を飛び廻り、鼻に接し腹下を潜(くぐ)って牛に著いた蠅を食う。天の経済に長ぜるかかる縁遠き二物をして各々自利利他せしむと書いて、利はよく他人同士を和せしむというたは、義は利の和なりてふ支那の文句にも合えば、ちと危険思想らしいがクロポトキンの『互助論』にもありそうな。惟(おも)うに鶺鴒は支那で馬の害虫を除く功あるのでなかろうか。張華の『博物志』三に〈蜀山の南高山上に物あり、獼猴のごとく長(たけ)七尺、能く人行健走す、名づけて猴玃(こうかく)という、一名馬化、同じく道を行く婦人に、好き者あればすなわちこれを盗みて以て去る〉、『奥羽観跡聞老志』四に、駒岳の神は、昔馬首獣の者生まれ、父母怖れて棄つると猴が葛(くず)の葉を食わせて育てた、死後この神と成ったと出(い)づ。『マハバーラタ』にはハリー神女が馬と猴の母だという。こうなるとどうも猴と馬が近親らしい。『虎ツ経(こけんけい)』に猴を厩に畜(か)えば馬のために悪を避け、疥癬を去るとある。悪を避けは西洋でいう邪視を避くる事でこれが一番確説らしい。アラビア人など駿馬が悪鬼や人の羨み見る眼毒に中(あて)らるるを恐るる事甚だしく、種々の物を佩(お)びしめてこれを避く。和漢とも本(もと)邪視を避くるため猴を厩に置き、馬を睨(にら)むものの眼毒を種々走り廻る猿の方へ転じて力抜けせしめる企(たくら)みだったのだ。また疥癬を去るとあるより推すに、馬の毛に付いた虫や卵を猴が取って馬を安んずるのかも知れぬ。烟管(キセル)を掃除したり小児の頭髪を探ったりよくする。『新増犬筑波(いぬつくば)集』に「秘蔵の花の枝をこそ折れ」「引き寄せてつぶり春風我息子」「虱(しらみ)見るまねするは壬生猿(みぶざる)」。壬生猿何の義か知らぬが、猴同士虱を捜り合うは毎度見及ぶ。しかるに知人アッケルマンの『ポピュラー・ファラシース』にいわく、ロンドン動物園書記ミッチェル博士がかの園の案内記に書いたは、世人一汎に想うと反対に、猴が蚤(のみ)に咋(く)わるる事極めて稀(まれ)だ。そは猴ども互いにしばしば毛を探り合うからだが、それにしても猴が毛を探って何か取り食うは多くは蚤でなくて、時々皮膚の細孔から出る鹹(から)き排出物の細塊であると。ただし虱の事を書いていないは物足らぬ。この話で思い出したは享保二十年板其碩(きせき)の『渡世身持談義』五、有徳上人の語に「しからばあまねく情知りの太夫と名を顕(あら)わさんがために身上(みあが)りしての間夫狂(まぶぐる)いとや、さもあらば親方も遣(や)り手も商い事の方便と合点して、強(あなが)ちに間夫をせき客の吟味はせまじき事なるに、様々の折檻(せっかん)を加うるはこれいかに、その上三ヶ津を始め諸国の色里に深間(ふかま)の男と廓(くるわ)を去り、また浮名立ててもその間夫の事思い切らぬ故に、年季の中にまた遠国の色里(いろざと)へ売りてやられ、あるいは廓より茶屋風呂屋(ふろや)の猿と変じて垢(あか)を掻(か)いて名を流す女郎あり、これ皆町の息子親の呼んで当てがう女房を嫌い、傾城(けいせい)に泥(なず)みて勘当受け、跡職(あとしき)を得取らずして紙子(かみこ)一重の境界となる類(たぐ)い、我身知らずの性悪(しょうわる)という者ならずや」、風呂屋の猿とは『嬉遊笑覧』九に、『一代女』五、一夜を銀六匁にて呼子鳥、これ伝受女なり、覚束(おぼつか)なくて尋ねけるに、風呂者を猿というなるべし。暮方より人に呼ばれける(風呂屋女に仇名(あだな)を付けて猿というは垢をかくという意となり)とあり。正徳元年板其碩(きせき)の『傾城禁短気(けいせいきんたんき)』に「この津の橋々に隠れなき名題の呂州(風呂屋女を指す)猿女上人」、一向宗の顕如(けんにょ)に猿をいいかけたり。元禄十三年板『御前義経記』五にも「以前の異名は湯屋猿と申し煩悩の垢をすりたる身」とあり。それから『信長記(しんちょうき)』八「美濃近江の境に山中という処、道傍にいつも変らずいる乞食あり。信長その故を問うに在処の者いう、昔当所山中の処にて常磐御前を殺せし者の子孫、代々頑(かた)わ者と生まれて乞食す、山中の猿とはこの者と、六月二十六日上洛(じょうらく)取り紛れ半ば、かの者の事思い出で、木綿(もめん)二十反手ずから取り出し猿に下され、この半分にて処の者隣家に小屋をさし、飢死せざるように情を掛け、隣郷の者ども、麦、出候わば麦を一度、秋後には米を一度、一年に二度ずつ取らすべしと」。これは代々不具な賤民を貌(かお)の醜きより猿と名づけたと見える。
終りに述べ置くは、インドとシャムで象厩に猴を畜(か)えば、象を息災にすと信ずる由書いたが、近日一七七一年パリ板ツルパンの『暹羅(シャム)史』に、シャムの象厩に猴を飼い、邪気が厩を襲えば猴これを引き受け象害を免がる。象は天禀(てんびん)猴を愛するとあるを見出した。邪気とは只今学者どものいう邪視で、猴が避雷針様に邪視力を導き去るから、象、難を免るるのだ。前述熊野の牛舎の例もあり、猴を繋ぐは馬厩に限らぬと判る。さて、前年予植物同士相好き嫌いする説をロンドンで出し大いに注意を惹(ひ)いたが、その後彼方(かなた)よりの来信を見るに、綿羊は常に鹿の蕃殖を妨げ、山羊を牛舎に飼えば、牛、常に息災で肥え太る由一汎に信ぜらるという。ロメーンズの『動物智慧論』にも鱷(わに)が太(いた)く猫を愛した例を出す。惟うに害虫駆除とか邪視を避くるとかのほかに、実際、象、馬、牛は天禀猴を好むのかも知れぬ。この事深く心理学者や農学者、獣医諸君の研究を俟(ま)つ次第である。(大正九年十二月、『太陽』二六ノ一四) 
 
安積疏水

 

安積疏水(あさかそすい)は、猪苗代湖より取水し、福島県郡山市とその周辺地域の安積原野に農業用水・工業用水・飲用水を供給している疏水である。水力発電にも使用される。那須疏水(栃木県)、琵琶湖疏水(滋賀県琵琶湖 - 京都市)と並ぶ日本三大疏水の1つに数えられている。 
貧しき人々の群れ
郡山市は人口約34万人を擁する東北屈指の大都会です。JR郡山駅の西側、市役所の西隣に<桑野>という町名があります。福島放送や東芝ビル、法務局や文化会館などのビルが建ち並ぶ華やかな都心部。しかし、まさに、この地こそが、宮本百合子の処女作であり、人道主義の作品として日本文学史に不動の位置を占める『貧しき人々の群れ』(大正5年)の舞台となった<桑野村>でした。
執筆当時の彼女はまだ17歳。桑野のすぐ南、開成山に住んでいた祖父・中条政恒の家で書いたとあります。作品は、明治の開拓によってできた桑野村農民の生活を描いたもので、タイトルどおり極貧としか言いようのない人々の話です。「人間の住居といふよりも、むしろ何かの巣と言つた方が、よほど適当してゐる」(同作品より)と書かれた光景こそ、わずか90年前の郡山の現実でした。
「狒狒(ひひ)婆さま」、溺死した「善馬鹿」、首吊りして死んだ「水車屋の新さん」等もそれぞれ実在のモデルがいたようで、彼女は開拓村の貧しさに圧倒されてこの作品を書いたのでしょう。プロレタリア文学、日本共産党入党、宮本顕治との結婚、投獄といったその後の彼女の激しい人生を支えた思想は、この桑野村での強烈な印象が基となっていることに違いありません。その後の作品『禰宜様宮田』『三郎爺』『播州平野』などでも、たびたび郡山や開拓農民の話が出てきます。
しかし、皮肉なことに、その開拓村をつくり、「安積疏水」最大の功労者とも言われる人物こそ、彼女の祖父・中条政恒その人だったのです。 
中条政恒と二本松藩士族たち
明治初期、奥羽街道の一宿場町に過ぎなかった郡山。当時の人口はわずか7千人。現在は市街地となっている安積地方、山田原、対面原、広谷原、大槻原、大蔵壇原、牛庭原、南原など数千haの台地は、水の便が乏しく、古来一度も耕されたことのないという茫漠たる原野であり、太古の姿そのままに明治の世を迎えました。
明治5年、福島県に県官として赴任したのが中条政恒でした。彼は元米沢藩士でしたが、その頃にも北海道開拓を藩主に上申しているくらい熱心な開拓論者でした。赴任早々、県令(現知事)安場保和に士族による大槻原(おおつきはら)の開墾を建言します。
中条が中心となって開拓村の計画を立て、明治6年、政府の助成を得て旧二本松藩の士族28戸が大槻原に移住してきました。場所は、桑野のすぐ南、現在の安積高校のあたりです(下の地図参照)。
二本松藩は、戊辰戦争で旧幕府軍として会津藩と共に闘った藩(二本松少年隊の悲話で有名)であり、維新後は賊軍として冷遇され、士族は惨めな生活を強いられていました。移住とは言っても家屋などはなく、士族たちは近隣の寺院などに住みながら開拓地まで通ったとあります。
開墾は過酷なものでした。彼らの日記によれば、過重な労働と栄養不足から病人が続出、家族が次々に死亡するなど惨憺たる生活が綿々と綴られています。あるものは外国へ渡り、あるものは脱落、またある者は罪を犯して獄に入るなど離散。大正15年には、開拓当時の家族はわずか7戸という有様でした。
しかし、この二本松藩の細々とした開墾こそが、後の広大な安積原野開拓のスタートとなるわけです。 
開成社の誕生
もちろん、中条や県令・安場はこの程度で満足はしません。彼らは、江戸時代から諸国で行われていた商業資本による開拓を計画していました。中条は地元の商人の説得にかかりますが、「米沢キツネに騙されるな」と誰にも相手にされません。
新しい世を迎えたとはいえ、まだ町には刀を差した侍が歩いていた時代。経済は不安定この上なく、富商といえど一寸先は闇でした。
しかし、中条はひるみません。「富豪なりと言えど村のため国のために尽くすところなくんば、守銭奴の侮辱まぬがれるべからず」。彼の激しい説得に、商人たちも心を動かし始め、遂に阿部茂兵衛が同意します。阿部は他の24人を説きふせて資金を集め、明治7年、「開成社」なる結社が誕生しました。
以来、大槻原野は、にわかに開墾ブームに沸きます。灌漑用の池を造り、幅8間の開拓道路(現在の国道49号)、移住者のための遥拝所(現、開成山大神宮)、干拓事務所や郡役所として使われた白亜の殿堂「開成館」(現存)の建設、わずか数年の間に100戸を超す集落が形成され、太古来の原野に人煙たなびく開拓村が形成されていきました。
そして、明治9年、後に宮本百合子描くことになる「桑野村」が誕生します。人口約700人、水田76ha、畑140ha。しかし、桑野村の貧しさは開村当時から変わりなく、水田からの収量はわずか2〜3俵に過ぎなかったと記録にあります。
「中条君は移民と愛憐するや尋常にあらず」(『安積事業誌』)。中条も嫌というほど現実の厳しさを思い知らされます。彼は、ますます安積疏水への思いを強くします。彼の夢は、郡山の20km西方、三森峠の向こう側にある猪苗代湖からの導水と、安積原野1万町歩の開拓でした。
しかし、幸運にも、この開成社の開墾が、明治9年、明治天皇による東北巡幸の先発隊として福島に来ていた内務卿・大久保利通の目にとまります。
大久保は新政府官僚の中でも.最も殖産興業に熱心でした。彼は、中条政恒から安積疏水と、それによる安積原野1万haの大規模開墾の話を聞き、目の色を変えたといいます。
そして、いよいよ世紀の大事業・安積疏水実現に向けて歴史が動き始めることになるのです。 
安積疏水の夢
猪苗代湖から山を越えて原野に水を引く安積疏水の案は、地元でも早くから考えられていました。一説には、明治2年、西本願寺の僧であった石丸法師が郡山の寺院に滞在した折、たまたまその年は奥羽飢饉といわれて、どこの村も用水の確保に血眼になっていたため、僧は猪苗代湖から水を引けないものかと茶飲み話に語ったといいます。
この話を聞いた川口半右衛門という商人が、実現の可能性を探るためか、二本松藩や会津藩に照会したりして奔走しています。
また同じ頃、地元の郷士小林久敬も湖水の開鑿を県に建言しています。さらに明治3年になると地元の有志たちが実際に測量を行い、猪苗代湖からの導水を訴えています。
これとは別に、現在の岩代町出身の儒学者・渡辺閑哉(儀右衛門)も藩政時代から安積疏水の提案をし、実地踏査までしています。田子沼を利用し、湖水を五百川に導くという彼の案は、後に明治政府によって実施された工事と全く同様でした(ちなみに疏水のルートは数案あり、どのコースが最適かを巡って技術者同士でも意見は対立していました)。
前述した二本松藩による大槻原の開墾が始まると、地元有志による安積疏水実現の運動はいっそう熱を帯びてきました。中条の元にも大勢の論客が押し寄せます。しかし、彼らの提案は、熱意はあっても実現性に乏しく、中には山師まがいの人物もいたりして、しだいに相手にされなくなっていきます。
中条は慎重でした。莫大な資金がいる上に、会津地方の利害と対立します。この事業は周到な準備と新政府の力なしでは到底不可能と考えていました。
彼はその間に、単身で山野を歩き、現地調査を始めています。明治8年には三森峠、中の地方の調査、阿武隈川の水源地調査、各地区の水源調査や測量、最後には会津地方の調査を行い、どういう意図があったのか、只見川(会津平野へ流れ込む河川)の水源地である燧ケ岳まで登り、100kmも離れた尾瀬湿原一帯まで調査しています(この踏査で彼は重いリューマチを患い、生涯苦しんでいます)。
そうした徹底的な調査に基づく中条の提案は、殖産興業論者大久保にとっても魅力に富み、説得力にあふれたものでした。
明治9年、これを聞いた大久保利通は天皇の巡幸から東京へ戻ると、さっそく内務省の技術者を東北地方に派遣し、大規模開墾の候補地を探させます。青森の三本木原、栃木の那須野原なども候補に上がりましたが、最終的に安積原野が国営事業として最も適切であるとの報告がなされました。二本松藩や開成社による開墾の先行事例が有利に働いたことは言うまでもありません。
明治政府初の国営事業、資金も何十万円という途方もない巨費が必要でした。反対意見が続出する中で大久保は実現に向けて孤軍奮闘します。しかし悪いことに、明治10年、西郷隆盛による西南戦争が勃発します。政府の思いがけない出費がかさみますが、大久保は、だからこそ本格的な士族対策が必要なのだと持論を崩しません。
ところがさらに悪いことに、翌年、その大久保自身が兇刃にたおれて死去するという変事に見舞われたのです。大久保は暗殺される数分前まで福島県令と安積疏水の話をしていたというエピソードが残っています。
大久保の暗殺により、安積疏水の話は頓挫しかけますが、中条らは熱心に陳情を繰り返し、遂に明治12年(1879)、計画は縮小されたものの、安積疏水の事業そのものは実現の運びとなりました。 
オランダ人技術者ファン・ドールン
安積疏水と言えばファン・ドールンというほど彼の存在は有名です。猪苗代湖の十六橋畔に建つドールンの銅像(昭和5年に東京電力が建立)には、安積疏水の設計はドールンであり、安積開拓の父として称える碑文が刻まれています。
この銅像をめぐっては、戦時中のエピソードがあります。ドールンの銅像は、軍による銅供出の命令でそのまま砲弾になる運命でしたが、ある晩、疏水の関係者によってひそかに運び出され、地中深く埋められました。そして、戦後再び掘り出され復帰しました。このエピソードは「隠されたオランダ人」として全国的な反響を呼び、オランダを感激させるなど国際親善にも一役買いました。
こうした美談も手伝ってファン・ドールンの名声は定着したようです。
しかし、実際のところドールンの役割は設計図への助言、あるいは監修といった役割に過ぎず、当時の正確な記録によれば、彼が仙台からの帰途、郡山に滞在した期間はわずか4日。しかも、当時の工程から計算すると、設計図の閲覧、現地調査に費やした時間は2日半しかなかったことになります。
安積疏水の全体設計は内務省の南一郎平、詳細設計は当時フランスで学んだ山田寅吉(内務省勧農局)を中心とする日本人技術者達でした。
いずれにせよ、ファン・ドールンの指導とお墨付きを得た設計は政府で承認され、いよいよ明治12年の秋、士族授産最大の事業、我が国で初めての国営による農業水利事業が着工される運びとなりました。 
十六橋と沼上隧道
明治12年10月に開成山大神宮で行われた起業式には、政府首脳の伊藤博文や松方正義も列席しています。東京からの往復に1週間ほどかかった時代、首脳陣の列席は新政府のこの事業にかけるただならぬ意気込みを感じさせます。
そして、翌日から工事が開始されました。最初は、安積疏水の取入口とは反対側、会津を通り、日本海に流れる日橋川の十六橋水門の建設から始まりました。戸の口にて湖から日橋川へ流れる水量を調整し、猪苗代湖の水位を保持するとともに、会津平野の戸ノ口堰・布藤堰用水の取水設備としてつくられました。
工事は朝の6時から夕方の6時まで(春夏)。休みは月に1回。国の直轄工事といっても、政府が作業員を直接雇ったわけではなく、それぞれの持ち場を入札によって民間に請け負わせていました。作業員は保証人をつけるなど厳しい約定書を交わして雇われ、就業規則も徹底されていました。
この工事が3年という短期間で、事故(犠牲者2人)も少なく終了したのは、当時の管理体制がいかに優れていたかを物語っています。
また、特筆されるべきは、 「寸志夫」と呼ばれる農民ボランティアの参加です。彼らは10km以上も離れたあちこちの村から鍬や鋤を片手にやってきています。
半年近くが雪で埋まる戸の口の大工事がわずか1年で完成したのは、こうした住民の支援もあったからでしょう。
明治13年、十六橋の落成式には住民6、7万人が詰めかけ、戸の口周辺は立錐の余地もないほどの人出で沸きかえったといいます。
そして、次の工事が、いよいよ安積台地への導水トンネル。山脈を最短距離で掘削する沼上隧道工事は全長585mと比較的短いものでしたが、粘土質と硬い急斜面の岩盤、軟弱地盤による湧水との1年と5ヶ月に及ぶ闘いでした。空気の流通、湧水のくみ上げ、資材の搬出入のために勾配万風(斜坑)や井戸万風(堅坑)の作業用の坑などが造られました(万風とは鉱山用語で坑道の意味)。
この後、工事は安積原野を潤す水路の建設へ移ります。数十の隧道を掘り、樋を架し、延長52kmに及ぶ幹線水路、さらに78kmの分水路が完成。
工を起こして3ヵ年、述べ85万人の労力、 40万7000円という巨額の費用を投じた歴史的大事業でした。
明治15年10月、通水式には岩倉具視右大臣、松方正義大蔵卿、西郷従道農商務卿、徳大寺実則宮内卿などの政府高官が列席、盛大な式典が行われました。農民の歓喜は言うに及びません。
「湖水の昏々として滾滾(こんこん)として田畑に疏浸し、灌漑意の如くなるを実地に目撃し、争い請て水利を通し、歓声湧くが如し」と記録にあります。
彼らは「感喜無止の衷心」として祝賀会の費用4,000円の負担を願い出ています。却下されると、今度は2,500円を献金する旨の願書を提出しています(これも却下)。よほど喜びに耐えなかったのでしょう。 
全国士族の入植
政府の士族授産事業が本格化するのは明治11年。安積原野には、工事が始まる前の11年から九州の久留米藩士族100戸余りが郡山に到着しています。工事が始まると、二本松藩21戸、棚倉藩26戸、岡山藩10戸、土佐藩106戸、会津藩33戸が入植、工事の完成後も松山や米沢からと、最終的には479戸の入植者を数えています。
安積疏水の完成によって、この地の水田は豊かに潤いました。完成の翌年、東北地方は大旱魃による被害に見舞われますが、この地方だけは例年にない豊作だったといいます。
しかし、それは前からあった水田の話。入植者がその恩恵にあずかれるのは早くて数年後、遅いところは10年を要しました。この間は開墾奨励金や持参した金でかろうじて生活するわけですが、入植後10年を過ぎても田畑からの収入に追いつけず、ほとんどの家族が赤字でした。当時の負債の記録を見ると、年が経つごとに負債は膨らんでいます。
原因は、やはり土地の生産力が低かったことに尽きます。新開地で土地が痩せていたこと、貧困ゆえ肥料が充分に与えられなかったこと、加えて経験不足から栽培技術も未熟でした。
明治18年の久留米のメモによれば、反当りの収量は、米約1俵、大豆3.5俵、ソバ3俵、馬鈴薯13俵等々と、付近の古い村に比べると、収穫は1/10程度しかなかったことになります。
負債はどんどん膨らみます。こうなると、もはや売るしかありません。
開墾が完了し、土地の名義が各個人に移ると、たちまち銀行や地元の商人や地主から借りた借金返済のために土地を失うものが続出しました。
こうして、結果的にこの安積疏水によって生み出された開墾地も大半が大地主の元へ集積していき、明治末期には、宮本百合子描くところの「貧しき人々の群れ」が住む村へと没落していったことになります。 
偉業の蹟
仮に今、宮本百合子が生きていて、この郡山の変貌ぶりを見たら、なんと思うでしょうか。
確かに当時の桑野村は悲惨なものでした。明治政府が力を入れた士族の授産も、その多くは失敗に帰しました。しかし、この安積疏水の残した水路は、その後、絶大な効果を発揮することになります。
明治32年、沼上発電所が建設されます。40.9mの落差を利用した日本で2番目の水力発電所。当時としては極めて難しかった送電に成功し、沼上発電所は、日本の長距離送電の草分け的存在となりました。この安い電気を求めて郡山絹糸紡績会社、日東紡績会社等の製糸会社が進出し、一躍郡山は殖産興業の先進地として急激な発展を遂げていくことになります。
一本の水路にかけた先人達の夢。そして、一本の水路が生み出した東北の名都・郡山。
その後の郡山の発展については、述べるまでもないでしょう。現在の郡山の人口は約34万人。わずか7,000人に過ぎぬ宿場町からのスタートでした。
思えば、明治9年、明治天皇の巡幸で訪れた大久保利通が、開成社を案内されたことに発したこの歴史的大事業。大久保の夢は20年を経ずして明治の世に大きな花を咲かせ、現在もなお、福島の地に計り知れない恩恵を与え続けています。 
 
日本文化史研究 / 内藤湖南

 

秋田に生まれ、山陽と松陰に学び、東洋と日本を貫く方法を求めて、支那学と日本文化史研究を研鑽しつづけた巨人。富永仲基を発見して、加上の論理に着目し、空海にも道教にも、書道にも香道にも、そして山水画の精髄にも通暁した目利きの巨人。平成混迷の、日中怪しき混雑の時、この「歴史と美の崇高」を見抜いた内藤湖南を、諸君はなぜ読まないのか。
秋田に育った。狩野亨吉が大館なら、内藤湖南は鹿角(かづの)の毛馬内である。いまは十和田町になっている。湖南の号もその十和田湖からきた。南部藩で儒学を学んでいた父も、十湾という十和田湖に因んだ号をもっていた。十湾も湖南もすばらしい号だ。ぼくは未詳倶楽部の会員に俳号を提供し、またときに親しい者に雅号を進呈することがあるのだが(電通の林君には「十全」、リクルートの米川君には「云亭」など)、その出身地に因む俳号や雅号にはいたらない。
戊辰戦争のとき、南部藩は奥羽十藩の列藩同盟に加わって官軍に抵抗した(奥羽戦争)。秋田藩とも戦った。しかし、南部藩は負けた。これで十湾の一族は賊軍とみなされることになった。いまでは考えられないかもしれないが、これがそのころの歴史というものだ。毛馬内も秋田県に属することになり、内藤家は家禄を失い、農耕生活者となった。
当時の秋田はそういう時代背景にいたのである。しかし、そういう時代背景と地域に育ったことが、内藤湖南をつくった。
湖南の本名は虎次郎という。父の十湾が吉田松陰に傾倒していたので(実際に出会っている)、そこからとった。松陰の幼名は虎之助、通称が寅次郎だった。が、虎次郎は明治3年に母を亡くし、祖母・兄・姉もつづいて病死した。
これでは内藤家の農耕もままならず、父の十湾は田畑をうっちゃって臨時教員になったり、尾去沢鉱山の書記をしたりしながら、家計をしのいだ。そのかたわら、虎次郎に漢文を教えこんだ。これだけは父のなすべきことだったのだ。
かくて虎次郎は12歳のときは頼山陽の『日本外史』を、13歳のときは『春秋左氏伝』を読まされた。「父が日本外史を教へてくれた。相当難しいので眠くなつて仲々進まなかつた」と述懐しているが、その後は「面白くなつて、外史の字引を使ひ一年足らずの中に大半読んでしまつた」とある。自分で読んだのだ。父の教育が発酵したのだ、そしてこれが、内藤湖南の歴史観の誕生だったのである。『日本外史』はその後も長きにわたる湖南の愛読書になっている。父譲り、松陰譲りの山陽学ともいえる。
山陽を読んでいればそうなるに決まっているが、漢文はかなり好きになった。湖南のシノワズリーとシノロジーは生涯を貫いて骨太だったけれど、それは栴檀の双葉のころの素養でもあった。明治14年(1881)に天皇の東北巡幸があったとき、虎次郎は漢文で奉迎文をつくったらしく、それが当時の侍講の元田永孚を感嘆させたという話ものこっている。この素養は生涯におよぶ。狩野亨吉は10万冊を蔵書したというが、湖南の読書も漢籍・和本をふくめ、そうとうなものだった。
では、われわれはその湖南をどう読めばいいのか。今夜はそのあたりのことをめぐりたい。
いま、あまりにも内藤湖南が読まれていない。名前すら知らない者が多いだろう。しかし、これはダメだ。日本の低迷だ。親知らずだ。湖南を読まずしてアジアや日本は語れないし、湖南がどのように「東洋≒日本」を考えようとしたかを知らないと、近代日本の長短両所が毫にも見えてはこない。
今年の2月24日、イシス編集学校の「感門之盟」で、田楽雑伎団教室師範代の関富夫君に、湖南の『日本文化史研究』2冊を贈った。毎度、師範代には見返しか扉かに一文を書きこんでさまざまな文庫本を贈っているのだが、湖南は初めてだった。もっとも湖南の文庫本はこれ以外には『支那絵画史』(ちくま学芸文庫)があるだけで、やや寂しい。湖南はできるだけ若いうちに読むほうがいいからだ。
ぼくはどのように湖南を読んできたかというと、文庫本はなかったので、大部の全集をちょっとずつ紐解いてきた。わがスカンピン時代の20代半ばから30歳にかけて、ごそごそ無理をして個人全集を少しずつ入手していた話は何度か書いてきた。折口信夫全集、南方熊楠全集、岡倉天心全集、三枝博音著作集、そして内藤湖南の全14巻だ。この5集の選択はいまから思うとやや奇妙な感じもするけれど、当時のぼくにとっては自分の決断を表明するようなものだった。自身の頭上に「東洋≒日本」の方程式の重圧を課そうという気持ちだったのである。
それには図書館に通っているだけではまずい。なんとしてでも、世田谷三宿の6帖・3帖の部屋の一角をこれらの威容が占拠すべきだと思った。が、なぜ湖南だったのか、なぜ湖南に思い入れをしたのかということを説明するには、いろいろ知ってもらわなければならないことがある。
一言でいえば、湖南には「東洋≒日本の編集学」ともいうべき“独創の学”が確立していたということだ。湖南が明治34年に狩野亨吉の招請によって京都帝国大学の文化学科の教授に就任したことは1229夜にも述べておいたが、その後、湖南の支那学や日本学は総じて「歴史編集学」として集大成されていったのである。支那学と日本学が対角線的に交わっていった。その方法的独創性がすばらしく、そこにぼくは惹かれていた。
それなら湖南はどのように支那学と日本学をオブリックに同時編集していったのかといえば、それを実感するには、もうすこし青年期と中年期の湖南を見ておいたほうがいい。湖南は京大に迎えられるまで、実にいろいろなことをしているのだが、それはまさに多彩多様のエディトリアル・ワークの実践であって、そこにすでに湖南独得の編集学が萌芽していたからだ。
明治16年に秋田師範学校に入った湖南は、ここを主席で卒業すると(英語力が抜群だった)、哲学にめざめた。「哲学ノ定義ハ万種学科ニ通ズル」と、そのころの手紙に書いている。このばあいの哲学とは、仏学と儒学と国学と西学をまたぐもので、西学は主としてスペンサーの進化論だった。
いったん秋田県内の小学校教員に就いたのち、上京して仏教雑誌「明教新誌」の編集助手になった。大内青巒(せいらん)と秋田師範の校長の関藤成緒の推薦だった。大内青巒は当時の仏教界の巨大な惑星である。廃仏毀釈を憂い、国学をもって仏教を統合しようとし、西本願寺の島地黙雷や小野梓や馬場辰猪とくんで「共存同衆」を結んだ。そこには清沢満之もかかわっている。築地の本願寺別院で大谷光尊に書を教えたのも青巒だった。
こういう青巒だったから、その活動はつねに汎社会的であり、汎ジャーナリスティックだった。そこで後藤象二郎がそこを見込んで、尊皇奉仏の大同団結をめざした「大同新報」を創刊することになり、青巒は湖南をこの編集主任に抜擢した。
しかしこのころの湖南は、まだ仏教界の統合によって日本を一変させるというような構想や野望には強い魅力を感じなかった。むしろ青巒が与えた普寂の『顕揚正法復古集』や慈雲尊者飲光(じうんそんじゃ・おんこう)の『十善法語』に心を躍らせ、仏教を歴史的に凝縮して掴まえることのほうに関心を示した(ぼくはこのうちの慈雲飲光に以前から着目していて、その密教的な雲伝神道とその奔放な書に惹かれてきたのだが、いまだそのことについて感想をのべる機会をもってこなかったので、いずれ試みたい)。
しかし、青巒との出会いは湖南の魂にジャーナリストの火を赫々と灯した。同じく青巒が湖南の仕事にあてがった「万報一覧」誌の編集では、片っ端から新聞・雑誌のレビューを手掛けてその時事才能に非凡なるものを発揮した。かくて、その文才が認められていくつかの論文も書くようになる。
『全集』にはそのときの「小世界」と「防禦論」という論文が収録されているのだが、それを読むと、西欧文明科学が交通を発達させることによって世界が狭小になり(パナマ運河の動向にまで言及している)、ロシアが敷設しつつあるシベリア鉄道がただちに日本に迫って、このままでは日本の活動が立ちいかなくなるだろうという予測をたてている。湖南は明治日本の開化主義は模倣主義にすぎず、もっと独自の方針をもつべきことを提唱しているのである。
この時期、湖南はのちに日本文化史上の大きな発見となる重要な出会いもしていた。富永仲基の『出定後語』(しゅつじょうこうご)と出会ったのだ。仲基についてはこれまたいずれ千夜千冊するつもりなので詳しいことは省くけれど、大坂の懐徳堂に学んだ日本初の仏教史学者で、「加上の論理」を唱えた。その概要は『遊学』(中公文庫)にも書いておいたので、読まれたい。
湖南は仲基を発見しただけではなく、仲基の仏教史の論述に深く入れこむことによって獲得したことがあった。それは「論理的基礎の上に研究の方法を組み立てることをした」ということで、すなわち「方法」こそが“独創の学”を拓くことを知ったのだ。さらに湖南は仲基を通して、「歴史的に最も古層にある事柄を解読することが最も新しい方法を生む」ということにも気がついた。
これはわかりやすくいうのなら、ずっとずっとのちに丸山真男が「歴史の古層について」でやっと気がついたことである。また、柳田国男や折口信夫が民俗学において確立した見方であった。こういうことを湖南は早くに見抜いたのだ。
湖南についての評伝は、同郷の青江舜二郎による初の湖南論の『竜の星座』(朝日新聞社・のちに中公文庫)、三田村泰助がまとめた『内藤湖南』(中公新書)、小川環樹が「日本の名著」に書いた『内藤湖南』(中央公論社)、アメリカの日本学者ジョシュア・フォーゲルの『内藤湖南・ポリティックスとシノロジー』(平凡社)などほかには、まとまったものはないのだが(それとはべつに多くの論考や雑文、とくに全14巻の全集の月報があるのだが)、この「歴史の古層こそが新しい」という湖南独得の方法の理論に関する議論は、まだあらわれていない。
さて明治23年、湖南は青巒と三宅雪嶺の推挙にしたがって、創刊したばかりの「江湖新聞」の記者になり、ほとんど同時に、岡崎にいた志賀重昂にも声をかけられて「三河新聞」の記者も手がけた。ずいぶん忙しい。
そのころの湖南を、長沢別天は「内藤湖南と云ふ者あり、深沈にして、古典に通じ、時文を能くす」と書いている。これは三宅雪嶺、杉浦重剛、畑山呂泣、志賀重昂などと並べた寸評で、いかに若き湖南が嘱望されていたかが見てとれる。
多様なジャーナル活動にかかわりながら、しだいに広がってきた人脈によって、湖南は「日本人」「亜細亜」を創刊した政教社にも出入りした。「日本人」(当初は「日本及日本人」)は徳富蘇峰)の「国民之友」の国民主義と並ぶ、明治中期の日本主義を代表するメディアだった。これで湖南は当時の知識ジャーナリズムの頂点にまで交わったといえる。
それだけではない。ぼくは長らく知らなかったのだが、このとき湖南は雪嶺や重昂の著作の代筆をしてのけた。代筆といってもゴーストライターをしたのではなく、雪嶺や重昂が口述したものを、驚くべき名文・達文に仕上げたのだ。それが雪嶺を有名にした『真善美日本人』などであるという。
これを三田村の本で知ったときは、びっくりした。てっきり雪嶺の美文だと思っていたからだ。ぼくが深紅の装幀の『真善美日本人』を入手したのはたしか32歳くらいのときだとおもうのだが、それ以来、雪嶺の“宇宙的有機体論”ともいうべき思索には、ちょっと敬意を払っていたからだ。それを湖南が仕上げていたとすると、雪嶺や湖南のエドマンド・バーク好きと併せて(バークについてもいずれ千夜千冊したい)、これは新たな湖南像を描き出す必要もあるわけなのだ。
大内青巒・三宅雪嶺についで、湖南の社会活動に大きな影響を与える人物があらわれた。高橋健三である。号を「自恃庵」といった。当時の官界・言論界の大立者で、「官界随一の騒人」とも評判されたが、書家としても目利きとしても、また一中節のパトロンとしても知られた。岡倉天心に協力して、美術誌「国華」の創刊に尽力したのも高橋だった。
その高橋からたっての声がかかって、湖南は高橋の個人秘書をした。高橋が「大阪朝日」の主筆になると、朝日の正式社員ともなった(日露戦争前後の「朝日」に論説を書いていたのは実は湖南だったのだ。全集第3巻はほとんどこの論説で埋まっている)。
やがて高橋は、松方正義・大隈重信の連合内閣の書記官長に招かれた。このことは湖南が政治や官界をじっくり覗くきっかけになるのだが、一方、高橋はシカゴ万国博に出品する日本の美術工芸品の品定めの役割も担っていたので、その手伝いもした。
このあたり湖南の目は、高橋の牽引によってまたまた大きく広がっている。また、深まっている。ひとつは政治に、ひとつは東洋に、ひとつは芸術に。芸術に関しては、高橋に伴って奈良を訪れ、南都の仏像や絵画をくまなく鑑賞したのが大きかった。このときのことは『涙珠唾珠』に詳しい。「古都の仏像や仏画の大半を渉猟して、ほとんど暗記した」とも書いている。
書に対する造詣を深めたのも、この時期を端緒としたようだ。のちに湖南は“湖南派書法”ともいうべき書道の流れを築き上げるのだが、それは王羲之の書法、智永の真蹟真草千字文、弘法大師空海の書訣、勝木平造の筆を基本とするというものだった。もともと父の十湾が書をよくしたし、大内青巒も高橋自恃庵も能書家で、湖南自身もかなりの書をものしたのだから(やや強い書だ)、これは当然の成り行きだった。『燕山楚水』には唸らせる書法論も入っている。
以降、湖南は支那学の膨大な知に通暁していきながら水墨山水画の細部に分け入り、返す刀で日本の美術史の多くを評論し、さらに雅楽や香道や肖像画の真骨頂にも見識を発揮する。
ただ湖南は書においてとくにそうだったように、自身でもそうした芸術・遊芸をみずからたのしむことも忘れなかった。それを“湖南のルネサンス性”とも言ってもいいが、むしろそんなふうにまとめたくないとも思う。
世の中には、いろいろの学芸遊芸をこなす者をときに「器用貧乏」とか「多芸に及んで一芸にも秀でず」などと揶揄するが、ぼくはどんな学芸も遊芸もある程度入っていけば、どこかで必ず自身の手が遊ぶようになっていくものだと思うのだ。
湖南の雅楽もそういうものだった。川口新斎の案内で松代出身の宮島春松に就き(佐久間象山の門下である)、本格的に学んでいた。なぜ、そこまでするかとえば、これも湖南の「東洋学≒日本学」の骨子のひとつになるのだが、東洋ではどこまでが中国で、どこからが日本なのかをその目、その耳その手で確かめたかったからなのである。
明治27年、湖南は自身の歴史観の切っ先をひらくような重要な論文を3つ書いている。「所謂日本の天職」「地勢臆説」「日本の天職と学者」だ。いずれも日清戦争と日露戦争のあいだのもので、その時期からすると内村鑑三、新渡戸稲造、岡倉天心の英文論文に匹敵する。
なかでも内村とはこのあと「万朝報」で机を並べるので、その論旨が比較しやすい。実は内村もそのころ「日本国の天職」という論文を書いていて、日本が「共和的の西洋」と「君主的な支那」との中間に立って、「基督教的の米国」と「仏教的の亜細亜」の媒酌人の役割をはたすべきだと主張したのである。
湖南は東西を比較してその「あいだ」に立つという意見はとらず、日本が立つべきはもっと大きな「坤與文明」であって、国家をこえた普遍的立場を表明していったほうがいいのではないかと考えた。そして、そうであるなら、日本の天職は清国をその方向にめざめさせることだとまとめた。次の文章にその主旨がよくあらわれている。「日本の天職は日本の天職なり。西洋の文明を介して之を支那に伝へ、之を渡洋に弘むるにあらざるなり。支那の旧物を保ちて、之を西洋に見せるにあらざるなり。我が日本の文明、日本の趣味、之を天下に風靡し、之を坤與に光被するにあるなり」。
この主旨には、のちのちの湖南東洋史学の考え方も暗示されている。それは第1には、日本こそが「東洋≒日本」を中国に言い張るべきだということであり、第2には支那といえども政治と文化は北京と江南のように分離したのであるから、今後の東洋≒日本は「文化が政治に犯されないような地勢」をもつべきだということだった。
これを大東亜史観だとか東洋ナショナリズムだとかと批判するのは容易なことだ。また、福沢諭吉の脱亜入欧論のように、そういうふうにアジアに手を出してはいけないというのも一理がある。しかし湖南を読んでいくと、どうもそういう大東亜論はない。
明治30年をすぎると、湖南は高橋健三の政治活動からも解き放たれて、いよいよ本格的な研究執筆活動に入っていく。それでも、ときには台北に入って「台湾日報」の記事も書きまくってもいたが、そのようにして覗いた政界や官界というものは、湖南の性分にはあわないものだったようだ。
こうして「万朝報」に入り、内村鑑三と机を並べ、その論説を担当し、そこで「日露非戦」を主張し、また明治32年からは3カ月の中国旅行を、明治35年10月からは満州旅行もはたすのだが、そのころはしだいに「文化こそが政治の誤謬を救う」という見方に移行していたとも見える。中国旅行に空海と小野道風の書や『和漢朗詠集』の扇面を土産にもっていったところなど、すでにその兆候があらわれていると、ぼくには思われる。奉天ではラマ廟に秘蔵されていた大蔵経全巻に出会って狂喜してもいる。
ちなみにフォーゲルの『内藤湖南・ポリティクスとシノワズリー』では、湖南が満州旅行の前後で「非戦」から「主戦」に変更したことが議論されていて、なかなか参考になる。武力による戦争をしたかったのではなく、ポリティックスによって日本が支那を説得する立場を獲得することが湖南のシノロジーだったというのだ。
だいたい以上のようなことが、明治40年に京都帝国大学に招かれるまでの湖南の活動だったのである。概略了解できるように、それはきわめた広範なエディトリアル・ワークの展開と深化だった。
狩野亨吉が湖南を京都に招いた経緯の一端については、すでに1229夜にもふれた。木下広次総長や上田万年とのあいだで検討されたことで、実際には湖南、露伴とともに雪嶺も招かれる予定だった。
こうして京大に腰を落ち着けた湖南の大学講義は、遠大で、かつ緻密なものとなった。いちいちの講義は『清朝衰亡論』『支那論』『新支那論』『支那上古史』などとなり、のちにそれらが縦横に組み合わさって、かの『支那古代史』や『支那史学史』や『支那絵画史』になっていったのだ。まことに倦むことのない執筆意欲であり、念願の研究の拡張だったろう。
この湖南の支那学は一人で展開されたものではない。のちに郭沫若が「京都学派」の名を冠したように、そこには東京帝国大学派と対抗するかのうような“京都歴史ロマン派”ともいうべきが沸騰してもいた。とくに坪井九馬三・白鳥庫吉・鳥居龍蔵たちの主張には一歩も譲らなかった。湖南は明治43年には邪馬台国論争にも乗り出すのだが、それは東大派の吉田東伍・那珂通世・久米邦武らが“邪馬台国九州説”を唱えたのに対して、断乎、“畿内説”を論証しようとしたものでもあった。卑弥呼がヤマトヒメであるという仮説もこのときのものだ。
そろそろ本書『日本文化史研究』についての感想を書くべきところにきた。それには本来なら、その支那学から日本学へと降りて、湖南の日本論を見ていくべきだろう。
というのも、湖南の日本研究はさきほどから何度か強調しておいたように「東洋≒日本の編集学」として大きな構想をもっているのだが、そこには湖南独自の文化史観というものが貫かれていて、さきほどもふれたように「文化が政治に犯されない文化史」という展望がひらいていて、それが日本にも適用されたからだ。
この見方は、中国史が中原から興って長安や洛陽に及ぶというようにその政治中心を移動させていたのに対して、中国文化は必ずしもそれに従属して移動するのではなく、大きくは中原から北回りに(時計回りに)江南に向かうことによって、その文化史的価値を創造しつづけたという見方にもとづいていた。
一種の“文化螺旋移動説”である。そこに富永仲基流の「加上」をもって文化史が積み上がっていくのを観察し、そのうえで古層の鍵穴をもって新たな文化の鍵を読み解いた。それが日本文化にもあてはまる。そういう見方であった。
今日ではあまりに文化運動様式的な見方ともいえるだろうが、そこを湖南は炯眼ともいうべきほどの鑑識眼(目利き)によって補い、いまでも含味に足る日本文化史の特色を綴りあげたのである。だから湖南の日本文化論は、あくまで「東洋≒日本の編集学」なのである。
本書は『全集』では第9巻に収録されている。「日本文化とは何ぞや」「日本国民の文化的素質」「日本文化の独立」などの全般的な議論と、「飛鳥朝のシナ文化輸入について」「聖徳太子」「唐代の文化と天平文化」「弘法大師の文芸」「平安長時代の漢文学」「日本の肖像画と鎌倉時代」「応仁の乱について」「大坂の町人と学問」「維新史の資料について」「日本風景観」などの各論とで構成された。
全集の第9巻には、ほかに、正倉院について、山崎闇斎論、新井白石論、富永仲基論、慈雲飲光論、蔵書家市橋下総守について、山片蟠桃論、山梨稲川論なども入っていて、その守備範囲の圧倒的広さに瞠目させられる。
読むにあたっては、ともかく博識万巻に及んで滔々とその由来と将来を語りあげる湖南節をただただ存分に味わうのがいいだろうが、今夜はぼくが以前から「ふーん、なるほど」と合点させられたり示唆されたりしたことのうち、3点だけ紹介しておきたい。
まず湖南が日本文化と中国文化との関係をどう見ていたかをもう一度言っておいたほうがいいだろうから、そこを言っておくが、何であれ支那文化が日本を覆っていたとか、支那の影響下で日本を見るのには限界があることを強調しているのである。また、日本には日本文化の種があって、それを支那文化の養分によって発育させたと見るのにも、限界があると見たのだ。日本は中国によって育ったのではなく、日本にとっての支那文化は豆腐のニガリのようなものだというのだ。
中国的ニガリによって、日本は大豆の液体を豆腐にしていった、そう見たほうがいい。そういう見方なのである。
ただし、このとき日本的な“成分”というものをちゃんと見極めるべきで、その成分が見えていないといつも「中国→日本」という矢印しか見えなくなって、中国の“養分”も把握できなくなる。そうも、警告した。そこを怠ると、中世以降に「日本→中国」という矢印も動き出していることを見落としてしまうというのだ。
これは、倭寇などがはたした動きを湖南がそのころ早くも着目していたからで、最近の網野善彦や村井章介が提唱している「海の日本史」からしても、この見方は先駆的だった。
次に湖南は、多くの歴史学者たちが「歴史文化は民衆の視点で見なければならない」と言い募ることに、強く反対の意見をのべている。そういう民衆主義による見方だけでは文化の本質は見えてこないという立場をとったのだ。
むろん民衆なくして文化は毫も形成されないが、だからといって近代社会学やマルクス主義が重視した民衆史観だけでは、とうてい日本文化の本質には及ばないと見たのだった。
というのも、湖南は日本文化における「伝授」という方法に格別の意味を見いだしていた。「日本国民の文化的素質」という論文に、後土御門天皇と東常縁(とうのつねより)らの古今伝授があったこと、宮本孝庸が細川幽斎に「世間の頼りになるものは何か」と聞いたところ、「それは源氏物語だ」と答えたということ、豊原統秋(すみあき)が笙の秘曲を伝えるために綴った『体源抄』に、この伝承を失っては日本が不幸になると書いていること、そういうことを引いて、日本文化というものが極端にいえば、狭い通路を上下に通すことによってその独特の文化を洗練させてきたことを強調したのである。
これをポピュリズム史観に対する痛烈な批判と見ることもできようが、ぼくはそういうものだというより、やはり湖南が「日本という方法」の精髄を見抜いていたのだと捉えている。われわれはやはり、ときどきは世阿弥の口伝書を読み直すべきなのである。
もうひとつあげておく。日本の東洋学は大きな流れでいうなら、那珂通世、林泰輔、白鳥庫吉、内藤湖南、高楠順次郎、服部宇之吉、狩野直喜というふうにきて、そこから濱田耕作、羽田亨、青木正児、石田幹之助、瀧川亀太郎、宇野哲人、倉石武四郎、辻直四郎、神田喜一郎、前島信次といったあたりで各国史・個別史に専門分化されていったのであるが、それが貝塚茂樹や吉川幸次郎や宮崎市定で、ふたたび「東洋≒日本」の構想を取り戻した感じがあった。
ということは、湖南の歴史観を本気で継承したのはやっと日本が敗戦してからのことで、それを吉川や宮崎こそが担ったということなのである。この観点からすると、いま湖南の日本論を読むということは、どうしてもアジア世界との関連で日本を読みなおすということでなければならないとともに、宮崎、とりわけ吉川の日本儒学や国学の読み替えにつながる読み方をしたほうがいいということなのだ。
これはどういうことかというと、説明抜きに集約していうのなら、本居宣長の「漢意」(からごころ)を排して「古意」(いにしへごころ)に依拠した日本解釈を、あえてもう一度オブリックに比較しながら、和漢につらなる両義的な日本解釈を通過させつつ思索できるかどうかということなのだ。この作業はかなりの難問で、いま誰かがやすやすとやっているとは思えない作業なのであるが、ぼくはしばらくは湖南〜吉川に導かれ、この作業にこそ取り組みたいと思っている。
以上、ざっとこのように湖南の業績をみなしていくことは、ぼくがいま白川静をやはり「東洋≒日本の編集学」とみなして再学習しつつあることにもつながっていた。このこと、いまさら言うまでもないことかもしれない。けれども、それがいまはとんと取り組まれていないのだ。 
 
明治時代の外国人が見た立山信仰

 

1 鎖国から開国へ
江戸時代の日本は、長崎の出島においてオランダ、清、朝鮮との貿易だけが許されていた。これがいわゆる「鎖国」である。しかし、1854年(嘉永7年)に「日米和親条約」が締結され、幕府は下田、箱館の開港と領事の駐在を認めた。さらに、ロシア、イギリス、オランダとも和親条約を結び、「鎖国」政策に終止符を打つ。1858年(安政5年)には「日米修好通商条約」により、横浜、箱館、神戸、長崎、新潟が開港されることになった。 ただし、当時は外国との貿易に反対する日本人が多かったので、当初の公使館は寺院の中に置かれることになった。殺傷が禁じられた寺院にいる外国人を襲うことはできないだろうと考えたからである。さらに、幕府の役人が寺院の入り口を警護していたが、それでもたびたび襲撃事件が起きたので、幕府は横浜の居留地に公使館を移すことにした。
当時の外国人の迎賓館であった浜御殿の庭で撮られた写真を見ると、時の老中が一番前に座り、アメリカの公使が後ろに並んでいる。当時、外国人はお客さまではなく、幕府の役人にとっては目下の人間という意識であったことがうかがえる。また、老中は革靴を履いている。幕府の役人は外国の文化を受け入れつつも、いまだ警戒心は解いていない。こうした写真が撮影された明治初年頃は「近世」と「近代」がせめぎ合っていたのである。
やがて横浜に外国人の居留地を設けたが、石やレンガで造られた建物が並ぶ光景はそれまでの日本にはないものだった。公使館の前では、ちょんまげを結った馬車引きが主人(外国人)のお下がりの洋服を着ている。1869年(明治2年)に電信ができ、明治4年に郵便ができ、明治5年に新橋−横浜間に鉄道(京浜鉄道)が敷かれた。一方、このころの京都の四条通の写真では、日本人の足元を見ると、みんな裸足であった。江戸時代は、旅に行くときはわらじを履いていたが、日常生活ではいまだ裸足だったのである。
当時、「日米修好通商条約」が締結されたものの、外国人の日本国内旅行は制限されていた。外国人は領事裁判権などの特権を有していた代わりに、5港の開港場とその周辺地域に設けられた「遊歩区域」の外への立ち入りは禁じられていたのである。その外(内地)は非常に治安が悪いことを幕府は警戒しており、その境には「越ユルヲ許サス」という日本語に英語、仏語を添えた高札が立っていた。そこを越えることを「内地旅行」と呼び、それができたのは最初、外交官だけであった。
2 明治時代の内地旅行
開港当初から、外国人は「遊歩区域」外の温泉地へ保養目的で通行することを要望していた。さらに外国人の国内旅行の要望が高まり、1874 年(明治7 年)には「外国人内地旅行允準条例」によって、外国人の内地旅行を許可制とし、翌年には外務省が「外国人旅行免状」を発行した。つまり、外国人はこの免状なしには勝手に国内旅行ができず、しかも免状は1 回限りのものであった。その後、1894 年(明治27 年)に締結(5 年後に発効)された「日英通商航海条約」などの新条約で領事裁判権が撤廃された代わりに、外国人の日本国内での居住・営業が認められ、ようやく外国人が自由に旅行することが可能となる。
さて、このころの富山の交通事情はどうだったのであろうか。1891 年(明治24 年)発行の『日本−道路と鉄道』という地図を見ると、富山県内にはまだ鉄道が敷かれていないことがわかる。東京から直江津まで来た鉄道は、新潟へ向かったのである。東海道線の新橋−神戸間はこの2 年前に開通している。このように日本全土にまだ鉄道が張り巡らされていない時代に、外国人たちが富山に来ることは大変なことであった。しかし、明治時代に外国人たちが立山に多く訪れているのである。この地図には港が多く描かれているように、鉄道がない所は船で行き来することになるか、もしくは陸地を徒歩・人力車で移動したこともあっただろう。
さらに8 年後の明治32 年の地図を見ると、金沢から富山に向けて線路を建設しているのが分かる。この段階では線路が点線で示されており、北陸線はまだ開通していなかった。明治時代、北陸地方の鉄道の建設は、最初は新潟まで線路をつくり、次に京都から金沢を結んでいる。最終的に富山と直江津が結ばれたのは1913 年(大正2 年)であった。ところが、現在の新幹線は最初に上越新幹線ができて、金沢から長野、東京を結ぶというように北陸新幹線をつくっているのは興味深い。つまり、北陸新幹線は明治時代の鉄道網の建設とは逆ルートをたどっている。
3 明治時代に立山へ訪れた外国人
このように、明治時代、非常に交通が不便であった北陸に来た外国人たちは、果たして立山をどのように記録しているのだろうか。
立山に最初に来たのは、ウィリアム・ガウランドとエドワード・デュロンというイギリス人で、明治8 年、信州から立山を訪れている。ガウランドは明治5 年に大阪造幣寮の化学と冶金の技師として招聘された人で、初めて日本の古墳を発掘して、「日本考古学の父」と呼ばれている人物でもある。英国王立地理学協会の『例会議事録』に載っているガウランドの報告には、「1873 年、私たちが登ることができたのは御岳(御嶽)だけでした。この2 年後には北方の立山に登り、ヤケヤマという7600 フィートの面白い火山に登り当域の西端を経て下山しました」とある。このヤケヤマとは、恐らく飛騨の焼岳を指すと考えられるが、ガウランドは初めて「ジャパニーズ・アルプス」という言葉を使ったことで知られる。
4 ナウマンが見た立山信仰
立山信仰の最古の記録を残したのは、ハインリッヒ・エドムント・ナウマンというドイツの地質学者である。ナウマンが日本に来たのは1875年(明治8年)で、そのときは弱冠二十歳だったが、翌年に東京大学地質学教室の初代教授になっている。ナウマンゾウの命名者としても有名な人である。彼は、明治9年夏、政府の依頼で地質調査・鉱物資源の調査のために立山に来て、滑川から船に乗って直江津へ向かっている。ちなみに彼は、10年間かけて日本全土を約1万km歩き、詳細な地質図を残す一方、日本の地図に初めて等高線を書き込んだことで有名である。また、彼はフォッサマグナを発見した人でもある。ナウマンは先日噴火した御嶽山など、その辺に連なる火山の噴火による堆積物を取り除くと大きな溝ができるはずだと主張したのだが、その大きな溝のことをラテン語で「フォッサマグナ」と名付けたのである。以下は、ナウマンが見た立山信仰の模様である。
「立山は、富士山や鳥海山と同様に、年々多数の参拝者が集まる有名な山の一つである。その楔のような形の山稜には、南側の斜面を登って到達することができる。この山稜を登ると、小さな台地のようなところに出る。そこから南方に、ごつごつとした信濃飛騨山脈の壮大な眺めを楽しむことができる」。
ナウマンは立山ばかりでなく、富士山、鳥海山にも行っているが、この三つの山で共通するのは、かつて修験道が盛んであったことである。私は今年の9月、鳥海山に登った。鳥海山は秋田と山形の県境にある山で、高さは2236mとそんなに高い山ではないが、富士山のような独立峰である。山頂から少し下った所に大物忌(おおものいみ)神社があり、古来、修験道が非常に盛んだったという。
立山の記述に戻ろう。「日の出の時刻には、仏教の僧侶が豪勢な衣装をまとい、山稜の中ほどにある小さい祠のある台地に立って祈りを捧げる。僧侶が祈りを捧げる山頂にたどり着こうとして、何百もの参拝者が険しい断崖の間をめぐる狭い径を動いていくのは、生命と色彩にあふれた光景である」。
この時代は、新政府の政策により神仏分離が行われていた。しかし、立山では、いまだ僧侶の衣装で参拝者を導いていたことがうかがえる。さらに、立山の一ノ越、二ノ越などには、小さな祠がある。なぜ祠があるかというと、その周辺に出っ張った岩があり、これは修験者たちが山を巡って修行をするとき、恐らく自分たちを守ってくれる結界するための石、護法石(ごほうせき)を設定し、そこに祠を設けたのだろうと考えられている。一ノ越は仏の膝、二ノ越は仏の腰、三ノ越は仏の肩、四ノ越は仏の首、五ノ越は仏の額と見なされており、そこを通って山頂に至る。鎌倉時代初期には既にこうした名称があったようで、この五つの祠は今も存在している。五ノ越は峰本社の下にある。裏側にあって分かりにくいが、機会があればぜひ見ていただきたい。
ナウマンは、参拝者が一個一個の祠に祈りを捧げながら歩いていることに非常に驚いているのだが、その後の記述が興味深い。
「10年近く前(明治9年)、私は多数の参拝者の群れにまじって立山に登った。その中に、目の悪い足の弱い70歳ほどの老人と、そのお供をしている孫で、背が高くて美男の15歳くらいの若者がいた。老人は、今にも死にそうにみえた。その老人が、急峻で岩ごつごつの山稜を登るのを助けるために、4人の人夫が懸命に働いていた。私は、自分のこの目で見たのでなかったら、立山のような険しい山を、こんな状態の人間が登るなどとは、とても信じなかったことであろう」。
ここで私が驚いたのは、明治時代に70歳近くなる老人が立山に来ていたということである。一般的に言って、立山信仰は江戸時代には盛んだったが、明治時代の廃仏毀釈で寺院などの建物が壊されて、壊滅的な大打撃を受けたといわれる。従って、この時代は立山に登拝する人も減っていたはずである。しかし、ナウマンの記録を見ると、青年に加えて老人までが参拝に来ている。これはどういうことか。このことに関連して、実は最近、ある古文書が発見され、NHKでも放送されているものがある。「立山禅定人止宿覚帳」という史料である。これは立山に登りに来た人たちが宿坊に泊まった際、その名前や職業などを記録した宿泊簿である。この記録を見ると、明治時代に60代の人が39人、70代の人が9人登っており、最高年齢が79歳であったことが分かる。従って、ナウマンが見た光景は何ら珍しいものでなかったのである。
5 アーネスト・メイスン・サトウが見た立山信仰
続いて、アーネスト・メイスン・サトウが残した記録を見てみよう。彼は駐日英国領事館の書記官で、後には公使となった人で、1878年(明治11)年7月に友人のホーズ(元海軍士官)とともに信州の針ノ木峠の方から立山に登っている。彼等の一連の日本旅行は、『中部・北部日本旅行案内』にその成果が反映されている。サトウは、日本語が流暢だったので、当時の外交の重要人物と行動をともにしていた。また、彼は立山に来る前、1867年(慶應3年)に佐渡から能登の七尾に向かうバジリスク号に乗って海上から立山連峰を眺め、その様子を「登頂約1万フィートの火山、立山の峰を中心に越中の連山が見えた」と海越しの立山を書き留めた最初の外国人でもある。
以下、彼の記録した立山信仰について、一部抜粋して紹介しよう。
「(1878年7月25日)・・・参拝人の為のこの小屋(註:室堂)は、木造で風通しがとてもよい。松材のたき火で暖をとるので、煙が目にしみて痛い。寝具はないし、食器やその他の用具もほとんどない。食物として手にはいるのは水と米だけである。山はふつう7月20日から9月8日までの50日間が参拝人を近づける。今年はすでに100人の参拝者が登っていた。この地点からは、富山平野がよく見晴らせる」。
「(7月26日) 朝起きると、ひどく雨が降っていて、雨模様の一日のようだ。山はまったく視界がきかなかったので、登るのはあきらめることにした。・・・7時45分に、登ってきたのと同じ道を下りはじめた。鏡石まで1時間。その石は道の右側にあり、表面が平らで直立した大きな石で、下部に像が刻まれている。45分進むと、右手下りに、奇妙なぎざぎざがあるので姥石(ナースストーン)と呼ばれるもう一つ別の標識石のある地点に着いた」。
サトウが歩いた姥ケ懐道は、今はほとんど笹の中で歩くことができない。ここで2年前、県の埋蔵文化財センターが行方不明になっていた姥石を見つけた。この石には、若狭の止宇呂(とうろ)という尼さんが、女人禁制の掟を破って山に登り、山の神の怒りに触れて石に変えられたという伝説が残っている。実は、姥石が見つかったときに、この石の上に石仏が置いてあった。姥石は高さが1.8m、横は2m半ほどの大きさだが、石仏には「天明三年(1783年) 右うはいし道」と刻まれていた。従って、この石仏はもともと姥石の上ではなく、どこか道が分かれる所に置いてあったと思われる。誰かがこの石仏が道に放置されていて、かわいそうだと姥石の上に置いたのであろうか。
「(7月27日) 芦峅(あしくら)の佐伯正範宅で1日休んだ。彼は、立山開山の祖、佐伯有頼を祀って701年に建立された「オカミ」の神社という宮の神官の長である」。この「オカミ」というのは、「オヤマ」(雄山)の聞き取り間違いであろう。
「本殿あるいは祈願殿の後ろにある有頼の墳墓は、3フィートほどの小丘で、上に常緑のかん木シララケ(シラカケ)が植っており、不揃いの石で8フィート四方が固められている。杉の老木の立派な森の中である。文武天皇を祀った大宮と、手力尾神を祀った若宮の2つの宮がある」。
昭和初期に撮影されたとみられる芦峅寺の宿坊、善道坊の写真では、やはり大変高い杉の木が植わっている。今はもうこのような光景はなくなっており、この建物は現在、かもしか園の近くに移してある。
同じく昭和初期とみられる芦峅寺雄山神社の古い写真を見ると、大木の中に社があるのが分かる。現在も大宮と若宮という二つの社がある。
サトウが記録している、盛り上がった小丘。これをサトウは、正範から佐伯有頼の墳墓だと伝えられている。周りが柵で囲んであって、昔はこの手前に開山堂という建物が建っていた。今これは残っておらず、上に新築されたものがある。そこに行くと、慈興上人という立山開山の仏像が収められており、国指定の重要文化財となっているが、この像が公開されるのは元旦だけである。サトウは恐らくその像を見たのではないだろうか。
6 ウェストンが見た立山信仰
最後にウェストンが見た立山信仰である。ウォルター・ウェストンはイギリス人の宣教師で、「日本近代登山の父」と言われている人物である。日本山岳会の設立にも非常に尽力した人である。1893年(明治26年)と1914年(大正3年)の2回、立山に登り、『日本アルプス 登山と探検』と『極束の遊歩場』にそのことを記載している。
彼は、材木坂のことを書いているが、その後に次のような文章が続く。「急流の川床の最高点を進んで行くと、三方が峰々でできた一つの壮麗な『天然円戯場』で囲まれた、大高原にやって来た。ここからは広漠とした光景が展望できた。西に当たっては、広い越中平野が横たわり、その中に曲がりくねった川が流れ、又能登半島は、遙か日本海の彼方まで突き出ている。真東に当たっては、立山が、痩せた近隣の岩山に取り囲まれながら、その優美な山頂を屹立たせている」。
ウェストンが見た『天然円戯場』とは、多分、周りが山々に囲まれた弥陀ヶ原台地のような所だろう。真ん中に餓鬼の田(池塘)がある湿地である。また、外国人の記述を見ると、「能登半島が見えた」という記事が結構多いことが印象深い。
「頂上近くには疲労者が登り易いようにと、鉄の鎖が二つ三つ一番瞼しい岩々にぶらさがっている。鋭い岩の円錐形山頂には、絵のような朱塗の社が、あたりを睥睨(へいげい) して、最高点(九千三百呎)を示している。殆ど槍ヶ岳からの展望に匹敵する、この素晴らしい景色を眺めようとしていると、この聖山の守り役をしている神主に連れられた巡礼者達の一行が、登ってくるのが見えた。神主はいかにも敬虔に儀式張って、その社の前にかけられた、鷲の羽の組み合わせ模様が金で染めてある、紅の錦欄の幕を開いた」。
現在の雄山の山頂付近にも社務所があって、そこから峰本社への階段がある。500円を払って階段を上ると、そこでお祓いをしてもらえる。明治時代の雄山山頂の写真では階段が見えない。そのため峰本社まで登るのが大変だったようだ。
記述は次のように続く。「それから彼は扉を開け、かずかずの霊宝を取り出し、不思議相に眺めている巡礼者達に見せた。彼の周りを取巻いて、昔の偉人達の話に聴き入っていた時の、熱心にうっとりとして聴いている彼等の顔つきは、見る値打のある光景だった。・・・次に神主は、鷲の羽の紋(註:違い鷹の羽)で飾られた美しい漆器の酒の容器と盃を持って来た。そして彼はその容器から、巡礼者達が喜ぶ酒をついでやつた。彼の好意は又、一人ぼっちの外国人にも向けられ、神酒を飲みなさいと私をもていねいに招いてくれた」。
神主は外国人を避けることなく、今風の言葉で言えば、おもてなしをしてくれた。ウェストンはそのことに大変感動して、これを日本人の美徳として記しているのである。
以上、立山信仰を外国人の記録から眺めてきた。明治時代の神仏分離令によって行われた廃仏毀釈の動きのなかで、芦峅寺の宗教的な施設も多く壊され、従って、立山信仰は明治時代には非常に廃れていたと考えられている。しかし、これらの外国人の記録からは、こうした激動の時代の中、立山に若い人ばかりでなく、高齢者も含んだ多くの人が登っていることが分かる。そう考えると、山麓の建物が破壊されたことと立山信仰が衰退したことは別なのではないかと思われる。つまり、立山信仰はもっと深く、民間信仰として根付いているものがあって、それは建物を壊されてもなくなるものではないということである。そうした民間信仰としての立山信仰とはどのようなものであったのか。近年、立山博物館ではこうした視点での研究も進めているところである。 
 
「春陽堂書店」 出版社不運録

 

縁あって春陽堂書店について資料を拝見することができ、そのあといくつか調べたことを材料に、明治から昭和にかけての出版社の栄枯盛衰を追いかけることはできないかと思いましたが、とてもとても私のような無知無教養でできることではありません。考えてみれば、そんなことまともにやろうと思ったら、日本文学史と近代文化史について博士レベルの知識をもち、なおかつ十年以上の出版社経営履歴をもち、さらに近代世相風俗についての博覧強記が要求されるでしょう。
そんなわけでそのような野望は捨て、とりあえずいままで調べたことについて、だらだらと書いていこうと思います。ひょっとしたら面白がってくれる人がいるかも、という儚い思いを抱きつつ。本人の興味のおもむくままですので、時代順はバラバラになると思いますが、ご容赦ください。
なお、タイトルは「出版社風雲録」と書こうとしたらなぜか変換できなかったので、そのままにしてしまいました。  
はじめに
私がはじめて春陽堂書店というものに接したのは、中学生をはじめたころだったと思う。バスと電車で学校に通うようになり、駅前の書店に入るようになった。むろん中学生のお小遣いだから、週に一冊、それも文庫本を買うのがやっとだった。そのころの書店の文庫ラインアップといえば、まず売れっ子の角川文庫、続いて重鎮の新潮文庫、それから虎視眈々と上を狙う講談社文庫と文春文庫、さらに独自の品揃え中公文庫、教養の源泉岩波文庫という順番に並んでいるのが一般的だった。最後にハヤカワと創元推理が、まるでゲットーのような村外れに押し込められていたんじゃなかったか。そしてそのゲットーのさらに奧、文庫番外地のようなところに、ときどき放置されていたのが春陽文庫だった。
当時の私にとっては、星新一と筒井康隆の角川・講談社、司馬遼太郎の新潮・文春でほとんど用が足りたので、春陽文庫にはまったく用がなかった。はじめて春陽文庫を購入したのは、それから数年後、高校生になってからだったと思う。江戸川乱歩を読み始め、当時もっとも乱歩を多く出していたのが、春陽文庫だったから。春陽文庫の第一印象は、実はいまもあまり変わっていないのだが、「なんか時代遅れな文庫だな」というものだった。古色蒼然とした探偵小説、主人公が白塗りで出てきそうな時代小説、日活映画よりも古そうなアクション小説、「ハレンチ」とか「モーレツ」などの言葉が多出するユーモア小説。なんだか時代に取り残された小説群。文庫界の思い出横町のようなこの文庫を、乱歩と司馬遼太郎以外は手に取ることもないだろう、と思った。
ところがこの文庫を出している春陽堂という書店は、かつて天下を二分するほどの勢いだったと聞いて、びっくりした。漱石も鴎外も藤村も紅葉も露伴もみんなこの会社から本を出していた、明治文壇はこの出版社なくては語れないと読んで、驚いた。
それからなんとなくこの出版社が気になってきた。
そして注意して見ていると、春陽文庫は本屋の中で羽振りが悪くなる一方のように見えた。売れ線だった江戸川乱歩は、ブームが起こるやいなや、講談社が人気イラストレイター天野喜孝を起用した全集刊行で、あっさり隅に押しやられた。司馬遼太郎で唯一、春陽文庫のみ文庫化していた「大阪武士道」は、死後の司馬ブームの時、これもあっさりと中公文庫に出版されてしまった。いったいどんなわけで、明治の大出版社が昭和の末にいたってこうなっちゃったんだろう、という疑問から、調べものははじまりました。 
まず髭ありき
まずその起源をたどってみよう。
初代店主の和田鷹城こと篤太郎は、安政四年(1857)、岐阜大垣に生まれた。父親は村長を務めるほどの地主だったというから、おそらく江戸時代は庄屋クラスの上級百姓か地侍クラスの下級武士だったろう。のちの篤太郎の履歴や人柄からいって、下級武士だったというのが近いように思う。
十二歳のとき明治維新が起こる。大垣藩は、家老の小原鉄心が有能で、諸藩に先駆けて洋式銃を揃えたりしたのが逆に災いし、蛤御門の変や鳥羽伏見の変に幕軍の主力として駆りだされ、あやうく賊軍になるところだったが、小原鉄心などの奔走でようやく朝廷に恭順し、官軍として維新を迎える。
いちおう官軍でもあるし、父親は村長だし、とくに不自由はなかったと思うのだが、やはり大志でも抱いたのだろうか、明治七年(1874)、十六歳のときたったひとりで東京に出る。
おそらく郷里の先輩の口利きだろう、巡査の職にありつく。当時は賊軍や、官軍でも維新直前に寝返ったようなうだつのあがらない藩出身の武士階級が政府に職を求めると、巡査になることが多かった。
最下級とはいえ官員さまであるし、元はお武家ということで、非情に威張っていた。いかめしい髭を生やして一般庶民どもを「オイコラ」と怒鳴りつけるのが巡査の常だった。どうもこのときの性癖が身についてしまったらしい。篤太郎の髭といばりんぼうは、それから一生変わることがなかった。髭は春陽堂のトレードマークとなり、威張り癖はかれを嫌う作家から悪口を言われるもととなった。
西南戦争では巡査隊の一員として従軍しているが、なぜかここで退職。一念発起して商売替えをはかる。それが、本屋だった。
春陽堂の創業は明治十一年(1878)。とはいっても芝久保町で、新聞や絵本を売り歩く、しがない行商人だった。時代劇の「新・必殺仕事人」で、火野正平が演じていた絵双紙屋を想像すればいいのではないかと思う。もっとも荷を背負って売り歩くのが火野正平ではなく、いかめしい髭をはやした偉そうな男というのが違っているが。
もうひとつ違っていたのが、篤太郎が野心に燃えていたことだ。
新聞や絵本を売り歩きながらも、篤太郎は世間の動きをすばやく関知していた。ときあたかも文明開化。これまで見たこともなかった西欧の文物がどんどんと入ってくる。それにともない日本も、人力車や牛鍋など、新規発明が盛んになる。庶民ですら、これからどうなっていくのか、これからの世に求められるものは何か、知りたがっていた。
本屋業のかたわら、篤太郎はみずから小冊子を出版し、売り始める。
明治十二年(1879)、初歩の計算術。明治十三年(1880)、文章の書き方、新法律の概要。まず売り出したのは、このような、庶民の生活に役立つ実用書であった。
こうしてちまちまと小金を貯め、明治十五年(1882)にはついに念願の文芸書を出版する。南園竹翠という人の「三ツ巴恋の白雪」という本だった。 
ライバル出現
ついでに春陽堂のライバル、博文館についてもふれてみよう。
博文館といえばいまでこそ日記帳を売っているところという認識しかされていないが、明治時代には春陽堂とともに出版界を二分した大出版社であった。その創業者は大橋佐平。彼は越後長岡、いまの新潟県の出身である。天保六年(1835)、材木屋の息子として生まれる。越後長岡といえば、明治維新では河井継之助に率いられ、奥羽列藩同盟の尖兵として薩長兵にガトリング砲を撃ちまくったことで有名である。要するに賊軍。維新後は藩内は荒れ果て、死者は多数、おまけに官軍に占領されていた。大橋佐平はそんな長岡藩で、官軍と長岡藩との連絡役をつとめていた。というのも、佐平は商人ながらも幕末は志士活動を行い、薩長の人間にも顔が知られていたからである。長岡復興のための施策を官軍に申請し、なだめすかして許可をもらうという役柄には、うってつけの人物だった。ただしそういう役柄だけに、「あいつばかりいい思いをして」「薩長にオベンチャラ抜かす腰抜け商人」と、藩の人間の恨みを買うことも多かったらしい。有名な「米百俵」のときには、刺客から逃げて江戸に潜伏していた。
佐平の興味は民政と教育にあったらしい。長岡での主な業績として、道路や橋の整備・修復、長岡学校の設立がある。やがて教育のためには、新聞や雑誌を発行して民衆を啓蒙しなければならぬと思い立つ。明治十年(1877)には団々珍聞という、当時かなり売れていた風刺新聞の売捌所(いまの代理店のようなもの)をつとめながら、自力で「北越雑誌」を創刊。そこで新時代の教育や法律、佐平が信仰していた浄土真宗の啓蒙活動をくりひろげる。そして明治十九年(1886)にはついに東京進出。同郷の小金井良精(医学者・人類学者。森鴎外の義弟であり、星新一の祖父でもある)と相談しながら、日本橋本石町に博文館を設立。東京での出版は、小銭を稼がなければならなかった春陽堂の和田篤太郎にくらべ、かなり恵まれたスタートだった。 そして東京でも、博文館はのっけから成功をおさめる。東京での処女出版、「日本大家論集」がいきなり大儲けになったのである。「日本大家論集」は論文集である。さまざまな新聞・雑誌に掲載されていた論文を収集選択してまとめた、いわば論文アンソロジーである。これが売れた。「西国立志編」の中村正直、「大日本編年史」の重野安繹、「立憲政体略」の加藤弘之など、当時の啓蒙思想のトップスターたちの思想が、これ一冊読むだけで理解できるというので、当時のベストセラーになった。今でいう「すぐわかる○○」「××のすべて」というたぐいの本の先駆者である。ただ売れたというだけではない。「日本大家論集」が大儲けになったのには、もうひとつの理由がある。この本、印税も原稿料もゼロだったのだ。このころまだ日本に印税という習慣はなかったし、原稿料も新聞雑誌の初出のときに、まあ済んでいる。そんなわけで博文館は著者に一文の金も払うことなく、印刷製本の費用だけでこの本を作ることができたわけだ。いわば丸儲け。この商法はさすがに「博文館でなく悪文館だ」などと世間の非難をあびたが、道義的にはともかく、当時の法律的には問題がないので、大家たちも泣き寝入りするしかなかった。これ以降、新聞雑誌には「禁無断転載」という但し書きがつくようになった。博文館の「日本大家論集」がその原因だったわけだ。 
ニュータイプ本屋
もうひとつ博文館がすぐれていたのは、出版社経営についての企業戦略であった。大橋佐平は出版社を、産業のなかのひとつの歯車としてとらえた。すなわち、まず製紙会社が紙をつくる。出版社がまとめた原稿をもとに、この紙を用いて印刷会社が印刷・製本する。できあがった本は出版社から取次と呼ぶ問屋に送られ、取次は本を各地の書店へ要望に応じ分配する。かくして書店に本が並ぶわけだ。佐平はこの流通経路の企業をすべて自分でまかなえば、コストカットができるのではないかと考えた。
製紙・販売会社の博新社。
印刷会社の博新社印刷工場(のちの共同印刷)。
取次の東京堂(戦前までの六大取次の筆頭で、「出版年鑑」を発行するほど権威があった)。
取材・報道・広告の内外通信社(広告部門はのちの博報堂)。
これらの会社を子会社として流通経路に配置することにより、博文館は他社より安く本を作り、他社より高く本を売ることが可能になった。これら子会社もその恩恵を受け、しまいにはどれも親会社の博文館より大きな優良会社となった。
昭和のはじめごろ、博文館の雑誌「新青年」の編集者だった横溝正史は、昔をふりかえってこう語っている。
ぼくは「文芸倶楽部」のときに、ちょっと(共同印刷に)出張校正に行ったの。そしたら鰻取って大歓待。ほかのどっか、小さな雑誌社の雑誌だったと思ったが、ポカッと行がはみ出してンの。「これ、キミ、こんなにはみ出してどうするんだ!」って叱られてンだよ、工場の人に。それで雑誌の方はペコペコしてンだ。こっちはもう鰻取って大歓待。(笑)だから苦労知らずの編集者だったな、われわれ。(「横溝正史読本」より)
なにしろ共同印刷にとって博文館の編集者の出張校正は、親会社のエリート社員が子会社の工場に打ち合わせに来たようなもんだ。大歓待も当然といえよう。
書店コンツェルンの形成は越後長岡で資本を蓄積してきた博文館の独壇場だったが、博文館や春陽堂のような、いわば成り上がりの新参者が天下を取るに至る理由が、もうふたつあった。
第一の理由は、既存出版社の衰退である。
それまでの出版社といえば、江戸時代そのままの事業形態であった。
戯作者の書いた原稿や浮世絵師の描いた絵を、版下職人が木版にがりがりと彫りつける。木版の版下ができると、刷り師がこれに墨を塗って和紙にぺたりと押しつけ、紙を刷る。さらに隣の職人は刷り上がった紙をまとめて表紙をつけ糸で綴じ、これで本のできあがり。昔の学校新聞や自治会通信のガリ版に似たような家内制手工業、零細企業であった。コンピュータが普及した今なら、小学校の学級新聞だってこんな原始的な制作はしないだろう。
このような出版社は明治時代のなかごろまでにほとんどが滅びた。
かつての和紙、木版、手刷り、和綴じの本に、戯作者と浮世絵師などの著作者。
これが明治になると、洋紙、活版、機械刷り、洋装の本に、西洋文化の影響を受けた新しい著作者たちが求められるようになってきた。
かつての出版社は、かつて持っていた資産がどれも役立たずとなり、それどころかお荷物となってしまったのだ。
第二の理由は、人気絶頂の硯友社人脈をおさえたことである。これについてはまた次回。 
硯友社前夜
前回からながながとご無沙汰していたのは、私の怠惰のせいもあるが、話の成り行きからいって硯友社について語らなければならないのが原因でもある。なにしろ私は、硯友社のものをまったく読んだことがない。川上眉山、巖谷小波はおろか、尾崎紅葉の「金色夜叉」すら読んだことがない。わずかに読んだことがあるのは泉鏡花を数作だが、あれは硯友社そのものというより、硯友社残党というか、また別のものだろう。まあ、ここは硯友社の文学について語るところではなく、硯友社がいかに売れたか、社会に与えたインパクトについて語るのだと自分を納得させ、なんとか書いていこう。
硯友社はいまではほとんど忘れられている。その総帥尾崎紅葉も「金色夜叉」でその名をとどめているだけで、それも私のように名前とあらすじだけ知ってるという人が多いのではないだろうか。川上眉山は太宰治の「眉山」という短編で名前だけ知ってる人が多いような気がする。巖谷小波は昔話を書いてた人、山田美妙は言文一致をはじめた人、広津柳浪は広津和郎のお父さんというくらいの認識で、あとの、石橋思案、江見水蔭などは名前すら知っている人が少ないのではないか。しかし彼らは当時、明治二十四年に東京新報が行った「明治十八文傑」に選ばれるほどの著名人であった。硯友社の総帥、尾崎紅葉は、「菊池寛以前、菊池寛以上の文壇の大御所」と呼ばれ、すべての新聞雑誌を牛耳り、紅葉が首を横に振ればどんな作品も日の目を見ない、と評判されたほどであった。なぜ硯友社がそこまで文壇を制圧できたか、ということを考えるためには、硯友社以前の文学界について見ていく必要がある。
まず明治初年から十年までは、ほとんど新しい動きはない。物語の書き手は、江戸時代以来の古い伝統を引きずる戯作者であった。仮名垣魯文を筆頭に、柳亭種彦、二世為永春水などである。彼らはそれぞれ弟子をとり、仮名垣派、柳亭派、為永派などの流派を作って、昔ながらの人情本、読本、滑稽本などを書いていた。この中で特筆すべきは仮名垣魯文くらいか。魯文はジャーナリスティックなセンスがあり、新聞記者や新聞経営にも才能を発揮した。作者としても「西洋道中膝栗毛」「胡瓜遣」「安愚楽鍋」など、昔ながらの手法で新しい風俗を語る作品が評判を呼んだ。しかしなんといっても意識と手法の古さはどうしようもない。三人とも明治二十年から三十年代に死に、その後継者にはもはや活躍の場はなかった。
戯作者たちの流れを一部引き継いだのが新聞小説家、須藤南翠と饗庭篁村である。これに明治二十年代のデビューながら、村上浪六を加えることができるかもしれない。南翠は改新新聞に籍を置き、政治小説から毒婦実録まで、そのときの読者の人気に応じてなんでも書く器用さが受けた。篁村は読売新聞。やや固めだが風刺や風俗描写にすぐれていた。坪内逍遙と交友があり、逍遙や門下の学生に教えてもらった外国小説のネタを翻案して評判を呼んだ。明治二十年までは、「改新の南翠、読売の篁村」の二大文豪と並び称された。彼らの共通点は下っ端からの叩き上げということ。南翠も篁村も新聞社に文選工として入社し、そこから認められて新聞に連載するようになった。浪六も校正出身である。しかしその出身のせいもあり、作品の内容もキワモノ的だったりエログロ色が強かったりして、どうしても彼らには、低俗という評価がつきまとっていた。
明治十年代からもうひとつ、政治小説というジャンルが誕生した。西南戦争以降、自由民権運動が盛んになり、その主義主張や政府攻撃を、じかに小説化しようと試みたものである。さきの南翠をはじめ、矢野竜渓、末広鉄腸などが代表選手。多くは野党系の新聞に連載され、これまで小説など読まなかった壮士や政治学生にまで読者を広げることに成功した。しかし手法的には旧態依然で、主義主張が強すぎるだけに、かえって小説としては薄っぺらくなりがちなところがあった。
もうひとつ、明治十年代から登場したのが海外小説の翻訳である。前出の篁村がポーの小説を翻案したのをはじめ、森田思軒はヴェルヌを、織田純一郎がリットン卿を、坪内逍遙がスコットやシェイクスピアを翻訳した。その他にもデュマ、ボッカチオ、イソップなどが紹介され、西洋の小説はこういうものだと世間に知らしめていた。しかし、そういう西洋の小説のようなものを日本でも、という悲願はまだ達成されていなかった。
そんな中で明治十八年に登場したのが、坪内逍遙の「小説神髄」である。「小説神髄」で逍遙は西洋の小説を紹介し、これまでの日本文学、特に戯作者流の小説を批判し、これからの日本の小説は西洋のようになっていかねばならぬという指針を明確にした。しかし逍遙自身はその指針通りのものが書けなかった。「当世書生気質」は大評判になったが、やはり昔ながらの戯作を引きずっていた。逍遙は十代のころ、貸本屋に日参して、馬琴、三馬、一九、春水、種彦、種員などを読みふけっていたという。その影響からどうしても抜けられなかった。また逍遙自身、批評家としては優れているが創作者としてはいまいち、という、いわゆる眼高手低であった。逍遙自身、のちには「書生気質」を「旧悪」として嫌っている。ちょっと江戸川乱歩に似たところがある。
逍遙が大評判になったもうひとつの理由は、その身分と学歴である。東京大学卒業、東京専門学校(のちの早稲田大学)講師というその肩書きは、それまでの戯作者流とはまったく違っていた。なんせ「学士 春廼舎朧(当時の逍遙のペンネーム)」である。学士といえば今の博士よりもエリートで、将来は日本を背負って立つ、政治経済科学技術の指導者になるのは確実だった時代である。小説家といえば落語家やタイコモチや遊び人と同類だと思われていた時代である。げんに仮名垣魯文などは、三遊亭円朝などの落語家や、米八、善幸といった幇間、海老蔵や小団児などの歌舞伎役者や、川竹黙阿弥という歌舞伎作家、落合芳幾などの浮世絵師、などといった連中と一緒になってつるみ、大金持ちにたかってタダ酒を呑ませてもらっていた。そんな時代に学士様が小説を書いたのである。最高学府の学士様、師表たるべき先生ともあろうものが、こともあろうに文士に身を落とした、という非難は大きかったが、それと同じくらい、小説家という身分の世間的評価を上げることにも貢献した。
坪内逍遙の「小説神髄」によって、「文学は男子一生を捧げる価値のあるものである」という自信を植えつけられた学生は数多い。まずその先頭を切って走り出したのが、逍遙の門を叩いた二葉亭四迷と、硯友社の面々なのである。 
硯友社飛び出す
さていよいよ硯友社は、明治十八年に結成された。結成当初のメンバーは、東京大学予備門の生徒。尾崎紅葉こと徳太郎、山田美妙こと武太郎、石橋思案こと助三郎。これに外国語学校付属高等商業学校の丸岡九華こと久之助を加えた四人である。三月に同人誌「我楽多文庫」を創刊。肉筆回覧誌だった。
私はうっかりと大学予備門を長いこと予備校だと思っていたのだが、むろんれっきとした公立学校である。のちに旧制高校になったのだが、彼らをいまの高校生みたいに思うのも間違いだろう。十八で入学、四年間勉強して大学へ進むということだから、ちょうど今の大学の教養課程を四年に拡大したのが予備門、大学の専門課程と修士課程を一緒にしたようなものが大学、と考えるのが妥当だ。さらに大学予備門や大学の学生数は今の大学生よりはるかに少なく、ものすごく恵まれたエリートだった。だから予備門生徒というと、政治演説のひとつやふたつ、新知識の紹介のひとつやふたつあるのがあたりまえで、れっきとした大人、というよりすでに指導的人物として社会から認められた立場だった。
やがて会員の増加とともに回覧が難しくなり、明治十九年十一月の第九号からは印刷し会員に配布するようになった。印刷は金玉出版。むろんきんぎょくと読み、きんたまと読んではならない。山田美妙が以前に新体詩をここから出版した縁から紹介したそうだ。のち印刷所は同益社に変わる。どんな出版社かは皆目知らない。
このときの新規会員に巖谷小波こと季雄、川上眉山こと亮、などがいる。同年八月に山田丸岡尾崎の三人で「新体詩選」を印刷発売したこともあって、このころからぼつぼつ注目されるようになる。
明治二十年十二月の十五号では、山田美妙が「花の筏茨の花」の中で文章の語尾を「……でした」「……でありました」とし、これに外国文学で使われる「――」「?」「!」などの記号も使用、言文一致体の小説として注目される。
明治二十一年の五月には我楽多文庫の一般発売をはじめる。さらに石橋思案と尾崎紅葉は東京大学を退学、思案は我楽多文庫の編集に専念、紅葉は筆一本で立つことを決意する。
この八月には山田美妙が「夏木立」という作品集を出版(金港堂)。すでに前年、読売新聞に「武蔵野」を連載して作家として認められていた美妙は、これで売れっ子作家となるが、それとともに硯友社から離れる。それ以降は主に金港堂という教科書会社が出版する「都の花」の実質的編集長として、また同誌の看板作家として活躍する。尾崎紅葉によると、このころ文庫の書店への持ち込みや地方への発送、販売の手間がかかりすぎることと、「都の花」に押されていたことで、一時停止状態があったそうだ。
明治二十二年には尾崎紅葉が「色懺悔」を出版(吉岡書店)、これで作家としての地位を確立する。我楽多文庫の売れ行きも増大し、とても硯友社連中ではやりきれないため、二月の十六号より、印刷から販売までの業務をすべて吉岡書店に委託する。同年に紅葉が読売新聞に入社、文芸欄担当となる。同時に硯友社の石橋思案、巖谷小波、川上眉山、江見水蔭が社友となり「読売の四天王」と呼ばれる。尾崎紅葉の文名はますます高く、この年に「露団々」「風流仏」でデビューした幸田露伴とあわせて「紅露時代」と呼ばれるようになった。
おおまかに硯友社が売れるまでの略歴を書いてみた。
無名の学生がわずか二、三年であれほどまでに一世を風靡したというのは、前回に書いたように、だれもが新しい小説を待っていた、しかしまだどこにも新しい小説はなかった、そんな状況を考えに入れないと説明できない。
ちなみに硯友社が誕生した明治十八年、そのほかの(のちの)明治文豪が何をしていたか。
二葉亭四迷は「小説神髄」を読んで興奮していた東京外語学校の生徒だった。幸田露伴は北海道で電信技師をやっていた。森鴎外は医学修行のためドイツ留学していた。夏目漱石は大学予備門で腹膜を悪くしていた。正岡子規はまだ野球も俳句も知らない、哲学かぶれの予備門生徒だった。田山花袋は群馬の田舎で漢詩を勉強していた。国木田独歩は裁判所に勤める父親の異動について銚子や岩国あたりをうろうろしていた。島崎藤村は共立学校(のちの開成高校)で馬場孤蝶、平田禿木、長谷川如是閑と一緒に、はじめて見るキリスト教というものにおったまげていた。徳富蘆花は熊本で、そのキリスト教にかぶれていた。樋口一葉は私立青海学校を退学して早くも貧乏に苦しみはじめていた。二葉亭四迷を除き、まだブンガクにこころざす気配は見られなかった。
硯友社が売れ出した明治二十一年現在をみても、四迷が「浮雲」で言文一致小説を書いているのみである。露伴は電信技師をやめて上京したばかりだった。鴎外はまだドイツにいた。漱石は腹膜のため落第していた。子規は俳句は吐いていたがまだ血は吐いてなかった。花袋は上京したばかりだった。独歩は東京専門学校(いまの早稲田大学)に入学したばかりだった。藤村は設立されたばかりの明治学院に入学したばかりだった。蘆花はよくわからないが、熊本で学校の先生をしていたか、兄貴のツテを頼って上京していたか。一葉はあいかわらず貧乏に苦しみながら、死んだばかりの兄ともうすぐ死にそうな父に心を痛めていた。作品を発表しているのは、二葉亭四迷だけだった。
余談だが、明治作家のペンネームについて。作家のペンネームは、江戸時代からの伝統で、硬派軟派のふたつの流派があった。硬派は漢詩人の伝統。自分の本姓プラス雅号である。江戸文学でいうと井原西鶴、滝沢馬琴など。軟派は戯作者や落語家と同じで、師匠の屋号をうけつぎ、それに師匠から一字貰った名前をつける。為永春水、柳亭種彦のたぐいだ。中には師匠とはまったく関係なく、もじりでふざけた名前をこしらえることもある。滝亭鯉丈(鯉の滝のぼり)、阿気羅観江(あっけらかん)など。
明治初期の戯作者たちは仮名垣魯文、柳亭種彦、二世為永春水など、みな軟派のペンネームだった。その作風をひきついだ新聞小説家たちは、ペンネームだけは須藤南翠、饗庭篁村と、硬派のものを選んだ。坪内雄造は戯作っぽい「当世書生気質」を書くときは春廼舎おぼろ、評論「小説神髄」を書くときは坪内逍遙と、硬軟のペンネームを使いわけていた。
硯友社の作家は尾崎紅葉、山田美妙、石橋思案、丸岡九華、川上眉山、みな硬派のペンネームである。硯友社以降の作家も、幸田露伴、森鴎外、夏目漱石など、ほとんどが硬派のペンネームを選んだ。本名そのままという選択肢は、この時代まだなかったようだ。
唯一例外なのが二葉亭四迷である。「文学だと? 馬鹿野郎、くたばってしまえ!」と父親から罵られた文句をもじってつけたそのペンネームは、どうなんだろう、当時「ふざけてる」とか批判されなかったのだろうか。 
第三勢力出現
えっと、お久しぶりです。まあ前回からいろいろと、怠けていたというか、まあ、やりたくないことはやりたくねえんだよゴルァとか、中絶していていろいろとすみません。いや別に妊娠したわけじゃなくて、投げ出したというか、あ、いえ、堕ろしたとかそんなんじゃありません私はやってません。ちょっとブランクが永井ので、あ、なんか今の誤変換気に入っちゃったからそのままにしとくけど、ブランクが長いので以前と同じような文章が書けるか心配、てゆーか、脳の治療とかしてるし、あ、いえたいしたことじゃありません。手術もまだやってません。入院もしてません。ベッドが一杯だって断られただけなんですけど、ガガガガガ、いや大丈夫です。先生も大丈夫治る可能性はあると言ってました。なんかいろいろ薬とか飲んで、ずっと家族に監視されてて、変な言動とかあったらすぐここに電話しろとか救急医療センターの電話番号教えてもらったらしいのですが、僕には教えてくれないチクショウ。あ、いや、大丈夫だから。藤川選手がホームラン打ったらボクも手術受けるって約束したし。ギギギ。
余談ですが、尾崎紅葉率いる硯友社がそのまま日本文壇を制圧するかというと、バカが多い明治時代でもそうは問屋が卸さない。そういえば春陽堂も大正時代頃まではまだ書籍取次が小さかったので地方には春陽堂から直接発送していたそうです。だいたい尾崎紅葉という名前がダメだろ。学校で教えてなかったら十人中九人は「もみじ」と読むぞ(残り一人はえはと読んだおバカ)。吉原のソープ嬢の源氏名かよ。紅葉ちゃんと楓ちゃんと松葉ちゃんがいたら俺は躊躇なく楓ちゃんを選ぶね。松葉ちゃんはなんか剛毛そうでイヤ。そういえばふと思ったのだが、明治文豪を美少女にして萌え文学史ゲームを作ったら需要あるだろうか。眼鏡少女の逍遙ちゃんとか、体育会系ずん胴の紅葉ちゃんとか、ちょっと裏でなにか企んでいそうな美妙ちゃんとか、病弱できゃしゃな一葉ちゃんとか、毒舌ツンデレの緑雨ちゃんとか、巫女さんキャラで悟ったような露伴ちゃんとか、やたらに喧嘩っ早い不良の鴎外ちゃんとか、ちょっとメンヘルで癪の持病もある漱石ちゃんとか。しかしそもそも尾崎紅葉に文学を教えた坪内逍遙もダメだ。筆名が春廼屋おぼろってコンブかよお前は。藻類かよてめえは。そんな名前だから芸者の嫁にふにゃふにゃにされちゃうんだよ。コンブ野郎は早稲田大学なんか辞めて、沈んでろ。一生オホーツク海に沈んでクリオネとゆらゆらしてろ。さもなくばウミヘビと一緒に沖縄料理のダシになっちゃえばいいんだ。
話は脇にそれるが、尾崎紅葉と硯友社には恐るべき獅子身中の虫がいた。山田美妙である。
前回も書いたようにプロデビューは紅葉よりも美妙の方が早かった。明治二十一年八月、「夏木立」を金港堂という出版社から出している。しかも「嘲戒小説天狗」という小説は、日本初の言文一致体小説という栄誉を受けるに至っている。このような若い才能を放っておく手はない。金港堂はすぐさま、新しく出す小説雑誌「都の花」の実質編集長として山田美妙を招聘し、自信満々の山田美妙はそれを受けた。かくして山田美妙は硯友社の「我楽多文庫」に寄稿しなくなり、尾崎紅葉や硯友社とも疎遠になっていったのである。
金港堂とはどのような出版社か。
創業者の原亮三郎は嘉永元年の生まれ、春陽堂の和田篤太郎より九歳の年長である。美濃の庄屋の出というから、郷里も和田篤太郎とそんなに離れていない。明治五年に上京、翌年神奈川県の史生に任用され、主に教育畑で学区取締などを歴任した。このとき人脈を作ったのだろう、明治八年には神奈川県の小学教科書の一手販売権を手に入れ、官を辞して金港堂を設立。その後も関東一帯の小学教科書出版をほぼ独占し、十万円を超える資産家となった。博文館も春陽堂もそこまでの資産はない。
この余勢を駆って乗り出したのが他分野への進出である。明治二十一年、まず新進気鋭の山田美妙を迎えて小説雑誌「都の花」を、文化教育雑誌「文」を創刊する。これが当たった。「都の花」の第一号は二千五百部完売したそうだから、
この破竹の勢いには春陽堂もたまらず、「都の花」の対抗馬として「新小説」という小説雑誌を創刊するのだが、ほとんど売れずにわずか一年で廃刊。
「都の花」は山田美妙、二葉亭四迷、幸田露伴、樋口一葉など錚々たる執筆陣を抱えて順調に見えたのだが、明治二十二年、実質編集長の山田美妙がスキャンダルに巻き込まれる。「国民の友」に掲載した「胡蝶」という作品の挿絵が裸婦を描いており、風俗紊乱だと問題になったのである。本来なら挿絵の問題で、山田美妙はまったく関係ないのだが、それまでの態度が他文士、特に硯友社の反感を買っていたこともあり、山田美妙も巻き込まれてしまった。
これが関係したのかしなかったのかはよくわからないが、明治二十五年ごろからだんだんと雑誌の内容がマンネリ化して売上が減少。すると翌二十六年にはあっさり廃刊。以降、金港堂は文芸出版から手を引き、もとの教科書専業に戻った。
山田美妙と金港堂には、そのあとさらに悲惨な末路が待っていた。
山田美妙は「都の花」廃刊前後に国民新聞に移籍、そこで小説を発表していたが、浅草の魔窟を舞台に小説を書こうとして取材しているうち、そこの売春婦と深い仲になり、それを「万朝報」で報道された。このとき、「女とつきあっていたのは小説を書くための取材で、別に愛しているわけではない」などと弁解したのがかえって火に油を注ぎ、「早稲田文学」でコンブヤロウ、いや坪内逍遙に「不義者」と罵られる。この事件をネタにしてのちに小説化したのが菊池寛の「藤十郎の恋」という噂がある。
その後、美妙は弟子の女流小説家・田沢稲舟と結婚するが、嫁姑の折り合いが悪くてやがて離婚。稲舟は服毒自殺する。これも「美妙が殺したのだ」という噂が立ち、ついに山田美妙は完全に文壇から失脚。辞典の編集などでほそぼそと暮らし、四十二歳で死去。
金港堂は教科書一本に戻って堅調に業績をあげてきたが、何を思ったかふたたび他分野参入を企て、明治三十五年に「教育界」「少年界」「少女界」「青年界」「婦人界」「文芸界」「軍事界」の七大雑誌を同時創刊という暴挙をしでかす。
また間の悪いことにこの年、「教科書疑獄」なるものが発覚し、金港堂が各県に当社の教科書を採用するよう賄賂を送っていた事実が発覚してしまう。これをきっかけに国定教科書制度が発足し、もはやホームグラウンドの教科書でも金港堂の独占はできなくなってしまった。
こんな状態だから、他分野の雑誌などノンキに経営してる場合じゃない。明治四十四年には七大雑誌最後の「教育界」も廃刊し、かつての大出版社も凋落の一途を辿ってしまうのであった。 
明治文士は貧乏か
そんなわけで邪魔な山田美妙を片付け、ついに名実共に日本一の文豪となった尾崎紅葉だが、彼について正宗白鳥はこんなことを書いている。
「明治29年の2月下旬『多情多恨』が読売に出かかった頃、私ははじめて上京して、横寺町の下宿に、いわゆる草鞋を解いたのであったが、間もなく、町内の古ぼけた共同門に『尾崎徳太郎』という表札が出ているのを、散歩の途中か、湯屋通いの途中に見つけたので、これが、有名な紅葉山人の住所であろうかと疑って、同宿の友人に訊ねたが、法律書生であった友人は、そんなことは知らなかった。数日経って、田舎の知人から紹介されていた戸川残花翁を、薬王寺町に訪ねた時に、かの表札について訊ねると、『それが紅葉の家だ』といって、『文学者は皆んな貧乏だ』と、その実生活についていろいろ話してくれた」(作家論・岩波文庫より)
明治29年というと、読売新聞で「金色夜叉」を連載する前年で、作家としてほぼ絶頂期にあったといっていい。すでに結婚して子供(一男二女)も生まれていたはずだ。ここで白鳥が「紅葉の実生活についていろいろ」書いていてくれれば、こちらの手間が省けてよかったのだが、残念ながら詳細を書いてくれていない。そこでおぼつかないながらも、尾崎紅葉の生活について、主に金銭面から考えてみる。
尾崎紅葉の生活上の好みを、衣食住でランク付けしてみると、食>>住>衣となる。
食い物についてはうるさいほうで、中華の鶉椀、金ぷら(天ぷらの衣に卵黄を加え、黄色っぽく揚げたもの)、甘鯛の照り焼き、梅園(浅草の甘味屋)の汁粉、薩摩芋、漬物、くさやが好物だった。紅葉が春陽堂を訪れると、何も言わずに奥に通され、何も言わずにお茶菓子もしくは金ぷらが出てきたという。中でも漬物にはうるさく、紅葉を迎えた友人や弟子の妻は、この沢庵は漬け過ぎだ、この青菜は塩辛くて食えたもんじゃない、とたびたび駄目出しされて、台所の隅で涙にくれることが多かったという。弟子の泉鏡花が芸者と結婚することを禁じたのも、「芸者は漬物の漬け方なんかわかりゃしない」というのが理由だったという説がある。
もっとも「食い物にうるさいが、食通かどうか疑問」と江見水蔭は書いており、その証拠として、浅草大金へ行き「今日の刺身はきわだかかじきか」と女中に聞いて「お客様、手前どもは一切鶏料理でございます」と言い返された話と、大阪で牛肉を注文して「まずい。やっぱり田舎の牛は駄目だ」と文句を言ったが、後になって犬肉を牛肉と偽って食わされたことがわかった話を残している。ちなみに現在の大阪ではそのようなことは一切ありませんので、みなさまご安心ください。
まあ、硯友社の親友だった大橋乙羽も、博文館の養子になる前の貧書生時代、西洋料理を誂え、デザートでアイスクリームが出てくると、おもむろに卓上のウスターソースをぶっかけて食べ、「うむ、この料理はナカナカ乙だ。俺は乙羽」と言ったとか言わなかったとか。
住居は死ぬまで借家暮らしだった。西洋風の洋館を建てて住みたいと言っていたそうだが、結局実現できなかった。
衣服は垢のつかないこざっぱりしたものであれば何でもいい、という主義で、地味な茶色やお納戸柄(くすんだ青)をよく着ていた。
まず尾崎紅葉の年収から見ていこう。伊狩章「硯友社と自然文学研究」では、明治34年の紅葉の収入を推定している。金色夜叉の連載が好調で、もっとも人気が盛んなころだ。しかし、そろそろ命取りとなる胃痛が始まっている。
明治25年に尾崎紅葉は読売新聞社に入社した。これは記者としてではなく、人気作家の小説を独占するためである。
こういう形態は今はないが、明治から大正にかけてはよくあった。紅葉と同時に坪内逍遙(文芸面主筆として)、幸田露伴(小説を書き続ける自信がなかったためか、社員待遇を自ら断り、客員待遇となった)が読売新聞社に入社しているし、他にも二葉亭四迷が大阪朝日新聞に(これは記者として、実際にロシア特派員に派遣される途中で死んだ)、夏目漱石は東京朝日新聞に、芥川龍之介は大阪毎日新聞に入社している。私の知る限り、谷譲二、林不忘、牧逸馬の3ペンネームを使い分けた長谷川梅太郎が昭和2年に東京日々新聞に入社したのが最後の例である。
読売新聞社に入社時の月給が30円。のち「金色夜叉」連載時には100円になっていたそうだから、明治34年にはすでに100円。あと、年末に歳暮が10円出た。その代わり、原稿料は出ないという条件。
また、他誌への随筆等の原稿料が合計で約350円。
他に単行本出版時に出版社から支払われる金がある。明治25年に洋行帰りの森鴎外が「美奈和集」出版時に印税契約を主張し、よくわからなかった春陽堂は25%という高率の印税を払ってしまったが、まだ完全には定着していなかったらしい。明治34年の紅葉も印税制の場合と原稿買い取り制が混在していた。「金色夜叉」その他の印税が合計で約500円。短編小説集「仇浪」は買い取りで約220円。
その他に、揮毫や画賛への謝礼が130円以上。また、俳諧雑誌での選句、投稿小説の添削、他作家の本への序文などで200円以上。合計すると明治34年の尾崎紅葉の年収は新聞社給与1,200円+その他1,400円=2,600円ということになる。月割りにするとだいたい220円。
これを現代に換算、というのが文化体系が変わってしまったので無理なのだが、強引に消費者物価指数を用いて平成18年の物価に換算してしまうと、12,533,124円となる。およそ年収1,250万円。これは安い。そこらの会社の部長クラス程度か。プロ野球選手でいうと、阪神の筒井外野手(星野前監督の甥という縁で前年中日から入団。2006年、一軍出場なしで年俸1,400万円)よりもちょっと下だ。
ちなみに同年、夏目漱石は官費でイギリス留学中。いまでいうと博士号を日本で取った大学講師がPh.Dを取りに留学するようなものか。この年間手当が1,800円。留守家族には年300円が別途支給。紅葉より500円低いわけだが、まだ修行中の身が天下一の文豪よりちょっと低い程度だったわけだ。
同年の森鴎外は小倉に左遷されてはいたが、軍医監(大佐相当)の俸給をもらっていて、これが月俸200円。当時すでに雑誌「めさまし草」を創刊して寄稿したり、アンデルセン「即興詩人」を翻訳してもいるから、これを合わせると紅葉をはるかに上回っただろう。
同年の永井荷風はやまと新聞に入社して月俸12円。年俸にしても144円。ちょっと厳しい暮らしだっただろうか。同時期、海軍大将が月俸500円、エリート官僚(高等文官試験の合格者、いまでいうキャリア組である)の初任給が50円。これが下っ端のノンキャリア巡査だと12円。エリート銀行員の初任給が35円。住み込みの女中は3食付きで月に2円程度。日雇い人夫は月に5円、人力車夫は月に7円50銭稼げればまずまずだったという。明治は格差の大きい時代だったのだ。
さて支出は、となるとこれが難しい。
まず家賃。正宗白鳥は紅葉の住居を悲惨なふうに書いているが、田山花袋はその住居に憧れている。「東京の30年」(岩波文庫)では、2畳の玄関のすぐ隣の8畳の座敷は小さな庭に面しており、2階は8畳と6畳と説明している。まずまずの暮らしだが、ここに母親と紅葉夫婦、3人の子供が暮らし、泉鏡花、小栗風葉の書生まで住まわせていたのだから、ちょっと手狭なようにも思える。ちなみに明治28年、風葉は庭の青葡萄をつまみ食いしてコレラにかかり、師に看病されるというていたらく。もっとも紅葉はこのネタで「青葡萄」を書き、モトを取っている。
やはり手狭だったのだろう、明治34年までには借家をもう一軒借り、そちらに書生を住ませていたらしい。紅葉の明治34年元旦から10月10日までの日記が「十千万堂日録」に記されているが、その中に「来客を避けるため鏡花宅で執筆」という記述がしばしば出てくる。
尾崎紅葉家の家賃は2軒あわせて月18円。また女中を2人、人力車夫を1人雇っているので、この給料が14円40銭。そのほか合わせて、尾崎家の生活費は合計89円。
では収入220円、支出89円で月に130円の貯蓄ができるだろうと思うのだが、そうはいかない。
尾崎家の生活をもっとも逼迫させていたのは、交際費だったという。なにしろ交際範囲が広く、しかも律儀な性格だった紅葉は、知人の娘が結婚するといっては祝儀袋を包み、友人の厳父が亡くなったといっては香典袋を包む、それが毎月かなりな額にのぼったという。また宴会や会合の費用も馬鹿にはならない。
紅葉の明治34年元旦から10月10日までの日記が「十千万堂日録」に記されているが、1月2月の59日間のうち、宴会・会合・会食・打ち合わせ等で外出しているのが22日間、来客はほぼ毎日来ている。ちなみに春陽堂の訪問は13日間ある。余談だが酒癖の悪いので有名な小栗風葉は2ヶ月のうちに師の前で2回酔態を見せて、紅葉に「狂酔」と書かれている。
交際費も大変だが、これら交際に費やす時間もかなりなもので、紅葉は金色夜叉の休載が多い理由として「1.胃患、2.来客、3.推敲の三害」と反省している。
また紅葉はよく友人、弟子たちを連れて好物の中華や天ぷらを食いに出ていた。もっとも紅葉は、弟子にもワリカンで払わせていたらしい。その頃はワリカンのことを京伝払いといった。戯作者の山東京伝は版元から原稿料をもらった最初の作家と言われているほど高名だったが、やはり原稿料では食えず、煙草屋が本業だった。そんなわけであまり金がなく、遊びに行っても他人の分まで払うことができないため、ワリカンにしていたからだという。江戸時代の文士は、明治文士よりさらに貧乏だったわけだ。
まあ、文豪トップクラスの年収が軽く億を超え、総理大臣や大会社社長の年収を上回ってしまう現代から考えると、尾崎紅葉も貧乏な部類に入ってしまうだろう。「明治文豪列伝中尾崎紅葉」でも、「生活は貧しと云ふにはあらねど、明治第一流の大家のそれとしては、小さき生活なり」と記している。
その結果、紅葉が死んだときには蓄えはほとんどなく、かろうじて葬式が出せる程度しか残っていなかったという。
もっとも紅葉死後、友人や弟子が尽力し、博文館から出版した「紅葉全集」が非常に売れ行きがよく、未亡人や子供たちの生活には困らなかった。「紅葉は死んでから金持ちになった」と言われたという。
紅葉は満年齢22歳で商業誌デビュー、20代前半で押しも押されもせぬ大作家となり、死んだのが36歳。なんだかあわただしい人生のようだが、明治20年から24年の平均寿命は35.8歳だから、時代はやや違うが、だいたい平均寿命を生きたことになる。ちなみにこの平均寿命は、2007年にあてはめると短命世界2位のレソト(35.2歳)と3位のジンバブエ(37.3歳)の中間になる。
紅葉死去の5年後、明治41年に川上眉山は謎の自殺をとげる。自殺の原因としていろいろな説が出たが、そのひとつは金銭面のものだった。死の年、眉山の原稿料はおよそ1枚1円。新聞小説の1回分が4円程度だった。これに二六新聞記者の給料を足して、月の収入が50円程度と推定されている。
それに対して家賃19円、女中を2人雇って5円など、合計での支出はおよそ85円と推定されている。不足分の35円をどうしていたかは、いまだに謎である。当時からあった「気軽に貸して厳しく取り立て」の金融会社にひっかかっていたのではないかという噂があって、その取り立てを苦にして自殺したのではないか、という説だ。
やはり明治文士は、おおむね貧乏だったのだ。 
夢の印税生活
尾崎紅葉の時代の文士がなぜ貧乏だったかというと、ひとつは読者人口がまだ限られていたことと、もうひとつ、印税制度がなかったことがあげられる。
455万枚という売上記録を樹立し、最近またCDで再発売された「およげ! たいやきくん」を歌った子門真人は、買い取りで5万円しかもらっていない。印税契約していれば、たとえ1%の印税でも、500円(単価)×455万枚×1%=2,275万円という収入があったはずなのだ。
これと同じ目に尾崎紅葉もあっている。「金色夜叉」シリーズは版を重ねてベストセラーになったが、紅葉の手元に入るのは最初の買い取り価格(いちおう100円と仮定したが、不明)のみ。現在の印税(10%)を適用していれば、仮に1万部売れたとしても、60銭(定価)×1万部×10%=600円は入ってくるはずだったのに。「金色夜叉」の次から印税契約にしようとしていたらしいが、完結前に死んでしまった。残念。
逆に言うとそれだけ、博文館や春陽堂といった出版社が儲けていたわけだ。
それにひきかえ、印税生活を満喫したのが夏目漱石。尾崎紅葉の次代を担うベストセラーライターである。夏目漱石といえば、いまでは近代を代表する作家のように思われている。司馬遼太郎などは「夏目漱石が近代日本の日本語をつくった」とまで極言している。
たしかに漱石の文体で社会現象も女性心理も描写できるようになったわけだが、それまでには先人たちの、まさに身を削るような血みどろの努力があった。二葉亭四迷と山田美妙の言文一致体、幸田露伴や尾崎紅葉の雅俗折衷体、森田思軒の周密文体など、さまざまな試みがなされていた。尾崎紅葉などは「どうも言文一致だと、情緒がないんだなあ」とぼやきながら、一作ごとに苦吟しながら文体を変えていたほどだ。
そういう先人の努力をみんなひっくるめてひとりの偉人の手柄とし、それによって周囲の人物をボンクラに見せるというテクニックは、坂本竜馬だとか織田信長だとか児玉源太郎だとか、司馬遼太郎がしばしば(洒落じゃなく)使っている技法なので、くれぐれもうかつに信じたりしないように。あれは小説なんですから。
それとは逆に、漱石が生きていた時代には、本の売れ行きに比例して悪評も高かった。主に自然主義派からだが。
こんな話がある。自然主義の田山花袋、岩野泡鳴、正宗白鳥が集まった席で、たまたま森田草平(漱石の弟子のひとり)の新作「煤煙」の話題になり、テーマがつまらんとか思想が未熟だとかさんざんけなした後で、泡鳴が「しかし、漱石の比じゃない」と決めつけ、花袋が「それはそうだね」と軽く同意した。現在の読者からしたら、森田草平は漱石に遠く及ばないという意味に受け取りそうだが、まったく逆で、「煤煙」にはいろいろ欠点もあるが、漱石が書いているようなくだらない物とは比べものにならないという意味で3人は話していたのだ。
岩野泡鳴などは漱石批判の第一人者で、「漱石や鴎外なんて通俗作家だ」「夏目漱石は二流作家」「漱石のは文学というものじゃない。読物とでも呼ぶべきだ」などと盛んに悪罵を投げかけていた。
まあ通俗作家と呼ばれるほど、漱石の本が売れていたわけだが。
夏目漱石の金銭面については、夫人の夏目鏡子が「漱石の思ひ出」、娘婿の松岡譲が「漱石の印税帖」という本を書いてくれているので、ひじょうに助かる。夏目漱石の作家生活は、兼業作家時代と作家専業時代に大きく分けることができる。兼業作家時代は、明治38年に「吾輩は猫である」を発表してから、明治40年に朝日新聞社に入社するまで。この間に「倫敦塔」「坊っちゃん」などを執筆している。
この時代の主な収入は、一高教授、東京帝大講師、明大の講師としての収入である。一高が年700円、帝大が年800円、明大が年360円で、合計1,860円が年間の定収入となる。
それ以外に小説家としての副業収入がある。「吾輩は猫である」は正岡子規の俳句雑誌「ホトトギス」に連載したものだから、友人の同人誌に書くようなもので、原稿料はあまり出なかった。1枚50銭で、全部で3〜40円くらいらしい。しかし本は売れた。大正3年に本人が「上巻は35版刷った。初版2,000部で再版以降はだいたい1,000部。中、下巻はそれより落ちる」と書いてあるから、夫人の「印税は1割5分」と、上巻95銭、中・下巻90銭という単価から、
上巻=36,000部×95銭×15%=5,130円
中、下巻=30,000部(推測)×90銭×15%=4,050円
となってトータルで13,230円となる。十数年にわたる売上のトータルだとしても、これは凄い。尾崎紅葉なら金色夜叉を正、続、続々……と続けて全130巻出さないと入ってこない金額だ。
「猫」が売れたため、「ホトトギス」も原稿料を1円に倍増した。春陽堂の「新小説」も同じ1円、「中央公論」は1円20〜30銭だったという。それでも漱石が洋書を大量に買い込んだりするため、月200円はかかる生活で、かつかつだったと鏡子夫人は語っている。本人も「小説を書くようになってから、丸善の借金は済ませた」と語っている。
やがて当時の人気作家の常として、新聞社から入社の誘いが来る。最初に声をかけたのは読売新聞だったが、漱石は朝日新聞を選んだ。条件は月給200円。他に年2回のボーナスを月俸3ヶ月分程度。その代わりに年2回程度の新聞連載小説を書くこと、朝日新聞以外の新聞雑誌には書かぬこと。ただし「ホトトギス」だけは子規と漱石の関係だから書いてもよい。というものだった。
明治40年、漱石はこの条件を飲み、教職を辞して朝日新聞社に入社。当時は新聞記者といえば総会屋もどきのゴロツキか、暴露・捏造専門の無頼漢のように思われていたから、世間では「なにも帝大教授がそこまで身を落とさずとも」という意見が大半だった。
しかし金には代えられない。これで漱石が手にした年間の定収入はおよそ3,600円。教職時代のおよそ倍にあたる。
それにプラスして印税収入がある。朝日新聞入社の同年、「鶉籠(坊っちゃん、草枕、二百十日所収)」を春陽堂から出版する際の契約はえらく細かい。「初版3,000部の印税は15%、ただし100部は免税、別に献本として30部を著者に渡す。再版から第5版(各版1,000部以内)の印税は20%。第6版以降の印税は30%」というものだった。
この「鶉籠」が定価1円30銭、トータルで12,171部売れたから、漱石の印税収入はおよそ3,360円。のちの契約もだいたい同じ条件だが、初版1,000部、第4版以降の印税30%と変わった。
この印税30%というのは破格だった。さすがの春陽堂主人和田篤太郎も、「出版の純利益は定価の31%。そのうち30%を漱石に持っていかれるんだから、こっちの儲けは1%しか残らない」とぼやくしかなかった。しかし漱石は、「その条件でも飲むんだから、出版社にも儲けはあるってことだろう」と澄ましたもの。この印税率がなぜか1%上乗せされて文壇の噂となり、近松秋江は長田幹彦に「いくら漱石だからといって、三割一分は暴利だ。三割一分ですからね。一円の本で三十一銭だよ。しかし、長田君、三割一分はうらやましいねえ」と、やたらに三割一分にこだわってぼやいていた。なんだか野球選手の会話のようだ。鳥谷はさっさと三割打ちなさい。
漱石の出版社は、初期(「吾輩は猫である(上中下)」「漾虚集(倫敦塔、カーライル博物館等の短編集)」「文学論」「行人」の6冊)が大倉出版、中期(「鶉籠」「虞美人草」「三四郎」「それから」「門」など合本含め15冊)が春陽堂、後期(「心」「硝子戸の中」「道草」「明暗」の4冊)が岩波書店と、だいたい時期によって分かれている。漱石の生前の売上は全部あわせて10万部くらいというから、単価1円として平均印税率を20%(ちなみに夏目漱石普及版全集の印税が一律20%)と計算すると、ざっと2万円の印税が入ってきたことになる。
しかも漱石の本は尾崎紅葉と同様、死後の方がよく売れた。大正5年に漱石は死ぬが、死の直後、「漱石全集」が岩波書店から出て、これがよく売れた。岩波書店主の岩波茂雄が漱石の弟子だったこともあるが、つくづく春陽堂は全集に縁のない会社だ。漱石死後、大正6年から12年にかけての売上部数がざっと54万部(うち26万部を春陽堂から発行)、大正13年に春陽堂から夏目家へ支払った印税だけで24,000円。大正14年が12,500円という。もっとも、死後のバブルに浮かれた鏡子夫人は高級な着物や宝石をやたらと買いまくり、漱石の親友だった鉄道院総裁の中村是公が「俺という者がついていて、あんな真似をさせたんじゃ、死んでから漱石に顔向けできんよ」と男泣きすることになるのだから、あんまり金を残しすぎても、いいことはないようだ。
最近、著作権の期限を死後50年から70年に延長しようという動きがあるが、これでまた男泣きする旧友が増えるかもしれない。 
明治一多作家伝
尾崎紅葉から一足飛びに夏目漱石まで行ってしまったが、紅葉と漱石の間には、さまざまな出来事があった。紅葉の死後、硯友社は解体する。もともと主義主張で集まったわけではなく、仲良しクラブ的団体だったから、親分の死と共に解散することは宿命だった。
かつて「風流仏」「五重塔」などで人気作家となり、明治30年代前半、紅葉と並んで「紅露時代」とまで呼ばれた幸田露伴は、だんだんと書く内容が難解になって読者を置き去りにするようになる。明治38年に出版した詩集「出廬」は特に難解で有名で、当時の高校生は寮の食事でよく出る、なんだかわからない材料のごった煮のことを「出廬煮」と呼んでいた。30年代後半には小説の筆を折り、その後は博覧強記の随筆家として名が知られる。斎藤茂吉が露伴をへこませてやろうと、万葉集のある歌について下調べをして行ってガリ勉の結果を披露すると、黙って聞いていた露伴がその作者の人生について詳しく講義したエピソードは有名である。
紅露時代のあとには、自然主義全盛時代が来る。硯友社出身の徳田秋声と川上眉山、入社希望者だった田山花袋、小諸で学校の先生をしていた島崎藤村、それに天下の奇人岩野泡鳴などが中心となって始めた「ものごとをあるがままに書く、心の真実を赤裸々に告白する」自然主義小説は文壇を席捲した。ときの京大文学部教授、上田敏は「文学は不良少年どもの手に落ちました」と嘆息する。
森鴎外は明治30年代には小倉に左遷されたり、また東京に呼び戻されて日露戦争の準備をしたりなどで、小説を書く暇がほとんどなかった。
ここでは文学史についてふれるわけではないし、筆者にその資格もないので、その辺はあっさり流すとして、紅葉と漱石の間に存在した、春陽堂と関係の深い、あまり知られていない作家について書く。高木健夫「新聞小説史 明治篇」によると、明治時代の小説発表篇数ベスト5は、1位江見水蔭618編、2位徳田秋声216編、3位広津柳郎183編、4位小栗風葉173編、5位渡辺霞亭169編とある。あまり知られていない名前が並んでいるのは、徳田秋声以外はいわゆる通俗作家、大衆小説家で、文学史に名前が残りにくいからだ。それにしても、2位をトリプルスコアでぶっちぎっている江見水蔭は凄い。
江見水蔭は岡山生まれで硯友社出身。もともと杉浦重剛の塾に通っていたが、杉浦先生に「こういうのは江見も好きそうだから」と我楽多文庫を見せられた縁で硯友社に入社する。それ以前にも明治20年、弱冠19で「日本文学雑誌」に「賤のふせや」でデビューし「日本之女学」にも「桜かな」という小説を連載していたから、商業誌デビューでは尾崎紅葉よりも先輩になる。
硯友社の面々は尾崎紅葉を筆頭に、洋書を読んで外国文学の研究に余念がなかったが、江見水蔭だけは和漢洋いずれの本も読まずと自分で断言している。その理由として、ひとりくらい無学の作家がいてもいいではないか、無学でどこまでやれるか実験してみるつもりだったと書いている。
硯友社ではしばらく芽が出なかったが、だんだんと金港堂の「都の花」、春陽堂の「新小説」に掲載されるようになり、紅葉が読売新聞に入社した際には、石橋思案、巌谷小波、川上眉山とともに読売新聞社社友となり、「読売四天王」と呼ばれた。同時期、報知新聞にはのちに書く村上浪六が村井弦斎、遅塚麗水、原抱一庵とともに「報知四天王」と呼ばれていた。このころはいわゆる文学的な作品を読売新聞に掲載、大衆むけの時代小説を「中央新聞」に連載するという使い分けをしていた。
春陽堂の和田篤太郎社長からは「小説がくだらない」「雑誌に載せるレベルではない」とたびたび怒られていたらしく、その場ではシュンとしているが、会社から出ると「あの髭に文学がわかるもんか」と陰口を叩くのがいつものことだったという。
水蔭は「自己中心的明治文壇史」という本に金銭的な細かい記録を残していて、後世の人間にとってはありがたい。それによると明治23年、「流行作家が濫作している」と批判された水蔭でも原稿料が1枚25銭。年間収入が117円で、母子の暮らしが成り立たなかったという。実家から80円借りて、ようやく生活していた。
明治27年には中央新聞社に入社。読売新聞でないのは、紅葉から離れて自立したかったためだろうか。意匠部に所属し、出社は隔日、その代わり新聞小説を書くという条件で月俸20円。のち「日清戦争談」が大人気になって50円に昇給。この年の年収は519円。このころ春陽堂主人和田篤太郎に「いまに紅葉の時代は去り、俺の時代が来る」と豪語。
水蔭の最盛期は明治28年。代表作とされる「女房殺し」もこの年の作品である。この年の年間収入は803円64銭で、もっとも稼いでいた文士のひとりだった。なのに生活が苦しかったのは、これは女遊び、茶屋遊びの放蕩のためで、尾崎紅葉からも再三「生活を改めるように」と面と向かって忠告されたり、手紙が届いたりしている。
それでも生活が改まらなかったらしく、翌年の明治29年、中央新聞社から「爾後出社に及ばず」とクビにされている。理由はサボリ。隔日すら出勤しなかったらしい。やむなく紅葉に泣きついて読売新聞社に入社。年に6ヶ月分の新聞小説を書いて送れば出社しなくてもいいという条件で月俸30円。しかし翌年の明治30年には小説の不人気のためクビになる。
明治31年には神戸新聞社から破格の月俸100円という条件を提示され飛びついたが、これは実際に新聞紙面の編集まで含めた仕事で、しかも編集助手の給料は月俸からの自腹で払うという条件。しかもすぐに月俸80円に減額される。たまりかねて明治33年には逃げだし、春陽堂のライバル、博文館に就職。明治40年には二六新聞に転職と、就職先を転々としている。このころから文学的小説を諦め、大衆小説専門になる。
のち考古学に興味を持ち、考古学知識を援用したSF小説「考古小説 三千年前」などを発表。「少年世界」「探検世界」等の主筆を勤めたりしながら明治大正昭和の三代を生き抜き、昭和9年に没する。
江見水蔭に比べると村上浪六はベスト5に入っていないが、これは書いた物のほとんどが新聞連載の長編小説だったためで、明治期に出した本は69冊。大正でも35冊、昭和にも14冊と、こちらも三代にわたって書きまくった多作家だった。
書いたのはほとんど時代小説で、代表作は「原田甲斐」という、歌舞伎「伽羅先代萩」などで悪人として書かれている原田甲斐が、実は伊達藩のことを思いやる忠臣だったという、山本周五郎「樅ノ木は残った」のネタ本のような作品。
村上浪六という人は新聞社の校正をやっていて見出され、処女作を春陽堂から出版する条件として「当時の最高額の3倍の原稿料をよこせ」とほざいて和田篤太郎を唖然とさせたエピソードしか最初知らなかった。たかが校正係が偉そうにと思ったが、調べてみるとこの人、凄い経歴である。
村上浪六は慶応元年、大阪は堺の生まれ。幼年時代から札付きの悪ガキで、暴力行為のためたびたび退学させられ、小学校を転々とする。しかし学業は優秀で、明治14年、堺県知事(当時、河内、和泉、大和は堺県に属した)の税所篤に認められ上京。税所と同じ薩摩出身の吉井友実・高崎五六など政府高官の書生となる。
そのままおとなしくしていれば高級官僚への就職は間違いないところだったが、何を思ったか明治16年、面白半分に岡山の警察に傭として就職。警察の傭は通常月俸2円40銭、警部の月俸20円の時代に、なんと24円の高給だったというから、政府高官のお声がかりなのは間違いない。
明治17年、警察の仕事に飽きて辞職し、再上京。政府高官のお声がかりで農商務省に勤めるがすぐ辞職。どういうわけか故郷の堺に戻り、相場師になって大儲け。その金で2年間遊んで暮らす。
明治19年、金が尽きたので上京するが、贅沢な生活が祟って脚気になりまた堺へ帰郷。明治21年、脚気も完治し、また相場を張るが今度は失敗。朝鮮に渡ろうと策すが果たせず。金が尽きたので明治23年に上京し、報知新聞の校正係となる。月給5円。翌年の明治24年、報知の編集長、森田思軒に見出され「三日月」でデビュー。
以上の経歴からもわかるように、浪六はただの校正ではなかった。報知新聞の校正なんて、当座の小遣い稼ぎにやっていた腰掛けの仕事にすぎなかったのである。いままで知事・大臣クラスと接していた浪六の目からすれば、春陽堂主人といえども吹けば飛ぶよな小商人にすぎなかったのだろう。だからこそ、かような大口を叩けたのだ。
その大口通り、小説は大人気、たちまち春陽堂のドル箱作家となる。ところが明治28年、「海賊」を春陽堂と青木嵩山堂に二重売りするという事件を起こし、春陽堂から絶縁処分される。そのため、昭和2年に出た「浪六全集」にも、春陽堂から出した初期の作品は収録していない。
春陽堂に絶縁された浪六は出版社を青木嵩山堂、やがて駸々堂、至誠堂に移すが、大正12年には「時代相」という小説を自ら版元となって出版し、至誠堂と明文館から発売させ、売上の多い方に縮冊版(いまの文庫本のようなもの)の権利を与えるという破天荒な試みを打ち出す。
大正10年頃からあとは、「講談倶楽部」に主に執筆。当時、講談社という会社は、現在でいうライトノベル並に文壇からは蔑視されていた。明治20年代に活躍した須藤南翠も大正に入ると「講談倶楽部」への執筆が多くなり、知人から「『講談倶楽部』にだけは書かないでください。沽券に関わりますよ」と忠告され、「でも、あそこだと大きな広告で、巻頭に載せてくれるんでね」と淋しく笑っていたという。しかしその講談社でも浪六は、「菊池寛以下の稿料では書かない」と駄々をこねた。
昭和19年、下痢がもとで老衰死。
息子の村上信彦によると、浪六は維新という大バクチで勝った薩摩の政治家の影響を受けすぎ、地道な努力が大嫌い、冒険的な大バクチが大好きで常識無視。相場、新聞発行、映画館経営、家主、ウナギ養殖などさまざまな事業に手を出してほとんど失敗した。女性関係は息子の自分でもわからないほどで、死後、少なくとも3人の妾が遺産争いを繰り広げた。浪六には自伝「我五十年」があるが、「彼の筆はたやすく事実を曲げる」とのことで、書いていることに創作が多すぎ資料としては使えないとか。
最後に自然主義派のひとり、岩野泡鳴について書きたい。
彼の小説はめちゃくちゃ面白い。自然主義というと田山花袋「布団」とか島崎藤村「新生」など、暗い辛気くさい陰気な告白ものばかりだと思って読むと、ある意味裏切られる。泡鳴の小説はたとえるなら、町田康の小説の登場人物が現実に存在して、自分の珍妙な行動をそのまま、私小説に書いたようなものだ。おまけに「手めぇマイナス気違いイクォル死だ」などという捨て台詞がすばらしい。
泡鳴は兵庫県淡路島の生まれ。明治学院を1年で中退後、就職に困っていると、仙台神学校で欠員あり、募集中と友人から聞く。なけなしの金をはたいて仙台へ行き、校長に会うと、欠員は教師ではなく、生徒だったことが判明。帰りの汽車賃のない泡鳴はしかたなく、生徒として英語を学ぶ。学費をどうやって払ったのかは定かではない。
その後大倉商業高校で念願の英語教師になり、月給25円を貰う。年上の女房を娶って子供も作るが、そんな中でも馴染みの田舎芸者を東京で女優デビューさせようと画策してみごとに失敗、芸者からも振られるという結末に終わる。これをほぼ事実通りに書いた「耽溺」を春陽堂の「新小説」に発表。これが認められ、文壇にデビュー。「発展」「毒薬を飲む女」などを書き、子供の死に「死んじまったもんなんか、掃きだめにでも放り捨てればいい」などと放言して、すすり泣く女房を見捨てる。
やがて「小説では儲からない」と考えて樺太で缶詰工場の経営を思い立ち、女房や妾をうっちゃって単身来道。当たり前のように大失敗して一文無しとなり、友人宅に居候する。演説会で伊藤博文のことを語るが、だんだん熱が入るにつれ声が大きくなり、「俺が宇宙の帝王だ。否、宇宙そのものだ」と絶叫して爆笑され、激怒して会場を飛び出す。そのため発狂したという噂が流れ、妾が心配半分、移された性病の治療代請求半分で北海道にやってくる。金も将来もない同士、自殺を試みるが失敗。ようやく金をかき集め、妾を仙台に置き去りにして自分だけ東京に戻り、体験談を「放浪」「断橋」「憑き物」に書く。「発展」から「憑き物」までを泡鳴5部作といい、代表作とされている。
北海道から零落して戻ってきた直後、正宗白鳥宅を訪問、いきなり「とりあえず原稿を売ることと、女を手に入れることを考えているんだが、原稿はいいとして、女はひとりが蕎麦屋の娘、ひとりは教育のある女だが、どっちにしようか迷っている」と言い放って白鳥を驚かせる。やがて「教育のある女」こと女性運動家の清子女史と結婚。清子は結婚の条件としてセックスレスを持ち出すが、泡鳴がそんなものに縛られるわけがない。新居には前妻と妾も押しかけてきて慰謝料を請求するが、そんなことを気にする二人ではない。
再婚後、大阪の池田に住むが、ここで養蜂業を営もうとして例のごとく失敗。ここらで清子夫人も愛想を尽かしたか、哲学者田中玉堂といい仲になる。激怒した泡鳴は、探偵まで頼んで2人を尾行したあげく、「汝薄のろの哲学者よ、兎角汝は人の亭主の留守を狙いたがる」と誌上でタンカを切る。さらにその後、今度は泡鳴が筆記者の蒲原英枝と同棲し、「姦夫姦婦」と新聞ネタにされる。清子は当然ながら激怒して同居請求を提出、泡鳴も負けじと離婚承諾請求を提出、法廷闘争となるが、泡鳴は敗訴。しかし、持ち前のムチャクチャな行動力を発揮し、家から家財道具一式を持ち出して新聞種にされたりの大騒ぎを起こす。
晩年は半獣的神秘主義、刹那主義、日本主義を標榜して「日本主義」という雑誌を創刊するが、自分勝手でおまけに薄っぺらい知識に基づいた議論ばかりなので、ほとんど売れなかったという。このころの代表作とされる「征服被征服」は春陽堂から出版され、徳田秋声、正宗白鳥、野口米次郎、西条八十、岡本かの子など60余名を集めて出版記念会が催されている。
この人も多作というかとにかく書きまくった人で、それも依頼されて書くことはほとんどなく、新聞雑誌社への持ち込みだった。正宗白鳥は「泡鳴全集は全18巻出ているが、47で早逝しなければ50巻100巻を数えただろう。また、書いて持ち込んだが採用されず、活字になっていない文章はこの3倍はあるのではなかろうか」と書いている。
とにかく一生、自分を反省することなく、自分が正しいと信じ込んでいた人だった。こういう小説家も珍しい。  
新興会社繁盛記
紅葉から漱石まで、明治中期から末までのおよそ10年の間に、文壇は激動した。これが出版社にも影響を与えずにはおれない。
まず春陽堂について言えば、創業者の和田篤太郎鷹城が、明治32年に逝去した。享年43。2代目社長には篤太郎夫人のうめが就任した。そのうめ社長も、明治39年に夫の後を追う。享年53。3代目社長には、うめが篤太郎に嫁ぐ前の夫との間にもうけた連れ子、きんの娘、静子が就任した。つまり篤太郎とは血のつながりがない。
それとほぼ同時期、春陽堂と並んで二大出版社のひとつ、博文館の創業者、大橋佐平も明治34年に逝去。享年67。2代目社長には佐平翁の息子、新太郎が就任したが、博文館にとって痛かったのは、同年、大橋乙羽が享年32で死んでしまったことである。乙羽は硯友社から博文館に婿入りし、硯友社とのつながりを深めたのみならず、海外事情にも詳しく、博文館の知恵袋的役割であった。
春陽堂の番頭、手代はこれまで通り、2代目、3代目の社長に仕え、社業を盛り立てたが、やはりトップは創業者と違い、冒険はなかなかできない。どうしても篤太郎の時代に開拓した人脈に頼るところがあり、既に名をなした大家の本を出版するという、安全策に頼るようになっていく。それは佐平と乙羽を失った博文館も同じことで、どうしても両社とも、既存の作家に頼りがちになっていく。そして新人作家発掘の作業は、じょじょに他社に奪われていく。
明治後期以降、新人作家発掘の任を担ったのは、中央公論社、新潮社などの新興出版社であった。
中央公論社の最初は、文芸出版社ではなかった。
新島襄の同志社設立など、キリスト教の活発な活動に危機感を抱いた仏教界の雄、西本願寺の大谷光尊は、大学林(のちの龍谷大学)、普通学校(のちの平安中学→平安高校→龍谷大学付属平安高校)を創設した。
この大学林の生徒が禁酒をモットーとするサークル「反省会」を設立したのが明治19年。翌明治20年には、「反省会雑誌」を創刊する。明治25年には「反省雑誌」と改名するが、道徳教育をメインにした論文誌だった。
明治30年、「反省雑誌」の夏期付録として、はじめて文芸ものを掲載した。幸田露伴、正岡子規、高山樗牛、与謝野鉄幹、高浜虚子らが書いたその付録は2,000部をすぐ売り切り、300部増刷するという好評。ただしあくまで付録で、本誌は論説のみの雑誌だった。
明治32年には現在の「中央公論」に改名。
そして明治37年に滝田樗陰が入社。彼が編集長の麻田駒之助の反対を押し切り、明治38年から中央公論本誌に小説を掲載するようになった。これで売れ行きが大幅増となり、月5,000部を売り切るほどに成長した。
樗陰は明治・大正期の名編集者と呼ばれ、芥川龍之介、菊池寛、谷崎潤一郎、佐藤春夫、室生犀星など数多くの新人を見出しデビューさせた。樗陰が乗った人力車が自宅の前を素通りしたため、落胆して高熱を出し寝込んだ若手作家がいたくらいである。中央公論がのちに文壇の雄となったのは、ひとえに滝田樗陰の力であった。
新潮社の創業者は佐藤義亮。明治11年の生まれだから、春陽堂の開業の年に生まれたわけだ。
明治28年に上京。秀英社(現在の大日本印刷)で校正の仕事をしているうち、出版に興味を抱き、明治29年に「新声社」を設立、「新声」を発刊した。投書以外はすべて義亮が書いたといわれる。これがなぜか800部を完売したため、すぐ2号も刊行。3号から「文壇風聞記」を開始。今でいう文芸誌のゴシップ記事の嚆矢である。これがさらに評判を高めるが、よくネタにされた硯友社からは忌み嫌われる。
それもあってか、春陽堂、博文館にすでに抑えられている大家を避け、河東碧梧桐、田山花袋などの新進作家を狙って出版する。特に田山花袋、徳田秋声、島崎藤村ら自然主義作家を大胆に登用し、「新声」は自然主義の牙城とも呼ばれた。
「新声」は売れるが、義亮は本を作ることだけに夢中で、集金をおろそかにしたため、「新声社」は未収金の貸し倒れのため財政がどんどん悪化。ついに明治36年、義亮は「新声社」を売却。
しかし、このくらいでへこたれる義亮ではない。翌明治37年には「日露戦争の今こそ、文学が必要なのだ」と「新潮社」を新たに設立、「新潮」を発刊する。
中央公論における滝田樗陰の役割を果たしたのが、中村武羅夫だった。明治40年に入社し、新潮社の中心人物となる。樗陰ほど派手な人物ではなかったが、芥川龍之介、佐藤春夫の主な作品を出版し、文壇に重きをなすようになった。
もうひとつ、ユニークな出版社があった。金尾文淵堂である。
文淵堂は金尾種次郎という人物が創業したが、この人物、どんな見ず知らずの作家でもなにか書いているという噂を聞きつけるや、即座に「ゲンコウイタダキタシ」と電報を打つので作家から恐れられていた。昭和2年に徳富蘆花が死んだときは、葬儀の席で蘆花未亡人に「全集をうちから出版させてくれ。ダメならここで首をくくる」と脅迫した、直情径行の社長である。
明治32年に大阪で文芸雑誌「ふた葉」を創刊、さらに薄田泣菫のデビュー作「暮笛集」を出版してこちらも出版社デビュー。ちなみに上記の逸話を書き残したのはこの人の「茶話」である。
ところが明治36年に出版した「社会主義詩集」が発禁となり、行き詰まって東京へ夜逃げ。明治37年、東京で持ち前の強引さをもって「早稲田文学」の版元となるかたわら、与謝野晶子「みだれ髪」が当たり大儲け。
しかし明治40年、満を持して出版した「仏教大全集」が大コケ、明治41年にはふたたび破産。それでも不屈の闘志で再起し、明治44年には田村俊子「あきらめ」、与謝野晶子「新釈源氏物語」、北原白秋「印度更紗」を出版して社を立て直す。ちなみに白秋の弟で、のちアルス社を興す北原鉄雄も社員だった。
しかしこれで力尽きたのか、大正10年、徳富蘆花「日本から日本へ」出版を最後に発行点数が急激に減少。大正12年の関東大震災で社屋は丸焼け、また大阪に夜逃げする。
昭和に入っても細々と出版を続けてきたが、昭和22年、金尾種次郎の死去をもって会社も終焉をむかえる。  
早すぎた同人作家
いま、漫画同人誌の世界では、制作費数百円程度の薄っぺらいフルカラー本に千円以上の定価をつけ、コミケットや同人誌委託販売店、通信販売などで千部単位で売りさばき、年間に1千万以上の収入を得ている同人誌作家が数十人はいるという。彼ら(彼女ら)は商業誌から声がかかっても、自由に描けて収入も多い同人誌を選び、プロデビューはしない。また冨樫義博のように、かつて少年ジャンプの看板作家でありながらも、同人誌に仕事の比重を移していき、商業誌での仕事は主に休載、という作家も存在する。彼ら(彼女ら)は現代はじめて現れた存在ではない。商業出版社からの出版社を拒み、自費出版に賭けたひとりの作家、島崎藤村が明治時代にいた。
藤村ははじめ詩人として出発した。明治30年に「若菜集」を春陽堂から出版し、詩壇の注目をあびる。その後、「若葉集」「一葉舟」「夏草」を春陽堂から出版し、浪漫派詩人としての地位を確立する。しかし明治時代の小説家が生活に苦しむ以上に、詩人の生活は苦しかった。当時、詩が商業誌に掲載されても原稿料が支払われるのは稀で、藤村が雑誌社に原稿料を請求に行くと、「え、原稿料いるんですか?」などと言われることも多かったという。しかも当時、印税契約をしているのは鴎外など特別な作家のみで、藤村の詩は買い取り、いちど売ったら何千部売れても詩人の懐には一文も入らない。
いくら名ばかり高くなっても、詩では食えないと悟った藤村は小説家への転身をはかるが、彼には詩人時代の、苦い想い出があった。のちに藤村の息子翁助が書いたものによると、
日本橋にあった春陽堂の店なども、旧い暖簾の奥深く、番頭さんや小僧さんが前だれをかけてきちんと坐り、奥の間に通されるのは流行作者だけだったという。泉鏡花氏などは自由に奥の間に通る作者の一人だったという。父は詩の草稿をたずさえ、この店先へ腰を降ろす度に、暖簾の奥に秘められた作者と出版元との封建的つながりを嘆じ、旧弊な戯作者の立場から一歩も出ていない小説作者の前進を思えば、身を挺してでも革新の風をもたらしたいと願う心持が「破戒」の自費出版の形となって現れたものだという。
さらに藤村には屈辱と感じたことがあった。処女詩集「若菜集」を春陽堂から出版する際に、広告文も自分で書くように求められたのだ。それまで広告文は出版社か、少なくとも他の人間が書くものと思っていた藤村は断るが、春陽堂の番頭は、
「皆様そうして頂いております。どうして先生方の中には、本文よりも広告文の方に骨を折ってくださる方もおります」と、微笑しながら言い放ったのだ。これを藤村は、出版社から作者への嘲笑と感じた。
これら藤村が屈辱と感じたことは、当時の文人なら、漱石や鴎外など極一部の例外を除き、誰でも経験したことである。しかし藤村は山国出身特有の、よく言えば粘り強い、悪く言えば執念深い性質だった。これらの屈辱を胸に秘め、小説のデビューはどこの出版社の世話にもなるまい、自分で作って自分で売ってやる、と決意したのだ。有名詩人島崎藤村が処女小説「破戒」を執筆しているという噂を聞きつけた金尾文淵堂の主人は、例によって「ゲンコウイタダキタシ」の電報を送ったが、藤村は黙殺した。
藤村は出版費用の金策に走り回った。ときあたかも、日露戦争の真っ最中である。津軽沖にロシアの潜航艇が出没して商船を沈めているという噂におびえつつも、函館に渡り、妻、冬子の父親で、網問屋を営む秦慶治から400円の借金をする。さらに雪道を草鞋がけで歩き、小諸義塾で親友となった佐久の地主、神津猛に400円の借金を申込むが、神津も咄嗟のことなのですぐには融通できず、とりあえず手元にあった150円を借りる。のち、さらに60円を借りる。この610円を元手として、藤村は「破戒」の自費出版に乗り出す。
明治39年、藤村ブランドの「緑蔭叢書」第一篇として自費出版された「破戒」は、漱石や抱月に絶賛され、たちまち初版1,500部を完売した。2年後には第5版も残500部を数えるようになったから、1版1,000部として5,000部となる。定価70銭だから、3,500円が藤村の収入になったことになる。
これだけ見ると藤村自費出版で大儲けのようだが――実際、嵐山光三郎や坪内祐三はそう思っているらしいが(余談だが、坪内のこの発言があった「週刊SPA!」に掲載された坪内と福田和也の対談「文壇アウトローズ世相放談」には、尾崎紅葉の死後の家族貧窮など、事実誤認が多い)――、どうもそうはうまくいかなかったようである。
その証拠に「破戒」出版の1年ほど後、藤村はまたも神津猛に借金申込みの手紙を出している。大意は「『破戒』の5版は500部を残すのみとなったが、この売上だけでは、次の小説『春』が完成するための生活費にはとうてい足りない。なんとか200円貸してもらえないだろうか。でないと家族が飢え、『春』の執筆もおぼつかない」というものだった。
これに対して太っ腹な神津猛は、言われるままに200円を藤村に渡す。どうやら自費出版は、藤村のプライドを守ることはできたが、金銭的には成功とはいえなかったようだ。
ちなみに神津猛はこのときも含め、藤村のパリ生活費など、トータルで1,080円を藤村に貸しているが、返ってきたのは660円だったという。そのうち400円は、昭和2年に返済された。神津猛が頭取を勤める滋賀銀行が、金融恐慌にまきこまれて倒産。神津は家財もなげうって貧窮しているという話を聞き、もはや文豪となって金に困らぬようになった藤村が至急送ったものである。友情物語と言うべきか。
小川菊松は「出版興亡五十年」のなかで、藤村の自費出版をこう評している。
「出版屋との利益をヌキにして、ご自分の実収を多くしようとせられたのであったら、これは決して、賢明の策ではなかったと思うのである」
やはり餅は餅屋。「破戒」くらいの傑作だったら、しかるべき書店に預ければ、大々的な宣伝もするだろうし、販売策も考え、もっと売れたはずだという。さらに単発の自費出版のため、継続的に集金する出版社と違って、集金率は低かっただろう、というのだ。当時はコミックマーケットのような、同人誌作品の宣伝と販売を兼ね備えた便利な展示会などなかった。これが藤村の不幸であった。
のち藤村は、大正2年にフランスへ洋行するとき、緑蔭叢書の「破戒」「春」「家(上巻、下巻)」「微風」「後の新片町より」計6冊の版権を2,000円で新潮社に売却する。詩集の版権は春陽堂に50円で売却する。春陽堂の買い取り価格があまりに安いように思うが、「若菜集」など初期の詩集は既に買い取りで版権が春陽堂にあったのだろう。大正5年に帰国したとき、新潮社はその版権を藤村に返却したらしい。これについて瀬沼茂樹は、「評伝島崎藤村」の中で、「新潮社は帰朝後、藤村に版権を返却して私することがなかった。同じ出版社でも、春陽堂の態度と異なるところである」と、春陽堂にイヤミを書いている。どうも藤村研究をしていると、藤村の執念深さが研究者にも憑依するらしい。藤村本人も、大正6年ごろ田中宇一郎に、「いくら売り払ったにしろ、増版の場合に、幾部か本を著者に贈るだけでもしてくれないものかね」と春陽堂に不満を漏らしている。島崎藤村のような執念深い人間に、根に持たれてしまったことが、春陽堂の不幸であった。 
大衆文学の源流
なしくずしに明治から大正へ時代を移してしまったが、ここで少し明治に戻り、春陽堂が明治30年に出した書籍目録を見てみよう。ここには代表的作家18人が写真入りで著作を紹介されている。これをジャンル別に分類してみると、いわゆる文学作家。尾崎紅葉、饗庭篁村、坪内逍遙、森鴎外、石橋忍月、川上眉山、巌谷漣(小波)、広津柳浪、幸田露伴、山田美妙。いわゆる大衆小説作家。村井弦齋、ちぬの浦(村上)浪六、宮崎三昧、遲塚麗水、須藤南翠。文学と大衆小説のかけもち。江見水蔭。評論・随筆の作家。福地櫻痴、齊藤緑雨。
このうち文学・評論関係の作家はあえて説明する必要もあるまい。ただ幸田露伴と石橋忍月は春陽堂の「新小説」の主筆を勤め、春陽堂と関係の深い作家だった。「新小説」は赤字のままだったようだが。ちぬの浦(村上)浪六、江見水蔭についてはすでに触れた。村井弦齋は自費出版の「食道楽」がもっとも有名で、かつ売れた。小説の内容は陳腐で見るべきところはないが、随所にちりばめられたレシピ目当てに女性が多く買っていったという。書いてある栄養学や食品学の蘊蓄は今読むと噴飯物が多いが、その点も含め「美味しんぼ」の原点のような本である。宮崎三昧は饗庭篁村や幸田露伴と並んで根岸派と目されていたベテランで、歴史小説や花柳小説を書いていた。遲塚麗水は紀行文で名が知られ、各地で採集した伝説をもとに時代小説を書いている。須藤南翠は明治10年代から名の売れたベテランで、毒婦もの、歴史もの、政治裏面ものなど多種多様なジャンルの小説を新聞連載していた。大衆小説とはいっても彼らは、江戸末期の滝沢馬琴あたりの流れをくみ、読むにはある一定の教養を必要とした。
徳川の流れに花をうつせし寛文二年寅の七月、奉行所よりの町触れに「町人若きもの大びたひ取使者有之、自今已後無用可仕事」とありしを五十餘年の昔しと見て、正徳のすへ享保の頃ろ、又もや唐犬額に板倉屋源七が餘被りの障子鬢かき上げて銀の針線を元結とし、身の拵へ衣裳の作りづくり小唄に残る深見十左を其まま縄鼻緒の駒下駄に江戸の八百八町を踏鳴らし、男の中の男と立てられし次郎吉といふ六方むきの臂突あり、辱めを受くれば……  (村上浪六「三日月」より)
というような文体だから、大衆小説とはいっても、少なくとも新聞(文語体で文体がいかめしく、現在より豊富な漢字を使っていた)が読める程度の人間、少なくとも中等学校くらいは出た官吏や会社員、その奥様が暇つぶしに読む、といった小説だった。つーか、少なくとも私には理解できてません。尋常小学校もまともに出ていないような小僧や丁稚にとっては、娯楽は小説にはなく、町でやっていた寄席で落語や講談を聞くことだった。
大正時代になると、「大衆」の範囲が一気に拡大する。学校教育が普及し、識字率の上昇とともに、小僧や丁稚も、読者層として出版界がとりこんでいく情勢となっていくのだ。きっかけは明治時代にある。伝説の名人、三遊亭円朝の落語を速記で文章におこした「円朝筆記本」は言文一致体の誕生に大きく貢献したが、読み物としても大きな人気を得た。これにより講談や落語の筆記本が売れるようになっていった。しかしこれも、
今日より怪談のお話を申上げまするが、怪談ばなしと申すは近来大きに廃りまして、余り寄席で致す者もございません、と申すものは、幽霊と云うものは無い、全く神経病だと云うことになりましたから、怪談は開化先生方はお嫌いなさる事でございます。それ故に久しく廃って居りましたが、今日になって見ると、却って古めかしい方が、耳新しい様に思われます。これはもとより信じてお聞き遊ばす事ではございませんから、或は流違いの怪談ばなしがよかろうと云うお勧めにつきまして、名題を真景累ヶ淵と申し、下総国羽生村と申す処の、累の後日のお話でございまするが、これは幽霊が引続いて出まする、気味のわるいお話でございます。  (三遊亭円朝「真景累ヶ淵」より)
といった文章だから、小僧や丁稚がおいそれと読めるものではなかった。それ以前に、明治も30年代くらいまでは尋常小学校の就学率が5割前後だから、字が読めない人間もかなりいた。それが明治33年の第3次小学校令、市町村立小学校費国庫補助法により、初等教育が無償となり、就学率はいきなり8割を超える。明治末にはほぼ100%となる。小僧や丁稚も、尋常小学校に通い、字が読めるようになったのである。
(ならば、小僧や丁稚が読めるような本を作ればいい)
と考える人間が、大正期になると現れてくる。
その代表例が、野間清治と、立川熊次郎である。
野間清治は明治11年、群馬の剣術使いの息子として生まれた。父好雄は、麻布に道場をかまえる北辰一刀流の剣客、森要蔵のもとで剣術を学ぶ。ちなみに森要蔵は門弟や息子の寅雄とともに会津城での官軍との戦いに参加し、戦死。のち、要蔵のひ孫、寅雄を野間清治は養子とし、実子の恒とともに剣術修業を重ね、昭和8年にあった昭和天覧試合の東京府予選で恒と寅雄は決勝で対戦、寅雄がわずかに強いかと思われたが、意外にも恒が2本を取って優勝した。恒は全国大会でも優勝を果たしている。
父好雄は武士身分だったらしいが、明治維新により暮らしが立たなくなり、東京へ出て乾物屋を開業するが、「武士の商法」の通り失敗。当時、榊原謙吉が剣客救済のため行っていた「撃剣会」の剣術試合見世物興行に出演し、かろうじて糊口をしのいでいた。
そんなだから生活も苦しい。清治は明治28年、芝の静観書院を出るとすぐに、日給20銭で桐生近くの木崎尋常小学校の代用教員となる。勤務が認められたのか、翌29年には郡長推薦で師範学校に入学。おそらく学費や生活費の援助を受けていたと思われる。師範学校では文章と演説、そして剣術が得意な、典型的バンカラ学生だった。明治33年に卒業、群馬県山田第一高等小学校の訓導(今でいう正式教員)となる。月俸16円。明治35年には学校に無断で東京帝国大学の臨時教員養成所を受験、合格して入学。明治37年には沖縄中学校に赴任する。これはおそらく、月俸40円という高給に釣られたものだろう。
明治40年には東京帝国大学の法科主席書記に採用され、ふたたび東京に舞い戻る。ここで学長の許可を得て、東京帝大弁論部の速記原稿を集め、「雄弁」を発刊、「大日本雄弁会」を設立する。しかし本社は団子坂の自宅だった。
明治43年に出た「雄弁」創刊号は、定価20銭で初版6,000部を売り切り、2版3,000部、3版5,000部を刷るという大人気。この余勢を駆って「明治雄弁集」を昭文館から出版。これもよく売れた。
さらに野間清治は、貧しかった少年時代を思い起こしたのか、それとも博文館「文芸倶楽部」の増刊号で講談、落語の速記がよく売れているのを見ていてか、講談を中心にした雑誌の発刊を思いつく。しかし硬派の雄弁会としては、低俗な講談本を一緒に出すわけにはいかない。
そんなわけで明治44年、講談社を新たに立ち上げ、「講談倶楽部」を発刊した。
「講談倶楽部」の創刊号は1万部刷って実売1,800部とアテハズレだったが、翌年分光堂から「講談世界」が発刊され、競争したのがかえって好結果を生み、「講談倶楽部」は8〜9千部、「講談世界」は6〜7千部と、安定した売れ行きを得る。
ところが大正2年、「講談倶楽部」に危機が訪れる。きっかけは「講談倶楽部」が講談とともに、当時流行の浪花節を掲載したこと。これに講談師が猛反発した。当時講談は寄席で語られ、仁義礼智信を大衆に啓蒙するものとして講釈師は自負とプライドを持っていた。その講談雑誌に、大道で音曲を唸り投げ銭を貰う乞食同様の浪花節を載せるなどもってのほか、というわけだ。講談師、速記者は連名で「講談倶楽部」に浪花節を掲載しないことを要求。野間清治はこれを拒否。これにより講談社と講談師は絶縁する。困った野間清治は、講談の様式、題材をとりいれ、平易な文章で書く「新講談」を中里介山、長谷川伸、江見水蔭、村上浪六らに書かせる。これが当たり、「講談倶楽部」はかえって部数を伸ばした。
ちなみに講談社の成功は、雑誌の内容だけではなく、大胆な宣伝、コストカットによる経費節減も大きい。
これについてはあまりよく言われていない。箸袋に雑誌の広告を入れたり、チンドン屋をつかって宣伝する講談社は出版社の矜恃を失ったものと批判された。また総理や大臣の名前を勝手に使ってコメントや推薦文を捏造、前田珍男子博士発明として「パミール」なる化粧水を大々的に宣伝するが、前田博士はまったく知らなかった等のインチキは日常茶飯だった。講談社では「どりこの」なる滋養強壮の清涼飲料水なるものを大々的に宣伝して販売していたが、これも「砂糖水に味の素をまぜただけのシロモノ」と酷評されている。「私も愛飲しています」のたぐいの有名人コメントも多くは無許可捏造だったらしい。
コストカットも結局は執筆者の稿料を値切り、安月給で社員を酷使し、印刷所を恫喝して値切りに値切るという、弱者をしいたげることによる成果だった。まあ、これは今ならどこの会社でもやっていることだが。そんなわけで講談社といえば大正期には、俗悪出版社、悪徳出版社として有名だった。まともな出版社として認められるのは大正も末、「キング」の創刊以降からである。
「立川文庫」で有名な立川熊次郎は、明治13年、姫路の農家に生まれる。父親が米相場で失敗したため、生活は苦しかったらしい。幼少から製粉所で働き、小金を貯めて大阪で商売をはじめるが、失敗する。しかしやがて、姉のかじが岡本増次カと結婚。岡本増次郎は岡本増進堂という赤本問屋の創業者である。その縁で熊次郎も明治33年、増進堂の社員となる。
ちなみに赤本というのは当時の蔑称である。もともとは江戸時代、女子供向けに昔話や教訓話を書いた草双紙や絵双紙の表紙が多く丹色だったため、赤本と呼ばれた。これが明治以降もそのまま引き継がれ、女子供向けの絵入り本を赤本と呼び、これを取り扱う出版社は、春陽堂や博文館などより2ランクも3ランクも下の会社と思われた。大正末から昭和にかけては内容に限らず、版権も著作権もいいかげんで、まともな本屋では流通せず、夜店で叩き売られるような三流出版社やそこから出る本を総称して赤本屋、赤本と呼ぶようになった。主に大阪に多かった。赤本差別は太平洋戦争後まで続いており、手塚治虫や長谷川町子は昭和30年代ごろまで、当時漫画界の大御所だった近藤日出造から「大阪の恥知らずの赤本あがりの俗悪マンガ家」と罵られていた。
そんな赤本の世界に身を置き、大衆の嗜好を肌で感じながら、熊次郎は本屋の経営を学び、やがて明治37年、独立して「立川文明堂」を開業する。最初は日露戦争のさなかということで「日本軍歌集」を出版し、大売れする。
そんな熊次郎の「立川文明堂」と、講談師玉田玉秀斎の出逢いが、「立川文庫」を産んだ。
玉田玉秀斎は安政3年の生まれで、先代玉田玉秀斎に入門、玉麟の名をもらい講談師となる。真面目な勉強家だったが、どうも語り口が淡泊で、脂っこい語り口を好む大阪の客には受けない。
そんな彼をなぜか見込んだのが、廻船問屋日吉屋の娘、山田敬である。むろん、大店の嬢はんと貧乏講釈師とでは身分が違いすぎる。敬は玉麟をそそのかし、駆け落ちする。それが祟り、玉麟は寄席にも出入り禁止となる。当然、貧乏はますます嵩じて貧窮となる。
そこで敬が目をつけたのが、当時流行の速記講談である。これなら寄席に出なくてもよい。速記者の山田都一郎をくどき落とし、故郷に捨ててきた娘、寧と結婚させる。玉鱗の講談を都一郎が速記して柏原奎文堂から出版。これが当たり、玉麟は先代の死後、玉秀斎を襲名することができた。
しかし都一郎は寧と離婚、玉秀斎から離れる。その代役として起用されたのが敬が故郷に捨ててきた息子、山田阿鉄。彼は山田酔神と名乗り、速記を引き受ける。しかし素人の悲しさ、講釈をそのまま文にすることができない。そこで抜けているところを適当につなぎ、文章にすると長ったらしいと思ったところは大胆にカットした。これがかえって読みやすく、人気を呼ぶ。
当時の東京では、紅葉や漱石などのよく売れた名作を小型の版型に直し、安価に売るのが流行していた。いわゆる袖珍本である。着物のたもとに入れておける本という意味で、今の文庫本に相当する。
山田酔神はこれに目をつけ、講談本を袖珍本で出版することを思いつく。この企画を大阪のあちこちの出版社に持ち込んだがどこでも断られ、最後に立川文明堂でようやく熊次郎の承諾を得る。
明治44年、立川文庫の第一巻、「一休禅師」が出版される。そして立て続けに「水戸黄門」「大久保彦左衛門」「荒木又右衛門」「真田幸村」と出し、いずれもよく売れる。そして大正3年、初の架空人物「猿飛佐助」が大人気となり、第1期の忍者ブームをまきおこす。この忍者ブームに乗って、尾上松之助主演の映画「地雷也」「猿飛佐助」「霧隠才蔵」が封切られ、こちらも大人気となる。
立川文庫の文章は、
欺くにその道を以てすれば君子も防ぎ難し。短気無類の源心入道は、猿飛佐助の計略にかかり、ただ一刀に伊勢崎五郎兵衛を斬り倒した。倅五郎三郎はこの体見るより大いに驚き、五「ヤヤッ、こりゃどうじゃ」と、遮らんとするところを、源心入道すかさず飛び掛かり、エイと叫んで細首丁と打ち落とす。 (立川文庫第四十編「猿飛佐助」より)
といった文体で、やたらに調子がいい。しかし、難しい漢字や人名にはルビが振ってあるものの、この文章を小僧丁稚や小中学生が読めたのだから、当時の漢字識字率は今よりも高かったのだろう。今なら小中学生は当然として、大学生すら読めるかどうか怪しい。
余談だが、忍者ブームの第2期は昭和35年ごろ、五味康祐「柳生武芸帖」や山田風太郎「甲賀忍法帖」「魔界転生」や司馬遼太郎「梟の城」「風神の門」などの小説や、市川雷蔵主演映画の「忍びの者」シリーズ、TVドラマ「隠密剣士」などが代表。第3期忍者ブームは昭和45年ごろ、白土三平「サスケ」「カムイ伝」や藤子不二雄「忍者ハットリくん」や横山光輝「伊賀の影丸」などの漫画、TV特撮の「忍者部隊月光」「変身忍者嵐」「快傑ライオン丸」などが代表。次々とメディアを変えながらブームを起こしていくさまは、まさに変幻自在な忍者さながらである。
さらに余談だが、「くノ一」という言葉は五味康祐の創作。「上忍、下忍」という言葉はもともと術が優れているか下手かの意味だったのを司馬遼太郎が身分関係に改変し、白土三平が「中忍」という言葉も創作して壮大な忍者のヒエラルキーを完成させた。
立川文庫の功績は売れたこともそうだが、江戸期の講談や読本から現代の時代小説、映画、TVドラマ、アニメ等につなぐ役割を果たしたことが大きい。水戸黄門、大久保彦左衛門、一休さん、真田十勇士、大石内蔵助、宮本武蔵、牛若丸、弁慶、安倍晴明、柳生十兵衛などはいずれも、立川文庫を経て江戸期から現在に受け継がれた人物である。
これら講談本、立川文庫などは、当初の丁稚、小僧から小中学生にまで読者層を広げることに成功した。本は貸本屋で貸し出しされることが多かった。5日借りて5銭程度だったという。販売価格は25銭で、読み終わった本に3銭足せば新しい本と交換してくれたという。安くとも1円近くする単行本に比べ、貧乏な丁稚や学生には手頃な娯楽だったわけだ。 
大正の叢書勝負
大正時代とひとくくりにするのは難しい。大正12年9月の関東大震災を境に、すべてが大きく変わったからだ。むしろ、大震災前後で分けるほうがすっきりする。関東大震災の後は、昭和初年まで連続してつながることが多いからだ。
ここでは、関東大震災前の出版界について。
かつての二大出版社のひとつ、博文館はゆるやかに凋落していた。いや、凋落という言葉は適切ではないか。
創業者の大橋佐平翁は亡くなったが、その息子新太郎は博文館主として、また印刷の博文館印刷所(のちの共同印刷)、取次の東京堂(のちのトーハン)、用紙取扱の博新社洋紙店、ニュース通信の内外通信社、絵葉書・美術書印刷の精美堂、教科書出版販売の日本書籍、有料図書館の大橋図書館などの大橋コンツェルンを率い、いずれも順調に業績を伸ばしていた。また、東京瓦斯、大日本麦酒、日本硝子、朝鮮興業、日本郵船、王子製紙、三井信託などの役員も勤め、商工会議所の会頭候補として名前が挙げられるほどになっていた。さらには衆議院選挙にも当選し、政界にも進出していた。まさに政財界の大立者である。
社長があまりに大物になりすぎて、博文館のほうの経営がお留守になりがちだったのである。
たとえていえば、松永光弘がプロレスラーの副業としてステーキハウスを開業したところ、安くて旨いので客が殺到し、支店を作るだのフランチャイズ展開するだのの盛況となりすぎ、プロレスは店の経営の片手間に、暇をみてリングに上がる状況になってしまったようなものだろうか。
また、明治28年に10銭で発売した懐中日記、明治29年に発売した当用日記が爆発的に売れ、博文館本社も「日記さえ売ればいいや」的な雰囲気が漂いはじめたのも原因のひとつだろう。いちおう大正5年には永井荷風の「ふらんす物語」「あめりか物語」を出版し、「太陽」や「文章世界」など文芸雑誌も出しているから、文芸を捨てたわけではないのだが、だんだんと学術書、実用書、少年少女向けの本、軍事書などの比率が多くなっている。
そしてわが春陽堂はといえば、新潮社を相手に苦闘を続けていた。
大正3年、3代目社長の和田静子と結婚した和田利彦が4代目社長に就任した矢先のことである。
当時、中央公論はまだ出版部がなかった。よって文芸書の出版元といえば、古豪の春陽堂と新鋭の新潮社、この2大出版社で覇権を争っていた。そしてその戦いは、文芸叢書の出版競争にバトルフィールドを移していた。
新潮社が大正3年に「代表的名作選集」全44巻を刊行すれば、明治文学の遺産我にありとばかりに春陽堂は大正5年に「名家傑作集」全14巻を刊行して対抗する。それならばと新潮社が大正6年に「新進作家叢書」全45巻を出すと、春陽堂もすかさず同年に「新興文芸叢書」全18巻で迎え撃つ。
こんな調子で、新潮社「情話新集」全12冊VS春陽堂「侠艶情話集」全4冊の人情話対決、新潮社「感想小品叢書」全11冊VS春陽堂「自然と人生叢書」全11冊のエッセイ対決、新潮社「現代脚本叢書」全17冊VS春陽堂「現代戯曲選集」全11冊の戯曲対決など、数々の名勝負を繰り広げた。
ついには春陽堂は「ラヂオドラマ叢書」全5冊などというラジオドラマの脚本集、「ヴェストポケット傑作叢書」全19冊という文庫本サイズの普及本まで刊行したが、新潮社に「トルストイ叢書」全12巻、「ヱルテル叢書」全8巻、「現代仏蘭西文芸叢書」などと苦手分野の西洋文学を突きまくられ、さらに「現代自歌選集」全6巻、「最近日本文豪評伝叢書」全4巻、「現代詩人叢書」全20巻などというのまで刊行され、じわじわと押されて劣勢となっていった。
「大正期の文芸叢書」で、紅野敏郎はこう書いている。
この叢書の企画、実践によって、「新潮社」は明治期の文芸出版の中心であった「春陽堂」を現場の感覚において追い越したと見ることも出来る。
新潮社の優勢勝ちになりそうだったこの叢書レースを強引に中止させたのが、大正12年の関東大震災である。 
大震災前の大正は
関東大震災後の大正に移る前に、それ以前の大正文芸について整理してみよう。
大正時代の代表的作家としては、次のような面子が並ぶ。
まずは明治時代から引き続き活躍している、田山花袋、徳田秋声、島崎藤村、正宗白鳥らの自然主義派と、正宗白鳥の親友近松秋江。
徳田秋声に師事し、自然主義の流れをくむ私小説家の葛西善蔵。
明治の大衆作家広津柳浪の息子で、葛西と同人誌をともにした広津和郎。
フランス文学を学び、慶応大学で「三田文学」を創刊した永井荷風。
永井荷風に認められてデビューした谷崎潤一郎。
「三田文学」からデビューした、いわゆる三田派の水上滝太郎、久保田万太郎。
早稲田大学の「早稲田文学」からデビューした、いわゆる早稲田派の宇野浩二、小川未明、谷崎潤一郎の弟精二。
谷崎の親友で、詩人から小説家に転じ、のちには谷崎と夫婦を交換した佐藤春夫。
同じく詩と小説のかけもちで、北原白秋に見出された室生犀星。
学習院のお坊ちゃんが集結した白樺派の志賀直哉、武者小路実篤、里見ク、有島武郎、有島生馬。
夏目漱石の弟子、芥川龍之介、久米正雄。
芥川の親友で、事情あって東京大学から京都大学に移ったため、芥川や久米よりややデビューが遅れた菊池寛。
菊池寛の「文藝春秋」でデビューし、新感覚派と呼ばれた横光利一、川端康成、今東光。
のちにプロレタリア陣営に参加する藤森成吉。
だいたいこんなところだろうか。
これらの作家が小説を発表するおもな舞台としては、雑誌では春陽堂の「新小説」「中央文学」、博文館の「太陽」「文章世界」、新潮社の「新潮」、中央公論社の「中央公論」などがあり、単行本の出版では春陽堂と新潮社がしのぎを削っていたことは前に書いたが、その他に、大正時代に誕生し、文芸界に大きな影響を及ぼした2社がある。
まずは改造社。
改造社を創業した山本実彦は、明治18年に鹿児島で生まれた。
日露戦争勃発の明治37年、薩摩の大先輩で当時、桂太郎内閣で逓信大臣をつとめる大浦兼武を頼り上京。床次竹二郎内務大臣の書生兼護衛のようなことをしていたらしい。
明治41年、やまと新聞に月俸10円で入社。しかし「政権亡者」とまで呼ばれた床次の影響なのか、それとも生来のものなのか、大正2年には新聞社を辞めて東京市会議員選挙に立候補、当選。また桂太郎に近い後藤新平から金を引き出し、東京毎日新聞を買収する。
メディアと人脈と金づるを掴み、意気揚々と大正4年、憲政会公認で衆議院選挙に立候補するが、選挙期間中に収賄容疑で召喚され、それが祟って落選。しかしここで諦める人間ではない。大正6年には東京毎日新聞を売却し、その金でシベリア視察の旅に出る。その調査謝礼として、「政界の黒幕」「昭和の怪物」などの異名を持つ久原房之助から6万円を受け取る。床次といい後藤といい久原といい、政界の暗い面と積極的につながっている感がある。
久原から貰った6万円の半分で浅間台に豪邸を買い、残りの半分で大正8年、雑誌「改造」を創刊した。
「改造」の第1号をぱらぱらめくってみた中央公論の滝田樗陰は「編集方針に一貫したものがない」と鼻で笑い、ライバルになる資格もないと黙殺したが、文壇を驚かせたのはその原稿料であった。
たとえば広津和郎を例にとると、「改造」発刊前の大正7年、「中央公論」の原稿料は1枚1円、「文章世界」は60銭、「太陽」は80銭、「新潮」は70銭であった。その広津に「改造」が支払った原稿料は、相場のほぼ倍、1枚1円80銭だった。
これに他社も対抗せざるを得ず、「新潮」は「改造」と同額の1円80銭に増額。「中央公論」の滝田樗陰は、全執筆者に「改造」以上の原稿料を出すべきと社長にかけあったが認められず、やむなく「改造」と同額、一部人気作家のみ「改造」以上として、広津に2円の原稿料を払った。
原稿料の倍増で、作家は「改造」様と呼び感謝したという。
3号までは滝田樗陰の感想通り、不人気で売れ行きの悪かった「改造」だが、横関、秋田の編集委員が山本社長を説得し、社会思想中心の左寄りの編集方針にしたことが成功する。「改造」4号の「労働問題、社会主義」号は、3万部を2日で完売したという。
大正9年には社会主義的キリスト教徒、賀川豊彦の「死線を越えて」が連載開始。同年に出版された単行本はその年のうちに80万部を売る大ベストセラーとなった。大正10年には志賀直哉「暗夜行路」の連載開始。
こうして一大出版社となった改造社は、大正12年の関東大震災を迎えることになる。
つぎは文藝春秋社。
文藝春秋社を創業した菊池寛は、明治21年に高松で生まれた。生家は貧乏だったが、幼少から秀才の名高く、明治41年、東京高等師範学校に入学する。秀才だが田舎者の菊池は、おそるおそる蕎麦屋に入って、いちばん安い「もりかけ8銭」という札を見て「おい、もりかけをくれ」と注文したという話がある。それが、あっという間に都会の風に染まり、芝居小屋に出入りするようになって、欠席過多のため退校処分。
「頭はいいのだから」と地元の素封家に見込まれて養子となり、学資を出してもらってふたたび上京。明治大学、早稲田大学に入学するがすぐに退学。明治43年、かねてから念願だった一高を受験し、合格。芥川龍之介、久米正雄、山本有三らと席を並べる。しかし卒業寸前の大正2年、動機の親友だった佐野文夫(のちの日本共産党中央委員)が友人のマントを盗んだのをかばい、罪をかぶって退学処分になる。
事情を知る同級生、成瀬正一が同情し、父親から学費を引き出してくれ、京都帝国大学の英文科選科に入学する。同人誌「新思潮」に参加し、ときの京大文学部長、上田敏の紹介で小説家としてデビューしようとするが、冷淡な上田敏に失望。
大正5年、京大卒業後、時事新報に入社、社会部に所属するが、記者としては無能であったという。
作家として売り出すべく、さまざまな雑誌に持ち込むが、なかなか掲載してもらえない。このころ、先に売り出した芥川龍之介や久米正雄に「君たちの紹介で、年に1回でも小説を雑誌に載せてはくれないだろうか」と弱音を吐いている。
大正7年、当時の新進作家登竜門であった「中央公論」に「無名作家の日記」「忠直卿行状記」を発表し、ここではじめて念願の作家としての地位を確立した。ちなみに「無名作家の日記」は、編集長の滝田樗陰が「このまま載せてもかまいませんか」と念を押したほどに、鮮やかにデビューした芥川龍之介に対する羨望と嫉妬と悪口に満ちている。
大正8年には時事新報を退社、毎日新聞の客員となって作家生活に専念。小説とともに、戯曲「父帰る」「恩讐の彼方に」「唐十郎の恋」でも著名となる。
大正9年には毎日新聞に連載した「真珠夫人」が評判になり、大衆小説家としても成功する。
そして大正12年に「文藝春秋」を創刊。創刊号は随筆のみ掲載した。
編集のみを文藝春秋社で行い、印刷から販売までは春陽堂に委託した。
はじめはポケットマネーで同人誌を作るような気分で始めたらしい。「気まぐれで出した雑誌だから、売れ行きがよければ続けるかもしれないし、原稿が集まらなくなったら、来月にでも廃すかもしれない」と書いている。
ところがこれが大売れした。表紙がそのまま目次となっている斬新なデザイン、10銭という格安な定価、そして何よりも、友人の芥川龍之介が執筆していることが大きかった。当時、佐藤春夫、谷崎潤一郎と並んで大正の三大作家のひとりだった芥川龍之介は、病身のうえ文章に彫琢を重ねるため量産ができず、「中央公論」か「文藝春秋」でしか読むことができなかった。
大正12年1月の創刊号は3,000部を完売。2月の第2号も4,000部完売。3月の第3号も6.000部刷って返品わずか200部。4月の第4号で1万の大台に乗った。定価が20銭になったせいか、返品率が1割4分となった。5月の第5号には、はじめて小説を載せ、「臨時創作号」とした。横光利一が「蠅」でデビューした。横光や川端康成、今東光ら「文藝春秋」の作家たちの多くは春陽堂から単行本を出版し、春陽堂の潤うもとともなった。
順調に部数を伸ばしてきた「文藝春秋」だが、1周年も迎えない大正12年の9月、関東大震災を迎えることになる。 
関東大震災と円本ブーム
この時期にこんなことを書くのは不謹慎というか、気まずい感じがしてならないのだけれど、春陽堂の歴史の中ではどう考えても、次はこの事件が出てくるわけでして。
大正12年9月1日、午前11時58分44秒、雨が降ったあとの蒸し暑い関東地方の正午直前に、マグニチュード7.9の地震が発生した。伊東では12メートルの高波を生じて300戸の住宅が波に呑まれた。大地は隆起と陥没を起こし、茅ヶ崎では1.4メートル、大磯では1.8メートル隆起、逆に東京の本所、深川では38センチ、亀戸では25センチ陥没した。
この地震で東京府の家屋1万6千戸以上が倒壊、2万戸以上が半壊した。横浜市では全壊が9,800戸、半壊が1万1千戸弱、あわせて全家屋の2割以上が被害を受けた。このとき、鎌倉の大仏も首が落ちた。浅草名物の十二階も8階でポキリと折れた。
地震による家屋の倒壊もさることながら、昼食の準備に火を使っていた時間帯であることもあり、発生した火災による被害も凄まじかった。東京市の43.5%にあたる約1,050万坪の面積、戸数にして約31万戸が全焼。死者は6万8千人余。横浜市では市の9万9千戸中、6万3千戸が全焼、死者は2万3千人を超えた。トータルの死者は10万人を超えるとされている。
生き残った者も、家族とはぐれてさまよい、上野公園の西郷さんの銅像は、家族の消息を訊ねる張り紙でびっしりと埋め尽くされたという、その中には「○○氏の居所をお知らせください」と書いた張り紙に、あとで別人の手で「逝去」と書きたされたものもあり、人の涙を誘った。
またパニック状況のなかでデマが多く飛び交った。青山御所が全壊した、摂政殿下(昭和天皇)は京都に逃げた、松方正義と高橋是清が圧死した、安田善次郎は焼死した、徳富蘇峰は津波にさらわれて死んだ、山本権兵衛首相は暗殺された、等々。
中でも有名なのが例の「朝鮮人が爆弾で各地を爆破し、井戸に毒を投げ込んでいる」というデマである。これを真に受けた青年団、在郷軍人会や群衆が各地で朝鮮人を虐殺した。その数は吉野作造の論文によると2,613人、在日朝鮮同胞慰問会の調査では約6,000人とされている。また訛りが強かったり、エラが張っていたり、目がつり上がっていたりしたため朝鮮人と間違えられて殺された日本人も57人、中国人も4人が確認されている。
他にも大本教信者は爆弾テロを企てている、社会主義者が政府転覆を企てているなどというデマが流れ、これを本気にしたのか利用したのか分からないが、陸軍の甘粕憲兵大尉は、社会主義者の大杉栄とその妻子を虐殺している。亀戸警察署は社会主義者としてマークしていた人物13人を殺害している。
震災後に流行した言葉に「この際だから」というのがある。「この際だから我慢しよう」「この際だからそれでよかろう」などといって、不便に耐えたり、ご祝儀を贈らなかったりする時によく使われた。甘粕大尉も、「この際だから大杉をやっつけよう」と言って犯行に及んだらしい。
この大震災で、日本橋に本社のあった春陽堂、博文館は本社社屋、倉庫ともに倒壊、消失した。金尾文淵堂も社屋が潰れて大阪へ移転した。春陽堂に出版を委託していた文藝春秋の菊池寛は、「刷り上がった9月号は全部焼けてしまった。これで文藝春秋もダメだ。大阪にでも移転しようか」と弱音を吐いている。
しかし牛込に本社があった新潮社、本郷に本社のあった講談社は無事だった。これが新旧出版社の交代を決定的にしたともいわれている。
そんな中、震災で大打撃を受けながらも、むしろこれからがチャンスだと雄々しく立ち上がる出版社があった。
関東大震災により本社が全焼した改造社で、社長山本実彦は、編集部員をこういって叱咤激励した。
「うちも丸焼けになったが、多くの家が焼けた。本も焼けた。全部焼けた。いまこそ本が求められている。それも作家ぜんぶだ。一冊ずつ買っていてはらちがあかない。これからは全集だ。それも定価を安くして、一般人でも本を買えるようにしよう」
これが震災後の円本ブームの発端となった。
震災の3年後、改造社は「現代日本文学全集」の刊行を高らかに宣言した。第1回配本は「尾崎紅葉集」。予約販売で1冊1円。従来の半値以下である。「1円で自宅に文学図書館を」というキャッチフレーズ。当時、世界恐慌の影響でカナダの製紙用パルプがダンピングされ、紙価格が下落していたのがこの値段を可能とした。
これが当たり、初回締切時に当時としては破天荒な25万という予約数を集めた。トータルでの売れ行きは30万から40万といわれる。
これを挑戦と受け止め、敢然と受けて立ったのが和田利彦社長率いる、わが春陽堂である。
和田利彦社長は全社員を集め、「このままだと自分とこの発行物をみな改造社に持っていかれてしまう。もしもこの全集が失敗したら店をとじる。乾坤一擲だから全力を尽くしてくれ」と訴えた。
改造社の「日本文学全集」予約開始の翌年、昭和2年に春陽堂は「明治大正文学全集」の企画を発表する。創業50周年記念企画と銘打ち、明治の文学われにあり、老舗の意地を見せるのはこのときとばかりに改造社と正面戦争に挑む。そして改造社とほぼ同数、23万5千という予約数を集めた。
春陽堂が「改造社の尾崎紅葉集には金色夜叉が入っていない(版権が春陽堂にあるため)。永井荷風も読めない(荷風が全集という形式に難色を示していたため)。改造社の全集は欠陥商品。ウチしか読めない金色夜叉と永井荷風」と改造社を挑発すると、改造社は負けじと永井荷風を高額印税でくどき落とし、大幅増頁で対抗する。
春陽堂が「初回予約先着5万人には、全集完結後に豪華専用書棚進呈」と宣伝すれば、改造社は「我が社は予約者全員に書棚さしあげます」と対抗、これに春陽堂も「ウチでももれなく特製書棚あげます」と応じる。
「現代日本文学全集」VS「明治大正文学全集」のみならず、改造社が「日本探偵小説全集」を出せば春陽堂も「探偵小説全集」を出し、改造社が「マルクス・エンゲルス全集」を出せば春陽堂は「クロポトキン全集」を出し、改造社が「運動叢書」を出せば春陽堂は「健康増進叢書」を出し、改造社が「谷崎潤一郎全集」を出せば春陽堂は「荷風全集」を出し、改造社が「偉人傳全集」を出せば春陽堂は「世界人傳記叢書」を出し、あまねくすべての分野で改造社と春陽堂は張り合っていた。
こうして改造・春陽の全面戦争は、数年前の欧州大戦のごとき総力戦と化し、ずぶずぶの泥沼にはまりこみつつあった。
この全面戦争を制したのは改造社であった。
勝因は、改造社の円本にルビがついていたのに対し春陽堂の円本にはルビがなく、大衆には改造社のほうが読みやすかったこと、同ジャンルの円本で改造社がつねに半年くらい先行していたこと、春陽堂は手持ちの資産に頼って作家総数268人と少なかったのに対し、改造社は作家全般を網羅し作家総数586人と多かったこと、などがあげられる。
文学研究者の保昌正夫は、春陽堂の「明治大正(のちに昭和を追加)文学全集」について、「どこかスッキリしない、ズサンな印象」「いかにも春陽堂という老舗の、お店ふうな、おおざっぱな編集」と評している。
作家の丸谷才一は、「当時は、改造社の現代日本文学全集と春陽堂から出た明治大正文学全集というのがあって、改造社のもののほうが手に入れやすかったように思います」と発言している。
しかし負けた春陽堂も、円本ブームで儲けられたことは確かで、これで新社屋を新築している。
いわゆる円本は、改造社と春陽堂の他に、新潮社、金港堂、岩波書店など数々の出版社が参加し、大正15年から昭和3年までに出たものだけで約300種類、総発行部数260万部と概算されている。
円本ブームの功罪については、さまざまな人が語っている。
皮肉屋の宮武外骨は「圓本流行の害毒と其裏面談」という本を出し、その中で「1.無謀なる出版による経済原則の破壊、悪謀・卑劣の術策流行。2.他人翻訳の改作、版権の二重転売等圓本著訳者の悖徳。3.図書尊重の念を薄からしむ。4.当初「予約金1円、分売不可」なりしものが販売競争の結果グダグダに崩れ中途解約自由、分売自由となり予約出版の信を失わしむ。5.……」と圓本害毒16ヶ条を挙げて円本ブームを批判している。
「日本書籍商史」で大久保久雄も、出版社の規模拡大、出版技術の進歩、文学の大衆化など円本の功績を評価しながらも、生産過剰のなかでの出版競争、中途解約者の続出、一般書籍の不振、コストカットのため出版社、印刷所の雇用条件悪化などの罪悪を指摘している。
それよりも春陽堂にとって痛い批判は、小川菊松が「出版興亡五十年」に書いている批判であったろう。
「春陽堂の円本は、蛸が自分の足を食うような行為であった。自分で自分の資産を食いつぶしたのである。円本以降は旧版の再版もできなくなってしまった。自殺行為である」
円本は1冊1円、売れ残ったものは河野書店や春江堂などのゾッキ専門店に10銭くらいで払い下げられ、それらの本は夜店などで20銭から30銭で叩き売られた。だれも昔の作家の本に1円以上は払う気がしなくなってしまったのである。 
緩慢なる衰退
円本ブームで力を使い果たしたのか、春陽堂はその後、太平洋戦争後まで、さしたる動きがない。
ひとつには円本の在庫処分に忙殺されていたこともあるが、やはり切り札を切ってしまったあとの虚脱感と、もうどうしようもない、動こうにも動けない状態だったのではあるまいか。
高見順の「昭和文学盛衰史」は、大正9年に行われた、明治文学の生き残りである田山花袋、徳田秋声の生誕五十年祝賀会で明治・大正の文学から昭和文学へ移行する兆しにはじまり、太平洋戦争で著者が徴用されビルマに送られるまでを書いた、戦前昭和の文壇やその周辺を当事者として見、聞き、書いた記録である。
この本の中には、春陽堂書店のことはたった一度しか触れられていない。それも、昭和14年、高見順や丹羽文雄、石川達三ら三十代の中堅作家が集まって「新風」という雑誌を春陽堂で出す話が、途中でストップがかかり、「社が経済的に行き詰って、雑誌を出す能力がないと言う」という、情けないエピソードである。どうやら昭和十年代、もはや春陽堂には、あまり売れない文学雑誌などを出す体力がなくなり、そっちの方は新潮、中央公論、文藝春秋、改造社、金星堂など元気な出版社にまかせてしまっていたらしい。
春陽堂の文学雑誌の大黒柱ともいうべき「新小説」を見れば、そのへんの推移がよくわかる。
大正14年の正月に出た「新小説」の新年号のラインナップは、横光利一、宇野千代、小川未明、中村武羅夫、小島政二郎ら、新鋭大家の錚々たる小説が並ぶ。正月号ということだからだろうか、これら純文学に加えて、別冊として時代小説集の長谷川伸、土師精二、直木三十三(まだこのときは三十五でなく、年齢と共にペンネームを変えていた)、小酒井不木、エッセイ二編、時評三編が加わる。これで総計ほぼ250ページ。
これが潰れた号の昭和25年6月号となると、純文学がまったく影をひそめる。有名どころの名前は出てくるが、草野心平「安井東京都長官におくる」、伊藤整「学校といふもの」、正宗白鳥「私の養生法」など、すべて時事評論もしくはエッセイである。小説は、尾崎士郎、藤森成吉など、巻末にちょっととってつけたように、しかも時代小説ばかりが並んでいる。総計140ページ。
どうやら昭和に入って、春陽堂、博文館の二大文芸出版社は、いずれも儲からぬ純文学から撤退、もしくは時代に取り残されてしまい、大衆向けの小説専業となってしまったらしい。
博文館は森下雨村が出版部門の沈滞を脱すべく社業の立て直しをはかり、横溝正史などを編集長に起用して「新青年」「探偵小説」などの雑誌で探偵小説を旺盛に掲載していった。そんな中から誕生したドル箱作家が江戸川乱歩である。
春陽堂はさきほどの雑誌ラインナップでもわかるように、時代小説を主にしている。岡本綺堂、三田村鳶魚、子母沢寛、直木三十五などを起用し、現代に至る春陽堂文庫=時代小説文庫というイメージを固めている。
ちなみに春陽堂文庫は昭和7年発刊。当初は長塚節「土」をはじめとして、文学文庫の役割だった。同年に日本小説文庫を発刊、こちらが江戸川乱歩、直木三十五、岡本綺堂らを起用し、時代小説集の強い大衆小説文庫の役割だった。
太平洋戦争前には、この他にも世界名作文庫、英学生文庫、春陽堂少年文庫、大日本文庫、新作ユーモア全集、新文庫、等々さまざまな文庫を出版する。というか昭和7年以降、春陽堂の出版物はほぼ文庫と実用書と軍事ものに限られてくる。
そんな中で昭和7年に江戸川乱歩、佐々木味津三、直木三十五、12年に佐々木邦、14年に大下宇陀児、海野十三、海音寺潮五郎、15年に城昌幸、16年に横溝正史、山手樹一郎など、戦後の春陽堂を支えた作家をとりあげていったのである。 
敗戦後の復興
昭和20年8月15日、日本敗戦。これとともに文学も戦後文学へと移り変わってゆく。そのとき、春陽堂はどう動いたか。時代の変化を察知し、春陽堂の新社長が打った手は。今回はこれがテーマです。
敗戦後の春陽堂5代目社長には、和田欣之介が就任する。実際の社長就任は昭和23年だが、先代の社長が戦時協力出版の罪で公職追放されていたため、それ以前から実質的には社長だったらしい。3代目社長の静子と、4代目社長の利彦との間に生まれた子である。夫から妻、その養女、その婿と変則的な相続が続いた和田家としては、はじめての親から実子への社長継承であった。
敗戦後しばらくは、焼けた社屋の再建、社員の復員(そもそも欣之介社長自体が、昭和16年から敗戦まで軍隊にとられていた)、インフレやパージ、紙の配給制などで出版界はむちゃくちゃに混乱。闇市で儲けた金をモトにヤミ成金が出版界に殴り込み、新興のカストリ雑誌やゾッキ本があふれる中、その日を生きていくのにかつかつで、手を打つもなにも、やりようがなかった。焼け残った戦前の原板をそのまま印刷・販売して、なんとか食っていくことしかできなかった。ちなみに敗戦後初の出版は、昭和21年の長塚節「土」である。どんだけ土好きやねん、とツッコミたくなる私の気持ちも察してほしい。
戦後の混乱もようやく落ち着いたのが昭和25年である。この年の8月、欣之介は株式を発行して株式会社へ改組、その社長に就任する。
翌年の昭和26年、戦前には各種バラバラに出ていた文庫を「春陽文庫」として一括、出版をはじめる。最初のラインナップは白井喬二、子母沢寛、村上元三、江戸川乱歩、大下宇陀児、山手樹一郎、城昌幸(若さま侍)、野村胡堂(銭形平次)、富田常雄(姿三四郎)、三上於菟吉、佐々木邦、獅子文六、久生十蘭(顎十郎)、直木三十五、横溝正史、佐々木味津三(右門)。
以上は戦前の大衆小説メンバーであるが、これに26年角田喜久雄、27年山田風太郎、28年島田一男、、北條修司(王将)、30年北条誠、34年陣出達郎、中野実、35年笠原良三(サラリーマン出世太閤記)、鮎川哲也、南條範夫、36年城戸禮、37年樫原一郎、38年神坂次郎、菊田一夫、39年笹沢佐保、川内康範、41年黒岩重吾、42年司馬遼太郎、水上勉、若山三郎、棟田博(拝啓天皇陛下様)、43年池波正太郎、早乙女貢、田辺聖子、童門冬二、富島健夫、44年江崎俊平、園生義人、46年西村京太郎、柴田錬三郎と相次いで登場し、ここに春陽文庫ワールドが完成するのである。
それとともに業績も上向き、昭和37年におよそ1億円だった売上高が、昭和50年には7億5千万円まで伸び、株式配当も10%から20%と、堅調に推移していくのであった。
昭和30年代から40年代にかけての、全盛期の春陽文庫ワールドは、四本柱からなっている。
第一の柱は時代小説、第二の柱は探偵小説。これには山田風太郎や司馬遼太郎、角田喜久雄や鮎川哲也など戦後新人も加わっているものの、戦前からあった二本柱である。
戦後に加わったあと二本の柱は、活劇アクションとユーモア風俗。これに欣之介社長は、映画やTVのシナリオライターを投入していった。
活劇アクションでは、赤木圭一郎の日活映画「抜き打ちの竜」の脚本を書いた城戸禮、テレビドラマ時代劇「三匹の侍」の脚本を書いた柴英三郎など。
風俗ユーモアでは、クレイジーキャッツの無責任シリーズ脚本家の笠原良三と、「君の名は」であまりにも有名な菊田一夫を筆頭に、新東宝「狂った欲望」の原作を書いたロリコン下着フェチ作家園生義人、ホームドラマ「いつでも君を」の脚本を書いた小松君郎、東映の「警視庁物語シリーズ」の脚本を書いた長谷川公之、NHK大河ドラマ「花の生涯」の脚本を書いた北條誠、脚本は書いていないが日活の企画・宣伝に長く携わった小川忠悳など。
映画からテレビへ映像娯楽の主役が移り変わる過渡期に、春陽堂は映像娯楽のテンポを積極的に文芸娯楽へと導入していったのである。
その結果、貸本屋での貸出件数ビッグ3に、源氏鶏太、山手樹一郎、城戸禮と、春陽堂作家が独占するという快挙を成し遂げた。
貸本屋で、というのがミソである。水木しげるやつげ義春が貸本漫画出身というのは有名な話だが、そのちょっと前には、雑誌や小説の貸本が隆盛をきわめていた時代があった。20円や30円で借りられる貸本小説は、低所得者や貧乏学生の友であって、単行本購入者とは階層も好みも違っていたのである。単行本を500円も600円も出して買う中流以上の階級は、三島由紀夫や山岡荘八を買っていた。
余談だが私は自分の金(むろん親からもらった小遣だが)で本を買うようになった時期、ぎりぎり昭和40年代にかかっている。
そのころ近所に、漫画にせよ小説にせよ、貸本屋はなかったし、貸本屋がよその土地で流行っているという話も聞いたことがない。小遣いは月に漫画雑誌3冊か、漫画単行本もしくは文庫本を2冊買うと吹っ飛ぶ程度。
ということで私たちがやっていたのは、友人間の貸本制度である。ある者は少年チャンピオン、ある者は少年マガジン、ある者は少年サンデーと購入分担を決め、回し読みしていた。単行本も買った者からぐるりと回覧されていた。小遣いを与えられないから本が買えないメンバーも除外せずグループに入っていたように思う。
ビデオデッキも普及していなかったから、貸しビデオ屋もなかった。貸しレコード屋はあっただろうか、なかったような気がする。もちろんCD誕生以前の話である。ファミコンも発売されていなかったから、貸しゲーム屋もなかった。考えてみれば私の世代は、いちばん購入がつらい小中学生の時期に、ありとあらゆるレンタルショップが存在していなかったような気がする。
あのころは、レコード一枚、漫画一冊、文庫本一冊買うのに、マジで生活がかかっていた。これを買ったら半月は買い食いできない、という意味での生活だが。
閑話休題。
源氏鶏太、山手樹一郎に比べると、城戸禮はいまではほとんど知られていない作家だが、昭和30年代から40年代にかけては絶大な人気を誇っていた、当時の流行作家だった。いまでいうと西尾維新みたいな存在だろうか。
文体はまさに日活アクション映画の文字版という作風で、テンポが速く、擬音を多用し、読者を引きずり込む迫力がある。
「三四郎シリーズ」「快男児シリーズ」「つむじ風シリーズ」「暴れん坊シリーズ」「大学生シリーズ」「新入社員シリーズ」「刑事シリーズ」等々のシリーズ作品を合計400冊以上書いている。最大のヒット作は竜崎三四郎という超人主人公が活躍する「三四郎シリーズ」だが、単行本では別な主人公だったのに、春陽文庫には竜崎三四郎として書き換えられたものもいくつかある。作者の意向なのか、春陽堂の都合なのか、それは知らない。
人気の反面、「主人公が超人すぎて手に汗握らない」「どれを読んでも同じような内容」との酷評もある。まあ、主人公の名が三四郎でも違っていても通用するくらいだから、あながち外れている批判でもない。
平成7年、逝去。 
 
添田唖蝉坊 / 書生節と演歌師

 

書生節は明治初期に、書生(今でいう大学生)が作って歌った流行歌です。「書生書生と軽蔑するな、末は太政官のお役人」が元歌です。書生の多くは、地方出身で、高官や富裕層の家に寄宿し、立身出世を望んで学業に励んでいました。これらの歌は、1883(明治16)年頃から政治や社会に対する批判を歌詞に込め、街頭で歌うようになり、自由民権運動と結びつきを深めていきます。彼らの歌う歌を演説に変えた歌という意味から「壮士自由演歌」「壮士節」といいました。これが「演歌」の始まりです。
明治20年代後半になると、自由民権運動が勢いを失い、新しく普及しだした唱歌や軍歌に押されて、これらの歌は衰退しました。しかし、日露戦争の頃(明治30年代)、添田唖禅坊が、《ラッパ節》で成功を収め、「演歌」は再び隆盛の時代を迎えました。この頃に、《金色夜叉の歌》も生まれました。その旋律は、従来のかたい調子を改め、唱歌や軍歌など流行している歌を用いたもので、政治性よりも流行歌として性格が強くなっていきます。さらに大正時代には、職業化し、書生のいでたちで流し歩く芸人となり、「演歌師」と呼ばれる人たちが登場してきます。   
演歌師
明治末期ないし大正から昭和にかけての日本において、演歌を歌うことを職業とした芸人。もともとは、おもに大道を流し歩いて歌の歌詞を書き付けた歌本を販売するのが一般的であったが、後には座敷芸、寄席芸として歌を披露することも行なわれた。伴奏楽器としてはおもにバイオリンやアコーディオンが用いられ、自分で楽器を演奏しながら歌う形態が一般的であった。第二次世界大戦後になると、流しの異称、ないし、一形態として了解されるようになり、伴奏楽器もギターが用いられることが多くなった。 
添田唖蝉坊 (そえだあぜんぼう・1872-1944)
神奈川県生まれ。演歌師。本名は平吉。横須賀で見た壮士の街頭演歌に感動し、演歌壮士の団体から印刷物を取り寄せ、ひとりで演歌を始めた。その後、作詞作曲をするようになり、特に日清戦争後は疑獄や世相を批判し、歌と演説で社会改良に取り組むようになった。堺利彦の知遇を得て社会党の評議員になった。時世を鋭く巧みについた演歌を多数残した。

(旧字体表記では「添田啞蟬坊」、明治5年-昭和19年) 明治・大正期に活躍した演歌師の草分けである。「唖」と「蝉」が当用漢字でないことから、添田亜蝉坊と表記されることもある。本名・平吉、号は自らを「歌を歌う唖しの蝉」と称したところから由来。
神奈川県の大磯の農家の出で、四男一女の三番目の子として生まれる。
叔父が汽船の機関士をしていた関係で、海軍兵学校を志願して上京したが、受験勉強中に浅草の小屋掛芝居をのぞいたのがきっかけで、その世界にのめり込む。海軍兵学校には入学せず、汽船の船客ボーイになり、2年で挫折。以後、横須賀で土方人夫、石炭の積み込みなどの仕事に従事していたが、明治23年、壮士節と出会う。当時は政府が廃藩置県、地租改正、学制、徴兵令、殖産興業などの政策を実行している最中で、自由民権運動も盛んな時代であり、「オッペケペ」で有名な川上音二郎らの壮士芝居も、この時代のものである。
唖蝉坊は、最初の演歌といわれる「ダイナマイト節」を出した青年倶楽部からその歌本を取り寄せて売り歩いたが、のち政治的な興奮が冷めていくと、政治批判ではない純粋な演歌を目指して、自身が演歌の歌詞を書くようになる。唖蝉坊が最初に書いたといわれているものは、「壇ノ浦」(愉快節)、「白虎隊」(欣舞節)、「西洋熱」(愉快節)などで、明治25年の作である。これ以降、「まっくろけ節」「ノンキ節」「ゲンコツ節」「チャクライ節」「新法界節」「新トンヤレ節」と続く。昭和5年に「生活戦線異状あり」で引退するまでに182曲を残したという。明治34年に結婚し、本所番場町に居を構えた。翌年長男の添田知道(添田さつき)が生まれる。この頃、友人と始めた「二六新報」がうまくいかず、茅ヶ崎に引っ込むが、「渋井のばあさん」と呼ばれていた知り合いの流し演歌師に頼まれてつくった「ラッパ節」が、明治38年末から翌年にかけて大流行する。幸徳秋水・堺利彦らとも交流を持つ。こうしたことがきっかけで、堺利彦に依頼を受け、「ラッパ節」の改作である「社会党喇叭節」を作詞。明治39年には、日本社会党の結成とともにその評議員になるなどし、その演歌は、社会主義伝道のための手段になる。
明治43年、妻タケが27歳で死去。唖蝉坊は悲嘆して、知道の妹は他家に養子にやられる。やがて唖蝉坊は、当時の有名な貧民窟であった下谷山伏町に居を定めた。なおここは、一軒が四畳半一間、それが十二軒ずつ四棟、計四十八軒ならんでいたので、「いろは長屋」と呼ばれていた。その後、全国行脚をしながら、屑屋の二階に居候。そこで死去した。浅草、浅草寺の鐘楼下に添田唖蝉坊の碑が、添田知道筆塚と共にある。
「金々節」
金だ金々 金々金だ 金だ金々 この世は金だ
金だ金だよ 誰が何と言おと 金だ金だよ 黄金万能
   金だ力だ 力だ金だ 金だ金々 その金欲しや
   欲しや欲しやの顔色目色 見やれ血眼くまたか目色
一も二も金 三・四も金だ 金だ金々 金々金だ
金だ明けても 暮れても金だ 夜の夜中の 夢にも金だ
   泣くも笑うも 金だよ金だ バカが賢く 見えるも金だ
   酒も金なら 女も金だ 神も仏も 坊主も金だ
坊主可愛や 生臭坊主 坊主頭にまた毛が生える
生えるまた剃るまたすぐ生える はげて光るは つるつる坊主
   坊主抱いてみりゃ めちゃくちゃに可愛い
   尻か頭か 頭か尻か 尻か頭か 見当がつかぬ 
   金だ金だよ医者っぽも金だ
学者・議員も政治も金だ 金だチップも賞与も金だ
金だコミッションも賄賂も金だ 夫婦・親子の中割く金だ
   金だ金だと 汽笛がなれば 鐘もなるなる ガンガンひびく
   金だ金だよ 時間が金だ 朝の5時から 弁当箱さげて
ねぼけ眼で 金だよ金だ 金だ工場だ 会社だ金だ
女工・男工・職業婦人 金だ金だと 電車も走る
   自動車・自転車・人力・馬力 靴にわらじに ハカマにハッピ
   服は新式 サラリーマンの 若い顔やら 気のない顔よ
神経衰弱 栄養不良 だらけた顔して 金だよ金だ
金だ金だよ 身売りの金だ カゴで行くのは お軽でござる
   帰る親父は 山崎街道 与市べえの命と 定九郎の命
   勘平の命よ 三つの命 命にからまる サイフのひもよ
小春・治兵衛 横川忠兵衛 沖の暗いのに 白帆がみえる
あれは紀の国 みかんも金よ 度胸どえらい 文左衛門だ
   江戸の大火で暴利を占めた 元祖・買い占め・暴利の本家
   雪の吉原 大門うって まいた小判も  金だよ金だ
お宮貫一 金色夜叉も 安田善次郎も 鈴弁も金だ
金だ教育 学校も金だ 大学・中学・小学・女学
   語学・哲学・文学・倫理 理学・経済学・愛国の歴史
   地理に音楽 幾何学・代数 簿記に修身 お伽に神話
コチコチに固くなった頭へ詰める 金だ金だと むやみにつめる
金だ金だよ 金々金だ そうだ金だよ あらゆるものが
   動く・働く・舞う・飛ぶ・走る ベルがペン先が ソロバン玉が
   足が頭が 目が手が口が 人が機械か 機械が人か
めったやたらに 輪転機が廻る 金だ金だと うなって廻る
「時事」に「朝日」に「万朝」「二六」 「都」「読売」「夕刊報知」
   捨子・かけおち・詐欺・人殺し 自殺・心中・空巣に火つけ
   泥棒・二本棒・ケチンボ・乱暴 貧乏・ベラ棒・辛抱は金だ
金だ元から 末まで金だ みんな金だよ一切・・金だ
金だ金だよ この世は金だ 金・金・金・金 金金金だ

歌詞は長いが、皮肉がこめられ、庶民にはフラストレーションの解消にもなる。当時の路上ライブみたいに歌って、話題になったのだろう。現代では、原発反対、秘密保持法反対と、多くの市民大衆が心に思ってもその不満の捌け口がない。上に立つ、マスコミも、コメンテーターも、口をつぐんでいる。せいぜい、山本太郎がでしゃばって、国会議員に当選しても、同じ立場の大衆が足を引っ張り、マスコミがいじめる。だから、アタマに500円玉はげができて、今も治らない。100年前も、今も国家権力の強さには辟易としている。庶民の意見を言える人をもっと暖かく応援しないと、ますます、100年前と同じになる。それに関心ない人が多くて・・・疲れる。 
「まっくろけ節」
労働者 下司(げす)よ下郎とバカにする それが開化か文明か
労働者がなけりゃ世はマックロケノケ (オヤオヤ マックロケノケ)
   箱根山 昔ゃ背で越す籠で越す 今ぢゃ夢の間 汽車で越す
   煙でトンネルはマックロケノケ
桜島 薩摩の国の桜島 煙(けむ)吐いて火を噴いて 破裂(おこりだ)し
十里四方がマックロケノケ

なんだかんだと、それでも平穏な時は、大正12年、関東大震災9月1日(死者10万5000人)が起きるまで続く。「きょうは帝劇、明日は三越」と言っていた日本をこの関東大震災で根底から覆した。モダン東京の象徴でもあった「浅草十二階」も倒壊して、東京の街は、四割ががれきになった。松井須磨子が唄う「カチューシャの唄」(大正2年)が大流行した。大正5年には「ゴンドラの唄」、東京では「浅草オペラ」がブームとなった。それらの流行は、第一次世界大戦後から関東大震災までで、“淡雪”のような大正ロマンの時代と称される。
関東大震災の前年、大正11年には、「おれは河原の枯れすすき」(船頭小唄)がヒット。この「船頭小唄」の大流行の最中、関東大震災が起こり、雨情の暗い歌詞、晋平の悲しい曲調から、この地震を予知していた童謡だったのではという説が流布した。 政府から軟弱な歌とクレームがついた。そんな歌を歌うから「関東大震災がおきるのだ」とも言われた。
演歌師の唖蝉坊は「俺は東京の焼け出され、同じお前も焼け出され どうせ二人はこの世では 何も持たない焼け出され」という替え歌で歌った。
このあと、20年後、東京は100回を超す空襲をうけ、町は焼け出され、3月10日の大空襲では、犠牲者は10万人を超える。これは自然現象ではないが、二十年あまりの間に、東京都民は二度も壊滅的な被害を受けた。責任を追及すればするほど、誰の責任かわからなくなるが・・・とにかく、東京は壊滅したのだ。100年間の中で最悪の出来事だ。いや、応仁の乱でさえ、これほどではない。有史以来の日本最悪の出来事を経験している。
そして戦後、人々は廃墟から復興を望んで、不死鳥のように蘇り、モダン都市“東京”ができた。これからが、本当の蘇りである。
これを、再び、成金のはびこる二極化繁栄にするのだろうか。人間の欲だけに任せては、理想郷は泥まみれになるというのに、アベノミックスを最上と考えていいのだろうか。日本人よ!判断力をもって、賢くなれ! 
あきらめ節
地主金持は我儘者で、役人なんぞは威張る者。
こんな浮世へ生れて来たが、我身の不運とあきらめる。
   お前この世に何しに来たか、税や利息を払うため。
   こんな浮世へ生れて来たが、我身の不運とあきらめる。
苦しかろうが又辛かろうが、義務は尽くさにゃならぬもの。
権利なんぞを欲しがる事は、出来ぬ者だとあきらめる。
   たとえ姑が鬼でも蛇でも、嫁は柔順(すなお)にせにゃならぬ。
   どうせ懲役するよなものと、何も言わずにあきらめる。
借りたお金は催促されて、貸したお金は取れぬもの。
どうせ浮世は斯様(こう)したものと、私ゃ何時でもあきらめる。
   米は南京、お菜(かず)はひじき、牛や馬ではあるまいし。
   朝から晩までこき使われて、死ぬより増しだとあきらめる。
どうせ此の世は弱い者いじめ。貧乏泣かせだ是非もない。
こんな浮世へ生れて来たが、我身の不運とあきらめる。
   汗を絞られ油を取られ、血を吸い取られた其の上に、
   投(ほう)り出されてふみつけられて、これも不運とあきらめる。
長い者には巻れて了(しま)え。泣く子と地頭にゃ勝たれない。
貧乏は不運で病気は不孝、時よ時節とあきらめる。
   あきらめなされよ、あきらめなされ、あきらめなさるるが無事である。
   私ゃ自由の動物だから、あきらめられぬとあきらめる。 
あゝわからない
あゝわからない\/。今の浮世はわからない。
文明開化といふけれど。表面(うはべ)ばかりじやわからない。
瓦斯(ぐわす)や電気は立派でも。蒸気の力は便利でも。
メツキ細工か天ぷらか。見かけ倒しの夏玉子。
人は不景気々々と。泣き言ばかり繰りかへし。
年が年中火の車。廻して居(ゐ)るのがわからない。
   あゝわからないわからない。義理も人情もわからない。
   私欲(よく)に眼(まなこ)がくらんだか。どいつもこいつもわからない。
   なんぼお金の世じやとても。あかの他人(たにん)にいふもさら。
   親類縁者の間でも。金と一言聞くときは。
   忽ちエビスも鬼となり。G眼(くまたかまなこ)をむき出して。
   喧嘩口論訴訟沙汰。これが開化か文明か。
あゝわからないわからない。乞食に捨児に発狂者。
スリにマンビキカツパライ。強盗せつ盗詐偽(さぎ)取財(しゆざい)。
私通姦通無理情死(むりしんじう)。同盟罷工や失業者。
自殺や餓死凍死(うへじにこゞへじに)。女房殺しや親殺し。
夫殺しや主(しゆ)殺し。目も当てられぬ事故(こと)ばかり。
むやみやたらに出来るのが。なぜに開化か文明か。
   あゝわからないわからない。金持なんぞはわからない。
   贅沢三昧仕放題。妾をかこふて酒呑んで。
   毎日遊んで居(を)りながら。金がだんだん増へるのに。
   働く者はあくせくと。流す血の汗油汗。
   夢中になつて働いて。貧乏するのがわからない。
   貧乏人のふへるのが。なぜに開化か文明か。
あゝわからないわからない。賢い人がなんぼでも。
ある世の中に馬鹿者が。議員になるのがわからない。
議員といふのは名ばかりで。間ぬけでふぬけで腰ぬけで。
いつもぼんやり椅子の番。唖かつんぼかわからない。
   あゝわからないわからない。当世紳士はわからない。
   法螺(ほら)を資本(もとで)に世を渡る。あきれ蛙の面(つら)の皮。
   あつかましいにも程(ほど)がある。其の癖芸者に振られたり。
   弄花(はな)に負けたりする時は。青くなるのがわからない。
あゝわからないわからない。今の坊主はわからない。
殊勝な面(つら)でごまかして。寝言念仏ねむくなる。
女をみだぶつ法蓮華経(ほれんげきやう)。それもしらがのぢいさんや。
ばあさん達が金着(きんちやく)を。はたく心がわからない。
   あゝわからないわからない。耶蘇(やそ)の坊主もわからない。
   飯も食へない人達に。アーメンソーメンうんどんを。
   食はせるなればよいけれど。聴かせるばかりで何になる。
   何も食はずにお前等の。まづい説教がきかれよか。
あゝわからないわからない。威張る役人わからない。
なぜにいばるかわからない。只(ただ)ムチヤクチヤに威張のか。
彼等がいばれば人民が。米搗(こめつき)バツタを見る様に。
ヘイ\/ハイ\/ピヨコ\/と。御辞儀するのがわからない。
   あゝわからないわからない。今のお医者はわからない。
   仁術なんぞといふけれど。本職はおやめでたいこもち。
   千代萩(せんだいはぎ)ではあるまいし。竹に雀の気が知れん。
   貧乏人を見殺しに。して居(を)る心がわからない。
あゝわからないわからない。弁護士なんぞもわからない。
をだてゝ訴訟を起させて。原告被告のなれあいで。
何をするのかわからない。勝つも負けるも人の事。
報酬貪(むさぼ)る事ばかり。何が義侠(ぎきやう)かわからない。
   あゝわからないわからない。なぜにわれ\/人間は。
   互(たがひ)に斯(か)くまで齷齪(あくせく)と。朝から晩まで働いて。
   苦しい目に遇ひ難渋の。事に出遇(であ)ふて死ぬよりも。
   辛い我慢をしてまでも。命を続けて居(を)るのやら。
   どう考へてもわからない。何を目的(めあて)に生存(ながら)へて。
   居(ゐ)るのかさつぱりわからない。我身で我身がわからない。
あゝわからない\/。善悪正邪(いゝもわるい)もわからない。
ます\/闇路(やみぢ)に踏み迷ひ。もだへ苦しむ亡者殿。
お前はホントニわからない。権利も自由もわからない。
経済問題わからない。いつまで迷ふて御座るのか。
   あゝわからないわからない。生存競争わからない。
   鉄道電気じやあるまいし。針金細工の綱渡り。
   こんな危険(あぶな)い事はない。こんな馬鹿げた事はない。
   死んだが増しかもわからない。あゝわからない\/。 
ああ金の世
ああ金の世や金の世や。地獄の沙汰も金次第。
笑うも金よ、泣くも金。一も二も金、三も金。
親子の中を割くも金。夫婦の縁を切るも金。
強欲非道と譏(そし)ろうが、我利我利亡者と譏ろうが、
痛くも痒くもあるものか、金になりさえすればよい。
人の難儀や迷惑に、遠慮していちゃ身がたたぬ。
   ああ金の世や金の世や。希望(ねがい)は聖(きよ)き労働の
   我に手足はありながら、見えぬくさりに繋がれて、
   朝から晩まで絶間なく、こき使われて疲れ果て
   人生(ひと)の味よむ暇もない。これが自由の動物か。
ああ金の世や金の世や。牛馬に生れて来たならば、
あたら頭を下げずとも、いらぬお世辞を言わずとも
済むであろうに、人間と 生れた因果の人力車夫(くるまひき)。
やぶれ堤灯股にして、ふるいおののくいぢらしさ。
   ああ金の世や金の世や。蝋色塗の自動車に
   乗るは妾か本妻か。何の因果ぞ機織りは、
   日本に生れて支那の米。綾や錦は織り出せど、
   残らず彼等に奪われて、ボロを着るさえままならぬ。
ああ金の世や金の世や。毒煙燃ゆる工場の、
危うき機械の下に立ち、命を賭けて働いて、
くやしや鬼に鞭うたれ、泣く泣く求むる糧の料(しろ)。
顔蒼ざめて目はくぼみ、手は皆ただれ足腐り、
病むもなかなか休まれず。聞けよ人々、一ふしを。
現代の工女が女なら、下女やお三はお姫さま。
   ああ金の世や金の世や。物価は高くも月給は
   安い。弁当腰に下げ、ボロの洋服破れ靴。
   気のない顔でポクポクと、お役所通いも苦しかろう。
   苦しかろうがつらかろうが、つとめにゃ妻子の(あご)が干る。
ああ金の世や金の世や。貧という字のあるかぎり、
浜の真砂と五右衛門は、尽きても尽きぬ泥棒を
押さえる役目も貧ゆえと、思えばあわれ、雪の夜も、
外套一重に身を包み、寒さに凍るサーベルの、
つかのま眠る時もなく、軒端の犬を友の身の、
家には妻の独り寝る、煎餅布団も寒かろう。
   ああ金の世や金の世や。牢獄(ろうや)の中のとがにんは、
   食うにも着るにも眠るにも、世話も苦労もない身体。
   牛や豚さえ小屋がある。月に百両の手当をば、
   受ける犬さえあるものを。「サガッチャコワイ」よ神の子が、
   掃溜などをかきまわし、橋の袂(たもと)や軒の下、
   石を枕に菰(こも)の夜具、餓えて凍えて行路病者(ゆきだおれ)。
ああ金の世や金の世や。この寒空にこの薄着。
こらえきれない空腹も、なまじ命のあるからと、
思い切っては見たものの、年取る親や病める妻、
餓えて泣く児にすがられて、死ぬにも死なれぬ切なさよ。
   ああ金の世や金の世や。神に仏に手を合わせ、
   おみくじなんぞを当てにして、いつまで運の空頼み。
   血の汗油を皆吸われ、頭はられてドヤサレて、
   これも不運と泣き寝入り、人のよいにも程がある。
ああ金の世や金の世や。憐れな民を救うべき、
尊き教えの田にさえも、我儘勝手の水を引く。
これも何ゆえお金ゆえ、ああ浅ましき金の世や。
長兵衛宗五郎どこにいる。大塩マルクスどこにいる。
   ああ金の世や金の世や。互いに血眼皿眼(ちまなこさらまなこ)。
   食い合い奪(と)りあいむしり合い、敗けりゃ乞食か泥棒か、
   のたれ死ぬか、土左衛門、鉄道往生、首くくり。
   死ぬより外に道はない。ああ金の世や金の世や。 
のんき節
學校の先生は えらいもんぢやさうな えらいから なんでも教へるさうな
教へりや 生徒は無邪氣なもので それもさうかと 思ふげな ア ノンキだね
   成金といふ火事ドロの 幻燈など見せて 貧民學校の 先生が
   正直に働きや みなこの通り 成功するんだと 教へてる ア ノンキだね
貧乏でこそあれ 日本人はえらい それに第一 辛抱強い
天井知らずに 物価はあがつても 湯なり粥なり すゝつて生きてゐる ア ノンキだね
   洋服着よが靴をはこうが 學問があろが 金がなきや やっぱり貧乏だ
   貧乏だ貧乏だ その貧乏が 貧乏でもないよな 顏をする ア ノンキだね
貴婦人あつかましくも お花を召せと 路傍でお花の おし賈りなさる
おメデタ連はニコニコ者で お求めなさる 金持や 自動車で知らん顔 ア ノンキだね
   お花賈る貴婦人は おナサケ深うて 貧乏人を救ふのが お好きなら
   河原乞食も お好きぢやさうな ほんに結構な お道樂 ア ノンキだね
萬物の靈長が マッチ箱見たよな ケチな巣に住んでゐる 威張つてる
暴風雨(あらし)にブッとばされても 海嘯(つなみ)をくらつても
「天災ぢや仕方がないさ」で すましてる ア ノンキだね
   南京米をくらつて 南京虫にくはれ 豚小屋みたいな 家に住み
   選挙權さへ 持たないくせに 日本の國民だと 威張つてる ア ノンキだね
機械でドヤして 血肉をしぼり 五厘の「こうやく」 はる温情主義
そのまた「こうやく」を 漢字で書いて 「澁澤論語」と 讀ますげな ア ノンキだね
   うんとしぼり取つて 泣かせておいて 目藥ほど出すのを 慈善と申すげな
   なるほど慈善家は 慈善をするが あとは見ぬふり 知らぬふり ア ノンキだね
我々は貧乏でも とにかく結構だよ 日本にお金の 殖えたのは
さうだ!まつたくだ!と 文なし共の 話がロハ臺で モテてゐる ア ノンキだね
   二本ある腕は 一本しかないが キンシクンショが 胸にある
   名譽だ名譽だ 日本一だ 桃から生れた 桃太郎だ ア ノンキだね
ギインへんなもの 二千圓もらふて 晝は日比谷で たゞガヤガヤと
わけのわからぬ 寢言をならべ 夜はコソコソ 烏森 ア ノンキだね
   膨脹する膨脹する 國力が膨脹する 資本家の横暴が 膨脹する
   おれの嬶(かゝ)ァのお腹が 膨脹する いよいよ貧乏が 膨脹する ア ノンキだね
生存競争の 八街(やちまた)走る 電車の隅ッコに 生酔い一人
ゆらりゆらりと 酒のむ夢が さめりや終點で 逆戻り ア ノンキだね 
現代節
新案特許品よくよく見れば 小さく出願中と書いてある
 アラ ほんとに 現代的だわネ
金持はえらいもの芸者をつれて 自動車とばせる慈善会
独身主義とはそりゃ負け惜しみ 実のところは来手がない
新しい女といふてるうちに いつの間にやら古くなる
お清泡鳴はまじめなバカよ 痴話喧嘩を裁判所へかつぎ込む
あまい言葉もまたおどかしも さめたノラには甲斐がない
子爵伯爵なにほしからう わたしの宝は肥びしゃく
従者ひきつれ生徒が通ふ 通ふ先生は腰弁当
ぼくに君から十円くれりや 君にぼくから五円やる
死んだあとでの極楽よりも この世でらくらく生活したい
ハイカラ女の讃美歌よりも おらがカカアの田植歌
貧にやつれて目をくぼませて うたふ君が代千代八千代
ラッパ節
華族の妾のかんざしに ピカピカ光るは何ですえ
ダイヤモンドか違ひます 可愛い百姓の膏汗 トコトットット
   当世紳士のさかづきに ピカピカ光るは何ですえ
   シヤーンペーンか違ひます 可愛い工女の血の涙 トコトットット
大臣大将の胸先に ピカピカ光るは何ですえ
金鵄勲章か違ひます 可愛い兵士のしゃれこうべ トコトットット
   浮世がままになるならば 車夫や馬丁や百姓に
   洋服着せて馬車に乗せ 当世紳士に曳かせたい トコトットット
待合茶屋に夜明しで お酒がきめる税の事
人が泣かうが困らうが 委細かまはず取立てる トコトットット
   お天道さんは目がないか たまにや小作もしてごらん
   なんぼ地道に稼いでも ピーピードンドン風車 トコトットット
名誉名誉とおだてあげ 大切な倅をむざむざと
砲(つつ)の餌食に誰がした もとの倅にして返せ トコトットット
   子供のオモチャじゃあるまいし 金鵄勲章や金米糖
   胸につるして得意顔 およし男が下ります トコトットット
あはれ車掌や運転手 十五時間の労働に
車のきしるそのたんび 我と我身をそいでゆく トコトットット 
 
明治維新後の品川

 

1 天皇東幸と品川宿
慶応4年(1868)7月17日、江戸を東京と改称する詔 (みことのり)が出て、江戸は東の京と定められました。その結果、江戸開城の翌月に設置された江戸鎮台府は廃止され、東京府が置かれて9月2日に開庁し、軍政から官僚政治へと移行して「江戸」というイメージから新しい「東京」へと動き出したのです。さらに9月8日には改元が行われて明治元年となり、併せて一世一元の制が定められました。
改元につづいて、天皇の京都から東京への行幸、いわゆる東幸の第一回目がおこなわれました。9月20日に京都を出発した総勢3300人余りの大行列は、10月12日、川崎宿で昼食をとり、大森梅屋敷で休息後、昼八ッ半(午後3時頃)に品川宿に到着し、宿泊しました。このときの品川宿までの出迎えは、大総督有栖川宮熾仁 (ありすがわのみやたるひと)親王・鎮将三条実美 (さねとみ)・府知事烏丸光徳 (からすまるみつえ)ら、錚々たる面々がつとめています。
宿泊先は、今の聖蹟公園のところにあった品川宿本陣で、その入口には「行在所 (あんざいしょ)」と書いた高札を建てています。また、貴布祢社 (きふねしゃ)(今の荏原神社)入口前には「内侍所 (ないしどころ)」と書いた高札を建て、社内 (やしろない)に内侍所唐櫃 (からびつ)を仮鎮座、鳳輦 (ほうれん)も境内に仮屋を建てて鳳輦置き場をつくったのです。そのほか供奉 (ぐぶ)の公卿らは、北品川宿の東海道往還の両側に連なる旅籠屋に宿をとりましたが、警護の兵隊は南馬場(南品川1〜2丁目付近)の10ヵ寺に分かれて宿泊しました。蓮長寺には黒田家の兵50人、心海寺には藤堂家の兵230人が泊まったといいます。このように宿内は混雑したのですが、旧幕時代と変わらずに各種商いの店から湯屋にいたるまで商売を休ませたりすることはありませんでした。
翌13日、天皇の一行は品川宿を出発、芝増上寺で行列の隊伍を整え、和田倉門を経て江戸城内にはいり、これを東京城と改めました。行列は、長い間徳川将軍のお膝元であった東京の市民に、儀式にのっとった堂々とした入城を示すために、衣冠束帯 (いかんそくたい)の行列という盛大なものでした。この際、酒を振る舞ったので東京市民は熱狂して祝ったといいます。品川でも町奉行支配であった寺社門前町屋18ヵ町にも3樽ではありましたが酒がふるまわれています。
12月8日、明治天皇は京都還幸に出発し、22日に京都に到着しました。翌年、天皇は再び東幸し、3月27日に品川宿に宿泊、翌28日東京に着き、東京城を改めて皇城と定め、政府の中枢機関である太政官 (だじょうかん)を置いたのです。天皇はこの後、二度と京都に戻ることはなく、政府から正式な遷都の声明こそなかったものの、実質的に東京遷都がおこなわれたのでした。この、2回にわたる天皇の東幸によって、品川宿は周辺の村々とともに新しい時代の夜明けを実感したことは事実ですが、その一方で、周辺村民が大量の助郷に狩り出され、おおいに苦しんだこともまた紛れもなかったのです。 
2 武蔵知県事・品川県の設置
慶応4年(1868)5月19日、鎮台府が置かれてから、旧江戸府内については南北町奉行所の代わりに設置された南北市政裁判所によって治められることになりました。ところで品川宿など江戸周辺の旧代官支配地は、どのように変わったのでしょう?
江戸周辺の代官支配地は3人の代官が分担して治めていました。維新後、この代官を新政府は武蔵知県事 (むさしちけんじ)としましたが、これは武蔵県が置かれたということではなく、3人の代官をこのように呼んだだけだといわれています。
旧代官の武蔵知県事は山田政則・松村忠四郎・桑山効の3人で、品川周辺を支配したのは松村忠四郎でした。そして太政官布達 (だじょうかんふたつ)によって、明治元年(1868)11月5日から3人の支配地に、大宮県(のち浦和県)・品川県・小菅県を設けるよう、準備を命じました。実際に設置されたのは、小菅県が翌年1月13日、大宮県が1月28日、品川県は2月9日となっています。この3県のなかで品川区域が入る品川県の範囲は、支配の入り組みはあるものの、概ね東京の南西部、今の品川・港・大田・世田谷・目黒・渋谷・新宿・中野・練馬・杉並の各区から、多摩地区の武蔵野・三鷹・狛江・西東京・調布・府中・国分寺などの各市、神奈川県では横浜市・川崎市のほか埼玉県の一部も入るという、広大なものでした。
明治2年(1869)2月に設置された品川県は、明治4年(1871)7月14日の廃藩置県によって無くなり、品川県に属していた宿村のうち、荏原郡85ヵ村、豊島郡のうち26ヵ村、多摩郡のうち55ヵ村が東京府に編入されたのです。このうちの一部の村々では、中野村(今の中野区の一部)のように、いったん神奈川県に編入されながら、その後東京府に再編入になるなど、再編成が終了するまでにさまざまな経過をたどるところもあったようです。現在の品川区域を構成する品川宿とその周辺の村々では、東京府への編入は抵抗なく実施されました。
品川県庁は日本橋浜町河岸近くに品川県事務所を設けて臨時の県庁の役割を果たしていました。県庁は、北品川の東海寺を県庁舎にしようとしたと伝えられていますが、品川県は、できてから無くなるまで、約2年半という短期間であったため、その完成を見ぬ間に県そのものが廃止されてしまったのです。
さて、このように短期間しか存在しなかったため、県の仕事で特色を示すまでには至らなかったのですが、大きな事件が1件起きています。品川県がスタートする4日前の明治2年2月5日、知県事の職務が定められました。主なものは、「平年の租税の高を量り、年間の経費を定めること」「議事の法を立てること」「戸籍を編製すること」「地図を作製すること」「凶荒を予防すること」「賞典を挙げること」「窮民を救うこと」「風俗を正すこと」「小学校を設けること」「地方の振興をはかること」「商業を盛んにして漸次税金をとること」「租税制度を改正すること」などです。これらには、特に問題はなかったのですが、「凶荒予防対策」としての備荒貯蓄という、江戸時代から行われていた囲米 (かこいまい)とか社倉 (しゃそう)とよばれていた制度の実施にむけて、明治2年8月、品川県知事に就任した古賀一平のとった態度が物議をかもしたのです。
旧来おこなわれていた囲米は出資した人たちに管理運用が任されていたものだったのですが、品川県になってからは、村人の手をはなれ、半強制的な命令で一括して役所に集め、品川県の命令で出すということになったのです。このため農民は税金の上に税金といった感じをいだいてしまい、多くの村は仕方なく供出したのが実情でした。ところが、武蔵野新田の12ヵ村と田無新田では凶作が加わり大きな負担となったため、農民たちはこの窮状を訴えようと、歎願にとどまらず直訴を計画したのですが村役人の反対などで実現しませんでした。そのため、明治3年1月10日、県庁への門訴という方法をとったのです。門訴とは、県庁の門の中には入らず門の外で訴えるもので、それならば罰せられないことになっていました。(門の中に入れば強訴となり、罰せられます) ところが県庁側は、門の前で訴えていた農民に対し騎馬や鉄砲で脅すという手段をとり、農民は四散したものの県庁側にも怪我人が出たため、首謀者を割り出したい官憲の追及は苛烈を極め、取り調べは牢死するものが出るほど過酷なものでした。村役人への処罰も厳しいものでした。こうして「門訴事件」は、武蔵野新田では多くの犠牲者を出して熄 (や)むことになりましたが、結果としては農民側の出穀高に近いところで解決したのです。
ところで、この貯穀代が後になって新しい教育制度の発足に当たって、一部小学校の建設に使われたという点は注目されます。品川区域では、杜松学校のほか品川学校・桐渓学校・中山学校・城南学校・大井学校の設立経費や学校運営費に使われた記録が残っています。このほか、品川県では、授産事業として麦酒 (ビール)製造を試みたのですが、この話は別の回にとりあげる予定です。 
3 宿場の変容 その1
明治維新後、「文明開化」という一番大きな変化の波を受けたのは品川宿でした。三田薩摩屋敷焼き討ちの余波で浪士に焼き払われた痛手から回復しつつある時に、戸籍の改変、飛脚にかわる郵便制度の施行、陸運会社の設立による伝馬所の廃止、鉄道の開通、娼妓解放と貸座敷制度の発足といった制度上の変革、西洋文明の移入など大きな変転が、あとからあとから押し寄せてきたのです。
品川宿は江戸・横浜間の交通路であった関係から、外国人の往来は幕末から見慣れていたので、ほかの地域の村々よりは文明開化の風に早くから吹かれていたこともたしかです。今回は維新後の品川宿における庶民生活の変化をみていきましょう。
大きな変化のなかに明かりがあります。以前は、蝋燭 (ろうそく)を使える家は品川宿のなかでも大きな旅籠屋や本陣、宿駅の役所関係ぐらいで、行燈 (あんどん)のみがたよりの生活でした。安政の開港後、外国からランプが輸入され、珍しいのと明るいのとで、行燈を用いていた旅籠屋や商家などでランプを使用し始めるものがあり、維新後、次第に各家庭にも広まっていきました。品川の一般家庭でもランプを使いだしたのは明治5,6年ころだといわれています。
明治初年において文明開化の様相を一番よく物語るものは人力車でしょう。明治3年3月に官許をえて日本橋の鈴木徳次郎・高山幸助・和泉要助が製造・開業したのがはじまりといわれていますが、品川宿でも同じ年の8月には2軒の人力を営業するものがでて、好評を得て急激に増加していきました。宿場とは切り離せない、縁の深い駕籠 (かご)は自然となくなってしまったのです。このほかの乗り物については鉄道開通前の一時期、さかんに運行された乗合馬車があります。明治2年(1869)4月に横浜の人が東京・横浜間の乗合馬車の営業を出願して以来、出願が相次ぎ、往来が狭かったにもかかわらず横暴な運転で一般通行人に迷惑をかけたといいます。鉄道開通後は利用者が減り、品川駅から池上というように地回り的な乗合になっていきましたが、それも京浜電鉄(明治31年〔1898〕開通)により消えていきました。
維新後、男の風姿上の変化は、明治4年4月に出た四民散髪 (しみんさんぱつ)を許すの令です。一般に断髪令と呼ばれていますが強制的なものだったわけではありませんでした。「惣髪頭 (そうはつあたま)をたたいてみれば王政復古の音がする」「ザンギリ頭をたたいてみれば文明開化の音がする」といった俗謡 (ぞくよう)が流行したように、品川宿の人々は、外国人が横浜から東京へ往来する姿などを見慣れているため、比較的「ザンギリ姿」になることをモダンだと思う人々も多く、わざわざ横浜まで出かけて、散髪する人もあったほどでした。横浜山下公園には、「西洋理容発祥の地」のモニュメントが建てられています。翌年になると、品川宿でも床番屋のうちに髪を結ぶのではなく切る方に転向し、散髪業に従事するものがでてきました。時とともにチョンマゲ姿は減少していきましたが、明治の中頃までは入り混じりの状態であったということです。
このように、品川における文明開化がほかより比較的早く行われたことは、やはり東京・横浜間の東京の入口といった位置によるものであると言えましょう。 
4 宿場の変容 その2
前回は、明治維新後の文明開化による品川宿の変化をお話ししました。今回は制度上の変革によって、品川宿がどのように変わっていったかをお話ししましょう。
江戸時代の宿場には、3つの任務がありました。一つは人馬の継立であり、公用の旅行者には無償で人馬の提供をおこなって人や荷物を次の宿まで輸送することでした。これがいわゆる伝馬制です。参勤交代の大名は、一定の金額を支払ってこの人馬を利用していました。二つ目として、飛脚の業務があり、そのなかでも重要なものは幕府の書状を逓送する継飛脚でした。三つ目は、旅行者のために休息や宿泊する施設を用意することで、大名や公家の休息や宿泊には本陣や脇本陣、一般の旅行者の休息には茶屋、宿泊には旅籠屋・木賃宿が設けられていました。
長年にわたる、無賃や御定賃銭 (おさだめちんせん)での人馬の徴発や休泊は、宿場の疲弊をもたらしたうえ、幕末から維新期の通行量の増大は継立人馬の不足につながって、宿場と助郷の村との間で人馬の割当をめぐる争いもひきおこしていました。明治新政府は、このような状況を改善策で乗り切ろうとしました。しかし勝てば官軍で、新政府役人の威張り方は一通りではなく、銭を払わず泊まる者が少なからずあって、品川宿の難儀はひとかたではなかったのです。
駅路に関する事務は、明治元年(1868)4月に駅逓司 (えきていし)を置きその所管としました。宿駅役所は駅逓役所と改められ、従来の「宿」も「駅」と改まりました。江戸時代の問屋場 (といやば)は維新後、伝馬所 (てんましょ)と改称され、従来の問屋・年寄も伝馬所取締役2人としましたが、翌2年(1869)には、この取締役を元締役 (もとじめやく)と改称し、苗字・給米を廃止しました。代わって地方官が取り締まることになったのです。このように継ぎ立て業務の管理・運営は引き続き明治新政府や地方官の責任において行われていたので、政府の財政的負担は増大する反面、輸送の非効率は解消しなかったのです。この解消には、継ぎ立て業務が民間委託へと移行していくのを待たなければなりませんでした。
明治4年(1871)10月、各駅の公的な伝馬所とは別に、民間貨客の輸送に専念する陸運会社が南品川宿伝馬所跡に設立されました。この結果、東京・大阪間の継ぎ立て業務は、各地に設立された陸運会社にすべて委託され、官有施設も漸次処分されて、明治5年(1872)7月20日、全国諸道の伝馬所や助郷は8月末をもって廃止されました。
陸上運輸と同様、維新直後は信書伝達の方法も旧来の飛脚によっていましたが、明治4年3月には、東京と京都・大阪間に郵便法が実施されました。これにより、郵便役所として郵便の差し出し場所・受け取り場所が東京に12ヵ所、京都に7ヵ所、大阪に8ヵ所設けられ、信書には切手をはって料金前払いという新制度が発足したのです。品川宿内での品川郵便取扱所は、同じ年に現在の南品川2丁目に設置されました。はじめの頃は距離によって料金に違いがあり、全国同一料金になったのは明治6年(1873)4月のことです。
休泊施設の本陣や旅籠屋はどう変わっていったのでしょう。維新のころの本陣は今の聖蹟公園のところにあった鳥山本陣で、2軒の脇本陣は慶応2年(1866)12月の火災に類焼し、明治になっても建設されませんでした。本陣も、明治天皇が東幸の際には行在所 (あんざいしょ)になったりもしたのですが、明治5年の宿駅制度の廃止とともに、広大な建物は維持困難となったうえ屡々類焼にもあったことから廃業してしまい、その跡地に警視庁品川病院が建てられました。この病院ものちに東品川1丁目に移転し、跡地は昭和13年に聖蹟公園として開園し、本陣跡として区の史跡に指定されています。
江戸時代は食売旅籠屋 (めしうりはたごや)と言っていた、遊女をおく旅籠屋は明治元年に92軒ありましたが、幕末から、公用の旅行者の激増と人心の動揺から営業ができず、宿場での類焼などもあって困窮の極みに達していました。その上、明治5年10月の人身売買禁止令(娼妓解放令)では、食売女 (めしうりおんな)の呼称は廃止されて遊女ということになり、遊女ならば借金を帳消しすることになったため、吉原はじめ四宿は大変な騒ぎでした。しかしながら、この解放によって遊女たちまでも生業の道がなくなって暮らしに困窮するようになったため、解放令をゆるめて、翌年12月には、食売旅籠屋も貸座敷と変更し、座敷を貸して客と遊ばせるという形で鑑札を受けて営業できるようになり、やっと品川宿は息を吹き返したのです。
このほか、戸籍法の制定・地租改正・徴兵令の発令と、品川宿や周辺の村々には次々と、新時代の到来に伴う大きな変化が押し寄せてきたのです。 
5 農村部の変化
前回は町場としての宿場の変容についてお話してきました。加えて、品川宿近郷の農民にとって大変な負担となっていた助郷の廃止は、村人たちに大いに歓迎されたことについても前回お話しました。今回は、そのほかの農村部の変わりようをお話しましょう。もちろん、宿場と共通するところも多々あります。
明治新政府は、旧暦(太陰暦)を用いて対外的にも通用する公文書を作成することは不可能であるとして、新暦(太陽暦)を採用し、欧米列強と円滑に友好関係を進めようとしました。新暦の採用は、「明治5年12月3日をもって、明治6年1月1日とする布告」として全国に発せられ、ここから欧米と等しい暦日を使用することになりました。しかし、これは、区内村々の人びとにとって生活上での大きな変化を強いることとなり、さまざまな問題をひきおこしたのです。農作業はじめいろいろな行事はすべて旧暦で算出されており、すぐに新暦を採り入れることはできませんでした。
このような不都合をしのぎながら、旧暦と新暦の板挟みになった人々は、次第に「ひと月遅れ」という妥協案を、生活の上で合理的な暦日とする方法を生み出していきました。こうして4月3日のひな祭り、6月5日の端午の節句といったように、月遅れという形でさまざまな行事が定着していったのです。新暦の日常行事を一番早く受け入れたのは、町場の品川宿の人びとであり、村方ではなかなか受け入れられなかったのが現実でした。正月の祝いも、新暦と月遅れ、さらに旧暦どおりに行う家もあるといった具合で、二重、三重の行事といった現象さえあったほどでした。しかも、田畑を耕作するときには、規則的習慣になっていた月日は旧暦によっており、これだけは新暦にすぐにきりかえることはできず、旧暦ですべてをとりおこなう以外に方法がなかったのです。
その上に、地租改正という大きな問題がおこりました。明治6年7月に公布された「地租改正法」は、江戸時代の年貢(地租)が原則として米穀納入であったのを、それにかえて金銭で納める金納という制度を確立させ、明治政府の財政的基礎を固めることを図ったものでした。この地租改正の実施には、その土地の測量、地券の交付という大きな事業が伴いました。この改租事業については、品川を含む東京府において本格的に着手されたのは明治8年後半になってからでした。村のおもだった人びとが総出でこれに当たったのですが、村人から不平不満が出ないように行う必要があり、その苦労は相当なものでした。これに携わった村々の長老の功績は高く評価されています。
地券の交付による地租の確立は、財政の安定をもたらし、明治政府を安泰にしましたが、その一方、農民には重い負担としてのしかかっていったのです。東京府において、このように地租改正法の公布後作業開始が遅れたのは、旧来は天領地であったため税は他に比べて安いほうであり、改正後はかえって負担が増すことになったからだとされています。品川宿とその周辺の村々の維新直後から明治10年代にかけての変化と、それに対処しようとつとめる村々の人びとの姿をお話してきました。 
6 維新後の品川湾
幕末から明治維新にかけての品川湾は、港として大きな役割を果たしています。品川湾は明治維新前後までは、しばしば「品川沖」といわれていました。この品川沖に、徳川慶喜が軍艦で大阪から逃げ戻って以来、幕府の軍艦が碇泊するようになったのです。さらに、江戸が東京と改称されて間もなくの、慶応4年(1868)8月19日、品川沖に碇泊していた旧幕府軍の軍艦「開陽」以下8隻を率いて榎本武揚が江戸を脱出、北海道方面に逃走するという事件が起こりました。海軍力においては、幕府軍は優秀であり、その幕府の軍艦を榎本が全部引き連れていったことは、品川の人びとだけでなく、東京市民にとっても驚きだったのです。その後も、品川沖は明治政府によって、軍艦の碇泊にしばしば利用されることになり、軍事的に大きな役割を果たすことになりました。
品川沖の軍艦碇泊は天皇の行幸にも利用されました。当時は陸上交通よりも海上交通の方がはるかに便利で安全でした。明治4年(1871)11月21日、造船所天覧のための横須賀行幸では、宮城を馬車で出て品川沖で軍艦に乗り、23日の帰路も再び品川沖まで軍艦を利用し、汽船「弘明丸 (ぐみょうまる)」に乗り換えて浜御殿に到着しています。同5年(1872)の4月28,29日の浦賀行幸、5月の大阪や中国・西国巡幸も同様で、いずれも浜御殿で汽船に乗り、品川沖で軍艦に乗り換えて出航し、巡幸を終えた帰りは品川沖で軍艦から汽船に乗り浜御殿に着いています。
明治5年11月の記録によれば、品川湾には龍驤 (りゅうじょう)・筑波・春日・鳳翔・第一丁卯 (ていぼう)・孟春・東・日進・富士山・雲揚・第二丁卯・大坂・乾行 (けんこう)・貯蓄などといった艦船が碇泊していました。品川の海は、こうした艦船の碇泊しているところとして品川宿の人びとだけでなく、東京市民の関心を集めていたことでしょう。
このように碇泊していた艦船へ渡るための通船(陸地と本船との連絡のために用いる小船)については、料金を定め、各艦船で雇うことになっていました。手繰船 (たぐりぶね)三人乗が1円33銭、大荷足船 (おおにたりぶね)が62銭5厘、荷足船二人乗53銭3厘と料金が決められていたのです。
こうして、軍艦が品川湾に休養補給などで碇泊することは続いていましたが、明治39年(1906)12月9日には品川町を揺るがす大事件が起こりました。年明けに渡英するため、品川湾に碇泊していた軍艦「千歳」へ渡る通船が、突風を受けて転覆し、千歳の乗組員ら兵員65名・見送人15名、計83名が亡くなったのです。遭難者の救助は品川町をあげて行われ、亡くなった人々のためには南品川1丁目の海徳寺にて大法会が修されました。さらに、13回忌の大正8年(1919)には、のちに「千歳」の艦長を務めた海軍大将山屋他人 (やまやたにん)の揮毫で「軍艦千歳殉難者之碑」が海徳寺に建立されましたが、この碑は山門を入って進んだ左手に今も見ることができます。 
7 品川台場と品川燈台
嘉永6年(1853)のペリー来航後、黒船を迎え撃つために急遽築造された品川台場(品川砲台)は、海上に浮かぶ第一から第七までの7つでしたが、第四と第七の台場は未完成のままであり、なかでも第七は海面を埋め立てただけでした。他に陸続きの台場「御殿山下砲台」が造られました。しかし、幕府の開国政策によって、完成した台場の大砲を使うことなく終わったことは、江戸庶民だけでなく品川宿周辺の村々にとっても幸運なことでした。
明治維新後の品川台場は、明治6年(1873)に第一師団の中に設けられた海岸砲隊が管理にあたり、同8年(1875)以降大正3年(1914)までは陸軍省が管轄していました。第四台場は維新後に払い下げられ、大正元年(1873)には東京府から緒明 (おあき)菊三郎に払い下げられて造船所となりました。陸軍省によって管理されていた品川台場は、大正3年、4年の二回にわたって処分され、第三、第六台場は大正4年(1915)7月4日に東京市に払い下げられ、同13年(1924)に東京府によって史跡に仮指定され、同15年(1926)10月20日に史跡名勝天然紀念物保存法によって国の史跡に指定されています。このうち第三台場は、関東大震災によって破壊されたため復旧工事が行われ、台場公園として一般に公開していますが、第六台場は原型を残していたため、貴重な史跡として保存されています。
その後、東京湾に浮かぶこれら六つの人工島は、史跡として指定された二つの台場を残し、埋立地に埋没したり、航路の支障になるということで撤去されたりしてきました。第四台場は、大正14年(1925)に埋め立てがはじまった旧天王洲町(東品川二丁目)の北側につながって陸続きとなり、昭和30年(1955)に港区から品川区に編入されています。第一、第五台場は品川埠頭の埋め立てで昭和37年(1962)に撤去埋没してしまいました。第二台場は東京港整備の一環として、昭和37年末に海上からその姿を消したのです。
つぎに、品川燈台についてお話ししましょう。品川台場の中の第二台場に設けられた品川燈台は、観音崎燈台・野島崎燈台に次いで造られた、日本で三番目に古い洋式燈台です。明治3年(1870)正月から建設にとりかかり、3月5日に竣工し、同日から点灯しました。円筒型の煉瓦造りでデザイン的にもすぐれた白色の建物です。この品川燈台を造営したのは、フランス人の横須賀造船所首長フランソワ・レオンス・ヴェルニーでした。燈台の頂点には風見(風向計)があり、東西南北の方向を示す頭文字は英語からとってE・W・S・Nとなっているのが一般的であるのに、フランス人技師らしく西が「W」ではなく、フランス語から「O」が用いられているところに特徴があります。これは、フランス語でも「西」は「ウェスト」というのですが、英語とは綴りが異なり、「OUEST」と表記するためです。この燈台の燈火の高さは、満潮のとき約16メートル、燈火の発光は不動赤色、建設当初の光線の届く距離は約16キロメートルで、後に光力を増大させ24キロになりました。燃料は石油を用いていました。
このように、早くから海上の安全に寄与してきた品川燈台ですが、東京湾築港計画のなかで航路に支障をきたすとして第二台場が撤去されるのに伴い、昭和32年(1957)に解体され、昭和40年3月に開村した愛知県犬山市の博物館明治村に移設されています。
昭和43年(1968)4月25日に国の重要文化財に指定されました。 
8 電信のはじまり
日本に初めて電信機の情報が入ったのは、幕末、オランダからと伝えられています。嘉永2年(1849)ころ、佐久間象山がこれをもとに電信機を作り、川中島近くで電信の実験をおこなったといい、ここが日本電信発祥の地とされています。
その5年後の嘉永7年(1854)、アメリカ合衆国のペリー提督が再来航した時、アメリカ大統領から第13代将軍徳川家定への贈り物として献上されたものの中に、モールス信号で知られるモールス電信機がありました。蒸気機関車の模型などとともに贈られた、このエンボッシング・モールス電信機は、横浜での実験を経て、日本における実用的な電信の扉を開くこととなったのです。
初めて電信事業を開始したのは、明治2年(1869)のことで、この事務は燈明台役所 (とうみょうだいやくしょ)に附属し、内務省の管轄に属していました。最初に電信が架設されたのは横浜裁判所と東京築地運上所の間で、架線の事務は神奈川県によって行われ、横浜裁判所構内に伝信機役所を置きました。慶応4年(1868)正月に伝信機の架設について品川宿はじめ関係の宿町村に回状触れを出したのが嚆矢 (こうし)とされています。電信柱は10から15間(約18〜27m)ごとに立てられ、そこへ銅線を引き渡していくものでした。
明治2年にはいよいよ工事を開始し、9月19日には電柱用の杉丸太を49本品川宿へ預けています。9月22日には電信柱を図面の位置に立てる工事にはいり、10月5日には電線の架け渡しがはじまりました。11月24日には、神奈川県の役人が外国人技師をともなって視察を行い、架線の障害となる小枝等を取り除いて、架線工事は竣工したのです。
明治2年12月25日から通信を開始することになり、伝信機役所を伝信局と改め、通信規則や料金を定めました。伝信局は朝 8時から夕刻8時まで電信を取扱い、代金は「カナ1字ニ付、銀1分ノ割合」で、至急扱いの割増料金は地域によって異なり、品川・内藤新宿・千住などへは「銀8匁」という規則でした。当時の蕎麦の価格をもとにしておおまかに物価の換算をすると、カナ1字が約375円、至急割増は約30,000円となり、かなり高額なものであったことがわかります。
初めて電線を架設された東京・横浜間の沿道の人びとが、これを不思議なものとみたのは無理からぬことで、中には凧を揚げて糸ををからみつかせたり、物品を輸送するもの、との冗談を真に受け古草鞋 (ふるわらじ)などを投げかけたりする者も屡々 (しばしば)あったのです。そのたびごとに、詫び証文を出したり見回りを命ぜられたりする始末で、架線が通ることになった品川宿や周辺の村々の組合や役人の心労は大変なものでした。このような悪戯だけでなく、電信線などを妨害する所業もあったため、明治7年(1874)9月に電信罰則の規定ができました。また、火災などによる電柱の焼失事故の扱いでは、明治3年(1870)9月に起きた旧品川寺門前の火災のとき、南品川宿名主から伝信機掛役人へ、出火状況や電信柱や銅線が焼き切れたことなどを記して届出ていることが記録されています。
品川宿に郵便取扱所ができたのは、明治4年(1871)のことで、翌年に品川郵便局となりました。品川郵便局が電信の取扱業務を開始したのは明治35年(1902)3月1日からでした。 
9 小学校から見たまちのすがた
江戸時代、庶民の教育はひろく寺子屋でおこなわれていました。このように、庶民を対象とした初等教育が普及していたことは、当時の西欧社会でも例がなく、日本では庶民の識字率 (しきじりつ)は世界の中でも群を抜いて高くなっていたのです。品川でも、いくつかの寺子屋が設けられ、そこで教育が行われていました。幕末維新のころ、現在の品川区域で寺子屋が何ヶ所あったのか、その正確な数字は判明していませんが、明治初期には17ヵ所の寺子屋(家塾)があったことが分かっています。当時、町場であった品川宿にその多くが集まっていました。
明治政府は教育の近代化に力を入れ、明治2年(1869)には小学校の設立を奨励するとともに、同4年(1871)には文部省が設けられました。さらに、同5年(1872)には「学制」を制定し、実施していったのです。学制とは全国を8大学区に分け、その1大学区を32中学区に、さらに1中学区を210小学区に分け、各学区にそれぞれ大学・中学校・小学校を置くことを目的としたものでした。品川区域は第一大学区の第二中学区にあたっていて、この学制に基づいて各宿村で公立の小学校設立が企図されるようになったのです。
学制が布かれた当初の小学校は、まだ寺子屋と変わりなく、その多くは旧来の家塾を母体にして設立されたものでした。家塾から公立小学校に転じた例として、明治6年に都築幾三郎 (つづきいくさぶろう)が歩行新宿の善福寺を借りて算術を主体に寺子屋塾を始め、すぐに法禅寺に所を変えたものがあります。当時、この地の戸長 (こちょう)であった下村忠利は、これを公立学校に転用すべく東京府に許可を願い出て、明治7年2月に認可となり、第一大学区第二中学区第六番公立小学品川学校という名称でスタートしました。また、現在の杜松 (としょう)小学校の前身は、下蛇窪村名主 (しもへびくぼむらなぬし)・伊藤家が経営していた伊藤塾が母体でした。
このほか設立方法の異なったものとしては、二、三か村が相談しその有志によって設立が企てられ、公立学校設立の前提として設けられたのが、明治七年(1874)の上大崎村の富士見学校(日野小学校の前身)、下大崎村・桐ヶ谷村・居木橋村・戸越村が連合して明治3年に設けられた桐渓 (とうけい)学校(京陽 (けいよう)小学校の前身)などがありました。
家塾をもとにした私立小学校に目を向けると、明治10年には品川区域に12校あったことが記録されていますが、明治10年代にはいると、公立学校に児童(門弟)が吸収されるだけでなく、教師(師匠)も公立学校の教員に転じていくものが少なくなく、荻野小学校・神戸 (かんべ)小学校、明治14年(1884)設立の知本 (ちもと)小学校を除き、私立小学校は消滅していったのです。
このように明治10年代に品川区域の小学校体制は整ったのですが、実際に進学適齢期に達しても進学できない児童は多数にのぼっていました。義務教育制度が布かれていなかったことに加え、授業料を徴収していたことから、学校に行きたくても学資がなく、就学できないものも少なくなかったためです。義務教育が確定するのは、明治19年の小学校令が出てからのことでした。それでも、明治24年(1894)において品川町管内の未就学者は25%近くあり、卒業年限まで就学できないものを加えると35%を超えていました。明治後期になると、就学児童数も増えて新しい小学校の設立が必要になり、明治後期から大正にかけ、小学校の数は増えていくことになったのです。 
10 工業のあけぼの・その1 大井村 浜川の麦酒 (ビール)工場
現在の品川区域は、明治初期に短い間ですが「品川県」に属していた時期がありました。「品川県」が存在したのは、明治2年(1869)2月9日に設置されてから明治4年(1871)の廃藩置県によって廃止になるまでの2年あまりで、同年12月5日に品川区域は東京府に編入されることとなったのです。
このように短い期間しか存在しなかった「品川県」ですが、明治維新後の江戸市中やその周辺地域の疲弊は甚だしく、窮民対策が急がれていました。この、生活困窮者に仕事を与えるための事業として、明治2年、品川県は麦酒 (ビール)製造所を設立したのです。窮民授産の方法として麦酒を醸造し、外国人好みの酒を日本人にも普及させ、同時に在留外国人にも売ろうという目論見 (もくろみ)だったのでしょう。
さて、日本で初めて麦酒が知られたのは、嘉永6年(1853)、アメリカのペリー提督が来航したときであったといいます。また、日本での麦酒醸造販売は、明治3年(1870)にノルウェー生まれのウィリアム・コープランドが横浜山手にスプリング・バレー・ブルワリーを開設したのが最初といわれていますが、近年はコープランドより少し前に同じ横浜でウィーガントがジャパン・ブルワリーを開設し、これが日本最初の麦酒醸造所であるとする説も有力となっています。
日本人によって最初に醸造されたのは、明治5年(1872)大阪の渋谷庄三郎のシブタニ・ビールとされています。そして明治7年(1874)・甲府の三ッ鱗印ビール、明治9年(1876)・北海道においてドイツから帰朝した中川清兵衛を主任に迎えての開拓使麦酒醸造所(札幌麦酒の前身)の開業と、毎年のように新しいビール会社が創設されていきました。
品川県による麦酒製造が、誰の発案であったかははっきりしていませんが、これは明治初年としては画期的なことでした。誰のプランであったかについては諸説があり、一説には御雇 (おやとい)外国人からの意見を古賀一平品川県知事がとりあげたものといわれています。また、古賀の出身が佐賀藩であり、藩主鍋島家には外国の文物への関心が高かったため藩内の人から示唆されたという説、さらに、開設地の関係などから大井村の旧家で後に衆議院議員になった平林九兵衛が建議したという説などがありますが、史料の上からはいずれも確証がなく、これと決めることはできません。ともあれ、知事が窮民救済のための県営事業として、大井村字浜川地内の松平土佐守(山内豊信 (やまうちとよしげ))下屋敷跡、現在の品川区東大井三丁目に、62.5坪(約207平方メートル)の麦酒製造所を設立し、麦酒を醸造しようとしたことは史料からも確かなことです。
ところが、この麦酒製造所は建設されたとはいえ、直ちにその完成品の生産販売というところまで辿り着けたかどうかはわかっていません。使用されていた道具をみますと麦酒醸造に必要なものは揃っているので、醸造に苦労しているうちに、品川県が廃県になってしまったのではないかと思われます。
品川県は、廃県の直前の明治4年(1871)10月、この製造所の建物および醸造するための道具類を、ともに民間に払い下げることになりました。払い下げには旧岸和田藩主の岡部長職 (ながもと)がのりだして同家の家令井谷平八郎の名義で払い下げ願いを出し、その結果4000円でこれを購入、麦酒製造所は岡部家の経営となりました。岡部家での麦酒醸造の状況について、明治6年(1873)8月の記録によると「このほど、いささか売り捌きの端、開かるるのみにして、いまだ盛売の機会に至らざる」状況で「利潤の目途も更に相立たず」と書かれています。製造していたことは確かですが、利潤を上げるまでには至らず、払い下げ代金の納入も滞ってしまったのです。明治9年(1876)10月までは岡部家の経営が続いていたことは確かなのですが、この工場がいつまで続いたのか、また、この工場がその後の麦酒醸造にどのような影響を与えたのかなどもはっきりしていません。こうした点からみますと、品川県麦酒製造所が、日本最初のビール醸造工場でありながら、完成して民間に払い下げたのか、試験的醸造で終わったのか、実体は不明確であるというしかなく、これがまた「幻のビール工場」といわれる所以 (ゆえん)でしょう。 
11 工業のあけぼの・その2 (1)「興業社」創立と品川硝子製造所
幕末から明治初年にかけて、品川宿を中心とした現・品川区域内の村々には、維新前後の変転打撃に加え、「文明開化」という大きな波がうちよせてきました。慶応3年(1867)には、薩摩浪士らによって品川宿が焼き払われるという災いに遭い、この痛手も癒えぬうちに、制度上の改変により品川は宿駅としての機能をなくすことになったのです。このように、衰退の道を歩みはじめた品川を、新たに興隆させるきっかけとなったのは工業、とりわけ近代工業化の波でした。まず、明治5年(1872)頃、当時 流行の先端であった煉瓦製造が御殿山下で開始されたといいますが、その詳細はよくわかっていません。これは、蒸気を利用した新しい器械での製造であったといわれています。
明治6年(1873)になると、品川宿東海寺裏の目黒川べりにガラス製造の興業社が創立されました。興業社は、当時の太政大臣・三条実美 (さんじょうさねとみ)の家臣村井三四之助が、ガラス製造業は今後発展すると考え、三条家の家令丹羽正庸とともに、実美の援助を受けて興したガラス工場です。工場の建設と設備に必要な機械器具・ 坩堝 (るつぼ)用の粘土から窯の耐火煉瓦に至るまで、そのすべてをイギリスから輸入して設立しました。製造の職工には、東京や大阪のギヤマン職人を高給で招聘しました。さらに、このギヤマン職人への技術指導のために招いた、イギリス人技師トーマス・ウォルトンの到着を待って坩堝の製造に着手し、出来あがると、最初に板ガラスの製造に取りかかったのです。しかしながら、技術が未熟であったため、製品にできたものは一つもないという結果となり、すでに資金や諸経費に20万円以上使っていたため、会社は経営困難に陥ってしまいました。こうして、事業は失敗に帰し、明治9年(1867)に工部省へ工場全部の買い上げを請願せざるをえない状況となったのです。このように、結果的には失敗に終わってしまいましたが、この「興業社」は、日本で最初の洋式ガラス工場であり、近代ガラス工業の発達に端緒を与えた功績は、日本ガラス工業史上特筆すべきことといえましょう。
以上のような経過で廃絶した興業社は、明治9年4月に工部省によって買い上げられ、名称を「品川硝子製造所」と改めて、工部省製作寮の所管となりました。翌年1月の官制改 (かんせいあらため)によって製作寮は廃止されて新たに工作局となりましたが、このとき「品川硝子製造所」は「品川工作分局」と改称されています。興業社の技師であったイギリス人技師トーマス・ウォルトンは、そのまま工作局の技師として雇い入れられています。工場はその後修繕増築され、舷灯用ガラスを製造する工場とフリントガラス窯ができあがり、明治10年11月改めて作業を開始したのです。最初に着手した製品は船舶の舷灯用の紅色ガラスでした。この製造を担当したのは、当時日本人ではただ一人の技術者であった藤山種広です。藤山はオーストリアでガラス製造法を習得してきた人で、それまで製作困難であった舷灯用の紅色ガラスを製造したばかりでなく、模様ガラス、小さな板ガラスなども試作していました。その後、ガラス製造技術の伝授がおわると、品川工作分局を去り、改めて井口直樹と鉛筆の製造を始めています。
さらに、工部省はガラス工業のより一層の発展を計画し、新たにイギリス人技師ゼームス・スピートを雇い入れ、明治12年(1879)4月から食器や日用のガラス器の製造を始めたのです。しかし、興業社時代の板ガラス窯を修理して明治14(1881)年に宿願の板ガラスの製造に着手したものの、依然として成功に至らず、翌年中止されてしまいました。また、明治16年(1883)にも再び着手していますが、まもなく廃止となっています。
失敗が続いていたとはいえ、明治15年(1882)3月には「品川工作分局」の各種製品が第2回内国勧業博覧会(会場:東京・上野公園)に出品され、みごと第2等有功賞を獲得しています。これは国産ガラス製品が博覧会で受賞した嚆矢であろうといわれています。 
12 工業のあけぼの・その2 (2)「品川硝子製造所」の民間払い下げ
前回も述べたように、「品川工作分局」では、板ガラス製造を目標として操業して いたのですが、失敗しては中止、再開しては失敗という状況が続いていました。とどのつまり、明治16年(1883)に工作局は廃止され、「品川工作分局」は、元の 「品川硝子製造所」と名を改めて工部省の直轄工場となりました。それまでの7年 間、ガラス製造技術の改良を図り、努力を重ねてきたのですが、日本人の生活様式 は、まだそれほどガラス製品を必要としてはいませんでした。従って、この工場が1ヶ月操業してつくる製品は、優に1ヶ年の需用を満たすものであったといいます。
しかし、品川硝子製造所がいかに良い製品を世に出そうとも、市中には、俗に“ジャパン吹き”と呼ばれる粗製品が安く出回り、これと価格競争ができず、毎年損失を重ねていきました。こうした状況から、政府はこのガラス工場を民間に払い下げることになったのです。当時、明治政府は鉱山・造船所などを中心に財政緊縮等を理由として、それらを払い下げようとしていました。その一方、間接的な保護を加えながら、殖産興業政策を推進しようとしていたのです。
さっそく、これに応じたのが旧淀藩主の稲葉正邦と、靴製造や革の製造などを手広く営んでいた西村勝三でした。明治17年(1884)2月、稲葉と西村は共同で10ヶ年間の貸与を出願し、操業を開始しました。翌年、稲葉は将来に不安を抱いていたようですが、西村は磯部栄一と共同して明治18年(1885)5月28日に政府から払い下げを受けたのです。民間移譲後の明治19年(1886)頃の営業内容は、改善されたとはいえ、ほぼ採算がとれるといった程度にすぎませんでした。
西村勝三は明治19年に、海外でのガラス工業の視察と技術改良法を探求のため渡欧し、ドイツ人シーメンスの発明した複熱式窯の導入を企図しましたが成功せず、翌20年(1887)に品川硝子製造所技師の中島宣をドイツに留学させ、実地研究に当たらせたのです。そして同地から、技術者をはじめ、熟練工を管理者として雇いいれ、純然たる私有の有限会社組織にあらためたのでした。明治21年(1888)4月25日には、共同発起で「有限会社品川硝子会社」を設立し、ただちに旧品川硝子製造所の地所・家屋・器械・窯・原料まで一切を5万7500円で買収したのです。当時の職工数は120名でした。
買収当時の品川硝子会社には、第一から第四の工場があり、第一から第三までの工場はガス窯を用い、ビール瓶や酒壜・薬壜、ランプの油壺・ホヤなどを製造していました。第四工場は、工部省時代からの慣行で、軍艦備え付けの燈台用ホヤ・食器・薬壜・陸軍薬剤用瓶や兵士水呑瓶・鉄道用燈火用類、など注文に応じて製作していました。
しかしながら、主要株主にも三井の益田孝、日本ビールの馬越恭平、小野田セメントの笠井順八ら、錚々たる日本資本主義形成過程における担い手たちが名を連ねていたにもかかわらず、明治23年(1890)以降は製品売上高も激減し、赤字続きとなってしまいました。職工数も、明治22年(1889)には最高の150名を数えていたものが、その半数に減少してしまうのです。同社の支社・小野田工場も竣工したものの、充分に操業する暇もなく、「品川硝子会社」は明治26年6月に解散したのでした。
「品川硝子会社」の母胎となった「品川硝子製造所」が、官営から民営に移ったとき、ここで養成された伝習職工たちは、東京市内や大阪へと移っていきましたが、彼らは既設の工場へ入るか、独立してガラス工場を開いていったと考えられています。その後、この工場跡は、明治41年(1908)、当時の三共合資会社(現在の三共株式会社の前身)が買収し、製薬工場として再びスタートを切ることになったのです。
2回にわたって品川におけるガラス工業の歴史をお話してきました。当時の、関係する製品のいくつかは、品川歴史館に展示されています。その一つの「金赤色被桜文硝子花瓶 (きんあかいろきせさくらもんガラスかびん)」(明治中期の製作)は、品川硝子製造所の職工として経験のある大重仲左衛門の作と伝えられるガラス花瓶で品川区指定有形文化財として指定されています。また、当時のビール壜・ガラス食器も展示されています。 
13 鉄道開通前夜 その1
文明開化のシンボルとして描かれた「鉄道の錦絵」は、開通前から前人気をあおるかのように大胆な想像による蒸気車通行の図が出版されていました。特に、この時期の錦絵は、外国産の鉱物性顔料の普及によって赤色や藍色が鮮烈な色調のものでした。鉄道開通後の数年間が鉄道錦絵の全盛で、それら(描かれたもの)からは西洋文明との出会いに興奮する人びとの息吹が感じられます。
明治政府が、日本の近代化のために鉄道建設を決めたのは明治2年(1869)11月でした。翌年3月には、イギリス人技師エドモンド・モレルが横浜に到着し、東京・横浜間の測量、そして用地買収と、鉄道建設が急ピッチではじまったのです。
品川宿周辺における建設への動きは、明治3年(1870)3月19日に品川県から東海道筋の宿村役人に対して出された、御雇い外国人らにより測量を実施する旨の廻状から始まりました。4月13日には同県より、外国人技師(この外国人がモレルであったかどうかは判明していませんが)1人・測量手伝い人15人・ほか日本の役人8人、合計24名による測量班の通知と、測量人の休息や宿泊には便宜を図るようにとの御触が出されています。4月19日には、測量見分のとき邪魔になる木や竹の枝葉伐採を通告、5月に実施された高輪から八ッ山にかけての品川海岸の測量では、作業が夜間に及ぶこともあり、測量が急ピッチで進められていたことがわかります。
これについては、強権的な方法もとられたことから、沿道各地でトラブルが発生しました。神奈川県では測量の目標とした旗竿や棒杭にいたずらするものが後を絶たず、「狼藉者 (ろうぜきもの)を役人に告げれば褒美 (ほうび)をとらす」といった布告が出たのです。また、大井村に隣接する新井宿村では、測量に使うマイルチェーンの紛失事件が起こり、その廻状が出るなど、工事をめぐる紛争は各地で起こっていました。
このように、京浜間の東海道の宿村では、鉄道建設への期待だけでなく不安も高まっていったのです。特に鉄道用地取得にあたっては、民部省から品川県などの地方官庁を通じて、土地を政府に差し出すよう地権者に命じるなど、強制的な形がとられました。鉄道用地取得にあたっての買い上げ代金も御下げ金と呼び、一方的な査定で行われたのです。地権者にとっては、祖先伝来の土地を納得できない対価で手放さねばならないわけで、当然のことながら用地買収へのプロセスは決して容易なものではなかったようです。
品川区域全体での鉄道用地取得経費は、明らかになってはいないのですが、当時の記録によれば、北品川宿では明治3年6月9日に八ッ山付近の23人の土地家屋代金として総額1,992両余を受領、南品川宿では、明治4年(1871)11月に、9反余(約2万7千坪)分の田畑地などの代金として527両余を受領したとあります。大井村については記録がまだ見つかっていません。このほか、北品川から一部南品川にかけて広大な面積を有していた東海寺領内の鉄道用地では、門の建て替え、墓地の改葬費用として160両余が払われたのですが、2,108坪に及ぶ鉄道用地は除地 (じょち)(免税地)であったことから無償で提供され、その後、境内の砂利や松・杉が鉄道敷設用に供出されています。 
14 鉄道開通前夜 その2
前回お話したような経過をたどり、新橋(汐留)・横浜(桜木町)間の本格的な鉄道建設は始められました。なかでも難工事であったのは、高輪と神奈川(平沼)の海中築堤工事といわれています。このほかにも、八ッ山・御殿山・権現台 (ごんげんだい)(今のJR大井工場付近)・神奈川の切り通し工事、六郷川・鶴見川などの架橋工事など、数々の難工事がありました。
品川区内では、八ッ山から御殿山間の切り通し工事が行われ、完成は明治5年(1872)4月初めで、翌月の品川・横浜間の仮営業直前でした。この切り通しによってできた八ッ山橋は、神奈川の青木橋とともに、道路が線路をまたぐ、日本で初めての立体交差の陸橋となったのです。これは西洋型木造橋で、当時の長さは16.2m、幅は7.2m、明治4年(1871)5月15日に着工し、翌年1月14日に完成しました。この切り通し工事で生じた土砂は、高輪の海中に作る堤の造成に使われたのですが、堤の石垣には、品川台場のうち未完成のまま築造中止した第7台場の石も使用されています。
こうして、日本最初の鉄道建設は、明治3年(1870)3月に鉄道建設の技師長エドモンド・モレルの指導で測量に着手してから、幾多の困難を乗り越え、明治4年(1871)8月には、横浜から品川(東海寺裏)までの試運転を始めるまでになりました。そして同年11月に、条約改正予備協議や欧米の文物・制度の視察などのため、岩倉具視や久米邦武らの岩倉遣米欧使節団一行が欧米に出発する際には、その一部は品川から試運転中の蒸気車で旅立つこととなったのです。このときは、品川駅はまだ完成していなかったため、ホームもなく、乗客は地上から直接客車に乗ったと記録されています。乗車した場所は東海寺裏付近と推定されています。
明治5年(1872)5月7日、品川・桜木町間の仮営業が開始されました。まだ、途中駅が完成していなかったため無停車で、距離23kmを所要時間35分、一日6往復の運転でした。仮営業開始後、最後まで残っていた汐留・高輪間の築堤工事も同年9月には完成して、正式に新橋・横浜間が開業できるようになり、9月12日に明治天皇が出席して開業式が行われる運びとなったのです。そして、鉄道開通50周年の大正11年(1922)には、この日を鉄道記念日(現在は「鉄道の日」)として制定しました。ただし、日付については、開業当時はまだ太陰暦だったため、当時の日付を太陽暦になおした「10月14日」を鉄道記念日としています。
この鉄道建設にあたり、指揮を執っていたのは旧・長州藩士の鉄道頭 (てつどうのかみ)・井上勝 (いのうえまさる)でした。井上は、文久2年(1862)に伊藤博文・井上馨らと渡英してロンドン大学で鉄道学・鉱山学を修め、帰国後は鉱山・鉄道関係の職を歴任したのち初代鉄道頭に就任、わが国鉄道の創設者といわれています。さらにこの後も、国内の鉄道網の整備に努め、「鉄道の父」と呼ばれましたが、明治43年(1910)、英国訪問中に病を得てロンドンで死去しました。その墓は、東海道線と東海道新幹線に挟まれた東海寺大山墓地に、一代の情熱を注いだ鉄道の安全を見守るかのように建立されています。また、日本最初の鉄道建設に尽力した技師長エドモンド・モレルは、在職1年6ヶ月で鉄道の開通を見ることなく明治4年9月23日に29歳で病死、横浜の外国人墓地に眠っています。日本に鉄道の夜明けをもたらした二人が、ともに外国で病にたおれたというのも、不思議なめぐり合わせといえましょう。 
15 明治前期の町村合併 その1 廃藩置県後の品川
明治4年(1871)7月、明治政府は廃藩置県を断行し、10月には府藩県制時代の「東京府」を廃して、新たに府県制による「東京府」を置くことになりました。ただし、この廃藩置県は、単純に藩を県に代えただけで実体は変わらず、全国では3府・302県となっており、区分けが細かすぎる上、飛び地も多く、地域としての整合性を欠く面が多かったのです。このため、早急に統合する必要に迫られ、明治4年11月には統合が行われて3府72県となりました。品川県は解消されて、荏原郡のうち85ヵ村、豊島郡のうち26ヵ村、多摩郡のうち55ヵ村が東京府に編入されたのです。こうして品川宿を含めた品川区域の村々は、東京府の中に包轄され、新しい東京府という自治体のなかで暮らしていくことになりましたが、当時、旧東京府の管内は戸籍編製と関連して大区・小区に区分された行政区画ができていました。
品川県ばかりでなく、新しく東京府に編入された宿村は、暫定的には方角的に、品川口とか板橋口、新宿口、千住口というように四宿の名称を使って分け、東京府内の各大区に分属させるといった処置をとっていました。品川口は第1区から第4区までに分けられ、現在の品川区・大田区域の宿村が品川口に属していました。この区分けは、もともと戸籍編製と関連してなされたため、土地の事情を無視してつくられた区画がかなりあり、早々に改変が必要となって、明治6年(1873)3月18日、新たに独立した大区小区制をとることになったのです。御府内(朱引き内)の地域には既に6つの大区があったので、この新しくできた大区はさきの6大区につづいて、7大区から11大区と呼ぶことになりました。この結果、7大区2小区には、北品川宿・品川歩行新宿 (かちしんしゅく)・品川台町・南品川宿・南品川猟師町・利田新地 (かがたしんち)・二日五日市村、7大区3小区のうちに、大井村・上蛇窪 (かみへびくぼ)村・下蛇窪 (しもへびくぼ)村、7大区5小区のうちに、上大崎村・下大崎村・居木橋 (いるきばし)村・桐ヶ谷村・戸越村・小山村・谷山 (ややま)村・中延 (なかのぶ)村が含まれることとなり、現在の品川区域の村々については、明治11年の郡区町村編制法による荏原郡誕生まで、この大区小区の行政区分がつづきました。大区・小区においては行政の最小単位は小区で、小区の戸長 (こちょう)が上からの命令を下に伝え、下の事情を上に申達することになったのです。この小区には、いくつかの宿村が含まれている関係から、旧来の宿町村は、小区のなかに埋もれた、まとまりにすぎないものとなりました。
このような旧態依然とした中央集権的な地方制度を廃し、地方自治を進めるため、内務卿大久保利通は、明治10年(1877)西南戦争が終わると、地方制度全般にわたる改革に着手しました。明治11年(1878)4月には、当初の案に多少修正を加えた郡区町村編制法・府県会規則・地方税規則の3法案が付議され、5月に紀尾井坂の変で大久保が暗殺されたため一時中断したものの、同年7月に布告されたのです。これがいわゆる三新法といわれるものです。郡区町村編制法の公布によって、従前の大区小区を廃し、新たに麹町区・神田区・日本橋区といった15区と荏原・南豊島・北豊島・南足立・南葛飾・東多摩の6郡が設けられることになったのです。この改革で設けられた荏原郡は、今までの第7大区の90宿町村をその管轄下におさめ、郡役所は品川に置かれました。郡役所は目黒川にかかる要津橋 (ようじんばし)北岸の地、今の北品川3丁目10番付近にあたります。また、府県会規則に基づいて府会が開設され、明治13年(1880)4月には、区町村会法が公布され、全国に町村会が誕生することになりました。定数は人口に応じて,町丁ごとに定員を割り振っていました。大井村の場合、後に若干の改正はあるものの、定数は30名で、御林町12人・浜川町7人・元芝1人・山之内3人・倉田1人・庚塚 (かのえづか)2人・出石 (いずるいし)1人・原1人・森2人、合計30人をもって村会を構成していました。
その後、明治21年(1888)に公布された市町村を自治体とする「市制・町村制」の法律第1号によって、町村合併が進み、品川区域の地域的基盤は、現在見られるような方向へ変化していくこととなったのです。 
16 明治前期の町村合併 その2 明治21年の町村合併
郡区町村編制法の公布の後、町村合併を促進させたのが、明治21年(1888)に市町村を自治体とする「市制・町村制」の法律第1号としての公布でした。これは市町村の営造物や財産にたいする住民の共用権とその負担に対する義務を明記し、条例規則の制定権、制限された形ではありましたが市町村長の公選制、町村会の設置と議員の公選などを認めたものでした。この当時、市制を施行した都市は全国で40に満たなかったのです。東京府では東京市のみでした。大部分は町村制によったのですが、その実施にあたって重要な問題は町村費の増大であり、その解決策としてとられたのが町村合併による資力の拡大でした。
では、品川区域の町村合併はどのような手順で行われたのでしょう。その準備として明治21年に東京府は「町村区域資力調査」を実施して、各町村の戸口・民有地・租税・物産などの詳細な調査に基づいて府庁で原案を作成したのです。この案が府会に諮問されると、郡部出身の議員は一斉に反発し、審議途中でその過半数が辞職するにいたったのです。この反発は市部を優先する府の考えによるもので、税負担能力の高い地域が市部に編入されると、郡部は、従来に比べて1.5倍も高い負担を余儀なくされることになったからです。結果的には市部を優先する都市中心型の合併が行われたのですが、郡部内の町村分合併については、まず郡長の意見を問い、これに基づき原案が作成され、これを戸長に諮問し、その意見を取捨して町村会にはかるという順序でした。
府と郡の案で問題となったのは「品川町」と「大崎村」でした。当初「品川町」の府−郡の案は北品川宿の目黒川以西と品川歩行新宿 (かちしんしゅく)を合併して「北品川町」、南品川猟師町と南品川利田新地 (かがたしんち)をもって「品川猟師町」と改称し両町を芝区に編入する案でした。これに対して戸長らの案は、北品川宿と品川歩行新宿と合併して「北品川町」、南品川宿・二日五日市村・南品川猟師町・南品川利田新地を合併して「南品川町」とする案だったのです。これに対し、府は実施直前になって、当初案を翻し、北品川町・南品川町と分けずに全域を合併して「品川町」とする案を提示したのです。北品川町・南品川町は、分離独立したい理由として、北品川は商業を主として生計を営み、南品川は水産業・農業を主としているので、風俗習慣を同じくしないと主張しました。しかし、住民の請願は府の容れるところではなく、全域を合して「品川町」となったのです。
「大崎村」の場合、府−郡の案は、上大崎村・下大崎村・谷山村・居木橋村・桐ヶ谷村5カ村をもって新村を作ろうとしたのに対し、この地域の戸長の意向は、さらに白金 (しろかね)村・三田村・芝区白金猿町を加えて新村をつくりたいというものでした。その理由は、白金・三田村も同じ郡に属し、人情風俗が同じで、猿町の商家は近隣の村を得意先としているといったものでした。本音は府の案の5村は地価が低く、「地租」を基本とした当時の税制では充分な税収は期待できず、到底財政的に独立できないというところにあったのです。これも戸長らの意見は聞き入れられず、白金猿町の合併だけで終わったのでした。
「平塚村」の場合は、戸越村・上蛇窪村・下蛇窪村・中延村・小山村の5カ村の合併案で、戸長らの異議はなかったのですが、新村名が問題となったと記録されています。「竹旭村」と「平塚村」の2案が出て、長い間折り合いがつきませんでした。その間に各村の一字を取って「戸小中蛇村」といった意見まで出るなど、大いに紛糾したのですが、結局平塚村に落ち着いたのです。「大井村」は一村で、戸数・人口・土地など新町村の基準に達したものとして、一村でそのまま新制度に移行することになりました。
このように、さまざまな紆余曲折は経たものの、この合併によって、現在の品川区の地域的基盤は出来上がったのです。 
17 維新後の品川用水 その1 維新の不安とその後の管理
江戸時代の品川区域は、品川宿と海岸部の猟師町のほかは農村でした。目黒川と立会川流域の平坦部には水田が開かれていましたが、大部分は丘陵地で畑が多く、旱害 (かんがい)が起こりやすい土地柄でした。そのため、灌漑用水の開通は、品川区域の農民にとって待望久しいものだったのですが、品川用水が幕府の費用で開鑿 (かいさく)されたのは寛文9年(1669)のことでした。この品川用水は、玉川上水を境村(今の武蔵野市・境)から分水していた仙川用水を野川村で分水し、品川領の9宿村を潤していったのです。(品川区域でも小山村と中延村には水路が引かれていませんでした。)
ところが、玉川上水から取り入れた水が品川区域まで届くには距離もあり、必要な水量が届かなかったりすることもあったため、幕府は途中の村々での分水を禁止したり、水路の改修工事をしばしば行なったりしました。元禄4年(1691)の大改修後は、品川用水が途中で壊されたり、盗水されたりすることのないよう、それらを禁じた高札を途中の村々5箇所に建てたのです。また、境の分水口(取り入れ口)などには水番人がおかれたのですが、その費用は用水の恩恵をうけている宿村が組合をつくって負担していました。さらに、部分的な改修工事については、幕府が行なう「御普請」ではなく、用水を使う村々が負担する「自普請」によるとされていたため、負担も大きかったのですが、ともあれ品川区域の村々は、水路の保全と用水保護がなされており、農作物に必要な水は確保されていたのです。
しかし幕府が滅び、明治新政府になると、品川用水の恩恵を受けていた宿村は、徳川幕府の時代と同じ権利を引き継ぐことができるのか、大変不安な状態になりました。実際、慶応4年(1868)に高札が撤去されたことは、最も大きな心配の種だったのです。同年、6月4日、玉川上水・神田上水は明治新政府に引き渡され、水源を玉川上水にゆだねる品川用水も、当然のことながら新政府に引き渡され、改めて市政裁判所の管理下に入りました。品川領の名主らは、大いに不安にかられ、3日後の6月7日には、品川領の名主総代の下蛇窪村と大井村の名主自らが供を連れて、境村と羽村へ状況視察に出かけたほどでした。当時の視察記録には、現状を見届け、幸い特に心配することもなく安堵したと書かれています。明けて明治2年(1869)2月、上水の管理は民部省に移され、同4年11月には東京府の管掌下に属することになりました。
その後の経過は断片的な記録のみですが、その中に、明治9年(1876)、品川用水は従来の品川領9カ宿村に仙川組(現・調布市)4カ村の専用だったのを、地租改正の折に新井宿 (あらいじゅく)村と下大崎村を加え、品川用水組合は11カ村になったとあります。その理由は、下大崎村は目黒川南岸に位置しており三田用水の恩恵を受けることがなく、また、新井宿村は大井村の南に隣接していて六郷用水の恩沢に浴することができず、ともに旱害に苦しめられていたためでした。その後、用水路は受持人2名が選出され、戸長役場が管理していましたが、明治19年(1886)に用水の管理人は荏原郡長となりました。明治24年(1891)3月、水利組合条例により、組合管理者の荏原郡長が従来の品川用水組合を継承するために、「品川用水普通水利組合」設置が東京府知事より認可され、同時に各町村別の分水は、内堀として、品川町内堀普通水利組合といったように各町村に設置されて、町村長が管理者となったのです。 
18 維新後の品川用水 その2 水車営業と水争い
江戸時代、 灌漑 (かんがい)用水をめぐる水争いや事件は各地でみられたのですが、明治になっても嘆願や訴訟事件は発生していました。原因のひとつに水車の設置があります。品川用水路に水車営業を許可することは、用水本来の目的とは相容れないのですが、水車からの用水使用料収入は無視できないものでした。水路浚渫 (しゅんせつ)のために人足を出させたり、用水路を維持するための修繕費を徴収したりしたのです。
明治12年(1879)ころの品川用水路関係に設置されていた水車の数は、大井村が7輪 (りん)、居木橋 (いるきばし)村1輪、下蛇窪 (へびくぼ)村2輪、上蛇窪村1輪、上連雀 (かみれんじゃく)村(今の三鷹市)1輪の12か所でした。明治14年(1881)には野沢村(今の世田谷区)に1か所新設されたのですが、許可されるまでは容易ではなかったようです。これらの水車からは、用水使用料を徴収していたのですが、明治18年(1885)になると用水維持財源が不足してその手当に苦しみ、戸越村2輪の他、碑文谷 (ひもんや)村(目黒区)世田谷村、新川村(今の三鷹市)各1輪の5箇所を新設許可して、用水堀浚渫などのため用水使用料を徴収しています。
しかし、水車の設置は用水の水量に大きな関係があり、とくに旱魃 (かんばつ)のときには水路の末端にあたる地域に及ぼす影響は少なくなく、時には水車への取水堰 (ぜき)閉鎖を命じることもありました。このため、農業のみの従事者と、水車営業する者との両者から、管理者荏原郡長には陳情書がしばしば出されています。
なかでも、明治25年(1892)から26年(1893)に至る「上蛇窪分水口」事件は注目される事件でした。この、上蛇窪分水口による村々の争いは絶えなかったのですが、この時は、明治24年(1891)の分水口改修工事で、水の取り入れ口を従来の位置より7寸(約2cmあまり)引き上げたことが発端でした。引き上げた結果、上蛇窪村一帯の耕地は用水の流通が悪くなり、植付けができない状況に陥ったのです。上蛇窪村の関係者は、大井村や関係の内堀組合委員に陳情し、25年7月から翌年3月にかけて交渉が続けられました。しかしながら上蛇窪村の農民は交渉がなかなか進まないのにいらだち、耕地の窮状を救うためにこの分水口を破壊し、捕らえられてしまったのです。窮状を訴えすぐ放免にはなりましたが、未だ取り入れ口は高い位置のままだったので、再度陳情したのですがとりあげられず、郡長を相手に訴訟を提起することになりました。郡長は、取り入れ口を2寸下げるとして工事を行いましたが、まだ不公平であったため、明治28年(1895)7月17日、東京府知事により「元に戻す」裁定が出て、決着をみたのです。この事件については、上神明天祖神社内に記念碑があります。大正5年(1916)に建立された「御大典紀念」碑の裏面に、水争いの経緯と成果を記念する内容を記し、「上蛇窪用水紀念」とあるのがそれです。
品川用水が田畑を耕作するうえで、区内各村に大きな貢献をしたことはいうまでもないのですが、その一方で、区域内農村の手工業の展開に対応して、動力としての水車の利用がさかんになったこともまた事実でした。用水組合へ多くの使用料が払われたとはいえ、本来の農業用水を利用する側からみれば、大きな矛盾をはらんでいたわけであり、水車営業と水田灌漑との利害の対立が生じたのです。その意味で、「上蛇窪分水口事件」は、その代表的な事例であったといえましょう。 
19 明治期の海苔養殖と蒲地騒動
品川の漁業は、明治になってからも小規模なもので、幕末の品川台場の築造は大きな打撃となりました。江戸時代には御菜肴 (おさいさかな)八ヶ浦の元浦であった品川浦ですが 、明治10年から17年にかけては、船の数も漁夫の数においても、羽田浦や佃島浦に及ばない状況でした。この頃から、宅地の増加と工場建設による漁猟衰退 の兆候があらわれ始めていたのです。しかし、漁猟は停滞していたものの、海苔養殖が繁栄したため、漁業の衰退はそれほど急速に進むことはありませんでした。
江戸時代には本場を誇った品川海苔も、江戸末期には、大森村などに押され気味でした。さらに、大森村は維新後の動乱を機に、いち早く官軍から東貫森 (とうかんもり)(現在の糀谷 (こうじや)・羽田浦沖)のひび場(海苔養殖のために立てられる木や竹の枝をひびといい、後、網ひびに変わる)、いわゆる官軍場を開く特権を得ていたのです。品川では、このような積極策は見られなかったのですが、明治初年には、それまでの商品流通上の封建制度が撤廃され、乾海苔への需要が一般化したため、商品市場は拡大され、一種の海苔ブームがおこり、品川付近にも新しいひび場が増えていきました。
明治3年(1870)8月には、南品川猟師町に対して五番台場下に一万五千坪のひび場が許可され、品川浦全体で八万七千坪余りとなり、天保年間(1830〜43)の2倍強になっていました。台場付近の海は、海苔養殖にとって淡水・鹹水 (かんすい)(塩水)が最も適度に調和する好適地だったのです。これらの場所は海域の境界改めによって、品川宿に属することになり、海苔ひび場拡張において品川は優位に立つことができたのですが、これに加えて、廃絶したひび場と台場付近の海との交換を申請したりしながら、品川のひび場はさらに拡張していきました。
ところが、明治20年(1887)5月、鹿児島県出身の蒲地 (かまち)某が単独で20万坪余りの養殖場の許可を東京府へ出願したのです。この蒲地氏は、海面にまったく既得権をもたず、しかも漁業とは無関係の人物でした。その請願書にも、起業にあたっては「篤と研究、きっと見込み之有るところにより請願仕り候次第にて、興業の上は忽ち隆盛に至るは必然」などとあり、明らかに収益をめざした許可出願だったのです。
この蒲地氏の出願に対して、各海苔生産地では強硬な反対運動を展開し、代表者は3ヶ月にわたって東京府に日参して反対の陳情をおこないました。それにもかかわらず、東京府は蒲地氏に対して16万坪余の許可を与えたのです。時の東京府知事が鹿児島県出身であったことから、いわゆる「薩摩閥」による利益誘導も取り沙汰され、各浦々では、この東京府の処置を激しく糾弾し、各方面に不当を訴えていきました。この騒動が起こる前の明治19年(1886)3月、東京湾漁業組合が10万坪の海苔養殖場の借用願を東京府に提出したところ、その申請は却下され、やむなく組合は養殖場の名目で改めて申請、許可はされたものの面積はわずか4万5千坪であったというできごとの記憶も新しかったため、糾弾は激しいものとなったのです。
この結果、東京府も蒲地氏に対して許可を取り消さざるをえなくなり、明治20年8月に、8万坪は返納、残り8万3千坪は南品川宿・南品川猟師町・大井村・大森村・羽田村に譲渡されることで決着を見ました。これら5宿町村は東京府から5ヶ年の契約で許可を受け、各宿村が分割して使用する取り決めとなりましたが、これらのひび場は図らずも、その後永く「蒲地場 (かまちば)」と呼ばれることとなったのです。
明治17年11月の東京湾漁業組合結成を契機に、それまでの自由競争的なひび場拡張は、一転してきわめて協調的なものに変わりました。しかし、許可をとった海苔場には「海苔小作」の慣行があり、そこから賃貸料としての小作料収益をあげるという利権がからむところから、この騒動は起こったのです。 
20 明治時代の牡蠣養殖の試み
東京湾に属する干潟は、浅蜊 (あさり)・蛤 (はまぐり)・牡蠣 (かき)・サルボウ・バカガイなどの発生・生育に適していました。とりわけ、目黒川が流れ込み、淡水の分布の多い品川湾は、稚貝発生の好適地の一つに数えられていたのです。品川浦において牡蠣養殖が盛んになったのは、明治24,5年(1891〜92)頃であると伝えられています。この頃は海苔養殖も盛んな時期であり、牡蠣養殖場が海苔養殖場になったという記録も残っていて、以前から牡蠣養殖が行われていたことがわかります。
明治25年(1892)には、築造工事が中止されたままになっていた七番台場に、農商務省によって牡蠣養殖の試験所が設置され、品川浦2ヵ所、芝浦、金杉浦、佃島の5ヵ浦から出されていた牡蠣養殖試験願に対し、試作が許可されることになりました。その面積は約1,100坪余り、試験年限は25年7月より28年4月までの2年10ヵ月で、牡蠣養殖の費用一切は、許可を受けた浦の負担でしたが、収入もまた全て浦の収入となったのです。なお、この試験養殖にかかわる報告は1年ごとに出すこととされていました。この年、東京府の手がけた牡蠣養殖の試験場も五番台場近くに設置され、南品川の漁師に委託されています。条件は農商務省と同じでした。国や東京府が牡蠣養殖の試験を行ったのは、牡蠣養殖業を振興し、このころ不振となってきた魚類の漁からの転換をすすめる意図を持っていたためです。
この2ヵ所における牡蠣養殖の結果を、東京府への報告書から見てみると、明治25年5月から翌年4月までの成績は、気象条件に恵まれ竹麁朶 (たけそだ)(枝のついた竹)に卵から孵化 (ふか)した牡蠣が付着して成長はしたものの、秋になり風浪が立つようになると、囲い内から流れ出て他の業者に密漁されてしまったうえ、囲いのなかでも同様なことがあったため、全体で2割程度の付着であったとあります。明治26年(1893)では、養殖準備の時期をのがしてしまった結果、牡蠣の付着がほとんどなかったとあり、明治27年(1894)では、牡蠣苗は発生したが、養殖場の地質が泥土で牡蠣種苗場に適してはいるが肥えた牡蠣にはならないので他に運んで飼育するほかない、と報告されています。
このように、結果は芳しくありませんでした。しかし、このころの東京府における牡蠣の生産は、天然牡蠣に依存しているとはいえ、生産金額において広島・北海道に次いで全国3位という記録があります。その後、東京府の経営していた牡蠣養殖試験場は、許可期間が満了した明治30年(1897)に、使用者を募集したのですが応募する者がなく、明治34年(1901)4月をもって、この試験場は 内湾での採苗・養成法の追求といった 当初の試験目的を達成した として廃止され、以後は広く一般の自由採取となったのです。
一方、品川などの漁業組合の開墾した牡蠣養殖場は、どのような状況だったのでしょう。明治28年(1895)には、品川停車場地先海面2万坪の牡蠣養殖場が南品川漁業組合他3ヵ組合に許可され、その後大正15年(1926)に隅田川河口改修のため漁業権が消滅するまで養殖が行われていました。ここでの養殖方法は判明していませんが、沿岸に近いことから地蒔きか麁朶を使っての養殖法で増産をはかっていたのではないかと思われます。
昭和の時代に入ってからも、同3年(1928)には品川湾各地に牡蠣、アサリ・蛤、牡蠣垂下式試験地が設けられ、飼育を行っていましたが、やはり盗難を防ぐ対策が充分でなかったため、昭和6年頃には貝類の養殖は行われず、自然に生育している牡蠣・アサリなどを採集するようになっていました。しかし、その後も東京における牡蠣養殖の試験は行われ、地蒔き・ひび建て・垂下式・簡易垂下式および平面式などの方法について、設備の堅牢性と牡蠣の成長度の比較を行っています。そのなかでは平面式が良好な成績を収めて実用化され、昭和34年(1959)頃までこの方法で養殖が行われていました。
とはいえ、品川湾はじめ東京都の内湾は、もともと牡蠣の採苗も生育も極めて良好であり、天然牡蠣の漁獲高は相当額あったので、牡蠣養殖は事業として普及するには至りませんでした。その理由としては、養殖場の管理が困難な上に、自然のままでも種苗がついて定着できるものが多く、天然産牡蠣が豊富であったこと、さらに海苔養殖に力をいれたことによるといえましょう。 
21 明治期における品川区域の農業 その1 明治前期の農業と農業懇談会
明治前期の品川区域は、品川宿と海岸線の猟師町を除けば、江戸時代から続く農村でした。目黒川や立会川の流域には水田が営まれていましたが、ほとんどは畑作が中心でした。このころの品川区域の農業について、政府の農業政策の面から探ってみましょう。明治の初め、政府による農業政策の特徴は、先進諸国の農業技術の導入・移植を図った点と在来農法の技術指導にあるといわれています。前者は、いわゆる「泰西農法 (たいせいのうほう)」の導入であり、近代農業技術者の養成もこれにあたるのですが、その中心は勧農機関としての三田育種場(いまの港区三田、旧島津屋敷跡地)や内藤新宿試験場(現在の新宿御苑の地で、のち駒場へ移転し、名称も、駒場農学校(現、東京大学農学部)となる)などの設置でした。これらの施設では、外国人の技術者を招き 技術者の教育にあたらせるほか、欧米の果樹や野菜を輸入しての試験栽培や肥料などの研究もおこなわれたのです。この三田育種場で試験栽培された欧米の果樹や野菜は、全国に配布されました。後者は、「老農」とよばれる、在来農法を研究し自らの体験を加えて高い農業技術を身につけた農村指導者によって、各地を巡回しながら実際に農業技術の指導にあたったことです。この老農らによって明治10年頃から各地で種子交換会や農事会など農業技術の交流を行う組織が形成されるようになりました。これらをあらかじめ組織化し農事改良運動の目的に利用しようとしたわけです。「老農」らをまとめ組織化したのが農談会です。明治14年(1881)3月に全国農談会が開催され、荏原郡からも数名発言した記録があります。その1ヶ月後には荏原郡農談会が現在の東海寺で開催され、以後年2回、老農たち20数名が参集して、稲作の虫害予防、特産物の実況、作物改良、農具改良といった農業技術や農業経営について意見交換を実施していました。品川区域から出席した老農は、南北品川宿に桐ヶ谷村・戸越村・小山村・大井村から各1名、あわせて5,6名ほどでした。この荏原郡農談会の記録によると、近郊農村の性格をもつ区内の村々は、低生産力から脱却しようとして、いろいろな試みを行っていたことがわかります。東京府からは、稲の新種、あるいは馬鈴薯、秋田産大豆、蕃茄 (トマト)などの導入が試みられましたが、必ずしも安定した生産とはならず、高い収益をもたらすに至ってはいなかったようです。明治16年(1883)11月の第5回荏原郡農談会では、東京府勧業課から提供された秋田産大豆試作について桐ヶ谷村での状況を「5月上旬、よい大豆の種2合の提供があり、麦畑の間に深さ三寸程に造り、元肥に人糞へ灰を混ぜて肥料として施した12坪に種をまいた。土用明けには開花し、生育が良く葉や枝もたいそう茂った。しかし一番晩生であったため金カメムシが多くつき、駆除法にくるしむ。11月初旬に採収したところ、収量はわずかであった。全くこの大豆種は土地に適しないと考える」などと報告されており、成果をあげるのは容易なことではなかったことがうかがえます。
そのほか、東京府による在来農業をとりいれた振興策として特筆すべきことに、明治14年、『東京府下農事要覧』6冊を刊行したことがあげられます。これは、在来の農業技術の公開によって増産の実をあげさせようと、各村々の特産物について栽培方法などを各老農に聞き出し、これを編集したものでした。品川区域でとりあげられているのは、上大崎村の豌豆 (えんどう)、下大崎村の稲・クワイ、北品川宿のネギ、白胡麻、あぶらな、桐ヶ谷村の冬瓜 (とうがん)、下蛇窪村の秋大根、大井村の人参、戸越村・上蛇窪村の孟宗竹筍、などとなっており、当時の特産物であったことがわかります。さて、荏原郡農談会は明治19年(1886)に農業会に組織変更し、5回の農業会を開催し、さらに明治23年(1890)に私立農談会を設けて、郡内で会員120名余りを集めたといわれています。それ以後、農談会と品評会の統合など系統化をすすめ、明治31年(1898)10月には系統的農会が組織されたことにより荏原郡農会へと結実していきました。この、荏原郡農会の創立にあたっては、各町村会農会の創立が前提としてあり、品川区域では、品川大崎連合農会は同年2月に設立、そのほか平塚村農会、大井村農会も既に設立されていました。このようにして、「農会」は、個々の農業技術的農業改良の団体という性格から脱皮し、農政的な農業改良団体へと発展強化されていったのです。  
22 明治期における品川区域の農業 その2 近郊農業の展開と明治期の青物市場
明治20年代になると、品川区域の農業は、工業用地化と宅地化の進展に伴い、東京市の近郊農村として、麦・米などの穀類中心から蔬菜 (そさい)栽培を中心とした商品作物生産へと展開していきます。近郊農村の蔬菜栽培のながれとして、はじめにセリ・ネギ・小松菜などの葉もの野菜の栽培地域ができ、次いでナス・キュウリ・カボチャなどの果菜類とダイコン・ニンジン・ゴボウなどの根菜類栽培地域が形成されていく傾向がみられます。旧中延村の一農家の記録を明治27年(1894)と35年(1902)とで比較してみますと、名産品であった筍の生産比率が高いのは当然なのですが、明治中期から後半にかけて、ダイコン・キュウリ・ナス・唐茄子 (とうなす)(カボチャ)の比重が高まっていく傾向がみられ、果菜類・根菜類の栽培地域に入っていたものと考えられます。
明治31年(1898)に荏原郡農会が設立され、その前提として各町村の農会が設立されたのですが、品川町では、大崎村と連合で品川大崎連合農会が設立されました。この明治31年ころの品川町は、都市化の進行が早い地域であったため、農業は三ツ木(西品川)と二日市(南品川4丁目から広町にかけての地域)で、わずかに行われているだけでした。農地のうちあらかたは隣村への小作として貸し付けられていたのです。大正10年(1921)には農家は九戸に減少しています。この連合農会は、「連合」といいながら、中心は大崎村だったのです。
大崎村や大井村においても品川町よりやや遅れたものの、同様の傾向はみられ、明治後期から大崎町には目黒川沿いに工場が建ち、周辺も宅地化が進みました。また、大正中頃から大井町では宅地化が進み、蔬菜類の栽培はみられなくなって、温室栽培が盛んに行われるようになりました。なかでも「マスクメロン」は大井町農会の主催で「メロン」品評会を開くなど、温室栽培を奨励した結果、その出来具合は大日本メロン協会主催の品評会で最高の賞牌をとるほどでしたが、それだけでなく、大井町では大輪菊 (たいりんぎく)・カーネーション・ダリアなどの花卉栽培においてもその技は全国に抜きん出ていたといわれています。そして、品川区域のなかでは比較的都市化の進行が遅かった荏原地区(旧平塚村)でも、園芸を主とした農業への集約化がすすみ、露地イチゴの栽培やナス・キュウリの促成栽培がさかんになりました。
さらに関東大震災を機に人口が急激に増加していったのですが、これに拍車をかけたのが大正7年(1918)から大正12,3年に各地区ではじまった耕地整理であり、私鉄の開通でした。この耕地整理は生産効率を高めるというよりも、農業の基盤整備に名を借り、すでに進行していた住宅地化に対応するための区画整理、道路整備に主な目標が置かれていたのです。このようにして、昭和7年(1932)の荏原区誕生のころには自給以外の田畑はほとんどが宅地化され、品川区域における近郊農業も終焉をむかえるに至ったのです。
さて、明治前期から大正期にかけて、このような商品作物はどこを販売先として出荷されていたのでしょう。穫れた野菜は青物市場に出荷して問屋に売る場合と地元で仲買に売り、仲買をへて問屋に納める場合がありました。青物市場は、江戸時代からの京橋大根河岸 (だいこがし)青物市場や神田多町 (たちょう)の青物市場などがありましたが、明治10年(1877)6月に東京府の認可を受けた青物市場は16ヵ所あり、現在の大田区・品川区域での青物市場としては、南品川青物横町の品川青物市場が唯一のものでした。荷主は、近在物では荏原郡のほか神奈川県橘樹郡 (たちばなぐん)・都筑郡方面から一日200人ほど来場し、遠方は千葉・埼玉のほか東北地方からも荷が入っていました。買い手は、市内芝区、品川・大井・大森方面の小売り商人でした。この地は品川駅に近く、また目黒川・東京湾に近接していて海陸ともに便利な地点であったので、果菜類や根菜類の販売にも都合がよかったのでしょう。この市場も昭和6年(1931)に道路拡張工事により移転することになり、八ッ山地先の町有埋立地へ移転したのですが、東京市の第2次分場計画により、荏原郡には荏原分場(西五反田)が昭和11年に開設されたため、その幕を閉じたのです。京橋の青物市場も昭和10年(1935)に東京卸売市場として築地に移転しています。 
23 明治時代の埋立事業
品川区域における海岸埋立は、江戸時代後期に始まりました。南品川猟師町 (りょうしまち)の地先に、寄洲 (よりす)が5000坪ほど(目黒川が海に入るところ)出来ているのに目をつけて、築立 (つきだ)てが行われたのが最初でした。波浪 (はろう)被害によって工事が遅れましたが、天保5年(1834)の検地により、新しく「利田新地 (かがたしんち)」という地名が生まれ、家作地となりました。現在の東品川1丁目の一部にあたります。その後は安政元年(1854)の品川台場築造と、利田新地から陸続きの御殿山下台場(今の台場小学校付近)が造られました。
明治時代に入り、最初の埋立事業として、明治5年(1872)鉄道敷設のために八ッ山下(現在の港区)の埋立が行われ、品川駅ができました。現在の品川駅は、明治29年に、明治5年に出来た駅より300メートル余り北に出来た新しい駅が何回か改築されたものです。この埋立に使われた土砂は、八ッ山陸橋のある八ッ山から御殿山にかけての切り通し工事に伴ってのものです。この土砂は、高輪から芝にかけての築堤にも使われました。
さて、品川区域の埋立事業は、明治14年(1881)ころから、東海道往還 (おうかん)の海際の埋立開墾願いが南品川宿や大井村から東京府に出されていますが、本格的なものは明治20年(1887)4月に南品川猟師町地先の約4800坪(約1.6方キロメートル)の埋立が最初でした。次いで南品川1丁目地先海面950坪余り(約3000平方メートル)の埋立が明治24年に竣工しています。それ以降の埋立は、東京湾築港計画に伴って高輪および品川地先海面を行うことになりました。品川町においても避難所として南品川1丁目地先から4丁目地先(現在の南品川1,2丁目地先)2万坪と南品川猟師町地先海面1万7550坪で、合わせて3万7550坪の埋立を出願したのです。
しかし、この計画は大きく変わり、明治末までに地番設定が行われたのは、南品川1丁目〜6丁目までの(現在の南品川1丁目から3丁目地先)5900坪余で、南品川猟師町の1万7千坪の予定が約6160坪余りに変更させられて、明治44年3月に番地設定が行われました。このほかに、利田新地地先の埋立も進み、明治30年から翌年にかけて1800坪余の埋立地が竣工し、さらに同地先2800坪余りの埋立が行われ明治43年に番地設定されています。
大正時代になると、八ッ山下海面などの埋立申請が続々と出され、昭和初期には大埋立地が出現したのです。品川地区の埋立に対して、大井地区の鮫洲から立会川にかけての地先海面の埋立計画は、明治14年に東海道往還沿いの浅瀬埋立を出願した記録はあるのですが、大きな埋立工事は大正時代末頃になって立案されたものでした。しかしながら、なかなか実現せず、実際に事業が進められたのは昭和6年以降になってからのことでした。
 
維新の教育

 

幕末期の教育
近世の教育から近代の教育へ
明治維新以後に飛躍的に展開される学校教育の近代化は、直接的には維新政府によって採用された欧米諸国をモデルとする「富国強兵」「文明開化」政策に起因するものであったが、同時にそれは、江戸時代後半期から幕末期にかけて形作られてきた学校の近代化動向を基盤とすることにより、初めて実現可能になったと言える。国内にこのような前提的条件が準備されていたからこそ、明治以降一貫して急速な近代化を実現し得たのであった。
江戸時代には封建制の社会構造に基づいて士・庶(農・工・商)の厳重な格差を含む身分制が確立しており、教育や文化の面においても、武士と庶民とではそれぞれに独自の質と形式とを形成していた。また、国内は二五〇以上の諸大名の所領(藩)に分割されており、幕府は強大な財政力と軍事力とをもってそれらの諸大名を統御していたが、具体的な行政支配はその所領(天領)に及ぶだけという、幕藩体制が成立していた。幕府を頂点とする諸藩連合という国家形態の下では、教育や文化の面における各地域の異質性や独自性、及びそれらの間の格差には、著しいものがあった。
十八世紀後半以降の農業や手工業の発展を背景にして、これらの身分制や幕藩制への疑問や批判が下級武士層や上層庶民の内部に発生し始め、それは十九世紀以降の欧米諸国からの外圧を契機にして、根本的な改革の志向を生み出していった。
武士の教育
近世社会における政治支配者の地位に就いた武士層は、儒教思想に立脚して支配者に必要とされる儒学の学識と教養(徳)を備えなければならないと考え、その学習施設を設けた。これが藩校である。十七世紀に一部の藩において塾形態を採って発生したが、十八世紀後半からは大規模な学校形式を採るものを含め徐々に各藩に普及し始め、十九世紀にはほとんどすべての藩に一校は設立されるようになった。これにより、武士層の男性は一般にほぼ十分な識字力を持つようになった。
藩校では儒学が専ら教授された。幕末期になって、国学、洋学及び西洋医学などの新しい学問・技術が導入されたが、それらは藩校とは別個の施設において学習された。
武士としての人間形成は藩校だけで行われたわけではなかった。武士に必須(す)な武術の修練は道場で行われたし、居住地域での「組」や家庭における人間関係などを通じて、武士としての資質(武士道)の育成が図られた。
庶民の教育
近世社会での庶民の人間形成は、武士の場合と同様に、むしろそれ以上に、地域共同体での生活を通じて行われていた。若者組・娘組などをはじめ、徒弟や女中としての奉公など、労働や社会生活の全体を通じて、庶民としての「分」や「人並」の体得が求められたのである。しかし十七世紀以降は寺子屋が発達し、庶民の子供たちにも初歩的な文字知識がかなり普及することとなった。
寺子屋は、庶民の子供たちにその生活に必要な限りでの読み・書きの初歩を中心に、日常必須の算用などをも併せて教授する私設の学校であった。当初は、江戸・大坂などの都市部に発生し、十八世紀後半からは農村部にも普及した。その教育内容は、近世社会の庶民にとって即時的に必要とされる文字知識の範囲を出なかったが、他方寺子屋は、幕府や藩による指導や補助を受けることのない自主的な教育施設であった。また庶民は独自に、教諭所、心学講舎、郷校、報徳教など、様々な学習の施設や機会を作り出していた。近世後半以降のこの庶民層における学習の意欲の台頭とその蓄積とが、明治維新以後の近代教育の広範かつ急速な普及を可能にさせた社会的条件になったと言える。
私塾その他
私塾は、学者や芸能者が私宅に設けた教育施設である。中には、後に藩校に改編されたり、寺子屋と区別しにくい程度のものなどもあったが、一般には学術の伝習を緊密な師弟関係の下で進める、自主的なアカデミーとしての性格を持っていた。幕末期には、漢学・国学・算学・医学・洋学などの数多くの私塾が全国的に成立しており、武士・庶民の別なく、学習意欲に燃える青年たちの指導に当たっていた。
このほか、幕末期において特に注目されるのは、洋学の導入である。西洋の学問を意味する洋学は、当初は幕府の鎖国政策により蘭(らん)学、オランダ語を介しての学問に限られていたが、開国以後は欧米の新技術や学問一般を指すようになった。幕府は軍事技術的な面から、江戸や長崎などに直轄の研究・教授の施設を設けたが、当時は専門学よりもその基礎としての西洋語学の修習が中心になっていた。これらは、幕府崩壊後、維新政府に接収され、近代高等教育の基盤を形成した。 
明治維新直後の教育
復古と改革
幕府を倒して王政復古の宣言の下に成立した明治新政府は、従前の幕藩制社会に対する抜本的な改革に着手した。大きな社会変革にしばしば見受けられる「復古」と「改革」の両側面が、厳しい国際環境の下における我が国の民族的国家的な自立の確保のためにともに必要とされた。こうして、非欧米世界にあって初めて近代的自立を達成する我が国の苦難の道が開始された。
新政府の施政方針は、明治元年三月の「五ケ条ノ御誓文」に示されたが、その第五項目中に「智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ」とあり、先進諸国の近代文化の導入が求められていた。ただしこの開化の方針は当初から支配的であったわけではなく、維新直後には「復古」の動向が顕著となっていた。
維新政府の教育政策は、まず京都において開始された。元年二月学校掛が任命され翌月最初の学校制度案である「学舎制」を政府部内に示したが、国学思想により奈良時代の大学寮制度を模したこの案は、多数の同意を得られなかった。また、朝廷の儒学校であった「学習院」を母体とする「漢学所」と、国学を教授する「皇学所」とが一応設立されはしたが、ほとんど実体を見るに至らなかった。東京遷都の後政府の京都での学校計画は中止された。
東京(江戸)では既に新政府により接収されていた旧幕府の学校を改編することとし、二年六月「大学校」の設立が達せられた。それは、旧昌(しょう)平坂学問所を国学を中心に漢学をも併せた大学校に、旧開成所を開成学校、旧医学所を医学校としてその分校たらしめるという構想であり、七月政府の官制改革により教育行政と教育活動との二つの機能を併せ持つ「大学校」が発足した。十二月に「大学校」が「大学」と改称されるに伴い、旧昌平坂学問所跡の本部と国漢学校とを「大学本校」、開成学校を「大学南校」、そして医学校を「大学東校」とそれぞれ改称した。
文明開化への転換
維新直後から新政府は開国政策の堅持を諸外国に通告した。欧米列強の圧力に対峙(じ)して一国の独立を維持するためには、欧米に模して国内の制度と文化を近代化しなければならないと考えたからである。
明治三年二月、大学は「大学規則」及び「中小学規則」を編成して太政官に伺い出た。これは、教育行政官庁である大学が初めて独自に示した体系的な学校制度構想で、欧米の学校制度をモデルとしていた。「大学規則」では、中央に大学一校、府藩県にそれぞれ中学と小学とを設けるとの制度体系を示した。次いで大学の編成においては、従前の国・漢・洋という国別の構成を採らず、教科・法科・理科・医科・文科の五科から成る欧米的な分科制を初めて採用した。小学は八歳から十五歳までの課程で普通学と「大学専門五科ノ大意」を修め、中学は小学を終えた十六歳以上の生徒に大学五科の予備教育を授ける課程とされた。これは、施行上の細則を編成した後法令として府藩県に示され、新政府の教育政策が「復古」から「欧化」へと大きく転回したことを世に示した。
「大学規則」に基づく大学の改編をめぐって、優位に立った洋学派と国学派・漢学派との対立が激しくなり、政府は三年七月国学派・漢学派が本拠としている大学本校を閉鎖した。大学の教育機能は、大学南校と大学東校、すなわち洋学機関のみによって代行的に担われることとなり、新政府の教育政策方針の転換は一層明らかとなった。
大学南校は二年から外国人教師を教授陣の主体に置き、本格的な外国語教育を展開した。特に、大学本校が閉鎖された三年七月に異色の人材養成計画が実施された。それは、全国諸藩にその石高に応じて入学生を派遣させる「貢進生」制度である。これは、全国規模での人材発掘を施行しようとしたものであり、確かにその後の我が国の学界や政界をリードした人材がかなりこの制度により育成されはしたものの、藩体制を基盤としたために旧来の身分制に拘束されて十全な人材選抜機能を果たし得なかったため、文部省設置後の四年九月に廃止された。大学南校は、また、優れた学生や教員を選抜して留学生として欧米諸国に派遣することとし、三年八月その第一陣が米国に赴いた。医学校では、既に二年中に欧米諸国中最も進歩していると見たドイツ医学の採用を決定して、プロイセン政府に教師の派遣を依頼し、四年七月二人の教師が大学東校に着任した。大学東校は留学生をすべてドイツに派遣することとし、三年十月その第一陣が出発した。
政府の欧化教育方針に呼応して諸藩においても洋学校を開設し始め、また民間でも福沢論吉の「慶応義塾」、近藤真琴の「攻玉塾」などの洋学塾が設立され、新しい文明の息吹きを学ぼうとする青年たちを引き付けていた。
国民教育の胎動
明治維新においては、近代国家建設の基礎として、国民一般の教育が重視された。
もっとも、維新直後には幕府に代わる朝廷の権威を民衆に広く知らしめるために、「復古」的な発想での教化政策が採用された。明治三年一月の「宣布大教詔」の発布と宣教使による大衆教化の実施、五年三月教部省の設置、及び翌月の「教則三条」の公布とその普及を担当する教導職の設置などがそれである。これは、神仏分離や排仏毀(き)釈の極端な神道主義政策と関連していた。
政府は、二年二月府県への施政方策を示した「府県施政順序」において「小学校ヲ設ル事」を指示し、大学校にその実施方策の検討を命じたが、同年六月新設の民部官(省)にその業務は移管され、同省の立案により翌三年十二月各県に将来の「郷学校」建設経費の準備を命ずる太政官達が発せられた。また先述のように、三年二月に「大学規則」とともに「中小学規則」が別に制定されていた。しかし当時それらの学校を総合する制度構想は立案されるに至らず、文部省の創設により、初めて全国規模における公的な教育制度の立案が可能になるのであった。
藩や府県の中には、時代の動向にこたえて新しい学校を設立する動きが見られた。最も早く「小学校」の名称を用いた元年十二月設立の静岡藩(旧幕府)の沼津兵学校附属小学校は、旧幕臣の子弟を対象とした初等教育学校だったが、二年中に京都府が京都市内に六四校設立した番組小学校は、庶民の子供を広く対象とした公共施設としての性格を持っていた。東京府も三年六月市内に六小学を設立した。京都府や金沢藩、岩国藩などでは、主に藩士の子弟を対象とした「中学(校)」を設けたし、福山藩(広島)、松江藩などでは女学校の設立までも計画した。他方、京都府の番組小学校と同様な発想から庶民教育のための学校を設立したものに、神奈川県、筑摩県、名古屋県などがあり、いずれも地域住民の協力を得て公共的な学校を作り出そうとした。 
近代教育制度の創始
文部省の創設
明治四年七月の廃藩置県は、幕藩体制を一掃して統一国家体制を創出した、明治維新における最大の政治改革の一つであったが、そのわずか四日後の七月十八日に文部省は設置された。
従来の大学に代わって設置された文部省の職務は、全国の教育事務を「総判」し大中小学校を「管」すること、つまり学校を所管するだけではなく、全国の教育行政事務を総轄することと規定された。設置と同時に最初の文部大輔(後の文部事務次官に相当)に江藤新平が任命され、七月二十八日に就任した初代の文部卿(きょう)(後の文部大臣に相当)の大木喬任と協力して省内の職制や職掌の大綱等を定め新進有為の洋学を学んだ人材を集めて、文部省の基礎を固めた。
大学の廃止と文部省の設置に伴い、従前の大学南校・大学東校は単に「南校」「東校」と改称された。また、府県の設置・改廃が一段落した四年十一月、太政官は改めて府県の学校が今後すべて文部省の管轄に属することを達した。同年十二月文部省は従前の東京府の六小学校を「共立」小学校に改編することを達したが、そこでは、「開化日ニ隆ク、文明月ニ盛ニ、人々其業ニ安シ其家ヲ保ツ所以ノ者、各其才能技芸ヲ生長スルニ由ル、是学校ノ設アル所以ニシテ、人々学ハサルヲ得サル者ナリ」と、後の「学制序文」の思想に連なる啓発的な学校観が表出されていた。
文部省は直ちに全国規模の学校制度構想の立案に着手した。欧米学校制度に関する法規や文献の翻訳・調査に従事する一方、四年十二月箕作麟祥、内田正雄などの著名な洋学者を主体として、これに国漢学者の木村正辞、長ひかる(三洲)を加えた一二人の「学制取調掛」を任命して、学校制度法令の起草に当たらせた。その構成からしても、ここに立案される学校制度計画が欧米のそれをモデルとしていることは明らかであった。立案・起草は急速に進められ、翌明治五年八月我が国最初の全国規模の近代教育法令である「学制」として公布されるに至った。
学制の公布
我が国の近代教育は、明治五年八月公布の「学制」により開始された。しかし欧米において形成されてきた近代教育を、歴史的文化的な伝統と風土を異にする東アジアの一角に定着させようとする前人未到の試みが一応の成功を見るまでには、当然のことながら、模索と試行の苦難の道をたどらなければならなかった。
「学制」案の大綱は五年一月上旬に、その大綱に基づく条文案は三月に、それぞれ太政官へ上申された。「学制取調掛」の発令から約三か月で「学制」の原案が成立したことになる。ところが、太政官において、財政支出の増大を恐れる大蔵省の批判や、右大臣岩倉具視を特命全権大使とする遣外使節団の派遣中には重大な内政改革を行わないとする政府部内での取決めに反するという異論などが提出されて、確定は遅れた。学区補助のための国庫からの府県委托(たく)金額未定のまま、ようやく六月下旬に太政官の認可を得、七月付けで印刷され、五年八月二日(一八七二年九月四日)「学制」の趣旨を分かりやすく説明した太政官布告第二百十四号(当時「学制序文」と通称された)が発せられ、続いて翌三日(九月五日)文部省布達第十三号及び第十四号をもって「学制」が公布された。
この「学制序文」は、従来の封建制下の教育の在り方を強く批判して、個人主義、実学主義などの教育を標傍(ぼう)し、基礎的な学校教育をすべての人々に付与しようとする制度構想とそれへの民衆の自発的参加を促していることにおいて、優れて近代的な教育宣言であったと見ることができる。
人々の立身・治産・昌(しょう)業に役立つ教育を組織するところが学校であり、そこでの教育の内容は「日用常行言語書算」をはじめおよそ「人の営むところの事」すべてにわたるものであるとし、「自今以後一般の人民華士族卒農工商及婦女子必す邑に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん事を期す」と述べている。さらに、「身を立るの基」であるこの教育に対し、民衆の自発的参加と教育費の受益者負担を原則とする方針とを示した。
「学制」本文においては、全国を八大学区に分け各大学区に大学校一校を、一大学区を三二中学区に分け各中学区に中学校一校を、更に一中学区を二一〇小学区に分けて各小学区に小学校一校を、それぞれ置くとした。全国に大学校八、中学校二五六、小学校五万三、七六〇を設置しようという壮大な計画であった。もっとも、この八大学区は、翌六年四月七大学区に改正されて実施された。
学区は学校の設置単位であるとともに地方教育行政組織でもあった。大学区には各本部ごとに督学局を置きその督学が文部省の意向を体して地方官と協議の上区内の教育行政を担当し、各中学区には地方官の任命する「学区取締」を置き、各取締は分担した小学区内の就学督励や学校の設立・維持などの監督・指導に当たることとした。
学校制度は、学区制に基づき大学校・中学校・小学校の三種から成るとされたが、それらが基本的に身分・階層の別なくすべての国民に開放された単一の体系を採ったことは、当時米国を除けば国際的にもほとんど例を見ない画期的な特徴であった。小学校は各四年制の下等小学と上等小学とから成る尋常小学を本体とし、中学校は各三年制の下等中学と上等中学を本体とし、大学校は理学・文学・法学・医学の四科を置くとされた。このほかに、小学校教員を養成する師範学校を規定し、また進級試験制度、海外留学生、学校財政などについても規定している。
五年八月公布のこの「学制」は言わば初編に相当するものであって、翌六年三月から四月にかけて、海外留学生規則などを規定し直した「学制二編」、貸費生規則や学士称号などを規定した「学制追加」、及び専門学校を規定した「学制二編追加」などが逐次公布され、全文は二一三章(条)を数えた。
学制の施行
「学制」は、明治六年から全国的に施行された。施行に当たっての力点は、国民全般を対象とする初等教育の普及と、欧米の技術的文化的水準へ急速に追い付くための高等教育の設立とに置かれていた。
国としての初めての教育制度施行となった「学制」の場合、法制と現実とのギャップが著しかったのは当然であった。大学区は七つ設けられたが、独自の教育行政機能を果たし得ずに形骸(がい)化し、府県が地方教育行政の最高単位となった。小学校は府県当局と学区取締の督励によって、施行二年後の八年には全国に、ほぼ今日と同数の二万四、〇〇〇校以上が設立されたが、それは「学制」の規定の半数にも満たないものであった。封建制下とほとんど変わらない当時の経済社会の状況にあって公教育制度を組織するには困難が多く、強力な督励にもかかわらず、八年度の児童の就学状態は、名目で男女平均三五%、出席状況を勘案した実質では二六%程度に過ぎなかった。師範学校は、初等教育を整備する上で特に重要であるととらえられたので、文部省は「学制」公布前の五年五月東京に官立師範学校を創設し、米国人スコットを教師に招いて欧米での公教育教授法の伝習や教科書の翻訳編集などに着手し、次いで各大学区本部所在府県にも同様な官立師範学校を設立した。各府県でも師範講習所、養成校などをまず設立し、それらを充実させて府県立の師範学校へと改編していった。
中等教育や高等教育については、「学制」施行とともに文部省は従来の東校を第一大学区医学校と改称したが、南校は第一大学区第一番中学とし「外国教師ニテ教授スル中学」に位置付けようとした。しかし翌六年四月専門教育を重んじて同校は開成学校に改編され(七年五月以降は東京開成学校)、ほぼ併行して公布された「学制二編追加」に規定されている専門学校としての充実を目指すこととなった。文部省は官費による海外留学生の派遣を進める一方、八年から千葉県市川に「真ノ大学校」の設立を計画し、併行して十年東京医学校と東京開成学校を合併して東京大学とした。地方でも中学校や医学校の設立を見たが、私塾や私学と同様に、各地方の自主性にゆだねられた。注目すべきことは、五年文部省が東京に女学校を設置したのを皮切りに、少数ながら史上初めて女学校が設けられたことである。そのほか、新しい技術や制度の導入を目指して、開拓使の札幌農学校、工部省の工部大学校、司法省の法学校など、それぞれの業務を担当する省庁にも専門教育機関が設立された。
教育令による試行錯誤
最初の試みである「学制」は実施経験に基づいて早晩に改正されねばならなかった。明治六年に文部省の顧問として招聘(へい)された米国人ダビッド・モルレーと文部省の実質的責任者であった田中不二麻呂とが中心となって、十年ごろから「学制」の改正作業を開始し、翌十一年五月「日本教育令案」として太政官に上申した。これは参議伊藤博文により「教育令」案に修正され、元老院の審議を経て、十二年九月太政官布告として公布された。
この教育令は、法制を現実に適合させ教育制度の定着を企図したもので、当面の課題である小学校制度についてその条文の多くを費やしていた。米国に倣って地方分権化により小学校制度の地域への定着を目指した文部省原案は、伊藤博文の修正により一層行政的規制が緩和されて公布されるに至った。地方制度の改革に対応して学区制を廃し一般行政単位に即して教育行政を行うこととしたが、町村の教育行政実務を担当する「学務委員」は住民の公選により任命されるとした。また、児童の小学校への就学の期間や条件を緩和し、公立小学校の教育課程の編成権を学務委員にゆだね、さらに私立学校の設置を勧奨するなど、従来の政策を大きく転換したので、当時この教育令は「自由教育令」と評されることがあった。
「自由教育令」が施行されるや、各地で児童の就学率が低下し公立小学校を廃止して寺子屋風の私学に改編するなど、初等教育の後退現象が見られた。
教育令公布前に政府上層部内で教育近代化政策をめぐり論争が発生していた。明治天皇の侍講元田永孚を中心とする保守派は、急激な近代化が社会秩序の混乱をもたらしているとして、教育の欧米化を批判し、伝統的な儒教道徳の教育を復活強化するよう提唱した。これに対して伊藤博文を中心とする政府の主流派は、初等教育での秩序意識の育成は認めつつも、高等教育を軸として欧米文化の摂取を内容とする近代化方策を基本的に堅持すべきだとした。十二年八月ごろ天皇の御意向として政府上層部に内示された元田起草の「教学聖旨」、同年九月上奏された伊藤の反駁(ばく)意見書「教育議」及び元田の上奏したそれへの反論「教育議附議」などが、この論争を代表している。
十三年九月政府は教育令の改正に着手し、十二月それを公布した。この改正はほぼ全文にわたるもので、学務委員を府県官による任命制とし、小学校への就学の督励を強め、小学校教育課程(教則)や学校の設置・廃止などについて文部省及び府県当局の権限を強化するなど、一転して公教育制度に対する国の要求基準を明確化した。併行して文部省は、教員の言動に対する規制、教科書の取調べと認可制の実施、教則における儒教的徳育の重視などの方策を採用した。
この改正教育令(第二次教育令)が施行上の諸細則の制定を待って実施された十四、五年以降、就学率は幾分上昇に転じ、教育課程の段階に即した教科書が成立し、また師範学校や中学校などの整備が進むとともに、実業学校や「高等女学校」など新しいタイプの学校が出現するなど、公教育の新展開が見られた。この改正は、言わば「学制」以来の地方の教育実態を一新させるほどの規模を持つものとなった。
ところが、西南戦争の戦費処理に端を発した経済不況により、緒についたばかりの公教育は、停滞から後退を余儀なくされることとなった。財政危機に直面した公教育の最低水準を維持するために、教育令は再度改正された。十八年八月公布の再改正教育令(第三次教育令)は、教育費の節減に重点を置いて、簡易な初等教育機関として「小学教場」を設け、また学務委員制度を廃して戸長(後の町村長)に教育事務を担当させ、一般行政機関と教育行政機関との一体化を図った。 
近代教育制度の確立と整備
初代文相森有礼の教育政策
明治十八年十二月近い将来の立憲体制の発足に備えて政府の機能を強化するために、太政官制に代えて内閣制度が発足し、その最初の内閣において内閣総理大臣伊藤博文のもと文部大臣に森有礼が起用された。森は幕末に渡欧して以来、政府部内きっての欧米通の外交官として活躍する一方、福沢論吉らと明六社を創設するなど当時の最も著名な開明主義者の一人であり、元来教育に深い関心を持っていた。
十七年以来文部省御用掛の任にあった森は、文相に就任するや再改正されたばかりの教育令を廃止し、十九年学校種別にそれぞれの学校令を制定して、今後の国家及び社会の発展動向に柔軟に対応し得る教育制度の構築を期した。帝国大学令、師範学校令、小学校令、中学校令、及び諸学校通則など五種の学校令を公布した。それらにおいては、東京大学を軸とし他の官省設立の専門教育機関を統合した帝国大学を設置し(帝国大学令)、それへの入学者を育成する高等中学校を全国に五校設け、各府県一校の公立尋常中学校と(中学校令)、各郡一、二校の高等小学校と各町村の尋常小学校とを配して(小学校令)、国民教育の基盤の上に各段階の学校制度を体系付けたことと、教員養成制度については、高等師範学校(全国に一校、官立)、尋常師範学校(府県に各一校、府県立)の二段階から成る独自の師範学校制度を設立したことが、注目に値する。また、森文相は開明主義の立場から従前の儒教的徳育中心主義を批判し、体育による集団性と知育による合理性とを基盤とした社会的倫理性の形成を重視した。海外生活の経験から当時の我が国の国際的位置を向上させるために、教育による愛国心の育成を特に重視し、その手段として学校における軍隊式教育や軍事訓練を積極的に奨励した。このほか、男女平等的な観点から女子教育を重んじ、効率性を高める学校管理(学校経済主義)や教育費の受益者負担方式を広く採用するなど、異色の方策を展開した。
森文相の死後、二十三年十月には新しい小学校令が、二十七年には高等学校令が公布され、また三十年代には、中等学校についても新しい諸学校令が公布され、さらに高等教育の部門も整備されて近代学校制度の完成を見ることになった。このように近代学校制度の完成までには、なお幾つかの改革がなされなければならなかったが、十九年における諸学校令によって成立した制度を大観すると、この時定められた学校制度は、その後数十年にわたって整備拡充された我が国学校制度の基礎を確立したものである。
立憲制と教育勅語
大日本帝国憲法の発布により、我が国は非欧米世界における最初の立憲制国家を形成することになった。公教育を含む国政の全般が憲法の規定に従って運営されることになったのだが、この憲法では直接教育に関する条文は設けられず、天皇の大権事項中の「臣民ノ幸福ヲ増進スル為ニ」発する「必要ナル命令」の中に教育が含まれているとされた。これにより、憲法上の立法事項以外の教育に関する基本事項は勅令により規定されるという、教育法規の勅令主義方式が成立することとなった。
立憲制成立への対応措置として、政府は徳育方針の確定化を軸として「学制」以来の公教育理念を一定化し、国家体制の安定的な発展を期すこととした。議会の開設を前にして、時の総理大臣山県有朋は、軍内部の思想統一に貢献した「軍人勅諭」(明治十五年)に倣って教育の根本を勅諭で定めることが必要であると考えた。二十三年二月地方長官会議が政府に提出した「徳育涵(かん)養ノ義ニ付建議」を契機として、徳育の基礎となる箴(しん)言の起草が始められた。文相芳川顕正は帝国大学教授中村正直にその起草を依頼したが、その案文を閲読した法制局長官井上毅は、枢密顧問官元田永孚と協力しつつ、自ら「徳教ニ関スル勅論」の起草に当たった。井上案を骨子とした「教育ニ関スル勅語」は、国務大臣の副署を付さない勅語の形式で、二十三年十月三十日宮中において芳川文相に下賜された。文相は翌三十一日その奉承方を訓示し、二十四年二月ごろまでにその謄本を全国の学校に交付した。各学校では奉読式を挙行し、以後国家の祝祭日などにおいて、前後して公立学校に下賜され始めた「御真影」(天皇・皇后両陛下の公式肖像写真)への拝礼とこの教育勅語の奉読とを主内容とする、厳粛な学校儀式を挙げることとした。
教育勅語は、本文三一五字の短文であるが、これが発布されると、国民道徳及び国民教育の基本とされ、やがて国家の精神的支柱として重大な役割を果たすこととなった。
日清戦争前後の教育
森文政の末期に立憲制や地方自治制の成立を前提とした諸学校令の改正が計画され、明治二十三年前半には文部省内で小学校令・中学校令・師範学校令・専門学校令・大学令の五学校令案が準備された。しかし教育勅語の発布に代表されるような新たな政策動向の下でこの構想は根本的に再検討されることとなり、地方制度の確立に伴って改編が不可欠とされた小学校制度について当面まず改正し、他の学校制度は明治二十年代を通じて逐次再編成する方策が採られた。
小学校令は二十三年十月に公布されたが、これは森文相期の小学校令を廃止して新たに制定し直したものであり、地方自治制と教育との法制的関係を明確にするとともに、小学校制度の全般的な整備を図ったものである。教育は本来国の事務であり、自治体は国からの委任により小学校の維持や管理に当たるとされた。翌二十四年中に施行上の諸細則が数多く整えられ、この第二次小学校令は二十五年四月を期して実施されたが、これにより小学校は制度的に一新されることになった。次いで二十四年に中学校令が部分改正され、府県立中学校の一府県一校の制限が廃されたほか、高等女学校が中学校の一種として制度的に確認された。二十五年に師範学校に関する諸規則が一括改正されてその教員養成学校としての独自性が確定化された。
これらの改革の進行過程において、二十六年三月文相に就任した井上毅は特色ある改革を実施した。当時は、経済不況がほぼ収まって「企業勃(ぼつ)興」を迎えた時期であった。産業革命の前哨(しょう)をなすこの動向に沿って井上は、実用に即する人材を育成する観点から、教育制度全体の改革を図った。実業補習学校・徒弟学校・簡易農学校などの実業学校を制度化するとともに、その発展を財政的に支えるための実業教育費国庫補助法を成立させた。さらに、中学校教育において実科中学校の制度を設け、高等教育においても専門教育を普及するために、従来の高等中学校を専門教育を本体とする高等学校に改編した。一方、帝国大学令を大幅に改正し、その専門研究と教育との効率化のために、専門分野を明確化させた講座制を採用し、当時既に慣行化しつつあった教授会の権限を公認して大学の自治を法制化した。我が国における資本主義社会体制の成立を間近にしてのこの改革は、近代教育制度の基盤形成にとっての先触れの役割を果たしたと見ることができる。
学校制度の整備
明治二十年代末から三十年代にかけて産業革命の急速な進行に伴い、「学制」以来教育関係者が創設に努力してきた近代教育は、ようやく社会的にも受容され定着を見るに至った。
二十九年に小学校教育費への国庫補助金が十五年振りに復活したが、日清戦争で得た賠償金の約三%を教育基金としその利子を普通教育費に充てることとした後、三十三年には市町村立小学校教育費国庫補助法が公布され、義務教育費に対する国庫補助制度が整えられていった。
小学校令は、三十三年に全面改正され、四年制で単一な内容から成り無償制を原則とする義務教育制度がここに確立するに至った。この第三次小学校令は、以後法制として昭和十六年の国民学校令まで約四十年間存続することとなるが、それは戦前における初等教育制度の基本がこの時に確立されたことを意味している。このような法制の確立と併行して、就学率も明治三十五年に男女平均で初めて九〇%を上回り、国民皆学の実態が生み出された。
三十三年改正の際に構想されながらも実施を見送られた事項中に、義務教育年限の六年への延長と、小学校用教科書の文部省編纂(さん)による全国統一化とがあった。前者は、社会の近代化に対応して国民の知的技能的水準の向上を図るために必要とされたが、市町村の財政能力への懸念からなかなか実施に踏み切れず、日露戦争後の四十年に至ってようやく実現され、翌年度から逐年実施された。小学校教科書をめぐっては、かねてより府県での採択をめぐる贈収賄や不正問題が指摘されてきていた。その是正のために文部省は、学校単位での自由採択制の採用を考慮したこともあったが、三十五年十二月教科書採択をめぐる贈収賄事件が全国規模で摘発されたのを機として、三十六年小学校令を一部改正し、帝国議会からもしばしば要望されていた教科書の文部省による編纂、いわゆる国定教科書制度を三十七年度以後実施することとした。
中等教育制度は明治三十年代以降に大きな展開を遂げた。既に井上文相期に実業学校制度が形成され、二十八年には高等女学校についての初めての独立法規である高等女学校規程が公布されていたが、三十二年二月男子の高等普通教育を行う中学校令、女子の高等普通教育を行う高等女学校令、及び諸実業学校を包括する実業学校令の三勅令が公布され、これにより第二次大戦終了時までの中等学校制度の基本型が成立した。
高等教育においては、井上文相期に専門教育を軸とする地方大学として考案された高等学校が、予期に反して帝国大学への進学準備教育としての大学予科主体となってしまったので、文部省は三十六年新たに専門学校令を公布し、帝国大学以外の既に成立している専門教育機関を学校制度体系に位置付けた。これにより数多くの官公私立の専門学校が出現したが、帝国大学との制度上の格差をめぐって論議を呼ぶこととなり、高等学校の性格付けとともに、学制改革論の中心的論点とされた。なお、人材需要の高まりにこたえて、三十年京都に帝国大学が増設され、以後四十年仙台に東北帝国大学、四十四年福岡に九州帝国大学がそれぞれ設置された。
教員養成をめぐっては、三十年師範学校令を廃止して新たに師範教育令が公布される一方、従来の高等師範学校、女子高等師範学校(共に東京)に加えて三十五年に広島高等師範学校、四十一年に奈良女子高等師範学校がそれぞれ設置され、また三十五年に臨時教員養成所制度が発足し、急増する中等学校、教員需要にこたえることとした。
こうして、初等教育から高等教育まで近代学校制度の構築が、「学制」公布以来約四十年を経たこの期に至って定着を見ることになったのである。
教育諸施策の近代化動向
従来小学校令に法令的根拠を持つに過ぎなかった図書館について、明治三十二年に独立の図書館令が公布され、次いで青年団の振興について文部大臣訓令が発せられ、四十四年省内に通俗教育調査委員会が設置されるなど、学校制度形成の陰で十分展開されなかった社会教育についての政策の進展が見られるようになった。
学制改革論の盛行とあいまって、教育政策の形成に当たり、合議制機関の審議にゆだねることにより社会の広範な合意を得ることが望ましいと考えられるようになった。既にこれは井上文相期に構想されていたが、二十九年文部大臣の教育政策諮問機関として「高等教育会議」が初めて設置され、三十年代から大正初期にかけての重要な教育制度改革は多くこの会議の審議を経て実施された。この後も、短期間の中断はあるものの、内閣又は文部省に設けられた審議機関に教育政策の立案を諮問することが慣例化された。 
 
富岡製糸場

 

富岡製糸場(とみおかせいしじょう、Tomioka Silk Mill)は、群馬県富岡に設立された日本初の本格的な器械製糸の工場である。1872年(明治5年)の開業当時の繰糸所、蠶倉庫などが現存している。日本の近代化だけでなく、絹産業の技術革新・交流などにも大きく貢献した工場であり、敷地全体が国指定の史跡、初期の建造物群が重要文化財に指定されている。また、「富岡製糸場と絹産業遺産群」の構成資産として、2014年6月21日の第38回世界遺産委員会(ドーハ)で正式登録された。 時期によって「富岡製糸場」(1872年から)、「富岡製糸所」(1876年から)、「原富岡製糸所」(1902年から)、「株式会社富岡製糸所」(1938年から)、「片倉富岡製糸所」(1939年から)、「片倉工業株式会社富岡工場」(1946年から)とたびたび名称を変更している。史跡、重要文化財としての名称は「旧富岡製糸場」、世界遺産暫定リスト記載物件構成資産としての名称は単なる「富岡製糸場」である。
概要
日本は江戸時代末期に開国した際、生糸が主要な輸出品となっていたが、粗製濫造の横行によって国際的評価を落としていた。そのため、官営の器械製糸工場建設が計画されるようになる。 富岡製糸場は1872年にフランスの技術を導入して設立された官営模範工場であり、器械製糸工場としては、当時世界最大級の規模を持っていた。そこに導入された日本の気候にも配慮した器械は後続の製糸工場にも取り入れられ、働いていた工女たちは各地で技術を伝えることに貢献した。 1893年に三井家に払い下げられ、1902年に原合名会社、1939年に片倉製糸紡績会社(現片倉工業)と経営母体は変わったが、1987年に操業を停止するまで、第二次世界大戦中も含め、一貫して製糸工場として機能し続けた。 第二次世界大戦時のアメリカ軍空襲の被害を受けずに済んだ上、操業停止後も片倉工業が保存に尽力したことなどもあって、繰糸所を始めとする開業当初の木骨レンガ造の建造物群が良好な状態で現代まで残っている。2005年に敷地全体が国指定の史跡、2006年に初期の主要建造物が重要文化財の指定を受け、2007年には他の蚕業文化財とともに「富岡製糸場と絹産業遺産群」として世界遺産の暫定リストに記載された。2014年6月に世界遺産登録の可否が審議され、6月21日に日本の近代化遺産で初の世界遺産リスト登録物件となった。
歴史(建設決定まで)
開国直後の日本では、生糸、蚕種、茶などの輸出が急速に伸びた。ことに生糸の輸出拡大の背景には、ヨーロッパにおける生糸の生産地であるフランス、イタリアで微粒子病(フランス語版)という蚕の病気が大流行し、ヨーロッパの養蚕業が壊滅的な打撃を被っていたことや、太平天国の乱によって清の生糸輸出が振るわなくなっていたことなどが背景にあった。その結果、1862年(文久2年)には日本からの輸出品の86%を生糸と蚕種が占めるまでになったが、急激な需要の増大は粗製濫造を招き、日本の生糸の国際的評価の低落につながった。また、イタリアの製糸業の回復も日本にとっては向かい風になり、日本製生糸の価格は1868年から下落に転じた。
明治政府には、外国商人などから器械製糸場建設の要望が出されており、エシュト・リリアンタール商会からは資金提供の申し出まであった。これが直接的な引き金となって器械製糸工場建設が実現に向かうが、政府内では外国資本を入れず、むしろ国策として器械製糸工場を建設すべきという意見が持ち上がり、1870年(明治3年)2月に器械製糸の官営模範工場建設が決定した。これは粗製濫造問題への対応というよりも、従来の座繰りによる製糸では太さが揃わなかったために、経糸(たていと)よりも安価で取引される緯糸(よこいと)として使われることが多かった実態を踏まえ、その改良を志向した側面があったとも言われている。
同時に政府は器械製糸技術の導入を奨励しており、前橋藩では速水堅曹らが同じ年に藩営前橋製糸所を設立した。これは日本初の器械製糸工場と見なされているが、イタリアで製糸業に従事した経験を持つスイス人ミュラーを雇い入れ、イタリア式の製糸器械を導入したものであり、当初は6人繰り、次いで12人繰りという小規模なものにとどまった。
伊藤博文と渋沢栄一は官営の器械製糸場建設のため、フランス公使館通訳アルベール・シャルル・デュ・ブスケおよびエシュト・リリアンタール商会横浜支店長ガイゼンハイマー (F. Geisenheimer) に、いわゆるお雇い外国人として適任者を紹介するように要請したところ、エシュト・リリアンタール商会横浜支店に生糸検査人として勤務していたポール・ブリューナ (Paul Brunat) の名が挙がった。明治政府はブリューナが提出した詳細な「見込み書」の内容を吟味した上で、1870年(明治3年)6月に仮契約を結んだ。
ブリューナは仮契約後すぐに尾高惇忠らを伴って、長野県、群馬県、埼玉県などを視察し、製糸場建設予定地の選定に入った。そして、明治3年10月7日に民部大輔らと正式な雇用契約を取り交わすと、同月17日には富岡を建設地とすることを最終決定している。この決定は、周辺で養蚕業がさかんで繭の調達が容易であることや、建設予定地周辺の土質が悪く、農業には不向きな土地であること、水や石炭などの製糸に必要な資源の調達が可能であること、全町民が建設に同意したこと、元和年間に富岡を拓いた代官中野七蔵が代官屋敷の建設予定地として確保してあった土地が公有地として残されており、それを工場用地の一部に当てられることなど、様々な用件が考慮された結果であった。
建設
ブリューナは製糸場の設計のために、横須賀製鉄所のお雇い外国人だったエドモン・オーギュスト・バスチャンに依頼し、設計図を作成させた。バスチャンは明治3年11月初旬に依頼を受けると、同年12月26日(1871年2月15日)に完成させた。彼が短期間のうちに主要建造物群の設計を完成させられた背景としては、木骨レンガ造の横須賀製鉄所を設計した際の経験を活かせたことが挙げられている。 ブリューナは設計図の完成を踏まえ、翌月22日(1871年3月12日)に器械購入と技術者雇用のためにフランスに帰国した。ブリューナは建設予定地調査の折に、地元工女に在来の手法で糸を繰らせて日本的な特徴を把握しており、それを踏まえて製糸場用の器械は特別注文した。目的を達したブリューナはその年の内、すなわち明治4年11月8日(1871年12月19日)に妻らとともに再来日を果たすことになる。
他方で、ブリューナが日本を発ったのと同じ月には、尾高惇忠が日本側の責任者となって資材の調達に着手し、1871年(明治4年)3月には着工にこぎつけていた。建築資材のうち、石材、木材、レンガ、漆喰などは周辺地域で調達した。なお、レンガはまだ一般的な建材ではなく、明戸村(現埼玉県深谷市)からも瓦職人を呼び寄せ、良質の粘土を産する福島村(現甘楽町福島)に設置した窯で焼き上げた。この時期、民部省庶務司から大蔵省勧業司へと所管が変わった(明治4年7月24日)。
建設を進めることと並行し、明治5年(1872年)2月12日に政府から工女募集の布達が出された。しかし、「工女になると西洋人に生き血を飲まれる」などの根拠のない噂話が広まっていたことなどから、思うように集まらず、政府は生き血を取られるという話を打ち消すとともに、富岡製糸場の意義やそこで技術を習得した工女の重要性などを説く布告をたびたび出した。このような状況の中で尾高は、噂を払拭する狙いで娘の勇(ゆう)を最初の工女として入場させた。富岡製糸場は、1872年7月に主要部分の建設工事が終わるのに合わせて開業される予定だったが、予定よりも遅れた。その理由の一つには、この工女不足の問題があったと推測されている。
官営時代 富岡製糸場は、明治5年10月4日(1872年11月4日)に官営模範工場の一つとして操業を開始した。ただし、当初は工女不足から210人あまりの工女たちで全体の半分の繰糸器を使って操業するにとどまった。翌年1月の時点で入場していた工女は404人で、主に旧士族などの娘が集められていた。同年4月に就業していた工女は556人となり、4月入場者には『富岡日記』で知られる和田英(横田英)も含まれていた。
富岡製糸場の繰糸場
製糸場の中心をなす繰糸所は繰糸器300釜を擁した巨大建造物であり、フランスやイタリアの製糸工場ですら繰糸器は150釜程度までが一般的とされていた時代にあって、世界最大級の規模を持っていた。また、特徴的なのは揚返器156窓も備えていたことである。揚返(あげかえし)は再繰ともいい、小枠に一度巻き取った生糸を大枠に巻き直す工程で、湿度の高い日本の気候の場合、一度巻き取っただけではセリシン(英語版)(生糸を繭として固めていた成分)の作用で再膠着する恐れがあり、それを防ぐために欠かせなかった。これに対し、ヨーロッパの場合はこの工程を省く直繰(ちょくそう)式が一般的で、前出の前橋製糸所が導入した器械も直繰式であった。前出の通り、ブリューナは富岡製糸場のための器械を特注していたが、その一つはこの日本の気候に合わせて再繰式を導入する点にあった。なお、特別注文したほかの点には、日本人女性の体格に合わせて高さの調整をしたことなどが挙げられる。
工女たちの労働環境は充実していた。当時としては先進的な七曜制の導入と日曜休み、年末年始と夏期の10日ずつの休暇、1日8時間程度の労働で、食費・寮費・医療費などは製糸場持ち、制服も貸与された。群馬県では県令楫取素彦が教育に熱心だったこともあり、1877年(明治10年)には変則的な小学校である工女余暇学校の制度が始まり、以前から工女の余暇を利用した教育機会が設けられていた富岡製糸場でも、1878年(明治11年)までには工女余暇学校が設置された。しかし、官営としてさまざまな規律が存在していたことや、作業場内の騒音など、若い工女たちにとってはストレスとなる要因も少なくなかった。そのため、満期(1年から3年)を迎えずに退職する者も多く、その入れ替わりの頻繁さから不熟練工を多く抱え、赤字経営を生む一因となった。また、様々な身分の若い女性が同じ場所で生活していたことから、上流出身の女性の身なりに合わせたがる工女も少なくなく、出入りしていた呉服商・小間物商から月賦払いで服飾品を購入して借金を重ねる事例もしばしば見られた。
工女たちは熟練度によって等級に分けられていた。開業当初は一等から三等および等外からなっていたが、1873年には等外上等および一等から七等の8階級に変わった。工女たちはブリューナがフランスから連れてきたフランス人教婦たちから製糸技術を学び、1873年5月には尾高勇ら一等工女の手になる生糸がウィーン万国博覧会で「二等進歩賞牌」を受賞した。これは品質面の評価よりも、近代化されたことに対する評価だったという指摘もあるが、開業間もない富岡製糸場の評価を高めたことに変わりはなく、リヨンやミラノの絹織物に富岡製の生糸が使われることにつながったとされる。工女たちは、後に日本全国に建設された製糸工場に繰糸の方法を伝授する役割も果たした。和田英や春日蝶が1874年7月に帰郷したのも、そうした工場の一つである民営の西条製糸場(のちの六工社)で指導に当たるためであった。なお、初期には人数は少なかったが、蒸気機関の扱いなどを学ぶための工男たちも受け入れており、西条製糸場の設立にも、そうした工男が貢献している。
初期の富岡製糸場は初代所長(場長)尾高惇忠、首長ポール・ブリューナを中心に運営されたが、前述の不熟練工の問題やブリューナ以下フランス人教婦、検査人などのお雇い外国人たちに支払う高額の俸給、さらに官営ならではの非効率さなどの理由から大幅な赤字が続いていた。
契約満了につきブリューナとフランス人医師が去った1875年(明治8年)12月31日をもって、富岡製糸場のお雇い外国人は一人もいなくなった。日本人のみの経営となった最初の年度、明治9年度には大幅な黒字に転じた。この理由としては、お雇い外国人への支出がなくなったことのほか、所長の尾高の大胆な繭の思惑買いなどが奏功したことが挙げられる。しかし、尾高の思惑買いは、彼が当時政府が認めていなかった秋蚕の導入に積極的だったことなどと併せ、政府との対立を生む原因になり、尾高は富岡製糸場が富岡製糸所と改称された翌月に当たる1876年(明治9年)11月に所長を退いた。
翌年度には、従来、エシュト・リリアンタール社を経てリヨンに輸出されていた生糸が、三井物産によってリヨンへ直輸出されるようにもなり、日本人による直輸出が始まった。 内務省の官吏だった速水堅曹はかねてから民営化も含めた抜本改革を提言していたが、西南戦争(1877年)の勃発によって一時的に棚上げされた。しかし、1878年(明治11年)にパリ万国博覧会に赴いていた松方正義(当時は勧農局長)が富岡の生糸の質の低下を指摘されたことから、速水が富岡製糸所の改革を任されることになる。速水は、尾高の後任だった山田令行が改革を阻害しているとして更迭を進言し、これを実現させた。松方は後任として速水を第3代所長に任命したが、民営化を主張する速水は1880年(明治13年)11月5日の「官営工場払下概則」制定と前後して、富岡製糸所の生糸の直輸出を一手に担う横浜同伸会社設立に関わり所長を辞任、かわって同伸会社の社長に就任した。この時点では、民間人となった速水が富岡製糸所を5年間借り受けるという話が、松方との間で事実上内定していたが、群馬県令の反対などもあって、政府は最終的にこれを認めなかった。他方で、ほかに払い下げを希望する民間人は現れなかった。富岡製糸所の巨大さが、当時の民間資本では手に余る存在だったからと言われている。「官営工場払下概則」が結果的に払い下げを促進することにはならずに1884年に廃止されると、官営工場の払い下げは急速に進んだが、富岡製糸場は払い下げの見通しが立たないまま、官営の時期がなおも続いた。
第4代所長の岡野朝治の時期は、度々の糸価下落などの影響を受け、経営的に厳しい時期にあたっていた。そうした状況を受け、1885年(明治18年)には速水が第5代所長として復帰した。速水は同伸会社社長時代に、一手に輸出を引き受けていた富岡製糸所の生糸を、リヨン以外にニューヨークにも輸出するようになっていた。彼は製糸所所長として改革を進める一方で、アメリカ向けの輸出も増やし、米仏の両国で富岡の生糸の評価を高めた。他方で速水は民営化を引き続いて主張していたが、それは1890年代になってようやく実現することになる。
三井家時代
1891年(明治24年)6月に払い下げのための入札が初めて行われたが、このときに応札した片倉兼太郎と貴志喜助はいずれも予定価額(55,000円)に大きく及ばず、不成立になった。改めて1893年(明治26年)9月10日に行われた入札では、最高額入札となった三井家が12万1460円をつけ、予定価額10万5000円を上回ったため、払い下げが決定した(引渡しは10月1日)。
三井家の時代の経営はおおむね良好で、繰糸所に加えて木造平屋建ての第二工場を新設したほか、第一工場(旧繰糸所)からは揚返器を撤去し、揚返場を西置繭所1階に新設した。これは蒸気機関のせいで繰糸所内が多湿であったことから、揚返場を兼ねさせることに不都合があったためである。この時期には新型繰糸機などが導入され、開業当初の繰糸器、揚返器はすべて姿を消した。そのような新体制の下で生産された生糸は、すべてアメリカ向けに輸出された。
この時期に寄宿舎も新設したが、工女の約半数は通勤になっている。工女の労働時間は、開業当初に比べると伸ばされる傾向にあり、6月の実働時間は11時間55分、12月には8時間55分となっていた。読み書きや裁縫を教える1時間程度の夜学は継続されていたが、長時間労働で疲れた工女たちは必ずしも就学に熱心でなかったという。三井は富岡以外にも3つの製糸工場を抱えていたが、4工場全てを併せた収益は好調とはいえなかった。また、三井家の中で製糸工場の維持に積極的だった銀行部理事の中上川彦次郎が病没したことも、製糸業存続には向かい風となった。こうして、三井は1902年(明治35年)9月13日に4工場全てを一括して原富太郎の原合名会社に譲渡した。原が4工場の代価として支払ったのは、即金10万円と年賦払い(10年)13万5000円であった。
原合名会社時代
原合名会社が富岡製糸所を手に入れると、その翌月に当たる1902年10月に原富岡製糸所と改名した。1900年前後には郡是製糸(現グンゼ)を始め、繭質改良に積極的な事業者が現れ、蚕種を安価で配布するものも現れていた。蚕種を養蚕農家に配布することは、繭の品質向上と均質化に寄与するものであった。原合名会社も、まず原名古屋製糸所で1903年(明治36年)から蚕種の配布を始め、1906年(明治39年)からは原富岡製糸所でも開始した。原富岡での蚕種の配布は無償で行なわれ、その数を増やしていく上では、群馬で発祥し、全国的に影響のあった養蚕教育機関高山社の協力も仰いだ。また、工女たちの教育機会の確保は継続されており、娯楽の提供などの福利厚生面にも配慮されていたが、それらについては「普通糸」よりも質の高い「優等糸」を生産していた富岡製糸所にとっては、熟練工をつなぎとめておくことが必要であったからとも指摘されている。
原時代は第一次世界大戦(1914年勃発)や、世界恐慌(1929年)に見舞われた時期を含んでいる。いずれの時期にも生産量は減少しており、ことに1932年(昭和7年)には大幅な減少を経験した。しかし、それから間もなく8緒のTO式繰糸器・御法川式繰糸器を撤去し、20緒のTO式および御法川式を大増設し、生産性は上昇した。1936年(昭和11年)には14万7000kgの生産量を記録し、過去最高となった。
このように生産性の向上は見られたが、満州事変や日中戦争によって国際情勢は不安定化していき、1938年(昭和13年)には群馬県最大(全国2位)の山十製糸が倒産した。このような情勢の中、原富岡製糸所の大久保佐一工場長が組合製糸会社(大久保が社長を兼務)のトラブルがもとで自殺したことや、原富太郎の後継者原善一郎が早世するなど、原合資会社内部の混乱が重なっていた。さらに、主要輸出先アメリカで絹の代替となるナイロンが台頭し、先行きにも懸念があった。そのため、原合名会社は山十が倒産したのと同じ1938年に製糸事業の縮小に踏み切った。富岡製糸所は切り離されて、同年6月1日に株式会社富岡製糸所として独立した。形式上の代表取締役は西郷健雄(原富太郎の娘婿)であったが、経営は筆頭株主の片倉製糸紡績会社が担当することになった。
片倉時代
株式会社富岡製糸所は当時、日本最大級の繊維企業であった片倉に合併されることになり、株主総会での合意を経て、1939年(昭和14年)4月29日に公告された。この実質的に原が片倉に委任した一連の経緯に関し、原側は片倉以外には「この由緒ある工場を永遠に存置せしむる」委任先が存在しないという認識を示していた。原富太郎は後継者を失った中で自身の高齢についても懸念を抱いていたとされるが、富岡製糸所が片倉に合併されたこの年に没している。なお、前述のように官営時代末期の最初の入札時に応札した一人が片倉兼太郎であり、三井家が落札したときに競り負けた企業の一つ、開明社でその時に実権を握っていたのも片倉兼太郎であった。こうしたことから、片倉は古くから富岡製糸所の経営に意欲を持っていたとされている。
合併の年に片倉富岡製糸所と改称され、1940年(昭和15年)には18万9000kgの生産量を記録し、過去最高記録を塗りかえたが、太平洋戦争直前の社会情勢は生産に多大な影響を及ぼした。1941年(昭和16年)3月公布の蚕糸事業統制法によって片倉富岡製糸所も統制経済に組み込まれ、同年5月の日本蚕糸統制株式会社の成立によって、富岡製糸所は片倉から同株式会社に形式上賃貸されることとなった。片倉本体は航空機関連の軍需生産に軸足を移し、1943年(昭和18年)に片倉工業株式会社と改称した。太平洋戦争中には片倉が所有していた製糸工場は廃止や用途転換が多く見られたが、富岡製糸所はその主たる用途が軍需用の落下傘向けであったとはいえ、製糸工場として操業され続けた。兵隊として男子を取られていた農村の労働力を埋める必要から、工女の数は著しく減少したが、繰糸機の増設によってカバーした。ただし、輸出中心に発展してきた富岡製糸所の歴史の中で、初めて輸出量が皆無となった。
戦後、GHQは経済の民主化を進め、1946年(昭和21年)3月1日に日本蚕糸統制株式会社も解散させられ、富岡製糸所も名実ともに片倉に戻った。この年から片倉工業株式会社富岡工場となった。
前述の通り、富岡製糸所は戦時中も一貫して製糸工場として機能し続けた少ない例の一つであり、しかも、空襲などの被害も受けることなく、終戦を迎えていた。1952年(昭和27年)からは自動繰糸器を段階的に導入し、電化を進めるために所内に変電所も設けた。その後も、最新型の機械へと刷新を繰り返し、1974年(昭和49年)には生産量37万3401kgという、富岡製糸場(所)史上で最高の生産高をあげた。
この間、工場労働者を取り巻く環境も変化した。戦後、労働者保護法制が整備されたことから、二交替制が導入された。片倉工業は戦前に青年学校令(1935年)に基づく工場内学校を設置しており、富岡製糸所にも合併した年に私立富岡女子青年学校を開校していた。戦後になると、1948年に新しい時代に対応した教育要綱を社内で作成し、各地に知事認可で高校卒業資格を取得できる片倉学園を設置した。富岡工場にも、寄宿舎入寮者は無料で学べた片倉富岡学園が開校された。当時は義務教育終了と同時に就職する女性も多かったため、片倉工業はそういう女性たちに良妻賢母教育を施すことを自社の社会的責任と位置づけていたのである。
しかし、和服を着る機会の減少などの社会情勢の変化に加え、1972年(昭和47年)の日中国交正常化が中国産の廉価な生糸の増加を招いたことから、生産量は減少に向かい、1987年(昭和62年)に操業を停止、同年3月4日に閉業式が挙行された。
 

 

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