昭和の日本 [1]

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雑学の世界・補考   

大庭みな子「三匹の蟹」 ミニスカート文化の中の男女

大庭みな子の作品は、ボーダレス(無国籍的)な魅力を持っている。特に1968年に「群像」新人賞及び芥川賞の両方を獲得した「三匹の蟹」は、大庭がアメリカ社会に対していかに深い洞察力を持っていたかを如実に物語っている。
大庭がアメリカに渡ったのは、1959年。大庭は「わたしを相手にしてくれない故郷ならとび出してやれという気分だった」から渡米したといっている。しかしそれは夫の利雄が日本資本でアラスカのシトカに建設されたアラスカパルプの技術指導者として転勤になったから可能になった選択であった。私がこの点を強調したいのは、海外転勤になった夫に妻が同行するというのは、女性史の上でも画期的な出来事であったからだ。
それまでは、欧米諸国で暮らすことができた日本人女性は一部の豊かな家系の娘か、政府から送られた留学生に限られていた。むろん第二次世界大戦が終わった後は、アメリカをはじめとする占領軍の兵士と結婚して夫の国で暮らす戦争花嫁と呼ばれる人々がいた。だが日本人と結婚した女性たちが、海外転勤になった夫に同行して外国に長期滞在することは稀だった。ところが日本経済が高度成長期に入ると、企業にも海外で働く社員に妻や子供を同行させるだけの経済的ゆとりがでてきた。大庭夫妻は、いわばそのはしりであった。したがって、大庭のアメリカ行きは、江種満子が指摘したように、日本の「資本主義経済の成長期あるいは爛熟期に遇い得たことが可能にした選択肢だった」わけである。
ちなみに村上春樹や吉本バナナの作品が海外で人気を博すようになったのも、日本人の生活にゆとりができ、日常の生活様式や人々の意識が西欧化し、それが彼らが描く作品にも反映していることが大きい。言い換えれば、日本文学の国際化は、日本経済の発展と密接な関連をもっている。この点は、大庭の作品を考慮する場合にもやはり視野に入れておかねばならないと思う。
もっとも利雄の転勤先はアメリカ本土ではなく、アラスカにあるシトカという小さな町であった。だが作家志望の大庭にとって幸運なことに、辺鄙の地ではあっても、シトカは先住民族である「インディアンと、最初の植民者であるロシア人と、ロシアからアメリカ合衆国が購入してから流入した多様なアメリカ人、というふうに多人種・他民族による集合的な文化世界ができあがっている」コスモポリタンな町であった。
大庭が書いた随筆や作品を見れば、彼女はそこで実に多様な住民と親交を結んでいたことがわかる。彼らの名前が本名かどうかは明らかではないが、ニュージーランド生まれで元看護婦のメアリー、少年の時ロシア革命に出会い、父親につれられてロシアを脱出した画家のアンドレア、同じくロシア人で声楽家のマリア、ポーランドから来たミーチャとヤダーシュカ夫婦などとは、一緒に釣りやブリッジなどをするだけではなく、個人的な問題についても相談しあえる仲であった。ちなみに柄谷行人は、コーネル大学で近代日本史を教えているシトカ出身の学者の母親が大庭と親友で、その学者は大庭から少年時代に日本語を学んだことがきっかけで、日本に興味をもつようになったと話してくれたと記している。
大庭はまたさまざまな機会を通して、トリンギット族などのインディアンの人々とも交流があった。「三匹の蟹」で主人公の由梨が一夜を共にする「桃色シャツ」を着た男が、1/4トリンギットの血が混じっているという設定も、大庭がトリンギットの人々に対して親しみを抱いていたことを物語っている。
大庭はむろんシトカにのみ閉じこもっていたのではなく、家族と共に度々アメリカ本土へも旅行し、見聞を広めている。そして1962年には、仕事で動けない夫を残して、ウイスコンシン州立大学美術科の大学院生としてマジソンにも住んだ。さらに1967年には、シアトルにあるワシントン州立大学美術科に在籍し、そこでは主に文学の講義に出ていた。そのような長期に渡る大学生活を通じて、大庭はアングロサクソン系米国人と親交を結んだだけではなく、さまざまな国から来ていた留学生たちとも親しくなった。そのような体験が、大庭の国際的感覚に一層みがきをかけることになったようである。
大庭が小説を書きはじめたのは、10代のときからで、利雄とも小説を書きつづけることを条件に結婚している。しかしW大学大学院で油絵を学んでいる日本人留学生を主人公とした最初の作品「構図のない絵」は、1963年ウイスコンシン州立大在籍中に執筆。二作目の「虹と浮橋」を完成させたのは1967年、ワシントン州立大に在籍中のことであった。そしてその年の秋シトカに戻ると、短期間で「三匹の蟹」を書き上げ、「群像」新人賞の応募作として日本に送っている。その選択は大あたりで、「三匹の蟹」は1968年度の「群像」新人賞を獲得しただけでなく、同年上半期の芥川賞も受賞した。その直後に「構図のない絵」と「虹と浮橋」も出版された。それによって大庭は職業作家として華々しいスタートをきったわけで、大庭文学はアメリカ在住の経験なしには生まれなかったといってもよい。
「三匹の蟹」が画期的だった理由はいくつかあるが、その一つは主人公が産婦人科医の夫とアメリカに在住して数年になる専業主婦となっていることである。そのような主人公の出現は、先に大庭自身についても言及したように、日本経済の発展抜きには考えられないことであった。その意味で、主人公由梨は、日本が豊かな資本主義社会の仲間入りをしたことを象徴する存在だといっても過言ではない。むろんそれは産婦人科医をしている由梨の夫の武や、物理学者の横山とその妻などについてもいえることである。
ただし「三匹の蟹」が日本の文壇に一大センセーションを巻き起こしたのは、由梨が「桃色シャツ」を着たゆきずりのアメリカ人と一夜を過ごすという出来事にあった。そこでまずこの事件はどのような意味をもっていたのか、当時のアメリカの状況なども参照しながら論じていきたい。
性の革命とミニスカート文化
文庫本として出版された「三匹の蟹」の解説の中で、リービ英雄は次の様に指摘した。
「三匹の蟹」がセンセーションを巻き起こした25年前の批評、特に群像新人賞や芥川賞の選評に目を通すと、「桃色シャツ」が「アメリカ人」や「外人」を具現し、日本人の日本人妻由梨がその「アメリカ人」、あるいは「外人」と「姦通」したことに「衝撃」の大半があったように見える。
リービは続いて当時の審査員だった人々の選評をいくつか抜粋して紹介しているが、その中には例えば次の様な評がある。
大庭みな子さんの「三匹の蟹」は、気が利いたショッキングな作品だ。この人妻はすでに外人と寝たことがあり、浮気するならあとくされのない男をさがせと友達に忠告するような女である。
アメリカ居住の日本人の夫婦者・・・・・
その妻は・・・・・一人家を出て、夜景の遊園地に行って、初めて出合ったヘンなゴロツキの若い男と共に遊園地で時間を過ごして、しまいに若い男の車で海岸に行って、三匹の蟹という赤いネオンの曖昧宿に入る。
確かに選者たちがいうように、由梨はアメリカ人と性的関係があった。だが厳密にいえば、由梨はアメリカに住んでいるわけだから、彼女の方が「外人」と呼ばれるべきであるが。実はそれよりも重要なのは、これらの選者、そしてリービ自身も、由梨が夫婦以外の間の性的な関係が大ぴらに認められている社会の中で暮らしていたという点を見逃していることである。
由梨と武が開いたブリッジ・パーティに招待されている男女、すなわち物理学者の横田とその妻、アメリカ文学を教えているフランク、バラノフ神父と妻のサーシャ、それに画家で教師のロンダは、実は非常に入りくんだ関係にある。武は歌手でもあるサーシャと浮気を楽しんでいるし、由梨もフランクと寝たことがある。もっとも由梨はフランクではなく、その前に関係のあった男性に今なお心惹かれているが。
重要なのは、由梨も武もお互いの浮気に気がついていて、時折皮肉を言い合ってはいるけれども、離婚しようという気があるわけではないことである。一方サーシャは無神経で気の良い夫を無視して武とだけではなく、これまでにも多数の男性と性的関係を結んでいるし、由梨の相手のフランクの方は既に離婚していて、目下はやはり離婚して二人の子供を育てているロンダとつきあっている。ところがロンダはシカゴから仕事できていた技師と親しくなり、技師と週末を過ごすためにシカゴへ行こうと計画している。
由梨はそのように性的に放縦な社会で暮らしていたわけであるが、ここでもう一つ考慮しなければならないのは、当時のアメリカでは「ワイフ・スワッピング」(妻の交換)、または「キー・パーティ」と呼ばれる現象が広がっていたことである。「ワイフ・スワッピング」については、桐島洋子がさまざまなアメリカ紀行文で紹介しているが、それは文字通り、男たちが他の男の妻と性を楽しむことを意味していた。
「キー・パーティ」の方は、パーティに集まった男性たちが車の鍵を容器に入れると、妻や同行の女性たちが思い思いにその鍵を選び出し、鍵の持ち主とセックスを楽しむという一種のゲームであった。このようなゲームは、1973年の東海岸の小都市を舞台にしたリック・ムーデイの小説「Ice Storm」(氷嵐)の中にも描かれている。ただしムーデイの小説が出版されたのは1994年で、1970年代には10代だった主人公が当時の両親たちの生活を回顧する形式になっている。そしてこの小説は台湾出身の監督アン・リーによって1997年に映画化され、映画の出来がよかったこともあって、「キー・パーティ」も、1970年代初めの虚無的なムードを反映した現象の一つとして改めて注目を浴びることになった。
ちなみに大庭が「三匹の蟹」を書いた1967年には、マイク・ニコルズ監督の「Graduate」(卒業生)という映画も発表されている。この映画は日本でも話題を呼んだようだが、ダステイン・ホフマンが演ずる大学を卒業して間もないベンジャミンという主人公の青年が、母親の知り合いである中年女性、ロビンソン夫人に誘惑される話である。ベンジャミンはそのうちロビンソン夫妻の娘エレーンを愛するようになり、夫人から離れていくわけだが、夫人がそれまでにも数多くの情事を楽しんできたことや、ベンジャミンが去っても、また後釜をみつけるであろうことがわかるように描かれている。
大庭はそのようなアメリカ社会の性的風俗を、「三匹の蟹」で作品化しているわけだが、しかしアメリカも、常にそのように性的に奔放な社会だったのではない。少なくとも女性に関する限りはそうであった。それが変化した一つの要因は、1961年に経口避妊薬(ピル)が市販されるようになったことである。それまで女性は、既婚や未婚の有無にかかわらず、妊娠への恐れからセックスには男性のようには積極的ではなかった。また既婚女性が夫以外の男性の子供を身ごもれば、社会から排斥されることも覚悟しなければならなかった。
文学作品を見ても、例えば、名作といわれるナサニエル・ホーソンの「緋文字」は、年老いた夫が何年も不在の間に自分と同じ年令の独身の牧師と恋におちたヘスターが、妊娠したために姦通罪に問われて投獄され、釈放された後も姦通の罪を示す緋文字を常に胸につけて暮らさねばならないという話が描かれている。それは過去のことを描いたフィクションであった。けれども、アメリカ社会でも姦通を犯し、妊娠した女性は社会的制裁を覚悟しなければならなかった。むろん未婚の母も排斥された。
そのように女性の性的自由が束縛されていたのは、家父長制を守るためであったが、日本でも戦前までは既婚女性が夫以外の男性と性的関係をもつことは犯罪であった。姦通を描いた小説も発禁になったりした。しかし1947年に姦通罪はなくなり、それとともに、大岡昇平の「武蔵野夫人」(1950)などのように、既婚女性の婚外恋愛を描いた小説が登場するようになる。それでも姦通という言葉には反社会的なイメージがつきまとっていたが、そのようなイメージを変えるのに一役買ったのは、三島由紀夫の小説「美徳のよろめき」(1957)であった。
この小説では年上で金持ちの男と結婚した主人公が昔の恋人に再会し逢瀬を重ね、妊娠すると三度も中絶する話だが、三島はそれを「美徳のよろめき」という洒落た表現に変えたわけである。それが大当たりし、「美徳のよろめき」という言葉はたちまち流行語になり、妻が夫以外の男性と性的関係を持つことが罪だという考えは薄れていく。最近ではそのような関係は不倫と呼ばれているが、その言葉の持つ道徳性を抹消するために、「フリン」とカタカナ書きされることすらある。
また日本の場合、女性が性的に自由に行動するようになった背景には、姦通罪がなくなるのと前後して、妊娠中絶も簡単にできるようになったことがあった。そのような状況を反映して、小説でも女性が中絶する話がでてくるようになり、三島の「美徳のよろめき」では、主人公は妊娠すると三度も中絶する。しかも悩むことなく簡単に中絶する。その意味で、この小説は「中絶天国」と呼ばれる日本の状況をよくとらえているといえよう。
おそらく日本ではこのように妊娠中絶が簡単にできたため、政府が経口避妊薬ピルの市販を許可しなくても、女性は性的に自由に行動できたのであろう。しかしキリスト教の影響が強い国では、1960年代のはじめには法的に中絶を禁止しているところが多く、アメリカでもそうであった。また欧米諸国では、女性たち自身も、やはりキリスト教の影響で、中絶に罪悪感を抱くことが多かった。
したがって経口避妊薬ピルが簡単に手に入るようになったことは、女性たちにとっては画期的な出来事だった。むろん避妊の方法としてはコンドームもあった。けれどもコンドームは、男性の協力なしには出来ない避妊法である。ところがピルは、女性が自分の意志のみで避妊することができるようにした。つまりピルの出現は、女性が男性から性的に自立することを可能にしたのである。
ただしその反面、ピルの出現によって、女性たちは、男性たちから〈妊娠の心配がないのだから、自分たちの性的欲求に従ってもいいじゃないか〉という圧力をかけられるようにもなった。そのようなピルのもたらした否定的な面も、むろん認めねばならない。しかしピルの出現によって、妊娠の恐怖から解放された女性たちが性に対して積極的になったことは確かであった。
そのようなピルの効能と共にもう一つ留意しなければならないのは、女性たちがミニスカート文化の広がりなどによって、自分たちを縛りつけていた旧来のモラルからも自由になっていったことである。
誰がミニスカートの発案者かについては議論がわかれていて、一説では、1965年冬におこなわれた春と夏のファッション・ショーで、パリのオートクチュールのデザイナー、クレージュが、膝上10cmのミニスカートと白いブーツのモデルを登場させたのが発端だったといわれている。そしてクレージュの「ショーが終わったときには、観客の心も、それを身につける女性たちの心まで解放していた」という。
一方ロンドンでも、新進のデザイナー、マリー・クワントがそれよりも短いミニスカートを発表して有名になっていた。クワントは自分が着たいと思う服を作ったと述べているが、クワントの服はたちまち若い女性の心をつかみ、世界中で大人気となった。それでクワントの方が「ミニ」の元祖または「ミニの女王」として知られるようになり、1968年には英国に巨額の外貨をもたらした功績を認められ、エリザベス女王から「英帝国勲章」を授けられている。
ミニスカートは、むろんアメリカでも大流行したが、大統領夫人のジャックリーン・ケネディーが公式の場でミニをはいたことが、ミニの流行に一役買ったといわれている。
周知のように日本でも、ミニスカートは大はやりだった。「ミニスカートが中高年女性も巻き込んで日本で爆発的に流行するのは翌68年からだが、67年にすでに街の風俗として定着していた」という。ミニの流行に拍車をかけたのは、1967年の10月、クワントが18歳のモデル、ツイギーを伴ってやってきて、国技館でファッション・ショーを開いたことであった。その時、8500人もの観客が国技館につめかけ、その中には一目ツイギーを見ようとやってきた男性も多数いたという。
クワントのミニスカートが革命的だったのは、一つには、ファッションを誰にでも手に入れる値段で提供したことであった。それまでは、ファッションを楽しめたのは、金持ちの女性たち、特に裕福な中年女性に限られていた。そのためにそれを着ると、若い女性でも「少なくとも35歳には見えた」。ところが若いクワントは、若い女性に似合う服を、彼女たちが自分のサラリーや小遣いで買える値段の服を売り出したのである。
それは中年の女性たちにも受け、クワントの店では、安い給料で働いている若い女性たちと金持ちの中年女性が一緒に買い物をする風景が見られるようになった。つまりファッションによる民主化である。事実クワントはインタビューで、「ファッションの本質は民主主義。大事なことは、つくる側が、一方的に命令する独裁を拒否することと既成概念から自由になることです」と語っている。
女性はまたミニスカートの誕生によって、従来のきっちりとセットされた堅苦しい髪型や、体をギュウギュウ締め上げてウエストを細く見せるコルセットなどからも自由になった。パンティストッキングができると、動きにくいガードルからも解放された。これもミニが女性たちに受けた理由の一つであった。それまでは、ファッションは中年の裕福な女性たちのためにデザインされていたから、高価なだけではなく、軽快に動きまわれない服が多くしかもそれを着ると、若い女性でも中年のようにふけて見えたわけである。ところがミニは、女性たちを若々しく見せただけではなく、活動的にした。ミニと共にローヒールの靴やブーツが流行するようになったことも、女性たちの行動を活発にするのに一役買ったといわれている。
ちなみにミニスカートが流行すると、男性たちの間でもファッション革命が起きている。ビートルズの影響で長髪が増えてきただけではなく、彼らはさまざまな色やスタイルの服を着るようになり、由梨の情事の相手の「桃色シャツ」のように、ピンクのシャツを着る男性も増えた。そのため「ピーコック革命」という言葉が流行ったりしたが、そのような男性のファッションの女性化から、ジーンズやTシャツなどのユニセックスなファッションが生まれてくるのである。
重要なのは、そのようにファッションが変わると、女性たちの意識も変わったことである。つまり旧来の堅苦しい服を脱ぎ捨てると、女性たちは自分たちを縛りつけていた過去の習慣も脱ぎ捨てて、自由な生き方をするようになったのである。
それに対しては非難の声もあったが、クワントは、自分の服が女性の意識を変えたのではなく、新しい生き方を探していた女性たちがミニの流行を生み出したのだと反論した。ちなみに、私もその当時ロンドンで美術やデザイン関係の仕事をしていたという英国人の伝記作家に会ってその頃のことについて聞く機会があったが、彼も自分の周りの女性たちが新しい生き方を模索している時に、ミニがでてきたのだと語っていた。
つまりミニは、「新しい生き方を模索していた女性たちの心をつかみ、彼女たちをいきいきさせ、女であることに誇りと自信を持たせた」わけで、そこにはファッションと人間の心理との間に密接な関係があることがうかがわれる。
むろんその頃には、経口避妊薬ピルも簡単に手に入るようになっていた。それらのことがあいまって、女性たちも男性と同じく性の自由を楽しむようになっていく。
その後、ベトナム戦争に反対し、平和と自由と愛の自然をもとめたヒッピーやフラワー・チャイルドといわれる若者たちの出現によって、フリーセックスは、若者文化の一部として定着していった。1969年にジョン・レノンとヨーコ・オノがアムステルダムやモントリオールで戦争よりも愛をというメッセージを伝えるために公共の場で「ベッド・イン」するのも、そのような若者文化を象徴する出来事の一つであった。もっとも二人はただ一緒にベッドに入っていただけだが。
そうした若者文化の影響で、既婚者の性のモラルも急速に変わり、離婚も増えていった。そしてアメリカでは「ワイフ・スワッピング」や「キー・パーティ」のような退廃的なゲームを楽しむ人々もでてきたわけである。
「三匹の蟹」の登場人物たちはそこまで退廃的ではないが、大庭が彼らを当時のアメリカ社会の縮図として描いていることは明らかである。
とはいえ、大庭はそのような性の自由をささえていた経口避妊薬ピルについては直接は何も言及していないが、作中の女性たちが簡単に不倫をしたり恋人を取り替えたりするのも、ピルを飲んでるからこそだという風に読める。また由梨が妊娠したかもしれないといっても武が信じないのも、やはり彼女がピルを飲んでいるのを知っているからであろう。むろん彼らの避妊の手段がコンドームだと読めないこともない。だが由梨がフランクや、見ず知らずの「桃色シャツ」とも簡単にセックスを楽しむのは、やはりピルを飲んでいるからだという風に読める。逆にいえば、「桃色シャツ」が簡単に由梨を誘うのも、他の女性たち同様、由梨もピルを飲んでいると考えたからだと解することができる。
もっとも由梨は、「桃色シャツ」に「どうして、ミニ・スカートをはかないの?」と聞かれると、「だって、きれいな脚じゃないもの」というので、ファッションの上では、当時の流行に迎合しているわけではない。けれども彼女もミニスカート文化と経口避妊薬ピルがもたらした性の自由は、たっぷりと楽しんでいるといえる。
このように60年代後半に顕著になってきたアメリカ社会の性に対するモラルの変化を考えれば、由梨が「桃色シャツ」と一夜を共にするのは決して突出した行為だとはいえないことがわかるであろう。
「台所症候群」と由梨
大庭は「三匹の蟹」では、いくつか別のテーマも追求している。その一つは、後に日本で「台所症候群」と呼ばれるようになる主婦たちの神経症についてである。
由梨は専業主婦で、子供は10歳の梨恵一人。自分の車を持ち、週末には自宅に友人たちを迎え、ブリッジ・パーティを開いたりする優雅な生活をしている。自宅で二組のテーブルを置いてブリッジをするくらいだから、居間も広いだろうし、台所もケーキを焼いたりできるモダンなものであろう。そのような由梨の生活は、当時の日本の主婦たちからすれば羨ましいほど恵まれた生活に見えたに違いないが、しかし由梨はそのような生活にうんざりしきっていた。
由梨はお菓子の粉を混ぜ合わせながら、胃の奥の方で微かな痛みを感じた。彼女は機械的に卵を割りほぐし、バターをこね合わせ、ベーキング・パウダーや塩をふり入れながらまるで悪阻の時みたいに生唾が咽喉元まで上ってくるのを感じた。
由梨が吐き気をもよおすほど嫌悪しているのは、実は自分の生活そのものである。これは彼女が夫や娘と交わす会話によってしだいにわかってくる。ブリッジ・パーティを開こうというのも、実は夫の提案だった。由梨自身はお客のためにケーキを焼いたり、ブリッジ・パーティをやることに飽き飽きしていた。
そして客が集まってきて会話が始まると、なぜ由梨がそのようなパーティに嫌悪感をおぼえているのかわかってくる。彼らは皆、何とかして相手よりも気の利いたことを言おうとやっきになっていて、辛辣なことばかりしかいわないし、相手をほめる場合にも、お世辞であることが明らかな見え透いたほめ方しかせず、本音で話す者は誰もいなかった。
実はこの会話だけで構成されているパーティの場面は、「三匹の蟹」の中でも特に秀逸な箇所だいう定評がある。「群像」新人賞の選考委員の一人江藤淳は、E・オールビーの「ヴァージニア・ウルフなんかこわくない」と類似しているけれども、それは作者の体験にもとづいて描かれたものであるとも指摘している。またもう一人の選考委員の大江健三郎も「それぞれの「他者性」を明瞭にきわだたせた」優れて「演劇的」な会話だと評価している。
確かにその通りである。しかし私は、大庭がこの場面を舞台劇のように構成したのは、それぞれの人物がインテリーにふさわしい役を演じようと躍起になっており、彼らの間では心の通った真のコミュニケーションが失われていることを、構成の上でも示すためだったと考える。
むろん由梨自身も決して本心を見せず、客に負けないほど辛辣な発言をする。しかもサーシャと親密な関係にあることを大ぴらに見せつけていた「武の視線にぶつかると」、急に横田によりそうようにして、「横田さん、あなたって、ほんとに詩人。フランクはね、フォークナーの研究家ですけど、あれ程詩人じゃないひともないわよ」と、芝居気たっぷりな見え透いたお世辞をいって、横田の気をひこうとする。
ただし由梨が彼らと違うのは、「自分の無意味な言葉と一緒に、生あくびが泡みたいに胃の奥から上ってくるのを感じた」というように、つい無意味なことをいってしまう自分に嫌悪感を抱いていていることである。だからこそ由梨が口実をもうけて、パーティを抜け出そうとすることにも同情できるのである。
由梨が、サンフランシスコにいる姉が飛行機の乗り換えで、この町に来るけれども短時間しかいられないので、飛行場まで会いに行かねばならないといい、その口実が信憑性を持っているのは、前にも指摘したように、日本経済の高度成長によって海外在住の日本人が増えたということが背景にある。
そして車を走らせて遊園地にでかけた由梨は、そこで「桃色シャツ」の男と一夜の恋のアバンチュールを楽しむわけである。
このように自分の生活を吐き気をもよおすほど嫌悪し、性的冒険をおいかける由梨のあり方は、実は1963年にアメリカで出版されたベティ・フリーダンの「The Feminine Mystique」(直訳は「女らしさの神話」だが、日本語訳の題は「新しい女性の創造」)に報告されている専業主婦たちの悩みや行動と非常によく似ている。
フリーダンは自分の卒業したスミス大学の同期生にアンケート調査したことをきっかけに、経済的には恵まれた生活をしているアメリカの専業主婦たちが、夫や子供の世話だけに明け暮れる生活に満足感をえることができず苦しんでいる実体を明らかにした。中には「生きているような気がしないのです」とか、「疲れきった感じで・・・自分ではっとするくらい子供たちに腹がたつのです・・・わけもないのに泣きたくなるのです」と訴える女性もいた。
また結婚するために19歳で大学を中退した4人の子持ちの主婦は、「私は子供も夫も自分たちの家も愛している」「しかし私は絶望し切っている」「私って一体誰なのか」と訴えてきた。しかも「大勢の女性が、手足に、出血するおおきな水ぶくれができた」経験を持っていたが、それは神経的なものからくる疾患だった。
フリーダンの調査でもう一つわかったのは、このような悩みをもつ主婦たちの多くが、セックスをしている時だけが、自分が生きていると感じられる瞬間だと返答したことであった。このように「郊外住宅の主婦が、近所の男性や知らない男性に、すすんで身をまかすようになり、夫を自分の家の家具のように考えるようになったのは、彼女たちが自己と生きがいを見出す必要にせまられているからだろう」と、フリーダンはいう。
ちなみに裕福な中流階級の家族に焦点をあてた前述のムーデイの小説でも、専業主婦の一人は近所に住む男との不倫にふけり、性にあまり関心のないその男の妻は、心の空虚さを、万引きをやってそのスリルを味わうことで埋めている。男性であるムーデイは、フリーダンとちがって、専業主婦たちの苦悩自体には全く同情を示していないが。
興味深いのは、日本でも満たされない思いで暮らしている主婦たちの中には、売春行為に走るものもいたという。例えば、1970年の「朝日ジャーナル」に掲載された「身もだえする幻想」という記事にはこうある。
東京を中心にした、あるコールガール組織を摘発してみたら、そのグループの2/3が家庭の主婦、全員が30歳代で、ほとんどが10歳以下の子どものいる家庭だった・・・昨年摘発された中にも中央官庁の高級官僚の妻、某出版社幹部の妻などがいたという・・・彼女たちは売春をするようになった原因として「家にとじこもっているのが退屈だった」「こづかい銭がほしくてグループに入り、そのまま抜けられなくなった」「性的不満」などをあげている。
そしてこの記事に書き手である男性は、無聊に苦しんでいる新婚の若い女性から受け取った近況報告の手紙を紹介しているが、その手紙には次のように書かれていた。
結婚して半年たちますが、あまりに暇で頭がヘンになりそうです。せめて子供ができるまででも働きたいと思いますが、気の優しい主人なのに、パートタイムでも「絶対いかん」と認めてくれません。仕方なく家の隅々まで念入りにお掃除をし、なるべき遠くへ毎日のお買い物をしに出かけるようにしています・・・これでいいのかと、毎日毎日自分に同じことを問いかけては日を送っています。
この記事の筆者は、「彼女に不幸の意識はない。むしろ逆で、いいひとと結ばれて大変幸せだと思っている。あるいはそう思い込まされている」が、「夫婦の愛なる幻想が崩れ、日常のルーティンが彼女を支えなくなったときはどうなるか」と、疑問を投げかけ、「主婦売春は、もてあましている暇を埋め、ポケットマネーを稼ぐことができ」「かなり多くの主婦が売春行為に走るチャンスをポテンシャルとしてもっているのではあるまいか」と問いかけている。
このような記事を見れば、日本でも「主婦幻想」にからみ取られ、夫や子供たちの世話や家の管理以外に生きる場をもたないために苦しんでいる女性たちが多く、中には売春行為に走る主婦もいたことがわかる。
フリーダンは、そのような女性たちの不満や悩みは、「夫や子供を通して自己を確認することは出来ないし、毎日の家事からも自分を見出せはしない」ことを明らかにしていると指摘。そして女性たちが満たされない思いに苦しむようになったのは、第二次世界大戦後戦場から帰った男性たちに職場を提供するために、政府や学者やマスコミが「婦人は家庭に帰れ」と奨励し、女性の幸せは家庭にあるという神話をつくりあげたことと深い関連があるという。そしてフリーダンは、女性たちが自分の生活を意義あるものにするためには、何よりもまずつくられた女らしさの幻想を碎き、自らの人間としての能力をのばしていかねばならないと指摘した。
フリーダンの本の「女らしさの神話」という原題はそこから来ているのだが、この本はたちまち女性たちの心をつかみ、大ベストセラーになった。そしてそれは米国における女性解放運動の生まれる契機をつくり、フリーダンは1966年に成立した全米女性連盟の初代会長に推された。その時連盟の初代委員長に選ばれたのは、大庭が学んだウイスコンシン大学継続教育部部長のキャサリン・クラレンバックであった。
ジョンソン大統領はそのような女性たちの影響を受けてその年、つまり1966年に、「アメリカの女性の能力を十分に活用しなかったことは、わが国にとって、最も悲しい、かつおろかな無駄である」、だから「女性が専門職につける機会を多くする方法を、大統領に助言するためのスタディー・グループを構成するよう命じ」、ハンフリー副大統領も、女性は「基本的人権を認められていない多数」だ、「アメリカが過去において、女性の能力、才能を無視してきたことは恥ずべきことだ」と述べている。
大庭が「三匹の蟹」を書いたのは、アメリカにそのような新しい動きが出て来た時であった。そこで大庭は、フリーダンの本を読んだり、全米各地に支部を持つようになっていたフリーダンが会長をつとめていた全米女性連盟のことを知っていたのではないか。全米女性連盟の初代委員長は大庭がかつて学んだウイスコンシン大学の人でもあるし。そう思って、大庭の著書を調べてみた。
すると全米女性連盟については何も記されていないが、「黄杉 水杉」(1989)の中で、大庭はこう述べている。「ベティ・フリーダンの女性論を読め読めとしつこくわたしにすすめたのはオリガだった。ボーヴォワールに一足遅れて、世界の女たちをひきつけた人だった」「その頃--わたしもオリガも20代の頃、わたしたちはよく男の話をして長い白夜を過したものだ」「20代で2人の子供を連れて夫と別れたオリガは、当時としては勇気のあるフェミニズムの先駆者といったタイプの女だった。というより、そういう体験、妻と幼い子供を紙屑のように丸めて放り出し、酒浸りになる男と結婚した運命がフェミニストにしたのであろう」と。
「黄杉 水杉」は自伝ではなく、小説である。だから「わたし」をそのまま大庭だとみなすわけにはいかないが、そこに登場する人物たちは、大庭が2002年にシトカを訪問した時の紀行文にも出てくる。したがって「わたし」という登場人物には、大庭自身の体験が投影されていると見てもいいであろう。
いずれにしろ大庭がフリーダンの本を読んでいたことは確かである。だから「三匹の蟹」でも、主人公の由梨が、フリーダンのいう「得体の知れない悩み」に苦しんでいるという設定をとったのであろう。なおそのような症状は後に「suburban neurocis」(郊外神経症、しかし日本では「台所症候群」)と名付けられるようになるわけだが、由梨が憂さ晴らしに、性のアバンチュールを楽しむのも、フリーダンの本の内容とよく似ている。
ただし「三匹の蟹」は、フリーダンが会長をしていた女性運動についてはふれられていず、かわりに女性たちがまだ連帯せず、孤立したままでいる状況をとらえた小説である。それが最も顕著なのは、ロンダが「ユリ、淋しいのよ。そうでしょう。淋しいのよ。困ったことねえ」と訴えても、由梨は耳をかさず、「どうにもならないわねえ。どうしようもないわねえ。
じゃあ、又。ロンダ、--愉しんでいらっしゃい」と振り切って出ていく場面である。つまりロンダの方は自分たちの置かれている現状への不満を由梨と語り合い、淋しさを分かちあいたいと思っており、女同士の連帯を求めているが、由梨はまだ同性と連帯したいという気持ちは持っていないわけである。それは由梨がまだ男性とのロマンテイックな対幻想にとらわれているからだが、しかしそのような対幻想が破られれば、由梨もロンダと淋しさを分かちあい、連帯する可能性をもっているということでもある。
事実小説の展開を見れば、由梨のロマンティックな対幻想は、ロンダと別れた後出かけた遊園地で出会った「桃色シャツ」の男に置き去りにされたことで破られるという風に話が進んでいく。
おとぎ話への挑戦
「三匹の蟹」が画期的な作品である理由はもう一つある。それは女性が自己を変革し、独自の人格を形成していくには、何よりもまず王子様と王女様が結婚して目出たし、目出たしで終わるおとぎ話がつくり出す結婚幻想から自由にならなければならないと示唆していることである。それは由梨がケーキを焼きながら次のように武と娘にいうことによって明らかにされている。
「子供の前では、甘い優しい創り話。きれいなお姫さまと凛々しい王子さまが恋をして、ガラスのお城に棲んで、夢の綿菓子を食べて、タララララ」
このようなおとぎ話に対する由梨の皮肉な態度は、武との結婚生活が、子供の時に聞かされた王子さまと王女さまが恋をして結婚して目出たし、目出たしで終わるおとぎ話の結末とはかけ離れていることへの不満からきている。これは武との刺々しい会話に表明されているが、由梨がおとぎ話にこだわっていることは、梨恵を相手に次のようにいうことでもわかる。
「松浦嬢には性的魅力があるとか、サーシャはバラノフ神父の奥さまで、パパの女友達だとか、ママはそういうお客を呪いながら、お菓子をつくっているとか。あーあー、お菓子の中から、ぱっと黒い鴉が十羽もとび出したら、ふっふ。タララララ」
由梨はそのお菓子で「サーシャと松浦嬢を豚のように肥らせ」るのが望みだというのだが、「呪い」をかけるというのは、おとぎ話には欠かせないモチーフの一つである。またお菓子から鴉がとび出すというのも、英語圏の子供むけの物語からきている。
そのような由梨のおとぎ話にたいするこだわりは、彼女がいまだにおとぎ話、特に王子さまと王女さまが恋をして結婚し目出たし、目出たしで終わる話の影響を受けていることを示すものである。だから武に愛想をつかした由梨は、新しい王子さまを求めて遊園地に出かけていくのである。
元来遊園地は子供の遊び場であったが、ここでは由梨が子供の時よく聞かされたおとぎ話の世界に戻り、新しい王子に出会いたいという願望を実現させる場である。これは9時をすぎた夏の遊園地は、「手をつないだ恋人達がネオンのついた乗物を幸福そうな眼つきで眺めてい」る世界であり、モーター・ボートの中にも「ハンドルに、倖せそうにもたれかかって水のしぶきを放心したような眼で眺めている恋人達」がいたりと、どこを見ても恋人達ばかりであることによって示されている。
しかも遊園地の中にあるオペラ・ハウスで上演されているのも、「マゴット・フォンテンの白鳥の湖」であった。いうまでもなかろうが、「白鳥の湖」もおとぎ話によく似ていて、魔法で白鳥に姿を変えられた美しい王女が、勇敢な王子の愛によって魔法をとかれ、王子と無事結ばれて目出たし、目出たしで終わる話である。それゆえ、これも自分を救ってくれる王子にめぐり会いたいという由梨の願望を示している。
そして由梨は、遊園地の中にある「アラスカ・インデアンの民芸品の展覧会場」の管理人をしている「桃色シャツ」の男と出会うわけである。このロマンティックな色のシャツを着た男が王子の役を与えられていることは、おとぎ話の王子のように名前を与えられていないことを見ればわかる。男が背が高く、若白髪はあるけれども黒い髪で、「眼は緑色に近い碧眼」だという設定も、ロマンティックな恋物語の「トール・ダーク・ストレンジャー」(背が高く、髪が黒く、異邦人)というヒーローの典型像をふまえて造型されていることが明らかである。
男が「1/4、エスキモーで、1/4、トリンギットで、1/4、スヰーディッシュで、1/4、ポール」の混血であるのも、彼が由梨の望む理想の男性であることを示している。これは由梨が純粋の日本人である武やアングロサクソン系のフランクにうんざりしていることを見ればわかる。
武はエゴイストで毒舌家であり、機会さえあれば由梨をこきおろす。ブリッジをやるというのも武の発案であり、「悪いけど、わたし、とっても胃が痛くて駄目だから、誰か、もうひとり招んでよ」と由梨が懇願しても、武は心配する気配は見せなかった。
それで由梨が口実を設けてパーティを抜け出そうとすると、「君は大体傲慢だ。君が他人に我慢すると思うのは自分が秀れている、と思うからだ」ときめつけ、由梨が「わたし、ほんとうに駄目なのよ。癌か、若しかしたら、子供ができたのかも知れないわ」といっても、冗談としか受け取らない。しかもフランクが来ると、「ユリは最近、しきりに胃が変だというんでね、妊娠したのではないかと思っている」と他人事のようにいってのける。またフランクに対しても、相手の痛い所を容赦なく攻撃し、「ロンダは先週、シカゴから来た道路設計の技師と夕食をしてたぜ。自分の家に招んだんだ。
残念ながら彼氏が何時にロンダのアパートから帰ったか、見た奴は無い」などという。それは由梨がフランクと寝たことがあるのが気に喰わないからだが、自分はサーシャと仲のいいところをみせつけたあげく、こういった。
「サーシャ、済みませんが、由梨にカルメンがホセをののしるところの、タラララ、という節の正確なところを教えてやって下さいませんか。僕にはどうも1/4音狂っているような気がしてならないんだけれど」
由梨は即座に、「武、公衆の面前で妻を侮辱するのは離婚の時の慰謝料の額にひびきますよ」とやり返したが、武が思い遣りにかけていることは明らかである。
一方フランクも、由梨にこそ手厳しいことはいわないけれども、ロンダに向かっては、自分は絵の専門家でもないくせに、皆の前で彼女の絵をこき下ろした。
「ロンダ、近頃流行の、ポップ・アートなんて真似はやめなさい。君は大学で講座が持てる身分なんだから、もっと真面目な仕事をしなくちゃ駄目だ」
「まあ、フランク、あなたにもっと真面目になれって言われるなんて。わたし、落ちるところまで落ちちゃったと思うしかないわね」
「君は仲々の自信家だけど、自信家すぎて、強情なところがあるよ」(中略)
「わたしがひっそりと優しい絵をかけば、「少女小説の口絵だ」みたいなことを言うしねえ」
ロンダは嘆息した。
つまりフランクも女性に対し思い遣りがなく尊大なことでは、武と五十歩百歩なのである。
ところが半分アジア人で半分白人の血が混じった「桃色シャツ」の男は、とにかく親切でやさしかった。由梨が展示会場でころびそうになると、さっと駆け寄って抱きとめてくれるし、由梨のハイヒールの踵の皮がさけて垂下がっているのを見ると、持っていたナイフでそれを手際よく取り除いてくれ、会場に置き忘れたハンドバッグもみつけて持ってきてくれた。そのようなやさしさを示す男に、武やフランクの思い遣りのなさに傷ついている由梨が惹かれていくのは当然だったといえる。
なおリービは、「桃色シャツ」の男に「由梨が徐々に引かれてゆく(原文ママ)のは、ただの「国際的」な姦通ではなく、むしろ最も「近代的な「会話」の場を逃げた一人の近代人の、自らの前近代的感性そのものとの「姦通」ではなかろうか」といった。これは由梨が彼のエスキモーという部分に自分との血のつながりを感じているとあることからすれば卓見であろう。
トリンギットというのは、由梨が見に行った民芸品を作った「アラスカ・インディアン」の一部族であるが、「桃色シャツ」がその血を1/4受け継いでいることも、近代人を自任している武やフランクにうんざりしている由梨にとっては望ましい男性像、つまり理想の王子様の一つの要素であった。それは展示場で鴉の帽子をみた由梨が次のように考える場面を見ればわかる。
この鴉の帽子は(中略)写実的な鴉とは似ても似つかぬもので、殊に眼などは抽象化されたにしても人間の、それもかっと見開いた男の眼であったが、全体として見ると、奇妙な、人間と鴉の混同した生命のある面なのである。未開の人種達の間では自然界の木とか草とか、山とか谷とか、動物に人間の同化した生活感情ともいうべきものがあり、お互の間の意志の疎通は信仰に近い形で信じられているようだ。
リービは、この「人間と動物の「お互の間の意志の疎通は信仰に近い形で信じられていた」というアニミズムの領域は、すべてが認識の玩具としてもてあそばれるブリッジ・パーティの世界からよほど遠い」といっている。それは確かに卓見である。
しかし私は、この理想的なアニミズムの領域は、由梨にとってはおとぎ話の世界に踏みいることでもあったことに、注意を喚起したい。そこで「由梨は、人間の祈りや、呪いの、ぶつぶつという低い呟き」を聞くとあるのも、おとぎ話の王女のように由梨が魔法の呪文をかけられたことを意味している。そして呪文をかけられた直後に、流行のロマンティックな色のシャツを着た背の高いハンサムな男に声をかけられるが、このような筋書きも、おとぎ話を踏まえたものである。
このように見ていけば「桃色シャツ」は、由梨が求めているところの近代人でありつつかつまた自然界との結びつきを持った理想の王子様であることが明らかになる。もちろん彼らの関係も、勇敢な王子と可憐な王女の物語のように進展していく。
まず「桃色シャツ」は、すでに指摘したように、由梨が展示場を出ようとして「ぐらりとして危く尻餅をつきそうにな」ると、さっと「走りよってきて、由梨を抱きとめたので、由梨は派手にころばなくて済んだ」し、由梨のヒールの皮が破れて危険なのを見ると、「ポケットからナイフをとり出し」、皮を切ってくれた。物語の王子は王女が危険な立場にあると剣をふるって助けるが、近代の王子の「桃色シャツ」は、剣の代わりにナイフを使って助けるわけである。靴がとりもつ縁というのも、シンデレラの物語の亜流ないしはパロディ化と読める。そして由梨が展示場にハンドバッグを忘れたまま出てしまうと、「桃色シャツ」はそれを持ってきてくれただけでなく、またしても転びそうになった由梨をやはり抱きとめてころばないようにしてくれた。
その後「桃色シャツ」はジェット・コースターに乗ろうと誘うのだが、注目すべきは、自宅では終始雄弁でかつシニカルな態度しか見せなかった由梨の変化である。「わたし、怖いわ。若しかしたら、我慢できないかも知れないわ」と弱音をはき、「乗ったことある?」と聞かれると、「ううん」と少女のように「かぶりを振った」ので、「桃色シャツ」は「大丈夫さ。僕につかまっていれば」というわけである。これは由梨が、勇敢な王子に守られる可憐な王女に変身してしまったことを示している。
なおその時由梨は、昔武とデイトしている時に、後楽園のジェット・コースターに乗りに行くけど、結局は乗れなかった挿話を思い出すが、これは武との結婚生活がうまくいかないのは、間違った王子を選んでしまったからではないか、と由梨が考えていることを明らかにしている。
そして「桃色シャツ」は、口だけは達者だが頼もしさややさしさに欠ける武とは違い、ジェット・コースターがスピードをあげ、由梨が怖がると、「由梨の腰に手をまわして、しっかりと抱きしめるように指先に力をこめ」たので、由梨も安心して「男の肩に重心をかけていた」。そしてジェット・コースターがとまると、「桃色のシャツの上に顔を伏せていた」由梨を、「抱きかかえるようにして立ち上らせ、更に抱きよせるように由梨の顔を覗き込」み、「大丈夫?」とやさしく声をかける。由梨の方は、やはり何を聞かれても、「こっくりと頷い」たり、「かぶりをふった」りするだけで、全く可憐な王女様になりきっている。
そしておとぎ話では、王子と王女が舞踏会でダンスをするのも特徴の一つだが、案の定、「桃色シャツ」も由梨をダンスに誘った。
由梨がどうするか決心しかねていると、突然「ドビュッシイか何かの音楽」が聞こえてきて、「オペラ・ハウスから、着飾った観客が」出てき、「黒いスーツの男達が、むき出しの女の肩を覆うように身をかがめて、囁いていた」と叙述がある。これは舞踏会のような雰囲気をつくり出すための装置である。
もっとも二人は舞踏会には行かず、流行のゴーゴー・ダンスを踊りにいく。そして「スローの曲にな」ると、「桃色シャツ」はおとぎ話の王子のように、由梨をぴったり抱き寄せて踊り、「優しく笑いかけ」たので、「由梨も優しく笑い返し」「二人はただふんわりと流れていく雲の上にのっているように音楽に任せて」体を動かしていた。それは「武と上手に踊ろうと努め」「ステップを間違えまいとからだを硬ばらせた」時の経験とは大違いであった。
このように由梨がことあるごとに武と「桃色シャツ」と較べているのは、選択を誤って武を選んでしまったために、自分の人生は上手くいかないのだと考えていることを示唆している。
一方「桃色シャツ」は、終始おとぎ話の王子やロマンティックな恋物語のヒーローのごとく振るまい、踊っている時にも「君はまるで、押えていないと、ふわりと飛んでいってしまう羽みたいに軽いよ」などと、甘いセリフを口にする。むろん武も、そしてフランクも、そのようなロマンティックなことはいわず、やさしくもなかった。だからこそ由梨は「桃色シャツ」に誘われるままにドライブにいき、ついには一夜を共にするのである。この部分はいかにも性の革命の進んだ60年代的な物語である。
ところが翌朝由梨が眼をさますと、「桃色シャツ」の男はすでに姿を消してしまっていた。しかもバスで遊園地まで戻る途中、由梨はハンドバッグから20ドル紙幣が消えているのに気がつく。当時の20ドルといえば、今の百ドルくらいの値打があるが、それを抜き取っていったのは、明らかに「桃色シャツ」であった。ということは、由梨は素敵な王子様に出会いたいという夢を叶えるために、20ドル支払ったということに他ならない。
この結末は、構成の上では冒頭におかれているが、そこに含まれるメッセージは次のように解釈することができる。すなわち、おとぎ話は夢物語にすぎず、理想の王子様などいないのだ、だから自分の人生を有意義なものにするためには、結婚幻想を追わず、自分で自分の生き甲斐をみつけていかなければらなない、と。
これは決して結婚そのものを否定した結末ではない。このことは、やはり確認しておかなければならない。フリーダンも、結婚幻想に強く影響されている女性ほど結婚した時の幻滅や不満も大きいので、不満を解消するためには自分の生き甲斐をさがすように提案しているが、結婚そのものを排斥しているのではない。
ちなみに時代は大幅に下るが、シャーロット・メイヤーソンも、1996年に出版した「Goin' to the Chapel」という著書の中で、彼女のインタビューに答えた女性たちのうち、子供の時から女性は結婚すべきだと教えられ、結婚幻想にとらわれていた女性ほど結婚後の人生に失望を持つものが多いと報告している。一方コレット・ダウニングは、1981年に出した「シンデレラ・コンプレックス」という著書で、子供の時から物語を通して男性に依存した生き方をすべく教えられた女性たちは、職業上成功しても仲々心理的に独立できず、男性に依存してしまいがちだと指摘している。
ここでもう少しおとぎ話の問題について言及すると、おとぎ話が女の子たちに結婚幻想を抱かせ、成人しても男性に頼る受け身の生き方を選択させるようになるということが問題にされるようになるのは、実は女性運動が盛んになった1970年代になってからであった。その口火を切ったのは、作家でもあったアリソン・ルーリであるが、ルーリは1970年に発表した論文でおとぎ話は強い女性たちを描いているので、女性解放を推進するのに役立つと力説した。
それに反発し、おとぎ話を批判する論文が続々あらわれるようになり、おとぎ話の研究はフェミニズム運動の一環となっていく。それらの研究は一様に、おとぎ話が女の子に性別による役割の違いを教え、物語りの王女のように従順で貞淑であれば、王子様と結婚し幸せに暮らすことをできるという受け身の生き方をするよう書かれたものであることを明らかにした。
そして1983年には、ジャック・ザイプスが世界中の昔話や児童文学の研究家に衝撃を与えた「Fairy Tales and the Art of Subversion: The Classical Genre for Children and the Process of Civilization」 (直訳は「おとぎ話と転覆の芸術/子供のための古典的ジャンルと文明化の過程」だが、2001年に出た日本語訳は「おとぎ話の社会史」という簡潔な題となっている)を発表した。
ザイプスは古典的おとぎ話は「無害で楽しいもの」と見なされてきたが、それは人々、特に子供たちを教育するために構築されたものであること、そして欧米の主要な古典的作者であるシャルル・ぺロー、グリム兄弟、ハンス・クリスチャン・アンデルセンなどは、「ブルジョアジーの価値観や関心を浸透させ、文明的過程でのブルジョアジーの勢力をひそかに強化」したと指摘した。またザイプスは、女の子に対する物語は、家父長制を強化し、維持するために有利な価値観を教えようとするものであり、その伝統はハリウッドのアニメーションにも継承されていると指摘している。
以上のようなザイプスの研究が明らかにしたのは、昔話やおとぎ話の文学化は、特定の価値観を子供たちに教え込むための強力なイデオロギー装置であったこと、そしてそれらの物語りは子供たちの精神世界を支配しただけではなく、成人して後の人々の無意識の領域を形成するまでにいたったことなどである。
このようなザイプスの研究は、結果的にはそれまでのフェミニストのおとぎ話研究を正当化するものであった。
その後もおとぎ話の研究は続けられ、マドンナ・コルベンシュラーグは「眠れる森の美女にさよならのキスを」を書き、古典的おとぎ話の家父長的価値観を転覆し、女性が主体性をもてるようになる物語を創作していくことの重要性を説いた。
このような歴史を考えるなら、大庭が1967年という早い時期に、女性に結婚幻想を与えるものとしておとぎ話に注目し、それを脱構築しようと試みたことがいかに画期的であったかが理解できるであろう。
そして大庭は、小説の結末部分(構成上は冒頭にある)では、由梨の乗ったバスは深い霧につつまれ、視界があまりきかないといっているが、これは由梨にはまだ自分の進んでいくべき道が見えていないことを示したものであろう。もっともその結末からは、いつか霧が晴れるように、由梨にも自分がやるべきことは何かが見えてくることは予測できる。
おそらくロマンティックな男性への対幻想から醒めた由梨は、ロンダと次に会った時には、子供を育てながら働いているシングル・マザーの彼女の寂しさや苦悩を理解し、親密な友情を築き上げていくであろうし、松浦嬢とも、セックスアピールで張り合うかわりに、彼女が米国に一人でやってきて博士号をとろうと頑張っていることを肯定的に評価できるかもしれない。実際に歴史はそのように変化し、女性たちは自分たちの地位を向上させるために共闘していった。
そのような歴史の動きは、1967年に大庭が「三匹の蟹」を書いた時点ではまだはっきりとは見えていなかった。だから大庭は、由梨が将来どのように生きていくかについては、明確な解答は与えられなかったのかもしれない。また見方を変えれば、大庭は深い霧に包まれた孤独な由梨の姿を通して、女性解放運動が広がる直前の孤立した女性たちのあり方を描き出そうとしたといえる。
大庭自身は専業主婦ではなく、結婚しても小説を書くことをあきらめず、夫の転勤を最大限に利用して、アメリカの大学で勉強したりした。しかし主婦業の単調さや、どんなに家事を完璧にやっても仲々充足感や満足感がえられないことも、周りの女性の生活から理解したであろうし、時には自分自身でも感じることがあったに違いない。だからケーキを焼きながら苛立つ由梨の姿が生き生きとリアルに描けたのではないかと思われる。また大庭が、自力で子供を育てているアメリカ人女性ロンダ--つまり父親業と母親業と主婦の三役をこなさなければならない立場にいる--を深い共感をもって描いたのは、オリガのように離婚して二人の子供を育てていた「フェミニストの先駆者」といえる友人がいたからであろう。
「群像」新人賞の選考委員の一人であった安岡章太郎は、「三匹の蟹」は「海外留学団地小説」だと評した。それから30年後に江種満子は、「大庭みな子の文学では、アメリカはたんなる旅先でお客様になる国ではなく、またたんなる情報や題材にとどまるような借りの滞在先・他人の国でもなく、その異文化空間に棲む生活者として、日本女性が自分の生き方を創り出していく闘いの場そのものであった」と評価した。
確かに「三匹の蟹」も、江種がいうような特徴を備えた作品であるが、そこにはロンダを通して、アメリカ女性の闘いも描かれている。また由梨の造型には、すでに指摘したように、オリガという名を与えられている友人が奨めてくれたフリーダンの本の影響もみられる。そのため由梨は日本人の専業主婦というだけではなく、アメリカの専業主婦の典型としても通用する。言い換えれば、由梨という女性はジェーンというような非日本的な名前に変えても違和感がない存在であり、「三匹の蟹」のボーダレスな魅力の一つもそのような由梨の造型にあるといえる。

参考のため付け加えておけば、私はニュージーランドで「三匹の蟹」を教えているが、その際には、学生たちにフリーダンの「新しい女性の創造」と、カレン・ローの「フェミニズムとおとぎ話」(1979)という論文を参考文献として与える。するとほとんどの学生が、専業主婦である由梨の不満や悩みがフリーダンのインタビューに答えた女性たちの不満や悩みと共通していることを指摘する。中には、60年代のニュージーランドでも多くの主婦たちが同じような問題を抱えていたからアメリカと同じように女性運動が広がったのだ、と指摘してくる学生もいた。
そしてほとんどの学生が、「桃色シャツ」がおとぎ話に呪縛された由梨の王子様であり、彼との関係を通して由梨はおとぎ話の世界を再体験しようとするけれども、それは惨めな結果に終わり、男性に頼って生きていく主体性を欠いた生き方を変革せねばならないことを思い知らされる、これが小説の筋だという分析をしてくる。つまり「おとぎ話」というキーワードがあれば、あまり文学的訓練をうけていない学生でも、「桃色シャツ」が果たしている役割がわかるわけである。もう一つの収穫は、学生たちがロマンスを描いた小説やハリウッドの映画などが、いかにおとぎ話と同じ家父長的イデオロギーを説いているかにも気づくことである。その意味で、「三匹の蟹」はジェンダー教育に適切なテキストの一つである。
以上のように、「三匹の蟹」は日本人の専業主婦を主人公としているけれども、そこで描かれた問題は、アメリカをはじめ、様々な国の女性たちが直面している問題でもあった。そして女性は結婚幻想から抜け出して、新しい生き方を見い出さねばならないという大庭のメッセージも、70年代に様々な国に広がった女性運動の発するメッセージと同じであった。「三匹の蟹」のボーダレスな魅力の一つもこの点にあるといえる。
「三匹の蟹」がボーダレスな魅力を持つもう一つの要因は、おとぎ話やロマンティックな恋愛小説の説く結婚幻想に挑戦し、それを脱構築したことであるが、欧米のフェミニストの間でおとぎ話の研究がはじまるのが70年代になってからだということを考えるなら、大庭がそれを1967年という早い時点でおこなったことは、革新的であったといわねばならない。また二項でふれたように、大庭がアメリカ在住の日本人のみに焦点をあてず、フランクやロンダ、そして「桃色シャツ」の男などを通して、1960年代にアメリカ社会でおきていた結婚や性に関するモラルの変化を描いたことも、「三匹の蟹」をそれまでの日本文学の枠を越えたボーダレスな魅力をもつ作品にしているのではないかと思う。
 
近代における日本、中国の文人・作家の自殺

 

自殺は人類文明とともに発生し、今に至るまで自殺の存在しない社会はまだないと「エンサイクロペディア・ブリタニカ」は記述する。人類学では、原始人の群に既に自殺があり、少なくとも4000年も前の自殺の遺書が、近年エジプトで発見された、という確かな証拠を提出している。
人類の歴史全体を通じて見れば、近代以来、文人もしくは作家と呼ばれるような人たちの自殺はもっとも多いように思われる。文人・作家の自殺は、ある時代における文人・作家の社会的環境が大きく変化し、彼らの心のバランスが崩れたことを反映しているとみられる。ところで自殺とはいったいどういうものか。なぜ文人・作家には自殺者が多く出るのか?そして、なぜ近代に入ってから、日本人の文人・作家には目立って多くの自殺者を出し、自殺の伝統のなかった中国でも文人・作家が、近代に入ってから、自殺者は増えたばかりか、プロレタリア文化大革命中、夥しく自殺した者が出たのか?本論では、自殺の社会的要素を主な視点として、近代に起きた日本と中国の文人・作家の自殺について比較的議論を展開してみたいと思う。
我々は、孤立的に存在しているのではなくて、社会という関係体系のなかに共存している。個人の生活は、個人の自由意志によって支配されているかのように見えているが、実際、いろいろ思想的に行動的に社会というものに関連し合い、互いに制約されている。文人・作家の自殺も大抵、家庭という社会を構成する細胞から、文壇という小社会、国内社会乃至国際社会にいたるまで、いろいろの事柄に深く関わっているから、その自殺を研究するには、何よりもまずそれに着眼しなくてはだめだと思う。この意味から言えば、フランスの社会学者デュルケムは、誰よりも先に社会的要素に着眼した「自殺論」の重大な意義は否定できない。
人間を徹底的に「社会的存在」として考察していくこの社会学者(デュルケム)の眼は、人間の生というものがいかに集団生活によって影響され、左右されるものであるかをするどく看てとっている。いいかえれば、自殺は、この行為にはしる人間の生きてきた集団生活にかかわる要因をぬきにしては、じゅうぶんに説明されえないということなのだ。
宮島喬氏がいろいろ説明し補足した通り、デュルケムの学説は当時欧州諸社会の自殺を通じてその社会の病態にメスを入れたばかりか、社会的要因はいかに重要なのかを強調し、そして社会学的に自殺を分類したことも、後の研究者に重要な手がかりを提供した画期的な貢献と言わざるを得ない。ところが、同じく宮島喬氏が指摘したように、今日の目から見ればデュルケム学説には、いくつか問題点があることも否定できない。たとえば、「社会的要因」と「非社会的要因」という分け方の厳密でないことや、根拠にした官庁統計のデータは確実に権威のあるものだとは限らないことや経済的貧困・病苦を軽視したことなどが挙げられる。
そのほか、筆者の思うところでは、社会には統合力があると言われているが、物理学の力学原理に基づいて、その反動も必ずあり、統合力は強ければ強いほど、その反動も強くなるのではないか。たとえば、中国のプロ文革という特定の時期中、社会的統合力は強くないとは言えないのに、なぜ夥しく文人の自殺が出たのか。因みにデュルケムの研究は、19世紀のヨーロッパ向けで、東洋人の自殺のケースには必ずしもぴったり当てはまるとは限らない。それにデュルケムは、自殺する人間を受動的なものとして固定的に扱っているように思われ、自殺者の主観的能動性を見逃したのではないかと思われる。
ここではまず、自殺の定義、種類や自殺率などから検討して、文人・作家の自殺の多発の原因を探るとともに、近代以来とくに有名な日本と中国の文人・作家の自殺を例にして、比べながら、法則らしいものを探ってみたいと思うのである。
自殺の考察
自殺の定義
自殺とは何か?自殺という現象を定義づけることは難しいことで、米国自殺学会会長、著名な自殺研究学者シュナイドマン(E. S. Shneidman)が、「Definition of Suicide」(自殺の定義)という一冊の本を出版したぐらいである。
そこで自殺の定義として次のようにのべることができよう。死が、当人自身によってなされた積極的、消極的な行為から直接、間接に生じる結果であり、しかも、当人がその結果の生じうることを予知していた場合を、すべて自殺と名づける。
右は近代における自殺研究の先駆者デュルケムの定義づけであるが、これは自殺の定義の代表的なもので、その後の研究者たちから、またいろいろ修正されたり、細かくしたりされていった。
なお、自殺の定義を研究していた前記のアメリカのシュナイドマンの定義は次のように自殺者の必要の角度から自殺の性格を社会の「病」と定義している--
自殺とは「人間が自ら引き起こした、そして自ら意図し、生命を終わらせる行為」であり、「自殺とは意識的に自らがもたらした死の行為であり、ある種の問題にたいして最善の解決策であるとみなす必要に迫られた人にとっての多次元的な病として最もよく理解される」。前記諸氏の定義の言葉遣いこそまちまちであるが、まとめて通俗に言えば、すなわち、自殺とは、死にたいと思っている、心理的に成熟した人間が、死ぬことを予知しながら、自分の意志で自分の生命を終わらせる行動を取る、ということかと思う。「自らの意図」と「結果予測性」が大抵、定義中の二つの欠くべからざる要素である。
自殺のメカニズムと法則
ある人間がなぜ自殺しなければならないのか?普通は生理、病理、心理、社会などの面からその原因が探られる。
病理学的に言うと、自殺の思いつきは憂鬱感と大いに関係があるが、これは、医学、生物化学、生理学、病理学の分野で、学者たちの重要な研究課題である。普通精神医学と心理学において、憂鬱は反応性と臨床性とがあり、前者は落第や失恋や事業倒産などによるはっきりした憂鬱感をさす。このタイプは、その憂鬱の源を無くしさえすれば、時間が必要であるものの、回復する可能性は極めて大きい。それに対し、後者の憂鬱は、はっきりした原因もないのに、理解しがたい絶望感に陥ってしまって、実際一種の原因不明の精神病であると言う。大抵、精神医学の学者の研究は比較的にこの方面に傾いている。
心理学的に言えば、フロイトは攻撃性を、人間の持っている破壊本能が姿を現したものだとかんがえた。殺人にも自殺にもこの傾向が見られるのであるが、殺人の場合にはこれが外に向けられ、自殺の場合には、これが自分自身に向けられる……人間には生命をつくり、子孫を増やしていこうとする傾向と、その反対に生命を分解して無機物にしようとする傾向がある。前者が「生の本能 Eros」であり、後者は「死の本能 Thanators」である。
自殺と社会との関係を社会学的にデュルケムが次の法則をまとめている。
自殺は宗教社会の統合の強さに反比例して増減する。
自殺は家族社会の統合の強さに反比例して増減する。
自殺は政治社会の統合の強さに反比例して増減する。
デュルケムの説によれば、すなわち、社会関係の組織がよく統合され、高度の社会的集結のあるところでは、人々は自分の属する社会の一成員であることを強く自覚して、心理的孤独や寂しさから抜け出すことができ、これが自殺への志向を思い止まらせる強力な要因となるという。逆に社会的集結力の低い社会では、文化的価値は普遍性を失って個人はアトム化され、相対化され、孤立されて、成員の経済や健康や気候などの条件とは関係なく、人々を自殺に追い込む原動力となるわけである。言い換えれば、社会的自由度の多い社会では、むしろ自殺が多発するというのである。なお、「非社会的原因」と「社会的原因」の比重につき、デュルケムは
説明しなければならないこの現象(自殺)は、きわめて非社会的原因に起因するか、そうでなければ、まさに社会的原因に起因するかのどちらかでなければならない。そこでまず、非社会的原因のもたらす影響がどのようなものであるかをたずね、それが無に等しいか、もしくはごく限られた影響でしかないことをあきらかにする。
と、非社会的原因より、社会的原因に主に着眼している。心理文化学理論の創始者アメリカのファーバーの理論をまとめれば、集団における自殺頻度は、その集団が含む高度に傷つきやすい個人の数、及びその集団に特徴的な社会的欠乏の規模に正比例する。この法則を一般公式にすると次のようである。
S=F(V,D) / Sは自殺の確率(the probability of suicide)/Fは関数(function)/Vは人格の脆弱性(vulnerability in the personality)/Dはある種の特定な欠乏(degree of certain deprivations)
自殺の確率は、人格の脆さとある種の特定な欠乏との関係によって決定されるという。すなわち社会学者としてのデュルケムがこのうちのDだけを強調し、精神分析理論がVだけを考慮していたのに対して、ファーバーの公式では自殺の「社会的」要因と「個人的」要因がともに考慮されているわけである。自殺の仕組みの分析上、より全面的だと思われる。1960年以来、欧米では、自殺行動と生化学的指標の関係について焦点が当てられ始めた。日本の自殺研究学者高橋祥友氏のまとめによれば、
a「死後脳を対象にした初期の研究」、b「自殺企図者の脳脊髄液の研究」、c「死後脳の受容体結合の研究」、d「内分泌学研究」などがあるが、「現段階では生物学的な研究はあくまでも研究の域を出ておらず、いまだ日常臨床に活用するにはほど遠い。
と、生物学的研究はまだまだ結論に達しない状況であることを示している。
ところが、自殺について、在来のデュルケム理論と全く視角の違ったフランスのジャン・バッシュレール理論が現れ、自殺の是非問題に関わってきたので注目を集めている。バッシュレールは、「自殺者」という著作の中で、デュルケム理論に対抗する研究を発表した。彼の説によれば
自殺は究極的には個人の心理のレベルにおいて理解されねばならず、デュルケム理論のように、個人と社会との結合度から説明できるものではないという。また、すべての自殺行為を簡単に精神異常と結びつけてしまっては、自殺を主観的世界のなかで、とらえることは不可能になる。氏はドイツの社会学者マックス・ウェーバーの「社会行動論」を重要視して、自殺者の社会的境遇、立場または他人との関係を理解することを重んじている。自殺原因究明の場合、「この人は長い間連れ添ってきた最愛の妻に先に死なれたために意気消沈して自殺をした」という第三者からの純客観的釈明よりも、「この人は死別した最愛の妻とあの世で再会するために自殺をした」という自殺者の主観的立場を尊重する理解が必要と主張している。
このバッシュレールの解釈は、自殺者にたいする純客観的デュルケム理論の第三者的解釈より、もっと主観的に自殺者の意志にアプローチした理解だと言われている。意味深いことには、こうすると自殺という行為は自殺本人にとって、当たり前の主観的理由が作られ、そして、その悩みにたいする最も積極的な決断行為ということになる。
結論として、この理論は、自殺行為をも、人生における対応の一つの型として考え、自殺に対する個人の権利を肯定し、精神障害とは別な次元の積極的な人間の社会行動と見なしている。この理論は、倫理上の諸問題に関わり、かつ自殺の是非問題にも関わるので、フランスのインテリの中で大変な反響を呼んだが、精神科の医者からは大きな反感と敵意を買ったのは云々するまでもない。日本人の自殺事情を、バッシュレールの説明に当て嵌めたら、反社会的な三島や川端などの自殺も、合理的なもの、同情すべきものだと言えそうであるから、このすべての自殺を肯定する理論は明らかに偏った一面があると思われるのである。
筆者は、デュルケム理論よりアメリカのファーバー理論とバッシュレールの解釈に強く興味があるが、上記欧米人の理論は、東アジアにおける日本と中国の文人・作家の自殺を旨く説明できず、別にその法則を掘り出さなくてはならないと思う。
自殺の種類
デュルケム理論によれば、自殺の社会学的分類は次の通りである。
社会的原因と社会的タイプ
自己本位的自殺
集団本位的自殺
アノミー的自殺
宮島喬氏も、デュルケム理論に基づいて、自殺の分類を次のようにまとめた。
自己本位的自殺(suicide egoiste)。社会の統合や連帯が弱まり、個人が集団生活から切り離されて孤立する結果として生じる自殺。
I集団本位的自殺(suicide altruiste)。反対に社会が強い統合度と権威をもっていて、個人に死を強制したり、奨励したりすることによって生じる自殺。また、個人を超えたなんらかの集合的利益や信仰上の大義のために一身を犠牲にする行為もここにふくまれる。
Iアノミー的自殺(suicide anomique)。社会の規範が弛緩したり、崩壊したりして、個人の欲求への適切なコントロールがはたらかなくなる結果、無際限の欲求にかりたてられる個人における幻滅、むなしさによる自殺。
宿命的自殺(suicide fateliste)。その反対に欲求にたいする抑圧的規制が強すぎるため、閉塞感絶望感がつのって生じる自殺 。
社会的原因による自殺タイプとして、デュルケムは自己本位的自殺、すなわち、自己中心型(その特徴として、社会との結合度が比較的弱くて個人主義が強く、作家や独身者などに多発する)、集団中心型(その特徴として、集団との結合度が強く、自己より集団を重んじて軍人や警察など国民意識の強い群れに多発する)、アノミー型(社会的規範のないタイプ、その特徴として、社会の激変期や、いきなり到来した好況や不況などの動乱時期などに多発したり、芸能人や倒産者や失業者や定年後の老人や配偶者の喪失者などに多発したりする)と分類している。
また、デュルケムの分類した三種類を、それぞれ、自己的自殺、愛他的自殺と虚無的自殺という別の三つの名称に解釈する学者もいる。
自殺率の考察
比較する年度が多少異なるが、日本は欧米と比較すると、自殺死亡率はほぼ中間から上位に位置し、G7(先進七カ国)の中ではきわめて高い値を示している。理由は後述するが、自殺者のうち、文人・作家の占める比率は多い。デュルケムによれば、19世紀に行われた自殺性向を職業別に見る調査において芸術家、学者を含む創造的職業に従事する人々は首位の軍人に続く自殺率を示しているという。
フランスでは、1826年から80年まで自殺の首位を占めていたのはこの自由業であった。すなわち、この職業集団の人びと百万あたりの自殺は550であった。イタリアでは1868-76年の期間では、この同じ職業従事者百万あたりは483であり 、バイエルン(バヴァリアのこと)では芸術家、文学者、記者の416であった。
日本の文人・作家の場合、専門的な統計数字が見つかっていないが、第一学習社出版の2002年度の「新訂総合国語便覧」に載っている詩人、俳人、評論家を含む近現代文人・作家260名のうち、北村透谷、有島武郎、芥川龍之介、牧野信一、太宰治、原民喜、火野葦平、三島由紀夫、川端康成、田宮虎彦の10名の有名な作家が自殺した。それで計算すれば、文人・作家の自殺率は4%というわけである。また、「近代作家研究事典」)に載せられた144名の作家のうち、芥川龍之介、有島武郎、川端康成、北村透谷、久保栄、太宰治、火野葦平、牧野信一、三島由紀夫という9名の自殺者が出た。これで計算すると、作家の自殺率は、低く見積もっても6%になるわけである。
けれども、1899-1984年の日本男子の平均自殺率は、0.232%に過ぎなかった。すなわち、10万人の日本男子に、23.2人しか自殺者が出てこないのに、4%の自殺率で計算するにしても、10万人の文人作家には、4000人以上も自殺者が出てくることになる 。すなわち、文人・作家の自殺率は、少なくとも近代日本の男子の平均自殺率の172倍以上である。
中国の自殺率はどうであろうか。色々の原因で完全なデータが見つからないが、張朝陽氏の「人類自殺史」の中の完全でないデータを引用しよう。
わが国(中国)は、なお全国的自殺率のデータに欠けている。各省市のばらばらの報告に基づいて、次のように紹介する。自殺率:中国の自殺率は、17.7/10万人(1989)、毎年自殺による死亡人数は、およそ19-21万人である。
なお、張朝陽氏によれば、作家を例にして言えば、楚の屈原から五四運動前まで、作家の自殺は合わせても30人を越えず、平均して百年ごとに一人という割合である。それ以降、特にプロ文革期間中、作家の自殺は激しく増え、その人数はこれまでの数倍を超えてしまった のである。したがって、中国人の自殺者の中に作家の占める比例は、かなり低いことが分る。
文人・作家の自殺は上記の社会学的分析によれば、第一種類の自我中心型に属するもので、個人主義や自由主義の発達した欧米に多発する筈であって、日本人の自殺は大抵集団中心型に属するとされているというのに、なぜ近代に入ってから、「集団本位自殺」でない自殺の作家が続出するのであろうか?なぜ中国の文人・作家の自殺は少ないか?ただし、自殺の伝統がなかった中国の文人作家の自殺がプロ文革中なぜ夥しく出たのか。デュルケムの自殺の法則に相応しくないこれらの社会現象は、特殊な研究課題と言わざるを得ない。
全体的に言えば、日本と中国の文人・作家の自殺は、ある程度、デュルケムと宮島喬氏のまとめた法則に適うこともあるが、両氏とももっぱら文人作家の自殺を論じたものはなかったのである。事実上、日、中の文人・作家の自殺は、デュルケム理論に当てはまらないこともある。たとえば、北村透谷、藤村操の自殺も、川端康成、三島由紀夫の自殺も、密接に社会的要因に関わるが、実はそれは同じ類いのものではない。
中国のプロ文革中自殺した作家老舎や文学者傅雷や文人作家ケ拓ども、デュルケム理論では説明できない。なお、宮島喬氏の指摘したとおり、「「自殺論」の著者は、自殺の「社会的」要因をいろいろ挙げるに当たって貧困、経済的危機(失業、破産など)、病苦といった要因にはほとんど注意を払っていない」ので、川上眉山や牧野信一や中国の詩人朱湘などの自殺も、デュルケム理論から根拠が見出されないのである。
本論では、デュルケムと宮島喬氏の研究の補足というつもりで、両国のそれぞれ代表的な10人の有名な文人・作家(学生であった藤村操と陳天華の場合、自殺してから有名になったものであるのに対し、後の9人はもともと有名であったが、自殺してからなおいっそう有名になった。なお藤村操や陳天華は学生であったが、その自殺は影響が大きかったから、文人・作家の中に一応入れておくことにした)の自殺を簡単にまとめて、さらに議論を展開したいと思う。
近代における自殺した日本人の文人・作家概観
明治以来影響力のある自殺した文人・作家を次の表にまとめてみた。
(年月日/自殺者/自殺の手段/自殺の理由とされた主な事情)
明治時代
1872・2・27 小説家 一宮猪吉郎 自殺 不明
1894・5・16 評論家 北村透谷 縊死 思想の苦悶など※
1895・4・12 小説家 藤野古白 拳銃 うつ病※
1898・9・3 小説家 中西梅花 自殺 不遇に発狂
1903・5・22 一高生 藤村操 滝に身投げ 思想の苦悶、哲学の思考
1908・6・15 小説家 川上眉山 剃刀 創作危機に貧困
大正時代
1913・11・5 小説家 山本飼山 自殺 発狂
1921・10・28 作家 野村隈畔 入水自殺 愛人と心中
1922・11・10 評論家 竹内仁 婚約者の親を刺殺後縊死 不明
1923・6・9 小説家 有島武郎 縊死 苦悶で愛人と心中
昭和時代
1927・7・24 小説家 芥川龍之介 睡眠薬 社会への不安など
1930・3・10 詩人 金子みすず 睡眠薬 離縁で親権獲得上社会への不平など
1930・5・19 詩人 生田春月 船から身投げ 神経衰弱に妻、愛人との関係の悩みなど
1932・12・12 小説家 中村進治郎 ガス自殺(未遂) 心中(高輪芳子死去)
1936・3・24 小説家 牧野信一 縊死 創作危機苦悶に貧困など
1945・8・19 作家 蓮田善明 ピストルで連隊長を射殺してから自殺 軍国主義思想中毒の深さ
1945・12・31 小説家 生田葵山 入水 一家死絶など?
1948・6・13 小説家 太宰治 入水 幻滅、罪悪感など
1949・6 作家 長沢延子 自殺 戦後の虚無的な現実
1949・11・3 作家 田中英光 服毒割腕  幻滅に模倣 
1950・4・15 評論家 木村荘太 縊死  出身、父親の放蕩など?
1951・3・13 作家 原民喜 鉄道自殺 核戦争への恐怖と不満
1952・12・31 作家 久坂葉子  (川崎澄子) 鉄道自殺 家庭落ちぶれと失恋など
1953・12・22 劇作家 加藤道夫 縊死  戦争の残した翳など
1956・1・1 評論家 服部達  服薬凍死 創作危機、貧困に恋愛など※
1956・12 劇作家 寺島信男 服毒 不明
1958・3・15 小説家 久保栄 縊死 神経性疾患※社会への不満
1959・6・22 小説家 村雨退二郎 服毒 不明
1960・1・24 小説家 火野葦平 睡眠薬 或る「不安」など
1969・6・24 「二十歳の原点」 作者 高野悦子 鉄道自殺 「連合赤軍」、人生への悩み
1970・11・25 作家 三島由紀夫 切腹 「芸術的自殺」※
1972・4・16 作家 川端康成 ガス自殺 不眠症、うつ、三島自殺※
1973・8・18 小説家 小林美代子 睡眠薬 病苦
1975・3・29 評論家 村上一郎 動脈切り 神経症に久保、三島の自殺の影響
1975・7・17 「僕は十二歳」 作者 岡真史 ビルから身投げ 心の悩み
1976・3 中国文学者 村上知行 自殺 不明
1979・4・22 作家 江口榛一 縊死 病苦に生活難?
1981・4  劇作家 金具省三 縊死 うつ病
1981・6 放送作家 杉江慧子 白骨発見 不明
1982・7・17 作家 江上美好 縊死 不明
1986・2・17 作家 鈴木いづみ 縊死 不明
1988・4・9 作家 田宮虎彦 マンションから身投げ 年齢と病苦?
1988・6・16 作家 石沢英太郎 縊死 老齢問題?
平成時代  
1990・10・10 作家 佐藤泰志  縊死 何回も芥川賞落選など?
1993・12・13 作家 藤田五郎 ビニール袋窒息死 不明
1999・7・21 作家 江藤淳 割腕 病苦
2001・2・2 作家 加堂秀三 縊死 不明
2001・6・17 作家 青山正明 縊死 麻薬からうつ病
2002・5・29 作家 矢川澄子 縊死 離婚、親しい者に死なれて寂しくなるなど?
2004・4・11 作家 鷺沢萠 縊死 不明
日本の古代では、少数の男性が政治的失敗のため自殺するほか、女性の多くは愛情のために自殺する。中世では、愛情の心中よりも、武士の切腹が多かったが、そのうち「殉死」というのは、実際は真の自己意志による自殺ではなくて、強いられた死である。その自殺は、したくてもしたくなくても、本心からの死ではない。「興津弥五右衛門の遺書」の中で鴎外は、一片の恩義が人を死なすことを美しく描き、封建道徳を肯定していながら、また一方、「阿部一族」の中で弥一右衛門の末路を通じて、殉死を否定した。文学作品中の人物であるにもかかわらず、封建的因襲の野蛮な慣わしによって、生きようとしても死のうとしてもできないという哀れな境遇がありありと描かれている。それに対して、文人・作家の自殺は少なかった。
一方、近世では、戯作家たちは、大衆の娯楽を旨として、それに工夫を凝らしていたが、あくまで自己追及告白により身を苛む近代作家と根本的に違っていて、近世作家の自殺はまず、聞いたことがない。
日本が明治維新以来取った「富国強兵」政策は、対外侵略を狙って庶民たちの苦難を全然顧みなかった。そういう「近代化」に疑問符をつけ、その答案を求められずに悩んだ挙句、理想主義を旨とした北村透谷は、あきらめて自殺した。日露戦争の直前、哲学青年の藤村操は、立身出世主義に背を向け、新しい人生価値を求められずに人生は「不可解」という「巌頭之感」を残して煩悶自殺した。
明治維新以来、知識人は、自我に目覚めたからこそ、自殺を以って社会に反抗したのである。自己で自己の運命を握れること。この意義からいえば、明治時代に自殺した透谷、藤村と川上の自殺には、積極的な意義も全然ないとは言えないと思う。透谷も藤村も、社会の歪みによって自殺したと言えそうであるとともに、社会の進歩と政治的空気の緩やかさを示したとも言える。川上眉山の自殺には、そこに文壇という小社会の原因も加わるが、直接の原因は生活難であって、これは正に社会の歪みによるもの以外の何物でもない。
大正時代に起こった民主主義を求めるという、大正デモクラシーの動きが高まっていた。様々な運動や文化が花開き、新たな言論活動も始まった。大正政変で幕が開き、第一次護憲運動(1912-1913年)によって、桂内閣を退陣させ、普通選挙運動が高まる。米騒動(1918年)、第二次護憲運動(1924年)もおこった。世界大戦を繰り返したくない願いが、新しい時代を要請したのである。が、社会主義対策として普通選挙の実施で予想される無産政党の進出を阻むために制定する治安維持法も成立する。「国体の変革」と「私有財産制度の否認」を目的として結社をつくることが禁じられた。
大正時代に、民主主義、大正教養主義の機運の中で、自殺した作家は確かに少なかった。唯一の自殺した影響力のある作家は、心中の仕方を取った白樺派の有島武郎である。実際は単なる心中ではなくて、「第四階級」(有島の言葉・プロレタリア階級のこと)の発展を予感して、自らが所属する階級の前途への絶望の上、社会道徳から追い詰められて、知識人の潔癖から経済的方法で解決しようとせずに、愛情至上に逃げ場を見つけて、「生命の燃焼」という自殺をしたのである。表面的に取れば、確かに有島と秋子は心中だと取れそうであるが、深層の原因は本階級の前途への絶望が本当の原因だと思う。この意味から言えば、有島にしてみれば、生命を愛しないのでもなくて、むしろ並みの人よりも生命の価値を理解したかったのではないかと思うのである。
1926年から1989年にかけての長かった昭和時代であったが、昭和8年までにもはや大正デモクラシーの余韻は消え、軍国主義が日本中、大手を振って歩き始めた時代であった。1927年金融恐慌の最中、未来のプロレタリア階級の社会を予見しながら、その運動に踏み切る勇気がなかった芥川は、神経衰弱も加わって自殺した。なお、軍部の台頭が明らかになった1936年、「2・26事件」の9カ月後には牧野信一が、書けない悩みともあいまって悲観厭世で自殺した。
恐慌、エロ・グロ・ナンセンスの時代は、ファシズム戦争の敗北を経て、戦後の焼け跡と生活窮乏の時期を迎えた。退廃・絶望のなかで、自分が地主の息子であることと、プロレタリア運動に共感していたこととが大きな矛盾として脳裏に焼きつき、死だけが自分を救う唯一の手段と思った無頼派の太宰治は、何回も自殺し損なったのち、とうとう戦争未亡人の山崎富栄と一緒に入水自殺することに成功した。太宰の自殺はある意味では、典型的な「恥の文化」「罪の文化」の犠牲者といえよう。その翌年に、同じく、毒薬、酒色に耽った田中英光も、その師匠に追随して太宰の墓前で自殺した。また朝鮮戦争の最中、情勢が危うく核戦争になろうとする頃、自らの深刻な体験から核戦争に大反対の原民喜は、鉄道自殺を遂げた。
50年代から60年代、日本は民主化の道を歩み始め、1955-57年の「神武景気」と1960-61年の「岩戸景気」を経て、60年代中頃の「所得倍増」によって人々は生活難からようやく抜け出し、戦争への憎しみと平和の有難さを一旦舐めた日本の庶民は70年、戦争につながる「安保自動延長」反対闘争に立ち上がったが、そういう民主的ムードに不満を感じ、かつての「大日本帝国」の夢を見ようとした三島は同じ年、世論を驚かせる芝居を演じてから切腹自殺した。
1972年、日本はますます「伝統美」を失ったと感じた川端は、ノーベル文学賞をもらった4年目に「輪廻転生」という甘美な夢を抱いてガス自殺した。前記50名の自殺した文人・作家の統計はもちろん、かなり不完全なものである。にもかかわらず、資料入手の難しさによる原因不明の10名のほかは、本当の精神的発狂のケース、すなわち生理、病理的原因のみによる自殺は、中西梅花と山本飼山の二名だけである。
そして中西梅花の場合、恐らく不遇も自殺原因の一つであろう。なお、「うつ病」の原因のある者には、藤野古白、久保栄、村上一郎があるが、久保と村上の場合、どちらも単純なうつ病ではなく社会的原因もかかわっている。その他の自殺の決定的主な原因は、思想の苦悶、悲観厭世、社会への不安・不満、家庭の事情、恋愛失恋、病苦、そして老人問題など、すなわち全部が社会的要因に関わっている。これから見ても、自殺は、この行為に走る人間の生きてきた集団生活に関わる要因をぬきにしては、十分に説明できないのである。

中国でもはるか昔から自殺があった。何千年も前に、氏族の首領共工が「怒りて首を不周の山に触して天柱折りて地維絶つ」という記述があるが、これはおそらく中華民族の一番最初の自殺の記録であろう。ところが、中国には、「好死不如頼活着」(どんなに立派な死に方も、辛うじて生きていることに如かず)などの俗言があるように、よほどの場合でもない限り中国人は自殺することはないのである。
中国の文人・作家の場合、周知の事情で確実な資料は限定されているが、歴史上の特殊な時期以外、自殺者はかなり少ないようである。紀元前277年に楚の詩人屈原は、楚懐王、楚襄王から信用してもらえず、免官の上、追放にまでなった。のち楚は秦に敗れ、気骨のある屈原は汨羅江に身投げして自殺した。
儒家と道家の思想の影響によって、これまで確かな統計数字がなかったにもかかわらず、五四運動まで中華民族の自殺率は低いものであった。五四運動によって、「孔家店を撃ち潰せ」以降、儒家思想が弱まって自殺者は増えた。作家を例にして言えば、楚の屈原から五四運動前まで、作家の自殺は合わせても30人を越えず、平均して百年ごとに一人という割合である。これ以降、特にプロ文革期間中、作家の自殺は夥しく増え、その人数はこれまでの数倍を超えてしまった。
五四運動以前の自殺した文人・作家を挙げれば、屈原以降宋元の転換期に、文学者の謝枋得は、何回も元の朝廷からの出仕の勧めを断り、20数日間絶食して死んだ。明から清への転換期、崇禎の進士陳子龍は、民衆を集めて抗清の戦いを続けて敗北し捕まったが、南京への護送の途中、39歳の若さで川に身投げして自殺した。19歳で進士になった詩人倪元■も、李自成が北京を攻め落とした時縊死した。
上記の3人の自殺は、いずれも「周の粟を食わず」という「民族的気骨」のためであった。ここから見ても中国人に与えた儒家思想の影響はいかに大きいかがわかるであろう。近代以降西側からの影響で自殺の原因も少々変化して、いろいろの社会的要因が入るようになった。「文壇の彗星」と呼ばれた王以仁は、才華に溢れて人生を探ることを自分の文学の使命として、長詩「霊魂の哀歌」の中で、
「バラが飛び散った芳しい土地を/私は捜し求める/ああ--私の辿ってきたのは/罪悪で敷かれた道路ばかりだ」
と詠み、その中から、現実改造への道を求める屈原式の抱負が窺われる。彼が24歳で自殺したのは、通説として失恋だと言われているが、実際は憂国の情がないでもない。34歳で入水自殺した朱湘は、性質が率直ゆえに、安徽大学での講義の内容について大学当局と衝突し、怒りの余り辞職してしまった。原稿料の収入だけでは生計を立てられず、旅館の家賃を払えなくて旅館内に拘束されることさえあった。途方に暮れた彼は、舟で上海から南京への途中、李白の入水自殺した場所である采石磯で入水自殺した。
文学者王国維の自殺の理由には色々ある。カントやショーペンハウエルやニーチェなどの哲学思想の影響によって自殺したという説もある。また羅振玉から借金を責められて困り果てた説もあるし、清の王朝に殉じたという説もある。陳舜臣氏も、「3年前にも一度自殺未遂事件を起こしたことを考えると、自殺の動機はやはり、没落し滅亡していく古い世界に殉じたと考えるべきであろう」と書いているが、中国の学者はいう。
彼(王国維)は清が滅びてから溥儀の師匠をしていたが、皇帝復位活動に参加することは念頭になかった。しかし、あくまでも彼は溥儀の臣民で、自分よりも溥儀の安危を重要視しなければならなかった。彼は「君が侮辱されれば臣が死ぬ」という旧道徳旧礼教の桎梏の下でとうとう「義は重ねた侮辱無し」という理由で、自分の生命を絶った。われわれは王国維のために忌む必要がない。この近代史上の優れた学者は、実際、旧道徳旧礼教の殉道者である。
1949年から1976年にかけての中国は、特殊な「政治文化」の時代で、とくに1966年のプロ文革の時期、著名な作家孔厥、老舎、傅雷、ケ拓、海默、楊朔、羅広斌、周鵑、詩人聞捷など……自殺した文人・作家が驚くほど出た。自殺の伝統のなかった中国で、その時期これほど多くの自殺者を出したのは大抵政治運動によるもので、近代まで自殺者が少なかったのも、現代の政治運動で夥しく自殺者を出したのも、いずれも、儒教思想の影響によると思う。前者は「身体髪膚之を父母に受く。敢へて毀傷せざるは孝の始めなり」、という影響であるが、後者は、儒教の「士は殺されてもいいが、侮辱されるべからず」という「気骨」のためであろう。
プロ文革以降の文人・作家の自殺の原因については、80年代中後期の社会の転換期に繋がっている。商品経済の衝撃によって、文学の方舟は狂熱的な頂上と、読者や社会の供えた神壇から墜落して立ち往生の境地に陥った。情勢の激変は文人の位置づけのやり直しを要請し、時宜にかなって筆の方向を変えさせるが、適応できない文人は自殺に走りやすい。ルポ作家の徐遅の自殺は正によい例である。
なぜ日本の文人・作家の自殺は多発であるか/作家という職業の危険性
創造は自分自身の血で描かれる記述である。文学者の極致とは、切腹の前に武士が辞世の句や歌を詠むのと同様の姿勢で、一生涯書き続けるような作家が書遺すものは、いわばすべてが辞世の歌だ。
芸術家の世界は常に異常であり、病的である。創造的職業はうっかりすれば健康に有害と言える。なぜかというと、作家は生命を創造するという比類なく魔術的な力を備えており、作曲家、画家などよりも、より多く創造者だからである。造物主の役割を簒奪しようとする志向は、他のいかなるジャンルの創造者よりも強い。自分の血で書かれたものであるから、そんなにやすやすと消されない。
自殺した日本の詩人・生田春月の次の詩
或る肉体は、インキによって充たされている。
傷つけても、傷つけても、常にインキを流す。
20年、インキに浸った魂の貧困!或る魂は、自らインキにすぎぬことを誇る。
自分の存在を隠蔽せんがために、
象徴の烏賊は、好んでインキを射出する
は、作家とその作品との血肉の如き関係をいきいきと示している。詩人、ドイツ文学翻訳家としての生田は烏賊のように「インキ」で感傷的な詩多数と3巻からなる自伝体の長編小説「相寄る魂」を残して、船から湖の中に身投げした。
春月さんはペンで戦わなかった戦いを死によって戦い、ペンで書き上げなかった生きた詩を死によって書き上げたのである。
創造は創造者に最高度の自由を感じさせる活動である。最高度の自由とは、恐怖の外に身を置くものであって、霊感というものに捉われている時、恐れるものは全然ないと言っても過言ではない。そんな時彼らは天の寵児のように、自らの命を絶った同業者を見下げていた。が、時が経つにつれて、その自分自身も我が命を絶つ決意をする時が訪れる。三島由紀夫はそのよい例である。彼は30歳の時、「私は自殺する人間が嫌いである。自殺する文学者というものをどうも尊敬できない」と放言していながら、15年も経たないうちに彼自身も「自殺する文学者」となった。
また、川端康成も、「末期の眼」のなかで、「いかに現世を厭離するとも、自殺はさとりの姿ではない。いかに徳行高くとも、自殺者は大聖の域に遠い」という大言壮語を発した何年か後に、やはりガス自殺を遂げた。あらゆる芸術家の中で、作家は最も傷つきやすい。文人・作家は社会の脈動に敏感で、同じ苦悩でも並みの人よりもっと強く感じられ、自分の人生を小説と混同しやすい。
21歳の若さで惜しくも自殺した文学少女久坂葉子がよい例である。川崎重工の創始者川崎正蔵の孫娘に生まれた「箱入り娘」としての彼女は14歳の頃、戦災で家屋を焼かれてしまった。泣き面に蜂というのか、次いで父親が「公職追放」され、勉学中の彼女は喫茶店などでアルバイトをして生計をたてざるをえなかった。天上から地に落ちた彼女の心は、その時から既に傷痍だらけになっていた。困苦の生活にくじけなかった彼女は、島尾敏雄や富士正晴などの指導で、18歳で「ドミノのお告げ」という小説を発表し芥川賞候補者になって文名が上がった。
昨年11月頃の「朝日新聞」は、久坂葉子についての文章を載せたが、文章の副題は、「戦後の恋に散った久坂葉子」であった。確かに久坂は伝統観念に挑戦した勇敢な娘であって、彼女はある詩の中で隠すことなく京都のある男性への愛を告白し、そしてその愛が結実できないことへの苦悶を述べた。新旧時代の交叉した時代に、才華に溢れた彼女は、生活の重荷を担がざるを得なかったし、古い伝統を打ち破って美しい愛情を追求しようとしたが、思うままにならなかった。不如意は彼女に宿命論を信じさせ、死以外に打開策がないと信じ込ませた。
古い傷痕に新しい傷痕が加えられ、彼女は小説と現実を混同してしまって、とうとう自殺したわけである。何事も集団で一致して行われる日本社会では、もっぱら個人的な職業としての文人・作家は、当然ながら自殺しやすい立場にある。文人・作家は一人ぼっちの作業で孤独になりやすいが、孤独は自殺に密接につながったものである。浅原六朗氏は、牧野信一の自殺の原因を分析した時、作者のもつ孤独地獄は、作者にしか解らないものである。作者はお互いにその哀しみをもっている。それをお互いに持ち合わせながら、慰め合うことのできない世界に作者の孤独地獄はあると書き、
また、彼のお母さんが牧野の弟の子供をつれて海に行こうとした時、「さびしくっていけない。海なんかに行ってくれるな、ここにいてくれ」とたのんだそうである。しかし子供がせがむので、お母さんは子供をつれて海に行ってしまった。その留守に彼は死んでしまったのである。隙をねらって自殺したのではなく、隙のなかに吸い込まれてしまったのであると牧野が孤独を怖がって、自殺に走ったことをありのままに伝えている。太宰治の場合も、自己独自の閉ざされた世界の中に住み、外界との生ける接触感の欠如にいつも悩まされていた。本質的に他者と了解不能であるという恐怖を持っていた。他者や外界には本能的に興味を抱かない。彼の関心は内閉的な自己の世界だけにあった。
個々から見れば、孤独は自殺の温床と言えそうではないか。
社会的現実に姑息的、妥協的態度を取らずにとことんまで突き詰めることは自殺に走りやすい。人間は大抵、いわゆる阿Qの「精神勝利法」があるなら、どんな事態が起こっても自分で悩みを解消させることができて、自殺せずにすむわけである。現代に比べれば、近代の文人・作家の中には、少なからず社会的現実に姑息的、妥協的態度を取らずにとことんまで突き詰めるような人がいた。彼らは、yes と no のどちらかをあくまで守り通す性質がある。例えば芥川の場合、未来はプロレタリア階級のもので自分の出る道はないと決め付けて、「ぼんやりとした不安」を感じた。
それに新しい時代に、彼の友人であった久米正雄や菊池寛などは、通俗小説のなかから活路を見つけ、大きな成功を獲得したのに、芥川だけは頑として、いわゆる「純文学」の陣地に立てこもり続け、少しも妥協しようとしなかった。一作ごとに練りに練った挙げ句、彼の文学創作は枯れてしまうことが避けられないことになった。政治的にも文学的にも明るさを見出せないという事態に、彼は自然に自殺に逃げ道を求めたくなる。太宰治の場合は、なかなか自分の信条を変えようとせず、自分の堕落を大目に見られず、「失格」した人間として、死ぬよりほか道がないと決め付けていた。
僕たちはそれ以後、彼ほどに共感させられる文学を未だ知ることなく、彼ほどに純粋な真摯な作家を未だ発見することができないのです。
なぜ文革以前の中国の文人・作家の自殺は少なかったかと聞く読者がいるかもしれない。前述したように、中国の文人・作家は、生死問題に対して、まったく別な文化系統に属し、観念の上で日本人と全然違っている。中国の古代社会でも社会動乱、政治暗黒、専制迫害などしばしばあるが、中国の文人・作家は自殺より別な出道を見つけるようにした。魏晋時代の知識人がその代表的なものである。政治的迫害を受けた場合の普遍的な対策は、馬鹿のように狂気のふりをしたり、毎日酔っ払って支配者の注意を紛らす。
一身不自保、何况恋妻子(自身でさえ自ら守れないのに、ましてや妻子を恋しく思わんや)。
迫害が今にも来ることがわかっていた竹林七賢の一人、阮籍は、自殺せずに酔払いの振りで誤魔化した。
不与世事、遂酣■■常(世事にかかわらず、遂に大酒を常とす)。
いま一人の竹林七賢、劉伶も有名な大酒である。そのほかに当局と合作せずに老子・荘子の道を嗜み、自殺するどころか、かえって延年益寿を求める。稽康はその例である。「采■■菊下、悠然■南山」と詠んだ陶渊明の方法は、役人の身でありながら帰省隠居し、仏禅を信じて空寂の境に入る。仏教の虚無的思想は彼らの精神を支えて乱世の中で解脱を求め、自分の手で自分の生命を絶つ考えなど毛頭なかったのである。
日本人の文人・作家の自殺の特徴
日本の古代では、少数の男性が政治的失敗のため自殺するほか、女性の多くは愛情のために自殺する。中世では、情死よりも武士の自殺が多かった。それに対して、文人・作家の自殺は少ない。中世から近世までは、武人の切腹自殺も情死も多発し、益々日本人の自殺の伝統を固めた。明治維新以降、思想は幕府の支配から解放され、文明の進歩とともに見せはじめた社会の歪みに抵抗するように、文人・作家の自殺が多発する。それらは社会に訴えるものが多かったので、デュルケムの言う「アノミー自殺」の類に属している。軍国主義時代には、集団本位的自殺が多発するが、文人・作家では少ない。戦後になって主に社会との矛盾による文人・作家の自殺が種々起こるが、いずれもケースバイケースで一概に論ずることは出来ないのである。
次に三つの面から見てみよう。
日本人の特殊な倫理観、死生観と価値観
世界的にその名をよく知られる5名の日本の作家のうち、谷崎潤一郎だけが無事に一生を全うした。あとの芥川之介、太宰治、三島由紀夫、川端康成の4名とも自殺した。前章で述べたように、自国の人々が誰も彼も集団を組んでいるのに、作家だけが孤独な創作エネルギーで時代に対抗するよりほかはない。それでもし書く力が尽きたり、霊感が枯れたり、憂鬱やパニックに陥ったり、思想的行き詰まりが出たりしたら、自民族の倫理観に打開策を求めるのである。日本の作家の場合、各国の作家に共通するものに加えて、日本民族なりの「郷土色」を帯びない筈はない。
日本の倫理思想は神道が基礎となっており、日本人の道徳価値観の中に宗教心理と宗教情緒として深く存在する。中国の倫理思想は、血縁関係、宗法制度を基礎としているから、これによって形成された等級身分制、権力本位観念は今もなお中国社会に影響を与えている。
日本人の倫理思想は、ほかの国々と全く違った歴史文化の背景の下で生まれ、発展してきた。紀元5世紀まで日本には土着民俗信仰としての神道思想があった。「古事記」「万葉集」などに見られるように、すべてを神の威力に帰して、現世を肯定、生命を謳歌する思想であった。
日本の倫理思想を変化させたのは、中国の儒教と仏教の導入である。紀元7世紀の初めに、聖徳太子は政治変革を目指して留学生を中国に派遣し、直接、儒教と仏教を導入した。その時から日本の倫理思想は、神道から儒仏思想を吸収する方へと変容したが、当時、自殺を認めない文化としての儒教は、主に仏経などへの信仰と崇拝に止まり、社会生活の道徳の中には、まだ沁みこんでいなかった。一方、8世紀になってから仏教は国教とされ、以来、江戸時代まで仏教倫理はずっと社会生活の中で主導的地位を占めるようになった。
仏教文化は、死を容認する文化であって、中国の浄土思想が伝わって以来、早く死んで極楽浄土に往生しようとする者が増える。仏教では、「生あるもの、形あるもの、必ず滅す」という理念に発端し、肝心なのは、浮世の儚さを悟って仏のお慈悲を乞うこと。仏は芸芸たる衆生のことを可哀相に思って、死を以て浮世からの解脱を諭す。したがって浄土宗系仏教では、死のことを死と言わずに「往生」と言う。浄土思想は、死を容認する文化的背景を作り出した。
浄土往生の願いは、社会組織の下で生きざるを得なくなった人間が、名聞利養といった非本来的な価値や欲望に衝き動かされて生きる状況を、如来の智慧によって虚妄の現実と気付かされたところに成立した願望であった。命の営みの根源から、人間意識の表層に念仏という幽かな回路を通して届けられた智慧が、浄土願往生の心であった。
単一の宗教に偏執するのを好まない日本人は、神、儒、仏が並立し、競い合い、習合し、道教、道家思想もそれらと並立しているにもかかわらず、神道、仏教思想の影響で、日本人は現世を肯定する思想よりも死を容認する思想が強いようである。
16世紀中頃、キリスト教も鹿児島に上陸し、日本に伝わってきた。キリスト教で最も大切なのは、死んで魂が天国に行くとされることである。この世はその準備のためで、用意のない魂は地獄へ落ちる。堅く自殺を禁じ、この世での生存はいくら辛くても、それに耐えられる人が天国に行けるという。神の作った生命を、人間が勝手に絶つと言うことは、創造主にたいする反逆だとされる。しかし幕府の鎮圧によってキリスト教は日本の支配的宗教にはならず、死を容認する思想はあまり影響を受けなかった。
江戸時代は、日本儒学の発展の最も輝かしい時代であって、理論的に朱子学派、古学派、陽明学派などが形成され、封建主義的道徳思想がよりいっそう実った。鎌倉時代から発展してきた「武士道」が、神道と仏教の影響のほか、儒学の影響をも受けて、武士の道徳は更に理論化、系統化された。
仏教は武士道に運命を穏やかに受け入れ、運命に静かに従う心を与えた。神道は、武士道の中に主君への忠誠と愛国心を徹底的に吹き込んだ。
また、それは江戸時代に儒教思想の朱子学などに裏付けられて、封建支配体制の観念的支柱となった。忠誠、犠牲、信義、廉恥、礼儀、潔白、質素、倹約、尚武、名誉、情愛などを重んずる。
もし、名誉と名声が得られるのであれば、サムライにとって生命は安いものだと思われた。そのため生命より大事だと思われる事態が起これば、彼らはいつでも静かに、その場で一命を棄てることもいとわなかったのである。
すなわち、日本人の価値観は、集団のため、自身の名誉のためなら、いつでも自殺する心構えでいるというものである。武士道のこの死生観は、日本人の死生観に多大な影響を与えた。後になって武士道は軍国主義者に悪用されて、侵略された国々の百姓を無断で殺す道具に成り下がったが、日本の武士たちの自殺は、いわば標準的なデュルケムのいう「集団本位的自殺」と言えよう。
国家仏教としての仏教思想の影響が重いせいか、日本人は、死を終点と看做さずに、起点と見ている。芥川は、「けれども、自然の美しいのは、僕の末期の眼に映るからである」と書いている。川端康成と三島由紀夫の「輪廻転生」信仰は周知の通りであるし、透谷や太宰なども死をいろいろに美化し、理想化したり、憧れさえしたりしていた。こういう思想は、ある程度、自殺を助長する働きを果したと言えよう。透谷は、「死や、汝何時来る?/永く待たすなよ、待つ人を」との詩句を書いているし、太宰は「やはり3日に一度は死ぬことを考え」との言葉を残して自己の死を予期していた。大正10年11月20日に、教え子梅子と千葉県の海岸で心中した評論家野村隈畔の自殺直前の日記には、
10月2日、愈愈革命来る。自由実現の絶対境に入るのである。4日、永遠の世界を憧れている者は、俗人には分るものか……永劫無限の世界に旅立つ、是れ哲人の希望であり、歓喜である。明20日こそ断じて決行しなければならぬ、日誌は今日で終を告げる。
永劫への世界の旅行者 隈畔
とあるが、自殺のことを、何か憧れの未知の海外旅行のようにさえ思わせるではないか。
一方、昔から、日本列島のなみなみならぬ生活環境、頻発する台風、地震、火山噴火などの自然災害による死亡の突発性と不可抗力は、日本人に仏教の「人生無常」の観念を強めた。この観念の支配の下で、日本人は切に生命を把握し、生を大切にする一方、死亡を尊敬したり、崇拝さえしたりする。いわゆる「惜生崇死」である。日本人の理念には、「菊と刀」に書かれているように、二律背反な面がある。「仕事の鬼」と言われるほど懸命に働く一方、また思う存分娯楽を楽しむ。極端に自我を抑圧する一方、また極端にストレスを紛らすことをする。日本人の民族的心象と民族精神は、このように矛盾だらけである。
日本のこうした特異な思想史と価値観によって、自殺を制限する宗教観はないと言えそうである。自殺は、ある特定の場合の問題解決の手段として、かなり多くの日本人の心の中に根を下ろしてきた。これはさらに、「死はすべてを浄化する」という贖罪思想にまで繋がってきた。「引責自殺」も多く出る。因みに、日本人には、昔からの古い自殺の伝統がある。日本語から外国語に入ったものとして、どの言語の辞書にも、有名な二つの語があるという。それは、「切腹」と「神風」である。この二つの単語とも自殺にかかわるのである。確かに、日本ならではの文化である。
日本における自殺は、愛するものにとっては悲劇であることに変わりはないが、文化的には恥辱なことであるとか、宗教的な嫌悪感を伴わないことも事実である。それどころか、自らの手でこの世に別れを告げることには、むしろ崇高さに近い感情が存するように思われるのである。西洋人は、精神が錯乱したり、権利を剥奪されたり、絶望したり、もしくは利己的でさえあったりした者が最後に行き着く場として、自殺をとらえる傾向がある。中国人は、迫害されて途方にくれる時以外に普通は、自殺を考えない。それに対し、上に述べた原因で、日本は、文化的には全く特異な性向を持っており、特定の場合の自殺という考え方は、日本文化にもっと深く根差したものである。
日本人の自殺の古い伝統
次の例を見れば分るように、そもそも古代日本社会の自殺というと、圧倒的に多いのは、恋の葛藤から死を選んだ女性たちであり、その精神構造から言えば、感情的な自殺と言える。男の自殺なら大抵、政治的な失敗による自殺のケースが多い。
(自殺者/原因/出所)
桜児(さくらこ) 二男が一女を争うことから、女が林に入って縊死 「万葉集」
蔓児(かずらこ) 3人の男から愛され、解決されず、池に身投げ 「万葉集」
菟原処女(うないおとめ) 二人の男に愛されて、男たちを仲良くさせるために、自殺 「万葉集」
赤猪子(あかいこ) 雄略天皇から80年も待たされた結果、自殺 「古事記」
サホ姫 兄サホ彦のために自殺 「日本書紀」
大友皇子(おおとものおうじ) 壬申の乱の際、吉野軍の宮廷乱入で逃げられず、縊死 「日本書紀」
蘇我蝦夷(そがのえみし) 大化の改新の際、火中に身を投じて自殺 「日本書紀」
右の例には神話伝説のものが混ざっているが、文献に記載される実在の人物中、切腹の一番早いのは、中世の平維盛の自殺(「平家物語」)、13世紀から「古事談」に出ている藤原氏の末裔藤原保輔の「立腹自殺」、その後1170年(?)、源為朝31歳の割腹がある。鎌倉時代から戦国時代にかけて、武士道精神と禅宗精神が流行り、武士の切腹が多発した。たとえば、1189年の「判官」源義経の自殺などがある。
元禄時代以降、切腹と心中の歴史は事実よりも文芸に移る。文学作品「平家物語」と史書「我妻鏡」には、平維盛、平敦盛、熊谷直実などの死が描かれている。維盛の場合、集団から離脱した時、既に出家、入水を決めている。集団からの離脱はつまり一種の自殺行為であった。もちろん、入水や焼身などで、浄土での再生を願うという宗教的性格も帯びている。敦盛の場合は、武士の名誉のために、直実から逃げなさいと言われても逃げようとせずに、とうとう直実から討たれた。逃げられる機会を与えられても逃げずに名誉の死を遂げたことも、実際一種の自殺である。
なお直実の場合、我が子が頭に浮かんで、やむを得ず敦盛を殺してから出家遁世したのも、実際やはり一種の自殺と言えよう。したがって、村井康彦氏は
中世の自殺ないしは自殺的行為を特質づけるものとしては、このような宗教的な意味をもつものとともに、武士社会の発展のなかで見られたそれを見落とすことはできない。なぜなら、武士社会に生まれた主従意識昂揚、それを基調とする武士の実践倫理ともいうべき「もののふの道」「武者の習」は、つねに死と隣合わせであったから。「武士道とは死ぬことと見つけたり」とは、近世武士道の書「葉隠」の言である。
と説明しており、こうした中世の死-自殺の(的行為)精神構造を検討するとき、自分自身を客観的にある種の状況に追い込んだうえではじめて行動を決定するという、こんにちでも日本人にみとめられる精神構造と行動様式とが、実は中世に形づくられたものであることが思われてくるのである。と結論している。
封建時代の日本において、自殺の作法が儀式化され、たとえば、江戸時代では、有名な赤穂47浪士の復讐後の全員切腹や美濃平野の治水の失敗による薩摩藩士35名の引責切腹などがそれである。
情死・心中も自殺の一種である。宮島喬氏は、「わが国で「心中」とよばれる複数自殺のうち、情死は、恋愛感情をともなうものをさす」と書いており、周作人は、「情死のことは「昔からあるものである」、南北朝時代には、記載が見られるが、「心中」という名称は徳川時代の産物であった」と書いている。なぜ近世になってから、心中・情死などは多くなったのか。宮島喬氏は
封建身分制度の確立した江戸時代には、武士階級の道徳が支配的な位置に立ち、家の観念、貞操の観念がつよめられ、未婚男女の交際は禁じられ、身分の差のある者どうしの結婚はゆるされなくなる。しかし、農民や町人の階級には、自然の性愛を肯定する古来の伝統がある程度存続しており、とくに経済的に台頭する町人は、その金力にものをいわせて遊女たちと性愛を享楽することが可能になる。こうした性愛の肯定や結婚の否定という二つの価値の対立という背景のもとで、主として町人のあいだに情死の流行がみられるにいたった。
と大原健士郎氏の説明を引用している。
なお、近世では、文学作品の中に出てくる自殺の形は、「切腹」と「心中」が多数ある。たとえば、黙阿弥「加賀鳶」の五郎次の入水、「三人吉三」の土佐衛門伝吉の入水、「弁天小僧」の中の弁天の「たちばら」、西鶴の「好色五人女」の中の樽屋おせんの自殺、「忠臣蔵」の中の判官の切腹など。心中情死も切腹と並んで近世社会の特徴的な自殺である。たとえば、近松の「曽根崎心中」の手代徳兵衛と遊女お初との心中、「心中天網島」の中の紙屋治兵衛と遊女小春との心中などがある。近世の自殺は、要するに、罪状刑罰からの逃避や厭世や生活難や失恋などのものではなくて、封建社会的関係連帯の中における自己以上の誰かのために自殺するタイプが多い。だから、ある学者が「日本近世劇の自殺の大半は第二の愛他的自殺だ」と言っている。
近代の明治時代には、文芸評論家の北村透谷や小説家の川上眉山などが自殺したが、大正時代になってから、作家有島武郎の波多野秋子との心中事件があった。多くの人々から「男女心中」と取られていたが、それは単なる心中ではないと思う。太平洋戦争時の「神風」特攻隊と「回天」人間魚雷は自殺ではあるが、本当の意味で言えば、脅迫的な自殺と言えよう。昭和時代以降、世界中の注目を集めた「武士道精神への回帰に象徴される」とされる作家三島由紀夫の1970年の自決などは、全世界の世論を賑わわせたし、その後の川端康成のガス自殺も、いろいろの謎を世の中に残した。有島と三島という2件の自殺は、人々に近世の心中と切腹の尾を引いたかのように思わせた。
したがって、この特殊な死生観の問題は、日本人文人・作家の自殺者が多い重要な原因の一つだと思う。
日本作家の独特な文学理念と審美観
日本文学は、その歴史的原因や地理的原因や気候的原因や風土的原因などで、上代から、ほかの民族と違った文学理念を形成してきた。
上古の日本民族は現実の事物に素朴な親近感を持ち、自然に「まこと」の文学理念を形成した。皇室や民間に伝えられてきた神話・伝説・説話や歌謡は、天皇中心の国家体制の確立や国威の誇示を意図して編まれた「古事記」「日本書紀」「風土記」に取り入れられた。……古代の人々はこの大和の風土の影響を受けながら、明朗素朴でたくましい気風をはぐくんできた。その気風は、そのまま上代文学にも反映され、感動を率直に表現した素朴で力強い「まこと」の文学を生んだ。
ところが、世界を悲しむという仏教の人生観は、思想意識体系のバックに欠けていた日本の美意識の中に素早く浸透するようになった。楽天的に現世に直面する、「まこと」の美学観は、悲しみに溢れた「もののあはれ」に取って代わられた。
中古文学は優美・繊細な情趣を基調とする。その中心理念は、しみじみとした「もののあはれ」である。それは、生活に調和的優美さを求めてやまぬ平安貴族が生み出したものであり、はなやかさの裏に、社会の矛盾を鋭く感じ取って、苦悩の日々を送った女性たちが生み出した理念でもある。「もののあはれ」は紫式部の「源氏物語」で完成した。
浄土宗は貴族や庶民のなかに普及した。それは、この汚れた現世を厭い(厭離穢土)、一心に念仏を唱えることによって、死後は極楽浄土にゆくことを求めよ(欣求浄土)と説き、悩める人々に光明をもたらし、文学にも深く浸透した。
「幽玄」は、「もののあはれ」の流れをひくもので……南北朝時代から室町時代にいたると、正徹が余情妖艶美の幽玄を唱えたのに対し、心敬が氷のように冷え冷えした平淡な美の情趣を求め、近世の「さび」につながっていくのである。
中世になって動乱に次ぐ動乱は、人心に不安から逃れようとして、心の救いを宗教に求めさせた。この時代の文学には、優雅な貴族文学から現実的な庶民文学へ移行する過渡的な姿が見られる。宮廷貴族は気力を失い、武士は戦乱に追われて文学に志す者が少なかったので、文学の担い手として、戦乱をよそに文筆に親しみ、作品を残したのは、主として僧侶・隠遁者であった。
したがって、鴨長明の「方丈記」、吉田兼好の「徒然草」、源平盛衰を描いた「平家物語」などは、仏教的無常観の色の濃い文学として、後世の人々の人生観や死生観などに多大な影響を残してきた。近世になってから、文学理念としては、町人文学の「粋」「通」「意気」などが生じたが、蕉風俳諧は、閑寂・枯淡の境地を求める「さび」を求めていた。
芭蕉の「さび」は、内面的で、しかも人間的なものの中に発見された「心の色」といえよう。
桜は、綺麗でありながら命を惜しまずに、燦爛たる咲き盛りを過ぎると未練なく萎えて、大地一面に落英で飾りまくる。日本人はあたかもこの桜のように、咲かないならば、それまでであるが、咲くと言えば燦爛として咲かなければ気がすまないのである。
特に切腹自殺を美化する風潮として、江戸時代の浄瑠璃作家近松門左衛門が20年間に15点、自殺を描く本を書いたと言う。腹を割って首を切って血が2メートルあまり迸り、その苦痛は烈しいものなのに、日本人は、これは「壮絶」というくらいの美だと思い、痛みを我慢する時間が長ければ長いほど、美しいという。日本人の中には、切腹してからの流血を眺めることを美談として、それは、たとえようのないほど美妙で壮烈なものだという人もあったそうだ。惨めであればあるほど壮烈になるのである。三島の切腹が求めたのは、まさにこういう「美」の効果と言えよう。
近代に入ってから、外国からいろいろの文学思潮が導入され、日本に色々な文学流派を形成させてきたが、「もののあはれ」「さび」などという哀愁の色と日本人独特の審美観は、相変わらず一部の作家の頭脳に残り、それはそのままその作品の中に表れ、それは言うまでもなく、自殺を誘発するもってこいの条件となる。72歳でガス自殺した作家川端康成とその作品が、典型的な例である。彼は「哀愁」の中で次のことを書いている。
敗戦後の私は日本古来の悲しみの中に帰ってゆくばかりである。私は戦後の世相なるもの、風俗なるものを信じない。現実なるものもあるいは信じない。
川端の美学意識の中で、伝統的「真・善・美」は「哀愁・虚無・幻覚」の美と変容してしまった。
中国人の文人・作家の自殺の特徴
中国の文人・作家の自殺は、古代から清末にいたるまでは、わずかな人数であった。民国から1949年に至るまで、やはり少数であった。1949年から1976年までは、政治運動で知識人を抑圧する迫害によって自殺した文人・作家は多数になった。1977年から198五年まで社会は安定していたので、文人・作家の自殺は少数であつたが、1986年から現在にいたるまで、転換期による矛盾とショックによって多発した。この時期の文人・作家の自殺は、デュルケムの第三種類の「アノミー自殺」に属している。
次に三つの視角から見てみよう。
中国人の死生観、倫理観、価値観
儒家では、「未知生、焉知死」(いまだ生を知らず、いずくんぞ死を知らん)、「未能事人、焉能事鬼」(いまだ人に事うること能わず、いずくんぞ能く鬼に事えん)(「論語」)と主張している。が、一方、「殺身成仁(身を殺して仁と成す)」「舎生取義」(生を捨てて義を取る)」という言葉が示すように、「仁」・「義」のためなら、自分を殺してもいいということを主張している。例えば、幸徳秋水は、伊藤博文を暗殺した安重根の行動を、「舎生取義 殺身成仁 安君一挙 天地皆震 秋水題」(生をすてて義をとり身をころして仁をなす安君の一挙 天地みなふるう)と褒めていた。幸徳も安も中国人ではないが、もちろん中国の儒教思想の影響を受けていたであろう。
なお、孔子は論語「里仁編」において言う、「朝聞道、夕死可矣(朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり)」と。
まとめれば、儒教では生を惜しむ一方、仁を目指したり、道を習得したりする場合、決して死を恐れないという態度である。つまり、必要ある場合の自殺を認めないのでもない。例えば、老舎や傅雷やケ拓の場合、その自殺はいずれも儒教の影響によるものである。
道家では、自殺を容認しないばかりか、「自然」「無為」「修身」を主張し、煉丹によって長生きさえ求める。「禍莫大於不知足、咎莫大於欲得」(足りるのを知らないことくらい大きい禍はない、得しようとする欲くらい大きな咎めはない)(老子「道徳経」)と、楽天知命を提唱していて、煉丹によって長生きを求める。
仏教では、輪廻転生、来世を重んじるが、仏教が伝わってきた時、儒家思想の倫理観が既にしっかりしたものとなっており、儒家では、社会生活の理性精神を重んじるので、それによって、「人々はめったに空想して精神的な「天国」を追及し、人倫道の生きた経験生活を離脱して超越、先験、無限と本体を追及することをしない」。
中国の文人・作家の文学理念と審美観
儒家思想の強い影響で、中国文人の文学理念は歴史を貫くものがあった。それは「詩言志」や「文以載道」という観念である。「尚書・舜典」には「詩言志、歌永言。聲依永、律和聲」(詩は志を言い、歌は言を詠む。声は詠みにより、律はその声に和す)とある。「文心雕龍」には、「大舜云:詩言志、歌永言」(大舜曰く、詩は志を言い、歌は言を詠む、)が書いてある。「志」とは何か。
「志」とは、内心に隠される思想感情といえそうであるが、先秦以来、儒家は「詩言志」を主張し、詩を政治道徳の道具としていた。それでも、実際、「思想」「志」「抱負」を重んじるが、思想感情は排除していなかった。前後漢になってから、「廃黜百家、独尊儒術」と言って、儒家思想は学術文化の凡ての分野を制御していた。「五経」は一切の文学作品を計る最高基準となってきた。漢の儒者の目から見れば、文学は経学の従順な奴隷にすぎない。彼らは、詩歌の政治教化の作用を強調し、詩歌には、道を載せることを要求していた。したがって、「志」は「情」を遠ざかり、「道」「義」に偏ることを要求された。
「文以載道」も中国古典文学の基本的理念の一つである。「道」とは何か。ここでは、「道」とは「儒家思想」をもっぱら指している。宋の「五子の一人」周敦頤は「不載物之車、不載道之文、雖美其飾、亦何為乎」(「文辞第 二十八」「周子全書」)(物を載せない車、道を載せない文、その飾りは美しいが、亦何の使い道があろうか)と言って、「載道」の重要性を強調した。実際、孔子、孟子の思想の中には、既に、「文以載道」のような思想が含まれていた。ただ周敦頤はそれをまとめて、最初に「文以載道」という言葉で、こういう理念を表した人物である。儒学、宋学(程朱理学)がいずれも官学となるにつれて、「文以載道」は中国古典文学の「最高指針」となってきた。
「五四運動」の「新文化運動」の中では、ある程度、こういう文芸理念は批判されたので、「五四」以来の文学には、政治を離れて人間の情けと情欲を描いたものが現れた。そして、王以仁、朱湘などの自殺した文人・作家も現れたのである。専制的国民党時代の「莫談国事」(国事を語ってはいけない)や延安時代以来の「文芸は必ず政治に奉仕しなければならない」などで、中国では、五四以来の魯迅らの作品以外に、自律性のある文学というものは、ほとんどなかったのである。体制反対とか、哀愁色彩とかいうものはかなり少なかった。こういった文学理念が、作家の自殺を誘うことは、まずないと思う。
次は、中国人の審美観を見てみよう。中国人の美意識は社会生活の理性精神に富んでいる。儒教では、美の社会性、功利性を重んじている。
・「■憤忘食、■以忘■、不知老之将至」(「論語」、憤りを発して食を忘れ、老いのまさに至らんとするを知らざるのみ)。
・「有朋自■方来、不亦■乎」(同前、朋あり遠方より来たる亦た楽しからずや)。
・「天行■、君子自■不息」(「周易」、天行健なり、君子自らつとめて、息まず)。
・「■九死其■未悔」(屈原、「離騒」、九死と云えども猶悔いぬ)。
儒教の美学観は美の社会性、功利性が強く、社会生活、倫理道徳につながる。道教では、人格精神と天地自然との統一を求めている。
・「搏扶搖而上者九万里……背■青天而莫之夭閼者」(庄子、「逍遥遊」、扶搖に搏ちて上ること九萬里……背に青天を負いて、之を夭閼する者なし)。
上記から見て、道教は人間が物によって役されることに反対し、「自然」「無為」を主張し、人格心身の絶対な自由を要求するからと言って、人生が嫌になり、来世を求めることはしない。「苦海■■ 回■是岸」(苦界は果無し、悔い改めば救わる)と主張している仏教が中国に伝わってくるまでに、儒家、道家及び先秦の諸子百家はもはや中国固有の道徳体系を完成し、これらの思想はいずれも仏教の思想と相殺する働きがあるのである。したがって中国人には、仏教の影響による悲観厭世の美意識はたいへん少ないのである。
上記から見て、中国人の美意識は社会生活の理性精神を重要視し、人々はめったに空想して精神的な天国を追求しない。虚無的精神的追求は少ないのである。
中国人には昔から自殺の伝統がない
中国の民間俗言の中の、次のようなものは子供でも老人でもよく口にしている。
・「好死不如■活着」(いくら優れた死でも辛うじて生きることに如かず)。
・「忍辱偸生」(侮辱を忍んでどうにか生きていく)。
・「■■尚且■生、何况人乎」(虫けらでさえ生を貪るのを知っているのに、ましてや人間はなおさらのことだ)。
これらは中国人の死生観をよくあらわしている。こういった死生観は、中国の特別な社会歴史の要素によって形成されたものであるが、この中には、中国人の倫理観、価値観が潜んでいる。
奴隷社会では、「普天之下、莫非王土、率土之、莫非王臣」と言われ、貴族に反対する古代ギリシァ、ローマのような強大な平民がなく、氏族から転じてきた奴隷主の貴族のみが政権を握っていた。国家が作られてからも、元の血縁関係から離脱しなかった。封建社会では、小家庭を単位とする農業と手工業の結合で、安定して自己調節できたので、資本主義の芽生えを抑えていた。そして支配階級は文化専制主義を推し進め、秦の始皇帝の「焚書坑儒」、漢の武帝の「廃黜百家、独尊儒術」など、人々の思想を制圧してきた。科挙を通じて人材を選抜する一方、他方では残酷に異端を弾圧して、「学」と「仕」に結びつけるようにした。
したがって倫理思想は政治と一体化し、強固な血縁と宗法色彩を帯び、強烈な「中庸」の息吹を持っている。それで人倫、精神、人道を重んじて、倫理を実現し、功業を達成させることを生命よりも高いものとされていた。
儒家と道家の思想の影響によって、「五四運動」までは中華民族の自殺率は低かった。「五四運動」の「孔家店を打ち砕け」による儒家思想の弱まりによって、いくらか自殺者が増えた。
近代日本における著名な作家の自殺
自殺した日本の文人・作家には、いうまでもなく前述のほかにそれぞれ自分なりの理由があるのである。資料収集と紙幅に限りがあるので、日本近代以来最も影響のある10人の自殺だけを例にして、その自殺の原因を分析してみよう。いくつかの項目により比較する一覧表を次の通り作ってみた。
(氏名/生年月日/自殺年月日/年齢/生計難/自殺手段/女性問題/自殺の理由と判断される事柄)
北村透谷 1868・11・16 1894・5・16 25 有 縊死 有 理想主義で、社会の抵抗に敗北した
藤村 操 1886・7 1903・5・22 16 無 滝に身投げ 有? 人生への思考で行き詰った悩み
川上眉山 1869・3・5 1908・6・15 39 有 剃刀 無 文壇での行き詰まりと生計困難
有島武郎 1878・3・4 1923・6・9 45 無 心中縊死 有 社会への絶望で恋に逃げ道を見出した心中
芥川龍之介 1892・3・1 1927・7・24 35 無 睡眠薬 有 未来社会への不安
牧野信一 1896・11・3 1936・3・24 40 有 縊死 無 人生への絶望、生計困難、孤独
太宰 治 1929・6・19 1948・6・19 39 無 投水心中 有 誠実を極めた「恥の文化」「罪の文化」の典型的犠牲
原 民喜 1905・11・15 1951・3・13 46 無 投水心中 有 無残な人間同士の殺戮への抗争
三島由紀夫 1925・1・14 1970・11・25 45 無 切腹 無 大日本帝国の古い時代に殉じた反社会的な切腹
川端康成 1899・6・14 1972・4・16 72 無 ガス 無 美の発掘の中で涅槃に憧れる
19世紀後半になって、鎖国の眠りから覚まされた日本は、激変する世界の情勢に追いつくために、絶対主義の政権の確立、立憲政治の採用、経済の資本主義化、植民地の獲得など、短期間に一挙に実現しようとして、まっしぐらに突進した。19世紀末から20世紀はじめにかけての日本の近代史は、西洋社会の進歩を圧縮した形で一時に再現しようとした時代であった。
西洋の目覚しい進歩は、長い伝統を基礎として初めて可能であったが、ところがそういう基盤を持たず、鎖国期の孤立した社会から突如として近代社会への転換を企てた日本の場合には、数え切れない複雑な問題が現れた。最も社会に敏感な階層としての知識人は、社会の抱えた問題に気づきやすい。しかも、それへの反感から、批判を加えたり、抵抗したりして、大人しくする「順民」は少ない。したがって、文人・作家の自殺は、ある程度から言えば、社会の風見のようになっている。文人の自殺の様子から、大体、その当時の社会の事情を窺うことができるわけである。
筆者があげた日本の最も有名な自殺文人の置かれた時代は、北村透谷の生まれた1868年から、川端康成の自殺した1972年にわたって、前後して104年、一世紀あまりである。日本の時代区分から言えば、ちょうど明治維新の年から、沖縄返還実現と日中共同声明国交正常化の年にかけてである。明治時代全般、大正時代全般と昭和時代の大半をカバーしている。前述の分析を通じて、我々は、文人の自殺は殆ど、社会の脈動に深くかかわっていると分る。
北村透谷の場合、近代自我と時代・社会との対峙相剋を認識し、魂の触覚を近代の外部に伸ばそうとし、社会の猛烈な抵抗に遭遇し、社会に自我の確立を求められず、悩みの挙句、遂に若くして生命を絶ったし、自殺のドミノ効果を引き起こした16歳の一高学生藤村操も、天皇絶対主義・国家主義思想の蔓延した中で、近代自我に目覚め、「先に国家、後は個人」に哲学的懐疑、苦悶、絶望した結果、自殺したのである。この二人の自殺は、もちろんデュルケムの言う「社会的統合力」にかかわっていた。
一方では、明治時代は江戸時代ほど統制が強くなかった点において、この二人の自殺は近代社会の文明や進歩を標識してはいるが、もう一方では、彼らの自殺した時の社会は、決して統合力が弱い方でもないのである。むしろ明治中期の天皇絶対主義や国家主義思想がのさばっていた時代と言えよう。明治維新はアジアのどの国よりも早く、立ち遅れた封建的生産関係生産方式の束縛を突き破って新しい生産方式と社会文化を成功裏に作った一方、維新以降の「富国強兵」の政策は、列強の弱肉強食の国際規範に因襲し、侵略略奪の歪んだ道にずれたので、先覚者が、必ず、それを疑ったり、それに反抗したりするのは当たり前である。
この二人の自殺は全く自己本位とは言えず、後の人々に対する先駆や目覚ましの作用があり、少なくともある程度、積極的自殺といえそうである。それで、ある意味では、デュルケムの理論では説明しにくくなる。
川上眉山の場合、侵略に拍車をかけて、人民の生活難に見向きもしない明治政府のもとで生計に困った上、自然主義思潮の気勢にのまれた悩みから自殺したのである。文学的に行き詰まりという点では、自己本位の種類というデュルケム理論に当て嵌められるが、もう一方では、まさにデュルケムの見逃した経済的原因によったものであるので、デュルケム理論はやはり当て嵌まらないのである。
大正時代に自殺した者は、この10人の中、有島武郎ただ一人であるが、彼の自殺は男女心中の形ではあるが、逍遥の言う「消極的自殺」の類に属している筈であって、宮島喬氏のまとめた「宿命的自殺」の中に分類できそうに見えるが、前述したように、その深層的原因として「第四階級」の発展を予感し、自階級の前途への絶望を感じた上、社会道徳から追い詰められて、知識人の潔癖から、経済的方法で解決しようとせずに、愛情至上に逃げ場を見つけて、「生命の燃焼」という自殺をしたのである。したがって、有島の自殺もデュルケム理論では、完全に説明されにくい。
昭和時代になってから、芥川龍之介の自殺は、精神的要因以外に主として彼自身が言ったように、未来社会への「ぼんやりとした不安」がその要因である。牧野信一の場合も、その本人の神経衰弱も原因の一つであるものの、「2・26事件」発生の9カ月後、国内の右翼勢力の台頭が牧野の社会への絶望をもたらさないとは、断言できるであろうか?ましてや、牧野の場合、眉山と同じように、生計困難というデュルケムの見逃した原因もあると思う。有島、芥川、牧野の自殺は、確かに社会的原因に関わってはいるが、社会的統合力が弱くなったという明確な証明が見られないではないか。
太宰治の自殺は1948年に起こったのであるが、その当時の社会はまだまだ「特需」とか「神武景気」とか「岩戸景気」とかいう経済飛躍の気配は毛頭見せていなかった。焼け跡や闇市などの敗戦のシンボルともいうべきものがなお残っていた。とくに、侵略戦争を起こして「御国」のことを無限神聖なものとし、人間の個人の自由と利益は、殆ど全部奪い取られてしまう戦争中の思想への統制さえなければ、敗戦後、その反動としての堕落鼓吹に全力を尽くした無頼派が生ずることは、まずない筈である。
したがって太宰治などの退廃と堕落もあるはずがない。したがって、あくまで追求すれば、無頼派の退廃、堕落と社会への絶望の根源は、やはり、この「大東亜戦争」にあるのではないかと思う。もちろん、戦後の滅茶苦茶な社会で、ほかの人はなぜ自殺しなかったのかという点からすると、太宰や田中英光自身には、確かに彼ら自身の原因も認められる。太宰と田中の自殺はある程度、デュルケムのいう「アノミー型自殺」に近いと思う。
社会的要因を最も著しく表現したケースは、原民喜の自殺である。研究者たちはいろいろ民喜の精神的要因を過大視して、その社会的原因を見逃した。虚無的要素も否定できないが、米、ソなどが核戦争を起こそうとして社会に核の脅威をもたらしたため、彼は戦争に対しての反感、抵抗と恐怖から発する人類の前途への絶望などが主な原因となって自殺したのである。当時の情勢が、核戦争になりそうな危機一髪のものでなければ、原民喜は、ひょっとしたらもう少し生き延びただろうと思う。
ところで、70年代初めの三島由紀夫と川端康成の自殺にも社会的要因があるが、事情はだいぶ違うものだと思う。なぜかと言うと、太宰治の自殺までは、社会はまだ、いろいろ不満足な点が多かったが、70年代以降、平和憲法のもとで、一歩ずつ民主化へと歩むとともに、人民の生活も、世界の経済大国になったくらい豊かになった。社会的歪みが既になくなったとはもちろん言えないが、大きな流れとして、日本は基本的に、ある程度、自国の世界での位置と果たすべき使命が分るようになって、平和を求めるために、世界の人民との心の触れ合いを求めようとしている。
それなのに、このような社会に不満を懐き、自殺を敢行したケースは、何と言っても反社会的な行為と言わざるを得ない。三島の場合は、過ぎ去った「大日本帝国」の伝統を追求し、パフォーマンスをやってのけた自殺であったし、川端の場合、社会の発展、進歩が自分と全然関係ないという現実社会への不満から、美への発掘をする中で仏教的涅槃に憧れる虚無的生死観を懐き、「功成りて名遂げた」時、涅槃的な自殺を遂げた。この二人とも輪廻転生の夢を見ていたのかもしれない。
さて、社会、国家乃至世界という視角で歴史的に全面的に文人の自殺を見れば、その自殺者には、それぞれ違った生理的原因とか、心理的原因とかがあるにもかかわらず、その共通となる主な原因は、社会的要素となっている。これまでの多くの研究者、特に、精神医学者たちは、自殺者の生理状態や心理状態に拘り過ぎて、自殺者を国内乃至国内の社会環境の中に置くことをあまりせずに、自殺文人の個人的生理的原因を過大視したりして、「神経衰弱」や「狂気」や「非社会的」とかいう結論を下す傾向がある。文人であるだけに、神経は繊細で、自分の置かれたマクロ・ミクロの社会環境に、並の人の倍ぐらいに敏感であるから、ごく個別のケース以外に、たいていの文人の自殺は、社会的原因と切り離すことが出来ず、社会学的に説明できそうである。
日本の近代までは、心中や武士の切腹が多かったが、近代に入ってから、文人作家の自殺が著しく増える。バッシュレール理論によれば、時代の発展と文明の進歩の標識と言える。現代では自殺する作家がますます少なくなるのは、近代以来の文人・作家たちほど、真剣に社会への使命感に燃え、真剣に人生を思索することをしていないことを物語っていて、これもかなり思索に値するのではないかと思う。
近代中国における最著名な文人・作家の自殺
日本の文人・作家に対して、中国では、「五四運動」までは、前述したように、儒家思想や科挙などの影響で、文人はしばしば役人と重なっていて、個別の不遇な人の自殺(屈原など)以外に、南宋文人謝枋得、崇禎進士陳子龍、明の文人兼役人倪元■などは、いずれも自己の王朝に殉じて自殺したもので、儒家思想の影響が中国人にとってどれほど強かったかを立証した。辛亥革命で清王朝が倒れたが、革命の成果は軍閥にのっとられ、反封建主義、反帝国主義の「五四運動」が起こるまでに、革命先駆者としての陳天華は、海に身投げして封建主義反対の先兵となった。
陳天華の自殺は藤村操の自殺よりも、積極的意義がある。それと反対に、倒れた清の廃帝の教師を担当したことから、孔孟の古い倫理道徳に殉じた王国維の自殺は、取るに足らなかった。「五四運動」があってから、胡適や陳独秀や魯迅などが、封建文学を倒そうとした結果、現代文学としての「狂人日記」などが現れたばかりでなく、儒教思想の束縛から解放されたからこそ、王以仁や朱湘などの自殺があったのである。
したがって、王以仁や朱湘などの自殺は、その軍閥混戦の社会の歪みを訴えるとともに、封建王朝の束縛から解放された社会の進歩をも示した。この点では、透谷や眉山などの自殺と大差がない。とりわけ、貧困に追い詰められて自殺した朱湘の場合、生計に困って人の厄介になる引越しの前日に自殺した眉山と、なんと似通っていることであろう。ところで、陳布雷の場合、わりと特殊なケースであるが、中国の知識人としての彼は、自分が将来性のない人に仕えて、誤った道に嵌ったと知っていながら、改心しようとせずに、あくまでもその政権に殉じたことも、儒教思想の束縛以外の何物でもない。
1949年からプロ文革にかけては、中国の文人・作家の災難に満ちた歳月であった。連続した政治運動は、「三反」「五反」「鎮圧反革命」運動以外は、殆どその矛先は全部知識人に向けられたものであった。「反右」の時に自殺した文人作家はまだ夥しいとは言えず、プロ文革中、非業の死に迫られた文人作家は数えきれないのである。老舎、傅雷やケ拓はそのうちの一番有名な人々にすぎない。
しかし、この3人とも儒教思想の影響から、自分の人格を守るために死を以って迫害に訴えたのである。ここから見て儒教思想は、人間に「気骨」というものを与えることができ、糟粕でない精華部分は馬鹿にされない。大陸と社会制度の違った台湾作家三毛の自殺は、何と言っても、やはり、仏教の虚無的思想の影響によるものだと言えよう。三毛の自殺はデュルケムの婚姻事情の法則に当て嵌まるものである。あの世に行ってしまった夫の傍に行きたいというのは、社会とそれほど関係がなかったかのようであるが、実際、三毛に不安感を生じさせたものは、社会以外の何物でもなかった。
ルポ老作家徐遅の自殺は、1996年に起こったことであるが、これは、転換期の純文学を頑張った文人・作家の心理的アンバランスの屈折による。それとともに、現代社会の社会病--老人問題を仄めかしている。この点において、田宮虎彦や江藤淳などの自殺と似通ったところがあるのではないかと思う。
まとめて見れば、日本、中国の文人・作家の自殺には、個別なケース以外に大抵、社会事情がかかわっている。日本の文人・作家の自殺は、同じアジアの中国の作家・文人の自殺とは社会事情の違いで、完全にデュルケム理論で説明しきれない。透谷や操などの自殺には積極的な一面があるが、デュルケムたちは、それを見逃している。一方、三島、川端の自殺は、透谷、操の自殺と同じく反社会的性格を持っているが、透谷、操の自殺は、進歩的思想を代表し、社会の前進を推し進める働きがあるのに対し、三島、川端の自殺は、逆コースを代表していて、社会の後退を願っていたから、消極的な作用と影響が大きい。
自殺の是非
理屈によれば、人間は世の中に生まれて、自分の生命と肉体を把握する権利がある筈である。しかし、自殺は、倫理上、いったい悪いかどうか、これはかなり複雑な問題である。昔から自殺に対しては、哲学者や宗教家によってさまざまな意見が述べられ、そして、時代や国や民族や信仰などによって道徳的な評価には、幾多の変化も見られた。
カントは故意に己れの生命を断つことは、まづ其が一般に犯罪であると証明され得る場合にのみ自殺(homicidium dolosum)と名づけられる。この犯罪は或いは吾吾自らの人格に対して行われ、或いは又かく己の生命を断つことによりて他の人格に対して行われる(例えば妊娠している人が自ら死ぬ場合の如く)
と書いて自殺を基本的に否定しているが、また、
祖国を救うために自ら万死の中に突き進むことは自殺であるか?--或いは人類一般の福祉のために身を犠牲に供する決意的殉教は亦之と等しく英雄的行動と看做さるべきか
という疑問を出している。坪内逍遥は、「自殺は二大別あり、殆ど救ふべからざるものと救ひ得べきものと、是れなり」と分類し、「救ひ得べきもの」を「消極的自殺」と「積極的自殺」に分けている。逍遥の結論として、
自殺は絶対に非なるにあらず、利他救世の誠意の存在は多少之れをして是ならしむるなり。但し単に自己の為のみにする消極的自殺は概ね皆非認すべし。その形体苦のためにすると精神苦のためにすると其の有形を対象とすると、無形を対象とすると、動物欲のためにすると悔恨、慚愧、憤怨、嫉妬のためにすると名誉欲、権力欲、究理欲等のためにするとを問はざるなり。そのうち業秒不治のために自殺するは人情の上より之れを憫み、罪悪悔恨のためにするは倫理上より見ても幾分か是なりとなす。若し夫れ謂ふ所超倫理の批判に至りては、悉く人類と絶ち悉く人道を離れて事を是非するの標準成り立たざる限りは、殆ど全く意義無きにひとし
というものであった。
筆者は逍遥の観点に基本的に同感している。普通の中国人の目から見れば、自殺は生存意志の貧弱な臆病行為だと言われる。プロ文革中、「畏罪自■」(罪を畏れて自殺する)「自絶于人民」(自ら人民に絶する)という流行語があったのをはっきり覚えている。実際、プロ文革中の自殺者はほとんどが冤罪を蒙って自殺したのである。
何年か前、ピストルで自殺した元北京市副市長王宝森氏こそ、文字通りの「畏罪自■」である。「江東の父老」に面する顔がないと烏江で自決した項羽は、絶対に劉邦を畏れたというわけではない。項羽は自殺を以って、自分の名誉と節操を保てたのである。プロ文革中、中国現代の優秀な作家老舎の場合、その投水自殺も絶対に「罪」を畏れるのではなくて、自分の人格を紅衛兵の侮辱から守るためであった。したがって、自殺者にたいして、一概に弱虫だと論ずることは公平を失うことであると思う。
否定論として、臆病や無責任や人生の敗北などであるとか、精神が錯乱したり、権利を剥奪されたり、絶望したり、利己的に過ぎる人間にはもってこいの末路(西洋人)である、とかがある。それに対し、肯定論としては、何かよいものを追求したり、悪いことと抗争したり、それから逃避したり、人々に訴えたり、呼びかけたり、目覚ませたりするように、危険や侮辱から個人の人格と尊厳を守る行為で、勇気のある、男らしくて尊重すべき行為とか、正義、正統とされる事業や人間に殉じる英雄的な行為とか、恥ずかしくて自分の汚名を雪ぐような背徳謝罪や引責謝罪の行為とかがある。
全体から見れば、カトリック教の影響の強い国では、自殺は少ないが、仏・禅の影響の強い国では、自殺はわりと多い。国と民族によって違う自殺に対しての議論と評価はケースバイケースである。各種の文化の是非を評論することは難しい。ある要因に迫られて死よりも生の方がもっと苦しく思われる場合とか、または、人間らしく堂々として健康に生活していけないうえ、生存条件を変える力がない場合とか、果てしない苦しみからの解放策として、良心をごまかして辛うじて生きていくより、むしろ清らかで潔く死んでしまうほうがいいという自殺した死者を厳しく非難することは出来ない。
それにしても、自殺はあくまでも生命の誤った道であって、人間の生命は尊いもので、一回しかない。そして、人類の歴史と全ての財産は人間の生命活動の基礎の上に作られてきた。避けることが出来ればやはり自殺しないほうが妥当である。無視できないことには、現代社会では、生を軽んずる傾きは往々にして現代意識の中の人文思想に繋がっている。
人々はますます人間の自己価値、個性、尊厳、独立人格、内省を重んじれば重んじるほど、現在の秩序の抑圧と人間関係の隔たりによる孤独感と苦悶が生じやすい。そこで自殺に救いを求めるのである。これは、社会のよりよい改善と現代科学意識の発展に期待を寄せるとともに、有益な古典を勉強して、現代でますます希薄化していく人間自身の心理素質と精神の修養を高めるほうも肝心ではないかと思う。
結び
本文の結びとして、次のことを申し上げたい。同じ東アジアにおいても、儒家思想の影響で中国の文人は特殊な政治運動の時期(それでも気骨を守るための自殺は多い)以外に自殺者が少ないのに対し、神道、仏教の影響で日本の文人は自殺者が多い。日本、中国の文人・作家の自殺は本物の精神病によるものが極めて希で、殆どが社会的要因に関わっている。この点について、フランスの社会学者デュルケムが誰よりも先に社会的要因に着眼した「自殺論」の意義の重要性は否定できない。
全体的に言えば、日、中の文人・作家の自殺は社会的要因という点で、大抵のケースはデュルケム理論に当てはまるものである。
然るに、デュルケム理論はあくまでも、19世紀のヨーロッパの国々に向けたものであって、百年来のアジアの日本と中国に全てがぴったりと当て嵌まるわけではないのも理解できそうなことである。宮島喬氏の指摘したとおり、「自殺論」の著者は、自殺の「社会的」要因をいろいろ挙げるに当たって貧困、経済的危機、病苦といった要因を見逃しているので、日本の川上眉山や牧野信一や中国の朱湘などの自殺は、デュルケム理論で完全に説明できなくなるのである。
なおデュルケムは、自殺する人間の動機を受動的なものとして固定的に捉えているように思われ、自殺者の主観的能動性(社会発展に積極的な自殺及び社会発展に不利な消極的な自殺に分けられると思う)を見逃している。透谷や操や陳天華や老舎などの自殺には積極的一面がある一方、三島や川端や蓮田や王国維など、社会の後退を願ったものであるから、その消極的な作用と影響は無視できない。
プロ文革中、社会の統合力がいままでになく強いのに、夥しい数の文人・作家の自殺者を出したのは、政治運動の迫害によるものである。デュルケム理論では、婚姻状態の悪化は自殺を増やす重要な要素とされているが、プロ文革中、夫婦で一緒に自殺した史学家翦伯賛、文学者傅雷、史学家呉■、詩人聞捷など、いずれも恩愛夫婦であったのに、みな夫婦連れで一緒に自殺した。
婚姻の良好状態は自殺者のへ圧力を緩めるのに足らないことを物語っている。だから、デュルケム理論は常態社会にしか当てはまらないが、非常態社会(中国のプロ文革中など)には当てはまらない。それから、明治という専制支配時代の文人・作家の自殺は、低年齢という特徴があるのに対し、60年代後半に入ってからの文人・作家の自殺は、田宮虎彦や江藤淳や徐遅などのように、高年齢化の傾きがある。老人問題という深刻な社会問題を仄めかしている。
 
中国人大学生が見た日本のテレビドラマ

 

最近、日本では「韓流」と呼ばれる韓国のエンターテインメントは非常に人気がある。新作映画の公開はもちろん、「冬のソナタ」を初めとするテレビドラマも次々とNHKBS2で流れている。「冬のソナタ」で一気にスーパースターとなったぺ・ヨンジュンは「ヨン様」と呼ばれ、多くの中高年女性の心を掴んだ。ヨン様は電通が行ったインターネット調査「消費者が選んだ2004年上半期の話題商品ベストテン」の第4位となり、彼は大塚製薬「オロナミンC」、ロッテ「フラボノガム」と「マカダミアチョコレート」、SONY「ハンディカム」、ダイハツ「ミラ」、KDDIau「グローバルパスポート」などのテレビコマーシャルに出演するなど、日本のテレビや雑誌に引っ張り凧となっている。
一方、韓流には負けまいという勢いで、映画や流行歌をはじめとする香港のポップカルチャーも日本に進出している。昨年末、梁朝偉(トニー・レオン)、木村拓哉、章子怡(チャン・ツィイー)、王菲(ウォン・フェイ)といったアジアのスーパースターの豪華共演を実現できた王家衛(ウォン・カーウァイ)監督の香港映画「2046」が日本で初公開された。中国のエンターテインメントと言うと、張芸謀(チャン・イーモウ)監督の「英雄」に続き、章子怡、金城武、劉徳華(アンディ・ラウ)をキャストとするアクション映画「ラヴァーズ」も大いに日本で受け入れられた。
そして、中国の古典楽器に西洋的ポピュラーミュージックを融合させた「女子十二樂坊」は2003年から連続2年間日本で演奏会を開き、日本中に旋風を巻き起こした。これらの現象を考えてみると、どうもアジア漢字文化圏のメディアとポップカルチャーの交流は、非常に顕著になっており、アジア全体の文化向上のためにそれぞれの国と地域はお互いに協力しているように見える。かつて、ベネディクト・アンダーソンが「想像の共同体」1983)の中で国民国家という共同体は活字メディアと国語の普及により作られたものだと指摘した。現在、映画、テレビや衛星放送、CDやDVD、インターネットといった新しい視聴メディアは、あたかも地域共通の「汎東アジア文化」とでも呼ばれるものを生み出しているようである。
このような流れの中で、日本のポップカルチャーはアジア地域においてどんな影響力を持っているのか、地域の文化向上にどんな役割を果たしてきたのか、そしてなぜ広く消費されたかについて、今日は、主に1990年代半ばから2002年まで中国でヒットした日本のトレンディ・テレビドラマ(通称「日劇」)を例にして、日本の文化商品を消費する一つの主力である中国人大学生の声を交えながら、分析していきたいと思う。
ここで用いるデータは、主に中国における日本大衆文化の受容に関心を持つきっかけを与えてくださった香港大学の中野嘉子博士と共に、2001年から2年にかけて北京、南京、上海、蘇州で行ったインタビュー調査の結果である。今日のお話も二人の共著の論文「プチブルの暮らし方 中国の大学生が見た日本のドラマ」をベースにしている。
ここで取り上げる例は、経済発展の著しい江南地域の都市部に住む大学生のことであるから、彼らの日劇に関する考え方や日本観は中国の一部の大学生の声しか反映できていないことを敢えて強調したい。私のお話を聞いていただき、日本大衆文化の海外での受容の現状や、1990年代以降の中国の急激な社会変動を少しでも理解してくだされば幸いに思う。
1990年代初期、中国の計画経済システムが全面的に市場経済に移行するにしたがって、大都市では外資系のデパートやスーパーマーケットが次々とオープンし、その豊富な商品、多彩な陳列法、そして明るいショッピング環境が中国人の目を丸くさせた。ケーブルテレビ、衛星テレビネットワークの実現やマスメディア産業の発展は、中国人が海外の映像を見るチャンスを増大させた。スイッチを入れれば、外国の人々がどんな日常生活をしているのか、画面上でいつでも見られるようになった。
こうして外国人との暮らしの違いが目に見えるようになった1995年3月に、上海東方テレビ放送局は中国語版の日本テレビドラマ「東京ラブストーリー」を放送し、大ヒットさせた。これをきっかけに、日本のテレビドラマは中国の都市部若者の間で人気を集めた。ここで言う日本のテレビドラマとは、1980年代後半のバブル絶頂期に制作し始め、そして1990年代に入ってからのバブル崩壊を背景に、フジテレビ、TBSなどの民放テレビ局が制作した東京の若者の都市生活を描くトレンディ・ドラマやポスト・トレンディ・ドラマのことを指す。
20代の人気アイドルが主役であるから、中国では「日本青春偶像劇」と呼ばれ、また「日劇」とも略称される。これはテレビがまだ普及していなかった1980年代(千人に一台)の頃に、中国全土でヒットした日本のテレビドラマとは全く違うタイプで、主に台湾や香港でのブームを受け次第に中国の都市部若者の間に浸透してきたものである。
1980年代の人気日本テレビドラマというと、主に四つある。第一は、テレビ番組の不足を埋めるために海外の番組を輸入し始めた80年代初期に、上海電視台によって中国語に吹き替えられた「姿三四郎」である。次のヒット作は、日本女子バレーボール選手の戦う姿を描いた「サインはV」である。
三番目は、1984年に放送された山口百恵の「赤い疑惑」である。当時、このドラマの放送時間になると、皆一目散に帰宅したり、テレビのある親類や友達の家に集まったりして、町中の道路が閑散となったという人気振りだった。
四番目のヒットドラマは「おしん」である。これらの人気ドラマに共通する特徴は、いずれも各年齢層を越えて注目を集めるホームドラマであり、伝統的な家族生活、家族愛、人間関係、若者の純情、誠実な愛情、日本人の勤勉さ、忍耐強さ、残酷な運命と戦う精神などを描くものが多かったのである。
なぜ日劇が面白い
等身大の物語、リアルな話
では1990年代半ば以降の日劇は、1980年代までの日本テレビドラマとどんなところが違うのだろうか。それは、主に視聴者層が10代後半から30代半ばまでの若者向けの恋愛ドラマという点で大きな違いがある。北京、南京、上海、蘇州などでインタビューをした時、大学生たちは皆楽しそうに「東京ラブストーリー」「ロングバケーション」「GTO」などのことを語ってくれた。彼らにしてみれば、日劇の魅力はストーリーの面白さ、キャラクター、ドラマの魅力を高める制作技術(テーマソングとバックグラウンド音楽、行き届いた細部描写、繊細な心理描写などの非言語効果の使用)、適切な長さ、文化的近似性(容姿、感性、愛情表現、人間関係)などの要素である。
しかし、中国の現代化した都市地域に暮らす若い学生たちが最も共感を抱いたのは、日劇の中に映った中国国内のテレビ番組にはないリアルな等身大の物語、つまり自分と同じ年齢の異国の若者の大都会での恋愛模様、友情、仕事、暮らしぶりなどである。例えば、2001年に南京の東南大学で調査をしたとき、コンピューター・サイエンス専攻の大学3年生王浩君は、「東京ラブストーリー」を見た後の感想を次のように述べてくれた。
完治は日本の会社に勤めているごく普通のサラリーマンでしょ。僕らもあと2、3年で彼のような会社員になりますよね。そうすると彼の身の上で起こった恋愛物語は僕の上でも起きるかもしれないし、僕の周りの人々にもあるかもしれない。
上海同済大学で力学を専攻し、夜は繁華街のパブでピアノを弾いて月に2万元の高額なアルバイト代を稼いでいる四年生の陳傑君は、福山雅治と常磐貴子主演の「めぐり合い」を4、5回も見て、心がゆさぶられるほど感動したという。
このドラマが僕に深い印象を残してくれたのは、とても自分の生活に似ていて、これまでにない共感を覚えたからです。…中でも福山雅治が演じる役に最も共感します。彼は建築エンジニアですが、僕の専攻もそれに近い。彼は撮影が好きなので、卒業後建築関係の仕事に就かず、アルバイトをしながら、写真を撮ったりして、撮影の勉強をしていました。つまり、職業を選択することや、理想の仕事と現実生活の関係を処理することにおいては、このドラマは僕と共通点がありますね。僕も時々音楽を自分の職業にするかどうか迷っています。ですからこのドラマを見たとき心が痛みました。人間は自分の道を選択する時はとても迷ってしまいますね。
陳君は結局高給取りの方を選択し、今も徐家にある台湾人経営のパブでピアニストをしている。彼のこの証言は、日劇のリアリズムが若い視聴者を惹きつけ、彼らに感情移入を引き起こさせたことを示唆している。
ドイツとの教育や文化交流が盛んな上海同済大学でコンピューター・サイエンスを専攻している銭勇君は、日本の若者のライフスタイルに目を向けている。彼は次のように語ってくれる。
彼らは狂ってるほど仕事をしてるね。週末も残業をする。大企業はHigh-risesがいくつもあってね。日本人は水を沸かさないで直接蛇口で飲む。彼らの冷蔵庫はでっかいね。スラム街に住んでいる人もいるが、金持ちはみんな高級マンションに住んでいる。「ラブ・ジェネレーション」でみたら、日本人はセックスに対してとても開放的でね。夜遅くまで外で生活をしてる。男女デート用の専門ホテルさえあるし…
ドラマの中の暮らしぶりが若者に注目される点は、戦後日本の「朝日新聞」に掲載されていたアメリカのマンガ「ブロンディ」が日本人に受容された頃の状況を連想させる。当時の日本人にとって、電化製品に囲まれたアメリカ人の便利で豊かな家庭生活は夢のようだった。中国の若い学生たちの目に、「衣食の心配がない」日本の若い男女が送っている自由で充実した豊かな都市生活と美しい恋愛物語は夢のように映る。
若者ドラマの欠如
1995年に「東京ラブストーリー」が放映されるまで、中国には若者個人に焦点を当て、彼らの学園生活や恋愛模様、仕事などを描いた等身大のドラマはほとんど制作されていなかった。
中国では長い間、テレビドラマを娯楽ではなく教育メディアとして捉えてきたから、共産党のイデオロギー的な要素が強く出てくる。新中国誕生とその発展の歴史や、社会主義建設の業績、改革開放の著しい成果を題材にするドラマは、キーノート・ドラマといって、国家のプロパガンダのような役割を果たしている。娯楽としての主力ドラマには、時代劇がある。清朝の宮廷を舞台に、清廉潔白な官僚と貪欲な悪徳官僚を対照的に描くことで、実際は現代の政治腐敗を風刺している宮廷ドラマは特に人気がある。香港の作家金庸、古竜の原作に基づいて制作した、日本で言う剣豪ドラマも人気がある。
もっと身近な題材のドラマというと、主に都市と農村の住民の家庭生活を描くホームドラマや、「改革開放の問題点」とされた浮気、失業、犯罪などのことを扱ったドラマがある。どれも内容が切実で、若い人々に夢を抱かせるようなおとぎ話ではない。
主義主張のない娯楽映像というと、香港、台湾などの華人社会の映画・ドラマ、そしてハリウッドと日本のものがある。恋愛ドラマは、1980年代の後半から香港、台湾、シンガポールのものが放映されてきたが、これも日米のアニメを見て育った世代には物足りなくなる。というのは、これらのドラマは、往々にして金持ち一族の話で、家柄の格差がモチーフで、若い世代のラブストーリーに親世代の葛藤が織り込まれ、幾組かのカップルが登場し、主人公の年齢設定も少し高い。話の展開が複雑だから、延々と40話以上続いてゆく。親が姿を見せない一人暮らしで、恋愛そのものをテーマにし、その過程におけるさまざまな喜びや悩みを繊細に描写するものは稀だった。
そこへ、織田裕二演じる田舎ッ子の永尾完治が、鈴木保奈美演じる都会ッ子の同僚赤名リカと恋に落ちる「東京ラブストーリー」が放映され、大当たりしたのである。
突然、こういった種類の日本製トレンディ・ドラマが出てきて、描いている主人公は自分たちの年齢と大体同じで、ストーリーはまた身の回りでおきる可能性のあるラブストーリーですから、みんな興味津々でしょう。(上海大二女子経営学専攻2002年夏)
中国の若者には、東洋の隣国の大都会にいる同世代の主人公たちが繰り広げる恋愛物語が新鮮に映った。
ハリウッド映画は、1995年から年に10本輸入され、中国語に吹き替えて上映されるようになり、香港映画と共に中国の娯楽映像の主流となっている。しかし、ハリウッド映画と日本のテレビドラマとを比べると、上海外国語大学英文科の2年生で、学内放送のDJをしている陳偉君は、「(たとえば両親が映画で)ヨーロッパ系の人を見ていると、非常に自分とは遠いなという感じすると思う。つまり動物園でも見ているような感じ。日本人を見ていると、お互いに似ているという気がします。みなアジアの民族ですから、感情面が理解しやすいし、彼ら(ドラマの人物)が何を考えているのか理解できるから」と、文化と感性の類似性から日劇の受け入れやすさを語ってくれた。
日劇の流通パターン
日劇の人気は中国ではまずテレビ放送で定着し、次第に海賊版VCD(ヴィデオCD)、そして構内ネットワークやインタネットカフェに接続するパソコンでの視聴へと消費のパターンが個人化していく。
テレビ放送
1991年にフジテレビで放映された「東京ラブストーリー」などの日劇は、越境放送のスターテレビでの放映によってすでに台湾・香港・シンガポールなどで大反響を呼んでいた。その影響で、日劇の人気は1990年代の半ばに、上海という国際大都市で爆発的にヒットした。1995年3月に中国語に吹き替えられた「東京ラブストーリー」が上海東方電視台により放映された。このドラマはその後すぐ北京と地方都市のテレビ局からも放映され、全国的に好評を博した。この結果を踏まえて、中国各地のテレビ放送局は、質の高い日本ドラマを導入し始めた。
日劇は、中国国内のテレビで放映される場合、まずテレビ放送局で中国語に吹き替えて、直轄市や省レベルの地方テレビ局、もしくはケーブル・チャンネルで放映される。中央電視台や衛星チャンネルのネット放送網を通じて全国的に放映される場合もある。しかしなんといっても中国における日劇の普及は、上海の各テレビ局による放送に負うところが大きい。例えば上海電視台14チャンネルの「白蘭氏劇場」は、上海各テレビ局から中国語字幕つきで原語による外国の映画とドラマを放映する番組である。
1997年から、この「劇場」は普段勉学に忙しい学生のために、日本のテレビドラマの番組に倣って、「日曜劇場」と銘打った時間帯を設け、中国語字幕付きで日本語のドラマをそのまま流す番組を作って、毎回2、三話の日劇を放映してきた。青少年を対象にする上海教育電視台も、2000年より毎夕6時から7時までの1時間を「青春劇場」とし、主に日本のドラマを放映してきた。上海東方電視台は、平日の連夜、いわゆる帶番組で日劇を放映していた。
1990年代半ば頃から2002年まで、上海で放映された日劇は、「101回目のプロポーズ」「一つ屋根の下」「理想の結婚」「Beautiful Life」など、50作品を超えていた。
しかし放送・映画・テレビを管轄する国家広播電影電視総局は、地方テレビ局やケーブルテレビ局による外国ドラマの放映数があまりに多いことは、国産テレビドラマの放映や制作事業の発展にとり不利になると判断し、2000年より規制強化に乗り出した。2000年1月4日付けの通知によると、「国産テレビドラマを繁栄促進させるために、午後6時から10時までのゴールデン・アワーには、海外のドラマの割合を15%以内とする。午後7時から9時半までの間では輸入番組を放映してはならない」と定めている(国家広播電影電視総局 2000年)。
この規制の影響で、2000年からゴールデン・アワーには、日劇を真似た上海や北京を舞台とする国産アイドルドラマが大量に放映され、そのおかげで日劇の放映は数が減った。さらに2001年頃には韓国ドラマをはじめとする韓流ブームが北京から起き始め、韓国ドラマが日劇に取って代わるようになった。そのために今やテレビ放映による日劇の本数が激減した。
日劇は、香港ベースの衛星テレビ局であるスターテレビの中国語チャンネル・鳳凰衛視中文台によっても放送されている。鳳凰台の日劇も中国語への吹き替えであるが、字幕には香港や台湾で用いられている「繁体字」が当てられている。鳳凰台の訳は、国内の訳より笑いのセンスがいいと学生たちは高く評価するが、受信には衛星テレビのパラボラアンテナかケーブルテレビが必要なので、すべての家庭で受信できるわけではない。外国語大学以外、普通の大学の寮では鳳凰台の番組は映らないことが多い。また広東省に限られたことであるが、香港の地上波テレビ局TVBとATVの番組が受信できるから、香港の広東語に吹き替えられた日劇が流れている。
海賊版VCD
中国の大学生は学期中、ほとんどテレビを見ないのは勉強が忙しいからである。自宅通学はきわめて稀で、在学中は大学内で4人から6人が一部屋の寮生活をしている。ほとんどの部屋にはテレビがない。1000人の学生が暮らす寮に、管理係事務室のテレビが一台だけということも珍しくない。息抜きは、週末の映画鑑賞あるいはコンピューターでの映像視聴ということが多い。
そこへ現れてきたのが、海賊版VCDである。VCDは中国や香港では主流で、画質はそれほどよくないが、値段がやすい上、VCDデッキやパソコンがあれば手軽に再生でき、時間的制約もないから、普段勉強で忙しい高校生や大学生、若い会社員には歓迎されるメディアリソースである。最新の日劇をテレビで見逃した人はたいてい海賊版VCDでそれを見る。中国では1997、8年頃から、日劇VCDが流通し始め、1999年から2001年にかけてブームはピークを迎えた。現在はDVDに取って代わられている。
2001年の日劇ブーム最盛期には、日本でヒット作の放送が終了するとすぐこれに繁体字の字幕がついて、数週間のうちに大都市のビデオ店や露天商にVCD数枚の入ったボックスセットで現われた。全編の値段は、たいてい50-75元(およそ730-1000円)である。2001、2年の時点で、上海最大のレンタル・ビデオチェーン店・美亜音像租賃連鎖店には、日劇の50タイトルが整然と並んでいた。
海賊版VCDは、大都市だけではなく地方都市のビデオ店にも現れた。蘇州の町中のビデオ店には、30タイトル以上の日劇が、流行りだした「韓劇」と共に店内の一番人目の付く場所に置かれていた。旧日本帝国陸軍の駐在地であった南京理工大学内のレンタル・ビデオ店にも、日劇がほぼ40タイトル置かれ、一話が1日1元(およそ14円)で貸し出されていた。こういうVCDは国営の新華書店やスーパーでは「日本経典[名作]テレビ連続ドラマシリーズ」という企画化されたボックスセットで販売されており、日本にはVCDという映像商品がないことも知らないから、中国人はほとんど自分の買った、あるいはレンタルしたVCDが海賊版であることを知らずに、正版として消費している。
大学生はVCDを主にレンタルする。普段勉強に追われているので、週末や休暇中にVCDを全編借りて、数日のうちに十数時間のドラマを最終回まで見終わる。私が属する北京日本学研究センターの学生のクラスに、次のような逸話があった。朝10時に始まった「日本社会文化論」の授業中、日本人の先生が「東京ラブストーリー」を持ってきて学生に見せたところ、あまりにも面白かったので、12時に授業が終わっても、誰も食事に行かず、夜の9時までずっとドラマを鑑賞していた。つまり、日劇のマラソン観賞はすっかり定着していたのである。
VCDの観賞は、自宅ではVCD再生機で、大学であれば、主にコンピューターによることになる。特にデジタル技術の発達によって、ワンクール11、二話のドラマを1、2枚のMPE格式に圧縮したソフトも出てきた。このソフトはコンピューターでしか見ることが出来ない。10元(約14円)で1枚を買えば一つのドラマが見られるから、学生にとっては一番買い得のようである。
中国の経済発展のスピードがすこぶる速いことと同じく、中国の店舗の営業回転率もはやい。2002年に上海で調査したときに立ち寄った繁華街淮海路と同済大学近くの美亜音像租賃連鎖店は、今年(2005年)の初頭になると、すでに跡形も見つからなかった。政府が主導する海賊版ソフト取締運動のため、海賊版の映像は、表通りの音像書店の店頭には置かれなくなったが、都市中心部の古い住宅地のファッション店や靴屋の裏手には小さいビデオ店が経営され、そこには、図5と6に示したようなハリウッド映画や日本の映画、ドラマ、アニメのDVD海賊版映像が販売されている。
ブロードバンドを通じての視聴
2002年頃から、ブロードバンドが普及し始めたおかげで、復旦大学、清華大学などの大学内はネット化された。構内がネット化されると、学生の娯楽生活のソースも多くなる。復旦大学「構内ネットワーク」では、これに繋がっているすべてのコンピューターは、お互いにソフト資源がシェアできるようになっている。1-2台のコンピューターに日劇を保存しておけば、特定のドラマを見たい学生はネットワークに接続して、そのソフトをダウンロードすればいつでも見られる。
この構内ネットワークが出来て以来、さまざまなルートを通じて最新の娯楽ソフトを手に入れ、ネット上でリソースを提供する熱心な「専門家」まで現れた。このような専門家のおかげで、20年前に中国でヒットした「赤い疑惑」などのドラマも大学キャンパス内で流通するようになった。アニメやテレビドラマに趣味を持つ学生は、またネット上でTV版のサブ・ウェーブサイトを作って、特定の作品についての感想文を載せたり、人気ソフトを推薦したりして、情報を交換している。
ブロードバンドの普及によって、インターネット・カフェでネットを通じて日劇を見る学生も増えた。たとえば、蘇州では1時間2元(およそ28円)でハリウッド映画や日劇が楽しめる。上海と北京でも大体同じ値段であり、随分安い。このように日劇の海賊版ソフトは、テレビの放送を待たずに早く、安く、手軽、しかも内容が新鮮という要素が揃っているので、共同研究者の中野嘉子博士は「デジタル・ファストフード」と格好よく命名した。こうして日劇の人気は、主にデジタル世代の若いエリート予備軍によって支えられていた。
日劇のヒットに触発されて、2000年頃から日本のトレンディ・ドラマを真似た韓国と台湾製の青春偶像劇が台頭してきた。例えば2001年には日本のマンガをもとに製作された台湾のドラマ「流星花園」は、毎日勉強しないで恋愛のことばかり考えている貴族的学生の学園生活を描いているため、親たちの要請により、テレビでの放送が禁止されたが、若者はVCDを通じて見ていた。
先にも触れたように、2001年の半ばから、中国ではスターテレビによる韓国製ドラマの大量放送に先導され、韓劇を放送するブームが引き起こされて、日劇のヒットは次第に「韓流」に乗り変わって行った。しかし、学生たちは、韓国の恋愛ドラマは生と死を主題にするものが多く、〈リアルではない〉〈ストーリーの進展が緩やか過ぎて付いていけない〉〈家族関係が中国に類似しているから新鮮味がない〉〈自分たちはやはり日劇が好きだ〉と口を揃えて言っていた。日本での「冬のソナタ」のような熱狂ぶりは、中国ではまず考えられないと思われる。
中国のドラマ制作者も、1999年頃から国産のアイドル・ドラマをつくり始めた。しかし、これらのドラマは、大学生の間ではあまり評判が芳ばしくない。たとえば図7の国産ドラマ「将愛情進行到底」と図9の「新聞小姐」は、それぞれ「あすなろ白書」や「ニュース女」といった日劇のストーリーをそのまま下敷きにしたものである。しかもロケ地は普通の若者が行けそうもない高級な場所ばかりで、30、40代の中年男女が20代の若者のラブストーリーを演じるものだから(「新聞小姐」はまさにそうである)、「日劇クローン」とあだ名を付けられたり、デタラメ物語と悪評されたりしていた。
時間の関係であらすじの詳細な紹介は省略するが、国産クローン劇「将愛情進行到底」と日劇「あすなろ白書」に共通する筋書きを見てみよう。女性主人公が、男性主人公との最後の仲直りのチャンスとして、「何時まで、どこそこで待っている」という言葉を友人を通してその男性に伝えて貰ったのだが、結局は事情があって彼は約束の時間に来られなかったため、女性はいつも自分のそばで見守ってくれている別の男性に想いを傾けていく、というものである。
また、「将愛情進行到底」のストーリーは中国の社会事情、価値観などにそって、ある程度修正されている。たとえば、ラブシーンや同性愛のことは、国産クローンの中では姿を見かけない。とは言え、中国西北部の小さい町から上海の名門大学に入学した貧乏大学生の設定である男性主人公は、こんなお洒落な格好をしているはずがないと思われる。
台湾・韓国の偶像劇にしろ、国産の日劇クローンにしろ、日劇はトレンディ・ドラマの教祖である地位は揺るがないものであるようだ。
プチブル気分と日劇
次に中国で台頭してきた「プチブル」気分と日劇の関係を見てみよう。大学生の間で日劇がヒットしたのは、1994年以降、市場経済導入と教育制度の改革によるキャンパス・ライフと大学生の将来像の変化とが関連するように思われる。就職制度の変化によって、進路の幅やライフスタイルの選択が広がり、大学生は自分の将来を夢見ることができるようになったにもかかわらず、生活の変化に見合った国産のソフトが「空白」であるため、海外のソフトで以てその空白を埋めたのである。たまたまそのソフトが「プチブル」気分のあふれる日劇であった。
プチブル(小資)の意味
では中国における「プチブル」、中国語でいう「小資」の言葉の意味は何だろう。
ご存じのように、社会主義国家中国では、階級意識や階級などを論じることが長い間タブー視されていた。毛沢東時代には、階級は政治的理念に基づいて労働者階級、農民階級、知識人階級の三つに分けられていた。そしてブルジョア階級は無産階級を搾取する人民の敵であり打倒すべきものとされていた。
「小資」は元々小資産階級(プチ・ブルジョア)の省略的な言い方で、毛沢東の時代には、知識人とほぼ同義語として使われていた。毛沢東にしてみれば、ブチブル階級には両義性がある。すなわち、その中の青年学生は知識人で、政治感覚が鋭いから革命指向性はある。しかし同時に、小資産階級の魂の奥には自由主義と個人主義の傾向が強くあるから、革命の対象でもある。
ゆえに、1940年代の延安では、プチブル気分は共産党知識人の自己批判の対象だった。50年代後期、小資産階級は反共産党反社会主義の右派として処罰され、文化大革命の間は、都市部の知識青年は農村に追放され、肉体労働を通じて「再教育」を受けた。つまり「小資産階級」は「資産階級」と同じように政治的レッテルであり、革命群衆や社会主義と対立するという意味を持っている。そして「小資情調(プチブル気分)」は、取り除きがたい精神として、無産階級の政治理念上においては一種の脅威となっていたのである。このようなコンテクストがあるから、1990年代の初期になっても、「小資」というとまだマイナスのイメージが強くあった。
しかし、改革開放以来20年、中国は著しい経済成長を遂げ、階層構造にも大きな変化が生じてきた。とくに1992年に市場経済に移行して以降、中間階層(ミドルクラス)が形成され、「小資産階級」も生まれてきた。そのメンバーは大学卒の学歴を持つインテリ、各種の企業に勤めている若いホワイトカラー、都市の独身貴族、フリーランサー、自由度の高い新聞記者、編集者、芸術家などである。「小資産階級」になれる条件は、多少とも時間やお金があって、個性的な文化趣味があるということだ。
中産階級とは、中国社会科学院の「当代中国社会階層研究報告」(2002年)の定義によると、「頭脳労働を主とし、給料やボーナスで生活している。高い収入、いい職業、高い消費水準を有し、生活の質にはゆとりがある。一家の年収は、5万元から7万元(約716,000円から1,002,000円)で、ライフスタイルについては、マンションと自家用車を所有し、定期的に旅行に出かける」という。普通の中国人にとって、「中産階級」という呼び方より「ホワイトカラー」のほうが馴染み深い。
こうした階層構造の変化に便乗して、1998年から社会階層や各層の生活様式、品位に関する大衆向けの本が続々と発行され始めた。たとえば、ケンブリッジ大学で博士号を取得した陳少は「階層」という著作の中で、イギリスにおける社会階層と生活様式の分析をもとに、90年代中国の階層意識と各階層の行動パターンを描いている。「新週刊」では、マイカーを所有し、犬の散歩をする家政婦つきの都市部「中間階層」の主婦、モーターバイクに家族をのせて出かける四川省のある小さい町の「中間階層」家庭のイメージを紹介している。
さらに2001年7月1日、江沢民は社会階層や、社会移動の実践について発表した。彼は私営企業主(資本家)の大部分も社会主義の建設者で、その中の先進分子は共産党に加入してもかまわないと指摘した。この「 七一講話」をきっかけに、資本家を異端視、階層意識をタブー視する時代は終焉を迎えた。
同じ時期、もう一つ注目される光景がある。それは、大都会上海で流行り出した1920、30年代の旧上海への懐旧ブームである。この懐古趣味を代表するいくつかの現象を見てみよう。まず、1940年代のベストセラー作家、清末の名官僚・李鴻章の曾孫に当たる張愛玲の小説ブームがある。張は上海や香港を舞台に「傾城の恋」などの人気恋愛小説を多数書いたが、中国で言う漢奸文人(民国時代汪精衛政権の親日派)と結婚したことや、香港に移住してから反共産党の作品を書いたため、1990年代初期まで彼女の作品は大陸で出版を禁止されていた。
しかし海外では張愛玲の文学に対する評価は高く、香港映画に対する彼女の影響も強いため、1990年代半ば頃から中国大陸でも彼女の文学作品を現代女性文学集に収めるという見直し傾向が現れ始めた。張の小説に現われる旧上海のエキゾチックな雰囲気、モダン女性のファッショナブルな生活、洒落たライフスタイルは、2000年に出版されたハーバード大学教授李欧梵の中国語版著作「上海摩登」の評判で、再び注目された。
改めて張愛玲は戦前のプチブルの代表と見なされ、彼女の小説に登場した広告やチャイナドレスを研究する人さえ出てきた。李欧梵の研究する上海は、租界時代の上海、1920-40年代の西洋化したオールド上海で、そこには、映画館、建築物、デパート、広告の中のモダンガール、ダンスホール、カフェなどに象徴されるモダニティがあって、「新感覚」派の作家たちや張愛玲の「プチブル」ムードがある。
また2002年に、1930年代に旧上海の大型総グラビア雑誌「良友画報」の編集を担当した馬国亮が、「良友懐旧」という本を出版し、古写真を以て旧上海の繁栄と華やかな都市消費文化を再現した。上海育ちの現代中国女性作家・王安憶や陳丹燕も、旧上海の資本家や中産階級の生活を懐かしく思い起こす小説やエッセイを著している。
文壇の上海懐旧ブームに煽られて、上海のテレビ局は「プチブル」作家張愛玲、鴛鴦胡蝶派作家・張恨水、現代女性作家・王安憶などの原著に基づいて、旧上海の資本家大家族をめぐる家族関係、恋愛、商業競争などの海派ドラマを多く制作し放映してきた。このようにメディアの生産により、1990年代から始まった旧上海の懐旧ブームは、21世紀の初期にピークを迎えた。
2001年の夏、私が中野さんのリサーチ・アシスタントとして上海を訪れたとき、コーヒーを飲むために繁華街淮海路の喫茶店に何軒か入ったことがある。いずれの店も1920、30年代の雰囲気を味わえるように内装しており、壁にはファッショナブルな「モダンガール」のポスター広告絵や旧上海町並みの写真が貼られ、当時流行していた蓄音機、電話機などが置かれていた。
たとえば、図13は英米煙草公司の哈徳門というブランドの紙巻煙草の月牌[絵入り広告付き暦]のポスターで、高級そうなイアリング、指輪と腕輪をしている端麗な若奥様が精緻に細工された煙草入れをもって、誰かに煙草を勧めようとするポーズを取っている。彼女が着ている半袖の襟、袖、ふちの模様は、当時シャネルのファッションで使われたアールデコのデザインのようだ。彼女は明らかに裕福な上流階級の出身であろう。
図14のチャイナドレスのパーマ美人は、日本の化粧品メーカー中山太陽堂の双美人白粉、クリーム、石鹸、歯磨きなどの商品を宣伝している。国産化粧品・美容商品を生産する大中華化学工業社が作った月牌広告絵の中で、洋式ガーデンの中で洋犬の散歩をしているファッショナブルな若い主婦の姿を描いている。このイメージはいかに前述の写真に示された犬の散歩をしている今の都市部中間階層の主婦に類似していることだろう。
図16の月牌広告絵は、パーマをかけハイヒールを着用する女性を描いていると同時に、洋風の室内スペース、モダンなインテリアをも強調している。
図17は、旧上海の南京路にある四大百貨店のひとつ、大新デパートの写真である。
図18は、1920、30年代のファッション名店街霞飛路(今の淮海中路)の様子を示す写真である。図19は、当時上海に進出していた日本商社・旧三井物産が所有していた三井ガーデンである。自分の趣味やステータスを示すために、現在の上海新中間階層は、古董品店から1930年代の中・上流階級家庭に使われていた家具を買い集め、マイホームを品位のある洋風なものにしようとする。
一言で言えば、1920、30年代の月牌広告絵に象徴された、西洋風の美意識やデザインを取り入れ、チャイナドレスを着たモダンガールのイメージ、さらに洋楼、ガーデン、洋犬、洋風な室内空間などに代表されるブルジョア的なライフスタイルは、現在の中産階級、資産階級のイメージと重なるところが多いと言えよう。私からみれば、旧上海に対するこの種のノスタルジア・ブームは、過ぎ去った繁華、モダニティへの追想というより、むしろ余裕ができた現代中国人の、よりよい生活、品位のあるライフスタイルを勝ち取りたいという欲望の象徴だと思われる。資本主義の復権でもあるといえるだろう。
こうした情況の下で、2001年に「プチブル」は全くプラスイメージの流行語として使われるようになった。現在では、プチブルは二重の意味を持っている。人の生活様式や趣味を指す場合は、個性的な都会のライフスタイル、文化的趣味や娯楽のことで、人を指す場合は、主に以上のものを持ち合わせた都会の若者のことである。
日本のテレビドラマとプチブルのライフスタイル
プチブル・ブームの中で、プチブルのライフスタイルを紹介するカタログ本も次々と出版された。たとえば「小資女人」という本の中で、作者の黄海波は、プチブルが見なければならない映像ソフトとして日劇を挙げている。彼女によれば、
「東愛」は、プチブルの間で使われる日劇「東京ラブストーリー」の愛称だ。プチブルたちは、これまでの自分の生活で「すてきな体験欠乏症」と「恋愛欠乏症」であったため、日劇でそれを埋め合わせている。彼らは美しい恋をすべき時、なにかとプレッシャーの多い生活をしていたから、純粋に美しいというわけにも、心身ともに恋に捧げるというわけにもいかなかった。しかし、日劇の中では、恋愛が一大プロジェクトだ。生活の細かいこと一つ一つにまで美しさがゆき渡っている。日劇はおしゃれで、温かく、普通の人にも模倣できる要素に富んでいる。
岩渕功一(2001)が、台湾では日劇は「使用可能なイメージ」として消費されていると指摘した。中国でも同様である。ただし手本となっているのは、主人公の暮らし全般である。これについては後にもう一度触れよう。
キャンパス・ライフと大学生将来像の変化
1994年の大学教育制度改革まで、大学生は自分で将来の進路を決めることができなかった。国が一貫して大学生の募集から卒業までを管理していた。大学は国家幹部候補生の養成機関であるから、学費は無料だった。そして就職は、国が学生を就職先に割り当てる「分配」制度を実行していた。就職先は学生が自分で探したり、選んだりするものではなかった。
居住地の移動も規制されていた。中国には出身地による都市戸籍と農村戸籍という戸籍制度がある。農村戸籍の人は大学進学と入隊によって、幹部になり都市戸籍に変更する以外、一生農村で生活しなければならない。上海戸籍の人が北京の戸籍に変わることは容易ではなかった。大学進学の場合、地方出身の学生は故郷の戸籍を持ってきて、学校側の集団戸籍に登録し統一的に管理される。就職の「分配」の際には、北京には何人、上海には何人、南京には何人が就職できるという定数の割当てがあった。
分配システムのもとでは、「又紅又専」の学生、つまり成績が優秀だけでなく、政治的にも共産党を支持する先進分子の学生党員や共青団員は有利だった。地方出身の学生の夢は、卒業後に大都市の戸籍を取得し国営企業に勤めることだった。国営企業に就職することは、当時の学生にとっては「鉄飯椀」(鉄のお椀)、すなわち一生の保障が得られたのである。1990年初頭には、給料のいい外資系企業に勤めたいと思っても、地方出身者にはできなかった。というのは外資系企業には、従業員の故郷の戸籍を企業所在地の戸籍に変更する「指標」の割り当てがなかったからである。
10年、20年前の大学生にとって、上からのコントロールの対象は将来の進路ばかりではなかった。キャンパスには、政治補導員と呼ばれる教師がいて、政治学習から日常生活にいたるまで、全般的に学生の動向を把握していた。恋愛しても、分配制度が原因で、恋人同士が同じ都市に就職できるというわけには行かなかったから、学生たちはひたすら勉強に励み、恋愛に陥らないように努力する。
実際、1985年まで大学生の恋愛は禁止されていた。キャンパスでの婚前交渉は、カンニングや窃盗と同じ「罪」とみなされ、見つかれば大学の掲示板に「退校」の処罰が貼り出された。北京大学などでは、婚前交渉の罪で退校の処分を受けた若いカップルが自殺に追い込まれた事件も発生した。婚前交渉どころか、当時はデートをしたくても行けるところは映画館と公園だけで、気楽に入ってゆっくりと 二人の時間を過ごせる喫茶店もなかった時代であった。
2001年4月になって初めて教育部が、大学を受験する人に対して年齢と婚姻状況の制限を取り消し、大学生が結婚できるかどうか議論されるようになった。2001年12月、武漢大学が「法律法規に違反しなければ、大学が学生の結婚申請を干渉しない」(2001年12月12日付けの「武漢晩報」)と、新中国史上初めて大学生の結婚を認めた。2004年5月1日、天津師範大学の23歳の王洋が結婚式をあげ、中国最初の結婚した女子大学生となった。大学生のプライベートの生活は徐々に自由が利くようになった。
生活のカタログ
計画経済から市場経済に移行するにつれて、1994年以降のキャンパスは大いに状況が変わった。まず、就職口は大学から指定されるものから、自分で探すものになってきた。10年、20年前には学生が描く自らの将来像はぼやけたものだったが、今は次第に実現も可能な夢に変わってきている。現在の大学生にとって、従来からの公務員、教師の職は、福祉待遇もよくなり「鉄飯椀」であるゆえ、希望の多い就職先である。また、外資企業のエンジニア、人事・広報担当、ハイテク・ベンチャー企業の創業者、欧米の留学先で就職して駐在員として中国にUターンするなどは、将来マイホームやマイカーを所有できる中間階層に入る理想を成就できる職業である。
蘇州大学で観光学を専攻している大学3年生の呉美玉さんは、地元蘇州でいずれは観光産業の管理職になって、「中産階級のレベルまで到達」し、20万元の年収を獲得したいと宣言する。20万元という数字は駆け出しの大学教師の年収の10倍、中国社会科学院が規定した中間階層の収入の3-4倍になる。そして、どうして中産階級になりたいかと問うと、呉さんは「中産階級の生活はゆとりがあって、自分のライフスタイルをどうしたいとか、家の中にどんなモノを並べようかとか考えられるからです」と答えた。
1998年に中国では、持ち家政策が実施され、全国各地の都市部では、マンションの建設ブームに沸いた。生まれて初めて自分の家を所有する中国人ならば、それを住み心地のよいマイホームにしたい願望は強いだろう。そこで、インテリア内装ブームが起こり、外資系のインテリアショップも数多くオープンした。スウェーデンのインテリアショップIKEAは、上海や北京で特に人気がある。
前述の呉さんは日劇が好きで、レンタルビデオショップから海賊版VCDを借りて見ている。一番関心を持って見ているのは、登場人物の着ている服であり、それから若者たちがどんな物を使い、またどんな遊びをするかなどの生活のレベルもチェックするという。「上海電視週刊」の調査によれば、スチュワーデスや美容師は特に化粧の仕方や髪型を日劇から学んでいるという。
つまり、日劇は中国では「東京のファッション、インテリア、消費財、音楽」の情報源であり、おしゃれのカタログとしての役割を担っている。日本の女性ファッション誌「Ray」は、中国軽工業出版社からも出版され、訳名は「瑞麗」である。誌面では日本の流行のアイテムを紹介しているが、1冊18・8元(約270円)の値段は決して安くはない。購読者は、経済力のあるホワイトカラーの若い女性に限られるだろう。
中国には外国の出版物の輸入規制があるため、台湾や香港のように日本語版の若い女性向けのファッション誌「Non-no」などがどのコンビニででも買えるというわけにはいかない。そんな限られた東京ファッション情報の中で、日劇は流行のカタログとして見られている。たとえば、日劇の粗筋、テーマソングを始めとする日本の流行歌を紹介するJ-pop専門誌の「日之韻」「EASY」では、日劇の人気俳優が劇の中で着用した服のブランド名、使っている携帯電話、着けている飾り物、よく行く場所など一々枚挙に遑がない。
蘇州大学で将来英語教師を目指して勉強している于宏偉君は、宮崎駿のアニメが好きで、日劇は高校生の時に受験勉強の息抜きとして見ていたという。彼にとって一番印象深いのは、日劇の中の主人公たちの自由な暮らしぶりである。
日本ドラマに出てくる主人公の大半がホワイトカラー階層で、生活の上では相当の保障がありますね。経済的な基礎があるといろいろ自由が利くでしょ。(主人公たちは)生活面でかなり自由です。親の世代とのジェネレーションギャップも回避しているから、とても自由に見えます。若い人たちはそもそも自由に憧れているでしょう。
若い僕らもよく勉強して、将来いい仕事につけば、夢も見られるし、やりたいこともできるでしょう。日劇はとてもいい出発点を目の前で見せて、未来への夢を膨らませてくれます。
この于君は、日劇のライフスタイルは「いわゆるはやりのプチブル気分」に溢れていて、上海や蘇州などの目覚しい発展を遂げた江南地域にはよく馴染むのかもしれない、と語った。
自由な恋愛 「女倒追男」 異性同居など
日劇の中の恋愛はとりわけ自由に映って見える。前述の「あすなろ白書」の中には、若い男女が一晩を一緒に過ごすシーンが2回ほど出てくる。「東京ラブストーリー」の中でも赤名リカは、永尾完治からの初めての「好きだ」のお返しに、「ねぇ、セックスしよう!」と直接に投げかけ、完治がリカの一人住まいのマンションに泊まっていくシーンがある。これについて、プチブル本の恋愛指南では、恋人と夜は一緒に過ごすけれど結婚には縛られないというのが「小資的婚恋方式」だと説いている。つまり、プチブルブームの2002年に新しいとされた自由な恋愛を、日劇では1990年代初期にすでに演じてみせていたのである。
さらにこれらの作品は、女性主導の恋、つまり「女倒追男」の恋愛パターンを提示してくれた。男性が自分の好きな女性に愛を告白するというのは、通常のパターンであるが、「東愛」においては、都会ッ子のリカは、地方出身の完治を初めからリードする。しかし、最後には完治の彷徨の意志を理解し、彼の幸せを思いパッと離れていく。
上海で土木工学を勉強している凌奇君は、言うこと為すこと大胆なリカが好きで、国内のドラマにはない女性像だと言っていた。「リカは、女子学生より男子学生に与える影響が強かったと思う。このドラマを見て、かなりの男子学生が女子学生への見方を変えたよ」と言う。そして、もし現実の生活の中で、リカのような女性がいれば、自分も付き合うつもりでいる、と言っていた。
男女の新しい付き合い方は、日劇のセールスポイントだ。日劇の中には、自立した彼女、年下の彼氏、男女の友達の同居、同性愛など、様々な男女関係の話題を提示している。二人きりの自由なマンション生活に憧れたら、これをすぐに実行に移す学生もいる。
1998年の持ち家政策が実施されてから、中国の住居環境も少しずつ整いつつある。大学でも市場経済の影響で、学費だけでなく、学生寮の費用も徴収するようになったので、これまで4人から6人部屋という全寮制が、徐々に個室や二人部屋に変化していく。大学の掲示板や電信柱には、オフ・キャンパスの貸し住宅の広告がいっぱい張られて、経済的に許せば一人暮らしもできるようになっている。中国のマスコミによれば、最近大都市ではアパートを借りて同居生活を始める若い男女が増えていると言う。
これらの男女は、きっと「ロングバケーション」の中で描かれた木村拓哉が扮する失意のピアニスト瀬名と、山口智子が扮する彼氏に捨てられたモデル南とが支えあう同居生活を見たことだろう。しかし去年の6月、中国教育部が大学生は校外でアパートを借りてはいけないという規定を各大学に通達した。大学生の生活は自由になりつつあるにもかかわらず、国からのコントロールはまだまだあるので、外国のドラマに映った自由な恋愛生活やライフスタイルは、真実の憧れとして都市部の若者の間に浸透してきたのである。
日本に憧れていますか
日劇のプチブル暮らしは、中国の若者にも実現できそうな夢というイメージを提示してくれる。蘇州大学に通う李暁君は、日劇の「物質生活の豊かさ」が目を引いたと言った。「(日劇が流行ったのは)日本の工業が発達しているからじゃないかな。日本の今日は、中国の明日でしょ。僕たちが、彼らみたいな生活を送ることができる日がきっと来ると思います。一種の期待があります」と言う。
もちろん日劇は憧れの対象というばかりではない。中国の大学生にとって、日本の女子高校生や大学生が物的欲望や生理的悦びを満たすために実行する援助交際などは批判すべきことである。
そして、日劇に登場する職場の光景は一番意見の分かれるところだ。広々としたオフィスで働く日本のホワイトカラーの充実した仕事振りを楽しく見ている学生もいるが、日本のサラリーマンのような働き蜂にはなりたくないという学生もいる。上海生まれの李遠君は外国語大学で英語を専攻しているけれども、意欲的に法律の勉強もしている。一日中じっとしている仕事はいやで、広報やマスコミ関係の仕事が志望である。
彼は次のように述べてくれた。
ボクは将来日本の会社に勤めることはないと思います。あまりにもモノカルチャーでつまらないから。こんなに広い場所が細かく区切られていて、毎日その1コマ1コマにたくさんの人が細工物みたいにはめ込まれてるでしょ。朝9時に出て夕方5時にあがる。それを7、8年間勤めてやっとマネージャーに昇進じゃつまらない。ボクはもっと挑戦的な仕事がしたいです。
そして日劇の暮らしに憧れるかというと、前述した「めぐり逢い」の中で福山雅治が演じる主人公の運命に感動した上海同済大学の陳君は「他人の家のモノはいくらよくても他人のモノです。
日本がいくらすばらしくてもそれは日本のことです。ただ、日本が発展していく段階での経験は学ぶべきですね。でも学ぶべきことがあっても、日本と同じようになれないこともあるでしょう。自分は中国が日本のような発展国になってほしい」と言い、実にクールな見方を持っている。学生たちはそれぞれ自分なりの見方で、日劇の「合理」的で吸収すべき要素と、切り捨てるべき要素を見分けているのだ。
中日関係の展望
日劇はデジタル・ファストフードとして、海賊版VCDの形で中国の都市部若者の間で広く消費されている。そうしたドラマを通じて映った現代的な日本、美しい愛情劇は、中国若者のステレオタイプ的な日本像を少しずつ変えたり、彼らの反日感情を和らげたりする面も確かにある。例えば、上海、蘇州の大学生の中に、靖国問題に対して理解を示している男子学生がけっこういる。
それは中国人が天安門広場にある人民英雄記念碑を参拝することと同じで、どこの国にも民族の英雄がいて、違う形で祭られているという意見だった。近年来の中日関係は確かに緊張を強めている。中国人若者の日本に対する不信も確かにまだ根強い。これは去年のサッカー・アジアカップの試合で起きた中国人観客が日本チームにブーイングを浴びせ、日本人サポーターにごみや瓶を投げつける反日事件からも窺うことができる。中国の経済成長に伴って、若者のナショナリズム情緒はさらに高揚していくと思うが、一方、日本の生活文化、若者のライフスタイル、ポピュラー文化に対して好意を持っていることこそ、中日両国の新しい世代による相互理解の可能性も示しているのではないかと思われる。
 
淡路島における災害と記憶の文化 / 荒神信仰

 

日本人の文化的記憶と災い
私は、学生や研究者、時には訪問者として、10年以上にわたって日本で生活してきました。そのなかで、私は、日本の方々が、昔から今日に至るまで残されてきた記憶の目印に敏感であることを見聞いたしました。1ヵ月ほど前に、台湾の南西海岸の沖の吉貝小島で調査を行っている間に、私はこのことに思いあたりました。それは、1776年に石碑の上に刻まれた中国語の碑文です。
それには、次のように書かれています。「石の上に刻み込むことで、私たちが合意したことを子孫たちも記憶にとどめることであろう」と。しかし、日本の先祖からのメッセージのすべてが何かに刻み込まれているわけではありません。それらのなかには、特別な場所に、ある決まったやり方で置かれた、独特な形状をした石として姿を現わすことがあります。このような石が伝えているメッセージは、毎年儀礼が行われる機会に、繰り返し人々に思い起こされていたのです。
しかし、伝統的な生活様式から離れてしまった現代の世代は、これらの石が、何のために存在しているのか、を忘れてしまっています。加えて、多くの日本人は、もはや周囲の共同体とのつながりを保っていません。今日、私は、あるお坊さんが、大地の裂け目から先祖のメッセージをどうやって読み取ったのかという物語を、みなさんにお話いたします。
この報告では阪神・淡路大震災について検討しますが、私がこの報告の準備をしている間にも、中越沖地震が再び新潟県を襲い甚大な被害をもたらしました。また、それと前後して、第二次世界大戦後、最大級の大きな台風が日本を襲い、各地で多くの方々が被害にあわれました。私の報告を始めるに当たって、阪神・淡路大震災の被災者の方々に改めてお悔やみを申し上げるとともに、これら最近の大災害の被害者の方々にも、お見舞いの意を表したいと思います。
森と記憶-淡路島の大地震の体験と出来事
「天災は忘れた頃にやって来る」という、みなさんがよくご存じのことばは、日本人が持っている災害についての深い知識を私に思い起こさせてくれます。この知識は、人間と環境との相互作用の賜物です。しかしこれは、環境の絶え間のない変更と、地方の過疎化、都市部における人口の過密化などとともに、いくらか再考を必要とするようになってきました。ところでいま、私が知識といった時に、これが意味しているのは、通常は、宗教と呼ばれている文化の一側面を指しています。
これから、私は、荒神信仰として表現された民間信仰が、1995年に発生した阪神淡路大震災に際して、淡路島北部の島民の間で、どのようにして、彼らが体験した破局を説明するための装置となったかについて紹介していきます。言い換えると、荒神信仰は、大地、もしくは島の、地質学的特徴についての、具体的に表現された知識を象徴するものなのです。
この物語は、淡路島の北淡町から始まります。淡路島は、日本の文化的記憶にとって極めて重要な地域です。日本神話の中では、アマテラスオオミカミ〔=天照大神〕が、天皇家の祖先神であるとされていますね。「古事記」では、淡路島は、アマテラスオオミカミの両親である、イザナギ・イザナミの二柱の神々が、最初に生んだ島と書かれています。「万葉集」では、淡路島は「御食国」とされ、食べ物が豊富で、島民たちは奈良の天皇に食べ物を貢納していたとされています。この島はまた、古代から後世に至るまで、中国大陸や朝鮮半島と行き来する際に、海を航海する人たちにとって、重要な目印であり、中継地でした。淡路島は、本当に特別な「場」であったのです。
しかし、中世においては、淡路島は、本州から四国の阿波へ旅する際の単なる通り道でした。現在では、淡路島は、明石海峡大橋によって本州に結び付けられています。この橋が架けられる30年以上前、すなわち、1970年代から1990年代にかけて、インフラストラクチャーの革命が北淡町で起こりました。淡路島の北部は、兵庫県、特に神戸市の市街地の土地の拡張と再構築のための資材の供給地になりました。1970年代から、多くの盛り土が北淡町の丘の地表からはがされました。その結果として、丘陵地帯だった町は平坦になり、谷と平野が大きく広がるようになりました。また、切り崩されてテラス状になった地域もあります。さて、ここで、土地利用について見てみましょう。
1.たとえば、1975年から2005年の間に、居住地域である可住地面積が27・552Km2から32・594Km2と、おおよそ5・042Km2拡大したことを含めて、牧草地が増加しました。この増加は、丘陵部の掘削に原因があり、それゆえ、平坦地の拡大を意味しています。もとの高台の土地から、それと等しい平坦な土地に換算するための手続きに問題があるため、実際には、以前の丘陵地帯の所有者の多くは、自分たちの取り分を手に入れていません。
拡大した平坦地の下の大きな凸凹のわだちの跡は、日本のバブル経済がはじける前の投機の結果を象徴しています。土地投機家たちは、ゴルフコースや別荘地の開発を計画していました。バブル経済がはじけた時、投機家たちは淡路島経済を破産させたまま去っていきました。要するに居住地・牧草地は、1975年を100とすると、2005年には約1・18倍に拡大したことになります。
2.森林地域が削られた結果、かつて12・179Km2あったものが8・619Km2へと、ほぼ3・56Km2減少しました。すなわち森林地の場合、1975年を100とすると、2005年には70・7へと減少したことになります。
3.もう一つの興味深い変化は、農地が減少し、造園地が増加したことです。農地は0・888Km2減少しました。すなわち8・453Km2から7・665Km2へと減少しました。つまり、農地は1975年を100とすると、2005年には95に減少しました。
4.造園地は1・381Km2から3・240Km2へ、すなわち1・859Km2増加しました。1975年を100とすると、造園地は、2005年には234に拡大しました。造園地が好まれて農地が放棄されるということは、コミュニティが老齢化して後継者がいないことを示しています。
北淡町のインフラストラクチャーに関係した最初の大きな観光産業は、今日も存続している1964年に建設されたゴルフコースでした。1970年代の直前には、斗の内地区の周辺で巨大なベルトコンベアーによる、丘陵から輸送船へと直接に土砂を運び出す事業が始まりました。これらの丘陵から採取された土砂は、関西国際空港の建設に際し、大阪湾を埋め立てるために使われました。
これは1980年代の後半まで続きました。1970年代初期、島内の交通は、山々を切り開いて、島の東海岸から西海岸へと島を横切る斗ノ内バイパスが建設されたことによって再編成されました。豊島地区の採掘操業を奨励する記述のなかで、1971年の写真の見出しは、毎日のように際限なく森が消えていくことを「豊島では開発の波が押し寄せ、緑は日一日と消えていく」と表現されています。このような「破壊」が続いた結果、淡路島の住民は1973年には、仁井地区に空港を建設する計画に対する反対運動を起こしました。
しかし、北淡町の浅野出身の野心家で、国会議員であった原健三郎氏は、淡路島と本州を結び付ける橋を建設するように国土交通省を説き伏せることに成功しました。その地鎮祭が1986年に行われました。10年の後、淡路島を通る本州・四国連絡橋が開通しました。
しかし、その一年前の1995年、マグニチュード7・2という大地震が関西地方を襲いました。震源地が淡路島にあったことから、この地震は、後に阪神・淡路大震災と命名されました。淡路島では、野島断層と名付けられた活断層が発見されました。野島断層は、北の江埼灯台から南の野島川に至るまで、南北に約7キロメートルにわたって続いている断層です。断層は二つに枝分かれしており、長い方の断層は豊島の南部に向かって断続的に続いていて、全体で約10キロメートルに及ぶ活断層をなしています(中田高・岡田篤正〔編〕「野島断層」1999、135-6)。
地震から11ヵ月後の12月12日から18日にかけて北淡町の各地で行われた毎年恒例のお祭りの儀礼に際して、祭司を勤めていた僧侶は、数多くの荒神様が断層に沿って分布していることに気づきました。「環境破壊」が最も激しかった時期の出来事と年代を示した図をご覧下さい。ここにご紹介したお坊さんのように、この地域の住民の多くは、荒神様の怒りは北淡町の土地を丸裸にしてしまったことの結果であると信じました。
1997年の1月には、荒神様の怒りという噂が広まっていたと私は考えております。この1年後には、実際の断層と、断層によって倒壊した家屋を保存した震災記念公園が建設されました。ここには、震災の被害の様子を展示する展示館もあります。さらに2年後には、震災記念公園の職員が、北淡町の教育委員会の職員に断層に沿って存在している七つの荒神様の祠を調査するように依頼しました。
荒神様の写真が撮影され、荒神様の祠に関する短い報告書が作成されました。しかし、報告書の執筆者によると、荒神様が断層線に沿って存在しているという現象に触れた資料や文献を何も発見できなかったということです。結局、この調査は、この短い報告書が出されただけで終わってしまいました。
破壊と祟り
荒神さんは荒神山とも書かれ、荒ぶる神の宿る山という意味になります。一般には荒神さんと言われ、「さん」(または「様」)は敬称で、「尊いお方」を意味することになります。
蟇ノ浦出身のインフォーマントによると、荒神山とは、荒神さんの社が祀られている丘の上の場所だそうです。この二つの言葉は、「さん」という発音に当てられた同音異義語ですね。荒神さんは、土地の神様です。日本の、他の多くの場所と同じように、蟇ノ浦でも、これは妥当な見方です。
「日本民俗事典」によれば、荒神さんとは、竈神を指し示す囲炉裏の神様だそうです。みなさんがご存じのように、日本の伝統的な家屋では、台所は土を突き固めて作られていました。近畿地方では、それは荒神様と呼ばれており、その性格は、火の神様、同族の守り神、部落の守り神、あるいは、家の敷地の、つまり屋敷の神様、などとされています。全体として、それは、血縁でつながっているか、隣接する場所を共有している世帯、もしくは世帯の集団を包み込んでいる特定の場所の神を意味しています。
荒神さんは、普通、東に面した丘陵地域の森に位置しているか、台所の供物台の上にあります。荒神信仰は、北日本から、沖縄まで広範囲に分布しています。瀬戸内の島々や、9州、中部地方では、一般に、荒神さんは土地の神として知られており、荒ぶる神とされています。大分県では、旦那さんは、奥さんが怒っている状態にある時、それを荒神さんと呼ぶそうです。本質的には、荒神は、台所の神で、特に水の神であるようです。
すべての村に共通しているのは、荒神さんの存在している地域への女性の立ち入りを禁止していることです。このタブーに関しては、原因不明の病気に悩むことになった地方新聞の記者についての有名な話があります。彼女は、朝の6時から始まる荒神祭りを取材しようとして、その準備のために一人で早朝の3時に荒神様のある場所に行ったそうです。それからというもの、彼女は、原因の診断がつかない病気に悩まされたということです。
直江広治氏(「淡路島の民俗」)によると、二つのタイプの荒神信仰が存在しているそうです。すなわち、一つは、屋内、もしくは台所に見出されるもので、三宝荒神の信仰と呼ばれて敬われているものです。もう一つは、家屋の外に存在しているもので、部落神、同族神、組神、株神、屋敷神といったものです。これらのなかで、淡路島で見出されるのは、部落神と組神だけです。荒神を祭る祭祀が継続されないと、何か悪いことが起こるという信仰があります。荒神森という場所があって、そこには、儀礼の主要な部分が行われる小さな祠が祀られています。
淡路島北部の島民の先祖は、野島断層について知っていたのではないかという議論は、荒神様の祠の環境を検討してみると何らかの信憑性が生じてきます。私たちは、丘陵は何万年も前に起こった地底からの隆起によって形成されたものであることを地理学で学びます。地震が、いくつもの丘陵や山岳を消滅させることがありますが、同時に、それらを創り出すこともあります。
北淡町では、長年にわたる丘陵や森林などの自然の破壊によって、荒神様の祠のいくつかが掘り返されてむき出しの状態となり、そうでないものも、適当な避難場所に移転させられました。私は、これらの森に覆われた丘陵に住んでいる神々の典型的なものに光を当てようと思います。そうすると、石上の荒神様が典型的なもので、おそらくそれは他の祠よりも、もっと古いものだと思われます。
私の考えでは、荒神様の祠の理想的な形は、富島の石田にある荒神様のように森に覆われた丘に位置しているものだと思われます。この写真では、荒神様は女性の立ち入りが厳重に禁止されている丘の上に存在していることを示しています。轟のように丘陵が卓越している地域では、海を見晴らすことのできる丘の上に荒神様の祠が祀ってあります。蟇ノ浦では、荒神様の祠は氏族の第二の埋葬地に程近い森に覆われた丘の上にあります。それで、これら三つの例は、これらの荒神様の祠が緑に覆われているか、森になった高い場所にあることを示しています。
しかし、すでに言及しましたように、丘陵のいくつかは平坦にされてしまい、祠の他の地への避難と、荒神様の住まいの雰囲気の変化を招きました。小倉の祠の場合は悲惨な例です。小倉の長畠地区の河野さん一家のお話によると、丘の上の場所には四軒の世帯が住んでいました。彼らの山の居住地域では、1970年(昭和45)から神戸製鋼により、西宮と大阪湾に使用するための土地掘削が始まり、それが、約10年間続きました。
荒神様のお社は、保護のために、20年間にわたって近くの場所に移転されていました。
1989年の平成時代の初めから、再び、ここの土砂は、関西国際空港の建設に使用されるようになりました。そして平成になってお社は現在の場所に帰ってきました。しかし、1995年の地震がお社に沿って通り過ぎていきました。そして、この地域一帯は地震の記憶を保存する記念公園を作るために政府によって買い上げられました。
1998年の記念公園の完成により、敷地のなかの他の四つの神聖視されている神々を含めて、荒神様の新しい社は、現在では、誰でも見る事が出来るようになっています。これは、荒神様の石の目印が現在どのように見えているのかの様子です。他の暴かれてしまったものに較べれば、この祠はまだ運の良い方だと思われます。
私は、時に、隠されていない、あるいは剥き出しにされてしまった荒神様は、その正体が暴露されてしまったことによって、その力を失ってしまったと考えたくなります。なぜなら、それらは、もはや森に覆われた丘の上の聖域ではなく、そこに行くための舗装された道路に付属している平地の開かれた場所にあるからです。
神秘的な何かは、どこかへ去ってしまいました。もちろん、全ての荒神様が同じ不運に見舞われている訳ではありませんが。かつて舟木の一部である小倉にあった運の良かった荒神様が、舟木の山の神の間に再建されています。この荒神様は、現在では権現様と不動明王とともに森に覆われた丘を共有しています。それは、石上神社にある荒神さんと共に崇拝されています。
この荒神様のための森に覆われた特別な丘は、その領域のなかへの女性の立ち入り禁止が厳格に守られている唯一のものであるという点で、全ての荒神のなかでも別格です。そこでは、木々の住居と石上さんとお稲荷さんという神々もまた隣り合って保存されています。北淡町で祭られている全ての荒神様のなかでも、この荒神様は、書き残された文書に基づいて規定されている最も複雑な儀礼と祭儀で守られています。この、特別な荒神様は、野島断層の上にはありませんが、それでも、やはり、その近くにあります。
次に、とくに舟木部落の荒神祭りを例として取り上げ、やや詳しく紹介してみたいと思います。
舟木部落には、現在22の世帯が居住していますが、1955年には30世帯が存在していました。これらの世帯が、この儀礼執行の主体となることになっています。しかし、現在では、そのうちの21世帯が、儀礼への積極的な参加を続けています。この参加は、世帯主の奥さんの状況によって左右されます。
時には、家族の中の誰かが亡くなった、というような理由で、ある世帯とそのパートナーになる世帯が参加できないこともあります。近親者が亡くなった時の喪に服している状態は、ケガレの観念によって不浄であると信じられているからです。1884年以降は、儀礼のやり方が書き残されるようになりました。その中には、お供え物の作り方、荒神祭りの準備と実行に責任を負う当番の順番、饗応されるべき食べ物、などが決められています。それ以来、村の人々は当番の指示に従って役割を果してきています。
荒神さん祭りは、2ヵ所で行われてきました。一ヵ所が石上神社の荒神さんで、もう一ヵ所は、山ノ神の荒神さんです。これらのコミュニティの森林の丘の二つとも、他の村の守り神です。石上神社の中には、石上さんとお稲荷さんの祠があると言われていますし、山ノ神の中には、権現さんと不動明王さんがあるそうです。ここの荒神さんは、もともと小倉にあったのですが、採石に伴って森に覆われた丘は平坦にされてしまい、そのため、その地域の住民は、現在の場所でお祭りを行うように依頼されたのだそうです。
結び
景色の美しい小島の名前であった野島は、もはや「万葉集」の歌のなかに残っているだけです。それは、その場所に因んで名づけられた近くの村の名前です。それから、何百年もたって、この名前は、丘陵地帯の人々の生活に凄まじい破壊をもたらした大地の亀裂の残された傷跡として、もう一度、今度は永遠に記憶されることになったのです。大昔の祖先たちは、後世の人々に、危険な場所はどこであるかを知らせるために、そこに荒神の祠を祀ったのでした。
荒ぶる神を喜ばせることは難しいことではありませんでした。その怒りをなだめるために、12月にお供え物を捧げて儀礼を行い、祝うことによって、コミュニティは、それを記憶しておくように注意を促されていたのでした。荒神信仰は、大地、土地、あるいは場の観念が、いかに取り扱われるかが理想的であるかを示しているのです。
この考察は、私に、糸魚川から静岡にかけて走っている日本列島最大の断層で、本州を二つの地理的なエリア、すなわち東の関東と西の関西、に分割しているフォッサ・マグナについての類似した見方を思い起こさせてくれました。30年以上前の日本の人類学者によると、地質学的な分割は、文化的な分割に対応していると言われています。すなわち、東日本の文化は家を中心とする見方で理解できるのに対して、西半分のそれは、組や講、座の存在によって理解できるというのです。私たちはこの見方を民俗的と呼ぶかもしれません。しかし、それはまた、長期にわたる文明のなかで、自然環境と社会環境の調和を通して、日本人がどのようにしてその知識を蓄えてきたかを理解するもう一つの道となるかもしれません。
数十年前の民俗の消滅についての柳田國男の嘆きは、人々が、1930年代における、日本の急速な近代化に吸収された工場労働者の単なる一人となってしまうならば、私たちの祖先が残してくれたものを、学ぶことはないだろうという意味でした。
しかし、阪神・淡路大震災の後に、彼らは、もう一度声を発したのです。今こそ、私たちは、民衆の叡智に耳を傾け、再考する時ではないでしょうか。
文化の解釈者としての私の作業は、私自身に、森や自然の破壊、祟り、そして共同体のあり方について考えさせてくれました。
淡路島の人々の経験を通して、森は、荒神様のお住まいになっている神聖な茂みとして再来しました。地の神様は、他の人々が自分達の島を建設しようとしたことによってその住まいから追い立てられて、淡路島の森の自然破壊が生じました。淡路島を真っ二つに引き裂いた1995年の阪神淡路大震災は、何千年にもわたって荒神様が守ってきた自然の無差別な破壊に対する祟りであると解釈されました。毎年のお祭りの体験のなかで、荒神様を讃える儀礼を通して、人々は、荒神さまの「力」を私達の周囲の環境を守っているものとして理解し、このことにより地域共同体が存続してきました。
さて、ここで、私の国、フィリピンと日本が共に属している、豊かな水に恵まれたモンスーン気候からいったん離れてみてください。すると、私達の小さな森が、広大な砂漠のなかに残された貴重なオアシスのように思われてきませんか。私は、私達が、自分達の周囲にある森を保護するだけでなく、他の人々、例えば、私の国、フィリピンの熱帯雨林や、アマゾンの熱帯雨林などの、他の国々の森をも守るようになりたいものだと思います。私は、今年、日本を襲っている異常な雨不足や、局地的な集中豪雨を見るにつけ、一地方や地域にとどまらず、祟りが、地球的規模で起こっているのではないかと心配でなりません。皆さん、思い出してください。「天災は忘れた頃にやって来る」のです。
 
近代日本小説における女性像

 

幻想文学における女性
この話題を選んだのには、色々な理由といいますか、動機がありました。私は特に女性作家を研究しているわけではないのですが、数年前に、日本文学の中にBildungsromanというドイツ生まれの青春小説、あるいは教養小説のようなものがあるかどうかということに興味をおぼえました。
Bild‐ungsromanについてはあとでもっと詳しく説明いたしますが、今申し上げておきたいのは、私の考えでは、日本文学には二種類のBildungsromanがあるのではないかということです。つまり男性を主人公としたものと女性を主人公にしたものです。Bildungsromanのことはかなり大きなトピックなので、しばらくわきに置いておきますが、私が今研究しているのは、幻想文学というちょっと変わったSubjectです。
日本では幻想文学というと色々な先入観があるようですので、ここでは英語のFantasyと言っておいた方が安全かもしれません。要するに、現実の世の中には有り得ないものはすべてFantasyです。いわゆるFantasy Literatureは一つの分野ですが、西洋でも日本でも、リアリズム作家だと定評のある人の作品の中にも、大変幻想的な小説が驚くほどたくさんあるので、特に日本文学では、現実と幻想はそれほど遠いものではないと思われます。
そういうことを研究するために、去年の春から泉鏡花を読み始めました。皆さんもよく御存知のように、鏡花は幻想文学の大家ですが、それだけではなくて女性の描き方もすばらしいと思います。しかし鏡花は少し難解な作家ですから・コントラストとして、同時に筒井康隆の小説も読み始めました。
そうすると、二人の作家の女性像が随分違うことにただちに気がつきました。おそらくそれはまず第一に、二人の作家自体の資質の違いから来たものと思いますが、更に他の作家達の作品を読みますと、やはりそれは戦前と戦後の作家の違いであるとも言えるだろうと思いました。しかしそれだけではないと思います。女性作家のものになると、幻想的な作品中の女性が非常に興味深い役割を果たしています。
このようなことを色々考えているうちに、これからお話するようなことを思いついたのです。話のタイトルが現実と幻想というふうに分けてありますので、まず現実の方から始めましょう。しかし現実と言っても、これは文学についての話で、世の中のReal Worldの現実ではありません。特に女性の描き方についてみると、たとえRealistic Fictionと言っても、女性は割合に象徴的な役割を演じています。
確かに日本近代文学には力強い印象を与える女性も登場して来ます。例えば谷崎潤一郎の「細雪」の幸子や三島由紀夫の「宴のあと」の主人公、大江健三郎の「個人的な体験」の火見子などのような、かなりリアリスティックな女性像もありますが、これらはむしろ例外的で、日本の現代文学全体を展望すると、大部分の女性は、男性と比べるとあまり深みや個性といった3 Dimensionality(三次元性)を感じさせません。
これは別に驚くべきことではないと思います。ブラム・ダイクスタラというUCLAの学者の「I dols of Pervesity」という本には、19世紀の英国作家の文学における女性の、いわゆる象徴性が細かく研究されていますが、ダイクスタラによりますと、ビクトリア時代の男性は工業化が進むにつれて神経衰弱になって来て、色々な不安や恐怖に襲われるようになったと言うのです。
その結果、彼らの文学で描かれる女性は、夢と悪夢を表わすFantasyとして、二つの対称的な役割を果たすようになります。一つは19世紀的悩みからの一種の避難場所、あるいはオアシスという役割です。例えば漱石が愛したPre‐Raphaelite(ラファエロ前派主義者)のように、工業化された醜い社会から逃避して、理想化した中世を描き出し、その中に美しく、神秘的な女性をはめ込みました。このように女性は避難場所として象徴される一方で、逆に、これもやはりFantasy文学におけるのと同じように、男性の心に僣んでいる恐怖も象徴します。
資本主義や帝国主義の中心だったビクトリア時代のイギリス文学には、皮膚の色が黒くて魔女のような力を持つ、男性にとってAlienのような女が、男の健全な精神や生活を脅かし、破滅に導いたりしています。他の例もたくさんありますが、私がここで強調しておきたいのは、これは西洋独特の傾向ではなくて、むしろ西洋化と工業化という二つの問題に同時に苦しんだ明治・大正の日本文学において、このような傾向がはるかに強いのではないかということです。
漱石・谷崎・鏡花における女性
避難場所としての女性の例を、漱石の作品の中にもう少し詳しく見てみましょう。先に申しましたように、漱石はPre‐Raphaeliteを好んだだけではなく、むしろPre‐Raphaeliteの描いた女性を手本にして、自分の作品の中に同じような女性を沢山創り出しました。「幻の楯」のクララ、「草枕」のお那美、「明暗」の清子等、神秘的な美人を描き出しました。そうした美人たちはただPre‐Raphaeliteの模倣ではなく、英国の女性と同じように、困難な近代社会に生きる男性の静穏なオアシスとなっています。静かで穏やかであることは大事なことなのです。
漱石の作品の中では、男性とは反対に女性は動かなければ動かないほど良いのです。この男と女の基本的な違いが一番よく描かれている場面が、「三四郎」の中に見出されます。そこでは広田という年配の学者が夢を見るのですが、その夢の中に小さな女の子が出てきます。彼女と広田の出会いが非常に感動的で、象徴性の上でも大事ですから、少し良くなりますが、引用してみましょう。
夢だよ。…‥僕が何でも大きな森の中を歩いてゐる。…‥突然その女に逢つた。行き逢つたのではない。向かうはじつと立つてゐた。見ると昔の通りの顔をしてゐる。昔の通りの服装をしてゐる。髪も昔の髪である。つまり20年前見た時と少しも変はらない12、3の女である。僕がその女に、あなたは少しも変はらないといふと、その女は僕に大変年をお取りなすつたと言ふ。
次に僕があなたはどうしてさう変はらずにゐるのかと聞くと、この顔の年、この服装の月、この髪の日が、一番好きだからかうしてゐると言ふ。それは何時の事かと聞くと、20年前あなたにお目にかかつた時だと言ふ。それなら僕は、何故かう年を取つたんだらうと自分で不思議がると、女があなたはその時よりももつと美しい方へ方へとお移りなされたがるからだと教へてくれた。そのとき僕が女に、あなたは画だと言ふと女は僕にあなたは詩だと言つた。
漱石の小説には、美しい画のように物体化された女性が随分出て釆ます。彼女らは何も要求せず、ただじっと男の精神的進歩(Bildung)を見守りながら、男性にとっては大変都合の良い役割を果たします。過去への憧れに満ちた主人公を慰めたり、励ましたりもします。
これらおおむね肯定的な役割をする漱石の作品中の女性に比べると、谷崎の作品に登場する女性はもっと個性的な役割を演じます。谷崎の作品中の男性の主人公にも過去への憧れを持っている人は少なくないのですが、その憧れと同時に、将来に対してのObsession(脅迫観念)とか恐れとかを持っている人物も、かなり多いと思います。「痴人の愛」の浮気なナオミ、「瘋癲老人日記」の欲張りな娘や「鍵」の恥知らずな主人公のように、西洋の魅力と欠点を兼ね備えた悪女がいっぱい出てきます。ビクトリア時代のイギリス文学に現れる肌の黒い女性とはちょうど逆に、西洋化された女性が男にいわば魔法をかけ、とりこにするのです。
もちろん、谷崎の作品には、日本的女性であっても悪女はいますが、悪い女と言っても、西洋的女性に比べて、あまり積極的な悪は行いません。特に谷崎の一番理想とする女性像、つまり谷崎の母親をイメージした人物は、たいてい男の望む通りの行動をします。例えば谷崎の名作を見てみますと、「夢の浮橋」は「母胎への回帰」としての構造を持っていると言えます。
しかもこの母は、一個人の母というより、むしろ日本文化全体を守っている母を意味しているのは明らかです。この美しい憧れに満ちた小説には、「源氏物語」をはじめ、「新古今集」や能など、日本の古典文学の名作の多くが引用されています。小説の中心となっている「庭」も同様に、母の体内の象徴であって、一つの日本文化の表現として認めて良いと思います。谷崎の小説におけるこの近親相姦とでも言うべき関係は、一種のエディプス・コンプレックスの願望達成と言うこともできるでしょう。
「夢の浮橋」はFantasyに大変近い小説だと思いますが、本物の幻想文学では女性の取り扱い方はどうなるでしょうか。泉鏡花の作品を見ると、一応は谷崎の取り扱い方とそんなに変わっていないと思われますが、もう少し詳しく見ていくと、すぐに泉鏡花の女の方がずっと積極的で、恐ろしいということがわかって来ます。例えば「高野聖」を見ますと、谷崎も描いているような美しい神秘的な女が、暗い体内を思わせる谷間に現れます。
この女は客であるお坊さんを親切にもてなしますが、同時に非常に誘惑的な態度を見せます。これも谷崎のものとあまり変わりませんが、やがて彼女は男を動物に変えてしまうという、実に残酷な態度を示します。こうしたことは、谷崎の作品には見られない行動です。鏡花の女は、単に受身的に日本の伝統や習慣を象徴するだけでなく、女性は過去の日本が失望に満ちた現在に一種のむごたらしい復讐を与える手段として、非常に積極的な役割を果たしているのです。
藤本徳明が言うように、「鏡花文学にはしばしば古風で心やさしい美貌の女性の愛が成金的俗物的男性の金力や権力によって踏みにじられんとするテーマが描かれる。それは、力ずくで成金的俗物利潤追求的な近代欧米的男性原理の受容を迫られんとした明治の日本の古風な女性原理の悲歌であったかも知れないのである。」しかし、鏡花の女性はいつも多様な受難の存在であったわけではありません。
「高野聖」の女だけが男を動物に変える魔力を持っていたのではなく、「夜叉ケ池」の姫は彼女の力を信じない村人を洪水で苦しめますし、あるいは「天守物語」の姫は恋人を救おうとしてかなり積極的な行動をとります。鏡花の女は魔力によって現代に復讐しますが、その復讐も女自身もかなり肯定的に描かれています。しかしそうした女性においてもやはり、漱石や谷崎の作品中のもっとリアリスティックで伝統的な女主人公と同じように、日本の古い伝統を守るという象徴的な役割が非常に重要なものなのです。
戦後文学における女性
戦後文学になると、特に幻想文学において女性の役割が大分変わって来ました。簡単に言えば、その変化は女性がほとんど母性を喪失したこと、時には全く女性が不在になるということです。その不在には色々な表われ方があります。例えば、安部公房の「密会」では妻は誘拐され、井上ひさしの「吉里吉里人」のベルゴ17という女性は、殺されて肉体を男性のために提供されますし、筒井康隆の「問題外科」の看護婦は犯されてついに殺されるなど、不具にされたり、変形されたり、あるいは全く消滅させられたりする女性の数が目立って増えて来ます。
その消滅させられた女性の中で一番面白い表わされ方は、筒井康隆の「ポルノ惑星」におけるサルモネラ人間の不在の女だと思います。この「ポルノ惑星」というSF的な話は、鏡花の「高野聖」ほど知られていませんが、意外に鏡花の名作と共通している点がありますので、もう少し詳しく比較すると面白いと思います。
両方ともエロティシズムに満ちた旅、あるいはQuest、つまり探索の構造をとっています。それに両作品とも、エロティックで遠く隠れた一種の理想郷を描いています。その国では男性が変な動物に変えられてしまったりすることがよく起こるので、主人公は最後に一種の悟りに達する結果になります。そのうえ「高野聖」では蛙や蛇が住んでいる林が、また「ポルノ惑星」では明らかに性的な「おっぱい太陽」とか「夜泣き山」等が背景になっています。
ところが、この二つの小説には一つの興味深い違いがあります。それは女の存在と不在ということです。先ほど述べましたように、「高野聖」の中心には美しくてやさしい神秘的な女がいました。しかし「ポルノ惑星」の性にあふれた背景の前には、女性が一人も登場しません。一番女に近いものは、性別がないのに母の役割を果たしているクモのような動物です。そして小説のクライマックスでは一人の男性、最上川先生というかなり年配の科学者がそのクモに変わってしまいます。驚いたことに、最上川先生はその変化を嘆くどころか、むしろ喜んでいます。やっと「性から開放された。うれしい、うれしい」と叫んでいる彼の姿が、小説の最後のイメージです。
筒井康隆の小説がかなりユーモラスに性的な問題を取り扱っているのに比べて、安部公房の「密会」という小説は性と女の関係を非常に暗く描いています。この小説は、主人公の妻が或る日突然さらわれて、おそらく近くの大病院に閉じ込められたらしいという、ありそうもないような出来事から始まります。主人公も妻を探すために病院の中に入って行きますが、このQuest(探索)の形をしている小説にはハッピーエンドがありません。
むしろ主人公が病院の内部に入って行くにつれて、ますます雰囲気が暗くなって行きます。やがて妻らしい女がやっと見つかりますが、この女性は仮面をかぶって、大きなベッドの上で大勢の男とSexをしています。最後は、主人公がその場から逃げ出して、病院の地下で一人ぼっちの生活を送ることになるという気味の悪い結末です。戦前の文学にも、谷崎の「母を恋ふる記」のように、女を探すという構造を持っている小説がありましたが、その中では、女を発見したことはハッピーエンドを意味し、安部公房の暗いビジョンとは全く違います。
谷崎の小説では、老人が夢の中で幼い頃に戻り、悪夢のような景色の中を旅しながら、ついに若くて美しい母を見つけ出すのです。ところで、母のイメージについて話しますと、最近の幻想文学では、母の描き方も大分変わって来ました。例えば「吉里吉里人」の主人公の母は、彼を呪っているとでも言っていい位に、いつもその息子にとって最悪の時に現れて、息子に屈辱を与えてしまうという、大変否定的な役割を果たします。
他の幻想的小説では、母性がそれほど重要視されずに、母親としての生産性、つまり赤ちゃんを産むことが否定的に強調されています。例えば、安部公房の後期の作品で、主人公の妻が怪物のような赤ちゃんを産みますが、それも先に述べた「ポルノ惑星」の構造のきっかけになっています。つまり、ポルノ惑星に滞在している女性科学者が変なものを妊って、そのお腹の中の「何か」を中絶するために、Quest(探索)が始まったという構造なのです。
大江健三郎の最近の小説では、母とか一般の女性が割に肯定的な役割を果たします。例えば「洪水はわが魂に及び」の主人公のガールフレンドのいなごが、主人公の息子のじんを救って新しい未来の訪れを象徴していますが、初期の大江作品の女性は、たいてい男の夢を破るという、随分否定的な行為をしています。大江の問題作「同時代ゲーム」でも、主人公の妹が大事な役割を果たすのにも関わらず、妹自身は作品の内に登場しません。
現代文学における女性の不在とか、否定的な描き方とかは、結局どういう意味をもつのでしょうか。戦後の日本人男性作家がみな急に女嫌いになったのでしょうか。そんなことはないと思います。もしかしたら、女性はもはや過去とか伝統とかを象徴することができなくなったと同時に、男性作家が西洋的文明による明るい未来も信じられなくなったために、未来を象徴することも出来なくなったためではないかと考えられます。あえて言えば、日本の戦後の作家が、やっと自国の歴史と、明治時代以来公式に認められて来た文明開化のビジョンから、解放されたということかも知れません。この解放は一概に良いことだとは言えません。私が今まで述べた例から見ても、そこには寂しい暗い面もあるのです。
戦前の女性作家における女性
その暗い面をもっと理解するために、これから女流文学の方に少し触れてみましょう。女性作家の文学にも現実と幻想の違いがあるので、それを心にとめながら現実の方から始めましょう。
これも少し大袈裟な言い方かも知れませんが、明治以来の日本の女流文学には、女性としての一種のIdentity Crisis(危機)というか、女性独特のBildung(進歩、教養)とでもいうようなパターンが発見できると思います。ところがこのパターンは、男性のような歴史と家から解放されるというBildungではありません。漱石の「こゝろ」とか、藤村の「破壊」のような小説が描いた若い男性が、伝統にそむいてやっと自分のアイデンティティを見つけ出すのとは違って、女性の主人公は、いくら家とか自分の過去にそむこうとしても、必ずと言っていい位、それに負けてしまいます。
例えば、樋口一葉の作品をちょっと取り上げてみます。一葉の「十三夜」という短編に、そのパターンがはっきり見られます。ある若い女性が、彼女に冷たい残酷な夫と一緒に暮すことが耐えられなくなって、実家に帰って来てしまいます。実家の親はある程度同情してはくれますが、絶対に彼女を家に泊めません。そして父親の説得によって、最後には夫の所に戻ることを承知します。そこで夫の家に戻るために人力車に乗りますが、偶然にもその車夫が彼女の前の恋人だったのです。しかし女は何も言わずに、諦めて夫の家に戻るという結末です。
ある面からみれば、一葉の主人公は一種のアイデンティティを見出したとも言えますが、それはどのようなアイデンティティでしょうか。彼女が見出したものは、女は一個の人間ではなくて、母であり、妻であり、娘であるということだったのです。私はこの小説の構造をCircular Chain「円を描いてもとに戻るくさり」というふうに名付けました。日本語に訳せば、「円形のくさり」ということになるでしょうが、英語のChainの方が色々なニュアンスをもっていますので、Chainという言葉をそのまま使った方がいいかも知れません。Chainという言葉が、どういう意味を表わすかと言いますと、やはり先Chainの一番基本的な意味である、一つの物体Solidなもの)ではなくて、沢山の輪(Links)で出来ているということです。
私の見るところでは、女はそのChainのLink(輪)の一つにすぎません。前のLinks(輪)は過去の象徴で、過去とは個人的なもの、つまり親や祖先への責任を意味し、ときには超個人的過去、つまり日本の社会への義務も意味します。後のLinks(輪)はやはり子供とか社会の将来への責任です。英語にはKarmic Chain、つまり因果という表現がありますが、先程の一葉の宿命観というか、諦めに満ちた小説には、このKarmic Chainの意識が僣んでいると思います。円地文子の「女坂」という小説には、この因果ということがはっきりと書いてあります。
円地文子の小説では、一葉の主人公と同じように、残酷な男と結婚した若い女が、その結婚から逃げようとして逃げられず、結局自分の人生を諦めてしまいます。しかも彼女は、自分が自由ではなくて、くさりの一つの輪だということを、ちゃんとわかっているのです。しかし円地の主人公は、最後の望みとして、死んでからは絶対に夫の家族と一緒のお墓に埋めてもらいたくない、灰を海にばらまいて貰いたいという、苦しみに満ちた願いを遺します。ところが、彼女が死んだ後、彼女の望みは何一つかなえられませんでした。彼女の願いは無視されてしまったのです。
英語のChainには、もう一つのニュアンスがあります。それは囚人の為に使うくさりという意味です。女の側からみると、いくらそのくさりを断ち切ろうとしても、社会があまりに強すぎるために、最後には女性はいつも牢獄に戻されるということです。
戦後の女性作家における女性
今まで申しました例は、みな戦前に書かれたか、或は戦後に書かれても、戦前に行われていたことについての小説ですが、戦後のことになるとどう変わるでしょうか。驚くことに、私には戦後の小説にもCircular Chainがまだ見られるように思われます。そのChainは時々変な形を取りますが、まだまだ女性の個人的行動をはばんでいます。
例えば円地文子の「女面」では、非常に神秘的な姑が自分の娘と義理の娘を奇妙な目的のために利用します。その利用の原因となっているものは、死んだ息子とこれから産まれる孫のためで、過去と将来両者のためです。円地の作品が暗示するように、女性作家の作品で一番重要な関係は、男女の間のことではなく、母と娘の闘いです。それに、谷崎とか鏡花の文学と比べると、母が非常に冷たい形を取ります。一葉の「十三夜」のように、娘が実家に戻ろうとしても、母親に拒絶されるというパターンが戦後文学にも続いています。
例えば津島佑子の「草の臥所」では、若い女が恋人と別れて家に戻ってきますが、母親は歓迎するどころか、娘を批判し、無視しようとします。「草の臥所」の一番痛切な場面は、先程の谷崎の「母を恋ふる記」の夢とよく似ています。津島の主人公は幼い時のことをよく覚えていますが、特に彼女がスーパーマーケットに行って母親とはぐれてしまったという、怖い思い出を持っています。スーパーマーケットを隅から隅まで探しまわっても、母はなかなか見つからなかったのですが、最後にやっと母が現れます。しかし、谷崎の愛に満ちたハッピーエンドと違って、母はただ娘を強く叱り、黙ったまま家に帰ります。
母が単に冷たいだけでなく、時には積極的に娘を家から追い出そうとすることもあります。高橋たか子の「相似形」では、母が夫と息子と一緒に住むために、娘を家から追い出そうとします。
もちろん、くさりから解放されて個性的な人生を送っている例外もありますが、女性作家のリアリズム文学では、その例外はまだまだ稀なように見えます。ところが幻想文学になりますと、くさりを断ち切って一人の女として生きるビジョンが驚くほど増えて来ます。しかしその一人ぼっちのイメージは、たいてい現実から離れたFantasyにすぎません。
例えば、大庭みな子の「山姥の微笑」という非常に感動的な短編についてちょっとお話ししますと、「山姥」の一番興味を引く点は、そのファンタスティックなタイトルにも関わらず、話そのものは強く心に訴えるリアリスティックなものです。いわゆる「山姥」は、他人の気持や考えがわかるという超自然的な力を生まれつき持っています。その能力のために、いつも人の犠牲になってしまいます。例えば、山姥が年をとって死にそうになった時、自分の子供の「私達の迷惑だからお母さんに早く死んで欲しい」という気持がわかって、子供の希望に従って自殺するという場面があります。
「山姥の微笑」から二つの興味深い点を取り上げてみたいと思います。一つは、そのタイトルの反語的な皮肉です。この小説の主人公は、山姥どころかごく普通の人間なのですが、女性である以上、このような超人間的な力を持つのが当然だとされている点です。もう一つの興味深い点は、その主人公が抱くビジョン(幻覚)です。その幻覚は孤独に憧れているビジョンです。それは、実際に山姥となり、風が吹きすさぶ岩の上に裸で立っているという、かなり強烈な印象を与えるビジョンです。しかし、くさりの中の女である限り、そのビジョンが単なる幻覚にすぎないのだということが、読者にはすぐに分かるはずです。
円地文子の「女面」の最後には、孤独のビジョンはないのですが、男性不在の特別な世界を暗示しています。円地や大庭の小説では、男性の不在は割合はっきりしない描き方がしてありますが、金丼美恵子の「兎」というすばらしく純粋なFantasyでは、ヒロインが何の躊躇もなく、家族から、男性から、責任から解放された生活を追求しています。
「兎」は、語り手が突然大きくて白いうさぎに出会うという、神秘的な場面から始まります。近づいて見ると、それはただ兎の衣裳を来ている女性ですが、その女性の話がますます小説を幻想の世界へと導くのです。その女性の母と兄弟が或る日いつの間にか消えてしまいました。ところが彼女は驚きも嘆きもせずに、平然として父と新しい生活を始めます。
その生活はとても自由で、学校にも仕事にも行かず、ただ兎を育て、それを殺したり食べたりするという非常に単純なものになります。娘はこの生活に満足しているらしいのですが、或る日、今度は父が急に死んでしまい、全く一人きりの生古を始めることになります。その生舌が非常に兎に似てきて、兎を食べるだけでなく、衣服に兎の毛を使い、兎の毛と血で一杯の家に住んで、一人ぼっちの生活をします。話の終わりには、最初に現れた語り手も影響されて、兎のようになろうと決心するのです。
「兎」の気味の悪い、しかし新鮮なFantasyは色々な面から解釈できると思います。すぐ感じることは、谷崎のような一種のエディプス・コンプレックスのちょうど逆で、つまりエレクトラ・コンプレックスに他ならないということです。女の子の暗い夢のように、ライバルの母と兄弟がいなくなって、愛する父と二人きりで自由で制約のない生活を送ることになります。
しかし話はそこで終わりません。終わりの方がずっと暗いのです。その最後に出てくる兎小屋のビジョンも色々な意味をもっているでしょうが、その一つは明らかに女性の体特有の場所のシンボル、即ち胎内、子宮だと思います。けれども、その一番女性的で、しかも母性的なシンボルの中に、女は一人ぼっちで住んでいるのです。やはりいくら父を愛しても、やがては孤独に憧れ、「山姥の微笑」とか「女面」の女性と同じように、男性なしの世界の方に惹きつけられるのです。もしかすると、これは男性に対するだけではなく、つまりただ男嫌いの女性の復讐を意味するだけではなく、圧力が強すぎ、責任が重すぎ、くさりが多すぎて息がつまりそうな社会全体への復讐のFantasyなのかも知れません。
女性不在の意味
復讐のテーマは女流文学に限りません。日本文学では、男性が描いた女性のイメージと、女性作家が描いた女性のイメージには、意外に共通している点があります。簡単に言えば、戦後の男性作家の幻想文学における女性像はたまたま否定的な描き方をされていますが、それは困難と失望に満ちた社会からの避難場所となる女性ではなくて、むしろその失望に満ちた社会の重要な象徴になっているのではないでしょうか。ですから、その女性殺害とか、女性不在とかは一種の男性側からの復讐だと思います。
女流文学では、女性の登場人物はたいてい肯定的、または同情的に(少なくとも、被害者のように)描かれていますが、女性作家の幻想文学になりますと、その登場人物が被害者でもなく、いわゆる良い女でもなく、円地や大庭の小説におけるように、段々と力を持ち、普通の人間世界を超越した女になって行きます。しかし面白いことに男性女性作家両方とも、その作品の主人公の最後のビジョンは孤独です。その不在の原因は、時には男性がわざと殺害した場合もありますが、安部の「密会」のように、男性の貴任ではなく、偶然の出来事である場合が多いのです。女性の主人公が一人ぼっちになるのは、常にと言っていい位、女性自身の選択によるものです。
最後にこの孤独な女性や男性が現代日本のReal World (実世界)とどういう関係にあるか、考えてみたいと思います。皆様は私よりずっとご自分の社会にお詳しいのですから、もしかするとこの問題はおまかせした方がいいのかも知れません。しかし、私のような傍観者としての一外国人からの感想を申させていただきますならば、この孤独のイメージは現代日本社会の暗い面を反映していると甲わずにはいられません。
今までグループ意識が強いことで有名であった日本社会が、突然孤独に憧れているイメージでいっぱいになったということは、非常に興味のある傾向だと思います。女性から見れば、それはくさりを断ち切り、個性的に生き始めたという証拠の一つでもあると言えるのではないでしょうか。長い間、私の話をお聞き下さいまして、本当に有難うございました。外国人ですので、皆様から御覧になれば、随分見当外れの意見を申し上げたかも知れませんが、ひょっとして、それがかえって日本社会の現在の状態、皆様は当然として疑問をお感じにならない男性や女性の立場などを見直すきっかけの一つになりましたら、大変嬉しいと存じます。
 
現代日本に於ける仏教と社会活動

 

本日は、現代日本に於ける仏教と社会活動についてお話したいと思いますが、先月の講演者は、5ページにわたる印象的な資料を配布され、48ものテクストの引用と10の画像を用意されましたが、私は皆様にお配りするものを持ち合わせておりません。これは禅宗本来のやり方ですね。私のこの研究はまだまだ取り掛かったばかりですので、成果よりも疑問点の方が多い段階です。したがって今日のこの機会に、皆様方からのご意見やご指摘を頂戴したいと思っております。
また、「社会活動」という言葉で題をつけさせて戴いておりますが、これは、social engagementという言葉の意味でお聞き願いたいと思います。日本語の「社会活動」より少し広い概念で、社会と関わること、社会的な問題に携わることを意味します。この「社会活動」ということを仏教と関連させた場合、潜在的には、悩めるティーンエイジャーへの僧侶のカウンセリングから、仏教の救援団体によるビルマ難民の救援活動まで、大変広い範囲の現象を覆います。仏教団体による多くの伝統的な活動−−説教や法事、葬式など−−も、勿論、仏教と社会との関わりの一形態です。
さらに、読経や一人っきりでの瞑想でさえも、伝統的な仏教の考え方に基づいて非二元論的に解釈するなら、基底のレベルで世界に影響を及ぼしていると想定できるのです。しかしながら、この広範な枠組みの中で私が最も関心を抱いておりますのは、意図的に外に向かってなされる社会的ないし政治的な活動形態なのです。すなわち、地元でリサイクルのキャンペーンを組織する僧侶の方が、人間と自然の一体性について説教する僧侶より、私の関心を引くのです。
もちろん、共に正当的な活動なのですが。また、仏教と社会活動について研究する場合、「仏教」という言葉が意味している内容を再検討する必要があります。しかし、この問題はこの場で取り上げるには大きすぎるようです。本日話題にいたしますのは、日本仏教の既成教団、とりわけ、浄土宗、浄土真宗、禅宗、そして日蓮宗などですが、折にふれて立正佼成会のような仏教系の新興宗教にも言及することになると思います。
社会活動の分類
まず最初に、概観した上での一般的結論は、現代の日本の仏教界はそれほど社会に関わっている訳ではないというものでした。皆さんも御存知の通り、既成教団に対して「葬式仏教」という蔑称が投げつけられることがありますが、これはある意味で正しいのです。既成教団はその慣習となっている行事を執り行うことに甘んじて、自らの宗教団体を維持存続させることに汲々としております。
確かに、日本の仏教者たちが共通の活動方針に賛同することがない訳ではありません。しかし、それは最も議論を喚起しそうにないたぐいのプロジェクト、例えば世界平和会議ですとか、現在のネパール国内にある釈迦牟尼の生誕の地に建物を建てるといった計画なのです。一般的に言って、日本仏教は社会活動に携わってはおりませんが、特定の分野に限って見ますと、僅かではありますが幾つかの活動を見出すことができます。
これらの片隅の活動は、その構成や目的、展望に於て大変広範にわたっており、きちんと類別することは困難です。が、取りあえずの措置として、それらを四つのレベルに分類することに致します。すなわち、個人と、地域と、国家と、国際のレベルです。もちろん、これらのレベル間の境界は明確なものではありません。ある僧侶が個人でスリランカへ行き、孤児院で働いたとしましょう。この場合、個人と国際の二つのレベルが関係します。あるいは、当初は地域的な運動であったものが、しばしば国家的問題や国際的問題と取り組むようになります。そして、国際的に活動している組織も、国内からの支援なくしてはありえません。
個人レベルの活動
大きなグループに参加せずに、個人レべルで社会活動に携わっている仏教者が、少しずつではありますが生まれてきております。奈良には東南アジアの難民のために定期的に一人で托鉢をしているお坊さんがおり、彼はある時はビルマの難民のために奈良駅で終日一人で募金活動をしました。福知山の禅宗寺院の若い住職は、日本で勉強することを望んでいるビルマの僧侶が文化ビザを取得できるようにと、舞台裏で入国管理事務所に掛け合っています。名古屋の真宗の住職は、インドの困窮している農民たちを様々な方法で支援しております。すなわち、学校の新設のための募金活動をし、9人の若者をインドに連れて行って当地の下層農民と共に働き、インドの学生を一人自分の寺に置いて保証人になったりしました。
地域レベルの活動
個人レベルの活動に関しましては、まだまだ幾らでも例を挙げることができますが、地域的なレベルに目を移しますと、日本中、小都市のほとんど、大都会の全てで、多様なグループやプロジェクトを見ることができます。そのメンバー構成も僧職者と在家者の割合によって様々です。多くの場合、僧侶はそのグループの活動目標を支持して、自分の社会的地位を利用して便宜を計ったり、建物を提供したりしています。
これらの活動の最初の発案者が僧侶自身である場合もありますし、寺院の壇信徒である場合もあります。あるいは寺とは関係のない、その地域の活動団体である場合もあります。具体例を挙げさせていただきますと、京都の有名な浄土宗の寺院である法然院の若き住職は、幾つかの環境問題について活動を始めました。
関西地区の環境問題と取り組んでいるグループと協力して、京都東山の営利的な開発に反対してきましたし、関西に新たに原発を建設することに断固として抵抗しております。また、彼は自然研究会を主催し、月に一度勉強会を開いたり、小学生たちに環境問題を手ほどきする講習会を開設いたしました。だからといって、法然院はその本来の関係者たちに対しておざなりになっている訳ではありません。
檀信徒や法然の墓所にお参りにくる各地の信者、そして観光客たちもおります。この住職はまだ33歳ですが、日本の若い僧侶の中の新しい一つのタイプを代表しております。彼らは急速に責任ある地位に就いており、この体制内で働く意味を理解しつつ、同時に別の社会的課題を追求しております。京都市南部の浄土宗の寺院、道澄寺の住職は、お寺の外観を喫茶店のように改装して、映画フィルムを上映し、講師を招き、寺院を若者の集う場所として解放しました。
彼はこう言っています。「もとどおりの伝統的な様式にすると、膨大な費用がかかってしますということもありましたが、それ以上に既存のお寺のイメージを取り除こうと、思い切り現代風にしたのです。お墓とか法事とか、人とお寺のかかわり方はごく一部分に限られてています。それをもっと全体的にかかわりたい。そのためには、目に見えるものを変化させることも必要ではないかと思われます。」と。
名古屋の精力的な真宗の住職は、多くの地域的プロジェクトに参加しております。彼は名古屋地区のタイから移民した人々が日本の生活になかなか適応できないことを知ると、タイの若いソーシャル・ワーカーが来日できるよう手配し、彼のお寺に住まわせ、移民した人々の手助けができるようにしました。また彼は、広島の被爆者が宗教はなぜもっと核兵器に反対しないのかと問いかけていることを聞いて、名古屋の電話帳で全ての寺院の住所を調べ挙げ(およそ1600件)、各住職宛に手紙を書き、宗派を越えて平和について話し合うよう招待しました。
その結果生まれたグループは、広島と長崎に原爆が投下されたその時刻に鐘をつくよう、名古屋の全寺院に呼びかけました。およそ百あまりの寺院がこの行事に参加し続けています。僧侶のグループがある特定の目的を掲げて公式の組織を作るのは、また別のタイプの地域的な活動です。京都仏教青年会がこの好例です。この会はおよそ40人の仏教僧侶で構成されております。「青年会」という名称ではありますが、関係者の大半は自分の寺院の住職を務める50代から60代の人たちです。
宗派関係は既成の各教団に広く跨っており、浄土宗(13名)、臨済宗(8名)、天台宗(5名)、曹洞宗(4名)、真宗(3名)、法華宗(3名)、日蓮宗(2名)、真言宗(1名)という割合になっております。5年前に会が始まって以来、青年会は老人や重篤の病人の要求に活動の焦点を合わせてきました。メンバーの主要な活動は、病院や老人ホームを訪れ、そこで病人や医者や看護婦と話し合うことです。会はまた月に一度セミナーを開き、医療関係者の最新の関心事を話題にします。メンバーの一人が次のように私に語って下さいました。
「日本人は一般に、病院で僧衣を見かけることを嫌います。というのも、何か葬式に関連したことで僧侶がそこにいると考えるからです。でも私たちは、病に苦しんでいる孤独な人々の何人かでも、その人たちの力になり、慰め、楽しませるためにそこに行っているのです。私たちは特定の宗派に改宗するように勧めたりなどしません。老人は既にどこかに所属しているものです。でも、宗教が話題になった時には、私たちは喜んでそのことについて議論します。」と。
彼らは国家的あるいは地域的な課題すら、新たに自分たちの現在の課題に付け加えようとはしておりません。ただ、青年会のメンバーの一人がアメリカで"grief-work"と呼ばれているセラピーの一形態を始めました。これは、損害を被ったり個人的な悲劇で悲嘆に暮れている人々のための、自由参加のワークショップです。しかし青年会のメンバーの大部分は、会の当初からの活動形態に満足しております。確かに、各自のお寺にお互いを招待しあうということで、宗派間の交流という機能も果たされてはおりますが、彼は青年会の中に、例えばgrief-workのような新しいアイディアに対する関心が生まれることを期待しております。
次に、在家の仏教信者が指導的役割を果たしてきたグループがあります。京都に基盤を置くFASというグループがその一つです。日本語でもエフ・エー・エスと言うのですが、この略語は「分割できないものとしての、自己と、世界と、歴史」を意味しています。このグループは、1944年に、久松真一(1889-1980)によって創設されした。当時、久松真一は京都大学の仏教学の教授だったのですが、それよりも在家の禅の師匠として尊敬を集めるようになりました。FASの教えは、精神的修行と、学問と、社会的関心との三者の均衡です。1951年に彼らは「人類の誓い」と題された文章を公表しました。次のようなものです。
私たちはよくおちついて本当の自己にめざめ
あはれみ深い心をもつた人間となり
各自の使命に従つてそのもちまへを生かし
個人や社会の悩みとそのみなもとを探り
歴史の進むべきただしい方向を見きはめ
人種国家貧富の別なく みな同胞として手をとりあひ
誓つて 人類解放の悲願をなし遂げ
真実にして幸福なる世界を建設しませう
しかしながら久松の没後、この会はリーダーシップの不在に苦しんでいるように思われますし、一握りのメンバーが週に一度座禅と話し合いのために集まり、年に2回、5日間の修練の会を開いております。この会が立てた目標の一つが「新しい歴史の建設」であるにも拘らず、今や政治的・社会的活動から後込みをしているのです。久松の掲げた理想が如何に創造的であり、革新的であったにせよ、彼が巣立たせた運動は、今や遺憾ながら完全に臨済宗の本流の中に取り込まれております。
今まで申し上げたことを簡単に整理してみましょう。私は地域的活動のレベルで幾つかの事例を取り上げました。法然院の住職は環境問題に携わっておりましたし、もう一人の京都の住職は自分のお寺を若者たちに開放しました。名古屋の住職はタイのソーシャル・ワーカーを援助し、広島と長崎の被爆に因んで反戦のための行事を始めました。京都仏教青年会のメンバーは病院でボランティア活動を行っていますし、FASのメンバーは座禅と社会的自覚とを結びつけようと試みております。
お分かりのように、これらの人々やグループの目標は極めて変化に富んでおります。皆さんは、これらの成果はたいして目ざましくもないし、興奮させるようなものでもないと思われるかも知れません。あるいは、こんなものを報告する価値が一体あるのだろうか、といぶかしんでおられるかも知れません。私自身、プラスとマイナスの両方の面を見ております。つまり、いま行われていること自体は賞賛したいのですが、同時に、それで充分だとも思っておりません。
国家レベルの活動
国家的レベルと申しますのは、扱う課題そのものが本来的に国内の問題であり、それが国家的スケールで働くことをもくろんだ運動のことです。このレベルに関しては、西洋的見地からすれば、2種類の活動を予期するものです。すなわち、一つ目は既成の宗派によって組織されるか、あるいは援助されている改革運動です。二つ目は既成教団を拒否し、あるいはそれに挑戦する草の根的運動です。
しかし、実際は宗派が援助する運動は僅少ですし、国家的広がりを持った草の根運動は事実上皆無です。既成の仏教教団の中で、取り上げる価値のあるものが二つありますが、ともに真宗大谷派(東本願寺)と関係があります。一つは真宗同和推進本部です。この名称は「同和」という言葉に馴染みのない人に取っては曖昧なものに響きますが、その活動内容は明解です。すなわち、日本人社会全体に蔓延している被差別部落民に対する差別と取り組んでおります。そして部落民のおよそ80パーセントは真宗の門徒であると見積られています。
日本の過去の歴史に於て、宗教はそのような偏見をくじくというよりも、寧ろ助長する傾向にありました。例えば江戸時代には、僧侶たちは被差別部落民に対して偏見を補強するような戒名を与えました。1920年代には、真宗内部でそのような差別に向けて幾つかの努力がなされましたが、反差別運動が重大な関心を呼ぶためには、1969年を俟たねばなりませんでした。この年、大阪の難波別院で一人の僧侶が差別的な言動をし、この発言は解放同盟からの糾弾を引き起こしました。
今日でも、この糾弾という方法は同和運動を進めている解放同盟の主要な方法です。東本願寺にある同和推進本部には10人の常勤のスタッフがおり、真宗の僧侶のために月例のセミナーを開き、何種類かの定期刊行物を出版しております。このプログラムの目的は、自らが受けている批判を超克することにありますが、真宗教団の内部ですら、その影響力がいかほど及んでいるのか、明瞭ではありません。
関係者の一人はこう言っています。「こういった差別糾弾を受けた教団は何も真宗大谷派だけではないのですが、たいていの場合、「けっして差別する気はなかったのだが、不注意で申し訳ない。今後はこのようなことをくりかえしません」というふうに表面上は恐縮してみせていても、本当は腹の中で舌を出している。差別体質が明るみに出て糾弾を受けたのは不運だった、というぐらいにしか考えていないことが多いのです。」と。
ちなみに申し上げますと、既成の仏教教団は日本に存在する他の多くの被差別者のグループの人権問題を真剣に取り上げてはおりません。すなわち、在日韓国人、アイヌ人、外国人労働者や移民者、障害者、そして女性たちの問題です。さて宗派が援助している国家的規模の活動の二つ目の例は、真宗大谷派の片隅でもっと不安定な位置しか持っておりません。これは日本の軍国主義や国家目的に宗教を利用することに反対するものです。もう少し具体的に申しますと、靖国神社に行政が恩恵を与えること、新天皇の即位式に感じられる宗教的な色彩、そして大嘗祭に公金を充てることに反対しております。
京都に基盤を置いておりますが、「真宗大谷派反靖国全国連絡会」というのがその正式な名称です。この会は「兵戈無用」という会報を出版しております。この名称は「大無量寿経」の一節から取られたもので、この言葉によって軍隊と兵器の廃絶を訴えているのです。仏教者の別のグループと比較すれば、反靖国と協調しているメンバーは斬新な思想を打ち出しております。少なくとも言論の上では、彼らは現存の権力構造に挑戦し、「菊のタブー」、すなわち天皇に関する禁忌を公然と無視しています。
この会のリーダーの一人が人々の会に対する反応について正直に述べております。「実は、こうした信教の自由や政教分離のたてまえからの反靖国の論理と運動は、今日にいたるまでほとんど成果をあげなかったのではないかと思われる。戦争で死んだむすこのために天皇や総理大臣に靖国に参ってもらう、それが自分の「真宗」の信仰の自由を犯すことになるなんて考えられない。」と。また、この会は愛媛や大阪、その他の地で靖国問題を法廷に持ち込んでいます。が、依然として彼らの過激論には限界があります。例えば、別の国の仏教の活動家たちとは違って、彼らは良心の名に於て、例えばガンジーやアンベードカルのように、非暴力的な市民的不服従の行動を起こすなどといったことはありません。
国際レベルの活動
さて次に、国際的レベルの活動について見てみましょう。国際的な開発事業の分野で民間の組織の目録を調べてみますと、12、3の仏教関係の団体が活動していることが分かります。これらのうち、半数近くを新興宗教が運営しております。例えば立正佼成会は平和基金や庭野平和財団を通じて、昨年度だけで2億2千万円をアジア・アフリカに対する救済計画、様々な国連の救援団体、そして日本の関連事業に寄付しております。
立正佼成会はまた、World Conference on Religion and Peace(世界宗教者平和会議)ですとか、International Association for Religious Freedom (国際自由宗教連盟)のような異なった宗教に跨る組織の重要なスポンサーでもあります。新興宗教は現在の所、私の研究の主な対象ではありませんが、彼らの経済的にも潤沢で、しかも異種の宗教との交渉にも積極的な活動は、既成の諸宗派の国際的な活動に対する冷淡さと好対照を示しております。国際的に活動している日本の仏教者による救援団体は幾つかありますが、個人会員を基礎とする組織は五つだけです。
そのうち四つは、年間予算2千万円以下で活動しております。注目すべき残る一つは、曹洞宗ボランティア会(Sotoshu Volunteer Association(SVA))で、海外ではJapan Sotoshu Relief Committee(JSRC)(曹洞宗東南アジア難民救済会議)として知られております。この組織は、1979年のカンボジア危機の高まりの中で、カンボジア難民の救済を目的として設立されました。そのとき以来、この会はバンコクのスラムの住人やタイの貧困農民など、別の難民のグループにもその救援対象を拡大してきております。
宗教に基盤を置いた幾つかの国際救援組織とは違って、SVAは如何なる布教活動もしようとはしておりません。というより、寧ろそこに暮らす人々の固有の文化を育むことを重視し、それを援助しているのです。現在、SVAは、1300人の個人会員を擁し、年間予算はほぼ2億5千万円となっております。曹洞宗からは独立した組織でありますが、その多くを日本中の曹洞宗の僧侶や信者の支援に頼っております。組織の持つ優先順位が、その活動のスタイルに反映しております。すなわち、収入の80%が個人の寄付や補助に基づいており、東京の事務所は書庫の上の狭苦しい一室です。
会で働く57人の事務員のうち、45人は海外で活動しており、しかもその殆どが東南アジアの出身者です。会の設立以来、ずっと 二人の禅僧が指導的役割を果たして来ております。有馬実成と松永然道のお二人です。有馬は山口県の寺院、原江寺の住職です。500軒の檀家に対する責任を果たしながら、彼はそれでも週に4日の東京行きを工面し、しかもしばしば東南アジアへ出かけております。SVAの月刊の会報「地球市民」の最近の号で、有馬は会の目的を解説しております。それは、社会に関わっていく日本仏教についての国際的な視野を持った簡明な解説です。次のように言っています。
我々はSVA(地球社会)を構築し、自らを(地球市民)として意識改革していくための運動体にしていきたいと思う。勿論、この地上にはその運動の前に立ちはだかる様々な厄介な問題が山積していることを承知している。これの解決にどう努力するか、それが我々に課せられた課題となる。その一つは、南北問題である。北側先進国と第三世界の国々との間の落差の問題である。とめどもなく巨大化する世界経済は第三世界の国々を圧倒し、貧困を加速化させつつある。
(中略)我々は南の草の根の人々と共に連帯し、また、日本の問題として市民と共に開発協力に今一層の推進をしていかねばならない。二つには、人権の問題である。世界には今なお大勢のいわれなき差別と抑圧に苦しむ人々がいる。(中略)我々はそれを認めることはできぬ。我々は人権の視点を活動の座標軸の基準におきたい。三つには、地球環境問題である。この問題は正直に言って我々には新しい問題であり、これから取り組みのための学習を始めねばならないが、(中略)次の世代にも美しい地球に生きる権利を譲り渡していく責任があるのである。
理由は何であれ、SVAは極めて低い扱いを受けています。この会は仏教関係の進歩的なサークルにすら、事実上知られておりません。スタッフの一人は次のように言います。
それ相応の援助さえ受けることができたら、SVAの活動は10倍に拡大することができるのです。確かに、会員数は1300人にまで増えてきています。しかし、曹洞宗の寺院が15,000寺あることを考えてもみて下さい。
さて、最後にご紹介する国際性を志向しているグループは、仏教者国際連帯会議の日本支部です。このグループの本部の活動について、先ずご説明しましょう。英語ではInternational Network of Engaged Buddhists、すなわちINEBとして知られております。この会は1987年にタイの仏教者、知識人でもあり、活動家でもあるスラク・シバラクシャ(Sulak Sivaraksa)によって設立されました。バンコクにある小さな事務所がその本部です。
INEBは固定的な中心メンバーというものを持ちません。従って、指導者レベルでの折衝というよりも、寧ろ草の根的「ネットワーク」を構築することを尊重します。3年前に創設されて以来、INEBはスリランカに紛争調停団を派遣し、ビルマ難民のために危険を孕んだジャングルの中で秘かに高等教育を施し、暴力的手段に訴えない政治活動の方法論を身につけさせるよう努め、数々の国際会議を組織するなど、様々な活動を行ってきました。
この組織の日本支部はINEB-Japanと自称しており、主な参加者は日蓮宗と真宗の僧侶ですが、様々な宗派からも参加者がおり、愛知県のある寺院が日本支部の事務局となっております。10人強のメンバーが常時活動しており、彼らの主な機関誌(日蓮宗の系列下にある「大海」という月刊の機関誌)は、1200部発行されております。会のメンバーは、苦しんでいる人々のことに心を砕き、その人たちのためにより多くの日本人がより一層努力すべきであると考えているのです。この心情が「大海」誌上に次のように吐露されております。
タイの売春問題は日本とのつながりが深く、日本へのホステス出稼ぎは、フィリピンからの数をこえたと聞く。タイの仏教界が女性問題を避けて通ってきたことも問題だが、日本人男性の売春問題を放置してきた日本の仏教界も同罪である。(中略)逼迫した女性たちの苦しみと嘆きに反応できず、観念的な教学や信仰が語られる寺院の教化活動は、タイや日本だけではなく、仏教国全体のような気がする。女性問題は裏返せば男性の意識の貧困である。
さて、INEB全体の中で日本の代表団は幾つかの点で独特です。先ず第一は、日本の代表団は行動的であるということです。他の国のINEBのメンバーがまだ議論を重ねている段階で、既に実際行動を起こしてしまっているほどです。例えば、彼らは去年バンクラディッシュの仏教徒に対する残虐な迫害について、日本の大衆を啓発し、政府を動かすためのキャンペーンを組織しました。ごく最近では、INEB-Japanはビルマの難民を支援し、ビルマの圧制的な軍事政権に日本から圧力を加えるために運動しております。
第二点は、会員相互の関係の親密さです。他の国のINEBのメンバーは組織とは緩やかな関係しか持たず、グループの一員としてではなく、主体的な個人として活動します。それに対して、INEB-Japanは本当に単一のグループです。メンバーは共通のヴィジョンを分けあい、仲睦まじく一緒に働きます。INEB-Japanの顕著な特徴の第三点として、彼らは社会活動に携わる仏教者の国際的なネットワークの中で孤立する傾向があるということです。相変わらず言語上の障壁は深刻な障害であり、日本人仏教者の中で最も「国際的」な人々の中にあってさえ、英語に堪能な人はただ一人です。
しかも、この言語上の孤立は時に日本人の文化的特質によって助長されます。例えば、日本人は何かというと群れたがりますし、公的な場所で発言することをためらいます。あるいは、別の種類の仏教理解と直面した時に、尊大さを露呈します。確かに、INEB-Japanには幾つかの弱点がありますが、メンバーは日本仏教のあるべき姿を指し示している誠実なパイオニアたちです。より多くの人々に語りかける方途を見出すことができさえしたら、彼らは大きな影響力を持つことができるに違いありません。
四人の例
社会活動に携わっている日本の仏教者に関しては、まだまだ沢山申し上げなければならないことがあります。彼らのバックグラウンド、彼らの既成仏教批判、あるいは未来に向かっての希望などなど。しかし、ここでは、簡単に4人の方に絞って紹介させて頂きたいと思います。丸山照夫(57歳)は東京在住の日蓮宗の僧侶ですが、信者を抱えてはおらず、評論家として活動し、かつINEB-Japanの指導者の一人でもあります。彼は6、7冊の著書をものしていますが、「日本をダメにした名僧・悪僧・愚僧」が最もよく知られていると思います。
彼は日蓮宗の大本山の末寺の子弟として育ち、青年期になると、戦争と平和の間を急速に揺れ動くイデオロギーによって混乱させられました。すなわち、第二次大戦の間は戦争の遂行を支持するよう教育され、占領下では平和と民主主義を尊重するように言われ、ついで朝鮮戦争が勃発しました。自分自身の立場を確立しようとして、彼は朝鮮戦争に反対する運動に参加しました。彼の周囲にいた日蓮宗の僧侶たちは反発し、彼を共産主義者と誹謗しました。丸山は言っています。
「ともあれ私は既にそのラベルを貼られたのだから、それが意味するものを知ろうと決意し、高校3年の時に共産党に入党しました。」と。彼は大学の卒業年次まで党員でした。丸山のバックグラウンドの中で、宗教と政治の要素は、彼の精神革命への呼び掛けや仏教僧侶に対する歯に衣着せぬ批判に見ることができます。最近行われたパネルディスカッションで、彼は次のように述べております。
日本の仏教のお坊さんたちは眠りこけてしまっている。はっきりいってお寺の中に安住していて、(中略)職業といいますか、それによって生業を立てているという職業的・専門職としての自覚さえも明瞭に持っていないんじゃないですか。ですから、強力な揺さぶりをかけて一回衣を剥ぎ取らないと、目覚めようがない、そういう感じがします。
(中略)10年なり15年の間、教団改革の夢を見ることもたぶんできないだろうと思います。そういう意味で改革についてはほとんど絶望しております。あきらめたところから、あらためて出発せざるを得なかったということです。最近の私の考えは、日本仏教全体をトータルな意味で環境を変えなきゃだめだということです。
有馬実成(54歳)は、すでにご紹介しましたが、曹洞宗ボランティア会の事務局長を努める徳山市近郊の原江寺の住職です。彼もまた寺院子弟として育ちました。1944年有馬が9歳の時、父親が中国で死亡しましたので、彼が学業を終えるまで、祖父が住職を務めました。祖父が84歳で亡くなった時に、有馬は22歳で住職となりました。有馬は少年の頃、地方工場で朝鮮人が強制的に働かされているのを見ました。でも彼にはどうしても理解できなかったのです。
「なぜ彼らはあんなに酷く食い物にされているのだろう?」と。次いで大戦の間、その工場は爆撃の目標になりました。彼の寺にはほとんど連日、死体が運び込まれました。有馬には不思議でした。「日本人の死体はなぜ朝鮮人の死体より丁寧に扱われるのだろう?」と。彼は巡査に聞いてみました。その答えを彼は今でも思い出します。「あれァ、ヨボじゃけえのう。」(「ヨボ」は、朝鮮人に対する蔑称です。)このような経験は、生涯を通じて人間の間、国家の間の障壁を打破ることへ傾倒していく種を、有馬に植え付けたのでした。
彼は書いております。「人と人、国と国とが言語や文化やイデオロギーの違いを越えて相互に尊敬され、国境や国家を越えて共生し、個々の尊厳性とアイデンティティが保証されるような、そんな時代であらねばならないと考える。」と。次に、戦後生まれで、しかも戦後の窮乏状態の記憶を持っていない若い世代の仏教活動家から、お二人の例を挙げさせて戴きます。成田大航(35歳)は京都府の北西部にある福地山市の曹洞宗の寺院、円覚寺の住職です。寺院の子弟ではありませんが、若い時にアメリカの禅センターで1年間修行する決心をします。
彼はセンターで僧侶になるつもりもないのに禅の修行に励む何百人ものアメリカ人と出会い、彼らの熱意に打たれます。彼は自分が社会活動に関わっていった契機を、次のように回想しています。「アメリカの禅センターにいった時に、救世軍の活動に興味を覚えたのがきっかけです。日本へ帰って来てから、仏教の教えを現代社会で実際に生かしていくにはどうすればいいのか考えていた時に、あるお寺でJSRC(曹洞宗ボランティア会)のポスターを見て参加を決意しました。
タイには80年の10月から83年の12月までいました。」と。成田はこうして曹洞宗ボランティア会の最初の現地ボランティアの一人になりました。彼はまた、タイで3年を過ごす間に、当地の仏教で出家しました。帰国してから曹洞宗で再び得度し直し、永平寺の僧堂で1年間修行しました。彼は寺役や家庭人としての務めに加えて、SVAや他の運動に関わり続けています。例えば、彼の寺は骨髄バンクに登録することによって白血病患者を救う新しい運動の事務局になっています。成田は、仏教者の社会活動がより大きく育っていくとこを望んで、次のように言います。
「こういった活動を他の人に伝えていくことは、本当に難しいと感じています。逆にこれはものすごく大切なことなんだという気持もあります。初めからそうだったんではなく、やはりタイでの活動を通して、自分の中で変革が起こってきたためなんです。」と。さて、寿台順誠(33歳)は石川県小松市選出の社会党議員である、正敏の秘書です。名古屋の真宗寺院の次男坊ですが、反靖国運動や同和運動に大変熱心な人です。
彼が20代の頃、真宗大谷派の保守派と改革派との間の緊張が高まり、彼の家族の中でさえ、日毎に対立があらわになりました。寿台の父親は保守的なグループである興法議員団で活動しており、一方寿台は仏教青年同盟に所属しておりました。寿台自身が当時の事情を述べておりますので、引用しましょう。「興法議員団対大谷派仏教青年同盟というような教団の対立が、そのまま寺の日常となったような数年を経て、その最中に父親がガンで亡くなった。それは私にとって全くかけがえのない日々であったが、また同時にやりきれぬ日々でもあった。
が、病気の父とまるでカタキのようにしてやり合ったのも、ひとえに寺が変わると思ったからであった。」と。他の若い仏教活動家と同様に、寿台も社会改革や仏教改革に身を投じました。彼が社会党政治家と密接な関係を持っているのは、意見の一致などという以上のものをはらんでおります。彼は勇敢に年上の世代と対立しております。それが如何に苦渋に満ちたものであるにせよ、これは来るべき時代の予兆なのです。
おわりに
そろそろまとめに取り掛からないといけません。私は社会に関わっていく仏教に関するこの予備的な調査で、仏教者を実際活動へと突き動かす多様な課題に注目してきました。環境問題、核兵器・原子力(発電)、人権、婦人問題、第一世界と第三世界の間に横たわる問題、東南アジア及び南アジアの難民や孤児、他の国々での仏教者への迫害、天皇制、政治と宗教との融合、などなどがありました。
これらはその課題の性質に関しても、またかかわり合い方のレベルに関してもまことに様々ですので、私と同様、仏教者自身、その課題の重要度に順位を付けることは困難です。また、他の国々の仏教者が深い関心を抱いているにも拘らず、日本の仏教活動家たちはまださほど真剣に考慮していない課題が多く存在しております。例えば、構造的な経済的搾取の問題、大量消費と資源のムダ使い、妊娠中絶、ターミナル・ケアー、動物保護のような問題です。私は「社会に関わっている仏教」という言葉を日本と関連させて用いてきましたが、今や、その言葉によってある一つの統合された運動を意味して使っている訳ではないことを、お分かり頂けたことと思います。
この「運動」(movement)という言葉ですら、時期尚早なのかも知れません。これらの多様なグループを統合する包括的組織は存在しません。広範な支持層を持った指導的活動家も存在していません。あまつさえ、幅広い読者層を獲得した感化力を持った書物すら存在しておりません。私は繰り返し驚かされました。活動に参加している人々の大多数は、別のグループの活動を知らないのです。グループとグループの間、そして人々の間を繋ぐ本当の意味でのネットワークが存在していないことは言うまでもありません。
ほとんどの場合、仏教者の社会活動は既成教団から無視され、あるいは陰湿に妨害されております。そして皆さんもご存じの通り、いわゆる一般大衆は私がいま述べて参りましたような事柄に関して無知であるのが現状です。本日私が取り上げて参りましたのは、社会問題に対する仏教者の対応でしたが、我々全員にとって最も関心があるのは、国籍や信仰を問わず、こういった問題に対する人類の対応です。ですから、もしも仏教というラベルが却って何らかのプライドの原因になったり、他人を隔てることになる位なら、それなしで済ませることを望んでいる進歩的な仏教者たちもおります。
彼らは仏教のある種の特権的地位を強調するのではなく、それを危殆に瀕している人類共同体にとっての潜在的な資産であると考えています。丸山照夫は次のように言います。「仏教再生というのは、何も仏教のためにやるんじゃなくて、(中略)人類の滅びというふうな問題とのかかわりの中で、仏教はもう一度問い直されるべきたという考えに最近至っています。」と。
世界という舞台で日本が重要な役割を果たすようになるにつれて、日本の責任が増大しつつあるように、日本仏教に対して新たな要求が突きつけられつつあります。私がこの課題に取り組んでまだ1年になりません。それにも拘らず、私はしばしば海外の人々から、日本の仏教者に伝えるべき様々な要求を受け取りました。ダライ・ラマとともに国際的な仏教救援団体に参加していくのにふさわしい人は誰かいるのか?
カンボジアの若い僧侶たちに、失われつつある仏教の伝統を教育するための資金は、一体どこで調達したらよいのか?国際的な捕鯨の禁止を日本の仏教者は支持しているのか?また、アメリカのテレビのプロデューサーから受け取ったものはこうです。伝統的宗教が、社会問題に創造的に関与している様子を示すためには、一体何を撮影すればよいのか?
これらは私がここ数カ月の間に実に受け取った質問です。ほとんどの場合、私は応えることが出来ませんでした。さて、私たちはこの報告を疑問から始めましたが、同じように疑問で終えなければなりません。人類全体が直面している緊急の課題に、仏教はどのように応えるのか?人類全体が直面している緊急の課題に、日本はどのように応えるのか?これに対する回答は、それがなされた時に、仏教について、日本について、そして我々自身について重要な何事かを告げてくれるに違いありません。
現在日本仏教界は難問に直面しておりますが、これは同時に絶好の機会でもあるのです。もしも囚われている文化的拘束から幾分でも解放されるなら、もしもその高度な教義を現実に対応したものに為し得るなら、全地球の共同体にたいして大きな貢献を為すことが出来るのです。仏教には「自利利他円満」という言葉があります。人を助けることは自分を助けることになる、つまり自分自身を利することと他の人々を利することとが、究極的には一致するという意味ですが、この言葉を仏教と社会の関係に当てはめるべきではないでしょうか。
仏教は、自らを真に社会に有用なものとすることによって、初めて今後も生き残って行くことが出来るのだと思います。そしてもしもこの自己変革に失敗したら、私たちは「葬式仏教」について議論するのではなく、「仏教それ自体の葬式」について話し合うことになるのかも知れません。
 
泉鏡花と谷崎潤一郎 / 近代文芸におけるゴシック風小説

 

ヨーロッパで、イギリスを中心にして小説にゴシック様式が現われたのは18世紀でした。ファンタジーの一様式としてのゴシックは、今日こんにちまで根強く続き、今では小説を越えて他の色々な芸術分野をも包み込むぐらいに拡がっています。その中でも一番目立つのは映画でしょう。ゴシック風の映画で思い浮かぶのは、無声映画時代の「ノートルダムのせむし男」や、だいぶ後にヴィンセント・プライス主演で何本か作られた「博士の異常な愛情」シリーズなどです。ご覧になったことのある方なら、そのいかにもゴシック風な雰囲気を思い浮かべていただけると思います。
18世紀のゴシック小説の特徴は、不当な監禁がモチーフになっていることです。最も古典的な話の筋は、無実の主人公が城や僧院に30年間も幽閉され、狂気、死、悪霊、お化けなどが頻繁に出て来ます。18世紀のイギリスのゴシック小説家にとっては、フランス革命ほど格好の舞台は他にありません。ゴシック小説はほとんど常に誇張が激しく、メロドラマチックなものですが、邪悪な坊主や不当な監禁などの描写に一抹の写実主義がうかがわれるのも事実です。ヨーロツパの一部では、その当時でも貴族は小作人たちに対してまだかなりの統制力を持っていました。
そして、聖職者に対するあからさまな反感が異常に誇張されているのも、宗教改革前の中世のキリスト教会の行き過ぎに根を持つものであることは容易に推測できます。19世紀も後半になると、ヨーロッパでは都市集中化が進み、とくにロンドンやパリはそれが激しく、古い封建体制が消滅するにつれ、ゴシック小説は再び盛んになります。ただ、世紀末の芸術運動においては、ゴシックは人間の心理の無意識の領域に足を降ろしました。
産業革命によって生みだされた都市の勤労者の孤立感は、お化けや悪霊、荒れはてたロマンチックな景色などが、往々にして、疎外された都市の住人の持つ心理的ストレスとユートピアの幻想の比喩であるという文学の一形式を生みだしました。ヨーロッパでゴシックは威厳を持つようになり、当時の名のある作家ならほとんど誰しもが一度はこのジヤンルに手を付けてみました。19世紀の幕が下りようとするころに翻訳されて日本の読者や作家へ大量に紹介されたのは、こういう作家たちとその作品だったのです。
ゴシックは、ロマンスの一様式であるとか、ファンタジーを細密画のように詳しく描いたものとか、その他様々な言い方で定義されていますが、私は、広範囲の著述形式を包み込めるように、ゴシックというものをできるだけ広義に解釈して21世紀初頭の日本の小説家にあてはめ、西洋のゴシック様式の歴史との比較はせずに、日本の各作家に共通の文体とテーマ上の類似点に光を当てていきたいと思います。歴史上、日本近代の小説が伝統的に西洋から影響を受けていることは否定できませんが、ここでは特にその追跡に力を注ぐことは避け、ゴシックという概念を作品解釈に活用する比較論的なアプローチを採用しています。
近代日本文学の中の美学の歴史を簡単にまとめた橋本芳一郎氏は、後には悪魔主義に発展していくデカダンの風潮を、明治日本にニーチェを紹介した人として著名な19世紀末の思想家・高山樗牛(1868-1902)から浪漫的な思想家兼詩人・北村透谷(1868−1894)と上田敏(1874−1916)までたどってみせました。世紀末のデカダンの文人として透谷と敏は、西洋におけるデカダンの文人のこともよく知っており、雑誌などの記事を書いて日本へ紹介しました。
橋本氏は、美学上のこのデカダンの伝統が、次から次へと鎖のように影響し伝わって、永井荷風(1879−1959)や谷崎潤一郎(1886-1965)に至ってついに花咲く過程を再構築してみせました。橋本氏によると永井荷風も谷崎潤一郎もデカダン美学の後継者というわけです。デカダン美学といいますのは、日本文学、ヨーロッパ文学、英文学に共通してみられる世紀末の文学のある一面を意味しています。
この一面は、従来の道徳や倫理感に拘束されないエロテイシズム、罪の意識、そして「美」の概念にこだわるものです。世紀末文学のこの一面は、従来の道徳、とくにキリスト教道徳に対して、ニーチェのような哲学者を指導者として起こった一般的な哲学的革命の一部を構成していました。ダーウィンの「種の起源」は、人間が理性よりも本能に振り回されるという点では動物と変わりがないことを暴く本として広く読まれました。この人間観は、小説の中で、性的情熱の動物的な描写をエスカレートさせることになりました。
文学はまた、はばかりなくエロテイックになり、性の表現は姦通、つまり罪深いエロティシズムと変態性に集中するようになりました。フランスでは、ゾラやモーパッサン、後にはピエール・ルイス、そしてイギリスでは、オスカー・ワイルドやアーネスト・ダウソンなどがこの傾向の代表的作家です。もちろん、ゴシックの影響は、江戸川乱歩や夢野久作などといった大衆文学に顕著ですが、私は彼らよりもう少し前の時代に焦点を当て、テーマよりも文体から検討を始めていきたいので、橋本氏が描く影響の鎖も、こういう対照的な見方をすると、少し異なった様相を見せるのではないかと思います。
デカダンの文体において鍵となる要素は、比喩、つまりメタフォーと語り手の視点です。文体の話になってきましたので、ちょっとここで、近代の文体の研究のための要因をはっきり設定した、野口武彦氏の「小説の日本語」という非常に大きな影響力を持つ本をご紹介してみたいと思います。
野口氏の近代小説の研究は、彼自身が言うように、現代ではほとんど読まれていない作家、岩野泡鳴(1873−1920)から始められています。野口氏の分析によると、泡鳴こそ、自然主義運動を、それまでの小説が出るに出られないでいた従来の枠の外へ乗り越えさせた、小説技法上の根本的な突破口を作った作家なのだそうです。しかし、日本の小説をまったく新しい概念の詩的感覚に導いたのは泉鏡花だといいます。
野口氏は、「比喩であることをすら越えた比喩」そして「文彩が文彩以上の何ものかである」といって、鏡花の比喩と直喩の使い方が、別世界、超現実を感知させるほど見事に突飛で幻想的であるといいます。文彩というのは、文章の飾りという意味です。通常の比喩において、実在する喩(たと)えられるものを所喩、英語でテナー (tenor) といい、不在の喩えるものを能喩、英語でヴィークル(vehicle)といいますが、たしかに鏡花の比喩は、所喩を能喩に喩えるという図式をすっかりくつがえすことによって従来の言述の様式を越えています。
野口氏はまた、鏡花の小説に神話の色を帯びた別の言語空間を見いだしますが、それはまだ幼ない時に母を失った鏡花の不幸な少年時代から来るものであると言っています。言い換えると、鏡花の別世界に棲む女怪、妖怪、お化けは、彼の心の中に本当に出没する悪霊に他ならないというのです。
さて、ゴシック小説にこれと同じような分析法をあてはめた人がいます。それはピーター・ブルックスといって、1976年に「メロドラマティック・イマジネーション」という本を書いた人で、ゴシック小説とは「超自然性探索の旅」の描写であり、白昼の自我、自己満足している心には説明できないある力の存在を再び主張するものであるといいました。つまりゴシックは神の喪失に対する一つの反動であり、ロマンテイックなあるいはポスト・ロマンテイックな世界において神話を創るのは個人でしかありえない、そして、個人のエゴがゴシックの中心的価値であると断言し、そのために世界そのものは縮小してしまうか、エゴそのものが世界になるといいます。
泉鏡花は、近年、ゴシック小説の作家であるとよくいわれるようになりました。そしてコーデイ・ポールトンが、「鏡花の初期の作品のセンセーショナリズムの大部分は、鏡花のメロドラマヘの偏愛と、彼の取り上げる題材が驚くほど革命志向であることに起因しているといっていい」と言っていますが、たしかに、鏡花の中に、メロドラマとマルクス主義との関連が見える、と言って言い過ぎであれば、少なくともこの二つの言述様式を連想させる二つの考え方がつながっているように見受けられます。
鏡花が文壇に最初のインパクトを与えたのは1890年代で、初期の作品で最も有名なのは1895年に書かれた「外科室」という作品です。この作品ではある外科医が、愛人である人妻の手術をすることになり、情事の発覚を恐れるあまりその人妻は麻酔を拒否します。遂に貴船白爵夫人と呼ばれるその人妻は、手術台の上で外科医のメスを自らの胸に刺してしまいます。ドナルド・キーン氏は、「外科室」を「どうしようもなくメロドラマティック」と評しましたが、この作品は、日本の読者の想像力をがっしりとつかみました。
ここで、ちょっと皆さんのご注意を引かせていただきたいのは、キーン氏が「メロドラマティック」という言葉を、意識して軽蔑的に使っていることです。後ほど「メロドラマ」という言葉を肯定的に定義し直す見地もあることをご紹介したいと思います。さて、「外科室」へ戻りますと、大袈裟な誇張こそこの作品の魅力の根本にあり、日本の文芸評論家が、鏡花は文章技巧もテーマも、18世紀から19世紀へかけて人気のあった洒落本や草双紙に負うところが大きいと言っているのは注目に値すると思います。また、鏡花の話の筋の出所として民間伝承を挙げる評論家もいます。勝本清一郎は、「封建末期の頽廃文学と文明開化文学との混血児が維新の幻影にとりつかれて、云々」といって、鏡花が西洋と日本の浪漫的かつ頽廃的な伝統の後継者であることを強調しました。
鏡花は超自然の物語を数多く書きましたが、彼自身お化けや魑魅魍魎を信じていたらしく、そのために鏡花の作品は、よく似た技巧を使った有島武郎のような作家よりもはるかに西洋のゴシック小説に似通っています。しかし、超自然的な妖怪が書かれているにもかかわらず、有鳥武郎の場合と同じように、読者は作者個人の心の風景をうかがい知ることができます。野口氏もこのことには注目を促しています。ゴシック小説と文体に関して、過剰性のメロドラマ的な使用法、つまり「修辞上の過剰性」を検討したブルックスの説はそのまま鏡花の小説に応用できます。
私がここで強調しておりますのは、ゴシック表現様式の中のある一部分だけです。つまり、ゴシック小説の言語と、心理を描写するのに超自然現象を使う、その使い方です。しかし、鏡花やその他の日本の作家はゴシックから表現方法を借用しただけに留まっているなどというつもりはありません。彼らの人気を沸騰させた悪霊やエロテイックな題材なども、元をたどればやはりゴシックなのです。鏡花の作品における過剰性は、「形式上の本質的なもの」であることは確かです。実際、心理の内部の風景を描く上で、そのような過剰性がいかに有意義であるかを力説するメロドラマやゴシックの研究者はブルックスだけではありません。
ファンタジーについて研究したローズマリー・ジヤクソンは、「ゴシック小説以来、不思議なこと(英語でいうとthe marvellous)から奇怪なこと(英語ではuncanny)へと徐々に移行している、つまり、ゴシック的恐怖物語リバイバルの歴史は、自我が生んだ恐れの認識および漸進的内向化の歴史である」と言っています。「uncanny」つまり「奇怪なこと」という言葉をこの文脈で使用しているのは単なる思い付きではありません。
フロイドが「ダス・ウンハイムリッヒェ」、英語では「The Uncanny」と題する有名なエッセーを1919年に出版し、「uncanny」という言葉に特別な意味を与えているからです。ローズマリー・ジヤクソンはフロイドの定義を「無意識の欲望と恐れを周囲に、そして他の人に投影する効果」と言い換えています。フロイドは、奇怪な経験を抑圧されたコンプレックス、あるいは死に対する恐怖などの原始的な信仰に結び付けます。
「これまで抑圧されていた幼い時のコンプレックスが何かの印象で再現されるような場合、あるいは、これまで克服されていた原始的な信仰がもう一度確認されるような場合に奇怪な体験が起こる」とフロイドは言います。心理的過剰性、奇怪な過剰性という形を取りながら語り手の心の奥底にある不安を鮮明に映し出すという手法で、原始的な恐怖が描写され、心の風景に息吹が与えられている最もよい例は、鏡花の作品の中では「高野聖」なのではないかと思います。
1900年に初版が出版されたこの作品は、ほとんど全編を通じて語り手の独白という形になっており、高名な僧、宗朝(しゅうちょう)がふとしたことで知り合った私を相手に物語を聞かせるという設定です。宗朝上人は、飛騨の山越えをやったとき、不思議な森の中で道に迷い、この世のものではないような恐ろしい生き物に次から次へ出くわしたあと、やっとのことで一軒の山家へ辿り着きます。この山家には、鏡花の言葉を使うと、唖か白痴のような少年と美しい女が住んでいます。
一夜の宿を頼むと女は承知し、滝に導いて怪しく煽情的に体を洗ってくれますが、僧侶の身なので宗朝はぐっとこらえます。その間にも不思議な生き物が人れ替わりたち代わり寄って来ますが、女はそれを邪険にふり払います。しかしなぜか女は白痴のような少年にはやさしいのです。上人は、次の日、山家を出ますが、女への想いがつのってどうしようもなくなり、山家へ取って返します。
その途中、昨日山家でちらっと会った親仁おやじに会います。親仁は女が超自然の生き物で、男を誘惑し、飽きると様々な動物に変えてしまうのだが、昨夜宗朝が助かったのは彼の優しい性質のために違いないと話してくれます。上人はここで話を終えて行きずりの話相手である私から去っていき、この話は終わります。
ストーリーは、旅人である私、上人、そして親仁という三者の語りが混ぜあわさり、二重三重に重なっています。このような複雑な語りの構造を好む傾向と、そして鏡花がこの作品で明らかに語り直している神話や寓話の使い方についてはこれまでにも何度か取り上げられています。しかし、何よりも、鏡花の他の作品もそうですが、この作品が日本の読者に衝撃を与えたのは、彼の小説言語です。
鏡花の小説言語は、詩的で緻密であり、彼の描くイメージは、その速度と動きがまるで映画のようです。三島由紀夫は、鏡花のことを、「夢や超現実の言語的体験といふ稀有な世界へ踏み入っていた。」と言う一方で、修辞上の過剰性と心理上の過剰性をつないで、「彼の自我の奥底にひそむドラマだけしか追及しなかった。」ともいっています。また、評論家の吉田精一氏は、「高野聖」について「読者が文とともに運び去られて、あと戻りが出来ない」といっています。
そして、批評家の川村二郎氏は、「説話体とは、物語の世界が日常から遮断された仮構の別世界であることを強調するための表現方法である。物語の登場人物が、自己の見聞としてまた一つの物語を報告する。登場人物のおかれている場がすでに、日常の空間とは別種の仮構空間であるわけだが、この空間の中にさらに新たな仮構が嵌めこまれる時、その新たな空間の、日常からの距離は、大幅に拡大することになる。」といいます。このコメントは、小説全般にあてはまるかも知れませんが、仮構の空間が言語で構築されるという考え方は、注目しておく必要のある要素だと思います。
もし「高野聖」から特定の例をとって考察してみると、鏡花が景色の描写をするとき、超自然なものへの恐怖というゴシック風な色調を与えているのがわかります。そしてその色調は、外界の現実と同じぐらい、内部の現実をも反映しているのです。ここで、「高野聖」の第8章、上人が飛騨の山越えの道中に、暗い森に入り込んで、頭の上の樹の枝から笠の上に何かが落ちてきたところを引用してみます。
鉛の錘(おもり)かとおもう心持ち、何か木の実ででもあるか知らんと、二三度ふってみたが付着(くっつ)いていてそのままには取れないから、何心なく手をやってつかむと、滑らかに冷ひやりと来た。
見ると海鼠(なまこ)を裂(さ)いたような目も口もない者じゃが、動物には違いない。不気味で投げ出そうとするとずるずるとすべって指の尖(さき)へ吸いついてぶらりと下った、その放れた指の尖からまっかな美しい血が垂々(たらたら)と出たから、吃驚(びっくり)して目の下へ指を付けてじっと見ると、今折り曲げた肱(ひじ)の処へつるりと垂れかかっているのは、同じ形をした、幅が五分(ぶ)、丈(たけ)が3寸ばかりの山海鼠(やまなまこ)。
あっけに取られてみる見るうちに、下の方から縮みながら、ぶくぶくと太っていくのは生血(いきち)をしたたかに吸い込むせいで、濁った黒い滑らかな肌に茶褐色の縞(しま)をもった、疵胡瓜(いぼきゅうり)のような血を取る動物、こいつは(ひる)じゃよ。…ともはや頚(えり)のあたりがむずむずしてきた、平手(ひらて)で(こ)いてみると横撫(よこなで)に蛭の背をぬるぬるとすべるという、やあ、乳の下へ潜んで帯の間にも一疋ぴき、蒼くなってそツと見ると肩の上にも一筋。
思わず飛び上がって総身(そうしん)を震いながらこの大枝の下をいっさんにかけぬけて、走りながらまず心覚えのやつだけは夢中でもぎ取った。何にしても恐ろしい、今の枝には蛭がなっているのであろうとあまりのことに思って振り返ると、見返った樹のなんの枝か知らず、やっぱり幾ツということもない蛭の皮じゃ。
これはと思う、右も、左も、前の枝も、なんのことはないまるで充満(いっぱい)。
私(わし)は思わず恐怖の声を立てて叫んだ、するとなんと?このときは目に見えて、上からぽたりぽたりとまっ黒なやせた筋の入った雨が体へ降りかかってきたではないか。
この段では、景色の輪郭とともに自然界の基本要素そのものが恐ろしい吸血蛭に変形されています。このシーンは、幻か現(うつつ)かわかりませんが、美しい女の姿を借りて人の生き血を吸う魔性のものが棲む山家で上人を待っている危険を象徴的に前触れしているのです。この女の吸血鬼のような性的渇望は、蛭という自然の一部に変形されています。その言語は、見かけは現実的なようでも妖怪が恐ろしさを増すにつれ底にあるゴシック風のファンタジーが透明になっていきます。
文体はリズムがあって非常になめらかです。「ビクトリア時代の小説ではゴシックの同化がぎこちないため、現実的な主文の中に、もう一つの非現実的なテクストが、カモフラージュされていたり隠れていたりしても必ず存在することがよくわかる」といってローズマリー・ジヤクソンが言語表現におけるゴシック様式をビクトリア時代の小説にあてはめてみせましたが、そのほとんど完璧な実践例をここに見るような気がします。
言葉を変えていうと、心理的におおげさな表現の裏にはもっと暗いモチーフがあるということです。これから「高野聖」からの引用を読んでみますが、鏡花が描く世界の終焉のような情景は、作者が持っているといいたいところですが、少なくともこの物語の語り手が持っている深い不安感を暗示しています。フロイドの「uncanny」つまり「奇怪さ」という概念に少し手直しをしたヘレーネ・シシューという人の説も鏡花の文章に適応します。シシューは、「奇怪さに近親感がないのは、それが、置き換えられた性的な不安感であるばかりでなく、純粋なる不在である死との遭遇のリハーサルでもあるからだ」といっています。第9章の先に読みました引用部分のすぐあとに続く部分で、たつた今目撃したばかりの恐ろしい情景について上人が立ち止って考える場面を読んでみます。
およそ人間が滅びるのは、地球の薄皮(うすかわ)が破れて空から火の降るのでもなければ、大海が押しかぶさるのでもない、飛騨国(ひだのくに)の樹林(きばやし)が蛭になるのが最初で、しまいには皆血と泥の中に筋の黒い虫が泳ぐ、それが代(だい)がわりの世界であろうと、ぼんやり。
なるほどこの森も入口ではなんのこともなかったのに、中へ来るとこのとおり、もっと奥深く進んだらはや残らず立樹(たちき)の根の力から朽(く)ちて山蛭(やまびる)になっていよう、助かるまい、ここで取り殺される因縁らしい、取り留めのない考えが浮かんだのも人が知死期(ちしご)に近づいたからだと、ふと気が付いた。
この時点で、語り手である上人はある種の悟りに達します。彼は自分の恐れを白昼にさらけ出してみせたのです。死ぬかも知れないという可能性をまっすぐ正視し、今見た世界の終末のような情景は、死との対決が生んだものだと一旦気づいてみると、先に進むために必要な力が内から湧いて来ます。鏡花はその次の文章で「そう覚悟が決まっては気味の悪いも何もあったものじゃない…」と書いています。
「覚悟」が決まったから恐怖に打ち勝ち前進することができたわけですが、「覚悟」という言葉は、真実を知るという意味でもあります。また仏教の「道理を悟る」という意味も含まれています。旅の上人が飛騨の森林に分け入る恐ろしい旅は、僧侶としての悟りへの旅でもあるのです。語り手を襲うゴシック的な恐怖は、彼自身の心理を内省してはじめて知覚されており、フロイドやシシューの言う「奇怪性」にぴつたりの実際例と言えるでしょう。
「高野聖」では、ブルックスのいうメロドラマ的過剰性がこなれて和風のゴシックになっているようです。鏡花のテーマとテクニックは伝統的な江戸後期の読本よみほんを受け継いでいるようですが、鏡花の作品とヨーロッパのゴシック小説とは、表現方法への関心が並んだ線上にあることやロマンティックなファンタジーの使い方などから見て、ただよく似たジャンルに属するというだけではないほど近似しています。鏡花とエミリー・プロンテのようなヨーロッパのゴシック作家とがなぜ共通の問題意識を持っているのかを探るのは大仕事ですが、二者が近似していることには疑いがないと思います。
鏡花の小説技巧は、あいまいさを見事に駆使します。旅の僧が語ったことはただの幻覚だったのか、それともこの超自然的な恐怖物語は、どうしてかはわからないけれども本当に起こったことを語ったものなのかは知るよしもありません。野口氏は、「鏡花の小説言語にあっては、所喩(テナー=実在する喩えられるもの)と能喩(ヴイークル=不在の喩えるもの)とは互いに自在にその位置を変えるばかりでなく、一つに融即する… 言語宇宙なのである。
鏡花の小説言語は、この互換性原理にしたがって、現実と超現実との二つの言語秩序、二重の言語意味作用を持つ。」といいます。この引用は少しわかりにくいのですが、野口氏は、目の前にある何か(所喩=テナー)を目の前にない他のもの(能喩=ヴイークル)と比較する際に、鏡花の小説では、その両者の境目があいまいになり、どちらも現実に存在しないものを比較したりしているので、意味が反対になっても差しつかえがないという事態が起こり、その結果、独特の超自然的雰囲気がかもしだされていると言いたいのだと思います。
所喩(テナー)とか能喩(ヴィークル)という言葉は、1936年にイギリスの言語学者、I・A・リチャーズが比較的単純なアイデアを説明するために考案した言語学の専門用語です。実世界のものと、別世界、夢の中の世界、またはファンタジーやイメージの中の世界のものを比較して、比較の対象が逆さまになったり、時には同一になったりするのは鏡花の小説の特徴です。
言い換えれば、この意味のあいまいさは、鏡花の文体の基盤そのものが生むものであり、これこそ鏡花の作品の根本なのです。このあいまいさは、後期浪漫主義を自我について意識しながら探索してみれば必ず辿り着く近代特有の「不信の停止」をもたらします。(「不信の停止」とは、文学に使う言葉で、読者が作品を読むときに虚構の内容を一時的に真実として受け入れることを意味します。)
根本的に、ゴシックとはロマン主義の伝統から生まれた芸術探求の様式です。しかしロマン主義が日本文学に吸収されていった過程についてお話しするだけの時間は今日はありませんので、またの機会に回させていただきたいと思います。また、谷崎潤一郎の初期の作品に見られるゴシック的な面についても深く掘り下げていく時間も今日はありませんが、ただ、谷崎の初期の作品にみられる独特な文体上の要素の中に、ゴシックと結び付けられるものがあるように思いますので、ここでちょっと簡単にお話ししたいと思います。
谷崎は、鏡花と比べてずっと意識的に心理小説を書いた作家です。初期の作品でさえ谷崎は、ペンから溢れ出る文章の彩(あや)や比喩をしっかりとつかんで操ることができているように思えます。谷崎を論ずるとき、よくオスカー・ワイルドが引き合いに出されますが、ワイルドと同じように谷崎は常に素材を手にとってコントロールしていますし、またワイルドと同じように自分のアイデアを表現するとき、様々な新しい方法をためらいなく試しています。
ワイルドの代表作である「ドリアン・グレイの肖像」の中心となるモチーフは、芸術家と芸術の関係です。芸術家は自分の芸術に蹴押され、ワイルドの文章には、芸術が芸術家を圧する力を表現するサド・マゾ的な比喩がちりばめられています。谷崎は、1910年に「刺青」を書いたときはまだ24才に過ぎませんでしたが、作家として成熟した最初の作品で、やはり明白にサド・マゾ的な隷従の比喩が見られます。
「刺青」は、多分皆さんご存じのことと思いますが、江戸時代に設定された筋は単純そのものです。清吉という若い刺青(ほりもの)師は、針で男たちを痛めることを喜ぶという人知れぬ快楽と、いつか光輝(こうき)ある美女の肌へ己の魂を彫り込みたいという宿願を持っていました。
ある日、江戸の深川で清吉は篭(かご)から女の足がのぞいているのを見ます。すっかりその足に惚れ込んだ清吉は、しばらくしてその足の主の娘に偶然出会います。これから芸者に出ようというその娘は清吉に睡眠薬を飲まされます。眠っている間に清吉入魂の女郎蜘蛛を背中一面に彫られた娘が眠りから覚めると、状況は反転して清吉ではなくその娘が主(ぬし)になっているという筋です。
「刺青」においては、「高野聖」のように、筋のテクストに平行する自然現象のテクストというものが一切ありません。谷崎の文体が作り出す絢爛(けんらん)として異様な雰囲気は、鏡花の超自然現象ないし心理現象とは全く違います。それは、語り手の声が明らかに皮肉っぽいからです。
この意味で、谷崎の語り手は、立派に一人の登場人物として存在感を持っています。そもそも冒頭の「それはまだ人々が「愚か」といふ貴(たふと)い徳を持つて居て、世の中が今のやうに激しく軋み合はない時分であつた。」という書き出しからして、鏡花の「高野聖」の語り手には見られない自己意識的な皮肉っぽさを見せています。
「刺青」のゴシック的要素は、清吉の心理描写にもあり、話が展開していくにつれて明かされていく女の隠れた凄さにもありますが、単なるゴシック風の恐怖小説ではありません。なぜでしょうか。それは皮肉っぽい語り手が恐怖小説のすさまじさを読者に語りながらも少し距離をおくことによってある種のユーモアをほのかに感じさせるからです。
劇的に残酷な話の筋は、明らかにサド・マゾ的心理を描きながら、「高野聖」にみられるコントロールのきかない夢の世界ではなく、作為をもって表現された欲望という安定した語りの枠組みの中でその役割を果たしています。清吉のサド・マゾ的偏執狂ぶりは、これから読みます引用によく現われています。
この若い刺青師の心には、人知らぬ快楽と宿願とが潜んで居た。彼が人々の肌を針で突き刺す時、真紅の血を含んで膨れ上がる肉の疼きに堪えかねて、大抵の男は苦しき呻き声を発したが、その呻きごえが激しければ激しい程、彼は不思議に云い難き愉快を感じるのであった。
彼の年来の宿願は、光輝ある美女の肌を得て、それへ己の魂を彫り込むことであつた。その女の素質と容貌とについては、いろいろの注文があつた。啻(ただ)に美しい顔、美しい肌とのみでは、彼は中々満足することが出来なかつた。
これは作為の透けてみえる心理描写で、そういう意味でゴシックは、表面に出ている、背景よりも前景に置かれていると言えるでしょう。この作品の暗い副文脈は、かなり早いうちからはっきりと示される女の中のサディスティックな傾向に潜んでいます。これはまさに先程申し上げました「奇怪さ」と呼ぶべきものだろうと思います。
「これはお前の未来を絵に現はしたのだ。此處に斃れて居る人たちは、皆これからお前の為に命を捨てるのだ」
こう云つて、清吉は娘の顔と寸分違わぬ画面の女を指さした。
「後生だから、早くその絵をしまってください」
と、娘は誘惑を避けるがごとく、画面に背いて畳の上へ突っぷしたが、やがて再び唇をわななかした。
「親方、白状します。私はお前さんのお察し通り、その絵の女のような性分を持っていますのさ。
その「奇怪さ」は、また女の背中の彫りものが完成したときその全容を現わします。しかし、語り手がこの女の性質を先に予告しているので、読者には女の残酷さを目の当たりにしても特別意外だとは思いません。「痴人の愛」のナオミが譲二の作り上げたものであるように、この残酷さは清吉の作り上げたものだといわれるかも知れませんが、谷崎の自己意識の強い語り手は、様々な手法で最初からその可能性をほのめかしています。
谷崎の小説には鏡花の小説同様に、人物の魂、そして世界そのものの描写の底に、同じような暗い要素があるのがわかります。その意味では二人の作家を結ぶゴシックの糸が見えると言ってもいいかも知れませんが、決して全く同じではないのです。谷崎の使うゴシック風の語りは、明らかに非常に意識的な使い方で、多分これは鏡花よりも谷崎の方がゴシックの伝統をよく知っていたからではないかと思います。
谷崎も鏡花のように、草双紙の影響を受けており、また有島武郎のような日本のゴシック作家などの影響も受けていますが、谷崎は、19世紀後期の西洋のゴシック作家たちを広く読んでいて、アイデアを借りるにしても鏡花よりよほどあからさまに借りています。そういう意味で、谷崎は形というものをわざともて遊んでいます。これは初期の作品より後期の作品にはっきり見られます。
大正時代の作家がこういう谷崎から受けた影響はあまりに大きく、ゴシツクをロマンスの一様式にしか過ぎないとか、作家として好きなように使ったり捨てたりできる表現の一様式とみなすまでになりました。つまり、谷崎こそ、日本のモダニズムの基盤の一つとしてゴシックを確立した一連の作家たちの鎖の最後の輪なのです。
ゴシック小説
18世紀末から19世紀初頭にかけて流行した中世趣味による神秘的、幻想的な小説。ゴシック・ロマンス(Gothic Romance)とも呼ばれ、その後ゴシック・ホラーなどのジャンルも含むことがあり、今日のSF小説やホラー小説の源流とも言われる。
ゴシック・ロマンスの流行
イギリスの作家ホレス・ウォルポールの「オトラント城奇譚」(1764年)がその先駆である。イギリスでは16、17世紀には大陸から輸入されたロマンスやピカレスクが盛んに読まれたが、その後はリアリズム小説の流行で下火になる。ウォルポールは別荘のストローベリ・ヒルを改築して自分好みの中世ゴシック風に仕立ててこれが大変な評判になり、またある日に見た夢をもとに中世の古城を舞台にした幻想的な小説「オトラント城奇譚」を書き人気を集めた。ストローベリ・ヒルと「オトラント城奇譚」はゴシック・リヴァイヴァルの契機となるとともに、ゴシック趣味の流行に決定的な影響を与え、クララ・リーブ「イギリスの老男爵」(1777年)、東洋趣味的なウィリアム・トマス・ベックフォード「ヴァテック」(1786年)、アン・ラドクリフ「ユードルフォの秘密」(1794年)、「森のロマンス」(1792年)、「イタリアの惨劇」(1797年)、マシュー・グレゴリー・ルイス「マンク」(1795年)、チャールズ・ロバート・マチューリン「放浪者メルモス」(1820年)など、幽霊や怪物、その他の超自然的な現象を登場させたり、イメージとして指し示すような作品が書かれた。ウィリアム・ゴドウィン「ケイレブ・ウィリアムズ」(1794年)は政治性の強い犯罪小説風のゴシック小説だが、その娘のメアリ・シェリーの「フランケンシュタイン」(1818年)も傑作の一つに数えられる。
これらの作品は「恐怖派(The school of Terror)」とも呼ばれ、それまでの幻想的な作品が信仰や伝承、迷信の世界を描いたのに対して、超自然的な驚異にまつわる恐怖やサスペンスを主題にしており、近代小説の手法によるロマンスとも言える。多くがイギリスではない大陸を舞台にしているところも特徴の一つ。「フランケンシュタイン」では人造生命という、純粋に空想の所産による恐怖を生み出した点でも画期的である。
時代背景
ゴシック的嗜好は、1740年代には墓場派と呼ばれる詩人たちに現れており、その一人トマス・グレイはウォルポールの友人でもあった。また当時のロマン主義や、ピクチャレスク的な美意識も時代的感性として育っていた。18世紀イギリスの流行であるサミュエル・リチャードソンなどの感傷小説(Sentimental Novel)で登場する薄幸の乙女の成長は、ゴシック・ロマンス作品では「迫害される乙女」テーマとして取り入れられている。
19世紀初頭になると、ファンタスマゴリアと呼ばれる幻灯機の興行が始まり、幽霊や怪奇現象を映像として見せる、小説よりも強烈な刺激として人々を惹き付け、次いで大衆雑誌の興隆の中で残虐な犯罪実話を元にした娯楽読物に人気が集まるなどしたことで、ゴシック・ロマンスの人気は終焉する。
ゴシックの系譜
イギリスでの流行は19世紀初めに終わるが、フランスでは「オトラント城奇譚」が1767年に翻訳されて以来ゴシック小説は大いに読まれて、サド侯爵「小説論」で礼賛され、またシャルル・ノディエが影響を受けた作品を書いた他、ガストン・ルルー「オペラ座の怪人」(1911年)などが生まれ、フレンチ・ゴシックと呼ばれる。ドイツでもこれらの影響によりゲーテ「ドイツ亡命者の談話」や、シラー「招霊妖術師」などが書かれた。アメリカでは「緋文字」(1850年)のナサニエル・ホーソンや、「アッシャー家の崩壊」(1839年)「大鴉」(1845年)などのE.A.ポーがその系譜を継ぐ作家であり、ハーマン・メルヴィルも「幽霊船」(1855年)などがゴシック小説的作品と言われる。イギリスでもシェリダン・レ・ファニュや、ブラム・ストーカー「ドラキュラ」(1897年)など、この分野の怪奇小説が書かれる。
ゴシック小説的手法を用いた作品として知られるものには、エミリー・ブロンテの「嵐が丘」(1847年)や、トマス・ピンチョン「V.」(1963年)がある。「オトラント城奇譚」は20世紀になるとシュルレアリスト達によって再評価され、特にアンドレ・ブルトンはこの作品が夢から着想を得た点に注目した。アメリカではシャーリイ・ジャクスンら、ゴシック・ノベル、ゴシック・ホラーなどと呼ばれる現代的ゴシック小説が高い人気を保っており、1990年代にはポスト・モダンがE.A.ポーと言われるパトリック・マグラアなどのニュー・ゴシックが注目された。
ゴシック小説定番のモチーフは、怪奇現象、宿命、古城・古い館、廃墟、幽霊などであり、それらは現代のゴシック小説でも継承されている。
 
「谷崎潤一郎」考

 

初期の短編小説
筆者が谷崎潤一郎を初めて読んだのは、まだ高校生の頃だった。「刺青」はじめ短編小説を何本か読んだあと「痴人の愛」を読んだのだが、その濃艶な文体と異様な人間心理の描写に圧倒されながらも、何ともいやな気分に陥り、それ以上読みすすむのを放擲してしまった。この文学はどこかに異常なところがある、それは単にそれ自身が異常であるばかりか、読むものまで異常にしてしまう、こんなものばかり読んでいると、きっと頭がおかしくなってしまうにちがいない。筆者は未発達で青臭い知性を以て、そんな風に考えたのだった。
中年になって分別の定まる頃、再び谷崎潤一郎の世界に挑戦した。今度は抵抗なくすらすらと読み進むことができた。というより筆者はすっかり谷崎の世界の虜になってしまったのである。そんなわけで、中央公論社版の谷崎潤一郎全集をかたっぱしから読み漁った。一篇また一篇と読むごとに、筆者は谷崎の世界の奥深さに圧倒されたのである。
そこで筆者は、何故自分の少年時代には谷崎に嫌悪感を覚えたのか、その理由を考えてみた。結局世間知らずだったというのが結論のようなものだった。自分はまだ経験が浅く、性愛のこともまともに知らないばかりか、この世の中には、サディズムだとかマゾヒズムだとか、性的フェティシズムだとか性同一性障害だとか、したがってゲイとかレスビアンとかいった人々の存在も、決して不思議なことではないのだ、ということがわかっていなかった、それ故、そういった世界を正面からとりあげた谷崎の世界が、少年の自分には理解を超えていたのではないか。そんな風に考えたわけである。
谷崎の世界は無論、上述したような倒錯的な世界にかかわるものばかりではない。「細雪」をはじめとしたリアリズム風の作品世界もある。そうではあるが、やはりその真骨頂と言うべきものは、人間の性的な、あるいは常軌を逸した側面に焦点を当てた作品群だろう。谷崎のもっとも谷崎らしいところは、人間の本質を、異常性を通じてあぶりだすことにある、と筆者は考えるようになった。
そういう意味からすると、谷崎の初期の短編小説群には、谷崎が生涯にわたって展開することになったテーマが、網羅的に出ている、と言うことができるのではないか。
こんな問題意識から、谷崎潤一郎の初期の短編小説をいくつか読みなおしてみた。中公文庫版「潤一郎ラビリンスT 初期短編集」所収の、刺青、麒麟、少年、幇間、飆風、秘密、悪魔、恐怖の諸編である。
「刺青」は実質的に谷崎のデビュー作と言ってよい作品だが、ここで谷崎が描き出したのは、肉体性へのこだわりである。人間というものは、当たり前のこととはいえ、肉体でできている。その当たり前のことを、谷崎は当たり前に描き出したのである。しかし、当たり前が当たり前すぎると当たり前でなくなることがある、それは人間を、心を持っているということを度外視して、ただただ肉体からできているのだということにこだわることから起きる。谷崎は、人間とは肉体以外の何物でもないということを、この作品の中で徹底的に主張しているのである。
それ故、この作品は、女の肉体を描いているにもかかわらず、官能的な雰囲気を持っていない。ウェットなところがいささかもなくて、乾ききっているといっても良いくらいにドライでクールなのである。
彫り物師が若い女の脚を見て、その持ち主が超一流の肉体からできていると直感し、その素晴らしい肉体に刺青をほどこしたいと願う、そして遂にはその願いがかなって、女の肉体には巨大な蜘蛛の刺青が出現する。その過程を描いているに過ぎない。最後に、十六七のうら若い女が、未成年から成熟した女へと変身するのであるが、それは精神性の成熟によってではなく、肉体の変化によってもたらされた結果なのである。つまり少女は別の肉体に生まれ変わることで、真の女になるわけなのだ。
「麒麟」は伝道の旅を続ける孔子の一行が、衛の君主夫人によって誘惑される話である。孔子は誘惑に負けることはないが、かといって衛の夫人を改心させるわけでもない。孔子の精神世界と夫人の肉の世界とはどこまでも並行していて、決して交わることはないのである。こういうことで谷崎は、肉の世界の自立性を語っているようである。
「少年」は、幼い子どもたちの間で形成されるサド・マゾ関係を描いた作品である。主人公の少年たちは、はじめのうちは仲間の少女に対してサディスティックな暴力を加えているが、そのうちその関係が逆転して、少女に暴力を加えられる立場になる。ところがその暴力を、少年は苦痛と感じるのではなく、愉快に感じるのである。つまり、それまでサディスティックな加虐の喜びに耽っていたものが、今度は被虐を喜ぶマゾヒストの境地に転変する。谷崎はそれを、少年の心を舞台に描くことで、サド・マゾのあり方が人間には自然に根差しているのだということを言いたいのかもしれない。
「幇間」は、他人に虐待されることに喜びを感じる道化師の話である。幇間と言うのはもともと、他人に馬鹿にされながら、人様を喜ばすことが商売なのだが、その馬鹿にされるということが、商売の都合ではなく、本当の喜びになってしまった、そんな男の業のようなものを描いたのがこの作品なのである。
「飆風」は男の性欲を描いた作品である。決して浮気はしないと女に約束して旅に出た男が、行く先々で性欲の衝動に苦しむという他愛ない話だ。半年ぶりに東京に戻ってきた男は、真っ先に女のもとにはせ参じ、長い間抑圧してきた性欲を一気に開放するのだが、興奮のあまりに発作を起こし死んでしまう。今でいえば腹上死だ。馬鹿馬鹿しいといえば馬鹿馬鹿しいが、その馬鹿馬鹿しさをまじめくさって描いている、というのがこの作品なのだ。
「秘密」は、女装して街を歩くことに喜びを感じる男の話だ。つまりトランスジェンダーがテーマなのだが、わからぬことに途中からトランスジェンダーのテーマは吹き飛んでしまい、つまらぬ異性愛の物語に終わってしまう。そこのところが中途半端だが、女装するトランスジェンダーをテーマに取り上げたのは、恐らく谷崎が最初ではないか。
「悪魔」は、従姉から漂ってくる性的な魅力に心を惑わせられる男を描いた作品である。男は従姉に対する愛を実現することができない。そのかわりにその代替行為に走る。従姉が鼻を噛んだハンカチを秘かに持ち歩き、機会をみてはそれを舐めるのである。鼻汁の何とも言えない嫌なにおいが、男の性欲をますます掻き立てる。鼻汁を舐めることはセックスの代替行為なのであり、マスターベーションのようなけちなものではない。そんな風に描かれているわけである。
「恐怖」は列車にのるとパニックになるという、一種の強迫神経症のような症状を描いている。谷崎の手にかかると、たんなる脅迫神経症も、人間の心の不安を表す極限的な状況として迫ってくる。
こんな具合に見てくると、谷崎が初期の短編小説群を通じて、人間の肉体性や性欲、そして心の不安と言ったものに、こだわっていたことがわかる。  
「神童」と「異端者の悲しみ」
谷崎潤一郎の二遍の中編小説「神童」と「異端者の悲しみ」は、ともに谷崎自身の自伝的色彩が強い作品だと解釈されている。前者が少年時代を、後者が作家としてデビューする直前の青年時代を描いたものだということになっている。
こうした解釈が広がった背景には、谷崎自身のコメントも作用している。谷崎は「異端者の悲しみ」の「はしがき」のなかで「周囲の人物は別として、少なくとも此の小説の中に出てくる四人の親子だけは、その当時の予が心に事実として映じたことを、出来る限り、差し支へのない限り、正直に忌憚なく描写した物」であり、「此の意味において、此の一篇は予が唯一の告白書である」といっているのである。
実際、「異端者の悲しみ」の中で描かれている主人公の妹は、谷崎の一番上の妹園をモデルにしているというのが定説になっている。
それにしては大胆な描写である。もしもこれらの小説の中の主人公の姿や考えが、現実の谷崎自身を描いているのだとしたら、これほど自虐的な自己描写はありえないだろう。というのも、これらの作品に描かれた主人公は、およそ健全性とは縁遠く、堕落しきった、悪徳の塊のように見えるからである。それは、後になって谷崎が「痴人の愛」などで描いて見せたあの倒錯した生き方が、実は自分自身の生き方でもあったということを、公然と認めたといってもよいほどだ。
そうだとしたら、谷崎は自らの倒錯した人生観を、作品の中でそのまま展開したのだということになる。谷崎が描き出した妖艶で背徳的な世界は、谷崎の頭の中にだけ存在するファンタスティックな作り物などではなく、谷崎自身の実人生を投影しただけなのだといえそうだ。谷崎は作品の世界のみならず、現実の世界にあっても、世人の目から見れば倒錯した生き方に沈殿していたということになるわけだ。実際、谷崎は実人生においてもマゾヒストであったとか、あるいはサディスティックな面をもっていたなどの証言もある。
「神童」は、神童と呼ばれるほど頭の好い少年の物語である。少年春之助は、自分自身でも頭が良いと自認し、周囲からもおだてられているうちに、至極傲慢な人間となり、子ども仲間はもとより、学校の先生や自分の両親でさえ軽蔑しないではいられない。自分は古の聖人君子と肩を並べる偉い人間なのであり、周囲の大人たちは無自覚に生きているだけの情ない連中なのだ。
「神童」の春之助は両親と妹との四人家族で日本橋薬研掘のあばら家に住んでいるが、家が貧しいために、小学校卒業後あやうく丁稚奉公にやられそうになる。少年は、自分のような聖人君子がこのまま丁稚になるのは世の中の不合理だと反撥する。そこへ幸いに、学校の校長が春之助の才を惜しんでくれ、春之助の父親の店の主人に頼み込んで、学資を出させる算段をしてくれる。こうして少年は、主人の家に寄宿しながら学校に通うかたわら、主人の子どもたちの家庭教師役を務めることとなる。
このあたりのシチュエーションは、谷崎自身の少年時代を反映していると言われる。谷崎の実の父親倉五郎は婿養子に入ったのだが、家業を傾けて、息子の潤一郎を中学校に通わせる経済的余裕がなかった、そこで谷崎の才を惜しんだ小学校の教師が、住込みの家庭教師の口を世話してやり、谷崎はそのおかげで中学校に進学できた。こうした少年時代の自分の境遇を、谷崎はこの小説の中で、再現しているわけである。
主人の家に住み込んだ「神童」春之助は、その小さな世界にあって、自分の身の丈に合った生き方をするようになる。傲岸不遜な春之助でも、自分の立場はよくわかっているから、主人夫妻に対しては、犬のように服従する一方、自分より弱い者、たとえば主人の長男玄一には居丈高な態度をとり、時には頭を殴ったりして虐待する。主人の子どもでも、自分より年上の娘鈴子には慇懃な態度で接する。数人いる女中との関係では、それぞれとの間で微妙なバランスをとっている。春之助は、心の中では相手を馬鹿にしながらも、人間関係には相応に気を使うわけなのだ。
「世の中は出鱈目である。自分は天才である」 これが春之助のモットーだ。春之助はこのモットーを心の中に掲げて、世の中を斜視している。ところが、そんな春之助を悩ませることがひとつあった。それは、主人たちの贅沢をつくした暮らしぶりが、うらやましく映じたことである。主人たちは毎晩うまいものを食い、歌舞管弦に打ち興じている。春之助にはそれがまばゆく映るのだが、不幸なことに、自分はその輪の中に入れてもらえない。それでも、なにかの拍子に御馳走の御相伴にあずかれることもある。そうこうしているうちに、春之助は、なんとかしてその御相伴にあずかる機会が増えないものかと、賤しいことばかり考える卑劣な人間になっていく。
春之助は、自分が天才であることなど忘れてしまって、目先のことばかり考える、情けない状態に陥っていく。そうなると、自分の欠点ばかりが目につくようになる。自信を失った春之助は、自分の容貌にも自信が持てなくなる。容貌の醜さに加え、運動能力の拙劣さも自虐のタネになる。ようやく思春期に差し掛かろうという頃になった春之助は、マスターベーションの悪癖に耽るようになる。こんなことをせずとも、生きた女を抱くことができたらどんにかいい気持ちがするものかと、マスターベーションをしながら、春之助はますます落ち落ち込んでいく。
こうして春之助は、「己は子どもの自分に自惚れていたような純粋無垢な人間ではない」と気づくのであるが、その一方で、「己はいまだに自分を凡人だと思うことはできぬ。己はどうしても天才を持っているような気がする」と思わないではいられないのである。
「異端者の悲しみ」は、大学生になった春之助が章三郎という名前で登場する。章三郎は両親の家でゴロゴロしている。大学の友人との間で不義理なことがあって、大学に行けない事情があるのだ。そこで章三郎は自分の部屋にこもって妄想に耽ったり、便所に閉じこもってマスターベーションに熱中するのである。
章三郎の妹は肺結核で死にそうな状態にある。そんな妹に対して章三郎は一向に同情することがない。章三郎は、自分のこと以外に気を使うということがないのだ。
章三郎は時々大学の学生仲間と羽目をはずして遊ぶことがある。金がない章三郎は、他人の懐をあてにするのだが、そのことが章三郎を卑屈にし、幇間のような人間にしていく。学生仲間はそんな章三郎を、気晴らしのタネくらいに考えて驕ってやることもある。
こんな具合で、この小説は章三郎と言う人間の、人間として鼻持ちならない側面を、オン・パレードのように盛り込んだ作品だ。「神童」もそうだが、読んで面白いということはない。不愉快な気分になるのが関の山だ。
一体、谷崎はどんなつもりでこんな小説を書いたのか、読んでいて不可解な疑問に駆られることもある。しかし、そんな疑問を小説の持つ勢いのようなものが吹き飛ばしてしまう。不思議な作品だ。  
「母を恋ふる記」
谷崎潤一郎の母関は美しかったらしい。浮世絵にもなったというから、相当の美人だったに違いない。関には姉妹が二人あって、彼女らもまた浮世絵になるほど美しかったらしいが、潤一郎の母関は群を抜いて美しかった。少なくとも息子の潤一郎はそう思い込んでいたようである。
そんな母親の美しい姿を、夢のように歌い上げたのが、短編小説「母を恋ふる記」だ。この小説の中の、潤一郎と思われる小さな男の子は、母親を恋い求めて歩き続ける。そうしてその男の子の前に現れた女は、雪のように白い肌をもった美しい女であった、いや美しくあらねばならなかった。なぜなら男の子である潤一郎は、夢の中で美しい母親を恋い求めていたからだ。
この小説を谷崎が書く二年ほど前に、母親の関が死んだ。母親が生きていた頃、谷崎は「神童」や「異端者の悲しみ」といった自伝風の作品の中で、自分の母親像に触れないわけではなかった。そこで谷崎が書いた母親像は、生活力のない、気の弱い女であった。息子にとっては、心やさしい母親として描かれてはいたが、しかし、美しい女としては描かれていなかった。
谷崎はこの作品の中で、自分の母親を、心優しいばかりか、美しい女として描いた。そうすることで、母親に対して抱いていた自分の気持ちに、ひとつの区切りとしての形を与えたかったのかもしれない。それは男の子なら誰もが抱く母親像の典型と言えないでもないが、それにとどまらない余剰のようなものもある。その余剰の部分が谷崎だけの母親体験に根差したものであることは、間違いないところだろう。
この小説は、夢物語という体裁をとっているが、最初からそのことが明示されているわけではない。というのもこの小説は、主人公の男の子による一人称の語りという体裁をとっているからだ。語りと言うのも当らないかもしれない。語りは語りかけられる相手を予想しているが、この小説の中の少年は別に誰かに対して語りかけているわけではない。ただ自分に向かって呟いているに過ぎないのだ。
少年は自分の目に映る眺めを、自分に向かって確認するようにつぶやくのである。少年は松並木の間の細い道をどこまでも歩いていく。左手には海があり、右手には沼があるようだ。少年は左手から海の音を聞き、右手には沼に映った月影を見ながら、どこまでも前へと歩いていく。少年は母親の姿を追い求めているのだ。
やがて家灯りが見え、その家の中で一人の女が台所仕事をしているのが見える。少年はその女が自分の母親に違いないと早とちりする。しかし女は少年の母親などではなかった。少年はその女に空腹を訴えるが、女は邪険にも少年を追い払う。
少年はなおも、その細い道を歩き続ける。すると月明かりの中に一人の女が浮かび上がる。女は三味線を弾きながら新内節を歌う。肌は月明かりを受けて雪のように白く、三味線の立てる響きが「天ぷら食いたい、天ぷら食いたい」と聞こえる。無意識ながら少年の空腹がそうさせるのかもしれない。
少年はこの女が自分の母親だとは、最初のうちはわからない。だから小母さんと呼びかける。その小母さんが目に涙を浮かべて泣いているように見える。するとその女は「これは月の涙だよ。お月様が泣いていて、その涙が私の頬の上に落ちるのだよ」といって、自分が泣いているということを認めようとしない。
しかし、その女が泣いていることは間違いないことなのだった。少年がそのことを問い詰めると、女も自分が泣いていることを認め、「お前は何が悲しいとお云いなのかい? こんな月夜に斯うして外を歩いて居れば、誰でも悲しくなるじゃないか。お前だって心の中ではきっと悲しいに違いない」と少年にいう。
こう言われた少年は、自分も悲しいと言って、女とともに泣く。すると女は、「おお、よく泣いておくれだねえ。お前が泣いておくれだと、私は一層悲しくなる。悲しくって悲しくってたまらなくなる。だけど私は悲しいのが好きなのだから、いっそ泣けるだけ泣かしておくれよ」といって泣き続けるのである。
少年はその女が自分の母親であることがなかなかわからない。かえって、自分の姉さんのように思えるなどと、甘えごとをいう。それに対して女は初めて、自分がお前の母親なんだと明らかにする。
「ああ、お母さん、お母さんでしたか。私は先からお母さんを探していたんです」
「おお、潤一や、やっとお母さんがわかったかい。わかってくれたかい」
母は喜びに震える声でこう云った。そうして私をしっかりと抱きしめたまま立ちすくんだ。私も一生懸命に抱きついて離れなかった。母の懐には甘い乳房の匂が暖かく籠っていた」
最後に谷崎は、これが自分の見た夢であったことを読者に打ち明け、次のように言うのだ。
「私はふと目を覚ました。夢の中で本当に泣いていたものと見えて、私の枕には涙が湿っていた。自分は今年34歳になる。そうして母は一昨年の夏以来此の世の人ではなくなっている。〜この考えが浮かんだ時、更に新しい涙がぽたりと枕の上に落ちた」
母親との関係を、それも思慕に満ちたあり方を小説の中で取り上げる作家はあまりいない。谷崎のこの作品は、そうした点で二重に珍しい。一つは、母親を永遠の女性として理想化するという点、もうひとつは、そんな母親に執着する自分をあからさまに描いている点、この二つである。  
「痴人の愛」
谷崎潤一郎の小説「痴人の愛」を、筆者が初めて読んだのは高校生の時だったこと、その時には何とも嫌な気分になって、それがきっかけで、谷崎作品に先入見のようなものを感じるようになった次第については、先稿で書いたとおりである。この小説の何が、思春期の筆者をして拒絶反応を引き起こさせたのか。老人となった今、この小説を読み返して、改めて考えてみた。
この小説には、二つの特徴がある。ひとつは人間の性について焦点をあてていること、もう一つはマゾヒズムの匂いを忍ばせている事である。そしてここでのマゾヒズムには、性的倒錯というべきものが纏いついている。というか、性的な倒錯がマゾヒズムの形をとっている。この小説では、性的倒錯とマゾヒズムとは同義語なのである。
こんなわけだから、未だ少年の状態から完全に脱し知れていない人間にとっては、理解することが困難だったということは言えるだろう。
ただ単に、人間の性をテーマにしているだけだったら、少なくとも拒絶反応は起こらなかっただろう。「刺青」などは、やはり人間の性的な感情を描いたものなのに、筆者はそこでは嫌な気分はおこらなかった。だから、性的なテーマが筆者の理解を超えたということではなかった。また、性的倒錯についても、それ自体としては理解出来ないことではなかった。「秘密」などは、そうした倒錯した世界を描いたものであるのだし、筆者はそれを十分に受け入れることができたのである。
では何故、「痴人の愛」があれほどに激しい拒絶反応を起こさせたのだろうか。マゾヒズムと言い、性的倒錯と言い、それ自体では理解可能な事柄であっても、両者が結合して一つのモノになると、そこに理解を超えた超越的な世界が現出するからであろうか。その超越的な世界が、読むものに向かって、名状しがたい誘惑のようなものを感じさせ、それが読者をして尻込みさせるのでもあろうか。
高校生の頃に感じた拒絶反応を今から分析してみると、どうやらそこには、この小説の持つ攻撃性といってよいようなものが作用していたのではないか、そんな風に思われる部分がある。
攻撃性と言ったが、それは一口で言うと、読者をそそのかして、自分が意図しない方へと駆り立てられていくような、非自発的な感情を生じさせる力のことである。この攻撃性のおかげで、読者は心を鷲つかみにされたあげくに、自分もまた小説の世界の主人公と同じような行動に向けて駆り立てられるのを感じる。それは自分の意図しないことであるがゆえに、不愉快なことがらである。その不愉快さが、あの拒絶反応につながったのではないか。
この小説には、読者をして小説の主人公に感情移入させながら、しかも同時に反発を感じさせるような、矛盾した要素がある。その矛盾した要素は、大方の大人たちにとっては破壊的な作用を及ぼすことはないが、まだ少年期を脱していない人間にとっては破壊的に作用するのだろう。実際老人としての筆者には、この小説は不愉快であるどころか、愉快極まりなかったのである。
こんなわけで、この小説は分別を備えた大人が読むべきものである。少なくとも少年は読むべきではない。それが筆者の感想である。この感想は重い経験に裏付けられているから、世の教育者は耳を傾ける価値がある。
ところでこの小説の何が、筆者のような老人を含めた大人の読者にとっては愉快なのか。
それは、小説の中の主人公格のカップルが、読者たちが現実の世界では味わいえない冒険的な感情を、疑似的に味あわせてくれるからだと思う。性的倒錯と言い、マゾヒズムと言い、それ自体としては興味深い事柄だ。しかしそうした事柄を現実の世界で演じられるものは多くはいない。いるとしたらその人間は、すでにこの世界の秩序からはみ出してしまっているのであり、したがって世の中において善良な人間として自己主張することができない立場に自分を追い込んでいることになる。
この小説は、自分をまずい立場に追いこまないままで、性的な倒錯やマゾヒズムとサディズムの戯れ合いと言った、いわばゲームをしているかのような感情を味あわせてくれるのだ。
この小説が完全な作り物であり、したがって現実とはかかわりのない物語の世界を描いていることは、この小説の結構そのものが現実離れしていることから明らかである。30歳を過ぎた主人公の男が、15歳の少女を、あたかも犬や猫を買かのようにして、自分の支配下に置く。男は力関係の非対称性を十分に利用して、この少女をペットのように扱う。少女はこの男のペットとしてこの小説に登場するのである。こんなことがいかにありえないことで、しかも思うだけで非道徳的なことであるかは、論じるまでもない事柄だ。
これだけでも、非道徳的でかつありえない事柄だったはずの、男と少女の関係が、次第に反転していく。ペットであった少女は、自分のペットとしての魅力を逆手にとって主人である男を反対に自分の意に服させるようになる。ついにはペットと主人の立場が逆転する。今やペットであった少女が主人公の主人となる。主人であったはずの主人公は、いまや少女の意思に逆らえない弱弱しい存在に化する。しかし弱々しいといっても、それが苦痛なわけではない。なぜなら主人公は少女によって虐待されることに喜びを感じるからだ。少女は少女でそんな主人の性癖を逆手に取り、自分の意思を最大限に貫こうとする。
そこにゲームの感覚が物を言う世界が成立する。マゾヒズムはサディズムの裏返しと言われるように、いじめられることに喜びを感じる者は、いじめることに喜びを感じる者の存在を前提にする。それ故、この小説の主人公たちは、二人そろって初めてゲームが成立するような関係にある。どちらが欠けてもゲームは成立しない。
こんな次第でこの小説は、物語性だけでなく、ゲームとしての資格をも兼ね備えている、非常に見事な作り物だといえよう。  
「痴人の愛」一人称と性的言語
谷崎潤一郎の小説「痴人の愛」のすごさというか迫力の源泉は、その独自の言語空間ともいうべきものに由来している。谷崎はこの小説において、語り方としては一人称形式を用い、語られる内容には性的言語を多用した。そこから、主人公の主観的な意識を通じて展開されるお話の世界が、それでなくとも融通無碍な性格を帯びがちなところに、性的言語が氾濫することによって、非日常的で祝祭的な雰囲気さえ帯びるようになる。谷崎は、彼独自の言語空間をうまく活用することで、この小説の表現しようと意図するところの倒錯的な世界を、じめじめした陰鬱なものとしてではなく、明るく祝祭的なものとして描き出しているのである。
一人称の形式と言うのは、日本の近代文学においては、珍しいことではなく、むしろ普通のと言ってもよかった。私小説とよばれるジャンルの小説などは、好んで一人称を採用している。その場合の一人称の描き方は、どちらかと言うと、観念的になったり、いいわけがましくなったり、要するにじめじめした印象を与えがちであった。少なくとも、陽気な感じがする私小説と言うものは、形容矛盾といってよいほど、ありえない組合わせのように見えるのである。
ところが、谷崎はここで、一人称形式を通じて、主人公の口からお話をさせるわけなのだが、そのお話が、何とも陽気で面白いのである。祝祭的と言ってもよい。語られる事柄が、男女のセックスにまつわる事なので、余計に祝祭的になりうるわけである。
男女のセックスにも、じめじめしたものはあるし、読者を憂鬱にさせるようなものもないわけではないが、セックスとは本来そんなものではなく、祝祭的で人の心を高ぶらせるものなのだ、ということを、谷崎はよくわきまえているのであろう。
ところで、一人称形式には、短所もあれば長所もある。短所の最たるものは、言説に客観性を付与することが難しい点だ。したがって、大河小説のような結構の壮大なものは、一人称にはなじまない。逆に長所とすべきものは、主観的な観念の世界を描き出すのに威力を発揮することだ。実際、一人称小説と言うものは、個人の視点から見た世間を描いているわけであるから、視点にはブレができず、しかも観念の細かいひだまで描き出すのに優れている。
日本の私小説とよばれるものは、一人称の持つ短所を避け、長所を生かそうとつとめたわけであるが。谷崎の場合には、短所も長所も、両方とも盛り込もうとした。つまり、視点は単一で、したがって主人公の主観的な意識を反映したものでありながら、主人公の語ることは、主観的な妄想などではなく、客観的な出来事なのだと、読者に思わせようとする。そこから、ユーモアのようなものが生まれる。
というのも、主人公の意識における主観的なものと、彼を囲む客観的な世界とがずれているのに、主人公はそのずれを意識できない、自分はあくまでも客観的な世界で客観的に生じたことをごく客観的に語っているのだと言う態度を取っている。しかし主人公の主観的な意識と彼が客観的と考える事態の間には大きなずれが存在するのだ。そのずれが、ユーモアを呼び起こすわけである。
たとえば、主人公がナオミによって騙されていることを、主人公は知らない。主人公が知らないのであるから、主人公から話を聞かされる立場の読者も当然知らない。ところが、主人公の語る話そのものは、現実の事態を踏まえているわけであるから、そこには主人公は明示的には知らないまでも、実は直美が騙していることを暗示するような言説が現れる。つまり、主人公の意識の主観性と事実の持つ客観性とが、ここでは分裂するわけである。その分裂、つまりズレがユーモアを生むのである。谷崎はこのユーモアを大事にしている。
性的言語は、直美の言葉遣いの中に現れている。この小説の開始時点でのナオミはまだ15歳の少女だが、彼女ははじめから少女らしくない言葉をしゃべっている。
「譲治さん、今日はビフテキをたべさせてよ」
「ええ、あたし一生懸命勉強しますわ、そしてほんとに譲治さんの気に入るような女になるわ」
この時代の15歳の少女なら、「あたしビフテキ食べたい」とか「ちゃんと勉強する」というところだ。それなのに、こんな持って回った云い方を、谷崎はこの少女にさせている。
こうした言葉遣いは、日本語学者の中村桃子女史が「てよだわ」ことばと名づけたものだ。明治時代に女学生を中心に使われ始めたのだったが、それを文学者が好んでとりあげ、作中の女たちに使わせたことばだったという。それも主に性的なコンテクストの中で、このことばを多用した。漱石も「それから」の中で女性主人公の美千代に一度だけこの言葉をつかわせているが、それは、大助から愛を告白されたシーンでだった。こんなところからわかるように、こうした言葉遣いは性的なイメージを伴っていたわけである。谷崎はそんな言葉づかいでもって、あからさまな性的イメージを想起させるような会話を、主人公たちにさせているのである。
たとえば、主人公とナオミがトランプをする。ナオミは主人公の気をそらせようとして、性的な仕草をする。主人公が、そんな手はないといって、ずるいやりかたを責めると、ナオミは、次のように言って、反撃する。
「ふん、ないことがあるもんか、女と男が勝負事をすりゃ、いろんなおまじなひをするもんだわ。あたし余所で見たことがあるわ。子どもの時分に、内で姉さんが男の人とお花をする時、傍で見てゐたらいろんなおまじなひをやってゐたわ。トランプだってお花と同じじゃないの」
こんな具合で、谷崎の性的なものに対するこだわりは尋常ではない。それがこの小説に一貫性のようなものを付与する原動力になっていることは間違いない。
主人公の意識のなかの主観性と、事態の客観性との間の亀裂は、小説のいたるところで現れる。そうしたシーンの中でも、男たちが初めてやって来て泊り、一つの部屋の中で雑魚寝するシーンは心憎い場面である。三人の男と一つ部屋に泊ったナオミは、男たちを相手にさんざん性的な遊びに耽ったあげく、主人公の寝ている隙をみはからって、別の男とキスしたりする。そんなことには全く気付いていない主人公は、朝目が覚めるとナオミの寝顔を見ながら、次のように思うのだ。
「ナオミちゃん・・・・と、私はみんなの静かな寝息をうかがひながら、口のうちでそういって、私の布団の下にある彼女の足を撫でてみました。ああ、この足、このすやすやと眠ってゐる真っ白な美しい足、これはたしかに己の物だ、己はこの足を、彼女が小娘の時分から、毎晩毎晩お湯へ入れてシャボンで洗ってやったのだ、そしてまあこの皮膚の柔らかさは、〜15の歳から彼女の体は、ずんずん伸びていったけれど、この足だけはまるで発達しないかのやうに依然として小さく可愛い。さうだ、この親指もあの時の通りだ。小指の形も、踵の円みも、ふくれた甲の肉の盛り上がりも,総てあの時の通りじゃないか。・・・私は覚えず、その足の甲へそうっと自分の唇をつけずには居られませんでした」
谷崎はまた、古典を引用して、性的なイメージに花を添えることも忘れない。主人公との戦いに勝利して、主人公を奴隷の境遇に追いやったナオミは、主人公からキスを求められると、はあっと息を吹きかけることで、我慢させようとする。主人公はキスがしたくてたまらないのだが、たとえキスができなくても、ナオミの息に触れるだけでもうれしくなる。というのも、ナオミの息にはまなめかしい香りが立っているからだ。
「彼女の息は湿り気を帯びて生暖かく、人間の肺から出たとは思へない、甘い花のやうな香がします。〜彼女は私を迷わせるために、そっと唇に香水を塗ってゐたのださうですが、さういふ仕掛けがしてあることを無論その頃は知りませんでした。〜私はかう、彼女のやうな妖婦になると、内臓までも普通の女と違ってゐるのじゃないかしらん、だから彼女の体内を通って、その口腔に含まれた空気は、こんななまめかしい匂いがするのじゃないかしらん、と、よくさう思ひ思ひしました」
このシーンはいうまでもなく、平中の故事を踏まえている。遠い昔の物狂いの物語を谷崎は20世紀の日本に復活させたわけである。色事には時空を突き破る力があるとでも、いいたげなように。  
「卍」
「卍」はほぼ同時期に書かれた「蓼食ふ虫」と比較されることが多いが、筆者はむしろ「痴人の愛」の延長上にとらえている。一人称のネトッとした文体、倒錯した恋愛感情、そして登場人物間の思惑のからみあいといった要素が、互いに共鳴しているように受け取れる。
痴人の愛の文体は、それが男によって語られているということもあって、ネトッとした味わいながらも、一方では論理的な筋道を感じさせたが、この小説では語り手が女であり、しかも関西弁で語っているということもあって、一種独特の味わいをかもしだしている一方、論理より心の動きが表に出ている。語り手である主人公の女は、自分の心に浮かんだことを、浮かんだとおりに語っていくわけで、そこには論理の筋道よりも、出来事の前後が物語の道筋になっているわけだ。
それでいて、物語の進行に無理がなく、破綻せずに展開していくのは、作者が物語の結構をあらかじめ入念に作り上げていることのおかげだろう。極めて複雑で、一つ一つの出来事が互いに錯綜しあっている物語が、語り手の口を借りて一直線に進んでいくのは、あたかも見えない糸に操られているかの感を催させるのだが、その見えない糸とは、作者によってあらかじめ整えられている糸なわけである。
作家には、筋書を考えてから書き始めるタイプと、書きながら考えを整え筋書を作り上げていくタイプとがあるように思われるが、谷崎は前者の典型のように見える。
語り手の女によって語られることは、女自身の倒錯した恋愛感情であり、また女をめぐる幾人かの人物たちの、これもまた倒錯した恋愛感情である。痴人の愛にあっては、男女の間のサド〜マゾの関係が、男の立場から語られたが、ここで語られる倒錯した恋愛とは主に女同士の同性愛である。それにインポテンツの男のゆがんだ恋愛感情がからまり、またもともと「正常人」であった女の夫までもが、「不義密通」の世界に巻き込まれてゆく。こうした様々な愛が縺れ合うところに、この物語の道筋が成り立っているのだ。
このように、この作品は痴人の愛に比べて主要な登場人物が多いだけ構成も複雑になっている。痴人の愛ではナオミを巡って幾人かの男たちが出てきて脇筋を挿んでいくが、本筋はあくまでも主人公のナオミに関する感情の吐露である。したがって、物語全体を通して筋道は一貫している。主人公が物語の絶対的な中心になっていて、すべては主人公の男の視線を通してえがかれる。
これに対してこの作品では、物語の中心が語り手の女であることは間違いないが、女の同性愛の相手もまた、主人公に劣らず強い役割を果たしている。というのも、主人公の女が知らないところで、この同性愛の女が物語に大きく影響するような行動をしているからである。この一組の女たちを巡って、インポテンツの男と主人公の女の夫とが介在するわけであるが、この四人が、それぞれの思惑を絡ませ合いながら、物語を面白くさせていくわけである。
したがってこの作品は非常に物語性の強い作品となっている。その物語が女の口をかりて、しかも関西弁で語られるところから、物語の物語性、つまり虚構的な性格は一層強くなる。
物語の結末は、同性愛の女たちと主人公の夫と、この三人が睡眠薬を飲んで死ぬことになっているが、何故この三人が死ななければならないのか、その理由は深く説明されていない。死ぬことがあたかもファッションであるかのように、さらりと描かれるのである。死ぬことに深刻さもなければ、じめじめとした暗さもない。つまり、物語を一応完結させるための一つの可能な様式として、主人公たちの死というものも考えられる、そういっているかのようなのである。
しかし結局は、死ぬのは愛する人と夫だけ、主人公の女は生き残る。彼女が生き残ったのは、彼女の深い愛を読者にあらためて感得してもらうのが目的であるかのように。さればこそ、この小説の最後は、次のような言葉で結ばれるのだ。
「あゝ・・・先生(柿内未亡人は突然はらはらと涙を流した)・・・今でも光子さんのこと考へたら憎い、口惜しい思ふより恋しいて恋しいて・・・ああ、どうぞ、どうぞ、こない泣いたりしまして堪忍して下さい」
物語を締めくくるにあたって主人公の女が流す涙は、女の愛の強さ、深さを物語る涙である。日本の小説で、これほどフィナーレの引き締まった作品は他にそう多くないのではないか。
ところで題名の「卍」が何をイメージしているのか、筆者にはいまひとつわからない。谷崎自身は小説の中でこの言葉についての説明をしていないので、勝手な空想をするしかないが、これ自体は本来仏の身にあらわれる瑞相のことを指しているところから、仏と関係があるのかもしれない。小説の中で主人公の女が同性愛の相手の裸体を描くところができてきて、それを観音様の像だといっているが、果してこの観音様のイメージが「卍」のイメージにつながるのだろうか。  
「卍」と「蓼食ふ蟲」の共通性
かつて丸谷才一は「卍」と「蓼食ふ蟲」とを一双の屏風に譬え、このふたつの作品が、形式的にも内容的にも深い関連を有していると指摘したが、筆者もまた同じ感を抱いてきた。筆者がこの二つの作品を相次いで読んだのは、かなり昔のことだが、以来、この二つを姉妹作品のように思いなしてきたのである。
最近読み返してみて、あらためてその感を強くした。というのも形式的な類似性はともかく、内容においても響きあうものを感じたのである。外見的な姿は無論かなり異なる。一方は同性愛を中心にして、背徳的な男女が愛憎を繰り広げるドラマチックな小説であるのに対して、他方は、破たんした夫婦関係を淡々と描きながら、その合間に、文楽の鑑賞やら、淡路の人形浄瑠璃の話やら、日本の伝統芸能に関する作者の薀蓄が語られる。片方は動的な印象を与え、もう片方は非常に静的である。こうしたことからして、両者は一読して非常に異なった印象を与えるのであるが、しかしよくよく考えると、底の方で深く響きあっているのである。
そこでこの二つを深く結びつけている絆とはどんなものなのか、筆者なりに分析してみた。
まず、両者とも関西の同じような場所を舞台にして、関西人の生き様と言うようなものにこだわった書き方をしているということ。それも東京人の立場からする批判的な書き方をしていながら、その批判の対象となる関西風な生き方が淡々として描かれていくということだ。「卍」のほうは主人公が一人称で語るという形を取っているのだが、それでも、ときおり作者の意見が出てきて、その中で作者は関西人のいやみったらしさを、東京人の立場から非難している。「蓼食ふ虫」においても、妻の父親とその妾との関西風の生活ぶりが、東京人の要の目からみると異様な風に受け取られている。それでいながら両者ともに、物語の世界は関西風の色彩を帯びたまま展開していくのである。その色彩みたいなものの共通性が、この二つの作品を、ムードの次元で、深く結びつけているのではないか、そんな風に受け取れるのである。
二つ目は、女を崇拝しているということ。女を崇拝するのは、ある意味で谷崎文学の核心と言える傾向なのだが、この二つの作品ではそれが素直に出ている。これらは女の素晴らしさを男の目から描いた小説なのである。その素晴らしさは、「卍」の場合には光子観音とうかたちで形象化される。「卍」という小説は、この観音様のような女性像を巡って繰り広げられる、女の崇拝の物語なのである。一方「蓼食ふ蟲」においては、女の素晴らしさは岳父の妾の人形のような美しさとして形象化される。当初要はこの女を他人の妾としか思っていないのだが、いつしか気持ちをそそられる自分を感じる。それは女のもつ美しさが、男をして崇拝させずには止まない強い引力をもっているからだ、と言わんばかりなのである。
三つ目は、夫婦だけが男女関係の唯一のモデルではないという主張である。「卍」においては、女同士の同性愛が夫との夫婦愛をしのいでいき、その夫もまた、光子観音と背徳的な結びつきに走っていく、かくして夫婦関係はもろくも崩れ去り、その廃墟の上に新たな背徳の愛が成長してくる。「蓼食ふ蟲」においては、主人公の夫婦関係は物語の始めから崩壊している。主人公の夫妻は互いに離婚を考えており、妻の方は須磨に愛人を持ち、夫の方は神戸の売春宿に足しげく通って性欲をなだめている。しかし、「卍」においては、夫婦関係が崩壊した後に新しい愛が仄めかされているのに対して、「蓼食う蟲」にあっては、そのような愛の形は保障されていない。それ故夫婦関係が崩壊するだけで、その後にはなにも残らないかもしれない。そうした点では、こちらのほうがストレートに夫婦愛を否定しているのだと捉えることもできる。
谷崎は何故、この二つの小説において、夫婦愛のあり方にかくも強烈な攻撃を加えたのであろうか。それを理解するカギは、これらを執筆していた当時の谷崎の事情にあると考えてよい。
この二つの小説が書かれたのは昭和3年前後だが、その時期の谷崎は一家をあげて関西に移住してきたものの、妻千代との関係は冷え切ったままだった。千代の方は他に男を愛人に持つようになり、谷崎は谷崎で、それを黙認した挙句、昭和5年には、千代を離婚、佐藤春夫に譲るといういわゆる「細君譲渡事件」に発展している。こうした生活上の背景が、とくに「蓼食ふ蟲」の方には色濃く反映されているのだろうと思う。
一、 美佐子は当分世間的には要の妻であるべきこと
一、 同様に阿曽は、当分世間的には彼女の友人であるべきこと
一、 世間的に疑いを招かない範囲で、彼女が阿曽を愛することは精神的にも肉体的にも自由であること
に始まる覚書は、主人公の要が、妻とその愛人阿曽をめぐる関係のあり方について、自分から持ち出した条件と言うことになっているが、この段を読むと、細君譲渡事件にあたって谷崎が関係者に出した挨拶状の文言を彷彿させる。
こんなとことから「蓼食ふ蟲」という小説は、谷崎が当時生きていた生活感情を、かなり忠実に盛り込んだ作品だと考えられるわけなのである。  
「吉野葛」
日本の伝統文化に対する谷崎潤一郎の関心は、「蓼食ふ蟲」で人形浄瑠璃を取り上げたあたりから本格化するが、ほぼそれを前面に出して小説を構成したのが「吉野葛」である。吉野の山奥を舞台にしたこの小説は、謡曲二人静や国栖、それに吉野朝の最後の王子たちの伝説を材料にして、言い伝えの世界と目の前に展開する自然とを一々対応させながら、そこに登場人物の母への思慕の感情をからませる。古の伝統的な世界と今に生きる人間の生き様とが混然と溶け合った美しい作品である。
エクリチュールは谷崎得意の一人称だ。語る者は作家と言う設定になっていて、その作家が友人に誘われて吉野の奥の方を訪ねる。吉野は神話的なイメージが豊かなのと南朝にかかわる伝説も豊富で、それらを材料にして一篇の小説が書けるだろうという思惑があってのことだった。友人は友人で自分なりの思惑を持っていたことは、小説の最後の部分で明らかにされる。
谷崎は読者を吉野川の流域に案内する。まず芝居の舞台として有名な妹背山が現れる。その先にある川原は菜摘の里といって謡曲二人静の舞台であり、また万葉の詩人たちがたわむれたところでもある。その菜摘の里で、作家と友人はある家を訪ね、そこに保存されている初音の鼓なるものを見せてもらう。
初音の鼓というのは、静御前が使っていたとされる由緒ある鼓で、狐の皮でできている。そして静御前がぽんと鳴らすと忠信狐が飛び出てくると伝えられている。その鼓とともに、「菜摘邨来由」と題する巻物を見せてもらったが、それには、「義経公の愛妾静御前村国氏の家に御逗留あり義経公は奥州に落ち行き給ひしより今ははや頼み少なしとて御命を捨て給ひたる井戸あり静井戸と申し伝へ候」とあり、静御前はこの地で死んだということになっている。所有者もそれを疑わず、静御前が後日頼朝の前で舞を舞わされたなどと言う史実は全く頭にないのである。
吉野川を更に遡ると謡曲国栖の舞台となった村里がある。ここは和紙の産地だそうで、村中に和紙が干されているのが見える。友人はここに住んでいる親戚を通じて、一人の娘を嫁にもらいたいと思って、訪ねてきたのだった。その妻恋の道中に作家を誘ったのは、相手の娘が自分の妻に相応しいかどうか鑑定して欲しかったからだというのである。
友人が何故国栖にこだわるようになったか。その理由は、亡くなった母親の実家がここにあったことにある。その友人は、子供の頃に亡くした母親の面影が忘れられずに、学業を放擲してまで母親の面影探しに夢中になっていたのだが、あるきっかけから母親の実家を突き止めることができた。その実家と言うところには一面の琴があった。それは母親が少女時代に弾いていたものらしかった。それを見た友人は、子供の頃にある婦人が検校とともに琴を弾いていた光景を思い出した。その時に弾いていた極は狐噲という地歌であった。友人はその婦人こそ母親ではなかったかと想像するのである。
こうしてその実家で、母親の少女時代のことなどを訪ねているうちに、一人の娘と出会った。友人はその娘に母親の面影を認めて、自分の妻にしたいと思ったというのである。
こんな調子で、母恋物語が妻恋物語に発展し、その発展しゆく物語が伝説の世界を舞台に展開していく。非常に手の込んだ結構を、この小説は持っているのである。
妻恋に並行して、作家が吉野川の源流を数日かけて探索する場面が出てくる。源流近くの人跡途絶えたところに、南朝方最後の王子自天王が隠れていたという場所があった。自天王は、追っ手のものによって首をあげられてしまうのだが、それは里人が不用意に王子の居場所を漏らしてしまったためだった。それ故その里人の子孫は代々不具に生まれたそうだ。
このように、この小説には読ませどころが沢山ある。それでいてあっさりとした仕上げになっている。作者の技巧がすぐれている証拠である。  
「盲目物語」
「盲目物語」について谷崎潤一郎は、「実は去年の"盲目物語"なども始終御寮人様のことを念頭に置き自分は盲目の按摩のつもりで書きました」と根津松子(後の谷崎婦人)宛書簡に書いているとおり、これは新たな思慕の対象となった一婦人にたいするオマージュのような作品ということができる。以後谷崎は松子夫人をテーマにした作品を次々と手掛けていくが、この「盲目物語」は、それら松子ものともいうべき作品群の嚆矢となるものである。
この作品は盲目の按摩が自分の思慕する夫人について第三者に語りかけるという体裁をとっている。スタイルの点ではだから「卍」の延長にあるものだが、語り手はこの場合は男の按摩であり、語られる内容は自分がかつて思慕した一人の女性の身の上についてである。男である按摩は、この女性の美しさに感嘆し、その女性を思慕しつづける、そしてその女性が子どもを残して死んだ後は、思慕の対象をその女の子に移すのであるが、女の子からは拒絶されて、悲しい後半生を送るというものである。
盲目の按摩が憧れている女性とは織田信長の妹で、不幸な生涯を送ったお市の方である。按摩はふとしたきっかけで近江の大名浅井長政に仕えることになったのであるが、そこに信長の妹市が長政の妻として嫁いでくる。按摩はこの市の方に大層気に入られ、始終お傍につきそうようになる。按摩は市の方の柔らかい肉をもみほぐしたり、三味線を弾き語りしたりして、慰め申し上げる。そうこうするうちに、この女性に恋心を抱くようになるのだが、如何せん身分も違うし、境遇も異なる。そこで按摩はせめてお傍にゐられることに喜びを感じようと自らに言い聞かせるのだ。
やがて浅井長政は信長と対立するはめに陥り、ついには亡ぼされてしまう。其の際に市の方は夫の云いつけに従って城を逃れ信長に保護を求める。按摩もその市の方母娘と一緒に信長の清州の城で暮らすようになるが、それは按摩にとっては、生涯でもっとも幸せなときであった。というのも、市の方は夫に死に別れた未亡人であり、かつ世の中から身を引いてひとり静かに暮らしている。按摩はそのお傍に仕えて、いわば市の方を独占できるような立場にいられることができたからである。といっても、按摩は市の方の肉を揉むことができるだけで、その肉を自らのものにできるわけもない。その女性はあくまでも、心の中での思慕の対象でしかないのだ。それ故にこそかえって、その思慕はすさまじいほどの怨念に彩られるわけである。
市の方が未亡人になったのは20歳ころのことと設定されているが、それから10年ほど後に本能寺の変が起きる。弔い合戦に勝利した秀吉はかねて市の方に懸想しており、信長亡き後その思いをとげんとして市の方に迫るのであるが、市の方は秀吉が嫌いなので、柴田勝家に再縁することを選ぶ。ところがこの再縁は半年しか続かない。勝家は秀吉と対立し、ついに亡ぼされてしまうのである。その際に市の方も夫と運命を共にすることを選ぶのだ。
按摩もかねてから市の方と生死をともにする決意でいたが、土壇場になって市の方の長女お茶々の命を助ける役をひきうけることになる。茶々を背中に負って、落城する城を落ち延び、秀吉の保護を求めに赴くのだ。その際按摩は、茶々の尻を両手で抱えながら、その肉の柔らかさが、母親の若い頃の肉の柔らかさを思い出させるのを感じ、狂おしいほどの欲念に囚われる。その欲念が、かつて思慕した女性の娘とともにもう一度生き直したいという欲望を起こさせるのである。
その部分をちょっと引用しておこう。「せなかのうへにぐったりともたれていらっしゃるおちゃちゃどののおんゐしき(臀)へ両手をまはしてしっかりとお抱き申しあげました刹那、そのおからだのなまめかしいぐあひがお若いころのおくがたにあまりにも似ていらっしゃいますので、なんともふしぎななつかしいここちがいたしたのでござります・・・お茶々どののやさしい重みを背中にかんじてをりますと、なんだか自分までが十年まへの若さにもどったやうにおもはれまして、あさましいことではござりますけれども、このおひいさまにおつかへ申すことが出来たら、おくがたのおそばにゐるのもおなじではないかと、にはかに此の世にみれんがわいて来たのでござります」
この部分を読むと、書かれている内容の妖艶さはともかく、表現のスタイルまでもが艶っぽく感ぜられる。谷崎は文章をただ音節の連続としてのみならず、視覚的なイメージとしてもとらえていたのがわかる。
ともあれこの物語は、美しい女性とその娘の母子二代にわたって仕えた按摩のあわれな片恋の物語なのである。その片恋を按摩は必死になって生きる。按摩にとって生きることとは、自分が思慕する女性と一体であるという感覚を得られることなのである。つまり按摩は女性に自分の存在を捧げることで、その女性によって生き直させてもらっているという安心感を抱くのだ。その安心感と言うか、女性に対する思慕の情は、これを書いている間に谷崎が松子夫人に対して抱いていた感情そのものだというのであるから、この作品が、作家による自画像のようなものだといわれる所以である。
ところで谷崎は小説の末尾で、いくつかの史実に言及している。それらの史実を持ち出した理由は、市の方の傍らに按摩が付き添っていたとしても不自然とはいえないこと、またこの作品で按摩は三味線を弾いているが、三味線が天正時代にはすでに普及していた形跡があるなどといいたいためのようだ。そうすることで谷崎は、この作品が荒唐無稽なものなのではないと云いたかったのかもしれないが、それはいらぬつけたしのように見える。  
「芦刈」
谷崎潤一郎の小説「芦刈」は「吉野葛」、「盲目物語」に続いて書かれた作品だが、そのためというのでもなかろうが、この先行する二つの作品を足し合わせたような体裁を呈している。前半部分では「吉野葛」を思わせるような紀行文的なスタイルを用いて古の日本を回顧するというやり方をとり、それに続いて後半部分では、ふと作品世界に紛れ込んできた一老人の口を借りて、盲目物語におけるような女性賛美をするのである。賛美される女性のモデルが、その頃に谷崎がぞっこんであった松子夫人であるのはいうまでもない。
「吉野葛」が謡曲「国栖」を連想させるのに対して、「芦刈」は同名の謡曲を連想させる仕掛けになっている。そのことは、小説の冒頭に、「君なくてあしかりけりと思ふにもいとど難波のうらはすみうき」という、謡曲のテーマとなった歌が置かれていることからも窺われる。しかし「吉野葛」において天武天皇にかかわる伝説が語られることがなかったのと同じく、ここでも芦刈の夫婦愛が語られることはない。語られるのは、淀川の支流水無瀬川の風景であり、そこを舞台に展開された後鳥羽院の物語である。しかしてその舞台も芦刈の舞台であった難波の浦ではなく淀川の中流域、つまり「江口」の舞台だったところである。
その淀川の中流域の一支流水無瀬川のたもとに後鳥羽院が離宮を作った記事が「増鏡」に見える。その御殿は「南に淀川、東に水無瀬川の水をひかへ、この二つの川の交はる一角に拠って何万坪といふ広壮な庭園を擁していたにちがひない。いかさまこれならば伏見から舟でお下りになってそのまま釣殿の勾欄の下へ纜をおつなぎになることも出来、都との往復も自由であるから、ともすれば水無瀬殿にのみ渡らせたまひてといふ増鏡の本文と符号してゐる」
こんなわけでこの小説の前半は、日本の古典を材料にして、谷崎が日頃身に溜めた知見の薀蓄を語り散らすという趣向になっている。そこには小説としての仕掛けは全く内在していないから、読み方によっては面白くないかもしれない。とくに筆者のような関東の人間にとっては、舞台である関西の地理に土地勘がないせいもあって、面白さのうち半分は伝わってこないようになっている。というのもこの小説の面白さの半分は、道行の文章の面白さに支えられているといってよいからである。荷風散人の「日和下駄」が東京人にとって魅力をそそられると同様な機制によって、この小説の中の道行の文章は、関西人の郷愁をかきたてるだろうと思われるのだ。
さて谷崎本人と思しき作中の老人が淀川の中州で一人月見酒をしていると、突然ある老人がどこからともなく現れて谷崎老人の横に座を占め、一献すすめながら昔話を始める。その昔話と言うのが、さる夫人を巡るものであって、語る老人は、父親から聞かされたといって、その夫人の美しさや心根のたぐいまれなありさま、その夫人に対する父親の異常ともいえる愛の形について、諄々として語り続けるのである。その語り方と言うのがまた、「盲目物語」における按摩の語り方に重なり、得も言われず優艶な趣をたたえている、といった具合なのだ。
こうしてみれば、この小説の眼目は後半部分にあるといってよい。谷崎は「盲目物語」で、松子夫人を信長の妹お市の方になぞらえて散々礼賛したのであったが、それでも物足りずにもうひとつ礼賛の文章を書きたくなった。しかしただ礼賛しただけでは小説としてだらしがなくなるから、前半に古典を借りた道行の文を配し、舞台を整えたうえで、按摩ならぬ幽霊に語らせるという方法をとった。幽霊と言ったのは、この物語の老人は小説の最後でふと消えてしまうからである。
盲目の按摩でも幽霊でも、婦人のたぐいまれな美質を語らせることについては不足はない。むしろ余計なことにまぎらわされることがないだけに、婦人の美質を完璧に語ることが出来る。谷崎はそう考えて、松子夫人に対する我が思いのありたけを、幽霊の口を借りて存分に語ったのではないか。
その幽霊が語る夫人と父親との間柄は世にも変ったものであって、父親は一方では夫人に対してプラトニックな愛を貫きながら、他方では夫人の生身に恋焦がれていると言った風なのである。そんな父親のもつれた感情を示すものとして、父親が夫人の乳を吸う場面がある。
「お遊さんが乳が張ってきたといっておしずに乳をすはせたことがござりました・・・あんさんも飲んでごらんとちちくびからしたたりおちてゐるのを茶碗で受けてさしだしますから父はちょっとなめてみてなるほどあまいねといって何げないていに取りつくろってゐましたけれどもお静が何の意味もなく飲ませたものとばかりには思はれませなんだので自づと頬があからんでまゐりまして、その場にゐづらくなりまして口の中が変だ変だといひながら廊下へ立っていきましたらお遊さんはおもしろさうにころころわらふのでござりました」
まあ、なんとなまめかしい文体ではないか。この一文からも読み取れるように、この小説で谷崎は、文体と言うものに最大限の配慮をしている。まずひらがなを多用し、言葉に円みを持たせるようにしている。円みだけではない、よどみのなさというか、流麗さと言うか、和文の持つあの独特のリズムを再現しようともつとめている。それは読点をあまり用いず、文が切れ目なくつながっていくという書き方にもつながる。その結果文章の段落が異常に長くなったりする。こういう文章は現代風の仮名遣いではなく、伝統的な仮名遣いで読むほうが味わいが深まる。
こんなわけでこの小説には、いろんなところで実験の意思が感じられる。  
「春琴抄」
谷崎潤一郎の作品「春琴抄」を評して川端康成は「ただ嘆息するばかりの名作で、言葉がない」と絶賛しながら、ただひとつ難癖をつけるとすれば、鶯と雲雀であるといっている。それらを語った部分が薄手に感じられる、「もし、鶯や雲雀の奥儀を極めた人が読めば、さう感じるであらうと、想像される」というわけである。
たしかにそうかもしれない。しかし谷崎はこの作品を鶯や雲雀を愛する人たちに向けて書いたのではなく、女性をこよなく愛する男たち、また自分の美しさにうっとりする当の女性たちに向けて書いたのであるから、川端の難癖はあまり意味をなさない。
というのも、谷崎は「盲目物語」、「芦刈」と立て続けに女性の美しさを書いてきたその延長線上に、女性賛美のいわば集大成のつもりでこの作品を書いたと思うからだ。だから、鶯や雲雀はさしみのつまのようなもので、主菜はあくまでも女性の美しさにある。その美しい女性が谷崎の恋の相手松子夫人であることはいうまでもあるまい。
「盲目物語」ではお市の方に仕える按摩の口から、「芦刈」では美しい婦人に生涯を捧げた男の子どもと名乗る幽霊の口から、それぞれ一人称の語り物と言う形をとって女性賛美を展開した谷崎だが、ここでは三人称の形を取って、女性賛美の物語を紡ぎ出している。三人称と言っても、完全な意味での三人称ではない。登場人物たちに多大な関心を寄せるある人物が、その登場人物たちの生涯について、架空の伝記を材料にして詮索するというかたちをとっている。だから他人事ではない。他人事を語るのではないから、勢い当事者の語り口になる。それ故いわば一人称を拡大したような形を取ることとなる。つまり親密さの余り、登場人物たちに感情移入したようなところが、一人称の語り方を感じさせるのである。
この小説が第三者の立場からする客観的な事実描写といえぬことは、文章の形式にもあらわれている。それは事実にかんする説明的な文体と言うより、感情を込めた、訴えかけるような文体である。谷崎は「芦刈」の中でそういう文体を意識的に追及していたが、それがこの作品のなかでは見事に花開いている。たとえば句読点の扱い方。芦刈の中では読点を意識的に省いていたが、この作品では句点でさえもが最小限に抑えられている。句点や読点は論理展開をたどるための装置であって、したがって科学論文や説明的な文章においては必要なものだが、発話にあっては必ずしも必要不可欠なものではない。発話に必要なのは間合いであって、そうした間合いは、別に句読点によらずとも表現できる。谷崎はそう考えて、一人称的な小説においては、句読点にこだわらないのであろう。
この小説における女性賛美は谷崎独特のものである。谷崎は「芦刈」の中で女性のわがままさを、美しさとを共存させて描いていたが、この小説の中では、女のわがままは最大限に誇張されてサディスティックな様相を呈している。そしてその女性に子供の頃から仕える男は、女性のサディズムを受け入れるあまり、そこにマゾヒスティックな喜びを感ずるような具合になっている。つまり谷崎はこの小説の中で、「痴人の愛」において実験的に描いていた男女のサド・マゾ関係のあり方を全面的に展開してみせたのである。
谷崎のマゾヒズム傾向はどうも生来のもののようだが、それが全面的に展開するのは、松子夫人と出会った以降であると考えられる。谷崎は、松子夫人との関係におけるマゾヒスティックな喜びを作品の中で再現してみたいという、そういう強力な衝動に駆られて、わがままな女とそれに服従する男の物語を紡いでいるうちに、この小説の中ではそれを全面的に展開することが出来た。そういえるのではないか。それ故この小説はまた、谷崎にとってはつきせぬ喜びの泉にもなったことであろう。
マゾヒストの喜びというのは、サディストによって痛めつけられることに感じる喜びであるが、この小説の中では、佐助は自分の手で自分の身体に痛みを加える。傷つける相手が自分自身であるとはいえ、日頃マゾヒストであった佐助は、自分に暴力を振るう場面においてはサディストになっている。一人の人格の中でサディストとマゾヒストが合体したといえる。これは二重の意味における倒錯である。他者によっていじめられることに喜びを感じるのが第一の倒錯だとすれば、その弱い自分に向かって自分自身がいじめを行う、これが第二の倒錯だというわけである。
しかし佐助が自分自身に暴力を加えて失明するのは、愛する人と一体になりたいという願いからだった。それ故佐助は恍惚感の中で自分の目に針を刺すことが出来たわけである。その恍惚感のなかから怪しい情念が沁み出してきて、読者をも擒にしていく。これは実に恐ろしい物語である。  
「細雪」
細雪を読んでの最初の印象は、それ以前の谷崎の作品と大分トーンが違うなということだった。谷崎のもっとも谷崎らしさの所以であるところの、あの悪魔的な雰囲気がこの小説には感じられない。もとより大作家の力を入れた作品であるから、結構から文体に至るまで良く書けてはいるが、なにかしら物足りなさを感じる。これが谷崎文学の粋といえるだろうか、という消極的な感想を抱いたわけである。
その辺は谷崎自身も意識していたらしく、読者に対して申し訳ないといった感情を持ってもいたようである。その辺の事情を谷崎は「細雪回顧」という小文の中で、ちらりと触れている。軍部による弾圧が、この小説について当初抱いていた構想に大きな影を落とし、結局は軍部の意向を損なわない程度のおとなしい内容へと変更させたというのだ。つまり谷崎は、時代の圧力に恐怖し筆を曲げたと白状しているのである。
谷崎がこの小説を構想したのは昭和17年、第一回目は翌18年の正月に発表した。その頃はすでに太平洋戦争が進んでいて、戦況はなかなか厳しいものがあった。そんななかで軍部は文化面への干渉を強め、国民の戦意を損なうようなものをかたっぱしから弾圧した。谷崎の「細雪」もこの弾圧に引っ掛かり、「時局にそわぬ」という理由で出版の差し止めを命じられたのである。その際に感じたところのものを、谷崎は次のように書いている。
「ことは単に発表の見込みが立たなくなったと云ふにつきるものではない。文筆家の自由な創作活動が或る権威によって強制的に封じられ、これに対して一言半句の抗議ができないばかりか、これを是認はしないまでも、深くあやしみもしないと云ふ一般の風潮が強く私を圧迫した」(細雪回顧)
しかし谷崎はそうした風潮に逆らうことなく、自分自身も流されていった。そこが消極的とはいえ抵抗の姿勢を崩さなかった荷風散人と違うところである。ともあれ谷崎は、いつの日にか出版する機会もあるやと思い、執筆は続けた。しかし当初の構想をそのまま採用するのは憚られ、おとなしい内容へ改めた。
谷崎が当初抱いた構想と言うのは、「関西の上流中流の人々の生活の実相をありのままにうつさう」というものであり、したがって不倫や不道徳の面を赤裸々に描いてみたいというものだったそうである。しかしそれを正面から書くことは、当時の谷崎にとっては命の危険にかかわることだと思われ、したがって筆を曲げざるを得なかった、そう谷崎は弁解するのだが、筆を曲げたことについては、遺憾なこととはいえ、そう深刻には考えていないようである。谷崎は次のようにあっさりとした言い訳をいうのみなのだ。
「今云ふやうに頽廃的な面が十分に書けず、綺麗ごとで済まさねばならぬやうなところがあったにしても、それは戦争と平和の間に生まれたこの小説に避けがたい運命であったともいえよう」(同)
まるで他人ごとのような言い方である。ともあれこんな事情が働いて「細雪」はそれ以前の谷崎の小説とはかなりトーンの異なるものになった。谷崎自身はそのトーンを「綺麗ごと」といっているが、綺麗ごとなりに良く書けてはいる。関西の上流中流の人々の生活はかなり突っ込んで描かれているし、それらのモデルになった松子夫人の姉妹たちに対する谷崎の思いも十分に盛り込まれているのだろうと推測できる。
クライマックスといえる風水害の場面は、余りにも迫真的に描かれているので、谷崎自身の体験に裏打ちされているのだろうとも推測されたところだが、谷崎自身はその時安全なところにいたので、怖い思いはしていないといっている。当たり前のことだが、これは作家の想像力が発揮された場面なのである。
上述の通りこの作品の誕生には、戦争というものが大きな影を落としているが、作品そのものの中には戦争の影は一切出てこない。戦争の暴力は、風水害と言う自然の威力によって黙示的に表現されるのである。
こんなわけで「細雪」と言う小説は、一人の作家が時代と向き合うなかから生まれてきた、極めて社会的な意味を内在させた作品なのだと言える。  
「少将滋幹の母」
「少将滋幹の母」は、谷崎潤一郎の古典趣味の傑作であり、なおかつ一連の母恋ものの到達点というべき作品である。古典趣味も母恋の感情も、谷崎文学のうちにあっては、マゾヒズム趣味とは異なったところで、強い重力を発していたのであるが、その方面が最大限発揮され、凝集されて怪しい光を放つに至ったのが、この作品なのである。
谷崎はこの小説の骨格を古典から借りる一方、そこに架空の逸話を差し挟むことで、母恋の物語を織り込んでいる。古典とは、この場合主として今昔物語であり、そのなかの平中の逸話と藤原時平が叔父の国経の妻を奪い取った話を中心に据えて、足りないところを「平中物語」や「大和物語」などで補うという方法をとっている。母恋の物語の主人公になるのは、国経の子どもと言うことになっているが、その子供が自分を捨てて他の男にもとに去って行った母親を、生涯思い慕うという設定にしている。谷崎は、平中や国経にかかわる物語を借りて、それをもとに日頃の古典趣味を披露するかたわら、そこに架空の母恋物語を忍び込ませ、母をめぐる子のやるせない感情を堪能しているわけなのである。それ故この作品には谷崎の高度な遊びの精神が感じられる。
平中は、今昔物語には本名を兵衛佐平定文といい、名うての色好みとして紹介されている。源氏物語の末摘む花にも話題として出てくるほどだから、その色男ぶりは広く知られていたのだろう。その平中をめぐる今昔物語の中の有名な逸話を紹介するところからこの物語は始まるのである。
平中はある女の許に足しげく通い、なんとかして自分のものにしようとしていたが、その相手と言うのが、藤原時平の屋敷に仕えていた侍従なのであった。時平は平中とは遊び友達で、なにかと暇を見つけては女の品定めなどして楽しんでいたが、或る時時平が平中に平常経の妻について尋ねた。この女性は非常に美人だと言われているが実際にそのとおりかと。時平がそう尋ねたわけは、平中が一時期その女性とねんごろになっていたことを、どこからか聞きつけたからであった。平中は、時平がその女性に下心を抱いていることを感じとったが、自分は今では他の女に夢中になっていることだし、聞かれるままにその女性のことを話してしまった。すると時平はその女性を我が物にしたいという思いを俄に強めるのであった。
ここから以降は今昔物語の名高い一節が物語るとおりである。小説はその物語を一とおり語り終えるところで、もう一つの物語を語り始める。それは妻を奪われた男の嘆きであり、母親を奪われた子の悲しみの物語なのである。
妻であり母でもあるその女性は在原業平の孫女ということになっており、実在した女性であるが、その女性にこの小説の主人公である滋幹という子があったのかどうか、筆者にはよくわからない。谷崎は、彼女が当然実在したものとして話を展開している。また谷崎は、滋幹が日記を残しており、その中で父親のことや、母親に対する自分の思いのたけを縷々綴っているといっているが、そんな日記が果して本当に実在したのかどうか、それも筆者にはわからない。おそらく谷崎がでっちあげた架空の日記なのであろう。しかし、その日記が物語の出所と言うことになっているので、小説の成り立ちにとっては大事な意味を持ったものなのである。
さてその日記をもとに、谷崎は母親が連れ去られた後に、子供が何回か母親のもとを訪れたこと、そのひとつの折に、平中と母親との恋のやりとりの仲立ちをさせられたことなどを淡々と語る一方、妻を奪われた国経が、生きる気力を失っていくさまを、子供の目を借りて描いていく。
妻を奪われた時の国経はすでに70歳にもなり、性欲もなくなってはいたが、やはり妻に去られてみると、恋しい思いがいや増しに高まるのであった。恋しくて恋しくていたたまれない。どうしたらその恋しい思いをなだめることが出来るか。でなければ恋しさのあまり狂い死にするかもしれぬ。そう思った国経はさまざまな努力をするうちにも、不浄観というものをするようになった。不浄観とは、人間の肉体が醜悪だと悟ることで、肉体への固執から自由になることを目的とする修行のことをさすのだが、その修行と言うのが、この場合には、野ざらしの死体置き場に行って、腐乱する死体を眺めるということなのであった。
ある晩、国経は床を抜け出して不浄観に出かけていくが、その気配を子が気づいて、父親の後をつけていった。夜道を歩いて父親がたどり着いたのは、荒涼たる死体置き場で、そこには月の光を浴びた様々な死体が腐乱しているのが見えた。その場面を谷崎は次のように描写している。
「橋から一丁ばかり下のちょっと小高く盛り上がった平地に、土饅頭が三つ四つ築いてあって、それらはいづれも土が柔らかで新しく、頂上に立ててある卒塔婆も真っ白な色をしてをり、折柄の月に文字まではっきりと見えるのであった。卒塔婆を立てないで,代りに小さな松杉などを植ゑたのもあり、土饅頭でなく、柵で囲って、石を積み上げて、五輪の塔を据ゑたのもあり、簡単なのは、死体を一枚の莚で蔽うて、しるしの花を供へただけのものもあったが、中には又、この間の野分で卒塔婆が倒れ、土饅頭の土が洗はれて、死体の一部が下から露出してゐるのもあった・・・瞳を凝らしてゐるうちに、それが若い女の死体の腐りただれたものであることが頷けてきた。若い女のものであることは、部分的に面影を残してゐる四肢の肉付きや肌の色合いでわかったが、長い髪の毛は皮膚ぐるみ鬘のやうに頭蓋から脱落し、顔は押し潰されたとも膨れあがったとも見える一塊の肉の塊になり、腹部からは内臓が流れ出して、一面に蛆が、うごめいてゐた」
凄惨な光景というべきであるが、これは餓鬼草子に描かれた埋葬場所のイメージとほとんど重なっている。谷崎がそうした絵をもとにしてこの場面を書いたことは十分に察せられるところである。
父親がこのように若い女の死体を見ることで不浄観をものにし、そのことで自分の母親たる女性の面影を追いやろうとするのだとしたら、それは自分の母親を汚しているのと同じことだと子どもは思い、父親を憎むのであったが、それにしても不浄観と言うものにはすさまじい迫力が感じられる。その迫力とは、父親をある種のノイローゼに追い込むことからもたらされるのだと考えられる。つまり父親は重ねて若い女の醜悪な死体を見ることである種のノイローゼに落ち込み、どんな美しい女を見ても醜い肉の塊にしか見えない、そういう心境に追いやられてしまうわけである。似たよう体験は筆者もしたことがある。
筆者がまだ壮年の盛りの頃、都営火葬場の場長を二年ばかりつとめたことがあったが、そのあいだ筆者は毎日のように、人の死体の焼かれるのを見、焼かれた遺体が骨になって火葬炉から出てくるのを前にして拝んでいるうちに、人を見ると骨に見えるようになってしまったのだった。そんな折、空いた電車の中で筆者の前に腰かけた若く美しい女性を目で追っているうちに、その女性が突然骸骨に見えてきて、びくっとしたことがあった。またその付近に座っている若い男の顔を見ると、しゃれこうべが顎の骨を動かしてガムを噛んでいるではないか。筆者は自分が深刻なノイローゼにかかっているに違いないのだと、そのときには呆然としたことを覚えている。
さて母恋物語の結末は、少将滋幹が母親と再会するということになっている。滋幹は成人しても長らく母親と会うことを憚っていたのだったが、壮年になったある日、比叡山に上った帰りに西坂本へ通じる道を下りて行った。その途中には滋幹の母が時平との間に産んだ義理の弟敦忠の生前の別業が立っているのだったが、今は主を失って荒れ果てていた。そこへ足を踏み込んだ滋幹は、裏手の方へ回ってみると、そこには一本の桜の木があって、妖艶な中を咲かせていたが、良く見ると、その木のもとに一人の女性がもたれかかっているのが見えた。滋幹は瞬時に、それが母であることを直感し、彼女の方へ進んでいくと、その胸の中に自分の顔を埋めたのであった。五歳の幼童のときにそうしたように。  
「鍵」
谷崎のこの小説は「鍵」についてのくだくだしい言い訳から始まる。そのいいわけとは、56歳の大学教授が書いている日記のなかでなされる。その日記の中でこの老教授は、妻への色々な注文(それは主に45歳になる妻とのセックスに関することであるが)を書くのだが、それを是非妻に読んでほしいと思う。しかし自分から読むように勧めるのは気恥ずかしいので、妻が偶然この日記の存在に気づき、ひっそりと隠れて読むように仕向けたい。そのためには、とりあえずこの日記を鍵のかかるところに保存して、おいそれとは手にすることが出来ないようにしたうえで、その鍵が妻の手に、さも偶然に入るようにしなければならない、というような事情が、老教授が書き始めた日記の最初のページで、くだくだしく説明されるわけなのである。
老教授の期待に応えて、妻はその鍵を使って夫の日記を手にすることとなる。その日記を読んだ妻は、夫が自分との性生活に不満を持っていることに気づく。実はそうした不満は妻の方でも夫に対して抱いていたところなのであった。つまり、夫は妻との間でもっとエロチックで刺激的なセックスができるよう期待している一方、妻は妻で夫が勢力に乏しく、自分の性欲に十分応えてくれないことに不満を持っているのであった。ところがこういう期待や不満は、いくら夫婦でも面と向かっては言いにくい。そこで二人は、日記を通じてそれぞれの思いを相手に伝え、豊かなセックスを享受したい。そんな思惑から、疑似交換日記ともいうべきことを始めるのである。
しかし二人とも、表立っては相手の日記を読んでいない振りを通す。それでいながら、相手が自分の日記を読んでいることを前提に日記をつける。疑似交換日記という所以だ。そこから奇妙な展開が生まれる。そこがこの小説の最大の読みどころだ。
この疑似交換日記の最大の目的は、夫婦がお互いに協力して刺激的なセックスを楽しむことである。しかし、老教授の方は聊か性欲減退気味で、ちょっとやそこらでは性的な興奮が得られなくなっている。彼が性的に興奮するのは妻に強烈な嫉妬を感じる時なのだ。そこで老教授は妻に不倫めいたことをさせ、それによって強烈な嫉妬を味わい、その嫉妬の焔で自分の性的な興奮を高めようとする。妻は妻で夫の期待に応え、若い男との不倫を楽しむ。その若い男と言うのが実はこの夫婦の一人娘敏子の恋人なのだというから、話が非常にコングラがってくる。
夫の方は、大学ノートにカタカナでペン書きしている。それに対して妻の方は、雁皮紙に蚤のような筆字で書いている。雁皮紙を選んだのは、音がしにくいという理由からであった。やはり表向きは日記を書いているところを知られたくないということになっているわけだ。
さて夫は、軽い気持ちから妻を木村と言う若い男にくっつかせるのだが、それが効を奏して、夫は妻と木村に強い嫉妬を感じるようになり、それがもとで自分の性欲が異常に高まるのを覚える。夫は一方では妻の不倫を苦々しく思いながら、それが自分の性欲を高めさせてくれる限り、そのことに対して喜びを感じ、したがって妻に対しても、若い男に対しても、感謝するというような倒錯した感情を味わう。妻は妻で、夫が自分に対して感謝しているという事実を日記から読み取り、次第に大胆になる。夫と妻とのあいだのこうした関係は、サド・マゾ関係に類似したものを思わせる。
妻は最初のうちは、夫の期待に応えるために若い男といちゃつくふりをしていたのだが、したがって最後の一線は踏み越えずにいたのであるが、そのうちついにその一線を踏み越えたばかりか、娘の恋人であるこの若い男とねんごろな関係に落ち込んでしまう。そうなると、夫の存在が改めて問題になる。いまや夫とのセックスより若い男とのセックスにより強い喜びを見出した妻には、夫の存在が邪魔になってきたのである。
しかし妻にとって都合がいいことには、夫はハードなセックスがもとで体調を崩していまい、次第に危険な健康状態に陥っていく。そして二人がそれぞれ日記を書き始めてから3か月あまり立った頃、毎晩のようにセックスをしている最中に、夫は妻の腹の上で脳出血の発作を起こしてしまうのである。すぐに駆けつけてくれた医師は、夫が真っ裸の状態で倒れているのを見て、彼が妻の腹の上で発作をおこしたことをすぐに見破るのである。
夫が倒れたあとは、妻の日記だけが続く。その日記には、最初は夫に読まれることを依然警戒している様子が伺われるのだが、そのうち大胆になって、なんでもかんでもあけすけに書くようになる。そして、最初に倒れてから半月後に、夫が二回目の発作を起こして死んでしまった後で、自分と夫との奇妙な関係について、深い反省をめぐらすのである。
その反省とは一言でいえば、セックスの本当の喜びに目覚めた一人の女の開き直りのようなものである。自分には実は淫乱な傾向があり、セックスがしたくてたまらないくせに、いままで遠慮がちであったのは、父母によって授けられた封建的な道徳のなせるわざであった。ところが、夫の方でも刺激的なセックスに飢えていることがわかると、夫の期待に応えて刺激的なセックスをするのが恥ずかしいことではないと分かった。恥ずかしいことどころか、それは夫の期待に対して妻が当然応じてしかるべきことなのだ。その夫の期待というのが、自分に嫉妬の感情を抱かせることだったとしても、それはおかしなことではない。「何よりも、夫を嫉妬せしめるように仕向けることが結局彼を喜ばせる所以であり、それが貞女の道に通じる」のであれば、胸を張ってしてもよいのだ、と女は開き直るのである。
しかし、若い男とセックスを重ねるうちに、夫の存在がうっとうしくなった、と女はまた開き直って言う。そこで何とか夫を亡き者にしようと考えるうちに、夫を腹上死させようと目論む。そこで日記の中で、自分の余命も短いというような嘘をつき、夫がますますセックスにのめり込むように仕掛け、彼の血圧を絶えず上昇させることに意を砕いた結果、ついに目論見が成功し、夫は自分の腹の上であえなく亡んだのであった。
こうしたことが妻の日記の最後の方で語られる。この小説は、夫の日記で始まったのであったが、それが妻の日記の、それも一方的な記述で終わるというのには、象徴的な意味合いを感じる。
夫は当初、妻に対して自分の性欲を満足させてほしいという気持を、子どもが母親にねだるような形で訴えていた。その訴えは弱者から強者への訴えである。だから屈折的にならざるを得なかった。その屈折した夫の思いに妻の方でも答えたのは、そうすることによって自分自身の性欲が満たされるからであった。二人は性欲の実現を巡って、秘かに共犯の関係を作り上げていく。その果てにあるのは、強者が弱者を飲みこみ、一方だけが生き残るということである。
このように、この小説では、サド・マゾの倒錯した関係が、二人の当事者によってそれぞれの立場から語られる。これ以前に谷崎が書いたマゾヒズムものは、単一の視点から描かれる場合が多かったのであるが、この小説ではそれが複眼的な展開になっている。その展開するありさまを「エロスの遊戯」に譬えることも出来よう。そこのところが、この小説の新しいところだ。  
「瘋癲老人日記」
「瘋癲老人日記」は昭和36年11月から翌年の5月にかけて雑誌に連載されたというから、それを書いていた、というより口述していた谷崎は、小説の主人公と同じく77歳だったわけだ。その当時の谷崎は主人公の老人同様に手がマヒして筆をとることがままならなかったので、口述筆記の形で創作を行っていたのである。その創作ぶりというのは、作中の老人が女性の足の裏の拓本をとるのに夢中になったのと、ある意味同じような意味合いの行為だったのかもしれない。谷崎は沸き出づる想念を形にすることに、老いの生きがいを感じたのではあるまいか。
77歳と言うのは半端な年ではない。まず肉体の衰えはどうしようもない。実際谷崎も筆を操ることが出来なくなった。知的な能力だって衰えたことだろう。この作品にもそんな衰えを感じさせるところがある。文章にたわみと言うか、締りのなさを感じさせるところが散見される。それでもひとつの作品としての体裁をなしているのは、作家の情熱の賜物なのだろう。この年まで作家としての情熱の火を絶やすことがなかったことは、谷崎の最も偉大な所以であろう。
谷崎がこの小説を日記体で書いたのには、それなりの理由がありそうである。日記体というのは、いうまでもなく一人称であるから、主観的な世界を展開するのに適している。無論結構(筋書きやスタイルといったもの)も意味を持つが、客観形式の小説に比べれば、エクリチュールの自由度はずっと高い。老人の取り留めもない内面世界を表現するには、おあつらえ向きの形式と言える。
谷崎はもともと一人称で書くことを好んだ。中期を代表する作品「痴人の愛」はその典型である。そして「盲目物語」、「芦刈」、「春琴抄」へと続く一連の一人称ものの中で、谷崎は人間の心の内面を、ひとつの同じ視点から展開してみせたのであった。その視点とは、物語を語る主人公の目線のようなものだ。物語はこの目線の先に展開することによって、同じ色調に染まるのである。
谷崎は「鍵」で初めて日記体を用いたが、それはちょっと変わったやり方だった。夫婦の交換日記といった体裁をとったのである。そうすることで、描き出される世界は、単眼的な世界ではなく、二つの視点からなる複眼的な世界となった。そこには互いの目を意識しながら、縺れ合い戯れ合う視線の動きが揺らめいていたのである。
これに対して「瘋癲老人日記」は、老人の書いた日記だけからなっている。完全に単眼的な世界である。老人の個人的な日記と言う体裁をとっているので、そこでは老人の心の中の動きが、誰の目もはばからず、のびのびと展開されているのである。
77歳になり、肉体的に衰え、また精神的にもボケかかった一人の人間の心の動きが何憚ることなく自由に語られる。老人が日記を通して語るという行為は、生きることの代償行為だともいえる。老人は無論、現実の生活の場においても、性欲だとか食欲だとかに執着しているのであるが、それを日記の中でも繰り返すことで、必ずしも意のままにならない生活の不足する部分を取り戻そうと、貪欲になっているふうなのである。
この日記の中で、老人の最も重要な関心事は息子の妻颯子である。老人はこの女性に性的に執着する。颯子の方もコケティッシュな小悪魔として描かれていて、老人をなにかと挑発する。老人は一緒にシャワー室に入って、颯子の足の指を口にくわえこんだり、ネッキングと言って首にくらいついたりして、歪んだ性的欲望を満足させる。老人にとってはいまや、この女性へ執着することが、生きることそのものと同義になる。
この辺は、谷崎の若い頃からの性癖であるフェシティズムの集大成といったところだろう。谷崎のフェティシズムが女の足に執着していることは「刺青」以来の古いことであったが、それが此の日記の中では全面的に花開いている。それが颯子の側からの応答によることはいうまでもない。この老人は老いての後に、貴重な伴侶を得ることが出来た次第なのであった。もっともその代償に高額な宝石を交わされるはめにはなるが。
老人がこの女性を相手にする性的な遊戯は健康にとっては危険な面がある。血圧が異常に上がるのだ。そこで老人は、颯子の足を舐めながら、自分はこのまま死んでしまうのではないかと恐れるのだが、だがそれならそれでもよい。恍惚のうちで死んでいけるなら、これほど良いことはないと開き直る。
実際老人は興奮の余り倒れてしまうのである。だが九死に一生を得たのは、老人の強運のためか、生きんとする妄念の賜物か。生き返った老人は、自分のための墓地を作ろうと思って、颯子を伴って京都へ行く。そしてある浄土宗の寺に墓地を作ることとする。そこでどんな墓が良いか、石屋を呼び寄せて相談するうちに突如いいアイディアが思い浮かぶ。それは、愛する女性の足跡の拓本をもとに仏足石をつくり、それを墓石の代わりにして立てさせ、自分はその下に埋めてもらう。そうすれば死んだ後でも自分は愛する人の足に踏まれ続けていることが出来る。こんなにありがたいことはない。
「彼女が石を踏みつけて、アタシハ今アノ老耄爺ノ骨ヲコノ地面ノ下デ踏ンデイル、ト感ジル時、予ノ魂モ何処カシラニ生キテイテ、彼女ノ全身ノ重ミヲ感ジ、痛サヲ感ジ、足ノ裏ノ肌理ノツルツルシタ滑ラカサヲ感ジル。死ンデモ予ハ感ジテミセル。感ジナい筈ガナイ・・・泣キナガラ予ハ痛イ、痛イト叫ビ、痛イケレド楽シイ、コノ上ナク楽シイ、生キテイタ時ヨリ遥カニ楽シイ、ト叫ビ、モット踏ンデクレ、モット踏ンデクレ、ト叫ブ」
この辺りは、谷崎のマゾヒズム趣味の真骨頂ともいえるところだろう。
颯子の方は老人の計画に理解を示し、ホテルの一室で終日床に寝そべり、老人が自分の足の裏の拓本をとるのを自由にさせていたが、やはり気味が悪くなり、翌日黙って東京へ帰ってしまう。それを追いかけた老人であったが、無理をしたことが災いして、そのまま倒れてしまう。そして老人の日記もそこで終わってしまうのである。
「鍵」の場合と違って、老人が死ぬことはないのだが、しかし日記を書き続けられなくなったというのは、死んだも同然だ。この老人にとっては、日記の中の世界を生きることが、現実に生きることとパラレルの行為だったのだから。
なお、この日記の中には、食べ物のこととか、こまごまとした薬の名前とか、東京と言う街の味気なさとか、日本の古典芸能とかについての、谷崎の日頃の感想が挟まれている。そのひとつひとつは何とも云うことのない瑣事ではあるが、それが集まって塊になると、そこから谷崎の人格の片鱗が浮かび上がっても来る。
此の日記体小説は、性をめぐる人間の欲望のおぞましさと、世界に対する生活態度とでもいったものとが、渾然と融合しあった独自の世界を展開することに成功している。谷崎老いてなおうるわしい生を生き得た、といえるのではないか。  
永井荷風論
谷崎潤一郎は、永井荷風の評価によって文壇に認められたと自覚していたこともあり、生涯荷風に敬意を払った。その谷崎が荷風の文学を正面から論じたものがある。一応褒めているといえるので、往年の借りを返したということかもしれないが、それでいてなかなか辛辣な批評を述べてもいる。「つゆのあとさきを読む」と題した小文のことである。
「つゆのあとさき」は荷風が十数年ぶりに書いた小説である。「隅田川」から「おかめ笹」に至る一連の花柳小説を書いた後、長い沈黙期に入っていた荷風が、今度は私娼を主人公にしたいわゆる痴情小説を書くようになる。その曲がり角をなす作品がこの「つゆのあとさき」であったわけだ。久しぶりに復活した荷風の作品を読んで、谷崎は感じるところがあったのだろう。そこで早速一文を草し、先輩に敬意を表したというわけなのだろう。
荷風は、「珊瑚抄」を書いてことからわかるように、非常に耽美的、享楽的な側面を持っていた。「アメリカ物語」や「フランス物語」などはそうした側面がよく発揮された作品である。そうした荷風の側面については、いろいろな評価があるが、谷崎の場合はそうした側面の方を高く評価していたようだ。ところが、「隅田川」を境にして、荷風の筆は客観的叙述の方向へと逸れて行ってしまった。「自分はそれを読んで、荷風も変わったなとさびしく思った」と谷崎はいっている。
荷風はどう変わったのか。谷崎はそれを、江戸趣味への後退といっている。ここでいう江戸趣味とは、西鶴、春水、紅葉山人に連綿と流れる傾向のことをさす。彼らの小説は徹底した写実主義に立っていて、人間の動きを微細にわたって描き出すが、それでいて西洋の小説のようなあくどさを持ち合わせていない。心理描写などはほとんどないし、思想を云々するようなこともしない。登場人物は無論人間だが、人間でありながら木石同様物としての扱いを受けている。つまり心がこもっていない、木偶の坊同然の扱いをされている。そう谷崎はいうのだ。
こうした傾向は、江戸趣味の小説のみならず、広く東洋文化の特徴だとも谷崎は言う。たとえば水滸伝。これには夥しい人間が登場するが、ひとりひとりの人間には個性がない。みな似たり寄ったりで、その意味では将棋の駒と何ら違いはない。そこから一種のニヒリズムが生まれてくる。西鶴や紅葉の作品にもこうしたニヒリズムが反響しているのであって、そこから登場人物になんら感情移入もできないような、ある意味無味乾燥な世界が展開される、と谷崎はいうのである。
「隅田川」から「おかめ笹」にいたる一連の花柳小説は、花柳界という妖艶な世界を描いているにもかかわらず、そこで展開されるのは、心のこもった人間の物語とは到底いえないしろものである。登場人物はまるで木偶人形であるかのように振る舞い、心のこもらないセックスにうつつを抜かす。そうした傾向は、「つゆのあとさき」にも健在で、荷風は主人公の君江という女を、人形の如く心のこもっていないものとして、つきはなした冷たい筆致で描き出している。
しかしその冷たさが、君江という女の不気味さを描き出すのに、かえって力を発揮しているのではないかとも谷崎はいう。「最も肉欲的な淫蕩な物語を、最も脱俗超世間的な態度で書いている」ところが、いかにも東洋の文人らしく、独特の迫力があるというわけなのだ。
褒めているのかけなしているのかわからないところだが、「つゆのあとさき」が荷風のひとつの転機を現していることは、谷崎も認めるところだったようだ。長い沈黙ののちに、荷風の文体はいよいよ乾いたものになってきた。その乾いた文体が、「肉欲的な淫蕩な物語を、最も脱俗超世間的な態度で」書くことを可能にさせたといいいたいのだろう。
「思うに荷風氏は、長い間心境策落たる孤独地獄の泥沼に落ち込んで、苦しく味気ないやもめ暮しの月日を送りつつあるうちに、いつか青年時代の詩や夢や覇気や情熱を擦り減らしてしまって、次第に人生冷眼に見られるようになられたのであろう。享楽主義者が享楽に疲れるようになれば、大概はニヒリストになるのが落ちであるが、氏もかくの如くにしてその当然の径路をたどられたかと思われる」
谷崎はそういって、荷風の変化の背後について同情のこもった推察をしている。
ともあれ谷崎は荷風の転機を「江戸趣味への後退」と見たわけだが、後退と否定的な響きのある言葉を選んだのには理由がある、と谷崎はいう。「一人荷風氏ばかりではないが、それにしてもそういう人たちの懐古趣味がせいぜい徳川末期、化政頃の戯作者の世界にとどまって、それより古い時代に遡る者の少ないのは何故であろう。何故彼らは江戸文学の狭い範囲にのみ跼蹐して、室町、慶長、元禄頃の上方文学の広い領域へ目を向けないのであろう。比較的近代の産物である江戸情緒のみが特にそういう人たちに牽引力を及ぼすらしいのを私は不思議におもうのである」こう谷崎はいって、荷風の江戸趣味の了見の狭さを非難するわけである。
その江戸趣味は、東京と言う都市への荷風のこだわりにも現れていることは、誰でも気づくことで、荷風こそは東京のローカルカラーを最も意識的に描いた。例えば「つゆのあとさき」のなかでも、銀座界隈、牛込市ヶ谷付近、外堀の土手の景色などが繰り返して描かれているが、それらの文章を読むと、東京という都市の顔が、襞の細部まで見えるような感じになる。
荷風は、小説の中で東京を描いただけではない。東京をテーマにした文章を夥しく書いている。日記「断腸亭日乗」の中でも、東京と言う街を隈なく歩き回ったさまが記録されている。荷風はたしかに東京という都市のローカルな側面に生涯こだわった人だったともいえよう。  
日本的恋愛論
谷崎潤一郎の書いた随筆というのは、自分の日頃思っていたことを、何の工夫もなくストレートに表現したものが多いので、深みと言うか、教えられるところは殆ど何もないが、しかしそれなりに読ませるところがある。その面白さは、小説と同じく、これはあくまでも作り物だよということを、読者に納得させたうえで、いわば了解づくで語りかけてくることの、無責任さから生まれるのだといってよい。そんなこともあって谷崎が随筆に手を染める時、そのテーマはおよそ肩の凝らない性格のものが多いのである。
「恋愛及び色情」と題した随筆などは、そうした無責任さが横溢した一篇で、書いている事の信憑性は殆ど問題にならないながら、というか馬鹿馬鹿しい限りながら、それでいて、というかそれ故というか、とにかく面白いのである。
「日本の茶道では、昔から茶席へ掛ける軸物は書でも絵でも差支えないが、ただ"恋"を主題にしたものは禁ぜられていた。ということはつまり、"恋は茶道の精神に反する"とされていたからである」
こう谷崎は書き出すのだが、日本では茶道に限らず様々なところで"恋"が白眼視されていたと谷崎は嘆息する。最近になって日本人が"恋"を白眼視しなくなったのは、西洋文学を始めとした西洋文化の影響である。しかし日本人は太古の昔から男女の恋愛を白眼視してきたかと言えばそうではない。それは平安時代の文学を読めばおのずとわかることで、源氏物語などは"恋愛"をおおらかに賛美したものである。
それが、「武門の政治が起こり武士道が確立するに従って、女性を卑しめ、奴隷視することになった」そういう雰囲気の中では自ずから恋愛が賛美されることなどはもってのほかで、男女の恋愛沙汰は抑圧されるべきこととなってしまったわけである。
何故そうなったのか、その背景までは、谷崎は詮索しない。ただ、日本人が男女の恋愛を白眼視するようになったのは、武門支配の成立という、歴史的な条件と深くかかわっていたということを、指摘するにとどめるのだ。
ところで、平安時代の男女の恋愛には今日の日本ではおよそ考えられないようなことがなされていたと谷崎はいう。それを一言でいえば、女性の地位が高く、男性による女性賛美が普通だったばかりか、弱い男を強い女が支配するといった事態まで見られた。要するに女は男と対等、またはそれ以上の強さを以て生きていたというのである。
谷崎はそうした女の強さや、女を敬い奉る男のことを、「古今著聞集」や「今昔物語集」を引き合いに出して紹介しているのであるが、その紹介ぶりは、当時の男女の間柄には、今日のそれとはかなり違った面があったということを強調するだけの皮相なものであって、何故平安時代以前に女たちが強い存在でありえたかについての、歴史的な視点はない。
谷崎は文学者であって歴史学者ではないのだから、平安時代の女が今日の女より強かったことの歴史的な背景など論じるいわれはないのかもしれないが、それにしても、そうした歴史的な背景を一切捨象して、今日の男女関係を平安時代の男女関係と比較しても、あまり生産的なことにはならないだろう。事実、この比較を論じる時の谷崎の態度は、学問的な香りを一切感じさせない。
さて、いよいよ谷崎の筆は、今日の日本人の恋愛と諸外国とのそれとの比較に移っていく。
まず俎上にのせるのは、日本女性の肉体の性的アピール度とでもいうべきものである。「精神にも"崇高なる精神"というものがある如く、肉体にも"崇高なる肉体"がある。谷崎はこういって、女性の肉体が恋愛にとってもつ意味を強調するのであるが、翻って日本女性の肉体を見ると、これが非常に貧弱である。豊満な肉体を持つ女性が非常に少ないうえに、そうした持ち主がいた場合でも寿命が短い。西洋の女性がもっとも美しくなる年齢は31-2歳なのにたいして、日本の女性は精々24-5歳くらいまでで、しかも独身時代に限られる。一たび結婚してしまえば、すっかり所帯やつれしてしまう。
「だから」と谷崎はいう。「西洋には"聖なる淫婦"もしくは"みだらなる貞婦"というタイプの女がありえるけれども、日本にはこれがありえない。日本の女はみだらになると同時に処女の健康さと淡麗さを失い、血色も姿態も衰えて、醜業婦と選ぶところのない下品な淫婦になってしまう」
ここの部分がはたして谷崎の本音であるかどうか。もし本音であるとするなら、谷崎は随分人を食った人間だということになる。というのも、谷崎文学の本質は、女性賛美にあるということになっているからで、その女性賛美の影にこんな本音が隠れているのだとすれば、それはとんでもない欺瞞だということになる。
次いで谷崎は、我々日本人が、セックスに淡泊なことに言及する。「われわれは性生活において甚だ淡泊な、あくどい淫楽に絶えられない人種であることは確かである。横浜や神戸あたりの開港地にいる売笑婦に聞いてみてもこのとこは事実であって、彼女らの話によると、外国人に比べて日本人は遥かにそのほうの欲望が少ないという」
「われわれが性欲にあくどくないのは、体質というよりも、季節、風土、食物、住居などの条件に制約されるところが多いのではないか」と谷崎はいう。というのも、西洋人も日本に長く滞在すると、頭が悪くなって、性欲も減退するようだからである。彼らはだから、日本滞在が長くなると、英気を養うために本国に帰るか、日本国内で転地療養のようなことをする。軽井沢が西洋人に人気のあるのは、カラッとした空気が彼らの健康に良い働きをすると信じられているためだ。日本にいて頭が悪くなる最大の要因は、どうやら湿気の多さにあるらしいのだ。
こうして谷崎は、日本人が性欲にあくどくないのは、べとべとと湿気の多い気候に最大の原因があると結論付けるのだが、ならば湿気の多いインドや南支那はどうかというと、彼等は彼らなりに日本人よりはるかにあくどく性欲を楽しんでいるらしいと訳の分からぬことを言っている。そのうえ、べとべととした湿気にかかわらず性欲を発散させたおかげで、彼等は勢力を使い果たし、その結果自分の国を西洋人の蹂躙するにまかせたのだと、あまり根拠のないことをいっている。いわんや、「われわれが今日東洋に位しながら世界の一等国の班に列しているのは、即ちわれわれがあくどい歓楽を貪らなかった所以であるともいえる」というにおいておや、である。
「恋愛を露骨にあらわすことを卑しみ、かつその上にも色欲に淡泊な民族であるから、われわれの国の歴史を読んでも陰に働いた女性の消息というものが一向明らかに記していない」谷崎は最後にこういって、日本の女性がいかに軽く扱われてきたかに言及している。例えば系図を見ても、男の経歴は詳しく記されているのに対して、女の方は単に「女」あるいは「女子」と書かれているだけだといったことである。
それ故、日本人にとって、女性というものは陰に隠れた存在として、長い歴史を生きてきたわけだ。中には、北条政子や日野富子のような例外はあるけれど、彼女らはその行為の異常な悪女ぶりが歴史家の注目を引いただけのことであって、あくまでも例外に過ぎないというわけであろう。
日陰の存在ということについては、日本の女は、女がまだ強かった時代から、闇の世界と結びついていた。つい最近の時代まで、日本の夜というものは、文字通り漆黒の世界であったわけだが、平安時代の昔においては、男女がちぎりを結ぶのはその漆黒の闇の中であったのである。さればこそ、光源氏は末摘花の鼻の頭が赤いことに気がつかぬまま、長い間過ごしたわけなのである。これは、妻問婚という日本独特の婚姻の風習がもたらした珍事といえるのであるが、谷崎はそうした歴史的な背景にはあまり興味がないらしく、ただことがらのおかしさを、笑っているかの風情がある。  
関西観
谷崎潤一郎は関西に移住した後すっかりそこが気に入ったと見えて、空襲が激化して疎開を余儀なくされるまで住み続け、関西を舞台にした多くの作品を書いた。「卍」では、関西弁での一人称形式を取り入れるなど、関西文化に熱を入れていたことが伺われるが、その一方で、関西人の一種あくどさといったものに辟易している様子も見せていた。自然なことながら、谷崎の関西観には複雑なものがあったようだ。
「私の見た大阪及び大阪人」と題する随筆は、そんな谷崎の関西とりわけ大阪の文化や人々の生活ぶりについての印象を語ったものである。書かれたのは昭和7年であるから、関西に移住して9年近くたっている。当初は面食らった関西人との交渉にようやく慣れてきて、そろそろ親しみを感じはじめた頃の印象記である。関西人に対する否定的な観察と、積極的に肯定する部分とがないまぜになって、非常に正直さを感じさせる体のものだが、何分戦前の関西人についての観察であるから、関西人を含めた今日の読者にとって如何ほどの現実性があるかどうか、それは別問題である。
谷崎は、東京人にとって関西というところの居心地の悪さから書き始める。それに慣れるまでには5年から10年はかかるだろうといって、東西の文化の違いを言挙げするのであるが、何がその相違を生む原因となっているのか、谷崎は東西の間に横たわる様々な溝に着目する。
東西両者の相違のうちでも最も目につくのは、生活風習や経済感覚といった物質的な方面であり、谷崎もそこのところを最も強調しているのであるが、それと並んで、精神面における相違にも強い関心を寄せている。読者が面白いと感じるのも、この方面における東西の比較だろうと思う。
谷崎がまず注目するのは、関西人の顔つきや立居振舞についてである。関西人の顔つきをよく見ると、東京人には決して見られない顔つきの者がいる。その顔つきとは、古代の日本人を思い出させるような顔だというのである。「仮に彼らの羽織や、インバネスや、背広服を脱がして、烏帽子狩衣や直垂を着せ、女には市女笠を被らせ、あるいは頭を下げ髪にさせたなら、宛として伴大納言や一遍上人絵巻中の街頭の光景が現出するであろうほどに、その風貌は数百年以前の俤を伝えている。京都に比べると大阪はそれほどでないけれども、前者をお能の面とすれば、後者にも文楽の人形の首ぐらいの古さはある」
これは関西人がいまだに古来の日本人の伝統と、直接連続していることの現れだろうと谷崎は見ているのである。東京は徳川時代に人為的につくられたこともあり、関西程伝統へのこだわりがなかったせいで、伝統とは切れたところがある。それ故西洋風の行儀にも比較的良く馴染み、それに従って顔つきも変わっていった。それに対して関西は、古来の伝統と切れることがなかった。それ故いまだに、平安時代を思い出させるような顔が町を歩いているというわけである。
古代との連続性は女子においてより強く見られるという。関西の女は洋服が似合わないが、それは彼女らがいまだに古来の立居振舞の動作様式が身から離れないせいだと谷崎は言う。そうした動作様式は和服のために発達してきたものであって、洋服とはなじまないというのだ。「西洋の婦人の歩く姿を見ると、左右の臀の肉が交互に出たり入ったりするのがハッキリと分って、その大きな骨盤の上に胴体がしっかり載っかっているが、彼女たちの臀部にはスカアトがひらひらしているばかりで、殆ど肉の感じがしない。これは体格が繊弱な上に足の運びが小刻みなせいもあろう」
もっとも谷崎がこの文章を書いた昭和7年ごろは、東京でも女は和服姿が一般的であったわけだから、谷崎のこの観察は東京の女にも当てはまったにちがいないのだが、それが関西の女にとりわけ顕著に見えたのは、谷崎特有のバイアスのせいかもしれない。
顔つきのみならず、声にも顕著な相違があると谷崎はいう。東京人の声は「カサカサした、ひからびたような声である」。それに対して関西人の声は、「粘っこい、歯切れの悪い、ねちねちした声」である。また、「大阪人の声は往々ドスが利き過ぎるので、東京人が聞くと、たまらない不愉快がこみ上げて来て、胸糞が悪くなることがある。しかも驚いたことに、女でもこれを出すのだ」
しかし、関西人の声には長所もある。特に女の場合はそうで、トータルでいえば東京の女より大阪の女の方が声が美しい、と谷崎は感心する。楽器に例えれば東京の女の声がマンドリンで、大阪のはギターだというのである。マンドリンはあっさりとした音色で、ギターは連綿たる情緒を語るといいたいのだろう。そこで、「座談の相手には東京の女が面白く、寝物語には大阪の女が情がある」ということになるのだろう。
声だけではなく、言葉の使い方にも、東西には大きな相違がある。東京の言葉遣いが文法に忠実で緻密なのに対して、関西の言葉遣いには省略が多く、正確さよりも余韻を貴ぶ風がある。それは日本語が古来もっていた美質で、それを関西の人々はいまだに伝えているのに対して、東京人は西洋文化に毒されて、言葉にも正確さを重んじるあまり、日本語の良き伝統を捨ててしまったのだと言いたげである。
それ故、猥談などをしても、関西の女は品よく仄めかして言うすべを知っており、また商談などでも、相手の感情を傷つけずに自分の意思を表現する手段を知っている。「腹の中では油断なくそろばんを取りながら、どんな時にも露骨にはいわない。それでいて借金の断り、催促、その他義理の悪いようなこと、厚かましいこと、貧乏なことをそれといわずに知らせること、相手に恥をかかせないようにして虫のよすぎることを諷すること、肯定するようにして否定すること、前提だけいって結論を言外に示すこと等、まるで謎をかけるような遠回しの云い方で、何処までも礼儀を失わずに体裁よく防禦し、あるいは攻撃し、それで目的を達するのだから恐ろしい」
こうした言葉遣いの文化がいまだに関西人に伝わっているかどうか、筆者にはよくわからないが、たしかにこうした文化は、東京との対比において目覚ましいばかりか、世界的に見ても珍しいのではないか。「卍」に出てくる女性のような人は、東京は勿論世界中どこを探したっていないに違いない。
東西の経済感覚の違いについても、谷崎は触れることを忘れない。関西人の締り屋ぶりは半端じゃないというわけである。たとえば、「東京の家庭では、御飯のお菜はいくらか余るぐらいに拵えるのが普通だが、大阪では人数きちきちに、少し足りない目くらいに作る。そういえばあの長州風呂と言う鉄の釜の風呂が関西に多いのは、恐らく燃料の節約から来ているに違いない」
長州風呂というのは、「五右衛門風呂」というやつだろう。これなら昔の東京人も使っていたから、別に関西特有というわけでもないと思うが、谷崎の目にはそれが、関西人の吝嗇ぶりを象徴するものとして映ったのかもしれない。
しかし谷崎は次のように言って、関西人とくに大阪人のけちなことを擁護している。「欲張りとか金銭に汚いとかいうけれども、此処は商人の都だ。商人が欲張りなのは当たり前ではないか・・・東京の青白いインテリゲンチア階級よりも、進出的で、男性的で、線が太いだけ、明朗な感じがするようにも思う」  
「陰翳礼讃」
谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」は、筆者が高校生時代の国語の教科書に載っていたから、これが多分筆者の読んだ最初の谷崎作品だった。もとより全文ではなく、その一部を抄出したに過ぎなかったが、その部分と言うのが、日本家屋の特徴を論じたもので、要するに日本の伝統家屋には陰影がつきものだということを論じた部分であった。
筆者がその小文に感心したのは、谷崎が論じる日本家屋の特徴を、筆者が住んでいた家にも見ることが出来たからであった。というのも当時筆者が住んでいた家は、書院造の純日本風の家であって、藁葺の巨大な屋根を持ち、家の周りに縁側を巡らし、外の空気とは、雨戸を取り払えば、障子一枚で隔てられているといった開放的な造りなのであったが、何故か部屋の奥まったところは薄暗い雰囲気になっていて、そこに谷崎が言うような深い陰影が生じているのであったが、普段はあまり気にしない、そういう家の造りの持つ意味について、この文章が考えさせてくれたというわけなのであった。
筆者がとくに心を惹かれたのは床の間について論じた部分だった。谷崎は日本家屋のうちでも床の間こそが最も陰影の深い場所だと言って、落し懸けの後ろや違い棚の下を埋めている闇を指摘し、それを「空気だけがシーンと沈みきっているような、永劫不変の閑寂がその暗がりを領している」と評しているのだが、たしかに筆者の家の床の間にもそんな気配が感じられた。谷崎は更に、床の間の脇についている書院の組子障子について、それは明り取りと言うよりも、「むしろ側面から差してくる外光を一端障子の紙で濾過して、適当に弱める働きをしている」とも書いているが、要するに明り取りの工夫にも陰影の妙を求めようとする日本家屋の奥ゆかしさについて、筆者の目を開かせてくれたのであった。
この文章に興味を抱いた筆者は、早速高校の図書館から「陰影礼賛」全文を収めた書物を借り出して読んだ次第であったが、そこでもまた新たな発見ができて大いに喜んだ次第であった。その発見とは厠に関するもので、谷崎は「日本の厠は実に精神が休まるように出来ている」といって、日本の伝統的な厠を絶賛しているのであった。
谷崎が例として取り上げた厠は、母屋とは別の場所に建てられていて、母屋と渡り廊下でつながっているといったものであったが、筆者の当時の家の厠は、母屋の一角ではあるが、縁側のはずれに位置していて、その点では、家の内部と外部との中間領域といってもよかった。しかしてその厠の内部の造りは谷崎が縷々書いていることとほぼ違いがないのであった。すなわち、床は無論朝顔まで木でできていて、金隠しの向う側には掃出し窓がついていた。そこで筆者はその掃出し窓の向こう側に、谷崎がいうような雨の滴り落ちる音や蟲の鳴く声を、用を足しながらの合間に、しみじみとした雰囲気の中で聞くことが出来るのであった。
さてこのたびは約半世紀ぶりに「陰影礼賛」を読んだわけであったが、その半世紀という日時の介在は、この文章の受け取り方に決定的な影響を及ぼしているのがわかった。というのは、昔読んだときには、谷崎の書いていたことを自分のことに引き寄せて受け取ることが出来たのに、いまでは、そんなことは全くできなくなっているからなのであった。家の造りは西洋風になり、谷崎がいうような陰影は家のなかからなくなってしまった。また便所も機能一点張りになって、谷崎がいうような「精神が休まる」ような作りにはなっていない。今の筆者の家では、狭い空間の中に大小兼用の陶器の便器が据えられていて、筆者はその便器の上に扉の方向を向いて腰掛け、ただ用を済ますだけなのである。とてもそこでは、雨の音を楽しんだり、虫の音を聞いたりする贅沢は味わえない。そんなわけで、今の人の目からすれば、谷崎が日本家屋について書いていることは、歴史的な意味合いしか帯びないのではないか。
しかし、今回「陰影礼賛」を読んで、高校生時代には気が付かなかったことまでわかったような気がした。谷崎は「陰影礼賛」といって、日本の家屋の陰影について論じているばかりか、およそ西洋と比較したうえでの日本文化の特徴というか、その奥ゆかしさについて礼賛しているのである。西洋文化は確かに便利ではあるが、しかし日本を含めた東洋文化には、東洋文化でなければ味わえない様々な利点がある。その利点をことごとく捨てて、西洋かぶれになってしまうのはいかにも芸がない、そういって谷崎は我々日本人が今後も、日本の伝統文化を大事にしていくことの必要を説いているわけなのである。
ただ単に日本文化を保存するにとどまらず、できうれば西洋文化を取り入れる際に、それを日本流にアレンジしたうえで取りいれる、そんなことも必要だろう、と谷崎はいって、次のように書いているほどだ。
「たとへば、もしわれわれがわれわれ独自の物理学を有し、化学を有してゐたならば、それに基づく技術や工業もまた自づから別様の発展をとげ、日用百般の機械でも、薬品でも、工芸品でも、もっとわれわれの国民性に合致するやうな物が生まれてはゐなかったであらうか・・・わたしはかつて"文芸春秋"に万年筆と毛筆との比較を書いたが、仮に万年筆といふものを昔の日本人か支那人が考案したとしたならば、必ず穂先をペンにしないで毛筆にしたであらう」
谷崎自身は毛筆で原稿を書いていたから、こんな発想が出てくるのだろうと思われる。
ところで、「陰翳礼讃」は日本家屋にある闇の存在を強調するあまり、その闇との関連で、漆器や金細工など日本独自の什器類が発達したのだと強調してもいる。漆器などは闇のように暗いところで用いられることを前提にして作られているのであって、それを明るい場所で見たのでは美しさがそがれる。同じことは女性の美しさについてもいえるのであって、日本の女性は暗闇の中で見て美しくなるように、自分を作り上げてきた、そうも谷崎はいうのである。
どういうことかというと、日本の女性は伝統的に暗い室内で暮らしていて、男たちは暗い所でしか女性の肌に接することが出来なかった。そんな場所では、女性の美しさは顔と手先にしか窺い知ることが出来ない。それ故、顔には特別の工夫をこらす必要がある。鉄漿と言うのはそうした必要に答えたものであって、暗いところで女性の顔を見ることから生まれたものなのである。というのも、真っ白い歯をむき出しにした女の顔と言うのは、暗い闇の中では幽霊のように薄気味悪く映るものなのである。
こんなわけだから、日本の女性には顔と手先だけがあればよく、胴体はいらないという極論も出てくる。それは文楽の人形からの連想がそうさせたのであって、たしかに文楽の人形には顔と手先だけがあって胴体がない。「胴や足の先は裾の長い衣装のうちに包まれているので、人形使いが自分たちの手を内部に入れて動きを示せば足りるのであるが、私はこれがもっとも実際に近いのであって、昔の女というものは襟から上と袖口から先だけの存在であり、他は悉く闇に隠れていたものだと思う」
そして、「極端にいえば、彼女たちには殆ど肉体がなかったのだといってよい。私は母の顔と手の外、足だけはぼんやりと覚えているが、胴体については記憶がない」とまで谷崎は言うのであるが、生涯女性の肉体にこだわった谷崎の、女性の肉体に関しての原体験ともいうべきものが、こういう事情だったとは、非常に面白いところである。
ちなみに筆者自身は、母親の身体は、顔や手足に止まらず、胴体についてもよく覚えている。  
「月と狂言師」
谷崎潤一郎が日本の伝統文化に深い関心を寄せていたことは良く知られているとおりで、中でも能については小説の題材に使ったり、あるいは謡曲の一節をふと文中に忍び込ませたりしているほどであるが、自分でも実際たしなんでいたようである。「月と狂言師」という小文は、そんな谷崎の能楽趣味が彷彿と伺われる作品である。
この随筆とも短編小説ともつかない不思議な読み物は、戦後間もない頃の京都南禅寺を舞台にして、南禅寺の住人と称するグループが狂言師の茂山千五郎一家を南禅寺境内の塔頭の一室に招き、そこで月見がてら狂言の稽古を催した、その模様を情緒たっぷりに描いたものである。
茂山千五郎一家といえば、大蔵流狂言の名門であり、京都を本拠にしている。その茂山家と谷崎との接点になったのは、南禅寺の塔頭に仮住まいをしている上田氏とかいう人で、その人がやはり当時南禅寺境内に住んでいた谷崎のために、茂山千作を招いて狂言の舞台を設定してくれたのであった。舞台といっても、塔頭の一室で、師匠の千五郎とその一族の外、弟子たちが交互に小舞や狂言小唄を披露するというもので、よくある能楽同好会の狂言版というようなものであった。
そこで招かれた谷崎は夫人を伴い歩いて舞台の場所に出かけてみると、そこは池水や座敷の配置が狂言の稽古舞台として適しているばかりか、月を愛でるにも格好の造りになっているのであった。谷崎は池水にせり出した床張りの勾欄にもたれかかりながら、弟子たちの演じる番組を眺めていたが、そのうち千作翁が「弱法師」を、千五郎が「福の神」を、これは谷崎のために特別に舞ってくれた。千作翁はこのとき85歳の老人であったが、年を感じさせないところに谷崎は驚愕している。
番組がひととおり終わったところで、あらかたの弟子たちは帰ってしまったが、谷崎と千五郎一家の外数人の者が残って、月見となった次第だった。十五夜にくっきりとした月を見るというのはなかなか難しいらしく、せいぜい十年に一度あるかないかなどといいながら、谷崎は振る舞われた弁当で一杯やりながら月の出るのを待っていたが、幸運にもその宵の月はくっきりとした姿を現してくれたのだった。
すると千作翁が狂言「月見座頭」のなかの一節を口ずさみだした。「ざわざわと鳴るわの、〜、よしの葉のよい女郎が参りて酌を取りたうは候へども、子持のならひとて子を抱いたやれ〜、御子抱いたやれ〜、殿に隠れてまどろまうとしたれば、窓から月がぎがと差すわの、やれ干せや細布、竿に干せや袖ぼそ、今宵の月はくまない月やよの」
他の者たちも千作翁の後について謡い、「窓から月がぎがと差すわの」あたりから大合唱になった。千作翁が他の小謡を謡いだすと、座の一人が「今宵は八月十五夜、名月にて候程に、をさなき人を伴ひ申し皆々講堂の庭に出でて月をながめばやと存じ候」と、謡曲「三井寺」の一節を謡う。すると一同も後に続けて、「名を名月の今宵とて、〜、夕べを急ぐ人心」と合唱する。そうこうするうちに月は次第にかたぶいて、しずしずと舞台の方に向かってせり出してくる感じがする。
誰かが「東遊びの数々に、〜」と「羽衣」の一節を謡う、すると一同が「その名も月の宮人は三五夜中の空にまた、〜」と続ける。「月は一つ、影は二つ、満潮の夜の車に月を載せて・・・」、「月海上に浮かんでは兎も波を走るか」とさらに続けて合唱しているうちに、月はすでに山の端を離れて池の面が輝きだした。
こうして月が中天に上った頃には、宴たけなわとなった次第で、皆月に浮かれながら様々な余興を披露しだした。天秤棒を担いで「油屋」を演じる者、「がんでん〜」といいながら「壬生狂言」を演じる者、バレーのアクロバットもどきに、着物姿で両足を広げ一座を仰天させるものなど、「いろ〜な人がかわる〜跳び出して来てはありとあらゆる滑稽、猥雑、狼藉の限りを尽くした」。それを見ていた谷崎は大いに感心して、「花に浮かれる人々はしば〜見ることがあるけれども、かように月に浮かれる人々は珍しい」というのである。
この文章を読んだ限りでは、谷崎夫妻はもっぱら見たり聞いたりする側で、自分からは芸なり余興なりは演じていないようである。演じているのは弟子たちであり、また師匠の千作翁である。その千作翁のきさくな態度に谷崎はいたく感心したようで、次のように書いている。
「茂山氏の家族は・・・七五三氏千之丞氏に至るまで既に世間に名を知られた一廉の芸人たちであるが、最前から見ていると、親子兄弟が仲が好いばかりでなく、われ〜に対しても寸毫も芸人らしい気取がない。かといって、別にお世辞や追従をいうのでもなく、全くわれ〜と同じ気分に浸りこんでいるのである」
この夜の茂山家の人々が、一家揃って谷崎のために尽くしてくれたのは、ひとつはこの大文豪に対する尊敬の気持ちからも知れないが、それにとどまらず、千作翁をはじめとした一家の人々の謙虚な姿勢から出ているのであろう。
この一文を読んで、筆者は非常にうらやましい気分になった。謡曲の稽古には何度も出たことがあるが、そこで披露される素謡や仕舞は至極まじめなもので、笑いという要素を期待することはできない。無論楽しいことは楽しいのだが、羽目を外すような楽しさとは違う。ところがこの文章の中で展開されている狂言の稽古は、その羽目をはずしたような楽しさが充溢している。こんな稽古なら、是非参加させてほしいものだ。  
「所謂痴呆の芸術について」
谷崎潤一郎の小文「所謂痴呆の芸術について」は、義太夫の馬鹿馬鹿しさを痛烈に批判したものである。それも、谷崎が日頃懇意にしていた義太夫の巨匠山城少掾から、義太夫を擁護してくれるような文章を書いて欲しいと頼まれて書いたということになっている。山城は、谷崎の友人である辰野隆が義太夫のことを余りに悪しざまに言っていることが憤懣に耐えず、それへの反駁分を書いてもらいたいといってきたのだが、それに応えて書いた文章が、結果的には辰野隆以上に義太夫を悪しざまにいうことになったというわけなのである。
谷崎はまず、山城が何故自分に義太夫の擁護を頼んで来たか、その背景に目を向ける。そしてそれは自分が文楽の賛美者であると思われているからだろうと推測する。その上で、自分が文楽を愛するのは、人形のかもしだす御伽噺的要素を愛するのであって、義太夫を愛するからではない、自分はむしろ義太夫の荒唐無稽さ、馬鹿馬鹿しさを軽蔑する者であるとして、次のようにいう。「歌舞伎を痴呆の芸術と言い出したのは正宗白鳥氏であったと思うが、辰野の云うのもつまりはそれで、痴呆と言う点ではむしろ義太夫の方が本家であるから、恐らくその意味の悪口であろう」
義太夫のどこが荒唐無稽で、どこが馬鹿馬鹿しいのか。谷崎は「合邦摂州辻」を例にとって説明している。「所謂痴呆の芸術のうちでも此れなぞは最も典型的なもの」だというのである。
まず、この浄瑠璃が能の「弱法師」を下敷きにしている点を指摘したうえで、「あの謡曲の持つ高雅、幽玄、優美の味は、浄瑠璃のほうにはどこを探しても見られない。同じく仏教を取り入れながら、一方が瞑想的な日想観を凝らすのに、一方は騒々しい百万遍を操る。そういう相違が全般に行き渡っていて、あの弱法師の、単純で、自然で、素朴な物語から、どうしてああいう猥雑で、不自然で、晦渋な筋を考え付いたのか不思議である」といっている。
ここでいう筋とは、たとえば玉手御前を能とは違って善人に仕立て上げたうえで、弱法師を救うために自分の腹を父親に裂かせたりとか、それは玉手が俊徳丸に惚れていたからだとか、荒唐無稽な筋書きのことをそしていう。それは、「お客をハラハラさせておいて最後にほっとさせる、ということばかりに囚われて、ああでもないこうでもないと趣向をひねくり回した結果、遂にこんな不自然な筋をでっちあげたのだ、と見るのが当たってはいないだろうか」というわけである。
こういうことは合邦の玉手に限らず、鮨屋の権太にも、寺子屋の松王にも、陣屋の熊谷にもあてはまる。忠義のためには他人の子どもを殺すことさえ平気でする、こんな馬鹿げているばかりか、不道徳極まりないことが、義太夫ではあたりまえのことのように描かれる。こういって谷崎は、「いったい、江戸時代に生まれた他の浄瑠璃はそんなことはないのに、義太夫だけが変に残虐な場面を描くことを好み、血を見なければ承知しない文学と言った趣がるのはどうしたことか」と疑念を呈する。
ここでいっている他の浄瑠璃には近松のものも含まれているようで、谷崎は「巣林子(近松のこと)の物などはもっと素朴で、自然であったのに、世が降って、巣林子ほど天分のない、亜流や末流の作者が出るにしたがって、こういう風ないやらしいものに堕落した」と厳しく批判している。
もっともその近松でも、所謂世話物には自然の感情をうたったものが多いけれども、歴史物には荒唐無稽なのもある。例えば出世景清などは、景清は女を踏みにじってやりたい放題のことをしたうえで、頼朝と和解するということになっている。しかしそれでは、平家の侍たる景清は浮かばれないだろう。
ともあれ、かように義太夫を非難する谷崎ではあるが、全面的にこれを排斥するのかと言えばそうではない。義太夫も山城のような名人が歌うと、ほれぼれとするような気持になるし、時に旅芸人が門を流しているのを聞いて、つい恍惚としてしまうこともある。それは「何か理性を超越した、反抗しがたい郷土的感情の作用とでもいうのであろうか」と谷崎は言って、われわれが義太夫をこっそりと楽しむ分には別に問題はないと言っている。問題なのは、これを国粋芸術だなどと称して、大々的に売り込もうとすることなのだ、というわけである。
というのも、日本人だけで楽しんでいる分には問題はないが、これを西洋人に聞かせると様々なぼろが明るみに出るからである。「演じられている芝居そのものが馬鹿げているのみならず、それを国粋芸術だとか何だとか礼賛しつつ見物している客席の人間全体が馬鹿げて見えるに相違ないので、定めし外国人たちは、日本人と言うものを凡そ頭の悪い国民だと思うであろう」
かように谷崎は、義太夫そのものには同情すべき点があるとしながら、なおかつ批判すべき点があると言って、それを義太夫の国粋主義との結びつきということに求めた。それというのも、義太夫は一時衰えかかっていたものだが、それが息を吹き返したのは、戦争に便乗したからである、と断罪するのだ。そして、義太夫と軍閥政府との結びつきを、谷崎は次のように描写するのである。
「あの義太夫の知性に欠けているところ、矛盾や不合理を敢えてしてそれを矛盾とも不合理とも感じないところ、まるで小便でもするように簡単に腹を切ったり人を殺したりして、人名の重んずべきを知らないところ、非人間的な残忍性を武士道的だと思っているところ、それらは同時に軍閥政府の特徴でもあったからである」
谷崎がこの小文を書いたのは昭和23年7月のことである。当時はまだ戦争の記憶がまざまざと生きていて、多くの日本人はもう戦争はこりごりだと思っていた。そんな時に、相変わらず戦争を賛美するかのようなことを平然と続けている義太夫の古い体質が、谷崎には我慢ならなかったのであろう。
それにしても山城少掾は義太夫の擁護を託する人を間違えたようである。  
「疎開日記」(その一)
谷崎潤一郎には断続的に日記をつける習慣があったが、そのうち昭和十九年一月一日から同二十年八月十五日までの分を、「疎開日記」と題して一篇にまとめている。戦争末期から終戦当日までの約一年半をカバーしている。この短い期間に谷崎は、神戸市の魚崎にあった本宅から別荘のある熱海へ、そして岡山県の津山、勝山と、疎開先を転々としている。それはまさに、B29の轟音に急き立てられながらの、より一層安全な場所を求めての逃避行であったわけだ。
この日記は戦後雑誌等に発表されるにあたって、恐らく大幅に手を入れたのだと思われる。読物として緊張感を持続させようとの配慮からだろう、些細な記事を省き、校正を重ねたフシが伺われる。それ故、出来事の展開がドラマチックに浮かびあがってくるようになっている。読んでいて面白いのである。その面白さは、荷風の断腸亭日常とはまた別の趣のものである。
この日記からは、色々なことが伝わってくるが、筆者が特に関心を惹かれたのは次の三つである。一つは、戦争に対する谷崎の視線のようなもの、一つは、戦時下における谷崎の創作への姿勢、そして谷崎の交友関係、特に荷風とのかかわりである。
まず、戦争への谷崎の視線。荷風と違って谷崎は、日記の中で戦争を表立って批判したり、無能な政治指導者たちを罵倒したりはしていない。かといって肯定したり、まして賛美したりもしていない。一市民として、戦争というものと、それが自分自身に及ぼす影響といったものを、淡々と受け止める、そんな姿勢が伝わってくる。谷崎にとって戦争とは、大義とか何だとか大袈裟なことではなく、自分と自分の家族にとってどんな危険があるのかといった、実際的な関心の対象たるに過ぎないようである。彼にとっては、戦争とは身に迫る空襲の脅威であり、生活の不便なのであった。
日記の始めのほうでは、戦争はまだ差し迫った脅威とは感じられていない。それでも、いろいろな噂を聞くと、より安全な場所へ疎開したほうがよいのだろうというくらいは感じている。それで谷崎は、本宅のある魚崎から別荘のある熱海に生活の拠点を移そうという気になる。魚崎は阪神工業地帯の近くで、米軍の攻撃の的になりやすい。それに比べれば熱海ははるかに安全だという判断からだ。こうして谷崎一家は昭和十九年四月に熱海に拠点を移すのだが、そこもいつまでも安全ではいられない。
七月十四日には、「東京都防衛本部の名にて空襲切迫」と書き、翌日には「サイパン島陥るとの大本営発表あり」と書き込む。サイパン島の陥落は、米軍による本土空襲が現実味を帯びてきたことを、谷崎なりに受け取っているのである。
八月十六日には、長崎、小倉、米子の空襲にふれて、「小倉は・・・ひどくやられ人心殺気立ち居り誰も防空壕などに入らぬ由」と書いている。本土空襲がいよいよ始まったことに敏感になっている部分である。
十一月二十四日には、東京北多摩の中島飛行機の工場が、百以上の米機によって空爆されているが、その当日に、谷崎は次のように書いている。「程なく錦ヶ浦の上空に飛行機雲現れ頭上に爆音きこゆ、家人等壕に入らんとしてあれ〜と空を仰いでゐるので予も出てみる、一機東京を目指して飛ぶ、高く〜鰯雲の中にあり、爆音によりて敵機なること判明、日本機のガラ〜云ふ音と異なりて、プルン〜と云ふ如き振動音を伴ひたる柔かき音なり、後部より吐くガスが飛行機雲となりて中天に鮮やかなる尾を曳く、機体もスッキリしてゐて美しきこと云はん方なし」
ここで谷崎は心の自由を失っていなかったことを敢えて言いたかったのだろうか。高みの見物を装っている。そこには米機に対する憎しみは出ていない。しかし、高みの見物とは言っていられないようなことが続いて起こる。少年時代を過ごした故郷の町と言うべき日本橋界隈が、十一月三十日の空襲で焼かれてしまうのだ。そのことを知った谷崎は、十二月二日の記事で次のように書いている。「当夜東京に侵入せるは僅か十機内外が二回にわたりて来りしのみにて風もなく雨の夜なりしにも拘らず此の被害にては今後本格的な空襲来らば帝都は忽ち焼野原とならんとの説盛なりと」
それでも谷崎は平静を装っている。十二月十三日には次のような記事が見える。「今晩も空襲あり・・・熱海上空も夥しく飛来す、家族は皆壕に入りたれども予は細雪を執筆す」
つまり米機の空襲が自分の足元に迫っていることを確認しながら、それでも自分は平静さを失わないのだと、この記事は語っているようにも受け取れる。
翌年三月十日の東京大空襲は谷崎にとっても大きなショックだったようだ。当日のうちに噂を聞いた谷崎は、「昨夜の敵機は百三十機にして今朝八時半まで火災続き下町大半烏有に帰すと」と書き、翌十一日には、「日本橋神田下谷本所深川浅草は殆ど一軒も家なく一望の焼け野原にて死人何万なるを知らず」と書く。そして友人の安否や中央公論も気忙しいので早速上京したいと書いている。谷崎はこれに先立って、細雪中間の原稿を中央公論社に託していたのである。
三月十二日、谷崎は夫人と共に東京を訪れる。和服にモンペ姿、それに靴を履くといったいでたちだった。その日は渋谷の知人宅に一泊し、翌日都心に出てみると、想像以上の惨状、ただ「尾張町四角(銀座四丁目交差点)にて焼け跡に歌舞伎座のたっているのを望みえた」。そして午後二時頃、松子夫人の姉一家と再会を果たす。「家人、姉ちゃんと云ひたるまま姉妹万感迫りて言語出でず、夜も貰ひ泣きし涙を隠す能はず」
五月二日にはムッソリーニが、五月三日にはヒトラーが死んだことを記し、五月五日には銀行預金をすべて引出し、いよいよ関西以西へ疎開することにする。
ひとまず魚崎の家に骨を休めた谷崎一家は、五月十一日に空襲の洗礼を受ける。その折の様子を谷崎は次のように書いている。「午前九時頃警戒警報ついで空襲警報となる。紀州南部に集結せるB29の編隊北上して魚崎上空を通過。高射砲の音しきりなるを以て皆々壕に入る・・・魚崎小学校に負傷者続々運びこまれつつある由聞き予と家人と行きてみる。三人ばかり担架で運ばれ行くを見る・・・先刻壕内にて想像したるよりは遥かに身近に危険が迫ってゐたことを知り今更恐怖す」
夫人の妹の夫が津山藩主の末裔にあたることもあり、谷崎はその手づるを期待して、まず岡山県津山に疎開することにした。しかしその津山には二カ月弱いただけで、七月初め谷崎一家はさらに勝山に移転した。津山での生活で頼りにしていた友人が急になくなったことと、勝山に適当な借間が見つかったというので、移転することにしたのだった。
谷崎が勝山についたのは七月七日、それから一か月ちょっと先に終戦を迎える。その短い間に細雪の原稿をコピーさせたり、また荷風との再会があったりしたわけである。  
「疎開日記」(その二)
二つ目の着目点である戦時下の谷崎の創作活動と言う点では、この日記が触れているのはもっぱら「細雪」である。この小説は前年(昭和18年)の1月から3月にかけて雑誌に連載しはじめたところを、「時局に相応しくない」という理由で出版を差し止められていたという経緯があった。それ故、この日記を書いていた時点では公開の見込みがなかったわけであるが、谷崎は自家判にして親しい仲間に配るくらいなら大丈夫だろうと思って、稿を書き続け、昭和19年の7月に上巻を完成して、自家判30部を印刷させた。しかしそれについても当局からなにかと介入があって、谷崎は危うい思いをさせられた。その辺の事情はこの日記では触れていないが、後に回想記(細雪回顧)の中で詳しく触れている。
上巻刊行の時点で、中巻のほうも大分進捗しており、谷崎は引き続き執筆にいそしむ。12月13日に空襲をうけた際には、家族が防空壕に非難するなかで一人部屋に残って原稿を書き続けたほどの身の入れようである。その甲斐あって12月20日には、「中巻まさに完結せんとす」までに至った。そして翌年の7月には原稿のコピーを命じている。他日のために万全を期しているわけである。
こうしたところを見せられると、谷崎の作家魂のようなものを感じさせられる。当面は発表の見通しが立たないにしても、やはり書かずにはいられない。それに、こんな異常な事態は永遠に続くわけのものでもあるまい、いつかは正常な事態に立ち戻って発表の機会がやってくるかもしれない。ひとりの無力な作家としては、その可能性にかけて執筆するほかはない。そんな覚悟が伝わってくるところである。
三つ目の交友関係と言う点については、谷崎が実に広い交友関係の中で暮らしていることに括目させられる。戦争が押し迫っても、谷崎はこの広い交友関係を伝手にして様々なところを歩き回っているし、大勢いる家族親戚とも固く結束している。そのために疎開生活も惨憺たるものにならずに済んだ。人間と言う者はやはり、他の人間たちとどのくらい豊かな係わりをもてるか、とくに逆境の時期においては、そのことが切実に思えてくる。その点、谷崎は幸運な人間であったと言えよう。
その谷崎の戦時下の交友関係でもっとも筆者の目を引いたのは荷風散人との係わり方だった。荷風のほうは谷崎とは違ってあまり広い交友はない。ほとんど身一つといった孤独な状態で、戦時下の暗い日々を過ごし、あまつさえ東京大空襲に見舞われて何もかもを失い、命からがら安全な場所を求めて放浪する羽目になる。そんな荷風が藁をもすがる思いで頼った人の一人がこの谷崎だったわけである。
この日記の中では、谷崎は昭和十九年三月四日に麻布の偏奇館に荷風を訪ねている。この日谷崎は、娘のあゆ子に合いに渋谷に出てきたのだが、そのついでに荷風を訪ねることにしたのだった。その事情を谷崎は次のように記す。
「抑も本日永井氏を訪ねたるは、(中略)まだ一度も訪ねたることなき偏奇館を機会あらば訪問せんと思ひつつ、時局のためや、冬は寒くて外出の元気なかりしためやらで延引今日に及びたるなり・・・今日を逸すれば又いつの日に上京し得るや不明なるを以て、強いて本日来訪のことを決心したるなり」
谷崎の訪問を受けた荷風散人は折から台所に腰かけて一人食事をしている最中だった。しかしこの時点では世帯やつれはしていない。「糸織か八端らしき縞物を着角帯を締めたる風情、若かりし頃の俤あり、さうしてゐると荷風氏は実に若く、嘗て代地に住み茶や歌沢の稽古に通ひし頃と余り違はざる感じなり」といった印象である。
二人が交わした会話は、荷風の全集発行に関するものだったようだ。というのも、荷風は嘗て自分の全集発行にあたっては、谷崎の協力を仰いていた経緯があるらしいのである。その辺の事情を、当日の荷風の日記が示唆している。
「三月初四、晴。正午谷崎君来り訪はる。其女の嫁して渋谷に住めるを空襲の危険あれば熱海の寓居に連れ行かんとする途次なりといふ。余昨冬上野鶯渓の酒楼に相見し時余が全集及び遺稿の始末につき同氏に依頼せしことあり。この事につき種々細目にわたりて問はるるところあり」
谷崎が訪ねたのは、主に荷風の日記「断腸亭日乗」のことだったようだ。その辺のことは日記の次のような記事から伺われる。
「予は全集編纂のことにつき種々質問す、荷風氏の未発表のものにて最も貴重なるは大正年間以来の日記なり、日記は榛原製雁皮の罫引に実に丁寧にそのまま版下になるやうに記しあり、美しく製本して五冊づつ秩入りになりをれり」
この日別れた二人が再開するのは翌年の八月十三日である。あたかも終戦の日の二日前のこと、二人は谷崎の疎開先岡山県勝山で出会い、述べ三日共に過ごしたあと、終戦の当日の午前に別れた。それぞれが終戦を知ったのは、その日の午後であった。
この再会に至るまでの間、荷風は東京大空襲で偏奇館を焼かれ、身一つで友人たちを頼り、放浪の果てに岡山にたどりついた。谷崎の方は荷風程ひどい目にはあわなかったが、やはり難を避けて関西以西に疎開先を求め、岡山県の津山、次いで勝山に疎開した。谷崎は荷風が自分の近くに疎開していることを知って、六月二十六日の日記に次のように記している。「岡山合同支社長来訪永井荷風氏の伝言を伝ふ、氏は津山と岡山間の某所に疎開の目的を以て西下、目下岡山ホテルに滞在中の由、まことに以外の吉報といふべし」
その荷風は岡山ホテル滞在中の六月二十八日にまたもや空襲に会う。その折の断腸亭日記の記述には鬼気迫るものがある。ここでは、現行日乗本文からではなく、戦後発表した「罹災日録」から、その部分を引用する。
「果せるかな、この夜二時頃岡山の市街は警戒警報の出るを待たずして猛火に包れたり。余は夢裏急雨の濯ぎ来るが如き怪音に驚き覚むるに、中庭の明るさ既に昼の如く、叫声足音街路に起るを聞く。倉皇として洋服を着し枕元に用意したる行李と風呂敷包とを振分にして表梯子を駈け下りるより早く靴を履き、出入り口の戸を排して出づ・・・焼夷弾前方に落ち農家二三件忽ち火焔となり牛馬の走り出でて水中に陥るものあり。余は死を覚悟し路傍の樹下に蹲踞して徐に四方の火を観望す」
こうして身に危険が迫るのを感じた荷風は、勝山に谷崎が来ているのを知って、訪ねることにした。できれば谷崎を頼って、勝山に疎開したいと考えたのである。
空襲で焼け出され、着の身着のままになった荷風は、八月十三日に谷崎に会いにきた。その時の荷風の様子を谷崎は次のように書いている。
「午後一時頃荷風先生見ゆ。今朝9時頃の汽車にて新見廻りにて来れるとの事なり。カバンと風呂敷包とを振分にして担ぎ外に予が先日送りたる籠を提げ、醤油色の手拭を持ち背広にカラなしのワイシャツを着、赤革の半靴を履きたり。焼け出されてこれが全財産との事なり。然れども思ったほど窶れても居られず、中々元気なり」
谷崎は荷風をできる限り歓待した。荷風の方でもそれに感謝している様子が、断腸亭日記の記述から伺われる。今の荷風にとっては宿屋で出されたありふれた朝飯でも、「今の世にては八百善の料理を食するが如き心地」になるのである。
谷崎は荷風から疎開への援助を申し出られて、最初はなんだかんだと理屈をつけて断っていたが、結局応じることにする。しかし今度は荷風の方で遠慮しだして、八月十五日の午前中に岡山へ引き上げてしまうのである。
終戦の報に接した二人の反応を、ここで並べて紹介しておく。まず谷崎。
<荷風氏は十一時二十六分にて岡山へ帰る。予は明さんと駅まで見送りに行き帰宅したるところに十二時天皇陛下放送あらせらるとの噂を聞き、ラヂオをきくために向う側の家に走り行く。十二時少し前までありたる空襲の情報止み、時報の後に陛下の玉音をきき奉る。然しラヂオ不明瞭にてお言葉を聞き取れず、ついで鈴木首相の奉答ありたるもこれも聞き取れず、ただ米英より無条件降伏の提議ありたることのみほぼ聞き取り得、予は帰宅し二階にて荷風氏の「ひとりごと」の原稿を読みゐたるに家人来り今の放送は日本が無条件降伏を受諾したるにて陛下がその旨を国民に告げ玉へるものらし。皆半信半疑なりしが三時の放送にてそのこと明瞭になる。町の人々は当家の女将を始め皆興奮す。家人も三時のラヂオを聞きて涙滂沱たり・・・>
次いで荷風。
<午前十一時二十分発の車に乗る・・・新見駅にて乗換をなし、出発の際谷崎夫人の贈られし弁当を食す、白米のむすびに昆布佃煮及牛肉を添へたり、欣喜措く能はず、食後うとうとと居眠りする中山間の小駅幾箇所を過ぎ、早くも西総社また倉敷の停留所をも後にしたり、農家の庭に夾竹桃の花咲き稲田の間に蓮華の開くを見る、午後二時過岡山の駅に安着す、焼跡の町の水道にて顔を洗ひ汗を拭ひ、休み休み三門の寓舎に帰る。S君夫婦、今日正午ラヂオの放送、日米戦争突然停止せし由を公表したりと言ふ、恰も好し、日暮染物屋の婆、鶏肉葡萄酒を持来る、休戦の祝宴を張り皆々酔うて寝に就きぬ>
谷崎は細君の感極まって涙滂沱たりしを記し、荷風は恰も好しと記す。その落差思うべきである。  
永井荷風の谷崎潤一郎論
永井荷風は谷崎潤一郎を高く評価した最初の人だった。谷崎は荷風の高い評価によって、文壇にゆるぎない地位を築くことができたといってもよいほどである。そのことを谷崎は深く感謝して、生涯を通じて荷風を畏敬し続けた。戦争末期に荷風が空襲から焼き出されて関西方面を放浪していた時、谷崎が岡山県の疎開先で荷風の面倒をみたのも、そうした感謝の現れだった。谷崎はある面で非常に義理堅いのである。
荷風の谷崎論「谷崎潤一郎氏の作品」は、「幇間」以前の谷崎の初期作品を論じたものである。それらの作品を取り上げながら、荷風は谷崎が前代未聞のユニークな作家であることを強調する。
「明治現代の文壇において今日まで誰一人手を下す事のできなかった、或は手を下そうともしなかった芸術の一方面を開拓した成功者は谷崎潤一郎氏である。語を替へて言へば、谷崎潤一郎氏は現代の群作家が誰一人持ってゐない特殊の素質と技能とを完全に具備してゐる作家なのである」
冒頭からこう述べているように、荷風の谷崎に対する評価は非常に高い。荷風によれば谷崎は、題材の目新しさで群を抜いているばかりか、表現の能力においても、他の追随を許さない、稀有の才能の持ち主なのだ。
ではどんな要素が谷崎の作品を特徴づけているのか。荷風はその特質として三つあげている。
「第一は肉体的恐怖から生ずる神秘幽玄である」と荷風はいう。谷崎は普通の観察者とは違って、人間を肉体としてとらえたうえで、肉体の残忍さがもたらす恐怖を描くことに成功した作家だということになる。人間を、心と体からなると考えるのが普通の観察者だが、谷崎は人間をもっぱら肉体に還元してしまう。そこが誰にも真似できない斬新さなのだ、と荷風はまずとらえるわけである。
そうした傾向はボードレールやポーにも通じるところがある、と荷風はいう。そして「肉体上の恐怖と此の屈辱に対する病的の狂愛とを併せて、谷崎氏の作品をば糜爛の極致に達したデカダンスの芸術の好適例と見做すのである」といって、谷崎の文学がデカダンスという面で、世界文学の普遍的な傾向にもつながっていると看破している。
第二は、「まったく都会的たる事」だという。その都会的たることの内実については、荷風はほとんど語るところがないのだが、それは、荷風は東京に生まれ育った都会人として、同じく都会人たる谷崎に親近感を抱いていたからで、いちいち文章で説明しなくても、都会人であればわかることだと、いっているのかもしれない。
ただひとつ、谷崎の文学を泉鏡花の亜流とする見方に対して荷風は、鏡花は江戸的ではあるが都会的ではないといって、それに反論している。鏡花の江戸情緒はロマンチックな脚色の上に成り立っているのに対して、谷崎の場合は、まさに都会的たることを自然に振る舞っているに過ぎない。その自然な振る舞いのうちから、都会的な洗練された雰囲気が自然と醸し出されてくるのだ、と言いたいわけであろう。
第三に、文章の完全なる事だという。そしてこれが谷崎の最大の天賦であると荷風は見ていたに違いない。荷風の目から見れば、同時代人の文学なるものは「未だよく辞句と文章と語格との整頓しえない」稚拙な文章が目立つ中で、谷崎の文章は、「河岸の物揚場を歩いた後、広い公園の中へでも入ったような心持がする」ほど、すっきりとしていると見えたのだろう。
谷崎の文章は、誇張を用いながらしかも誇張に溺れず、文意は明晰でかつ冷静である、と荷風は言いたいようだ。「自分は谷崎氏ほど其の云はんとする処を云ふに当って、先づ冷静沈着に其の云ふべき処の何物たるかを反省し、然る後最も適切なる辞句を選び出して、泰然自若として此れを筆にする人は他にあるまいと思ふ位である」
これはつまり、谷崎の文章が非常に論理的であることを指摘しているわけである。論理的に説明しながら、しかも非論理的で直感的な印象を生ぜしむるのが、谷崎の文学なのだ、と荷風はいいたいのだろう。
論理的で冷静な文章を以て、「肉体的恐怖から生ずる神秘幽玄」を描く、それが谷崎文学の最大の特質なのだ。これが最初の谷崎潤一郎論で、荷風がたどり着いた結論だったわけだ。
谷崎自身も、こうした荷風の指摘を、好意的に受け入れたようだ。彼はその後生涯を通じて、文章をいうものにこだわり続けたのであったが、それは荷風の指摘した自分の美質を、さらに深く追及し、日本語のあらゆる可能性を文学という場で試したいとする、谷崎一流の野心を物語っているとも受け取れるのである。  
「つれなかりせばなかなかに」 瀬戸内寂聴
谷崎潤一郎と佐藤春夫との間でなされたいわゆる「細君譲渡事件」は、大方の人にとっては、どちらかというと佐藤の方が谷崎の妻に横恋慕して、挙句の果ては略奪したのであり、谷崎は被害者だったのだと思っているのではないか。筆者なども一時はそう思っていた。しかし、実際にはそうではなく、これは何から何まで谷崎が意図的に仕掛けたことなのであり、谷崎の妻千代夫人も佐藤も、谷崎に振り回されたのだということが明らかになってきた。その辺を明らかにするとともに、千代をめぐる第三の男の存在についてもとりあげて追及したのが瀬戸内寂聴尼の「つれなかりせばなかなかに」という本である。
この本によれば、まず小田原事件の背景として、谷崎が千代の妹セイ子との結婚を考えていたことがあげられる。小田原事件とは、谷崎が妻の千代を佐藤に譲渡する約束をしたにもかかわらず、それを破ったことで、佐藤が絶縁状を叩きつけたというものであるが、谷崎が約束を破ったのは、セイ子に拒絶されたからだと寂聴尼はいう。
このセイ子という女性は非常に魅力的だったらしく、谷崎は彼女がまだ15歳の時に自分の手元に引き取って溺愛したそうだ。「痴人の愛」のナオミはこのセイ子がモデルだという。谷崎は自分好みに育て上げたこのセイ子を自分の妻にしようとして、姉の千代の方を虐待し、その挙句、友人の佐藤春夫に押し付けようとしたのであるが、セイ子に拒絶されて目が覚め、千代と縒りを戻そうとしたらしいのである。
細君譲渡事件は小田原事件の9年後(1930年)に起きている。この事件の前後における谷崎の行動にも不可解なものがある。1926年に、和田六郎と言う青年が押しかけ弟子として谷崎の家に居候をするようになるが、この青年が千代に夢中になり、谷崎もその愛を認めて千代と結婚させようとまでしたというのだ。このことは、寂聴尼が明らかにするまで、文壇では問題にされてこなかった。ところが、「蓼食ふ蟲」は、千代と和田との恋愛関係をテーマにした小説だというのである。
その辺の事情を寂聴尼は次のように書いている。「二人の恋をモデルにした"蓼食ふ蟲"は実に現実の恋愛事件と同時進行形で新聞に書かれていたという事実である。潤一郎は千代に六郎との恋を認めるかたわら、千代から六郎との恋の成行を詳細に報告させていたらしいことである。"蓼食ふ蟲"は実に恐ろしい小説である」
結局この二人の恋は成就せず(千代は六郎の子を妊娠・堕胎したこともあった)、六郎が姿をくらました後に、あの細君譲渡事件が起きるのである。
谷崎は結局千代を愛せなかったらしい。そこで今度は改めて千代を佐藤に譲渡する気になった。佐藤もそれを受け入れた。この二人は小田原事件後長く絶交状態にあったが、譲渡事件の起きる数年前には仲直りしていた。佐藤は千代と和田との関係も知っていたと思われるが、それにもかかわらず千代を受け入れた。よほど千代に惚れていたのである。
事件が起きた前後に谷崎の心をとらえていたのは、後に妻となる松子であるが、何故か谷崎は、千代と離婚した後すぐ松子と結婚する努力をせず(松子は他人の妻であった)、一旦古川丁未子と結婚する(1931年)。そして翌々年には丁未子と早々と離婚し、やがて松子と同棲を始めるようになる。彼らが正式に結婚するのは1935年、谷崎は48歳になっていた。
事実をひとつひとつ点検しながら、寂聴尼の視線は千代にやさしく、谷崎には厳しい。谷崎はあまりにも身勝手すぎる。その身勝手さを妻の千代は忍従した。被害者は一貫して千代の方であったのだ。だから千代が谷崎と別れて佐藤と一緒になったのはよいことだった。千代は圧制者から解放されて本当に自分を愛してくれる男と一緒になることができたのだというわけである。そんな千代の傍らでは佐藤の影は薄い。佐藤は愛する女を進んで獲得することもできないぼんくらで女々しい男というふうに扱われている。まあ、例の「秋刀魚の歌」などを読む限りは、そういう女々しい男という印象は伝わってくる。
付録として、未亡人となった松子と、セイ子との対談が収録されている。セイ子のほうは91歳になっているが、年齢を感じさせないほど生き生きしていると寂聴は言っている。スタイルが抜群で顔は鼻筋が通っている、とても千代の妹とは思われない、もしかしたら種が違うのではないかと寂聴尼は言っている。ともあれナオミのモデルといわれるだけあって、奔放な生き方をしてきたらしい。谷崎から結婚を申し込まれた時には、いやだよといってあっさり断ったそうだが、それは谷崎がちびで醜男だったからだそうだ。
一方松子夫人のほうは、しゃきしゃきとした受け答えで、知性のあることを感じさせる。その夫人が最初谷崎に抱いた印象は異常さだったというから面白い。
なお題名の「つれなかりせばなかなかに」は千代への気持を歌った佐藤の詩の一節である。  
マゾヒストだったか
「痴人の愛」などを読むと、谷崎潤一郎にはマゾヒズムの傾向があったのではないかと思わせられるところがあるが、実際谷崎にはそういう傾向があったとする者がある。谷崎好きの作家河野多恵子である。河野は谷崎を「心理的マゾヒスト」と呼んで、その傾向が一時期の谷崎文学を著しく彩ったと評している。
マゾヒズムとは、厳格に言えば肉体的な被虐を喜ぶ傾向であり、心理的なマゾヒズムと言うのは外道だ。実際マゾヒズムは自分の肉体を加虐するサディストを前提にするものであって、マゾヒズムとサディズムとはコインの表裏の関係にある。ところが谷崎には自分を肉体的に加虐するような存在もいなかったし、自分から進んで肉体的な被虐を求めたこともない。それにもかかわらず、谷崎には被虐を喜ぶ性向が厳然としてある。精神的に虐待されることを喜ぶ傾向である。そのような傾向を指して河野は「心理的マゾヒズム」というのであろう。
そのような被虐性向を伺わせる言葉を、河野は谷崎の松子夫人宛の手紙の中から探し出してくる。
「御主人様どうぞお願いでございます御機嫌をお直しあそばして下さいまし」
「先達、泣いて見ろとおっしゃいましたのに泣かなかったのは私が悪うございました」
「かういふ御主人様にならたとひ御手打にあひましても本望でございます」
「決して決して身分不相応なことは申しませぬ故一生私をお傍に置いて、お茶坊主のやうに思し召してお使ひあそばして下さいまし」
こういう文面から感じとれるのは、いじめられた相手に対して脂下がり、そのいじめられたことを快感に感ずる性向である。ここではいじめた方にいじめたという実感はないのかもしれない。また肉体的な意味でのいじめはサラサラないのであるから、そこにサド・マゾの関係が成立しているとも思えない。いじめられたと思い込み、それに快感を感じているらしいのは、谷崎一人なのだといってよい。
こんなところから河野は、谷崎の心理的マゾヒズムは谷崎の一方的な性向、つまり一人芝居だとみる。松子夫人はそれに共犯者として巻き込まれているのだが、彼女が自覚して共犯者を演じた気配はない。彼女には別に、谷崎をいじめることに快感を感じるような、サディスティックな傾向はなかった、というのが厳然たる事実であったようだ。
マゾヒズムには加虐者としての高貴な女性というのが現れるのが普通であるが、松子夫人は決して高貴な女性と言うイメージを持ってはいなかった。彼女は大阪商人の世界に生きていた人であるし、その大阪商人には身分と言う感覚がそもそもないことからしてわかるように、松子夫人は高貴さとは縁がなかった、かえって庶民的なさばさばした女性であったようだ。高貴さと言う点では谷崎の二度目の婦人古川丁未子の方が正真正銘の高貴な夫人といってよいが、この女性には谷崎は被虐の喜びを感じることがなかった。谷崎が心理的に溺れたのは、あくまで松子夫人だったのである。
そんな女性を相手に谷崎は、なんでまた心理的マゾヒズムのゲームを仕掛けたのだろうか。そのことについて河野は触れていない。しかし一時期の谷崎の作品がマゾヒズムの影を深く帯びていることを、次のように書いている。
「谷崎の人及び文学に心理的マゾヒズムが垂れ込めるようになったことと、同じ時代の彼のさかんな陰翳礼讃や、春琴抄、盲目物語、聞書抄等盲人を扱った作品群の出現の間には、大きなかかわりがあるはずなのである」(河野多恵子「心理的マゾヒズムと関西」)  
 
「恐怖時代」 谷崎潤一郎

 

行為としての悪
ドナルド・キーン先生がこんなことを書いていました。近代日本文学における最高の大家を定めることは難しいが、森鴎外の名を挙げれば賛成する人はかなりいるだろう、夏目漱石を挙げてもまず誰も反対しないだろう、しかし、谷崎潤一郎が一番優れていると答えたら軽佻に聞こえる恐れがあると云うのです。だが正直に言えば自分は谷崎文学の方により魅力を感じると、キーン先生は書いていました。(ドナルド・キーン:「日本文学を読む」〜雑誌「波」1973年9月号)なるほど谷崎潤一郎は変態作家と呼ばれることもあるくらいですから、「細雪」はこれは例外としても、他の作品に興味があると言うと「変な趣味がありそう」なんて思われそうで、谷崎作品のことを書くのはちょっと勇気が要るのでしょうかねえ。
かく言う吉之助は、谷崎作品について「蓼喰う虫」と「卍」についての評論を書きました。実はこれらの2本の評論は吉之助にとっての密かな自信作で、「歌舞伎素人講釈」の記事のなかからベストの批評を選べと言われたら、多分、吉之助は 現時点ではこの2本を挙げると思います。どうして歌舞伎批評でなくて文芸批評を挙げるのかと聞かれそうですが、この2評論をお読みになれば分かりますが、吉之助にとってはこの2評論は文楽人形論であり、近松門左衛門論でもあります。これらの作品については多くの文芸評論家の方が文章をお書きですが、そのどれもが主人公の夫婦関係とか・主人公の嗜好や行動 など、つまり谷崎のアブノーマルな方向に興味が行っているように思います。これらの文章を読んでいると、大変失礼ですが、みなさん「あまり文楽をお分かりでないですなあ」と感じますね。「イヤ文楽ぐらい知っている」と返されそうですが、知っているのと・分かっているのとは違います。「蓼喰う虫」と「卍」を読めば、吉之助から見ると、これら2作品は文楽や近松に重ね合わせて、ある意味においては自己を冷徹なほどに客観的に突き放して、戯画的にストーリーを練り上げています。非常に技巧的かつ・造花のように工芸的に作り上げられた小説なのです。谷崎がどれほど深く文楽を理解しているか、吉之助にはよく分かります。そのこと自体が谷崎の感性のノーマル性を示しています。
ところで谷崎の随筆に「感覚的な悪の行為」という ものがあります。冒頭で大正の初め頃に小田原の劇場(恐らく旅役者の芝居 でしょうが、この時代の旅芝居ならばほぼ歌舞伎だと思って良いでしょう)で見た血生臭い残虐な筋立ての芝居の思い出を書いています。 悪い殿さまが忠義の家来を何の理由もなく・ほとんど自分の楽しみのために嬲るという芝居であったようです。
『私の歌舞伎劇から味わう「悪」の気持はほとんどすべてがこうした「行為」の上の悪であると言っていい。(中略)要は感覚的に示唆する「悪の行為」が深刻に多量であればあるだけ、歌舞伎劇の特有な感じに陶酔せられると云った訳になる。その意味から云えば、愚劣なる狂言により多く「悪」の分子が濃厚と云い得よう。(中略)大体私は、歌舞伎劇のおもしろ味なるものは、多く「形」の上に在るのではないかと思っている。(中略)なまじいい加減に取り扱われた人物の性根の描写などよりは、刻々に描かれていく「行為の上の種々ある形」の方が、遥かにすぐれた力を持っていると考える。』(谷崎潤一郎:「感覚的な悪の行為」・大正11年5月・「演芸画報」)
こうして谷崎は歌舞伎での「行為の上での悪」の魅力を説くのですが、歌舞伎に出てくる悪人は実在の必然性に乏しい、存在的根拠が乏しく、同時にそれは筋のために体よくでっちあげられた悪人であるということも書いています。つまり、残虐な場面・凄惨な場面に官能を刺激されながらも、それがドラマ的に不毛であるということを、谷崎はちゃんと承知しています。 そこに歌舞伎の歪んだ要素があります。
これは吉之助の「蓼喰う虫」論(その12を参照)でも触れましたが、主人公斯波要がバートン版「アラビアン・ナイト」英訳本を取り寄せて・その注を誤読する箇所とも重なります。要は自分たちの行為は世間から裁かれならねばならない不道徳な行為であることを認識しており、ラカン流に言うならば、要はまさに自分たちがそうならねばならない(世間から擯斥されねばならない)と思っているので自分が望む通りにその注を読んでいるのです。西欧の人々は「アラビアン・ナイト」を当時の時代的気質において人間の深層に潜む欲望・願望をイメージ豊かに羽ばたかせた幻想であると同時に、それは厳格な規律によってどこか歪んでいると読みました。密かな楽しみはその厳格さによってさらに高められました。これが二十世紀初頭の時代感覚とシンクロした谷崎の感覚です。だから「のどかですなあ・・」と要が繰り返し語っている淡路人形を見る旅も、ホントはのどかどころではない。併行して妻美佐子との離婚の思惑が要の頭のなかで交錯しているからです。 要は義理の父にそのことをいつ切り出そうかと悩みながら一緒に旅を続けているのです。そこを多くの文芸評論家の方が失念しています。
谷崎の戯曲「恐怖時代」は大正5年の作品。(ちなみに「蓼喰う虫」と「卍」は、これよりちょっと後の作品で、昭和3年から5年までにほぼ併行した形で執筆されました。)当時の官憲の演劇に対する取り締まりは厳しいもので、「恐怖時代」はその不道徳性と残虐性を理由に、すぐに発禁処分になりました。「恐怖時代」に限りませんが、谷崎の戯曲はレーゼドラマ風(上演のためと云うよりも、読むための戯曲)であって、谷崎は小説を書く時の態度と・戯曲を書く時の態度にさほど区別をしていないように思われます。「恐怖時代」でも、同じような事柄が同じような言葉で・しかしちょっと違う表現で繰り返し語られます。お家乗っ取りを企む悪人数名がいて、彼らが悪の行為をする段取りの為に筋があるのです。お家乗っ取りの目的の為に如何に邪悪で残酷で凄惨な手段を取るつもりかを、得々と語る。武智鉄二は、「谷崎潤一郎の戯曲について」(昭和31年3月)のなかで、いざ原作を切り詰めようとすると、同じようなことが語られていても・その表現の差異に人物の心理の変化が克明な筆致で展開されており、どこを削除しても作品の有機的な構成を破壊してしまうことになるので、台本の切り詰めにはとても苦労したと書いています。だから会話と言ってもモノローグ的な感覚であり、だからそのまま上演すると冗長な感じになるでしょうが、谷崎からするとそこがお楽しみなのであって、そこが小説的であるのです。
武智が昭和26年8月京都南座での歌舞伎再検討公演(後にマスコミにより「武智歌舞伎」と呼ばれることになった)で「恐怖時代」を上演した時、上演は大変な話題を呼びました。この時、武智は原作脚本を三分の二 ほどに切り詰めたそうですが、その舞台を見た谷崎からは「もう少し台本を縮めても良い」といわれたそうです。その一方で、谷崎は「とにかくト書きを活かして欲しい。この芝居はト書きが良く書けてるんだ」とも言ったそうです。つまり、「行為の上での悪」を描くことが谷崎の目的であって、細かい筋の辻褄合わせは問題ではない。あえて愚劣なる悪の戯曲を書いてみせたというところなのでしょうか。
歌右衛門のお銀の方
昭和56年8月26日に武智鉄二古希記念公演として一日だけ歌舞伎座で上演された武智演出の「恐怖時代」については別稿「髪を梳く歌右衛門」でも触れました。この時のプログラムは「俊寛」と「恐怖時代」の二本建てでした。マスコミによって後に「武智歌舞伎」と呼ばれることになる昭和24年から昭和28年にかけての歌舞伎再検討公演の意義については、本稿で 触れませんが、武智歌舞伎の代表作として何を挙げるべきかは議論のあるところだと思います。武智歌舞伎のなかでも「恐怖時代」は当時話題になったもので、強烈に印象が強いもの であるのは確かですが、古希記念公演として出すなら「恐怖時代」とは如何なものかなどと、当時の吉之助は思ったものでした。 実を言えば武智歌舞伎の代表的なものとして「熊谷陣屋」とか・「太十」とかの演出を、吉之助としては見たかったのです。また昭和26年の武智歌舞伎の「恐怖時代」は幕末小芝居風の演出であったようですが、六代目歌右衛門を中心とした豪華配役の歌舞伎座での上演では大歌舞伎になってしまって、当時の武智歌舞伎の雰囲気は片鱗しか味わえないだろうということ は明らかでした。
実際、この時の「恐怖時代」は1日だけの上演ということもあって台詞が入っていない役者が多く、全体としての出来はいまひとつであったことは否めませんでした。特に思い出すのが二代目鴈治郎の珍斎の珍演で、アドリブをやっているのか・出まかせをやっているのか区別が付かない演技で、それでも役の 雰囲気は何となく掴んでいるというところが・まあ鴈治郎らしいところなのだが、「恐怖時代」幕切れでは呆けた表情で縛られた姿のまま・死体が転がっている舞台のあちらをフラフラ・こちらをフラフラ、そして時たま客席の方へ顔を向けてニタ―ッと笑うという具合いで、あれが武智の指示だったのかどうか分かりませんが、客席からはそれを見て笑い声が起きるし、 何となく締まらない幕切れでありました。そのなかにあって六代目歌右衛門のお銀の方は群を抜いて凄いものでした。吉之助は歌右衛門の当たり役と云える役どころはほとんど見ましたが、今思い返しても、この時のお銀の方の演技を歌右衛門ベスト5に入れたいくらいです。しかも、歌右衛門がお銀の方を演じたのは生涯でこの1日だけでした。聞くところでは武智は「成駒屋さんが承知してくれないなら、この古希記念公演の企画自体を止めます」と言って、歌右衛門 の出演承諾を得たそうです。ですから歌右衛門の方も気の入れようが普段と違ったのかも知れません。
この件については別稿「髪を梳く歌右衛門」でも書いたので・繰り返しになりますが、お銀の方の部屋の場での「髪梳き」は、谷崎の原作では家老春藤靭負が部屋を下がり医者細井玄澤が部屋を訪れるまでの単なる「つなぎ」に過ぎません。原作でのこの部分のト書きは、「お銀の方は鏡台に据わり 、やや暫く化粧に念を入れてから、輝くばかりに美しくなって、再び元の席に就く。」とあるだけです。今回(平成26年6月歌舞伎座)でお銀の方を演じた扇雀が髪に櫛を入れる場面で要する時間くらいが、普通ならば芝居の「つなぎ」としては観客を退屈させない常識的なところだと思います。ところが歌右衛門がこの場面に要した時間は、時計で計ったわけでないが・感覚的には扇雀の十倍くらい(ちょっと大げさか・・)かと思うほど長かった。何しろ歌右衛門は鏡台の前に据わり、入念に髪を梳き、いったん髪を解いて下ろして、それをまた自分で結い直したのです。全体に妖気と緊張感が漂い、その一挙一動が何か確信のある・意味のある演技のようで何気ない動作さえ見落としてはいけないように思えました 。
お銀の方は玄澤の来るのを待っていますが、実は彼女には目的があって手持ちの毒薬の効き目を試してやろうと考えているのです。玄澤をどうたらしこんで毒薬を飲ませるか、毒薬がどんな効き目を現すか、玄澤がどんな苦しみ方をして死んでいくか、どうやって殺してやろうか、それを思うと嬉しくて嬉しくて堪らない・・・という思いを押し隠しつつ、お銀の方は美しく化粧をするのです。お銀の方の長い化粧と髪梳きは、殺しを十二分に舐めるように楽しむ為の入念な準備です。台詞もない静かな舞台のようですが、実は邪悪な陰謀と官能が騒がしいほどに渦巻いている。そのような場面なのです(つまり「蓼喰う虫」の淡路の旅と同じようなものです。それが入念な間奏曲(インテルメッツォ)になっているのです。 このように間奏曲が肥大して行く事自体に歪んだ要素があるわけで、そのことは「蓼喰う虫」で離婚話に挿入される、のどかな淡路文楽人形の旅の場面とまったく同じであると云うべきなのです。)幕切れでお銀の方の膝の上で苦しんでピクピクしている玄澤(富十郎)の口を懐紙で押さえてその顔をじっと見下ろす歌右衛門のお銀の方の表情といったら、それはもう凄いというか恐 しいというか、ホントに忘れられません。
谷崎は「とにかくト書きを活かして欲しい。この芝居はト書きが良く書けてるんだ」と谷崎が武智に言ったことは、先に書きました。歌右衛門は、この2行のト書きをここまで引き延ばした歌右衛門の力量も凄いですが、この長い髪梳きの場に作者谷崎が意図した以上に谷崎美学の本領が発揮されたと云うべきなのです。この当日の感想で、この演技が歌右衛門の自己顕示欲の現れだみたいなことを発言した方(敢えて名前は伏す)がいましたが、見当違いも甚だしいことです。
歪んだドラマ
「私の歌舞伎劇から味わう「悪」の気持はほとんどすべてがこうした「行為」の上の悪であると言っていい。」(谷崎潤一郎:「感覚的な悪の行為」・大正11年5月・「演芸画報」)
ここで谷崎が云う「行為の上の悪」とは、悪いこと・残虐なことをする為に生まれた悪、正義の側(主人公は大抵正義であるから)を苦しめる為だけに生成した悪ということです。別稿「返り討ち物の論理」でも触れましたが、歌舞伎の悪人は性格や性根の描写に深みがなく・類型に留まることが多い。したがって、 悪の動機も・方法も明確でなく、薄っぺらである。例えば「恐怖時代」の場合、正義の側が存在しない(太守を諌める二人の武士は嬲られる為の材料に過ぎないので、正義の側というのとはちょっと違います)特殊な例ですが、お銀の方とその一味はお家お銀の方の子・照千代君を後継ぎにし てお家を乗っ取ろうというわけですが、これは悪の行為の口実に過ぎ ません。正室を毒殺してから・どういう風に太守を操縦して・お家乗っ取りに持って行くかということも芝居のなかではいろいろ語られますが、全然実効性がない。現に珍斎の告白ですべてが露見してしまうと、悪人どもの悪事はアッと言う間に破綻してしまいます。だからその程度の薄っぺらの悪事なのです。筋のなかで用が済んだら、悪人 どもには滅びてもらわねばなりません。「もはやこれまで・・・」、そういう時の悪人は随分と諦めが早い。それとも潔いのかな。昔の芝居の悪というものは、みんなそんなものでした。昔の見物は悪人を 真面目に見ようとしなかったのです。大体昔の芝居では、悪人に嬲られた善人側の苦しみ・悲しみの方にこそドラマがあったのです。しかし、「恐怖時代」にはそもそも善人側がいませんから、「最後に悪が滅びて善が栄える」というオチさえない。この点においても「恐怖時代」は、構造的に歪んだドラマです。
要するに悪人の性格や性根に深みと云うものを、作者谷崎は最初から求めていないのです。「恐怖時代」のなかで谷崎は小田原で昔見た血生臭い小芝居の記憶を確かにリフレインして いるようです 。しかし、谷崎は回顧趣味で「恐怖時代」を書いたのではありません。歪んだドラマのなかに、20世紀初頭の世界的な思潮である表現主義的なものを見ているのです。表現主義とは、印象主義と対立した形で登場した概念で、内面の表出を強調するために、非写実的な歪みの表現を多用しました。「恐怖時代」の残虐趣味・スプラッター嗜好も、そのような表現主義的な視点から、人間のなかに潜む 醜く歪んだ要素を抉り出して、それを強調した形で出てくるものです。そこに「恐怖時代」という芝居の近代性があるのです。前項で紹介した歌右衛門演じるお銀の方の長々しい髪梳きもまたそうです。それは劇構造の歪みを生み出しました。歌右衛門は、谷崎のト書きからドラマの歪みを直感的に読み取ったのです。そこが歌右衛門の感性の凄いところです。それは歌舞伎様式の歪んだ要素が、表現主義的なアヴァンギャルドな要素 とどこか相通じることを、期せずして示したのです。
谷崎と映画との関連
大正期の谷崎は視覚芸術の先端であった映画(活動写真)にも大きな興味を持っており、映画に材を採った短編小説としては、例えば「人面疸」(大正7年)、「青塚氏の話」(大正15年)などがあります。また これはあまり知られていませんが、谷崎は大正9年に設立された大正活映株式会社の脚本部顧問になって、映画製作にも係りました。谷崎が制作に係った映画は4本ありますが、谷崎が脚本を書いた最初の映画が「アマチュア倶楽部」という海浜喜劇(大正9年11月封切り・フィルムは現存していないそうです)で、この映画で妻千代の妹で「痴人の愛」(大正13年)のナオミのモデルとなるせい子を「葉山三千子」の芸名でデビューさせています。この時代の谷崎は、小説よりもむしろ戯曲の方を活発に書いていた感があり、「恐怖時代」は大正5年の作ですが、その前後 の作品を見ると、「恋を知る頃」(大正2年)・「法成寺物語}(大正4年)・「愛すればこそ」(大正十年)・「マンドリンを弾く男」(大正14年)・「白日夢」(大正15年)など多くの戯曲がいずれも大正期です。
ところで谷崎は「白日夢」を映画「カリガリ博士」の影響のもとに創ったと、武智に語ったそうです。(「白日夢」は武智によって2度映画化され、それらによって現在の武智は伝統芸能家ではなくて、エロ映画監督として世間に記憶されることなったことは周知の通り。)「カリガリ博士」(ローヴェルト・ヴィーネ監督)は1920年にドイツで制作されたドイツ表現主義のサイレント映画ですが、その芸術的価値において・その後大きな影響を与えたとされる作品です。この映画の日本での公開は翌1921年(大正10年)5月のことですから、「恐怖時代」には「カリガリ博士」との直截的関連はもちろんないのですが、「恐怖時代」もこの時期の谷崎の映画への関心、すなわち表現主義への志向と関連付けて考える必要があ ります。例えば別稿「歌舞伎の見得〜クローズアップの手法」でも触れましたが、映画のクローズアップの技法とは「我々がそのようであると信じていたものの有様(ありさま)が視点を近づけることで違う様相を呈してくる・しかもそのすべての様相は断ち切られているようでいて・実は相対的につながっていてひとつである ・そしてひとつであるようでいてやはり断ち切られている」と言うことを表現する歪んだ技法です。そのような映画の視覚技法が持つ反自然主義的・表現主義的な要素への関心が、谷崎の戯曲執筆の原動力になったことは明らかです。
また谷崎の小説においても、映画的技法を感じさせる場面があります。そう云うと「細雪」の京都の花見の華やかな場面を思い浮かべる方が多そうですが、吉之助が言いたいのはそういうことではなく、例えば「蓼喰う虫」(昭和3年)の結末部分がそうです。これについては別稿「生きている人形〜「蓼喰う虫」論」の最終章が関連します。夕立が始まって要の意識が次第にたそがれ状態になって来たところで、「・・・いよいよ降って来ましたなあ」という女性の声(実はお久の声)が響きます。その瞬間、女形人形が突然口を聞いたように感じられて、要は一瞬、ぞっとしたに違いありません。この場面は、吉之助にはとても映画的に感じられます。と云うより、このシーンは映画をイメージして読むべき場面です。 文章に心理的なクローズアップ効果が使われています。この箇所を映画的に読めなければ、「蓼喰う虫」の筋がどうして文楽と強く関連せねばならないか、谷崎が文楽をどのように感じ取ったかは、多分よく理解できないだろうと思います。
実は「恐怖時代」はそれまでも何度か上演されましたが、純歌舞伎様式で上演されたのはこの昭和26年の武智歌舞伎での上演が最初のことでした。しかし、上記のことを勘案するならば、「恐怖時代」はやはり歌舞伎様式で演じられることが、やはり作者の意図に最も沿うものであっただろうと思います。 昭和26年の武智演出を谷崎はとても気に入って、「延二郎(三代目延若)の太守と扇雀(現・四代目藤十郎)の伊織之助は持ち役にしたい」と言って、上機嫌だったそうです。それは谷崎の歌舞伎への懐古趣味・あるいは草双紙趣味から来るのではなくて、 実は谷崎は歌舞伎技法のなかに近代的な要素・歪んだ側面を見ていたからです。エイゼンシュタインが「歌舞伎の見得は、映画のクローズ・アップだ」と看破したエピソードは、このことを考える時に、非常に重要になります。(別稿「歌舞伎の見得〜クローズアップの手法」を参照ください。) 近代の芸術家として、同じようなことを谷崎も考えていたに違いありません。谷崎は小説・戯曲を書く為に、映画も・歌舞伎も・文楽も、どれも同じ視点から眺めていたということです。
あっさりした仕上がり
昭和26年の武智歌舞伎での「恐怖時代」は幕末期小芝居を意識した演出で、血糊をふんだんに使って話題となりました。幕末の歌舞伎は閉塞した世相を反映し、趣向が息詰まったところから、草双紙趣味の・グロな趣向に活路を見出そうとしました。「弁天小僧」のような、美しい娘と思っていたのが尻を捲って男の泥棒の正体を現わして観客を驚かせるなんて趣向も、そんなものです。武智はこれを歌舞伎の一番悪い見本として、その手法を「恐怖時代」に取り入れたわけです。しかし、これはもちろん手法の応用に過ぎません。武智は「恐怖時代」が谷崎の残酷趣味・スプラッター嗜好だと見ていたということではなく、近代的な人間理解の立場から、人間のなかの醜く歪んだ要素を抉り出した表現主義的なドラマであると考えていたのです。だから流血がどんどんエスカレートして、芝居で使用した血糊の量は相当なものになったようです。
今回(平成26年8月歌舞伎座)での「恐怖時代」ですが、全体にあっさりした仕上がりでありましたね。チラシには武智鉄二演出とクレジットされているけれども、実際は斎藤雅文が武智演出を土台に手を入れたということだそうで、草双紙趣味の・グロな雰囲気があまりしません。吉之助が見た昭和56年・武智古希記念公演の時でも、伊織之助が主人を諫言した武士を嬲り殺しにする場面など、殺し場面をしくこく引っ張って、ふたりの衣服を剥いで切りつけて血まみれにして凄惨でありました。このように場面を長く引っ張るところが、歌右衛門のお銀の方の髪梳きと同じく、表現主義の歪んだ要素です。そこに「行為の上での悪」がドラマの歪みとなって現れます。そこに往年の武智歌舞伎の片鱗を見た気がしたものでした。
そのような舞台を知る者にとっては、今回の舞台はまことにあっさりしたもので、物足りない。しかし、まあ昨今の観客にとっては、近代表現主義の感覚自体がもはや共有し難いかも知れない。いきなりドギツイものを見せられてドン引きされるよりは良いかなとは思います。しかし、このあっさりした舞台では、谷崎がどうしてこういう芝居を書いたのかというところは、多分見えて来ないでしょう。何と薄っぺらなドラマか・・やっぱり谷崎の変態趣味の産物か・・という感じしか持てないかも知れない。そのような迷いが、演出の斎藤雅文や演じる役者の側にもあるようです。例えばお銀の方の悪事が露見して、怒った太守が照千代の首を斬って珍斎に持たせて登場するという、原作にない改変がされています。この件に関しては、お銀の方を演じた扇雀が次のように語っています。
『なぜ2人 (お銀の方と伊織之助)が死を選ぶのかという理由が伝わりにくいと感じた。2人が死を選ばざるを得ないよう加筆し、観客を納得させたい単なるお家騒動で、お銀の方が殺人鬼という芝居にしたくない。彼女は心から伊織之介と愛し合い、運命に翻弄されても最後は好きな男と死ねてうれしい。そんな感情を表したい。』(中村扇雀談:読売新聞・2014年8月4日)
役者がこの芝居にそのような疑問を感じて改変がしたくなる気持ちは、十分理解が出来ます。自然主義演劇の観点からすれば、当然そうなるのです。役の心理・行動に必然を求めようとするからです。ただし、谷崎の文学的立場は反自然主義なのであってね、こういう改変はお節介以外の何物でもない。これでお銀の方の悪の動機と、死を選ばざるを得ない必然が補強できて、その人間性に深みが出たでしょうか。原作にもない子供の生首を持ち出して、余計なグロ趣味を出しただけのことです。お銀の方と伊織之助の純愛なんて、そんなものが、この芝居のどこにあるのでしょうか。薄っぺらなものは、薄っぺらなままにしておけば良いのです。
大正期のアバンギャルド
今回(平成26年8月歌舞伎座)での「恐怖時代」があっさりした仕上がりなのは、オリジナルの武智演出を手直ししたらしい斎藤が責を負うべきですが、グロを全面に押し出すのを躊躇して、これを笑いで中和しようとしているような感がありますね。だから観客 は芝居を受け入れやすくなっていると思いますが、谷崎がこの芝居に求めたものからはちょっと遠い感じになっています。また、これが武智歌舞伎か・・と思われるのも、武智の弟子を自認する吉之助にとってもちょっと不本意です。前項で書いたように、「弁天小僧」のような、美しい娘と思っていたのが尻を捲って男の泥棒の正体を現わして観客を驚かせるなんて趣向も、今ではこれが歌舞伎の醍醐味だなんて思われているでしょうが、本来これはグロなのです。武智が歌舞伎の一番悪い例とした、そのようなグロな味わいが、大正期のアバンギャルドな感覚で処理されねばなりません。それでないと、谷崎としての、そして武智歌舞伎としての、同時代的な意味がないのです。
例えば気の弱い茶坊主珍斎ですが、これは本来「四谷怪談」の按摩宅悦と同様で、恐怖を増幅させる・観客を怖がらせる役であると考えられます。ところが斎藤の演出であると、どうやら観客の恐怖を紛らせる・観客を笑いに逃す方向に、珍斎が使われています。その意味においては勘九郎はよくやっていると言えます。故・十八代目勘三郎は珍斎を演じませんでしたが、父親がこの役をやったらなるほど確かにこんな感じであったろうなと思える「笑える」珍斎です。親子だから当然かも知れないが、声も間合いもよく似てい る、と云うより、父親を真似ている。ただし、これは「十八代目中村勘三郎の芸」でも書いたことですが、勘三郎は「観客を笑わせてくれる楽しい役者だ」というイメージを観客に刷り込んでしまったおかげで、真面目な芝居をしても観客に笑いを期待されて、それで要らぬ苦労をしたのです。歌舞伎では当代は先代のイメージの継承を求められるということはよくある話だけれども、勘九郎は芸質としては実事に向いた役者であろうから、父親と同じ轍を踏まぬように願いたいものです。父親のイメージを追うことが必ずしも良いとは限りません。
七之助の伊織之助は、演技のなかで女形と若衆の切り替えを意識しているようですが、もっと思い切って変成男子の気持ち悪さを前面に出した方がよろしい。七之助の伊織之助は刀を構えると目付きが キリッと しちゃうのだな。まあ普通の感覚ならばそれで良いわけだろうが、そこが変態作家の谷崎です。吉之助が見た昭和56年・武智古希記念公演の時の伊織之助は現・藤十郎(当時は扇雀)で、これは谷崎が「伊織之助は扇雀の持ち役にしたい」と褒めたものでしたが、果し合いの時もグニャグニャと軟体動物的にシナを作って気持ちの悪い伊織之助でありました。これは武智が日ごろ嫌っていた歌舞伎の女形のオカマ芸的な要素を極大化させたものです。グロな芝居の肝が、伊織之助という役です。
このような伊織之助を隠し愛人にしているお銀の方との関係が純愛であるはずがありません。爛れて腐敗しきった愛欲です。原作にない改変をして、殺された息子・照千代への母親の情なんて、この悪女に最後の最後に「女の誠」を主張されるのも困ったものです。そういうわけで扇雀のお銀の方は性根の根本のところを間違えていますが、これも演出の斎藤が責を負うべきです。薄っぺらなものは、薄っぺらなままにしておけば良い。大事なことは、「恐怖時代」は最初から歌舞伎として関かれたわけではないけれど、大正5年に書かれた近代戯曲だということです。谷崎の懐古趣味・残酷嗜好だけの作品だと決めつけてはなりません。 かりそめにも大正・昭和の大作家の作品なのですから、何かがあるはずである。何がこの作品を近代戯曲たらしめる要素か、そうある為には何が必要なのかをよく考えることです。作品を考える時には、その作品が成立した時の時代と関連付けて、作品を読み込まねばなりません。脚本だけを眺めてウンウン唸っているだけでは、何も見えて来ません。映画「カリガリ博士」などもご覧になると参考になると思いますね。  
 
弁当と日本文化

 

この論文では、弁当の機能と用途について述べ、更に、日本文化でのその意義について考えてみたいと思います。
日本では、弁当は昔から広く使用されてきました。今では日本人の生活様式はすっかり近代化、西欧化されています。それにもかかわらずこのような食様式が、そして容器が、なぜ、どのようにして今日まで絶えることなく引き継がれてきたのか、ということに私は強い関心を抱いています。この論文で私は、弁当箱がどのようにして新しい価値水準、一つの象徴にまで達したかを、個人的意識および国家意識を中心に、社会的な相関作用やグループ意識について述べながら、検討してみたいと思います。
言うまでもなく、弁当箱は大抵の国で昔から使用されてきています。これを旅行に持っていく国もあるでしょうし、毎日の仕事に持参する国もあるでしょう。弁当は本来このように実用的な目的で生まれたもので、現在でもほとんどの国で学校の昼食かピクニックに限られており、日常の社会生活で見ることはまずありません。ところが日本では、学校に持っていく弁当箱も大きく変わってきていますし、レストランでさえ弁当箱を特別メニューの贅沢な容器として使っているのです。
箱に関しては、日本には長い伝統があります。これは食器として、また食物の保存容器として、広く用いられてきました(The Illustrated Encyclopedia of Japan, 1933)。奈良時代すでに、便利で美的見地からも価値のある箱がありました。そのいくつかは今でも正倉院の宝物として残っています。
このように長い伝統をもっている日本の弁当箱は、その歴史の中で、形状・外観においても、象徴としての面、表にでない種々の価値の面でも、それぞれの時代にあわせて変身してきました。現在のようにマクドナルドやスパゲッティの洪水の中にあっても、日本の弁当箱は社会的ステータスと名声を維持し、しっかりと生き残っているのです。それどころか、スパゲッティやハンバーガーでさえ、その中身として取り込んでしまっています。
他の日用品同様、弁当箱も用途・目的にあわせて形状、外観、サイズ、色などを変えて作られています。現在その資材として一番多く使われているのはプラスチックですけれども、伝統的な形のものや、一昔前のアルミの弁当箱などもリバイバルしています。もっとも形は現代風の新しいものに、品質もずっと良いものになっていますけれども。若い人は今でもプラスチックの明るい色の物を好みますが、成人や中高年それに若いOLたちは、いわば伝統の再発見といったところでしょうか、このような新しい感覚を盛り込んだレトロなスタイルのものに戻ってきています。
日本のレストランでみかける弁当や弁当箱は、お客を殿様か大名、貴族あるいは富裕な商人になったような気分にしてくれます。弁当が運よく手に入ったとしても、中身はご飯と梅干しだけだった時代、玄米と麦のご飯しか入っていないために弁当の中身をかくして食べなければならなかった時代は、もう昔のことになってしまいました。以前は、お弁当を持ってこられないために昼御飯の時間に「消えて」しまう人が決まって何人かいたものでした。
皮肉なことに、現在では多くのOLが「体型を保つために」弁当を食べています。弁当は今では、簡単で低カロリーのものでもデラックス・メニューのものでも自由自在になっているからです。
日本史や、現在の日本人の生活、社会の変化などを学ぶ場合に、弁当文化の研究は非常に有益です。日本人にとって、弁当箱は「グループ意識を失わずに自己を表出できる方法」ではないかと私は考えます。人々にとって、これは他人とのつながりを強調しながら、しかも自分のアイデンティティを主張できるチャンスなのです。それでもやはり、人々は弁当によって自分が所属するグループの中での自分の役割と位置を意識させられます。
豊かで洗練された食文化から生まれた道具である弁当箱は、社交の有用な歯車として働きます。そして最後に、弁当箱を通じて、日本社会、日本文化の中に「遊び心」がどのように育ってきたのかを知ることもできます。この「遊び心」は、長い間戦争や国際紛争、国内の動乱などに苦しんだ後で、日本人がいま満喫している平和と大きな関連があります。
私は、いたるところにレストランやキャフェテリアのある今の日本で、なぜ弁当箱がこんなに人気があるのか、その理由も分析したいと思っています。そしてまた弁当箱が、その資材、サイズ、色などの点でなぜこのように大きく変わったのか、なぜ弁当を特集した雑誌が毎年こんなに沢山出版されるのか、なぜほとんどの婦人雑誌がさまざまな形で弁当の作り方をのせているのかを分析してみたいと思っています。
日本における弁当の歴史

 

まず最初に、弁当とその古い用語である面桶(めんつう)という言葉の起源について述べます。次に、箱の外観とその中身は密接な関連があると思われますので、中身についても述べたいと思います。
弁当の起源 −古代および中世
最初に弁当箱として使用された容器は、竹皮、熊笹の葉、木の葉などだったに相違ありません。これらは通気が良く食物の保存にとてもよく適しています。特に竹皮や熊笹の葉は殺菌力も高いと考えられています。初期のこのような包装用品は次第に箱に変わって行きました。その箱も最初は柳の枝や木で作ったもので、たいてい使い捨てでした。ラッピングの点でも、日本には非常に豊かな文化を育ててきた歴史があるのです(Joy Hendry, 1989, 1993)。
「外国人のためのお弁当」(伊藤みどり編、1966)という本によれば、戸外で食べる昼食については、すでにかなり古い時代の日本文学にみることができます。奈良時代の「古事記」では、倭建命が東日本を征伐した折り、足柄の坂本の野で昼食の御粮(みかれひ)を食べているとき、土地の神が白い鹿に身を変えて現れました。そこで倭建命は御粮と一緒に食べていた蒜をその鹿(土地の神)の目に投げつけて、殺しました。
御粮とは乾飯(かれいひ)を約した言葉ですが、干して固くした旅行に携帯する食物です。古代の弁当はこの種の乾燥米だったと考えることができます。この御粮という言葉は、干飯(ほしいひ)とも呼ばれていました。干飯は今でもあり、私も入手することができました。現代のものは湯をかけるだけで数秒もすれば食べることができます。しかし古代のものはもっと固かったようで、旅人はしばらくの間口に含んでほとびさせてから、食べていました。これはもう少し後の時代には乾燥させてあるかそうでないかで、干飯(ほしいひ)または糧、粮(かりて)と呼ばれるようになります。
そしてまた時が経つにつれて、中身が乾飯(かれいひ)、それを入れる容器がかれひけと呼ばれるようになりました。そして平安時代の初めには、かれひけという語は破子(わりご)と変わり、容器のみを指すようになりました。江戸時代の有名な学者小山田与清は「1573年から1592年の間に、破子は弁当とよばれるようになった」と言っています(伊藤、前掲書、17ページ)。中身については、にぎりめしなどの語が早くも平安時代の文献にみることができます。後になって、にぎりめしはおむすびとも呼ばれるようになり、芯に梅干し以外のもの、特にかつおぶしなどが入れられるようになりました。
しかし、弁当そして特に弁当箱の発展には長い歴史があります。1591年、「多聞院日記」に「一揃いの塗り箱の蓋の裏には箸を三組とりつけてあって、各段には数人分のご馳走が入っている」という描写がでてきます。この箱はおそらく現在重箱と呼ばれている物でしょう。当時は重箱という名称はありませんでしたけれども、上流階級や富裕な人々がよく使っていました。一方、もっと下のクラスの人々は、一人分の食物を木の葉、布切れ、網などに包んでいました。古い形の弁当箱の一つに、先にのべた破子があります。これが多分内部に仕切のついた容器の始まりではないかと思われます。これは薄い板でできており、食べた後は捨てていました。現在でも、使い捨ての箸にこれと似たような「割り箸」という言葉が使われています。この箸は、使う前に割って二本にします。
破子と割り箸は漢字は違いますが、どちらも「分ける」「割る」「破る」という意味で、したがって共通の性格を持っています。破子は少なくとも二つの同じ大きさの部分に分けることができます。破子という言葉には「使い捨てできる容器」という意味と「いくつかの部分に分けることのできる容器」という二つの意味がありますし、また、ある時期には「米」および/あるいは「食事」という意味もありました。
このように破子は、違った食物(ご飯と魚、肉、野菜などの総菜)を分けて入れられるように仕切のついた最初の容器と言えます。その次に現れたのが面桶です。これは一種のお椀ですが、個人用の箱に更にアイディアを加えたもので、自分の分だけを運べるように蓋がついており、現在の弁当箱の始祖ともなりました。
面桶は丸い形の、仏教の僧侶が使うお椀に似ていました。僧が寺に入るときには、あらゆる私物を捨てて来なければなりませんでしたが、自分専用のお椀だけは持ってくることを許されたのです。これは修行中、皿として、また水やお茶を飲む茶碗として、あるいは食事時の食器として用いられました。個人的な親密さも私物を持つことも許されない社会にあって、僧侶が個人用として所持するのを許されたたった一つのものでした。
食事用の食器です。弁当箱に対する日本人の態度はこのような状況と関連があるのではないかと、筆者は考えます。筆者が日本に住んでいたとき「食事やお茶に使う食器は非常に個人的なものと考えられていて、だれもが自分専用の茶碗、お椀、箸を使っている」ということに気がつきました。そして、これは日本人が個を主張するための一つの方法ではないか、と思うこともままありました。
ここで忘れてはならないのは、いつの時代にも数人分を入れた共同の容器が使用されてきた、ということです。古代では食事はおそらく団体行動であり、皆が同じ容器から食べていただろうことは容易に想像できます。14世紀以降、この共同の容器は主に特別な集まりや祝い事の際に用いられるようになりました。現代の重箱が主に行楽や人々の寄合の際に、皆がそれぞれの器に取れるように、食物を運んだり並べたりするのに用いられているのと同じです。
しかし多人数の食物を運ぶ場合には、このような大きな器と共に一人分ずつ取り分けるための皿や弁当箱も用いられました。大きな器には「ステータスと社会階級を示す」という目的もありました。日本文化の中では弁当箱、器、皿の間に何の区別もありません。いずれも食物を入れて運ぶ、という目的だけでなく、食べるためにも用いられています。弁当箱はレストランでは食器として使用されていますし、ご飯茶碗に似た容器が食物を運ぶのに使われているケースもあります。これは弁当箱の社会的な使用に大きな影響を与え、弁当箱が現在まで生き残るのに大きな役割りを果たしています。
弁当 −その種類、名称と定義
「弁当箱」という本(荒川浩和、1990)には、桃山時代から江戸時代にかけての弁当箱についてのデータが豊富にあげてありますが、その多くは東京国立博物館、神戸市立博物館、徳川美術館、出光美術館、早稲田大学演劇博物館など、日本の有名な博物館から集めたものです。
この本に取り上げてある弁当箱は主に大名や貴族など上流階級のものですが、種々様々の贅をこらした弁当箱の写真をのせると同時に、「弁当」の古い用語もあげて解説しています。その用語に私が辞書(広辞苑、百科事典、漢字語源辞典、字源)から拾った用語もあわせて、外出先で食べる食物、「弁当」にあたる昔の言葉をあげてみます。古い時代には食物は大きな木の葉に包んで携帯していましたので、何と呼んでいたかははっきりとはわかりませんが、容器と中身の両方を指していたようです。しかし次にあげる最初の三つの用語はその中身、食物だけを指していました。
中身による分類と名称
御粮(みかれひ)/干飯(ほしいひ)/かれいひ-乾燥食物/乾燥米
「弁当」という言葉は中国語からの借用語のようにみえますが、これは日本人が作った語です。広辞苑第二版には弁当は「外出先で食事するため、器物に入れて携える食品、またその器物。転じて、外出先でとる軽食」となっています。弁当という語の語源を突き止めた人は、江戸時代の国文学者、喜多村信節(1783│1856)です。
現在では弁当という語は、戸外で食べる食事の中身にもそれを入れる容器にも用いられていますし、またレストランのメニューの一つとしても、給食会社の宅配サービス昼食にも使われています。
中身を指す名称で一番よく使われているものにはどんなものがあるかみてみましょう。これをみれば、日本食文化の興味深い面をいろいろと知ることができます。
おむすび弁当/にぎりめし弁当 おにぎり
あくまき 昔の携帯食の一つで、餅米を灰汁に浸けて竹皮に包んで蒸したもの。昔、薩摩藩が朝鮮の役に出征するときに持参したものだそうです。現在でも、鹿児島の人は5月の節句にこれを食べます。
海苔弁/海苔弁当 炊いたご飯に海苔をのせたもの。
鮭弁当 ご飯と焼いた塩鮭の弁当。
松茸弁当 松茸という高価で香り高いキノコを炊き込んだご飯。秋の風物の一つ。
日の丸弁当 白米の真ん中に梅干しをのせて、日本の国旗のようにみえる弁当。第二次大戦中は、戦場で戦っている兵士を偲ぶため、週に一回はこれを職場や学校に持って行かねばなりませんでした。梅干しには防腐剤の働きがありますので、食物を良い状態に保つのに役立つとも考えられています。
鰻重弁当 白いご飯にうなぎの蒲焼きをのせたもので、漆(またはその代用品)を塗った角形の弁当箱にいれます。
そば弁当 そばをいれた弁当。
いか飯弁当 イカの中にご飯をつめて炊いたもの。北日本に多い料理。
すし弁当 すしをいれた弁当。
釜飯弁当 野菜などを入れて炊いたご飯で、スペインのパエリアに似ています。これは「釜」と呼ばれる小さな陶器の鍋で炊きあげた「飯」ということで、容器が非常に重要な意味を持っています。
愛妻弁当 妻が夫のために作る弁当で、できる限りおいしい食べ物をきれいに盛りつけて、愛情を示したものです。この場合、中身、食べ物と容器の取り合わせが非常に重要です。
鯛飯弁当 鯛(これは非常に高価です)をいれた弁当。
焼き鳥弁当 和風ローストチキンをいれた弁当。
中華弁当 ご飯と和風中華料理をいれた弁当。
ハンバーグ弁当 ご飯とハンバーグステーキをいれた弁当。
牛肉弁当 ご飯と牛肉と野菜をいれた弁当。
サンドイッチ弁当 サンドイッチの弁当。
御膳弁当 白いご飯とおかずをいれた弁当。「御膳」とは「ご飯」の尊称ですので、これは「米を主食とした弁当」という意味になります。御膳という語は最近の宅配サービスの弁当やレストランのメニューにも使われています。
行事・購入場所等による分類と名称
どのような行事、あるいは目的で使われるかによって、いくつかのカテゴリーに分けることができます。しかしいずれの場合も中身と容器は密接に関連しています。
「行楽弁当」これはスポーツの会などに持って行く弁当です。以前はこの種の弁当は季節と密接な関係がありましたが、今ではスポーツに関連しています。もう一つは「観劇弁当」劇場で食べる弁当です。行楽弁当と観劇弁当は見分けがたいこともありますが、行楽弁当はあくまでも戸外で食べるもので、観劇弁当は劇場かスタジアムに持っていって食べるものです。容器はその行事にあったものでなければなりません。
次にあげるのは、どちらかというとめでたい行事や楽しい行楽に昔から使われてきたものの名称ですが、もっと新しいものもあげてあります。
以前は両親、友達、親戚の人などと一緒に食べていましたので、弁当箱は数人分を入れられる特別なものでした。これは新しいタイプの行楽弁当です。
花見弁当 春、桜の樹の下に集まって、花を愛でながら食べる弁当。
紅葉狩り弁当 秋の紅葉を見ながら皆で食べる弁当。
月見弁当 9月に満月を見るために集まって食べる弁当。
運動会弁当 学校の運動会で食べる弁当。
次にあげるのは観劇弁当の範疇にはいるものです。
幕の内弁当 劇場(主に歌舞伎)の幕間に食べる弁当。しかし、現在では、レストランの定食メニューの一つとなっています。これは箱に仕切をつけて、ご飯、野菜、魚および/または肉、果物、甘いものなどを分けて盛りつけたものです。
顔見せ弁当 歌舞伎で新しい演目が上演されるときや、役者がデビューするときに、箱に入れて供される弁当。
ドーム弁当 これは、初め福岡の野球場(ドーム)で供された特製弁当です。箱は野球場の形をしていて、観光客がツアーでこの野球場を訪れたときや、野球観戦のときに買いました。これは人気を呼び、日本中どこの野球場でも売られるようになりました。そして、さらに行楽に持っていくようになると、これは行楽弁当のグループに入ると考えられるようになりました。しかし、スポーツ観戦用とする限りでは、これは観劇弁当のグループに入れるべきだと、私は思います。
どのような行事、あるいは場所で食べるか、どのような形で販売されるか(家庭で作ったものでも店舗や鉄道の駅などで買ったものでもない場合)、さらに大きさなどによっても違った名前がつきます。
駅弁 駅や長距離列車の中で販売される弁当。これは今では「遊び」の性格をおびていますので、行楽弁当の範疇にいれてもいいでしょう。近年これはとても人気が出て、注文もできますし、年に二回デパートで行われる「駅弁まつり」で買うこともできます。(これについては後で詳しく説明します。)容器の形、中身は種々様々です。これから見ていくように、駅弁では、食物はその地方独特のものですし、その容器もお客を引きつけるように入念にデザインされ、選択されています。
宅配弁当 給食会社やレストランが、会社や個人宅に配達する弁当。これは昔からある「出前」(レストランのケータリング)と同じやり方ですが、「宅配」というのは非常に新しい言葉で、ケータリング会社はこのほうを好んで使います。
学生弁当 男子学生用の沢山はいる大きな弁当。
どか弁 男子学生やスポーツマンが食べる大きな弁当。「学生弁当」によく似ています。
容器の種類と名称
さて、弁当の種類と名称についてはすでにのべましたので、今度は容器の中でよく知られているものについてのべます。容器と中身は密接な関係がありますので、時には中身と容器の両方を指し、はっきりとは区別できないものもあります。中身が変わり種類が多くなるにつれて容器にもますます多くの新しい意味、用途、名称が加わりました。容器は、主に材料、形、そして時にはその用途によってもその名称前が変わります。
かれいけ 乾燥させた食物をいれる容器。
面桶(めんつう) 食物を一人分づつ盛って配る容器。
面桶(めんつ) 右に同じ。発音が異なるだけ。
物相/盛相(もっそう) 面桶に同じ。本来の意味は「計量して盛りつけた飯」
めんぱ 面桶に同じ。
輪っぱ(わっぱ) 同じく一人分をもりつける曲木で作った容器。
破子(わりご) 蓋つきで中に仕切のついたはじめての容器。
面子(めんこ) 軍隊で兵士が携帯した個人用弁当箱。桃山時代から用いられはじめ、明治以降も使われた。
はんこつりょう 明治以前に主に兵士が用いていたものですが、日清戦争の時にも使用されました。
飯盒(はんごう) 明治以降、大正、昭和にかけて兵士が携帯したアルミニウムの個人用容器。
櫃(ひつ) 前にのべた重箱(箱を重ねた容器)に非常に良く似ていますがこれは円形です。
食籠(じきろう) 弁当箱の別称で、「大海」(たいかい)ともよばれています。
瓣當(べんとう) 一人用。旧漢字で今では使われていません。
便當(べんとう) 上に同じですが、「べん」の漢字がちがいます。ここでは「便利」の「便」です。
弁当(べんとう) きっちり一人分。現在使われている漢字。
籠弁当(ろうべんとう) 弁当箱の別称。
弁当袋 おにぎりを入れる特別な網袋。
網代弁当(あじろべんとう) 籠の形をしたもの。
腰弁当 腰に下げる弁当箱。身体の線に添うように曲げてあります。
印籠弁当箱 取手のついた籠の弁当箱。これは印鑑と呼ばれる日本式シールを入れる小さな袋と形が似ているために、このように呼ばれました。徳川時代には、薬を携帯する小さな袋も「印籠袋」と呼ばれ、よく用いられました。
次にあげるのは「遊び」用のもので、「行楽」「観劇」の弁当と関連しています。
茶弁/茶弁当 他の容器やお茶道具のはいった弁当用の容器で、「懐石」(茶事で供される食事)用のもの。
野弁当 昔、花や季節の鳥を見に行く時など、野外での食事に。また野点でも用いられましたが、今では使われていません。
蒸籠弁当 特製の箱の中で蒸してそのまま供されるご飯。したがって、この容器は料理道具としても食器としても使われることになります。
杯弁当 汁物や酒を飲むためのボールの形をしたもので、昔、戸外での特別な集まりのために使われた揃いの食器の一部でした。
樽(たる/だる) 円形の容器で、通常大きな宴会のために酒を運ぶのに使われます。
指樽(さしだる) 二つの部分に分けられる容器で、一つには酒を、もう一つには弁当を入れますが、酒だけのこともあります。結婚式など特別な集まりに用いられました。
外居/行器(ほかい) 円形の容器で、特別な行事や旅行、遠方に住む人へ食物の贈り物をするとき、さらに供物を供える宗教儀式などで、食物を入れて運ぶために用いられました。
提げ重 上と同じようなものですが、手で提げて運べるよう取手がついています。
重箱 箱を重ねた容器で、多くの人が集まって祝い事をする時などに用いられました。各段の箱にはそれぞれ数人分の料理を入れます。現在では、新年の正月料理を入れるのによく使われています。
重弁当 重箱の形をした重ねの弁当箱ですが、中身は一人分です。
松花堂弁 懐石料理用の中を四つに仕切った箱で、それぞれの仕切りには違った料理を入れます。主に劇場、歌舞伎などで用いられます。
船弁当 漁夫が漁にでたときに船で食べる弁当。
酒樽弁当 寿司をいれる容器。寿司屋で使われています。
柳行李 昔、樵が山で作業するときに持っていった弁当。この名前は、柳か竹で編んだ籠形の箱からきています。時が経つにつれて、これは戸外での行事を楽しむための器と考えられるようになりました。現在ではこの言葉は弁当箱としても使われています。最近では、これは弁当雑誌で「バスケット・ランチ」と呼ばれ、楽しいイメージのものとなっています。
弁当とことわざ
「弁当」という言葉は現在、「ランチボックス」「戸外に持っていくランチ」の意味で使われていますが、同時にまた、給食会社が特別な行事のときに、あるいは会社や料理のできない家庭に、毎日宅配する料理にも使われています。更にまたこれは、レストランの高価な特別メニューとしても使われています。これは中をいくつかに仕切った塗りの箱に、いろいろな料理をほんの少しずつ入れたものです。
私はまた、弁当に関する日本語のことわざもいくつか見つけましたので、それもみてみましょう。
「弁当持ち、先に食わず」
これは「召使いは主人が食べるまで待たねばならない」という意味です。
「弁当のおかずにたくわんを三欠け食べると身を切ると言う」
「弁当用にたくわんを三切れつけるということは、身体を切れという意味になります」という意味です。このような言葉遊びによって「弁当用に三切れに切るということは縁起が悪い」と言っているのです。
「弁当箱、枕にならず」
「弁当箱は枕の代わりにはならない。」という意味で、「どんな物でも用途は一つだけ、それが作られた本来の目的だけだ」と言っているのです。
「弁当は宵から」「弁当は前の夜から」
「弁当は前もって作っておいたほうがよい」という意味で、「良い結果を得たいなら、前もってよく準備しておかねばならない」と言っているのです。
これらのことわざを見れば、日本文化の中で弁当が毎日の生活と切っても切り離せない関係にあることがわかります。
弁当と現代日本社会

 

弁当の発展
日本では昔から、上流社会は洗練された高価な漆塗りの弁当箱を用い、一方、労働者、漁夫、工員、学生などは、編籠や木製(最近ではアルミやプラスチック)の簡素な物を使ってきました。ここで、日本では人前で食事することはあまり良いたしなみとは思われていなかった、ということに注意してください。貴族や武士たちは、家の外で食事する必要のあるときは自分の食事を持っていくのが常でした。これは多分、他人に食物を手渡すとか、他人の作った食事を食べることから生じる「浄」「不浄」の感覚と関係があったのでしょう。
実際、弁当を大量に作るというようなことは、15世紀になるまで見られませんでした。これが徐々に完成されたのは江戸時代後期になってからです。食材の種類が増え、食物の保存法が向上して、惣菜のメニューが増えました。茶の湯は日本食文化の発達に重要な役割を果たしました(「日本の近世」、熊倉功夫)。
弁当箱の種類が豊富になり洗練されていくのには、戦争と平和のどちらもが大きな役割を果たしました。その影響は、これから見るように、非常に異質のものでした。
室町時代、桃山時代は、江戸時代同様、弁当の歴史に大きな役割を果たしています。戦時には兵士たちは、安全で持ちやすい方法で自分用の食料を携帯しなければなりませんでした。織田信長時代の安土城建設のときには、兵士や作業員の食料を運ぶのに大きな器が用いられました。後になると、戦場に食料を携帯するために兵士には個人用の容器が配られました。当時の人は一人分の食料はいわゆる「面子」に入れて、あるいは、他のアジア諸国でも見られることですが、乾燥させた食料を木の葉に包んだだけで携帯していました。鹿児島では武士や足軽が、灰汁に浸けた餅米を竹皮に包んで蒸した「あくまき」を戦場に持っていったことについては、前にのべました。
豊臣秀吉の時代は、芸術的なデザイン創造に恵まれた時代でした。その頂点にくるのが茶の湯の発展とそれに伴う「茶弁」です。これは、通常特製の弁当箱(お茶を入れた容器がついているもの、また時には茶事用の料理を入れるためのもの)に入れて供されました。東京国立博物館と彦根城宝物館には、桃山時代、江戸時代に富裕な人々が使っていたこれらの美しい容器が展示されています。
江戸時代は、一般市民の自由な旅は許されていませんでしたが、参勤交代制度がありましたので「旅の時代」とも言えます。この制度では、大名と武士は家族の住んでいる首都江戸と自分の領地との間を定期的に旅しなければなりませんでした。このお陰で日本中を旅人が行き交い、弁当箱デザインの創造が盛んになり、弁当箱はより優雅で装飾的なものとなりました。
このような洗練された塗りの弁当箱の発展に貢献したもう一つの要因は、歌舞伎、狂言、文楽などの演劇の振興です。こうした演劇は非常に長い時間をかけて行われますので、人々は幕間に食べる食事を持って行きました。現在でも歌舞伎では食事が出されますし、相撲でも観客は自分の弁当を持って行くか、そこで購入して取組みの合間に食べます。何しろ、相撲は朝始まって終わるのは午後6時ですから。秦恒平という作家によれば、「幕の内」という言葉は、「人々が演劇の幕間に食事をとるようになった」のより以前に、上級武士が戦場では「陣幕の中で」食事していたことからきている、ということです。
しかし、歌舞伎や狂言でも幕間に食べる弁当は「幕の内弁当」と呼ばれました。幕が下ろされている間に食べる弁当という意味です。前に述べたように、この言葉の本来の意味は「戦場の陣幕で食べるごま塩のおにぎり」であったように思えますが、これが後に「劇場で幕間に食べる弁当」へと発展していきました。
舞台演劇についてみてみますと、「長屋の花見」という落語があります。その筋書きは次の通りです。店の主人が店員たちを花見に連れて行くことにします。弁当と飲物は当然主人が用意しなければなりません。ところが主人はあまりお金を使いたくありません。そこで、酒のかわりにお茶を、卵焼のかわりにたくあんを、かまぼこのかわりに大根を出します。この噺からも、当時弁当がすでに一般的になっていたこと、そしてどのような折りにそれを準備し持って行ったかなど、社会的慣習をみることができます。
日本が鎖国時代を経て世界にその扉を開いたとき、外国から種々の影響を受けました。明治時代には英国式の弁当箱も見られるようになりました。しかしそのすぐ後に植民地戦争と産業化の波が押し寄せ、材料、デザイン、中身に新しい流行がもたらされました。明治から昭和にかけては、軍隊の飯盒が広まります。これは一人分ずつを入れ、兵士が背嚢につけて携帯できる便利なアルミの容器で、どんな火を用いてもすぐに暖めることができます。飯盒は昭和期を通じてずっと使用されてきましたし、今でもボーイスカウトではこれに似たものを使っています。
この間にも、富裕な家庭では優雅な漆塗りの箱が使われていました。1868年の開国から第二次大戦まで日本は外国から種々の影響を受けましたが、博物館に所蔵されているいくつかの弁当箱にもそれが見受けられます。明治以降は、米国や欧州諸国にみられるような弁当箱も好まれました。現在でも日本では、バスケットに入れた弁当を「バスケット・ランチ」と呼んでいます。
日本が植民地戦争と侵略にあけくれていた歳月には、一般の人々が美しい贅沢な弁当箱を買い求めるようなチャンスはあまりありませんでした。それに入れる惣菜が手に入らなかったからです。白いご飯でさえ特別な日にしか食べられませんでしたし、それもだれでもできるわけではありませんでした。中身が貧弱になるにつれ、それを入れる箱も、デザイン、材料ともに貧弱になりました。
子供たちはお祭りや、遠足、運動会などの特別な日を待ちこがれました。このような日には弁当に卵焼きを入れてもらえたからです(卵は高価で普段は口にできない食物でした)。弁当のご飯には大麦をまぜてあることが多く、海苔をのせてあることもありましたが、おかずは梅干しだけ、というのが普通でした。
よく知られていることですが、第二次大戦の初めには、仕事場や学校に持っていく弁当は、少なくとも週1回は、「日の丸弁当」にしなければなりませんでした。これはご飯(大麦をまぜることもありました)の真中に梅干しをいれた弁当のことで、それがちょうど日本の国旗のようにみえたのでこう呼ばれたのです。日本で私が取材で面接したある中流上クラスの女性が私に次のようなことを語ってくれました。「祖母が私を可哀想に思って、だれにもわからないようにご飯の下にこっそりおかずを隠し入れてくれたものでした。もしこれがわかるとひどい罰をうけますし、そうなると私だけでなく家族全体の恥になりますから、私はもう怖くて怖くて。でも、大好きな祖母が私のために作ってくれたお弁当を食べるのは、とても幸せでした。」
これは別に珍しいことではなかったでしょう。できさえすれば、同じ事をした人が他にもいたと私は思います。
1945年の敗戦以来、日本は貧しくて新しい容器どころか食物さえなかなか手に入らないほどでしたが、朝鮮戦争以降、特に東京オリンピック後は、日本は新たな繁栄と消費の時代にはいりました。
昔から「弁当」という言葉には「面桶」という言葉にはない楽しい意味あいが含まれていました。「弁当」は劇場、楽しい外出、旅行などに持っていく食べ物を入れる器で、「面桶」は、たいてい農夫、職人などが畑や職場に持っていく弁当箱を指していたからです。
「弁当」という言葉は今でも残っていますが、「面桶」という言葉はもう使われていません。上流階級の言葉であったものが、徐々に社会の全階層に広まっていったものと思われます。しかしこの事実から、日々の生活のあらゆる面で「遊びの雰囲気」を追い求める日本人の国民性について考えさせられます。この「遊び感覚」を好む傾向は弁当箱の様式、形、色だけでなく、「弁当用品」(弁当風呂敷や袋、おしぼり入れ、調味料入れ、取り分け皿、使い捨て用品、ポータブルの調味料、小さなフォーク、お箸、魔法瓶等々)にもみられます。
伝統的な贅沢な箱の好きな人たちや、それを懐かしむ人たちには、本物の漆塗りあるいはイミテーションの塗りの箱で、蓋の上に花や植物を描いて季節感をだしたものもあります。また子供や学生の場合には、外国語、特に英語をふんだんに使ったものや、可愛い動物、植物、テレビの人気キャラクターなどを描いたものもあります。メーカーやデパートは次々に新しい面白いデザインのものをだしてこの傾向を助長していますし、また日本人が「初物」「変化」「季節感」といったことを好む性質をねらって、「春の弁当箱フェア」「幼稚園児の弁当箱特別セール」「花見用弁当箱の特別セール」といった催し物も行っています。
弁当の使用状況−幼稚園児から会社員まで
前に述べたように、日本では数多くの雑誌が、学童の毎日の弁当から正月の特別なものまで、種々の用途、催しのための美しくて栄養のあるおいしい惣菜料理の作り方をのせています。そのどれかの弁当特集を見れば、今の弁当の傾向と様式を知ることができます。そこでまず手始めに、手近に買える雑誌で弁当を特集しているものがどれくらいあるか調べてみました。
1998年、大阪阿倍野のあべの書店に行き、弁当を特集している雑誌がその時点で一体どのくらいあるか調べてみました。タイトルに「お弁当」という言葉がはいった記事を扱っているのが381種、その他に「弁当」という語の含まれているものが93種ありました。これはたった一軒のデータですので、別の書店ではまた数字が違ってくると思いますが、それでもサンプルとしては役に立つと思います。
このような弁当の作り方をのせた雑誌の洪水の中から、いま私は「主婦と生活」の1992年10月号をここに持ってきています。もう今では絶版でしょうが、そのタイトルは「素敵な料理」というものです。その16ページで、ある女性が「本当に良い弁当は四色四味でなければなりません。そして見た目にもきれいでなければなりません。」と言っています。また34ページでは別の女性が次のように言っています。「勿論、健康によくて栄養のバランスのとれた弁当を作るのに心を砕いていますが、私にとって一番大事なのは色の取り合わせです。勝負は子供の目で決まりますから。」
日本の保育所の研究をしたLois Peakによれば、ある保育所で、園長が母親や先生たちを前に弁当について話をしたそうです。その目的は「弁当が子供たちの教育、躾けにとってどんなに大事か」を母親たちに伝えることでした。毎朝手間暇かけて良い弁当を作ることで、母親は自分の愛情を子供たちに伝えます。園長は次のように話しました。「母親が毎朝少し早く起きて子供のために何かしてやれるのは学校にあがるまでのことです。学校に入ってしまえば給食です。昨夜の残り物とか大人の弁当の余りなどでなく、子供のために特別に作る、ということも大事です。
家庭では母親は、父親や大きな子供の好きなものを作ります。お弁当はその子のためだけに何か特別なことをしてやれる、そして食欲をだせるようにしてやるチャンスなのです。私たちは母親たちに三、四種の料理とご飯、果物をいれた小さな弁当を作ってもらいました。味つけは子供好みでなければなりませんが、たいていの子供たちはどんな料理でも甘い味つけを好みます。また、栄養価が高くて子供の好きな料理で、色どりがきれいで見た目も可愛くなければなりません。
昼食時に子供が弁当箱の蓋をとったときに、母親の愛情が箱から飛び出してくるようなものでなければなりません。こどもたちが「これはボクのお母さんがボクのためだけに作ってくれたもの」と思うようなものでなければなりません」(Lois Peak, 1991)
したがって、弁当は学校活動や子供たちの生活と密接に関連しています。しかしここで、子供だけでなく母親の社会化という点でも、弁当が大きな役割を果たしていることを指摘しておく必要があるでしょう。
子供たちが幼稚園や保育所に入ったときから、母親たちは種々の活動に参加することを求められます。例えば、子供をきちんとした身なりで時間におくれないように登校、登園させること、学校や園と家庭の円滑なつなぎ手となること、給食のない場合には(小学校はどこでも給食があります)毎日おいしくて栄養のある弁当を作って持参させること、などです。
このように学校弁当は就学前から始まりますが、これには重要な象徴的な意味があります。母親たちは急いで弁当の作り方を書いた雑誌や本を買い、他の母親と意見交換をし、小学校に入ってからも、教えて欲しいという母親があれば教えてあげます。
弁当は母親と子供の絆を、さらに家庭と学校の絆をも深めます。弁当を作りながら母親は子供のことを思い、食べやすくてきれいで、栄養があっておいしい弁当を作ります。80年代の終わりに私が日本に住んでいたとき、人気の高い子供向けテレビ番組の歌に次のようなのがありました。「これくらいのお弁当箱に・・・」という歌で始まり、弁当によく使われる料理とその作り方を説明します。
幼稚園児はほとんどこのテレビ番組を見ていましたし、母親たちはまだ幼稚園にも行かない幼児にもこれを見せていました。若い母親たちは「弁当作りの儀式」を通じて社会に出ていき、「若い母親のグループ」のメンバーとして自分のアイデンティティを獲得します。そして子供たちもまた、クラスメートたちと弁当を一緒に食べることによって、外の世界の真のメンバーとなります。したがって弁当は、家と外の境界を示す一つの道具ともなるのです。
特に学校に入って初めの数ヶ月間、毎月の母親の集まりで、繰り返し、それも長時間話題となるのは弁当の正しい作り方で、時には1時間の集まりの30分以上にわたることもあります。この話合いは別に、西欧的な意味での栄養の原則についての論議でもありませんし、りんごでウサギを作るとか人参で花を作るとかいったような料理技術の話でもありません。話題の中心は主に、食物のつめ方や包み方、学校や家庭でどのような食卓マナーを教えたらいいか、卵やスパゲッティ、それに握ってないご飯は食べにくいので入れてはいけない、床に落とした食物はテーブルでなく箱の蓋に入れるべき、などなどです。(Lois Peak, 1991)
Peakは、自分が研究調査を行った幼稚園で子供たちが弁当を食べる前にピアノにあわせて先生と一緒に歌っていた歌を紹介しています。子供たちはお弁当の時間が来たことを喜びながら、楽しげに「お弁当に入っているものは全部おいしくいただきます」と歌っていました。(Lois Peak, 1991)
前に述べたように、公立の小学校ではすべて給食(学校で用意するみんな同じ昼食)です。これには昼食だけでなくミルクも含まれます。公立の小学校が給食をはじめた根本的な理由は児童間の食物の差を避けるためでした。中には学校に弁当を持って来ることのできない子供さえいたからです。しかし家から弁当を持ってきたいという生徒もいるため、数年前から家庭の弁当か給食会社のものか、いずれかを選ばせる小学校もでてきました。そして1996年にはこの傾向が急速にひろまりました。ただし、その理由はちがいます。
外国人の母親たちが子供を日本人の学校にいれる場合、そうでなくてもいろいろな苦労があるのに、弁当も作ってやらねばなりません(Lois Peak, 1991)。私自身も、横浜の国際学校に問い合わせてこの間の事情を知ることができました。日本人の母親を持つ子供たちは、別に問題もなくおいしそうなお弁当を可愛らしい箱に入れて持ってきて、それを食べます。しかし両親が外国人の場合、あるいは国際結婚で母親が日本人でない子供たちは、たいていアルミホイルに包んだだけのものや、金属の大きなランチボックスに入れたものを持ってきます。
中身はサンドイッチとジュースを分けもしないで一緒に入れたもので、特別その子のためだけに料理したものではありません。1996-97年の学期に、ある外国人の子供がほとんど毎日弁当に手をつけずに残すようになりました。先生がその理由を尋ねると、その生徒は「ハムは大嫌いなのに、お母さんがほとんど毎日ハムサンドをもたせるの」と答えました。「お母さんは君がハムを嫌いなことを知っているの?」と先生が聞くと、その生徒は「もちろん。でもお母さんは、好き嫌いをせずに何でも食べられるようにならなくてはいけません、と言うの」と答えました。
これをみると、学校側と、文化背景の異なる母親側との間の要望と期待の食い違いがわかります。外国人の母親たちは子供が好き嫌いがなくなるよう、特に、嫌いなものを食べられるように、躾けに努力しています。それに反して日本人の母親たちは、子供たちが喜び、その食欲を増すような可愛い弁当を作るよう、学校から指導されているのです。
日本では多分いまこのような状況でしょう。しかし筆者が面接した日本人インフォーマント(被調査者)で年輩の人たちは、「私たちの母親は食べようが食べまいがあまり心配しませんでした。それよりも十分な食物を得られるかどうかのほうが気がかりでした。時には兄弟で争ったり、弟や妹が特別な料理を貰っているのを見ると不平を言ったりしました」と言っています。
当時は母親の作った弁当は美しくもなく、ただ米、麦、豆、さつまいもなどを混ぜたもので、特別な時だけ魚や卵がつきました。日本でも地域や家庭によって大きく異なっていたでしょうが、第二次大戦前には学校から帰って家で昨夜の残り物を食べる子供もいました。遠くて食べに帰れない子供たちは弁当をもってきました。弁当箱はアルマイトで蓋がきっちりとは閉まらないので、食べ物がもれて教科書やノートを汚すこともありました。冬になると、子供たちは弁当を教室のストーブの上に載せて暖めたものでした。
公立学校の中ではおつゆを出すところもありました。その理由は多分、どの子も弁当を持ってこられるとは限らなかったからでしょう。おつゆの給食は、戦後にもみられました。50年代にはおつゆの代わりに戦後アメリカから日本に送られてきた粉ミルクになりましたが、これは大変嫌われました。
東京出身のある小学校の先生が筆者に語ってくれたところによれば、終戦直後から50年代半ばまで、弁当を持ってこられない生徒のために、ほとんど毎日3-4個の弁当を用意しなければならなかったそうです。生徒数30人のクラスで昼食時に食べる物のない生徒が7-8人ほどいて、先生たちはそのような生徒たちに食物を与えていたそうです。
前に述べたように、第二次大戦が始まった頃はまだ食料は不足していませんでしたが、戦場の兵士を偲ぶため、出先で食べる弁当は週に一度は日の丸弁当にしなければなりませんでした。経済情勢が悪化し米が手に入らなくなると、人々はアルマイトの弁当箱に入れる食物の入手に頭を悩ますようになりました。食べることは容易ではありませんでした。この間の事情は野坂昭如の有名な小説「火垂るの墓」(これは後に宮崎駿がアニメ映画にしました)を読めばよくわかります。
戦争の終わり頃から直後にかけては、多分中に入れる食料が手に入らなかったからでしょうか、新しい弁当箱は出てきませんでした。戦後は東京や大阪のような大都市では、一匹の鰯のために喧嘩や殺し合いさえ起こりかねない状態だったのです。
日本の教育制度では、給食があって学校が用意した昼食を揃って食べるのは公立学校だけです。ということは、幼稚園や私立学校に通っている子供たちはみな弁当を持っていく、ということになります。小中学校生徒の60%と公立高校の学生は毎日弁当を食べています。このように公立の小学校では給食があるので、公立学校に通っている小学生が弁当箱を使うのはピクニックや運動会など、特別な学校行事のときだけです。私立の小学校では事情が異なり、弁当が広く使われています。
外観の美しさも重要な地位を占めていますが、ダイエットも大事で、多くの弁当雑誌は選択が正しく行えるよう、カロリー数を示しています。(同じことは給食会社や弁当販売店についても言えます。たいていの所が各メニューにカロリーを表示しています。)ダイエットと弁当箱については、あとでもっと詳しく述べます。
今日の弁当ブームで弁当箱の創造性も盛んになってきています。デパートは、可愛い、お洒落な、変わった、そしてオリジナルな、種々の弁当箱に大きな売場をとって展示しています。その多くは少女むけです。女の子の鞄にうまくおさまる二段になった長く細い箱が今大流行です。たいていは電子レンジで加熱できるもので、色も飾りもソフトで上品です。
一番新しいのは真空タイプのもので蓋が二つついています。下の蓋にはボタンがついていて、それを押すと自動的に真空パックに変わり、冷凍しなくとも食物の長期保存(24時間)が可能になり、風味も味も保てます。この手の弁当箱については、後で特にOLとの関連で考えてみます。
1994年3月東京で行ったアンケート調査によれば、都心のビルで働くOLの75%が自分で弁当を作り、それを自分のデスクで食べているそうです(「朝日新聞」、1997年7月24日)。調査対象となった女性たちの年齢層は25-37歳です。たいていの人が「弁当ならバランスのとれた健康な食事ができる」と言っています。また、時間やお金も節約できます。昼食時には安いレストランは長い行列になることもありますから。
多くの人がお金の点を強調しています。自分で弁当を作れば月に2万円(200米ドル)ほどの節約になりますが、これは月あたりの収入が15万円(1500米ドル)のOLにとってはちょっとした金額で、衣類、レジャー、旅行、化粧品、美容院などにあてることのできる大事なお金です。ダイエットも弁当持参の重要な理由の一つです。現在販売されている弁当箱の中で主に若い女性が買い求めるのは、中に仕切がついていて一定の量のご飯しかはいらない、したがって体型を保つのによい弁当箱です。三角のおむすびが二つしかはいらない三角形の容器も流行っています。
前にのべた真空の弁当箱は1993年、カタログによる直接販売(単価2000円)で売りだされましたが、大変な人気で、似たようなものがデパートで1500-2000円で売られるようになりました。もう一つ普通のタイプのものでOLがよく使っている弁当箱は、昔ながらの模様がついた塗りのもの(本物の漆ではない)で、昔の「曲げ物」や「綰物(わげもの)」を真似たものさえ使われています。古い形の弁当箱(主に江戸時代のものの模倣)を買い求めるのも流行していますが、このような古い形のものはいつの時代でも大事にされてきました。
私のインフォーマントの一人で50歳代の女性が次のような話をしてくれました。「高校時代には授業中は弁当箱をロッカーにしまっていました。ところがある日、私のロッカーが壊されていて弁当箱が消えていました。その日昼食抜きになることは大して気になりませんでしたが、大好きな弁当箱がなくなったことはショックでした。それは塗りの古風なもので、だれもがアルミの弁当箱を使わざるを得なかった時代には非常に珍しいものでした。」筆者もデパートの特別売場で似たような弁当箱を見つけました。そしてそこで、主に若い女性がそれを買うということを教えてもらったのです。
1993年、1994年、1996年に筆者自身が訪れて質問した近鉄デパートの弁当箱売場によれば、自分用のあるいは人に頼まれて弁当箱を買いにくる人の95%が女性で、多くの主婦が友人(男女)や親戚の子供たちへの贈り物に買っている、ということでした。このように、この市場は完全に女性指向です。男性が弁当箱を使わないわけではありませんが、それを買ってくるのはたいてい女性の家族や友人なのです。
これは多分、日本の社会ではほとんどの女性が母性的に振る舞いますし、食事は特に母親らしいことの一つだからでしょう。女性は、毎日の生活の中でこのような面ですべての世話をみるよう期待されています(Dorinne K. 近藤、1990)。大きなデパートの弁当箱売場に行くと、沢山の弁当箱を見ることができます。弁当箱売場は普通、子供用、大人用、それに有名なアニメや漫画のキャラクターを描いた「キャラクターもの」の三つのセクションに分けられています。
プラスチック製や木製(柳、杉、檜製のものさえあります)のもの、塗りのもの、柳の小枝などを編んだ籠、アルミ製のもの(一時はこれが流行っていました)、最近では電子レンジで使えるもの、真空のもの、カレーやビーフシチューなど暖かい食物を入れるもの、等々です。
新しい弁当箱を買う時期、新しいデザインのものが展示されるのは春、3-4月です。この時期には学校の新学期が始まりますし、会社には新入社員が入ります。そして新入生や新入社員は、新しい学生生活、社会人としてのスタートに必要なものを買い求めます。
学校を卒業して新入社員として会社に入るのは春ですが、いわゆる「青田刈り」で、採用はほとんどが前年末までに決まってしまいます。このように実際に卒業・入社する時よりも数ヶ月も前に就職が決まってしまいますので、新生活に必要なものは3月前に買い求める事ができます。弁当箱もその一つです。前にも述べたように、日本社会では何事であれ「事始め」は非常に重要だと考えられています。
親にとっては、小学校にはいるピッカピカの一年生には最上のものがふさわしいのです。そこでデパートは、子供たちの新しい身分の象徴である新しい弁当箱を選ぶために、続々とやってくる母親たちを歓迎します。それまで幼稚園で使っていた古い小さな弁当箱は台所か食器棚の隅に忘れ去られてしまいます。中学や高校に通っている生徒たちも、このチャンスとばかりに新しい流行の弁当箱に買い替えます。
多分、成長して食べる量が増えて今使っているのでは小さすぎるようになったということでしょうか、あるいは、新しいもっと素敵なのが流行しているというだけのことでしょうか。このような新入生でない子供たちの多くは、新学期のお祝いとして、学校や職場でママの味を楽しめる弁当箱をもらいます。
入学は子供の通過儀礼の一つです。子供たちは、親密で甘えられる家族とは異なる新しいグループの一員となり、その中で全く新しい役割を果たすことを求められます。これまでより責任が重くなり、このような状況は将来のために非常に有意義なのだと教えられます。これは、子供たちがもっと高いステータスに到達したこと、大人の段階に一歩近づいたことの印なのです(Merry White, 1933)。
日本の学校は子供たちの私生活にも強く干渉します。学校の校則の中に、衣類、校外での社会生活、食習慣に関するものがどれくらいあるかを調べなければなりません。学校の職員は低学年の生徒の弁当箱の中を覗いて、母親の世話が届いているかどうかを知りたがります。そして定期的に行われるPTAの集会で、もっと変化に富んだ食品を、もっとよい惣菜を、子供が肥らないよう量を減らして、などと強調します。
あるPTAの会合で、そこの校長が「この頃のお弁当はお袋の味になりましたね」と言って、母親の配慮を求める話をしました。ここで校長は「ふくろ」の二つの意味、「袋」と「母親」をかけています。すなわち、子供の昼食に冷凍して袋につめた既製品を使っていることを皮肉って「今頃のお弁当は袋詰めの味がふえている」と言っているのです。「お袋の味」というのは普通、母親の手料理の味のことを指します。しかしこの場合、校長が全く別の意味で使っているのは明らかで、子供たちにちゃんとした栄養をとらせるという母親の配慮が欠けていることを注意しているのです。母親たちは笑いながらもこの注意をよく心にとめました。
弁当の正しい作り方と、それをきちんと子供が食べるようにする躾けは、幼稚園以来の母親たちの頭痛のたねです。母親が作った弁当を食べることは子供たちの甘えの絆を強めます。ここでも母親たちは手の込んだ魅力的で色彩豊かな可愛らしい弁当を作るよう求められているのです(Lois Peak, 1991)。
このことから多くのことが引き出せます。子供たちが食物のことで不満を抱き、母親たちが「どうしてもっと沢山の食物を、あるいは子供たちの望む食物を与えられないのか」を説明しなければならなかったのは、さほど遠い昔のことではなかったのに、今では事情はまるきり反対です。筆者のインフォーマントは次のように話してくれました。「昔は母親が作ったお弁当を食べさせてほしいと願ったんだが、今は、私たちが作ったお弁当を子供が食べてくれるように一所懸命に考えるんだよね。」
入試競争が激しさを増し夜の塾に通う生徒が多くなるにつれて、弁当箱は子供の夕食を運ぶのにも用いられるようになりました。私が日本に住んでいた頃よく見かけた事ですが、母親たちは毎日2種類の弁当を作っていました。一つは昼食用、もう一つは夕食用です。塾に通う子供たちは、学校から帰ると服を着替え、おやつを食べ、学校の教科書を家に残して夕食用の弁当、塾用のノートを持って出かけます。塾の生徒はほとんど皆弁当を持ってきて一緒に食べていました。
筆者は東京と大阪のいくつかのデパートで「子供たちが塾に持っていく弁当で一番よく売れているのはどれですか?」と尋ねたところ、ほとんどの店員が「食物を暖かいまま食べられるポット・タイプですね」と答えました。日本では、昼食は冷たい食事でも気にしないようですが、夕食はそうではないようです。
弁当にする理由としては、健康、ダイエットおよび/あるいは実利的な目的の他に、何かしら神秘的な理由もあります。給食会社やレストランでは、値段の安いものから高いものまであらゆる種類の料理を提供しています。カップルがドライブに行くときは、普通女性がおいしい弁当を2人分作ります。筆者が日本滞在中に在籍した日本の大学で調べたところでは、男性と女性が一緒にグループ旅行に参加するときでも、女性がみんなの食事を作るものと考えられていました。
男性担当は通常、車と運転ですが、時には女性が皆のために作ってくる弁当のお返しに、母親の作ったご馳走、お菓子、スナック、果物、飲み物などを持ってくることもありました。
大分県のある年輩のインフォーマントは「2、30年前までは、職場近くに住んでいるサラリーマンが夜遅くまで残業しなければならないときには、妻に弁当を作って持ってこさせることもありました」と語ってくれました。近くの店に出前を頼めるのに、あるいはひとまずスナックを食べて家に帰るまで待つこともできるのに・・・それでも妻に「手作りの弁当」を持ってくるように頼むことは、妻に自分の仕事の大変さをみせ、自分たちの大黒柱としての役割を家族に再認識させる一つの方法でした。
つい先頃までは、たいていの病院では、患者の弁当は家族が運んでくることになっていました。日本の病院は小さすぎて、特に長期入院者の場合など、給食のサービスにまでは手がまわらなかったからです。現在でも事情が完全に変わったわけではありません。豊かになって、たいていの病院では別の事情が生じました。筆者が東京広尾の日赤病院で娘を出産したとき、ここは一流の病院でバランスの取れた食事が出されていましたが、ここでも、友情や愛情の証として患者に弁当をもってくるケースを数多く見かけました。
もちろん持ってくるのはいつも女性で、親戚や友人の説明を聞くと必ず「どうぞ召し上がって下さい。ほんの気持ちだけですから。病院の食事ってだれでも同じものなんでしょう?」というようなことを言っていました。この人たちは「勿論その必要はないでしょうけれども、あなただけ「特別」と感じてもらうためにこのご馳走を作ったのです」と言いたいのです。
これは、弁当が社交的な用途にも用いられるということだけでなく、他の国同様日本でも、毎日の生活で食事に関することは、その必要がないときでさえも、女性が行うべきだと考えられていることを示しています。
したがって、弁当は単に食物を入れてあるものというだけでなく、多くのシンボルやメッセージをも含んでおり、社会的な関係を作りだしそれを強める道具ともなります。中身だけでなく容器についても同様です。家族、学生、職場仲間のグループが遠足や運動会、あるいは花見や紅葉狩りのような伝統的な集まりに行くときは、弁当の中身を交換するのが習慣になっています。
花見や紅葉狩りのときは容器は数人分のものを使い、弁当を食べることが行楽の主な楽しみとなります。これは、同じ容器から同じ食物を食べることによってグループの絆を強めるという独特の雰囲気に基づくもので、他の国とさして違いません。
今日、弁当は昔ながらのご飯、塩鮭、漬け物、梅干し/梅干しを入れたおむすび/白いご飯のおむすびに醤油につけた海苔をのせたもの/明治時代以来庶民の日常の食事であった鮭ご飯、などとは大きく違ってきています。弁当箱は多様性に富んだ洒落たものとなり、東洋・西洋のあらゆるご馳走を入れるようになりました。
また季節ごとに、外観の面からも中に入れる惣菜の面からも、その季節特有の弁当があります。色、容器への盛りつけ、種々の料理の組合わせと容器の関係、これらは正月に重箱で供されるお節料理と同じくらい非常に重要です。まるでそれぞれの料理に「収まる場所」があるかのように、中身の料理は箱の中のそれぞれの場所に配置されます。箱の内部の仕切は取り外しや移動が可能で、各種の食物が形と色もバランスよく非常に美しく組み合わされています(これらは弁当に関する本や雑誌記事をみれば必ず出ています。
昔は食料が乏しく、食事に変化をつけることはむずかしかったでしょう。しかしすでに平安時代には、上流階級の人は前にのべた重箱を、行楽やお客を招いたときの食事や調理した料理の保存などに使っていました。昔も今も重箱は漆塗りで、ふつう内側と外側は違う色に塗り分けられています。これは現在では、主に家庭でお正月や特別に行事で多くの人が料理を分け合う時に使用されています。また、高級料亭でも、料理を入れる特別に高価な容器として使われています。
京都のある一流の料亭にはいろいろ高価な「弁当メニュー」がありますが、中身の料理にも容器にもすべて季節感を出すよう工夫されています(納屋、前掲書、1993、全ページ)。お正月の場合、中身の料理は、健康、幸運、繁栄などを願う縁起の良い名前のものを使います。昔はその料理をつくることが家庭の主婦の腕の見せ場、家庭で重要な役割を果たしていることを証明する晴れ舞台の一つでした。今日同様、美しさ、料理、女性というのはすべてないまぜになって、ひっくるめて「女性的なもの」と考えられていました。
経済事情さえ許せば、美しさとバランスのとれた組み合わせは今も昔も必須条件です。ある年輩のインフォーマントは「よい弁当には海の物、山の物、畑のものが入っていなければなりません」と話していました。日本人の食感覚ではこの三種に分けるのが一般的ですが、これは神道の価値観、自然観、人工的な景観を反映しています。
弁当箱の中身の盛りつけは、通常の日本料理の盛りつけ方とほとんど同じです。しかしここでは日本的な「間」の感覚は忘れ去られます。これは機能上の理由によるもので、箱の場合は縁までいっぱい詰めます。美的見地からは、箱と空間、空間と料理のバランスがとれていなければなりません。空間の量は日本でも地方によって異なり、北部では沢山詰めます。コントラストへの意識は強く、食物によって切り方も違います。
幅の狭い長方形の人参は半円形のかまぼこの隣におきます。食物で切ったものや塊状のものの数は、三、 五、七といった奇数が好まれます。これは古代中国からきたものと思われます。中国では昔、偶数はyin(凶)、奇数はyang(吉)で、食物は奇数のほうが縁起がよいと考えられていました。
この論文で用いている「箱」という言葉は、広く「容器」を指します。日本では、箱には様々な形、様式、材料のものがあります。筆者自身の調査でも、中身で箱の構造が決まり、箱の形、色、大きさはそれを使う人の性、年齢、仕事によって変わることが判明しました。筆者の体験によれば、ピンクや赤は女性だけ、青とマリンブルーは主に男性が用いていました。
黄色と緑は、男性の方が多いとはいえ、今では男女の別なく用いられていますし、テレビアニメの有名なキャラクターの場合もそうです。小さな女の子の場合、女の子用のアニメだけでなく男の子のアニメのキャラクターのついた弁当箱もよく使われていますが、その反対のケース、小さな男の子が女の子用のアニメのキャラクターのついた弁当箱を使う例はあまり多くはありません。
筆者が日本に滞在していたとき、そしてまた、その後何度か訪れたとき、弁当を持って行くような社交的な集まりや行事に何度か参加したことがあります。特に忘れられないのは娘の学校の運動会と大学の友人や隣人たちとの花見です。数日前からみんな弁当に持っていく料理のことで夢中でした。子供たちはひっきりなしに母親に尋ねたり、時には何々にしたら、などと提案したりしていました。
皆と分け合って食べる弁当には二つの重要な点があります。可愛らしいこと、および/あるいは美しく詰め合わせること、それに誰もが好む料理を詰めること、です。そして花見の場所とか景色のいい場所に来ると、花や景色を見るよりも、弁当を広げて食べることに気を奪われているように見えました。他の人が手作りの弁当を広げると、それを食べる前に「おいしそう」「きれい」といったような言葉がかけられます。
このような会食では、社交的な絆を強める一つの方法として、お酒もよく出されます。このような機会は酒を酌み交わすことが有意義な時でもあり、このような会食を指す「酒盛り」という言葉さえあります。そして男も女も一緒に集まり、酒を飲み料理を食べることでグループや共同体の一員としての絆を強めます。今日では「花見」や「運動会」がそれにあたります。
弁当の中身はその行事と密接に関連していますが、容器の重要性も無視できません。そのような集まりや行事が自然と関連するもの、季節的なものである場合、弁当は色、景色、季節感を反映していなければなりません。季節感がよく出るよう、容器は中身とよくマッチしたものでなくてはなりません。春や秋の自然を楽しむ会、お盆、お正月のお節料理などがそうです。
日本料理では、料理を入れる弁当箱で、美しさ、質、盛りつけなどの効果が強められます。家庭では、どのような場合の食事か、どのような料理を入れるのか、によって違った食器を用いますが、弁当箱の場合も全く同じです。
前にも述べたように、日本では奇数が好まれますが、それがなぜか、なぜ料理でも奇数を使った盛りつけをするのかはよく知られていないようです。たいていの人は自分たちの母親がする通りにするのです。
女性の多くは弁当雑誌の説明に頼り切っています。しかし、食物を四切れに切るのは縁起が悪いということは誰でも知っています。日本では数字の四の発音は「死」と同じだからです。しかしこれは弁当箱の中の仕切では関係ないようです。「松花堂弁当」と呼ばれる30cm平方の塗りの箱がありますが、この箱は内部が同じ大きさの四つの部分に仕切られていて、そこに懐石料理(以前は茶席で出される料理でしたが、今では和食のなかで一番上品で高級なものの一つとなっています。)を入れて供します。
この事実を見てもわかるように、食物を切り分けるときに縁起が悪いと考えられている数字でも、弁当箱の仕切りの場合には関係がないようです。筆者の友人で30歳台の人の話によると、その人のお母さんはいつも、弁当に入れる食物を何切れに切るかで悩むそうです。三切れも四切れも困るからです。この友人は新潟出身ですが、この地方には筆者が先ほど紹介したのと同じことわざ「弁当のおかずを三切れつめるのはよくない」があるそうです。
「み」と発音する語は「三」と言う意味であると同時に「身体」という意味にもなりますので、その弁当を食べる人に悪運をもたらすおそれがあると考えられるのです。その友人は言いました「二切れでは足りないし、5-6切れでは多すぎるし・・・これがお母さんが毎日弁当作りで悩む原因なの。」筆者はことわざ辞典を引いてこのことわざを見つけました。千葉県には同じような意味の他のことわざ「弁当のおかずにたくわんを三切れ食べると身を切るという。」というのもありました。
このような例をみても、弁当がいかに多くのメッセージや暗号を伝えるものであるかということがわかります。現在よくつかわれている暗号は昔のものとは異なります。女性の中には、弁当で夫や子供に秘密や暗号を伝える人がいます。狭くて壁の薄いアパートに大勢で住んでいると、真のプライバシー、他の人に聞かれないですむなどということは望むべくもありません。そこで、蓋を閉じる弁当箱は主婦にとって絶好のコミュニケーションの手段なのです。
日本人は言葉よりもシンボルやサインのほうを好みます。例えば新婚の妻は、弁当雑誌で海苔をハート型に切る方法とか、海苔や胡麻で「好き」と書く方法とかを教わります。ところが残念なことに、夫の同僚はその「愛妻弁当」をのぞき込みたがります。そして結局「秘密のメッセージ」は秘密でなくなり、夫は同僚に冷やかされて当惑してしまうのです。しかしこの「当惑」は幸せなもので、だれもが、このような愛妻弁当を作ってくれる妻を持った男は運がいいと羨むのです。
そしてその幸運な男は束の間の幸せを満喫します。このような状態は長くは続かないことを知っているからです。特に子供が生まれると妻の注意はすべて子供に向けられてしまうからです。夫が仕事で昇進すると、妻はその日の弁当に「おめでとう」と書きます。
大阪出身で39歳のある女性の話では、昔、「今夜愛し合いたい」と思うとき、特に15歳になる息子が高校入試の準備のために通っている塾から夜遅く帰ってくるときに、夫に暗号メッセージを送ったものだそうです。彼女の夫は苺が嫌いでしたので、普段夫の弁当には決して苺をいれませんでしたが、夫にそれを知らせたいときには、わざと苺を一個いれて早く帰宅してもらったそうです。
良い話ばかりではありません。ある77歳の女性は、高校教師の夫に女が居ることを知っていながら、「夜遅くまで残業しなければならない。」と嘘を言う夫のために、夕食の弁当を作らされたそうです。そこで「わざと美しくもおいしくもない弁当を作って復讐したの?」と聞きましたところ、彼女は誇り高く「とんでもない。精魂傾けて最高に美しく作りました。だって、彼女の目にふれるんですよ。」と答えました。
彼女の夫とその女との関係は10年以上も続きました。そしてその間、夫が「今夜は試験の採点、あるいは教材の準備で遅くなる。」と言うときは(本当はその女の所に通っていたのですが)、可能な限り最上の弁当を作り、それを子供に届けさせたそうです。彼女は、夫の弁当を作るときにはいつもそのライバルのことを頭において、中身も入れ物も念入りに選びました。その女に「見て。この男にはこんな素晴らしい妻があるのよ。私に頭を下げさせようたってだめよ。」と告げたかったからです。
このケースを見ればわかるように、日本では弁当箱は比喩的なメッセージを伝えるのにも使われ、女性たちはその方法をよく知っているのです。
弁当の普及
(1) 学校給食とO157事件
1996年、日本の公立小学校でO157と呼ばれるバクテリアが検出され、子供が数人死亡するという事件がありました。その原因は学校で食べた給食による食中毒と判明しました。当初は少し混乱していて、当局は原因の調査に積極的ではありませんでした。しかし時が経つにつれて更に多くの人が中毒症状をおこし、中には死亡するものまで現れて、ついに学校給食は一時中止されることになりました。
朝日新聞と産経新聞の記事をいくつか切り抜いてありますが、これをみると7月はいろいろと問題の多い月だったようで、これらの件についても沢山の記事があります。ところがさらに8月末から9月末にかけて、また別の食中毒事件が発生しました。子供たちに犠牲者が出て学校給食は中止され、母親たちが子供の弁当を作ることになりました。
PTAは当局に原因の究明と事情の説明を迫りましたし、母親たちは弁当をもたせることを拒否し、安全な給食を要求しました。
このような食中毒事件の大半がおこった大阪近郊の堺市では、子供たちは弁当を持参するように指導されました。9月には、全体で92校のうち24校の70人の生徒が弁当を持参することができませんでした。弁当を持って来ることのできた生徒は合計で約42、200人でした。家に帰って自宅で昼食をとることにした生徒も一人いましたが、その生徒以外の弁当を持参できない子供たちのためには、学校がミルクとパンを配りました。
73校の200人ほどの生徒は、昼休みの始まる直前に母親に弁当を持ってきて貰いました(「朝日新聞」1996年9月25日)。
文学や新聞記事には弁当を神秘化するような文章をみかけますが、それと同時に神秘のベールを剥ぐような文章にも出くわします。同じ新聞に「隣の山田さん」という連載漫画が掲載されていますが、その中で、主婦である山田さんが台所で姑と話をしています。「9月から給食があるって学校は言ってるから、弁当作りで早起きしなくてもいいわね」というと、姑は「あ、そう」と答えます。一方公園では、山田さんの娘が友達と話をしています。
娘:「すてき!明日から給食よ」娘の友人:「あなたO157がこわくないの?」娘:「そうねェ。でも、いつかお母さんが作ったお弁当には卵の殻とマヨネーズ容器の蓋がはいっていたのよ!」
O157事件が発生してから間もないころです。新しいマーケッティング戦略を探していた弁当箱のメーカーは、人々が食中毒事件に過敏になっているのをみて、しかも犠牲者は主に学童でしたので「抗菌処理済み」とうたった弁当箱を発売しました。これは別に目新しいものではありませんでした。抗菌処理したプラスチックの箱はとうの昔から製造されていたのです。しかし、不安を抱いていた母親たちは古い弁当箱を捨て、その捨てた弁当箱と大差ない、新しい「菌の不安のない」ものに飛びついたのです。
1996年の夏以来、学校給食も大きく変わりました。グリーン・サラダの代わりにコンソメ・スープが、生野菜の代わりにジュースや缶詰の野菜が出されるようになりました。生野菜を調理する前に数秒間熱湯に浸けている学校もあるそうです(「朝日新聞」1996年9月17日)。
O157は1997年の夏には姿を消し、すべてが元通りになったようにみえます。しかしそれでも、1996年以来、販売されている弁当箱の多くは「抗菌加工」と記されています。
またこの時までに、新しい弁当箱、温食用のポット・タイプのものが販売されるようになりました。これは一つには、母親たちの多くが子供の弁当に生ものを使うのを避けようとするため、また一つには、生徒の多くが(主として男子生徒)が、スープ以外は冷たい和風の料理よりも暖かい肉を好むためで、塾で食べる弁当の場合は特にそうです。
このように、1996年の春から夏にかけてのO157事件以後、弁当箱の多くは「抗菌加工」をしたものが売られています。弁当箱には種々の年代のもの、好みのものがありますが、私たちはその外観を見ただけでどのような社会グループの人が使うかわかります。人々は様々なタイプや値段のものから、自分の好みと用途にあったものを選ぶことができます。
(2)弁当と国際化・外国からの影響:在外日本人と弁当・日本在住外国人用の弁当
グループが個人に及ぼすプレッシャーは、世界中どこでも若い人の間で強いものです。ですから、ある女の子はマリンブルーが好きだったとしても、クラスメートにいじめられれば、もっと女の子らしい色に変えてしまいます。筆者の1978年から87年までの10年におよぶ滞日、またその後の数回の短期滞在の経験からみて、日本社会での「女らしさ」と「男らしさ」の感じ方には今日ではある種の変化がみられます。これはファッションや言語などいろいろな点に反映していますが、弁当でもそうです。
若い人々は「西欧」の影響を受けており、弁当箱の蓋のちょっとした飾りにさえ英語がよく用いられています。このような西洋の影響は弁当の中身にも及んでおり、ハンバーガー、スパゲッティ、フライド・チキンなどが若い人に人気があります。
年齢層別のグループは弁当箱のタイプで決まります。筆者の娘も、スペイン人なのに、与えられた弁当箱を嫌いました。その弁当箱の蓋が人気のテレビ・アニメ「セーラー・ムーン」のキャラクターだったからで、「私はもう15歳よ。こんなのは小さな女の子しか使わないわ」と文句を言いました。当時娘は日本人学校に通っていたので、多分クラスメートの影響もあったのでしょう。
小さな動物の頭を形どったもの、ハート型のものなど、可愛い形のものは就学前の幼児用です。デパートに行けば最近の傾向や値段を知ることができます。英語その他の外国語も沢山使われているところを見ると、飾りとして効果的なのでしょうか。それもその言葉に何かの意味がこめられているというのではなく、ただ外国語でありさえすればいいようです。(岩下トシの1982年の著作とKenrick Mirandaの1988年の著作の中で、日本における英語の使用に関してこのようなことがのべてあります。)
日本語を使っているときでも多くはローマ字です。このように外国語をよく使うのは一種の「遊び」で、たいていの場合、使われている外国語には意味はありません。これは、お客様へのウインクみたいなものといえるでしょうか。あるいは、弁当箱の蓋を飾っている外国語の文章は「日本人向け」のメッセージともみることができます。というのも、そのような文章が英語で書かれていようと、フランス語やドイツ語であろうと、その意味は日本人にしか分からないものだからです。
筆者が収集している弁当箱の中に、蓋が四種類の模様に区分けされていて、さらに、真中のもう一つ区切られた部分に次のようなメッセージが記されているのがあります。
APPLE(右下):籠には人を幸せにする魔法の果物が一杯はいっています。私たちは今日は元気です。
WO BIST DU(中央): フルーツの世界もう一つ別のものには、蓋にカバが描かれています。そのカバの身体に、
“A LOVER OF NATURE. How nice is to know that dreams can become true”
さらにもう一つ別の弁当箱の蓋には、奇妙な動物と次のような文が書かれています。
“BONJOUR, BARBAPAPA! PAPA PASSE SES VACANCES A LA MER”
アルミの小さな弁当箱(幼稚園児がよく使うタイプ)の蓋には次のようなメッセージが書かれています。
“NOUS PROMENONS LE DIMANCHE AU BOIS DE BOULOGNE”
筆者が最近買い求めた新しいタイプのアルミの弁当箱の蓋には、次の文章です。
“THE UNITED KINGDOM THEY’RE OUT ON THE STREETS” 
何人かの日本人に、このような文についてどう思うか尋ねましたところ、そんなのは絵やイラストと同じで飾りにすぎない、という答が返って来ました。言うまでもなく、このような外国語を書いた弁当箱はみんな幼児用です。
他の品物同様、弁当箱も自己を認識、再認識する手助けとなります。Merry Whiteが1993年の著作で指摘しているように、これを通じて子供たちは個人として、また同時に社会の一員としての自分を意識するようになります。大人たちもまた弁当を通じて、社会的なあるいは職業上の身分の変化にあわせて、自己を認識し直すことができるようにみえます。
弁当はまた、文化の枠を越え、日本に住む外国人にも影響を与えます。日本の会社でも従業員を海外に派遣する傾向が広まるにつれて、家族連れで海外に居住するケースも増えました。海外に駐在する日本人家庭の子供は、ほとんどが現地の学校か、その国にある国際学校に通っています。
朝日新聞社は1996年、「旅/海外での生活」というテーマで、国外に居住する日本人子女の作文コンテストを行いました。その結果は1997年1月に発表され、入賞作品が新聞紙上に掲載されました。一位に入賞したのはスイスに住む13歳の少女、永井史子さんの「日本食大好き」という作文でした。この作文の中で永井さんは、「海外生活の中で一番楽しみなのは、私が通っている国際学校でクラスメートと一緒にお弁当をたべることです」と言っています。
「他の子が学校に持ってくるいろいろな弁当を見るのはとても楽しいですし、これは食事を通じて様々な文化を学ぶチャンスでもあります。」彼女はまた、始めて学校に日本式のお弁当を持っていったときのことにも触れています。お母さんは「学校の子供たちは日本食を好きじゃないと思うけど」と言いました。でも驚いたことにみんな彼女の食物を喜んだようで、おにぎりさえ食べたのです。ある日学校でバザーがあって、各自自分の国の料理を作り、それをキャンパスで販売しました。
ここでもまた驚いたことに、焼鳥がたった2時間で売り切れてしまったのです。「日本にいたときには、外国人がこれほど和食に興味を持つとは想像もしませんでした。今では私自身が日本食にとても興味を抱いています」と、彼女は言っています。
この作文から私たちは、この少女が他国の人々の目と胃袋を通して、自分の国を再発見したことがみてとれます。日本にいたときには日本食の特徴など全く考えたこともありませんでしたのに、外国に行って自分の国を再発見したのです。外国の文化にふれて、はじめて自分の国の食文化に関心を持ち、評価するようになったのです。
さらに、他国の人々が自分の国の食文化に対して示してくれた態度が、彼女自身の関心と評価を高める結果となりました。この話の大事な点は「日本人が日本文化を評価するようになるきっかけは今ではさまざまだが、しかしその多くが日本人以外の人との接触で生まれている」ということです。この種の評価、特に日本の若い世代が自国について持つイメージは、彼らのアイデンティティや成長してからの生活に大きな影響を与える可能性があります。
海外に居住する日本人の子供たちが違った食物を食べなければならないときには、どうするでしょう?筆者はマドリッドの日本人学校でそれを自身の目で見ました。前に述べたように、筆者の娘(夫も筆者も100%スペイン人ですから、完全なスペイン人です)は筆者が日本に滞在しているときに日本で生まれ、保育園に通い、次いで東京の国際学校の小学校一年課程を終了しました。
娘は保育園に通っている間はセンターで毎日2回食事しましたが、5歳になったときに上記国際学校幼稚園の最終年に編入し、毎日家から弁当を持っていくことになりました。子供たちの多くはいろんな国からきていましたが、国際結婚で生まれた、片親が日本人の混血児も何人かいました。その頃娘は、筆者が娘のために作った弁当はだれのよりも良い、ととても喜び、母親を誇りに思ってくれていました。
スペインに帰国して2年生に編入することになりましたが、両親ともスペイン人であるにもかかわらず、マドリッドの日本人学校に入学を許されました。娘は、日本人の同年代の子供と全く変わらないくらい日本語を話せたからです。
彼女が4年生になったとき筆者はPTAの役員となり、学校のいろいろなことを決定する、特に給食のことを話しあう会議に参加するようになりました。(日本で公立学校に通っていたとしたら、給食があったのでしょうけれど。)その学校の生徒たちは100%日本人でしたので、娘は、筆者が作った弁当はクラスメートのものほどきれいでないとか、他の子が持ってくるのと比べたら変化に乏しい、などと不満をもらすようになりました。
また、新しく与えられた弁当箱にも敏感になり、大きさや色が自分の年にはあわないと感じたものは「私は男の子じゃないのよ。女の子よ」などと言って拒否することさえありました。東京の国際学校に通っていたときはこんなことはありませんでしたので、「この子はクラスメートに強く感化されている」と思ったことでした。
1987年の夏、娘が日本人学校の2年生に編入したときには近くのスペイン料理店が週に2回学校に昼食を納入していましたが、他の日は弁当を持ってくることになっていました。次の年、納入業者がイタリア料理を得意とするレストランに変わりました。このほうが子供たちの好みに合うと思われたからです。これまで通り月曜日と木曜日には給食がでるようになりました。問題は、料理の量が多すぎたことです。
スープかサラダ、パスタかご飯、それから魚か肉、そして最後にフルーツその他のデザート。子供たちの中には、パンだけ、あるいはサラダやデザートをほんの少しだけ、というのもいました。これを知った母親たちはレストランにもっと量を減らし、値段の安いものにするよう交渉しました。しかしレストランの方では「これですでに子供用のメニューだし、量を減らすことも値段を下げることもできない」と断ってきました。
何度も集まって話し合った結果、「給食は止めて毎日弁当を作ってもたせたほうがいい」ということになり、後に日本料理店が週に2回安い値段で「弁当メニュー」を供するようになるまで、この状態が続きました。そのメニューとは母親が家庭で作れるようなものでしたが、時には肉料理が、昼食直前に暖かい状態で学校に届けられることもありました。
母親たちのなかには、「せっかく外国に来ているのに、日本食ばかりで勿体ない」とこのプランに反対する人もいました。しかし実際のところ、子供たちは出された食事を食べられなかった、あるいはほんの少ししか食べなかったのですし、母親たちも子供たちが食事を大量に残すのがとても気がかりだったのです。
このような例やエピソードから、私はいくつかの結論に達しました。一つは、日本人が海外に行って西欧の習慣や品物を持ち帰ることで「西欧を取り入れ」ようとする傾向は、いま変わりつつあるということです。お互いに影響をうけるのですから、これが完全になくなったわけではありませんが、同時に日本人は西欧を「自分自身を映し出す鏡、自分たちがほとんど忘れてしまっている特性、良い点を再確認する道具」と考える傾向がつよくなってきています。
このように西欧から学ぼうとする傾向と同時に、新しい傾向も併存しています。いえ、今ではこのほうが主かもしれません。その傾向とは「自分の国についてよく知らない日本人が、外国に滞在して日本を再発見すること」です。こうして発見された「日本」はまた外国人の目を通してみた「日本」でもあり、日本の伝統的な生活様式や道具を変わったやり方で再発見する理由の一つでもあります。
また外地にあってその地の人々と全く付き合わず、いわば「エリート部落」にかたまって住む多くの日本人のケースもあります。その場合、男性よりも女性の方がもっと孤立していると言えるでしょう。日本女性の多くは外で出会った人、知らない人とは滅多なことでは話をしようとはしません。住んでいる国の言葉を学んでいる人でも、その国の女性たちとのコミュニケーションが、例えば、買い物に行くときに食物について尋ねるといったようなことが非常に難しいのです。
海外に住んでいる場合、その国の食物をどこで買うか、何を買うか、どう料理するのか、は雑誌の説明だけではどうにもなりません。中でも一番厄介なのは子供の教育です(Merry White,1988,p.73)。食物は子供たちの健康にとって非常に重要です。一般的に言って、家庭ではあまり新しい食習慣を試してみようとはしません。それが子供たちの学校の成績に悪影響を及ぼすかもしれないからです。外国にある日本の商店が日本から輸入して日本での価格の3倍で売っているような食品を弁当用に使用するのも、このような理由からきているのかもしれません。
筆者が90年代の始めに帰国してからは、スペインの特殊な商店や日本のデパートでも日本の弁当箱(主に、テレビのキャラクターを描いたもの)を見かけるようになりました。それからまもなく、スペイン製で日本式弁当箱ととてもよく似たものを店頭にみかけるようになりました。色は日本のもののように派手ではありませんが、とてもよく似ていました。
デパートで、どんな子がそれを買うのか聞いてみましたところ、「国際学校に通っている子供たち、あるいは、自分で持参する弁当か学校が出す給食かのいずれかを選べる学校に通っている子供たちです。今は景気がよくないですし、お母さんたちは、子供たちが時には食べもしないような学校給食にお金を払うより、家庭で子供の弁当を作る方を望んでいます」とのことでした。
さて今度は、日本に住んで日本の食物抜きではすまされない外国人にとって、何が問題となるかについて考えてみましょう。
弁当は、日本に住み日本の生活様式に順応しなければならない外国人に深刻な影響を与えます。中には好きで完全に日本風の生活をする人もいるでしょうが、そうでない人、日本式生活を選ばざるを得ない人もいます。特に、中国、韓国、インド、フィリッピン、ベトナム、ラテン・アメリカなどから出稼ぎに来た人々がそうです。この人たちはたいてい安い給料で働かねばなりませんので、日本人の生活にあわせ、子供たちは公立学校に通わせるしかありません。そこで、食物が一番むずかしい問題となります。
1990年11月、台湾その他広東語を話す人々のために、大阪で相談電話「ヘルプライン」が開設されました。その目的は「外国人が日本の生活に慣れる手助けをしましょう」というものでした。このヘルプライン・サービスの代表、伊藤みどりさんによると、「人が新しい文化に順応しようとする場合、最初の2年が非常に重要な時期で、言葉の壁、習慣、伝統、価値観、特に食事の違いなどが、フラストレーションにつながりがちです」ということです。
「関西生命線」は最初、無料で電話相談にのりましょうということで始まりましたが、後に、大阪府教育委員会、大阪府、大阪市の後援で、外国人居住者のためにお弁当の作り方についての講習会を3回開きました。その後まもなく、この団体はその講習の内容を三ケ国語で書いた本を出版することにしました。1996年9月に、日本語、中国、英語で1冊にまとめた「外国人のためのお弁当」が出版された経緯は、こういうことです。
この本の目次をみれば、弁当を作る場合に何がどのような順で重要かがわかります。調味料/だしの取り方/ご飯の炊き方/お米について/卵・鶏肉・豚肉・牛肉について/魚について/野菜について/揚げ物について/冷凍食品について/加工食品について/乾燥食品について/漬物/果物/お弁当箱のいろいろ/お弁当の詰め方・幼稚園児用・小学生用・女子中高校生用・男子中高校生用/お弁当の包み方/四季のお弁当/調理器具   
94ページには、日本人が弁当を作るときに私がすでに教わったのと同じアドバイスが書いてあります。即ち「見た目をきれいにするために赤、黄色、緑を意識して入れましょう」ということです。そして終わりに「写真は、同じメニューでもお弁当箱の種類によって詰め方が異なってくる例です」という注意書きがついています。
この本で重要な部分は、性別や年齢によって弁当箱のタイプが違うという写真つきの説明です。
講習会の後、出席した外国人の何人かがその感想を話していましたが、ある中国人らしい母親は、「今日はきれいで栄養バランスのとれた弁当の作り方を教わりましたし、日本料理の基本が中国料理と似ていることも知りました」と言っていました。
このサービスは、80年代以降に結婚などのために日本に来たアジア系女性を対象として始められました。しかし、いろんな国から日本にやって来る人は年々増え続けていますし、日系南米人も多いことを考えると、関西生命線は今後その活動幅をもっと拡げなければならないでしょう。
弁当の新しい用途
日本では、結婚式や葬式などの通過儀礼の際には、参席者全員に特製弁当を用意するか、あるいは料理屋から仕出し料理を取り寄せなければなりません。特に葬式の場合には一人分のもので、中身も不祝儀にあったものでなければなりません。このような場合に用いる箱はフォーマルなもので遊びは許されません。昔ながらの重弁当が一般的です。中身は伝統的なもので、西洋料理はほとんどみられません。葬式のような厳粛な会合では、食事も和風でなければなりません。私も日本滞在時いくつかのフォーマルな式に参加して、見たことがあります。
前の章で、働く女性の多くが弁当を使うようになったと述べましたが、それにはコストが安い、健康によい、静かな場所で友人や同僚たちと一緒に食事できるなど、いくつかの理由があげられます。日本の全国紙の一つである産経新聞は、女性会社員の間で弁当が流行していると書いています。
この新聞によれば、外で食事するOLは1984年には50%でしたが、1997年には40%になっています。働く女性たち(その年齢層は主として22-23歳ですが)は、弁当ならリラックスした雰囲気の中で食べることができるし、食べるために長い行列に並ぶ必要もないし、好きなものを食べられるし、しかも健康にも良い、と言っています(「産経新聞」1997年1月23日)。
働いている男性はどうでしょう?男性会社員はまだ同僚と近くの飲食店に食べに行くケースが多いようですが、新しい傾向もみられるようです。産経新聞によると、35歳以下の若い会社員の多くは、社員食堂のある会社で働いている人でも、ほとんど毎日弁当を買っているそうです。コンビニ弁当を食べる理由としては、「一人住まいだから」「社員食堂はあまりおいしくない」「コンビニ弁当のほうが安い」などがあります。
またこれとは別に、会社からの帰りにも弁当を買う人が沢山います。自分で夕食を作らねばならない場合、コンビニ弁当のほうが安いし変化に富んでいるからです。セブン・イレブンなど日本のコンビニ・チェーン店の1997年の弁当売上高は平均で28億円でした。
弁当の流行に関してもう一つあげねばならないのは、駅弁です。これは地方の駅で販売するために作られた郷土料理の弁当です。
1868年の開国後、日本では全国に鉄道が敷設され始めました。新しい時代は、旅行や娯楽の黄金時代をもたらしました。日本人は本来大の旅行好きです。しかし江戸時代には地方に旅行するには当局の許可が必要でした。それが1986年以降、どこにでも自由に旅行できるようになった上に、列車のおかげで移動も楽になったのです。こうして「ディスカバー・ジャパン」の時代が始まりました。
日本で最初の列車が新橋から横浜まで走ったのは1872年です。駅弁が始まったのはおそらくその後まもなくのことでしょう。その3年後には、京都-大阪-神戸の鉄道も完成し、各地で弁当が販売されるようになりましたので、どこがはじめてだったのかはっきりとはわかりません。しかし、1885年7月16日、宇都宮駅が最初だったと言われています。メニューはにぎりめし(中に梅干しをいれてごま塩で握ったもの)とたくあんでした。
その時以来、駅弁は非常に人気が高くなりました。このほかにはすぐに簡単に食物を手に入れる手段がなかったからです。駅弁は、列車が駅に停まっている間に、あるいは乗車する前に買い求めます。それぞれの駅では、そのn方の料理を使った独自のメニューを作ろうと努力しました。しかし、概して質、量ともに創造性に富むものとは言いがたいものでした。
人々が駅弁を、その中身のおいしさと盛りつけの美しさ、両方の面から楽しむようになったのは60年代に入ってからのことです。1958年には「こだま」が走るようになりましたが、これが駅弁と大きな関係があります。多くの人が、地方のおいしい郷土料理を食べたいということでその地方に出かけるようになったのです。駅弁は、その地に旅行しない限り食べられないものでしたので、人々はその有名な弁当を食べるために、喜々としてその地に出かけました。
地方の郷土料理を食べに行く旅行の流行は、伝統的な民間宗教にみられる「はれ」と大きな関係があります(波平恵美子、1986)。「はれ」とは、明るさ、日常とは切り離された特別な祝い事、祭りなどを指します。昔の日本では「しばらくの間日常すなわち「け(褻)」を忘れて祝い事を楽しむ」というのは、ほんのわずかな場合にしか許されていませんでした。旅行に出かけるというのはたいていの場合、どこか遠い知らない駅で買った特製の弁当を楽しむ、言い換えれば「はれ」の気分にひたるための口実にすぎませんでした。
日本の人々がそのことに気付いていないとしても、この事実は、昔ながらのイメージが現在も残っていることを示しています。
新幹線の開通でこのようなローカル駅の弁当は終焉を迎えたようにみえました。しかも大会社が車内食堂を運営するようになりました。しかし現在では、駅弁愛好家が集まって、自分たちの弁当を販促し、良い販路を探そうと「駅弁友の会」というものを作っています。
近代的な生活、巧みなマーケッティング、生鮮食品保存法の向上、迅速な宅配サービスなどのおかげで、弁当は救われました。「村おこし」運動によって、ふる里料理への需要が高まりました。「ふる里」という言葉が現代日本社会でいかに重要な役割を果たしているかについては、多くの本で論じられています。今では駅弁は商品化され、美しい景色、名所、季節の脇役として販売されています。
駅弁友の会ではその後も製造を続け、いろいろなルートを通じて注文販売もしていますので、今ではどこの駅弁でも、日本のどこからでも注文することができます。また、前にも述べたように、大手デパートによる販売網もあります。友の会では、正月、2-3月、7月に全国のデパートで駅弁大会を開きます。人々は、自分の住んでいる街や村に居ながらにして、北海道のおいしい鮭を、富山県の鱒を、讃岐のうどんを、熊本の鮎を、それもコレクターが珍重する特製の箱にきれいにつめたものを味わうことができるのです。
1998年、熊本市で34回目の駅弁大会が開催されました。その時のパンフレットによれば、中身の面でも器の点でも独創的な、様々なものが展示されました。この時の熊本大丸デパートでのハイライトは、北海道の「いくら弁当」、小樽の「かに弁当」、富山の「ます弁当」、函館の「あわび弁当」、下関の「ふぐ弁当」だったようです。容器で変わったものは、「だるま弁当」(箱がだるまの形)、「ふぐ弁当」(蓋がふぐの形)、「うさぎちゃんの夢」(箱がウサギの形)、「すきやき弁当」などがあげられます。
特にこの「すきやき弁当」の箱には卵がはいっていて、ひもを引っ張ればすきやきが暖められるようになっています。ちなみに、同じ熊本市でそれより前に開かれた駅弁大会で一番面白かった容器は、桃の形をしていて、蓋におとぎ話の有名な英雄、桃太郎が描かれている「桃太郎弁当」でした。
弁当の調製元は、競争に遅れないよう、消費者の好みに関するデータを沢山集めています。最近では中身も容器もとてもしゃれた、変わった駅弁が発売されています。例えば、岐阜県の飛騨高山駅で販売されている「まきちゃんの作ったお弁当」(海苔巻きがはいっていて、蓋にまきちゃんという有名な漫画の主人公が描かれている)とか、「とってもヘルシーだちょーん弁当」などです。
この弁当の名前はかたかな、ローマ字、ひらがな、漢字をまぜて書かれていますが、一種の言葉遊びで「駝鳥の肉がはいっている」という意味と「びっくりするような昼食」(ちょーん)というイメージを与えます。これは兵庫県の和田山駅で販売されています。
旅行もしないで駅弁を食べている人は幸せを感じているのです。というのも、本来その駅弁が販売された場所を昔訪れた、その時の感じをもう一度味わい、束の間今の日常生活を抜けだすことができるからです。駅弁の調製元は、企業から注文を貰うために、その会社の特別な行事の際や、他県から来ている従業員が多い場合に、特別サービスをすることがあります。
ここに「日本人の心を捕らえる駅弁」という日本経済新聞の切り抜きがあります。この記事によれば、「駅弁は以前にもまして人気がでており、1997年には売上が2、800億円に達した」ということです。毎日の生活で駅弁の最大のお得意はサラリーマンで、朝、電車に飛び乗る前に駅のキオスクで買っています。駅弁はどこの通勤駅でも、またどの長距離列車でも販売されているからです。
これを考えれば、デパートで催される駅弁大会での売上げは、非常に重要です。駅弁大会を催したデパートのデータによれば、1996年から1997年にかけて一番人気のあった弁当は、ご飯と烏賊の入った北海道の「いかめし弁当」だったそうです。(また、別のデータによれば、1997年に駅弁が販売されていた場所は催し物の場合を除いて日本全国の360カ所で、毎日11万食が売れ、年間の売上げ利益は5600億円だったそうです。)
駅弁を調製・販売している会社は大きなものもありますが、家族で経営している中小規模のものも沢山あります。このような家族経営の場合は従業員は6人以下、時には夫婦だけで、近くの駅から出る始発列車に間に合うよう朝4時から働いている、というのもあります。
販売されている弁当でも、梅の花で早春のイメージを出したり、紅葉の形に切った一切れのかまぼこで秋の感じをだすなど、季節感が盛り込まれます。
駅弁は行楽弁当の範疇にはいるだけでなく、旬を味わうという点でも大切です。「旬」とは「ある食材が一番おいしい季節」と言う意味です。駅弁は、いつも「その季節の食材」を組み合わせて作ってあります。たいていの日本人は、季節の食物をその産地で食べることに特別な感情を抱いています。特に、駅弁をよく食べる40歳以上の年代の人がそうです。
また、一昔前なら現地に行かなければ絶対に食べられなかった食物を楽しめるという喜びもあります。駅弁なら今ではそれ以上のこともやってくれます。デパートの駅弁大会で駅弁を買った人の中には、次のように言う人もいました「私たちにとって、ここで買う弁当は、駅や列車で買ったものよりずっとおいしくて、もっと楽しいのです。」デパートの駅弁大会で弁当がこんなによく売れるのは、多分こういう理由によるものでしょう。
弁当の流行を理解するもう一つの手がかりは、歌舞伎や能を見に行ったときにこれを食べるという慣習にもみることができます。この慣わしが消えることはないでしょう。1996年には国立劇場が創立30周年を記念して「顔見せ弁当」を販売しました。ちなみに「顔見せ」という言葉は、歌舞伎開幕前にその興行で演ずる俳優が揃って挨拶することを指し、江戸時代にはとても有名でした。国立劇場のこの弁当は1996年の創立30周年記念の時だけ販売されたものですが、江戸時代のものによく似ていました。
販売された弁当は二種類あって、「顔見せ弁当」が3、400円、「鯛飯」が1、500円でした。「顔見せ弁当」のほうは焼き魚と刺身が入っていて、刺身用の醤油はただの醤油ではなく、酒に鰹節と梅干しを混ぜて煮たものでした。また江戸時代に好まれた「きくらげトーニ」(卵豆腐の一種)や「揚げ出し大根」(油で揚げた大蕪)と油で揚げたこんにゃくもついていました。「鯛飯」のほうには、江戸時代に有名なご飯、鯛飯がはいっていました。
千葉大学の松下幸子名誉教授は、「このメニューは江戸時代の料理が種々記録されている文書から選んだものです。当時の人々は、劇場に行くときにはこのようなものを食べていましたが、現代では量も多く質ももっと良くなっていますので、現代人の好みに合わせることもできます」と話しています
「昔の料理を、もっと質を高めて今の時代に楽しむ」これは非常に重要なことだと思います。現在歌舞伎を見に行って昔のように顔見せ弁当を食べている人は、現代生活の種々の恩恵に浴しながら古い時代に旅し、その時代の一番良いところを楽しむことができるからです。この弁当が受けたもう一つの理由は、これがこの時だけ、劇場の創立30周年記念の時しか食べられない、ということでした。時間が限られていると希少価値が増します。実際、国立劇場ではこの記念事業が終わると同時に「顔見せメニュー」の販売も止めました。
弁当はこのように広く普及していますが、サリン・ガス事件を引き起こしたオウム真理教も弁当にいくらか関係があります。いまここで犯罪について論じるつもりはありませんが、1996年8月19日付けの朝日新聞で奇妙な記事を見かけました。それによれば、オウム真理教の信者たちは、蓋の中に麻原教祖の写真が印刷されている弁当を買うことができたそうです。この写真は、蓋を開けた瞬間に見えるように、すなわち、蓋を開けないと見えないようになっています。
これをちゃんと立てれば、どのような場所でも周りの人に気付かれないで祈ることができます。それとは全く関係のないことですが、これはキリスト教が禁止されていた江戸時代のかくれ切支丹が用いていたイエス・キリストとマリアの絵を思い起こさせます。同時にまた、オウム真理教創立者、麻原彰晃の写真を隠せる用具は沢山ありますのに、その中で弁当箱が選ばれたということは、多分、これが非常に日常的なものであり、日本人の毎日の生活で広く使われているからでしょう。
本来の用途の面でも比喩的な意味でも、弁当が絶えることなく使われているもう一つの例は、1996年10月31日付けの朝日新聞にみられます。環境整備活動の一環として山の清掃をするボランティア・グループが結成されました。これはお金のためにするのではない、どのような団体からもお金は貰わないことを説明するために、この新聞記事は「作家六人呼びかけ。主婦、学生手弁当で」という見出しをつけています。
「手弁当」という言葉は、翻訳するのはさほど簡単ではありませんが、普通「弁当は自分で持参する」あるいは「弁当代は自分で払う」という意味で使われます。しかしここでは「自分の弁当を持っていく」だけでなく、さらに「その他いかなる金品も受けないボランティア活動である」という意味がふくまれているのです。
マーケッティング戦略−デパートとコンビニ弁当
この章では「デパートの弁当売場とコンビニ弁当」について述べます。日本では、毎日24時間開いているコンビニエンス・ストア(以下「コンビニ」と略します。)は70年代からあり、非常に流行っています。一人住まいのサラリーマンやOLが主な客で、いろんな種類の弁当が売られています。コンビニは種類が多く、総カロリーも明記されています。
コンビニで弁当を買う人の平均的人物像は30歳前後の会社勤めの男性ですが、OLや学生も沢山います。コンビニが実施している第一のマーケッティング戦略は、顧客の好みを良く把握することと、低コストで提供することです。コンビニの中には小さな会社、時には毎日弁当を作っている女性と手を組んで、その店で弁当を販売させているものさえあります。
普通のコンビニは大小の弁当製造会社から仕入れていますが、仕入先は通常一社にしています。(弁当調製会社間の競争は熾烈ですので、私の知る限りでは、日系南米人や、アジア諸国からきた女性を使っているところもあります。)弁当のマーケッティング戦略に関しては、デパートの役割を無視することはできません。デパートの弁当大会一日だけで駅での売上げ一週間分以上の売上げがある、ということを忘れることはできません。デパートは、特に春に弁当箱キャンペーンを支援し、伝統的なイメージや古い習慣をアピールします。
Millie R.Creightonは、「デパートは、輸入品の販売という点で西欧の受け入れに欠かせない存在ですが、同時にまた、日本の商品の販売においても伝統の再発見という点で重要な役割を果たしています」と言っています。
「お弁当」というプロの弁当調製者向けの本(柴田書店編、1992)の序文には次のように書かれています。「私たちが売っているのは弁当だけではありません。便利さ、最上のサービスも提供しているのです。単に食物を提供しているだけなのではなくて、家庭や職場にありながら、レストランのようなサービスと利便性をうけられる食事を提供しているのです。
21世紀には家庭への食事の宅配が大きなビジネス・チャンスとなるでしょう。」このことは、「弁当のロマンティシズム」にもかかわらず、食事の宅配サービスとファーストフードは伝統という衣を着せて、今よりももっともっと利用されるようになる、ということを意味しています。80年代には「ホッカホカ弁当」店が流行るようになりました。これは、作ったばかりの暖かい弁当を買って帰ることのできる店です。
最近ではこれを真似た「あたたか弁当」という店もできましたし、コンビニやキオスク、デパートの食品売場でも、いろいろな種類、大きさの弁当を売っています。「ほかほか」という言葉は「暖かくてまだ湯気の立っている状態」を表す言葉で、家に帰っても暖かい食事が待っていることを望めない一人住まいの男性や女性にとって、食欲をそそられるような親しげな響きを持っているのです。
「暖か」という言葉には「ほかほか」ほどの親しみは感じられませんが、これも愛のこもった暖かさをもつものに対して使われます。この二つの言葉が既製の食品を販売するのに使われたのはこのためです。この種の食物は非人間的で、暖かい感情抜きで作られる、と考えられていました。しかし「ほっかほっか」や「あたたか(い)」という言葉を使うことによって、お客は家族的な親しみのこもった人間的なつながりのある食事(お母さんの作ってくれた料理のような)と感じることができるのです。
1970年代、筆者がカナリー諸島に住んでいたとき、あちこちのレストランがドイツ人客を呼び込むために「どれもお袋の味」という大きな看板を出していたのを思い出します。ドイツ人客は、あたかも「ふる里」にいて、むかし愛するお袋が作ってくれた料理を楽しんでいるかのような暖かさ親しみを感じることができる、というわけで、同じようなマーケッティング戦略の一つです。
新幹線では、車中で買える有名ホテルやレストランの弁当も非常に人気があります。オフィス・ビルや大きな会社への配達を専門とする給食宅配サービスも日に日に成長しています。このような会社は、好きなものが選べるよういろいろな種類の弁当のカラー見本をだしていますが、そのなかには、低カロリーのダイエット弁当もあります。このことは、ダイエット意識がますます浸透してきていること、弁当もその例外でないことを示しています。
コンビニが社会に及ぼす影響は大きく、まずここから始まって人が真似するようになったものもいくつかあります。一つは、おにぎりと海苔を分けて包む小さなパラフィン紙です。お客は食べる直前にこの紙をはずせば、パリパリした海苔がたべられる、というわけです。家庭でおむすびを作るときには、最初からおにぎりに巻いてありますので、湿気て柔らかくなっています。そこでデパート弁当箱売場の最新のトレンドは、おむすび用のこの特製パラフィン紙なのです。
コンビニがつくり出したダイエットの影響とみられるもう一つのトレンドは、新しいタイプの箱です。これは、少量のご飯と各種の総菜を分けて入れられるようになったもので、今では他でも販売されています。これを使う人(特に若い女性)は、食べる量がわかります。デパートやコンビニは人々の好みに敏感です。そして人々はデパートやコンビニから影響を受け、今ではOLのほとんど、それにダイエットを意識している人々は、非常に個人的な「弁当闘争」で、店に対抗しています(「朝日新聞」、1998年3月20日)。
前に述べた「お弁当」という本(前出、p.56)には、紙、カートン紙、アルミ、漆器、プラスチック、軽い木の箱など、弁当箱として使える材料のリストがのっています。いずれも、これはよくてもあれは駄目といったように、中に入れる総菜の向き不むきがありますし、電子レンジに使えるものとそうでないものもあります。箱のタイプで中身が洋風か和風かもわかります。昔と同様、現在でも容器と中身は密接に関連しています。すなわち、中身で容器がきまるのです。
結論
弁当箱は日本社会の発展・変化と密接な関連があります。日本では、弁当箱は数人の人が分け合って食べる共用の容器だった時代から個人用の工芸品にまで発展し、かつてのように同じ容器から食べるという機能はもう消えてしまいました。しかし同時に、分けあって食べる容器としての機能は、特別な会合、外出、通過儀礼や祝い事の儀式専用となりました。
弁当箱の設計・製造は、室町時代末期から江戸時代にかけて、完成の域に達したといえるでしょう。貴金属の使用、デザインの独創性、総菜の多様化が顕著だからです。弁当はまるで日本社会を映す鏡のように、社会の新しい動向に従って形も用途も新しく変わりました。戦争も弁当箱の発展に寄与しています。頑丈なアルミ製で腰に下げて運ぶ飯盒や、腰弁当箱(これはすでに存在していました)が開発され、広く使用されるようになったのはこの時期です。
現在の平和な時代には、弁当の製造は中身の点でもデザインや資材の独創性の点でもブームとなりました。少し前までは、生きるための食事が問題でした。しかし今では、弁当は日本の食文化の中で確固とした地位を占めるようになったかに見えます。現在の日本では、食べることは人生の喜びの一つだからです。幸いなことに、日本人の多くは、単に「生きるため」ではなく「楽しみのため」に食べているようです。
しかも弁当箱は、日本社会の「遊び」の感覚を示す工芸品となっています(熊倉功夫「京都新聞」、1994年9月13日)。お客をひきつけようと「おかしな」仕掛け(英語の使用、可愛らしい形、古い伝統的なものの模倣など)が広く使われているのを見ると、マーケッティング戦略もこの点を看破しているようです。
弁当、弁当箱、仕出し弁当が最近ブームになり、OL、学生、サラリーマン、主婦たちみんなが弁当を大量に消費しているのは偶然ではありません。中身が変わったことも重要ですが、私の調べたところでは、弁当箱の形、大きさ、色の変化も大きな意味を持っています。ホーム・メイドの弁当でも既製品の弁当でも、歴史上の事件や危機、女性の地位、教育システム、バブル経済などを反映しています。
しかし私たちは、今の日本が全く新しい役割を果たしている国際的な舞台も無視することはできません。弁当箱を使うことによって、現代の日本は伝統を保っていけるだけでなく、それを取り戻すことさえできるのです。しかも時には洋風の総菜を詰めて、ちょっと洗練されたエキゾチックな感じを味わったりしながら。日本人は自分たちがほとんど忘れてしまった伝統を創り直しながら、同時に、世界共同体の一員としての自己、自分たちが日本と世界の両方に属していることを再確認しているのです。
外国の食文化を弁当に合うように作り直して自国のものとし、慣れた食べやすいものとしてしまいます。外国からの影響がますます増える社会で、「日本らしさ」の感覚も強められ、自国風に作り直されます。
日本を良く知っている人ならきっと、「日本では外国の影響が日常にあまりに広く浸透しているので、自分たちが外国商品および/あるいは外国文化に浸っていることを、時には日本人自身が忘れてしまう」ということに気付いたことがあるでしょう。ある15歳の日本人の少年が米国に留学し、アメリカのホームステイ先で、「おやまァ、アメリカにもマクドナルドがあるんですね」と言ったという有名な笑い話があります。
しかしこれは日本人だけのことではありません。私たちはみんな、どの国の人でも、自国の伝統文化、自国の伝統的な物品、自国の伝統的な料理についてはちっとも知らない、ということがあり得るのです。
伝統的なスタイルに作り直された弁当箱で新らしく考案された総菜の弁当を食べることによって、多くの日本人は外国を、そして同時に、一番大事な日本文化も同時に味わうことができるのです。日本人のアイデンティティの構造と、西欧のものの自国への取り込みが、単に「ポスト・モダン・消費者・情報型の社会」の出現のせいだけではなく、これまでの歴史の中にみられるはずであるとすれば、自国の工芸品の使用のリバイバルについても似たようなことが言えるはずです。
緊密にからみあった世界の中で、たえず変化し種類も豊富な弁当箱は、二重の橋のような働きをしています。すなわち、多くの日本人は新しく作り直された自国の伝統工芸品に接し、あるいは良く知り、そして、あるいは楽しむことができるのです。
弁当箱を使用することによって、日本の人は伝統のよさと同時に現代の豊かさの利点(外国文化の影響は、自分たちのアイデンティティ、毎日の生活、好み、スタイルなどすべて自分たちにあうものに作り変えて)をも享受することができるのです。弁当箱など日本社会の分析とは何の関係もない、と考える人もいるでしょうが、弁当箱はこれからもきっと日本社会の変化を反映し、日本人と日本人の日常の行動に影響を与え続けていくでしょう。これはまた、いつの日か他国の習慣や生活様式にも影響をおよぼすようなことになるかもしれません。
  
「菊と刀」 のうら話

 

私が初めて「菊と刀」を読んだのは大学4年生の時でした。西洋社会の「罪の文化」と日本社会の「恥の文化」の比較をしたらどうかと指導の先生に言われて、「菊と刀」を卒業論文の出発点にしたのです。卒業論文では宗教および文学の観点から罪と恥の比較をし、大学院では中世イギリスにおける罪と恥の意識を調べましたが、「菊と刀」はメインテーマではありませんでした。
しかし、日本では「恥の文化」といえばどうしても「菊と刀」を連想してしまい、「それじゃ、ルース・ベネディクトってどんな人でしたか」とか、「菊と刀」について質問されても返答できないことが恥ずかしく、ルース・ベネディクトや「菊と刀」について研究するようになりました。調べていくうちに「菊と刀」の裏にある研究状況もわかってきましたので、ここではベネディクトという人を紹介しながら、彼女が戦争中にどのように日本のことを研究したかをクリアにしたいと思います。
ルース・ベネディクト
資料 (付録1) には、ベネディクトの経歴と主な研究業績が書いてあります。それを見ていただきますと、ベネディクトは文化人類学者で、名門コロンビア大学でずっと教えていたことがわかります。日本ではほとんど「菊と刀」を書いた人としてしか知られていないのですが、実は文化人類学者として大変な影響力のあった人で、それだけ活躍していたからこそ「菊と刀」を書く機会が与えられたとも考えられます。この点が日本ではあまり知られていませんので、ベネディクトという人をまず紹介しましょう。
ルース・ベネディクトは、1887年6月5日、ヴィクトリア時代に生まれた女性です。日本で言うと明治20年生まれの女性です。こんなに有名な著作だからベネディクトというのは、当然男性であると考える日本人が多いのですが、これは偏見です。また、家柄がよく上品な人だったようです。祖先はメイフラワー号でアメリカに最初にわたってきた熱心なバプティストの一人でした。祖父やおじは牧師でしたが、幼いルースにとって、この人たちがあれだけ熱心に説教するわりに、やることと言うことが時々一致しないのは何故だろうかと考えることがあったようです。
母親は当時の女性としては珍しく、名門ヴァッサー女子大で大学教育を受けています。この大学では多くのアメリカのお嬢さんたちが教育を受けてきました。元大統領夫人のジャッキー・ケネディから女優のメリル・ストリープまで最近だけでも多くの有名人が卒業生にいます。また日本とも縁がありまして、津田梅子とともに明治時代最初の女子留学生だった山川捨松(後の大山巌夫人)がこの大学を卒業し、日本の女性として初めて海外で学位を取っています。
後にルースも妹と共にヴァッサーで勉強するようになりますが、これについては後でふれます。母親はこのように大学を出ていましたのでインテリとも言えるし、教育熱心な人でした。母親は結婚して二人の子供をもうけ、また父親は当時の医学界(ホミオパシー)で若きホープとして期待され実験的にいろいろな手術の可能性を探っていました。しかし、当時は手術技術やその衛生状態についてあまり知られておらず、ある時、注射針から逆に傷を負い細菌体に入って父親は病気になり、カリブ海の暖かい島へ行ったりした保養のかいもなく、ルース2歳、妹マージェリー生後2ヶ月の時に亡くなります。
父の死後、幼い子供2人は母親とその実家で生活します。これはニューヨーク州の北の方にある牧場でした。そこに祖父母、母の兄姉など親戚が大家族で生活していました。後にルースは学校に入る時に身体検査を受け、初めて難聴ということがわかるのですが、それまで家族の中では、あまり返事をしないむずかしい子だと思われていました。それと比べて、妹のマージェリーの方は明るく、お手伝いもよくするかわいい女の子だったようで、ルースとは対照的な存在でした。
耳がよく聞こえないルースにとって大家族は非常にうるさいもので、誰が何を言っているのかよく区別のできない環境でした。彼女はなぜ自分が悪いのか、どうして妹だけがかわいがられるのか、などの疑問を小さい時から抱くようになります。
母親がインテリだったことが救いになったのかも知れません。母親は再婚せずに自分の家族を養おうと決め、子供を連れて実家から離れ、教員や図書員をして生活費を稼ぎました。そしていい学校を選んで働きましたので、子供たちはそこに安く入れてもらえました。決して裕福な家庭ではありませんでしたが、いわゆるお嬢さん学校に通うことができました。また、難聴の問題がわかると母親はルースに作文を書かせ、それを読んだ母やおじが誉めたことで、ルースは書くことによって自分を表現できることがわかってきます。
作文の他に彼女は詩にも興味を持ち、心の本質的な部分を文章で表現して聞こえないフラストレーションからある程度解放されるようになります。このようにルースにとって文章で情報の本質を正確に伝えることが大変重要で、若いときから「書くこと」の技術にも気を配りました。これは後の研究の成果に大きな影響を与えることになります。たとえば、「菊と刀」は翻訳ではわからないかも知れませんが、原文の文章、それから構成が非常によくできています。やはり、難聴というハンディを抱えていたので書くことに大きな力を入れ、そのために文章がコンパクトで読みやすいものになったのではないかと考えられます。
母親のおかげでルースとマージェリーはよい学校でよい教育を受け、優秀な成績で高校を卒業し、二人同時に奨学生として1905年にヴァッサー大学に入学します。転校しているうちに年齢の異なる二人は同学年になっていたのです。ヴァッサーでルースは文学を専攻し、ファイ・カッパ・ベータ(最優秀の成績)で1909年に卒業します。妹は大学で社会活動(ボランティア)によく参加し、活動中に若い牧師さんと恋をし卒業後すぐに結婚してカリフォルニアに引っ越します。
ルースは卒業後1年間二人のお金持ちのお嬢さんとヨーロッパを旅行することになります。これは成績優秀なルースに「足長おじさん」が留学とホームステイの12ヵ月旅行をプレゼントしたもので、相変わらず裕福でなかったルースには貴重な機会となりました。ヨーロッパでルースは初めて異文化と出会います。小さい時から自分の行動がいけないとか、いろいろな悩みを抱えていたのですが、ヨーロッパに行ってみたら、違うやり方や価値観など自分が育った環境とは異なる文化があることがわかりました。それまで他人と自分が一致しないことになんとなく負い目を感じていたのですが、必ずしも間違っているわけではないということに気づき、自分に自信をもてるようになってアメリカに帰ってきたのです。
帰国後は社会活動などをしていましたが、母親と共に妹のいるカリフォルニアに引っ越し、文章の好きな彼女は高校の英文学の先生になりました。そして、1913年の夏休み、久しぶりに祖父母のいるニューヨーク州の牧場に帰ったとき、ヴァッサー大学時代の友人のお兄さんだったスタンリー・ベネディクトに紹介されて恋に落ち、翌年結婚しました。
彼はコーネル大学の優秀な化学研究者でした。二人は新居をニューヨーク市郊外におき、彼女は専業主婦になります。しかし、子供を作るとルースの体に危険があるとわかり、スタンリーは子供をあきらめました。ルースも専業主婦だけでは満足できず、再び「書くこと」に挑戦し始めます。詩はもちろんですが、当時のフェミニストについても研究し、出版はかないませんでしたが、かなりの成果をおさめています。
さらに勉学への意欲をわかせて、当時開講されたばかりのニュー・スクール・フォア・ソーシャル・リサーチ(社会科学系の大学)に聴講生として通い始めました。そこで彼女は人類学という当時の新しい学問を学ぶことになります。彼女のすばらしい才能に気づいた教師は、さらにルースを、コロンビア大学教授で後に文化人類学の父とも言われたフランズ・ボアズに紹介しました。ルースは彼のもとで大学院生として研究を続け、なんとわずか三セメスターというはやさで博士論文を書きあげたのです。
マーガレット・ミード
博士号を収得した後、ルース・ベネディクトはボアズの助手になりました。となりのバーナード女子大でボアズが非常勤講師をするのを手伝いに行くことになり、そこで授業をとっていた若いマーガレット・ミードと出会います。ミードはやがてコロンビア大学の大学院に進み、博士論文のためにサモアで調査を行い、その研究で一気に有名な文化人類学者になりました。当時の1920-30年代のアメリカにおいて「セックス」というトピックはタブーで、セックスを初めて意識するようになる思春期は青年にとって葛藤の時期と考えられていました。
しかしミードは、サモアの若者が自由にセックスに慣れる環境におかれ、アメリカの若者のようにセックスや結婚について罪の意識や悩みを抱えることがないことを報告しました。これはアメリカ中で話題になり、ミードはよく講演を行ない、また研究の一環として女性の社会的地位についても論じ、初期のフェミニストとして大変な活躍をしました。
結果的に、ミードは大変有名になりましたが、そのミードはベネディクトとともに初期の文化人類学の発展に大きく貢献し、セットとして考えられているようです。後に、ミードはベネディクトの伝記を2冊書いており、それを読まなければベネディクトを語る資格はないといっても過言ではありません。二人は終生、同僚であると同時に親友でもありました。
しかし、ミードはベネディクトとあまりにも親しかったため、伝記にすべてを書くことができませんでしたし、個人的な情報をある程度避けざるを得ませんでした。その上、「菊と刀」の時代に関して言えば、ミードが子供を産み、さらに戦時中のイギリスに出張したり政府の委員会等の仕事で大変多忙な毎日を送っていたので、ミードはベネディクトの戦時中の研究についてそれほど詳しくないようです。したがって彼女が描いたベネディクト像には一種のバイアスがかかっているといわざるを得ません。
ミードにとってベネディクトはあこがれの対象だったために、いいところ、特に詩人のベネディクトを強調する傾向がありました。ベネディクトは詩を書くのが上手で雑誌にも載ったことがありましたが、ミードは大学時代から詩を書くことが好きでもそんなに才能があったわけではないようです。それでも、伝記ではベネディクトの「詩人的」な才能を強調することによって、自分にも詩を書く才能が少しあったことをアピールしようとしています。やがてこの少しオーバーに紹介されたベネディクトの趣味が日本で誤解を招くことになります。
1981年に津田塾大学教授ダグラス・ラミス氏が、ミードの伝記にもとづいて「菊と刀」は「詩人ベネディクト」によって書かれたものだとし、直感的に書かれたとか政治文学だとかいって批判していますが、これは間違った解釈だと考えられます。残念ながら、彼の著書「内なる外国「菊と刀」再考」は多くの日本人によって読まれ高く評価されていますが、やはり元のデータを提供したミードにだまされていると私は思います。
ミードとベネディクトの関係
ベネディクトとミードは対照的な二人で、まずベネディクトはミードより15も歳上です。それからベネディクトは背が高くスマートでスポーツも上手で、非常に穏和でシャイな性格の持ち主でした。いろいろな人がベネディクトについて書いていますが、必ず書くことは彼女が美人だったということです。これと比べて、ミードは背が低く、スポーツをできるだけ避けるタイプでした。出しゃばりで、話題の中心となることが大好きなタイプでした。
また、私が読んだものの中では、美人の「び」の字も見つかりません。とにかく、二人の関係は非常に面白く、最初は学生と先生の関係から始まり、次にミードもコロンビア大学の大学院に進み博士号をとると、ベネディクトと一緒に仕事をするようになります。博士号をとるまでミードはベネディクトのことを必ずミセス・ベネディクトと呼んでいましたが、学位を取ってからはファースト・ネームで呼び合います。友人それから同僚という関係になり、伝記ではミードも秘したままですが、一時的に同性愛の関係を結びます。
ミードはいつでもいろいろな人と関係をもちたいタイプで、三角関係も少なくなかったようです(Caffrey, 1989)。ミードは3回も結婚しましたが、ベネディクトの場合、スタンリーとうまく行かなくなり、1930年に別居しますが離婚しません。やがてスタンリーは1936年に若くして亡くなります。生涯でベネディクトは二人の女性と生活を共にしますが、まず自分より若い人、そして別れてしばらく後には心理学の専門家と1940年頃から一緒に住みます。これも次々とパートナーを変えたミードとは対照的に、長く安定した関係でした。
50年代のアメリカで二人の同性愛を明らかにしたらミードの社会的評判はがた落ちだったに違いなく、ミードも秘密を明かさないように、たとえば詩によって結ばれた関係のみを強調しています。したがって、ミードが書いているものをそのまま鵜呑みにはできません。ミードの伝記を拠り所にするラミスの著書も注意して読む必要があります。ラミスの議論を要約すれば、ベネディクトは詩人と人類学者の二重人格者であり、優位となった「詩人の人格」がその理想を日本文化に投影しようとするあまり、データを操作して日本文化論をつくりあげた、それゆえ「菊と刀」は非学問的な、アメリカ流デモクラシーのプロパガンダにすぎないというのです。
しかし、詩人の理想「日本文化」と政治的文学「菊と刀」との関係は不明確で、ラミスが根拠としているデータこそ、かなり恣意的に操作されています。そもそもラミスは、ベネディクトの残した一次資料を用いず、マーガレット・ミードがベネディクトの遺稿を編纂したものを「孫引き」しているに過ぎません。彼は、ミードが強調したベネディクトの若い時代すなわち「詩人としてのベネディクト」に関する部分をピックアップし、「菊と刀」等を執筆した晩年のベネディクトに関する部分は無視しています。若い時代からベネディクトと同性愛を含めて親密な関係にあったミードによるベネディクト論のバイアスに、ラミスはまったく気づいている様子がないのです。
ベネディクトの業績
ベネディクトの話に戻りますと、ベネディクトは小さいときから難聴などいろいろなことについて悩みました。そして、同性愛者に対する社会のタブーについても考えさせられます。また当時は女性であるだけで、仕事をもったり昇進することはむずかしかったのです。ベネディクトはさまざまな差別や価値観の違いに直面していたからこそ、文化人類学者としてさらに深い理解力を得たのではないかと思います。
さて、ベネディクトは博士号をとってすぐにボアズの助手になりましたが、別居するまでは夫の収入があるということで、ボアズは彼女を専任教員として雇いませんでした。1930年に別居して、ようやく専任講師になり仕事に拍車がかかります。論文を次々と発表し、1934年に文化人類学では古典となった「文化の型」を出版します。これは今でも人類学では大学のテキストとしてよく使われるもので、これは文化概念についての考えに大きな影響を与えました。
やがて、ヨーロッパの方で第二次大戦が始まり、ヒトラーは人種主義的なプロパガンダをもとにユダヤ人や障害者、黒人、同性愛者を虐殺します。ユダヤ人のボアズはすでに1933年からいろいろな反対運動をやっていました。彼は人種とは何か、人種は文化とどう異なるかについて論文集「人種、言葉と文化」(Race, Language and Culture, 1940)を出版しましたが、これは学問の世界ではともかく一般読者にほとんど読まれませんでした。
以前より、彼は自身の限界とベネディクトの文章の才能をよくわかっていたので、誰でも読める人種に関するわかりやすい本を書くように頼んでいました。ちょうど大学の方ではすでに引退していたボアズの後任の主任教授の人事を行っている時でした。
ベネディクトが2年も主任代理をやっていたのに、女性ということで、シカゴ大学からラルフ・リントン(男性)を迎えることになり、それに不満なベネディクトはサバチカル(研究休暇)を取り、「人種主義 その批判的考察」(Race:Science and Politics, 1940)を執筆したのです。ベネディクトは、主任代理になった1937年に準教授に昇進していましたが、主任のポジションを見送られた後、教授になるのは亡くなる2ヶ月前の1948年7月でした。優秀な学者として尊敬され、よく知られていたベネディクトでしたが、女性であるだけで大学内では業績に見合う地位を与えられなかったのです。
人種主義研究をめぐるトラブル
著作「人種主義」の第一部で、ベネディクトは人種は単なる科学的分類にすぎないということを明らかにし、第2部では人種主義というのは人種に対する差別というより、弱いものに対する差別、あるいは政治的にいじめたいものに対する差別だということを大変わかりやすく説明しています。そして、この著作が出版されると大変な評価を得ます。やがて、アメリカが第二次世界大戦に参戦することになり、人種主義問題は社会的にも大きくとりあげられます。
1942年、コロンビア大学では人種主義対策の委員会が開かれ、パブリック・アフェアズという教育者と社会科学者の非営利組織が出版する月刊パンフレット・シリーズで、人種主義をとりあげることが決定されました。ベネディクトは同僚のジーン・ウェルトフィッシュ助教授と一緒にRaces of Mankind という著作を出すことになりました。それは翌1943年に出版され、10セントという安い価格で広く求められるようになりました。
内容的にも、マンガ入りの口語体で書かれ、人種偏見は不安による恐怖から生まれ近代以降大きくなった社会病理であると説明されています。また、ユダヤ人やアジア人に対する偏見がおもに取り上げられていますが、アメリカにおける黒人差別にも注目しています。
そこで彼女たちは、第一次世界大戦中、百万人のアメリカ兵を対象にした知能テストを例にあげ、黒人に対する差別の迷信を明らかにしました。テストの分析結果は白人より黒人の知能のスコアが平均的に低いことを示していましたが、その後、知能テスト自体に偏りがあること、環境によっては黒人のスコアが白人よりうわまわるケースがあることが証明されました。すなわち、教育機会のある北部の黒人は平均すると南部の教育水準の低い白人および黒人よりスコアが上だったので、人種による知能の差より環境による知能の差が示されたことになります。
しかし、このパンフレットの内容が、後にベネディクトをトラブルに巻き込むことになります。発売後間もなく、米軍慰問協会(USO)はヒトラーのプロパガンダに対抗するため、アメリカの軍人にYMCAをつうじてこのパンフレットを配り始めました。ところが突然、USO会長のチェスター・バーナード(あの近代経営学の祖)が1944年1月、USOによる配布にストップをかけたのです。バーナードによれば、USOは国民の税金によって運営されているのだから、このようなマイノリティーに偏向したパンフレットは配布できない、というのです。本当は内容よりその政治的影響を懸念したのでしょう。
しかし彼のコメントが伝わると、マスコミはじめ世間に疑問の声があがりはじめ、2月には事態を重くみた陸軍省情宣局(War Department, Army Morale Division)が、USOをつうじて陸軍の教育将校に配布する予定だったパンフレット55,000部をワシントンの倉庫に引っ込めてしまったのです。
いったん収まりかけた騒ぎに再び火をつけたのが、下院軍事委員会の委員長でケンタッキー選出のアンドリュー・メイ議員です。3月6日、彼は南部選出議員の声に押され、改めて陸軍への配布を全面的に禁止するように訴えました。しかし、彼の行為は逆効果を生んでしまい、反対に40あまりの学術団体が、パンフレットの内容は客観的事実を述べておりデモクラシーに貢献する内容だと反論したのです。
マス・メディアも、メイ議員の行為は自由や真理を妨害隠蔽するものだと全国に報道した結果、さまざまな団体がパンフレットを大量に買い上げ、陸軍のみならず国会議員、市民一般にも配布することになりました。特に教会関係者は南部各州に集中的にそれを配布しました。おそらくメイ議員はパンフレットを詳しく読まず、配布中止になった理由もよくわかっていなかったに違いありません。
あわてた彼は3月中に配布を止めなければ、パンフレットが書かれた政治的背景を暴露すると脅迫めいた発言をしています。選挙を目前に控えていたメイ議員は、白人有権者にアピールしようと必死でした。実際には前の選挙で黒人から7000票を得たおかげで当選したにもかかわらず、追い詰められた彼はどうしてもパンフレット配布を禁止する理由が欲しかったのです。
そこで軍事委員会の小委員会で、南部選出の同僚ダラム議員にパンフレットについての秘密審議を要求させ、パンフレット作成の意図が不明確で配布に値しないという強引な報告を引き出しました。誤解、中傷だらけの報告であったにもかかわらず、メイ議員は南部選出の議員を代表して、このパンフレットは「共産主義のプロパガンダ」だと決めつけたのです。
「人種主義」の方は高く評価されたにもかかわらず、同じ内容がパンフレットになっただけでなぜこれほどまでに非難されたのでしょうか。南部の議員たちの不満は北部の黒人の知能が南部の白人と変わらないという分析内容にありました。彼らはさまざまな反論をしてみました。
たとえば、このパンフレットの内容は同棲や異なった人種間の結婚を拡大させるであろうとか、著者は共産主義者がよく利用するトピックス、たとえば政治、社会学、労働組合にとらわれて客観性をなくしている、などと難癖をつけ、あげくの果てに挿画のアダムとイブの二人の姿にへそがあるからけしからんなどと「反論」しました。この一見他愛もない苦情のかげには、さらに合理的な動機が隠されていました。
それは、知能の差は環境の問題だとはっきりいわれると、北部に比べて南部では教育費をはじめとする福祉予算が少ないという印象をパンフレットが与えることになりかねず、結局は議員の能力が問題にされることになり困るというものでした。結局、Races of Mankind のパンフレットは百万部以上売れ、広い範囲での知識の普及を達成することができました。そして後にマンガ、教育用の映画、子供の絵本、高校のテキスト、新聞や雑誌の短い記事などとしてこの内容が活かされました。
しかし、皮肉なことに、ベネディクトはそのために逆に差別の根強さを知らされることになりました。憎しみいっぱいの手紙が届き、ユダヤ人やニガー(黒人を指す差別用語)びいきだと非難されたり、国会では共産主義の布教者と呼ばれました(Congressional Record ≪米国の連邦議会議事録、上院≫1944年、4495-4500頁)。パンフレットで述べられた、不平等による恐怖とスケープゴートづくりから人種差別が起こるとの指摘が、見事にベネディクトとウェルトフィッシュにはねかえってきました。
共産主義への「恐怖」が政治的に利用され、彼女たちが非難されました。ベネディクトは1943年6月から合衆国戦時情報局につとめ、そこで「菊と刀」のベースとなる研究を行うことになるのですが、着任後まもなく政治信条に関するさまざまな調査がおこなわれ、数ページにわたる回答を求められました。客観性を守ったベネディクトは最終的に信頼に足りる人物と保証されましたが、偏見に真正面からぶつかっていく彼女の勇気は一部の人々には恐怖でさえあったに違いありません。
しかし、ベネディクトに関するでっちあげは終わりませんでした。戦後、マッカーシズムのもとで反共感情が高まった1952-53年、共著者のウェルトフィッシュは2回も上院国家保安委員会で「破壊活動のプロパガンダ」と烙印されたパンフレットに関する審議に応じなければならず、すでに亡くなっていたベネディクトの政治信条までも問題にされたのです。このような出来事は差別を支える迷信の強さを象徴しています。
ベネディクトが明快に説明した迷信そのものが、彼女を叩くために使われてしまいました。しかし彼女の科学的なアプローチへの強い信念は、戦後に日本研究の古典となった「菊と刀」を生む原動力となるのです。以上のようなトラブルが起こっていた時、ベネディクトはもうすでにアメリカの戦時情報局(Office of War Information)で働いていました。大学でのぎくしゃくもあったため、1943年に情報局での文化研究を依頼された際にはすぐイエスと返事しました。
しかし、戦時情報局員が「赤」といわれることは重大と受け止められました。先に述べたようにベネディクトの潔白は証明されましたが、国のためにできるだけ科学的で客観的なパンフレットを出したのに、政治的な理由で迫害を経験し、改めて差別やデタラメのプロパガンダの恐ろしさを知ったのでした。
米国戦時情報局
ベネディクトは戦時情報局でまず東ヨーロッパとタイ、ビルマを調べて、その文化的特徴のレポートをまとめます。彼女は日本という敵国を研究するために情報局に雇われたのだとよくいわれますが、これは間違いです。おそらく、本人は局に入った時、そのうちに日本文化を研究対象にするなどとは予想もしていなかったでしょう。最初の一年間、彼女は敵国と味方の文化を研究しました。
何故、味方のことを調べる必要があったのかといいますと、アメリカの軍隊がいずれその国にお世話になる時、文化的な違いによって変なトラブルが起こると必然的に「国際問題」になるからです。例えばオランダでアメリカの兵士がかわいい女の子を気軽にデートにさそうかも知れません。当時のオランダでは彼女の家まで迎えに行ってご両親に挨拶をすれば、たいてい結婚を申し込んでいるように受けとめられ、大きなトラブルにエスカレートする可能性がありました。だから、このような基本的な文化知識を軍隊のリーダーと兵士のために用意する必要があったのです。
当然、戦争中なのでベネディクトはそれぞれの国に行って調べることができません。そこで彼女は、オランダやルーマニアについて調べる際には、その国で育った人、あるいはその国で長く生活をしたことのある人に面接をしたり、アンケートに答えてもらったりして、できるだけ「生」に近いデータを収集しようとしました。もちろん、それぞれの国について参考文献を読み、歴史、習慣、制度、儀礼、文学等も調べながら調査に挑みました。だから、ベネディクトは現地でフィールドワークができなくても、かなりよいデータを集めるコツをこの仕事の間に覚えました。その後の研究対象には、ルーマニア、タイ、ビルマ、北欧、ドイツ、オーストリア、中国、ポーランドなどが含まれました。
海外戦意分析課 (Foreign Morale Analysis Division)
1944年に入ると、戦争の中心がだんだんヨーロッパから太平洋の方へ移ります。そこで日本という敵国について情報を集める必要性が生じ、夏から海外戦意分析課が設立されます。ここでは日本の軍隊と市民はいつまで戦う気かを予想することが仕事の中心で、文化人類学以外にも、政治学、社会学、心理学、日本のことをよく知っている日系人などの専門家310人ぐらいが集まって課が構成されました。ですから、ベネディクトが一人で日本のことを調べていたのではなく、大きな研究チームで行いましたので、早いペースでたくさんの情報を処理することができました。
海外戦意分析課では、主に海外で捕虜となった日本の兵士の面接データを分析して日本人の考えていることを想定しました。例えば、日本人は天皇についてどう考えているかということも大きな課題でした。何千人のデータのうちの3000人ぐらいが天皇について何かをコメントし、そのうちたったの7人しか悪口を言っていません。ここから日本人にとって天皇が大変重要な存在であることが判明しました。連合軍にとって天皇はヒトラーのような存在で、当然死刑にすべきだと信じていました。
しかし海外戦意分析課では、天皇を死刑にすれば日本の社会的秩序が一気になくなるだろうと予測しました。ちょうど終戦前、天皇の問題をどう扱うかを決める会議が行われ、情報局の代表として出席したのがレナード・ドゥーブ(Leonard Doob)という人だったのですが、彼女はベネディクトのことをよく知っていたしその判断力を尊敬していましたので、ベネディクトに相談しています。
ベネディクトは、天皇を死刑にすれば日本人は絶望的になる、ヒトラーと同じように扱うことは事実の単純化にすぎない、などとアドバイスをしました。結局、会議ではプロパガンダで天皇の悪口を言ってはならない、天皇の死刑は占領に悪影響をもたらすだろうという方向づけがなされ、天皇を特別扱いにする結論となりました。戦後「タイム」誌にベネディクトの記事が載せられた時、見出しは「彼女が天皇を救った」(She saved the Emperor)となっていました。
ベネディクトがどこまで決定に影響を与えたのかはっきりしませんが、そのアドバイスが何らかの形で高いレベルに届いたに違いありません。海外戦意分析課には捕虜の面接以外にも、日本の新聞やラジオ放送、兵士から没収した日記や手紙、あるいはときどき入ってくる軍事機密などの情報が、連合軍の最新情報とともに入ってきました。課では「日本人はどこまで戦う気か」を分析しながら、日本の兵士に「早く降参しよう」というパンフレットやチラシをまきました。
日本人に最も説得力のあるメッセージとはどんなものかを探るのも海外戦意分析課の仕事でした。そこでベネディクトは主に新聞報道やラジオ放送を担当していました。アメリカでは日本人はわけの分からない人たちで、天皇のために自分の命がなくなるまで戦う恐ろしい敵だ、というイメージが非常に強かったのです。この「わけのわからない日本人」を説明するために、他の研究者は日本人の性格が強迫的なので攻撃的になる(Gorer 1942; LaBarre 1945)とか、アメリカの10代の青年と同じぐらいの精神年齢なので、10代の青年として調べたらわかるだろうとか、暴力団の心理に似ているからギャングと比較できるだろう(Mead 1944)とか、まさに「訳の分からない研究方法」を用いて日本人の性格を解明しようとしました。
つまり、西洋社会で発達した理論や方法を、西洋社会で適用する心理学的な方法と同じように、日本社会に適用しようとすれば、当然、結果的に日本人は「アブノーマル」に見えてきます。しかし、ベネディクトは自分のそれまでやってきた文化人類学の研究から、日本人には安定した文化的なパターンがあるとわかっていたので、日本人の行動をアブノーマルなものとして受け取るのではなく、日本人にとってその行動にどのような意味があるのかということを探ろうとしました。
レポート25号
情報やプロパガンダについてベネディクトは多くのレポートや覚え書きを書きましたが、戦争が終わりに近づくと、戦後の日本の占領政策についても考える必要があることが明らかになりました。そこで海外戦意分析課では日本人の基本的な文化的行動、あるいは文化的パターン、価値観についてのレポートがあれば大変役に立つだろうと考え、その専門家として認められていたベネディクトにレポートの作成を指示しました。レポートは最終的に57ページとなり、「レポート25号-日本の行動パターン」(Report 25: Japanese Behavior Patterns)というタイトルがつけられました。
そこでは恩と義理、義務、人情というキータームについて論じられていますが、このレポートが後に書かれる「菊と刀」の原型となります。ベネディクトが海外戦意分析課に入ったのは1944年9月上旬で、このレポートが提出されたのは終戦前でした。つまり、ベネディクトが日本文化を研究できる期間はたったの1年間、しかももっと驚くべきことは、このレポートがわずか2カ月ぐらいで書き上げられたことです。
レポートの日本語訳は最近出版されましたが(「日本的行動パターン」NHKブックス、1997年)、今までその存在についてはあまり知られていなかったのです。ヴァッサー大学の図書館とアメリカの国立公文書館に今でも保存してありますが、「菊と刀」の完成度が高いので調べる必要はないと多くの人が思ってきたようです。しかし、この資料が掘り起こされたことによって、「菊と刀」がさらに面白く読めるようになったと感じます。
情報局で、ベネディクトは限られた情報で、短い間に、様々な文化の特徴を分析する「練習」を重ねていきました。情報を理解するために、まずいろいろな文献で調べてから面接調査でその情報を確認しました。日本文化を研究する際に、彼女が特に頼りにした日系人がロバート・ハシマ(Robert Hashima)です。同僚のハシマはベネディクトがなくなってからその追憶を書いています。
それによると、ベネディクトは夏目漱石の「坊っちゃん」を読んだ時に日本人の文化的な特徴についてヒントを得たそうです。彼女は日本人の倫理システムを明らかにしようとしていましたが、そのベースとなっているものは、恩と義理と義務の複雑な関係だと考えついたのでした。彼女は早速ハシマにいろいろ具体的な質問をしました。まず、彼女はカギとなる概念について日本語で何というのかと聞き、その言葉がどのような文脈において使われるかを確かめました。
彼女は英語に訳された、英語の意味のままで受け取らないで、日本語とその言葉の意味を日本人と同じように理解しようとしました。そして、ハシマ自身の体験の中で、この恩と義理と義務関係に関するエピソードがあればそれを教えてくれと頼みました。ハシマだけでなく、他の日系人や日本に住んだことのある人にもこのような質問をしました。「菊と刀」を読むとたくさんの具体例がでてくることに気がつくでしょう。
また、彼女は日本の映画を資料として利用することもありました。映画を見る時に日系人と一緒にみて、彼らが自分と違った反応をする箇所があるとそこをマークし、後で何故日本人がそのような反応をしたのかを探りました。それで、日本人とアメリカ人との根本的な違いについていろいろ理解することができました。ベネディクトはたえず情報をできるだけネイティブに近い人に確認し、あるいは海外戦意分析課の専門スタッフと相談しながらこのレポートを書きました。
だから、レポートはチームによって書かれたと言ってもいいでしょう。「菊と刀」の下書きを見ますと第一章ではまず「I」(私)とタイプしてありますが、彼女はその第一章のすべての「I」を鉛筆で「WE」と書き直しています。つまり、このチームで書いたよということを示したかったのだと思いますが、最終的に出版社は「I」のままにしておくことにしました。
この「レポート25号」と後に書く「菊と刀」には異なるところがいくつかあります。まず長さがずいぶん違いますので、同じものではないことがすぐわかります。「菊と刀」では、最初の部分、研究方法と歴史的背景という部分、それから最後の子供のしつけに関する「子供が学ぶ」の各章と最終章を後からつけ加えています。それは一般読者のために日本の歴史的な事情や子供の性格形成などを示そうとしたのです。
そうすることによって、今まで恐ろしい敵だった日本人は、「訳の分からない奴」ではなく理由があって行動をする人間なのだ、という説得力のある説明が可能になりました。「菊と刀」を書いた目的は、敵の日本人が実はアメリカ人と同じような人間だということを普通の人に理解してもらうことでした。アメリカの文化的行動についてもたくさんの例をだし、アメリカ人に訳の分からない習慣が多くあっても自分たちの文化的文脈内で矛盾がないように、日本人の一見不可解な行動も日本人にとっては合理的なのだということを知らせたかったのです。
これと比べてレポートの目的は違います。レポートは終戦前に書かれていますので、二つの目的がありました。まず、できるだけ早く戦争を終わらせること、それはもちろんできるだけ人が殺されない方法で。もう一つは、占領軍が日本に入った時に日本人とどのように接したらよいかを明らかにすることでした。そのためには、プロパガンダによって描かれていた日本人像はどこが間違っていたかをはっきりさせる必要がありました。
つまり、日本人はサルだとか、精神的年齢が低いなどのイメージが強かったのですが、そのイメージで終戦後に日本人に接したらトラブルが起こるだけだからです。そこで彼女が強調したのは日本人の責務体系でした。つまり、その恩、義理、義務などの倫理システムを説明して、ほらこれだけ日本人はモラルの高い国民だ、とアピールしようとしたのです。そして、日本人は状況に応じて行動を変えることが得意なので、きっとこれから平和な世界をつくるために働いてくれるに違いない、とレポートの最後で主張しています。
つまり、ベネディクトが言いたかったことは、日本人は一応、理由があって戦争を起こしたのであり、それに対して「アメリカが正しい価値観を教えてやる」という態度で占領したら、何も改善されないということで、できるだけ日本人の立場を理解した上で改革などをめざすべきだということを占領にかかわる人々に印象づけたかったのです。結果から言うと、レポートのメッセージはアメリカ側にもうまく受け入れられ、日本でも「菊と刀」が今でも読まれ続けられているところをみれば、ベネディクトが日本人の行動についてカギとなるところをついていたと言ってよいでしょう。
 
ギアーツの『菊と刀』論

 

アメリカの著名な人類学者クリフォード・ギアーツ(Clifford Geertz)が1988年に Works and lives: the anthropologist as authors (仕事と生活:著作者としての人類学者)という本を著しました。その中でベネディクトに対する論評が行なわれ、『菊と刀』がまないたに乗せられています。
はじめにお断わりしておきますが、ギアーツは非常にユニークな文章でものを書く人で、彼の英文を日本語に翻訳するのはたいへん困難です。どういう意味でユニークであるかということさえ簡単には言い表わせませんが、構文が極端に複雑なケースが非常に多い上に一つ一つの語の概念を限界まで利用するかのような表現が多用されているとでも言えばその難しさの一部を言ったことになるだろうかと思います。そういうわけで、ひとつの日本語訳だけを見て彼が言ったことを理解したつもりになるのは一種の冒険と言ってもよいのではなかろうかとさえ思われます。
ギアーツのその本のことを以下では『仕事と生活』と呼ぶことにします。その本ではレヴィ=ストロース、エヴァンズ=プリチャード、マリノウスキーおよびベネディクトという有名な人類学者が論評されています。どの章のタイトルもひねったものですが、ベネディクトをとりあげた第5章の場合もそうで、‘Us/Not-Us: Benedict's Travels’というのです。それは一見したところ「われわれ対われわれでないもの:ベネディクトの旅」ですが、‘we’でも‘our’でもなく‘us’としたのは、おそらく‘see’とか、‘observe’とか、‘interpret’とか、‘understand’といった他動詞の目的語になる場合のことを言い表しているのでしょうが、それだけではなく‘United States'(合衆国)にひっかけてあるのです。しかもいま「対」という日本語にしたのは、‘versus'というような双方を対等に見る語ではなく、分数の記号‘/'で、そしてその分母は‘Not-Us'です。したがって‘Us/Not-Us'というのは、「合衆国でないものを基準にして見た合衆国」というようにも読めます。むしろこの読み方の方がその第5章での論述をよりよく反映しているとさえ言えるのです。
筆者はその第5章についてのコメントを述べようとしているのですが、先に言ってしまうと、その章には非常にすぐれた一面と、立派な学者らしくもないと思われる一面とが共にあるように筆者には見えます。まず前者から明らかにしましょう。
非常にすぐれた一面
第5章はベネディクトに対する論評ですから、当然、『菊と刀』ばかりでなく『文化の型』および数編のモノグラフをも視野に入れた論述がされています。それらを通じて彼は、ベネディクトをジョナサン・スウィフト(「ガリバー旅行記」の作者)になぞらえています。
スウィフトの作品と同様に、……ベネディクトの著作においても、文化的に身近なものが異様で気まぐれなものとされ、文化的に遠いものが理にかなった、そして直截なものとされている。われわれ自身の生活の諸形態は、見慣れない人々の見慣れない習慣となる。どこか遠い所 ― 現実のであろうと想像上のであろうと ― に見られる生活の諸形態は、環境のありようによっては当然に行なわれることなのだ。むこうがこちらを困惑させる。われわれでない人びと(the Not-usつまりU.S.でない人びと)がわれわれを狼狽させる。
しかしながら両者はまったく同じというわけではありません。スウィフトの場合には「風刺」という言葉がぴったりと当てはまりますが、ベネディクトの場合には、ある意味では風刺と言えなくもないのですが、やはり違います。それは、ギアーツによれば、次の理由があるからです。
しかし、ベネディクトの業績に行きわたっているトーンは高度に真面目なものであって、どう見ても嘲りではない。彼女の文体は、その目的が人間的な虚飾を覆すことにあったという意味ではたしかに喜劇的だし、また態度は世俗的であるが、それでもその調子は命がけの真剣さから出たものである。彼女のアイロニーは誠実そのものである。
その「命がけの真剣さ」で日本の文化の型を探究したとき、誰にも真似のできない著作が現われたのです。ギアーツはそれについてこう言っています。
ベネディクトの書物の偉大な独創性(もちろん、その源泉は彼女の知性と戦争中の情報宣伝活動という任務にあった)と、そしてその書物に対して最も厳しい批判を加えた人さえ感じた力の基礎は、次の事実の中にあった。すなわち彼女は、日本及び日本人を解明することを、変な具合に針金で縛られた人たちが住みついている奇妙な具合にできた世界の感覚を和らげることによって行なおうとしたのではなく、逆にそれを強調することによってしたのである。「われわれが知っているとおりの」自分たちを「このように想像される」彼らと対照させるという習慣的な方法は、ここで頂点にまで持ち上げられる。それはあたかも、アメリカ・インディアンやメラネシア人に関する研究が「真に」違ったものの研究の準備体操であったかのような観を呈している。そればかりか、対照化は今やあらわでしかも具体的であり、『文化の型』におけるような暗示的、一般的なものではなく、特定のあの事柄に対する特定のこの事柄になっている。
彼は、その実例として『菊と刀』の中にある数行ないし二十数行の文を七つ引用しました。それらはいずれも第九章「人情の世界」にあり、せいぜい十ページ程度(原書で)の範囲内から引き出されたものです。それでもそこに引用された文を読むと、これでもか、これでもかと言うかのように「日本では…」、「アメリカでは…」また「日本人は…」、「アメリカ人は…」とたたみかけてくる論調を改めて確認させられます。ギアーツは、そのさまざまな主張がすべて十分な経験的妥当性を持っているとは言い切れないことを示唆し、そこに使われているものについては「われわれでない人々と対比されるわれわれというモチーフが、全般的な信任かさもなくば同様に全般的な懐疑かという二者択一を迫るひたむきさのようなものを伴った広範囲のごちゃまぜの源泉(伝説、映画、日本人移住者と戦時捕虜へのインタービュー、学術論文、新聞記事、ラジオ放送、“古文書”、小説、議会での演説、軍事機密報告)から抽出された広範囲のごちゃまぜの材料の膨漠たる領域を通じて追求された」と、好意的とは言い難い表現をしながらも結局は次のように言いました。
しかしながらこの、「彼ら」が変なものに思える例から「われわれ」のほうが変なものに思える例へと移っていくところの、さして長くもない一連の引用からもわかるように、この文化的差異を通り抜けるように圧力をかけられた行進のゆくてには狼狽させるような捻れが現れる。すなわち、そのキャンペーンをコースからちょっと外れさせる思いがけない逸脱である。それは、次の事実の中に立ち現れる。すなわち、航行不能に陥った軍艦を助けたアメリカの提督に勲章を与えて顕彰するのが当然だということを容易に信じない日本人のことから日本人は自殺の中に達成を見ることができるという点を容易に信じないアメリカ人のことに至るあらゆる事をベネディクトが述べていくうちに、どういうわけか日本人のことが少しずつ変なものでないように見えてくるのに対して、アメリカ人の方は、どういうわけか、だんだん変なものに見えてくるのである。実際、「この絵はどこが変なのか」というような問題はどこにも存在しないのであって、それを逆さまに見ている人が居るだけである。そして本の初めではわれわれがこれまでに戦った敵の中で最も気心の知れないものであったのが、その本の終わりにくると、われわれが勝った相手の中で最も筋道の通ったものになる。
この文は『菊と刀』が読者の価値観を転覆させることを言い表わしていますが、このことは見かけよりはるかに大きい問題につながっているのです。それについてギアーツは次のように言いました。
アジア側から見ればつむじ曲がりから実用主義的へ、アメリカ側から見れば穏健さから偏狭へ、硬直性と柔軟性が太平洋の真ん中あたりで入れ替わるという、この奇妙な道が、『菊と刀』において語られる物語の本当の筋である。もっとも、もう一度言っておくが、それは筋道の立った話と言うよりはむしろ実例と心証の説教という形を取っていると言う方が当たっている。東洋的神秘を解明しようというありふれた試みとして始めたものが、西洋的明晰さの、avant la lettre[文字以前の]、余りにも見事な脱構築だけに終わったのである。結局の所、『文化の型』の場合もそうであったが、われわれにとって不思議に思われることがある。お告げ下さいと祈るのは、われわれの確実性は何に依拠しているのかということである。明らかに、それがわれわれ自身のものだということのほかにはどれほどのものもない。([ ]訳者補記)
ギアーツが『菊と刀』をどう読んだかということを問うとすれば、西洋的明晰さが依拠しているものを疑って、明晰と思われていたものを脱構築するという概念が導き出されたこの部分が最も重要です。おそらくそれはベネディクトが初めから狙っていた事であろうと思われます。それは、ギアーツほどの人物であって初めて見抜ける事です。このことはおおいに評価すべきだと思います。
日本人は、そういうものを見ずに、直接言及されている自分のくせや欠点ばかりに気を取られていたのです。日本人には、すでに自分が知っていることをベネディクトがどう書いたかということにしか関心が持てなかったのです。言い替えると、自分の心の中の「地図」にすでに載っていること、更に言えば過去と同一視できることしか見ようとしなかったのです。
学者らしくない一面
すでに見たようにギアーツの書いたことのいくつかはたしかに正鵠を射ていますが、筆者は、彼の所論の全部を無条件に信じることは避けるべきだと思います。彼が事実の認識において間違いを犯したことは、次の文を見れば分かります(長い引用になりますが、誤解を避けるためですからご容赦ください)。
この内気で、礼儀正しく、どちらかといえば欝気味な、どちらかといえば高慢な、そしてどのように言い表しても良いが正気とだけは言えない女性が、耽美的人間行動観に最も活動的な社会科学の衣装(疎外の感覚、結合への欲望、確信への意志、人類学でさえ取り除くことのできないキリスト教的理想主義)をまとわせたいと望んだとしても、それは彼女の個人的生活の霧の中に見失われてしまう。しかしながら、子育ての章に入ったとたんにそれまでの自信に満ちた記述的表現形式からはるかに自信のない因果的表現形式に移っているところを見ると、彼女はそうすることにまるっきり安住していたのではないことが分かる。階層社会や、道徳的負い目や、「人情の世界」や、また修養に関する日本人の考え方を論じた中程の諸章は引き締まって論点の整理されたものものであるが、そこでは、あらゆるものが、何等かの慣行または感覚または確信または価値を文脈の中で意味を持つように、少なくとも日本的な意味を持つように、ある型の中に位置づけるということに尽きている。同じ本の中で最も長く、最も散漫な「子供は学ぶ」という章では、プロジェクトはメカニズムの探索へ、特徴的な社会化の慣行へと方向を変える。その慣行は、あたかも熱が沸騰あるいは火傷を起こすように、日本人が「笑われることに耐えられない」とか、手入れが行き届いていない庭園を嫌うとか、鏡をご神体としてまつるとか、神様が慈愛に満ちていると信じるとかいうことの理由を説明できる心理学的性癖をもたらすものである。形の話が混乱してレバーの話になる。
もちろん、ここでレバーと言うのは、悪名高いとは言わないまでも、おなじみのもの、すなわち幾重ものおむつ、愚弄する母親、同輩グループのいじめである。ところがここで興味深いことにそれらは、その本の他の所ではまるで気密になっているかのように知的独立独歩なのに、大部分が彼女自身のものではないのだ。おむつをかゝせる仕事のことは事実上あたふたと語っているだけであるが、もちろんジェフリー・ゴアラー(Geoffrey Gorer)から得たものである。イギリスの熱狂者ゴアラーは、ベイトソンがワシントン・サークルから退いた後にミード(Margaret Mead)がコロンビアへ連れてきた人物である。ベネディクトは、どちらかと言えば冷静に、「日本人のトイレット・トレーニングの役割を強調した」人物の一人として彼のことを参照しては居るものの、気前のいい「謝辞」からは感動的と言っても良いほどに彼を無視したのである。子供をからかう仕事(子供は繰り返し見捨てられたり、抱きしめられたりする)についてはもっと多くのことが言われているが、それはベイトソンとミードがバリ島について書いた1942年の論文からの借用であり、元の論文ではそれは全編におけるテーマであった。そして同輩グループのすることも、またもやゴアラーの戦時レポートからの借用で、これについては最小限の引用が行われた。
これら借り物の考案物は不手際に持ち込まれ、不細工に応用されているが、そういうものがベネディクトの本にとって外在物であることはその章自体の進行を見れば分かる。すなわち難儀しながらそれらの間を通り過ぎると、ほっと漏らしたため息が聞こえてくるほどの調子で、結論に向けての描写 ― 満開の桜、茶会、日本の人々の漆塗りの生き方 ― に立ち帰っていく。だが、そういう過程の緊張を最もよく表していると思われる描像は、またもやマーガレット・ミードからもたらされる。ミードがベネディクト没後約十年を経てから書いたところのベネディクトとその著述に関する書物は、主として―復讐をこめて、先輩をあたかも後輩であるかのように見せながら―その年上の女性のペルソナを自分の内に取り込もうとするものであるが、その書物の中でミードは、それ以外の点では聖者伝的であるにもかかわらずそこに限って、憤慨した、そして怒りに満ちたとさえ言える調子で、『菊と刀』がなぜあれ程までに成功したのかを述べている。
そして彼は、ミードが1959年に発表した Anthropologist at Work から次の文を引用しました。
ルース・ベネディクト自身は、彼女が用いた方法から世界の安全への有用性に向けて完全に転向させられた。それと同じ方法について他の人が書いたいくつかの詳細な説明は、読者を敵にまわした。というのは、読者に不快感を抱かせるものとして鳴り響くところの洞察を導き出す方法をむき出しにしたからである。彼女自身が精神分析的方法に依存しなかったこと ― この場合について言えば、彼女にとっては何の意味もなかったところの身体部位への依存が行なわれなかったという意味である ― は、その本を読者にとって心地よいものにした。その読者たちは、今は誉めているが、ジェフリー・ゴアラーが1942年に最初に日本の天皇に関する洞察を初めて言い出したときにはそれに逆らったものであった。更にまた、彼女がアメリカ文化に関して同世代の大半のリベラルと共有していた懐疑的態度は、リベラルが日本文化の徳に対する彼女の同情的な理解を受け入れることを可能にした。それというのも、自国の文化に対しても同様に同情的な態度を取ることを強制されているという感じを持たずに済んだからである。そしてこれはまた、そういう懐疑的な態度の強くなかった人類学者たちの進路にあった邪魔物を取り除いた。大佐が将軍に、また 艦長が提督に、「唐人の寝言」への怒りをぶちまけられることを心配せずに言及できるのはこの種の本であった。そしてまた「長髪のインテリどもが言うこと」を頭から警戒して掛かる議員先生に手渡しても安全なのはこういう本であった。論点はたいへん優雅に、またたいそう説得力を持つようにまとめられているので、その本は、左翼思想に凝り固まっている人とか、自分自身の日本に関する経験から永年にわたって培われてきた、たいそう明晰な、そしてたいていは不完全な知識を持っている人 − 別の文脈では「古くさい中国通」と言われるような人々は別として、ほとんどすべての仮想敵を武装解除した。
この文が「憤慨した、そして怒りに満ちたとさえ言える調子」と言うには当たらないこと、そして「この内気で、……」に始まる引用文のどこが事実と食い違っているかということについては以下に話しましょう。  

 

第1は、ギアーツは「子供は学ぶ」の章を正確に把握したのだろうかということであり、第2は、ギアーツが引用したミードの文は、本当に「憤慨した、そして怒りに満ちたとさえ言える調子」だろうかということです。これらを追究すると、一見精緻なギアーツの議論にも案外雑な所があることがわかります。
まず第1点から見ていきましょう。筆者には、ギアーツが「子供は学ぶ」の章を正確に把握していなかったように思われます。彼に言われる迄もなく、『菊と刀』の中でベネディクトが最も苦心して書いた章が「子供は学ぶ」であることは明らかです。それは、第一章「研究課題 ― 日本」で、「私は彼らの子供が育てられてゆく過程を見ることができなかった」ということが「非常な不利」の一要素として挙げられているのを見ればわかります。しかしだからといって、彼女がゴアラーやミードの業績を盗んだかのように言うのは正しくありません。
育児の問題に関して彼女が遭遇した「非常な不利」は、具体的に言うと次のようなことでした。だいいち、伝統的な子育ての方法などというものは誰一人印刷物に載せようなどとはしなかったのです。そんなものは親から子へ、姑から嫁へと、実行と口頭の伝達で教え、教えられるものだったのです。そしてたとえ外国人に質問されたとしても、その時行なわれる説明は必ずおおまかなもので、決して細部 ― ベネディクトにとって細部こそ重要であることは第一章で強調されています ― は言語化されません。細部は実行されているところを観察するしかありません。ところが彼女は多くの困難な課題を早急に解決しなければならず、育児の観察だけのために何週間というまとまった時間を費やすわけには行かなかったと考えられます。
その時すでにゴアラーが日本人の育児方法に関するデータを持っていたのです。そのデータは、北米東海岸に居る日本人に面接して得たものでした。こういう場合にベネディクトがそのデータを利用したのは、ゴアラーの名前を出してのことでもあり、決して非難されることではありません。
はっきり言っておきますが、ベネディクトはゴアラーが収集したデータを利用したのであって、決して彼の仮説を取り入れたのではありません。ところがギアーツには、彼女がデータだけでなく仮説も利用したように見えたのです。それで「子供は学ぶ」の章の育児に関する記述が「これら借り物の考案物は不手際に持ち込まれ、不細工に応用されている」などと言ったのですが、それはギアーツの重大な誤認です。
ギアーツはゴアラーの仮説の内容に言及しませんでしたが、その内容を『菊と刀』と比較し、検討すれば、ベネディクトとゴアラーのどちらがより高い知的水準に居たかは明らかになりますし、彼女が謝辞を述べなかった理由も分かるのです。その話をしましょう。 ゴアラーが掲げた仮説は次の通りです。ただし、筆者はその原文を手に入れていないので、ここに掲げるのは加藤秀俊(編)『日本文化論』(近代日本の名著13)〔徳間書店(1966)〕に収録されているところの、G・ゴアラー(著)、山本澄子(訳)「日本文化の主題」に含まれている文です。
これらの仮説は、社会人類学、精神分析、および刺激−反応に関する心理学の諸原則からみちびき出されたもので、社会科学の統合理論の最初の試みであることを示している。これらの公式は仮説的であることをまぬがれない。それは十二ある。
(一) 人間の行動というものは、理解することのできるものである。どんなに辻褄のあわないバラバラの事項があらわれたとしても、どのような観察された行動も、十分な証拠さえあれば説明することができる。
(二) 人間の行動は、おもに、学習によるものである。幼児はいくつかの本能をもって生まれる。生存するためには、それをどうしても充足させなければならないような基本的衝動をもって生まれる。そしてまた、幼児が生まれついた社会の、他のメンバーから受ける処遇というものがあり、環境の影響も受ける。それらが成人の行動形式にとって、非常に重要な役割を果たすのである。(この点、日本人の遺伝的特質は、ほかの人類集団とくらべてみて、生まれつきの心理学的なちがいはないと、常に仮定していることをことわっておきたい)
(三) すべての社会において、同じ年齢、性、身分にある個々人の行動は、同一の状態におかれるならば、相対的に画一性を示すものである。これは、非公式な非言語的状況においてもあてはまることである。
(四) すべての社会は、その社会が理想とする成人の性格(ないしは、性と身分にもとづく諸性格)をもっている。それは、両親が賞罰の対象にするような子どもの行動の項目を選択するうえで、たいそう重要である。
(五) 習慣は、賞罰を区別することによって形成され、それは社会の他のメンバーによってあたえられるものである。
(六) 人生の初期に形成された習慣は、すべて、後の学習に影響を与える。したがって、乳幼児期体験は、いちじるしく重要なものである。
(七) 乳幼児期におけるおもな学習は、飢え、適温への要求、苦痛回避、性と排せつ、および、(たぶん学習によるところの)恐怖と怒り(不安と攻撃性)などの、生得的な衝動を抑制し修正することからなりたっている。そして、このことは、社会のおとなたちから要求される。その結果、彼らに課せられるこれらの抑制のタイプについての知識や、その方法、時期は、成人の行動を理解するうえで、大きな重要性をもっている。
(八) どこでも、子どもに賞罰を与えるのはたいていその両親であるから、父母およびその度合は少ないがきょうだいに対する子どもの態度は、あとになって出合うすべての人びとに対する彼の態度の原型になる。
(九) 成人の行動は、つよい生理的ストレスがないかぎり、一次的な生物的衝動の上に重なっている。学習による(二次的・派生的)衝動や欲求によって動機づけられている。
(一〇) これらの欲求の多くは、非言語的で、無意識的なものである。そのわけは、これらの欲求が動因となるような習慣を形成する賞罰が、乳幼児期に与えられるからでもあり、また、これらの欲求を口にだしていうと、ひじょうに重い罰を受けるからでもある。この仮説の系としていえることは、人々には、その動因を言葉に表現できないことが多く、実際においては、ある一定の状況にあってどんな満足が得られるかは、観察して推測しなければならないということである。
(一一) 初期のしつけによって得られたこれらの諸欲求が、国民の大多数に共有されるとき、それらを充足させるために、同時に、いくつかの社会制度が発達する。そして、既存の社会制度や、他の社会からの借りものの制度は、一次的な生物衝動の満足をさまたげないかぎりで、これらの諸欲求に適合するようつくり変えられる。
(一二) 同質文化内においては、支配と従属、服従と傲慢というパターンは、家族から宗教・政治の組織にいたるすべての局面で、ある一貫性を示す。また、その結果、これらの制度のすべての中で要求される行動型は、相互に補強しあう。  

 

これは、ざっと見た感じとしてはベネディクトの考え方と似ているように見えるかもしれません。たとえば(一)は『菊と刀』の第一章にある「さらに私は文化人類学者として、どんな孤立した行動でも、お互いに何らかの体系的関係をもっている、という前提から出発した」という言葉に対応していますし、(二)の冒頭の「人間の行動は、おもに、学習によるものである」は、同じ章にある「…人間の行動というものは日常生活の中で学習されるものであるという、人類学者の前提…」とそっくりです。更に(三)、(四)及び(五)もベネディクトの考え方との間にほとんど違いがないと言っても良いと考えられます。しかしながら(六)以下については、話は全く別です。「子供は学ぶ」の章にある次の文は、十分注意しないと(六)とあまり違わないように見えるかもしれませんが、それは似て非なるものです。
嬰児がこのような容赦ないしつけを通じて学ぶ事柄が、やがて成人してから、日本文化のもっと複雑微妙な強制に従う素地を作るのである。
ゴアラーの仮説の(六)は、幼児期の経験が直接当人の性格を決定するということを意味していると考えなければつじつまが合わないものです。そしてそれは(七)から(十二)までのすべての基礎になっています。 ところがベネディクトは決してそういうことを認めてはいません。幼児期の経験によって作り出されるのは「複雑微妙な強制に従う素地」であって、性格ではありません。この違いは決して無視してはなりません。簡単に言えば、ベネディクトの説は柔軟で、一人々々の個性を超越して適用できますが、ゴアラーの説は硬直したものであり、いろいろな個性を持った多数の人々に一様に適用してもよいとは考えられないのです。
ゴアラーの失敗の原因は、「精神分析、および刺激−反応に関する心理学の諸原則」を社会人類学に持ち込んで「社会科学の統合理論の構築」をしようという野心的な企てに手を染めながら、社会というものが個人の単純な集合であるかのように考えた所にあります。ベネディクトは、そんな安直な考え方をしませんでした。『文化の型』の第三章にある次の文がそれを明らかにしています。
文化的行動の特質は、それが地方的なものであれ、人為的なものであれ、大きい多様性をそなえたものだとはっきり理解したとしても、それで十分だとはいえない。文化的行動はまた統一されてゆく性質をそなえているのである。ちょうど一人の個人のように、ひとつの個別文化はいわば思想と行動のともかくも一貫したパターンなのである。個々の個別文化のなかで、独自のいくつかの目標がつくられる。それが他の形態の社会と共通のものである必要はない。この目標に沿うように、人びとはその経験をしだいに整序してゆく。そ してこの目標に沿うという意図の強さに応じて、多様な行動の項目はしだいに適当な形態 をそなえるようになる。よく統一された文化において採用されたとき、もっともまとまり のない行為が、しばしばもっとも予想しにくいような変貌をとげて、特異な目標をめざす 行動になっている。こうした行為のとる形式は、なによりもその個々の社会の情緒的、知的な源泉を理解することによってのみ理解することができる。
このような個別文化のパターンの形式を、不必要なディテールであるかのようにみなして無視することはできない。多くの分野で現代科学が主張しているように、全体はその部分の単純な集合ではない。部分の組みあわせとその相互関係が、あたらしい全体をその結果としてつくるのである。火薬はただの硫黄と炭素と硝石のよせあつめではない。自然状態におけるこれらの物質の形状や性質をすべて知っていても、火薬の性質を示すことにはならない。要素のなかには存在していなかったあたらしいポテンシャリティが、合成の結果あらわれてくるのである。そしてその行動様式は、おなじ要素のほかの組み合わせの場合とは、まったく変化したものになってしまう。
「文化的行動はまた統一されてゆく性質をそなえている」という考えに近いものをゴアラーの仮説の中に求めると、(四)が見つかります。一つの社会の成員が共通して持つ理想的人格は、たしかに、その社会の文化の方向付けと関係を持っています。それは、「独自のいくつかの目標」の一つであり得ます。しかし、それだけでベネディクトが言う文化的行動の統一を説明することはできません。親がわが子をその理想的人格に近付けようとすること、そして社会の成員がそれを評価することだけでは彼女の言う文化の型は成立しません。だいいち、そういう理想的人格が何世紀にもわたって変わらないというようなことは、それ自体の性質によって説明できることではありません。そこに何等かの他の要因がなければ、理想的人格などというものは早晩変質するか崩壊するでしょう。これに対して何も言えないということは、ゴアラーの仮説が致命的欠陥をもっていることを意味します。
話を余りにも単純化してしまうという批判が出るかもしれませんが、ゴアラーとベネディクトの違いは社会の目標を単数と見るか、複数と見るかというところにあると言ってもよいと考えられます。先程の、「嬰児がこのような…」で始まる引用文の慎重な言い回しは、ベネディクトが幼児のしつけにおける親の態度を「いくつかの目標」の一つと考えた結果に違いありません。彼女は、それを書くより12年も前に、その目標が複数であることがいかに重要であるかを火薬の比喩によって強調していたのです。
ゴアラーが先に引用した十二ヶ条の仮説を書いたのは1943年、すなわちPatterns of Culture の初版が出てから9年も後のことですから、上に引用した「文化的行動の特質は… 」に始まる文の内容を知らなかったとは考えられません。彼はそれを全く理解していなかったか、そうでないとすれば無視したのです。ベネディクトがそういう人に謝辞を書かなかったのは当然でしょう。
ギアーツはこの点に気が付かなかったのです。これは、彼が「嬰児がこのような…」で始まる文の意味を取り違え、それがゴアラーの仮説の(六)と同じだとと考えていたことを意味します。このことは、前回引用した長い引用文の最初の段落で述べられたことによって確認できます。彼は、ベネディクトが日本人の「笑われることに耐えられない」とか、手入れが行き届いていない庭園を嫌うとか、鏡を御神体としてまつるとか、神様が慈愛に満ちていると信じるとかいう態度を「心理学的性癖」として説明したと思っています。もし彼の言う通りだとすればベネディクトの方法はゴアラーの方法 ― 精神分析の真似事 ― の同類であったということになります。しかし実際には、ミードも認めているように、ベネディクトは精神分析的方法に依存していたわけではありません。彼女は独自の方法論に従って論を進めているのであって、「子供は学ぶ」の章では、今し方『文化の型』から引用した文で言われているところの「経験をしだいに整序してゆく」過程が説明されているのです。これを精神分析的方法だと思って見れば不手際あるいは不細工に見えたかもしれませんが、それは見る方が間違っているのであって、ベネディクトがくだらない事をしたのではありません。
第2点に移りましょう。ギアーツが引用したミードの文は、本当に「憤慨した、そして怒りに満ちたとさえ言える調子」でしょうか。そのように見えるのは、ベネディクトの物事を分析する能力が他の人々(たとえばゴアラー)と大差ないという前提を認めた場合に限られるのではないでしょうか。その前提を疑わない人がその引用文を読むと、1942年にゴアラーが言い出した説をベネディクトが剽窃し、それをミードが暴露したのだと思うかもしれません。しかし、先ほど筆者が指摘した事 ― ゴアラーの能力がベネディクトと比較できるようなものでなかったこと ― を知っている人はそう思わないでしょう。仮にゴアラーが天皇に関して言った事が後にベネディクトによって『菊と刀』に掲げられた事と外見上似ていたとしても、その各々を支える理論の強さが比べものにもならないことは明かです。
こう考えると、ミードが書いたのはやましい行為の暴露ではなく、単なる事実の記述にすぎません。一見同じ趣旨の記述がされているように見えても、ゴアラーが書いたものは理論的裏付けが貧弱なために読者に不快感を持たせ、反発されたが、ベネディクトが書いたものはしっかりした理論的裏付けを伴っているので歓迎されたのです。こういう場合に、たとえゴアラーが先に書き、ベネディクトが後から書いたとしても、ベネディクトがゴアラーの業績を盗用したかのように言うのは正しくありません。ある言明が理性によって裏付けられたものであるか否かは、学問の世界では決定的に重要です。しっかりした根拠を伴わずに書かれたものと、それを伴ったものとの間には、ガラスとダイアモンドほどの違いがあります。ミードはそのことをよく知っていたと思われます。だからこそ彼女は Anthropologist at Work を「聖者伝的」に書いたのであって、ギアーツによって引用された部分もその基本線を踏み外したわけではないのです。それでも、ベネディクトの能力が他の人々のものと大差ないという偏見を持っている人の目には「憤慨した、そして怒りに満ちたとさえ言える調子」に見えたのかもしれません。
このように、ギアーツは『菊と刀』に対して大きい誤解をしましたが、一方では、他の人ではできないと思われる高い評価を与えました。全体としては、彼は『菊と刀』を肯定的に読んだのです。
  
「愛玩」/ 安岡章太郎の「戦後」のはじまり

 

「神話」が砕け散る虚しさ
「戦争」というテーマは安岡章太郎の少年時代及び成年時代そして父親がなくなるまでの壮年時代を題材にした作品の多くに、背景として取り上げられている。そしてそれらの作品を大まかにわけると、「戦中の時代を書いたもの」と「戦後の時代を書いたもの」に二大別できるのではないかと思う。
前者に該当する作品は、「宿題」(1952年発表・「文学界」)「悪い仲間」(1953年発表・「群像」)「蒸し暑い朝」(1961年発表・「中央公論」)「遁走」(1956年発表・「群像」)「相も変わらず」(1959年発表・「新潮」)「肥った女」「青葉しげれる」(1958年発表・「中央公論」)「サアカスの馬」(1955年発表・「新潮」)「質屋の女房」(1960年発表・「文芸春秋」)などであり、後者を代表する作品は、「陰気な愉しみ」(1956年発表・「文学界」)「ハウスガード」(1953年発表・「時事新報」)「ガラスの靴」(1951年発表・「三田文学」)「ジンゲルベル」(1951年発表・「三田文学」)「雨」(1959年発表・「文學界」)「サアヴィス大隊要因」(1954年発表・「新潮」)「海辺の光景」(1959年発表・「群像」)「軍歌」(1962年発表・「新潮」)「家族団欒図」(1961年発表・「新潮」)「愛玩」(1952年発表・「文学界」)などであると考える。
後者の作品の中から、この論文では「愛玩」を取り上げ、安岡氏はいかにこの作品をもって自分の中の「戦後」をシンボリックに表現しようとしたかを探ってみたいと思う。
安岡章太郎の作品のほとんどは自分自身の自伝を題材にとり、それをほぼ忠実に語るものであり、誰の目から見ても、「私小説」的な要素に満ちているが、「私小説」という評価の枠内におさまるものではない。「愛玩」やその他の多くの作品にはその深い想いや主張がシンボリックな形で表現されている。私は他に安岡章太郎の 二つの作品を分析し、その中に含まれると思われるアレゴリーを取り上げた。
この二つの作品とは、「宿題」と「肥った女」である。「宿題」を取り上げたとき(1)、「父親の不在」というテーマに焦点をあてながら、特に戦争ドキュメンタリ映画上映の場面に出てくる数多くのアレゴリーを分析してみたし、また「肥った女」の論文(2)でも女郎の街が「幻想の世界」もしくは「非日常の世界」のシンボルとして象徴されたのではないかという読み方に立って論じた。同じように、「サアカスの馬」や「蛾」や「ガラスの靴」などの場合も、アレゴリーやシンボルが使われていると思われる。
つまり、シンボルもしくはアレゴリーを使って「戦争」に対する自分の心中を述べるのは安岡章太郎のそのころの複数の作品の共通点といえよう。
安岡章太郎はこれらの一連の作品を通して自分の胸の奥深くに秘められたある想いを伝えようとしている。そういう印象がすこぶる強い。そしてその内容は安岡章太郎の「戦争」に対する自分の複雑な想いに他ならないと考える。
安岡章太郎は学徒兵として戦争の緊迫した空気を味わい、敗戦の苦さも味わった。これは私自身が少年・青春時代を過ごした状況と、国と文化と歴史は異なるものの類似なる部分が多く、そのような経験から、「戦争」というものが安岡氏の文学世界においては如何にもとても大きなテーマであり、殆どの作品に奥深く根ざしているものでとても重みのあるものだと充分認識した。「愛玩」を4年ほど前にはじめて読んだとき、私は30年ほど前の第三次中東戦争の「終戦」の日を思い出した。
そのとき自分は小学校5年生の10才だったが、その日の出来事は昨日のようにハッキリと覚えている。戦争が勃発して6日目のことだったが、その日の朝から夕方までラジオから流れてきた軍事声明の内容はたった一つで、「我がエジプト軍が攻防戦をあらためるため、シナイ半島からスエズ運河の西側へ撤退し防御線を固めようとしている」というのであった。私を含めて家族やまわりの隣近所もマサカと思ってラジオに耳を当てながら固唾を呑んでいた状態。
この戦争がはじまる前まで、新聞やラジオやテレビそして学校の先生もすべてが「ナセルや中東最強のエジプト軍の絶対勝利」の話を毎日のように何度聞かせてくれたことだろうか。私たち子供から大人までラジオから流れてくる軍歌と合わせて声を上げてどれほど歌ったことだろうか。しかしその6日目の夕方に、テレビの画面にナセル大統領が登場し緊急声明をしたことで、今までの「神話」が嘘のように一瞬にして砕け散ってしまったのであった。
当時47才の若さのナセル大統領の顔は70才の疲れきった老人の顔にみえた。敗北そして辞任の声明を発表する前に、すでに私はその顔を見ただけでその悲劇の真相を悟ってしまった。声明発表のときなぜかテレビ画面の調子が急に悪くなり、映像が斜めに歪んでしまった。親父が必死に幾ら調整のつまみをいじっても画面の映像は一向になおらない。
これまで教祖様のように信じて愛しつづけてきたナセル大統領のあの歪んだ顔は、言い表せないほど私に大きな衝撃を与えてしまい、消えることのない深い悲しみを胸に植えつけられてしまったのであった。大統領の敗北・辞任声明が終わった瞬間、窓から暮れていくカイロの空を涙ぐんだ眼で見上げると、その空は対空砲から打ち込まれ破裂した無数の砲弾によって真っ赤に燃え盛っていた。
私はその日からあらゆることに対して不信感をいだきはじめ、そしてそれが私にとっての「戦後」のはじまりであった。そのときからまたなぜか両親の仲が悪化してしまい、家の空気は熱っぽく重苦しくなってしまった。これも私にとっての「戦後」を一層耐えがたいものに作り上げてしまったのであった。
しかし不思議なことに、私を含めて殆どの当時のエジプト人は自国の敗北の悲劇をただ嘆き悲しむばかりでなく、いつかそれが一種の滑稽さに変わってしまい、エジプト軍の圧倒的な敗北は沢山の小話のネタになった。言い換えれば敗北の悲劇を乗り越えるために、皆はそれを自嘲的に扱い批評したり笑い飛ばしたりしたのである。そのとき自分は、悲劇の極限に達するとそれが皮肉や滑稽にさえ変わってしまうと思うようになった。「愛玩」を読んだとき、以上述べた思い出が30年間という深い溝を一瞬に飛び越えて眼の裏に噴水のように吹き出してしまったような感じであった。以上の個人的な体験もあって本論文では安岡章太郎の「愛玩」を取り上げようと思う。
状況や経緯などが違っても恐らく安岡章太郎は「戦後」つまり日本の敗北の悲劇によって大きな衝撃を受け、支配階層をはじめ身の周辺のものや親までにある種の不信感を抱きはじめ、そして悲劇の極限に達したところでそれがある種の滑稽さや可笑しさに変わり、自虐的に自嘲的に沢山の作品を書き出すようになったのではないかと思われる。いわば、彼の作品は、自虐的、自嘲的な主人公の立場から、「時代」の不当さを笑いとばす批評をふくんでいる点に特徴があると思われ、そして、このような彼の姿勢は、肉親や家庭生活をモデルにした沢山の自作に一貫してみられるところである。
そして、「愛玩」を取り上げるには、より大きな理由がある。エジプト人やアラブ人は第二次世界大戦やその後の日本の社会や政治の行方に対してすこぶる興味を持っていて知りたがっている。アラブ人日本研究者の第1世代である私と数少ない仲間にもそれに応える義務のような気持ちが働く。政治でもなく経済でもなく、文学を専攻する自分としては、その過程を語る日本文学、強いて言えば「戦後文学」と呼び得るものから代表作品を選び、紹介したいと考えている。そのひとつとして「愛玩」を選ぶに至ったわけである。
では「愛玩」という作品は、安岡章太郎が書いた作品、特に「戦争」を伏線的なテーマとしてもつ沢山の作品群の中でどう位置づけられるのだろうか。
安岡文学を形成する大きな要素としての「戦争」
序で述べたように、「戦争」というテーマは安岡章太郎の少年時代及び青年時代そして父親が亡くなるまでの壮年時代を題材にした作品の多くに、背景として取り上げられている。
[1] 安岡章太郎は幼い頃から軍医を務めていた父の仕事の関係で、軍隊のある町を転々と移っていく。
安岡が9才になるまで4年間ほど父親の勤務先である朝鮮に留まり、11才のとき(つまり1931年)父と別れて母親と一緒に東京の赤坂区へ移る。彼は少年時代に6回もの転校体験をした結果、結局学校嫌いになってしまう。その傾向がずっと尾を引いて入隊するまで続くのであるが、勉強嫌いで学校をさぼっては不良仲間と一緒に色々な冒険をしながら、ところどころ戦争をそれとなく皮肉って言ってみたりする。それは、「宿題」「悪い仲間」「青葉しげれる」「サアカスの馬」「肥った女」「質屋の女房」「蒸し暑い朝」などの沢山の作品に見られる。
つまり、日本は戦争の緊迫した空気にあった最中、軍人であった父の絶え間ない転勤のおかげで安岡や母は、それに引きずられ振り回された。安岡は生活の安定を失った上、繰り返される転校のことで学校嫌いになり、仲間をつくることもできないので段々閉鎖的になってゆき、逆に母親の存在がそのころの自分の人生の大きな部分を占めるようになっていくわけである。
そこからおそらく彼はそのような状況をもたらした軍隊という父の属するものに対して嫌悪感を抱くようになり、従って戦争そのものに対しても反発を感じたのではないかと思う。自分の小学校時代の勉強嫌いな様子を描いた「宿題」などを読んでいくと、軍人である父の「不在」が如何に影響して彼の心の中の孤独を増したことがうかがわれる。ところどころ「戦争」が彼の視界の中に入り込み、皮肉られているのは、以上に述べたような心境によるものではなかろうか。
[2] 「戦争」に対する安岡章太郎の複雑な心境を生んだもう一つの原因と思われる要素には入隊経験がある。戦局が日本の不利に動いていくなか、安岡は1943年12月に第一回学徒兵として入隊した。そのころ、日本軍はすでにガダルカナル島を撤退していた。そして翌年の3月に彼は東京第六部隊に現役兵として入営し、ただちに満州第981部隊要員として北満孫呉へつれて行かれた。
その年の8月に彼は胸部痴患で入院した。ちょうど入院の翌日、彼が属した同部隊はフィリッピンへ移動したが、レイテ島では全滅してしまった(3)。一見して彼が病気になったおかげで助かったというふうに見られるであろうが、仲間全員が戦死しながら自分だけ奇跡的に助かったことはとてもショッキングな出来事であり、彼のこころに大きな暗いかげを投げ落とした。この点について村松定孝氏は、「(安岡章太郎の)同世代の多くの若者たちが戦争で散っていったことに対する、つまり死にそこなった悔恨と羞恥がつきまとっている。
(中略)どうして不当な戦争で生き残ったことが侮いられたり、恥ずかしかったりするのか。(中略)これは戦中派にしか理解できない、口にしてはならぬ、言葉にできない辛さ」である、と言っている(4)。おそらくそれが戦争が終わってもずっと尾を引いており、安岡章太郎のこころの中に戦争のイメージを作り上げるのに大きく影響しただろう。したがって安岡文学においても決して無視のできない跡を残したはずである。
[3] 安岡章太郎は翌年、つまり1945年3月に内地送還になる。同年7月に、彼は金沢の陸軍病院で現役免除になったが、その後、東京の家は戦災で焼け、同年10月(終戦後)に、藤沢市鵠沼に住みはじめる。彼はそのころ脊椎カリエスになるが、医療費不足のため医者にはかからず寝たきりの生活になる。これが「愛玩」の背景をなす。そして体の調子のよいときは進駐軍へ労務者として働きにいく。
これが「ハウスガード」「ガラスの靴」などの背景となっている。このように彼がまた脊椎カリエスになって長い間、闘病生活を送ったことがたまたま敗戦の状況と重なった。これもまた「戦争」に対する彼なりのイメージを作り上げるのに大きな要素として働いたであろうし、さらに彼の文学に大きな影響を及ぼしたに違いない。
安岡や同世代の若者がずっと信じきってきた沢山の物事が敗戦によって嘘のように見えてしまったことは、まわりのすべてのもの、そして自分自身に対してまで、ある種の癒しがたい「不審」を抱かせてしまったと思われる。こうして安岡はその後ギブスのコルセットを胴に付け、数年間、動きの不自由な生活を送りながら、敗戦後の混乱した様々な状況をくぐり抜けながら筆を取って作品を書きはじめるわけである。
言い換えれば、安岡は背中を患ってほとんど寝たきりの状態になったおかげで、逆にある意味の余裕を持って今までのすべてのことに思いをめぐらすことができるようになり、自伝的なスタイルで自分や自分の家族をモデルにした作品を書くことが可能になったのである。
[4] もう一つ取り上げるべき要素は父親の戦場からの帰還とそれを伴った安岡の複雑な心境なのである。終戦の翌年、つまり1946年になると、安岡章太郎の病気が悪化してしまう。同年の5月に、軍医を務めていた父は南方(シンガポール)の捕虜収容所から復員した。しかし父の様子もおかしく、生活能力もなかった。別な言い方で表現すると、「父親にとっての$後とは、敗戦によって生活の手段を失った元職業軍人の生活ということである」。
但し、父親の生活能力喪失よりもむしろ父親の「不名誉な帰還」の方が安岡章太郎にとって大きな衝撃だったのではないかと思われる。敗戦とともに、安岡氏は母親と二人で、知人の家などを何軒も泊まり歩いて暮らしたり、軍隊で患った病気でほとんど起きて歩くことさえ出来なかったり、あらゆる物資が不足して、生活の不安は戦時中の何層倍も大きくなったりした。しかし空襲がなくなり、軍隊もなくなったというだけでも安岡氏は「気が楽になり心がひらいて、何か手枷足枷をはずされたような軽々とした心持になった」と書いてもいる。
このときまで安岡章太郎にとっては、本当の戦後の悲劇は実感されていなかったとも言えよう。父親の生存が確認され、日本への帰還は時間の問題だと安岡章太郎も母親も安心して安穏な日々を送っていた。父親が帰還したときのことを安岡氏は次のように語っている。
しかし、この異様なほど明るい気分は、ある日、突然、かき消された。父の帰還は戦争が終わったときから当然予期されたことだし、復員局からも事前に報せがあって、母もそれなりの準備はしていた。しかし、その日、昼すこし前に玄関の戸のあく音がして、そこに階級章を剥ぎとった軍服姿の父が立っているのを見たとき、私は突然戦後見つづけてきた平和の夢が音もなく消え去るのをハッキリと悟られた。
シナ事変以来、10年近く不在だった父は、私たちにとって不意に訪れた客人のような存在だった。(中略)父は明らかに以前の父ではなくなっていたのだ。

以上述べた四つの状況をもとに「戦争」というものに対する安岡章太郎のイメージが作り上げられ、作品中にそれが表現されていくのである。「愛玩」もまた、他の作品と同様に、そのイメージをシンボリックに結晶させて表した作品である。そして「愛玩」という作品には、上に述べた四つの要素の中で、彼に一番強烈なインパクトを与え、「戦後」のはじまりを形作ったと思われる父親の不名誉な帰還とそのだらしない無能力、また寝たきりの自分自身のだらしない無能力が最も強く表されている。
「戦後」の意味・「敗戦の後遺症」
ここであらためて安岡章太郎の作品群の中に表された「戦後」の意味を考えてみるなら、それはなによりも「敗戦の後遺症」であろう。そして「愛玩」という作品は、その意味で、安岡章太郎個人にとっての「敗戦の後遺症」であり、また「日本」にとっての「敗戦の後遺症」をたくみに表現していると思われる。それは「愛玩」の対象、つまり「ペットの兎」に象徴されているように思われる。
父親の不名誉帰還と「戦後」のはじまり
まず、父親の不名誉な帰還や彼の生活能力喪失及びある種の発狂をあらわす幾つかの段落を以下に引用する。
軍人だった父は獣医官だったのでどうやら戦犯にもならず、無事に南方から引き上げてまる4年になるのだが、あちらでの占領期間中よほどおどかされたらしく、ぶん殴られることを警戒して、この鵠沼の家の門から外へはほとんど一歩も出たことがない。
また父は戦場生活の影響で自分に必要とするものは何でも宝物にしてしまいこむ。(中略)欄間や天井や電灯のコードがクモの巣に覆われているのは云うまでもないが、その上に白い細かいカビの花のようなものがまつわりついている。
この鵠沼海岸は波が荒く風が強いことで有名な土地だが、舞い上がる砂煙のなかで「ひえーッ、ひえーッ」というカン高いかけ声とともに、踊り狂う人のようにクワをふるっている父の姿は、やりきれない徒労の孤独と絶望とに僕を追いやる。こんなにして芝をはがしてみても雨が降れば必ず水びたしになって、何もとれない畑にしかならないと云うのに。そしてまた、となりの部屋からは父と母とのイビキの合唱や、たわけた寝言。
・・父は突如、馬のいななくような笑い声をあげたかとおもうと、「オキキモモ」と大きな声でさけぶ。これはよくきくと「おチチのむ」と云っている。(中略)最初僕は、戦地からかえってきた父のネゴトを、働きたくないための僕らに対する欺瞞の煙幕かと思っていた。だが、滋養のために僕がドライミルクをのんでいるのを、そばでシンから欲しそうに見つめているところをみると、そうではないらしい。などのような段落が認められる。
母親の「発狂」と「戦後」のはじまり
安岡章太郎にとってのもう一つの決定的で悲しい「敗戦の後遺症」は、母親の精神的な異常の発生だった。その経過は「愛玩」にはじまり、「海辺の光景」の母親のドラマティックな最期でおわる。「宿題」や「悪い仲間」や「青葉しげれる」など、つまり「戦中」を時代的な土台にした作品では母親は恐ろしくてしっかりしたイメージで登場する。「戦後」まもなくの時代を舞台にした「愛玩」では、それが変わり果てている。一見皮肉で滑稽に描写されているものの、その描写の隙間から安岡章太郎の悲しみや虚しさが感じ取れる。母親のおかしくなった様子を描いたふたつの段落を引用してみよう。
母は、父とちがって社交的であったから、こんな時代には大いに活躍するにちがいないと期待されていたのだが、サッカリンの行商をやって忽ちしくじってしまった。イカサマ物を近所の人に途方もない値で売ってしまい、それ以来配給当番になっても疑ぐられるしまつである。その結果彼女もまた、おそろしいインフェリオリティ・コンプレックスに陥って、あらゆることに全く自信を失い、何より困ったことに金銭の勘定がおぼつかなくなって毎日のちょっとした買い物にも、商人に財布をわたしてその中から代金を受けとらせなければならない程だ。
人は茶箪笥の中からノコギリが出てくるのを見て驚くであろう。これは母が狂った連想でカツブシ削りとまちがえたためだ。
安岡の病気悪化と「戦後」のはじまり
一方、「僕」つまり安岡は戦争が終わってから自分の病気(脊椎カリエス)が悪化してしまい、「愛玩」では上半身をギブスのコルセットに固めて、敗戦の後遺症を背負ってまったく能力を失った存在として描かれている。この3人の「敗戦の後遺症」をこうむった様子をもっとも的確に描いたのは次の段落である。
こんな生活能力を徹底的に欠いた人間ばかりが集まっている一家の混乱は、見た人でなければちょっと想像もつかないほどだ。
ここには正に一家3人の悲劇が浮き彫りにされている。このような一家3人の家へ、途方もない訪問者がやってくる。それは何より父親が連れ込んできたあの二羽の白い兎であった。父の計画は、獣医である自分の本職の技術を発揮し兎を飼ってはその毛を売って一家の経済的ジレンマを挽回しようというのであった。
父は「これであと半年もすれば、月々8000円もうかるんだ」と期待をかけたり、母はその父の発言を聞くと、たまげて歯のない口をあけて、まるで幼児が見たこともない大きな砂糖菓子をあたえられた顔をして、嬉しさのあまり笑いが止まらなかったり、一方「僕」ときたら始めはペットが嫌いで人の肌におしつけてくる獣を愛する人の気さえ分からないが、畳の上にじっととまって眼を赤く光らせている例の兎を見たとたん思わず「可愛いな」と言ってまわりが明るくなったと思ったりして、3人はその訪問者に対して期待や楽しみを抱きはじめるのである。
しかしその家で兎が生活を送り出すと、先ず「僕」にとってはその楽しみや明るさの雰囲気がどこかへ飛んでしまい、火に油を注ぐような感じで自分の背中の痛みやかゆさがエスカレートしていくばかりであった。次はこの様子を表す幾つかの条である。
だが、ふと僕は畳の上に黒いコロコロした玉をみつけた。それは点々として部屋中いたるところに撒き散らされている。恥知らず、とはこのことであろう。ぴょんと一とはねするごとに、ポロリポロリと黒い玉を股の間からおとしながら、二匹そろってテレるでもなく、媚びるでもなく、ウサギはじつにシラジラしさそのものの表情である。馬鹿みたいに赤い眼をポッカリあけたその顔に、僕はわるい予感がした。
ウサギはひる寝て、夜暴れる。ガリガリ檻の木をかじる音や、床板をバタバタふみならす音(中略)、排泄物の流れる音、これらの騒音が闇のなかから不規則に、そして絶え間なくきこえてくるのだ。僕は夜半に、枕もとから駆け込んだ物凄くずう体の大きなネズミに足か頭かを齧られている夢で眼をさます。(中略)こんどは本物の魔物が僕を食いにやってくる。(中略)すると身体につけているかぎりのものが僕をガンジガラメにしはじめる。ギプスをはずしてシャツをめくって、ぽりぽり背中を掻いてみるがムダだ。クスグッタさは奥の方へ逃げ込んでしまう。
騒音にかこまれた暗闇のなかで、不眠のため一層神経質になった僕は、自分の身体が内側と外側と両方からばらばらになって溶けてしまいそうな気がする。(中略)背中のクスグッタさはますますひどくなる。そいつが無秩序な部屋の、ホコリや、ボロ布や、鼻汁だらけでほうり出してある紙クズや、そんなものから沼地のメタンガスのようにブクブクわき上がっては、みな僕の身体のなかに這入りこむらしい。
掻けもしない奥の方にあるクスグッタさを我慢するために、僕はただ満身の力をこめて体を硬直させている。
それで、とうとうウサギどもは座敷で僕らと雑居するにちかい状態となってしまった。家全体はまさに家畜小屋だったが。
・・・そのため家中には昆虫類、ナメクジ、ミミズのたぐいがおびただしく棲息することとなった。畳の上のそこここにソウスや、みそ汁だらけになった虫が這っている。
これらの条を読むかぎり、いかに「僕」にとってはウサギの存在が大変な迷惑であり自分の病気を悪化させる憎い存在へと変わってしまったことがうかがわれる。
また「僕」から見ると、この憎いウサギのおかげで折角一時期父が一家を救うために見せはじめた頼もしい頑張りぶりが、いつか「僕」をイライラさせるばかりに変わり、父は気がおかしくなったように見えた程である。この様を表す幾つかの条を引用しよう。
鼻の穴に白いウサギの毛をからませて、呼吸のたびにそれがヒクヒクゆれているのも知らぬけに、前歯を動かしながらものを食っているときなど、だんだん父の顔からは人間風なところが消えてゆくようだ。
皿にも鍋にも、あらゆる食器という食器には、食い残りの汁や、魚の皮や、茶のカスなどが入っている。父はすべての食べ物の栄養分析表を暗記しているので、頭の中にあるそれらのヴィタミンや熱量の数字が水といっしょに流れだすのを惜しんで、どうしても食器を洗わせないのである。
おまけに彼はお膳で年中、眼をキョロキョロさせながら僕らが何を食べ残すかを見張っている。
父のモクロミというのは、人間の頭髪のなかにある或る栄養分を抽出して、これをウサギに食べさせることによって、兎毛の成長をうながそうとすることであった。(中略)ときどき独り言みたいにして、「床屋へ行けば髪はたくさんあるのだがなァ」といっていた。(中略)夜など僕が寝ていると、どことなく陰険な眼つきになりながらそばへよってこようとする傾向がある。とうとうある晩、父はたまりかねたように自分の頭をゴシゴシ掻きながら云った。「お前の頭、ずいぶん毛があるなァ」。思わず僕は両手で頭をおさえた。
またウサギが家に棲息しはじめることによって、母親の関心は全部その訪問者に注がれ、母親の可笑しい行動がエスカレートしていくばかりであった。母親は主人の発想に同意し、「家」を襲った貧窮という苦しい敗戦の後遺症から立ち直るために、彼女はそのウサギに期待を託すわけである。彼女はその目標を果たすため父と力を合わせて一生懸命に色々な種類の餌を工夫してはウサギにやったりした。しかしその必死な様子は「僕」の眼には、いつしかある種のヒステリックもしくは発狂にさえ映っていた。母親のそういった様子を表す幾つかの段落を引用しよう。
「これであと半年もすれば、月々8000円もうかるんだ」と云った。それを聞くと母は「おッと、・・・」とたまげて歯のない口をあけて、まるで幼児が見たことのない大きな砂糖菓子をあたえられたような顔をしていたが、やがて父の「一年の収毛量がいくらで、それによって得られる毛糸が何ポンド、布地が何ヤード、・・」といった話がはじまると、もう笑いがとまらず・・・・」
おまけに彼(父親)はお膳で年中、眼をキョロキョロさせながら僕らが何を食べ残すかを見張っている。・・このことは年をとって台所仕事をメンドくさがる母の不精をますます助長した。実際母にとってこんなに都合のいい口実はなかった。茶ワンや皿は汚れたままほうっておけるし、おかずはマズく味をつけるほどウサギの餌になるものがふえて、よろこばしいというのだから。
母はまた、子ウサギを見たとたんから、あらたな母性をよみがえらせた。毛のムクムク生えた小さな動物を四六時中抱いて、胸をひっかかれるのもかまわず、ふところへ入れて寝たりする。そして僕が赤ん坊だったころのことを、ウサギに話しかけでもするように、くりかえしくりかえし子供の言葉でつぶやいている。
こうしてみると、ウサギは最初、一家の救世主にすら見え、そこで両親はその救世主に回復の期待をかけ、力を合わせて育てていくという筋がはっきりうかがわれる。通常たかがか弱い、小さい存在だが、こういった危機のときであればこそ期待をかけられ頼られる。敗戦の犠牲になって生活能力を失った家族3人は、もはや資産だけでなく気力や希望さえ失い、敗戦の後遺症に悩み果てていた。
皮肉なことに3人は敗戦の後遺症を乗り越えるための気力や希望を、その小さな存在に求めようとするのである。しかし、しばらくすると、それが逆に裏目に出て、「僕」の病気がそのおかげで悪化したり、父もおかしな行動を起こし、途方もない寝言を発したり、母も気が狂ったような態度を見せて前より肥ってしまったりして、あげくの果て父も母もウサギにほとんど顔まで似てきてしまう。そして「家」といえば、ほとんど「無秩序」の状態に変わり果ててしまう。つまり「敗戦の後遺症」がさらに深刻な状態になってしまうのである。
「愛玩」・自信と希望の回復
そしていよいよ一家の深刻な状態のクライマックスがやってくる。折角皆がいろいろな犠牲を払ってウサギを繁殖させ、いよいよウサギを売って甘い汁を吸おうとしたのだが、ところが、こんどはウサギの毛皮が流行らなくなり、仕方なく途方もなく安い値段で仲買人に売らなくてはならなくなってしまう。一家全員の努力は一夜にして水の泡同然に挫折してしまうのである。「戦後」つまり「敗戦の後遺症」を絵に画いたような、なんとも虚しい状態が訪れるのだ。
仲買人が家へやってくると、もはや邪魔で「無用」なウサギに対して「僕」は、「僕にとっては、そんなことはどうでもよかった。いまは何を置いても、この無用の長物を整理してしまう必要がある。うまく料理してくれるなら僕自身が食べたってさしつかえないところだ」と思ったり、一方母親は、
毎日買うオカラのために着物を売ってしまった、とことごとにグチをこぼしだした。彼女には絶えず、畳の上を這っている獣がモグモグと着物を食っているところが見えるらしかった。以前には、こんなにハッキリとショールや手袋を吹き出しているところが見えていたのに。「チュウ、チュウ」という鳴き声に交じって、いまは老婦人のヒステリックな声がしょっちゅうきこえる。まあ、また、こんなところにオシッコをして・・・と、一刻も早く、この役立たずの嫌でうるさい小さな生き物を厄介払いにしようと思う。ウサギを買いに来た仲買人もこのウサギたちを見下げて小馬鹿にするばかりであった。彼は、ウサギ一匹を背中の皮のところから摘んで宙につり上げながら言った。
しろうとは、みんなひっかかるですよ、これに。(中略)誰でも最初は馬か牛をほしがるですが、それが買えないのでブタで我慢しようと云うことになる。ここまではまァいいが、これも買えないとなると次がウサギだ。(中略)まァだんなも気を付けなさい。ウサギなら食えもするがモルモットとくると食えないからね。もっとも、このアンゴラてェやつは食ってうまい肉じゃねえが・・・と。しかし背中の皮からぶら下げられたウサギは、自分が小馬鹿にされていることが分かったかのように馬鹿力を発揮してもがきだす。ウサギは突然虚空に肢をふんばると、仲買人の腕に噛みついた。これは「僕」をはじめ、父も母もびっくり仰天した。「僕」は思わず「もっと噛め」とこころにつぶやく。
この段落には注目すべきだろう。なぜなら、ここは、安岡章太郎の他の作品、たとえば「サアカスの馬」や「蛾」のいくつかの段落に酷似しているからだ。まず「サアカスの馬」(7)の場合は次の段落がある。
あの曲がった背骨をガクガクゆすぶりながらやってくる。鞍もつけずに、いまにも針金細工の籠のような胸とお尻とがバラバラにはなれてしまいそうな歩き方だ。・・・しかしどうしたことか彼が場内を一と廻りするうちに、急に楽隊の音が大きく鳴り出した。と、見ているうちに馬はトコトコと走り出した。(中略)おどろいたことに馬はこのサーカス一座の花形だったのだ。人間を乗せると彼は見違えるほどイキイキした。(中略)あまりのことに僕はしばらくアッケにとられていた。けれども、思い違いがハッキリしてくるにつれて僕の気持ちは明るくなった。(中略)僕はわれにかえって一生懸命手を叩いている自分に気がついた。
また、「蛾」(8)では次のような段落がある。
・・春吉氏(医師)がボール紙の筒を私の耳にあて、懐中電灯で誘導すると、まるで涕をかむより簡単に、長さ二3分の小さな蛾が飛び出したのである。どうせのことにそれがヒラヒラと飛びつづけて窓から天に昇ってくれれば、まだよかった。・・・・しかし、蛾は急に明るいところへ出たためか、とび出すや否や床の上に落ちた。(中略)そんな話を退屈な思いで聞きながら、ふと足もとを見ると、蛾は灰色の翼を重そうに垂れて、それでも脚をときどきヒクヒク動かしている様子であった。
以上の二つの段落に、共通するポイントは、これまで弱そうで無力そうでどう仕様もなく思われた存在が急に逆転し、驚くほどの元気のよさや生命力を発揮するということである。また、そうされることによって語り手は、それまで馬や蛾を見損ねていたことに気づき、その弱そうな存在を見直し、こころの中で応援し励ますようになる。
「愛玩」の場合も同じことが言えよう。それまでうるさく、無用であり、さらには自分の体に悩みをもたらしさえするウサギが、小馬鹿にされた挙げ句に、急に踏ん張りだして想像を絶するほどの生命力や根性を発揮するのである。「蛾」の語り手が自分の耳の奥に3日以上住み着いた憎い蛾が、出てきたときに蛾のしぶとさや生命力に対して同情し感動したとき、そして憎たらしいウサギが仲買人の手を噛んだとき、おそらく語り手のこころの中では自分自身の姿が馬や蛾や兎の姿と重なり合い、弱者で負け犬で自信喪失のどん底に陥っていた自分にも救いがあるとさとり、自信を取り戻して、気力や希望を回復するのである。
結局ウサギは、「敗戦の後遺症」に悩まされ、病気や不名誉や狂気そして貧窮の餌食になり、自信喪失をし、生活能力を失った語り手一家に気力を取り戻させ、希望を回復する大きなエネルギーを与えてくれるのである。
日本国民の戦後回復・日本精神発揮への期待
仲買人はウサギに噛まれると、彼は反射的にウサギに自分の怒りをぶつけて「ちくしょう」と叫びながらウサギをふりまわす。そして、その頭を縁側の柱にぶつけてしまう。その瞬間、骨の割れるような物音がした。普通ならそのような小さな生き物はその衝撃でひとたまりもなく死んでしまうのであるが、まもなく、ウサギは何も見えないような赤い眼をまるく開けて「僕」たち3人家族の方を見ていた。ウサギの眼はそのとき、まるで3人に、「おれは死なないぞ、君たちも頑張れ」と訴えたような感じに語り手には映ったのではないか。次の段落では、仲買人がウサギたちを次つぎに竹籠の中へ詰め込み、自転車に乗って庭の門へ向かっていく。そして最後の段落は次のように書かれている。
籠はふたを閉じた上にホソビキがかけられた。けれども竹の編み目からは白い毛がはみ出して、それ自身生き物のように動いていた。(中略)不思議にそれだけが、決して腐らず、いつまでも生き残っているウサギ専門の飼料の、ジュットクソウとリュウゼツナとがツルや葉を思いきりのばしている庭の畑の彼方に、門の方へ消えて行く仲買人の自転車を、僕たち3人は、おたがいに一言も口をきかずに見送った。
この条からは、次のようなことが読み取られよう。
[1] 竹籠の編み目から靡くウサギの白い毛は死におもむく、にもかかわらずしぶとく、明るく生き抜く合図であるかのように感じられるだろう。
[2] 「僕」は、父がおどり狂う人のように鍬をふるって畑を耕し、ウサギたちの餌になる草を植えようとしていた姿を、はじめは「やりきれない徒労の孤独と絶望」というふうにしか見ていなかったが、その草だけが「けっして腐らない」と思ったことは、戦場からの不名誉の帰還をした父の「敗戦の後遺症」からの回復への努力が、けっして水の泡のようなものだったわけではなく、明るい未来への希望につながるものに思えたことを示していよう。
[3] つまり、これまで親子3人の間は、長い戦争中やその敗戦後まで互いにいろいろな複雑な感情が入り乱れ、そのせいか、あきらめや自身喪失や反発などの想いに悩んでいたが、ウサギが3人の生活へ飛び込むことによって3人はそのおかげでまとまり、家族の絆をしっかり確かめ合い、そして「敗戦の後遺症」から立ち直る希望や勇気や根性を持つことになる。

以上が短編小説「愛玩」という全体のモチーフをシンボリックに示す場面である。しかしこの小説にはそれ以外にもシンボリックな記述が幾つか拾える。
ウサギは「チュウ、チュウ」と云って鳴くのである。この鳴き声をきくと僕はなんだかガッカリする。陛下のお声をはじめてラジオできいたときのような、あの空しさがやってくる・・・
そして、あんなに重そうな音をたてて暴れるくせに、何だってあんなタヨリない声で鳴くのだろう・・・と、「僕」が感じる条である。
私は先ずこの文章を読んで自分の記憶に眠っていたあの30年ほど前のナセル大統領の敗戦・辞任声明が亡霊のように蘇ってきて、安岡章太郎にとっての天皇陛下の頼りないお声の弱さと私にとってのナセル大統領のテレビに移る映像の歪みが重なり合って一層以上の文章のインパクトが強烈なものとなったわけである。ただし、安岡章太郎の「敗戦」の強烈な印象が聴覚的なものであったところに対して、私の印象は視覚的なものであったということが言えよう。
ここで安岡章太郎が敢えてこの小説の題に付けた「愛玩」という言葉の意味が垣間見えるような気がする。「ウサギ」という小さな生き物が日本国民の「精神」そのものをシンボリックに描いているようにさえ感じられはしないだろうか。
付け加えて、ここで想像されることは、父親が最初にウサギをわが家へ持ち込んだのは、その毛皮を売って一家の経済ジレンマを乗り越えようと計画したからであり、ウサギはあくまでも「手段」としてしか思っていなかったことである。つまりウサギは「愛玩」の対象つまり「ペット」として飼われる存在ではなかった。それなのになぜ安岡章太郎はこの小説の題に「愛玩」つまり「ペット」という表現を与えたのだろうか。むしろそこに安岡章太郎の意図が隠されているのではなかろうか。手段としてではなく、むしろ家族3人の愛情に包まれて大事に育てなければならない「ウサギ」とは、何の「シンボル」であろうか。
「海辺の光景」では、父が家の庭で鍬をふるって畑仕事をしたり鶏を飼ったりして家の経済的な危機を乗り越えようと思ったという話は、長々と語られている。しかし「海辺の光景」には、「ウサギ」の記述は出てこない。しかし、「家族団欒図」にはアンゴラの話が出てきており、あるいは父親は実際に兎を飼ったことがあったかもしれない。では、一体なぜ安岡章太郎は「愛玩」で「鶏」ではなく「ウサギ」こそにこだわる必要があったのだろうか。また「アンゴラ」であれば様々な種類の様々な色があるはずだが、特に「白い」ウサギにこだわる必要があったのか。
小説のはじめの部分と終わりに近い部分に「ウサギ」の描写が表れる。まずはじめの部分では、
しかしその家でウサギが生活を送り出すと、まず僕にとってはその楽しみや明るさの雰囲気がどこかへとんでしまい、火に油を注ぐような感じで自分の背中に痛みやかゆさがエスカレ−トしていくばかりであった。(中略)ばかみたいに赤い眼をポッカリあけたその顔に、僕は悪い予感がした・
そして、終わりに近い文章は次のように書かれている。
仲買人はウサギをふりまわすと頭を縁側の柱にぶつけた。(中略)ウサギはそれでも死んだのではなかった。何も見えないような赤い眼を、まるく開けてぼくらの方を見ていた。
この両場面におけるウサギの眼の表情が対照的で180度違って書かれている。ばかみたいに赤い眼をぽっかり開けたその頼り無い顔から、見くびっていたその小さな生き物の眼が今度は真っ赤に燃えて真剣にみつめる顔に変わっている。シロイ兎にアカイ眼、この取り合わせは「日の丸」を思わせるではないか。そして、この眼の描写は小説の内容から行っても「哀願」ともとれる。そのようにいくつかの意味が重ねられたシンボルとして、ウサギの赤い眼を読むことができるのではないか。
もしかしたら、主人公の「僕」を含め家族3人、つまり日本国民が「ウサギの大切な愛らしいその赤い眼」、つまり「赤い日の丸」に自分たちの切実な願いを託し、たとえ小さくか弱くとも、それを信じて一刻も早く自分たちを敗戦の後遺症から立ち直り、明るい未来に向かうことを約束するものとして、この白いウサギは書かれているのではないか。つまり、この「ウサギ」という小さな生き物が、それ自体が日本国民の「精神」のシンボルである「日の丸」を象徴するかのように感じられるのである。
安岡章太郎は戦争のことを皮肉り、いろいろと滑稽に取り上げて書いてはいるが、戦争中から大日本帝国の指導部の姿勢や戦争そのものに対して皮肉で滑稽な想いを抱いていたとは限らないのではなかろうか。彼が天皇をはじめ軍部や古来の日本を支えてきた「精神」、そして自分自身の「自信」に対して彼はある種の癒しがたい「不審」を抱いたのは、敗戦をきっかけとしてであり、そしてそれが「敗戦の後遺症」という形に変わっていったのではないだろうか。彼が腰に付けたあのコルセットの中で何年も背中をかゆく蝕んだあの「虫」が、彼の中にある文学才能をくすぐり刺激を与え、そして、それ以後小説が書きはじめられたのではないだろうか。
「愛玩」における家族はまるで「日本国民」を象徴したもので、そしてその家の「無秩序」は、敗戦後日本を取り巻いた無秩序状態もしくは日本国民の精神的な迷いや乱れを象徴し、その混沌の中へ引き入れられる「ウサギ」に、本来あるべき日本人の精神力が託されていると読むことができるだろう。とすれば、「家」に踏み込んだ仲買人は、「進駐軍」に見立てることができるかもしれない。
確かにウサギが「家」に住み込みはじめたとき一家3人に大きな迷惑をかけ混乱を引き起こしただろうが、最後に同じウサギのおかげで一家3人は一体となり、無秩序の状態になった「家」の秩序回復に向けて立ち直る。これは「日の丸」、つまり日本精神を強調したあげくに敗戦の悲劇を味わわねばならなかった日本国民が、それでも「日の丸」を信じ、そのもとで団結し、敗戦の後遺症を挽回しようとする意味にも通じるのではないか。換言すれば、「愛玩」は日本国民に戦後からの早期回復、つまり「敗戦の後遺症」からの立ち直りを促し希望を与えるものへと、その位置転換をしているのではないか。この点に作品「愛玩」の神髄があるのではないか、と私は考えるのである。
むすび
「戦争」というテ−マは安岡章太郎の少年時代及び成年時代そして父親がなくなるまでの壮年時代を題材にした作品の多くに、背景として取り上げられている。その中から、この論文では「愛玩」(1952年発表)を取り上げ、安岡章太郎はいかにこの作品を以てシンボリックに自分の中の「戦後」を表現したのか、という点を探ろうとする。そこで先ず、安岡章太郎のこころの中に「戦争」のイメージを作り上げただろうと思われる幾つかの要素が取り上げられる。
[1] 少年時代から、軍人だった父親の仕事の都合のせいで転校生の生活を数回も強いられ、結果的に学校嫌い・勉強嫌いになり自分の世界に閉じこもってしまうわけだ。これで彼は軍及び戦争に対して自分なりのイメージが出来てしまったのではないか。
[2] 太平洋戦争の終わりころに入隊をしたときの嫌な思い出。
[3] 敗戦の時期を伴った安岡章太郎の発病(脊椎カリエス)及びその長い闘病生活。
[4] 敗戦後の安岡章太郎家族3人による生活無能力の情けなさ。
[5] 両親の夫婦関係悪化。
[6] 戦場からの父親の不名誉な帰還。
[7] 母親の発狂。
以上の7点の中から、この論文では、特に3点目から7点目まで取り上げてみた。これは「愛玩」から幾つかの引用と照らし合わせながら考えてみた。また、以上の七つの要素をもとに、安岡章太郎の胸の中にある種の「敗戦の後遺症」と呼び得るものができたのではないかと考えた。
結論とするところは、愛玩つまりウサギは日本国民の「精神」をシンボリックに描いていて、安岡章太郎一家3人、つまり日本国民に敗戦の後遺症の早期回復の希望を促すものではないかというのが一つの点である。もう一つの点は、いわばこの作品ではもしウサギが日本精神を表すものなら、これはまた「日の丸」のシンボルではないだろうかという点である。ウサギの白い毛や赤い眼が大事なキーワードではないかと思われる。
 
生と死 / 四谷怪談・イザナギ・イザナミ神話

 

東京新聞夕刊連載企画[生きる/心のページ]は地味だが、中高年にそれなりの固定読者を持っているのではないか?と推察させる記事である。上下で連載された[想像する死と無常]は「死後の救いを願わぬ現代人・生者の都合だけで完結」と「冷徹に生を洞察する眼差し・「私」見失った今こそ必要」。(筆者は廣澤隆之・大正大学人間学部仏教学科教授、智山伝法院院長、八王子市・真言宗智山派浄福寺住職。1946年東京都生まれ。専門分野はインド大乗仏教教理学。著書に「図解雑学・仏教」や難しい名前の本がたくさんある。)
内容は難しかった。約めて言えば、最近は身近な人が死ぬと甘く美しい思い出の世界に行き続ける、という考えが一般的になっているのだが、これは生きている「私」の都合を優先させ過ぎていないかと問い、「生きるために不都合なものを抱え込み、死者との不条理な関係を生きることが見失われているのが現代の文化の特徴かもしれない。」
と言うのだ。「千の風になって」の歌詞への批判である。
「かつては、おどろおどろしい闇の世界から死者が私たちに語りかけてくることが想像されていた。それは数多くの謡曲でも、あるいは卑近な幽霊譚にも見られる。死者の世界を想像することは、生きている自分の根本を問いただすものであった。たとえば四谷怪談では自分の都合で身勝手な生活をする伊右衛門に貞淑な妻であった岩が復讐するのであるが、それは勧善懲悪的な道徳律であると同時に、死者との共存が見失われた生者の生存が危機的になるという宗教性を含みもっていた。」
「死者の世界は生者によって身勝手に想像されるのではなく、深いところで生き方を支える死者と生者の共存が私たちの文化を伝統的に基礎づけていたのではあるまいか。私たちはそのことを凝視することなく、むしろ死を直視する文化を捨て、生きる者の都合のみで完結する消費文明を極端にまで推し進めてしまっている。しかも近代の文明は死の管理を徹底し、もはや死体を直視することもなく私たちは死を想像する。」
として、清潔な病院での死、清められた身体、数日後に死体を火葬し、もはや死体を直視することがない現代では、
「死が嫌悪すべき醜悪な様相をもって私たちに迫らなくなっているからこそ、私たちは死者との交わりを稀薄にしているのではないかと考えられる。」
という。ここまでくると、イザナギ、イザナミを連想するだろう。著者はその話題に入る。
「かつて人は死をまざまざと見なければならなかった。死体は硬直し、次第に腐爛し、むきだしの骨となる。このような死体を見た者は、けっして死者の世界を甘美なものとだけ想像することはできない。それはイザナギノミコトが黄泉の国に死んだ妻を訪うという神話にも見られる。かつて情愛で結ばれた甘美な思い出の中の死者への感情と、他方では現実の醜悪な死を忌避する感情、この背反する感情が同居するにしても、そこに生きる「私」を見つめることを神話は記述しない。死者を直視する「私」が生きることの意味を問う文化は、日本に仏教的無常観が伝えられて著しく展開する。」
仏教の「無常観」を体得するために、釈迦は修行者に死体置き場で死体を直視するよう教えたのだという。そして、林の中で瞑想し、死体を思い浮かべるのだ、という。死体が硬直し、次第に斑点が浮かび、腐爛し、ついには犬やカラスなどによって死肉が食われて骨が散乱する。この過程をまざまざと直視し、林の中の瞑想でそれをありありと思い浮かべるのだ、という。次に自分の死体が同じように骨となって散乱するまでを思い浮かべる。そのようにして無常な身体への執着を離れるとき、修行者は真に無常を体得し、生きるためにかき立てられた欲望を抑制することができるようになる、というのだ。
このような瞑想を「不浄観」といい、「無常観」の一つだそうだ。
「きびしい実践による人間の生死への洞察が無常観なのである。このような洞察を抜きにして無常は知られない。このことを知らなければ私たちは無意味に生と死を繰り返すのみである。」
ところが、次第に日本の文化の展開の中で死を凝視し生を洞察する態度が変容し、はかなく移ろうものへの詠嘆の感情によってイメージされる死が文学的に表現されることが多くなった、という。永遠に生きると思われた釈迦でも老いて死ぬという厳然たる事実を通した「諸行無常」のイメージと現世のはかなさが重ねあわされた詠嘆が「平家物語」だ、という。インド仏教とは違った傾向が日本仏教に浸透している証拠だ、と。「方丈記」もそうだ、と。
「時間の流れを超えた来世に希望を託す浄土往生の宗教感情は、現世に生きることのむなしさをことさらに強調する情緒を強める。だが他方で、現世の享楽にこだわる文化も日本には根強い。現世に生きる価値にこだわりつつ、美文調の詠嘆が美化されると、死のイメージは自然の風物の中に溶け込み、稀薄になる。美しい自然の中で生きることを日本文化の特徴と見る傾向が強いが、そこには無常観のように冷徹に死と生を凝視することもなく、むしろ生と死の密接な関係を稀薄化する傾向もあわせもってしまっているのかもしれない。」
「このことが現代の世相の中で問われる意義があると思う。欲望が渦巻く現世の中で感性に支配されて生きる人間的営みも、そして死後に思いをはせることも、究極的には死に行く存在として自分が今、ここに生きていることを凝視することにもとづく。死に向かって生き続ける「私」を洞察する冷徹な眼差しが現代にも必要なのではあるまいか。とりわけ、科学技術にもとづく消費文明が肥大化し、「私」が見失われ、生と死の共存する文化を失った現代においてこそ、このことを問い続ける必要があると思われる。そのことを一遍上人の次の一文が見事に教えているように思う。」 として、
「華麗を愛し月を詠ずる、やヽもすれば輪廻の業。仏をおもひ経をおもふ、ともすれば地獄の焔。」
をあげていた。難しいが、何とか読み通した。生が死に向かっているものだ、ということをいつも意識せよ、というのか?今一つ分からないのだが、何か大切な教えのようだ。
 
南方熊楠

 

博物学者、民俗学者、細菌学者、天文学者、人類学者、考古学者、生物学者、その他。
別名「歩く百科事典」。坂本龍馬や西郷、新選組が活躍し、翌年からは明治という1867年、熊楠は和歌山市の金物商の家に生まれた。6人兄妹の次男。子どもの頃から好奇心が旺盛で、植物採集に熱中するあまり山中で数日行方不明になり、人々は天狗にさらわれたと噂し、「天狗ちゃん」と彼を呼んだ。7歳の頃から国語辞典や図鑑の解説を書き写し始めた。1879年(12歳)、中学に入学。知識欲はさらに増大し、町内の蔵書家を訪ねては百科事典「和漢三才図会」(全105冊)を見せてもらった。まだコピー機などない時代であり、熊楠は内容を記憶して家で筆写し、5年がかりで105冊を図入りで写本した(彼は植物図鑑25巻や名所図絵等も同様に写している)。
1884年(17歳)、熊楠は大学予備門(現・東大)に入学。同期に夏目漱石、正岡子規、クラスには幸田露伴がいた(すごい時代)。ところが地方から出てきた熊楠は、上野の国立博物館や動物園、植物園で「百科事典で見たものがいっぱい!」と鼻血が出るほど興奮し、大学そっちのけで通いつめた。さらに、米国で植物学者がキノコ・粘菌などの「菌類」を6千点採集したというニュースを聞くと、がぜん対抗意識を燃やし「自分が記録を塗り替えてやる」。そんな有様なので当然学業の成績は急降下。翌年に落第したので“ちょうど良い機会”と自主退学し、田舎の親を仰天させる。
アメリカへ
1886年(19歳)、実家に戻った熊楠は「学問はアメリカの方が先を行ってます!」と父に渡航の意義を力説。だが、明治維新からまだ間もない時代、親にしてみれば国外に行くのは永久の別れも同然。“無茶を言うな”と大反対された。しかし、熊楠は8ヶ月にわたって熱弁をふるい続け、ついに親も根負けした「行って来い!」。12月22日、横浜から米国に向けて出航!
年が明けて1887年、船は半月後にサンフランシスコへ無事入港した。19世紀のアメリカで20歳の若者が一人暮らしを始めたのだ。恐るべき行動力。
熊楠は大陸を東へ進んでシカゴに入り、続いてミシガン州に至った。同地の州立農学校を受験しこれに合格。しかし翌年、学生5人でウイスキーを飲み、泥酔した熊楠が寄宿舎の廊下で爆睡しているところを校長に発見され放校処分(21歳)。以降独学し、頻繁に山野へ出かけ、植物採集などフィールドワークに汗を流した。この過程でさらに粘菌の魅力にとりつかれていく。1891年春(24歳)、知人の研究者から「フロリダは新種の植物の宝庫」という情報を聞くと居ても立ってもいられず、顕微鏡など研究道具と護身用のピストルを携帯して鉄道でフロリダへ向かう。現地では八百屋を営む親切な中国人の世話になりつつ、ひと夏の間採集を続け、秋に南端のキーウエストからキューバに渡った。「キューバには日本人はいないだろう」と思っていたら、首都ハバナで公演中のサーカス団に日本人がいてビックリ。両者は意気投合し、熊楠も一座に加わった。象使いの補助をしながらハイチ、ベネスエラ、ジャマイカなど3ヶ月ほど中南米の巡業を共にした(この間も各地で植物採集は続けている)。
イギリスへ
1892年秋(25歳)、米国滞在の6年間で標本データが充実したので、植物学会での研究発表が盛んな英国に渡ることを決意する(大英博物館にも行きたかった)。9月21日、大西洋を横断してリバプールからロンドンへ到着。ロンドンで弟の手紙を受け取った熊楠は、優しかった父が夏に病没していたことを知り絶句する。
1893年(26歳)、下宿で標本整理を続ける一方、天文学会の懸賞論文に出した初論文「極東の星座」がいきなり1位入選し、英を代表する科学雑誌「ネイチャー」に掲載された。「ミナカタ」の名は一躍知られるようになり、その後も「ミツバチとジガバチに関する東洋の見解」「拇印考」など51回も論文が紹介される。
熊楠は連日のように大英博物館へ足を運び、気に入った本から書き写した。この頃の熊楠は「植物も興味深いが人類そのものも面白い」と、人類学、民俗学、宗教学に強く関心を寄せている。筆写ノート「ロンドン抜書(ぬきがき)」は52冊に及び、紙代を節約する為に小さな字でぎっしり埋め尽くした。
※後年の熊楠は18ヶ国語を操ったと言われ、このぶ厚い「ロンドン抜書」でも、英・スペイン・ギリシャ・ラテン・仏・独・伊・ポルトガルなど8種の言語で書かれている。
大英博物館の図書部長は熊楠の驚異的な博識に圧倒され、同館の東洋関係文物の整理、目録の作成を依頼した。彼は大英博物館東洋調査部員となった。同館では展示品の仏像名を考証するなど様々な形で東洋美術に関った。冗談好きの熊楠は、袈裟を着た僧侶姿で働くなど(この服は訪英中の高野山管長から貰った)、茶目っ気のあるところも見せた。当時の彼は亡命中の“中国革命の父”孫文とも親交を結んでいる。
しかし順調なことばかりではない。欧州では東洋人への蔑視がひどく、気の荒い熊楠は屈辱を受けると腕力で返事をした為に、何度も騒動を起こしていた。人類学に造詣が深い彼としては、馬鹿げた人種差別を人一倍許せなかった。30歳の時には館内で英国人を殴りつけ、一ヶ月間入館禁止になり、翌年にも声高の女性を注意した際に騒ぎになり、とうとう博物館を追放される。その後は、翻訳の仕事をしたり、浮世絵の販売をするなどして生活費を稼いだが、ついに困窮極まり8年間過ごした英国と別れ、日本への帰国を決意した。
1900年9月1日午後4時、テムズ川から船は出航した。日記には短く「夜、しばらく甲板に出て歩く」。熊楠、ときに33歳であった(この翌月、熊楠と入替わるように日本の国費留学生第一号、即ち夏目漱石がロンドンに到着している)。
14年ぶりの帰国
同年10月15日、神戸港に到着。14年ぶりの日本。出迎えた弟はボロを着ている兄の姿に仰天し、何の学位もとらずに書物と標本だけ持ち帰ったことを知り唖然。和歌山への帰郷後は酒屋を営む弟宅(那智勝浦)に一ヶ月ほど身を寄せ、「長く日本酒が呑みたかった」と毎日浴びるように大酒した。一呼吸つくと、日本の隠花植物(菌・苔・藻・シダ類等)の目録を完成する為に、付近を巡って標本採集に精を出した。
1901年(34歳)、訪日中の孫文がはるばる和歌山の家まで遊びに来てくれ、2人は思い出話で盛り上がった。同年、那智で苔の採集中に小畔(こあぜ)四郎という青年に出会う。彼は熊楠の半生を聞いて腰を抜かし、すぐに門弟となった。彼は船会社に勤めており、各国の寄港地で採集した標本を熊楠に送ってくれた。
これら熊野地方での植物調査は足掛け3年に及び、植物や昆虫の彩色図鑑を作った。また世界の古典文学を読みまくり、鴨長明の「方丈記」をロンドン大総長のディキンズと協力して英文訳に取り組み、完成させた。孫文やロンドン大総長との交流のように、紀州にいてもインターナショナルな熊楠だった。
1904年(37歳)、和歌山・田辺市に家を借り、居を定める。お寺(和歌山市円珠院)に寄宿した時期もあったが、彼がキノコや藻・苔類などを大量に部屋に置き、身だしなみも無頓着で不潔だったので寺が悲鳴を上げ、出て行くことになった。熊楠は田辺を「物価は安く、町は静かで、風光明媚」と絶賛し、亡くなるまでこの町で過ごした。
1905年、整理した粘菌標本を大英博物館に寄贈。これが英の植物学雑誌に発表され、「ミナカタ」は世界的な粘菌学者として認知された。
1906年(39歳)、神社宮司の娘・松枝と結婚。翌年、長男熊弥(くまや)誕生。赤ん坊を見た熊楠は「児を見て明け方まで眠れず」と日記に歓びを刻んだ。生活が落ち着くと採集活動を再開した。田辺周辺で山に分け入り、道に迷って野宿したり、珍しい植物を発見して歓声をあげながらブリキ缶を担いで山を駆け下り、田植えをしていた女性達が天狗が出たと思って逃げ去った等、様々なエピソードが伝えられている。
環境保護に立つ
1909年(42歳)、熊楠は「神社合祀(ごうし)反対運動」を開始する。明治政府は国家神道の権威を高める為に、各集落にある神社を1村1社にまとめ、日本書紀など古文書に記載された神だけを残す「神社合祀令」を出した。この結果、和歌山では3700あった神社が強制的に600に合祀(統合)され、三重では5547が942まで激減した。しかもこれにはビジネスの側面もあった。神社の森は樹齢千年という巨木もあり、これが高値で売れたのだ。廃却された境内の森は容赦なく伐採され、ことごとく金に換えられた。
熊楠は激怒した!樹齢を重ねた古木の森にはまだ未解明の苔・粘菌が多く棲み、伐採されると絶滅する恐れがあった。「植物の全滅というのは、ちょっとした範囲の変更から、たちまち一斉に起こり、その時いかに慌てるも、容易に回復し得ぬを小生は目の当たりに見て証拠に申すなり」。熊楠は“エコロジー(生態学)”という言葉を日本で初めて使い、生物は互いに繋がっており、目に見えない部分で全生命が結ばれていると訴え、生態系を守るという立場から、政府のやり方を糾弾した。
※当時は誰も「生態系」という概念すら持っておらず、熊楠が「日本最初のエコロジスト」と呼ばれる由縁だ。
熊楠はまた、民俗学、宗教学を通して人間と自然の関わりを探究しており、人々の生活に密着した神社の森は、子どもの頃に遊んだり、祭りの思い出があったり、ただの木々ではない、鎮守(ちんじゅ)の森の破壊は、心の破壊だと憤慨した。熊楠は新聞各紙に何度も反対意見を出し、合祀派の役人を舌鋒鋭く攻撃した。彼は国内の環境保護活動の祖となった。
1910年(43歳)、熊楠は合祀派の県役人が田辺高校の教育講習会に出席することを知り、直談判すべく会場を訪れる。しかし面会を拒否され、植物標本の入った布袋を会場へ投げ込んだ。彼は「家宅侵入罪」で逮捕され、18日間拘留された。でも、熊楠はどこでも熊楠。拘置所で珍しい粘菌を見つけた彼は、釈放を告げられると「もう少し置いてほしい」と言い出ようとしなかったという。
1911年、熊楠の反対運動に共鳴した内閣法制局参事官・柳田国男(民俗学者)は、熊楠の抗議書を印刷して識者に配布し、活動を側面から支えた(柳田は熊楠の家に話を聞きに行った)。同年、長女誕生。この頃から自然科学の論文に加え、民俗学や文化に関するものも大量に書き始める。
1912年(45歳)、熊楠の猛烈な抗議運動がやがて世論を動かし始め、和歌山出身の議員が国会で合祀反対を訴えた。
1915年(48歳)、6年前にアメリカ農務省から省内に入って欲しいと要望書が届いていたが、ちょうど合祀反対運動の開始時で返事をしなかった。すると、この年にわざわざアメリカから農務省の役人が田辺までやって来て、再度の渡航要請をした。しかし彼はまだ反対運動が続いていること、家族のことを考えて辞退した。この米国農務省の一件は、日本社会に熊楠がどれほどスゴい男・世界的博物学者なのか知らしめた(熊楠は海外では有名だったけど日本では無名に近く、近所の人も変わり者の親父と思っていた)。
1917年(50歳)、自宅の柿の木から新種の粘菌を発見し、英の学会で「ミナカテラ・ロンギフェラ」(ミナカタの長い糸)と学名がついた(和名・ミナカタホコリ)。
1920年、10年間の抵抗運動がついに実を結び、国会で「神社合祀無益」の決議が採択された。これ以降、熊楠は貴重な自然を天然記念物に指定することで確実に保護しようと努めるようになる。※世界遺産に指定された熊野古道には、熊楠がいなければ伐採され、僕らが姿を見ることが出来なかった巨木(樹齢800年の杉等)がたくさんある。
最後まで全力疾走
1925年(58歳)、熊楠は数年前から「南方植物研究所」の構想を練り、建設資金集めに奔走していた。この年に寄付を求める為に書いた「履歴書」が、超密度の濃い人生を象徴するかのように7m70cmという長大なもので、巻紙に細字5万5千字で書かれており、世界最長の履歴書と言われている。翌年には資金作りの為に「南方閑話」「南方随筆」「続南方随筆」という3冊の著書が刊行された。海外への論文は何度も書いてきたが、国内に向けた一般著書はこれが初めて。59歳での初出版となり、人々は随筆に書かれた熊楠の博識に感嘆した。
1929年(62歳)、昭和天皇が田辺湾沖合いの神島(かしま)に訪問した際、熊楠は粘菌や海中生物についての御前講義を行ない、最後に粘菌標本を天皇に献上した。戦前の天皇は神であったから、献上物は桐の箱など最高級のものに納められるのが常識だったが、なんと熊楠はキャラメルの空箱に入れて献上した。「アッ」現場にいた者は全員が固まったが、この場はそのまま無事に収まった。側近は「かねてから熊楠は奇人・変人と聞いていたので覚悟はしていた」とのこと。後年、熊楠が他界した時、昭和天皇は「あのキャラメル箱のインパクトは忘れられない」と語ったという。
※1962年、昭和天皇は33年ぶりに和歌山を訪れ、神島を見てこう詠んだ「雨にけふる神島を見て 紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」。
1933年(66歳)、白浜の御船山神社境内に天皇の行幸を記念した博物館設立が決まると、「神社に博物館を置くのは文化の破壊」と民俗学者として反対運動を展開し中止させた。翌年、神島の自然を保護するため、島の詳細な植物分布図を作り、史跡名勝天然記念物の申請書を提出。2年後に政府から認定された。
1937年(70歳)、日中戦争が勃発。戦局が拡大するなか、高齢になった熊楠は体調を崩し病床に就く。それでも人生の集大成として、「日本産菌類の彩色生態図譜」(日本菌譜)の完成に向け、これまで採集した標本と、連日弟子達が持ち込んでくる菌類を整理し、世界に誇る作品にするべく、写生し、注釈を書き、死力を尽くして奮闘し、4500種・1万5千枚の彩色(カラー)図譜を完成させた。熊楠が生涯に発見した粘菌は40種以上に及んだ。
1941年、病状悪化から死期を悟った熊楠は、家族への形見として「今昔物語集」に署名する。12月8日、米英に知人の多い熊楠は、真珠湾攻撃のニュースに絶句。その18日後の29日朝6時30分、「天井に紫の花が咲いている」という言葉を最期に激動の人生を終えた。享年74歳。翌日に熊楠の希望で脳解剖され、阪大医学部に脳髄が保存された。田辺市郊外、神島を望む真言宗高山寺に埋葬される。戒名は智荘厳院鑁覚顕真居士。1965年(没後24年)、和歌山県白浜町に南方熊楠記念館が開館した。

「南方熊楠は日本人の可能性の極限だ」(柳田国男)
江戸時代に生まれ昭和に死んだ熊楠。なんという破天荒な人生、天衣無縫さ。あまりにカッコよすぎる。記憶力も驚異的だけど、熊楠は気が遠くなるほど膨大な量の書籍を写本し、自分の足で世界各地の山野に分け入り標本を集めた「努力の人」だ。熊楠の口癖は「読むことは写すこと。読むだけでは忘れても、写せば忘れぬ」だったという。熊楠は何かに興味を覚えると、それに関連する全ての学問を知らなければ気が済まないという、底なしの好奇心と爆発的な行動エネルギーの持ち主だった。
「ネイチャー」に論文が載るのは研究者の夢。科学者なら一生に一度は掲載されたい。東大、ハーバード、ケンブリッジ、どこの大学教授も、研究チームも“いつかはネイチャーに”というのが悲願。それを熊楠は51回!しかも最初に掲載されたのが天文学に関するもので、彼の十八番の粘菌関係じゃないので2度ビックリ。
学歴もなく、どの研究所にも属さず、特定の師もおらず、ただの民間の一研究者。何もかもが独学で肩書きナシ。国家の支援も全く受けずに、これほど偉大な業績を残した人間が実在した。
「肩書きがなくては己れが何なのかもわからんような阿呆共の仲間になることはない」(南方熊楠)
※日本で孫文と再会した時に、別れ際に熊楠へ贈った孫文愛用のパナマ帽や、熊楠が大英博物館で作成した「ロンドン抜書き」、ルーペ、メガネ、採集用具などは、白浜の南方熊楠記念館で公開されている。
※粘菌や昆虫(害虫も含めて)など微小なものを徹底して観察した熊楠は言う--「世界に不要のものなし」。

親日仏教と韓国社会

 

二〇〇二年、日本と韓国のあいだでは、これまでなかった多くのことが起こりそうな予感がします。もちろん、五月には日韓共催のワールドカップもありますが、そのほかにも何かと多忙な一年になりそうだなと思います。そういった予感からではありませんが、私は昨年の大晦日から元日にかけて、今年も良いことだけ起きますようにと、神様や仏様に頼みごとをするために初詣に行きました。大晦日の夜十一時五〇分ぐらいに一〇八の鐘をつくために、この近くにある新京極の「誓願寺」に行きました。誓願寺は落語家の祖といわれる安楽庵策伝上人のゆかりの地でして、多くの芸能者が芸道上達を祈願するために訪れる寺でありました。私も芸事が上達するように祈りました。私の場合は芸道上達というよりも、日本語がもっと上手くなりますようにとお願いをしました。それから、私はけっこう欲深い人間でして、同じ新京極の通りにある「錦天満神社」に行きました。錦天満神社は北野天満宮に縁を持つ神社でありますので、これからも学業が上達するようにと神頼みをして、家に帰ってきました。それからお昼過ぎには、家の近くにあるお酒の神様を祀る「松尾大社」に行き、今年もおいしいお酒が沢山飲めますようにと、またお願いをいたしました。これらのすべてが、日本のお正月には欠かせない伝統的な風景であります。特に、私がおこなったすべての行為は、偽りのない宗教行為でもあります。
このような初詣はとなりの国、韓国では行われていない新年の行事でもあり、宗教行事でもあります。むしろ、韓国では寺や神社に行く代わりに、大晦日の夜から親戚が集まり、元日の朝、祖先に対する「茶礼」という礼拝を行うのです。これは、宗教的な祈りや儀礼であるというよりは、儒学の教えに基づいて長年行われている祖先に対する感謝の意を表す行事の一つであります。そうすると、やはり日本と韓国の宗教は大きく異なるのではなかろうかといえます。その中でも特に、神社の存在が気になります。韓国には神をまつる神社が日本のような形ではありません。むろん、朝鮮半島に住んでいる人々も神を信じていますが、こんなに多くの神社はありません。その代わりに、日本よりもはるかに多いのがキリスト教会です。もし、韓国に行く機会がありましたら、韓国の夜空(ソウルでもどこでもいいですが)を一度見上げてみてください。日本の夜空とは異なる風景が目の前に広がると思います。それは、韓国の夜空を彩採っている十字架、それも華やかなイルミネーションの十字架の数にびっくりすると思います。一九九八年度の韓国プロテスタントとカトリックを合わせた教会の数は、六四、四二七ヶ所であり、キリストを信ずる信者の数は二三、五二七、六三五人にも上ります。全国民の半分が教会に通っているクリスチャンであるということです。しかし、これらの統計は宗教団体が自ら申告した数によるものでありますので、それほど信憑性は高くないと思います。それに比べ日本のキリスト教信者は、全国民の一%弱にも満たないといわれています。そのことを考えると、いかに韓国に教会とキリスト教信者の数が多いのかが分かると思います。
しかし、韓国で一番長い歴史と伝統がある宗教は、仏教です。今現在韓国にある寺の数は、一八、五一一ヶ所であり、その信者の数は、三〇、七六四、〇四五人にも上るのです。この韓国の仏教が、一時期日本の仏教の影響を受け、親日的な性格が強い宗教として批判されたことがあります。今は韓国の仏教を「親日仏教」であるという人は誰もいません。しかし、日本の植民地支配を受けた韓国仏教に親日仏教としての傷跡は未だ完全に消えていないように思われます。今日は、どうして韓国仏教が親日仏教といわれるようになったのか、韓国社会はどのように受け止めているかについて少しお話してみたいと思います。
まずそのために、朝鮮半島における「親日」という問題を考えなければなりません。「親日」という問題は、今日の韓国の政治・経済・文化のどの断面をみても様々な問題が未だに残っています。また、韓国人のナショナリズムをくすぐる気持ちの問題でもあります。日本の植民地支配から解放されてすでに五十年も経っているにもかかわらず、何一つ解決される兆しは見えてこない歴史的な傷跡なのではないでしょうか。日・韓両国のあいだで何かと不協和音が発生する度に必ず問題にし、両国の緊張感を高潮させる道具として利用されているように思われます。二〇〇二年日韓共同開催のワールドカップを迎え、こういった問題を解決するためにも、日韓両国のあいだに内在している問題は何かについてもう一度考えるべき時期に来ているのではないでしょうか。
朝鮮半島の近代宗教形成の問題は、他の政治問題とほぼ同じくらい関係性があると思います。いわゆる、朝鮮王朝が封建的な君主国家から近代国家への扉を開いていく過程で形成された韓国的ナショナリズムと深い関わりを持っています。また、近代日本に対する「親日」と「反日」という民族的な感情問題も含まれております。そのため、今日においても慎重に扱わなければならない神経質な課題であります。今日のお話は、私が今もっとも関心を抱いている「日本と韓国の近代宗教形成史」の中から、再生宗教としての朝鮮仏教が持つ親日性についてであります。韓国における近代的な宗教形成史において、この「親日」や「反日」の問題は、これまでそれほど綿密に論じられてきた内容であるとは思われないのです。朝鮮半島における近代の成立は、日本の近代と深く関わりをもっている日本研究の一つでもあります。 
朝鮮王朝の排仏政策と朝鮮仏教の特徴
朝鮮半島における仏教の始まりは、三七二年に高句麗の小獣林王(三七一―三八三)が、中国から伝来してきた仏像と仏典を受け入れたことによるといわれています。当時、高句麗が仏教を受け入れた目的は、古代国家として王室の権威を高め、民衆の精神的な統一を狙うことにあったと思われます。このように受け入れられた仏教は、伝来当初から国家の庇護下で大きく発展し、「鎮護・護国仏教」として定着するようになりました。仏教は、準国教時代の統一新羅を経て、国教として高麗時代の末に至るまで、文化を創出する主役としての地位にありました。仏教は、単なる宗教の範疇を超えた民族の精神を培ってきた文化の一つでもありました。そして、周辺諸国を始め、国際的な文化交流の担い手でもありました。このことから古くから日本とのあいだにおいても、この仏教が文化交流の担い手であったことはいうまでもないと思います。朝鮮半島における仏教は伝来から一六〇〇年のあいだ、多くの王様や僧侶たちによって、そして民衆たちが力を合わせて守ってきた伝統的な民族の宗教であります。
この伝統宗教仏教が高麗時代の末に至ると、政治的・経済的な不祥腐敗の温床になってしまったのです。腐敗した仏教に対する批判の声も次第に高まり、排仏政策を取るべきであるという世論も形成されるようになりました。特に、儒学を身につけ、科挙を通じて政治舞台に登場した一部の新進士大夫と、革新的な武士階級が排仏を強く要望するようになりました。そして彼らは、一三九二年に仏教王国高麗を倒し、朝鮮を建設したのであります。新たな国家朝鮮は、儒学思想を基盤とした両班官僚組織と政治体制を構築するのでありました。彼らはすべての政治・経済体制を儒学思想に基づいた国家建設を目指しました。彼らの「排仏論」や「排仏政策」の原因は、高麗時代の仏教があまりにも国家の庇護を受けながら政治的、経済的に膨張していたことと、僧侶の地位が貴族化され、風紀を乱していたことが上げられると思います。そのため朝鮮の王様たちは、政治機構から仏教色を排除、撤廃し、儒学思想による「徳治主義」の理想政治を実現するために様々な排仏政策を行うことになりました。
朝鮮両班社会からの冷遇と中央政権から見放された僧侶たちは、社会的な地位が低下し、経済的にも零細化を逃れることはできなかったのです。大部分の僧侶は、製紙などの手工業に従事することとなり、奴婢階層と何ら変わりのない身分の位置に置かれてしまったのです。朝鮮仏教には、いつの間にか「護国仏教」としての色合いがうすくなってしまいました。その代わりに、僧侶たちの物貰い行為や寺の世俗的な信仰行為の傾向が益々強く現れるようになりました。その世俗的な信仰体系が一般庶民には受け入れられ、仏教を崇拝する伝統も相変わらず続いていたのです。
こういった朝鮮仏教の姿は、崇儒排仏を唱えていた為政者や男性から離れ、両班たちの家を守る役割を担っていた内房(婦人)によって、保全されることになったのです。女性たちによって、守られた仏教は、家族の成功や死後の祈願や病気を治すなどの行事を担当する役割をしたのです。僧侶たちも困難な寺院を維持するために、仏教行事の中に土俗的な信仰を習合させていたのです。本来の信仰形態から大きく逸脱した不健全な状態であったかも知れませんが、民衆レベルに根強く生き残る方法を選択したのです。排仏という嵐が吹き荒れた朝鮮時代においても、仏教は女性たちの信仰心によって生き残ることができました。
朝鮮時代の仏教は、現世利益のために求福祈祷の形式ではあったが、宗教としての役割を十分果たしていたともいえます。朝鮮時代の崇儒排仏政策によって、お寺や僧侶の姿は都城や村から消え、町から山中に追いやられたことによって、「山中仏教」もしくは「山僧仏教」ともいうようになりました。そして、信仰の対象者が男性から女性へ移行したことによって、「家内(内堂、内房)仏教」ともいうようになりました。この一連の宗教施策と宗教形態の変貌が、結局、朝鮮仏教を特徴づける要因になりました。国家による保護や仏教思想を重視していた時代とは異なり、朝鮮時代の仏教は、政治性が欠如している姿になりました。その代わりに、貴族の宗教から生活に密着した「民衆の宗教」として、「庶民の宗教」として定着したともいえると思います。 
開国と朝鮮仏教の再生
一八七六年二月二六日、朝鮮政府は「日朝修好条規(江華島条約)」を結ぶことで、長いあいだ堅く閉ざしていた鎖国の扉を開くようになりました。この規程付録によって、釜山港における「日人居留地祖界条約」が調印され、後に、釜山が日本に開港されました。一八八〇年四月十二日に、元山に日本領事館が開館され、一八八三年九月三十日、仁川では「日本居留地借入約書」が、竹添進一郎と閔泳穆との間に調印され、使節の交換及び治外法権が認められるようになりました。この開港条約が成立したことによって、朝鮮内部では先進国日本と親密な関係をもつ親日的な性格の政治的集団が形成されました。また、それに対して敵対心を抱く反日的な政治勢力も形成されるようになりました。(むろん、親清勢力も、親露勢力も、親米勢力なども現れていた時代でありました。)開港された港を中心に、多くの日本人が経済活動をするため進出してくるようになり、それに伴って日本の宗教界も、とりわけ仏教界が活発な宗教活動を行うようになりました。
一八八〇年代に伝来してきた日本仏教が行っていた布教活動に、朝鮮仏教界も大きな刺激を受けたことはいうまでもないことだと思いますが。しかしすでにお話したように、当時の朝鮮仏教は、排仏政策によって宗乘も宗旨も信条も曖昧な状況に堕ちていたのです。このことを念頭に置くと朝鮮仏教界が、いかに日本仏教界の活動に対してあこがれを持つようになったのかについては想像できると思います。むろん、先進的な行政機構の改革と西洋文物の受容に関して、朝鮮仏教界も大いに刺激を受けており、新たな自覚運動が始まる時期でもありました。こういった朝鮮仏教の動きが自力で軌道に乗る前に、日本仏教日蓮宗本佛寺住職佐野前勵(後に、日宗宗務統監に就任した)の登場によって、朝鮮仏教界の親日性が具体化されるようになりました。
日蓮宗の僧侶佐野前勵は、一八九五年三月三日、釜山に上陸した後、仁川を経てソウルに入り、日本公使館の後援を得て布教活動を始めた人物であります。佐野前勵は、当時摂政を行っていた大院君に謁見し、王室に接近するための法華経と香炉などをプレゼントし、「立正安国論及び古代綴錦」を献上したのです。それから同年四月二十二日に総理、内務、外務、度支、学務、宮内の諸大臣を次々と歴訪し、「僧侶都城出入禁止」解除の上書を内閣総理大臣金弘集に提出しました。その建議書の内容は、朝鮮僧侶たちの都城出入禁止の不当性を指摘した上、この出入禁止に対する解禁を願うものでありました。金弘集内閣は、その建議書を受け入れ、その年四月二十三日次官報に「僧侶の都城出入禁止令」を緩和させるという成果を挙げたのです。
これは一五〇三年、燕山君によって、僧侶たちにソウル四大門内の都城出入りを禁じていた、この「都城出入禁止」の解除および許可の快挙でもあったといえます。朝鮮仏教界の長年の夢であった都城出入が、日本からきた僧侶の力によって実現したのです。佐野前勵は、一躍にして朝鮮仏教界に再生のきっかけを与え、宗教活動の自由を吹き込んだ聖者になったのです。日本からの僧侶の意志によるものであったのか、それとも日本帝国政府の政治的な意図がどの程度働いたかは確かではありません。しかし、朝鮮僧侶たちの「都城出入禁止」が解かれたことは大きな意義があることには変わりのないことです。そして、長いあいだ足を踏み入れることを許されなかった都の城内で自由に弘法できることは、朝鮮仏教の新たな再出発と近代宗教への道を見出すようになったともいえます。
都城出入禁止解除に対する朝鮮仏教界の反応の中には、佐野前勵に対する感謝の意を積極的に表明した僧侶もありました。水原龍殊寺尚順崔就墟僧侶は、佐野前勵に感謝状を贈呈していたのです。また、北韓山中興寺住職李世益に日蓮宗を伝えた佐野前勵は、出入禁止令撤廃六日後に中興寺に「日蓮宗教会本部」の看板を掛けました。佐前勵野は、一八九六年に北一榮で、都城出入禁止を解除してくれた皇恩に報いるために、中興維新の大業を祝賀するという意味で高宗のために御安泰を祈る大祈祷祭をも開催しました。この祈祷祭には、南・北漢山と金剛山及び華渓寺・白蓮寺・龍殊寺から来た僧侶三〇〇人と外務・学務・農商工部大臣以下高官二十名、日本の名士五十名など一五、〇〇〇名が参加した盛大な親日法会が行われました。これを機に、日本仏教界の各宗派が日本人の保護と精神的な慰安機関としての役割を果たす目的を持って、次々と朝鮮半島に各宗派の別院を建立し、宗教活動を行うための地盤を整え始めました。そして、日本仏教の活動範囲も、次第に朝鮮人を対象とするようになっていったのです。佐野前勵による朝鮮仏教の解放は、日本帝国の朝鮮支配と仏教の布教の宗教侵略の基盤を形成する期となり、一八九七年に、朝鮮から大韓帝国に国号が変わる時期、僧侶の都城出入り禁止が完全に解かれるようになったのです。 
近代日本仏教の布教
十九世紀の末に入ると、日本帝国と朝鮮との政治関係が深く絡み合うことに歩調を合わせたかのように、日本仏教界と朝鮮仏教界との関係も深くなったことはすでに述べてきました。特に、日露戦争が勃発したことによって、日本仏教は朝鮮開教への転機を迎えることになりました。それも日露戦争が日本の勝利に終わり、朝鮮半島に対する利権を得た日本政府は、一九〇五年十一月に「第二次日韓協約」を締結しました。やがて一九〇六年二月に、漢城に韓国統監府を開庁するようになりました。これがいわゆる朝鮮半島における「統監政治」の実施を意味するものであり、統監府は、大韓帝国の外交権を始め、実質上の内政を干渉することで統監府による統治を始めたのです。そして、日本仏教各宗も朝鮮開教に対する意欲が一層高まり、すでに開教を実施していた諸宗は益々力を注ぐようになりました。未だ開教に着手していない真言宗・曹洞宗等も一斉に朝鮮布教に着手することとなりました。これらの各宗派も、日本政府の協力と援助により、急進的な成長を成し遂げることになりました。日本仏教界を代表する本願寺が一九〇六年十月に、ソウルの龍山に「開教総監部」を設置したことで、日本仏教の宗教的な進出の本格的な基盤を形成したのです。韓国仏教界は、近代的な日本仏教界の政治的、経済的な力を見せつけられることになりました。
この「第二次日韓協約(乙巳保護条約)」が締結されると、全国各地で反日的な性格の義兵運動が、次々と発生しました。「乙巳保護条約」に反対する義兵たちと日本軍が衝突する事態が頻繁になりました。それに追い打ちを掛けるように一九〇七年に韓国軍隊が解散されると、武装解除された韓国軍が抗日義兵運動に参戦することによって、戦いが益々激しくなっていったのです。近代的な武器で武装した日本軍に劣勢であった多くの義兵たちは、山中の寺院を根拠地とし、抗日運動を展開するようになりました。そのため山中の寺院は、戦場化し、日々荒廃するようになったのです。このことを好機に、統監府は、朝鮮仏教を保護推進する計画を打ち出しました。その際、相当数の朝鮮の寺刹が、日本仏教の各宗派の末寺として隷属することで戦火を逃れようとしたのです。
そして、統監府は宗教を規制するために、一九〇六年十一月十七日に統監府令第四十五号として、「宗教の宣布に関する規則」を発布しました。日本帝国が植民地統治を行うための宗教に関する政策とその関連法案の整備は、すでに統監府時代から始まったのです。この「宗教の宣布に関する規則」は、すべての宗教活動に関する認可や不認可を統監府令によって規定するものでありました。その時、宗教活動の認可対象となったのが、日本神道、仏教、その他の宗教に限られました。その他の宗教という曖昧な枠の中身は、主に外国からの宣教師が布教活動を行っていたキリスト教のことでありました。それ以外の宗教、いわゆる韓国の自生・新興宗教及び民間宗教は、宗教としての認可対象にならなかったのです。いずれにせよ、この「宗教の宣布に関する規則」によって、日本帝国から朝鮮半島における布教活動に対する許可権を獲得しなければならなかったのです。この規則は建前上において日本の宗教であれ、外国の宗教であれ、その宗教活動が反国家的であると認められれば、朝鮮半島内での布教活動は許可しないことも可能であるということでありました。
さらに、一九〇七年七月に統監府は、宗教活動そのものを統制するために「保安法」を制定し、公布施行したのです。この法案は、韓国人だけにその効力がある法案でありました。この保安法を用いて統監府は、韓国の宗教教団を一般社会結社として扱っていたので、その活動をきわめて制限するものでありました。日本は植民地支配を行う中で、日本が望む秩序の安定とその方向性のため、一般結社のような宗教の活動は固く制限、禁止され、治安維持の名目で警察の手によって、管理されることになりました。
一九一〇年、「日韓併合」が成立するまで展開された日本仏教界の活発な布教活動は、開港地と租借地が増えるにつれ、宗教活動の拠点も増していきました。日本仏教の代表的な六つの宗派は、ソウルを初め全国二十六地域で布教活動を行っておりました。その各宗派が設置した寺院及び布教所の数も一八〇ヶ所に上りました。日蓮宗は、朝鮮内に十一ヶ所の寺刹を保有しており、真宗派本願寺は、二〇ヶ所の布教所及び出張所を保有し、附属事業として十個の教育機関と青年会を運営していました。曹洞宗は五ヶ所の寺刹と四ヶ所の布教所を、真言宗は、一ヶ所の寺刹と二ヶ所の布教所を設けており、浄土宗は、二〇ヶ所の寺刹及び出張所を運営していました。また、朝鮮人に布教するために四ヶ所の出張説教所を設置し、活動を行っていたのです。浄土宗の開教監督には、白石堯海、堀尾貫務、廣安眞随などが継承し、着実に教勢を拡大していました。浄土宗の布教活動によるその成果は、一九一〇年の浄土宗に所属していた朝鮮人の信徒数、五、三四三名であったのが、一九三七年には、九五、〇五二名に昇る教勢を形成していました。浄土宗は、朝鮮半島で布教活動を行っていた他の仏教教団と比べ、信徒の数がもっとも多かった宗派でありました。浄土宗はその勢いをもって、朝鮮人による寺院と朝鮮人の教役者まで養成しようとしました。韓国仏教界と僧侶たちは、日本の仏教に親しみをもっており、開港後の日本の近代仏教の流入という外部的条件に便乗し、朝鮮仏教界の再起と再生を図っていたためであるといえます。 
植民地統治と朝鮮仏教の日本仏教化
朝鮮総督府は「日韓併合」の翌年である一九一一年六月三日に、朝鮮総督府制令第七号「寺刹令」を制定し、「朝鮮総督府官報第二二七号」に掲載・発布しました。この「寺刹令」は、韓国仏教界に対する懐柔と弾圧という両面性をもつものであるといえます。朝鮮総督府はこの「寺刹令」を利用し、韓国仏教界を日本仏教に附属させ、統治しようとする目的があったと思います。この「寺刹令」を通じて、朝鮮半島全国山地に散在している寺刹の運営を効果的に統制しようとしたものでした。そして、同年七月八日に続いて、朝鮮総督府令第八四号「寺刹令実施規則」八ヶ条をも発布しました。この規則によって、朝鮮の寺刹を三十本山(一九二四年に華厳寺を加えて三十一本山となる)に統併合し、住職を朝鮮総督の統制下においたのです。総督府は、朝鮮仏教界を三〇個の教区域に分割させる方策をとったのです。「寺刹令及び同令施行規則」は、朝鮮仏教を構造的に総督府の支配下におき、日本仏教に隷属させるための法案でありました。この「寺刹令」の内容は、第一に、朝鮮仏教の宗派を統一して禅教両宗としました。第二、寺刹財産の安全を図ったのです。第三、寺刹の本末の関係を附し、統轄を図りました。第四、寺法を定めて法網の振粛寺務の刷新を図ったという意義を唱えるものでした。
この「寺刹令」の制定と、その趣旨に関する説明では、千余年の歴史を有している朝鮮の寺刹の頽廃を防ぎ、仏法を保護更生することにあると述べていたのです。「寺刹令」によって、当時全国にあった一、三〇〇の寺刹と、七、〇〇〇名の比丘僧が総督府の統率下におかれることになりました。韓国仏教界の多数の人たちが、この「寺刹令」を擁護する立場で現実を認識していたようであります。総督府の仏教政策に従うことが、「国民の義務であり、仏教者として修業のためにも当然である」という見解も多く現れていたのです。「寺刹令」に対する朝鮮仏教の各寺刹の反応は、とても良かったといえるものでありました。当時の仏教界が「寺刹令」によって、すべての活動と組織が正常化されたということについて各界からの極讃もありました。「寺刹令」を喜んだのは韓国仏教界の認識のなかに、韓国の仏教界が近代的に組織化されるということに注目し、そこに大きな意義を置いたためであります。また、僧侶たちの身分が社会的に安定され、寺刹の財産が保護されることに大きな満足を示していたといえます。
朝鮮総督府の宗教政策は、施政以来終始一貫して、朝鮮仏教の保護善導に努めたという建前の下で、一九三七年二月に併合以来最初の試みとして、「三一本山住職会議」を開催しました。この「三一本山住職会議」が動機となり、朝鮮僧侶の覚醒を促すという名目で有力な住職らは様々な画策を試みるようになりました。それが「帯妻制度」であります。一九一一年、総督府が発布した「寺刹令」には、「各本山の寺法制定する際にも比丘に限って、本末寺の住職とする規定」となっていました。しかし、朝鮮仏教界は日本仏教のように僧侶の結婚、いわゆる帯妻を制度的に保証する条文を盛り込ませたのです。朝鮮仏教に「帯妻制度」を取り入れたのであります。このことは、暗黙のうちに進めていた日本仏教化を公然と行おうとする意志を表明したものであると思われます。近代日本仏教の特徴である「帯妻制度」を朝鮮仏教界にも導入させ、そうすることで、日本仏教と同一なものである認識を朝鮮の僧侶たちに植え付けようとしたのです。この「帯妻制度」は、日本仏教界に一八七二年に出された「太政官布告第百三十三号」によって、公布されました。その内容を見ると、「自今僧侶肉食妻帯蓄髪等可為勝手事但法用ノ外ハ人民一般ノ服ヲ着用不苦候事」となっていました。この太政官の布告をそのまま韓国仏教界にも取り入れたのでありました。この「帯妻制度」が、公然と朝鮮仏教界に広まることによって、比丘を中心としていた朝鮮仏教の特色を薄め、より日本仏教界の形態に近いものにしようとした政策であったと思われます。この「帯妻制度」が、解放後の韓国仏教界においてもっとも大きな親日問題として残るのでした。
特に、韓国仏教界の中堅僧侶として積極的に活躍していた留学僧たちは、帰国後彼等はおおむね結婚をしただけでなく還俗もしていたのです。彼等は公費または、私費留学で日本に渡り、日本の仏教を学んできた僧侶であり、その数は、六〇〇人を上回るといわれています。彼等の言い分は、「日本の僧侶は妻子がいるにも関わらず日本の社会から尊敬されている」といっているのでありました。日本仏教の一断面を見た韓国の留学僧侶たちに、伝統的な朝鮮仏教の持戒に対する価値観に変化をもたらしたといえます。このように帯妻制に対しては、国内の多くの仏教者たちも賛成しており、親日的な傾向もさらにつよく現れてくるのでありました。僧侶たちは、日本の女性や両班家門出身の女性を娶ることによって、その社会に進出し、朝鮮時代に抑圧されてきた政治的、社会的な地位や権限を取り戻そうとしたのです。 
解放の喜びと悲しみの親日仏教
一九四五年八月十五日、連合軍の勝利によって、朝鮮半島は日本帝国の植民地から解放されることになりました。それは政治的な解放だけでなく、経済的・文化的にも解放されたのです。仏教も他宗教と同様に日本の植民地支配からやっと解放されることになりました。植民地からの解放は、韓国仏教に宗教として自由と独立の喜びをもたらしただけでなく、韓国仏教界に混乱と親日というレッテルをも同時にもたらしたのです。
解放後の韓国仏教界の宗権を握っていたのが、解放以前と同様に帯妻僧でありました。彼等は日本の植民地時代にも権力の座に就いていた親日宗教家といわれていた人々でありました。彼らの政治活動が、韓国仏教界に内在していた「親日の問題」を表面化させたのです。解放後、韓国仏教界を始め、各宗教界の最も大きな問題点であった日本帝国への協力と、協力の見返りとしての財産を蓄積した親日者に対する処分が問題となりました。特に韓国仏教界において、日本の植民地支配に便乗し、一般の民衆が苦しむとき「帯妻肉喰」を行いながら、華やかな生活を送っていた親日僧侶が何よりも大きな問題になりました。勿論、これらの問題は、仏教界だけの問題と言うよりも、社会全体に内在していた「親日」や「親日派」の処理問題でなければならなかったのです。新国家建設の基本的な前提は、日本帝国よる植民地時代の残骸を削除し、「親日」及び「親日派」の処理が問題でありました。しかし、解放後の韓国仏教界内部は、親日的な要素の削除に足を捉えられ、教団の浄化という時代的な要求に応えることができず、そのまま生き残っていたのです。
一九四五年、韓国仏教界の帯妻僧の数は七、〇〇〇名でありましたが、それに対して、伝統的な韓国仏教を主張した比丘僧の数は、わずか五〇〇余名に過ぎなかったのです。これは帯妻僧の数が、比丘僧の十四倍をも上回るものでありました。これは解放後の韓国仏教界において、その実権を掌握していたのが、帯妻僧侶たちであったことを証明する証であったといえます。彼等は、植民地支配の協力者としての反省も行わずに、解放後も経済的、政治的基盤を守るための政治活動を行い続けていたのでありました。
今日、韓国の寺刹や寺院の数は、約一八、五一一にも上る数があるといわれております。その殆どの僧侶たちは「帯妻肉喰」をしない比丘及び比丘尼という清僧と尼僧に変わっているのです。いわゆる、伝統的な韓国の仏教本来の姿と、清浄比丘による宗教活動に戻っていることを意味するように思います。しかし、今日のような伝統的な仏教の姿へ戻る過程には、様々な苦境が待ち構えていたのです。アメリカ軍政は韓国仏教界を統制するための法律的な根拠として、日本植民地時代下で制定された「寺刹令」と「朝鮮仏教曹渓宗総本山○○及び三十一本寺・末寺法」をそのまま存続させていたのです。そして、一九四九年六月に公布された「農地改革法」は、土地収入に依存していた仏教宗団に大きな打撃を与えたのです。土地収入が経済的な基盤であった仏教宗団は、再び自立のための経済基盤を失うことになったのです。韓国仏教教団は解放直後、自らの民族的覚醒と宗教的良心による教団浄化の意志が、政治的な混乱と民族間の戦争によって、中断されることになりました。また、韓国仏教界は朝鮮戦争による被害が整理される前に、旧日本寺院と個人の所有になっていた多くの寺刹財産が、キリスト教団体や個人に売却されるなどの損失を受けたのです。
そして、朝鮮戦争が一九五〇年六月二十五日勃発し、一九五三年休戦が成立するまで、同族間の激しい戦争によって、国土は荒果ててしまいました。その翌年である一九五四年五月に、李承晩大統領は「仏教浄化に関する諭示」を発表したのです。この「仏教浄化に関する諭示」は、一九五五年までのあいだ、七回も発表されたのです。大統領の仏教浄化という名分の諭示は、当時七千名の帯妻僧侶と、五百名余りの比丘の間に仏教紛争を招来し、帯妻僧と比丘僧とのあいだでは政治的な争いが始まったのです。その第一次諭示の内容は、「過去四十年のあいだ、日人たちは所謂神道というものをもってきた。自分たちの天皇を天神のように崇める制度を作り、神社参拝を行うとき宣教師は参拝を拒否し、韓国から追放された人もおり、被迫された人もいる。我々韓人教徒たちも神社参拝を拒否して獄中で被迫された人の数も多く、死んだ人もいる。同時に日人たちは所謂仏教というものを韓国に伝播させて、我々の仏教で行わないすべてのことを行い寺刹を都市と村落に混ぜ、僧侶に家庭を持たせ俗人たちと一緒にいさせた。(中略)韓国の高尚な仏道を抹殺させようとした。その結果、今日の僧侶は、僧であるか俗人であるか混沌している。そのため我々の国の仏教というのは有名無実になっている。」こういった内容でありました。これらの諭示に基づいて第三次の諭示では、「仏教浄化委員会」が設立されました。また、一九五五年二月四日に「韓国仏教浄化対策委員会」を構成し、仏教浄化の基本問題に対する公開討議が行われました。その後、文教部長官の報告書という形をもって、寺刹浄化に関する仏教教団内の両院(総務院側と禅学院側)の合意の下で、僧侶の資格に関する「八大原則」をも決めました。こういった原則を始め、大統領の仏教浄化に関する諭示は、日本帝国から解放後成立した大韓民国が民主国家として掲げていた政教分離の原則に反していたといえます。これはいわゆる、政府権力による新たな宗教弾圧の一場面であったとも考えられます。
当時、国家運営に携わっていたアメリカ軍政には、李大統領の政治的な意図が大いに含まれていました。一種のキリスト教指向の宗教政策であったともいえます。アメリカ軍政は仏教が韓国民衆の伝統的な民族宗教であり、民衆を巻き込む政治的な力を得ることに対して不安を抱いていたのです。アメリカ軍が軍政を行うに当たって、戦略に韓国仏教界の政治的、経済的な弱体化の必要性を唱えていたといえます。敬虔なキリスト教徒であった李承晩大統領との宗教的な対立も、大きく関わりを持っていたと思われます。政界に進出していた仏教系政治家(特に帯妻僧)に対する政治的な牽制であり、政治的な計算が含まれていたといえます。しかし、李承晩大統領が行った仏教浄化政策がもたらした影響を始め、親日仏教としての性格が、今日の韓国仏教界に未だに残存しているのです。 
おわりに
私は「近くて遠い国」という言い方や、「近くて近い国になろう」という言い方も嫌いです。日本と韓国は「隣人」や「隣国」ではなく、となりの友だちになるべきではなかろうかと思います。友たち同士では、喧嘩もするけれども、互いの痛みを共有できる家族以外の唯一の存在であります。
今日は、「親日」「反日」の話を近代期に向かい再生された朝鮮仏教にもたらされている「親日性」についてお話しました。「親日」という言葉や「反日」という言葉は、あまりにも日本と韓国の人的・物的交流を妨げる壁のように感じます。
今、私は友だちになろうという話をしましたが、ハングルで友だちは「■■(チング)」といいます。■■(チング)という字を漢字で書きますと「親しくて旧い」と書きます。この親しくて旧い■■(チング)という文字をよく頭に浮かべ考えて見ると、これまで幾度ともなく話していた「親日」という文字のあいだに縦の線を一本書き入れれば、「親旧(チング・■■)」となるのです。これからも日本と韓国は友人として、いわゆるチングとして一緒に歩く運命ですのでこれからも隣の友人を知るための努力をしてくださるようにお願い申し上げます。 
 
宇野千代

 

1
宇野千代と聞いて、なにを想起するだろうか。
艶やかな着物姿のハイカラでモダンなおばあちゃんを、であろうか(宇野千代は着物のデザイナー、プロデューサーでもあった)。あるいは幾多の男性遍歴で名を馳せた女流作家としての彼女を、であろうか(五度の結婚歴がある)。もしくは名作「おはん」の作者であることを、であろうか(「おはん」は第五回野間文芸賞、第九回女流文学者賞を受賞した)。もし、あなたが女性ならば、晩年のベストセラー「生きて行く私」を、たちどころに思い浮かべるのかもしれない(宇野千代という女性の放つ個性と生きざまに共鳴しながらの、ひそかなる羨望とともに)。「私は去年八十四歳になって、始めてテレビに出た。それまでは、てれびに出るのが可厭(いや)であった」 八十四歳の自分の顔が、精巧なテレビカメラに堪えられるのか。何の抵抗もなくしゃべられるものなのか、ということでいつも尻込みしていたからだ。ところがNHKの仲の好い友だちに、つい、誘われて、那須の自宅でテレビに収まってしまったのである。それで尻込みがなくなったのか、こんどは前から話のあった「徹子の部屋」にも、出演することになった。すると、「忽ち、あの〈しゃべらせ上手〉の黒柳徹子の口車に乗せられて、つい、尾崎士郎、東郷青児、北原武夫の誰彼と寝たことまで、しゃべって了ったのであった」 あとで黒柳徹子に大笑いされる。「あたし、あんなに、寝た寝たと、まるで昼寝でもしたように、お話になる方と、始めてお会いしましたわ」
このエピソードに添えて、「生きて行く私」に宇野千代はこう書く。「このときも私は、自分がそんなに明るい気持ちで、自分の気持ちをしゃべれたことが、やはり幸福であった。幸福は伝染する。そのときのテレビも、その私の幸福が伝染してか、〈とても面白かったわ〉と人々から言われたものであった。人間同志のつき合いは、この心の伝染、心の反射が全部である。何を好んで、不幸な気持ちの伝染、不幸な気持ちの反射を願うものがあるか。幸福は幸福を呼ぶ。幸福は自分の心にも反射するが、また、多くの人々の心にも反射する」だから花咲き爺さんならぬ花咲き婆さんに、宇野千代はなりたいのだという。
「生きて行く私」は、やがて米寿(88歳)を迎えようとする作者が、それまでの起伏に富んだ人生を振り返った自伝エッセイである。昭和57年(1982)から、ほぼ一年半にわたって毎日新聞日曜版に連載された。ここに書かれているのは、明らかに不埒(ふらち)で放埓(ほうらつ)なはずの女一代記なのであるが、それがちっともそのように映らないのはこれはどうしたことだろう。それどころか、むしろ、痛快にさえ思えてくるのである。これは告白的文章に特有の陰湿で湿潤なもの(悔恨さえも)が見当たらないせいであろうか。「私はいつでも、自分にとって愉(たの)しくないことがあると、大急ぎで、そのことを忘れるようにした。思い出さないようにした。そして、全く忘れるようになった。これが私の人生観でもあったが、ひょっとしたら私は、それほど弱虫で、臆病でもあったのか」 欠点をどうかしてプラスに転じようとするのは、誰しもが(無意識のうちにでも)試みていることではあるだろうが、これを〈忘却〉という概念で積極肯定してみせたのは宇野千代のほかに誰かいただろうか。
「世の中の凡(あら)ゆることは、この、〈忘れる〉〈思い出さない〉ということで、解決されることが多いからです」と、別の著作でも宇野千代は書いている。人生の妙諦(みょうてい)は忘れることだ。文学者として着物の事業家としても宇野千代は一流の域に達した。すべては過ぎ去ったことだから、成功をおさめた現在からふり返ってみれば、過去はそのように思いやれるのであろうか。どうもそれだけではないようである。宇野千代にとって真に自分が生きているのだと実感されるのは、己の気持ちに忠実にふるまえたときだという。世間的な規範、道徳的判断と関係なく、心のおもむくままに自然な行動がとれたときであると。「私は好んで、自分の生きている生き方を、〈鴉が空を翔ぶように〉と形容する癖がある。鴉が空を翔んでいるのを見て吃驚(びっくり)仰天する人はいない。ああ、翔んでいる、と思うだけである。何だ、あの鴉は翔んでいる。何と言う横着な鳥だろう、と思う人もいない。ただ、翔んでいる、と思うだけである。鴉の翔ぶのは生まれつきなのである。翔ぶのが性分なのである。知らぬ間に翔んでいるのである」 しかし宇野千代のこのような性情は、世の常識とされる基準とはみ出す行状を呈したのも必然の成りゆきであったか。
宇野千代は明治30年(1897)に山口県岩国市(錦帯橋で有名)に生れた。長女であるが、一歳で母親(25歳)が病死。造り酒屋の次男坊だった遊び人の父親(43歳)はその翌年、後妻リュウ(17歳)を迎え、腹違いの弟妹四男一女が生れる。「生きて行く私」の最初の章題を宇野千代は、〈よくぞ生んでくれた〉としている。肺病で死んだ生母の記憶は全くないのであるが、八十歳を過ぎてのある日、面影もない母親に突然、感謝の念が沸き起こってきたことから書きだしている。母が死んでしばらく父の生家に預けられていた千代を呼びもどして、父は言う。「今日から、これがお前のお母(かか)じゃ」。千代はリュウを実母と信じて育つ。十七歳の後妻は千代を総領娘としての扱いを示して、きちんと我が子を教育した。このことによって、五人の弟妹たちは千代を慕い、終生仲の良い兄弟となった。
十二歳で岩国高等女学校へ入学した翌年、死んだ母方の姉から実母のことを聞かされたうえ、その伯母の息子である藤村亮一(17歳)に父の命令で嫁がされる。しかしこの婚礼は十日ほどで何事もなく自然解消される。放蕩無頼ながらも妻子には厳格極まりなかった父が長い患いのあと死んだのは、その翌々年始めだった。従兄弟に嫁入りさせたのは父の死病のせいだったのか。父の死は千代をいっきに解放した。好きな文学にいっそう親しみ、文学仲間と交わる。女学校を卒業すると、実家からほど近くにある村の小学校の代用教員になった。十六歳の先生である。「七十年も昔の田舎では、小学校の教員になるのが、たった一つの、女の仕事なのであった」。千代先生は子供の能力を上手に引き出す有能な先生だった。このころ六、七人の文学仲間たちと同人雑誌を発行している。
月給は袋ごと渡してリュウに感謝されていたが、そのうち祖母(リュウの母)が見つけてくれた下宿で一人暮らしをするようになる。一人暮らしと師範学校出の新任教師佐伯が赴任してきたことによって、宇野千代の運命が大きく変転する。「最初の一瞥(いちべつ)で心を奪われた」千代は、佐伯とたまたま二組ある同じ学年を受け持ったこともあり、急速に親しくなる。やがて千代の下宿から朝帰りする佐伯の姿を村人に目撃されると、二人の仲は村中のうわさとなり、ついに千代は校長に呼ばれ諭旨免職を言い渡される。教員同士の恋愛は禁制であった。「男の方は見逃され、女の方だけが罰則をうけた」のであるが、佐伯がなんの咎(とが)めもないことに千代は安堵した。だが、二人に何の解決策もなかった。うわさを避けるために、千代の頭にふと浮かんだのが朝鮮の京城(ソウル)に行くことだった。そこで女学校時代の恩師が教師をしていたのだ。
懐いてくれていた生徒たちに最後の別れをしようと、髪を島田に結い、袴と矢絣のいでたちで登校すると、校長に挨拶さえも拒まれた。暗い中、人目をしのんでの出立の船出を見送ってくれたのはリュウだった。リュウは免職の理由も聞かなかったし、朝鮮行きにも反対はしなかった。夫のすることをただ黙って見守るしかなかったリュウは、その娘に対してもおなじ態度をとった。(「おはん」や「風の音」などの心優しい主人公の姿は、このリュウが原型になっているという)。京城に着いた千代は毎日のように長い手紙を書いた。だが佐伯からは極くたまにしか返事は来なかった。しかも最後に届いた手紙には住所は書いてなく、自分も罰をうけて山奥の学校に流された、これ以上手紙は送ってくれるな、ふたたびうわさになれば身の破滅になる、というものだった。
一読、母が病気になったとの口実をもうけて世話になった恩師に告げると、千代は即座に帰郷する。京城に来てからまだ半年と経ってはいなかった。岩国駅に降り立つと、その足で佐伯のいる村に向かった。思い焦がれる人に会うやいなや、一途な思慕は失恋に変色していた。離れた恋人の心を取り戻すことはすでに不可抗力であることを悟るしかなかった。「もし、私と同じような経緯(いくたて)で、失恋した人があるとしたら、その、どの人に向ってでも、私はこう言いたい。〈私のした通りにして下さい。決して、もう一度、雨戸を叩いたりして、男を呼んだりはしないで下さい〉」 佐伯が追い返して閉めた雨戸を、千代はもう二度と叩くことはなかったのである。最初の恋愛から学んだ人生訓は終生のものとなった。
ところが失意の千代に、新しい出会いが待っていた。弟たちを連れて氷屋に入ると、そこに(最初の、夫ともいえない)藤村亮一の母とその弟の忠とに偶然出会ったのである。忠の帽子には三本の白線が入っている。忠は京都第三高等学校の学生なのであった。忠は千代より六か月ほど年上である。それをきっかけに伯母の家に遊びに行ったりする都度、京都で下宿している忠のところへ行くことを、伯母の言動は千代に慫慂(しょうよう)しているように思えるのだった。ときどき忠からも手紙が来るようになり、冬休みの帰省途中に広島で落ち合う約束をした千代は、そのまま広島の場末の旅館で忠と一夜をともにした。「お母、そいじゃ行くけえの」「風邪をお引きなよ」。朝鮮行きの日とそっくりおなじ別れの言葉を交わして、朝まだきの船でこっそり千代は京都に向かった。忠との京都生活は「二度とはないくらいの呑気な生活であった」。従兄弟同士の結婚を正式に届け出たのは大正八年、宇野千代二十一歳のときである。宇野千代は藤村千代となった。
その二年前の大正六年、藤村忠は東京帝国大学法学部に入学し、二人の生活は東京に移っていた。忠の父親が裁判所を定年になっていたので仕送りが途絶え、忠は大学に籍を置いただけで役所につとめ、千代もさまざまな仕事に就いた。そのひとつ、本郷にあった西洋料理店のウエイトレスをしていたときの来客に、今東光、芥川龍之介、久米正雄、菊池寛、佐藤春夫などがいた。なかでも「絶世の美少年」だった今東光とは、とりわけ親しくしていたようだ。(芥川龍之介の作品「葱(ねぎ)」は、今東光と宇野千代をモデルにしたものだといわれている)。また近くにあった中央公論社の瀧田樗蔭はかならず昼食に訪れていたという。このころ、千代も小遣い稼ぎをかねて懸賞小説に応募しては、ときに賞金を射止めていた。忠は大学を卒業すると、北海道拓殖銀行に就職。大正九年、新婚夫婦は東京を離れ、札幌に転居するのであったが、二人が東京に出て来たばかりのころ、とりあえず転がり込んだのは忠の兄、あの亮一の間借り先であったという。千代にとっては五、六年ぶりの再会であった。亮一は女と同棲しており、どこの学校にも通ってはいず、何をしているのか分からないような生活をしていた。こののち亮一は肺結核を患い八丈島に転地療養していた。二人が見舞いに行ったときには骨と皮だらけとなっていた亮一が死んだのは、それからまもなくであった。
札幌での新生活は安定したものであった。藤村千代は札幌で初めての冬を迎える。雪に閉ざされた夜ふと目にしたのが、「時事新報」の懸賞短篇小説の募集記事だった。年が明け、正月の新聞に応募した自分の小説「脂粉の顔」が一等に当籤していることを知る。二等に尾崎士郎、四等に横光利一の名前があった。選者は久米正雄、里見敦とある(註1)。送られてきた賞金の二百円という大金に驚く。「小説とは何と言う金の儲かるものか」。それまでの仕立て物の内職をやめ日夜小説を書きつぎ、東京のレストランで見知っていた中央公論社の瀧田樗蔭宛て(註2)に作品を送付した。だが、瀧田樗蔭からは何の音さたもない。どうなっているのか、こうなれば事情を確かめに中央公論社まで行くしかない。駅に見送りに来た夫とこれが今生の別れになるとは、思いだにもせず千代は上京したのだった。(註1・このときの選者を宇野は徳田秋声、久米正雄、菊池寛と書いている。註2・瀧田は名編集長として名高く、中央公論誌に小説が載るのは名誉であった。)
おりよく、瀧田樗蔭は社にいた。「あの、あの、私のお送りした原稿は、着いてますでしょうか。もう、お読みになって下すったでしょうか」 瀧田樗蔭は眼の前に積んであった、六、七冊の雑誌の一冊を千代の前に投げ出し、まるで怒ってでもいるように言った。「ここに出てますよ。原稿料も持っていきますか」「忘れもしない、それは大正十一年の四月十二日であった。中央公論の五月号に、私の小説『墓を発(あば)く』が載っている。私はぶるぶると足が慄(ふる)えた。眼の前に投げ出された、この夥しい札束は何であろう。あとで正気に帰(ママ)ったとき、その札束が私の書いた原稿百二十二枚の報酬である三百六十六円(註)だと知ったとき、私は腰も抜けるほどに驚いたものであった」 (註・原稿料は一枚三円であった。女子の初任給が十二円の時代だった、と宇野自身別著に記している。)
まさに有頂天となった藤村千代は、札幌には遅くなると電報を打ち、凱旋帰郷を思いつく。「あの遠い北海道で私を待っている筈の忠の姿が思い浮かんだ。この大金を持って帰り、第一番に見せてやる筈の北海道へは帰らず、こんな遠い岩国の自分の家に帰って了った。この私の行動は自分でも理解しがたい」「まあ、こんとうに貰うても、ええかいの」金を受け取るとリュウは泣いた。六年ぶりに会う母の手は節くれ立ち、かさかさに荒れていた。女手ひとつで五人の弟妹を育て上げた母の労苦が忍ばれたが、このときの心情を自分はただ母に自慢したい心に占領されていただけにすぎない、と記す。夫の実家にも寄って行くのかと母が訊ねたが、夫の親には会いたくないけど、祖母(リュウの母)には会いたいと思うのも、理解しがたいではあろうが、これも自分のそのときの本心であった、とも記している。
岩国からの帰途、札幌までの切符を買っていたのが東京で時間があったので、先だってのとき碌に礼もきちんと言ってなかったので(できれば次作のことも打ち合わせられたらと)、中央公論社に立ち寄る。と、こんども瀧田樗蔭は在社していた。が、先客が二人いた。その一人が二等当選していた尾崎士郎だといって引合された。「ぼ、ぼくが、そ、その、二等賞の尾崎士郎です」尾崎士郎には少し吃(ども)りがあった。この運命的な出会いはこう説明されている。「私はその瞬間に、ながい間、意識することもなしに過して来た渇望のようなものが、ふいに、堰(せき)を切って、溢れ出すような錯覚に襲われたのであった。この感情を何に喩(たと)えたら好いのか。それは、無防備な、抗し難いものであった」「この奇遇に乾杯しようや」ともう一人の連れが言い出して、三人は尾崎士郎が止宿していた菊富士ホテルに繰り出す。列車の時間が迫って来た。連れは席を立ったのに、「私は立てなかった」「この感情は恋でもない、愛でもない、一種、放蕩に似た、いや、もっと切実なものであった」 有夫のことも告げずに尾崎と一夜を明かし、驚くことに、藤村千代はそれっきり札幌へは帰らなかったのである。
夫は千代を待つことをやめ、父母を北海道に呼び寄せた。何事にたいしても喜怒哀楽の感情をあらわさない、夫忠の胸中は全くわからない。ただ、汚れ物や洗い物をそのままにして飛び出してきたことを、伯母に知られることをのみ恥じた。そういう北海道の消息は尾崎士郎と暮らし始めて半年くらいのちに、リュウが手紙で詳しく知らせてきた。「母はその手紙でも、一言半句も、私を難詰してはいなかった」 それは亡くなった夫にたいしてそうだったように、かつての千代の不祥事のときもそうだったように、ただ見守っていてくれただけであった。
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たちまちのうちに意気投合した宇野千代と尾崎士郎が、文士の村といわれた東京馬込に小さな家を建て生活を始めたのは、北海道に夫を残して上京した大正11年春の一年後のことであった。新進作家として頭角をあらわした宇野千代は、中央公論などにつぎつぎと短篇を発表、大正13年には藤村忠との協議離婚が成立する。夫の尾崎士郎は明治31年(1898)愛知県生れ、早稲田大学政治学科卒業していた。生年は宇野の方が一年上であるが、26歳の同年夫婦であった。後年、小説「人生劇場」で国民的人気を博した尾崎はまだ雌伏の時代を過していた。「万人に愛せられる習性」を持ったおおらかな尾崎士郎のもとには、多くの友人たちが集った。岩国へ尾崎を連れて帰省すると、母親のリュウまでもが「何ちゅう、尾崎さんはええお人じゃろう」と嘆声をあげた、と妻は自慢している。
作家となった宇野千代も尾崎士郎の交友の恩恵をうけて知己を拡げていく。平林たい子を知り、広津和郎を知り、萩原朔太郎を知る。宇野千代が生涯好んだ遊び、麻雀を覚えたのもこの馬込時代である。当時の風俗であったモガ(モダンガール)と呼ばれる断髪スタイルの髪型に宇野がすると、萩原朔太郎夫人、転居してきた川端康成夫人までもがそれにならって、流行のダンスに興じていた。ところが朔太郎夫人がダンス仲間の若い男と駆け落ちをするにおよんで、離婚となった原因をつくったと、朔太郎の親友であった室生犀星(馬込の住人になっていた)が激怒し、口もきいてくれなくなってしまった。そのしこりがとれたのは四十年後であったという。大正12年の関東大震災、昭和2年の芥川龍之介の自殺も馬込時代のできごとであった。
馬込とおなじく昭和のはじめの伊豆湯ヶ島は、文士たちの交流の地となっていたことでも有名である。「伊豆の踊子」を書く前の川端康成、広津和郎、萩原朔太郎、梶井基次郎、三好達治藤沢桓夫などである。宇野千代の湯ヶ島行きは、むろん尾崎士郎に連れられてであったのだが、尾崎が引き揚げてからも留まったりしたことによって、馬込ではあらぬうわさを立てられてしまう。特に疑われたのが、梶井基次郎とのことであった。「私は梶井の話も、その書くものも好きなのであった」から、つい深入りして誤解を生んでしまったというのが、その真相であったろう。しかし梶井に(おなじ作家として)、「精神的に恋していた」のも事実ではあった、とも宇野は告白している。(たしかに梶井基次郎の短篇小説はそれほどに魅力的であろう)。
うわさ話というのは常に、そのうわさされている当人には届きにくいものである。このときにもそうだった。しかも当の宇野千代にうわさになるようなことをしているという自覚がないのだからなおさらである。気づいたときには様相は一変していた。尾崎士郎にはいつのまにか若い恋人ができ、恋人の両親のまえでかための盃まで取り交わしているのさえ、宇野一人だけが知らなかった。肝心の尾崎そのものからも一言もなかったのだから、事後承認するしかなかった。それと並行してこんなエピソードも書いている。尾崎のいない馬込の家に、牧野信一がしばしば遊びに来て、一、二ヶ月も帰らないことがあった、すると、(牧野の)細君が子供を連れてくる。それは「良人(おっと)の様子を見に来たのではなく、自分たちもちょっと一緒に遊びたい、そう思って来たのであった。・・・・呑気なことであった」 これが尾崎と別れてからのことなのか、はっきりしないが、いずれにしても尾崎との離縁は、はたから見れば、宇野千代の軽挙妄動が招いたということであったのか。こののち、文士たちが集まっている場所で、へべれけに酔った牧野にからまれたことも披歴している。牧野信一が自宅で首を吊ったのは、しばらくしてからだった。宇野は(梶井とおなじく)牧野の文学に渇仰(かつごう)の念を抱いていたのである。
尾崎士郎と別居状態から、正式に離婚したのは昭和5年であるので、中央公論社での初見から八年後ということになる。宇野は32歳になっていた。その前年より新聞小説「罌粟(けし)はなぜ紅い」(註)を連載していた宇野は、作中の情死の場面が描けないでいた。ふと思いついたのが東郷青児のことだった。電話では話しにくいというので東郷の指定した酒場まで行くと、ここには仲間がいるからと、そのまま東郷の自宅にさそわれた。18歳のころ、宇野が東京の西洋レストランでウエイトレスをしていたときの来客の一人として東郷(今東光の友人でもあった)を、見知っていたのであろう。とはいえ、この夜をさかいに宇野千代は馬込には帰らず、東郷青児との同棲をはじめたのである。(註・この題名は梶井基次郎の案出だといわれている。)
東郷青児は、のちに美術団体二科会のドンと呼ばれた画家である。その独特のフォルムによる抒情的な女性像は、広く大衆に愛されデパートの包装紙などにも採用された。宇野とおなじ明治30年(1897)鹿児島生れ。青山学院中東部卒。当時、子供が生まれたばかりの妻を残しての長いフランス留学から帰国して活躍の場を広げていたが、東郷青児の名を一挙に有名にしたのは、その画業よりも一年前におこした情死未遂事件(註)によってであった。四年後の昭和9年に東郷とは別れるのであるが、その翌年に発表した「色ざんげ」はこの情死事件に至る経緯を描いた中篇小説である。東郷自身の女遍歴を聞き書きした「色ざんげ」は、「私の全著作の中で一番面白く、そのためにその作品は、どこの出版社でも版を重ねた」、「おはん」とならぶ宇野千代の代表作とみなされている。「君はあの話(「色ざんげ」のこと)を聞くために、僕と一緒にいたんだな」と笑いながら後年、東郷に揶揄(やゆ)されたものであるが。(註・相手は軍人の年若き令嬢であった。)
東郷青児と別れた事由は、その情死未遂事件をおこした女性と東郷が復縁したことによる。女性はその後結婚していたようであるがうまくいかなかったのか、東郷とは偶然に再会したのだという。最初の妻とのあいだに男児、そしてこの女性にも女児が生まれるのであるが、後年、宇野はこの二人とも親交を結んでいる(男児とは幼少のころ、一時母親代わりの世話をしたことがあった)。「僕が死ぬときには宇野さん、大阪の家へ来てくれますね、僕の枕許で、僕の手を握っていてくれますね」「ええ、好いわよ。手を握ってて上げるわよ」 肺結核での死を予感していた梶井基次郎は、東郷との結婚を知って「とんでもない奴と一緒になった」と憤慨しながら、昭和7年に32歳で没した。むろん大阪の梶井の枕元に、宇野千代ははべってはいない。このころは東京での(東郷青児との)愛の生活の絶頂期にいたからである。
宇野千代が最後に結婚した男性が北原武夫である。北原武夫は明治40年(1907)神奈川県出身。父親は医者だったのでそれを継ぐように強要されたので、高校(旧制)は理科に進んだものの大学は慶応の文学部を出て、都(いまの東京)新聞社に勤めながら小説を書いていた。北原には学生時代から同棲していた女性がいた。大学を卒業するや、女児の父親になっていた。昭和12年4月1日、宇野千代が出会った北原武夫は、内縁の妻を3月に結核で亡くしたばかりで、女児は重度の脊椎カリエスを患うという境遇にいた。すでに東郷青児との離別から三年が経過していた。
学芸部の記者であった北原武夫は、その日、宇野の自宅に取材に来たのであった。一目見るなり宇野は北原に吸い寄せられた。「まず、紅顔の美少年とも言いたいその美貌に、心を惹かれた」のと、「その彼が、『妻』と言う高度で緊密な作品(註1)の作者(註2)であることを知るに及んで、その関心は倍加した」 梶井基次郎や牧野信一もそうであったように、「その人が文学的に優秀な素質がある、という認識が、いつでも先行するのが私の癖であった」 その日から宇野は、毎日のように勤務先の新聞社まで北原を訪ねて行くのであった。「あの女に会うのは危険だ。やめた方が好い」と上司から注意されるほど、宇野千代の悪名はとどろいていたにもかかわらず、北原は会ってくれた。6月には宇野のうながしを聞き入れて、新聞社を退社までしたのである。(註1・「妻」は第8回芥川賞候補作品。この回の受賞は中里恒子「乗合馬車」。註2・これより前、昭和8年に北原の小説「悪徳の街」を読んで感動、宇野は賞賛の葉書を出していた。)
北原武夫に出会う一年前、宇野は日本で最初のファッション専門婦人雑誌「スタイル」を創刊していた。新聞社でつちかった北原の経験と才能は、その雑誌の拡張に貢献した。二年後のおなじ4月1日を記念して、エイプリルフール結婚式が帝国ホテルで挙行された。仲人は藤田嗣治(「スタイル」の表紙画を描いた)と吉屋信子に依頼した。宇野千代41歳、北原武夫は32歳であった。「この年齢のことなど、一度として考えたことはなかった。それほど北原を愛するのに急であった。いや愛するのではない。愛している、と自分自身が思い込んでいるのに急だった」 北原の父母も、十歳も年上女房を「気にしているような風は、けぶりにも見えなかった。・・・・このことを、いまでも、この父母に感謝している」 この年7月には、北原の先妻の子が息を引き取った。
「生きて行く私」はこのあと夫妻の中国旅行、弟光雄(32歳)の病死、北原の陸軍徴用(このとき太平洋戦争勃発)、ジャワ島への従軍、徳島の人形師天狗屋久吉への傾倒(註)、熱海への疎開で谷崎潤一郎夫妻との食糧入手などの交流、北原の栃木の実家への再疎開などが描かれる。栃木で敗戦を迎え、引き返した東京で取り組んだのが、(援助者の出現があって)昭和21年2月の雑誌「スタイル」の復刊であった。有楽町の焼けビルの四階に「スタイル社」を創立、北原が社長、宇野が副社長となる。新聞に年間予約購読の広告を出すや、日ごとに為替が殺到する。この封筒で毎日風呂を焚(た)いたというのだから推してしるべしである。雑誌を求めて行列がビルを取り巻く。湯水が湧くような金(かね)。(註・昭和18年小説「人形師天狗屋久吉」となって刊行。)
さっそく、住居を兼ねた木造二階建ての社屋を建設、社員を増やし、熱海に別荘、奢侈を極めた豪邸を新築、昭和26年には友人の宮田文子(元竹林夢想庵の妻だった)とヨーロッパへ(この年母リュウ68歳で死去。林芙美子が48歳で急逝)。繁栄もここまでであった。世の中が落ち着いてくると競合雑誌も増え売り上げは停滞し、そのうえ脱税の摘発をうけ、多額の追徴金が追い打ちとなり経営は一挙に下降線をたどる。資産を売却しながらの青息吐息であった「スタイル社」が、息の根を止められたのは昭和34年4月のことであった。「スタイル」最終号は奇しくも、〈皇太子御成婚記念特集〉となった。北原と宇野は莫大な個人的負債(註1)を背負ったまま、「スタイル社」から身を引いた。原因は放漫経営にあったのだろうか(註2)。土地や家などの財産もすでに使い果たしていた。(註1・年譜には八千数百万円とある。註2・この経緯は傑作小説「刺す」に詳しい。)
「スタイル社」が倒産したとき宇野は還暦をすぎ、61歳になっていた。宇野千代の最高傑作といわれる「おはん」が、十年の歳月をかさね完成をみたのは、その還暦の年であった。昭和57年11月28日は宇野千代、85歳の誕生日であったのだが、「生きて行く私」を連載中にこの日を迎えた。たまたまその日は「生きて行く私」の連載日でもあった。そのことを、〈満八十五歳の誕生日〉と題して喜びの文章にしている。「さて、この、今日までの八十五年と言う長い間に、私の一番うれしかったことは何か」といいながら、「おはん」が単行本になったとき帯に書いてくれた小林秀雄の批評文をあげている。「近松でも読む様な一種の味ひがあって面白かった。特に初めの方がよいと思った。作者は、時も場所も不問に附し、不思議な魅力をもった話術を創案して、言葉が、言葉だけの力で生き長らへたいと言ってゐる様な、一種の小説的幻想世界を発明してゐる。事実に屈服した現代小説界で珍しい事である」「批評の神さまである小林秀雄に、これほどまでのことを書かせた作品が、まだ、ほかにもあったか、とでも言うような、人事ではない喜びが、これを読んだ瞬間に、私の心を走ったのを、私は忘れることができない。今日の、満八十五歳の誕生日に、もう一度、この文章を収録して、私の喜びを述べ、この日の締めくくりにする」
「宇野さんも、こんな、きものを作って売ったりしないで、どうして文学一筋にやって行かれないのかねえ」と、宇野の着物の店に立ち寄ったとき、平林たい子が言ったと耳にした宇野の反応(平林の言葉は宇野への好意からの発言)。「そと側から見ただけでは、私は決して、文学一筋ではなかった。しかし、私の心の中は、そのときの生活とは関係なく、いや、そのときの生活が文学から離れていればいるほど、文学一筋なのであった。・・・・『おはん』のことを思わない日は一日もなかった」 軌を一にした「スタイル社」と「おはん」の十年。こうしてみると、両者は真逆のベクトルを指していたということになるのだろうか。出版業というある意味もっとも現実的な世界に身を置いてなお、こつこつとひそかにひとつの小説をつづりつづけた文学者宇野千代にとって、「おはん」がひとしお感慨深い作品であったというのは、たとえ、小林秀雄の称賛がなくとも、後世の部外者のわれわれでも容易に想像がつくのである。
蛇足ながら、「生きて行く私」の平林たい子のことについて。尾崎士郎と暮らし始めまだ住居を転々としていたころ、平林たい子が若い男と〈匿(かく)まって貰いたい〉と言って逃げ込んできた。宇野は平林のことを何も知らなかったが、平林は社会運動の女闘士だった。尾崎は泊めた。時代は過ぎて、「スタイル社」が倒産、暴力団に手形がわたり、この金がないと暴力団に殺されるという状況に宇野は追い込まれる。このとき「前後の見さかいもなく」駆け込んだのが、平林の家であった。〈お金を二十万円貸して下さい。今日、その金がないと、大変なことになるんです。〉「平林たい子は何も訊(き)かずに金庫の中から、その金を出してくれた」いまの金で、二、三百万になるのだろうか。「そんな切っ端(せっぱ)詰まった金なら、どうせ返せないのは決まっている。そう思われた筈であるのに、それでも貸してくれたのであった。私はそのときのたい子の顔を見て、観音さまかと思い、後光がさしているように思ったものであった」
これを読んで手近にあった文学全集を拡げて、平林たい子の欄を開く(平林たい子は日本文学史の一角を占める重要な作家なのである)。そこにある平林たい子の顔は、ただの(その名前のような)偏平な顔であった(偏平とは、ひらたくて、たいらかなという意味である)。それが、じっと、よくよく見つめていると、不思議なことに、宇野千代がいうように平林たい子の偏平顔が、瞬時、偏平顔の仏さんのように見えてきたのである。
3
「私たちはスタイル社の末期の状態のとき、会社の借金を、宛(あた)かも私たち自身の借金でもあるような、所謂(いわゆる)、〈個人保証〉をしていた。この個人保証と言うことによって、どんなに恐ろしい債務を負わなければならないのか、それさえ、私たちは知らなかった。それが、いまは、はっきりと分かっていた。私たちは夜も昼も、そのために働かなければならなかった。それが当然の罰だと言うことが、いまは、はっきりと分かっていた」「いつの間にか私たちは、別々の工場で働いている、職人のようになっていた。私たちは、私たちの共通の借金を返すために、相手がいま、何をしているのか、それさえ分からぬことがあった」 青山の露地奥の家にい逼塞(ひっそく)、宇野千代は文筆に加え着物の商売(註)を始め、北原武夫は純文学一辺倒から中間小説に手を染めざるを得なくなっていた。「毎月の月末になると、二人はその月に稼いだ金を持ち寄り」、「火のつくような借金」を返却するだけの日々を送っていたのである。(註・着物仕事は「宇野千代株式会社」にまで成長、発展する。)
負債の返済が完了したのは、「スタイル社」倒産の五年後の昭和39年春であった。「ひょっとしたら私は、この借金が全部すんで了ったら、二人の間をつないでいるものが、何もなくなる、そう思っていたのではなかったか」「前から考えていたことだが、もし、出来たら、別れてくれないかと思ってね」宇野の部屋に這入って来た北原は切り出した。「咄嗟(とっさ)の間に私は、笑顔になろうとして、何か歪んだような顔になりはしなかったかと思う。・・・・〈ええ、好いわよ〉」 離婚届けに署名し、判を押すと北原は部屋を出た。「声を立てずに泣いた。涙がとめどもなくこぼれた。別れるのが可厭(いや)で泣くのではなかった」「むしろ、別れるのが、自然のような状態であった」 涙は「〈ながい間、一緒に暮らしていたなあ〉とでも言うような、一種、感慨の涙でもあったか」 66歳と57歳の、いまでいう熟年離婚であった。(この年、二月に尾崎士郎(66歳)が病没しているけど、「生きて行く私」にそのことが一行の記述もないのはなぜだろう)。
離婚の翌年に、北原は八年も待たせてあったという女性と結婚する。青山の家でときに見かけていた女性であった。腎臓の持病を抱えていた北原は、二度ほど入院をしたことがあった。入院先に見舞いに行くと、その妻となった女性と顔を合わせたりもしていた。恢復後には、そのころ宇野が住んでいた那須の家に、夫婦で遊びに来る約束までするようにもなっていた。北原たちがパリに旅行したときには、宇野に素敵なマフラーの土産も買ってきてくれた。その北原が腎不全で死んだという知らせを受けたのは、昭和48年9月だった。66歳である。「私が北原と離婚してから、もう、十年たっていた」 ちょうど、岩国へ里帰りしていた宇野の気持ちは千々に乱れる。通夜は代理を立て、葬儀の前夜には顔を出したが、もはや、自分の出る幕ではない。北原の妻がいろいろと心遣いをしてくれたのは、身に染みたが遠慮した。
東郷青児の急逝は、それから五年後の昭和53年4月だった。故郷鹿児島から熊本への旅行中、突然昏倒したのだという。宇野と同年だから80歳である。知らされたとき、宇野は風邪気味で寝込んでいた。吹きこぼれる涙は蒲団に吸いこまれた。東郷の娘(註)と三回忌の「東郷青児を偲ぶ会」にて、久しぶりに(「おはん」の出版記念会の席でピアノ演奏で祝ってくれた)を顔を合わせ、娘がときどき宇野の家に遊びにくるようになり、ある日東郷の居宅におもむくことになる。「生涯の間に、東郷青児の仏前に座して線香を立てる瞬間があろうとは、夢にも思い設けなかった私であった。その私の胸に去来する感慨は何であったのか」 しかもその日は、まだ子供だった東郷の最初の結婚相手の一人息子(かつて宇野が東郷と夫婦になったとき、一時、一緒に暮した)までもが駆けつけてくれていた。「あなた、もう幾つにおなりになったの」訊くと、「僕ですか、もう六十歳ですよ」顔つき、声までもが東郷にそっくりだった。(註・宇野と別れたあと、結婚したかつての情死事件の相手との一粒種の娘。画家になった。)
北海道で別れたきりの藤村忠の消息が判明したのは、雑誌社から回送されてきた手紙によってであった。「初めてお便りします。私は京都に住んでいる中学二年の女の子です。この間、テレビで拝見させて頂きました。そうしたら、無性に、亡くなった祖父が懐かしくなったのです。(あなたのことを、なんとお呼びしたら良いでしょうか)千代さん、(失礼ですけど、こう呼ばしていただきます)あなたは私の亡くなった祖父、藤村忠の従妹にあたるのですね。残念ですけど、私はまだ一度も、千代さんの作品を読ませて頂いていません。せめて、一つでも・・・・とは思ったのですが、思い立つと、いても立ってもいられなくなってしまって。ほんとうに薄いのですけど、千代さんと私は血がつながっているのですね。それを除くと、祖父を知ってること以外に、つながりはなくなってしまいます。祖父は(もちろん千代さんの方がずーっと御存じでしょうけど)とっても優しい人だった。とっても、私をかわいがってくれた。写真を同封します。見て下さい。この幸せそうな世界、幸せそうな私の顔を・・・・でも、悲しいのです。涙が出てきます。お願いします。私の知らない、祖父のいろいろなことを教えて下さい。めちゃくちゃな、へたくそな文章をお見せするのが恥ずかしいです。いまはだめですけど、大人(大学生)になったら、必ず千代さんに会いに行きます。(会って下さいますか?) 大好きなおじいちゃんの写真もありますか。(おかしければ、指摘して下さい)あなた様が遠い親戚であることを知ったのは、とても幸せなことだと思います。お返事は、いつでも、気の向いたときでいいです。でも、いまの住所を教えて下さい。もっともっと手紙を(許して下されば)書かして頂きます。千代さんはとっても尊敬すべき方ですから・・・・では、さようなら」
手紙の全文である。もし、自分が85歳の宇野千代の立場であったら、この手紙にどう反応しただろうか。「始めは何のことか分からなかった。あ、これは、あの私の最初の良人であった従兄の藤村忠の孫からよこした手紙だと分かったとき、私は魂も打ち抜かれたもののように、吃驚仰天した。札幌の駅のホームで別れたまま、六十年ものながい間、会うこともなかった藤村忠に、こんな孫があったのか。では、藤村忠は私と別れたのち、新しい妻を迎え、その妻との間に生まれた娘に(註)、いま私にこの手紙を書いてよこした、中学二年生の女の子が生まれたのか、と思うと、私は一種言い難い安堵の気持ちと同時に、自分のしてきた許しがたい行為に、おののくような気持ちを感じたのであった」(註・忠に娘がいたから、京都に嫁入ったという意味なのか?)
女の子がテレビで見たと書いているのは、宇野が「徹子の部屋」の番組に出演して、藤村忠のことを何の気もなく、べらべらとしゃべったのを言っているのだ。宇野はこの手紙によって、藤村忠(生きていれば宇野とおなじ85歳)の死んだことを知ったのである。つとめてあのことを思い出さないようにして、今日まで生死さえ確かめずにいたのに、大好きなおじいちゃんの写真など持っている筈がない。「私は同封してあったキャビネ形のぼんやりした写真を見た。確かに藤村忠に違いない七十歳ぐらいの男の膝にまるまると太った赤ん坊が、あの女の子なのか。この幸せそうな世界、幸せそうな私の顔を・・・・と書いているのは、この写真の顔なのか」
宇野は女の子に著書を二冊と、ハガキに「毎日新聞日曜版に毎週『生きて行く私』と言うのを書いている。ちょうど来週くらいのところから、あなたのおじいさまのことが、続けて出る筈だから、毎日新聞をすぐにとって下さい」と書き送る。しかし、女の子からは「本を受け取った」とも「毎日新聞を読んだ」とも、言っては来なかった。「ひょっとしたら、女の子が私のところへ手紙を出していることが、うちの人に知れて、あの女に手紙を出すとは何事か。どんなことがあっても、あの女と文通することはまかりならぬ、と小っ酷く叱られたのではなかったか。女の子の家の人たちにとっては、あの優しい藤村忠を捨て去った女は許せない、といまでも私のことを思っているのではなかったか。私の犯した罪は、人々にとっては永久に許せないことなのか。何十年たっても、それは過去にはならないのか。その罪を犯した本人の私自身だけが、もう過ぎ去った過去のことだと言って、平然としている。許し難いのはそのことだ、と言うのか。そこまで考えると、私には、女の子から何とも言って来ないのがよく分かった」
「女の子よ。あなたもまた、あの優しかったおじいちゃんを苦しめた私のことを、許せない、と思うようになるのか。世間の人の中で、このことに無関心な人だけが、平気で私の罪を見過ごしているのか。しかし、私は忘れたい。いや、忘れている。そんなことなどなかったことのように忘れている。このことに限らず、私は凡ゆることを忘れている。許し難い、と思われている自分の罪も忘れ去っているのと同時に、自分が人からこうむった辛かったことも、忘れている。そんなことなど、なかったかのように忘れている。この、忘れ去っている、と言うことの愉しさ。私は凡ゆることを覚えていて忘れないほど、強くはない。私は弱くても好い。この『生きて行く私』の話の中で、どんなことを覚えているか、忘れているか、較べて見て貰いたい」 と、啖呵を切る。(これには後日談があって、のちに女の子からの礼状が来たことを書き加えている)。
「生きて行く私」の〈罪を犯した本人〉という一章のほとんどを引用した形になったが、ここに宇野千代の生きる(生きてきた)本質が凝縮されているように思えるからだ。「生きて行く私」はまだこのあともつづくが、もはや、もう付け足すこともあるまい。ほぼこれで一人の女性の八十五年の生涯を、やや圧倒されながらも俯瞰した。どの人の人生であれ人生というものは、言い知れぬ何かをひそめているのではあるまいか。宇野千代のそれは航跡の波立ちが少しばかし高かっただけなのかもしれない。その波高なぶん、何かの示唆となる飛沫(しぶき)の量が多かったということなのだろう、そういうことであろうか。ともかく宇野千代が、自己にに忠実に生きようとしたことだけは確かなようである。ここで、屋上屋を架すようであるが、いまいちど宇野千代の生年(明治30年)に注目してみたい。
宇野より前に生まれた文学者を見わたしてみると、一つ上に吉屋信子、尾崎翠、七つ上の三宅やす子、もっと古くはひと回り上の岡本かの子、さらには宇野が尊敬を払った(そして宇野より長寿だった)野上弥生子、その一つ上の田村俊子、さらに古くに与謝野晶子、樋口一葉など、これだけである。壺井栄と宮本百合子が一歳下、林芙美子、森茉莉、幸田文、佐多稲子、平林たい子、円地文子たちが七、八歳下に、芥川賞初の女性受賞者であり、宇野の友人でもあった中里恒子にいたってはひと回りちがう。「生きて行く私」には多くの男性作家が登場する。ついでに生年順に列挙すれば、宇野が作家として最も尊敬していたと思われる谷崎潤一郎はじめ、萩原朔太郎、里見ク、菊池寛、室生犀星、広津和郎、久米正雄、芥川龍之介、佐藤春夫、片岡鉄平、牧野信一などは宇野より年上である。今東光、今日出海の兄弟、井伏鱒二、川端康成、三好達治、青山二郎、梶井基次郎、小林秀雄、藤沢桓夫などはすべて年下になる。(註・女性、男性とも主な作家たちのみ挙げた。)
驚くに、宇野千代の生年が意外に古いことである。ここに挙げた作家で、宇野千代より長生きした人は一人もいない。宇野千代が最終ランナーだったのである(註)。その長生きのせいもあるのだろうか、宇野千代のイメージはひときわ若々しく感じる。年を取っても若々しい。それは発想のあり方によるものだろうか。「生きて行く私」は決して(エッセイでもあるし)文学史における重要な作品ではないが、先人としての生きるヒントにあふれたこの作品は、後続の世代に少なからぬ勇気を与えたのではないだろうか。今日の世相をみてもその生き方は斬新でさえあるのだから。いま、宇野千代と聞いて、もしかしたら瀬戸内寂聴を思い浮かべるかもしれない。瀬戸内寂聴も我が子を捨てて男の許へ出奔したり、奔放に自分の人生を生きようとした横溢する生命力は重なるところが多い。長生きしていることだって似ている。だいいち瀬戸内自身が先達としての宇野千代に敬意を払っているのをみても、年齢からいっても二人は(文学の、人生の)親子と称しても、それほど誤りではないだろう。(「生きて行く私」にも瀬戸内との親密な交流が書きこまれている)。(註・宇野の五人の弟妹も皆、先に死んでいる。)
さて、「生きて行く私」は中公文庫をへて、現在は角川文庫に収まっているようだ。それに添えられた〈角川文庫版に寄せて〉という一文は、「私はこのお正月で数えの百歳になった」と始まっているのであるが、この文章がとてもいい。「・・・・ずっと以前から、私はあまり年齢というものを意識せずに生きてきたような気がする。とりたてて長生きしようと努力したわけではない。長く生きたいからなにか特別なことをするというのは私の流儀ではないのである。しかし、そういう私にも、もう少し生きていたいという気持ちはある。なぜかというと、私は人一倍好奇心の強い人間だからである。あと四年ほど生きれば二十一世紀になる。新しい世紀に入った世界をこの目で見たいと思っているのである。明治、大正、昭和、平成と生きてきて、その上さらに二十一世紀が見たいとは我ながらなんと呆れたものではないか。しかも、必ず見られると思っているといったら極楽トンボと笑われるだろうか。私はこのごろなんだか死なないような気がしているのである。いまの私はごく自然に、正直にそう思っているのである。この自然に、ということを私は大切にしてきた。この本の中でも書いたように〈鴉が空を翔ぶように〉生きてきたのである。そのとき、そのとき、私は自分の気持ちに正直に行動してきた。人がどう思うか、とか、世間がなんというかなどということはこれっぽっちも私の頭には浮ばなかったのである。ただそれだけのことであるのに、私がなにか特別なことをしてきたかのようにいう人が少なくないとは、なんと面白いことではないか。・・・・」
しかしながら、宇野千代が二十一世紀に生きることはなかった。〈角川文庫版に寄せて〉の日付は平成八年新春とある。角川文庫初版は平成八年二月二十五日とある。宇野千代がその生涯を閉じたのは、この年の6月10日である。急性肺炎、98歳であった。ということは、この角川文庫の文章を宇野千代は、その前年の暮れか、この年の正月に書いたのであろう。文章末尾にはこうある。「・・・・今日この『生きて行く私』が角川文庫に収められることになって、とても嬉しく思っている。・・・・」「生きて行く私」は「生きて行くあなた」に読まれて、いまでも版を重ねているようだ。
あ、そうだ、あの中学二年生の女の子は大学生になって、千代さんに会いに行ったのだろうか? 
 
三島由紀夫書評

 

『豊饒の海』 輪廻転生について  
左翼系学生運動が過激さを増す1970年、三島由紀夫(本名:平岡公威)は、陸上自衛隊の市ヶ谷駐屯地で自衛隊に愛国心に基づく決起を促した。しかし、その自立的な民族防衛と天皇中心の国体復帰を志向する先鋭なナショナリズムの目的は挫折し、彼の理想的な死の形式である割腹自殺によって三島は自決した。
三島由紀夫が晩年にその文学的才能の心血と自らの美的情熱の精髄を全力で注ぎ込んだ作品が、『豊饒の海 4部作』である。
第1作から最終作までのタイトルを並べると、『春の雪』『奔馬』『暁の寺』『天人五衰』という風になっているが、一冊一冊が非常に重厚長大で、用いられている語彙や表現は独特な艶やかさと華美な装飾で彩られている。
複雑さを凝らした美しい表現と精細を描ききる巧緻な心情描写が、『豊穣の海』を読む者を、三島の創造する官能的な美と清冽な思想が支配する世界へ引き込んでいくだろう。
なかなか気軽に速読できるような類の本でもないので、一冊を読了しようと思えばそれなりの集中力と静かな時間が必要となってくる作品であり、全巻を読むのは時間と気力の余裕がないと骨が折れるものだ。
私はまだ『春の雪』と『奔馬』までしか読んだことがないので、既読の2作についての書評を書いて、後の2作は読む機会があればまた感想や解釈を付してみたいと思う。
三島由紀夫のライフワークである『豊饒の海』に流れる通奏低音は、『輪廻転生の仏説』である。『春の雪』で、自らの屈折した感情と不器用な聡子との交際によって恋に破れ非業の死を遂げた松枝清顕(まつがえきよあき)は、『奔馬』において飯沼勲(いいぬまいさお)として転生するといった物語の展開になっている。
輪廻転生を遂げて全く異なる人格と思想、人生観をもって産まれた二人だが、それでもなお、二人は同じ悲劇的な結末へと自然に突き動かされていってしまうのである。『豊穣の海』では、主要な登場人物の死が、次の物語の主人公の生に火を灯す役割をしている。輪廻するバラモン教的なアートマン(我)は、延々と『不可思議な循環する生』の担い手となって、前世の業を現世の物語へと転換し続けるのである。
前世の業(カルマ)については、仏教思想の解釈や仏教の宗派によって賛否両論あるが、元々は古代インドの支配民族であったアーリア人が既存の社会秩序を維持する為に考案した『善因善果・悪因悪果』の思想である。
その為、現世の不幸な境遇や身分差別、心身の障害、虐待や搾取を『前世の悪しき行為の積み重ねとしてのカルマ』で説明することで、現在のカースト制度や身分秩序を肯定する役割を果たしてきた。
つまり、『バラモン(司祭階級)やクシャトリア(貴族階級)といった上位階級の権益と支配』を正当化し『ヴァイシャ(庶民階級)やシュードラ(奴隷階級)といった下位階級の苦役と差別』を諦観させる役割を、前世が来世を無条件に規定するというカルマの思想は果たしてきたといえる。
自分のあずかり知らない過去の悪しき振る舞いによって現在の低い身分や不幸な人生があるのだという考え方は、個人の自立性と身分制の否定を前提とする現代社会では到底受け容れられないものだが、カルマと輪廻転生の思想には肯定的な側面もないわけではない。
現在の政治体制や身分制度を肯定する為のカルマの思想、これは全面的に否定されるべき思想だといえるが、現世の人生で功徳を積み、利他的な慈悲を施して生きれば来世はより良い生に転生できるという思想はそれほど害悪のあるものではないだろう。
前世のカルマによる輪廻転生を他者の不幸や苦痛を正当化する責任転嫁の道具として用いることは愚劣だが、現世で善いカルマを積む利他的な行為、来世の善き転生の為に徳を積みたいとする信仰そのものは尊いものであろう。
仏教に現世利益を期待してはならないとするストイックな諸法無我や煩悩の消尽を重視する信者もいるかもしれないが、多くの苦悩を抱える信者にとって現世利益(目的志向の信仰)の全否定はあまりに酷であるのもまた事実である。とはいえ、現実の人生を『仮初めの生や前世の応報』と見るような三世の業による輪廻転生の思想が内在する危険性には意識的であるべきだろう。
輪廻転生の教えを仏教の開祖である釈迦は自らの言葉で述べておられず、カルマ(業)や三世(前世・現世・来世)、輪廻転生など『死後の世界を前提として前世から来世への生まれ変わりを示唆する教義概念』に対して『無記=論証不可能な形而上学の対象について肯定・否定を言及しない』の態度を貫かれたという学説もある。
三島由紀夫の文学作品への書評なので仏教思想に余り深く踏み込む余白がないが、知っておくと三島の『豊饒の海』の作品理解に役立つであろう仏教思想についてだけ解説を付しておこうと思う。輪廻転生は、釈迦が確立した仏教固有の思想ではないとする考え方は有力であるが、これは、『バラモン教の我(アートマン)の思想』と『仏教の無我(アナートマン)の思想』との思想体系を区別しようとする考え方でもある。
もちろん、古代から現代においてインドの伝統的宗教であるバラモン教やヒンズー教の影響は仏教よりも強く、その思想や信仰の仏教に対する影響は無視できない。釈迦自身も、ウパニシャッド哲学やバラモン教の信仰の影響から完全に自由であったとはいえないし、パーリ経典には輪廻転生の記述も見られる。
輪廻転生は、インドの伝統的な土着信仰であるバラモン教の死生観を仏教が継時的に受け継いだものと言われるが、一般的に、長い歴史を通して仏教体系(大乗仏教)の中に輪廻転生は組み込まれており、多くの仏教徒は輪廻転生や業を前提として仏教を信じてきた。インドという長大な観念的営為の歴史を持つ土地において、古代バラモン教やウパニシャッド哲学に起源を持つ思想概念の影響は余りに根深く強固であった。
輪廻転生とは、紀元前のインドの人々にとって懐疑の対象にさえならない極めて常識的な当たり前の死生観だったと考えることができる。その為、当時の新興宗教であった仏教が、その伝統的な死生観や世界観に対して真正面から否定的な教義を提唱することは、仏教自体の信頼性や有効性を貶めることにつながったのかもしれない。
個体が死んでも異なる個体となって生まれ変わり、その死と生の円環は途絶えることがないという輪廻転生の起源はバラモン教のウパニシャッド哲学にあるとされる。
輪廻転生が仏教本来の死生観でないという証左の一つとして、輪廻転生は仏教の根本教義である『四法印(諸行無常・諸法無我・涅槃寂静・一切皆苦』に含まれておらず、各法印の教える『自我への執着や常住する実在を否定する』内容は、輪廻転生のぐるぐると生まれ変わる循環的な生のあり方を否定する。
また、輪廻転生は、個人の自我の振る舞いを超えた前世の業(行為が生むカルマ)によって六道輪廻を繰り返し続ける苦悩を意味する思想でもある。六道輪廻とは『天・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄』の6つの世界における生まれ変わりのことであり、人は、前世の行為(カルマ)によって次の人生を生きる場所が決定されてしまうという思想である。
人間界でも四苦八苦に代表される無数の苦悩や悲しみ、痛みがあるのに、それよりも苦しくて悲惨な状況にある修羅以下の世界には生まれ変わりたくないというのは人情である。
それ故に、人は因果応報や自業自得といった自己責任を意識せざるを得なくなり、敬虔な原始仏教の信徒は仏教の究極目標である『解脱』を目指して修行精進することになるのである。
解脱とは、輪廻転生の生まれ変わりの円環の苦悩から解法された悟りの境地であり、同時に、煩悩によって心を揺り動かされることのない涅槃寂静の仏陀の境地でもある。
釈迦自身が、仏陀や阿羅漢に至る悟りに輪廻転生からの離脱という意味を明確に込めていたのか否かははっきりしないが、釈迦生存当時の古代インド社会では、苦の因果としての輪廻転生は常識として受容されていたと考えると分かりやすい。
仏教の輪廻転生にまつわる話が長くなりましたが、三島由紀夫の『春の雪』の書評に戻ります。『春の雪』は竹内結子、妻夫木聡を主演に展開する大正ロマンの恋愛物語としてついこの間映画化されたようですが、鑑賞する機会を逸してしまったのでいつかDVDで鑑賞してみたいと考えています。
この手の邦画は、人気の高いハリウッド映画などと比べて劇場公開期間が結構短いので、気づけば既に公開が終了している場合が多いですね。 
『春の雪』『奔馬』 
前回の記事で、三島由紀夫の『豊饒の海』の各作品を架橋する超越的な古代インドの宗教理念である輪廻転生について説明しました。
『春の雪』と『奔馬』の登場人物である松枝清顕と飯沼勲が輪廻転生の円環によってつながっているという本多繁邦の直感の中で、悲劇的な物語は淡々と流れていきます。
幼児期に公家の家に預けられ、京都の貴族的な文化風土の中で育った松枝清顕は、武家の人間に似つかわしい剛毅さや豪放さを身に着けることなく比類なき美貌を備えた美青年へと成長した。清顕の生家は元々質実剛健な武家であり、あまり高貴な家柄ではなかったが、突出した武人であった祖父が挙げた明治維新の武勲により華族制度における侯爵の地位を賜ったのである。
渋谷の高台にある広壮な松枝侯爵の豪邸には、明治天皇も行幸なされたことがあり、その際に清顕は春日宮妃殿下のお裾持ちの役割を果たした。
華やかな貴族的な行事の中で一層引き立つ清顕の世俗離れした圧倒的な美しい容貌に、父親である松枝侯爵は、超越的な美が内在する脆弱性をそれとなく感じ取っていた。
清顕の教育や面倒を見る侍従として傍近くに使える書生の飯沼茂之は、清顕とは対照的な剛毅さと朴訥さを愛する硬骨漢で、軽薄な振る舞いと柔弱な雰囲気を疎ましく思っていた。
飯沼茂之は、学業優秀で体格も抜きん出たものがあり、文武両道を地でいくような男で、清顕の祖父で幕末の戊辰戦争で獅子奮迅の活躍をした先代に心酔していた。
しかし、飯沼茂之は、清顕に生理的な疎ましさを感じてはいたが、清顕に対する忠義忠誠に一点の曇りもなかったし、清顕を剛健な力強さに満ちた武家の人間らしい男子にしたいという希望を持っていた。その点には注意する必要があるだろう。
『奔馬』では、成長した飯沼茂之は、右翼の思想団体を統率する首領のような立場になっているが、本多と再会して清顕の死を偲ぶ時には心の底からその死を惜しみ融通の利かなかった過去の自分を反省している様子も見られる。
質実剛健を絵に描いたような祖父が興した松枝侯爵家が、京の柔弱な公家のような奢侈と遊興に塗れた生活をしているのが飯沼茂之には何より不本意であったのだ。
飯沼が清顕に対する不快感や違和感は、その余人を寄せ付けない清顕の美しい外貌に集約されていた……美しさの孕む脆弱さや儚さ、国事国難に関する意識の低さ、武人らしい剛健な雰囲気の欠如、そういった美貌の清顕の持つ特性の全てが、武功の名誉ある松枝家にはふさわしくないと飯沼には思えたのである。
18歳の清顕は同年代の少年が持つ野蛮や粗雑を嫌悪していたため、余り多くの友達を持たなかったがそんな清顕が唯一親しい交友関係を持っていたのが本多繁邦であった。本多の父親は大審院で判事を勤めているという法律一家であり、頭脳明晰な本多も将来は法律家になることを志している。
前述した清顕のお側付きの飯沼茂之とこの親友の本多繁邦は、豊穣の海第ニ作の『奔馬』でも非常な重要な登場人物になっていく。清顕は『春の雪』の主人公ではあるけれど、その生命は第1作で燃え尽きて、その自我の不可知な本質が延々と輪廻し続けることになるのである。
『春の雪』では、暗い情念と武骨な猛々しさを心の奥に控えた飯沼と本多は折り合いが悪くて殆ど話さない。本多もどちらかといえば物静かで消極的な性格だったが、その繊細な感受性には理知的で論理的な光が宿っていた。
清顕は自分の内面的な感情の動きを他人に洞察されたり言及されることを嫌っていたが、そういった友人の感性に対して本多は敏感であり、清顕の望む友情のあり方を見事に体現していた。
世に稀な美貌を身体に宿した侯爵家の跡取り松枝清顕は、全ての行動と思考が浮世離れしていて、侯爵家の地位や名声を自分が守ろうというような公的な決断の意識や社会的なアイデンティティとは全く無縁であった。優雅な生活と洗練された振る舞い、貴族的な特性の集積が清顕の身に一身に降り注いでいるかのようであった。
余りに世俗を離れた美しさを所有するものの宿命なのか、清顕は他人から強く求められ愛される「受動の愛」には必要以上に恵まれているが、彼は自分から他人を強く求めて狂おしく身悶えるような「能動の愛」とは全く無縁であった。
親友の本多と紅葉山が色づき始めるうららかな晩秋の日に、広大な庭にある池でボート遊びを楽しむ。ふとした思い付きで本多が『中の島まで行ってみるか』と声を掛ける。
その中ノ島の草叢に寝転んで目にしたのが水色の爽やかな色合いの着物を着た幼馴染の綾倉聡子であった。
母の側仕えをする大勢の女中の中に混じった若く清楚な女性である聡子は、光沢のある美しい刺繍を施した絹の着物を着ていて、夜明けの空のように一際輝いてみえたのだった。
清顕の奥深い感情の原野には、幼少期を共に過ごした美しい聡子に対する淡い恋心は芽生えていたが、それよりも先に聡子のほうが清顕への愛情を抱いていた。
聡子は、清顕よりも2歳年上で、いつも幼い時の清顕の側にあって、書道や和歌など公家的な素養を清顕に教えてくれたのだった。
清顕の「自分の感情を素直に受け止めて行動に移せない」未熟な性格は、周囲に賞賛と喝采を浴びすぎたために生まれた冷ややかな毒のようなものであった。
他者を強く愛そうとする自分を悲劇的な結末へと導いてしまう性格、『自分を愛してくれる人間を軽んじ、軽んじるばかりか冷酷に扱う傾向』を清顕は所有していたし、その事を敏感に察していたのが親友の本多でもあった。
そして、この『自分の強烈な恋愛感情を素直に表現することを頑なに拒む清顕の悪癖』が自分自身の身の破滅と愛する聡子の孤独な人生との原因になってしまうのである。
松枝侯爵家は、幕末の戊辰戦争で明治政府側について大きな功績を上げたことの恩賞で侯爵という高い爵位を得た成り上がりの武家であるのに対して、聡子が生まれ育った綾倉家は現在は財政的に貧窮していて実権はないが、平安の昔から高貴な身分であった生粋の公家の家柄であった。清顕の祖父は、剛毅で朴訥な武人であったが、父親の侯爵は貴族的な文化教養の雅やかさを自分の武道一点張りの家系に取り入れたいという憧れを持っていて、その為に清顕は綾倉家に預けられたのである。
月修寺の門跡(僧侶)の語った元暁(げんぎょう)の髑髏不ニの法話(心の機能によって価値が生じる)を聞いた清顕は、純潔な青年の純潔な恋という理想の異性関係のあり方に心を寄せる。
『春の雪』の主要テーマは『一抹の穢れなき純粋無二の愛する人(綾倉聡子)への恋情』であり、『奔馬』の主要テーマは『一切の私心なき純潔無二の主君(天皇)への忠誠』なのである。
その滅びの美学に貫徹された三島の文学世界の観察者であり証言者に選ばれたのが、明晰で透徹した理性を持った清顕の親友・本多繁邦であった。
そして、輪廻転生譚としての『豊饒の海』の通奏低音を知覚と実感によって認識できるのも本多繁邦だけなのである。
時代を超えて輪廻する主体が何なのかについて仏説では一応『中有(中陰)』という主体が仮定されていて、霊魂や幽霊のようなものは仏教では否定されている。
現実的な人間世界の規範としての法を修得して、法の根底に普遍的真理の存在を探そうとする本多が、無条件に清顕の生まれ変わりとして飯沼茂之の息子・飯沼勲を見てしまったのは仏教的な思考に対する親和性の為だったのだろうか?
古代インドの法体系を構築したマヌ法典では、宗教・法・道徳・習俗が渾然一体となっていて、ヨーロッパの自然法のように明晰な理知による規範の対照を為している。
マヌ法典は人間世界の限定された規則というよりは、混沌とした大宇宙の人間知性を寄せ付けない法則として記述された法の集大成であり、そこでは輪廻転生という非現実的な法則があたかも常識のように書き付けられているのだ。
卓越した聡子の美貌に一目で惹きつけられた洞院宮治久王殿下は、聡子との婚姻を希望するが、婚姻の儀が執り行われるまでにはまだまだ余裕があったし、聡子が他の男性から求婚されているという事実が明らかになれば取りやめにすることも出来た。
清顕は両親から『聡子の結婚について異存はないか?気持ちにひっかかりはないか?』と何度も尋ねられたが、自分自身の恋愛感情や性的関心を素直にありのままに表現する事ができず、また自分の聡子への燃え盛る恋情を認めることに恐れや恥を感じていた。
清顕は、傷つきやすい自尊心や潔癖な虚栄心を守るために、成就できたはずの恋愛を自ら破綻の淵へ追いやったのである。
結局、天皇家の親王との縁談が進んでから、清顕は聡子との逢瀬を重ねる禁断の関係にのめりこんで行くのだが、それは究極的な破滅としての死へと一歩一歩近づく道であった。
清顕の身体的な死と聡子の女性としての死との軌跡は放物線を描いて、急速に没落の度合いを強め、清顕の輪廻する中有は『奔馬』の勲の無謀な政治的熱狂、純粋無垢な忠義の暴挙へと継承されていく。
『春の雪』は、現代的な恋愛とは遠く隔たった純潔と淫靡が交錯する男女の純潔の物語である。『逢瀬』という男女の性愛関係を意味する言葉が機能していた時代の恋物語であり、儚く舞い散る穢れなき『春の雪』のように届きそうで届かない『耽美的な純潔の愛』の挫折を美麗な筆致で描写したものである。
『春の雪』は、幻想的な恋愛への耽美が主旋律であり、『奔馬』は、純潔の忠義心と政治への熱狂が主旋律であるが、どちらも『現実世界では実現不可能な純粋無垢なイデア』を追い求めてやまない三島由紀夫の執念にも似た美意識を宿した作品という意味で通底している。
美と信義を巡る潔癖な完全主義者の自滅的な人生の展開、破綻に向かって転げ落ちていく生の悲哀がそこにはある。
そして、『奔馬』における悲壮な忠義ゆえの自決、国粋主義的な天皇への忠誠に燃え盛る飯沼勲の自決は、その割腹自殺に至る経緯と光景に違いはあれど、書き手である三島由紀夫の将来を不気味に暗示するアレゴリカル(寓喩的)な悲劇として機能しているのである。
この後に続く『暁の寺』と『天人五衰』は未だ読んでいないので、輪廻転生譚としての豊穣の海がどのようなエピローグへ向けて紡がれていくのか機会があれば読んでみたいと思っています。『豊穣の海』は時代背景を色濃く反映したストーリーも確かに意義深いものがあるのですが、作品本来の魅力は三島由紀夫でないと表現できないような色彩感豊かな艶やかな文章や感覚的にゆさぶりを掛けてくる美しい情景描写にあると思います。
ロマン主義や耽美主義の一つの極地として屹立する三島文学の特徴がもっとも良く現れているのが、『金閣寺』とこの『豊饒の海』だと思いますので、未読の方は、一度読んでみると現代文学やミステリーとは異なる感動や発見を得られると思いますよ。 
『暁の寺』『天人五衰』 
三島由紀夫の壮大な構想と豪奢な舞台の下に描かれた『豊饒の海』の第3部『暁の寺』は、仏教の信仰厚いタイ(シャム)の地を中心に話が進められる。
第4部『天人五衰』では、莫大な財産を偶然の幸運によって築き上げた本多繁邦の聖俗相半ばする生涯の総決算がなされる。
時代と歴史の傍観者として天寿を全うしようとする理智の権化であった本多が、夭折した清顕や勲への贖罪を意識し、清顕の輪廻転生と彼が信じる安永透を養子にとることになる。
安永透が、清顕や勲のような過剰な自尊心、潔癖な理想主義によって『運命的な死』を選択せずに済むように、本多は透を観念的な理想に没頭しない平凡な社会人へと育成して救済しようとする。
高潔と俗悪、名誉と愚劣、栄光と堕落、理智と無知の二面性を併せ持った本多の光と影が余すところなく白日の下に晒され、彼の信じ続けてきた清顕の輪廻転生譚にとりあえずの回答が与えられる。
第1部『春の雪』の主人公であった松枝清顕の親友・本多繁邦は、炎暑の国タイのバンコク(バンコック)へと五井物産の薬品輸出のミスに絡んだ国際裁判の仕事で飛ぶ。
第2部『奔馬』において、情愛の陶酔にその生命を捧げた松枝清顕の魂魄は、政治的熱狂に恍惚を見る飯沼勲に転生し、両者とも20歳を迎える前にその人生を終える事となった。
第3部『暁の寺』において、松枝清顕から飯沼勲に転生した魂は、性別を超えて本多繁邦と因縁浅からぬタイの姫君・ジン・ジャン(月光姫)へと転生を遂げていく事となる。
第4部『天人五衰』において、松枝清顕から飯沼勲、ジン・ジャンへと転生してきた魂は、清浄な美しさと明晰な頭脳を併せ持った少年・安永透に転生したと本多は信じて、彼を養子にすることとなる。安永透が清顕以来の輪廻と結びついていると考えるのは、本多の錯誤であり願望の投影に過ぎないようにも思えるが、結局、透も二十歳を迎える前に社会的な不適合者となり自らの意志で狂気の世界へと足を踏み込んでいく。
清顕から勲、ジン・ジャンへの輪廻転生の証拠だと本多が深く信じ続けてきたのは、その身体的特徴としての『腋の下の3つの黒子』だった。
その身体的特徴は、安永透にもあったのだが、透は前世に生きた清顕・勲・ジン・ジャンの示した『神聖な生の輝きや情熱』を裏付ける清らかな自尊心を持っていなかった。
土地の所有権を巡る行政との民事訴訟に、時代の流れによる偶然の結果、勝訴することになった本多繁邦は莫大な財産を所有する事になった。本多繁之は、貧困と不遇に見舞われていた優秀な青年・安永透の3つの黒子を見て、彼が清顕の生まれ変わりだと頑なに信じ込んでしまい透を突然、自らの養子にする。
初めは本多に気に入られる好青年を演じていた徹だが、本多の老衰が進行して、不名誉な覗き見の性癖が暴露されると、その地位と財産を簒奪しようという俗欲を露わにしてくる。
本多繁邦の窮地を救ったのは、本多の親友で最も信頼している女性であった久松慶子であった。彼女は、本多が透を養子にした輪廻転生の理由を丁寧に語り、『自分が特別な才能の持ち主である』という透の自尊心を巧みにくすぐって、透が自滅的な破局を選択せざるを得ない事態を作り上げた。
安永透の俗悪趣味と精神の汚濁が暴かれてしまうと、本多は輪廻転生が真実なのか夢想なのか分からなくなり事態は混沌の度合いを深めていく。最後に、死を間近に控えた老齢の本多は、親友・清顕が深い思いを寄せて死んでいった相手の女性・綾倉聡子の元を訪れる。
綾倉聡子は、松枝清顕の優柔不断と不器用な振る舞いによって清顕と別離せざるを得なかった女性である。清顕が二十歳で死去する以前に、既に俗世を捨てて出家し松枝家とも所縁のある月修寺の僧侶となっていた。
老後になって本多が再会した月修寺の門跡聡子は、高位の尼僧となっていて俗世への欲求や過去の束縛から自由になっていたが、あれほどの深い因縁があった松枝清顕の存在を覚えていないはずはなかった。
しかし、有徳の高潔な門跡となった聡子は、何の逡巡も葛藤もなく『その松枝清顕さんという方は、どういうお人やした?』と繰り返すばかりである。
現実と空想の境界線が揺らぎ、本多繁邦が最も堅固で磐石だと思っていた過去の記憶がその足場を失って曖昧なものとなった。
本多繁邦の過去の明瞭な記憶の中に生きる綾倉聡子にとって、松枝清顕は決定的に重要な人物で忘却のしようのない人物であるはずだ。それなのに、目の前にいる嘘をつくはずもない高徳の尼層となった綾倉聡子には、その最も大切な過去の人物にまつわる記憶がすっぽりと抜け落ちていて『現世でそのような人物と会った記憶はない』と言う。
本多が人生の全てを賭けて追い求め続けた親友の清顕の輪廻転生の想像的な物語は、素早く暗転して虚実曖昧な様相を呈してくる。
松枝清顕の純粋な愛情、飯沼勲の悲壮な覚悟、ジン・ジャンの美麗な肉体、安永透の表層的な浅はかな才知……冷徹な観察者として生き続けた本多繁邦は、精神内界の歴史的変転を正しく記述し続けてきたはずだった。
しかし、正確で堅固なものであるはずの本多繁邦の記憶は不明瞭なものとなり、『豊饒の海』は、あまりにもあっけなく明鏡止水の静けさをもって終結することとなる。
延々と繰り返される生と死、前世から現世への中有(輪廻する主体)の転生と滅亡、『豊饒の海』の主旋律は飽くまで輪廻転生にあり、『暁の寺』という作品の大部分が仏説の説明に費やされている。
その意味では、『暁の寺』という三島の小説は、現代において小説の形式や定義に当てはまるものではなく、仏教思想と随想小説が融和した形式なのではないかと思う。
膨大な分量が割かれた難解な仏教の歴史の回顧と唯識論の概念の説明は、仏教思想に興味がある者でも読むのに難儀する。
小説本来の物語としての面白さやテンポの良い場面展開を殺してでも、三島由紀夫は仏説の詳細な回顧と説明を『豊饒の海』に織り込んだ。
この意図は、読者に伝達したかった三島の『不退転の意志や透徹した美意識』が、仏教の無常観やヒンズー教の輪廻という概念において結晶化するからではないか。
徹底した観察者(傍観者)として人生を無難に歩み、蓄財の果てに老後の不名誉を甘受した本多繁邦は、政治活動に奔走する以前の三島由紀夫の自我の投影であるようにも思える。
観念的な理知や論理の世界に閉じ込められた本多繁邦に象徴される三島由紀夫の自意識が、諸行無常の摂理と諸法無我の諦観によって『観念や知識を捨てた行動主義』へ開かれたという事が出来る。
厳密には、理性と論理で防御壁を巡らした本多繁邦だけでなく、純粋な愛の陶酔に生命を投げ捨てた松枝清顕も、政治の堕落や民衆の退廃に義憤を燃やした飯沼勲も、肉体的な魅惑と背徳の官能の内に死したジン・ジャン(月光姫)も、三島由紀夫の自我や美意識の反映である。同時に、私達個々人の理想や願望の投影として、『豊饒の海』の登場人物の生涯や思想を眺める事も出来る。
バンコクは、無数の水路によって結ばれる水上交通と商業活動が発達し、古来からの仏教信仰の敬虔さを示す黄金や陶器で装飾された豪奢な寺社が林立している。禁欲と謙譲に覆われた仏教の静謐なる観念は、過剰な形容詞の祝福で彩られたバンコクでは、豪華絢爛な寺院となって燦然と輝いていた。
大袈裟で仰々しい繁文縟礼の仏教国のタイの文物や風土を、本多繁邦はメナム川を見下ろせるオリエンタル・ホテルから観察し自らの人生経験との対比の中で吟味していた。そして、文明的な豊かさと快適が保証されたオリエンタル・ホテルの一室からは、メナム川を挟んで神聖な『暁の寺』が茫漠と静かに佇んでいた。
タイを代表する歴史ある仏教寺院ワット・ポーやワット・プラケオに足を運んだ本多は、ホテルからぼんやりと日没の方角に見渡せるワット・アルン(暁の寺)へも舟を使って訪問してきた。ワット・アルンは、本多が実際の物象に接近するにつれて重層感のある優美な外観、色彩豊かな華美を露わにしてきた。
数え上げる事の出来ない膨大な数の皿が適切な場所に配置されることによって、色鮮やかな可憐な皿の花を次々と花開かせていたのである。幾重にも張り巡らせた累積し集積する重厚感のある人工的な花の美しさは、人間の思念や願望が無機的な皿という物質に反映されたものであり、無常で過酷な現実世界に造形された『枯れる事を知らない花』なのであった。
自然は生成消滅を繰り返し、人の心に無常観の現実を知らしめようとし、人間は永遠不変のモノやシステムを想像して、それを科学や理知の力で顕現しようとする。しかし、今までの地球誕生以来の歴史では、絶えず人間の人工的な意図を反映した文明や科学は、自然の諸行無常の摂理に圧倒されてきた。
『暁の寺』は、鮮やかな色彩と目映いばかりの光輝に覆われて、人間の視線を超えた遥かなる高みを目指し、古代バビロニアの『バベルの塔』のように高貴ではあるが冷然とした存在感を示して屹立していた。
近づくにつれて、この塔は無数の赤絵青絵の支那皿を隈なく鏤めているのが知られた。いくつかの階層が欄干に区切られ、一層の欄干は茶、二層は緑、三層は紫紺であった。嵌め込まれた数知れぬ皿は花を象(かたど)り、あるいは黄の小皿を花心として、そのまわりに皿の花弁が開いていた。あるいは、薄紫の盃を伏せた花心に、錦手の皿の花弁を配したのが、空高く続いていた。葉は悉く瓦であった。そして頂からは白象たちの鼻が四方へ垂れていた。
塔の重層感、重複感は息苦しいほどであった。色彩と光輝に充ちた高さが、幾重にも刻まれて、頂きに向かって細まるさまは、幾重もの夢が頭上からのしかかってくるかのようである。すこぶる急な階段の蹴込(けこみ)も、隙間なく花紋で埋められ、それぞれの層を浮彫の人面鳥が支えている。一層一層が幾重の夢、幾重の期待、幾重の祈りで押し潰されながら、なお累積し累積して、空へ向かって躙(にじ)り寄って成した極彩色の塔。
メナムの対岸から射し初めた暁の光を、その百千(ももち)の皿は百千の小さな鏡面になってすばやくとらえ、巨大な螺鈿細工はかしましく輝きだした。
この塔は永きに亙(わた)って、色彩を以ってする暁鐘の役割を果たしてきたのだった。鳴り響いて暁に応える色彩。それは、暁と同等の力、同等の重み、同等の破裂感を持つように造られたのだった。
本多繁邦は、裁判官としての職務と地位を、松枝清顕の魂が転生したと彼が信じる飯沼勲の為に投げ打った。彼は裁判官を辞職して弁護士になってからも、優秀な能力を持つ法曹として活躍したが、彼の心から情熱や理想という書生じみた感慨は消え去っていた。
また、本多繁邦は自ら持てる利益と地位を全て捨て去って救済しようとした飯沼勲の死により、『他人の救済』という善意を信頼することがなくなった。本多は『他者の救済』や『社会正義の実現』といった情熱に裏打ちされた理想を諦める事によって、実利的な法的救済をより多くの他者にもたらし、法律家としての高い評価を得ることが出来るようになっていた。
本多が、若い頃に軽蔑し疎んじていた俗物としての法曹に自分自身がなる事によって、彼は道徳的に自由になり、快活で陽気な人格を表面的に身につける事が出来るようになった。飽くまで、表面的な世俗迎合であって、本多の内面奥深くで燃え盛る仏教的な思想や真理探究の熱狂は完全には収まっていなかった。
仏教国タイに訪れた本多の目的は、五井物産の法律問題の解決といった仕事の為だけではなく、清顕を通して知り合った二人のシャム(タイ)の王子に再開する目的もあった。
27,8年も前に、シャムのラーマ6世の弟のパッタナディド王子とその従兄弟でラーマ4世の孫クリッサダ王子が松枝清顕の広大な屋敷に下宿して学校に通っていた。
本多と清顕が最も多感で情熱的だった時代に、シャムの二人の王子は留学してきたのだが、その時にも知識と理性の鎧で自分の感情を露わにしなかった本多は傍観者として彼らの生活に関わっていただけだった。
パッタナディドの最愛の恋人・月光姫は彼が留学中に故郷のシャムで死に、月光姫との愛の証であった大きなエメラルドの指環は遠い異国の日本で失われた。悲恋の記憶と哀愁の余韻を残して、怜悧で明晰な印象のあるパッタナディド王子と快活で愛嬌のあるクリッサダ王子は日本からシャムへと帰っていった。
シャムの王子と過ごした過去の時間を緩やかに想起しながら、純粋な日本の原形と異国の風物のあり方との違いを本多は述懐し、『純粋な思想』と『運命的な死』の接近を考えるのだが、これは三島由紀夫自身が『純潔な思想に忠実な行動の先』には『逃れがたき死』があると考えていた事を示唆しているように思える。
一切の偽善や妥協を受け容れない排他的な思想は、その目的や理想がどれだけ正しく清浄なものであっても非常に危険なものに成り得るという事を思わずには居られない。これは政治的な国粋主義や排他的なナショナリズムの危険性だけに限ったものではなく、他の価値観や信念への妥協や寛容を一切受け付けない誇り高いイスラム教原理主義やキリスト教根本主義にも当てはまる危険性なのである。
純粋無垢なもの、偽善なき正義を徹底的に追い求めることは、政治領域の危険性のみならず個人の人生の活動領域においても破綻や自滅の危機を招来する。余りに透徹した美しいものや一点の曇りのない正しいものは、現実世界において開花する事が至難なイデア界のものなのかもしれない。 
『暁の寺』『天人五衰』 仏教解説に込められた『存在・生命』への思い  
下記の引用部分からは、飯沼勲の悲劇的な人生の末路と晩年の切迫した三島由紀夫の心情や悲劇の予兆が重なってしまうかのような印象を受ける。
三島は、『暁の寺』でくどくどしく記述した仏教的な静穏や安寧を思いながらも、狂信的な政治行動と共に訪れる悲劇的な死の結末の誘惑に抗し切れなかったようにも思える。
――それにしても王子たちの日本の回想は、よしんば時の流れが懐かしさを増したにしても、決してよくはあるまいと本多は懼れた。王子たちの居心地を悪くしたものは、孤立であり、言葉の不自由であり、習俗の違いであり、又、盗難であり月光姫(ジン・ジャン)の死でもあったろう。
しかし、最後のところで王子の理解を拒んだものこそ、本多や清顕のような普通の青年のみならず、白樺派の自由な人道主義的な青年たちをも孤立させた、あの威丈高な「剣道部の精神」だった。困ったことには、王子の味方には本当の日本は稀薄で、王子の敵にこそ濃厚な日本が在ったことを、王子たち自身も多分おぼろげに感知されていた。
その狷介な日本、緋縅(ひおどし)の若武者そのままに矜り高く、しかも少年のように傷つきやすい日本は、人に嘲笑されるより先に自ら進んで挑み、人に蔑(なみ)されるより先に自ら進んで死んだ。勲は、清顕とは違って、正にこのような世界の核心に生き、かつ、霊魂を信じていた。
五十に近づいた本多の年齢の一得は、もはやあらゆる偏見から自由になったことだといえよう。自ら権威となったことがあるから権威からも。自ら理智の権化となったことがあるから理智からも。
すぎし大正はじめの剣道部の精神も、一度もそれに与らなかった本多をも含めて、一時代を染めなした紺絣の精神だったから、今となっては本多も自分の記憶の青春を、それに等しなみに包括させることに吝かでなかった。
これを更に醇化し、更につきつめた勲の世界にいたっては、本多はそれと青春を共にしたわけではなく、外側から瞥見しただけだったが、若い日本精神があれほど孤立した状況で戦い自滅していった姿を見ては、『自分をこうして生き延びさせている力こそ、他ならぬ西洋の力であり、外来思想の力だ』と覚らざるを得なかった。固有の思想は人を死なせるのだ。
もし、生きようと思えば、勲のように純潔に固執してはならなかった。あらゆる退路を自ら絶ち、全てを拒否してはならなかった。
勲の死ほど、純粋な日本とは何だろうという省察を、本多に強いたものはなかった。すべてを拒否すること、現実の日本や日本人をすら全て拒絶し否定することのほかに、この最も生きにくい生き方のほかに、とどのつまりは誰かを殺して自刃することのほかに、真に「日本」と共に生きる道はないのではなかろうか?誰もが恐れてそれを言わないが、勲が身を以って、これを証明したのではなかろうか?
しかし、四部作の最終巻『天人五衰』で、安永透という美少年を通して示唆されるような『肉体的な美しさと永遠に衰退しないエロスへの憧憬』によって三島は自滅的な生の終幕を自ら下ろしたようにも思える。
タイを訪れた本多は、清顕の過去の思い出と結びついたパッタナディドやクリッサダと旧交を温め合う機会は得られなかった。彼らシャムの王族の大部分は、スイスのローザンヌに生活の新たな拠点を移していて、めったにシャムの宮殿には帰らなくなっていた。
そんな中で、唯一、シャムに残り続けている王族がいた。それは、7歳になったばかりのパッタナディド殿下の末娘ジャントラパー姫(月光姫,ジン・ジャン)であった。パッタナディドは、悲しい別離を迎えた過去の恋人の名を、自身の娘の名前として与えていたのだった。
ジン・ジャンは、『自分は日本人の生まれ変わりである』と主張して意味不明な妄想的な発言を繰り返して暴れるので、薔薇宮という宮殿に半分幽閉されている状態にあったのである。
精細なバラの装飾とガラス細工に覆われた薔薇宮で、本多はジン・ジャンと謁見することになるが、そこで半狂乱となって泣き叫びながら本多に縋りついてきたジン・ジャンは信じられないような事を語る。
『本多先生、私はあなたにお世話になりながら、黙って死んだお詫びを申し上げたい。こんな姫の姿をしているけれど、実は私は日本人で、前世は日本で過ごした。どうか私を日本につれて帰って欲しい』と語るジン・ジャンは長じてから日本に留学して、本多と再会するのだがその時には輪廻転生に関する記憶は全て失っていて過去のこの発言も全く覚えていない。
日本に留学してきた妙齢のジン・ジャンは、屈折した性的嗜好と純潔性への憧憬に引き裂かれる本多繁邦の欲求の対象となる。
しかし、飽くまでジン・ジャンの魅惑的な裸体と清浄な処女性は、本多にとって『直接的な行為の対象』ではなく『間接的な観察の対象』であった。
社会的な高い評価と経済的に圧倒的な富裕を手にした本多繁邦は、他者の性的行為や性的身体の観察という愚劣な窃視の衝動によってしか彼の性欲を満たすことが出来なくなっていた。
裁判官という正義執行の職務や弁護士という秩序維持の職務を長い期間にわたって遂行してきた本多繁邦は、背徳的な覗き見、善良な市民から唾棄され断罪されるべき窃視癖という悪徳に惑溺してしまうようになっていた。
第4巻『天人五衰』の後半において、富裕な生活と社会的な名誉を享受して安閑と生活する老境の本多繁邦を『不名誉な覗き見趣味の老人』として失墜させるのもこの歪んだ性衝動の表れである窃視の悪癖であった。
公明正大な正義の執行者、理性的道徳を遵守する有徳者として本多繁邦が守り続けてきたイメージは、老境における余りに凡愚で低劣な性的趣味の暴露によって一瞬で瓦解した。
『天人五衰』という小説の表題になっている言葉は、『至高の清浄と優美を備えている天界に住む天人』が臨終、終命を迎える時にあたって表す徴候の事を意味する言葉である。
そもそも五衰とは、天人命終の時に現れる五種の衰相を云い、出典によって多少の異同がある。すなわち増一阿含経第二十四には、
『三十三天に一天子あり、身形に五の死の瑞応あり。云何(いかん)が五と為す、一に華冠自ら萎み、二に衣裳垢ふんし、三に腋下より汗を流し、四に本位を楽しまず、五に王女違反す』
とあり、又、仏本行集経第五には……。(中略)
ここまでは似たり寄ったりであるが、大毘婆沙論第七十は、大小二種の五衰をあげて、もっとも詳細に亙っている。
まず、『小の五衰』とは、一は天人が往来し舞い翔けるにつれて、常ならば、どんな楽人の奏楽も及ばぬほどの美しい五つの楽声を、身に具えた楽器から発するのであるが、死が近づくと、楽は衰え、声は不如意にかすれてしまう。
二は、常ならば天人は昼夜を問わず、身光赫奕(かくやく)として、その身内からかがよう光りが、影を添わせることがないのに、ひとたび死が迫ると、身光はいちじるしく暗くなって、身は薄暮のような影に包まれてしまう。
三は、天人の肌は滑らかで凝脂に包まれ、例えば、香池に入って沐浴をしても、水を出るときに、たちまち蓮華の葉のように水を弾くのであるが、死が迫ってくると、その肌にも水が着くようになる。
四は、ふだん天人は一つの境地にとらわれることなく、まるで巡る火の輪のように、決して一箇所にとどまらないで、ここと思えばまたかしこ、何をやっても巧みにこなし、次々と打ち捨ててはよそへ移ってゆく天稟であるのに、死が近づくと、もっぱら一箇所に低迷して、いつまでもそこを脱け出すことができないようになる。
五は、天人の身は力に満ち溢れ、眼は決して瞬くことがないのに、死が迫るや、身力はか弱く衰えて、しきりに目ばたきするに至る。
以上述べたところが小の五衰の相である。
『大の五衰』の相はどうかというのに、その一は、浄らかだった衣服が垢にまみれ、そのニは、頭上の華がかつては盛りであったのが今は萎み、その三は、両腋窩から汗が流れ、その四は、身体がいまわしい臭気を放ち、その五は、本座に安住することを楽しまない。
これによれば、ほかの出典の五衰とは、みな大の五衰を説いたものであり、小の五衰の生じている間は、死を転ずることも全く不可能ではないが、ひとたび大の五衰が生じた上は、もはや死を避けることが出来ないのであった。
永遠の美麗と無限の叡智、完全な清浄の属性を持っていると俗世の人間が思っている天人であってさえも諸行無常の理から完全に自由になることは出来ず、清浄は汚濁へ、叡智は愚鈍へ、美麗は醜悪へと時間と共に変化していく。
天人でさえも五衰の衰微や停滞から逃れられないのであれば、俗世で生きる人間もその宿命的な老化や衰退から自由になれないのは当然である。
表層的に完全と見える美しさや清らかさ、永遠に継続するように見える栄華や繁栄も、『平家物語』冒頭の句のように、『諸行無常の響き』に包まれ、『盛者必衰の理』に従いゆく他はないといった愛惜を天人五衰の教義は伝えてくる。
ジン・ジャンの話に戻ると、ジン・ジャンも松枝清顕や飯沼勲と同じように、二十歳になった春に鳳凰木の樹下で猛毒を持つコブラに咬まれて死んでしまった。本多繁邦が、綾倉聡子の侍従だった老婆の蓼科から譲り受けた、蛇の毒に効果のあるという経典『大金色孔雀明王経』の功徳は、遠いタイの国の宮殿に住まうジン・ジャンの身体には届かなかったのだ。
死せる人間の中有という主体が、ぐるぐると他の身体へと乗り換わって循環を続けるという輪廻転生譚の物語は、その科学的真偽はともかくとして、清顕、勲、ジン・ジャンという円環を描いて運命的な回避不能な死をそれぞれにもたらしたのである。
本多は、タイを訪問したついでにインドの聖地ベナレスへと飛んで、神聖と汚辱が入り乱れた聖なる河ガンジスで複雑な宗教的思索に耽り、世俗の不幸と苦痛の果てにあるとインド人が信じる来世の至福に思いを寄せた。
ベナレスは、敬虔な信者たちの神聖が極まる町であると同時に、生活と生命が生み出す汚穢が極まる町であった。
そして、私達の生きていかなければならない世界は、精神的な清浄と汚濁が交錯し、身体的な快楽と不快が交じり合う世界であり、行動に移される善意と悪意が複雑怪奇に葛藤し続ける世界なのである。
本多がインド古代よりの聖地ベナレスで受けた衝撃と回心とは、文明的な道徳や科学的な理性で切り裂く事の出来ない生活世界の不条理であり、理智の及ばない予測困難な混沌であったのかもしれない。
さるにてもベナレスは、神聖が極まると共に汚穢も極まった町だった。日がわずかに軒端に射し込む細径の両側には、揚物や菓子を売る店、星占い師の家、穀粉を秤売りする店などが立ち並び、悪臭と湿気と病気が充ちていた。
ここを通り過ぎて川へ臨む石畳の広場へ出ると、全国から巡礼に来て、死を待つ間乞食をしているライ者の群が、両側に列をなしてうずくまっていた。たくさんの鳩。午後五時の灼熱の空。乞食の前のブリキの缶には数枚の銅貨が底に貼り付いているだけで、片目が赤くつぶれたライ者は、指を失った手を、剪定されたあとの桑の木のように夕空へさしのべていた。(中略)
すべてが浮遊していた。というのは、多くの最も露わな、もっとも醜い、人間の肉の実相が、その排泄物、その悪臭、その病菌、その屍毒も共々に、天日のもとにさらされ、並の現実から蒸発した湯気のように、空中に漂っていた。ベナレス。それは華麗なほど醜い一枚の絨毯だった。千五百の寺院、朱色の柱にありとあらゆる性交の体位を黒檀の浮彫であらわした愛の寺院(アジャンタの石窟寺院)、ひねもす読経の声も高くひたすらに死を待っている寡婦たちの家、住む人、訪う人、死んでゆく人、死んだ人たち、瘡だらけの子ども達、母親の乳房にすがりながら死んでいる子ども達、……これらの寺々や人々によって、日を夜に継いで、喜々として天空へ掲げられている一枚の騒がしい絨毯だった。
広場は川へ向かって斜面を作り、行人が自然にもっとも重要な水浴階段(ガート)、十馬犠牲(ダサシュワメド)のガートへ導かれるようになっていた。創造神ブラーマが十頭の馬を犠牲(ヤイナ)に捧げたと伝えられているところである。
そこに水嵩も豊かに湛えた黄土色の川こそはガンジスだった!カルカッタで、真鍮の小さな薬缶に恭しく納められ、信者の額や生贄の額へわずかずつ注がれていた聖水は、今目前の大河になみなみと湛えられていた。それは神聖さの、信じられないほどの椀飯振舞(おうばんふるまい)なのであった。
病者も、健やかな者も、不具者も、瀕死の者も、ここでは等しく黄金の喜悦に満ち溢れているのは理である。蝿も蛆も喜悦にまみれて肥り、印度人特有の厳粛な、曰くありげな人々の表情に、ほとんど無情と見分けのつかない敬虔さが漲っているのも理である。本多はどうやって自分の理智を、この烈しい太陽、この悪臭、この微かな瘴気のような川風の中へ融け込ませることができるかと疑った。
どこを歩いても祈りの唱和の声、鉦の音、物乞いの声、病人の呻吟などが緻密に織り込まれたこの暑い毛織物のような夕方の空気のなかへ、身を没していくことができるかどうか疑わしい。本多は、ともすると、自分の理智が、彼一人が懐に秘めた匕首の刃のように、この完全な織物を引き裂くのではないかと怖れた。
要はそれを捨てることだった。少年時代から自分の役割と看做した理智の刃は、すでにいくたびかの転生の襲来によって、刃こぼれのしたまま辛うじて保たれていたが、今はこの汗と病菌と埃の人ごみの中へ、人知れず捨ててゆくほかはなかった。
『暁の寺』では、輪廻転生する主体(魂・我)の不在を、精緻な理論で克服しようとした無著を始祖とする唯識論についても深く触れられています。
輪廻転生譚を小説として読み進んでいく面白さの他にも、仏教的な解説書として味わえる魅力も『豊饒の海』は持っているのですが、阿頼耶識と末那識、種子薫習に関する説明はかなり冗長で、仏教に興味がない人は読み飛ばしたくなるかもしれません。
この世界の存在と現象の究極的根拠を阿頼耶識に還元してしまおうとする唯識論に、三島由紀夫が拘泥したのは『一瞬一瞬に生成消滅しているこの世界の事象に何らかの確固たる根拠』を与えたかったからではないのかという思いがしました。
世界や生命は刹那刹那に少しずつ変遷し衰退に向かうけれども、世界や生命そのものは衰退しつつも転生し続け、その『存在そのものの永続性』は普遍的な阿頼耶識の存在によって保証されていると考えるとき、有限の生命を抱えて懸命に生きる私達個々の生命に、何らかの意味や救済がもたらされるのかもしれません。
そう考えると、輪廻転生とは、仏説において『衆生の苦・業の因果』とされながらも、輪廻する事を止めずに存在を継承し続けることで、世界の法則や生命の継続は保証されていると解釈する事が出来ます。
重厚長大な文章と荘厳華美な修飾によって構成された4部作『豊饒の海』を読了した感想を簡単に述べるのは難しいですが、『存在と行為の相互的な関係の中で、如何に生きている価値や意味を見出すのか』という問いかけが為された作品であるように思いました。
本多繁邦が苦悩と病苦、貧困がひしめくベナレスを訪れる場面は印象的ですが、聖と俗がぶつかり合う場所というのはベナレスのような特別な聖地だけではなく、私達が生きている平凡な生活の場でも聖と俗は烈しくせめぎ合っています。
高尚な理想に没頭し過ぎての破滅、低劣な現実に順応し過ぎての堕落……極端な言動を排する中庸の魅力の乏しさとの葛藤……『豊饒の海』に登場する多様な人物の生涯を通して考えることは、人それぞれだと思いますが、そこから学び取れる事柄が、それぞれの人生や世界にとって肯定的なものであれば良いなと思います。 
 
三島由紀夫 檄文

 

檄文
われわれ楯の会は、自衛隊によって育てられ、いわば自衛隊はわれわれの父でもあり、兄でもある。その恩義に報いるに、このような忘恩的行為に出たのは何故であるか。
かえりみれば、私は四年、学生は三年、隊内で準自衛官としての待遇を受け、一片の打算もない教育を受け、又われわれも心から自衛隊を愛し、もはや隊の柵外の日本にはない「真の日本」をここに夢み、ここでこそ終戦後ついに知らなかった男の涙を知った。ここで流したわれわれの汗は純一であり、憂国の精神を相共にする同志として共に富士の原野を馳駆した。このことには一点の疑いもない。われわれにとって自衛隊は故郷であり、生ぬるい現代日本で凛冽の気を呼吸できる唯一の場所であった。教官、助教諸氏から受けた愛情は測り知れない。しかもなお、敢えてこの挙に出たのは何故であるか。たとえ強弁と云われようとも、自衛隊を愛するが故であると私は断言する。
われわれは戦後の日本が、経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失い、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を涜してゆくのを、歯噛みをしながら見ていなければならなかった。 
われわれは今や自衛隊にのみ、真の日本、真の日本人、真の武士の魂が残されているのを夢みた。しかも法理論的には、自衛隊は違憲であることは明白であり、国の根本問題である防衛が、御都合主義の法的解釈によってごまかされ、軍の名を用いない軍として、日本人の魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因を、なしてきているのを見た。もっとも名誉を重んずべき軍が、もっとも悪質の欺瞞の下に放置されて来たのである。自衛隊は敗戦後の国家の不名誉な十字架を負いつづけて来た。自衛隊は国軍たりえず、建軍の本義を与えられず、警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与えられず、その忠誠の対象も明確にされなかった。われわれは戦後のあまりに永い日本の眠りに憤った。自衛隊が目ざめる時こそ、日本が目ざめる時だと信じた。自衛隊が自ら目ざめることなしに、この眠れる日本が目ざめることはないのを信じた。憲法改正によって、自衛隊が建軍の本義に立ち、真の国軍となる日のために、国民として微力の限りを尽すこと以上に大いなる責務はない、と信じた。
四年前、私はひとり志を抱いて自衛隊に入り、その翌年には楯の会を結成した。楯の会の根本理念は、ひとえに自衛隊が目ざめる時、自衛隊を国軍、名誉ある国軍とするために、命を捨てようという決心にあつた。憲法改正がもはや議会制度下ではむずかしければ、治安出動こそその唯一の好機であり、われわれは治安出動の前衛となって命を捨て、国軍の礎石たらんとした。国体を守るのは軍隊であり、政体を守るのは警察である。政体を警察力を以て守りきれない段階に来て、はじめて軍隊の出動によって国体が明らかになり、軍は建軍の本義を回復するであろう。日本の軍隊の建軍の本義とは、「天皇を中心とする日本の歴史・文化・伝統を守る」ことにしか存在しないのである。国のねじ曲った大本を正すという使命のため、われわれは少数乍ら訓練を受け、挺身しようとしていたのである。
しかるに昨昭和四十四年十月二十一日に何が起ったか。総理訪米前の大詰ともいうべきこのデモは、圧倒的な警察力の下に不発に終った。その状況を新宿で見て、私は、「これで憲法は変らない」と痛恨した。その日に何が起ったか。政府は極左勢力の限界を見極め、戒厳令にも等しい警察の規制に対する一般民衆の反応を見極め、敢えて「憲法改正」という火中の栗を拾はずとも、事態を収拾しうる自信を得たのである。治安出動は不用になった。政府は政体維持のためには、何ら憲法と抵触しない警察力だけで乗り切る自信を得、国の根本問題に対して頬かぶりをつづける自信を得た。これで、左派勢力には憲法護持の飴玉をしやぶらせつづけ、名を捨てて実をとる方策を固め、自ら、護憲を標榜することの利点を得たのである。名を捨てて、実をとる! 政治家たちにとってはそれでよかろう。しかし自衛隊にとっては、致命傷であることに、政治家は気づかない筈はない。そこでふたたび、前にもまさる偽善と隠蔽、うれしがらせとごまかしがはじまった。
銘記せよ! 実はこの昭和四十四年十月二十一日という日は、自衛隊にとっては悲劇の日だった。創立以来二十年に亘って、憲法改正を待ちこがれてきた自衛隊にとって、決定的にその希望が裏切られ、憲法改正は政治的プログラムから除外され、相共に議会主義政党を主張する自民党と共産党が、非議会主義的方法の可能性を晴れ晴れと払拭した日だった。論理的に正に、この日を境にして、それまで憲法の私生児であつた自衛隊は、「護憲の軍隊」として認知されたのである。これ以上のパラドックスがあろうか。
われわれはこの日以後の自衛隊に一刻一刻注視した。われわれが夢みていたように、もし自衛隊に武士の魂が残っているならば、どうしてこの事態を黙視しえよう。自らを否定するものを守るとは、何たる論理的矛盾であろう。男であれば、男の衿がどうしてこれを容認しえよう。我慢に我慢を重ねても、守るべき最後の一線をこえれば、決然起ち上るのが男であり武士である。われわれはひたすら耳をすました。しかし自衛隊のどこからも、「自らを否定する憲法を守れ」という屈辱的な命令に対する、男子の声はきこえては来なかった。かくなる上は、自らの力を自覚して、国の論理の歪みを正すほかに道はないことがわかっているのに、自衛隊は声を奪われたカナリヤのように黙ったままだった。
われわれは悲しみ、怒り、ついには憤激した。諸官は任務を与えられなければ何もできぬという。しかし諸官に与えられる任務は、悲しいかな、最終的には日本からは来ないのだ。シヴィリアン・コントロールが民主的軍隊の本姿である、という。しかし英米のシヴィリアン・コントロールは、軍政に関する財政上のコントロールである。日本のように人事権まで奪はれて去勢され、変節常なき政治家に操られ、党利党略に利用されることではない。
この上、政治家のうれしがらせに乗り、より深い自己欺瞞と自己冒涜の道を歩もうとする自衛隊は魂が腐ったのか。武士の魂はどこへ行ったのだ。魂の死んだ巨大な武器庫になって、どこかへ行こうとするのか。繊維交渉に当っては自民党を売国奴呼ばはりした繊維業者もあったのに、国家百年の大計にかかわる核停条約は、あたかもかつての五・五・三の不平等条約の再現であることが明らかであるにもかかわらず、抗議して腹を切るジエネラル一人、自衛隊からは出なかった。
沖縄返還とは何か? 本土の防衛責任とは何か? アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。あと二年の内に自主性を回復せねば、左派のいう如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであらう。
われわれは四年待った。最後の一年は熱烈に待った。もう待てぬ。自ら冒涜する者を待つわけには行かぬ。しかしあと三十分、最後の三十分待とう。共に起って義のために共に死ぬのだ。日本を日本の真姿に戻して、そこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまった憲法に体をぶつけて死ぬ奴はいないのか。もしいれば、今からでも共に起ち、共に死のう。われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の武士として蘇えることを熱望するあまり、この挙に出たのである。 
演説文
私は、自衛隊に、このような状況で話すのは空しい。しかしながら私は、自衛隊というものを、この自衛隊を頼もしく思ったからだ。こういうことを考えたんだ。しかし日本は、経済的繁栄にうつつを抜かして、ついには精神的にカラッポに陥って、政治はただ謀略・欺傲心だけ………。これは日本でだ。ただ一つ、日本の魂を持っているのは、自衛隊であるべきだ。われわれは、自衛隊に対して、日本人の………。しかるにだ、我々は自衛隊というものに心から………。
静聴せよ、静聴。静聴せい。
自衛隊が日本の………の裏に、日本の大本を正していいことはないぞ。
以上をわれわれが感じたからだ。それは日本の根本が歪んでいるんだ。それを誰も気がつかないんだ。日本の根源の歪みを気がつかない、それでだ、その日本の歪みを正すのが自衞隊、それが………。
静聴せい。静聴せい。
それだけに、我々は自衛隊を支援したんだ。
静聴せいと言ったら分からんのか。静聴せい。
それでだ、去年の十月の二十一日だ。何が起こったか。去年の十月二十一日に何が起こったか。去年の十月二十一日にはだ、新宿で、反戦デーのデモが行われて、これが完全に警察力で制圧されたんだ。俺はあれを見た日に、これはいかんぞ、これは憲法が改正されないと感じたんだ。
なぜか。その日をなぜか。それはだ、自民党というものはだ、自民党というものはだ、警察権力をもっていかなるデモも鎮圧できるという自信をもったからだ。
治安出動はいらなくなったんだ。治安出動はいらなくなったんだ。治安出動がいらなくなったのが、すでに憲法改正が不可能になったのだ。分かるか、この理屈が………。
諸君は、去年の一〇・二一からあとだ、もはや憲法を守る軍隊になってしまったんだよ。自衛隊が二十年間、血と涙で待った憲法改正ってものの機会はないんだ。もうそれは政治的プログラムからはずされたんだ。ついにはずされたんだ、それは。どうしてそれに気がついてくれなかったんだ。
去年の一〇・二一から一年間、俺は自衛隊が怒るのを待ってた。もうこれで憲法改正のチャンスはない!自衛隊が国軍になる日はない!建軍の本義はない!それを私は最もなげいていたんだ。自衛隊にとって建軍の本義とはなんだ。日本を守ること。日本を守るとはなんだ。日本を守るとは、天皇を中心とする歴史と文化の伝統を守ることである。
おまえら聞けぇ、聞けぇ!静かにせい、静かにせい!話を聞けっ!男一匹が、命をかけて諸君に訴えてるんだぞ。いいか。いいか。
それがだ、いま日本人がだ、ここでもってたちあがらなければ、自衛隊がたちあがらなきゃ、憲法改正ってものはないんだよ。諸君は永久にだねえ、ただアメリカの軍隊になってしまうんだぞ。諸君と日本の………アメリカからしかこないんだ。
シビリアン・コントロール………シビリアン・コントロールに毒されてんだ。シビリアン・コントロールというのはだな、新憲法下でこらえるのが、シビリアン・コントロールじゃないぞ。
………そこでだ、俺は四年待ったんだよ。俺は四年待ったんだ。自衛隊が立ちあがる日を。………そうした自衛隊の………最後の三十分に、最後の三十分に………待ってるんだよ。
諸君は武士だろう。諸君は武士だろう。武士ならば、自分を否定する憲法を、どうして守るんだ。どうして自分の否定する憲法のため、自分らを否定する憲法というものにペコペコするんだ。これがある限り、諸君てものは永久に救われんのだぞ。
諸君は永久にだね、今の憲法は政治的謀略に、諸君が合憲だかのごとく装っているが、自衛隊は違憲なんだよ。自衛隊は違憲なんだ。きさまたちも違憲だ。憲法というものは、ついに自衛隊というものは、憲法を守る軍隊になったのだということに、どうして気がつかんのだ!俺は諸君がそれを断つ日を、待ちに待ってたんだ。諸君はその中でも、ただ小さい根性ばっかりにまどわされて、本当に日本のためにたちあがるときはないんだ。
そのために、われわれの総監を傷つけたのはどういうわけだ
抵抗したからだ。憲法のために、日本を骨なしにした憲法に従ってきた、という、ことを知らないのか。諸君の中に、一人でも俺といっしょに立つ奴はいないのか。
一人もいないんだな。よし!武というものはだ、刀というものはなんだ。自分の使命………。
それでも武士かぁ!それでも武士かぁ!
まだ諸君は憲法改正のために立ちあがらないと、見極めがついた。これで、俺の自衛隊に対する夢はなくなったんだ。それではここで、俺は、天皇陛下万歳を叫ぶ。
天皇陛下万歳! 天皇陛下万歳! 天皇陛下万歳! 
三島事件
1970年11月25日に、著名な作家・三島由紀夫が、憲法改正のため自衛隊の決起(クーデター)を呼びかけた後に割腹自殺をした事件である。楯の会事件とも呼ばれる。
1970年11月25日午前11時過ぎ、陸上自衛隊東部方面総監部(当時は、東京都新宿区の市ヶ谷駐屯地)の総監室を「楯の会」メンバー4人と共に訪問。名目は「優秀な隊員の表彰紹介」であった。
総監の益田兼利陸将と談話中、自慢の名刀「関の孫六」を益田総監に見せた後、総監が刀を鞘に納めた瞬間を合図に総監に飛び掛り縛り、人質に取って籠城。様子を見に行った幕僚8名に対し、日本刀などで応戦、追い出した。中には、手首に一生障害が残るほどの重傷を負わされた自衛官もいた。また総監室も金額としては数百万円相当(当時)の被害を受け、後に平岡(三島の本名)家が弁償している。
三島らは、自衛官と詰めかけたマスコミ陣に向け30分間演説することを要求しそれを認めさせた後、バルコニーで自衛隊決起(=反乱)を促す演説をした。しかし自衛官達からは「昼食の時間なのに食事ができない」と言う不満や、総監を騙し討ちして人質に取った卑劣さ、さらには三島の演説の内容についての反発も強く、「三島ーっ、頭を冷やせー!!!」、「何考えてんだ、バカヤローっ!!!」といった野次や報道ヘリコプターの音にかき消されてわずか7分で切り上げた。
この時三島はマイクを用意しておらず、この悲痛な光景をテレビで見た作家の野上弥生子は、後に「三島さんに、マイクを差し上げたかった」と述懐している(堤堯談)。また水木しげるは、『コミック昭和史』(講談社)最終巻で、当時の自衛官が演説を聴かなかったのは「戦後育ちばかりで、個人主義・享楽主義になっていたから」だとしている。現場に居合わせたテレビ関係者などは、演説はほとんど聞こえなかったと証言しており、残されている録音でも、野次にかき消されて聞こえない部分が多い。しかし三島から呼ばれ、現場に居合わせたサンデー毎日記者の徳岡孝夫は、「自分たち記者らには演説の声は比較的よく聞こえており、テレビ関係者とは聴く耳が違うのだろう」と語っている。また徳岡は、演説を聞き取れる範囲で書き残し、三島からの手紙・写真共に、銀行の貸金庫に現在保管しているという。なおこの演説の全て録音することに成功したのは文化放送だけである。マイクを木の枝に括り付けて、飛び交う罵声や現場上空の報道ヘリコプターの騒音の中、三島の演説全てを録音することに成功しスクープとした。
総監室に戻った三島は、森田必勝らと共に「天皇陛下万歳」を三唱したのち、恩賜煙草を吸い、上半身裸になり「ヤアッー!」と叫び自身の腹に短刀を突き立てた。この時、介錯人の森田は自身の切腹を控えていた為か、手の震えで二度失敗し(刀も曲がってしまったともいう)、剣道有段者の古賀浩靖が代わって一刃の元に刎ね、続いて切腹した森田必勝の介錯も行なった。警視庁牛込署の検視報告によると、三島は臍下4センチほどの場所に刀を突き立て、左から右に向かって真一文字に約13センチ、深さ約5センチにわたって切り裂いたため、腸が傷口から外に飛び出し、舌を噛み切っていたことも検死報告されている。
ノーベル文学賞候補として報道され、多方面で活躍中だった著名作家のクーデター呼びかけと割腹自決は、日本国内だけでなく世界各国で注目を集め論議を起こし、今日まで回想を含め、様々な出版物が刊行されている。
決起に至った理由
自衛隊員たちへ撒いた檄文には、戦後民主主義と日本国憲法の批判、そして日米安保体制化での自衛隊の存在意義を問うて、決起および憲法改正による自衛隊の国軍化を促す内容が書かれていた。三島はこれらの檄文と遺書を事件直前に、「楯の会」の会員を通じNHK記者の伊達宗克とサンデー毎日記者の徳岡孝夫に託していた。
日本国憲法第9条第2項がある限り、自衛隊は「違憲の存在」でしかないと見ていた三島は、檄文のなかで自民党の第9条第2項に対する解釈改憲を「日本人の魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因をなすもっとも悪質の欺瞞」と断じていた。演説で、三島は自衛官らに「諸君は武士だろう、武士ならば、自分を否定する憲法をどうして守るんだ」と絶叫した。
三島の自決の決心に決定的に影響を与えたのは三島の自決の前年の建国記念の日に、国会議事堂前で「覚醒書」なる遺書を残して世を警め同胞の覚醒を促すべく焼身自殺した青年、江藤小三郎の自決であった。三島は『若きサムラヒのための精神講話』において「私は、この焼身自殺をした江藤小三郎青年の「本気」といふものに、夢あるひは芸術としての政治に対する最も強烈な批評を読んだ一人である」と記し、ここからは江藤青年の至誠と壮絶な自決が三島の出処進退に多大な影響を受けたことが読み取れる。
自殺の原因には諸説が挙げられるが、更にその一つとして考えられるのが、自身の「老い」への恐怖である(三島自身「自分が荷風みたいな老人になるところを想像できるか?」と友人に語っている。なお荷風とは、系図上では遠戚関係にある)。新潮社の担当編集者だった小島千加子に対しては「年をとることは滑稽だね、許せない」、「自分が年をとることを、絶対に許せない」と語っていた。
そして更に一つの理由として挙げられるのは、ヒロイズムつまり英雄的自己犠牲に対するマゾヒスティックな憧れである。三島は、1967年元旦に「年頭の迷い」と題して『読売新聞』に発表した文章のなかで、「西郷隆盛は五十歳で英雄として死んだし、この間熊本へ行って神風連を調べて感動したことは、一見青年の暴挙と見られがちなあの乱の指導者の一人で、壮烈な最期を遂げた加屋霽堅が、私と同年で死んだといふ発見であつた。私も今なら、英雄たる最終年齢に間に合ふのだ」と述べている。
そして更にもう一つの理由として挙げられるのは、「切腹という行為」そのものに対する官能的なフェティシズムがある。そのことは1960年に榊山保名義でゲイ雑誌に発表した小説『愛の処刑』からも明瞭に看取される。
三島は、同年7月7日付のサンケイ新聞夕刊の戦後25周年企画「私の中の25年」に、『果たし得ていない約束』の題名で寄稿している。その中で、戦後民主主義を「偽善というおそるべきバチルス」と断言し、「それほど否定してきた戦後民主主義の時代二十五年間、否定しながらそこから利益を得、のうのうと暮らして来た」ことに負い目を感じていた、と告白する。そして、これまでの自分の作品は排泄物に過ぎず、「その結果賢明になることは断じてない」とまで言い切る。そして、文章の最後で「日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう」と日本の将来への絶望を吐露している。この文章は、実質的な『遺書』の一つとして、以降の三島研究や三島事件論において多く引用されている。
三島が死に急いでいたことは檄文に、元来は「昭和四十四年十月二十一日」(国際反戦デーにおける新左翼の暴動が(自衛隊ではなく)機動隊によって鎮圧された日)と書くべき箇所を、「昭和四十五年十月二十一日」と書いていることなどからも伺える。検事冒頭陳述書によると、三島は古賀浩靖に向かって生前「自衛隊員中に行動を共にするものがでることは不可能だろう、いずれにしても、自分は死ななければならない」と語っていたという。 
 
三島由紀夫

 

本名:平岡公威(ひらおかきみたけ)大正14年-昭和45年(1925-1970/11/2)
日本の小説家・劇作家。戦後の日本文学を代表する作家の一人である。晩年は、自衛隊に体験入学し、民兵組織「楯の会」を結成。右翼的な政治活動を行い、新右翼・民族派運動に大きなな影響を及ぼした。
代表作は小説に『仮面の告白』、『潮騒』、『金閣寺』、『鏡子の家』、『豊饒の海』四部作など。戯曲に『サド侯爵夫人』、『近代能楽集』などがある。批評家が様々に指摘するように、人工性・構築性にあふれる唯美的な作風が特徴。
1970年11月25日、前年の憂国烈士・江藤小三郎の自決に触発され、 楯の会隊長として隊員4名共に、自衛隊市ヶ谷駐屯地(現:防衛省本省)に東部方面総監を訪れ、その部屋で懇談中に突然日本刀を持って総監を監禁。その際に幕僚数名を負傷させ、部屋の前のバルコニーで演説しクーデターを促し、約一時間後に割腹自殺を遂げた。この一件は世間に大きな衝撃を与えた(詳しくは三島事件を参照)。
筆名の「三島」は、日本伝統の三つの島の象徴、静岡県三島の地名に由来するなどの説がある。
生涯
1925年(大正14年)1月14日、東京市四谷区永住町(現・東京都新宿区四谷)に父・平岡梓と母・倭文重(しずえ)の間に長男として生まれた。「公威」の名は祖父定太郎による命名で、定太郎の同郷の土木工学者古市公威から取られた。兄弟は、妹・美津子(1928年 - 1945年)、弟・千之(1930年 - 1996年)。
父・梓は、一高から東京帝国大学法学部を経て高等文官試験に優秀な成績で合格したが、面接官に嫌われて大蔵省入りを拒絶され、農商務省(公威の誕生後まもなく同省の廃止にともない農林省に異動)に勤務していた。後に内閣総理大臣となる岸信介、日本民法学の泰斗と称された我妻栄とは一高以来の同窓であった。
母・倭文重は金沢藩主、前田家の儒学者橋家出身。東京開成中学校の5代目校長、漢学者の橋健三の次女。
祖父・定太郎は、兵庫県印南郡志方村(現・兵庫県加古川市志方町)の農家の生まれ。帝国大学法科大学(現・東京大学法学部)を卒業。卒業後の明治26年(1893年)、武家の娘である永井なつと結婚。内務官僚となり、福島県知事、樺太庁長官等を務めたが、疑獄事件で失脚した。
祖母・夏子は、父・永井岩之丞(大審院判事)と母・高(常陸宍戸藩藩主松平頼位が側室との間にもうけた娘)の間に生まれ、12歳から17歳で結婚するまで有栖川宮熾仁親王に行儀見習いとして仕えている。
作家永井荷風の永井家と祖母・夏子の実家の永井家は同族(同じ一族)になる。つまり、夏子の9代前の祖先永井尚政の異母兄永井正直が荷風の12代前の祖先にあたる。父・梓の風貌は荷風と酷似していて、公威は彼のことを陰で「荷風先生」と呼んでいた。

公威と祖母・夏子とは、中等科に入学するまで同居し、公威の幼少期は夏子の絶対的な影響下に置かれていた。生来病弱な公威に対し、夏子は両親から引き離し、公威に貴族趣味を含む過保護な教育を行った。 男の子らしい遊びはさせず、女言葉を使わせたという。家族の中で夏子はヒステリックな振舞いに及ぶこともたびたびだった。夏子は、歌舞伎や能、泉鏡花などの小説を好み、後年の公威の小説家および劇作家としての作家的素養を培った。
1931年(昭和6年)に公威は学習院初等科に入学した。当時の学習院は華族中心の学校で、平岡家は定太郎が樺太庁長官だった時期に男爵の位を受ける話があったにせよ、平民階級だった。にもかかわらず公威を学習院に入学させたのは、大名華族意識のある祖母の意向が強く働いていたと言われる。
高学年時から、同学友誌『輔仁会雑誌』に詩や俳句を発表する。当時の綽名は虚弱体質で青白い顔をしていたことから「アオジロ」。しかし初等科6年のとき、校内の悪童から「おいアオジロ、お前の睾丸もやっぱりアオジロだろうな」とからかわれたとき、公威は即座にズボンの前ボタンを開けて一物を取り出して「おい、見ろ見ろ」と迫ったところ、それは貧弱な体格に比べて意外な偉容を示していたため、からかった側が思わずたじろいだという。
1937年(昭和12年)中等科に進むと文芸部に所属し、8歳年上の坊城俊民と出会い、文学交遊を結ぶ。以降、中等科・高等科の6年間で多くの詩歌や散文作品を発表する。
1938年(昭和13年)には『輔仁会雑誌』に最初の短篇小説「酸模(すかんぽ)- 秋彦の幼き思ひ出」と「座禅物語」が掲載された。
1939年(昭和14年)、祖母・夏子が他界。同年第二次世界大戦が始まった。この頃には、生涯の師となり平安朝文学への目を開かせた清水文雄と出会っている。清水が学習院に国語教師として赴任したのがきっかけだった。
1940年(昭和15年)、アオジロをもじって自ら平岡青城の俳号を名乗り、『山梔(くちなし)』に俳句、詩歌を投稿。詩人川路柳虹に師事する。退廃的心情が後年の作風を彷彿とさせる詩『凶ごと』を書いた。この頃の心情は、後に短篇『詩を書く少年』に描かれ、詩歌は『十五歳詩集』として刊行された。この頃オスカー・ワイルド、ジャン・コクトー、リルケ、トーマス・マンのほか、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)、伊東静雄、森鴎外、そして『万葉集』や『古事記』などを愛読した。

1941年(昭和16年)、公威は『輔仁会雑誌』の編集長に選ばれる。小説「花ざかりの森」を手がけ、清水文雄に提出。感銘を受けた清水は、自らも同人の『文芸文化』に掲載を決定する。同人は蓮田善明、池田勉、栗山理一など、斎藤清衛門下生で構成されていた。このとき筆名・三島由紀夫を初めて用いる。清水に連れられて日本浪曼派の小説家・保田與重郎(よじゅうろう)に出会い、以降、日本浪曼派や蓮田善明のロマン主義的傾向の影響の下で詩や小説を発表する。のちに天皇制に関して、深い傾倒を見せることと成り、美的天皇主義(尊皇思想)を、蓮田善明から託された形となった(蓮田は終戦直後に南方にて自決)。同年12月7日に、日本はイギリスやアメリカ、オランダなどの連合国と開戦となった。
1942年(昭和17年)に、席次2番で中等科卒業。第一高等学校を受験するが不合格。学習院高等科文科乙類(独語)に進学。独語をロベルト・シンチンゲルに師事、ほかに独語教師は新関良三、野村行一(昭和32年に東宮大夫在職中に死去)らがいた。体操と物理を除けば極めて優秀な学生であった(教練の成績は甲で、三島はそのことを生涯誇りとしていた)。同人誌『赤絵』を東文彦、徳川義恭と創刊する。
1943年(昭和18年)、詩人で医師の林富士馬を知り、以降親しく交際する。同年に東文彦が死去し、三島は弔辞を奉げた。『赤絵』は2号で廃刊となった。
1944年(昭和19年)、学習院高等科を首席で卒業。卒業式に臨席した昭和天皇に初めて接し、恩賜の銀時計を拝受。大学は文学部への進学という選択肢も念頭にはあったものの、父・平岡梓の勧めにより東京帝国大学法学部法律学科(独法)に入学(推薦入学)した。そこで学んだ法学の厳格な論理性、とりわけ助教授であった団藤重光(三島没後の定年後に最高裁判所判事)から叩き込まれた刑事訴訟法理論の精緻な美しさに魅了し、この時修得した法学の論理性が、小説や戯曲の創作において極めて有用であった旨自ら回顧している。息子が文学に熱中するのを苦々しく思い、事あるごとに執筆活動を妨害していた父ではあったが、帝大文学部ではなく法学部に進学させたことにより、三島文学に日本文学史上稀有な論理性を齎したことは平岡梓唯一の文学的貢献であるとして、後年このことを三島は父に感謝するようになった。出版統制の中、「この世の形見」として小説・『花ざかりの森』刊行に奔走。1944年10月に出版された。
なお、三島自身は「私は今までの半生で、二回しか試験を受けたことがない。幸いにしてそのどちらも通つた」と書いてはいるが、実は中学受験のとき開成中学の入試に、高校受験のとき一高の入試に、就職のとき(健康上の理由で)日本勧業銀行の採用試験に失敗している。三島と開成学園については、母方の祖父(橋健三)が開成中学の校長を務めた他に、三島の父(平岡梓)と、祖母夏子の実弟(大屋敦)が旧制開成中学出身だった縁がある。また、三島の長男はお茶の水女子大学附属小学校卒業後、中学から開成に学んでいる。
本籍地の兵庫県加古川市(旧・加古郡加古川町)の加古川公会堂(現・加古川市立加古川図書館)で徴兵検査を受け、第2乙種合格となる。公会堂の現在も残る松の下で40kgの米俵を持ち上げるなどの検査もあった。自著の「仮面の告白」によれば、加古川で徴兵検査を受けたのは、「田舎の隊で検査を受けた方がひよわさが目立って採られないですむかもしれない」という父の入れ知恵であったが、結局は合格し、召集令状を受け取ったものの風邪をこじらせて入隊検査ではねられ帰郷したとある。同級生の大半が特別幹部候補生として志願していたが、三島は一兵卒として応召するつもりであった。この頃大阪の伊東静雄宅を訪れるも、伊東からは悪感情を持たれ、日記に悪し様に書かれた。
1945年(昭和20年)、群馬県の中島飛行機小泉製作所に勤労動員。総務部配属で事務作業しつつ『中世』を書き続ける。
2月に入営通知を受け取り、遺書を書く(小泉製作所は1945年2月25日以降、アメリカ軍の爆撃機による主要目標となって徹底的な爆撃を受け壊滅、多数の動員学生も死亡した。結果的に応召は三島に罹災を免れさせる結果となった)。本籍地で入隊検査を受けるが、折からひいていた気管支炎を軍医が胸膜炎と誤診し、即日帰郷となる。偶然が重なったとはいえ、「徴兵逃れ」とも受け取られかねない、国家の命運を決めることとなった戦争に対する自らの消極的な態度が、以降の三島に複雑な思い(特異な死生観)を抱かせることになる。
この頃『和泉式部日記』や上田秋成などの古典、イェーツなどを濫読し、保田與重郎を批判的に見るようになった。「エスガイの狩」などを発表。戦禍が激しくなる中、遺作となることを意識した「岬にての物語」を起稿する。
8月15日終戦、第二次世界大戦が終わった。「感情教育の師」として私淑していた蓮田善明はマレー半島で陸軍中尉として終戦を迎えたが、8月19日に軍用拳銃で自決。
10月23日には妹・美津子がチフス(菌を含んだ水道水を誤飲したのが原因)により、17歳の若さで急逝する。
同年暮、後に『仮面の告白』に描かれる初恋の女性(三谷邦子。のちに侍従長となる三谷隆信の娘、親友三谷信の妹。のち鮎川純太の伯母となる女性)が銀行員と婚約し、翌1946年5月5日には両者は結婚。恋人を横取りされる形になった三島は「戦争中交際してゐた女性と、許婚の間柄になるべきところを、私の逡巡から、彼女は間もなく他家の妻になつた。妹の死と、この女性の結婚と、二つの事件が、私の以後の文学的情熱を推進する力になつたやうに思はれる」と書いている。
文壇デビューと『仮面の告白』
1946年(昭和21年)、鎌倉に在住していた小説家・川端康成の元を訪ね、短編「中世」、「煙草」を渡す。当時、鎌倉文庫の幹部であった川端は、雑誌『人間』(編集人木村徳三)に「煙草」の掲載を推薦した。これが文壇への足がかりとなり、以来、川端とは生涯にわたる師弟関係となる(ただし三島自身は終生、川端を「先生」とは絶対に呼ばず、「川端さん」と呼ぶことに固執していた)。同年、敗戦前後に渡って書き綴られた「岬にての物語」が文芸雑誌『群像』に掲載される。
1946年12月、太宰治、亀井勝一郎を囲む集いに参加。この時、三島は太宰に対して面と向かって「僕は太宰さんの文学は嫌いなんです」と言い切った。このときの顛末について、後の三島自身の解説によれば、この三島の発言に対して太宰は虚を衝かれたような表情をして誰へ言うともなく「そんなことを言ったって、こうして来てるんだから、やっぱり好きなんだよな。なあ、やっぱり好きなんだ」と答えた、と解説されている。しかし、その場に居合わせた編集者の野原一夫によれば、「嫌いなら、来なけりゃいいじゃねえか」と吐き捨てるように言って顔をそむけたという。
1947年(昭和22年)11月、東京大学法学部(旧制)卒業(同年9月に東京帝国大学から名称変更)。日本勧業銀行の入行試験を受験したが、先述の通りの健康上の理由により不採用となった。しかし高等文官試験には合格し(成績は167人中138位)、一時宮内省入省の口利きがあったが、結局は父の強い勧めにより大蔵省事務官に任官。同じく学習院から東大を経て大蔵省入りした先輩に橋口収、入省同期に長岡實がいる。銀行局国民貯蓄課に配属されるが(銀行局長に愛知揆一、主計局長に福田赳夫がいた)、以降も小説家としても旺盛な創作活動を行う。初の長編「盗賊」を発表する。この頃、小説家・林房雄と出会う。
1948年(昭和23年)、雑誌『近代文学』の第二次同人拡大に際し参加(この件りは『私の遍歴時代』に詳しい)。河出書房の編集者坂本一亀から書き下しの長編を依頼され、役所勤めと執筆活動の二重生活による無理が祟り渋谷駅ホームから転落、危うく電車に轢かれそうになったため、9月には創作に専念するため大蔵省を退職した(この転落事故が原因で、官僚を辞めて作家業に専念することを、ようやく父梓が許可した)。
1949年(昭和24年)7月、書き下ろし長編小説『仮面の告白』を出版。同性愛を扱った本作はセンセーションを呼び、高い評価を得て作家の地位を確立した。以降、書き下ろし長編『愛の渇き』、光クラブの山崎晃嗣をモデルとした『青の時代』を1950年(昭和25年)に、『禁色』を1951年(昭和26年)にそれぞれ発表。戦後文学の旗手として脚光を浴び、旺盛な活動を見せた。
1951年12月には、朝日新聞特別通信員として世界一周旅行へ、旅客船で出発した(この世界一周旅行の実現には、父梓の一高時代の同期である朝日新聞重役の嘉治隆一が尽力した)。北米・南米・欧州を経て、翌年8月に帰国。
自己改造と『金閣寺』
世界一周旅行中に三島が発見した「太陽」「肉体」「官能」は、以後の作家生活に大きな影響を及ぼすことになる。帰国後の1955年(昭和30年)頃から、三島はボディビルを始めるなど「肉体改造」に取り組み始める。元々痩身で先述の通りの虚弱体質であったが、弛まぬ鍛錬で後に知られるほどの偉容を備えた体格となった。1948年からの友人中井英夫が小学館で『原色百科事典』の編集に携わっていた頃、ボディビルの項目に載せる写真のモデルにならないかと三島に冗談を言い、そのまま忘れていると、次に会った時、三島から妙に声をひそめるようにして「この間のボディビルの話ねえ、もし本当なら急いでもらえない? オレ、もしかするとまた外国に行かなくちゃならないかも知れないから」と催促された。それは遠慮深く真剣な口調だったので、中井は三島が本気であると感じ、編集部に話を通して実現の運びとなった。三島の同世代の作家には、星新一や遠藤周作など比較的長身の者もいたが、三島は身長163cmと、当時としては平均的であった。あるとき、新聞記者が三島に身長を尋ねると、「173cmです」との返答だったため、その新聞記者は奇異の念を抱いた(その新聞記者の身長が173cmだったのに、どう見ても三島の方が小さかったからである)、との逸話もある。
古典的文学、特に森鴎外に注目するなどして、「文体改造」も行った。その双方を文学的に昇華したのが、1950年の青年僧による金閣寺放火事件を題材にした長編小説『金閣寺』(1956年)である。この作品は三島文学の代表作となった。
この時期の三島は、三重県神島を舞台とし、ギリシャの古典『ダフニスとクロエ』から着想した『潮騒』(1954年)をはじめ、『永すぎた春』(1956年)、『美徳のよろめき』(1957年)などのベストセラー小説を多数発表。作品のタイトルのいくつかは流行語(「よろめき」など)にもなり、映画化作品も多数にのぼるなど、文字どおり文壇の寵児となる。同時期には『鹿鳴館』、『近代能楽集』(ともに1956年)などの戯曲の発表も旺盛に行い、文学座をはじめとする劇団で自ら演出、出演も行った。銀座6丁目の小料理屋「井上」の2階で独身時代の皇后美智子と見合いを行ったのもこの時期のことであると考えられている。
1954年「ゴジラ」公開当時、多くの文化人が「ゲテモノ映画」と酷評する中、特撮部分だけでなく内容についても「文明批判の見地がある」など高い評価を与えている。またクラークの「幼年期の終り」を絶賛し、SF同人誌「宇宙塵」に序文を書き、自らもSF性の強い作品である「美しい星」を執筆するなど、当時の文化人には珍しくSFやSF的なものに関心を寄せ、肯定的な評価をしていた。
世界的評価と『鏡子の家』
1959年(昭和34年)、三島は書き下ろし長篇小説『鏡子の家』を発表する。起稿から約2年をかけ、『金閣寺』では「個人」を描いたが本作では「時代」を描こうとした野心作だった。奥野健男はこれを「最高傑作」と評価したが、平野謙や江藤淳は「失敗作」と断じ、世間一般の評価も必ずしも芳しいものではなかった。これは、作家として三島が味わった最初の大きな挫折(転機)だったとされている。同年1月には『文章読本』を『婦人公論』に発表している。
その後、文壇の寵児として、『宴のあと』(1960年)、『獣の戯れ』(1961年)、『美しい星』(1962年)、『午後の曳航』(1963年)、『絹と明察』(1964年)などの長篇や『百万円煎餅』(1960年)、『憂国』(1961年)、『剣』(1963年)などの短篇小説、『薔薇と海賊』(1958年)、『熱帯樹』(1960年)、『十日の菊』(1961年)、『喜びの琴』(1963年)などの戯曲を旺盛に発表した。
私生活では、1958年(昭和33年)に日本画家・杉山寧の長女瑤子と結婚。大田区南馬込にビクトリア風コロニアル様式の新居を建築し(設計・施工は清水建設)、その充実ぶりを謳歌する一方、『宴のあと』をめぐるプライバシー裁判(1961年より)での敗訴(後、原告有田八郎の死去に伴い和解)や、深沢七郎『風流夢譚』をめぐるいわゆる嶋中事件に関連して右翼から脅迫状を送付され、数か月間警察の護衛を受けて生活することを余儀なくされる(1961年)など、様々なトラブルにも見舞われた。この時の右翼に対する恐怖感が後の三島の思想を過激な方向に向かわせたのではないか、とする実弟の平岡千之の推測がある。
『喜びの琴』をめぐる文学座公演中止事件(喜びの琴事件、1963年)など、安保闘争を経た時代思潮に沿う形でいわゆる『文学と政治』にまつわる事件にも度々関与したが、このときはまだ晩年におけるファナティックな政治思想を披瀝するほどの関わりをもつことはなかった。1962年(昭和37年)にはすでに後の『豊饒の海』の構想が固まってもいる。
この頃からボディビルに加えて剣道・居合を始める。舩坂弘と剣道を通じて交友。永田雅一の肝煎りで大映映画『からっ風野郎』(増村保造監督)に主演したり(1960年)、写真家細江英公の写真集『薔薇刑』のモデルになる(1963年)など、その鍛え上げられた肉体を積極的に世間に披露した。このような小説家以外での三島の数々の行動に対しては、一部で「露悪的」として嫌悪する見方がある一方、戦後マスメディア勃興期においていち早くマスメディアの効用を積極的に駆使し、いわゆる「マスコミ文化人の先駆」と位置づけて好意的に見る向きもある。だが、三島自身は死の4か月前にサンケイ新聞夕刊で発表した「果たし得ていない約束」において、「(戦後)二十五年…私はほとんど『生きた』とはいえない。鼻をつまみながら通りすぎたのだ」と告白している。
この時期には、三島文学が翻訳を介しヨーロッパやアメリカなどで紹介されるようになり、舞台上演も数多く行われた(世界各国への三島文学紹介者として、ドナルド・キーンやエドワード・G・サイデンステッカーなどが著名)。以降、三島作品は世界的に高く評価されるようになる。日本国外外での評価が高さを示すこととして、監督:ポール・シュレイダー 制作総指揮:ジョージ・ルーカス フランシス・フォード・コッポラにより映画『Mishima: A Life In Four Chapters』も製作されているが、日本での公開は行われていない。コッポラは、映画『地獄の黙示録』の撮影時には、三島の『豊饒の海』も手に取り、構想を膨らませていたようである。ドナルド・キーンは、「三島以前の日本文学者の翻訳は、特殊に研究している人や関心のある人によって読まれていたが、三島の場合は一般の人達まで興味を持って読まれている。『サド侯爵夫人』は古典劇にも近いために、フランスでは地方の劇場でも上演されている。それは特別な依頼ではなく、見たい人が多いから」としている。イギリスのロックバンド・ストラングラーズも、三島の生き方、作品に着想を得た「Death,Night & Blood (Mishima)」という楽曲を発表している。
楯の会と『豊饒の海』
自らライフワークとした四部作の長編『豊饒の海 第一部 春の雪』が、1965年(昭和40年)より『新潮』で連載開始された(1967年まで)。同年、戯曲『サド侯爵夫人』も発表。ノーベル文学賞候補として報じられ、以降も引き続き候補として名が挙がった。三島はノーベル文学賞受賞を期待し、受賞者が発表される当日に羽田空港にVIPルームを予約し報道に備えたが、結局新聞記者は三島のもとには現れず、受賞した川端康成を取り囲んだ。
同時期には自ら主演・監督した映画作品『憂国』の撮影を進め(1965年、翌年公開)、『英霊の声』(1966年)、『豊饒の海 第二部 奔馬』(1967 - 68年)と、美意識と政治的行動が深く交錯し、英雄的な死を描いた作品を多く発表するようになる。
三島は晩年「このごろはひとが家具を買いに行くというはなしをきいても、吐気がする」と告白したほど小市民的幸福を嫌っていたが、その一方で、1965年、月刊雑誌の幼稚園特集号を見て編集部に電話を入れ、幼稚園事情に詳しい記者の紹介を依頼し、都内の料理店でその記者と会い、「長男を東大に入れるにはどんなコースがあるか、幼稚園の選び方から教えて欲しい」と40分余りにわたって記者に質問し、真剣にアドバイスを聴き、メモをとった一面もあった。
1966年(昭和41年)12月には民族派雑誌『論争ジャーナル』の編集長万代潔と出会う。以降、同グループとの親交を深めた三島は、民兵組織による国土防衛を思想。1967年(昭和42年)にはその最初の実践として自衛隊に体験入隊をし、航空自衛隊のロッキードF-104戦闘機への搭乗や、『論争ジャーナル』グループと「自衛隊防衛構想」を作成。自衛隊幹部の山本舜勝とも親交した。政治への傾斜とともに『太陽と鉄』、『葉隠入門』、『文化防衛論』などのエッセイ・評論も著述した。特に文化防衛論においては「近松も西鶴も芭蕉もいない」昭和元禄を冷笑し、自分は「現下日本の呪い手」であると宣言するなど、戦後民主主義への批判を明確にした。
同年9月、インド・タイなどへ旅行。そのときの体験は後に『暁の寺』に結実した。
1968年(昭和43年)、『豊饒の海 第三部 暁の寺』(1970年前半まで「新潮」に連載)、戯曲『わが友ヒットラー』を発表。同年11月3日、『論争ジャーナル』グループを中心に民兵組織「楯の会」を結成する。同年8月、43歳時に剣道五段を修得した。
1969年(昭和44年)、曲亭馬琴原作の歌舞伎台本『椿説弓張月』(主演は8代目松本幸四郎)、戯曲『癲王のテラス』(主演は北大路欣也)を発表し上演。
1969年2月11日(建国記念の日)に国会議事堂前で決行された憂国烈士・江藤小三郎青年の壮絶な自決に大きな衝撃を受け、その心情を『若きサムラヒのための精神講話』に記す。5月に東大教養学部で、全共闘主催の討論会に出席し、当時東大の学生であった芥正彦、小阪修平らと国家・天皇などについて激論を交わした。「もし君らが、『天皇陛下万歳』と叫んでくれたら、共に戦う事ができたのに、言ってくれないから、互いに“殺す殺す”と言っているだけさ」と、意外な近似の面を覗かせた。同年に、映画『人斬り』(五社英雄監督)に出演(薩摩藩士田中新兵衛役)。勝新太郎、石原裕次郎、仲代達矢らと共演した。同年、楯の会の運営資金の問題をめぐり『論争ジャーナル』グループと決別し、楯の会に残った日本学生同盟の森田必勝らは、三島事件の中心メンバーとなった。
1970年(昭和45年)11月25日、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地内東部方面総監部の総監室を森田必勝ら楯の会メンバー4名とともに訪れ、面談中に突如益田兼利総監を、人質にして籠城。バルコニーから檄文を撒き、自衛隊の決起・クーデターを促す演説をした直後に割腹自決した(三島事件)、45歳没。決起当日の朝に、間接的に担当編集者(小島千加子)へ渡された『豊饒の海 第四部 天人五衰』最終回が遺作となった。介錯に使われた自慢の名刀「関孫六」は当初白鞘入りだったが、三島が特注の軍刀拵えを作らせそれに納まっていた。事件後の検分によれば、目釘は固く打ち込まれさらに両側を潰し、容易に抜けないようにされていた。刀を贈った友人の舩坂弘は、死の8日前の「三島展」で孫六が軍刀拵えで展示されていたことを聞き、言い知れぬ不安を感じたという。友人で葬儀で弔辞を読んだ武田泰淳は、自決する時期は、雑誌『海』に、戦中の精神病院を舞台にした長編小説『富士』を連載していた。三島事件が起こる直前の11月20日に脱稿した連載原稿に、三島を彷彿とさせる患者(自分を宮様と自称し、皇族宅に乱入して「無礼者として殺せ」と要求し、最後は自決する)が描写されていた。担当編集者だった村松友視は、「この発表タイミングでは、『三島事件』をモデルにしたと読者に思われる」と懸念したが、武田はこの偶然に驚き、作品完成後は「三島のおかげで、この小説を書きあげることができた」と語った。
翌年1月24日に、築地本願寺で告別式(葬儀委員長川端康成、弔辞船橋聖一ほか)が行われ、多くの一般会葬者が参列に来た。戒名は、彰武院文鑑公威居士。現在も忌日には、「三島由紀夫研究会」による憂国忌(主に九段会館)をはじめ、全国各地で民族派運動の諸団体が、追悼慰霊祭を行っている。三島を取材した通信社の元記者の取材ノートが、松戸市内の古書店の店主宅から見つかり元記者の長女に返還された。 
 
三島由紀夫の自決

 

三島と天皇制
1970年、昭和45年、11月25日、三島由紀夫が陸上自衛隊市ヶ谷の東部方面総監部に入り、そこのトップの益田兼利陸将を拘束、バルコニーから演説をぶって、その後その部屋で割腹自殺を図るという事件が起きた。
三島由紀夫は前々から「楯の会」というものを組織して、その会員達を度々自衛隊に体験入隊させて、自衛隊という組織とは別に自分の軍隊というか、私兵というか、自分が思うままに動かせる組織を作っていた。
そして、その組織が体験入隊を通じ、頻繁に自衛隊に出入りする事によって、自衛隊というものの信頼を勝ち得ていた。
だからその組織のトップとしての三島由紀夫は、今までの信頼関係により、自衛隊の営門を潜り、やすやすと自衛隊のトップのいる場所にまで行けたに違いない。
三島由紀夫の檄文は、私のような右よりな思考のものには大いに共鳴する部分があるが、彼の行為というのはやはり左翼過激派の行為と何ら変わるものではない。
彼は、自らの命に刃を向けたが、その刃の向きが内側を向いているのか、外側に向いているのかの違いで、行為としては全く同じ軌跡を踏んでいると思う。
「楯の会」というのも、ある意味で過激派の集団と同じなわけで、意味も知らずに赤軍派を結成した左翼過激派と全く同じ発想であり、行動である。
テロリズムで貫かれているという点では優劣つけがたいわけである。
三島由紀夫の憂国の信条というのも、私のような右傾化した人間には痛いほどわかるが、三島由紀夫の演説は、とうの自衛隊からでさえ野次られていたわけで、それは彼が独善的であった、ということの証拠である。
人々を感銘させるに至っていなかった、ということである。
それをもっと具体的にいえば、街頭で左翼の人たちが街宣車でガナっているのと同じだ、という事である。
彼の論旨は、左翼の考え方の対極にあるように見えたが、その行動が同じでは説得力に欠けたものになってしまった。
三島由紀夫という作家は、個人的には好きな作家である。
「潮騒」などという作品は、心を洗われるような良い作品である。
エログロ・ナンセンスの作品が多い戦後の文学の中で、稀に見る気高い作品だと思う。
しかし、彼の行動というのは不可解な部分が多いように見受けられた。
尤も、我々はマスコミの報道からしかそれを知ることが出来ないが、彼の生き方そのものが、やはり普通の人の思考を超越したものであったようだ。
我々、日本人の生き方としては、イワシの大群やメダカの群を観察した時に見られるように、ある何かの切っ掛けで、群全体が皆同じ方向を向くという不思議な性質がある。
この民族性は、事の良し悪しとは別に、我々の持って生まれた潜在意識とでも言わなければ説明がつかないように思う。
三島由紀夫の場合、そういう群の動きから泰然と超越しているという感じがする。戦後の我々の生きかたというのは、日本全国の全部が左翼の振りをしてきた。
戦前は猫も杓子も軍国主義者であったものが、戦後というのは、日本人の全部が全部、左翼に理解を示す、物分りの良い文化人に成り変ってしまった。
政府の悪口を言い、自民党の悪口を言わなければ、日本人ではないかのような印象を受けたものである。
その中で三島は自衛隊に理解を示す事を恥じずに、堂々と「楯の会」という組織を作ったわけである。
この「楯の会」というのは、自衛体経験者の隊友会とも違い、防衛協力会とも違っているわけで、やはり一番近い表現では三島の私兵という言い方が一番的を得ているのではないかと思う。
左翼ではない三島のような人間が、日本という国を真剣に考えると、それは天皇の問題を避けては通れないのではないかと思う。
そして、天皇の問題に触れると、どうしても憲法の問題に触れざるをえないように思われる。
これらの問題は、この当時、左翼の独断場で、それらを否定する声ばかりが鳴り響いていたわけで、三島由紀夫はそういう声に疑問を感じていたに違いない。
人が大騒ぎをして騒ぎ立てれば、「それは何故に騒ぐのであろう」と自分なりに深く考察したに違いない。
そして、自分で考え、自分で判断してみると、どうも世間で言っている事のほうが可笑しいのではないか、という結論に至ったものと私は推測する。
どうして天皇がいけないのか、よくよく深く考えてみれば、天皇とは古の昔から連綿と続いてきたわけで、天皇自身は臣民を直接統治したことはないわけである。
何時の時代も日本の象徴であり、象徴以外の何ものでもなかったわけである。
こういう言い方をすると、世が世ならば打ち首獄門にされかねないが、要するに、毒にも薬にもならないただの象徴であったわけである。
しかし、日本以外の主権国家からこの天皇の存在というものを見てみると、この毒にも薬にもならない、ただの象徴でありながら、日本人の心に厳然と根付いている天皇制というものには、理解しがたい畏怖の念があったわけである。
それは彼らが日本人でないから、畏怖の念を抱いていたわけで、日本人ならば、空気か水のように思えることが、西洋人にはそうは取れなかったわけである。
西洋人からすれば、この天皇制というのは宗教に映るわけで、宗教ならばその宗派というのは、日本人の全部をカバしているに違いない、と思い込んだわけである。ところが我々の側にしてみれば、天皇の存在というものをそういう観点から見たことがないものだから、西洋人にも説明しきれない部分があるわけである。
ならば天皇は日本民族の統治者かといえば、統治者としては、昔は幕府と言うものがあり、明治維新以降は、他に政府と言うものがあり、天皇は実質的な統治は全くしていないわけで、まさしく政治の場面では象徴的であり、形式以外の何者でもない存在である。
ところが、日本がアメリカの戦争で負けてみると、勝った側としては、誰かを戦勝の血祭りに上げなければ、自分達の国民に労苦を背負わせた証が立たないわけで、そこで一部の勝利者の側では天皇をその血祭りの餌食にしようとした国もあった。ところが負けた日本を実質的に統治しようとしていたアメリカは、この何ともつかみ所のない天皇というものを、統治の道具として利用する事を考えたわけである。それでアメリカが日本に押し付けた暫定的な憲法で、天皇の地位を日本国民の象徴という形で、定義つけて利用しようとしたが、我々は既に天皇というものを以前から象徴として崇めていたわけである。
ところが、この天皇を崇めるという事を、キリスト教徒達が彼らの視点で見てみると、日本人はキリスト教徒がキリストを崇めるのと同じスタイルで崇めているものと思っていたところが、我々はそういう形では崇めていなかったわけである。
その事は、天皇を宗教の教祖という捉え方をするから、そういう齟齬が生まれたわけである。
我々は天皇を神様と捉えているが、我々のいう神様というのは、イワシの頭からトイレの神様まであるわけで、日本には八百万の神様がいることになっている。
天皇というのは、その中の一つであるという認識に立てば、そうそう天皇制に反対を唱える必要はない。
日本との戦争に勝利したアメリカは、戦争に勝った後、日本を如何様に管理するかで、相当知恵を絞ったはずである。
その第一が天皇の人間宣言として神性の否定であったが、天皇はもともと神様などではない、という事を本人が一番よく知っていたわけである。
ただ後知恵ではあるが、天皇も、軍国主義者が日本を奈落の底の突き落とす前に、その神性の否定をしておれば、奈落の途中で何かにひっかかっていたかもしれない。 
三島の軍隊に対する認識
戦前の日本の軍国主義者というのは、何とも言葉では言い様のない、愚かな人間であった。
しかし、これも先に述べたイワシの大群かメダカの群と同じで、一番先頭で真っ先に方向転換する日和見な人間がいたという事であり、残りの大多数の人間は、盲目的にそれに引きずられたといえる。
「軍国主義者でなければ人であらず」という旗振りを先頭にたって振り回した愚かな人間がいたことも事実ならば、それについていった愚かな大衆がいたというのも歴史的事実である。
そしてこれと同じ行動パターンが戦後の左翼である。
戦後の日本の進歩的知識人という左翼集団である。
三島由紀夫は、多分、そこに気が付いたと思う。
イワシの大群や、メダカの群が大声で騒いでいる事には信憑性がない、ということを肌で感じていたのかもしれない。
現実の政治というものを、じっくりと目を見開いてみていれば、それは自ずとわかることで、戦後からこの時に至るまでの間に、いわゆる左翼の言っていたことと反対の事を保守陣営はしてきたわけで、その結果として、戦後の復興があったわけである。
しかし、戦後の日本というのは、マスコミの報道を見る限り、日本人の精神的統一というものは見えてこないわけで、まさしく51:49の意見対立があるように見えたわけである。
日本人の半分は共産主義に帰依しているかのように見えたわけである。
その現状を鑑みて、三島由紀夫はあのような特異な行動に出たものと思われる。
三島由紀夫の考え方の中で最大の欠点は、やはり暴力の肯定である。
昭和11年の2・26事件の時の青年将校と同じ発想で、「政府の要人を殺害してでも昭和維新をしなければならない」という思い込みは、そのまま左翼の思想とつながってしまうわけで、この点が彼らしくない発想だと思う。
そして赤軍派の重信房子と同じ発想で、自らの軍隊を持たねばならない、と思い込んだところが、思想的に稚拙である。
ある意味で、組織だった軍隊というものを知らないという事になる。
いくら「楯の会」が自衛隊に体験入隊したところで、それは軍隊になりえない。
それは軍隊というものを全く知らないという事に他ならない。
重信房子にしても、他の赤軍派のメンバーにしても、連合赤軍にしても、又三島由紀夫にしても、本当の軍隊というものを全く知らないということである。
鉄砲を担いで、教練だけをすれば、それが軍隊だと思っていたとすれば、これほどの認識不足もありえない。
大体、戦後半世紀の間に、日本では軍隊というものの研究という事は御法度になっていたわけで、そういう中で本物の軍隊というものを一般の人が理解するという事はありえない。
鉄砲を担いで、少々分列行進ができる程度では、山賊か、馬賊か、盗賊程度のもので、とても軍隊とは言い切れない。
赤軍というのはソビット赤軍にしろ、中国の赤軍にしろ、共産主義革命の中で、政府軍から分捕った兵器をもった、物盗り、山賊、農民、無頼漢、逃亡兵、傭兵たちがそれぞれに寄り集まって集団をなして出来上がったわけで、基本的には軍隊と呼べる代物ではなかったはずである。
ところが共産主義革命が成功して、民衆、大衆を押さえつけて、政権を維持していくには、暴力という実力行使がどうしても必要なわけで、それには武力がどうしても必要不可欠であった。
それでそういう無頼漢たちの存在意義が生まれ、これを国軍として処遇したわけである。
国家建設の理念から組織だって作られたものではなかった。
共産主義革命で、既存の政治体制を潰した後、大衆や反対勢力を力で押さえつけるための便宜的な存在が肥大化したものである。
無から軍隊を作り上げたわけではなかった。
その点、我々、日本人というのは、旧大日本帝国軍隊というものを無から有に作り上げたわけである。
それに大きく貢献したのがいわゆる徴兵制という制度である。
これによって日本の軍隊というのはまず人を集めたわけである。
それから大日本帝国の総力をあげて装備を作り上げたわけである。
人と装備が揃ったところで、慢心したのが第2次世界大戦に首を突っ込むということになったわけである。
軍隊というのは、主権国家が国力を傾注して作り上げても、尚不十分であったわけで、それを例え私兵としてでも、又その類似のものを作ろうとしたとしても、どだい無理な話である。
そして左翼の過激派にしろ、三島の私兵にしろ、事を解決するのに暴力も辞さないという考え方は、最初から民主主義の否定という事につながっている。
私は暴力というものを全面否定するものではない。
ある意味で、極めて好戦的、時と場合によっては戦争も辞さない好戦的な人間であるが、戦争には大儀がある。
テロには大儀がない。
大儀があるように見えるけれども、それは仲間内だけの自己満足の大義であって、統治される側の大儀を代弁したものではない。
人は誰でも「戦争はいけない」「戦争はしてはならない」「平和で行くべきだ」「私達の子供を戦場に送るな」と叫ぶ事が平和だと思っている。
確かにそれは万人が認めざるをえない真理である。
それは充分にわかっている。
充分に解っているけれども、それでもなおしなければならない時と場合があるという事を我々は認識していない。
どんな時でも我々は相手に屈服すればいいと考えている節がある。
どんな時でも相手に屈服すれば確かに戦争はしなくても済む。
戦後の日本人はそういう日本を夢見ていて、日本をそういう国にしたいと願っているわけである。
主権国家同志の食うか食われるか、倒すか倒されるか、弱肉強食の国際社会の中で、日本は相手の言うことを全部丸飲みさえしていれば確かに戦争というのはありえない。
戦後半世紀、日本はその手で過ごしてきた。
湾岸戦争で、金だけ出して世界から哄笑されても、我々の生命財産が搾取されたわけではない。
我々は今までどおり大過なく過ごさせてもらえている。
だから戦争というのは、何がなんでも回避すべきだ、というのが戦後の日本を支配した知識人の大方の考え方である。
我々、日本人は大過なく過ごさせてもらえているが、他所の国の人は犠牲を払っているわけである。
そのことを忘れたまま、我々は平和な生活が出来ているので、「戦争は御免だ」と言う発想は、全くもってひとりよがりで、唯我独尊的な、自分勝手な発想だと思う。だから湾岸戦争に、金だけ出して血も汗も流さなかった日本が蔑まれたわけである。
三島はその矛盾に気が付いたのではないかと思う。
彼の胸中に飛来したのは、やはり民族の魂ではないかと思う。 
三島の憂慮
私は三島由紀夫の研究者ではないので、彼の思想の移り変わりを語る資格はないが、彼の行動から勝手に推測する限りにおいて、彼は日本民族というものを振り下げて考えていたに違いない。
そして日本の民族全体がまさしくエコノミック・アニマルに成り下がっている現状を鑑みて、こういう特異な行動に出たものと推測する。
彼が我慢ならなかったことは、戦後の日本の知識人というのが、民族の誇りを失ってしまった事にあったのではないかと思う。
大学の先生方が打ち揃って日本の独立に反対し、占領中のままでいることを選択する現状を見れば、三島の憂慮も理解しえる。
確かに、我々は、見栄や外聞、誇りや名誉で飯が食えるわけではない。
飯を食うためには物乞いだろうが、盗人だろうが、人からいくら侮られようとも、刃向かってはならず、じっと我慢の子でなければお恵みにありつけないわけで、こういう発想が日本人のインテリーの間に浸透している事への反発であろうと思う。こちらが卑屈になれば、相手はお恵みを与えてくれるという発想も、我々の側の勝手な思い込みにすぎないわけで、必ずそうなるという補償は全くないわけである。相手にも、出来ることと出来ないことがあるわけで、こちらがいくら卑屈になったところで、相手はそれに応えてくれるとは限らない。
三島が日本人、日本民族と言うものを深く考察すればするほど、現実の日本人の在り方というものが我慢ならないものになっていたのではないかと思う。
ならば自分でその現状を少しでも変えてやろう、という気になって「楯の会」というものを立ち上げ、自衛隊に体験入隊して、軍隊というものの雰囲気を味わおうとしたわけである。
自衛隊のバルコニーから三島が演説をしても、それを聞いた自衛隊員の方では、野次を飛ばし、哄笑していたわけで、これだけ三島由紀夫と現実の自衛隊員との間にはギャップがあったわけである。
誰一人として三島由紀夫に共鳴したものがいない、ということは彼の行為、彼の発想が如何に浮上がっているかということである。
それは同時に、今の自衛隊が如何に現実の日本人の生き方に密着し、シビリアン・コントロールの元に、国民感情に浸り、権威を誇示しない存在か、という事の証明でもある。
三島由紀夫は自衛隊と旧軍隊とを全く同じ物だ、という認識にたっていたようだが、そこがまるっきり違っていたわけである。
確かに、陸海空と、戦うための装備、人を殺すための装備とノウハウは持っている点では旧軍隊とも世界中の同じような組織、つまり世界の軍隊と同じ機能をもっている事に変わりはない。
しかし、それを形作っている自衛隊員というのは、旧軍隊の軍人とはまるっきり違った人種であったわけである。
中身の人間は、昔のように1銭5厘のはがきで農村や山村から集められた召集兵ではないわけで、この豊穣な日本の中で、そう給料も多くなく、過酷な訓練を自ら志願してきた若い連中で、そうかと言って愛国心に満ち溢れた若者かといえばそうでもなく、いわば自己のとの戦いに自分で挑戦している若者というべきであろう。
要するに、自衛隊という組織を、自己との戦いの場として捉えているわけで、人殺しの装備と、そのノウハウはその為の手段と手法に過ぎないわけである。
いわば自己練成の道場と捉えているのである。
そういう人間を目の前に、いくら三島由紀夫が美文調の檄文を読んだところで、それは陳腐にしか映らないように思う。
現にそうであったわけである。
この現実は日本の素晴らしい進化だと思う。
戦後の日本の民主主義の素晴らしい実績だと思う。
それを三島由紀夫は見落としていたところに、彼の秀才としての慢心があったに違いない。
左翼の進歩的文化人と呼ばれている人々は、この自衛隊を旧軍隊と同一視しているが、その意味で三島由紀夫も文化人の一人として、自衛隊と言うものが旧軍隊の伝統を引きついたものと認識していたに違いないが、戦後の日本の自衛隊というものは旧軍隊とは全く異質のものであった。
その違いが彼にとっては不甲斐のないものと映っていたかもしれないが、その不甲斐のなさが、自衛隊の信条として一番大事なわけで、自衛隊が主導権を握るようなことがあったとしたら、それこそ危機である。
シビリアン・コントロールこそが、民主主義国家の軍隊のあり方として最善のものでなければならない。
問題は、自衛隊の方はシビリアン・コントロールに徹しようとしているが、それを統括する側、つまり政府与党の方に、その認識が欠如している点である。
その最大の欠点は、政府内というよりも、与党と野党の間での話し合いなり、議会の中の論戦の場なりで、国会議員、政党人、党内の意識の中に、軍隊とか、国防とか、平時とか、戦争というものの知識というべきか認識というべきか、国益を守るという発想が極端に不足している事である。
シビリアンたるべき政治家に、安全保障の意味を全く解さない人がおり、ただ単なる言葉尻をあげつらい、揚げ足取りに終始している点である。
それは保守陣営、革新陣営共に認識を欠いているわけで、物を知らないもの同士が知らないまま不毛の議論をしているわけである。
これでは自衛隊を管理運営する側も、される側も、無駄な努力を強いられるわけで、それが最大の問題だと思う。
太平洋戦争の前の日本では、軍人の政治家が、軍隊出身だからこそ、軍隊の便宜を図ったので、ああいう結果を招いたわけであるが、そういう経験から考えれば、軍人でないものが真剣に日本の国防、乃至は国益という観点から政治経済というものを考えなければならないのに、それが党利党略のみで政治を語り、外交を語っているので、真の国益とか国防という視点が抜け落ちてしまっている。
自衛隊を如何に使うかということは、何も戦争だけではないわけで、戦争のないときにも自衛隊という自己完結的な組織を有効に使う方法はいくらでもあるはずである。
それを自衛隊の一言、国防という一言、防衛という一言を聞くだけで、過剰反応をし、過敏に順応する反政府勢力の存在というものに、三島は憂慮の念を抱いていたに違いない。
そして、そういう勢力の反政府キャンペーンというのは実にすさまじく、当時の日本社会党、日本共産党、反政府勢力の反日キャンペーンというのは、まさしく外国人の日本攻撃に等しいくらいの勢いであった。
そしてそれを日本の進歩的知識人というのが全面的にフォローしているわけで、世の中は左翼でなければ、反日でなければ、非日本人でなければ生きてはおれないような様相を呈していたわけである。
日本人でありながら、日本を陥れようとする同胞を見て、三島は檄を飛ばしたわけである。
我々が戦後、日本の魂を失ったのは一体どういうことなのであろう。
共産主義を根底に秘めた左翼過激派の人間も、究極のところ、日本人でありながら日本というものを否定し、自らは無国籍人間になろうとしたわけで、それを言葉を変えればコスモポリタンを目指すという言い方も出来るが、そういうものに理想を求めたわけである。
そのベクトルが逆方向に向いたのが三島由紀夫ではなかったかと思う。 
人間の本質
日本という4つの島に生息する人種が、無国籍な方向に進むことが我々の至福につながると思い込んでいたのが戦後の日本の進歩的な左翼の人たちであるとすれば、三島の場合は、日本人はより日本的になればなるほど至福に近づけるという発想にいたったものと思う。
ところがそこに至る過程で、のんべんだらりと河が清くなるのを待つ政治では我慢ならないわけで、一気呵成にそれを実現しなければならないと思い込んだところに彼ら、左翼も右翼も道を踏み違えた理由がある。
そしてその両方ともが、人間の思想、日本人のよりよき生き方というものを追い求め過ぎたわけで、人間の心というものは、そうそう綺麗なものではない、という人間の本質を見失っていたわけである。
日本を終戦という究極の混乱に貶めた旧の軍人政治家は、私服を肥やすという意味ではかなり清廉潔白で、太平洋戦争の開戦を決議した東条英機なども、GHQに逮捕される時点で、実に質素な生活をしていた。
日本民族を究極の混乱に導いた政治家というのも、政治家として私服を肥やすという意味では実に潔白で、その意味からすれば、戦後の政治家の方がよほど汚い精神の持ち主が多い。
特に、族議員などという呼称をいただいている議員は、砂糖に群る蟻そのものである。
国会議員というのはボランテイア活動ではないわけで、国から歳費という形で給料が出ている。
基本的には、その給料の中で生活するとすれば、族議員などという種族が徘徊する政治にはならないはずである。
政党活動に金がかかるというのは詭弁にすぎない。
戦後の政治家というのは、利権という甘い汁を吸うための政治屋であるからこそ、野党に叩かれ、日本の進歩的と称する知識人からそっぽを向かれるわけである。
その意味からすれば、与党、保守陣営というのは汚い政治家、政治屋の集まりであるということは否めない。
ところがこれが人間の本質なわけである。
甘い汁を吸うために蜜のあるところに虫が集まるように、人間も甘い汁を吸わんが為に、少々腐りかけて、人を惑わすような芳香を放つ臭い場所には政治家どもも集まるわけである。
これは人間の本質である。
政治の腐った部分には利権という芳香が漂っているわけで、その芳香に誘われて、何処かに甘い蜜があるのではないかと、鵜の目鷹の目で嗅ぎまわっているのが族議員という政界の毒虫である。
そういうものを一切排除して、綺麗な政治家が綺麗な政治をしましょうというのが革新系の発想であるが、彼らとて人間の本質からは逃げられないわけで、甘い蜜に群れたがる性癖というのは克服できていない。
蜜の内容が変わるだけである。
蜜の中身が変わるだけである。
資本主義社会ではその蜜というのは金であったが、社会主義国家では、それが権力であったり、権勢であったりしたわけで、権力や権勢が甘い蜜であったわけである。そしてそれは同時に金にもつながっているわけで、資本主義であろうと社会主義であろうと、人間の欲望の行き着く先は金である。
いきなり現金というものに行き着かなくても、人間がより快適な生活をしたい、という欲望は金を介してしか存在しないわけで、政治をするという事の究極の目的というのは、金儲けという事に行き着いてしまうわけである。
その意味からすると、戦前の日本の軍人政治家というのは、金に関しては比較的淡白であったように思われるが、戦後の資本主義の中の政治家というのは、金に意地汚いわけである。
しかし、当の政治家というのは、そういう事はおくびにも表面には出さないわけで、いかにも国民のため、国民の至福の為に、というポーズをとっていながら、裏でやっている事は利権に群がる蟻のようなものであった。
革新系の議員なら潔白かというと、これも後のバックが違うだけで、基本的には同じ構図であるから、やはり同じ穴の狢なわけで、政治家というものが私服の追求に血道を上げているという現実は変わらないわけである。
これは人間の集団である限り、大なり小なり付き纏う人間の業なわけで、民族を超え、種族を超え、社会体制を超え、主義主張を超えた人間の潜在的な変えることの出来ない本質である。
人は自分の至福を一番最初に考え、それから周りの人に偽善を施すには如何なる手法があるか、と思いを巡らすわけである。
人間は、まず最初に自分を一番安全な場所に置いておいて、それから人を助けるという行為に移るわけである。
これだからこそ人類は生き延びてきたわけである。
自分の身を省みず人助けする動物であったとすれば、人類は生き延びれなかったに違いない。
しかし、こういう人間の生き様というのは、純情な青年にとっては我慢ならないわけである。
純真であればあるほど、こういう人間の生き様、大人の在り方というのは我慢らなわいわけで、どうしても清らかな社会を早急に作らなければならない、という発想につながるわけである。
早急に作ろうと思うものだから、そこで暴力を肯定しなければならなくなるわけである。
暴力という力で無理やり社会を変え、清らかな人間が、清らかな政治をする社会を作らねばならない、という理想に耽ってしまうわけである。
その思いは、主義主張が違っても、目指す結論は全く同じなわけで、そういう理想郷というものは人間の英知では作りえない、という現実を自分の目でしかと見ようとしないわけである。
左翼も右翼も、自分達が決死の覚悟で革命やクーデターを起して、自分達は死んでも後世のものが清らかな社会を作り上げれてくれれば本望だ、と言いながら人殺しという暴力を行使するわけである。 
三島の美学としての死生観
私は個人的には、左翼よりも右翼に近いスタンスを取っているので、三島由紀夫が言わんとする事は、信条的には十分理解できる。
戦後、この時期までの間の日本の政治状況というのは、まさしく左翼であらずんば人であらずという風潮であった。
終戦から25年を経過した時点で、日本の政治・外交というのは、アメリカの庇護の下で、共産主義国家に向かっているが如き反体制の嵐であった。
日本の政治家というのは、政治の見えない部分ではしっかりと資本主義、自由主義を堅持しながら、アメリカと歩調を合わせて、戦後の復興に努力してきた。
ところがマスコミで報道されている部分には、そういう面は全くないわけで、この戦後の日本は、日本国民の総意がまるでの社会主義国に進むことを願っているかのような報道のされ方であった。
日本の国民の全部が社会主義国の建設を待ち望んでいるにも関わらず、日本の政府と日本の保守陣営が、それを邪魔しているかのような報道のされ方がされていた。そういう状況下で、三島由紀夫はそれに対抗すべく、立ち上がらねばならない、と檄文を飛ばしたわけである。
ところが案に相違して、自衛隊員も、日本国民も、そうそう馬鹿ではなかったわけである。
日本の国民はマスコミの報道している事を話半分に聞いていたわけで、丸呑みはしていなかったわけである。
しかし、日本のマスコミが報道している事が話半分であったとすれば、視聴者を欺瞞していたという事になる。
目に見える形の商品であれば、欠陥商品で、返品されてしまう。
商品に欠陥があれば、欠陥商品を消費者に買わせたとして、そのメーカーは社会的な制裁を受けるのが当然である。
マスコミの報ずる商品は、いくら嘘八百を並べて、虚偽の報道であったとしても、それを返品して金を返してくれという事はありえない。
欠陥商品であったとしても、クレームの持っていきようがないわけである。
誤報であろうが、故意に操作された世論形勢のキャンペーンであろうが、放送局なり、印刷機を離れた瞬間、それは返品の効かない商品となってしまうのである。
テレビや新聞を見る側は、「この報道は嘘だから払った金を返せ」とは言えない仕組みになっている。
これを「報道の自由」とか、「知る権利」と言って、如何にももっともらしく権利意識を振りかざしているが、これほどの欺瞞も他にありえない。
腐った食品を知らずに買って食べた人が食当たりしたとすれば、その人はメーカーに訴訟を起し、損害賠償倍を勝ち取る事が出来るし、警察も調べ、保健所も調べに入るが、過激な檄文で、それを信じて過激派に入ってしまった青年の親は、その過激な檄文を公表したり掲載した出版社を告訴できるであろうか。
その意味からすれば、三島由紀夫もマスコミの中で生息していた人物で、マスコミの中で評価を得、マスコミを生きる場所としていたわけであるが、そのマスコミの中で、自分の民族というものを深く考えたに違いない。
戦後25年を経過した時点で、日本民族というものを考えると、表面的にはアメリカから独立して、日本の自主性があるように見えるが、日本人のアイデンテテイというものは一向に見当たらないわけで、石を投げれば左翼に当たり、政府首脳を見れば、アメリカの属国に成り下がっている現状を鑑みると、やはり日本人として、日本民族としてのアイデンテテイーが欲しかったに違いない。
主権国家が一番主権を具現化しているのが軍隊である。
国益がほんのちょっとでも犯された場合、真っ先に出動するのは、普通の主権国家であれば軍隊の筈である。
そのことはすぐにドンパチと戦争をするという意味ではない。
三島由紀夫はそういう国家を望んでいたのではないかと思う。
しかし、もしそういうものを望んでいたとすれば、それは一昔前の世界の認識で、今では時代遅れになっている思考である。
特に日本の場合は想像だに出来ない事である。
我々の場合、国益という言葉さえ死語になっているわけで、日本人の生命財産という場合、動物学的な命、生物的に生きた状態の継続のみで、そこには日本人としての名誉も、誇りも、全く埒外に置かれているわけである。
戦後の日本人の中の知識人は、日本という国土の中に住む我々は、奴隷のように、昔の百姓のように、生かさぬよう殺さぬよう、命さえ長らえれば、どんな屈辱を受けても、相手に刃向かうことなく従順に生きるべきだ、と若い世代に教え込んでいるわけである。
この発想は恐らく三島由紀夫にとって我慢ならなかったに違いない。
それだからこそ「楯の会」などというグループを作って、「日本人の誇りとは何ぞや」という問題を提起していたものと想像する。
日本人を深く考えると、行き着くところはその死生観にいたるわけで、それを突き詰めると、腹切りということに行き着いてしまったわけである。
これはある意味で三島由紀夫ならずとも日本人の民族的性癖の最たるものである。桜の散るのを見て死生観を悟るのは、西洋人の感覚からすれば、一種の短慮に他ならない。
あまりにもあっさりしすぎている。
それは象徴的に日本人の心そのものであった。
美しく死ぬと言う事が、日本人の誇りである、と言われているが、これはそれこそ大和魂そのものである。
それはあまりにもあっさりしすぎて、形式美に浸りすぎている。
西洋人の発想では、「どんな屈辱を受けたとしても、死んでは元も子もない」、という発想であるが、我々の場合は、美しく死ぬ事が民族の誇りとなっている。
この死生観というのは、三島由紀夫以外の日本人でも、かなりの人に受け入れられており、これが日本人の誇りだ、と思い込んでいる節がある。
死ぬ事を美と捉える感覚というのは、日本人独特のものではないかと思う。
これがあったが故に、神風特別攻撃隊があり、学徒出陣があり、国難に殉ずるという発想が根付いたものと思う。
この死生観というのは戦前のもので、戦後はそれが消滅していたわけである。
三島由紀夫はその再生を密かに願っていたものと思われる。
戦後の民主教育というのは、戦前から戦後へと、あの戦争の中で辛くも命を永らえてきた日本の知識人というのが、戦前の価値観を全部否定してしまったので、こういう価値観も消滅してしまった。
その代りに世間に台頭してきた発想が、民主主義の名の元に個人の権利、私権の横行である。
この私権の横行というのは異常に拡大解釈されて、「報道の自由」とか、「知る権利」などと、お門違いの使い方がされるようになってきたわけである。
先にも言辞したように、間違った情報を流しておいて、それが「知る権利」だとか、「報道の自由」の名の元に許されるような事が公然と行われているわけである。
私権を少しでもコントロールしようとすれば、それは反動だとか、封建主義だとか、復古調だとか、反民主的というレッテルを貼って、私権の制限にブレーキをかけようとしたのが、戦後の日本の知識人層であった。
三島由紀夫の美学からすれば、そういうものには我慢ならない感性を備えていたに違いない。
彼の美学にしてみれば、世の中が如何様になろうとも、その中で生活を共にする人間というのは、全体に奉仕すべき存在で、まず最初に全体があって、その下に個人が存在する、という意識ではなかったかと思う。
ところが戦後の民主主義というのは、個人の存在というものを過大評価しているわけで、個々の個人が好きな事を言っていれば、何時まで経っても意見が纏まらない事に三島は憂慮の念を抱いていたに違いない。 
三島のノブレス・オブリッジ
それを突き詰めて考えれば、戦後の日本国憲法に行き当たるわけで、主権在民という概念と正面からぶつかるわけである。
ここまで考えが深まってくると、主権在民と天皇制の問題という事になってしまう。天皇制というのは、太古より日本民族の象徴として存在していたわけで、先の大戦中は軍部がそれを政治の道具として使ったところに問題があったわけであるが、基本的には、あの時代が天皇制として異常な時期であったわけである。
もともとは日本の民族の象徴としての存在であったわけである。
だからこれからも天皇というものは政治の場に引っ張り出さないほうがいいと思う。ところが左翼の陣営は、天皇制反対という言辞でもって、結局は天皇を政治のまな板の上にのせるようなことをしているわけである。
主権在民というのは民主主義の基本であるが、それは独裁者に対するアンチ・テーゼとしての言葉であって、私権の大幅な拡張とは次元が違うわけで、人は個人の我侭を最大限に拡大しても通る、というものではないはずである。
最大多数の最大幸福という主旨に立てば、大勢の人が迷惑をこうむるような私権は当然制限されますよ、という暗黙の了解がそこには横たわっているはずである。
その部分を故意に無視しようとするのが戦後の日本の知識人の発想である。
民主主義というものは国民の全部にまんべんなく利便を分かち与えるものであるという認識がそもそも間違っている。
主権在民とはいっても、私権を制限される側の人も含めて、おおよそ全体のレベルアップを図りましょう、というのが本当の民主主義である。
全員の至福を図るための主義だとすれば、それは絶対主義であり、全体主義であり、共産主義であり、大政翼賛会式の思考ということになってしまう。
その私権のあまりにも無制限は在り方というのが、戦後の日本を混乱に陥れているわけである。
教育の機会均等ということでも、この言葉上のイメージは実に立派である。
人間の形をしたものは、その能力の如何に関わらず教育の機会を与える、という事は理念としては非常に素晴らしい事で、尚且つ崇高な事である。
しかし、教育を受ける側がそれを受けたくない、勉強などしたくないと思っているものにまで、無理やり教育を受けさせようとするから、学級の崩壊を招致しているという現実を知るべきである。
誰でも彼でも、人間の形をしたものには教育を施す事が理想だ、という発想はある意味で理念の押し付けになっているという事に気が付いていない。
規則を守らないものを処罰すると、それは個人の自由意志を踏みにじるもので、管理であり、人権を侵害しているという論法になるわけである。
ルールを皆が守る事で、民主主義が成り立っているという事を無視した発想である。
人間が集団で生きている社会では、個々の人間が好き勝手な事をしていてはまとまりがつかないのでルールと言うものが出来、そのルールを皆が守る事で秩序ある社会というものが成り立っている。
その中でルールを守らない者を処罰すると、それが個人の「人権の侵害」という形で、私権を社会のルールよりも優先させる事がさも進歩的な考えかのような錯覚に陥っている。
社会の秩序を形作っているルールよりも、個人の我侭を優先させようとするのが戦後の進歩的知識人の発想の中にはあるわけで、だからこそ社会が混乱に陥っているわけである。
社会のルールの中には法律で定めたルールもあるが、この法律で定めたルールというのはある意味でミニマムなルールである。
その前には倫理とか、軌範とか、伝統という成文法で規制されていない不文律というものもある。
戦後の変革では、この不文律というものを、封建的というレッテルを貼って、あらゆる法律が文書であらわされていない限り、それをルールとみなさないようになってしまった。
戦前にあった教育勅語というのは、その内容を考えてみると、それの言わんとしている事は、何時の時代にも通用し、如何なる国家でも国民に知らしめてもいい、民族を超えた普遍性があり、人が人として社会生活を維持して行く上ではこれほどまっとうな指針はないというものである。
しかし、それを戦前は小学校という教育の現場で押し付けたわけで、それでもって覚えきれない子供を制裁したりする事が横行していたわけである。
勅語であるから法律ではないわけで、あくまでもスローガンとして、それを忘れたからといって刑務所に入れられるというものではない。
問題はそれを軍国主義教育に利用した側の先生の方である。
この時代の先生というのはどうしてああも横柄で威張り散らしていたのであろう。それは、国家が「臣民に教育を施してやっている」という意識が根底にあったからではないかと、私なりに推測している。
官と民の関係で言えば、官というのは、上に天皇を戴いているのだから、「俺達は普通の民間人よりも偉いのだぞ」という意識があったようの思える。
ここでやはりノブレス・オブリッジの問題に再度帰り着くのではないかと思う。
庶民・大衆というものの心の卑しさが頭をもたげているのではないかと思う。
戦前の日本の社会構成を考えると、言うまでもなく農民が大衆の大部分を占めていたわけで、その農民の中でも段々があって、大地主から水飲み百姓まで色々な階層があったわけである。
それは当然、農民以外の職業にもそういう階層はあったが、その階層の中で、知識階級をなすものというのは、必然的に裕福な階層である。
ところが明治維新で、裕福でないものにも教育を受ける機会が与えられると、その貧困層からでも教育を受ける機会を得る人間があらわれるわけで、そういう人たちが教育を終えた後社会に出ると、今までは虐げられていたものが今度は立場が逆転しているわけである。
言い方を変えれば、権力をほしいままに出来るわけである。
だから教育勅語というのはこの当時に日本人の生きる指針に過ぎなかったものを、小学生に丸暗記させて、いわば自分の権力を傘にして自分の児童を虐めていたわけである。
それともう一つ、それは現場の先生のアイデアではないわけで、学校を管理する上のほうからの指令でそういうことが現場の教育で行われていたわけである。
日教組的に言えば、現場教師の自主性を無視した学校管理であったわけである。
そこで問題になる事は、この学校の管理と教育勅語の中身というのは全く関係がないという事で、良いものは捨てる必要はなく、これからもおおいにそれを利用すればいいわけである。
組織の目的と、その組織の持つ使命と言うものが乖離して、この二つが輻輳してしまった事がかっての日本が軍国主義に傾いていった最大の理由ではないかと思う。ある未開な民族国家が近代化を計ろうとして、教育に力を注ぎ、民主化を進める事は人類全体の発展のために必然的なことであったに違いない。
その時、国民の全部に教育が行き渡り、国民の知的レベルが上昇する事は、トータルで見れば喜ばしき事である。
ところがそのことは同時に、今までの封建主義的な階級制度の崩壊をもたらすわけで、この階級制度の崩壊も民主的という観点から見れば慶賀な事ではある。
しかし、物事には裏表という事があり、日当たりの面と日陰の面があり、メリット、デメリットがあるわけで、国民の全員が高等教育を受けるような時代になれば、悪人は駆除できるかとなれば、そうはならないわけで、知的に高等な悪人というのが世にのさばる状況というのが出現してきた。
戦前の小学校で、小学校の教員が小学生に教育勅語を丸暗記させるというのも、ある意味で、学校の先生による生徒に対する虐め以外の何物でもないはずである。
教育というものの本質を忘れた行為といわなければならない。
それは先生だけの責任ではなく、恐らく教育界の組織の上のほうからの指示だとしても、組織全体として、教育というものの本旨とを知らない人の押し付けであったに違いない。
今日の民主主義の日本では、国民が高等教育を受けることは文句なく良い事だという認識に至っているが、それは同時に高等教育を受けた悪人を作っているという事でもある。
一番ホットな事例では、2002年の年初に元札幌国税局の局長を勤めた人が脱税容疑で捕縛されている。
こんな馬鹿な話があっていいものだろうか。
税務署員と警察官では職務内容は違うとしても、要するに、泥棒を捕まえる側の人間が泥棒をしていたと同じ事である。
ノブレス・オブリッジの欠如の見本のような事である。
ノブレス・オブリッジという観点から、三島由紀夫が自衛隊の市ヶ谷総監部でアジ演説をして、その後割腹自殺をするという行為を見れば、高等教育を受けた人のする行為ではないはずである。
「楯の会」を作って、その活動を通じて世論に刺激を与える、というところまでは知識人の行為として許されると思うが、最後の行為に至っては、完全に知識人を裏切る行為である。
他人を殺したわけではないから、という同情は許されないと思う。
このことは戦後の日本ではノブレス・オブリッジというものが喪失したと言うことだと思う。 
三島は現実逃避したのか?
ノブレス・オブリッジ、日本語で言えば、地位の高い人の社会的義務とでも言うのであろうか。
昔の階級制度の存在を前提とした意識である事は論を待たないが、基本的には、人間は地位を得、身分が高くなり、金持ちになれば、大衆の見本となるべき生き方を選択すべきだ、という事だと思う。
貧乏人が高等教育を受け、その教育でもって立身出世をはたして、高い地位を得、功なり名を上げたならば、その社会的地位にふさわしい生き方をしなさい、という事だと思う。
ところが生い立ちが貧乏人なものだから、その貧乏人根性というものがいくら立身出世をしても拭い去れないわけである。
日本の戦後という時期、つまり1945年以降の日本というのは、戦争で無一文になり、価値観は全く逆転してしまったが故に、逆に経済活動においては自由闊達に出来たわけで、そういう時代に高等教育を受けた世代というのは、ところてん式に功なり名を上げる事が出来たわけである。
それは終戦で価値観が逆転した中にも、旧来の悪しき伝統が居残った部分があったからである。
新しい価値観と古い価値観の狭間で、革新を望みつつ、行動力を発揮せずに、じっと我慢をしていた人たち、いわゆる無気力というか、人が革新するのをじっと見ていた人、つまり自分は手を汚さず、人が改革をした果実だけを享受しようとした人たちというのは、名実共に結果だけを得たわけである。
それは年功序列というシステムであった。
このベルト・コンベアに乗っかった人というのは、まさに労せずに戦後の復興期という上潮に便乗した人々である。
そのどさくさに高等教育という通行手形を手にした人達は、労せずに立身出世ができたわけで、こういう人達というのは、このノーブル・オブリッジという意識が身につかなかったわけで、乞食根性丸出しの生涯を送っていたわけである。
戦後の経済事犯というのは全てこういう人たちがしているわけで、経済事犯とまでは行かなくても、あのバブル崩壊というのは、日本全国が良識とか、良心とか、倫理というものを失ったから起きたわけである。
あれは全て日本の、それも戦後の日本の、高等教育を受けた世代の生き様の結果である。
銀行の不良債権のことを考えて見よう。
銀行が不良債権を抱えるということは、既に銀行としての本質を見失い、機能を喪失しているわけで、その銀行は学歴のない人間が運営しているであろうか。
日本の最高学府を出た人が運営しているわけで、日本の最高学府を出た人が、何十人、何百人と集まって、それも銀行の営業を何年も経験した人が寄り集って不良債権を出しつづけたわけである。
こんな馬鹿な話があるものかといいたい。
日本の高等教育というのは一体どうなっているのかと問いただしたい。
三島由紀夫はああいう行為をすることで、この失われたノーブル・オブリッジを世間に思い出させるつもりしれないが、結果は顰蹙を買っただけで終わってしまった。
三島のああいう行為が、世間から受け入れられなかったという事は、ある意味で、日本の民主化の成果でもあるが、それは当時の左翼の対極のあり方であって、考え方は対極であっても、その行動では同一化されてしまっている。
その最大の欠点は暴力の是認という事である。
私は人とは違って、そうそう暴力に非寛容な人間ではない。
時と場合によっては暴力も辞さない、という考え方を秘めている人間であるが、こういう問題を暴力で解決しよう、などという発想は完全に受け入れらない。
三島由紀夫や左翼の過激派が、暴力で事を解決しようというのは、ものを知らないという事だと思う。
政治の変革を求めるのであれば、政治の場でそれをすべきであり、それがものの道理というものである。
戦後の日本では、曲がりなりにも民主主義のもとにおける議会制というものが機能しているわけで、野党が政権を取りたかったら、国民の信頼を得る理念を掲げて、議員を過半数超えるまで獲得する手法を講じなければならない。
戦後、あれだけ日本の社会が革命前夜のような情況を呈していながら、それでも尚自由民主党が過半数を得、最近では連立をしなければならないほどであっても、尚保守系に人気があるということは、完全に国民の選択の結果である。
ならば野党の宣伝は効果がなかったのか、と問えば明らかに野党、旧社会党、社会民主党には魅力がなかったわけである。
その意味で国民の選択は間違ってはいなかったわけである。
三島由紀夫も、あの時点ではこういう観点で日本の政治というものを見れていなかったわけである。
この先10年か20年で日本はこの地球上から消滅してしまうと写ったに違いない。だから慌てて、自衛隊を引き吊り込んででもクーデターを起さねばならない、と思ったに違いない。
ところがドッコイ、自衛隊の方はそんな誘いには乗らなかったわけである。
考えてみると、日本人の政治というのは実に不思議だ。
戦前の2・26事件でも、三島由紀夫の事件でも、日本の政治というのは、クーデターではひっくりかえることがないわけである。
2・26事件などは、時の政府の要人を殺してしまっても、その場では一向に政治に影響が出た節はない。
三島由紀夫の時には微動だにしなかった。
しかし2・26事件は、日本が奈落の底に転がり落ちる遠因にはなっている。
あの事件があったが故に、日本の戦前の民主主義というものは、自らを終焉の方向に導いていったわけで、民主主義が尻すぼみになって代わりに台頭してきたのが、軍国主義であった。
これも不思議な事に、日本人の選択であったわけで、犯人を特定する事は多分不可能であろう。
太平洋戦争の開戦の責任者として、東条英機に罪をなすりつける事は安易に出来るが、戦前の日本がアメリカとも戦をしなければならなかった真の原因は、東条秀樹の存在とは無関係なところにあるような気がしてならない。
我々は、民主主義というものを受け入れる前に、自らの民族の生き様として独特の考え方を持っていたのではないかと思う。
「和を以って尊しとす」ということは、ある種の集団指導制のようなもので、一人の独裁者が、上からの上意下達で命令を下すものではない。
皆で、わいわいがやがやと会議をして、結論が出たのか出ないのかわからないのに、何となく事が流れ、月日が流れ、解決したのかしないのか分からないうちの終わってしまうというのが我々の政治の特長であろうと思う。
戦後の政治にもそれがあるわけで、我々は「民主主義で行く」といっておきなら、その一方で「少数意見も尊重しなければいけない」などと訳のわからない事を言っている。
少数意見を尊重していたら民主主義が死滅してしまうという事がわかっていない。民主主義というのは少数意見を切り捨てるということが前提になっているわけで、それを一番明確に文書化しているのは他ならぬ日本共産党の綱領である。
民主主義を声高に叫びながら、その片一方では民主主義をぶち壊すような事を平気で言っているわけである。
それが同時に起きれば、事の解決はおぼつかないわけで、事が解決しないまま時が流れ、時の流れと共に問題は変質してしまって、終わったのか終わらないのか、解決したのかしなかったのか、新しい問題の提起となるわけである。
これが我々の政治ではなかったかと思う。
ところが戦争というのは相手があるわけで、相手は待っててくれないわけである。即断即決が迫られるわけである。
こうなると我々は実に意気地ないわけで、あっさりと敗北するわけである。
敗北した後の復興という場面になると、ある意味で、時間はたっぷりとあるわけで、皆が首を揃えて鳩首会談をしながら、ああでもないこうでもないと議論しつつ、時間稼ぎが出来たわけである。
その中でも占領政策というのはアメリカからの押し付けで、これは時間稼ぎしている暇がない。
そういう環境の中で押し付けられたのが例の日本国憲法である。
日本国憲法というのは、アメリカ占領軍としてのマッカアサー元帥の個人的な願望の具現化であったわけで、アメリカが敗戦国に憲法を押し付けるということは、連合国側でも問題視されそうになったものだから、アメリカはさも日本が自主的に作ったように外見を繕ったわけである。
押し付けた側のアメリカも、日本国民が自主権を回復した時点で、当然、それは改正するに違いない、だからそれまでの暫定的なものと捉えていたわけである。
それを日本人の進歩的といわれる知識人は、「こんな素晴らしい憲法は又とないから変える必要はさらさらない」、と言うものだから国論が二分化してしまったわけである。
三島由紀夫が何処まで民族主義に被れていたかは知らないが、少なくとも民族の誇りをもった者ならば、アメリカ占領軍の押し付け憲法で満足するわけにはいかない。これを押し付けと感じないものの気が知れない。
少しこの時代の社会の動きを見れば、明らかに押し付けであるにも関わらず、最近に至っても、あれは自主的に日本人が案を練ったものだ、という論考を展開している識者が現れた。
確かに、民族の誇りで人は生きてはいけない。
奴隷になって、民族の誇りをかなぐり捨て、大国の僕として生きていくだけならば憲法など触らなくても生きていける。
ならば僕に徹しきれるかといえば、そういう場合には国の指導者のリーダーシップを問題にするわけである。
「政治家のリーダー・シップがなっていない」からと、問題の本質を他人に転嫁するわけである。
これが日本の識者の2枚舌なる所以である。
傍観者として、人の事には常に批判の刃を向け、自分に降りかかってくる災禍は全て人の所為にするわけである。
これが日本の識者達の共通認識である。
ノブレス・オブリッジの現実である。
それは同時に戦後の教育の成果でもあり、民主化の成果でもあり、大学で左翼の教授達が若者を善導した結果である。
三島由紀夫はそういう現実に我慢ならなかったに違いない。 
 
三島由紀夫の「辞世」

 

三島由紀夫氏は次の「辞世」を遺された。
「益荒男がたばさむ太刀の鞘鳴りに幾とせ耐へて今日の初霜」
直訳させていただくと、「日本男児が腰に差している太刀の刀が鞘に合はないために持ち歩くと音がすることに幾年も耐へてきたが今日初霜が降りた」といふ意。
しかし、「鞘鳴り」は、単に音がするといふ物理的な意味ではない。日本には古代から刀には魂(多くの場合蛇・雷の靈、須佐之男命の八岐大蛇退治の神話がある)が宿ってゐるといふ信仰があった。鞘が鳴るといふのはその刀剣に宿っている靈が発動するといふ意味である。
太刀のみならず、日本における矛・弓などの武器は、鎮魂の祭具であり神事的意味を持つ。八千矛神(多くの矛を持つ神)は武神であると共に呪術的機能を持った神であった。弓は弦を鳴らして鎮魂する。
「太刀」は、「断つ」「立つ」と動詞の名詞形が語源である。「太刀」の神霊が発動して、一切の罪穢れ・邪悪を絶つのである。それが「太刀」の本質である。
三島由紀夫氏は、太刀の靈力が発動するのを何年間も耐へたといふことを歌はれたのである。『檄文』にあるところの「我々は四年待った。最後の一年は熱烈に待った。もう待てぬ。自ら冒涜する者を待つわけには行かぬ」といふ叫びに呼応する歌なのである。
「今日の初霜」といふ季節感のある言葉を用いて志を述べるのは、まさに日本文藝・敷島の道の道統を正しく継承してゐる。 
憂国
三島由紀夫は、人によって好き嫌いがはっきりと別れる作家だと思うのだが、佐高も西部も苦手だといっている。嫌いではないのだが好きでもない、苦手だというのだ。苦手とはどういうことかいまいち判然しないが、要するにかかわりになりたくないということだろう。三島を材料にして何かいうと、変な方向から余計なリアクションが返ってくる。それをまともに相手にしていると非常に疲れる。だから触らぬ神に祟りなし、という態度をとりたくなるらしい。
この二人の対談はどちらかというと、自分たちの好き嫌いの感情をものごとの判断の基準にして喋り捲っているところがあるので、このように苦手な人間を相手にものをいうというのは、なかなかやりにくかっただろう。実際、三島を語るときの彼らの語り口には、何を言いたいのか判然しないところがある。
そんな中で、三島の鬱屈した行動を説明する一つの手がかりとして、三島が戦争に行かなかったという事実を、佐高が持ち出しているところが気になった。佐高はこのことを、城山三郎の発言から引っ張り出してきているのだが。たしかに三島は大正14年の早生まれで、普通なら戦争に行っていなければならなかった立場にあった。それを逃れたのは、高級官僚だった父親の差し金らしいが、三島はこのことを、自分の生涯の汚点として、気に病んでいたのではないか。彼の行動の異常なところは、この兵役逃れのコンプレックスから説明できるのではないか、といいたげなのである。
また、三島は国家を云々するのが非常に好きな男だったが、普通の右翼とは違って、愛国という言葉を使うのを嫌った。三島はその代わりに憂国という言葉を使った。憂国とは国を憂えるということである。
このことの背景にも、三島の兵役逃れへの自責が絡んでいるのではないか。二人はそのことをあからさまに語ってはいないが、行間からはそれが伝わってくる。三島は普通の若者のように国を愛することができなかった。本当に国を愛していたら、たとえ父親の差し金があったとしても、自分の意思で兵隊になっていただろう。国を愛すること切であった城山三郎少年の如きは、自分から志願して少年兵になったわけだから。
そこで、愛国という代わりに憂国ということになった。愛国とは人ないしその他の対象を心霊こめて愛することだ。愛する者と愛される者とは一体の関係にある。愛する者のためには自分の命を捧げてもよい。愛こそが自分の存在根拠なのだ。
ところが国を憂えるということには、そのような一体感は必要ない。外的な視点からでも、いくらでも憂えることはできるのだ。
しかし、三島は最後には、国のためといって自分で自分の命を奪った。やはり外的な視点から国を憂えていることに泰然自若としていられなくなって、国と一体化したいと希うようになったからではないか。それもやはり、兵役逃れのコンプレックスが働いた結果だといえなくもない。 
天皇観
先日、西部邁と佐高信が対談の中で三島由紀夫を語ったことについて、このブログで取り上げた際には、三島の憂国ということをテーマにしたわけだが、この対談にはもうひとつ面白いテーマがあった。それは三島の天皇観とでもいうべきものだ。三島は、天皇の人間宣言をひどくショッキングに受け止めたらしく、「などて天皇(すめろぎ)は人間(ひと)となりたまひし」という言葉を発したが、それは三島が天皇について誤解していたあらわれだと西部が言ったことに、筆者は聊かの関心を覚えたのだった。
西部は、三島がこういうわけは、彼が天皇を神だと考えていたからだとした上で、三島のその認識は誤っているというのだ。西部の考えるところでは、天皇というものは神ではない。神をまつる神職の最たるもの、つまり神主の親玉に過ぎない。そんな天皇を神と勘違いしたからこそ、三島はその神に命を捧げることもできたのだろうが、もしそうなら、三島の死は無駄死にだったといわざるをえない。こんな趣旨のことを、明確な言葉としてはあらわしていないにしても、西部は言っているように、筆者には聞こえたのである。
西部は、同じ右翼でも、天皇原理主義的な右翼ではない。むしろ、天皇に対しては距離を置いているように見える。だから、このような発言が出て来るのだろう。
たしかに天皇は、もともと神を僭称していたわけではない。記紀神話の中でこそ、天皇家は天孫の末裔だというようなことを言っているが、それは神話の中だけの話で、実際のまつりごとにおいては、天智天皇の時代はともかく、その後の天皇の時代においては、天皇みずからが神と名乗ったことは一度もない。
天皇が神を僭称する、あるいは人々が天皇を神に祭り上げる、そういうことが起こったのは明治維新以降のことであり、天皇の神格化が庶民の間にも当然のこととして浸透したのは、日本が世界を相手に戦争するようになって以降のことである。
戦争とは、当然のことながら、国民を徴兵して、彼らを戦場に駆り立てることを前提とする。普通の国民を戦争に駆り立て、彼らを、死を恐れず戦うように仕向けるには、それ相応のモチベーションが要る。人間というものは、余程のモチベーションが無ければ、自分の命をかけてまで戦う気にはならないものだ。
そのモチベーションとして、明治以降の軍国主義者たちが注目したのが天皇の神通力ともいえる力だ。その神通力を以てすれば、一般国民に天皇を神と思わせ、天皇のためには喜んで命を捧げる、そのようなモチベーションを確立することができる。当時の軍国主義者たちが、そう考えたのには相応の理由があったと言わざるを得ない。
兵士たちが天皇陛下万歳と言いながら死んでいったことの背景には、天皇を神だとする一般庶民の素朴な信仰があり、その信仰が兵士たちを奮い立たせて戦場に赴かせた、そしてそれを巧妙に仕組んだのは、明治以降の軍国主義者たちだった、ということは十分に言えることなのだ。
戦前の戦意高揚映画を見ると、「子どもは天子様からの授かりものだから、天子様にお返しするのは当たり前のこと」というような言い方がよく出てくる。これは、天皇を神として位置付け、自分の子どもをその神の授かりものだとする考え方であって、徴兵制度を、人々の意識の底から支えるような考え方であったわけだ。こうした考え方が一般庶民の間にも浸透していたからこそ、子どもや夫を戦場に送り出した人々は、その死を自分自身のみのこととしてではなく、国家公の必要事として、受け止めることができたのであろう。
だが、これは虚構だ、と西部はいうわけだろう。その虚構に三島は囚われていた。天皇は、三島が考えていたような神ではなく、ただの神主だった。そのただの神主である天皇を、三島も、また戦前の庶民も、神としてあがめた。ところがその神という言葉は、中身のない空虚な呪文のようなものだった。
だとすれば、戦争で子どもや夫を天皇の名のもとに失った人々は、自分を慰めるべき支えを持たない。まして三島の天皇崇拝には確固とした根拠はない。そう西部はいうわけだろう。
しかし、なぜ三島ともあろうものが、このような錯誤にはまってしまったのか。それについて、西部は言及することを避けている。それは、西部が三島を心から愛していることのあらわれなのだろう。 
 
三島由紀夫考

 

はじめに
老子を読んでいると、三島由紀夫が反面教師として浮かんでくる。
老子はエネルギーをシフトダウンして、ゆっくり生きようと提唱しているのに、三島はエネルギーをトップのところまでシフトアップして、全速で突っ走る生き方をしたからだ。
老子を開けば、、次のような章句が並んでいる。
木強ければ折る
物壮なれば老ゆ
善く士たるものは武ならず
鍛えてこれを鋭くすれば、長く保つべからず
いずれも三島に対する警告の言葉みたいではないか。だが、反老子的な生き方をしたお陰で、彼の周辺が活気に満ちていたことは間違いない。社交上手だった彼の家には、海外からも客が押し寄せ三島との歓談を楽しんだ。彼の生き方が、そうした千客万来の賑やかな日常を生んだのである。
私はこれから三島由紀夫の生涯を概観するけれども、こちらは何しろ生来の老子愛好家だから、以下の拙文が三島ファンの逆鱗に触れるだろうことはほぼ確実である。 
討ち入り
三島由紀夫が自衛隊員の決起を促すために市ヶ谷自衛隊総監部に乗り込んだのは、昭和45年11月25日であった。
それまでに三島はかなり入念な準備を積んでいたように見える。市ヶ谷に同行した「楯の会」の学生らの選定をその年の4月中に済ませているから、少なくとも決行の半年前には具体的な準備に入っていたのである。
6月13日には、同行する学生たちと計画の具体的な内容を決めている。市ヶ谷駐屯地に赴いて東部方面総監を人質にした上で、自衛隊員の決起を促し、国会を占拠するという計画である。その後も彼らは頻繁に顔を合わせて計画に手直しを加え、11月25日の決行の日に至っている。
しかし、それにしては決行当日の彼らの行動はあまりにもお粗末だった。猪瀬直樹の「ペルソナ(三島由紀夫伝)」、ヘンリー・スコット=ストークスの「三島由紀夫 死と真実」などに依拠しながら、当日の状況を再現してみよう。
総監室に乗り込んで益田兼利陸将を縛り上げるところまでは計画通りに進んだ。だが、廊下から総監室に入るドアをバリケードを築いて封鎖したものの、隣りの部屋に通じるドアを閉鎖することを怠ったため、ここから幕僚らの突入を招いてしまう。三島はこのとき、日本刀を振るって獅子奮迅の働きを見せ、何人もの幕僚に斬りつけて重傷を負わせている。
自衛官らをバルコニー前に集結させることにも成功した。だが、ここにも誤算があった。この日、900人の精鋭部隊は富士演習場に出かけていて留守で、残っていたのは通信・資材・補給などの実戦とは縁のない留守部隊だった。
集まった自衛官の前に、同行した学生がバルコニーから垂れ幕を巻きおろした。しかし白地の布に書き連ねたアピールの檄文は、細字で書かれていて隊員たちには読みとれない。ここは、太字でスローガンだけを箇条書きにしておくべきだったのである。
続いて学生の手でビラが撒かれた。だが、束のまま放り投げられたから、ビラは固まったままドスンと地に落ち、自衛官の手にほとんど渡ることなく終わった。もし全員の手にビラが渡ったとしても、あまり効果はなかったちがいない。今読んでみても、檄文には三島らしい華がないのだ。
やがて、三島がバルコニーに登場する。
このころになると事件を聞きつけたテレビ局などのヘリコプターが上空を旋回し、騒然とした雰囲気になった。これでは集結した全員のところまで三島の声は届かない。自衛官への演説を1時間近く予定していながら、彼らはマイクを手配することをしなかったのである。自衛官たちは私語を始め、三島を野次り、演説に耳を傾けるものはなかった。
苛立った三島は、「静聴しろ、静聴ツ」とか、「静聴せい、静聴せい、静かにしろ」と叫ぶ。しかし聴衆からは、「聞こえねえぞ」「ばかやろう」「下へ降りてきてしゃべれ」という罵声が返ってくるばかりだった。
三島は、最後に蒼白になって訴えた。
「諸君の中には一人でも俺と一緒に起つやつはいないのか」
三島は10秒ほど待った。
「一人もいないんだな。よし、俺は死ぬんだ。憲法改正のために起ち上がらないという見極めがついた。自衛隊に対する夢はなくなったんだ。(ゆったりした口調で)それではここで天皇陛下万歳を叫ぶ。(皇居に向かい正座し)天皇陛下万歳、万歳、万歳」
バルコニーから総監室に戻った三島は、誰にともなく「仕方がなかったんだ」とつぶやいて、切腹の準備を始めた。
上着を脱いで上半身裸になった彼は、「やあっ」と廊下にまで届く凄まじい気合いを入れて、短刀を臍の下4センチのところに突き刺した。
介錯を命じられていた森田必勝は、次に自分が切腹することになっていたから動揺していた。振り下ろした刀は三島の肩を切り裂いただけだった。二回目も失敗した。森田は最後の力を振り絞って三回目の刀を振り下ろしたが、やはり三島の首を切り落とすことはできなかった。
「浩ちゃん、代わってくれ」
森田の差し出した刀を剣道の心得がある古賀浩靖が受け取って、一刀のもとに三島の首を切断した。こうして「天才作家」三島由紀夫は45年の生涯を終えたのだった。まさに壮絶な死であった。 
臆病者
壮烈な死を遂げた三島は、日頃「尚武の精神」とか「文武両道」を強調していたが、さほど勇気のある男ではなかった。彼が金箔付きの臆病者だったという証言がたくさんあるのである。
三島由紀夫は、林房雄との対談で学生時代に書いた遺書について大いに弁じている。昭和20年2月15日、軍隊への入隊命令を受けた時に彼が書き残した遺書は、以下のような文面になっている。
 遺書 平岡公威
一、御父上様 御母上様 恩師清水先生ハジメ學習院並二東京帝國大學在學中薫陶ヲ受ケタル諸先生方ノ御鴻恩ヲ謝シ奉ル
一、學習院同級及諸先輩ノ友情マタ忘ジ難キモノ有リ諸子ノ光榮アル前途ヲ祈ルー
一、妹美津子、弟千之ハ兄ニ代リ御父上、御母上二孝養ヲ尽シ 殊二千之ハ兄二続キ一日モ早ク皇軍ノ貔貅(ひきゅう)トナリ皇恩ノ万一二報ゼヨ
 天皇陛下萬歳
末尾を「天皇陛下萬歳」で結んだこの遺書に関連して、三島は次のように語るのだ。
「それにしても、『天皇陛下万歳』と遺書に書いておかしくない時代が、またくるでしょうかね。もう二度と来るにしろ、来ないにしろ、僕はそう書いておかしくない時代に、一度は生きていたのだ、ということを、何だか、おそろしい幸福感で思い出すんです。いったいあの経験は何だったんでしょうね。あの幸福感はいったい何だったんだろうか。僕は少なくとも、戦争時代ほど自由だったことは、その後一度もありません」
三島のこの言葉に嘘はないかもしれない。実際、戦争中の彼は天皇のため、皇国のために、命を捨てる覚悟でいたのである。
しかし、三島は入隊前の身体検査で軍医が「この中に肺の既往症がある者は手を挙げろ」と言ったときに、サッと手を挙げるのだ。彼は嘘をついて兵役を逃れた「入隊拒否者」だったのである。
この時の自身の振る舞いについて、彼は「仮面の告白」に次のように書いている。
「何だって私はあのようにむきになって軍医に嘘をついたのか?何だって私は微熱がここ半年つづいていると言ったり、肩が凝って仕方がないと言ったり、血痰が出ると言ったり、現にゆうべも寝汗がびっしょり出たと言ったりしたのか?」
必死になって嘘をついたお陰で彼は、入隊を免除され帰宅を許された。
検査場の門を出るやいなや、三島は付き添ってきた父親と一緒に脱兎のごとく逃げ出した。「さっきの決定は取り消しだ」と言われはすまいかと、父親の表現によれば「逃げ足の早さでは脱獄囚にも劣らぬ」勢いで、一目散に駆けだしたのだ。
三島の恐怖症については、空襲警報が鳴り出すと真っ先に防空壕に逃げ込んだというような逸話があるし、あれほど作品の中で海を美しく書いた三島が、家族で海岸に出かけても海が怖くて泳ごうとしなかったという話にも現れている(夫人の談話)。
だが、こうした弱さは誰にもあることである。だから、あまり詮索しないとしても、彼の「蟹」恐怖の激しさには、やや異様なものを感じる。三島は料亭の出す膳に蟹があると、恐怖のあまり顔色を変えたというし、蟹という文字さえ嫌悪したというから、症状は半端ではなかった。
「からっ風野郎」という映画に出演したときの挿話にも、引っかかるものを感じる。彼はこの時の映画監督(増村保造?)をひどく怖がって、撮影所長以下のお歴々に泣きつき、彼らに立ち会ってもらって最後の場面の撮影を完了したというのだ。
恐怖に駆られて子供が親にすがるように、本能的に撮影所長にすがる。世俗的な権威にすがる代わりに、日本刀にすがる場合もあった。
明敏な頭脳を持っていた三島は、対談・討論などで誰を相手にしてもひけを取らなかった。だが、唯一の例外が新左翼系のいいだ・ももで、彼と対談するときには日本刀持参で席に臨んだという。そして形勢が不利になると、話の途中で相手の頭上で白刃をぶんぶん振り回した。何時でも優位に立っていないと不安になる三島は、こんな子供っぽいやりかたで頽勢を挽回しようとしたのである。
特に勇敢とはいえなかった三島が、市ヶ谷の総監室で見事に腹を切り得たのはなぜだろう。当時の新聞報道によると、一緒に死んだ森田には「ためらい傷」があったが、三島にはそれがなかったという。彼のこの果敢さは、何時いかにして生まれてきたか、それを探ることがこの文章の主たる目的である。 
生育環境
彼の気の弱さ、そして大人になっても抜けない幼児的な恐怖への過剰反応を生んだのは、特異な生育環境だった。人が臆病になるのも、粗暴になるのも、幼児期の生育環境の結果であり、本人の責任とはいえない。三島の場合は特にそうなのである。
三島は生後49日目に両親から引き離されて、祖母の手元に移された。その頃、彼の両親は祖父母と同居して二階に暮らしており、祖父母は階下にいたから、赤ん坊の三島は二階から階下に移されたのだ。母の倭文重が息子に会えるのは、日に数回の授乳の時だけだった。
祖母の夏子は、独裁者として家の中に君臨していた。彼女は樺太庁長官まで勤めた夫を憎み蔑んで尻の下に敷き、息子夫婦を頭から押さえつけて一言も文句を言わせなかった。家族全員が腫れ物にさわるように祖母に接したのは、彼女が夫から性病をうつされてやや精神に異常を来していたからであり、座骨神経痛に悩まされて騒音に過敏に反応したからだった。
三島は、老いの臭いと病臭のこもる祖母の部屋で、12年間を過ごしたのである。三島が自家中毒で死にかけるという出来事もあって、祖母は何より孫の病気や怪我を恐れた。留守中に三島が階段から落ちて怪我をしたと知らされたときに発した祖母の言葉は、「死んだのかい」だった。
祖母は三島が「危ないこと」をするのを恐れ、外出を禁じた。そして年上の女の子3人を友だちとしてあてがい、おはじきや折り紙で遊ばせた。
小学校に上がるようになると、帰宅した三島は祖母の用意しておいたオヤツを食べ、彼女の枕元で勉強する。祖母は事故を恐れて学校行事の遠足にも三島を参加させなかった。そして三島に家門の誇りと、貴族趣味を教え込んだ。
夏子の祖父は若年寄にも取り立てられた名門旗本永井玄蕃頭であり、彼女は皇族の有栖川宮熾仁邸に12歳から17歳までの5年間、行儀見習いのため住み込んでいたのである。
三島は物心ついたときから、祖母の命じることにはどんなことでも従った。彼は、幼い囚人だった。しかし、注目すべき点は、三島がこうした状況を決して嫌ってはいなかったことである。彼は成人してからも病臭の籠もる祖母の部屋を懐かしんで「私の内部のどこかがまだ暗い病室の枕元のほうが好きだったのだ」と書いている。
三島のあとに生まれた妹と弟は、両親と一緒に二階で暮らしている。そのことを不満に思うより、家の中の絶対的権力者である祖母に自分だけが選ばれ、特別に庇護されていることを喜ぶ気持の方が強かったのだ。生まれつきひ弱で、学校に通うようになってからは「あおじろ」とあだ名されるような三島は、支配される不満を感じる前に、庇護される特権を誇らしく感じたのである。
三島が数えで13歳になったとき、祖父が「いくらなんでも中学生ともなれば、他の弟妹と離しておく訳にはいかないだろう」と夏子を説得してくれたおかげで、彼は両親と一緒に暮らせるようになった。両親は三島を引き取ることになったのを機に、祖父母とは別の借家に移り住むことになる。
祖母の支配から脱したと思ったら、三島は今度は父親の圧制下でくらすことになった。三島の父は農林省の役人だったが、文学に興味を示し始めた息子が気に入らず、三島が小説本を読んでいると、それを取り上げて床に叩きつけたり、書きかけの原稿を引き裂いてゴミ箱に捨てたりした。三島が可愛がっていた猫を捨ててしまうかと思えば、悪戯をした息子を木刀を持ち出して折檻しようとした。
三島の父は、息子に厳しい態度で臨んだ理由を「抵抗が人間を育てるんだ。そのために僕は、倅にきびしく当たってきた」と弁明している。
こうしたときに、三島を庇ってくれたのが母親の倭文重だった。彼女は息子が詩に関心を持ち始めたと知ると、三島を連れて詩人の川路柳虹宅を訪ね、息子の指導を頼んでいる。川路は華麗な作品を作る詩人で、私には三島の人工的で壮麗な文体は、川路の影響を受けているように思われる。
三島は自分を庇護してくれる母を他のいかなる人間よりも愛していた。
猪瀬本には、友人の見聞として、20代の三島に関わるこんな話が載っている。ある時、友人が三島を訪ねていったら、倭文重が「ちょっと足が痛くて」と言った。すると、三島が「お母ちゃま、どこ、どこ?」と人目もはばからず、一心に母の足をさすり始めたので、目のやり場に困ったというのである。
同じ頃に、三島は二人の女性に求婚したが、実らなかった。
その理由を娘の一人は、「あれほど濃密な母と息子の関係を見せられると、とても入り込んでいけないと思われたから」と語っている。
三島を庇護してくれたのは、祖母や母ばかりではなかった。
学習院中等科に通うようになった三島は、同学年の友人よりも年長の先輩や教師との交渉を深め、彼らの手厚い庇護を受けている。
最初につきあった年長の先輩は、8歳年長の坊城という上級生だった。当時高等科3年だった坊城は、中等科1年の三島が校友会誌に発表した作品を読んで感心し、彼の方から交際を求めてきたのだ。そして二人は毎日のように長い手紙を交換するようになった。坊城の次に親しくなった東文彦も、5歳年長の先輩である。
三島の早熟の才能に目をつけたのは、先輩ばかりではなかった。
国語教師の清水文雄と、その後任の蓮田善明は、三島を高く評価し、その作品を自分たちの関係している同人誌に紹介する労を取っている。高等科に入ってからはドイツ語教師新関良三にも目をかけられた。
清水と蓮田は「日本浪漫派」系の教師だったから、三島もその影響下に保田与重郎などの作品を耽読するようになった。日本浪漫派系の詩人や作家たちは、あの破滅的な太平洋戦争のさなかに、競うようにして死と滅びの美しさを歌い上げていた。
三島と同じく戦中派の私は、日本浪漫派に心酔している友人を何人か知っているけれども、そのうちの一人が「これはいいなあ」と、まるで夢見るような表情で賞賛した保田与重郎の作品を思い出す。それは、ビルマ戦線かどこかで、友軍とはぐれてしまった兵士が象にまたがって森の奥から戻ってきた話をメルヘン風に描いた作品だった。
戦争末期の青年たちは、日本浪漫派を読むことによって間近に迫った死を一種の恍惚状態のうちに待ち望んでいた。それは蛇を前にした蛙が、麻痺したようになって赤い口の中に呑み込まれて行くのに似ていた。
あれだけ聡明な三島が、さほど優れているとも思われない国語教師に惹かれ、その導きのままに日本浪漫派に傾倒ししていったのは、庇護してくれるものに随順するという物心ついた頃からの習性による。
三島は学習院高等科を首席で卒業し、天皇から恩賜の銀時計を貰っている。
後年の天皇主義は、こんな所に根を持っているのかも知れない。天皇主義者になってから、彼は天皇みずから自衛隊の各部隊に連隊旗を手渡せ、と提言している。そうすれば、天皇と隊員を結ぶ感情的な靱帯は、一層強くなるというのだ。
彼が学習院を首席で卒業したことは、彼がペン習字の手本のような文字を書いていることと並んで興味深い。祖母や母を喜ばせ、目をかけてくれる教師たちの期待に応えようとすれば、どうしても世俗の側に立ち優等生という勲章を目指して努力しなければならない。すれっからしに見える三島の内部には、庇護者に純情を捧げる熱いロイヤリティーが潜んでいた。三島には、目をかけてくれる上長の人間への臣従癖があるのだ。
彼は川端康成の紹介で文壇に登場し、「盗賊」を出版したときに川端康成から序文を書いて貰った。この序文を保管する封筒に、三島は「川端康成氏から賜はりたる序文」と記している。 
夢想
少年期の三島は、門の外に出ることを許されず、危ないことは一切禁じられ、祖母の病室に幽閉されていた。並の少年なら、このまま温和な人間になったかもしれない。しかし三島は想像力を駆使して外の世界に逃れ出て、そこで祖母から禁じられている危険なアヴァンチュールを楽しむ能力を持っていた。
彼は空想の中で勇士になり英雄になって、決死の冒険に挑戦する。が、その果てに勝利の栄光が待っているのではなく、悲劇的な死の待っている点が、大方の夢物語と違っていた。5歳で読み書きができるようになった三島は、手にはいる限りのお伽噺を読んだ。だが、彼は、王女たちをどうしても好きになれず、殺される王子や死ぬ運命にある王子に興味を覚え、「殺される若者たちを凡て愛した」のだった。
祖母は三島が事故死することを恐れていたから、彼は逆に自分が殺されたり、戦死したりする場面に刺激を感じるようになった。祖母が家系を誇り、宮家で過ごした過去を語り草にしたから、彼は無知で粗野な糞尿汲取人を愛したのだ。
(「仮面の告白」では、彼が糞尿汲取人に惹かれた理由を同性愛の嗜好があったからだと説明している。諸般の事情から見て、三島がホモだったという伝説は甚だ疑わしい。彼は文学的な戦略上、自分を同性愛者であるかのように見せかけたのだ)
子供の頃、死にからまる耽美的な空想にふけっていた三島は、祖母の手を離れて両親と暮らすようになると、空想の対象を変化させはじめた。両親が安全を旨とする小市民的な生活を送っていたので、三島は平穏な生活を覆すような凶事を待望するようになったのである。大抵の三島論は、15歳の三島が作った「凶ごと」という詩を引用している。
わたくしは夕な夕な
窓に立ち椿事を待った
凶変のどう猛な砂塵が
夜の虹のように町並みの
むこうからおしよせてくるのを
凶事を待望し、悲劇的な死を願っていた少年が、さらに成長して学習院高等科に進む頃になれば、二・二六事件の青年将校たちに関心を持つようになるのは自然なことだった。なぜか戦時下の東京には、血盟団、五・一五事件、二・二六事件などに関する本が大ぴらに売られていたのである。
重要なことは、三島が処刑された青年将校たちの心情に目を向けたことだった。日本浪漫派の洗礼を受けて、「高貴な魂は卑俗な現実の前に滅びて行かざるを得ない」と考えていた彼は、その「高貴な魂」を青年将校たちの上に見たのである。
どのような戦争にも、人間を純化する側面があるものだ。
戦争中に「農耕隊」に編成された農学校生徒の話を聞いたことがある。彼らは松林の中の寮に泊まり込んで、食糧増産のために毎日、あちこちの空き地を耕して回ったのだが、国のため天皇のために働いていると思うと空腹も疲労も全然気にならなかった。
毎朝、戸外で洗面していると、松林の向こうから朝日が射してくる。その朝日が清らかな霊気を含んで輝いていた。それは、この世ならぬ光に見えた・・・・。
この農学校生徒に限らず、個を越えた大きなもののために生きようと思ったときに、人はこれまで知らなかったような浄福に包まれる。三島も、天皇のために兵を起こし、その天皇の命令で逆賊として処刑された青年将校の運命に自分を重ね合わせたときに、怒りとも悲しみともつかない深い激情のとりこになったのだ。
彼がそれまでに知っていた死は、自傷行為としての死であり、耽美的な死だったが、青年将校たちの死は、自分一個のためではなく、他のなにものかのために身を捧げ、酬われることなく終わった死だった。 
芸術至上主義
三島は学習院高等科時代から、世に出るために人一倍努力を重ねている。
国語教師の清水・蓮田を介して文壇人や編集者への接近をはかり、大学に入ってからは勤労動員先の工場が休みになるたびに作家訪問を試みている。お陰で、「花ざかりの森」の出版にこぎつけはしたが、功を焦る三島の行動は関係者にあまりいい印象を与えていない。
詩の師匠だった川路柳虹は、三島のことを「あれは早熟でも天才でもない。ただの変態だ」と冷評していたし、つてを頼って作品を読んで貰った志賀直哉(志賀の娘は三島の学友)からは、「平岡(三島の本名は平岡公威)の小説は夢だ。現実がない。あれは駄目だ」とにべもなく一蹴されている。
詩人の伊東静雄は、「花ざかりの森」の序文を何度頼まれれても、書こうとしなかった。それでもあきらめず三島は伊東の自宅まで押し掛けて頼み込んだが、伊東はやはり断っている。彼はその日の日記に、三島のことを「夕食を出す。俗人」と書き、その後、また三島が手紙で序文を頼んで来た日の日記には、「平岡から手紙。面白くない。背のびした無理な文章」と記している。
当時、「文芸」の編集者をしていた野田宇太郎は、三島が持ち込んだ原稿を読んでその才能を認めたが、「岬にての物語」には感心しなかった。達者な文壇小説にすぎないという印象を受けたからだった。
野田が「君は一体文壇の流行作家になりたいのか?」と問いただすと、三島は平然と「有名な流行作家になりたいです」と答えて、以後野田から遠ざかってしまった。野田は「もう私の利用価値もそこが見えたのだろう」と推測し、「私は小賢しい三島という男がいやになった」と書いている。
努力の甲斐があって、戦後、川端康成の紹介で三島の作品が「人間」に作品が掲載されることになった。三島にはジュリアン・ソレルの面影があると感じていた「人間」の編集者は、そのころ「光クラブ」の経営に失敗して自殺した学生高利貸しをモデルに作品を書いてみないかと勧めた。彼と三島の間に共通するものを感じたからだった。三島も乗り気になって原稿を書き始めたが、「青の時代」と題名をつけて作品を発表する段になると、掲載誌をアイデアを出してくれた「人間」から、「新潮」に切り替えてしまった。「新潮」の方が大きな雑誌だったからだ。
「人間」の編集者は、(三島はまさにジュリアン・ソレルだな)と思った。
三島は、その後も能力のない人間や、利用価値のない者を冷酷に切り捨ててきた。これは流行作家に共通した行動ともいえるが、三島のように目から鼻へ抜けるような人間のすることだと、こうした点がよけいに目に付くのである。しかし、これらは彼がすぐれた作品を次々に発表しているうちは問題にされることはなかった。こうした性癖は、才能ある作家にはつきものだと大目に見られたのである。
実際、デビュー後の三島の活躍は目覚ましかった。
まるで鶏が卵を生むように易々と短編・長編小説やら、エッセー・作家論を発表する。しかもそのどれもが、水準を抜く出来映えなのである。彼は魔術師のように巧みに言葉を操り、明晰で切れ味鮮やかな文章を書いた。意表をつく構成、あっと驚くどんでん返し、鮮やかな論理展開、どれをとっても水際だっていた。彼を新進作家たちの中においてみると、カラスの群の中に舞い降りた鶴のような感じだった。
三島の成功は、戦後日本の市民的幸福にシニックな冷嘲を浴びせる作品を量産したことにあった。
記憶が定かでないけれども、「日曜日」という短編があったと思う。日曜日だけにデートできる貧しい恋人が、一年先の分まで日曜日の予定をギッシリ立てている。ところが、その二人はデートの帰りに、プラットホームから落ちで電車に轢かれるのだ。そして、この作品は二人の首が線路脇にごろりと転がってしまうところで終わるのである。
丹念に作り上げた予定表も、ちょっとした事故で簡単に崩れ去る。市民的幸福なんて、そんなものだよと三島は言うのである。
「私の修業時代」で、三島は敗戦を恐怖をもって迎えたと書いている。「日常生活」が始まるからだった。彼は、市民的幸福を侮蔑し、日常生活への嫌悪を公然と語り続けた。
「何十戸という同じ形の、同じ小ささの、同じ貧しさの府営住宅の中で、人々が卓袱台に向かって貧しい幸福に生きているのを観て彼女はぞっとする」(「愛の渇き」)
市民的幸福に対する呪詛に近いまでの攻撃は、福祉国家否定へと発展する。三島は週刊誌の質問に答えて、「人間の絶望的状態である完全福祉国家」といい、「福祉国家までいかないと、福祉国家の嫌らしさは分からない」と放言している。
デビュー後の三島の長編小説には、共通の特色がある。
「愛の渇き」のヒロインは、密かに愛していた若者が愛を返してよこしたとき、嫌悪感に襲われて相手を殺してしまう。
「沈める滝」の青年技師は、愛人関係にあった人妻を棄て、女を自殺に追い込んでしまうが、それは不感症だった女が性の喜びを知るようになったからだった。
三島の最高傑作とされる「金閣寺」も、似たような構造をしている。金閣寺を愛していた青年僧は、美が滅びるのは、美そのものよりも美しいと言う理由で金閣寺に放火する。そして美の囚われ人だった彼は、寺を焼き払うことによって初めて自由になり、蘇生する。自由を実感するためには、愛するものを抹殺するしかないという冷酷なまでの自己中心主義。
三島の主人公たちは、愛の完成・美の享受を目指して営々と努力して目的を達する。普通、物語はここで大団円になり、めでたしめでたしで終わるところを、三島はくるりと反転して彼らを奈落の底に突き落とすのだ。そして、その後には歌舞伎にみるような残酷な殺しの場面が続く。彼らは揃って、愛するヨハネの首を欲しがったサロメ的人間なのである。 
芸術至上主義の裏側
市民的な幸福や常識的なモラルをシニックな目で描いた三島は、登場以来、芸術至上主義者と目されていた。だが、彼の実生活は芸術至上主義とは程遠いものだった。というより、彼は自分が作品の中で軽蔑して見せた常識的・世俗的な幸福の中にぬくぬくと安住していたのである。
職業作家になったばかりの頃に、二人の女に求婚して両方から断られるという苦い経験をした三島も、今や、「上流社会」の女性たちからから競って秋波を送られる身になった。
彼は夏には軽井沢に出かけ、ホテルに泊まって原稿を書くほどの身分になったが、執筆のかたわらスタンドプレーも忘れなかった。彼は乗馬クラブに通い、馬を馬場から一般道に進め、避暑にやってくる人々に颯爽たる乗馬姿を披露して見せた。三島の乗馬姿は大いに注目され、その年の新聞・雑誌は彼の英姿で飾られることになった。
軽井沢では、上流の令嬢や夫人によるパーティーが開かれていた。三島はそれらに顔を出して、岸田今日子・兼高かおる・鹿島三枝子・「鏡子の家」のモデルになった人妻などと親しくなった。
やがて彼は歌舞伎の楽屋を訪ねた折りに一緒になった料亭の娘と親しくなり、三日にあげず旅館で逢瀬を重ねるようになる。肉体交渉を伴うこの関係は、数年間続いている。
彼の「世俗的生活」を象徴するのが、ビクトリア朝風の白亜の邸宅だった。
「鏡子の家」の印税を前借りして建てられたというこの家は、欧米人の目には異様に映り、日本人にはグロテスクに見える金ぴか趣味の邸宅だった。家の中には、骨董品を寄せ集めたような得体の知れぬ家具がごたごた並び、ソファには三島が少年時代から大事にしていたお気に入りの人形が置いてあった。
さほど広くない庭の真ん中に「理性に対する軽蔑の象徴」として大理石のアポロ像が据え置かれて、訪問客の目を驚かせた。客の応対に出る女中は、西洋風の白いキャップに白エプロンという格好をしており、食後には客にブランデーと葉巻が出された。三島邸を訪ねた外人記者は、「これほど西洋式を徹底する日本のインテリを見たことがない」と語っている。
三島の所有する「外車」も人目を引いた。彼はアメリカ製の大きな青い自動車を買い込んでいた。とにかく彼は他人と違うことをしていなければ気が済まなかった。「三島由紀夫 死と真実」の著者によると、彼にとっての日常とは、やたらに自分を飾り立て、派手な演技をする舞台に他ならなかった。
三島は、約束の時間を違えず、原稿の締切も厳守するという市民的な美徳の持ち主だったが、同時に金の貸借にも合理的で、友人に貸した金などを厳しく取り立てた。
こうした作品と実生活の乖離はどこから来るのだろうか。
三島由紀夫の基層にあるのは紛うことなき俗物性だった。
彼には祖母直伝の貴族趣味と、両親から受け継いだ小市民主義があり、また、自身で育てたエリート意識があった。三島は、祖母・母・先輩・教師の庇護を離れて自立するようになってからも、自分を支えてくれるものを求めた。それが、世評であり、他から抜きんでることであり、たえず周囲から注目されることだった。
彼は世俗的なもので身を包んでいないと安心出来なかった。それは、自分には何か大事なものが欠けているという強い不全感があったためと思われる。祖母や母から行き過ぎた庇護を与えられているうちに、彼はそれは自分に何か欠けているものがあるからだと感じるようになったのだ。
俗物的な生活を送りながら、反俗的な作品を書くという二重の構図は、祖母に守られて安全第一の日々を送りながら、頭では流血の死にあこがれた少年期の二重生活を引き継ぐものだった。彼はこの二重性の故に、頭では世俗を否定し、大衆社会現象を軽蔑していながら、その世俗から受容され賞賛されることを渇望したのである。
三島は自らの性格的なひ弱さを克服しようと、いろいろ努力している。だが、その努力も、結局は自分の世俗的価値を高める方向に向かってしまう。
小学生だった頃に、彼は省線電車の中で、大人の乗客をにらみつけ相手が目を逸らすまで凝視を続けるという「自己訓練」を行っている。最初、相手はいぶかしそうに彼を見返すが、やがてうるさくなって視線を逸らす。すると、幼い三島は「勝った」と思うのだ。
三島を知る誰もが口にする彼特有の高笑いを、ラジオで聞いたことがある。私は病気療養中、安静時間にはラジオを聴いて過ごしていたが、ある日、「高校生の作家訪問」という番組を聞いていて、あの有名な高笑いを聞いたのである。それは、相手の感情を無視した傍若無人の哄笑で、聞く者を脅かして不安にさせるような耳障りな笑い方だった。この高笑いを彼は新進作家時代に身につけたと言われる。
話をするとき、相手を真っ正面から見据え、続けさまに相手の心を脅かすような哄笑を浴びせかける対話術は、相手より優位に立っていないと崩れてしまう三島の幼児的な弱さから来ていた。
世俗的な生き方をしながら、反俗的な作品を書き続けるという矛盾は、何時かは馬脚を現さずにはいない。それは彼が、「大体において、私は少年時代に夢見たことをみんなやってしまった」と誇らかに記してから4年後に起こった。
「大体において、私は少年時代に夢見たことをみんなやってしまった。少年時代の空想を、何ものかの恵みと劫罰とによって、全部成就してしまった。唯一つ、英雄たらんと夢みたことを除いて」
三島は昭和34年(34歳の時)に満を持して「鏡子の家」を発表した。「金閣寺」の成功の後に、渾身の力を込めて発表した自信作だった。しかし、この作品は批評家から全く評価されず、冷たい黙殺をもって迎えられた。
「鏡子の家」には、三島の分身とされる4人の青年が登場する。
ボクサーの俊吉は、全日本チャンピオンになるが、ちんぴらに襲われて拳をつぶされ、右翼団体に加入する。
美貌の新劇俳優の収は、醜貌の女高利貸しに金で買われ、最後にこの女と心中してしまう。
日本画家の夏雄は、自分を天使だと信じている。
商社マンの清一郎は、世界の崩壊を信じている。
この小説について、例えばヘンリー・スコット=ストークスは次のように解説している。
三島のこういう四つの顔を配した『鏡子の家』は、一九五〇年代の三島文学の中では最も雄弁に著者自身を語るものといえるだろう。四人が代表する三島の四側面は、いずれもこのころまでは目立たなかったが、やがて六〇年代に入ってはっきり現われてくる。
峻吉に代表される右翼的偏向は、一九六五年以降はとくに顕著になるし、人間は肉体が美しいうちに自殺しなければならないという信念も、六〇年代後半には明確になる。同じことは、流血によって存在の保証をつかもうとする収の欲望や「完全な芝居」への夢についてもいえる。
だが『鏡子の家』の最大の特徴は、四人の登場人物のうち三人までが世界の,崩壊を必至と考えていることだろう。この意味で、三島のニヒリズムは浪曼派のそれと非常に近い。
江藤淳は、三島を指して、挫折した日本浪曼派の最後のスポークスマンだと言い、戦後の三島作品に繰り返し現われる世界崩壊への期待は、浪曼派最大の特色の一つだったと書いている。
「鏡子の家」が評価されなかった理由はいろいろあるけれど、一言でいえばこの4人の登場人物のどれにもリアリティーがなかったことだろう。三島は4人の人物に自分を分け与えるに当たって、彼の持つ二つの側面のうち、市民的幸福を唾棄するニヒルな面だけを投入した。
「僕は俗気があります」と自分から認めていながら、彼は自分の世俗性とその背後に潜む不全感を作品の中に書き込むことを避けた。これでは登場人物が一面的な作り物に堕してしまうのも当然といえる。
ここまで順風満帆、やることなすことすべてが思う壺にはまってきた三島にとって、「鏡子の家」の失敗は大変な打撃だったらしい。彼は大島渚との対談で、「鏡子の家」発表後の文壇の反応について「その時の文壇の冷たさってなかったですよ」と語り、「それから狂っちゃったんでしょうね、きっと」とうち明けている。事実、この頃から三島由紀夫狂乱がはじまるのである。 
三島狂乱
年譜によると、三島は「鏡子の家」を発表した翌年に大映映画「からっ風野郎」に出演している。この時、彼は大映と専属俳優契約を結んでいるから、この後も続けて映画に出る積もりだったに違いない。
「からっ風野郎」での三島の役はちんぴらヤクザだった。
この映画に出たことで三島は、彼を愛する読者たちに幻滅をもたらすこととなった。それまで、三島には天才作家というイメージがあったけれど、映画で見る彼は短躯短足、気の毒なほどに貧相な人物だったのだ。ラッキョウ頭だけが目に付くその体には、未成熟で病的な印象があった。致命的だったのは、役柄の関係もあって、彼が精神的にも深みに欠けた薄っぺらな男に見えたことだった。
三島はこの悪評にもめげず、やたらに週刊誌や新聞の三面記事に登場するようになった。
町内会の一員として、はっぴ姿で御輿を担ぐところを写真に撮られるかと思うと、ゲイバーに出かけて自分で作詞したシャンソンを歌い、衆人環視の中で丸山明宏(三輪明宏)と抱き合ってキスをした。
彼が最も熱中したのは、肉体の改造だった。
三島は夜中に執筆し、夜明けから正午まで就寝するのを例としたが、午後からボディービルや剣道の道場に通うようになった。その熱心さは異常な程で、間もなく彼の身体には「隆々たる筋肉」がつき始めた。
不全感の所有者がやることには、限度というものがない。自分の体に自信を持ち始めた彼は、機会あるごとに肉体を誇示するようになった。三島は、「男というものは、うぬぼれと闘争本能以外に何もないのだ」と弁解しながら、機会あるごとに裸になった。
彼は「三島由紀夫展」のカタログに次のように書いている。
「私はようやくこれ(鍛え上げた肉体)を手に入れると、新しい玩具を手に入れた子供のように、みんなに見せ、みんなに誇り、みんなの前で動かしてみたくてたまらなくなった。私の肉体はいわば私のマイ・力ーだった。・・・・・しかし肉体には、機械と同じように、衰亡という宿命がある。私はこの宿命を容認しない。それは自然を容認しないのと同じことで、私の肉体はもっとも危険な道を歩かされているのである」
かくて「薔薇刑」と題する自らのヌード写真集を出版し、「わが肉体は美の神殿」と自称するにいたる。ここまで来ると、もう狂気の沙汰としか思えない。彼は書斎に等身大の鏡を据え付け、自分の姿を鏡に映しながら執筆しているという噂がたった。
三島がしきりに愚行を重ねるのは、自分を評価しなくなった知識人に当てつけるためだった。すると、その度に、彼に対する評価は落ちていった。三島文学は本質的に青春文学だから、若かった頃に三島の作品を愛読した読者も、年を取ると次第に彼の逆説や反語、装飾過多の文章をうるさく感じるようになる。そこへ三島の露出趣味である。年輩の読者の三島離れは、急速に進行し始め、その結果、新作を出すと20万部は売れていた彼の著書が、1960年代(35歳以後)には2〜3万部しか売れないことが多くなった。彼が苦々しげに「作家殺すに刃物はいらぬ、旧作ばかりをほめればよい」と書いたのもこの頃である。
世評にも増して三島を打ちのめしたのは、相次ぐ旧友の離反だった。
彼は当代一流の知性である中村光夫・大岡昇平・福田恒存・吉田健一と「鉢の木会」を作って定期的に交流していた。自分にとっては先輩格に当たるこれらの面々から、会の一員として迎えられたことは三島の大きな自信になっていた。が、ある日メンバーの一人から、「お前は俗物だ。あまり偉そうな顔をするな」と面罵される事件が起きたのだ。
三島は「鏡子の家」に続いて有田八郎元外相をモデルにした小説「宴のあと」」を書き、有田側からプライバシー侵害で訴えられていた。ところが、この時「鉢の木会」の吉田健一は三島を裏切って有田側に立つ発言をしたのである。
「文学座」の運営で同志の関係にあった福田恒存にも裏切られた。福田は、三島由紀夫と杉村春子に後足で砂をかけるようにして、文学座の有力俳優を引き抜き劇団「雲」を発足させたのだ。
そして三島は、杉村春子からも裏切られる。
杉村春子は、昭和38年、三島の戯曲「喜びの琴」を右翼的であるとして、上演を拒否した。この件で、三島は朝日新聞に抗議文を載せ、10年近く続いた彼と「文学座」の濃密な関係は遂に絶たれてしまった。他に、三島は年少の友人黛敏郎とも絶交している。
読者の離反、旧友の離反に続いて川端康成がノーベル賞を受賞したことも、三島にはかなりのショックだったと思われる。三島の作品は、若者向きである以上に、外人向きに出来ていた。日本には私小説の伝統があって、作品は作家の生活や人となりと絡めて鑑賞されるのが常だったが、三島は作品を自分から完全に切り離し、それ自体で成立する自律世界に仕立て上げていた。自伝的作品とされる「仮面の告白」ですらそうだった。
これは西欧的な文学作法に他ならなかった。三島も、文学作品は一つの夢をシステマタイズすることによって成り立つと語り、中村光夫との対談では「物語というものは、人を知らぬ間に誘い出し、どこか水の中にポコンと落として溺れ死にさせるようなものですね」と言っている。
こうした事情もあって、日本文学を海外に紹介することに貢献したドナルド・キーンなどは、早くから三島に注目し、その作品を英訳して自国に紹介している。三島自身もアメリカやフランスに渡り、欧米の出版業界に顔を売る一方、各国の文学関係者に知己を増やしていた。そのため、1960年代の半ば以降、毎年のように三島がノーベル文学賞を獲得するのではないかという下馬評が流れるようになった。
三島もその気になって、ノーベル賞の受賞がほぼ確実というニュースが流れた時など、自ら記者会見場を予約して吉報を待ったほどだった。が、結果は川端康成の受賞に終わった。三島はその報を聞いて、祝辞を述べるために真っ先に川端邸に駆けつけている。そして「この次にノーベル文学賞を取るのは自分ではなくて大江健三郎だろう」と語り、格別、悔しそうな顔も見せなかった。大江の受賞を予言したところなど、三島の眼力はさすがだった。
苦心の労作が批評家に黙殺されるというようなことは、作家なら誰でも経験することだった。だが、三島は「鏡子の家」が期待したほどの評価を得られなかったことで「狂っちゃった」り、ノーベル賞を逃したことで深刻な失意に陥ったりする。三島は世評を軽蔑するポーズを取りながら、麻薬患者がモルヒネを必要とするように周囲からの絶えざる賞賛を必要としていたのである。
いまや彼の耳に入ってくるのは嘲笑ばかりだった。三島は石川淳に「(僕が)一生懸命泣かせようと思って出てきても、みんな大笑いする」と愚痴り、林房雄には「身から出たさびだと思っています。やはり僕の行跡がたたっていましてね、何をやったって信じてもらえない」と語っている。
三島は、俗物に徹することが出来なかった。彼には天才作家という肩書きがどうしても必要だった。基層の俗物的部分を満足させるには、上層の作家活動で成功し、芸術的価値の高い反俗的作品を書きつづけなければならない。ここに彼のジレンマがあったのである。
三島は文壇に登場する際、戦略として同性愛者を装った。今度は、行動する作家という戦略をとることにして、剣道、ボクシング、空手などに熱中しはじめたのだ。ゴルフをやる作家はいても、武術や格闘技をこなす作家はいない。
行動する作家として認知されるには、理論武装も忘れてはならない。その理論は現代人の手で汚されていない、そして今も脈々と日本人の意識の底を流れる地下水系のような思想でなければならない。
アメリカの社会学者リースマンの著書を愛読していた三島は、社会には「横の社会」と「縦の社会」があり、前者は個性を失った砂のような人間によって形成される大衆社会だが、後者は歴史的民族的社会で、このなかに「汚れていない思想」が眠っていると強調する。
この見地から彼が持ち出してきたのが「葉隠」であり、陽明学だった。彼は何かの思想に触れると、たちまちその使徒になり、高らかに人寄せのラッパを吹き始める。
が、文壇の反応は冷ややかだった。彼の行動主義は、それまでに彼が演じてきた人気取りのパフォーマンスと同列に見られ、「ああ、また始まったか」と作品の評価をさらに引き下げることになった。
こうなったら彼に残された道は、暫くマスコミと関係を切り、鳴かず飛ばずの状況に身を置くことしかなかった。が、三島は沈黙を守るどころか、「知識人の顔というのは、何と醜いのだろう!」というふうなことを感嘆符つきで言って、八つ当たりをはじめる。
ドナルド・キーンなど外国の友人は、三島に一年ほどカナダに行ってひっそり暮らすことを勧めている。
だが、三島は自宅に毎日客を招き、マスコミから対談・対論の注文がかかれば、どこへでも出かけていって誰とで議論することを喜びとしているような男だった。そんな男が1年間もの孤独に耐えられるはずがなかった。
だが、この頃の三島は極めて危険な状況にあったのである。
「豊饒の海」に着手する1年あまり前、三島邸に一人の青年が押し入ってきた。この青年はすぐに警察の手に引き渡されたが、三島はこの小事件を素材にした短編「荒野より」を書いている。このなかで、三島はあの青年はどこから来たかと自問し、三島自身の心の荒野から来たのだと書く。
「それは私の心の都会を取り囲んでいる広大な荒野である。私の心の一部にはちがいないが、地図には誌されぬ未開拓の荒れ果てた地方である。そこは見渡すかぎり荒涼としており、繁る樹木もなければ生い立つ草花もない。ところどころに露出した岩の上を風が吹きすぎ、砂でかすかに岩のおもてをまぶして、又運び去る。私はその荒野の所在を知りながら、ついぞ足を向けずにいるが、いつかそこを訪れたことがあり、又いつか再び、訪れなければならぬことを知っている。明らかに、あいつはその荒野から来たのである」
三島由紀夫が、何時頃から自死を日程表にのせはじめたか確言できない。
三島には死に向かう体内時計が埋め込まれていたという説もあり、彼は死を恐れていたから、死を選んだという者もいた。あまりたくさん書きすぎて、もう書くことがなくなったので死んだのではないか、と推測する作家仲間もいる。
早くに名声を得て、その後もずっと名声を維持してきた作家が突然自殺するというケースをしばしば見受ける。例えば、芥川龍之介は、夏目漱石に認められて早くに文壇に出てから、一貫して第一線を歩み続けた。にもかかわらず、突然、自殺している。
芥川本人は、遺作の中で「ぼんやりした不安」がその原因だと説明している。
しかし友人の菊池寛は、自殺する前の芥川に作家活動を暫く休んで、大学教師にでもなったらどうかと忠告していた。書く素材が尽きて、芥川が自信喪失に陥っていると見たからだった。
最初から「一流」の地位を維持してきた芸術家は、そのレベルから脱落することをひどく恐れる。そして、もう一流の地位を維持できないと見切ったときに、実に簡単に自殺する。自分が二流の存在に堕してしまうことが耐えられないのだ。
三島には、まだ種切れの兆候はなかった。執筆依頼が途切れることはなかったし、書きたいテーマも少なくなかった。
だが、彼は疲れ傷ついていた。死を願いつつも、踏み切ることができないでいた。その状態は「鏡子の家」が不評だった頃から、ずっと続いていると言ってもよかった。 
スプリングボード
人は外に向けていた攻撃的エネルギーを自分自身に向けることで自殺する、というのが精神分析派の考え方である。
例えば事業家は、攻撃的エネルギーを仕事に振り向けて懸命に働くが、どう頑張っても潰れそうな会社を立て直すことが不可能だと悟ると、エネルギーを自身に振り向けて自殺する。仕事を辞めてからも、事業に向けていた攻撃的エネルギーはそのまま残り、別の攻撃対象を探して自分を殺すことになるのだ。
三島は自分を認めなくなった知識人に戦いを挑み、ボクシングジムに通い、空手初段になって見せた。それだけでは不十分だとして更に戦線を拡げ、民族的伝統の擁護者になって「文化防衛論」を書いたりした。これは、戦後民主主義そのものへの挑戦を試みた攻撃的な著書だったが、話題にもならなかった。
折から、安保反対の風が吹きまくっていたから、好機到来とばかり彼は「敵」の牙城東大に乗り込み新左翼の学生たちに論戦を挑んだけれど、これも三島特有のパフォーマンスと受け取られて三面記事的な興味を呼んだだけだった。彼のやることはすべて空転し、「やはり僕の行跡がたたっていましてね。何をやったって信じてもらえない」と述懐するような結果になるほかなかった。
三島の攻撃的エネルギーが反転して自分に向かった時期に、彼の内部で自己中心主義から天皇中心主義への転換が始まったのだった。
攻撃的エネルギーが自分に向かえば、過去に演じてきたパフォーマンスへの自己嫌悪や、ジュリアン・ソレル的行動への悔恨が群がり起こる。虚偽と汚辱に満ちた過去を思い、自分のエゴ・セントリックな性格を慚愧の気持ちで反省しているうちに、三島は自分にも純な気持ちで生きていた時期があったことを思いだしたのだ。
三島は日本浪漫派に心酔し、二・二六事件の青年将校たちに涙した過去を想起した。あれほど醇乎たる気持で、天皇と国家について思いめぐらしたことはなかった。
自己中心主義を捨てて、主人持ちの身になること、これ以外に自分が再生する道はない。三島はそう思ったのだろう。そして、そうなれば死ねると思ったのである。
主人持ちの人間が死と親和することを描いているのが「葉隠」だった。武士道とは死ぬことと見つけたり、生きるか死ぬか迷ったら死ぬ方を選べ、主人が間違ったことをしたら死んで諫めよ、葉隠のどこを開いても主人持ちの人間の美徳は死ぬことにあると書いてある。
「葉隠」には自己中心的に生きる武士たちの醜さも的確に描写されていた。三島は、それを大衆社会日本に生きる現代人の肖像だと思って読んだ。
彼は「葉隠」を座右の書にするようになった。三島は「葉隠に書いてあるのは、絶対間違いない、聖書と同じでね」と確信を持って語っている。この瞬間に三島の内部で、自死に向けた号砲が鳴り響いたのである。
三島は目から鱗が落ちるような気がしたのだ。自分は子供の頃から死にあこがれてきた。そして大衆社会現象の支配する日本では、自分の生きる場所がないと嘆きながら、女々しく生きながらえてきた。そうなのだ、主人持ちの身になれば死ぬことができる。
三島は下校してから、祖母の用意しておいたオヤツを食べ、枕元に座って勉強した小学生時代の気持ちを思い出した。他者の命に素直に従うことの心地よさ。
あとで誤診であることが分かったけれど、愛する母が余命幾ばくもないと知らされたときの胸つぶれる気持ちも思い出された。母のために祈った、あのときの一念ほどに純粋なものはなかった。
古林尚との対談「三島由紀夫 最後の言葉」にはこんなやりとりがある。
−さうすると三島美学を完成するためには、どうしても絶対的な権威が必要だといふことになり、そこに……
−天皇陛下が出てくる。(笑)
−そこまでくると、私はぜんぜん三島さんの意見に賛成できなくなるんです。問題は文学上の美意識でせう、なぜ政治的存在 であるところの天皇が顔を出さなきやダメなんですか。
−天皇でなくても封建君主だっていいんだけどね。「葉隠」における殿様が必 要 なんだ。それは、つまり階級史観における殿様とか何とかいふものぢやな く て、ロイヤリティ(忠誠心)の対象たり得るものですよね。……天皇でなく ても いい。『葉隠』の殿様が必要なんだ。
三島にとっての天皇は、ロイヤリティーの対象としての天皇であり、もっとハッキリ言えば自死へのスプリングボードとしての天皇だった。 
三島の天皇主義
三島の考えている天皇は、現実の天皇ではなかった。美の総覧者・日本文化の体現者として、非人間的な徳性を備えた架空の天皇だった。だから、現実の天皇に対する三島の評価は、極めて低かった。
昭和天皇は、二・二六事件では青年将校らを逆賊と認定する過ちを犯した上に、戦後は人間宣言を行って、特攻隊員を裏切ってしまった。特攻隊員は神である天皇のために死んだのだから、天皇に人間宣言をされたら、その死が無意味なものになってしまうではないか、と三島は言う。
皇太子時代の現天皇についても、福田恒存との対談で手厳しいことを言っている。
三島:皇太子にも覚悟していらっしゃるかどうかを、ぼくは非常にいいたいことです
福田:いまの皇太子にはむりですよ。天皇(昭和天皇)も生物学などやるべきじゃないですよ
三島:やるべきじゃないよ、あんなものは
福田:生物学など、下賤な者のやることですよ
三島は現に目の前にいる天皇の内実がどうあろうと、天皇のために死ぬことを思い決めた。ひとたび、方向が決まるとそれに向かってすべてのエネルギーを集中し、自分の思いを滔々と説きたてるのが彼の癖だった。
彼の脳裏にある天皇は架空の存在なのだから、このために死ぬのは「イリュージョンのための死」に他ならない。そこで彼はこう解説するのである。
「ぼくは、これだけ大きなことを言う以上は、イリュージョンのために死んでもいい。ちっとも後悔しない」
「イリュージョンをつくって逃げ出すという気は、毛頭ない。どっちかというと、ぼくは本質のために死ぬより、イリュージョンのために死ぬ方がよほど楽しみですね」
彼の死は、天皇への「諫死」という形式を取るはずだった。が、天皇に聞く耳がなければ、その死は犬死にとなり、無効に終わる。そこで彼は又こう注釈をつける。
「無効性に徹することによってはじめて有効性が生ずるというところに純粋行動の本質がある」
三島は死ぬ覚悟を決めると、積極的に自死する事を予告し始めた。私は三島の対談集を数種類読んでみたが、晩年の彼は自分の死をにおわせる発言を繰り返し行っている。対談相手が(またか)と持て余ますほどに。
ヘンリー・スコット=ストークスは、三島の死に関して「人間の自殺が、これほど綿密に計画されたのは、例が少ないことだろう」と感想をもらしている。そしてまた、対談で、講演で、また評論で、これほど頻繁に自殺を予告している例も少ないに違いない。
一、二例を挙げれば、対談ではこんな風に語るのである。
「ぼくぐらい行動というものにあこがれて自分が行動していない男はいままでない。何もしないで行動行動といっている。・・・・・(が、今に行動するから見ていてほしい)自分だけ死んで笑われるかもしれないけれども、それでもいいじゃないか」
こんなのもある。
「(自分は文学外の行動と、文学が同じ根から出ていることを証明しようと努めてきた)それを証明しようと思って躍起になればなるほど漫画になるのはわかっているけれど、死ねばそれがぴたっと合う。自分で証明する必要はない。世間がちゃんと辻褄を合わせてくれる」
自死の予告は、市ヶ谷のバルコニー上から撒いたビラの末尾にも書かれていた。
「生命尊重のみで魂は死んでもよいのか。・・・・・今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる」
三島がこれほど頻繁に自殺をにおわせたのは、何故だろうか。一般に、予告は、自殺を引き留めてほしいというサインだと考えられている。
彼が最後の瞬間まで生に執着していたことは、上掲の「今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる」という部分にほの見えているし、「散るをいとふ世にも人にもさきがけて散るこそ花と吹く小夜嵐」という辞世の歌からも感じ取れる。
自分の行動を、死を恐れる臆病な世人と対比してみせるところに、かえって彼の未練のようなものが透けて見える。
だが、そんなふうに考えるのはこちらの邪推で、自分を後戻りさせないための手段としてだったのかもしれない。とすると、彼の気持ちはまだゆらいでいたことになり、これもやはり未練の表明だったと言うことになる。
死へ向かって自分を追いつめて行く過程で、三島は「豊饒の海」四部作に着手する。戦争末期に「花ざかりの森」をこの世に残して戦死することを夢見た彼は、「豊饒の海」を遺作として世に残すことに決めたのである。
「豊饒の海」は生まれ替わり物語である。生まれ替わりというテーマを選んだ三島の気持ちには、かすかに死後の再生を期待する願望があったかもしれない。しかし彼はそうした気持ちを「豊饒の海」という題名によってうち消している。豊饒の海は月面にある空虚な海の名前であり、彼はこの題名によって再生譚を否定しているだけでなく、自分の生涯そのものを否定している。
三島は「荒野より」で彼の心を取り囲こむ荒野について語った、月面にひろがる豊饒の海もあの荒野を思い出させる。三島はこうした虚無的な心をかかえて、「豊饒の海」四部作に着手し、自衛隊に体験入隊し、F104超音速戦闘機に試乗し、「楯の会」結成に乗り出したのだった。
「楯の会」に百名足らずの学生を集めたことで、三島は自死へのお膳立てを整えた。そうとは知らない世間からもマスコミからも、三島はすっかり愛想を尽かされてしまった。彼の親しい友人ですら、「その悪趣味や酔狂な行動は時とともにグロテスクの度を増し、楯の会にいたってその頂点に達した」と書いている。
「荒野より」で老人のような寒々とした心境を吐露した三島が、「楯の会」では打って変わって、生来の幼児性をむき出しにしている。彼は会の発足に当たり、全員で巻紙に血書することにした。そして指を安全剃刀で切り血をコップに溜め、血書を済ました後で、皆でコップの血を飲んだ。隊員の中には、脳貧血を起こすものや、吐きそうになるものが出た。
それから彼はデザイナーに頼んで、まるで「ホテルのドアマンのような(猪瀬)」制服を作り、隊の制服にした。この制服を見て、隊を脱退するものも現れた。
「仮面の告白」の読者は、女児のように育てられた三島の過去を思い出して、兵隊ごっこは子供の頃からの彼の夢だったのだろうと考える。だが三島は、委細かまわず隊員を自衛隊に体験入隊させ、自分の前で分列行進をさせた。
ロンドン・タイムズやニューヨーク・タイムズの東京支局長をつとめたヘンリー・スコット=ストークスは、三島に呼ばれて訓練の様子を見学に出かけた。そして「楯の会の隊員が、富士山麓を分列行進するさまは、まるで一団のデクの坊だ」と書いた。
外人記者には、世界的な名声を誇る作家三島が、「楯の会」を発足させた理由が分からなかった。そこで記者が会の目的を質問すると、三島は「サムライの伝統を復活するためだ」と答え、「今なおサムライの魂を持つ日本人は、ヤクザだけだ」と断定して相手を唖然とさせている。
「楯の会」結成は、第二次安保騒動に備える目的だったが、結局、三島の自殺をサポートするだけに終わり、三島の死後解散している。
入念な準備の上に決行したはずの市ヶ谷討ち入りは空振りに終わった。それは、計画が失敗したら全員切腹すると決めていたからだった。そして、参加者全員が計画は結局失敗するだろうと予想していたのである。成功する見込みがあれば、念を入れて計画を練り上げるけれど、失敗するとわかっている計画に真剣に取り組むものはいない。
三島が失敗覚悟で計画を強引に推し進めたのは、切腹という方法で「諫死」をすることが既定の路線として行動予定表に組み込まれていたからだった。天皇と日本国民に反省を促すために、衆人環視の中で死んで見せる、これが彼の数年来の計画だったのだ。
それが年来の計画だったのなら、はたから何もいうことはない。
しかし、それなら宮城の前で一人で割腹自殺すべきだったのではないかという疑問は残る。決行の間近になって、三島は彼と学生隊長森田必勝2人だけで切腹することに変更したけれど、最初は4人の学生全員を道連れにして死ぬ積もりだったのである。
結果として、彼は森田という春秋にとむ若者を死なせただけでなく、総監室では刀を振り回して数多くの部外者を傷つけている。ここに伝記作者が、「冷酷なほどの自己中心主義者」と表現する三島の性格の一端が現れている。「東大を動物園にしろ」という本の中で、三島は次のように発言しているのである。
「羽田事件のときつくづくと思ったね。佐藤首相をアメリカヘやりたくなきや、殺せばいいぢやないか。簡単なことだよ。テロは単独行動で、大衆を組織化するといふ彼らの理論に反するかもしれんが、要は度胸がねエんだよ。一人でやる度胸がねエんだ」 

出口裕弘「三島由紀夫・昭和の迷宮」には、三島が死んだ後の母について記した一節がある。
「ジョン・ネイスンによると、自決の翌々日、平岡家は弔問客に門をひらいた。ある弔問者が白薔薇の花束を持って訪れ、三島の遺影を見上げていると、うしろから母の倭文重がこう言ったという。
『お祝いには赤い薔薇を持って来て下さればようございましたのに。公威がいつもしたかったことをしましたのは、これが初めてなんでございますよ。喜んであげて下さいませな』
平岡公威を産み、乳児のうちから姑にその子を奪い去られ、ようやくわが手に取り戻してのちは、一貫して「三島由紀夫」の第一読者だった人の言葉である。」
三島には妹と弟がいたが、妹は戦後間もなくなくなり、弟は外交官になって海外で暮らしていた。だから母にとって身近にいるのは三島だけだった。
母は三島の書斎に自由に出入りして、原稿用紙・ペン・お茶・果物・毛布などを用意してやっていた。彼女は息子の作品を生原稿で読んでいる「第一読者」だった。息子の死後、彼女は家族の誰一人三島を理解しようとしなかったと怒り、その怒りは夫と嫁に向けられた。彼女は夫とはうまく行かず、ひそかに離婚を考えていた。
そういう母親にとって、三島は恋人のような存在だった。事実、彼女は三島が死んだときに「恋人が私の手許に帰って参りました」と言っている。母親は息子の欠点も長所も知り尽くし、彼が何を企てているか察知していながら、そのすべてを許し受容していたのであった。
三島が、天皇主義などではなく、かの谷崎潤一郎のように母親賛歌をうたい続けたら、あのような死を迎えることはなかったろう。 
最後に
とにかく三島由紀夫は先を急ぎすぎた。彼は自分の作品について次のように書いている。
「書かれた書物は自分の身を離れ、もはや自分の心の糧となることはなく、未来への鞭にしかならぬ」
彼は一つとして同じ趣向の作品を書いたことはなかった。三島はマンネリズムとは無縁の作家だったのだ。一つの作品を完成するたびに、もっと新しいものを、もっと知的刺激にとんだものをと、自分に鞭を当て続けたから、立ち止まって自分の作品を賞味し反芻するゆとりがなかった。
思想についても同じで、俊敏な三島は次々に新しい思想を渉猟し、それをすぐに評論や作品の中に吐き出して見せた。だが、一つの思想を内部に留め置いて静かに熟成させることがなかったから、それらは単なる彼の知的アクセサリーにとどまり、何の力にもならなかった。吸収したものが「心の糧」になることはなかったのである。
それどころか、彼はとんでもない読み違えをしている。
陽明学は葉隠とならんで、晩期の三島を支えた思想的支柱である。これを彼は行動的ニヒリズムに基づく「革命哲学」だと規定しているのだ。
そして、彼は「陽明学を革命の哲学だというのは、それが革命に必要な行動性の極地をある狂熱的認識を通して把握しようとしたものだからである」などと意味不明なことを言い始める。
王陽明は、「万物一体の仁」を説いた愛の哲学者で、行動的ニヒリズムに類するようなことは一言も口にしていない。彼は、人間の内面が二層を成していると考え、下層を躯殻的己、上層を真己に分けている。下層の躯殻的己は私欲に汚れた自己であり、これを突き抜けた上層に天地万物と繋がる宇宙的な自己がある。これが真己なのである。
この真己(良知ともいわれる)が発動すると(致良知)、「知行合一」の行動になる。つまり、内なる愛の本能が具体化されたら、その行動は自ずと理にかなった知的行為になると王陽明はいうのだ。
三島が陽明学を理解できなかったのには、理由がある。
三島は唯識論や臨済禅について作品の中で蘊蓄を傾けているけれど、彼ほど非宗教的な人間はいない。宗教的世界を理解するにはエゴを超えた超越体験が必要とされるが、三島は死ぬまで自我圏内を出ることがなかった人間だった。彼の宗教論議は、すべて頭でこね上げた牽強付会の説であり、真実からは遠いのである。
王陽明が二層の自己に開眼したのは、32歳の時、陽明洞という洞窟の中で「光耀神奇、恍惚変幻」の神秘的な体験をしたからだった(洞窟内で霊的な光に遭遇したところはマホメットの体験に似ている)。
もし三島が長生きをして、本気になってインドあたりでヨガの修行をすれば、唯識論も臨済禅も、そして陽明学もすべて自家薬籠中の物にしたはずである。三島なら、ひとたび求道の志を立てたら、インドでもチベットでも、どこにでも出かけて猛烈な修行をしたに違いないのだ。この点でも彼の早世は惜しまれるのである。 
 
「椿説弓張月」 三島由紀夫

 

「いやになっちゃう」
『今の歌舞伎役者に、三島さんの「鰯売」が黙阿弥よりももっと前のものだっていう、その程度のことがもし分かっているとすれば、もっと面白くなるんじゃないかと思いますね。(中略)昔の本を持ってきても昔の芝居がやれなくなってきているということ、それだけに新しい人(三島)のものだと、もっと難しいわけですね。』(利倉幸一:座談会「共同研究・三島由紀夫の実験歌舞伎」・雑誌「演劇界」昭和32年5月号)
引用したのは雑誌「演劇界」で三島由紀夫を囲んで行なわれた座談会での利倉先生(当時の「演劇界」編集長)の発言です。他の出席者は郡司正勝・杉山誠という顔触れでした。この記事は作家三島由紀夫と歌舞伎を考える時にとても参考にな ります。(この時代の「演劇界」の記事はとても面白いですね。)そこで「椿説弓張月」のことを考える前に、この座談会での各氏の発言をちょっと取り上げておきたいと思います。まず杉山 先生が、「「地獄変」(昭和28年12月初演)にせよ「芙蓉露大内実記」(昭和30年11月初演)にせよ、あなたの意図したところと、歌舞伎の連中の受け取り方とは違うんじゃないかな」と三島に 聞く場面です。
三島:「ほんとは、ぼくはそれが嫌なんです。それなら、いっそのこと新劇をやらせちゃうという気持ですね。はっきり言うと、勘三郎はうまいっていわれているでしょう、新作をやっても。」
利倉:「そのくせ、テクニックに関しちゃ新しいものを出してないんでね。」
三島:「まあ、新しいつもりなんでしょう、あれで。(笑)」
杉山:「そうすると、あなたとしちゃ、新歌舞伎的なものとして扱われることが・・・。」
三島:「嫌なんです、というよりは不満ですね。それに、あの人たち、とっても照れるんですね。こういうことは恥ずかしいというんです。」
上記発言に出てくる勘三郎は十七代目(先代)のことで・「鰯売」初演で鰯売猿源氏を主演しました。 勘三郎の猿源氏はとても好評でしたが、三島は不満であったそうで、この座談会でも「くすぐったくて、ほんとにいやになっちゃった」と言っています。三島が言いたいことは、自分は昔の芝居を書いたつもりなのに・それを新作として扱われるの が不本意だということです。ところが、歌舞伎役者は感じ方が逆で、新しいものなのに・それをさも古いもののように演じるのは恥ずかしいと言うというわけです。さらに三島の発言を引きます。
三島:「勘三郎が脚本のあのセンスをどういう風に解釈しているかっていうのが問題なんですよ。もっと線の太いユーモアなんですよ、あれはね。その辺が割りに鈍感なんですよ、彼は。何かそこへ来ると近代人になっちゃうんだな。」 (中略)「ばかなところがないな。ばかになりたくない一心なんだね、逆に。(笑)僕がつくづく思うのは、ぼくらはすっかり近代人的生活をしてるから、僕がいくら擬古典主義的なことをやっても、新しいところが出て来る。最大限度の努力を払ってもそれがどうしても出てくる。それで、そいつを隠してくれるのが役者だと思っていたんですよ。ところが向こうは逆に考えているんですね。いやになっちゃう。(笑)ここは隠してほしいというところが逆に彼らにとっての手掛かりになるんだな。」
三島のこの発言はとても興味深いと思います。歌舞伎役者とてこの時代に生きる現代人であるわけですが、我々は彼らを江戸時代の心を持つ現代人で・江戸の心を演じる特別の人たちだと思っています。もちろんその自負は彼らにもあるはずです 。それは確かにいわゆる古典(「忠臣蔵」だとか「千本桜」など)を演じている時はそんなものなのです。手垢にまみれた在来の型のなかに新しい現代的な視点を取り入れるなんて言えば 、いかにも先進的でカッコ良く思えます。ところが、擬古典的な作品をいかにも昔風に演じろというと、途端にぎこちなくなってしまうのです。「相変わらずあんな古臭いことやってらあ」と 笑われるのが恥ずかしいという感じになってくるらしいのです。「お前たちのやっているのはこんな程度の芝居だよ」と、自分のコンプレックスな部分を改めて鏡で見せ付けられ たような鼻白む気分になるのでしょう。そこで役者は捻じれた行動に走ります。三島歌舞伎のなかから作者がここは隠して欲しいと思う現代的な要素をほじくりだして、そこ を解釈の取っ掛かりにしようとするのです。もしかしたら、これはこんな意地悪な作品を書いた作者(三島)への・役者のちょっとした仕返しなのかも知れません。
ここで歌舞伎役者のコンプレックスということをもう少し考えてみたいのですが、歌舞伎役者には、自分たちの演じている芝居が、敷居が高くて・「古典」とか「伝統芸能」ということで一応祭り上げられてはいるけれども、忠義とか仇討ちとか身替わりとか、時代錯誤の・現代人にまったくアピールしない変な芝居だとどこかで誰かに笑われていないかな?という不安がどこか付きまとっているのかも知れません。
現代では歌舞伎は時代から隔絶した芝居です。チョンマゲで刀差した日本人など今の日本のどこにもいないのです。お客に見放されたら芝居は終わりですから、「歌舞伎は古臭い」と言われることに・役者はいつも内心ビクビクしていて、周囲に「歌舞伎は古臭くない」とアピールするためにつねに肩肘張っていなければならないのかも知れません。観客を映画やテレビにごっそり取られた体験がその不安をますます掻き立てます。もっと自信を持って・自然体で・・と言いたいところですが、役者の気持ちも分からないことはありません。
新歌舞伎というのは、座付き作者ではない・外部の作家が書いた歌舞伎作品のことを言います。歌舞伎役者のために江戸風俗を材料に芝居を仕立ててはいますが、当然ながらそこに作者の明治以後の・近代の視点が入ります。またそれがないと新歌舞伎にならない のです。そこに見慣れた古典作品にはない魅力と新鮮さを観客に感じさせます。今日の歌舞伎のレパートリーとなっている新歌舞伎の大半は二代目左団次によって初演されたものですが、それらは歌舞伎(旧劇)の手法を踏まえ・しかし表面上はそれを否定し・乗り越えて新しい時代の芝居を作ろうとするところから発しています。(別稿「左団次劇の様式」をご覧下さい。)
一方、三島歌舞伎の場合は、作者本人が「新歌舞伎的なものとして扱われることが嫌なんです、というよりは不満です」とはっきり言っているわけです。上記座談会の三先生はよく分かっていらっしゃいます。利倉先生は「歌舞伎役者が、三島さんの「鰯売」が黙阿弥よりももっと前のものだっていう、その程度のことがもし分かっているとすれば、もっと面白くなるんじゃないかと思いますね」と仰っています。
三島歌舞伎を新歌舞伎のなかに位置付けて、戦後の新作歌舞伎、たとえば 舟橋聖一の「源氏物語」や大仏次郎の「若き日の信長」などと 比べて、その擬古典的な文体や手法においてのみ異なるのだと考えていると間違えます。三島歌舞伎はその発想段階において、まったく向いている方向が異なります。 なぜならば、三島は最初から古臭い芝居を書こうとしているからです。ですから、三島歌舞伎というのは、どこかの旧家の土蔵のなかから・江戸末期の作者不詳の古い芝居の台本が発見されて・それを三島由紀夫なる作家が 手を入れて世に出したと、そんな風にでも考えて演じた方がよろしいと思いますね。両者がそんな捻じれた位置にあるので、歌舞伎役者と三島の関係はギクシャクしたものになってきます。
「故郷へ帰ったつもりで・・」
「今の歌舞伎役者に、三島さんの「鰯売」が黙阿弥よりももっと前のものだっていう、その程度のことがもし分かっているとすれば、もっと面白くなるんじゃないかと思いますね」という利倉先生の発言についてもう少し考えます。
歌舞伎は出雲のお国以来・ほぼ400百年の歴史を持っている演劇と言われていますが、歌舞伎はこれだけの長い年月をすんなり真っ直ぐ伸びてきたわけではないのです。いろんな要因で、その流れはあちこちで途切れたり・捩(よじ)れたりしています。現行歌舞伎でどうやら辿れる・最も古い形態の芝居は「対面」や「暫」のような元禄歌舞伎ということになりますが、これとて当時とそっくりそのままに上演されているわけではありません。
芸というのは刻々変化していくものですから・まあそれは仕方ないことですが、そう考えると現行歌舞伎の芸の引き出しというのは案外狭いもので、遡ってもせいぜい幕末の黙阿弥よりもちょっと前くらいまでのもの だと考えられるのです。その限られた芸の引き出しでレパートリーをどうにかこなしているというのが、歌舞伎の現状なのです。(最近は黙阿弥の七五調さえ怪しくなっているということは、別稿「アジタートなリズム〜歌舞伎の台詞のリズムを考える」で触れましたからそちらをお読みください。)近松でも南北でも、現行歌舞伎は基本的にどれも黙阿弥のテクニックで通しています。それは 例えば台詞回しでは、語調を無意識のうちに七五に揃えたがる・台詞の末尾が不自然に伸びるというようなところにフッと現れます。ホントに微妙な差異なのですが、そんなところで芝居の感触が何となく粘ってきて、本来の近松 や南北の感触とは異なるものになっているのです。利倉先生の発言は、そのことを踏まえて読まねばなりません。
三島:「勘三郎が脚本のあのセンスをどういう風に解釈しているかっていうのが問題なんですよ。もっと線の太いユーモアなんですよ、あれはね。その辺が割りに鈍感なんですよ、彼は。何かそこへ来ると近代人になっちゃうんだな。」
郡司:「つまり、それは黙阿弥劇でのテクニックでやっているからなんでしょう。」
三島:「そうですね。」
(中略)
杉山:「やる方の側としちゃ、そいつ(三島歌舞伎)を当てがわれることによって、やっぱり一種の新しがりをやってると思うんだ。ほんとは全然逆のコースを取らないといけないのに・・・、たとえば黙阿弥から逆に元禄時代、近松時代、あの辺まで遡ってやらなきゃいけないのに、黙阿弥以後で新しがってやっちゃってるわけだからね。」
郡司:「故郷へ帰ったつもりでやればいいんだがねえ。」
三島:「その故郷を失なっちゃってるわけさ。(笑)」
杉山:「歌舞伎は伝統芸術だって言うけれども、今や根無し草になってるな。」
(中略)
三島:「新劇は今故郷を模索している段階だけど、歌舞伎には故郷そのものがないんですね、現在は。」
杉山:「そういった意味じゃ三島君の夢は、一ぺんふるさとに帰す取っ掛かりをつけることだね。とにかく今の歌舞伎って自分こそふるさとなりって顔してるでしょう。(笑)それが間違いだってことを、歌舞伎自身にそろそろ感じさせなければ駄目だね。そのくせ手前が故郷だという顔をしているのだから、困るねえ。(笑)」
この座談会を読むには昭和32年という時代の雰囲気も踏まえなければなりません。戦争が終わって・日本が高度成長期に入り・昭和28年にはテレビ放送が始まり、歌舞伎は民衆の日常生活から乖離し・娯楽としての方向性が次第に見えなくな り始めた時期 でした。この時期には雑誌「演劇界」などでも、歌舞伎に対して結構辛らつな議論が多く出ていたわけです。女形不要論・歌舞伎滅亡論などが盛んに交わされました。昨今の歌舞伎批評ではちょっと考えられないことです。吉之助が歌舞伎を見始めた昭和50年代になるとすっかり保守化して、こうした議論は影を潜めてしまいました。以後平成の今日まで「歌舞伎こそ 我がふるさとなり」という感じの論調ばかりです。歌舞伎役者もそういう風潮に乗ってきました。
別稿「いわゆる歌舞伎らしさを考える」でも触れましたが、二代目猿翁(三代目猿之助)はとても素晴らしい仕事をしましたが、ある一面に於いて新しがりをしているわけで(皮肉ではなくスーパー歌舞伎などまさにそこが本質かも知れません)、歌舞伎の悪い部分・伝統に安住して活力を失って惰性で持ってるような部分に対する批判(疑問)を持たなかったと吉之助は思っています。この点では、杉山先生が指摘した昭和30年の状況と何も変わっていないわけです。
したがって「そういった意味じゃ三島君の夢は、(歌舞伎を)一ぺんふるさとに帰す取っ掛かりをつけることだね。」というところをよく考えなければ、三島歌舞伎のホントのところは分からないということだと思います。三島が考えるところの「歌舞伎のふるさと」というのはどんなものなのでしょうか。
「新しいのは新劇で結構だ」
三島は歌舞伎作品を8本書きました。まず最初が柳橋みどり会のために書いた舞踊劇「艶競近松娘」と「室町反魂香」(昭和26年10月)、「地獄変」(昭和28年12月)、つづいて「鰯売恋曳網」(昭和29年11月)、「熊野」(昭和30年2月)、「芙蓉露大内実記」(昭和30年11月)、「むすめごのみ帯取池」(昭和33年11月)でした。そこから約10年の空白があって、最後に書いたのが「椿説弓張月」(昭和44年11月)です。
三島:「地獄変」は実のところ少々面白半分で書いて、「鰯売」はもう十分手に入って書いたつもりで、「大内実記」じゃ、もう大凝りに凝っちゃってね、それで大体限界が分っちゃったんです。つまりそれからは詰まらなくなっちゃった。」
郡司:「(作品を役者に)当てはめて書く限界じゃないですかね。」
三島:「俳優は割りと考えないんですよ。よく書けたと言われるけれども、考えないんです。古典劇の楽しさを何とかして出そうとしたのが「大内実記」なんですが、これが退屈になっちゃった。それを救うのが浄瑠璃なんで、「大内実記」もそれをやったんだけど、(役者が)新作としてとてもついて行けない。初めの前段が終わって、舞台を空にして、また長々と浄瑠璃の語りが始まると、とてもついて行けないというんです。これが文楽なら幾らでもやってるんですがね。」
この座談会は昭和32年のことですが、「詰まらなくなっちゃった」と三島は言っているけれども、すぐに「むすめごのみ帯取池」を書いたのです。しかし、この後に、「椿説弓張月」を書くまでに約10年の空白があります。この空白の10年にはいろいろな意味がありそうです。恐らくこの時期の三島はもう再び歌舞伎を書くつもりはないという気持ちであったと思います。昭和30年の「大内実記」以後、三島は歌舞伎に対する情熱を次第に失い、そのエネルギーを新劇に振り向けることで・その渇を癒したと吉之助は想像します。それは例えば文学座創立20周年記念公演のために書かれた「鹿鳴館」(昭和31年11月初演・主役の影山伯爵夫人朝子を演じたのは杉村春子)です。あるいは「サド侯爵夫人」は昭和35年11月初演・主役のルネを演じたのは丹阿弥谷津子)です。どちらも新劇として書かれているけれども、どこか様式的な歌舞伎の感触を持つ作品です。新劇役者の方がそのような古臭い匂いに何かしらの新鮮さを感じて飛びつく。少なくとも新劇役者は作品に対して素直に取り組む・素直に作品を考えようとするということだったのかも知れません。
三島:「新しいのは新劇で結構だ。(笑)」
郡司:「それは名言だ。」
三島:「ところが歌舞伎役者は洋食を食うのが好きで、踊りの先生はゴルフをやるのが好きだし、新劇の役者は、このごろ能・狂言を見に行くのが好きでね。」
杉山:「小唄もあるよ。」
郡司:」「歌舞伎役者が新しいことをやるよりも新劇の人が古いことをやる方がまっとうかな。」
昭和41年(1966)11月に国立劇場が開場とまり、この時に国立劇場の方針として七つの項目が掲げられました。それは原典の重視、通し狂言中心、古典作品の復活、上演演目の選定と演出の分かり易さ、配役の適材適所、演出の統一、伝統的な歌舞伎の技法を基盤とした戯曲の創作と上演、というものでした。(国立劇場の現状を見ると、その理想は何処へ?ということになるかも知れませんが、そのことは今は置く。)翌・昭和42年3月に三島は国立劇場の非常勤理事に就任しました。
三島が「椿説弓張月」で歌舞伎に戻ってくるのには、心中期するところがあったに違いありません。昭和44年に書かれた「椿説弓張月」がそれまでの三島の歌舞伎作品と異なる点は、まずひとつは松竹歌舞伎ではなく・国立劇場での上演のために書かれたものであることです。次にそれまでの作品で主役を演じてきた六代目中村歌右衛門が出ていない・つまり歌右衛門のために書かれたのではないこと。もうひとつは、これまでの一幕物ではなく・多幕物の通し狂言として書かれたことです。このことすべて国立劇場の当初理念と密接に関連します。つまり、門閥主義で・手垢にまみれた歌舞伎の演出を作品中心に戻す、そのために自分は役者のためにでなく・歌舞伎のために(自分の見たい理想の)歌舞伎を書き・これを自分の演出で上演する、歌舞伎を面白く見せる為に役者にだけまかせておけない、国立劇場に出演する役者は家の意識を捨て・演出には従ってもらわなければならないということなのです。
王の無知を嘲笑う道化
別稿「アジタートなリズム〜歌舞伎の台詞のリズムを考える」でも触れましたが、三島は本読みが巧い人でした。本読みというのは、芝居稽古の最初の顔寄せの時に集まった役者の前で作者が台本を読んでみせる儀式のことです。役者になったつもりで台詞を 本格で言うものではなく、あくまで感情を込めずにサラサラと読み飛ばすべきものですが、そこは自分の書いた台本を読みわけですから・そのなかに作者の意図が微妙に反映するものです。六代目歌右衛門が次のような証言をしています。
『お仕事で三島先生にお目にかかったのは、初めは「地獄変」でしたね。歌舞伎座の貴賓室で本読みなさいました。私、それを伺って、先生は歌舞伎がお好きだということが、なんかとってもはっきり分ったのです。ええ、大変なのです。とても大時代なの。(笑)もう本当にね。「じゃわいなあ」というのが大変な長さなのよ。(笑)先生のお好きなのは、そういう歌舞伎ですね。(中略)それこそ本当に観ているようなの。本当ですよ。歌舞伎の本読みなさるのとは、ちょっと違うわ。』(六代目中村歌右衛門、三島由紀夫との対談:「マクアイ・リレー対談」・昭和33年6月)
三島の本読みは、「椿説弓張月・上の巻」の録音を実際に全集で耳にすることができます。 その本読みは義太夫と下座音楽も交えたものですが、役者気取りで声色をしているということではなく て、あくまで本読みです。本読みだから感情を抑えて・淡々と進めようしていますが、やはり歌舞伎好きの地は抑えきれないようで、役によ り口調を丁寧に描き分けて・なかなかのものだと思います。昭和44年11月国立劇場初演の「椿説弓張月」総稽古の際に、三島はこの録音を持ち込んで、居並ぶ役者たちに向かって(正確な物言いは分かりませんが)「こんな感じで演ってくれ」ということを言ったそうです。これに役者たちが反発してしまって、その後の稽古がギクシャクし始めたのです。
三島は、国立劇場での「椿説弓張月」上演は・これまでの松竹歌舞伎と上演の考え方がまったく異なるもので、役者は家の意識を捨て・作者兼演出家である自分の考え方に全面的に従ってもらわなければならないというスタンスを全面的に打ち出した のです。ところが、これは歌舞伎役者には受け入れられませんでした。歌舞伎役者というのは、25日興行で・月が変わればまた違う演目が始まる、そのサイクルでとりあえず観られるレベルに数日で仕上げる手腕は優れているのです。役作りは個々の役者に任され、座頭格の役者が全体の流れを整理すれば・それで 済むのです。しかし、何ヶ月もかけて作品を読み込み・役を解釈し、ひとつのコンセプトのもとにアンサンブルとしての舞台をがっちり作り上げてことにはまったく不慣れなのです。
国立劇場設立当初のコンセプトのなかには、型(演出)の整理・定本となる上演を目指すということがありました。これが三島の論拠でした。いきなり「仮名手本忠臣蔵」で型の見直しをやろうとすれば、在来型を演り慣れた役者の抵抗が大きいことは必至です。新作である「椿説弓張月」ならば前例(型)はないわけだし、演出は作者である三島自身が行なうのだから大丈夫 だと、三島は踏んだのかも知れません。しかし、実際には役者の反発は想像以上に大きかったのです。
『(三代目)市川猿之助さんがある日こういった。三島由紀夫さんは歌舞伎のことを本当にはご存知なかったから、おかしいことや滑稽なことが多かったですよ。でも三島さんが国立劇場でやった「椿説弓張月」 には出演してたんでしょう、とぼくはきいた。うん、でてましたよ、猿之助さんはかすかな微笑をうかべていった。その微笑みは、まるで王の無知を嘲笑う道化、といった明るささえただよわせていた。ぼくは「椿説弓張月」の猿之助さんの熱演をおもいだしながら、芸能する者が文学を至上のものとする者にたいしていだく、これは生理的な報復なのだと思わずにはいられなかった。』(蜷川幸雄:「道化と王」〜「卒塔婆小町・弱法師」演出メモより〜「蜷川幸雄・Note1969−2001」に所収・河出書房新社)
三島は「椿説弓張月」演出に相当てこずったようです。「椿説弓張月」での失敗が三島の自決の遠因になったと分析する研究者さえあるほどです。まあそれはないだろうと吉之助は思いますけれども、三島がかなり落ち込んだことは事実です。評論家古林尚との生涯最後の対談でも「椿説弓張月」演出について「どうにもならん。僕も手こずってね。自分の演出力を貧困を告白するようなものだが、どうにもなりませんね。」とうめいています。
それにしても、作家が歌舞伎に夢見たものの芸術的なレベルがどうかということは確かにあるでしょうが、原作者・演出家がそのアイデアを具現化しようと悪戦苦闘している時に、作家(あるいは演出家)に対する尊敬を忘れて、役者がせせら笑って・言う事を聞かないで・自分勝手なことをし始めるのでは、お話しにならないのではないでしょうかね。「歌舞伎ってのはそんなもんじゃないんだよ、こうやったら歌舞伎になるんだよ、そんなことも知らないのかよ」というわけです。そういうのは役者の態度として良ろしいものでしょうか。「椿説弓張月」稽古で起こったことはそういうことなのです。
「おそろしかりける」の響きが重要なのだ
武智鉄二は、女形の台詞の末尾の「・・・じゃわいなあ」という修飾が大嫌いな人でした。「・・・じゃわいなあ」という箇所で台詞の息が抜けると云うのです。武智は 昭和30年に「近代能楽集」の「綾の鼓」を演出した時のことを、次のように回想しています。
『例を挙げると「綾の鼓」の後の場で、華子が言う待ち謡(別段待ち謡として書かれたものではないけれど、しかし、能楽的ドラマツルギーのなかで、それは必然的に待ち謡の形式を捉えていた)の文句、「来ましたわ、私来ましたわ、あなたが来いとおっしゃったからよ」を、謡のフシをつけて謡ってみると、それがいかにも冗長で冗漫な感じが、私にはしてきたのであった。つまり、それは接尾語だけが余分だという感じであった。謡の文句としては、「私来ました。あなたが来いとおっしゃったから」で十分なのであった。「わ」とか「よ」とかという言葉が、謡独特のフレージングをつけたユリブシで長く引き伸ばされて謡われる時、現代語の空虚が、伝統芸術という祖先の声によって、厳しく批判され、非難されているという気が強く実感として、私に起こったのであった。』(武智鉄二:「三島由紀夫・死とその歌舞伎観」・昭和46年)
台詞の核心にビラビラした装飾的な尾ひれが付く感覚が、武智は嫌なのです。武智はこの台詞は、「私来ました。あなたが来いとおっしゃったから」で十分だと言います。能においては台詞の核心をシンプルに提示すれば良いわけで、これで台詞の意味は通るからです。「来ましたわ、私来ましたわ、あなたが来いとおっしゃったからよ」というと、武智の言う通り、どこか装飾的で余計なもの を感じます。この装飾的な尾ひれには、恐らくいわゆる女性らしさとか・媚びであるとか・あるいはその役の生活感とか、いろんなものが絡みついています。武智は、そういうものを余計なものだと します。素材としてシンプルに女性を提示出来れば、それで良いはずだと武智は考えます。吉之助は弟子を自認するくらいですから武智の言いたいことはもちろん良く分かります が、歌舞伎の女形の場合には、吉之助は師匠とは若干違うことを考えています。
武智の言うことを逆に取るならば、次のようなことが考えられます。「・・・じゃわいなあ」というのは歌舞伎の女形の常套の修飾ですが、いわゆる女性らしさとか・ 女くささ、あるいは女性の媚びやしなり、あるいは役の生活臭とか、そのようなものを表現するために、歌舞伎の女形は「・・・じゃわいなあ」という修飾を必要としたということです。歌舞伎の女形は、能のような象徴性にとどまっているわけに行きません。もっと具象的で生(なま)に近い女性を提示せねばならないのですから、素材としてシンプルに女性を提示出来ればそれで十分というわけに は行かないのです。しかも、女形は男性が女性を演じるという嘘が前提になっていますから、その齟齬を覆い隠すための修飾が必要になってくるのです。つまり、「・・・じゃわいなあ」こそ歌舞伎の女形の本質そのものだということになります。このことは歌舞伎の本質にも深く結び付いてきます。
三島と武智との対談「現代歌舞伎への絶縁状」のなかで、武智が「今の歌舞伎には「じゃわい」とか、「わいな」とか、そういうものがいっぱいついている」といつもの自説を披露しますが、対する三島の方は、「あなたは昔からきらいですね、ああいうのが・・」と力なく応えています。この対談が行われたのは昭和45年7月9日 (つまり自決の少し前のことですが)のことで、その前年の国立劇場での「椿説弓張月」初演で三島がかなり自信喪失したらしいことが察せられます。しかし、本来ならこの場で三島はこんな風に反論しても良かったはずです。
『歌舞伎劇を歌舞伎様式で書くことが何か実験的なことであるとは、日本的近代のふしぎな現象である。歌舞伎は楽劇である。伴奏音楽にはもちろん、セリフにも音楽性が要求され、殊に浄瑠璃の入る場面では、情景描写も心理も音楽の助けを借りて構成される。ところでその音楽は、伝来の日本楽器であって、西洋音楽とは成り立ちがまるで違う。その旋律自体が、古文の、それもきわめて特殊な文体にのみ完全に調和するようにできている。ナマな現代語が一語入っても、音楽は崩れ去る。舞台のハーモニーは消失する。「おそろしかるける」は、あくまで「おそろしかりける」であって、この「おそろしかりける」の響きが重要なのだ。むかしの浄瑠璃作者や歌舞伎作者は、そんなことはみん なカンで知っていた。俗語を使っても、俗語が様式とどこまで馴染むかは、職人のカンでよく分かっていた。現代のわれわれはそうは行かない。擬古文を書くこと自体が、ディレッタンティズムであり、一定の知的教養の所産である。こういう教養の産物が、いきいきとした歌舞伎の生成期の作品の息吹を、どこまでわがものにできるか、それは不可能に近い無謀な「実験」になるのである。』(三島由紀夫:「「弓張月」の劇化と演出」・昭和44年11月・国立劇場プログラム)
ここで三島は、文体には「おそろしかりける」はあくまで「おそろしかりける」でなくてはならず・「おそろしき」では駄目な場合がある、だからこの箇所は「おそろしかりける」と自分は意識して書くのだと宣言しているのです。
武智の「近代能楽集・綾の鼓」批判を先に出しましたから・吉之助の考えを言えば、これは我が師匠に対する反論になりますが、三島はこの芝居では「私来ました。あなたが来いとおっしゃったから」では駄目だと感じたに違いないと、吉之助は思うのです。三島には「来ましたわ、私来ましたわ、あなたが来いとおっしゃったからよ」でなくてはならない 何かがあったはずです。「来ましたわ」 を繰り返すそのリズム、「からよ・・」という響きが重要であったに違いないのです。もし本当に三島が現代語を使って能様式の芝居を書くつもりであったのなら、もちろん三島は「私来ました。あなたが来いとおっしゃったから」と簡潔に書いたでしょう。三島がそう書かなかったということは、三島には 現代風俗や現代語を使って能様式で芝居を書くという意図はなかった、「近代能楽集」というタイトルにそのような意図は込められてなかったということであろうと理解しています。 世阿弥が現代に生きていればこんな現代劇を書いたかなという遊び心であろうと思います。この点を多くの文学者・演劇関係者が誤解していると思いますねえ。 三島のほどの天才ならば、書こうと思えば簡潔な台詞くらい簡単に書けたはずです。敢えてそれをしないところに三島の意図があるのです。
「近代能楽集」と「椿説弓張月」の創作態度は、その方向がまったく異なります。「近代能楽集」は現代語・現代風俗で能の題材を芝居に仕立てるということです。「椿説弓張月」は、曲亭馬琴の原作を材料に現代の作家が現代の感覚を加えて擬古文で歌舞伎にするということです。
『こういう教養の産物が、いきいきとした歌舞伎の生成期の作品の息吹を、どこまでわがものにできるか、それは不可能に近い無謀な「実験」になるのである。』
それでは「椿説弓張月」歌舞伎化に際して、三島はどんな夢をその文体に託したのでありましょうか。以後にこのことを考えていきます。
三島歌舞伎の言葉の過剰性
三島由紀夫の小説・戯曲については、言葉が装飾的でキラキラして・細工物のように精緻であるけれども・そういう作為的なところが好きじゃないという方は結構いらっしゃると思います。逆に吉之助はそこが好きなのですがね。このことは別稿「三島演劇の言葉の過剰性について」で触れました。三島文学の言葉の過剰性というものは、ちょうどモーツアルトが存命中に・当時の聴衆から「モーツアルトの音楽は音符が多過ぎて、うるさい」と言われたのと同じようなものです。現代のわれわれから見れば、モーツアルトの音楽は耳に心地良いロココ調で 、「うるさい」などと夢にも感じないでしょうが、モーツアルトの音楽の過剰性は当時の保守的な聴衆(それは当時の王侯貴族たちでしたが)をイライラさせた前衛性であったということです。そのためにモーツアルトは有力なパトロンが得られず、生活苦で若くして死にました。吉之助は、三島文学の言葉の過剰性を前衛性として捉えて行きたいのです。とりあえず「近代能楽集」について考えてみます。三島由紀夫はこう言っています。
『「おそろしかるける」は、あくまで「おそろしかりける」であって、この「おそろしかりける」の響きが重要なのだ。』(三島由紀夫:「「弓張月」の劇化と演出」・昭和44年11月・国立劇場プログラム)
三島の言葉から考えられることは、(これは畏れ多くも我が師匠武智への反論になりますが)明らかに三島は「私来ました。あなたが来いとおっしゃったから」という響きではなく、「来ましたわ、私来ましたわ、あなたが来いとおっしゃったからよ」の響き(あるいはリズム)を必要としたということなのです。どこに「近代能楽集」の前衛性があるのでしょうか。それはまさに武智が指摘している「いかにも冗長で冗漫・接尾語だけが余分」というところにあるのです。日本語の接尾語には、いろいろな余分なイメージが付きまといます。そこから身分とか・性別とか、あるいは生活の匂い・感情の微妙な綾などが醸し出されます。そのような余分なビラビラした言葉が引きずっているイメージ、これをキラキラした言葉の機関銃に仕立てること、これこそが「近代能楽集」の前衛性となるものです。つまり、ダダダ・・と打ち出されるリズムの煌めきのなかに、接尾語があるのです。(その前衛性は鈴木忠志演出SCOTの「サド 侯爵夫人」の舞台によく出ていたと思います。別稿「三島演劇の言葉の過剰性について」を参照ください。)
同様に三島歌舞伎「椿説弓張月」にも言葉の過剰性があるわけですが、そこでは発想ベクトルが逆になってきます。現代劇では機関銃のようにダダダ・・と出ていた言葉が、三島歌舞伎では逆となるのです。つまり、接尾語が伸びていくのです。「・・・じゃわいなあ」が伸びていくのです。そこに三島歌舞伎の前衛性があるのです。六代目歌右衛門がこう証言しています。
『お仕事で三島先生にお目にかかったのは、初めは「地獄変」でしたね。歌舞伎座の貴賓室で本読みなさいました。私、それを伺って、先生は歌舞伎がお好きだということが、なんかとってもはっきり分ったのです。ええ、大変なのです。とても大時代なの。(笑)もう本当にね。「じゃわいなあ」というのが大変な長さなのよ。(笑)先生のお好きなのは、そういう歌舞伎ですね。』(六代目中村歌右衛門、三島由紀夫との対談:「マクアイ・リレー対談」・昭和33年6月)
いわゆる新歌舞伎というものは、座付作者ではない・外部の文学者が歌舞伎を書いたもので、その多くが、綺堂にしても青果にしても、現代語のタッチで書かれたものでした。ほとんど三島のみが擬古文調で歌舞伎を書きました。擬古文調で歌舞伎を書くことが、少年時代から歌舞伎好きであった三島の回顧趣味か(それはある意味事実ですが)、教養趣味か・はたまた時代錯誤の産物であったかのように世間では思われていますが、それは間違いなのです。三島自身がそれは「実験」だとはっきり書いています。
『こういう教養の産物が、いきいきとした歌舞伎の生成期の作品の息吹を、どこまでわがものにできるか、それは不可能に近い無謀な「実験」になるのである。』 (三島由紀夫:「「弓張月」の劇化と演出」・昭和44年11月・国立劇場プログラム)
前項で『「・・・じゃわいなあ」こそ歌舞伎の女形の本質そのものということになる、これは歌舞伎の本質にも深く結び付く』ということを書きました。実は、これは塩梅がとても難しいところです。「・・・じゃわいなあ」が歌舞伎の本質だと言いながら、実は吉之助も、師匠武智と同じく、「・・・じゃわいなあ」が好きではありません。それはちょっと塩梅を間違えると、吉之助の大嫌いな、いわゆる「歌舞伎らしさ」の方に墜ちていくのです。歌舞伎臭い・ダラ〜ッとした定型演技に墜ちていく。しかし、それが歌舞伎の本質に深く結び付いていることも、また確かなのです。ですから本稿冒頭に引いた利倉先生の発言がここで大事になって来ます。
『今の歌舞伎役者に、三島さんの「鰯売」が黙阿弥よりももっと前のものだっていう、その程度のことがもし分かっているとすれば、もっと面白くなるんじゃないかと思いますね。(中略)昔の本を持ってきても昔の芝居がやれなくなってきているということ、それだけに新しい人(三島)のものだと、もっと難しいわけですね。』(利倉幸一:座談会「共同研究・三島由紀夫の実験歌舞伎」・雑誌「演劇界」昭和32年5月号)
つまり、歌舞伎役者が昔の本を持ってきても昔の芝居が出来ない・その作品が初演された時のような、たった今生まれたような・洗い立てで糊の利いたワイシャツのようなパリッとした感覚で、歌舞伎役者が芝居を作れないということです。実は、そこが現代の歌舞伎役者の問題なのです。(昭和30年代には歌舞伎批評でもそのような議論があったわけですね。これは今の感覚だと、ちょっと驚きではありませんか? )下手をすると、いかにも使い古して・ちょっと饐(す)えた匂いのする衣服のような・間延びした感覚の芝居になってしまうのです。真新しい陶器に古色を施して、江戸時代の贋作に仕立てるようなものです。それでは困る。歌舞伎役者には、本物の江戸を再現してもらいたいわけです。ですから「・・・じゃわいなあ」は伸びても良いけれども、伸び過ぎちゃあいけないということになるでしょう。 (正確には息遣いと云うか・フレージングが問題なのですが、本論ではそこまで深入りしない。)そこから三島歌舞伎の言語の過剰性の、前衛的な要素が浮かび上来ることにな ります。それじゃあ、そこをどうするか。その塩梅が難しいところです。
三島が竹本付きで「椿説弓張月・上の巻」を本読みして録音したのは昭和44年8月下旬(東京・杉並公会堂)で、これは「椿説弓張月」初演(昭和44年11月国立劇場)の2か月前のことでした。芝居好きの三島だけに役により口調を丁寧に描き分けて・なかなかのものですが、キリッと引き締まった密度の高い出来とまで行っていないのは確かです。細部を丁寧に描写しようとして、間延びしているところが結構あります。まあこれは素人だから仕方ないことではあります。しかし、そこを割り引いて聴くならば、 一生懸命さのなかに三島が歌舞伎に求める「昔の芝居」のイメージが垣間見えては来ないでしょうか。「昔の芝居」のイメージを想像しながら、そこの塩梅をどうするかということを、考えながら 録音を聴かねばなりません。洗い立てで糊の利いた ワイシャツのようなパリッとした感覚に出来るか、饐えた匂いの使い古しの衣服の感覚に墜ちるか、実はそれはほんのちょっとの差なのです。
あらかじめ悲劇になることを拒否されたドラマ
三島の「椿説弓張月」は、それまでの三島の歌舞伎作品が一幕物であるのに対し、多幕物であるということも、その特徴です。これは曲亭馬琴の長編小説の劇化ですから、筋を追って、主たる場面・面白い山場をピックアップして劇化していくならば 、自ずと多幕物となるということは 、もちろんあります。ところで多幕形式の芝居というものの・多幕たる意味は、どこにあるのでしょうか。この点については「近松世話物論〜歌舞伎におけるヴェりズモ」で触れましたが、古典悲劇においては英雄が破滅していく過程を因果論的に論理的に積み上げていく、そのために多幕形式が必要 となるのです。そうすることで主人公が悲劇的状況に陥ることを「然るべき・やむを得ないことだ」と観客は納得することができるわけです。そう考えるならば、三島の歌舞伎「椿説弓張月」には、時代物の悲劇たる大事な要件が欠けていることが分か ります。
それは歌舞伎「椿説弓張月」では、主人公源為朝はある状況において悲劇に落とされるという・その過程を描いているのではなく、為朝は芝居の最初から悲劇の主人公として「在る」ということです。歌舞伎「椿説弓張月」の上の巻は伊豆国大嶋の場であって、保元の乱で負けて、伊豆大嶋に流された流人となって 以降の為朝を描いています。三島は、馬琴の小説の前半部分、そこは歴史物語「保元物語」に取材し・多少の誇張はあっても大筋において史実に乗っ取った部分であるわけですが、その部分をばっさりカットしてしてしまいました。
為朝は強弓において無双の豪の者とされ、鎮西を名目に九州で暴れ、鎮西八郎を称しました。保元の乱では父・為義とともに崇徳上皇方に属して奮戦しま した。この時、為朝は敵陣に夜討ちをかけることを進言しますが、左大臣・藤原頼長に退けられました。ところが逆に敵方が夜討ちをかけてきて、そのために崇徳上皇方は敗退してしまいます。つまり為朝の進言が入れられていれば崇徳上皇方は勝ったかも知れないわけで、こうして為朝に「あともうちょっとのところで勝利が実現するというところで、勝利がスルリと逃げてしまう」悲運の武将のイメージが出来上がります。史実の為朝は、配所の大嶋において国司の命に従わず伊豆諸島を支配しようとしたため、追討を受けて自害したとされています。しかし、民衆はその死を惜しんで、実は為朝は追討を逃れて現在の沖縄に渡って・為朝の子が琉球王家の始祖舜天となったという伝説がいつしか生まれま した。馬琴の小説の後半部分は、この大嶋以後の為朝伝説を基にして馬琴一流の空想を展開したものです。
『英雄為朝はつねに挫折し、つねに決戦の機を逸し、つねに死へ、「孤忠への回帰」に心を誘われる。彼がのぞんだ平家征伐の花々しい合戦の機会は、ついに彼を訪れないのである。』(三島由紀夫・「弓張月」の劇化と演出・昭和44年11月・国立劇場プログラム)
三島の歌舞伎「椿説弓張月」は、馬琴の小説の・大嶋以後の為朝を取り上げています。つまり、馬琴の小説の前半部分をバッサリ切り落とすことで、為朝の英雄たる描写をほとんど捨てています。三島は、主人公為朝の悲劇のドラマを描いているのではなく、主人公為朝の・悲運たる有様、夢は描いても決して実現はされない、夢が実現するかと思った瞬間にスルリと彼の手から逃げてしまう」という悲運の状況だけを描いているのです。
つまり、歌舞伎「椿説弓張月」には、時代物の悲劇たる大事な要件が欠けていることになります。 このことは歌舞伎の時代物として見た場合、腹にグッと来る悲劇の重みを実感させてくれないということになります。 序幕は院本風の重々しい体裁を取ってはいますが、極論すれば、そこにドラマがないのです。もちろん三島ほどの天才が、このことを分からないはずがありません。分かっているから、三島はこの作品を見せ場の連続にしようとしました。三島の言を引きます。
『上の巻は、ギュウギュウ詰めにできたいわば「悲劇の缶詰」である。中の巻は、これに反して、一場一場に見せ場を設け、白峰の場の亡霊出現にはわざとプリミティヴなトリックを用い、又、木原山中山塞の場では、大嶋配流以前の武藤太処刑のエピソードをここへもってきて、馬琴らしいグロテスク趣味を横溢させ、さらに颱風のシーンでは、文楽語りによるスぺクタキュラーな場面を拵えた。下の巻では、夫婦宿の場で再び沈滞して、わざと古くさい、やりきれないほどねちっこいモドリの場面を描き、故意に「ト書き浄瑠璃」くさい浄瑠璃の文句を書き、一転して大詰では、澄んだ詩情を示して、為朝の清爽な人格を際立たせようと試みた。』(三島由紀夫・「弓張月」の劇化と演出・昭和44年11月・国立劇場プログラム)
しかし、たとえ見せ場があったとしても、見せ場が見せ場としてぽっかり浮かんだままで、それが悲劇の結末へ向かって繋がっていかないのです。 それぞれの見せ場が、乖離しています。見せ場が見せ場として機能せず、空虚さを漂わせることになります。これについては、三島との対談で作家石川淳が「実に作者というものはお気の毒だと思った。役者なんてものはないですね。脚本を生かすなんてものじゃない、なにかあり合わせの芸ですね。受け止めるというか、こなしているだけでね、芝居でもないし、歌舞伎ですらない。だから大道具をほめるしかない、あの船は大きかったというような」と率直かつ正直な感想を述べています 。(三島由紀夫・石川淳対談「破裂のために集中する」・昭和45年) これはまったくその通りなのです。ただしそれは役者の責任でもありますが、確かに脚本のせいに違いないのです。これに対して三島は「おっしゃる通りです。僕は悪戦苦闘しましたが。哀れですね、作者というものは。」と力がない返事をしています。
それでは三島の歌舞伎「椿説弓張月」は失敗作なのでしょうか。吉之助は、そのようには考えません。歌舞伎「椿説弓張月」は、あらかじめ悲劇になることを拒否されたドラマだと云うべきなのです。吉之助は、そこに三島の歌舞伎「椿説弓張月」の前衛性を見ます。それゆえ歌舞伎「椿説弓張月」は、あらゆる見せ場を取り込んで膨張して行きます。これは形式的な面から見たところの、過剰性だということです。実は、そこに歌舞伎「椿説弓張月」の現代性があるのです。擬古典形式をとっており ・時代錯誤の作品に思えるかもしれませんが、実はそこが昭和の新歌舞伎たる所以です。(このことはクラシック音楽における古典形式の完成形であるはずだった交響曲が、 その後、合唱を取り込んだり(例:ベートーヴェンの第九番「合唱」)、協奏曲風になったり(例:ベルリオーズの「イタリアのハロルド」・ラロのスペイン交響曲)、 オラトリオ的要素を取り込んだり(例:マーラーの第8番「一千人の交響曲」)して変容していくことにも似ています。)
三島ほどの天才の仕事です。歌舞伎「椿説弓張月」をあらかじめ悲劇になることを拒否されたドラマであるとして、見せ場が乖離した空虚な作品に意図的に仕立てたと、吉之助は考えているのです。このことは、三島作品として見た場合に、どういうことを意味するでしょうか。再び三島の言うことを引いてみます。
『英雄為朝はつねに挫折し、つねに決戦の機を逸し、つねに死へ、「孤忠への回帰」に心を誘われる。彼がのぞんだ平家征伐の花々しい合戦の機会は、ついに彼を訪れないのである。 あらゆる戯曲が告白を内包している、というのは私の持論だが、作者自身のことを言えば、為朝のその挫折、その花々しい運命からの疎外、その「未完」の英雄のイメージは、そしてその清澄高邁な性格は、私の理想の姿であり、力を入れて書いた・・・・』(三島由紀夫・「弓張月」の劇化と演出・昭和44年11月・国立劇場プログラム)
「あらゆる戯曲が告白を内包している」ならば、心情的に為朝が当時の三島の気持ちと重なることは明らかです。
『われわれは四年待った。最後の一年は熱烈に待った。もう待てぬ。自ら冒瀆する者を待つわけには行かぬ。しかしあと三十分、最後の三十分待とう。』(三島由紀夫:「激」・昭和45年11月25日)
昭和45年11月25日の三島の自決の時、吉之助は中学生でしたが、当時の報道は鮮明に記憶しています。吉之助には三島の目的はよく分からぬけれども、恐らく三島はその演説を聞いて自衛隊が立つなどということは まったく期待していなかったと思います。三島の考えていたことはむしろその逆で、三島は「その期待はつねに裏切られ、 つねに挫折し、そのたび機会を奪われる」と思っていたと思います。歌舞伎「椿説弓張月」を読めば、吉之助には、そのように思われます。
「椿説弓張月」幕切れについて
歌舞伎「椿説弓張月」最後の場面は、運天海浜宵宮の場となっています。すでに平家一門は西海に没し、為朝は「君父の仇亡びては、われ亦誰を仇として討つべき・・」と嘆きます。 自らの手で崇徳院と父為義の仇・平家を討つという為朝の悲願は機会を失して、またも実現されなかったのです。こうなっては為朝の残る願いは、崇徳院の御陵に詣で腹掻き切って死ぬことだけ しかない。為朝が祈ると、にわかに沖に白波が立って白馬が現れます。為朝は「これぞまさしく白峯よりお迎えの神馬と極まったり」と喜んで、神馬にまたがって、「必ず嘆くな、葉月も末の夕空に、弓張月を見るときは、この為朝の形見と思やれ」と一同に別れを告げて去っていきます。
これが歌舞伎の最終場面ですが、聞くところでは三島には、神馬にまたがった為朝が馬ごと宙乗りをするというアイデアがあったそうです。ちなみに三代目猿之助(現・二代目猿翁)が「 四の切」の狐忠信で初の宙乗りを行ったのが昭和43年(1968)4月国立劇場のことでした。多分、三島の思い描いたアイデアは、花道上客席をはるかに飛ぶのではなくて、舞台上を横に飛ぶという形 ではなかったかなと思いますが、馬ごとワイヤーで釣り上げるということは、当時は技術的な問題があって実現出来なかったようです。神馬にまたがった為朝の宙乗りは、その後、平成14年(2002)12月歌舞伎座での猿之助の為朝によって実現されました。 神馬にまたがった猿之助の為朝は、花道上を高く舞い上がってはるか三階客席へ消えました。
ところで吉之助が見たこの時の猿之助の為朝の印象ですが、最後の場面の宙乗りは如何にも猿之助歌舞伎らしい明るい幕切れでありましたねえ。客席は拍手喝采。きっと猿之助の為朝は新たな冒険を求めて新天地を目指して飛翔するのでありましょう。 「信ずれば必ず夢はかなう」というスーパー歌舞伎「新・三国志」での孔明の台詞を思い出しました。この時の雑誌に、スペクタクル性をふんだんに取り入れた三島の「椿説弓張月」がその後の猿之助のスーパー歌舞伎の出発点 であったと感激した劇評が出たようです。まああの幕切れならば、そういうご感想が出るのも分からなくはないです。しかし、「三島さんは歌舞伎のことを本当にはご存知なかったから、おかしいことや滑稽なことが多かったですよ」と薄ら笑いを浮かべていた猿之助のスーパー歌舞伎の原点が三島の「椿説弓張月」だったとするならば、これはずいぶん面妖なことではありませんか。
吉之助は、猿之助は三島の「椿説弓張月」の最終場面の意味を百八十度変えてしまったと思います。「歌舞伎ってのはそんなもんじゃないんだよ、こうすればもっと面白い歌舞伎に出来るんだよ」と言って中身を作り変えてしまったのです。昭和44年11月国立劇場での初演の時、中の巻・薩摩海上の場で・海に投げ出された高間夫婦が大岩に辿り着き・そこで壮絶な自害を遂げます。猿之助が演じる高間太郎は腹に大量の血糊を入れた袋を巻き付けて・刀を刺すと・そこから血がピューピューと吹き出して、この場面は当時の週刊誌でも「ハラキリ決定版」などの見出し付きで話題となりました。しかし、この場面については、寺山修司との対談で三島は、「あれは猿之助の工夫で、ぼくは、あんなに血を出す気はなかった」と語っています。(寺山修二・三島由紀夫対談:「エロスは抵抗の拠点になりえるか」・昭和45年7月)結局、猿之助はこの作品の表面的なスペクタクル性のみを受け入れて、三島を理解することはなかったと思います。三島が為朝について書いている次の文章を見てください。
『英雄為朝はつねに挫折し、つねに決戦の機を逸し、つねに死へ、「孤忠への回帰」に心を誘われる。彼がのぞんだ平家征伐の花々しい合戦の機会は、ついに彼を訪れないのである。 』(三島由紀夫・「弓張月」の劇化と演出・昭和44年11月・国立劇場プログラム)
曲亭馬琴の原作「椿説弓張月」残篇巻之五には、神馬に乗って去った為朝の後日談が記されています。讃岐国白峯の崇徳院の御陵を守る護衛が腹を十文字に掻き切った武士が御廟の柱に身を寄せて息切れているのを発見します。国の守護がその鑑定に向かいますが、従者のひとりが死人の面を見て、「怪しやこの者の面影は筑紫の御曹司(為朝)に似たり」と言います。これを聞いて皆はどっと笑い、「為朝はその昔大嶋で 自害したはずだ・どうせこれは平家の残党だろう」と言って誰も信じません。その後、かの死骸は忽然と消え失せて、行方がまるで分らなくなってしまい、人々はこれは狐狸の仕業で はないかと噂したとあります。
このエピローグが述べているところは 、スーパー歌舞伎の「信ずれば必ず夢はかなう」という宙乗りとは、まったく似て非なるものではないでしょうか。ここには絶対の孤独があります。吉之助は、「椿説弓張月」最後の場面の宙乗りには、「孤忠」が凝縮されなければならないと思います。幸運は決して為朝に巡って来ることはない。願望は実現することはなく、決して報われることはない。しかし、為朝は決して絶望しているのではありません。それでもおのれの信じるところに向かって進んでいくという気持ちを持っているということです。為朝にとっては、腹を掻き切るという行為でさえ、自己の信念を貫く前向きな行為です。死んでなお一層激しく生きるということです。それは悲しいまでに孤独で、身体にツーンと来るほど冷たい感触なのだけれど、失ってしまってはならない大切なものがそこにあるような気がする、そのようなものなのです。「椿説弓張月」では崇徳院・あるいは父為義への思いが繰り返し何度も語られますけれども、ここでの「孤忠」というものを、封建概念的な忠義という風に読むことは適切ではありません。それは自分の信じるものに対する忠であるという風に捉えた方がよろしいのです。そのように考えれば、それはまさに吉之助が云うところの「かぶき的心情」であることが明らかなのです。かぶき的心情があるのならば、それは確かに歌舞伎です。
ところで、幕切れの為朝の「必ず嘆くな、葉月も末の夕空に、弓張月を見るときは、この為朝の形見と思やれ」という台詞は、馬琴の原作の同場面にはないもので、これは三島の創作です。「月」というキーワードは、当時の三島が並行して取り組んでいた 遺作「豊穣の海」・四部作の題名にもあるものです。「月」というところに何か共通したイメージがあることが想像されます。これは別稿「三島由紀夫と桜姫東文章」で触れたことですが、改めて記しておきたいと思います。
「豊饒の海」という題名については、月にある窪地の名前から付けたということを、三島自身が書いています。はるか彼方の地球から見れば、それは満々と水を湛える豊かな生命の海のように見えるが、実はそこには何もなく・荒涼たる石と砂の平原だけが続きます。だから、それは虚無であり・不毛であり・幻であり・絶望を象徴している、それが小説「豊饒の海」の主題であると書いている評論が 実に多くて、これがほぼ定説となっているようです。しかし、そのように考える方々は、石ころだらけの草木も生えない不毛の平原が、視点を変えれば(つまり遠くから見る人が見るならば)、それはやはり豊かな生命の海であるという「 真実」をお分かりではないのです。 そのように読んでしまうと、「豊饒の海」の最終場面の意味が全然変わってしまうと思います。 三島は「月」を不毛の象徴として見てはいないという証拠を挙げておきます。
『こうした濃紺の夏富士をみるときに、本多は自分一人でたのしむ小さな戯れを発見した。それは夏のさなかに真冬の富士を見るという秘法である。濃紺の富士をしばらく凝視してから、突然すぐわきの青空へ目を移すと、目の残像は真白になって、一瞬、白無垢の富士が青空に浮かぶのである。いつとはなしにこの幻を現ずる法を会得してから、本多は富士は二つあるのだと信じるようになった。夏富士のかたわらには、いつも冬の富士が。現象のかたわらには、いつも純白の本質が。』(「豊饒の海」・第3巻・「暁の寺」)
三島が言いたいことは、そこに豊かな生命の海があると信じるからこそ、我々は月を憧れ続けることが出来るということなので す。たとえもしかしてそれが不毛の地であったとしてもです。 逆に歌舞伎「椿説弓張月」の幕切れにおいては、為朝の思いは「信ずれば必ず夢はかなう」というような明るい様相を呈することは決してないのです。そこには常に暗さが漂っている。「たとえそれが虚しいことであったとしても・・・」という悲壮感が漂っていなければなりません。そうでなければ三島作品には決してなりません。
歌舞伎「椿説弓張月」のスペクタクル性というものは、形式上から見たところの過剰性であるということを先に書きました。それは空虚さ・不毛さを象徴しています。石川淳が指摘している通り、「芝居でもないし、歌舞伎ですらない。だから大道具をほめるしかない、あの船は大きかったというような」というようなものです。ドラマ性と結び付かなければ、スペクタクルというものは、そういうことになるのです。三島ほどの天才がそういうことが分かっていないはずはない。だから意図的にそういる振りをしていることになるでしょう。ですから作品が呈する感触は直截的にはそんなところにあるのだけれど、読み手はそのような空虚さ・不毛さのなかから豊饒さを引き出して読まねばなりません。それでないと作品を読んだことにはならないのです。舞台では決して実現されることはないでしょうが(多分それが可能なのは映像においてのみでしょう)、白馬に乗った為朝は弓張月の方向へ向かって飛んで行き、やがて点となって消えていく、そのようなイメージが正しかろうと思います。そして、 その思いは三島自身の最後の「激」においても、多分、同じことなのだろうと思っています。 
 
「天人五衰」 三島由紀夫

 

1 自決についての政治的評価
三島由紀夫の「豊饒の海」は、昭和四十五年十一月二十五日に書き上がるが、同じ日に三島は自衛隊にクーデターを呼びかけ、「生命尊重以上の価値の所在を見せてやる」と「憲法に体をぶつけて」切腹して果 てた。
三島自決は唐突奇異の感をもって迎えられ、「三島狂せるか」と思わしめた。三島についての政治的評価は全く否定的である。
「三島の行動は民主主義に反する」という新聞の社説的見解が定着し、自決は不毛で無害なものに風化してしまったように思われる。
死後十年の余になって、彼の檄文を読んでみると、彼の行動に対する民主主義的全面 否定は全く無意味の事であり、三島は議会制民主主義の根幹である「日本国憲法」に問題を提起しているのである。この点について世間は、「楯の会」会長という彼の仮面 にまどわされて、その行動の小児性を軽蔑し去っているが、憲法九条に擬された白刃の光芒を私は見、戦慄を憶える。この日私は、檄のコピーを入手することができたので、不可解なる三島自決を理解しようと試みたのである。
三島の理論は歯の浮くようなもので、「自らを否定する憲法を守れ」などという屈辱的命令に憤慨し、「真の日本の自主的軍隊たるために共に起ち、共に死のう」というのである。自衛隊の体質は、四年間(学生は三年)「隊内で準自衛官としての待遇を受け、一片の打算もない教育」を受けた三島は熟知していたはずである。「『生ぬ るい現代日本で、凛烈の気を吸収できる唯一の場所』である自衛隊を愛するが故に、この挙に出た」というのは、彼が反省しているように「強弁」であろう。慎重な三島にして、昭和四十四年十月二十一日の総理訪米の日付を、二枚目では昭和四十五年十月二十一日とあやまっている。三島はよほど死に急いでいた。「死に場所、死ぬ 日」を求めていたといわざるを得ない。冷静に彼の檄文を読めば、かかる方法、かかる作戦によっては、自衛隊はその体質からしても、決起することはありえないことを承知の上で、「真の武士として死ぬ ために、切腹してみせた」のである。
これは「愚挙」であり「犬死に」といわざるを得ないが、「葉隠」によれば「武士に犬死にといふものはなきものなり。武士道とは死ぬ ことと見つけたり」とあるから、三島は武士道を実践したのである。まさしく、それは、「一片の打算なき」死である。日本国憲法と民主主義に対する抗議である。とすれば、民主主義的打算に立つ政治的評価は色を失うにいたるだろう。
三島は、七年制高校である学習院を、戦時の短縮のため高等科二年で東京帝大法科に入学し、そのため普通 より二年早く、最後の高等文官試験に合格し、大蔵官僚となった。戦争下の強烈なエリート教育だけを受け、しかも恩賜の時計までいただいたということは、全く不幸なことであったといわざるを得ない。彼の大義は「天皇を中心とする日本の歴史・文化・伝統を守る」ことに集約し、この視点から、「核停条約は五・五・三の不平等条約の再現であり、自衛隊は真の自主的軍隊として、本土の防衛責任を自覚せねば、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵と化するであろう」と予言するのである。  戦後の民主主義教育を受けた自衛官達に、この理論の高踏性が理解されることはないであろう。まして、一場の演説で、銃をとって国会へ行動をおこすことはありえない。二・二六事件の時代とは国軍のあり方が異なるのである。三島はそのことは承知の上である。まさにその国軍のシビル・コントロールのあり方を正すために、彼は自決する。  私は戦後、大蔵省につとめた三島に逢ったことがある。国民貯蓄課というところで、木造のガタガタ倉庫の如き建物の二階で、彼は郵便貯金の取締り係をやっていた。
大蔵省というと、霞ヶ関の厳めしい建物を思い起すが、それは何たる思い違いであろう。
「大蔵省というところはね。昨日煙草を一本借りたというので、今日は一本の煙草をうやうやしく返してくれるところだよ。」  とモーパサンの小説に見るような小役人の小市民性を笑っていたが、彼が文学のデーモンなどにとりつかれず、次官クラスになって、郵貯戦争で大衆に味方してくれる図を思いえがくのだが、それこそ彼の本来の大義「本位 」というものではなかったろうか。  公務員法は、暴力を以て時の政府を倒したり、煽動したりすることを禁じているので、彼は公務員をやめたら参議院全国区から立候補して、与党の大物になったかと思う。こういう具体的実現性をもった場合の改憲論は、切腹的方法よりはよほど戦慄に値する。
日本国が、外国の軍隊によって、侵寇されないという保証はどこにもない。朝鮮動乱を想起してみるならば、決起の如き南下軍は、壱岐・対馬・九州にまでせまるかと思われた。  非武装憲法を逆手にとって、時の政府は事なきを得たが、あの時点で、米軍特需に応ずるということは事実上の戦争であった。ベトナム戦争に巻き込まれたとすれば、日本は破局に立ったかもしれぬ と思う。
三島は憲法を改正して、自主的国軍の礎石たらんとするが、改憲は先のこととしても、自主的国防を必要とする時代は必ず当来するであろう。アメリカの傭兵となっては日本は生存もおぼつかない事態となる。  このあたりを恐れる三島の政治的信念を「狂」ということはできない。
三島は繁栄を謳歌する昭和四十五年に、栄華の中に腐臭を感じ、体制の根幹に白刃を擬して「天人五衰」を書いたのである。
2 「豊饒の海」の文学的評価
「豊饒の海」とは月の海の名であると三島は「春の雪」の後註に記している。月はこの小説の転生輪廻する円環の上にあって、直円錐状に、意識の隅々を照らしている。
見事な「様式」の完成であって、鴎外の「雁」以外に、これ程完璧な「様式」美を成した日本の作家を私は知らない。転生する夢の物語は、「浜松中納言物語」を典拠とすると註されているのは国文学者を悩ませてやろうという三島の策で、大古典の権威をもちだして転生輪廻する松枝清顕の話を現実化することに成功している。清顕は綾倉聡子と恋をして子を宿させるが聡子は宮家へ輿入れの話が進行する。やむなく聡子は月修寺で尼になるというプロットは浜松中納言の王朝の夢を再生して、川端康成に「古今を貫く名作、比類を絶する傑作」といわしめている。清顕は死ぬ が、その友本多繁邦は、三輪神社の剣道試合で飯沼勲を見出し、滝に打たれる飯沼少年に三つの小さな黒子があるので松枝の生まれかわりだと確信する。勲は奔馬の如く切腹して死ぬ が、暁の寺で、シャムの王女月光姫に再生する。ジン・ジャンの左乳首の左に、三つの黒子があるのを、本多は覗き見る。「浜松」では中納言と大姫の契りは、大姫が式部卿宮に嫁することになったので破れ、大姫は尼となり、中納言は、亡き父宮が唐の第三皇子に生まれ変わっているという、夢のお告げによって渡唐する。
三島の転生は「男―男―女」というように性を変えながら、それを思慕する本多(三島的人物)によって画かれてゆく。三島の転生は浜松の作者とされる菅原孝標女の夢よりも更に壮大である。私はここらに三島の間性をみるのであるが、年老いた本多は月修寺をたずねて、門跡となった聡子に逢う。八十三才の老尼は、「松江清顕さんという方は、お名をきいたこともありません。そんなお方は、もともとあらしやらなかつたのと違ひますか」と言う。「それなら勲もゐなかつたことになる。ジン・ジャンもゐなかつたことになる。……その上、ひよつとしたら、この私ですらも」と本多は、自己の存在も無とみる。
門跡の目ははじめてやや強く本多を見据え、「それも心々ですさかい」という。
この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまつたと本多は思つた。  庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしてゐる……          
「豊饒の月」完 昭和四十五年十一月二十五日  と、こう三島は書いて「決死」の行動を起こしたのである。
三島文学の「豊饒と不毛」については、「国文学 解釈と鑑賞」(一九七八年一〇月)に長谷川和泉氏の「神話か近代小説か」があり、長谷川氏は「天人五衰」を三島自身の「様式」の衰弱とみておられる。長谷川氏の分析によれば、「豊饒の海」各巻のキー・ワードは左のようになる。
「春の雪」 ― 「優雅」  「奔馬」 ― 「純粋」「武」  「暁の寺」 ― 「終末」  「天人五衰」 ― 「無」  そして、戯曲に於て卓抜な作品を残した三島が、戯曲を捨てた時に、様式家としての衰弱を示したものが「天人五衰」であるという。
長谷川氏の見解は『様式家が、外在的様式を充実させる緊迫、内面的充実と、創造性を喪失した場合に、内部から崩壊する危険をはらむことは当然』ということで、文学的評価もまた「不毛」であるとするのである。
佐伯彰一氏の「現代史のなかの三島由紀夫」は三島の政治性について同情的ではあるが、「神話的認識の作品化」「神話小説」であると「評伝 三島由紀夫」でのべておられる。これに対し長谷川氏は、「黒子」に転生のあかしを求めるようなおとぎ話を、すべて否定し去った老門跡に近代性に拮抗するものを見ておられる。
いずれにせよ、三島文学は五衰したと見るのであって、文学的評価もまた否定的といわざるを得ない。
3 「天人五衰」に対する宗教的唯識論的評価
「豊饒の海」は「正統的と見なさるべき神話小説であり、神話的認識の作品化」であると認めたのは佐伯彰一氏の「評伝 三島由紀夫」である。それでも佐伯は、「輪廻、魂の持続の全否定であるのか、それとも一種の解脱、個我超越の境地を暗示したものであるのか」という疑問を提起し、「最高の解脱の境地として、輪廻転生をすら一つの妄執と断じて、この途切れざる連環から解き放たれた状態を思い描くことができる」と唯識的思考構造を是認して、これは神話小説だというのである。
「春の海」に月修寺の先の門跡が、「唯式三十頌」についてのべ、眼・耳・鼻・舌・身・意の六識の奥に、第七識「末那識」(自我意識)があり、そのさらに奥に阿頼耶識があり、「恒に転ずること暴流のごとし」とし、無着の「摂大乗論」(大乗を総集したもの)の時間論をのべて、阿頼耶識と染汚法が現在の一刹那に同時存在して、それが互いに因となり果 となることで、この一刹那をすぎれば双方共に無になるが、次の刹那にはまた阿頼耶識と染汚法が新たに生じ、それが交互に因となり果 となる。存在者(阿頼耶と染汚法)が刹那ごとに滅することによって、時間が成立している。時間というものは点と線のように、刹那(点)に断滅しつつ連続する。
こういう説をのべて門跡のさとりが「池を照らす天心の月のやうに」自分たちの運命を照らし出しているのに気づかなかった。  と書いている。  月は、この意味で、円環をなす輪廻の頂点に立って見事である。様式の崩壊を説く、長谷川説は当をえないというべきであろう。
しかしながら、大乗のアーラヤ識を体得した三島であるなら、何故に不毛の死を遂げたのであるか、という疑問が生ずるであろう。
一切を無と観ずる悟りに立つなら、三島の行動は何と評価すべきか。これはおかしいのではないか、と宗教的評価もまた否定的にならざるを得ない。随所にちりばめられた三島の博識も印度哲学史をもう一度聞かされるような退屈の感を覚える。
4 「天人五衰」と三島の死の意味 ― その哲学的評価
三島は、望月「仏教大辞典」によって、「天人五衰」の項を書いている。それは「天人五衰」と題された四部作の最終章、四で、本多が夢を見るところからはじまる。三保の松原を天人が群飛するところで、望月「仏教大辞典」(Vol.4 P.3815)「天人五衰」の項を引き、起世経第七、三十三天品を引いて、その身には、火、金、青、赤、白、黄、黒の光明ありとし、特に、欲界天の交会について説明する。
「欲事を成ずるに、夜魔諸天は手を執り、(手をとり合ふだけで)兜率陀天は憶念し、(お互ひに心に想ひ合ふだけで)、化楽諸天は熟視し、(見つめ合ふだけで)他化自在天は共語し、(語り合ふだけで)情を遂げることができる」。  としている。  「魔人諸天は相看て共に暢適なることを得」というところは省略しているが、これは「見つめ合ふだけ」の化楽諸天と同じようなことになってしまうからであろう。
「仏説によれば」として
「天人の男は天子の膝辺、天人の女は天女の両股の内に生じ、自ら過去の生処を知り、常に天の須陀味を食する」とあるのは同経からの孫引きで、「又その寿量 尽きんとする時、五衰の相現ず」によって、五衰の一つの「本位を楽まず」という言葉を思い出し、「ずつと昔から本位 を楽しんだおぼえのない自分が、一向に死なないのは、天人でないせゐにすぎぬ のか」と考え、「本位はいささかも五衰を怖れてはゐなかつた」と重要なことを述べている。
五種の衰相についても、増一阿含経第二十四、仏本行集経第五、摩訶摩耶経巻下、大毘婆沙論第七十の大小二種の五衰をあげて、「もつとも詳細に亘つてゐる」と、仏教大辞典「五衰」の順に引用を続ける。
小の五衰は、
  一、音声は不如意にかすれてしまふ。
  二、身は薄暮のやうな影に包まれてしまふ。
  三、肌にも水が着くやうになる。
  四、一ヶ所に低迷して、いつまでもそこを脱け出すことができない。
  五、しきりに目ばたきするにいたる。
大の五衰は、
  一、衣服先には浄くして今は穢る。(浄らかだつた衣服が垢にまみれる)
  二、華冠先には盛にして今は萎む。(頭上の華がかつては盛りであつたのが今は萎み)
  三、両腋忽然として汗を流す。(両腋窩から汗が流れ)
  四、身体にたちまち臭気を生ず。(身体にいまはしい臭気を放ち)
  五、本座に安住することを楽まず。(本座に安住することを楽しまない)
を挙げ、「小の五衰の生じてゐるあひだは、死を転ずることも全く不可能ではないが、ひとたび大の五衰が生じた上は、もはや死を避けることができない」と述べる。
三島は、遺書としてこの遺言を残していることを知る。彼は、「本座に安住することを楽しまなくなつた」ので死を避けることはできないと述べているのである。  謡曲、「羽衣」の天人は、大の五衰の一をすでに現じているというのは、北野天神縁起絵巻の五衰図によっている。「手近の写 真版で」とことわりながら、
「頭上華は悉く萎み、内的な空虚が急に水位を増して……身体と精神の一番奥底で、まだたき続けてゐた火が今消えたのである。もはや腐敗がどこかではじまつてゐる気配を嗅いだ。遠い空を染める水あさぎ色の腐敗」を三島は絵巻の五衰図に見たのである。
三島自決の動機は、「本位を楽しまなくなつた」彼自身の腐敗である。のがれ難く、それは死に至るであろう。
作家は通例、辞典を引き写しをやらぬものである。やってもわからないように韜晦するのがふつうである。にもかかわらず、手のうちをトランプのカードのように示したのは、彼が遺書のつもりで、最後の切札を示しているのである。三島は「五衰」のカードを示し、そしてあとは、サッとカードを切ってしまった。
心にくきわざであるが、「豊饒の海」は「浜松中納言物語」を典拠とした夢と転生の物語であり、因みにその題名は月の海の一つのラテン名なる Mare Foecunijatis の邦訳である、などと後註する。これでもか、これでもか、と故人は五枚つづきのストレート・フラッシュをかけてくるように思える。昭和四十五年といえば、高度成長華やかな、豊饒の時代であった。三島は、この豊饒の中に、腐敗を嗅ぎとったのである。この腐臭に対して、「本位 を楽しんではゐられなかつた」のは三島の天才的直感といわねばなるまい。
5 意識と記憶の円環
私は、「豊饒の海」は三島の意識と記憶(こころ)を象徴的に画いてみせた意識小説だと想う。プルウストと同様の事を、三島は唯識論を借りて試みたものである。佐々木現順氏「仏教における時間論」は刹那の本質とその意義について、仏教における刹那(Ksana)という概念は、瞬間(Moment)と考えてよい。諸行とは events である。有部は「諸行無常にして生滅ある法」(長阿含遊行経)といい、世親は「諸有為法皆刹那滅」であるという。生・住異・滅は北伝の衆賢や南伝アビダルマ仏教の仏音によれば、インドの根本思想である輪廻転生の世界であると解釈し、仏教的刹那の構造としてこれを論理化している。
シチェルバトスコイ(大乗仏教概論)によれば、「唯識」とは唯心論的見解 Vijnana-vada ということで、小乗では限定できぬ意識(citta 心=manas 意=vijnana 識)に加えて、基本的な意識(alaya-vijnana 阿頼耶識)の存在を認め、外的世界の実在性を否定した。このヨーガ行派は二派に分れ、古派はアサンガ(無着)の流れをくみ、新派はディグナーガ(陳那)を継承する。神秘的直観にはいったヨーガ行者は、差別 を絶した純粋意識(advaya-laksanam vijnapti-matram 不二法相唯識量)の直接的認識を有していると考えられる。  かくして、小乗における因果律の理論は、大乗において変容され、実在して不滅なるブッダは神秘的直感にたよって認識せられる。
仏教は多元論から一元論へ向うのである。永遠の相の下に、輪廻は即ニルヴァナとなり、それは視角の変化によるとされている。
こういうヨーガ的神秘主義に、三島が近親感をいだいたのは、思えば三十数年の昔である。三島は稲垣足穂を「日本で唯一の天才」と認め、その「ミロク」について語ったことがある。弥勒(マイトーレア)の作とされる「瑜伽師地論」を展開したのが無着(アサンガ)の「唯識説」であるから、もともと三島はヨーガ的純粋意識に興味をもっていた。
「クナーベン・リーベ」と題する三島の未発表原稿によれば、稲垣のクナーベン・リーベは、「文体そのものが、かたい、少年のような肉感をもつ」という。
三島の自決を、政治的に、また文学的に、また宗教哲学的に、評価する時に、それぞれ否定的評価が下されること、前述の如くであるが、三島の意識の少年愛的展開とみれば、これはまことに同感、肯定せざるをえないのである。三島の間性については先に述べたが、彼は「若い時、結婚と自殺はしない」と約束したものである。自殺しそうなのは私の方であった。それにもかかわらず、三島は結婚して児をなし、遂に自殺し果 てた。
「豊饒の海」の巻頭にあらわれる滝の中の黒い犬の屍は、三島自身の屍を象徴するものである。三島の自決はまさに、黒い犬の屍のように「犬死に」である。
しかし武士道には、犬死にというものはない。武士道とは死ぬことであると葉隠は言う。切腹を報じる新聞紙上に、ころがされた三島の黒い頭部を見て、私は「春の雪」の黒犬の屍を思い出した。『これはまさしく「犬死に」を遂げたな』と思うのであった。  生命より貴いものとは何か。  三島の死は、のがれ難く死に至る昭和四十五年の、高度成長のもろもろの政治的腐臭を予感していないか。さらに最近の防衛論議の中核をも指し示してはいないか。アメリカの傭兵になるなとは、これは三島の残した決死の遺書なのである。
6  心とは何か
世親の『唯識二十論』は『世界は表象のみのものであると証明する二十詩頌』論というのが原題である。心、意、認識、表象はみな同義異語である。唯識は唯心ということで、世界はただ心の表象にすぎないと教えられる。人には自我がないと(人無我)さとり、人は、物事に実体がないこと(法無我)に悟入する。
『唯識三十論』は、三十の詩頌よりなる『唯現象識論』が原題で、ダルマパーラ(護法)の注が玄奘によってもたらされ、漢訳されて『成唯識論』として法相唯識宗の根本聖典となる。仏教来伝当時、道昭がこれを伝え、行基、良弁等の学匠が現われる。唯識では瑜伽行者の菩薩道という神秘階梯が述べられるが、これが日本人の心を深くとらえたのはなぜであろうか。
菩薩道は四段階に分れ、第一段階では、眼、耳、鼻、舌、身という物質的認識能力によって、認識される客体と、認識する主体を別 々にとらえる二種の執着が去らず、その潜在形態は滅することがない。
第二段階では、対象として実在する物自体にかかわりなく、唯、心であるにすぎないと見ても、現前に固執して、いまだその現象識を表象することを放棄していない。
第三段階では、認識される客体がないときには、その客体を認識する主体もないと知るので、知られる対象も、知るはたらきも、まったく平等で、いかなる構想もなく、衆生の世界内存在を超越した知が生ずる。主客二種の執着は放棄されて、みずからの心の存在するがままの如性の中心に心そのものがあって定まる。天人五衰の最後に、門跡がこういう心・心の無について説いている。  最高段階では、心は、認識する主体としての心がなくなり(無心)、迷いの存在根拠が転換し、新たなるさとりの存在根拠として、現成してゆくはたらき(転依)となる。解脱して自由の身になった身体は(解脱身)であり、大いなる沈黙の聖者(大牟尼)の、真理そのものと呼ばれる身体(法身)となる。
月修寺門跡は、こういう神秘体験を通してものを言っているので、あらゆる迷いの存在をあらしめる可能力をもつアーラヤ識の存在根拠を転換し、主体、客体という二種の限りなく深い迷いの有限性を知れ(無二知)というのである。心とは、「世界は観念である」と大乗仏教で説くもので、「心、意、認識、表象と、それに伴う心作用の連合」であって、「三界は心のみのものである」という時には外界の対象の存在をすべて否定するから、「のみ」というのである。
唯識は一元論的唯心論で、これはシャマンの神秘的融即(Participationmystique)に近いものがある。人間は側頭部に強い衝撃を受けると、記憶はなくなり、したがって時間の意識もなくなる。刹那の連続に痛覚だけがやって来るが、昨日痛かったということは忘れてしまう。これを軽度に実修するには、意識を眉間に集中したり、シャマンの出土例のように、側頭部を緊縛して成育し、側頭部が変形するほどの、「はちまき」を着けたりする。日本人がはちまきをするのは、記憶をやや喪失し、刹那に連続する心のはたらきにより行動するので、このはたらきを霊魂とみて不滅と考えれば宗教となり、一種の記憶喪失と考えれば心理学の問題となる。
三島にとって、心は唯識の説く神秘的認識であって、漢訳仏典の難解な壁を取去ってみれば、一元的唯心論に外ならない。三島が門跡に見たのは、永遠に母なるものへの思慕であるし、三島の行動は史的唯物論に対する刹那唯心論の最後の突撃である。
三島は「休戦ラッパの鳴り渡る、何の物音もしない世界」、を理想としていた。私も嚠喨と鳴り渡る休戦ラッパを敗戦の日、浜松の営庭できいた。三島は日本精神という「たてまえ」でなく、「本音」のところで日本人の心(意識)を描いてみせたのである。 
 
三島由紀夫 幻の遺作を読む

 

著者の井上隆史氏は三島由紀夫の遺稿を保存する山中湖文学の森三島由紀夫文学館の研究員で、「幻の遺作」とは副題に「もう一つの『豊饒の海』」とあるように、同館が収蔵する創作ノートと草稿の研究から想定された『豊饒の海』の別の結末である。
『豊饒の海』は輪廻転生の物語だが、生涯の最期をこういう作品で締めくくったからといって三島が生まれ変わりを信じていたと考える人はいないだろう。20歳で夭折しては転生する人物を主人公にすえたのは昭和の御代をまるごととらえるための大がかりな趣向であって、随所で披瀝される唯識説は趣向をもっともらしく見せるための飾りだというあたりが大方の受けとり方ではないか(わたしもそう考えていた)。
ところが本書によるとそうではないらしいのである。三島は生まれ変わりは信じていなかったにしても輪廻を救済と見なし、輪廻のメカニズムを説明する唯識説にも大真面目にとりくんでいたというのだ。
三島がはじめて輪廻に言及したのは思いのほか早く、昭和20年5月25日に執筆した「夜告げ鳥」という詩においてである。20歳の三島はこう書く。
「今何かある、輪廻への愛を避けて。
それは海底の草叢が酷烈な夏を希ふに似たが
知りたまへ わたくしを襲うた偶然ゆゑ
不当なばかりそれは正当な不倫なほど操高いのぞみだ、と
さように歌ひ、夜告げ鳥は命じた
蝶の死を死ぬことに飽け、やさしきものよ
輪廻の、身にあまる誉れのなかに
現象のやうに死ね 蝶よ」
詩は「蝶の死を死ぬこと」から訣別し輪廻を願えと呼びかけるが、ここでいう「蝶の死」とは三島が熱愛していた伊東静雄の「八月の石にすがりて」という詩を踏まえている。
伊東の詩は「八月の石にすがりて/さち多き蝶ぞ、いま、息たゆる」と蝶のはかない死を讃美し、それこそが「運命」だと歌いあげる。いかにも日本浪曼派的な悽愴美であり、処女作の「花ざかりの森」で惑溺していた世界でもあるが、20歳になった三島はそのような美に甘んじることなく、はかない美の背後に想定される永遠の輪廻にむかえと歌う。
なぜ三島は日本浪曼派の世界に訣別し、輪廻の思想にすがったのだろうか。
著者は詩の書かれた昭和20年5月25日という日付が鍵だという。入隊検査で肺浸潤と「誤診」されて出征をまぬがれた三島は神奈川県の海軍高座工廠に徴用されていたが、24日未明に自宅のあった松濤が爆撃されたと知り急遽帰宅した。その時に瓦礫と化した東京を見た衝撃が日本浪曼派的な美を色褪せさせてしまったのではないかと推定し、『暁の寺』で本多が目にする焼け野原こそその時の記憶だという。
三島にとって輪廻とは全的な破滅を「現象」として相対化してくれる永遠の視点であり、そのような視点を獲得することが救済となるというわけだ。
救済としての輪廻という思想は「夜告げ鳥」の直後に草した「二千六百五年に於ける詩論」(皇紀2605年は昭和20年)ではより一層明確に語られている。
「運命観の最高のものたる輪廻は、永遠と現存とを結ぶ環でもあるが、無数の小輪廻は個々人の裡にめぐりつゝ、相接する歯車の如く宇宙の大輪廻へと繋がります。即ち詩人は個人の小さき歯車の中でも特殊な歯車の持主といふべく、自我内の永遠から唐突が仕方で宇宙的永遠に連なる一方、この大小の永遠の間を、軽業師の身軽さと手妻使ひの気易さ、総て超自然の模倣者たる矜りを以て自由に往来するのであります。神人交通が詩人に於てほど容易になされる例はありません。詩人は輪廻を愛する人であります。」
輪廻が救済だという発想は仏教本来の考え方とは真逆である。仏教では生まれ変わり死に変わる輪廻を苦と見なし、輪廻からの脱却をはかる。解脱とはもう生まれ変わってこない状態のことである。仏教にはそもそも永遠の救済という発想はなく、阿弥陀仏に救いとってもらうのも修行のできる環境に生まれ変わって、現世でかなわなかった解脱をとげるためだ。もはや生まれ変わらず、消えてなくなることが仏教の最終目標なのである。
20歳の三島は輪廻思想を誤解していたが、戦後作家として登り坂の間は輪廻への憧憬が表面化することはなかった。事実『仮面の告白』にも『金閣寺』、『潮騒』にも輪廻は登場しない。
しかし『鏡子の家』の失敗と、それにつづく『宴のあと』裁判、深沢七郎の「風流夢譚」事件への関与、さらに文学座の分裂騒動が三島に中年の危機をもたらした。はたから見ると『からっ風野郎』で若尾文子と共演したり、ボディビルに凝って写真集『薔薇刑』を出したりと華やかな生活を送っているようだったが、実際は深刻なスランプにおちいり、三島がもともともっていた世界崩壊感覚を深刻にしたというのだ。
この危機にあたって焼趾の廃墟で20歳の時にすがった輪廻=救済という発想が甦えり、『豊饒の海』四部作の構想に発展したというのが本書の骨子である。
仏教的には輪廻が救済になるという考えは誤解以外のなにものでもないが、そもそも輪廻は救済になるのだろうか。生まれ変わり死に変わる永遠の生命などというものを持ちだしたら、今ここで生きている自分はかりそめの現象にすぎなくなり、むしろ虚無に突き落とされるのではないか。勲が清顕の生まれ変わりだと気がついた本多は「精神の氷結」から甦えるような歓びを覚えた反面、「ひとたび人間の再生の可能性がほのめかされると、この世のもつとも切実な悲しみも、たちまちそのまことらしさとみづみづしさを喪つて、枯葉のやうに落ち散るのが感じられた。……中略……それは、考へやうによつては、死よりも怖しいものであつた」と戦慄している。輪廻による救済は虚無と紙一重であり、この宙吊り状態が本多を、あるいは三島を輪廻の理論である唯識説研究に向かわせた。
唯識説は中観派の空観とならぶ大乗仏教の二大潮流の一つであるが、一切を空とする中観派に対し、現象の世界を顕現させる阿頼耶識の存在を認めており、阿頼耶識が輪廻の主体だと考える。阿頼耶識によって三島の世界崩壊感覚は解決されるはずだったが、著者が明らかにしたところによると三島が依拠した唯識説はわれわれが概説書など接することができる唯識説とはかなり違ったものである。
教理史的にいえば唯識説は説一切有部の三世実有説(荒っぽく要約すると事物は原子が仮に寄り集まったもので無常だが、原子そのものは過去・現在・未来にわたって実在するという考え方)を現在においてのみ実在すると修正した経量部から発展した思想で、心(識)の存在を現在においてはさしあたり認めており、一切を否定する中観派と鋭く対立していた。
ところがアサンガの『攝大乘論』を漢訳して最初に中国に唯識説をもたらした真諦は心がさしあたり存在するということは存在しないことと同じだとし、唯識説を中観派の空観に近く解釈していた。この立場を摂論宗という。
その後インド留学からもどった玄奘三蔵が唯識経典を新たに訳し直し、その新訳にもとづいて法相宗がたてられる。摂論宗は法相宗に圧倒され衰退したが、三島が学んだ唯識説は主流の法相宗ではなく、摂論宗の唯識説だった。
法相宗では阿頼耶識はそれ自体に悟りの種子を含んでおり、半ば汚れ半ば無垢な真妄和合識ととらえるのに対し、摂論宗では阿頼耶識はあくまで妄識にすぎず、悟りの要因は外から依りついているだけだと考える。三島は唯識説に救済を求めながら、よりによってニヒリスティックな摂論宗の立場にのめりこんでいくのである。
三島は『曉の寺』において空襲で焼死体の転がる渋谷の焼趾を前に本多にこう述懐させている。
「――これこそは今正に、本多の五感に与へられた世界だつた。戦争中、十分な貯へにたよつて、気に入つた仕事しか引受けず、もつぱら余暇を充ててきた輪廻転生の研究がこのとき本多の心には、正にかうした焼趾を顕現させるために企てられたもののやうに思ひなされた。破壊者は彼自身だつたのだ。」
『豊饒の海』の第三作で三島は救済から虚無へと舵を切った。最終作では虚無から救済へと反転し大団円を迎えるのだろうか。
大団円どころかより救いのない虚無へ落下していくことをわれわれは知っているが、著者は創作ノートを検討した結果、『天人五衰』とは別のプランが構想されていた時期があったことを明らかにした。それが副題でいうところの「もう一つの『豊饒の海』」である。
最後の章では著者はいろいろな時期の創作ノートを切り貼りし、ありえたかもしれないハッピーエンドを再構成しようとしている。ハッピーエンドで幕を閉じていれば『豊饒の海』は『失われた時を求めて』や『ユリシーズ』に匹敵する全体小説になったかもしれないというが、その構想は三島自身によって否定され、むしろ「世界崩壊の究極の形」として完結することになった。結局著者はこう結論する。
「『天人五衰』において『春の雪』にまで遡ってすべてを虚無で覆い尽くそうとしたのと同様に、三島はその文学活動の最後に、自分の作家的アイデンティティを確立させた『仮面の告白』まで遡り、その後の創作活動のすべてを解体し、虚無へと導いたのである。」
『天人五衰』は失敗作だと思っていたが、こういう見方もありうるわけである。今度読みかえしてみよう。 
 

 

 
書評に見る昭和

 

羅生門の闇 / 芥川龍之介『羅生門』 
私たちはだれしも青春の入口にさしかかるころ、いちどは芥川龍之介を手にとる。そして今まで読んでいた少年少女読み物や童話や漫画とは違った人生の香気といったものにふれる思いをもつ。何かしら今まで見えなかったものが見えはじめるような感動を覚える。つまり芥川の作品は年若い人々に文学への目を開かせる文学入門の役割を果すことになる。同じころ、人々は夏目漱石をも手にとってみる。そして多くの人々は青春を後にしてもういちど漱石の作品を読み返す。しかし芥川を再び手にする人は極めて少ない。この師弟の差はいったい何を意味しているのだろう。それは多分、芥川文学は青春の文学であり、それを超え得なかったことを示しているように思えてならない。それでは芥川は自分の青春をどのように捉えていたのだろう。
遺稿『或阿呆の一生』(昭2)の「一、時代」は次のように書かれている。
それは或本屋の二階だった。二十歳の彼は書棚にかけた西洋風の梯子に登り、新しい本を探していた。モオパスサン、ボオドレエル、ストリントベリイ、イブセン、ショウ、トルストイ、……(中略)彼は梯子の上に佇んだまま、本の間に動いている店員や客を見下した。彼等は妙に小さかった。のみならず如何にも見すぼらしかった。
「人生は一行のボードレエルにも若(し)かない」
彼は暫く梯子の上からこういう彼等を見渡していた。……
ここには死を前にした芥川が捉えた二十歳の青春の自我像が示されている。現実と芸術の間にかけられた梯子の上の宙吊りの自分が正確に描かれている。現実への嫌悪と芸術への憧憬の間に引き裂かれた自分の運命が象徴的に捉えられていて、彼の生涯はこの二十歳の自画像の構図からはみ出すことはなかったのである。彼の文学はついに青春を超えて、漱石が直面したような人間存在の奥底に広がる巨大な闇を見ることはなかった。しかし私は芥川の処女作『羅生門』(大4)の中に、人間存在の本質的な闇に迫り得る可能性が一瞬点滅したように思えてならない。
芥川の文学は存在の暗部に惹かれる傾向がある。<予が醜悪な心事を暴露せんとす>(『開化の殺人』大7)というモチーフが彼の文学を貫いていたように思う。それは実母の狂死と養家の<中流下層階級>的生活への嫌悪にその基盤を置いていた。そこでは人は外面的虚飾に捉われて<娑婆苦>という表層にとどまり、人間的真実から隔てられていると芥川は感じていた。彼はそのような自己の生存の位相を激しく憎んでいた。それが彼に醜悪なものに真実を求める心性を育てた。しかし彼は醜悪なものを醜悪なままに暴露した自然主義作家たちと違って、それをどこかで美に転化しようとする芸術家意識があって、そういう構えが彼の文学に粲(きらめ)きを与えているのである。彼の文学の根底にうづくまる、この醜悪な美といったものへの傾向が、例えば『今昔物語』をたぐり寄せるのである。後年『今昔物語に就いて』(昭2)の中で、
最後に『今昔物語』は最も野蛮に、―或は殆ど残酷に彼等(当時の民衆―引用者)の苦しみを写している。
と書いているように、国文学者の誰ひとり発見できなかったこの古典の美を、野蛮で残酷な美として発掘するのである。この発見で彼は醜悪な美を小説化する手がかりをつかんだのである。醜を描き続けると、そのはてに美が現出し、人間を描き続けると、背景が人間を押しのけて浮上するというパラドキシカルな小説のしくみを会得することで、『羅生門』は習作から飛躍し、芥川の文学的開眼を刻印する作品たり得たのである。
さて、『羅生門』の受容史をふり返ってみると、今までの読みの一般的傾向は、<下人の心理の推移を主題とし、あわせて生きんがために各人各様に持たざるを得ないエゴイズムをあばいたもの>という吉田精一の読みとそのバリエーションの域を出ていないようだ。登場人物に焦点を合わせ、その心理やモラルや生き方を解明していく「人間論」的読みに終始している。私はそのような読みではどうしでも読み切れないものが残っていくように思われてならない。それで羅生門に焦点を合わせた「状況論」的視点とでもいうべきものでこの作品を読んでみたい。
『羅生門』は周知のように『今昔物語』を素材としており、「羅生門登上層見死人盗人語」を主資料とし、「太刀帯陣売魚嫗語」を挿話として使っている。
ある日の暮れ方のことである。ひとりの下人が、羅生門の下で雨やみを待っていた。
冒頭の一行で作品の状況の枠組をぴしゃりと決めている。<暮れ方>の<雨>の<羅生門>の下の<下人>という作品の骨格が出揃っているのである。続いて、
広い門の下には、この男のほかには誰もいない。ただ、所々丹塗りの剥げた、大きな円柱にきりぎりすが一匹とまっている。
の<きりぎりす>、こういうディテールによって状況を輝かすたくらみが随所にこらされていて、彼の文体を非常に技巧的にしている。こうして雨の夜の死体の捨て場と化した羅生門の異臭に満ちた状況が設定されるのである。
さて、<この雨の夜に、この羅生門の上で>という状況をふまえて、<火をともしているからには、どうせただの者ではない>と人物を状況にふさわしい異様な者として導き出してくるのである。そのただの者ではないと予告された老婆は
猿のような老婆
鶏の脚のような骨と皮ばかりの腕
瞼の赤くなった肉食鳥のような鋭い目
鴉の鳴くような声
蟇のつぶやくような声
というように動物の比喩によって、人間以下のもの、醜怪な動物的存在として形象されている。老婆は死骸同様、羅生門に醜悪さを添える飾りとしてそこに置かれている。
羅生門を通過する<旅の者>なる下人の形象も方向は同じである。
猫のように身を縮めて
やもりのように足音をぬすんで
というように、羅生門の荒廃に象徴される当時の都全体の衰微の中で、人間以下のものに転落せざるを得なかった者の姿を、動物の比喩を積み重ねて描き出そうとしているのである。このあたりは状況と人物の形象は一つの方向に統一されていて間然とするところがない。下人の<にきび>もほほ同じ用法であるが、
右のほおにできた大きなにきび
短いひげの中に、赤くうみを持ったにきび
赤くほおにうみを持った大きなにきび
右の手をにきびから離して
というように多用されるにつれて、醜悪さの添加から心理の推移へと用法上も混乱して、上手の手から水が漏れるのである。技巧におぼれるときの芥川の犯す失敗である。
作者は人物設定の最初のところで
きょうの空模様も少なからず、この平安朝下人のSentimentalismeに影響した。
と書いている。つまり下人の心理は状況を映す鏡であるということだ。この空模様にさえも影響を受けるサンチマンタリスムを持った人物の心理の鏡に、善だの悪だのが映ったにしても、それは観念やモラルの劇の反映ではなく、状況の幻影にすぎぬということなのだ。作者が下人にかかるしかけを仕組んだとすれば、この作品の中に、人間の心理だの、エゴイズムだの、善悪だのを読みとる、すべて『羅生門』を「人間論」として捉える読みは、作者の心理分析だの、モラリッシュな告白やらのあざやかさに惑わされて、このしかけを見落とした読みではなかろうか。
それでは、このような「状況論」的視点で作品の具体的な展開に即して読んでみよう。老婆の正体が明らかになるに従って、下人の心理は<恐怖>から<老婆に対する激しい憎悪>に、さらに<あらゆる悪に対する反感>へと推移していく。しかし、<悪を憎む心>といっても、<合理的には、それを善悪いずれに片付けてよいか知らなかった>というような極めて情緒的なものなのである。結局のところ、その情緒は、
この雨の夜に、この羅生門の上で、死人の髪の毛を抜くということが、それだけで既に許すべからざる悪であった。
というように、状況の異常さに由来していて決してモラルに基づくものではないのである。それゆえ、下人が大刀の鞘を払って老婆を屈服させたとき、征服者の優越感の中で憎悪の心は冷めてしまうのである。<悪を憎む心>とはそんなはかない心理の揺れにすぎなかった。下人に死人の髪の毛を抜く理由を問いつめられて、老婆は
この髪の毛を抜いてな、鬘(かつら)にしようと思うたのじゃあ。
と答える。この答えを聞いて、下人はその<平凡さ>にいたく失望する。
失望すると同時に、また前の憎悪が、ひややかな侮蔑といっしょに、心の中へ入ってきた。
と書くとき、下人のどこにもモラリストの風貌はなく、あからさまに審美家としてたち現われてくるのである。下人の仮面の下から作者の素顔が透けて見える個所である。審美家にとって<この雨の夜に><この羅生門の上で><死人の髪の毛を抜く>ことが、<鬘>にするなんて<平凡>な行為であってはならないのである。求められているのは<頭身の毛も太る>ほどの醜怪な戦慄でなければならない。老婆はその平凡さ故に罰せられなければならない。下人の冷ややかな気配を察して老婆は弁明する。老婆がいま髪の毛を抜いている女は、生前蛇を干し魚と偽って行商していた女である。
わしは、この女のしたことが悪いとは思うていぬ。せねば、飢え死にをするのじゃて、しかたがなくしたことであろ。されば、今また、わしのしていたことも悪いこととは思わぬぞよ。これとてもやはりせねば、飢え死にをするじゃて、しかたがなくすることじゃわいの。
影響を受けやすいサンチマンタルな心を持った男は、この老婆の論理のわなに見事にはめられて
では、おれが引剥(ひはぎ)をしようと恨むまいな。おれもそうしなければ、飢え死にをする体なのだ。
と言いざま、老婆の着物を剥ぎ取ってしまう。このエゴイズムの論理と派手な心理の逆転劇ほど、読者の目を欺くものはない。読者はこのひきの声で語られる老婆の論理のあまりの明快さに足をすくわれて、エゴイズムを追求した作品などと読んでしまう。しかし作品の構図から言えば、老婆の論理は彼女の着物を剥ぐためのしかけなのだ。老婆は平凡さの罰として、裸体にされていっそう醜悪な姿をさらさねばならない。『今昔物語』では、<死人ノ着タル衣ト嫗ノ着タル衣ト抜取リテアル髪>を奪っているのに、芥川の下人は老婆の着物だけを奪い取っているのを見てもそれは明らかである。剥ぎ取った着物を抱えて下人が夜の底へ走り去って後、
しばらく、死んだように倒れていた老婆が、死骸の中から、その裸の体を起こしたのは、それからまもなくのことである。老婆は、つぶやくような、うめくような声をたてながら、まだ燃えている火の光を頼りに、梯の口まではって行った。そうして、そこから、短い白髪を逆さまにして、門の下を覗き込んだ。外には、ただ、黒洞々たる夜があるばかりである。
散乱する死骸から身を起こした醜い裸の老婆の逆づりになった白髪頭をてこにして、闇の底から黒々と異醜に隈取られて立ち現われてくる羅生門の、その醜悪な美、醜悪な状況美の創出にこの作品はかかっていたのである。醜のはてに美があらわれる反転力に、芥川の文学的営為はかけられていたのである。作者は、その創作当時をふり返っていう。
自分は半年ばかり前から悪くこだわっていた恋愛問題の影響で、独りになると急に気が沈んだから、その反対に、なるべく愉快な小説が書きたかった。(別稿『あの頃の自分の事』大8)
とは、この作品のモチーフが奈辺にあるかを語っている。作者は『今昔物語』という<昔>の<残酷>な素材を用いて、自分の落ちこんでいる青春の屈託を晴らすような<残酷>な美を創造しようとしているのである。<飢え死>か<盗人>かという一種の極限状況に投げ込まれた下人の、その生き方になど作者の視線は注がれてはいないのである。状況に弄ばれる下人の心理を<六分の恐怖と四分の好奇心>などと分析して楽しんでいる得意で愉快な作者の心が伝ってくるばかりである。作者の視線はひたすら状況、羅生門に注がれており、下人も老婆もそれに醜悪な花を添える飾りのごときものであり、羅生門がどれだけ見事な<悪の華>を咲かせるかにかかっていたのである。下人も老婆も冒頭のあの<きりぎりす>同様、状況を輝かすしかけの一つであり、<黒洞々たる夜>という、この作品のキーワードともいえる卓抜な秀句が作り出した暗夜の深淵で、<羅生門>は一瞬の光輝に包まれて醜悪な美に輝くのである。この人間の彼方の闇を描いたとき、芥川の文学は一つの可能性の前に立っていたのである。片々たる人間の苦悩など一状況美を構成する一要素にすぎないというアンチ・ヒューマニズムの視線が非情な暗夜の美を発見したとき、<娑婆苦>というような階級的コンプレックスを無化する視力まであと一歩ではなかったろうか。しかし、芥川はあと一歩の意味がわからなかったゆえに、自ら創り出した暗夜の中に消えていくのである。
どの作家にとっても処女作がそうであるように、『羅生門』もまた芥川文学の未来を予告する象徴的な作品なのである。この作品で芥川が創り出した闇の暗さから彼の文学はついに逃れることができないのである。芥川の世界はどうしようもなく暗い。彼はその暗い夜空に、例えば『地獄変』(大7)の檳榔毛(びろうげ)の車の凄惨な炎を噴き上げたり、『舞踏会』(大9)の華麗な花火を打ち上げたりするのだが、暗夜の底の真実の闇を照らし出すことはできなかった。闇は次第に濃度を増し、彼の芸術的構えすら無化し、やがて彼自身をも呑み込んでしまうのである。そのような彼の文学的生涯の入口で、『羅生門』は凛乎とした形象力に張られた暗夜の美を造り出していたのである。しかし、一方では、作者自身その状況美という自分の創り出した美の独創性に気づかず、その一歩向こうに広がる人間の真の闇という文学の新しい領域へは踏み出せず、結末の一行は幾度かの改作の後、
下人の行方は誰も知らない。
という「人間論」へ逆戻りの蛇足の一行で締めくくることになるのである。『羅生門』がはらんでいた小説の独創は、ついに小説の方法として自覚されることなく消えていくのである。

芥川龍之介(明25―昭2)
生後まもなく母が発狂し、母の生家芥川家の養子となる。この東京の下町、本所深川の中流下層家庭での生育史が彼の文学に深い影を落としている。自己の暗い心情の闇を芸術化せんとして、東西の古典に広く素材を求めて、磨き抜いた技巧美の作品世界を作り出した。 
 
花に嵐 / 井伏鱒二『屋根の上のサワン』 

 

長い彷徨のはてに人は自分の言葉に行き会うのである。自分にとって根源的な一つの言葉に。そのような人生の劇は、自己発見と呼ばれたりするが、つまりは自分の人生のテーマの発見であり、自分の宿命との遭遇に他ならない。文学においても傑作とは作家の宿命の基調音の表現であり、どんな複雑な長篇も、どんな片々たる短篇も、その底で一つの言葉が鳴りひびいているのである。文学鑑賞とは所詮作品の中からそのまぎれようもない言葉を取り出して、それが表出している作家の宿命を読み解くことではなかろうか。井伏鱒二もまた長い彷徨の後に、一つの言葉に出会うのである。彼の出世作『山椒魚』は大正八年、二十一歳でその原型を書き、大正十二年『幽閉』として発表し、昭和四年五月『山槻魚』として改作されるまでに実に十年の歳月を要したのである。<思いぞ屈する>という屈託をテーマにしたこの短篇に十年にわたってこだわり続けていたのである。そこに湛えられている時間は、井伏の生命の屈伸力の大きさを示していよう。それでは彼を捉えて放さなかった屈託という鬱屈した自意識は何に根ざしていたのか。一つは故郷との関係である。後年の 『厄除詩集』(昭12)所収の「寒夜母を思う」には次のような一節がある。
母者は手紙で申さるる
お前の痩せ我慢は無駄ごとだ
小説など何の益にか相成るや
田舎に帰れよと申さるる
ここには田舎からの都会批判、実生活からの文学批判が語られている。つまり井伏は田舎と都会、実生活と文学の矛盾の中に身を置いていたのである。もう一つは昭和二年、彼が所属していた同人誌『陣痛時代』の同人が彼を除いて全員左傾してプロレタリア文学に参加して、彼にも左傾を迫った事件である。屈託の背景には少なくともこれらの矛盾があった。それでは彼はそれらの矛盾にどう対処したのか。帰郷意志を抱きながら都会生活を続け、生活者に負い目を抱きつつ文学にこだわり続け、器用に時流に乗った転換ができなかったゆえに芸術派に取り残されたのである。こうして彼は彼を引き裂く二項対立の間を優柔不断に生き抜くのである。それが確乎たる優柔不断と化し、二項対立の状況を相対化したとき、屈託は一匹の山椒魚の中に封じ込められるのである。井伏をめぐる屈託を構成する要素は何一つ変わりはしなかったのだが、長い文学的格闘のはてに、寓話的象徴的手法で形象化に成功したのである。
昭和四年五月『山椒魚』が完成すると、作者はほとんど間を置かずその十一月に同じテーマで『屋根の上のサワン』を書く。こんどは負傷した鳥を素材とする抒情詩として書く。作品はまず主人公<わたし>と傷ついた雁との出合いからはじまる。わたしが撃たれて傷ついた雁を見つけたのは<言葉に言いあらわせないほど屈託した気持>を抱いての散歩の途上であった。さっそく家に連れて帰って五燭の電燈の下で鳥の傷の手当てをしてやるのだが、わたしの親切を誤解して暴れるので、わたしは彼の足を縛り、細長い首を私の股の間にはさんで治療する。その場面の抒情詩のしくみを検討してみよう。抒情詩は本来、静的で自己完結的な性格を持っており、ある感動を核として一つの絶対的な世界を形づくるものである。日本では抒情詩は何よりも和歌として完成し、俳諧はそのパロディとして派生したものである。例えば西行の
ながむとて花にもいたく馴れぬれば
散る別れこそ悲しかりけれ
それに対する宗因の俳諧
ながむとて花にもいたし頸(くび)の骨
は短歌と俳諧の関係をよく示している。井伏の抒情の解明にこの和歌的なものと俳諧的なものとを援用すると、雁は治療が終わるまで<あの秋の夜更けに空を渡る雁の声>(和歌的)が<わたしの股の間>(俳諧的)からしきりに聞こえてくるのである。<雁の声>が<股の間>から聞こえてくるおかしみは、異質の抒情の取り合わせから生じたものである。また雁が<五燭の電燈>(俳諧的)を<夜更けの月>(和歌的)と間違えて鳴いた哀切なおかしみもまた二つの抒情の落差から生じたものである。この和歌的なものと俳諧的なものとの共存、あるいは和歌的なものを俳諧的なものでひっくり返していくところにこの作者の文体の特徴がある。井伏文学のユーモアとぺーソスの源泉もまたここにある。
傷が治ると、わたしは雁にサワンという名をつけて、翼の羽を短く切って放し飼いにする。サワンとはインドで何月かの月の名称だという。月はサワンの故郷である空への想いをかき立てるというこの作品における月の役割を考えると、命名のうまさは卓抜だ。夏はわたしとサワンの穏やかにして平安な季節であった。サワンは人懐っこく、わたしたちは連れだって散歩し、めいめいが自分の領域で気ままに過ごした。
しかし、秋が来るとわたしたちの関係は一変する。ある秋の夜更け、わたしはサワンの悲鳴に驚かされる。空を飛ぶ僚友との必死の交信なのだが、そのときの情景は次のように描写される。
窓の外の木立はまだ梢にそれぞれの雨滴をためて、もし幹に手を触れると幾百もの露が一時に降り注いだでありましょう。けれど、既によく晴れわたった月夜でありました。
雨後の澄明な風景の中、空を見上げると、
月が――夜更けになって登る月のならわしとして、赤く汚れたいびつな月が光っていました。そうして、月の左側から右手の方向にむかって、夜空に高く三羽の雁が飛んでいるところでした。
<雨後の澄明な風景>(和歌的)、<赤く汚れたいびつな月>(俳諸的)、<夜空に高く飛ぶ雁>(和歌的)、和歌的なものと俳諧的なものとの三重衝突で抒情詩は一瞬調和が狂うかに見える。狂わせたのはむろん<赤く汚れたいびつな月>である。この月は先の<五燭の電燈>のイメージを受け継いでいささかユーモラスではあるが、また一方ではサワンの中に深く隠されていた空への帰巣本能を呼び覚し、不意の狂気に近い悲鳴を誘発した不気味な月でもある。これはまた井伏好みの月であるらしく、<いびつな月><赤くただれた一箇の腥い月>(『岬の風景』大15)、<半分に欠けた月が――赤鉄鉱色の光をはなって>(『さざなみ軍記』昭5)、<大きな赤い月>(『丹下氏邸』昭6)と類似の異様な月がちょっと目を走らせただけで作品のあちこちから現われ出て、頻出しそうな気配である。さかのぼって行けば、ひょっとすると井伏鱒二の原風景に行きつくのかも知れない。それは多分井伏の、世界の秩序に投げかける暗い悪意に縁どられた諧謔の投影なのだ。ともかくその月はサワンの内部の激しい屈託と照応しつつ、<夜更けに登る月のならわしとして>という特殊なものを一般化する井伏独得の手法に導かれて、作品の空になにげなく浮んでしまうのである。かくて抒情の破綻は回避され、異和を異和として許容しつつ調和する井伏の不思議な空を、三羽の雁は高く飛び去るのである。サワンはこの雁と鳴き交していたのである。翼の羽を短く切られて飛ぶことのできないサワンは、表題の示すごとく彼が登り得る最も高い空との接点、屋根の上に登って鳴きすがっていたのである。そのサワンの姿に
遠い離れ島に漂流した老人の哲学者が、十年ぶりにようやく沖を通りすがった船を見つけたときの有様
という比喩表現によって唐突に異相の人間が現われる。漂流して十年目にはじめて沖を通る船を見つけて、思索の沈潜から身を起こして渾身の力をこめて絶叫する老哲学者の悲壮で意表をつくイメージは、今まで家畜のごとくにも穏やかにわたしに従順であったサワン の中に秘められていた屈託を鮮明に照出する。わたし以外に人間があらわれない作品に、雁のメタファー(暗喩)として人間があらわれること、その倒錯の中に、井伏の対人間、対社会への距離、孤独が暗示され、したがってその<屈託>の質もまた暗示されているだろう。ともあれ<漂流した老人の哲学者>とは井伏文学の中核的人間像であり、この作品ではじめて現われるのである。それはこの小品の井伏文学の中における位置を示していよう。先行作『山椒魚』にも老哲学者の風貌はなくはないが、<漂流>の要素が欠けており、ともかくあそこでは<屈託>は老哲学者的諦念へ収斂するのに対して、『サワン』の老哲学者は絶叫によって<屈託>を乗り超えるべく立ち上がるのである。
作品は次に抒情詩の核ともいうべき絶唱に至る。この章ではひそかなる孤独がひたすらに歌いあげられる。サワンは月の明るい夜には必ず屋根に登ってかんだかい声で空行く僚友と鳴き交す習慣を身につけた。
その声というのは、よほど注意しなければ聞くことができないほど、そんなにかすかな雁の遠音です。それは聞きようによっては、夜更けそれ自体が孤独のためにうち負かされてもらす溜息(ためいき)かとも思われ、もしそうだとすればサワンは夜更けの溜息と話をしていたわけでありましよう。
こうして<夜更けそれ自体が孤独のためにうち負かされてもらす溜息>を媒介として、わたしとサワンの孤独な心はひそかな交信の回路を探り当てたかのごとくである。ついに孤独な心と心は触れ合ったかのごとくである。
しかし、わたしがサワンの孤独をほんとうに理解するには、サワンの屈託がわたしの監禁によることを理解するには、サワンの幾夜かの悲鳴の後のさらに耳を聾(ろう)する号泣が必要であった。ついにわたしの屈託はサワンによって癒(いや)されることはない。わたしは自分の屈託を癒そうとしてサワンの屈託を生んだだけである。わたしにせめてもできることは、サワンに出発の自由を与えて、サワンの屈託を解き放ってやることだけだ。わたしは古風な作法に則り、<サワンよ、月明の空を高く楽しく飛べよ>という言葉の指輪を彼の足に結んでやろうと思う。明日訪れるはずの美しい別れのために。
抒情詩はまさにロマンの香りを放って完結するかに見えた。しかし予定調和の世界に直面すると井伏のへそは少し曲がるらしい。和歌に俳諧、花に嵐のひとひねりというやつだ。翌朝、サワンは屋根の席に一本の胸毛を残して失踪していた。かかるどんでん返しで約束された美しい別離は醜い狼狽に変じる。ここに井伏鱒二の容易ならざるしたたかさがある。それは時には意地悪くさえ見える。あの世界に対する暗い悪意が作品をよぎる。しかし、井伏は自らの世界に投じた異和を新たなる調和へと転化させる。醜い狼狽を井伏はなんとさわやかに描いてみせることか。
岸に生えている背の高い草は、その茎の先に既に穂状花序の実をつけて
<穂状花序の実>という学術的用語がなんと硬質で詩的な輝きを発散することか。和歌的なものと俳諧的なものとの葛藤のはてに、一つの純正な詩的結晶に至るのである。
穂状花序の実をつけて、わたしの肩や帽子に綿毛の種子が散りそそいだのであります。
わたしはむろん狼狽のあまり草をかきわけかきわけ探索したのであるが、それがかくも美化され、作品は抒情詩の輝きを失うことはないのである。この屈曲に富んだ、したたかな文体は、原爆の悲惨を軽やかなユーモアを湛えて描いた『黒い雨』(昭41)の文体を予見させる。対象が異常であればあるほど、あくまで平凡な日常的感覚に執し抜く井伏流文体が、リアリズムでは決して描くことのできなかった原爆の巨大な惨禍を捕捉し得たのだ。井伏が『黒い雨』を書いたとき、人々は井伏と原爆の取り合わせを奇異に思ったが、負傷した鳥への愛の中にエゴイズムを見ずにおかない自意識が彼をプロレタリア文学に行かさなかったように弱者への愛は作品の表層へ浮上して風化せず、その底部を流れ続けて『黒い雨』を生むのである。
かくて作品は結末に至る。井伏は残された一本の胸毛から惨劇を仕立てるようなリアリストではない。<恐らく…>ではじまった作品の結びの一文もまた、
恐らく彼は、彼の僚友たちの翼に抱えられて、彼の季節向きの旅行に出て行ってしまったのでありましょう。
<恐らく…でありましょう>という微妙な言いまわしで構築された仮構の空を、サワンは美しく飛翔し去るのである。
花に嵐のたとえもあるぞ
さよならだけが人生だ(『厄除詩集』)
という井伏文学の基調音が、このとき鳴りはじめたのである。サワンはいちずな出発への意志を貫きとおし、長く捉われつづけた<屈託>に別れを告げて飛び去るのである。サワンの屈託が解消したとき、その原因を構成していた私の屈託もまた消滅するのである。こうして井伏文学の<屈託>の時代は終わるのである。これが『山椒魚』に踵を接して『屋根の上のサワン』が書かれねばならなかった理由である。
翌昭和五年、井伏は帝都を追われて流浪する平家の一少年の記録『逃亡記』を書きはじめる。
井伏文学の<漂流>の時代がはじまるのである。二項対立の矛盾の世界を悠久たる優柔不断の翼を拡げて井伏は漂いはじめるのである。この作品は十年にわたって書きつがれて『さざなみ軍記』(昭13)として完成する。さらに『集金旅行』(昭12)、『ジョン万次郎漂流記』(昭12)と書きついで、井伏は戦争の時代を漂流していくのである。

井伏鱒二(明31―平5)
広島県の加茂村の地主の家に生まれた。彼には農家出身だという自覚があり、それが彼を故郷につなぎ、その文学に庶民性を与えるもとになっている。その作品は淡々とした平凡な表層の底に、屈曲に富んだ詩情や微妙な人間味が隠されている。 
 
病者のダンディズム / 吉行淳之介『漂う部屋』 

 

人はだれしも脅えるものだ。人が脅えるとき、あるいは脅えに対して身構えるとき、その人のありようは紛れようもない形で浮かび上がる。それを作品化すれば、その作家の文学の原型がどこかであぶり出されるものだ。抑制の美学を基底にふまえた吉行の文学は、あらわな脅えを描出することはない。ところが入院体験を素材とした『漂う部屋』(昭30)は小説の時間の中で成熟するいとまもなく書かれたという事情とも相俟って、はからずも、そのエッセイ風なエピソードの行間から吉行の脅えが露見するのである。この作品が露呈している脅えは多分吉行文学の原質を示している。
『漂う部屋』の主人公<私>は肺結核の手術を受けるためにある療養所に入院しているのだが、その新しい環境のすべてに<自己嫌悪に陥る>ほどにも脅えている。この療養所では午後一時から三時まで絶対安静の時間であるが、そのとき仰臥している患者の多くは、タオルを細く折りたたんで両眼の上に載せている。その姿勢は不吉な予感を漂わせて私を脅かす。また広い病室の隅のベッドを白いカーテンで仕切って孤立させて重患用のコーナーを作っているのだが、その白い幕の隙間から覗いてみたならば、中に人間の形をしていないものがベッドの上にうずくまっているのが見える、という妄想に脅かされる。これらは病者の世界が醸し出す死の影への脅えであるが、それが後者のような形をとるとき、脅えというものは普通やみくもに襲ってくるものなのに、この恐怖には一定のフォルム(様式)があり、フォルムを通して恐怖を深化する吉行の感性の文化史があり、彼のすぐれた恐怖の語り手としての資質の片鱗を示している。
脅えがもっとあらわに露呈するのは対人間の場合においてである。まず呼吸停止の検査をする<色の黒い、眼の鈎り上がった、怒ったような顔つき>の看護婦には、ことあるごとに虐められる予感に脅かされる。またその呼吸停止のとき、私と同時に検査を受けて三十五秒しか停止できなかった青年が、私の停止時間が一〇〇秒を超えたとき、<あんまり、ムリするなよ>と悲鳴に近い叫び声をあげる。その声は、病者の世界では<一〇〇秒も息を止めているということは、許すべからざる裏切りだ>と叫んでいるようにおもえ、<入場券を持たないで劇場の中をぶらついているのを咎められたような気持>になる。さらに、私は同室の私のベッドの近くにいる電気屋の東野さん、大工の南さん、自転車屋の西田さん、国鉄の車掌の北川さんといった、幼い頃から自分で稼いでいる人々に妙な気おくれを感じる。これらの脅えははじめて出合った異質の人間への脅えであり、それはエリートの民衆へのコンプレックスに根ざしており、蕩児のかたぎへの負い目という色合いを帯びていた。もっと一般化して言えば、吉行の文学はこのかたぎの社会に入場券を持たないでぶらついている余計者の文学なのである。
人はそれぞれ自分の原風景を持っている。それはある状況の額縁の中であらわれる運命的な自我像である。彼の場合、それは太平洋戦争の開戦という歴史的状況の中で訪れる。この作家の超時代的ポーズにもかかわらず、彼がいかに時代の中に生きているかもそれは示していた。「戦中少数派の発言」というエッセイから引用する。
昭和十六年十二月八日、私は中学五年生であった。その日の休憩時間に事務室のラウド・スピーカーが、真珠湾の大戦果を報告した。生徒たちは一斉に歓声をあげて教室から飛び出していった。三階の教室の窓からみると黒山の人だかりとなった。私はその光景を暗然としてながめていた。あたりを見まわすと教室の中はガランとして、残っているのは私一人しかいない。そのときの孤独の気持と、同時に孤塁を守るといった自負の気持を、私はどうしても忘れることができない。
ここには開戦という国家の祝祭に参加できないで集団から疎外された孤立感と、そのような集団の愚劣を冷然と見下ろす自恃に立脚した反俗のエリート吉行の原質が鮮明に示されていた。この戦争に背を向けた戦中少数派は戦後民主主義にも背を向ける戦後少数派と化し、自己の孤独な生理にふさわしい場所として娼家にたどりつくのである。この一般社会から疎外され、蔑まれた娼婦の町が反俗のエリート吉行の生理になじんだのである。彼はそこで蕩児という仮面をつけて生きることになるのである。彼はすでに「娼婦物」といわれる『驟雨』(昭29)を書いていたのである。
この学生、作家、娼家を自分の生活の領域として持ったエリートが、この病院ではじめて異質の他者、民衆と起居を共にしたとき、彼は自分を余計者として意識せざるを得なかった。ともあれ私は同室者への脅えに直面し、どういう対応をしていいのか見当もつかないので、窮余の一策として<ワイダン>を喋ることにする。<ワイダン>は音楽に似て、注釈抜きで通用するから。<脅え>に対するに<ワイダン>をもってする、そういう反応は次の医者への対応に似ていないだろうか。
医者は私のレントゲン写真を見ながら、<これは、骨を三本も取ればいいでしょう>と無造作に言う。私はその医者の言葉にひるみ、侮辱を受けた気持になる。私は自分の骨を医者の手から取戻し、その骨でイヤリングを造って好きな女の耳を飾ったり、耳かきをこしらえて耳の穴をほじくったりする空想をして、気持を紛らそうとする。医者から脅かされた<侮辱>を<イヤリング>や<耳かき>というユーモラスでとぼけたものに変形することで、心理のバランスを回復する、このようなダンディな反転力は彼の生得のものなのであろうか。
私は自分の脅えからして同室者の目に<小心で初心なサラリーマン>と映るだろうという私の予想を裏切って、意外にも<ズウズウしくて、スケベエで、物分りのよい人間、神経が顫動を起こすことには縁遠い人間>という<役割>を貰ってしまう。これには<動揺が表情にあらわれない>という私の体質もあずかっていよう。この役割の定着までに二ヵ月を要した。私は与えられた役割という<城>に潜りこんで、あたりを<観察>しはじめるのである。吉行の文学は<薔薇販売人>という仮面をつけることで、日常世界の裏側に広がるメルヘン的世界へ入って行く男を主人公とする『薔薇販売人』(昭25)からはじまったが、『漂う部屋』では、役割という仮面はすでに自ら選び取ることはできない。例えば同室の東野さんは女のこととなると頭の中が灼熱し尻に火がついたように病室から飛び出して行くので<ジェット機>という綽名をつけられ、それに不満で綽名を変更しようとあせるのだが、あがけばあがくほど事態はこじれていくばかりなのである。綽名や役割は他者との力関係に支配されていて、自分の力だけではどうにもならないのである。このような力学に規定された役割は、立てこもるべき<城>であるとともに、<観察>という出撃の拠点でもあるという柔軟にして強靱な構造を持っているのである。『薔薇販売人』の仮面から『漂う部屋』の役割へ、吉行流リアリズムは確実に精緻の度を加えていくのである。こうして<脅え>を<役割>で受け止め、反転させていくことで、私の生は新たな展開へ向かう。
病者である私を脅かすものは、何よりも手術であり、手術の痛みであり、その向こうに隠れている死の影である。手術に向かうとき私は、
痛い、とか苦しい、とかいう言葉を一言も言うまいと考えた。そういう気取りで身を装うことに心の支えを見付け出して、その瞬間をやり過ごして行こう。
と考える。手術を迎える心構えを<気取り>という言葉で表現するところに、私の生きる姿勢、あるいはダンディズムが示されている。入院前、私はまるで家屋改築の設計図でも作る具合に、机の上に図面や書類を拡げて研究したり、手術のカラー写真を刺戟を受けなくなるまで眺めたりした。それは自分の肉体を即物的に捉える医者の無造作な視線に迫る心情の鍛練なのである。この手術に臨む準備の周到さは、あの<気取り>というダンディズムがどんなストイシズム(克己)に支えられていたかをあます所なく示している。私に与えられた<神経の顫動を起こすことのない人間>という役割は、私の演じようとする人生の劇の役と符号していたともいえる。それゆえ、私は手術後目覚めたとき、まず自分を心配そうに覗きこんでいる人々に向って<ビールを飲みたい>とズウズウしい男としての自分の役割を演じることを忘れないし、また演じることに喜びを見いだしてもいるのである。この並々ならぬ演技力をみると、ダンディズムとはいかなるときも自分の役割をベストに演じぬく確乎たる倫理と化したかのごとくである。
この療養所には第四病室も第九病室もあり不吉とされる数字も避けていない。私は十三号の大部屋に入院し、手術を受けて一週間目、四号室の患者が死んだので、私がその後へ移ることになった。私に移室を告げる主任看護婦の毅然とした態度は、出て行く戸口で不意に崩れ、妙にもじもじしながら、<あのう、もしイヤだったら、我慢しないでイヤと言っていいのですよ>と言いはじめる。私に特定の数字を不吉におもう気持はない。脅えるはずのものが脅えないとき、脅迫者の毅然は揺らぐのである。その脆さのおかしみが私の観察眼にむき出しに捉えられる。それでも四号室の先刻まで死体が人間の形に排除していた空気の隙間の中に、私の躯がすっぽり嵌めこまれてしまったとき、
ぴったり死体に接触していた空気の壁をいくらかでも向うへ押しやろうとするような具合に、私は躯の痛いのも忘れて身じろぎしていた。次の瞬間、自分のしていることに気付いた私は、はげしい可笑しさに襲われた。
ここには死の恐怖にひたされた状況の中で、脅える自分を見つめ、脅えること自体のおかしさに気づき、笑いによって脅えを超えるダイナミズムがある。これこそ吉行のダンディズムを支える発条(ばね)である。このしなやかな反転力は脅かすものを対象化し、滑稽化する逆転の装置を内包している。同じ病者の文学でも、例えば芥川の自己観察にはそのような装置を欠いでいた。それは病院に行くことすら怖れて自滅する『歯軍』の脅えを思い出すだけで十分である。『歯車』からは痛ましい悲鳴しか聞こえてこないが、『漂う部屋』からはユーモラスな哄笑が聞こえてくるゆえんである。
吉行文学の笑いは、この作品の第一章に描かれている、部屋の隅にある白いカーテンの仕切りに入っているある重症患者の笑いの中に典型的に描かれている。その患者が何時間にもわたって喀血の咳が続いているとき、誰かのラジオが手違いで突然大きな声で、<ナムアミダブツ、ナムアミダブツ>とひびきわたったのだ。部屋の中は一瞬ざわめき、あちこちで笑い声が起った。それで終ればよかったのに、おせっかいな正義漢が出てきて、<ナムアミダブツなんて、××さん(白いカーテンの中の人)に悪いじゃないか>と言い出して、大喧嘩がはじまるのである。やがて人々は言ってはならないことを口にし、そのことに気づいて、一瞬病室が森閑とする。そのとき、笑い声が白いカーテンの中側から聞こえてきたのだ。
その声は、自虐や自嘲の陰のない透明な笑い声だった。私はカーテンの中の人の強靱さに、胸を衝かれた気持だった。重症の躯からもう一人のその人が脱け出して、いまの状況を眺め議論を聞き、そして普遍的な問題として笑うことができたのだろう。
この笑いこそ吉行のダンディズムの極致なのである。そしてこの作品は、そういう境地へにじり寄って行く男の苦闘を描いたものである。
最後に私が至りついた心境を示すエピソードを一つ紹介しよう。私が四号室へ移ってから毎夜、消燈時間が過ぎると四号室の呼び出しランプが私がベルを押さないのに点燈するという刺戟的な出来事が続き、深夜見まわりの看護婦が二人手をつないで、こわごわ歩いているという話がつたわってくる。四日目、またもや、寝入ばなに起こされた私は、顔を出したのが私が入院したとき呼吸検査をした色の黒い気丈そうな看護婦であったせいもあって、
迷惑な気持と、いたずら気とが一緒になって
「僕はベルを押しはしないけどね、なんだか天井の穴から青い手が伸びてきて、ベルを押したようだったよ」
とからかってみるのも、そういう状況の中で迷惑を楽める、恐怖を滑稽化できるダンディズムのあらわれであろう。
「ヘンなことを言うのはやめてください」と叫ぶように言うとドアを押しつけるように閉めた。私はその烈しい勢におどろいていると、しばらくしてからドアの外側で忍び笑いをする声が聞こえはじめ、その笑いが少しずつ大きくなりながら、廊下を遠ざかってゆく靴音がひびいた。
私は彼女の一瞬の脅えを確認し、ほぐれたやさしい気持になり、暗闇の中でしばらくひとりで笑う。こうして私はズウズウしい人間という役柄を噛みしめつつ、脅える人間から脅かす人間へと、演技の領域を拡げていくのである。現実を舞台と化す決意の中に作者吉行淳之介はいたのである。それが吉行文学の現実との距離である。つまり現実と作品を隔てているのは虚構でなく演技なのである。ここにこの作品の私小説性がある。
この作品には実は描くべくして描かれなかったもう一つの脅えがある。彼らが以前所属していた社会へ復帰できるかどうかという入院患者にとって切実な不安である。社会的経済的な脅えである。それは第四章の北川さんの退院の中で描かれているけれども、結局、この療養所を<外の世界から浮び上がり、漂っている><漂う部屋>と捉えるように、この部分はリアルに描かれていない。社会への脅えは極めて象徴的に<漂う部屋>という表題の中に閉じこめられ、暗示されているに過ぎない。正面から取り組むにはあまりに巨大で深刻なテーマなのだ。そこに吉行のダンディズムのアキレス腱があるのかも知れない。しかし、それは多分無いものねだりだろう。もともと吉行文学は社会という概念の拒否の上に成り立った文学なのだから。
ともあれ、入院は他者との接触の少なかった吉行にとって貴重な体験であった。娼家が彼の文学を育てた母胎であったように、病院は彼の人間学を深めた揺籃であった。蕩児のストイシズムは、さらに病者のダンディズムを加えることで、吉行文学の人間解釈学の味わいはいっそう深まっていくのである。

吉行淳之介(大13―平6)
新興芸術派の作家吉行エイスケの長男。若くして死んだ父へのコンプレックスに長くこだわる。反俗の知性が性と出合うところに吉行文学が成立する。あくまで性に執し抜くことで人間認識を深めていく。性への視座の変遷につれて、その文学も変容していく。 
 
狐の化生 / 石牟礼道子『椿の海の記』 

 

石牟礼道子の心の空洞には一匹の古狐が住んでいるという。『草のことづて』(昭52)の中のその小文を読んで以来、私はこの詩人の心に狐を住まわせるという不思議なありようを忘れることができなくなった。それはなんとも魅力的な存在の様式で、いつかこの詩人の希有な存在構造を解明したいと思い続けてきた。彼女の作品を読んでゆくうちに、その不思議を解くかぎは『椿の海の記』(昭51)にあるらしいと見当がついた。『椿の海の記』は驚くべき精緻さで復元された幼時体験の細密画である。ものごころつくという人生最初の劇をこれほど克明に描いた作品を私は知らない。それはまた、私たちの失ってしまった魂の原郷のありどころを実にくっきりと指し示してもいるのである。
<わたし>(みちこ)を狐の世界に導くのは祖父<松太郎>の二人の妻、正妻<おもかさま>と権妻(ごんさい=めかけ)の<おきやさま>である。祖父は自分の浮気がもとで正気の人でなくなったおもかさまを彼女(みちこ)たちの所に残し、おきやさまと湯の児(ゆのご)に住んでいる。祖父の工事道楽のために没落した彼女の一家は落魄したものたちが流れつく<とんとん村>に住みついている。とんとん村からは湯の児はいわば地の果てである。
<ここば、ずっとゆけばどこさゆくと>
<そこからまたゆけば>
<いちばん先はどこ>
それから、それからといい出したが最後、夜中でも明け方でも、どこへ向かって歩き出すのかわからぬ魂のおかしな娘が、<ゆこい、湯の児に>といいはじめると、もうどうにもならないのである。
そのときわたしが漠然と感じていて、行ってみたかったのは湯の児ではなくて、いちばん先の方、つまり毎日毎日一生かかってずっと海の岸に沿い、どこまでもどこまでもゆけば海のつきるところ、山のつきるところ、つまり地の涯までゆかれるにちがいない。
幼い魂をつき動かす無限志向は、いつも彼女をこの世ならぬ遠方へと駆りたててやまないのである。それにしてもこの無限志向はどこから来たのか。それは多分祖父松太郎から受け継いだ資質のように思われる。松太郎は<つかみどころのない創作欲>のごときものに一生憑かれていた<石の神様>といわれた石工で、生涯夢を追い続けたロマンチストの<夢助>であった。そのために全財産を蕩尽してはばからなかった。そして、この無限への衝動を天成の資質として持った幼女が数に出合うとどうなるのか。
数というものは無限にあって、ごはんを食べる間も、寝ている間もどんどんふえて、喧嘩が済んでも、雨が降っても雪が降っても、祭がなくなっても、じぶんが死んでも、ずっとおしまいになるということはないのではあるまいか。
という強迫観念に捉えられる。一生泥酔してこの世を見ていた父<亀太郎>は彼女に人間のありようを教え続けた教育者でもあった。亀太郎は彼女の無限に漂う魂を現実につなぎ止めようとする。
かんじょうしきれぬうちにくたぶれて、死んでしまうけれ、それでおしまいだ。
こうして彼女の幼い魂の苛酷な数のドラマは人間は死という有限によって救われる他ないという認識に到達することで終焉する。
しかし無限志向という一種の無間地獄に落ち込んだ幼い魂に救済は訪れず、次に諸関係の不思議という世界をさまようことになるのである。亀太郎は<人間死ねばおしまい>というけれども、彼女は死後の生まれ替りの世界の中に自分の本来を求めてさまようことになるのである。
かくて湯の児は無限のミニチュアとして彼女を招くのである。おきやさまはそのはるかさで彼女を惹きつけるのである。おきやさまは彼女を心から歓待し、
みっちゃんばおひとり、お客さまになってもろうて、語りましょうばい。
といって、四歳の彼女に葛の葉の浄瑠璃を語ってきかせるのである。
恋しくば訪ねきてみよ和泉なる信太の森のうらみ葛の葉
葛の葉がその正体を見破られて、愛する夫と子に別れて人間世界を去らねばならないあわれな狐の物語を、四歳の幼女ひとりに向かって髪ふり乱して語って聞かせるおきやさまの孤独な心のたたずまいは鬼気迫るものがある。
おきやばんな、前(さき)の生(しょう)か、後の生じゃ、けだもんばい、畜生ばい、ありゃあ、おもかさまを、あのような目に遭わせ申して
と世の人の冷たい指弾をあびて、
もとよりその身は畜生の、くるしみふかき身の上を・・・
と語ると、女の業の深さとあわれさが一種凄惨の気を伴って迫ってくる。しかし、それを受け止める四歳の幼女の早すぎる人生開眼はいったいどこからきたのか。
ものをいいえぬ赤んぼの世界は、自分自身の形成がまだととのわぬゆえ、かえって世界というものの整わぬずっと前の、ほのぐらい生命界と吸引しあっているのかもしれなかった。
ものごころつくとは、そのような<根源の深い世界>から転落するということであり、転落した不幸の自覚のはじまりであり、またその不幸を生きている大人の辛さがわかることでもある。それゆえ、あやす大人があれば笑わねばならないという子供の勤めの自覚でもあるのだ。
なにかと辛い大人たちに、つとめと心得て、子供のふりをすればするほど、胸の中の悲哀は深くわだかまる。
このような屈折した意識の重なったある日、突然爆発するような激しい自己顕示の情熱の虜となる。彼女は<髪結いの沢元さん>に入りびたっていて<末広屋>の女郎衆に可愛がられていた。
淫売という言葉を吐くときの想い入れによって、自分を表白してしまう大人たちへの好ききらいを、わたしは心にきめだしていた。末広の妓たちを慕わしくおもっていたわたし自身が、大人たちへのひそかなリトマス試験紙そのものであった。
ある日、彼女は<異常に早く来て去ったわたしの女盛りともいうべき>花魁(おいらん)道中を演じてみせるのである。家族の留守をねらって、花魁をまねて髪を結い、着飾り化粧して、往還道を日傘をさし木履をはいてしゃなりしゃなりと歩くのである。自分の愛する女たちの不幸をまるで祝祭のごとく演じてみせたこの道中は彼女の自己表現の形を示していた。四歳の幼女の一生一代の熱演は自己の不幸を媒介として他者の不幸に同化することを主軸としながら、自己と他者の、女の不幸と至福がどろどろとないまぜになった迫力があり、そこには女だけが持つある妖しい力が現われていて、そういう形で一種の女性開眼に達した幼女は、おきやさまの女の業の悲しみがわかるのである。そしておきやさまの語る葛の葉のあわれは、彼女が狐に化生(けしょう)する一本道へと続いていたのである。
わたしはなんとか白狐になって、それから人間の女性(にょしょう)というものに化身したくてならなかった。
単に狐に化生するだけではなく、それからさらに人間に化身するという、狐を通路にして人間に再帰する往復運動の中に石牟礼道子の化生の特異性がある。そこで彼女の想像力は世の常の化身の論理を超えるのである。狐を通路にして帰ってくる人間はもちろん元の自分ではない。このような転身の自在さこそ石牟礼道子の基本的な存在構造である。
狐に転生するきっかけを与えたのはおきやさまであるが、彼女の転生力を育てたのは祖母おもかさまである。彼女の属している下層社会の人々は、狂者を精神病患者とか異常者とか冷たくいわずに、哀憐の情をこめて敬称をつけ<神経殿>と呼んでいた。<神経殿の孫女>といわれていたので、いずれ自分もおもかさまのようになると思いこんでいた彼女は、自分の最深部でこの祖母につながっていた。それはまた伝承の世界の祖母から孫娘へという継承の型をふんでもいたのである。この作品では母は稀簿な存在でしかない。おもかさまが見えぬ目でどう歩いて行くのかはだしで往還道を漂浪(され)きはじめると、夜中でも雨降りでも雪降りでも、必ず走って行くのは彼女の役目でいつも影のごとく寄り添っていたのである。おもかさまは彼女以外の者は寄せつけなかったのである。天地の間にゆくところもなくさまようおもかさまとともに、彼女の魂もまたこの世の裂け目をふみはずしてさまようのである。この盲目の狂女に寄せられる温かさも投げつけられる石のつぶても冷たいしうちも彼女はそのすべてを受け止めつつ人間世界を知っていくのである。人間世界の底まで見える視力を彼女は獲得していくのである。人はこの盲目の狂女の前で自分の心の裸をさらすからである。
祖父の訪れない日のおもかさまの精神はおおむね平穏で、そんな日にはおもかさまは彼女に語って聞かせる。
山に成るものは山のあのひとたちのもんじゃけんもらいにいたても、欲々とこさぎ取ってしもうてはならん。カラス女(じょ)の、兎女の、狐女のちゅうひとたちのもんじゃるけん、ひかえてもろうて来。
それは人間と動物が対等な人格で共生しあっている世界である。このすべての生類のむつびあう世界の中で彼女は育つのである。おもかさまの属している世界は、神々やその眷属(けんぞく)やカゴという妖怪や、あるいは兎女や狐女の住む、神話や民話に彩られた古い伝承の世界である。やがてこの地に水俣病という近代の毒をふりまく新日本窒素株式会社ははるか地平にその姿を見せはじめてはいるが、彼女にはまだ無縁の別世界のごとくであった。彼女を取り巻いていたのは前近代の、村老たちがそれぞれに愛すべき多彩な神々との出合いの体験を物語る牧歌的な世界なのである。おもかさまはその過剰なやさしさゆえにそこからさえ踏みはずした人なのである。それは語る人間よりも語られる神々に近い存在なのである。彼女もまたあの失われた<根源の深い世界>への回帰を希求するゆえに、語られる兎女や狐女に近い存在なのである。それゆえ、
いっそ目の前に来たものたちの内部に這入って、なり替ってみる方がしっくりした。いのちが通うということは、相手が草木や魚やけものならばいつでもありうるのだった。
かくて彼女は自在になり替り、なり替りの秘法を天成の名手のように身につけてしまうのである。この希有な想像力によって、水俣病患者になり替って書いたのが『苦海浄土』(昭44)であり、あの書は如何なる意味でも聞き書きや記録ではないのである。ともあれ、四歳の幼女は狐に化生する。
狐の姿をあらわしかけて、ちょこちょこと爪立ち歩いてゆくきわの、あわれでならぬ葛の葉は、おきやさまであり、おもかさまである。
おもかさまの民語的世界に身をひたしながら、おきやさまの浄瑠璃という文化的世界を媒介にして、彼女の狐への変身は完了するのである。こうして正妻と権妻の、狂気と正気の、民話と文化の交錯する地点で彼女は異類に転生するのである。その狐の眼によって、この世の正相と異相が同時に見えはじめる。石牟礼道子の諸作品にあらわれるあの世からこの世を見返るような不思議な視線はこうして形成されたのである。
諸関係の不思議の中を彷徨する魂にとって最大の不思議は自己の存在である。彼女は自分はどこがら来たのか、どこへ行くのかと問う。それらを
五官のすべてを総動員して、わたしは知りたがり、ほとんどやつれてくらしていた。草とか水とか、麦とか雪とかになり替ってみることは、むしろ安息でもあったのだ。
自己の実相と虚相の裂け目の無間地獄に落ちて、自己の根源の深い世界を求めてさまよう魂にとって安息とは何だろう。なり替りとは根源に届き得ぬ魂の擬似安息であり、一種自己否定を通して死へ通底する回路でもあったのだ。梅雨の長雨の終りの出水の日、遠くで半鐘が鳴っていた。彼女は水に誘われるように母の呼ぶ声に背を向け、かなたの天と自分の中から低く呼ぶ声に従って水に向かって走る。
現世へはもう帰りたくなかった。わたしは泣きじゃくりながら、ひとりぼっちだった。音を立てて移動し出した渦の中に、ふいっと躰を投げいれて流れに乗った。広大な、曇った天のかなたをそのとき見た。
こうして四歳の少女は自らの人生の幕を引こうとする。そのとき彼女は<天のかなた>に何を見たのであろうか。
神話の世界から失墜した神が民話の世界では異形の者と化すように、根源の世界、生命界のみなもとから転落した石牟礼道子は詩人ならざるを得ない。
人の言葉を幾重につないだところで、人間同志の言葉でしかないという最初の認識が来た。草木やけものたちにはおそらく通じない。
彼女は神々の言葉を失ったゆえに巫女にはなれない。しかし生類の言葉の中での人間の言葉の限界についての痛覚の上に誕生する詩人は異形の詩人たらざるを得ない。古代の言霊をあやつった巫女的詩人とはまた別の、草木やけものたちと共生し根源の世界への憧憬を響かせた新たな言霊的詩人が出現するのである。石牟礼道子の文学は古い古い神話と民話を生きる人々の語りを基盤として、生まれ替りなり替る化生という変幻自在の想像力によって生み出された文学世界である。『椿の海の記』では狐つきの幼女という古風でありふれた視点を意表をつく文学の新しい視座として構築してみせたのである。彼女は後年、高群逸枝に出合い、その狐の詩を読む。
広い野原に一匹の
狐が穴を掘りました
夕べとなれば縁(ふち)に出て
野を見渡して申します
というような近代人の心情の投影にすぎない狐の詩から彼女は何らかの影響を受けたとは思われない。彼女の文学の視座は、四歳のときに心の深部に住みついた葛の葉の人間の時空を超えた痛苦によってすでに貫かれていたのである。

石牟礼道子(昭2―)
熊本天草の建設業の父の仕事先で出生、水俣で育つ。以後水俣に定住し、水俣病を生涯の課題として背負い続けている。幼時にめざめた人生の不思議をいつまでも生き続けて、その果てに文学の母胎と化す。庶民の心底に生きる原初の言葉で現代の病理を告発する。 
 
さらば司馬遷 / 武田泰淳『蝮のすえ』 

 

古来、冒頭一行の輝きによって、不朽の名作として人々の記憶にとどまるような幾つかの作品があるが、武田泰淳の『司馬遷』(昭18)もそういう名著の一つである。その冒頭<司馬遷は生き恥さらした男である>は一読、ある感銘を与えずにはおかない重い衝迫力を秘めている。この日本評論文学の白眉の名著をものしたエッセイストが、戦後、作家に転身しようとして、『審判』(昭22・4)、『秘密』(昭22・6)についで、三作目『蝮(まむし)のすえ』(昭22.8)で、『司馬遷』のあの著名な文体へ回帰するのである。<生きていくことは案外むずかしくないのかも知れない>と。この評論と小説の冒頭の部分を併記してみる。
司馬遷は生き恥さらした男である。口惜しい、残念至極、情なや、進退谷(きわま)った、と知りながら、おめおめと生きていた。腐刑と言い宮刑と言う、耳にするだにけがらわしい、性格まで変るとされた刑罰を受けた後、日中夜中身にしみるやるせなさを噛みしめるようにして、生き続けたのである。そして執念深く『史記』を書いていた。(『司馬遷』)
生きていくことは案外むずかしくないのかも知れない。戦争で敗けようが、国がなくなろうが、生きて行けることは確かだな。・・・・最初は恥を忍んで生きている気でいた。だがフト気がつくと、恥も何もなく、ただ生きているだけの一枚看板であった。(『蝮のすえ』)
二つの文章は、ともに恥辱にまみれてふてぶてしく生き永える人間の不逞な強靱さといったものにつらぬかれている。寺に生まれて僧侶であることの恥ずかしさに発して、<酒を飲まずに、小説なんか恥ずかしくて書けるか>という作家であることの恥ずかしさに至るまで、恥ずかしさこそ武田泰淳の存在の核をなすものである。恥辱をめぐって人物が形象されるとき、その人物が重い存在感を漂わすのは、彼のそのような存在の構造にかかわっているからである。これらの文章も泰淳的深淵から発せられたがゆえの、重い充足感を持っている。しかし、この二つの文章の微妙なひびきの差もまた見逃がしてはならないものである。泰淳の恥辱の最も痛切なるものは、中国体験にかかわっている。中国文学研究者でありながら、侵略者として軍靴で中国の土を踏み、征服者の一員に連なって特権を享受して生きた体験こそ、彼の恥ずかしさの極をなすものである。その自分の恥辱を司馬遷の恥辱に重ね合わせて『司馬遷』を書いた。『司馬遷』の文体は直情にあふれ、ひたすらである。同じ中国体験の恥辱をモチーフとしながら、『蝮のすえ』の文体は屈折したひびきを持っている。エッセイストから作家への転身の事由は、上海における敗戦体験を抜いては考えられない。異国での敗戦において自分が<滅亡の民>として根こそぎ否定される現実に直面する。それは『史記』の<滅亡>の追体験に他ならなかった。そのような史記的体験の中で、自分が体験している滅亡をその微小な一点に吸収してしまう『史記』という世界の巨大さが改めて彼を打つのである。同時にその巨大な世界全体を記録した司馬遷という男の巨体もまた、彼の前に聳立(しょうりつ)するのである。司馬遷と自分の目も眩むばかりの落差、自分の身の丈いっぱいの背伸びをしてみても、なおあまりに相手が巨大であるとき、ふと身を屈めてみる以外のどんなしぐさが可能であろうか。すると、彼の偉大さと自分の卑小さはいっそう際立ち、極限まで拡大された落差の中から生ずる奇妙で滑稽な平衡感覚、そのときパロディという方法が発見されるのである。史記的滅亡体験に立ちむかうとき、自分のちっぽけな小説の方法としてパロディ以外のどんな方法がありえようか。かくて、司馬遷コンプレックスを逆手にとっての『史記』のパロディとして『蝮のすえ』は書かれるのである。『蝮のすえ』がパロディである以上、主人公<私>=<杉>は司馬遷のごとき記録者であるはずがなく、しがない<代書屋>として設定されるのである。かくて聖書の中の神の怒りからのがれられない偽善者、パリサイ人なる<蝮の裔>というタイトルが与えられるのである。
中国語の書類を作る代書屋の私のところに<美麗な動物>のような彼女が<女の匂い、女のあたたかさ、女の光>をまとって現われる。<私、先生の詩よく読んでいますわ。主人も先生の詩が好きです>と私の昔の甘ったるい詩に言及して私に血が逆流するような屈辱を与える。私はすでに抒情を軽蔑し、理想も信念もなく、ただ生存しているだけの代書屋なのだ。それから、<私は恥を忍んで生きているんですの>といって、彼女のつらい、恥ずかしい身の上話をはじめる。戦時中・彼女は軍部と結びついて権力を恣(ほしいまま)にした夫の上司、辛島によって暴力的に所有されていたという。夫が辛島によって漢口に派遣された留守中、辛島に毎日辱しめを受けたという。しかし、私は彼女の話を素直には聴けなかった。私は自分の身にあてはめても、<つらい恥ずかしいの念も忘れてただ生存して行こうとする、イヤらしい、憎らしい人間の本能>を彼女の上に想像するからだ。私は淫女の要素を持っていそうな彼女の魅力に確実にからめ取られていく。<あなた、わたしを守ってくれる? 愛してくれる? わたしは、あなたを愛しているのよ>というように、彼女が自分の考え抜いた筋書きに従って私に接近し、私はその筋どおり彼女との恋愛関係におちこんでいく。私は彼女を通して彼女の夫と結びつき、<ね、あなたに辛島が殺せる?>という彼女のことばを通して辛島に結びつく。こうして私は、彼女をめぐる四角関係の網の目に組み入れられていくのである。
<あなたに辛島が殺せる?>という彼女のことばによって『史記』の世界に充満していた殺意がこの作品にも漂いはじめる。滅亡と殺人は『史記』の基本テーマであり、したがって泰淳の小説の基本テーマでなければならない。しかし、この作品が『史記』のパロディである以上、その殺意もパロディックなものに変形せざるを得ないのである。ある日、私は辛島に呼び出されて会見する。その席上、辛島は彼女をフランス租界に連れ去る。邪魔をすると殺すと通告する。<権力をつかみ取ったその力は俺の力だからな。え、いいかい、依然として俺自身の力だからな>と権力を失ってもなお自信に満ちた辛島がそこにいた。その辛島を私は殺せるか。
インテリーは社会の良心だ。そうだな、杉君。イヤがってもそれは責任だ。だが君らは社会の腕にも脚にも、胃にも腸にもなれやせん。せいぜいのところ神経だ。小うるさい、役にも立たぬ神経だ。しかも妙てけれんな一人種の末梢神経だ。騒いでもだめさ。世界も、俺たちも痛痒を感じんよ。俺たちは、まあ大げさに言えば心臓さ。とまりたい時はとまる。自分でとまる。君らにはとまることさえできないんだからな。
というのが辛島のインテリ批判である。作者の自己批判でもある。その会見の帰り、私は酔い乱れた足どりで、<奴が僕を殺す?><心臓が神経を?>と考えながら、わざと膝を曲げ、頭上の両手をゆらゆらさせ、ゴリラのようにして深夜の裏街を歩く。すると私は、あたかも森林を出て、血潮したたらんとする現場にいそぐ膂力(りょりょく)すぐれた怪獣のごとき力にあふれてくるのであった。日僑(中国在住の日本人)として中国衛兵に対するお辞儀や規則を守るといった市民的用心は消え失せてしまう。頭上に手をあげ身を屈めるとき、インテリとしての自分の内部に閉じこめられていた野生のエネルギーが解き放たれる。その文明以前の野獣的力の深淵を秘めているのが泰淳文学の魅力の一つなのだが、おどけたしぐさなしには、自分の深部に到達できない深い羞恥がパロディという仮面を必要とする。『史記』の刺客のパロディとしての森林のゴリラを通して、私の殺意は単なる末梢神経の痙攣現象ではなく、もっと黒々とした野獣的なものに根ざしていることを、この場面はユーモラスに表現している。
私は、彼女が暴力で租界へ連れ去られ、彼女の病気の夫がひとり残される、それを拒むのが正義だと考えたのではない。私は正義が存在するとは思っていなかった。しかし、私は事件から身をひくことは自分がゼロになることであることに気づいた。私は自分がゼロになることを拒否する人間だという発見に驚く。彼女は、<わたしを守ってって頼んだでしょう。あれ取り消すわ>と私を辛島の所へ行かせまいと懸命に止めるけれども、私はすでに自分の運命を決めてしまっていた。私は正義という外在的基準を拒み、ゼロになることを拒否するという内在的、実存的基準によって自分の行為を測定したとき、私は史記的世界とは異質の、戦後世界のただなかに生きていたのである。<恥も何もなく、ただ生きているだけ>の人間から、<ゼロになることを拒否する>人間へ、私を駆りたてたのは何か。
このまま何事もなく帰っては、貴重な機会を失する、そんな気がした。重苦しい涙や血で汚れた真実の塊りをギュッとつかんだ時の、戦慄が予感された。帰国前に、この上海で、そのグニャグニャした豚の内臓のように気味の悪い塊りを握らなかったら、永久にそれは私の前から姿を消すであろう、と思われた。もう一歩だけ進まねばならなかった。
これはこの作品のモチーフであるだけでなく、たぶん泰淳文学をつらぬくモチーフなのだ。泰淳にとって世界はその核の部分に<グニャグニャした豚の内臓のような気味の悪い塊り>を内包しているものなのだ。そのような非合理的混沌への傾斜を持つゆえに、泰淳文学は、どこかで現在の地平を超える不気味な深淵をのぞかせているのである。私を殺人のほうへぐいと一押し押しやるのは、そのような原始的混沌への衝動なのである。
かくて私は辛島との対決にふみ切るのだが、それもあまりに他人まかせ、あまりにその場かぎりであった。私は武器さえも考慮していなかった。出かけるとき、そこらに転がっている小刀と、下宿の主婦の使っている斧を持って行く。この斧はもちろん、ラスコールニコフ(『罪と罰』の主人公)の斧以外の何物でもない。<私にはラスコールニコフのような強靱な思想も綿密な計算も、冷静な用意もない、何よりもあの深さがない>とすれば、私はラスコールニコフのパロディを演ずるより外のどんな演技ができようか。私がその斧を持って辛島に切りかかったとき、辛島の背中にはすでに一本の鋭利な刃物が突き刺っていた。私は何と滑稽な刺客であることか。この殺人場面の滑稽化には、自分の作品の主人公が殺人という大それた本質的な行為にコミットするについての作者の深い恥じらいがある。深いドストエフスキー・コンプレックスがある。ドストエフスキーは上海体験の中で深く彼を捉えた作家であり、彼の作家への転身に際して、多大の影響を受けた巨人である。
私は辛島殺害事件で滑稽な役廻りを演じたのだが、彼女の夫は私が辛島を殺したことを信じて疑わなかった。
自分のために殺人が行われ、それで私は満足し、安心していられるかどうか。僕は急にいてもたってもいられない苦しさ、恥ずかしさ、すまなさがこみあげてきて、泣いてしまいました。
しかし、私は辛島の死が忘れられない。彼が死ぬときの<おびえたような、情けなさそうな、訴えるばかりの目>を忘れることができない。人を殺したことの重さがずしりと私にのしかかる。私は辛島の死後すぐ、病院船で彼女と彼女の夫の付添の形で乗船して帰国の途に就くが、私の重苦しさはつのるばかりだった。辛島の死後、彼女の夫は、彼女が私を好きなことを嫉妬しはじめる。彼女でさえ辛島の影をひきずって私を脅かす。ある日、船上での私と彼女との会話、
「わたしをまだ愛しているの、え?」
「重苦しくて、ほかのことは考えられないんだ」
「何がそんなに苦しいの?」「辛島のことなの、わたしの夫のことなの?」
「全体だよ。自分が生きていることの全体だよ」
<生きていくことは案外むずかしくないのかも知れない>と冒頭で示されたところから、殺人を契機として、彼は<グニャグニャした豚の内臓のような気味の悪い塊り>にも似た苦悩に至りつくのである。作者は、恥辱の上に居直る人間の、人生のどん底に腰をつけたかにみえる安定も、仮りそめの安定にすぎなかったことを、私が恋愛という空間をずるずるとすべり落ち、苦悩の地獄に至ることを通して明らかにする。ここに至って一つの人間のドラマの環は閉じられようとする。
しかし、作者は主人公をもう一押し、向こうへ押しやるのである。病人は衰弱し、確実に死に近づいていく。ある日、病人は私に辛島の死について語る。
「あなたは、見ていて、あいつの心の中がわかりましたか。僕には、わかりますよ。死にかかって、あいつが考えていたことが」「自分が死んで、あなたが平気で生きていることは、何という妙なことだろう、とそう思っていたでしょうよ」「僕も、今、そう思っているところですよ」
そう話す彼の顔には、
とりつくしまのない意地悪さ、徹底した敵意が、色のわるい皮膚の全面ににじみ出していた。
彼女をめぐる四角関係は辛島の死によって三角関係になる。四角関係の中で隠されていたものが、次第に明瞭な姿を現わしはじめる。病人の視線の中で、私と辛島の位置が入れ換ってしまう。病人自身死が近づくにつれて死んだ辛島に近づき、重なってしまう。作品は最後に至って病人の視座が浮上して作品全体を照らしはじめる。死者の徹底した悪意の視線によって、私の殺意はあばかれる。それは彼女の夫のためなんどでは毛頭なく、私個人の恋愛感情に発した情痴のなせるわざではないのか。こういう死者の視線によるパロディックなどんでん返しの光に当てられて、私の重い苦悩の意味が解明される。
こうして『史記』のパロディとして書きはじめられた作品が、司馬遷的世界を突き抜けて、死者の視線の絶対性に裁かれる人間存在の偽善性という戦後文学の新しい地平にたどりつくのである。
最後に、四角関係という虚構の崩壊した私の目に、かつて「美麗な動物」として私を魅惑した彼女が、聖女に変貌するさまが描かれる。辛島を殺させたのは自分であると告白して私をいたわる彼女の姿が、<澄んだ水で患者の傷口を洗う美しい看護婦>のような聖女として現われる。彼女が事件の中で浄化されたように、私もまた<蝮のすえ>の苦悩そのものをひたすら生き抜くことによって浄化に至る道がかすかに暗示されている。彼女の<死なないでね>ということばは、私の浄化への祈りなのである。
戦後、エッセイストから作家への転身の模索の中で書いた第一作『審判』は、戦後作家としての彼の思想の核となる<滅亡論>を背景に、無辜の中国老人を殺害した二郎の贖罪を追求した倫理的作品である。第二作『秘密』は、<神の悪意>という反倫理性に立脚する小説の方法論を探求した作品である。第三作『蝮のすえ』は、この思想も方法も全く反対のベクトルを持つ二作品をふまえて、パロディという屈伸自在な小説の方法を発見することで、深々とした小説空間を構築してみせたのである。この『史記』のパロディという小説の宝庫を開くかぎの発見は、芥川の『今昔物語』発見を超える文学史的事件であった。しかし、彼の小説の道行きは芥川文学ほど単純ではなかった。その変幻する多様な作品群を創り出す泰淳文学の、それらの作品の根底のところに、『史記』のパロディという位相が読みとれるばかりだ。そして、最初の長編小説であり、初期短編小説の総和でもある『風媒花』(昭27)の中に、その方法は集約される。『風媒花』は泰淳の史記である。まことに『蝮のすえ』にはじまり『風媒花』に至るまでの初期短編には、パロディによって司馬遷を超えんとする不逞な志が鳴りひびいているのである。

武田泰淳(明45―昭51)
東京本郷の潮泉寺に生まれる。父の師僧武田氏を継ぐ約束で出生時から武田姓を名のる。僧侶となるべく運命づけられていた彼は仏教から深甚な影響を受けた。諸行無常の定理を基軸とする彼の文学は、相矛眉する要素をのみこんで多元多彩な様相を呈する。 
 
幻視異聞 / 大江健三郎『空の怪物アグイー』 

 

詩人はいつも現実の彼方にもう一つの世界を見続けてきた。それは多分、文学というものの基本的性格であり、文学の原初的形態である詩において、際だった形であらわれるものであるらしい。例えば、日本文学の発生期、初期万葉の詩人は次のようにうたう。
わたつみの豊旗雲に入日さし今夜の月夜明らけくこそ
この古代の詩人は、夕焼けの海に旗雲がたなびく現実の風景を見、同時に、その彼方にわだつみの神の宮殿にはためく神の旗を見たのである。この正視と幻視の二重の視力こそ詩人の基本的能力であり、詩が本質的に比喩に根ざした異文である証左でもある。比喩とは一つのものを表現するのに、もう一つの異質のものに結びつけることによって濃淡二重の映像を結ぶ表現法だから。大江健三郎の文学の新しさは、何よりもその文体の新しさにあり、その文体は比喩を核とする詩的表現なのである。そのメタファーを構造的に取りこんだ文体で書かれた作品は、必然的にメタフィジックヘの通路を持ち、作品はある種の寓意性を帯びざるを得ないのである。そういう資質を開花させて大江は『奇妙な仕事』(昭32)にはじまる初期短編群を書き、「牧歌的な少年たちの作家」という位置を確立した。やがて、大江はその確立した牧歌的抒情性を否定し、『われらの時代』(昭34)にはじまる性と政治を主題とする諸作品を書き、「反牧歌的な現実生活の作家」への転身をはかるのである。その苦渋にみちた苦闘のなか、昭和三十八年六月、最初の子供が頭蓋骨に異常を持って生まれるという生活上の危機が、彼の文学にもうひとつの転機をもたらすのである。『空の怪物アグイー』(昭39)はその異常児を扱った最初の作品であり、次のように書きはじめられている。
ぼくは自分の部屋に独りでいるとき、海賊のように黒い布で右眼にマスクをかけている。それは、ぼくの右眼が、外観はともかく実はほとんど見えないからだ。といっても、まったく見えないのではない。したがって、ふたつの眼でこの世界を見ようとすると、明るく輝いて、くっきりした世界に、もう一つの、ほの暗く翳(かげ)って、あいまいな世界が、ぴったりかさなってあらわれるのである。そのため、ぼくは完全舗装の道をあるいているうちに不安定と危険の感覚におびやかされて、ドブを出たドブ鼠のように立ちすくんでしまうことがあるし、快活な友人の顔に不幸と疲労のかげを見出して、たちまちスムーズな日常茶飯の会話を困難な吃りの毒で台なしにしてしまうことがある。
このぼくの視線、<明るく輝いて、くっきりした世界>と<ほの暗く翳って、あいまいな世界>が重って見える視力こそ、大江健三郎の基本的な眼である。大江は決して、明るく輝いて、くっきりした明視の世界のみを見るリアリストではなく、いつも世界の裏側を透視する暗い幻視を持ち合わせてもいるのである。この視力の二重性は文体の二重性と照応しているのである。<不安定と危険の感覚>という平叙体は<ドブを出たドブ鼠のように立ちすくむ>という比喩体におきかえられるのである。明暗二重の視力は、濃淡二重の文体に対応しているのである。こうしてこの作品は、主人公Dの正気と狂気、現実と幻影の交錯する不思議な世界を語るのに、語り手<ぼく>が、<ふたつの視力二・○の眼>の一つを失うことによってはじめて、語り手たる資格を獲得するというふうに設定されているのである。正視を失うことによってはじめて見えてくるDの世界とは、いったいいかなる世界なのであろうか。
語り手<ぼく>はある銀行家の息子の若い作曲家Dの外出付添いのアルバイトに傭われる。Dの空にはいろんなものが浮游していて、その中にカンガルーほどの木綿地の白い肌着を着た肥りすぎの赤んぼうがいて、それが空から降りてきてDを訪れるという。そういう異様な幻影にとりつかれている故に、Dはひとりでは外出できないのである。ぼくと最初の外出のとき、Dはあたかも自分が存在していないかのように、<透明人間>のように振舞う。電車の中でも、<擬装死の小っぽけな獣みたいな状態><気むずかしげな沈黙の牡蠣>となってしまう。これらの比喩を形づくる<獣>や<牡蠣>は大江作品にあらわれるなじみの比喩であり、大江文学の原郷がいかなるものであるかを暗示している。
ぼくはDの看護婦を待伏したり、Dの命令でDの離婚した妻を訪問したりして、Dの幻影をつきとめようとする。以下はぼくの聞き出したDの離婚した妻の話である。
わたしたちの赤んぼうは生まれたとき、頭がふたつある人間にみえるほどの大きい瘤が後頭部についていたのよ。それを医者が脳ヘルニアだと誤診したわけ。それを聞いて、Dは自分とわたしとを恐ろしい災厄からまもるつもりで、その医者と相談して、赤んぼうを殺してしまったのよ。・・・・ところが死んだ赤んぼうを解剖してみたら、瘤は単なる畸型腫にすぎなかったのよ。それにショックをうけたDが幻影を見はじめたわけ。かれはもう、自分のエゴイズムを維持する勇気をなくしたのね。そして、かつて赤んぼうを生かせることを拒否したとおなじように、こんどは、自分が積極的に生きることを拒否したのね。
長男が頭蓋骨に異常を持って生まれ、手術を受けた事件は、大江を痛撃し、彼を根底から震駭(しんがい)させた。この実人生上の事件に大江はどのように立ち向かったかは、それから半年後に発表されたこの作品が語っている。ただこの作品には、事件から受けたであろう生々しい衝撃はすっかり拭い去られて、嬰児殺しというモチーフを残したばかりである。そしてそのモチーフの鋭い刃で自分の内面世界を切り開いてみせるのである。この生の事件と作品の関係には、やはりあの二重の視力が働いていて、実人生上の事件は見事に文学上の事件へ昇華されていたのである。
赤んぼうを殺した罪の意識のために、自分が積極的に生きることを拒否したDの内面の世界がぼくの探索によって少しずつ明らかになっていく。ある日、ぼくとDは自転車でD邸の周辺をひとめぐりする。そして野菜畑のあいだの有刺鉄線の張られた一本道で、Dのそばにかれの想像上の怪物アグイーが降りてくる。ぼくがDの看護婦から聞き出した話では、アグイーは犬と警官をこわがるということだった。ところが、この逃げ場のない一本道で十頭以上の犬の群をひきつれた調教師風の男に出合ったのである。犬の群が近づき、Dはかれのアグイーが犬の群に襲撃される恐怖に怯え、やむなく犬どもに立ち向かい、ずたずたに咬み裂かれてしまうだろう。ぼくは恐怖に立ちすくみ、硬く瞼を閉じ、茫然と涙を流して自己放棄する。そのとき、ぼくの肩に<信ずべからざる優しさの、あらゆる優しさの真の核心の優しさの掌>が置かれるのを感じる。ぼくはアグイーに触れられたように感じたのだが、それはぼくの雇傭主Dの掌であった。危機は回避されていた。アグイーはどうなったのか。Dはもうアグイーには気をつかうことなく、ぼくを救おうとしていた。恐怖にうちのめされて自失したぼくに救助の手をさしのべるDの大きな愛の掌、その優しさはいったいどこからきたのか。その出来事の直後、Dは自分の幻影について次のように語る。
空を、地上から、ほほ百米のあたりをアイヴォリィ・ホワイトの輝きをもった半透明の様ざまの存在が、浮游しているんだから。なにが空いっぱいにうずめて輝きながら浮游しているかといえば、それはわれわれが、この地上の生活で喪ったものだ。
この地上で喪ったものが空を浮游している世界、不可視なものが明視化され、喪い続けることが増え続けることであるという逆説的空間を創り出すことで、大江は喪失の意味を解きあかしてみせるのである。大江が作家としての盛名の坂を登り続けることで喪い続けていたものが、異常児の出生という衝撃によって一挙に明視化される。大江はこの事件で彼自身の本来の位置にひきもどされる。その作家の位置から、自分の内部の暗闇に照明を当ててみるのである。するとその暗闇の奥にうずくまっている狂気のかたまりの中に嬰児殺しの想念が一瞬よぎるのが見える。すでに人間内面に巣喰う狂気の影は『鳥』(昭・33)でその形象化の試みはなされているが、この作品ではもう一段深刻化されて、メタフィジックな空間の設定まで進んでいる。<浮游しているそれらの存在を見る眼、降りてくるかれらを感じとる耳、それらはわれわれがそれ相応の犠牲をはらって獲得しなければならないものだ>このようなメカニズムを持ったDの内面世界、Dはそれを説明するのに中原中也の詩「含羞(はじらい)」を引用する。
枝々の、拱(く)みあはすあたりかなしげの
空は死児等の亡霊にみち、まばたきぬ
をりしもかなた野のうへは
あすとらかんのあはひ縫ふ古代の象の夢なりき
初恋の甘美な思い出にふけるときでも、中也の呪われた空には死児等の亡霊にみちていたのである。それは、痼疾(こしつ)のごとく死と狂気を抱えこんでいる大江の宿命の琴線にふれる。大江が中也の詩を核とする詩的作品を書く所以である。この作品には抒情詩の静謐(せいひつ)、喪失を悼む鎮魂歌のひびきがある。大江の創り出した不思議な空間は、<それ相応の犠牲>大江の深い創痍によって創り出されたものである。その生々しい傷跡を拭い去って美しい異聞にまで織りあげた想像力というものを思わないわけにはいかない。
優しさはその想像力の質と深い関係があるだろう。Dの優しさについてDの愛人の女優の次のような証言がある。
死んだ人間の霊は、生きてた最後の瞬間の状態で思い出とともに永遠に存在しているはずでしょう? ・・・・Dちゃんは、赤んぼうの死んだ瞬間から、もう自分も死んだ人間のように新しい思い出はつくるまいとして、この現実の<時間>を積極的に生きなくなったんじゃない? それから赤んぼうのお化けにはどんどん新しい思い出をつくらせようとして、東京じゅうのいろんな場所で地上に呼びおろしているのじゃない?
Dの優しさは、このような贖罪意識による自己犠牲からもたらされたものである。その対象もアグイーに限定されてはいなくて、無力で傷ついた瞬間のぼくへも及ぶ、限りない優しさなのである。ただし、Dは現在のこの時間を生きることを拒否し、この愛人ともいかなる関係を持つことを拒否している人間だから、Dにはいっさいの地上的ドラマは起こり得ないのである。Dの内面世界は外界からの一切の手がかりのない絶対の世界であり、それは抒情詩の完結性に酷似しているのである。ぼくはDの付添であり、語り手であり、畢竟傍観者にすぎない。したがってDの世界は動かない。大江の創りあげたこの純粋空間では、Dの自己抹殺の意志だけが自己運動していくしかないのである。Dはだれとも出合うことなく、自分の内部の暗い穴ぼこを何の手がかりもなく堕ちていくほかないのである。異常児の父となった衝撃の最初の反応を示した作品で、嬰児殺しをモチーフとして、贖罪(しょくざい)意識という錘(おも)りをつけて一直線に落下していく失墜感を描くことの中に、多分大江文学の原質が隠されているのである。大江はその失墜を極めて美的にユーモラスに描いてみせるのである。例えばアイヴォリイ・ホワイトに輝く空といった美しいイメージ、例えば、その赤んぼうが生れてから死ぬまでに、いちどだけアグイーといったからアグイーと命名したといった具合のユーモアが、至るところにちりばめられているのである。
その年のクリスマス・イブの日、港に入っている筈のチリーの貨物船を見るため、銀座から東京へ向かって歩いていた。そのとき、アグイーがDの脇に降りてきた。やがて彼らは広い交叉点にさしかかったとき、信号が変わった。Dは立ちどまった。トラックの群が疾走していた。その時、不意にDが叫び声をあげ、なにものかを救助するように両手を前にさし出してトラックのあいだに跳びだし、瞬時にはじきとばされる。その夜、病院で、瀕死のDに向かって ぼくは呼びかける。<あなたは自殺するためにだけぼくを傭ったんですか? アグイーなどあれはカムフラージュだったんじゃありませんか?> そのときDの黒く小さくなった顔に<人を嘲弄するような、また好意にみちた悪戯をするときのような微笑>が浮かびあがるのである。Dのような自己処罰を生きた人間にとって、その死は、自殺であれ、事故死であれ、たいした相違はないわけだ。こうして大江は嬰児殺しが死へ行きつくしかない必然のコースを確認したのである。自己抹殺の錘鉛(すいえん)を下ろして、自分の生の基盤を確認するのである。こうして退路を断ち切ることで大江文学の反転がはじまるのである。次作『個人的体験』(昭39)において、同じテーマを火見子という救済者を設定し、異常を持つ嬰児を育てる決意をすることで、失墜から浮上へ、自己抹殺から再生へのドラマを描いてみせるのである。
Dの死後十年たった今年の春、ぼくは街を歩いていて、不意になんの理由もなく怯えた子供らの一群から石礫を投げられた。拳ほどの礫がぼくの右眼にあたり、ぼくはそのショッで片膝をついたとき、ぼくのすぐ背後から、カンガルーほどの大きさの懐かしいひとつの存在が空に向かってとび立つのを感じ、ぼくは思いがけなく、さようならアグイーと心の中でつぶやくのである。ぼくは子供らに傷つけられてまさに無償の犠牲をはらったとき、一瞬だけにしても、ぼくは空から降りてきた存在を感じとる力を与えられたのだ。こうしてぼくはDと同質の視力を獲得し、Dの物語を語る資格を入手したのである。万葉の詩人は、その神話的想像力によって現実の彼方を透視し得たのであるが、大江の創り出した世界の住人たちは、あるいは自分の子供を殺すこと、あるいは自分の眼をつぶすこと、というような代償を支払うことによってはじめて、自分の内部の薄暗がりを透視する力を得るのである。そこに現代における想像力の困難がある。人間内部の薄暗がりを透視するためには、それをアィヴォリイ・ホワイトに輝く空間に転換し、その空間にこの地上で喪ったものがことごとく顕在化されるしかけを持つメタフィジックな反世界を創出せねばならないのである。<浮游しているものは、しだいに、加速度的にどんどんふえるよ。ぼくはぼくの赤んぼうの事件以来、その増殖をくいとめるために、この地上の現実的な≪時間≫を生きるのを止めた> このようなメカニズムは悲劇のメカニズムにほかならない。生きるとは何ものかを喪い続けることであり、喪ったものは空に浮游する以上、人間は生きることを止めるほかないという人間存在の悲劇的ありようを大江は明確に取り出してみせたのである。ここには人間の生存に対するきびしい認識が静謐(せいひつ)な祈りにつつまれて不思議な小説世界として提示されているのである。大江はこの『空の怪物アグイー』の自己否定をくぐることで、知恵遅れのわが子と共生していく文学の道を模索しはじめるのである。この短編で開幕した人間内面の暗闇の劇は、知恵遅れの子供を中心に据えて、『個人的体験』から『万延元年のフットボール』(昭42)、『洪水はわが魂に及び』(昭48)を経て『ピンチランナー調書』(昭51)に至る長編小説において、一つ一つ位相の異なる深刻なドラマとして持続して追求されるのである。幻視異聞に根ざした大江固有の文学方法によって、『空の怪物アグイー』で開始した<社会に背を向けて、自分自身の内部の暗闇に竪穴を掘る>(『壊れものとしての人間』昭・45)という孤独な文学作業は、それら長編の中で、<その竪穴を掘りすすめた向こうには、社会が実在しているのだと、したがって自分は狂気にいたる孤独の竪穴を掘っているのではなく、横穴を掘りすすめて社会にいたろうとしている>という文学をめざしての大江の苦闘は続くのである。そして、自分自身の内部の暗闇から社会へのいくつもの通路をさぐり当て、ついに『同時代ゲーム』(昭54)という全体小説へ至りつく大江の文学コースの中で、『空の怪物アグイー』はささやかではあるが、その最初の指標を示した作品としての記念すべき位置を占めているのである。

大江健三郎(昭10―)
愛媛県喜多郡大源村に生まれる。この森の奥の谷間の村が大江文学の原郷であり、多くの作品の舞台となる。彼は幾度か自己の文学の到達点を破壊して新しい創造への冒険に挑んだ。しかし核時代に対峙する障害児という形で顕現する構図が彼の文学を貫通している。 
 
寓話の復権 / 阿部公房『デンドロカカリヤ』  

 

寓話の衰微がいわれてから久しい。今や寓話は子供のための読み物の中に封じ込められて辛うじて命脈を保っているかに見える。しかし寓話はイソップ以来、荘子以来の古い文学の原形であり、文学の中でのその位置が下降し続けているとはいえ、意外に根強く現代文学のあちこちに生き残っている。今なお寓話が顕著な形で生きているのに俳句の世界がある。例えば中村草田男の中にイソップを見たのは山本健吉であるが、彼の俳句
なめくじのふり向き行かむ意志久し
これはふり向きふり向き進まむと意志すること久しきも、遅々として進まざるなめくじの姿を描いたものであるが、同時にそれは草田男自身の逡巡忸怩たる生きる姿でもある。なめくじにそのような自嘲と自愛の入り混った自画像が重ねられているのである。動物たちが人間と対等な背丈を持つメルヘンの世界に託して、ぶざまではあるが懸命に生きるいちずな生の営みが肯定されるのである。
寓話は一つの物語とそれが放射する一つの寓喩の二重性において成立する。しかし、その寓喩となる観念の先行する形式であるがゆえに、それが固定化し、教訓化する傾向を持 つ。そして固定化した教訓で表現するには現代はあまりに複雑すぎるのである。俳句もまた、その十七文字という制約ゆえに現代を表現できないのではないかと危惧されている文学形式である。いわば、そういうマイナスどうしが結合することで、俳句が現代詩として不思議な活力で蘇生するのが草田男の場合であり、草田男に限らず現代俳句の寓話への傾斜は、いたるところに見られる現象である。例えば草田男と対極にあり、即物的抒情に俳句の革新をかかげた山口誓子にさえ次の句がある。
海に出て木枯帰るところなし
この帰るところのない木枯の物語からは、行き暮れた現代人の孤独の歌がきこえてくる。
安部公房は小説の世界において複雑に錯綜する現代を捕捉するのに、単純明快を基調とする寓話を採用する。『終りし道の標べに』(昭23)の実存的リアリズムとでもいう方法で出発した安部は、『デンドロカカリヤ』(昭24)の変化譚でそれこそ唐突に自分の文学を変形させてみせるのである。その突然にみえる変形はアヴァンギャルド芸術家集団「夜の会」での花田清輝との出合いによって準備されていたのである。花田のアヴァンギャルド芸術の基本テーゼは<最もかけ離れた異質の諸要素を結びつけ、対立物を、対立物のまま統一する>(『ユーモレスク』・昭24)というものであり、安部はそれを寓話と小説という、前近代と近代の異質の方法を結びつける文学的実験をしてみせたのである。
『デンドロカカリヤ』は<コモン君がデンドロカカリヤになった話>という一行ではじまる。これは明らかに近代小説の冒頭ではない。このほとんど標題に近い、ずばり主題を明示した一行はメルヘンの文体である。寓語はイソップを見てもわかるように、メルヘンを通して現われるのが最も一般的な形であり、安部が現代の寓話を語るのにメルヘンの方法を採用したのは賢明な選択であったといわねばなるまい。コモン君の植物化の発作は唐突にはじまる。冒頭一行に続いて
ある日、コモン君は何気なく路端の石を蹴とばしてみた。春先、路は黒々と湿っていた。石は、石炭殻のようにひからびたこぶし大の目立たぬものだったが、何故蹴ってみようなどという気になったのだろう。ふと、その一見あたりまえなことが、如何にも奇妙に思われはじめた。
コモン君が何の変哲もない石につまずくこと、いや石を蹴るという行為そのものにつまずき、日常生活を支えている平衡をふみはずすのである。このようなささやかな心理異変はまことに日常茶飯事であり、<なに、誰だって知らず知らずのうちにしているのさ>とその心理の変調から立ち直ろうとふんばったとき、こんどは別の足がその石を蹴っていた。その瞬間、コモン君の心はもんどり打ってひっくり返る。
どこかへ引きさらわれてゆく感じ、おれの心はそんなに空っぽなんだろうか、そう思ったその時なんだ。コモン君はふと心の中で何か植物みたいなものが生えてくるのを感じた。
こんな誰にでもあり得る平凡な行為から起こる小さな心の波紋で、コモン君は日常世界からの失墜がはじまるのである。コモン君は地球の引力に引きつけられ、足が地面にのめり込んでしまう。こうしてコモン君は植物に変形する。すると、あたりが真暗になる。コモン君の顔が裏返しになっていたのだ。あわてて顔をはぎとり元にもどすと、すべて元どおりになる。以上が第一回目の変形と復元である。コモン君はあわててその場を取りつくろって立ち去るのだが、いちど日常世界にぽっかりあいた陥穽におちた者は、平穏な日常生活を持続することはできないのであろうか。偶然おちた陥穽をこんどは必然のコースとしてたどり直さねばならないのである。あの事件から一年たったある日、コモン君は一通の手紙を受け取った。
あなたが必要です。それがあなたの運命です。明日の三時に、カンランで…… Kより
一目で分かる、女文字である。考えているうちに暗示にかかり、Kという名の恋人がたしかに居たような気がしてくるのだ。こんどは女文字につまずくのである。翌日、コモン君は心をはずませて珈琲舗カンランヘ急ぐ。
カンランでK嬢を待つコモン君の前の彼女のための椅子に<黒い詰襟、厚ぼったい眼鏡をかけた、ずんぐり男>が腰を下ろす。そして<細い左眼で吸いよせ、右眼で飲みこんでしまう、そんな眼>でコモン君を見つめる。彼はコモン君の眼を、腹の中まで見すかすようにのぞきこんでいた。何から何まで知り抜いているといった顔つき、
いや、そんなはずはない、俺の顔だって知るはずがないじゃないかと、一応は何処かで打消しても、すぐ別なところで相手がすべてを知っているのだという自分にも分らぬ、そのくせ分ればもっともだと納得するにちがいないらしい、すくなくともそう思われる論理みたいなものが、にょきにょき生えてくる。
それが植物だ。何物かに自分の内部を知りつくされ、彼の思いのままに支配されている状態が植物化である。彼によって吸い取られ空洞化したコモン君の内部に天が流れこんでくる。
重い天が、やがて全身に充満して、いやでも内臓は体の外部に押出されていった。
こうして内部と外部が入れ換り、顔が裏返ってコモン君は再び植物となる。内部にぽっかりあいた空白、本来なら夢や希望や愛や怒りで充満しているはずの内部が天のように空白となる。そのような自己喪失の結果起こる内部と外部の逆転現象、それが植物化である。最後に顔が裏返って植物化は完了する。人間存在の象徴である顔が単なる転換装置のボタンと化す。従って、裏返った顔をつかみ出し、表を向けると人間に還るのである。必死のあがきで人間に戻ってみると、すでにK嬢との約束の時間は過ぎていた。三時とは変形の指定時間であったのか。すると変形とはあの黒服の男のしかけた罠であったのか。やつ自身がKであったのか。コモン君は自分に向けられたいばらのような店中の視線を逃れて外に出た。しかし、雑踏にもなじめなかった。ひとたび異物に変形した人間の異和感を抱き、この世の全体から拒まれている孤独感にさいなまれて、コモン君は逃亡し続ける。<顔が、ほとんどぐらぐらになっていて>、表を向いているほうが無理な状態である。今や植物化は避けられない必然のようだ。こうして安部公房は人間存在の不安定さを取り出してみせるのである。さらに人間と植物の往復運動を繰り返すことで、変形のメカニズムもしだいに解明してみせるのである。変形は外部と内部の気圧の落差、社会の荒廃による外圧の増進と生命の稀薄化による内圧の低下の結果、浸透圧の法則によって生ずる科学的現象である。変形という超科学的現象を科学的に解明してみせるのである。そこにはメルヘンと科学という異質の視点が奇妙に統一されていて、科学的メルヘンとでもいうべき、あるいはやがて現われるSF作品の前ぶれとでもいうべき新しい文学方法が出現していた。ともかくリアリズムから科学的メルヘンヘの移行の中で、人間を背景と奥行きを持つ典型として捉える人間観から、人間を異常物質として、特殊現象として捉える人間観への転換が行われたのである。そうして手に入れた方法によって、まるで手袋を裏返すように人間を裏返してみせるのである。つまりはどんな異常も許容するメルヘンを軸にした新しい視座によって、内部と外部の転換、人間と檀物の往復という変幻自在な転換の魔法、人間把握の新しい方法に到達したのである。『デンドロカカリヤ』はまことに安部文学のコペルニクス的転換を示す作品であり、アヴァンギャルド文学の未踏の領域に挑む新しい試みだったのである。
現代の新しい寓話を創造するには、この変形譚に新しい寓喩を盛らなくてはならない。作品の後半は寓喩の解明にあてられている。コモン君は自分の変形のなぞを解き明そうとしてまず訪れるのは図書館である。最初に、人間が植物になる地獄を描いたダンテの『神曲』を借りると、<八十二頁をお読みなさい>と指示する図書館員は例の黒服の男である。「神曲」第七獄の第二の円、それは自殺者が受ける罰だという、しかしコモン君はなぜ自分が自殺者の罪に問われなければならないのかさっぱり分らない。ここは罰だけであって罪のない世界である。かつての罪と罰とが均衡を保ち、その二元論を生きた人間の時代は去り、現代という地獄は罰だけあってそれに対応する罪のない時代である。罪を失った人間はもはや人間ではないのではあるまいか。人間が人間である原初のしるしを原罪というではないか。罪の喪失そのものが罰なのではあるまいか。するとコモン君は自ら知らずに自殺してしまっていたのかも知れない。この無意識の自殺者という位相が現代人の本性を無気味にさし示しているように思えてならない。漱石流に気どっていうと、アンコンシャス・ヒポクリット(無意識の偽善者)が近代人の病理であったとすれば、アンコンシャス・スイサイド(無意識の自殺者)が現代人の宿痾なのである。これが変形譚の寓喩であり、この作品の主題である。
たちまち地獄の様相を呈しはじめた図書館から逃れ出ようとして、入口で受付の男に捕えられる。またしても例の黒服の男、コモン君の行く先々に先回りして待伏せるこの男、それは先ほどの『神曲』の自殺者の樹々をさいなむ怪鳥アルピィエ。挿絵でみたあの顔だ。コモン君は男の正体が少し分かりかける。手を振りほどいて逃亡する。だが、地獄はコモン君を追いかけて街の中まで延びてくる。現代はあらゆる場所が地獄となる。
やっと家に帰りついてKの手紙を取り出して燃やす。その燃える炎に、人間の圧政者ゼウス一族を山上から追放するためのプロメテウスの火の幻影を見る。コモン君はさっそくギリシャ神話を調べはじめる。安部はギリシャ神話によってこの作品に社会的視点を導入する。つまりギリシャ神話をゼウス対プロメテウスの対立、人間の圧政者対守護者の対立として解読するとき、ゼウス一族によって植物化された人々の物語とともにコモン君の植物化は圧政の犠牲者の物語となるのである。かくてコモン君の変形は社会的に抑圧され疎外された人間の自己崩壊の寓喩といった意味を帯びてくるのである。
ある日、またコモン君に手紙が届く。
デンドロカカリヤ・クレピディフォリヤ殿―
貴方が、母島列島以北に存在するとは驚きましたよ。まったく珍奇なことですわ。是非お目にかかりたい。今夜の六時に参ります。 K植物園長より。
ギリシャ神話で調べてみると、黒服の男、アルピィエはネプチューンの女、水の女たち……さすればやはり火を消すゼウスの手下、そして今、K植物園長としてコモン君の前に現われる。このコモン君に変形を強いる者はあらゆる形で遍在してコモン君を囲繞(いにょう)しているのである。圧政者の組織は網の目のごとくコモン君を包囲しているのである。それではコモン君は何者なのか。私にはどうもコモンセンスに捉われた無力な民衆像のように思われる。例えば彼の思想はギリシャ神話を超えることができないので、園長に、
ギリシャ神話とは少し非科学的ですね。(中略)植物と動物は質的な相違ではない。量的に異なるだけである。つまり、科学的には、植物も動物も同じことだというわけですね。
と反駁されるともう返す言葉もないのである。ここには人間中心のヒューマニズムを否定し、動物と植物を同質とみなす新しい価値観、人間を物質として捉えるアンチ・ヒューマニズムの人間観が示されている、コモン君のヒューマニズム神話学では対応不能である。
もう一度整理しよう。コモン君対アルピィエの対立、究極までつきつめてみると、たぶん民衆対権力という政治的図式を潜めているこの対立を、変形を迫られる者と変形を迫る者、植物と植物園長というふうに描くとき、このドラマの結末はおのずから明らかであろう。二人の対面は園長のこんな言葉で打切られる。
きっと私のところに来る気になりますよ、すばらしい温室です。それに政府の保証です。じゃさようなら。期待して待っています。
ある朝早く、コモン君はアルピィエから奪った海軍ナイフをボケットに忍ばせて家を出る。寝込みを襲ってアルピィエを殺害するつもりなのだが、それは自らすすんで相手の手中におちていく自殺行為ではなかろうか。しかし、無意識の自殺者という宿命を背負っているコモン君にとって、自らを死地へ追い込む以外にどんな生き方ができようか。植物園では案に相違して人々は早朝からにぎやかに立ち働いていた。今日はちょうど緑化週間の花形、植樹デーなのだ。<多分、今日あたりいらっしゃるだろうと思っていました>と園長から歓迎される。コモン君はナイフを突出したままの恰好で大きな植木鉢に乗せられて、<菊のような葉をつけた、あまり見栄えのしない樹>デンドロカカリヤに変形してしまう。コモン君の変身に作者のコモンセンスへの訣別の決意が託せられていた。
コモン君、君は間違っていたんだよ。あの発作が君だけの病気でなかったばかりか、一つの世界と言ってもよいほど、すべての人の病気であることを君は知らなかったんだ! そんな方法で、アルピィエを亡ぼすことは出来ないんだよ。ぼくらみんなして手をつながなければ、火は守れないんだ。
イソップ以来の寓話作者の作法に則り、作者が舞台に現われて教訓を語って聞かせるのである。作者はコモン君の病気をすべての人の病であると診断して、連帯という極めて楽天的な処方箋を示してみせるのだが、コモン君のどこに連帯の可能性があったろう。圧倒的な現代の悪意の中で、自分が自分である根拠さえ見出せず、指示者の意のままに変形させられる現代人の悲劇を描いたとき、安部公房は現代民衆の病理にほとんど絶望していたのである。しかし彼はその悲劇を楽しげな文体で描き、最後に高らかに連帯! と楽天的に叫んでみせたのである。その意表をつく発想と文体の中に安部公房の新しさがあった。
『デンドロカカリヤ』ではじまる安部公房の寓話文学は、まことに多彩な作品群を生み出していくのである。次作『赤い繭』(昭25)では、家を求めて繭に変形する男の運命に、<家ができても、今度は帰ってゆくおれがいない>という現代の背理を見事に描いて、新しい寓話作家としての位置を確定した。続いて『S・カルマ氏の犯罪』(昭26)では名前の実在性を、『闖入者』(昭26)では民主主義の虚妄を、『棒』(昭30)では人間の裸形を、というように現代の課題をテーマとする寓話を次々と書きついでいくのである。そして、その夥(おびただ)しい寓話の集積のはてに、『砂の女』(昭37)という傑作が誕生するのである。それは現代の寓話が至りつく極点を示した作品である。しかし、寓話が完璧性へのぼりつめたとき、寓喩が図式として独り歩きすることで、寓話の二重構造の微妙な整合性が揺らぐという寓話の宿命に安部公房もまた遭遇していたのである。

安部公房(大13―平5)
満州奉天で生まれる。単身帰国し成城高校、東大医学部に入学。戦争期末、贋診断書を作り、大陸へ脱出、奉天で敗戦を迎え、故郷を失う。戦後、アヴァンギャルド文学者集団に参加し、新しい寓語的手法で現代の課題を表現する前衛的作品を書き続ける。 
 
絶対の孤独 / 坂口安吾『桜の森の満開の下』 

 

鍋釜を持たずとは安吾が自分に課した戒律であった。一切非所有の裸形のうちに、安吾は人間の原形を見ていた。人間は所有によって汚れることを安吾は知っていた。所有の魔力は万有引力の法則に似ていて、持てば持つほど物の人間を縛る力は大きくなる。「阿賀野川の水が渇れても坂口家の富は尽きない」といわれた旧家に生まれた彼は、そのありあまる所有の反動、大きすぎる家への憎悪によって、所有を敵視する思想を育てたのである。所有が文化として是認される時代において、非所有に自分の生存の根拠をおくとき、人はどんな異端の相貌を生きねばならないだろうか。
安吾の人生は父への侮蔑と母への憎悪から出発する。政治家である父は家を顧みる暇はなかったし、子沢山で没落しはじめた旧家の主婦は、この十二番目の子供に手をかけるには多忙すぎた。父母への反感は愛を求めて満たされない心の裏返された表情であった。とくに母に見放された子供は、自己の生存の基盤を失ってさまよう他はないのである。すでに幼稚園を抜け出して放浪した子は、九歳のとき、家のだれかを殺すつもりで出刃包丁をふりまわし、家族という最も基本的な人間関係を切断するのである。こうして人間世界から疎外された子は、自然に向かって歩む他ないのである。中学生になると、ある時期ほとんど学校へも行かず、毎日日本海の荒海を見て暮らしたという。人間世界から見棄てられた心は、海と空と風の中に自分のふるさとを見出したのである。海も空も風もはてしなく無限であった。その捉えようもない巨大さの中に虚無を宿していた。そこには無限への衝動が秘められていた。あるいは漂泊へのいざないと言ってもよかった。それが彼の原風景なのである。『木枯の酒倉から』(昭6)『風博士』(昭6)『ふるさとに寄する讃歌』(昭6)と彼の文学的出発を告げる三作品が海と空と風を描いているのは誠に象徴的である。
こうして出発した安吾の人生は、例えば『古都』(昭17)に書かれたような、京都伏見でのドテラ一枚、浴衣二枚だけでの彷徨、<百鬼夜行>と彼が呼ぶどん底の人生の落伍者たちとの交渉を通して、ますます非所有無頼に徹していく。そして、昭和十七年には、そうした生き方の結晶として、珠玉のエッセイ『日本文化私観』が書かれる。ブルノー・タウトの同名の書のパロディーとして書かれたこの書は、次のような一節を含んでいる。
京都の寺や奈良の仏像が全滅しても困らないが、電車が動かなくては困るのだ。我々にたいせつなのは「生活の必要」だけで、古代文化が全滅しても、生活は滅びず、生活自体が亡びないかぎり、我々の独自性は健康なのである。
鍋釜を持たずの非所有がここでは<無きに如かざるの精神>と呼ばれるが、この人間生活を全面否定しかねない精神に対して、人間生活の存在を認めようとするならば、その接点に<生活の必要>という基準が設定されなければならない。そういう観点からは<古代文化>は<電車>の前で否定されなければならないのである。それでは<生活の必要>にとって美とはどんな形で現われるのであろうか。安吾は、小菅刑務所とドライアイス工場と軍艦をあげて、
この三つのものが、なぜ、かくも美しいか。ここには、美しくするために加工した美しさが、いっさいない。美というものの立場から付け加えた一本の柱も鋼鉄もなく、美しくないという理由によって取り去った一本の柱も鋼鉄もない。ただ必要なもののみが、必要な場所に置かれた。
という。一切非所有と人間の無限の欲望との相否定し合う空間で、物はすべての虚飾を振り払って必要という骨格を見せる。そのようにのっぴきならぬ形姿においてのみ物は美しい。しかし、それはあくまで<生活の必要>という徹底した現実主義上から生ずる美である。そのとき、生活の余剰の美である芸術は存在し得るのであろうか。
無きに如かざるの冷酷なる批評精神は存在しても、無きに如かざるの芸術というものは存在することができない。存在しない芸術などあるはずはないのである。そうして、無きに如かざるの精神から、それはそれとして、とにかく一応有形の美に復帰しようとするならば、茶室的な不自然なる簡素を排して、人力の限りを尽くした豪著、俗悪なるものの極点において開花を見ようとすることもまた自然であろう。簡素なるものも豪華なるものも共に俗悪であるとすれば、俗悪を否定せんとしてなお俗悪たらざるを得ぬ惨めさよりも、俗悪ならんとして俗悪である闊達自在さがむしろ取り柄だ。
<無きに如かざるの精神>から<人力の限りを尽くした豪著、俗悪なるものの極点>へ、一切非所有から全的所有へ、安吾が飛躍するのはここにおいてであり、その飛躍を支えるのは<それはそれとして><また自然であろう>というような支離滅裂の非論理であり、その超論理の中に安吾は居るのである。一切非所有という文明批評が当然到達するはずのニヒリズムに到らず、反転して俗悪なる文明の肯定に到る。その対極から対極へ飛ぶ振幅の大きさ、そこに安吾のダイナミズムがあり、そのとき安吾は決して自己分裂に陥ることなく、悠然たるアイデンティティ(自己同一性)を保っているのである。ともかくも安吾は一切非所有か全的所有かの二者択一だ。その中間の妥協を彼は拒否するのだ。しかし、人間社会はその中間の色合いのさまざまなニュアンスで成り立っており、リアリズムとは、そのような位相における人間把握の謂(いい)である。安吾は過激なアンチ・リアリストである。かかる原理に到達した人間にどのような生き方が可能であろうか。彼は世のさまざまな掟と衝突せざるを得ないであろう。人の世の約束を踏みはずさざるを得ないであろう。彼はそういう生を<淪落>という。あるいは人はそれを<無頼>という。人の世の約束が彼の原理に逆らって組み立てられている以上、いや、彼の原理が社会のモラルに逆らって組み立てられている以上、彼の生はいつも人の世からまっさかさまに転落せざるを得ないのである。彼の『青春論』(昭17)が淪落をめぐって終始する所以である。ともかく、安吾はこの『日本文化私観』において自分の立脚点を確定し得たのであり、戦後の高名な『堕落論』(昭21)も、ここで到達した思想の、戦後の状況に合わせた解説にすぎなかった。
いっさいの社会の約束、モラルを否定したとき、人間はいったいどのような相貌を呈するのであろうか。そういう淪落を堕ち切ったとき、人間はどのような地平に立つのであろうか。安吾はそのような人間の宿命を追いつめて、『文学のふるさと』(昭16)を書く。これは『日本文化私観』の文学版であり、己れのよって立つ文学の基盤の確認の書であった。この文学の本質を赤裸に追いつめた文学論の絶品は、三つの物語、『青髭』(ペローの童話)、『伊勢物語』、『鬼瓦』(狂言)を素材として、人間論の極限まで行きつく。
この三つの物語が私達に伝えてくれる宝石の冷たさのようなものは、なにか、絶対の孤独――生存それ自体が孕んでいる絶対の孤独、そのようなものではないでしょうか。(中略)この暗黒の孤独には、どうしても救いがない。我々の現身は、道に迷えば、救いの家を予期して歩くことができる。けれども、この孤独は、いつも曠野を迷うだけで、救いの家を予期すらもできない。そうして、最後に、むごたらしいこと、救いがないということ、それだけが、唯一の救いなのであります。モラルがないということ自体がモラルであると同じように、救いがないということ自体が救いであります。私は文学のふるさと、或いは人間のふるさとをここに見ます。文学はここから始まる――私は、そう思います。
鍋釜を持たずの精神が人間の全文明史を横切って、未踏孤絶の世界に行きつく。その人間世界から突き放された暗黒の世界、一切の救いから拒まれた孤絶の中で、人間はいかに生きるのか。そのとき安吾は、救いがないことは絶望であるという世の常の論理を、救いのないこと自体が救いであるというように突き抜けていく。一切の救済から拒まれてなおその非救済をふまえて自立する安吾の精神の強度が、<絶対の孤独>という人間世界の極北まで彼を拉(らっ)し去るのである。安吾がこの「文学のふるさと」というエッセイで覗見(しけん)した人間世界の断崖のその彼方を、『桜の森の満開の下』(昭22)では、改めて正面に据えて、具象化してみせるのである。生前から安吾はエッセイストであって作家ではないという評価があるが、この作品はエッセイで提示した主題を、見事な形象力で展開深化させて安吾の作家的力量がエッセイストの才能を超えるものであることを示した傑作である。
『桜の森の満開の下』は、その冒頭の部分に<桜の花の下から人間を取り去ると怖ろしい景色になります>という一行がある。それはぼくらが桜の花に対して抱いている通常のイメージを一突きで転倒させるすさまじい衝撃力を秘めていて、この一行でほぼ作品世界が決定される。桜の花の下から人間を取り去るだけで、桜の花はぼくらの抱いているイメージとは全く別種の、異様なものに変貌するのである。そういう既成の概念に一つの仮説を持ち込むことで、その概念を覆すという発想は全くエッセイ的で、次に愛児をさらわれた母親が桜の花の下で愛児の幻影を見て発狂するという話を持ってきて、仮説を補強するのもまたエッセイ的である。そういうエッセイ的文章に導かれて、ぼくらは人間に飼い慣される以前の、原始の自然の世界に直面するのである。
エッセイ風な冒頭の設定の次に、作品は、昔、鈴鹿峠に一人の山賊が住んでいたと、急転してメルヘン調となる。山賊は街道へ出ては情容赦なく着物をはぎ、人の命も断つようなずいぶんむごたらしい男で、もちろん、人の道を踏み外した淪落の徒であったが、こんな男でも桜の花の下はやはり怖ろしくて気が変になりそうだった。
花の下では風がないのにゴウゴウ風がいっているような気がしました。そのくせ風がちっともなく、一つも物音がありません。自分の姿と跫音(あしおと)ばかりで、それがひっそり冷めたいそして動かない風の中につつまれていました。花びらがぼそぼそ散るように魂が散っていのちがだんだん衰えて行くように思われます。
男はそんな桜の花の、いのちを散らすような底なしの虚無のはりつめている不思議な怖ろしさをつきとめたいと思いつつ、来年こそ、来年こそとやり過ごし、はじめは一人だった女房がもう七人にもなっていた。八人目の女房を手に入れる話からこの物語がはじまる。この八人目の女房はただ者ではなかった。彼女を手に入れたとき、あまりに美しすぎたので、思わず彼女の亭主を斬りすててしまったほどだ。彼女を背負って住処へたどりついたとき、女は七人の女房たちのあまりの醜さに驚き、それでも顔形の整った女から次々に殺すことを命じ、最も醜い女を女中として残して六人を殺させる。女は出合いの瞬間から絶対者の相貌を帯びていた。六人の女房を殺して、男はあたりにたちこめている静寂にぎょっとする。そのとき、女の美しさに魂を吸い寄せられつつも、彼の心は不安だった。その不安は何だか、あの満開の桜の花の下を通るときの気持に似ていた。女は男の存在の根底を脅かす何かを持っていた。すでに女と桜の花の類縁性に男は気づきはじめていた。
女は大変なわがまま者であった。彼女のどこにも生活者の影がない。彼女はいわゆる女房ではない。自由な女だ。彼女は満足ということを知らなかった。彼女は櫛(くし)だの笄(こうがい)だの簪(かんざし)だの紅だのを大切にし、男にも決して触らせない。そういうもので飾りたてていくと輝くばかりの美があらわれ、男は目をみはり、圧倒されていくのであった。女の美の背後に<都>があり、男の中に<都>を怖れる心が生まれる。しかし傲岸不遜な男は美に対して自分の強さで対抗する。彼は都の男たちのだれにも負けたことがなかったのである。しかし、女の方が一枚上手であった。<お前がほんとうに強い男なら、私を都へ連れていっておくれ>と男の気持を逆手にとって、自分の欲望を実現させていくのである。男は都へ行く前に、あと三日後に咲く桜の花を見て行こうと決心する。どうして桜の花を見なければならないのかと女に問いつめられて、
「花の下には冷たい風がはりつめているからだよ」
「花の下には涯(はて)がないからだよ」
と答える。そのとき、女は<苦笑>する。その苦笑を男は<刀で斬っても斬れない>と思う。苦笑を通して一瞬かいまみた女の本性の<冷たさ>は男の力の及ばない次元で男を脅かす。桜の下にふみこんだときも、男は女の苦笑を思い出す。それと同時に<花の下の冷めたさは涯のない四方からドッと押し寄せて>来る。その風に吹きさらされて彼の身体は忽(たちま)ち透明になる。それは何という<虚空(こくう)>だろう。いっさいの虚飾や幻想が剥ぎとられ、身体も魂も一瞬にして漂白されて人間が裸形に還元される果てしない虚空、絶対の自由、そのようなもののはりつめている桜の花の下は生身の人間のついに耐え得る世界ではなかった。男は息も絶え絶え逃げ帰るのである。
男と女は都に住むことになった。男は夜毎着物や宝石や装身具を盗んで女に与えたが、女の心はそれだけでは充たされなかった。女が何よりも欲しがったのは人の生首であった。女の首遊びがはじまる。女は次々と首を要求し、首は家来を連れて散歩し、別の家族を訪問し、恋をする。毛が抜け、肉が腐り、白骨になっても女はどこのだれの首かを覚えていた。この悪逆非道ともいうべき首遊びが決して醜悪な感じを与えないのは、彼女の中に抑制装置のこわれてしまった人間の欲望のはてしなさの悲劇が追求されているからである。彼女はだれをも愛さず、だれにも属さず、はてしなく孤独だった。彼女は歯どめない絶対者であった。彼女は無限の自由の中で、人間の欲望のはてしなさに殉じ、ついに人間世界を突き抜けてしまうのである。鍋釜を持たずという地点から人間を見ていた安吾は、無限の欲望という対極の人間の悲劇がよく見えたのである。
一方男は都が嫌になった。そして何よりも退屈に苦しんだ。人間どもというものは退屈なものだと彼は思う。彼は人を殺すことにも退屈した。彼は首遊びをする女の気持ちがわかるような気がした。世の常の営みからはずれてしまった男が、これまた世の常の倫理からはみ出してしまった女の気持がわかるというのだ。けれども男は女の欲望にキリがないので、そのことにも退屈していた。女の欲望は<常にキリもなく空を直線に飛びつづけている鳥>のようなものであった。彼はその無限の無意味さに疲れはてた。女を殺すことでその無限の飛翔をとめることができると男は気づく。しかし、それは同時に自分をも殺すことだと男は気づくのであった。男は何もかもわからなくなって数日都の山をさまようのである。そんなある日鈴鹿の山の桜の森を思い出す。男は山へ帰ろうと思う。彼は悪夢からさめた思いがする。男にとって山が、あの桜の森のある山がいのちであり、根源の場所だからである。ところが女も一緒に山へ帰るという。<私はお前と一緒でなきゃ生きられないの>という。新しい首は女のいのちであり、女に首をもたらすのは男以外にはなかったからである。ともかく今や、男と女は分かち難い分身であり、離れるわけにはいかないのである。男は夢でないかと喜び、愛する女を背負い、愛する故郷の山へ帰っていくのである。こうして女と山との宿命的な出合いが用意される。男は女を背負って満開の桜の下へ歩いて行く。彼はふと女の手が冷たくなっているのに気づく。女は鬼になっていたのである。
男の背中にしがみついているのは、全身が紫色の顔の大きな老婆でした。その口は耳までさけ、ちぢくれた髪の毛は緑でした。
桜の森の満開の下では、すべてのものがその正体をさらさざるを得ないのである。女は醜悪な鬼の姿をしていた。これが孤独の正体であった。男は振り落とそうとするのだが、鬼の手も彼の喉に喰い込んでくる。必死の格闘のはてに、彼の手は鬼の首を締めていた。気がついたときは、女は屍体となって横たわっていた。彼は女の体をゆさぶって泣いた。男は桜の森の真中に据(すわ)っていたが、日頃のような怖れも不安も消えていた。
桜の森の満開の下の秘密は誰にも今も分りません。あるいは「孤独」というものであったかも知れません。なぜなら、男はもはや孤独を怖れる必要がなかったのです。彼自らが孤独でありました。
作品の最後に至って<孤独>というキー・ワードが提示される。このことばによって作品は一気に解明される。<孤独>こそこの作品が追求してきた主題である。安吾の孤独は自然に結びついている。この作品では孤独のふるさとを自然に求めたのである。自然は<桜の森の満開の下>と命名されて、人間世界の彼方の非人間的なもの、いかなる擬人化も拒否する本来的自然であり、鍋釜を持たずという人間の文明史を一足でまたぐ巨人の発見した自然であり、その自然の虚空の空しさは人間の耐え得るものではなかった。この作品の成功はまずこのようなメタフィジックな自然の創造にかかっている。この自然はそこに近づいて来る人間の孤独をあぶり出すしかけを秘めている。このように独創的な状況の設定にも、安吾の作家的力量が示されている。
それでは、そのような状況の下であぶり出される人間の孤独とはどのようなものであったのか。男も女も切なく孤独であった。とくに女の孤独は凄惨を極めた。ただひたすら自分の欲望を追い求めて<首遊び>という人間世界を遠く離れた鬼の所業まで行きついてしまった。孤独のはてに桜の森の中で鬼に変貌する結末部のメルヘン風変身譚は孤独の疎外感の深さ、とりつくしまもない他界性を見事語っている。男は女を愛していたから、女の姿を通して自分の孤独を知ることができた。しかし自分の孤独を知ったとてどうなるものでもない。その孤独ゆえに愛する者を自分で殺してしまって、さらに深い孤独におちていくのである。こうして彼は一切の救いから見放されて、救いのないことを救いとする以外にありようのない存在のどん詰まり、人間存在の最基底におり立つのである。孤独そのものと化した男は女とともに花びらとなって消えていくのである。
あとに花びらと、冷めたい虚空がはりつめているばかりでした。
と作品は終わる。男と女が花びらとなって消滅するというメルヘン風の結末に至って、非道の男と女の地獄の物語は人間の運命の無限の悲哀の物語となるのである。生きていた何の痕跡すら残さない完全な消滅は、孤独の怖ろしいまでの空しさを語って余すところがない。それは読者を虚空の空しさの中へ突き放し、置きざりにしてしまう。
その結末の見事さは、例えば同じテーマを扱った『夜長姫と耳男』(昭27)の結末と比較してみるとよくわかる。この作品では山賊が耳男という職人(芸術家)に、女が夜長姫という長者の娘に設定され、そこで追求される孤独は芸術家の孤独というもので、『桜の森の満開の下』の人間の孤独に比べて狭くて浅い。最後に、耳男はわがままな絶対者の姫を殺すのだが、殺される姫は男の手を取り、ニッコリとささやく。
「好きなものは呪うか殺すか争うかしなければならないのよ。(中略)いま私を殺したように立派な仕事をして……」
という。この饒舌な解説は「桜の森の満開の下」の黙って消えていくメルヘンの沈黙に及ばない。安吾は奔放で饒舌で、その点でエッセイという形式によくマッチして数々の秀作を残したが、この『桜の森の満開の下』ではメルヘンという形式の中に自己を潜ませて、メルヘンの形象力をいっぱいに使って、彼の文学の基本テーマである「孤独」を実にあざやかに描いてみせた。そして彼の作家的力量がエッセイのそれを超えるものであることを証明してみせたのである。

坂口安吾(明39―昭30)
新潟の旧家に、政治家の父坂口仁一郎の五男として生まれる。幼児から反逆児の片燐を示し、中学留級、転校、放浪と無頼の生を生きる。一方では印度哲学の研鑽(けんさん)に打込むような求道的傾向を持つ。無頼と求道の振幅の大きさの中に文学のスケールも示されていた。 
 
鬼の歌 / 石川淳『紫苑物語』 

 

石川淳の文学は歌の拒否からはじまる。散文を唯一の方法として小説世界へ乗り出してきたこの作家にとって歌は常に克服すべき敵であった。これほど詩をその対極として意識した散文家は他にいないのではなかろうか。昭和十年、三十六歳ではじまり現在に至るその長い文学的生涯は、散文と詩との角逐によって織りなされているといっても過言ではない。それでは石川淳の文学における散文と詩のドラマはどのようにはじまったのか。まず歌とは何だったのか。
その処女作『佳人』(昭16)の主人公<わたし>は自らに歌を禁じて次のように言う。
わたしはどこを叩いても決して反響を発しない空洞のごとくなるためにわが身に於て一切の詠嘆を禁遏(きんあつ)しようと努め、こうしてやがて消えうせるための鍛練にかかった。
歌とはまず<詠嘆>であり、<詠嘆>とは叩いたときに起る<反響>のごときものであった。つまり歌は現実の生身の感動の直接的表現であり、詠嘆の抒情詩であった。そこには精神というものの介在する余地がなかった。すでに人間を精神の運動として捉え、その運動を散文で追跡しようとしていた石川淳には、詠嘆は精神の停滞に他ならず、歌は停滞の美化以外の何物でもなかった。こうして歌は拒否されるのだが、それにしても歌を発する母体たる現身(うつしみ)とは何であろうか。『佳人』は<わたしはわたしとペンの尖(さき)が堰(せき)の口でもあるかのようにわたしという溜り水が際限なくあふれ出そうな>現身の自己告白の衝動から書きはじめられているが、その<わたし>はどこといってつかみどころのない風景の中で<地の臍(へそ)>つまり展望の中心を探す人物として語られている。自己告白がこのように象徴的形態をとることの中に、現身の自己への深い不信、嫌悪の情が読みとれよう。私小説家たちを捉えていた現身への信頼はすでに崩壊していたのである。しかも、もともと<地の臍>なんてものがあろうはずはなく、ある日発見した<地の臍>はその不在の確認にすぎなかった。つまり、自己の生存の根拠の発見はその不在の確認でしかなかったのである。かかる背理を通して自己に到達したとき、現身というものはその背理のヤスリできれいに削り取られるのではなかろうか。こうして歌の母胎は消滅し散文が作品を制覇したかに見える。
実際散文は歌を根絶寸前のところまで追いこんだかに見えた。それは俗から聖へというコースを追いつめたのである。図式化して示せば<地の臍>→<虚妄>→<空洞>→<死>とでもなろうか、自己消滅のコースをひた走るのである。そして<空洞こそわが念ずる神の姿となってあらわれ>と<空洞>に自分の<聖痕>を見るのである。こうして<わたし>は<聖>なる<死>への道行きをひたすら急ぐことになるのだが、同時に<わたし>は<死>へ向っての刻々の歩みを<明らかな鏡>の中に見とどけなければならない観察者でもある。明鏡とは明らかな精神であり、散文の機能である。意識の消滅である死を意識によって見とどけること、明晰な精神による自己の死の確認こそ散文の勝利でなくて何であろう。ところが<聖>主導で展開してきた作品が突如ここへ来て<俗>の反乱によってパロディ仕立てに変調する。<わたし>の生を粉砕するはずの列車は来らず、そのうえ明鏡であるはずの精神までも混濁して、<俗>の汚辱に投げ返されたあげく、あれほど自らに禁じていた詠嘆が歌となってほとばしり出るのである。
歩く一夜芙蓉の花に白みけり
死への彷徨が<歩く一夜>と美化され、生への生還が<芙蓉の花>に美化される。散文(明鏡)は刻々に変化する対象を運動として捕捉する方法だとすれば、歌は一瞬の姿において対象を絶対化する方法である。かくて、「佳人」は生を拒否せんとして生へ引き戻され、歌を拒否せんとして歌に復讐される敗北譚となるのである。しかし作者は作品の結末部に次のようなマニフェスト(宣言)を書きつける。つまり石川淳の「文学宣言」であり、自分の文学の基本的立場の樹立宣言であった。
わたしの樽の中には此世の醜悪に満ちた毒々しいはなしがだぶだぶしているのだが、もしへたな自然主義の小説まがいに人生の醜悪の上に薄い紙を敷いて、それを絵筆でなぞって、あとは涼しい顔の昼寝でもしていようというだけならば、わたしはいっそペンなど叩き折って市井の無頼に伍してどぶろくでも飲むほうがましであろう。わたしの努力は、この醜悪を奇異にまで高めることだ。
自己の生存の拠点を探しつづけて、ついに空虚からさえ拒まれて四散する自己に行きついた石川淳には、醜悪な現身の再現に安住する自然主義文学の写実リアリズムは文学の敵、愚劣そのものとしか見えなかった。それは素朴な心情の抒情詩である点で歌以外の何物であろう。小説とは、<醜悪を奇異にまで高める>ことであり、それは自分をともすれば<牧羊神の歌>に引き戻す自分の中の<牧羊神>つまり歌の宿命との格闘を通してしか達成できないことを確認するのである。
自分の歌と格闘する人間にとって時代の歌ほど始末の悪いものはない。時代がその醜悪な地声で恥知らずな歌をうたうとき、どうしてそれに唱和したりできようか。自分の内部の歌に散文で対抗した作家は、この度の外部の歌にも散文で立ち向かう以外に方法はなかった。昭和十年代に入りますます声高に唱和されるファシズムの歌、巷にあふれる戦争賛美の軍歌を諷して『マルスの歌』(昭13)を書いた。ファシズムの圧政を<マルス>というローマ神話の軍神の神話的象徴の中に封じこめ、その唱和を強要する歌の醜悪さをあばいて諷刺した。この歌の拒否に対して時代はその作品の掲載誌の発売禁止をもって報いた。
以後ますます風圧の強まるファシズムの嵐の中を石川淳がどう生きたかを推測する手がかりになる文章を二つ挙げておく。
わたしはいくさのあいだ、国外脱出がむつかしいので、しばらく国産品で生活をまかなって、江戸に留学することにした。 (『夷斎俚言』昭26)
ただ、おりにふれて、わたしは天明ぶりを我流にくずしたような、へたな狂歌をつくってみるということをした。ひとには見せないそのわざくれが、いくさのあいだ、わたしの唯一の文学的事業であった。 (『無尽燈』昭21)
戦争期の言論抑圧による散文の危機の時代に石川淳は江戸戯作、とくに天明期の狂歌の世界にひたって過ごしたという。散文から狂歌への留学は一種の自己韜晦(とうかい)であった。狂歌は歌ではなく歌のパロディである。狂歌において石川淳は歌を内部から解体し乗りこえる足場を築いた。『曽呂利咄』(昭13)は石川淳における狂歌のありようの一端を示している。
石川淳が戦争期身につけた狂歌から学んだパロディは戦後の小説の中で開花する。戦後の解放の歌を諷した聖書のパロディの作品群がある。『戦跡のイ工ス』(昭21)『燃える棘』(昭21)『雪のイブ』(昭22)『処女懐胎』(昭22)『最後の晩餐』(昭23)と聖書の宗教的象徴を用いて戦後民主主義を諷刺した。しかし民主主義の歌のやんだ昭和三十年代に入ると、もはやそのようなパロディは書けなくなってしまう。そしてもはやいかなる現実への対応もない純粋な小説的世界の中で自己を掘り下げていく作品『紫苑物語』(昭31)が書かれることになる。
『紫苑物語』も歌の否定から物語がはじまる。主人公<宗頼>は代々勅撰和歌集の撰者を出す歌の家に生まれた。彼の体内には濃い歌の血が流れていた。自分の歌の宿命に対するたたかいがこの作品のテーマである。宗頼は七歳にして歌の師でもある父に背いて自分の中に鳴りひびいている歌の衝動を和歌という定型抒情詩に盛ることを自らに禁じた。そして歌の家には無用の道具である弓を父の嫌悪する無頼の伯父<弓麻呂>に倣った。父は権門の娘<うつろ姫>を与えて色の道によって宗頼を引き戻そうとしたが果たせなかった。ついに十八歳のとき、宗頼は遠い国の守に任ぜられたが、それは体のいい追放であった。しかしその遠い国には涯のない山野があり、捕れども尽きぬ鳥けものがいて、宗頼の弓を待っていた。不思議にも宗頼の射た矢はたしかに百発百中するのだが、矢は獲物もろとも消えうせて、ついに一度も獲物を射とめることがなかった。
あらたに見つけた自然の豊饒と荒涼とのさかいに身を置いて、手の中の弓はじつはわすれられたにひとしく、このときおのずから発したものは矢ではなくて歌、ただしすでに禁じていた長歌短歌のたぐいとはちがうもの、まだいかなる方式も定形も知らないような歌が体内に湧きひろがり、音にもたたぬ声となって宙にあふれ、そのききとりがたい声は野に山に水に空に舞いくるった。狩に憑かれたということは、すなわち歌に酔ったということにほかならなかった。
幼ない日から抑圧され続けた歌は弓において復讐する。歌は長く体内に潜んで次第に純化され、弓を自己表出の手段として噴出する。弓が歌の手段となるとき、弓は弓としての機能を果たすことができない。宗頼はこのような自己の内面の劇を知ることがない。それゆえに歌はついに何物にも規制されることなく肥大化して世界が心情の歌によって満たされるに到る。このように心情が絶対化されるとき精神の運動もまた停滞せざるを得ないのである。弓がその本来を取り戻すには、弓が歌の速度を追い抜かなければならない。ついにその日が来た。ある日、宗頼の矢は小狐の背を射抜き、それを持ち帰ろうと駆け寄った家来二人の背をも射抜いた。
かの谷川のほとり、草むらのかげに、小狐の黄の影がさっとかすめたとき、そこに歌声のおこるすきまもなく、とっさに手はたしかに弓をとり、弓は手に応じて矢を発した。つづいて、二人の雑色を射たおしたときには、宗頼の目にあきらかに見えたのは二箇の男の背であって、他のなにものでもなかった。
これが宗頼における弓の開眼であり、散文成立の契機である。矢が歌を追い抜いたのであり、散文が物そのものの速度に追いつき、心情の介在する余地なく対象を捕捉したのである。矢はその本来の姿をあらわし、敵を倒したのである。矢によって歌が否定されたとき、古い自己がもう一人の自己に追い抜かれ、新しい自己が誕生するのである。こうしてめざめた宗頼の精神の新たな疾走がはじまるのである。
この作品は都の歌の家に生まれた宗頼の自足できない精神の無限の自己否定の運動を追跡した作品である。宗頼には踏みこえなければならない幾人かの敵がいた。まず歌の道を代表する父、これは幼い日にすでに踏みこえ都を出立する日矢を射かけてその烏帽子を射落として別れた。さて、矢の開眼の後、妻<うつろ姫>との対峙、この名族の血をうけ官能の快楽しか知らない女のはだか身は一瞬宗頼をたじろがせはするが、これもわけなく一蹴して忘れた。次に、かの背を射抜かれた小狐は復讐のために<千草>と名のる美女と化して宗頼の前に現われる。千草はおのれの幻術によって知り得た数々の秘事を教えて宗頼を殺戮に駆りたてようとする。宗頼の失脚を企んでである。ところがまたたく間に宗頼の矢は千草の告げる範囲を超えはじめる。つまり無実の人々を殺しはじめるのである。宗頼にとって守の地位のごときは眼中になく、殺人そのものに熱中しはじめるのである。また千草はうつろ姫においてきたならしいとのみ思わせた男女のまじわりの美しさを宗頼に教えた。干草は夜ごとにいどんで宗頼の精気を吸い尽くそうとするのだが、精気を失うのはかえって千草の方であった。こうして宗頼の精神の速度は干草の妖術を追い抜いてしまうのである。やがて千草はその正体を見破られて宗頼に隷属するに至るのである。
さてもう一人、弓の師である弓麻呂はどうしても倒さねばならぬ敵である。彼を倒さねば弓において第一人者になれないからである。弓麻呂の矢は人殺しに徹した残忍な矢である。それは、<知の矢><殺の矢>を一すじに射る無敵の矢である。<殺の矢>を超える矢を編み出さんとして宗頼は自らを<魔神>に擬して<魔の矢>を生み出す。そして<知の矢><殺の矢><魔の矢>の三本の矢を一すじに射かけることでやっと弓麻呂を倒すことができたのである。こうして次々と敵を超えて進むとき、算によって守の地位を伺う目代の<藤内>のごときはもはや一瞥にも価しない。宗頼の目前にはそれらすべての敵の背後に高々と聳え立つ、かの岩山に住む<平太>こそが宿敵として現われるのである。
かつて宗頼が初めて岩山へ登った日、岩山の向こうには一つの桃源郷が広がっていた。その山頂にはひとりの男がいて名を平太と言い、岩山の岩肌に仏を彫っていた。その男は穏やかな外貌の下に凛乎たる威厳とある殺気さえ秘めて宗頼を圧倒した。宗頼は出合った日から彼の中にほんとうの敵を見ていた。今までの敵は平太に至るための過程にすぎなかった。宗頼は平太の対極を生きざるを得ない自分の宿命に遭遇したのである。宗頼は平太と遇った後殺人魔と化す理由はそこにある。平太が自分の中の殺意を制禦して平和愛好者になるからには宗頼は殺人魔となって数限りない殺戮を重ねなければならぬ。
平太の植えている<わすれ草>に対抗して死者を記念して植えさせた<わすれな草>である<紫苑>は、死者の数と共に増え続け、死者の血を吸って美しく咲く。そして殺人の現場のあのなまぐさい血を拭い去って殺人を一つの精神の劇の象徴と化す。かくて殺人は宗頼を<魔神>、<荒ぶる神>へと高める無償の行為と化すのである。この作品は何よりも精神の劇であり、あの俗なる現身というものはきれいに払拭されているのである。人間の精神の極限まで極め尽くし、その根源に至ろうという衝動に支えられている。平太はあなたにとって何者かという千草の問いに答えて、次のようにいう。
わしでもあり、わしではない。ここにわしがいる。そして岩山のいただきに赤の他人の見しらぬ男がいて、そやつがまた遠いわしのごとくである。ともかく、わしは一刻もはやく岩山のいただきに行きつかなくてはならぬ。そうでなくてはならぬ。そうでなくては、わしというものがこの世にありうる力はうまれない。すでに、わしの矢はかなたに翔ろうとしている。
こうして作品は平太と宗頼の対決へ行きつくのである。平太は宗頼の、本来あるべきもうひとりの自己である。宗頼はすでに人がそれぞれ背負うべき宿命としての、自分の背にある<悪運の雲>を知っている。平太は理想追求者であるなら、宗頼はその破壊者でなければならぬ。平太が<里のやすらぎを護る>仏を彫るなら、宗頼は冷ややかに領民を殺害しなければならぬ。かくて石川淳は人間の中に潜む根源的な二つのベクトルを掘り出し、その対立を人間の限界をこえて追求する。そしてついにそれを<ほとけ>と<魔神>という象徴の位相において捕捉する。『紫苑物語』はそういう人間の深奥に根ざす精神の劇の骨格をあざやかに、リアリズム文学とは異質の時空に示してみせた作品である。
宗頼はさまざまな敵を踏みこえて真の敵であるもう一人の自分に行きつく。そして<悪運>という自分の宿命に根ざした悪への衝動によって自分の理想を粉砕しなければならない。宗頼は弓と化した千草を携え、再び岩山に登る。そしてあまたある仏の中から平太の彫った仏を射なければならぬ。宗頼は岩場を踏みしめて弓を引きしぼり、気合いみちきって三本の矢を一すじに射る。矢はすでに人を殺すためのものではなく自分を射るためのものである。第一、第二の矢は岩に砕け散るが、第三の<魔の矢>は見事岩の仏の頭を削り射落として月の高さに遠く消える。そのとき宗頼の踏みしめていた岩もまた裂け崩れて宗頼は谷底深く落ちていく。仏を射抜くことは平太を射抜くことであり、平太を射抜くことは自分を射抜くことである。平太もまたその夜息絶えてしまう。その死顔は<見まごうまでに宗頼の顔にさも似ていた>という。また宗頼が谷底に落ちたとき、宗頼の手から放たれた弓(千草)は狐火となってかの守の館へ飛び、そこで守の地位を奪おうと企んでいた藤内一味を焼き滅ぼしてしまったという。
その後、岩肌の仏像の中に一体首の欠け落ちたものがあった。その首は、
かたち尋常ならず、目をむき、牙をならし、炎を吐きかけ、あくまで荒れくるって悪鬼というものか
といった形相をしていたが、この首をもちあげて元の位置に載せると、
相好具足、ずいぶん頼みになりそうな大悲の慈顔
となる。しかし夜になると首はおのずから落ち、元へかえしてもまた落ち、ついに落ちたところから動かないようになった。平太と宗頼の対立は人間の位相をこえて菩薩と魔神となってあらわれ、両者の破滅後、<慈顔>と<悪鬼>の相にひきつがれ、その二相の往還の中に人間の精神の根源の相がたどられる。そしてついに人間精神の究極の姿は慈顔ではなく悪鬼の相をしていたのである。作品の最後の部分を引用する。
月あきらかな夜、空には光がみち、谷の闇にとざされるころ、その境の崖のはなに、声がきこえた。なにをいうとも知れず、はじめはかすかな声であったが、木魂がそれに応え、あちこちに呼びかわすにつれて、声は大きく、はてしなくひろがって行き、谷に鳴り、崖に鳴り、いただきにひびき、ごうごうと宙にとどろき、岩山を越えてかなたの里までとどろきわたった。とどろく音は紫苑の一むらのほとりにもおよんだ。岩山に月あきらかな夜には、ここは風雨であった。風に猛り、雨にしめり、音はおそろしくまたかなしく、緩急のしらべおのずからととのってそこに歌を発した。なにをうたうとも知れず、余韻は夜もすがらひとのこころを打った。ひとは鬼の歌がきこえるといった。
石川淳における歌と散文の長い角逐のはてに一つの決着がついたのである。<緩急のしらべおのずからととのって、そこに歌を発した>とは石川淳の文章論である。彼の散文はいつの間にか不思議なリズムを獲得して歌になる。この見事な文体の秘密はどこからきたのか。いったい歌はどこから湧きおこるのか。『佳人』の素朴な詠嘆の歌の否定から出発した石川淳の文学は『紫苑物語』の鬼の歌に行きついたのである。詩はいつもその根底に<聖>なるものへの憧憬、この世ならぬ彼岸性への祈念を秘めているものである。かくて彼の文学を貫通する二つのもの、聖と詩がついに鬼の歌において出合うのである。聖は地獄に所属する鬼という象徴において捕捉される。そして鬼の歌とはすべてを否定する破壊の衝動がかなでる殺意の歌なのである。その無限否定の衝動たる殺意こそ石川淳の詩の源泉であり、精神の運動の行きくれる場所であり、すべてが無化される虚無の深淵である。人間世界のはるかな彼方、神や仏さえも消滅してしまった地獄のはてから発する無限否定の歌は、散文という抑制装置で抑えても抑えても歌となって行間からほとばしり出るのである。詩が聖に追いつき、散文が詩の源泉をつきとめたのである。こうして三位一体の文体が成立する。いや、散文はもともと俗に所属するものであるから、聖と俗、詩と散文という相矛盾する要素を渾然と統合した希有の文体が誕生したのである。石川淳の文学の新たな地平が開かれたのである。<なにをうたうとも知れず、余韻は夜もすがらひとのこころを打つ>鬼の歌がさまざまに変奏されて『八幡縁起』(昭33)をはじめとする現代文学の新しい時空に挑む異色の作品群を生み出していくのである。

石川淳(明32―昭62)
東京浅草に生まれる。銀行家斯波氏の末子で石川氏を継ぐ。石川氏は代々の幕臣で六歳より漢文の素読を受けた。彼は和漢洋の該博な知識の中に自己を韜晦し、生身の自己を語ることはない。作品は精神の運動の軌跡であり、観念の壮大な劇と化す。 
 
物語の闇 / 中上健次『化粧』 

 

中上健次の文学はその核に死んだ兄の物語を埋めている。その繰返し作品化した自己史を要約すると、中上には十二歳のとき、二十四歳で自死した兄がいる。中上はそれ以後ひたすらこの死んだ兄を生きることになる。彼が生れたとき、彼には父の異なる一人の兄と三人の姉がいて、実父は刑に服していた。実父は彼が三歳のとき出所したが、母は自分以外二人の女にも同時に妊娠させていたその男を許さなかった。戦後の混乱期、行商をしながら五人の子を育てていた母はやがて一人の男に出合い、父の異なる彼だけ連れて、同様に一人の息子を連れたその男と所帯を持った。兄は自分たちを棄てた母と彼を許さない、殺すといって、酒に酔い、刃物を持って繰り返し押しかけた後、自らくびれて死んだ。この特異な自己史を中上は執拗に作品化し、解読して行くに従って、その中から兄の物語化というテーマが浮かび上がってくる。
僕はあの時のことを忘れない。怒りと狂気を妊んだ海のことも、二十六歳のにいやんの惨めな死屍のことも僕は忘れない。 (『海』・昭42)
ぼくの体験の核になっている、ぼくや母によって打ち倒され滅び去った兄の像 (『眠りの日々』・昭46)
兄の死んだ齢に自殺するかも知れないと思い、その齢が来るのを恐れていた。 (『化粧』「楽土」・昭56)
というように兄の死こそ彼の原風景であり、彼は兄の物語を生きていたのである。中上はこの自己史の闇の解読に固執する。『海』以後彼はこのモチーフを追い続け、ついに短編連作『化粧』に至って、その厚い原体験の闇を物語の光で透視してみせたのである。それ以後の中上の力感に満ちた、ほとんど挫折を知らない文学的活力の源泉を探り当てたのである。
人はそれぞれ自分の物語を生きている。人は現実を生きているのではなく、現実に投影された自分の物語を生きているのである。それは浮かんでは消えるうたかたの物語なのだが、それら片々たる物語を生きる一人の人間の人生は、やはりあるテーマと筋を備えた一つの物語なのだ。しかし、それらの物語は時代の物語の枠の中にはめこまれた時代の物語の一つにすぎないのだ。うたかたの物語から本質的な物語を作り出す作者たちもまた時代の物語の枠を破って新しい物語を創造するのは極めて困難なのだ。中上はそのような物語の枠を破砕するために古い物語を持ってくる。古物語という物語の原型、最も類型化した物語を持ってきて、いわば中央突破を試みようとするのである。そのような古い物語によってはたして物語の枠は破壊されるだろうか。新しい物語は誕生するであろうか。『化粧』冒頭作「修験」(昭49)では日本最古の説話集『日本霊異記』の説話、一僧侶が修行のために熊野山中へ入り、麻の縄で足を縛り岩にぶら下って死に、肉が朽ち、骨が枯れて髑髏(ひとばしら)と化してもその中で読経する舌が生きていたという<奇異>な話を冒頭にすえる。その読経の声が蝉の声の中から聞こえはじめると熊野山中はたちまちにして霊異の気の満ちた物語の舞台と化すのである。そして兄の物語をその熊野山中をさまよう<修験者>の物語として語りはじめる。これが『化粧』の基本的方法である。「修験」の主人公<彼>は中上自身の巨躯を髣髴させる<大男>であるが<大男>とは単に体が大きいばかりではなく、<体力と生命力がありすぎる者>であり、<そこに坐っているだけで、なにやらきなくさく暴力のにおいがするもの>である。あの『霊異記』の僧も麻縄で足を縛って崖っぷちからぶら下がり、法華経を憶持するのは、そのあり余る<体力と生命力>を減じるためであった。こうして『霊異記』の僧は現代の<彼>の中に大男として蘇るのである。かくて中上は、古い物語を換骨奪胎して近代人の情念の物語を書いた芥川の方法とは全く別の、古い物語を魂呼ばいする巫女のごとく、その魂を作品の中に蘇らせるという新しい物語の方法を編み出したのである。大男である「修験」の彼は、そのあり余る体力と生命力のために、妻に暴力をふるい、家庭を破壊し、会社を辞めて故郷熊野へ帰り、その山中を修験者のように歩きまわっているのである。彼の妻への暴力は<おれは死にたい、おれを殺せえ>と呪文のように叫びながらふるわれるように、すでに自己否定の衝動をその根に持っていたが、このたびの熊野山中の彷徨も自己滅却の希求に根ざしていた。こうして山中を歩き疲れて、彼は<死んだ近親の者>なる兄が修験者の姿で読経しながら歩いてくるのを見るのである。熊野山中で人はよく死んだ近親の者の姿を見るという伝承に導かれて、兄は幻視の彼方から修験者の姿で再生してくるのである。こうして兄は熊野山中の修験者の物語の中で語られるのである。古物語の<奇異>の力が現代小説の中に復活するのである。
『化粧』第二話「欣求」(昭50)は説経節「小栗判官」「信徳丸」に基づいて書かれた死と再生の物語である。熊野本宮、湯の峯は<小栗>の蘇生する場所であり、<信徳>の再生が予告される場所である。この作品の場合も説経節は物語を活性化させる磁力源と化するだけで、その物語は採用されない。都会生活に敗れ、一から出直そうと故郷熊野へ帰った<彼>が、湯の峯へ<盲目の弱法師(よろぼうし)>といった男と付添の女を案内し、自分もまた湯の峯に一泊し、一夜の交渉を持つに至る。湯場で<浄土からのお湯でござります>と湯に浸っている弱法師と女に会った後、酒を飲んで寝入っていた彼は、裸の体をすり寄せてくる女の呪文によって目覚めるのである。<有難うござりました><ごしょうでござります><お救け下さりませ>と女は彼の体をまさぐるのである。『化粧』における女性はことごとく性的存在であり、性による献身によって男を再生させる巫女のごとき存在である。説経の小栗を蘇生させるのも、信徳を復活させるのも、ともに横山の姫、照手姫という許婚者たちの貞淑この上ない献身の力によるものであるが、中上はそれを性の力に置き換えている。性は再生への秘儀として捉えられており、女たちの愉悦の声はことごとく呪文となるのである。その呪文にこめられた不思議な力は語り言葉の復活である。それは書き言葉とは異質の力を持っていて、中上の物語を形造っている言葉の位相を示している。短編連作『化粧』に踵を接するように昭和五十二年から書きはじめられたドキュメント『紀州』の「伊勢」の章につぎのような言葉についての考察がある。
もし、私が「天皇」の言葉による統治を拒むなら、この書き記された厖大なコトノハの国の言葉ではなく、別の異貌の言葉を持ってこなければならない。あるいは書くこと、書かれる事を拒む語りの言葉か。書かれてある語りとはムジュンもはなはだしいが、賎民らの文化、芸能であった説経節や世阿弥の謡曲、能は、「天皇」の書き言葉による統治を離れた神話作用があると見てさしつかえない。
中上の文学の語り言葉のこのような位相は、それによって表わされる性の再生力の位相を示しているだろう。もう一つ引用する。
うちのおふくろも字が読めない。だから、ものすごく記憶力がいい。曽祖母の代の説経師がささらをすって、こういう歌を歌ったってずーっと教えてくれるんです。平凡社から出された『説経集』をみると、やっぱりそれがある。活字文化じゃなくて、口承文化みたいなものが残っているんですね。僕が小説家になったのは、それこそ賎民のその口承文化を母親から受けついだ、ひょっとするとそれじゃないかと思うんです。 (「市民にひそむ差別心理」・昭52)
中上文学の語り、あるいは物語の根は文盲の庶民の口承に根ざしているのである。それこそ物語の最も正統的な母胎に育まれていたのである。それは明治以後の近代文学の失ったもので、中上の物語の出現は文学史上の一つの事件なのである。
次作「草木」(昭50)は兄の再生を主題としたこの作品集の核をなす作品であり、この物語の錘鉛がどこまで届いているのか、その水深を示している作品である。この作品の主人公<彼>もまた修験者のごとく熊野山中をさまよっているうちに一人の<男>に会う。男の左脚には矢がささり、片目が血膿でつぶれていた。矢傷の生々しさはいったいいつの時代の傷なのであろう。男は<敗れてしもうた>という。男は熊野山中に住む<イッポンタダラ>という片足のダイダラポッチの伝承を背負い、織田信長に敗れて熊野を敗走する雑賀孫一の物語を背負っている。男は熊野山中を流離するそれら敗れた貴種の物語の中から<死んだ近親の者>の姿で現れる。それは幻なのか。それとも東京に残してきた小鳥の方が幻なのか、現と幻、今と昔、東京と熊野が妖しく交錯する物語の世界が現出する。
彼は東京で小鳥を飼っていた。小鳥の世界にはしばしば<死穢や奇形、変異>がおこる。その一つは<盲目の十姉妹>であり、彼は<苦しむことなど智恵の備った人間だけで充分だ>と思い、その生きていることが苦しみだけのような十姉妹を殺そうとして鳥籠からつかみ出す。しかし、彼の手の中の十姉妹は<あまりに小さすぎた。盲いていることに、無頓着すぎた>ので殺し得なかった。<奇形>に生まれながら自らの奇形に気づかず、<敗れて>いながら自らの敗北に気づかぬ、そういう無自覚な奇形によって生命の傷ましい原形が取り出されていた。<死穢や奇形、変異>のもう一つの形、彼はあるとき過って鳥の卵を割ってしまった。
中で、赤い肉が、ひくひくと動いていた。思わず息を呑んだ。手のひらの中で、外気にさらされてもまだ小さいものの心臓の鼓動そのままに、ひく、ひくと動いていた。
こうして彼はむき出しの生命そのものに遭遇するのである。人間の見てはならぬ、生命の発生の秘密の部分、それは美しくも輝かしくもなかった。生命そのものは忌しく、むしろ死穢に似ていた。こうして中上は生命の未形成の混沌、生と死の交錯する場所に行きつくのだが、この作品集は死と再生の物語だとすれば、これこそがこの作品集を生む<母の腹の暗がり>、物語を形づくる未生の闇なのである。この闇の中で敗れた男の伝承と奇形の生命が出合い、物語が受胎されるのである。
<男>を抱えて熊野山中をさまよっていると<彼>は左眼を潰され、左脚を損じたのは自分だ。……盲いて生まれたのはこのおれだ。まだ暗がりにいるところを、いきなり破られ、日にさらされてひくひくと動くのはこのおれだ。この肉だ。
と彼自身敗れた者たちの血族として、<死穢と奇形、変異>を引き受けるのである。彼はイッポンタダラであり、盲いた十姉妹であり、破れた卵の中の生命であり、小栗判官であり、雑賀孫一である。それら敗れた者たちの物語を重層して現われるのが修験者であり、この作品では<彼>であり、<男>である。それでは彼と男とはいかなる関係にあるのだろう。男はすでに死んだ近親の者なる兄であることが暗示されているのだが、兄の死後、
それからことあるごとに、姉たち、母たちは、魂呼ばいの巫女にでもなったように兄の名を口にした。母や姉たちは、まるで盲いた十姉妹のようなものだった。それ以降、兄と彼がシャム双生児にでもなったように彼をみるたびに、兄の名を呼んだ。
兄が死ねないのは母や姉たちが魂呼ばいの巫女のように兄の魂を呼び返す悲しみのためであり、彼が兄の物語を生きねばならないのもまた、この母系家族の語り部たちの物語のせいなのである。彼女たちの語る悲話には男の魂を透視する不思議な力が秘められている。その魂呼ばいの巫女の力によって、兄は死後の世界から呼び返されて、<男>の姿を借りて熊野山中をさまようのである。こうして女の物語る力に媒介されて、彼と兄は熊野山中で出合うのである。女たちの幻視の中で彼と兄は同一化されるのである。兄の物語のほんとうの語り手は女たちなのである。物語の語り手として女はやがて『千年の愉楽』(昭57)の<オリュウノオバ>として物語の前面におどり出るであろう。この作品集では女の語り部は作品の中にひっそりと隠れていて、近親の者に死なれた悲しみ、その<死穢>から物語る力を得るのである。こうして語る者と語られる者が交錯し重層する物語の世界がたち現われるのである。交錯するのは人間だけではない。
山全体が、敗れ、やられて、片眼、片足になり、それでも自死すらできぬ男の、声でいっぱいになる。彼の体まで、楽器のように鳴っている。
この物語の舞台である熊野の山々もまた人間たちと共鳴して交響楽のごとく響きわたるのである。熊野は地霊の「さきはふ国」である。
第四話「浮島」(昭50)第五話「穢土」(昭50)は性と暴力をテーマにしている。「浮島」は熊野新宮の浮島の森と呼ばれる沼に住む大蛇に魅入られた<おいの>の伝説をもとにして書かれている。これに材を取った上田秋成の『雨月物語』の「蛇性の婬」は蛇を女としているが、元の伝説は蛇は男である。中上の作品も蛇は男でなければならない。修験者とは自分の中に大蛇のごとき邪悪な力を持った大男で、その力を封じ込め、洗い清めようと努める者をいうのである。「浮島」において荒くれの木馬(きんま)引きという山林労働者を洗い清めるのは<おいの>の物語を背負った一人の女郎である。それでは彼はどうしてその女郎を殺すのであろうか。「穢土」は一人の男を殺した被慈利(ひじり)である<彼>がその妻の家に入り込み、長らく同棲した後その女も殺す物語である。
女を抱き、女に抱かれるたびごとに、自分が尊くなってくる気がした。自分が卑しい被慈利であるということを女は知りながら、子供を生む母親のように、彼を尊い聖人にさせる。
いつごろから彼が、女をそう思いはじめたのだろう。女は観音だ、そう思った。観音菩薩の化身だ。悪人の彼をこらしめに、夜毎夜毎、女に身をうつして、一頭の畜生同然の彼を「しょうにん様ぁ、たいし様ぁ」と呼ぶ。そう呼ばれるに、いたたまれなくなる。女にそう呼ばれる度に、彼は、自分が、どう転んだとしても被慈利だという声と、実のところ、被慈利とは仮の姿で、ほんとうは弘法大師や一遍上人と比べても遜色のない尊い聖人だという声があるのを知った。
女たちは神に仕える巫女のごとく性によって男に奉仕する。<ああ、救けて下さいい、お救い下さいまし、お教え下さいい>と女たちが夜の闇の中であげる性の愉悦の呻きはどうして祈りの呪文のごときものになるのだろう。女たちは脇腹に口をあけた大きな傷(欣求)を持っていたり、金で身を縛られた女郎(浮島)であったり、夫を殺された女房(穢土)であったりしたが、それぞれに<死穢や奇形、変異>を背負っていた。しかし、女たちはその背負っている死穢の力によって、男の死穢を洗い、再生の岸へ送り届けるのである。女たちの呪文の<浄土への道をお教え下さいましい>には自らの死への希求がこめられていた。そこで性は法悦=死による鎮魂と浄化の秘儀としてあら われるのである。かくて、巫女=菩薩=女郎=母親と転位する女の位相はいずれも救済と再生を志向していたのである。中上の物語の女たちは性の救済者として現われるのである。
それでは男たちはどうして自らの救済者である女に暴力を加え、殺さなければならないのか。「修験」の彼は死んだ近親の者なる兄がそばにいて、じっと見つめている気がするとき、妻に暴力をふるい、誰彼なしに喧嘩をふっかけるのである。彼の暴力の根源は兄に発している。そのことを最もあらわに語るのは第八話「楽土」(昭51)である。それは三月三日の兄の死んだ日にお雛様に花が飾っていなかったことに起因する妻への暴力を描いている。
兄の死んだ歳に自殺するかもしれないと思い、その歳が来るのをおそれていた。二十四歳まではどうしても生きようと思った。それまでメチャクチャをやってやると覚悟していた。それが自分を殺そうとして殺せなかった兄への洗い浄め方だと思っていた。
暴力は死んだ兄への鎮魂から発している。それは不当なる死を死なねばならなかった兄の悔しさ、憤りを鎮める行為である。その暴力が<死にたい、殺してくれ>という呪文を伴っているように、自己破壊の衝動から発した他者の破壊である。死んだ兄を生きるとは他者を破壊せんとしてついに自己を破壊してしまった兄の、その殺意を生きることである。兄を追いつめ、死に至らしめたものへの<メチャクチャ>な反撃である。女たちはその殺意に発する暴力を性の力で浄化しようとするのだが、母に棄てられて死んだ兄の怨念は女への不信、女への復讐へと転位されていて、その暴力はついに女の浄化し得ぬものに根ざしていたのである。男たちは女の救済を拒み、自らの救済者を殺すことによって自分をさらなる地獄に突き落とすのである。ここに女に殺された兄の物語が女を棄てる父の物語へ転化する契機が潜んでいた。男たちはあくまで<修験者>の自力本願の原則をつらぬき、山林苦行による自己救済を試みる孤独者として生きるのである。しかし、自己救済は同時に自己破壊でもある。この修験者の他者破壊=自己破壊=自己救済という多義性こそ中上の物語のダイナミズムであり、ぼくらはその大男の修験者の背後からあの巨神スサノオが立ち現われる幻を見ないであろうか。
修験者の物語は熊野をおいては語れない。熊野とは隈野(くまの)であり、入り込み奥まったところ、暗冥の感じの伴う地の果てである。それはまたイザナミの神が葬られた地であり、スクナヒコナの命が常郷(とこよ)に渡った地であり、黄泉(よみ)の国とつながった根の国でもあり、いずれも死者の国を指し示 している。根の国の主宰者はスサノオの命である。これらは『日本書紀』の一書の記述であり、中央の、都からみた熊野観である。やがて平安期の観音信仰によって観音の浄土補陀落(ふだらく)が熊野南岸に想定されるにおよんで、熊野は幽冥の西方浄土として信仰を集め、やがて山岳修行の聖地として修験道が成立するのである。中上の修験者はその修行によって超自然的な力を獲得したり、呪法によって加持祈祷したりする正統の修験者ではなく、被慈利と呼ばれる私度僧であり、自己滅却をめざす孤独者である。中上は熊野を<神武以来の敗れ続けてきた闇に沈んだ国>(『紀州』「終章」昭53)として捉える。それは敗れた者たちの伝承の地であり、敗者復活の巨大な再生装置を備えた物語の母胎である。自分の故郷をこのように物語の原基と化した作家がかつてあったろうか。かくて熊野の地霊を祖述する修験者の物語が誕生するのである。やがて中上 は熊野から新宮の路地という被差別世界に物語の舞台を移すことになるのだが、熊野こそ中上文学の原郷である。
『化粧』は中上健次の物語の樹立を告げる作品集である。とくにその前半の「修験」「欣求」「草木」「浮島」「穢土」という昭和四十九年九月から五十年八月までの作品で、その独自の物語<小説という本来生きている者と死んだ者との鎮魂のための一形式>(『紀州』)が成就するのである。その小説は古い氏族の伝承を伝える古代の語り部たちの物語の精神を受けつぎ、中上一族の生者と死者の鎮魂を根本モチーフとする物語である。それは路地を舞台とする最初の本格的作品であり、芥川賞受賞作である『岬』(昭50)に先行していることを確認しておこう。『岬』から『枯木灘』(昭52)『地の果て至上の時』(昭58)と展開する父の物語は兄の物語の反措定であり、やがて兄の物語を克服して展開するのだが、兄の物語そのものも『千年の愉楽』へと変貌し、物語の成熟した力を見せる。そこでは路地のすべての者の母(産婆)にして巫女なる<オリュウノオバ>を語り部として再生した兄の六つの分身の物語が語られる。敗れた者は貴種として再生するという貴種流離譚の法則にのっとり、再生した兄は高貴にして汚れた血をうけつぐ中本一統の男として女たちに性の愉楽を与えて夭折する。賎と貴が逆転する貴種流離譚という物語の力と世界の中心に据った女の巨大な物語る力が加わって新しい物語が誕生するのである。しかし、それら父の物語も兄の物語も、中上の物語はことごとく『化粧』の中で構築された物語の原基を母胎として生み出されたものに他ならない。まことに『化粧』一巻は中上文学の始源の書である。

中上健次(昭21―平4)
和歌山県新宮市に生まれる。新宮高校時代は相撲で活躍した巨漢。卒業後上京、ジャズ、睡眠薬遊び、新左翼運動にかかわる。彼は故郷紀州につながるあらゆるものを文学の糧と化し、紀州から新宮の路地を舞台とする作品を書き続けている。 
 
仮象への旅 / 梶井基次郎『闇の絵巻』 

 

梶井基次郎ほど闇を追い求めた作家を私は知らない。その短い文学的生涯の大半を費して梶井は闇の物語を書いた。闇は遍在する外的条件にすぎず、どの作家も生涯かけて追求するようなものを闇の中に見いだすことができなかった。ところが梶井は闇に不思議な旅情を感じ、闇の迷路を生涯さすらい続けたのである。いったい闇の何が彼をそんなに惹きつけたのであろうか。彼は闇の中に何を見たのであろうか。
梶井文学の美しい開幕を告げる『檸檬(れもん)』(大13)において闇はすでにその文学の根幹にどっかり腰を落している感がある。『檸檬』の主人公<私>はかつて<丸善>を何よりも愛した西欧文化の信奉者であったが、<えたいの知れない不吉な塊>という夭折への予感によって人生の表通りから隔てられて裏通りの彷徨者と化した男である。そのような主人公を設定したとき、すでに梶井文学の位相は決定されていたのである。彼がそこで発見した裏街の詩情は<見すぼらしくて美しいもの>という言葉に集約され、<様ざまの縞模様を持った花火の束>(閃光でないことに注意)<びいどろという色硝子で鯛や花を打出してあるおはじき><南京玉>といった幼児の偏愛物として取り出される。そして<あのびいどろの味程幽かな涼しい味があろうか>というようにそれらは視覚美から味覚美へとはみ出していて、諸感覚の統合美ともいうべき梶井独得の美が示現されていた。さて、この<見すぼらしくて美しいもの>が<檸檬>の美に行き会うには、夜の果物屋の美しさが発見されねばならない。
また其処の家の美しいのは夜だった。(中略)その周囲が真暗なため、店頭に点けられた幾つもの電燈が驟雨のように浴せかける絢爛は、周囲の何者にも奪われることなく、肆(ほしいまま)にも美しい眺めが照らし出されているのだ。
この闇夜に輝く見すぼらしい美しさ故に、その果物屋で私は一顆の檸橡を購うのである。
レモンエロウの絵具のチューブから搾り出して固めたようなあの単純な色も、それからあの丈の詰った紡錘形の恰好も
この檸檬こそまさしく<見すぼらしくて美しいもの>の凝集した美の典型に他ならない。
こうして<見すぼらしくて美しいもの>は幼時への回帰である<おはじき>と自然への回帰である<檸橡>を両極として現われる美意識である。梶井文学は常に二極対立のドラマツルギーを秘めているが、この作品は西欧文明からの逸脱である<見すぼらしくて美しいもの>が一方に設定されるとすれば、その対極に<丸善>によって象徴される華やかにして美しいものが描かれねばならない。かくて作品は<檸檬>対<丸善>の角逐を追って展開することになる。
それにしても梶井文学の基調を決定した<見すぼらしくて美しいもの>への回帰現象はどうして起ったのであろうか。私は先ほどそのターニングポイントを<不吉な塊>という夭折の予感だといったが、その点を少し補足しておこう。祖母スエの老人性結核とともに梶井家に住みついた結核という死病に梶井が初期感染するのは、スエの死んだ大正二年、梶井十三歳のときまでと推定される。大正四年には次弟芳雄が脊椎カリエスで死んでいる。梶井自身も十七歳のとき、すでに結核の症状が現われている。当時不治の病といわれたこの宿痾は梶井の肉体と意識を少しずつ、だが確実に蝕んで行き、やがて彼の中に夭折の予感を作り上げる。梶井はこの宿痾の錘鉛をつけて世界の暗部に下降して行き、ついに<見すぼらしくて美しいもの>という自分の宿運に逢着するのである。
しかし、この世界の暗部にはいったい何があったのか。実は作品『檸檬』の水面下には茫洋たる闇が広がっていたのである。梶井は『檸檬』発表のとき、そのもとになった習作『瀬山の話』の後半部を切り捨てて、前半部分のみ独立させて『檸檬』として発表したのである。『檸檬』は『瀬山の話』の広大な闇に浮かぶ氷山の一角にすぎなかった。
五官に訴えて来る刺戟がみんな寝静まってしまう夜という大きな魔がつくずく呪われてくる。
と『瀬山の話』で描かれた不眠の夜、<変な妖怪が此のあたりから跳染してまわる><精神の大禍時(おおまがとき)の幻視><逢魔が時の薄明りに出てくる妖怪>と叙述された魑魅魍魎にみちた幻視の夜、その夜を彷徨してその果てに
汚れと悔いに充たされたこの私は地の上に、あらゆる荘厳と、華麗は天上に、
と感じたとき、私は<状件的(コンディショナル)ではない絶対的(アブソリュート)な寂寥>に捉えられるのである。この『檸檬』で切り捨てられた闇は表現上のいささかの錯乱や未熟はあるにせよ、驚くべき幻視の躍動する未踏の世界であった。梶井文学の以後の課題はこの『檸橡』の背後に捨てられた広大な闇をいかに精緻な表現で掬い上げるかにかかっていた。闇は梶井の表現力の深化とともに徐々にその姿を現わして行き、やがて彼の作品を覆い尽くすであろう。
昭和元年大晦日、梶井は高校時代からの病気とデカダンスのため延び延びになっていた学業をほぼ最終的に断念して、療養のため川端康成の滞在していた伊豆湯ケ島温泉に行く。当時新人発掘の名手といわれた川端をめざして行ったのだが、川端は彼を歓待したがその文学には冷淡であった。ここに昭和三年の春まで逗留して文学に専念する。病気のため学業を放棄した梶井にはもう文学しか残されていなかった。川端が認めようと認めまいとこの追いつめられた辺境の自然を根拠地として梶井の文学は独自の境地を切り拓きつつあった。闇の復活を告げる『冬の日』(昭2)はここで書かれた。そこには闇の入口ともいうべき夕暮の美しさが捉えられていた。
何人もの人間が或る徴候をあらわし或る経過を辿って死んで行った。それと同じ徴候がお前にもあらわれている。
『檸檬』の夭折の予感がここでは避けられぬ宿命として自覚されていた。そういう自己の宿命との遭遇が夕暮の美の発見となる。
青く澄み透った空では浮雲が次から次へ美しく燃えていった。みたされない堯(たかし)の心の燠(おき)にも、やがてその火は燃えうつった。
「こんなに美しいときが、なぜこんなに短いのだろう」
この夕暮の風景の中に彼は自分の人生の投影を見ていた。自分の残り少ない人生の時間への愛惜が風景への愛惜の中で語られていた。風景とはいつもそういうものだが、握井はひときわ見事にそれを語ってみせた。こうして彼の作品から人間の姿は消えて行き、風景が作品の中心に据わる。
梶井の闇へのアプローチをもう一つ押えておこう。『冬の蝿』(昭3)は湯ケ島での療養生活を扱った作品である。
私は日を浴びていても、否、日を浴びるときは殊に、太陽を憎むことばかり考えていた。結局は私を生かさないであろう太陽。しかもうっとりと生の幻影で私を瞞そうとする太陽。おお、私の太陽。私はだらしのない愛情のような太陽が癪に触った。私は日の当った風景の象徴する幸福な感情を否定するものではない。その幸福は今や私を傷つける。私はそれを憎むのである。
太陽に傷ついて傷ましく敗退して行く生命の劇が虚飾を払って赤裸に取り出される。太陽光線の中に偽瞞を見てしまった男、太陽光線のもたらす幸福を憎悪する男がどうして昼の世界にとどまることができよう。梶井は昼の世界から放逐されて夜の世界へ滑り落ちる。
以後、魂の安住の家を持たないこの永遠の旅人はもっぱら闇の世界をさすらうことになる。そして最後に自分の死期を悟った孤独な旅人は、自分の闇の中の足跡のアンソロジーを企てて『闇の絵巻』(昭5)を書く。これはかつての山間の療養地湯ケ島でいつも歩いた一本の街道の闇の散策の記録である。作品は<何も見えない闇の中でも、一本の棒さえあれば何里でも走ることができる>強盗の話に<そぞろに爽快な戦慄>を味わうところから始まる。闇の中の疾走というテーマは闇の中の自由と言い換えてもいいだろう。普通、人間は闇の中の自由を持たない。闇は<不安や苦渋や恐怖>がいっぱいの牢獄であり、その中へ一歩を踏み出すためには<絶望への情熱>がなくてはならない。梶井は元来歩行の作家であり、歩行による視点の移動が梶井文学の基本的姿勢である。梶井にとって生きるとは歩くことを意味した。ところがこの頃、病気の進行とともに歩行の持続さえ困難となっていた。少し歩くとしばらく休まねばならなかった。そういう梶井にとって疾走は破滅への冒険を意味した。その不可能への憧憬の中に多分梶井の詩心が潜んでいたが、彼は自分の歩行のリズムを守りとおすことで結局散文家としての自分を踏み外すことはなかった。
梶井は闇の中の自由を疾走という形態ではなく、<巨大な闇と一如>になることで獲得する。闇と一如になった<深い安堵>の中で彼は何を見たのか。
あるときは岬の港町へゆく自動車に乗って、わざと薄暮の峠へ私自身を遺棄された。深い渓谷が闇のなかへ沈むのを見た。夜が更けて来るにしたがって黒い山山の屋根が古い地球の骨のように見えてきた。彼等は私がいるのも知らないで話し出した。
「おい。何時まで俺達はこんなことをしていなきゃならないんだ」
これは『檸檬』で切り捨てられた幻視の闇の再現に他ならない。ここにはもう<精神の大禍時の幻視>という大時代的な言い廻しも、<絶対的な寂寥、孤独感>という抽象的な表現もなく、<古い地球の骨>という比喩と山の会話があるばかりだが、『瀬山の話』で垣間見られた闇の不思議が永遠の相のもとに捉え直されていた。『瀬山の話』の闇への脅えがここでは闇への親和に変っていた。この闇の悠久の相にはある異界の雰囲気、どこか死後の世界を思わせるものがある。<闇と一如>は死への諦念に支えられていたのである。それゆえ、ここには一種末期の眼で見られた死後の静謐が物語られていたのである。
これと同じ素材を扱った『冬の蝿』ではまだ末期の眼は現われず、生と死の葛藤が詳細に描き込まれていた。<私>はふとした出来心でとんでもない乗合自動車に乗ってしまい、自分の宿と次の温泉の中間地点の山の中で下車してしまう。病身の私はあからさまな死の想念に満たされて迫り来る闇を迎える。
此処でこのまま日の暮れるまで坐っているということは、何という豪著な心細さだろう。
定罰のような闇、膚を劈く酷寒。そのなかでこそ私の疲労は快く緊張し新しい戦慄を感じることが出来る。歩け。歩け。へたばるまで歩け。
私は残酷な調子で自分を鞭打った。歩け。歩け。歩き殺してしまえ。
夭折という避けられない運命へじりじり追いつめられて行くとき、生命は時として反逆の意志表示をする。破滅への情熱の姿をとった生命の噴火、梶井をいくども襲う自壊への衝動、彼はしかし決してそれを狂態としてではなく、生命のすざましく美しいドラマとして描いてみせた。ここには自虐というような自意識の空転はない。同じ死へ雪崩る生命の危機を描いてもそこで太宰と違っていた。梶井の場合、自分と風景のつながりを見失うことはなかった。その生命の危険なバランスの破綻は、その向こうに<豪著な心細さ>という異様に美しい風景を垣間見させた。『闇の絵巻』の<闇と一如>には、『冬の蝿』のこの生命のドラマが一つ踏み超えられていた。
もう一つ生命の危機的様相を示す例を一つ引用してみよう。人間世界から隔てられた自然の上に自分の文学の舞台を設定した梶井文学の中に、人間がどのような形で姿を現わすかを次の一節は示している。
ある夜のこと、私は私の前を私と同じように提燈なしで歩いてゆく一人の男があるのに気がついた。それは突然その家の前の明るみの中へ姿を現わしたのだった。男は明るみを背にしてだんだん闇のなかへはいって行ってしまった。私はそれを一種異様な感動を持って眺めていた。それは、あらわに言って見れば、「自分も暫らくすればあの男のように闇のなかへ消えてゆくのだ。誰かがここに立って見ていればやはりあんな風に消えてゆくのであろう」という感動なのであったが、消えてゆく男の姿はそんなにも感情的であった。
この男は人間というよりほとんど風景である。この男は作者自身の影であり、彼はその男の中に自分白身の運命を見たのである。闇は死のメタファーであることは言うまでもあるまい。死の闇に消えて行く自分自身の姿を<一種異様な感動><そんなにも感情的>という抑制された感動の表現の中に死を受け入れた諦念が現われている。同じ闇に消えて行く男を描いても『蒼穹』(昭2)はもっと違った感動が高鳴っていた。
その闇のなかへ同じような絶望的な順序で消えてゆく私自身を想像し、言い知れぬ恐怖と情熱を覚えたのである。
その記憶が私の心をかすめたとき、突然私は悟った。雲が湧き立っては消えてゆく空のなかにあったものは、見えない山のようなものでもなく、不思議な岬のようなものでもなく、なんという虚無! 白日の闇が 満ちているのだということを。
<絶望的な順序>といい、<言い知れぬ恐怖と情熱>という明瞭きわまりない正確さで自分の死を見てしまった人間の驚愕と恐怖が表現されていた。闇の中に消えて行く男に自分の運命を読み取ったとき、雲の生成と消滅の不可思議な現象の謎が解けたのである。空には白日の闇があったのだ。雲はそこから湧出し、そこへ消滅する存在のブラックホール、眼前の風景を仮象化する虚無の発見、梶井はもう風景というようなものを見ていたわけではない。彼が見ていたのは風景の向こう側、存在の構造とでもいうべきものである。<白日の闇>というような見るべからざるものを見てしまった自分の視力の異常に彼は驚愕していたのである。こうして同一素材を比較してみると『闇の絵巻』には『蒼穹』の生命の鋭い危機感はなく、死後の世界からこの世を見返すような、弛緩と見まがうほどの諦念が支配していた。あの、いつも<電燈の真下の電柱にぴったりと身をつけている>一匹の青蛙さえ、何かこの世ならぬ相貌を帯びていたのである。
太陽光線の偽瞞に気づき、白日に闇を見てしまうような異様な存在透視力に見舞われた梶井は遍在する死に見張られながら、少しずつ夜の階段を下りて行き、『闇の絵巻』では<闇と一如>という死者の視線を獲得するのである。闇といっても悪魔の往む漆黒の闇や希望に輝く明澄な光源は避けられて
深い闇のなかから遠い小さな光を眺めるほど感傷的なものはないだろう。
と闇の中の微光が求められていたのである。微光の中の自然の風物こそ『檸檬』の<見すぼらしくて美しいもの>のたどりついた一つの極点であった。
竹というものは樹木のなかでも最も先に感じ易い。山のなかの所どころに簇れ立っている竹薮。彼等は闇のなかでもそのありかをほの白く光らせる。
ここでは闇の中に見捨てられた<見すぼらしいもの>の中に、ほの白く光る<美しいもの>が見出だされていた。『闇の絵巻』は微光の賛歌といったもの、闇の彼方からはるばる射して来る微光に照らし出される万象のはかない美しさがうたいあげられていた。微光の中で移ろい易い風物のたたずまいが永遠の相で捕捉されていた。
闇は人間にとって一種異境に他ならず、文明とは闇への絶えざるたたかいによって、闇を光に変えることをめざした人間の悲願に支えられていた。文明の尺度は光度によって測られるといっても過言ではない。ところが梶井は光に背を向けて闇の奥へと歩み去り、闇の底部に到ったかのごとくである。そしてこの『闇の絵巻』ではそこから再び浮上して、闇と光の接点、微光の世界に行き着いたのである。梶井はここで微光の詩学とでもいうべきものによって、つまり微光の中で視力が弱まっただけ諸感覚が鋭敏に働く、そういう諸感覚の協和によって、闇の中に隠されていた自然の諸相を照らし出してみせたのである。闇と一如となった以上、もう闇の中には他者はいなかった。そこにあるものはすべて自分の影を刻印されていた。そのような自在な感覚によって作り出す作品を彼は「資本主義的芸術の尖端リヤリスチック・シンボリズムの刀渡り」(昭2・近藤直人宛書簡)と呼んだ。リアルに描けば描くほど、それがシンボリックになる他ない文学を作り上げたのである。梶井は志賀を敬愛し、志賀の影響下の文学であるかのごとく言われることがあるが、素朴なリアリズムを基調とする志賀文学とは何と異質な文学であることか。例えば『筧の話』(昭3)で、
私は物体が二つに見える酔っ払いのように、同じ現実から二つの表象を見なければならなかった。しかもその一方は理想の光に輝かされ、もう一方は暗黒な絶望を背負っていた。そしてそれらは私がはっきりと見ようとする途端に一つに重なって、またもとの退屈な現実に帰ってしまうのだった。
と書く男がなんでリアリストなものか。志賀のリアリズムはどこまで行っても<退屈な現実>を超えることがなかったが、梶井のリアリズムはいつも変幻するサンボリズムの光を放つのである。闇を内包していない作家は闇を外在的にしか描くことができない。梶井の自然は生と死のメタファーであることによって、存在と非在の変幻のドラマを奏でていた。梶井文学のそのような二重構造は、あの<見すぼらしくて美しいもの>という美意識の二重構造に根ざしていて、そこではいつも「見すぼらしいもの」と「美しいもの」の二つの異質の美が衝突していて、感性そのものが火花を散らすダイナミズムを内包していた。彼はその感性の独創によって時代を超えて行くのである。
彼の生きた時代は「芸術派」と「プロレタリア派」の激突の時代であり、友人たちの左傾化の中で、彼自身も『資本論』に感動しながらもプロレタリア文学に行かなかったのはプロレタリア文学のあまりに素朴なリアリズムが彼の感性になじまなかったからである。一方、「華やかにして美しいもの」だけしか見えなかった当時のおおかたの「芸術派」にも彼は同じ理由から同じることができなかった。彼は文壇から認知されない無名性によって、闇の中の見すぼらしい自然からすばらしい幻視の花を咲かせてみせたのである。当時の「芸術派」も「プロレタリア派」もあらかた忘れ去られた中で梶井だけがひときわ現代的な光彩を放つのは彼の文学の底で機動している感性の二重構造によるのである。
梶井文学が純粋な詩心を核としながらもついに詩の衣装をまとわなかったのはどうしてか。『闇の絵巻』に次のような一節がある。
またあるところでは渓の闇に向って一心に石を投げた。闇の中には一本の柚の木があったのである。石が葉を分けて戞々(かつかつ)と崖へ当った。ひとしきりすると闇の中から芳烈な柚の匂いが立騰って来た。
闇はむろん視力だけで捉えられるものではない。闇の底に潜んでいるものの気配に向って石を投げてみる諧謔心とそこから立ち騰ってくる芳香が明かす柚の木の存在、この死の世界における生命の輝きは光と闇のドラマという梶井文学の基本テーマのバリエーションである。この情感は限りなく詩に接近しながらも最後の一線で散文にとどまる。
黄金虫擲(なげう)つ闇の深さかな   虚子
闇の深さを測るのに黄金虫というところがいかにも俳句で、石というところが梶井の散文家たるゆえんである。しかし、両者の根本的な相違は闇の深さへの感動を<かな>という詠嘆の定型で受け止めるかどうかという点にある。梶井はついにそのような詩の枠組を受け入れることができなかった。感性の純度に頑なに殉じた梶井の文学は、小説の物語性も詩のリズムも不純な要素として排除したのである。詩への飛翔の瞬間にあらわれる詠嘆のリズムに虚偽を嗅ぎ分ける批評性が梶井文学の基調を決定してしまった。事物と感性の接点に生ずるスパークの純度に執し抜くストイシズムが彼の文学を貫いていた。詩には何がしかの陶酔の要素が不可欠であるが、彼のストイックな抑止力はそれを許さなかった。
こうして梶井の文学は感性の純度に執しつつ私小説への傾斜を深めて行くのだが、結局最後の一線で私小説とも袂を別つ。『闇の絵巻』の散策の終りに近い場面で、暗夜の底から突如押し寄せてくる瀬の音の中に、
大工とか左官とかそういった連中が渓のなかで不可思議な酒盛をしていて、その高笑いがワッハッハ、ワッハッハときこえてくる。
この、瀬の音に大工の高笑いを聞きとる感覚、現象の中に仮象を見る彼の感性の二重構造が彼の作品を私小説から隔てていた。現実の実在性の信仰の上に立つ私小説に対して、彼の文学は現実は所詮仮象にすぎないという透視力の上に成り立っていた。私小説が超えられるのはそこにおいてであり、彼はそれを「リヤリスチック・シンボリズム」と呼んだ。
『闇の絵巻』は闇の探求者梶井が自分の文学の集大成としてどうしても書かなければならない作品であった。感性の純度に依拠する梶井の作品はいつも絶頂から絶頂へ渡り歩いた感性の冒険の軌跡であった。その類縁性によって物語の絶頂を絵でつなぐ絵巻物の方法を呼び寄せるのである。闇の感動の集大成をめざした作品の表題として『闇の絵巻』とは言い得て妙である。むろん表題の見事さを内容が裏切りはしない。『闇の絵巻』はアンソロジーとして彼が到達した暗夜の美の総体を示して余すところがない。この後、彼は二つの作品しか書かなかった。もう一歩闇の神秘に切り込んだ『交尾』(昭5)と彼の人生の拾遺ともいうべき『のんきな患者』(昭6)の二作である。そこで彼は力尽きた。宿痾が彼を倒したのである。昭和七年、三十一歳で梶井は世を去った。ひたすら夭折への旅を急いだかのごとき生涯であった。
彼の文学には一貫して旅情が流れている。彼はどこにも定住する場所を持たなかった。日常よく知っている現実が、例えば道一本取り違えることで全く見知らぬ迷路に変貌することがある。『路上』(大14)はそのような体験を記して
自分は変なところを歩いているようだ。何処か他国を歩いている感じだ。
という思いにかられて友人に<旅情を感じないか>と言ってみる。そのような迷路から発する旅情である。『闇の絵巻』は闇という迷路からの旅の報告書である。梶井の旅はいつも実在から非在への、物象から仮象へのはるかな旅であった。

梶井基次郎(明34―昭7) 
 
古譚の水脈 / 古井由吉『杳子』 

 

古井由吉の想念の世界には一匹の蟹が住んでいる。その体内に一本の鋭い釘を打ちこまれている蟹はどうして古井の想念の海底に住みついたのか。『雪の下の蟹』にあらわれた鮮烈な蟹の病理に出会って以来、私はこの作家に強い関心を抱き続けてきた。多分過剰な文明の時代を生き抜く人間の病理について古井ほど鋭敏な感応力を持っている作家はいない。蟹に打ちこまれた文明の釘の傷痕を古井文学は丹念に微細に追跡していく。すでにその最初の作品『木曜日』(昭42)で古井は休暇を取って山へ出かけた青年がもとの現実にうまく着地できない物語を描いた。そこには自然と文明の落差の中で転倒する精神の変調という古井文学の主題がすでに現れていた。実はこの作品より前に執筆され、後に加筆されたため発表が遅れた実質上の処女作『先導獣』(昭43)に古井文学の主題と方法は明瞭に示されていた。作品『先導獣』は
≪先導獣≫とは群の中でもすぐれて逞しい、甲羅を経た獣のことであり、この獣に導かれて群は敵の牙から安全な方向へと的確に走る。
という群を先導する指導獣のイメージが、
遊び倦きた幼い獣が、いきなり何を思ったのか空に向かって奇妙な恰好で跳び上がる。すると群は真剣な恐れに揺すぶられてどうと走り出す。
という幼くて物狂わしいきまぐれな獣へとずれていく。この逸脱の中に古井由吉の病理構造の認織があり、文学の基本的方法がある。彼の描く人物たちはいつもこのずれの傾斜を滑り落ちて精神の不調に至るのである。
そのずれの構造を作品の中でもう少しだけ押えておくと、『先導獣』の<私>は五年間の地方暮らしからかえってきて、毎朝のラッシュの群衆の静かさに目を見張る。彼はそこに<整然たる><殺到の秩序>を見る。ラッシュという現代都市の現象の中に<殺到の秩序>という現代の本質を読み取るのである。殺到とはもともと反秩序であり、殺到の秩序なんてものは存在するはずのない絶対矛盾である。それが<殺到の秩序>という不思議で奇怪な均衡を保っている現代都市の恐ろしさを古井のこの語句は指摘している。ある南米人がはじめて梅田の朝のラッシュを目撃したとき、ぎょっとして立ち止まり、しばらくして「戦争だ」と叫んだという小話がある。正常な人間の感覚ではあり得べからざるものが存在する日本の都市の恐ろしさを諷した話である。<私>はその静かな群衆の中にパニックを惹き起こすことができるかという思いに捉われる。殺到というパニックを内に含んだ秩序、いわばパニックによって構成された秩序にパニックを起こすことができるのかという問題である。現代に生きるとはそうした奇怪な難問の前に立ちどまることなのである。そこから現代の病理もまた発生するのである。この作品ではパニックの起こる構造が十分に解明されているとは言いがたいが、実に示唆的な問題が提示されている。例えばラッシュの中を実に淡々と歩いて行く犬儒的な男に出会い、私はいら立って追い抜いて行くのだが、幾度追い抜いてもその男が私の前方を歩いているという不気味なエピソードを挿みながら、ある朝ラッシュの中で柱の根もとに坐り込んでしまった一人の男に遭遇する。殺到さえ秩序の中に取り込んでしまう文明というもの、追い抜いても追い抜く自由を許さない巨大な秩序の前で、手もなくうずくまって自我に耽っている男の存在はまことにショッキングである。その大っぴらに障害物と化した男を眉をひそめて避けて通りすぎながら、人々はふとその男の視線を通して自分を見てしまう。無秩序の側に坐りこんでしまった人間の眼に映る殺到の秩序にからめ取られた自分の姿を。そのとき一瞬群衆の中に走る狼狽、それがパニックの芽である。このへたり込んだ男が先導獣である。本来群の先頭を切って群を導くべき先導獣が群の中にうずくまる障害物へと転倒し、さらに群への紊乱者と化していく。このような逸脱を描いたとき、古井の人間把握の基本的方法は確立していた。そして原型(原話)からの逸脱という文学の方法もまた確立していたのである。かくて古井は現代の先導獣を求めてギリシャ古典劇の古形をずらして『円陣を組む女たち』(昭44)を書いて女の力に着目し、『子供たちの道』(昭44)の山(自然)へ帰る子供の茫漠を経て、『男たちの円居』(昭45)で山(自然)の中で衰弱する男の向こうに生命の根源につながる女が現われてくる。こうして古井文学の主人公の座は男を押しのけて女が坐ることになり、『杳子』(昭45)では先導獣ははっきりと女に焦点を結ぶのである。
作品『杳子』の主人公<杳子>が現代の病理の先導獣として坐り込むのは現代都市のラッシュの中ではなく、深い谷底の岩の上である。単独行の登山の帰路、岩の上にうずくまって動けなくなるところから作品は始まる。
人間であるということは、立って歩くことなんだなあ、と杳子は思ったという。立ちあがって、どれも自分とひとしい重みをもつ物たちの間で、生意気にも内と外に分けて、遠い近いを分けて、自分勝手な視野をつくって、大きな頭を細い首の上にのせてうつらうつらと歩きまわることなのだ。だけど、内と外に分けたとたんに、畏れが内側に流れこんで、いっぱいに満ちて、姿全体にどこか獣くさい感じをあたえる。自分はもうここから立ち上がらない。
杳子は無防備に自然の脅威にさらされたため、人間の条件の解体に見舞われたのである。彼女は巨大な自然の前で人間の特権の虚構に気づいてしまったのであり、杳子が歩くという人間の基本につまずくのはそのためである。杳子の中の人間をこのように打ちくだいた自然とはいったい何だろう。古井は登山愛好家であり、しばしば単独行を試みるのだという。杳子の形象の背後には古井のそのような登山体験がある。『山へ行く心』(昭48)というエッセイの中に次のような叙述がある。
都会人の登山について言えば、生きた空間を取りもどしたいという欲求が明らかに働いている。(中略)いずれにしてもそれによって張りを失った空間感覚と存在感を、平地から谷へ、谷から尾根へと運び上げて、地形の中にある人間の形をつかみなおそうとする。山地から平地へ開けていく自然の展開を、途方もない時間の推移を逆にさかのぼっていくことによって、存在を原始的なものへと煮つめていき、それからまた平地へ下ることによって、自然から文化への展開を自分の足と体で確かめようとする。
登山とは文明史を溯行して原始の自然の中で自己の人間の原形を確認する行為である。この全文明史の往復の中で、現代文明の最遠点たる原始の自然の中で直面する恐怖は人間をある根源的な試練の前に立たせる。<張りを失った空間感覚と存在感>という根源的な欠如に見舞われている都会人杳子は徒手空拳で原始の自然に立ち向かわざるを得なかった。谷底という原始の自然の最も濃密に凝集している空間で、<地形の中にある人間の形をつかみなおす>べき場所で、杳子は坐りこんで動けなくなる。この岩の上に坐りこんで動けなくなった女が古井文学の原点である。古井は人間の始源の場所をそこに設定する。それではそこはどんな場所であるのか。柳田国男の『遠野物語』という照明を当ててみよう。
村の若者が猟をして山奥にはいってゆくと、遥かな岩の上に美しい女がいて、長い黒髪を梳いていた。とうてい人がいるような場所ではなかったので、男は銃をむけて女を撃った。たおれた女のところへ駈けよってみると、身のたけが高い女で、髪はたけよりも長かった。証拠にとおもって女の髪をすこし切って、懐ろにいれて家路にむかったが、途中で耐えられないほど睡気をもよおしたので、あたりでうとうとしたが、夢とも現ともわからぬうちに、身の丈の大きい男があらわれ、懐ろから黒髪をとり返して立ち去った。若者は眼がさめた。(柳田国男『遠野物語』三)
この村の若者は人のいるはずのない山奥で人間ならぬ美しい女と大きな男に会った。それは彼の属している共同体の伝承の指し示す幻想であったにちがいない。共同体が長い時間かけて自然への畏敬の中で育ててきた自然の不思議についての古譚である。多分この不思議の向こうに神が出現する。共同体の古譚は人間が自然を通って神に至る聖なる通路を持っている。山奥という人跡未踏の自然、一種の異境におかれたとき、人間を支えるのは彼の中に打ち込まれているこのような共同体の刻印である。未見の世界に投げ出されて個体としての人間が解体にさらされたとき、崩壊する個体を支えるのは古譚の中に秘められている共同体の知恵の集約、その諸関係の総和の骨格に他ならない。そのような個体の危機を支える共同体の骨格を持たない人間はたちま ち空中分解するにちがいない。杳子が直面したのはそのような状況である。彼女は岩の幻想を見る。
彼女は見つめながら自分の力を岩の中へ、その根もとへゆっくり注ぎこんでいった。すると岩はひとつひとつ内側からいよいよ円みを帯び出して、谷底の薄暗い光の中で、ほんとうに混り気のない生命感となって、うつらうつらと成長しはじめた。杳子も岩と一緒にうつらうつらと成長する気になった。杳子は幸福を感じた。
杳子が原始の自然の中で解体しはじめたとき、彼女を支えるものは何もなかった。彼女はただただ解体し、自我の輪郭を失って岩へ向かって流れ出す他なかった。彼女はひたすら解体に耽り、岩との一体感の中にかすかな陶酔を感じとり、この解体がある遠い聖なるものにつながるかすかな痕跡をとどめているのをどこかで感じていたのだった。それが幸福感の根拠である。作者はそのあたりのことを自註の中で次のように書く。
昔物語ならば、谷底に一人で坐っている女は、俗界と神秘界の何らかの仲介者ということになろう。(『杳子のいる谷』)
昔物語ならば杳子は岩の幻影ではなく神を見たはずである。彼女は神という共同体の神的伝承を背負わないゆえに、岩を岩としてしか幻視できないのである。杳子は都市の空虚の中に何か根源的な欠如を感じて山へ来たのに、杳子はまさにその根源的なものに出会いながら、それを解読する手がかりがつかめない。彼女が岩の上で人間の特権的視力を失ったとき、つまり岩を岩と名づける人間の傲慢を失ったとき、あの<俗界と神秘界>の仲介者の位置にいたのである。昔物語ならば巫女として生きた女が現代ではどんな運命をたどらねばならないかをこの作品は語ることになる。精神の病理はそこから発するのである。科学という非共同体の語り部たちによって流布された現代文明の中で育った彼女は、神秘界の只中にいながら岩の言葉を解読できない。科学は自然を言葉を持たない物質として定義して疑うことを知らない。神の伝承を失った現代の巫女という位相を描く古井の文学の根底には
短篇小説はもともと霊異を語る形式なのではないかと考えることがある。霊異とはただの奇異とも違って、尊くて不思議な体験のことであり、(『霊異』)
という小説観がある。<霊異>の消滅した時代に<霊異>を生きるとはどういうことか、これが多分古井文学のライトモチーフである。<霊異>のない時代に<霊異>を生きることは一つの病に他ならない。こうして古井の描く病は<霊異>という聖なるものに根ざしていたのである。石牟礼道子が『椿の海の記』で、
そのころの、ふつう下層世界の常人は、精神病患者とか、異常者とか冷たくいわずに、異形のものたちに敬称をつけて、神経殿とかまんまんさまとか云っていた。
と書いたのに呼応する感覚である。ただし石牟礼が実体として体現していたものを、都市流民たる古井は欠如として生きていたのである。谷底の岩は霊異に出合う場所であり、杳子はそこで発病するのである。
岩の上で坐り込んで動けない杳子を俗界である都会に連れもどすのは一人の心優しい青年である。彼は後でこの救助の場面を思い出そうとすると、
あの出来事を細かに思い出そうとすると、彼はかならず不快なものにつきあたる。あの女の目にときどき宿った、なにか彼を憐れむような、彼の善意に困惑するような表情だった。≪あの女は、あそこで、自殺するつもりだったのではないか≫という疑いが浮かびかけた。すると記憶が全体として裏返しになり、彼は女の澄んだ目で、幼い山男のガサツな自信満々な振舞いを静かに見まもる気持ちになった。
この杳子の救助者も単独行の登山者であり、その頃彼自身も<自己没頭という病い>を罹っていたと回顧しているように必ずしも健全な人間とは言いがたかった。彼は彼女の同伴者にふさわしい資質を持って登場し、救助者の優位が思い出の中で裏返されていくような内省力、同化力を持った人間として設定されていた。以後古井の作品に登場する病む女の同伴者たちの最初の人物である。二人は都会で再会するのだが、山で霊異に会った杳子は都会生活に適応することができない。彼は彼女の適応のコーチの役割を受け持ち、従って二人の関係は恋人というよりは常人―異常者、あるいは医師―患者という形をとる。二人は杳子の病因を突きとめようとする。最初杳子は自分の病気を高所恐怖症と言い、彼に矛盾を指摘される。
「いいですか、高いところに立つとすくむのが、高所恐怖症ですよ」
「ええ、でも、平たいところにいる時に感じるんです。ときどきなんですけど、どうして立っていられるのかわからなくなって・・・・・・」
山から帰って交されるこの最初の会話ほど彼女の病気がどんなものかを暗示しているものはない。山(高所)の病気の都会(低地)での発病という、わけのわからない病名を創出したとき、古井はほとんど現代のただ中にいた。山の神が里に下って田の神となるという伝承が一つの時代を指示したように、山の病気の都会での発生という転倒の中に現代が暗示されていた。
二人は喫茶店でデートを重ねるうち、いつも彼より先に来ていつも同じ席で待っている彼女が、その席が先客に占められているだけでもう店の中へ入ることもできず立ちすくんでいる場面に出くわす。待ち合わせの喫茶店を変えると、その店の前まで来ながら、どうしても確信が持てずドアを押すことができない症状を見て、彼は杳子の病気を場所の病と断定する。そして彼女のために場所捜しの公園めぐりという処方箋を提出する。通勤の流れが過ぎた時刻、或る駅前の広場のベンチで彼らは落合い、今日めぐる公園を決める。杳子は公園の名前を次々に並べ立てるが、その中の一つを指定することができない。彼女には決定能力が欠けているので、彼が手助けをしなくてはならない。それから<準備運動>がはじまる。杳子はそこへ行くまでの道順を綿密に途中の駅名を一つひとつ数え上げる。乗替えの駅については<階段を降りて改札口を出て右、右へ五十米ほど行って階段を昇ってまた右>と詳細を極め、取りつくしまもないほど緊張して地図を再現する。杳子はこうして大学の行き帰りも駅の数を数え、自分の家の階段も数えているという。この世界で自分の本源の場所を失った杳子には現実への手がかりは地図しかない。場所の捕捉には実際に限りなく近い、精度の高い地図が必要となる。地図の精度の高さは彼女の病の深さと対応している。だから実際に行動に移してみて、どこかで現実と地図がくいちがうと彼女は現実への手がかりの一切を失って混迷の中を漂う他ないのである。彼女の失った本来の場所、共同体の伝承が育くむ聖なる場所(トポス)はむろん都会にはありはしない。彼女は一枚の地図を頼りに彼女の場所を捜し出そうとするが、あがけばあがくほど世界とのつながりを失い、自分自身を見失って、よるべない都市砂漠をさまようことになるのである。
蟹は重い甲羅を引きずって、まるで生きていることがそのまま一種の病いのように、見るからに苦しそうに海底を這いまわっている。
杳子は『雪の下の蟹』のように<生きていることがそのまま一種の病い>であるような生を生きていたのである。
公園めぐりは彼女の病を際立たせ、深める結果しかもたらさなかった。医師として彼女の病を治癒しようとして更なる深みに導いてしまったのである。二人は街を歩くと、すぐ疲れ果てて途方にくれる。杳子のために気を張っていると、周囲の何でもない営みが一つひとついかにも困難なこととして目に映ってくるのだった。杳子と会っていない時の自分がいかに自由闊達であるかに驚くのだった。彼は杳子の病への理解を深めていくにつれて、少しずつ医師の立場を失っていくのだった。二人はまたあの谷底のような最初の喫茶店に帰り、ほとんど口もきかずに向かい合って過ごした。こうして追いつめられた二人はある夜はじめて食事を共にする。しかしレストランのテーブルに料理が出てくると、杳子はたちまち失調に陥った。それでも杳子は努力してナイフとフォークを取り上げる。
ごく自然な慣れた手つきだが、両脇をつぼめて肘を固く折り曲げているせいで、ナイフとフォークは皿の上の食物と遠いかかわりしかない。彼女自身を責める道具みたいに、露骨な感じで白い手の中から突き出して宙にかしいだ。
杳子は人の前で物を食べることができない。食べるということの残酷さ、食べ物を奪い合ってひとり食べる動物の食事のおぞましさ。食事にまつわる覆いようもない原始性に杳子はつまずくのである。その卑しさ、恥ずかしさを人間は文化とかマナーとかグルメとかいう衣裳で包み隠し飼い慣らしてきたのだが、杳子はその衣裳の隙間からのぞいている食事のおぞましさに直面していたのである。食事という生の根幹にかかわる行為をおぞましいと感じたとき、杳子は生きることをおぞましいと感じていたのである。彼女は人間の基本的条件からこぼれ落ちていた。人間の網目から赤裸な孤立の陥穽に落ちていたのである。場所の病と思われていた病因はもっと深いところに根を張っていた。彼の前で食事を拒んだとき、杳子はむろん彼そのものを拒んでいたのである。彼女はあらゆる人間関係からこぼれ落ちる。
彼の前にいながら、杳子が自分の病いの中へ一人で耽りこんでいくことが、以前ならいざ知らず、今ではもう許せない気がした。
彼はいらだち杳子に食べることを強要する。恥ずかしさを忍んでひっそりと体の中へ食べ物を少しずつ送り込んでいく杳子を見ながら彼は杳子の病気から一人取り残された自分を感じる。彼が彼女に、彼女の病気につながるにはどういう道が残されているのか。
それから二時間後、二人はそのレストランから遠くない旅館の一室で体を重ね合わせていた。
ともすれば大道の真中で茫然と立ちつくしてしまう杳子に、自分自身の躯のことを気づかせてやりたい。そして自分自身のありかを確かにしてやりたい。
しかし触れ合った後も杳子の体はいつまでもよそよそしく温かみも伝えず、彼の体に少しも揺がされず横たわっていた。それは何度体を重ね合わせても同じだった。彼は杳子の病気の近よりがたさに打ちのめされて、
僕の力じゃ、君をどうすることもできないらしいね。僕が君のそばにいなくなりさえすれば、君はまた一人でちゃんと歩けるようになるだろう。
医師である自分こそ杳子の病気の原因ではないかと気づいたとき、彼は彼女の病気に確実に一歩近づいていた。彼はそういう絶望感の中で辛うじて杳子の孤独への通路を感じ当てるのである。彼は医師(コーチ)という自分の足場を捨てて杳子の病気の中へ浸り込むことを願った。そして彼は彼女の同伴者、あの古代の巫女(妹)に付き添う王(兄)のような位置を獲得していくのである。彼は彼女の病に、その視力の異常に同化せんと努めるのだった。二人の関係は少しずつ転位していく。二人は杳子の街の中での失調を恐れて人混みを避けたから、二人の営みは例の旅館の一室に限られてきた。二人の関係はいよいよ外に向かって閉ざされ、二人の話題も杳子の病気に関することばかりになっていった。そして杳子の体は病気を内に宿したまま女として成熟していった。杳子の自分の病気を愚痴る声にも物憂い充実感がこもってくる。彼女は自分の病気を引き受けて生きはじめたのである。やがて杳子は姉について語りはじめる。杳子は彼に家の所在はもちろん電話番号さえ知らせず付合っていたのだが、やっと彼の前に人間関係を背負った具体的な人間として現われてくる。杳子は姉の病を通って自分の病に行きつくのである。それは杳子の中でどのように人間が崩壊したかの物語でもある。
姉は彼女より九歳年長の、今では二児の母であり、両親の死後は杳子の保護者として杳子と同居している。この姉はかつて杳子と同じ病を罹っており、大学生の頃、いつも通学している家から十分ほどの駅に行けなくなってしまう。最初の目じるしの煙草屋の前まで来ると、その店の感じがいつもと違うので前に進めなくなって引っ返してくる。毎朝同じ事を繰返して結局駅まで送ってもらうと、あとはケロリとして学校へ行ってちゃんと戻ってくるのだという。
昔のことをすっかり忘れてしまって、それであたしの病気を気味悪そうに見るのよ。
<お姉さんみたいになりたくない>嫌悪をこめて杳子は言う。
こんな会話を交わした後、二人はしばらく会わないことにして彼は山へ出かけ、彼女は自分の部屋にこもって別々の日を送る。再会した日、杳子は海へ行きたいと言う。彼女はひたすら海を見たいと思いつめて暮らしたのだ。山で発病した女が回復の祈りをこめて海に立つ。荒涼とした岩の上、空と水の広がりにまともに身をさらして立つ杳子の姿は美しい。しかし奇蹟は訪れず、杳子は再び砂の上にうずくまってしまう。海から帰った杳子は完全に自室に閉じこもる。幾度かの電話のやりとりの後、彼女の家を訪れて彼ははじめて杳子の姉に会う。姉は杳子の病気を解く鍵のように現われる。
健康になって病気のことを忘れてしまった姉はどんな人か。二人のいる部屋にケーキを運んできた姉の動作は、まずテーブルの拭き方からはじまり、紅茶とケーキの運び方と並べ方、部屋を出るときの入口の棚の花瓶のいじり方に至るまで、一連の動作は寸分の狂いもない反復で成り立っているのだという。杳子は姉を罵る。
あの人は健康なのよ。あの人の一日はそんな繰返しばかりで見事に成り立っているんだわ。
それはかっての杳子の公園めぐりを思い出させる。現実への手がかりを失ったゆえに正確な地図によって現実をなずらえようとした杳子の行動のパターンと同質のものである。杳子のそれは現実喪失のただ中からの現実回復への必死のあがきであったのだが、姉のそれは現実喪失を糊塗する偽瞞の手段、現実適応の癖として固着させたものである。姉の行動のロボットめいたぎこちなさはそこからきている。それが杳子の言う<健康な暮らしの凄さ>である。
健康になるということは、自分の癖になりきってしまって、もう同じ事の繰り返しを気味悪がったりしなくなるということなのね。
と杳子は言う。人は生きていく経済学のために癖という定型を手に入れるのである。同じ場面では無条件に同じ反応を繰り返す定式を手に入れた人間はもう思い悩むことはない。その根にある大きな欠落を癖で覆い隠して意識しないことが健康なのである。健康とは人間の生の根源からの水脈である共同体の古譚の枯れ尽きる場所である。病気とはその繰り返しを
自分自身の盲目的な生命の中に斜めに浸りこんで、目だけ外に出して我身を見つめている孤独感
なのである。欠落を癖で埋める自己の偽瞞を見つめる明晰な意識のつらさである。つまり病は癖の集成としての文化への拒否としてあらわれる。しかし人間はそのような文化の総体としての社会を拒否しては生きていけない。一方、文化の虚偽に気づいた人間はもうその中に安住することもできない。杳子の突き当っていたのはそういうジレンマである。
病気の中にうずくまりうむのも、健康になって病気のことを忘れるのも、どちらも同じことよ。あたしは厭よ。
と病気と健康の二者択一は否定される。病者はこの社会で生きてはいけない。さりとて病気を完治することは健康という名のさらに無残なもう一つの病気への移行にすぎない。あの岩の上からはじまる彼女の病は共同体の聖なる伝承の欠落という文明の病であることを彼女はうすうす感じ当ててはいるのだが、この欠如は回復する手だてがない。彼女は山から街へ、街から海へと自分の病根を尋ね求めての長い彷徨を繰り返して、ついにその不在をつきとめたのである。そういうとき、人は不在を不在として生きる以外にどんな生き方があろうか。彼女は部屋に閉じこもり、入浴さえも拒み、自分の病気の中にうずくまり、ひたすらに病を生きることによって病の根源に降りて行くのである。そして彼の来訪を機に姉との、社会との和解のサインとして明日病院へ行くという。作品はその前夜彼と共に見る夕焼けの場面で終る。
地に立つ物がすべて半面を赤く炙られて、濃い影を同じ方面にねっとりと流して、自然らしさと怪奇さの境い目に立って静まり返っていた。
「ああ、美しい。今があたしの頂点みたい」
杳子が細く澄んだ声でつぶやいた。
<自然らしさと怪奇さの境い目>とは病気と健康の境い目と対応している。杳子は病気と健康という二項対立の枠をずらして、境い目こそ頂点であるという自分の新しい足場をさぐり当てることで、自分の中に潜んでいる病の聖痕が一瞬輝くのを感じとるのである。あの『雪の下の蟹』の中で蟹に打ちこまれている一本の針が暗い海の底で異和の光茫を放つように。その時、杳子に寄りそい、杳子の病に同化せんと願っていた彼は、<帰り道のこと>という日常茶飯事にとらわれて、杳子の飛翔に取り残される。
古井由吉はこの作品で、境い目という現代人の心的異常を描く絶妙の視点を手に入れたのである。彼は人間存在の境界性、その心的異常を神的象徴として捉える古譚の水脈をたどって、生命の本流からの逸脱である現代の病理を追い続ける。たとえば古譚の痕跡あらわな表題を掲げた『妻隠』(昭45)『櫛の火』(昭49)などで、境界をさまよう女たちの魂魄の彷徨を追いつづけ、やがて『聖』(昭51)『酒』(昭54)『親』(昭55)の三部作の再び山から帰還した青年の物語において、民俗伝承の古譚をふまえて病の聖痕をあざやかに示視してみせたのである。その発病から寛解に至る病の全体像を民俗的な聖なるものの憑依の伝承からの照射の中で描いてみせたのである。男の彼方にある女の不思議を古井ほど畏敬をこめて追い続けている作家はいない。

古井由吉(昭12―) 
杳子論 
1
われわれは、作品の中で語るものと語られるものとの関係を固定することに慣れている。その固定化された語りをスタイルと呼び習わしている。しかし、その関係はそれほど自明のことなのだろうか?
この不安を古井由吉は、処女作『木曜日に』からわれわれにかきたてる。
鈍色にけぶる西の中空から、ひとすじの山稜が遠い入江のように浮び上がり、御越山の頂きを雷が越しきったと山麓の人々が眺めあう時、まだ雨雲の濃くわだかまる山ぶところの奥深く、幾重もの山ひだにつつまれて眠るあの渓間でも、夕立はそれと知られた。まだ暗さはほとんど変わりがなかったが、まだ流れの上にのしかかっていた雨雲が険しい岩壁にそってほの明るく動き出し、岩肌に荒々しく根づいた痩木に裾を絡み取られて、真綿のような優しいものをところどころに残しながら、ゆっくりゆっくり引きずり上げられてゆく。そして雨音が静まり、渓川は息を吹きかえしたように賑わいはじめる。
ちょうどその頃、渓間の温泉宿の一部屋で、宿の主人が思わず長くなった午睡の重苦しさから目覚めて冷い汗を額から拭いながら、不気味な表情で滑り落ちる渓川の、百メートルほど下手に静かにかかる小さな吊橋をまだ夢心地に眺めていた。すると向こう岸に、まるで地から湧き上がったように登山服の男がひとり姿を現し、いかにも重そうな足を引きずって吊橋に近づいた。
こう始まった『木曜日に』では、語り手は、ずっと引いた視点から、「山麓の人々が眺めあう」ような景観を俯瞰する目で現前させ、それからゆっくりと温泉宿の主人へと焦点を絞り、その主人のパースペクティブの中に、登山服の男が入ってくるのを語っていく。この一読したときの、まるで一つの物語のとば口に立たされたような語りの印象が、しばらくして、実は、
《あの時は、あんたの前だが、すこしばかりぞっとさせられたよ》と、主人は後になって私に語ったものである。
と、語り手たる《私》が、過去において宿の主人から聞いた話を再現して語っているのだということが、種明しされる。
しかし、この語りは宿の主人が語っているのでもないし、《私》が単純に伝聞を語っているのでもない。一つの物語を語り出す語り手の視点から、宿の主人のパースペクティブに入ってくる登山者を描き出している。
つまり、語り手である《私》は、〃そのとき〃の《私》のパースペクティブでも主人のパースペクティブでもなく、まして語っている〃いま〃からの想い出語りでもなく、全体を構成し直す俯瞰する視点から、物語のような語り手のパースペクティブを設定し、「御越山の頂きを雷が越しきったと山麓の人々が眺めあう」〃そのとき〃の情景を遠望し、そこから「ちょうどその頃」「長くなった午睡」から目覚めた宿屋の主人の視点へと滑り込み、彼の視線で、自分を客観化した「男」、つまり〃そのとき〃の《私》について、時間を巻き戻して、〃そのとき〃を現在として現前させながら、しかもその語り出された全体は、語り手である《私》の想い出となっている、という手のこんだ描写方法をとっている。
〃そのとき〃は《私》にとって想い出であり、《私》は、〃そのとき〃に対しては、未来からの視点となって俯瞰し、俯瞰する視点を入子にして、《私》が〃いま〃語っている、ということになる。
見られた《私》を、見られたパースペクティブで語ることで、《私》という語り手にとって、その光景が、《私》のパースペクティブに対する異和として、《私》の外に対立するものとしてある、ということを暗示しているし、にもかかわらず、そのパースペクティブを《私》の入子にすることで、それをも含めて《私》にとって語られるべきことでもある、ということを示している。
その意味では、この語りには、三つの視点が入っていることを意味する。一つは、〃そのとき〃《私》が経験した過去を〃未来からの視点〃で〃いま〃語っているのであり、いま一つは、〃そのとき〃別の視点から眺めていた宿の主人の視点からのパースペクティブを語り直しているのでもあり、そしてその両者を〃いま〃俯瞰する視点から語っているのでもある。
つまり、〃そのとき〃の《私》自身の記憶にある光景と、主人が眺めていた光景を主人の印象で要約して伝えた〃そのとき〃の眺めを、《私》の感受性で受け止めて刻みつけた光景と、そしてその両者の記憶を、語っている〃いま〃の視点から眺め直している光景の三つがある、ということになる。
それは、結局《私》が、見られた自分をも見ている、語られた自分をも語っている、ということにほかならない。
2
簡単に言ってしまえば、「『〜でしたね』と言われた」というだけのことを、〜を直接話法でも間接話法でもなく、そのときの宿の主人のパースペクティブを現前させる形で提示してみせたにすぎない。そうすることで、《私》という語り手の視点は、時間的にも空間的にも、〃いま〃は語られた瞬間〃そのとき〃になり、〃ここ〃は語られた瞬間〃そこ〃になるように、いくらでも後退させていくことができる、ということを、提示してみせたようにみえる。
「『□でしたね』とAが語った」と、私が言う。
「『□でしたね』とAが語った」とBが語ったと私が言う。
「『□でしたね』とAが語った」とBが語ったとCが語ったと私が言う。
それは語られているパースペクティブが最終的に誰のパースペクティブの中にあるのか、無限に入子になっていくことができるということだ。
それは過去には見るものであった《私》が現在からは見られるものであり、その《私》も明日の《私》に入子にされる、ということでもある。
このことは、振り返る、思い出す、意識するといった、自己意識そのもののもつ構造といっていい。□を思い出している自分を思い出している、というように。
しかしそれは必ずしも親和感だけではない。古井もそのことを肯定しているわけではない。『木曜日に』では、見失った自分の記憶、あるいは記憶の中で紛失した自分への異和感そのものの隠喩として、冒頭の語りがあるとみていいからだ。
むしろ異和感というなら、見ること自体が異和であるというべきだ。そして見られるもののパースペクティブを手に入れるか、見る自分の見られている視野を手に入れることによって初めて、見ることに親和の可能性が出てくるはずなのだ。それもまた『木曜日に』の中で、古井は既に見ている。
たとえば『木曜日に』で、《私》が宿の人々への手紙を書きあぐねていたある折、「私の眼に何かがありありと見えてきた」ものを現前化した視線に、はっきりうかがえる。
それは木目だった。山の風雨に曝されて灰色になった板戸の木目だった。私はその戸をいましがた、まだ朝日の届かない森の中で閉じたところだった。そして、なぜかそれをまじまじと眺めている。と、木目が動きはじめた。木質の中に固く封じこめられて、もう生命のなごりもない乾からびた節の中から、奇妙なリズムにのって、ふくよかな木目がつぎつぎと生まれてくる。数かぎりない同心円が若々しくひしめきあって輪をひろげ、やがて成長しきると、うっとりと身をくねらせて板戸の表面を流れ、見つめる私の目を眠気の中に誘いこんだ。
厳密に言うと、それを見ていたのは、手紙を書きあぐねている〃とき〃の語り手としての《私》ではなく、むろん森の山小屋にいた〃そのとき〃〃その場所〃にいた「私」であり、その「私」が見ていたものを《私》が語っている。しかし、そのうちに、それを見ていたはずの「私」が背後に隠れ、「私」は木目そのものの中に入り込み、木目そのもののになって、木目が語っているように「うっとり」と語る。見ていたはずの「私」は、木目と浸透しあっている。動き出した木目の感覚に共感して、「私」自身の体感が「うっとり」と誘い出され、その体感でまた木目の体感を感じ取っている。
節の中心からは、新しい木目がつぎつぎに生まれ出てくる。何という苦しみだろう。その時、板戸の一隅でひとすじのかすかな罅がふと眠りから爽やかに覚めた赤児の眼のように割れてわずかに密集の中へ喰いこみ、そのまま永遠に向かって息をこらしている……。私も白い便箋の前で長い間、息をこらしていた。
最後に、視線は、語り手である《私》へと戻ってくる。そして、ふいに、いつも《私》の視線が貫徹していたこと、《私》のパースペクティブの入子になって「私」のパースペクティブがあり、それがまた木目に滑り込んで、木目に感応していたことに気づかされる。と同時に、浸潤しあうのは、そのときの見ていた「私」だけでなく、語り手の《私》そのものもまた、そうだということである。
そのとき、《見るもの》は《見られるもの》に見られており、《見られるもの》は《見るもの》を見ている。《見るもの》は、《見られるもの》のパースペクティブの中では《見られるもの》になり、《見られるもの》は、《見るもの》に変わっていく。あるいは《見るもの》は《見られるもの》のパースペクティブを自分のものとすることで、《見られるもの》は《見るもの》になっていく。
その全てを貫徹していた語り手《私》の視線にとっては、入子になっている「私」も、木目も、更には語り手《私》自身さえも、語られることで、同位相の点景にすぎなくなっていく。にもかかわらず、それによって、語り手もまた木目に浸透され、《見るもの》の位置からずり落ち、《見られるもの》になっていく。
それは所詮《私》の創り出した幻想にすぎない、と言ってしまえばそれですべては終わりである。見ることとは、見られるものを見られる位置で見るのではなく、見る位置で見ることによってこそ、達成できるのだといえるからだ。
《見るもの》が《見られるもの》の見ているものを見ること、そのことによって、《見られるもの》は《見るもの》となる、あるいは《見るもの》が《見られるもの》に見られることでもある、ということだけがいいたいのではない。《見るもの》が《見られるもの》を見ること自体が、《見るもの》をまた《見られるもの》にすることになる、ということなのだ。それは、語り手は語ることによって、それ自体語られるものになる、ということでもある。
古井は、ここで、《見るもの》の特権を剥奪している、といっていい。《見るもの》が《見られるもの》になりうるとすれば、どこまでもそれを統御する視点があるという《見るもの》の視点の無限後退、逆に言えば、どこまでいっても、特別席からしたり顔して見る絶対的視点の喪失にほかならない。
3
語りは視線である。しかも古井の語りは、視線ついての視線ではなく、視線そのものである。その視線はいつか視線の閾を踏み越えていく。幻と現の境界を自在に飛び超える視線である。現を見ていた視線は、視点が〃いま〃から未来へ移ることで、そのパースペクティブが想い出に変わる。〃いま〃から過去へ退くことで幻想に変わる。見るもののパースペクティブが見られたパースペクティブに変わる。《見るもの》は《見られるもの》に変わり、《見られるもの》も《見るもの》に変わりうる。視線は《見るもの》のものだけではなく、《見られるもの》のものでもある。そしてその見られ見るものである視線を見るものでもある。それは、パースペクティブが見ているもののそれではなく、見られているもののそれであることさえありうる。視線は一人で見詰めているばかりではなく、相手に浸透し、また浸透したふりもする。視線は固定した視点をもたず、饒舌である。その意味は、視点が定まった視点から、一定のパースペクティブを描き出すというようにはなく、視点は変幻自在で、視点によってどのようにもパースペクティブが変わっていく。
これは、もはや作家の安定した意識の外延を疑わせるものにほかならない。
4
少し回り道をして、視点を考えてみる。
視点として、眼前の〃いま〃と〃ここ〃に向けて開かれた【固定した視点】と、〃どこでも〃〃いつでも〃移動可能な【遍在する視点】の二つを想定してみる。
【固定した視点】は、眼前の世界を一定の視点からしか見ることができない。つまり固定したパースペクティブの現前である。それは、〃偏ったパースペクティブ〃であるということができる。そこで語り手が動かせるのは過去の想い出の現前や未来への期待(絶望)の現前といった、〃時間〃でしかない。
一方、【遍在する視点】は、〃いま〃〃ここ〃で見ている世界だけに拘束されず、時間と空間を自在に移動可能である。つまり現実に拘束されない遍在するパースペクティブである。
しかし、この区別は、それほど簡単ではない。
まず第一に、【固定した視点】による〃偏ったパースペクティブ〃も、それが過去を振り返り現前化させるとき、語り手は既知の視点でそれを見ており、その瞬間語り手は【遍在する視点】に立っている。
第二は、【固定した視点】からのパースペクティブも、【遍在する視点】からのパースペクティブも、それ自体が別のパースペクティブの点景となってしまうとき、その区別は、ほとんど意味をなさない。第一の例も、現在の視点が過去の視点を自分の視野の点景としてしまうものと見れば、同じものと考えることができる。
たとえば、それは、【固定した視点】で語られていたはずのパースペクティブが、一転して、実はもう一つ別の視点の入子になっていた、というようにである。あるいは逆に、【遍在する視点】で語られていたものが、一転して【固定した視点】からの転移したものだった、というように、現れる。
と考えてくると、問題は、語り手の視点の転移にとどまらず、語り手そのものの転移にまで波及するということになる。つまり、当該の世界について語っていたはずの語り手が、もう一人別の語り手に語られるということは、たとえば、「私」が語り手であれば、過去のことを現在回想する(Aという人物自身の回想も同じ)、というかたちで、語り手が同じで、視点のみ転移することは可能である。しかし、別の人物ということになれば、それは語り手自身が、もう一人に語られる人に、つまり見られる人になったことを意味するからだ。
とすれば、視点でなく見ること自体の差異を考えた方が分かりやすい。
〃視線〃を、四つ考えてみる。
1一方通行の視線、
2双方通行の視線、
3同時(進行)性の視線、
4入子構造の視線
1と2は、《見るもの》と《見られるもの》の関係から、視線をみている。
1は、見るものと見られるものが固定している視線。これが、視点でいうと、【固定した視点】にほかならない。見るものはただ、見るだけで、対象とは関わらない。観察者に近い。ただ【固定した視点】が、いつも一方通行の視線とはかぎらず、見ているものと見られるものが浸透し合うことがある。
2は、見るものと見られるものが、固定していない、だから、見るものであった語り手が、見られるものになる、語りの入子は、これにあたる。しかし、これは鏡のように向き合った、同時間同空間だけを意味しない。だから、過去と現在、現在と未来というように時間も動くし、場所が異なることもある。ただし見るものと見られるものは、同一でなくてはならない。過去の「私」と現在の「私」、職場の「私」と家庭の「私」、あるいは、Aという人物とBという人物の二人の関係でも同じであるし、見る人間と見られる風景でも同じである。
3と4は、見るものと見られるものとの、時間的空間的関わりを指している。時空が自在であれば、【遍在する視点】にほかならない。
3は、現前する、〃いま〃と〃ここ〃で推移と、語り手が立ち会うことにほかならない。視点の位置でいえば、【固定した視点】である。しかし、その同時性で、視線は相互に浸透しあう。それは、〃双方通行の視線〃を、〃いま〃と〃ここ〃に縛りつけたものといっていい。そのぶん、見るものと見られるものの転換は何往復もするし、空間と時間を自在に伸縮させ、無限に遠くまで届いたり、至近距離に近づいたりするし、時間の流れを微速化したり、急速化したりもする。
4は、時間と空間を貫いて入子にする視線である。時間だけを貫く視線は、過去への回想や未来への予測になる。その意味で、【遍在する視点】にほかならない。
それが1の一方通行の視線と重なれば、自分が見ているものが見ているパースペクティブに滑り込む妄想の視線になる。それが2の双方通行の視線に重なれば、見るものが見られるもののパースペクティブに滑り込むだけでなく、見られるもののパースペクティブに、自分のパースペクティブが呑み込まれることも意味する。もし、見られるもののパースペクティブに滑り込んで、そこにある自分のパースペクティブを想定するとすれば、被害妄想に近づく。
3の同時性の視線と重なれば、一つの視点だけでない、多角的多面的なパースペクティブを作り出すことができる。あるパースペクティブは、他のパースペクティブに滑り込むことで、自分と違う視界をえる。至近距離のパースペクティブが遠景のパースペクティブに重なれば、多義的な視野をえることができる。距離を縮め(拡大し)時間を縮め(拡大し)たパースペクティブを現在の等身大のパースペクティブに入れ込むことで、異質の視覚が並列し拮抗しあい、多角的なパースペクティブをもたらす。
しかし、もしその同時性の視線が、もう一つ別のパースペクティブの中にすっぽりくるまれ、そのパースペクティブの点景にすぎないとき、『木曜日に』のどんでん返しがくる。それが入子構造の視線にほかならない。見ている風景が、見ている視点も含めて、そっくり見られているものに呑み込まれてしまう、それは時間的に現在のはずが、未来の視線によって、過去のことにされてしまう。Aという場所の現前のはずが、Sという場所のパースペクティブに呑み込まれてしまう。その空間は同じ地域の別の視点から見られたのでもいいし、全く遠距離の望遠鏡からの視点でもいいし、飛行機や宇宙衛星からの俯瞰する視線であってもいい。
そして、それは、その呑み込んだパースペクティブ自体が、もう一つ別のパースペクティブに呑まれてしまう、ということをも予感させるはずである。その入子が幾つ重なってもいいのだ。それは、パースペクティブの多層化にほかならないし、これこそが【遍在する視点】にほかならない。
5
《見るもの》と《見られるもの》との錯綜とは、視線が関係を新しくするということにほかならない。拡大とは視点の接近であり、縮小とは視点の後退である。しかしそれは視点が外にある限りのことだ。もし視点が内と外、表と裏、こことそこの差異を踏み越えていったらどうなるのか、そうした浸透が古井の語りにはある。それが関係を異化する。
しかも、古井の新しさは拡大鏡で見たような関係表現だけでなく、その関係にはいつも影と呼ぶべきか、あるいは形質とよぶべきか、その関係そのものの形態化したものがメタフィジカルに存在している。『哀原』では死んだ妹であり、『菫色の空に』では失ったシャツであり、『円陣を組む女たち』の円陣であり、『行隠れ』の失踪した姉あるいは姉の死であり、『妻隠』の夫の大病であり、『聖』の祖母の死であり、『栖』の妻の病である。それが関係そのものを映し出す光源のように、それに照らし出されて、関係そのものが歪み、揺らぎ、拡大し、そのことでその関係の本質が炙り出されてくる。
『杳子』ではそれが杳子の病気にほかならない。 
6
『杳子』は確認の物語だ。確認し合うことの物語であると同時に、確認し合うことそのことが物語である。確認とは、《見ること》と《見られること》の交換と言い換えてもいい。それが、お互いの関係そのものにほかならない。古井由吉は、関係については語らない。関係そのものを語る。『杳子』ではそれが病気によって隠喩されている二人の関係の形質そのものを確認することにほかならない。それは冒頭の書き出しそのものに明確に顕われている。
杳子は深い谷底に一人で坐っていた。十月もなかば近く、峰には明日にでも雪の来ようという時期だった。
彼は、午後の一時頃、K岳の頂上から西の空に黒雲のひろがりを認めて、追い立てられるような気持で尾根を下り、尾根の途中から谷に入ってきた。道はまずO沢にむかってまっすぐに下り、それから沢にそって陰気な潅木の間を下るともなく続き、一時間半ほどしてようやく谷底に降り着いた。ちょうどN沢の出会いが近くて、谷は沢音に重く轟いていた。谷底から見上げる空はすでに雲に低く覆われ、両側に迫る斜面に密生した潅木が、黒く枯れはじめた葉の中から、ところどころ燃え残った紅を、薄暗く閉ざされた谷の空間にむかってぼおっと滲ませていた。河原には岩屑が流れにそって累々と横たわって静まりかえり、重くのしかかる暗さの底に、灰色の明るさを漂わせていた。その明るさの中で、杳子は平たい岩の上に躯を小さくこごめて坐り、すぐ目の前の、誰かが戯れに積んでいった低いケルンを見つめていた。
こう書き出された『杳子』は、「腰をきゅうっとひねって彼のほうを向き、首をひねって彼の目を一心に見つめていた」杳子の目を《彼》が見つめ返し、「まなざしとまなざしがひとつにつながった」二人の出会いまで語った後、
後になって、お互いに途方に暮れると、二人はしばしばこの時のことを思い返しあった。
と、『木曜日に』と同様、既知の二人の出会いを振り返っているのだということが明らかにされる。しかも、それだけではなく、
ふたりはそのつど、この奇妙な出会をきれぎれな言葉で満たしあった。
と、二人で何度も確かめあったものだということをも明らかにされる。
それは出会いについての物語を語ることよりは、出会いの確認そのものを語っていることだということを、そしてそれが出会いそのものを語ることだという語りであることを、ここで明確にしている。
これは、語り手が、杳子の坐っている姿を片目に収めながら、ずっと視点を後ろへ引いて、その全景の中に山を降りて来る《彼》をとらえ、彼のパースペクティブに入って来た杳子を見付けた、という語りでは完結しないことを意味する。
これを語っている語り手の位置は、『木曜日に』で語り手《私》が入子にした語り手の位置にほかならない。ここでは、《彼》の振り返りの視点、《彼》の未来からの視点である。『木曜日に』と同様、杳子と《彼》の二人の想い出をアマルガムにした〃既知のパースペクティブ〃で語られている。
確かに、『木曜日に』では、その語り手の視点は、語り手《私》の入子として、作品全体の語りの位置を簒奪されるが、ここでは、語り手はその位置を譲ることはない。つまり、語り手が同じ位置で、《彼》について語る。《彼》の視点からではあるが、語り手がその位置を捨てることはないために紛らわしいが、ここでも、『木曜日に』の《私》同様、語り手は《彼》の振り返りの視線に添って、一緒に未来からの視線となって、出会いを語る語り手を入子にしていることにかわりない。
それは、《彼》の既知の視線に捕えられた冒頭の振り返り自体が、冒頭から始まった語り手の語りの内部にあること、この振り返り自体が、《彼》にとってだけでなく、語り手にとっても既知であることを意味している。そして、ちょうど『木曜日に』が、失われた自分自身をを見付け出す、語り手《私》の自分自身との関係そのものの確認の物語であったように、『杳子』でも、この語り手の位置は、杳子との関係そのものの確認の物語であることを予想させるのである。
《彼》のパースペクティブと杳子のパースペクティブが、その出会いについて「思い返す」ことで、相互に、そのパースペクティブを確かめ合い、交換することによって、〃偏ったパースペクティブ〃が、複眼のパースペクティブにされ、それによって、ただ見られるものである杳子のパースペクティブが《彼》のパースペクティブによって質されるだけでなく、《彼》のパースペクティブに依存した語り手のパースペクティブそのものが、杳子のパースペクティブによって修正されていく。それは語りだけのことではなく、物語そのもののパースペクティブもまた修正されていくようにさえ見える。
7
それ自体が、〃既知のパースペクティブ〃で見られたものであるからこそ、冒頭の一行目は、
「杳子は深い谷底に一人で坐っていた。」と、語り出される。「杳子が」ではなく、「杳子は」であるのは、そう語る《彼》にとって、杳子も杳子がそこに坐っていたことも、既知だからにほかならない。
だが、なぜ〃既知のパースペクティブ〃でなくてはならないのか、なぜ眼前の杳子を同時進行で眺めていく、〃未知のパースペクティブ〃の語りであってはならないのか?
それは、なぜ《私》や名前のある、例えば「義男」ではなく、《彼》なのかと問うこととも重なる。
いや、その問いを変えなくてはならない。〃既知のパースペクティブ〃なのは、ただ出会いの想い出だけではなく、この作品全体だからだ。語り手にとって、二人の出会いだけでなく、二人の確認の物語全体が、予め知られていたからである。
「あの頃の彼自身も、かならずしも尋常な状態にあったとは言えない。」
「あの時期のことを思い出すと、春先の膝陽ざしの中で無気力に寝そべっている彼のまわりを、杳子はたえず硬質の足音を立てて一人跳ねまわっていたような気がする。」
「彼自身にとっても、自分の躯をじかに感じ取ることのむしろすくない時期だった。」
だから、語り手にとって、この世界も、彼も杳子も既知のものにすぎない。谷底の出会いが既知だったのは、二人にとってだけではないのである。
だからこそ、冒頭は「杳子が」ではなく、「杳子は」でなくてはならなかったし、「義男」ではなく、「彼」でなくてはならなかったのでもあるのだ。既に承知している《あの彼》について、ちょうどその背中から指指すように、語っているのである。
たとえば、三浦つとむの例にならえば、
「田中君はどうした」と、出欠を問われたとき、
「彼はいません」と、答えるときの《彼》と、
「義男(田中君)はいません」と、答えるときの違いを考えてみる。
《彼》というとき、語り手は、二つのことをいっている。一つは、《彼》と語り手やその場の人たちとの関係であり、その関係の中で位置づけて《彼》と呼ぶために、いくらか突き放した、遠くへ眺めやる視線であること、もう一つは、《彼》の不在が、そう問われるより前に(一瞬前かもしれないし、相当前かもしれない)、語り手には知られていた、ということである。
「義男」といったときは、語り手の目線の範囲内に、その人物が不在であることを確認しているだけだ。その呼び方で、語り手との関係(親近か疎遠か)は、《彼》というより直截的に表現されるが、それは、語り手の表明の仕方に付随的に伴ってくる感情表現であって、そこで語り手が言っているのは、自分の目線内にはいないということを確認しているだけだ。
これは、
「彼がいません」
「義男がいません」
を比較してみると、一層はっきりしてくる。《彼》ということで、語り手は《彼》との関係を一度整理した目で、その不在を認めているのに対して、「義男」ということは、語り手の目線で、そのときの不在を言明しているだけだからだ。それは、《彼》と呼ぶほうが、時間的にも空間的にも、語り手の中で、その視点を、自分の立っている目線とは別の位置においていること、敢えて言えば、語り手と《彼》との関係を、時間的にも空間的にも俯瞰する視点をもっている、ということができる。だから、逆に言えば、「義男」というより、語り手との生々しい関係が顕われにくい、ということができるだろう。
そこで、《彼》と呼び「杳子」と呼んだことの意味を敷衍してみることができる。
「杳子」を《彼女》と呼ぶと、その関係を一旦俯瞰した視線であるため、抽象化した印象が伴うと同時に、どこか遠く突き放した、遠くへ眺めやる視線になるのに対して、「杳子」と名づけられたことで、杳子に伴って現前する風景が、様々の色合いをもってくることになる。彼から見られるものである、杳子という言葉の意味が滲み出てくる。
そして更に敷衍すれば、杳子が名づけられ、《彼》が名づけられていないことは、《彼》が男の恋人一般に擬せられ、現前する恋人を見守る、という『杳子』全体の意味の隠喩となっている、という見方も可能である。
「私」による〃既知のパースペクティブ〃の語りでは、どうしても目線の限界に留まる視野に限定されるし、また過去の追憶へと落ち込んでしまう傾向は否めない。しかもそれは閉ざされた同心円のような自己イメージの入子構造でしかないという欠陥が、《彼》という、語り手による突き放した語りかけによって、自分のパースペクティブの入子になりそうな危険を、現前する世界のほうへと押し戻すことが可能となったこと、しかも一方、固有名でなく《彼》であることによって、すでに周知であることを前提に、名前に連なって必要になる、周辺との関わりの説明的描写の不自然さを避けることができる、といえるのだろう。
8
だが考えてみれば、確認すること、あるいはそれが確認であったと知れるのは、それが〃既知のパースペクティブ〃になったときでしかないのだ。いやそこにこそ、確認が必要になるのだ。杳子と彼が確認を始めたのは、肉体関係をもってなお、「依然として越えられない距離を間に置いて、お互いに沈黙の中からときどき見つめあい、それ以上の触れ合いを知らなかった」からだ。距離を埋められるのは共通の想い出でしかない。だから〃既知のパースペクティブ〃で語られなければならない。
それは、一定の焦点のあるパースペクティブではなく、語ること、語られたこと自体が既にあやふやで、曖昧になっていくものであることを、むしろ強調するものとなっていくほかない。
相手が自分の見たようにあるとは限らない。相手が自分の見たように見るとは限らない。それは相手が自分をどう見ているのかという、自分への不安ではない。ここで問題になっているのは、神経症的な関係妄想や幻想ではない。そうではなく、自分の見ているようには相手はみないし、自分の考えているように、相手が自分を考えてはいないということは、前提になっている。問題はその先だ。自分にこう見えたものが相手にはどう見えているのか、そして自分は相手の見たものを見ることができるのか、ということにほかならない。そして、古井由吉は、そのことを信じたがっているが、信じてはいない。いや、時代はそういうように回転した。それは時代の転換点にこの作品があることの、名誉と不安といっていい。
焦点は、私が動けば、時間的空間的な位置だけでなく、感情や思考の位置が動けば、移動してしまう。もはや一つのパースペクティブで語れる時代は転換し、別の定まったパースペクティブが手に入る見通しはない、だがそういう失望は間違っている。もともと自分が見たものを相手が見てくれたかどうかが疑わしければ、信じてきたパースペクティブ自体が成り立っていなかったのではないか。それは自己喪失ではなく、自己拡散に近い感覚だった。
昭和四五年にこの作品が登場したとき、われわれが受けた衝撃は、そういうものだった。その時代の転換はまだ続いていると考えるべきだ。
9
われわれは、むしろ古井由吉の、焦点の一つに定まった語り口を回避しようとする、私的固執を見るべきかもしれない。
『先導獣の話』では、見ていたはずの私が先輩から「困ったことになりましたねえ」と見られるものに変わっており、『菫色の空に』でも、相手に見ていた異和は自分の中の異和の目で自分を見ていただけであり、『円陣を組む女たち』でも、同じ女たちのイメージを見ていたはずの語り手が、見られるものに変わっている。
私をつつんで、女たちの体がきゅうっと締った。その時、私の上で、血のような叫びが起った。
「直撃を受けたら、この子を中に入れて、皆一緒に死にましょう」
そして、「皆一緒に死にましょう」とつぎつぎに答えて嗚咽に変わっていき、円陣全体が私を中にしてうっとりと揺れ動きはじめた。
と、「うっとりと揺れ動」いているのを感じているのは、その中に入り込んでしまった《私》である。その中に入ってしまった《私》は、もはや円陣を見るものではなく、円陣の中にいるのを見られるものへと転倒してしまっている。
『円陣を組む女たち』が典型な、まるでお椀を次々と重ねていくような、同質のイメージの重層化は、確認にすぎない。見るものが見られるものに見ている統一性の確認にすぎない。しかし、そのパースペクティブを、足袋をひっくり返すように転倒するのは、内と外、裏と表の転倒によってである。
『男たちの円居』では、その転倒そのものが、よく顕われている。
……私は、徒労感に圧倒されないように、足もとばかりを見つめて歩いた。そしてやがて一歩一歩急斜面を登って行く苦しみそのものになりきった。すると混り気のない肉体の苦痛の底から、ストーヴを囲んでうつらうつらと思いに耽る男たちの顔が浮んできた。顔はストーヴの炎のゆらめきを浴びて、困りはてたように笑っていた。ときどきその笑いの中にかすかな苦悶の翳のようなものが走って、たるんだ頬をひきつらせた。しかしそれもたちまち柔かな衰弱感の中に融けてしまう。そしてきれぎれな思いがストーヴの火に温まってふくらみ、半透明の水母のように自堕落にふくれ上がり、ふいに輪郭を失ってまどろみの中に消える。どうしようもない憂鬱な心地良さだった。だがその心地良さの中をすうっと横切って、二つの影が冷たい湿気の中を一歩一歩、頑に小屋に背を向けて登って行く……。その姿をまどろみの中からゆっくりと目で追う男たちの顔を思い浮べながら、私はしばらくの間、樹林の中を登って行く自分自身を忘れた。
と、まず「私」は、自分の苦しみに沿い、それから小屋に残っている男たちの、飢えでぼんやりしている姿を思い描き、うつらうつらする衰弱感に一緒になって浸り込み、その水膨れしてぼんやりした想念の中で一緒になって遠ざかる「私」たちの影を一瞥し、その背中を思いやる、その視線を、一転して次には「私」は自分の背中に感じながら、また樹林の中を登っている「私」のところへと、視線は返ってくる。
つまり、「私」は相手の思いの中の「私」を、相手と一緒になって思いなし、一緒になって視線を送り、それから「私」へと返ってきた、というわけである。
これを現実の語っているものと語られているもの関係の中に転移して考えれば、視点転倒の仕組みがよく見えてくる。ものを見ることはものに見られることであり、人を見ることは人に見られることだ。そこで相手の見ているものを見ることで、相手のパースペクティブを自分のパースペクティブにすることで、くるりくるりと焦点を転換していく。それが《見るもの》と《見られるもの》の関係だ、とでもいうように。
10
谷間での出会いについて、二人の確認は、見たものを見られた視野から見返しながら、詳細に行われる。
《彼》は、「岩ばかりの河原をゆっくり下ってきた彼の視野の中に、杳子の姿はもっと早くから入っていたはずだっ」のに、初め杳子に気づかなかった。
疲れた躯を運んでひとりで深い谷底を歩いていると、まわりの岩がさまざまな人の姿を封じこめているように見えてくることがある。そして疲れがひどくなるにつれて、その姿が岩の呪縛を解いて内側からなまなましく顕われかかる。地にひれ伏す男、子を抱いて悶える女、正坐する老婆、そんな姿がおぼろげに浮んでくるのを、あの時もたしか彼は感じながら歩いていた。その中に杳子は紛れていたのだろうか。
そして、立ち止まるまでの僅かの間にも、昏迷して、
女の姿を目にとめた。《ああ、あんなところに女がいるな》と頭の隅でつぶやいて歩きつづけ、次の瞬間にはもう、左手の急斜面からごうごうとと落ちてくるN沢の、何か陰にこもった響きに気を奪われていた。
そして、その沢で遭難した例についての思いに滑り込んでしまっていた。
だが、杳子は、「両側からずり落ちようとする山の重み」にのしかかる圧力がちょうど「山の重みがそこで釣合いを取る」そんな一点に、知らずに腰をおろして、
彼女の坐った岩をのぞいて、どの岩もひたすらに、頑に垂直の方向をめざしていて、その上にのっかかって休もうとするものがあれば、岩角を立てて振り落とそうとする。大きな岩から、小さな石ころまで、どれもこれも落ちようとひしめいて、お互いに邪魔しあってようやく止まっている。……立ち上がったら、もう一気に駆け下るよりほかにない。
と、途方に暮れて坐っていた。彼女は「谷を降りてくる彼の山靴の音」が、早くから耳に入っていた。
ただ、物音がとうからはっきり耳に聞えていて、その音に注意も惹かれているのに、それをどうしてもつかめないことがある。たとえば浅い眠りの中で、誰かが玄関の戸をくりかえし叩いているのを耳には聞いているのだけれど、何と言ったらいいのだろう、それをひとまとまりの思いにつかみ取ることがどうしても出来なくて、じれったくて寝床の中で躯をよじらせるみたい、それからぼんやりしてしまうみたい、……
の状態にあり、身動きできないでいた。
《彼》は、「女の蒼白い横顔が、それだけ、彼の目の中に飛びこんで」きて、立ち止まって目を見はる。
それは人の顔でないように飛びこんできて、それでいて人の顔だけがもつ気味の悪さで、彼を立ちすくませた。
(中略)女はすこし手前に積まれたケルンを見つめていた。たしかに見つめてはいるのだが、その目にはまなざしの力がない。そして顔全体がまなざしの力によってひとつの表情に集められずに、目の前のケルンを見つめるほどにかえってケルンの一途な存在に表情を吸い取られて渺とした感じになってゆき、未知の女の顔でありながら、まるで遠くへ消えていくかすかな表情を記憶の中からたえずつかみなおそうとするような緊張を、行きずりの彼に強いた。彼の緊張がすこしでもゆるむと、その顔は無表情どころか、物体のおぞましさを顕わしかける。そのたびに彼はそこにいるのが人間であることの証しを、自分が立てなくてはならないとでもいうような気持に追いこまれて、逃げ腰ながら、目だけは一心に女の横顔を見つめ、……しばらくして、《泣き疲れて、庭の隅にかがみこんで石ころを見つめている子供の顔だな》と彼はつぶやいた。
そうして初めて、《彼》は、杳子を見まわした。杳子は、そのとき、ケルンを見つめていた。「その岩の塔が偶然な釣合いによってでなく、ひとつひとつの岩が空にむかって伸び上がろうとする力によって、内側から支えられているように見えてきた」。
岩の塔を見つめているうちに、杳子はもう畏れを感じなくなった。……ただ、彼女のまわりには、相変らず沢山の岩がどれもこれも重く頑固に横たわっていて、お互いに不機嫌そうに引っ張りあって釣合いを保っている。その網の目にくりこまれてしまって、彼女は身動きがとれなかった。立ち上がろうものなら、網の目の釣合いが破れて、迂闊者の彼女の中へ、岩という岩の怒りが雪崩れこんでくる。(中略)
そこへ足音が近づいてきて、彼女のすぐ上あたりで止んだ。
それで、杳子は我に返る。
その時はじめて、杳子はハッとした。だれかが上のほうに立って、彼女の横顔をじっと見おろしている。そんな感じが目の隅にある。たしかにあるのだけれど、それが灰色のひろがりの、いったいどの辺に立っているのか、見当がつかない、見当がつかないから頭の動かしようもわからない。
同じことを、《彼》のパースペクティブは、別様にとらえる。見詰めている《彼》の山靴に触れた小石が転がりだし、
女が顔をわずかにこっちに向けて、彼の立っているすこし左のあたりをぼんやりと眺め、何も見えなかったようにもとの凝視にもどった。それから、彼の影がふっと目の隅に残ったのか、女は今度はまともに彼のほうを仰ぎ、見つめるともなく、鈍いまなざしを彼の胸もとに注いだ。気がつくと、彼の足はいつのまにか女をよけて右のほうへ右のほうへと動いていた。かれの動きにつれて、女は胸の前に腕を組みかわしたまま、上半身を段々によじり起して、彼女の背後のほうへ背後のほうへと消えようとする彼の姿を目で追った。
ここには、まず《彼》の視線で見た杳子があり、つぎに杳子のパースペクティブを借りた(思い入れた)《彼》の視線が、杳子の心の動きを追い、逃げる彼の動きと、追う杳子の視線の、見るものと見られるものの、緊張がうまく語られている。
これを、杳子は次のように、見ていた。
《いるな》と杳子は思った。しかしいくら見つめても、男の姿は岩原に突き立った棒杭のように無表情で、どうしても彼女の視野の中心にいきいきと浮び上がってこない。《いるな》という思いは何の感情も呼び起さずに、彼女の心をすりぬけていった。杳子は疲れて目をそむけた。それから、視線がまだこちらに注がれているのを感じて、また見上げた。すると、漠としてひろがる視野の中で……男は、二、三歩彼女にむかってまっすぐに近づきかけて、彼女の視線を受けてたじろぎ、段々に左のほうへ逸れていった。男は、杳子から遠ざかるでもなく、杳子に近づくでもなく、大小さまざまな岩のひしめく河原におかしな弧を描いて、ときどき目の隅でちらりちらりと彼女を見やりながら歩いていく。
その時、《彼》は、杳子のパースペクティブの中を、「影のように移っていく自分自身の姿」を思い浮べた。
歩むにつれて、形さまざまな岩屑の灰色のひろがりの中、その姿は女のまなざしに捉えられずに段々に傾いて溺れていく。漠とした哀しみから、彼も彼女を見つめかえした。すると女の姿も彼のまなざしにつなぎとめられずに表情をまた失い、はっきりと目に見えていながら、まわりの岩の姿ほどに訴えてこない。彼はすでに女を背後に打ち捨てて歩み去るこころになった。
杳子は、その《彼》を、「男が歩いていくにつれて、灰色のひろがりが、男を中心にして、なんとなく人間くさい風景へと集まっていく」のを、見まもっている。
「わが身をいとおしく思って、そのために不安に苦しめられて、その不安をまたいとおしく思って、岩屑のひしめきにたちまち押し流されてしまいそうなちっぽけな存在のくせに、戦々恐々と彼女をよけていく。それでも、そうやって男が歩いていくと、彼女にたいしては険しい岩々が、彼のまわりに柔らかに集まって、なま温かい不安のにおいを帯びはじめる。杳子は……、《立ち止まって。もし、あなた》と胸の中で叫んでしまった。
すると《彼》は、立ち止まる。
足音が跡絶えたとたんに、ふいに夢から覚めたように、彼は岩のひろがりの中にほっそりとたっている自分を見出し、そうしてまっすぐに立っていることにつらさを覚えた。それと同時に、彼は女のまなざしを鮮やかに躯に感じ取った。見ると、……女は、……不思議に柔軟な生き物のように腰をきゅうっとひねって彼のほうを向き、首をかしげて彼の目を一心に見つめていた。その目を彼は見つめかえした。まなざしとまなざしがひとつにつながった。その力に惹かれて、彼は女にむかってまっすぐ歩き出した。
《見るもの》が《見られるもの》の見ているものを見る、《見られるもの》に見られている自分を見る。しかしそれは、距離を縮めることを意味しない。むしろ後ずさりさせ、遠ざけるかもしれない。それが、接近したかと思うとすぐ離反していく二人の関係をよく顕している。
これは、そのまま二人の関係そのもの、いわば二人の確認そのもののもっている形質を示している。それは異和と親和の螺旋と言い換えることができる。そのようにここでの出会いは語られている。
この齟齬と吻合とを確認された出会いを振り返る語りは、どのパースペクティブからの風景も、微速化し、スローモーションのように、お互いの動きをなめるように撫でていく。それは、既に繰り返し細部の細部まで穿ち、反芻し、確かめ尽くされた、既知の視線だからにほかならない。語り手の〃既知のパースペクティブ〃にとって、二人の出会いだけでなく、二人の確認そのものもまた、そのような視線で振り返られる。そして二人のこの出会いは、『円陣を組む女たち』がそうであったように、全体の象徴であると同時に、これからの二人の確認の螺旋を描く繰り返し全体を暗示するものでもあり、関係全体を形質化した杳子の病気の隠喩ともなっている。
だから、この出会いは病気を語っていることであり、逆に病気を語ることは出会いを語っていることであり、二人の関係を語ることにもなるのである。 
11
見たと思ったことは、見られたことの意識とともにある。だが、それは手に入れた瞬間から不確かなものになっていく。《見られたもの》によって確かめられないままの《見たもの》は、あっけなく転倒してしまう。
出会いの想い出は、「あの女の目にときどき宿った、なにか彼を憐むような、彼の善意に困惑するような表情」つきあたる。
《あの女は、あそこで、自殺するつもりだったのではないか》という疑いが浮かびかけた。すると記憶が全体として裏返しになり、彼は女の澄んだ目で、幼い山男のガサツな、自信満々な振舞いを静かに見まもる気持になった。
それは、彼のパースペクティブ全体の転倒にほかならない。その転倒は、駅のホームにおける再開でまた転倒される。
少女はかれの右側を一歩ほど遅れて歩いていた。先の尖った靴がときどき彼の目の隅に入り、あたりのざわめきの中で冴えた音を規則正しく立てていた。輪郭たしかな足音とでも言ったらよいのだろうか、それが自分の鮮明さに自分で苦しむように、ときどき苛立たしげにステップを踏んだ。そのたびに彼は振り向いた。すると、切れ長の目が彼に見つめられてすこしたじろぎ、それから、視線が小枝のように弾ね返ってきて彼の目を見つめて微笑んだ。あの日、谷底に坐っていた女の、目と鼻と唇と、細い頤にやわらかく流れ集まる線を、彼はまたひとつずつ見出した。
それは、また確かめられなくてはならない。それが、病気のことを確かめることになっていくのもまた当然のことだ。
「何の病気ですか」
「高所恐怖症」
「高所恐怖症って、そんな病気の人が、なんで山になんか登ったのです」
「気がつかなかったのです」
「谷底まで降りてきて、そこでようやく……」(中略)
「谷底って、高さの感じが集まるところではないかしら。高さの感じがひとつひとつの岩の中にまでこもっていて、入ってくる人間に敵意をもっているみたいな……」(中略)
「いいですか、高いところに立つとすくむのが、高所恐怖症ですよ」
「ええ、でも、平たいところにいる時に感じるんです(略)」(中略)
「もしもお部屋の床がレンズみたいにふくらんでいたら、お部屋の中にいるのがとてもつらいでしょう。それから、ほら、床がすこし傾いていたら落着かないでしょう。(略)」
そして杳子の病気を確認することは、お互いの存在を確認することであり、お互いの生き方を確認することであり、それが作品を語り出していくことでもある。
12
確認とは、見るものと見られるものの交換である。確認は、一方的ではない。《見るもの》が、《見られるもの》のパースペクティブを見ようとすれば、《見るもの》は《見られるもの》に侵食され、《見られるもの》に変わっていく。二人の関係が深まるにつれて、微妙に、相互に浸透しあい、影響を与え始める。それを杳子は、
「あたしを観察してるのね、あなた。勝手になさい。だけど、あなたがあたしを観察すると、あたしも自然にあなたを観察することになるのよ。どっちかだけということはないのだから……」
と、言い当てている通りなのだ。
いったん二人して外へ出ると、彼は杳子のために周囲に対して神経をたえず張りつめるようになった。杳子も彼の緊張を感じ取って、今度はそのために躯の動きが固くなった。いつのまにか二人は人通りの中で足音を立てずに歩いている。まるで二人して杳子の病気の動静をじっと窺っているようだった。
(中略)杳子は彼がそばにいる以上、彼のそばを離れて一人で自然に動きまわることができない。彼は杳子がそばにいる以上、杳子が彼のそばを離れて一人で歩きまわるのを安心して見ていられない。そうやって二人して杳子の病気を守りあいながら、二人は段々にまたあの最初の谷底のような、最初の喫茶店のいつもの決まったあの席のような、二人だけの孤立した時間と場所の中へ押しこまれていく。
《彼》にとって杳子の病気(病気の杳子)が重荷になれば、杳子(の病気)にとっても、《彼》は負担になり、そのことが《彼》に一層の負担を強いるのだ。
「なぜって……、あなたが待っていると思うと、はじめてあなたに出会った時みたいに、まわりの感じがよそよそしくなって、あんな遠いところで落合うなんてとてもうまく行きそうにもないって思えて、家を出る時からもうおかしくなるの」「それじゃ、なぜ来るの、なぜ来るって約束するの」
「吊橋のところで、あなた言ったでしょう。こんなところを一人で渡れないようでは、もう街の中も満足に歩けなくなるって」(中略)
……彼女をいま病気につなぎとめているのは、ほかならぬ自分自身じゃないか、と彼は思った。あの谷底で、杳子は病気の最悪の状態の中にうずくまりこんでいた。ちょうど野獣が狭いところにまるまって、病いが自然に通り過ぎていくのを待っているみたいに。そこへ彼がやってきて、……立ち止まって彼女を見つめた。二人は見つめあった。ことによると、あの時、杳子の中で、自然に流れ過ぎるはずだった病気が、他人の目に見つめられて小さな石みたいに凝固してしまったのかもしれない。
それは杳子の病気のパースペクティブに捕えられたとみなしてもいい。それは既に《彼》に杳子(の病気)が捕えられていることと対になっている。
二十米ほどの距離から、彼は杳子の目をとらえて見つめた。杳子も彼の目を見つめて砂の上を渡ってきた。だが二人の距離が十米足らずに縮まったとき、杳子の視線が彼の目のほうを指しながら、ときどき彼の目を通り越して遠くを眺めやる表情になるのに、気づいた。……《いまに逸れるぞ。ほら左へ傾き出した》と杳子の歩みを見まもった。すると杳子はふいに支えをはずされたように躯をこごめてよろけ出し、左へ左へとよろけながら彼の目を険しく睨みかえした。
やがて杳子は彼から目を離し、……砂の上にかがみこんだ。……長いことかかってようやく彼の目をまた探り当てた。そして杳子の声とも思われないひどい嗄れ声で言った。
「あたしを観察しているのね、あなた。勝手になさい。だけど、あなたがあたしを観察すると、あたしも自然にあなたを観察することになるのよ。……」
杳子の目に射すくめられて、彼は躯を動かせなかった。
《彼》がいるから支えられているが、それは同時に病気をつなぎ止めているのでもある。だから《彼》が視線を外せば、杳子は揺らぎ、揺らぐ杳子を見ている《彼》自身もまた、一緒になって揺らいでいる。
それは《彼》が杳子をつかもうとすることが、杳子の病気をつかもうとすることになるほかないからだ。
低い声を洩らす時でも、杳子の肌はまだ冷たさを保って、彼の肌からひっそりと遠のいて悶えていた。その冷たさを通して、鎖骨のくぼみや、二の腕の内側や、乳房から脇腹へ流れる線や、腰の骨の鈍いふくらみなどの感触が、性の興奮につつまれずに、たえず遠くから長い道をたどって集まってくるように、一点ずつ孤立して伝わってくる。その感触にむかって、彼はやはり性の興奮とほんの僅かずれたところで、一点ずつ肌の感触を澄ませていく。
肌の感覚を澄ませていると、彼は杳子の病んだ感覚へ一本の線となってつながっていくような気がした。道の途中で立ちつくす杳子の孤立と恍惚を、彼はつかのま感じ当てたように思う。
そのかぼそい糸を引っ張り合う緊張は、そのまま、「まなざしとまなざし」をひとつにし、視線をたぐり寄せるようにして一緒に山を降りて来たときの二人の関係そのものだ。それは、次のような、イメージを《彼》にもたらす。
杳子は道をやって来て、ふっと異った感じの中に踏み入る。立ち止まると、あたりの空気が澄みかえって、彼女を取り囲む物のひとつひとつが、まわりで動く人間たちの顔つきや身振りのひとつひとつが、自然の姿のまま鮮明になってゆき、不自然なほど鮮明になってゆき、まるで深い根もとからたえずじわじわと顕われてくるみたいに、たえず鋭さをあらわにして彼女の感覚を惹きつける。杳子はほとんど肉体的な孤独を覚える。ひとつひとつの物のあまりにも鮮明な顕われに惹きつけられて、彼女の感覚は無数に分かれて冴えかえってしまって、漠とした全体の懐かしい感じをつかみとれない。自分自身のありかさえひとつに押えられない。それでも杳子はかろうじてひとつに保った自分の存在感の中から、周囲の鮮明さにしみじみと見入っている。
これは、《彼》のパースペクティブが思い描いた、杳子のパースペクティブにほかならない。すでに杳子の目で、杳子の見るものを見ている。それは同時に、杳子が《彼》のパースペクティブを変え始めたことにほかならない。杳子のパースペクティブの中で、《彼》の存在がその風景を変えたように、《彼》のパースペクティブもまた、杳子が踏み入ってくることで、その光景を変えていく。これが、恋愛の、相互のパースペクティブの浸透であり、古井由吉は、心理を心象に、いや、感情を、それが見るパースペクティブに変えた。それは、視線を文体とした、彼の達成とみなければならない。
13
神経の病は、関係の中でしか顕在化することはない。いや関係が神経の病を創り出す。神経の病とは関係の病そのものにほかならない。それは《見ること》と《見られること》の病でもある。あるいは《彼》が意識しているように、《彼》が《見ること》によって、《彼》に見られるという関係の中で、顕われてきたというべきかもしれない。それが、杳子の病気が関係の形質化であるということの意味だ。だから《見ること》でつかまえるのは、杳子と同時に関係そのもの、つまりは病気そのものをつかまえることになる。それは、《見ること》と《見られること》の中で、病気が、形を変え、質を変えていくことでもある。
関係とは、また距離にほかならない。距離が異和感なのではない。親和感とは距離の喪失ではない。距離の喪失こそが、異和感にほかならない。それが関係の喪失であり、関係の病にほかならない。関係を埋めることが病を癒すことにはならず、関係を認めること、距離感を確かめることが《見ること》に違いない。
《見ること》は距離を置くことだ。いや距離があるから見る。だから、その異和を宥るために《見られる》もののパースペクティブを手に入れようとする。だから、《見ること》と《見られること》の交換とは、関係の確認、距離の確認にほかならない。
相手の見ているものを見るのは、距りがあるからだ。それが親和である。しかし相手の見ているものが見えないことが異和ではない。相手の見ているものが見えるからこそ、逆に異和が生まれる。近づけば異和が見え、遠ざかれば親和が見える。距離が変わるのではなく、心理の距りにすぎない。だから親和感や異和感に意味があるのではない。
だからこそ、二人の微妙な緊張は、親和を探し当てると、異和が剥き出し、異和に諦めると、親和にたどりつく。二人の関係は螺旋を描いて、しかし少しずつお互いを変えて、出会いの緊張を繰り返しながら近づいていくことになる。
……いつでも、杳子の病気の深みと完全にひとすじにつながりあったように思う瞬間がある。しかし杳子の感覚の中へもう一息深く分け入ろうとすると、糸は微妙にほぐれて、性の興奮の中へ乱れていく。
「まるでそうしなければ杳子の感覚の昏乱の中でお互いの関係が保てないとでもいうように、彼は杳子の躯に触れることになった」が、「そのとたん」、杳子の躯は、「ただ互いに見つめ合っていた時よりも、かえって彼にとって遠い、表情のつかみがたいものになってしまった。」のに、諦めかけると、再び親和が戻ってくる。
「僕の力じゃ、君をどうすることもできないらしいね。僕が君のそばにいなくなりさえすれば、君はまた一人でちゃんと歩けるようになるのだろう」
杳子は黙って天井を見つめていた。公園の午前の光の中を跳ねまわっていた杳子の姿を彼は思い浮べた。そしてあの躯を自分の無力な躯で汚してしまって、思い無表情な塊りに変えてしまったことに哀しみを覚えた。哀しみから、彼は躯を起して杳子に近づけた。冷たくひろがる杳子の躯の、左の胸のふくらみと左の腰のくびれだけが、彼の肌にかすかに触れてきた。それ以上は躯を寄せずに、彼は不安定な姿勢のまま目を閉じて、孤立した乏しい接触に感じ耽った。しばらくして彼は杳子が低い吐息を洩らしたのを耳にしたが、それにも逸されずに肌の感覚を一心に凝らしていた。すると、遠くから今にも消え入りそうに点っていた感触が、彼の冷えた肌にそってゆっくり動き出した。思わず躯を固くすると、杳子の躯の暗いひろがりの中から、ときどきゆるいうねりに押し上げられて来るように、みぞおちの薄い頼りなげな肌や、細い肋骨のふくらみや、腋の下の粗い感触がひとつひとつ浮んで来て、彼の肌に触れてはまた沈み、そして段々に全身が彼にむかってひとつの表情を帯びはじめた。二人は肌を押しつけ合わずに、それぞれ素肌の冷たさを保ったまま、躯を重ねた。腰の醜い感触がすこしずつ和らいで、全身のゆるやかな流れの中へ融けていった。そのあと、二人は初めて毛布の下に温みをひとつに集めて、まるめた躯を寄せ合ってまどろんだ。
しかしそのことで距離感がなくなったのではない。
途中で振り返ると、もう百米も離れたところを、杳子がひっそり歩いている。初夏の陽ざしが灰色の道に降りそそいで、道いっぱいに陽炎を燃やし、そのゆらめきの中で杳子の服の淡い色彩が明るくひろがって、かすかに上下に揺れながら、今にも蒸発してしまいそうに見えた。……淡い色彩のひろがりの中に彼は杳子の躯を、肌を触れ合っている時に劣らずなまなましく感じ取る。そしてまた杳子に背を向けて歩き出すと、二人の躯を隔てている距離が奇妙な実体感を帯びて、彼の感覚にほとんどじかに訴えてくる。一足先に部屋について、電燈の光の中で杳子を待つ間に、その距離はまだ実体の感じをほのかに帯びたまま段々に縮まり、……電燈を消して薄暗がりの中で躯を寄せ合う時にも、距離の緊張がまだ残っていた。
むしろ、距離感は強まっていると見るべきかもしれない。出会いのときの目と目のつながる感覚や、ささいなことで感じた一体感は薄らいでいく。それは思い入れにすぎないからだ。その分、距離は空虚な距りではなく、アルコール分の詰まった距り、陶酔も恍惚もあれば不安や嫉妬もある、心理的な距りへと変質していく。
岩の上から杳子が彼のほうを振り向いて微笑みかけるとき、杳子の存在は、離れて立つ彼に生温くまつわりついてくる。視線を合わせているだけで、彼の躯は風の中で内側から泡立った。灰色の水が杳子のむこうで滑らかにふくれ上がって、杳子をのせて彼のほうに寄せてくる。彼は杳子の胸のあたりを見つめた。すると杳子は岩の上でつらそうに笑って頭を振った。左右にゆっくり揺れる頭からほつれた髪が彼のほうへ流れ、コートの裾が温い翳をつつんでふくらんだ。背中から風に吹きつけられて、杳子は困りはてた顔で躯をくねらせ、下腹を彼のほうに突き出した。それでも彼女は頭を振るのをやめず、いまにも崩れそうな姿勢をこらえていた。
拒まれて、彼の情欲は聞き分けがなくなり、小児のにおいのする哀しみとなって、自分のほうから杳子の躯にまつわりつこうとした。彼は風に逆って杳子のそばに歩み寄り、岩の上に両足を揃えて細く立つ躯の、腰のくびれに片腕をまわした。すると杳子は彼の腕の中から伸び上がるようにして、風の中へ胸をきつく反らし、水平線のほうにむかって目を大きく見開いて澄んだ声で言った。
「今までの辛抱が無駄になるわ」
杳子を見ている《彼》の視線は、自分の聞き分けのない「情欲」のパースペクティブに染められて、杳子の背景が性的な生温かさを滲ませて語られている。
性的な意味を抜いても、子供のように聞き分けのない、あるいは我を通そうとする男と、それに惹かれそうになりながら、必死で堪える女の母性のようなものを、ここに読み取ってもいい。すでに、病気を象徴にした、二人の関係が、ここまで深く浸透しあっていることが、隠喩として語られている。
それは、最後の会話の中で明らかにされている。
「君の癖なら、僕は耐えられそうな気がするよ」
「そうねえ……」と、杳子は(中略)、……彼の言葉にか、自分の声のぬめりにか、また困りはてたように笑い、躯をかすかに左右によじった。
「いまのあたしは、じつは自分の癖になりきっていないのよ。あたしは病人だから、中途半端なの。健康になるということは、自分の癖にすっかりなりきってしまって、もう同じ事の繰返しを気味悪がったりしなくなるということなのね。そうなると、癖が病人の場合よりも露わに出てくるんだわ。(略)」
「どこの夫婦だって、耐えてるじゃないか」
「自分の癖の露わさで、相手の癖の露わさと釣合いをとっているのね。それが健康ということの凄さね」
「二人とも、凄くなってしまえばいい」
これは、躇っている女への求愛にほかならない。このとき、病気は、あるいはふたりの距りは、少女の潔癖な何かの隠喩となっている。そして、
「ああ、美しい。今があたしの頂点みたい」
杳子が細く澄んだ声でつぶやいた。もうなかば独り言だった。彼の目にも、物の姿がふと一回限りの深い表情を帯びかけた。しかしそれ以上のものはつかめなかった。帰り道のことを考えはじめた彼の腕の下で、杳子の躯がおそらく彼への嫌悪から、かすかな輪郭だけの感じに細っていった。」
この「嫌悪」は潔癖さではなく、《彼》が杳子が少しでも待ち合わせに遅れてくると、いても立ってもいられない気持になったのと同じことだ。
心配からではなかった。そうではなくて、その姿が彼自身の恥辱にじかにつながってくるように思えるのだ。(中略)彼のそばまで来ると、杳子は腰をこころもちうしろに引いて彼の顔をのぞきこみ、自分の躯を羞じているような曖昧な笑いを目もとに浮べる。その姿に彼はかすかな嫌悪を感じた。自己嫌悪に近い気持だった。
それは《彼》を見ているのであり、《彼》の見ているものを見ているのである。それは、自分を見ていることにほかならない。
語り手による〃既知としてのパースペクティブ〃は、見るだけのものをきちんと見ているというべきだろう。「凄くなる」ことの日常的な凄さが、既に知られてしまった時点から、そのとき二人の「頂点」を語り尽くしている。それが視線について語るのではなく、視線を語ることのもっている意味だ。あるいはシニカルになる、ある焦点の定まったパースペクティブがなくなったとは、こういうことにほかならない。もちろん頂点であることによって、既に異和が見えているということでもある。
14
《彼》が杳子の病気に見ていたものは、杳子の見ていたものではない。しかし杳子は、《彼》に見られることで、自分の病気を探り当てたというべきだろう。その頂点が、
「病院には行かなくてもいいんだよ」と彼は唇を触れたままでささやいた。
「このままじゃ、やっぱり、やっていけないのよ」と杳子は姉と同じことを言った。
「やっていけるさ、心配するな」
「この部屋に、こうしてずっと閉じこもっていればね」
「街の中を歩く時でも、この部屋と同じ暗さを、君のまわりにこしらえてやるよ。(中略)このままの気持で、やることだけは、普通の人間と同じことを几帳面に守っていればいいんだよ」
「あなたは健康な人だから、健康の暮しの凄さが、ほんとうにはわからないのよ」(中略)あなたにはわからない、という言葉で杳子に拒まれたのは、これが初めてだった。

だが、拒まれたことで、思い入れの親和が消え、距離が見えてくる。そのとき頂点がくるのも、不思議はない。
《彼》に杳子の病気が見えないことが、確認の交換ができないことではない。確認ができるとは、自分のパースペクティブにすべてを見尽そうとすることではない。それなら、焦点の定まったパースペクティブにすぎない。必要なのは、相手のパースペクティブでみること、あるいは相手のパースペクティブの中の自分を見付けることにほかならない。
それは、自分勝手に思い入れることで、相手のパースペクティブを見ているつもりになることではない。それに対しては、杳子は拒絶している。
ときどき杳子は立ち止まって、頭をゆっくりまわして店内の人の動きを見まわした。その放心も露わな姿わ人目につかせないために、彼も杳子の頭の動きに合わせて、二人して何かを探しているように店内を見まわした。すると同じ動きにつれて、彼は杳子の病気と一本の線でつながっていくような気がした。
この種の一体感は杳子に裏切られる。
「なによ、あんたなんか」
粘っこいつぶやきが、まうしろへよろける彼の耳に入ってきた。
だが、既に《彼》は、杳子が病気を探り当てたことを知っている。
五日前から杳子が昔の姉のように風呂に入ろうとしなくなったわけが、彼にはわかる気がした。おそらく杳子は自分の病気の根を感じ当てたのにちがいない。そして何をやっても、何をやられても一生変えようのない自分のあり方を知って、階下の姉にむかって、自分を病人として病院に送りこんでもかまわないと合図を送っていたのだ。
嫌悪をもって語っていた姉の少女時代と同じく、何日も風呂に入らず部屋に閉じこもることで、姉へのシグナルを送ることは、姉との距りを認めること、姉との関係を宥めつけることができたことを意味する。それは多分憎悪と愛情の混交した感情だが、その感情と折り合いをつけたことを意味する。
杳子には姉の見るものが見える。姉のパースペクティブが見える。それは《見るもの》である杳子が、姉のパースペクティブを自分のものとすることで、自分が見えることにほかならない。そこに《見られたもの》となっている自分が見えること、そういうパースペクティブを手にしたことにほかならない。
そして、それは《彼》との関係もまた見えることだ。いま《彼》に《見られるもの》であった杳子は、《彼》を《見るもの》として《彼》の前にいる。
そういう杳子のパースペクティブを、《彼》は見ることができる。《彼》は、かつて
(公園のベンチでまどろむ彼を池の向こう岸から杳子が見つめているのに気づいて)……全身が何かを怪しむように静まりかえってこちらをしげしげと見つめている。彼はまどろみの中にまだなかば捕えられていて、見つめかえすことが出来ずに、ただ一方的に見つめられていた。見つめられることの気味の悪さを、彼は知った。(中略)
《あの人に見つめられていたのか……》という驚きと、そして嫌悪が女の躯にひろがっていく。醜悪な目撃者の眼を潰してやりたい。そんな衝動を彼は思いやった。
と、杳子のパースペクティブを想像することができた。いまは確かにそれとは一巡り異なる螺旋上にいる。見えないことを知っている。しかし、その《見られるもの》のパースペクティブの中にいる自分を見ることができたから、自分に見えなくても、杳子に見えたことに気づくことができる。
「……あなたには、あたしのほうを向くとき、いつでもすこし途方に暮れたようなところがある。自分自身からすこし後へさがって、なんとなく稀薄な、その分だけやさしい感じになって、こっちを見ている。それから急にまとわりついてくる。それでいて中に押し入って来ないで、ただ肌だけを触れ合って、じっとしている……」
彼はそうではない時の自分の姿を思った。杳子のそばにいながら自分ひとりの不安に耽って、無意識のうちに同じ癖を剥き出しにして反復している獣じみた姿を……。そして彼のそばで眉をかすかに顰めてそれに耐えている杳子の心を思いやった。しかしその思いは胸の中にしまって、杳子の差し出した言葉を彼はそのまま受け取った。
「入りこんで来るでもなく、距離を取るでもなく、君の病気を抱きしめるでもなく、君を病気から引張り出すでもなく……」
「でも、それだから、こうして向かいあって一緒に食べていられるのよ。あたし、いま、あなたの前で、すこしも羞かしくないわ」
杳子もまた、《彼》が距りの向こうから、杳子が病気を探り当てたことを見ていることを知っている。
それが一瞬の「頂点」を二人の間にもたらしたといえるだろう。
彼は杳子に合わせて音を立てて食べながら、内側から自分の頬の動きを、同じ物哀しげな表情の、同じ鈍重な反復をじっと感じ取っていた。そうして薄暗がりの中で二人して同じ反復に耽っていると、躯を合わせている時よりも濃い暗い接触感があった。しかしそれをお互いに見つめあう目が残って、暗がりの中に並んで漂って、お互いのおぞましさをいたわりあった。二度と繰返しのきかない釣合いを彼は感じた。
15
相手の見ているものが見える、見られている自分が見えるという関係は、たとえ一瞬の錯覚であるにしろ、昭和四五年という時点を考えると、時代へのアイロニーとなっているとしか言いようがない。もはやそれを信じることが不可能になりつつある時代への、あるいは、多分に時代への思い入れの勝った目からは、哀惜、と言いたい気がしないでもない。お互いが、相手のパースペクティブを見、また相手のパースペクティブにいる自分を見るということは、あるいは幻覚というべきかもしれない。しかし、その一瞬を、関係そのものの中から描き止めたことは、希有のことだと言っていい。視線となった語りだけが、それをつなぎとめることができる。
それだからこそなおのこと、時代のパースペクティブがちょうど個へと転換しようとしていた一瞬を、辛うじてつなぎとめているとみなすことができる。以後しかし、こうした「頂点」は、時代にも個にも訪れたことはない。
二人の齟齬、内の世界(杳子)と外の世界(彼)は、時代の転換点にある考え方を写し止めている。
「癖ってのは誰にでもあるものだよ。それにそういう癖の反復は、生活のほんの一部じゃないか。どんなに反復の中に閉じこめられているように見えても、外の世界がたえず違ったやり方で交渉を求めてくるから、いずれ臨機応変に反復を破っているものさ。……」
「そうね、あなたの思っている人生というのは、そちらのほうなのね。でも、どんなに外の世界に応じて生きていたって、残る部分はあるでしょう。すこしも変わらない自分自身に押しもどされる時間が、毎日どうしたって残るでしょう。そこでいつも同じことを、大まじめでくりかえしているのよ。あたしの思う人生は、こちらのほうよ」
その不安は紛れこみ、見えにくくなったが、そのまま個の矛盾として、内包されたままいまも続いている。それが良かったか悪かったかは個人の人生の決算書でしか評価のつけようはない。 (了) 
   
非在への反歌 / 伊藤静雄『わがひとに与ふる哀歌』 

 

一つの恋愛から一冊の詩集の生まれることがある。伊藤静雄の『わがひとに与ふる哀歌』(以下『哀歌』と略称・昭10)にはそんな明確な痕跡があるわけではないが、従来から<わがひと>は静雄がひそかに心を寄せた恋人であり、この詩集はその成就しなかった不幸な恋をめぐって成立したという読みが流布している。生涯勤勉実直な一中学校教師として生き、<誰だって詩を書くといふことは、はづかしいことに相違ない>といった一市民としての実生活を詩人の生涯と峻別して生きた静雄は、ついに自分の恋愛について語ることがなかった。だからそれは一つの恋愛伝説にすぎない。しかし、その伝説の中に静雄の躓きと起きあがり方、あるいは自己表現の原回路といったものが示されているように思われる。それが『哀歌』まで届いているとすれば、その伝説を一つの仮説としてこの詩集を読み解くのもあながち荒唐無稽とは言えまい。
しかし私はそれを事実として静雄の詩を読み解く人々に組するものではない。詩とはもともと現実の体験とのほぞの緒を断ち切ることなしには作品として成就しないのは他の文学作品と変わるところがない。「私小説」伝統の強い文学風土の中で、詩もまた「私詩」として読まれる不幸が続いている。詩を素材に還元して読む読みは倒立した読みに他ならず、詩は体験を土壌として育ちながら、育てた土壌を消去することなしには成立しないものである。そういう鑑賞の常識を確認してから静雄の詩の世界に入って行きたい。
さて、伊藤静雄の恋愛伝説とは、静雄と同郷、長崎県諫早市出身で、静雄の佐賀高在学中諫早女学校から佐賀高教授として赴任してきた酒井小太郎の次女百合子への恋である。静雄は同郷のよしみで酒井家に出入しているうちに心を寄せたのだという。酒井家が姫路、京都への移転の後も訪問は続き、とくに静雄の京大時代は京都の酒井家を頻繁に訪れた。酒井家は諫早の名家であり、小太郎は庇護者として静雄を暖かく遇した。諫早出身の国文学者川副国基の「詩人伊藤静雄の報われぬ愛」の中に酒井百合子の回想の手記が引用されている。それは回想という手続きと国文学者川副宛の書簡である点を考慮に入れなければならないが、二人の関係を如実に浮き上がらせている。最初に静雄に会った印象について、
あの顔に髪は肩まで垂らし、ズボンの膝は鍵裂きになり二寸ばかりの布が三角にさがったままでした。ニキビが一杯で私はあんなに汚い人は見たことがありませんでした。(中略)伊藤さんは石のように坐ったままでお茶も飲みませんでした。
<あの顔>といわれた風貌で不潔な高校生として彼女の前に登場し、やがて
京大生としての三年間、あの人は私の批評をし通しで、無力な私は痛いところにさわられてもひどく反撃することもできずその都度たよりない言いわけはしたものの腹が立ってひとり怒り通しでした。あの人は余りに優越感を持ちすぎ、育ちのちがいで全く無遠慮でした。横着で無礼でした。
と無礼な批評者として無遠慮に振舞うに至る。それに対する彼女の気持は
とにかく私の同志杜女専の学生の間も、うちの書生さん位の、目下の積りでした。私が学校を卒業しても、一族の間であの人と結婚などとは考えも及ばなかったことでございました。
とこの回想はほとんど残酷といってもいい調子で貫かれていて、彼女の側からの恋愛感情は完膚なきまでに打ち消されている。静雄が彼女に心を寄せていたとしたら、その不幸を思わないわけにはいかない。そのような彼女の心を静雄が気づかなかったはずがない。知っていたからこそ批評者として無礼に振舞いつづけたのではないか。それは報われぬ恋に対する青春の反乱、静雄のシュトルム‐ウント‐ドラングではなかったのか。彼の無礼は傷ついた自尊心の隠れ家であったように、彼の弊衣も高校生一般の単なるダンディズムではなく、もっと深く彼の羞恥をおおう仮装ではなかったろうか。それは<目下の者>と言われた地方の名家酒井家と中産下層階級出身の自分との身分的落差についての自覚に根ざしているように思われる。そこに発する一種の下降意識が弊衣をまとわせたのではないか。二人の関係の齟齬の本質が<育ちのちがい>という身分性であることを思い知ったとき、静雄が直面していたのはこの世を律している階級の原理とでもいうべきものであった。彼個人ではどうしようもないその超越的な力に対して、彼は弊衣と無礼によって自分の階級を対置する他なかったのである。自己の本質から一歩も撤退せず、一方では過度に自己否定的であり、他方では過度に自己主張的であるこのアンビバレンツでありながら奇妙にバランスのとれている自己表現の中に、彼の表現の原型があった。ここから彼の詩のイロニーまであと一歩であった。そのためには反抗が断念に行きつくための、いましばらくの時間が必要であった。晩年の静雄の最も身近にいた一人である桑原武夫が伝える次のような回想が静雄の断念への道行きを示している。
彼は国文法の時間に文例を黒板に大書して品詞などの説明をしたが、それがいつも「わたしにはお金がない」というのであった。そうしたことと生徒の答案を丸めて粗服の小腋にかかえて歩く姿から、大阪一のブルジョワの中学の生徒たちによって彼は「乞食」というあだなをつけられていた。
この弊衣の下には青春の傷が癒されないままかさぶたとなって固着してしまっていた。この生涯弊衣の決意の底に深い断念が隠されていた。<秧鶏(くいな)は飛ばずに全路を歩いて来る>という飛ぶことを拒否した鳥の頑な断念のごときものが彼の中で痼疾のごとく凝縮し、彼の生きる姿勢を決め、やがて彼を超えて行く。こうした長い沈潜と格闘をくぐり抜けて、断念が詩へ開花する表現の回路が探り当てられるのである。
わがひとに与ふる哀歌
太陽は美しく輝き
あるひは 太陽の美しく輝くことを希ひ
手をかたくくみあはせ
しづかに私たちは歩いて行った
かく誘ふものの何であらうとも
私たちの内の
誘はるる清らかさを私は信ずる
無縁の人はたとへ
鳥々は恒に変らず鳴き
草木の囁きは時をわかたずとするとも
いま私たちは聞く
私たちの意志の姿勢で
それらの無辺な広大の讃歌を
ああ わがひと
輝くこの日光の中に忍びこんでゐる
音なき空虚を
歴然と見わくる目の発明の
何にならう
如かない 人気ない山に上り
切に希はれた太陽をして
殆ど死した湖の一面に遍照さするのに
わが愛する人は確かに眼前に実在しながら、その人は如何なる意味でも恋人とは名づけられない遠い非在の人である。そのような愛と非愛の矛盾相においてこの詩の表現は成り立っている。静雄は誰にでもあるごくありふれた恋愛体験をそのような関係相の表出まで純化したとき、この詩は書きはじめられたのである。それは決して生(なま)の体験ではなく、一つの世界の関係を示す詩の構造として成立しているのである。
太陽は美しく輝き
あるひは 太陽の美しく輝くことを希ひ
一行目の素朴実在の太陽が、<あるひは>という保留、転換の接続詞による転調に促されて、異空間の非在の太陽へと変貌する。眼前の具象が突如何の手がかりもない非在と化す。そのような矛盾相において存在する世界の構造、存在様式を踏まえてこの詩は成立する。彼の恋愛伝説はこのような関係式を媒介として詩へと変換する。大切なのは実在からイデーへの変換が彼の詩法の根幹であるということだ。だからここには酒井百合子というような生の人間が顔を出す余地は全くなく、生と死、あるいは光と闇というイデーのドラマが演じられるのであり、希求と断念の心情のドラマが伴奏として奏でられているだけなのである。これをもし恋愛詩と読むとしても、恋のかなたの恋の詩として読まるべきだ。この詩を展開させていくのは、実在の太陽は虚相の太陽であり、非在の太陽こそ真実の太陽であるという逆説なのである。だから<私たち>は非在の太陽を求めて遠くはるかな旅へと歩み出すのである。
手をかたくくみあはせ
しづかに私たちは歩いて行った
かく誘ふものの何であらうとも
私たちの内の
誘はるる清らかさを私は信ずる
<とも>という逆接仮定の接続助詞が作り出す条件と帰結の落差の中で、<誘ふもの>と<誘はるるもの>の深い亀裂が呈示される。ここでもまた冒頭一行と二行目の実在から非在への転調が反復され、<私たち>を太陽へ誘う外部の現実から、私た ちの内部の誘われる清浄さへの跨ぎが歌われる。その外部と内部の断層は<私は信ずる>という表現によって超えられるが、この言葉には何か不条理なものへの衝動といったものがこめられている。それは<何であろうとも>〜<信ずる>という表現に由来していて、この表現がはらんでいる合理的なものへの反感、何か盲目的強引さといったものが私たちをある危険な傾斜へ誘い出し、生の限度を踏みこえるかなたへと駆りたてる。この不条理に基づくある頑な悲願について詩人は読者の了解を求めない。詩は一方的に読者を試し、その資格を問うのである。現代詩の難解さはそういう詩人の倨傲の上に現われることもある。
無縁の人はたとへ
鳥々は恒に変らず鳴き
草木の囁きは時をわかたずとするとも
いま私たちは聞く
私たちの意志の姿勢で
それらの無辺な広大の讃歌を
ここにも<とも>という逆接仮定の助詞を愛用する不条理の精神が、あの実在から非在への転調を作り出している。光から音へと世界の基軸が変換されても同じ主題が繰り返される。<たとへ>〜<とも>という仮定法によって再び示される条件と帰結との落差、その条件文の内実は、
鳥々は恒に変らず鳴き
草木の囁きは時をわかたず
という対句的語法によって自然は形式化、抽象化され、希求と無縁な人には自然は不変の実在としか現われず、いつもと変らず、いつもと同じ音声を発している世界にすぎない。そのような素朴実在の自然の表層を掘り下げ、食い破る<意志の姿勢>で私たちはかなたのもう一つの自然の広大無辺な宇宙に満ちあふれる<讃歌>を聞くのである。この自然の深層の底で鳴りひびいている非在の、無音の讃歌を聞きとるためには<意志の姿勢>という不条理な衝動がなければならない。それは<希ひ><信ずる>と詩をつらぬいて流れる悲愴にして盲目なる祈願を受け継いでいる。ここに至ってすべての他者は<無縁の人>として排除され、<私たち>だけの孤絶した世界が現出する。その寂寥の世界に無音の、非在の讃歌があふれるのである。それははたして<讃歌>なのであろうか。倒置法という語法と相俟って<讃歌>はひそかに<哀歌>に転調される。この詩はそのようなイロニーに彩られている。<私>は渾身の力をふりしぼって讃歌に到達した。その讃歌によって太陽の美しく輝くユートピアが現出したか。否!光はたちまちにして闇へと変転する。幾度も繰り返されるこの変転は何によるのか。光が闇と化す根源が突きとめられねばならない。
ああ わがひと
輝くこの日光の中に忍びこんでゐる
音なき空虚を
歴然と見わくる目の発明の
何にならう
光を闇と化すのは<目の発見>のしわざである。よく見えすぎる目、あらゆる事象の背後に虚偽を見ずにはおかない潔癖性、自らの内に巣喰うこのどうしようもない不条理な病理がつきとめられる。光を闇と化す犯人はつきとめられ、詩人は自らの内なる闇の根源にたどりつく。現実の虚妄の彼方にユートピアを求める精神がユートピアそのものの虚妄までも明かしてしまう。<目の発明>とはそのような両刃の剣に他ならなかった。詩人はこうして現実の彼方のユートピアをこえ、そのユートピアの彼方の空虚に行きついてしまう。この浪漫主義が行きつく極北で、自らの浪漫精神を<目の発明>と名づけて、最後の力をふりしぼって拒絶の言葉を投げつける。<何になろう>という拒否の言葉は、しかしその微妙な反語法の反転力によって、かえって闇の力を強めてしまう。こうして太陽の美しく輝くユートピアを求めてそのはてに、闇が闇ですらない空虚の宇宙に到達する。そのとき呼びかける<わがひと>にはどこにも他者の面影はなく、自分の内なる自分、分ちがたいわが半身に他ならない。この孤絶の空虚を詩人はもう一押し向こうへと反転させる。
如かない 人気ない山に登り
切に願はれた太陽をして
殆ど死した湖の一面に遍照さするのに
輝く太陽を求めた私たちの歩行はついに事志に反して<人気ない山>に到る。人間世界を横断し、草木や鳥々の自然界を通過し、誰もいない無人世界に到達する。希求すればするほど太陽は遠ざかるかのごとくである。それでも一歩なりと太陽に近づこうと登高すれば、眼下には太陽ならぬ<死した湖>が広がっている。ついに私たちは底なしの虚無、荒涼たる死の世界に入ってしまったのである。私はなお太陽への希求を放擲したりはしない。心ならずも到達してしまった死の世界を<切に希はれた太陽>によって蘇生さすべく一縷の祈りにすがりつく。しかし、非在の太陽の光線は死の世界の荒涼を一層際立たせるかのごとく寂蓼の光線をいたずらに放射するばかりである。この無限希求の祈りのはてに現出するのは一つの異界であり、反世界である。光と希望に向かって歩むことはとりもなおさず闇と絶望に行きつくしかない反語的世界である。『哀歌』はそのような反語的構造を詩法として確立した詩集である。例えば文語法と口語法の混在するこの詩の中で<如かない>という一語がそのようなイロニーの構造の特徴をあざやかに示している。もともと漢文法に基づく「不如」はあくまで「しかず」であり、「しかない」はほとんど誤用に近い。しかしこの<如かない>の軟かいひびきは、前行の<何になろう>という反語の強い否定法を受け、次の<人気ない>の<ない>とひびき合いつつ、倒置法と相俟って絶妙な転調を奏でる。そして作品構造全体の反転力と呼応しつつ、見事なイロニーを表現する。希求の地がたちまち追放の地となり、讃歌が哀歌へと変奏される。この詩が持つイロニーの構造はその根底では詩が持っているフィジックからメタフィジックヘの通路に支えられているのである。生から死への通路と言ってもいいし、世界から反世界への通路と言ってもいい。その実在から非在への通路を発見することで伊藤静雄は詩人となるのである。通路は静雄の中で一つの恋が封殺されたときその断念の中で発見されたように思われてならない。青春を自らの手で葬った詩人はもう青春を歌うことはない。
私はうたはない
短かかった輝かしい日のことを
寧ろ彼らが私のけふの日を歌ふ
歌うことを拒否することによって青春が歌われるイロニーとして静雄の詩が現われる。詩の否定を詩の根拠とするメタフィジックの詩人が誕生するのである。
『哀歌』の伊藤静雄は本質的に浪漫的な宙づりの詩人であった。「帰郷者」の反歌の
田舎を逃げた私が、都会よ
どうしてお前に敢て安んじよう
という無根拠性に彼の生は依拠していたのである。これはすべてに当てはまる方程式である。
詩作を覚えた私が、行為よ
どうしてお前に憧れないことがあらう
とも言う。人は長くそのような宙づりに耐えられるものではない。しかし探り当てた根拠を一つ一つ虚妄として踏み抜いて行かざるを得ない無限希求の浪漫精神には安住の地はなかった。あらゆる場所から拒まれたとき人はどこへ行けばいいのか。『哀歌』に死の影が濃いのは理由のないことではない。自らの死を主題とした「曠野の歌」の最後で
わが痛き夢よこの時ぞ遂に
休らはむもの!
とひたすら死の救済を祈らずにはおられなかったのである。しかし『哀歌』のイロニーの方程式
生を逃れた私が 死よ
どうしてお前に敢て安んじやう
に当てはめるまでもなく、救済は訪れず、死はさらに死のかなたの生への反転して行く他なかったのである。すべての実在を拒み、ひたすら彼方なる非在へ疾走する<痛き夢>は詩形式を歪曲するほどの抒情の冒険と化し、<休らふ>場所へは行きつかなかった。人はしかしそのような夢の過酷さに長く耐えられるわけではない。次の詩集『夏花』(昭15)ではそれはすでに一つの美的安定へと救出されるのである。

伊藤静雄(明39―昭28) 
 
対句の美学 / 中島敦『山月記』 

 

人間が虎になるのは怖ろしいことだ。中島敦の『山月記』からはある日突然虎になった人間の取り返しのつかない恐怖がまざまざと伝わってくる。これは人間の条件のあやうさに戦慄したものだけが書き得る作品だ。中島が生きた懼れの深さを測るために『山月記』に先行する初期の作品『過去帳』二編「かめれおん日記」「狼疾記」を手掛かりに中島の世界に垂鉛を下ろしてみよう。例えば「かめれおん日記」に自分の幼児体験の次のような回顧がある。
幼い頃、私は、世界は自分を除く外みんな狐が化けているのではないかと疑ったことがある。父も母も含めて、世界凡てが自分を欺すために出来ているのではないかと。そして何時かは何かの途端に此の魔術の解かれる瞬間が来るのではないかと。
自分一人だけが世界の外に投げ出されているという自分の宿命の相貎についての最初の認識がくる。世界と自分の裂け目の意識を狐という伝奇的記号で表わす。人間に化けた狐という表象は中島の世界認識の原型を示している。それにしても、自分を取り巻く世界が仮象ではないかと疑っている幼児の疎外感はどこから来たのか。幼くして母と離別し、義母に育てられた中島は深い不安にさらされて育った。母という根源から見離された幼児はこの世界の中を拠りどころなくさまようほかない。そういう孤独と不安のまなざしの中で、世界は確固たる輪郭を失い、狐狸妖怪の巣窟と化す。父も母も妖怪ではないかと疑う幼児の孤独には救いがない。
中島にはこういう伝奇的傾斜とは別の、形而上学的傾向とでも言うべきものがあった。「狼疾記」によると、小学四年のとき、担任の教師から地球がしだいに冷却して、人類が滅亡するに至る話を聞く。そして我々の生存がいかに無意味であるかを執拗に繰り返し聞かされる。彼はその話に根底から震駭され、不眠症に陥る。彼はせっぱ詰まって大人たちに救いを求める。しかし大人たちは笑って教師の話を肯定するばかりだった。
之は自分一人の生死の問題ではなかった。人間や宇宙に対する信頼の問題だった。だから、何万年後のことだからとて、笑ってはいられなかったのだ。<中略>何より大事なことは、俺の性情にとって、幾ら他人に嗤われようと、斯うした一種の形而上学的といっていい様な不安が他のあらゆる問題に先行するという事実だ。
形而上学的とは物事をその根源まで遡って思考する態度を言う。中島のこの世界における自己の根拠の欠如が彼を形而上学へ追いやるのだ。中島の自己への形而上学的こだわりは「狼疾記」において既に<臆病な自尊心>という彼の文学の主要なテ−マを探り当てていた。「狼疾記」で私小説的に追求したテ−マを今度は伝奇小説の中で追求して見せるのである。中島にとって伝奇小説は単なる文学の手法ではなく、自分を取り巻く世界を読み解くはるかに本質的な記号であった。『過去帳』以来の形而上学的テ−マを作品化しようとして、唐代伝奇小説『人虎伝』を素材として選んだとき、彼の文学は初めてぬきさしならぬ本来の場所に逢着していたのである。『山月記』は次のように書き始められる。
隴西の李徴は博学才頴、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性狷介、自ら恃むところすこぶる厚く、賎吏に甘んずるを潔しとしなかった。いくばくもなく官を退いた後は、故山虢略に帰臥し、人と交わりを断って、ひたすら詩作にふけった。下吏となって長くひざを俗悪な大官の前に屈するよりは、詩家としての名を死後百年に遺そうとしたのである。
<狷介>とは自分にこだわって人と協調できない性癖をいう。それは自分へのつまずきに起因する人間関係への不調の意識で、中島文学の原点である。彼は自分を狷介という自我の病を病んでいると自覚し、それを「狼疾」と呼んだり、「自尊心」と名づけたりしてこだわり続けた。そして、ついに狷介ゆえに虎となる男の物語を書くのである。この冒頭部分の<虎榜>と<虢略>に既に虎という記号が織り込まれていることに留意しておこう。主人公李徴は<賎吏に甘んずる>ことができなくて<詩作にふける>男である。ここには官吏と詩人を対立項とする聖俗二元論が現われている。さらにそれは<俗悪な大官>と<詩家としての名>の対立項へと引き継がれる。中島のこういう二項対立の発想は対句にその根拠を置いている。この作品には<博学才頴>と<性狷介>のように、あらゆる所に対句的対応が隠されている。この作品の表現意識は対句を基盤としていて、やがて対句が作品のテ−マを開示するであろう。とにかくこの冒頭の導入部分において、李徴が発狂し行方不明になるまでの経過を描く。
次に李徴のかつての同輩袁傪が人虎と化した李徴と遭遇するところへと物語は展開する。袁傪が人虎の出現する超自然的世界への案内者である。
後で考えれば不思議だったが、その時、袁傪は、この超自然の怪異を、実に素直に受け入れて、少しも怪しもうとしなかった。
これは勿論伝奇小説の常套的語り口である。こういう伝奇小説の定石に従って、虎が人語を語る不思議の世界へ<少しも怪しもうとしな>いで落とし込まれていくのもまた伝奇小説の快楽の一つである。
かくて袁傪に対する李徴の告白が始まる。<戸外で誰かが我が名を呼んでいる>その不思議な運命の声に促されて彼は闇のなかへ駆け出す。無我夢中で走りに走って気がつくと虎になっていたという。この奇怪な運命に遭遇して李徴は茫然とする。
全く、どんなことでも起こり得るのだと思うて、深く懼れた。しかし、なぜこんなことになったのだろう。分からぬ。全く何事も我々には分からぬ。理由も分からずに押しつけられたものをおとなしく受け取って、理由も分からずに生きていくのが、我々生き物のさだめだ。
これが幼児から中島の存在の基底でなり続けていた懼れである。いわば中島文学の基調低音である。それはまた「世界の悪意といった様なものへの、へりくだった懼れ」(『牛人』)といわれたりもする。この巨大な運命の掌の上で弄ばれる卑小なものの懼れを伝奇小説の枠組によって捉えるのである。しかし作者は伝奇小説を書こうとしているわけではない。これは徹頭徹尾<なぜこんなことになった>かを追求した物語である。伝奇小説とは不可知な運命を生きる物語であるのに、中島は運命を分析してしまう。それが形而上学的ということの意味だ。
告白は次に詩人の運命に移る。<自分は元来詩人として名を成すつもりでいた>と李徴は言う。冒頭段落において<名を虎榜に連ね><詩家としての名><文名>と頻出する<名>が李徴の破滅を予告していたが、ここでは名声への執着ゆえに破滅した李徴の中で、なお執着だけが燃えさかる。実体の消失の後に、なお虚名だけが生き続けるという倒錯が現われる。名声の虚妄を知りつつ、なおそれを断念できないとき、人は自嘲以外の何ができよう。
笑ってくれ。詩人になりそこなって虎になった哀れな男を。
名声への執着は無論自尊心の現われである。しかし自嘲もまたすぐれて自尊心の症候にほかならなかった。他から嘲笑される前に、自ら嘲笑して他からの批判を封ずる自嘲の自己防御こそ自尊心の機構以外のなにものでもない。作品はこの自嘲を糸口として、自尊心ゆえに詩人になれなかった男の運命の追跡へと向かう。
なぜこんな運命になったか分からぬと、先刻は言ったが、しかし、考えようによれば、思い当たることが全然ないでもない。
運命とはもともと人間の理解の及ばぬものの謂(いい)である。その運命を解読するのである。運命の不可解を自明の前提とする伝奇小説の枠組を足場にして、自尊心の追求という近代小説のテ−マに踏み込んでいくのである。伝奇小説の枠組で近代的自我を解明するところがこの小説の独創で、中島はそんな小説の冒険に果敢に挑んで見せるのである。運命とは世界のなかの自己の卑小さの意識であり、自尊心とは世界の中心である自己の偉大さの自覚である。それは決定的に異質であり、その深い溝は越えようがない。ここで作者が直面しているのは、この両立不能な運命と自尊心をいかに両立させるかということであって、この難問を外してはこの作品はない。このアポリアに立ち向かう中島の手にあったのは、<父祖伝来の儒家>で身に着けた漢学の素養、就中対句だった。対句はあらゆるものを整然たる照応の美学に取り込んで見せる表現形式である。
おれは詩によって名を成そうと思いながら、進んで師についたり、求めて詩友と交わって切瑳琢磨に努めたりすることをしなかった。かと言って、また、おれは俗物の間に伍することも潔しとしなかった。ともに、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心とのせいである。
自我の病理が突き止められる。<臆病な自尊心>と<尊大な羞恥心>という対句が自我の病理の構造を見事に暴いて見せるのである。尊大に見える自尊心は傷つけられることを恐れる極めて臆病な心であり、一見臆病に見える羞恥心はその根底において自己の完全性を自明の前提とするすこぶる尊大な心である。このような自意識のパラドクシカルな構造を対句という古代中国のレトリックで鮮やかに捉えて見せるのである。自尊心という屈折した自意識は実体のない関係性に過ぎなかった。自尊心と羞恥心は表裏の関係で無限循環するメヴィウスの輪のごときものであった。輪廻に似たその輪の上を無限に反復する李徴の苦役は徒労に終るしかない。李徴は、<切瑳琢磨>することもできなければ、<俗物の間に伍する>こともできない袋小路に追い詰められていた。自意識はそれを救済する手掛かりを失ったとき、殆ど運命的相貎を帯びてくる。卑小な自我が壮大な運命に似てくるのはそのときである。運命に拮抗して聳立するとき自尊心は美しい。かくて、<臆病な自尊心>と<尊大な羞恥心>という作品の最も美しい言葉が吐かれるのである。運命と自尊という全く異貎のものが、対句の中で同じ相貎で輝くのである。対句が作品のアポリアをいきなり解いてしまうのである。作品のクライマックスを告げる決定的な言葉が吐かれてしまった以上、後はその言葉の解説以外の何が残っていよう。
おのれの珠にあらざることを惧れるがゆえに、あえて刻苦して磨こうともせず、また、おのれの珠なるべきを半ば信ずるがゆえに、碌々として瓦に伍することもできなかった。
自意識のメヴィウスの輪は<珠>と<瓦>の二項対立の対句的構図、すべての才能はこの二つに分類されるという決定論に根拠を置いている。この余りに固定的な才能観は人間とはおのれの中に珠と瓦を抱いた存在であり、瓦は磨くことで珠に移行することもあり得るという変革の可能性を認めない。対句の思想はそのような弁証法を欠いていた。もしメヴィウスの輪を断ち切る手掛かりがありうるとしたら、それは磨くことへの決然たる一歩を踏み出すことを置いてはあるまい。自尊心は世界で一番偉いのはおれだという魔法の鏡のつぶやきである以上、あらゆる自己検証は拒まれねばならない。自尊心にとって、磨くとは自己検証以外のなにものでもない。かくて才能にこだわればこだわるほど、才能を枯らしていくという自尊心の自縛の迷路には出口がない。
おれはしだいに世と離れ、人と遠ざかり、憤悶と慙恚とによって、ますますおのれの内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった。
そして李徴は虎に変形する。中島にとって自尊心の変形はこれ以外に考えられなかった。それではどうして虎なのかの検討を始めなくてはならぬ。
李徴の最後の告白は次のような言葉で結ばれる。
自分は今の姿をもう一度お目にかけよう。勇に誇ろうとしてではない。我が醜悪な姿を示して、もって、再びここを過ぎて自分に会おうとの気持ちを君に起こさせないためであると。
この作品の虎には<勇に誇ろう>と<醜悪な姿>の相反する二つのべクトルを持っている。作品はその両義性を巡って展開する。作品のなかで虎は二度姿を現わすが、最初の場面は
果たして一匹の猛虎が草むらの中から躍り出た。
と書かれている。それは最後の
たちまち、一匹の虎が草の茂みから道の上に躍り出たのを彼らは見た。虎は、既に白く光を失った月を仰いで、二声三声咆哮したかと思うと、また、元の草むらに躍り入って、再びその姿を見なかった
と書かれる消亡の場面と対応している。共に猛虎の躍動する勇姿であり、<勇に誇ろう>とする虎である。この作品は地の文と告白の文とで構成されているが、地の文は明らかに勇壮な虎を描いている。
それでは告白文はどうか。
自分は今や異類の身となっている。どうして、おめおめと故人の前にあさましい姿をさらせようか。
という言葉で始まる李徴の最初の告白が示すように、虎は人間との対比の中で<異類>であり、<あさましい姿>として否定的に扱われている。しかし告白が進むにつれて少しずつ変化が起こる。後わずかしか残されていない人間の時間のなかで、李徴は初めて人間のかけがいない美しさに気づく場面の、この作品の最も美しい文章の一部を引用しよう。
いま少したてば、おれの中の人間の心は、獣としての習慣の中にすっかり埋もれて消えてしまうだろう。ちょうど、古い宮殿の礎がしだいに土砂に埋没するように。
<人間の心>=<古い宮殿の礎>と<獣としての習慣>=<土砂>という対句が示すように人間は美しく肯定的な、虎は醜く否定的な記号である。しかし、イメ−ジとして描いてみると、<土砂>は決して醜悪な記号ではなく、<古い宮殿の礎>の美しさを引き出すためのしかけである。廃墟の美を演出する原自然である。人間と虎の美醜の対応が崩れてくるのが分かろう。告白文のクライマックスの段落からもう一つ引用してみよう。
おれは、向こうの山の頂きの巌に登り、空谷に向かってほえる。この胸を焼く悲しみをだれかに訴えたいのだ。おれはゆうべも、あそこで月に向かってほえた。だれかにこの苦しみが分かってもらえないかと。しかし、獣どもはおれの声を聞いて、ただ、懼れ、ひれ伏すばかり。山も木も月も露も、一匹の虎が怒り狂って、たけっているとしか考えない。天に躍り地に伏して嘆いても、だれ一人おれの気持ちを分かってくれる者はない。ちょうど、人間だったころ、おれの傷つきやすい内心をだれも理解してくれなかったように。おれの毛皮のぬれたのは、夜露のためばかりではない。
もうこの告白のどこからも虎の醜さは感じられない。ここにあるのは悲壮な孤独感、あるいは王者の孤独感とでもいったものである。この虎は他の獣や山木月露をはるかに超越した存在であり、決して醜悪な獣ではない。地の文では月は時間の指標であったが、ここに来てそれは孤独の指標となる。月にむかって吠える悲壮な虎がこの作品のキーイメージとなる。孤独はかくも美化され、虎はあくまで美しい。人間であった頃の孤独までも懐古的に美化され、その孤独の悲壮感が自己陶酔を誘うのだ。<おれの毛皮のぬれたのは、夜露のためばかりではない>という涙を暗示する感傷的な表現は、彼の孤独は涙で救済されるほどものに過ぎなかったことを示している。感傷は自嘲と同様に真の自己省察から目をそらす心情的態度である。ここに来て作品は甘い感傷が漂う青春の文学の様相を呈し始める。告白の初めの、わけの分からぬ運命に弄ばれるやみくもな孤独は、語るにつれて少しずつ人間の手の中に帰ってくる。しかし人間の手の中に回収されたとき、孤独の運命的相貎は失われていた。作品は<慟哭><悲泣>という言葉が示すように自尊心の涙のよる救済へと収拾されていく。
このあたりで虎の記号性について整理しておこう。地の文の虎は悲壮な美しさで描かれており、告白文は<あさましい>とか<醜悪な>とかいう自己断罪的な言葉はあるが、虎になった自分を真底醜悪と思っていることを裏付けるものは何もない。虎は建前としては確かに負性なのだが、実質は殆ど圧倒的に優性なのだ。そもそも冒頭の<虎榜>は未来の高官を暗示しており、李徴の詩の<今日爪牙誰敢敵>は百獣の王を暗示していることを付け加えておこう。詩人という精神の王者と俗物という精神の賎民のはざまを百獣の王として生きるのが虎の位相である。この虎の位相が自尊心を断罪しながら救済するという作品の構図を決定している。
おれの場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。
こうして<羞恥心>=<自尊心>は虎のなかに封じ込められ、その虎が美化されるのである。そこに伝奇小説のロマンチシズムが投影されている。
この作品は運命と自尊心に翻弄される人間の姿を描いて、自尊心と運命を共に人間の力の及ばないものとして捉えた。このとき、自尊心の劇は伝奇小説の枠組の中で、対句という古代中国の修辞に飾られて壮大な運命劇に転位するのである。中島は自分という謎を問い続けて、ついにその過剰な自意識を捕捉する小説の装置に到達したのである。それは、伝奇と形而上学の、二つの異次元世界が交錯して作り出す新しいパースペクティヴを備えていた。この『山月記』が創出した小説空間は、漢籍という鉱脈から運命と拮抗する人間像を掘り出す原基となる。『山月記』がさし示す小説の未来へ向かって出発した中島は、運命と自尊心の相克の果てに現われるぬきさしならぬ人間の相貎を追いつめて、『弟子』『李陵』に至るのである。

中島敦(明42―昭17) 
 
飢えのユートピア / 深沢七郎「楢山節考」 

 

深沢七郎が「風流夢譚」(昭35)を書いて右翼に追われたとき、日頃、表現の自由を標榜していた知識人たちは誰も援護の手をさしのべなかった。そういうとき、日本の知識人の懐の浅さ、その酷薄さがあらわになる。もちろん「風流夢譚」の中で左翼を<左欲>と書いた深沢は彼らに何の幻想も持っていなかった。深沢はその長い逃亡のはてに、まるで死地を求めるように脅迫者への親近感を抱いて一状の脅迫状の発信地北海道へ渡った。そこでたまたま訪れた北大のクラーク像を前にして次のように言う。
ツマラナイことを言ったものですねえ、クラーク博士は、ココロザシ大ナレなんて、そんなことを言う人は悪魔のような人じゃないですか。普通の社会人になれというならいいけど、それじゃァ、全世界の青年がみんな偉くなれと押売りみたいじゃァないですか。そんなこたァ出来ゃしませんよ。そんな、ホカの人を押しのけて満員電車に乗り込むようなことを。 (「流浪の手記」昭38)
この日本の近代的自我の象徴的拠点であるクラーク博士の中に、深沢は<悪魔のような>上昇志向を嗅ぎ取っている。彼は知識人のエリート性は<ホカの人を押しのけて満員電車に乗り込む>エゴイズムに他ならないとみている。そこに深沢の上昇志向を核とする近代的自我に対する徹底した拒否が読みとれよう。明治以来ひたすら近代的自我の確立を追求してきた日本の近代文学の伝統とは無縁の場所から深沢の文学は出発するのである。それが、どんな異相を呈していたかは「楢山節考」(昭31)が発表されたときの文壇の驚倒ぶりにあらわれている。文壇の長老、正宗白鳥は次のように書いた。
私はこの作品を面白ずくや娯楽として読んだのじゃない。人生永遠の書の一つとして心読したつもりである。
深沢はどのような場所でこのように文壇の虚を衝く異相の文学を育てたのであろうか。
深沢は大正三年、<西も東も伝説に囲まれている>山梨県石和(いさわ)に生まれた。彼は幼時から人間好きだった。彼は村においてはエリートである中学生の中ではほとんど例外的に農村の青年たち<おわけえ衆>と交わり、彼らに混って娘のいる家々へ毎晩のように押しかけて、お茶をよばれ、世間話をして過ごしたのである。お茶をよばれに行く家は<庶民の家>で決して<お大尽(でえじん)の家>ではなかったことを後に回想している。すでに彼の中に反エリートの性向、庶民志向があらわれている。この石和の「伝説」と「世間話」が彼の文学の土壌となるのである。同時にこのお茶呼ばれの歴訪が彼の後年の放浪癖を育てたのである。また深沢は病弱であった。中学を卒業して一度と三十二歳でもう一度、<肋膜炎>(結核)を病んだ。二十歳から三十六歳までの十六年間病人だった。そのため彼は一生定職というものに就くことがなかった。この病人時代を通して<世間から離れた人生>を生きて深沢は虚無に到りつくのである。
生まれたことなどタイしたことではないと思うのである。だから、死んでゆくこともタイしたことではないと思う。生まれて、死んで、その間をすごすことも私はタイしたことではなかったのである。(「自伝ところどころ」昭41)
長い病人時代に、自分の死との対話を通して彼は死の向こう側へ通り抜けたのである。死の向う側からこの世を見返すとき、彼の目からいっさいの物語的呪縛のうろこが落ちるのである。それがどんな視力であるかを示す一例証をあげておく。「白鳥の死」(昭38)の中の一節である。
「正宗白鳥が死んだよ」
と私はそのひとに言った。昨日まで「正宗先生」と言っていたのだが、「センセイ」とか、「サマ」などという敬称は、いらないのだ。どんな賢い者でも、どんな阿呆の者でも、どんな美しい者も醜い者でも、どんな地位があっても、権力があっても死ねば誰でも同じ物になるのだから私はほっとするのである。そうして、死者には敬称など関係のないことなのだ。敬称は生きているうちにその人の必要なものなのだが、死骸は、もう、なにもいらないのである。さっき、正宗白鳥が死んで、私はそこへ行く途中なのである。
ここには人間は死後<死骸>という物体と化すという即物的人間観が語られている。そういう視力を持った人間には、生前の<正宗先生>はすでに<正宗白鳥>になるべき存在として見えていたはずだ。敬称はつまり人間を飾る虚妄の影にすぎなかったはずだ。そういう存在透視力を物語の装置として少年時代から蓄えてきた「伝説」と「世間話」の大袋から作品をつむぎはじめたのである。
書くことは少年時代から好きであった。それは自分ひとりのひそかな手慰みではあったが、それなりの習練は積んでいたのであった。こうして深沢は、一つの「棄老伝説」によりながら従来の小説や民話とは全く異質な方法で、「楢山節考」を書きあげるのである。この作品が依拠した「棄老伝説」について少しばかり考察しておくと、柳田国男の「遠野物語」に次のような話が採録されている。
遠野の近隣には幾つか、おなじダンノハナという地名がある。その近傍にはこれと相対してかならず蓮台野という地がある。昔は六十をこえた老人はすべてこの蓮台野に追いやる風習があった。捨てられた老人は徒らに死んでしまうこともならず、日中は里へおりて農作して口を糊した。そのためにいまもその近隣では朝に野らにでるのをハカダチと云い、夕方野らからかえるのをハカアガリと云っている。
深沢が依拠したのはこのような「棄老伝説」ではあるまい。この伝説が物語化されてできた昔話(民話)「姥捨山」であろうと思われる。深沢の生国、山梨県の昔話を集めた「全国昔話資料集成・甲州昔話集」(岩崎美術社)にも「姥捨山」が三話収録されている。それら全国に遍在する昔話「姥捨山」を要約するとほぼ次のような骨子になる。
昔、ある村で、六十歳になると棄老しなければならない掟に従って、息子が親を背負って山に棄てに行くのだが、親は道々木の枝を折って道しるべを残す。それが子が家へ帰るための配慮であることを知って感激した子は親を棄てるにしのびず、連れて帰って隠して養っている。そのころたまたま隣国から難題(灰縄をなう、細い穴に糸を通す、馬の兄弟を見分けるなど)が持ち込まれるが誰も解くことができない。息子が隠して養っている親の知恵を借りて見事に解いて殿様にほめられる。しかし殿様に問いつめられて隠している親のことが露見するが、殿様は老人の知恵を再評価して以後棄老の掟が禁止され、老人が大切にされるようになった。めでたし、めでたしという話である。
この昔話は棄老を悪とする前提の上に組み立てられている。それゆえ最後に棄老の禁止という救いが用意されるのである。つまりこの昔話は親孝行というテーマで語られていて、「棄老伝説」の根底にあった食料問題が忘れられている。棄老風習を食糧問題(老人の労働力)の視点から容認する伝説に対して、昔話はそれを残酷なものとして否認し、知恵という視点から老人を救済しようとする。昔話の歴史は、残酷なものの排除の歴史であり、救済という名のヒューマニズムの拡大の歴史である。いわゆる「民話の再話」はその線上の出来事であった。木下順二の民話劇はその傾向を極点までつきつめたヒューマニズム劇であった。深沢の作品はそういう民話の方向に逆行し、木下順二の対極点をめざす。深沢にとってヒューマニズムほどうさんくさいものはなかった。一人の人間の生命を地球より重いとみるヒューマニズムほど理不尽なものはなかった。彼は人間を自然の中の生物的次元でみていた。死を恐れるのは人間だけであり、深沢が死の恐怖をこえたとき、彼はどこか脱人間的感性を身につけた生物的存在と化したのである。それゆえ彼は文明の虚偽には本能的に敏感であった。彼は棄老習俗を悪とは見ていない。むしろ、人口問題に対する一つの合理的な処方箋として捉えている。深沢は日本の人口問題について
日本は徳川時代の中期頃、人口に対する土地の限界はきまっていて、二千五百万人ぐらいしか住めない。
という原則を立てて、今の一億の人口は
二個の植木鉢に十本植えることと同じである。水も足りないし空気が悪くなるのは当り前で、人間は豆や金魚とちがうと思っている人があるなら滑稽である。
(「子供を二人も持つ奴は悪い奴だと思う」昭41)
と考えている。「楢山節考」は明らかに彼の人口観の上に設定されている。一定の食糧しかない村では人口制限をするのは当然のことではないか。「楢山節考」では棄老を、「東北の神武たち」(昭32)では出産制限(結婚制限)を描いている。棄老を悪と決めつけて疑わないヒューマニズムに対して深沢は人間を自然に規制された<豆や金魚>と同じ生物的存在として捉えている。それゆえ、自然的条件に起因する棄老は運命として受容されるのである。深沢が「楢山節考」で描いてみせたのは、棄老習俗をその内部に抱いている共同体の復元である。共同体からの逃亡にはじまる近代的自我は、その根なし草的抽象化のはてに、結局エリートとして庶民の敵対者、抑圧者と化したのではないか。共同体から切り離された知識人は上昇志向への歯止めを持たなかった。深沢の知識人への不信はそこに根ざしていた。彼は人間の根づく土壌を共同体に求めた。鮮明な輪郭を持った人間を再建するためには、まずその拠って立つ基盤を復元しなければならない。これが深沢の文学の出発点であった。
「楢山節考」を書くにあたって、深沢は共同体の創世記から書きはじめる。作者はまず村に名を与え、家に名を与える。家号はそれぞれの起源伝説を持っている。たとえば主人公<おりん>の家は、
家の前に大きい欅(けやき)の根の切株があって、切口が板のように平たいので子供達や通る人達が腰をかけては重宝がっていた。
だから村人はおりんの家のことを<根っこ>と呼ぶのである。深沢は登場人物に決して正式な氏名(フルネーム)を与えたりはしない。深沢的世界はアダ名でなければ通行許可のでない庶民の世界である。深沢的共同体は国家と相容れないもう一つの世界である。そこには決してあの昔話の殿様は登場しないのである。その代わりに棄老の地<楢山>には神が存在するのである。
楢山には神が住んでいるのであった。楢山へ行った人は皆、神を見てきたのであるから誰も疑う者などなかった。現実に神が存在するというのであるから、他の行事より特別に力を入れる祭りをしたのである。
お盆の前夜の楢山祭りは、初秋の山の産物の外、最も貴重な食糧である白米を炊いて、それを<白萩さま>と呼んで食べ、どぶろくを作って飲む祭りである。この飢えの村では美食(飽食)が祭りなのである。
年に一度のお山のまつり
ねじりはちまきでまんま食べろ
と歌われるのである。祭りのハレが美食でしかないところに、日常のケの食事がどんなものであったかが示されている。またそれはこの神の性格をも示しているだろう。食糧問題がほとんど唯一の問題である共同体において、その飢えへの怯えを背景にして神は出現するのである。それゆえ、楢山まつりの祝(はふ)りが楢山まいり(棄老)の葬(はふ)りの予告となるのである。
楢山祭りが三度来りゃよ
栗の種から花が咲く
この楢山祭りの歌は老人に七十になれば楢山まいりに行くことを知らせる予告の歌となるのである。「楢山節考」はこのように一種の歌物語である。しかし、それは和歌を核とする王朝の歌物語には似ないで、その民謡を核とする物語は古代日本人の原姿を伝える風土記的相貌を帯びて、自作の民謡を奏でつつ放浪するギターの名手深沢は古風な吟遊詩人のおもかげをうけついでいる。ギターについての少年時代の思い出に
私が二階でギターを弾いていると、表の通りの軒下にたたずんで聞いている人がよくあった。いつだったか、外から父が帰ってきて、家の前に大勢集っているので(ナニゴトが起こったか?)と驚いて家の中に飛び込んだこともあった程だった。みんな通りがかりの人達で、立ち止まったり、ただずんだりしてしまうのだが、私がびっくりしたことは、その人達の中に老人も多いことだった。(「自伝ところどころ」)
ここに後年の庶民の中の吟遊詩人といったこの作家のありようが示されていた。そのギターが民謡を奏で、民話や世間話を語る深沢文学へ変奏してゆくとき、そこには口承文芸の伝統を引き継ぐ異相の近代小説が誕生するのである。その故郷に根ざす口承性において、例えば後の中上健次の物語に遠くこだましていた。こうして深沢は歌が人間の生きる指標をさし示すような共同体を描き出すのである。
「楢山節考」で深沢は食糧の乏しい飢えの村でひたすら棄老を生きる<おりん>という老婆を創り出した。おりんは今年六十九歳で来年早々には姥捨山である<楢山>へ行かなくてはならない。おりんはずっと以前からその心積りをして、準備万端整っているのだが、唯一の心残りは去年寡夫になった息子<辰平>の後妻がまだ決まっていないことだけであった。それも運よく隣村から三日前に亭主の葬式がすんだばかりの後家が一人できたので、辰平の後添えにという話がきた。それでは四十九日が済んだらすぐと話はその場でまとまった。寡夫と後家は年さえ合えばそれでよいのである。結婚など人生の些事にすぎない。例えばその隣り村の後家<玉やん>は夫の四十九目もまだ終わらない祭りの日にやってくる。
うちの方でごっそうを食うより、こっちへ来て食った方がいいとみんなが云うもんだから、今朝めし前に来たでよ。
結婚の比重はついに一食の重さに及ばないかのごとくである。そのうえ、おりんの家には誰も夢にも考えていなかった孫<けさ吉>の嫁<松やん>まで大きい腹をしてやって来たのである。おりんはその松やんの食う量の多いのを見て
けさ吉の嫁に来たのじゃねえ、あのめしの食い方の様子じゃあ、自分の家を追い出されて来たようなものだ。
と思うのである。こうして食いぶちが増えて、もし食糧の絶対量が足りなくなったらどうなるのか。その飢えへの怯えを背景にして神がある。もしほんとうに食糧が足りなくなって盗みが起こったら、どうするか。そのときは<楢山さまに謝る>という神の名による制裁が行われる。盗みが発覚するや即座に村人は跣(はだし)で喧嘩支度で現場に駆けつけねばならない。そして駆けつけた者全員でその家の全食糧を奪い取って分配してしまうのである。おりんの家で二人の家族が増えたころ、<雨屋>が楢山さまに謝ったのである。おりんが駆けつけたとき、雨屋の亨主はすでに足腰が立たないほどなぐられており、それから<家探し>されて家中の全食糧は分配に給されたのである。全食糧を奪われた雨屋の十二人の家族は夜陰にまぎれて村を立ち去って行く他ないのである。盗みをしなくてはならないところまで追いつめられた雨屋の運命は例外ではない。どの家でもぎりぎり崖っぷちに立たされていたのである。だからこそ制裁はかくも厳しいのである。食糧問題に対する無法な対処である盗みが厳しく咎められる一方で、その合法的な対処である棄老が推奨されるのである。おりんの家でも二人口が増えたので、口減らしのためおりんの山行きがにわかに急がれはじめるのである。あれほどおりんの山行きから目をそらし続けていた孝行息子の辰平もついに<おばあやん、来年は山へ行くかなあ>と言い出さざるを得ないのである。もうひとつ、孫の嫁松やんの出産の近いのもおりんに山行きを急がせる理由である。
かやの木ぎんやんひきづり女
せがれ孫からねずみっこ抱いた
と歌われたくないからである。ねずみっこというのは曽孫(ひこ)のことである。極度に食糧の不足しているこの村では、曽孫を見るということは多産や早熟の者が三代続いたことになって嘲笑されるのである。ひきづり女とはだらしのない女とか淫乱な女という意味である。こうしておりんは年が明けてと思っていた山行きを年の内に早めるのである。
食糧の欠乏する村で飢えという身体的条件に拘束されて生きる人間が、その状況をこえていく道があるとすれば、それは自ら欣然として死地へ赴くことではあるまいか。楢山という棄老の地へ自らの意志で行くことが彼らに残された唯一の自由への道ではあるまいか。「楢山節考」はそのような倫理を措定した作品である、おりんは自分の身体的拘束を生き抜き、その彼方へ最も見事に通り抜ける人間として生きるのである。しかし、おりんが楢山行きの儀式を最も模範的に演じるには一つだけ欠けるものがあった。おりんの歯はまだ一本も欠けていなかったのである。
おりんのぎっしり揃っている歯はいかにも食うことに退けをとらないようであり、何んでも食べられるというように思われるので、食糧の乏しいこの村では恥ずかしいことであった。
それに歌にまで歌われるのである。
ねっこのおりんやん納戸の隅で
鬼の歯を三十三本揃えた
だからおりんは自分の歯を火打石で打ち、石うすにぶつけて欠かねばならない。こうしておりんは完璧に楢山行きを生きるのである。
深沢は共同体の掟をあくまで人間の条件として生き抜く人間の姿をあざやかに創出したのである。棄老に野蛮で残酷な遺習しか見ない近代ヒューマニズムの人間観に抗して、深沢はその遺習の中からすっくと立ち上がる人間を造形してみせたのである。そして共同体の掟を否定する生き方がいかに悲惨な結果をもたらすかを、楢山行きを拒んで荒縄で罪人のように縛られて谷へ伜に突き落される<銭屋の又やん>を通して描くのである。この醜悪な又やんこそ近代人の始祖である。共同体のほぼ全面的な崩壊にみまわれた現代の老人たちは自らの生存の基盤を失って根なし草となって漂う他ないのである。現代における老人の悲惨は枚挙にいとまがない。現代は新たな棄老の時代である。とくに現代の都市は到るところ姥捨山でない所はない。死ぬ形式を失った現代の老人の無残さに深沢は近代人の運命の末路を見ていた。それ故、彼は昭和三十一年、共同体の全面的崩壊の前夜に「楢山節考」を書いて、姥捨てという古い死の作法の中で死の復権をはかったのである。それは例えば現在話題になっている安楽死というような人工的個人的な救済ではなく、共同体のふところに抱かれたまことに人間的な死である。共同体の中でおのれの役割りを生き続け、最後の棄老という死の役割りを果たすとき、その死は世界のひそかな再生への力と化するのである。こうして棄老は共同体の再生者としての位置を獲得する。考えてみれば、それはすべての生物の生命維持のためのメカニズムに他ならない。このような個が全体に到りつく通路を通っておりんはユートピアヘ導かれるのである。そのとき、飢えという生物的身体的条件こそがユートピアへのパスポートとなるのである。深沢の共同体は人間と生物の接点に設定された生命の根源的な機構である。かくて、おりんは飢えがユートピアと化し、死骸が神と化す楢山へ到着するのである。それ故、おりんの楢山まいりは雪で飾られねばならない。
塩屋のおとりさん運がよい
山へ行く日にゃ雪が降る
何代か前に実在したおとりさんは楢山へ到着したとき雪が降り出したのである。雪の中を遠い楢山へ行くのは災難であるが、到着後雪が降り出したおとりさんの場合は理想的だったのである。おりんもおとりさんと同じように到着してから雪が降りはじめたからめでたいのである。
山へ行く前夜、山へ老人を連れて行ったことのある人を招待して振舞酒を出して山行きの作法の教授を受ける。山行きに守らねばならない作法は
一、お山へ行ったら物を云わぬこと
一、家を出るとき誰にも見られないこと
一、山から帰るときはふり向かないこと
の三つである。楢山へおりんを運んだ帰路、辰平は舞いはじめた雪を見て立ち止ってしまう。おりんの楢山行きを祝福するがごとき雪を見て、その感動をおりんに伝えたくて、山行きの掟も吹っ飛んでしまっておりんのもとに駆け戻るのである。そして元の場所で雪に埋って端然と念仏しているおりんに向かって
おっかあ、雪が降って運がいいなあ
おっかあ、ふんとに雪が降ったなあ
と呼びかけずにおられないのである。民話におけるタブー破りはその世界の破滅をもたらすという約束があるが、深沢の描き出したのはタブー破りが世界を飾る花と化すような物語である。
おりんが楢山へ消えた翌朝、松やんの大きな腹には昨日までおりんが締めていた縞の細帯があり、けさ吉の背中にはおりんが昨夜丁寧に畳んでおいた綿入れがあった。
なんぼ寒いとって綿入れを
山へ行くにゃ着せられぬ
「楢山節考」の最後を飾るこの歌に示されるように、おりんは黙って自分の持ち物のすべてを順送りとして後の者に送り渡していくのである。この共同体の中の棄老という様式に則った自己否定は、もっぱら生物的身体的な自己否定であり、そこにはいささかの自意識の苦悶もなく、従っていかなる精神的美化も施されていない。かかる寡黙な自己否定は近代人には不可能である。そこにこの作品の衝撃力は秘められていたのである。深沢はこの作品において小説の方法と民話の方法の相否定しあう文学の新しい地平に、飢えという地獄をやすやすとユートピアに変ずる共同体、近代の概念を反転させる共同体という約束の地を復元し、その共同体にいだかれた<おりん>という庶民を創造したのである。この共同体の約束に殉じるおりんという庶民の中に深沢は人間の祖型を見ていたのである。これ以後も深沢は「笛吹川」(昭33)「庶民列伝」(昭45)と「楢山節考」で掘り当てた庶民という人間の祖型を追い続けるのである。反近代を核とする深沢の文学は戦後文学を含めての近代日本文学への一つの異和に他ならず、その自壊を促す一つの震源地と化すのである。 
 
有島武郎論 / 『或る女』を中心に 

 

国民文学論もずいぶん下火になりましたが、ぼくらの文学の課題は、やはり如何にして国民文学を創りだしてゆくかということではなかろうか。では近代文学がどうして国民文学になり得なかったかを考えてみるに近代文学が確立する自然主義に国民文学たり得ない根本的な欠陥があったのではなかろうか。丸山静氏が指摘している如く、自然主義は「半ドレイに外ならぬ自己をいちはやく純粋な『近代人』として過大に自覚する」こと、つまり、近代リアリズム文学にとって基本的モメントである自己批判を喪失することで確立するわけです。それ故に、近代社会の散文性、とくに上からの近代化によってきびしく政策的である日本の現実に対しては、自然主義の自己肯定の上に立つ生温いヒューマニズムはしょせん無力である外なかったのです。この政策的、機構的現実に対しては、フィクションという非情な方法をもってしか、その散文性を克服し、「典型」を造形することはできないのでなかろうか。国民文学とは、この近代リアリズムを継承しさらに克服してゆくことなしには創造できないのではなかろうか。とすれば、今なお強固に生き残っている自然主義文学の伝統を否定してゆくためには近代リアリズムの文学伝統を探り出さねばならない。できればこのような見地から、有島文学におけるリアリズムの構造を「或る女のグリンプス」から「或る女」への発展と挫折の中で探ってみたいと思います。
有島文学におけるリアリズムを考える上に彼の文学的出発点である「かんかん虫」を無視することはできません。明治三十八年、キリスト教徒としてさまざまな疑惑を抱いてアメリカに渡り、その疑惑をつきつめて社会主義へ近づく思想的変革と、トルストイ、イブセン、ゴーリキ、ツルゲネーフというロシア・北欧の批判的リアリズムから学んだ文学方法をもって直接にはゴーリキを手本として「かんかん虫」が書かれます。かかる批判的リアリズムの純粋培養によって、彼のリアリズムは一応基礎づけられます。
明治四十年、三年間の留学生活を終えて帰国しますが、彼を待ちうけていた日本の社会は、彼のヨーロッパ的伝統の中で形成された近代的自覚をそのまま受け入れるほど豊かではなかった。彼は従ってさまざまな桎梏にぶつかって苦しみますが、例えば、教会との問題にしても、彼自身信仰を捨てているのに、彼を待ちうけていた教会は、彼をその中心人物に祭りあげてしまいます。その中へずるずる引き込まれてゆく自分の弱さへの屈辱感と結局そうした人々から身をもぎはなさねばならぬ孤独な行為の中で、自己の生きる道を探さねばならなかったのです。かくて彼は、ますます深くヨーロッパ文学の中へふみ込み、その中から彼がつかみとったテーマが彼の生活のテーマとなり、彼の文学のテーマへと転化されてゆきます。この彼の生活と文学をかけた孤独なたたかいの中でこそ、「或る女のグリンプス」の素材を探し出し、一人の近代女性佐々木信子にあのように肉迫し得、彼女をヒロイン葉子にまで転化することかできたのです。つまり、アメリカ市民社会と批判的リアリズムの中で培った彼の近代的自我は、日本の現実の前でその存在をおびやかされるのです。そこで彼は、日本において近代的自我は果して可能かという間題にぶつかるのですが、これは日本の近代にとっても当然問わるべき基本的な問題であったのです。イブセンなどを骨子とする彼の反逆的自我意識は非常にラディカルな形でこの問題をおし出します。そして又、そのようなラディカルなテーマによってこそ一人の女を捉え得たのであり、また、一人の女性を捉えることによって、彼はもう一歩深く日本固有の矛盾に迫り得たのです。何故なら当時の女性は封建制の深い桎梏のもとに、男性の隷属の下につながれていたから、女性の近代的自我の可能を追求するためには、上からの近代化による二重の桎梏をつきぬけねばならなかったからです。そしてこのテーマこそ、二重の桎梏にあえぐ全女性の生き方にかかわる問題であり、従ってこのテーマの重さをうけとめるためには、全女性の生き方を含め込んでゆくような文学方法、つまり、典型を構成するリアリズムの文学方法が要求されるのです。このように、如何に生くべきかという彼自身のモチーフが、時代のモチーフに重なることで、「かんかん虫」の文学方法は新たなリアリズムの方法へ飛躍してゆくのです。
かくて「或る女のグリンプス」は、作者の自我の社会との対決をその基本構造とし、ヒロイン葉子は、作者の批判の肉体化に外ならない。それ故、作者がするどく批判的であればあるほど、葉子の行動がラディカルになるという関係において、葉子は形象されます。つまり、イブセンなどに媒介されたきびしい社会批判によって構成されるフィクションは現実の矛盾を集中的に表現するシチュエーションを獲得し、そのシチュエーションとのかっとうによって、葉子の行動が展開されます。葉子は、隙さえあれば彼女を「昔のままの女」としてふみつけようとする社会、反抗することなしには自己の人間性が保証されないという苛酷な状況の中で、屈することなくたたかいつづけます。圧迫が烈しければ烈しいほど、葉子はその「鋭い才能と激しい情緒」なかんずく「優れた肉体を武器」にして、一層ラディカルにそれを撥ねかえしてゆこうとします。このような近代的自我をつらぬこうとする行動によって葉子は、彼女を圧迫する者達の醜さ卑劣さをあばき、また自己の社会的本質を認識しながら、より本質的な矛盾へ近づいてゆきます。この力強いリアリステックな追求の果てに、葉子は、「男は女が少しでも自分で立ち上ろうとすると、打って変って恐ろしい暴君になり上るのだ。女までがおめおめと男の手伝いをしている」というように、女性の近代的自我をつらぬこうとすれば、男と対立するだけでなく、女性一般からすら孤立せねばならず、しかも「葉子は生の喜びの源をまかり違えば、生そのものを蝕む男というものに求めずにはいられないディレンマに陥ってしまった」と彼女は、自我と愛のディレンマにつき当ります。この自我と愛とがするどく対立的であるというディレンマこそ、近代社会における人間関係の基本的矛盾ではなかろうか。
肉体を武器としての自我のたたかいが、社会の基本構造にふれるような矛盾につき当ったとすれば、この矛盾を克服してゆくためには、もはや肉体だけではどうすることもできないのではなかろうか。ではどうすればいいのかという葉子のたたかいが、新たな次元へ向って飛躍してゆかなくてはならない地点で「葉子はひそかに芸者をうらやみもした。日本で女が女らしく生きているのは、芸者だけではないかとさえ思った」とか、「才能と力量さえあれば、女でも男の手を借りずに自分を周りの人に認めさす事のできる生活があるに違いない」と芸者やアメリカ市民社会を夢みる以上に出ることができないのです。葉子を通して社会矛盾をこのようにつきつめながら、作者はやはり葉子を規定している社会機構の把握へ進めないのです。それ故、葉子を新しいたたかいの場におし出して行くことができないままに、なおも肉体を殆んど唯一の手がかりとして、倉地との恋へつき進ますことで、葉子の自我のありかを検証しようとします。しかし殆んど機構的なものにふれ合う次元では、肉体だけではもはや生を全面的に展開することが不可能なのですが、なおも強引に肉体をかけて自我をつらぬこうとします。しかし、その強引な行動の中で、葉子は自我をつらぬこうとすればするほど逆に倉地への隷属を深めてゆかざるを得ない矛盾におちいります。かくて自我と愛とを統一してゆく方向・典型創造のモメントを見失い、「或る女のグリンプス」は書きつぐことかできなくなります。
葉子という極めてラディカルな個性を典型へ高めてゆく最も大切な場所で、有島はやはりつまずいたのです。イブセンなどの批判的リアリズムに媒介されて、日本の現実ときびしく対決しつつ作品を書いたのですが、彼のぶつかった現実は冬の時代に突入した極めて政策的な現実であり、意外に因襲的で彼の自我を逆にひき歪めてしまう呪咀的な規定力をもっていたのです。「食うに困らない」境遇の上につみ上げられたヨーロッパ的自我は、このきびしい機構に耐えて、それを克服してゆくモメントをさぐり出せなかった、そこに「或る女のグリンプス」の挫折があったのです。
この行詰りを打開しようとする努力の中から、彼はホイットマンをひき出してきます。ホイットマンこそ、彼のリアリズムの系譜とは殆んど対蹠的な存在、いわば後進国の批判的リアリズムに対し、植民地の自己主張の文学であったのです。従ってそれは近代以前ともいうべき原始的・本源的健康さに輝いていたのですが、有島にとっては確実にキリスト教的なものへの回帰として働きます。かくて彼は「内部生活の現象」を書きます。それは、因襲的な「外部」に規定される自己を「偽善者」として断罪し、その「偽善」を克服するために一切の「外部」を拒絶し、ひたすら「内部」の欲求にのみに忠実であろうとしたものであり、いわば「汝の欲するところをなせ」というブルジョワ個人主義の宣言に外ならなかったのです。しかし、如何に烈しく「汝の欲するところをなせ」という形で自我の主張をおし出しても、それが何らか具体的モメントに媒介されない限り、現実においては無力である外なかったのです。かくて、如何に生くべきかの人生論的追求の帰結として、「惜しみなく愛は奪う」(初稿)の「本能」の発見となります。ここに「本能」という人間の内面的モメントが新たに自我実現の武器としてとりだされてくるわけです。日本の現実にぶつかることで、彼もまたリアリズムの次元から自然主義の次元へ後退しなくてはならなかったのです。しかし、日本自然主義の本能は、自己の近代性を証明するための用具となり、従って封建的モラルにぶつかることで精神主義的なベールを被らねばならなかったのですが、有島の「本能」は、自己の「偽善」という悪を克服し、あくまで自我を実現してゆく手がかりとしてとり出されたものであり、そのような烈しい要求をになわされた「本能」は、自然主義の本能の次元にとどまることができず、「奪う力」というアクセントをつけられ、極めてラディカルな形をとらざるを得なかったのです。そしてまた、彼の「本能」のそのような積極性が「カインの末裔」以下の作品を生んでゆく力ともなるのです。
「カインの末裔」は、彼自身の「偽善」の克服による自我の主張という自己変革をモチーフとしながら、それが民衆のたたかいに結びつけられねばならなかったところに、彼のリアリズムの性格がある。つまり、彼自身は「偽善者」として否定し去らねばならぬ存在であり、実現すべき自我の理想はつねにたたかいとらるべきものとして、彼の前にあった。ここに現実と理想を媒介する論理としてのフィクションが、彼の文学にとって必然の方法となります。しかし、この場合、フィクションを支えるものが彼自身の「偽善」の克服という人格主義的限界の故に、本能のエネルギーが殆んど階級のエネルギーとして取り出されながら、主人公仁右衛門の行動は、真の階級的反抗へ飛躍できず、盲目的反抗に終らざるを得ないのです。
以上の如く、「カインの末裔」はフィクションを必然的な方法とすることで、自然主義文学と一線をかくす批判性を持ちながら、そのフィクションが社会との対決によって獲得されたものでなく、もっぱら自己自身への対決によって保証されているところに、リアリズム文学として、「或る女のグリンプス」からは一歩の後退に外ならなかったのです。かように、自己との対決のきびしさによって健康性を保っていた本能はしかし、その対決のきびしさを失うと「石にひしがれた雑草」のごとく歪んだ性そのものへの関心へ屈折し、自我実現のモメントから自我をつき崩すモメントへ転落せざるを得なかったのです。これはまた、当時の社会現実が本能というような人間の内面的モメントだけではどうすることもできないところまで行きつつあったことにもよるのです。
冬の時代を通し着々と支配機構を強化してゆく支配階級と、一方それをはねかえしてゆく民衆の力とが烈しく対立し、抗争しながら、十月革命、大戦後のデモクラシーの波などを契機として、やがて民衆の力は冬の時代の壁を破って米騒動となって爆発します。この現実の泡立ちの中で、文学もまたそれに対決し、そのたたかいに参加し、それを形象する新しい方法をうち立てることが要求されます。このプロレタリア文学前々夜ともいうべき現実の泡立ちの中で、「石にひしがれた雑草」の本能の不毛化へ傾斜していた有島もまた、自己の文学の再検討を強いられたはずです。しかし、その前に一ブルジョワ農場主であった彼は、自己の存在そのものの再検討を強いられるのです。かくて「武者小路兄へ」を書いて農場解放の決意を表明するのですが、再び、「惜しみなく愛は奪う」の自己中心主義=ブルジョワ個人主義へひきもどされ、「本能」の立場を再認識することで、この現実に対拠しようとします。ブルジョワ農場主である彼は、農場を放棄する方向へ進むことでしか民衆につながることができなかったのですが、その方向へふみ切ることができず、「食うに困らない」生活に居直ることで、自己中心主義に生きようとするのです。そのとき、彼自身すでに民衆にとって敵対的な存在に外ならず、従ってその自己中心主義を支える本能は、反歴史的性格を帯びざるを得なかったのです。このように民衆の高揚期に、民衆と自己との関係を新しく設定し直せなかったとすれば、彼の以後の路線は「惜しみなく愛は奪う」”初稿”よりその”完稿”の自我の我執へまっすぐつきぬけて行く外なかったのです。つまり、「外部」が冬の時代のように「内部」を限定する圧力だけでなく、それに規定し直されることで「内部」と「外部」が統一されうる可能性が形成されつつあったのです。このような状況の中で、「内部」への我執によって「外部」現実を拒絶することは、同時に、「或る女のグリンプス」の葉子の自我を新たに展開する歴史的・社会的条件の拒絶であり、そのようなリアリズムへの可能性の否定に外ならなかったのです。
こうして「内部」へ追いつめられてゆく中で、彼は「畏れることなく醜にも邪にもぶつかってみよう。その底に何もなかったら、人生の可能は否定されなければならない。」と自らの存在そのものを確かめなくてはならなかったのです。「或る女」はこうして追いつめられる中で、必死の血路を求めて書き始められるのです。彼の人生の可能を本能にかけて、自己の文学の可能をたたかいとろうとするのです。この作品にはりつめられているはげしい緊張感は、このような状況におかれた作家の緊張感に外ならない。
「或る女」は「或の女のグリンプス」をその前篇の骨格として、「カインの末裔」以来の豊かな形象力でもって、葉子に有島自身の生き方をかけて、とにかく彼の全文学エネルギーをかけての追求でした。
大正五年三月の日記に「エリスの性心理の研究読了、余は『或る女のグリンプス』の改作に有用な諸点を獲た」と書いているが、ここですでに葉子を性心理の側面からつかみ直そうとする意図がみえます。そして、「石にひしがれた雑草」を経ての本能の固定化と共に、そのような葉子の把握は完成したものと思われます。前篇において、木村宛の手紙の中で古藤は葉子について、「明白に云うとぼくはああいう人は一番きらいだけど、又一番ひきつけられる。僕はこの矛盾を解きほぐしてみたくて堪らないと」書いています。前篇において確かに作者は葉子を明確に把握していない。葉子に惹かれ反撥しつつまた惹きつけられ、ふりはなされながら、必死に葉子に喰い下っている。しかしそのような葉子への生身の肉迫の中でこそ、前篇の葉子をあのように生き生きと形象し得たのではなかったろうか。しかし作者は葉子のどこが把握できなかったのか、前にも述べたごとく葉子を規定している社会機構が把握できなかったのではないのか。とすれば葉子のこの社会的規定性の追求こそ、葉子の把握への唯一の道であり、そしてそれこそ、リアリズムへの道ではなかったのか。
しかし、大正三年三月放棄から大正九年三月に筆をとるまで、葉子の把握はそのような社会的規定性の追求の方向へは進まずに、性本能の側面から把握し直されます。こうして「或る女のグリンプス」のリアリズムの構造は弱められ、自然主義的路線が決定されるのです。
このような葉子の把握が強固になれば強固になるほど、作者は葉子の中へのめり込み、葉子の道は外側から決定されます。「或る女のグリンプス」を三年間書きあぐんで、ついに放棄せざるを得なかったような困難はもはやない。「或る女」が一カ月で書きあげられたとしても別に不思議はないわけです。
この「或る女」の葉子に対し、古藤が批判者としてあるというようなことは殆んど意味がない。何故なら葉子は、古藤の批判など一方的に切りすてざるを得ないシチュエーションに立っているからです。そのシチュエーションを支えているのは、作者の我執に裏づけられた本能に外ならない。
後篇二十三章からは、葉子は、木村という社会との「最後の和睦」点をふみにじることで、事実上社会から葬り去られます。倉地もこの事件のために職を奪われます。しかし、そのことが彼らの危機としてでなく、社会から隔絶した逃避場を設定することで、二人だけの結束を強めるためのシチュエーションの設定としてのみうけとめられます。こうして社会から葬り去られるという形で、社会との対決を放棄したシチュエーションの中で、二人の烈しい性愛を追求します。しかもこのシチュエーションの中では、肉体は自我をたたかいとる現実への対決を失い、現実からの圧迫を逆にその耽溺の中へ埋める場所となる。かくて現実からの圧迫がはげしくなればなるほど、葉子の肉体は破綻して行かざるを得ないのです。「子宮後屈症と子宮内膜炎」によるヒステリーがその結果であり、また有島の光栄ある本能の最後の姿でもあったのです。
しかし、如何にはげしく性愛を追求しようとも、それのみでは作品を展開することができない。社会との対決を拒絶したシチュエーションの中へは、葉子を社会との対決へかりたてて行くモメントを導入できないとすれば、葉子の肉親達と近しい人々を集める外ないのです。しかも彼らは、葉子の再生のモメントにはなり得ず、「葉子には自分の鬱憤をもらす為の対象が是非一つ必要になってきた」という虐待の対象となる。かくて倉地への決定的な隷属とヒステリックな嫉妬、それ故の妹達への嫉妬と虐待の中で、葉子は「卑怯者が憤怒すれば、刃を抽いてもっと弱い者に向って行く」という魯迅のドレイ的存在の権化となる。にもかかわらず、そのような葉子のドレイ性を照らし出せず、その葉子の行動を本能によって、自我のたたかいに生きるものとしてヒロイックにおしだして行くところに、有島のリアリズムの決定的な敗北があった。「かんかん虫」において、むしろ自己の弱さ故に、その弱さを強引にねじふせるような形で、アナーキーな反抗へつき進む「復讐」ともいうべきもの、それ以後もつねに彼のリアリズムの盲点として巣くってきた半ドレイ性が、この「邪をも醜をも」出し切ったあがきの中で、ついに彼のリアリズムそのものを否定し去るのです。歴史的現実から孤立し、もはや積極的に人生を打破するめどを失った人間の追いつめられてゆくあがきの中で、彼のリアリズムによっても、照らし出せなかった彼の深い病巣が拡大され、彼をのみ込むのです。そしてそのような場所でなお、自我に我執し、本能に固執することで、自己自身を最後までつきつめようとする客観的追求は、その焦点に死を結ばざるを得なかったのです。かくて葉子は、あらゆるものを破滅へのモメントとすることで、破滅へ向って、ひたすら作者の全エネルギーをかけて追いつめられて行くのです。
「人生の可能」を本能にかけた「或る女」という彼の全文学エネルギーをかけたたたかいも、本能が外部現実への対決の姿勢を失って内部に閉ざされて行く中で、本能そのものが「人生の可能」を否定するモメントに変質します。それはとりも直さず有島文学の敗北に外ならなかったのです。にもかかわらず、彼は、崩れ行く本能にしがみつき、その不毛の思想を組みたて直すことで、自己の立脚点を守ろうとします。かくて、ホイットマンへの傾倒に始まる彼の人生論の総決算として「惜しみなく愛は奪う」(完稿)を書きあげます。このホイットマンの「ローファー」とベルグソンの「生の哲学」を二本の支柱とする人生論は、「或る女」のリアリズムの挫折の逆証明でもあったのです。その思想を簡単に説明しますと、「内部」と「外部」という対立する「二元の世界」を「外部」を「内部」に奪いとることで「一元の世界」に統一しようとするわけです。「二元の世界」とは「本能的生活」の支配する理想的世界であり、「無対立・無努力」の世界です。これはつまり、民衆の泡立ち始める歴史的現実にその存在をおびやかされたブルジョワ個人主義が、その現実を否定することで、自己を無限の意識の世界へ解放しようとしたのです。民衆の規定力と細織力に対抗するために、エラン・ビィータルの観念的な拡張力によって自己を無限の空間へ拡散するのです。かくて規定性をはずされ、「外部」を奪いとることで拡張し始める個性は、「その世界の持つ飽くなき拡充性が、これまでの私の習慣を破り、生活を変え、遂には私の弱いはかない肉体を打壊するのだ。破裂してしまうのだ」というように「時間の空間さえも撥無する」ことによって、その焦点に破滅と死を結ばざるを得なかったのです。この主観の拡張のエネルギーは「或る女」の後篇をつらぬいているエネルギーに外ならず、追いつめられた者の最後のあがきであり、しょせん、それは死に行きつく外なかったのです。
ともかく「或る女」は、本能の不毛性の証明であり、彼の文学を再建するためには、この不毛の本能を否定し、新しいモメントを探らねばならなかったのですが、彼は逆に、「惜しみなく愛は奪う」を書いて、この不毛の本能を再構成しようとしたのです。しかしなおもおし寄せてくる現実の泡立ちの中で、この本能も崩れ去らざるを得ず、また崩れ去ることで彼の文学再建の努力が始まるのです。「星座」・「宣言一つ」から「農場開放」、最後の「骨」に至るまで自己と文学の再建へあがき続けますが、ついにリアリズムを回復できないままに、大正十二年、プロレタリア文学の前夜ともいうべき騒然たる時代に自ら命をたちます。
以上述べた如く、有島の文学もまた近代自我の文学の範疇に属し、その点で日本主流文学の流れに重なります。しかし主流文学が自然主義から私小説を結ぶ自己肯定の文学であるのに対し、彼の文学は自己批判の文学であり、それ故に近代リアリズムの方法を獲得することができたのです。むろん彼の文学は、その「復響」という半ドレイ性を克服できない自己批判の限界を持ちつつも、日本近代のリアリズムの最も強固な構造を持つことができたのです。そのリアリズムもああいう形で敗北して行かざるを得なかったのですが、続くプロレタリア文学も、それ以後の文学も、この敗北を真に克服できなかったのではなかろうか。とすれば、ぼくらはこの敗北から出発し、敗北を勝利にきりかえして行くモメント、つまり、新たなリアリズムの方法を探らねばならない。ともかく有島のリアリズムを一支点として、自然主義文学以来の自己肯定の文学伝統を否定し、新たなリアリズムを創造して行かなくてはならないのではなかろうか。

有島武郎(明11―大12) 
 
「民主と愛国」小熊英二

 


立て続けに大作を発表している若手研究者――あるいはそろそろ中堅だろうか――の第三作である。私は大分前からこの著者のことが気になっていたが、専門外の分野の大著を何冊も読むのはそう簡単なことではないので、どれも刊行後かなりの時間が経ってから遅ればせに読むことになった。第一作「単一民族神話の起源」、第二作「〈日本人〉の境界」もそれぞれに興味深く読んだが、この第三作はそれら以上に充実した大作――ほぼ一〇〇〇頁に近い――であるだけでなく、内容的に現在に近い時期を取り扱っている関係で、私自身のこれまでの読書遍歴とも関連していろいろなことを考えさせられた。
三著にわたる小熊の一連の仕事をごく大雑把に要約するなら、社会思想史的アプローチと知識社会学的アプローチを併用して、近代日本におけるネーション意識およびナショナリズム観について論じるということになるだろうか。もちろん、このように単純に図式化してしまっただけでは、多岐にわたる論点を微細に論じる膨大な仕事の全体像を示すことにはとうていならないが、二つのアプローチの併用という点については著者自身が第一作の序で述べているところでもあり(1)、一つの特徴とはいえるように思われる。
一般的にいって、歴史学に属する作品は、細かい事実経過の確認に重きを置くあまり、えてして大きな見通しがつけにくくなる弊があり、社会学その他のディシプリンに属する作品は、明快な理論的図式でスッキリとした説明を与えようとするあまり、個別具体的な事実の確認がややおろそかになりがちだという傾向があるが、社会思想史的アプローチと知識社会学的アプローチの併用とは、両者の強みを総合しようと試みることを意味する。これは野心的かつ冒険的な試みであり、「意図は壮大だが看板倒れ」という結果に終わる可能性もなしとしない。本書の場合、それがどこまで成功しているかについては、専門の見地からの批判的検討が必要であり、私のような専門外の読者が気軽に判定できることではないが、ともかく一通り通読した上での感想としては、かなりの成功を収めているのではないかと感じた。論及の対象が広いため、分析の深さが一様ではなく、ある部分では他の部分ほどの深さが感じられないというようなバラツキもあるが、少なくとも単純な図式化で安住するというようなところはほとんどなく、できる限り対象に内在した理解を心がける姿勢が貫かれているように思う。
明治から戦後初期くらいまでを主に扱った前二著も、ネーションおよびナショナリズムを研究対象とする私の知的関心を引くところがあったが、本書の場合、戦後期――小熊の言い方では「第一の戦後」と「第二の戦後」に分かれるのだが――が対象となっていて、その時期に幼少年期から青年期を過ごした私自身にとって、自分が生きてきた時代とはどういうものだったのかを振り返らせるという意味をもち、「研究者として」という以上に「一個人として」強い関心を懐かされた。戦後生まれの私は、本書で扱われている時代のうちの前の方の時期にはほんの小さい子供で直接の記憶はないし、比較的後の方の時期にも、社会問題や社会科学に関心を持ち始めてまもない青二才に過ぎなかったから、本書の研究対象とされている知識人たちとは大分世代が違う。それでも、高校から大学に入り立てくらいの時期に、無手勝流の乱読の中から社会科学とか思想とかいうものの原イメージを形づくったのは、まさしく本書で取り上げられている論者たちの作品群を通してだった。若い時期の乱読というものは、理解の正確度という点ではもちろん大いに怪しいものだが、感受性がまだ鈍りだす前の時期だっただけに、後々まで残る強い印象を受けた。丸山眞男、竹内好、吉本隆明、六〇年安保、鶴見俊輔と「思想の科学」、ベトナム反戦運動と全共闘運動等々の人物と事件は、それぞれに異なった形で、若き日の私に強い影響を及ぼし、いわば「青春の記念碑」のようなものとして脳裏に残っている。これに対し、小熊は私よりも一回り以上若く、おそらく同時代的記憶はほとんどなく、いわば純粋に「歴史」として対象に立ち向かっているのだろう。そのような世代の著者とどのように対話ができるかという問題を念頭におきながら、本書を読んだ。 

本書の主要対象は、今日しばしば「戦後思想」とか「戦後民主主義」という風に括られているものである。小熊は「戦後民主主義」とか「戦後の進歩的知識人」といった一括が非常に粗雑なものであり、対象の多様性をすくい取れていないことを本書で示しているが、「戦後思想」にあまり通じていない多くの若い人たちの間では、むしろ単純化されたイメージの方が強く焼き付いているのではないだろうか。いや、若い人たちばかりでない。かつて「戦後思想」の様々な側面に接したことのある年長世代の人たちでさえも、いまとなってはかつての複雑な屈折や模索のことを忘れ、図式主義的な理解ですませている例が多いように思われてならない。それは「冷戦期」というものへの安易な理解と図式的総括が優越していることの現われではないかと思われる(2)。
今日広まっている「戦後思想」についての通説的イメージを単純にまとめると、次のようになるだろう。そこでは左翼思想ないしマルクス主義が圧倒的優位を占めていた。そのマルクス主義とは、図式主義、教条主義、政治主義的引き回しなどを特徴としていた。冷戦構図のなかで、体制批判的な立場の人たち(いわゆる「進歩的知識人」)はみなそうした陣営に属していた。そして、これらすべてがソ連崩壊と冷戦終焉とともに一挙に崩れ去った、というようなイメージである。もしこうしたイメージが事実に即しているとするなら、「戦後思想」およびその担い手たる知識人たちは実につまらないものの塊であり、一挙に投げ捨てられるのも当然ということになる。
現実には、「戦後思想」はもっとずっと多様だったということを本書は明瞭に浮かび上がらせている。そもそも「戦後期」という時代自体が、革命と闇市に象徴される激動の戦後(「第一の戦後」)と、高度成長と五五年体制に象徴される安定と繁栄の戦後(「第二の戦後」)に大きく分かれるし、そのいずれの時期においても、様々な立場の人々の間で激しい論争があり、決して単色で塗りつぶされるようなものではなかった。ところが、今日の「戦後思想」「戦後民主主義」「戦後の進歩的知識人」イメージは、こうした多様性や時間的変遷に無自覚で、しばしばきわめて平板な像を描きがちである。そのことへの批判が本書の一つの主眼となっている。
確かに「戦後思想」において、マルクス主義の影響は強烈なものがあったが、だからといって、排他的に論壇を支配していたというわけではない(なお、本書の対象とされている知識人は、どちらかというと「左寄り」とみなされる人たちが多いが、非マルクス主義の左派自由主義者とか、より明確に反マルクスの立場に立つオールド・リベラリストなども含んでおり、かなり幅が広い)。また、マルクス主義者たち――および、非マルクス主義者だが大なり小なりマルクス主義の影響を受けた人たち――の間でも、多様性が大きく、学問上の観点も異なれば、政治的にも種々の論争があり、共産党やソ連への態度も一様ではなかった。図式主義や教条主義の要素も確かにあったが、そのことへの批判や反省もまた様々な形で提起されていた。更に、「第二の戦後」がすっかり定着した一九六〇年代半ばくらい以降になると、それまで論壇で活躍していた「進歩的知識人」への批判も広がってきたから、彼らが冷戦終焉直前まで圧倒的権威を誇っていたかに捉えるイメージは事実に即していない(ちょうど一九六〇年代半ばにあれこれの文献の乱読を始めた私の実感的記憶でも、「進歩的知識人」というレッテルは、もうその頃から、批判の対象――場合によっては揶揄の対象でさえある――と化しつつあったように思う)。
「戦後思想」をこのように捉え直すことは、安易な形での「戦後思想」批判への反論という意味をもつが、だからといって、小熊は「戦後思想」をひたすら弁護しようとしているわけではない。本書では、「戦後思想」の限界性についても批判的考察がなされている(各所で示唆される他、特に結論部で詳論されている)。問題は、単純に肯定するか批判するかという点にあるのではなく、深い批判を行なうためにも、カリカチュアライズされた対象認識に依拠するのではなく、できるかぎり包括的・内在的な対象認識が前提になるということである。序章の末尾で、小熊は次のように述べている。
「本書では、戦後思想を現代の言葉から性急に批判することよりも、まず当時においてそれが表現しようとしていた心情を明らかにし、その最高の部分を再現することに努めた。ある思想の限界を越えるにあたり、その最低の部分を批判することではなく、その最高の部分を再現しつつ越えることによってこそ、その拘束から解放されることが可能になるからである」。
この言葉には深い共感を覚える。「最低の部分を批判することではなく、その最高の部分を再現しつつ越えること」という表現は、「〔戦後文学を〕その最低の鞍部で越えるな」という本多秋五の言葉(「物語戦後文学史・完結編」)とよく似ており、響きあうものがある(3)。 

小熊の一連の著作においては、大量の文献資料の丹念な解読と多岐にわたる言説の手際よい整理がなされており、それが高い評価に値する業績であることはいうまでもない。だが、それ以上に私が強く印象づけられたのは、対象とする人々の内面に立ち入った細やかな理解を心がけている点である。もちろん、知識社会学の観点からは、ある程度の理論的分析や図式化も必要であり、そうした作業も現になされているが、それでいて、個々の言説をある類型の事例として位置づけて事足れりとするのではなく、そのような位置づけからはみ出してしまうものがあることにも自覚的だという点が特徴的である。著者が「通常の学者」として優秀であるだけでなく、繊細な神経としなやかな感性をもっていることが窺われるように思う。
私が小熊のこのような資質に強く印象づけられたのは、前作「〈日本人〉の境界」を読んだときである。この本では、沖縄・アイヌ・台湾・朝鮮などに関わる近代日本の様々な言説が取り上げられているが、その分析の切れ味もさることながら、個々の論者を特定の基準で分類して片づけるというのではなく、困難な状況のただ中で苦闘を重ねた人々の悩みへの共感のようなものが感じられるように思った。この作品に登場する人々のうち、私の関心を最も強く引いたのは、朝鮮系であることを公言して衆議院議員となった唯一の例としての朴春琴(第一四章)である。「親日派」「体制派」というレッテル貼りをされがちな人物を取り上げて、その苦悩を描く筆致には感動的なものがある。それ以外にも、伊波普猷(第一二章)、柳宗悦(第一五章)、屋良朝苗(第二二章)などに関わる個所が特に私の関心を引いた。これらの人々は、今日のわれわれ――あるいは私というべきだろうか――の目から見て必ずしも手放しで高く評価することのできないような側面を持っているが、そういう人たちの言動を高みに立って裁断するのではなく、一人一人の悩みに寄り添った理解をしようと努めていると感じた。
こうした姿勢がどこから由来するのかは分からないが、次のような個所を読むと、安易に対象を「分かった」と思いこみ、裁断してしまうことへの畏れのような感覚を小熊が懐いていることが感じられる。
「現実の人間たちはそうしたバリエーションでは表現しきれない願望をもっているため、論調の揺れや曖昧な表現が多く現われる(4)」。
「私はこのような史料に出会うと、それを論じたり分析したりすることに躊躇を覚えざるをえない。どう論じようと、私などには問題のすべてを理解することも、また語りきることもできない気がしてしまうからである。〔中略〕。史料の一つひとつは当事者の苦悩、煩悶、希望、期待、打算、欲望、その他ありとあらゆる感情を訴えていた。〔中略〕。そこには私などが手を触れることがためらわれるような数々の問題が封印されている。〔中略〕。特権的な立場から当事者を一方的に非難したり、ましてや揶揄するようなことは避けたつもりである」(5)。
ここには、対象に肉薄することの絶望的なまでの難しさへの自覚が示されている。そうした自覚があればこそ、「内面的理解」ということを安易にキャッチフレーズとする論者よりも相対的に深い地点に達し得たのではないだろうか。
いま述べたような難しさに加えて、本書の場合、前二著よりも現代に近い時期を取り扱っているため、対象との距離を適切にとることの難しさも、より大きなものとなる。実際、旧著に比べると、本書では著者自身の対象への評価がより露わになっていると感じる個所もないではない。しかし、相対的に高く評価する対象についても手放しの絶賛ではなく、影の部分にまで踏み込もうとしているし、逆に相対的に批判的な相手についてもばっさりと切り落とすことをせずに、内面に立ち入って理解しようと努めた跡が窺える点は好感が持てる。特に、吉本隆明、江藤淳、また別著で取り上げられている清水幾太郎(6)らへの著者の評価は、大まかにいえば批判的観点が濃厚だが、単なるレッテル貼りを避け、内面的理解の努力の跡をにじませているように思う。
いま触れたところと多少重なるが、小熊はある論者の言説を分析する場合に、その外見的な結論だけに注目するのではなく、むしろ既存の政治の言語で表現困難な願望や心情がいかに表現されるかという問題に注目している。「語りえないものをいかにして「語る」か、そして「語られた」場合に常に発生する未表現部分をいかに忘却から救いだすかといった問題」が、彼の主たる関心事のようである(7)。おそらくこれと同様の問題が、本書では、「既存の言語体系によってでは表現困難な心情」「表現困難な残余の部分」などという形に言い直されている。
「語りえないものをいかに語るか」といった言い方は、「サバルタンは語れるか」という問いと似たところがあるが、微妙に異なるような気もする。「サバルタンは語れるか」という問いは、多くの場合、「語れない」という答えを暗黙に予定している。それでいながら、サバルタンについて語る論者自身は、どういうわけか「語れない」はずのサバルタンに代わって語ろうとしてしまうという偽善性がつきまとう(8)。語れるか語れないかという二者択一ではなく、なかなか語りきれないものをどのようにして不十分ながら語るか、またそれをどのように聞き取るかという風に問題を立て直すなら、より柔軟に考えることができるのではないだろうか。読む側の態度としては、自分が正しく聞き取っていないのではないかという畏れを懐きながら、何とかして聞き取ろうと努めることが大事であるように思う(9)。
サバルタンということに触れたついでに、もう少しだけ脱線すると、サバルタン論はややもすれば、《下層階級・女性など=「語れない人」、支配者・知識人(圧倒的に男性)=「語れる人」》という図式的対立を固定化してしまう傾きがあるような気がしてならない。「知識人」でない人々がその心情を表現しようとする際に、洗練された言葉を持たないために、適切な表現ができずに苦闘を強いられる――そもそも表現すること自体が封じられることもあるし、仮に何らかの形で表現しても、誤解や無視にさらされる――というのはその通りである。しかし、適切に表現することのできない何かを表現しようとして悩み、もがくということは、実は知識人の場合にもあるはずである。未知の状況に投げ込まれて、端的に新しい事柄を表現しようとする際には、誰しもが適切な表現形式を見出しあぐね、辛うじて何とか表現しても無理解の壁にぶつかったりして、苦しまざるを得ないからである。とりあえず既成の言葉による場合には、その「古い」表現形式と「新しい」内容のズレがなかなか埋められないし、一挙に新語を創作する場合には、それが何を意味するのかが読者に理解されないということになる。
いま書いたのは私自身の考えだが、本書に登場する多くの知識人は、まさにそうした状況の中で悪戦苦闘していた人たちとして描かれており、私の問題意識と相通じるものを感じた(10)。本書の登場人物の多くは、「大物」とか「超一流」という形容詞のつく知識人たちだが、彼らといえども、時代から屹立した巨人としてではなく、むしろ「同時代の人びとに共有されている心情を、もっとも巧みに表現した者」として捉えるというのが本書の基本的な発想となっており、彼らの思想を分析する際にも、完成された理論として受けとるよりは、むしろ矛盾を含んだ模索の跡が重視されている(11)。更にまた、そのことと関係して、各人のライフヒストリーが重視され、学術論文などにはあまり表現されていない、戦時中の悔恨・屈辱などの精神的な傷が思想の原動力として捉えられることになる(もっとも、竹内好、吉本隆明、江藤淳、鶴見俊輔、また別著における清水幾太郎らについてのライフヒストリー叙述が詳しいのに比して、丸山眞男と大塚久雄についてはその面が相対的に薄く、これは本書の一つの問題点かもしれない(12))。 

いま述べたように、内面に立ち入って理解する、あるいは語りきれないものを語り、あるいは聞き取るというのが著者の狙いだが、ただそういっただけでは、具体的にどのようにしてその狙いを実現するかの道が確定するわけではない。本書の場合、「戦後思想」を戦争経験の傷痕との苦闘の産物として捉えるという姿勢が基本的な発想となっており、そこで大きな役割を果たすのが、戦争経験についての独自な捉え方である。そのことは本書全体に示されているが、特に第一章がその課題に集中的に充てられている。戦争というと通常すぐに思い浮かべられるのは大量の残虐・暴力行為だが、本書ではむしろ、戦時状況におかれた個々人が偽善、保身、裏切りといった経験をせざるを得なかったという側面が特に重視されている(逆にいえば、英雄主義・自己犠牲・連帯などといった要素はほとんど触れられていない)。それは「恐怖と保身、疑心暗鬼と裏切り、幻滅と虚偽がないまぜになったもの」であり、「他者への信頼と、自分自身の誇りが根こそぎにされるような」体験、「屈辱感と自己嫌悪なしには回想できない、お互いに二度と触れたくない傷痕」だったとされる。と同時に、そうした傷痕は、戦争の時期にどの年齢層だったか、どのような社会的位置にあったかによって異なるため、十把一からげな「戦争体験」ではなく、世代・社会層ごとに細分された分析が重視される。
このように精神的傷痕を重視し、そのような傷痕を基盤として戦後思想が生まれたとする見方は、人間観として深いものをもっているように思う。思想というものは単なる書斎の思考の産物ではなく、深い傷痕をかかえた人々の模索と叫びを底にもったものだという捉え方が、そこには示唆されている。もっとも、このような戦争経験の把握と世代の重視は、下手をすると、個人の経験と世代・社会層の対応関係を単純化することで、やや図式的になる恐れもないわけではない。しかし、本書の場合、個々人の事例に密着することで、そうした安易さは努めて抑制されているように思う。
そうした長所を認めた上で、あえて疑問を出すなら、屈辱・自己嫌悪・悔恨などといった心情は、何も戦争でなくても、もっと様々な状況のなかで生じうるものではないだろうか。確かに、戦争は大規模な現象であるため、大多数の人々に共通の状況として降りかかり、そのことによって共通の心情を生みやすいということは言えるかもしれない。しかし、切実な体験に根ざした思想形成という点だけでいえば、何も戦争経験だけにこだわる必然性はないのではないか。
屈辱・悔恨がそのものとして正面から表明されることが滅多にない――そのため、後世の人々はかなりの努力を払わねば、それを想像することができない――こと、また当初は暗黙に共有されていた傷の意識が歳月の経過とともに薄れていくという点も重要な指摘だが、同様の疑問がある。こういったことは、戦争経験に限らず、様々な種類の激しい経験に共通の現象ではないか。ファシズムやスターリニズムのもとでの人々の生活もそういうものの典型だろうし、新旧左翼の革命運動や全共闘運動は、スケールや広がりからいえば戦争経験に劣るかもしれないが、質的には同様のものがあるように思われる。
こういう疑問を出すのは、戦後思想の限界という点と関わる。思想をその基盤としての戦争体験と関わらせて理解するという試み自体は興味深いものだが、あまりにも戦争体験ということばかりにこだわると、その記憶を直接に持たない世代には伝えようもなくなるのではなかろうか。何らかの歴史的事件の記念日の時期になると「この体験を風化させてはならない」といったことがよく言われるが、実際問題として記憶を共有しない世代にとっては、そういうことをいくら言われても、空しいお説教という響きをどうしても払拭することができない。次に引用する小熊の指摘は確かに妥当なものだが、これを確認するだけでは、風化が必然であり、戦後思想は結局は忘れ去られるしかないという結論になりそうにも見える。
「荒正人や竹内好などは、自己の内部の掘り下げが、他者とつながる回路であると主張していた。その前提になっていたのは、戦争体験から受けた傷が自己と他者に共有されていることであった。自己の内部の暗黒を直視することが、他者の共感と震撼を喚起し、表面的な結びつきを越えた連帯を生み出すためには、戦争体験が安易なコミュニケーションを破壊するほどの深い傷であることが必要であった。〔中略〕。しかし多くの人びとは、戦争体験の傷を直視することよりも、高度成長のなかでそれを隠蔽してしまうことを選んだ」。
これはこれとして分かる。だが、人が偽善、保身、裏切り等をせざるを得ない状況に追い込まれたり、それを通して屈辱と悔恨の傷痕をかかえるというような事態は、戦時に限らず、もっといろいろな局面であり得ることだろう。先に私は、ファシズム・スターリニズム・革命運動といった激しい経験を挙げたが、それどころか、表面的に平和・安定・繁栄が持続している社会においても、組織や人間関係のしがらみのなかで、同様のことは十分起こり得るのではないだろうか。確かに、そうした状況下での個々人の経験は個別性が強いために、社会的に共有される思想への形成はより困難かもしれない。しかし、切実な体験に根ざした思想の形成というものを専ら戦争とだけ結びつけたのでは、後続世代が新しい状況下で独自に思想形成していく道を見いだすことはできなくなってしまうのではなかろうか。 

本書のもう一つの特徴は、言葉の使われ方への注目である。これも先に触れた点と関わることだが、「言説構造の変動は、多くの場合、まったく新しい言葉を創造するというかたちではなく、既存の言葉を読みかえ、その意味を変容させることによっておこる」というのが、本書の主張の一つとなっている。「なぜなら、ある言説構造のなかで生きている人間は、特定の言語体系の内部でしか発話を行なえないからである。その言語体系に存在しない言葉は使えないし、新語を創造しても他者に理解されない」というわけである(同前)。では、新たな思想はどのようにして生まれるかといえば、既存の言葉を読み替え、そこに新しい意味を吹き込むことによってだというのが本書の主張である。
このような観点から、本書の各所で、既存言語の読み替え、古い言語への新しい意味付与の過程が追われている。特に、「民族」「市民」「近代(主義)」などといった概念の時期による変遷は、本書の一つの主要テーマをなしており、今日におけるこれらの言葉の固定的イメージしか知らない者にとっては、目から鱗を落としてくれるものがある。もっとも、知識社会学なり概念史なりといった分野では、この種の作業はそれほど珍しいものとは言えないかもしれない。本書の場合、そうした作業がそれだけで完結するわけではなく、もう一つ別の論点とも結びついている――もっとも、ここのところはそれほど正面切って宣言されているわけではないが――点に、そのユニークさがあるように感じる。
その論点とは、「戦後思想の大半は外来思想の直輸入だった」という見方を批判し、むしろそこには自らの切実な体験の思想化の努力があったとする主張である。それはまた、戦後思想が突然の飛躍ではなく、戦前期や戦中期の思想との一定の連続性をもちながらの生成だったという把握につながる。これも興味深い指摘であり、「戦後派進歩的知識人」が専ら外国思想の直輸入をこととしていたといった類の安易な批判に対する鋭い反論になっている。そのこと自体には異議がないが、同時に小さな疑問を感じないわけではない。いま述べたような把握は、本書の対象として取り上げられている事例の多くについては、おそらく妥当するだろうが、日本の思想界全般を見た場合に、「外来思想の直輸入」という要素がなかったとはいえないだろう。もちろん、小熊はそれがなかったと言っているわけではないが、既存言語の読み替えの側面を重視することの反射的結果として、「輸入学問」の側面を相対的に軽視する結果になっているのではないかという気がする。
いうまでもなく、「輸入学問」の隆盛は近代日本で一貫した現象である。もちろん、中には、切実な体験を言語化するために苦闘したり、既存の言葉に新しい意味を付与して言説を組み立てるような事例もあるが、それはむしろ相対的少数派ではないだろうか。あるいは、「第一の戦後」ないし「第二の戦後」初期くらいまでの時期にはそうした苦闘が比較的多くみられたのに対し、「第二の戦後」が安定し、学問や言論も制度化・安定化が進む中で、輸入言語の流行や新奇な造語の乱発が一層甚だしくなったのかもしれない。本書から離れるが、昨今では、日本社会のいわゆる「国際化」と、世界全体の「アメリカ標準」的な意味での「グローバル化」が学問の世界でも進行し、「輸入学問」的性格は一段とひどくなっているような気がする(若い世代の学者たちの間では、日本語で書かれた同僚の著作をほとんどまともに読まず、ひたすら英語の文献を読むことを「研究」と考える風潮が広がっているようだ)。そうだとすると、本書で描かれているのは、近代日本で稀な幸福な時期だったのかもしれない。私が本書を読んである種の懐かしさを感じたのは、それが私の青春期と結びついているからだけでなく、いま述べたような幸福な時代のことを思い起こさせるからではないかという気もする。 

本書では、「戦後思想」の様々な側面が万華鏡のように描き出されているが、その中で特に注目に値する点として、「第一の戦後」――そしてまた「第二の戦後」の初期にも――における「左派ナショナリズム」の存在の指摘がある(この論点は、「〈日本人〉の境界」の第二一章「革新ナショナリズムの思想」を引き継いだものである)。今日では、何となく《左翼=反ナショナリズム》という等式が自明のようにみなされがちだが、一九五〇年代くらいまでの状況はそうではなく、むしろ多くの知識人の思想にはナショナリズムの要素があったことが本書では示されている。そこには、非共産党の左翼リベラルからの議論もあれば、共産党の「真の愛国」論もあり、内容的には大きなヴァラエティがあったが、「民族」「ナショナリズム」「愛国」などのシンボルを肯定的に捉える限りで一定の共通性があったということになる。
もちろん、そこにみられるナショナリズムとは、国家に吸収される排外的ナショナリズムではなく、むしろ国家に対抗する民衆(人民、民族、国民、市民)の連帯の思想としての「下からのナショナリズム」だ、というのが小熊の指摘である。言い換えれば、既に存在している国民国家の擁護ではなく、まだ存在しない「近代の産物としての国民国家」をいかにして創出するかという問題意識が共有されていたのであり、そのため、「第一の戦後」期においては、「民主」と「愛国」は対立語ではなく、むしろともに目指されるべき価値だった。そのことを後の世代は見落とし、ある者は「戦後民主主義はナショナリズムに敵対してきた」という右からの批判、またある者は、逆に「丸山らにはナショナリズムの要素があり、それはつまり体制的ということだ」という左からの批判を行なっているが、これはいずれも戦後思想に関する不正確な認識に基づいているということになる。ナショナリズム評価に限らず、憲法、教育基本法、明治時代評価など、多くの論点について、戦後初期における対抗軸と近年の対抗軸は、きれいに逆転した形になっていることが本書では示されている。
実をいえば、私自身、ある時期までの「進歩派」にとって愛国主義がプラス・シンボルだったことを見落としてきた(13)。それというのも、戦後日本の政治潮流で「愛国主義」といえば、すぐに思い浮かぶのは、赤尾敏の大日本愛国党とか自民党の極右派(タカ派)だったからである。一九五〇年前後の日本共産党が愛国路線をとっていたことはもちろん知っていたが、それは当時のソ連で強烈にとられていた愛国路線(14)が波及したもの――こうした側面も確かにあったと思うが――という文脈でのみ意識し、当時の日本でそれなりに広まっていた社会意識という背景については意識していなかった。
このように本書の議論から学ぶ点の多かったことを認めた上で、敢えて若干の疑問を出してみたい。といっても、ナショナリズム論は私自身の研究テーマとも関わるため(15)、個別的な論点での疑問に立ち入るなら、議論が細かくなりすぎてしまい、このノートの性格にそぐわない。ここでは個別の理論的問題には立ち入らず、それよりもむしろ実践的な価値評価に関わる点に触れてみたい。
本書で「左派ナショナリズム」の存在が強調されているのは、とりあえずは戦後思想の実像をより正確に押さえるためというアカデミックな狙いからだろうが、その背後には、ある種の実践的価値判断が潜在しているのではないかという風に私には思われる。それは、《左翼=反ナショナリズム》という等式に立つ右からのナショナリズム高揚の動きに対して、むしろ左からのナショナリズムもあり得るのだということを対置しようということではないだろうか。各所で、ある時期までの知識人たちの明治時代評価が高かったことを強調しているのも、それと関係しているように思われる。このように著者の価値観を推測するのは邪道かもしれないが、結論部で、「筆者は原則的には、ナショナリズムを一様に全否定することは、さほど意味をもたないと考える」と書かれている以上、これはあながち邪推とばかりも言えないように思う。
確かに、ナショナリズムとは単一定義になじまない多面的な現象であり、それを「一様に全否定」することに意味がないというのは、その通りである。従って、私は小熊の主張に正面から反対するつもりはない。だが、厄介なのは、「健全」で、「民衆」に支えられた「下からの」、あるいは「前向きの」ナショナリズムと、危険な排外的ナショナリズムとを明確な一線で分けることがなかなかできないという点にある。多くのナショナリズムは、前者がいつの間にか後者に転化してしまうという道をたどったのではないだろうか。
関連して、先の引用個所のすぐ後には、「ナショナリズムを全否定して「個人」を掲げる思想」という言葉がある。人間をその社会的文脈から切り離して、いわば剥き出しの個人としてみる人間観への批判がここには感じられる。そのこと自体には異議ないが、ナショナリズムの否定は必ず「個人」の絶対視に行き着くというのも一つの偏見ではないだろうか。純然たる「個人」という観念が空虚なものであり、「何らかの共同性や公共性」を想定しないわけにはいかないという指摘はその通りだが、「何らかの共同性や公共性」は本来多様であってよいはずであり(16)、それが必ず「ナショナリズム」という形をとるという必然性もないはずである。もっとも、これはある意味では言葉の問題であり、「それをもなおナショナリズムと呼ぶかどうかは各人の自由としよう」(小熊の引用する丸山眞男の言葉)という主張には賛同することができる(17)。
小熊と私の違いはごく微妙なものだが、あえて明示化するなら次のようなことになるだろうか。ある人が「何らかの共同性や公共性」を希求していて、それを「ナショナリズム」の言葉で表現している場合、それが排外的・閉鎖的にならない限りは、それをあえて否定的に捉える必要はないというところまでは賛同できる。ただ、私の場合、「それが排外的・閉鎖的にならない限り」という条件がどのようにして確保されうるのかという問題により神経質であり、「左派ナショナリズム」「民衆的ナショナリズム」だから大丈夫だという楽観論をとる気にはなれない。小熊がそのような楽観論をとっているのかどうかは定かでないが、少なくともその歯止めの問題にそれほどこだわっていないのではないかという気がしてならない。 

これまで、本書のいくつかの側面について感想を述べてきた。そうした全体的な感想とは別に、個々の論者についても、立ち入って論じたい誘惑を感じないわけではない。特に、丸山眞男、竹内好、吉本隆明などといった人々の著作は若き日の私に大きな影響を及ぼしただけに、彼らをどのように振り返るかは、自分自身にとって重要な問題である。しかし、その作業を果たそうとするなら、彼らの業績を読み直し、また私自身がこれらの論者についてどのような態度をとるのかという問題を含めて、きちんと論じ直さなくてはならず、そこまで手を広げることは今はできない(18)。
本書の主要対象というわけではないが、加藤典洋「敗戦後論」については、私自身が以前に小文を書いたことがあり(19)、小熊の評価との間にニュアンスの差があるので、簡単に触れておきたい。小熊は加藤が「第一の戦後」期の状況をきちんと意識しておらず、そのために「戦後思想」の把握が不正確になっていると批判している。この批判は当たっているように見える(また、私自身、これまであまり意識しておらず、本書から教えられた点である)。しかし、思想史を専門的に研究するわけではない加藤にとって、この論点はそれほどクルーシャルなものだとは思えない。また、加藤の所論にある危うさがあると考える点では私も同意見だが、ある危うさがあるからといってあっさりと全否定しないという態度こそ、小熊が多くの論者に対してとっているものであり、ここにもふさわしいのではないだろうか。そして、屈曲した論の全体をたどらずに、「アジアの二千万の死者」より「日本の三百万の死者」の方を先におくという個所だけに注目したり、まして加藤の眼が後者にしか向かっていないかに捉えるのは、加藤自身が事実上その論を修正していることを考えるなら、大多数の加藤批判者に共通する誤解ないし偏見ではないかと思われてならない(20)。小熊自身が「何らかの共同性や公共性」を重視するのであるなら、加藤との距離は見かけほど大きくないようにも思える。 

小さな疑問をまじえつつも、基本的には感心した部分を中心に書いてきた。これ以外にも、あれこれの不満や疑問がないわけではない。だが、著者と専門を異にする私としては、立ち入って本格的に批判したり、論争を挑んだりすることはできない。それに、多くの不満は、私の関心領域に関わる部分が相対的に弱いという点に由来するが、そのような不満を述べたてるのは、いわゆる「無い物ねだり」であり、内在的な批判にならず、あまり建設的ではない。
そう断わった上で、一読者がどのような「無い物ねだり」をしたくなるかを記しておくのも完全に無意味ではないかもしれないと考えて、ちょっとだけ、その点に触れておく。本書では、共産党をはじめとする左翼運動との関係がかなり重視されているが、そのわりには、ソ連の動向への注目が弱い。それ自体はもちろんやむをえないことであり、どうこう言うべきことではない。ただ、ところどころで社会主義圏の動向への言及がある場合にも、なぜかソ連を避けて、他の国の例を挙げている個所が目につく(21)。日本研究なのだから諸外国とりわけ社会主義諸国の例には一切言及しないというのなら分かるが、部分的に言及しているにもかかわらずソ連を避けているのは解せない。もっとも、この点はむしろわれわれソ連研究者の責任だというべきだろう。一九五〇年スターリン言語学論文や石母田歴史学の再検討なども含めて、今後の私自身の課題としたい。
ことのついでに、「無い物ねだり」をもう一つだけ付け加えるなら、共産党をめぐる状況についての論及が詳しいのに対して、新左翼への言及が中途半端だという印象を懐く(これに比して、「声なき声の会」からベ平連へと至る系譜については多くの紙数がさかれており、著者の共感を物語っている)。新左翼は専らブント(共産主義者同盟)で代表され、それ以外の諸潮流には全く触れられていない。その上、ブントの内情については、ほぼ専ら西部邁の「六〇年安保」(22)に依拠して書かれている。西部のこの本は確かに面白い回想であり、一定の資料価値もあると思うが、何といっても一当事者のものであり、しかも後年の思想的変化を合理化しようという意図が明確に出たものであるだけに、これだけに依拠するのは軽率だろう。私の気づいた限りで五回も引用しており、しかもそれ以外の回想類はほとんど全く利用していない。これでは、ある側面はそれなりに描き出されるにしても、一面的との印象を免れない(23)。 

(1)小熊英二「単一民族神話の起源――〈日本人〉の自画像の系譜」新曜社、一九九五年、九‐一四頁。
(2)この点に関し、塩川伸明「《20世紀史》を考える」勁草書房、二〇〇四年、第九章参照。
(3)蛇足だが、私はかつて「社会主義とは何だったか」勁草書房、一九九四年、二四一頁で本多のこの言葉を引用したことがある。それからまもない時期に、ある大先輩は、自分もこの言葉をよく覚えているということを私信で知らせてくれた。わりと強い印象を残す言葉だったのではないかという気がする。
(4)小熊英二「〈日本人〉の境界――沖縄・アイヌ・台湾・朝鮮――植民地支配から復帰運動まで」新曜社、一九九八年、六五〇頁。
(5)同右、七七一頁。
(6)小熊英二「清水幾太郎――ある戦後知識人の軌跡」御茶の水書房、二〇〇三年。
(7)小熊「〈日本人〉の境界」七五七頁注1。
(8)この点につき、部分的な考察だが、杉島敬志編「人類学的実践の再構築」についての読書ノートである程度触れたことがある。
(9)塩川伸明「集団的抑圧と個人」江原由美子編「フェミニズムとリベラリズム」勁草書房、二〇〇一年、五八‐六二頁参照。
(10)小さな差異をいえば、私の場合、本文に書いたように、「古い」表現形式と「新しい」内容のズレの問題と、新語創作の問題の双方が気になるが、小熊はこの前者の方に集中している。もっとも、これはそれほど決定的な問題ではないが。
(11)前作では、たとえば吉野作造論にそうした観点が感じられる。「〈日本人〉の境界」七〇三‐七〇四頁注3参照。
(12)丸山、大塚らの思想に「大衆」への嫌悪という要素が含まれていたという指摘には興味深いものがあるが、この個所はあまり掘り下げられておらず、「戦争から与えられた屈辱の傷および「卑屈」への嫌悪」という一般論にとどまっている(九六‐九八頁)。「軍隊のなかで「青ざめ」「泣き」、「浅ましい保身術」に手を染めねばならなかったのは、かつての学徒兵たちであり、おそらくは丸山自身にほかならなかった」という指摘(九九頁)も興味深いが、それ以上展開されていない。丸山らよりも年長の「オールド・リベラリスト」たちについて、一般民衆との隔絶が詳しく指摘されている(一九〇‐一九六頁)のと比べて、やや甘い印象を否めない。
(13)かつて私は、「日本の良識的知識人の間では「愛国主義」という言葉は極度に人気の悪い言葉である」(ツィプコ「コミュニズムとの訣別」の書評「エコノミスト」一九九四年八月二日号一〇八頁)とか、「表だって……「愛国」を唱えることは、戦後日本では最近まであまりなされなかった(背後で、秘かな本音として懐かれることはおそらく多かっただろうし、近年になって、かなり声高に唱えられるようになってきたが)」(「《20世紀史》を考える」二八七頁)などと書いたことがある。いま思うと、これらの記述は反省を要するようだ。
(14)塩川伸明「民族と言語――多民族国家ソ連の興亡T」岩波書店、二〇〇四年、六六‐六九頁参照。
(15)さしあたり、前掲「民族と言語」、より簡略には、「《20世紀史》を考える」第七章参照。
(16)そのことと関連して、「共同性」と「公共性」の関係をどう考えるかも大問題であり、この二つの概念を「や」という曖昧な接続詞で結ぶことにも疑問があるが、ここでは立ち入らない。
(17)この段落で取り上げた論点は、いわゆるコミュニタリアニズム(共同体論)とリベラリズムの論争にも関わってくる。不十分ながら私見を述べようとした試みとして、井上達夫「他者への自由」についての読書ノートを参照。
(18)丸山眞男については以前に読書ノートを書いたことがある。不十分なものであり、再論の必要を感じているが、まだその準備はない。
(19)「《20世紀史》を考える」の補論1。
(20)同右、二九〇‐二九一頁注9参照。
(21)たとえば、日本共産党の愛国路線が当時の国際共産主義運動の潮流に沿ったものだということを述べた文脈で、東ドイツおよび中国の例を引き合いに出しているが、「本家」ともいうべきソ連における愛国路線については触れていない(二八二‐二八三頁)。また、冷戦後の国際秩序変化と「戦争の記憶」の変容について述べた個所で、ユーゴスラヴィアの例だけを挙げ、ソ連・東欧圏の大変動について何も触れていない(八一三頁)。なお、「〈日本人〉の境界」には、ロシア・ナショナリズムへの断片的な言及があるが、これは限られた材料だけに依拠した図式化で、「つけたり」のような印象を受ける。
(22)西部邁「六〇年安保――センチメンタル・ジャーニー」文藝春秋社、一九八六年。
(23)一例だが、小熊は西部の回想から「多数決制に対する軽侮の念は並大抵でなかった」という個所を引用している(五六六頁)。これに対し、小川登は、西部が「ボル選〔ボルシェヴィキ選挙――不正選挙のこと〕」を当然視していたと書いた個所に反論して、次のように書いている。「東C〔東京大学教養学部のこと〕はそういうことをやったかもしれないが、京大でも地方でも、そういうことはしなかった。〔中略〕。票の入れ替えは考えつきもしなかった。〔中略〕。私たち現場指導者は、学生大衆の最終的選択には従うべきだという素朴な民主主義の信奉者であった」(小川登「京都から見つめた六〇年安保とブント」「島成郎と六〇年安保の時代2――六〇年安保とブントを読む」情況出版、二〇〇二年、一八四頁)。私は西部と小川のどちらかが嘘をついているという風には思わない。現実というものは多様なものであり、各人はその中のある面を特に強く印象のなかにとどめ、その記憶に忠実に書くことで、それぞれに異なった伝説を生んでいくということではないだろうか。 
 
「1968」小熊英二

 


複雑な感慨をもよおさせる力作である。
著者、小熊英二は、これまでにも一連の力作((「単一民族神話の起源」、「〈日本人〉の境界」、「〈民主〉と〈愛国〉」)など)で、その力量を遺憾なく発揮しており、私の注目を引いていた。私はややもすると他人の著作を読んでその欠点に目が向いてしまうという、教育者にあるまじき困った性格の持ち主なのだが、彼の仕事に関しては、多少の部分的批判がないわけではないにしても、概して非常に高く評価してきた(1)。その彼が、一九六八年前後の日本の若者たちの叛乱を主題とする本を書いた。これはちょっとした事件である。ちょうどあれから四〇年を経たということもあり、刊行の時点で、世間全般でもこの主題への関心が高まりつつあった。あの時代に若かった世代の人間にとってと、当時のことを直接知らない今日の若い世代とでは、関心の持ち方も大きく異なるだろうが、とにかく四〇年前の出来事を振り返り、なにがしかのことを考えてみたいという欲求はかなりの範囲にあるようだ。出版不況が続き、ある程度以上の厚さをもつ本は出版社から敬遠される風潮の中で、こんなにも厚い本が刊行され、結構売れているらしいというのは、それだけ、この主題に対する関心が高いということを物語るのだろう。
読み終えた感想は、冒頭にも記したように複雑である。その理由もいろいろとあるが、一つには、対象との距離をどのようにとるかという問題がある。小熊は一九六二年生まれということなので、六八年前後のことについてリアル・タイムの記憶はおそらくほとんどなく、対象となっている運動や人物は、彼にとって「他者」のはずである。しかし、遠い昔のことを取り扱う歴史書と違って、当事者の多くがまだ生きており、いろんな形で著者とも接触する機会があるだろうことを考えると、いわば「遠い他者」ではなく「近い他者」ということになる。「遠い他者」を扱う際には、対象に対して過度の感情的思い入れをもつことなく、冷静に論じることが相対的にできやすいのに対し、「近い他者」に対しては、共感・幻滅・反撥・批判等々の感覚がつきまとうのは当然である。小熊のこれまでの著作と比べていうなら、「単一民族神話の起源」および「〈日本人〉の境界」では対象との距離が相対的に遠い分、純然たる歴史書としての性格が濃く、「〈民主〉と〈愛国〉」では対象との距離がやや狭まってきていたが、本書に至ってはますますその距離が縮まり、そのことが様々な形で本書に反映しているように思われる。つまり、本書は、基本的には第三者的な立場から冷静に書かれた学術書という性格をもちながらも、ところどころでそれに徹することなく、著者自身の対象への共感や反感がかなり露わになっている場合がある。それは通常の歴史学の作法からすれば欠陥と評される余地があるが、見方によっては、むしろそれこそが独自の魅力だともいいうる。
こうした書物を読む読者の方も、遠い昔のことを書いた歴史書を読む場合と違って、自分自身の経験に照らして種々の個人的感慨をいだくことだろう。本書には長短取り混ぜて多種多様の反応が発表されているようだが(2)、私の眼にとまった範囲でいうと、どちらかといえば、対象となる時期に若かった、いわば当事者世代からのものが多いようだ。その中には、「自分も忘れかけていたことを思い出させ、きちんと整理してくれてありがたかった」、「自分たちのことが正確に描かれておらず、不愉快かつ不満だ」、「自分たちの欠点を指摘されて、反省した」など、いろいろなものがある(3)。より若い世代の読者の間では、「これまでほとんど知る機会のなかった事柄について好奇心を満たしてくれた」という反応も多いだろうが、他方、年長世代(当事者世代)に対して「うざい連中だ」という感覚をもっていた場合には、「あの運動の限界や欠点が指摘されているのを読んで、溜飲が下がった」と感じるということもあるだろう。もちろん、それ以外にも種々の反応があるものと想定される。
私自身についていうなら、私もまたかつてこの運動に関与したことがあるので、「大勢の登場人物の一人」としての立場から、いろいろな感慨をいだく(4)。他面、それとは別に、現代史という特殊な分野――対象との時間的距離が小さく、そのことによって、遠い昔を対象とする歴史研究とは異なる独自の困難をかかえる――の研究に携わっているので(5)、著者と対象こそ異なれ一種の同業者という面もある(著者は社会学者でもあり、これは私の守備範囲外だが、それなりの関心をもっている)。こういうわけで、いわば対象に関わる当事者性と、研究分野における同業者性という二重の資格から本書に接近することになる。前者はアカデミズムと関わらない一個人としての感慨であるのに対し、後者はむしろ研究者としての第三者的な感想ないし批評ということになる。この読書ノートでは、基本的には後者の側面を前面に出して書いていく――但し、最後の二つの節は例外であり、その意味で、この小文は第七節までとその後とで性格が異なっている――が、その中に自ずと前者の要素も含まれざるをえないということを断わっておきたい。
こうして、どのような観点から接近するかが複合的である上に、小熊の叙述も多面的であることからして、感想が単純一筋縄のものになりえないのは当然である。ある個所ではひたすら感心し、ある個所では大筋で賛同しつつも小さな疑問をいだき、ある個所では言い表わしがたい違和感を覚えるなど、いろんな種類の感想がごたまぜになって押し寄せてきた。このような大著――単に分量的に大きいというだけでなく、内容豊富だという意味で大きい書物――に対しては、感想をつづる側もよほど本腰を入れないと、上っ面を撫でるだけにとどまることになりかねない。私がどこまで深く読み抜くことができたか、いささか心許ないが、とにかくそれなりの力を込めて、いくつかの感想をつづることにしたい。但し、あまりに大部の著作であるため、何回も繰り返して通読することはできなかったということを断わっておかねばならない。この読書ノートを書くに当たって私は、先ず一回ゆっくりと、鉛筆で書き込みをしながら全体を熟読し、その直後に、思い浮かんだいくつかの感想や疑問を簡略なメモにまとめた。そのメモをもとに文章化するに際しては、個々の論点に関連するあちこちの個所を、鉛筆での書き込みや索引を手がかりに探し出して、該当個所を何度か読み返した。そして、最後に全体をもう一度、確認のためにざっと速読した。このような読み方であるため、最初に通読した際に見落とした点はその後も気づかないままになっている可能性がある。そうした見落としについては、ご寛恕を乞うしかない。 

巨大な長編であるので、先ず全巻の構成を確認することから始めるのが適当だろう。本書は序章および結論を別にして、四部からなる。第一部は背景説明(ややさかのぼった前史を含む)、第二部は直接の前史(一九六五年から六八年初頭まで)、第三部は本史(一九六七年一〇月から六九年まで)、そして第四部は後史(一九七〇年以降)という構成である。このような構成は、個々の論点選択や時期区分の細部をめぐって議論の余地がありうるとはいえ、一応は常識的なものといえるだろう。だが、第四部については、そうした常識的な枠の範囲に収まらないものをもっているように思われる。そこで、先ずもって、この第四部がどういう意味で異色なのかという点について述べてみたい。
通常の歴史書であれば、前史・本史・後史のうち、本史に圧倒的な比重がおかれ、前史と後史は軽い位置を占めるにとどまるのが普通である。本書でも、前史に当たる第二部は比較的短く、本史に当たる第三部が非常に長いという点まではそうした通例に則っているのだが、後史であるはずの第四部が約六〇〇頁という重さをもっている。このようなスペースの割り振り方からして、やや異例の観がある(第三部は上下巻にまたがっているが、あわせて約六七〇頁であり、第四部はそれと比べて大差ない紙幅をとっている)。
記述の順序と時系列の対応関係という観点からいっても、第四部には異色な点がある。というのも、これ以前の部分では、議論の都合から多少前後関係を入れ替えた個所もあるとはいえ、ほぼ時系列に沿った叙述が中心になっているのに対し、第四部の第一四章・一五章では、それぞれ一旦時系列をさかのぼらせて、六〇年代半ばから七〇年代初頭までというかなり長い期間を論じている。議論の終期についていえば、第一四‐一六章がほぼ七二年頃までを扱っていることから、後史の終点をその時期においているかにも見えるが、第一七章ではもっと後の時期まで扱われていて、現代の状況を視野に入れた「結論」に接続している。このようにみると、この第四部(およびそれをうけた「結論」)は、「一九六八年の後史」という域を超えて、それ自体、独立した意義をもつ現代社会論(一九七〇年代から今日までを見通す)という性格のものになっているのではないかという気がする。この点については、後で立ち返って考えることとしたい(この小文の七)。
第四部のもう一つの特殊性は、それまでの部分における主たる登場人物が概して無名の若者――一時的に世間の注目を集めたために「有名」になった人たちも含まれるとはいえ、基本的には、言論活動への従事を職業としない人たち――だったのに対し、第四部では、年長の知識人たちが多数登場する。当時若かった活動家たちの中でも、特に饒舌で、多くの著作を残した津村喬(「われらの内なる差別」その他の著作で当時有名になった)とか田中美津(ウーマン・リブの草分けとして一時脚光をあびた)といった人たちが取り上げられている。このような登場人物の違いと関係して、主たる素材の性格もかなり異なる。これ以前の部分での主要登場人物の大半が文筆業者でないということは、当事者が知的に系統だった文書をあまり多数残しておらず、むしろ稚拙で断片的な文章の集積に依拠せざるを得ないということを意味する。これに対し、第四部の登場人物たちの上記のような特徴は、この部分でだけは、当事者が自己の見解を詳しく説明した文章が大量に入手可能だということを意味する(6)。
そして、この最後の点は、これまでの部分と第四部とのもう一つの――私見では最大の――相違点とつながる。やや長くなるので、項を改めて論じよう。 

正直に言って、第三部まで読み進んでいた時点での私は、小熊のいつもながらの手際よい整理に感心しながらも、どことなく不満感をくすぶらせていた。小熊のこれ以前の著作においては、大量の資料を丁寧に読み込み、それらを手際よく整理するという長所に加えて、もう一つの得難い美点があった。それは対象に迫るときの姿勢のようなものに関わるが、著者が繊細な神経と細やかな感性を持っていることが文章から窺われるということであり、「この著者はただ単に通常の学者として優秀であるだけではない。何かそれ以上のものをもっている」と感じさせられた。ところが、本書の第三部までの部分では、そうした美点は、欠けているとまではいわないまでも、それほど高度に発揮されてはおらず、これだけでは「ただ単に学者として優秀であるにとどまる」ということになりはしないか、あの小熊の繊細な神経はどこへ行ったのだろうか、まさか歳をとって鈍磨したとは思いたくないが、といった感想ないし疑惑のようなものをいだいてしまった。
しかし、こうした疑惑は第四部を読み進むうちに次第に解消された。ここでは、対象に迫る際に、あれこれの図式の中に押し込んでことたれりとせず、それぞれの登場人物がその文章の中に込めようとして込めきれなかった心情の襞にまで立ち入ろうとする繊細さが十分に窺える。そうした美点が特に高度に発揮されているのが、ベ平連を扱った第一五章と連合赤軍を扱った第一六章であり、社会科学としての切れ味というよりも文学作品に似た感動を与えるという意味では、この二章が本書の白眉だというのが私の感想である(量的にもこの二つの章は特に長大で、それだけで一冊の本に匹敵する)。
もっとも、この二つの章の性格は決して同じではなく、むしろ対照的である。第一五章の主題たるベ平連は、著者が最も好意的な視線を投げかけている対象――但し、終わりの方ではその行き詰まりや限界にも言及しており、決して無批判の賛美ではない――であり、この章のトーンは明るい。もちろん、ベ平連に参加した人々は様々な矛盾や悩みをかかえていたし、それにどのように対処するかでしばしば意見を異にし、時として激しく対立しさえもした。しかし、その内部対立は「内ゲバ」を招くことなく、真摯な姿勢で討論の対象とされた、というのが本書の描くベ平連像である。いま述べたことと関連して、関係者たちは決して誰も彼もが同じような主張を唱えていたり、同じような形で行動したわけではなく、むしろ非常に多様だったということが示されており、具体的な固有名詞を伴った個性的人物群像が描かれている。小田実、吉川勇一、鶴見俊輔、高畠通敏、飯沼二郎等々といった超大物の知識人たちはもとより、当時若く無名だった山口文憲、吉岡忍等々の活動家たちも、それぞれに個性をもった存在として描き分けられている。
第一五章が本書中で最も明るかったとするなら、連合赤軍事件を扱った第一六章は、当然のことながら、本書中で最も暗い。だが、ここでも小熊は登場人物たちを単純に黒一色で塗りつぶすのではなく、可能な限り、彼らの生の肉声のようなものを聞き届けようと努めている。警察の情報操作によって極端に歪んだ像が広められたという事実にも、慎重な注意が払われている。不確かな情報を選り分けながら、推測をまじえて書くほかないため、ここで提示されている像がどこまで正確なものかについては留保が必要かもしれない(そのことは小熊自身が意識している)が、ともかく、ありがちなステレオタイプを避けようという努力は精一杯払われている。例えば、連合赤軍とは二系列の運動が合流してできたものだが、一方のブント赤軍派は、よくいえば明るく楽天的だが、悪くいえばルーズでちゃらんぽらん、他方の革命左派は、よくいえば生真面目で正義感が強いが、悪くいえば視野が狭く、革命理論も一九五〇年代の日本共産党を思い起こさせる古さがあった、というような両派の差異が、的確に指摘されている。両団体が最終的に合流したのは一九七一年末、つまり山岳基地への立てこもりがもう始まっていたという、かなり遅い時期だったが、その時点でも、「世界革命」論のブント赤軍派と「反米愛国」を掲げる一国革命論の革命左派の間には大きな溝があったことも指摘されている。
より興味を引くのは、個々人についての比較的詳しい記述がある点であり、それによれば、彼らのうちの少なからぬ部分は、当初においては、正義感から地道に出発した真面目な人たちだった(特に革命左派の場合)。そのような人たちが様々な条件の重なり合いのなかで、次第次第に切羽詰まった心理状況に追い込まれ、遂には、通常人にはなかなか理解できない異常心理の中で大量リンチ殺人を犯すところにまで追い込まれていく過程が精細な筆致で描かれており、ギリシャ悲劇的ともいうべき厳粛な悲劇性が感じとられる。いよいよ山にこもるという段階でも、「わたくしたちのしていること、どう思う?ばかげていることではないかしら……」と知人に問いかけたり、親や知人からの翻意の説得に対して、「それはよくわかっています。しかし、運動には勢いというものがあって、今すぐそうする〔運動から離脱して再出発すること〕ことはできないんです」とか「それは良くわかっています。だけど家に帰ることは、仲間を裏切ることになるので、私にはできません」と答えた人が複数いたといった個所を読むと、ギリギリまで凝り固まってはいなかった人たちが、迷いをもちながらも悲劇的な結末に突き進んでいく有様が頭に思い浮かび、暗澹たる気持ちにさせられる。連合赤軍事件をどのように意義づけるかという問題には後で改めて立ち返るが(この小文の六)、とにかく確認できることは、小熊が安易な類型化を避け、悪魔や鬼ではない、本来良心的だった人間がどのようにしてあのような事態にまで至ったのかを繊細な感性で描き出しているということである。
第一五・一六章に比べ、これらを挟み込む位置にある第一四章「一九七〇年のパラダイム転換」と第一七章「リブと「私」」は、やや焦点が拡散している観があるが、とにかく前者では津村喬、後者では田中美津という特異な個性を登場させ、彼らの著作を丁寧に読み解くことで、それぞれの軌跡を内面にまで立ち入って描こうとしている。こういうわけで、第四部は全体として、描写対象の内面にできるだけ肉薄しようという努力が最大限払われ、安易な類型化や図式化で全てを片づけてしまわないという小熊の姿勢が貫かれている。
それでは、これ以前の部分はどうだろうか。そこにおいては上記のような小熊の美点が全く窺えないとまで決めつけたら酷だろう。ありきたりの図式で満足せず、それぞれの出来事に新しい光を投げかけ、既成のステレオタイプを超えた新しい理解をもたらそうとする努力は、ここでも貫かれている。しかし、そこで主要な探求対象となっているのは、「セクト活動家とはどういう人たちだったか」「初期の全共闘の運動に参加した人たちはどのような意識だったのか」「衰退期の全共闘活動家たちはどのような心理状態に陥っていたか」といった問いである。そこにおいては、一人一人の具体的な人間の個性はあまり問題にならず、「セクト活動家一般」「初期全共闘活動家一般」「衰退期全共闘活動家一般」「民青系活動家一般」等々が主要な検討対象となっている。もっとも、上記はあくまでも事態を分かりやすく示すための単純化である。セクトの中でも党派ごとに色合いの違いがあったこと、当時の若者の間にも小刻みな世代差があったこと、全共闘といっても日大全共闘、東大全共闘、その後に続いた各地の全共闘の間には少なからぬ違いがあったこと等々は、小熊の叙述において明晰に意識されている。しかし、このように議論を細かくしてみても、結局は、「○○派の活動家一般」「××派の活動家一般」「日大全共闘の活動家一般」「初期東大全共闘活動家一般」等々といった風に分解されるだけで、一人一人というところにまでは行き着かない。本書の序章には「千差万別」という言葉が出てくるし、全体の巻末近くには、あの当時の出来事をどのように振り返るかに関する種々の見解がコメント抜きで多数列挙されているが、第一‐三部とりわけその中心をなす第三部では、そうした多彩さを万華鏡的に描き出すのではなく、むしろ限られた数の類型への整理に重きがおかれているような印象を受ける。
もちろん例外がないわけではない。セクト活動家のうち、例外的に一個人としての個性がくっきりと描かれている例としては奥浩平(一九六五年に自殺し、死後にその日記が「青春の墓標」という題で公刊された)があり、全共闘のノンセクト活動家のうち、例外的に詳しく個性が描かれている例としては、山本義隆(東大闘争時に東大全共闘議長をつとめた)がある。しかし、これはあくまでも例外である。この二人以外の大多数の活動家たちは、ときおり固有名詞を伴って記述されることもあるが、それは特定のカテゴリーに属する人々の集団的な特徴を示すための素材としてであって、ほかならぬその人の個性を示す記述はほとんどない。また、ほぼ同一の文章が各所で何度も繰り返されて「ワンパターン」的印象を与えることがあるが(7)、このことも、個性より法則性を重視する発想のあらわれであるように思われる(8)。
これにはもちろん理由がある。第四部の登場人物たちはそれぞれに異なった事情から大量の関係文献を残したし、いま挙げた奥浩平と山本義隆についても、前者には日記があり、後者には多数の関連文献がある。これに対して、それ以外の人たちについては、一人一人がたくさんの文献を残しているということは滅多になく、大勢の人々についての断片的な関連文献をまとめて、「このカテゴリーに属する人はこのような特徴をもっていた」という書き方をするしかない。である以上、彼らについて個性を描くことができないというのは資料上の制約に基づくものであり、小熊の罪ではない。それはそうなのだが、それでもやはり引っかかるところがないではない。
例外的に個性が描かれている人物として山本義隆が挙げられるということを指摘したが、その彼について、次のように述べた個所がある。先ず彼の六九年の著作「知性の叛乱」から六行程度の引用があり、それに続いて、この文章は事実に反することの指摘がある。そして、さらにそれに続けて、「「汚れていない人」である山本が、こうした公式的な文章を書いたのは、東大全共闘議長としてやむをえないことだったのかもしれない」とある。つまり、ここで引用されている文章に関する限り、山本の書いたことは事実に反する公式見解であり、それだけとってみれば、山本という人は自己の推し進める運動の利害という見地から事実歪曲を辞さない「汚い人間」だというイメージが生まれるのが自然である。しかし、彼については、本人の書いた多数の文章のほか、異なる立場の人が様々な観察を書き残している。「汚れてない人だ」という山本評は、当時岩波書店の雑誌「世界」編集長だった吉野源三郎のものである。そういった証言がほかにも多数あることから、小熊は、先の引用文を単純に「ウソ偽りを辞さない策謀家のもの」と解釈するのを避け、「立場上やむをえなかったのだろう」という同情的な解釈を引き出しているわけである。
では、仮定の問題として、もし山本に関して他の各種情報が全く存在せず、先の引用文だけが彼の書いたものとして残っていたとしたら、どうだろうか。その場合には、このような同情的解釈は引き出しにくい。「しょせん、全共闘の指導者などというのは、格好つけたことを言っていても、いざとなれば事実歪曲を平気で行なう策謀家だったのだ」という解釈が出てきてもおかしくない。山本はたまたま他の大量の情報が残っていたおかげで、そのような解釈から免れた。では、それ以外の大多数の活動家たちはどうだろうか。彼らもまた、しばしば事実に反する宣伝を行なったり、常軌を逸するほどに過激なアジテーションをしたりしていた。だが、彼らにしても、そうした文章を書きながら、「こんなことを書いていいんだろうか」と悩んだり、「これはちょっと言い過ぎかもしれない。でも、いまはこう書いておくしかないんだ」等々といった屈折した思いをかかえていたかもしれない。しかし、そうした思いはたいていの場合、書き記された文書としては残っていない。その結果、彼らの書いた文章は、そのまま彼らのメンタリティを物語るものと解釈されてしまうことになりやすい。
これは資料の限界からして仕方のないことだと言えば言える。ただ気になるのは、小熊がこうした事情をどこまで念頭におき、残された資料を読み解く際に配慮に入れているのだろうかという疑問である。小熊がそうした配慮を完全に欠いているわけではない。ほんの一例だが、「東大全共闘の学生は、自分自身が「いうこととやることが違う、ウソばっかり」であることを、潜在的には気づいていただろう。だからこそ、彼らは、近親憎悪のように「進歩的知識人」を批判し、「自己否定」を唱えたのかもしれない」という個所がある。ここでは、書かれていることをその字面だけで受けとめるのではなく、その背後にどのような「潜在」意識があるのかということまで思いをめぐらそうとする姿勢がある。しかし、他面、同種の配慮を払うことなく、書かれたことを字面だけで受け取って、「この人たちはこういうことしか考えていなかった」と決めつけているように感じられる個所も少なくない。字面の背後にあるものを想像するための手がかりが極度に乏しい以上、それは仕方のないことかもしれないが、私にはどうしても気になってしまう。
そのことと関係して、本書の第三部までの部分では、「当時の活動家はこれこれだった」というような、全称命題と受け取れる文章がしばしば出てくる。しかも、その根拠として引き合いに出されているのは、特定の個人の回想だったり、あるジャーナリストの観察だったりする。その回想や観察が、どの程度の信憑性をもち、また当時の活動家全体から見てどの程度代表的なのかといった問題の吟味がやや弱いのではないかという懸念をいだかせられることが、読んでいてしばしばあった(10)。もちろん、小熊は各種回想や観察記事などをたくさん読むことによって、全般的な趨勢に関するイメージを形成したのだろうし、そのイメージは、結論的にいってほぼ妥当だろうと思われるものが多い。しかし、それはあくまでも大きな趨勢あるいは平均値――厳密な統計が存在しない以上、ここでいう「平均値」とはあくまでも比喩的な意味だが――に過ぎず、その平均値ないし趨勢から外れた事例も少なくなかったはずである(11)。とすれば、「当時の活動家は」ということを無条件に書くのではなく、「当時の活動家の多くは」とか「当時の活動家のうちには、これこれの傾向が少なからずあった」といった留保付きの表現をとる方がふさわしいはずである。実際、本書にはそうした留保付きの表現をとった個所も多々あり、そのような個所については、私としてはほとんど異議がない。しかし、そうした留保をつけずに、あたかも全称命題であるかに提示されている個所も少なからずあり、そうした個所には微妙な違和感をいだかないわけにはいかない。 

資料を読み解くときの姿勢のようなことについてこれまで書いてきたが、その延長で、もう一点、触れておきたいことがある。それは、各種の回想を扱うときの史料批判の方法ということである。
歴史研究において回想というものが一つの重要な資料をなすこと、しかし同時に、それは往々にして種々のバイアスをはらんだ資料であるので、「史料批判」という観点が欠かせないということ、これはいわば常識である。小熊は当然ながら、このことをよく意識しており、序章できちんと論じているほか、あちこちで具体的な回想を使うに当たってどのような配慮をしたかを述べている。そこまではよいのだが、本書の主題に関わるような回想類というものは、通常の回想とは異なった特徴があり、その点についての特殊な配慮が必要ではないかと思われる。そのことについて、やや一般論的に考えてみたい。
人間はどうしても自分を正当化したいという欲求を、意識してか潜在的にかの別はともかく、大なり小なりもっているから、回想にはそのようなバイアスが含まれやすい。これは誰しもが了解する常識である。しかし、そこでいう「自己正当化」というのは実は一通りではないのだが、そのことはあまり意識されていない。先ず、通常の場合、回想というものはかなり高齢になって「現役」を退いた人が書くもので、そこにおいては、「過去の自分」の言動の正当化が主に問題となる。高齢者にとって「現在の自分」はもはや残り時間が少なく、せめて後世に対して「過去の自分」を名誉ある姿で残したいという欲求が大きな位置を占めるからである。
ところが、本書の主題のように、主要登場人物が非常に若かった場合、それから一定年月を経た後にも、まだ当事者たちは中年であり、「現役」である。そのため、多くの当事者にとって、「過去の自分」よりもむしろ「現在の自分」を守ることが重要になる。そういう条件下では、そもそも回想を書く人がかなり限られていて、やや特殊な立場の人――典型的には、かつては学生運動活動家だったが、現在は評論家だったり、フリージャーナリストだったりする人――に集中しやすいということが起きる。このこと自体、サンプルのバイアスという問題を提起するが、問題はそれだけではない。
中年の人が青年時代のことを振り返るとき、もちろん、その振り返り方には多種多様なものがあるが、「現在の自分」を正当化する必要というものが、意識するせよ無意識にせよ、かなり大きな位置を占める。そして、そのためには、「若かった時期の自分は非常に幼稚で、愚劣なことばかりしていたが、今の自分はずっと成熟しており、あのころよりも賢明になった」という風に描き出すことになりやすい。
また、ある種の運動に従事して、敗北や挫折を経験した人は、その経験を単純に忘却するのでなければ、何らかの「総括」――この言葉も独自の時代的刻印を帯びているが、その点はいまはおく――を必要とするが、その際、過去の自分が何も考えていなかったという風に描いた方が、そこからの「進歩」の顕示が容易になる。かつては何も考えていなかったのだから、少しでも考えさえすれば、かつてよりも前進だと言えるからである。これに対し、かつてもそれなりに一所懸命考えていたのだが、それでも失敗したり敗北したりしたという場合には、問題ははるかに複雑になる。だから、「あの当時は、何も分かっていなかった。口先だけいろんなことを言っていたけれども、それは全て空回りで、実際には何も考えていなかったのだ」という言い方をした方が、「あの当時もそれなりに一所懸命考えていたのだ」という言い方よりも、ずっと楽である。
こういう風に考えると、本書の主題に関わるような、当時の若者が中年になって書いた回想の場合、過去の自己を殊更に矮小化し、カリカチュア化する方向へのバイアスが働きやすい。誤解を避けるために断わっておくと、このように書くからといって、あの当時の運動の参加者たちが――私自身を含めて――幼稚でなかったとか、愚劣でなかったと主張しようというのではない。幼稚さや愚劣さは、いやというほどあった。そのことは骨身にしみている。ある意味では、そのことが自明だからこそ、それを殊更に誇張するということが起きやすいということである。幼稚さや愚劣さが大量にあったという一般論は否定する余地がないが、具体的な個々の局面に関し、どの程度、どのような幼稚さ、愚劣さがあったのかは、丹念な検証を必要とする。しかし、その丹念な検証は非常に骨の折れる作業である。そこで、労を省くためには、ひたすら幼稚だった、愚劣だった、何も考えていなかった、というステレオタイプを繰り返すことになりやすい。ここに、気をつけるべき問題がある。
やや一般論を述べてきたが、ここで小熊の著書に戻るなら、小熊は個別の出来事――ある時点で、ある場所で、何が起きたか――の経過を再構成する際には、複数の回想をつきあわせ、それらの異同を丹念に確かめ、相対的に信頼性の高いものを抽出するという労多い作業を行なっており、これは真に賞賛に値する態度である。また、特定党派に属する人の回想がその党派の正当性を裏付けようとするものになっている場合には、ときおり警戒心を表明しており、これも歴史家として当然の心構えである(12)。しかし、ある回想に、自分たちは当時何も考えていなかったとか、幼稚だったというようなことが書かれている場合には、ほとんど疑問を出すことなく、その証言をそのまま「事実」として受け取っているように見える(管見の範囲では、その種の配慮を示したとおぼしき個所は後注13しかない)。これは史料批判の観点から見たとき、問題なしとしない。 

やや観点を変えて、これまで取り上げなかったいくつかの論点について考えてみよう。
先ず取り上げたいのは、当時の運動が民主主義あるいは「戦後民主主義」というものをどのように捉えていたかという問題である。この論点は本書のあちこちで触れられているほか、「結論」部でも取り上げられており、これが小熊にとって相当重要な位置を占めていることが窺える。
この問題に関する小熊の見解を簡単にまとめるなら、次のようになるだろう。一九六八年前後の様々な運動を担った世代――まして、その先駆に当たる一九六〇年安保闘争を担った世代はなおさら――は、子供時代に「戦後民主主義」教育の洗礼を浴び、親や教師たちから民主主義の価値理念を吸収して育った。そのためもあって、彼らが何らかの運動を起こす際、その出発点では、「民主主義」擁護とか「民主化」要求という姿勢をとることが多かった。しかし、他方では、「戦後民主主義」は次第にその限界性や欺瞞性を露呈しつつあった。子供時代に「民主主義」を立派な価値として教えこまれた彼らは、大学生になる頃から、「現実は違うじゃないか」「民主主義を看板にしている大人たち、特にいわゆる進歩的知識人は信用できない」という考えに傾斜した。そして、結局は、「戦後民主主義」の全否定にまで行き着いた。しかし、「戦後民主主義」に種々の限界がつきまとっていたのは事実だとしても、それを単純に全否定してしまうことには大きな問題がはらまれていた。それこそは、彼らの運動を不毛なものにした大きな要因だった。
先ずもって、私はこのような小熊の考えに、結論的にはかなりの程度共感するということを言っておきたい。その上で、同時に、そこにはやや誇張や単純化がはらまれるのではないかとも感じる。われわれ(敢えて一人称複数を使う)の世代の中にそのような傾向がある程度まであったことは否定しない。しかし、それが全てだという割り切り方にも疑問がある。いくつかの例に即して考えてみよう。
第三章「セクト(上)」では、六八年世代の先駆となる六〇年安保ブントが取り上げられているが、そこには次のような叙述がある。「ブントの一部幹部には、「民主主義」などブルジョア思想にすぎないとみなす傾向があった」。「ブントにとって、「民主主義を守れ」などは、生ぬるい「ブルジョア思想」だった」。隣り合った頁に書かれたほぼ同趣旨の記述だが、前者では「ブントの一部幹部」だったものが、後者では「ブントにとって」という留保抜きの――つまり全称命題ととれる――表現になっている(そのすぐ後には、「ブント内に「民主主義」軽蔑の傾向があった」という、再び留保付きの表現があり、表現の揺れが感じられる)。
これに続いて、西部邁の回想が引用されて、自治会選挙における票の偽造に関する叙述がある。これと同趣旨の記述は、前著「〈民主〉と〈愛国〉」にもあった。それを読んだ私は、西部の回想だけをもとにそのように書くのは早計ではないかと考え、小川登が西部回想を批判している文章――自分たちは票の偽造など思いつきもしなかったという――を、私の読書ノート(前注1)に引用した。それを意識したのかどうかは定かでないが、今回の著書では、まさに私が引用したのと同じ小川の文章が紹介されている。その限りでは前著よりも視野が広がったことになり(13)、それはいいのだが、それに続く個所には、次のようにある。「このように地方その他による相違はあったようだが、概してブント中央は「民主主義」を重んじる度合いが少なかったといえよう」。これはやや安易な書き方であると思われてならない。西部と小川はそれぞれに異なる方向の記述をしている。もちろん、どちらか一方が真実で他方が虚偽だというほど単純な話ではない。私は上記読書ノートで次のように書いた。「現実というものは多様なものであり、各人はその中のある面を特に強く印象のなかにとどめ、その記憶に忠実に書くことで、それぞれに異なった伝説を生んでいくということではないだろうか」。西部的な側面と小川的な側面がどのように絡み合っていたか、どちらがどの程度優越していたかを論じることが本来なら必要だが、そのためには確定的な証拠を探すことが至難であるということを考慮して、敢えて結論を留保する記述にしたわけである。これに対し、小熊は「相違はあったようだが」という曖昧な留保をつけただけで、何の根拠も示さずに「概して」とつないでいる。どうして、西部回想が全体的な趨勢を物語り、小川回想の指示する側面は小さな留保にすぎないという結論が出てくるのだろうか。この個所は、根拠の不足した飛躍であると思われてならない。
一九六八年世代の「戦後民主主義」論については、第一四章「一九七〇年のパラダイム転換」で集中的に論じられている。要旨を簡単にまとめるなら、「戦後民主主義」の限界を指摘する議論は全共闘運動以前からもあったが、全共闘は「限界性」の指摘から飛躍して「全否定」に行き着いてしまった、というのが主たる論点である。ここでも、「全共闘運動と若者たちの叛乱では、「戦後民主主義」は全否定されていくことになる」とか、「若い世代の「戦後民主主義」批判は、「戦後民主主義」の全否定であり嘲笑であった」という、留保抜きの全称命題が提示されている。また、これに続く個所では、立命館大学におけるわだつみ像破壊事件(一九六九年五月)のことが詳述されている。それ自体としては興味深い叙述であり、私も多くを教えられたが、一大学における一つの個別事件が「「わだつみ像」破壊に象徴される若者たちの「戦後民主主義」批判」という風に一挙に一般化されている点には、飛躍があるのではないかと感じる。本書全体での結論部での総括も、「若者たちは「戦後民主主義」をその内容も理解せぬまま葬った」という、留保抜きの全称命題となっている。
どうして私がこの問題にこだわるのかについて説明しなくてはならない。小熊自身にせよ、小熊が高く評価する知識人たちにせよ、「戦後民主主義」が完全無欠だとか、批判的に考察する余地がないなどと説いているわけではない。むしろ、その「限界」を考察し、批判的再生を図ることが必要だというのが彼らの観点のはずである。その上で、「限界」の指摘、その批判的再生の志向と「全否定」とは異なる、前者が後者に転化してはいけない――これが小熊の言いたいことだろう。そこまでは私も同意する。しかし、これは非常に微妙な問題であり、どう論じれば「限界」の正当な指摘になり、どう論じれば「全否定」になるかは、時として見定めがたいことがある。アジテーション的な文章において誇張的表現がとられるのはありふれたことであり、「限界」の指摘が誇張的表現をとれば、あたかも「全否定」であるかに見えることもあるからである。
もちろん、「限界」の指摘と「全否定」の間の微妙な差異を軽視してはいけない、いくら前者を強調したくとも、ある一線を越えて後者にまで突き進んではいけない、と考えるのは正当である(特に、あの当時の経験がどのような結果を生んだかを既に見てしまった今では)。しかし、微妙な事項に関する精密な言語表現を職業的義務とする知識人たちと、およそ言語表現というものにまだ慣れていない若者たちの叫び声とを、この点で同列に並べることはできない。知識人に対しては、「微妙な差異を軽視してはいけない、あくまでもある一線を越えてはいけない」と要求することが必要だろうが、ありふれた若者の叫び声について同じように考えるのはどうだろうか。たとえていえば、恋人同士が喧嘩しているうちに、感情が高ぶって、「あんたなんか大嫌い」と叫んだときに、「君の今の発言はどういう趣旨なのか。文字通り、完全に愛が醒め、憎悪しか残らないということなのか、それともむしろ今でも好きだからこそ、思わずそう叫んでしまったのか。もし後者なら、そういう言い方はすべきでない」とお説教するようなものではないだろうか。小熊は第一七章で田中美津を論じる際には、「自己の「超マジメ」さを打ちけすための、反語的行為とも推測できる」「彼女自身の禁欲的性格を打ちけすための反語的行為」などという形で、表面的な言動の背後にあるものを推測しているが、全共闘活動家たちの言動については、それが「反語的行為」だったのかもしれないという視点をほとんど示さず、「大嫌い」という叫びを額面通りに受け取って、「全否定」と決めつけている観がある。
確かに、ある時期の熱気の中で、本来なら「あんたなんか大嫌い」とまで言うべきでない相手(戦後民主主義)について「大嫌い」と叫んでしまったというようなことは、かなり広範囲にあったと思う。その雰囲気は年長の人たちにもある程度感染して、無責任に熱気を煽り立てる知識人さえも一部に現われた。しかし、そのように叫ぶ際にも、「本当は好きだからこそ、こう叫ばずにはいれないんだ」という気持ちが大なり小なり潜在していたという例も、また少なくなかったはずである。それから数十年後に安倍晋三内閣が登場し、「戦後レジームからの脱却」が叫ばれたとき、「ようやく戦後民主主義の終焉がやってきたのか。遅きに失したが、何はともあれ目出度い」と考えた人と、「われわれはかつて戦後民主主義を批判したけれども、民主的価値そのものを否定するつもりではなかった。それが体制側から突き崩されようという時代になるとは、恐ろしいことになったものだ」と考えた人の割合がどんな具合だったのか分からないが(社会学的な調査でもあればよいのだが、私は知らない)、少なくとも一九六八年世代の中で前者が圧倒的だったとは思えない。
この問題は、私の専門研究の主題である社会主義運動の歴史のなかでも繰り返し論じられてきた経緯があるので、その点に簡単に触れておきたい。社会主義者たちは「民主主義」という価値理念そのものを否定することは滅多になかった(言説のレヴェルとは別に、現実において社会主義体制がおよそ民主主義から程遠い実態を生み出してきたことは周知だが、ここではあくまでも言説のレヴェルに即して論じている)。しかし彼らは、同時に、「ブルジョア民主主義の欺瞞性」を強く批判してきた。その批判がある程度以上強い口調になるとき、あたかも「民主主義の否定」であるかの様相を呈することもあった。ある流派の「ブルジョア民主主義批判」が実際にはきわめて非民主的な実態を生み出したことの批判から、民主的価値をもっと重視すべきだと唱える潮流も繰り返し現われた。よく知られた例としては、早い時期のレーニンとローザ・ルクセンブルクの論争や、ずっと遅い時期のソ連共産党に対抗するユーロコミュニズムの台頭などがあるが、それ以外にも同様の例は数多い。現存した社会主義の実態が広く知れ渡るようになった今日では、「社会主義は民主主義を否定したからよくなかった。もっと民主主義を重視すればよいのだ」という考え方が普及している。それにはそれなりの理由があるが、ことがこれで全て片づくわけではない。
レーニンにせよスターリンにせよ、言説ないし主観的目標のレヴェルに即していう限り、民主的な価値理念を否定したわけではない。むしろ「ブルジョア民主主義は偽りの民主主義であり、われわれはそれよりも高次な本物の民主主義を樹立するのだ」と唱えていた。その「本物の高次の民主主義」が実際にはその主観とは裏腹な現実に導いたのは明らかだが、それを批判する際に、「やつらは民主主義を否定したからいけないのだ」とするのでは真の批判にならない。言説ないし主観的目標においては「高度の民主主義」を掲げた運動が結果的にはそれとおよそ遠い現実を生み出すことがありうるということ、そのことを反省しない限り、「やつらと違ってわれわれは民主主義を掲げているのだから、真に民主的なものをつくり出すことができる」と称する運動が同じ轍を踏まない保証はどこにもない(14)。小熊の周到な立論をこの種の運動と同一視するつもりはない。ただとにかく、一九六八年世代は「戦後民主主義」を全否定したというあっさりしたまとめ方をして、それに民主主義の重視を対置するだけでは、この難問を突破しきれないのではないかという疑問はどうしても残る(15)。 

次に、連合赤軍事件――とりわけ、その末期における凄惨な大量リンチ殺人事件――の位置づけに関する小熊の考えを取り上げてみたい。連合赤軍の軌跡が第一六章で精細に描かれていることは前述したが、この章の本論と、その末尾にある評価の間には、微妙ながらある種の乖離があるような気がする。
この章の末尾近くで小熊は、様々な論者の評価を紹介した上で、「上述のような論じ方は、いずれも事態を見誤ったものと思われる」としている。どうしてそのような見誤りが広がったかといえば、「当時の活動家たちが、自分が体験していた「総括」「糾弾」「自己批判」などを投影して、連合赤軍事件を自分たちの活動の延長にあると解釈したこと」が問題だという。この指摘は、本当は「延長」にあるわけではない事件がそういうものとして解釈されてしまったという評価を示唆している(16)。その点を、以下では、もう少し詳しく見ていこう。
小熊の考えは次のようなものである。先ず、この章の本論の中では、「劣悪な衣食住環境、重労働による疲労、指名手配や逮捕の恐怖と緊張、夜も寝られない寒さ、連続するリンチ死といった状況で数ヶ月も集団生活していれば、判断能力も正常でなくなるのは無理もない」(なお、この引用の末尾にある「リンチ死」とは大量リンチ殺人が起きる前の最初の数例を指すと思われる)、「森〔恒夫〕と永田〔洋子〕が自分の身を守るため、逃亡や反抗のおそれがあるとみなした人間を、口実をつけて「総括」していたのではないか」、「極度に劣悪な衣食住環境、極寒の閉ざされた山、いつ「総括」や逮捕の対象にされるかわからないという不安と恐怖と疑心暗鬼……しかもそれまでの内ゲバで暴力に慣れきってしまっていたという背景」等と指摘されている。それらの指摘を踏まえて、章末では、「追いつめられた非合法集団のリーダーが下部メンバーに疑惑をかけて処分し」たという風にまとめ、これは、「「〈理想〉を目指す社会運動」が陥る隘路などという問題とは、無関係だと筆者は考える」と結論する。
この結論は、続く第一七章「リブと〈私〉」で、田中美津が歴史的事実とは無関係な「連合赤軍事件」イメージに基づいて自己をそこに投影したという指摘につながっている。そして、書物全体の結論部でも次のように述べられている。「連合赤軍事件の実態は……小事件である。にもかかわらず、あの事件が戦後日本の歴史を語るうえで欠かせないものとなっているのは、この小さな事件に、叛乱する若者たちが過剰な意味づけを行なったからだった」。
このような小熊の評価をどのように受けとめるべきだろうか。先ず、基本的にはこれは頷けるものであり、決して全面的反論など意図しているわけではないことを明記しておきたい。その上で、表現の問題として、「無関係だ」とか、「過剰な意味づけ」を排してみれば「小事件」だという言い方は、やや言い過ぎではなかろうかという疑念も打ち消しがたい(17)。第一、それでは、小熊自身がどうしてこれほどの労力をこの事件の解明に費やし、これほども長大な章を書いたのかも分からなくなってしまう。第一六章の本論における詳しい描写の中には、章末およびその後の部分における簡単な断定的結論の枠に収まりきらないものがあるのではないだろうか。
各種の左翼運動――あるいは、より広く「理想を目指す社会運動」――が、突き詰めれば必ず連合赤軍と同じような問題を抱えるというのは、もちろん短絡的な議論であり、そこには多くの媒介環をおいて考えなければならない。しかし、逆に、それが完全に無縁だと言いきることもできない。何らかの理想を掲げる運動は、自己の「正義」を過剰に信じる傾向があり、それがいくつかの条件と結合したとき、極端な悲劇を生み出すことがありうる。そのことはおそらく小熊も否定しないだろう。ところが、「無関係だ」というあっさりした断定は、そうした可能性までも否定するかのようにとられかねず、それは行き過ぎではないかという疑念が生じる。
推測になるが、小熊がこんなにも「過剰な意味づけ」を批判し、あたかも「実は大した出来事ではなかった」といわんばかりの書き方をするのは、多くの論者がこの事件を過大評価し、しかもそれを自己に引きつけてきたことへの反撥があるのではないかと思われる。次の文章には、そうした感覚がよく表出されている。
「感傷的に過大な意味づけをしてこの事件を語る習慣は、日本の社会運動に「あつものに懲りてなますを吹く」ともいうべき疑心暗鬼をもたらし、社会運動発展の障害になってきた。しかし時代は、そこから抜け出すべき時期にきているのである」。
この指摘は理解できるし、正当でもある。しかし、この事件に対する反応はそれが全てではなかったのではないだろうか。第一六章各所で言及されていることだが、当時の運動家たちのあいだには連合赤軍を馬鹿にして、「あんなやつらとわれわれを一緒くたにされてたまるものか」という態度をとる者も少なくなかった。リンチ殺人事件が明らかにされた後も、連合赤軍を「愚劣」と描き出して、自己をそれとは無縁と強調する反応があった。私自身は、当時は既に運動から離脱していて「現役」活動家でなくなっていたが、「現役」時代の記憶がまだ強く残っており、「あいつらとわれわれとはまるで違うんだ。無関係だ」という発想が自然なものと思われた。そうした発想を持っていた私は、この事件に関する様々な文献を読む気が――他の新左翼諸潮流に関する文献はかなり継続的に読んできたにもかかわらず――長らく全く起きなかった。そうした私が、いくら異質とはいってもやはり完全に無縁とは言い切れないのではないか、完全に目をふさぐのではなく、一つの極端な事例として一応は知っておく必要があるのではないか、と考え始めたのはかなり遅い(今でもあまり関連文献をたくさん読んではいない)。それはともかく、「あいつらとわれわれとはまるで違うんだ。無関係だ」という発想は、本書で問題とされている「過剰な意味づけ」と並んで、もう一つの典型的反応だったのではないだろうか。だとするなら、「無関係だ」という小熊の語り口は、後者に対しては有効な批判たり得るとしても、前者に対しては、むしろ「ああ、やはりそれでよかったのか」という反応を強めてしまうことになりかねない(18)。
「あつものに懲りてなますを吹く」危険が存在するのは小熊のいう通りである。私自身、それを痛感する。だが、敢えていえば、熱い物を不用意に口に入れて火傷をした子供が、この諺を大人から言い聞かされて、何かを口に入れるときに全く注意を払わなくてもいいんだと考えたなら、それはやはり困ったことだろう。無警戒でもなければ過剰警戒でもない中庸の態度が重要だというのが優等生的答案になるだろうが、何が中庸かを具体的な場面において決めるのはなかなか難しいことである。結局、様々な行き過ぎを含めた試行錯誤の経験を積み重ねる中で、適正と思われる水準を模索していくほかないだろう。 

本書の結論部では、ただ単にそれまでの内容が要約されるにとどまらず、その後の現代まで含めた展望が示され、独自の現代社会論が展開されている。そこには、いくつかの図式が提示されており、それぞれに興味深いものがある。
本論中で繰り返し述べられていた図式が改めて再確認される形になっているのは、「近代的不幸」から「現代的不幸」へという図式である。簡単に言えば、「近代的不幸」とは戦争・貧困・飢餓などであり、「現代的不幸」とは、アイデンティティの不安・未来への閉塞感・生の実感の欠落・リアリティの希薄さなどを指す。一九六〇年代末の若者たちは、こうした「現代的不幸」を感じ始めた最初の世代だった。それが最初の経験だったことから、彼らはそれを表現する適切な言葉を持たず、むしろ「近代的不幸」に関わる言葉で説明しようとしたり、あるいはまるで支離滅裂としか思えない言語表現をとったりした。それ故、彼らの運動はそれ自体としては挫折に終わらざるをえなかったが、しかし、「現代的不幸」と最初に取り組もうとし始めた事例としての意義はある、というのが大まかな見取り図となる。
しかし、「結論」で述べられているのはこれだけではない。一つには、「七〇年のパラダイム転換とその限界」という図式がある。「七〇年のパラダイム転換」という主題は第一四章で出てきたもので、それまでの左翼が軽視しがちだった差別問題・マイノリティ問題が急速に注目を浴びるようになり、以後の左翼運動の主柱となったことを指す。小熊はこの新パラダイムに関し、それまで軽視されていた重要問題に眼が向けられたことの意義を認める一方、そこには「利用主義的な部分」もあったと述べ、またそれが「良心的」であること自体が問題を生み出す側面もあったことを指摘している。というのも、差別とかマイノリティの問題は、多くの人々にとっては「自己に内在した問題ではないだけに、「良心」で自分を鞭打って運動に参加し続けるしかない、という「しんどさ」を伴」い、そこから種々の無理が発生するというのである。関連して、日本人は被害者であると同時に加害者でもあるという小田実らの議論が「日本人=加害者」論に純化され、そのことが運動に伴う息苦しさを増したとされ、マイノリティの問題を提起するというプラスの側面はマジョリティに訴える言葉を失ったというマイナス面も伴った、と指摘されている。
「結論」ではさらに進んで、一九九〇年代後期以降、「七〇年のパラダイム」自体が失効したと論じられている。マイノリティ(アジアの民衆、在日韓国・朝鮮人、被差別部落民、障害者、また単純に並置するのがためらわれるが女性など)が運動の焦点になるということは、マジョリティ(日本人男性で、被差別部落出身でも障害者でもない人)にはあまり問題がないという暗黙の前提があり、それは高度経済成長のおこぼれが多数派労働者に均霑していることを前提していた。今や不安定雇用が増大し、「プレカリアート」と呼ばれる新しい「社会的弱者」が登場している中で、「七〇年のパラダイム」はこの社会的弱者の心に響かないものになっている。このパラダイムが完全に過去のものとなったとまではいえないにしても、これだけに依拠して社会運動を組織する時代は終わったのではないか、というのが小熊の問題提起である。
これは非常に興味深い問題提起であり、私も多くを教えられた。そのことを認めた上での疑問だが、この問題提起と本論とはどのような関係に立つのだろうか。前述したように「七〇年のパラダイム転換」という概念は本論第一四章で出てくるものだが、この章は第四部に属するから、本書の構成からすれば「本史」ではなく「後史」の部分で出てきたということになる。しかも、そこで小熊が強調しているのは、このパラダイム転換は「一九六八年」の一部とされることが多いが、それは正しくなく、むしろ「一九六八年」の運動の敗北、その退潮の中で、七〇年後半に転換が起きたのだという点である。もっとも、第一四章の記述をよく読むと、七〇年半ば以前にもそれに連なる動きがあったことが指摘されているし、私自身の記憶でも、七〇年以前に既にこうした要素が現われ始めていたように思うが、その点にはここでは立ち入らない。とにかく小熊の図式では、「七〇年のパラダイム転換」は「一九六八年」そのものではなく、その敗北後に現われたものである。そして、それもまた九〇年代後期にいたって失効したとなると、「一九六八年」の社会運動は今日に連続するものではなく、二度の切断を経ている――一度目は七〇年後半のパラダイム転換、二度目は最近におけるその限界化――ということになりそうである。そのように論じる余地があるということは理解できる。しかし、「1968」というタイトルをもち、大部分の紙幅をその時期にさいている本の結論が、実は「一九六八年」というのは現代につながる意義をもつものではなかったということになるのは、何となく落ち着きが悪い感じがする。
「結論」ではもう一つ、ピラミッド型の組織から緩やかなネットワーク関係へという図式も提起されている。ピラミッド型の組織構造は、ある時期までの生産構造に見合った組織形態であり、それが政党組織その他にも採用されていた(日本共産党も、それに対抗して生まれた諸セクトも)。このような組織のあり方は「管理社会」への若者の反撥を生み落とし、当時の若者は緩やかなネットワーク関係を自然発生的に生み出していった。それはベ平連に先駆的に示され、全共闘運動にも類似の原理が広がっていった。それは古い組織構造への反逆から生まれ、一時的には解放的雰囲気を生んだ。しかし、「一種の祝祭状態ともいえる蜂起の興奮状態」は長く続くものではなく、それ自体としてはまもなく終焉していった。その後に残ったのは、高度経済成長の生んだ大衆消費社会への適応だった。というのも、緩やかなネットワーク関係というのは、もともと高度資本主義に適合的なところがあったからである。もっとも、一時的にせよ各種の叛乱に参加した学生たちが企業社会や消費社会に適応するには、一種の「転向」が必要とされたが、それは比較的速やかに「二段階転向」――第一段階は「戦後民主主義」批判による戦後理念の排除、第二段階は連合赤軍事件への過剰な意味づけによるリゴリズムの否定――として実現された、というのが大まかな見取り図である。
この図式も、多少の疑問の余地はあるにしても、なかなか興味深いものをもっている。ベ平連に対して共感を隠さない小熊だが、ベ平連が先駆的に体現した緩やかなネットワーク関係が実は大衆消費社会への適応に道を開くものだったという醒めた認識を示していることも注目に値する。社会運動の組織形態と生産現場における組織原理の対応に注目して、「下部構造が上部構造を決定するように」と書いているあたりは――他の個所ではマルクス主義を時代遅れの思想と一蹴しているにもかかわらず――マルクス的発想の部分的摂取という観もある。先の紹介では省いたが、共産党がたどった歴史的経緯との比較という論点も、独自の興味を引くテーマである(19)。
しかし、この図式も本論との関係で気になるところがある。緩やかなネットワーク関係を最初に体現したとされるのはベ平連だが、そのベ平連を論じた第一五章では、ざっと見直した限り、この言葉が使われている形跡はない(20)。仮に出てきたとしても、この章も第四部のうち、つまり「本史」ではなく「後史」の部分に属する。つまり、「七〇年のパラダイム転換とその限界」および「ピラミッド構造から緩やかなネットワーク関係へ、その大衆消費社会への適応」という図式は、いずれも「一九六八年」そのものとは直接つながらない主題であるかのような観を与える。それはそれで独立のテーマとして興味深い論点ではあるだろうが、それが「一九六八年」を論じた書物の結論部の主要な内容だというのは、十分腑に落ちないところがある。
「近代的不幸」から「現代的不幸」へという図式だけであれば、やや単純にすぎる観はあるにしても、本論との関係を見通すことは容易である。そして、「一九六八年」の社会運動が「現代的不幸」への最初の反応だったと位置づけるなら、それが最初であるが故の未熟さを含み、敗北せざるをえなかったことを指摘すると同時に、彼らがとにかくも最初に取り組んだ課題に後続世代もまた直面しているのだという形で、現代との連続性を論じることができる。これに対し、「七〇年のパラダイム転換とその限界」および「ピラミッド構造から緩やかなネットワーク関係へ、その大衆消費社会への適応」という図式を持ち出すと、「一九六八年」の社会運動に現代的な意義はあまりない、現代社会が取り組むべきなのはそれとは異質の新しい課題なのだ、という議論になりそうな気がする。どちらもそれぞれにありうる議論ではあるが、方向性はかなり異なる。この小文の二で、本書の第四部(およびそれをうけた「結論」)はそれまでの部分とかなり異なる感じがするという趣旨のことを述べたのは、いま述べたことと関係する。
邪推になってしまうかもしれないが、ひょっとしたら小熊は本書を書き進めるうちに、「一九六八年」のみをひたすら中心テーマとした本を書くことに何か飽きたりないものを感じ、その後の時期に力点をおいた現代社会論の要素を多く取り込むようになったのではないだろうか。第四部および「結論」がこんなにも長大なものになっているのは、そのあらわれであるように思われる。それはそれで一定の意義はあるが、私の感想としては、これは別個のテーマとして次著に譲った方が、一書としてのまとまりはよりスッキリしたものになったのではないかという気がする。 

まだこれ以外にも取り上げるべき論点はたくさんあるが、それらを片っ端から取り上げているわけにはいかず、そろそろ論を打ち切る段階に近づいてきた。ただ、第一七章の前半部で出てくる左翼運動の中の女性活動家の不満・怒りという論点だけは、どうしても素通りすることができないと感じる。と同時に、これを正面から論じることもできないということを痛感する。そこで、本書からはやや離れてしまうが、その理由を簡単に述べておきたい。
私は子供時代から、どちらかといえば「女性的」な性格の男の子であり(「女性的」という言葉をカッコ付きの表現にするのは、いうまでもなく「社会的通念として」という趣旨である)、おそらくそのことも一因となって、他の子供たちとの関係をうまくつくることができなかった。たまたま学校の成績がよかったおかげで、直接いじめられたり、正面から馬鹿にされることはなかったが、どこかしら「変な子だ」という視線で見られているという感覚がずっとつきまとっていた。当時はまだ「ジェンダー」とか「性別役割観念」とか「性同一性障害」といった言葉が知られていない時代で、どこにどういう問題があるのかも把握できないままに、漠然たる疎外感をいだいていた。
そうした性格をもっていた私は、学生運動に参加するようになってから、その内部における女性差別という問題には比較的早い時期から意識を向けていた(21)。といっても、そのことを鮮明に問題提起したというようなことでは全くない。何をどのように問題にしてよいのかも分からないままに、ただ右往左往するばかりだった。あるときの学生集会で、男性活動家が「これからの闘争は断固として男の闘争でなくてはならない」とアジったことがあった。間髪を入れずに、会場の女性活動家から「ナンセンス!」という野次が飛んだ。そのとき、私は表現しようのないやりきれなさにとらえられた。その男性活動家の言葉が差別的だということは明白であり、だからこそ直ちに野次が飛んだわけだし、私もそのアジを聞いた瞬間に、まずいことをいうなと感じた。だが、私は女性活動家の方に単純に同調することもできなかった。その野次のいわんとするところは、「男だけでなくって、女だってゲヴァルト闘争はできるんだ」ということだったのに対し、私が内心感じていたのは、「自分は男だけれど、本物のゲヴァルト闘争など、恐ろしくってとてもできない」ということだったからである(22)。
そのときはこの問題を突き詰めて考えることをせず、うやむやのままに過ごすことになった。しかし、それから大分経って、否応なしにこの問題が突きつけられる場面が生じた。それが、本書第一七章でかなり詳しく描かれている第三〇回中核派全学連大会(一九七一年七月)における女性活動家による中央指導部批判に端を発した大混乱である。このショッキングな出来事は、あれから四〇年近く経った今でも、私の脳裏に消しがたい痕跡を残している。もっとも、あまりにも突然の大混乱だったため、誰がどんなことを言い、自分がどのように考え、行動したのかも、記憶の中でごちゃごちゃになってしまっており、正確な再現はできない。一つだけ言えるのは、私は男性活動家の多数派はもとより女性活動家の多数派にも言い表わしがたい違和感をいだき、深い孤立感にとらわれたということである。それはちょうど私が組織から離脱・脱走しようと秘かに決心しつつある時期のことだった(但し、離脱の直接の契機がこの問題だったというわけではない。「こういう性格の自分に、ゲヴァルト闘争なんかできるわけない」という意識が一層強まり、来るべき「十一月決戦」が呼号されている中で、その前に逃げ出すほかないと思うに至ったということである)。
それから何年か経ち、ラディカル・フェミニズムの思想が日本にも紹介されるようになったとき、私はそれらの文献をむさぼり読んだ。「たまたま女に生まれたからといって、どうして世間の通念でいう女性らしさに順応しなければならないのか」と問いかける彼女たちの声は、「たまたま男に生まれたからといって、どうして世間の通念でいう男性らしさに順応しなければならないのか」という私の年来の疑問と響きあうものがあったからである。それ以来、私は、このテーマを専門研究の対象としない男性としてはおそらく異例な程度に、この種の文献を読み続けてきた。だが、たくさんの関連文献を読み続けているうちに、ラディカル・フェミニストたちの主張――もちろん、彼女たちが「一枚岩」だということではなく、内部の多様性を含んでということだが――と私の感覚とは、多くの点で重なり合うにもかかわらず、どこかで微妙にすれ違っているとも感じるようになった。そのすれ違いがどういうものであり、何に由来するのかという問いについて思いをめぐらすようになってから数十年経つが、今なお答えは出ていない。
私が本書第一七章前半について、素通りすることはできないが、かといって正面から論じることもできないと感じるのはこうした事情による。 

やや長大になりすぎたこの読書ノートをそろそろ締めくくるべき段階にさしかかった。
私はこの小文の前の方で、小熊は単に「通常の学者」として優秀であるのみならず、繊細な神経と細やかな感性を持っていること、しかし、本書ではその美点は第四部で最大限に発揮される一方、それ以前の部分ではあまり発揮されていないという不満を感じる、といったことを書いた。おそらく小熊自身は、このような私の感想に対して、心外だという感想をいだくのではないかと思う。その理由について私が勝手に憶測するのは邪推になってしまうおそれがあるが、敢えて私なりの推測を述べるなら、そこには次の事情が作用しているのではないだろうか。本書第一‐三部、とりわけその中心をなす第三部における主要な登場人物といえば、セクトの活動家たちと全共闘のノンセクト活動家たちということになる。そして、彼らは――運動が高揚に向かいつつある初期の局面を除けば――小熊の共感をあまり誘う存在ではない(対照的に、小熊が強い共感を寄せているのはベ平連の活動家たちである(23))。そのような、あまり共感を持てない相手に対して、しかもその内面を探るのに好適な素材が極めて乏しいという条件下で、敢えて内在的な理解をしようとする意欲を持てないのも、無理からぬものがある。
これに対して、私自身は、まさに小熊が最も低く評価している二つのカテゴリー――「全共闘運動衰退期にリゴリズム精神で頑張り続けてしまった学生」と「セクト活動家」――の双方に該当する。私が本書の第三部を読みながら、大筋ではほぼ同意しながらも、「それだけが全てじゃないはずだ」と繰り返しつぶやかずにはおれなかったのは、そうした事情による。だが、もちろんこれは小熊の責任ではなく、むしろわれわれおよび私自身の責任である。
先ず、われわれ――ここでの「われわれ」とは、私自身が属した党派だけでなく、より広く、種々のセクトおよびノンセクトの活動家全般を念頭においている――について考えてみよう。われわれが当時書き散らかした文章の大部分は、生硬で、紋切り型で、稚拙で、時としては支離滅裂なものさえも少なくなく、そうしたものを後世の研究者が丁寧に読むということは、大変な労苦を伴う作業だったろうと推察される。また、あの時代から年数が経つにつれて、一部には回想類を書く人も出てきたが、そのほとんどが歴史への証言としては不十分だということは、この小文の四で述べた通りである。あの時代の運動を対象とした研究の類も少数現われつつあるとはいえ、いうにたるほどの蓄積をもってはいない(小熊は各章の注で、本格的な先行研究はほとんど存在しないということを繰り返し指摘している)。このような状況では、とりあえずの作業として外面的な把握を試み、類型的な図式化を先行させるほかないという研究戦略は十分正当化されることになるだろう。とすれば、小熊のような俊英がこの主題に関しては外在的類型化にとどまっているのは、彼の罪ではなくわれわれの責任だということになる。
では、「われわれ」ならぬ「私自身」はどうなのかということを、自分に問いかけねばならない(このように、他ならぬ自分はどうなのかということを気にせずにおれないのは、あの時代の「主体性」論的発想を今なお引きずっているということなのかもしれない)。「過去の自分」に関する精細な歴史的証言と呼びうるものがこれまでほとんど現われていないのであるなら、誰かがそれを試みねばならないし、私もまたそのような義務を負っているのではないかということを感じる。その一方で、これは絶望的なまでに難しい課題だということも痛感する。あの当時の自分の言動を正確に思い出すということは、その正確性をチェックするための「客観的」データもまた乏しいという状況を考慮するなら、途方もなく困難である。その上に、それを同時代の他の状況と適切に関連づけ、その後の経過を踏まえて歴史的展望の中におくとなると、これはもはや誰にも実現できそうにない仕事だといいたくなる。そうした困難さを言訳にして、果たすべき義務を回避してよいのか、という内心の声も聞こえるが、少なくとも当面は、その課題を果たせる展望はないというしかない(24)。
このようなことを書いただけでは、「締めくくり」というにはあまりにも腰砕けである。そこで、便法ではあるが、本書の中で印象的だった一つの断片を引いて、それに絡める形で、私の感慨を書きとめることにしたい。その断片とは、ベ平連の若手活動家の一部が全共闘運動に参加していくことに対してベ平連の年長幹部がとった態度に触れた個所である。それによれば、年長幹部は全共闘運動に関して部分的賛同や親近感を持ちつつも、肯定できない部分もあると感じていた。しかし、だからといって、若手が全共闘運動に入っていくのを止めることもできず、ただ「いたましさの念」で見守るしかなかった、というのである。
この個所を読んでいるうちに、私は奇妙な妄念にとらわれた。もし仮にタイムマシーンに乗って、あの時代に行ったとするなら、「現在の私」は「当時の私」に対してどのような態度をとるだろうかという問いが浮かんだのである。もちろん、「現在の私」は「当時の私」がやっていることを見て、はらはらせざるを得ないだろう。そんなことを続けていたら、自分自身を心身とも傷つけるだけでなく、周囲の人たちにも多大の迷惑をかけ、また全社会的にも、目指す目標を達せられないままにただ混乱を残すのみ、という不毛な結果になる可能性が高い。しかし、では、「そんなことはやめろ」と呼びかけられるかといえば、それはできない。そもそも、「当時の私」も、分別くさい大人がそんな風なことを言っているということは承知の上で、「そのような「まともな」意見を、したり顔で言う大人の言葉など、意地でも聞いてやるものか」と考えていた以上、「現在の私」がそういう説得をすることは何の効果も生まない。
それだけではない。「現在の私」は「当時の私」から相当遠く隔たった存在になっている――そこには「成熟」の要素と「堕落」の要素の双方があるだろう――が、「現在の私」がこのようなものとして生きているのも、あの惨憺たる経験を通じて、傷つき、もがき、あがき、またその後に繰り返しそれを反芻する、という過程を通した上でのことだった。とすれば、あの惨憺たる経験を抹消してしまったなら、「現在の私」自身がありえないということになる。である以上、「そんなことはやめろ」ということは意味をなさない。結局のところ、小熊の描くベ平連の年長幹部と同様、「いたましさの念」をいだきながら、じっと立ちつくすしかないだろう。 

(1)小熊の前著「〈民主〉と〈愛国〉」に関する私の読書ノートを参照。
(2)短評は別として、やや長めの書評で私の眼にとまったものとして、富田武のもの(「現代の理論」二〇〇九年秋季号)、友常勉のもの(「図書新聞」二〇〇九年九月五日号)、小林敏明「歴史化される六八年――小熊英二「1968」を読む」「新潮」二〇〇九年一二月号、「田中美津、「1968」を嗤う」「週刊金曜日」二〇〇九年一二月二五日号、「情況」二〇〇九年一二月号の書評特集(長崎浩、市田良彦、三上治、高橋順一)、苅部直「一九六八年について私が知っている二、三の事柄」「UP」(東京大学出版会)二〇一〇年三月号がある。これらの観点は多様であり、それぞれに興味深いものを含むが、私自身の感想はこれらのどれとも異なる。
(3)小熊は「あとがき」で、「「あの時代」の叛乱の記憶に思い入れのある方には不満かもしれない」と書いているが、これは本文に書いたうち二番目の類型に当たる。確かに、いくつかの書評はこれに該当するといえるだろうが、当事者世代の反応がこれに尽きるわけではない。
(4)他人の本の感想を書く際にむやみと自分自身について語るのは、あまりよい趣味ではない。しかし、本書の場合、対象との関わりである程度まで自分自身について振り返らないわけにはいかないという事情があるため、この小文の最後の方で、その点にある程度触れることにする。なお、余計な話だが、本書の中に何度か出てくる塩川喜信という人は、私と同姓であるために、ときどき私と混同されたり、あるいは親類縁者ではないかと思われることがあるが、全く無関係である。
(5)現代史という分野の特殊性について、塩川伸明「《20世紀史》を考える」勁草書房、二〇〇四年、第1章を参照。
(6)連合赤軍の場合、年長の知識人たちを含んだわけではないが、特殊な事情によって大きな注目を集めたため、当事者や知人たちの手になる大量の資料が残された。
(7)来る者を拒まず、去る者を追わずという全共闘型の運動は攻めには強いが、守りには弱いとか、当時の若者は「現代的不幸」を感じていたのだが、それを言い表わす言葉を持たなかったとかいった文章が、それに当たる。念のためにいえば、これらはそれ自体としては相当程度当たっていると思う。ただ、何度も同趣旨の言葉が繰り返されると、ややステレオタイプ的という印象が生じてしまう。
(8)全共闘運動の前史に関わってだが、実際に「法則性」という言葉を使っている個所もある。そこに書かれていることは、「一般的な傾向性」ないし「蓋然性」としてであれば当たっていると私も思う。しかし――この問題に限らず、およそ社会科学の対象に関わる事象について――「傾向性」「蓋然性」ならぬ「法則性」という言葉を使うことには抵抗感がある。
(9)なお、山本は一時、吉野の娘の家庭教師をしたことがあり、それ以来、吉野家と親しい間柄だったという。
(10)データの代表性という点についていうなら、系統だった社会学的調査に基づいたデータが少ないということが、この主題について研究する上での一つの大きな困難性をなす。いくつかの社会学的調査がないわけではなく、それらは本書でも随所で活用されている。しかし、それはあくまでもごく部分的なものであり、本書のテーマ全体に及ぶものではない。
(11)「平均値」という表現は、長崎浩の書評(前注2)でもキーワードとして使われている。もっとも、長崎の観点と私の観点は同じではない。
(12)但し、例外がないわけではない。ベ平連が裏で共産主義労働者党(共労党)に引き回されていたのではないかという疑惑(?(スガ)秀実「1968年」ちくま新書、二〇〇六年など)に反論した個所では、当事者の証言をそのまま「事実」と受け取っている観があり、これは問題なしとしない。仮にある党派がある大衆団体を陰で引き回していたという事実があったとして、当事者はそれを認めたがらないだろうから、「当事者がそれはなかったと言っているから」というだけでは説得力がない。念のため付け加えるなら、このように書いたからといって、私はこの問題に関し、?(スガ)が正しく、小熊が間違っているなどと主張するわけではない(私自身はこの件について、いうにたりる知識を持っておらず、結論に関しては完全に白紙である)。結論的には小熊のいう通りかもしれないが、少なくともこのような論じ方は説得力に欠けるというにとどまる。
(13)西部の回想が一九八〇年代に書かれたもので、その時期の彼の思想的立場が彼のブント観に影響していた可能性もあるという指摘も、前著にはなかったもので、一つの前進である。しかし、この指摘は軽い留保にすぎず、続く個所ではもとの結論が維持されている。その個所には注がつけられておらず、どういう根拠によってそう判断したのかは明らかでない。
(14)かつての新左翼諸党派の一つである社青同解放派は、ローザ・ルクセンブルクを思想的主柱とし、「革共同両派の宗派主義」批判を掲げていたが、その彼らも、末期には悲惨な「内々ゲバ」に突き進んでいった。このことは、今日ローザ・ルクセンブルク再評価を唱える人たちにとって深刻な問題を提起しているはずである。
(15)私はこれまでこの問題について何度か簡単に触れたことがある。ローザ・ルクセンブルクに関連して、市野川容孝「社会」の読書ノート、ユーロコミュニズムに関連して、「藤田「社会主義史」論との対話――藤田勇「自由・民主主義と社会主義1917-1991」を読む」「社会体制と法」第一〇号、二〇〇九年、「ソヴェト民主主義」のディレンマについて、「《20世紀史》を考える」勁草書房、二〇〇四年、第七章など。とはいえ、これらはまだ不十分な点を残しており、今後も継続的に考えていきたい。
(16)この点、富田武による書評(前注2)は、小熊の意図を読み誤っているように思われる。富田は、連合赤軍が「全共闘運動のリゴリズム」の産物だという評価は当たらないとし、「「連赤は他人事ではない」という田中美津(リブ)や小阪〔修平〕の心情は理解できるが、歴史的かつ客観的な総括は別物である」と書いている。実際には、本文で見るように、小熊は田中美津の連合赤軍理解や、リゴリズムの産物とする議論を「過剰な意味づけ」の例として取り上げているのであり、富田が批判するような考えを示しているわけではない。
(17)やや細部にわたるので注にするが、この個所での小熊の論の運びには、いささか強引なところがある。たとえば、「同志」「仲間」を殺したという一般的イメージに反論して、「連合赤軍は「同志」や「仲間」といえるような集団だったとは、とてもいいがたい」と述べ、その論拠として、革命左派と赤軍派は相互に軽蔑し主導権を争っていたし、幹部と下部メンバーの間でも相互不信があったという事実を挙げている。しかし、大まかな意味で目標を同じくする集団の中で、方針をめぐる意見対立、主導権争い、メンバー間の意思疎通不足、あるいは個人的な反目や不信等々が生じるというのはごくありふれた現象であり、およそ組織というものにつきものだとさえいえる。そうした現象があったからといって、彼らが「同志」「仲間」でないということになるわけではない。これは当たり前の話である。もちろん、そうした仲間うちでの反目が必ず内ゲバに行き着くとか、ましていわんや大量リンチ殺人に行き着くという必然性があるわけではない。しかし、いくつかの条件のもとでそこに行き着く可能性が全くないともいえない。つまり、ここには直接的な必然的連関はないが、緩やかな間接的連関は確かにある。それを完全に否定するかの如き書き方はあまりにも性急な決めつけ方であり、いつもの小熊らしくもない。
(18)これも小さな点なので注にするが、「「全共闘白書」に掲載された元活動家たちのアンケートによると、運動から離脱した原因は一位が「内ゲバ」で、二位が「連合赤軍」であった」という個所がある。この記述は、「〔一九七〇‐七一年には〕誰しも潜在的には足を洗いたいと思いはじめていた。そして七二年三月、連合赤軍事件がおきたとき、若者たちの叛乱は一気に瓦解していくことになるのである」という記述と呼応しているように見える。そこで、典拠の該当個所を見ると、アンケートの設問は、「全共闘的・学生運動的なものから距離をおくようになった主因(複数回答)」とあり、回答の内訳は「その他」が五二・九%、「内ゲバ」が二四・〇%、「連合赤軍」が一六・九%となっている。このアンケートはそもそも対象者の範囲が不明である上、設問文も曖昧なところがあって、取り扱いの難しいデータだが、複数回答可のアンケートで二四%とか一七%といった数字がそれほど大きなものと評価できるかというのが一つの疑問として浮かぶ。もう一つには、本来の設問文にある「距離をおく」という表現と、小熊の紹介にある「離脱した」という表現の差異も気になる。「離脱」といえば、その直前まで何らかの運動体に属して活動していたが、これを期にそれを止めたという意味になるが、「距離をおく」という表現はもっとずっと曖昧であり、たとえば「既に離脱した後もなお微かに残っていた共感がいよいよ消え失せた」ということも含みうる。個人差の大きいこの種のことについて概括的なことをいうのもためらわれるが、全共闘運動に参加した人たちのうちでは、七二年三月よりも前のどこかの時点で「足を洗って」いたのが多数派だったと思われる。それでも新左翼系の種々の運動になにがしかシンパシーをいだいていたのが、この事件の報に接して、完全に心理的に絶縁したいと感じたという例も多かっただろう。小熊の書き方では、この直前まで活動を継続していた人たちが、この事件を契機に一挙に離脱したというイメージが思い浮かぶが、そのような人たちが多数派であったとは思われないし、少なくとも上記のアンケート・データからそのように結論するのは説得的でない。
(19)この個所の小熊の書き方は、ただ「共産党」としているため、旧社会主義諸国の共産党支配のことを念頭においているのか、それとも日本共産党のことなのかがはっきりしない。仮に前者だとした場合、旧社会主義諸国における共産党支配の行き詰まりをこの要因だけで説明するのは乱暴にすぎるが、他の要因と並ぶ一つの要因としてであれば有意味なものたりうる(この観点については、私は旧著「現存した社会主義――リヴァイアサンの素顔」勁草書房、一九九九年、六二四‐六三五頁で論じたことがある)。他方、もし日本共産党を主に念頭においた叙述だとしたら、若干の疑念がある。日本の場合、緩やかなネットワーク関係に依拠しようとした新左翼の一部の運動は四散したし、ピラミッド型ではあるがより緩やかという意味ではある程度ネットワーク型にも通じるところのあった社会党も分解し、後継党たる社民党はきわめて弱体な存在に落ち込んだのに対し、「古くさいピラミッド体質」を維持している共産党はなぜか今日までその地歩を保っているという皮肉な対比があるからである。
(20)巻末の事項索引では、「ネットワーク」という言葉はそもそも項目として取り上げられていない。「ピラミッド構造」は項目があるが、そこで指示されているのは、上巻のうちの東大各学部に存在したとされるピラミッド構造を別にすれば、「結論」部の当該個所のみである。
(21)但し、ここでいう「差別」とは、伝統的通念としての性別役割観念が疑問にさらされることなく温存されていたというレヴェルのことを指し、それを超えて、「こんなにもひどいことがまかり通っていたのか」というような事態にぶつかったということではない。本書の紹介によれば、当時、そういう事態――典型的には強姦――がときおり起きていたようだが、私自身はそれを直接見聞しなかったことはもとより、噂としてさえも聞いたことがない。
(22)本書には、当時の叛乱する若者たちがゲヴァルト闘争に高揚感・充実感・生き甲斐を覚えていたという趣旨の記述が繰り返し出てくる。いまにして思えば、そういう人が多かったのかもしれない。だが、当時の私は、そうしたことがあろうとは思いもよらなかった。あれはあくまでも義務としてやるべき――しかし実際には、自分にはできない――ことだという風にしか考えられなかった。参加者にそのように重い心理的負担をかけるような方針はそもそも間違っているのだと考えられるようになるまでには、数年間の苦しい葛藤を要した。
(23)これが邪推でないことは、ベ平連を扱った第一六章が二〇〇頁近い分量をもっていること、その章の冒頭には、「社会運動の先駆として学ぶべき点を描く」とあり、章末は「現在でも学びとるべき多くの教訓と知恵がふくまれていた」と結ばれていることから明らかである。もちろん、これは単純な確認であり、そのことをとやかく言うつもりはない。
(24)その代わりというわけではないが、断片的にこの問題と関わることは何度か書いてきた。その多くは、私のホームページ上に公開してある。 
 
暖簾に腕押し / 松原正

 

私はなぜ人を謗るか / 序に代へて 
「第四權力」と稱せられる新聞は誰にも批判される事が無いから、或いは批判されても蛙の面に水で一向に怯まないから、實際は「第一權力」であり、その増上慢は止る所を知らない。新聞批判が「暖簾に腕押し」たらざるをえぬゆゑんである。だが、さういふ絶大たる權力を持つ新聞に決して批判されないのが寄稿家なのであり、例へば先般、四百名もの「文學者」が發作的に「反核聲明」とやらを發表した際も、新聞がそれを批判する事は無かつた。中上健次氏や柄谷行人氏が「文學者の反核アビール」を批判したけれども、それはいづれも文藝雜誌においてであつた。
さういふ譯で、新聞はもとより時に新聞を批判する週刊誌や月刊誌も、寄稿して貰ひ意見を徴する文士や學者評論家の類は決して咎めない。それゆゑ、新聞人編集者が増長すれば物書きもまた増長し、でたらめに書き散らし、私生活においても傍若無人に振舞つてそれを恥ぢない。例へば先年、直木賞受賞作家佐木隆三氏が泥酔して荒れ狂ひ、器物損壞の現行犯として逮捕された事がある。けれども佐木氏は自責の念に驅られるどころか、或る週刊誌に「我が酔虎傳始末記」なる駄文を寄せ、自分は品行方正ゆゑに直木賞を貰つた譯ではないから、「たかが戯作者風情、今後も似たやうな失敗は、どこかで演じるにちがひない」と書いたのである。ホテル・ニュージャパンの横井社長も、三越前社長の岡田茂氏も、これほど盗人猛々しき態度は採らなかつたではないか。
また、これは傳聞だから名前は伏せるが、或るカトリックの小説家は、或る日或る酒場で1(木+税 − 禾)の上らぬ劇作家を、「貴樣はなぜ愚劣な作品ばかり書くか」とて散々に苛め、苛めるだけでは足りずに強か殴りつけたといふ。もう一つ、これも傳聞だが、或る著名な進歩派の小説家は、銀座の著名なバアで、自分に文學賞をくれなかつた選考委員に食つて掛り、ウヰスキー・グラスを投げ付けたといふ。そして、1(木+税 − 禾)の上らぬ劇作家を殴つたカトリックの小説家も、グラスを投げ付けた進歩派の小説家も、ともに「反核アビール」に署名して、人類の絶滅をいたく案ずる振りをしたのであつた。
なるほど、酒氣違ひの失態を咎め立てせぬのが日本の「美風」かも知れないが、もしも政治家や企業家が酒に呑まれてかほどの醜態を演じたら、新聞や週刊誌は決して默つてはゐまい。しかるに文士のでたらめはなぜ知つて知らぬ振りをするか。言ふも愚か、人氣作家の氣を損じたら損にたるからである。いやいや、專ら損得を重視するジャーナリストがのさばらせるのは人氣作家だけではない、論壇にも大ボスがゐて、それに楯突けば物書きは干される。谷澤永一氏から聞いた話だが、「俺に楯突く奴は生殺しにしてやる」とその大ボスは言つてゐるといふ。なるほど、『問ひ質したき事ども』(新潮社)に福田恆存氏が書いてゐるやうに、福田氏さへその種の言論抑圧の被害を受けたのだから、大ボスに楯突いてこの私が「生殺し」の憂き目を見ずに濟ますのは難しい。しかも、物を書く事は眞劍勝負だと信じてゐる私は、でたらめな物書きを斬り捲つただけでたく、でたらめな編集者とも渡り合つた。一度だけ福田恆存氏の忠告に從ひ、喧嘩した編集者と縒りを戻したが、それは柄に無い事だつたから、長續きしなかつた。けれども、「捨てる神あれば助ける神あり」といふ。私の場合、「助ける神」はラジオ日本の遠山景久社長であつた。私は今、月曜から金曜までの毎日三十分、ラジオ日本に出演して、「侵略戰爭の何が惡いか」などといふ甚だ物騒なる問題を論じて無事であり、言論の自由を大いに享受してゐる。そしてそれは偏に遠山氏の侍氣質のせゐなのである。同じテーマで毎日語るのはラジオ番組ではいかがたものかとのモニターの意見を一切無視し、私は毎囘戰爭についてだけ語つてをり、いづれそれを一本に纒める積りでゐる。
ところで、日本人は和を重んずる民族だとよく言はれる。が、今や日本人は許し合ひを重んずるのである。「許す」とは「緩くす」であつて、緩褌となり果てた吾々は他人に緩くして、その代り他人からも緩くして貰ひたがる。他人のでたらめを許さずして生きるのは窮屈ではないか、他人のでたらめを許さぬとなれば、おのれもまたでたらめには生きられまい、それなら他人のぐうたらを許し、おのれも氣樂に生きるがよいと、當節、大方の日本人はさう考へるやうになつた。新聞や言論人が緩褌の快を貧り、互ひのでたらめを許し合ひ、恬然として恥ぢないゆゑんである。元禄の昔、伊藤仁齋は「專ら敬を持する」儒者を批判してかう書いた。
專ら敬を持する者は矜持を事として、外面斉整す。故に之を見れば則ち嚴然たる儒者なり。然れども其の内を察すれば、則ち誠意あるいは給せず、己を守ること甚だ堅く人を責むること甚だ深く、種々の病痛故より在り、其の弊あげて言ふべからざる者有り。(『童子問』)
詳しい説明はしないが、仁齋は誠意すたはち「まごころ」を重んじた儒者である。「敬」を重んずる學者は、とかく外づらにこだはつて心の中の事を疎かにする、それゆゑ一見嚴しい儒者に見えるが、「己を守ること堅く」、人を責める事深く、かくて他人への思遺りをさつぱり持合せぬといふ事になる、さう仁齋は言ふのである。なるほど、敬を持する儒老に限らず、「己を守ること甚だ堅く人を責むること甚だ深」いのは凡人の常であらう。けれども、佐藤直方が言つたやうに、「人の非を言はぬ佞姦人あり。人をそしる君子の徒あり」といふ事もある。つまり、おのれの非を言はれぬために人の非を言はぬ腹黒い手合がゐるし、人の非を論ふ奴のすべてが惡黨とは限るまい。人の非を言ひ、人を嚴しく謗る以上はおのれに對しても嚴しくあらねばならず、それゆゑ他人に嚴しい者が却つて「君子の徒」であるといふ事もあらう。林羅山は書いてゐる。
強ハ人ニ勝ヲイヘドモ、先ミヅカラ我ニカチ私ニカチ欲ニカッヲ聖賢ノ強トス。我ガ私ニカツ時ハ、其上ニ人ニ勝事必定ナルベシ。
もとより「我ガ私ニカツ」のは容易の業ではない。人間は專らおのれの力によつておのれを抑へうるほど強くはない。けれども、このぐうたら天國日本では、克己といふ事の重要はことさら強調されねばならぬ。それゆゑ私は前著『道義不在の時代』においても、「偽りても賢を學」ぶ事の大事を説いた。人間は常に自分で自分を抑へうるほど強くはない。けれども「偽りても賢を學」ばうとする事によつて、すたはち偉人賢人に肖らうと背伸びをする事によつて、吾々は立派になる事ができる。同樣に、「人をそしる君子の徒あり」、他人に嚴しくする事によつて吾々はおのれに對しても嚴しくなりうるのである。それゆゑ私は人を謗る。他人のぐうたらやでたらめを手嚴しく批判し、言ひたい放題の事を言へば、すなはち他人を許さなければ、私自身が他人から許される事は期待できない。「人を責むること甚だ深」ければ、勢ひ自分もぐうたらにしてはゐられたくなる。さう信じて私は過去數年間、新聞、週刊誌、及び物書きのでたらめを斬り捲つた。が、それは私をさして立派にもせず、また私の振り廻す劍は虚しく宙を斬るのみであつた。すたはち「暖簾に腕押し」であつた。
けれども、私は愚痴つてゐるのではない。斷じてさうではない。私は何よりも愚痴を好かない。理由は簡單で、愚痴ほど非生産的なものは無いからである。「生殺しの憂き目」を見ようと、「暖簾に腕押し」の虚しさを痛感しようと、私は今後も、他人に緩くしてその代りおのれも緩くして貰はうなどとは決して思はないであらう。
主君を諫めるなどといふ事はやつてはならぬ、言葉で人を諭さうとしても無駄である、他人の欠点をあからさまに指摘すれば先方は必ず腹を立てる、それに他人に忠告するのは、おのれを立派に見せようとの底意あつての事である場合が多い、『答問書』に荻生徂徠はさう書いてゐる。なるほどそのとほりだが、それを言ふ徂徠自身、伊藤仁齋や新井白石を激しく謗つてゐる。例へば白石について徂徠はかう書いた、「新井ナドモ文盲ナル故、是等ノコトニ了簡ツカヌ也」。
徂徠は學問のほかに何が好きかと問はれ、「餘には他の嗜玩なし、唯炒豆を噛んで宇宙間の人物を詆毀するのみ」と答へたといふ。「宇宙間の人物を詆毀する」事も世のため人のためだと、徂徠は信じてゐたであらう。そしてまた、でたらめな他人を謗る事も、立派た他人を稱へる事と同樣、自分のためになるのである。今、日本國の書店の書架には、2(果+多)しい書物が並んでゐる。けれども、嚴しく他人を「詆毀する」書物も、肖りたいとの眞撃な願ひをこめて天才偉人について語つた書物も、ともに頗る少い。それは今、日本人がモラトリアムと馴合ひの快を貪つてゐるからに他たらない。
親愛なる讀者諸君、本書に収めた「言論か暴力か」(二五七頁)をまづ讀んで貰ひたい。そして「生殺しの憂き目」に會ふほど他人を「詆毀」するとはどういふ事かを知つて貰ひたい。私は徂徠に倣つて「猪木ナドモ文盲ナル故、是等ノコトニ了簡ツカヌ也」と言つたのである。猪木氏の防衞論の淺薄を、私は前著において批判したけれども、猪木氏は私に反論しなかつた。私の仕事が「暖簾に腕押し」たらざるをえないゆゑんである。 
1 週刊誌を斬る 

 

女ならではの愚作
「水着の色・柄・型で」女の「SEXを診斷」できると、週刊ポスト六月二十二日號は書いてゐる。例へば「白のセパレーツを好む女」は「一皮ひんむくと、セックスプレーにはすごく積極的な樂しい女になる」のださうである。勿論でたらめに決つてゐるが、これほどのでたらめを本氣にする讀者はゐまいから、殊更目くじらを立てるには及ばない。でたらめもここまで徹底すれば御愛嬌、却つて無害であつて、オレンジ色の水着の女は「知らない男に犯されたい」と思つてゐるとのポストのでたらめを眞に受けて警察につかまつたとしても、それはつかまつた奴が惡い。週刊誌を讀むといふ事は、この種のでたらめをでたらめと承知して、輕々に信じないやうになる事であつて、それはこの世を渡るために不可欠の知惠である。
だが、週刊誌の内容はまこと玉石混淆であつて、例へば週刊現代は「トルコロジスト」と稱する廣岡敬一氏のトルコ風呂探訪記や、「半藏の門」と題する小池一夫氏の淫猥な劇畫を連載してゐるが、その現代の六月十四日號七十ぺージには、次のやうな文章が記されてゐるのである。「宗教では、罪は犯すやうになつてゐるんですね。犯していいといふのではないけど、どうしても犯すやうになつてゐる」
これは週刊現代の記者に對して曽野綾子女史が語つた言葉である。これはでたらめではない。恐ろしいくらゐ本當の事である。そして、本當の事だから決して無害ではない。遠藤周作氏の戯曲『黄金の國』では、クリストが人間に罪を犯してよいと言つてをり、そのくだりを讀んだ時、私は愕然としたけれども、曽野女史のやうに表現してくれれば私は納得する。人間は罪を「犯していいといふのではないけど、どうしても犯すやうになつてゐる」のである。が、この種の「本當の事」が正しく理解される事はまづ無いであらう。人間はいい加減なものだからである。「いい加減」である事を氣にしないからである。
曽野女史が朝日新聞に連載している『神の汚れた手』はまだ完結してゐないから、小説としての出來榮えは云々できない。が、曽野女史の關心は人間にあつて「女である事」にはない。一方、サンデー毎日六月二十四日號が紹介してゐる四人の「女子大生作家」の作品は、いづれも「女でなければ書けない」類の愚劣な作品である。毎日によれば、吉行淳之介氏は「子宮感覺がいい」と絶賛し、菊村到氏は「文體、感覺を含めて作品そのものが新鮮」だと評したといふ。「生理になつたら・・・・・・血がドバーッ。ね、汚いよね」とはまた何と汚い文章か。それに何より、女の生理なんぞを大事と考へてゐるやうではまだまだ半人前である。そして、さういふ半人前の女を持ち上げる男は、水着によつて女の「SEXを診斷」する男と同樣、決して女を人間として扱つてはゐないのである。女はなぜその事に氣付かないのだらうか。
學問よりも金と地位
週刊文春七月五日號によれば、受驗生の父兄からまきあげた千數百萬圓を返濟できず、「かはりに指をつめ」た男が日本大學にゐるさうである。文春の記事が正しいとすると、日本大學はもはや大學の名に價しない。日大の「裏口入學シンジケート」を週刊誌が非難するのも當然である。それゆゑ、私には日大を辯語する氣はさらに無い。けれども、新聞や週刊誌が「教育現場を告發する」事には熱心でも、その腐敗の因つて來たる所を考へようとしない事を飽き足らなく思ふ。『言論人』七月五日號に林三郎氏は「政界淨化には、まづ金のかからない選擧制度を考案することであるが、これについては諸黨はまことに不熱心である」と書いてゐる。その通りである。週刊ポスト七月十三日號は「私大でのコネ入學は必要惡だ」との日大の「灰色教授」の言葉を引き、「今囘の取材で感じるのは“學業より利權”といふ教授がほんとに多いことだ」と書いてゐる。ポストの記事を疑ふだけの根拠を私は持ち合せてゐない。が、林三郎氏の言葉を捩つて言へば「教育界淨化には、まず學問よりも金や地位を欲しがる教師を成敗することであるが、これについてはマスコミも大學もまことに不熱心」なのである。
例へば、テレビのコマーシャルやクイズ番組で顔を賣り、ついで著書を出す、さういふ大學教授が果して立派な教師なのだらうかと、マスコミや大學生は疑つてみた事があるだらうか。文春は或る日大講師について「講師なんて肩書がついてゐますが、學生にちやんと教へたことなんかありやしません」といふ日大關係者の言葉を引いてゐるが、ジャーナリストがちやほやする教授がよき教師であるとは限らない。勿論、大學教授も政治家や檢事と同樣人の子である。週刊朝日七月六日號が淡々と書いてゐるやうに、遠藤元檢事は友情に溺れ愛人に裏切られた。大學教授もまた友人や愛人を裏切つたり裏切られたりするだらう。が、マスコミに顔が賣れても「學生にちやんと教へ」ない教授こそ眞先に成敗されなければならないのである。
だが、それが實は頗る難しい。教師は時にでたらめを教へるが、それでも教師が眞劍になれば學生も必ず眞劍になる。けれども、眞劍な教師に眞劍に應じる學生も、いい加減な教師のいい加減を許すのである。週刊現代七月五日號は早稲田大學の「五代の總長の無策」を批判してゐる。總長や學部長が無策無能でも、教場における教師が眞劍なら早稲田大學は安泰なのである。が、早大に限らずどこの大學でも、昨今は學問に情熱を持たぬ教師が學内政治に興味を持つといふ事がある。皆が内心輕蔑してゐる男を學部長に選出する事もあると聞いてゐる。要するに教師も學生も本氣でないのである。どうしてさういふ事になつたか、それを週刊誌は一度徹底的に考へてみたらどうか。
腑に落ちない記事
週刊誌を讀んでゐると、時々なぜこんな文章が載るのかと首を捻る事がある。週刊文春に連載中の三浦哲郎氏とその令嬢の往復書簡『林檎とパイプ』の場合もさうである。親子が書簡を公開する事自體、差恥心が欠けてゐる證拠であつて腹立たしいけれども、七月十二日號には階段から「正坐した恰好でとんとんと落ち」た話を令嬢が書き、それに對して三浦氏が「正坐の恰好で落ちるなんて、ちとお行儀がよすぎるよ。今度落ちるときは尻で落ちなさい。(中略)ほかのところより肉が厚いだけ無難だらう」と書いてゐるのである。それだけの、本當にそれだけの愚にもつかぬ無駄話であつて、こんなつまらぬ話がどうして活字になるのかと、首を捻らざるをえない。
名士の親子が書いたとなると、こんな愚劣な作文でも、讀者は喜んで讀むのだらうか。それなら、さういふ讀者は途方も無いお人好しに違ひ無い。同じ號の文春は、目下朝日新聞に連載中の『美濃部囘想録』の「華麗なるウソ」を痛烈に批判してゐる。文春の言ふ通り、美濃部氏の囘想録は「ボロは出すは、“ウソ”はつくは・・・」の何とも女々しい文章である。さういふ「手前勝手な辯明に終始」してゐる囘想録をなぜ美濃部氏が書くのか、なぜ朝日がそれを載せるのか、それは私には理解できる。が、三浦哲郎氏が令嬢を卷き添へにしてまでなぜ恥を捨てるのか、それがどうにも理解できない。
一方、週刊現代七月十九日號の「突入!日本はアラブ産油國と石油全面戰爭に」といふ記事も腑に落ちない。現代によれば、防衞庁は「石油有事」に備へるべく「昨年暮れ、海外二十五ヶ國に警備官二十五人を派遣した」が、現代が取材した「海幕のある二佐」は、「イラン政變について、アメリカはCIA情報の錯誤によつて判斷を誤り、ベトナムでもカンボジアでもミスを犯した。そこでわれわれは情報を収集することにした」と語つたといふ。奇妙な話である。二十五人の警備官が、いかに弱體となつたとはいへ、天下のCIAと張り合へる筈が無い。現代はまた、「今年の秋には千五百圓灯油が出現」し「クーラー、セントラル・ヒーティングは廢品同樣に」なり、「倒産ラッシュが起こ」り、「洗劑、紙が市場から消え」ると書いてゐる。さういふ事態には決してならない、とは私は言はぬ。が、さうなつたら、市場から消えるのは洗劑や紙だけではない。二流の雜誌や三流の週刊誌こそ眞先に消える筈である。その事を、どうやら現代は少しも考へてゐないやうであつて、これまたまことに腑に落ちぬ話である。
私は八卦見ではない。それゆゑすさまじい石油危機が到來するかどうかは確と解らぬ。が、文章から判斷するに、石油危機を扱つた各誌の記事のうち、週刊文春七月十九日號のそれが最も冷靜であつて、それゆゑ私は、今のところ「日本沈歿」はありえぬとする文春の意見を、今のところ信じておかうと思ふ。
清き水に魚棲まず
「口は乃ち心の門なり。口を守ること密ならざれば、眞機を洩し尽くす」。サンデー毎日八月五日號の編集長の文章を讀んで、私は驚いて目を擦り、ついでこの『菜根譚』の一節を思ひ出した。毎日の編集長はかう書いてゐるのである。「前囘の總選擧のとき(中略)團地では新自クヘの熱い期待を感じとりました。新自クを押し上げた力は團地の主婦だつたといまでも思ひます。それゆゑに、情緒的であり、時代に耐へる永續性がたかつた」。「それゆゑに」の次に省略されてゐる主語が何であれ、結局は同じ事になる。サンデー毎日は「團地の主婦」には好意的だつた筈だが、それは私の思ひ違ひで、少なくとも四方編集長は「團地の主婦」は「情緒的」で「時代に耐へる永續性」が無いと、心中密かに苦々しく思つてゐたらしい。そして今囘、つい口がすべつて「眞機を洩し尽く」したのであらう。同情はするが、今時そんな本當の事を放言して大丈夫なのだらうか。全國の「團地の主婦」が怒り心頭に發し、サンデー毎日のみならず毎日新聞の不買運動なんぞを始めないだらうか。物議を釀さぬうちに、四方編集長は政治家を見習ひ、眞意はかくかくしかじかと辯明に努めたはうがよいのではないか。
一方、週刊現代八月二日號によれば、日本列島を席捲したインベーダー遊びは、「遊んだ人の數にして一日一臺當たり單純計算で四十人。(中略)一日實に八百萬の日本人がピコピコやつてゐた」事になるといふ。けれども「登場わづか半年餘り」でブームは下火になり、或る「ゲームセンターの經營者」は「先行きの見通しのお粗末さは、恥づかしいかぎりですわ」と語つたさうである。商賣やスポーツは勝敗がはつきりする。が、それにしても潔くおのが不明を認めるとは中々すがすがしい態度である。
新聞や週刊誌はさうはゆかぬ。例へば週刊現代は新自由クラブに對して「やんちや坊主の鬼ごつこ」は二度と繰り返すなと忠告してゐるが、現代に限らず、三年前、新自由クラブが結成された時、大いにその前途を嘱望したのは新聞や週刊誌ではなかつたか。週刊文春七月二十六日號の言葉を借りれば、新自由クラブは當時から「半人前の“お子さまランチ”」だつたのである。その幼稚を見抜けずして拍手喝采した新聞や週刊誌に、今さら新自由クラブを説教したり揶揄したりする資格は無い。三年前、私はサンケイ新聞の直言欄で新自由クラブ・ブームにはしやぐ新聞を窘め、河野洋平氏のやうな「勇み肌の坊ちやんの前途に何の期待も抱く事は出來ない」と書いた。「三日さき知れば長者」といふが、私はまだ長者ではない。それゆゑ先見の明を誇る譯ではない。新聞や週刊誌が今なほ清潔な政治に期待し、清き水に魚棲むかの如く言ふ、その度し難い習性に呆れてゐるだけの事である。
太田薫氏の「蛮勇」
先日、私はラジオ關東の「土曜エクサイト論爭」で、太田薫氏と激しい口爭ひをやつた。革新の甘つたれを批判して、私が譯の解らぬ事を、機關銃のやうにまくし立てると、太田氏が當惑して默つた。司會の竹村健一氏も呆れて「太田ラッパが鳴りやんだ」と評したが、實は私は、心中密かに太田氏の人柄のよさに感動してゐたのである。その事は或る雄誌に書いたからここでは繰り返さない。ただ、さういふ事があつたから、週刊新潮が三囘にわたつて載せた太田氏の手記『ネクタイをつけた二十五日間』を、私は頗る興味深く讀んだのである。正直、太田氏の文章には納得でぎぬ箇所がいくらもある。だから、太田氏と論爭する事になれば、私は再び機關銃を持ち出すであらう。だが、私は今それをやる氣がしない。手記を讀んで、太田氏の人間的魅力を再確認したからである。
これまで私は、折ある毎に、革新的な物の考へ方を批判したから、讀者は私を頑迷固陋の保守反動と思つてゐるかも知れぬ。汚職を咎める新聞や週刊誌を咎める私が、かういふ事を言つても信用されまいが、私が何より好かないのは信念の無い人間、道義心を欠く人間なのである。太田氏は「革新を裏切つたかつての仲間」を怒りをこめて斬つてゐる。裏切りの卑劣に保革の別は無い。太田氏は「美濃部さんの民主主義」は「黒幕のゐた民主主義」だと言ふ。自民黨内閣の文部大臣だつた永井道雄氏を「まさか社會黨は推薦しないだらうね」と上田哲氏が言つた時、杜會黨「最左派」も默つて答へなかつたと言ふ。飛鳥田氏が「太田おろし」に熱心だつたのは、革新自治體の「利權の構造」を守るためだつたと言ふ。私は革新を叩く太田氏の言ふ事を殆どすべて信じる。太田氏の信念を、敵ながらあつぱれだと思ふからである。
もとより手記には我田引水に過ぎる部分もある。が、敵を叩くよりも身方を叩くはうが困難である。それには「蛮勇」を必要とする。革新がここまで徹底的に革新の道義的退廢をあばけば、太田氏の敵は、保革を問はず、政治的妥協を知らぬそのドン・キホーテぶりを嘲笑ふであらう。だが、信念の無い人間にどうして妥協ができるのか。猪武者だと太田氏を嘲笑ふ者は、獨り胸に手をあて考へてみるがよい。あなた方の「妥協」は果して妥協か。それはなりふり構はぬ無節操ではないのか。例へば、知事候補の一人だつた永井道雄氏は、太田氏の立候補宣言を知つて「慌てて當時の大平自民黨幹事長」のところへとんで行つたといふ。さういふ人物と、「おれは知事をやりたい、おれにやらせば東京はよくなる」と言ひ放つた太田氏と、人間としてどちらを敬すべきか。私は太田氏に投票しなかつたし、今後も決してしない。が、この際、美濃部氏を担いで担がれた新聞、週刊誌は、太田氏の手記を精讀して、保革を問はぬ無節操に深く思ひをいたすがよいと思ふ。 
時に損も覺悟せよ
週刊文春八月三十日號によれば、安岡正篤氏は、二十七歳の時、六十三歳の八代六郎海軍大將と陽明學について激論をかはし、「おたがひにゆづらず、五升の酒をのみきつた」が、最後に八代は「一週間後にまた會はう。それまで考へてみて、もしワシが間違つてゐたら貴公の弟子になる。ワシが正しいと思つたら、貴公はワシの弟子にたるんだぞ」と言つたといふ。そして一週間後、八代提督はわが子のやうな年齢の安岡氏を、「紋付袴で」訪問し、「今日から、ワシはあなたの弟子に」なると言ひ、「以後、死ぬまで師弟の禮をとつた」さうである。文春は公平を考へてか、赤尾敏氏や津久井龍雄氏の安岡評を紹介してゐるが、英雄豪傑にも生殖器があつたといふ事實を發見して喜ぶのはつまらぬ事で、進歩派の日本史學者が戰後にやつたのは、そういふ無駄事、要らざるお節介だつたのである。が、安岡氏の事はともかく、三十六も年下の男に「師弟の禮」をとるとは何とも見上げた根性ではないか。
先日、早稲田大學文學部教授である私は、早稲田大學理工學部教授加藤諦三氏との對談で、早稲田大學の名譽のために加藤氏を叩き、高校生が愛讀している加藤氏の著書を「若者への迎合に知的ソースをぶつかけたげてもの料理」と評した。そしてその際「マーク・メイといふ學者によれば(中略)人間を萬物の靈長と呼んでゐる」といふ加藤氏の文章を引用し、この「主語が欠けた文章」の欠陥を認めるかと質したが、加藤氏はかう答へたのである。「これで十分通じるぢやありませんか」
加藤氏についてはこれ以上は言はない。言ふ必要がない。サンケイ新聞の讀者が一度息子や娘の本箱を覗き、加藤氏の著書の有無を確かめる労をとるやうにと、その事だけを言つておく。とまれ、加藤氏を叩いて再確認したのは、知的怠惰は道義的怠惰だといふ事である。いい加減な文章を書いても世人が怒らないから、物書きは一向に反省しない。また、さういふ怠惰を本氣で咎めようとすれば、數々の妨害を覺悟しなければならぬ。その事を私は最近痛感する。例へば私は、保守派の賣れつ子の物書きT氏を叩いて、その原稿を歿にされた事がある。ここでT氏としか書けぬわが處世術を、私は無念殘念に思ふ。が、私は他人の商賣を妨害したがつてゐるのではない。同じ大學の同僚を叩いて何の得があるか。加藤氏がそれをやると言ふのでは決してないが、叩かれた同僚は私の弟子の就職を妨害するかも知れぬ。
もとより私も人並みに臆病である。が、臆病である事を私は恥ぢるのである。八代六郎大將がやつたやうな事は、私には到底やれないと、私は斷言する事ができる。同じ號の文春の匿名書評の筆者は、昔の歌人の眞劍勝負を論じて「いまの文壇、歌壇の諸君。よろしくこの態度を」見習ふべし、と書いてゐる。拙文の讀者が、週刊文春八月三十日號を入手すべく、古本屋めぐりの労をとるやう私は希望する。
誰一人本氣でない
私は見損なつたが、先日お隠れになつたランラン樣の御殿醫は、刻一刻惡化する御容體について「沈痛な面持ち」で記者團に語つたさうであり、テレビは「脈拍は一分間に一四九、體温は三七度まで下がりましたが、心臓の衰弱がひどく・・・・・・近親者を呼ぶ状態・・・・・・」といつた調子の記者會見の模樣を、熱心かつ忠實に放映して樂しんだといふ。週刊ポスト九月二十一日號によれば、「今囘の報道に投入された記者は、その數約百人。新聞社は各社平均三人、テレビは中繼車までくりだしての熱の入れやう」だつたといふ。狂氣の沙汰としか言ひ樣がない。
毎度の事とは言へ、日本のジャーナリズムの輕佻浮薄にはほとほと感じ入る。ポストは「“たかが動物一匹”とはいはないが、いくらなんでもはしやぎすぎではないか」と書いてゐるが、たかが畜生一匹で、あの大騒動は正しく狂氣の沙汰である。週刊新潮九月十三日號のヤン・デンマン氏は、テレビ中繼を一寸見て、恐れ多くも天皇陛下の御崩御かと勘違ひをしたアメリカ人記者の話を紹介してゐる。陛下の御長命を私は切に祈るが、陛下の御身に萬一の事があつたら、新聞は今囘同樣心にも無い大騒動をやらかすのかと、それを思ふと、物事の輕重のけじめをつけぬ日本人の輕佻浮薄に、私は腹立ちを抑へる事ができない。
私はこれまで週刊ポストを屡々叩いた。それゆゑポストは、恨み骨髄に徹する思ひで私の文章を讀んでゐるに違ひ無い。かつてポストを評して私は、その扇情主義と「整合性」の欠如を指摘した。が、或る雜誌で新聞批判のコラムを担當するやうになつて、私は新聞を叩く事の空しさを痛感したのである。新聞を叩くより週刊誌を叩くはうが遙かに樂しい。週刊誌には人間がゐるが、新聞には人間がゐないからである。今後も私はポストを叩く。が、「整合性」を欠くがゆゑに、ポストが大新聞を叩けるといふ事も事實である。ポストが今後も大新聞における人間不在を糾彈し、大いに「蛮勇」を發揮するやう望みたい。
ところでパンダ騒動だが、ポストによれば「パンダ舎の前で、涙をこぼし」てゐた女子大生が、すぐに「ケロリとして」ソフトクリームを舐めてゐたといふ。ポストの文章には欠陥があつて、本當にポストの記者が見聞した事かと、それが少々氣掛かりだが、ポストの作り話としても、これは甚だ興味深い。
なぜなら、恐らくランランの飼育掛と數名の「近親者」を除けば、誰も本氣で悲しみはしなかつたからである。ポストによれば、某紙の社會部記者は「私たちも、これほどまでに(騒ぐのは・・・・・・)とは思ひますが・・・・・・」云々と弁解したといふ。この根性こそ私は何より許せないと思ふ。先般のグラマン騒動の折、私は同じやうなせりふを新聞記者が喋るのを聞いてゐる。要するに皆本氣でない。森嶋通夫氏の國防論の奴隷根性を識者は本氣で咎めなかつた。パンダの滅亡と日本國のそれとは同日の論ではない。新聞の猛省を促す。
差恥心を欠けば獸
佐藤陽子女史のヴァイオリンを、私は一度も聽いた事が無い。が、私は西洋音樂が大好きで、聽くだけでは滿足できず、下手の横好きでフルートを吹く。それゆゑ、佐藤女史が少女の頃、確かレオニード・コーガンに師事して、その將來を大いに嘱望されたとい事實は記憶してゐる。その後女史がヴァイオリニストとしていかに成長したか、それを私は知らないから、演奏家としての女史について云々する資格は私には全く無い。けれども、週刊ポスト十月五日號のグラビアに、佐藤女史の裸體写眞を見出して、私は或る種の「衝撃」を受けたのである。なるほど、週刊現代には、池田滿寿夫氏と佐藤女史との對談『晝の眠りと夜の目醒め』の廣告が載つてをり、別の週刊誌にはワインの宣傳文を書いてゐて、本業のヴァイオリン以外にも女史が多藝ぶりを發揮してゐる事を知つたが、池田氏との對談を私は讀んでをらず、從つて女史の場合、「多藝は無藝」なのかどうか、これまた私には斷定するだけの根拠が無い。けれども、ポストによれば、池田氏と女史とは目下戀愛中だとの事であり、女史の裸體写眞は戀人の池田氏が撮影したものだといふ。そして、長椅子に横たわり、片方の乳首を露出してゐる写眞には、女史の作つた詩らしきものも印刷されてゐる。
けれどもそれは、「思想と愛と感情と言葉。全てはからみ合ひ戯れる」などといふ、およそ愚劣な代物で、中學生でももう少しましな「詩」を作るのではないかと思はれる。
それゆゑ、女史のヴァイオリンを聽いてそれを批評する事が許されるのと同樣、女史が詩集を出版したら、それを徹底的に扱きおろす事も許される。けれども、今囘、佐藤女史は裸體を公開したのである。では、これを批評する事は許されるのか。私は他人の肉體的欠陥を批判する事は許されないと思ふ。『言論春秋』九月二十四日號によれば、TBSの人氣番組『時事放談』では、先日、出演者が「大平ガマガヘルめ、自民黨に絶對多數を渡すな」と放言したさうだが、それはずゐぶんはしたない事だと思ふ。
けれども佐藤女史は裸體を公開したのである。人間が通常露出してゐる部分について、その欠陥を云々する事は許されない。が、裸體を公開し、裸體で稼ぐ決意をした以上、他人の美的判斷を甘受する覺悟が女史にはある筈だと思ふ。海に向かつて下半身をさらしてゐる女史は、昨今の日本の女には珍しい短足胴長で、醜怪としか形容できぬ肉體の持主である。
私は女史の肉體を酷評して樂しんでゐるのではない。女史と池田氏の差恥心の欠如に呆れてゐるのである。いかに胴長であらうと、池田氏が女史を愛する事自體はよい。が、戀人の裸體をなぜ公開しなければならないか。ポストに限らぬ、週刊誌は差恥心についても多少は考へて貰ひたい。差恥心を欠く者は人間ではない、それは獸に他ならない。
文章を讀む樂しみ
「國法を犯す者に次ぐ大犯罪者は國語を侵す者である」と、ウォルター・ランドーは言つたさうである。このランドーの言葉を、私は中村保男氏の『言葉は生きてゐる』(聖文社)のなかに見出したが、中村氏は序文で、物書きたる者は、「讀者層が大學受驗をめざす高校生であらうと、讀者と對話しながら自分自身の考へを深め、同時に讀者の知的水準を引きあげることをめざさなくては意味がない」と書いてゐる。なるほどそれは昨今珍しくなつた物書きの態度で、それゆゑ中村氏の著書を私はひろく江湖にすすめたいが、週刊朝日十月五日號には、「國語を侵す」極惡人とも言ふべき男の文章が載つてをり、あまりの事に私は唖然とした。他人の文章を過度に引用するのは一種の原稿料泥棒だが、あへて左に引用する。ただし、原文の改行は無視する。
「初めのころは腕タッチン」「そろそろ進んで肩タッチン」圖々しくエスカレートす るアネゴに、男の子は逃げ腰。男損女狒々!!の時代。(中略)笑アップ教室の割り句 で、「ナカ尾さん、カホにも胸にも、あう凸がない」とやられたら、やにはに上着をぬ いで「中お見よ」。奔放自在、のやうで、樂屋のご同役にも細かく氣を使ふとか。當 代、數少ないおとなの女、か。お邪魔どころか、ねえ。(雅)(コマーシャル百科)
このコラムの週刊誌批評を担當して二年、私はこれほど奇怪な文章にでくはした事が無い。何の事やら、私にはさつぱり解らぬ。解らぬ私のはうが惡い、といふ事になるのなら、私はもはや物を書きつづける事ができない。
一方、週刊新潮十月十一日號は「新聞の一面廣告」に登場した渡部昇一氏の事を話題にしてゐる。電卓を手にして滿面に笑みをたたへた渡部氏は、電卓は計算するものとばかり思つてゐたが「これ“文字”がでるぢやありませんか。(中略)これ、新しい文化のはじまりといへるのぢやないでせうか」と語つて電卓の宣傳をやつてゐるのである。新型電卓が發賣されて、「文化」が始まつたり、終つたりするのなら、私は「文化」とは何の事やらさつぱり解らなくなる。
もとより大學教授がコマーシャルに出るのは合法的である。「英語の達人でいらつしやる渡部センセイがこの電子メモ電卓を持つと、電子飜譯機に思へてくるから不思議」と新潮は書いてゐるが、さういふ「不思議」な効果を廣告屋は狙つた譯であらう。が、「驚きましたね。電卓は計算するものとばかり」云々には、學者たる者の努めて避くべき虚偽が潜んでをり、それを渡部氏が氣にしなかつた事が、私には「不思議」に思へるのである。けれども、先に引いた文章はちんぷんかんぷんだが、新潮の文章からは新潮が渡部氏をどう思つてゐるか、それが窺へる。「眼光紙背に徹する」とはちと大袈裟だが、それこそ文章を讀む樂しみに他ならない。
衆愚政治を憂ふ
週刊讀賣十月二十一日號によれば、大平首相は「行政改革が嫌ひ」ださうであり、かつて參議院予算委員會で、民社黨の議員に對し、「行政整理、改革にはみんな總論賛成。あなたのところもといふと、待つてくれとくる。國會議員の定數から削減しようといつた提言もあるが、あなたは賛成するか」と反問したといふ。自民黨が「公認候補で二百五十六の過半數すらとれ」なかつた技術的な失敗は、總裁としての大平氏の責任だらうが、「増税を打ち出した事は失敗だつた」とか、「増税を打ち出しても民衆は支持すると考へたのは大平首相の驕りだ」とかいふ意見は首肯しがたい。大平氏の言ふやうに「選擧があらうとなからうと、財政再建は避けて通れない課題」だからであり、また週刊新潮十月十八日號で山本夏彦氏が言つてゐるやうに「行政整理とは公務員のクビを切ること」だが、「増税しないですむほどのクビを切ること」なんぞ土臺不可能だからである。「あらゆる解雇は不當だと組合はいきりたつ。自分たちの解雇は一人でもいけなくて、役人のそれなら何十萬人でもいいのだらうか」と山本氏は書いてゐる。さういふ身勝手ばかりが昨今は横行してゐるが、「公共投資によつて景氣を維持するんだといふケインズ理論を捨て、行政改革と不公平税制に取り組むべきだ」などと主張する學者には、人間とは甚だ身勝手な動物で、「あなたのところもといふと待つてくれとくる」といふ事が全然解つてゐないのであらう。
それに何より、もしも増税を仄めかした結果、自民黨の議席が減つたのならば、それは日本の政治が衆愚政治に堕しつつある事の證拠であつて、その事を新聞や週刊紙が問題にしない事を、私は奇怪千萬に思ふ。週刊新潮の如きは、「日本共産黨は“大躍進”をとげた。(中略)これで、うれしい期待がわいてくる。ただでさへ過半數ギリギリで動きのとれない自民黨にとつて、一番コハーイお目付役の勢力が倍増したのだから、さうさう勝手な増税はやれまい、といふこと。期待してますよ、共産黨サン!」と書いてゐる。何とも情けない文章である。誰でも税金は拂ひたくない。他人の馘首には賛成でも、自分の首は切られたくない。さういふ人間の身勝手がジャーナリストには解つてゐない。それが解らないからこそ、皆が身勝手を言ふ社會に怖氣立つといふ事が無いのである。
一方、週刊文春十月十八日號は、新聞の選擧予想が三度つづけて外れた事について「世論調査無用論も各社の間に出始めた」と書き、各紙の予想担當セクシヨンの辯明を紹介してゐる。「選擧戰の途中の情勢を知りたいといふ讀者の要請」になんぞ、新聞はこたへる必要は無い。「闇夜の鐵砲」なんぞ止めるに如くはない。開票結果が判明するまで待てない衆愚の輕薄に付き合つて、「パンとサーカス」ゆゑに滅びたローマを思はぬ迂闊を新聞やテレビは反省すべきである。 
損をして得をとれ
私事で恐縮だが、このたび私は約二週間、韓國政府の招待を受け韓國を訪問する事になつた。滞在を延ばす事もありうる。このコラムに私は隔週一囘の割で書いてゐる。二週間日本を留守にすると、その間週刊誌を讀めないから、週刊誌批判の文章は書けない事になる。讀まずに一般的た事を書いてお茶を濁したくはない。休載といふ事も考へたが、事情あつてそれはやらない事にした。とすれば、これまでに讀んだ記事について書き洩らした事を書くしかない。御諒解願ひたい。
週刊ポスト九月二十一日號は、「成熟女性における完全た失神の方法!」と題する或る「女房族向けの雜誌」の記事を紹介してゐる。それは「亭主に滿たされない“成熟女性たち”に“完全な失神法”を教へます、といふ大記事」なのださうで、「われわれ亭主族にとつてまことに看過すべからざる大特集記事」だと、ポストは言ふのである。馬鹿々々しい記事だから、その中身を紹介はしないが、この種の記事を週刊誌は格別好むやうであり、週刊現代に漫畫を連載中の小島功氏の如きは、倦きもせず、倦きられもせず、馬鹿の一つ覺えよろしく、古女房の性欲にてこずる亭主を題材にして稼いでゐる。が、いかに金錢の魔力のせゐとは言へ、女房にてこずる亭主を好んで取り上げる事は、男性の記者や漫畫家にとつて自縄自縛的行爲ではないか。亭主に滿足せず懊惱する女房もくだらないが、さういふ女房にてこずる男もくだらない。てこずつてそれを他人に打ち明ける男はもつとくだらない。
「成熟女性」に「失神の方法」を、男の記者が教へる事も自縄自縛である。ポストの記者の妻もポストを讀むからである。だが、いづれ損を覺悟するならば、なぜもう少し高級な損を考へないか。
例へば週刊新潮九月六日號は、小中學校の教職員を十二萬人増やすといふ文部省の計畫にけちをつけ、日本大學などといふ「大學のテイもなさないに等しい」大學に「今年もまた百五億圓にものぼる助成金を出したりしてるのは納得できぬ」と批判してゐる。新潮の批判はもつともだが、日大關係者や日大出身者は腹を立て、週刊新潮を買はなくなるかも知れぬ。
新潮はまた、本州と四國を結ぶ橋を三本も造るのは「史上最大の愚擧」だが、四國出身の大平首相も故成田知巳氏も三木武夫氏も、「オラが縣にないのはメンツにかかはる」と息卷く選擧民の事を考へ、三本架ける事の無駄を決して言はないけれども、「瀬戸内海に三本も巨大な橋をかける金があつて、何が増税か」と書いてゐる。さういふ思ひ切つた事を書いて、四國地方の新潮の購讀者は減るだらうか。私はさうは思はない。増税をほのめかし、不利と知つて引つ込めたりしたから、自民黨は「敗けた」のだと思ふ。要するに、自民黨は本氣でなかつたのである。
教育の普及を嘆ず
週刊讀賣に連載中だつた藤原弘達氏の「天下大亂に處す」が完結した。毎囘、何が言ひたいのやらよく解らぬあれほど粗雜な文章を、百四十囘も連載できたとは、さすがは大讀賣と言ふべきか。最終囘は「むなしさについて」と題する何ともむなしい文章である。少し引用しよう。
天皇が、、美智子妃が、そして大平正芳が、栗原小卷が、それぞれにひりだした自分の糞を、どのやうな思ひで眺めてゐるだらうかと考へながら、自分は自分なりの糞をひりだしながら、いま更のやうにおどろく思ひでもある。
藤原弘達氏が、かくも粗雜な思考力と劣惡な文章をもつて今日の名聲を築けたのは何ゆゑかと、私は「いま更のやうにおどろ」かざるをえない。しかもそれは藤原氏に限つた事ではない。例へば、サンデー毎日に「ことばの四季」と題して愚にもつかぬ文章を七十七囘も寄せ、編集者からも讀者からも愛想尽かしをされずにゐるらしい外山滋比古氏の場合も同樣である。外山氏には女性ファンが多いさうだが、察するに、昨今は教育の普及に伴ふ新手の無知がはびこつてゐるのであらう。「握手」と「シエイク・ハンド」とは違ふなどと言はれて、「なるほど」と理解できる程度の大學出の「知的」な母親が増え、「教育の普及は浮薄の普及なり」といふ事になつたのであらう。
藤原弘達氏のファンに女性が多いとは考へられない。けれども藤原氏が『世界の名著』から破廉恥なほど頻繁かつ大量に引用し、しかも、引用文を正確に理解せずして、淺薄な思ひ付きを書き流し、それで結構讀者に受けてゐるらしいのはやはりその新手の無知のせゐではないかと思ふ。
だが、それにしても藤原氏の理解力と思考力の粗つぽさは度を超えてゐる。「王樣がたも哲學者たちも糞をする。ご婦人たちも同樣である。・・・・・・これは、すべての自然の行爲のなかで、途中でやめる氣にもつともなりにくいものだ」とのモンテーニューの文章から、藤原氏は次のやうた結論を引き出すのである。
だしかかつた糞のやうに、途中ではなかなかやめられないのが、人それぞれの生きざまなのであらう。ここで朴正煕大統領射殺の報に接する。一度だが會つて、獨裁者の“苦惱”を‘きいてやつた’こともあるあの韓國空前の軍人獨裁者・・・(中略)彼もまた殺されるまでやめられなかつた男としてそれなりに生きたといふことなのかも知れない。
朴正煕大統領暗殺以後、日本の新聞や知識人が口走つた暴論、愚論の數々を、私はいづれ徹底的に扱き下ろす予定だから、朴正煕氏を「空前」の「獨裁者」とする藤原氏の論法の粗雜はここでは咎めない。が、一國の元首の「苦惱」を「きいてやつた」とは何事か。さういふ無神經な男に、モンテーニューなんぞが理解できる譯は斷じて無いのである。
自分の頭で考へよ
何か事件が起こると、新聞や週刊誌は識者の意見を知りたがる。知りたがる癖にまづ自分の意見を言ふ。それはジャーナリストの奇癖である。そこで識者はつい相手が喜びさうな意見を喋る事になる。それが嫌だからと、思ひのままに喋ると、記者は甚だ浮かぬ顔で聞く。電話の場合、もとより相手の顔は見えないが、相手の喋りやうでそれは察せられる。さういふ事が度重なると、「ええい、面倒くさい」とばかり、識者は相手を喜ばせるやうな事を喋るやうになる。週刊ポストの記者に對して會田雄次氏は、自分はこれまで新自由クラブを「愛玩政黨だといふ意味で、“コアラ”と思つてゐた、ところが、“パンダ”ですな」云々と喋つてゐる。會田氏もまた「ええい面倒くさい」と思つたのかどうか、それは知らないが、かういふ事を言はれると週刊誌が喜ぶのは確かである。「あ、これで題名は決つた」と記者は思ふ。かくて「大平總理がウシなら河野洋平はパンダか」と題する淺薄な記事が出來上がる。
けれどもそれは、「これで題名は決つた」と思つたポストの記者が、會田氏の話の續きを上の空で聞いたためかも知れぬ。それかあらぬか、ポストの記事は「大平ウシ説」とも「河野パンダ説」ともおよそ無關係な代物なのだ。
事ある毎に識者に意見を徴して記事を書く、さういふ習慣の安直を新聞や週刊誌は氣にしてゐるであらうか。今囘の「河野洋平辭任劇」についても戸川猪佐武氏、三宅久之氏、麻生良方氏などの政治評論家、及び明大教授岡野加穂留氏や早大助教授岡澤憲芙氏などの政治學者は、愚にもつかぬ意見しか述べてゐない。政治評論家は裏話を得々と喋り、政治學者は陳腐な御托を並べ、それを記者ばかりが面白がつて、その擧句、「暗躍好きの民社が噛んでくれたら、自民の抗爭劇はもつと面白かつたらうに、殘念な氣もする」(週刊讀賣)などと無責任な野次馬根性を丸出しにするか、さもなくば「イタリアでは連合・連立といふ名のもとで政爭がくり返され、經濟危機を招き、社會的混迷を深めてゐるといふ」(ポスト)などと、日本の「經濟危機」と「杜會的混迷を深め」る事を望んでゐるのか、それともさういふ事態の到來を案じてゐるのか、さつばり解らぬやうな「結論」を下したりするのである。
週刊誌は凡庸な識者の凡庸な意見を重宝がらずに、自分の頭でじつくり考へるか、さもなくば見たまま聞いたままの事實を、いつそ淡々と語つて貰ひたい。
とは言ふものの、それも所詮は不可能であらう。このぐうたらな日本國では、愚鈍な週刊誌と愚鈍な學者とは割れ鍋に綴ぢ蓋だからである。週刊文春十一月二十九日號で外人記者たちが指摘してゐる通り、自民黨は「大敗」したのではない。が、愚鈍な新聞・週刊誌が「大敗」と書き、愚鈍な識者もそれを支持したから、朴大統領の葬儀に參列できぬほど、大平氏は多忙になつたのである。が、その多忙は一體全體何のためだつたのか。
許し難い韓國蔑視
朴正煕大統領が凶彈に斃れて以來、日本の新聞は例によつて浮薄な記事を書き流したが、私はいづれ、それらを束ねて批判する積りでゐるから、このコラムでは韓國には一切觸れまいと思つてゐた。が、サンデー毎日十二月三十日號の「銃聲再び ソウルの闇夜に第四幕があく」を讀み、私は腹立ちを抑へられなかつたのである。それゆゑ、今、ここで、サンデー毎日を血祭りに上げておかうと思ふ。
まづ、前々囘たたいた藤原弘達氏もさうだが、韓國といふ獨立國を日本の新聞や識者は屬國なみに考へてゐるのではないか。韓國で知つたことだが、かつて韓國を訪問した「親韓派」として著名な日本の知識人は、「女を世話しろ」と韓國の役人に言つたといふ。言語道斷である。さういふ物書きが何を書かうと、その「親韓」は商賣に過ぎない。もちろんサンデー毎日は「親韓」ではあるまいが、韓國を對等の獨立國と考へぬ点では、「女を世話しろ」と言つた保守派の物書きと少しも變らない。先日の鄭昇和戒嚴司令官の逮捕について、毎日は「このごろソウルに出囘つてゐる」といふ「軍部をサーカスのライオンにたとへた話」を紹介し、「鋭いムチを振るつてゐた調教師がボス格の一頭にかみつかれ、姿を消したため」、「當然、ボスの座を獲得するため激烈な死鬪を演じ出したわけだ」と書いてゐるのである。つまり毎日は、眞劍勝負をしてゐる韓國軍をサーカスなみに考へ、韓國民の直面してゐる試練を對岸の火事として興がつてゐるのであつて、許し難い輕佻浮薄であり、韓國蔑視である。
毎日によれば、鄭陸軍參謀總長逮捕を指揮した全斗煥少將は陸士十一期卒で親朴派だが、李熹性新參謀總長は陸士八期卒であり、「そこから八期と十一期との對立といふ新局面の出てくることも考くられてゐる」といふ。馬鹿が文章表現上の工夫を凝らしても、まちまちにして馬脚をあらはす。毎日は韓國が不幸になることを望んでゐるのである。「馬鹿正直」といふことがある。なぜそれを正直に書かないのか。
かういふ小さいコラムでは、他國の不幸を樂しむ毎日の記者の心理を詳細に分析できないが、證拠として一つだけ引いておかう。毎日はかう書いてゐる。「もし金桂元室長と鄭總長が金部長に同調してゐたら、もし盧國防相が金部長の逮捕に失敗してゐたとしたら(中略)韓國は國民を卷き込んだ未曽有の混亂に陥つてゐただらう」
朴大統領をサーカスの調教師にたとへてゐるのだから、毎日の「歴史的イフ」は、韓國が「未曽有の混亂に陥」ることがあらうと、「全斗煥將軍が何とか失脚してくれないものか」との願望のあらはれに他ならない。それならさうと、小細工をせず、なぜ正直に書かないか。全斗煥將軍が鷹派なら私は將軍を支持する。毎日に尋ねたい、毎日は本氣で金載圭を支持するのか。
割を食ふのは覺悟
このコラムに執筆すること六十六囘、やがて滿三年になる。この際、何か感想があれば書けとのサンケイ新聞の注文である。「松竹立てて門毎に祝ふ今日こそ樂しけれ」と、世間が新年をことほいでゐる最中にも、放つておけば野暮天の松原は、肩を怒らせ週刊誌を扱き下ろすだらうと、サンケイは思つたのかも知れぬ。その思ひ遣りは忝いが、私は何とも野暮な男で、屠蘇機嫌にふさはしい酒落た文章なんぞ書ける譯が無い。それゆゑ、この三年、折節考へた事を書く事にする。
小林秀雄氏は、若かりし頃、「毒は薄めねばならぬ。だが、私は、相手の眉間を割る覺悟はいつも失ふまい」と書いた。が、昭和四十年、小林氏は次のやうに語つたのである。
お前駄目だなんていくら論じたつて無駄たことなんだよ。ぜんぜん意味をたさないんだ。自然に默殺できるやうになるのが、一番いいんぢやないかね。
なるほど、駄目な週刊誌や愚鈍な物書きに向ひ、「お前駄目だなんていくら論じたつて無駄なこと」なのである。それは私にも解つてゐる。それゆゑ私は、週刊誌を出しに使つておのれを語つたのである。それがやれたから、つまり、おのれの言ひたい事を讀者に傳へる喜びがあつたから、私は批評對象を默殺しなかつたのであつて、それゆゑ「高が週刊誌ではないか」などと私は一度も考へた事は無い。
「高が週刊誌、本氣で目くじら立てるには及ばない」と、そんなふうに考へながら文章を綴るのは、週刊誌に對しても讀者に對しても失禮な態度だと思ふ。それにまた、本氣で目くじらを立てないと、批評對象の下劣に比例してとかく批評文も下劣になる道理だから、かういふ小さなコラムだが、私は三年間本氣で週刊誌を罵つた。週刊誌の記事がいかに愚劣でも、それがいかに愚劣で、この私がいかに立腹してゐるかを本氣で語れば、紙幅の制約はあるにせよ、通じる讀者には通じるであらうと、それを信じて書く事は樂しかつたのである。
それゆゑ、去る十二月十九日付本紙『私の意見』欄の前田馥氏の批評を、私はうれしく讀んだけれども、私の場合「無能な讀者は讀者とは認めてゐない」などといふ事は無い。無能な記者がゐるからには「無能な讀者」もゐるだらうが、私が本氣で書いてゐる事さへ解つてくれるなら、それが私の理想の讀者である。そして、「高が週刊誌批評ではないか」などと考へぬ以上、當然私は欲張つて言ひたい事を小さなコラムに詰め込む事になる。私が漢字を多用し、安易な改行を嫌ふのはそのためである。必然的に字面は黒くなる。それで私が得をする譯が無い。
が、損得を言ふなら、この馴合ひ天國日本では「相手の眉間を割る覺悟」も割に合はない。とすれば、いづれ「自然に默殺できるやう」になれるまで、割を食ふのは覺悟するしかないであらう。 
戰爭は無くならぬ
サンデー毎日に『サンデー時評』を連載してゐる松岡英夫氏の愚鈍はすさまじい。もはや病膏肓、いくら叩かうと直る事は無い。けれども、一月二十七日號で松岡氏は「國際紛爭に臆病な國でもいいぢやないか」と題して戯言を口走つてをり、それを戯言と受取らぬ讀者もあらうから、ここで取り上げ批判しておかうと思ふ。
松岡氏は、日本は「無資源國」だから、「世界のどの國とも」仲良くやつてゆかねばならず、日本は「戰爭をしない國」ではなく「戰爭のできない國」だと言ふ。そしてこれは「保守とか革新とかの思想の問題ではなく、客觀的事實」であり、「憲法の不戰・平和条項から出る觀念論ではない」と言ふ。こういふ安手の議論に感心する手合も結構ゐるのだから、日本國の將來を思へば默殺する譯にもゆくまい。
まづ、「觀念論ではない」と斷れば「觀念論ではない」と松岡氏は思つてゐて、そこが何とも無邪氣だが、それはともかく、「戰爭のできない國」でも「戰爭に卷き込まれる」事があるといふ事を、松岡氏は全く理解してゐないのである。よい年をして、さういふ中學生にも理解できる事が理解できない手合の言分は、「憲法の不戰・平和条項から出る觀念論」に他ならない。松岡氏はまた、「戰爭に絶對卷き込まれまいとするおく病なほどの用心深さ」が大切であると言ひ、日本の「國際紛爭の火種は國内に持ち込まないといふ“逃げ”の外交」を高く評價し、かう書いてゐる。「かういふ逃げの外交がアメリカを怒らせ、イランからも非難されるといふ結果を招き、アブハチ取らずになつてしまつた。しかし世界で一國くらゐ、國際紛爭に近寄らないといふおく病な國があつてもいいだらう」。この文章の後半に私は同意する。臆病ゆゑに輕蔑され、擧句の果てに滅びてしまふ、さういふ國が「世界で一國くらゐあつてもいい」。だが、それが日本國では困るのである。
いづれ私は腰をすゑて戰爭について考へ、この種の愚鈍な平和主義者を成敗する積りだが、松岡氏の愚鈍のあかしとして、今囘これだけの事を言つておく。この私の口汚い罵倒の文章を讀めば、松岡氏は平然としてはゐられまい。が、私に反論すれば、いづれ叩き返すだけの紙數を私に与へる事になる。紙數さへ与へられれば、私は完膚無きまでに松岡氏を粉砕してみせる。それこそ赤子の腕を捩るやうなものである。と、これほどまでの事を言はれても、松岡氏は「日本に一人くらゐ、論爭に近寄らないといふおく病な人間があつてもいいだらう」と呟くであらうか。もしも呟けるなら松岡氏はあつぱれなる腰抜けだが、立腹して反撃しようとするならば、愚鈍な松岡氏にも自尊心だけはあるといふ事になり、松岡氏は自らの主張を裏切る事になる。個人と同樣、國家にも自尊心がある。それゆゑ戰爭は無くならない。
まさに「立憲亡國」
ソ連のアフガン侵略について、週刊現代一月三十一日號は、例によつて多數の識者の意見を徴してゐる。現代は何と各界の名士十八人に電話を掛けたのである。だが、現代自身の意見となると、わづかに數行、すなはち「兵器の本格的生産は日本の工業力ならいつからでも始められます」との宍戸寿雄氏の意見を紹介した後に、「そのいきつく先がさきほどの“憲法改正”にもつながるが、しかしここから先は論議の的。こんな時こそつぎの意見には耳を傾けたい」と書き加へてゐる程度である。そしてその「つぎの意見」とは「平和憲法を守り、何事も非軍事的にやるべし」との、東大教授關寛治氏の愚論であつて、してみれば、現代自身の意見は關寛治氏のそれに近いのであらう。が、關氏ほど弱腰の意見を述べてゐる識者は他に一人もゐないのである。四人の記者の取材による四頁にわたるこの記事に、記者の主張らしきものが「つぎの意見には耳を傾けたい」との一行だけとは、頗る奇怪な事だと思ふ。週刊現代の記者は、例へば編集會議の席上、專ら他人の意見を記録するばかりで、とどのつまり最も弱腰で不景氣な意見に「耳を傾けたい」と、さう思ふだけなのであらうか。かつて曽野綾子女史は、「日本人は笊の上の小豆だ、笊をちよつと右に傾ければ、皆一斉に右に寄る」と言つたが、現代の記者も笊の上の小豆で、おのれの信念などさつぱり持ち合はせぬ化物たのかも知れぬ。
だが、週刊誌の記者なんぞはこの際どうでもよい。有事の際、日本國を專ら守る事になつてゐる自衞隊はどうなのか。ジャーナリストの世界や論壇、そしてもとより政界も今やだらけ切つてゐるのだから、自衞隊の性根だけがすわつてゐる筈はあるまいと、かねがね私は不安に思つてゐた。そしてそれは杞憂ではなかつたと、週刊新潮一月三十一日號を讀んで私は思つたのである。新潮によれば、ソ連に情報を漏らしてゐた宮永幸久陸將補と現職の自衞隊員二名が逮捕された事件に、「自衞隊は上は將から下は兵まで」少しも驚いてゐないといふ。陸上自衞隊の元將校がかう語つたといふ。「いやあ、日本の自衞隊はみんな平和主義者ですよ。日本國民の誰よりも平和主義で、憲法を尊重してゐます。(中略)戰へば負けることをよく知つてをりますからね」。
そんな事だらうと思つてゐた。「日本に國家がない以上、宮永たちは賣國奴でも何でもない」と新潮は言ふ。その通りである。宮永氏を賣國奴と罵る前に、吾々はそれを考へねばならぬ。「日本の生きる道は對ソ戰略降伏だ」と宮永氏は信じてゐたといふ。それなら宮永氏は森嶋通夫氏と同じ事を考へてゐた事になる。いづれすべての日本人が、笊の上の小豆よろしく、森嶋氏の先見の明を稱へる日が來るかも知れぬ。新潮の言ふ通り「立憲亡國のわが國を象徴するやうな氣の重い」話ではないか。
他人を嗤ふ前に
「私は最近の新劇を知らない。知らないで難じるのもどうかと思つて、參考までに俳優座を見物に行つた」と、週刊新潮二月十四日號に山本夏彦氏が書いてゐる。するとそこには、五十年前と同樣、ベレー帽をかぶつた客がをり、山本氏は「思はず顔をおほつた」といふ。役者たちの發聲の奇怪に新劇人はよくも我慢できるものだ、「芝居ごつこを始めると何も見えなくなるのだらうか」と山本氏は書いてゐるが、なに、他の分野でも「ごつこ」は今や全盛で、夢中になつて「何も見えなく」なつてゐるのは役者に限らない。
週刊朝日二月八日號は、宮永元陸將補とコズロフ大佐との情報賣買は「少年探偵團」の如き「幼稚なスパイごつこといふ感じを拭ひきれない」と書いてゐる。朝日は宮永、コズロフ兩氏を嗤つてゐるかの如くであるが、朝日は「宮永が、なぜ、こともあらうに自衞隊ひいては日本國が假想敵國とするソ連側になびいたのか」と書いてゐて、朝日もまた「幼稚なスパイごつこ」を嗤ふ事に夢中になり、おのれの姿は見えなくなつてゐる、自分の幼稚が見えなくなつてゐる。朝日はいつからソ連を日本國の「假想敵國」と認めるやうになつたのか。
二月十四日號の新潮は、栗栖元統幕議長が『現代』一月號において自衞隊のレーダーサイトの状況などを明かしたのは自衞隊法違反ではないかと、共産黨の正森代議士が追及したのは、實は選擧對策に他ならぬと書き、情報公開法を作るべしと主張してゐるくせに「自衞隊の機密漏洩を咎めるやうな發言」をする共産黨の矛盾をからかつてゐる。栗栖氏が『現代』編集部でなく、『赤旗』に原稿を持ち込めば、共産黨はにつこりした筈で、それなら、共産黨も今や「革命ごつこ」に夢中で、これまた自分の姿が見えなくなつてゐるのである。
けれども、共産黨の幼稚と自家撞着を嗤つてゐる新潮にしても、「選擧といふバカ騒ぎの前では、日本の國防問題も、ひとたまりもない‘やうです。生きのびられるかな’、‘80年代」と書いてゐるのである。新潮には文章について敏感な記者が揃つてゐると信じるから、敢へて苦言を呈するが、傍点を付した部分は、ジャーナリスト特有の、高みの見物的浮薄を裏切り示してゐる。「生きのびられるかな」では濟まぬ、日本はどうしても「生きのびねばならぬ」のである。
週刊文春二月七日號の防衞庁關係の特集も私は興味深く讀み、日蔭者の自衞隊の腑抜けぶりに呆れ果てた。週刊現代二月十四日號に江藤淳氏が書いてゐるやうに、憲法を改正せずして「ノホホンと日々をおくり續け」たから、今や日本中が「ごつこの天國」になつた。共産黨や社會黨を嗤ふ前に、人々はなぜその事をまじめに考へないのか。
何とも退屈なる惡事
私は小説を讀むのが苦手である。詩や戯曲は概して短いが小説は長い。だから滅多に讀み切る事が無い。新人の小説なんぞは讀まうといふ氣もしない。週刊文春二月二十一日號の書評欄の筆者は、すばる文學賞の松原好之氏、文藝賞の宮内勝典氏の作品をそれぞれ「支離滅裂」、「無神經」と評してゐる。しかるに、さういふ「無神經な描寫」や「支離滅裂な作文」を「抜群」などと褒め上げた選考委員がゐるさうであつて、八百長、馴れ合い、ぐうたらは政界や論壇に限らぬ事らしい。となれば、ますます小説なんぞ讀む氣がしなくなる。
さういふ譯だから、週刊誌が連載する小説も、私は滅多に讀まない。週刊ポストに載つてゐる宇能鴻一郎氏の小説を時々拾ひ讀みするが、私が常に訝るのは、宇能氏の小説に限らず、例へば、週刊新潮の「黒い報告書」にしても、あの男女の色事の單調によくも讀者が愛想づかしをしないものだといふ事である。宇能氏の小説を週刊ポストの讀者の何割が讀んでゐるのだらうか。
だが、週刊朝日の連載漫畫の作者サトウ・サンペイ氏が好んで取り上げるやうに、色好みにかけて男はまこと性懲りも無いのであつて、私はただ、色事が惡だとしても、その惡を描く小説の單調、耐へ難いほどの退屈を指摘したいだけである。かつて私は英文で書かれ日本で出版された春本Pleasures and Follies of a Good−natured Lidertineを讀み切れなかつた事がある。それはすさまじい程の猥本で、すさまじい程退屈であつた。あれを讀み切れるのは狂人に他なるまい。 ところで、その小説嫌ひの私が今囘、週刊新潮に連載が始つたばかりの遠藤周作氏の小説『眞晝の惡魔』の第一囘と第二囘を讀んだ。猥本や「支離滅裂」な新人の作品と違ひ、遠藤氏の作品はさすがに讀み易かつたが、やはり私は惡の單調といふ事を感じて、遠藤氏の「新連載推理小説」を樂しまなかつた。
一流ホテルで行きずりの男に身を任せる若き女醫が、床入りの前に男の「五本の指を大きく擴げた掌の甲に縫針を突きたて」てみたり、病院で「煙草を口にくはへたまま」實驗用の二十日鼠を握り殺したりする。何と退屈な惡事か。私はフローベールの短篇『聖ジュアン』を思ひ出し、遠藤氏の小説の第三囘を讀む氣を無くしたのである。
「私を興奮させるのは狂氣ではなく理性だ」とジョージ・スタイナーは言つた。善への憧れの存在しないところ、惡は常に單調なので、差恥心を持たぬ宇能氏の小説の登場人物の好色が退屈なのは、してみれば當然の事なのである。
何よりも批判精神を
週刊誌の記者は、月刊誌の編集者よりも氣忙しい毎日を過してゐる。それゆゑ、程度の差こそあれ、「鹿待つところの狸」といつた結果にをはつたり、問題の本質についての考察を疎かにする事もあらう。だが、そこはよくしたもので、讀者も例へば、渡部繪美嬢が美人で、銅メダルを獲得できなかつたとなると、週刊朝日三月十四日號の「渡部繪美 スケ一ト人生の軌跡と今後」のやうな記事を喜び、週刊文春「6位渡部繪美の商品價値は2千萬圓?」(三月六日號)のやうな天邪鬼的記事を喜ばない、といふ事になる。だが、日本中に百萬人ぐらゐの天邪鬼はゐよう。そして週刊誌はいくら賣れても六、七〇萬。すね者相手の文春や新潮の商賣が成り立つゆゑんである。『月曜評論』といふ、これも專らすね者相手のミニコミ紙で、矢野健一郎氏が、週刊新潮の編集ぶりを「ハラのすわつた批判精神」と評してゐたが、まつたく同感である。
一方、その種の批判精神を欠いてゐるのが週刊ポストであつて、例へば三月十四日號の「由美かおる 黛ジュンの涙ぐましき股われ商法」のやうな、新潮や文春の記者には書けないやうな記事ならよいが、同日號の「“金載圭供述テープ”が暗示する“4月韓國異變”を讀む」の如く、眞面目に論じてしかるべき問題を扱ふと、ポストの記者の愚昧は惨憺たる結果を招來する事となる。
まづ、金載圭の軍法會議における發言を収録したテープを、ポストは「極秘に入手した」として、「新聞では分らない重要部分を抉る」などと書いてゐるが、同じテープをNHKや新聞も入手した筈であり、いづれの場合も、「入手」が「極秘」だつたのは當り前である。また、ポストの記事を讀んでも「新聞では分らない」事は遂に解らない。いや、「新聞では分らない重要部分」とは何か、それも解らずじまひなのである。金載圭の供述は「韓國政界のある斷面をみごとなまでに物語つてゐることだけはたしかである」とポストは言ふ。「ある斷面」とは何かを書かずに「たしか」だと斷定する、この種のいかさまに、ポストの讀者は頗る寛容であるらしい。なぜか。なにせポストは二百ぺージもあつて百八十圓、女の裸のカラー写眞のおまけまでついてゐる。眺め終り、讀み終つたら屑箱に捨てて惜しくはない。どだい、批判精神を云々するのが野暮なのだ。
だが、讀者は『正論』四月號に載つてゐる柴田穂氏の「韓國・銃撃と危機の55日」を讀んでみるがよい。柴田氏が一流のジャーナリストたるゆゑんは、その鋭い批判精神にある事を、誰しも納得する筈である。柴田氏の文章は、出色の「現地取材ルポ」である。一讀をすすめる。 
早稲田は堕ちたか
早稲田大學總長室調査役の後藤朝一氏が、「(不正入試)事件に關与してゐないことだけは、死を前に斷言致します」との遺言をのこして自殺した。サンケイ新聞三月二十二日付夕刊によれば、清水司早大總長は「大粒の涙をポロポロ流し、何度もハンカチで顔をおほひながら」記者會見をしたといふ。私は早稲田大學の教員として、總長が「涙の會見」をした事を殘念に思ふ。男は公的な場所で泣くべきではないと考へるからである。總長はまた「後藤君は死をもつて身の潔白を證明したんです」と語つてゐる。冷酷な事を言ふやうだが、後藤氏の自殺と後藤氏の「身の潔白」とは別である。後藤氏をあはれに思ふ總長の私情を私は尊重するが、わが早稲田大學の最高責任者が、私情ゆゑに理非の判斷を曇らせた事は遣憾千萬である。
同日付のサンケイ夕刊「直言欄」に西尾幹二氏が、ソ連に對する過度の恐怖をいましめ、恐怖は「人間の平常心を奪ふうへで最大の効果があり(中略)確實に人間の言動を麻癖させてしまふ」と書いてゐたが、それは恐怖に限らない、憐憫も同樣である。以後、清水總長は決して涙を流す事なく、平常心を失はず、「ワセダの再建」のために努力して貰ひたい。總長の退陣を要求する聲もあるやうだが、不心得者はどの社會にもゐる。マスコミが浜田幸一代議士を激しく叩いても、大平總裁は辭任しないし、する必要は無い。清水總長の場合も同樣である。
一方私は、マスコミの報道ぶりの浮薄をも苦々しく思ふ。例へば、週刊文春三月二十日號は、「現職の教授を含めた早大職員が、試驗問題を盗み出し、受驗生の親に配つた、といふのだから、ワセダも堕ちたものだ」と書いてゐる。數名の(或いは數十名の)不心得者がゐたといふ事が解つたからとて、なぜ「ワセダも堕ちた」といふ事になるのか。文春は今後、自社から一名の不心得者も出さぬと言ひ切れるか。數名ないし數十名の不心得者はどこの會杜にもゐよう。少しはわが身をつねつて人の痛さを知つたらよいのである。
週刊ポスト三月二十一日號にしても、筑波大學の「不正入學工作の告發事件」を扱つた記事を「大學は、いまや明らかに病んでゐる」と結んでゐるが、「病んでゐる」のは大學だけではない。ポストは毎週「カネやんの秘球くひ込みインタビュー」と題し、金田元投手と女優との愚劣極まる馬鹿話を活字にしてゐる。金田氏も相手の女も大馬鹿なら、時々合の手を入れる記者も許し難いほど低級である。金田氏は三月二十一日號で、市毛良枝といふ女優に、「男の裸を見た」體驗について語らせ、「その時、野郎の××××は立つてた?」(伏字松原)などと質問してゐる。ポストに限らず、さういふ低劣俗惡な週刊誌が、わが早稲田大學を指彈する。笑止千萬である。
説教も道徳的退廢
今囘も「早大入試事件」について書く事にする。だが、それは早稲田大學が私の母校で勤め先だからではない。週刊新潮三月二十日號は、今囘の事件の新聞報道を「異常なまでの犯人捜し」と評し、「ワセダは“杜會の木鐸”の養成所、OB記者連が母校で起きた不正許し難しとしてハッスルしたせゐか」と書いてゐるが、私はその種の母校愛ゆゑにハッスルした事が無い。週刊現代三月二十日號は「早稲田は一生懸命に勉強しなければ入れない大學だからと、信頼を受けてきた。その國民的信頼を裏切るものです」との早大出身の代議士の言葉を引用してゐる。「國民的信頼」とはまた大袈裟な表現である。この代議士に限らず、とかく早大出身者は、母校の事となると盲目的になりがちであつて、それを私は苦々しく思つてゐる。
それゆゑ私は、その種の歪んだ母校愛ゆゑに早大を指彈する週刊誌を叩かうと思つてゐるのではない。新聞や週刊誌は「社會の木鐸」をもつて自ら任じ、政治家や財界人や教師の惡業を批判するが、新聞や週刊誌にだけ他者に説教する權利があるのはなぜか、及びさういふ權利をマスコミは、いつ誰に授けられたのかと、その事を私は怪しむのである。
例へば週刊朝日三月二十一日號は「皮肉なことに(中略)入試問題を手に入れてゐた渡邊伊一は、定年まで二十七年間『倫理・杜會』を担當、生徒たちに人の道を教へてきたはずの高校教諭だつた」と書いてをり、またサンデー毎日の記者は渡邊氏に對して「あなたは教師だつた人でせう。教育とは、師弟の信頼關係に基づくものではないか」と説教し、岸田茂雄主事補に對して「あなたは、いい年なのに、どうしてこんなばかなことをしたのですか」と尋ねてゐる(三月二十三日號)。「倫理・社會」の教師も、週刊誌の記者も、よい年をして時に馬鹿な事もしでかすのである。それなのに、なぜ新聞や週刊誌の記者だけが、かくも涼しい顔をして他人に説教できるのか。
私は早大の不正入試事件に關係した教職員を辯語してゐるのではない。週刊文春はこのところ毎週、朝日新聞小堀擴販團の「メチャメチャといつてもいい内情」を報じてゐるが、マスコミも程度の差こそあれ脛に傷持つ身なのであり、その意識を欠いて他者に説教するのは、不正行爲をなす事と同樣の道義的退廢だと、その事が言ひたいのである。
だが、早大に限らず、大學が退廢してゐる事も事實である。週刊文春の「讀者からのメッセージ」に早大生が投書してゐるとほり、入試問題の漏洩以上に、「教授・學生の熱意」が欠けてゐる事をこそ大學は反省しなければならぬ。人は時に過つ。が、怠惰こそ何よりも咎めらるべき惡徳だからだ。
ぐうたら日本、わが祖國
申相楚先生、韓國滞在中は一方ならぬお世話になり、まことに忝く、ここに改めてあつく御禮申し上げます。けれども、まづ何よりも、かうしてサンケイ新聞の週刊誌評のコラムに、先生あての私信といふ形で書く事にした理由について申し述べねばなりますまい。 第一の理由は、この文章が歸國後に書く最初の文章で、私は机上に積んだ週刊誌を讀まうとしたのですが、今囘ばかりはどうしても本氣で讀む氣になれません。それでも週刊新潮と週刊文春四月二十四日號の、浜田幸一代議士追及の記事、モスクワ五輪ボイコット及びイラン制裁問題をめぐる「大平ハムレット」批判などを讀み、それぞれ感ずるところはあつたのですが、それをどうしても文章にする氣になれない。全斗煥將軍のすばらしい人柄、鄭鎬溶特戰司令官と崔連植師團長の眞劍な表情、及び先生と鮮干7(火+軍)氏との樂しい旅行の思ひ出などが邪魔をして、浜田幸一氏の事なんぞ論ずる氣になれない、それが第一の理由であります。全斗煥將軍や先生の如き、何とも見事な人間の思ひ出に圧倒されて、私の「韓國惚け」は容易に癒えず、家族や友人や學生に韓國について語つて倦む事を知らぬていたらくなのです。
第二の理由は、歸國した私を待つてゐたのが、私の書いた文章に對する一種の嫌がらせであつたため、目下のところ私は、その卑劣極まる人物もしくは組織と戰ふといふ、頗る非生産的な作業に忙殺されてゐるといふ事であります。今囘の韓國滞在中、私はお國の欠点もかなり知つた積りですが、それでも、こちらが本氣になると必ず先方も本氣で應ずる韓國人の見事を、今囘も私は、何よりも貴重に、かつ羨ましく思ひました。正々堂々と反論せずに、搦め手からの嫌がらせしかやれず、またさういう嫌がらせに頗る弱い日本の言論界の風潮を、私は日本人として甚だ情けなく思ひ、眞劍勝負の國から歸國したばかりだけに、腹立ちを抑へかねてをります。
けれどもいづれ私は、このぐうたら天國特有の處世術に對する勘を取り戻すでせう。週刊現代五月一日號は「日本人はいまや世界一セックス好きになつた!」と題する記事を卷頭に載せてゐる。セックスが嫌ひな民族などこの地上に存在する筈がない。そんな當り前な事を取上げて卷頭記事になる、さういふだれ切つた日本國を、しかしながら、私は世界中で一番愛さねばなりません。また、週刊讀賣四月二十日號は、何と、本年四月私の母校早稲田大學に入學した學生三千六百名の氏名、及び申先生の母校東京大學の教授、助教授百六十八名の氏名を載せてをります。これまた沙汰の限りです。が、それでも日本は私の國、私が最も愛する國なのです。いささかとりとめもない事を書いてしまひました。末筆ながら、鮮干7(火+軍)氏はじめ皆々樣にくれぐれもよろしくお傳へ下さい。
迫力ない「徹底追求」
『月曜評論』五月五日號で、矢野健一郎氏は、浜田幸一批判に興ずる週刊誌を批判し、「浜幸」事件なるものは「檢察當局の資料によつていとぐちをつけられた。それは例によつてマスコミによつて掘り起こされたものではなかつた」と書いてゐる。その通りである。つまり日本のマスコミは怠惰なので、怠惰だから「自ら問題を掘り起こすことに不熱心」なのである。誰かが他人の惡事をあばけば、ハゲタカよろしく蝟集するが、このぐうたら天國のあちこちに轉がつてゐる理不尽を自ら告發しようと考へる事が無い。叩いても安全と解つてから、「これでもかこれでもか」と叩くのである。
例へば『サンデー毎日』五月十八日號によれば、浜田氏が「秘かにヨーロッパヘ旅立つ」と知つた時、毎日の編集長は「ハコノリ(同乘)だ」と叫んだといふ。そして、編集長の命により、鳥越俊太郎記者は、エールフランス273便のファースト・クラス、浜田氏と「誰にも邪魔されない」でインタビューのできる席を確保し、成田からパリまでの十六時間、「追撃密着取材」なるものをやつてのけた。「誰にも邪魔されない」やうに、毎日はファースト・クラスの切符を三枚買つてゐる。けれども鳥越記者の「密着取材」によつて毎日は十七ぺージに写眞と活字を並べる事ができた譯だから、これはずゐぶん割がいい商賣だつたであらう。そして割を食はぬ限り記事の凡庸は二の次三の次なのであらう。この記事は「徹底追及第4彈」のはずだが、そのやうな迫力なんぞどこにもありはせぬ。「座席に着いて何氣なく浜田氏の方を見た」鳥越記者は、サングラスの浜田氏の微笑に「思はず釣り込まれて微笑を返」す。そしてかう書くのである。「あの笑顔も政治家特有の演技なのか。必ずしもさうとばかりはいへない氣もする。(中略)田中角榮にしても、どえらい犯罪をやつてのける政治家は、並はづれた人間的魅力を備へてゐるものたのだ」 私は浜田幸一氏とは面識が無い。が、サンデー毎日の記事を讀んで、浜田氏の人柄に興味を持つややうになつた。少くとも付合つて退屈するやうな凡人ではない。「並はづれた人間的魅力を備へてゐる」やうに思ふ。けれども、さういふふうに一讀者に思はせてしまふ鳥越記者の文章は、「浜田幸一氏追及のスクープ報道」としてはいかがなものか。サンデー毎日は次週も「浜幸追及」をやる、「話題の連打」をやると予告してゐる。「人間的魅力」を認めても「クサイものにフタをする自民黨の金權體質」はあくまでも追及するといふ事なのか。いや、さういふ事ではない。「罪を憎んで人を憎まず」などといふ藝當がサンデー毎日にやれる筈は無い。來週もまた人間不在の「浜幸追及」の文章が載る、それだけの事であらう。
すべてこれ商策
「釣竿とは一方の端に釣鈎を、他方の端に馬鹿をつけた棒」だと、サミュエル・ジョンソンは言つた。私は必ずしも同意しない。人生に無駄は必要だからである。だが、度外れの無駄は賢い大人のやる事ではない。週刊讀賣六月一日號は「農水省次官、局長、課長、農協、水産幹部一一五五人全氏名」を十五ぺージを費して掲載してゐる。これは一體、何のためなのか。
讀賣はこのところ、手を變へ品を變へ、この種の無駄を重ねてゐる。時たま釣糸を垂れるのは決して無駄ではない。が、他人の氏名を羅列しただけの原稿を書く事も、その活字を拾ふ事も、それを讀む事も、全くの無駄ではあるまいか。活字がこれほど無駄に使はれようとは、さすがのジョンソンも夢想だにしなかつたであらう。
讀賣は昨今、表紙を二重にして「表紙を開くともう一人の私!」といふ新趣向で、同じ女の異なる写眞を載せてゐるが、これも全くの無駄である。週刊ポストのヌード写眞は私も毎週樂しむが、ヌードならぬ同じ女の写眞を二倍見せられて、二倍喜ぶ馬鹿がゐるとは私には思へない。獨り善がりの馬鹿の無駄づかいほど無意味たものは無いのである。
だが、ポストにしても、五月九日號で、金田正一氏がグアム島まで行き、澤たまき女史の「子供に荒らされまくつた乳首」ないし「男が荒らし」た乳首を「激写」した事を報じ、五月十六日號にそのカラー写眞を載せてゐる。蓼食ふ蟲も好き好きだから、澤女史の肉體についての審美的判斷は差し控へる。が、「たまき姉御も年甲斐もなく自信滿々」だのと、八百長もいい加減にして貰ひたい。
いかに無能、無藝、無名の「じやりタレ」でも、讀者はやはり若い娘のヌードを喜ぶのではあるまいか。ポストはこのところ、執拗に「八百長仕掛人」の告白とやらにもとづき大相撲の八百長を追及してゐる。自分の八百長は棚上げして他人の八百長を指彈する、さういふ事が度重なつて、週刊誌の記事は眉唾だと、讀者は思ふやうになるのである。
だが、一見無駄のやうに見え、八百長のやうに思へるものは、實はすべて商策なのである。農林水産省の千百五十五人が、小さな活字になつた自分の名前を見出して、記念に一冊でも買つてくれれば、元は取れる、いやお釣りが來る。讀者にすすめたい、「何のための無駄なのか」と首をひぬる時は、「すべては商策」ではないかと疑つてみればよい。それで謎は解ける。
週刊新潮五月二十二日號は、「チョモランマ登頂成功」を大きく報じた讀賣新聞の無駄づかいを批判して「まるで“天下の公器”がお祭りの祝ひ酒に酔ひしれてしまつた、かの觀がある」と書いてゐる。要するに讀賣新聞も、中國に「敬意」を拂つたのではなく、商賣を考へただけの事である。國防も金次第の日本國、それもなんら怪しむに足りない。 
見事なり、全斗煥
私はこれまで、知人が週刊誌の餌食にされるのを見た事が無い。ところが、今囘、私は全斗煥將軍について四つの週刊誌から意見を求められ、將軍のために精一杯弁じたにも拘らず、それが充分に誌面に反映されてゐない事を知り、それどころか將軍が餌食にされてゐるのを見、改めて記者の頭腦の粗雜を思ひ知らされ、週刊誌のお粗末な樂屋を覗き見たのである。
「全斗煥つて、身長はどれくらゐでせう」などといふ質問に私がまともに答へたのは、今にして思へば馬鹿馬鹿しいが、それも結局、全斗煥といふ男の頭腦明晰と節操と胆力に、私が惚れ込んでゐたからに他ならぬ。實は私は『中央公論』七月號にも全斗煥將軍の事を書いたのだが、それを書いてゐる時、最も苦心したのは、どこまで書いてよいかを決定する事であつた。例へば金鍾泌氏が連行される前に、全斗煥氏は金鍾泌氏に對して批判的である、などといふ事を書く譯にはゆかなかつた。が、太つ腹の全斗煥氏は私に「これは書いてくれるな」とは一言も言はなかつたのである。金鍾泌氏が連行された事を知つて、私は少しく原稿を書き直したが、松原は必ず金鍾泌批判をやるだらうと、頭のよい全斗煥氏はそれも見通してゐたのではないかと思ふ。
だが、私は今、全斗煥氏の身の上を案じてゐる。日本の新聞や週刊誌の餌食にされたからではない。週刊現代六月十二日號で、韓民統の金鍾忠氏は、全斗煥氏を「殺さうといふ政敵、軍人は多い」と言つてゐる。どうしてさういふ事が解るのか、私にはそれが解らないが、全斗煥氏を殺したがつてゐる手合が日本にも韓國にもゐるであらう事は確かである。それゆゑ私は必配なのである。あんな見事な男が殺されてはたまらぬと思ふのである。
私は今囘、週刊サンケイを斬る。「女高生や女子大生が裸にされたうへ刺殺された−ロコミで傳はる光州暴動の惨状はすさまじい」云々の文章が示すやうに、週刊サンケイの記事は惡意の噂にみちてゐる。週刊サンケイはまた「鄭昇和の人脈、金載圭の人脈は軍部の中に脈々として生きてゐる」と書いてゐるが、「脈々」とはまなどういふ事か。金載圭は國家元首を殺した男である。週刊サンケイは殺人犯の人脈に期待し、前捜査本部長全斗煥氏の失脚を望んでゐるのであらう。まさに言語道斷の愚鈍である。
また週刊サンケイはさしたる根拠も示さず「全斗煥氏、天下人としてはまだ器が小さいのか、人氣はあまりない」と書いてゐる。日本には言論の自由があるといふ。それなら、日本にも一人くらいは、さしたる根拠も示さずに、全斗煥氏の器が大きいと主張し、彼の所業を賞揚して「見事なり、全斗煥」と書く男がゐてもよい譯だし、また週刊サンケイが「鄭昇和、金載圭の人脈」に期待してゐるとしても、サンケイ新聞一紙くらゐは「見事なり、全斗煥」と題する文章を載せてもよい筈だと思ふ。
批判精神の欠如
「ヨーロッパ的精神の對照をなすものは何かと云へば、境界をぼかしてしまふ氣分の中でする生活」であると、かつて日本文化を論じてカール・レーヴィットは書いた。その通りである。境界をぼかしてしまふから、「區別し比較し決定する」批判精神が育たず、「容赦のない批判が自分に加へられるのにも他人に加へられるのにも、堪へることができない」(柴田治三郎譯)。それゆゑ、週刊新潮六月二十六日號が批判してゐるやうに「圖らずも(中略)死が大平首相の評價をガラリと變へ」るといふ事態がおこるのであり、新潮の言ふ通り、この評價の逆轉は「ないへん輕薄なもので(中略)、新聞はきはめて無定見であつた」。今囘、國會解散、大平首相の死、ダブル選擧と、何か重大な事件が重なつたかのやうに思ひ込み、新聞や週刊誌は騒ぎ立てたけれども、すべては何とも空しい茶番狂言に他ならない。が、新聞にも週刊誌にもその自覺が欠けてをり、それも結局、レーヴィットの言ふ「批判精神」の持合せがないからである。
同日號の週刊新潮は佐瀬昌盛氏の意見を紹介してゐる。佐瀬氏は言ふ、「新聞の論調がコロッと變つたのには驚きました。大平さんのアーウーは何をいつてゐるかわからんと、常々いつてゐたのに、“大平さんは實に慎重に言葉選びをした人だ”とコロッと變つた。(中略)死者にはつきりものをいはないのはわかるけど、解釋が變るのは困る」。
「論調がコロッと變つた」のは、大平首相の死を境目に「境界」がはつきりしたといふ事ではない。佐瀬氏の言ふ通り、新聞週刊誌の「解釋が變」つたのであつて、それはつまり、外的な變化に應じて左右上下、どちらの方向へも突つ走る無定見、「批判精神」の欠如、外的な情勢の變化とおのれの意見とを「區別して比較し決定する」事のできぬ知的怠惰のせゐに他ならない。
「この選擧の大騒ぎは、ホントに何か重大なことなんだらうか。連日の政見放送。新聞の大見出し。だが、その多くはタテマヘばかりで退屈だ」と新潮は書いてゐる。が、この大騒ぎは「奇術師の帽子から飛び出したやうな國會の解散」に端を發する。そして、そのいかさま「奇術師」飛鳥田氏のでたらめを新聞は徹底的に批判しなかつた。先日、VOICE編集長の江口克彦氏と會つた際、江口氏は「まさか通ることはあるまいと輕々に不信任案を出した」飛鳥田氏の愚鈍を激しく批判してゐたが、さういふ批判精神の欠如、すなはち愚鈍ゆゑの連日の大騒ぎは、何とも腹立たしくまた空しい限りである。
それゆゑ今囘私は、騒ぎ立て、はしやぎまはる週刊誌の愚鈍を、うんざりして眺めてゐた。誰が次の首相にならうと、この日本國のぐうたらはどう仕樣もあるまいし、また、どうかうするだけの器量は政治家に期待できないであらう。
邪教をかばふ善意
週刊新潮七月十日號は、二年前、東京・國分寺市から若い女性ら二十數人と蒸發した「イエスの方舟」の代表「千石イエス」との「獨占會見」記を書いたサンデー毎日の鳥井編集長について、「ジャーナリストつてのは、對象をまづ疑つてかかることから始まるんだが、それをサンデーは最初から相手を理解しよう、理解しようとかかつてる」との、ジャーナリスト某氏の意見を引いてゐる。同感である。サンデー毎日七月十三日號及び七月二十日號の「千石イエス」に關する記事を讀み、鳥井編集長及び山本茂記者の、「理解しよう、理解しよう」との善意に、私も正直の話唖然とした。これはもはや商策ではあるまい。善意そのものである。が、何と愚かしい善意か、私はさう思つた。例へば毎日は、こんなふうに書いてゐる。「“イエスの方舟”の女性會員たちは夜ごと、(中略)濃いアイシャドーを塗つて出かけていく。それを見つめる千石剛賢氏。無力感にさいなまれたはずである」。よい年をして、これはまた何たる善意であらう。
紙數の關係上、充分な説明はできないが、サンデー毎日に語つた千石イエス及び「家出女性」七人の告白を讀んだだけで、私は千石氏及び女性會員の幼稚を知る事ができたのである。毎日が言ふやうに、千石氏の告白に「バイブルからの引用は」少ないが、そんな事よりも、千石氏及び毎日はバイブルを理解してゐるとは到底思へず、その事のはうが遙かに重要である。毎日は千石氏が「私たちを超えた、ある絶對者」の存在を認識しながら、「それが“神”であることも拒否する」と書いてゐる。それならなぜ千石氏はバイブルを讀むのか。
それに何より、千石氏は、土臺、バイブルだの神だのを云々する資格の無い人物である。七月二十日號で千石氏は、「(親ごさんたちが)娘さんたちの氣持ちをわかつてくれなかつた」と言ひ、「他人の娘さんにどうかういふといふよりも、自分が崩れていく。自分が汚れてしまふ」事を案じ、「自分の娘と養女の三人はもうかへらない」と嘆いてゐる。つまり千石氏は土壇場になつて自分と自分の娘の事しか考へてゐないのであつて、千石氏の人格は下劣であると斷ぜざるをえない。七人の女性信者にしても同樣であり、みな、自己の過去の「轉落」を家族や男のせゐにしてゐる。つまり、「己れの如く隣人を愛する」事の難しさを、千石氏も信者たちも少しも解つてゐないのである。
だが、さういふ事を善意のかたまりとなつたサンデー毎日は全く考へない。頭が惡いからである。頭が惡いから、頭の惡い千石氏に好意的で、一方、韓國の光州暴動についても「空腹に幻覺劑のまされて空挺部隊が同胞虐殺」などと書く。韓國の頭の惡い反體制に好意的な記者が毎日にゐるのは怪しむに足らぬ。「類は友を呼ぶ」のである。
他人の痛さを知れ
これは週刊誌ではないが、『自由民主』八月號で小谷豪治郎氏が途方も無い發言をしてゐる。小谷氏は「僕は今まで韓國政府に非常に近」かつたのだが、今は「韓國軍のやり方に非常に面白くない氣持ちを抱いて」をり、今や「日本のバイタル・インタレストは韓國にあるんだといふ考へ方を再檢討すべき」で、アメリカも「韓國から撤退して日本に一時駐留することが必要だらう」と言つてゐるのである。この、いはば惚れた女に失望してやけのやんばちになつた親韓派のでたらめは許し難いが、小谷氏の變節は韓國にとつてまたとない教訓になると思ふ。これまで韓國は、かくも無節操な人間を身方と思ひ込んでゐたのである。この際韓國に忠告しておく。これまで金鍾泌氏と親しかつた親韓派が、今後、軌道修正をして全斗煥氏を褒めそやす、といつた事態になるかも知れないが、さういふ非人間的な變節に欺かれてはならぬ。私は金鍾泌氏と一時間半話した事があり、金氏を批判する文章を書きもしたが、失脚した金氏をあはれに思ひこそすれ、「いい氣味だ」などとは露ほども思つてゐない。
ところで、私はどうしてこんな事を書いたのか。實は、週刊ポスト七月二十五日號の宇都宮徳馬、文明子兩氏による對談「“金大中廢人説”を抉る」を讀み、そこに『世界』編集長安江良介氏のコメントを見出し、小谷氏の變節を思ひ、私は考へ込んでしまつたのである。安江氏および著名な韓國問題評論家について、韓國の新聞人S氏は私に、友情をこめて語つた事があるが、そのS氏の態度と安江氏や韓國問題評論家の、韓國人についての冷やかな意見との間には甚しい懸隔があつたのである。宇都宮、文兩氏の對談は例によつて何の裏付けも無い惡意の噂話に過ぎない。だが、週刊ポストで安江良介氏は「一説には(金大中氏は)すでに殺害されてゐる、といふ情報もあるんです」と語つてゐる。いづれ金大中氏が軍事法廷に姿をあらはしたら、安江氏はどうする積りか。いや、どうする必要もありはせぬ。「情報もある」といふ言ひ方をしておけば、責任は一切とらずにすむ。それゆゑ私も安江氏の傳に倣ふが、安江氏は韓國のS氏にあてた私信の中で、卑劣極まる本音と建前の使ひ分けをやつた、といふ情報もあるのである。
ところで、金大中氏の事となると日本のマスコミは、冷靜に考へる事ができなくなる。週刊新潮のヤン・デンマン氏は、日本の元總理大臣田中角榮氏を「裁きの庭にひつぱりだしてゐるのはけしからん」と、もしも韓國のマスコミが騒いだら、日本人は一體どんな氣がするか、と書いてゐる。その通りである。ちとわが身を抓つて他人の痛さを知つたらよいのである。
他人の褌で相撲を取るな
週刊新潮八月七日號によれば、ニューズウィーク東京支局長バーナード・クリッシャー氏に、創價學會の秋山國際部長は、「なぜ、世界的に權威のある『ニューズウィーク』が(中略)信教の自由を侵害なさるのか?」と言ひ、「記事差止めを要望する樣子がアリアリ」だつたさうである。そしてクリッシャー氏は「私は學會に反對するために書くのではなく、これはニュースだと判斷したから書くのです。その邊を誤解せぬやうに」と「いつてあげた」といふ。私は創價學會とは何の繋がりも無い。「その邊を誤解せぬやうに」願ひたいけれども、新潮の記事を讀みクリッシャー氏の發言を知つて、私はいささか不快だつたのである。周知の如く、創價學會のスキャンダルをあばいて週刊文春は名譽毀損で告訴され「誌上での謝罪と二百萬ドル以上の賠償を要求」されてゐるのであり、その種の危險を昌しても學會の腐敗はあばかねばならぬとの覺悟は文春にはあつたと思ふ。が、新潮の記事はその半分以上がクリッシャー氏の言分の紹介であつて、そのやり方はいささか安直であり、しかも安直である事がジャーナリスト特有の病癖を物語つてゐるといふ点を、新潮は全然意識してゐない。
ジャーナリストは社會の木鐸で、社會の不正を5(易+利−禾)抉せねばならぬといふ。創價學會の腐敗ぶりを大新聞が承知してゐながら、いかなる事情あつてかそれをあばかうとしなかつたのだから、文春がそれを怪しみ、學會の惡を5(易+利−禾)抉しようと思つたのは當然である。だが、他人の惡を5(易+利−禾)抉する週刊誌も脛に傷持つ身なのであり、さういふ意識を欠いて他者を糾彈する事が、週刊誌に限らぬジャーナリズムの病弊なのだ。私は新潮の脛の傷を知つてゐてこれを言ふのではない。人間はみな脛に傷持つ身だと信じてゐるまでの事である。とまれ新潮は、創價學會の腐敗を5(易+利−禾)抉するクリッシャー氏の褌で相撲を取るといふ安直な手段を選んだ結果、創價學會を叩くクリッシャー氏の言分を無批判に受け入れ、そこにはつきり示されてゐるジャーナリスト特有の病癖を見落したのであつて、それは新潮がおのれの病癖を意識しなかつたからに他ならない。
「私は學會に反對するために書くのではなく、これはニュースだと判斷したから書く」のだとクリッシャー氏は言ふ。何とも粗雜な言分である。學會のスキャンダルを「ニュースだと判斷」して書く事が、學會に對する「反對」や支持と無關係でありうるか。ありうると考へてゐる事こそ、ジャーナリストの恐るべき病癖なのである。さうではないか、例へばの話、クリッシャー氏のスキャンダルを「ニュースだと判斷」して私が書く場合、私はクリッシャー氏に「反對するために」書いてゐる事になるのである。 
萬事本氣でない國
今囘は前囘取上げた問題を蒸し返す事にする。瑣末な語句にこだはるやうだが、週刊誌批評をやつてゐて私が最も氣になるのは、「ニュースだと判斷」すれば、どんな事でも書けるし、また書く權利があると思ひこみ、その結果おのが脛の傷をきれいさつぱり忘れてしまふジャーナリストの病癖だからである。
八月七日號の新潮によれば、バーナード・クリッシャー氏は、創價學會が「有形無形の圧力で内外の批判を封じ込めた結果が」今度のやうな事態をもたらしたと考へてゐるといふ。「日本通のクリッシャー氏が頭をひねつたのもムリはない」とか、「クリッシャー氏は簡潔に指摘してゐる」とか、新潮がなぜかうもクリッシャー氏を持上げるのか、どうも解せないが、それはともかく、クリッシャー氏も新潮の記者も人間であり、それならおのれに不利な事態となつた場合、「有形無形の圧力で批判を封じ込め」たいと考へる事もある筈である。
クリッシャー氏の場合も、氏が「有形無形の圧力で批判を封じ込め」たいと、これまでただの一度も考へた事が無いとは、私にはとても信じられない。クリッシャー氏には私にかう言はれても反論できない或る事情がある筈であり、そのクリッシャー氏が學會の「有形無形の圧力」を云々するのはちと身勝手が過ぎると思ふ。
他人を批判する場合、おのれを棚上げする病癖は人間誰しも持合せてゐる。が、それを意識してゐるか否かが問題なのである。しかるに、クリッシャー氏も新潮の記者もそれを意識してゐない。それゆゑ「ニュースだと判斷」すれば、ハゲタカよろしく腐肉に群がるのであり、それは頗る非人間的な所業である。新聞・週刊誌はそれを常に意識してゐなければならぬ。
他人の惡事を5(易+利−禾)抉してはならないなどと、さういふ事が私は言ひたいのではない。新聞や週刊誌は社會の不正を5(易+利−禾)抉してもよい。ただしその場合、おのれを棚上げせざるをえないほど本氣で不正を憤つてゐるかどうかが問題なのである。
週刊朝日八月八日號は、日商岩井航空機疑惑事件を担當した半谷恭一裁判長の判決文について「あの所感には“腐敗を生む土壌”に對する憤りといつたものが感じられないだらうか」と書いてゐる。そんなものは少しも感じられはせぬ。半谷氏は「國民全體が考へるべきだ」と言つてゐるが、さういふ事を言ふ者は決して本氣で憤つてはゐないのである。 半谷氏に限らない、我々日本人は今や本氣で憤るといふ事が無い。それゆゑ、見事な人間に本氣で惚れるといふ事も無い。昨今流行の防衞論議にしても、例へば佐久間象山の『省8(侃+言)録』のもつ眞劍な憂國の情を欠いてゐる。よろづこれほど本氣でなくなつた日本國では言論は頗る空しいと、三年間このコラムに執筆して私はつくづく思つてゐる。
韓國相手の寄生蟲
週刊現代十月二日號は、金大中氏を辯語する記事に、「たとへ金大中氏が惡だとしても、惡に對して寛大なのが民主主義です」との金一勉氏の言葉を引いてゐる。かういふ恐るべき愚昧をどう成敗すべきか。金一勉氏だの、鄭敬謨氏だの、大江健三郎氏だの、宇都宮徳馬氏だの、さういふ度し難い愚者を料理しようと思ひ立つて、その都度私は絶望する。自分が用ゐる言葉が何を意味するか、それすら解らずにゐる手合を遣り込めるのは至難の業だからで、金一勉氏の場合も、「惡」だの「民主主義」だのといふ言葉を、一體どういふ意味で用ゐてゐるのか、それがさつぱり解らない。それにまた、たとへ金一勉氏が、韓國についてどんなにでたらめを書き捲つても、それに對して寛大なのが民主主義國日本なのだから、金氏に限らず、愚鈍之手合の成敗は、至難の業であるばかりか、労多くして功少なき行爲とならざるをえない。
だが、いづれ私は、金大中氏の知的怠惰について詳細に論じようと思つてゐる。その際、金大中支持派を徹底的に成敗しようと思つてゐる。かういふ小さなコラムでは所詮意を尽せないが、これだけは言つておかう。管見では、金大中氏の罪は「内亂罪」ではなくて「知的怠惰」である。そして、日本國と異り韓國においては、政治家の思考の不徹底は死に當るほどの重罪となるのである。
だが、私は今、金大中支持者たちに對してよりも、韓國の身方であるかのやうに裝ひ、その實、商賣の事しか考へぬ日本人に對して怒つてゐる。先日、ソウルで、さういふ韓食蟲に出會ひ、私は本氣で怒つた。そして、本氣で怒つたから確實に損をした。詳しい經緯はここでは語らないが、私が喧嘩をした相手は日本の雜誌の編集長だつたのである。編集長と喧嘩すれば、物書きは確實に損をする。その雜誌には以後書けなくなる。
もとより私も聖人君子ではない。損ばかりしてゐたくはない。が、韓食蟲退治は、金大中支持派の成敗よりも大事だと思ふ。編集者に限らない、韓國との新しいパイプを求めて暗躍する韓食蟲どもは、この際、徹底的に退治しておかねばならぬ。サンデー毎日十月五日號の長谷川峻氏の言葉を借りれば彼らの「ソロバンづくの商魂」を徹底的にあばかねばならぬ。
だが、韓食蟲だけが惡いのではない、韓國も惡いのである。實際、損を覺悟で行動する事の損得についての「大人の知惠」を云々する淺薄な手合に、私は今囘ソウルで、ずゐぶん出會つた。「損を覺悟のお坊ちやんの正義感くらゐ始末の惡いものはない」、さう彼らは心中ひそかに呟くのである。が、さういふ「大人の知惠」ゆゑにこそ、これまで韓國は韓食蟲の好餌となつたのである。それを韓國人は今、眞劍に考へるべきである。
憂ふべき「現代病」
週刊ポスト十月十七日號は「氣象評論家」相樂正俊氏の學説にヒントを得て「大噴火から極寒波まで、冷夏騒ぎなど序の口といふ、この秋冬に予想される“異常現象”を科學的に總点檢」してゐる。そしてポストは水上武東大名譽教授の「先だつての東京の震度4の地震が直下型大地震につながらない、と誰もがいへないのと同じやうに地震と噴火の關連性についても誰にも斷定はできない」とする意見を引いてゐるのだが、「誰にも斷定はできない」と斷定する專門家に對して、私は多少のいかがはしさを感せざるをえない。早大法學部の篠塚昭次教授は同じくポストで「直下型地震で東京の三分の一が破壞されたとすると(中略)再建はほとんど絶望的で、東京はゴーストタウンになりかねない」と言つてゐる。そんな事を言ふ篠塚氏も東京都民なのだから、東京の三分の一が破壞されたら大いに困る筈である。篠塚氏に限らない、「冷夏騒ぎなど序の口」の「異常現象」が現實のものとなつたら、相樂氏も水上氏も、(そして勿論週刊ポストも)われわれ素人と同樣に狼狽するに違ひ無い。
私は專門家の見識を疑つてゐるのではない。どう仕樣も無い事柄について樂しさうに蘊蓄を傾ける心理が解せないだけである。そして「どう仕樣も無い」のは「異常氣象」に限らない。イラン・イラク戰爭も同樣である。週刊現代十月九日號は「第一次石油危機ではトイレット・ぺーパーがモノ・パニックの口火を切つた。だが、今度はトイレット・ぺーパーどころの騒ぎではあるまい」と書き、「石油がなくなればエネルギー産業はオールストップ。(中略)人力車とローンクの時代が再現される」といふ中東經濟研究所の石田進氏の意見を紹介してゐる。あまりにも當り前な話で、これが專門家の言ふ事かと私は驚いたが、これもまた「承りおく」しかない意見であり、「どう仕樣もない事柄」なのであらう。けれども、かういふどう仕樣も無い事柄について蘊蓄を傾ける時の專門家の顔を、私は見たいと思ふ。週刊ポスト十月十日號は「フセイン大統領の讀みがどこかで狂つたとき(中略)“第一次・核戰爭”に發展する危險性は十分にある」と書いてゐるが、かういふ物騒な事をポストの記者はどんな顔をして書くのであらうか。
核戰爭も直下型大地震も「どう仕樣も無い事柄」である。「精神と肉體」などといふ問題も「どう仕樣も無い事柄」の一つだが、昔から人間はそれと格鬪して、今なほ止める事が無い。誰しも、その氣になれば、痛切に感じうる身近な問題だからだ。が、昨今、核戰爭だのイラン・イラク戰爭だのといふ、遠くてどう仕樣も無い「大問題」を、人々は餘所事のやうに論じ、餘所事のやうに受取るのである。それは憂ふべき現代特有の病弊である。
教養と人格は別である
本欄の執筆もそろそろお仕舞ひだから、前囘書かうと思つて書かなかつた事を、やはり書いておかうと思ふ。渡部昇一氏は週刊文春十月二日號に「劣惡遺傳子を受けたと氣付いた人が子どもを作るやうな試みを慎むことは、社會に對する神聖な義務である」と書いたのである。それを讀んで私は慄然とした。本欄に執筆して三年四ヶ月、私はこれほど非情な文章にでくはした事が無い。十月五日付の朝日新聞によれば、渡部氏は「九十萬部賣れたベストセラー『知的生活の方法』の著者で、今や雜誌などで賣れつ子の評論家。保守系といはれる日本文化會議のメンバーでもある」といふ。だが、渡部氏の非情に慄然とする事に、保守革新の別は無關係である。渡部氏がこの件について反省せず、今後も非人間的な詭弁を弄するなら、私は、保守派の名譽にかけて、渡部氏を斬る。
渡部氏は「自ら遺傳性とされる血友病の二人の息子をかかへてゐる」大西巨人氏について、入院中の大西氏の次男の「醫療扶助費が一千五百萬」であり、大西氏は「長男が血友病とわかつてゐながら次の子どもを持ち、やはり血友病だつた」と書き、大西氏の良識と克己心の欠如を怪しんだのである。
私の知人に、さういふ「良識と克己心を欠く」男がゐる。彼が最初に拵へた子供は筋ジストロフィーであつた。彼と彼の妻はどう考へたか。「親は先に死ぬ、それならこの子の面倒をみる弟が必要だ」、さう考へた。夫婦はもう一人子供を拵へた。が、次男も筋ジストロフィーだつたのである。さういふ親の良識を疑ふ資格は誰にも無い。親なら誰でも、「子を思ふ心の闇」に惑ふものだからだ。ここで渡部氏をちと皮肉つておくが、「九十萬部のベストセラーの著者」である事は「劣惡ならざる遺傳子を受けた」事の證しになる譯ではない。渡部氏のぞんざいな文章を、私は「劣惡遺傳子」のなせる業ではないかと考へてゐる。しかるに、渡部氏自身はそれに氣付いてをらず、しかもカトリック教徒ゆゑに、「子どもを作るやうた試みを慎」んでゐないのであらう。
最後に大西氏に言ひたい。大西氏は渡部氏を批判して「劣弱者切り捨て」だの「軍事國家への轉換」だのと言ふ。さういふ政治主義の用語に頼らずに、なぜあなたは「子ゆゑの闇」を語らないのか。たぜ人間として渡部氏に抗議しないのか。もう一つ、これは讀者に考へてもらひたい。人間としての最低の思ひやりをも持合せぬ物書きの書物もベストセラーになるのである。それなら、いはゆる「教養」と人格とは全く無關係なのか。「知的生活の方法」とは、そのまま「有徳たらんとする生活の方法」なのか。
他力本願全盛の世
週刊文春十一月六日號によれば「アメリカヘ行つてタバコをやめよう」との交通公社が企畫した「禁煙ツアー」は、「五十人の募集に申込者はたつたの三人」といふ惨めな結果に終つたさうだが、「ポルノ・ツアー」や「買春ツアー」は頗る好評のやうであり、これを要するに、人間、欲望充足のための支出は惜しまないが、禁欲に金を掛ける氣にはならないといふ事で、あまりにも當り前の話である。だが、禁煙ツアーの參加者は「成田空灣出發時に禁煙宣誓書を提出し、その場で合同宣誓式」を行ひ、「宣誓後は罰金制がしかれ、旅行中、一本吸ふごとに十ドルとられるといふ仕組み。(中略)毎朝三十分のジョギングと、一日一囘の自然食品摂取も義務づけられる」事になつてゐたといふ。そこまで徹底的に他人に管理されても、なほ煙草をやめたいと願ふ手合がゐる筈だと、交通公社は考へたらしい。公社の目論見が外れたのは御同慶の至り、日本人はまだ、少なくとも公社が考へたほど他力本願のぐうたらに堕してはゐなかつた譯である。
だが、喜ぶのは早い。例へば朝日ジャーナル十一月七日號の投書欄に、二十八歳の或る學生は「警官の婦女暴行、醫師の犯罪、教師の人格喪失と、一般市民のそれらとは全然別」であり、「醫師と警官、教師が信用できない社會は、住むに値しない」と書いてゐる。他人が立派でなければ生きてゆく氣になれぬとは、何たる甘つたれか。そして、この青年の文章からは、この世を自力で「住むに値」するものにしようとの情熱は微塵も感じられないのである。
チェスタトンの言ふやうに、吾々は「この世を變へねばならぬと思ふくらゐこの世を憎み、この世は變へる値打があると思ふくらゐこの世を愛さなければならない」。しかるに昨今、この世を本氣で憎む者はとんと見當たらぬやうになつた。それは、この世が充分に理不尽でなくなつたせゐである。
勿論、週刊誌の記者にとつてもこの世は理不尽ではない。週刊讀賣十一月九日號はレコード大賞にまつはる「黒い噂」について書き、新潮も文化勲章をめぐる噂を紹介してゐる。けれども週刊誌にもタブーはあつて、例へば文學賞をめぐる「黒い噂」を週刊誌があばく事は決して無い。讀者が聞いたら唖然とするであらう「黒い噂」も闇から闇へ葬るのであり、しかも、葬らざるをえぬ理不尽を週刊誌は無念殘念に思つてはゐない。「この世との折合ひをつけて生きてゆくだけでは不充分だ」とチェスタトンは言ふのだが、今や日本人は「それで充分だ」と言ふ。この世は誰か他人が變へてくれると考へてゐるからである。
かつて男たちは赤紙一枚で戰場へ驅り出された。それはなるほど「理不尽」であつたが、皆がそれに耐へた時代、それは果して今よりも、何かにつけ惡い時代だつたらうか。戰場で他力本願は通用したかつたのである。 
批判力減退を歎くべし
週刊新潮十一月三日號は松本清張氏について「今でも週刊誌、月刊誌の連載を各一本、そのほかに單發の短篇小説を文藝誌にほぼ毎月寄せるなど、創作意欲は今なほ旺盛」であり、「今や國民的作家」なのだが、「灰色高官が勲一等で、清張さんがノー勲章」といふのはをかしいと書いた。週刊朝日十一月二十一日號に百目鬼恭三郎氏は新潮を批判して「エライ清張氏がもらはないのはけしからんと怒るのは、エライ勲章と思つてゐればこそだらう」と書いてゐるが、私は新潮が文化勲章は「エライ勲章」だと信じてゐるとは思はない。むしろ、私は新潮があの記事を載せた動機を怪しむ。新潮は本氣で灰色高官の受章を憤つてゐる譯ではない。いや、松本清張氏を本氣で「國民的作家」と考へてゐる譯でもない。
では、あの記事は一體何のためだつたのか。「政治家への叙勲」は「仲間うちでのお手盛りであることは(中略)明らかだが、文壇も似たやうなもの」だとの「氣鋭の文藝評論家」の言葉を新潮は引いてゐるが、新潮が松本清張氏を持ち上げるのも「お手盛り」ではあるまいかと、さう勘繰られかねない記事に私は頗る失望した。
昨今、この種の「意圖不明」の記事が、新潮にちと目立つやうに思ふ。十一月二十日號の「“ハマコー”と“レーガン”の人氣」もさうである。テレビ朝日の「モーニング・ショー」で、石垣綾子女史ほか二名の女性は、浜田幸一氏に「あなたはヤクザぢやないの」とか「まだ小指殘つてゐる」とか言つたといふ。さういふ「猛女」の「反知性主義」のおぞましさに新潮は目を瞑り、浜田氏とレーガン氏は「“反知性主義”といつた面で共通してゐる」との加瀬英明氏の解説にヒントを得て記事をまとめてゐるのであり、その安直に私は失望した。「レーガンと浜幸サン。いかにも共通点がありさうなのだが、山本七平氏が解説してくれた」と新潮は書いてゐるが、共通点を見出せずにゐる新潮の困惑を察し、新潮の期待に沿はうと考へたためか、山本氏の解説もいささかお座なりである。
新潮の眞面目は批判精神にある。それを失へば、新潮の存在理由は無くなる。プーサンやドッキリチャンネルや酔中テレビのつまらなさは執筆者の責任だが、灰色高官の受章や「浜幸の人氣」を憂へてゐる譯でもなく、「だからどうだと言ふのか」と言ひたくなるやうな、なまくら記事が増えてゆけば、新潮はいづれ煽情的ジャーナリズムの中で逼塞するであらう。人間はおのが記憶力の減退を歎いて、批判力の減退は歎かない。新潮の發奮を望む。
本氣の内政干渉か
十一月二十六日付の朝日新聞によれば、鈴木首相は崔慶禄駐日韓國大使に對し、「金大中氏が處刑されれば(日本の)國會の情勢や言論の論調も嚴しくなり、(政府としては)韓國に協力したくてもできなくなる。社會黨などが現にさうだが、北朝鮮との交流を進めるべきだ、といふ世論も出てくるかもしれない」と語つたさうである。それを知つて私は唖然とした。鈴木氏の指導力の欠如については聞き知つてゐたが、まさかこれほどとは思はなかつた。外國の大使に向つて首相は何といふ事を口走つたのか。私は日本國民として首相が恥を曝した事を遺憾千萬に思ふ。要するに首相は、個人的には「韓國に協力」すべきだと信じてゐるが、「國會の情勢や言論の論調」が嚴しくなり、「韓國に協力せず北朝鮮との交流を進めろ」と主張する連中が出て來たら、首相としても与黨の總裁としてもお手上げになる、さう言つた譯である。それが一國の指導者の言ふ事か。
吾々は、おのが指導力の欠如を外國人にまでさらけ出し、恬然として恥ぢない首相を載いてゐるのか。韓國の新聞は鈴木發言に内政干渉とて反發したが、本氣で内政干渉をやるだけの氣力は鈴木首相にはあるまい。事實、首相は「内政干渉をする積りは無い」と再三言明してゐる。そのくせ金大中氏が「極刑にならぬやう最善の努力をする」と、杜會黨の飛鳥田氏には答へてゐる。まさに支離滅裂としか評し樣が無い。「極刑にたらぬやう最善の努力」をすれば、それは必然的に内政干渉にならざるをえないのである。
一方、サンデー毎日十二月十四日號は「金大中氏が處刑されれば、日本政府の道義的責任のなさ、外交的拙劣さを世界にさらけ出すことになる」と書いてゐる。首相が韓國の大使に恥を曝した事さへ遺憾千萬なのに、日本政府の恥が世界中に知れ渡るとしたらそれは一大事である。毎日は「日本政府は主權侵犯された當事國として、言ふべきことは言ひ、毅然とした態度」で臨めとの青地晨氏の意見を紹介してゐる。毎日の言ふやうに、金大中氏が處刑されると、日本政府が世界中に恥を曝す事になるのなら、それは何としても避けねばならぬ。この際日本は徹底的に韓國の内政に千渉すべきで、主權侵害もためらふべきではない。だが、毎日に尋ねたい、徹底的に内政干渉をやつたらどういふ事になるか、それを毎日は本氣で考へた事があるのか。
私は鈴木首相やサンデー毎日の揚げ足を取つて樂しんでゐるのではない。首相から週刊誌まで、日本人はどうして韓國に關してかうもいい加減な事を言ふのかと、それを怪しむのである。正直、私にも韓國に對する不滿はある。韓國人と激しく論爭した事もある。だが、論爭した時、私も相手も本氣であつた。本氣で付き合つてみるがよい、韓國から學ぶ事は多々ある事が解るであらう。
恥なかるべからず
文藝賞受賞作『ストレイ・シープ』は、二十六歳の女が、テレビ朝日在職中の體驗、特にニュース・キャスターや妻子ある報道部員との三角關係を描いたものださうである。そんなもの讀むに價しないに決つてゐるから私は讀んでゐないが、週刊ポスト十二月十九日號が紹介してゐるところでは、「彼は目立つこと、ハデなものを着ることがお酒落だと思つてゐるらしく、しばしば信じられないやうな色の組合せをした」とか、「本間は一見豪放磊落な感じを与へながら實は繊細で細やかな神經の男で、その對照がまたエム子の心をすくひとつた」とかいふくだりがあるらしい。「組合せをする」とか「對照が・・・すくひとる」とか、さういふ言ひ方は日本語には無い。
「書き終つて、自分がストリップしちやつたやうな氣持」だと作者は言つてゐる。その程度のお粗末な頭腦の持主でも文學賞が貰へるとは、まこと結構な御時世である。ヌード・モデルは消耗品だと、いつぞや週刊誌で讀んだ事があるが、文壇も今やストリップ小屋で、往時の私小説作家のやうに、姪に手をつけた恥の上塗りを避けようとして苦鬪する中年男のいやらしさなんぞは野暮の骨頂、若い女の「ストリップしちやつたやうな氣持」を樂しんで、ぽいと捨てるだけの事なのかも知れぬ。
一方、週刊文春十二月四日號は女優關根惠子の愛人河村季里氏の小説『青春の巡禮』について、「いづれにせよ、この小説、“文學的價値”はさておき“商品的價値”だけは高かつたやうです」と書いてゐる。河村氏と關根の逃避行の眞相が描かれてゐるのだらうといふ「はなはだ次元の低い興味」を持つて『青春の巡禮』を買つた讀者が多いに違ひ無い、といふ譯だ。
なるほど、文春が引用してゐるくだりを讀めば、およそ「文學的價値」なんぞみぢんも無い駄作だといふ事が解る。そして、河村氏も文藝賞を貰つた女も、「自分がストリップしちやつたやうな」行爲を悔いてもゐないし、恥じてもゐない。
二人の文章には眞摯なる自問自答の痕跡が無い。そして自問自答せぬ手合が恥を知る筈は無い。週刊ポストは「若い女のコに手を出すときは文才の有無のチェックを」と書いてゐる。「組合せをする」などと書く女に文才も羞恥心もある譯が無いが、一方「若い女のコに手を出す」云々と書くやうな男に、他人の「文才の有無のチェック」など所詮不可能なのである。
これはポストに限らぬが、「女のコ」といつた具合に、片假名を用ゐて輕蔑の念をあらはす惡癖は改めて貰へまいか。例へば週刊新潮十二月十八日號も「上田哲センセイ」と書いてゐる。私が上田哲氏を尊敬する筈は無いが、「上田哲センセイ」などと書いて上田氏をからかつた積りでゐるのは、目糞が鼻糞を嗤ふの類であつて、「センセイ」と書き出せば、それにふさはしい文章しか綴れないのである。
職業に貴賤ありや
新年早々、ハードコア・ポルノの話で恐縮だが、週刊ポスト十一月二十一日號によれば、武智鐵二監督は近々『白日夢』なるハードコア映畫のメガホンをとるといふ。「性解放をやらなければ、日本の人民は心臓病になつたり、性犯罪を犯して監獄へやられるとか、無駄な不幸を背負ふことになる。私はそんなことのないやう映畫で攻撃する」と武智氏は語つてをり、この愚鈍と桁違ひの憂國に私は仰天した。一方、主演女優の愛染恭子も「ホンバンの意味もわかつて」ゐるが「立派にやりとげ」ると語つてゐる。伊藤仁齋は房事中もひたむきだつたさうだが、監督やカメラマンの目の前で「ホンバンを立派にやりとげ」たところで、何の自慢にもなりはせぬ。金が目當で恥を捨てるに過ぎないのに、「立派にやりとげる」などと大形な事は言ふものではない。武智氏にしても、日本の人民を救ふなどとだいそれた事を考へず、「監獄へやられる」覺悟で非合法のポルノを拵へ、それを公開したらどうか。それだけの度胸が無いのなら、大きな顔をせず、しがない稼業を疚しく思ひ、ちと世間を憚るがよい。
職業に貴賤は無いといふ。が、週刊誌を讀んでみれば、賤業はふんだんに在る事が解る。例へば週刊現代一月一日號を讀めば、下着をつけぬ喫茶店の女給や、「バーッと股を開いちやつて、いつもカメラマンに協力」するヌードモデルの存在を知る事になる。いづれも紛ふ方無き賤業で、その存在理由を疑ふのでは決してないが、當節、賤業をなりはひとなす手合に世間を憚るしほらしさが無いのは殘念である。
そしてそれは女に限らない。週刊ポスト一月一日號で吉行和子と對談してゐる金田正一氏にせよ、安倍律子のヌード撮影に同行し、パンツを脱がされ、「ふくよかで白い尻をむき出しに」された事を得意げに語つてゐる男の記者にせよ、本來世間を憚つてしかるべき賤業に從事してゐるのである。ともに恥知らずであり馬鹿者だが、では、恥知らずと馬鹿とはどう違ふのか。
世人は例へば大學教授を賤業とはみなしてゐまい。だが、ポスト一月一日號には東京外語大教授の「軍備の問題でも(中略)守るに値するやうな彈力性のある日常生活を我々が持つてゐるかどうかですね」との發言が載つてゐる。これと「ホンバンを立派にやりとげる」との發言との間にどれだけの隔たりがあるのか。愛染恭子も大學教授も馬鹿げた事を言ひ、それを恥ぢてはゐないのである。ついでながら、これを言へば熱狂的なファンは怒るだらうが、夫婦で「ベッドに寢たまま“平和”を訴へ」たり、「二人の初夜の溜め息と心臓の鼓動ばかりを収録した」レコードを拵へたりしたジョン・レノンの職業も、私には賤業としか思へないのである。
その言を恥づべし
サンデー毎日一月十八日號に石川達三氏はかう書いてゐる。「先ごろどこかで現職の警察が強盗をやつたといふ事件があつた。警官も人間だから強盗をやる必要を生じないとは限らない。そこで、彼はまづ警官をやめて、それから強盗をやれば良かつたのだ。それならば何も私たちまで苦い思ひをさせられることはなかつた」。紙幅の制約さへなければ、この「痛憤エッセイ」と稱するなまくらエッセイを存分に扱き下したい。文士がこれほどの駄文をつづるのは警官が強盗を兼ねるのと同樣許し難い事だからだ。サンケイ新聞の讀者諸君よ、警官が強盗をやつたと知つて、諸君は「苦い思ひをさせられ」たか。石川氏は慷慨家を氣取り、見え透いたうそをついてゐる。石川氏はかの安川判事についても「彼はなぜ情事の前に判事を辭職しなかつたのか。それがこの人のモラル喪失の證拠である」と言つてゐるが、安川氏にしてみれば、判事の職權を利して姦通するところに旨味があつたに相違ないので、さういふ人情の機微も解らずによくも小説家が務まるものだと私は驚いたが、それはともかく、判事をやめてから姦通すれば、安川氏は「モラル喪失」を免れたはずだと石川氏は思つてゐるらしい。だが姦通が惡事ならば、公職にあらうとなからうと、それは非難さるべきではないか。
石川氏は裁判官や政治家や警官や進歩的文化人の腐敗を嘆いてゐる。だが、おのれの「腐敗」には目を瞑つてゐる。それこそ石川氏が道徳なんぞを云々する資格の無い人物である事の決定的な證拠に他ならぬ。「我等も地の鹽」と題して蜿蜒六頁も駄文を草しながら、石川氏は專ら他人に「地の鹽」たれと説くばかり、おのれがまづ「地の鹽」たらんとの心懸けは皆無なのだ。それゆゑ「裁判官が社會の腐敗を承認してしまつたら、腐敗はどこまでも進んで行く」などと書く。要するに石川氏にとつて、道徳とはおのれを棚上げして他人に強さを要求する事なのである。
いはゆる文化人は、保革を問はず、この傳でおのれの欲せざる所を人に施し活然として恥ぢない。おのれに出來ぬことを他人に要求して涼しい顔をする。坂本義和氏もさうである。週刊ポスト一月二十三日號で坂本氏は、「假に日本に對する攻撃を行ふときには、それを排除することなしには日本に侵入できないといふ役割をになふ領海警備隊を置くこと」を提唱してゐる。これまた淺薄な思ひつきだが、敵に排除されるためにのみ存在する、さういふ「純粋に防衞的な機能」を持つ警備隊にも、だれか他人が喜んで入隊すると、坂本氏は思ひ込んでゐるのである。「其の言をこれ9(心+乍)(怎)ぢざれば、則ちこれを爲すこと難し」。石川氏も坂本氏も身勝手な「其の言を9(心+乍)(怎)ぢ」、以後おのれの「爲すこと難き」事を、思ひつくままに喋らぬやう心懸けてもらひたい。 
馴れ合ひも程々にせよ
週刊讀賣に「シャレ・アップ」といふ讀者の投稿欄がある。たまに秀逸な酒落があつて吹き出す事もあるが、概して凡作揃ひで、「もし、女性支配の世の中になつたら、何はともあれ立ち小便は重罪になるだらう」などといふ駄作もあつて、こんなもの歿にするのが見識だが、そんた野暮な事を言つても始らない。週刊讀賣の編集部は愛讀者との馴れ合ひを樂しんでゐるのだ。「編集長殿、私はやはり、“シャレ・アップ!”にしか生きられない男なのです。ああ、一週間が待ち遠しい」と讀者が書き、「待たないでください」と編集者が書く。面白がるのは書いた當人だけである。「私は見た!この有名人」と題する投書欄も同樣で、「雪村いづみさまと十二月二十日午後九時ごろ、前橋の群馬ロイヤルホテル4階の廊下で、すれ違ひました。(中略)感激でした」などといふ愚にもつかぬ報告は、有名人と投稿した當人を喜ばせるに過ぎまい。いや、有名人が良識の持主か脛に傷持つ身ならば、自分が目撃された事或いは目撃者が週刊誌に投稿するその愚劣を、不快に思ふであらう。馴れ合ふとは「互ひに親しみ合ふ」事である。が、互ひに親しみ合ふうちに、人はとかく「ぐるになる」。讀賣の編集者と讀者はぐるになり、愚にもつかぬコラムで睦言を交してゐる。投稿する愚に採用する愚、割れ鍋に綴ぢ蓋である。
だが讀者との馴れ合ひを樂しむのは編集者だけではない。作家もさうである。週刊讀賣に『マンボウ交友録』を連載してゐる北杜夫氏は、一月二十五日號に「手術を前にした遠藤さんを見舞ふため、慶應病院の特別病棟を訪れた」話を書いてゐる。遠藤さんとは遠藤周作氏の事だが、夜ふけに酔拂つて病棟を訪れた北氏は、面會を許されず、「遠藤さん。近代醫學は進歩してます。大丈夫です。あなたは死にません」云々の走書きを看護婦に手渡し、歸らうとして「よろけて段をふみはづし、ドタドタと轉落した」といふのである。これまた、北氏、遠藤氏、及び「北杜夫さまと廊下ですれ違ひました。感激でした」などと書いて投稿しかねない「愛讀者」、それだけが面白がる類の何とも良い氣な文章である。
さらにまた北氏は、自分は「ドタドタと轉落」しただけなのに、遠藤氏は随筆に「助けてくれえ!」と叫んだなどと書いてゐるが、それは嘘である、「神かけて斷言する」と反論してゐる。一方、遠藤氏も週刊文春一月二十二日號に「實生活も愉快で、書くものも滑稽なのは躁病の北杜夫氏である」と書き、「連帯の挨拶」を樂しんでゐる。この種の同業者同士の褒め合ひは身褒め同樣に見苦しい。ちと公私の別を弁へて貰ひたい。
女の論理、愛敬か
かつて私は週刊新潮を褒め、いたづらに「新奇を追ふのは弱い精神」だと書いた。が、森茉莉女史の「ドッキリチャンネル」を新潮は連載して七十四囘、「どこまでつづく泥濘ぞ」と、私は昨今とみに苛立つやうになつた。二月十二日號で森女史は、レーガン大統領と小朝なる藝名の噺家を「バラリンズンと」斬つてゐるが、それは女特有の何とも感情的な批判であつて、新潮編集部が「嫌ひだから嫌ひ」とする女の論理を御愛敬として喜んでゐるのなら、新潮の批判精神は減退しつつあると斷ぜざるをえない。森女史は「“ドッキリチャンネル”の目の黒いうちは、面白くも可笑しくもない噺家が(中略)バカな顔を晒してゐるのを放つておかない(中略)必ず、バラリンズンと斬り下ろすのだ」と勢ひ込んでゐる。かういふ文章の滑稽に新潮は氣づいてゐるのだらうか。藝人の目鼻立ちをあげつらひ、「藝人にあるやうな美男ぢやなくて(中略)たんとなく毛ぎらひしてゐた奴だ」などと書き、女史は「バラリンズン」と斬つたつもりでゐる。小朝の藝がどの程度のものか私は知らないが、女史はお前の面は何となく氣にくはぬとしか言つてゐないのだから、小朝が「さういふ貴樣の皺だらけの面はどうだ、よい年をして、誰それとの結婚はノン・メルシイだなどと、ちと身の程を弁へろ」と言ひ返したとしても、文句は言へない道理である。
さらに、一月二十九日號の「ドッキリチャンネル」によれば、森女史は横尾忠則氏の個展で池田滿寿夫氏と岡本太郎氏に出會つたが、池田氏がやさしくしてくれたのに、岡本氏はそつけなかつた。そこで森女史は、やさしくしてくれた池田氏と佐藤陽子女史を褒めちぎり、一方そつけなかつた岡本氏については「あまり自分の有名を意識し過ぎる」のではないかと、恨みがましく書いてゐる。これを無邪氣と言ふべきか、鐵面皮と言ふべきか。とまれ、前囘私は北杜夫、遠藤周作兩氏を批判して「公私の別を弁へよ」と書いたが、同じ苦言を森女史にも呈上する。
いかなる義理合ひあつてかは知らないが、新潮は「プーサン」ごとき愚劣な漫畫を蜿蜒と連載して一向に止める氣配が無い。が、「ドッキリチャンネル」は一日も早くお仕舞ひにして貰ひたい。ただし、本來斷るまでもない事だが、森女史に書かせるななどと、私は新潮編集部に圧力をかけた事は無い。「誰それに書かせろ」だの、「誰それに書かせるな」だのと、昨今は陰で圧力をかけるのが流行つてゐる。卑劣きはまる。文句があるなら堂々と叩けばよいのである。奥野法相の口を封じようと躍起になつてゐる手合もゐて、法相もあの手この手の圧力を受けてゐるに相違無い。奥野發言についてはいづれ書くが、今は「奥野さん、頑張れ」とだけ言つておかう。
善なりや戰爭放棄
「奥野法相の“自主憲法制定”論は、將來の改憲に備へて、自民黨のホンネを述べたものとされてゐるが、鈴木首相は今國會で、憲法改正せずと語つて」をり、「前者が政府自民黨のホンネとすれば後者はタテマヘといふことになる」が、「新たな國内、國際情勢の中で、ゴマカシの論爭は許されるべくもなく」、「軍事力問題」は「國民的課題として抉られるべき時」だと、週刊ポスト二月二十日號は書いてゐる。つまり、「自主憲法制定」論は「自民黨のホンネ」なのだから、鈴木首相が「ゴマカシ」てゐるのであり、許されないのは法相ではなく首相であつて、「奥野法相を見習ひ本音を吐け」とポストは主張してゐる事になる。
なるほど、ポストの記者に答へる法相の發言はすこぶる率直かつまつたうであり、法相の「誠實は書生の誠實」だと評する向きもあるが、とんでもない事である。「政治的賢明」に終始すれば、政治的に賢明たりうるとは言ひ切れない。私は法相の氣骨にぞつこん惚れ込み、頼もしい政治家が日本國に殘つてゐた事を喜んでゐる。
大方の日本人は忘れてゐようが、改憲は自民黨の綱領なのであり、綱領とは根本方針の謂だから、鈴木善幸氏に限らず、護憲論者の自民黨員は根本方針にそぐはぬ主張をしてゐるのである。法相の罷免を杜會黨は要求し、首相も「改憲を主張して譲らぬ閣僚は去つてもらふしかない」などと言つてゐるが、たんとも面妖な言分で、護憲を主張する閣僚こそ離黨すべきではないか。保革を問はず、法相の氣骨を苦々しく思つてゐる手合に言ひたい。根本方針を無視するのが政治的賢明なら、御都合主義にのつとり、自民・共産の連立政權さへ認めてもよいといふ事になるのである。
ポストが意見を徴した護憲論者は、いづれも「戰爭放棄を唱へてゐる憲法を守らねばならぬ」と考へてゐる。が、吉村正氏は「憲法なんてたいしたことはない」と言ふ。これは果して暴論か。とまれ、私も「暴論」を吐いておく。大方の日本人が戰爭は惡いと言ふ。が、戰爭の何が惡いのか。戰爭放棄の何が善いのか。わが國の非戰論者は「死にたくない」と言つてゐるに過ぎぬ。私はこの「暴論」の責任を斷じて囘避しない。奥野法相の頑固を見習ひ斷じて自説を撒囘しない。保革を問はず、だれでもよい、私をたたくがよい。私はたたき返す。戰爭は惡事ではないのである。
ポスト二月二十七日號は、「あのやうないい加減な改憲論議ではファッショになつてしまふ」との會田雄次氏の意見を引いてゐる。が、ポストの記事もまた「いい加減な改憲論議」の域を出ない。つまり、ポストは專ら、八百長の喧嘩は許されぬ、もつとやれ、と言つてゐるだけなのだ。ファッショを恐れての事ではない。そのはうが儲るからである。
むしろ淵に溺れよ
週刊文春は元創價學會顧問辯語士山崎正友氏の手記を長期にわたつて連載した。連載中に山崎氏は恐喝の容疑で逮捕されたが文春は怯まなかつた。三月十二日號は「獄中の山崎正友辯語士から編集部の担當記者宛」の私信を載せ、「司法當局においては、山崎辯語士が被告人であると同時に貴重な生き證人であることに留意し、その健康に萬全の注意を拂つてもらひたい」との「編集部後記」を付してゐる。文春のこの世話燒きを私は奇特な事だと思ふ。
執筆者と編集者は一蓮託生で、利用價値のある時だけ書き手を利用して、落目になつたら知らぬ顔の半兵衞といふわけのものではない。それに何より、文春の執念によつて吾々は、新聞を讀んでゐるだけでは解らぬ類の事柄を知つたのであつて、それゆゑ執筆者が逮捕されても「創價學會の謀略の實態」(一月二十二日號の編集長の言葉)を明さねばならぬとする文春の意氣込みは壮とすべく、一蓮託生の覺悟のある文春に對して山崎氏が、「連載を最後までつづけて下さつたことに對し、感動を覺え」るとの私信を寄せたのも當然の事だと思ふ。
けれども、私は山崎辯語士を信用してゐない。彼の文章を讀めば信用できないといふ事が解るからである。勿論、私は池田大作氏も信用しない。週刊朝日三月十一日號のインタビューを讀み、池田氏は宗教家として贋物ではないかと思つた。池田氏の言ふ事は悉く綺麗事である。この日本國において、あれほど綺麗事ばかり言ひつづけ、三億圓もの大金を動かせるやうになる筈が無い。
一方、山崎氏の言分を信用しないのは、彼の文章から義憤といふものを少しも感じないからである。創價學會は「もつぱら私に對する個人攻撃で終始し」(一月二十二日號)云々と山崎氏は書くが、「文は人なり」であつて、山崎氏が本氣で怒つてゐるやうには私には思へない。例へば私は、本欄でも韓國のために弁じた事がある。が、韓國のために弁じておよそ得をした事が無い。「得を取らうより名を取れ」といふ。が、私はそのどちらも取つた事が無い。そして今、「私に對する個人攻撃」があちこちで行はれてゐる。勿論、いづれ私が一切合財ぶちまければ勝負はつくのだが、その際私は本氣で文章を綴る。そしてそれは、憚りながら、嘘をついて辻褄を合せ自己正當化をはかる類の文章とは全く異質のものになるであらう。
けれども山崎氏は正義感に駈られて一切合財ぶちまけるやうな男ではない。また、一切合財ぶちまけて心を痛めるやうな男でもない。山崎氏はかつて池田氏と一蓮託生の仲だつた。一切合財ぶちまけようと決意したら、多少心を痛めて當然である。「人に溺れんよりは、むしろ淵に溺れよ」といふ。文春は少しその事も考へてはどうか。
「民免れて恥なし」
「春うらら、三月第二週の日曜日。突如現れた、うら若き女性ストリーカーひとり。三萬人の雜踏のただ中を、ヘアなびかせて、あちらに走り、こちらに駈け抜け・・・」といふ珍事が勃發したのださうで、週刊新潮三月二十六日號がその「現場写眞」を載せてゐる。芳紀まさに二十二歳との事だが、畫家や彫刻家が食指を動かすやうな肉體ではない。「汚い裸してんなあ」と本人も言つたさうだが、なるほどそれは、週刊ポスト三月二十七日號が載せてゐる田淵前夫人の裸體ほど醜怪でない、といつた程度のものである。が、それはいい。問題は彼女の陰毛で、新潮のグラビアには陰毛が消去されずに黒々と写つてゐる。これぞ我國の出版史上畫期的なる大事件といふべく、「修整」なしの陰毛を出版物に見るのは、新潮三月二十六日號をもつて嚆矢とするのではあるまいか。けれども刑法第一七五条には「猥褻の文書、圖畫、其他の物を頒布若くは販賣し又は公然之を陳列」する行爲は處罰するとある。一方、週刊ポストによれば、警視庁は「ビニール本業者を次々と摘發。オーバーにいへば壞滅的打撃をビニール本業界はくらつた」といふ。さて警視庁はどうするのか。ビニール本業者は容赦なく摘發して週刊新潮だけを見逃すなら、それはゆゆしき事である。法治國にあるまじき事である。
新潮は陰毛を消去しなかつた理由についてかう書いてゐる。「ヘアの写つてゐる写眞もあるが、これをワイセツ写眞などといふなかれ。あくまで“公然ワイセツ罪で捕つた女性の現場報道写眞”にすぎない。もしも、ヘアが写つてゐなければ、“正しい報道写眞”とはいひ難い」。笑止千萬なる屁理窟である。警視庁がこの屁理窟の屁理窟たるゆゑんに思ひ至らず、新潮の詭弁に幻惑されるやうならば、警視庁の知能はジャーナリストのそれに及ばぬといふ事になる。これまたゆゆしき事である。それゆゑ、新潮の屁理窟についてはこれ以上書かずにおき、警視庁のお手並をとくと拝見する事にしよう。
古來、男は若い女の裸體を賞味して飽きる事が無い。が、女の裸写眞は陰毛さへ写つてゐれば御面相はどうでもよいといふわけのものではない。それに何より「民免れて恥なし」といふ事がある。法による規制など無意味だと孔子は言つた譯ではない。かねてから猥褻出版物の取締りに批判的な新潮は、さういふ事も承知のうへなのか。それも承知、かつ摘發は覺悟の前で、陰毛の何が猥褻かと開き直るつもりなのか。それなら、「正しい“報道写眞”とはいひ難い」などといふ弁解は不要の筈である。田中通産相の「利權體質」についての記事にしても、男性大臣の「狡猜」な「ご面相」なんぞを云々せず、大臣の「不徳」を新潮は本氣で批判すべきではなかつたか。 
何が最高學府か
このところ新聞やテレビは、早稲田大學の不祥事を盛んに報じて一向に倦む事が無い。社會の木鐸としてそれは當然の事、あるいは是非も無い事だが、大學當局までがそれに付き合ひ平常心を失つてゐるのは殘念である。例へば清水總長は、かかる不祥事が「早稲田大學に對する社會の信頼と期待を裏切り、諸君の入學の喜びに暗い影を与へたことに對し、心からおわびしない」と新入生に語つたさうだが、何ともつまらぬ事を喋つたものである。新聞がいかに派手に書き立てようと、それぐらゐの事で「入學の喜びに暗い影を与へ」られた新入生はゐまいし、またゐたとすれば、その愚かしい根性をこそ叩き直してやらねばならぬ。だが、總長の式辭に場内は水を打つたやうだつたといふ。國會答弁さながらの紋切り型の式辭に野次もとばせぬほど昨今の大學生は腰抜けで、さういふ腰抜けが相手だから、教師も發奮するといふ事が無いのである。職員による成績原簿の改竄が發覺して、今囘、大騒ぎになつてゐる譯だが、では早稲田大學の教師は日頃「嚴正なる採点」をやつてゐるか。いや恣意的な採点でも構はないが、學生に一切文句を付けさせぬほど情熱的な授業をやつてゐるか。不祥事の解明は警察や裁判官に委ねたらよい。が、早稲田に限らず、今日の大學には、司直の手を借りて解決する譯にゆかぬ類の難問が山積してゐるのである。
週刊現代四月十六日號は、「根本的た問題は、日本の私立大學では“教育研究”と“業務管理”が混然一體となり、分離してゐないこと」だと言ひ、「教育・研究ひとすじの教授をよそに、入試事務、成績管理・校内運營を一手に握る大學職員はやりたい放題」だと書いてゐる。とんでもないでたらめである。總じて早大の職員は、これほどの与太を飛ばして平氣でゐる週刊誌の記者と異り、よつぽど良心的である。それに、當節の大學教授は決して「教育・研究ひとすじ」ではない。それどころか教育や研究にあきて學部長だの理事だのをやりたがる手合もゐる。そして職員はさういふ學部長の監督をも受けねばならぬ事になつてゐる。「教育・研究ひとすじの教授をよそに」職員は「やりない放題」だなどと、許し難いでたらめ、何たる想像力の貧困か。
とまれ、新聞も週刊誌も早稲田大學を難じては紋切り型を言ふ。大學の總長も校友も紋切り型を言ふ。學生がそれを見習はぬはずがない。かくて今や大學においても「教育の普及は浮薄の普及なり」といふ事になった。ブレイクは「實行できぬ願望を育むくらゐなら、いつそ揺藍の赤子を殺せ」と言つたが、教授會はもとより文學部の教室においても、昨今この種の危險な思想が論ぜられる事は無いであらう。それは學問が道徳の問題を囘避してゐるからである。が、安全第一の紋切り型ばかりが語られてゐて、何が最高學府であらうか。
他人を責めぬ風潮
週刊文春四月二十三日號に野坂昭如氏は、僧侶の堕落を批判して「町を歩いて眼につくのは鐵筋コンクリート製の本堂と、その經營する駐車場、佛の道を説く者など絶えて久しい。大都會で托鉢、説法に觸れた者はまづゐないと思ふ、よくまあここまで堕落したものである」と書いてゐる。けれども、野坂氏は昨年、『防衞大合唱を嗤ふ』と題する嗤ふべき文章を綴り、「武士の心はやめた方がいい、商人の氣がまへ、前垂れかけて、膝に手を當て、頭を下げる」のが「一億一千萬人の生きる道」だと主張したのである。それなら、僧侶が「前垂れかけて、膝に手を當て」、鐵筋コンクリートの本堂を建て、駐車場を經營してゐる事を、なぜ野坂氏は怪しまねばならないか。場當りを狙つて思ひ付きを書き散らし、「右も左も蹴つとば」した積りでゐる戯作者風情に、僧侶や神官の堕落を批判する資格なんぞありはせぬ。宗教の「導きによつて救はれたい人たちが、世に滿ち滿ちてゐるのに」と野坂氏は言ふが、今の日本國に、宗教の「導きによつて救はれたい」人々が「滿ち滿ちてゐる」筈は斷じて無い。斷じて無いと斷づる根拠を私はいくらでも擧げられる。「武士の心はやめた方がいい」と書いて、野坂氏は世の笑はれ者になつた譯ではない。それこそ日本人が眞劍に生きてゐない事の證しに他ならぬ。眞劍に生きてゐない者がどうして宗教の救ひなんぞを必要としようか。
當節、吾國の知識人は、宗教や道徳に言ひ及ぶ事頗る稀である。言及しても必ずお座なりを言ふ。サンデー毎日四月二十六日號に、鳥井編集長は書いてゐる、「裁判官、大學教授、知事、市長・・・・・・モラル喪失をつきつける事件がどこまでつづくのでせう」。かういふ文章を讀んで、なぜ人々は腹を抱くて笑はないのか。「どこまでつづくのでせう」などと涼しい顔で書いてゐる男が、本氣で「モラル喪失」を憂へてゐる筈は無い。昨今、おのれを省みる事無く專ら他人に努力を要望する風潮が顕著だが、それこそ「モラル喪失」の何よりの證左である。政治家は、宗教家は、教師は、新聞人はかくあるべしと、識者はしきりに言ふ。が、おのれはかくあるべしといふ事を決して考へない。
野坂氏は週刊讀賣五月三日號にも、「戰爭に行きたくなけりや米を食へ」と題する駄文を寄せ、「子供を戰爭に行かせたくなかつたら、今のうちに子供に米を食べる習慣をつけたはうがいい」と主張してゐる。これほど粗雜な思ひ付きを公表しても、右からも左からも、野坂氏は決して叩かれないであらう。「人を責むるの心を以て、己れを責めよ」といふ。が、他人を責めず、他人に責められる事も無いとすれば、どうして己れだけを責める氣になれようか。かくて人々は馴合ひの快を貪るのである。
これぞ早稲田の恥
週刊新潮四月三十日號は「いまやサラリーマン養成機關に過ぎない私立の早稲田。裏口入學など人畜無害。いつたい死者を出すほど、大騒ぎする理由はどこにあるのか。まさに空騒ぎ」だと書いてゐる。全く同感である。が、前々囘にも書いたとほり、新聞週刊誌はともかく大學當局や校友までが平常心を失つてゐるのは、まことに情け無い事で、『言論人』五月五日號に稲田秋彦氏は「私學の雄と謳はれているワセダの内部は(中略)伏魔殿」だが、今後ワセダがどうなるかは「天下の公憂」だと書いてゐる。が、「公憂」だなどと思つてゐるのは愛校心に盲ひた校友だけである。
稲田氏はまた「今度の事件につき學内で調査し、斷固たる處置をとることなく、すべてを警察の手に委ねたこと」は、「大學自治の放棄」だと言ふ。稲田氏は校友なのだらうが、これまた見當違ひの意見であつて、いかなる場合にも刑法上の犯罪を「學内で調査」すべきではないし、また、早稲田に限らず、吾國の大學は「大學自治」などといふものを放棄して久しい。そんなものを必要としないからである。
ところで、週刊現代五月十四日號で、早大前總長村井資長氏は、清水司總長を批判し、その辭任を要求してゐる。村井氏は早稲田の將來を憂へてゐるかの如くであるが、その語り口は野卑であつて、これが八年間總長をやつた男の言ふ事かと、私は驚きかつ呆れた。村井氏が推薦したからこそ清水氏は總長になれたのださうだが、總長就任後「ソッポを向いた」清水氏について村井氏は「理事を選ぶ時から豹變した。ぼくには一言の相談もなかつた」などと言つてゐる。週刊現代の誘導訊問に引掛つたのだらうが、今さらそんな事を言つて何になるか。「清水氏をダミーにして“院政”を圖つた」とする噂を自ら認めるやうなものではないか。
そればかりではない。清水總長について「出世主義者と批評する人も」ゐるとか、「一部の人に、スキャンダルを握られてゐて、總長の自主性を發揮できないのではないか」とか、さういふ次元の低い惡口を言ひ、それを公憤であるかの如く思ひ込んでゐる、それが紛れもないわが大學の前總長なのである。これぞ早稲田の恥である。「訂いて以て直と爲す者を惡む」といふではないか。
私は清水總長を辯語してゐるのではない。當節、總長だの理事だのは、稲田氏の言ふとほり必ずしも「學者として優れてゐるとか、徳望が高いとか」いふ理由で選ばれるのではない。學問より政治のはうが面白くなつた手合が、新設學部は幕張にせよ、いや所澤にせよと、まなじりを決して爭つてゐるのであらう。馬鹿々々しい限りである。百周年だからとてなぜ新しい學部を設立せねばならぬのか。新しい學部を拵へて、それだけ早稲田が立派になる筈のものでもあるまいに。
道徳的不感症を憂ふ
奈良縣の小學校で、校長と男性教諭六人が、ブルービデオを教室で觀賞し、それが發覺して校長は首になつたといふ。その事件について週刊新潮五月二十一日號は「白晝、教室でブルービデオを見るなどもつてのほか」だと書いてゐる。天邪鬼の新潮さへさういふ紋切り型を言ふのだから、ここで私が「白晝、教室で、ブルービデオを見て何が惡いのか。校長は運が惡かつたに過ぎぬ」と書いたら、私は世論の袋叩きにあふかも知れぬ。だが、私は釋然としない。小學校の教室だつたからいけないのか、白晝だつたからいけないのか、ブルービデオだつたからいけないのか。教室はなぜ神聖な場所なのか。ブルービデオに眉を顰めるほど、週刊誌の記者は潔癖なのか。校長たちの所業は發覺しなければ無害だが、週刊誌に載るポルノ小説や卑猥な劇畫は、小學生の目にも止るのである。
一方、このところ警官や裁判官の非行もしきりに發かれ、週刊現代五月二十一日號は「正義の味方がきいて呆れる。われわれは誰を信じたらよいのか」と書いてゐる。だが、現代は本氣で嘆いてゐる譯ではない。例へばピンクサロンにおける警官の非行について、有る事無い事、面白をかしく書き立てた揚げ句「法治國の國民は何を頼りに生きてゆくのか」などとお座なりを言つてごまかしてゐるにすぎない。週刊現代は毎週、トルコ風呂の實態とやらを樂しげに報じてゐるが、そのいかがはしい記事を若い警官も讀み、眞に受けるかも知れぬ。散々挑發しておいて、警官や判事には自制を要求する、それはちと不公平ではあるまいか。
日本人には罪惡の問題を識別する能力が欠けてゐると、かつてジョージ・サンソムは言つた。いかにも吾々は善惡の問題を突きつめて考へない。「考へ過ぎるのも善し惡しだ」などと言ふ。昨今防衞論議が盛んだが、平和がなぜ善で、戰爭がなぜ惡か、さういふ事を誰も論じない。かつてこのコラムで私は、「戰爭の何が惡いのか。戰爭放棄の何が善いのか。わが國の非戰論者は、死にたくないと言つてゐるに過ぎぬ」と放言して無事であつた。「なぜお前は戰爭は惡事ならずと主張するか」と、誰も私にたづねなかつた。要するに、人々は戰爭に對してもセックスに對しても、不感症になつてゐるのであつて、それは斷じて喜ぶべき事ではない。戰爭を肯定する文章を綴つて無事だつた以上、「教師が教室で、白晝、ブルービデオを見て何が惡いか」と、さう放言しても私はやはり無事ではあるまいか。だが、もしも無事なら、それはゆゆしき事である。道徳的不感症が蔓延すれば、偽惡も偽善も児戯に類するものになる。それこそ亡國の病に他ならない。
筋道よりも和を重視
週刊新潮五月二十八日號によれば、石原慎太郎氏はかつて佐藤榮作氏に、「核を作らず、持たず」まではよいが「持込ませず」はナンセンスであり、「そんなアホダラ經みたいなゴロ合せはやめたはうがいい」と忠告したといふ。だが「作らず、持たず、持込ませず」と三拍子揃ふと、それはあたかも七五調のごとく、吾々日本人に生理的快感を与へるのである。俗に「飲む打つ買ふ」といふが、「飲む打つ」だけでは調子が惡からう。それで、「持込ませず」を加へた、その程度の事でしかない。私は冗談を言つてゐるのではない。週刊現代六月十一日號に江藤淳氏は、非核三原則を堅持せよと主張するのなら、「核の傘」も要らぬ、「同盟も願ひ下げ」、「ソ連が攻めて來たら白旗を立てて」降伏すると、さう公言すべきである、「筋道を立てて考へるなら」、どうしてもさういふ事にならざるをえぬ、と書いてゐる。が、「筋道を立てて考へる」のは日本人が何より苦手とするところなのであつて、週刊新潮五月七日號にヤン・デンマン氏が書いてゐるやうに、吾々は「戰爭は惡だ、惡だ、と叫び續け」るだけで戰爭はなくたると、さう思ひ込んで久しいのである。
江藤氏はまた週刊現代六月四日號に、「この度の首相の發言は、外交音痴を遺憾なく暴露したもので、お粗末」この上無しだと書いてゐる。同感である。鈴木首相は憲政史上最低の總理大臣だと私は思ふ。首相は「外交音痴」であるばかりか、元杜會黨員だけあつて、戰爭アレルギーをいまだに脱し切れずにゐる。首相はレーガン大統領に、日本は軍事大國にならず、平和憲法と非核三原則を守り、專守防衞に徹すると言つた。本氣でさう言つたのである。
だが、社會黨員だつた頃の鈴木善幸氏と、自民黨總裁である今の鈴木善幸氏と、その「外交音痴」も思考の不徹底もさして變らず、しかも自民黨の派閥力學ゆゑに當分鈴木體制が揺がないとすれば、何を言はうと所詮は徒労であらう。
吾々日本人は「筋道を立てて考へる」事をしない。何よりも和を重んずる。それかあらぬか、例へば改憲問題をめぐつての保守派同士の「近親憎惡」を何よりも恐れる向きもある。私は最近保守派イデオローグの「第一人者」と目される學者の防衞論のでたらめを批判する文章を綴つて、或る雜誌の編集長にその淺はかを窘められた。言論の自由が保證されてゐるはずの吾國において、猥褻な事を書く自由はあつても、首相やジャーナリズムを批判する自由はあつても、保守派が保守派を批判する自由は無い。明治時代、「物質的の革命」は「外部の刺激に動かされて來りしものなり。革命にあらず、移動なり」と北村透谷は書いた。が、吾國の論壇が知的誠實を重んずるやうになるためには、すさまじいまでの「外圧」が必要なのかも知れぬ。 
一所懸命こそ大事
近頃の物書きには月に千枚も書く奴がゐるさうだが「何用あつて毎月千枚書くか。何の用もありはしない。あんなに書くのは病氣である」と山本夏彦氏が言つた事がある。山本氏は目下週刊新潮に短文を連載してをり、私は毎週矯めつ眇めつ、撫でるやうにして讀み、その鋭い省察に毎囘感心する。例へば六月十八日號に山本氏は「いまトルコ嬢が足を洗つて店を持つて成功したら、堅氣の男女の立つ瀬はない。一億みなトルコ嬢になつたはうが割がいいやうな考へが、日本中に瀰漫することを私は欲しない」と書いてゐる。全く同感で、わが意をえたりとて私は喜ぶのである。だが、私が山本氏の文章を愛讀するのは、ただ單に、そこに書かれてゐる事柄に同意するからではない。私は山本氏の文章の姿形をも愛でるのである。新潮六月十一日號に山本氏は、バキューム・カーの雄大なホースについて「打てばひびくといふが、張りきつてかんかん音がしさうである。何といふ充實ぶりだらう」と書いてゐる。バキューム・カーのホースを撫でる馬鹿はゐまいが、かういふ見事な文章は撫でるやうにして讀むべきだと思ふ。
けれども昨今、人々は文章を讀んでさういふ樂しみを味はふ事が無い。何が書かれてゐるかを知るのに急で、いかに書かれてゐるかは二の次三の次だからである。だが、バキューム・カーのホースの雄大についてイデオロギーの對立などありえまい。巧妙に書かれてゐるかどうかだけが問題なのである。それゆゑ私は、例へば改憲の是非について私と同意見ではあつても、粗雜に書く筆者なら信用しない。
週刊文春六月十八日號は「一囘五十萬圓也の“講演屋”」竹村健一氏の人格を疑ふ記事を載せ、「一日で著書を一冊仕上げる」その恐るべき荒つぽさと、講演の際の横柄な態度を批判してゐる。文春は竹村氏の辯明も載せてはゐるが、竹村氏の言分を全く信用してゐない。もとより私も信用しない。竹村氏は粗雜極まる文章を書くからである。文章が粗雜なら人柄も粗雜に決つてゐる。先週、サンケイ新聞「直言」欄に、竹村氏は「イスラエルがイラクの原爆用原子炉を爆撃した。(中略)火中の栗を拾ふやうなことをやつてのけた」と書いた。「火中の栗を拾ふ」とはどういふ意味か、それを確かめもせず書き流した譯である。
けれども文春によれば、竹村氏は相變らず引張り凧、「スケジュールを調整する秘書が三人もゐる」ほどだといふ。それなら何を言つても始まらぬ。何囘講演をやつても一向に手抜きの要領を覺えられぬ私は、いつそ竹村氏にあやかりたいと思ふ時さへ無い譯ではない。が、私は人生何より大事なのは一所懸命といふことだと思ふ。時に過つ事があつても、一所懸命ならそれでよいのだと思ふ。
繁榮ゆゑの無駄事
かつて私は週刊讀賣の二重表紙の無駄を批判した事がある。理由はよく解らないが、讀賣はやがて元の表紙に戻つた。が、讀賣はその後新手の無駄をやり始めた。板坂元氏の文章を連載し始めた。七月五日號に板坂氏はアメリカで流行してゐる「握手のやり方」を説明し、「日本も、禮儀の國、ひとつ誰か面白い挨拶法を工夫してはどうだらう」と書いてゐる。日本が「禮儀の國」かどうか知らぬが、禮儀と「面白い挨拶法」と一體何の關係があるか。板坂氏は毎囘、この程度の内容の、砂を噛むがごとき文章を綴つてゐるが、惡文たるゆゑんを噛んで含めるやうに言ひ聞かせても所詮徒労だから、噛んで吐き出すやうに「無駄話」と評するしかない。同じく讀賣の『私は見た!この有名人』といふ投稿欄を、私は愚劣と評した事がある。このコラムは今も健在だが、それは名士に弱い讀者に受けるからであらう。それゆゑ讀賣にとつては無駄ではあるまいが、板坂氏は桃井かおりや三遊亭圓窓や山本浩二ほどの名士なのか。しかも、板坂氏の原稿は「アメリカから國際電送」されて來るのだといふ。何たる無駄づかひか。讀賣は「國際電送」だと毎囘斷つてをり、その勿體顔は甚だ滑稽である。
だが、なにせ經濟大國の週刊誌、無駄づかひは讀賣に限らない。日本人留學生がパリでオランダ娘を殺し、その肉を食ふといふ珍事が出來し、當然週刊誌は色めいたが、週刊文春は急遽パリヘ記者を派遣したのである。これもまた無駄づかひで、パリに支局を持つ新聞を讀めば解る程度の事しか文春は書いてゐない。文春七月二日號は、「一億二千萬もの費用をかけて何しにいつた」のか解らぬ鈴木首相の外遊の無駄を批判してをり、私は樂しく讀んだ。日本人すべてに文春の記事を讀ませ、あんな首相を戴く事の無駄について、眞劍に考へさせたいと思つた。だが、「バラバラ人肉事件」の記事に關する限り、文春の記者もまた、パリまで「何しにいつた」のか解らぬのである。
ところで毎日新聞には無論パリ支局がある。そこでサンデー毎日七月五日號は「本誌の直接取材」の成果を誇る事となり、その勿體顔も滑稽だが、それよりも、パリ警視庁の警部に毎日の記者は、犯人が人肉を「どうやつて食べたのか」と尋ね、「燒いて食つた」と警部が答へると、「ソースつけてか?」と畳掛けるやうに問うてゐるのである。何たる些事、何たる神經、何たる愚問か。
些事にこだはるのは無駄な事である。が、無駄と承知でついでに言つておかう。毎日は犯人が「通學してゐた高校の正門とクラス名簿」の写眞を載せてゐる。勿論、この類の無駄づかひは毎日に限らぬ。今囘、最も色めかず、無駄金を使はなかつた週刊新潮も時々やる事である。が、それにしても「クラス名簿」とは!
萬事金の世の中
本欄で私は朝日ジャーナルを取上げた事が滅多に無い。理由は簡單で面白くないからである。週刊ポストなら天然色の女の裸写眞がある。週刊現代ならトルコ風呂やノーパン喫茶の探訪記がある。これらはいづれも眺めて樂しく、讀むにたやすい。樂をして、しかも樂しめる讀み物に事欠かぬ當節、「問題意識」の塊のやうな朝日ジャーナルを人々が面白がる道理が無い。『月曜評論』七月六日號に矢野健一郎氏は、週刊文春を批判して、「問題意識や批判精神を欠き、そのために取材も記事の構成もいい加減で、結果として、噂話(中略)に堕してゐる」と書いてゐる。が、それは文春に限つた事ではない。例へば週刊現代七月二十三日號は、讀賣新聞と朝日新聞との「新部數戰爭」に關する記事を載せてゐるが、「問題意識や批判精神」なんぞ藥にするほどもありはせぬ。「過熱する販賣競爭は、まともな讀者にとつては迷惑しごくた話である。販賣コストが、料金にはね返つてはたまらない」と筆者小板橋氏は言ふ。要するに「金錢の支出は免れたい」といふ事で、これはとても問題意識などといふものではない。一方、小板橋氏によれば、朝日新聞は七月二十日から新活字を用ゐ、その結果、紙面にをさまる活字數は「從來より七%減少」するといふ。が、それが何を意味するか、小板橋氏は全然氣づいてゐないのである。
あたらしい大きな活字で、讀みやすくなつて、けれども内容がすくなくなつて、それですべてめでたしめでたしだらうか。いまはなにごともカネの世のなかだから、一箱二十本入りのタバコに十九本しか入つてゐなかつたら、だれだつて專賣コウシャにたいしておこるだらう。それなのに、活字が七%すくなくなることに、朝日の讀者はハラをたてないのである。ほんたうにふしぎなことだとおもふ。サンケイ新聞は活字をあたらしくしないだらうから、これからわたしは、せいぜい努力して、假名をたくさん使はなければならない。内容がすくなくなつても、だれもおこらないし、書くわたしも樂で、原稿科はおなじ、讀者は讀むのに樂で、活字をひろふ人だつて樂、やつぱりすべてめでたしめでたしではなからうか。かか。
まあ、これほど極端に走るのは賢明ではない。「かか」とは「呵々」で「大聲で笑ふさま」の事である。だが眞面目な話、樂をして同じ報酬が得られるとなると、その誘惑に抗するのは難しい。まして報酬が二倍三倍となつたら、さて、どういふ事になるか。今後「右傾化」がすすみ、朝日の主張もサンケイのそれと大差無いといふ事になつた時、讀者は競つて朝日に鞍替へするのだらうか。「世に有程の願ひ、何によらず銀徳にて叶はざる事、天が下に」無しといふ事になるのだらうか。「人間はさうしたものではない」と、私は鴎外とともに言ひ切りたいと思ふ。
偶像は不要なりや
古今の偉人、有名人ばかり百五十二人の性生活を暴露した『ザ・ワルチン・スペシャル』といふ奇妙な表題の本が出版されたさうである。週刊新潮七月三十日號によれば、著者ワルチンスキーは、「あまりにきれいごとに過ぎる偉人、有名人の傳記に不滿」で、その本を書いたといふ。例へば、ショパンは愛人に「あなたのDフラット・メイジャー(黒鍵二つの間に白鍵が挟まれる和音)の小さな穴へ」云々と、あらぬ事を書き送つたし、ルイス・キャロルは童貞のまま死んだが、少女の裸写眞を撮るのが大好きだつたといふ。馬鹿らしい本を書いたもので、新潮の記事を讀めば、そんな本、讀むに及ばぬと知れるから、まともな人間は買はないであらう。新潮はかう書いてゐる。「だが、讀者諸氏が、かうした人々に過度なる親近感を抱くとしたら哀れである。だつて彼ら、どう轉んでも天才であり偉大なのだから」。その通りである。この世に「小さな穴」ぐらゐの事を書く奴は何百萬何千萬とゐるだらうが、何百萬何千萬に「小犬のワルツ」や「黒鍵のエチュード」が書ける譯ではない。天才や偉人にも生殖器があつたといふ事實を發見して喜ぶのは愚劣な事であつて、自分と同樣ショパンにも生殖器があつたけれども、自分は逆立ちしたつて出來損ひのエチュード一つ作れはしないと、さう考へるのが眞當なのである。ワルチンスキーの仕事は要らざるお節介と言ふべく、天才の閨房を覗いて「親近感を抱く」者は、あはれな碌でなしに他ならない。
けれども今は、人々の偶像を破壞して喜ぶ事、頗る甚だしい時代で、被害を受ける事、最も甚だしいのが政治家と藝人である。同日號の新潮は、船田中、田中角榮、池田勇人、鳩山威一郎、春日一幸、山本幸一、川島正次郎、松野鶴平、大野伴睦、三木武吉、宇都宮徳馬、糸山英太郎の各氏の、「御落胤」後始末に關する實説や風説を紹介してゐるが、ただそれだけの「特集記事」であつて、ワルチンスキーの著書を「死人に口なし、書き放題?」と評した「タウン」欄の批評精神が、この「特集」記事には欠けてゐる。勿論、新潮よ、批判精神や「問題意識の塊」であれなどと、私は言つてゐるのではない。週刊誌が商賣の事を考へるのは當然で、時に讀者の喜ぶ政界の艶聞醜聞を提供して、床屋政談を盛んにするのも是非が無い。けれども、死んだ政治家の場合も「死人に口なし」ではないか。
偶像破壞も大いに結構。だが、「弟子、七尺去つて師の影を踏まず」の美風が地を掃つてめでたい限りだと、まさか新潮は考へてはゐまい。日教組だけが惡いとは思つてゐまい。私は政治家の惡徳を辯語してゐるのでは斷じてない。偶像無しに果して人はよく生きられるかと、それを怪しんでゐるまでの事である。
瘠我慢こそ大事
なぜ週刊誌はかうも個人の噂話にばかり執着するのか、「まるで個人のみがあつて、社會も國家もないみないではないか」と、再び週刊文春を批判して矢野健一郎氏が書いてゐる(『月曜評論』八月十日號)。矢野氏の指摘どほり、最近の文春はちと「物の見方が微視的になり過ぎ」てゐると私も思ふ。野球選手と離婚したといふだけの「業績」の持主に「仰天小説」を書かせるなどといふ事は、以前の文春なら思ひ付かなかつたであらう。思ひ付いても實行に移さなかつたであらう。八月六日號の「ハンソン對談・番外編」は、「アハハ、オソソなしの添ひ寢をしてみたい」と題するもので、「ここまで文春は堕ちたか」と私は驚いたが、「編集長からのメッセージ」によると、「印刷會杜の手ちがひのために」、週刊ポストの記事が「まぎれ込んでしまつた」のだといふ。前代未聞の不思議だが、とまれ私は胸を撫でおろしたのである。
同日號の文春は創價學會の「エリート連の亂脈ぶり」について、「まつたく時代が時代ゆゑ目くじら立ててもはじまらないとはいへ」云々と書いてゐる。私が文春に望みたいのは、「時代が時代ゆゑ」と諦める事無く、敢然として目くじらを立てて貰ひたいといふ事である。商賣も大事だが、瘠我慢はもつと大事だからだ。昔、福澤諭吉は勝海舟と榎本武揚を批判して、瘠我慢といふ事を無視するならば「經濟に於て一時の利益を成」す事はあつても、「數百千年養ひ得たる我日本武士の氣風を傷ふたるの不利は決して少々ならず」と書いた。詳しい説明はしないが、勝と榎本は反論しなかつた。道徳は「兒戯に等し」などと思つてゐなかつたからである。
だが、俗に「人を見て法を説け」といふ。私が文春に苦言を呈するのは、文春の「人を見て」ゐるからで、例へば朝日ジャーナルに對して、私は同じ説法をやりはせぬ。總じてジャーナルは、「物の見方が巨視的になり過ぎ」、人間不在の味氣無い記事を載せる。八月七日號の小田實氏の駄文がさうであつて、「日本はどうやら“元も子もなくなる”運命をまぬがれ得ない」とか、「ひどい目にあふのは第三世界」だとか、アメリカも中國も「自分は生きのび得る」と考へてゐるとか、ソ連はアメリカや中國ほどの「確信はもつてゐない」だらうとか、繁榮をつづけたいのなら、「右傾化」を「必然のこととして私たちは受けとらなければならない」とか、要するに小田氏は、おのれの信念は何一つ語つてをらず、米中ソの「えらいさんたち」の心理を「想像」し、「私たち」はかうすべきであらうか、などと言つてゐるに過ぎず、許し難きほど無責任かつ非人間的な文章なのである。小田氏のでたらめは一度徹底的に批判せねばならぬと思ふ。 
淺薄極まる法意識
筑波大學の中川八洋氏が『月曜評論』誌上に、猪木正道氏は「ソ連政府の代理人になつたかの如くである」と書いた。すると猪木氏は「極めて惡質な誹謗であり、到底看過できない」とて、中川氏及び『月曜評論』に對し謝罪を要求、「刑事および民事上の法的手段を採る」と通告した。週刊文春八月二十日號はこの「前代未聞の珍事」を報じ、中川支持派と猪木支持派の「兩陣營は全面戰爭に突入」したと書いてゐる。私自身、文春に意見を求められ、猪木氏の「理解不可能なレトリック」を散々批判したのだから、文春が私を中川氏の「應援團」の一員だと思つたのは是非も無い。だが、私は中川氏の論文にも批判的なのであり、七月三十一日の朝、ラジオ關東の「今日の論壇」でも、私は中川氏の論理の杜撰を指摘した。それに何より、ソ連が脅威かどうかについて論じて、それがそのまま防衞論として通用するのは馬鹿馬鹿しい限りだと思ふ。すべての他國が潜在敵國ではないか。ソ連は脅威かどうかなどといふつまらぬ事柄は、アメリカや中國の論壇では決して論じられてゐまい。「脅威脅威とやみくもに騒ぎ立てるのは逆効果でマイナス」だと猪木氏は言ひ、「ソ連が脅威ではない、などといふのは“太陽が西から昇る”と同じくらゐをかしな議論」だと中川氏は言ふ。だが日本人の大半は、ソ連の脅威なんぞ一向に感じてゐまい。それゆゑ、このやうな蝸牛角上の爭ひが話題になるのであらう。
だが、言論人が安直に裁判官の判斷を仰がうとするのは感心できぬ。先般、東京高裁は「百里基地裁判」の判決において、自衞隊が合憲か否かについての「判斷を囘避」したが、七月八日付の朝日新聞社説は「なぜ憲法判斷を避けるのか」とて判決を批判した。朝日は猪木氏と同樣、法の裁きを過信してゐるのではないか。それは日本人の法意識の未熟を例證するもので、三權分立とは司法權の優位を意味しないのである。
一方、週刊新潮八月二十七日號の「田中角榮被告“有罪までは無罪“に噛みついた石川達三氏」と題する愚劣な記事も、日本人の法意識の淺薄を如實に物語るものであつて、石川氏は「有罪の判決が有るまでは無罪」とは「まるで中學生の理論のやうに短絡的であつて、筋が通らない」などと、法治國の國民にあるまじき「短絡的」な戯言を口走り、それを新潮は頗る好意的に紹介してゐる。本欄に執筆して五年、私は今囘ほど新潮を輕蔑した事が無い。「有罪の判決が有るまでは無罪」なのではない。元首相であれ殺人鬼であれ、有罪と決るまでは無罪の扱ひをするのが法治國なのである。新潮には何か石川氏を持上げねばならぬ事情があつたに相違無い。さう考へねば理解できぬほどの、これは淺薄なる法意識である。
文春の自戒を望む
或る男が佐久間象山に、大金持になるにはどうしたらよいかと問うた。すると象山は、片足を持上げて小便をしろと答へた。「え、それではまるで犬ではありませんか」。「さやう、犬になるのです。さもなければ大金持なんぞに決してなれませぬ」。江戸時代も今も、富豪になるには犬の眞似をせねばならぬ。當節、街頭に犬を見掛ける事すこぶる稀だが、なに、週刊文春の眞似をすればよいのである。前々囘、私は週刊文春を批判して「瘠我慢」の大事を説いたが、それは言ひ甲斐無き事だつたと思ふ。文春は金儲けのためには手段を選ばぬ事に決めたやうであり、それゆゑ文春の部數は今後急速に伸びるであらう。大金持になるために週刊文春を見習はねばならぬゆゑんである。
さて、假に私が雜誌甲の週刊誌評のコラムを担當してゐて、以上のやうに文春を批判しておいて、その次囘に「前囘の文春批判は私が書いたものではなく、印刷會杜の手違ひで他の雜誌乙に週刊誌評を連載してゐる丙氏の文章がまぎれ込んでしまひました。丙さん、ごめんなさい」と書いたら一體どういふ事になるか。無論、甲誌も印刷會杜も、丙氏も烈火の如く怒るであらう。そして、さらに性懲りも無く二週間後、印刷會社の手違ひ云々は冗談だつたが「本氣で信じた人がゐました。印刷會社サマごめんなさい」と書いたら、丙氏も印刷會社も甲誌も乙誌も、確實に私を狂人と見做すに違ひ無い。が、週刊文春の村田耕二編集長は、さういふ途方も無い惡ふざけをやらかした。すなはち八月六日號の「オソソなしの添ひ寢をしてみたい」と題する「ハンソン對談」について、印刷會社の手違ひのために週刊ポストの記事が「まぎれ込んでしまひました。關根進編集長、ごめんなさい」と書き、さらに八月十三日號の編集後記に、印刷會杜の手違ひのため云々と「冗談を書いたら、本氣で信じた人がゐました。凸版印刷サマごめんなさい」と書いたのである。週刊ポストも凸版印刷も、村田氏の非常識に呆れ返つたに相違無い。他人に迷惑を及ぼす惡ふざけは「いい加減にしてもらひたい」と思ふ。
もはや紙數が無いが、個人も國家も、まじめになるべき時にはまじめにならねばならぬ。金儲けの才に惠まれ、道化て世を渡るのは樂しからう。が、日本國は今後もこれまでの傳でやつてゆけようか。いや、世渡り上手の手から水が漏る時がきつと來るであらう。私は漱石の「坊ちやん」よろしく「正直が勝たないで、ほかに勝つものがあるか」などと言ひはせぬ。が、個人も國家も正義感ゆゑに損得を無視して行動する事がある。そして「正直」が常に負ける譯ではない。村田編集長にしても、それを思ひ知つた事がある筈である。私は村田氏の才能を認めるが、「才子才に倒る」といふ事がある。文春の自戒を望む。
恐るべきは歿道徳
或る男が新妻に自分の日記を讀ませる事にした。結婚前に犯したわが罪を愛する妻に告白しておかねばならぬと、さう考へての事であつたと書けば、讀者はそれを立派な振舞だと思ふかも知れぬ。が、夫の日記を讀んで妻は悲しみ、夫のはうは良心の呵責を免れていとも安らかな氣分となる。トルストイの『アンナ・カレーニナ』に出てゐる話だが、この夫にとつて「何より肝心なのは自分に罪が無いと感じる」事であつた。つまり、新妻に日記を讀ませたのも利己的な行爲だつたのである。トルストイは「或る型のエゴイズムを他の型のエゴイズムに替へたに過ぎない」とオーウェルは言つてゐるが、それはトルストイ自身も氣づいてゐた事で、善行を施すといふ美しい行爲も所詮は自己愛でしかありえぬ事に、彼は一生苦しんだのである。
ところで、週刊新潮九月二十四日號によれば、松山善三監督はサリドマイド児を描いた映畫を拵へたが、それを見た無着成恭氏は「足であんなに上手に字を書けるなんて、人間といふのはどこまで素晴らしいものか」と思つたといふ。けれども古山高麗雄氏は、「正義の理窟をつけて、見せないでいいものを見せて商賣にしてゐる」のだらうが、「自分は幸せな状態にゐて不幸せな人を論じてゐるのは、どんなものか」と言ひ、私立大助教授某氏は「彼女が足で口紅を塗るシーンがあつた。(中略)このときほど、殘酷さを感じたことはなかつた」と言ひ、國立大助教授某氏は「あの映畫監督は(中略)ヒューマニストのやうな顔をした最低の男ぢやないのか」と言つたといふ。
私は映畫を見てゐないが、新潮の記事から判斷する限り、無着氏は頗るおめでたいと思ふ。モデルになつた少女は「はつきりいつて見せ物です。もはや、興味本位でもいいから見てほしい」と言つてをり、身障者にかう言はれたら五體滿足の吾々は默するしかない。だが、「人間とはどこまで素晴らしいものか」などと、よい年をして何とおめでたい事を言ふ男か。無着氏はトルストイの爪の垢を煎じて飲むべきである。
けれども、松山監督のいかがはしさを嗅ぎつけた新潮も、松山氏の恐るべき道徳的不感症を見逃してゐる。松山氏は言ふ、「僕は昔から偽善者だと人からいはれてますし、自分でもさう思つてます」。この不道徳ならぬ恐るべき歿道徳を、偽惡的な新潮が見逃したのは興味深いが、それはともかく「偽善者だと人からいはれて」平然としてゐられるのは、まさに道徳的宦官である。
偽善者と言はれまいとし、また言はれて立腹する限り、人間は善との繋がりを失はずにゐられるのだ。松山氏にはトルストイの爪の垢も無用であり、それに較べれば無着氏のおつちよこちよいのはうが、遙かに人間的だとさへ私は思ふ。
平凡は今や非凡か
奇縁あつて中學生の私の娘が本間長世氏の令嬢と知り合ひ、娘あての令嬢の手紙を偶々私が讀むといふ結果になつた。きれいな字で、いかにも利發な中學生らしい事が書いてあつた。同じ日に、私は週刊讀賣が連載してゐる畑正憲氏の「娘よ」と題する文章を讀んだ。「通信の秘密は、これを侵してはならない」のだから、本間氏の令嬢の文章を引く事はできないが、畑氏の駄文は利發な中學生の文章に及ばない。畑氏は書いてゐる、「結婚式までお互にキレイでゐようね、などと言つて、不思議な盛大さで浪費のパーティーを開くよりも、男の家に強引に住んでしまふ生き方の方が、どれだけ美しいか分りはしない」。紙幅の制約ゆゑに、畑氏の駄文のあら捜しはやらないが、私はこの種の物解りのよさを賣り物にする大人を蛇蝎のやうに嫌ふのである。
私は自分の娘が「結婚式までキレイで」ゐて欲しいと願つてゐる。本間氏も同じだらうと思ふ。本間氏と面識は無いが、令嬢の文章からそれは察せられる。
「平凡な事は非凡な事よりも遙かに非凡だ」とG・K・チェスタトンは言つてゐるが、本間家は平凡な家庭なのであらう。結婚式をあげる前に、娘が「男の家に強引に住んでしまふ」やうな事を決して望まない家庭なのであらう。畑氏の令嬢とも無論面識は無いが、これほど物解りのよい父親に育てられながら、令嬢がなほ「男の家に強引に住」まずにゐるのは、瓜の蔓に茄子がなつたといふ事なのか。
一方、朝日ジャーナル十月九日號の投稿欄に、大阪府の高校教員の「私が鈍歩した六〇年代」と題する文章が載つてゐる。一九六〇年、京都の大學で「安保はいかんのだといふ理論的認識で行動」した彼も、今や四十歳、仲間と「教育論をたたかはせる」事も無い。が、「先日、ソクラテスの授業で、紀元前五世紀とは日本で何時代か」と問ふと、「江戸時代」と答へた生徒がゐたといふ。だが、「六五年に、デモシカ教師になつた」といふこの「しらけ」切つた高校教員に、生徒の無知を嗤ふ資格は無い。ソクラテスは「知は果して徳なりや」といふ事を一心不亂に考へた。しかるに、「デモシカ教師」を自認するやうな手合もソクラテスを論ずるのである。笑止千萬である。
「死に近き母に添寢のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆる」。齋藤茂吉の歌である。これは平凡な歌であらうか。が、週刊新潮十月八日號によれば、或る女子大生の裸モデルは、親に「叱られて、勘當されたら、親と縁を切つてしまふ」と言つたといふ。そんな事を娘が言ふのは、親がまじめに生きてゐない證拠だと、わが娘の將來に自信があつての事ではないが、私は思ふ。結婚式まで娘が「キレイ」であつて欲しいとの父親の平凡な願ひは、今や非凡な事なのであらうか。
理に義理を立てよ
「設使我れは道理を以て云ふに、人はひがみて僻事を云ふを、理を攻めて云ひ勝つはあしきなり」。『正法眼藏随聞記』の一節である。本欄に執筆して五年有半、私は「理を攻めて云ひ勝」たうと、躍起になり過ぎたかと思ふ。十月二十一日付サンケイ新聞に辻村明氏は、大方の新聞が載せてゐる「新聞批判」は「新聞社が許容しうる範囲のものでしかない」と書いてゐたが、道元の忠告を尻に聞かせ、見境無しに「理を攻めて云ひ勝」たうとする私は、サンケイ新聞杜の「許容しうる範囲」を殆ど氣に懸けた事が無い。それゆゑ、サンケイにはずゐぶん迷惑をかけたに相違無い。讀者は興がつてをればよいが、サンケイはさうはゆかぬ。しかるに、誰それの批判は「サンケイ新聞社が許容しうる範囲」外だと、私はつひぞ一度も言はれた事が無い。担當の野田衞氏とは口爭ひをやつた事がある。けれども逆に野田氏が私を嗾けた事もある。とまれ「知る權利、守る新聞、支へる讀者」といふのが今年の新聞週間の標語だが、讀者の「知る權利」を守るのがいかに大變か、それは「支へる讀者」には解らぬ事ではないか。それゆゑ、久し振りにサンケイを褒める事にするが、辻村氏の言ふ「新聞社による言論統制」をやらうとしないのは、サンケイの痩我慢なのである。無論、「痩我慢」とは褒め言葉であつて、吾々は聖人君子ではないのだから、「言論統制」をやつて氣に食はぬ奴の口をふさぎ、整然たる「一億一心」の國家を拵へたいとの野蛮な欲求は、誰の心中にも潜んでゐる。
ところで、園田外相に「アラファト招待を持ちかけ」た木村俊夫氏を激しく批判して村松剛氏は、「はつきりした理論を持つてやつてゐることなら、黨籍を移してほしい」と言つてゐる(週刊新潮十月二十二日號)。全く同感だが、「理論を持つてやつてゐる」政治家が今の日本にどれくらゐゐるだらうか。例へば改憲は自民黨の綱領だが、自民黨の總裁が「黨籍を移」さずして「平和憲法護持」を言ひ、世人もそれを怪しまない。「理論」だの「道理」だのに義理立てする痩我慢は、もはや當世風ではないのである。
週刊新潮は屡々さういふ當世風に反逆する。それゆゑ私は新潮を高く買ふ。十月二十二日號は「素つ裸」の池田大作氏と渡部通子議員が二人だけでゐる現場を目撃したといふ女性の證言を紹介し、「が、なぜか大新聞は一行も書かない」と書いてゐる。新聞が書かぬ事を書くのは勇氣があるからで、新潮はかつてノーベル賞の權威を疑つた事がある。が、今囘、井上靖氏のために新潮は四頁を割いた。新潮にはせいぜい痩我慢をして貰ひたい。そして理が非になりがちの當世、「我は現に道理と思へども、吾が非にこそと云ひてはやくまけてのく」、さういふ事だけは決してせぬやうに願ひたい。 
今や年貢の納め時
週刊新潮十月二十九日號によれば、都内のホテルで開かれた外交予算説明懇談會で、自民黨の秦野章氏は、園田外相の服裝について「あれはいかんよ、成金趣味ぢやないか」と言つたといふ。なるほどポローニアスのせりふではないが「華美は禁物、たいてい着るもので人柄がわかる」のである。そして「一國の外相がその國の顔」ならば、成金國家の外相が「赤いルビーの指輪をしたり、ダイヤのネクタイピンを光らせたり、金のブレスレットをちやらちやらさせ」たりするのは一向に怪しむに足りない。ただし、奥野法相が「金のブレスレットをちやらちやらさせ」て改憲を訴へたり「人の道」を説いたりする、さういふ圖はちと想像し難いから、日本國の「關節がはづれてしまつた」譯ではあるまい。奥野發言については次囘に書くが、園田夫人の話では外相の指輪は「ルビーではなくてサンゴだ」といふ。指輪もブレスレットもネクタイピンも「みんないただき物」なのだといふ。さういふつまらぬ些事の報告に新潮は四ぺージの大半を割いてゐるのだが、「フルコースの晝食をとりながら、外務省側から來年度の予算説明などが行はれ」たといふその會合で、中尾榮一氏は「今の外交はなつてゐない。だいない、あの(外相の)マニラ發言は何だ」と言つたさうである。全く同感だが、秦野氏にせよ中尾氏にせよ、園田外交には腹を据ゑかねてゐるのであらう。外相の服裝よりもむしろその人格と識見を新潮は論ふべきではなかつたか。
一方、このところアメリカの日本に對する不滿は、「對日貿易赤字増の問題ともからんで一氣に噴出しさうな形勢」である。十一月三日の朝日新聞社説は「これからは日米交流の場に、ハト派ももつと登場」すべきであり、「米國が日本の意見の多樣性をよく認識した上で對日對策を立てる」べきだなどと、頗る悠長な事を書いてゐるが、その種の甘えはもはや許されまい。日本が今後もなほ「モラトリアム國家」として繁榮を享受できると考へるのは「あまりにも蟲がよすぎる」と、十一月一日付サンケイ新聞に北詰洋一氏が書いてゐる。その通りであつて、日本はたうとう年貢の納め時を迎へたのである。
しかるに週刊ポスト一月六日號では、野坂昭如、筑紫哲也兩氏が「世界核競爭下における日本人のあり方」とやらを論じてをり、筑紫氏は「武器を持つのは世界の常識だといふが、世界の常識が間違つてゐるのだから、それに付き合ふ必要はない」と言つてゐる。つまり軍備増強をやめようとせぬ國々は非常識だと、筑紫氏は言ひたいのであらう。が、四方八方、馬鹿に取り囲まれてゐる時は、馬鹿になるのが知惠ではないか。さもないと、いづれ四方の馬鹿の袋叩きに遭ひ、大損したのは利口馬鹿の日本だつたと、さういふ事になりかねないと思ふ。
馬鹿騒ぎはやめよ
榎本三惠子さんは去る四日記者會見をやつた。「女王蜂」が到着する前、「文藝春秋が(中略)湯河原でクワンヅメにして手記を書かせてゐる」との情報が流れた。
サンデー毎日十一月二十二日號によれば、それを知つて他社の記者二人はかう語つたといふ。「エーッ、『週刊文春』はあした發賣だよ」「さう、獨占手記掲載の發賣前夜祭なわけよ」「やつてらんないね、全く」。
その日の記者會見は「長島引退、百惠婚約以來のバカ騒ぎ」(週刊ポスト)だつたさうだが、それが結局文春を利するだけで、馬鹿らしくて「やつてらんない」と思つたのなら、さつさと席を蹴つたらよい。が、そんな事、今時の記者連にやれる筈は無い。
かくて彼等は女王蜂に手玉にとられ、勤め人も主婦も「大騒ぎで」、週刊文春を「買ひに走つ」たのである。
女王蜂の手記を讀んで「久しぶりに心からの感動をおぼえました。母は、強い」と、文春の村田耕二編集長は書いてゐる。これは商策ゆゑの眞つ赤な嘘であらうか。花々しき「花火」を打上げ「大變な反響を呼」んだため、「心からの感動」云々と心にもない事を書いたのか。それとも、編集長もまた女王蜂に飜弄されたのか。
いづれにせよ、今囘の「バカ騒ぎ」くらゐ、日本人の道義心の麻痺を如實に示す例は少ないと思ふ。
文春に「抜かれた」悔しさゆゑか、他の週刊誌は女王蜂のいかがはしい過去をしきりに洗ひ立ててゐる。例へば週刊朝日十一月十三日號によれば、榎本敏夫氏は三惠子さんと別れて後も、子供の「授業參觀、運動會などに必ず姿をみせ」たが、女王蜂のはうは日頃「おばあちやんに子どもを預けて外に出囘つてゐた」といふ。だが、さういふ瑣末な證言を集めるまでもない。矛盾だらけの「手記」を通讀すれば、女王蜂の品性の下劣は掌をさすがごとし、とてもとても「母は、強い」などと評せるやうな代物ではないと知れるのである。
けれども、ここで女王蜂の手記の矛盾を論ふ事はすまい。私はむしろ「奥野なんていふ法務大臣は最低だよ。ルール・オブ・ローを無視してゐる。こんな法務大臣は、實にけしからん」などといふ放言の愚かしさ(藤原弘達氏、週刊現代十一月十九日號)に呆れてゐる。しかるに、藤原氏の愚味や女王蜂の品性のいかがはしさについて、讀者を納得させるだけの紙數は無い。
それゆゑ、今囘は理由をあげずして批判するしかないが、吾々は日本人なのである。日本人としての「人の道」を重んじなければならぬのである。奥野法相は「人の道」を説いて顰蹙を買つたが、まこと奇怪千萬であり、檢事も人間なのだから「人の道」にはづれる事はある。
それを法務大臣が批判して何が惡いか。言ふだけ無駄と承知してゐるが、奥野法相は留任すべきである。
投書作戰に屈するな
前囘、榎本三惠子さんの「品性の下劣は掌をさすがごとし」と書いたところ、數名の讀者から抗議の手紙を貰つた。その類の手紙を私は通常默殺する事にしてゐるが、尼崎市の某氏からのそれには、松原は「田中角榮や小佐野から(中略)金を貰つてゐるのぢやないか」とか、「角榮や小佐野の肩をもつ」のは「下劣です。早大教授などと大きな顔をするた」とあつた。これは少々窘めておかうと思ふ。私は田中、小佐野兩氏と面識が無い。そして、一面識も無い男に金をくれてやるといふ、そんな無駄をする人物が資産家になんぞなれる譯が無い。從つて、私は田中、小佐野兩氏から金を貰つた事は無い。私はただ、田中角榮氏の有罪が決定した譯でもないのに、世人が田中氏を指彈して興ずるのを苦々しく思つてゐる。法治國にあるまじき事と考へるからである。紙幅の制約あつて詳しい説明はできないから、尼崎の某氏には拙著『知的怠惰の時代』(PHP研究所)を讀んで貰ひたい。私が「灰色高官」に金を貰つて理を曲げるやうな男かどうか、拙著を讀んで判斷して貰ひたい。そして「早大教授などと大きな顔をするな」などと書く非禮を恥ぢ、それこそまさにおのが「品性下劣」の證であると知つて貰ひたい。
ところで、週刊新潮十一月二十六日號は、創價「學會の“無言の力”の前に新聞は屈してゐる」が、それは「學會五百萬世帯の見えざる不買運動の恐怖におびえ」てゐるからではないかと書いてゐる。山崎正友元顧問辯語士の話では、學會を「批判するヤツ」に對しては、「その人個人の私行上のことなど徹底的に調べ(中略)學會にタテ突くやうなマスコミには(中略)猛烈な投書作戰を展開する」といふ。それも「ミカン箱に二、三箱分は送る」さうであり、本當の事なら卑劣極まる。いかに非禮ではあつても、個人の抗議なら默殺する事ができる。が、集團による「投書作戰」には誰しも音をあげよう。それにまた、唯々諾々と組織に從ふ白痴的忠節は不氣味である。週刊文春十二月三日號の卷頭には大石寺正本堂に「鎮座する“裸の池田大作”像」のカラー写眞が載つてゐる。「何ともはや氣色が惡い」と書けば、サンケイ新聞社に「ミカン箱に二、三箱分」の抗議の投書が配達される事になるのか。
けれども、創價學會に對する新聞の弱腰も頗る奇怪である。かつて週刊朝日は「わざわざ中南米まで出張」して池田氏とのインタビューをやつたが、「お粗末きはまる」内容であつたし、サンデー毎日が五囘にわたつて載せた秋谷榮之助會長とのインタビューも「フンパンもの」で、さういふ迎合的な記事を書くから、學會との「癒着」を疑はれるのである。「“ハチの三惠子”には熱狂する新聞」が、なぜ「池田スキャンダル」裁判には沈默するのか。新潮の言ふやうに、沈默は「癒着」の證なのであらうか。
賄賂の横行について
藝大教授の海野義雄氏が収賄容疑で逮捕された。週刊現代一月二日號によれば、十二月九日午後五時すぎ、藝大の對策委員會が終了した際、「明りが消され(中略)數人の教官が走り出た」が、忽ち「ライトをつけろッ、すみずみまで調べろッ」との「テレビ局員の怒號が亂れ飛」んだといふ。わが敬愛する申相楚氏の口癖を眞似て言へば、「馬鹿みたいな奴らだな」といふ事になる。現代は藝大の教官の振舞について「隠れ家に踏み込まれたコソ泥みたいで、藝術家の誇りも、權威もあつたものではない(中略)情けない風景」だつたと書いてゐるのだが、付和雷同するのが凡人の常だから、その場に居合せた週刊誌お抱へのトップ屋も、きつと怒號を發したであらう。では、現代に借問する、「教官が走り出た」のは「情けない風景」で、「怒號が亂れ飛ぶ」のは頬笑ましい風景なのか。現代によれば「音樂人のすぐれてゐるのは金錢感覺と男女のことだけ、あとは何も知らない音バカ」、いはば「ハンパ者の集團」だと、「ある音樂關係者」は「解説してくれた」さうだが、それは俗惡週刊誌の事ではないか。「色の道だけに長けてゐて、そのくせ(中略)初歩的モラル感覺はしびれつ放し」とは週刊現代の事ではないのか。同日號の現代は「助平でなけりや男ぢやないよ」と題する記事を載せ、「藝は身を助く−それ以前に、噺家にとつては、女は藝を助く、といふべきだらう」と書いてゐる。「一九八二年女性たちのSEX行動」とやらを「フロンティア精神」などと呼ぶおのが「品性下劣」は棚上げして、音樂家の「モラル感覺」を居丈高に問ふ、何ともはや片腹痛い。
だが、さういふ笑止千萬は、無論、週刊現代に限つた事ではない。女の裸で稼ぐ週刊ポストも、「SEXがらみの子弟關係も噂されたり−學問、藝術の權力化は“自殺行爲”だ」と書いてゐる。ポストに借問する。週刊誌や新聞の「權力化」はどうなのか。おのれを棚上げして政治家や音樂家の収賄や「黒い商法」を批判するのは「權力」あればこそだが、さういふ權力を週刊ポストは、いつ、誰から授けられたのか。ポストはたいそう賣れてゐるといふ。だが、賣れてゐるのは衆愚に受けるからで、そんな事、自慢になぞなりはしない。
その證拠に山本夏彦氏の著書は斷じて數十萬部も賣れはしない。他人の惡徳を指彈しておのれがそれだけ有徳になれる筈は無いのだが、嫉妬を義憤と思ひ做す淺薄な手合には、さういふ事が決して解らぬ。しかるに山本氏は「公然たる賄賂の横行を、私は難じない。むしろ、これを大聲で難じる人を見るといやな氣がする」と書いた(『編集兼發行人』、ダイヤモンド社)。誰それは田中角榮氏から賄賂を貰つたに違ひ無いといきり立つ淺はかな手合に、喜ばれる筈が無いではないか。
今なぜ田中角榮か
週刊朝日一月十五日號によれば、東京・目白臺の田中邸には年賀状が七千枚も配達され、「初詣で」客は四百人にも達し、「元首相はオールドパーの水割を片手に、あちこち行つたりきたりで席の温まるひまもなし」「まはりをハラハラさせ」るほどの「ハシヤギぶりだつた」といふ。刑事被告人がさまで持て榮やされるとは遺憾千萬だと、朝日は書いてゐる譯ではない。「この日、目白御殿への詣で人約四百人。報道野次馬二十數人。おつかれさまでした」といつたふうに書いてゐるに過ぎない。だが、この自嘲氣味の「客觀的報道」の動機を私は怪しむのである。かつて田中角榮氏が首相になつた時、新聞や週刊誌は田中氏を「今太閤」だの「コンピューター付ブルドーザー」だのと持上げたが、やがて田中氏が逮捕されるや、その道義的責任とやらを論ひ、心行くばかり筆誅を加へたのである。そして今、週刊朝日は「水割片手にはしやぐ“闇將軍”」を難詰せず、當て付けがましい事さへ言はうとしない。これは一體どうした事か。
朝日だけではない。週刊讀賣新年特大號は「ヒカゲの身だけど田中なら(北方領土問題の解決を)案外やつてのけられるかもしれない」との木村汎教授の意見を引き、「萬一、田中元總理の個人的手腕で北方四島返還でもならうものなら、“國民的英雄”になつてしまふ。その時いつたい誰が田中元總理を裁けるだらうか」と書いてゐるし、週刊ポスト迎春特大號も田中氏と「氣鋭の政治學者・小室直樹氏」との對談を載せ、「行政改革、日米問題、貿易摩擦問題と、“日本丸”の前途は多難である。(中略)自民黨最大の百八人を率ゐる派閥の領袖は、正念場に立たされたいま何を考へてゐるのか」と書いてゐる。讀賣の言分の浮薄、及び小室直樹氏の思考の粗雜について云々する紙數は無いが、朝日も讀賣もポストも、「ヒカゲの身だけど」年賀状が七千枚も配達され、「初詣で」の客は四百人にも達する「自民黨最大の派閥の領袖」を、なにせ「“日本丸”の前途は多難」なのだから、この際「國民的英雄」として祭上げたはうがよいと、さう考へてゐるのであらうか。 さらにまた、週刊現代一月十六日號も、小佐野賢治氏について「腹心、實弟の相つぐ死。そして本人にはまさかと思はれた實刑判決。(中略)トリプル・パンチをくらつた巨人が、しかし、再び立ち上がる」と書いてゐるのである。大方の週刊誌と異り、私はこれまで田中、小佐野兩氏を批判した事が無い。それどころか田中氏を辯語して顰蹙を買つた事さへある。その私が今、週刊誌の田中氏に對する好意的た扱ひに呆氣にとられてゐる。これはたわいもない一時の氣紛れなのか。それとも何ぞ下心あつての事なのか。 
人、木石ならず
昨年十月、週刊文春は「二十歳前後かと見えるウラ若き女性が、あられもないポーズで艶然とホホ笑む全裸ヌード写眞」を載せた事がある。撮影したのは入江相政侍從長の長男爲年氏、撮影されたのは「かつて爲年氏の愛人であり、一児までまうけた間柄」の岸優子(假名)であり、それを知つて優子さんの夫は「私は優子と結婚し、入江さんが認知した子供も今度自分の籍に入れて、後始末のサウヂ屋を自任しとるんですが、かうなると・・・」と言つて絶句したといふ。文春は入江爲年氏の行爲について「非紳士的の一語に尽きる。男の風上にも置けぬとの噂も・・・」と書いたのだが、文春の記事を讀んで私が考へたのは、入江氏を批判する資格が果して文春にあるかといふ事であつた。問題の写眞は或る男が文春編集部に持込んだものだが、「入江侍從長の長男のスキャンダル、これは面白い」とて飛びついた文春は、それを記事にする事の非人間性に氣づかなかつた。優子さんには夫があり子供があり、子供は「現在高校生」だといふ。高校生の子供が文春に載つた母親の全裸写眞を見たら、どう思ふか。「後始末のサウヂ屋を自任」する夫は絶句したが、子供の場合、絶句するぐらゐの事では濟むまい。母親の裸體写眞を見たがる子供なんぞ斷じてゐないのである。
私は入江爲年氏を辯語してゐるのではない。有名人の長男のスキャンダルをあばく際、匿名にもせよ罪科も無い者を卷き添へにする、その非情を氣にするだけの人間らしさが文春に欠けてゐる事を問題にしてゐるのである。文春に限らず、そもそも有名人を道義的に批判する資格を、マスコミはいつ誰から授けられたのか。「眞に道徳的なのは自己批判である」とトマス・マンは言つた。だが、他人の惡行を難じて「社會の木鐸」を氣取るマスコミは、決して眞摯な自己批判をやらぬ。そしておのが心中を覗く事が無いから、非人間的に振舞つて遂にそれを自覺しない。「人、木石ならず」といふ事を理解しない。
けれども、さうして非人間的に振舞ふジャーナリストが、或る種の人間に易々と乘せられてしまふのは興味深い。先に文春は榎本三惠子さんを大いに持上げたが、彼女は急速に馬脚を露したし、今週號は「越山會の女王」佐藤昭子女史の令嬢とのインタビューを載せてゐるが、令嬢がインタビューに應じた動機のうさん臭さに文春は勘づいてゐない。「敦子さんは、ときに怒り、素直に笑ひ、あるいは眼に涙をたたへ、つとめて正直に」などといふ文章を讀まされると、さう斷ぜざるをえたくなる。が、週刊宝石一月三十日號によれば、「實は彼女自身が(文春に)タレコンだ。」との證言もあるといふ。なるほど敦子さんとのインタビューを讀めば、支離滅裂な言分の裏に打算が透けて見える。それが見えぬほど文春は無邪氣なのか。
後の世をこそ恐るべし
野坂昭如氏は愛矯のある文士である。羞恥心が有るやうにも無いやうにも見え、頭が良いやうにも惡いやうにも見える。八方破れではあるが、邪氣はまるで無い。それゆゑ、だだつ子のやうに憎めない。週刊ポストニ月五日號によれば、このたび野坂氏は「“軍擴元年”に宣戰布告」したさうで、「幻の“大東亞共榮圈構想”を斬」り、「日本の場合には、何も守るべきものがないから困つちやふ」と、ポストの記者に言つたといふ。だが、野坂氏はまた、守るべきは「ぼくたちの生命、財産、四季の移り變はり、あるいは、好きな人間とか友だち」など「個人レベルのもの」であり、さういふものを守るためなら「GNP一%にこだはらず、三・五%だらうが十%だらうが、支出して當然だ」だとも言つてゐるのである。週刊ポストの頭の惡さと野坂氏のそれとが二重写しになつてゐて、野坂氏の言分は不得要領だが、いづれ「個人レベルのもの」が危ふくなれば、野坂氏は「われ愛する人のために戰はん」とて、「二十%だらうが三十%だらうが、支出して當然だ」と主張するやうになるに違ひ無い。
それゆゑ、かういふ陽性の文士ははふつておけばよい。厄介なのは陰性の偽善的文士である。週刊文春二月四日號によれば、中央公論社の安原顕氏が大江健三郎氏の「作品をケナした」ところ、大江氏は「怒つて嶋中社長に電話をかけ」、「もう中公の仕事はしない」と言つたといふ。柳田邦夫氏は大江氏について「心のトゲだとか“内たるオキナハ”だとか、よく言ふよと私は心の中で舌打ちする」と『現代の眼』一月號に書いた。同感である。「内なるオキナハ」だの「内たる金大中」だのと、反吐の出さうになる美辭麗句を、これまで大江氏はしこたま連ねて來たが、大江氏の言行不一致については私も色々と聞いてゐる。大江氏に警告する、昔と異り今は記録の殘りやすい時代なのである。テープ・レコーダーがあり、電話盗聽器もある。深夜、一人きりになつて胸に聞け、などと古めかしい忠告はせぬが、編集者の誰かが大江氏の言行不一致を苦々しく思ひ、それを日記に書き殘してゐるかも知れぬ。後世に殘るのは大江氏の作品だけではないのである。
だが、當節の文士は刹那的で、後の世の事なんぞ考へぬ。先日の文學者による「反核アピール」を讀んで私は呆れた。あの偽善は許せぬとか、反米運動に利用されるとかいふ大形な批判には及ばない。あの文章は惡文である。では、惡文と知りつつ三百三人は署名したのか。さうではない。「モラトリアム國家」の文士もまた「後世、恐るべし」といふ事を考へないのである。だが、惡文のアピールに同意したといふ事實は殘る。一月二十八日付の『世界日報』は三百三人の氏名を公表した。それを國會圖書館は保存するのである。
誰一人反省しない
ホテル・ニュージャパンが燃え、日航機が墜落し、新聞も週刊誌も色めいた。ちと騒ぎ過ぎであり、もつと重大な問題があるではないかと評する向きもあるやうだが、F4ファントムの爆撃裝置改修問題をめぐる代議士諸公のやりとりなんぞ所詮猿芝居だから、世人はやはりホテルの社長横井英樹氏や片桐機長の異樣な言動のはうに關心を寄せたに相違無い。それゆゑ週刊誌が熱心に二つの事件について報じたのは無理ならぬ事である。だが、グラビアも記事も似たり寄つたりで、まともに論評する氣にはとてもなれない。週刊現代二月二十八日號は、ホテルに泊る際の心得として、懐中電灯を持ち歩けとの池田彌三郎氏及び三浦布美子さんの忠告を紹介してゐるが、現代の記事を讀んで、懐中電灯持參でホテルに泊るやうになる者はまづゐまい。「俺に限つて大丈夫だ」と人は皆思ふものなのだ。 とまれ、何か大事件が起ると週刊誌は識者の意見を徴するが、あまりにも愚劣な意見は思ひ切りよく捨ててはどうか。例へば東外大教授の安倍北夫氏は、エレベーターを利用せず「日ごろ、自分の足で登つてゐれば、少なくとも高いところから飛び降りる自殺行爲はやれなくなる」と週刊現代の記者に語つてゐる。ふざけるな、と言ひたい。煙と炎に追ひ詰められ、どう仕樣も無いから飛び降りるのである。安倍氏は杜會心理學が專門らしいが、自他の心理が理解できずとも心理學の專門家として通用するとは奇怪千萬である。それに、避けやうのない不運といふものは確かにある。それを誰しも承知してゐるから、たとへ「懐中電灯を持ち歩」かうと決心したところで、その決心は三日と持たない。この種の事故が起ると、マスコミは必ず「人災」として責任を追及するが、それもやはり三週間とは持たない。それゆゑ、マスコミに吊上げられたら、「當分の間、恭順の意を示す」に如くはない。
週刊文春二月十八日號に、東京藝大の野田暉氏は手記を寄せ、「藝大は新聞に魂を賣つた」とて、おのが屬する學部教授會についての不滿をぶちまけてゐる。野田氏によれば、藝大教授の大半は「新聞がこれだけ騒ぎ、藝大に火の粉がふりかかつてゐる以上、ともかく自分の頭を叩いてみせて謝る以外にない」と考へ、「當分の間、學外の個人レッスンを中止する」事にしたのださうである。賢明なる判斷である。人の噂も七十五日、「當分の間」とは要するに七十五日間といふ事であらう。つまり、藝大の教官たちも「學外の個人レッスンを中止する」事は問題だと知りながら、マスコミが叩くから「當分の間」謹慎しようと考へてゐるに過ぎず、「社會の木鐸」が本氣でない事は承知の上なのである。とすれば、マスコミがいかほど指彈しようと、誰も本氣で反省しない、さういふ事にならないか。
何のための記事か
週刊誌を讀んでゐて、これは一體何のための記事かと首を捻る事がある。例へば週刊文春二月十八日號は、黒川紀章氏と若尾文子とは、不倫などといふ「ジメジメした言葉がカホを赤らめるくらゐ大つぴらにやつてくれてゐる」けれども、黒川氏が設計したショッピング・センターは頗る不評だと書いた。
「なにせ世界的才能と天下の美女だから目立つて仕方ないのだが、本人たちは臆する風もない。ま、結構なことではあるが」云々と書いてゐるのだから、文春は二人の不倫を咎めてゐるのではない。また、黒川氏の設計のずさんに立腹してゐる譯でもない。これを要するに、愚にもつかない噂話であつて、何のための記事やら、さつぱり解らぬのである。 一方、音樂評論家の吉田秀和氏は「熱心な相撲ファン」だが、「北の湖が二十三囘目の優勝をとげた初場所から(中略)テレビによる觀戰もやめてしまつた」といふ。そして吉田氏は週刊朝日二月五日號に「愛すればこそ、私は相撲と訣別した」と題する文章を寄せ、自分が相撲と訣別したのは、角界に横行する八百長について週刊ポストが「延々何十週間にわたり、告發を續け警鐘を鳴らしてきたのに、相撲界はただ沈默」を守るばかりだからだと書いた。
だが、吉田氏の文章を讀んで、私はどうにも腑に落ちなかつた。「私個人は、もう、かつての狂熱には戻れまい。私は傷つきすぎた。さよなら、相撲よ。私は君が大好きだつた。さよなら、わが痴愚の日々よ」と吉田氏は書いてゐるのだが、大相撲の八百長はいまだ立證されてはゐないのであり、それなら、疑はしいといふ程度で「傷つきすぎ」、易々と「さよなら」できるのなら、吉田氏の「相撲への愛着」の強さを私は疑はざるをえない。
土臺、「愛すればこそ訣別する」などとは嘘である。そして誰かを眞實愛して、やがて「バカにされ、コケにされてゐる自分に氣がつくやうに」なつたとしても、「さらば、わが痴愚の日々よ」とて愛想尽かしの文章を綴るのは愚かしい事だと思ふ。
要するに、吉田氏が週刊朝日に文章を寄せた動機を私は怪しむのだが、三月五日號の週刊朝日はホキ・徳田に宛てたヘンリー・ミラーのラブレターを紹介してゐる。愚にもつかぬ文面の戀文ばかりで、したたかな色事師も「老いては駑馬に劣る」といふ事であらう。だが、朝日はそれを連載するといふ。これまた一體何のためなのか。
「いまロスに在住」のホキ・徳田は「三百通もの戀文を公開」するのだといふ。男から貰つた戀文を公開するやうな女はろくでなしに決つてゐる。「賣りに出してもいいといふ許可を」ミラーが与へたとすれば、アメリカの出版社が食指を動かすやうな書簡でない事を、ミラー自身、承知してゐたからではあるまいか。
高木は風に折らる
「日米關係は日を追つて惡化し、日歐關係も險惡にたつて」ゐるが、日本には「自分にとつて都合の惡い情報は、存在しないことにするといふ奇妙奇天烈な心理」がある、嘆かはしい事であると、週刊現代三月二十七日號に江藤淳氏が書いてゐる。同感である。
週刊ポスト三月二十六日號が報じてゐるやうに、アメリカは今や「日本による經濟植民地主義の支配下にある」などといふ物騒な發言がアメリカの上院の公聽會でなされたといふ事實を、「日本に對する嫉妬ゆゑの理不尽な嫌がらせ」に過ぎぬとて輕視する譯にはとてもゆかない。
しかるに、週刊朝日三月十九日號は、「米國側の姿勢で一貫してゐるのは、今秋に控へた中間選擧に向けての政治家の人氣取りだ」と、頗る悠長に斷じ、「今囘の日米貿易摩擦といふものは實體がない。兩國政府とも、幽靈を相手に格鬪してゐるやうなもの」だ、との長谷川慶太郎氏の意見を引いてゐる。長谷川氏はまた、日米貿易摩擦を解消するには日本が「アメリカからアラスカ原油を買へば」よいので、それで「萬事うまくいく」と主張してゐるさうである。この長谷川氏の「アイデアには、一石二鳥どころか三鳥、四鳥ものメリットが期待できる」と週刊朝日は言ふ。それは奇怪千萬な話だと、常識のある讀者なら思ふであらう。そんな結構な解決策があるのなら、なぜ「日米兩國政府」が「幽靈を相手に格鬪」してゐるのか。
私も常識家のつもりだから、眉に唾を塗りながら朝日の記事を讀み進んだ。すると果せるかな、アメリカがアラスカ原油の對日輸出を解禁できぬ理由が書いてあつた。それどころか、「日本の石油業界にとつてアラスカ原油」が「魅力に乏しい」理由まではつきり書いてあつた。私は唖然とした。日米双方にもつともな理由があるのなら、「アラスカ原油を買へば萬事うまくいく」との長谷川氏の御託宣はまさしく机上の空論といふ事になる。 週刊現代三月二十七日號によれば、過日「東京にサケを呼ぶ會」は三十萬匹の鮭の稚魚を多摩川に放流したが、「多摩川は、汚れはもちろん、水量不足も深刻。假に魚道を整備しても(中略)サケは堰を越えられず全滅する」といふ。成長して「母なる多摩川に歸つてくる」鮭の事は考へず、專ら「多摩川をきれいにするためのキャンペーン」として放流したとすれば、「この自然復活運動、どこかにエラク不健全な精神がうかがへる」と現代は書いてゐる。同感である。だが「東京にサケを呼ぶ會」の無責任は、たかだか鮭にとつての「殘酷物語」を招來するに過ぎぬ。
しかるに、貿易摩擦についての無責任な發言は、日本國民にとつての「殘酷物語」を招來しかねない。「黄禍論」の理不尽を言ふ前に、週刊誌はさういふ事をちと考へてはどうか。「高木は風に折らる」といふ。その理不尽を云々しても始まるまい。 
新潮よ、天邪鬼たれ
週刊新潮の表紙が變つて、毎囘田中正秋氏の繪が表紙を飾る事になつた。繪心の無い私には田中氏の腕前を論評する資格は無いが、田中氏を選んだ新潮は賢明だつたと思ふ。周知のごとく、新潮の表紙は久しく故谷内六郎氏の童畫であつたから、週刊新潮と聞けば誰しも谷内氏の繪を思ひ浮かべるやうになつてゐた筈である。それゆゑ新潮としても、谷内氏に死なれたからとて若い女の顔写眞でお茶を濁すわけにはゆかない。何としても新潮らしい繪でなければならない。それはつまり、久しく表紙を飾つた谷内氏の繪と調和するやうな繪でなければならぬ、といふ事である。無論、二人の畫家の畫法は異るが、曰く言ひ難き類似を感じ取る事ができる。傳統や慣習を重んじるのはよい事である。それゆゑ新潮の見識を私は高く評價する。
けれども、傳統を重んじるのはよい事だが、因習に囚はれるのは好ましい事ではない。長所は短所といふ事がある。例へば新潮の場合、表紙は谷内六郎氏にしか頼らなかつた。が、漫畫も横山泰三氏にだけ頼つて、あの下手糞で愚劣淺薄この上無しの漫畫の連載を一向に止める氣配が無い。その義理づくは新潮の短所である。いかなる義理合ひあつてかおほよそ見當はつくが、讀者を舐めるのもいい加減にして貰ひたい。
ところで、新潮四月一日號は、協榮ジムの金平正紀前會長が「限りなく黒に近い灰色」だとて「永久追放處分」にされた事件について「西部劇の民衆裁判ぢやあ、かたひませんよ。(中略)日航(機墜落)事故だつてものすごい調査をしてゐる」との安倍辯語士の言葉を引き、「なるほど、日航機墜落事故と比べるあたり、安倍辯語士の面目躍如といふか“三百代言”といふか」と書一いてゐる。新潮によれば、安倍辯語士は「恐喝罪に問はれ、一審では有罪判決」を受けたといふ。また、日本ボクシング・コミッションの川本信正氏は「純粋なスポーツの世界では疑はしきは罰する」と言ひ、罰せられた金平氏は「なんら異議を唱へることもなく全面降伏してゐる」といふ。
さういふ場合、「疑はしきは罰」したコミッションの處置を是認するのは、どんな馬鹿にもやれる事である。「全面降伏」した金平氏の顔写眞を眺めてゐるうちに、阿呆でも金平氏の非を鳴らしたくたる。が、「恐喝罪に問はれ」てゐる安倍氏の、これは「西部劇の民衆裁判」だといふ抗議を肯定する事は、馬鹿には決してやれぬ事である。馬鹿にはやれぬ事をやる、それが天邪鬼たる新潮の眞骨頂ではなかつたか。
文學者の「反核聲明」の愚劣を新潮が嗤はないのは臺所の事情ゆゑであらう。が、愚劣を嗤へぬ事を無念に思はぬのなら、新潮は正眞正銘の腑抜けになつてしまつたのである。週刊新潮が新潮社の中の「治外法權」である事を、私は切に望む。
許し合ひ天國、日本
「教壇に立つ教師めがけてハサミが飛ぶ。たばこを吸ふのは日常茶飯事。金の貸し借りには二十倍から七倍もの利子がつく」、それが京都府長岡京市の「小學校の生徒の實態」だと、共産黨員の教師が日教組の教研集會で報告した。けれども「今や父兄の間では(中略)反發が高まる一方」だと、週刊新潮四月八日號は書いてゐる。「報告の内容が捏造されたものだつた」からだが、その点を追及されて森眞人教諭は「ニタニタした笑ひを浮かべながら」謝つたといふ。新潮の言ふとほり、さういふ性惡な教師の首も切れぬとはまことに解せぬ話だが、許し合ひ天國日本では、それも致し方の無い事なのである。
なにせ内閣總理大臣にしてからが、ワシントンでは、「自分の國は自分で守つてゆくといふ氣概が重要」とて胸を張つたものの、先般、國會で答弁した際は、すつかり腰砕けのていであつた。アメリカ側は憮然としたらうが、この日本國ではさういふぬらりくらりが功を奏するのである。けれども、イギリスのサッチャー首相は鈴木首相との會見に十五分しか割かなかつたといふ。通譯が喋つた時間を差し引き、また二人の首相が等分に喋つたと假定すると一人三分四十五秒である。サッチャー女史に鈴木氏は一體全體何を語つたのであらうか。
とまれ、この許し合ひ天國では、どんなでたらめを口走つても滅多に咎められる事が無い。例へば週刊現代四月十七日號は、「六月八日のロッキード裁判全日空ルート判決がクロと出れば、その關連で二階堂幹事長の“灰色”も“黒”となる」と書いてゐる。現代に借問する。二階堂氏の「灰色」が「黒」になるためには、二階堂氏を被告とする裁判が開かれてをらねばならぬ。それは今、どこで開かれてゐるのか。現代は私の問ひに到底答へられまい。それなら、二階堂氏に謝罪しろとは言はぬ、現代はおのが愚鈍を大いに恥ぢるがよい。「腐敗と不祥事の巣窟と化して久しい」國労、動労さへ、「惡慣行返上の具體的方針」とやらを發表したではないか。
だが、國鐵のストは「惡慣行」ではない。それはれつきとした「犯罪」なのだと、週刊新潮四月十五日號にヤン・デンマン氏は書いてゐる。その通り、國鐵のストは「違法スト」なのだ。が、十五、十六の兩日、人を殺すと予告した手合を、驚くべし、世人は許すのである。殺さなかつたのはよかつたと胸を撫でおろすのである。けれども、國労、動労だけを咎められぬ。上智大學教授内村剛介氏は「文學者の反核聲明」に署名しておきながら、『週刊讀書人』二月十五日號に「いいかげんな文章にサインする文學者つてのは、そりやもう“口舌だけの徒”」だと書いた。そしてこの恐るべきでたらめを、誰も咎めなかつた。やはり日本國は許し合ひの天國なのである。
保守は保守を斬れ
『月曜評論』四月十九日號に「ぱるちざん」なる匿名の文筆業者が、「文筆業者と政治」と題し、繼ぎ接ぎだらけの奇怪な文章を綴つてゐる。「ぱるちざん」氏の文章の大半は福田恆存氏や井上靖氏やジョージ・オーウェルの意見の引用で、人の褌で相撲を取るのは程々にせよと言ひたくなる程であり、しかも、他人の意見におのが意見を繼ぎ合せる際の「ぱるちざん」氏の技術がまた、頗る拙いのである。それはともかく、「ぱるちざん」氏は「反核アピール」のみならず「安保改定百人委」の聲明をも批判し、「安保改定の呼びかけとて同じ事だ。改憲すべきだと内心思ひつつも、内外の情勢を氣にして、それを言ひ出せぬ文筆業者は、右顧左眄するが故に自由ではない」と書いてゐる。「安保改定百人委」の諸氏の中に「改憲すべきだと内心思ひつつも」それを言ひ出せずして「右顧左眄」してゐるやうな腰抜けは一人もゐない筈である。「ぱるちざん」氏は保守派なのだらうが、保守が保守を斬るのは、保守が革新を斬る以上の難事なのである。「ぱるちざん」氏及び『月曜評論』に猛省を促す。
だが、「ぱるちざん」氏や『月曜評論』の事だけは言へぬ。私は昨年六月、「鈴木首相は憲政史上最低の總理大臣だ」と本欄に書いたが、週刊現代五月一日號は「善幸首相はウンつき村の村長だ」と書いてをり、私は今囘ほど週刊現代に共感した事は無い。現代によれば自民黨の大塚雄司氏は「總理を替へなけりやいけない」と言ひ、龜井靜香氏は「もつとも質の惡い總理」だと言ひ、共産黨の東中光雄氏は「二枚舌」の常習犯だと評したといふ。全く同感である。昨年五月、鈴木首相はワシントンのナショナル・プレス・クラブで「日本の周邊海域を日本が守るのは當然であり」云々と胸を張つて言ひ切つた。私はさう言ひ切つた首相の表情をテレビで觀て、それを今もつて忘られずにゐる。NHKでも民放テレビでもよい、自分が何を喋つてゐるか、それすらも解らずにゐたあの時の鈴木氏の愚かしい表情を、もう一度放映しては貰へまいか。
しかるに週刊現代によれば、鈴木首相は「隔週週休二日制」を守り「毎週水曜か木曜の朝、自宅で主治醫の定期檢診を受けて」をり、「夜はぐつすり眠れるし、すこぶるつきの元氣さだ」といふ。一方、週刊新潮四月二十九日號によれば「あるテレビ番組で渡部昇一といふ大學教授」はフランスの大統領補佐官に、「日本のインテリの輕薄さを見せつけられる」やうな愚かな意見を述べ、補佐官を怒らせたといふ。自民黨の代議士諸公に訴へる。一刻も早く鈴木善幸氏を成敗して貰ひたい。渡部昇一氏のはうはいづれ私が成敗する。もはや「保守同士の内ゲバ」は敵を利するなどと言つてをられる時ではないからである。
三笠宮寛仁殿下へ
自ら「陣笠皇族」と稱し、「ラジオのディスクジョッキーで縦横無尽に語られたり、とにかくユニークな三笠宮寛仁親王殿下」が、このたび宮内庁に對し「皇籍を離脱したい」との申出をなされ、「トレードマークのヒゲまで落された殿下の前例のないお申し出に、宮内庁側はご眞意を測りかねながらも、飜意の説得に懸命」ださうである。けれども、好奇心旺盛なる週刊誌が「ご眞意を測りかね」て困惑する筈が無い。そこで例へば週刊現代も、「話題のこの人たちのそこが知りたい」とて、「寛仁殿下“皇籍離脱”發言の不可解部分」を究明せんと思ひ立つた。
現代五月十五日號によれば、四月中旬、寛仁殿下は宮内庁長官に「國民と皇室を結ぶ一助として身障者などの行事に參畫し活動して來たが、忙しすぎて宮中行事にも欠席」する有樣、「この際皇籍を離れて活動に專念したい」と仰有つたといふ。殿下の言分は矛盾してゐる。「皇籍を離れて活動に專念」する事は、「國民と皇室を結ぶ一助」にはならぬのである。また、週刊ポスト五月十四日號によれば、殿下はかつて「俺は好んで皇族になつたのではない」と放言なさつたさうだが、さういふ餘りにも當り前の事は仰有るべきではない。吾々は皆、「好んで日本人になつたのではない」のである。
殿下は「皇位繼承順位で七番目」にあたらせられる。それゆゑ先刻御承知であらうが、天皇は國事行爲について責任を問はれず、また天皇には選擧權も被選擧權も無い。天皇に選擧權被選擧權が無いのは、天皇が政治的に中立でなければならぬからであり、もとより「象徴としての地位に反しない限り、天皇にも學問の自由、信教の自由、財産の保障等が認められるものと解する」事はできようが、政治的信念を表明する自由だけは無いのである。
學習院大學の飯坂良明教授は「三笠さんは(中略)もつと人間らしい生活をさせてほしいと訴へられたんぢやないか(中略)思ひどほりにしてあげたつてよい」と語つてゐる(週刊ポスト)。殿下はかういふ愚かな大學教授の甘い言葉に惑はされぬやうに願ひたい。
なにせ殿下は第七番目の皇位繼承者である。それゆゑ私は今囘極力抑制して書いてゐる。殿下が萬一平民におなりになつたら、私は勿論抑制せずして手嚴しく批判する。が、抑制せずに批判する事は果してよい事か。殿下は週刊文春をお讀みになつたであらう。浮薄な週刊誌に「“普通の女の子に戻りたい”といつたキャンディーズもびつくり」だの、「殿下の藝者の扱ひときたら抜群で、モテることモテること」だのと書かれる事が、殿下御自身の、いや吾が日本國のためになるかどうか、それをこの際とくとお考へ頂きたい。
英國に學ぶは難し
NHKは「フォークランド事件」については「手を抜いてゐる」が、「あんなくだらない戰爭のニュースは(中略)日本のマスコミ界において默殺していいとさへ思ふ」と、サンデー毎日五月三十日號に松岡英夫氏が書いてゐる。それかあらぬか、煽情的週刊誌がフォークランド紛爭について書き立てぬ事を私は怪しむ。察するにイギリスは「鐵血の女宰相」(週刊朝日)にひきゐられてをり、一方、アルゼンチンの大統領も軍人だから、どちらか一方を惡玉に仕立てる譯にもゆかず、週刊誌は當惑してゐるのであらう。
松岡氏は「私どもに何の關係もないフォークランド事件を(中略)目や耳に押しつけられる義理は全くない」と書いてゐるのだが、これまでのところ週刊誌はフォークランド紛爭を讀者の「目に押しつけ」ようとはしてゐない。「目に押しつけ」るなどといふ粗雜な言ひ方をする松岡氏の頭腦が粗雜である事は無論だが、まさか日本の週刊誌の記者のすべてが、今囘の紛爭は「私どもに何の關係もない」などと、極樂とんぼよろしく信じてゐる譯でもあるまい。私はさう思ひたい。
週刊朝日六月四日號は西川潤早大教授に意見を徴してゐる。西川氏は「名譽のために莫大な戰費をかけてゐるといふ点では、戰爭がいかにおろかかを示す見本」であり、「平和憲法を持ち、ナガサキ、ヒロシマの體驗のある日本は最適の調停國だ」といふ。
かういふ極樂とんぼが酸いも甘いも知らぬげに、いや、酸い事ばかりは知らずして、すいすいと飛びまはつてゐる樣を見るたびに、一刻も早く日本國憲法を改正せねばならぬと、私は聲高に叫びたくなる。
週刊朝日によればアルゼンチンの巡洋艦を撃沈した魚雷は一發一億二千萬圓、撃沈されたイギリスの驅逐艦は四、五百億圓、「英艦隊が一日行動するだけで十二億圓以上かかる」といふ。さういふ「莫大な戰費をかけてゐる」から愚かだと西川氏は言ひ、「英國はすでに一兆圓使つたといふが、金はどんどん消えてなくなり」云々と松岡氏も言ふ。要するに朝日にとつても、極樂とんぼたる兩氏にとつても、戰爭は金がかかるから愚かなのである。
だが、『言論人』五月二十五日號に林三郎氏は、イギリスが「算盤勘定には合はない」遠征を敢へてしたのはナショナリズムゆゑだが、「領土問題にもナショナリズムの熱情を燃え立たせることのない世界に稀な民族」、それが日本人だと書いてゐる。五月二十六日付の本紙にも氣賀健三氏が、日本の新聞の論説の「どの一つとしてイギリスの立場に賛成したものは」ないが、イギリスの「斷固たる行動」は「わが國にとつて重要な教訓となる」と書いた。
けれども、林、氣賀兩先輩よ、日本國のぐうたらは手の施し樣も無く、もはや、外圧を待つしか手は無いのではありますまいか。 
日本だけが正氣か
反核集會とやらに集つた何十萬人もの馬鹿が、「合圖一つで、ごろりと地べたにころがつて、いつせいに死んだふり」をする、あの遊戯は「ダイ・イン」と呼ぶらしい。週刊新潮六月十日號のヤン・デンマン氏によれば、或るアメリカ人記者は「狂氣の指導者の命令一下、實に九百十四人の老若男女がいつせいに毒を仰いだ」、かの四年前のガイアナの悲劇を思ひ出すと言つて、顔をしかめたといふ。けれども、所詮はお遊びなのだから、さまで深刻に考へる事はない。
やはりヤン・デンマン氏によれば、「日本の安全保障論議はビールの泡で、ついだときだけ盛り上がる」と、スイスの記者が言つたさうだが、その通りであつて、目下流行の反核運動もいづれは必ず凋むのである。けれども、これまた、ヤン・デンマン氏によれば、六月の國連軍縮特別總會に千五百人もの馬鹿を派遣して、國連本部前の路上で「ダイ・イン」をやらうと考へた手合もゐるらしい。「馬鹿と鋏は使いやう」といふが、この種の「馬鹿に付ける藥は無い」のである。
なるほど、いかなる馬鹿にも基本的人權はある。つまりお遊びをやる權利がある。けれども何事にも程がある。フォークランドでも、レバノンでも、ホラムシャハルでも、お遊びならぬ本氣の戰鬪が行はれてゐるではないか。
もつとも「ダイ・イン」をやつて樂しんでゐる手合は、馬鹿は自分たちではなくて、本氣で殺し合ひをやつてゐる奴等だと思つてゐよう。昨年十一月六日號の週刊ポストで、朝日新聞の筑紫哲也氏は、「武器をもつのは、世界の常識だ」といふが、その世界の常識が間違つてゐるのだから「それに付き合ふことはない」と語つた。つまり、世界各國はいづれも馬鹿で日本だけが利口なのだと、愚かな筑紫氏は考へてゐる譯だ。しかも、この種の馬鹿は筑紫氏に限らぬ。「世界の軍事支出」が「OECD加盟國の發展途上國向けの政府開發援助二六〇億ドルの十九倍に達してゐる」現状は正氣の沙汰とは思はれぬと、『中央公論』六月號に永井陽之助氏も書いてゐる。正氣なのは商人國家日本だけといふこの種の愚かしい思上りは一度徹底的に批判されねばならぬ。
今囘はピース缶爆彈事件の牧田吉明氏についても語りたかつたのだが、もはや紙數が無い。ただ牧田氏の行動もまたお遊びとしか思へぬとだけ言つておかう。言論人もテロリストも、この國では遊ぶのである。
六月四日付の讀賣新聞に菅直人氏が書いてゐた事だが、「人間だけでなく犬猫だつて核戰爭で死ぬのはいやなはずと、犬猫反核手形署名を始めたグループ」があるといふ。菅氏は「うまい方法だと感心してゐる」のだが、犬猫が核戰爭で死にたくないのなら、牛も馬もげじげじも松食蟲も死にたくないであらう。げじげじや松食蟲はよいとして、牛、馬、そしてどぶ鼠の「手形署名」がなぜ不必要なのか。
筆は一本、箸二本
「田中もムダな抵抗を早くやめたがよい。(中略)結論はもうわかつたやうなものであるから、早く一審の裁きに服して、二審に向かつて準備を進めるがよい」。これはサンデー毎日六月二十七日號の、松岡英夫氏の文章なのだが、田中角榮氏の有罪確定を待ち兼ねてゐる讀者は、どんな馬鹿にも持てる類の正義感に盲ひ、この文章の欠陥には決して氣づかないであらう。
だが、「一審の裁き」の結果がまだ解らぬうちに、それは「もうわかつたやうなもの」だと被告人が觀念し、果して「二審に向かつて準備を進める」氣になれようか。いづれ必ず松岡氏は死ぬ。その「結論はもうわかつたやうなもの」である。では松岡氏は、その冷嚴なる事實を認め、臨終に「向かつて準備を進める」であらうか。
今は素人全盛の時代である。週刊朝日六月二十五日號によれば、いまやアイドル歌手を「歌唱力で判斷するのは、政治家を清廉潔白度で判斷するやうなもの」だといふ。松岡氏は嫉妬と義憤とを取り違へ、あとは少し文章の工夫を凝らすだけで物書きが勤まると思つてゐる。が、「政治家を清廉潔白度で判斷する」愚かな手合は、松岡氏の「歌唱力」を決して怪しまない。
糸川英夫氏も週刊讀賣に駄文を寄せること二十五囘、誰もそのすさまじい惡文を咎めないが、糸川氏の場合は松岡氏ほども文章に工夫を凝らさず、しかも、週刊新潮の川上宗薫氏と異り、讀者を樂しませようとする事も無い。川上氏は恥も誇りもかなぐり捨てて、毎囘「赤貝の紐」だの「ナメクヂのやうな感觸」だのについて懸命に書いてゐる。そして六月二十四日號によれば、川上氏は修行時代、逆さクラゲヘ女を連れ込むため藥局で千圓借りた事があるといふ。「ポルノ小説を書く脂ぎつた男」でも、玄人ならそれくらゐの苦労は積んでゐるのである。
一方、週刊文春六月二十四日號の匿名書評家は、宮本輝氏の『道頓堀川』について「高尚なテーマの小説ではある。が、やはり五合マスには一升の米は入らぬ」と書いてゐる。宮本氏の「文章力では、せつかくのテーマをこなしきれない」といふのである。だが、「文章力」が「テーマをこな」す譯ではない。「せつかくのテーマ」とは所詮「五合の米」なのだ。言ひたくてならぬ事があつて人は文章に工夫を凝らすので、要も無いのにわざわざ工夫するのではない。
サンデー毎日六月二十七日號は宮崎美子の作文を載せてをり、それは糸川氏の文章よりも遙かにましである。だが、内容のお粗末は糸川氏のそれと變らない。こなれた文章を書かうといくら工夫しても、それだけで内容が立派になる譯ではない。さういふ事の解らぬ素人に何とか物を書かせようとするのは要らざるお節介である。「按ずるに筆は一本也。箸は二本也」と齋藤緑雨は言つた。その覺悟無くして文を綴るのは、すべて素人にほかならない。
早大だけの醜態か
早稲田大學總長選擧について週刊現代七月三日號は「“進取の精神”が聞いてあきれるお粗末な泥仕合」と書き、週刊ポスト七月二日號は「“派閥總長選”のドロ仕合(中略)私學の雄・ワセダにしては情けない話だ」と書き、週刊サンケイ七月八日號は「それにしてもこの泥仕合・・・ワセダ、地に落ちたり!」と書いた。なるほど、サンケイによれば、西原教授を支持する一人は對立候補本明教授の「票集めに動いてゐる」某教授について、「とにかく“長”の字が好きな人でね。文學部の教授ですが“勉強した姿を見たことがない”といふ風評の人」だと、サンケイの記者に語つたといふ。
國會議員の選擧でも村會議員の選擧でも「票集めに動」く者は必ずゐる。だが、西原氏を支持して本明氏を惡しざまに言ふのならともかく、なぜ票集めをやつてゐる教授まで批判せねばならぬのか。週刊誌の記者に意見を求められ有頂点になり、野放圖に舌が囘つたのだらうが、さういふ淺薄な手合もまた「“長”の字が好き」であり、「勉強した姿を見たことがない」學者に相違無いのである。
だが、淺薄な手合は西原陣營にだけゐるのではない。同じくサンケイによれば、本明支持派の一人は「西原は顔が惡い」と言つたといふ。予備選擧の投票用紙に「松田聖子」と書いた若手職員がゐたさうで、「その心情もわからうといふもの」とサンケイは書いてゐる。いかにもそのとほりで、私も今囘は週刊誌の記事に難癖を付ける氣にはとてもなれない。本明派は清水總長が「直系の西原さんを後繼者として立候補させるのは筋が通」らぬと言ふ。西原派は「創立百周年といふ大事な事業には非協力。なのに次の總長だけは狙ふといふのはどういふ神經なのか」と言ふ。ともに愚劣な言分である。
直系だらうが傍系だらうが「泡沫候補」だらうが、被選擧權を有する者の立候補なら「筋が通」つてゐるし、「創立百周年といふ大事業」の意義を疑ふ者が總長の座を狙つて何の不都合があるか。西原教授は「現在一番急がなければならないのは百周年記念事業について一定の學内的合意を形成すること」だと言ふ。西原氏が抱負を語つた文章は駄文である。駄文しか綴れぬから、つまらぬ事しか思ひつかぬのである。
けれども、早稲田大學は日本國の縮圖なのである。それゆゑ、これは早稲田に限らないが、當節の總長だの學部長だのは「一定の學内(或いは學部内)的合意を形成すること」に汲々として、おのが信念を貫くといふ事が無い。いやいや、信念なんぞの持合せが無い。それゆゑ、駄文しか綴れぬはうがきつと當選するであらう。だが、早稲田における「泥仕合」は、そのまま日本國の政界のそれである。「モラトリアム國家」の舵取りは船の針路さへ定めてゐないではないか。
隠し難きものは顔
やくざや藝能人がサングラスをかけるのは、顔形を人目に曝したくないからであらう。だが、堅氣の小説家が何の要あつて日除け眼鏡をかけるかと、野坂昭如氏の顔写眞を見るたびに私は訝しんだ。俗に「目も口ほどに物を言ふ」といふが、野坂氏の文章を讀んで野坂氏の顔写眞を眺めると「文は人なり」との格言が信じられなくなるのであつた。
しかるに、昨今、野坂氏は突如として色無し眼鏡の顔写眞を、週刊讀賣に載せたのである。すなはち、七月十八日號の「一写入魂破れレンズ」に添へられた顔写眞は、普通の眼鏡をかけた野坂氏のそれであり、その精彩の無い表情を見て、私は積年の疑念を晴らした。色の濃いサングラスをかけてゐるとよく解らないが、野坂氏の顔立ちと「いつそのことボクの娘だつてソ連兵のメカケになつてもいいから、生きてゐてくれたはうがよほどいい」(週刊ポスト、昭和五十六年十一月六日號)などといふ放言とは見事に調和がとれてゐたのである。
野坂氏は週刊文春七月二十二日號に「齋藤勇氏の御不幸について」の意見を寄せ、分裂病患者や覺醒劑中毒患者による凶惡犯罪については「眼には眼をといつた、まこと旧弊な復讐心を、ぼくは抱いてゐる」が、さういふ「我が内たる“本音”を排し、あへて“建前”に固執」せねばならぬ、さもなくば「お上の用意した御用醫師團が、いかやうにもレッテルを用意し、具合の惡い人物を、あつさり病院なり施設に収容隔離」する事になる、と書いてゐる。野坂氏に「まこと旧弊な復讐心」なんぞありはしない。「お上の用意した御用醫師團」の專横を本氣で危倶してもゐない。すなはち、野坂氏の場合、本音が建前に氣兼ねし、建前が本音を恐れるといふ事が決して無い。
リンカーンが言つたやうに、四十歳を過ぎたら人はおのれの顔に責任をもたねばならぬ。野坂氏は輕佻浮薄であつて、やはり「文は人」だつたのである。
一方、週刊ポスト七月三十日號によれば、武智鐵二監督演出のハード・コア映畫に十七歳の女子高校生が應募したが、彼女には「ぜひとも採用を、もちろん娘は處女です」との母親の「推薦書」が付いてゐたといふ。また、週刊宝石七月三十一日號によれば、ハード・コア映畫に出演する堀川まゆみのファンは「彼女にまでさういふことをやらせる大人たちが憎い」と言つたといふ。それを讀んで私は腹を抱へて笑つた。恥知らずの母親の場合は知らないが、武智鐵二氏も堀川も色眼鏡はかけてゐない。週刊宝石の記者は「まゆみちやんの場合“なぜ?”といふ聲が多い」と書いてゐる。動機は金錢に決つてゐる。堀川のファンも宝石の記者も、武智氏と堀川の顔写眞をじつと見詰めたらよいのである。
教育の善意を疑へ
山形縣山元村の「山びこ學校」から、「よれよれズボンに腰手拭ひ、ズーズー弁丸出しの」無着成恭先生が東京へ出て來て二十五年になる。今は東京・三鷹の明星學園で教鞭をとつてゐるのだが、教へ子の「第一期生」はもはや三十代半ばださうで、週刊新潮八月五日號は「無着流教育の結果」を調べ、その「弱点は人間關係にあるともいへさうだ」と書いてゐる。「制服なし、教科書も通信簿もない教育」とやらが無着氏の獨特な教育法だから、ある教へ子は「學校では教師とすら友達みたいだつたし、社會に出て初めて上下關係を味はつた」といふ。そんなことで極樂淨土ならぬ世間を渡つてゆけるはずは無く、既製服メーカーに六年勤めて退社、ついで建材會社に勤めたが、二年間しか持たず、今はタクシーの運轉手をしてゐるといふ。だが、タクシーの運轉手もれつきとした職業で、人間關係を無視して長續きする道理が無い。
無着氏は新潮の記者に、「社會に出て不適應なものを感じることがあるなら、そんなもの、やめてしまへばいい」と語つてゐる。新潮は無着氏をからかつて、「ハテ、やめるべきは仕事?それとも教育?」と書いてゐるのだが、無論、無着氏の言ふ「そんなもの」とは「仕事」の事である。そしてこの無着氏の無責任は許し難い。
人間、おのが運命はおのれ一人が背負はねばならず、他人や環境のせゐにして不幸を愚痴るのは、まことに愚かしい事である。無着先生の教へ子の「弱点は人間關係にある」に決つてゐるが、教へ子が無着氏を怨めしく思はぬのは殊勝た心掛けと言ふべきか。だが、教師もタクシーの運轉手と同樣、れつきとした職業で、「社會に出て不適應な」生徒を育ててよいはずは無い。洗濯機にだつて保證書がついてゐる。故障した洗濯機が惡いのではない、いつそ洗濯なんぞ「やめてしまへばよい」と、果して家電メーカーが言ふであらうか。新潮が無着流教育について、その「弱点は人間關係にあるともいへさうだ」などと、及び腰の批判をしてゐるのは殘念である。
「人の患は、好んで人の師となるにあり」と『孟子』にあるが、およそ人の師になりたがる病ほど傍迷惑なものは無い。とりわけ閑人愚人は、例へば性教育を實践して物解りのよい親になつたつもりでゐる手合のごとく、お節介と善意とを區別できない。「なんせ性教育の徹底してゐるわが家では、凸凹の圖入りで、生理妊娠について説明ずみ」だと、週刊朝日七月二十三日號に、四十二歳の「カアチャン先生」が誇らしげに書いてゐる。また同じ朝日に、男性の生殖器は「チンコ」でなく「チコちやん」と呼ぶべしとの提言が載つてゐるが、投稿者は何と六十四歳の爺さんなのだ。これをさて、閑人と言ふべきか、愚人と言ふべきか。 
韓國民に訴へる
週刊新潮八月十二日號にヤン・デンマン氏は、「日教組は(中略)世界に冠たる國際的自虐性の持主だ。その点では新聞もひけをとらない。對日批判があれば、すべて増幅して」しまふ、と書いてゐる。まつたく同感である。一方、八月十七日付のサンケイ新聞『サンケイ抄』の筆者は、日本人には「人道的思考や人生觀、世界觀を期待できない」との韓國の文教相の發言を紹介し、「それでもなほ、日本の政治家も新聞もエヘラエヘラとお愛想笑ひをし」てゐるが、「日本の對韓經濟協力は“克日”のために進められるのだらうか」と書き、さらに八月十六日付の同紙にも、牛場昭彦記者が、同じ文教相の發言について、「かうした感情にまかせた穏當を欠く言葉が、兩國關係にどれほど破壞的効果をもたらすことになるか注意を喚起」したらよいと書いた。これまたまつたく同感である。
この際、韓國に考へて貰ひたい。サンケイは日本のすべての大新聞のうち、最もよく韓國を理解し、常に好意的な態度を示して來た。しかるに今、「教科書問題」に關する限り、韓國に對して最も批判的なのはサンケイである。そして、金大中事件の際も光州暴動の折も反韓報道に血道を上げた新聞が、いま、奇怪なる「自虐性」を發揮して、韓國と中國の「内政干渉もどきの強要」に大いにはしやいでゐる。だが、朝日や毎日が願つてゐるやうに、日本が今後も腰抜け腑抜けの平和國家でありつづけるならば、日本人は韓國を、戰爭の危機を賣物にする「戰爭屋」とみなし、韓國の苦境を決して理解しないに相違無い。
私はこれまで、ただの一度も韓國を批判する文章を綴つた事が無い。それどころか常に韓國の國防意識の眞劍を稱へ、日韓の友好を心から念じて來た。けれども、「益者三友、損者三友」といふ事がある。それゆゑ、相手が將軍であらうと、青瓦臺の高官であらうと、韓國人に對して卑屈に振舞つた事は一度も無い。
敬愛する申相楚氏を成田空灣に出迎へるべく車を走らせてゐる時、私は年甲斐も無く少年のやうに胸を躍らせる。その申氏を前にして、私は屡々「日帝支配の三十六年」を思ひ出す。けれども、申氏のはうは決してそれを言はない。そして日本にも韓國にも、私が申氏の惡口を言ふのを耳にした者は一人もゐない筈である。韓國人とさういふ付合ひをしてゐる日本人のあまりに少きを、私は日頃殘念に思つてゐる。が、私は日本人である。萬一、日韓が戰ふやうな事になれば、私は申氏に對しても發砲しなければならない。
かつて侵略戰爭をやり、植民地を持つたのは日本だけではない。しかるに、敗戰を道徳的惡事ゆゑの天罰と思ひ做し、「被害者諸國」の抗議に見苦しくうろたへるのはわが日本國だけである。さういふ「便辟」が果して韓國にとつて眞の友邦たりうるであらうか。
被虐症こそ日本病
週刊朝日九月三日號に飯澤匡氏は、「英國人たちはインドの獨立運動の英雄たちをみせしめに大砲の口にくくりつけて、發射し處刑した。殘酷なのは決して日本人だけではない」と書いた。しかるに週刊朝日の記者は「殘酷なのは日本人だけではない」と「言つてすましたくない」と書いてゐる。飯澤氏に意見を徴し、それをそのまま掲載したものの、朝日の記者は飯澤氏の意見に不滿だつた譯である。そしてまた朝日は、十一箇の中國人の生首が並んでゐる写眞だの、「敵の死體の前で記念撮影する日本兵」の写眞だの、中國人の「若い男女を一組連れ出し、性交させてながめたこともある」との讀者の手記だのを載せ、「日本は中國、朝鮮で何をやつたか・信じたくない」と書いてゐる。信じたくないのなら載せなければよささうなものだが、そこはそれ朝日ならではの「正義感」、日本人の旧惡だけは默過できないのである。
サンデー毎日九月五日號も、中國人の首を斬らうと軍力を振りあげてゐる日本兵の写眞を載せてゐるが、朝日や毎日に限らず「日本人の殘酷」だけを指彈して樂しむ被虐症患者は、被虐症こそわが日本の「特殊性」だと信じてゐるのである。すなはち、侵略戰爭をやつたのは日本だけではないのだが、日本だけはいつまでもその「前非」を悔い、折ある毎に低頭平身せねばならず、それが日本の「特殊性」だと、さういふ事になるらしい。
それかあらぬか、朝日ジャーナル九月三日號でも内山秀夫慶大教授が日本の「特殊性」を強調してゐる。「平和を愛する諸國民の公正と信義に信頼して」云々の憲法前文について内山氏は、「“諸國民の信義”なんて實體はなんにもないのかもしれない。しかしそれでも信頼する、さういふ特殊性ですね。戰後われわれが世界に貢献してゐるのはその一点だけだ」と言ふ。これはもう被虐症などといふものではない、卑屈なる奴隷根性である。一方、八月二十八日付の世界日報によれば、世界教職員團體總連合の大會で「惡しざまに自國民を罵つた」日教組の槙枝委員長を、日教連の田名後委員長は「強い口調で批判した」といふ。もとより日教組も被虐症患者ぞろひで、まつたうな日教連としてはさぞ腹立たしからうが、當節まつたうなのは少數派で、それゆゑ世人は日教連の存在も知らぬであらう。
だが、被虐が快樂なのは生命の安全が保障されてゐる場合だけである。なにせ日本國は三十七年間も安穏無事だつたのだから、被虐症の流行は當然の事、一向に怪しむに足りない。そして人間、三十七年間も反省しつづける筈は斷じて無いから、朝日も毎日も槙枝氏も餘所事のやうに「自國民を罵り」、罵られた日本人も、同じく餘所事のやうに「教科書問題」に關する記事を讀んだ。すなはち日本國民の誰一人として、本氣で反省なんぞしなかつたのである。
許し難き開き直り
檢定によつて「侵略」が「進出」に書き改められた教科書なんぞ實は一冊もありはしない、しかるにマスコミは連日何を騒ぎ立てるかと、世界日報がつとに批判してゐたのである。そして先日、週刊文春九月九日號が「つひには外交問題までも招來した“誤報”のメカニズムを克明に追ひ、新聞の責任を問ふ」記事を載せ、ついで九月七日、サンケイ新聞は誤報を認め、謝罪記事を掲載したのであつた。サンケイだけが率直に謝罪した事は「評價するにやぶさかではない。しかしながら、問題は、一片のおわびだけで終るものではない」と先週の本欄に生田正輝氏が書いてゐたが、同感である。潔く謝罪してそれで濟むといつたものではない。
九月十日付の世界日報によれば、サンケイ以外の新聞は「責任逃れに苦慮してゐる」らしいが、他紙が擧つて「奇弁を弄し」、責任をうやむやにしようと企んでゐるからとて、それに引き替ヘサンケイだけは立派だなどと評するわけにもゆかぬ。
だが、週刊朝日九月十日號は、何と、かう書いたのである。許し難い卑怯きはまる文章だから、少し長いがそのまま引用する。
本誌は八月十八日號の記事で、檢定前の白表紙本に中國での日本軍について「侵略」とあつたのが、檢定後は「進出」「侵攻」になつたケースをあげ一覧表にして示した。しかし、その後の再調査で、表のうち上記二点については檢定前の白表紙本から「進出」「侵攻」となつてゐたことが分かつた。當初の調査が不十分だつたためで、ここに訂正しておきたい。
「ごめんなさい」と謝れば大抵の事は許される。それがわが日本國の弊風だと思ふから、私はサンケイについて嚴しい事を言つたのだが、この週刊朝日の「盗人猛々し」としか評しやうの無い言種には呆れ返るしかなかつた。けれども、「ウラをとらずに記事を書く」のは新聞記者の何よりも慎まねばならぬ事ではないか。しかるに「ここに訂正しておきたい」とは何たる言種か。「當初の調査が不十分」だつたのは大した事ではない、それよりも教科書の「右傾化」に齒止めをかける事こそ肝要と、朝日は言ひたいのであらう。だが、右傾がよいか左傾がよいかは價値判斷であり、一方、誤報だつたかどうかは價値判斷とは全く無關係である。
週刊朝日に借問する。例へばの話、この私が、朝日新聞の社長は實は共産黨員であつて、朝日新聞も週刊朝日もソ連の秘密警察から巨額の賄賂を受けてゐると、「ウラをとらずに」書いた場合、そしてそれが事實無根であると判明した場合、私が潔く謝罪せず、「當初の調査が不十分」だつたから「訂正しておきたい」、けれども大事なのは朝日の左傾に齒止めをかける事だと開き直つたら、朝日は果して私を許すであらうか。
沈默にも仔細あり
三越百貨店の社長岡田茂氏が退陣し、週刊誌は擧つて岡田氏の旧惡をあばいてゐる。サンデー毎日十月三日號によれば、深夜「ベンツから降りた岡田杜長」を撮影しようとして毎日新聞のカメラマンが殴られたといふ。サンデー毎日は殴られる直前に撮影した写眞を掲載し、「ピントがぼけて目だけが輝いてゐるところに、かへつて岡田杜長のすごみが出てゐる」と書いてゐる。これは毎日に限つた事ではないが、深夜歸宅する名士を待伏せして、意見を叩いたりフラッシュをたいたりする事を、ジャーナリストは「天下の公器」として當然なすべき重要な仕事だと信じて疑はない。だが、人氣女優の住むマンション前に張り込んで、艶聞を裏づける写眞をとつて得意がる事と同樣、それは實に無意味でやくざな仕事なのである。深夜路上で意見を求められ、まつたうな返答をする者なんぞゐる筈が無いからだ。無論、それはジャーナリストも先刻承知で、彼等はただ「有名税」を支拂はせ、名士の凋落に溜飲を下げるだけの事なのである。
だが、三越が「年商五千八百億圓を越す」商ひをしてゐるにもせよ、所詮日本國の命運とは何の係りも無い一百貨店に過ぎない。週刊ポスト十月一日號は「いよいよ刑事事件に發展か−元三越幹部(中略)が語る“三越資産の食ひつぶしは見逃せぬ”」と、胸を躍らせて書いてゐるが、岡田氏が「三越資産の食ひつぶし」をやつたとしても、それが週刊ポストやわれわれ讀者と一體どういふ係りがあるのか。
一方、去る九月十七日「創價學會の池田大作名譽會長の女性問題で、渡部通子參院議員が、“月刊ペン”裁判の證言臺に立つた」。それを報じて週刊讀賣十月三日號は、「裁判長の質問に返答に窮する一幕もあつたが、“全くばかげた話で笑止千萬。事實無根です”と守りの固さを見せた」だの、「池田氏出廷に向けての露拂ひとしては、まづまづの役のこなしぶりだつた」だのと書いてをり、この讀賣のあまりの無用心に私は驚きかつ呆れ果てた。「いよいよ刑事事件に發展か」などと書けば、他人の不幸を喜び胸を躍らせてゐるのではないかと勘繰られて致し方が無い。同樣に、「守りの固さを見せた」などと書けば、何ぞ仔細あつて讀賣は池田氏の不幸を氣に病み、胸を痛めてゐるのだと、さう勘繰られても文句は言へぬ。
だが、岡田氏の醜聞なんぞは、いや池田氏の醜聞でさへ騒ぎ立てる程の大事ではない。九月二十七日付のサンケイ新聞によれば、中國政府は鈴木首相の訪中に同行取材を予定してゐた同紙の記者に査證を發給しなかつたといふ。これは下半身の問題ではない。すなはち小事ではない。が、何ぞ仔細あつて週刊誌はこの問題を決して取り上げないであらう。新聞週刊誌が何をどう書くかだけではなく、何を書かないかをも、われわれは知つておかねばならないのである。
道化はやはり道化
「子供の頃、自分はかなりおつちよこちよいで、すぐ人のそゝのかしにのると反省したが、この性癖は變つてゐない」と、週刊朝日十月十五日號に野坂昭如氏は書いてゐる。なるほど野坂氏は三年前、アメリカ國務省の招待を受け渡米し、「下にもおかぬもてなし受けて、ころつといかれてしま」ひ、アメリカの「保守地帯で洗腦されたからには、これまでの革新といふレッテルにおとしまへをつけなければならない」と書いたのだが、その後も野坂氏は「右も左も蹴つとば」す「おつちよこちよい」として振舞ひ、「革薪といふレッテルにおとしまへをつけ」はしなかつた。無理ならぬ事であり、「すぐ人のそゝのかしにのる」やうな男にそんな事がやれるはずは無い。十月十五日號に野坂氏は「弱くなつたアメリカときくと、すぐ信じこんでしまふ、火事場泥棒に巧みなソ連といはれりや、これにも疑ひをいだかぬ(中略)。かういふのを植民地根性といふ」と書いてゐる。が、それは野坂氏自身の事なのだ。そして野坂氏は、三澤基地にF16が配備されるのは「大問題」であり、「アメリカのいふなりになるなら、以後(中略)はつきり植民地を自認」すべしと主張してゐるのだが、所詮おつちよこちよいの書いた戯文であり、目くじらを立てるには及ぶまい。
だが、『リア王』を書いたシェイクスピアが承知してゐたやうに、この世のすべての事象をお茶らかす事はできぬ。すなはち、道化が無用になる領域が人生にはある。けれども、このぐうたら天國日本では、さういふ事がなかなか理解されない。例へば、このたびラジオ日本はソルジェニーツィン氏を招いたが、週刊文春十月十四日號はラジオ日本の遠山景久社長について「かつて共産黨員だつたと噂されながらいつのまにか保守政治家と密着し」云々と書き、また、ソルジェニーツィン氏は「日本のだらしなさを批判してくれるんぢやないか」との清水幾太郎氏の言葉を引いて「“批判されたがり病”はなにも革新陣營だけではないらしい」と書いてゐる。だが、ソルジェニーツィン氏は去る九日講演し、日本の「比類無き經濟力も自國を救ふ事はできぬ。他國が日本を守つてくれるとの期待は幻想だ」と語つた。サンケイ新聞編集委員の澤英武氏が書いたやうに、ソルジェニーツィン氏の「主張には獨斷的に過ぎる」ところもあつたし、私自身彼の文學をさう高く評價してはゐない。けれども、その日本への警告は「聽衆に深い感銘を与へた」のである。「愚者は己れを賢と思ひ、賢者は己れの愚者なるを知る」。ソルジェニーツィン氏の「西側社會の病根」批判について、その「元氣のよいこと」などと書いた文春の輕佻浮薄たお茶らかしは、まじめと不眞面目とのけぢめをつけぬ愚者が利口ぶる際に用ゐる常套手段なのだ。いづれ詳しく語る機會があらうが、ラジオ日本は「敵の敵は身方」といふやうな輕薄な動機から、ソルジェニーツィン氏を招いた譯ではないのである。 
2 新聞を斬る 

 

新聞の社説と催眠術
私は「國民」だの「民衆」だの「大衆」だのといふ言葉が大嫌ひである。新聞が好んで用ゐるからである。「國民」だの「民衆」だのと言ふ時、新聞は必ず「國民」や「民衆」の意見を代弁してゐるかのやうに振舞ふ。例へば政治家の汚職を國民は嘆いてゐる、といふふうに新聞は書くが、國民が汚職の横行を嘆いてゐるかどうか、そんな事が神樣でもあるまいし、新聞記者に解る筈は無い。入念この上無しの世論調査をやつたところで、國民の一部がかくかくしかじかの問題に反對してゐるらしい、といふ事がおぼろげに解るに過ぎない。しかるに新聞は、特に新聞の社説は、常に國民の名を騙つて物を言ふ。それは第四權力たる新聞も、泣く子と地頭ならぬ世論には勝てないからである。その癖、新聞は自分たちは社會の木鐸で「オピニオン・リーダー」だと思つてゐる。笑止千萬である。
それゆゑ、新聞が「國民は嘆いてゐる」と言ふ時は、「國民」を「新聞」と讀み替へる必要がある。「國民」を「新聞」と讀み替へて社説を讀むのは、退屈極まる新聞の社説を斜めに讀む際の氣晴しにもなる。實は私は、サンケイ新聞に週刊誌批判の文章を寄せてほぼ二年、『マスコミ文化』誌に新聞批判の文章を寄せて九ヶ月になるが、今後定期的な新聞批判だけは二度とやるまいと思つてゐる。毎日六種類もの新聞を律義に讀んでゐたら馬鹿になるし、新聞を叩くのはあまり面白くない。例外は勿論あるが、週刊誌の場合、どんな下らぬ記事にも人間がゐる。だから、週刊ポストや週刊現代は、さぞ私を憎んでゐるだらうと、さう思ひながら兩誌を叩く樂しさがある。が、新聞の社説の惡ロを言つても、怒つてゐる筆者の顔は想像できない。それは人聞不在の「非人間的」な文章だからである。社説の筆者の顔はのつぺらばうで、ラフカディオ・ハーンの『怪談』に出て來る例の顔である。或いはそれは蛙の面で、水や小便を掛けたぐらゐではびくともしない。
とまれ、ここで一つ社説の文章を引く事にしよう。七月二十九日付毎日新聞の社説の一部である。
自民黨内には、企業献金の規制緩和をねらふ見直し論があるといはれる。航空機疑惑への反省を忘れた、輕率な議論といはなければならない。個人献金への移行、政治家の資産公開など、‘政治を國民のものにし、國民の信頼を取りもどすための法の見直しこそ、いま必要とされてゐる。’
さて、傍点を付した部分に二度用ゐられてゐる「國民」を「毎日新聞」と讀み替へるとどうなるか。「政治を毎日新聞のものにし、毎日新聞の信頼を取りもどすための法の見直しこそ、必要とされてゐる」、さういふ文章になる。これを要するに、行政機關も立法機關も毎日新聞のために存在し、毎日新聞の信頼を取戻すべく努力せよ、といふ事になる。かつて「二人のために、世界はあるの」とかいふ文句の歌が流行つたが、「毎日新聞のために、世界はあるの」と、毎日の社説の筆者は考へてゐるのかも知れぬ。
周知の如く、薪聞の社説の筆者は決して「私はかう思ふ」と書かない。必ず「國民はかう思ふ」と書く。イギリスの新聞のEditorial“We”を眞似損つたのか、それともRoyal“We”に肖らうとしての事か、その邊の事情はよく知らないが、日本の新聞の社説に第一人稱の人稱代名詞が決して用ゐられないといふ事實は、新聞の宿痾を暗に示して頗る興味深いのである。
その新聞の宿痾とは何か、それについて語る前に、ここで決して第一人稱の人稱代名詞を用ゐない物書きの文章を引用しよう。それは外山滋比古氏が書いた『親は子に何を教へるべきか』といふ駄本の一節である。
『滋賀縣のある町で中學生グループの殺傷事件がおこつた。(中略)この事件についての新聞報道で氣になつたことがある。現場を調べた警察の係官が「學校がもうすこししつかりした生徒指導をしてゐれば、かういふ事件も防げたのではないか」とのべたやうに書かれてゐる。(中略)警官にそんなことを言はせた新聞記者がゐるとすればずゐぶんトンマな記者である。かりにトンマが取材しても間抜けた記者をチェックするデスクや整理部もゐるはず。紙面にあらはれたところを見ると、さういふ人たちもトンマと同類といふことになる。警察の係官が本當にそんなことを言つたかどうか‘讀者’は疑つてゐる。』
外山氏には澤山の著書があるらしい。しかもそれが結構賣れてゐるといふ。私は『中央公論』七月號で、いかさま教育論の偽善を嗤ひ、永井道雄氏と近藤信行氏を叩いたが、今にして思へば、外山氏の教育論を讀まずに書いた事が悔まれてならない。特に近藤氏に對しては、腹立ち紛れに殘酷な事を書いて惡い事をしたと思つてゐる。外山氏のでたらめに較べれば近藤氏の偽善など輕犯罪に過ぎない。近藤氏に對する罪滅ぼしとして、私はいづれ外山氏の教育論を徹底的に扱き下す積りだが、それはさておき、右に引用した外山氏の文章は、新聞の社説のそれに酷似してゐるのである。傍点を付した「讀者」は社説なら「國民」とたる、それだけの違ひに過ぎない。
それにしても新聞記者諸君、かういふ外山氏の安手の新聞批判をあなた方は滑稽だとは思はないか。外山氏は新聞記者とデスクと整理部を束にしてトンマと呼んでゐる。トンマが他人をトンマ呼ばはりして、したり顔である。これほど滑稽な事は無い。寢取られ亭主が寢取られ亭主を嗤つてゐる樣なものである。私は日本の新聞記者諸君が、例へば漆山成美氏の新聞批判の文章と外山氏のそれとを讀み較べ、外山氏ほどジャーナリズムに重宝がられぬ漆山氏が、眞面目に天下國家を憂へて新聞の惡口を言つてゐるといふ事實を確認して欲しいと思ふ。新聞に眞劍勝負を挑む敵と新聞をおちやらかす敵とをはつきり區別して欲しいと思ふ。人間、眞面目な敵とは繋がる事もできるのである。
一方、外山氏の臆病についてだが、私がかうして名指しで外山氏を批判しても、臆病な外山氏は決して私に反論しまい。先に引いた文章にしても、「警官にそんなことを言はせた新聞記者があるとすれば」といふ假定の話だからこそ、外山氏は安心して新聞の惡口が言へるのである。そして臆病な人間の世渡りは卑屈である。昨年週刊文春の匿名批評の筆者が、外山氏は贋物であり、「疑ふ人は外山滋比古『中年閑居して・・・・・・』を讀むがいい」と書き、雜誌の編集者に媚びる外山氏の文章を扱き下した事がある。全く同感である。
さて、以上外山氏の文章について書いた事は、そのまま「私」を用ゐない社説についても當て嵌まる。新聞の社説の筆者は決して「私はかう思ふ」と書かない。それは慣習に從つてゐるためといふよりは、むしろ勇氣が無いからである。おのれの意見に自信が持てず、從つて責任を負ひたがらぬからである。外山氏の著書にも、「らしい」とか「どういふものか」とか「どうしてだかわからない」とかいふ言葉が用ゐられてゐる。「どうしてだかわからない」事はどうしてだか解るまで言ふべきではないと、さう言ひたいくらゐ頻繁に用ゐられてゐる。
一方、外山氏と同樣、新聞も他人を意のままに動かさうなどとだいそれた事を考へる癖に、他人の意見を、すなわち世論を、大いに氣にするのである。それゆゑ口癖のやうに「國民は、國民は・・・・・・」と言ふ譯だが、「國民」とは第三人稱であつて第二人稱ではない。周知の如く催眠術師は常に第二人稱を用ゐる。それゆゑに成功するが、新聞は第三人稱を用ゐるから成功する事が無い。漆山成美氏が言つてゐるやうに、新聞はこれまで常に、國民が「安保条約に反對してをり、また米國の“下うけ的國家”である韓國などと手を結ぶことに懸念をもつて」ゐるかの如く主張した。けれども「そのやうな對外路線を遂行してきた保守黨はほとんど常に選擧ごとに國會の多數派を形成してきた」のである。それは新聞の催眠術が常に失敗に終つたといふ事に他ならない。
だが、私は「國民」だの「大衆」だのを信頼してゐる譯ではない。「國民」だの「大衆」だのには顔が無い。信頼のしやうが無い。D・H・ロレンスなら、「胃袋も男根も無い、そんなものは抽象的概念だ」と言ふであらう。萬人の平等と同質を前提とするデモクラシーをロレンスは憎んだが、それはロレンスが「俺は飽くまでも俺だ」といふ激しい信念と強い自信の持主だつたからである。さういふ自信を、外山氏も新聞も全く持合はせてゐない。「俺は飽くまで俺だ」といふ自信が無いから第一人稱で書かないのである。しかも、外山氏は知らず新聞は、「千萬人といへども吾れ往かん」との氣概無くして、千萬人ならぬ一億一千萬を動かさうと考へる。それゆゑ、トマス・マンの『マリオと魔術師』の魔術師と同樣、新聞が「國民」の劣情に付け入らうとするのは當然である。新聞はこの數ヶ月、汚職を難じて大衆の嫉妬といふ劣情に訴へようとした。だが、それが今後も常に失敗するとは、私は決して思はないのである。
大新聞に言論の自由無し
言論の自由に限らず、すべて自由なるものは、平和と同樣、必ずしも望ましいものではない、私はさう思つてゐる。例へば、これは誰でも認める事だらうが、自制無き自由とは放縦である。ソルジェニーツィンも「眞に自由を理解してゐるのは、自己の法律上の諸權利を欲深く急いで利用する者ではなく、法律上の權利があつても自分自身を制限する良心をもつてゐる者」(染谷茂譯)だと言つてゐる。が、自由の喪失がいかに耐へ難きものかを身に染みて知つてゐない吾々にとつて、さういふ良心による自制が果して可能であらうか。いや、そもそも自制などといふ事が常に人間にとつて可能なのであらうか。
ローマの哲學者エピクテトスは奴隷であつた。生殺与奪の權を握つてゐる主人が或る日、エピクテトスの足を捩ぢ曲げようとした。その時、エピクテトスの言つた事はかうである。「そんな事をなさると私の足が折れてしまひます。それ、それ、折れてしまつたではありませんか」。かくて彼は奴隷であるばかりか「身體障害者」にもなつた譯だが、終生それを愚痴らず、跛になつた原因についても語らうとはしなかつた。それゆゑ、主人が彼の足を折つたのだといふ話に確證は無い。リューマチが原因だとする説もあるのである。が、エピクテトスの『語録』を讀むならば、彼の哲學とこの挿話とが調和するといふ事實を吾々は認めざるをえない。さういふ見事な人間がゐたのである。たとへ吾々がエピクテトスの樣な人間になれぬとしても、さういふ見事な人間がかつてこの世に存在した事を吾々は忘れてはならない。實際、車椅子の持込みを主張してバスの運轉手と口論する現代日本の「身體障害者」とエピクテトスと、同じ人間でありながら何たる相違であらうか。
エピクテトスを見事だと思ふ以上、傍目を構はぬ「身障者」の行爲を、吾々は醜惡に思ふであらう。いや、身障者に限らない、自由を希求し、一切の束縛を嫌ひ、己が權利を遮二無二主張する手合は、「石ころと思はれる程辛抱強く」生きたエピクテトスを思ひ深く恥ぢ入るであらう。今日の吾々がエピクテトスのストイシズムに學ぶべき事は多い。忍耐と諦念を説くエピクテトスは、「自分のものだけを自分のものと思ひ、他人のものは他人のものと思ふ」樣な人間だけが自由なのであり、他人のものを自分のものと思ふならば、人は絶えず不滿を抱き、擧句の果てに「神々や他人を呪ふ樣になる」と言つてゐるのである。
だが、かういふ見事なるストイシズムにも限界があつて、『サシとの對話』においてパスカルは、エピクテトスの説く「内なる自由」を「惡魔的尊大」と評してゐる。パスカルによれば、エピクテトスは人間の無力を知つてゐなかつた、といふ事になる。パスカルの批判は正しい。人間は偉大だが、同時に頗る惨めな存在なのである。早い話が、吾々のすべてがエピクテトスの樣に振舞へる譯ではない。吾々が皆、禁欲的で自制しうる人間ならば、この世に神や惡魔や戰爭や悲劇は存在しない事になる。とすれば、人間の無力を認めるといふ事が、ストイシズムの限界を認めるといふ事なのである。そして、ストイシズムの限界を認める以上、吾々は人間が「何か自己以外のもの」によつて束縛されるのはよい事だといふ事をも承認しなければならなくたる。吾々はなぜ人を殺さないのか、盗まないのか、姦淫しないのか。それは自制のせゐだけではない、法に縛られての事である。自制は不要だなどと私は言つてゐるのではない。自制は絶對に必要である。が、自制だけでは足りないのだ。吾々は自己以外の何かに縛られねばならぬ。そして、吾々を縛るものが神でないのなら、それは必然的に權力、もしくは吾々を縛る資格を有する「他の人間」だといふ事になる。詰り、權力無しに自由無しといふ事にもなる。
「大新聞に言論の自由無し」といふ題を与へられて、のつけから大上段に振りかぶつたが、それも今日、言論の自由について論ずる人々が自由といふものの厄介た面について觸れようとしない事を日頃殘念に思つてゐるからであり、また、以上の前口上は以下言論の自由について、いささか身も蓋も無い話をする爲に必要な布石だと考へたからである。
今日、言論の自由について、或いは自由一般について語る場合、人々は專ら外的束縛からの自由を考へる。がすでに述べた樣に、ストイシズムの限界を認める以上、外的束縛は必要不可欠といふ事になる。例へば、大新聞の擴張販賣競爭は一向に止む氣配が無い。それはなるほど嘆かはしい現象だが、同時に頗る當然の事でもあるのであつて、權力の規制によらずして新聞の自制に俟つとすれば、即ち新聞のストイシズムに期待するしか無いとすれば、擴販競爭の根絶はまさに百年河清を待つ樣なものだからだ。大新聞にポルノは掲載されないが、それは自制によるのではなく、讀者が大新聞にそれを期待してゐないからである。低俗週刊誌のポルノを樂しむ讀者も、大新聞にポルノが載る事は望まない。詰り、大新聞もまた讀者に束縛されてゐるのであり、大新聞にポルノ嫌ひの木石が揃つてゐる譯では斷じてないのである。
すでに明らかであらうが、大新聞も外的束縛から自由ではないのだから、大新聞に言論の自由が無いのは當然である。もう少し例を擧げよう。どんなに進歩的な大新聞も皇室を露骨に批判する事は無い。來日する外國の大統領の言動を敬語抜きで報ずる事はあつても、皇室に關する記事にその種の粗相は無いのであり、それは詰り、大新聞に皇室を批判する自由が無いといふ事なのである。いや、皇室に限らない、金融界の批判もタブーである。そしてそれも當然で、莫大な赤字を抱へてゐる大新聞が、金を借りてゐる銀行の内幕をあけすけに暴露出來る筈は無い。
大新聞にはタブーがあり、言論の自由は無い。と、さう書けば、大新聞は天下の公器として權力を批判してゐるのではないか、と思ふ讀者もあるかも知れぬ。が、大新聞が批判するのは強者ではない、例外無しに弱者である。例へば、讀賣、朝日、毎日の所謂三大紙は超大國アメリカに對して批判的である。が、日本の大新聞にとつてアメリカは強者か。否、弱者である。ウォーターゲイト事件以來、とみに弱者になつたのである。また、三大紙は自民黨に對して批判的だが、自民黨とは日本の政黨のうち、批判に對して最も寛大な、或いは最も弱腰の政黨ではないか。一方、三大紙が批判したがらぬ國家や政黨はすべて強者である。『言論人』の讀者に對して、それが何かは改めて言ふまでもないであらう。
強きを助け弱きを挫く、それが三大紙の體質である。もとより三大紙は、弱きを助け強きを挫いてゐる積りでゐよう。要するに自己欺瞞である。どうしてさういふ事にたるのか。「天下の私器」でしかないとの自覺が無いからだ。新聞もまた私利私欲からは自由たりえず、從つて新聞を抑へうる樣な外的束縛からも自由たりえないとの自覺を欠いてゐるからだ。要するに新聞は、束縛無しに自由無しといふ事を全然理解してゐないのである。十七世紀のイングランドにおいて人々は自由を切望したが、それはスチュアート家による專制支配があつての事である。同樣に、十八世紀のフランスにおいて、自由とはブルボン家からの自由を意味した。クランストンが言つてゐる樣に、自由といふ言葉の意味するものが明確になる爲には、自由を敵視する權力の存在が不可欠なのであり、言論の自由を希求する情熱の眞摯は、冷酷なる權力によつて保證されるのである。言論の自由とは戰ち取らねばならぬものなのだ。それゆゑ、言論の自由を抑圧する強者と戰ふ者にしか言論の自由を云々する資格は無い。弱者を強者と誤認し、そのくせ眞の強者とは戰ひたがらぬ大新聞に、言論の自由を求める眞摯な姿勢が欠けてゐるのは、してみれば怪しむに足りぬ事である。三大紙は日本共産黨の圧力に屈したではないか。孤軍奮鬪のサンケイを拱手傍觀してゐるではないか。
強者と戰はぬ大新聞に言論の自由は無い。そして今日、強者中の強者は大衆である。數百萬部もの部數を誇る大新聞はその數百萬の大衆を強者とみなして、それと戰つてゐるだろうか。否である。大新聞は大衆を輕蔑してゐる。本氣で戰ふ積りは無い。そのくせ、大衆を恐れてゐるのである。何とも奇妙た話ではないか。大新聞は輕蔑してゐる當の相手を何よりも恐れてゐるのだ。大衆に教へを垂れ、意のままに操れると思ひ込んでゐるくせに、大衆の機嫌を損ずる樣な事だけは決して書けないのであつて、詰り大新聞には大衆を切り捨てる自由が無いといふ事になる。それがあるのはミニコミであり、ミニコミだけが強者と戰つてゐる。自由のあり過ぎる吾國においては大衆が強者なのだが、大衆を切り捨てられぬ大新聞は常に強者の幇間なのである。敵を持たぬ強者に自由を求める戰ひは無縁である。ましてその幇間がどうして言論の自由などを必要とするであらうか。
「人間不在」の元旦社説
新聞の社説を丹念に讀む讀者は殆どゐないと思ふ。私自身、社説は滅多に讀まない。女性週刊誌や平凡パンチの廣告には必ず目を通す。けつこう樂しいし、また有意義だからである。例へば、『微笑』といふ週刊誌の廣告などは、それを讀むだけで淫亂症の實態が解る。また、所謂三面記事は貪るやうに讀む。特に兇惡犯罪の記事はさうである。が、社説だけは讀まない、見出しさへ讀まない。私だけではない、皆さうだらうと思ふ。では、なぜ人は社説を讀まないか。面白くないからである。今囘、マスコミ文化編集部から、元旦の新聞の社説を讀んで感想を書くやう依頼され、各紙の社説を讀まざるをえぬ事となり、改めて社説なるものがいかにくだらぬかを痛感した。くだらぬし、およそ面白くない。あれでは誰も讀むはずがない。
では、新聞の社説はなぜ面白くないのか。社説の文章は「人間不在」の文章だからである。六法全書や日本國憲法の文章と同樣、個性の欠如した文章だからである。從つて社説には署名が無い。「人間不在」の文章、人非人の文章である以上、無署名が當然といふ事なのであらう。元旦の讀賣の社説は、日本には自分といふ言葉があるのに、「他分」といふ言葉が無いのはなぜか、といふ事を問題にして、「歐米を除く他民族への配慮の欠如も目に餘る。自分だけでなく他分のことも考へないと、どんな美辭麗句を並べようとも、しよせんは仁の心に欠ける巧言令色に終はるのが落ちだらう」と書いてゐるが、この讀賣の社説の筆者自身が、文章を綴るに當つて「他分」の事を考へてゐないのである。そして、「他分」の事を考へぬ文章は必然的に「人間不在」の文章になる。讀賣の社説から、その證拠を一つだけ擧げておかう。かうである。
「さいきんの日本について、アメリカの軍事、經濟的な保護、いはばアメリカといふ名のサングラスに甘やかされてきた日本人が、とつぜん眼鏡をはづされたため、強い太陽光線のやうな國際情勢を直視して目がくらんでゐるといふ風刺は卓抜だと思ふ」。
これは他人、すたはち讀者の事を考へない文章である。惡文である事は勿論だが、それはともかく、アメリカに甘やかされて來た日本人が突然「眼鏡をはづされ目がくらんでゐるといふ風刺」とは、一體誰が思ひ付いた風刺なのか。卓抜だと筆者は言つてゐるのだから、まさか筆者自身が捻り出した風刺ではあるまい。それなら誰か。社説はそれを明らかにしてゐないのである。讀者が當然知りたがる事柄を言ひ落すやうな筆者は、讀者の事を、すたはち「他分」の事を考へてゐない。「日本の哲學者の文章にはダイアレクティックが欠けてゐる」とは至言である、とだけ書けば、讀者は當然、その至言は誰の言か、それを知りないと思ふはずだ。それは田中美知太郎氏の言である。ダイアレクティックを欠いてゐるのは哲學者の文章だけではない。社説もさうなのだ。一人前の大人なら誰しも心の中で對話を行ふ。が、この讀賣の社説の筆者はそれをやつてゐない。半人前の文章、人非人の文章と評するゆゑんである。
そしてまた、一人前の大人なら、誰しも理想と現實との乖離を承知してゐよう。心の中で絶えず理想主義者と現實主義者とが對話してゐよう。が、社説の筆者は實生活においては現實主義者なのだらうが、ペンを握れば立所に甘い理想主義者になる。例へば毎日の社説の筆者は「國民大衆の生活を政治の根幹に据ゑ直す姿勢を、強く訴へておきたい」と言ひ、ついでかう書いてゐるのだ。「安定した収入に支へられ、職を失ふ恐れをもたない。病を得ても安んじて十分な醫療が受けられ、ときには一家で餘暇を樂しむ。夫婦は老後を憂へることなく、子どもは受驗地獄の責め苦なしに教育を受け、就職の道が廣く開かれる。(中略)‘おそらく’圧倒的多數の人々は、かうした条件のどれかを欠いてゐるのが實情ではないだらうか」
「おそらく」などといふ副詞は不必要である。毎日が描いてみせる幸福の条件のすべてをみたしてゐるやうな家庭はどこにも存在しない。存在するとすれば、それは痴呆の集りである。だが、それにしても、何と輕薄なユートピア論議であらうか。毎日はまた「同じ地球上で、飢ゑにさらされ、貧困に苦しむ開發途上國の民衆レベルにまで到達し、底深く浸透するやうな協力援助の實績が着實に積み上げられてこそ、日本に向けられた惡評と侮べつを、信頼と尊敬に轉化させる力にもなる」と言つてゐるが、これまた途方も無い綺麗事である。新聞の社説は綺麗事しか書かない。そして綺麗事しか言はぬ人間は人間ではない、人非人である。
ベルジャエフは「この世における道徳は善惡二元論よりなつてゐる。換言すれば、善惡二元論が道徳を成立させる前提となつてゐる。これに反して、一元論は道徳の説明に都合が惡いばかりでなく、道徳にたいする人間の熱意を弱めてしまふ」と言つてゐるが、その通りであつて、綺麗事を並べたてる新聞の社説には、道徳に對する熱意など微塵も無いのである。それに、「飢ゑにさらされ、貧困に苦しむ開發途上國の民衆レベルにまで到達し、底深く浸透するやうな協力援助」など、いかなる國家にもやれはせぬ。もしも日本がそれをやつたならば、毎日の社説が主張してゐるやうな幸福を自國民に与へる事は、現在以上に難しくなつてしまふ。綺麗事を並べ立てる時、人はとかくこの種のたわいもない矛盾を犯すのである。さうではないか。自國民をもつと幸福にし、なほかつ他國の「民衆レベルにまで到達」するやうな援助をする、そんな事は所詮不可能ではないか。人間にはエゴイズムがある。國家にもエゴイズムがある。當然毎日の主筆にもエゴイズムがある。が、すでに述べたやうに、一旦筆を執れば新聞人はそれを忘れるのである。なるほど個人も國家も、他人や他國に對して殘酷であつてはならない。が、再びベルジャエフを引くが、「殘酷であつてはならないと命じる掟は、われわれが一つの價値をえらんで他の價値を捨てるには、どうしても殘酷にならざるをえないといふことに氣づいてはゐない」のである。殘酷であつてはならぬ、寛大であれ、とは理想であつて、殘酷にならざるをえないといふのが現實である。一人前の大人なら誰しもこの理想と現實との相剋を體驗してゐよう。が、毎日の社説の筆者はそれを體驗してゐない。半人前の文章、人非人の文章と呼ぶゆゑんである。
ところで、朝日の社説には「どこの國にもエゴイズムがある」といふ一節があつた。また、東京の社説には「總論や建前のキレイゴトでは何も解決できないことを自覺し、本音と各論で勝負すべし」との一節があつた。それゆゑ私は、朝日と東京の社説を、讀賣、毎日のそれよりも高く評價する。特に東京は、「假に黨内に反對があらうが、支持票が一時的に減らうが、圧力團體の反對が強からうが、斷固として實行せねばならない」とか、「建前だけのキレイごとを言ひ、いざ一部で反發があればすぐ手を引いたり、政治の責任で犠牲の分担をしないから、絶對反對のエゴ風潮が横行し、結果として、より大きなツケを拂ふことになる」とか、拙い文章ながら、かなり明確に筆者の信念を表明してゐて好感を持てたのである。ただし、その東京にしてからが、喧嘩兩成敗式の高みの見物をきめこむ新聞人の病弊は免れてゐない。例へばかういふ文章である。「公正をめざす政治と同時に強者にはもつと倫理と慎みが強く求められる。むろん弱者も現状への不滿をすべて政治惡、社會惡のせゐにし、自己主張のみ振りまはす風潮は反省を要しよう」。強者も反省せよ、弱者も反省せよ、要するに「喧嘩兩成敗」である。が、東京新聞よ、夫子自身は一體どちらなのか。新聞は強者なのか、弱者なのか。東京も朝日も、今年こそは「政治の指導力と實行力」あるいは「民主主義の統治能力」が必要とされようと書いてゐるが、指導力とか統治能力とかは強者が發揮するものである。そして強者をしてその能力を發揮せしめないやう能力を發揮してゐるのが、他ならぬ新聞ではないのか。
サンケイは社説と稱する事なく「年頭の主張」とし、「社長鹿内信隆」の銘を打つて、萬事を金で解決しようとする風潮を批判してゐる。朝、毎、讀、東京、日經、いづれの社説も、程度の差こそあれ、文章がよくない。サンケイの文章だけが合格である。そしてサンケイの「社説」だけが明確な主張を持つ、個性的な文章となつてゐる。今後各紙の主筆はサンケイを見習ひ、明確な自己主張をやつて貰ひたい。社内の思惑などを氣にする事なく、自己の信念を披瀝して貰ひたい。さうすれば、喧嘩兩成敗・高みの見物式の人非人の文章など到底書けなくなるであらう。 
破れ鍋に綴ぢ蓋
山本夏彦氏は「以前ずゐぶん惡口をいはれた」さうである。暴論めいた事を書いては、男尊女卑だと言われ、古いと言はれ、封建的だと言はれた。が「この四、五年、どの雜誌に書いても怒つてくるものがなくなつた」と、山本氏は『諸君!』一月號に書いてゐる。そして山本氏は、これは「喜んでいいことか悲しんでいいことか知らない」が、讀者が怒らなくなつたのはポルノ小説のせゐではないかと言ふ。
山本氏の奇抜な説を紹介するだけの紙數が無いのは殘念だが、昨今の讀者が寛容になつたのは事實だと思ふ。私はサンケイ新聞に週刊誌批評の文章を書いてゐて、かなりの極論を吐く事があるが、抗議の手紙を受け取る事が無い。それは喜んでいい事なのか、悲しんでいい事なのか。いづれにせよ、今後一年間、新聞を斬る事になつた。時に極論を吐く。よろしく。
さて、本居宣長は『紫文要領』に、「よろづのこと、わが思ふかたのみを以て、世の人のいふところをひたすらにいひおとすは、是すなはち物の哀しらぬ、我執のつよき人也」と書いてゐる。宣長によれば、「見識」を立てずして「世の風儀人情」に從ひ、世間を憚つて生きる人間こそ「物の哀」を知る人なので、世人の信ずるところを信ぜず、世論を疑ひ、世論を「いひおとす」者は「我執のつよき人」なのである。要するに、智に働いて角が立つ事を宣長は嫌つたのであつて、それはそのまま今日の日本人の心情であらう。私も日本人だから、さういふ心情を尊重するが、日本の新聞を斬る役廻りとあらばやむをえない、時に智に働いて角が立つ事も言はざるをえない。それに日本の新聞は「見識」を立てず、「世の風儀人情」に從つてゐるくせに、「世間を憚つて生きる」といふ殊勝な心掛けはまるで欠いてゐるのである。
新聞は杜會の木鐸をもつて任じてゐる。オピニオン・リーダーだと思つてゐる。が、實際は「世の風儀人情」に從つてゐるに過ぎない。世論に迎合してゐるに過ぎない。例へば、尖閣諸島の歸屬問題に關する園田外相の説明と、4(登+邑)小平副首相の日本における發言とは明らかに食ひ違つてゐる。が、日本の新聞はその食違ひを徹底的に衝いた事が無い。澎湃として起つた日中友好ムードに酔ひ、世論を憚つて、尖閣諸島などどうでもよい事にしてしまつたのである。そして新聞がいい加減なら讀者もいい加減、いはば破れ鍋に綴ぢ蓋なのである。いい加減な讀者が新聞のいい加減を咎める筈は無い。
新聞は「知らせる義務」を言ひ、讀者は「知る權利」を言ふ。が、双方ともに決して本氣ではない。讀者が知りたいと思ふ時、新聞は知らせない。新聞が知らせたいと思ふ時、讀者は知りたがらない。人の噂も七十五日といふ。新聞は噂話の種をまき、讀者は七十五日間それを樂しむ。いや、七十五日もつづきはしない。一月もたてば噂は消える。
自民黨總裁選擧に關する新聞報道も噂話に滿ちてゐる。十一月二十三日付の東京新聞は「全國各地で相手かまはず大量の色紙や名刺がバラまかれてゐると‘いはれる’」と書き、「總裁候補を持つてゐる派閥の議員に對してすら、大平・田中陣營から“實彈”が飛んでゐるとの‘ウハサ’が‘絶えない’」と書き、「田中元首相と“田中軍團”のやり方(中略)はまさに“常識”をはるかに上廻る猛烈さで展開されてゐる‘との見方が黨内には強い’」と書いた。「常識をはるかに上廻る猛烈さで展開されてゐる」のなら、眞相糺明は難しくないだらう。その難しくない事をやらうとしないのは、新聞に「知らせる義務」を果さうといふ氣が無いからだらう。讀者もまた「ウハサが絶えない」といつた程度の報道で滿足してゐるからだらう。新聞には知らせる氣が無いし、讀者も知りたがつてはゐない。つまり破れ鍋に綴ぢ蓋なのである。
自民黨總裁選擧の報道に關して、もう一つ私が奇怪に思つた事がある。周知の如く予備選擧の結果は新聞の予想を裏切り、大平氏が新總裁に就任した。各紙はありきたりの釋明をしてすませ、いさぎよく不明を詫びる事をしなかつたが、それをけしからぬ事と考へ、「新聞は頭を丸めるべし」とて、反省を求める向きもある。が、私にはそれが納得できない。新聞に對する注文は多々あるが、新聞に八卦見の役を演じてほしいとは私は思はない。予想がはづれたからとて、なぜ新聞は謝らなければならないのか。それよりも、なぜ新聞は選擧のたびに、あれほど空しい予想にはしやぐのか。新聞に反省してもらひたいのはその事である。天氣予報がはづれて迷惑する人はゐるだらう。が、總裁選擧の予想がはづれて誰が迷惑するか。選擧の結果は開票して判明する。開票前の予想は所詮噂話の種でしかない。噂話の種でしかない事柄に、なぜ新聞ははしやぐのか。噂話を好む大衆の事を考へれば、開票まで待てない輕薄を考へれば、選擧の予想をまつたく無意味だとは言はないが、少くとも無意味ではないかとの疑ひを新聞は持つて貰ひない。
さういふ譯で、福田有利の予想がはづれたからとて新聞は反省する必要は無い。が、もしも福田優勢の予想が爲にする予想だつたのなら話は別である。すなはち、福田優勢を報じて福田再選を阻止しようとしたのなら、新聞は大いに批判されねばならないが、今囘さういふ下心は持合せてゐなかつた筈であり、それなら「頭を丸める」必要などまつたくありはしない。
ところで、知る權利を主張しながらその實知りたがらぬ讀者を相手の商賣だから、新聞は「知らせる義務」を言ひながら知らせようとしない。或いは新聞自身、知らうとしない。「田中金脈」の發掘も『文藝春秋』にしてやられた。今囘の予備選でも、田中派の物量作戰が効を奏したといふ。それなら、またぞろ總合雜誌や週刊誌にしてやられぬやう、新聞は噂が事實かどうか今のうちに徹底的に糺明してはどうか。いや、さういふ事を新聞に期待するのは無理なのかも知れぬ。知りたがらぬ國民は知らせたがらぬ新聞しか持つ事ができないのかも知れない。日米安保や自衞隊を4(登+邑)小平が肯定すれば一向に騒がず、アメリカや日本政府が肯定すれば熱り立つ。その新聞のでたらめを新聞も讀者も怪しまない。破れ鍋に綴ぢ蓋と評するゆゑんである。
公正とは喧嘩兩成敗に非ず
表向きは公正を唱へながら、その實、新聞は公正ならざる事をする。全逓の所謂、「反マル生鬪爭」をめぐる報道がさうである。十二月二十日付の朝日は、全逓が提出した「二十九項目の労使改善要求」について、全逓の要求を「要約すると、(1)役職者の登用は古い順(單純先任權)、(2)故郷へのUターン人事は労使協議で、(3)處分を人事考課の對象としない、(4)訓練の公開、(5)一切の不當労働行爲の禁止など」となり、「全部ひつくるめて受け入れよと迫る全逓に對して當局は、マル生は皆無に等しいと信じる、全部といつて藻單純先任權なんてのめるわけがないとして組合の要求を受け付けず、まだ實質的な交渉になつてゐない」、「紛爭の根底にあるのは双方の根強い不信感だ」と書いてゐる。つまり労使双方ともに不信感を捨てるべしといふ御託宣である。けれどもこの世には、いかに努力しても捨て切れぬ類の不信感といふものもある。それに、不當極る要求を突き付けられてゐる以上、不信感を捨てろと言はれて捨てられるものではない。朝日の記事は、『出口見えぬ全逓鬪爭』と題してゐるが、なぜ全逓鬪爭の「出口が見えぬ」のか。言ふまでもない、當局をして到底「のめる譯がない」と言はしむる程の無茶な要求を全逓が突き付けてゐるからである。郵政省が全逓の要求を呑めない理由を朝日は知つてゐる。例へば「單純先任權」なるものの正體を知つてゐると思ふ。それがいかに不當極まる要求であるかを知つてゐる癖に、朝日はそれを詳しく知らせようとせず、「單純先任權」とは「役職者の登用は古い順」にするといふ事だ、などといふ「要約」によつてお茶を濁してゐる。なぜか。「單純先任權」なるものが實に不當極る要求で、それを詳しく説明すると、全逓に不利になるからだ。惚れた女の惡口は言ひたくない。朝日は全逓に惚れてゐるのである。それなら全逓のはうが惡いにきまつてゐる。
では「單純先任權」とはどういふものか。十二月二十日付サンケイの正論欄に奥原唯弘氏が書いてゐるやうに、それは「勤務成績、能力、適性などを考慮せず、局に入つた古い順に昇任させること」なのである。「單純先任權」とだけ言はれても讀者は何の事か解らず、解らなければ無理ならぬ要求かと思つてしまふ。が、サンケイの奥原氏の文章を讀んだ讀者なら、そのやうな非常識な要求を當局が呑めない理由について納得するに違ひ無い。朝日は「勤務成績、能力、適性などを考慮せず」といふくだりを伏せてゐる譯である。公正ならざる要約によつて全逓に肩入れしたかつたからである。
また、朝日の言ふ「處分を人事考課の對象としない」とは、奥原氏によれば「違法ストに參加したことによる處分を人事考課上のマイナス評價としない事」であり、「懲戒處分(戒告、減給、停職)をうけても、處分を受けてゐない者と同じに役付登用、給与上の格付け引き上げの候補者とすること」を意味する。何と蟲のよい要求か。
さらに驚くべきは「職場で暴力事件等が發生しても、告發などせず、労使協議で處理すること」といふ要求であつて、全逓はどうやらゲバ學生と同樣、職場を治外法權にしようと考へてゐるらしい。さすがにこの要求だけは、惚れた朝日も「要約」しやうが無かつたやうである。
「マル生鬪爭」の報道に關して氣になる事がもう一つある。大方の新聞論調は、郵政業務の混亂を、全逓と郵政省の双方が責任を負ふべき事としてゐる。つまり、どつちもどつちといふ譯であり、新聞はどつちもどつちといふ態度を採る事を公正と心得てゐるらしいが、どつちもどつちとは、とかく馬鹿がおのれを利口に見せようとする時に採る態度なのである。
喧嘩兩成敗を公正と勘違ひするのは、自信のない馬鹿か、薄のろの宦官だからである。十二月二十日付の讀賣の社説も「どつちもどつち」的精神の典型である。讀賣は「郵政労使がドロ沼から脱するには、まづ建前論の呪縛から解放されねばなるまい」と言ふ。郵政省當局にも、全逓にも、更にはまた「反『反マル生鬪爭』に取り組む全郵政労組にもそれぞれ自重を望みたい」と言ふ。そして讀賣は「當局、全逓、全郵政三者が、最も極端な例を擧げては、自らの職場を傷つけ合ふ愚は避けられないものか」と慨嘆する。この種の利口振る馬鹿程始末に負へぬものはない。空しい綺麗事を書き連ね、「踊る阿呆」を批判し、安全地帯の高みに立つては、手を汚しつつある他人の爭ひを嘆く。宦官が痴話喧嘩を嘆くやうなものである。
もう少し例を擧げよう。十二月七日付毎日新聞社説は「自民黨は醜い政爭をやめよ」と題して、幹事長人事をめぐる自民黨の黨内抗爭を批判してゐる。「いかに予備選擧の“後遺症”とはいへ、黨幹事長人事をめぐつて憎惡の感情むき出しのドロドロした爭ひをみせつけられると、自民黨がいかに近代的政黨の體をなしてゐないかがよくわかる」けれども、「しかし、視点を變へて今日の異常事態をながめると、野黨も何のために存在してゐるのかと思はざるを得ない」と毎日は言ふのである。これまた「どつちもどつち」的な批判である。けれども、毎日よ、夫子自身はどうなのか。毎日の社内には「ドロドロした爭ひ」は一切無かつたのか。「憎惡の感情」を「むき出し」にした杜員は一人もゐなかつたのか。毎日に限らぬ。賢人面をして喧嘩兩成敗式の「公正」を言ひ、無意味な綺麗事ばかりを言ひつづけて來た新聞こそ、「何のために存在してゐるのかと思はざるを得ない」存在ではなかつたのか。
新聞記者に限らず、日本人は正義といふものに強い關心をもたぬ。和をもつて尊しとなし、自己の信念を貫く野暮天を嫌ふ。永井荷風は明治四十二年「西洋人は善惡にかかはらず、自分の信ずる處を飽くまで押通さうとする熱情がある。僕はこの熱情をうれしく思ふ」と書いた。石川啄木はそれを讀み、それ程まで西洋人が好きならば、荷風氏は西洋に歸ればいい、と言つたといふ。成程、洋行歸りの鼻持ちならぬ淺薄に、今も昔も變りは無いかも知れぬ。けれども荷風は、けちで好色この上無しではあつたが、喧嘩兩成敗の氣輕を樂しむ輕薄な男では決してなかつた。日本は今後も「自分の信ずる處を飽くまで押通さうとする熱情」を持つ西洋と付合つて行かなければならぬ。『四畳半襖の下張』はやがて解禁されようが、地下の荷風はそれだけを果して喜ぶであらうか。
日本といふ愚者の船
「斷固として信じるのは狂人だけだ」とモンテーニューは言つた。なるほど、正氣の人間なら疑ふ事を知つてゐる。一切合財を疑つて自分は何も確かな事を知らないと、さういふところまで考へ抜いたのはソクラテスである。ソクラテスの「無知の知」が人間を幸福にするかどうか、それは難しい問題だが、それにしても新聞があまりにも物事を安直に信じる事を、私は日頃苦々しく思つてゐる。例へば一月十九日付の毎日によれば、「グラマン疑惑の渦中の人」ハリー・カーン氏の自宅には、「初刷なら時價一千萬圓は下らないといふ歌麿の作品數点をはじめ、浮世繪やびやうぶなどがところ狭しと並んで」ゐるといふ。そして毎日は、この「新たに浮かび上がつたカーン氏の一面は、同氏と日本のかかはりの深さを物語つて」をり、これらの浮世繪が「贈り物であれば、カーン氏に近い日本人からのプレゼントといふ圖式が浮かぶのだが・・・・・・」と書いてゐる。
カーン氏が何人妾を持つてゐようと、いかに高價な骨董を持つてゐようと、「グラマン疑惑」なるものとは目下のところ何の關係も無い。が、關係があるかも知れぬ、あつて欲しいと、毎日は思つてゐるのである。それは何ともさもしい嫉妬に過ぎない。金持を猜疑する淺ましい根性に他ならない。そして嫉妬にかられると、人間は「斷固として信じる」やうになる。オセローがさうである。オセローさへさうならば、高潔ならざる凡愚の輩はなほの事である。毎日はチータム發言を「斷固として信じ」たから、些細な事柄も決定的な證拠に見えてくる。つまり、カーン氏の浮世繪はデズデモーナのハンカチなのである。朝日にしても同樣である。朝日は一月九日付の夕刊で、「E2C賣り込み介在高官、岸、福田、松野、中曽根氏」といふ見出しの下にチータム氏の發言を紹介した。それによると、チータム氏はかつて中曽根氏と「一度だけ會談」した事があり、その結果「やはり日商岩井を通じて賣り込むのがいいとの印象」を受けたといふ。そして朝日は「E2Cの對日賣り込みにかかはつたとみられるわが國の政治家の名前」がチータム氏によつて「具體的に明らかにされた」と書いたのである。
當然朝日の讀者は中曽根氏が「グラマン汚職」に一役買つたと思ふであらう。そこで中曽根氏はチータム氏に抗議した。するとチータム氏は、「朝日の報道は事實の歪曲であり誠に遺憾である」と言つたのである。朝日はさぞ慌てた事であらう。讀賣一月二十二日付夕刊は、中曽根氏宛のチータム氏の謝罪文を掲載したが、それによれば、朝日の記者に「日本の實力者と會つたか、あるいは知る機會があつたか」と尋ねられたチータム氏は、「イエスと答へ、財界、産業界、學界、政界を含む、おそらく二十−二十五人の名前を思ひつくまま擧げ」たに過ぎないと言ふ。
しかるに朝日の記者は「住友商事から、日商岩井への代理店變更に關与したとの憶測の下に四人の名前を見出しに掲げ」たのである。要するに朝日は、單なる「憶測の下に」、「不正確で事實を曲げた報道」をした事になる。チータム氏は朝日に謝罪を要求したが、何とも滑稽な話であつて、朝日はチータム氏に踊らされた擧句、踊り過ぎて謝れと言はれたのである。自業自得と言ふ他は無い。
一方、一月二十三日付のサンケイは「“おしやべり”チータムの素顔」と題して、徹底的にチータム氏を疑ふ記事を載せてゐる。そもそも「國際コンサルタント」としてのチータム氏を、不正を發く「正義の告發者」と看做す事は、その前歴からして無理であり、察するにチータム氏は、「ワイロがとびかふ國際商戰のなかで苦境に立」ち、それを打開すべく「正義の御旗をかかげ、有利な國際戰略に活用する一石二鳥をねらつてゐるともいへさうだ」といふのである。
サンケイの推測が正しいかどうか、それは今のところ誰にも解らぬ。が、チータム氏の發言は「宣誓なき證言」なのである。聖書に片手を載せ宣誓した上での證言がすべて正しいと信ずるのは愚かだらうが、「宣誓たき證言」が氣輕に行はれる事は確かであらう。新聞はまづそれを考へねばたらぬ。
輕々に信じない事、それは日本の新聞に欠けてゐる美徳である。吾々は身近な友人にも時に裏切られる。裏切られる事は必ずしも惡い事ではないが、簡單に欺かれるのは馬鹿か子供である。が、新聞は何と騙されたがるのであつて、それゆゑ馬鹿は死ななければ癒らぬとしか言ひ樣が無い。
二月三日付の東京新聞は、米中首腦會談において米中「双方の期待通りの成果があがつたとみてよからう」と言ひ、「テレビで初めて米國の實情にふれ、中國民衆の米國觀は一變したのではないか。米側も人氣のある4(登+邑)氏を迎へ、その口から臺灣平和解決などの言葉を聞いた。朝鮮戰爭以來の長いわだかまりは、急速にとけてゐる」と書いてゐる。中國におけるテレビの普及率を、東京の記者は考へに入れてゐない。また、テレビを見た位の事で中國人の「米國觀が一變」するはずと思ひ、4(登+邑)氏の發言を文字通りに受け取り、米中接近を心から喜び、國家間に眞の友情が成り立つと思つてゐる。何たる無邪氣か。アメリカが中國と手を結び、長年の同盟國臺灣を切り捨てるならば、いづれ日本を見捨てる事も、當然ありうるのである。が、東京の記者はそんな事は夢にも考へない。
要するに、日本の新聞記者の大半は熊公八公なのである。が、それをたしなめる隠居はどこにゐるのか。大衆の浮薄に苛立つたキルケゴールは新聞を批判する諷刺物語を書いてゐる。外洋を航行してゐる船に傳聲器が一つしか無い。しかもそれを食堂の給仕が持つてゐる。そして船員のすべてがそれを正當と看做してゐる。それゆゑ、すべての情報は給仕の頭腦によつて理解され、船内に傳達される事になる。それを皆が當然の事と考へてゐる。が、或る時、船長が船全體にとつて重要な命令を傳へたいと思ふ。當然給仕の助力が必要である。けれども給仕は、おのが理解力に應じて船長の命令を修正してしまふ。その結果、船長の命令は正確に傳はらぬ。船長は聲を張り上げる。が、傳聲器には太刀打ちならぬ。そこでどうなるか。給仕がやがて船長になる。さういふお話である。
新聞が傳聲器を持つ給仕なら、その國は「愚者の船」になる。そして早晩沈歿するしかない。新聞の責任は重いのである。 
人間は變らない
三月三日付のサンケイによれば、ベ平連のメンバーは今頗る困惑してゐるといふ。「被侵略者ベトナム」が「カンボジアに對する侵略者」となつたかと思ふと、今度はその侵略者ベトナムを中國が侵略した。ために、べ平連の鬪士たちは、「カンカンガクガクの論爭をくり返す」より他になす術が無いといふのである。けれども、彼らは本氣で杜會主義國は戰爭をしないと信じてゐたのだらうか。信じてゐる振りをすると儲かるし、平和を愛する善良な人間を演じるのは何としてもよい氣持なので、こんなぼろい商賣いつまでつづくかしらんと時々不安に思ひながらも、ついつい今日まで惡事を重ねて來ただけの事ではないか。儲かつてその上尊敬されるとあつては、それほどうまい話は無い。それが今、突然難しくなつて大いに慌ててゐるのだらうが、これが藥になつて彼らの商賣は今後もう小し上手になるのではないか、實は私はさう思つてゐたのである。が、それは私の買被りだつた。やはりこの世には死ななければ癒らないほどの馬鹿がゐる。
例へば、かつて新左翼の「理論的支柱」だつた東大助教授の菊池昌典氏は、二月十九日付の朝日で、社會主義に對する幻滅を率直に告白してゐる。「がつくりしました。社會主義に幻滅を感じさせるこれほど決定的なものはないでせう。社會主義は、國際連帯といふチャーム・ポイントを完全に失つてしまつた氣がします」と菊池氏は言ふのである。かういふ菊池氏の率直を褒め、一方、三月三日の朝日夕刊に「人間の基本から」と題する愚劣な文章を寄せた小田實氏の厚顔無恥を批判する向きもある。が、私はそれはどうかと思ふ。私は差別を惡事だとは思はないが、純眞な馬鹿と厚かましい馬鹿とを「差別」する事には反對である。菊池氏は「弱さにもとづく率直さ」を「チャーム・ポイント」にして再び稼ぎまくるかも知れないではないか。それゆゑ今やらねばならぬのは、純情であれ厚顔無恥であれ、すべての馬鹿に冷飯を食はせる事なのだが、これが實はとても出來ない相談なのである。吾國のマス・コミもまた馬鹿に牛耳られてゐるからだ。例へば朝日である。朝日は菊池氏に對して「知識人としての責任はどうか」などと言つてゐるが、この厚顔無恥には私も呆れた。ベトナム戰爭酣なりし頃、馬鹿の尻馬に乘つて散々アメリカを叩いた馬鹿が、今や臆面も無く馬鹿の責任を云々してゐる。目糞が鼻糞を笑つてゐる。これではもうどう仕樣も無い。何ともはや絶望的である。
社會主義國同士も戰爭をする。それは少しも驚くにはあたらない。社會主義國といへども人間の集團である。そして人間は人間たる事の限界を越えられぬ。解り切つた事である。古來、いかなる人間も人間の欠陥を免れなかつた。けれども、ただそれだけの事が進歩派やマスコミにはどうしても理解できない。ロッキード事件やグラマン事件にあれほど熱り立つゆゑんである。他人の惡徳を批判してゐると、人間はとかくおのれを善玉に仕立ててしまふものだが、馬鹿はその事に氣づかない。そして、氣づかないからこそぼろ儲けが出來る。
さういふ馬鹿を日本の吾々が制裁出來ない以上、諸外國をあてにするしかない譯で、中ソ戰爭でも勃發したのではないかと、ひそかに期待して、私は毎朝、新聞の第一面を見る。中ソ戰爭が勃發すれば、左翼文化人やマスコミの反省競爭も勃發するだらう。反省競爭は日本人のお家藝である。日本人は三十餘年前「一億總懺悔」をやつた前科がある。今日、同じやうな事態になつたら、さぞ面白からう。新聞を讀む事はさぞ樂しからう。
けれども、敗戰直後、反省競爭に現を抜かす馬鹿を尻目に、俺は「無知だから反省なぞしない。利口な奴はたんと反省してみるがいいぢやないか」と放言した男がゐた。小林秀雄氏である。そして小林氏は時勢の變化などに左右されぬ人間の本性を見抜いてゐた。他人の不幸を喜び、他國での戰爭を樂しみ、おのれの惡徳を棚上げして他人の惡徳に腹を立てる、さういふ度し難い人間の本性を見抜いてゐた。そしてそれが、菊地氏や小田氏には見えてゐない。利口と馬鹿との違ひは、結局それだけの事なのである。
けれども、三月十二日付の讀賣は馬鹿が利口になつた例を紹介してゐる。「フランス左翼の良心とも目されて來た」ジャン・ダニエルが、「人間は戰爭が好き」なのであり、「共産主義者もかうしたあまりにも人間的た欠陥を免れてはゐない」と言つてゐる。あまりにも當り前な意見で、人間は戰爭が好きなのだが、どうして日本の左翼にはダニエルのやうな考へ方が出來ないのか。やはり中ソ戰爭の勃發ぐらゐでは、日本の馬鹿はたうてい癒らないかも知れぬ。
サンケイが連載した「米ソ戰力バランスと日本の防衞」は好企畫であつた。とりわけアメリカの對ソ戰略專門家、ジョン・M・コリンズの意見は興味深いものであつた。コリンズはアメリカを信じ切つてゐる日本の甘さを痛烈に皮肉つて、「友人を守るために自分が死ぬ事など、一體だれが考へるだらうか」と言つたのだが、日本の新聞人にはかういふ發想が出來ない。國家も個人も人間の本性を免れないといふ事に氣づかない。が、「世界の軍事史上、大國が小國のために自分を犠牲にした例はない」のであり、個人も國家も、己れが生き殘るためとあらば非情にならざるをえないのである。
さういふ國際政治の非情をツキディデスが描いてゐる。大國アテナイは小國メロスに戰はずして降伏せよと迫る。メロスは同盟國スパルタの助勢を信じてゐる。アテナイは言ふ、スパルタは助けに來ない、助勢するだけの價値がある場合だけ、他國はその國を助けようとする、負けると解つてゐる國を誰が助けようとするものか。やがてアテナイはメロスを攻撃する。案の定、スパルタは助けようとしない。メロスは敗れ、メロスの成年男子は悉く處刑され、女子供は奴隷になつた。今から二千四百年も昔の話である。
そして二十世紀の今日、中越戰爭はあつけなく終つた。中國は自分を犠牲にしてまでカンボジアを助けようとはしなかつたが、それはポルポト政權が援助するに足りなかつたためであるよりも、ヴェトナム軍に腑甲斐なく敗れたポルポト軍の非力のせゐであらう。そしてまた、中越戰爭が起つても、ソ連は同盟國ヴェトナムにリップ・サービスをしただけである。してみれば、人間の本性は二千年以上たつて少しも變つてゐないといふ事になる。日本人が知るべき事はそれにつきる。大方の日本人がそれを知れば、馬鹿はおのづと稼げなくなる。けれどもそれは絶望的で、日本が戰場にならない限り、日本は愚者の樂園でありつづけるであらう。
叩く馬鹿と褒める馬鹿
人間は天使ではない、けれども獸でもない。この世に完き善人もゐない代りに完き惡人もゐない。それを知る事が日本の新聞記者にとつて何よりも大切な事である。が、このところ海部八郎氏を叩いて樂しんでゐる新聞は、海部氏を完き惡人に仕立てなければ氣が濟まぬと見える。海部氏の中の獸を發き立てて新聞は興がつてゐる。例へば四月四日付の毎日によれば、海部氏は「獨自の調査網を使つて」競爭相手のスキャンダルを握り、「ピンチを切り抜ける」ための武器にしてゐたといふ。毎日は「地獄耳、手段を選ばず」といふ見出しを掲げ、「マキャヴェリスト」たる海部氏は、「市民社會や法の正義は關心の外だつた」と言ふのである。かういふ記事を書く新聞記者が必ず忘れる事がある。それはスキャンダルを握られる手合も惡いといふ事である。他人のスキャンダルを威しの材料に使ふ者だけが惡いのではない。脛に傷持つ手合も惡い。そして人間誰しも法を犯す。立小便やスピード違反なら私は何囘となくやつた。外爲法違反なんぞ、商社員なら誰でもやつてゐるといふ。その通りだらう。毎日新聞だつて叩けば埃が出るだらう。つまり、程度の差こそあれ、吾々は皆海部八郎なのである。
新聞の報ずるところを信じれば、海部氏には何ひとつ美点が無い。けれどもそんな筈は無い。海部氏も人間であつて惡魔ではない。四月十二日付の毎日によれば、東京地檢特捜部は「時價數億圓にのぼる全國各地の海部所有の不動産」のうち「六ヶ所を外爲法違反容疑で家宅捜索したが」、澁谷駅近くのマンションの一室には、童謡を吹き込んだテープが「うづ高く積まれ」、數臺の模型機關車、貨車、ぬひぐるみの人形、「その他のオモチャ類でいつばい」といふ状態だつたといふ。そして海部氏は、その部屋を「息抜きのための書斉」と呼んで家人も寄せつけず、「運轉手も中へ入れたことがなかつた」が、そのマンションの一室から出て來る時は「必ずといつてよいほど、上きげん」だつたさうである。毎日は「開けてびつくり海部メルヘン」などといふ見出しを付け、海部氏を嘲笑してゐる。が、私は最近これほど感動的な事實を新聞紙上に讀んだ事が無い。海部氏が新聞の傳へるやうな完き惡人ではないといふ事を、これほど雄弁に物語る事實は無い。
海部氏は「息抜きのための書斉」に家人を寄せつけなかつた。その理由を毎日の愚昧なる記者は理解出來ないに違ひ無い。要するに、海部氏はおのが善良を家人に對してすら恥ぢたのであつて、善良を看板にして世を渡る政治家やジャーナリストは海部氏の爪の垢を煎じて飲むがよいと思ふ。
毎日は言つてみれば他人を叩いておのれの性惡を忘れる馬鹿である。が、この世には他人を無闇やたらに褒める馬鹿もゐる。例へば四月四日付の東京新聞は、法務省の伊藤榮樹刑事局長を「予算委員會の“名優”」と呼び、こんなふうに褒めちぎつた。すなはち、伊藤局長は「兩院予算委の長丁場にことごとく付きあひ」、「見事に“水先案内役”を果たし」たが、その「名答弁ぶり」たるや、「次から次へとふくらむ疑惑に、ある時はぼかし、ある時はドキッとするやうな表現で、決して手の内は明かさず、それでゐて質問者を滿足させ」たのであつて、その「テクニックは心にくいほどだつた」。つまり「おおつと榮さん名調子」だつたといふのである。東京は伊藤刑事局長に百点滿点をつけてゐる。他人をだらしなく褒めて救ひ樣の無い馬鹿になつてゐる。が、他人を褒めるにも技術は必要であつて、褒められたはうが照れ臭くなり、穴があつたら入りたくたるやうな褒め方は下の下なのである。勿論、褒められて腹を立てる奴はゐないから、伊藤局長もついうつかり相好を崩し、二度三度、東京の記事を讀み返したかも知れぬ。が、そのうちに、手放しで褒める新聞記者の淺はかに氣づいたに違ひ無い。氣づかなかつたなら、伊藤局長も大馬鹿だが、刑事局長は新聞記者並の馬鹿には勤まらないだらうと思ふ。
要するに毎日は叩く馬鹿、東京は褒める馬鹿なのである。まともな大人ならどちらの馬鹿にもなり切れない。しかるに、日本國は弱輩の天下で、子供並の大人がしこたまゐる。新聞記者に限らず、政治家にも發育不良の大人がゐる。例へば古井法務大臣である。古井氏は四月六日付の讀賣に、その「獨自の政治哲學」とやらを披露してゐる。その發言から察するに、古井氏は政治のいろはも弁へぬ全くの素人であるやうに思はれる。讀賣によれば、古井氏は「硬骨漢」ださうだが、どうやら「硬骨漢」とはしやにむに無知を押し通す人間の謂であるらしい。古井氏は政治が嫌ひだと言ひ、政治に金が掛る事に我慢がならないと言ふ。政治が嫌ひならさつさと政治家を廢業したらよささうなものだが、一向に止めさうもないところ見ると、政治が決して嫌ひではないのだらう。それはさておき、古井氏はかつてトインビーと「議論」をした事があり、その際トインビーは「大きな惡と鬪ふには、小さな惡と妥協することもやむを得ない」と言つた。それに對し古井氏が「大きな惡と小さな惡の限界は何か」と聞いたところ、トインビーは「一瞬答へにつまり」、ややあつて「あなたのやうな人は、政治の道を歩くのはつらいでせう」と言つた。古井氏は「この一事からも私が政治に不向きなのが分かるのではないか」と言ふのである。
何といふ馬鹿を大平首相は法務大臣に任命したのだらう。考へてもみるがよい。自分は醫者に向かないと醫者が言つたら、誰が一體そんな藪に命を預けようとするだらうか。政治家に向かない古井氏の首を、大平首相は即刻切るべきである。
古井氏が「政治に不向き」なのは、「大きな惡と鬪ふには、小さな惡と妥協することもやむを得ない」といふ事が理解出來ないからである。「政治に關係する人間」は「惡魔と契約を結ぶものであること、そして、善からは善だけが生じ、惡からは惡だけが生じる、といふのは彼の行爲にとつて眞實ではなく、往々、その逆が眞實であること」、「これを知らない人間は、實は、政治的には子供」なのであると、マックス・ウエーバーは言つた。古井氏の言語道斷の甘つたれを新聞や國民が咎めようとしないのは、わが日本國が目下のところ眞の政治家を必要としないほど平和だからであらう。平和な時代、それは何もしない、或いは何もできない善人がのさばる時代の事なのである。
滅私奉公の精神
五月十日付のサンケイ新聞に、佐橋滋氏は「國會の七不思議の筆頭は予算委員會で予算がまつたうに審議されたことがない」といふ事だと書いてゐる。かねてから私は、予算委員會とは査問委員會の別稱だと思つてゐたが、さうではなかつたらしい。やはり予算を「まつたうに審議する」事が予算委員會の本來の役割だつたらしい。しかるに、佐橋氏の言ふ通り、予算委員會はグラマン事件の「眞相糾明」に躍起となり、肝心要の予算のはうはほとんど「無審議で成立」させてしまつた。何とも奇怪な事だが、新聞はそれを一向に怪しまない。それどころか、檢察のやれぬ事を予算委員會がやるべしと、物騒な事を書き立ててゐる。最も冷靜であるべき筈のサンケイ新聞さへ、五月十九日付の「主張」欄では「國民の立場からいへば法律だ、時効だなんていふのは關係がない」などと言語道斷のせりふを吐いている。また、五月八日付の讀賣新聞は「容疑が時効にかかつた人物は、罪のとがをなんら受けることがないが、とくに政治家がそれでまされてよいものではない」と書き、政治家は「刑事責任を解かれた分を含めて、むしろ一層重い政治的・道義的責任」をとるべきであつて、讀賣としては「その責任を明らかにすること」を國會に對し「強く要望する」と書いてゐる。常日頃護憲を錦の御旗にしてゐる新聞が何とも奇怪な言辭を弄するものである。新聞は「國民感情が許さない」と口癖のやうに言ひ、國會を裁きの場にしようと考へてゐるらしい。彼等にとつては、憲法に限らず、およそ法と名のつくものは無用の長物、大切なのはあくまで「國民感情」なのである。かくてサンケイの言ふやうに「法律だ、時効だなんていふのは關係がない」といふ事になり、議院證言法の不備なんぞは論外の事となる。兇惡犯にも法は默秘する權利を認めてゐる。が、議會に喚問される證人にはその權利は無い。むろん「出廷」を拒否しても告訴される。要するに議員證言法は惡法なのである。もとより惡法も法である。が、「法律なんぞ關係が無い」と言切るやうな癇癖の石頭には、惡法にも從ふが、惡法ならば改めようとの冷靜な態度は到底期待できまい。
要するに、新聞は法の相對性といふ事を知らないのである。憲法はもちろんすべての法は可變である。が、新聞は法を絶對視してゐる。それゆゑ政治家に對しても絶對的有徳を要求する。けれども、新聞よ、夫子自身はどうなのかと、私はしばしば書いた事がある。が、昨今私は少し考へを改めた。新聞の偽善は意識せぬ偽善で、それは滅私奉公の精神ではないかと、さう考へるやうになつた。新聞は政治家の品行方正を衷心より期待してゐるので、おのれ自身の不徳は問題ではない。おのれはいかに汚れてゐようと、政治家だけは限り無く清潔であつて欲しい。それゆゑ清潔無比の政治のためなら「法律だ、時効だなんていふのは關係がない」といふ事になる。要するに新聞は政治家の修身がそのまま治國平天下に繋がると信じてゐる。それはつまり、清潔な獨裁者を密かに待望してゐるといふ事ではないか。それは滅私奉公の精神ではないのか。
中央公論五月號に「暗影としてのナショナリズム」と題する一文を寄せてゐる竹内實氏は、さういふ滅私奉公的精神の典型である。竹内氏は「二月十八日、日曜日のあさ、新聞をひろげ」るや、「たちまちみぞおちのあたりに鈍痛をおぼえた」といふ。中國軍のベナトナム侵攻といふ「一面の最上部を横にぶちぬく」各紙の見出しに「手ひど」く「打たれた」といふ。そして竹内氏は「かつての日本軍國主義の中國侵略と、この中國の武力行使の相違点」を「必死」で「さがし求め」るのである。他國を侵略する事に、土臺いかなる「相違点」もありはしまいが、善良なる竹内氏にとつては、必ずや何らかの「相違点」が無ければならぬ。あぐまでも中國を理想の國と信じてゐたいからである。清く正しく美しい中國、さういふおのれの「理想」のためとあらば、眞實も要らぬ、生命も要らぬ、竹内氏はさう思ひ詰めてゐるのかも知れぬ。滅私奉公的精神の面目躍如たるものがあるではないか。
竹内氏の論理はおよそ滅茶だが、理想に殉ずる事が生甲斐なのだから、論理の破綻なんぞは問題ではない。例へば竹内氏は、戰後間もなく或る中國人が作つた「人の皮」と題する一篇の詩を頼りに、「日本軍の中國侵略の情景」を想像する。その詩はまことに愚劣なもので、眞實を語つてゐない事は明らかだが、そのやうな「些事」に竹内氏はとんと關心が無い。とまれ、その詩によれば、中國人の女の「皮をはぎとつた」日本兵がゐた事になる。竹内氏は憤慨し、その日本兵を「鬼」だと言ふ。けれどもその「鬼」だつて、「平和な環境」にあつてはごく平凡な市民だつたに違ひ無い。では、「なぜ人間が鬼になつたのか」と竹内氏は自問する。そして竹内氏の結論は、何と「天皇制のせゐだ」といふ事になる。即ち、「人の皮」に描かれてゐるやうな「殘虐な情景は、この下手人が日本の平和な體制、天皇制のもとでどれほど苛酷なめにあはされてきたかを物語る」と竹内氏は言ふのである。要するに、惡いのは天皇制であつて、中國人の皮を剥いだ日本兵は惡くないといふ事になる。この傳でゆけば、竹内氏が在日ウガンダ人に殺されたとしても、罰せらるべきはウガンダ人ではなく、彼を「苛酷なめにあわせた」アミンの暴政だといふ事になる。そして、殺された竹内氏は草葉の蔭から專らアミンを呪へばよいといふ事になる。
竹内氏は論理の破綻を少しも氣にしない。「理想」に對して「滅私奉公」してゐるからである。そして、滅私奉公とはおのれを捨てて他者にすべてを任せ切る事だから、他者の裏切りは端から問題外の事になる。それゆゑ、竹内氏の如く、裏切られても裏切られても、裏切られたとは思ひたがらない親中知識人が日本國にはしこたまゐる譯である。
もとよりさういふ純情は國際政治の世界では通用しない。しかるに、その途方も無い純情を揚言してゐるのが日本國憲法であり、その提灯持ちをしてゐるのが日本の新聞である。言ふまでもなく、日本國憲法の精神も滅私奉公の精神で、それはいづれ日本國を滅ぼすであらう。食ふか食はれるかの國際社會では裏切りが常態で、しかも常態だと知つたところで救ひがある譯ではない。メルヴィルは書いてゐる。
鮫が人間の片足を銜へて言つた。「どうだ、俺はお前を食ふと思ふか、食はないと思ふか、正直に答へたら助けてやる」。人間は「食うと思ふ」と答へた。鮫は言つた。「そうか。しかし、やつぱり食つてやる。食はない事は俺の良心が許さないからな」 
法の嚴しさを知れ
宝永六年の事である。イタリア人の宣教師シドッチは江戸の奉行所で新井白石の訊問を受けた。白石は後にその經緯を『西洋紀聞』に記してゐる。それによるとシドッチは、自分には夜間の見張を付けるには及ばないと言つた。「天また寒く、雪もほどなく來らむとす」る折、晝夜の別なく自分を見張つてゐる牢番の辛苦はこれを「見るに忍び」ない、このシドッチに足枷をはめ、獄中に繋いで貰ひたい、さうすれば牢番も「夜を心やすく」寢られるであらう。シドッチはさう言つたのである。奉行所の面々はいたく感服した。しかるに白石だけは納得せず、理窟に合はぬ「いつはり」を言ふとてシドッチを咎めた。白石の言分はかうである。牢番は奉行所の命令を重んじるからこそ、寒空の下夜を徹して見張つてゐる。その牢番を汝は氣の毒だと言ふ。しかるに、先に奉行所が汝の「肌寒からむことをうれ」へて、度々「衣給はらむ」としたるに、汝は頑なに受け取らうとしなかつた。奇妙な事ではないか、奉行所の役人も、牢番と同樣、汝の身を守れとの公儀の命令を重んじたまでの事、牢番を思ひ遣る心があるならば、當然衣を受け取り、奉行所の役人の心を安んじてやるべきではないか。さう白石は言つたのである。シドッチは大いに恥ぢ入つておのが「いつはり」を認めたといふ。
要するに白石は、シドッチの申し出に手も無く感激した奉行所の役人と異り、「情に棹さし」流されずして、おのれの考へを述べたのであつて、かういふ日本人は頗る珍しい。世論に迎合せずして異を唱へるのは、日本人の頗る苦手とするところだからである。例へば今日、スト權ストなる奇怪千萬の言葉を、世人は何ら怪しむ事無く使つてゐる。けれども、これほど奇妙きてれつな言葉は無い。スト權ストとは「スト權を認めさせるためのスト」だといふ。それなら當然、公労協のストはまだ法的に認められてゐない譯である。しかるに、國労も動労も平氣でストをやる。それはつまり、法が禁じてゐる事を法的に認めさせようとして、法が禁じてゐる事をやる、といふ事である。言ふまでもなく法は殺人を禁じてゐる。が、人を殺す權利を認めさせようとして人を殺したら、どういふ事になるか。殺人權殺人といふものを世人は果して許すだらうか。
しかるに、六月三日付の朝日によれば、森山運輸大臣は、スト權スト參加者の處分について、何とその「凍結を」國鐵に要望したのである。それを聞いて「怒り心頭に發」した民社黨前委員長春日一幸氏は、民社黨幹部に對して「運輸大臣のクビをとれ」と叫んだといふ。運輸大臣の「凍結」要望は「法治國家として斷じて許すべからざる」事だといふのである。春日氏の立腹は當然だが、朝日は「春日氏の怒りがどこまで政府に通じるか」などと、餘所事のやうに書いてゐる。奇怪千萬である。法治國の大臣が違法行爲の處分をためらひ、常日頃、最高法規たる憲法を崇め奉つてゐる新聞が、法治國にあるまじき運輸大臣の措置を少しも怪しまない。新井白石なら、理窟に合はぬ「偽り」を言ふものかなと、森山氏と新聞を激しく咎めるに違ひ無い。
一方、「灰色高官」松野頼三氏の道義的責任を問へとのマスコミの主張も、甚だもつて理窟に合はない。が、それを怪しむ文章を私は新聞紙上に讀んだ事が無い。刑事責任が問へぬのだから道義的責任を問ふべしと、新聞はしきりに書き立ててゐる。つまり新聞はリンチをやりたがつてゐる。法廷で裁けぬ人間を何としても裁きたがつてゐる。
松野氏の問題に限らない。一事が萬事であつて、吾國の新聞は法といふものを嚴密に考へないのである。例へば、六月七日付の日經夕刊は、財田川事件の再審決定を報じたが、その見出しにおいては谷口繁義と呼び捨てにして、それを鉤括孤で括つてゐる。本文では「谷口被告」としてゐるところを見れば、日經は呼び捨てを躊躇したのであらう。谷口は「谷口繁義」とすべきが、谷口被告か、それとも谷口元被告か。日經に限らず、さぞや新聞は困つたであらう。
けれども、さういふ中途半端な對策を講じなければならないのも、元を糺せば、新聞が日頃物事を嚴密に考へないからである。被告人の有罪が確定するのは最終審においてである。それまでの被告人は容疑者ではあつても罪人ではない。しかるに日本の新聞は、罪人と決らぬうちから被告や容疑者を呼び捨てにして憚らない。田中元首相は田中であり、海部八郎前副社長は海部である。が、田中氏の場合も海部氏の場合も、一審の判決さへ下つてゐない。もし兩氏が最終審で無罪になつたら、新聞は手の裏を返すごとく呼び捨てをやめるだらうが、それは頗る非人間的な行爲である。この際新聞は、最終審の判決が下るまでは、明らかな現行犯の場合を除き、容疑者や被告の呼び捨てをやめたらどうか。アメリカ娘を殺したとの容疑で逮捕された日本人留學生を、アメリカの新聞は「ミスター・モリ」と呼んだのである。
ところで、財田川事件の場合、再審開始の決定がなされたといふ事は、審理をやり直せとの決定がなされたと、それだけの事を意味するに過ぎない。けれども新聞は、谷口の無罪が確定したかのやうに考へてゐるらしい。例へば六月七日付の毎日夕刊は、「死刑囚から被告の座へ、そして無罪への道を確實に歩まうとしてゐる」と書いてゐるのである。が、なぜそのやうに斷定できるのか。同日付の讀賣夕刊で、谷口自身が言つてゐるやうに、谷口は「まだ無罪になつたわけではない」。私は谷口の死刑を望んでゐるのではない。が、今囘の再審決定に關して、これまでの審理の一切を否定するかのごとき情緒的發言が目立つ事を奇怪に思つてゐる。六月八日付の讀賣が書いてゐるやうな、冤罪による死刑は「考へただけでもゾッとする」から、再審決定は死刑制度の「見直しを迫」る「手掛り」を与へたと考へるべし、などといふ議論は首肯できない。
勿論、冤罪による死刑はあつてはならない。が、裁判も人間のやる事だから、誤ちは免れない。誤審の根絶は不可能である。さりとて、死刑制度を廢止せよとか、法の嚴しさを緩和せよとかいふ議論は、あまりにも單純に過ぎる。ホッブズの言ふ通り、法の無い状態において人間は頗る悲惨である。法不在の状態とは、「萬人の萬人に對する鬪爭」の状態であつて、そのやうな悲惨を避けるために、法は飽くまでも秋霜烈日の嚴しさを保持しなければならない。
安手のヒューマニズムは何事をも解決できない。法にはもとより限界がある。けれども惡法も法であつて嚴しく守らねばならぬ、しからば法と道徳との關係は如何、さういふ事を新聞は一度眞劍に考へて貰ひたい。
善玉惡玉と二分するな
七月十日付サンケイ新聞直言欄に、村松暎氏は「東京サミットはめでたく終了したが、ことにあはれをとどめたのは警察であつた」と書いてゐる。警察の熱心な警備に對して「誰も御苦労と言」はなかつたばかりか、新聞は「警備の過剰を酷評」したからである。が、村松氏の言ふ通り、「萬萬一のことがあつたら(中略)國際的な大問題」になつたであらうし、さうなれば「いま警察を惡く言つてゐる人たち」が「非難攻撃を警察に浴せるのは目に見えてゐる」。
今囘警察は何とも間尺には合はぬ仕事をやらされた譯であつて、村松氏と同樣、私も深く警察に同情してゐる。新聞は常に強者に楯突くから、いや楯突く振りをするから、警察の努力を正當に評價しない。そして警察に落度があらうものなら、ここを先途と責め立てる。以前、警官が女子學生を手込めにして危めた時、新聞は居丈高に警察を批判した。けれども、警官も人の子、新聞記者や教師と同樣、殺人や強姦をやらかす者がゐて何の不思議も無い。
新聞記者が「過剰警備」に不滿だつたのは、サミットの期間中、彼等が不自由を強ひられたからであらう。そして不自由を強ひる者を惡玉に仕立てるのは、戰後の惡しき風潮である。さういふ風潮を蔓延らせた元凶は日本國憲法だと、私は思つてゐる。周知の如く、日本國憲法に義務規定は頗る乏しい。そのため、戰後は國民の權利のみが強調され、國民は僅かばかりの不自由にも過敏に反撥するやうになつた。「サミット警備」に對する新聞の反撥も、さうしたわがままの典型に他なるまい。
一方、六月二十七日付の讀賣によれば、羽仁五郎氏たち「文化人グループ」は、「サミット警備」が「市民生活に支障を及ぼしてゐる」として、「東京サミット過剰警備に抗議する會」たるものを結成したといふ。昨年だつたか、羽仁氏は前衞舞踊の踊子に惚れ、得體の知れない「何とかを何とかする會」を結成した筈である。そつちの會のはうはその後どうなつたのか。事ある度に刹那主義の徒黨を組んではしやぐのはいい加減にして貰ひたい。
だが、羽仁五郎氏の會なんぞは實はどうでもよい。淺薄な思付きにもとづく同好會なら、やがて泡沫の如くに消えるであらう。けれども、ひたすら權利のみを主張して自己犠牲を嫌ふ人間ばかりが殖えてゆくばかりでは、日本國の前途が案じられる。國民に不自由を忍ばせる事を、爲政者たるものは時に敢へてせねばならない。今囘の「過剰警備」など、當然すぎるくらゐ當然の事ではないか。
六月三十日付の東京新聞によれば、總評は「サミット過剰警備」に抗議して、「警察は全國から機動隊員を總動員して善良な市民の車をいちいち檢問するなど、戒嚴令下を思はせる警備を行ひ、國民生活に計り知れない不安と損失を与へ」たのであり、「人權を無視したこの權力の規制に聲を大にして抗議する」と言つてゐるといふ。盗人猛々しとはまさにこの事である。言ふまでもない事だが、警備のための規制は合法的である。しかるに、總評傘下の公労協がこれまで再三再四行なつた「スト權スト」は紛れも無い違法行爲ではないか。その違法行爲によつて公労協は「善良な市民」の足を奪ひ、「國民生活に計り知れない不安と損失を与へ」たではないか。前科者が警察を非難するとは度し難き厚顔無恥であるが、新聞はそれを咎めず、却つて合法的な警備を難ずるのである。
さらにまた、六月三十日付の東京新聞で、作家の畑山博氏は「過剰警備」を批判し、「會期中、都心部では市民の姿より警官の數の方が目立つた」が、それは「民主主義の國にとつて、あまり美しい光景ではない」と述べてゐる。民主主義國だらうが全體主義國だらうが、萬一の事態に備へる場合、「警官の數の方が目立つ」のは當り前であつて、それは美感や美觀の問題ではない。「美しい光景」などはたつた一人の凶惡なテロリストによつて臺無しにされてしまふのである。「美しい光景」が好きな畑山氏は、美しく超俗的な甘つたるい人間愛の物語かなんぞを書いてをればよろしい。俗事に口出しはせぬがよろしい。
ところで、畑山氏に限らず、人間の邪惡な本性を無視する手合は、一旦他人に惚れ込むとこの上無く情緒的になる。先に4(登+邑)小平氏が來日した時の新聞人がさうであつた。そして今囘、カーター大統領一家に新聞はぞつこん惚れ込んだのである。六月二十九日付の讀賣は「日本を魅了した“母娘外交”」といふ見出しをつけ、ロザリン夫人とエミー嬢に最大級の賛辭を捧げ、「優しく、庶民的で、仲むつまじい母娘の“素顔”にひきつけられた人は多かつたに違ひない」と書いてゐる。私は「仲むつまじい母娘」に「ひきつけられ」はしなかつたが、それはともかく、カーター氏はなぜ國外に娘を連れ出すのだらうか。子連れの「庶民外交」が國際政治の世界で通用すると、まさか本氣で信じてゐる譯でもあるまいが、たとへ本氣で信じてゐるとしても、子連れ外交の理解者は日本の新聞だけといふ事にならう。六月二十八日付の東京新聞は、「カーターさん、一家をあげての庶民外交はお見事でした」などと、引用するのも氣恥づかしいほど、手放しで譽めちぎり、かくも「誠實」なカーター大統領が、米國内で「どうしてこれほど不評なのか、實は不思議である」とまで書いてゐる。いつそ日本國はアメリカの一州になり力ーター氏を指導者に仰いだらよい。さうなれば、東京新聞は随喜の涙を流すであらう。
だが、七月二日付のサンケイ新聞は、韓國の神經を逆撫でするやうなカーター氏の言動について報じてゐる。「國賓としてのはじめての招待にたいしカーター大統領は當初、治外法權下の米軍基地に着陸、第一夜を基地で送る案を出した」が、それは「さすがに韓國側の激しい反撥にあつて、金浦到着に修正された」ものの、カーター氏は「外交儀禮的プロトコールを無視し、歓迎行事を飛び越えて朴大統領の出迎へる空灣から基地に直行、まづ米軍將兵に會ふ始末だつた」といふ。そればかりではない。カーター氏は「韓國側が最もふれられたくたかつた人權問題を、聲高にかつ鋭く首腦會談や晩さん會の演説で取り上げ、共同聲明にまで盛りこんだ」のである。一見「善良」で「誠實」さうなカーター氏にも、當然さういふ邪惡にして淺薄な一面はあらう。
この世に全き善玉も全き惡玉もゐない。が、日本の新聞にはそれがどうしても解らぬと見える。しかも始末に負へないのは新聞が自主的な判斷にもとづいて善惡の區別をする譯でないといふ事である。つまり、新聞は大勢に迎合するに過ぎない。漆山成美氏は「新聞が國を誤らせる九章」(高木書房『悲劇は始まつてゐる』所収)において、さういふ新聞の無責任を痛烈に批判してゐる。一讀をすすめたい。
身勝手ばかりを言ふな
西岡幹事長の離黨に端を發した今囘の新自由クラブのお家騒動を批判して、七月十七日付の讀賣は、政黨といふものは「愚直な行動」とか「腐敗からの決別」とかいふ「ムード的言動だけではやつて行けない」と書いた。一方、毎日は「酷ないひ方かも知れないが、新自クとは何であつたか−といふ疑問を表明しないわけにはいくまい」と書き、東京にいたつては、今囘の騒動には「スカッとさはやか」な「清涼感は、みぢんもみられない」と書いてゐる。笑止千萬である。三年前、コカ・コーラ的「清涼感」を稱へ、コカ・コーラ的政黨の誕生に拍手喝采したのは新聞だつたではないか。例へば朝日の社説は當時「新黨設立の報道に國民が激励と共感でこたへたことは、自民黨に對する痛烈な不滿の表明と聞くべきである」などと、手放しで「激励と共感」を表現したのである。しかるに今、新聞は手の裏を返すごとく新自由クラブを批判してゐる。何たる恥知らずか。一體いつになつたら、他人にだけ「清涼感」を期待する事の身勝手に新聞は氣づくのだらうか。
七月二十六日付毎日夕刊の「憂樂張」なるコラムの筆者は、松野頼三氏の議員辭職を論じてマックス・ウェーバーの文章を引いてゐる。ウェーバーは「政治家の誇りは自分の行爲に對する責任を一身に引き受けることであり、政治家はかかる責任を拒否したり、轉嫁したりすることもできないし、また、してはならない」と強調してゐるが、松野氏のごとく「ケヂメをつけるために、ちよつとの間だけ辭め、またカムバックをはからうといふのでは、眞に責任をとつたことにはなるまい」といふのである。これまた何とも身勝手な引用である。筆者はウェーバーを讀んだ事が無く、誰かの本から孫引きしたのだらうか。それともこれは意識的な犯罪なのか。かういふ場合、意識的な犯罪と考へるはうが筆者を重んずる事になる。けれども、それならなほの事許し難い。ウェーバーの文章から筆者が意識して引用しなかつた部分はかうである。「政治に關係する人間」は「惡魔と契約を結ぶものであること、そして、善からは善だけが生じ、惡からは惡だけが生じるといふのは彼の行爲にとつて眞實ではなく、往往、その逆が眞實であること、(中略)これを知らない人間は、實は、政治的には子供」なのである。(清水幾太郎譯)。「憂樂帳」の筆者は、なぜこの部分を無視したのか。言ふまでもない、コカ・コーラ的正義漢には理解できなかつたからである。小児病的正義感に酔ひ痴れ、專ら他人の道義的責任ばかりを問ふ石頭の偽善者に、「政治家は惡魔と契約を結ぶ」などといふ「暴論」が理解できる筈は無い。
一方、七月二十一日付毎日の「記者の目」は「日本人ドライバーのマナーの惡さ」を嘆き、「免許試驗をこれまでのやうな技術一邊倒からモラル向上に方向轉換すること」が必要だと主張して、「警察庁など關係機關は(中略)高速道路を安全に走れるマナーを備へたドライバーの養成策を檢討すべき」だと書いてゐる。馬鹿々々しい提案である。免許試驗を「モラル向上に方向轉換する」事も、「高速道路を安全に走れるマナーを備へたドライバー」を養成する事も、「警察庁など關係機關」のよくなしうるところではないし、またなすべき事でもない。警察は法に違反する行爲を取締る事はできても、ドライバーのマナーや「モラルの向上」などについては、これをどうする事もできぬ。それに何より、ここにも新聞の、いや日本人の、道義的頽廢が如實にあらはれてゐる。昨今人々は何事につけ他人の責任を追及する。その癖、自らは道義的たらんと努める事が無く、「モラルの向上」については他人に下駄を預けようとする。が、カントも言つてゐるごとく、道徳とは飽くまで自律的なものである。「モラルの向上」はドライバー一人一人の自覺に俟つしかない。
新聞が他人を咎め立てしておのれを棚上げし綺麗事しか言はないのは、綺麗事が大衆に受けると思ひ込んでゐるからである。けれども、政治家や新聞が俗受けを狙ふのは嘆かはしい事だが、その危ふさに氣づいてゐる新聞記者が皆無といふ譯ではない。七月二十六日付毎日に載つたワシントン駐在寺村特派員の文章を私は興味深く讀んだ。寺村特派員によれば、ブルメンソール前財務長官は「臆病な政治家たちや世論調査の結果ばかりに氣を取られてゐる愚かな人たち」を批判して「幻想にとらはれることなしに、あるがままに現實を直視しなければならない」と言つたといふ。ブルメンソール氏は「專門家の意見よりも、大衆がどう考へるかですべてを判斷しようとするホワイトハウスにウンザリしてゐた」といふ。政治家が俗受けを氣にし過ぎる事の危險は、夙にトックヴィルが指摘したところである。アメリカの大統領選擧が行はれる時期は「國民的危機」である、なぜなら大統領は「自己防衞で心が一杯になつて」をり、「國益のために政治」を行はうとせず「再選のために政治を行ふ」やうになるからで、大統領は「多數者の前に平身低頭(中略)、多數者の氣まぐれに媚びる」(井伊玄太郎譯)やうになると、トックヴィルは書いてゐる。
もとより「大衆がどう考へるかですべてを判斷しようとする」のはアメリカの大統領に限らない。七月二十五日付の日經は、先に公表された防衞白書について論じ、「有事の際、米第七艦隊が、日米ルートをはじめとする海上交通路を維持する能力があるか否かは日本にとつて重大な關心事」であり、しかも、現在の「状況のもとでは、米軍の日本への大規模な來援は困難が伴ふはず」であるにも拘らず、「白書はその對應策には觸れてゐない」と書いてゐる。なぜ白書はそれに觸れないのか。言はずもがな、防衞庁もまた世論に氣兼ねしてゐるのである。だが、七月二十四日付のサンケイが書いてゐるやうに、國際軍事情勢に即した對應策を考へぬ防衞白書などは、所詮「防衞お伽噺」に過ぎない。
しかるに、七月二十五日付の朝日は「防衞庁が國民世論が變化したとみて、軍事的な視点に偏つた“押せ押せ”ムードにひたるとするなら、折角できかけた國民合意に逆行することになるかもしれない」と書いてゐる。朝日もまた「國民合意」なるものを神聖視してゐる譯である。朝日は世論にさへ「逆行」しなければよいので、論理の破綻などは意に介さない。それゆゑ、朝鮮半島の「平和と安定」が日本の「平和と安定に關係」する事は認めながら、南北の對立に卷き込まれるな、などと主張する。奇怪千萬なる論法である。さういふ身勝手が個人にとつてと同樣國家にとつても可能かどうか、それは論を俟たない。 
何とも空しい茶番狂言
以下に引用するのは小學六年生の作文の一部である。
「ポチが死んだ」といふことが、なぜか、まだぼくにはピンと來ません。犬小屋へ行けば、いまでもすり寄つて來て、あのなまあつたかい息を、フーツとふきかけてくるやうな氣がしてなりません。「ポチ!」と聲をかけると、いまにもむつくり起き上がつて「何を騒いでるの?」とでもいふやうにゆつくり歩き出すのではないか、といふ氣がします。
次に引用するのは九月四日付朝日の記事の一部である。
「ランランが死んだ」といふ事實が、なぜか、まだ中川さんにはピンと來ない。パンダ舎へ行けば、いまでもすり寄つてきて、あのなまあつたかい息を、フーツとふきかけてくるやうな氣がしてならない。「ランラン!」と聲をかけると、いまにもむつくり起き上がつて「何を騒いでるの?」とでもいふやうにゆつくり歩き出すのではないか、と。
解説するには及ぶまい。朝日の記者の純情に讀者は笑ひころげたであらう。よい年をして、たかが畜生一頭の死について、思入れたつぷりに、朝日の記者は幼稚極まる文章を綴つた譯である。朝日に限らない、同日付のサンケイは、第一面でランランの死を詳細に報じながら、落語家圓生の死については何と十七面で報じたのであり、これまた正氣の沙汰とは思はれぬ。圓生はよくよく不運な男である。一日早く、或いは一日おそく死ねばよかつたのである。
同日付の東京新聞もまた、ランランの危篤を知らされた大平首相が「あまりにもそつけない應答」をしたと、不服げに愚劣な文章を綴つてゐる。首相が涙でも流せば、東京はさぞかし喜んだ事であらう。齋藤緑雨は昔、「涙ばかり貴きは無しとかや。されどあくびしたる時にも出づるものなり」と書いた。この種の冷靜な諧謔の精神こそ、とかく情緒的になりがちの日本人にとつて何よりも必要なものである。九月四日付の朝日によれば、黒柳徹子女史は「こんなに突然、不幸な事になるなんて、涙が止まりません。(中略)ひとり殘されたカンカンがどんなにさびしがるか、それが氣の毒でなりません」と言つたといふ。何ともはや純眞な女性で、何ともはや幸福な女性である。黒柳女史の「止ま」らぬ涙とは、衣食足りて禮節を知らぬ國の住人の、何とも贅澤なセンチメンタリズムに過ぎない。治にゐて亂を忘れるのが人間の常である。が、それにしても新聞や黒柳女史の感傷は度が過ぎる。食料の九割近くを海外に依存する吾々は、食ふ物が無くなると人間がどこまで堕ちるものか、時々それを懸命に想像すべきである。コリン・ターンブルは『食ふ物をくれ』(筑摩書房)において、餓鬼道に堕ちた人間の姿を赤裸々に描いてゐる。それはアフリカのイク族の話で、食ふ物が極度に乏しい環境にあつてイク族は、親子兄弟でも助け合はうとはしない。父親が食ふ物を見つけると、それは父親だけが食ふ。子供は三歳になると獨力で食ふ物を捜さねばならず、空腹のあまり石や土を食ふ事もある。毎親にとつても三歳未滿の子供の面倒をみるのは苦痛であり、豹に赤ん坊を攫はれて安堵する母親もゐる。治にゐて亂を忘れ、ポルノ小説や探偵小説を樂しむ吾々は、たまにはかういふ鬼氣迫る話を讀む必要があると思ふ。
一方、九日四日付の日經によれば、或る「外交關係者」は「相手國の國民を引き付けるうへで、一頭のパンダは、どんな外交官にもまさる役割を果たしてゐる」と語つたといふ。その「外交關係者」は「パンダ大使の活躍ぶりに舌を卷い」てゐるといふのである。パンダが「外交官にもまさる役割を果た」すのなら、中國に外務省は要らぬ。せつせとパンダを交合、妊娠、出産させ、世界各國に派遣したらよい。ヴェトナムに「パンダ大使」を派遣しておけば、「ヴェトナム侵攻」なんぞをやらかさずに濟んだに相違無い。
とまれ、今囘のランラン騒動は狂氣の沙汰であり、日本の新聞は自國の恥を世界中に晒したのである。九月八日付の讀賣によれば、韓國日報は「どこの首相が死去したとしても、これほど騒がれないだろう」と書いたといふ。また、朝鮮日報は、今囘の騒動の因つて來る所として、日本のマスコミが「問題の本質や核心を正確につかめず空論を樂しむ形式美」に囚はれてゐる事實を指摘し、韓國に關する報道や論評も同樣であつて、「問題の本質には目をそらし」、「韓半島の安定と平和は緊要である」といつた類の「形式美だけを追求するのが、日本人特有の習性でもあるやうだ」と書いたさうである。その通りであつて、經濟的には日本に及ばぬ韓國に、吾々の精神面での脆さを見抜かれ、私は大層恥づかしく思ふ。日本の新聞は、「空論を樂し」み「形式美だけを追求」し、情緒的な綺麗事を書き捲る。「問題の本質や核心」に迫らうなどとはおよそ考へない。
例へば昨今、朝日と毎日は、サンケイの「マスコミ論壇」に倣つてか、新聞批判のコラムを設けたが、その本氣を私は大いに疑つてゐる。九月十二日付の朝日の「私の紙面批評」柳田邦男氏の執筆になるものだが、それは批評になつてゐない。『現代』十月號は痛裂な新聞批判をやつてゐるが、そこで辻村明氏は「新聞紙面での新聞批判にはおのづから限界があり、毒にも藥にもならないやうな批評が多い」と書いてゐる。
土臺、朝日の紙上で朝日を徹底的に叩けないのは餘りにも當然の事である。サンケイは「マスコミ論壇」を設けるに當り、「自社に對する齒に衣着せぬ批判をも掲載する」と讀者に公約した。私はその「マスコミ論壇」の執筆者の一人だが、サンケイの公約についてはそれを信じ切れずにゐる。もしも私が、週刊サンケイの惡口を本氣で書けば、サンケイは困惑するに違ひ無い。それゆゑ私は、サンケイ紙上では週刊サンケイ以外の週刊誌を叩く事にしてゐる。柳田氏にしても、もしも本氣で「紙面批評」をやる氣なら、朝日以外の新聞を叩き、朝日を叩くのは朝日以外の新聞のコラムに任せたらよいのである。朝日紙上で朝日を批評しようとすると、奥齒に物の挟まつたやうな言ひ廻しで、苦しげなおべんちやらを並べる羽目に陥る。例へば、七月二十三日付毎日新聞の寿岳章子氏の「新聞を讀んで」がさうであつた。毎日新聞がサッチャー首相の英語を「女言葉」に譯してゐるのが氣に入らぬなどと、寿岳氏は咎めるに價せぬ事を咎めてゐるが、これも決して本氣でない。その證拠に、すぐに寿岳氏は「しかしいつまでも怒つてゐるまい」と書き、自分は毎日の記事に「あたたかな目の毎日らしいのびやかさ」を感じ、毎日の「すばらしい写眞、すばらしい記事」に「多くををそは」つたと書いてゐる。何とも空しい茶番狂言である。見え透いたおべんちやらである。そしてこの種の阿諛追從の駄文を掲載して恥ぢない毎日も、本氣でおのれを省みようなどと決して思つてはゐないのである。
明治は遠くなりにけり
これまで私は新聞に惡態ばかりついて來たから、今囘は少しく新聞を褒めようと思ふ。九月二十四日付のサンケイは、その「主張」欄において、「上野動物園のパンダに涙を流」し感傷に浸つてをられるやうな今日の「太平ムード」を齊したものは、日本人の「“なんとかなるさ”精神」であつて、「それですむ間はよい」が、「それですまぬ事態が發生したらどうなるのか」と書き、日本人にとつて「いま必要なこと」は「正しいことは正しいといひ、をかしいことはをかしいといふ勇氣をもつこと」だと結んでゐる。全く同感である。が、他ならぬサンケイも「パンダ騒動」には浮かれたのであつて、「主張」の筆者もそれは憶えてゐる筈である。しかるに、筆者は敢へて同僚を窘める一文を草した譯であり、その勇氣を私は見上げたものだと思ふ。昔、齋藤縁雨は「奈何にせん私情と公義と遂に代へ難きを、予は既に身の犠牲たるを覺悟し居れば文學界の惡風習を除去するに於て怨まるるも怒らるるも忌まるるも嫌はるるも毫も拘らざるなり」と書いた。「私情と公義と遂に代へ難く」、サンケイの論説委員は同僚に「嫌はるる」もやむなしと考へたのだらうと思ふ。
同樣の理由から見事だと思つたのは、九月三日付の東京新聞「筆洗」欄の秀逸なる戯文である。前囘、紙幅の關係で引用できなかつたので、今囘ほぼ全文を引用しておく。
ランラン妃には、突然、御轉倒遊ばされ、(中略)侍醫拝診にみれば、急性ジン不全に渡らせられ、御血液は減少、御呼吸は不規則にて憂慮の極みと承る。愁色濃き上野山には、御平癒を祈らんとの三々五々來りては拝し、拝しては去る人々ひきも切らず。(中略)土下座してはるかに、御園を伏し拝みつつある老若をみて、某國特派員は写眞機にてこの姿を撮り収め、日本人のパンダヘの忠誠かくぞとばかり打電せし、とか。なかには某國大使館員にして、「あの動物は中國よりもらひ受けしものにあらずや、かくも嘆き悲しむ理由いかに」と問ふもあり。まこと、國を擧げての憂色、偉觀というべきや、奇觀といふべきや、その言葉を知らず。
猫も杓子も浮かれてゐる時に、かくも冷靜に戯文をものにした新聞人がゐたのかと、私は大いに感心した。畜生は所詮畜生、「國を擧げての憂色」はまさに「奇觀」である。
畜生といへば、十月七日付のサンケイは、第二十面に「“一圓玉募金”一千萬圓突破−全國の小學生から續々」といふ大きな見出しを掲げ、「クル病と鬪」つてゐた象の花子が「全國の花子フアンからの“一圓玉募金”」のお蔭で元氣になり、歩けるやうになつたといふ記事を、パンダ報道ほどではないものの、かなり派手な扱ひで載せ、第二十一面には、石川水穂記者の取材による或る不幸な家庭の物語を、象の花子の物語よりもずつと小さい扱ひで載せてゐる。。石川記者によれば、大浦マツさんといふ葛飾區の女性は「四年半前、夫と娘を交通事故でなくし、またこんどは手が不自由ながら明るく生きて心の支へでもあつた息子を輪禍に奪はれた」といふ。「藥害のため、生まれつき、兩手の指がくつついてゐた」息子は、練習を重ね「なんとか鉛筆やハシが持てるやうに」なり、「ふつうの子の二倍も三倍も勉強」して「國語でも算數でも常にトップクラス」であつた。その最愛の息子を失つたマツさんは「なんでうちばかりこんなに不幸が續くの」かと、涙聲で語つたさうである。
この種の不幸を記事にする場合、新聞記者は必ず惡玉を探し出す。政治家だの大企業だのを惡玉にして安心する。が、この世には誰のせゐでもない不幸、運が惡いとしか言ひ樣の無い不幸もあるのであり、サンケイの記事から知りうる限りでは、マツさんの不幸は正しくさういふ類の不幸だと思ふ。石川記者はそれを理解してゐるやうであつて、私は好感をもつた。「生きるハリのすべてを失つてしまつたこのお母さんに、どんな慰めの言葉もむなしいやうに思へてならない」と石川記者は書き、「生きてください」と言ふのが精一杯だつたと結んでゐる。安易なる同情の無力を言外に語つて立派である。
けれども、この石川記者の記事は小さな扱いで、象の花子の記事が大きく掲載されてゐたため、その「對照の妙」に私はいささか釋然としないものを感じた。象の花子の話は子供たちの善意を扱つて讀者を喜ばせる明るい話題だが、新聞がさういふ明るい話題を、解決の無い暗い話題よりも好む事に、私は少しくこだはるのである。人間誰しも、いかな「慰めの言葉もむなしい」やうな現實に直面する事がある。さういふ、解決の無い現實を直視する習慣を、泰平の世なればこそ、新聞はおのれにも讀者にも植ゑつけるやうに努めねばならぬ。
泰平の世には贋物が横行する。さういふ贋物の一人、外山滋比古氏を私は手酷く叩いた事がある。
サンケイの「世代百景」といふコラムには、その外山氏が書いてゐるが、あのやうな駄文をサンケイはいつまで掲載する積りなのか。十月九日付夕刊の「世代百景」には、自著のサイン會に出掛けたところ、「あひにくの雨」にも拘らず頗る盛況で「息つくひまもない」程の忙しさ、「一時間で二百三十冊」もサインしたと、外山氏は書いてゐる。
先日私は、敬愛する友人から「外山氏なんぞ屁のやうなものだから」、腹を立てるのも程々にしておけと忠告された。けれども昔、三昧道人といふ小説家が『吾亡妻』といふ作品を書き、匿名で自作を褒めるといふ、ふざけた眞似をした時、齋藤縁雨は大いに立腹し、三昧道人の作品は「世を欺きて涙を絞り掠めんとしたる」ものだと激しく難詰した。しかるに緑雨は鴎外にも窘められた。いや、鴎外のみならず、梅花道人は「三昧ごときを責むるは可愛想たり」と言ひ、不知庵主人は「三昧の文は酒落なり咎むる勿れ」と言ひ、抱一庵主人は「三昧にして世の指目にかかるあらば其は不文の罪なり深く問ふを要せず」と言つた。けれども縁雨は臆せず、これらの辯語論は「皆三昧一人のために辯語するものにして總體より云へるにあらず」とし、「假に三昧を辯語し得たりとするも此れより生ずる文界總體の弊害に頓着せざるが如きは予の飽まで肯ずる能はざる所なり」と書いたのである。
縁雨といふ男は大變な天邪鬼で私は好きである。鴎外は「匿名して自ら我著作を評せしためしは、古今の大家に少からず」と言ひドイツ文學界の例を引いたのだが、これに對して縁雨は、「ためしありためしあり」と言つて許すならば、昔の英雄豪傑は父殺しもやつてゐる、それも許すのか、と鴎外に反論したのであつた。
「善の大なるは惡に近く、惡の大なるは善に近し。(中略)善の小なるは之を新聞紙に見るべく、惡の大なるは之を修身書に見るべし」と縁雨は書いた。さういふ天邪鬼が本氣になつて三昧道人を叩いた事は、私には頗る興味がある。「悲むべし文學者の徳義これ程にも落ちぬ」と縁雨は書いたのだが、昭和の今、物書きまでがサイン會を開けるとは「明治は遠くなりにけり」といふ事であらう。
新聞は本音を吐かぬ
今囘、自民黨の内紛に際し、新聞は自民黨批判の文章を書き捲つたが、「識者」もまた新聞に迎合し、大いに「憂國」の情を吐露して樂しんだやうである。十一月四日付の東京新聞は、「醜態自民」に「我慢も限界」との見出しを付け「このお粗末な派閥爭ひはもはやマンガ並みだ」との「識者の聲」を紹介してゐる。また、十月三十一日付サンケイ新聞の「直言」欄には、東工大教授の芳賀綏氏が「拙攻拙守−野球ならぬ自民黨内のもたつき攻防は見るにたへず、論評の意欲も失つた」けれども、「そこへいくと、日本シリーズも早慶戰も、溌溂として秋空の爽やかさそのままだ」と書いてゐる。早慶戰の事はよく知らないが、プロ野球は大人の「攻防」で、裏ではかなり醜惡な驅引きも行はれてゐよう。「爽やか」だけでプロ野球の世界を渡つてゆける筈は無い。日本シリーズや早慶戰に「溌溂」だの「秋空の爽やかさ」だのと、齒が浮くやうな形容をして憚らぬとは何とも無邪氣な御仁だが、新聞は、さういふ無邪氣な識者を格別好むやうであり、それゆゑ新聞紙上では、幼稚な議論ばかりがのさばるのである。かつて齋藤縁雨は、この手の正義感の淺薄を片腹痛く思ひ、「車宿の親方の常に出入場を爭ふの故を以て、内閣大臣の偶々出入場を爭ふを不可とするの理をわれは發見する能はず」と書いた。「然り、發見する能はず、車宿の親方の果敢なるが故にあさましく、内閣大臣の然らざるが故にあさましからずといふの理をも發見する能はず」、さう縁雨は書いた。「出入場を爭」つてゐる自民黨の政治家も、部數擴張競爭に血道を上げてゐる新聞も、そのあさましさにおいて甲乙はない。それなら、おのれを棚に上げて正義漢を氣取るのはいい加減にして貰へまいか。
とまれ、今囘、自民黨の内紛を論じて、新聞も識者も數々の愚論を吐いた。例へば十一月一日付サンケイの「政局巷談」なるコラムに、千田恆編集委員は、「政治はわかりやすくなければならない」と書き、十月三十日付の讀賣は、「非主流も國民に分かりやすい行動をすべきである」と書き、さらに十一月三日付の讀賣には、明大教授の岡野加穂留氏が「与野黨とも、議院内閣制の原点に戻つて、政治行爲の一つひとつに對し、國民に分かりやすい、明確な責任處理をすべきだと思ふ」と述べてゐる。これらの意見に從へば、政治家はもつぱら「國民に分かりやすい行動」をしなければならないのに反し、國民の側は政治を解らうなどと少しも努めなくてもよい、といふ事になる。が、政治がそんなに理解し易いものになつたら、岡野氏のやうに「分かりやすい」解説しか書けぬ無能な政治學者の商賣は、上つたりにならないか。岡野氏の如き「分かりやすい」事しか言はぬ、いや言へぬ學者を、新聞が重宝がるのは、當然の事とは言へ嘆かはしい傾向である。「分かりやすい」議論には、必ずどこかにごまかしがある。そして、『月曜評論』十一月十九日號に漆山成美氏が書いてゐる通り、昨今ジャーナリストや政治家が瀕りに口にする「分かりやすい政治」といふ流行語は「ステレオタイプ化したスローガン」に過ぎず、その種の「單純明快」のみを重んじて「すべての事を割り切らうとすれば、複雜深刻な現實を把握」する事なんぞは不可能になる。が、新聞記者や凡庸な政治家にはさういふ事が解らない。愚昧なる正義漢はいつの世にも「單純明快」を好む。三角關係に苦しむ時も、彼等は「複雜深刻な現實を把握」しないものらしい。
とまれ、今囘、新聞は口を揃へて大平首相に退陣を迫つた。例へば十月三十一日付の朝日は、「一刻も早く」大平首相は「退陣聲明」を出さなければならない。そして「それを受けて」自民黨は「出直し」にふさわしい「新指導者を國民に示」さなければならず、「それができないのでは、政權政黨の資格はなく、前途に待ち受けるのは自民黨衰退・分裂への道である」と書いてゐる。が、安定多數こそ確保できなかつたけれども、依然として自民黨は第一黨なのであり、實質的に衆議院の過半數を制してゐる。なぜ大平氏が退陣聲明を出さなければならないのか。なぜ自民黨が「敗北」した事になるのか。「敗北」したのは自民黨ではない、新聞である。土臺、選擧の予想などといふものは要らざるお節介だが、それはともかく、當らなかつた八卦見が、おのが不明を恥ぢず、八卦見を信じてしくじつた客を詰るとは言語道斷である。十一月七日付の日經は「たとへ安定多數はとれなくても、選擧の結果、自民黨が衆院で實質過半數の勢力を維持しえた以上、大平首相が退陣すべき必然性はない」と書いた。この日經の冷靜な認識を、私は頗る貴重だと思ふ。
新聞は今囘、「自民黨にうんざりした」などと、いかにも自民黨に愛想づかしをしたかのやうた事を書いた。けれども、それは決して本音ではない。新聞は決して本音を吐かない。例へば、十月三十一日付讀賣の「編集手帳」は、「首相の座をめぐる抗爭をのんびりゆつくり繰り廣げることができるのは、日本がそれなりにめぐまれてゐるから」であつて、「これが剛構造の獨裁國なら、政權抗爭はこんな形では國民の目にさらされず、密室の中で進められ、ある日突然クーデター、テロや一大粛清といつた物騒な局面となる」と書き、「抗爭が長引く」背景には、「日本の社會が平等、民主的で政治エリートや獨裁者の存在を許さないといつた事情もあるに違ひない」と書いてゐる。「編集手帳」の筆者は、朴大統領が暗殺された韓國と比較して、天下泰平の日本國をよしとしてゐる譯である。では、それは彼の本音か。勿論さうではない。筆者はつづけて「ヘンに強力な首相にがむしやらに狂亂物價や増税政策を推進されても困る」が、さりとて「國政への責任を放棄してこの程度の空白は民主主義のやむを得ぬ代價だとうそぶかれても困る」と書いてゐるからである。この種の「公正」にして「不偏不黨」の論議はもう澤山だと思ふ。「公正」で「不偏不黨」の論議は必ず愚論であり、俗受けを狙つて愚論を吐く者には決して本音を吐くだけの勇氣がない。「ヘンに誠實な女房にがむしやらに尽くされても困るが」、さりとて「家政への責任を放棄してこの程度の混亂は男女同權のやむを得ぬ代價だとうそぶかれても困る」といふのは、大方の男性の身勝手な願ひかも知れないが、現實にはさういふ身勝手がそのまま通用する事は決して無いのである。さういふ事を、新聞記者は一度とくと考へてみたらよい。女と附合ふ事も政治をやる事も、政治について駄文を草する事も、いづれも人間のやる事なので、さしたる懸隔は無い。新聞記者も政治家も大學教授も、三角關係に苦しむ時があるだらう。そしてその時は、必ず、馬鹿は馬鹿なりに「複雜深刻な現實を把握」する筈である。それなのに新聞記者は、ひとたびペンを握ると、催眠術を施されたかの如く、俗受けを狙つて「單純明快」を志すやうになる。それは二流三流の政治學者や新聞記者の度し難い惡習なのである。 
惡を認め、惡を忍べ
人間を善玉と惡玉に二分するのはメロドラマの發想である。それは當然女子供しか動かせない。一人前の大人ならこの世に完全な善玉も惡玉も存在しないといふ事くらゐは承知してゐるからである。しかるに、甚だ奇怪な事ながら、吾國のジャーナリストの大半は半人前であつて、それゆゑ例へば、彼等にとつて北朝鮮は善玉で韓國は惡玉といふ事になる。その点については本誌十一月號で、辻村明氏が痛烈に批判してゐた通りである。日本のマスコミには半人前の大人子供がのさばつてゐる。彼等は自分の心の中を覗かないし、覗いてもそれを氣にしない。日本のマスコミを青臭いいんちき正義漢
が横行閥歩するのはそのためであり、私はその事を何よりも苦々しく思つてゐる。
自分の心の中を覗くとはどういふ事か。自分の心の中に樣々な醜い情念が渦卷いてゐる事を知る事である。吾々が人間である限り、吾々の心中にはヒットラー氏やアミン氏が、田中角榮氏や大久保清氏が潜んでゐる。日本赤軍のコマンドも潜んでゐよう。人間が人間である事がよい事ならば、吾々は心中の醜い情念と戰はなくてはならないが、そのためにはまづ、さういふ情念の存在を認めなければならない。が、大方の新聞記者は、他人の不正を指彈する時に限つて自らを省みる事を忘れるのである。例へば彼等は、自民黨の派閥爭ひを批判し、社會黨の内紛に遺憾の念を表するが、派閥無き社會などといふものは、古今東西、いまだかつて存在した例が無い。いづれ福田内閣も改造を行ふであらうが、その際、新聞は必ず派閥均衡人事を批判するであらう。が、私は新聞記者に問ひたい、派閥の存在しない新聞社といふものが一社でもあるのか。あるたら是非ともその社名を教へて貰ひたい。それはきつと箸にも棒にもかからぬ脇抜け腰抜けの集團であるに違ひ無い。
私は派閥爭ひをよき事だと言つてゐるのではない。派閥に弊害が伴ふ事くらゐどんな馬鹿でも承知してゐよう。が、物事の弊害を恐れるだけでは政治家は何もやれぬ、清潔を心懸けるだけでは國家は保てぬ。綺麗事を並べ立てた都知事も前首相も、その統治能力を疑はれてゐるではないか。
「人間は何もしないよりは惡を犯したはうがいい」とT・S・エリオットは書いた。勿論これは逆説だが、この逆説くらゐ日本の新聞記者にとつて理解しにくいものは無いであらう。エリオットは小惡黨の泥棒や政治家は「地獄へも行けぬ情無い手合」だと言つてゐるのだが、惡事を犯して平然としてゐられる手合はもとより、善を稱へて平然としてゐられる手合も、人間としては出來損ひなのである。ジャーナリストたる者は自分の心中を覗き、惡を認め、惡を忍んで貰ひたい。マスコミに對する私の注文はそれに尽きる。 
3 世相を斬る 

 

「灰色高官」の人權
去る二十六日、三木首相は内閣記者團と會見し、「國民の眞實を知りないといふ權利については、最大限こたへたいとの決意にいささかも變りが無い」むね強調し、ロッキード事件の眞相究明がすべてに先行しなければならないと述べたさうである。眞實を知る事が幸福に繋がるかどうかはいささか疑はしいと書けば、多分讀者は私が贈収賄を肯定したがつてゐると受取るかも知れないが、三木首相の本意はともかく、ロッキード事件の眞相究明をすべてに先行させ、その結果いかやうの政情不安を招來しようと一向に構はぬといふ考へ方に私はついてゆけない。かつて造船疑獄の折、犬養法相は指揮權を發動して顰蹙を買つたけれども、時に國民の「知る權利」を無視する事が國民の幸福に繋がるといふ判斷が間違つてゐるとは言切れないと思ふ。なぜなら、眞實を知る事が、或いは知らせる事が、人を不幸にするといふ事もあるからであつて、それが納得出來ぬ讀者には、イプセンの戯曲『野鴨』の一讀を勸めたい。
といつて、私は贈収賄を肯定してゐる譯ではない。斷然さうではない。それはけちくさく淺ましい惡である。そんた事は解り切つてゐる。が、この世の權力機構はいづれも不完全なものなのである。要は程度問題なのだ。いささかの惡をも許容せぬ極度の潔癖は、清潔を表看板とする(無能ならぬ)苛酷な圧制を招來するかも知れないのである。
とまれ、昨今ロッキード事件の眞相究明を叫ぶ人々の議論はいささかヒステリックであり、殊にあくまでも「灰色高官名」を公表すべしと主張するが如きはまつたく非常識だと思ふ。「灰色高官名」は公表されないだらうと私は思ふし、また公表さるべきではない。なぜなら「灰色高官」にも基本的人權なるものは確かにあるのだし、「疑はしきは罰せず」が法の精神ならば、「黒色高官」ならばともかく、灰色の段階にとどまつてゐる限り、その政治生命を絶つに等しい輕はづみは許されない筈だからである。
無能と清潔
自民黨の椎名副總裁が畫策してゐるいはゆる「三木追落し」については、新聞も世論も批判的なやうであつて、サンケイ新聞が五月二十八日に行つた調査によると、三木内閣の支持率は四十一パーセントで、先月より十六パーセントも上昇したさうである。私は世論なるものをあまり信用しない質であり、また信用しなくても一向に困らない立場にあるのだが、自民黨副總裁ともなればやはり多少は世論の動向を氣にせざるをえないのであらうか、最近椎名氏は「力による三木追落し戰術」を轉換する意向を表明したとの事である。もとより、話合ひによる圓滿な政局轉換が可能ならそれに越したことはないけれで(ど)も、椎名氏が、「三木追落し」に大義名分無しとする世論に氣圧され、追落し工作そのものを斷念するやうな事にだけはなつて欲しくない。
つまり、かく申す私は、三木退陣を望んでをり、三木追落し工作には立派な「大義名分」があると考へてゐるわけである。三木氏は首相として總裁として無能である、そして清潔かも知れぬが無能な人物にこれ以上國政を任せるわけにはゆかぬ、三木追落しの「大義名分」としてはこれだけで充分だと私は思ふ。では、何を根拠に私は三木氏を無能と決め込むのか。先の國會で重要法案を議了出來なかつたとか、黨の近代化に熱意を示さなかつたとか、さういふ事ではない。椎名裁定により三木總裁が誕生した時には、自民黨員の大半が三木氏を支持した筈である。それが今、反三木が自民黨の大勢となつてしまつてゐる。だから三木氏は無能だと私は言ひたいのだ。
或る組織の成員の過半數の支持をえられなくなつたとすれば、それは統率者として無能だつたといふ事なのである。そしてその場合、統率者の言分が正しいか否かは問題にならない。いかに正しからうと、いかに清潔であらうと、過半數の支持を得られなくなつた統率者は無力であり無能なのである。數は正義なり、それが民主主義といふものなのだ。
知らせる義務
先週の拙文を讀んだ二人の讀者から電話がかかつて來た。一人はいささか感情的で、電話を受けた愚妻の話では「灰色高官なんぞは人間ぢやない、大學教授ともあらう者がくだらぬ事を書く」とか言つたさうである。昨今は大學教授もずゐぶんくだらぬ事を書いてゐるのだから、今、やつとそれがお解りになつたとすれば、それはそれで結構な事だと思ふ。
もう一人は、これもまた抗議の電話ではあつたが、節度ある言葉づかいで、私も鄭重に答へたが、殘念ながら納得しては貰へなかつた。限られた紙數では、今囘もまた新たな誤解を招くだけに終るかも知れないが、前囘言落した事を書いておきたい。
國民の知る權利を無視する事が國民の幸福に繋がるといふ判斷が間違つてゐるとは言切れない、と先先週私は書いた。さうなると、新聞や雜誌の使命は一體どういふ事になるのか。新聞雜誌には國民に眞實を知らせる義務がある筈である。例へば一昨年、文藝春秋は「田中角榮研究」なる一文を掲載する事によつて田中内閣を崩壞せしめた。あれを要らざるお節介などと私は毛頭考へてゐない。また、サンケイ新聞は、いはゆる宮本復權問題に關しても、時に日共を利すると思はれるやうな事柄であらうと、事實は事實として報道するといふ姿勢を崩してはゐない。それを私は見上げた根性だと思つてゐるのである。
つまりかういふ事なのだ。吾々は所詮不完全で、絶えず惡事や過ちを犯すものなのである。從つて、もはや神を畏れぬとしても、吾々はせめて他者の告發を恐れねばならない。とすれば、ロッキード事件の眞相を、檢察庁は情け容赦なく究明したらよいのだし、新聞雜誌も「黒色古同官名」を知つた場合は、その「知らせる義務」を斷然果したらいい。ただし、政府高官のはうも、眞實を知られる事が國民の不幸に繋がると信じた場合は、眞相を隠蔽すべく人知の限りをつくせばよいのである。高坂正堯氏の言ふ通り、この世に巧みに仕組まれた裁判や偽證はいくらもあらうが、それが‘大體’法の枠内で行はれる限り、本物の暴政には決して至らないものなのだ。
誘導と煽動
先日、大新聞ならぬ小新聞を買ひ求め、一讀してその文章の杜撰に呆れ返つた。
例へばかういふ文章である。「政治休戰中はいつさい表面に出ないはずの椎名自民黨副總裁が、鬼のゐぬ間のなんとやらで、三木首相の留守中、新聞・テレビのインタビューに出まくつて、いひたい放題をいつてのけた」
この文章の粗雜については贅言を要すまい。鬼のゐぬ間の洗濯と言ふ場合の鬼とは、洗濯をする者にとつて畏敬ないし恐怖の對象なのであり、椎名氏が三木氏を鬼の樣に恐れてゐる筈は無いから、この譬へはおよそ無意味である。文章といふものは書き手の知能を的確に示すものだから、この種の惡文は嘲笑つて見過せばいいかと言ふと決してさうではない。なぜなら杜撰な文章を書く新聞記者が身のほどを弁へず、卑劣な手段を弄して民衆を煽動するといふ事があるからで、その好箇の例を、私は見出したのである。
それは、一枚の写眞につけられたキャプションで、写眞には左端に三木首相、右端に稲葉法相、そして兩者の中央に大平藏相の、あの細い目であらぬ方を眺め、「泣き出しさうな」とも「迷惑さうな」とも「退屈さうな」とも形容し得る表情が写つてをり、そして、その写眞は「これだけ擧がつてゐる自民黨の‘疑惑者’たち」といふお粗末な記事の中に挿入されてゐるのであつて、當然記者は、大平氏をロッキード事件の被疑者と見なし、そこへ讀者を誘導しようとしてゐる譯である。これは惡しき新聞記者の常套手段なのだ。
かういふ卑劣な誘導をジャーナリストたるものは、斷じて行つてはならない。そして、大新聞も往々にしてこの種の誘導を行ふから、私はここで、馬鹿念を押しておきたいのだが、例へばロッキード事件に關し、政府高官が檢察庁に呼ばれたとして、その高官がダークスーツに中折れ帽、黒メガネといふ裝ひで、やくざの親分としか見えぬ有樣であつたとする。それでも新聞記者は、斷じてその印象を書いてはならないのである。やくざとしか見えぬと讀者が思ふのはこれは讀者の勝手だが、新聞が「どうだやくざのやうに見えるだろう」と書くのは越權行爲であり、さういふ誘導は何時でも煽動に轉じるものだからである。 
葬式と結婚式
どんな馬鹿でも一生のうち二囘だけ主役を演じる事が出來て、それは結婚式と葬式のときであると、何かの本で讀んだ事がある。確かにその通りだと思ふけれども、義理で付き合ふ立場からすれば、葬式のはうが結婚式よりも、いや結婚披露宴よりも、本氣になれるのではないか。「花嫁に對しては常に嫉妬、死體に對しては常に善意、それが人情といふものだ」といふ名せりふが、J・M・バリーの芝居にあつたけれども、恨み骨髄に徹するほど憎んでゐた敵であつても、その死體ををさめた棺桶を前にして燒香する段ともなれば、人間、思はず知らず善意の塊と化するのである。
さういふ譯で、私は結婚披露宴が好きになれないのだが、それは他人の幸福に付き合ふよりも不幸に付き合ふはうが本氣になれるといふ、けしからぬ根性のせゐだけではなくて、結婚披露宴のありやうを頗る疑問に思つてゐるからでもある。三々九度とウエディング・ケーキとメンデルスゾーンといふ和洋折衷の馬鹿らしさもさることながら、仲人の挨拶の紋切型は仕方無いとしても、招かれた客が次々に立ち、お祝ひの言葉と稱して新郎新婦の、私的な愚にもつかぬエピソードを披露するあの藝の無さに、私は毎度不快な思ひをさせられる。
どうやら吾々日本人は、私的なものと公的なものとのけぢめをつけるのが不得手のやうであり、その證拠に吾國の近代文學は、私小説といふ奇怪な大人の作文を久しくのさばらせて來た。そして、さういふ作家の身邊雜記を好意的に讀む讀者も、授業中の教師の(學生に媚びんがための)私事にわたる脱線を喜ぶ學生も、他者の甘つたれに對して極度に寛大なのであり、それは要するに、彼等の自我が頗る脆弱だからなので、脆弱だからこそ、他人の甘えを許すとともに、おのれもまた私事を披露して憚らぬ譯である。が、私事のために他人を煩はすのは、おのれが死んだ時だけで充分である、と、まあ、少くともさういふ心構へで吾々は生きてゆくべきなのだ。 
「河野新黨」の前途
自民黨を離黨し、新自由クラブを結成した河野洋平氏たちの行動について、世間はおほむねこれを歓迎し、その前途を祝福してゐるやうである。青嵐會の渡邊美知雄氏によれば、河野氏たち六人は「家の中がおもしろくないと言ふので荷物を纒めて出て行く家出娘」だといふ事になるのだが、さういふ冷靜な評價はむしろ珍らしく、この問題をめぐる新聞のはしやぎやうを窘めた或るミニコミ紙の論文の筆者さへ、河野氏たちが現在の自民黨の腐敗に我慢がならず、「保守黨の再生のために身を殺して仁をなす事に踏切つた勇氣そのものは、高く評價されて」しかるべきだと書いてゐるほどである。
私は八卦見ではないから、「河野新黨」の前途が先太りか先細りかについての予斷は控へる。勿論、先細りとなるやう祈つてゐるし、また多分さうなるだらうと思つてゐるが、ひよつとすると先太りになるかもしれぬといふ一抹の不安もあるのであり、それは河野氏たちの義に勇み立つ偽善的な行動を、世間が一向に疑はうとしないからである。
と言つて私は、河野氏たちも金權政治と無縁ではあるまいなどといふ事が言ひたいのではない。河野氏は去る二十六日、「國民のための政治といふより國民が中心になつた政治を取り返す事が重要」だと演説して、聽衆のやんやの喝釆を浴びたらしいが、かういふおよそ大雜把な甘い言葉に、日本國民はいつになつたら堪能するのであらうか。これが河野氏の本音なら、それは意識せぬ偽善で幼稚であり、さういふ勇み肌の坊ちやんの前途に私は何の期待も抱く事は出來ないし、また本音でないとすると、それは意識的な僞善にほかならず、それなら河野氏も大方の代議士諸公と同樣同じ穴の貉であるから離黨の必然性は無いといふ事になる。
從つて私は、河野氏が義に勇み立つてゐるのだと解釋するけれども、遺憾ながら世間はこの種の意識せぬ偽善の危ふさを充分に認識してゐず、それゆゑ「河野新黨」先太りの危險ありと、私は考へて、憂鬱になる譯である。
偏向教育
まづ笑話を一つ。友人の小學二年生になる娘が、或る日ゴレンジャーだかグレンダイザーだか、とにかく勸善懲惡的テレビ番組を見終つてから、かう言つたのださうである、「お父さん、先生が言つたけど、西城秀樹つて惡い人なんだつてね」。
小學二年生を相手に流行歌手のスキャンダルについて教場で語るとはいささか腑に落ちぬと思つた友人が問ひ質してみると、西城秀樹は澤山の日本人を殺したから惡い奴だと、担任の教師が言つたらしい、といふ事が解つた。要するに友人の娘は、東條英機を西城秀樹と勘違ひしてゐた譯である。
これが笑話ですむのは偏向教育を受ける生徒が低學年だからであり、折角の教師の努力が水泡に歸した事が滑稽なのだが、中學生や高校生相手の偏向教育となると、これは決して笑つてはをられぬ、と言つて、子供の前で教師を批判するのも望ましい事ではないし、とにかく偏向教育對策を文部省は眞劍に考へて貰ひたい、と友人は頗る熱つぽく語つたのであつた。
もとより私も偏向教育を嘆かはしい現象だと思つてゐるが、文部省にその是正が出來るとは思つてゐない。ここで文部省を批判する餘地は無いが、左寄りの偏向教育を是正するための最も効果的かつ抜本的な對策は右寄りの偏向教育なのであり、つまり毒を制するには毒をもつてすべきなのだが、中立といふ事をよき事と考へたがる文部省には、いや政府には、それを實行に移す勇氣はまづ無いであろう。
けれどもここで私ボ指摘しておきたいのは、小學校は知らず大學においては、保守的な教師がとかくおのが政治的見解を會議の席や教場で語りたがらず、政治的中立ないし非體制の立場をとりたがるといふ事實、および政治的中立を宗とする教師よりも進歩派の教師のはうが、概して授業に熱心だといふ事實である。中立は無能の隠れ蓑になりうるものなのだ。
無能と人權
ここに一人、どう仕樣も無いほど無能な女の小學校の教師がゐる。教へ方が下手で、度々間違つた事を教へ、思想的に少しく偏向してゐるらしいのだが、いはゆる偏向教育をやる餘裕も無いくらゐ五里霧中で、それに何より教師としての權威がまるで無く、生徒が反對すればたわいも無く自説を撒囘してしまふ。生徒は教師をなめきつて、教室は無政府状態となり、とても落着いて勉強出來るやうな雰囲氣ではない。かくて生徒の學力は急激に低下する事となる。そこで父兄は、と言つても主として母親だが、寄り集つて互ひに憤懣をぶちまけ、かつ對策を練るといふ事になる。
ところで、運惡くかういふ無能な教師にわが子を託する事となつた場合、父兄は一體どうすればよいか。まづは觀念する事である。教室で生徒がすごす時間を全くの無駄と觀念し、教師を激励してその向上を促す事も、教育長や校長に抗議する事も所詮徒労と知るべきなのだ。
なぜなら、必死の努力を傾けても有能とはなしえぬ、或いはなりえぬ無能といふものはこの世に確かに存在するからであり、また、例外は無論あらうが、大方の教育長や校長は中立をもつて保身の術と心得てゐるからである。つまり吾國においては中立とは少しく左寄りの事であるから、教育長や校長が、イデオロギーを同じうする教師の人權はとかく闇雲に擁護したがる組合に對し、強い姿勢を示す事などまづ期待出來ないのである。人權擁護とは無能の擁護なのだ。
ところで、ついでに付け加へておくが、運が惡いと諦めて子供を放置しておけと私は言つてゐるのではない。家庭教師をつけるなり、塾へ通はせるなり、學力を向上させる爲の手立てはある筈である。但し、子供はいづれ教師を輕蔑するやうになるに相違無いから、その輕蔑が大人に對する不信といふ甘つたれに變ずる事のないやう、家庭における躾をかなり嚴格なものとしなければならない。が、當節の軟弱で物解りのよい親にとつて、それは頗るつきの難事なのではあるまいか。
自民黨への注文
田中前首相が逮捕されて以來、いはゆる自民黨の金權體質が指彈され、自民黨は結黨以來最大の危機に直面してゐるさうであり、自民黨がこれを契機に徹底的な出直し的改革を行ひ粛黨の實をあげない限り、衆參兩院における保革逆轉は必至だと人々は考へてゐるやうである。
どうやら自民黨員の大半が粛然と襟を正してゐるらしい現在、水を差すやうな事を言ひたくはないけれども、そしてまた、自民黨に改革すべき点が多々あるといふ事は認めるけれども、改革だの粛黨だのといふ作業がさう簡單に捗るとは私は思はない。まして徹底的な出直し的改革など、到底不可能だと思う。
なぜなら、すべて物事を徹底させるには強大な權力の集中が必要だけれども、それは全體主義國のみ可能な事であつて、前首相が逮捕されるやうな國においてはそれほどの權力の集中はありえないからである。
といふ譯で、汚職の根絶は所詮不可能だと私は考へてゐるのだが、昨今政治家は、与野黨の別無く、國民に向かつて綺麗事を並べ立てる癖がついてをり、國民もまた政治に清潔のみを期待してゐるやうに思はれるから、この際自民黨が、「一致團結して積年の弊を取除く」云々の誓言を立てるのはやむをえないであらう。だが、今なほ自民黨を支持する者の一人として、私は自民黨に一つ苦言を呈したい。人は時に金で動くのである。それは間違ひ無い。が、人間には金で動かぬ何かも必要なのである。早い話が、金錢上の惱みが自殺の原因のすべてではないのであり、それはつまり「人はパンのみにて生くるものにあらず」といふ事なのである。
が、池田内閣以來の自民黨は、パンを与へさへすれば國民の支持が得られると思ひ込んでゐる。それこそ途方も無い勘違ひであつて、自民黨にはこの際、その点を大いに反省して貰ひたいと思ふ。利をもつて釣り上げた支持者は理に服してはゐないのである。
それ見たか
先日、毎週金曜日のこの「直言」欄を讀んで憤激してゐるといふ高校の教師から電話があつて、お前は「歴史の流れに逆行してゐるドン・キホーテ」である、それゆゑお前の予言は悉く外れるであらう、お前が提灯を持つた椎名副總裁の三木追落し工作は挫折した、それ見たか、灰色高官名も公表されるに決つてゐるし、「河野新黨」も必ず先太りになる、お前はまだ若いらしいから、「コーチャンを信ずるな」などと先走つて輕薄な事を書いた會田雄次氏のやうな頓馬を見倣はぬやうにせよと、せせら笑ふやうな調子で忠告してくれた。性來短氣な私は散々言ひ返し、會田氏に對する不滿は電話代を惜しまず京都の會田氏にぶつけてくれ、と言つて電話を切つたけれども、暫くは頗る不快であつた。先方も私にやりこめられて頗る不快だつたであらう。全く不毛な、馬鹿らしい話である。
「歴史の流れ」といふものがあつて物事はすべて予め定められた結末へと向つて行くのだといふ考へ方からすれば、時流に抗する者もいづれは必ず節を折り、流れに棹さすやうになる、といふ事になる譯であらう。實際その通りなのかも知れないのであつて、政治家やマスコミが世論に迎合し、時流に身を委ねる氣樂を享受しつつある今日、時流に逆ふ發言がすべて封じられ、「頓馬」が鳴りを靜める日はさう遠くないのかも知れない。
ここまで書いて來た時、檢察庁が外爲法違反の容疑で田中角榮氏を逮捕した事を知つた。「それ見たか」氏が再び電話をかけて來ないやうここで斷つておきたいが、田中前首相が逮捕されたからとて、ロッキード事件に關する私の考へはいささかも變らない。その理由を書くのは實に不本意だが、灰色高官の人權をも尊重すべしと書いた時、私は汚職を擁護した譯ではないからだ。もとより會田氏も同樣である。
だが、そんな事を言つても所詮は無駄であらう。ロッキード事件の解明をすべてに先行させよと主張して來た手合は「それ見たか」と快哉を叫び、徹底的な政界淨化を政治家に要求しつづけるに違ひ無い。それも結構、大いにやつたらよい。日本は今、幸か不幸か頗る平和だからである。
敵の所在
今年の二月、ニューズウィーク誌に載つてゐた西ドイツの外相ハンス・ディートリヒ・ゲンシャー會見記を讀み、色々と考へさせられた。と言つても、ゲンシャーが格別深遠な外交哲學を開陳してゐた譯ではない。ゲンシャーはデタントの幻想に酔ふな、ソ連を信用するな、共産黨との連立は考へるなと言つてゐるのだが、さういふ事は別に耳新しい警告ではない。ただ私は、日本の外相なら決して言はぬ類の事を、或いは言へぬ類の事をゲンシャーが事も無げに言つてゐるのを、頗る興味深く思つたのである。
例へばゲンシャーは、このままソ連の海軍力が増強されてゆけば、一朝有事の際、ヨーロッパとアメリカとの間の水路は危殆に瀕するであらう、西側の指導者は自主防衞の意志を固めるとともに國内の自由の敵と戰はねばならぬと言つてゐるのだが、内政においても外交においても戰ふべき敵を明示したこの發言を、このほど日本政府が發表した防衞白書と較べてみるとよい。白書には「米ソは強い相互不信感を持つてをり」、「デタントには限界」があるけれども、「わが國の場合、憲法九条の規定からその防衞力は專守防衞のものでなければなら」ず、「防衞力を保持する意義は、有事で戰ふことにあるといふよりも平和の維持のために機能することにある」と書いてあるのだ。
私は宮澤外相や坂田防衞庁長官を無能な政治家だとは思つてゐない。ただ、政府自民黨が外交においても内政においても戰ふべき敵を明示せずにゐる現状を不滿に思ふのである。人の褌で相撲を取る事も、漁夫の利を占める事も、確かに知慧の一種ではあらうが、アメリカがいつまでも安保の只乘りを許すとは思へないし、敵の所在が不明ないし曖昧では、自衞隊のみならず一般民衆も、國を守る氣概を持ちはせぬ。そして、愛國心の無い國民が政府を積極的に支持する筈は無いのである。
政府自民黨は、自由社會と全體主義社會のいづれを選ぶか、その選択を國民に迫るべきである。さもないと、自民黨の凋落傾向に齒止めをかける事など到底出來ぬであらう。 
ぐうたらに神風
先日、佐伯彰一氏及び吉田夏彦氏と話合ふ機會があり、日本共産黨の前途といふ事が話題になつた。その折にも喋つた事だけれども、日共は日本といふ特殊な風土の中で風化してしまふのではないか、と私は考へてゐるのである。少くともイタリア、フランスにおける友黨ほどの勢力は到底獲得出來ないだらうと思ふ。來年の參院選における保革逆轉は必至であり、一九八○年代には革新政權が誕生すると考へる向きもあるけれども、萬一さういふ事態になつたとしても、それは決して共産黨主導型の革新政權ではないであらう。つまり私は、共産黨單獨政權誕生の可能性は皆無だと考へる。日本といふ國は大層有難い國であつて、國難の際には必ず神風が吹くやうになつてゐるからである。
思へば大東亞戰爭に敗れてアメリカに占領された事が戰後の神風第一號だつたのであり、もしもソ連に占領されてゐたら日本の今日の繁榮は無かつた筈である。また、朝鮮戰爭とヴェトナム戰爭でアメリカは自國の青年の血を流したが、日本は平和憲法のお蔭で戰爭に卷き込まれず、それどころか特需によつてしこたま儲け、世界屈指の經濟大國に伸上つたのであつて、してみれば二つの戰爭はいづれも日本にとつての神風だつたと言へるのである。二度ある事は三度ある。そして三度ある事は四度も五度もある筈だ。さうなのだ、日本人はぐうたらにしてゐて大丈夫、必ず必ず神風が吹くのである。
それを思ふと私は時々無性に虚しい氣持になる。先週「敵の所在」と題する文章を書いてゐた時もさうであつたし、日共の微笑戰術に騙されるなと學生たちに説く時もさうである。つまり、さう物事を深刻に考へる必要は無い、必ず神風が吹き、神國日本は千代に八千代に安泰なのだ、といふ心中の聲を私は聞く譯なのだ。
ジョージ・スタイナーは、一昨年日本を訪れた際、戰爭無くして文化はありうるかとの深刻な問題を提起した。世界で一番平和な國、それは日本であり、世界で一番ぐうたらな國、それも日本である。平和が人間をぐうたらにするのは確かな事であるやうに思はれる。 
統治能力
福田副總理と大平藏相は三木首相には統治能力が無いと言ふ。これに對して三木首相は、福田、大平兩氏には「私、三木の原則を尊重して黨内ををさめるやう考へてくれる責任がある」のであり、「民主政治のもとにおける指導力とは、皆が協力して助けることだ」と言ふ。他人に助けて貰ふ事が指導力だといふのは随分奇妙な論理だが、これはまたいかにも三木氏らしい論理であつて、皆が自分を憐れんでくれる事こそ自分の統治能力だと、三木氏は考へてゐるのかも知れない。三月前、取上げ爺にいびられた時は、マスコミと世論が憐れんで助けてくれた。今囘も多勢に無勢の九郎判官に世間の同情は集るに決つてゐる。三木は清潔であり、ロッキード事件の究明は三木でなければ果せないと世間が考へてくれてゐる限り、自民黨代議士の三分の二が楯突かうとも三木政權は安泰である。さう三木氏は考へてゐるに違ひ無い。
實際、獨禁法改正問題にせよスト權問題にせよ、三木氏は野黨やマスコミを喜ばすやうな事を言ひ出し、財界や黨内反主流派の反撥を買ふと直ちにそれを引込め、正しい事をやりたいのに邪魔されてやれずにゐる「憐れないい子」を演じてみせたのである。が、やりたくてもやれなかつたといふ事は、所詮無能だつたといふ事に他ならない。三木氏はまた指揮權を發動しなかつた事を誇つてゐるが、指揮權を發動するには努力が要るだらうが、發動しない事には格別の努力は要らぬ筈である。「しなかつた事」を誇つたり、「出來なかつた事」を嘆いたりするのは女々しい事である。いい加減にして貰ひたいと思ふ。
福田、大平兩氏は三木氏の統治能力の缺如を言ふが尤もである。「三木降し」の大義名分としてはそれだけで充分だと、私は六月四日のこの欄に書いた。あの頃椎名氏が三木追落しを策したのは決してロッキード隠しのためではなく、野黨やマスコミの人氣取りのため、三木氏が保守政治の根底を揺がすやうな事をしでかさうとしたためではなかつたか。椎名氏一人を責める譯では決してないが、野黨と結んでも政權を獲得しようとした前歴を持つ人物を總裁に選んだ物解りのよさが、そもそもの間違ひだつたのである。 
ソルジェニーツィンと金3(火+囘)旭
十五年前、ニューヨークで日本人の大工に會つた事がある。當時私はダグラス・オーバトン氏の家に寄寓してゐたのだが、オーバトン氏は客間の一部を日本風に改造せんと思ひ立ち、日本人の大工を呼付けたのである。大工がやつて來た時、オーバトン氏は留守だつたので、一緒に寄宿してゐた劇團四季の水島弘氏と私とが大工に會ひ、茶菓の持成しをした。その大工は實は彫刻家であつて、彼は日本の美術界の封建的頽廢に愛想が尽き、祖國を捨てアメリカヘ渡つて來たとの事であつた。口角泡を飛ばして日本及び日本の美術界を罵る男を眺めてゐると、あはれでもあり滑稽でもあり、同時に頗る不愉快でもあつた。日本の美術界がどのくらゐ穢いか、私は知らない。文學界や新劇界については多少知つてゐるが、いづれも學者の世界と同程度に穢いやうであつて、昨今、文學賞の類は專ら年功序列を考慮して順番に授けられ、作家は批評家に付け屆けを怠らないさうである。だが、あのニューヨークの大工には彫刻家としての才能は無かつたのであつて、日本の美術界がいかに穢からうと、彼の才能については適切な評價を下してゐたのだらうと思ふ。さもなければ、ニューヨークで大工なんぞをしてゐる筈が無い。當時アメリカでは、日本人の藝術家は厚遇されてゐたのであり、それは日本の大學が外人講師を甘やかしてゐるのと一般である。日本の大學が雇つてゐる英米人の非常勤講師には教師の名に値しない手合も多く、取り得は英語が喋れるといふ事だけなのだ。
吾々は自分の才能を他國で認めてもらはうとは思はない。かつて吾國が學者を厚遇しないため、優秀な人材が海外に移住し、「頭腦流出」が問題になつた事がある。が、今日では頭腦流出を憂へる聲は聞かれない。まつたうな學者ならよほどの事が無い限り祖國を捨てはしないのである。例外は無論あらうが、祖國で認められず他國で通用するやうな學者は結局は二流なのであつて、吾國に滞在する有象無象の外人講師も、所詮本國では一流の學者として通用しない手合なのである。
チェコスロバキアの反體制の劇作家パヴエル・コハウトは、チェコ政府による國外退去の勸告を拒絶した理由を問はれて、自國語を喋る觀客を失ふのは劇作家としての自殺行爲だからだと答へた。そのコハウトも結局祖國を離れざるをえなかつたのだから、私は例へばソルジェニーツィンやアマルリクを非難する積りは無い。が、祖國を捨てた作家達は例外無く創作活動の停滞を體驗してゐるといふ。人間は家庭や祖國を捨ててはならない。それがどれほど理不尽であつても、である。そして、餘儀無く祖國を捨てる事があつても、祖國への愛を捨ててはならぬ。誤解されるのは覺悟で付け加へるが、祖國の體制を批判するソルジェニーツィンに對して、金3(火+囘)旭に對すると同質の不快の念を私は時々抱くのである。 
甘い言葉と甘い顔
これは千田恆氏が指摘してゐた事だが、社會黨はその内輪揉めに際し、人事で妥協せずイデオロギーで妥協して當面の危機を囘避したのであつて、私もそれを頗る奇怪な事だと思つてゐる。人事の妥協といふ事は理解できるが、イデオロギーの妥協といふ事は理解できないからである。それはともかく、田英夫氏たちの脱黨の眞の動機は何か、さういふ事に私はあまり興味が無いけれども、協會派と反協會派のいづれを重視するかと問はれたら、私は躊躇無く協會派を重視すると答へる。なぜなら、協會派はイデオロギーの妥協を究極的には拒否するであらうし、また協會派のはうが敵として見所があるからだ。社會黨の内紛を扱つてマスコミは、とかく協會派を惡玉に仕立てるけれど、協會派が黨内黨としていづれ母屋を乘つ取らうと企んでゐた事を、私は反協會派が非難するほどの惡事だとは思はない.政治に策略は附き物だからである。むしろ長年その策略に氣づかなかつた反協會派の甘さのはうを私は輕蔑する。それにまた、反協會派は「人間の顔をした杜會主義」などといふ甘い夢を見てゐるが、社會主義といふものは土臺人間の顔などしてゐない。それは久しい以前にドストエフスキーの天才が見抜いてゐた事である。
杜會主義が血も涙も無い圧制に至るといふ事に、どうして日本人は氣づかないのか。日本赤軍のハイジャックに憤慨するのなら、赤軍派は決して杜會主義の鬼子ではないといふ事を知るべきである。『惡靈』において、ピヨールといふ冷血漢を育てたのは、父親スチュパンの「理想家肌の自由主義」であつた。同樣に、香山健一氏が先日サンケイ新聞に書いてゐたやうに、あの非人間的な赤軍を育てたのは、他でもない、若者を甘やかす事に專念してゐる日本の戰後教育なのである。教師は若者を甘やかし、政治家は國民に媚び詔ふ、さういふ温情主義のぬるま湯に、いつまで日本人は漬かつてゐるのであらうか。擧句の果てに杜會主義協會も日共も骨抜きになつてしまふのであらうか。私はそれを心配してゐる。衣の下に鎧が透けて見えぬやうなマルクス・レーニン主義といふものを、私は信じないからである。私は本氣でそれを心配してゐる。敵が手強いのはよい事だからだ。
それゆゑ私は、田英夫氏よりも向坂逸郎氏を高く買ふ。
向坂氏は田氏を評して「社會主義などまるで解つてゐない」と言つたさうだが、全く同感である。向坂氏は非武裝中立なんぞ甘い幻想でしかないと信じてゐるに違ひ無い。そしてその信念は向坂氏の顔にはつきりあらはれてゐる。私は甘い顔を信じない。
しかるに、殘念ながら日本人は、甘い言葉と甘い顔が大好きなのである。『月曜評論』の寄稿家でさへさうなのであり、かくて例へば福田恆存氏の「笑つても笑顔にならぬ」嚴しい表情は、およそテレビ向きでない、などと評される事になる。やんぬるかな。 
放言と事なかれ主義
石原環境庁長官の新聞記者批判に腹を立て、環境庁記者クラブは十月七日、長官に對する「會見拒否」を宣告した。親睦團體である記者クラブが一致團結してそのやうな行動をおこすのは奇怪だが、それはともかく、大臣が時々「放言」するのはよい事だと私は考へてゐる。それは教師が時々生徒を殴るのと同樣よい事なのである。なぜなら放言する事も殴る事も頗る人間的な行爲だからであり、メナンドロスの言ふとほり、人間が人間である事はよい事だからだ。
實際、昨今の大臣は決して怒らない。國會でのやりとりを聽いてゐると、よほどの腑抜けでなければ大臣は勤まらぬといふ事がよく解るのである。例へば毎年、米價が決定される頃になると、農林大臣が野天で農民と會見するけれども、農民の敬語抜きの野次に對しても、大臣は敬語丁寧語を用ゐて答へるのである。それが政治家の度量といふものなのだと政治家は考へてゐるのかも知れないが、それは彼等が睾抜きである事の證拠なのだ。一人前の男なら、地位を失ひたくないからとてあれほど卑屈になる事を嫌ふはずだからである。新聞記者の思上りに反發した石原長官の發言を、醫師會の思上りに反發した渡邊厚相の發言を、それゆゑ私は支持する。二人とも地位を賭けて本當の事を言ふ人物だと考へるからである。
だが、私はここまで書いて來て少々不安になつた。福田首相は石原・渡邊兩氏の「直情径行」を苦々しく思つてをり、内閣改造の際には兩氏を更迭する氣でゐるのではないか。首相は十月三十日、陸上自衞隊の觀閲式で恆例の訓示をしたが、草稿の「ソ連の軍事力増強」に言及した部分を省略して朗讀したさうである。もとより首相の眞の意圖が何であつたかは解らない。ソ連の軍事力が年々増強されてゐるといふ事實さへ指摘する事を憚り、「ソ連にそれだけ氣を遣ふといふことは、本氣で日中に取り組むつもり」なのかも知れず、それは詰り福田氏の「政治的配慮」といふ事なのだらうが、そしてさういふ政治的配慮は政治家にとつて必要不可欠なものだが、それにしても日本の政治家は事なかれ主義をもつて策の上なるものと看做し過ぎると思ふ。醫師の税金に關しても、食管法の赤字に關しても、理を説いて醫師會や農民を窘めるといふ事をしない。防衞問題に關してもさうである。GNPの一パーセント以下でよいと福田首相は本當に考へてゐるのだらうか。恐らく否である。また、憲法改正は自民黨の黨是のはずである。が、歴代の首相は任期中の憲法改正は無いと繰返し言明した。それは確かに利口なやり方だつたが、「憲法改正は黨是であり、自分も自民黨員である以上改正したい。が、現在の議席數では不可能である」と答弁する首相が一人くらいゐてもよかつたのではないか。とまれ、私は政治家諸公に注文しておきたい。事なかれ主義も時に有効である、が、諄々と理を説いて國民やマスコミの嫌がる事も言ひ、それを實行に移す、それだけの強さを政治家は持つて貰ひたい。 
平和惚けの日本人
今囘は後れ馳せながらハイジャックについて書く事にする。日航機およびルフトハンザ機の乘取り事件を解決するに際して日獨兩政府の採つた態度は對照的であり、世論は概ね日本政府の弱腰を批判してゐた樣に思ふ。けれども西獨政府の嚴しい態度に「ナチズム復活の危險」を感じ、それに怯えた向きも少なからずあつたのである。當時私は「西獨は嚴しい顔で日本を見てゐる、あれは戰爭をやる顔である」と書いたが、ソ連もアメリカも西獨を支持したのだから、「戰爭をやる顔」をしてゐるのは西獨に限らない、全世界が平和惚けの日本を嚴しい顔で見てゐるのである。
平和惚けの日本人は、けれども、西獨の嚴しい顔を「戰爭をやる顔」だとは思つてゐない。イスラエルのエンテベ空灣奇襲作戰にせよ今囘の西獨の強硬策にせよ、西歐の遣り方は殘忍であり、「和をもつて尊しとなす」わが國民性とは相容れないものだ、さう考へて安心してゐる。けれども、日本方式と西獨方式とは著しい對照をなしてゐるが、日本には日本獨特の遣り方があつてよいとする考へは大變危いと思ふ。近き將來か遠き將來か、それは神ならぬ身の知るよしも無いが、日本もいづれは必ず戰爭に卷き込まれる筈であり、さうなれば、和を尊ぶ日本の國民性なんぞ通用しなくなる。日本はハイジャッカーに十六億圓を支拂つた。西獨は一文も支拂はなかつた。十六億圓と一圓とは程度の差だが、十六億とゼロとは質の差なのである。要するに西獨は人命を金に換算する事を拒否したのだ。それゆゑ私は、西獨は「戰爭をやる顔」をしてゐると言つてゐるのである。戰爭とは個人の生命以上の何かのために血を流す覺悟でやるものだからだ。しかるに、戰後三十餘年經つて、吾々はその種の覺悟をすつかり失つてしまひ、日本のふやけた顔と西獨の嚴しい顔とを、國民性の相違によるものと考へて安心してゐる。
ところで、先日私は森常治氏の『日本人=<殻なし卵>の自我像』を讀み、驚き、かつ呆れた。昨今流行の日本論の大半は胡散臭いと聞いてはゐたが、この森氏の著作ほど樂天的な日本人論は私も讀んだ事が無い。森氏は「右翼の人々が日本人の國際化を激しく拒否し、他方では、これまでの進歩的知識人がとかくするとわれわれの文化的傳統を輕視する(中略)のは、その兩者ともども、われわれ日本人の心情はあるがままの姿では國際的ではありえない、といふないへんな誤認のうへにたつて」ゐる、だが、「あと二百年もすれば西歐の人々もかなり日本的になるから、焦るな、焦るな、といふくらゐの氣持で、のんびり構へるべきでせう」と書いてゐるのである。二百年も先の事なら私は斷言して憚らない。日本はそれまでに必ず戰爭をする。そして日本が勝ち抜く爲には、日本が西歐精神にとことん附合はねばならぬ。森氏の日本人論は、要するに平和惚けの日本人論なのである。 
日本株式會杜の倒産
「萬國の労働者よ、團結せよ」などといふスローガンは、昨今あまり用ゐられなくなつた樣だが、萬國の労働者には二種類あると私は考へてゐる。すなはち、雇主の倒産を考へる労働者と考へない労働者である。不況の今日、中小企業に働く人々にとつて一番心配な事は會社の倒産であるに違ひ無い。が、その種の心配と全く縁の無い經營者や労働者もあつて、例へば親方日の丸の官吏がさうであり、大新聞の經營者や労働者がさうである。國鐵の職員も大新聞の記者も、雇主の倒産といふ事態はまるで考へてゐまい。國民が國鐵を潰す筈は無い、大新聞を潰す筈は無い、さう考へて安心してゐるであらう。
私は經濟の專門家ではないから、現在の不況に對する處方箋を書く譯にはゆかない。が、日本株式會社は中小企業だと私は思ふ。しかも、中小企業でありながら、親方日の丸の官吏と同樣、會社の倒産といふ事態を全然考へてゐない。中小企業の場合、大企業の下請けの仕事をやつてゐる場合、大企業の善意にだけ縋つてやつてゆく譯には到底ゆくまい。大企業が仕事を廻してくれるやう、他の下請け會社との競爭に負けぬだけの技術を持たねばならないし、時には樣々の策略を巡らし手を汚す事もやらねばならぬ。ところで、日本株式會杜はこれまで、諸外國の善意にだけ縋つてやつて來たのである。現在の圓高ドル安は日本にだけ責任があるのではなく、急増しつつあるアメリカの石油輸入のせゐでもあり、それゆゑアメリカもドル防衞の爲に努力すべきだといふ説があつて、それはその通りだと私も思ふけれども、さういふ事をアメリカに言つてみても問題は一向に解決しないと私は思ふ。この際大切なのは、アメリカやEC諸國の善意に縋つて肥え太つて來た日本に對して、それらの國々が苛立つてゐるのだといふ事實を認める事ではないだらうか。例へばアメリカは日本の經常収支の黒字を一擧に減らせなどといふ無理な注文をしてゐるが、さういふ無理難題をふつかけるアメリカには、これまで散々甘やかして來た日本に對する感情的な苛立ちがあるのではないか。言ふまでもなく、日本の今日の繁榮は平和憲法と日米安保条約のお蔭である。日本の防衞費は、昭和三十年を例外として、今日までGNPの〇.九パーセントを越えた事は無い。さういふ事への苛立ちがアメリカに果して無いと言切れるか。勿論、平和憲法を押付けたのはアメリカであり、片務的な安保条約で滿足したのもアメリカである。それゆゑ、アメリカは苛立ちを公言出來ない。が、公言出來ぬからこそ、苛立ちはますます募るのである。平和憲法を楯にして日本は、「諸國民の公正と信義に信頼して」稼ぎまくつた。が、今や吾々は諸外國の善意にだけ縋る事の危ふさを思ひ知らねばならぬ。日本株式會社の倒産といふ事も、決してありえぬ事ではないのである。 
自由世界に迎合すべし
近頃、大新聞は「日中友好への熱意」に燃えてゐるやうである。熱意に燃えて政府の尻を叩き、「世論」なるものを喚起しようとしてゐる。そして、その大新聞の熱意を誰か「高く評價」してゐるか。中共の機關紙『人民日報』である。大新聞にしてみれば、それがまた嬉しくてたまらぬのであらう。奇怪な事である。日本の大新聞がアメリカ政府や韓國政府から、日米友好或いは日韓友好の熱意を「高く評價」された事は無い。それどころか、大新聞はアメリカや韓國に對して頗る敵對的である。日米友好或いは日韓友好と、日中友好と一體どちらが日本國にとつて重要か。『月曜評論』の讀者に向つてそれをくだくだしく説く必要は無いであらう。日本株式會社は自由主義陣營に屬してゐる。自由主義陣營の善意に縋つて生きてゐる。周知の如く、石油と食料の九十パーセント以上を海外から輸入してゐる。私は不思議でならない、なぜ日本の大新聞はアメリカに迎合しないのか。なぜ自由主義陣營との連帯を大切に思はないのか。「人の生くるはパンのみに由るにあらず、神の口より出づる凡ての言に由る」とマタイ傳にある。「神の口より出づる凡ての言」とは絶對的眞理の謂である。さういふ絶對的眞理を希求する態度は日本人にとつて殆ど無縁のものだから、すなはち、日本人にとつて大切なのは自由よりもパンだから、日本の自由世界に對するコミットメントが、イデオロギー的なものでない事は怪しむに足りぬ。が、自由世界にコミットしつづけねば日本はパンさへ食へぬやうになる筈ではないか。早い話が、中國の産出する石油だけで日本はやつてゆけまい。中國が日本に食料を輸出してくれはしまい。それなら、パンの事だけ考へても、日本は自由世界に迎合せざるをえない筈である。しかるに日本の大新聞は共産主義國に迎合する。とどのつまりアメリカが日本を捨てる筈は無いと考へて、安心し切つてゐる。寛大で辛抱強い女房を安心して謗つてゐる髪結の亭主の心理である。この腑甲斐無き亭主は、女房に食はせて貰つてゐる事を忘れ、隣家の女房を戀してゐる。隣家の女房もまんざら惡い氣持はしないから、垣根越しに秋波を送る。が、心の底では輕蔑しきつてゐる。獨立自尊の念を缺いた男だと、とうの昔から見抜いてゐるからである。
もはや紙數が無いが、一言つけ加へておきたい。去る十一日、東京新聞は「覇權条項で中國が柔軟姿勢」を示すかのやうな記事を載せてゐた。今日只今のところ中國は日本の主張を認めてはゐない。或いは中國は妥協するかも知れぬ。かつて日米安保条約や自衞隊の存在を肯定したやうに。が、それはあくまで戰術である。策略である。いや、中國に限らない、すべての國家が策略を用ゐるのである。性善説は國際政治には通用しないものなのだ。 
内村剛介氏と片桐機長
先月二十日、日本の文學者二百八十七人が「核戰爭の危機を訴へる聲明」とやらを發表した。二十七日付の朝日新聞は「文學者の苦澁を反映、廣がる署名、三百人を超す」との見出しをつけ、署名した「文學者」十一人の意見を紹介してゐる。「苦澁を反映」だなどとは白々しい限りである。この飽食暖衣の國の文士が「苦澁」なんぞする譯が無い。孤狸庵先生こと遠藤周作氏も署名して、「聲明文が聲明だけではなく何かもつと影響と効果のある方法を考へられないでせうか。不發彈に終れば殘念です」と言つてゐるが、週刊誌に「ぐうたら」な文章を書き擲り、テレビでも稼ぐ似非カトリックが、「核戰爭の危機」なんぞを本氣で案じてゐる筈は斷じて無いのである。だが、轉びバテレンの「苦澁」とやらを題材にして「ああ、日本になぜクリスト教は根付かぬか」などと、心にも無い「苦澁」を訴へて稼ぎ捲るぐうたらカトリックの事は今はこれ以上論ふまい。私は内村剛介氏のでたらめに腹立ちを抑へられぬからである。朝日新聞によれば内村氏はかう言つてゐる、「署名します。(しかし)全般にこの聲明文は空疎で心を打たない。練り直しが必要と思ふ」
中野孝次氏だの、大江健三郎氏だの、柴田翔氏だのが署名したのは解る。井伏鱒二氏だの、尾崎一雄氏だのが署名したのも解る。井伏氏も尾崎氏も要するに「政治音痴」なのである。だが、聲明文が「空疎で心を打たない」のなら、なぜ内村氏は署名したのか。内村氏の文章は頗る粗雜であり、聲明文を「空疎」だなどと極め付ける資格は内村氏には斷じて無い。そして「文は人なり」であつて、粗雜な文章しか綴れぬ粗雜な男だからこそ、「空疎で心を打たない」聲明文に署名するといふ、破廉恥とも評すべき粗雜な行爲をやつてのけたのである。文學者は讀者の「心を打つ」事だけを考へる。「心を打たない」文章に同意するのは、「文學者」でない證拠である。例へば次に引く内村氏の惡文を見よ。
反核も平和も反戰もそれ自體としてはいいことで、文句はつけられない。この事は今ではもうコモン・プレースに屬する。ならばそのコモン・プレースにコミットしたからといつてコミットメント自體に何ほどの意味があらうとも思はれない。(中略)しかも、またしてもヨーロッパの反核ぶりを見てわがふりなほせのくちなのだから笑はせるつてことになる。(『月曜評論』二月十五日號)
この内村氏の恐るべき惡文の惡文たるゆゑんについて解説する紙數は無い。だが、私は『言論春秋』の讀者に言ひたい。『月曜評論』は、『言論春秋』と同樣、頗る信頼しうる、ミニコミ紙なのである。その『月曜評論』にも、これほど破廉恥な惡文が載るのである。とまれ、愚かしい「反核アッピール」は「心を打たない」と言ひながら、内村氏はそれに署名し、しかも、あらうことか、『月曜評論』において「反核アッピール」を批判した。正氣の沙汰とはとても思はれぬ。内村剛介などといふ物書きを、『言論春秋』の讀者が、今後一切信用しないやう、私は切に望む。
先般、日航機が墜落して、ジャーナリズムはしきりに片桐機長の異常を論つてゐる。だが、内村剛介氏の異常と片桐機長のそれとは甲乙無い。しかるに世人は内村氏の異常を論はぬ。奇怪千萬である。 
外山滋比古氏の駄文
サンケイ新聞の「世代百景」といふコラムに文章を書いてゐるのは、お茶の水女子大の外山滋比古教授である。毎囘つまらぬ事を書いてゐて、その都度呆れてゐるが、例へば七月三日付の夕刊に外山氏は次のやうに書いた。「乘りものに乘ると、かならず不愉快な人がゐる。さういふ乘客と隣り合はせになつてイライラするのはつまらない。原稿に頭をしぼつてゐればすべて忘れる。こんないい時間つぶしはない。(と言つてこの原稿はさうして書いたのではありません。念のため)」
かういふ馬鹿々々しい文章を感心して讀むやうな馬鹿な讀者が果してゐるのだらうか。「世代百景」の外山氏の文章は、頭の惡い人間が「頭をしぼつて」「時間つぶし」のために書いた文章なのである。それゆゑ今囘は外山氏の文章を徹底的に批判する。少々長い引用を敢へてするが、我慢して讀んで貰ひたい。
訪ねてきた學生が裏口から入つたのを見とがめて、玄關へ廻れ、とひどくしかつた老先生がゐる。‘もちろん、裏口入學を連想したのではない。’大志をいだく男一匹、勝手口からこそこそ入つてくるとは何事か、といふ明治生れの人間の感覺である。
勝手口などといふしやれたものがあるからいけない。‘われわれの“ウサギ小屋”には’アパートやマンションと同じで、‘出入口はひとつしかないから、’問違へなくていい。(中略)
かつて市内電車が走つてゐたころ、‘乘客には前口派と後口派とがあつた。’前の方から乘る人と後から乘る人とではどことなく人間のタイプが違ふ。‘前口派は行動的で、’乘るとずんずん奥へ進むが、‘後口派は入口にへばりついたままでゐる。’(中略)‘雜誌の讀者にはどういふものか後口派が多い。’まづ、編集後記を讀む。雜録があれば、ついでにそれもつき合ふが、そこまでで、さやうならしてしまふ。
これはサンデー毎日六月二十四日號に載つた外山氏の駄文である。まづ「裏口入學を連想したのではない」のくだりだが、かういふのを「下手糞な冗談」と言ふのである。ついで「われわれの“ウサギ小屋”には出入口はひとつしかない」と外山氏は言ふ。かういふ文章を讀まされると、文京區の外山邸に勝手口が無いといふのは眞つ赤な嘘ではないかと思ひたくなる。調査した譯ではないから斷定はしないが、もしも外山邸に出入口が二つあるとすると、外山氏は「ウサギ小屋」の大衆に媚びてゐる事になる。
外山氏が書く文章には淺薄な思付きが多い。「前口派」と「後口派」に性格の違ひなんぞありはせぬ。さういふつれづれなるままに思ひ付いた由無し言を綴つて商賣ができるとは、何とも結構な御身分である。外山教授は教場でもこの種の淺薄な思付きを喋り、お茶の水女子大の學生はそれを感心して聞いてゐるのだらうか。それなら、川上源太郎氏の言ふ通り「賢い娘は大學に行かない」はうがよいのである。
また、「雜誌の讀者には後口派が多い」などと、いかなる根拠あつて外山氏は斷定するのか。察するに、自分は「古い本の『奥付』の讀者だ」といふ山本夏彦氏の言葉を引用してゐるところをみると、山本氏の文章を讀んで思ひ付いたのだらうが、山本氏の文章と外山氏のそれとは月とすつぽんである。『月曜評論』の讀者は一度、山本、外山兩氏の文章を讀みくらべ、以後外山氏の著書を一切讀まないやうにしたはうがよい。
最後に、日本の雜誌の編集者に言ひたい。「雜誌の讀者に後口派が多く」、編集後記と雜録だけを讀んで「さやうならしてしまふ」のなら、編集者は一體何のために仕事に精を出してゐるのか。さういふでたらめを言ふ外山氏を雜誌の編集者は今後一切相手にしないで貰ひたい。 
再び外山滋比古氏を叩く
佐藤直方といふ儒者は激しい氣性の持主であつた。朱子學の徒は吟味が過ぎる、他人を批判するのはいい加減にせよとの批判に答へて、時に激しさを伴はぬのは眞の學問ではないと直方は言つてゐる。「人の非を正すをあしきと云ふはあさましき論也」と彼は書き、「人の非を云はぬ佞姦人あり」と書き、「人がらのよきは其の人獨の幸なれども、道理を知らずに妄言するは天下後世の大害になる也」と書いた。「人がらのよき」事も大切だが、いい加減な文章を綴つて原稿料を稼ぐのは「人がらのよき」と惡しきに係らず許し難い、といふほどの意味である。馴合ひに終始して論爭をためらふ吾國の論壇にとつて、直方の意見は頂門の一針だと思ふ。
さういふ譯だから、私は直方の驥尾に付いて、前囘に引き續き外山滋比古氏を批判する。かうも執拗に外山氏を叩くのは、私怨あつての事に違ひ無いと讀者は思ふかも知れぬ。が、私は外山氏に叩かれた事は無く、また外山氏とは一面識も無い。外山氏は「人がらのよき」人物なのかも知れない。が、外山氏が「道理を知らずに妄言するは天下後世の大害になる」かも知れぬ、私はさう考へるのである。
外山氏のどの著書を批判してもよいが、今囘は『親は子に何を教へるべきか』を取上げる。とは言へ、私は二百頁のうち約九十頁を讀んだだけである。何ともはや愚劣で無責任な教育論であつて、私の知る限りこれほどでたらめな教育論は無い。九十頁を私は憤慨しつつ讀んだ。例へば外山氏はかう書いてゐる。
お母さんたちに本當の教育者になつていただきたい。これからこの世に生れてくるすべてのこどもに代つて、さう願はずにはゐられない。こどもが生れてからでは泥なはとしても遅すぎる。
外山氏が「これからこの世に生れてくるすべてのこどもに代つて、さう願はずにはゐられない」と言ふのは、眞つ赤な嘘である。これほど眞つ赤な嘘も珍しい、と言ひたいくらゐの眞つ赤な嘘である。考へてもみるがよい、「この世に生れてくるすべてのこどもに代つて」何事かを願ふなどといふ事は釋尊かクリストにのみ可能な事であつて、百八煩惱に苦しむ凡夫のなす能はざるところである。さういふ白々しい赤い嘘と淺薄な思付きを絢交ぜにして、外山氏は物を書くのである。例へば「學校は晝食の時間を繰下げなくてはならない」と外山氏は書いてゐるが、それは食事をすると「頭の血のめぐり」が惡くなるからだといふ。何と淺薄な思付きか。外山氏は二十年來、「朝飯前の仕事」をしてゐるさうだが、朝飯前の「頭の血のめぐり」のよい時に、かくも鈍重な思考しかできなかつたとすると、外山氏はよほど「頭の血のめぐり」の惡い御仁であるに違ひ無い。外山氏はまた中學校の給食に反對してゐるが、そのくだりを西義之氏が『學校は何ができるか』で開陳してゐる給食反對論と比較してみるがよい。西氏が本氣で文章を綴つてをり、外山氏がいかに無責任か、それが誰にもよく解る筈である。
外山氏の教育論のでたらめについては、いづれ私は折を見はからひ徹底的に批判する積りだが、私が何より情け無いと思ふのは、外山氏の淺薄な著書が多くの讀者を喜ばせてゐるらしい事でも、マスコミに外山氏が重宝がられる事でもなく、外山氏のでならめと不眞面目を、それと知りつつ批判せずにゐる論壇の寛容である。
昨今、世の中は右寄りになつたといふ。そのままには信じ難いが、もしもさうなら、弱くなつた革新を叩くよりも保守派の中の贋物を成敗すべきではないか。そしてそれこそ、情に流されがちのマスコミと違ひ、『月曜評論』のやうなミニコミが勇氣をもつてなすべき事だと私は思ふ。 
ポルノよりも有害な本
外山滋比古氏は、『日本語の感覺』といふ著書の中で、昨今は若者に迎合して「水でわつたやうた文章」を書く手合が多いと書いてゐる。「水でわつたやうな文章」を書く外山氏が「水でわつたやうな文章」を嘆くのは、「臭い物、身知らず」だが、その途方も無い滑稽について、『月曜評論』の讀者にくだくだしい説明をする必要はもはや無いと思ふ。けれども「水で割つたやうな文章」は實はポルノ以上に有害なのである。今囘はその事について書く。
そこでまづ、高校生の息子や娘を持つ讀者のために、柄にも無い親身の忠告をしておきたい。昨今、高校生の自殺や非行が殖え、親や教師は狼狽してゐるらしい。一方新聞や教育評論家はさういふ親の足元を見て、心にも無い憂へ顔の文章を綴つて荒稼ぎをしてゐる。そのいんちきを私はいづれ徹底的に發いてやらうと思つてゐるが、教育論のいんちきよりも國防論のそれのはうが重大であり、教育評論家の成敗は當分先の事になる。そこでこのコラムで、今囘、青少年の非行や自殺を防止するための、實行可能な提案をしておかうと思ふ。
まづ、高校生の息子や娘を持つ親は、子供の勉強部屋を覗いた事があるだらうか。覗いた事が無い親は、拙文を讀み終つたら、善は急ぐべし、すぐ覗いて貰ひたい。と言つて、鍵のかかつた机の抽出しをこじあけろ、などと私は言つてゐるのではない。どんな親にも子供に言へぬ秘密があるだらう。それなら、子供が親に見られたくない春畫やポルノを篋底に秘してゐたところで、そんた事は驚くに及ばない、嘆くには及ばない。年頃の息子や娘がポルノに無關心で、勉強部屋に一冊のポルノも發見できなかつたら、その時こそ親は本氣で心配すべきである。
それゆゑ、息子や娘の勉強部屋を、檢察の特捜部よろしく捜索してはならない。ただ、子供の本箱を調べるだけでよいのである。そこにどういふ本が並んでゐるか。「プレイボーイ」や「平凡パンチ」が、或いは卑猥な劇畫本が二、三冊混じつてゐたところで、驚くには當らない。が、もしも子供が加藤諦三氏の著書を一冊でも所有してゐたら、その時こそ親は本氣で驚き、嘆き、その對策を眞劍に考へなければならぬ。
なぜなら、加藤諦三氏は現在、早稲田大學理工學部教授であり、理工學部の學生担當教務主任だが、大學教授の書いたものだから、卑猥な劇畫やポルノと違つて青少年のためになると考へるのは、これはもう途方も無い勘違ひだからである。書店で聞いてみるがよい、加藤氏の著書はたくさん出版されてをり、文庫本も出てゐて、しかも高校生には頗る人氣がある。それゆゑ、わが親愛なる『月曜評論』の讀者の令息令嬢が、加藤諦三氏の著書を所有してゐる確率はかなり高いと考へなければならない。加藤氏の著書は、外山氏の言葉を借りれば、若者に迎合し、若者に怠惰をすすめる「水でわつたやうな文章」で書かれてゐる。そしてさういふ文章は、川上宗薫、宇能鴻一郎、富島健夫の諸氏が書き捲る三流小説よりも遙かに有害なのである。
讀者は多分氣づいてゐるだらうが、私が誰かを批判する場合、私はその文章を批判して「人がらのよき」惡しきは問はない。では、すさまじい惡文の加藤氏の著書が、なぜポルノ小説よりも有害か。その事については次囘に書かうと思ふ。令息令嬢が加藤氏の著書を所有してゐたとしても小言は一切言はずに一ヶ月だけ待つて頂きたい。 
字引と首つぴきで讀め
前囘約恥した通り、加藤諦三氏について書く。加藤氏は例へばかう書くのである。
ロック・カーニバルの會場の若者に聞いてみた。
−リンカーンとか、シュバイッアーとか尊敬する? “うん”
−チップスは? “いいな”
“チップスとリンカーンは結びつくの?”と、‘われながら「わかつちやゐない」’質問をしてみた。 “いいものは、いいんぢやない”(中略)
これからは價値の序列をつけた教育は失敗するにちがひない。(中略)
言葉よりも、音や色を信じはじめた世代、
いや、正確にいへば以前よりは音や色を信じてゐる世代があらはれてきた。(中略)
言葉による内容傳達といふよりも、まさにフィーリングであるらしい。
まつたく不潔な文章だから、今囘は前後に一行づつあけて引用したが、まづ讀者の注意を喚起したいのは、加藤氏の文章は改行が多く、假名が多く、從つて字面が白つぽいといふ事實である。「ポルノよりも青年にとつて有害だ」と私は前囘書いたが、加藤氏の著書に限らず、字面の白つぽい本はすべて青年にとつて有害である。
例へば「扱ふ」と書けば二字である。これを平假名にすると「あつかふ」となつて四字になる。つまり、漢字を多用する物書きは、同じ原稿料を稼ぐために、平假名を多用する物書きよりも、多くの事を言はねばならぬといふ事になる。改行の多少についても同樣の事が言へる。
そればかりではない。誰しも度忘れといふ事がある。その時、漢字を使ひたいと思へば、字引を引いて調べなければならぬ。平假名でよいのなら、その労を省く事ができる。つまり、漢字を多用するのは、物書きにとつて損な事なのである。おまけに昨今は字面の白つぽい本のはうが喜ばれる。どう考へても、漢字の多用は損なのである。
だが、例へば小林秀雄氏の文章と加藤諦三氏のそれとを較べてみるとよい。勿論、それは月とすつぽんで、比較を絶してゐる。青年が小林氏の文章を讀む場合、「字引と首つびき」で眞劍に、一字一句も忽せにせずに、讀まねばならぬ。それは當然の事で、筆者が一字一句も忽せにせず、眞劍に書いてゐるからである。小林秀雄全集は新潮社から出てゐるが、全集のどの部分にも、加藤諦三氏や外山滋比古氏の文章の如き駄文は見出す事ができない。それゆゑ、『月曜評論』の讀者が、息子や娘の本箱に小林氏の著書を見出したなら、それはまさに赤飯を炊いて喜ぶべき事なのである。小林氏に限らず、漢字を多用する物書きは、損得といふ事を考へずに文章を綴つてゐる譯であつて、さういふ文章を「字引と首つぴき」で讀まうとする若者が、人生航路の諸段階で安易な道を選ぶ筈が無い。安易な自殺や性犯罪なんぞをやらかす筈が無い。、
加藤諦三氏の著者がポルノよりも有害なのは、加藤氏の文章が安易な生き方の見本であり、難局に直面して雄々しく生き抜くための精神力を青年から奪ふ事に役立つからである。ポルノは所詮ポルノであつて、若者がポルノを隱れて讀む限り、それは大した害をなさない。が、加藤氏の著書を若者は疚しい氣持で讀みはしない。それゆゑに却つて始末が惡いのだ。そして若者に向つて「われながらわかつちやゐない」などと卑屈な事を言ふ物書きは、大人の權威を低めて若者に媚び、若者を骨抜きにする。傍点を付したもう一つの部分も重大な意味を持つてゐるが、それは次囘に詳しく述べる事にする。 
言語輕視は狂氣に通ず
前囘引用したやうに、加藤諦三氏は「言葉よりも、音や色を信じはじめた世代、いや正確にいへば以前よりは音や色を信じてゐる世代があらはれてきた。(中略)言葉による内容傳達といふよりも、まさにフィーリングであるらしい」と書いたのである。加藤氏に限らぬ、言語による傳達の輕視を主張する物書きが、言語による傳達を圖つて稼いでゐるのは、甚だしき自家撞着と言はざるをえない。加藤氏は知るまいが、サミュエル・ベケットといふ劇作家は、言語に對する極度の不信を懐き、つひに上演時間十五秒だか二十秒だかの作品を書くに至つた。加藤氏がもしベケットを直劍に讀むならば、言語による傳達を輕視する青年達を輕々に持上げたおのれの馬鹿さ加減に愛想が尽きる筈である。
先年、慶應大學の招きで來日したジョージ・スタイナーは、高橋康也氏との對談で、文學における「狂氣」を重視する高橋氏を窘め、かう言つた。これは頗る興味深い意見で、スタイナーに較べれば、加藤諦三氏なんぞ吹けば飛ぶ鼻紙みたいなものだから、以下、スタイナーの意見を引く事にする。「私は深く古典的な人間ですから、あなたとは對立します。狂氣、偏執、精神的崩壞は、私には退屈であり、私が興奮するのは正氣についてです。(中略)誤解を招くかもしれませんが、人間は五十萬年に一インチといつた氣の遠くなるやうな遅さをもつて動物から進化してきたのです。その結果としての、またその推進力としての人間の大腦、いかなる機械よりも優れたこの大腦を、芝居がかつた身振りでわざと破壞するのは間違つてゐます。人間の条件を定義づけるのは、正氣であつて、あなたが言つたやうな極限の状況ではない、さう考へる点で私はもちろんプラトン主義者、古典主義者です」(高橋康也譯)
かういふスタイナーの深い思考について語らうとすると、加藤諦三氏の如き木偶の坊を相手にしてゐる事の虚しさを痛感せざるを得ないが、言語を信じないで「フィーリング」とやらを信じようとする手合は、大人であれ若者であれ、確實に「狂氣、偏執、精神的崩壞」への道を辿る事になるのである。言語による傳達に限界がある事なんぞ、大昔から知られてゐた。が、人間はやはり言語によつて意思の疎通を圖らなければならぬ。親と子も、教師と生徒も、まづ言葉によつて結び付かうとせねばならぬ。それゆゑ私は、加藤氏の著書はポルノよりも有害だと言つたのである。「人間や人生に意味づけをしてゐた神を失つた現代を生きる若者に、音を無視して何を説教したところで通じない」と加藤氏は書いてゐるが、かういふ事を大人に言はれて、わが意を得たりと思ふやうな若者は、いづれ必ず、親や教師の説教や忠告を無視し、何事につけ、勝手氣儘に振舞ふやうになるであらう。言葉を正確に用ゐようと努力する者は、他人の言葉を正確に理解しようと努力する。が、若者に限らず、現在の日本人はあらゆる面で怠惰になつてゐる。そして言語の使用において怠惰な者は、道徳的にも怠惰なので、それを私は『知的怠惰の時代』において縷々説明した。それゆゑ、以下に引用する加藤氏の著書の一節に、讀者が總毛立つ事を私は切に望む。
ふつと(中略)僕にあてた“深夜放送族”の手紙を思ひ出した。
“先生”私は(中略)高三の女の子です。(中略)昨年までは戀人がゐました。その彼と月二囘ぐらゐの割合でホテルに行つたの。でも(中略)彼と別れたの。でもいまものすごく欲求不滿。でもね、オナニーなんて・・・・・・。彼がほしい(中略)。
いまの若者は政治もセックスも同次元でものをいふ。政治の話が高級で、セックスの話が低級なんていふのは遠い昔の物語。 
綺麗事ばかり言ふな
本紙十一月十二日號で政田潤氏が、「無責任な教育論を排す」と題し、木村尚三郎氏を叩いてゐた。木村氏には「眞劍な問ひかけも己の生をかけた情熱も感じられ」ず、その意見は「無責任な思ひ付きの發言に過ぎぬ」といふのである。まつたく同感である。このコラムで私もいづれ木村氏を叩かうと思つてゐた。教育論に限らない、木村氏は樣々な問題に關してちと淺薄な思付きを書き過ぎるが、それも木村氏の思考に眞劍な問ひかけ、すなはちダイアレクティックが欠けてゐるためである。例へば『和魂和才のすすめ』なる著書の一節に、木村氏はかう書いてゐる。
いま私たちは、旅でいへば自動車の旅から汽車の旅への轉換を強ひられてゐる。(中略)つぎの汽車がいつ發車するのか、それすらはつきりしないのが現代である。じつくり腰を落ち着けて自分を見つめ、与へられた今日を樂しむ工夫をこらすと同時に他人や他國をも樂しませ、これを自らの生きがひと存在理由にする大人の知惠が、いま切に私たちに求められてゐる。
何ともふやけた文章である。木村氏の文章には受動態の動詞が矢鱈に多く、一人稱の代名詞は滅多に用ゐられる事が無い。時に一人稱が用ゐられる場合も、それは殆ど例外無しに複數形である。右に引いた文章の結び「いま切に私たちに求められてゐる」がその典型的な例であつて、「私は切に求める」といつたぐあひに木村氏は書く事が無い。なぜか。物書きとして本氣で何かを求めるといふ事が無いからである。他人に何と思はれようと、これだけは書かねばならぬと、さういふ覺悟で木村氏が筆を執る事は無い。それゆゑ、つれづれなるままに思ひ付く陳腐た事どもを書き流す事になる。しかるにその木村氏が、「若者には、何よりもまづ愛すること、生きることへの眞劍さが欲しい」と書く。笑止千萬である。そればかりではない、「いまの世の人は一般に心のしまりがない」と慨嘆し、「死に身となつていまのいまを一心不亂に念じて生き、活氣のある顔で現在を最高に生きることがもつとも大切だとする葉隠の精神」を懐かしむ。再び、笑止千萬である。土臺、「死に身となつていまのいまを一心不亂に念じて生き」る事を願つてゐる人間に、次のやうな綺麗事づくめのふやけた文章が書ける筈は無い。
人命尊重を考へぬ國、考へぬ民族はない。じかしながら自國と他國を常に峻別すると同時に、その場しのぎの解決に終始して、人命尊重を世界の中に普遍的な形で實現しようと決意しない限り、その民族、その國家にとつて、明日の世界を生きることは難しい。
木村尚三郎氏も歴史家の筈である。下らぬ思付きを書き流す暇があつたら、歴史について眞劍に考へた歴史家の文章を熟讀玩味したらよいと思ふ。レオポルド・フォン・ランゲは「眞の歴史家」の「興味と悦び」について次のやうに書いてゐる。
このつねに旧態にとどまりながらしかもつねに變貌してやまず、善良にして且つ邪惡であり、高貴な精神を有しながらしかも野獸のごとく、洗練されてゐてしかも粗野であり、眼を永遠なるものに注ぐかと思へば、また瞬間の奴隷であり、幸福でしかも不幸であり、ささやかな滿足に甘んずると同時に一切のものを貪りつくさんとするこの人間存在といふものに對し、ただありのままの人間の生きた現象に對し、もしひとが愛着を抱くなら、彼は(中略)ただ人間がつねに如何に生きんとしたかといふことをみるだけで、悦びを見出すであらう。(鈴木成高・相原信作譯)
ランケは綺麗事を言つてゐない。それこそランケが眞摯だつた事の何よりの證拠である。 
素人こそ思ひあがるな
私は、經濟に關してはずぶの素人だが、今囘『經濟論壇』に半年間寄稿する事になり、送られて來た數冊を讀み、立派な筆者が立派な文章を書いてゐる事を知つた。寄稿者だけではない。例へば五十四年四月號の編集後記は「國會の最大のテーマが、相も變らぬ“黒い霧”探し。(中略)なさけないやら、やるせないやら・・・・・・何と泰平なことだと、つくづく感じ入る」と書いてをり、私は大いに同感し、大いに意を強くした。だが、「經濟學者の思ひあがり」と題する木村治美女史の文章だけは頂けない。今囘はその事を書く。
まづ、木村女史も私同樣、經濟に關しては素人であるやうに思ふ。「經濟界は、私とは最も無縁のものだと思つてゐた」と書いてゐるからである。しかるに、木村女史は昨今、「この方面からよくお聲がかかり」、「經濟企畫庁長官と、ある經濟學の教授と三人で(中略)座談會をしたり」、「ガルブレイス教授を囲む經濟學者の會にも、どういふわけか、お招きを受けた」りしたといふ。そして女史は經濟の專門家の意見は國民の「實際の生活體驗」と遊離してをり、「經濟學者、大企業の經營者の發言をきいてゐて、寒氣がした」と書いてゐるのである。
政治や教育の世界でも、文壇や論壇でも、昨今はいい加減な論説が横行してゐるのだから、經濟學者の中にも贋物はきつと多いであらう。だが、「文は人なり」であつて、木村女史の文章から私は、分限を弁へぬ素人の無責任を嗅ぎ付けた。例へば女史は「減税して、國民にもつとものを買つてもらはう」と主張する學者を批判して、「私たちは、もはや笛を吹かれても踊りたくない(中略)、もつとべつな豊かさがほしくなつてゐる(中略)、お金では買へないものが」と書いてゐる。「お金では買へないもの」について經濟學者といへども眞劍に考へなければならぬといふ事について、もとより私にも異存は無い。だが、經濟の專門家や大企業の經營者の考へ方を咎める木村女史は「人はパンのみにて生くるものにあらず」といふクリストの言葉の重みを知つてはゐない。ドストエフスキーが創造した大審問官の痛烈なクリスト批判の重みも知つてはゐない。それは女史の文章がはつきり示してゐる。ドストエフスキーを知つてゐる者なら「お金では買へない豊かさ」が欲しいなどといふ甘つたれは口が裂けても言へはしない。また「一般大衆の一人として、(中略)あつけにとられ」、「リードするのは、あなたたちではない、私たちです」などと口走る事もできぬ。
木村女史の場合に限らないが、昨今は素人が優遇され過ぎるやうに私は思ふ。素人なのに何らかの「方面からよくお聲がかかる」時、素人は用心すべきである。專門家の中に素人を混ぜておけば俗受けがすると、聲をかけた側は思つてゐるかも知れぬ。喜ぶ前に素人はさういふ事を考へたはうがよい。
木村女史はその点頗る無用心である。女史は「經濟學者が國民大衆をリードできると思ふのは(中略)思ひあがり」だと言ふ。が、いつの世にも「專門家」は「國民大衆」をリードしてよいのであつて、素人の思ひあがりほど滑稽で危いものは無い。 
昨今、合点がゆかぬ事ども
國後、択捉のみならず、「北海道の一部」であり「わが國の領土の一部」である色丹島にもソ連軍が駐留し、軍事基地を建設してゐるといふ事實が最近判明したといふ。さういふ事實が確認されたとしても、必要以上に騒ぐのは日本國の利益にならないと、園田外相は語つたといふ。が、所謂北方領土返還運動について私には合点のゆかぬ事がある。私は實は、北方領土なんぞ決して戻る筈が無いと思つてゐる。ソ連のやうな強かな國が、おいそれと國後・択捉まで返してくれる筈が無い。先日、遠山景久氏と語り合つた際、それを私が言つたところ、遠山氏も同感で、政治とは實行可能な事を考へそれを實行する技術であると言ひ、ついでかんらからと笑つて、いつそ日本としては金を出して北方領土を買ひ取つたらよいと言つた。その通りだと思ふ。とまれ私にとつて合点がゆかないのは、北方領土の返還を叫ぶ人々は本氣でそれが實現するなどと思つてゐないのではないか、どうしてもさうとしか思へないといふ事である。金で買ひ取る事を潔しとしないなら、武力に訴へても北方領土は奪取すると、さういふ覺悟があるか。ありはしない。それは丁度、女房を他人に寢取られて、その「寢取られ料」で生計を立ててゐる髪結ひの亭主が、いづれは女房を奪ひ返してみせると、酒に酔つた時だけ強がつてみせるやうなものである。それは途方も無い茶番に他なるまい。
もう一つ、合点のゆかぬ事がある『經濟論壇』には毎號木内信胤氏の文章が載つてゐる。私は必ずしも木内氏の主張のすべてを肯定はしないが、木内氏の文章は歴史的假名づかひで書かれてをり、その点木内氏の信念を私は見事だと思ふ。私は今、この原稿を旧假名づかひで書いてゐる。旧假名が正しいと信じるからである。『經濟論壇』編集部が今囘、私の假名づかひを尊重するかどうか、私には解らないが、もしも私のこの文章を新假名に改めたとすると、私にとつて編集部の仕打ちは「昨今、合点がゆかぬ事ども」の部類に入る。なぜなら、戰後の日本人は平等といふ事を重んじてゐる筈だが、木内氏には旧假名づかひを許し、私にはそれを許さないといふ事になると、それは人間の平等だの自由だのを無視する「保守反動」的な所業だと言はざるをえないからである。
以上二つの問題に限らず、昨今合点のゆかぬ事ばかり多く、私は常に不服顔である。『文藝春秋』誌上の森嶋・關兩氏の論爭で文民統制といふ事が問題になつたが、兩氏とも文民統制が善である事は疑つてゐないやうで、これもまた私には合点がゆかぬ。『中央公論』十月號に福田恆存氏は「日本が主權在民の民主主義國家であるにしても少くとも文民統制に關する限り、人民の選んだ國會議員にのみ文民を代表させるのは危險である」と書いてゐる。私も同感だが、もう少し身も蓋も無い事を言へば、文民が常に軍人より利口だとは限らないのである。それなら、いついかなる場合にも、愚かな文民が賢い軍人を統制しなければならぬとは、これは頗るつきの不条理に他なるまい。賢い文民が統制してこそ文民統制の實をあげる事ができる。つまり、民主主義と同樣、文民統制も絶對善ではない。が、國防について論ずる場合に限らず、昨今は綺麗事を絶對善に祭り上げ、タブー扱ひにして、思考を停止する傾向がちと強すぎるのではないかと思ふ。 
死者を尊重しない民主主義
人間を差別する事はいけないといふ。所謂「差別語」の使用についてマスコミは頗る慎重である。いや、臆病である。なぜ臆病なのか。それに何より「差別」と「區別」はどう違ふのか。中村保男氏は『言葉は生きてゐる』(聖文社)のなかで、碁石には黒白の區別があるに過ぎないが、「將棋の駒は初めから差別されてゐる」と書いてゐる。つまり、「差別といふのは、區別されてゐるものに上下の差をつけること」であり、「差別といふ概念は平等といふ概念と表裏の關係にあり、區別されてある幾つかの個體が平等でなくてはならないといふ觀念がまづ初めに」あるといふのである。簡にして要を得た説明だと思ふ。
個體が平等でたければならないといふ觀念については、ここでは論じない。けれども、新假名の不合理と同樣、使つてはならぬとされてゐる「差別語」について、私には合点のゆかぬ事がある。「盲」(めくら)、「唖」、「聾」、「跛」(ちんば)、「びつこ」、「氣違ひ」はいけないといふ。それなのに「馬鹿」はよいのである。それが私には頗る不可解である。考へてもみるがよい、緑内障によつて「盲」になる場合がある。戰場で爆風によつて「聾」になる事がある。暴走車に撥ねられて「跛」になる事がある。いづれの場合も當人の責任ではない。當人の責任でない以上、他人が何と言はうと、自らを省みて恥づるには及ばない。恥づるに及ばぬと思へば、差別されて動じない事もできる。
けれども「馬鹿」はどうなのか。もとより先天的疾患による「馬鹿」は同情すべきである。當人の責任ではないからである。が、例へば、毎週クイズ番組に出て、「低率の正解」を氣に掛けず、それどころかおのが頭の惡さを滿天下に曝して稼いでゐる、かの學習院大學の篠澤教授の馬鹿は、これは斷然當人の責任ではないか。そして、篠澤教授が假に「跛」だとして、「跛」と呼ばれる事と、「馬鹿」と呼ばれる事と、教授にとつてどちらが身に堪へるか。改めて言ふまでもないであらう。私の體重は四十三ないし四十五キロだが、腕の細さを嗤はれても私は一向に動じない。けれども、「痩せ腕」と評されたら、それが「ひ弱な腕前」を意味するのなら、私はおのれを省みる暇も無しに立腹するであらう。
周知の如く、新假名の不合理は、長い長い年月をかけて吾々の先祖が定着させた表記法を、馬鹿な國語改良論者たちが、短日月のうちに改良しようと企んで改惡した結果生じたものに他ならない。よく言はれる事だが、新假名づかひでは「手綱」は「たづな」と書き、「絆」は「きずな」と書く。けれども「絆」とは新潮國語辭典によれば「鳥・犬・鷹などの動物をつなぎ止める綱」であり、轉じて「夫婦肉親などの離れがたい情愛」の事である。絆を「きずな」と書けと、戰後、少數の馬鹿が、どさくさ紛れに決めたのだが、それ以前、夥しい御先祖樣が「きづな」と書いてゐたのである。つまり、多數決を重んずる吾國の民主主義は、先祖を計算に入れない民主主義なのだ。
私は民主主義を好かない。先祖を尊重しない民主主義はなほさらである。差別用語禁止も、新假名づかいの強制も、さういふ淺はかな民主主義ゆゑの愚擧であり、不合理で矛盾だらけなのは當然の事だと思ふ。 
教育に關する或る勘違ひ
子供に童話を讀ませるのは子供を善良にするためではない、強くするためである。それゆゑ、一流の童話に含まれてゐる毒を薄めようなどと決して企んではならない。が、小堀桂一郎氏が言つてゐるやうに、例へばイソップの『ありときりぎりす』といつた一流作品の「原作に對する温情主義的改變とでも呼ぶべき加筆が、現代日本の幼児向きの繪本類ではかなり高い比率で生じてゐる」のである。原作では、夏の間遊んでゐた蝉(日本ではきりぎりす)に對し、蟻は食物の施しを拒否するが、日本では「しんせつなありたちは、きりぎりすにたべものをわけてあげました」といつた具合の結末にたる。小堀氏が言ふやうに、きりぎりすが怠惰の報いをうけずして救濟されるのは、「無能なものほど優遇される福祉國家の思想の具象化としてぴつたり」だが、さういふ温情主義は、ひ弱な、出來損ひの大人の、子供に對する認識不足に由來するのであつて、彼等はきりぎりすを冷たく突き放す蟻の事を、子供がもし「恰好よい」と思ふとすれば、それは教育上甚だ有害だと考へる。が、それこそ全くの6(木+巳)憂であつて、子供は大人よりも殘酷で、殘酷を好み、それで一向に差支へ無いのである。
それゆゑ、例へばグリム童話の登場人物も時に頗る殘酷に振舞ふ。『蛙の王樣』のお姫樣は、同じベッドに寢たがる蛙を壁に叩きつけるし、『白雪姫』の王妃は猟師に、姫を殺して肺臓と肝臓を取つて來いと命じ、それを鹽漬けにして食はうとする。勿論、童話である以上、善はとどのつまり勝利ををさめる事になる。けれども、その場合も、惡の懲しめ方は頗る殘酷であつて、『白雪姫』における惡玉たる王妃の死に樣もすさまじい。彼女はまつ赤に燒いた鐵の靴を履かされ、踊り狂ひつつ死ぬのである。
さういふグリムの童話から殘酷といふ毒を抜かうなどと考へてはならない。いや、グリムに限らず、一流文學作品の毒抜きをしてはならない。そこに毒があるのは人生に毒があるからである。そして、子供はいづれ必ず大人にならなければならないのだから、この毒のある人生に耐へられるやう強く逞しく育てられねばならない。
『白雪姫』の結末にしても、勝ち誇る善がいかに殘忍かと、まともた大人ならさういふ事を考へたはうがよい。惡人だけが殘忍なのではない。惡人を懲らしめる善人もまた甚だ殘忍に振舞ふのである。例へば、太宰治の『お伽草紙』の「カチカチ山」を讀むがよい。惡しき狸を懲らしめる善玉の兎がいかに殘忍か、太宰の名文はそれを見事にかつ愉快に描いてゐる。
さういふ一流の童話を讀み、善人もまた殘酷であると知つてこそ、子供は強く逞しく生きられるやうになる。どうしてそれが子供に惡い影響を与へようか。この世に百パーセントの善玉も惡玉もゐない。それを子供に教へる事こそ教育なのである。しかるに、よい年をしてさういふ事がまるで解つてゐないのが日本のジャーナリストであり、教育學者である。彼等は皆、子供を「よい子」に育てるのが教育だと信じ切つてゐる。とんでもない勘違ひである。自分の子供を「よい子」に育てたいなどと親は決して思つてはゐない。むしろ子供が適度に惡に染まる事を、惡に染まりながらも惡にへこたれぬ事を、親は皆願つてゐる筈なのである。 
おのが身勝手を知るべし
十一月二十五日付の「世界日報」に、高田動物生態研究所の高田榮一氏が面白い事を書いてゐた。高田氏によれば「動物の研究で世界中を歩くのだが、多くの國ではゴキブリのゐるのがあたりまへになつてゐて、誰もとりたてて關心を示さない」さうである。「しかるにわが日本國では」と高田氏は言ふ。少しく高田氏の文章を引用しよう。
ところが、日本のゴキブリ騒ぎをみてゐると、現代の日本のインチキ性が象徴的に表現されてゐて、狂氣の沙汰としかいひやうがない。インチキ性のいい例が、テレビのCMである。連日連夜、チャンネルを問はず、のべつまくなしに喚いてゐるゴキブリ殺蟲劑・ゴキブリ捕獲器のCMがさうである。まづ、殘虐シーンは不可といふ放映コードがあるのに、その畫面は、ゴキブリがクスリを噴霧されて苦悶・斷末魔の樣相をみせてゐるかたわらで、モデルの美女が手柄顔にニタッと笑ふ。惡趣味である。
私はあまりテレビを觀る事が無いが、さういふコマーシャルを觀た記憶はある。けれども、高田氏の言ふやうに「このひどい殺しの場面が茶の間に罷り通つてゐても、市川房枝女史などウルサイ婦人連中」は文句をつけない。それはなるほど面妖な話である。けれどもよくよく考へれば、人間とはさういふ身勝手な動物なのであつて、折ある毎に汚職を糾彈してはしやぎ廻る市川女史には、その事が解つてゐない。それだけの事である。
市川女史が汚職を咎めるのは、自身手を汚した事が無いからで、ゴキブリの一匹もゐない臺所に女史がゐるからである。けれども、この世にはゴキブリがゐる。高田氏の言ふ通りゴキブリを根絶しようとするのは「思ひ上がり」であり、「日本を無菌化しようとする」のは馬鹿げた妄想でしかない。が、市川女史本人はそれをやつてゐる積りで、愚かしい新聞も大衆も、女史にはそれがやれると思ひ込んでゐる。嗤ふべし、ゴキブリは四億年も前からこの地上にゐる。四億年も存在してゐるものを、人生たかが五十年、蜉蝣の如き人間に根絶できる譯が無い。汚職もさうである。賣春と同樣、汚職も多分、人類の誕生と同時に發生したものであらう。それはゴキブリの如く頑健なものなのである。
けれども、ここで私が言ひたいのは、人間の身勝手といふ事である。市川女史に限らず、折ある毎に政界の淨化を叫ぶ新聞記者も、人間の身勝手といふ事が解つてゐない。ゴキブリが苦悶して、美女が「手柄顔にニタッと笑ふ」。よくよく考へてみればそれは面妖な事だと、彼等はよくよく考へてみる事が無い。飛行機が落ちて人間が死ねば新聞は大いに騒ぐけれども、ゴキブリは大いに虐殺して怪しむ事が無い。
私はゴキブリなんぞに同情してゐるのではない。平和な時代に他人の胸から心臓を抉り出す樣な凶暴な手合が、戰場では見事な自己犠牲の行爲をなす、それが人間といふものなのである。が、人間とはずゐぶん身勝手なものだと知れば、親族や親友の死でもない限り、己れにとつて他人の不幸はゴキブリの苦悶と大差無いといふ事を知るにいたるであらう。それはよい事なのである。 
眞劍勝負の美しさ
教へ子にオーディオ氣違ひが一人ゐて、今は明石で高校の英語の教師をやつてゐるが、それが先日、寒い日に、イギリス製と日本製のスピーカーを組合せ、特製のネットワークを組立て、勿論、採算なんぞは無視して、立派な再生裝置を作つてくれた。そこで私は、最新録音のモーツァルトだのブラームスだのを買つて來て、音樂を聽いてゐるのだか、音を聽いてゐるのだか、よく解らぬままに大いに樂しんでゐる。
その奇特な教へ子は、すぐれた音の再生のためには特別のコードを用ゐねばならぬといふ考への持主だが、同時に彼は、すぐれた再生裝置は録音の古いレコードをも美しく再生するものでなければならぬと信じてゐて、最新録音ばかりを喜ぶ旧師の浮薄を心中ひそかに苦々しく思つてゐる樣子であつた。何せ私は「げてもの」に他ならぬベルリオーズの幻想交響曲さへ、樂しげに聽いてゐたのである。
だが、或る日、ミスター・コードが激賞するディヌ・リパッティのレコードを聽いてゐるうちに私は坐り直した。リパッティは一九五〇年、三十三歳の若さで死んだ天才ピアニストである。私が聽いたのは、死の三ヶ月前、ブザンソンにおけるリサイタルの實況録音で、ショパンのワルツとモーツァルトのソナタ第八番イ短調であつた。ショパンも見事だが、あれほど悲しげで美しいイ短調ソナタの演奏を、私は聽いた事が無い。私は感動した。なるほどかうなれば録音の古さなんぞは問題にならぬ。
リサイタルに出掛けようとするリパッティを、友人の醫者は懸命にやめさせようとしたといふ。が、「約束したのだ、演奏しなければならない!」とリパッティは答へたといふ。妻のマドレーヌが書いてゐるのだが、リパッティが演奏會場に到着した時、これがこの若き天才の最後の演奏とならうと聽衆は思つた。そして苦痛に堪へ、渾身の力を振り絞つて、リパッティは演奏をつづけたが、ショパンのワルツの最後の一曲を彼は遂に彈く事ができたかつたのである。さういふ命懸けの演奏だけが持つ、凄絶な美しさは、レコードからもはつきり感じ取れたので、私はいたく感動したのであつた。
要するに、リパッティにとつて演奏は眞劍勝負に他ならなかつた。そして、眞劍勝負を強ひられた者だけが表現しうる異樣な美しさに接して私は感動したのである。戰死した夫にあてて妻が書いた一通の手紙を讀んで私は同じやうに感動した事がある。その未亡人は、同じ職場の河田といふ男性に優しくされた事について草葉の陰の夫に報告し、かう書いたのである。
本當にはしたない女だとお怒りになるでせうが、時に誰かに甘えてみたいといふ氣持になるのをどうすることも出來ません。(中略)第二、第三の河田さんにめぐり合つた時、「老いらくの戀」に花を咲かせないと斷言する自信もありません。こんな厚かましいことをぬけぬけと書くところがもうどうかしてゐるのかしら。でも・・・・・・本當に女獨りでゐるとこんな氣持になる時もありますのよ。(『昭和世相史』、平凡杜)
この人間的な弱さはまことに美しいが、彼女が美しいのは、眞劍勝負を強ひられた時代に生きてゐたからである。 
言論か暴力か
中川八洋氏が『月曜評論』に、猪木正道氏は「ソ連政府の代理人になつたかの如くである」と書いたところ、猪木氏は「重大な侮辱」であり、もはや「言論ではない、これは暴力だ。暴力に對しては刑法に頼るほかない」(九月一日付『世界日報』)とて、中川氏及び月曜評論社代表桶谷繁雄氏を告訴した。その程度の「刺激的な文句」がどうして名譽毀損になるのか、「猪木さんといふ人は、文章から類推するかぎり大變な權威主義者のやう」だと、九月二十一日付の『月曜評論』に大久保典夫氏が書いてゐたが、全く同感である。權威主義者でも頭腦明晰なら取柄はあるが、猪木氏の場合、その著書には論理の破綻や飛躍がふんだんにあり、いづれ私はそれを拾ひ集め丹念に批判しようと思つてゐる。國防は一國の大事であり、大事に關する限り容赦無く批判しあふのが言論人たる者の責務だと、中川氏もさう信じて猪木氏を批判したのであらうし、「若い評論家の世に出る早道は、權威ある先輩に喧嘩を賣ることで、これは山路愛山に論爭を挑んだ北村透谷以來の傳統」だと大久保氏も書いてゐるが、もはやその傳統は死に絶えたのではないかと私は思ふ。今や「若い評論家の世に出る早道は、權威ある先輩に媚を賣ること」であり、さういふ處世術を忘れて先輩を批判すれば、今囘の中川氏の如く、逆に先輩から喧嘩を賣られる羽目になる。
だが、今囘は大いに喧嘩の花が咲いたはうがよい。週刊文春八月二十日號は、「猪木・中川論爭」に關する諸氏の意見を徴してゐるが、猪木氏が中川氏を告訴する事に關する限り誰一人賛成してゐない。「ソ連政府の代理人」云々の表現が名譽毀損になんぞなる筈は無いと、皆、承知してゐるからである。それゆゑ、喧嘩の花は咲かずして、猪木氏の鼻が折れてしまふ恐れは多分にあるが、さういふ事にならずして、この喧嘩にならぬ喧嘩が何とか長續きするやうであつて欲しい。なぜなら「猪木・中川論爭」は、改憲の是非についてこれまで曖昧な態度を採り續けて來た保守派知識人に、一種の踏繪を突き付ける事になるかも知れないからである。改憲の是非といふ大事に較べれば、保守派同士の和合なんぞは小事であつて、「文人、相輕んず」る事となるのも止むをえない。
けれども、私はここで改憲の是非を論じようと思つてゐるのではない。猪木正道氏の思考の淺薄について語らうと思つてゐるのである。猪木氏が法と道徳を混同していかなる戯言を口走つてゐるかについては『ボイス』十一月號にも書いたけれども、中川、桶谷兩氏を告訴するといふ相も變らぬ「短絡思考」にもとづく今囘の淺はかた行爲も、猪木氏の思考の淺薄を如實に示してゐるのである。
「なぜ中川氏に反論せずに告訴したのか」との『世界日報』記者の質問に對し、猪木氏はかう答へてゐる。「僕は言論の自由のためには、これまで一貫して鬪つてきたつもりだ。だから言論であれば、僕は反論しますよ。だけどね、“ソ連政府の代理人”とか、“ソ連への忠誠心”とかいふのは言論ぢやないと思ふな。これは暴力だ。(中略)暴力に對しては刑法に頼るほかない」。かういふ杜撰な思考力をもつてして、よくも防大の校長や京都大學教授が勤まつたものだと思ふと、もしも私が書いたならば、それは「言論」なのか、それとも「暴力」なのか。ここで「暴力」といふ言葉の意味を詮索する暇は無いが、暴力に對しては暴力もしくは權力の制裁があつて當然である。だが、中川氏は「ソ連政府の代理人になつたかの如くである」と書いたのであつて、「ソ連政府が猪木氏に鼻藥を嗅がせた」と書いた譯ではない。それに何より、暴力に對する場合と異り、言論に對しては言論による制裁が可能である。「猪木といふ人は馬鹿だ、頓馬だ、間抜けだ、薄鈍だ」とだけ喚き立てるのも言論だらうが、さういふ「暴力的言論」をジャーナリズムが本氣で取上げるのなら話は別だが、「ソ連政府の代理人」云々の言論に對しては、言論による反撃や制裁が可能ではないか。猪木氏はなぜそれをやらないのか。いや、なぜやれないのか。現に私は今、かうして猪木氏の思考の淺薄を嗤つてゐる。實際、かくも劣弱な思考力の持主に、よくも防大の校長や京都大學教授が勤まつたものだと、私は思つてゐる。さて、猪木氏は私と『月曜評論』をまたぞろ名譽毀損の廉で訴へるのか。もしも訴へないのなら私は猪木氏に問ふ、「ソ連政府の代理人」云々と言はれるのと、頭が惡いと言はれるのと、言論人にとつて一體どちらが一層不名譽か。「ソ連政府の代理人」云々と言はれたら、「ソ連政府の代理人」でないゆゑんを言論によつて述べ立てるか、さもなくば默殺すればよい。だが、かうして猪木氏を愚鈍と極め付けてゐる私は、暴力を行使してゐる事になるのか。暴力か否かの判定は司直の手を煩はさねばならぬのか。
俗に「畑に蛤」といふ。畑を掘つて蛤を探すのは愚かしい事だといふ意味である。中川、桶谷兩氏を告訴した猪木氏の行爲がそれだと思ふ。猪木氏は言論人である。そして言論人とは、大久保典夫氏の表現を借りれば「言葉の專門家」である。勿論、檢事も判事も言語によつて思考するのだから、言葉を蔑ろにしてよい筈は無い。だが、言論人は「言葉の專門家」なのであり、專門家はおのが專門とする事柄について、他の領域の專門家の判斷を輕々に仰ぐべきではない。例へば自衞隊の存在は憲法違反なりや否やと、さういふ事まで裁判官に決めて貰はうとするのは、私には非常識としか思はれぬ。假りに最高裁が、日本國憲法は戰力の保持を禁じてをり、それゆゑ自衞隊は違憲であるとの判決を下したら、日本國は自衞隊を解散し、完全なる非武裝國に徹しなければならぬのか。最高裁の判事といへども神ではない。三權分立とは司法權が立法權や行政權よりも常に上位にあるといふ事を意味しない。
私は判事を侮つてこれを言ふのではない。言論人が司法官に過大な期待を寄せる事を戒めてゐるに過ぎぬ。そしてその過大な期待は、司法權の尊重であるかに見えて、その實、輕視に他ならない。例へば村松喬氏は、田中角榮氏が「有罪にたればともかく、逆の結果が出たら、はなはだ困つたことになる。政治に對する不信感は、永久にぬぐへなくなる」と言つてゐる(週刊新潮八月二十七日號)。これほど淺薄た意見を口走つて袋叩きに遭はぬのは奇怪千萬だが、「政治に對する不信」は司法官だけが拭ふべき筋合のものではない。村松氏は司法權に過大な期待を寄せてゐる譯だが、もしも最高裁が田中角榮氏を有罪とせず、「逆の結果が出たら」、村松氏の「司法に對する不信感は、永久にぬぐへなくなる」のであらう。そして村松氏は、おのが意見に合致せぬ最高裁の判決を惡しざまに言ふのであらう。
猪木氏は「言論であれば反論」するが、中川氏の言分は言論にあらずして「暴力」だと言ひ、猪木氏を支持する學者たちも、中川氏の「直情径行」を批判してゐる。だが、中川氏が「直情径行」なら、それを窘めたらよいので、反論せずして裁判官の判斷を仰いだ以上、猪木氏は言論人としての責任を放擲した事になる。日本國の檢事も判事も猪木氏ほど愚昧ではあるまいから、猪木氏はこの喧嘩に負けるであらうが、その場合、言論人としての責任を放擲した猪木氏は潔く判決に服し、猪木氏は「ソ連政府の代理人であるかの如くである」との中川氏の主張の正しさを全面的に認めるのであらうか。それともおのが言分を認めぬ司法官を惡しざまに言ふのであらうか。
中川氏は、「今囘の事件によつて猪木さんの諸論文および諸發言がより多くの人に讀まれ、猪木さんがいかに貧弱かつ劣惡な知識しかなく、わが國の防衞政策を論じるに全く適さない人物であるかが廣く知れわたると思ふ」と言つてゐる(『世界日報』)。私もさういふ事になると思ふし、さうなつて欲しいと思ど中川氏はまた、「猪木さんは御自分を批判する人に對していやがらせ、その他の陰湿な裏工作をもつて封じてきた、といふ噂」があると言つてゐるが、私もさういふ噂を聞いてゐる。私自身もその被害者だとの噂も聞いてゐる。事實なら怪しからぬ事だが、私はしかし、眞偽のほどを確かめずして猪木氏に腹を立ててゐる譯ではない。「猪木・中川防衞論爭」は、その根底に、改憲の是非をめぐる保守派知識人の意見の對立がある。そして、その對立は私怨や私恩によつて曖昧にする事のできぬものであり、それゆゑ私は今囘の喧嘩に花の咲く事を望むのである。日本國はいつまでも「モラトリアム國家」を極め込む譯にはゆかず、いづれ必ず眞劍勝負を強ひられるであらう。竹刀で面を取られても生命に別状は無いが、眞劍なら負けたはうは死ぬ。言論の場合も同樣で、論爭に負けたはうは、いかに惡しざまに腐されようと文句は一切言ヘぬ筈である。だが、目下のところ日本國は馴合ひ天國であり、それゆゑ眞劍を振り翳す「直情径行」の野暮天は必ず村八分になる。それを存分に思ひ知されたから、このところ私は口汚い罵倒を慎んでゐた。今囘、私は久し振りに「愚鈍」といふ言葉を用ゐたが、それは中川氏の猪木批判と私のそれと、一體どちらが猪木氏にとつて不名譽かと、その事が言ひたかつたからに他ならない。
最後に猪木氏に問ふ、私の批判は言論なのか、それとも暴力なのか。言論と認めるなら猪木氏は反論すべきであり、暴力だと思ふなら告訴すべきである。ただし、告訴は歓迎するが、「陰湿な裏工作」だけはやらないで貰ひたい。夏目漱石は『私の個人主義』と題する講演で、三宅雪嶺の「子分」による言論抑圧を批判し、「槇雜木でも束になつてゐれば心丈夫」だらうと皮肉つたが、さういふ卑劣な振舞は一時功を奏しても、必ずや後世の知るところとなる。猪木正道氏は「貧弱かつ劣惡な知識」の持主だつたかも知れないが、決して卑劣漢ではなかつた、道徳的に立派な人間だつたと、後世が評するやうであつて欲しいと私は思ふ。 
あとがき 

 

「道同じからざれば、相爲に謀らず」と孔子は言つたが、友人はただ數多く持てばよいといつたものではない。「相爲に謀」るには「道を憂ひて貧しきを憂へ」ざる事の大事を承知してゐる友人を持たねばならないが、いつの世にもさういふ友は得難いのである。が、私はさういふ得難い友に惠まれてゐる。『月曜評論』編集部の中澤茂和氏がその一人である。『月曜評論』は所謂ミニコミ紙で、稿料は當然安いけれども、中澤氏の人柄に惚れた私は『月曜評論』に短文を連載し、さしたる用事無くして屡々中澤氏に會ひ歓談する。時にサンケイ新聞の柴田裕三氏が加はるが、『月曜評論』と同樣、サンケイ新聞も、朝日新聞ほどの影響力は持たない。私は朝日とサンケイを購讀してゐるが、朝日の廣告面の充實に較ベサンケイのそれの貧相に屡々切齒扼腕する。朝日に大企業の廣告がひしめいてゐる時、サンケイには「浮世繪大觀」の廣告なんぞが載つてゐるからである。大企業は目先の利益ばかり考へ、反體制の朝日を優遇し、サンケイを支援しようなどとは決して思はない。だが、柴田氏や中澤氏との歓談を私は大いに樂しむのである。このぐうたら天國日本では、ジャーナリストの眞摯はその影響力に反比例するのではあるまいか。
さういふいはば利によりて繋がらず理によりて繋がる友の一人中澤茂和氏が、或る日、地球杜から本を出さないかと勸めてくれたのである。「地球社」といふ出版杜を私は知らなかつた。が、聞けば地球社の創業は大正元年、農業に關する專門書を數多く出版して來た老舗であるといふ。私は中澤氏の言を信じて地球社の戸田豊氏に會ひ、喜んで第三評論集を出して貰ふ事にした。そして、地球杜はなるほど小さな出版社だが、その眞撃もまたその規模に反比例する事を私は確かめたのである。本書は『道義不在の時代』と同樣、歴史的假名づかひのまま上梓される。かてて加へて本書の卷末には戯曲『花田博士の療法』が収録されてゐるが、さういふ事が大出版社から上梓される場合、果して可能であつたらうか。評論集に戯曲がをさめられるのは、拙著をもつて嚆矢とするのではあるまいか。戸田豊氏の誠實なる尽力に謝意を表するとともに、地球社の今後の活躍を大いに期待する。 けれども、私は地球社の誠實に附け入つて阿漕に振舞つた譯ではない。評論らしきものを書き始める前、ほぼ十年間、傑作戯曲を書くべく私は呻吟したが、『花田博士の療法』はその間に私が書いた戯曲のうち、最も上等のものであり、恩師福田恆存氏のお墨付を頂戴した作品なのである。しかもその主題はジャーナリストの無節操といふ事で、ジャーナリズムのでたらめを斬つた本書に収録したいと私は思ひ、戸田氏も快く承知してくれたのであつた。
本書にはほかにサンケイ新聞に連載した週刊誌批評、及び『月曜評論』その他ミニコミ紙に發表したジャーナリズム批判の文章を主として収録した。サンケイ新聞編集委員の野田衞氏ほか、このぐうたら天國における眞摯たる言論機關の關係者に、深甚なる謝意を表するとともに、眞摯がもう少し割に合ふやうな時節の到來を私は祈るのである。 
 

 

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