東国風土記

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坂東の古代史  民謡

雑学の世界・補考   

■東北・北海道地方 

 

東国・坂東
(とうごく、あづまのくに)とは、近代以前の日本における地理概念の一つ。東国とは主に、関東地方(坂東と呼ばれた)や、東海地方、即ち今の静岡県から関東平野一帯と甲信地方を指した。実際、奈良時代の防人を出す諸国は東国からと決められており、万葉集の東歌や防人歌は、この地域の物である。尚、東北地方は蝦夷(えみし)や陸奥(みちのく)と呼ばれていた。
「日本」という国号が定められる前、「ヤマト」がそのまま国全体を指す言葉として使われていた当時――7世紀中葉以前の古代日本においては、現在の東北地方北部はまだその領域に入っておらず、東北地方南部から新潟県の中越・下越地方及び九州南部は未だ完全に掌握できていない辺境であり、ヤマトの支配領域は関東地方・北陸地方から九州北部までであった。つまり、「あづま」とは、「ヤマト」の東側――特にその中心であった奈良盆地周辺より東にある地域を漠然と指した言葉であったと考えられている(ただし、初めから「あづま」を東の意味で用いていたものなのか、それとも元々は別の語源に由来する「あづま」と呼ばれる地名もしくは地域が存在しておりそれがヤマトの東方にあったために、後から東もしくは東方全体を指す意味が付け加えられたものなのか、については明らかではない)。
「あづま」・「東国」と言う言葉が元々漠然としたもので、きちんとした定義を持って用いられた言葉ではないために、時代が進むにつれて「あづま」・「東国」を指す地理的範囲について様々な考え方が生じたのである。
鈴鹿関・不破関の東側
これは古代(恐らくは律令制成立以前)に畿内を防御するために設置されたとされている東海道鈴鹿関、東山道不破関、北陸道愛発関の三関のうち、古来より大和朝廷と関係が深かった北陸道を除いた鈴鹿・不破両関よりも東側の国々を指すものである。事実上、畿内の東部に位置する地域である。
壬申の乱では、大海人皇子(後の天武天皇)が、「東国」に赴いて尾張国・伊勢国・美濃国を中心とした兵に更に東側の国々の援軍を受けて勝利した。
大山(日本アルプス)より東側
これは律令制に導入された防人を出すべき「東国」として定められたのが遠江国・信濃国以東(陸奥国・出羽国除く)13ヶ国に限定されており(『万葉集』の「防人歌」にもこれ以外の国々の兵士の歌は存在していない)、これは現在の日本アルプスと呼ばれる山々の東側の地域と規定する事が可能である。
倭の五王の1人とされる「武」が中国南朝の宋に出した上表文には「東の毛人(蝦夷)55ヶ国を征す」と記され、また『旧唐書』日本伝によれば、日本の東界・北界には大山横切りその外側に毛人が住む」とある。この大山こそが現在の日本アルプスでその外側の毛人(即ち毛野国の領域)が住む地を日本でいう東国であると考えられる。
更に鎌倉幕府が成立した際に幕府が直接統治した国々が「東国」13ヶ国と陸奥・出羽両国であり陸奥・出羽が後世に朝廷に掌握された土地であると考えると、大山(日本アルプス)より東側=東国という図式がこの点でも成立する。
足柄峠・碓氷峠の以東(坂東)
今日では関東地方と称せられるこの地域を坂東・東国と呼ぶ例が多い。
日本神話の英雄日本武尊(倭建命)が東国遠征の帰りに途中で失った妻(弟橘媛)のことを思い出して、東の方を向いて嘆き悲しみ、碓日坂において東側の土地を「吾嬬(あづま)」と呼んだと伝えられている。ところが、その土地については『古事記』は足柄坂(足柄峠)、『日本書紀』は碓氷山(碓氷峠)であったとされている。
この逸話を直ちに実話とすることは不可能ではあるが、奈良時代の律令制において足柄坂より東の東海道を「坂東(ばんとう)」・碓氷山より東の東山道(未平定地の陸奥・出羽を除く)を「山東(さんとう)」と呼んだ。
後に蝦夷遠征のための補給・徴兵のための命令を坂東・山東に対して命じる事が増加し、やがて両者を一括して「坂東」という呼称が登場した。その初出は『続日本紀』神亀元年(724年)の記事を最古とする。以後、従来の五畿七道とは別にこれらの国々を「坂東」の国々あるいは「坂東」諸国として把握されるようになり、蝦夷遠征への後方基地としての役目を果たすようになった。
その後も地理的に一定の区域を形成したこの地区を1つの地区として捉える考え方が定着し、その呼称も短縮されて「東国」とも呼ばれるようになったと考えられている。
   
北海道 

 

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オホツクのモヨロの浦の夕凪に 去にし世しのび君と立つかな 金田一京助
神威岬 / 積丹半島
○ 忍路(おしょろ)高島及びもないが せめて歌棄(うたすつ)磯谷(いそや)まで 江差追分
船で日本海を北上すると、積丹半島の先に忍路、高島(現小樽市)がある。むかしはこの半島から先は、和人の女は行くことができなかったといふ。だからせめて半島の手前の歌棄、磯谷まで一緒に居たいと、歌に詠まれた。
むかし積丹半島には、源義経が、弁慶ら数名の家来とともに奥州から落ち延びて来たともいふ。義経はアイヌの村で、狩りや畑作の技術を教へ、村人からも尊敬された。三年を過ごすうちに村長の娘のシャレンカと夫婦の契りもした。だが武士の生れの義経は、平和な暮しに満足できなかったやうで、家来らとともに蒙古へ向けて船出して行ったのである。別れを嘆き悲しむシャレンカは、半島の先の神威岬から海へ身を投げた。「和人(シャモ)の女にだけは義経を渡したくない」といふシャレンカの恨みのため、この岬から北へは、和人の女は通れなかったのだといふ。
シャクシャイン / 日高支庁静内郡
アイヌと和人の交易は、古くは対等の関係でなされたものと思はれる。しかし室町以降、ちょうど欧州が大航海時代に入ったころから、和人側は不平等な交換を強要するやうになって行った。和人はアイヌの漁場へ侵入した上に、アイヌを労働力とする漁場経営も進められた。一方アイヌ自身は、民族としての統一国家は持たず、河川流域ごとに狩漁を生業に集落を作って暮らし、集落ごとに和人と交易をしてゐたつもりであった。
江戸時代に入り、日高地方の染退川に砂金が発見されると、松前藩は大規模な採取を開始した。派手な街ができ、商人たちがなだれこんで、アイヌの物産への収奪も度を極めて行った。ここへ来て日高地方のアイヌにとっては、民族存亡の危機を迎へてゐたといへる。複雑な商関係によりアイヌどうしの戦ひも少なくなかったが、寛文九年(1669)、この地方のアイヌの巨酋、シャクシャインは、二千余のアイヌを率ゐて松前藩に戦ひを挑んだ。しかし近代兵器の前に敗れ、松前藩は遠く襟裳岬の果てまで一味を追撃して北の海を血で染めたといふ。アイヌの最後で最大の反乱といはれる。静内郡静内町真歌山に歌碑がある。チャシとは自然の地形を利用したアイヌの砦のこと。
○ 大きチャシ蝦夷のいくさのをたけびの 歴史をここに空は素蒼し 小田観蛍
ローソクもらひ
北海道の村の子供たちは、八月七日(または七月七日)の夕方に集り、竹に短冊と灯籠をさげて持ち、笛太鼓で囃し、歌ひながら村の家々を巡ってローソクをもらふ。
○ 竹に短冊七夕まつり 大いに祝はう ローソク一本ちょうだいな
○ 今年ゃ豊年七夕祭り ローソク出せ出せよ 出さないとひっかくぞ
 寝てもさめても呉けねうち動うごがね
現在ではローソクの代りに菓子などをもらって歩く地域もあるといふ。青森のねぶた祭によく似た行事だが、かうした子供による灯籠や火祭りなどの盆迎への行事は全国各地で行なはれて来た。近年の振興住宅地などで盛んな夏休みの子供の神輿の行列なども、昔の盆迎への行列の面影があるやうにも思へる。
十勝の国石狩川の上流
香具師の口上を二種かがげてみる。
ろくろ首の見せ物 / 皆さんがた、可哀さうなのはこの子でこざい。この子の生まれは北海道、十勝の国石狩川の上流で生まれまして、ある日のこと、お父さん鍬にて蝮の胴体真っ二つ、蝮の執念子に報いましてできた子供がこの子でござい。当年とって十八才、手足が長く胴体に巻き付くといふ……
万年筆売り / ……今まで日本には三大万年筆と称しまして、高価なお金を出さなければ買へない万年筆がたくさんございました。二円も三円も出して小学校の子供さんにあてがったこの万年筆。ペン先が折れた欠けたでは絶対に使ひみちにならない。今までのお使ひになりました万年筆は金ペン。イレジウムを忘れてをります。これが折れた欠けたでは何にも使ひみちにならない。この不便をとるために、神田の工学博士キタムラヨシヲ先生が、北海道十勝の国、石狩川の上流に研究所を設けまして、三年八ヶ月といふながーい間、研究いたしまして、六方石に蛍石の粉末合成一二〇〇度以上の熱をこめまして引き延ばしましたる硬質ナトリウムペン、どんなに乱暴にお書きになりましても、急いでお書きになりましても、ペン先が折れたり欠けたりすることがない。……
明治二年に北海道十一か国が定められ、北海道中央の石狩岳を境にして十勝国と石狩国ができた。石狩川は石狩岳の北に発して、大雪山を左に見て北流し、西に向きを変へて旭川へ流れる。川の水源地は大雪山の東南の十勝寄りにあたるので、その場所は十勝の国と意識されたのかもしれない。北の国の山奥といふ類型的なイメージとしては歌枕のやうなものである。また上流の水源地での蛇と金属精練の話には、何か古い信仰の影を見ることができる。
諸歌句
函館五稜郭
○ その跡やその血の色を竹の花 巌谷小波
函館
○ 東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる 石川啄木(墓碑)
白老浜、苫小牧の西
○ アイヌの子もともにしゃがみて海を見る 白老の浜の夕暮の波 佐々木信綱
旭川、神居古潭
○ たぎつ波ましろうしろう岩に散る神 居古潭の曇れる真昼 九条武子  
 

 

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蝦夷
わが恋はあしかをねらふえぞ舟のよりみよらずみ波間をぞまつ [夫木抄]
「えぞ」という語が用いられた最初期の例。作者は源三位頼政の父、白河院の時代の人である。平安時代後期、和人と蝦夷の交易は盛んになっていたが、蝦夷にまつわるさまざまな風聞が都人の耳にまで届いていたことが窺える。
前大僧正慈円、ふみにてはおもふほどの事も申しつくしがたきよし、申しつかはして侍りける返事に 
○ みちのくのいはで忍ぶはえぞしらぬかきつくしてよつぼのいしぶみ [新古今]
建久六年(1195)、上洛した源頼朝は慈円と意気投合、盛んに和歌の贈答をした。慈円が「手紙では意を尽くさない」旨書き送ってきたのに対し、そう言わずに思いの丈を書き尽くしてください、と返事した歌。「いはて」「しのぶ」「えぞ」「つぼのいしぶみ」と北方の名所をこれでもかと詠み込んでいる。「えぞしらぬ」は「理解しかねる」意で、「得ぞ」に「蝦夷」を掛けている。
○ やすみしし 我が大君の 神のまに しきます国の 鳥がなく あづまの国の みちのくに すめる蝦夷(えみし)は むかしへの 書(ふみ)にしるして 三種(みくさ)ある それがなかにも にぎたへの にきえぞとふは 出羽(いでは)なる 秋田(あいた)小国(をぐに)に すまひつつ 服従(まつろ)ひたるぞ ふぢ衣 あらえぞとふは 沼代(ぬしろ)より やや道離(さ)かり うとかりし えぞなりけらし とほえぞと いふははるけき 都賀留(つがる)ちふ をぐににありて ししじもの 木のねに臥(ふ)せり つち蜘(ぐも)の 穴にも居つつ ちはやぶる ことをしなせば 許多(そこばく)の 御軍(みいくさ)たたし 許多(ここばく)の 守部(もりべ)を置かし 多賀の城(き)や かみの城(き)こえて あらえぞが ひらぼこ山に 御軍は 満(いば)み雄誥(たけ)べど 遠えぞの かぎりをしらに みちをはり 岩ねさぐくみ もののふの ちぢの猛夫(たけを)の 駒のつめ つがるをぐにに 逼(せ)まれれば まつろはましを 心鈍(おそ)き えみしが輩(とも)は 海(うな)の上(へ)の 離れ小島に 舟のまに 漕ぎか隠れし そこもへば むかしへえぞと 聞えしは つがるぞとほき 極(きは)みにて 今いふえぞは その世には 空(むな)し島にも ありやしつらむ 真淵[賀茂翁集]
反歌
○ 駒のつめつがるのをちのえぞが島そをさへなつく君がのりかも
○ 津軽舟北ふく風にこころせよえぞが浦わは波たたずとも
○ いざ子どもこころあらなんみちのくの千島のえぞもやさしとぞきく
賀茂真淵が蝦夷島(北海道)を主題に詠んだ長歌四首のうち最初の一首と反歌三首。日本書紀の記述に基づき蝦夷を「遠蝦夷」「麁(あら)蝦夷」「熟(にぎ)蝦夷」の三種に分類し、このうち遠蝦夷が反抗したので皇軍が征伐に派遣された歴史を描き、「昔『えぞ』と言われたのは、津軽が最果てであって、今言う『えぞ』は、当時は無人島でもあったのだろうか」と結んでいる。「今いふえぞ」が北海道のことである。
事につき時にふれたる
○ とけてだに鯨さやれるえぞの海のこほれる冬をおもひこそやれ 香川景樹[桂園一枝拾遺]
流氷が漂い、鯨も行き悩む北の海を想像して詠んだ歌。 
千島
北海道以北の島々を総称して「えぞが千島」と呼んだ。平安時代後期、和人と蝦夷の交易が急激に進展するにつれ、和歌にも「千島」「えぞが千島」の名がしばしば見えるようになる。蝦夷の風土やそこに住む人々の風習は、都人たちのエキゾチシズムを刺戟したようだ。
○ やそしまの千島のえぞがたつか弓心づよさは君にまさらじ 藤原清輔[夫木抄]
○ いたけもるあま見る時に成りにけりえぞが千島をけぶりこめたり 西行[山家集]
○ あたらしやえぞが千島の桜花ながむる色もなくて散るらん 慈円[花月百首]
○ ゆきて我が心のおくをかたらばやたとへばえぞが千島なりとも 正徹[草根集]
江戸幕府は道南に松前藩を置き、蝦夷地の支配を委ねた。やがて南下政策をとる帝政ロシアとの間で緊張が高まり、領土問題にまで発展する。安政元年十二月、日露和親条約が締結され、サハリン(樺太)を日露両国の共同領有地とした。しかしその後も露人との間で小競り合いや衝突が絶えず、明治八年(1875)、樺太・千島交換条約によって遂にサハリンはロシアの領土、千島列島全島は日本の領土と決したのである。
○ 波あらき蝦夷が千島のはてまでも光あまねき弓張のつき [大江戸倭歌集]
○ 室の八島こさふくえぞが千島まであたら今夜の月や澄むらん 貞徳[逍遥集]
○ 筑紫の海えぞの千島の沖かけて浪たたぬ世はにごるともなし 加藤千蔭[うけらが花]
○ 奥えぞの果まで靡く君が代に開けぬ道はあらじとぞ思ふ 香川景樹[桂園一枝]
   註「奧えぞ」はサハリン島(樺太)。
○ 八百万(やほよろづ)神の守りは天地や蝦夷が千島もわが国のうち 高山彦九郎[高山朽葉集]
○ 大神の健(たけ)くさかしき心もて蝦夷が千島も切り開かなむ 徳川斉昭[景山公歌集]
○ あまざかる蝦夷をわが住む家として並ぶ千島のまもりともがな 〃[愛国百人一首] 
神居古潭(かむいこたん) / 北海道旭川市神居町神居古潭
旭川市内の南西部、国道12号に沿って石狩川が流れる景勝地が神居古潭である。その名はアイヌ語の「カムイ=神」と「コタン=村」が合わさったものであり、アイヌにとっての聖地である。
この付近は石狩川が上川盆地から石狩平野に抜け出る部分であり、川幅が細く急であるために水上交通の難所であり(行き来する船が遭難することが多く、アイヌはここで祈りを捧げてお供えするらしい)、またその流れによって両岸に大きな奇岩や甌穴群(浸食によって丸い穴が開く)が多数見られる。そのような地形であることから、次のような伝承がアイヌに伝わったと推測される。
はるか昔、この地にニッネカムイ(「ニッネ」は悪の意)という魔神がいた。ある時ニッネカムイは、人々が平和に暮らしていることを妬み、川に巨石を投げ入れて鮭の遡上を止め、人々の村に洪水が起こるよう仕向けた。それを見た山の神の熊は阻止しようとして、ニッネカムイと争った。しかし山の神は劣勢に立たされる。そこへ妹神から知らせを聞いた、英雄神サマイクルが山の神の応援に駆け付け、激闘となった。はじめはサマイクルの刀をかわしていたニッネカムイであったが、やがて砦に追い詰められてしまう。そして窮地に立った魔神は川に向かって飛び降りたのだが、両足がめり込んでしまって身動きが取れなくなる。サマイクルはここぞとばかり刀を振るうが、魔神は深手を負いながらも上流へと逃げていく。だが、ほとんど抵抗する力を失ったニッネカムイは、少しばかり上流でついに首を刎ねられてしまったのである。首は川岸に落ちて岩と化し胴体も立ち尽くしたまま石化してしまった。
ニッネカムイの砦と言われる巨岩が、吊り橋から臨める「カムイ岩」である。また魔神の首と呼ばれる岩も残されている。しかしながらニッネカムイが飛び降りた際につけられたという2つの巨大な穴(甌穴)とサマイクルの刀傷の残る岩は国道の拡幅工事のために土砂に埋まってしまったとのこと。また魔神の首の対岸にあった魔神の胴体も同じ工事で削られてしまったという。
光善寺 血脈桜(こうぜんじ けちみゃくさくら) / 北海道松前郡松前町字松城
天文2年(1543年)創建の光善寺は桜の名所としても有名であるが、本堂前にある桜の巨木は“血脈桜”と呼ばれ、北海道指定記念樹木として屈指の名木と言われている。樹齢約300年とされるこの古木には、名前の由来に関する不思議な伝説が残されている。
松前の鍛冶屋・柳本傳八は、娘を伴って上方見物に出掛けた。そして桜が満開の吉野をいたく気に入った親子は、しばらくの間逗留することに。娘の静枝は吉野のある尼寺を訪ね、尼僧と懇意となった。やがて松前に戻る日が来て、尼僧は吉野の思い出にと一本の桜の苗木を手渡しくれた。そして親子は郷里に戻ると、苗木を菩提寺の光善寺に寄進して植えたのであった。
年月が経ち、桜は立派な大木となった。ところが十八世・隠誉上人の代となって、寺の改修をおこなうためにこの桜の木が邪魔となり、伐採することと決めた。その伐採の前夜、寺を訪ねてきた若い女性があり、「明日にも死ぬ身なので、血脈を授けて欲しい」と上人に頼み込んだ。夜も遅いので明日にと言う上人に対して、女は今日でなければならないとせかし、渋々上人は血脈の証を授けたのであった。
翌朝、庭に出た上人は、今日切り倒す桜の木の枝に何かがぶら下がっているのを見つけた。それは昨夜自らが授けた血脈の証であった。ここで上人は昨夜の女が桜の助命に来たのだと悟り、伐採を取りやめると同時に供養を執りおこなったのである。この伝説により、この桜の古木は“血脈桜”と呼ばれるようになったという。上人の許を訪れた若い女性であるが、桜の精であるとも、苗木をもらってきた静枝の霊であると言われている。
また光善寺には「義経山」と刻まれた石碑が置かれている。これはかつて松前にあった義経山欣求院の山号であると言われており、源義経自身が矢尻で刻んだとの伝承が残されている。源義経北行伝説の有力な証拠の1つとされている。
セタカムイ岩 / 北海道古平郡古平町沖町
国道229号線は、小樽から積丹半島を経て江差まで通じる道である。古平町(フルビラチョウ)は余市と積丹半島との間にある町であり、海岸線に沿って国道が続くエリアである。そしてその海岸線には多数の奇岩があることでも有名である。
セタカムイ岩は、余市町と古平町の町境に位置する豊浜トンネルの入り口近くにある。高さは約80メートル、このエリアの中でも一際有名な奇岩である。セタカムイという言葉は、アイヌ語で“犬の神”という意味を持つ。遠くからだと、ちょうど犬が首を挙げて遠吠えしているような姿に見える。この形が名前の由来であることは間違いない。
現地の案内板で紹介されているものは以下の通りである。昔、ラルマキという若い漁師が犬と一緒に暮らしていた。ある日ラルマキは漁に出かけるが、大時化のために遭難して還らぬ人となってしまった。しかしそれを知らない犬は、飼い主の帰りを待って嵐の中を鳴き続けた。そして嵐がやんだ後、その犬は岩と化していたという。
また別の伝承がある。文化神であるオキクルミが狩りをした後に犬を置き去りにして去っていった。犬は後を追ったが、海に阻まれてしまいそこで主人恋しさに泣き続け、とうとう石になってしまったという。
さらにこんな伝承もある。源義経がこの地を去る時に飼っていた犬を置いていった。犬は後を追いすがったが、結局海辺で岩となってしまったという。
この岩の伝承は、飼い主はそれぞれ変わるが、いずれも飼い主に置き去りにされた犬が悲しさのあまり石と化してしまったというパターンとなっている。それだけ、海に向かってそそり立つこの岩が悲しく鳴き続ける犬の姿にそっくりであり、幾世代に渡って人々のイメージとして固着し続けた結果が、複数のバリエーションとして伝播されてきたことに繋がったのだろう。
泣く木跡 / 北海道夕張郡栗山町桜丘
現在の栗山町の歴史は、明治21年(1888年)に仙台藩士であった泉麟太朗によって入植をおこなわれたのを初めとする。その翌々年から、この地では幹線道路や鉄道路の開発がおこなわれた。これには市来知集治監の政治犯が多数駆り出され、寒さと飢えの中を酷使された。そのため多くの囚人が亡くなり、その遺体は掘削工事の進むトンネルのそばにある巨木の下に埋められたという。この巨木が伝説の“泣く木”である。
“泣く木”はハルニレの木で、樹齢は約300年ほどのものとされた。その不気味な名が流布しだしたのは昭和7年(1932年)である。室蘭本線の栗山トンネルに沿ってあった道路を拡張する工事が始められた頃、道路を直線にしようとすると邪魔になる木があった。ハルニレの巨木である。そこで伐採してしまおうとすると、その木がキューキューと音を立てる。それがまるで人が泣く声のように聞こえたために、噂が広まった。しかもこの巨木を鋸で挽こうとしてもなかなか伐れない。そのうち鋸が折れて大怪我をする者が出てきて、さらに引き抜こうと馬車を使ったところロープが切れて馬が即死、作業員も大怪我をする事故まで起きた。結局、この部分だけは道路を迂回して拡張せざるを得なくなったのである。
この事件の前後から「泣く木で首を吊った飯場の女」の怨念という噂も立った。この土地に流れてきた女性が、道路工事をおこなっていた飯場の飯炊きに雇われたが、作業員の慰み者にされた挙げ句それを悲観して首を吊ったというのである(後日、道内の霊能者の霊視によって、この女性は“上野キヨ子”という名であるという話まで広がった)。あるいは、昔、アイヌの娘が和人の若者と恋に落ちるが叶わず、二人してこの木で首を吊ったという話も現れた。“泣く木”の名は「伐ろうとすると祟りがある」という内容で、道内で知らぬ者はないほど有名になったのである。またこの部分だけカーブになっているせいもあるかもしれないが、自動車事故の多発地帯となり、死亡者も複数出ている。そして昭和29年の洞爺丸台風の時に木の上半分が折れたが、地元の人々は怖れて手をつけることはしなかったという。
昭和45年(1970年)8月22日の夜。川の護岸工事と、道路の舗装工事がおこなわれていたさなか、工事の下請けで現場で寝泊まりしていた小林という若者が、酒に酔った勢いで15000円の賭のために、チェンソーで一気にこの木を伐り倒してしまったのである。倒された木は安全面を考慮して細かく切られた処分された。しかしこの木の切れっ端を自宅に持ち帰った者がその夜にうなされたとか、ストーブの薪として燃やした者が病気をしたり急死したりするという噂が流れた。またオカルトブームに乗って、この祟りの伝承は週刊誌などで全国的に知られるようになったのである。
かつて“泣く木”のあった場所には石碑が建てられ、おそらく“泣く木”の種子から育ったであろう若木が二代目として大切に育てられている。そして今もなお、国道234号線はこの木のあった部分を避けるようにカーブしたままである。
松前城 / 北海道松前郡松前町松城
江戸時代、北海道に唯一あった藩が松前藩である。藩は幕末まで松前氏が代々務めており、その居城が松前城であった。この城には、この松前氏にまつわる2つの負の遺産が残されている。それが「闇の夜の井戸」と「耳塚」である。この2つの伝承はいずれも5代藩主矩広(ノリヒロ)の治世の時のものであり、元は城の前の方にあったのだが、現在は2つとも人気の少ない裏手に並べて残されている。
「闇の夜の井戸」は、矩広の乱行を諫めた丸山久治郎兵衛が悪臣に謀られて生き埋めにされた井戸である。ある時、丸山は「殿の鉄扇が井戸に落ちたので取ってきて欲しい」と言われ、それが謀り事であることを承知で応じた。そして悪臣達は丸山が井戸に入ると、その上から大石を投げ込んで殺してしまった。その後、矩広の子が早世するなどの怪異が続き、祟りを怖れて井戸を埋めようとしたが、いくら土砂を流し込んでも埋まる気配はなかったという。さらに月のない夜になると、今なお井戸から呻き声が聞こえてくると言われる。
「耳塚」は、寛文9年(1669年)に起こったシャクシャインの戦いで処刑されたアイヌ側の首謀者14名の首の代わりに持ち帰った耳を埋めたものである。ただ塚と言っても、さして大きくない3つの黒石が残されているだけである。松前藩の横暴に対して立ち上がったシャクシャインであったが、東北諸藩の援軍を仰ぎ、鉄砲を多用する圧倒的な松前藩の戦力の前に劣勢となり、長期戦に持ち込もうとした。しかし和議を結ぶ宴席で騙し討ちに遭い、謀殺される。そしてシャクシャインの遺体は松前城門前に磔にされたという。
松前城には他にも、7代藩主・資広の正室がもののけを退治して皿を手に入れたという「手長池」の怪異などの伝承が残されている。
萬念寺 お菊人形(まんねんじ) / 北海道岩見沢市栗山町万字
“髪の毛が伸びる人形”という怪異の1ジャンルを確立したと言っても間違いない「お菊人形」が安置されている。ただ寺そのものは、北日本でよく見かける、ごくありふれた建物であり、この物件がなければ集落の檀家だけが訪れるだけの何の変哲もない寺院だったろうことは想像に難くない。
お菊人形にまつわる寺の公式な由来は、以下の通りとなる。
大正7年(1918年)8月に札幌で開かれた大正博覧会で、当時17歳だった鈴木永吉が、3歳の妹の菊子のためにおかっぱ頭の人形を買ってやった。菊子はそれを気に入って、寝床まで持って一緒に寝るほど可愛がった。しかし翌年1月に菊子は風邪が元で急死する。人形は、棺に納められるのを忘れたため、遺骨と共に仏壇に飾られたのであるが、いつしかおかっぱのはずが肩まで髪の毛が伸びてしまっていた。昭和13年(1938年)になって、鈴木家は北海道を離れ樺太に移ることとなり、萬念寺にこの人形を預けた。戦後、追善供養のために戻ってくると、人形の髪の毛はさらに伸びており、菊子の霊が宿ったものとしてそのまま萬念寺に納めて永代供養を頼んだのである。
ところが、小池壮彦のレポート(宝島別冊415『現代怪奇解体新書』所蔵)によると、この人形にまつわる怪異譚の初出は上のものとは全く異なる。
昭和37年(1962年)8月6日号の『週刊女性自身』によると、この人形は昭和33年(1958年)に鈴木永吉の父の助七が寺に預けたものであり、その後助七は本州へ出稼ぎに行って帰ってこなかったという。また人形の髪の毛が伸びているのを発見したのは住職で、預かってから3年ほどして夢枕にずぶ濡れの助七が現れて「人形の髪の毛を切って欲しい」と伝えたため、不審に思って見つけたということになっている。しかもこの人形を大切していた子供の名前は菊子ではなく清子となっている。
ところが昭和43年(1968年)7月15日号の『ヤングレディ』では、上の週刊誌記事を書いた同一の記者が最初とは全く異なる来歴を紹介している。大正7年(1918年)大正博覧会で鈴木助七が買った人形を娘の菊子が可愛がっていたが、娘は急死。昭和13年(1938年)に樺太の炭鉱に出稼ぎに行くことになった助七が萬念寺に人形を預けた。そして昭和30年(1955年)になって、住職が掃除をしている最中に、髪の毛の伸びていた人形を発見して供養したという展開になっている。
最終的に、萬念寺公式の由来と同じ内容となるのは昭和45年(1970年)8月15日付の『北海道新聞』に掲載されたコラムからであり、それ以降は異説は全く登場してこなくなる。
“髪の毛が伸びる”という事実に対しても、合理的な理由が考えられ、超常現象ではないという見解も採られている。特に有名のものは、この種の日本人形の植毛方法は1本の長い人毛を半分に折って2本の髪の毛としてくっつけるために、経過年によって折られた髪の毛がずれて一方だけが長くなるという推論がある(ただしこの論が正しいと、人形の髪の毛の総数そのものが減り、見た目の髪の量が減るはずである)。また寺によると、髪の毛が伸び続けるので年に1回の割りで供養として髪を切って揃えているとしている。しかし、残念ながらその切り揃えられた人形の写真が公開されたという話は聞かない。さらに過去と最近の写真を比較すると、伸びている髪の毛の長さが変わっていないと判断せざるを得ないものが殆どである(近年になって髪の毛の伸びる速さがかなり鈍っているという説明がなされているが)。率直に言うと“髪の毛が伸び続けている”という説明はかなり厳しいものがある。
そしてお菊人形の怪異として挙げられるもう1つの特徴は“口がだんだんと開いていく”という内容である。写真で見ても判るように、お菊人形の口はわずかに開いている。本によっては“開いた口から歯のようなものが見える”という記述まである。こちらも初めは口を閉じていたとされるが、それに類する写真は見たことがない。写真によって口の開き方が若干異なるように見えるものがいくつかあるが、果たしてどこまでが真実かを判定するには少々難しいところである。
萬念寺を訪れて実物を見ると、写真で見た時よりも愛くるしい人形という印象を受けた。魂が入っているため“写真に撮られることを嫌って”写りが悪くなるそうである(それ故写真撮影も禁止である)。最早合理的な説明がつけられたからといって、お菊人形は伝説の域の存在であることに変わりない、というのが正直な感想である。
義経神社 / 北海道沙流郡平取町本町
寛政11年(1798年)に近藤重蔵によって創建された、比較的新しい神社である。しかしその来歴は古い。
史実として源義経は平泉で自害したとされるが、不死伝説として主従揃って蝦夷地へ逃れたとする説がまことしやかに伝えられている。それを裏付ける証拠として、平取のアイヌの間では義経の来訪に関する伝承が残されている。社伝によると、義経主従は蝦夷地白神(現・福島町)に着岸するとその西海岸を北上、羊蹄山を越えて平取の地に辿り着いた。そこで義経は現地のアイヌに対して造船・機織・農耕・狩猟などの技術を伝え、「ハンガンカムイ」という名で呼ばれた。つまりアイヌ伝承の創造神であるオキクルミの再来とみなされたとされる。
この伝承を聞いた近藤は、平取に義経を祭神とする神社を建てたのである。そこにはアイヌに対する徳川幕府の政治的思惑が根底にあるのは想像に難くないが(徳川氏は源氏を祖としており、その祖先に近い人物を祀ることによって懐柔を試みているのは明らかだろう)、史実として全く接点があるはずもないこの地に義経の名が残されていること自体、ある種の不思議さを感じるところである。 
江差追分
起源
江差追分の起源は明治30年以降、川竹駒吉・森野小桃・村田弥六・岡田健蔵・高橋掬太郎・三木如蜂・阿部たつを・白石武臣等の追分研究者がその著書で述べているが、定説として決定的にできるものはない。
特に、発生年代となると江戸時代中期以降とするだけで、確定的なものは出ていない。 民謡や民俗芸能は本来長い年月のなかで郷土に溶けこみ定型化するもので、自然発生的要素が多いものであり、江差追分も古い時代に江差の風土と結合し郷土の先人が育て、唄い伝えてきたもので、その発生過程を明らかにできないのは、むしろ民謡としての本質によるものであろう。
特に渡海者の移住によって発生した北海道の郷土文化は、本州各地から運ばれたものが複合され環境に土着した生活慣習も、その中から生まれたものであり、江差追分もその例にもれるものではない。
言い伝えや研究者の著述の中で、江差追分の起源を信州小諸付近の追分節が、越後に伝わり、越後追分となって船で蝦夷地に渡り、一方それより先、越後から松坂くずしが伝わり、謙良節として唄われていたものとが結合して江差追分になったとする説がほとんど定説となっている。
即ち信州北佐久郡長倉村追分付近の街道を上下する馬子たちによって唄われていた馬子唄(馬方節・信濃追分)が参勤交代の北陸武士や旅人瞽女(ごぜ)等によって越後に伝わり蹄の音が波の音、即ち山野のメロディーが海辺のメロディーに変化して越後追分(古くは松前、または松前節と呼ばれた)となり、船乗りに唄われ北前船によって蝦夷地に伝わり謙良節と合流し、蝦夷地という辺境の荒い波濤の中で哀調を加え、江差追分が生まれたという。
この過程で追分の原型に近く哀愁をおびて唄い伝えられたのが「江差三下り」であり、謙良節と合流し地味で悲哀の感情をこめ「二上り」の調子に変わって唄い継がれたのが江差追分である。
何れにせよ信州地方の追分節を母体に、その原型を堅持したのが「江差三下り」であり、調子を二上りに変え、比類なく曲節を練り上げたものが「江差追分」である。
さて、江差追分の源流を信濃追分に求めるのは定説であるが、この信濃追分の発生についても異説が多い。
岡田健蔵氏は、伊勢伊賀の馬子唄が東海道から中仙道を経て木曽路に入り、木曽馬方節となり信州小諸に伝わって追分節になったとし、柳田国男氏は信州追分のメロディーにイタコの神おろし唄と共通なものがあるとして古い時代の追分調メロディーの普遍性を指摘している。
また、近年メロディーの近似性から蒙古民謡に源流を求め、貢馬とともに信州に入り、馬子の唄として成立したという説もある。
発生の古いものほど異説も多く、このことは民謡のもつ本質のひとつであろうと思われる。 一方いまひとつ江差追分の父といわれる古い型の謙良節は、現在では唄う人もなく消えうせているが、伊勢松坂の民謡「松坂節」が越後に入って祝唄の越後松坂となり、のちに「松坂くずし」として唄われていたものらしい。
天明(1781〜1788年)の頃、越後新発田(または新津出身ともいう)の松崎謙良(座頭)が松前に渡り、松前家の重臣下国季寿のもとに寄寓し越後松坂くずしを巧みに唄っていたので謙艮節と呼ばれるようになったという。
また、寛政の頃(一説には天保年間)に南部盛岡の琵琶師の座頭佐之屋市之丞こと佐之市(一節に長崎生まれ、船頭の息子)が江差に渡り、酒席をとりもち美声で唄う謙良節が評判になったという。
「あやこ(酌婦)よければ 座敷がもめる、もめる座敷は謙良節」という歌詞が残っている。
こうして江差で唄われていた謙良節をもとに、越後追分を加えて編曲し、作詞して「二上り」の調子で唄いひろめたのが佐之市であると伝えられている。
「追分はじめは佐之市坊主で 芸者のはじめは蔦屋のかめ子」と唄われ佐之市の作詞とされるものに「恋の道にも追分あらば こんな迷いはせまいもの」という追分の歌詞が伝えられている。
もちろん楽譜もない時代で佐之市の唄がどんなものであったか知るすべもないが、江差追分成立の過程として無視することはできないであろう。
江差追分は謙良節を父とし、越後追分を母として海浜に生きる江差地方の風土に溶け込み、特色ある生活環境や、労働形態の中で幾多の変遷を経ながら育まれたものである。
以上定説とされるもののほか、アイヌ唄から発生したという異説もある。
即ち、村田弥六師が説くその唄というのはメノコが丸木舟に乗って車櫂を操りながら、波の間に間に悲しい調べで唄うもので、和人がこれを聞きアイヌ語を翻訳して唄ったのが追分節であるというものであるが、高橋掬太郎氏等はこれを否定している。 また、義経伝説にからむアイヌ首長の娘「チャレンカ(或いはフミキ)」との悲話から片恋に死んだ哀れなメノコの霊を弔う悲しい調べが江差追分を発生させたとする説を、森野小桃氏等が述べているが、この義経伝説にまつわる江差追分発祥説は明冶期の創作伝説と考えられる。
ともあれ江差追分の発生に、こうした異説が多くあるということは、この唄がそれだけ世人の好尚に叶い、関心を集めている証左であろう。
謙良節を父に、越後追分を母として、ふたつの唄の持つ要素が江差追分を生んだとしても、それは母胎であってその他各地から運ばれた種々の唄の特徴が加わり、時にはメノコの唄うアイヌの唄の調子等も加わったということも考えられる。
ともあれ江差は有カな漁場及び商港として蝦夷地という当時の辺境のなかで、江差追分を独特の情緒をもつ唄として完成したものであろう。
この江差追分の発生年代は、明和〜寛政(1764〜1800)年代にあたる松前13代藩主道広の頃とされている。
この時代は藩政の頽廃期にあたり、よくいえば優雅風流、悪くいえば浮華淫靡で有カな座敷唄が生まれる温床として好適な時代であり、江差追分は一面そのような背景のもとに育ったのであろう。 
推移
江差に発生した江差追分は、海浜に生きる江差地方の風土にとけこみ幾多の変遷を経ながら、愛好者の生活環境や労働形態の相違から、その微妙な節回し、止め方に違いができ多くの流派が生まれていった。
その一つは浜小屋節といわれるもので海に働く漁夫や舟子達の労働歌として、また浜小屋の遊興のなかで唄われた浜流し唄である。
別名頬かぶり節、地方にあっては在郷節とも呼ばれ伴秦楽器として三味線、太鼓が使われ、本唄の後に次のような諧謔味のある囃子がつけられた。
「ハアー 投げれば立つよドンザ着て 石崎浜中ブーラ ブラ 後から掛け取り ホーイ ホイ」「ハアー 江差の五月は江戸にもない アヤコ踊れば わしゃ唄う」「ハアーソイ売ってカレイ買った馬鹿五十集(いさば) 飲んでくだまきゃ なお可愛い」
その二は新地節(または旦那節)といわれるもので、成金趣味の親方や船頭衆が三味に踊りをつけ座敷唄として発達させたものである。
その三は詰木石節とか馬方節といわれるもので、主として町内の詰木石地区(現、愛宕、新栄町)に住む馬方衆や職人達によって愛好され発達したもの。
更に、艶節、芸者節といわれた酒席のなかで芸者によって唄われたものなどがある。(新地節に含める場合もある。)以上の分類もきわめて概括的なもので、実際には美声の持主がそれぞれ一派を名のり、多くの派閥に分かれていたのである。
こういう状態は明治中期までの様相で、これを古調追分と呼んでいるが、その当時の唄は本唄の後に囃子をつけて唄われていた。
しかも一定の型式がなく声自慢達によって長短、高低、抑揚ともに自由奔放に唄われた。明治初年の名手として、「山岸栄八」の名が残っている。
こうしたなかで明治17年、小桝のばあさんと呼ばれた三味線の名手(小桝清兵衡の母)が唄の調子を「二コ上げ(二上り)」とする座敷唄を基本として定型化し、親方衆、船頭衆に教えた。その弟子の一人が平野源三郎である。
この小桝の老女の歌が正調江差迫分の元祖とされている。
かくて平野源三郎(正鴎軒)はこの歌を修得し、明治20年代の末頃に正調江差追分、平野派を創設し、普及につとめるとともに音譜化の研究をはじめた。
明治20年代の半ば頃、尺八の名手鴎島軒小路豊太郎が小桝の老女に師事し追分の伴奏として尺八が情緒を表現するのに最適であると苦心研究の末、江差追分伴秦尺八、小路流を完成し、明治末期以降平野源三郎の唄で伴奏尺八を公開し、好評を得たことで追分の尺八伴奏が完成されたと言われている。
明治36年江差町長「永滝松太郎」の時、共進会が開催され、その協賛の行事として、江差追分競演会が開かれ、町内外から多く出演者があってノドを競い合ったがその時の唄は各人、各様の唄で種々さまざまであったといわれている。
各派にはそれぞれ師匠が居り細かな節回しや、止めに特徴があり、その伝統をかたくななまでに守り通していたのである。
一方幕末以来知名人の来訪も多くなり、追分の情緒が愛され、道内はもとより東京方面でも名声が高まりつつあった時だけに、江差追分の将来を憂慮する人々から「現在のように追分節が幾通りもあったのでは、後に混迷をまねく結果となる」ことを心配する意見が高まってきた。
この機運が明治41年になって平野源三郎師匠が各師匠に江差追分の統一を働きかけ、江差追分正調研究会が発足した。
この研究会の中で、「本唄を生命とする」「詰木石節を骨子とする」「調子をニコ上げ(二上がり)とする」「囃子をソイーソイとする」「七節を七声で途中切らずに唄うものとする」ことが決定され、正調江差追分として統合の基礎ができたのである。
また、歌詞については日本唄の本体である7・7・7・5の26字が一般的に数多く、中には他地方の民謡の歌詞、替唄、即興歌等で唄われ無限に増加する可能性があるため、次の三歌詞を基本と定め、江差追分の三大歌詞とすることに決定した。
※「かもめの鳴く音にふと目をさまし あれが蝦夷地の山かいな」
※「忍路高島およびもないが せめて歌棄磯谷まで」
※「松前江差のかもめの島は 地からはえたか浮き島か」
その後、平野源三郎を中心に標準の曲譜を作るために努力を続け、明治44年、現在の7線による独自の曲譜ができあがり、平野源三郎師が東京で正調江差追分節発表会を開いた際、公表して定型化に成功したのである。
正調江差追分の本唄の調べ
26字の詞を7節に区切り7声で唄うものとし、
1節は大波の上より次第に海底に沈む思いを含み、
2節は沈んだ思いより次第に浮き上がる感じを持ち、
3節はその浮き上がった思いより逆に海底に引き込まれるような感じをもち、
4節は3節より悲哀の調子に至り、
5節は本曲の最も骨子となすところで熱情ほとばしり、真に血を吐く思いという感じを出し、
6節は3節同様海底に引き込まれる思いを出し、
7節は4節同様悲哀の情調をもって唄い終わるものとして、
7節を2分20秒から2分25秒までに唄い終わるとしている。(現在は2分30秒から2分40秒に唄い終わる場合が多い。)
こうした経過の中で、北海道庁長官「西久保弘道」、道選出代譲士「浅羽靖」(号苗村)は江差追分の振興のために尽カし、特に浅羽代議士は明冶45年、平野源三郎師を引きつれて、東京神田のキリスト教青年会館で正調江差追分公演会をひらいて、全国的流行の端緒を開いた。
それが実を結び、大正7年7月東京新富座に第1回追分大会公演会を開催するまでに発展した。
しかしながら、町内外の各派師匠はなかなか伝統を破ることにふみきれず、相変わらず論争が続けられ大同団結はできなかった。
例えば、厚沢部町館の駅逓主「村田弥六」は大正3年、浜小屋節を改めて村田派を旗上げし、追分村田派図式音譜を発表して正調音譜に対抗し、その他「石沢派」「見砂派」「新正派」「三浦派」などを名乗って各自の唄に固執していたものも多い。
そこで、昭和10年に至り、時の原田浅次江差町長が、この現状を憂い各師匠を説得して町内の追分会派を改組し、町長が会長に就任するということで江差追分会が誕生し、完全に統一ができ、以来今日に受け継がれ正調として固定化をみるに至ったのである。
こうして、正調江差追分標準音譜を基調とする江差追分一本でレコードが吹き込まれ、全国各地に普及して「唄は追分、追分江差」と唄われる活況を見るに至ったのである。
一方オーストリアの指揮者F・ワインガルナー博士がウィーン劇場で「日本の音楽」と題して講演し、その中で日本恋歌として江差追分のレコードを紹介して世界の音楽家に感動をあたえ、世界の民謡としてクローズアップされるようになり、昭和14年6月「古代の舞曲」でワインガルナー氏賞を受賞した道出身作曲家早坂文雄氏は「追分を主題とする雪国に寄せる交響詩」を発表し、近代音楽の面からも江差追分の真価が認識されるようになった。
今次大戦下は、一時なりをひそめたが戦後の昭和22年、江差追分会が再編成され、さらに昭和38年に組織替えをして、平成25年4月28日現在、江差本部傘下のもと、160支部(国内155支部、海外5支部)会員3,615名をもつ組織となり、平成元年にはブラジル・サンパウロ市に海外で初めて支部が設立され、日本を代表する民謡としての地位を確立するに至ったのである。
こうした過程の中で昭和38年、町長辻以智郎が会長の時に江差追分全国大会及び江差追分格付審査会が行なわれ、回を重ねることに盛況をきわめ、全国から参集する愛好者のため、第14回大会から会期を二日間に拡大せざるを得ないまでに発展し、江差は真に追分のメッカとして斯界に君臨するに至ったのである。 
前唄・後唄と追分節
江差追分は、あくまで本唄を主体とするものであるが、明冶23年江差に渡った南部水沢の虚無僧「島田大次郎」が、江差追分情緒をより高めるため越後で修得した信濃川の船唄を本唄の前付けとして吹奏したところが賛同者が多く、その後三浦為七郎、川島仙蔵らの師匠尽力により前唄が成立した。
また、大正の中頃江差に渡った神戸の尺八琴古流の「内田秀童」が、江差追分の送りとして江差三下り(オセセのセッセ)や仙台長持唄前唄の後半部を本唄の後ろに添えると曲の収まりがよいことに気づき、これを広く奨励したため一般に行われるようになったという。
以上のような経緯で前唄と後唄が成立したが、江差追分の真価は本唄にあるのであって、前唄は軽い気持ちで浮き浮きと、本唄の声ならし程度で、後唄は本唄のはりつめた気分を、やわらかに余韻を唄う楽しむといった風に唄うのがよい。
前唄も後唄も、本唄の情緒をより高める為のものであり、従って自由に唄われるべきで楽譜も規定に定まったものではない。
歌詞についても、本唄の歌詞をよりよくいかすものでなければならないとされている。
代表的な歌詞として
(前唄) ○国をはなれて 蝦夷地が島へヤンサノェー いくよねざめの 波まくら
      朝なタなに聞こゆるものはネ〜 友呼ぶかもめと 波の音
(本唄) かもめの なく音に ふと目をさまし あれが蝦夷地の 山かいな
(後唄) ○沖でかもめの なく声聞けばネ〜 船乗り稼業は やめられぬ
     ○松前江差の 津花の浜で ヤンサノェー すいた同志の なき別れ
       ついていく気は やまやまなれどネ〜 女通さぬ 場所がある
     忍路高島 およびもないが せめて歌棄 磯谷まで
     ○蝦夷地海路の おかもい様はネ〜 なぜに女の 足とめる
今ひとつ、江差追分の情緒をかもしだすものに追分踊りがあり、舞台芸として今も踊り伝えられている。
言い伝えによると、文化、文政(1840〜1829年)期、江差の経済的最盛期に、芸妓の間に踊り伝えられてきたもので、その由来は狩猟と漁労のアイヌが交歓する時、海辺のアイヌが唄を唄い、それに対して山猟のメノコが、熊祭の振りでこれに和して踊ったのがはじまりといわれているが、明治末に安宅座で開演した束京歌舞伎の市川弁之助(9代団十郎の弟子)の振付で櫓を押す形や鴎のとびかう姿を入れた踊りに作りかえ、舞台踊りとして芸妓の間に踊り伝えられてきた。
その後、若柳吉富三により一般大衆踊りに振付け替えをし、普及につとめた結果、大衆踊りとして愛好者が増大し、追分踊り保存会も発足して、後継者養成にあたっている。 
江差追分と松前追分
今日の江差追分と幾分、曲節の異る違う座敷唄系の追分節が松前町に伝承されており、これを松前追分と呼称している。古くは江差地方に唄われている追分節も、松前の国の追分節という意昧から、松前追分とか、「松前」などと一般的に呼称されていたのであった。
松前藩政期には和人地(態石から亀田まで)が松前地であり、藩内行政地名には福山という地名はあったが松前という地名は存在しなかった。戦後の町村統合によって新しい松前町が発足したものである。その意味で松前追分は古典追分の古称であって、松前町の追分という意味とは異質のものである。
松前追分として今日伝承されているものは、古典追分の一派である艶節の一系統が残り伝えられているもので、大方の追分節の曲調が統一されてしまった観のある今日なお独自の曲調を伝承しているものである。 
解説
日本を代表する民謡の一つに数えられる「江差追分」。この起源については文献も無く成立年代も不明ですが、信州の馬子唄と伊勢松坂節の二つに起源があると考えられています。
信州中仙道の馬子唄がまず越後に伝えられ、海の調べに変わり舟唄となって、越後追分が生まれました。これが蝦夷地通いの船頭衆や船子たちによって江差に運ばれ、浜子屋の中で商家の旦那衆、ニシン大尽、船頭衆が、酒と女の遊びの中で唄い伝えられてきました。
一方、伊勢松坂節は、松崎兼良によって編曲されて松坂くづしとなり、越後での祝い事のとき兼良節として唄われるようになりました。これが民衆に唄い込まれるようになって江差に入ってきました。
この二つの唄を母体とし、それに北前船で運ばれた様々な唄の要素が加わって、江差の漁場と商港という環境の中で独特の情緒を持った江差追分として育ったものだろうと考えられています。
江差追分の成立に重要な働きをしたのが琵琶師の座頭佐野屋市之丞こと佐之市で、「追分のはじめは佐之市坊主で、芸者のはじめは蔦屋のカメ子」と唄われています。
佐之市は寛政年間(1789年〜1801年)、盛岡から来た琵琶師で、その作という
「色の道にも追分あらば、こんな迷いはせまいもの」
という詩が残されています。東本願寺の境内には佐之市の碑があり、江差追分全国大会の前日に、佐之市の法要が行われます。
さて、江差追分には前唄、本唄、後唄がありますが、本体はあくまで本唄です。明治23年、南部水沢の虚無僧、大島大二郎が越後で修得した舟唄を追分の前唄とし、その後、大正10年、神戸の琴古流尺八の内田秀堂師が来遊して後唄を付けたといいます。
さまざまな流派のあった江差追分が「正調江差追分」として、現在の形に定着したのは、明治41年、平野源三郎(正鴎軒)が各師匠に江差追分の統一を働きかけ、江差追分正調研究会が発足したのがきっかけです。
平野源三郎は、小桝のばあさんと呼ばれた三味線の名手の弟子で、この小桝のばあさんの唄が正調江差追分の元祖とされています。ばあさんから教えを受けた平野源三郎は、明治20年代の末頃に正調江差追分平野派を創設し、普及につとめるとともに音譜化の研究をはじめました。その後、平野源三郎師匠を中心に標準の曲譜を作るために努力が続けられ、明治44年、現在の7線による独自の曲譜ができあがり、平野源三郎師が東京で正調江差追分節発表会を開いた際、公表して定型化に成功したのでした。
正調江差追分本唄は、7節を2分20秒から2分25秒までに唄い終わるものとされ、1節は大波の上より次第に海底へ沈む思いを唄い、2節は沈んだ思いより次第に浮き上がる感じを表し、3節はその浮き上がった思いより、逆に海底に引き込まれるような感じをもち、4節はより悲哀の調子となり、5節は骨子となるところで、情熱に血を吐く思いという感じを出し、6節で3節の海底に引き込まれる思いと同じくし、7節は4節の哀愁の情緒を持って唄い終わるものとされます。
戦時中、一時なりをひそめていた江差追分も、戦後の昭和22年、江差追分会は再編されてから普及がすすみ、平成24年4月22日現在、江差本部傘下のもと、159支部、会員3,636名をもつ組織となり、日本を代表する民謡としての地位を確立しました。 
物語
佐之市と芸者亀吉
いまは曲節が失われた地元の古い民謡「天保問屋荷揚唄」の中に「追分はじめは佐之市坊主で、芸者のはじめは蔦屋のかめこ」とある。
寛政の頃、南部の盛岡辺から流れてきたとされているこの旅芸人は、江差の切石町の妓楼に姿を現すや持前の美声と当意即妙の歌詞、座持ちのよさなどで酒席を賑わし、たちまちのうちに土地の人気者になってしまあった。佐之市が得意とした歌は、けんりょう節、じょんがら節、あいや節などたくさんあったようであるが、何といっても出色なのは追分節であった。
彼はこの歌を「松前」や、三下りなどという既存の過渡的な曲調の唄を基本に、けんりょう節の長所をとりいれて、今日につながる江差追分の原型をつくり上げて行ったようである。
数ある追分節の文句のうち、佐之市が最も得意としたのは
色の道にも追分あらば、こんな迷いはせまいもの
という一句で、彼はこの文句を、当時、切石町の妓楼で客の種を宿して苦しんでいたある女の身の上に同情して創作したという。
蔦屋のかめ女については、その没年が慶応2年7月28日(ただし享年不詳)であることがわかっている。彼女は江差の古い料亭蔦屋の娘で、芸名を亀吉といい、生前、常磐津など各種の音曲を能くした人であったらしい。唄本の裏表紙とみられる署名入りの紙片が一枚、今日に遺されている。追分は佐之市がこの人に伝授して唄わせたとも伝えられるが、もしそうであるとすれば、晩年、花柳界の大御所的な存在になっていた佐之市が、弘化、嘉永、安政と続く幕末のいずれかの時期に、後輩である彼女に唄わせ、折々の座興に供したものであろう。
義経伝説
文治5年の秋、奥州を逃れた義経主従は、一葉の軽舟に身を托して、はるばる蝦夷地に渡ってきた。積丹半島の辺りに上陸した義経は、まず長老のシタカベを従え、しばらく彼の地に滞在した。
やがて、シタカベの娘のフミキ姫は、許婚者のある身ながらひそかに義経を恋い慕うようになった。
しかし、大望のある身の義経は、婦女の情におぼれることなく、ある日ひそかに舟を出してさらに奥地をめざした。
狂気のように後を追うフミキ姫を、父のシタカベは邪恋に狂う女として神威岬の巌頭で斬り捨てた。
後に、かつての許婚者がその場を訪れて、赤い花の咲いた美しい草を見つけ、草笛を造って吹いてみると、自ら一曲の悲痛な調べを奏でた。
それが、今日の江差追分の始まりである。(森野小桃著『江差と松前追分』−要旨−)
より古い形のものは、志賀重昂の名著『日本風景論』にみられるように、話の後段に至って「巌頭に立ったアイヌの美姫(一説にチャレンカ)が、沖を行く義経の舟を見て嫉妬のあまり、この後、和人の舟が婦女を載せて沖を通ったならば、必ずこれを覆没ささると、呪いの言葉を遺して身を投げた」という風になっているのがふつうである。
なお、上記のような話は、ときとして江差の鴎島を舞台に語られることもあるが、実はその方が神威岬を題材にとった話しより、北へ去る思い人の後を女が追うという「忍路高島」の歌の本来の意味に、よく合致しているようで興味深い。
平野源三郎
平野師は明治2年10月、木古内町下町の生まれ、14歳のとき、親戚筋に当たる江差の平野屋の養子となり、鴎島学校を優秀な成績で卒業したあと、家業の呉服行商に従事した。
平野師と追分節を最初に結びつけたのは、養母のリカ女であった。
元蔦屋の抱え芸妓であった彼女は、養子に迎えた源三郎が唄好きなことを知ると、新地の取締り役をつとめる小桝清兵衛の祖母に頼んで、それとなく追分を習うように仕向けたらしい。
追分を習うようになった平野師はたちまちのうちにまわりが目をみはるような上達をとげた。
そればかりでなく、後に伴奏者としてコンビを組むようになった小路豊太郎と共に尺八の演奏法も研究し、ついにはこれも修得して一家をなすに至った。
明治42年、自ら江差追分節研究会を興した師は、次いで明治44年9月、江差で行われた追分大会に優勝して、改めて地元の人々に第一人者としての貫禄をみせつけた。
そしてこのことがやがて当時の札幌の浅羽靖代議士に見出されて、上京することにつながって行くわけである。
二声上げ、七ッ節
明治42年末の師匠会議以降、地元の追分界で唄い方の基本とされるようになった言葉に「二声(ふたこえ)上げ、七ッ節」というのがある。
これらは人によっては「七節七声、二子上げ」とも表現するが、いずれの場合も江差追分の本唄部分の七句
おしょォ、たかしィま、およびィも ないィが せめェて うたすゥつ いそやまァで
の各句を一息で、切らずに唄うこと、および各句の後半部にある生み字の部分を押しぎみに、あるいははね上げるように強調して唄うことをさしている。
二子上げといういい方は、地元では他にも沖揚音頭などにも用いられるが、その場合は網をたぐるために掛け声を繰り返す、その後の方にとくに力をいれて唄うことをさしているようである。
レコード吹込みがこの唄に与えた影響について一言しておきたい。
大正の中期以降、追分節がレコード化される機会が多くなってくると、78回転盤の片面約3分という時間の制約は、この唄の演唱形式に大きな変化をもたらすことになった。
一口でいえば、それまでの本唄と囃し言葉も何回も繰り返すという唄い方が廃って、「松前」の合の手に相当する部分を声ならしのような形で先に唄い、その後に間奏を入れて片面を終り、次いで本唄と合の手の後半部を、後唄という形で添えるという演唱形式が一般に定着したのである。
忍路高島
伝説の大方は、元禄初期以来と伝えられる神威岬の女人通行禁制を、つよく意識して作られたものである。
ともあれ、この禁制は、不幸にして迷信深い水主(かこ)達によって幕末の頃まで堅く守られ、後世、幾多の愛別離苦の悲劇を生むもとになった。
「忍路高島」が、その間の事情を端的に物語る歌詞であることは、いうまでもない。
では、なぜこれほど長い間、和人が奥場所へ定住することをさまたげる、このような禁制が行われたのであろうか。
その原因を尋ねてみると、そこには松前地の繁栄のみを守ろうとし、奥地における支配の内情が外部にもれることを恐れた松前藩のこそくな政策があった。
そのような施政の下におかれ、過酷な労働を余儀なくされた人々こそ災難であったといわなければならない。
つまり、大勢の出稼ぎ漁夫やその家族、小前の百姓達、旅芸人や花街の女といったような下積みの人々である。江差追分は、何よりも、まず、そのような人々の胸奥からほとばしり出た魂の叫びであった。
それにしても、一つの人を感動させるに足るものが、世に生まれ出てくるためには、何と大きな犠牲を払わなければならないものか、それら無数の先祖の気持ちを思うにつけ暗然とした気持ちにならざるを得ない。
「忍路高島」が唄われ始めた時期については、きわめておぼろげながら推定する手掛かりが全くないわけではない。
つまり、この文句の原型をたどって行くと、天明年間に幕閣で権勢をふるった老中の田沼意次にちなんだ
「田沼様には及びもないが、せめてなりたや公方様」という当時の江戸での流行り唄に行きつくからである。
この唄はまもなく地方に移って、越後の新発田あたりでは「新発田五万石およびもないが、せめてなりたやとのさまに」(松坂節)、酒田では「本間様にはおよびもないが、せめてなりたやとのさまに」(酒田節)という風に替え唄として唄われた。
とすれば当然、その延長上に、わが北海道の「忍路高島」も位置すると考えてよいわけである。
ところで、唄が流行するまでの経緯はどうであれ、単なる羨望の気持ちを表した上記のような唄は、人の心をうつという点で「忍路高島」のもつ迫力には、遠く及ばないのではないだろうか。
所詮、民謡というものは、その時々の人の心の在り所によって、いかようにもその価値、内容が変わり得るものである。
この点に関し、風俗画報所載の関係記事の筆者である山下重民氏は、同誌の中で、
「およそ俚謡の人を感動せしむるはその真率なるにあり。そのことの実際より出るに因るなり。この追分の一曲、以って証すべし」と述べられておられるが、まことに至言といえよう。 
木古内盆踊り
うさもつらさも 踊りにとけて 月は薬師の ノー 山に照る
津軽海から 朝日がさせば 花の薬師は ノー うすげしょう
踊り浮かれて 佐女川ほとり  ナヤギすり合う ノー おぼろ月
帰らぬつもりで 木古内出たが 盆の太鼓に ノー もどされる
踊りつかれて うちわを入れりゃ ホタルちょと来て ノー 顔のぞく
うたって 踊って 疲れて寝たら 大漁大漁の ノー 夢を見た
踊り踊るなら 前より後ろ 後ろ姿で ノー 嫁にとる
遠く離れて あいたいときは 月が鏡と ノー なればよい
盆の太鼓に つい浮か浮かと 月も浮かれて ノー 踊り出す
どんと響いた 太鼓の音で 町に平和の ノー 盆踊り
踊り踊るなら みなきてはやせ 年を忘れた ノー 夜じゃもの
わしの盆うた 空までとどけ 明日の沖出は ノー 大漁節
波のしぶきに 浜なす咲いた 可愛いあの娘の ノー ほほのよに
踊るふるさと 潮のほとり 波に浮かんだ ノー 帆も軽く
踊る娘の たすきの姿 母もほほえむ ノー 月も見る
親父みてくれ あの娘の手ぶり いかをさかせりゃ ノー 二人前
木古内名物 踊りの姿 笑顔笑顔を ノー 月照らす
うたえうたえと わしばり責めて わしがいなけりゃ ノー だれ責める
咲いた花より 咲く花よりも 咲いてしおれる ノー 花がよい
親の意見と なすびの花は 千に一つの ノー むだもない
盆の十三日 ほがいする晩(バゲ)だ 小豆強飯 ノー 豆もやし
来いとゆたとて 行かりょか佐渡へ 佐渡は四十九里 ノー 波の上
波の上でも 来る気があれば 船に櫓(ロ)もある ノー 櫂(カイ)もある
お前百まで わしゃ九十九まで ともに白髪の ノー 生えるまで
思い出しては 写真をながめ なぜに写真は ノー 物言わぬ
想うて通えば 千里も一里 みんなあんたの ノー ためだもの
来いちゃ来いちゃで 二度だまされた 又も来いちゃで ノー だまされた
お前思えば 天気もくもる 天気もくもれば ノー 雨となる
雨の降るのに わし通はせて ぬれた体を ノー だれがほす
うたの先生は いだがも知らぬ 一つうたいます ノー 恥をかく
こいの滝のぼり 何と言ってのぼった 身上あがれと ノー 言ってのぼった
私しゃ木古内 荒浜育ち 波も荒いが ノー 気も荒い
沖の暗いのに ランプが見える あれは紀乃国 ノー ミカン船
高い山から 谷底みれば うりやなすびの ノー 花咲かり
盆と正月と 一度に来たら わたしだいてねて ノー カヤかぶる
あの山木かげの あの石ドウローは だれが寄進で ノー 建てたやら
来たり来ないだり なぜきく野菊 どうせ来ないなら ノー 来ねばよい
他人(ヒト)の女房と 枯木の枝は 登りつめだよ ノー 命がけ
踊り踊るなら しなよく踊れ しなのよい娘を ノー 嫁にとる
江差山の上を 鳴いて通るカラス 金も持たぬで ノー カウカウと
ヤマセふがげで 松前渡り あとは野となれ ノー 山となれ
わしとお前は 羽織のひもよ 堅く結んで ノー 胸におく
声はすれども 姿は見えぬ やぶにうぐいすの ノー 声ばかり
せめてかもめの 片羽あれば 飛んで行きたい ノー 主のそば
沖のかもめが 物言うならば 便りきいたり ノー きかせたり
泣いてくどいて 義理立つならば わしも泣きます ノー くどきます
枯木見せかけ 花咲け咲けと 花が咲きます ノー 実が成らぬ
盆が来たとて 我が親来ない 谷地のみそはぎ ノー 我が親だ
咲いた桜に なぜこまつなぐ こまが勇めば ノー 花が散る
若い船頭衆の ソーラン節よ 浮気かもめも ノー 飛んで来る
差した杯 中見て受けよ 中にツルカメ ノー 五葉の松
山で切る木は いくらもあれど 思い切る気は ノー さらにない
鳴いて飛びつく あの大木に 鳴いて別れる ノー 夏のせみ
月夜恥かし やみ恐しい おぼろ月夜の ノー 夜がほしい
ほれていけない 他国の人に 末はからすの ノー 鳴き別れ
末はからすの 鳴き別れでも 想うて苦労を ノー してみたい
昔しなじみと つまずく石は 憎いながらも ノー 後を見る
空の星さえ 夜遊びなさる わしの夜遊び ノー 無理もない
わしの病いは 踊りの病 太鼓ドンとなりゃ ノー 寝てられぬ
上げたり下げたり 冷やかされたり ほんにつらいじゃ ノー はねつるべ
鳴くなにはとり まだ夜が明けぬ 明けりゃお寺の ノー 鐘が鳴る
米のなる木で わらじを作る ふめば小判の ノー 後がつく
踊りじょうずな あの娘の姿 月も見とれて ノー 足とめる
あれ見やしゃんせよ 山吹きの花 浮気で咲いたか ノー 実がならぬ
白さぎ見るよな 男にほれて からす見るよな ノー 苦労する
花のさかりに しんとめられて いつか咲くやら ノー 咲かぬやら
酒このむ娘は しんからかわい のんでクダまきゃ ノー なおかわい
わたしゃ木古内 荒浜育ち 声のわるいのは ノー 御免くれ
唄てはやしねが 何恥しば ここは通りつ ノー 人がきく
晒(サラ)し手拭 鯉の滝上がり どこの紺屋で ノー 染めたやら
妾(ワ)しゃ木古内の 十六ササゲ 誰に初もぎ ノー されるやら
泣いてうらむか 蛇になって呑むか 生きてお前の ノー 末をみる
咲いて口惜しい カタクリの花 小首かしげて ノー 山奥に
色でなやませた 生ナレ茄子(ナスビ) 中に口説きの ノー 種がある
思て通えば 千里も一里 会わずに帰れば ノー また千里
よせばいいのに 舌切雀 ちょいとなめたが ノー 身のつまり
一夜一夜に 浦島太郎よ あけてくやしい ノー 玉手箱
茶屋の二階から 釣竿さげて どんなお客でも ノー 釣りあげる
実こそならぬが 山吹の花 色にまよわぬ ノー 人はなし
恋の九ツ 情の七ツ 情しらずの ノー 山鴉(カラス)
かわいがられて 今死ぬよりも にくいがられて ノー マアーマアーと
わしの道楽 カマスに入れて 叱る親父に ノー 背負わせたい
沖に色みえる いわしかさばか 若衆出てみれ ノー 色の鯖(サバ)
北海盆唄
ハアー北海名物 ハアドウシタ ドウシタ
数々コリャあれどヨー ハーソレカラドウシタ
俺らがナー 俺らが国さの(自慢の)コリャ
ヤレサナー盆踊りヨー エンヤコラヤ
ハアードッコイジャンジャン コラヤ
ハアー波の華散る 津軽の海をヨ 越えてナー
越えて えぞ地へコリャ いつ来たかヨ
ハアーそろたそろたヨ 踊り子がそろたヨ
はやしナーはやし太鼓のコリャ 音(ネ)もそろたヨ
ハアー主がうたえば 踊りもしまるヨ
やぐらナーやぐら太鼓のコリャ 音(ネ)も弾むヨ
ハアー高い山から 谷底見ればヨ
ウリヤナー ウリやなすびのコリャ 花盛りヨ
ハアーはやし太鼓に 手拍子コリャそろえてヨ
やぐらナーやぐら囲んでコリャ 盆踊りヨ
ハアー姉っコよい娘(コ)だ 踊りも上手
婿(むこ)にナー 婿に行こうかコリャ 嫁にしようかヨ 
北海盆唄
昭和15年頃、札幌の民謡家・今井篁山(明治35-昭和58)は幾春別炭坑の盆踊りを訪ねた。そこで見た「ベッチョ踊り」の賑やかなこと。これを広く普及させようと、卑猥な歌詞を改め、メロディーも多少編曲して「炭坑盆踊り唄」として活用した。これが「北海盆唄」の原型となる唄で、昭和21年の豊平川河畔の盆踊りで唄われたのが最初だという。 さて、「ベッチョ踊り」というのは三笠に限らず、当時道内各地に広まっていた盆踊りで、そこで唄われたのは「ベッチョ節」「チャンコ節」「北海道越後盆踊唄」「チャンコ茶屋のババ」などと呼ばれる卑猥な歌詞を持つ唄だった。これらの唄がどこから来たのかということになると、新潟県から高島町に移住した集団移民によって伝えられた「越後盆踊唄」が全道に広まったという説、常磐炭坑で唄われた常磐炭坑節が出稼ぎの坑夫によって持ち込まれたという説など、諸説紛々として定まらない。また、唄の型でいえば「北海盆唄」は七七七五調の終わりの五音の前に「アレサナー」などの囃子詞が入る「アレサ式盆踊り唄」の一種である。福島や栃木には「相馬盆唄」や「日光和楽踊り」など、アレサ式盆踊り唄で「北海盆唄」と曲態の似た唄が多いが、これらも元は越後方面の甚句の影響を受けたものだという。結局は全国的な民謡の伝播ルートの延長線上で、移住者が内地の盆踊り唄を北海道に持ち込み、盆踊りの先進地だった炭坑で北海道の郷土色を付け加えられて開花結実したものが「北海盆唄」のルーツだと考えて良さそうだ。  
終戦後の日本は極度の食糧不足と石炭不足に見舞われた。そこでNHKでは、食料とエネルギー源確保のため、「農家へ送る夕」(昭和20年)「炭坑へ送る夕」(昭和21年)といったラジオ番組を定期的に組むようになった。その「炭坑へ送る夕」の中で、「北九州炭坑節」(単に「炭坑節」ともいう)や「常磐炭坑節」が世に出た。「炭坑節」は、ポリドールから日本橋きみ栄、テイチクから美ち奴、キングから音丸、コロムビアから赤坂小梅と、各レコード会社の競作で発売されるほどの流行になった。特に昭和23年発売の豪快な小梅盤が全国的に大受けし、「炭坑節」は「東京音頭」(昭和8年)と並んで日本で最も人気のある盆踊り唄となった。 昭和26年の第1回NHK紅白歌合戦では、赤坂小梅の「三池炭坑節(北九州炭坑節)」と鈴木正夫の「常磐炭坑節」の対決が行われた。この東西炭坑節対決は昭和31年の第7回紅白歌合戦でも再現された。白組から鈴木正夫が「野郎ヤッタナイ」の常磐炭坑節を熱唱、季節外れの盆踊り唄で大賑わいであった。興奮さめやらぬうちに「月が出た出た」の三池炭坑節が始まり、小梅さんが粋な踊りを披露、会場も両軍総立ちになって踊り出し、あの小梅さんのよく通る声がかき消されんばかりのお祭り騒ぎになった。 炭坑は三池や常磐にだけあったのではなく、むしろ石炭産業の本場は北海道だった。そして北海道の炭坑節はといえば、これこそ今井篁山が幾春別で見出し、後に「北海盆唄」となる唄なのだ。今井篁山はこの唄を東京に持ち込み、昭和29年「北海炭坑節」(唄/中田篁声)の曲名でレコードが出された。昭和32年「北海盆唄(ちゃんこ節)」のタイトルで伊藤かづ子が吹き込んみ、昭和33年三橋美智也の歌唱でレコード化され、全国的に知られる流行民謡になった。 一方、昭和35年、民謡の権威書である町田嘉章・浅野建二編「日本民謡集」に、「北海道追分」「ソーラン節」「いやさか音頭」とともに北海道の民謡として「北海盆踊唄」が採録され、民謡としての地位を確固たるものにした。  
ソーラン節
ヤーレンソーランソーランソーランソーランソーラン(ハイハイ)
にしん来たかと 鴎に問えば わたしゃ立つ鳥 波に聞け チョイ
ヤサ エーエンヤーサーノドッコイショ (ハードッコイショドッコイショ)
ヤーレンソーランソーランソーランソーランソーラン (ハイハイ)
沖の鴎に 潮どき問えば わたしゃ立つ鳥 波に聞け チョイ
ヤサ エーエンヤーサーノ ドッコイショ (ハードッコイショドッコイショ)
ヤーレンソーランソーランソーランソーランソーラン (ハイハイ)
男度胸なら 五尺のからだ どんと乗り出せ 波の上 チョイ
ヤサ エーエンヤーサーノ ドッコイショ (ハードッコイショドッコイショ)
ヤーレンソーランソーランソーランソーランソーラン (ハイハイ)
躍る銀鱗 鴎の唄に お浜大漁の 陽がのぼる チョイ
ヤサ エーエンヤーサーノ ドッコイショ (ハードッコイショドッコイショ)
ソーラン節
北海道渡島半島の民謡、鰊漁の歌として有名。「船こぎ音頭」「つなお越し音頭」「子たたき音頭」等の中にある「沖揚げ音頭」の別称。板子一枚隔てた下は冬の荒海、眠気や疲労を吹き飛ばすために「ソーラン、ソーラン」と掛け声をかけ、励まし合い作業をした。もとは青森県野辺地町周辺の「荷揚げ木遣り唄」とされる。原曲は、江戸中期のはやり歌説をとる。当時の御船歌と呼ばれる儀礼の歌や小禾集という俗謡集にゃ「沖のかごめに」と言う一節に酷似した歌詞があり、その流行り歌がやん衆とともに、北海道にわたったという。  
ソーラン節は、鰊の魚影を追い続けたヤン衆たちのドラマの中で生まれた。ソーラン節はどこで生まれた唄か、さまざまな説があるが、有力な場所として知られているのが積丹町。北海道の中でも古い歴史を持つ町である。
積丹町の開基は江戸時代中期、1706年で、松前の福山城が築城された1600年から100年余り後と歴史がある。当時、積丹半島の日本海沿岸は毎年3月下旬から5月にかけて海が盛り上がる程に 鰊が押しよせていたと云われている。松前藩時代は鰊は身欠き鰊、塩数の子として将軍家に献上していた。鰊、サケ、昆布は蝦夷(エゾ)の三品として全国に知られるようになり、貴重なものとして数多く取り引きされていた。松前藩は江戸中期の享保年間(1716-1735年)ごろまで蝦夷交易は知行主(藩士の交易権持ち主)が行っていたが、それ以降蝦夷交易は商人によって請け負うようになった。この商人を場所請負人と言った。商人から徴収するお金を「運上金」、交易する場所を「運上家」と言った。
積丹の交易権(場所)は宝永3年(1706年)に初めて置かれた。場所請負人が置かれたのは天明6年(1786年)で知行主「藤倉八十八」、請負人「福島屋金兵衛」だった。その後文政年間(1818年)から明治8年(1875年)ごろまでは松前商人「岩田金蔵」が請負人となっていた。岩田金蔵は現在地に脇本陣としてみごとな 鰊漁場の建物を建てた。運上家制度は岩田金蔵の時代で廃止となったようだ。
慶長年間(1596-1625)に美国場所と積丹場所(後の入舸・余別村)が設けられ、知行主は美国が近藤家、積丹は藤倉家が世襲していた。天明年間(1781-1789)には運上屋、 鰊小屋、番屋などが美国で29軒、積丹で17軒も数えたという。大正の末期まで鰊の千石場所として大いに繁栄し、当時の番屋、トンネル、旧街道などが保存されている。
その歴史を語るにあたって忘れてはいけないのが、北海道の厳しい海にひるむことなく、鰊の大群を追い続けた「ヤン衆」たちの生き様だ。厳しい環境だからこそ生まれた数々のドラマ。そんなドラマの主人公であるヤン衆たちが、鰊で溢れた網を引き揚げる時に、自然に口ずさんだ「力入れ」の唄、それが「ソーラン節」だったのだ。今では北海道を代表する民謡となったソーラン節だが、実はこの唄、 四編から構成されている「正調鰊場音頭」の内の一編分、沖揚げ音頭だった。
ソーラン節は北海道渡島半島の民謡。ニシン漁の歌として有名。
かつて北海道の日本海沿岸には、春になるとニシンが産卵のために、大群となって押し寄せてきた。メスが卵を産み、オスが一斉に放精する。そのありさまは、海が白く染まるほどだったという。江戸時代後期から昭和の初期にかけて、群がる鰊を目当てにした漁で日本海沿岸は大いに賑わった。毎年、春の漁期が近づけば、東北地方や北海道各地から「ヤン衆」と呼ばれる出稼ぎ漁師が一攫千金を求めて、西海岸の漁場に続々と集まってくる。彼らは宿舎を兼ねた網元の大邸宅「鰊御殿」に集結し、船頭による統制の元でニシンの「群来」(くき、と読む)を待ち続けるが、やがて群来の一報が入るや、一斉に船を漕ぎ出し、網でニシンを獲る。獲られたニシンは浜に揚げられ、一部を食用としての干物「身欠き鰊」に加工する以外はすべて大釜で炊いて魚油を搾り出し、搾りかすを「鰊粕」に加工する。鰊粕は北前舟貿易で西日本に移出され、現地でのミカンやアイ(植物)、ワタ栽培の高級肥料として評判を博した。一連の漁期がひと段落した5月の北海道西海岸はニシン製品の売買や、帰郷前に歓楽街へ繰り出す漁師達の喧騒で「江戸にも無い」といわれるほどの賑わいに包まれたという。
ソーラン節は、その一連のニシン漁の際に唄われた「鰊場作業唄」の一節、「沖揚げ音頭」が独自に変化したものである。 鰊場作業唄は「船漕ぎ音頭」・「網起こし音頭」・「沖揚げ音頭」・「子叩き音頭」の四部から構成されている。
港から漁場まで、「オーシコー、エンヤーァエー、オーシコー」の掛け声で「船漕ぎ音頭」を唄いながら艪を漕いで船を進める。仕掛けた網には大量の鰊が追い込まれているので、「ヤーセィ、ヤサホイ」の掛け声の「網起こし音頭」で調子を合わせて網を持ち上げ、「枠網」の中にニシンを移し換える。移し変えた網の中のニシンを巨大なタモ網で「ソーラン、ソーラン」と掛け声をかけて汲み出すのが「沖揚げ音頭」。そして最後に、「アリャリャンコリャリャンヨーイトナー」の掛け声で、網に産み付けられたニシンの卵(カズノコ)を竹の棒で打って落とすのが「子叩き音頭」である。
春とはいえ、冷え切った北海道の海の上。単調で辛い肉体労働をこなすには、大勢で掛け声を唱和する必要があった。時には即興で卑猥な歌詞を歌い上げ、場に笑いを誘う。
この「沖揚げ音頭」が鰊場作業唄から分化し、「ソーランソーラン」囃し言葉にちなんで「ソーラン節」と呼ばれるようになった。
なお、「子叩き音頭」もやはり分化し、締めの囃し言葉「アライヤサカサッサ」にちなんで「イヤサカ音頭」と呼ばれ、北海道民謡の一つとして独立している。
もとは青森県野辺地町周辺の「荷揚げ木遣り唄」とされる。原曲については、國學院大學民族歌謡文学の須藤豊彦名誉教授によると、江戸中期のはやり歌説をとる。当時の御船歌と呼ばれる儀礼の歌や小禾集という俗謡集に"沖のかごめに"と言う一節に酷似した歌詞があり、その流行歌がやん衆とともに、北海道にわたったという。
鰊場音頭
夢の積丹美国の浜は ぬしに見せたいものばかり
ヤン衆かわいやソーラン節で ちょっと飲ませりゃまた稼ぐ
今宵一夜は緞子(どんす)の枕 明日は出船の波枕
思い思われ奥場所暮らし ニシン殺しの共稼ぎ
めんこい娘だ出船の時は いつも浜辺でじっと見る
波は磯辺に寄せては返す なぜに返らぬひと昔  
原曲は青森県野辺地町の荷揚げ音頭とするのが有力な説。秋田地方のハタハタ漁で歌われた沖揚げ音頭にも似ているといわれます。それらが各地に渡って来たヤン衆たちによって、少しずつ変化しながら全道的に歌われたものとされています。
 

 

北海道青森岩手宮城秋田山形福島

陸奥 (みちのく。むつのく) / 陸奥の国。現在の福島県、宮城県、岩手県、青森県の全域と秋田県の北東部を指す国名。
○ あはれいかに草葉の露のこぼるらむ秋風立ちぬ宮城野の原
○ 萩が枝の露ためず吹く秋風にをじか鳴くなり宮城野の原
○ 春になればところどころはみどりにて雪の波こす末の松山
○ たのめおきし其いひごとやあだになりし波こえぬべき末の松山
○ 思はずば信夫のおくへこましやはこえがたかりし白河の關
○ 白河の關路の櫻さきにけりあづまより來る人のまれなる
○ 東路やしのぶの里にやすらひてなこその關をこえぞわづらふ
○ むつのくのおくゆかしくぞ思ほゆるつぼのいしぶみそとの濱風
○ 雙輪寺にて、松河に近しといふことを人々のよみけるに
○ 衣川みぎはによりてたつ波はきしの松が根あらふなりけり
みちのくににまかりたりけるに、野中に、常よりもとおぼしき塚の見えけるを、人に問ひければ、中將の御墓と申すはこれが事なりと申しければ、中將とは誰がことぞと又問ひければ、實方の御ことなりと申しける、いと悲しかりけり。さらぬだにものあはれにおぼえけるに、霜がれの薄ほのぼの見え渡りて、後にかたらむも、詞なきやうにおぼえて
○ 朽ちもせぬ其名ばかりをとどめ置きて枯野の薄かたみにぞ見る
みちのくにへ修行してまかりけるに、白川の關にとまりて、所がらにや常よりも月おもしろくあはれにて、能因が、秋風ぞ吹くと申しけむ折、いつなりけむと思ひ出でられて、名殘おほくおぼえければ、關屋の柱に書き付けける
○ 白川の關屋を月のもる影は人のこころをとむるなりけり
さきにいりて、しのぶと申すわたり、あらぬ世のことにおぼえてあはれなり。都出でし日數思ひつづくれば、霞とともにと侍ることのあとたどるまで来にける、心ひとつに思ひ知られてよみける
○ 都出でてあふ坂越えし折までは心かすめし白川の關
たけくまの松は昔になりたりけれども、跡をだにとて見にまかりてよめる
○ 枯れにける松なき宿のたけくまはみきと云ひてもかひなからまし
○ あづまへまかりけるに、しのぶの奥にはべりける社の紅葉を
○ ときはなる松の緑も神さびて紅葉ぞ秋はあけの玉垣
ふりたるたな橋を、紅葉のうづみたりける、渡りにくくてやすらはれて、人に尋ねければ、おもはくの橋と申すはこれなりと申しけるを聞きて
○ ふままうき紅葉の錦散りしきて人も通はぬおもはくの橋
しのぶの里より奥に、二日ばかり入りてある橋なり
名取川をわたりけるに、岸の紅葉の影を見て
○ なとり川きしの紅葉のうつる影は同じ錦を底にさへ敷く
十月十二日、平泉にまかりつきたりけるに、雪ふり嵐はげしく、ことの外に荒れたりけり。いつしか衣川見まほしくてまかりむかひて見けり。河の岸につきて、衣川の城しまはしたる、ことがらやうかはりて、ものを見るここちしけり。汀氷りてとりわけさびしければ
○ とりわきて心もしみてさえぞ渡る衣川見にきたる今日しも
陸奥國にて、年の暮によめる
○ 常よりも心ぼそくぞおもほゆる旅の空にて年の暮れぬる
奈良の僧、とがのことによりて、あまた陸奥國へ遣はされしに、中尊寺と申す所にまかりあひて、都の物語すれば、涙ながす、いとあはれなり。かかることは、かたきことなり、命あらば物がたりにもせむと申して、遠國述懐と申すことをよみ侍りしに
○ 涙をば衣川にぞ流しつるふるき都をおもひ出でつつ
みちのくにに、平泉にむかひて、たはしねと申す山の侍るに、こと木は少なきやうに、櫻のかぎり見えて、花の咲きたるを見てよめる
○ 聞きもせずたはしね山の櫻ばな吉野の外にかかるべしとは
○ 奥に猶人みぬ花の散らぬあれや尋ねを入らむ山ほととぎす
「宮城野」陸奥の歌枕。宮城県仙台市東方に広がる平地を指します。(萩)(露)などの言葉が多く詠みこまれています。
「末の松山」陸奥の歌枕。宮城県多賀城市にある。ほかに岩手県一戸町にもあるという。「末の松山」は古今集初出。
「しのぶ」陸奥の歌枕。福島県福島市。「信夫ずり」で有名。「信夫の摺り衣、もじずり」の言葉を入れて詠まれている歌も多い。
「白川の關」陸奥の歌枕。陸奥の入り口にあたる。福島県白河市。
「なこその關」陸奥の歌枕。福島県いわき市。白河・念珠の關とともに奥州三關。
「つぼのいしぶみ」壷の石碑のこと。宮城県多賀城の多賀城址にある。
「そとの濱」外の濱。青森県東津軽郡の海辺にある。  
「衣川」陸奥の歌枕。岩手県衣川村のこと。岩手県の南西部にあり、平泉町と接している。川としての衣川は衣川村を流れて北上川に注いでいる。この川の上流に藤原氏の衣川館があった。
「衣の關」衣川の關のこと。前九年の役(1051〜1062)のときに安倍頼時の拠点となる。
「たけくまの松」陸奥の歌枕。宮城県岩沼市の竹駒神社の側にある。松の木なのに何度も老いたり枯れたりするという不思議さがある。
「おもはくの橋」どこにあるか不明。欄干がなく、ただ板をさし渡しただけの橋。紅葉が散り積もっていて踏み渡ることをはばかるという思い・・・という意味。
「名取川」奥羽山脈を源流として宮城県中部を東に流れて仙台湾に注いでいる川。
「平泉」岩手県西磐井郡平泉町。中尊寺や毛越寺がある。源義経終焉の地。
「中尊寺」藤原清衡の創建。山号は関山。金色堂が有名。堂内に藤原三代、清衡、基衡、秀衡の遺体と四代泰衡の首級が安置されている。
「たはしね山」束稲山。平泉の北上川の東方にある山。 
 
青森県 / 陸奥

 

北海道青森岩手宮城秋田山形福島

みちのくの津軽の野辺の花ざかり げに日之本の錦なるらん 北条時頼
陸奥日之本将軍、十三湊じゅうさんみなと、岩木川
十三湊(十三湖)は、岩木川の河口にある波の静かな入り江で、かつては大型船の出入りする津軽地方の玄関口だった。岩木川を遡って浅瀬石あせんし川の合流する藤崎の地が、鎌倉室町時代に日之本将軍として勢力をほこった安東氏の本拠地である。安東氏は平安時代の安倍貞任の子孫ともいふ。
○ 十三とさの砂山米なら良かりょ 西の弁財衆にみな積まそ 民謡
民謡の「十三の砂山」は国内船の弁財衆(船頭)たちによって南から移入された曲調による十三地方の盆踊唄である。十三湊にはさまざまな船が出入りしたが、安東氏は、日本国内だけでなく、直接大陸と大規模な貿易をしてゐたらしい。岩木川上流の岩木山には、安寿と厨子王の伝説がある。岩木山神社の祭神のうちの国安珠姫くにやすたまのひめ神は、安寿姫のことともいふ。
壷の石碑 / 上北郡東北町千曳
平安時代のはじめ、坂上田村麻呂将軍が蝦夷を征討したとき、石文に「日本中央」の意味の言葉を刻んだといふ。都母村以北を征討したことから「つもの石文」ともいふらしい。
○ 陸奥(みちのく)の奥行かしくぞ思ほゆる 壷の石碑(いしぶみ)外の浜風 西行
○ いしぶみや津軽の遠にありと聞く えぞ世の中を思ひ離れぬ 藤原清輔
千島列島を含めた日本の中央の意味なのだともいひ、西の「大和」に対する東日本としての「日之本」の中央なのだともいふ。
坂上田村麻呂とねぶた
    ねぶた考
青森県のねぶた祭に歌はれる歌は、むかし坂上田村麻呂将軍が、八甲田山の蝦夷をおびきよせたときに兵士に歌はせた歌といはれる。
○ ねぶた流れろ 忠臣まめのはとまれ ださはせよだせよ
ねぶたは旧暦七月(現在は八月)一日〜七日の行事であるが、古い素朴な形としては「草ねぶた」といって、子供たちが木の枝の先に灯籠を下げて七晩家々を廻り、七日目にそれを海に流すといふ、盆迎への行事だったらしい。各地の「七晩げ」の行事も類似のものである。
東北地方には坂上田村麻呂が創建したといふ神社仏閣は多い。弘前市津賀野の三日月神社も、田村麻呂将軍の創建といふ。鎌倉時代に、出家の身の北条時頼が諸国を巡ったとき、三日月神社を詣でて詠んだといふ歌がある。
○ みちのくの津軽の野辺の花ざかり げに日之本の錦なるらん 北条時頼
うとうやすたか / 青森市安方 善知鳥うとう神社
津軽の海岸に住む善知鳥うとうは、ウミスズメ科の鳥で、上くちばしにこぶ状の突起があり、鳴きかたにも特徴がある。親鳥がウトウと鳴くと、子の鳥はヤスタカと鳴いて巣から出て来るといふ。そこで漁師は親鳥の声を真似て、子が出てきたところを捕へるのだが、それを見た親鳥は血の涙を流して飛び回るといふ。その涙がからだに付くと腐るので、蓑と笠を着けて捕へたのだといふ。
○ 子を思ふ涙の雨の笠の上に かかるもわびしやすたかの鳥 西行
○ みちのくの外が浜なる呼子鳥 鳴くなる声はうとうやすたか 藤原定家
むかし外が浜の漁師が、鳥の祟りのために死に、その霊は子孫にも会へずに諸国をさまよってゐた。霊は越中立山で、ある僧に出会ひ、僧に自分の供養を依頼した。そして僧が外が浜を訪れて祈祷することによって救はれたといふ。以来、死んだ漁師が、あの世で血の雨を浴びて苦しまぬやうに、蓑と笠をその霊前に供へるのだといふ。(謡曲・善知鳥)
青森市に善知鳥神社があり、江戸時代の由来記によると、むかし善知鳥中納言安方朝臣といふ人が、讒言によって流罪となってこの地に住み、先祖の守り神である宗像の神(市杵島姫ほか二神)をまつったのが、善知鳥神社であるともいふ。あるとき漁師が善知鳥を射殺したために、数万羽の大群が田畑を荒らしたので、安方朝臣の祟りだと恐れて鳥の霊をまつった祠の跡が境内にあるといふ。
小川原湖の姉妹
むかし京の公卿の橘道忠といふ人が、讒言によって陸奥国に流された。京に残された二人の娘は、父を慕って慣れぬ旅支度で陸奥国を訪れたが、道に迷ひ、ある美しい月の夜に父の幻を見て、次々に小川原沼に導かれて身を沈めたといふ。沼には大蛇が棲んでゐたともいふ。
○ 姉といもとが小川原の沼に 浮かぶ瀬もない大蛇ゆゑ
橘道忠は、白鳳のころの人で、仏の教へのままに旅に出たともいふ。姉妹の名は玉代姫、勝世姫といひ、湖畔の沼崎観音にまつられてゐる。

下北半島の北、下北郡大畑町の八幡宮に、後醍醐天皇御宸筆の和歌があるといふ。
○ した紅葉かつ散る山の夕時雨 濡れてや鹿のひとり鳴くらむ 後醍醐天皇
この地の材木業の菊池家が、文化四年(1807)に松前へ移住するにあたって神社に奉納したものといふ。菊池家は屋号を熊野屋といひ、その先祖は南北朝のころ紀州熊野から移住してきたもので、この歌はその先祖が賜ったものといふ。
古くからの樵には、木地師が惟喬親王を祖とするやうに、先祖に関するさまざまな伝承があったと思はれる。東北地方には良い樹林とマタギがあり、林業は近世までの繁栄の元の一つだったやうだが、明治の戊辰戦争で会津藩他諸藩が敗れて以後、東北地方の山林は極度に高い比率(九十五パーセント以上、『風土記日本』による)で国有化され、以来「貧しい東北」のイメージが成立して行ったといふ。
津軽じょんから節 / 浅瀬石川
○ 津軽良いとこリンゴの国よ 娘十八お化粧で飾る 岩木お山は男で飾る
慶長(1596〜)の頃、初代津軽藩主の津軽為信に滅ぼされた千徳政氏(浅瀬石あせんし城主)の墓を、残党刈りに来た兵があばいた。この非道なふるまひに抗議して、常縁じょうえんといふ僧が、浅瀬石川の河原に入水したといふ。以来その河原は常縁河原と呼ばれたが、のち縮まって上河原じょんからとなった。この地で千徳家の霊を慰めるために里人が唄ひ継いできた唄が、じょんから節であるといふ。
諸歌
○ 蜜蜂の巣箱に我は耳あてて はるかにも聞く春の訪れ 秋田雨雀(作家) 
 

 

北海道青森岩手宮城秋田山形福島

青森県
外ヶ浜(そとがはま) 津軽半島東海岸をいう。古くは外の浜といった。
○ むつのくの奧ゆかしくぞ思ほゆる壺の石文外の浜風 西行
津軽 青森県西部。
○ 便りあらば津軽の奧にとめられてえぞ帰らぬと妹に告げばや 道因
○ 船に酔ひてやさしくなれる/いもうとの眼見ゆ/津軽の海を思へば 石川啄木 
安渡(あんど) / 青森県むつ市大湊浜町一帯
斧形をした下北半島の、刃と柄の接する部分がむつ市。その陸奥湾側最奥部(大湊湾)の北西海岸は天然の良港である。半島の最高峰、878.6mの釜臥山が南東に急勾配で陸奥湾に落ちこみ、さらに砂洲の芦崎が南西から北東に向けて海に突出、安渡湾という入江をつくっているのだ。旧日本海軍が北辺の護りとして大湊要港部を置き、今も海上自衛隊基地のある所以だが、この地は近世、入江から北にかけて穏やかな漁村の安渡村であった。
寛政五年(一七九三)下北の浦々をめぐり、南西からこの安渡村へ入った菅江真澄も『おくのうらうら』で次のように記している。
宇曽利河をわたり宇多邑、河森邑をくれば、りうごう(林檎)のその茂たり。釜臥山をまつる下居のみやあり。安渡の入江を見れば、城ヶ沢よりさし出たる蘆崎とて、糸引わたしたるやうに二里ばかり海中によこたはり、あら波をさかふれば、ささら波たちて湖にひとしう、船もやすげにかけて泊もとめ、冬は鱈つり、春は鯡のあびき(網引)に、里とめ(富)り。
地名が史料の上で最初にたしかめられるのは鎌倉時代。日本海に面した津軽の十三湊とさみなと(現市浦村)を根拠とし、日本海海運や蝦夷地との交易による利益を背景に台頭した得宗被官の安東(藤)氏は、下北半島の全域にあたる糠部ぬかのぶ郡宇曽利うそり郷にも進出した。新渡戸文書に正中二年(一三二五)九月一一日付安藤宗季譲状があり、安東一族の宗季が津軽の鼻和郡とともに宇曽利郷の散在所領を嗣子「いぬほうし」に与え、また安渡を含む一部を女子の「とらこせん」へ一代限りとして譲っている。
・・・たゝし(但し)うそりのかう(宇曽利郷)のうちたや(田屋)・たなふ(田名部)・あんと(安渡)のうち(浦カ)をは、によし(女子)とらこせんいちこ(一期)ゆつりしやう(譲状)をあた(与)うるところなり・・・
次いで、近世の下北は田名部通たなぶどおりと呼ばれる盛岡の南部藩領で、田名部代官所に属した。下北の村々は主として材木と海産物を出したが、『奥々風土記』によると安渡村に檜山はない。
漁業の方は享保年間(一七一六‐三六)に南部藩が課役対象となる漁船を調べた際、「上浦」に認定している。また寛政一〇年(一七九八)には、村の家五〇軒ばかり、船は下北で最高の二四隻をもっていた。漁民の多くは陸奥湾や津軽海峡で漁し、煎海鼠いりこ・鰊・鱈・帆立貝を出した(笹沢魯羊『下北半島史』)。
藩は下北の檜を重要な財源と考え、寛文年中(一六六一‐七三)、一三ヵ所の檜山に留山制をしき、材木を下北の諸港から積み出した。正保二年(一六四五)の「御絵図御書上之湊並浦」では、安渡村の北隣の大平おおだいら村が藩の積出港とされている。大平湊の三軒の大宿(船問屋)には百石積以上の船を扱う権限が与えられたが、安渡湊にはそれ以下の天当船てんとうせんと呼ばれる小船しか扱えぬ小宿三軒のみが認められていた。
しかし、商船は次第に大平湊より安渡湊に寄るようになり、田名部代官大巻秀詮の編著による寛政年間(一七八九‐一八〇一)成立の『邦内郷村志』には、安渡湊は「田名部第一番湊、(中略)商船自春至秋、渡海往来三四度、(中略)長崎中国諸国之船来」と記される。また菅江真澄が「里とめり」とした様子を、蝦夷地の探検で知られた松浦武四郎は『東奥沿海日誌』に「人家百軒ばかり、船問屋、小商人、旅籠屋等なり、随分繁華の処也」と描く。この発展は大平湊にとって好ましくない。両湊の間に争いも生じた。明和五年(一七六八)には、安渡湊の問屋が無届で三河の船に鰮〆粕二四俵を積みこんで発覚、船扱いを差し止められた。安渡の問屋は、大平の三問屋宛に「誤証文」を入れ、許されている。
此度私儀風と心得違仕〆粕弐拾四俵三州半田村忠三郎船・同国彦蔵船右両艘へ隠密積入候処、湊方御手代中より御見咎に預り何共申訳無御座誠迷惑千万奉存候、依而此間数々御申訳尽候得共一円御承知不成下候、押而御願申上候
この安渡村、『東奥沿海日誌』は「安土」と書き、『大日本地名辞書』は安渡と書いて「あんと」と読む。津軽の深浦(現深浦町)の古名という安東あんど浦、岩手県大槌湾の安渡あんど(現大槌町)、奈良県の安堵あんど村など、「あんど」の地名はあちこちにある。また地元では地名の由来を、貴人(源義経ともいう)がのがれきて隠やかな入江にいたり「安堵」したからと伝える。『大湊町誌』は「安らかに渡る=良港」というのは俗説とし、「安東氏」に由来するとする。
明治三年、安渡村は戊辰戦争に破れた会津若松の松平氏移封による新設の斗南藩領、翌年大平村と合して大湊町(同六年には大湊村)となり、両湊も合わせて斗南港と称された。同一一年には旧に復すが、翌年安渡村は大湊村と改称、以後「安渡」の地名は失われる。港も明治三五年に水雷団、同三八年要港部が設けられて様相が一変、今はわずかに釜臥山を奥の院とする兵主神社(大湊浜町)に残る、回船問屋や海運業者の海上安全を祈願した奉納の絵馬や手洗鉢に往時がしのばれる。 
恐山(おそれざん) / 青森県むつ市田名部字宇曽利山
恐山は比叡山・高野山と並ぶ三大霊山の一つである。
開基は慈覚大師円仁。円仁が唐で修行をしているとき、夢に聖人が現れ「国に帰り、東方へ三十余日行ったところに霊峰がある。そこで地蔵菩薩を一体刻み、その地に仏道を広めよ」というお告げを聞き、帰国後さっそく東方を目指し、見つけたのがこの恐山であったという。
その後、戦国時代に大乱で壊滅状態となったが、むつ市内にある円通寺の宏智覚聚によって再興された。
恐山の入口を越えると、真っ赤な太鼓橋が現れる。この橋は宇曽利湖から流れる三途の川に架かっている橋であり、ここからが恐山の“地獄”の始まりである。悪人がこの橋を渡ろうと思うと、橋が急に糸のように細く見えるという言い伝えがある。
山内に入って一番最初に目に飛びこんでくる異様な光景は、荒涼とした岩場である。これが恐山の象徴である(地獄)である。活発ではないにせよ活火山の指定を受けており、ところどころから白い煙が立ちのぼっている。それに対して強酸性の宇曽利湖の岸辺は(極楽浜)と呼ばれ、絶妙のコントラストを見せている。
このエリアでは「死ぬと魂は恐山へ行く」と信じられており、地蔵菩薩を本尊とした、死者の供養をおこなう霊場として信仰の対象とされている。
また7月の大祭の時には、境内にイタコが常駐して「口寄せ」がおこなわれる。
恐山冷水(おそれざんひやみず) / 青森県むつ市田名部字宇曽利山
むつ市街から県道4号線を道なりに進むと、その途中に冷水峠という場所を通る。そこにはコンコンと湧き出る水場がある。
この湧き水は、遠い昔から恐山へ参拝する人々の喉を潤す役目を負っている。現在は3本の樋から流れ出る水を“不老水”と呼び、霊験あらたかな水とみなしている。実際、この水場を霊場の入り口とみなして手水舎としての役割もあるとし、この峠を俗界と霊界との境界線として認知している説もある。そのせいか、この場所で水を求めるのは人間だけではなく、恐山へ集まってくる霊もあると考えられている。
キリストの墓 / 青森県三戸郡新郷村大字戸来字野付
青森県新郷村の戸来(へらい)地区にキリストの墓(十来塚)とその弟のイスキリの墓(十代墓)がある。“高貴なる人物”の塚と言われていたが、これを昭和10年に調査してキリストの墓と断定したのは、『竹内文書』の竹内巨麿である。
『竹内文書』によると、21歳から約12年間、キリストは日本でさまざまな学問を学び、ユダヤへ一時帰国したらしい(この12年間は、キリスト教世界においても“謎の空白期間”とされている)。そしてその教えのためにユダヤで不興を買い、イスキリを身代わりにして再度日本へ舞い戻る。
再来日後はこの戸来村に定住、地元の女性と結婚し(十来太郎大天空)と名乗ったという。布教活動こそしなかったが、たびたび日本各地を探訪したらしく、その姿はまさに“天狗”のイメージで語られている。そして106歳という長寿を全うして、戸来村で亡くなったという。その子孫は沢口姓を名乗り、現在も当地に住んでいる。
またこの地区の風習として、初めて戸外へ出る赤ん坊の額に十字架を描くというものが残されている。これが魔除けの呪文らしいが、近隣はおろか国内で例を見ない異質の風習である。さらにこの地方では父のことを「アダ」、母のことを「エバ」と呼ぶ。まさに「アダム」と「イブ」の呼び名なのである。そしてこの土地の名である“戸来”自体が“ヘブライ”に酷似している。
極めつけは、この地に伝わる盆踊りの歌である。「ナニャドヤラー、ナニャドナサレノ、ナニャドヤラー」という歌詞はヘブライ語に訳すと「汝の聖名を讃えん、汝は賊を掃討したまい、汝の聖名を讃えん」というものらしい。とりあえず現在では、6月に行われる祭りの際に、この2つの墓の周りを浴衣姿の人々がこの唄を歌いながら踊るらしい。
エルサレム市からの「友好の証」なるものがこの2つの墓の前に置かれている。
十和田神社 / 青森県十和田市奥瀬字十和田
十和田湖畔に建つ古社である。社伝によると創建は大同2年(807年)、坂上田村麻呂によるものとされる。祭神は日本武尊であるが、かつては熊野権現・青龍権現と呼ばれていたという。しかしこの神社創建にまつわる伝説にはもう1つあって、そちらは北東北一帯に広がる、三湖伝説と呼ばれる壮大な話となる。
十和田神社を創建したのは、南祖坊という修験僧であったという。父親は藤原是真、熊野権現に祈念して生まれた子とされる。南祖坊は熊野権現で修行した折、神より鉄の草鞋と錫杖を授かり「百足の草鞋が破れたところに住むべし」とのお告げを聞く。そして百足の草鞋が破れた地がこの湖のほとりであった。しかしこの湖には、八頭の大蛇である八郎太郎が既に住み着いていた。そこで南祖坊は法華経の霊験によって自らを九頭竜に変化させて八郎太郎と戦い、そして勝利の末にこの湖に住み着き、青龍権現として崇められるようになったのである。
境内の奥へと入り、絶壁を下りると湖面に辿り着く。ここが占場と呼ばれる場所であり、南祖坊が入水した場所であるとされる。社務所でわけていただける「おより紙」を湖面に浮かべて吉凶を占うことができる。
日本中央の碑(にほんちゅうおうのひ) / 青森県上北郡東北町家ノ下タ
日本古代史の中でも屈指の謎を持つのが「日本中央の碑」である。その典拠は意外に古く、歌学者の藤原顕昭が出した『袖中抄』に
<陸奥には“つぼのいしぶみ”という石碑があり、蝦夷征討の際に田村将軍(坂上田村麻呂)が矢筈を使って“日本中央”という文字を刻んだものである>
という一説がある。それ以降、東北の歌枕として和歌の中に使われ、また幻の遺跡として考えられてきたのである。
江戸時代には宮城県の多賀城の碑が“つぼのいしぶみ”と目されていたが、明治9年の天皇の東北行幸に際して、宮内省から青森県に“つぼのいしぶみ”発見の要請があった。そこで田村麻呂が石を埋めたという伝承の残る千曳神社で大掛かりな発掘作業が行われたが、結局発見には至らなかった。ところが昭和24年6月に、その千曳神社近くの青森県東北町石文(いしぶみ)という所から突如として「日本中央」と刻まれた石碑が出土してきたわけである。発見された場所が“石文”であり、またそのすぐそばには“都母(つぼ)”と呼ばれる地域があることが“つぼのいしぶみ”という別名と一致するなどの根拠もあって、現在のところ最有力候補という位置付けをされている。
しかしこの碑の最大の謎は、ここに刻まれた文字「日本中央」である。なぜこのような文字が日本の最北部に当たる青森県に置かれたのか。蝦夷征討の際に刻まれたという逸話から考えると、まだここは「日本」の領土ではなく、しかも「日本」という国号が使われていなかった時代である。さらに付け加えると、この碑を刻んだとされる坂上田村麻呂はこの地まで遠征していない(後任の征夷大将軍・文屋綿麻呂がはじめてこの地域一帯まで足を運んだのが史実である)。
一説によると“田村麻呂はこの先にある北海道や千島列島までを日本の領土とみなして、ここを中央と確定したのだ”という、国威発揚的発想が結構幅を利かせているらしい。だが実際のところ、ここに刻まれた“日本”という文字は“ひのもと”と読ませ、平安初期の文献によると“東北地方”一帯を指す言葉として使われていたらしい。つまり、この「日本中央」とは、坂上田村麻呂以下の蝦夷征討軍が敵地の中央部分に当たる場所としてマークしたポイントという意味と捉えるのが妥当だろう。
雪中行軍遭難記念碑 / 青森県青森市横内字八重菊
1902年1月23日、世界最悪の山の遭難事故が起こった。青森第五連隊の210名は対ロシア戦を想定して雪中行軍演習を行ったが、百年に一度とまで言われた大寒波を受けて遭難。199名が死亡、生存者も凍傷によってほとんどが手足切断という大惨事となった。
この冬の寒波は尋常ではなく、北海道の旭川で国内最低気温マイナス41℃を観測したのもこの月の25日であった。当然この付近も未曾有の寒波と風雪であり、また行軍隊長の上司が参加することでの指揮系統の混乱、さらに装備などに関する情報不足などの悪条件が重なってしまったため、このような惨事が発生してしまったと理由づけられている。
連隊の遭難が判明したのは27日の午前、雪の中に埋まるように直立不動のまま昏倒していた後藤房之助伍長を発見、それから生存者の救出と凍死者の搬送が始まった。発見された遺体は寒さのために凍結しており、疎略に扱うと遺体が折れ砕けてしまう危険があったという。安置所に運び込まれた遺体は、まず火のそばに置かれて柔らかくなってから、棺に収められていった。また捜索も困難を極め、最後の遺体収容は5月末まで掛かった。最終的な生存者は11名、しかし3名を除く8名は四肢切断、軽くて指切断という結果であった。
現在、多くの兵士が遭難死した場所のそばに(雪中行軍遭難者銅像)が建てられている。銅像のモデルとなっているのは最初に発見された後藤伍長であり、彼が雪中で発見された時の姿を現していると言われている。連隊は約3日間、この窪地の周辺を何度も堂々巡りするように彷徨い、そして野営の度に数を減らしていったのである。まさに約200名の命が無惨に奪われた土地である。
この遭難の地から青森市街に抜ける県道40号線は、まさにこの雪中行軍の悲劇を世に残すポイントを繋ぐ道であると称しても間違いない。(後藤伍長発見地点)が道から見える場所にあり、そして少し脇道にそれたところにだが、(遺体安置所跡)にはいまだに卒塔婆が建てられている。さらに市街地へ向かうと、幸畑地区の旧陸軍墓地には遭難者全員の墓碑が建てられて、さらに現在は(雪中行軍遭難資料館)が設けられている。そして40号線の青森市街側の終着地点には青森高校、旧青森第五連隊の跡地がある。
この雪中行軍の悲劇は、不思議な都市伝説としてすぐに流布した。吹雪の夜になると、姿なき軍靴の隊列が第五連隊の営門に近づいて来るという噂が流れた。当時の連隊長はそれを聞きつけ、ある夜営門の前に立ち、軍靴の音がする方を向いて英霊を慰めそして回れ右をさせて送り出したという。 
津軽じょんから節
    津軽じょんから節
青森県には、津軽三つ物または三大民謡と呼ばれる音楽があります。「じょんから節」「よされ節」「おはら節」の3曲です。「じょんから節」はこれらの中でも、特に知られています。
「じょんから節」の始まりにはいくつかの説があります。一般的には、江戸時代後期に越後(今の新潟県)で生まれた「新保広大寺節〔しんぼこうだいじぶし〕」がそのもとであると考えられています。「新保広大寺節」は、歌い手の「越後ごぜ」たちによって口説節(物語を長々と語るもの)となり、全国に歌い広められました。「じょんから節」は、北上した「ごぜ」たちによって歌いつがれたこの口説節が変化したものと考えられています。
「じょんから」という名の由来についてもいくつかの説があります。ここでは、南津軽郡を流れる浅瀬石川〔あせいしがわ〕上流の「上河原」という場所に関する説をしょうかいします。
昔、津軽藩が土地を切り開くために、浅瀬石の城主だった千徳政氏という人のお墓をほり起こそうとしました。
そのとき、常縁〔じょうえん〕という僧が、墓をほり起こすことに反対して、津軽藩に抗議をしました。しかし、このことが原因で、常縁は追われる身となり、最後は川に身を投げて死んでしまいました。そのため、村人はその河原を常縁河原〔じょうえんがわら〕と呼び、常縁の霊をなぐさめるために歌い出した口説節が、この歌の始まりといわれています。
その後「常縁河原」は「上河原〔じょうがわら〕」と呼ばれるようになり、「じょうがわら」が「じょんから」に変化したといわれています。
津軽じょんから節には、テンポの速い「旧節〔きゅうぶし〕」、ゆるやかな「中節」、やや速度を上げて歌い上げる「新節」、いちばんの盛り上がりとなる「新旧節」などがあります。歌の前には、津軽三味線による前奏が演奏されます。また、津軽じょんから節には、曲弾〔きょくび〕きといわれる、歌の入らない津軽三味線の演奏だけによるものもあります。 
お国自慢のじょんがら節よ 若い衆唄えば主(あるじ)の囃子 娘踊れば稲穂も踊る
今宵おいでの皆様方よ さあさこれからじょんから節を 歌いまするよお聞きをなされ
声はこの通り塩がら声で 調子はずれのこの節廻し どこがよいやら男が惚れる
津軽よいとこお山が高く 水が綺麗で女がよくて 声が自慢のじょんがら節よ  
黒石じょんから節
国は津軽の岩木の川原 三日続きの大雨降りで その夜雨にて大川にごる
国の殿様馬に乗りかけて 川原近くにお出ましなさる 里の娘は大根洗う
それを見てとる馬上の殿は 無理な難題娘にかけた そこで娘の言うこときけば
国の殿様なに言わしやんす 川がせまいとて後(あと)ばね出来ぬ 石が小さいとて歯が立つもだな
山が低いたてしょわれたもだな 針が細いたてのまれたもだな 裸で野原さねられたもだな
ここの道理を良く聞きわけて おらが領分よく見てまわれ 水の出ないよに百姓まもれ
これに殿様感心してか 娘ほしさにもらいをかけで 奥のおとのにおさまりました 
津軽タント節
一つ人目の関所をこえて 連れてゆくのが現れた
お江戸へ行くとて津軽へか 津軽にお江戸があるものか
おおはじさらしてタントタント アイコノジョウサクそのわけだんよ
   二つ二人の口約束を どこのどやつが喋ったやら
   喋ったやら人のかかぁの寝ておるに 起こしてきかせてはらただせ
   あることないことタントタント アイコノジョウサクそのわけだんよ
三つ道とく和尚さんでさえも 今の浮世はアレじゃもの
ナムカラカンノトラヤァヤ ナンベンモシテモごしょならぬ
姉ちゃに色めこタントタント あいこのじょうさくそのわけだんよ 
津軽音頭
西の鯵ヶ沢の 茶屋のナ 茶屋の娘は 蛇の姿
岩木お山は よい姿 津軽娘は 見て育つ
津軽お山は けわしいお山 鬼も蛇も出る 獅子も出る 
津軽三下り
奥山で 小鳥千羽の鳴く声聞けば 親を呼ぶ鳥鳩ばかり
竹なれば 割ってみせたい私の心 中に曇りのない私
あきらめて 余念ないのにまた顔見せて 二度の思いをさせるのか
逢いたい 見たいはしゃくの種だよ見たいは病い 顔見りゃ落ち着く胸のしゃく
棄てて行く 父を恨んでくれるじゃないよ 血を吐く思いのほととぎす 
加瀬の奴踊り
サァサこれから奴踊り踊る 手拍子揃えて品良く踊れ
(ソラヨイヤナカサッサ)(ソラヨイヤナカサッサ)
加瀬と金木の間の川コ 小石コ流れて木の葉コ沈む
見たい見せたい夢でもよいが 恋し喜良市わしゃ山桜
鮎は瀬につく鳥ァ木にとまる 私ャあなたのソリャ目にとまる
稲妻ピカピカ雷ゴロゴロ意気地なし親父 ばら株さぶっささって千両箱拾った
竹の切口スコタンコタンのなみなみたっぷりたまりし水は 飲めば甘露のソリャ味がする 
八戸小唄
唄に夜明けた鴎の港 船は出て行く南へ北へ 鮫の港は潮煙
煙る波止場に船つく頃にゃ 白い翼を夕陽に染めて 島の海猫誰を待つ
錨おろせば狭霧の中に 赤い帆影がキラキラ見える 行こか懐かし湊橋 
おしら様1
(おしらさま、お白様、オシラ様、オシラサマとも)は、日本の東北地方で信仰されている家の神であり、一般には蚕の神、農業の神、馬の神とされる。茨城県などでも伝承されるが、特に青森県・岩手県で濃厚にのこり、宮城県北部にも密に分布する。「オシンメ様」「オシンメイ様」(福島県)、「オコナイ様」(山形県)などの異称があり、他にオシラガミ、オシラホトケ、カノキジンジョウ(桑の木人形)とも称される。
神体は、多くは桑の木で作った1尺(30センチメートル)程度の棒の先に男女の顔や馬の顔を書いたり彫ったりしたものに、布きれで作った衣を多数重ねて着せたものである。貫頭衣のかたちをしたものと布を頭部からかぶせた包頭型とがある。普段は住宅の神棚や床の間に祀られていることが多い。記年銘のある最古のおしら様は、岩手県九戸郡種市町(現洋野町)に所在する大永5年(1525年)のもので、ついで岩手県下閉伊郡新里村および同郡川井村(いずれも現宮古市)の天正2年(1574年)のものが古い。神体は、男と女、馬と娘、馬と男など2体1対で祀られることが多い。
おしら様の祭日を「命日(めいにち)」と言い、旧暦1月・3月・9月の16日に行われる。命日には、神棚などからおしら様を出して神饌を供え、新しい衣を重ね着させる(これを「オセンダク」という)。この日は、本家の老婆が養蚕の由来を伝える祭文(おしら祭文)を唱えたり、少女がおしら様の神体を背負って遊ばせたりするので、かつては同族的な系譜を背景とする女性集団によって祀られていたとも考えられる。盲目の巫女であるイタコが参加することも多く、その場合、イタコがおしら様に向かって神寄せの経文を唱え、おしら様を手に持って祭文を唱えながら踊らせる。おしら様に限っては祭ることを「遊ばせる」といい、このような行事を「オシラアソバセ」「オシラ遊び」「オシラホロキ」と呼ばれる。また、青森県弘前市坂元の久渡寺では「大白羅講」が5月15日に行われる。
おしら様の2体の人形をつかって遊ばせる際のおしら祭文としては、「きまん(金満)長者物語」、「満能長者物語」、「せんだん栗毛」、「岩木山一代記」などがあり、坂上田村麻呂伝承の猿賀神社の由来を同時に語るとも伝えられる。イタコが参与する場合は、このような祭文を語りながら、おしら様一対を両手にとって打ち振り、憑依したような状態になって託宣をおこなうことが多い。
おしら様は、女の病の治癒を祈る神、目の神、子の神としてのほか、農耕神として田植え、草取り、穀物の刈り入れなどに助力するともいう。また『遠野物語拾遺』には、かつては狩人が狩猟の際、どちらの山に行けばいいかを知るため、おしら様の神体を両手に持ち廻し、その馬面の向いた方角へ行く風習があったため、おしら様は「お知らせ様」であろう、とある。地震、火事などの予知力もあり、『遠野物語拾拾遺』では、おしら様を鉤仏(かぎぼとけ)と称し、正月16日の「おしら遊び」の日に子供がたちが1年間の吉凶善悪の神意を問うたという。この起源を中国の『捜神記』(晋代干宝撰)、『神女伝』(唐代)に求める説がある(「蚕女」)。おしら様信仰誕生の背景に山神信仰や、養蚕作業、生活の糧の馬に対する信仰その他が混ざり、原初的な多様な性格を有する神として成立したものとする見方もある。
おしら様の信仰には多数の禁忌がある。例えば、おしら様は二足四足の動物の肉や卵を嫌うとされ、これを供えてしまうと大病を患うとか祟りで顔が曲がるという。家人の食肉により祟りで顔が曲がるともいわれる。また、一度拝むととずっと拝まなければならないといわれ、拝むのをやめたり、祀り方が粗末だと家族に祟りがあるともいわれている。
由来1 馬娘婚姻譚
東北地方には、おしら様の成立にまつわる悲恋譚が伝わっている。それによれば昔、ある農家に娘がおり、家の飼い馬と仲が良く、ついには夫婦になってしまった。娘の父親は怒り、馬を殺して木に吊り下げた。娘は馬の死を知り、すがりついて泣いた。すると父はさらに怒り、馬の首をはねた。すかさず娘が馬の首に飛び乗ると、そのまま空へ昇り、おしら様となったのだという。『聴耳草紙』にはこの後日譚があり、天に飛んだ娘は両親の夢枕に立ち、臼の中の蚕虫を桑の葉で飼うことを教え、絹糸を産ませ、それが養蚕の由来になったとある。以上の説話から、馬と娘は馬頭・姫頭2体の養蚕の神となったとも考えられている。
由来2 青森県津軽地方の口承
かつて盲人が峠の空家に泊り、寂しさを紛らわすために歌を歌っていると、歌を所望する女の声が聞こえたので、何曲か歌ってやった。夜明けの頃、女の声は自分を「たこ」と名乗り、自分のことを話せば命はないと戒めた。里に降りた盲人が、つい村人に昨晩のことを話すと、そのまま死んでしまった。そこに「たこ」が現れ、村人たちに対しても、自分のことを他言した者は死ぬ上に村は沼に沈むと言った。そこで村人たちが峠の周囲を鉄柵で覆うと「たこ」は峠に帰れなくなり、そのまま死んでしまい、その正体はヘビであった。村人たちは「たこ」と盲人を神として祀り、これが後のおしら様だという。 
おしら様2
昔長者の一人姫が、家で飼っていた栴檀栗毛の馬に恋をしたので、父親は激怒して馬を桑の木に吊るして殺し生皮を剥いでしまいました。
それを知った姫が馬の首を抱いて歎き悲しんでいると、空がにわかにかき曇り、何者かが娘を生皮に包んで天に昇ってしまったのです。姫を失った両親が悲しみにくれていると、夢枕に姫がたち、「三月十六日の朝、土間の臼の中に馬の頭の形をした白い虫がわく。その虫は蚕といい、桑の葉で飼えば上等な糸が採れるから、これを売って暮してほしい」と告げました。
そして夢の通りにその虫を飼うと、虫は繭を掛け、長者は金持ちになったといいます。これが蚕の始まりで、馬と姫は馬頭・姫頭二体のおしら神となったということです。
女性、子供の守り神
概容にあげたのは、気仙沼地方に伝わるものです。オシラ神(以下、オシラサマ)は東北地方、特に遠野に伝わる民間信仰で、養蚕の神、家や、一族の守護神、農耕の守り神です。柳田国男の遠野物語で一躍有名になりましたが、東北地方で昔から代々祀られてきたのです。そして、オシラサマは目の神、女の神、子供の神でもあります。
このオシラサマを信仰している東北地方の旧家では「オシラサマのお年取」というお祭りを小正月(旧一月十六日から)に行います。この儀式は親類縁者だけで行うもので、この時祀られるのが、桑の棒を芯にした二体の(馬頭・姫頭)人形のオシラサマです。このお祭りで、二体のオシラサマを遊ばせるのです。
このお祭りは女性のお祭りでもあり、通常イタコが行ったりするともいいますが、いない時にはその家の主婦がオシラ遊ばせを行います。(最近では殆どイタコには頼まないらしいです)この時、オシラサマに新しいオセンダグという衣装を着せます。
オシラサマが好きであるといわれている赤や黄色等のオセンダクはその布自体に力(呪力)があるといわれ、戦争中には出兵する人々の千人針の中に縫い付けられたといいます。
また、オシラマサは子の神であり、子ども好きという一面があります。その為、子供達に背負わせ、揺すりながら遊ばせるととっても喜ぶといわれています。これをオシラサマホロギといって、オシラサマホロギしながら回られた家は、祝福されるそうです。
ちょうど、お正月の慌しさが一段落つく頃に行われる女性・子供中心のお祭り…。旧正月は、お正月の家事も一息ついて、里帰りをしたりする時期でもあったようです。
オシラサマは、古い時代に強かった「家は女が守る」という日本独特の思想の中で、育まれていった民間信仰でもあります。子の神でもあるオシラサマは、女の子に背負われたり振りまわされたりすると特に喜ぶといわれています。それも、女性を守る家の神としての性格が強いためでしょう。
私的には目の神様というのも、昔の女性達が、夜遅くまで家族の為に針仕事をしたりした時に心の拠り所みたいな物をオシラサマに求めたりしたのかな…なんて思いました。
オシラサマの名前の由来としては「お知らせ様」があり、東北地方には、オシラサマが火事や地震など不吉な事が起こる前に向きを変えて知らせたという話が多くあります。
もともと、オシラサマのお年取のときにイタコなどによって、オシラサマの託宣を発することもあり、予知の呪力があるともいわれているところから、「お知らせ様」とも呼ばれるようになったのではないでしょうか。呪力が強いとされている分、オシラサマは強力なタタリ神として恐れられる神様でもあるようです。
おしら祭文
    祭文
このオシラ遊ばせのときに語られる祭文に、おしら祭文というのがあります。オシラサマの由来を説く物語で、(概容に類似する)縁起譚、そして典型的な異類婚姻譚です。先に説明したとおり、オシラサマのお祭りは女性のお祭りであり、この祭文は女性の語りによって、初めてその効力を発揮するといいます。
類似する話は中国の「捜神記」「太古蚕馬記」「神女伝」にあります。また日本では常陸国の蚕影山の神の由来を説く「蚕影山縁起」は「おしら祭文」によく似ています。
また、この祭祀と唱え言から、この祭文の原初的形態は山伏の「オコナヒ(行法)」だったのではないかとも考察され、岩手県内ではこのオシラサマをオクナイサマと呼ぶのも「オコナヒ(行法)」に由来するという説があります。
もともと農耕の神、田の神というものは、山の神の一部と考えられており、春になると山の神が山から里に降りてきて田の神として里に留まるという信仰は多くあります。民俗学的研究によると、山の神とは、マタギなどの狩猟民族や林業生活者の信仰する山の神と、稲作農耕民の信仰する神の二種類があるとされ、オシラサマは後者の性格の山の神であるといえます。狩猟民族の信仰する山の神の方が起源は古いとされ、特徴としては、禁忌(タブー)が厳しい事や、祭りの対象が特定の自然物である等が揚げられています。
おしらさま信仰
青森、岩手の両県に残る“おしらさま”信仰も、馬産と深いつながりがあります。柳田国男著『遠野物語』によって全国的に知られるようになりました。最近では宮崎駿監督のアニメ映画『千と千尋の神隠し』にも登場しています。
“おしらさま”は、桑の木で作った男女二体。男の頭部は立てエボシ、あるいは折れエボシをかたどっていますが、もとは馬頭だったと言われています。女はお姫様。「馬姫婚姻譚」がイタコによって語られています。
物語の出所は古代中国の『捜神記』。どういう経路で青森のイタコに語り継がれるようになったか不明ですが、中世以降、奥羽地方に浸透した修験道と密着する遊行婦(ゆぎょうふ=歩き巫女)が、土着して残したものであることは確かでしょう。その語り口は、室町時代の説話文学の影響が感じられます。あるいは京か鎌倉あたりのくだけた僧が、『捜神記』の奇話の数々を口語訳して庶民に語り聞かせたのが起源かもしれません。
オシラ祭文の一例を要約すれば
むかし「まんのう長者」と呼ばれた者に一人の姫君がいた。16歳になった姫君は、厩(うまや)につながれた栴檀栗毛(せんだんくりげ)の名馬を見て、あまりの見事さに「人間の身ならば一夜の契り込めべきものを」と、手にしたムチで三度なでた。するとその名馬は前ヒザを折って3度いなないたが、以後かいばを食わなくなってしまう。
長者が博士を呼んで占わせたところ、「姫君を慕っている」とのご託宣。長者は「畜生の分際で」とムチ打てば、馬は北に向かって3度いななき、舌をかみ切って死んだ。河原に引き出され、四本の杭につながれて晒し物にされた死骸を見た姫君は、「あな無残の名馬かな。いずこに去のうとも、我もろともに連れ行かばや」と6万遍の念仏唱えれば、たちまち名馬よみがえり、姫を乗せて天高く昇り行く。
傷心の長者が7日7夜の祈祷をすると、神のお告げで「3月16日になれば天から白い虫、黒い虫が降る。姫と名馬の生まれ変わりとして大事にせよ」と言う。さてその日、神風吹いて五色の雲たなびく中を、姫の遺愛の玉手箱が舞い降りる。開いてみれば白紙の上に姫の姿の白い虫、栴檀栗毛の姿を映した黒い虫。長者が銀のまないた、金の包丁で桑の葉を押し切り与えれば、やがて繭をかけて養蚕の道を教えてくれた。
“おしらさま”は、普段は厳重な箱の中に収められ、誰も目にすることができません。年に一度、小正月の1月15日になると、一族の女性が大人から子どもまで集まって“おしらさま”の顔に白粉を塗り、「おせんだく」と言って新しい布を被せるのです。毎年新しい布が被せられていくため、年月を経たおしらさまは何十、何百にも布を重ね着しています。
“おしらさま”を手にした巫女役の老婆(大抵は長老)が、一年の吉凶や失くし物のありかを占いました。白粉で化粧を施すのと、おせんだくをするのは、主に女児の役目。冬の寒い時期に囲炉裏を囲み、雑煮や鍋などをつつきながら行われるこの小正月の行事は、「おしら遊び」と俗称され、当時の女子どもたちの年に一度の最大の楽しみでした。
土地によって細部は変化するものの、名馬と姫が主役で、蚕がキーワードとなることは変わりません。“おしらさま”は、「山の神」あるいは「田の神」に対して「家の神」。また人と馬の恋慕譚や蚕の起源から「女の神」ともされています。“おしらさま”の祭文によって広まったことは、馬と養蚕という南部地方の農家における、主婦の副業とのかかわり合いを物語っています。
いたこ
東北地方の津軽・南部地域で活躍する巫女の名称。多くは盲目の女性で、初潮前の少女期に師匠を決め弟子入りする。修業期間には、経文、大祓の祈禱、筮竹(ぜいちく)による占いなどを習得し、一種の神婚であるカミ憑ケの儀式により自らの守護神・仏を感得し、独立する。イタコはホトケ(死霊)の口寄せをすることに特徴があり、下北半島恐山、津軽半島金木町川倉の地蔵盆や地蔵講はイタコマチと称されて多くのイタコが集まる。また、春秋にはオシラアソバセと称し、村の旧家筋にまつられているオシラサマを両手に持ち、オシラ祭文を語りながら舞わせる。 
 
岩手県 / 陸中

 

北海道青森岩手宮城秋田山形福島

み冬つき春立ちけらしひさかたの 日高見の国に霞たなびく 賀茂真淵
日高見の国
東北地方全域、または北上川流域を、むかし日高見ひだかみの国といった。または常陸国以北ともいひ、大和政権の支配の充分届かぬ地のことともいふ。「ひたかみ」が訛って北上となり、北上川の名として残ったといふ。
○ み冬つき春立ちけらしひさかたの 日高見の国に霞たなびく 賀茂真淵
稗貫ひえぬき郡花巻はなのまきに生まれた宮沢賢治は、県名の「いはて」をもぢってその理想とする国の名を、イーハトーブと名づけた。宮沢賢治が晩年に花巻の鳥谷ヶ崎とやがさき神社の「花巻祭」を詠んだ歌。
○ 方十里稗貫の甕みかも稲熟うれて み祭り三日空晴れ渡る 宮沢賢治
「方十里」とは田園地帯を賞賛した表現なのだらうが、「方八町」といふのは、延暦二一年(802)に坂上田村麻呂が築いた胆沢いさは城(水沢市)の異称である。田村麻呂は、翌二二年(803)には志波しは城を築城してゐる。
上閉伊郡吉里吉里きりきり村(現大槌町)は船越湾(吉里吉里湾)に臨む村だが、戦後の井上ひさしの小説では東北弁を国語とするユートピア「吉里吉里国」の首都とされてゐる。
志賀理和気神社(赤石神社) / 紫波郡紫波町
延暦二三年(804)に坂上田村麻呂が、東北開拓の守護神として香取、鹿島の二神をまつったとされるのが、日本最北の延喜式内社・志賀理和気しがりわけ神社であり、紫波郡紫波町桜町に鎮座する。境内には三尺余の赤石があることから、通称「赤石神社」ともいふ。
○ 今日よりは紫波と名づけんこの川の 石に打つ波紫に似て 斯波孫三郎詮直
江戸時代の南部三三代藩主の歌。
○ 御社はとまれかくまれ志賀理和気 我が十郡の国のみをさき 南部利視
東北地方には、田村麻呂が創建したといふ神社仏閣は多い。『御伽草子』の話では、田村麻呂の母は、陸奥国はつせ郡田村郷(福島県田村郡)の賤女(下級巫女)だといふ。田村麻呂伝説の流布には、日本の多くの伝説がさうであるやうに、さうした職業の人々の介在が想像される。
理久古多の神 / 大船戸市赤崎
延喜式の気仙郡の小社に理訓許段りくこた神社の名があるが、陸前高田市の氷上神社のことともいひ、大船戸市赤崎の尾崎神社ともいふ。この尾崎神社に伝はる歌に「理久古多の神」の言葉があり、地方の古い神なのだらう。尾崎神社の神宝はアイヌのイナウ(枝を削った幣)だといふ。(谷川健一・白鳥伝説)
○ 理久古多の神にささげし稲穂にも えぞの手振りのむかし思ほゆ 尾崎神社神詠
釜石にある同名の尾崎神社(御崎明神)は、源為朝が伊豆大島に住んだ時の子の為頼が、閉伊頼基と名のって上閉伊郡に移住して、没後に祀られたものといふ伝説もある。
衣川・平泉
    毛越寺・中尊寺
平安初期、北上川の支流の衣川付近に、朝廷による関や館が設けられたといふ。
○ もろともに立たましものを陸奥の 衣の関を余所よそに聞くかな 和泉式部
その後この地方は豪族の安倍氏の全盛期を迎へた。前九年の役で源義家が奥州平定に赴いたとき、衣川の柵で安倍貞任と対峙し、連歌を交した。
○ 衣のたてはほころびにけり年を経し 糸の乱れの苦しさに 源義家/安倍貞任
安倍氏が敗れて滅んでのち、出羽の清原氏が勢力を広げた。清原氏の内紛が起ると、源義家が再び奥州に赴き、これを平定した(後三年の役)。このとき義家に味方したのが、清原清衡である。清衡は姓を元の藤原に戻し、母や妻の出た安倍氏の故郷に近い平泉に居を構へ、東北の牧馬や砂金などを掌握してこの地方を統一して、地方文化の繁栄を極めた。奥州藤原氏である。氏寺の中尊寺は、数百名の僧が営む大規模な寺だったといふが、源頼朝の奥州平定により、当時の繁栄を伝へるのはほとんど金色堂のみとなった。
平泉に逃れてかくまはれた源義経が、藤原泰衡の攻撃を受けて自害するときの歌。
○ 六道の道のちまたに待てよ君 後れ先立つならひありとて 弁慶
○ 後の世もまた後の世もめぐりあへ 染そむ紫の雲の上まで 義経(義経記)

○ 涙をば衣川にぞ流しつる古き都を思ひ出でつつ 西行
○ 夏草やつはものどもの夢の跡 芭蕉
○ 時うつり人亡び失すいみじくも 金色堂をいとなみにける 佐々木信綱
横山の禰宜 / 宮古市宮町 横山八幡宮
平安時代の寛弘三年(1006)、阿波の鳴門が突然鳴動し、怒涛逆巻く天変地異が起こった。時の一条帝は諸国に募ってこれを鎮める者を捜した。横山八幡宮の禰宜も、日夜祈祷をして、一首の御神歌を得て、さっそく阿波の鳴門に赴いた。
○ 山畠に作りあらしのえのこ草 阿波の鳴門は誰かいふらむ (御神歌)
(山畑に作ったえのこ草は粟に似てゐるが、粟が成ると誰が言ふだらう)
御神歌を詠じると、たちまち怒涛は止み、静かな海にもどったといふ。和泉式部が禰宜の宿を訪れてこの歌を真似、式部が詠んで鎮めたともいふ。ともかく、帝は波静かとなったことを喜ばれ、この地方に「宮古」といふ地名を賜ったといふ。宮古には猿丸太夫の伝説もあり、横山の禰宜は地方有数の歌道の名門だったらしい。
宮古は、源義経が衣川から落ちのびて来た地ともいひ、東北各地には同様の伝説が多い。
不来方城(盛岡城) / 盛岡市
南部藩は、三戸さんのへの南部信直が、豊臣秀吉の天下統一に協力して以来の藩で、徳川家康の統一のころ盛岡城を築城して南部藩の首都とした。盛岡城は不来方城ともいふ。
○ 不来方こずかたのお城の草に寝ころびて 空に吸はれし十五の心 石川啄木
石川啄木は岩手郡玉山村渋民に生まれた。
○ かにかくに渋民(しぶたみ)村は恋しかり おもひでの山おもひでの川 石川啄木
岩手山 ちゃぐちゃぐ馬こ / 岩手郡
岩手山麓の滝沢村の駒形神社では、旧暦五月五日に、農耕馬を衣装で飾り、幼児を乗せて行列を組んで参詣する「ちゃぐちゃぐ馬こ」の行事がある。二百年の歴史があるといひ、馬の産地らしい田の神の祝福行事なのだらうが、民謡の「ちゃぐちゃぐ馬こ」は昭和三十年代に新作されたものである。お山とは岩手山のこと。啄木の歌も同じ。
○ 馬こ嬉しかお山へ詣ろ 金の轡くつわに染め手綱 小野金次郎作詞
○ ふるさとの山に向ひて言ふことなし ふるさとの山はありがたきかな 石川啄木
滝沢村にある岩手山神社(岩手権現、田村神社)は、坂上田村麻呂将軍が、岩手山に立て篭った賊・赤頭の高丸を討伐したときの御陣小屋の跡にまつられたといふ。登山のときには「田村の権現、野木の王子」と唱へるといふ。
早池峰山 / 遠野物語
むかし女神があり、三人の娘とともに早池峰の高原に来て、来内らいない村の伊豆権現の社で宿をとった。その夜、母の神は、「今夜よい夢を見た娘に、よい山を与へませう」と語り、皆で寝た。その夜更けに天から霊華が降って、姉の姫の胸の上に舞ひ降りた。末の姫は、眼が覚めてこれを見て、内緒で霊華を取って、自分の胸の上に載せた。それで末の娘は一番美しい早池峯の山を得て、姉たちは六角牛ろっかうし山と石神山を得た。三人の姫神は今も三つの山に住んでゐる。遠野の女たちは姫神たちの嫉妬をおそれてこれらの山に遊ぶことはないといふ。(遠野物語より)
○ 冬ちかみあらしの風とはやちねの 山のかなたや時雨そめけむ 菅江真澄
早池峰の神は岩手山の妻だが、玉山村の姫ヶ岳(姫神山)が本妻だともいふ。
遠野地方は、明治の末に柳田国男が「遠野物語」で紹介して以来、昔話の里として全国に知られるやうになった。「遠野物語」の序文の端に記された歌。
○ 翁さび飛ばず鳴かざるをちかたの 森のふくろふ笑ふらんかも 柳田国男
沢内甚句 / 和賀郡沢内村
和賀川上流の沢内盆地は米の産地として知られる。沢内村には、江戸時代に年貢を納めることができなかった庄屋(名主)が娘のおよねを領主に差し出して、免除してもらったといふ話がある。およねは、およね地蔵尊にまつられてゐる。
○ 沢内三千石お米の出どこ 桝ではからねで箕(身)ではかる 沢内甚句
およねを歌った沢内甚句はこの地方の盆踊唄である。年貢が納められなかったのは飢饉が原因だといふが、盆地の複雑な地形に作られた隠田の問題やらがあったのではないかと思ふ。沢内産の米は、南部牛を飼ひ慣らす牛方うしかたによって運ばれ、南部牛追唄に同じ歌詞が唄はれる。 
 

 

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岩手県
岩手山 盛岡市の北西にそびえる山。「言はで」などと掛詞に用いられる。
○ 岩手山いはでながらの身のはては思ひしこととたれか告げまし [古今六帖]
北上川 岩手県北部に発し、宮城県で太平洋に注ぐ。
○ やはらかに柳あをめる/北上の岸辺目に見ゆ/泣けとごとくに 石川啄木
栗駒山 宮城・岩手県境。京都にも同名の山があり、区別し難い例が多い。
○ みちのくの栗駒山のほほの木の枕はあれど君が手枕 [古今和歌六帖]
衣川(ころもがは) 平泉の東北で北上川に注ぐ。近くには奥州の古関、衣の関があった。
○ 涙をば衣川にぞ流しつる古き都を思ひ出でつつ 西行
衣(ころも)の関 平泉の近く。奥州古関の一つ。
○ もろともに立たましものを陸奥の衣の関をよそに聞くかな 和泉式部[詞花集]
束稲山(たばしねやま) 中尊寺の東、平泉町と東山町の境にある山。
○ 聞きもせずたばしね山の桜花吉野の外にかかるべしとは 西行 
岩手三山伝承
岩手山・姫神山・早池峰山の岩手三山には大和三山風の恋愛譚があります。しかし主役はあくまで岩手県最高峰の岩手山と姫神山であり、早池峰は三角関係の「三人目」として登場する。岩手山と姫神山は北上川を挟んで東西に相対しています。
早池峰山は事例によって男であったり女であったりしますが、それはこの伝承が岩手山・姫神山付近で語られていたものだからでしょう。遠野や大迫では早池峰山の神は古くから女と言われています。
0 「太古、岩手山は雄神で、姫上山(1125m)を本妻とし、南の早池峰を妾としていた。しかるところ姫神は、嫉妬が激しすぎるというので、岩手山は夫婦の縁を切ってしまう。姫神はこれを恨み、麻をつむいだ丸緒(へそ)を、岩手山の裾野に投げつけた。これが数多くの塚になり、やがて丸緒森になった。また、姫神をポン出す(追い出す)とき、岩手山はオクリセンという従者をつけ、ずっと遠くへ送るよう申しつけたが、姫神はすぐ近くの真向かいに座してしまった。岩手山はこれを見て大いに怒り、命に背いたオクリセンの首を切った。この首は、岩手山の右裾に見える大きな瘤になった。こうしたことから、姫神山に登る人はその年は岩手山に登ってはならず、岩手山に登る人は、姫神山に登ってはならいという。もしもこの禁を破ると、必ずその者に災厄があるのだそうだ。」
岩手山と姫神山が夫婦で、早池峰山が妾であったと言う伝承。三山の恋愛伝承ですが、早池峰は積極的には関与せず、基本的に岩手山と姫神山の話です。またオクリセンというのが出てきますが、これは「送仙」で岩手山の東側にある瘤だそうです。
オクリセンに関する伝承で、刎ねた首が山の瘤になったというのは八甲田山・青森の東岳の「山の背比べ」伝承と同じモチーフ。「八甲田山が青森の東の東岳と争い、東岳の首を刎ねると、すっ飛んで岩木山の肩にぶつかった。岩木山の肩のところにその瘤があり、東岳はすっぺらな山になった」(石上堅『石の伝説』)「山の背比べ」で一方が敵対する山の首を切ったという伝承は琵琶湖竹生島生成伝承とも同じです。
また現実問題としての禁忌の由来譚であることも忘れてはいけません。一年に岩手山と姫神山を両方登ると災厄がある。
1 岩手県岩手郡滝沢村
「岩手山は、昔この地方の主宰者であった。そして姫神山はその妻であった。けれども彼女の容貌があまり美しくなかったので、岩手山は同棲を嫌がり、遂にお前は俺の目のとどかない所にいけといって、彼女を追い出すことになった。そしてその送り役にはオクリセンという家来に申付け、もし首尾能く使命を果さないときは、お前の首はないものと心得よとの厳命をした。姫は泣く泣くオクリセンを伴って出て行ったが、翌朝、岩手山が目を覚まして東の方を見ると、これ如何に姫神山は悠然と眼前に聳えているので、非常に怒って、口から盛んに火を噴いたために、谷は鳴り渡り、山は震いどよめいて凄惨を極めた。
岩手山と姫神山の間にある送瀬山(おくりせん)の頭が欠けてないのは、その岩手山が憤怒の余り、彼の首を落としたためであり、その首をば自分の傍らにおいたのが、今右裾に見える岩手山の瘤であるし、また送瀬山の近くにある五百森と呼ばれる青草で蔽われた多くの丘のあるのは、姫が後の形見にと手に持った巻子(えそ)を散らしたものだといい、赤い小石の多い赤川は、やはり記念に姫がお歯黒を流した跡だということである。(『滝沢村誌』)
岩手-男、姫神-女、早池峰-?。オクリセンは岩手山と姫神の間にある小山で、その山頂がかけていることの由来譚でもある。
ここには早池峰が登場しません。やはり古くは岩手山と姫神山二つの山の伝承だったのだと思います。また岩手山の瘤=オクリセンの首を「右裾」というのは岩手山姫神山を南から見た情景です。
2 岩手県岩手郡
早池峰・岩手山は男で、姫神山は女。岩手山と姫神岳は夫婦になったが、早池峰山が横恋慕して姫神を騙して自分のものにする。だから今でも早池峰と岩手山は仲が悪くいつも姫神を争って喧嘩している。その証拠に夏に三山が同時に晴れることは決してない。早池峰と姫神が晴れれば岩手山が曇り、岩手山と姫神岳が晴れれば早池峰山はきっと曇る。(『日本伝説集』)
岩手・早池峰-男、姫神-女。ここでは早池峰山が男、しかも間男になっています。上記二つの話と同じように三山の恋愛譚ではありますが、この伝承が「登山のタブー」を語るものではなく、「三山の天候」の説明をするものであるというのは気をつけておく必要があります。
ただ説話中にあるような気候が実際に良く見られるのかどうかは不明です。岩手山と姫神山は近いですから同じ天気である可能性は高そうですが、早池峰は遠いですから。
またこの伝承は意外と姫神信者による口述かもしれません。憶測に過ぎませんが。
3 岩手郡
岩手山と姫神山は昔夫婦だったが、岩手山はそれを嫌って離縁した。姫神は去るに望んで多くの小山を産んだが、これが五百森である。俺の目の届かないところへ行けと言ったのにすぐ隣にいるので、岩手山は怒って当り散らした。その後早池峰山が嫁入りした。姫神に上る者は岩手山には登らず、岩手山を拝めば姫神を拝まなかったという。(『旅と伝説』第三巻八号)
岩手-男、姫神・早池峰-女。この事例では姫神・早池峰が女になっています。特徴的なのは「五百森」が岩手山と姫神山の間に生まれた「子供」とされている、ということでしょうか?
4 岩手郡滝沢村
昔岩手山と姫神山は夫婦であったが、姫神が醜いといって離縁して、早池峰を妻としたので、三山は仲が悪かった。一方が晴れると一方が曇って顔を隠す。岩手山は姫神に遠くへ行けといったが、姫神は離れがたくて北上川を挟んで傍らにいた。岩手山は怒って火を吐いた。姫神山は名残を愛しんで形見の臍を撒き散らしたが、それが今の五百森である。(『滝沢村誌』)
岩手-男、姫神・早池峰-女。これは姫神・早池峰を女とするのは0・1・3の事例と同じですが、天候の由来を説くのは2と共通しています。
5 岩手郡雫石町
男助山と女助山が南畑川を挟んで相対しているが、その昔は一緒に並んでいた夫婦山であった。(『旅と伝説』第三巻八号)
これは岩手山・姫神山・早池峰山の伝承ではありませんが参考まで。
雫石の男助山・女助山は洪水神話で男女が逃れた小島であっり、その男女が人々の始祖となった、という洪水始祖神話があります。しかし「その昔は一緒に並んでいた夫婦山であった」とありますから、今は夫婦ではないということです。そしてその理由は「川を挟んでいる」から。
岩手山姫神山も北上川を挟んでいますが、あれも一応「姫神山が移動して」あの位置に来た語られています。ということは二つの山の間に川が流れていたとしたらそれは二山が離婚した証である、或は「川を挟んでいるのだからこの二山は中が悪いに違いない」ということなのでしょうか?
6 紫波郡地方
早池峰山は男神。岩手山と姫神山は夫婦だったが、早池峰が姫神に横恋慕して女神を騙して我が物にした。そのため岩手山と早池峰山は中が悪く、この二つの山が同時に晴れたことはない。一説には岩手・早池峰両山が姫神を争って毎日戦ったので、神々が心配して二つの山の間に川を投げ入れた。それが今の北上川だという。(『東奥異聞』)
岩手・早池峰-男、姫神-女。岩手山と早池峰山が姫神山を争ったと言う伝承で、しかも早池峰山は間男です。この事例は紫波ですが、盛岡と遠野の中間にある町。早池峰山にも近いのですが、早池峰山は男だとしています。
天気に言及していますが、岩手山と早池峰山の天気だけが問題となっており現実的です。
また「神々が二山の間に北上川を投げて争いをやめさせた」とはっきりと言われています。やはり「川を挟む山には距離がある」というのは一般的な発想のようです。  
石上堅著『石の伝説』は「山の高さを競うことから、段々とその山容の美醜を比べることになり、自然と山の神の争いも、嫉妬を含んだり、美女を奪い合う嬬争いになってしまう」と山の恋愛譚について書いていますが、この論法は正しいのか?
姫神が女の山であるということは上記全ての伝承が一致していますが、彼女が岩手山・早池峰山に愛される美女なのか?岩手山に離縁される醜女なのか?は事例によって違います。ということは石上が言う「山容の美醜」というのも曖昧なものだということにならないでしょうか?
富士山。非常に美しい山ですが、我々が富士山を美しいと判断する基準は何でしょうか?単独峰で、稜線が綺麗。山頂に雪が積もった時の山肌とのコントラストが美しい。まあ色々説明はつけられます。
しかし『常陸国風土記』では富士山よりも筑波山の方が緑が豊かですばらしいと言っています。祖神を款待しなかった富士山には草木が生えなくなってしまうのです。
この件については「『常陸国風土記』だから、地元贔屓」と説明するしかないですが、突き詰めると結局の所山の美醜は主観ということに落ち着くのではないかと思います。
さらに「角度」の問題もある。山によっては綺麗に見える角度や距離などがあるはずです。
『遠野市史』は早池峰山の「美しさ」について結構厳しい評価をしています。
「早池峰の山自体は、秀麗さにかけている。悠久十億年の風化に耐えてきた山塊である。稜線はやせウマの背のようにごつごつしている。山腹には無数の亀裂が走っている」
しかし遠野から早池峰を見ると前面には薬師岳が立っています。だから早池峰は薬師岳の向こうに「へ」の字に見える、というのは『遠野物語』にも書かれていることです。これについて『市史』はこう言います。
「この薬師岳の存在は、早池峰の全容を見せてくれない点では、障害になっている。しかし、遠野の人々に垣間見の早池峰に、それぞれの幻想をいだかせている点では、思わぬ効果を上げている」
要するに早池峰自体は綺麗とはいえないけど、遠野から見ると薬師だけの向こう側に見えて神秘的、ということです。
『遠野物語』二話では早池峰山がもっとも美しいということになっていますが、あれはそうでなければ成立しない伝承です。つまり、遠野三山縁起伝承を語っていた人々にとって早池峰は誰がなんと言おうと最も美しい山だったということです。
上記事例で天候に言及しているのは2・4・6ですが、このうち4だけは早池峰山が後妻だったことになっています。しかし4の天候説明は「一方が曇ると一方が晴れる」とはっきりしていません。
2「岩手山・姫神山」vs「姫神山・早池峰山」
6「岩手山」vs「早池峰山」
2・6 は岩手山と早池峰山の天候について説明する伝承であると考えて良いでしょう。2も結局は同じことです。これは岩手山と早池峰山の対立図式(恋敵)に天候の説明を乗せた伝承だと考えることができるでしょう。早池峰と岩手山は南北に結構距離が離れていますから、片方が晴れていても片方が雨、なんてことは確かにありそうです。
0・3 は岩手山と姫神山への参拝についてですが、このルールは地元でもよく言われていることなのでしょうか?しかし参拝のタブーについて「岩手山と早池峰山」ではなく「岩手山と姫神山」であることは注意すべきでしょう。二つの山の信仰史において実際に信仰団体の対立があったならばこのような伝承は不思議ではないのですが、0も3も「姫神が悪い」ということになっていて、一方的過ぎるのが気になります。
参拝タブーについては現状ではお手上げですが、地形の由来譚としての意味付けも大きいような気がします。
岩手山は活火山で、歴史的に何度か山容自体が変化するような噴火をしているそうです。オクリセンなども火山活動などによって出来た瘤なのだと思います。
そういう「変化の後」を姫神山との離婚という伝承の中で語りついで来たのだと思います。
類話1は天候説明も参拝タブーも言わず、地形説明しか語っていませんが、このようなタイプの語りも結構あるんじゃないかと思います。ここではしっかりと噴火したことに言及されてますが、やはり活火山としての岩手山に対する畏敬の念が表された伝承なのだと思います。
さてこれら岩手三山恋愛伝承ですが、上に見たようにどうも分類をして別々に考察したほうがそれなりの分析が出来るような気がします。
A 早池峰山が間男-岩手山vs早池峰山-天候の説明
B 岩手山が姫神山を離縁
 -B1 参拝タブー
 -B2 岩手山周辺の地形説明
※Bにおける早池峰山は岩手山の妾か後妻。
「B1」の参拝タブーについては具体的なルールもタブーを犯したことによる結果も詳しいことは良くわかりません。「厄災」とあるだけですから。ただ共同体に関わるような災厄ではなく、あくまでもタブーを犯した個人に対するものらしいです。そういう部分からも「岩手山祭祀集団と姫神山祭祀集団が争った」などという抗争は想定できないような気もします。岩手山が火山であるということは数年前の噴火でも確かでこれに対する畏怖があることが事実でしょう。ただ一方で類話0は「姫神山の嫉妬が激しい」ことが離縁の原因だとしています。山の女神が嫉妬深いというのは良く聞く話で、遠野三山縁起伝承でも最後は山の女人禁制を説いています。女神の山は女が山に入るのを好まないのです。遠野三山では女人禁制を犯そうとして石になった女の伝承があります。姫神は女人禁制だったのでしょうか?
ところで姫神山には立烏帽子姫伝承というのがあります。田村麻呂が守護神立烏帽子姫を姫神山に祀ったとか。
「立烏帽子」伝承。
「立烏帽子という魔の美人が、葦原の国を魔国とするため、鈴鹿に天下った。奥州の大竹丸という鬼神を夫にして魔業を成就しようと、たびたび大竹丸に文を送ったが、返事の来ないうちに、討ち手の田村麿が来て、一戦を交えた。その後、立烏帽子は田村麿に恋情を寄せ、ついには夫婦となって善心に立ち返り、田村麿と共に悪事高丸や大谷丸を退治したという。」
「大竹丸」は「大武丸」ともいい、岩手山で悪事を働いていた鬼です。後半「大谷丸」とか書いてありますが、これは原文のままか、写し間違いか?原文を見てみないとわかりません。これを見ると、立烏帽子(姫神)が大武丸(岩手山)を裏切ったことになってます・・・判断が難しい。しかし岩手山と姫神山が夫婦でありながら、対立するという構図は同じです。
山の恋愛伝承。大和三山もそうですが、どうも「争い」が入る傾向があります。この辺やはり「山の背比べ」と似た所があるのかもしれません。
遠野三山伝承
遠野三山とは早池峰山・六角牛山・石上山の三つの山を言いますが、その存在を世に知らしめたのは『遠野物語』第二話でしょう。
0 『遠野物語』
「遠野の町は南北の川の落合にあり。以前は七七十里とて、七つの渓谷各七十里の奥より売買の貨物を聚め、その市の日は馬千匹、人千人の賑はしさなりき。四方の山々の中に最も秀でたるを早池峰といふ。北の方附馬牛の奥にあり。東の方には六角牛山立てり。石神といふ山は附馬牛と達曾部との間にありて、その高さ前の二つよりも劣れり。大昔に女神あり、三人の娘を伴ひてこの高原に来たり、今の来内村の伊豆権現の社ある処に宿りし夜、今夜よき夢を見たらん娘によき山を与ふべしと母の神の語りて寝たりしに、夜深く天より霊華降りて姉の姫の胸の上に止まりしを、末の姫眼覚めてひそかにこれを取り、わが胸の上に載せたりしかば、つひに最も美しき早池峰の山を得、姉たちは六角牛と石神とを得たり。若き三人の女神各三つの山に住し、今もこれを領したまふゆゑに、遠野の女どもはその妬みを恐れて今もこの山には遊ばずといへり。」
最も流布されているヴァリアントは確実にこれですが、『注釈遠野物語』によると毛筆本と初版本では微妙に異なっています。
1 『遠野物語』毛筆本 (『注釈遠野物語』)
「古き伝説に女神三人の娘を伴ひて此高原に来り来内〔(の  権現祠のある処〕といふ処に宿りし夜天より霊華ふりて姉の姫の胸に止りしを末の姫窃に之を取りて我胸の上に置きて寝たりしかば最も好き早地峰の山を得たり三人の姫各一の山を得て今も之を領じ玉ふ〔二〕より遠野の女共ハ其妬を恐れて更に此山々ニハ遊ばずと言へり」
特に何が違うのかとうと「今夜よき夢を見たらん娘によき山を与ふべしと母の神の語りて寝たりしに」があるかないかです。つまり華が降ってくるのとそれを盗んだのは現実なのか夢なのか?というところです。三浦佑之先生は「今夜〜」の部分は柳田の加筆であって、「末の姫の盗みを現実のものとすることを避けて、夢の中での出来事であり、神のお告げなのだとする意図によるもの」だったとしています。『村落伝承論』。まあ柳田らしく盗みというダーティな部分はあやふやにしたかったというのもあるかもしれません。
しかし毛筆本では説明が少なすぎるのも事実。「霊華ふりて」と三女神三山統治の関係性がわかりません。「霊華を得たものが早池峰を得る」という説明は必要だと思います。説明のないヴァリアントもありますけど。
2 小出「神遣(かみわかれ)神社」 (『岩手の伝説』)
「祭神は早池峰・六角牛・石上で、三女神の像を安置している。大昔、遠野の上郷伊豆権現に三人の姉妹神がいて、みな早池峰の守り神に為りたいと願っていた。そこで眠っている間に蓮華の花がその体に降りた神が早池峰の守り神になることにした。結果、一番年長の女神に蓮華花が降りたが、速く目を覚ました末の姫神が姉神からそれを盗んで自分に移した。そうして長姉は石上山、次女は六角牛山、妹が早池峰山へと決まった。姉妹神がこの小出で別れて出立したので神遣神社という。」
神遣神社の縁起譚であることを除けばほぼ同じ内容ですが、三人全てが早池峰狙いであることと、「霊華」が「蓮華の花」であることをはっきりといっています。「そこで眠っている間に蓮華の花がその体に降りた神が早池峰の守り神になることにした」。これは母神の語りであると言うわけではありませんが、皆の取り決めであることがはっきりしています。
3 『遠野のくさぐさ』「来内村の神跡」 (『注釈遠野物語』)
「里老相伝ふ、昔伊豆大権現飛び来たりて来内村に降臨し、此処に鎮座ましましぬ(今伊豆神社と称す)。後三女神を生み給ひしが(社地の麓に御産畠と呼ぶ池あり。是れ其の誕生の址なり。同じく少し隔てて鍋田と呼ぶ水田あり。元と泉の湧きたる処ここにて産湯を奉れる址なりと。故に一に産洗田ともいふ。)(略)此の姉妹の三女神を早池峰・六角牛・石上の三山に鎮めまゐらす事となり、長嶺七日路に水なしといふ野山を越えられて、今の附馬牛に到られ、その長嶺の一部と見なさるる附馬牛の山路中に古き栗の木ありて、件の神神の憩ひたまひし跡と伝ひ、其のために葉は縮みつつあるといふ。母神の宣ふままに約すらく、「三女神寝ねます腹の上に蓮華の下りぬる方を、いと高き早池峰の山に鎮め申さん」と。斯くて三女神各々眠り就かせ給ふ。
其の夜、姉神の腹に降りけるを、すえの妹神目を覚まし、窃かに取りて己れの腹に上に載せられける。やがて三女神共に起きまゐらせて之を見そなはし、約の如く三山に分かれ給ひぬ。附馬牛の神遣の地其の址なりと
「母神の宣ふままに約すらく、「三女神寝ねます腹の上に蓮華の下りぬる方を、いと高き早池峰の山に鎮め申さん」と。」
この伝承では母神が言ったとはっきり書かれています。「夢」とは言っていませんから、「実際に蓮華の花が降る」というのがやはり元々の伝承だと思われます。
この伝承では三女神が眠ったのは附馬牛の神遣神社ということになっています。三女神は来内伊豆権現社で生まれ、神遣神社で眠って各山統治権を決定した、という流れです。
蛇足ですが、石上山麓砂子沢奥蔵にある「舟石」は、三女神が来内の権現からこの石舟にのってきて、ここで降りて附馬牛の神別れ(神遣神社)まで行ったという由来があるそうです。
「花が統治権を象徴し、相手が眠っている間にそれを盗むことで統治権を得る」
このモチーフは韓国にもあります。文献神話ではなく、シャーマンが語る巫俗神話です。「本解」と書いて「ポンプリ」と読みますが、神の由来を語る祭文のようなものです。韓国神話と言えば当然依田千百子先生ですが、論文「神々の争い」によると咸鏡南道と済州島に事例が紹介されています。咸鏡南道の二つの事例では「弥勒の世」=現世を釈迦が簒奪する為に、弥勒と釈迦で三つの競争を行うのですが、その一つが「花を咲かせる」こと。弥勒の花の方が早く咲きそうになりますが、弥勒が居眠りしている間に釈迦がそれを奪い、勝利して現世の統治権を得る。そういう伝承です。済州島の事例は四つ。「天主王」(チョンチ王・天地王)に大星王(テベル王)と小星王(ソベル王)という二人の息子がいますが、兄弟はこの世とあの世の分治を巡って争います。やはり花咲かせ競争があり、兄が眠っている間に弟がそれを盗むというストーリーです。
大林太良先生はウケイ神話の比較研究において、「花咲かせ競争モチーフ」を取り上げています。それによると中央アジアにも痕跡のようなものはありますがはっきりしない。
ブリヤートモンゴルにはシャカ・ミロク・他一名の三者による「人間の精神を作る権利」を巡る争いに花咲かせ競争モチーフが登場します。もちろん盗みもあり。
さらに沖縄県宮古島にもミルクとシャカの花咲かせ競争があり、シャカがミルクの花を盗んで競争に勝利し、宮古島の守護神になったと言います。この沖縄の事例は韓国のものとも良く似ています。
大林先生はこのモチーフについて仏教説話として信仰と共に伝播したのではないかと推測しています。
・・・と、いうことは確定ではないと言うことでしょうか?
大林・依田両大家をして起源が確定できないとなると厄介ですが、仏教説話的な面は確かにありそうです。
仏教説話では、人の臨終に際して極楽往生の証として蓮華の花が咲くという伝承があります。『今昔物語集』など。
それが民間の伝承に取り入れられて、神々の統治権を巡る伝承にに「花咲かせ競争」として語られるようになったのかもしれません。「花咲かせ」というと花咲爺の昔話ですが、「枯れ木に花」というのは中世期の千手観音信仰によって流布されたモチーフだそうです。
「『山の神の由来』と『現世来世の統治権』ではスケールが違いすぎる」「『花咲かせ競争』と『花が降って来る』のは違う」「モンゴルとか韓国とか沖縄とか遠すぎる」そういう反論もあるかもしれません。しかし山形県にも「花咲かせ競争」のモチーフがあるのです。しかも「山の統治権」を巡る競争です。
4 月山と朝日岳 (『山形の伝説』)
「昔々、大井沢の山神様は二人の姫様をもっていた。あるとき、この二人を月山と朝日岳の神様に鎮座らせることにしたが、二人とも月山にすわりたいといい出して、他にゆずらなかった。これを見かねた山神様は、二人に桜の苗木を一本ずつ与えて、「早く花を咲かせたほうに月山をやろう」といわれた。二人は精根をこめたかいあって、日に日に桜木は成長していった。ある夜、姉姫の桜が咲きかけたのを見た妹姫は、夜なかのやみにこっそりとうえかえて自分の勝にした。それで妹姫は「木の花咲くや姫」という名をもらって、月山にまつられるようになった。やむなく朝日岳へおさまった姉姫は、その後ことごとく盗人や嘘をつく人をきらって、朝日岳へは寄せつけないといわれている。」
月山の統治権を巡る「花咲かせ競争」。
姉妹神になっている点、韓国や沖縄の事例とは違います。また蓮華ではなく桜になり、妹姫の名もコノハナノサクヤヒメですから日本風の伝承になったと言っても良いでしょう。
しかし確かに「花咲かせ競争」モチーフです。
類似伝承は山形市にもあるようですが、月山と蔵王の話になっています。あと花が桜じゃなくて蓮華です。
5 月山と蔵王山 (『山形の伝説』)
「この姉妹山神の争いを、山形市あたりでは、桜ではなく蓮華を咲かせることにして、妹が姉の蓮華を盗み、西の御山(月山)へ、姉はしかたなく東の御山(蔵王山)へまつられたと語る」
月山と早池峰山。
それぞれの地域において結構似た存在だと思います。月山は出羽三山の最高峰であり奥宮的存在。早池峰は遠野三山の最高峰です。高さも大体同じぐらいで女神が祭られているのも同じ。
山形と岩手はいろいろと似た伝承が多いです。田村麻呂・慈覚大師伝承はどちらにも多いですし、「鮭の大助」伝承などは「大助」という名前まで一緒です。日本海側と太平洋側ではありますが、同じ伝承があるというのは何らかの伝承者集団の動きが想定されます。
以下、早池峰山により近い地域で採集された伝承を見てみましょう。
6 岩手県稗貫郡石鳥谷町 (『日本伝説大系』「早池峰山の由来」)
天から三人の神の娘が降りてきて、稗貫郡八重畠村呼石に泊まった。明朝最も速く目覚めた者が早池峰山に飛んでいってその主神になろうと約束して眠りについたが、末娘は眠らずにいて鶏がなくといち早く早池峰に飛んでいった。次に目覚めたのは真ん中の娘で、稗貫郡湯本村の麓山権現に飛んで行ってそこの神となった。長女は最後に起きて妹達を呼んだが返事がなく、石に反響した自分の声が帰ってくるだけだった。それでその土地を呼石というようになった。長女は付近の大森山と小森山を重ねて早池峰山より高くして住もうと思っていたが、夜が明けるのでそれもできず、しかたなく同村の胡四王山に飛んだ。その時持っていたお鉢箱を抱えて飛んだが、その箱が重かったので途中の老松の木の上に降りようとした。しかし箱が重かったので下の田に落としてしまった。その田をお鉢田と呼んで神聖なところとしている。そこで取れた稲穂の米は胡四王神に初献上するが昔から肥料は使わない。長女は胡四王山の神となった。(『東奥異聞』)
今の花巻市ですが、この類話には花のモチーフがありません。朝早く目覚めて早池峰へ飛んだいったものが早池峰山を得る。ちょっと十二支の由来みたいな話です。
また早池峰以外の二山が遠野の六角牛・石上ではなく、稗貫郡のものになっています。
この伝承で特筆すべきは、寝過ごした長女の行動でしょう。当然ですが遠野でのヴァリアントにはこんな部分はありません。「早池峰山の由来」より話者自らの生活圏の説明をするほうに興味がある感じです。
また花のモチーフがないので当然盗みもありません。眠らなかったことは「ずる」ではあるかもしれませんが。
『日本伝説大系』には花巻市野目の伝承も載っていますが、それには蓮華の花が降りて、それを盗むモチーフがあります。
7 花巻市野目 (『日本伝説大系』「早池峰山の由来」)
薬の神には三人の娘があった。姉妹は薬草を採っている間に早池峰の山容に見ほれ主になりたいと願った。眠っている間に長姉の枕元に虚空から蓮華の花が降りたが、目覚めた末娘はそれを取って早池峰に収まる。中妹は羽山(花巻市湯本)の山の神。長姉は胡四王山(花巻市矢沢)の神になる。
「薬の神」とありますが、私は遠野の「薬師岳(前薬師)」のことかと思っていましたが、もしかすると胡四王山の薬師如来のことなのかもしれません。胡四王山には今胡四王山神社がありますが、神仏分離以前は「医王山胡四王寺」で薬師如来を祭っていたからです。
夜眠っている間に蓮華の花が長姉の枕元に降り、末娘がそれを盗むモチーフはあります。
8 花巻市矢沢胡四王社(矢沢神社) (『遠野市史』)
「大昔、薬の神が三人の娘を連れてこの地にきた。年ごろなので、自分で山を選んで女神になるようにいいつけた。一日薬草を採りに行った娘たちは、四方の山を見渡し、最もひいでている早池峰山をほしいものだと思い込んだ。帰途、三岳神社(あるいは一説には奇勝院)で、その花園に疲れて眠ってしまった。妹は夜半に眼ざめて、いち早く早池峰に飛び、次姉は羽山を、長姉は胡四王山を得た。長姉は眼病のため遅れをとったので、盲人の守り神になった。」
同じく胡四王山に伝わる伝承ですが、これには花は登場せず、類話7と同じく早く起きたものが早池峰を得ることになっています。
ここで取り上げた花巻市の三つの類話の内、6には「花の降下・盗み」のモチーフがありますが、同じ胡四王山の伝承である7にはありませんから、それこそ遠野からの伝播である可能性があります。
現在早池峰登山の一番の拠点となっている大迫にも三山分治伝承があるようですが、『市史』には具体的な内容が書いてありませんでした。
参照:花巻市大迫町(『遠野市史』) 「この話は、二段の構成から成っている。前段では、この地の南昌山と戸塚山の出生譚(ものがたり)があり、後段に、三人の女神達の中で妹が早池峰山を得て、姉達が亀ヶ森と羽山の二つの山を分け合う話になっている。」
9 江刺市大迫 (『遠野市史』)
「大昔に三人の姉妹があった。三人はこの近くの古池の蓮を摘み、早く咲いた花をあてた者が早池峰山を得るという約束をして寝た。夜明けの時、姉のとった蓮の花が咲いた。妹は夜どおし眼をさましていたので、ひそかにこれを取って、最も美しい早池峰山に飛び姉は麓山(はやま)の女神になったという」
これは江刺市の伝承ですが、江刺は遠野から見ると西南。遠野-花巻と大して変わらない距離です。
花を栽培するわけではありませんが、やはり花咲かせ競争の一種であると考えることができるでしょう。花咲かせ競争の事例は山形県月山のものだけでなく早池峰山についても語られていたわけです。
こうなると「花の降下」のモチーフがどこから来たのか気になりますが、私の知る限りでは全く同じモチーフはないと思います。『今昔』辺りにありそうなものですが、もし『今昔』にあるとしたらいままで言われていないのもおかしい。
『遠野市史』によると「遠野の話の霊華の降下は、密教の潅頂の儀式からきた着想であろう」とのこと。
潅頂の儀式の中で「投花得仏」(とうけとくぶつ)という儀礼があるそうですが、それは曼荼羅に花を投げて花が落ちた仏に縁があるとして自身の本尊とするものだそうです。
『今昔物語集』巻十一第九は弘法大師の話ですが、空海の灌頂の儀式「投花得仏」についての描写があります。さすがは空海、結縁仏は大日如来でした。
これは真言・天台どちらでも行う儀礼で最澄も行ったという記録があるようです。なので、遠野の妙泉寺でも見られたかもしれません。
ただこの説だと主客が逆転しているような気もします。
「人が物を投げて落ちた所(モノ)と縁がある」というのは空海の三鈷杵伝説など考えても納得がいきます。
上にも書きましたが「臨終に当たって蓮華の花が咲いたのが極楽往生の証」という伝承が『今昔』には幾つかあります。あと「蓮華が落ちてきた」というのは巻十一第一、聖徳太子誕生の描写にありますが、それは聖人の出生を寿ぐという意味があるでしょう。これは「有資格者を表す表現」としてありえるかもしれません。
でも遠野三山伝承の場合は「盗む」。仏教的には盗んじゃダメでしょう。しかし末の妹の早池峰統治が覆ることはありません。
各界統治における花の伝承は、「花を咲かせる」にしても「花が降りる」にしても確かに仏教的な雰囲気はあるわけですが、一方で詭計を用いることも可としているので、やはり民間の視点で語られた伝承であると言うことになるのでしょう。「盗みによって果報を得る」伝承群を調べる必要がありそうです。
我々は簡単に「仏教的伝承」とか「民間の」とか言いがちですが、考えてみると「在家仏教徒による民間的発想」とかあるわけですから、簡単には区別できないような気もします。
また韓国の事例が全て巫俗神話であったことを考えると、遠野三山伝承も民間宗教者が語り始めた伝承である可能性は高いでしょう。『遠野市史』もこの辺言及しています。
次に遠野に伝わる更に特殊な類話を紹介します。
10 遠野市来内 (『遠野市史』)
「オロク、オシチ、オハヤの三匹のヘビの姉妹がいた。早池峰の山の主になる者には、夜中に幣束が天から降ってくることになっていた。そしたら幣束は、姉のオロクに降ってきた。これを夜ぴな寝ないで待っていた妹のオハヤが、盗んで早池峰山をとり、オロクは六角牛山に、オシチは石上山を得た。」
姉妹神が蛇の姉妹になっています。また降ってくるのは花ではなくて御幣です。
御幣は神に捧げるものですが、巫女が祭祀に用いるものでもあります。ということは祭祀者の資格を表す御幣でしょうか?
・・・まあ蛇なんですが。
御幣が降りるというのも聞いたことありません。「幡」が落ちた所に社を作ると言うのは『肥前国風土記』「ヒメコソ社」にあるんですけど。
三姉妹が蛇になっているというのも、古いのか新しいのかわからない要素です。
『遠野物語拾遺』四四−四六に載る「附馬牛の虎八爺」が始めた流行神「黒蛇大明神」ですが、後に「早池峰山大神」と名前を変えることになります。でももとが流行神ですから、一般の早池峰山信仰に蛇崇拝がどのぐらい関係しているのかは未知数です。
遠野三山と蛇の伝承、もちろん探ってみるつもりではありますがあまり期待でできそうにありません。
通常民俗学では素朴な感じの伝承の方が古いとされる傾向があります。また仏教的な要素がない方が古い。
その基準でいくとこの伝承はかなり古い、ということになってしまう気がするのですが、どうでしょうか?
以上姉妹が山の領有を競う伝承を見てきましたが、花巻市5・7にあったように、花のモチーフが必ず付随しているというわけではありません。
・青森県中津軽相馬村五所(『日本伝説大系』第二巻「3早池峰山の由来」)
姉妹神が岩木山の主になろうとしたが、姉神は途中で獅子舞の面白さに見とれていて、妹神が先に岩木山についた。姉神は弘前市千年の小栗山の神になった。
ここでは三姉妹ではなく、二人だけです。これは月山の事例と同じです。
『遠野物語』第二話も話の中心になっているのはあくまでも早池峰山であって、三姉妹であるのは三山に対応させた結果でしょう。
しかしここでも勝つのは妹なのです。
・三戸郡新郷村戸来(『日本伝説大系』第二巻「3早池峰山の由来」)
父神は妻と三人の娘を連れてやってきた。風雨がひどくなったので、父神は栃笛を吹いた。気がつくと雷雨も風も止んで三人の娘達もいなかった。姉姫はかやもり(野沢村)、中の姫は西越(同上)、末姫は戸来に飛んで神となった。
この伝承はどこが良いとか優劣の差は書かれていません。単に三つの場所の神の起源を述べたものに過ぎません。
このような伝承は遠野にもあります。
・『遠野物語拾遺』一
「昔三人の美しい姉妹があった。橋野の古里という処に住んでいた。後にその一番の姉は笛吹峠へ、二番目は和山峠へ、末の妹は太田林(おおたべえし)へ、それぞれ飛んで行って、そこの観音様になったそうな」
※「橋野の古里」とは笛吹峠より更に東、栗橋村と大槌町の境にある。和山峠は笛吹峠の北の峠で道筋が違う。
この伝承が『拾遺』の冒頭に位置づけられているのは、『物語』第二話に対応するものであるという位置づけからだと思うのですが、非常に地味です。
以上『遠野物語』第二話に載る遠野三山伝承について見てきました。依田先生・大林先生が挙げた「花咲かせ競争」の事例が全て男神の競争だったのに対して、東北の伝承は全て姉妹間の競争でした。これは東北の山の神が女神であると言うことに応じた変化なのだろうと思います。
「花咲かせ」と「花が降りる」の違いは、モチーフ研究のレベルでやはり興味を引きます。また「花を盗んだ」と語る時、聞き手が受ける印象が結構違う気もします。
「花咲かせ」は一応努力して咲かせますから、盗むという狡さが強調されるような気もします。月山と朝日岳の間に信徒獲得を巡る軋轢のようなものがあった場合、暗に月山を攻撃するような話を喧伝するというような作用もあったかもしれません。調べていません。あくまで仮定。しかし遠野三山伝承はそれほど嫌な感じはしません。妹が頑張って起きていたから盗めた、とも言えそうです。 
附馬牛(つきもうし) / 岩手県遠野市
岩手県の南東部、北上高地中央にある遠野とおの盆地は、東西約二〇キロ、南北約三〇キロに及ぶ。北上高地中最大の盆地で、遠野市成立以前は閉伊へい郡に属していた。附馬牛は盆地の北端から猿さるヶ石いし 川を遡り、早池峰はやちね山(一九一三・六メートル)の前山にあたる薬師岳(一六四四・九メートル)に至る山岳地帯に位置し、「つくもうし」ともよばれる。そこの稲荷神社に槻つきの巨木があり、樹下に多くの牛馬を放つことができたことから生じた地名と伝えている。
馬は古代から軍用あるいは貢租輸送用という支配者の必要上、熱心な施策によって飼育されてきた。一〇世紀のはじめに編纂された『延喜式』によると、皇室の料馬を飼育する勅旨牧は三二ヵ所あり、半数を占める信濃国のほか、甲斐・上野・武蔵の三国に置かれている。勅旨牧から貢馬が京に牽かれて行く八月には、天皇臨席のもと駒牽こまひきという儀式が行なわれ、詩歌などに多く詠まれた。
ところが中央政権の支配の及ぶ範囲が北上するにつれ、陸奥国の馬が良馬として知られるようになる。権貴の家、富豪の輩が競って馬を求めるため、値段の高騰を招いて兵馬の確保も困難な有様で、陸奥・出羽両国の馬を買うことが禁止されたこともあった(『日本後紀』弘仁六年三月二〇日条)。そして平安時代後期になると、特別買上馬の陸奥国臨時交易馬が駒牽行事を独占するほどになった。
源平合戦の宇治川先陣争いで知られる生口に妾いけづきは七戸産、する墨すみは三戸産といわれ、熊谷次郎直実が求めた権太栗毛は一戸産であった(『源平盛衰記』など)。中世には岩手県北部から青森県南部にかけての地域は糠部ぬかのぶ郡に含まれ、郡は一戸‐九戸に分けられていた。これは、九戸・四門制などといわれ、育馬を中心に実施された行政単位と考えられている。
文治五年(一一八九)の奥州合戦後、糠部郡の地頭に任命されたのは甲斐の南部光行と伝える。先に述べたように甲斐も古代からの馬産地であり、南部氏の牧場経営の経験が登用の理由の一つであったろう。時代は降るが、永正五年(一五〇八)には糠部・久慈くじ・閉伊などの牧馬印をしるした馬焼印図(『古今要覧稿』)が作られており、これら三郡が馬産の中心地であったといえる。
江戸時代には盛岡藩南部氏が三郡の地域を含む陸奥一〇郡を所領とし、領内で飼育された馬は南部馬として高く評価された。南部氏は森林馬と甲斐から導入した朝鮮半島経由の高原馬を中心に交配を重ね、軍馬に適する馬格の固定改良を行なった。『平家物語』に「きはめてふとうたくましゐ」「八寸の馬」とある名馬生口に妾の馬格が理想とされたらしく、八寸やき、つまり前足の先から肩までの体高四尺八寸(一四五・四センチ)を基準とした。改良馬は馬格だけではなく性質もよく、生口に妾の名の由来となった「馬をも人をもあたりをはらてくひければ」(『平家物語』)という荒々しい性格は改善されている。
盛岡藩は藩政として南部九牧を経営した。江戸時代後期には九牧で七〇〇頭前後が飼育され、領内では約八万八〇〇〇頭を超えたと推定されている。遠野一帯を領した遠野南部氏も各村に馬差うまさしを置き、馬を農家に貸し付けるなど独自の馬産振興に努めた。『邦内郷村志』によると、遠野盆地を中心とした遠野通の寛政九年(一七九七)の村数四一、戸数二九九六に対し、馬数は七一五八で、附馬牛村は戸数六二に馬が三二五頭いた。遠野南部氏の城下で開かれた市は、出馬千頭・入馬千頭と称される賑わいをみたという。
盛岡藩領を中心に分布するかぎ型住宅を南部の曲り家とよぶ。馬の飼育管理に好都合といわれ、馬産地として名高い遠野地方に多いこともうなずける。曲り家は片袖曲り、正面が住宅で側面に馬屋が継がって南に突出している。曲りの部分の奥が台所でその前が土間、住宅部分は正面に出入口のある平入りの形態をもつ。屋根はカヤぶきで、馬屋の屋根には破風があり、屋内でたく火の煙が抜けるようになっていて、馬の背を暖めるという。
遠野市域では、国の重要文化財に指定される江戸中期の土渕つちぶち町旧菊池家住宅、綾織あやおり町の千葉家住宅などがあるが、近年減少が著しい。
人と馬が同じ屋根の下で生活する曲り家は、様々の民話を生む土壌ともなった。柳田国男が土渕の人佐々木鏡石からの聞き取りを収録した『遠野物語』に次のような話がある。
昔ある処に貧しき百姓あり。(中略)一匹の馬を養ふ。娘この馬を愛して夜になれば厩舎に行きて寝ね、つひに馬と夫婦になれり。ある夜父はこの事を知りて、(中略)馬を連れ出して桑の木につり下げて殺したり。その夜娘は(中略)死したる馬の首に縋りて泣きゐたりしを、父はこれをにくみて斧をもちて後より馬の首を切り落とせしに、たちまち娘はその首に乗りたるまま天に昇れり。
これを神としてオシラサマとよび、馬をつり下げた桑の木で神像三体をつくり、一体が附馬牛にあると記している。『遠野物語拾遺』はこの話を附馬牛でのこととし、家を出た娘が残した虫が白色で馬の頭のかたちをしていたため、オシラサマは養蚕の神としても祭られたという話も収める。 
狄森古墳群(えぞもりこふんぐん) / 岩手県紫波郡矢巾町
古墳時代は一般に六世紀頃までといわれるが、岩手県においては円墳によって構成される七世紀以降の群集墳が多い。これらの群集墳は北上川流域に集中するほか、同川に西から合流する雫石しずくいし川・和賀わが川流域の自然堤防や段丘上に点在している。一帯は北上盆地と呼ばれる平地で、現在岩手の穀倉地帯となっている。
狄森古墳群も北上川流域に分布する群集墳のひとつである。JR東北本線矢幅やはば駅の北東約二キロ、国道四号付近の微高台地上に位置し、周辺は水田である。県の史跡に指定されており、築造時期は出土遺物から奈良時代末期と考えられている。昭和四四年(一九六九)に古くから確認されていた三基の古墳のうち二基が発掘調査された。二基とも主体部は川原石を積んだ積石石室であったらしい。周湟は一基は不明、一基は南東部に開口部を有する馬蹄形状で、上幅一・五四メートル、深さ九四センチ。副葬品は一基から刀子が検出されたのみであった。
昭和五九年史跡指定外地域における調査の結果、新たに八基の古墳が確認され、当古墳群は合計一一基となった。八基のうち二号墳と五号墳が調査され、二号墳の周湟部から一七個の勾玉が出土し、五号墳主体部からは直径約三〜四ミリのガラス玉約一二〇〇個、瑪瑙・翡翠の勾玉六〇個、ミカン玉一個が出土した。ミカン玉は皮をむいたミカンのような形状をなし、かなりの製作技術を要することから中央における製作と考えられている。
類似する名前をもつ群集墳として、北方、盛岡市上太田かみおおたの太田蝦夷森おおたえぞもり古墳群と、同市黒石野くろいしのの上田蝦夷森うえだえぞもり古墳群がある。太田蝦夷森古墳群は狄森古墳群と同様奈良時代末期の古墳群とされ、和同開珎・勾玉・管玉・ガラス小玉・植物種子などが検出された。上田蝦夷森古墳群は七世紀後半のものとされ、副葬品として土師器の小型甕・琥珀・環状錫製品・刀子と鉄製の胄を出土した。このうち鉄製胄は古墳時代のものとして県内初めての発見で、東北地方でも原形をとどめている例はないといわれている。
これらの古墳群が築造された時期、当地方は律令国家の領域、すなわち陸奥国に含まれてはいなかった。たとえば狄森古墳群がある紫波しわ郡は、九世紀に入っての弘仁二年(八一一)に和賀郡・稗貫ひえぬき郡とともに建置されたのであり(『日本後紀』同年一月一一日条)、遺跡名が示すように七〜八世紀にはまだ蝦夷の世界であった。しかし、だからといって中央との接触が一切なかったわけではない。それは古墳の出土品からも、また六国史などの文献からもうかがうことができる。古墳の被葬者は、陸奥国の外部にありながら、律令政府と何らかの関係を結んでいたものと推定できよう。
律令政府による蝦夷進攻およびその経営は、陸奥国の領域拡大を意味した。八世紀初頭に多賀たが城(現宮城県多賀城市)が造営され、鎮守将軍・按察使などが任命された。神亀元年(七二四)頃には陸奥国府も同城に置かれ、蝦夷経営のための中枢機関となった。その後蝦夷経営は軍事的色彩を強くし、天平宝字二年(七五八)に桃生ものう城(現宮城県桃生郡河北町)、神護景雲元年(七六七)に伊治これはる城(現同県栗原郡築館町)が造営されるなど(『続日本紀』)、国家支配は北進していく。
『続日本紀』宝亀七年(七七六)一一月二六日条によれば「胆沢賊」を陸奥軍三〇〇〇人が攻めており、戦線が岩手県の胆沢いさわ地方にまで及んだことが知られる。延暦二一年(八〇二)末頃までに胆沢城(現水沢市)が、翌二二年には志波しわ城(現盛岡市)が坂上田村麻呂を造城使として造営され(『日本紀略』)、律令政府の前進基地はさらに北上した。弘仁二年、志波城は雫石川の水害などを理由に、文室綿麻呂によって廃城の建議がなされ(『日本後紀』同年閏一二月一一日条)、同四年頃までに、かわって徳丹とくたん城(現矢巾町)が造営されている。『日本後紀』同五年一一月一七日条には、徳丹城周辺などの「狄俘」を警戒し、非常用の米・塩を備えることなどとみえる。
現在、胆沢城・志波城・徳丹城とも発掘調査によってその跡地が確定されているが、志波城跡と太田蝦夷森古墳群、徳丹城跡と狄森古墳群はそれぞれ近接し、古代における城柵立地と先住古代集落との関連を考える上で、貴重な例を提供している。
なお狄森古墳群は江戸時代から人々の注目を集めていた。『雑書』寛文一二年(一六七二)四月二二日条に蝦夷えぞ塚とみえ、藤沢ふじさわ村(現矢巾町)の畑中藤三郎なる者が塚から太刀・金具を掘り出したという。また『増補行程記』には「ゑぞガ森」と記して塚が描かれ、寛政一二年(一八〇〇)の東山道中通道中行程記(盛岡市立図書館蔵)は、藤沢村のことを蝦夷森村とし、「左に稲荷の宮あり、右にケモノヘンに犬の字塚三つあり、民家の後にも二つあり、これ賊乱の夷狄を埋めたる塚なりといふ。或る農民密かにこの塚の傍を穿ちたるに武具の類、鎧、鉾、剣、鍬等その外骨髪出たりといふ」と記している。江戸時代、この地方の住民が蝦夷をどのように考えていたのか興味をそそられる。 
千貫石堤 おいし観音(せんがんいしつつみ) / 岩手県胆沢郡金ケ崎町西根
千貫石堤は天和2年(1682年)に着工された、灌漑用の溜め池である。完成は元禄4年(1691年)であり、10年の歳月が掛かっている。
この堤を作るにあたって、人柱が立てられている。1000貫で買い取られた、「おいし」という19歳の娘であった。釜石あたりに住んでいた、器量は良いとは言えない娘であったと言われている。また嫁の貰い手があると騙されて連れて来られたという説もある。その娘を生きたまま子牛と共に石棺に押し込めて、100年の年季を限り人柱としたのである。地名ともなっている「千貫石」は、銭1000貫で買われたおいしが埋められた地ということで付けられたとも言われている。
経緯を見れば、明らかに本人が望んでなったものでもなく、人柱になる覚悟も諦めもなかったことは間違いない。工事の責任者であった伊達藩の普請奉行・川田勘祐の屋敷では、人柱を立ててから毎夜のごとく「暗いぞ、暗いぞ」と声がしたという。さらに川田一族はことごとく死に絶えたとも言われた。またおいしと関わりのあった家々でも代々実子が生まれず、血の繋がりのない人間が家を継いでいくこととなったともいう。これらは全ておいしの祟りであると噂されたのである。
そして100年の年季に近づいた安永6年(1777年)、7日7晩降り続いた雨のために千貫石堤は決壊した。多くの被害を出したが、この決壊の際にも約36mの青い光が流れ出たのが目撃され、これもおいしの祟りであるとされた。
時代はくだり昭和50年(1975年)、地元の複数の人の夢枕に、おいしの幽霊とおぼしき女性が立ったという噂が流れた。それを機に、おいしの供養を目的としておいし観音が建立されることとなり、翌年に完成した。おいし観音は、千貫堤を見下ろす小高い山の頂上に置かれている。ただ、今なおこの付近では女性や牛と思われる幽霊の目撃情報があるそうである。
大籠キリシタン殉教史跡(おおかご) / 岩手県一関市藤沢町大籠
藤沢町大籠は、現在でも自動車を使わないとアクセスが難しい、ある意味秘境の地のような場所である。そのような土地に江戸時代初期のキリシタン弾圧の遺跡が点在している。
大籠の地は、キリシタンとは関係のない製鉄から始まった。千葉土佐(初代)という者が、砂鉄を使う「たたら製法」で鉄を生産していたのだが、生産量が増えないために、永禄元年(1558年)に備中国から千松大八郎・小八郎の兄弟を呼び寄せた。この兄弟が熱心なキリシタンであったため、仕事のかたわら布教に専念し、またたく間にキリシタンの数が増えたのである。その数は伝承によると、最盛期には3万人に達したと言われていた。
慶長17年(1612年)、江戸幕府は禁教令を出し、キリスト教の本格的な弾圧が始まった。元和の大殉教では全国各地で大がかりな処刑がおこなわれた。大籠を領有していた仙台伊達藩でも拷問による殉教者を出したが、大籠での徹底的な弾圧は10年以上も後のこととなる。
寛永16年(1639年)から約3年ほどの間に、大籠でキリシタンの大量処刑がおこなわれた。処刑された数は309名。そして今なおその処刑にまつわる史跡が、街道沿いに点在する。さすがに処刑そのものに関係した物はないが、後年に造られた供養碑(江戸時代に作られているので仏式である)と案内板が置かれているだけの、何の飾りもない殺風景な場所である。しかし簡素であるが故の生々しさ、ここで人が次々と刑死したのだということを否が応でも思い起こさせる雰囲気があった。
最も多くの殉教者を出した場所が「地蔵の辻」である。2年にわたって178名が処刑された。地蔵の辻と県道を挟んで置かれてあるのが「首実検石」。伊達藩の役人が、この石に腰掛けて、処刑の検分をしたと伝えられる。さらにその近くには94名が処刑された「上野処刑場」、集落の入り口あたりには12名が処刑された「トキゾー沢処刑場」がある。
その他にも、斬られた首を晒して埋めたとされる「架場首塚」。上野処刑場に晒されていた遺体を約60年後の元禄年間に埋葬した「元禄の碑」。地蔵の辻に晒された首を親族が取り戻して埋めたとされる「上の袖首塚」。そして絵踏をおこない、キリシタンを捕らえた「台転場」など。これらの地のほとんどは、毎夜のように男女の泣き叫ぶ声が聞こえたり、幽霊が彷徨い出てきて、住民を恐れおののかせたという。
現在、大籠にはキリスト教会が建てられ、またキリシタン殉教公園などの施設もある。
大津浪記念碑 / 岩手県宮古市重茂姉吉
高き住居は児孫の和楽 想へ惨禍の大津浪 此処より下に家を建てるな 明治二十九年にも、昭和八年にも津浪は此処まで来て 部落は全滅し、生存者僅かに前に二人後に四人のみ 幾歳経るとも要心あれ
明治29年(1896年)と昭和8年(1933年)の2回にわたる三陸大津波の後に建てられた災害記念碑である。重茂半島の主要道である県道41号線から姉吉の漁港までは、急な山道を下りていく一本道であり、その途中にこの記念碑は置かれている。海らしきものは全く見えない。
集落は、この碑に刻まれているように、碑のある場所より高台にしかない。漁港からは約800m、海抜は約60mという距離のある場所であるが、小型漁船が家の前に置かれており、それを運ぶためのトラックも並んでいる。現在の集落は、昭和三陸津波で生き残った4名の住民が土地を開いて造ったものという。今でも教訓は生かされている。
平成23年(2011年)の東日本大震災の直後から、その存在がクローズアップされたが、実際行ってみると、信じられない光景に出くわした。記念碑から少し進むと、津波の爪痕が残されていた。それまでののどかな風景はなかった。
おそらく大津波が起こらなければ、いずれは風化して真偽不明な伝承となっていたかもしれない。図らずも惨事が碑に込められた真実を実証したということになる。先人の教訓を守り続けてきた姉吉の住民に、今回の大津波による犠牲者は出なかったと聞く。
おかんの墓 / 岩手県盛岡市本町通
盛岡市内のほぼ中心部にある大泉寺には、不思議な墓石がある。“カンカラ石”という名で呼ばれる墓石なのだが、材質が花崗岩にもかかわらず、石で叩くと高い金属音のような音が出る。これだけでもかなり奇妙な石なのだが、この音が鳴るようになったいきさつの伝承も、それ相応に不思議な因果話になっている。
秀吉による天下統一の末期、九戸政実は反乱を起こし、南部家によって滅ぼされた。その重臣・畠山氏の息女であった“おかん”は、家来であった三平と夫婦となり、盛岡に住み着いた。三平は盛岡城築城の現場で働いていたが、事故によって働けなくなった。そのような状況でおかんに言い寄ってきたのが、建設現場で夫の直接の組頭であった高瀬軍太であった。高瀬はおかんの気品の高さに思いを寄せ、夫の事故の件を境にして、露骨に関係を迫るようになってきた。これ以上拒絶すれば夫の身にも累が及ぶと感じたおかんは、夫を殺すならば身を任せると言って欺き、自ら夫になりすまして高瀬の手に掛かって貞死した。己の非を悟った高瀬は自ら仏門に入り、おかんの菩提を大泉寺で弔ったという。
この貞女おかんの墓が、この不思議な音の鳴る墓石なのである。そしてカンカンと鳴る甲高い音は、おかんの泣き声であるとか、夫の三平の唱える念仏であるとか、そのような伝説になっている。あるいはこの不幸な夫婦二人の声が合わさっているとも言われている。
ほとんど戒名すら判読できないほど磨滅した墓石の上には、墓石を叩くための石が置かれている。しかもこの石が置かれている部分は、叩かれたために、自然のうちにくぼみができているのである。300年以上、数知れぬほど多くの人々がこの墓石を叩いてきた証なのだが、この行為がおかんに対する賞賛や供養を意味しているように感じるのである。
鬼の手形 / 岩手県盛岡市名須川町
昔、この地に<羅刹(あるいは羅教)>という名の鬼が棲んでおり、悪事の限りを尽くしていたという。困り果てた人々がこの地で崇拝されていた<三ツ石様>という自然石に祈願したところ、たちまち鬼はこの巨石に縛り付けられた。さすがの鬼もこの神聖な威力に恐れをなし、二度とこの地に現れないと約束し、この巨石に自分の手形を押して立ち去ったという。この伝説によって、この地は鬼が二度と来なくなった場所という意味の「不来方(こずかた)」と呼ばれるようになり、また鬼が岩に手形を押したということから「岩手」という名前が出来たと言われている。そして盛岡の代表する夏祭りである<さんさ踊り>の由来も、羅刹という鬼がこの地から去ったときの民衆の喜びを表現したものであると伝えられている。
三ツ石神社の入り口に立つと、その問題の3つの巨石が出迎えてくれる。調査によると、この岩は元来1つの岩だったらしいが、年月と共に3つに割れてしまったのだという。さらに岩手山で噴火が起こった際にとんできたものであろうと推測されている。その唐突にそびえ立つ岩を見ていると、その巨大さゆえに信仰の対象となり得たことが十分理解できる。しめ縄を張られた岩の表面は苔むしており、今でも鬼が手形を押した場所だけは苔が生えないので、手形らしきものが見えるという(残念ながら、最近ではかなり薄れてしまい、肉眼で確認するのは難しい)。
カッパ淵(かっぱぶち) / 岩手県遠野市岩淵町岩淵
柳田國男の『遠野物語』には、何話か河童に関する伝承が記載されている。厳密に言えば、古の伝承というよりも、実際の体験者から採話したような次元の体験談である。それによると、遠野の河童は、一般的な河童とは異なり、赤ら顔であるという。それ故に柳田は遠野の河童と猿との関連性を唱えている。
遠野の河童といえば、今や観光地となっているカッパ淵が最も有名である。「河童狛犬」のある常堅寺の裏手を流れる川にカッパ淵はある。かつてはこの淵にも河童が住んでいるとされ、たびたび目撃されていたらしい。
現在、このカッパ淵には、河童を祀った祠がある。この淵で悪さをしていた河童を諭し、神として祀ったものであると推測される。なぜか乳の神であり、赤い布で乳をかたどった供え物を奉納すると、母乳の出がよくなると伝わる。
このカッパ淵の近くには、東北の豪族・安倍氏が構えていた安部屋敷跡が残っている。この安倍氏の末裔にあたり「カッパじいさん」と呼ばれていたのが安部与市氏である(2004年にお亡くなりになっている)。氏自身も幼少期にこの地で河童を目撃している、生き証人であった。
上の橋擬宝珠(かみのはしぎぼし) / 岩手県盛岡市上ノ橋町
盛岡の町を流れる中津川に掛かる上の橋には、日本最古級の青銅製擬宝珠が18個取り付けられている。銘によると慶長14年(1609年)に造られたものが8個、同16年(1611年)に造られたものが10個となっている。ちょうど南部利直が盛岡(当時は不来方と呼んでいた)を藩庁として建設していた頃である。
この擬宝珠は盛岡建設の際に新たに造られたものではあるが、それが取り付けられた由来を紐解くと、さらに300年ほど時代を遡ることになる。
三戸南部家の12代当主である南部政行が京都在番中のこと。その年の春になって鹿の鳴き声が都で聞かれるようになった。季節外れの鳴き声は不吉であるとして、歌を詠むことで凶兆を抑えようと“春鹿”の題で広く歌を求めた。政行はそれに応じ、
春霞 秋立つ霧に まがわねば 想い忘れて 鹿や鳴くらん
と天皇の御前で詠じると、鹿の鳴き声が止んだ。天皇は大層喜ばれ、松風の硯を下賜し、さらに都の風情を在所に持ち帰るようにと、鴨川に架かる橋の擬宝珠を模すことを許された。そこで政行は所領の三戸に戻ると、熊原川に黄金橋を架けて擬宝珠をあつらえたという。この故事にならい、27代目の利直が新しい城下町を築く際に、擬宝珠を鋳直したのである。
その後、何度かの洪水で橋は流されたが、擬宝珠は残った。そして戦時中の金属供出の際には、盛岡出身の太田孝太郎の尽力によって急遽国の重要美術品に指定され免れたという逸話も残る。
寒戸の婆(さむとのばば) / 岩手県遠野市松崎町光興寺
『遠野物語』8話にある、「神隠し」と題される話に登場するあやかしが寒戸の婆である。
……寒戸のある家の娘が、梨の木の下に草鞋を残したまま行方知れずとなった。三十数年後、親類などが家に集まっていると、老いさらばえた姿でその女が戻ってきた。どうして戻ってきたのかと尋ねると、女は人々に会いたかったからだと答え、また去って行った。その日は風が激しかったため、遠野の人は、風の強い日は「寒戸の婆が帰ってきそうな日」と呼ぶそうである。……
上の話を柳田國男に語ったとされる佐々木喜善が、昭和5年(1930年)刊の『民俗文芸特輯』第2号に、ディテールの異なる同じ筋の話を発表している。
……松崎村の登戸(のぼと)というところに茂助の家があった。その家の娘が、梨の木の下に草鞋を残したまま行方不明となった。幾十年経ったある風の強い日、家の人に会いたくなって、山姥のような姿になった娘が帰ってきた。肌に苔が生え、爪は二三寸に伸びたような姿であった。娘は一晩泊まると帰って行ったが、それから毎年その時期になると山の土産を持って訪れた。家の者も餅を持たせてやったりしていたが、来る時の数日が大風になるために村方より掛け合いがあって、山姥が来ないようにまじないをおこなった。その後、その山姥が来ることはなかったという。大風のある時は「今日は、登戸の茂助婆様が来る日だ」と老人が言っていたのを覚えている。山の物に攫われた娘が老齢になって、里に帰っても安心だとなった時初めて里帰りを許されて、人々に会いに行けるのであろう。……
実は、遠野には“寒戸”という地名はない。しかし、柳田國男の著作があまりにも有名になりすぎたために、いつしか“寒戸の婆”の名が正式なものになったようである。寒戸の婆にまつわる伝承は口碑だけだったが(佐々木喜善の作品によると「婆が来ないように封じた石塔が六七年前まであったが洪水で流された」とある)、現在は『遠野物語』の観光名所として石碑が、登戸橋のたもとに置かれている。
達谷窟(たっこくのいわや) / 岩手県西磐井郡平泉町平泉
達谷窟は坂上田村麻呂ゆかりの地である。延暦20年(801年)この地を平定した田村麻呂は、戦勝は仏の加護であるとして、遠征前より祈願していた京都の清水寺に模した堂宇を建立し、そこに毘沙門天を祀った。それが達谷窟毘沙門堂である。
その後も崇敬篤く、奥州藤原氏や伊達氏が堂宇を建立している。また文治5年(1189年)に源頼朝が平泉平定後に立ち寄ったことが『吾妻鏡』に記録されている。
元々この窟には、悪路王という鬼が住み着いていたという。悪路王は赤頭・高丸などの仲間とともに近隣を荒らし、また京の都にまで現れては姫君を攫っていったのである。その悪行は当然、時の帝の聞き及ぶところとなり、坂上田村麻呂が遣わされることとなったのである。
達谷窟の他にも、悪路王の伝承地が近隣にある。近くを流れる太田川に“姫待滝”という小さな滝がある。京から攫ってきた姫らを上流で幽閉していたのだが、隙を見て逃げ出す者があった。すると悪路王はこの滝で待ち伏せをして捕らえたのだろいう。
さらにはその滝の下流には“髢石(かつらいし)”という巨石がある。逃げ出して再び捕らえられた姫は、見せしめのために長い髪を切られ(あるいは首を切られたとも)、その髪(首)が川を流れてこの石のところで塞き止められたのだという。
悪路王はその名前から、蝦夷の族長であったアテルイの存在がモチーフとなっている推定されている。悪路王の悪逆非道ぶりは、最終的な支配者となる朝廷に対する頑強な抵抗を行った史実の裏返しであることは容易に想像できる。“悪路王の首”と称される木像が、鹿島神宮に納められている。東国に睨みをきかすように派遣された天津神の武神を以てして封じ込めていると見るべきだろう。
太郎淵(たろうぶち) / 岩手県遠野市松崎町光興寺
「淵」と名が付いているが、現在は改修工事の結果、池のようなものになってしまい、さらに様々な施設も加えられて、全くの公園のようになってしまっている。
案内板によると、この淵には太郎河童が住んでおり、女性が洗濯などで川辺にしゃがみ込むと、水面から顔を覗かせて腰の辺りをじーっと見ていたという。また下流に住んでいる女河童に好かれており、言い寄られていたともいう。まさに好色そのものである。
しかしこれだけでは済まない。案内板に参考的に掲示されている『遠野物語』55話の中には、微笑ましさの欠片すら微塵もないような凄まじい話が書かれている。
……松崎村の川べりの家には、二代続けて河童の子を孕んだところがある。生まれた子は醜悪で、切り刻んで一升樽に詰めて土中に埋めたという。女の婿の里である主人の話によると、ある時、女が汀で川に向かってにこにことしているのを目撃した。翌日もそうであったが、そのうち夜に女の元に誰かが寄っているという噂が立った。最初は婿の不在の時だけだったが、しまいには婿と一緒の時すら来るようになった。河童の仕業と言われるようになり、一族が守ったが効果はなく、婿の母親が一緒に寝た時は金縛りに遭って、笑い声を聞くだけで何も出来なかった。お産の時は難産となったが、馬桶に水を張ってその中で産めば易いということで試すとその通りだった。生まれた子供には水掻きがあった。この女の母親も河童の子を産んだことがあるという話である。……
長安寺(ちょうあんじ) / 岩手県大船渡市日頃市町長安寺
真宗大谷派の寺院であり、この地域では指折りの古刹である。平安時代末期に気仙郡司一族の正善坊によって開基され、室町時代前半に浄土真宗に改宗したとされる。戦国時代に全伽藍が焼失し、その後再建された。
真正面にある山門は、高さが約20mもあり、それだけでもこの寺院の勢力を推し量ることが出来るだろう。しかしよく見ると、この山門は上部の壮麗さに比べて、何となく下部が貧弱に見える。実は、この山門は未完成であり、このような状態でそのままになっているのには、珍妙な曰く因縁がある。
この山門が再建されたのは、寛政10年(1798年)のこと。ところが、当時この地を支配していた仙台・伊達藩では建築物にケヤキ材を使用することは御法度であり、にもかかわらず、この山門は総ケヤキ造りであったために大問題となったのである。藩は禁制であるが故にこの山門を取り壊すように命じた。それに対して住職は、これは仏殿であるので取り壊せないと突っぱね、最終的には取り壊しを免れた。しかしながら、これ以上の工事はおこなわないことが暗黙の条件であったため、山門は未完成のまま工事を中止。藩も黙認という形で決着したのである。
結局、山門は扉もなく、袖塀もないまま、現在に至っているのである。
続石(つづきいし) / 岩手県遠野市綾織町
柳田國男の『遠野物語拾遺』第11話に、この続石に関する伝説が集約されている。
この不思議な石の造型は自然のものではなく、弁慶がこさえたものであるという。初め弁慶は近くにある別の石の上に、笠となる石を乗せた。ところが、乗せられた石は「自分は位の高い石なのに、その上に石を乗せられたままとなるのは残念である」と言って一晩中泣き続けた。ならばと弁慶は別の石を台石として、その笠石を乗せ直したという。そして泣き続けた石もこの続石のそばにあり、泣石と呼ばれている。またこれらの巨石がある場所に少しだけ開けた平地があるが、ここは“弁慶の昼寝場”と伝えられている。
上の乗せられた笠石の大きさは、幅7m、奥行5m、厚み2mという巨石であり、弁慶が持ち上げる時に付いたという足形が残っているとされる。奇異な巨石を見た人々が怪力の伝説の持ち主である弁慶が造ったものとして、ある種合理的な説明を残したのであろう。間近で見ると、その偉容に圧倒される。
柳田國男も『拾遺』で指摘しているように、形から見て続石は人為的なドルメンの一種ではないかという説がある。その説を強くさせるような奇怪な話が『遠野物語』第91話にある。
この本が出される十余年ほど前、ある鷹匠が続石の少し上の山の岩陰で赤い顔の男女と出会った。男女は手を広げて制止するよう警告したが、鷹匠は戯れに腰に下げていた刀を振りかざした。その途端、男の方に蹴られて気を失ってしまった。意識を取り戻した鷹匠は「多分今日の出来事で自分は死ぬかもしれない」と言い、果たして病死した。不審に思った家人が寺に相談すると、それは山の神であり、祟りを受けて死んだのだと告げたという。
人工物であるか、自然の為せる奇跡かは定かではないが、この続石の存在がこの一帯を神秘的で神聖な場所であると認識させていることに間違いがないと言えるだろう。
南面の桜(なんめんのさくら) / 岩手県紫波郡紫波町桜町
紫波町にある志賀理和気(しがりわけ)神社は、延喜式の式内社として最北にあるとされている古社である。創建は延暦23年(804年)、坂上田村麻呂が香取・鹿島の神を勧請したのが始まりとされる。
この神社の長い参道の途中にあるのが“南面の桜”と呼ばれる桜の巨木である。樹齢は500年以上とされている(岩手県下では最古の桜の木とされる)。この木には次のような恋の伝説が伝わっている。
元弘年間(1331〜1334年)にこの地に下った藤原頼之は、地元の豪族・川村少将清秀の娘・桃香姫と知り合い、相思相愛の仲となった。そこで二人は、志賀理和気神社の参道に桜の木を植えて、行く末を誓ったのである。
ところが、しばらくして頼之は急に都に戻るように命ぜられる。二人は別れを惜しみ再会を誓ったが、あっという間に数年の歳月が流れた。ある年の春、桃香姫はかつて二人で植えた桜の木を訪れた。すると咲き誇る桜の花は、全て都のある方角である南を向いていたのである。この様子を見た姫は想いを一首の歌に託して、頼之の許へ文を出したのである。
南面(みなおも)の 桜の花は 咲きにけり 都のひとに かくと告げばや
この文を受け取って間もなく、頼之は迎えの使者を送った。そして桃香姫は都へ上り、頼之の妻となったという。
この伝説から、この桜の木は“南面の桜”と呼ばれるようになり、縁結びのご利益をもたらすものと信じられている。
弁慶の墓 / 岩手県西磐井郡平泉町平泉
平泉は奥州藤原氏の本拠地であり、源義経主従終焉の地でもある。国道4号線沿いの、中尊寺へ行くための駐車場入り口付近に、弁慶の墓と呼ばれるものがある。
義経を庇護していた藤原氏の当主・泰衡が、源頼朝の圧力に屈して義経を自害に追い込んだのは、文治5年(1189年)のことである。数百騎で衣川館へ攻め込んだ泰衡の手勢に対して、義経は抵抗することなく持仏堂に籠もり、妻子を手に掛けると自害して果てた。わずかにいた義経の家来も全て討ち取られたという。
伝承によると、武蔵坊弁慶は攻め入る敵を前にして、持仏堂の前に立ちはだかって侵入を防いだとされる。敵は容赦なく矢を浴びせ掛けたが、弁慶は決して倒れることなく、堂を守るように立ったまま死んだとされる。これが有名な“弁慶の立ち往生”である。
むかで姫の墓 / 岩手県盛岡市名須川町
南部利直の正室・於武の方は先祖がむかで退治した時に使った矢の根を持参してきたが、その亡くなった時に、遺体の下にむかでを連想させる模様が現れた。むかでの祟りを恐れた利直は、むかで除けの堀をめぐらせた墓を作るように命じた(むかでは水が苦手なため)。だが、その墓へ行くための橋を堀に架けたのだが、一夜にして破壊されてしまった。そして何度も付け替えようとするのだが、むかでが現れてそれを破壊した。墓から大小のむかでが這い出てくるし、さらに於武の方の髪も片目の蛇に変化して石垣の隙間から出てきたという。そこで於武の方を“むかで姫”、その墓を“むかで姫の墓”と名付けたという。
この於武の方は蒲生氏郷の養妹、つまり先祖は近江国でむかで退治をした俵藤太(藤原秀郷)である。このむかで姫の伝説は、まさにこの俵藤太の伝説が発端となって広まったものであることは間違いないだろう。
夫婦岩(めおといわ) / 岩手県一関市千厩町千厩
「東洋一の奇岩」と称する夫婦岩である。写真で見れば分かるように、古くから夫婦和合の信仰篤い御神体である。しかも相当大きなもので、男性の方の石が周囲10m、高さ5mになる。またこの巨石の隣には子宝地蔵、そして階段を上ったところには子宝明神(金精様)が祀られており、不思議な空間を作り出している。
案内板にあった一節が非常に好い味を出していたので、掲載させていただく。
“雄然たる龍頭は列強なる陽茎に支えられ天地正大の気、この地に発する観あり、男石の後ろに日本の美風を堅守し豊満にして慎ましやかな女石は、谷間の白百合の如く万人の感動をよぶ。この赤裸々な自然の成せる好一対の象徴は蓋し希有にして本邦一の景観である。”
緑風荘(りょくふうそう) / 岩手県二戸市金田一字長川
昭和30年(1955年)創業の温泉旅館。座敷わらしの現れる宿として有名。特に母屋の奥座敷に当たる部屋「槐(エンジュ)の間」の出現が有名で、その姿を見た者は幸運になると言われる。そのためこの部屋は3年先までの予約が瞬く間に埋まってしまうほどであった。しかし平成21年(2009年)に旅館は全焼する。焼け残ったのは、座敷わらしの正体と伝えられる、この旅館の主人である五日市氏の祖先である“亀麿”を祀る小社のみであった(小社は宿の中庭にあり、火元のボイラー室のそばにあったにかかわらず焼失を免れている)。
伝承によると、五日市氏の祖先は南北朝時代の人物で、南朝方に与していたために東北へ逃れたとされている。この金田一の地へ辿り着くと、二人の息子のうち兄の亀麿が病死、その間際に「家を守る」という言葉を残したという。つまり、緑風荘の座敷わらしは妖怪というよりは、むしろ家霊・守護霊的な存在であると考えるべきだろう。
ただ目撃者の証言をまとめると、小さな男の子が部屋や廊下を走り回ったり、宿泊者に遊んでくれるようお願いしたり、ちょっとした悪戯をしてみたりと、一般的な座敷わらしの伝承と同じような行動を取っている。また姿は見えないが、走り回る音、その他物品が動くなどのポルターガイスト現象もあるという。そして一番奇怪な記録としては、漫画家のつのだじろう氏が寄贈した、色紙に描かれた座敷わらしの絵の目玉が動いた瞬間が映像に映っていたというものもある。 
毛越寺(もうつうじ)
毛越寺は中尊寺と同様慈覚大師を開祖とし、正式には医王山毛越寺という。藤原二代基衡により建立された寺院で、「吾妻鏡」には、初代清衡が建てた中尊寺の「寺塔四十余宇。禅坊三百余宇也」に対して「四十余宇、禅坊五百余宇」と書かれているが、昭和29年から5年間にわたる発掘調査の結果においても、やはり中尊寺をはるかに凌ぐ大寺院だったことが明らかになった。
四十余宇のうち主な堂塔は、金堂(円隆寺)、講堂、経蔵、常行堂、吉祥堂、千手堂、観自在王院、喜祥寺などであったといわれが、これらの伽藍は嘉禄2年(1226年)と天正元年(1573年)の火災で焼失し、わずかに残った常行堂と法華堂も慶長2年(1597年)の野火により焼失したと伝えられる。
毛越寺は、特別史跡と特別名勝の二重に国指定されており、現在までに、発掘調査の結果をもとにして平安時代の優美な浄土庭園が復元されている。その中心をなした「大泉が池」は、東西180m、南北90mあり、その昔は、南大門から中島、さらに金堂(円隆寺)へと続く2つの橋で東西に分けられ、この池に龍頭鷁首(りゅうとうげきしゅ)の船を浮かべ、管弦の楽を奏したといわれる。
毛越寺は、「花の寺」としても知られており、梅、つつじ、桜、はす、やまぶき、萩など四季折々の花を楽しむことができる。6月下旬から7月中旬にかけては、あやめ祭りが開かれ大勢の人でにぎわう。毎年5月の第4日曜日に、盃を流して下に着くまでに和歌を詠む宴「曲水の宴」が行われる。
「おくのほそ道」の中で書かれた「大門」がどこを指しているかについては諸説あるが、中尊寺・毛越寺発行の書籍「平泉」では次のように説明している。
南大門跡は東西三間(柱と柱のあいだを一間という)南北二間の、十二個の礎石が整然と原位置に並んでいる。「吾妻鏡」に「二階惣門」といい、芭蕉が「奥の細道」のなかで「三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有」と綴るのもこれを指す。
境内には「夏草や兵どもが夢の跡」の句碑が3つ建てられている。その1つは、はじめ高館に建てられていたのを明和6年(1769年)境内に移した芭蕉真筆の句碑(写真で左の方)であり、2つ目はその隣にある平泉出身の俳人素鳥(一関法泉院住職)が文化3年(1806年)に建てた句碑(写真で右の方)で、残りは新渡戸稲造が英訳した句碑である。このように毛越寺に芭蕉の句碑が建っていることから、芭蕉ゆかりの寺院のようにも思われるが、訪れたという記録はない。ただし、義経最期の地である高館は、毛越寺が所有している。 
中尊寺
寺伝によれば、中尊寺は嘉祥3年(850年)に慈覚大師が開基した天台宗の寺院で、建立時は関山弘台寿院と号したが、貞観元年(859年)に中尊寺と改めたという。
江刺郡の豊田館から平泉に移った奥州藤原氏・初代清衡は、この基盤の上に長治2年(1105年)、前九年・後三年の戦いで亡くなった人々の霊をなぐさめ、仏国土を建設するため中尊寺一山の造営に着手した。
鎌倉幕府が編纂した公式の歴史書である「吾妻鏡」の文治5年(1189年)、すなわち義経が没し、藤原氏が滅んだこの年の9月17日の条には、当時の中尊寺の規模が「寺塔四十余宇。禅坊三百余宇也」と書かれ、また、平泉中心の体制づくりが仏教を基盤にして行われたことが、次のような内容で記されている。
白河ノ関(福島県白河市)ヨリ外ヶ浜(青森県青森市)ニ至ル廿余ヶ日ノ行程ナリ。其路一町(約109m)別ニ笠率都婆(仏の供養のために立てた細長い木の板)ヲ立テ、其面ニ金色阿弥陀像ヲ図絵シ、当国(平泉)ニ中心ヲ計リ、(中尊寺・関山)山頂上ニ一基塔ヲ立ツ。又寺院中央ニ多宝塔アリ。釈迦多宝像ヲ左右ニ安置ス。其中間ニ関路ヲ開キ、旅人往還ノ道トナス。
隆盛を極めた中尊寺も、藤原氏が滅亡した後はすっかり衰え、さらには、建武4年(1337年)の火災で山内のほとんどが焼け、金色堂と経蔵の一部を残すのみとなったが、伊達家累代の保護などにより復興を果たし、現在に至っている。
中尊寺には、金色堂をはじめ数多くの国宝や重要文化財などが所蔵され、東日本随一の平安美術の宝庫となっている。
光堂とも称される金色堂は中尊寺創建当初の唯一の遺構で、堂の内外ともに厚く黒漆が塗られ、その上に一面金箔が押されている。
明治30年(1897年)の修理の際に棟木の墨書銘が発見され、天治元年(1124年)に落成したことが明らかになった。
金色堂の中央の須弥壇には、初代清衡の遺骸、向かって左の壇に二代基衡、右の壇に三代秀衡の遺骸が安置されており、秀衡の遺骸の傍らに、子泰衡の首級が納められている。 
高館(たかだち)
源義経最期の地として知られる高館は、中尊寺の東南にある丘陵で、衣川館または判官館とも呼ばれる。頂に義経の像を祭る義経堂がある。
高館から東方を眺めると、その昔「さくら山」と呼ばれ、京都の東山に見立てて桜狩りを楽しんだという束稲山があり、眼下に北上川が悠々と流れている。
平泉を貫く北上川は、四季折々の景観とともに大パノラマを展開する美しい川であるが、その一方で、氾濫の歴史を刻む「暴れ川」の側面も持ち合わせる。
このため、かつては東側に離れて蛇行していた流れが現在では高館の崖下まで川筋を移し、丘陵の半分ほどを削り取っている。
北上川を背にし、義経堂にその像を祭られている源義経は、平安末期の武将で、幼名を牛若という。7歳で鞍馬寺に入り、その後、藤原秀衡のもとに身を寄せたが、兄頼朝の挙兵に参じ、源義仲を討伐し、更に平氏を壇ノ浦などで破って全滅させた。
しかし、頼朝はこれを勲功と認めず、逆に追われる身となった。そこで、義経は秀衡を頼って平泉に逃げるが、秀衡はまもなく病死する。その子泰衡は、文治5年(1189年)4月、頼朝の圧力に屈し、家臣を大将にして高館の義経を急襲させ、義経は自刃して果てた。
それから500年ほど後の1689年の夏、芭蕉は曽良とともに高館の地を訪れた。しかし、平安の世に、奥の都として隆盛を極めた平泉は、過ぎ行く時の流れと共に跡形を無くし、もはや、あめ土そして山河の息遣いがこの辺地に残る全てだった。
芭蕉は、志を遂げずに散った義経主従を追想し、「夏草や兵どもが夢の跡」の句を詠んで人の世の興亡を儚み、曽良は「卯の花に兼房みゆる白毛かな」の句をもって、義経家臣の忠義心を称えた。
この旅から300年を経過した平成元年、「おくのほそ道」紀行を顕彰する行事が全国各地で催され、平泉では、「奥の細道300年 平泉芭蕉祭」が開かれた。中尊寺金色堂の旧覆堂脇に見られる芭蕉像や、高館の頂に建つ「夏草や」句と下記本文を刻む碑は、この折の記念物である。
三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有。秀衡が跡は田野に成て、金鶏山のみ形を残す。先、高館にのぼれば、北上川南部より流るゝ大河也。衣川は、和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落入。泰衡等が旧跡は、衣が関を隔て、南部口をさし堅め、夷をふせぐとみえたり。偖も義臣すぐつて此城にこもり、功名一時の叢となる。国破れて山河あり、城春にして草青みたりと、笠打敷て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ。
平泉で見られる「夏草や」の石碑としては、この他に、高館の地を領有する毛越寺に3基存在する。その1つは、明和6年(1769年)に高館から毛越寺に移した芭蕉真筆の句碑で、高平眞藤編「平泉志巻之下」に、この碑について「池の南畔に石碑あり。芭蕉俳詠の自筆を勒せり里俗之を芭蕉塚といふ」の記述がある。
他の2つは、一関法泉院住職を勤めた平泉出身の俳人素鳥が、上の真筆句碑を模して文化3年(1806年)に建立したものと、新渡戸稲造(1862〜1933)が「夏草や」句を翻訳した英文句碑であり、都合3基が境内に建っている。
曽良の句碑が建つ「卯の花清水」は、高館の北側の上り口からほど近いところにある。当所は、古来、霊水がこんこんと湧き出る名水地として知られたが、平成5年に行われた道路の拡張工事で水が涸(か)れてしまい、現在は、水道水を利用してかつての名水を再現する状況となっている。 
沢内甚句
沢内三千石お米(こめ)の出処(でどこ) (ハイハイトー キタサ)
つけて納めたコリャお蔵米 (ハイハイトー キタサ)
大志田歯朶(しだ)の中 貝沢野中 (ハイハイトー キタサ)
まして大木原(おぎわら) コリャ岳の下 (ハイハイトー キタサ)
   沢内三千石お米(よね)の出処(でどこ) 升で量らねで箕で量る
   月の夜でさえ送られました 一人帰さりょかこの闇に
沢内三千石所の習い 姉が妹の仲人する
甚句踊りの始まる時は 箆(へら)も杓子も手につかぬ
   沢内三千石冷水がかり まけて給れやご検見殿(けみどの)
   折れぬ花とはそは思わねど 一枝折りたやあの花を
沢内おばこの焼いたる炭は 赤くなるほど熱が出る
浮世離れた牧場の小屋で 牛に添え寝の草枕 
およね物語
沢内三千石お米の出どこ枡ではからないで箕ではかる
このよく知られた「沢内甚句」の歌詞の、お米はおよね、箕は身であるとされる解釈が有名で、凶作にかかわる村の娘「およね」の悲哀の物語が語り継がれています。
「沢内年代記」によると、天保の大飢饉のときの凶作は甚大で、生活は窮乏を極めた凄まじいものだったと伝えられています。ホシナ(大根葉の乾燥したもの)と根花(ワラビのでんぷん)で命をつないだ者はまだ良い方で、わらを食べ、雪解けを待って草の根を掘って食べるという悲惨なものだったのです。
そのため、お倉米(納税)を納めることができなかったのは言うまでもないことですが、それにもかかわらず殿様からは上納の厳しいお達しがたびたびあって、沢内通りの名主たちは、いかにしてこの苦難から逃れようかと日々相談に明け暮れ、納米の減額や免除を嘆願したのでした。
そんな中、あるときの集まりに、当時沢内通りに駐在していた代官が、次のように言ったのでした。
「近年のケカジ(凶作)続きは沢内通りばかりでなく、奥州から関東にかけての大飢饉なのだから、なかなか免除の許しなどは出ないことである。当藩内のことではないが、農民たちは殿様に誠意を示すために、娘を上げ申したということがある」
何か暗示を与えるようなことを聞かされて、一同は帰りました。
やがて十一月に入り、その年も俵探しの役人がお米のありそうなところを回って調べました。見つかれば強制的に没収されてしまいます。困っている人たちに分けてやる余裕もありませんでした。冬を迎えてさらに生活は厳しくなり、名主たちも、納米の督促どころか、自分の郷の餓死者を防ぐために懸命なのでした。
しかし代官所からの厳しい通達に困り果てた名主たちは、ついに最後の相談をすることとなり、そして、代官が言った娘を差し上げることのほかないという結論に達したのでありました。
「背に腹は代えられない。この方法よりほかに道がないとすれば、沢内通りの農民を救うために一つ代官様にお伺いをしてみようではないか」
そして新町の代官所を訪れて、結果交渉はうまくいき、ほっと胸をなでおろしたのですが、名主たちは、次に、その殿様に上げ申す娘は何処にあるだろうかと真剣に考え探すことになりました。
「代官所の近くであれば、なじな者でもあるべし、都合もいかべなァ」
「んにゃ、えおなごというのは上の方にかぐれだとこにいると思うんでごァし」
この頃、沢内通りは太田を中心に二分しており、南北に分けて探すことにしましたが、結局その娘というのは、どうしても北部からであるという結論に達したのでした。
そして度重なる集まりの末、川舟村に候補者が二、三人あるということにしぼられて、貝沢、新山、川舟の三部落から一人ずつ見つけようということとなります。
さて、郷の同心二人が新山を回り、話を聞いていたとき。橋を渡ってすぐの家の爺が言うには、「こごえら(この辺)でだら、吉右ェ門どこの娘っこよりえおなごァねァがべなし」、と。これを聞いて二人の目は光りました。挨拶もそこそこにしてこの家を飛び出していきました。
吉右ェ門の家は旧家で、六十余年前、田掻き馬が狂乱し、岩手山麓で立ち往生して蒼前様に祀られたという伝説のある家でありました。
同心が急ぎこの家を訪れると、年の頃十六、十七かと思われる、背の高い面長の美しい娘が挨拶に出てきました。二人はしばらく休んでいる間に、この娘の立ち居や動作にすっかり惚れ込んだのでしたが、突然に件の話も言い出せず、ひとまず帰ったのでした。
名主たちの集まりに報告がなされ、正式に吉右ェ門の家に交渉することになりました。
何の不自由もない総本家のの娘が殿様に上げられるという話が伝わると、遠方の分家や親戚などから猛烈な反対の火の手が上がりました。もちろん、本人も両親も容易に首を縦に振らなかったのは無理もないこと、、。たとえどんな理屈を付けようとも、年貢米の代わりになる人質にほかならないのです。
連日矢のように攻められ、連日連夜にわたり相談は続けられ、その娘、およねもまた悩み、考えるのでした。
冬が過ぎて春の彼岸の中日のこと。
「殿様に仕えるごどはありがでえが、お倉米の代わりなど人身供養だから、本家の大恥だ。だれァ何たって承知こがね」
「それも考え方だ。おら本家の娘こァ沢内を救ったとなれば、分家の爺だって肩身広く道路あるぐごとにもなるべ」
そんなやりとりを聞いていたおよねは、元気に満ちた、そして晴れ晴れとした声で言い出したのでした。
「おらァ思い切ったでァ。えぐ(行く)気になった。人ァ一度ァ死ぬんだォなに」
誰一人、何も言える者はいませんでした。大きないろりには薪がどんどん燃えて、車座に座っている人たちの顔を照らしていました。彼岸の頃のかくしの吹雪が時々窓に吹きつける音のみで、深夜のいろり端には、咳一つする者はなかった。そして、かしき座の隅に座っていたおよねの母のかすかなすすり泣きの声が、人々の胸を強く痛めるのでありました。
軒を埋めた雪が次第に消え去ると、沢内には急に春が訪れるのでした。屋根吹き替えの手伝いに集う男たちの間でもおよねの噂で持ちきりです。村の困窮を救う女傑と誉める者、同情と義憤の気持ちで慰める者など、いずれこの狭い沢内から殿様のお城に上るという開びゃく以来の出来事だけに、村の話題を総ざらいに七十五日間続くのでありました。
そんな噂をよそに、吉右ェ門の家では娘の出発が近づくにつれ、仕事も手につかない毎日を送っていました。
田打ちが始まった頃のある夜、新山には村中の人が集まって、感謝の酒宴で大騒ぎでした。いまさらながらおよねの美しさを口々に褒めそやしていました。座敷では飲めや歌え、そして沢内甚句を歌い始めるのでした。およねは一人、家の西にある檜の古木の下に立ち、蛙の鳴き声を聞きながら、懐かしい友だちのことを思い浮かべていました。自分の行く末に不安な気持ちは頭から離れることはありませんでした。
とやかくするうちに、その日はやってきました。お嫁さんのような髪、着たこともない矢絣の袷、黒朱子の帯をしめて正装したおよねの姿は高貴で、微塵も田舎娘などではありませんでした。多くの村人たちに見送られて、およねは住み慣れた家を、そして村を後にしたのでした。
「んだらえってくる」 それだけの言葉を残して、、。
かよわい女の身で一村を救うけなげなおよねは、こうして寂しげな微笑を一同に見せながら、悄然と出かけるのでありました。 
 
宮城県 / 陸前

 

北海道青森岩手宮城秋田山形福島

宮城野のもとあらの小萩露重み 風を待つごと君をこそ待て 古今集
塩竃神社 / 塩釜市
塩竃神社は、潮流の神・漁業の神である塩槌老翁しほつちのおきな命ほかをまつる。塩槌老翁命は、牛に海水を引かせて塩を作り、この地方の繁栄をもたらした神とされる。塩槌老翁命が塩を煮るときに使った釜は、塩釜駅近くの御釜社に四つがまつられてゐる。
○ 塩釜はもとは七つの釜なれど 三つは引かれて四つは塩釜

○ ちはやぶる神も子ねの日と思へばや 煙たなびく塩釜の松 橘為仲
(正月初めの「子の日の遊」では、野山で小松を根引いて山づととし、若菜を煮て会食した、その煮炊きの煙を塩焼の煙に喩へた。松は門松の起源、若菜は七草粥の起源ともいふ)
○ 常滑とこなめのかぐろき石の石階を 千重ふみのぼる塩釜の宮 伊藤左千夫
塩釜は江戸時代に大きな繁栄を見ることになった。いはゆる伊達騒動(三代藩主が江戸新吉原の遊女高尾に熱をあげたことによるもの)以来、盛り場は仙台から塩釜に移ったためであり、ここの酒席などで歌はれる騒ぎ唄が、塩釜甚句である。
○ 塩釜街道に白菊植ゑて 何をきくきく便り聞く 塩釜甚句
多賀城 / 多賀城市市川
神亀元年(724) 聖武天皇即位の年に、鎮守府将軍大野東人あづまひとによって多賀城が築かれたと「多賀城碑」にある。多賀城は蝦夷平定の軍事基地も兼ねる東国の官衙で、国府もおかれたが、鎌倉時代以降は忘れられてゐたところ、徳川時代に入って碑が発見された。碑には天平宝字六年(762) に城を修理したときのものと書かれる。この碑を田村麻呂将軍が建てた「壷の石文」だとして詠んだ歌は少なくないが、碑の価値は違ふところにあるのだらう。

多賀城や塩釜の近くには「松島」「野田の玉川」「末の松山」などの歌枕がある。
○ 立ち帰りまたも来て見む松島や 雄島の苫屋波に荒らすな 藤原俊成
○ 夕されば潮風越して陸奥の 野田の玉川千鳥鳴くなり 能因
○ 契りきなかたみに袖をしぼりつつ 末の松山波越さじとは 清原元輔
黄金の山 / 遠田郡涌谷町 黄金山神社
聖武天皇の天平のころ、陸奥に黄金が産出された。これを祝ふ大伴家持の歌が万葉集にある。
○ 皇祖(すめろぎ)の御代栄えむと東(あづま)なる 陸奥山に黄金花咲く 大伴家持
金の出た所在地については長らく不明とされてゐたが、「大言海」の著者の大槻文彦が、遠田郡涌谷町の地であると考証した。徳川時代に入り、本吉郡本吉町岩尻からも黄金が掘り出され、そのときの仙台藩主が詠んだ歌もある(元禄十年)。
○ ふるさとのためしを誰もいはじりに 今を春べと黄金花咲く 伊達綱村
中将実方朝臣 / 名取市笠島
平安時代、藤原摂関家に生まれた藤原実方は、誤解を受けやすい奇行の人で、藤原行成との口論を一条帝に咎められ、しばらく陸奥に左遷されることになった。すぐに許されたのだが、京へは帰らず、阿古耶あこやの松(山形県の項参照)の故事を尋ねてその所在を探し歩いたといふ。塩釜神社で白髪の老人に所在を教へられ、すぐさま馬を急がせたが、笠島(名取市)の道祖神の前で急に馬が荒れ狂ひ、馬から落ちて死んだといふ。永祚十年(998)のことで、実方はこの地で葬られ、「中将実方朝臣の塚」が現存する。辞世の歌といはれる歌がある。
○ 桜がり雨は降りきぬ同じくは 濡るとも花の陰にかくれむ 藤原実方
○ みちのくの阿古耶の松を訪ねわび 身は朽ち人になるぞかなしき 藤原実方
(右の一首は武田静澄『日本伝説の旅』による)
のちに実方の塚を訪れた西行の歌。
○ 朽ちもせぬその名ばかりを留め置きて 枯野のすすき形見にぞ見る 西行
東日本では、農作物に被害をもたらす雀は、実方朝臣の亡霊が化したものだともいはれる。小正月の鳥追行事で東日本の子供たちが歌った歌がある。
○ おいらが裏の早稲田の稲を なん鳥がまぐらった
 雀 スワドリ立ちやがれ ホーイ、ホーイ
 頭切って尾を切って 俵につめて海へ流す
武隈の松 / 岩沼市武隈
平安時代に陸奥守として赴任した藤原元良が、武隈たけくまの里に二本の松を植ゑた。後年再び赴任したとき、育ったその松を見て感慨深げに歌を詠んだ。
○ 植ゑしとき契りやしけむ武隈の 松をふたたびあひ見つるかな 藤原元良
のち源孝義が任国のときに、名取川の橋の架け替へのためにこの松の木が供されたといふ。能因法師が、この松に憧れて訪れて詠んだ歌。
○ 武隈の松はこのたび跡もなし 千年を経てや吾は来つらむ 能因
能因法師が武隈の松の跡を訪ねたとき、竹馬に乗った童子が現はれた。この童子は武隈(竹駒)神社の神の化身であることがわかり、これに感じた能因は近くに竹駒寺を開基したといふ。
○ 竹駒の神のみやしろ詣で来て ほころびそめし初桜見る 土井晩翠
露無の里 / 仙台市玉田横野 福沢神社
むかし仙台の福沢稲荷神社の境内の脇に尼寺があった。鎌倉時代の初めに、平泉の藤原秀衡家に乳母として仕へた石塚小萩女が移り住み、ここで福沢明神の宮守をしてゐた。庵には藤原秀衡の孫娘や、佐藤継信・忠信(源義経の家臣)の母の梅辰尼も一時住んだらしい。小萩は、この地に観音堂と庵室を建て、近隣の子に学問を教へて、七十才の生涯を終へたといふ。庵の跡に、村民は一本の杉を植ゑて供養した。この杉は八百年後の今も現存するといふ。
○ 雨も降れ風の吹くをも厭はねど 今宵一夜は露無つゆなしの里 小萩
小萩女の残したこの歌により、後世この地を「露無の里」といふ。(福沢神社由緒)
紅蓮尼 / 松島と象潟
むかし象潟きさかた(秋田県)に子どものない夫婦がゐた。観音様に通って願をかけ、運良く一人の女の子を授かった。紅蓮こうれんと名づけられたその子は、すくすくと育ち、やがて美しい娘に成長したので、父と母は、御礼参りのために諸国巡礼の旅に出ることにした。
父母は、諸国をめぐって巡礼を続け、そして帰りの旅の途中で、ふとした縁で、ある夫婦にめぐりあった。その夫婦の話によると、同じやうに観音様に願かけをして男の子を授かり、同じやうに御礼参りの旅に出て、故郷の松島へ帰る途中だといふ。男の子の名は小太郎といった。互に似た境遇に心を引かれあった二組の夫婦は、しばらく一緒の旅をすることにした。やがてどちらからともなく、観音さまの御導きに違ひないのだから、紅蓮と小太郎を一緒にさせてやりたいものだと語りあふやうになった。二組の夫婦は、許嫁の約束をして、それぞれの故郷へ帰って行った。
父母が象潟へ帰ってそのことを紅蓮に伝へたところ、紅蓮は観音さまの御縁を素直に信じ、まだ見ぬ小太郎に心を引かれてゆくのだった。幾日かかかって嫁入りの身仕度をととのへ、親子は松島へ旅立った。
しかし松島へ着いてみると、悲しい事実が待ち受けてゐた。小太郎はすでにこの世の人ではなかったのである。非情な運命にもかかはらず、紅蓮の選んだ道は、観音さまのお引き合はせくださった小太郎のために松島にとどまり、小太郎の供養をしながら、小太郎の両親とともに暮すことだった。
小太郎が幼き日に植ゑたといふ梅を見て、紅蓮が詠んだ悲しみの歌。
○ 植ゑ置きし花のあるじははかなきに 軒端の梅は咲かずともあれ 紅蓮
すると明くる年の梅は咲かなかったといふ。その咲かない梅を見て詠んだ歌。
○ 咲けかしな今はあるじと眺むべし 軒端の梅のあらむかぎりは 紅蓮
すると梅はたくさんの花を咲かせたといふ。かうして幾年月が過ぎ、老父母の死を見とった後、紅蓮は円福寺(瑞巌寺)の尼僧となったといふ。
宮城野・しのぶの姉妹
    宮城野と信夫・団七踊り
○ さまざまに心ぞとどまる宮城野の 花のいろいろ虫の声々 源頼家
むかし宮城野、しのぶといふ名の姉妹があった。姉妹の父は、田の中から偶然に鏡を見つけたが、その鏡を狙ってゐた男に殺されてしまった。姉妹は、一時は遊女に身をやつしたこともあったが、剣術を習ひ、白鳥明神の境内で見事仇討をとげたといふ。仇の男の名は、志賀台七といふ。事件の原因となった鏡は、志賀台七が、妖術の師であった楠原普伝を殺して奪ったものが紛失してゐたもので、妖術の秘伝に関るものであったらしい。(浄瑠璃「碁太平記白石噺」)
宮城野の萩は歌枕ともされ、宮城県花でもある。
○ 宮城野の露吹きむすぶ風の音に 小萩がもとを思ひこそやれ 源氏物語桐壷
○ 宮城野の元あらの小萩露重み 風を待つごと君をこそ待て 古今集
伊達正宗、さんさ時雨 / 仙台市
天正十七年、伊達正宗が、宿敵だった会津の芦名義弘を磐梯山の裾野の摺上ヶ原で破ったとき、一族の伊達五郎重宗が戦勝を祝って歌を詠んだといふ。
○ 音もせで茅野かやのの夜の時雨しぐれれ来て 袖にさんさと濡れかかるらん 伊達五郎重宗
正宗はこの歌に感じ入って、七七七五に整へて家臣に節をつけさせたのが、仙台地方の祝唄の「さんさ時雨」であるといふが、民謡研究家はもっと新しい時代のものだといふ。
○ さんさ時雨か茅野の雨か 音もせで来て濡れかかる (さんさ時雨)
○ わしが国さで見せたいものは 昔しゃ谷風 今伊達模様 民謡
右の歌の谷風とは、四代横綱のことで、七郷村(現仙台市)出身。
回文の名手 仙代庵 / 仙台市
幕末のころ、仙台城下の荒町に、麹屋勘左衛門といふ酒と学問を好んだ風流人があり、仙代庵と号し、和歌・俳諧の回文の名手でもあった。明治二年没(七十四才)
○ 今朝見たし徳利ぐっとしたみ酒 仙代庵
○ 頼むぞのいかにも二階のぞむのだ 仙代庵
○ ほかの酒のんで貴殿の今朝の顔 仙代庵
○ 嵯峨の名は宿りたりとや花の笠 仙代庵
○ わが身かも長閑かな門の最上川 仙代庵
○ 飯前めしまいの酒今朝の戒め 仙代庵 (酒に酔って堀に落ちたとき)
○ はかなの世しばしよしばし世の中は 長し短(ミジ)かししかし短(ミジ)かな
 (江戸の居候先の主人が死んだとき)
○ 題目よどんどこどんとよく燃いた 仙代庵(お寺の火事のとき)
仙台と作並さくなみをむすぶ関山街道の道しるべ石に刻まれた歌。
○ みな草の名は百はくと知れ薬なり すぐれし徳は花の作並さくなみ 仙代庵
古川 / をだえ姫、炭焼藤太
古川市の緒絶川にかかる緒絶をだえの橋は、嵯峨天皇のころ、白玉姫が身を投げて死んだといふ。
○ 陸奥のをだえの橋やこれならむ 踏みみ踏まずみ心まどはす 藤原道雅
古川市の周辺の仙北地方は、穀倉地帯として知られる。
○ 古川名物何かと聞けば 米のなる木に黒いつら
この歌の「黒いつら」とは炭焼を生業とする者のことで、岩手県境の栗原郡金成町には、炭焼藤太といふ炭焼の長者が住んだ。藤太の子が金売吉次だともいふ。
鳴子
仙北地方を流れる荒雄川(江合えあひ川)の上流の玉造郡鳴子なるこ町鬼首おにかうべにある荒雄川神社は、下流の穀倉地帯の水の神・五穀豊穣の神として信仰されてきた。境内にある主馬神社には、当地で生まれて明治天皇の御料馬として仕へた金華山号がまつられてゐる。
○ 久しくもわが飼ふ駒の老い行くを 惜しむは人に代はらざりけり 明治天皇
○ 鞭打つもいたましきまで早くより 馴らしし駒の老いにけるかな 明治天皇
金華山号は死後、剥製にされ、現在は明治神宮外苑の聖徳記念絵画館にあり、鳴子の地には等身大の木像がまつられてゐる。
鳴子町は、鳴子こけしの産地としても知られる。鳴子こけしは、むかし武蔵坊弁慶が静御前の生んだ子をかくまひ、その子をあやすために考案したものといふ。
○ 陸奥は遥かなれども夢にまで こころの山々こころのこけし 深沢要
諸歌
寛政三年(1791)、仙台の浪人、林子平は『海国兵談』の出版を差し止められ版木も没収されたといふ。
○ 親も無し妻無し子無し版木無し 金も無けれど死にたくも無し 林子平
気仙沼生れの国学者・歌人
○ 置くところよろしきをえて置きおけば 皆おもしろし庭の庭石 落合直文
○ そよとだにたよりばかりのあれかしと 花にも風を祈るころかな 鮎貝槐園(実弟)
明治の文芸批評家(旧制第二高校教授)高山樗牛を偲ぶ歌
○ いくたびかここに真昼の夢見たる 高山樗牛瞑想の松 土井晩翠 
 

 

北海道青森岩手宮城秋田山形福島

宮城県
姉歯(あねは)の松 栗原郡金成郡字梨崎。
○ 栗原のあねはの松の人ならば都のつとにいざといはましを [伊勢物語]
うやむやの関 柴田郡川崎町。山形市との境の笹谷峠付近にあったという古関。むやむやの関・いなむやの関とも。
○ たのめこし人の心は通ふやと問ひても見ばやうやむやの関 土御門院
緒絶(をだえ)の橋 古川市二日町。
○ みちのくの緒絶の橋やこれならんふみみふまずみ心まどはす 藤原道雅[後拾遺集]
笠島(かさしま) 名取市愛島(めでしま)笠島。藤原実方死没の地という伝説がある。
○ 草陰の荒藺あらゐの崎の笠島を見つつか君が山路越ゆらむ 万葉集
塩竃(しほがま) 今の塩竃市。「塩竃の浦」は古来景勝地として都にも知られ、源融は自邸に塩竃を模した庭を造った。
○ 君まさで煙絶えにし塩竃のうらさびしくも見えわたるかな 貫之[古今集]
○ 塩竃の浦吹く風に霧はれて八十島やそしまかけてすめる月かげ 藤原清輔[千載集]
末の松山 所在未詳。諸説あるが、江戸時代に伊達藩が比定した地は、多賀城市八幡の宝国寺裏の丘。
○ 君をおきてあだし心をわがもたば末の松山浪も越えなむ [古今集
○ 契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山浪越さじとは 清原元輔[後拾遺集]
○ 霞たつ末の松山ほのぼのと波にはなるる横雲の空 藤原家隆[新古今集]
武隈(たけくま) 岩沼市の阿武隈川北岸。根元から二木にわかれた「武隈の松」で名高い。
○ 植ゑしとき契りやしけむ武隈の松をふたたびあひ見つるかな [後撰集]
壺の碑(いしぶみ) 近世以降、天平宝字年間に建てられた多賀城碑のことと信じられた。ただし、西行などが歌ったものは、青森県上北郡天間林村にかつてあった石碑であろうとも言う。
○ 思ひこそ千鳥の奧を隔てねどえぞ通はさぬ壺の石文 顕昭
○ みちのおく壺の石文ありと聞くいづれか恋のさかひなるらん 寂蓮
○ 陸奥のいはでしのぶはえぞ知らぬ書きつくしてよ壺の石文 源頼朝[新古今集]
○ 思ふこといなみちのくのえぞいはぬ壺の石文かきつくさねば 慈円
名取川(なとりがは) 宮城・山形県境の山地に発し、名取市で太平洋に注ぐ。
○ 陸奥にありといふなる名取川なき名とりては苦しかりけり 壬生忠岑[古今集]
○ 名取川春の日数はあらはれて花にぞ沈む瀬々のうもれ木 定家
野田の玉川 塩竃市玉川。
○ 夕されば汐風こしてみちのくの野田の玉川千鳥鳴くなり 能因
籬(まがき)の島 塩竃市、松島湾内の島。多く松が詠まれる。
○ わがせこを都にやりて塩がまのまがきの島のまつぞ恋しき [古今集]
松島 松島湾、および湾内の群島。
○ 松島やをじまの磯にあさりせし海人の袖こそかくはぬれしか 源重之[拾遺集]
○ たちかへりまたも来て見ん松島や雄島の苫屋波に荒らすな 藤原俊成[新古今集]
宮城野(みやぎの) 陸奥国宮城郡の野。
○ みさぶらひ御笠と申せ宮城野の木の下露は雨にまされり [古今集]
○ あはれいかに草葉の露のこぼるらむ秋風立ちぬ宮城野の原 西行[新古今集] 
塩釜甚句
甚句というのは、七、七、七、五の四句からなり、踊りを伴うものが多くあります。
塩釜甚句は、別名「仙台ハットセ」または「ハットセ」といわれますが、やはり歌われるときは、芸妓(げいぎ)などにより威勢のいい振り付けの踊りが演じられ、ハットセという賑やかな掛声が踊りの間拍子(まびょうし)に入ります。
その由来は、四代藩主綱村(はんしゅつなむら)が元禄(げんろく)8年(1695年)に、鹽竈神社造替に着手し、宝永(ほうえい)元年(1704年)に落成を祝って、文人粋(すい)客らに歌謡を作らせ、これに当時海岸地方で流行していた「アイヤ節」の歌曲を変曲して、塩竈の芸妓に謡(うた)わしめたことに始まるといわれています。
塩釜甚句の歌曲のもとになったという「アイヤ節」は、九州天草地方で歌われていた「ハイヤ節」が、日本海を北上し津軽で「アイヤ節」となり、太平洋沿岸に移入されたもので、石巻では、明治の中頃まで「塩釜甚句」をアイヤ節と呼んでいました。
また「ハットセ」のかけ声は、陸中(岩手)の宮古、山田・釜石の漁港で歌われた「ハットサササ」が転訛(てんか)したものだといわれています。
塩釜甚句の歌詞には、仙臺海道(塩竈街道)を塩竈に向かう旦那衆の遊女に恋い焦がれる心情や、三味線、太鼓の音で賑っていた塩竈の様子伺うことができます。 
塩釜 (ハットセ)
街道に 白菊植えて (ハットセ) 何を聞く聞く アリヤ 便り聞く (ハ ハ ハットセ)
塩釜出る時や 大手振りよ 総社の宮から 胸勘定
千賀の浦風 身にしみじみと 語り合う夜の 友千鳥
末の松山 末かけまくも 神のはじめし 海の幸
さあさ やっこらさと 乗り出す船は 命帆にかけ 浪枕 
塩釜甚句の起こりと東京都神津島
『塩釜甚句』は明朗活達な郷土の民謡で、ハットセという掛声が踊りの間拍子に入り、その掛声が賑やかなので「ハットセ節」とも呼んでいる。四代藩主 伊達綱元の元禄の末頃に落慶の祝典を挙げた際、余興として文人粋客らに歌詞を作らせ、これに当時海岸地方に流行していた「アイヤ節」の唄曲編曲して、塩釜の芸妓に唄わしめた。これが塩釜甚句の始まりであると伝えている。かくて追々は船乗の人々や民間人の間に広く唄われる様になったもので、「塩釜街道に白菊植え手て、何を聞くアリャ便り聞くハットセ」などは、その代表的な歌詞である。
塩釜甚句の唄曲のもととなったと言う「アイヤ節」はその頃、酒田・八戸など東北沿岸地方に流行し、また石巻・塩釜辺りでも唄われていた。実はこのアイヤ節は九州天草などの港で唄われていたハイヤ節が日本海を北に進み津軽を経て太平洋海岸方面に移されたもので潮来節と同系のもので在ると言う。当時塩釜地方では盛んに唄われ、石巻では明治の中頃まで塩釜甚句をアイヤ節と呼んでいたと言うことである。塩釜甚句はアイヤ節に比べると節は簡易に短縮されているという。塩釜甚句の踊りは、すこぶる威勢が良く、東北地方の民謡としては毛色の変わったもので、他の甚句類とは系統を異にしている。 
東京都神津島に伝わる塩釜甚句
寛永十年(1670)の頃、幕府に対して神津島から納める年貢は、塩年間300表、他に口塩といって10表ぐらい上納したと云う。この製塩技術は、現在の宮城県塩釜で修得したものであった。鹽竈神社の祭神となっている『塩土老翁』はこの地で民に塩焼きを教えたことにより その技術は最も進んでいた。当時 神津島から この地に四人の修業者が行き、技術を修得して釜姓を名乗って帰島したが、その後 文化年間になって四人は姓を改めは一人は梅田、他の三人は鈴木とした。神津島で唄われる塩釜甚句は、当時この修業者たちが島へ覚えて帰り、広めたものと推察される。歌詞は明治初期ごろになって変えたものというが、今なお唄い継がれている。 
神津島の塩釜甚句歌詞
トサーハットショイ
可愛い男は ソレ 塩釜参り トサーハットショイ
道中たのむよー ソーレー おぎの浜 トサーハットショイ
塩釜参りに えび屋を通りゃ えび屋女郎衆に とめられた
ゆこか えび屋へ 戻ろか故郷へ 心二つで 身は一つ
えび屋出るときゃ よい気で出たが 長の道中 胸勘定
よせばよかった 舌切りすずめ ちょっと呑んだが 身のつまり
塩釜街道に 白菊うえて 何をきく菊 便りきく
天明年間の頃の塩釜甚句歌詞(1772〜1788)
塩釜ハットセ 街道に 白菊植えて ハットセ
何を聞く聞く アリャ便り聞く ハ ハ ハットセ
塩釜出る時ゃ 大手振りよ 奏社の宮から胸勘定
千賀ノ浦風 身にしみじみと 語り合う夜の 友千鳥
さあさやっこらさと 乗り出す船は 命帆にかけ 波枕
末の松山 末かけまくも 神のはじめし 海の幸
( ハットセの掛声は陸中・宮古・山田・釜石の漁港で唄われた「ハットサササ」が転訛したものだという。)
天明年間の頃の塩釜甚句歌詞(1830〜1844)
船はいなり丸 船頭衆はきつね 中のお客は 皆たぬき
たこの嫁とる いかの仲人 かにの御酌で はさまれた
幕末・大正初期の塩釜甚句歌詞(1850〜1915)
千賀の浦風 片帆に受けて かわいい鴎が あとやさき
はるか向うに 飛び交う千鳥 波の花散る 金華山
塩釜近くなれ 岸浅くなれ もはや港も 近くなる
明治時代の頃の塩釜甚句歌詞(1870〜1910)
沖の大船 いかりでとめる とめてとまらぬ 塩釜のみちよ
沖に30日 港に20日 おもふた塩釜に ただ一夜
さあさ出た出た 宝の船よ 船はいなり丸 船頭衆はきつね
わしが国さで 見せたいものは むかし谷風 いま伊達もよう
ゆかしなつかし 宮城野しのぶ 浮かれまいぞや 松島ほとり 
下記の歌詞と類似する唄が神津島にある。伝統民謡として島の人たちに唄い継がれている。「塩釜西町」の歌詞はそのまま残っている。太平洋を南下し、中継港の神津港に塩釜甚句が定着したらしい。
塩釜西町 沼やら田やら たつにたたれぬ 羽抜け鳥
塩釜西町 啼いて通る鴉 銭もないのに買う買うと
塩釜甚句の唄は皆様が ご承知の通り全国でも有名な唄であります。陸続きで情報が入りやすい塩釜と、当時、伊豆諸島の神津島は外部の交流が少ない海上に所在したため当時の唄い方が、現在まで残ったのかと推測されます。神津島の塩釜甚句を聞きますと、素朴で力強く、何故か懐かしさを感じられます。 
「奥州白石噺」史実と巷説
(中略) 事件の実在の根拠としてあげられるほとんど唯一の史料が、本島知辰「月堂見聞集」に見られる次の記録である。
仙台より写し来り候敵討ちの事
松平陸奥守様御家来片倉小十郎殿知行の内、足立村百姓四郎左衛門と申者、去る享保三成年、白石と申す所にて、小十郎殿剣術の師に、田辺志摩と申、知行千石取り候仁これあり候に行逢ひ、路次の供回りを破り候とて口論に及び、彼の四郎左衛門を田辺志摩打捨て申し候。此の節、四郎左衛門に二人の女子あり。姉 十一歳・妹八歳。早速に領内を立退き、仙台に住居致し、陸奥守様剣術の師瀧本伝八郎殿と申す方へ姉妹共に奉公に罷り出、忍々に剣術を見習ひ、六か年の間、剣術習練致し候。
或る時、女部屋に木刀の声頻りに聞え申すに付き、伝八郎不審に存ぜられ、伺い見られ候所に、右の二女剣術稽古仕り候様子に候。伝八郎子細を尋ね申され候えば、報讐の心入り候由申し候に付き、伝八郎感心浅からず、此よりいよいよ似て修業致さ せ、密かに秘伝申聞され候由なり、高千石、此の度御加増弐千石、瀧本伝八郎名を土佐と改む。
右の次第は、当春陸奥守様へ、彼の二人の女が寸志を遂げさせたき旨、御願い申上げられ候に付き、右敲き田辺志摩と引合され、仙台の内白鳥大明神の社前、宮の前と申す所に矢来を結ひ、当卯(享保8年)の三月、双方立合い勝負仰せ付けられ候。
仙台御家中衆、警固検分これあり候、姉と志摩と数刻討合ひ、二人替る替る相戦ひ候て、程なく志摩を袈裟切りに切付け申し候。姉走り掛かり止めをさし申し候。
殿様御機嫌斜めならず、此の女子共家中へ養女に給うべき旨仰せ出され候処、二女共に堅く御辞退申し上げ俟て御受けを申さず候。父の敲き志摩を討ち候事、元より罪遁れず候。願わくは如何様とも御仕置きに仰せ付けられ下され候様に申上げ候えなば、猶以て皆々感心いたし候。さて、瀧本氏二女に向ひ、委細に様子を申聞かせ、殊に太守の御意を違背申すべきにあらず。
某も時の主人たり。剣術の指南の恩、彼是れ以て我が申す義そむくべからずと申され候えば、漸々了簡に随ひ納得仕り候。依て御家老三万石伊達安房殿へ姉娘を引取り申され候。当年十六歳。高知らず大小路権九郎殿へ妹娘手疵養生仰せ付けられ候。
当年十三歳。
右の書付け、実否の義存ぜず候え共、仙台より写し参り候由、世間風説これあり候故、留置き候。以上
二人の娘たちの父親が無礼討ちにされたのが、享保3(1718)年であり、仇きを討ち果したのが、享保8(1723)年3月であって、時に姉16歳、妹13歳であったというのが、内容の骨子である。 一見してあまりに出来すぎた話であり、事実であるとはにわかに信じがたい内容であるといわざるをえない。
「月堂見聞集」は、月堂・本島知辰が、元禄10(1697)年から享保19(1734)年に至る38年間にわたって、天変地異、政治や社会、出来事、行事や風俗などを詳細に記録した見聞雑録である。材料の多くは自ら実見したものであり、元禄・享保期の世態・風俗を知るための好個の史料とされているものである。
ただ、この記録については、筆者自身が、「右の書付け、実否の義存ぜず候」と断っている通り、事実を確認したものでないことは明らかである。と同時に、「仙台より写し来り候由、世間風説これあり」と記述されているように、二人の百姓娘の仇討ち話が、仙台から伝わってきた風聞として世評に上っていた事は、事実として確認してよいであろう。
二女敵討ちの経過について書かれたもっとも古い文献がこのような巷説という体裁を取っていることが、史実確認の作業を困難にしている最大の原因である。
この事件そのものを実証するにたる史料は、現在のところ存在しない。この事件の実否やその内容、歴史的位置づけ等については、今後の研究にまたざるをえない。
志賀団七口説き
頃は寛永十四年どし 父の仇を娘が討つは 
いとも稀にて世に珍しき それをどこよと尋ねて聞けば 
国は奥州仙台の国 時の城主に正宗公と
家老片倉小十郎殿と 支配間なる川崎街道 
酒戸村とて申せしところ  僅か田地が十二国高 
作る百姓に名は与茂作と 娘姉妹持ちおかれしが
姉のお菊に妹のお信 姉が十六その妹が 
ようよう十三蕾の年よ  頃は六月下旬の頃に 
ある日与茂作打ち連れ立ちて 至るところは柳が越よ
柳越にて田の草取りよ 草は僅かの浮き草なれど 
稲の袴や無常の風や  触れば落ちる露の玉 
死する命を夢にも知らず 姉が唄えば妹が囃す
流行る小唄で取る田の草を 道の街道にみな投げ出だす 
通りかかるは団七殿よ  通り合わすを夢にも知らず 
取りし田の草また後投げよ 投げたその草団七殿の
袴裾には少しはかかる そこで団七大いに怒り 
そこな百姓の土百姓奴郎が  武士に土打つ例があるか 
斬りて捨てんと大いに怒る 親子三人それ見るよりも
小溝上がりて両手をすすぎ 道のかたえに両手をつきて 
七重の膝を八重に折り  姉も妹も父与茂作も 
拝みますると両手を合わせ ようようこの娘が十三なれば
西も東も知らざるものよ どうぞ御慈悲にお助け召され 
云えど団七耳にも入れず  日頃良からん若侍で 
心良からぬ団七ならば すがり嘆くを耳にも入れず
二尺五寸をすらりと抜いて 斬って捨てんとひしめきかかる 
斬ってかかれば父与茂作も  何をなさるぞ団七殿よ 
わしも昔は武士なるぞ 出羽の家中の落人なれば
むざに御前に打たれはすまい 云うて与茂作鍬とりて 
しばし間は戦いなさる  むこう若武者身は老人で 
腕が下りて目先がくらみ 右の腕の拳が緩み
持ちた鍬をばカラリと落とす 哀れなるかや父与茂作は 
畦を枕に大袈裟斬りよ  それと見るより姉妹子供 
八丁ばかりの田の畦道を 命からがら逃げふせければ
後で団七思いしことは あれを生かせば以降の邪魔よ 
後を慕いて追いかけみれば  娘姉妹行方は知れず 
行方知らねばままにはならぬ 血をば拭き取り刀を鞘に
己が屋敷に立ち返りしが 後で哀れは姉妹娘 
われに返りてただ泣くばかり  母もそのとき大病なれば 
重き枕をようやく上げて ここは何事こは何とする
委細語れや姉妹娘 言えば姉妹顔振り上げて 
今日の次第を細かに語る  それとみるより母親様は 
はっと想いし気は仰天の 気を揉み上げて胸鬱ぐ
いとしなるかや母親様に 呼べと叫べど正体もない 
娘姉妹それ見るよりも  母の閨にて立ったり居たり 
母もそのとき相果てければ 泣きつ嘆きつ正体もない
隣近所がみな集まりて ともに涙の袖をも絞る 
もはや嘆くな姉妹子供  なんぼその様に嘆いたとても 
最早父母還らぬものよ 野辺の送りを急いで頼む
野辺の送りを頼むとあれば お寺様にも届けにゃならぬ 
お寺様より十年回向を  四度も三度もまた六度も 
回向するのも父母のため 正体なくも姉妹は
親に一生の泣き別れする 急ぎ給えば山入りなさる 
後に哀れは姉妹娘  二人ながらに身はしょんぼりと 
そこで姉妹思案を返す 姉のお菊のさて申すには
なんと妹思案はないか どうとしてなりあの団七を 
仇討つなら父親様も  怨み晴らして成仏致す 
言えばお信の申せしことは それは姐さん良い思いつき
わしもとうからそう思います ここで剣術指南はできぬ 
広いお江戸に上ったうえで  名ある家にて師匠を取りて 
武芸稽古を致そうでないか 云えばお菊の打ち喜びて
さあさこれから仕度をせんと 手布衣手拭水足袋脚絆 
何か揃えて見事なことよ  恵みも深き父母の 
父の位牌はお菊が守る 母の位牌はお信が守る
ここに哀れは姉妹娘 知らぬお江戸をたずねて上る 
尋ね尋ねてお江戸に着いて  天馬町にて投宿いたす 
浅草辺や上野辺 芝居神明その茶屋茶屋を
尋ね廻るはもし御家中の 名ある茶屋には早や立ち寄りて 
御問ござんす御亭主様よ  私ゃあなたにもの問いましょう 
江戸の町にて剣術指南 一と申せし御方様よ
云えば亭主がキャラリと笑う 愚かなるかよ江戸洛中は 
十里四方が四方が四面  町が八百のう八丁町 
およそ日ノ本六十余州 大名揃えて八百八大名
それに旗本また八万騎 それに付き添う諸侍方 
誰を一ともまた上手とも  教えがたないとは言うものの 
当時名高い四五人あるを 教え聞かすぞよう聞け娘
剣術一の達人は 柳生十兵衛但馬守よ 
軍学流のその名人は かたぎょ淡路の御守様よ 
棒の名人許しを取りて 名ある中にも阿部十次郎と 槍は山本伝兵衛様よ
長刀手裏剣その名人は 万事終えたるその名人は 
江戸の町にてその名も高き  榎町にて由井昌雪と 
これを訪ねて行かれよ娘 言えば姉妹打ち喜びて
さらばこれから昌雪様の お家御門を御免と入る 
お家ござんすお旦那様よ  五年奉公よろしく頼む 
教え下され武芸の道を 言えば昌雪さて申すには
国はいずくで名はなにがしか 委細語れや姉妹娘 
言えば姉妹泣き物語り  国は奥州仙台の国 
家老片倉小十郎様の 知行内なる川崎街道
酒戸村とて申せしところ 僅か田地が十二国高 
作る百姓に名は与茂作と  今年六月下旬の頃に 
不慮なことにて父をも討たれ 忘れ難ないその残念さ
何卒あなたの御慈悲をもちて 親の仇を討たせて給え 
云えば昌雪さて申すには  これはでかした姉妹娘 
親の仇を娘が討つは さても稀にて世に珍しや
五年奉公致せよ娘 昼は炊事の奉公致せ 
夜は部屋にて剣術致せ  さあさこれから朝夕ともに 
武芸大事と心にかけよ 云うてその場で名を召しかえる
姉を宮城野妹を信夫 姉に神鎌また鎖鎌 
白柄長刀妹の信夫  そこで姉妹心を入れて 
武芸稽古を励まれまする 月日経つのは間のないものよ
最早武芸も五年に及ぶ ある日昌雪あい心見に 
娘姉妹小坪に呼んで  名ある落人四五人呼んで 
姉と妹を仕合せみれば さすが名高い四五人共は
姉と妹に打ち伏せらるる そこで昌雪打ち喜んで 
最早さらさら気遣いはない  早く急いで本国致せ 
祝儀餞別白無垢小袖 姉に神鎌また鎖鎌
白柄長刀妹の信夫 これを昌雪餞別とする 
道を見立てるそのためとして  一に熊谷三郎兵衛なるぞ 
松田弥五七坪内但馬 これを三人あい添え下す
名残り惜しさに姉宮城野が 信夫涙の袖をも絞る 
我が故郷は奥州の  人の便りで白石城下 
尋ね尋ねて片倉様の 御家御門を御免と入る
御免なされやそれがし共は 江戸の町なる由井昌雪の 
家来熊谷三郎兵衛なるぞ  松田弥五七坪内但馬 
これな娘はこの御領内 酒戸村なる与茂作娘
今を去ること五ヵ年以前 これな御家中の団七殿の 
御手にかかりて無念の最期  仇討たんの存念ありて 
五年この方匿いおいた 何卒あなたの御慈悲をもって
父の仇をお討たせなされ それと聞くより小十郎様は 
すぐにそれより御登城なさる  登城いたされ御公儀様に 
申し上げれば御公儀よりも 父の固きを娘が討つは
さても稀にて世に珍しや 国の面目世の外聞に 
仇討たせとその御意下る  仰せつけられ片蔵様は 
はっと答えて御殿を下る 仇討ちなら用意の場所は
場所を改め白石河原 二十一間四面の矢来 
真正面には検査の御小屋  大木隼人や名は兵衛様 
それに御目付玉之守というて これがこの日の検査の役よ
警護の侍八十人よ これに足軽三百五十 
矢来周りの固めの役よ  最早日にちも相定まりて 
五十四郡に回状廻す それと聞くより近国他国
老と女の差別も知らず 集い来たるは野も山も 
里も河原もその数知れず  雨の足をも並べた如く 
それに団七姉妹娘 御上様より御念のために
着たる衣装を改め見んと そこで団七改め見るに 
鎖帷子肌には着込む  何と団七武士なる者が 
鎖帷子肌には着るな 卑怯千万早や剥ぎ取れと
矢来間にて剥ぎ取られます 娘姉妹改め見るに 
それら娘にそのものはない  御上様より合図の太鼓 
それと聞くより妹の信夫 白柄長刀小脇に持ちて
小褄かいとり早や進み出で もうしこれいな団七殿よ 
覚えあるかや五ヵ年以前  酒戸村なる与茂作娘 
元を質せば我が身のしなし わしの怨みのこの切先を
不肖なれども受け取り召され 云えば団七きゃらりと笑う 
覚えあるぞや五ヵ年以前  無礼せしゆえ斬り捨てたるに 
仇討ちとは片腹痛い 返り討ちどや一度にかかれ
云えば信夫が申せしことは 何を云わんす団七殿よ 
針は細いでも飲まれはすまい  山椒胡椒は細いが辛い 
関の小刀身は細けれど 綾も断ちゃまた錦も切れる
そんな高言勝負の上と 白柄長刀両手に持ちて 
斬ってかかれば団七殿は  二尺一寸さらりと抜いて 
しばし間は戦いなさる 御上様より休みの太鼓
それを聞くより姉宮城野が 鎖鎌をば両手に持ちて 
鎖鎌なら一尺二尺  金の鎖に鉛の分銅 
含み針をば三十五本 しばし間は戦いなさる
運のつきかや団七殿は 両の眼に三本打たれ 
是非に及ばず死に物狂い  それと見るより妹信夫 
白柄長刀両手に持ちて 眼にもとまらず首打ち落とす
姉の宮城野妹の信夫 親の仇をとうとう晴らし 
その名響くは海山千里  親の仇を討ちたる娘 
世にも稀なる孝女の誉れ 語り伝えんいつの世までも
二木の松(武隈の松)
現在の枝葉は、陸奥の厳しい自然の営みを如実に物語っているが、地際から2本に分かれた幹には今なお天を突く勢いが残り、全盛期の雄姿(スケッチ)を彷彿とさせる。
その昔、現在の岩沼が「武隈」と呼ばれたことから、この松は古来「武隈の松」の名で親しまれ、まず藤原元善(良)朝臣により次の歌に詠み込まれた。
「後撰和歌集」
みちのくにの守にまかり下れりけるにたけくまの松の枯れて侍りけるを見て小松を植ゑつがせ侍りて任果てて後又同じ時にまかりなりてかのさきの任に植ゑし松を見侍りて
○ うゑし時ちぎりやしけむたけくまの松をふたたびあひ見つるかな
以後、武隈の松は、藤原実方や橘季通、西行、能因など数多くの歌人に詠まれ、名にし負う陸奥の歌枕として慕われ続けた。
「拾遺和歌集」 藤原為頼
陸奥守にてくだり侍りける時、三条太政大臣の餞し侍りければ、よみ侍りける
○ たけくまの松を見つつやなぐさめん君がちとせの影にならひて
「後拾遺和歌集」 橘季通
則光朝臣のもとに陸奥に下りて武隈の松をよみ侍りけり
○ 武隈の松はふた木を都人いかがと問はばみきとこたへむ
「後拾遺和歌集」 僧正深覚
橘季通、陸奥に下りて武隈の松を歌によみ侍りけるに、ふた木の松を人とはばみきと答へんなどよみて侍りけるを、つてにききてよみ侍りける
○ 武隈の松は二木をみ木といふはよくよめるにはあらぬなるべし
「後拾遺和歌集」 能因法師
みちの国にふたたび下りて後のたびたけくまの松も侍らざりければよみ侍りける
○ 武隈の松はこのたび跡もなし千歳を経てやわれは来つらむ
「実方集」 藤原実方
○ みちのくにほど遠ければたけくまの松まつ程ぞ久しかりける
「山家集」 西行
武隈の松も昔になりたりけれども、跡をだにとて見に罷りて詠みける
○ 枯れにける松なき跡の武隈はみきと言ひても甲斐なかるべし
現在の松は7代目といわれ、元禄2年に芭蕉が目にした武隈の松は5代目だったという。野火に焼け、烈風に倒伏、ある時は伐採の難に遭いながら、代々植え継がれた二木の松を眼前にして芭蕉は大いに感銘し、「おくのほそ道」に「め覚める心地」、「めでたき松のけしき」と書いて賞賛した。
岩沼に宿る。武隈の松にこそ、め覚る心地はすれ。根は土際より二木にわかれて、昔の姿うしなはずとしらる。先能因法師思ひ出。往昔むつのかみにて下りし人、此木を伐て、名取川の橋杭にせられたる事などあればにや、「松は此たび跡もなし」とは詠たり。代々、あるは伐、あるひは植継などせしと聞に、今将、千歳のかたちとゝのほひて、めでたき松のけしきになん侍し。
「武隈の松みせ申せ遅桜」と挙白と云ものゝ餞別したりければ、
桜より松は二木を三月越し (「武隈の松」の章段)
挙白編の「四季千句」に、本章段の草稿と見られる次の句文が採録されている。
むさし野は桜のうちにうかれ出て、武隈はあやめふく此になりぬ。かの「松みせ申せ遅桜」と云けむ、挙白何がしの名残も思い出て、なつかしきまヽに、
散うせぬ松や二木を三月ごし
現在、二木の松史跡公園の一角に八代目の松が育っている。これは亘理郡山元町で見出されたもので、歴代の武隈の松と同じく地際から2本の幹が伸びている。奥州の名松として、この他に、姉歯の松(宮城県栗原市金成)、阿古耶の松(山形市)、末の松山(宮城県多賀城市)があげられる。芭蕉は、岩沼を訪れた4日後の5月8日、末の松山との対面を果たしている。
末の松山は寺を造りて末松山といふ。 松のあひあひ皆墓はらにて、はねをかはし枝をつらぬる契の末も終はかくのごときと悲しさも増りて、塩がまの浦に入相のかねを聞。 
宮城野
宮城野は、昔ツツジの名所として知られた榴岡から東に延びる平野をいい、仙石線の榴ヶ岡駅界隈や隣の宮城野原駅から陸奥国分寺跡がある木ノ下あたりまでがこれにあたる。
「おくのほそ道」に旅立つ前、曽良が名所・旧跡を下調べして書いた「名勝備忘録」があり、その中で宮城野は次のように控えられている。
○宮城野 仙台ノ東ノ方、木ノ下薬師堂ノ辺ナリ。惣(すべ)テ仙台ノ町モ宮城野ノ内也。
宮城野は、古来一流の歌枕として多くの歌人に慕われ、みちのくを象徴する名所の一つとして憧憬されたが、その一端をうかがわせるエピソードが、鴨長明の「無名抄」に書かれている。これによれば、歌人として知られた橘為仲が陸奥守の任を終えて京へ戻るときに、宮城野の萩を12個の長櫃(ながびつ)に収めて持ち帰ったところ、大勢の人がその土産を見るため、二条の大路に集まっていたという。
五月五日かつみを葺く事 (中略) 此為仲、任果てて上りける時、宮城野の萩を掘りとりて長櫃十二合に入れて持ち上りければ、人あまねくききて、京へ入ける日は、二条の大路にこれを見物にして人多く集まりて、車などもあまたたちたりけるとぞ。 (無名抄)
元禄2年(1689年)5月7日、芭蕉は大淀三千風門下の加右衛門の案内で、名所・旧跡の整備が進められた後の宮城野を逍遥し、「おくのほそ道」に「宮城野の萩茂りあひて、秋の景色思ひやらるゝ」と記している。この日は新暦で6月23日にあたり、開花の時期には早かったが、芭蕉はあたり一面に群生する萩の景色を見て、古歌に詠まれた「宮城野」や「萩」に深く思いを寄せた。
「源氏物語」
○ 宮城野の露吹きむすぶ風の音に小萩がもとを思ひこそやれ
「古今和歌集」 よみ人しらず
○ 宮木野の本荒の小萩露をおもみ風をまつごと君をこそ待て
「千載和歌集」 源俊頼
○ さまざまにこころぞとまる宮城野の花のいろいろ虫の声々
「基俊集」 藤原基俊
○ 宮城野の萩や牡鹿の妻ならむ花咲きしより声の色なる
「山家集」 「新古今和歌集」 西行
○ あはれいかに草葉の露のこぼるらむ秋風立ちぬ宮城野の原
この日、芭蕉が足跡を残した榴岡天満宮の境内は、宮城野を詠んだ発句や歌の碑を集めて碑林を成し、芭蕉や門人各務支考など、幾多の古人の言葉を今に伝えている。  
多賀城と歌枕
末の松山
歌枕「末の松山」を擁する末松山宝国寺は、多賀城駅から歩いて10分ほどのところにある。
三十六歌仙の一人清原元輔が詠んだ「契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山なみこさじとは」(後拾遺和歌集)の歌碑を参道に見て境内を左に歩いて行くと、470年以上の齢を数える黒松が目の前に迫ってくる。
この老松は平成13年(2001年)3月に雪の重みで南側に迫り出していた大枝を失ったが、威風を放つ姿に翳りは見られない。平安の昔から、こうした松の佳景を称えられた「末の松山」は、当地に赴いた中央官人らによって都に伝播され、陸奥を代表する一流の歌枕として慕われ続けた。
「末の松山」を詠んだ歌として、古くは、古今和歌集に見られる東歌「君をおきてあだし心をわがもたばすゑの松山浪もこえなむ(あなたをさしおいてわたしがほかの人を思う心をもったら、あり得ないことだが、末の松山に波が越えてしまうだろう)」があり、藤原興風が宮廷で詠んだ「浦ちかくふりくる雪は白浪の末の松山こすかとぞ見る」も同集に採録されている。
歌枕「末の松山」は、「愛の契り」に触れた歌に多く詠まれ、清原元輔の「契りきな」もこうした系統の歌である。この歌は、元輔が友人に代わり「心かはりてはべりけるをむなに人にかはりて」の詞書を添えて心変わりした女性に詠み贈ったものであり、「末の松山」は海岸からかなり離れたところにあるので、ここまで波が越えて来ることはまずあり得ない。この「あり得ない」ことを「末の松山に波が越えるようなもの」として比喩し、「波が越える」となれば「あり得ない」ことが起きる、すなわち愛が破局することを意味した。
下の句の「末の松山なみこさじ」は、上記の東歌を本歌に取ったもので、平安末期の歌人・歌学者の藤原清輔は、「末の松山に波が越える」ことを「奥義抄」の中で次のように説明している。
末の松山浪こゆるといふことは、むかし男・女に末の松山をさして、彼(かの)山に浪のこえむ時ぞわするべきと契りけるがほどなく忘れにけるより、人の心かはるをば浪こゆると云ふ也。彼山にまことに浪のこゆるにあらず。あなたの海のはるかにのきたるには浪の彼松山のうへよりこゆるやうに見ゆるを、あるべくもなき事なれば、誠にあの浪の山こえむ時忘れむとは契るなり。
「末の松山」を詠んだ歌は、古今和歌集の他、拾遺和歌集や千載和歌集などに数多く撰ばれている。
「後撰和歌集」 土左
○ わが袖はなにたつすゑの松山かそらより浪のこえぬ日はなし
「拾遺和歌集」 人麿
○ 浦ちかくふりくる雪はしら浪の末の松山こすかとぞ見る
(古今和歌集に載る藤原興風の歌が、拾遺和歌集では柿本人麻作として採録されている)
「金葉和歌集」 大蔵卿匡房
○ いかにせんすゑの松山なみこさばみねのはつゆききえもこそすれ
「千載和歌集」 藤原親盛
○ あきかぜは浪とともにやこえぬらんまだきすずしきすゑの松山
「新古今和歌集」 藤原家隆朝臣
○ 霞たつすゑの松山ほのぼのと波にはなるる横雲の空
「能因集」 すゑのまつ山にて
○ 白浪のこすかとのみそきこえける末の松山まつ風の声
「後鳥羽院御集」 冬
○ 見わたせば浪こす山のすゑの松木すゑにやとる冬の夜の月
元禄2年(1689年)5月8日、芭蕉一行は、塩釜の宿へ着いたのち多賀城に戻り「末の松山」を見物した。芭蕉は「契り」の歌枕に足を踏み入れた感慨を、眼前の「墓はら」と「比翼の鳥、連理の枝」を対比させ「末の松山は寺を造て末松山といふ。松のあひあひ皆墓はらにて、はねをかはし枝をつらぬる契の末も、終はかくのごときと、悲しさも増りて、塩がまの浦に入相のかねを聞」と「おくのほそ道」に記した。
「比翼の鳥」とは伝説の鳥で、雄と雌がそれぞれ目1つ、翼1つを持ち、常に一体となって飛ぶということから、男女間の深い契りのたとえとされる。また、「連理の枝」とは、1本の木と他の木が、幹や枝を重ね合って同体化し、木理(木目)が相通じることを言い、男女間の深い契りのたとえとされる。
曽良は、「末の松山」について「塩カマノ巳午ノ方三十丁斗。八幡村ニ末松山寶国寺ト云寺ノ後也。市川村ノ東廿町程也。仙台ヨリ塩カマヘ行ハ右ノ方也。多賀城ヨリ見ユル」(名勝備忘録)と記して、当時、多賀城碑の辺りから「末の松山」が見えたことを窺わせているが、今は、民家やビルが視界を遮って遠望が利かない。
沖の石(沖の井)
「末の松山」から南へ抜ける道を下っていくと、民家の間に海の磯と見紛う光景が現れる。ここが、小野小町や二条院讃岐の歌を典拠に多賀城の八幡に設定された歌枕「沖の石」で、曽良は、当所を次のように記している。
奥井(沖の井)。末ノ松山エ弐丁(約218m)程間有。八幡村ト云所ニ有。仙台ヨリ塩釜ヘ行右ノ方也。塩釜ヨリ三十丁程有所ニテハ奥ノ石(沖の石)ト云。村ノ中屋敷ノ裏也。(名勝備忘録)
「古今和歌集」 小野小町
いてのしまというたいを
○ おきのいて身を焼くよりも悲しきは宮こ島べの別なりけり
「千載和歌集」 二条院讃岐
寄石恋といへるこころをよめる
○ わが袖はしほひに見えぬおきの石の人こそしらねかわくまぞなき
「沖の石」は、海から離れていながらもその点景を表し、二条院讃岐の歌の、恋に涙する身を、乾きを知らない海の石に比喩した情景を一部は整えているが、歌中の「おきの石」は、「しほひ(潮干)に見えぬ」から分かるように、潮が引いても姿を見せない海底の石であって特定の石を詠んだものではない。多くの歌枕の起源がそうであるように、「沖の石」も、先に歌が詠まれ、後に歌中の普通名詞を特定のものに定着する過程を踏んできている。
安永年間(1772〜1780年)の「宮城郡八幡村風土記御用書出」に「奥(沖)の井守、寛文九年(1669年)肯山様(仙台藩四代藩主伊達綱村のこと)御代より被仰渡町屋敷御百姓平吉六代以前之祖父平兵衛代より相勤来・・・」とあることから、「沖の石」は、綱村のころ歌枕として当地に定着し、芭蕉が訪ねる以前から藩政の一環として大切に保護されていたことが知られる。
野田の玉川
「野田の玉川」は、多賀城市と塩釜市をまたぐ小流で、塩釜市の大日向を源流とする。多賀城駅から5分程で、最も下流域に架かる大土手橋に行き着くことができる。
「野田の玉川」は、平安中期の歌人能因が、「みちのくにまかりけるとき、よみ侍りける ゆふさればしほ風こしてみちのくののだの玉河千鳥なくなり」と詠んだのに由来する歌枕で、JR東北本線塩釜駅近くの民家の庭先に、これの歌碑が見られる。
多賀城市は、「野田の玉川」が下流域にたびたび洪水を引き起こしたことから、平成4年に「水・緑景観モデル事業」として市内の流域を写真(上)に見る川姿に整備したが、塩釜市側(下)の一部に、昔からの流れが残り、往時の面影を偲ぶことができる。
多賀城市の「野田の玉川」に架かる8つの橋の1つに「おもわくの橋」がある。「おもわくの橋」は、西行が詠んだ次の歌に由来するもので、前九年の役で知られる阿倍貞任がこの橋で恋人と待ち合わせをしたという伝説が残されている。
ふりたるたなはしをもみちのうつみたりける、わたりにくくてやすらはれて、人にたつねけれは、おもはくのはしともうすはこれなりと申しけるをききて、
○ ふままうきもみぢのにしきちりしきて人もかよはぬおもはくのはし (山家集)
伊達綱村のころ、この歌に因んで「おもわくの橋」付近の小山に数多くの楓が植えられ、「野田の玉川」のせせらぎに楓の紅葉という絶景が醸し出された。当時の人々はこれを「紅葉山」と呼んで親しみ、現在も地区名にこの名が残っている。「野田の玉川」に架けられた橋の1つに「紅葉山橋」があるのはこの謂れからである。 
「塩釜の浦」と源融
末の松山と塩釜の浦
芭蕉と曽良は、元禄2年(1689年)5月8日(新暦6月24日)、午前中に仙台を立って十符の菅や壷の碑を見物し、午後2時ごろ塩釜に到着した。食事の後、多賀城に戻り、末の松山などの歌枕を精力的に訪ね歩いている。
それより野田の玉川・沖の石を尋ぬ。末の松山は寺を造て末松山といふ。松のあひあひ皆墓はらにて、はねをかはし枝をつらぬる契の末も、終はかくのごときと、悲しさも増りて、塩がまの浦に入相のかねを聞。 (おくのほそ道)
八日 朝之内小雨ス。巳ノ尅ヨリ晴ル。仙台ヲ立。十符菅・壺碑ヲ見ル。未ノ尅、塩釜ニ着、湯漬など喰。末ノ松山・興井・野田玉川・おもはくの橋・浮島等ヲ見廻リ帰。 (曽良随行日記)
「末の松山」は、古より陸奥を代表する一流の歌枕として慕われ、特に三十六歌仙の一人清原元輔が詠んだ、「契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山なみこさじとは」(後拾遺和歌集)の歌は、つとに知られる。「末の松山」は、「愛の契り」に触れた歌に多く詠まれ、この歌も、愛を誓いながら去っていった女性に、別れが不意なるものであったことを「浪が届くはずもないこの末の松山に波が越えてくるようなもの」と比喩して伝えたものである。
芭蕉は、松の間々(あいあい)に広がる墓原に身を置いて、白楽天の「長恨歌」の一節「在天願作比翼鳥、在地願為連理枝」を想起し、「はねをかはし枝をつらぬる契の末も、終はかくのごとき」と人の世の哀れを歎いた。その時、浄瑠璃の一場面を再現するように、塩釜の浦に晩鐘が鳴り響いた、というのである。今は、建物が立ちはだかり末の松山から塩釜の海を眺めることはできないが、高台の少ない多賀城にあっては、ここが海原を見晴らす絶好の場所だったのだろう。
千賀の浦とも呼ばれる塩釜の浦は、昭和30年代に行われた湾内埋め立てによってかなり狭くなり、昔、湾内にぽつりと浮かんでいた籬島(まがきじま)は、今では、陸地から20mほどの位置にまで接近している。芭蕉を迎えた千賀の浦の星月夜に、侘びと幽玄の美を醸した籬島は、今、塩釜を出航する観光遊覧船の拡声器から、松島「八百八島」の一番手として、「わがせこを宮こにやりてしほがまのまがきのしまの松ぞこいしき」(古今和歌集 東歌)の歌とともに紹介されている。
五月雨の空聊はれて、夕月夜幽に、籬が嶋もほど近し。蜑の小舟こぎつれて、肴わかつ声々に、つなでかなしもとよみけん心もしられて、いとゞ哀也。 (おくのほそ道)
源融と塩釜の浦
源融(みなもとのとおる)は嵯峨天皇の皇子で、仁明天皇の異母弟にあたる。「三代実録」の貞観6年(864年)3月8日の条に「正三位行中納言源朝臣融加陸奥出羽按察使」とあり、融は、陸奥出羽按察使の任にあったが、「続日本後紀」等の文献により、直接任国に行くことを免除された「遥任」であったことが知られる。しかし、これによらず、かつての多賀城の周辺に、源融にまつわる神社や古跡が散見されるのは、どのような背景からだろうか。
むかし、東北地方は西国の人々にとって「道の奥」すなわち未知の国であり、少々恐れを抱きながらも憬れの地であり、こころ惹かれる土地であった。その一端をうかがわせるエピソードが、鴨長明の「無名抄」に書かれている。これによれば、歌人として知られた橘為仲が陸奥守の任を終えて京へ戻るときに、宮城野の萩を12個の長櫃(ながびつ)に収めて持ち帰ったところ、大勢の人がその土産を見るため、二条の大路に集まっていたという。
五月五日かつみを葺く事  (中略)此為仲、任果てて上りける時、宮城野の萩を掘りとりて長櫃十二合に入れて持ち上りければ、人あまねくききて、京へ入ける日は、二条の大路にこれを見物にして人多く集まりて、車などもあまたたちたりけるとぞ。(無名抄)
しかし、源融にとって、陸奥への思いは深く、こうした土産や土産話では充分に満足できなかったと見えて、加茂川にほどちかい六条辺り(六条河原)の自邸の庭に、わざわざ海水を運ばせて塩釜の浦の景色をこしらえ、藻塩を焼く風雅を楽しんだ。源融は、こうした振舞いから河原左大臣と呼ばれるようになり、「庭に作った塩釜」の話は、宇治拾遺物語や伊勢物語にも取り上げられ、広く知られるところとなった。
今は昔、河原院は融の左大臣の家なり。陸奥の塩釜の形を作りて、潮を汲み寄せて、塩を焼かせなど、さまざまのおかしき事を尽して、住み給ひける。大臣失せて後、宇多院には奉りたるなり。延喜の御門、たびたび行幸ありけり。(宇治拾遺物語 巻第十二 十五 河原院融公の霊住む事)
むかし、左のおほいまうちぎみ(大臣)いまそかりけり。賀茂川のほとりに、六条わたりに、家をいとおもしろく造りて、すみたまひけり。かんなづきのつごもりがた、菊の花うつろひさかりなるに、もみぢのちぐさに見ゆるをり、親王(みこ)たちおはしまさせて、夜ひと夜、酒のみし遊びて、夜明けもてゆくほどに、この殿のおもしろきをほむる歌よむ。そこにありけるかたゐおきな(在原業平)、板敷のしたにはひ歩きて、人にみなよませはててよめる。
○ 塩釜にいつか来にけむ朝なぎに釣する舟はここによらなむ
わたしは塩釜にいつ来ていたのだろう。朝なぎの中、釣りに出ている船はこちらに寄ってきてほしい。
となむよみけるは、陸奥の国にいきたりけるに、あやしくおもしろき所々多かりけり。わがみかど六十余国の中に、塩竈という所に似たる所なかりけり。さればなむ、かのおきな、さらにここをめでて、塩釜にいつか来にけむとよめりける。(伊勢物語 第八十一段)
このように、源融が自邸に塩釜の浦を築き上げ、さらには、上の通りに「おもしろきをほむる歌」を詠む趣向の最後に、在原業平が「塩釜にいつか来にけむ」の歌を詠んで、模擬の塩釜を実景と見まごうばかりと過大に評価した。
「塩釜にいつか来にけむ」の歌は、「続後拾遺和歌集」や家集「在原業平集(在中将集)」にも見られる。
河原の左大臣の家にまかりて侍りけるに、塩がまといふ所のさまをつくれりけるを見てよめる
○ 塩がまにいつか来にけむ朝なぎにつりする舟はここによらなむ 業平朝臣(続後拾遺和歌集) 
ひたりのおほいまうちきみ、かも河のほとりに家をおもしろくつくりて、神な月のつこもり菊の花さかりなるころ、みこたちおはしまさせて、ひゝと日、酒のみ遊びしたまふ、この殿のおもしろきよし人々よみけるに
○ しほかまにいつか来にけむ朝なきにつりする舟はここによらなむ (在原業平集)
こうなると、かの塩釜が京でも見られるとのうわさが広まり、橘為仲の萩の話のように風流人が興味津々で融の庭に集まってくる。紀貫之もそうした中の一人と見えて、次の歌が古今和歌集に採録されている。
河原左大臣の身罷免りて後、かの家にまかりてありけるに、塩釜という所のさまをつくれりけるを見てよめる、
○ 君まさで煙たえにし塩釜のうらさびしくも見え渡るかな
河原左大臣がお亡くなりになり、塩を焼く煙も絶えてしまった「塩釜」は、ほんとうにうら寂しく見えてしまうものだ。(古今和歌集 巻十六)
こうして、源融は、時の流れとともに「実際に陸奥に赴いた経験があり、塩釜の風雅を語れる」人間として伝播し、その結果、陸奥各地に融にまつわるさまざまな伝説が生まれることとなり、遂には、「融公 (中略) 塩浦の勝を愛慕し、其美を当時に繁揚す。塩浦第一の知己と謂つべし。此地に祠して祭る」(鹽勝松譜)として、源融を祭る神社まで存するに至った、と思われるのである。
本村浮島高平囲に大臣宮(おとどのみや)の旧跡がある。大臣宮は第五十二代嵯峨天皇第十二の皇子源融を祭ったものだと言い伝えられている。明治四十一年までは石のお宮があったが、今は浮島神社に合祀されて大なる礎石だけが残っている。(中略) 塩釜町赤坂を下りて西町に入る右上に塩釜公園あり、俗に融ヶ岡とも称し、此処より融が塩釜の景を眺望したところだといっている。 
瑞巌寺
松島青龍山瑞巌円福禅寺、すなわち瑞巌寺は、東北を代表する観光地・松島の中軸を成し、千年を越す寺歴に、奥州藤原二代基衡、執権北条時頼、仙台藩藩祖伊達政宗らの名を連ねる東北地方切っての名刹である。
慈覚大師、青龍山延福寺を開山
瑞巌寺の歴史は古く、平安期にまで遡り、創建は天長5年(828年)と伝えられる。創建時の名称は青龍山延福寺で、寺号は天台宗の総本山延暦寺に由来している。瑞巌寺の歴史を綴る「天台記」は、この年、慈覚大師円仁が勅宣により比叡山王七社大権現の神輿を担って松島に下り、延福寺を開山としたことを伝えている。
後年、無住となって荒廃するが、藤原基衡が延暦寺弥勒堂の阿闍梨永快を住持として招き、延福寺の立て直しを図った。基衡は、延福寺に戒壇を造営し、法華経十万部を奉納した。
文治5年(1189年)の奥州合戦の際に、延福寺は、源頼朝の義経呪詛(じゅそ)の指示に三千の衆徒が護摩を焚いて応え、平泉陥落後、功賞として加州(加賀)産の織絹八千疋を得たという。延福寺は、頼朝の死後しばらく無住となるが、鞍馬山東光坊の弟子、儀仁和尚が、暦仁元年(1238年)に住持として招聘された。
法身禅師、青龍山円福禅寺を開山
延福寺は第28代住持儀仁を最後に破却され、禅宗の円福寺に転換することになるが、「天台記」によれば、その経緯はこうである。
延福寺で山王七社大権現の祭礼が行われていた宝治2年(1248年)4月14日のこと。東国修行中の執権北条時頼が、神楽が奏せられる中、舞楽の上演を楽しんでいたが、つい面白さの余り「前代未聞の見物かな」と大声を発したところ、衆徒の頭領普賢堂閣円が憤怒し、衆徒十余名に殺されかける事態となった。時頼は、一人の僧の「山王大師祭礼二依リ殺生二及ブ可カラズ」の一言で事なきを得、近くの岩窟に入ってしばらく休息した。
宝治戊申ノ二歳四月十四日、山王七社大権現祭礼執行ス。儀仁初メ三千ノ衆徒堂衆学姓残ラズ、山王大師神輿守リ奉ル、法師崎ニテ神楽ヲ奏ス、五大尊明王ノ伊陀天ノ前ヨリ法師崎宝殿マテ中廊渡シテ、神楽ヲ奏ス、寔(まこと)二清明ノ見物ナリ。相模ノ平ノ将軍時頼、出家シテ東国修行ノ次(ついで)、吾郷二下着ス。然モ其日修行時頼逆縁ノ躰ヲ為シテ舞楽ノ面白サ絶エ難キニ依リ、大音ニテ前代未聞ノ見物哉ト宣声、衆徒ノ内二普賢堂閣円是ヲ怒リ、其ノ修行者殺害セント云フ。諸々ノ衆徒ノ中二、家多浦禅余房、象鼻崎ノ賀泉坊、安養崎ノ一流房、彼是十余人馳集マル。命ヲ失ント為ス。爰二亀崎坊良泉山王大師祭礼二依リ殺生二及ブ可カラズト訴訟ヲ為シ、漸ク助命ス。仍ツテ瀟湘ノ岩洞に入テ暫ク休息ス。(天台記)
岩窟(瑞巌寺境内にある法身窟)には先住の修行僧・法身がいたが、二人は意気投合し法談で時を重ねた。やがて、延福寺の歴史を転ずるきっかけとなる問答が二人の間で交わされた。
時頼 「延福寺の住持になってみませんか。」
法身 「私は無知・無道の身で及びもつきません。」
時頼 「天台の諸法が失滅に及べばどうですか。」
法身 「それなら禅家の法祖、広めるに足ります。」
修行(時頼)問曰、御僧延福ノ住可叶哉、法身答曰、我雖禅家生受、無智無道也、争大伽藍ノ*(不明)叶、天台ノ秘事、難勤行*(不明)、修行又曰、天台諸法及失滅者如何、法身答、禅家ノ法祖広二タレリ。(天台記)
時頼は、鎌倉に帰った後、三浦義成が率いる千人の軍兵を松島に向かわせて、延福寺から三千の衆徒を追放し、儀仁和尚を佐渡に流した。こうして時頼は延福寺を破却し、岩窟での出会いから10年を経た正元元年(1259年)ごろ、法身禅師を開山として臨済宗円福寺を創建した。
法身禅師(真壁平四郎)
法身禅師は、常陸国(茨城県)真壁郡の出で俗名を真壁平四郎という。領主の下僕を勤めていたが、ある宴のあった冬の日、履物(はきもの)を懐で温めて領主を待っていたところ、履物を尻に敷いていたと誤解され、額を割くほどに撲られた。これをきっかけに法身は出家し、後に、宋に渡って径山寺の無準禅師、仏鑑禅師無準師範に参禅。帰国後、諸国遍歴の旅中、松島の延福寺に滞在していたのである。
入山後、法身禅師は年数わずかにして、北条時頼が宋から招いた高僧欄渓道隆(鎌倉建長寺開山の大覚禅師)に円福寺の住持職を譲り、現在の十和田市洞内に移り住んだ。
伊達政宗が再建するまでの円福寺
大覚禅師が入山すると、円福寺の格式は更に高まり、室町期に到るまでの住持はすべて大覚派の僧が引き継ぐこととなり、東北最大の禅院として栄えた。円福寺が最も繁栄したのは13世紀末ごろとされ、当時の大伽藍の規模は、北は五大堂から南は雄島付近まで延び、現在の瑞巌寺の中心地は、円福寺境内の北西隅の一角にすぎなかったという。
室町期には、五山・十刹に次ぐ「諸山」格の幕府公認禅宗寺院として存立したが、幕府の勢力が衰えて戦乱の世を迎えると、寺勢は次第に衰退していった。戦国末期の天正6年(1578年)ごろ、建長寺派から妙心寺派に転派したが、伊達政宗が再建を決した頃は極度の荒廃ぶりを見せ、虎哉宗乙禅師著「松島方丈記」には当時の様子が「仏宇僧廬(仏像・堂宇・僧侶・草庵)尽廃壊」と書かれている。
伊達政宗、瑞巌寺を建立
伊達氏と禅宗との関わりは古く、鎌倉末期の四代政依まで遡る。政宗の父輝宗は、美濃国(岐阜県の南部)から虎哉禅師を米沢に招いて資福寺を中興開山させ、梵天丸(政宗の幼名)の学問の師に据えた。輝宗の死後、政宗は、父の菩提を弔うために虎哉を開山として覚範寺を建立している。
こうした禅宗との関わりを背景に、政宗は、慶長9年(1604年)8月15日、自ら縄張りをして円福寺の再興に着手し、足掛け5年の歳月をかけ、慶長14年(1609年)3月26日に完成させた。次の「木村宇右衛門覚書」に、政宗の瑞巌寺建立に込めた思いと松島に対する心情が綴られている。
松島は後世菩提のためなり。そのかみ相模の平将軍時頼公、円福寺の大伽藍たてられ、法身和尚の開山也。此法身和尚は入唐して(実際は「宋」)径山無準和尚の宗風を継きへたる人也。然るとはいへども、年久しき事なれば、ことごとく仏寺僧廬廃壊するを、紀州熊野山より数千里の海上を取くだし、円福寺の廃禅をあらため、瑞巌の大伽藍をたてて、海晏和尚を住持とす。菩提のため建つる寺なれば、士人一人憂うる心なき様にとかたく制し、諸細工人は申すにおよばず、人足等に至るまで心にかなふ様に物をとらせ、例えば陸地をはきたる草履、草鞋にては上にあがらぬ様に新しきをはかせ、釘かすがいにいたるまで、上より陸地に落ちたるを又ひろいあけぬ様にと制し、諸人此寺成就せん事を願ひ喜ぶようになれば、末久しくて菩提のため也。
およそ此松島は日本第一の霊地ならん。四囲みな山也、山の間みな海也、海中に数百の島あり。山のほとりには若干の人家軒をつらね、その風景愛すべし、楽しむべし。唐土西湖三万六千頂か、いつみてもはじめてむかふやふにおぼえ侍り。ある人の歌に松島や小島いかにと人とはば何とこたへんことの葉もなし、とよめり。ちかきほとりに宮戸島つづけり。古今集に、沖の井で身をやくよりもかなしきは、みやと島の事なりとの給ふ。(木村宇右衛門覚書)
瑞巌寺は、本堂(方丈)と庫裡を配置する禅宗伽藍で、御成門と中門を太鼓塀でつなぎ、中庭から見て、正面に本堂、右に庫裡と廊下、左に玄関が造られている。造営にあたっては、紀州熊野から海路で用材が運ばれ、京都から名工130人が集められたという。本堂内部は桃山様式の粋を尽した作りで、彫刻や襖絵は絢爛豪華、総欄間の彫刻は極彩色で飾られている。
瑞巌寺完成の翌年、虎哉の推薦で越前法泉寺から第96代住持として海晏和尚が招聘された。寺院名は「青龍山円福禅寺」から「松島青龍山瑞巌円福禅寺」に改められた。寺号の「瑞巌」は、慶長13年(1608年)鋳造の大鐘に記された虎哉の撰文「号山曰松島名寺曰瑞巌」に因るという。
古徳云、坐水月道場、修空華万行、降鏡像天魔、成夢中仏果、抑大檀越黄門侍郎伊達藤原政宗公、建梵刹己竟、号山曰松島名寺、曰瑞巌、蓋松島者天下第一之好風景、而瑞巌者日本無雙之大伽藍也、公命匠人鋳一大鐘、以寄附于瑞巌精舎、就余請其銘、綴拙語応其需、銘曰、輪奐美哉殿閣連、蒲牢高吼白雲嶺、気清天朗接尊宿、月落潮平到客船、殷殷海*孤絶処、声々山寺夕日辺、従拈華暁称迦葉、礼楽縦横億万年 (瑞巌寺大鐘の撰文)
政宗の死と雲居禅師の来松
慶長16年(1611年)、虎哉と海晏が相次いで没し、以降5年間、海晏を継ぐ住持を迎えられず無住となったが、元和2年(1616年)に月叟玄良が第97代住持として入山した。その後、第98代碧堂智崔を迎えたが在職1年で没し、以降10年間、瑞巌寺は無住となった。
寛永13年(1636年)、政宗はこうした状況を嘆き、虎哉の孫弟子洞水に住持を懇請したが、洞水は若年を理由に断り、代わりに雲居禅師を推薦した。政宗は二度にわたって雲居に使者を遣わし入山を要請するがこれに応じず、三度目に洞水を使者として遣わすことなった。しかし、雲居の返答を聞くことなく政宗は70年の生涯を閉じた。雲居は、同年8月21日、ついに政宗と二代忠宗の強い願いを聞き入れ第99代として来松し、翌月、政宗の百ヶ日忌を営んだ。
以下は、「松島瑞巌中興大悲円満国師雲居和尚年譜」の寛永13年(1636年)の条からの抜粋である。
師五十五歳。此の夏、仙台中納言政宗、千里に使を遣わし、師を松島に請するも辞して来らず。其の歳、政宗逝去す。嗣君忠宗、先考の遺意を以て、再び福浦の洞水初首座に和会して書使を具え、花園智勝院の単伝和尚に寄せて、勝尾三請の義を助発せしむ。師、再三辞譲するも拒むこと能わざるをしいられ、了に服す。
雲居禅師
雲居禅師は、天正10年(1582年)、伊予国上三谷(愛媛県伊予市)に生まれる。父は小浜左京で、土佐一条家兼定に仕えた。天正2年(1574年)、兼定は長宗我部元親との勢力争いに破れ、豊後に追われた。翌年、兼定は領地回復を狙い渡川(四万十川)で元親と戦ったがこれに失敗し、宇和島港外の戸島に身を隠した。
天正10年、左京が、道後(雲居年譜に「遂去国往筑紫、又移伊予道後」とある)で養生中の兼定を見舞うため身重の妻を差し向けたところ、途中で産気づき、三谷の毘沙門堂で雲居を出産したという。
雲居は、9歳にして宇山の太平寺に預けられ小僧となった。15歳のときに父と死別し、翌年、太平寺の真西堂如淵が、正式に出家した雲居を連れて上洛し東福寺に入った。
その後、二人は東福寺を出、真西堂は賢谷宗良に名を変えて京都大徳寺に入り、雲居は妙心寺山内の蟠桃院で一宙東黙に師事した。蟠桃院は、秀吉晩年に五奉行の一人となった前田玄以を開基、一宙東黙を開祖として、慶長6年(1601年)に創建された。前田玄以が没した後、伊達政宗がこの蟠桃院の大檀那となっている。
慶長12年(1607年)、雲居は、愚堂ら6、7人と行脚に出て、仙台の虎哉宗乙に会っており、元和元年(1615年)以降も、若狭国小浜、伊予国松山、奥州会津若松、伊豆熱海、摂津・勝尾山などへ行脚を続けた。そして、度重なる要請を受け瑞巌寺の住持となったのは、雲居禅師55歳のときだった。 
「石巻」と歌枕
「おくのほそ道」の石巻の章段には、次のように歌枕の数々が記されている。芭蕉が思いを寄せ、多くの歌人に親しまれたこれらの歌枕には、既に原風景が風化したものや興味深い逸話を今に伝えるもの、地元の人々の努力によって手厚く保護されているものなどがあり、さまざまな様態を示しながら21世紀を迎えている。
十二日、平和泉と心ざし、あねはの松・緒だえの橋など聞伝て、人跡稀に雉兎蒭蕘の往かふ道そこともわかず、終に路ふみたがえて、石の巻といふ湊に出。「こがね花咲」とよみて奉たる金花山、海上に見わたし、数百の廻船入江につどひ、人家地をあらそひて、竈の煙立つゞけたり。思ひがけず斯る所にも来れる哉と、宿からんとすれど、更宿かす人なし。漸まどしき小家に一夜をあかして、明れば又しらぬ道まよひ行。袖のわたり・尾ぶちの牧・まのゝ萱はらなどよそめにみて、遥なる堤を行。心細き長沼にそふて、戸伊摩と云所に一宿して、平泉に到る。其間廿余里ほどゝおぼゆ。 (おくのほそ道)
あねはの松(姉歯の松)
歌枕「姉歯の松」は、伊勢物語の中で、みちのくから京に戻ろうとしていた主人公(在原業平)が土地の女性を詠んだ次の歌で広く知られる。
「伊勢物語」
○ 栗原のあねはの松の人ならば都のつとにいざといわましを
金成(かんなり)町の姉歯地区がこの歌枕の地で、迫川と三迫川が合流する付近に植え継がれた姉歯の松が見られる。この松は武隈の松(宮城県岩沼市)、阿古耶の松(山形市)、末の松山(宮城県多賀城市)とともに奥州の名松にあげられ、松の傍らには文化2年(1805年)に建立された歌碑と明治30年(1897年)建立の「姉歯松碑」がある。歌碑には、業平の歌のほかに次の3つの歌が万葉仮名で刻まれている。
○ かくばかりとしつもりぬるわれよりもあねはのまつはおひぬらむかし 祐挙
(かくばかり年積りぬる我れよりも姉歯の松は老いぬらんかし)
○ ふるさとのひとにかたらむくりはらやあねはのまつのうぐひすのこゑ 長明
(ふるさとの人に語らん栗原や姉歯の松の鶯の声)
○ くりはらやあねはのまつをさそひてもみやこはいつとしらぬたびかな 秀能
(栗原の姉歯の松を誘いても都はいづと知らぬ旅かな)
姉歯の松には、小野小町と在原業平にまつわる話や松浦佐与姫にまつわる話も伝えられるが、ここでは采女として選ばれ旅の途中で命を絶った朝日姫の話を記しておく。
用明天皇のころ、全国から宮中の女官・采女(うねめ)を募り、陸奥国から選ばれたのが気仙郡高田の里(岩手県高田市)の武比長者の娘朝日姫だった。朝日姫は都に上がるときに慣れない船旅で体をこわし、陸路で都を目指すことになったが、姉歯の里にたどりついたころ重態となりついに絶命した。里人は朝日姫を不憫(ふびん)に思い、墓をつくって懇(ねんご)ろに葬った。その後、妹の夕日姫が代わりに都に上がることになり、夕日姫は、旅の途中姉の墓に立ち寄って供養のために岩蔵寺を建立し、墓に松を植えた。里人はこれを姉歯の松と呼び後世に伝えたという。
緒だえの橋(尾絶の橋)
歌枕「緒絶の橋」は、中古三十六歌仙の一人・左京大夫藤原道雅の歌が後拾遺和歌集に入集し、広く知られるところとなった。
「後拾遺和歌集」 左京大夫藤原道雅
また同じ所にむすびつけさせ侍ける
○ みちのくのをだえの橋やこれならんふみみふまずみ心まどわす
緒絶の橋には、「嵯峨天皇の寵愛を受けていたおだえ姫が、皇后の嫉妬から左遷され、失望した姫はこの橋から入水して果てた」という悲恋物語が伝えられ、「緒絶の橋」は古来より悲恋の歌枕として多くの歌に詠み込まれた。
源氏物語 「藤袴」
○ 妹背山ふかき道をは尋ねずて緒絶の橋にふみまどひける
「続千載和歌集」 亀山院御製
恋の心をよませ給うける
○ うき中はあすのちぎりもしら玉のをだえの橋はよしやふみみじ
「新千載和歌集」 藤原定家
名所百首歌たてまつりける時
○ ことの音も歎くははる契とてをだえの橋に中もたえにき
「新続古今和歌集」 藤原定家
後京極摂政前太政大臣家歌合に、寄橋恋
○ 人心をだえの橋にたちかへり木のはふりしく秋の通路
「おくのほそ道」の旅で芭蕉が心を寄せた緒絶の橋は、大崎市役所(古川総合支所)の西を流れる緒絶川にかかる小さな橋で、畔に道雅の歌碑が建てられている。
平成12年に、東北郵政局が「21世紀に私たちが伝えたい東北のもの」を自然、祭り、建造物、民芸品などから募集したところ、地元の市民団体の働きかけもあって歌枕の地「緒絶の橋」が1位となり、山形県の「蔵王の樹氷」、象潟町の「九十九島」、八森町の「ハタハタ」、横手市の「かまくら」がこれに続いた。
袖のわたり(袖の渡り)
「袖のわたり・尾ぶちの牧・まのゝ萱はらなどよそめにみて、・・・」と「おくのほそ道」に書いてあるので、芭蕉は袖の渡りに行っていないと解釈されそうだが、芭蕉が参詣した住吉神社の前が袖の渡りの地であるから、実際は視野に入れたことになる。
帰ニ住吉ノ社参詣。袖ノ渡リ、鳥居ノ前也。 (曽良事項日記)
歌枕「袖の渡り」は平安中期ごろ既に成立しており、当時の歌人清少納言や相模は次のように詠んでいる。
「清少納言集」
さねかたのきみの、みちのくにへくたるに
○ とこもふちふちもせならぬなみた川そてのわたりはあらしとそおもふ
「新後拾遺和歌集」 相模 題しらず
○ みちのくの袖のわたりの涙がは心のうちにながれてぞすむ
旧北上川の河口付近に南北に長い島「中瀬」があり、その北端の先に袖の渡りの標柱が建つ住吉公園がある。袖の渡りは金華山道の渡し場だったところで、公園には句碑や歌碑などの碑が林立している。
金華山道は、文字通り金華山(大金寺)への参詣路として使用された街道で、仙台から塩釜、松島、石巻を経て牡鹿半島の西海岸を通り、半島突端の山鳥渡から海路で金華山と結ばれていた。
源義経が頼朝の追手から逃れ平泉に向かうときに、当地から舟に乗って一関に渡り、船賃として袖をちぎって船頭に渡したという逸話が伝えられている。この義経伝説は、歌枕「袖の渡り」の謂れとして語り継がれているが、上述のように、歌枕の発生起源は義経以前である。
尾ぶちの牧(尾駮の牧)
「尾ぶち(の牧)」は、平安のころ馬の牧場が歌枕になったもので、次の歌ではともに「をぶちの駒」として用いられている。
「後撰和歌集」 読み人しらず
男のはじめいかに思へるさまにか有りけむ、女のけしきも心とけぬを見て、あやしく思はぬさまなる事といひ侍りければ
○ 陸奥のをぶちの駒も野飼ふには荒れこそまされ懐くものかは
「後拾遺和歌集」 相模
橘則長父の陸奥の守にて侍りけるころ馬にのりてまかり過ぎけるを見侍りて、男はさも知らざりければまたの日つかはしける
○ 綱たえて離れ果てにし陸奥のをぶちの駒を昨日みしかな
歌枕「尾ぶち(の牧)」の地は、旧北上川の東岸にある海抜250mの霊境、牧山の山麓だったとされ、その山頂にある零羊崎(ひつじざき)神社には、上の後撰和歌集の歌と「尾ぶちの牧 おくのほそ道」の文字を刻む標柱が建っている。また、曽良の名勝備忘録には「尾駮(ぶち)御牧。石ノ巻ノ向牧山ト云山有。ソノ下也」とある。
縁起によれば、零羊崎神社は豊玉彦命を祭神とし、今から1800年ほど前の応神天皇2年、神功皇后の勅願により涸満瓊別神(ひみつにさけのかみ)の名を授かり東奥鎮護のため牡鹿郡龍巻山(たつまきやま)に祭られた。
「涸満瓊別神」は、干潮・満潮を別ける神を意味し、後に、この神名が零羊崎になり、龍巻山の龍が除かれ牧山となったという。江戸時代、米を運搬した千石船は、航行ごとに海路の安全を零羊崎神社に祈願したといい、現在も、漁船乗組員や農業、商業を営む人々の崇敬を集めている。
まのゝ萱はら(真野の萱原)
歌枕「真野の萱原」の発生起源は万葉集で、奈良時代にまでさかのぼる。
「万葉集」 笠女郎(かさのいらつめ)、大伴宿祢家持に贈る歌三首(中の一)
○ 陸奥の真野のかや原遠けども面影にして見ゆといふものを
(注)「かやはら」は「草原」とも表記される。
下記の南北朝・室町時代の撰集にもこの歌枕を扱った歌が見られるが、このように歌枕は永きにわたって親しまれ詠み継がれたが、その大部分は時代とともに景観から姿を消し伝説化していった。そして今、多くがそうであるように、「真野の萱原」もゆかりの地が複数存在している。
「新拾遺和歌集」 大江忠広 冬の歌中に
○ 冬枯のまののかや原ほに出でし面かげみせておける霜かな
「新続古今和歌集」 中務卿宗尊親王 月前旅行を
○ 古郷の人の面かげ月にみて露わけあかすまののかやはら
石巻市の真野・萱原地区は、古くから萱や葦や荻の生育地で、「おくのほそ道」に書かれた「まのゝ萱はら」はこの萱原地区とされている。当地の長谷寺(ちょうこくじ)参道入口に、「真野萱原伝説地」の文字と、藤原定家の「露わけむ秋の朝気は遠からで都は幾日まのの葦原」の歌を記す木製の標柱が建てられている。
長谷寺は山号を舎那山とする曹洞宗の寺院で、創建は奥州藤原三代秀衡とされ、山号は、源義経が頼朝の平家追討の旗揚げの際、郎党とともに武運を祈願したことから、義経の元服前の遮那王にちなみ舎那山としたとも言われる。
一方、福島県相馬郡鹿島町の真野川流域を歌枕の地とする説もある。鹿島町は、笠女郎が詠んだ「陸奥の真野のかや原遠けども面影にして見ゆといふものを」を掲げ、「万葉の里かしま」をキャッチフレーズにした町づくりを行っている。
真野川河口付近の桜平山公園には笠女郎の歌碑(碑文は「みちのくの真野のかや原遠けども面影にしてみゆというものを」)が建ち、付近の万葉植物園には歌枕「真野の草原(かやはら)」を今に伝える萱が植栽されている。 
金華山と「心細き長沼」
金華山について
「おくのほそ道」に、「『こがね花咲』とよみて奉たる金花山」の記述がある。「金花山」は、今は金華山と書き、牡鹿半島突端の東南に浮かぶ周囲26km、面積10平方kmの島である。島内にモミやブナなどの巨木が生い茂り、神の使いとして保護されてきた野生のニホンジカが450頭ほど、ニホンザルも60頭余が生息している。
金華山は、古来霊場の島として知られ、港の桟橋から北へ行ったところに金山毘古神と金山毘売神を祭る黄金山神社が鎮座する。神社や島の名称から、金華山が産金の島だったと思われがちだが、当地で金が採れたという記録はなく、天平のころ日本で初めて陸奥の涌谷(宮城県涌谷町)で産金し朝廷に献上したとき、当地に黄金山神社が創建されたというのが、名に「金」をいただく由来となっている。
次に記す万葉集の巻十八・大伴家持「陸奥国に金を出だす詔を賀く歌」は、大伴家持が産金を祝し朝廷に奉った長歌で、それに付された反歌「天皇の御代栄えむと東なる陸奥山に金花咲く」を踏まえ、芭蕉は「『こがね花咲』とよみて奉たる金花山」と「おくのほそ道」に記した。しかし、大伴家持によって「金花咲く」と詠まれた「東なる」地は、金華山ではなく涌谷の里だった。
万葉集 巻十八・大伴家持「陸奥国に金を出だす詔を賀く歌」
陸奥国に金を出だす詔を賀く歌一首并せて短歌
葦原の 瑞穂の国を 天降り 知らしめしける 皇祖の 神の命の 御代重ね
天の日継と 知らし来る 君の御代御代 敷きませる 四方の国には 山川を
広み厚みと 奉る 御調宝は 数へ得ず 尽くしもかねつ 然れども 我が大君の
諸人を 誘ひたまひ 良き事を 始めたまひて 金かも たしけくあらむと 思ほして
下悩ますに 鶏が鳴く 東の国の 陸奥の 小田なる山に 金ありと 申したまへれ
御心を 明らめたまひ 天地の 神相うづなひ 皇祖の 御霊助けて 遠き代に
かかりしことを 朕が御代に 顕はしてあれば 食す国は 栄えむものと 神ながら
思ほしめして もののふの 八十伴の緒を まつろへの 向けのまにまに 老人も
女童も しが願ふ 心足らひに 撫でたまひ 治めたまへば ここをしも あやに貴み
嬉しけく いよよ思ひて 大伴の 遠つ神祖の その名をば 大久米主と 負ひ持ちて
仕へし官 海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ 顧みは
せじと言立て ますらをの 清きその名を 古よ 今の現に 流さへる 祖の子どもそ
大伴と 佐伯の氏は 人の祖の 立つる言立て 人の子は 祖の名絶たず 大君に
まつろふものと 言ひ継げる 言の官そ 梓弓 手に取り持ちて 剣太刀 腰に取り佩き
朝守り 夕の守りに 大君の 御門の守り 我をおきて 人はあらじと いや立て
思ひし増さる 大君の 命の幸の 聞けば貴み
反歌三首
ますらおの 心思ほゆ 大君の 命の幸を 聞けば貴み
大伴の 遠つ神祖の 奥つ城は 著く標立て 人の知るべく
天皇の 御代栄えむと 東なる 陸奥山に 金花咲く
天平感宝元年五月十二日に、越中国守の館にして大伴宿祢家持作る
「心細き長沼」について
芭蕉一行が旅した一関街道は、河北町の飯野川橋を越えるあたりから登米到着までの間、山あいを貫く北上川の流路に従い、16kmもの道程を長々と南北方向に伸ばしている。「おくのほそ道」本文の「遥なる堤を行」や曽良日記の「此間、山ノアイ(間)」を実感できる道筋である。
漸まどしき小家に一夜をあかして、明れば又しらぬ道まよひ行。袖のわたり・尾ぶちの牧・まのゝ萱はらなどよそめにみて、遥なる堤を行。心細き長沼にそふて、戸伊摩と云所に一宿して、平泉に到る。其間廿余里ほどゝおぼゆ。(おくのほそ道)
十一日 天気能。石ノ巻ヲ立。宿四兵ヘ、今一人、気仙ヘ行トテ矢内津迄同道。後、町ハヅレニテ離ル。石ノ巻、二リ鹿ノ股(一リ余渡有)、飯野川(三リニ遠し。此間、山ノアイ、長キ沼有)。曇。矢内津(一リ半。此間ニ渡し二ツ有)。戸いま(伊達大蔵)、儀左衛門宿不借、仍検断告テ宿ス。検断庄左衛門。 (曽良随行日記)
この区間に、「芭蕉公園」と称される広場がある。命名は、芭蕉が足跡を残した所縁の地であるほかに、そのむかし、当地に、「おくのほそ道」本文に「心細き長沼」と書かれた沼があったことに因んでいる。
この長沼は、仙台藩藩祖伊達政宗に挙用された川村孫兵衛が、元和9年(1623年)から寛永3年(1626年)にかけて北上川などの改修工事を行った際、川筋の変更により、流域の一部が沼となって残ったものと考えられている。
長沼の名を「合戦ケ谷沼(合戦谷沼)」と言い、古地図によれば、東西300m、南北1500mにも及ぶ、巨大で、細長い沼だったという。生い茂る野の草で縁どられ、影を濃くした山間に、鏡面たる水面(みなも)を見る沼辺の景は、「心細い」の形容こそ相応しい風致を呈していたのだろう。
長沼を修辞したこの言葉は、短いながらも、石巻の旅を象徴するキーワードであり、その余韻を心に残しながら、「おくのほそ道」最大の山場となる平泉の章段に誘(いざな)われることとなる。
なお、「合戦ケ谷沼」は、大正末期に行われた新北上川開さく工事で河川の一部となり、今は、北上大堰の上流峡谷の地形に、その面影をわずかに残すのみとなっている。 
小黒崎と美豆の小島
小黒崎
岩出山から陸羽東線に平行して走る国道47号線を北西に進み、鳴子温泉地域との境目に差し掛かると、右手に、岩山が木々の衣を羽織ったように佇む小黒ヶ崎が目に止まる。これが、平安朝の昔から歌に詠まれた「小黒崎」である。
「古今和歌集」 東歌
○ をぐろ崎みつのこじまの人ならば都のつとにいざといはましを
「続古今和歌集」 順徳院
○ をぐろ崎みつのこじまにあさりする田鶴ぞなくなり波たつらしも
標高244.6m、長さ800mの小黒ヶ崎は、齢を重ねた姿の良い松を点在させ、山笑うころ、そして全山紅葉の中に緑の点景を織り成すころになると、歌枕の地であることを自ら吹聴するかのように絶景を醸し出す。
(歌枕では「小黒崎」だが、山の名称は「小黒ヶ崎」。)
しかし、小黒ヶ崎には悲しみの歴史が刻まれている。それは、むかし財政建て直しのため伊達藩がこの山で金の採掘を行っていたころ、作業中坑内で落盤事故が頻発し多数の工夫が生き埋めになったといい、このような経緯から、小黒ヶ崎は「死人山しびとやま)」と呼ばれていたのである。
元禄2年(1689年)5月15日(新暦7月1日)、芭蕉一行は、出羽越えの道すがら当地で足を止め、満山緑に染む初夏の小黒ヶ崎を仰ぎ見た。この「おくのほそ道」の旅を顕彰し、「小黒崎観光センター」の一角に芭蕉像と本文の一節を掲げる説明板が建てられている。
小黒崎・みづの小嶋を過て、なるごの湯より尿前の関にかゝりて、出羽の国に越んとす。 (おくのほそ道)
入口半道程前ヨリ右ヘ切レ、一ツ栗ト云村ニ至ル。小黒崎可見トノ義也。遠キ所也(二リ余)。故、川ニ添廻テ及暮。岩手山ニ宿ス。(曽良随行日記)
美豆の小島
小黒ヶ崎から国道をさらに西方向に進むと、左手に「おくのほそ道 美豆の小島」と書かれた看板が立ち、そこから田の道を西に歩くと、いかにも名勝然としたところに辿り着く。
そこには、「おくのほそ道」の道標と「をぐろ崎みつのこじまの人ならば都のつとにいざといはましを 東歌」(古今和歌集)の歌碑のほか、芭蕉と曽良の姿を挿絵にした説明板が建てられている。
美豆の小島を見遣る師弟の姿を現実のものと錯覚する瞬間を覚えながら背後を眺めると、江合川の流れの中に何百年にもわたって佇む小島の姿があった。
その方向に、左手から迂回して近づくと、島の頂きに松の木が3本と数本の小木が植えてあり、この景観は曽良の随行日記に書かれた「川中ニ岩島ニ松三本、其外小木生テ有。水ノ小島也。」と符合している。小木はともかく、松の木は前代の遺風を伝うべく代々植え継がれ、現在の松は、明治43年(1910年)の大洪水で流出したため、土地の人々が修復し、歌枕を蘇らせたものである。
「続古今和歌集」 順徳院 
○ 人ならぬ岩木もさすが恋しきは美豆の小島の秋の夕暮れ
更に近づくと、松の根元に小さな祠が見られ、その傍らに鳥居が建っている。この祠は近年になって弁財天を祭ったもので、弁財天について広辞苑をひもとくと、「もとインドの河神で、のち学問・芸術の守護神となり、・・・。古来、安芸の宮島、大和の天の川、近江の竹生島、相模の江ノ島、陸前の金華山を五弁天と称。」とある。
曽良随行日記の中の「今ハ川原、向付タル也。古ヘハ川中也。」は、当時小島が向こう岸に接していたことを伝えているが、今は「古ヘ」と同じように川の中にあり、轟きを立てながら早瀬を二分している。昭和32年(1957年)に鳴子ダムの完成を見るまで氾濫の歴史を刻み「暴れ川」とあだ名されてきた「江合川は、幾度となく美豆の小島との隔たり具合を変化させてきた、ということなのだろう。 
姉歯の松(あねはのまつ) / 宮城県栗原市金成梨崎
姉歯の松は、歌枕となった場所であり、現在では何本かの松の木が植わっており、そこに明治期に設けられた碑が立っている。
歌枕としては、『伊勢物語』に「栗原や 姉歯の松の 人ならば 都のつとに いさといわましを」という歌をはじめとして、たびたび取り入れられている。また松尾芭蕉が『奥の細道』の旅の途中で、行こうとして行き着けなかったことが記されている。それほどまでに有名な場所である。
姉歯の松の由来であるが、いくつか存在する。在原業平が、陸奥国いた小野小町を訪ねた時に、その妹(または姉)の“姉歯”の消息を尋ねると既に亡くなっていた。そこでその墓に松を植えたのを始まりとする伝承。人身御供となるべく陸奥国に赴いた松浦小夜(佐用)姫の後を追って、この地まできた姉が亡くなったので、小夜姫が墓を築いて松を植えたとする伝承(“姉墓”が訛って“姉歯”となったとする)。これらの著名な人名が挙がっている中で、歌枕となった理由として最も流布しているのは以下の伝承である。
用明天皇の頃、朝廷に仕える女官(采女)を各国から1名ずつ選び出すことになった。陸奥国から選ばれたのは、高田(現・陸前高田)に住む長者の娘である朝日姫であった。姫は海路都へ向かうが、途中嵐で船が座礁したため、陸路をとった。ところがこの地で病没してしまう。それを聞いた朝日姫の妹である夕日姫は、自ら志願して采女として都に上ることとなる。そして姉が亡くなった地まで来ると、姉の墓の上に松の木を植えて目印にし、都へ行ったという。
いずれの伝承も姉妹の墓に目印として松を植えたことから始まるものであり、そのはかなく憐れな美しい姉妹の運命に思いを馳せながら歌を詠んだのであろう。
緒絶橋(おだえばし) / 宮城県大崎市古川三日町
緒絶橋は『万葉集』にもその名が記されている、陸奥国の歌枕である。
この大崎の地は古来よりたびたび川が氾濫し、そのたびに川の流れが大きく変わった。そのために以前の川筋が切れてしまい、あたかも流れを失った川のようになることがあった。このように川としての命脈が切れたものを“緒絶川(命の絶えた川)”と呼び、その川筋に架けられた橋ということで「緒絶橋」と名付けられたとされる。
しかしそれ以外にも“緒絶”の由来とされる伝承がある。嵯峨天皇の皇子が東征のために陸奥国へ赴いたが、その恋人であった白玉姫は余りの恋しさに皇子の後を追うように陸奥へ向かった。ところがこの地に辿り着いてみたが、皇子の行方は掴めない。意気消沈した姫はそのまま川に身投げをして亡くなってしまった。土地の者は、姫の悲恋を哀れんで“姫が命(玉の緒)を絶った川”という意味で緒絶川と呼ぶようになったという。
歌枕としての緒絶橋は、白玉姫の伝承をあやかって“悲恋”や“叶わぬ恋”を暗示するものとなっている。最も有名な歌は、藤原道雅の「みちのくの をだえの橋や 是ならん ふみみふまずみ こころまどはす」という悲恋の内容である。また松尾芭蕉がこの地を訪れようとしたが、姉歯の松同様、道を誤って辿り着けなかったことが『奥の細道』に記されている。
お鶴明神(おつるみょうじん) / 宮城県登米市中田町浅水
北上川に沿って一関街道が走っているが、その堤防の緑地にぽつんと小さな赤鳥居が立っている。これがお鶴明神と呼ばれる祠である。
登米の町は、仙台藩の支藩として栄えた町である。初代領主・白石宗直が城下を整え、河川の整備をおこなうことで、2万石の石高を生み出した。特に有名な事業は、北上川の治水である。3年を掛けて約7kmにわたる堤防を築いたが、これは宗直の官職名から“相模土手”と呼ばれている。
ところがこの堤防も何度か決壊してしまったため、息子の宗勝(宗貞)がさらに改修を重ねて、決壊の被害を絶ったとされる。そしてこの頃にあった伝承として、お鶴明神にまつわる話が残されている。
お鶴は、岩手の南部地方の生まれの娘で、彦総長者の家で下働きをしていたとされる。この堤防工事では、人夫に昼の弁当を配る世話をしていたのであるが、決壊を防ぐために人柱が必要であるという話が持ち上がった時に白羽の矢を立てられて、無理矢理生き埋めにされてしまったという。これ以降堤防は決壊することなく、今に至っている。
このお鶴明神は、人柱となったお鶴を哀れんだ土地の者が建てたものである。簡素なものではあるが、現在でも毎年、講による供養がおこなわれている。また祠のそばには“お鶴の涙池”と呼ばれる小池があったが、これも平成になってから復元されている。
鬼の手掛け石(おにのてかけいし) / 宮城県柴田郡村田町小泉
またの名を“姥の手掛け石”。東北の地であるが、渡辺綱の伝承が残されている。
京の朱雀大路の羅生門で、渡辺綱は鬼と格闘して右腕を切り落とす。しかし取り逃がしてしまったために、切り落とした腕を石の長持に保管して、諸国を回って鬼を探し求めた。そして辿り着いたのが姥ヶ懐という地でであった(一説では、ここが綱の故郷であるとされる)。
滞在してまもなく、綱を訪ねてくる者があった。綱の伯母である。用件は、切り落とした鬼の腕を見たいということであった。綱は断り続けたが、伯母も全く引き下がらない。とうとう根負けした綱は、石の長持から腕を取り出して伯母に見せた。
しげしげと見つめていた伯母はやにわに腕を掴むと、ついに正体を現した。伯母に化けていたのは、羅生門の鬼。腕を取り返すと一散に逃げようとする。逃すまいと、綱は太刀を手にして斬り掛かる。囲炉裏の自在鉤を伝って、鬼は屋根の煙出から家の外へと飛び出すと、一気に川を渡ろうとした。ところが、あまりに慌てていたためか、そこで体勢を崩して転倒しかかる。思わず近くの石に左手をついて身体を支えると、そのまま川を飛び越えて逃げおおせてしまったのである。
これ以降、姥ヶ懐の土地では、囲炉裏に自在鉤も煙出も作らないようにしたと言われる。また節分の豆まきの時でも「鬼は外」とは言わないようになったという。
また異説では、金太郎を背負った山姥が川を渡ろうとして思わず滑って転びそうになって手をついた跡であるとも伝えられている。
川沿いの小社の一角に、囲いに覆われた石があり、今でも彫ったように四本の指の手形と思しきものが残されている。
観音寺(かんのんじ) / 宮城県気仙沼市本町一丁目
気仙沼の港を見下ろす高台にある古刹である。天台宗に属し、全国に七寺のみという延暦寺根本中堂の「不滅の法灯」を分灯された寺院である(東北では山寺立石寺・平泉中尊寺と並んで三寺のみ)。この寺院には名前のごとく観音菩薩像が安置されているが、この像には1つの悲恋の伝説が残されている。
源義経がまだ鞍馬で修行に励んでいた頃、文武の師・鬼一法眼の娘である皆鶴姫とよしみを通じて、法眼の持つ兵法書『六韜』を盗み出した。そしてその書を携えて、金売り吉次と共に奥州藤原氏の許へ赴いたのである。
平泉に着いてしばらくして、義経は夢を見る。京都に残してきた皆鶴姫が奥州の母体田の浜に打ち上げられている夢である。不吉な知らせとばかりに義経は浜へ駆けつけると、人だかりができている。そばへ行くと、うつろ船に乗せられた皆鶴姫の亡骸があり、その手には観音像が握られていたのである。姫は父の法眼の怒りを買って、うつろ船で流されていたのである。事の真相を知った義経は、姫の冥福を祈るために観音像を観音寺に納めたという。またうつろ船の残骸の一部、義経の使っていた笈なども観音像と共に、観音寺に安置されている。
(異説では、皆鶴姫を乗せたうつろ船が浜に漂着すると、高貴な人を助けて後難に巻き込まれるのを恐れた村人が幾度も船を沖に押し戻しているうちに姫は衰弱して亡くなったともいう。また衰弱した姫を老夫婦が助けて住まわせていると、数ヶ月後に義経の子を産んだが、産後の肥立ちが悪くて結局亡くなってしまったともいう。いずれの話でも、義経とは会えぬ運命で終わっている)
付記 / 皆鶴姫がうつろ船で漂着したという伝承地が、かつて弁天町の一景島公園にあった。しかし先の大震災の津波によって公園内にあった一景嶋神社もろとも流失してしまった。探訪した2012年7月の段階では、小さな祠だけがかつての神社あった場所に祀られていた。
化女沼(けじょぬま) / 宮城県大崎市古川川熊
化女沼は現在ではダム湖となっているが、以前は自然の湖沼であった。そのために今でも数多くの水生植物が繁茂、水鳥の越冬地となっており、平成20年(2008年)にはラムサール条約の登録を受けている。
この不思議な名前の由来となった伝説が残されている。この沼のそばに、かつて一人の長者がいた。その長者には美しい一人娘がいた。名は照夜姫と言い、毎日のように沼へ来て日を過ごしていた。その美しさのために、いつしか姫が沼のほとりに近づくと、水面にたくさんの蛇が集まるほどであったという。
ある時、一人の旅の美男が長者の家にやって来て、宿を借りることになった。照夜姫とはすぐに相思相愛の仲となったが、また旅を続けるためにと男は去って行った。
男との別れを嘆き悲しんでいた照夜姫であったが、しばらくして突然の体調の異常に気づく。そのまま産気付いた姫は、その夜のうちに子供を産んだ。しかし赤子は人間ではなく、白蛇だったのである。驚く姫をよそに、生まれた白蛇は沼の底へと沈んでいった。そして姫もその後を追うようにして、愛用の機織りの道具を持って沼へ身を投げたのである。
それから毎年7月7日には、沼の中から機織りをする音が聞こえてくると伝えられる。
実方中将の墓(さねかたちゅうじょうのはか) / 宮城県名取市愛島塩手
藤原実方は中古三十六歌仙の一人であり、歌道に秀でた人物である。美男子で、数多くの女性と浮き名を流したとされる(清少納言もその中の一人である)。そのため後世において『源氏物語』のモデルの一人と目されている。史実としては、藤原北家の左大臣師尹の孫にあたり、左近衛中将にまで昇進し、一条天皇に仕えている。
長徳元年(995年)、殿上にて歌のことで藤原行成と口論となった際、激情の余りに行成の冠を奪い投げ捨ててしまうという暴挙に出てしまった。それを見咎めた一条天皇は「歌枕を見て参れ」と実方に命じて陸奥守に左遷したのである。
本来であればしばらくの任期で都に戻れるはずだったのであろうが、実方はこの陸奥国で不慮の事故により生涯を終える。その死について『源平盛衰記』には次のような逸話が残されている。
長徳4年12月(999年)、実方は名取郡にある笠島の道祖神の前を、馬に乗ったまま通り過ぎようとした。土地の者が馬から下りて再拝して通られるよう諫めたところ、実方はその理由を尋ねた。土地の者によると、この笠島の道祖神は、都にある出雲路道祖神の娘であり、良いところへ嫁そうとしたが商人に嫁したために親神が勘当、この地に追われやって来た。そこで土地の者は篤く崇敬している。男女貴賤の差にかかわらず、祈願する者は“隠相=男根”を造って神前に捧げれば叶わないものはない、と。
この返答に対して実方は「さては此の神下品の女神にや、我下馬に及ばず」と言い放って、馬に乗ったまま通り過ぎてしまった。そこで神は怒り、馬もろとも蹴りつけたために、実方は落馬して打ち所が悪く死んでしまったのだという。
実方中将の墓は伝承通り、かつて笠島と呼ばれた地にある。そして実方を蹴殺したとされる笠島の道祖神も、佐倍乃神社という名で残っている。墓と神社の距離は直線で1km足らず。おそらく墓は実方中将落馬の現場のそば近くと考えて良さそうである。
この実方の不慮の死には、もう1つの伝承が残されている。実方死去の知らせが都にもたらされた頃、御所では1羽の雀が、台盤に置かれた飯をついばんで平らげる出来事が続いていた。また藤原氏の大学であった勧学院では、実方自身が雀に変化したという夢を見た翌朝、林の中で死んだ雀が見つかった。人々は、都を懐かしんで死んでいった実方の魂が雀に変化して都までやって来たのだろうと噂しあい、“入内雀”を名付けて哀れんだという。
鹽竈神社/御釜神社(しおがまじんじゃ/おかまじんじゃ) / 宮城県塩竃市一森山(鹽竈神社)/本町(御釜神社)
鹽竈神社は陸奥国一の宮、東北鎮守として崇敬を集める神社である。ただ「弘仁式」において祭祀料正税一万束を受け取るほどの大社でありながら、「延喜式」では式内社に挙げられず、その後も目立った神階を授かることもなかった。明治時代になって、敷地内に式内社で国幣中社であった志波彦神社が遷宮されてから、両社で国幣中社としてようやく大社としての社格を得たと言える。
祭神は、主祭神が塩土老翁神で別宮に祀られ、武甕槌神が左宮に、経津主神が右宮に祀られている。伝説によると、東北平定を命ぜられた武甕槌神と経津主神は塩土老翁神の先導によって目的を達成してそれぞれ元の宮(鹿島神宮と香取神宮)へ帰ったが、塩土老翁神だけは東北に残って製塩法を教えたという。
鹽竈神社が製塩と密接に関わることを示す藻塩焼神事が、境外摂社である御釜神社に伝わる。御釜神社には、日本三奇の1つである神竈と呼ばれる、直径1m強の4口の竈がある(これらの竈は奉置所の中にあり、社務所に申し出て拝観することができる)。土塩老翁神はこの竈を使って製塩技法を教えたという。現在でも常に潮水が張られており、屋根のない場所であるにも拘わらず、どんな旱魃の時にも決して涸れることはなく、また溢れることもないと伝えられる。また「塩竈」という土地の名はこの「四の竈」が由来であるともされる。
さらに境内には牛石藤鞭社があり、和賀佐彦という神が7歳の童子に変じて、背に塩を載せた牛を引いていたが、それが石と化したとされる。今でも境内の池の中にその石が沈められており、見ることができるという。またその童子が藤の枝を鞭にしていたが、それを立てかけておくと枝葉が伸びて藤の花が咲いたと言われる。
下紐の石(したひものいし) / 宮城県白石市越河
国道4号線の宮城県と福島県の県境に位置する場所に、下紐の石はある。とりたてて何もない場所に柵に囲まれて大きな石があるので、すぐにそれと判る。かつてこのあたりに坂上田村麻呂が関所を置き、下紐の関と呼ばれていたとされる。また平安時代には歌枕として和歌に詠まれていた。江戸時代には石大仏とも呼ばれていた時期があるが、相当古い時代から下紐の石として存在していたと言える。
この名の由来であるが、用明天皇の妃である玉世姫がこの石の上でお産の紐を解いたことから名付けられたとされている。ただ、玉世姫は豊後(大分県)にあった真野長者(炭焼き小五郎)の娘であり、なぜこの地にその姫の伝承が残されているのかは謎である。
宗禅寺 鶏の墓(そうぜんじ にわとりのはか) / 宮城県仙台市太白区根岸町
広瀬川べりに建つ宗禅寺は、室町期に仙台の地を治めていた粟野氏の菩提寺である。この寺の山門を入ってすぐのところに“鶏の墓”と呼ばれる塚が存在する。
寛文13年(1661年)、宗禅寺の住職は不思議な夢を見た。びしょ濡れの鶏が現れて「私は檀家の庄子某宅で飼われていた鶏だが、一緒に飼われている猫が一家を殺そうと企んでいるを知って三日三晩鳴き続けた。ところが主人は夜鳴きする鶏を不吉だと言って、私を殺して広瀬川に投げ捨ててしまった。私の屍は宗禅寺の崖下の杭に引っかかっている。どうか主人達の命を救いたいので、朝飯の前に行ってこのことを伝えて欲しい」と言った。
住職が川へ行くと、果たして鶏の死骸が引っかかっていたので、慌てて庄子某の家を訪ねた。ちょうど庄子某の家ではこれから朝飯を食べようとしていたところであった。住職が夢の話をしている時、汁鍋の蓋が開けられており、一匹の猫が何気ないそぶりで鍋を飛び越した。住職は、猫が尻尾を鍋の中につけるのを見逃さなかった。その場を離れた猫を追って住職が竹藪に入ると、猫が竹の切り株に尻尾を入れると、また家へ向かって行った。怪しんで切り株の中を覗くと、そこには蜥蜴や虫が腐って毒液となっていたのである。全てを理解した住職は子細を庄子に伝えると、庄子は鶏を殺したことを悔いて、懇ろに弔ったという。
ただしこれには異説がある。この怪異は庄子宅ではなく宗禅寺で起こったものであり、住職が夜鳴きする鶏を殺し、隣家の者の夢枕に鶏の霊が現れて住職の危難を告げ、住職の朝食の膳椀に猫が毒を仕込むという展開となっている。さらにその後日譚として、竹藪に南瓜が生えたので住職が取って食べようとすると、鶏の霊が夢枕に現れて「毒があるから食べるな」と告げた。不審に思った住職が掘り起こしてみると、南瓜の根が猫の髑髏から生えていたことが分かったという。
鶏の墓には、寛文13年に庄子太郎左エが建立したことが刻まれている。そして正面には「卍不是人間之塔(これは人間の塔ではない)」と彫られている。
田子谷磯良神社(たごやいそらじんじゃ) / 宮城県大崎市岩出山葛岡
地元では「おかっぱ様」と呼ばれる。資料などでも磯良神社ではなく「カッパ明神」の方が通る。県道に面したところに鳥居があるので分かりやすいが、周辺には人家は全く見当たらない。神社以外にはほとんど何もない。
昔、平泉の豪族・藤原秀郷(おそらく秀衡の誤りか)の馬屋に虎吉という名の者が仕えていた。ある時ふとしたことでその正体が河童であることが分かってしまった。そこで暇をもらって主家を離れることにした。虎吉を可愛がっていた秀郷は、その時に持仏の十一面観音を与えたという。
虎吉は各地を巡って田子谷の沼まで辿り着くと、そこを気に入って終の棲家とすることとした。その後、虎吉は多くの子供を授かり、子河童たちがこの沼のほとりで相撲を取ったりして遊んでいる姿がよく見かけられたという。
小さいながらよく整備された社であるが、何と言ってもその横にある沼が印象的である。周囲に人家がないだけ、その神秘な光景は本当に河童が住んでいるのではないかと思ってしまうほどであった。
判官森(はんがんもり) / 宮城県栗原市栗駒沼倉
平泉から直線距離にして約30km足らず。判官森と呼ばれる小さな山がある。栗駒小学校の裏山であり、実際に小学校の敷地を突き抜けてちょっとした山道が続いている。
この小高い山は「判官」の名前の通り、源義経にまつわる伝承地である。文治5年(1189年)に平泉で討ち取られた義経は、その首を鎌倉に送られたのであるが、胴体は平泉に打ち捨ておかれていた。それを引き取って葬ったのが、この沼倉の領主であった沼倉小次郎高次であったという(沼倉小次郎の実弟が、義経の影武者と言われた杉目太郎である)。判官森の頂上近くには、この義経の胴塚と呼ばれる碑が建てられている。生前の義経がこの地を気に入ってよく馬を掛けてこの地を訪れたともいわれている。
判官森の麓にあたる郵便局前には、この地を訪れた際に鞭にしてた桜の枝を差したものが成長したとされる、義経鞭桜がある。また判官森のさらに奥には弁慶森と呼ばれる場所がある。
義経鞭桜(よしつねむちざくら) / 宮城県栗原市栗駒沼倉
この沼倉の地には源義経ゆかりの判官森があるが、その森への入口そばにあるのが義経鞭桜である。
奥州藤原氏の許にいた義経は、この地をよく訪れていたとされる。判官森の由来でも、この土地を治めていた沼倉小次郎高次が平泉に打ち棄てられていた義経の胴を引き取って埋葬したのが始まりであるとされており、昵懇の間柄であったと考えられる。そしてこの桜の木は、その名の通り、義経が使っていた乗馬用の鞭を挿し木したところ見事な桜の木となったという伝承を持つ。
現在は3代目の木とされており、その隣にある木は“静桜”と呼ばれているらしい。また木の根元あたりにはかなりの数の石碑や石祠があるが、これは地元の民間信仰に関わるものであり、この桜の木そのものを祀るものではなさそうである(一番目立つ石碑も“筆塚”と刻まれており、勿論義経にまつわる伝承とは全く関連性がない)。 
鳴子と尿前の関
鳴子
平成18年、かつての鳴子町は、古川、岩出山など1市5町と合併して大崎市となり、住所も「鳴子温泉」となった。
鳴子町は、鳴子、大口、名生定、鬼首の四つの村が合併してできた町であったが、その胎動が始まってから町制の施行まで、65年の歳月があった。まず、鳴子、大口、名生定の三村が明治22年(1889年)に合併して「温泉村」となり、それから32年後の大正10年(1921年)、人口9,438人の温泉村が鳴子町と川渡村に分離した。そして温泉村の成立から65年後の昭和29年(1954年)、鳴子町、川渡村、鬼首村が合併し、鳴子町となる歴史をたどった。
芭蕉との関わりから、尿前地区に焦点をあてて旧鳴子町の歴史を見ていくと、当地は、陸奥と出羽の国を結ぶ交通の要所であると同時に、軍事上においても重要な位置を占め、戦国時代の大永年間(1521〜1528年)、栗原、玉造など五郡を領地とした大崎氏は、尿前の「岩手の関」に家臣湯山氏を配置し守りを固めていた。
当時、出羽国で最上、伊達氏らの対立が続いていたことから、その波及を恐れた大崎氏は国境の警備を更に強めるため、「岩手の関」に小屋館の番所を設置し、これを任されたのが遊佐勘解由宜春であった。小屋館は、尿前の西方の山上(岩手の森)、薬師堂跡付近にあったといわれる。
宜春は、関守の勤めの他に、軍事色が濃く集落の構築が難しかった尿前地区にはじめて田畑を開き、一族や手下を居住させて鳴子村の礎を作り上げたことから近世鳴子村の草分けといわれる。
遊佐氏は、大崎氏没落ののち百姓身分になったが、天正19年(1591年)に旧大崎領が伊達政宗の領地となった後も、引き続き国境の警備にあたり、小屋館は、伊達の支配後、「尿前境目」と呼ばれた。
尿前の関
元和年間(1615〜1624年)の末になって、遊佐氏五代但馬宣兼の時に、山上の番所が尿前の遊佐氏屋敷の内に移され、「尿前の関」と呼ばれるようになった。遊佐氏は、八代権右衛門の時まで独力で警備にあたっていたが、寛文10年(1670年)になると、境目の見張りを厳重にする目的から「尿前番所」が設置され、侍身分の役人が取り締まるところとなった。
この背景として挙げられるのが「伊達騒動」であるが、当時の伊達藩にあっては、万治3年(1660年)、不行跡の廉(かど)で三代伊達綱宗が幕府によって隠居を命じられ、これにともない2歳の亀千代(後の綱村)が家督を継いだ。その後、亀千代を後見した伊達兵部少輔宗勝が伊達安芸宗重と藩を二分して対立し、寛文11年(1671年)に原田甲斐の暴挙で幕が引かれるまで、12年間にわたってこの騒動が続いたのである。
厳重警備の「尿前番所」は遊佐氏の屋敷内にあって、出羽街道中山越はこの屋敷の中を貫いていた。裏門と表門には遊佐氏と村人が配置され、夜中は鍵をかけて通行不能にした。付近の約140坪の敷地に、岩出山伊達家の役人が詰める番所が築かれ、中には鉄砲や槍、手錠、首筒が備えられたという。幕末ごろの屋敷は、間口40間、奥行44間、面積1,760坪、周囲は石垣の上に土塀がめぐらされ、屋敷内に、長屋門、役宅、厩、酒蔵、土蔵、板倉など10棟の建物があった。
屋敷周辺には尿前の宿駅が設けられ、人馬の補充や継立が行われた。明治9年(1876年)の「玉造郡地誌」に、尿前の宿駅の規模が「東西一町二十間、南北三十八間、道幅二間乃至二間半。戸数十三戸。人数男三十一人、女四十八人、総計七十九人」とある。岩出山から尿前の間には、他に、下宮、鍛冶谷沢、中山に宿駅があった。
芭蕉と尿前の関
元禄2年(1689年)5月15日(新暦7月1日)、岩出山で一宿した芭蕉は、「道遠ク、難所有之」(曽良随行日記)という理由から、尾花沢までの旅を、急遽、小野田経由から鳴子経由に変更した。このため、通行手形の用意がないまま尿前から中山峠越えを目指すこととなった。
一行は美豆の小島から岩渕まで江合川に添って北上し、岩渕から渡し舟で尿前の岸に到着した。当時の川越えの方法は「綱渡し」で、川の両岸に張った綱を自ら手繰(たぐ)るようにして舟を対岸に渡した。
こうして尿前の関に差し掛かるが、関所の警備は依然として厳しく、手形不携帯の芭蕉と曽良は、取り調べで足止めを食らうところとなった。曽良の随行日記に「断六ヶ敷也。出手形ノ用意可有之也。」と書かれていることから、事情を説明すれば通過できると踏んでいたように見えるが、その実、他国者の出入りに対する取り締まりは相当に厳しいものだった。
なるごの湯より尿前の関にかゝりて、出羽の国に越んとす。此路旅人稀なる所なれば、関守にあやしめられて、漸として関をこす。(おくのほそ道)
鳴子温泉から尿前の関に差しかかって出羽の国へ越えて行こうとした。この道は旅人がめったに通らないので関所の番人に怪しく思われて、ようやく関を越すことができた。
一リ半、尿前。シトマヘヽ取付左ノ方、川向ニ鳴子ノ湯有。沢子ノ御湯成ト云。仙台ノ説也。関所有、断六ヶ敷也。出手形ノ用意可有之也。 (曽良随行日記)
(名生定から)尿前まで一里半。尿前へ取り付く左の方、川向に鳴子の温泉有り。「沢子(佐波古)の御湯」と伝えられる。仙台の説也。関所有り、断(事情を説明しただけでは、通行)六ヶ敷(むずかしき)也。出手形(通行手形)を用意するべき。
尿前の関へ通じた道
中山越の旧道は、国道47号線に役割の大方を譲り、江合川の北側に市道として残っている。鳴子中学校と末澤山洞川院の間を東西に走る道がそれで、末沢、大畑、中屋敷地区を通って西へ延びている。旧道は、川近くで北寄りに迂回して岩渕集落を通り、西詰にある旧家の西側で左に切れる道筋であった。そこから尿前の関の真向かいにあった舟渡しまで300mばかりの道程で、道端に一里塚が築かれていた。現在一里塚は崩されて形跡は無く、旧道は田んぼの中にその姿を隠したが、十基ばかりの古い墓碑を覆い隠すように生えている雑木の木立が、大凡(おおよそ)の中山越の道筋を伝えている。
鳴子温泉郷の歴史
「おくのほそ道」に「なるごの湯」と記された鳴子温泉、総じて鳴子温泉郷の歴史は極めて古く、千年以上前にさかのぼる。「続日本後記」に、平安時代の承和4年(837年)に当地で(火山性の)爆発が発生したことが書かれ、その時の様子が「仁明天皇承知四年癸巳朔申。陸奥国玉造郡の温泉石神。雷響き振動昼夜止まず。温泉河に流れてその色漿(しょう。米を煮た汁)の如し。加うるに以って山焼け、谷塞がり石崩れる。更に新沼を作る。沸く声雷の如し。」と記されている。
温泉神社は各地の温泉場に広く分布しているが、当地では、延喜年間(901〜923年)の「延喜式神名帳」に温泉石神社(川渡温泉)、温泉神社(鳴子温泉)、荒雄川神社(鬼首温泉)の三社が記載され、玉造の湯は、名取(秋保)の湯、飯坂の湯とともに古くから奥州の三名湯として知られ発展した。江戸期に作られた温泉番付「諸国温泉効能鑑」では、東前頭5枚目に鳴子温泉が、同24枚目に川渡温泉があげられている。
玉造の湯の中で最も古いのが川渡温泉で、上の通り「続日本後記」に既に温泉石神社が記されている。明治6年(1873年)の「大口村温泉場毎書上」には、川渡温泉の源泉について「温泉石神社の大石の根合より湧き出で候原泉と唱えおり申し候」とあり、その効用については「第一脚気に即効これあり、そのほか、湿瘡・打撲・金瘡(刀や槍でうけた傷)に奇功御座候義、衆人の能く経験仕る処に御座候。」と記されている。
藩政期、出湯は藩の所有物とされ、「湯守(ゆまもり)」に任命された農民がその管理を任されていたが、川渡温泉においては、庄屋を勤めた藤島氏が藩政初期以来湯守を勤め自らも湯治人宿を営んだ。川渡温泉は鳴子温泉郷の玄関口にあり、平成13年現在、江合川とその支流の築沢川、湯沢川沿いに16軒の宿泊施設が点在している。公民館の東に、平成2年(1990年)に新装された共同「川渡温泉浴場」がある。
玉造の湯の中で次に古いのが鳴子温泉である。温泉は古代から利用され、古事記や日本書記などでも触れられているが、湯治人用の宿泊施設が築かれたのは江戸期になったからと見られ、当地では、寛永9年(1632年)遊佐氏は湯治人宿「遊佐屋(ゆざや)」を創建し、寛政年間(1789〜1801年)に鳴子ではじめて元湯「滝の湯」の湯守に任ぜられた。藩政中期の享保年間(1716〜1736年)になると、遊佐氏の他に「大沼屋(のち源蔵湯)」を営む大沼三郎次と「横屋」の大沼善十郎が湯守に任命され、この三氏による「滝の湯」の管理は幕末まで続けられた。
文政10年(1827年)に書かれた水戸藩士小宮山楓軒の旅日記「浴陸奥温泉記」には、当時の「滝の湯」について「庭後の浴槽に入り試むるに、川渡の熱せる如くにはあらず。よきほどの温泉なり。又宅前に大なる浴室あり。浴槽三つに仕切り、熱・温・冷と分けたり。又懸桶より湯を流し滝の湯と号し、肩背をうたするなり。」と記されている。温泉神社の御神湯を引く「滝の湯」は古から参道の登り口に位置し、現在、共同浴場として地元の人々や観光客に親しまれている。
湯守を勤めた川渡温泉の藤島氏、鳴子温泉の遊佐・両大沼氏が営んだ湯治人宿は代々受け継がれ、藤島氏の宿は「藤島旅館」、遊佐氏の「遊佐屋」は「ゆさや」、両大沼氏については、「源蔵湯」は「鳴子観光ホテル」、「横屋」は「本陣・横屋ホテル」にそれぞれ名を変え、各温泉を代表する老舗旅館・ホテルとして今に伝えられている。
鳴子と源義経
当地の名称が「鳴子」となった謂われは様々に話されるが、火山の噴火で温泉が噴き出したとき、雷のように鳴り響いたことから「鳴郷」といわれ、それが「鳴子」になったという説があるほか、次のように源義経との関わりで語られることがある。
義経が平氏との戦いで数々の功績をあげながら、遂には兄頼朝から追われ平泉に逃げることとなった途次のこと。義経主従に同道した北の方が難所亀割峠で急に産気づき男の子(亀若丸)を産み落としたが、赤ん坊は産声をあげなかった。そこで当地の温泉を産湯に使ったところ、初めて元気な泣き声をあげたので「啼子」と呼ばれるようになり、それがいつしか「鳴子」に変わったという。
また、亀若丸を出産した後の話が次のように展開される場合もある。赤子が泣いて里人に気付かれることを恐れた弁慶は、生まれたばかりの亀若丸の口に手を押しあて、一行の立場をつらつら話し、泣かないように言い諭した。そして、尿前あたりまでたどり着いて出湯を産湯に使ったところ、初めて元気な声で泣いたので「啼子」と呼ばれ・・・、というのである。
さらに、岩手の森にあった薬師堂や「尿前」の地名の起こりについても義経との関わりで語られることがある。上と同じく、義経一行が平泉に向かう途中、岩手の森で北の方が腹痛を訴えた。産後の旅疲れからと大欅(けやき)の根元でしばらく休んでいたが、一向に回復せず困っていたところ、山鳩がイカリ草をくわえて舞い降り、北の方の口に含ませた。すると途端に痛みが治まり、北の方が臥していた跡に、見たことのない薬師如来像が置かれていた。義経はこれを見て、飛び去った山鳩が薬師如来だったのではと思い、弁慶に命じて岩手の森に薬師堂を建てたという。「尿前」の地名については、このとき北の方が苦しみの余り尿をもらしたことを起源とする口碑がある。
このほか、弁慶の福田石、弁慶手もみの道祖神、弁慶石、弁慶森、弁慶の船引きなど、当地には、弁慶に関わる伝説が多くある。 
 
 
秋田県 / 羽後

 

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ひろ前の雪の白木綿(しらゆふ)そのままに 手向(たむく)る高志(こし)の王(おほきみ)の宮
菅江真澄
古四王神社 / 秋田市
古四王神社の社記によると、崇神天皇の御代に四道将軍の一人として北陸道を平定した大彦命が、武神である武甕槌たけみかづち命を、雄物川の河口近くの高清水の岡にまつったのが、齶田浦神あぎたうらのかみであるといふ。斉明四年、大彦命の子孫の阿部あべの比羅夫ひらぶが越国守となり、出羽地方の蝦夷を平定したときに、祖先の大彦命をここに合祀して古四王神社と称し、更に天平五年、坂上田村麻呂将軍が、この岡に出羽柵(秋田城)を移してその根拠地とし、古四王神社を城の鎮護の神となした。戦国時代には秋田城は日之本将軍安東氏の子孫といふ秋田氏の城となった。田村麻呂将軍は境内の田村神社にまつられてゐる。
○ 広前の雪の白木綿そのままに 手向くる高志こしのおほきみの宮 菅江真澄
秋田山形新潟地方などには、「こし王」(古四王、巨四王、越王)の神が広くまつられてゐる。江戸時代に佐竹藩は久保田城に城を移した。古四王神社近くには護国神社が創建された。
錦木 (にしきぎ)
古代の陸奥国(東北地方全域)では、男が女に求婚するとき、一束の薪を毎日女の家の門に立てたといふ。この薪は彩色して飾りたてることから錦木といった。女は、逢ふべき男のものは取り入れるが、さうでない男のものはそのまま置く。男は、千束になるまで、つまり三年続けてだめなら諦めるといふ。
○ 錦木は千束ちつかになりぬ今こそは 人に知られぬ寝屋ねやの内見め
女は、結婚のために、鳥の羽で細布を織って待つ。この布は幅が狭くて短いので、背中は覆ふが前で合せることができず、下着として着るのだといふ。
○ 錦木は立てながらこそ朽ちにけれ 今日の細布胸合はじとや
許されなかった恋のために、三年錦木を積んだ末に自ら命をたった男を葬った塚の中で、女が閉ぢこもって細布を織ってゐるといふ伝説もある。(謡曲・錦木)
○ 錦木のふることしのぶこの夕べ 秋風さむし毛馬内(けまない)の里 入江為守
鹿角市十和田毛馬内のほか、各地に伝承地がある。
田沢湖 / 田沢湖町
○ 吹けや生保内東風おぼねだし 七日も八日も吹けば宝風稲稔る 生保内節
田沢湖町の生保内おぼない地区は、角館から盛岡に至る街道の宿場町として栄え、秋田民謡の中心地ともいふ。県内最古の民謡といはれる生保内節に歌はれる「生保内東風」とは、東の県境の山から吹き下ろす風のことで、夏にはフェーン現象をともなった暑い風となり、高原地帯に稲の稔りをもたらす宝の風なのだといふ。
田沢湖は大昔は小さな泉だったといふ。むかし村の少女たちが春の草を採りに山で遊んだとき、村一番の美しい少女の辰子姫(田鶴たづとも)は、岩陰の小さな泉を見つけて、その水を飲んだ。飲んでも飲んでものどは渇くばかりで、いつしか辰子姫は竜の姿となってゐた。泉に映る自分の姿を見て辰子姫が悲鳴をあげると、その声は雷鳴となって鳴り響き、大雨を降らして、一夜のうちに今の田沢湖が出来たといふ。辰子姫はそのまま田沢湖の主となり、「御座の石神社」にまつられてゐる。
○ わしとお前は田沢の潟よ 深さ知れない御座の石 生保内節
八郎潟の主の八郎太郎が、田沢湖の辰子姫のもとに通ったとき、燃えかけの松明たいまつを湖に落としてしまった。松明はクニマスといふ田沢湖だけに生息する魚となったといふ。
ふき姫 / 秋田市
○ 秋田の国では 雨が降っても唐傘などいらぬ
 手ごろのふきの葉 さらりと差し掛けさっさと出てゆくわい 秋田音頭
むかし秋田の仁井田の里が、まだ深い森で覆はれてゐたころ、村長の家に、ふき姫といふ一人娘があった。ある年、村長は重い病に臥せり、ふき姫は必死の看病を続けてゐたが、病状は一向に良くならなかった。そんなとき、ふき姫は、仁井田の森の泉のことを思ひ出した。あの泉の水は、どんな病にも聞くといふ。しかし森には、女は近づくなといふ掟があったのである。その年の秋の夜、父の病さへ治れば自分はどうなってもよいと、ふき姫は意を決して水瓶を持って森に出かけた。森をさまよひ、やうやく泉を見つけて、ふき姫が水を汲まうとすると、案の定、泉の底から白い大蛇が現はれ、水は渦となって巻き上がり、ふき姫のからだを飲み込んで行った。
その夜、里に大雪が降り、一足早い冬がやって来た。父は行方不明となったふき姫の身を按じてゐたが、病は日を追って快復して行った。やがて春が来て、父が泉を訪れたとき、泉のそばに見慣れた水瓶を見つけて、父は声を上げて泣いたといふ。永く妻を得ることのできなかった白蛇の祟りは、消え去ったのである。
そのとき泉の畔に、雪の中から顔を出した小さな花は、「ふき」と名づけられ、このときから里に春をもたらす花となった。成長した秋田のふきは人の背丈よりも伸び、食用になって村人の餓ゑを癒し、またせき止め、血止めの薬としても他村にも知られるやうになった。
平田篤胤 / 秋田市
国学者の平田篤胤は、晩年に幕府に疎まれ、故郷の秋田藩に帰った。そのころの歌。
○ 張る弓を放ちもあへず秋の田に また立つ足もなき案山子そほどかな 平田篤胤
秋田市の弥高いやたか神社は、秋田藩久保田城の跡地に創建され、平田篤胤と佐藤信淵をまつる。
かまくら / 横手
雄物川中流の横手盆地は、太古には湖であったことが地質学によって証明されるといふ。横手地方を中心に秋田県各地に見られる小正月の子供の行事に、かまくらがある。
○ 城に灯が入りかまくらもともるなり 大野林火
象潟 / 由利郡象潟町
象潟きさかたの海は、かつて「八十八潟、九十九島」といはれ、宮城県の松島に劣らぬ景勝地だったといふが、文化元年(1804)の鳥海山の噴火による大地震で土地が隆起し、島はすべて陸続きとなった。この地にはむかし神功皇后が新羅征伐の帰還のとき、しけに遭って漂着し、土地の小浜宿禰の家に休み、この地で皇子を出産されたともいふ。
○ 象潟や雨に西施せいしがねぶの花 芭蕉 
 

 

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蚶満寺(かんまんじ) / 秋田県にかほ市象潟
かつての景勝地・象潟の蚶満寺は、円仁の創建であるが、それ以前に神功皇后が三韓征伐の途上でシケに遭ってこの地に流れ着き、皇子(後の応神天皇)を出産したという伝承が残されている。安土桃山時代に曹洞宗に改められ、以後、名僧を輩出。また松尾芭蕉をはじめとする文人墨客も多数訪れている。
蚶満寺には“七不思議”と呼ばれるものが存在する。とりわけ有名なものは「夜泣きの椿」と呼ばれるもの。寒中の夜中に花を咲かせ、寺の周辺で凶事が起こる前後に夜泣きするという言い伝えが残る。他には「猿丸大夫姿見の井戸」「弘法投杉」「あがらずの沢」「木登り地蔵」「北条時頼咲かずのツツジ」「血脈授与の木」がある。また七不思議以外にも、島原から移転の際に象潟沖で漂着して置かれたという「親鸞上人腰掛け石」がある。
黒又山(くろまたやま) / 秋田県鹿角市大湯
どこから見ても綺麗な円錐形に見える黒又山は、標高280mの小高い山である。この整った形であるが故に、この山は日本の超古代史におけるピラミッドの一つであると言われている。
黒又山は地元では「クロマンタ」と呼ばれている。この名前の由来であるが、一説ではアイヌの言葉で“神々のオアシス”という意味の“クルマッタ”が転訛したとされる。またこの山は昔“クルマンタ”と呼ばれており、やはり“クル”は「神」を意味し、“マンタ”は「野」を意味する“マクタ”が訛ったものとも言われる。いずれにせよ、神聖視された山であると考えてよいかもしれない。
この山は平成4年(1992年)に黒又山総合調査団によって学術調査がおこなわれた。その結果、この山は現在土に覆われているが、麓から山頂までが7〜10段の階層を持った人工物であることが分かった。さらに山頂の地下10mの部分に空洞があり、何者かを埋葬している可能性が高いことも明らかになった。つまり、この形状は中南米に見られる階段型ピラミッドを彷彿させるものであり、日本における人工的なピラミッドの存在を裏付けるものと言えるかもしれない。
さらにこの山の周辺には、大湯環状列石をはじめとする遺跡や古社が多くあり、これらの多くは黒又山を中心として正確に東西南北の方角に位置していたり、また夏至や冬至の日の出・日の入りの方角にあることが判っている。少なくとも、この黒又山を中心に据えた祭祀システムがあったと推測できるだろう。 
小町堂(こまちどう) / 秋田県湯沢市小野
小野小町の出自については諸説あり、全国各地にその生誕地や死没地(墓碑)が存在する。その中でも有力な出身地として挙げられるのが、出羽国の小野である。
小野篁の息子である小野良真が出羽郡司として赴任中に、地元の娘との間に出来たのが小町であり、13歳まで出羽の小野で過ごしたとされる。その後に都に上り、約20年間宮中の女官として務め、再び故郷へ戻ったと言われる。最終的に出羽における小町は92歳で没するまでこの地に留まり、その霊を祀るために建てられたのが小町堂である。またその周辺には、小町ゆかりの寺院や岩屋が存在する。
この小野の地にも小町にまつわる伝承が残されている。小町の後を追って都から来たのが深草少将であり、その求愛に対して小町は100日間芍薬を1株ずつ植えてくれれば受け入れるとした。しかし少将は最後の日に増水した川に転落して亡くなってしまったという。 
与次郎稲荷神社(よじろういなりじんじゃ) / 秋田県秋田市千秋公園内
関ヶ原の戦いにおいて旗色不鮮明であった、常陸の大名・佐竹義宣は慶長7年(1602年)に秋田に転封となった。その時に築かれたのが久保田城である。
築城が始まってから、義宣の許を訪れたのは大きな白狐であった。今度の城造りによって自分達の住処がなくなってしまう。新しい住処を与えてくれるならば殿のお役に立とう、と言う。ならばと義宣は、城内の茶園のそばに住処を与えた。
それからこの狐は「茶園守の与次郎」と呼ばれ、佐竹家の飛脚となって秋田と江戸を6日間で往復して、重宝された。しかしその働きは長く続かず、山形の六田村(現・東根市)で狐と見破られた上、罠を仕掛けられ殺されてしまった(現在でも東根市には與次郎稲荷神社があり、その死についていくつかの話が残されている)。この死を哀れんだ義宣は城内に祠を建て与次郎狐を祀ったのである。  
生保内節1
吹けや生保内東風(おぼねだし) 七日も八日も(ハイ)
吹けば宝風 ノオ 稲みのる(ハイ キタサッサ キタサ)
俺(わし)とお前は田沢の潟よ 深さ計(し)れない 五座の石
お前好きだて 親なげらりょか 金で買われぬ 親じゃもの
そだばそだほど そだ振りするな そでねたて 世間はそだと言う
生保内節2
吹けや生保内東風 七日も八日もハイ ハイ
吹けば宝風 ノオ稲みのる ハイーキターサッサーキターサ
吹けや生保内東風 秋吹くならば 黄金波打つ ノオ前田圃
生保内東風なら ひがたの風よ そよりそよりと ノオ湯のかおり
わしとお前は 田沢の潟よ 深さ知れない ノオ御座の石
とろりとろりと 沖行く舟は 十七招けば ノオ岸による
前の田沢湖 鏡において 雪で化粧する ノオ駒ヶ岳
風の模様で 別れていても 末にまとまる ノオ糸柳
上を見てさえ 限りはないと 下を見て咲く ノオ藤の花
戦前まで土地から外へは余りでなかった。その頃は生保内<おほないぁ>だしと呼んで、今よりずっと素朴さをおびた唄だった。生保内は昔から岩手や鹿角に通う道筋の宿場だったので、いろいろな唄に何かの関わり合いが無かったものかどうか、古い歌詞には他所からの借物らしい気配がないので、地元発生説もこのまま素直に受け止められているようだ。 
正調生保内節
吹けや生保内東風 七日も八日もハイ ハイ
吹けば宝風ノオ稲みのる コイ コイ コイ コイト
ドドと鳴る瀬に 絹機織立てて 波に織らせてノオ瀬にきせる
雨はどんどと 雨戸にさわる 心まよわすノオ南風
生保内乗り出し 角館越えて 駒よ急げよノオ久保田まで
一度二度なら 褄折り笠よ 三度笠ならノオ深くなる
葦を束ねて 降るよな雨に 通い来るのをノオ帰さりょか
「正調」と名ずけた生保内節が歌い出されたのは、昭和40年代のことで、秋田民謡が一応唄い尽くされたと思われ始めた時、プロの歌い手が生保内地方の保存会で唄っている昔唄を真似「正調生保内節」と名付けて唄い広めた事による。昔唄は戦前までは、「生保内だし<おぼないぁだし>」と呼ばれ、民間では酒盛りの時の手叩き節、夏祭りなどでは鳴り物と一処に手踊りの伴奏唄だった。 
長者の山
盛り盛るとハイハイ 長者の山盛るナーハイハイ
盛る長者の山 サアサ末永くナー ハイーキターサッサーキタサ
山さ野火つく 沢まで焼けたナー なんぼかわらびコ サアサほけるやらナー
さんか深山の さなづらぶどうもナー わけのない木に サアサからまらぬナー
山で切る木は いくらもあれどナー 思い切る気は サアサ更にないナー
忘れ草とて 植えては見たがナー 思い出すよな サアサ花が咲くナー
さんか深山の 御殿の桜ナー 枝は七枝 サアサ八重に咲くナー
たとえ山中 三軒家でもナー 住めば都の サアサ風が吹くナー
高音と低音の巾が狭く節に特別な技巧が凝らされていないので歌いやすい唄の一つである。この唄にまつわる伝承では、奥羽山麓を岩手県から秋田県鹿角に通う通路の宿駅「宝仙台」辺りの長者(地主)を讃えた唄と伝えられている。この唄は、「長者」の名の通り祝い唄で、元唄には「盛るナ〜・末永くナ〜」という「ナ〜」が付けられていない。「ほけるやら」は呆けるで、よく伸びる。「さんか深山」は山奥。「さなずら」は山ぶどうの事で、「わけのない木に、サアサからまらぬ」は、男女の関わり合いを表す。「長者の山」は、素朴さの籠るさりげない唄い方が適している。 
秋田おばこ節
おばこナーハイ ハイ 何んぼになるハイ ハイ
此の年暮らせば 十と七つ ハァーオイサカサッサー オバコダ オバコダ
十七ナー おばこなら 何しに花コなど 咲かねどな
咲けばナー 実もやなる 咲かねば日陰の 色もみじ
おばこナー どこさ行く 裏の小山コさ ほんなこ折りに
ほなコナー 若いとて こだしコ枕コに 沢なりに
おばこナー 居るかやと 裏の小窓から のぞいて見たば
おばこナー 居もやせで 用のない婆様など 糸車
元唄が山形県の「庄内おばこ」で、馬産地を巡り歩いた庄内馬喰が運び込んだとされている。昔唄は雄物川の支流玉川沿いの地域を上流から「玉川おばこ」「田沢おばこ」「生保内おばこ」、玉川の支流桧木内川沿いに「桧木内おばこ」「西明寺おばこ」とと呼ばれ乍ら平野部に入って「仙代おばこ」となり、この地出身の歌い手佐藤貞子がそれを一部改作して全国に唄い広めたのが、今「秋田おばこ」の元唄である。この唄も他の「仙北民謡」と呼ばれる唄と同様に、踊りを見せる為に唄われた唄だったから、昔唄が改作されて所謂「貞子節」になってからも、唄い手の気っぷそのままに早いテンポで弾んだ唄い方をした。
秋田船方節
ハァーヤッショ ヤッショ
ハァーハァーヤッショ ヤッショ
三十五反のハァーヤッショ ヤッショ
帆を巻き上げて
ハァーヤッショ ヤッショ
鳥も通わぬ 沖はしる  その時時化に 遇うたなら
ハァーヤッショ ヤッショ
綱も錨も 手につかぬ 今度船乗り やめよかと
ハァーヤッショ ヤッショ
とは云うものの 港入り 上がりてあの娘の顔見れば
ハァーヤッショ ヤッショ
辛い 船乗り 一生末代  孫子の代まで やめられぬ
ハァーヤッショ ヤッショ
今唄われている「秋田船方節」の元唄は「船川節」だと言われている。山陰島根の「出雲節」が北に運ばれ各地に船唄、船方節となって定着したと伝えられているが、これ等の唄に共通な「三十五反の帆を巻き上げて」という歌詞などでも其の間の消息を知る事が出来そうだ。この唄を今の形に纏めあげたのは、この地域出身の森八千代で独特の節廻しで公演したのが、大正の末期から昭和年代へかけての事である。 
本荘追分
キターサー キターサ ハァー本荘キターサ ハァー名物ハイ ハイ
ハァー焼山のハイ ハイ ハァーわらびヨー
キターサー キターサ 焼けば焼く程ハイ ハイ ハァー太くなる
キターサー キターサ
ハァーあちらこちらに 野火つく頃は 梅も桜も 共に咲く
ハァー出羽の富士見て 流るる筏 つけば本荘で 上り酒
ハァー江戸で関とる 本荘の米は おらが在所の 田で育つ
ハァー鈴の音たよりに 峠を越せば 恋し本荘は おぼろ月
ハァー本荘名物 焼山のわらび 小首かしげて 思案する
ハァー本荘追分 聞かせておいて 生きた肴を 食わせたい  
「本荘追分」は「信濃追分」が変化したものと言われている。信濃(長野県)とは建保元年(1213年)頃より交流が深く北前船の寄港によって「馬子唄」「追分節」などが入り定着したものといわれている。この唄も馬を引いて山坂を越える道中でうたわれたと言われ、古い歌詞には殆ど山にちなんだ歌詞が多く、現在の歌詞は大正11年に地元の鳥海新報が第1回募集し、大正14年に第2回目を募集している。また、本来道中歌から山の歌そして酒盛り歌、座敷歌になったものなので、歌詞も多様になり、旋律・拍子も明るく、はずむ調子が特徴である。時代により、また地方によっていろいろな歌い方があり、十人十色それが民謡の特徴でもあろう。
秋田馬子唄
ハイーハイ ハァーあべやハイハァーこの馬ハイ
急げや川原毛ハイーハイ
ハァー西のハイハァーお山にハイ アリャ陽が暮れるハイーハイ
辛いものだよ 馬喰の夜道 七日七夜も アリャ長手綱
一人淋しや 馬喰の夜道 後にくつわの アリャ音ばかり
さらば行くよと 手綱を曵けば 馬も嘶く アリャ鈴も鳴る
峠三里の 山坂道を 青馬よ辛かろう アリャ重たかろう  
「秋田馬子唄」の「秋田」は他の地域の唄とまぎらわしいから付けた名前で、「馬方・駒日曳き」など、馬に関する一連の道中唄である。東北は古くから馬産地として知られ、こうした地域を往復した人々が、違った地域の唄を持ち歩いたことで交配が行われ、これが定着してある年代が経って漸く土地の唄になったらしく、歌詞・節共にそれらしい匂いを濃くしているものが多い。馬子唄の「馬子」、馬方節の「馬方」について見解を述べた人がいたが、念のため辞典を引いてみたら「馬方」は、馬で荷物を運んで暮らしを立てている人。「馬子」は単に「馬方・馬曳き」となっており同意語として扱われていた。荷物を運ぶ馬子にしろ、馬の体列を追う馬方にしろ、山道、夜道をかけずる人々に関わる馬曳き唄には皆一沫の哀愁が感じられる。
秋田追分
(○前唄) (本唄) (○後唄)
○ソイーソイ 
春の花見はソイ千秋公園 キタサノサーアーソイ 夏はソイ象潟 男鹿島かソイーソイ
  秋は田沢かソイ 十和田の紅葉ネアーソイ 冬はソイ大湯か 大滝かソイーソイ
ソイーソイ 
太平のソイ山の上からソイ はるかにソイ見ればソイーソイ
  水澄みソイみなぎるソイ 八郎潟ソイーソイ
○誰が待つやらソイきみまち坂よネソイ 主とソイ二人で 抱き返りソイーソイ
(「秋田追分」の創始者である鳥井森鈴が当時好んで唄った自作の歌詞)
○別れて今さら 未練じゃないが 気にかかる 主は何処で 暮らすやら
  雨の降る日も 風吹く夜さもネ 想い出しては 忍び泣き
まとまるものなら まとめておくれ 嫌で別れた 仲じゃない
○何卒 何卒 叶わせ給えネ 御礼詣りは 二人連れ
○花はよけれど ちと木が若いキタサノサ〜 折らせぬ心でなけれども 
  つぼみ心でまだ恥ずかしやネ  咲いたら折らんせ いく枝も
のぼる朝日の まことに惚れて 笑い染めたる梅の花
○春のやよえに 啼く鶯はネ  梅の木恋しさに啼くであろう 
「秋田追分」の元唄は周辺地域で唄われていた「在郷追分」だったと言う。当時秋田には県南部にかけて「追分2」という同巧の唄が残っており「在郷追分」もその類だったと思う。明治32年に秋田県の五城目町の農家に生まれた「鳥井森鈴」は、子供の頃から唄が好きで家人に隠れて唄い歩いた言うが、これを世に問うたのは大正14年代の事だった。「秋田追分」が発表された時は、すでに固定している追分のイメージを損なうものとして、紛い物扱いを受けた一時期があり、納得させるには時間がかかった。
秋田おはら節
ハァーサーサダシタガ アヨーエ
ハァー野越え山越え 深山越え
あの山越えれば紅葉山 紅葉の下には鹿がおる
鹿がホロホロ 泣いておる 鹿さん鹿さん 何故なくの
ハァー私の泣くのは ほかじゃない
はるか向こうの 木の陰に
六尺あまりの狩人が 五尺二寸の鉄砲かつぎ
前には赤毛の 犬をつれ 後ろに黒毛の 犬つれて
ハァーあれにうたれて 死んだなら
死ぬるこの身はいとはねど 後に残りし 妻や子が
どうして月日を送るやら 思えば涙がおはら先にたつ  
唄の題名の上に「秋田」「津軽」等と地域の名前を被せたのは、他にも同じ題名があって紛らわしい事や、自分好みの節で唄い変えた場合が多い。「秋田おはら節」と言うこの唄も、もともとは明治末期から大正初期にかけて唄われた「津軽おわら」の焼き直しと思って間違いなさそうだ。今は他所者では真似のできないほど手の込んだ津軽の唄も、当時はもっと節回しが楽で、器用な人なら見様見真似でも唄って唄えない事のない唄だった。秋田には津軽ものを唄う門付けはあまり廻って来なかったので、また聞きで覚えた職人などが唄ったものを聞いて津軽の唄を知るきっかけを得たという人もいる。この唄を今の「秋田おはら節」として唄い広めたのは、秋田市在住の村岡一二三さんで、彼の女に浪曲の素養があったせいもあってか、独特の「語り調」が、この唄の聞かせ処になっている。
おこさ節
啼くな鶏 まだ夜が明けぬネ アラ オコサノサ
明けりゃお寺のコーラヤ コラ鐘が鳴るヨ
オコサデ オコサデ ホントダネ
お前来るかと 一升買って待ってたネ あまり来ないのでコーラヤ コラ呑んで待ってたヨ
お酒飲む人 花なら蕾みネ 今日も酒 酒コーラヤ コラ明日も酒ヨ
俺とお前は 羽織のひもこネ 固く結んでコーラヤ コラ胸におくヨ
恋の古きず お医者はないかネ 何故か今夜はコーラヤ コラ痛み出すヨ
おこさおこさと 皆さま唄うネ おこさ唄ってコーラヤ コラ立ちあがれヨ  
秋田でこの唄が唄いわれ出したのは終戦まもなくの事、敗戦の苦しい想いを紛らわそうという酒の席で誰かが唄い出したのにつらけて、つい皿、小鉢を叩いて唱和し合ったこの唄は未だ国籍不明のままである。世の中が落ち着いてくると、地元では唄われなくなり出した頃、他所の地域の人々が秋田の唄と思い込んで唄うようになった、勿論も元唄の出所等詮索されないままに。何しろ調子がいい、節回しも民謡調の小節が入っている、その上歌詞ときたら人を小馬鹿にしたような落ちまで付いている。唄っていると友達をひっかけた歌詞を自分でも作れそうなこの唄、正に「スーダラ節」秋田版とでも言うべき愉快な騒ぎ唄である。
三吉節
ジョヤサー ジョヤサー 私しゃ太平三吉の子どもジョヤサー
人に押し負け 大嫌い ジョヤサー ジョヤサー
今日は目出度い 三吉の祭り ジョヤサージョヤサの 人の波
太平山の一の鳥居に 蛙が登る 明日の天気は 雨となる
伊勢に七度 荒野に八度 出羽の三吉に 月詣り  
秋田市赤沼の三吉神社、秋田市太平の木曽石神社に梵天奉納の唄で、元唄は「ほうさ節」とも言った。「ほうさ節」とは「保呂羽山節」のなまりだと思われる。出羽丘陵にある保呂羽山波宇志別神社にまつわる唄で、秋田市太平出身の秋田民謡界の草分けとも云うべき故田中誠月氏が度々お詣りに行き、聞き覚えたものものを編曲したものである 。
秋田草刈り唄
朝の出かけに どの山見ても 霧のかからぬ アリャ山はない
俺とお前は 草刈り仲間 草もないない アリャ七めぐり
田舎なれども 俺が里は 西も東も アリャ金の山
峰の白百合 揺れたと見たら 草刈るおばこの アリャ頬かむり
馬よ喜べ どの山見ても 今年ゃ馬草の アリャ当たり年  
秋田草刈唄は、主に県南の仙北、平鹿、由利地方でうたわれ、刈り草を運搬するのに馬を使ったことから、馬方節や馬子唄などの一連の馬曳き唄と関連しており、歌詞も共通のムードがありお互いが身近な関係にあったことは推測される。昭和28年この元唄を発掘した由利郡象潟町(現在:にかほ市象潟)の故 今野健さんが新しくアレンジし「秋田草刈唄」と名付けた。
鹿角綱より唄
サーテバナー デッキデキテバ バッキバキ
よれた よれたよハァヨイショ
綱よりよれたハァヨイショ綱がよれねで人よれた
サーテバナー デッキデキテバ バッキバキ
よれた よれたよ みごとな綱が 此の家御亭主に 納めおく
目出度 目出度の 重なる時はよ 天の岩戸も おし開く
一に嫁取り 二に孫見ればよ 三に黄金の 蔵を見る
目出度 嬉しや 思うこと叶たよ 稲に鶴亀 五葉の松
此の家旦那様 お名前なんと 倉は九つ 倉之助
田舎なれども 鹿角の里は 西も東も 金の山
門に立てたる 祝いの松に かかる白雪 みな黄金
唄え唄えと わしばりせめる 唄が出なくて 汗がでる
綱よりの仕事に専用の唄が付くのはこの地方独特のもので、家の新築や家床(やどこ)の時唄われた唄である。 
秋田長持唄
蝶よナーヨー花よとヨーハーヤレヤレ
育てた娘 今日はナーヨー 他人のヨー オヤ手に渡すナーエー
さあさお立ちだ お名残おしや 今度来る時ゃ 孫つれて
傘を手に持ち さらばと言うて 重ね重ねの いとまごい
故郷恋しと 思うな娘 故郷当座の 仮の宿
箪笥長持 七棹八棹 あとの荷物は 馬で来る  
この唄は題名通り婚礼の時に唄ほれる祝い唄である。「長持唄」は婚礼と言うめでたい行事の祝い唄であるにも係わらず。嫁の門出が「暇乞い」という「惜別の情」を唄う哀調の唄になり過ぎたのは一考を要することで、唄それぞれの持つ内容に従って唄い分ける方がいいと思う。 ここに記載した歌詞は、嫁が家を出るときの歌詞で、長持ち唄の代表的な歌詞として唄われているが、この他にも、行列が通る途中の「道中唄」や嫁家に着いた時の「納めの唄」、「箪笥担ぎ唄」などいろいろあって、その場その場の歌詞で唄う。長持唄が全て哀調一色で唄ったら祝いの忌み事「お涙頂戴」になってしまうだろう。地域の事情を知らない方は、間違わないよう歌詞をよく理解してほしい。
ドンパン節
ドンドンパンパン ドンパンパン
ドンドンパンパン ドンパンパン
ドドパパ ドドパパ ドンパンパン
姉山さ行くか 行かねがや 今蕨っコ さかりだ
酒屋の本当の え〜どころ 一ふくベッコ しょっかけて
自慢コ言うなら 負けないぞ 米コが本場で 酒本場
秋田の蕗なら 日本一 小野の小町の 出たところ
唄コ聞くなら 黙って聞け 上手もあれば 下手もある
お前方こさ来て唄ってみれ なかなか思うようにゃ いかねもだ
朝まに起きれば 飲みたがる 戸棚の隅ッコさ 手コ入れて
あっちこっち見ながら 笑い顔  茶わんで五六杯も 知らぬ顔
おら家のオヤジは ハゲ頭 隣のオヤジも ハゲ頭
ハゲとハゲが喧嘩して どちらも毛が(怪我)無く 良かったな
この唄は明治の中期に作られ、秋田県南の仙北地方で唄われ、作者の名前を付けて「円満蔵甚句」と呼ばれていたと言う。元唄は南部の「どどさい節」とも言われ、また「仙北甚句」をアレンジしたものだとも。 
 
山形県 / 羽前

 

北海道青森岩手宮城秋田山形福島

たぐひなき思ひ出羽いではの桜かな、うす紅くれなゐの花のにほひは 西行
出羽三山 鳥海山
推古天皇元年、暗殺された崇峻天皇の皇子・蜂子皇子(能除太子)が、大和を出て出羽国の海岸に着くと、三本足の巨大な怪鳥が飛来して、皇子をわしづかみにして羽黒山に導いた。羽黒山は蜂子皇子によって開かれ、皇子は続いて月山と湯殿山をも開山したといふ。出羽三山は特に平安時代ごろから修験道の霊地として栄えた。現在は出羽三山神社といひ、出羽神社(いではの神)、月山神社(月読命)、湯殿山神社(大山祇命)から成る。
○ 涼しさや、ほの三か月の羽黒山 羽黒山にて芭蕉
○ 雲の峰、いくつくづれて月の山 月山にて 芭蕉
○ 語られぬ湯殿にぬらす袂かな 湯殿山にて芭蕉
○ やうやくに年老いむとして吾は来ぬ 湯殿山羽黒山月読の山 斎藤茂吉
室町初期頃までは、出羽山、月山、鳥海山(秋田県境)を出羽三山といったこともあるらしい。鳥海山はたびたびの噴火を繰り返し、貞観十三年(871)には、噴火で流出した溶岩泥流の中から、大蛇二匹と無数の小蛇が現はれたといふ。鳥海山には出羽国一宮の大物忌おほものいみ神社がまつられ、番楽と称する舞楽がある。
○ とりのみの山のふもとに居りと思ふ 心しづけし獅子笛聞けば 釈迢空(折口信夫・号)
立石寺(山形市山寺)〜二口峠〜うやむやの関
○ 閑さや岩にしみ入る蝉の声 芭蕉
芭蕉が有名な句を詠んだ山寺から仙台方面へ抜ける二口峠付近は、全国のマタギの元祖といはれる磐司と万二郎のゆかりの地である。二人は日光の生れの猟師で、あるとき白鹿を追ったがなかなか射ることができなかった。この白鹿は、実は二荒山の神の化身で、赤城山のムカデに攻められて苦しんでゐることがわかると、二人は赤城山に行ってムカデを退治してみせた。これにより、二荒の神から諸国の山で狩りをすることを許された二人は、奥州の二口峠に住んだといふ。マタギには日光派のほかに高野派もあるといふ。
二口峠の少し南の笹谷峠の近くに、うやむやの関があった。むやむやの関ともいふ。
○ もののふの出るさ入るさに枝折しをりする とやとやとりのむやむやの関
「枝折」とは、榊の枝などを折って峠の神に手向け、行く手の安全を祈るもの。
大沼の浮島 / 西村山郡朝日町
白鳳のころ、役えんの小角をづのが、大沼(朝日町)の浮島が沼の上を浮遊するさまを見て、ほとりに浮島宮うきしまのみやを建てた。これが今の浮島稲荷神社で、雨乞の神などとして信仰される。
○ 祈りつつ名をこそ頼め道の奥に 沈めたまふな浮島の神 橘為仲
阿古耶の松 / 山形市千歳山
みちのく信夫しのぶ(福島県)の領主の藤原豊充に、阿古耶姫といふ娘があった。ある夜、姫が琴を奏でると、どこからか笛の音が聞こえてきた。笛の主は、名取なとり左衛門太郎と名告る若者で、その日から二人は、毎日の逢瀬を重ねるやうになった。ある日、太郎は「自分は出羽国の最上の浦の平清水の老松の精である」と言ひ残して去ってしまった。
そのころ、名取川(宮城県)の洪水で橋が流され、村人は架け替への材木に困ってゐた。占者の占ひによると、出羽の平清水の老松を用ゐれば二度と流されることはないといふ。そこで大勢で出かけて老松を切り倒しはしたが、老松はなかなか動かせなかった。村長が神のお告げを乞ふと、「みちのく信夫の阿古耶姫といふ者が来れば動くだらう」といふ。さっそく使を遣って姫を招くと、姫は変はり果てた老松の上で泣き伏したといふ。
やがて橋が完成すると、姫は老松を偲んで切株のそばに若松を植ゑ、庵をいとなんで老松の霊をとむらった。その松が育って、千歳山を覆ふ松となり、庵は今の万松寺(山形市滝沢)のもとになったといふ。
○ 消えし世の跡問ふ松の末かけて 名のみ千歳の秋の月影 阿古耶姫
○ みちのくの阿古耶の松に木隠こ がくれて出でたる月の出でやらぬかな 夫木抄
長徳の頃、阿古耶の松を捜し尋ねた藤原実方(宮城県笠島の項参照)の娘、中将姫は、父の死を知り、父に代はって阿古耶の松を捜す旅に出た。やうやく千歳山の麓に至ったが、ふと小川の水に我が身を映して見ると、長旅にやつれた自分の姿に嘆くばかりだった。
○ いかにせん映る姿はつくも髪 わが面影は恥しの川 中将姫
万松寺には、姫の建てた実方の墓と、姫自身の墓もある。
春雨庵の山乃井の水、沢庵禅師上山市
寛永六年、紫衣事件に連座して徳川幕府によって京都大徳寺を追はれた沢庵禅師は、出羽国に配流の身となった。とはいへ上山城主・土岐氏の厚遇により、特に不自由な生活を強ひられたといふわけではなかった。山里の春雨庵と名づけた庵で、茶や歌に親しみつつひっそりと暮らした。この庵に山乃井といふ井戸があり、マサといふ名の里の娘がよく水汲みに来た。時折り娘が届けてくれる里の花や、彼岸のときのおはぎや、また村里の話題は、老僧のなぐさめであった。ある時期から娘がさっぱりこなくなったので、人に尋ねてみたら、どこぞの村へ嫁いで行ったといふ。三年の配流を終へて春雨庵を去るときの沢庵禅師の歌。
○ 浅くともよしやまた汲む人もあらば われに事足る山乃井の水 沢庵
小野小町 / 山形県米沢市 小野川温泉
むかし小野小町は、京から陸奥へ下向した父を探し尋ねて、自ら旅に出た。長旅に疲れ、どうにか陸奥国へ入って、吾妻川の水に顔を映して見ると、京で一番といはれた美貌は跡形もなく失せ、小町はそのまま重い病に伏せってしまった。ある夜の夢に老婆が現はれ、老婆の教へのままに小町が近くの土を掘ると、湯が湧き出てきた。この湯を飲み、また湯につかり、小町は元の美貌をとりもどしたといふ。小町は老婆が薬師さまの化身であると悟り、温泉の近くに薬師堂を建てた。ある日この温泉で小町は、歌を歌った。
○ 立ち別れ都の空を後に見て 何処(いづこ)を宿と定むものかは 小野小町
するとこれを聞いた湯治客の男が突然泣き出し、その男が父であることがわかったといふ。
庄内おばこ(をばこ) / 酒田市ほか
○ おばこ来るかやと田んぼの外れまで出て見たば
 おばこ来もせで用のない煙草売りなどふれて来る 庄内おばこ
庄内地方の民謡の庄内おばこは、歌詞が二つの部分からなり、問答の形式になってゐて、歌垣の形式を伝へるものといへる。「おばこ」とは方言で若い娘の意味。
袖の浦 / 酒田
酒田港は、袖の浦ともいひ、最上川の河口にあたり、日本海有数の港として近世まで繁栄を極めた。
○ 白妙の袖の浦浪よるよるに もろこし船や漕ぎ渡るらむ 家定 夫木抄
○ 人をのみこふの湊に寄る波は 袖をのみこそ打ち濡らしけれ 夫木抄
右の「こふ」とは恋ふと国府をかけたもので、港の東に出羽国府があった。
最上川
山形県を貫いて流れる最上川は、古代から水運に利用された。
○ 最上川のぼればくだる鯔舟(いなぶね)の いなにはあらずこの月ばかり 古今集
鯔は海と川を往復し、また成長の段階で呼び名の変る出世魚で、大きくなるとボラ、最大のものはトド(「とどのつまり」のトド)といふ。
最上川は清川の合流するあたりが狭い峡谷となってゐて、最上峡といふ。
○ 五月雨をあつめて早し最上川 芭蕉
むかし平泉へ落ち延びてゆく源義経の一行が、船でこの峡谷を行くと、滝が見えたので、北の方が詠んだ。
○ 最上川瀬々の岩波せきとめよ 寄らでぞ通る白糸の滝 
 

 

北海道青森岩手宮城秋田山形福島

出羽 / 出羽の国。現在の山形県と秋田県の大部分をさす国名。
遠く修行し侍りけるに、象潟と申所にて
○ 松島や雄島の磯も何ならずただきさがたの秋の夜の月
遥かなる所にこもりて、都なりける人のもとへ、月のころ遣しける
○ 月のみやうはの空なるかたみにて思ひも出でば心通はむ
又の年の三月に、出羽の國に越えて、たきの山と申す山寺に侍りける、櫻の常よりも薄紅の色こき花にて、なみたてりけるを、寺の人々も見興じければ
○ たぐひなき思ひいではの櫻かな薄紅の花のにほひは
おなじ旅にて
○ 風あらき柴のいほりは常よりも寢覺ぞものはかなしかりける
○ 最上川つなでひくともいな舟のしばしがほどはいかりおろさむ 崇徳院
○ つよくひく綱手と見せよもがみ川その稻舟のいかりをさめて
○ あはれいかにゆたかに月をながむらむ八十島めぐるあまの釣舟
「たきの山」山形市。医王山瀧山寺があったという。蔵王の西北に位置する。行基創建。慈覚大師の再興。桜の種類は「香山桜」というそうです。
「最上川」山形県を貫流する川。急流として有名。
「象潟」秋田県由利郡象潟町。「奥の細道」によって有名になった名所。能因が住んだという島は1804年の地震によって地続きになったようです。この歌は西行作ではないとみられています。
「松島」「雄島」松島は日本三景の一つ。宮城県松島町。雄島は松島湾にあり、「松島や雄島の磯・・・」という詠みかたをされている。
「八十島」八十島は出羽の歌枕。ただし、陸奥の歌枕と書かれた書物もあります。この歌の場合は単なる「多くの島々」という意味か?。 
最上町と「蚤虱」
最上町は山形県の東北部に位置し、東は宮城県、北部でわずかに秋田県に隣接し、山形県内においては、新庄市、舟形町、尾花沢市と接している。昭和29年(1954年)に、東小国村と西小国村が合併し現在の町制が敷かれた。「小国」は、周囲が大小の山々で囲まれ、さながら一国を形作るようなこの地形に由来している。
小国の地は、戦国時代、細川氏兄弟によって治められていたが、山形城主・最上氏に背いたため、天正8年(1580年)「万騎の原」で滅ぼされ、その後、最上家家臣・小国日向守光忠が小国八千石を支配したものの、元和8年(1622年)の最上家改易にともなって領地を没収され、以降、新庄藩戸部氏が所領した。
近世の新庄領小国郷は、仙台藩伊達領や寛永11年(1634年)に徳川将軍家直轄領となった尾花沢、秋田藩佐竹領に隣接していたことから、新庄藩にとっては、軍事・交通の両面で重要な地域であった。
堺田と「封人の家」
出羽街道中山越における新庄領と伊達領の境目については、明確な線引きが行われていなかった為に、富沢村(山形県)と中山村(宮城県)との間でしばしば領地争いが生じた。この争いは幕府に仲裁を仰ぐ事態にまで発展し、正保2年(1645年)境界を二村間を流れる大谷川にする約定を取り交わし和解した。こうして大谷川の端に「境分杭」が立てられ国境の目印となった。曽良は、この杭を「境杭有」と日記に記している。この境目は今日も行政区域上の境界となっている。
堺田村は、このころに「仙台江之道筋二而、駅場無之候而ハ甚不都合二付別村二相立」(新庄図書館「御申送書」)という新庄藩の事情により、宿駅や国境警備のために富沢村から独立した村である。
堺田村では、村の庄屋が境を守備する役人に就き問屋役を兼務した。芭蕉が元禄2年(1689年)5月15日(新暦7月1日)から3日間逗留した家は、こうした役割の庄屋・有路家であった。早坂忠雄著「芭蕉と出羽路」によれば、有路家の祖先は延沢(尾花沢市)の霧山城主であった延沢家の家臣・有路小三郎の一族で、小三郎は元和8年(1622年)に没したが、有路家はそれ以前に堺田に帰農していたという。国境を守る人を「封人(ほうじん)」といったことから、芭蕉は止宿した有路家を「封人の家」と呼び、「おくのほそ道」に次のように記している。
大山をのぼつて日既暮ければ、封人の家を見かけて舎を求む。三日風雨あれて、よしなき山中に逗留す。
文化庁が江戸時代初期に既に建てられていたと推定している旧有路家住宅は、昭和44年(1969年)に重要文化財に指定され、昭和46年(1971年)6月から2年9ヶ月の歳月をかけて解体・復元工事が行われた。堺田村は新庄藩の保護・奨励のもと馬産地として発展し、有路家もこの大型民家で常時、数頭の母子馬を飼っていたと言われる。
「蚤虱馬の尿する枕もと」の句
封人の家には一宿の思いで宿を求めたものの、あいにくの雨で翌日の出立を見送り、都合3日間の逗留となった。その間、芭蕉は何をするでもなく時間を過ごし、時おり囲炉裏ばたに姿を見せたりしたのだろう。そうした中、芭蕉の心を強く捉えたのが馬屋(まや)の馬たちだったように察せられる。人馬が一つ家で寝食をともにする生活環境は、この道中で更に馬と因縁を深めた芭蕉にとって大変に興味深く、何度となく馬屋に足を運び、別れを辛くするほどに小馬や母馬と慣れ親しんだように思われる。
こうした中から「蚤虱」の句が生まれたものとして、「蚤や虱に悩まされる旅寝ではあるが、人と住まいを共にする習いの中、馬が枕もとで小便をするというのも心安く趣があるものだ」などと解釈すれば、芭蕉が次のように第二句に何度か推敲の手を入れ、馬たちへの思い入れを漂わせているのも頷ける。
○ 蚤虱 馬のばりこく まくらもと(伊藤風国編「泊船集」)
○ 蚤虱 馬の尿(バリ)つく 枕もと(支考編「俳諧古今抄」)
○ 蚤虱 馬の尿(バリ)する 枕もと(芭蕉自筆本。曽良本)
しかし、芭蕉が就寝した部屋は馬屋から10m近く離れた中座敷と見られているので、枕もとで馬が尿をするなどということは考えにくい。誇張または座興といった按配に理解することになろうが、牛や馬が小便する音はかなりなものであるから、夢うつつの中で、10mほど先の音源を枕もとと勘違いしてしまうことはあったかも知れない。 
尾花沢
紅花と紅花餅
山形市高瀬地区では、今も3.4ヘクタールの畑で紅花の栽培が行われ、紅花は、鑑賞用の生花として出荷されているほか、花だけを摘み取って加工し染料や口紅の原料として出荷されている。また、栽培地の一部は観光用になっているので、気軽に畑に近づいて紅花を鑑賞することができる。
茎の末端に咲く花を摘み取ることから、紅花は、「末摘花(すえつむはな)」とも呼ばれ、古くは、万葉集(巻10)に「外のみに見つつ恋ひなむ 紅の末摘花の色に出でずとも」と詠んだ歌が記され、源氏物語にもその名の登場人物が見られる。紅花は、呉の時代に中国から渡来し、その名の紅(くれない)は、「呉(くれ)の藍(あい。古くは染料の総称)」を語源とする。
紅花の茎丈は1メートル近くまで伸び、キク科ながらアザミのような棘(とげ)が見られる。生花用の紅花には棘の無いものもあるが、染色には棘のある方が用いられる。紅花の開花時期を表す山形の言葉に「半夏(半夏生の略)の一つ咲き」というのがある。半夏生(はんげしょう)は、七十二候の1つで、夏至から11日目、新暦では7月2日頃にあたる。そのころ、紅花が一輪だけぽっと咲くことを、昔の人はこのように表現した。
半夏生のころを境にして紅花は次々と花を開き、花畑を紅黄色に染める。紅味がかった黄色は、咲き始めの色で、次第に紅色に変色していく。染料や口紅の原料としては咲き始めの花が良質とされ、したがって「紅花摘み唄」に「夜明け前だよナ 紅花つみのよ」とあるように、摘み取りは早朝に行われる。茎やガクに伸びている棘は、早朝の露で柔らかくなるため、痛みを防ぐ意味でも早朝の摘み取りが適している。
紅花の花弁は、紅色と黄色の2つの色素を持ち、原料生成を目的に摘まれた花は、水溶性の黄色素を抜くことからその作業工程が始まる。黄色素を抜くほどに紅さが増すため、下の「紅花屏風」に描かれているように、素足で揉み出して品質を高める。これが終わると発酵の工程に移り、黄色素を抜いた花弁を、木枠に敷いた莚(むしろ)に広げ、それに濡れた莚をかぶせて発酵させ、紅色の発色を促進させる。
次に、発酵によって粘りけが出た紅花を臼(うす)に移し、搗(つ)いて餅状にする。これを少しずつ丸めて莚に並べ、その上に莚をかけて、素足で均等に踏んで煎餅のように展ばし、天日で乾燥させる。こうしてできたのが染料や口紅の原料となる紅花餅(紅餅。花餅)で、紅花餅は、このようないつもの工程を経てようやくできあがることから値段が高く、昔は、同量で米の百倍の値がついたこともあるという。  
紅花を産した村山地方
近世の紅花産地は日本各地に分布したが、今の山形県、特に村山地方(最上、置賜地方に挟まれた山形県東部。山形市、上山市、天童市、村山市、河北町など)が一大産地として名を馳せ、全国の生産高2000駄(紅花1駄は3俵45貫)のうち1000駄を占めたほどといわれる。当地への紅花伝来について、詳細は定かではないが、室町期に西廻り海運と最上川の舟運によって西国から伝えられものと見られ、当地が栽培適地であったことから、一大産地として頭角を表すこととなった。
村山地方に古くから言い伝えられている1つの金句がある。それは「紅花は川霧のかかる所に、煙草は山霧のかかる所に。」というもので、「煙草」はさておき、紅花については、川霧のかかるほどの大川があるところなら土は肥沃で、(朝に立つ)霧は、刺を柔らかくして摘花作業を行い易くする上に、紅の色素を強める作用があることを教えている。こうした栽培条件に適した最上川中流域は、良質の「最上紅花」の産地として栄え、尾花沢の鈴木清風をはじめとする大型問屋商人の経済基盤を支えた。
摘み取られた紅花は、紅花餅などに加工されて羽州街道から陸路大石田まで運ばれ、河岸から船に荷揚げされた。大石田まで陸運に限られた背景には、天童や六田、楯岡など、大石田に至るまでの宿駅を保護する施策のほか、その上流域に立ち塞がる「最上川三難所」があった。「おくのほそ道」にも記された碁点(ごてん)・隼(はやぶさ)や、三ヶ瀬(みかのせ)の難所がそれで、巨大な岩礁によって破船の恐れがあることから、紅花を積んでの船下りは嘉永期(1848〜1854)頃まで禁止されていたのである。
村山地方における紅花栽培の北限は、楯岡を中心とする現村山市域で、芭蕉が10日間にわたり逗留した尾花沢は、播種時期の3月末から4月上旬ごろになっても雪が残り、加えて、養蚕が盛んだったことから、紅花の摘み取りがちょうど蚕飼いの時期と重なるなどの事情で、紅花の栽培は行われなかったと見られている。 
紅花摘み唄
千歳山からナァー 紅花(こうか)の種蒔いたヨー それで山形 花だらけ
咲いた花よりナァー 見る花よりもヨー 摘んで楽しい 花の唄
花を摘むのもナァー そもじとならばヨー 棘(いらか)刺すのも 何のその
花の六月ナァー 二度あるならばヨー 枯れた枝にも 花が咲く
花の六月ナァー それ来た咲いたヨー 摘んだ花から 恋が出る
おらも行きたやナァー 青馬に乗ってヨー 紅の供して 都まで
夜明け前だにナァー 紅花摘みのヨー 唄に浮かれて 飛ぶ雲雀
晴れて見事やナァー 紅花(こうか)の畑ヨー 闇も明るい 花盛り
暗い畑辺にナァー 仲良い同士がヨー 花を摘み候(そろ) 花の籠
世にも賑わしナァー 紅花摘みヨー ここもかしこも 唄の声
明けぬ内からナァー 畑辺に行きてヨー 見れば美し 花明かり
紅花染めならナァー 色よく染まれヨー 色がよければ 気が勇む
紅花染めならナァー 今晩限りヨー 明日の晩から 薄くなる
山寺の蝉の声
山寺の地形の特徴は、中谷の両側に切り立つ岩盤とそこに見られる大小様々な穴である。この穴は、もろい凝灰岩が、長年にわたる空気や水の作用により徐々に崩れてできたもので、風化穴と呼ばれる。
山寺で聞かれる蝉の声については、この凝灰岩と風化穴が大きく関わっていると考えられ、また、中谷に適度な広がりがあることも重要な要素の一つと思われる。
2000年の夏、「芭蕉と那須野が原」の取材で大田原を訪れたときのこと。夕暮れ時に那須神社に着いたのだったが、車を降りて参道に向かおうとしたとき、神社の森から聞こえてくる未体験の音響に耳を疑った。神社の参道は、社殿まで延々300m以上も続き、その両脇に、昼を暗くするほどの本数の杉や桧の巨木が育っている。
耳を疑わせた音風景(サウンドスケープ)の正体は、その巨木の森に棲む何百、いや何千、何万ものヒグラシの大合唱だった。聞き慣れた蝉時雨の筈ながら、参道を行くにつれて身体がその音響に包まれてしまう不思議な感覚に捕われ、立ち尽くしてしまった。
また、或る時は、急に電柱や軒下に張り付いて鳴き出すたった一匹の蝉の声に驚かされることもある。こうしたときの蝉の声はきまって甲高く、寝た子をおこすほどのボリュームがあるものだ。
一匹の蝉の声が耳に障ることがあれば、鎮守の森で、あれだけの数の蝉が同時に鳴いても協和さえ感じられこともある。その違いはどこからくるのだろうか。
それは、音が空気の振動として伝わることから、電柱など、高位置から発せられる音は遮るものが無いため直接耳に届きがちなのに対し、鎮守の森では、それぞれの蝉の声が、齢を重ねた木の皮や葉への反射を繰り返すたびに弱められ、木々の体内に溶け込むような作用を受けるからであって、蝉の発音器から鳴き声が発せられるたびにこれが繰り返されている。
山寺の蝉の声にも、同様のことが言える。すなわち、山寺の岩質が、火山灰や軽石を含めた細かな礫からできていて、大変やわらかく、表面が滑らかでない上に凹凸(おうとつ)ができていることから、岩に届いた蝉の声は、一部を吸収しながら分散して反射し、岩盤にしみ込むように穏やかに聞こえるということであり、加えて、それに風化穴があることによって更にその度合いが高まることになる。
このような環境の山寺・中谷においては、どのような蝉であれ、複数の蝉が同時に鳴いても耳につくほどの激しさはなく、重厚さを兼ね添えながら静かに響きわたる。これは、岩質や風化穴が起因しているほかに、広すぎれば蝉の声を余韻として残すことができず、狭ければ音に重量感が伴わないことから、この中谷に、ほどよい空間の広がりがあることも重要な要素となっているように思われる。
平成8年(1996年)、環境庁は将来に残したい音風景として「日本の音風景100選」事業を行い、その中で四地域の蝉の声が選ばれた。その一つが「山寺の蝉」で、環境庁ではこれを、「蝉の声に対する日本人特有の感性を示すといわれる芭蕉の名句『閑さや岩に染みいる蝉の声』の舞台、立石寺。毎年夏、無数の蝉の声がひとつになって深山から響く」と説明している。
山寺の蝉論争について
芭蕉の「閑さや岩にしみ入蝉の声」の「蝉」が、どんな蝉であるか、単数か複数かなどにについて多くの議論があり、昭和の初期には、歌人・精神科医の斎藤茂吉(1882〜1953)と、夏目漱石門下で芭蕉研究家の小宮豊隆(1884〜1966)との間で激しい論戦が繰り広げられた。
茂吉はジージーと鳴くアブラゼミであると主張し、小宮はチィーチィーと小さく鳴くニイニイゼミであると主張した。山形県出身の茂吉は、山寺のことだけに一歩も譲ることができずアブラゼミで押し通した。
そのうちに、これらのセミの活動時期を調べ論戦に決着をつけようということになり、実際に山寺に入って調査が行われた。その結果、芭蕉が山寺を訪れた7月13日(新暦。旧暦では5月27日)ごろ鳴き出しているのはニイニイゼミで、山寺界隈ではこのころまだアブラゼミは鳴かないということになり、茂吉が敗れた形で蝉論議は終結した。 
「五月雨を」
芭蕉は、仰望する古歌人に敬意を払ってか、白河の関、松島という名立たる歌枕の地で口を閉ざしたが、詩歌に無名の立石寺においては「閑さや岩にしみ入蝉の声」の句を朗詠し、自らの手で出羽国の山寺を高名たる歌枕にまで伸し上げた。
芭蕉の山寺立石寺訪問は、曽良の「名勝備忘録」にその名が見当たらず、たまたま、尾花沢で俳士らに勧められての杖曳きに過ぎなかったが、元禄期に「おくのほそ道」が板行されて以来、山寺は日本有数の観光名所となり、現在、世界に広がる俳句愛好家の聖地として、ワールドワイドな「歌枕」となっている。
芭蕉が、出羽国に供したもう一つの偉大な置き土産がある。それは、大河最上川を詠み上げた「五月雨をあつめて早し最上川」の句に他ならない。最上川は、古くから歌枕、源義経ゆかりの川として慕われ、山寺と同様に本来の役割においても既に広く知られた存在ではあったが、本発句が「おくのほそ道」に所収されたことにより、「芭蕉ゆかりの」という大きな付加価値が添加され、山寺とともに人口に膾炙(かいしや)されるほどに著名となった。
縁ありける人の、新院のかんだう(勘当)なりけるを許したぶべき由、申入れたりけるご返事に
○ 最上川つなで引くとも稲舟のしばしがほどはいかりおろさむ
御返ごとたてまつりける。
○ つよく引く綱手と見せよ最上川その稲舟のいかりをさめて 西行
かく申したりければ許し給びてける (「山家集」下巻)
○ もがみ川のぼればくだる稲舟のいなにはあらずこの月ばかり (東歌。古今和歌集)
もがみ川ふかきにもあへずいな舟の心かるくも帰るなるかな (三条右大臣。後撰和歌集)
北の方「これをば何の瀧といふぞ」と問ひ給へば、人々「白糸の瀧」と申しければ、北の方かくぞつゞけ給ふ。
○ 最上川せゞの岩波せきとめよ寄らでぞ通るしらいとのたき
○ もがみがは岩越す波に月さえてよるおもしろき白糸のたき
と口ずさみつゝ、・・・。 (義経記。「直江の津にて笈さがされし事」の段)
最上川はみちのくより出て、山形を水上とす。ごてん・はやぶさなど云おそろしき難所有。板敷山の北を流て、果は酒田の海に入。左右山覆ひ、茂みの中に船を下す。是に稲つみたるをや、いな船といふならし。白糸の瀧は青葉の隙隙に落て仙人堂岸に臨て立。水みなぎつて舟あやうし。
○ 五月雨をあつめて早し最上川 (おくのほそ道)
本句は、元禄2年(1689年)5月29日(新暦7月15日)、止宿先の高野一栄宅において「さみだれをあつめてすゝしもかミ川」の句形で第一声を上げた。芭蕉、一栄、曽良、川水の四名による「一巡四句」の発句として詠まれたものだった。本連句は、翌晦日に、四吟歌仙「さみだれを」の巻として満尾している。
○ さみ堂礼遠あつめてすゝしもかミ川 芭蕉
○ 岸にほたるを繋ぐ舟杭         一栄
○ 爪ばたけいざよふ空に影待ちて   曽良
○ 里をむかひに桑のほそミち      川水
(「芭蕉真蹟歌仙」より)
船問屋を営む高野一栄宅は、最上川のほとりに構えていたので、川面を渡る涼風がいい具合に俳席の間(ま)に入り込み、内陸特有の蒸し風呂状態を緩和してくれた。芭蕉は、旅の疲れが慰労される有難みを「すゝし」の言葉で表現し、亭主一栄への挨拶句とした。これに応答した一栄の脇句「岸にほたるつなぐ舟杭」は、「新古ふた道にふみまよふ」(おくのほそ道)の地に新俳風を吹き寄す江戸の宗匠を、闇に光を放つ「ほたる」に見立て、歓迎の辞としたものと受け取られる。
しかし、滞留する梅雨前線の影響で雨は断続的に降り続いており、幾筋もの中小河川をして両の山並みから一気に雨水を下す最上川は、連衆の眼前に、茶褐色の激流となってその本性を剥き出し、実際には、「すゝし」、「ほたる」と風流に遊んでいる場合ではなかったと推量される。芭蕉は、この数日後、濁流渦巻く最上川を本合海から清川まで下り、この折の船旅の有様を「水みなぎつて舟あやうし」(おくのほそ道)と叙している。
かくして、高野一栄に示された発句の中七「あつめてすゝし」は、後日、勢いにあふれ、轟音(ごうおん)さえ聞こえさす「あつめて早し」に改案され、出羽国における二大絶唱の一つ「五月雨をあつめて早し最上川」に仕上げられた。もし最終稿が「すゝし」のままであったなら、最上川が、「日本三大急流」の冠詞を得ることも、今ほど高名になることもなかったのだろう。この意味において、芭蕉が山形の母なる川、最上川に与えた影響は甚大である。  
出羽三山
出羽三山は、磐梯朝日国立公園の一角をなし、古くは、月山、羽黒山、葉山の総称で、湯殿山をその奥の院としたが、室町末期、葉山に代わって湯殿山が三山に名を連ねた。
伝説によれば、この三山は、曽我馬子に殺された三十二代崇峻天皇の第三皇子・蜂子皇子(参拂理。弘海)が開山とされる。用明元年(585年)、従兄弟にあたる聖徳太子の勧めで宮中を脱出し、海路北へ渡った皇子は、推古元年(593年)、出羽国由良の八乙女の海岸に上陸。三本足の霊烏の導きを得て、まず、羽黒山の阿久谷に入って難行を積み、羽黒大神の示現を受けるところとなった。
その後、皇子は、羽黒山腹の荒沢で修行を重ねたのち、月山に登って月山大神の示現を受け、続いて、湯殿山に渡り湯殿山大神の霊徳を得たという。以後、皇子は、能除太子(能除仙)の名の通り、終生当地に身を置いて能く諸人の病苦を救い、荒れ野の開拓や殖産に力を注いだと伝えられる。皇子の歿後は、弟子の弘俊らによって修行道の教えが受け継がれた。
出羽三山の神仏習合
出羽三山に祭られている神は、月山が天照大神の弟神の月読命、羽黒山が伊波(いでは)神と倉稲魂命、湯殿山が大山祇命と大己貴命と少彦名命であるが、こうした、山そのものを日本古来の神として崇拝してきた山岳信仰は、奈良時代に入ると、外来の密教や道教、儒教に影響された仏教者が、修行の地を求めて山岳に入ったことから有り様を変え、神仏が渾然一体となって定着するようになった。
その根本となった思想が、神は衆生救済のため姿を変えて現れた仏であるとする本地垂迹説であり、出羽三山においては、羽黒山神の本地を観世音菩薩として山頂に寂光寺が建立され、月山神は阿弥陀如来、湯殿山神は大日如来が本地と定められた。神仏習合の宗教形態は、神社の境内に神宮寺、別当寺を建てる様相にて、明治元年(1868年)に神仏分離令が発布されるまで続いた。
羽黒派修験道
こうした神仏習合の習いの中、当地に、蜂子皇子の修行道を基盤とする修験道が発生し、発達していくこととなる。これに力したのが福島信夫の里を生れとする弟子弘俊で、弘俊は、大化元年(645年)、孝徳天皇より出羽三山の執行(羽黒の宗教上の長官)に任ぜられている。このほかに、加賀白山を開いた越前の泰澄や、修験道の祖とされ、吉野の金峰山や大峰を開いたことで知られる大和国の役行者(小角)、役行者の流れを汲む出羽の黒珍も、羽黒修験の発展との関わりが伝えられる。
修験道は、山岳修行の実践によって超験力の体得を目指す宗教で、羽黒山を本山とする修験を羽黒派修験道または羽黒派古修験道という。特に「羽黒派」と称するのは、修験を両分した真言宗当山派と天台宗本山流のいずれにも属さず、独自の信仰を確立したことに依るもので、羽黒の修験は、平安末期から鎌倉期にかけて、藤原秀衡や源頼朝等の庇護及び強固な宗権を背景に隆盛を極めた。
承安2年(1172年)秀衡が増修した羽黒本社や、建久4年(1193年)頼朝が奥州征伐の謝礼として建てた正善院黄金堂、建治元年(1275年)北条時宗が蒙古軍の退散を羽黒の霊威と称えて寄進した大鐘など、境内に散見される遺構から、時の権力者が羽黒派修験道の発展に関わった側面が窺い知られる。また、羽黒修験は、「義経記」の中で、平泉に下る義経主従が身をやつした山伏として語られ、有名である。
判官 「奥州へ下らんと思ふに、何れの道にかゝりてかよからんずるぞ」
と仰せられければ、各々申しけるは、
各々 「東海道こそ名所にて候へ、東山道は切所なれば、自然の事あらんずる時は、よけて行くべき方もなし。北陸道越前の国敦賀の津に下りて、出羽国の方へ行かんずる船に便船して、よかるべし」とて道は定め、さて姿をばいかようにして下るべきと、様々に申しける中に、増尾の七郎申しけるは、
増尾 「御心安く御下りあるべきに候はゞ、御出家候うて御下り候へ」と申しければ、
判官 「終にはさこそあらんずらめども、南都勤修坊の千度出家せよと教化せられしを背きて今身の置所なきまゝに、出家しけると聞えんも恥しければ、此度はいかにもして、様をも変へず下らばや」と宣ひければ、片岡申しけるは、
片岡 「さらば山伏の御姿にて御下り候へ」と申しければ、(中略)
判官 「どこ山伏と問はんずる時は、どこ山伏とか言はんずる」
弁慶 「越後国直江の津は北陸道の中途にて候へば、それより此方にては羽黒山伏の熊野へ参り下向するぞと申すべき。それよりあなた(彼方)にては熊野山伏の羽黒に参ると申すべき」
判官 「羽黒の案内知りたらん者やある。羽黒には、どの坊に誰がしと云ふ者ぞと問はんずる時は如何せんずる」。弁慶申しけるは、
弁慶 「西塔に候ひし時、羽黒の者とて、御上の坊に候ひしもの申し候ひしは、大黒塔の別当の坊に荒讃岐と申す法師に、弁慶はちとも違はぬ由申し候ひしかば、弁慶をば荒讃岐と申し候ふべし。常陸坊をば小先達として筑前坊」とぞ申しける。 (義経記「判官北国落の事」の章段から)
江戸時代の羽黒山
関八州、信越、東北における修験の大道場として隆盛を極めた羽黒山であるが、鎌倉末期から戦国時代にかけては、朝幕の攻防戦および諸豪の勢力争いに巻き込まれ、その余波によって一山衆徒の結束が弱化し、社領が狭められた。こうした中、関が原の戦いに戦功のあった最上義光(よしあき)が、かつて武藤氏と戦って占領した庄内の地を再び領有し、江戸時代を迎えた。
このころ羽黒山の別当職(一山の政務を統括)にあったのが、武藤氏の流れを汲む慶俊だった。義光は、慶俊に代ってその弟子宥源を別当に据え、荒廃した羽黒山の再興に着手した。失った社領の一部回復や、羽黒本社の修造、神橋の架け替え、五重塔、黄金堂などの修復事業などがその業績として今に伝えられる。
慶長19年(1614年)に義光が没した後、最上家は、生前から続いていた家督後継の争いのため元和8年(1622年)改易に追い込まれ、五十七万石が一万石に減封された。これにより、鶴岡十四万石酒井忠勝が庄内を領有するところとなり、羽黒山は、再興の望みを託した大檀那・最上氏を失った。
当時の別当は、元和3年(1617年)68歳の生涯を閉じた宥源の弟子宥俊だった。宥俊は、宥源の御影堂や普賢堂などの建造、開山堂の修造、五重塔の屋根葺き替えなどの業績を残すほか、羽黒山内の杉や松の植栽に力したと伝えられる。寛永7年(1630年)、宥俊は、51歳の時に別当を弟子宥誉(後の天宥)に譲り、自らも山内にあって一山の宗政を統括する執行職に就いた。
宥誉(天宥)と天台への改宗
若干25歳にして第50代別当となった宥誉は、宥俊の後見を受けながら羽黒山の再建に取り組み、宥俊の歿後は執行も兼務した。宥誉は西村山郡川土居村(現在の西川町)の安中坊の出と見られ、7歳にして宥俊に師事したと伝えられる。
寛永11年(1634年)、宥誉は、羽黒山ひいては出羽三山の再建を願い、師の宥俊同道にて三代将軍家光に謁見した。これは、徳川家が天海僧正を崇敬して天台宗に帰依したことに鑑み、幕府の御墨付のもと、真言の宗風にあった出羽三山を天台宗に改めて東叡山寛永寺の末寺となることを画したものだった。宥誉は、寛永18年(1641年)この大願成就を期して天海の弟子となり、師の一字を貰って名を「天宥」に改めた。
羽黒山にあっては、日光東照宮を勧請して山内に祭り、一の坂下の普賢堂から六百七十間に及ぶ参道に切石を敷くなど、天宥は、様々に手を尽し天台による三山統一を目指したが、弟子に就いた2年後の寛永20年(1643年)、天海が遷化した。これにより天宥は強力な後ろ楯を失い、ついに、真言を貫く湯殿山四ヶ寺(本道寺、大日寺、大日坊、注連寺)を天台羽黒に配することはできなかった。
そればかりか、天宥が、極老が執行職に就くという古来の習いを無視して自ら執行になったことや、南谷に金子(きんす)三百五十両を出費して壮大な伽藍を造営したことなどから、羽黒衆徒の智憲院や愛染院など五名と軋轢が生じ、対立する事態となった。ついには、幕府を巻き込んだ裁判沙汰にまで発展し、その結果、天宥は寛文8年(1668年)4月伊豆新島に流された。
この遠島の判決については、当時、天宥が百姓一揆の者を匿(かくま)ったことから領主酒井忠勝と対立しており、その忠勝が幕府の命で事の取り調べに当ったことが原因し、吟味が、天宥に不利に行われたとする捉え方もある。天宥は、新島で7年の歳月を過ごしたが、延宝2年(1674年)10月に82歳の生涯を閉じた。
芭蕉を迎えた羽黒山
芭蕉が、羽黒を訪れたのは元禄2年(1689年)、天宥の死から15年後のことである。芭蕉一行は、6月3日、出羽三山の門前集落・手向(とうげ)に到着後、図司呂丸の案内で、日の落ちた羽黒山参道を登り南谷にたどり着いた。
別当執行代の会覚阿闍梨に謁したのはその翌日である。羽黒山の当時の別当は、本山である東叡山の大円覚院公雄であったが、実際には赴任せず、その院代として、法名を和合院照寂とする高僧、会覚が東叡山から派遣されていた。
芭蕉が羽黒山滞在中に居所とした南谷の玄陽院は、天宥が寛文2年(1662年)に造営した紫苑寺が寛文12年(1672年)10月に焼失したことから、山頂にあった玄陽院を本坊若王寺の別院として、紫苑寺の跡地に移築したものだった。
芭蕉主従は、到着から2日後の6月5日、断食して潔斎したのち首に注連を掛け羽黒権現に参拝した。6日には、強力を伴い、浄衣、宝冠を身にした道者の姿にて月山に登拝した。一行は、山頂の山小屋にて一宿をし、翌7日、西の斜面を下って湯殿山神社に参拝。同日、南谷別院に戻っている。
芭蕉は、羽黒山に滞在中、天宥を追悼しその業績を称える下記の「天宥法印追悼句文」を羽黒山に遺したほか、三山の句を認めた短冊を会覚に書き贈った。現在、「天宥法印追悼句文」は出羽三山神社の宝物として歴史博物館に、短冊は長谷川コレクションとして山形美術館に、それぞれ収蔵・展示されている。                      
芭蕉庵桃青桃青拝
羽黒山別当執行不分叟天宥法印は、行法いみじききこ(聞)え有て、止観円覚の仏智才用、人にほどこ(施)して、あるは山を穿、石を刻て、巨霊が力、女がたく(工)みを尽して、坊舎を築、階を作れる、青雲の滴をうけて、筧の水とほ(遠)くめぐらせ、石の器・木の工、此山の奇物となれるもの多シ。一山挙て其名をした(慕)ひ、其徳をあふ(仰)ぐ。まことにふたゝび羽山開基にひとし。されどもいかなる天災のなせるにやあらん、いづ(伊豆)の国八重の汐風に身をただよ(漂)ひて、波の露はかなきたよ(便)りをなむ告侍るとかや。此度下官、三山順礼の序、追悼一句奉るべきよし、門徒等しきりにすゝ(勧)めらるゝによりて、をろをろ戯言一句をつらねて、香の後二手向侍る。いと憚多事になん侍る。
  其玉や羽黒にかへす法の月
  元禄二年季夏
出羽三山の神仏分離
それから約180年を経て幕府が倒れると、維新政府は、奈良、平安の昔から続いた神仏習合の習いを打ち崩し、神社施設から仏教に関わる一切を排除する施策を打ち出した。これにより、神社から寺院や仏像が取り払われ、神を菩薩や権現などの仏語で表すること、僧形にて奉仕することなどが禁じられた。
慶応4年(1868年)3月交付の神仏判然令が出羽三山に通達されたのは、1年余後の明治2年5月だった。千年を越える昔から仏教色を色濃くした出羽三山は、この事態に困難を極めたことが伝えられ、終結に至ったのは5年後の明治7年だったという。
出羽三山の神仏分離は、湯殿山の大日坊、注連寺が仏道として残ったほか、すべてが神道に復して遂行された。羽黒山に現存している五重塔や鐘楼は、この折に、文化財保存の意味合いから破壊を免れた神仏混淆期の遺構である。 
貝喰池(かいばみいけ) / 山形県鶴岡市下川
貝喰池には古来より龍神の伝説があり、隣接する善寶寺に祀られている。
開基である妙達上人がこの地に庵を結び、日々法華経を唱えているうちに、近隣の者が大勢集まってそれに聞き入った。その中に人目を引く美しい男女の姿があった。ある時、読経が終わってもその男女が席を立たなかったので、上人が声を掛けると、二人は自らの正体を明かした。二人は貝喰池に天下った竜王・竜女であり、上人の読経を聞き仏法のありがたさを知ることが出来たと言う。そこで上人が竜王に竜道、竜女に戒道の名を与えると、二人は風水の災厄から信者を守ることを約束し、龍の姿となって昇天したのである。その後、上人の庵は龍華寺と名付けられ、善寶寺となったのである。
現在でも善寶寺は龍神守護の寺として信仰を集め、特に海の守護神として漁業関係者の信仰が篤い。明治16年(1883年)に建てられた五重塔は、本邦唯一の魚鱗一切の供養塔として漁業関係者によって発願されている。
貝喰池にはそれ以外にも不思議な話が残されている。『日本の伝説4 出羽の伝説』にはいくつかの伝説が書かれている。
かつて龍神にお願いすると膳椀を人数分貸してくれたが、良からぬ者が一客を失敬したところ貸さなくなってしまったという貸し腕伝説。
日照りの時に貝喰池から水を引こうと壕を造りだしたら、村の方から火の手が見える。慌てて戻ると何事もない。それが三度続いたため、龍神様がお怒りだということで、作業を取りやめてしまった。
大干魃の時、身欠きニシンをくわえて貝喰池に入ると龍神様の怒りで大雨になるという禁を敢えて破った百姓が二人いた。しかし雨は降らず、ただ池の底に引きずられていくだけだった。村人に助けを求め、さらに善寶寺の住職が祈祷をするが、結局二人はそのまま池に沈み、7日後に死体となって浮き上がったという。
貝喰池の鯉を食べてはならないという禁を犯して、それを食べた男が熱病にかかった。死の間際、男は夢枕に龍神様が立ってお叱りを受けたと言って成仏したという。
このような不思議な伝承を持つ貝喰池であるが、平成の世になって、突如脚光を浴びることとなった。平成2年(1990年)頃、写真週刊誌によって紹介された“人面魚”である。頭部の模様によって人の顔に見える鯉なのであるが、大ブームとなった。現在でもその模様を持つ鯉が貝喰池には存在する。
若松寺 ムカサリ絵馬(じゃくしょうじ むかさりえま) / 山形県天童市山元
山形の民謡“花笠音頭”の冒頭部分に登場する「めでためでたの若松様よ」は、この若松寺を指していると言われる。和銅元年(708年)に行基が開山し、後に慈覚大師が中興したとされる古刹であり、最上三十三観音札所の第一番札所でもある。特に縁結びのご利益で有名であり、“西の出雲大社、東の若松観音”とも称されている。
この縁結びのご利益のためなのか、この若松寺には数多くのムカサリ絵馬が奉納されている。かつては観音堂に掲げられていたが、重要文化財に指定されたために、現在では絵馬堂が設けられて保管されている。古いもので明治時代のものが存在するという。
ムカサリという言葉は、山形の方言で“婚礼”を意味する。「迎える、去る」が語源とも「む(娘)が去る」からきた言葉であるとも言われる。そしてムカサリ絵馬はこの婚礼の様子が描かれた絵馬であるのだが、これの奉納の目的は追善供養である。
(冥婚)という風習が、中国を中心に東アジアにはある。結婚する前に亡くなった子供のため、親などが死後の結婚を執りおこなうのである。日本では主に青森・山形両県で残る風習であり、幸薄かった子供を供養することが主たる目的である(中国などでは故人の供養であると同時に、一族の繁栄を願う側面もあるという)。死後の婚礼の様子を絵馬に描いて奉納するムカサリ絵馬の風習は、山形県の村山地方に集中しており、若松寺だけではなく、いくつかの寺院にも奉納されている。しかし納められた絵馬の数や残された絵馬の古さなどをを考えると、やはり若松寺がムカサリ絵馬の風習の中心的役割を果たしていると言えるだろう。
現在でもムカサリ絵馬の奉納はおこなわれており、若松寺のホームページでも告知されている。絵馬堂に納められている古い絵馬は婚礼の様子が多く描かれており、花婿と花嫁以外にも媒酌人などの立会人が描かれているものが多い。それに対して最近の絵馬は、花婿と花嫁の二人が立ち並ぶスナップ写真のような構図のものが主流のようである。また昔は親兄弟が描いた絵を納めるのが普通であったが、今では専門の絵師が描くものになっている。時代によって絵馬も変遷していくのである。ただし、今も昔も変わらない禁忌がある。生きている実在の人物の名前や肖像を使うと、その人は死者に連れて行かれると言われており、決してしてはいけないとのことである。
十六羅漢岩(じゅうろくらかんいわ) / 山形県飽海郡遊佐町吹浦
吹浦の海岸に、自然石から削り出す方式で造られた十六羅漢像がある。羅漢像以外にも釈迦牟尼、文殊菩薩、普賢菩薩、観音菩薩、舎利仏、目蓮の像、合わせて22体が置かれている。海岸線に囲まれた日本にあっても、海辺にまとまった羅漢像があるのはおそらくここだけである。非常に希少な存在である。この周辺の岩は鳥海山の噴火で流れてきた溶岩が固まったもので、安山岩とのこと。彫りやすい材質であるが、波浪の激しいこの地にあっては、それ故にわずか150年ほどかなり浸食・風化してしてしまっている。
これを造ったのは、吹浦にある海禅寺の住職・寛海和尚である。この海で遭難して亡くなった人の霊を慰め(潮流の関係で、遭難者はこの羅漢像のある浜で発見されることが多かったらしい)、安全祈願をするために発願し、元治元年(1864年)から事業を始め、明治元年(1868年)に完成した。和尚は酒田まで布施を集めに回り、ある程度金が貯まると一体の像を造るということを繰り返して作り上げたと言われる。
新庄城址(しんじょうじょうし) / 山形県新庄市堀端町
新庄藩は、元和8年(1622年)に山形藩の最上氏が改易となった後、新たに成立した藩である。初代藩主は戸沢政盛。はじめは居城を鮭延城としていたが、山城であったために幕府に許可を願い出て、新たに造ったのが新庄城である。この築城の際に人柱伝説が残されている。
新しい城を造る地は沼田と呼ばれており、その名の通り、湿地帯であった。そのために堀を造るのに土を盛っても固まらず、工事は難航した。そこである法師に占ってもらったところ、十三の娘を黒牛に乗せて人柱にせよ、というお告げを得た。そこで領内から娘を選び人柱にしたのである。結果、難工事は一気にはかどり、城はようやく完成したという。
ところが、完成後から不気味な噂が立った。本丸付近の池辺りに夜な夜な少女の幽霊が現れて「水が欲しい、喉が焼ける」と言って泣くというのである。これには屈強の武士たちも恐れをなしたと言われる。
新庄藩は明治維新まで戸沢家が藩主として統治していたが、新庄城は戊辰戦争で灰燼に帰している。現在城跡は最上公園という名で、市民の憩いの場とされており、巡らされた堀や石垣が当時の面影を残している。また敷地内には藩祖・戸沢政盛を祭神とする戸沢神社もある。しかし、人柱となった娘にまつわる痕跡は何一つ残されていない。
専称寺 夜泣き力士像(せんしょうじ よなきりきしぞう) /山形県山県市緑町三丁目
専称寺は、文禄4年(1595年)に天童から山形に移設された、浄土真宗の寺院である。移設を命じたのは出羽の戦国大名であった最上義光であり、愛娘の駒姫の菩提を弔うためのものであった。それ故に壮大な伽藍が建立され、周辺には多くの塔頭が建てられて、付近は寺内町と言うべき様相を呈した。現在でも多くの寺院が残っている。
現在ある本堂は、元禄16年(1703年)の建立で、山形市内で最も大きな寺院建築である。この本堂の屋根を支えるように建物の四隅に置かれているのが、力士像である。この4体の像が毎夜夜泣きするという伝承が残されているが、その内容はいくつかの説に分かれている。
この4体の像を製作したのは、伝説的名工の左甚五郎であるとされる。その出来映えの見事さ故に、これらの4体の像は魂を持つようになったという。そして次のような“夜泣き”伝説が生まれたのである。
昼間は何とか我慢しているのだが、その屋根の重さに耐えかねて夜になると「重い、重い」と力士像が泣くようになったという。たまりかねた住職の依頼によって、ある猟師が力士像の足元目がけて鉄砲を撃ち放つと、夜泣きは収まったという。
また別の伝説では、命を得た力士達は夜中になると屋根から抜け出して、境内で相撲を取って遊んでいた。それをけしからんと怒った住職が、動けないように足に釘を打ち込んだ(あるいは鉄砲で足を撃った)ところ、それから悪さはしなくなった代わりに屋根の上で夜泣きをするようになったという。あるいは、見咎めたのは最上義光自身であり、娘の菩提を弔う寺院の本堂を守護する像の悪さに激怒して鉄砲を撃ったとも伝わる。
いずれにせよ現在は夜泣きが収まった力士像であるが、その姿は個性的であり、魂を宿していろいろな悪さをやったという伝承が発生したのも頷けるところである。
生居の化け石(なまいのばけいし) / 山形県上山市下生居字森
山形県上山市の東部に位置する生居という場所には、七不思議と呼ばれるものがある。その筆頭に挙げられるのが“生居の化け石”である。
昔、生居のあたりは夜になると石の化け物が出るという噂で、人ひとり通る者がなかった。ある時、生居の庄屋である権左衛門が夜道を一人で歩いていると、石の化け物の声がした。「お願いします、お願いします」という声に権左衛門は気丈に「何の頼みだ」と尋ねる。「私には子供がたくさんおり、食べ物がなくて困っております。何か食べ物を下さい」と石が返答する。承知した権左衛門は家に帰ると、米一俵分の握り飯を作って石の前に置いた。すると無数の手が出てきて握り飯を全て平らげてしまい、「有り難うございます。お礼にこの石を差し上げます。この石がある限り、家も子孫も栄えることでしょう」と、小さな石を渡したのである。権左衛門はその小石を家の庭の池に沈めたのであるが、それ以来家は栄えることになった。
その話を聞いた上山の殿様は、その石を献上するように命じた。そして権左衛門が献上するのだが、明くる日になるとその石が池に戻ってしまっている。結局殿様もその石を献上させることを諦め、いまだに石は池の中にあるらしい。
この話だけであればただの伝説で終わるのだが、今なおこの庄屋の家が現存している。重要文化財・旧尾形家住宅は、この化け石のある場所から約500メートル東に行ったところにある。小石は現在も池の中に沈められた状態らしいが、昭和期に一度池の中をさらったところ、卵大の大きさの石が2つ出てきたという(その石はまた池に沈められたらしい)。また天保年間に大明神号を得たことを示す藩からの書状も保管されており、不思議な信憑性を持っている。
ちなみにこの地名である生居も、この化け石に関連していると言われ、声を発する化け石、そして子供が生まれる小石ということで、“生きている石”つまり生の石という言葉が変化して、今の生居という地名になったのだとされている。 
南岳寺 長南年恵堂(なんがくじ ちょうなん[おさなみ]としえどう) / 山形県鶴岡市砂田町
真言宗の寺院で、湯殿山にある注連寺の分寺である。湯殿山の修行者の修行所として建立されたものとされる。そしてここには鉄竜海上人の即身仏が安置されている。
鉄竜海上人は文政3年(1820年)に出羽に生まれた。若い頃に友人を喧嘩で殺して出奔、各地を放浪している中で南岳寺の住職・天竜海の弟子となって修行。その後、木食行を経て即身仏となる。ただ明治14年(1881年)に病没後に即身仏となったが、当時は墳墓発掘禁令が出されていたために、法令の出る前の明治元年(1868年)に入定したとし、さらに大正頃までその存在を秘密として守ってきたという。
全国的にも珍しい即身仏が拝観できる寺院であるが、さらにその境内には長南年恵を祀る淡島堂(長南年恵堂)がある。
長南年恵は、日本の超常現象事件史の中でも特筆される人物である。文久3年(1863年)に鶴岡で生まれたが、20歳頃から水とわずかばかりの食物(生のサツマイモ)以外は不食の状態を続けたという。またそのためか排泄物もなかったとされる。そして霊水と呼ばれる液体を空の瓶に満たすという超常現象を多々引き起こした。このことが原因で何度か警察署に拘留されたが、その時も不食・無排泄などの信じがたき状況であった(ただしこの状況については、年恵の弟が警察署長に対して書状で確認を要請したものであり、最終的には警察側は明確な回答をおこなっていない)。
そして最も有名な事件は明治33年(1900年)12月に神戸でおこなわれた実験である。これは神戸地方裁判所で無罪判決が出たあとに、弁護士の依頼を受けて実験がなされ、霊水を出現させたとの記録が残る(全裸での身体検査をおこない、裁判官が封をした瓶を用意して暗室に入ると、約5分ほどで濃い黄色の霊水を瓶に満たしたとされる。その霊水は裁判長が持ち帰っている)。
年恵は明治40年(1907年)に亡くなったが、不食であるにも拘わらず普通の人と同じぐらいに働き、容貌は年齢の割にはかなり若く見えていたと言われる。
昭和31年(1956年)に起きた鶴岡の大火の際に、南岳寺も罹災。鉄竜海上人が再建した本堂も全焼した。しかし本尊と鉄竜海上人の即身仏は被災に遭わず、また長南年恵堂も類焼を免れている。
べんべこ太郎の墓 / 山形県天童市下山口
下山口の地に妙見神社があり、その境内にべんべこ太郎の墓がある。特に墓石に名前が刻まれているわけでもないが、地元ではそのように言い伝えられている。
ある旅の僧がこの地を訪れて、庄屋の家に泊めてもらった。家の中で両親と娘が泣き続けている。そのわけを聞くと、村の慣わしで3年に一度若い娘を人身御供にせねばならず、次の人身御供に娘が決まったのだという。生け贄を要求する神はおかしいと思った僧は、その夜、問題の神社に隠れ潜んで様子を探った。すると夜中に大勢の狸が現れて、腹鼓を打ち出すと「信濃の国のべんべこ太郎にあのごど、このごど、聞かせるな」と歌い出した。
翌日、旅の僧は信濃にべんべこ太郎を探しに出掛けた。そしてようやく見つけ出したのは、一匹のたくましい犬であった。僧はそれを連れて帰ると、人身御供の日に娘の代わりにべんべこ太郎を神社に解き放した。すると獣の戦いあう騒ぎ声が聞こえだし、やがて静かなった。
次の日の朝、僧や村人はあたりにたくさんの狸の死骸を見つけた。そして虫の息のべんべこ太郎も見つかったが、そのまま息絶えてしまった。村人はべんべこ太郎の功績を称え、墓を造って供養をおこなった。その墓と一緒に創建されたのが妙見神社であると伝えている(一説では、狸が人身御供を要求した場所が妙見神社であるとも)。
人身御供を要求する化け物を退治する信濃の犬という構図は、早太郎伝説を彷彿とさせるものであるが、果たしてその関連性はどこにあるだろうか。
妙多羅天堂(みょうたらてんどう) / 山形県東置賜郡高畠町一本柳
妙多羅天は悪霊退散の神、縁結びの神、子供などの守護神として祀られる神である。高畠町にもその神を祀る堂があり、以下のような伝説が残されている。
平安時代末期、一本柳の地に安倍貞任の一族である度会弥三郎とその母の岩井戸があった。弥三郎は妻を娶ると御家再興のための武者修行の旅に出たが、間もなく妻と生まれてきた子は病で亡くなり、一人残された岩井戸は悲しみのあまりに鬼女となりながら、狼を操って旅人を襲い金品を奪うことで、御家再興の軍資金を蓄えていた。
弥三郎が故郷へ戻り近くの橋に差し掛かると、狼が襲ってきた。弥三郎はそれを退治しつつ、操っていると思われる鬼女の右腕を切り落とした。そして腕をたずさえて我が家に辿り着くと、そこには床に伏せった母親のみ。母は涙ながらに妻子の死と軍資金のことを語り、弥三郎は武者修行のことと先ほどの橋での出来事を語った。そして切り落とした腕を見せると、母はいきなり鬼女を化してそれを取り上げると、天高く飛び去って弥彦山へ赴いた。その後、鬼女は前非を悔い改めて善神となったという。(その他にも、戦国時代の話であり、岩井戸は元は天女であったという伝承もある)
高畠にある妙多羅天堂は、弥三郎が後に屋敷内に母の供養のために作ったものと言われている。また鬼女が狼を使って旅人などを襲っていた橋は「おっかな橋」と呼ばれ、現在でもその名が残されている。
湯殿山神社 / 山形県鶴岡市田麦俣六十里山
出羽三山に一つである湯殿山山頂にある神社。古来より修験道の聖地として栄え、祭神は大山祇神・大己貴命・少彦名命。神社には本殿も拝殿もなく、御神体のみがある。ただし「語るなかれ、聞くなかれ」との戒めがあるため、これ以上申し上げることは叶わない。
交通アクセスは、湯殿山有料道路で仙人沢まで行き、そこから専用バスに乗り換えるか、徒歩。この仙人沢に山籠することが即身仏となるための第一歩であり、そのためか多くの塚や祠がある。
與次郎稲荷神社(よじろういなりじんじゃ) / 山形県東根市四ツ家
特徴的な石造りの鳥居(最上三鳥居の1つ)のある神社である。この神社は與次郎という名の狐が祀られている。
佐竹義宣は関ヶ原の戦いにおいて東西どちらにも与せず傍観を決め込んだため、徳川家康によって常陸から秋田へと転封となった。秋田に赴いた義宣は早速城を造ったが、その最中に夢枕に白狐が現れ、古くより城を建てている場所に住んでおり、土地の一角に住まわせて欲しいと願い出た。義宣は快諾して住処を与えたところ、白狐は那珂與次郎という名の飛脚に変じて義宣に仕えた。そして秋田と江戸をわずか6日間で往復するという離れ業を使って江戸の情報をいち早く秋田に伝えたり、時には幕府の隠密の動きを封じたりと、御家安泰に一役買ったのである。
その與次郎が宿としたのが、六田村(現・東根市)にある間右衛門の宿であり、いつしか娘のお花と恋仲になった。與次郎は自らが白狐の化身であるとお花に告白したが、二人の仲は変わらなかった。
しかし與次郎の存在を疎ましく思う者が現れだした。佐竹家の動向を探っていた幕府が與次郎飛脚の秘密に感付いたとも、與次郎の働きで仕事にあぶれた六田村の飛脚達だとも言われる。その者達が、宿の主人の間右衛門を金で抱き込み、さらに與次郎を快く思っていなかった猟師の谷蔵も加わり、與次郎を亡き者にしようとした。
その悪事を知ったお花は與次郎に危急を知らせた。與次郎は難を逃れたかに見えた。しかし罠として置かれた油揚げ(鼠の天ぷら)を仲間の後難を恐れて始末しようとしたところを、谷蔵の矢によって射抜かれてしまったのである。最後の力を振り絞った與次郎は、義宣の状箱を秋田に向かって投げ、そして事切れてしまった。
お花は與次郎の遺体を見つけ、それを葬った後いずこともなく去り、二度と六田村には戻らなかった。そして城の松の木にぶら下がった状箱を見つけた義宣は、六田村で與次郎が殺されたことを知って涙したという。
六田村ではその後災厄が立て続けに起こった。谷蔵は突然発狂して妻子を殺して自身も死んでしまった。そして村を疫病が襲い、多くの人が亡くなった。さらに怪火によって村のほとんどが焼けてしまったのである。残った者はこれを與次郎の祟りと恐れ、ついには幕府の命によって慶長16年(1611年)に與次郎稲荷を建てたということである。
佐竹家では尊崇篤く、久保田(秋田)城内にも與次郎稲荷神社は建立された。参勤交代の折にも、四ツ家にあるこの與次郎稲荷神社にも代々藩主が参拝したとされる。  
神矢田(かみやだ) / 山形県飽海郡遊佐町
山形・秋田県境に位置し、東北地方第二位の標高二二三七メートルを誇る鳥海ちょうかい山は、西方の裾野を日本海に落とす秀麗な火山である。『三代実録』貞観一三年(八七一)五月一六日条に、同年四月八日や弘仁年中(八一〇‐八二四)の墳火に関する記載がみえ、活発な火山活動は古くから都邑にも知られ、ケガレを嫌う大物忌おおものいみ神の神山とされてきた。平安時代には同山が噴火したり、周辺に異変が起こるたびに大物忌神への神階昇叙が行われ、山上にある大物忌神社はいつしか出羽国一宮と崇められ、登拝口の遊佐ゆざ町吹浦ふくら・蕨岡わらびがおか、秋田県由利ゆり郡矢島やしま町矢島には、それぞれ里宮が置かれた。
鳥海山の南西麓一帯を占める遊佐町のほぼ中央、大字北目きための神矢田遺跡は縄文時代中期から弥生時代前期にかけての集落遺跡である。標高九メートル、鳥海山の山裾が庄内平野に接する南向の緩斜面上にあり、西に庄内砂丘の松林、南に日本有数の穀倉地帯である庄内平野の眺望が開ける。遺跡中央を西流する北目堰は、鳥海山を水源とし鮭の大量溯上で有名な高瀬たかせ川に合流、やがて同川は吹浦川と名を変えて庄内浜で日本海に注ぐ。神矢田遺跡からは二棟の住居趾のほか、石鏃などの大量の石器や、縄文後・晩期のほとんどすべての形式がそろう土器片が採集されており、この継続性は、盛衰はあったものの同所が縄文人の住環境として極めて良好であったことを推測させる。
昭和四五年同遺跡の発掘調査で団長を務めた故村上孝之助氏の家には、正徳元年(一七一一)に北目堰で採取した旨を記す紙片貼付の石棒が伝来していた。同氏は今次の発掘で出土したスタンプ状土器の文様と伝来する石棒の把牛頭の文様が酷似することから、石棒の出土地を神矢田と断定、従来不明であった北目堰の開削年代を正徳年中と推定し、また遺跡地周辺が同堰の灌漑により田地となった所であることから、神矢田の地名は堰普請の際に出土したこれら石器に因んで命名されたものとした。遊佐町近郊では古くから石鏃を神矢石(あるいは神矢根石)=神軍の矢に用いた矢の根石の意=とよび、同遺跡の西南、藤崎ふじさき地区神矢道かみやみちでも、一八世紀後半、庄内砂丘に砂防林を育成中であった佐藤藤蔵が、一升舛で計るほどの石鏃を採集(佐藤家文書など)、一部は現在も鶴岡市の致道博物館などに保管されている。
近代考古学が確立されるまで、石鏃は天より降りそそぐものと考えられ、矢ノ根石、天狗ノ矢やノ子ね石、また神矢石とよんでいた。畿内政権による東北経営が未だ安定しなかった九世紀、東北開拓(侵略)の前線にあたった鳥海山麓や庄内浜に石鏃が降りそそぐこと(石器の発見)は、蝦夷の反乱に対する重大な警鐘と解されていた。『続日本後紀』承和六年(八三九)一〇月一七日条によると、同年八月、激しい雨と雷鳴が一〇日ほど続いた後、出羽国府から五〇余里離れた田川郡「西浜」に鏃・鋒様の形をした白・黒・青・赤といった色とりどりの石が多数、申し合わせたように尖端を西に向けて並んでいるのがみつかった。さっそく国司は事の次第を朝廷に言上、併せて採取した石鏃も送付したところ、朝廷は陸奥・出羽、並びに大宰府などの辺境に異変に対する注意を喚起し、神仏に対する奉幣・修法を怠らないようにとの命令を下した。さらに仁和元年(八八五)六月には「秋田城中」「飽海郡神宮寺西浜」に、同二年二月にも「飽海郡諸神社辺」に夥しい数の石鏃が降り注いだ旨が報告され、いずれも不慮の事態に対処し、諸神を恭祀するように命じている(『三代実録』仁和元年一一月二一日条など)。
現代からみれば、土中に埋没していた縄文・弥生時代の石器が、長雨によって表土が流出したために地上に現れたに過ぎないのだが、古代の人々は形態から弓箭の鏃であろうとは推察はしたものの、天上の神々が戦を起こした際に使用した鏃が降りそそいだのであり、石鏃を神与のものと考えた。前出の神矢道は六国史に載る石鏃降雨の有力な擬定地とされるが、しかし、神矢田や神矢道周辺は他の諸地域に比して縄文遺跡の分布が、突出して集中している訳ではない。このことに関して森浩一氏は、古代「石鏃降雨」に似た状況は全国各地で起こり得たのに正史記載が出羽国に限定されるのは、沿海州よりアムール河に広がる靺鞨まっかつ(ツングース系民族粛慎の後裔とされる)集団の激しい動きに対して無警戒の中央貴族へ、在庁官人が警告を発したもので、当時の東アジアの緊張関係全体のなかで再考する必要があると指摘する(「九世紀の石鏃発見記事とその背景」)。
なお山形県史編さん室の誉田ほんだ慶信氏は、古代国家領域のなかで鳥海山は北辺と意識されており、また『続日本後紀』に、承和六年、最後となった遣唐使船が南境で賊に襲われた際に大物忌神の神助により救われた(前出の石鏃降雨記事に結びつけ、同神が鏃を降らせて守ってくれた)との記載があることなどから(同七年七月二六日条)、鳥海山を神体とする大物忌神は北境の守護神(軍神)であると同時に、広く辺境を守ってケガレを国土の外へ追いやり、またケガレの侵入を未然に防ぐ神力を備えた神とされていた、との卓見を示されている。 
二井宿街道(にいじゅくかいどう) / 山形県
古代から近世にかけて利用された奥羽国境の峠道は、最南の檜原ひばら峠=会津街道から最北の吹越ふっこし峠・鍋越なべこし峠=仙台街道まで数多くがあった。吹越峠・鍋越峠越えは、奈良時代に陸奥出羽按察使大野東人が軍事目的のために開いた道と推定されており、陸奥国府多賀たが城と出羽国府を結ぶ官道は、笹谷ささや峠を越えていたと考えられている。笹谷峠は歌枕有耶無耶関うやむやのせきの有力比定地でもある。二井宿街道は、七しちヶ宿しゅく街道(羽州街道)の湯原ゆのはら宿(現宮城県七ヶ宿町)から二井宿峠を越え、二井宿村―安久津あくつ村―高畑たかはた村―竹森たけのもり村(以上現山形県高畠町)を通り、爼柳まないたやなぎ村(現南陽市)で米沢街道に合していた。爼柳村から西は大塚街道の名でよばれ、出羽を横断して越後へ至る道として、吹越峠・鍋越峠越え、笹谷峠越えに劣らず古くから利用されてきた道である。
二井宿峠が開かれ、この街道が二井宿‐湯原間の主道になった時期は不明だが、伝えによれば、伊達氏領時代に九州浪人島津某が新宿にいじゅく(寛政五年二井宿の表記に変更)に入り、馬足のかなわぬ古道を捨てて新しい峠道を開き、その功により伊達氏から峠の関守を命ぜられたという。最上義光が弟中野義時と反目し、伊達輝宗が義時に加勢した最上合戦の際の天正二年(一五七四)五月、輝宗は新宿に出馬しており(『伊達輝宗日記』)、同一五年一月、伊達政宗は新宿の関守に命じて、一駄二〇〇銭以上の貨財と甲胄・火薬・塩硝等を関外へ移出することを禁じている(『奥羽編年史料』)。
戦国期以前の古道は二井宿から屋代やしろ川沿いに北上、上うわの台だいから東の沢に入り、六四〇メートルの尾根を越えて干蒲ひかば(現七ヶ宿町)に出る道だったと推定される。この道は上の台からさらに北上すれば柏木かしわぎ峠(二重坂)を越えて羽州街道上山かみのやま宿に、途中左手に進めば小岩沢こいわさわ村(現南陽市)に至る。なお上の台から尾根を越え東方干蒲へ向かう道とは別に、尾根を越えたあたりから南下し、湯原宿に向かう沢道もあったらしく、七ヶ宿町側に古道沢の称が残っている。屋代川沿いには遺跡・古墳の分布が密にみられ、古くからのこの道の利用を物語っている。
江戸時代、出羽置賜おきたま地方から城米を搬出する街道としては、二井宿街道と板谷いたや街道が用いられ、また羽州街道を北上して船町ふなまち河岸(現山形市)から最上川を下す方法があった。しかし板谷街道の場合は、寛文年間(一六六一‐七三)の阿武隈あぶくま川改修までは福島から水沢(現宮城県丸森町)まで陸送しなければならず、船町河岸利用は最上川下しの船賃が加算されるため、二井宿街道‐七ヶ宿街道を使って阿武隈川河口の荒浜あらはま(現宮城県亘理町)へ出すことが多かった。ただし同街道は山道が多いうえに宿場も少なく、「安永風土記」によると、湯原・峠田とうげた(現七ヶ宿町)の両宿を合せて馬一七疋・牛五〇疋、渡瀬わたらせ宿(現同上)は馬一八匹・牛八疋のみで、助郷制の成立も困難な地域だったから、計画通りの輸送はできなかったようである。
五街道や主要な街道に伝馬制が敷かれていた江戸時代、幕府や藩の公用荷は宿駅に常備された馬によって継ぎ送りされ、牛が利用されることは少なかった。牛は専ら民間荷の運搬や畿内の一部に発達した牛車うしぐるまに利用され、馬の道=表街道に対し、裏街道ともいうべき庶民の牛の道が形成されていたという。しかし馬に比べてはるかに飼育しやすく、速度は劣るが坂道に強く、人間といっしょに野宿できる牛は、伝馬役によって疲弊した宿村によって、しだいに表街道にも進出していった。それは優れた牛の産地である西日本で早くに始まり、馬産地である東国へも浸透していく。先の「安永風土記」に記された牛も、当時は公的な駄載には用いられていなかったが、天保一四年(一八四三)七ヶ宿の検断は連名で、出羽米沢からの城米を牛で駄送したい旨を大肝煎に願い出ている(「御用留」安藤家文書)。
また牛の効率性に目をつけた、伝馬制を崩壊させるような動きが、幕末には東国でもみられるようになる。上野国の例であるが、安政年間(一八五四‐六〇)、利根とね郡追貝おつかい村(現群馬県利根村)の久右衛門は、会津藩の払米を会津街道を牛で付け通しで駄送し、既得権益を犯されたとする同街道の宿村との間で係争を起している。この時の「済口証文」(戸倉区有文書)によると、宿村側の申立て条項のなかに、牛が通ることにより道・橋が荒れること、牛は山野を嫌わず野宿し作物を食い荒らすため道中の村々が迷惑すること、牛追いは一人で四、五疋の牛を引くことができるので、駄賃の面で太刀打ちできないこと、などがあげられている。
江戸時代、二井宿村でどのくらい牛馬を飼っていたかは不明だが、現在同じ高畠町に属し、茂庭もにわ街道豪士ごうし峠の峠下集落である和田村には、天保九年、馬一〇疋・牛一四四疋以上がいた。村の牛耕に使われ、あるいは賃牛も行われていたかもしれないが、主としては駄賃稼ぎに使役されたのだろう。牛の背で、置賜地方から紅花・青苧・漆蝋・酒などが移出され、塩・白石素麺・魚・紙・伊達こんにゃくなどが運び込まれたのだった。 
 
 
福島県 / 岩代、石城

 

北海道青森岩手宮城秋田山形福島

安積山影さへ見ゆる山の井の あさき心をわが思はなくに 万葉集
信夫地方
はるか古代、信夫しのぶ地方(福島盆地)は湖だったといふ伝説がある。
その湖の片隅に浮かぶ小さな孤島であった鹿島山(福島市小田)の山頂に、常陸国から鹿島の神が勧請されたといふ。この付近は古くは小倉郷といはれ、神域の前を流れる濁川に架かる石橋をたたへた歌にも詠まれてゐる。(鹿島神社由緒)
○ よろづ世にかけて朽ちせじ里の名の 小倉の橋の名さへ橋さへ
信夫のもぢずり絹 / 福島市山口文知摺観音
みちのく信夫の絹織物「もぢずり絹」は、「みだれ染め」といはれる模様に特色がある。模様染めの型に使ふ石を、文知摺石といひ、この石に草木の色を付着させて、さらに布に写して染める。古く天智天皇のころから土地の名産として都に献上されたといふ。
むかし中納言河原大臣源融みなもとのとほるといふ人が、陸奥按察使あぜちとして大和から陸奥国に赴いた。中納言が信夫の里の杉野目長者の家に泊まったとき、長者の娘の虎女と恋仲になった。任を終へて都へ帰ることになった中納言は、虎女に必ず迎へに来ると言ひ残して旅立った。しかし都からは、いつまでたっても手紙さへ来ず、虎女は観音さまに悲願を掛ける毎日だった。やがて虎女は身を患って重い病の床に臥した。虎女の病の噂は都にも届き、これを知った中納言は、絹織物に添へて恋歌を送った。
○ みちのくのしのぶもちすり誰ゆゑに 乱れそめにし我ならなくに 源融
(陸奥の信夫を思ひ文知摺の模様のやうに思ひ乱れる我は、他のどの女のせいでもない)
虎女は中納言の心が嘘でなかったことを知り、安らかに息を引き取ったといふ。長者は娘を哀れんで、願を掛けた観音堂近くに塚をつくって埋葬したといふ。
○ 早苗とる手もとや昔しのぶ摺 芭蕉
吾妻嶽の荒駒 / 福島市北沢又 嶽駒神社
むかし吾妻嶽には荒駒が住み、里に出ては田畑を荒らした。大同四年、空海が出羽国湯殿山を詣でてのち、吾妻嶽の麓を通ったとき、里人の訴へを聞いて、荒駒を捕へようと吾妻嶽に向かった。折しも秋の台風の季節で、俄かに空を黒雲が覆ひ、暴風雨となった。松川も洪水であふれ、川岸で空海の一行が立ち往生してゐると、突然いななきとともに荒駒が現はれた。さっそく空海たちが駒を生け捕りにしようと構へると、どこからか白髪の神人か現はれて告げた。「我は当地の氏神なり。今汝の捕ふる荒駒を我に与へよ。我これを宥め、永く駆使せん」といって、藁に握り飯を包んで空海に与へ、更に歌を詠んだ。
○ 陸奥の吾妻の嶽の荒駒も 飼へばぞなつくなつけばぞ飼ふ
かうして白髪の老人は駒を引いて立ち去って行った。
空海は、握り飯の包みの藁で祠を建ててまつり、嶽駒大神と名づけ、祈祷を続けた。まもなく洪水は止み、いつのまにか地表の川の流れは消えて、地底を通って流れてゐた。今でもこの川は秋以降は社の付近の地底を通り、流れの末まで魚は住まない。よって「祭川」といふと社記にあり、この地を馬除とも魔除ともいふ。(嶽駒神社由緒)
西根堰 / 福島市飯坂町
江戸時代の初め、信夫に名代官とよばれた人があり、古河善兵衛といった。関ヶ原の合戦以前から上杉氏に仕へ、上杉氏の米沢転封後も、伊達・信夫二郡の代官をつとめ、治水工事にとりくんで西根堰を完成させた。この堰は、土地の豪族佐藤新右衛門の作った下堰(三里十九丁)と、善兵衛が作った上堰(七里三丁)からなり、善兵衛の上堰は、距離も長く、また岩盤を貫くトンネル工事を含む大工事となった。善兵衛は一代官にすぎず、富豪ほどの財力はなく、私財を全て投げうっても資金は足りなかった。そこで年貢をつかさどる代官の特権を利用して藩主へ納めるべき年貢の一部を工事費に流用し、寛永二年に堰を完成させた。年貢の不足分は毎年私費を充当してゐたが、とても追ひつく額ではなく、寛永十四年十二月、突如米沢への召還の命を受けた。以前の年貢未納の詮議が目的であることがわかると、道中の李平村(福島市庭坂)で辞世を残し、雪道の馬上で自害した。
○ 巌が根を通さざらめやひとすぢに 思ひとめにし矢竹心を 古河善兵衛
○ ますらをが身は砕きても国のため 尽くす誠の花や咲くらん 古河善兵衛
福島市飯坂町湯野の西根神社は、善兵衛と新右衛門をまつったものである。
安達ヶ原 / 二本松市東部、阿武隈川南岸
    「黒塚」・安達ヶ原の鬼婆
安達ヶ原には古くから鬼が住むといふ伝説があり、拾遺和歌集にも詠まれた。
○ みちのくの安達の原の黒塚に 鬼こもれりと聞くはまことか 平兼盛
むかし熊野の山伏が旅の途中、安達ヶ原で日暮れになり、一つ家に宿を乞ふと、老婆が一人で住んでゐた。夜中に物音が聞こえ、山伏が老婆の部屋をのぞくと、部屋は人の死骸の山だった。これまでに宿をとった旅人たちのなれの果てのやうだった。驚いて逃げ出す山伏を、老婆は鬼女の正体を現して追ひかけ、食ひ殺さうとしたが、山伏は必死で祈祷を続け、鬼女を倒すことができたといふ。(謡曲「安達原」)
安積山 / 郡山市日和田町安積山公園
京の大納言の家に、たいそう美しい姫がゐた。この家に内舎人として仕へ始めた男は、姫を一目見たときから恋に悩んだ。死ぬほどに思ひつめ、とうとう侍女に頼んで気持を告げてもらふと、姫は、男を憐れんで部屋へ入れた。
逢瀬は重ねても、かなふ恋ではない。男は意を決して姫をかき抱いて東国へ逃げた。長い旅の果てに陸奥の安積山に至り、山に隠れ住むことにした。平穏な幾年かが過ぎ、やがて姫は身ごもった。
ある日、男はいつものやうに食物を求めて里へ出かけた。男の帰りを待ちながら、姫がふと山の井を見ると、水に映る自分の姿は、都で華やかな暮らしをしてゐたころとは似ても似つかぬものだった。哀れな姿を恥ぢた姫は、歌を詠んで息絶えたといふ。
○ 安積山影さへ見ゆる山の井の あさくは人を思ふものかは
里から戻った男は、冷たい姫のなきがらにすがり、ただ嘆き悲しむばかりであった。男はそのまま姫に添ひ伏して死んだといふ。(今昔物語、大和物語)

奈良時代のこと、葛城王(橘諸兄もろえ)が陸奥国に派遣されたとき、歓迎の宴での国司のもてなしがおろそかだったので、王は見るからに不機嫌なそぶりだった。それを見かねて、国司の娘がご機嫌をとらうとした。娘は以前に采女うねめとして都に出仕してゐたこともあり、王の前に出て、左手に杯、右手に水を持ち、王の膝をたたいて歌を詠んだ。
○ 安積山影さへ見ゆる山の井の あさき心をわが思はなくに
それで、やっと王はご機嫌を取り戻して、楽しく宴の主役を勤められたといふ。(万葉集)
白河の関 / 白河市
陸奥の入り口に置かれた白河の関は、「歌詠まば逢坂の関、白河の関、衣の関、不破の関などを詠むべし」(能因歌枕)といはれ、歌枕としても有名であった。
○ 都をば霞とともに立ちしかど 秋風を吹く白河の関 能因法師
右の歌を詠んだ能因法師は、旅に出たやうに見せかけて、しばらく庵に篭って人前に出ず、顔を黒く塗って日焼けしたやうな顔で現はれて、陸奥国に修業の折りに詠んだのだといって、歌を披露したといふ。歌は京の都で作ったものである。
むかし白河で連歌の大会があるといふので、飯尾宗祇が白河の関まで来ると、魚売りの女が通りかかった。女に「綿を売るか」と聞くと、女は、歌で答へた。
○ 阿武隈の川瀬にすめる鮎にこそ うるかといへるわたはありけれ (女)
「うるか」とは鮎のはらわたのこと。女の歌に感服した宗祇は、白河は歌の上手な者ばかりに違ひないと、道を引き返したといふ。同類の話は西行の話として各地にある。綿の打ち直しなどをする職人が諸国を巡って伝へた話ではないかと柳田国男はいふ。
白河藩主の養子となった松平定信(徳川吉宗の孫)は、のち幕府老中となって寛政の改革を進めた。白河市の南湖を詠んだ歌がある。
○ みづうみのその手ところも末遠し 伝ふしるしの岸の石ふみ 松平定信
会津地方
十代崇神天皇のころ四道将軍のうちの二人、つまり北陸道を平定した大彦命と、東海道を平定した武渟川別たけぬなかはわけ命(大彦の子)が、行軍の果てに出会った所を、会津といふ。(古事記)
○ 会津嶺の国をさ遠み逢はなはば 偲ひにせもと紐結ばさね 万葉集
天正十八年(1590)小田原攻めの功績で九十万石の大名として会津に入った蒲生がまふ氏郷うぢさとは、城下町を整備し、生れ故郷の近江国蒲生郡若松にちなんで「若松」の地名とした。五年後の文禄四年(1595)に死去。徳川、毛利に次ぐ大名となったことが秀吉に警戒され、毒殺されたとの説もある。
○ かぎりあれば吹かねど花は散るものを 心短き春の山風 蒲生氏郷(辞世)
以後数代の藩主が入れ替り、二代将軍徳川秀忠の子、正之が、保科正光の養子に入り会津藩主となった。保科正之は、朱子学を学び神道を信仰して、『家訓』を著はし、耶麻郡総社の磐椅神社の再興、『会津神社誌』の編纂などを手がけた。晩年の寛文十二年(1672)に、神道家の吉川惟足とともに磐梯山の麓を訪れ、見袮みね山に墓所を定めて歌を詠んだ。(磐椅神社由緒)
○ よろづ代といはひ来にけり会津山 高天の原にすみかもとめて 保科正之
○ 君ここに千歳の後のすみところ 二葉の松は雲をしのがむ 吉川惟足
相馬野馬追ひ / 相馬妙見三社
相馬氏は下総の千葉氏の別れで、下総国相馬郡に勢力を持ち、源頼朝の奥州平定への功績で奥州相馬地方に所領を得た。鎌倉時代の末に、相馬氏は亀甲城(原町市)に移住して、代々の氏神である妙見社(太田神社)をまつった。南北朝のころは北朝の足利氏に属し、小高城(相馬郡小高町)に居城を移し、小高神社をまつった。 江戸時代には、相馬利胤が中村城(相馬市)に移住して藩主となり、中村神社をまつった。太田神社、小高神社、中村神社を相馬妙見三社といふ。また、相馬氏は下総国相馬郡の守谷城を拠点とした平将門の子孫ともいふ。
相馬野馬追のまおひ祭は、この妙見三社にまたがる祭で、むかし平将門が、関八州の兵を集め、下総国流山地方で野馬を追って兵を訓練したのが始まりといふ。相馬氏も城下の野に馬を放牧して将門にならひ、徳川時代に至っても「治を得て乱を忘れず」と継続された。
○ 相馬恋しや妙見さまよ 離れまいとの繋ぎ駒 (相馬流山)
○ 竹に雀は仙台様の御紋 相馬六万石、九曜星 (相馬流山)
○ 陸奥の荒野の牧の駒だにも 取らば取られて馴れ行くものを
宇多の尾浜 / 相馬市
相馬市黒木の諏訪神社の社頭の松は「桃井の松」と呼ばれる。諏訪神社は、もと宇多郡尾浜村(相馬市の松川浦北部)にあり、天文七年(1538)に西方の黒木に遷座になったといひ、当時の歌が伝はる。桃井とは神官の名前らしい。(諏訪神社由緒)
○ 陸奥の宇多の尾浜の浪風の音だに 声こい(恋)の百永ももえい(桃井)の松 (古歌)
宇多の尾浜を詠んだ古歌。
○ 陸奥の宇多の小浜のかたせ貝 あはせても見む伊勢のつまじろ
神明橋 / いわき市平上高久(旧平町)神明神社
延宝(1673-)のころ祐天和尚が帰京の道すがら、平たひらの城下町のはづれで里人の姿を見て、
○ 冬おきて夏かれ草を刈りに行く
と発句すると、神明社の前の神明橋の上から、一人の里人が振り返って、
○ 神明橋はゆるぎなく成り
と、下句を付けた。神明橋は毎年のやうに大水で流されてゐたが、この歌の功徳により、以後は流されることはなくなったといふ。
勿来の関 / いわき市勿来
陸奥の磐城国の入り口にあった関を、勿来なこその関といふ。「蝦夷人の来る勿なかれ」といふ意味で名付けられたといひ、歌に詠まれるときは、「来るな」の意味にちなんで詠まれる。
○ 東路は勿来の関もあるものを いかでか春の越えて来つらん 源師賢
○ みるめかる海人の行き交ふ湊路に なこその関も我は据ゑぬを 小野小町
○ のど病みて旅は勿来のせきに来て はな散るかぜをたれかしるらん 狂歌
白河天皇の御代に、源義家が、奥州を平定した帰途に、勿来の関で詠んだ歌はよく知られるところである。
○ 吹く風を勿来の関と思へども 道も狭せに散る山桜かな 源義家 
 

 

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万葉集
「陸奥之 真野乃草原 雖遠 面影為而 所見云物乎」
   陸奥(みちのく)の 真野(まの)の草原(かやはら)
   遠(とほ)けども 面影(おもかげ)に為(し)て
   見(み)ゆと云(い)ふものを
( 陸奥の 真野の萱原は 遠いけれど それでも面影として 見えると言いますのに )
笠女郎(かさのいらつめ)が大伴宿祢(おほとものすくね)家持(やかもち)に贈った歌。
「陸奥之」は「陸奥(みちのく)の」と訓む。「陸奥」は「みちのく」で東北地方をいう。「みちのく」は東山道の「道の奥」の意で命名された名称で、『和名抄』に「三知乃於久(ミチノオク)」とあるが、上代からすでに縮めてミチノクと言っていた。「美知能久」 「美知乃久」 の仮名書き例がある。『日本国語大辞典』に「陸前(宮城県・岩手県)・陸中(岩手県・秋田県)・陸奥(むつ=青森県・岩手県)・磐城(いわき=福島県・宮城県)・岩代(福島県)の奥州五国の古称。出羽(山形県・秋田県)を加えた奥羽、今の東北地方を漠然とさしていうこともある。」とあるように、「陸奥(みちのく)」は、いわゆる「陸奥(むつ)国」だけではなく、奥州全体の称である。
「真野乃草原」は「真野(まの)の草原(かやはら)」と訓む。「真野(まの)」は地名で、福島県・新潟県・滋賀県・兵庫県の四県にその地名があるが、ここは福島県相馬郡鹿島町の地名(現在は南相馬市区)。。「草原」は「かやはら」と訓む。西宮『萬葉集全注』は「真野は陸奥の行方郡に『真野、末乃』(和名抄)とある。今の福島県相馬郡鹿島町。西の山の手に、もと上真野村、東の海岸寄りに真野村があった。真野川の流域が、草原をなしていたので、昔から有名であり、もう万葉時代から歌枕的地名として都人の知るところであったとみてよい。『草原』の『草』はクサ(これは雑草の意)ではなく、カヤ(茅・萱・薄などの総称)と訓む。雑草の原では名所にもならないからである。」と述べている。
「雖遠」は「遠(とほ)けども」と訓む。旧訓にトホケレドとあったのを契沖『萬葉代匠記』にトホケドモと改めたのによる。根拠としては、『万葉集』にはトホケレドの仮名書き例は無く、トホケドモの仮名書き例は、「遠鶏跡裳」、「等保家騰母」 などがあることによる。
「面影為而」は「面影(おもかげ)に為(し)て」と訓む。「面影(おもかげ)」は「見之人乃(ミシヒトノ) 言問為形(コトトフスガタ) 面景為而(オモカゲニシテ)」、「如是許(カクバカリ) 面影耳(オモカゲノミニ) 所念者(オモホエバ)」、「面影尓(オモカゲニ) 所見乍妹者(ミエツツイモハ) 忘不勝裳(ワスレカネツモ)」の例からも分かるように、今日と同義と言えよう。西宮『萬葉集全注』に「ただ、当時は心に相手のことを思うと、相手の面影の形をとって、あるいは夢として、見える(現われる)と信じていた点は今日とかなり異なる。」とあることには注意を要する。「為而」は、「として。となって。」の意。
「所見云物乎」は「見(み)ゆと云(い)ふものを」と訓む。「所見」は、「見(み)ゆ」。「云」は、「と云(い)ふ」と訓む。「物乎」は、「ものを」で実状に対する不満や残念の気持ちを込めての詠嘆を表わす。
西宮『萬葉集全注』は『萬葉集注釋』を引用しながら、次のように述べている。
この作「遠けども〜といふものを」の表現が、実は近くにいながら面影に見えない(家持に逢えない)、なぜ逢えないのか、逢いたいのに、という気持を表白した寓喩歌。注釈は、「ものを」の表現を重視して、余情を残した詠嘆表現に対して、言葉を加えて説明するのは「作者の言葉(表現)を超えた解釈になる」として却け、「思ふ人が面影にも立たないとか、人の思つてくれない事を恨んでゐるとかいふ事は、明らかに誤解である。面影は夢ではない。夢は見ようと思つても見られない。だから夢にも見えねば思つてくれないのかと歎く事もあらうが、みづからの思ひが真実である以上面影に立たぬといふ事はあり得ない。真野の草原が面影に立つならば思ふ人の姿が面影に立たぬわけがない。云々」と委細を尽くし古人の心に通う万葉理解の方法を説いている。 
福島県
会津嶺(あひづね) 会津地方の山。特に磐梯山を指すともいう。「逢ひ」と掛詞になる。
○ 会津嶺の国をさ遠み逢はなはば偲ひにせもと紐結ばさね 万葉集
安積(あさか)の沼 安積山(下記参照)付近にあった沼。
○ 陸奥みちのくの安積の沼の花かつみかつ見る人に恋ひやわたらむ 古今集
安積山(あさかやま) 『曾良旅日記』は郡山市日和田の小丘とし、同所には安積山公園がある。郡山市額取(ひたいとり)山ともいう。
○ 安積山影さへ見ゆる山の井の浅き心を我が思はなくに 陸奥国前采女「万葉集」
安達太良山(あだたらやま) 二本松市・郡山市などにまたがる連峰。
○ 安達太良の嶺ねに伏す鹿猪ししのありつつも我は至らむ寝処ねどな去りそね 万葉集
○ 陸奥の安達の真弓わがひかば末さへ寄り来こしのびしのびに 古今集
○ みちのくの安達の真弓引くやとて君にわが身をまかせつるかな 源重之「後拾遺集」
安達(あだち)が原 安達太良山の東麓、阿武隈川に沿う原野。いま二本松市に安達の地名が残る。安達が原黒塚。鬼婆「いわて」の墓と伝わる。
○ 陸奥みちのくの安達の原の黒塚に鬼こもれりと聞くはまことか 平兼盛「拾遺集」
○ 思ひやるよそのむら雲しぐれつつ安達の原はもみぢしぬらん 源重之
○ まゆみ散る安達が原に朝たてば木の葉くつはく駒のつま音 源有房
○ しぐれゆく安達の原の薄霧にまだ染めはてぬ秋ぞこもれる 定家
○ わがためはこれや安達の黒塚に夕草わけて人は入りにき 藤原行能
阿武隈川(あぶくまがは) 白河市の山中に発し、仙台湾に注ぐ。霧が多く詠われる。また「逢ふ」と掛詞になる。
○ 阿武隈に霧立ちくもり明けぬとも君をばやらじ待てばすべなし 古今集
○ よとともに阿武隈川の遠ければ底なる影を見ぬぞわびしき 後撰集
○ 行末に阿武隈川のなかりせばいかにかせまし今日の別れを 高階経重「新古今集」
○ 秋の夜の月はのどかに宿るとも阿武隈川に心とまるな 藤原実清
○ 思ひかねつまどふ千鳥風さむみ阿武隈川の名をやたづぬる 定家
○ 君が代にあぶくま川の埋れ木も氷のしたに春を待ちけり 家隆
○ 今宵こそ阿武隈川のみをつくし朽ちぬる袖のほどもみゆらん 浄意
○ 阿武隈や五十四郡のおとし水 蕪村
○ 夏の靴しまひてをればげに遠く光にうねる阿武隈川は 河野愛子
下紐(したひも)の関 宮城県境に近い厚樫山の西南にあった関。伊達の大木戸ともいう。
○ あづま路のはるけき道を行きかへりいつかとくべき下紐の関 太皇太后甲斐「詞花集」
信夫(しのぶ) 旧陸奥国信夫郡。いまの福島市あたり。信夫山がある。草木染の一種、信夫摺の産地として名高い。動詞「忍ぶ」と掛詞になる。
○ 陸奥のしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れんと思ふわれならなくに 源融「古今集」
○ しのぶ山忍びて通ふ道もがな人の心の奥も見るべく 伊勢物語
○ 陸奥の思ひしのぶにありながら心にかかるあふの松原 藤原長実「金葉集」
○ あやなくも曇らぬよひをいとふかな信夫の里の秋の夜の月 為仲「新古今集」
○ かぎりあれば信夫の山のふもとにも落葉がうへの露ぞ色づく 通光「新古今集」
白河の関 白河市旗宿。奥州三関のひとつ。
おくのほそ道 / 心許(こころもと)なき日かず重るまゝに、白川の関にかゝりて、旅心定りぬ。いかで都へと便(たより)求しも断(ことわり)也。中にも此関は三関の一にして、風騒の人、心をとゞむ。秋風を耳に残し、紅葉を俤(おもかげ)にして、青葉の梢猶あはれ也。卯の花の白妙に、茨(いばら)の花の咲そひて、雪にもこゆる心地ぞする。古人冠を正し、衣装を改し事など、清輔の筆にもとゞめ置れしとぞ。
○ 卯の花をかざしに関の晴着かな 曾良
この短い一節に、歌枕としての白河の関の歴史は尽きている。芭蕉は、文中に以下のような名歌を織り込んでいるのである。
○ たよりあらばいかで都へ告げやらむけふ白河の関は越えぬと 平兼盛
○ 都をば霞とともにたちしかど秋風ぞ吹く白河の関 能因
○ 見る人のたちしとまれば卯の花のさける垣根や白河の関 季通
○ 東路も年も末にやなりぬらむ雪ふりにける白川の関 印性
○ 白河の関屋を月のもる影は人の心をとむるなりけり 西行
○ 都にはまだ青葉にて見しかども紅葉ちりしく白河の関 源頼政
○ 消ぬが上に降りしけみ雪白河の関のこなたに春もこそたて 家隆
また、「古人冠を正し、衣装を改し事など、清輔の筆にもとゞめ置れし」とあるのは、平安末の和歌百科全書とも言うべき藤原清輔の『袋草紙』にある、次の記事をもとにしている。
竹田大夫国行と云ふ者、陸奥に下向の時、白川の関過ぐる日は殊に裝束(さうぞ)きて、みづびんかくと云々。人問ひて云はく、「何等の故ぞや」。答へて云はく、「古曾部入道の『秋風ぞ吹く白川の関』とよまれたる所をば、いかで褻(け)なりにては過ぎん」と云々。殊勝の事なり。
国司として陸奥に下った藤原国行は、能因法師の名歌に敬意を表し、盛装して関を通過した、という。かつて蝦夷地との境界をなし、軍事上の要地であった白河の関は、平安中期にはもう関としての機能を殆ど持たなくなり、もっぱら「和歌の聖地」として名高い場所になっていたのである。能因を慕って陸奥を旅した西行もまた、この地で「秋風ぞ吹く」の歌を想起したことは言うまでもない。
所がらにや常よりも月おもしろくあはれにて、能因が秋風ぞ吹くと申しけむ折いつなりけむと思ひ出でられて、なごり多くおぼえければ
○ 白河の関屋を月のもる影は人の心をとむるなりけり
芭蕉は、白河の関に至って「旅心」が定まった、という。ここが陸奥の入口であるせいばかりではあるまい。この地にあって常に「風騒」(風雅にほぼ同じ)の心をとどめ、和歌を詠み、「冠を正し」たという古人たちへの思いが、芭蕉の心から迷いや躊躇いを取り去ったのである。
ところで芭蕉が訪れた頃、関は疾うに廃絶されて、跡形もなくなっていた。関跡が現在地に定められたのは、芭蕉の旅より百年以上も後の寛政十二年(1800)、白河藩主松平定信によってである。定信は古絵図や古歌、老農の話などから関跡を白河市旗宿のとある小丘にもとめ、「古関蹟」碑を建てた。
○ 人づてに聞きわたりしを年ふりてけふ行き過ぎぬ白河の関 橘為仲
○ 都いでて逢坂越えし折までは心かすめし白河の関 西行
○ 都にも今や吹くらむ秋風の身にしみわたる白川の関 宗久
勿来(なこそ)の関 いわき市勿来町関田関山。奥州三関の一つ。
○ 惜しめどもたちもとまらずゆく春を勿来の関のせきもとめなむ 貫之
真野(まの)の萱原(かやはら) 相馬郡鹿島町真野。
○ 陸奥の真野の萱原遠けども面影にして見ゆといふものを 笠女郎「万葉集」
山ノ井伝説(うねめ物語)
采女神社にある山ノ井清水 今から千二百年ほど前のこと、安積の里は朝廷への貢ぎができないほどの冷害が続き、このため都から、葛城王(かづらきのおおきみ。後の左大臣橘諸兄<たちばなのもろえ>)が巡察の為に安積の里に訪れた。
里人たちは王に窮状を訴えるとともに、年貢を免除してくれるように頼んだが聞き入れてもらえず、困り果てていた。
安積の里の山の井には、笛の名手・小糠治郎と、相思相愛の許婚(いいなずけ)・春姫が住んでいて、二人は、ひとときも離れていたくないほどに愛し合っていた。治郎は野良仕事へ行く時はいつも春姫の絵姿を持って出かけるほどだったという。
里人が窮状を訴えた日に宴が催されたが、王の機嫌がよくなく十分にもてなすことができなかった。その時、出席していた里長の娘・春姫が王の目にとまり接待を命じられることとなった。春姫は言われるままにふるまい、盃を捧げながら王の膝を軽くぽんとたたき次の歌を王に献上した。
○ 安積山影さへ見ゆる山の井の浅き心を吾思はなくに 万葉集
安積山の影を映す山の井の清水はあまり深くはありませんが、いつも私たちの心のように澄んでいます。わたしたちはこれでも精一杯、真心を込めておもてなしをしているのです。
すると、王はたいそうよろこび、歌の美しさや意味の深さ、すばやく詠んだ春姫の才能を褒め称え、春姫を宮廷の采女(うねめ−女官)として参内(さんだい)することを条件に、貢物を3年の間免除してくれることとなった。
しばらくして春姫が都に上がり、愛しい許婚を失った治郎は嘆き悲しみ、夜毎、春姫への変わらぬ心を笛に託していつまでも吹きつづけた。里人の窮状を救う為と、悲しみをこらえる毎日であったが、ついにこらえきれなくなり、治郎は永久の愛を誓いながら山の井の清水に身を投げた。
そのころ春姫は帝の寵愛を受け、大変華やかに暮らしていたが、片時も治郎のことを忘れることができなかった。そうしているうちに中秋の名月の宴が開かれ、春姫はこの時とばかり賑わいに紛れ猿沢の湖畔に駆け込んだ。そして湖畔の柳に十二単を掛けて入水を装い、治郎の住む安積の里へとひた走った。
帝は春姫が亡くなったと思い込んで深く嘆き、春姫を供養する祠(ほこら)をつくり次の歌を詠んで捧げた。
○ 吾妹子(わがもこ)が寝くたれ髪を猿沢の池の玉藻にみるぞ悲しき 万葉集
恋しかりし人よ、あなたが朝起きたときに乱した髪も今となっては恋心となって蘇ってくる。わたしは、猿沢の池に浮かぶ藻が、あなたのその髪のように見えて嘆き悲しんでいるのだよ。
一方春姫は走りつづけ、やっとのことで故郷に着いたが、待っていたのは治郎のせつない死であった。体の心まで疲れ果てていた春姫は、悲しみに追い討ちされ病の床に伏した。そして、雪の降る寒い夜のこと、治郎のもとへ行くことを願った春姫は、治郎と同じ山の井の清水に身を沈めた。
やがて雪がとけ、安積の里にいよいよ春が来たと思われたころ、山の井の清水のまわり一面に、名も知れぬ薄紫の美しい、可憐な花が咲き乱れた。この花について、だれ言うともなく「二人の永久の愛が土の下で結ばれて咲いたのだ」という話が広がり、それ以来、里の人たちはこの花を「安積の花かつみ」と呼んだそうな。 
大和物語・山の井の水
昔、大納言の娘いとうつくしうて持ちたまうたりけるを、帝に奉らむとてかしづきたまひけるを、殿に近うつかうまつりける内舎人にてありける人、いかでか見けむ、この娘を見てけり。顔かたちのいとうつくしげなるを見て、よろづのこと覚えず、心にかかりて、夜昼いとわびしく、病になりて覚えければ、「せちに聞こえさすべきことなむある。」と言ひわたりければ、「あやし。なにごとぞ。」と言ひて出でたりけるを、さる心まうけして、ゆくりもなくかき抱きて馬に乗せて、陸奥国へ、夜ともいはず昼ともいはず逃げて往にけり。安積の郡安積山といふ所に庵を作りてこの女を据ゑて、里に出でつつものなどは求めて来つつ食はせて、年月を経てありへけり。
この男往ぬれば、ただ一人ものも食はで山中にゐたれば、限りなくわびしかりけり。かかるほどにはらみにけり。この男、物求めに出でにけるままに三四日来ざりければ、待ちわびて、立ちいでて山の井に行きて、影を見れば、わがありしかたちにもあらず、あやしきやうになりにけり。鏡もなければ、顔のなりたらむやうも知らでありけるに、にはかに見れば、いと恐ろしげなりけるを、いと恥づかしと思ひけり。さてよみたりける、
○ 安積山影さへ見ゆる山の井の浅くはひとを思ふものかは
とよみて木に書きつけて、庵に着て死にけり。
男、物など求めて持て来て、死にて臥せりければ、いとあさましと思ひけり。山の井なりける歌を見て帰り来て、これを思ひ死に傍に臥せりて死にけり。世のふるごとになむありける。

昔、(ある)大納言が娘をたいそうかわいらしく思ってお持ちになっていたのを、帝に差し上げようと思って大切に育てていらっしゃったところ、(大納言)殿におそば近くお仕えしていた内舎人であった人が、どのようにして見たのだろうか、この娘を見てしまった。容姿がたいそう愛らしい様子であるのを見て、(ほかの)すべてのことを忘れて、(娘のことばかり)気にかかって、夜も昼もとてもつらくて、病気になりそうに思われたので、(娘に)「ぜひ申し上げなくてはならないことがある。」と言い続けたので、(娘は)「変ね。何ごとか。」と言って(部屋から外へ)出てきたところを、(男はあらかじめ)そのような心の準備をして、不意に抱いて馬に乗せて、陸奥の国へ、夜も昼も関係なく逃げていった。
安積郡の安積山という所に粗末な家を作ってこの女を(妻として)住まわせて、(男は)人里に出ていって食べ物などを求めてきては(女に)食べさせて、長年ずっと暮らしていた。この男が(ものを求めに)出かけると、(女は)ただ一人でものも食べないで山の中にじっとしていたので、この上なく心細かった。
こうしているうちに(女は)妊娠してしまった。この男が、ものを求めに出かけてしまったままで三四日(帰って)来なかったので、(女は)待ちくたびれて、(家から)出かけて山のわき水でできた井戸に行って、(水に映る自分の)姿をみたところ、自分の以前の容姿とは違って、見苦しい様子になってしまっていた。
鏡もないので、顔が変化した様子も知らないでいたが、突然にみたところ、たいそう恐ろしい様子なのをとても恥ずかしいと思った。そこで詠んだ(歌)、
安積山の姿までも移って見える(浅い)山の井戸のように、(私は)浅い気持ちであなたを思っているのでしょうか、いえ私は深くあなたを思っているのです
と詠んで木に書きつけて、家に(帰って)来て死んだ。
男は、ものなどを求めて(家に)持って来て、(女が)死んで横になっていたので、たいそう驚きひどいことだと思った。山の井戸にあった歌を見て帰ってきて、このことを死ぬほど思いつめて、(女の)そばに横になって死んでしまった。(この話は)世の中に伝わる遠い昔の話であった。 
安積山(あさかやま)と山ノ井清水
「安積山」は、白河の関や阿武隈川、信夫、安達原などとともに福島県にある著名な歌枕で、万葉集以来、多くの詠み人に愛され、詠い込まれてきた。万葉集には「安積山影さへ見ゆる山の井の浅き心を吾思はなくに」の歌が由縁書き(下)を添えて記されている。
伝えて云はく、葛城王陸奥国に遣はされける時に、国司の祗承(しじょう)、緩怠なること異に甚だし。ここに、王の意悦びずして、怒りの色面に顕れぬ。飯饌(いんぜん)を設けたれど、肯へて宴楽せず。ここに前の采女(うねめ)あり、風流(みや)びの娘子なり。左手に觴(さかづき)を捧げ、右手に水を持ち、王の膝を撃ちて、この歌を詠む。すなはち王の意解け悦びて、楽飲すること終日なり、といふ。(万葉集)
葛城王が陸奥国に下ったとき、国司のもてなしに不満をいだいて怒ったが、一人の娘が王の膝を軽くたたいてこの歌を詠んだところ、王は大いに喜んで終日宴を楽しんだといい、この歌は、紀貫之が記した古今和歌集の序文でも取り上げられ、「うたのちちははのやうにてぞ、手習ふ人のはじめにもしける」と書かれている。(山ノ井伝説)
安積山
「おくのほそ道」に登場する安積山、すなわち芭蕉と曽良が訪ねた安積山は、JR東北本線の日和田駅を降りて、徒歩10分ほどのところにある小丘で、日和田駅から北へ600mほどの位置にある。この小丘は大正4年に安積山公園として整備され、市民の憩いの場として親しまれている。
当地は「おくのほそ道」以来「花かつみ」の地として広く知られているが、郡山市では、姫シャガを「花かつみ」とみなして昭和49年市花に指定した。平成元年には「おくのほそ道」300年を記念して、「はなかつみの里 ひわだ推進会」の手により公園入り口に「花かつみ」が植栽されている。
安積山公園の北側から少し登ったところに、大正4年に建てられた采女の古歌碑(「安積山影さへ見ゆる山の井の浅き心を吾思はなくに」の碑)があり、道沿いには昭和39年に建てられた「おくのほそ道」の碑がある。頂上はなだらかに広がっており、そこからは阿武隈高原の山々、那須連山、安達太良山などを一望することができる。
また、公園の頂上からは、右肩をなだらかにした片平町の安積山(額取山)を望むこともできる。土地の人が安積山という場合はこちらを指すという。
山ノ井清水
芭蕉は、当地に赴くまでに得た情報(安積山の影が山ノ井にうつるように詠んだ采女の歌もその1つだったろう)から、かの山ノ井清水が安積山の近くにあると踏んだのだが、いざ日和田に着いてみると「山ノ井ハコレヨリ(道ヨリ左)西ノ方(大山ノ根)三リ程間有テ、帷子(片平)ト云村(高倉ト云宿ヨリ安達郡之内)ニ山ノ井清水ト云有(曽良随行日記)」ことを知る。曽良はこのことを日記に「古ノにや、不しん也」と書いている。
すなわち、日和田にあると思った山ノ井清水がここから3里も離れた帷子(片平)村にあることを里人に聞いて、古くから伝えられている話は一体どうなっているのかと不審に思ったというのである。
現在、日和田町の安積山に上の写真に見るような山ノ井清水が設定されているが、当時、この清水は無く、下の片平町にある清水こそ古来歌に詠まれた山ノ井清水であることを曽良の日記は示しているのだろう。
このようなことから、「安積山」についても片平町の山が采女の歌に詠まれた安積山だという説も存在してしまうが、天正16年(1588年)5・6月の「伊達治家記録」には、日和田町の山が采女の歌に詠まれた安積山であることが記されている。 
「かげ沼」
「おくのほそ道」の須賀川の章段に「かげ沼と云所を行に、今日は空曇て物影うつらず」のくだりがある。「かげ沼」は、そのむかし蜃気楼現象に纏わって広く知られたが、「かげ沼」の解釈については諸説あり、その正体は未だに判然としていない。
須賀川市立博物館の学芸員によれば、「かげ沼」は特定の沼の呼び名ではなく、むかし、矢吹から須賀川にかけて湿地が続き、辺り一帯が「かげ沼」と呼ばれていたそうだが、江間氏親著「東遊行嚢抄」(元禄9年自序)の記事がこうした「かげ沼」地域説を裏付けている。
影沼新田、此も馬を次ぐ所也。民屋七十間軒有て、名所という。或書に、影沼は空曇る日は、物影不見、往昔は遙に望ば、水波茫々として、望無涯、飛鳥影をうつし、馬蹄波を払へりと。按ずるに、影ろひは、春夏の交、地気蒸し上て日に映す。即荘子に所謂野馬也。田間の遊気也。之を遊絲とも云ひ、遠く見れば積気なり。かの土人、野を号てかげぬまと云ふも、心なきにあらずと云々。(東遊行嚢抄)
本書が、特定の湖沼をあげることなく、街道宿の影沼新田を名所「かげ沼」の地と記し、当地の湿地帯という地理的特徴が蜃気楼現象を誘発していたことを窺わせているのに対し、昭和30年頃に地元の板倉家で発見された古写本「井中蛙話記(せいちゅうあわき)」は、「かげ沼」を具体的な沼として取り上げ、同様に、蜃気楼の発生についても触れている。
一、岩瀬郡鏡沼の村内には流水無き所なり。然るに昔より折々日中に波立ちて、往来の人、裾を浸すが如く見ゆる事ありと申し伝へり。往古の事は噺(はなし)伝へのみ成るが、元文年中其事ありて、村の中程にて、腰膝を蟄(かがめ)、頭を下げ南に向って見れば、慥(たしか)に波ともわからねども、ちらちらして、往来する人、波の内を通ると見へて、其の人近付来れば見へずなりぬ。是、何の故と云ふことを知らず。爰に里より拾丁余西に影沼と云う村の名所と云ひ伝ふ所あり。老人の語りしは此の沼より移る波影とも云へり。鏡沼は往古、影沼の廻りに家立ちありしに寛永九申年村居をかへてより今の里なり。影沼は地低なる田の中にわずかなる沼の跡のみなるに、其の水波今の村立へ遠く移り見へると云ふ事未審(いぶかし)。(中略)又、はせを(芭蕉)の翁、行脚の記(おくのほそ道)に、かげ沼と云所を行くに、今日は空曇りて物影うつらず。須賀川の駅なる等躬といふものを尋ぬ、と記し給へし。是は元禄二年の夏なるべし。さあれば、貞享・元禄の頃も専ら影のうつり見へたるべし。翁又、かげ沼へ廻りたるにもあるまじ。鏡沼の里を行くに記し給ふと見へたり。古昔は影沼の里なりしを、いつの頃よりか鏡沼と云ひ変へたりと申すなり。天正以来は鏡沼といふなり。(井中蛙話記)
ここに書かれた「里より拾丁余西」にある沼が、鏡石町が史跡として紹介している「かげ沼」であり、小公園風に整備した跡地に「鏡沼跡」碑を建てて顕彰している。「鏡沼」は、「井中蛙話記」にあるように「かげ沼」の別称で、和田胤長にまつわる下記の説話が残されている。現在の沼は直径4mほどしかないが、文化元年(1804年)に白河藩主松平定信が測量させた当時は16坪(約53平方メートル)ほどの大きさだったという。
建保元年(1213年)、信濃源氏の泉親衡が北条討伐の謀反を策し加盟者は捕らえられた。和田胤長もこれに参加した為、岩瀬郡稲村に配流され、5月9日誅された。夫の身を案じた妻は鎌倉よりこの地に至り里人に夫の死を知らされ、鏡をいだき沼に入水して果てた。以来この沼を鏡沼というと伝える。
かげ沼というところを行くに今日は空曇りて物影うつらず
俳聖松尾芭蕉が奥の細道紀行文 元禄二年(1689)四月二十三日に記してある「かげ沼」として広く世に知られており、鏡石町の貴重な史跡である。(鏡沼跡碑から)
このほかに、「かげ沼」を「蜃気楼現象そのもの」と捉える解釈も成されている。もし、芭蕉が旧街道から2、3kmほど行ったところの彼の沼を「かげ沼」と承知していれば、立ち寄った可能は大きいのだが、これ以外の認識であったなら、「かげ沼と云所を行に、今日は空曇て物影うつらず」は、「道中、かげ沼という所を通り過ぎたが・・・」といったような受け取り方になるだろう。 
しのぶもぢ摺り
子どもの頃、白っぽいズボンをはいて原っぱで転び、膝のあたりを緑色に染めてしまったことがある。「しのぶもぢ摺り」は、まさにこの原理を利用した染め方で、捩(もじ)れ乱れた模様のある石に布をあてがい、その上から忍(しのぶ)草などの葉や茎の色素を摺り(すり)付けたものをいう。
「しのぶもぢ摺り」は、当て字を使用し、古来「信夫文知(文字)摺」などと表されている。
この石の存在を伝える文献としては「おくのほそ道」が最も早いとされており、その中で「しのぶもぢ摺の石を尋て、忍ぶのさとに行・・・」と書かれた巨石・文知摺石が、文知摺観音の敷地の中に柵に囲まれて鎮座している。
この石は、芭蕉がここを訪れたとき半分ほど土に埋まっていたそうで、付近の子どもがその経緯を次のように語ったという。
昔は此山の上に侍しを、往来の人の麦草をあらして、此石を試侍をにくみて、此谷につき落せば、・・・ (その石は、むかし山の上にあったのですが、ここを通る人たちが麦の葉っぱを取り荒らしてその石にこすっていくのを嫌い、村の人がこの谷に突き落としたものだから)
この文知摺石には、次のような伝説があり「鏡石」とも呼ばれる。
嵯峨天皇の皇子で、河原左大臣こと中納言源融(みなもとのとおる)が按察使(あぜち)として陸奥国に出向いていたが、ある日、文知摺石を訪ねて信夫の里にやってきた。源融は村長の家に泊まり、美しく、気立てのやさしい娘・虎女を見初めてしまう。融の逗留は一ヶ月余りにもおよび、いつしか二人は愛し合うようになっていた。しかし、融のもとへ都に帰るように綴られた文が届き、幸せな日々に区切りを置くことになる。別れを悲しむ虎女に融は再会を約束し、都に旅立った。残された虎女は、融恋しさのあまり、文知摺石を麦草で磨き、ついに融の面影を鏡のようにこの石に映し出すことができた。が、このとき既に虎女は精魂尽き果てており、融との再会を果たすことなく、ついに身をやつし、果てた。
源融は二度と虎女と会うことはなかったが、虎女との恋の内に次の歌を残した。
○ みちのくのしのぶもぢずり誰故に乱れむと思ふ我ならなくに (古今和歌集)
(あなた以外のだれのために、みちのくのしのぶもぢずりの乱れ模様のように心を乱す、わたしでありましょうか。)
「伊勢物語」や「百人一首」では、下の句が「乱れ初めにし我ならなくに」と改められている。
源融は、加茂川にほどちかい六条あたりの邸宅河原院の池に、わざわざ海水を運んで塩釜の浦を作り上げ、海水を使って藻塩を焼く(製塩の手法)風雅を楽しんだことから河原左大臣といわれた。
源融は、実際には陸奥国に赴任しない「遙任」であったとされている。(源融について)
文知摺石は、元禄9年の桃隣「陸奥鵆」に「長サ一丈五寸(約315cm)、幅七尺余(約210cm)」の大きさとあるが、その後次第に埋まり、明治になると地上からわずかに頭を出すまで(高さ一尺、縦五尺、横三尺)になったという。信夫郡長の柴山景綱がこれを掘りおこし、今日の姿にしている。  
見つけると死ぬ沼
淺香沼(參考)或説(ニ)云(イハク)、陸奧風土記にいはく、淺香(アサカ)の沼。名ありて尋(タヅネ)ゆけばみ(見)えぬ沼(ヌマ)也。もし尋(タヅネ)てみれば死するといへり。(久曾神|昇氏藏堀河院百首聞書)
浅香沼は探しても見付からない沼だが、もし見つけてしまうとその人は死んでしまう。まあそういう話です。この「浅香」は歌枕でもある福島県の「安積山」の事のようです。
『辞典』より、『万葉集』巻十六の伝承。
「昔、葛城王が陸奥の国に派遣された時、国司の接待が悪かったので、不機嫌になっていた。しかし以前采女として都にいた女が盃をささげて『安積山影さへ見ゆる山の井の浅き心はわが思はなくに』という歌を詠んだので王の怒りが解けた」
雄略帝と三重の采女の「天語歌」伝承と非常に良く似ています。機転を利かせた歌によって貴人の怒りを和らげる。
この伝承奈良の猿沢池とも関係あるようです。
「女は以前采女だったわけではなく、機転を利かせた歌に感動した葛城王が采女として連れ帰った。都で暮らしていた采女は故郷が恋しくなって、猿沢池で柳に衣をかけて入水したと見せかけ、故郷に帰った。しかし故郷の人々は後の禍を恐れて采女を冷遇したので、采女は山の井に身を投げて死んだ」
『辞典』によると『大和物語』や『今昔』にはまた違った伝承があるようです。「内舎人に誘われて都から下ってきた大納言の娘が、山の井に映った自分の衰えた姿を恥じて、安積山の歌を読んで死んだ。『安積山影さへ見ゆる山の井のあさくは人を思ふものかは』と下の句が変化している」
下の句の意味が良くわかりませんが、井戸を見て死んだと言えないことは無い。しかしやはり歌物語である点、私が考えていた怪奇譚的なものとは異なるようです。
まあこの逸文の出典が『堀河院百首聞書』であるということを考えると当然といえば当然なのかも。論文によると1365から1380年代ぐらいの本らしいですが、『万葉集』研究にも多少の貢献はあるか、と言った結論でした。それで風土記逸文に入っているわけです。
『辞典』にはもう一つ、「小幡小平次物」という項目に「安積沼」が現れます。
小幡小平次という人物を扱った歌舞伎狂言の演目を指すそうですが、この人物安積沼で殺されたそうです。山東京伝の『復讐奇談安積沼』では小平次の後妻と密通した男が旅役者の小平次を安積沼で殺し、その怨霊によって非業を遂げたという話。
以上文学史上の伝承ですが、その他にも興味深い伝承がありました。郡山市日和田にある蛇骨地蔵堂にまつわる伝承です。
領主の娘あやめ姫に懸想した家来が断られたのをうらんで、領主とその妻を殺害。娘は安積沼に身を投げたが恨みで大蛇に変化し、天変地異を起して村を荒廃させたので、人々は人身御供を行うようになった。33人目の人身御供に選ばれた娘の両親は娘を助けたい一心で長谷観音にお参りした折佐世姫という親と死別した娘とあう。佐世姫は話を聞いて身代わりを引き受ける。沼で経を読むと大蛇が現れ、経によって往生できたと告げ、天女となって天に上り、蛇の骨を残した。佐世姫は蛇骨で地蔵像を彫って、あやめ姫を供養した。地蔵堂後の三十三観音は人身御供で死んだ娘達と佐世姫を祀ったものだという。
典型的な龍女成仏譚です。龍女の前世譚が述べられている辺り、私が以前調べた北陸のものよりも詳しいです。
しかし「見つけると死ぬ沼」というのにはちょっと遠いかもしれません。「葛城王と采女」伝承、「自殺した采女」伝承、「小平次」伝承、「蛇骨地蔵堂=龍女成仏」伝承。それぞれ死と関わるとは言えそうですが、そこには人間の事情の方が色濃く出ていて、「見つけると死ぬ」などという自然に対する恐怖とは縁遠い感じがします。予想できることとしては、『万葉』以前の在地伝承として、恐ろしい場所として認識されていた可能性ぐらいでしょうか?
「見ると死ぬ蛇」の伝承。そのうちの一つが「双頭の蛇」だったので、「もしや、異形の蛇の伝承って結構あるのかな?」と思って、「足 蛇」で引いてみたところ、「四足の蛇」が十数例ヒットしました。
「四足の蛇」とはサイシャット族にある「ソロウ」と呼ばれる蛇神の特徴でもあります。そしてこの蛇を見たものは死ぬ・・・伝承というものは本当に思わぬところでつながっているもので、本当に侮れません。 
豊岡姫の忌庭
陸奧國風土記曰 白川郡 飯豐山 此山者 豐岡姫命之忌庭也 又飯豐青尊 使物部臣奉御幣也 故爲山名 古老曰 昔 卷向珠城宮御宇天皇二十七年戊午 秋飢饉而  人民多亡矣 故云宇惠々山 後改名云豐田 又云飯 豐(大善院舊記)
豊岡姫に関する伝承。白川の飯豊山は豊岡姫の祭祀場であり、物部臣が祭祀者だったと。垂仁天皇の時に飢饉があってたくさんの人が死んだので「餓え山」と名付けたものの、後に豊田と名前を変えた。またの名を飯豊という云々。
「豊岡」というのは豊受・豊受気・登由宇気などとも同じで、食物の女神をいう名前のようです。『辞典』「豊受大神」の説明によると『神楽歌』に「とよをか姫」とあるそうで。まあ発音は違いますが。
また奈具社の豊宇加能売も豊受大神。伊勢外宮の豊受大神は『止由気宮儀式帳』によれば丹波の比沼真奈井から移されたものだということで、奈具社との関連はかなり濃厚。
ということはどういうことかというと、「地方にそれぞれ存在していた食物の女神が天照に御餞を奉る」というのが伊勢側=天皇側の発想だということです。これは天皇自身が各地から特産物を得るということと、地方の食物神が伊勢に仕えるということを重ねて発想されたものでしょう。
上記伝承は言ってみれば地方における食物神の祭祀事例と言えるでしょう。伊勢外宮以前か以後かは不明ですが、中央の信仰とは関係なく地方において祀られていたわけです。
現在飯豊山というと新潟・山形・福島にまたがる飯豊山地を指すようですが、手元の風土記の註によるともっと南部の白河とは距離があるのではっきりしません。現在の飯豊山は役小角による命名のようです。
その山頂には飯豊山神社という神社がありますが、五つの峰を一王子から五王子に見立てて祭神としているとか。修験の山であり近年まで女人禁制で、江戸時代にはそれを犯した女性が石になったという伝承もあり。付近の村では男子の成人儀礼として登山を行った。また麓宮と四王子にある奥宮に分かれているが、麓宮には拝殿しかなく、そこから山全体を神体として祭祀をしていた模様。
ところで、役小角は三輪系賀茂氏の出自ですが、その小角が三輪山と同じく本殿を持たない飯豊山神社の開祖であるとされるのはなかなか興味深いところです。 
八人の土蜘蛛
陸奧國風土記曰 所以名八槻者 卷向日代宮御宇(景|行)天皇時  日本武尊 征 伐東夷 而到此地 以八目鳴鏑 射賊斃矣 其矢落下處 云矢着 即 有正倉神龜三年|改字八槻
 古老傳云 昔於此地 有八土知朱 一曰黒鷲 二曰 神衣媛 三曰草野灰 四曰保々吉灰 五曰阿邪爾那媛 六曰栲猪 七曰神石萱 八曰狹礒名 各有族而 屯於八處石室也  此八處皆要害之 地 因不順上命矣 國造磐城彦 敗走之後 虜掠百姓 而不止也 纏向 日代宮御宇天皇(景行|天皇)詔日本武尊  而征討土知朱矣 土知朱等 合力防禦 且諜津輕蝦夷 許多連張猪鹿弓猪鹿矢於石城 而射官兵 官兵不能進 歩焉 日本武尊 執々槻弓槻矢 而七發々八發々 則七發之矢者  如電鳴 響而 追退蝦夷之徒 八發之矢者 射貫八土知朱 立斃焉 射其土知朱 之征箭 悉生芽 成槻木矣 其地云八槻郷(即有正倉也) 神衣媛與神 石萱之孫 會赦者在郷中  今云綾戸是也(大善院舊記)
八槻の地名起源伝承。この土地に八人の土蜘蛛がいて命令に従わないので国造の磐城彦が討伐に行ったが敗走した。景行天皇は日本武尊を派遣して、七本の矢で徒党を追い散らし、八本の矢で八人の土蜘蛛を射倒した。その八本の矢は芽を出し槻の木となった。神衣媛と神石萱の子孫は赦免されて、綾部と呼ばれている。
まず八人の土蜘蛛。黒鷲・神衣姫・草野灰・保保木灰・阿邪爾那媛・〔木考〕猪・神石萱・狭磯名。最後に神衣媛と神石萱が夫婦だったと書いてある。あと草野灰と保保木灰は兄弟か姉妹だと思われます。しかし他の四人については思ったよりも名前がバラバラです。
伝承から史実における王権以前の地方勢力を考えるのは危険ですが、地方勢力が必ずヒコヒメ的な統治体制を持っていたと決め付けてしまうのは問題かもしれません。また八人の土蜘蛛はそれぞれの岩室に拠点を置いていて、それでいて神衣姫と神石萱が結婚している。これはヒコヒメ制とは言えないでしょう。さらに八人の土蜘蛛は津軽の蝦夷と連携している。これは実は戦国時代的な、いや女性首領がいるという意味ではもっと自由な組織体系を持っていた可能性があると思います。
私はヒコヒメ制の否定が天皇王権の持続性に関わっているという見方をとっており、それが天皇王権が諸氏族勢力を超越した理由だと考えています。つまり諸氏族、或は天皇王権成立以前の天皇はヒコヒメ制をとっていたのではないか?というのが大前提。
しかしこの土蜘蛛伝承に現れる名称を見るとそれはヒコヒメ制とはちょっと違うかもしれません。ヒメが呪術的な力を持ってヒコを保護するというのがヒコヒメ制ですが、ここでは完全にそうとは言えない。矢で射殺されたということは、ヒメであっても戦いの先頭に立っていた可能性があります。自身が戦闘するかどうかは別にして。女性が集団の首領になるというと、母系社会のようですが、母系でも集団のトップは男性であるのが普通です。しかし逆に男系であっても長子相続という例はある。パイワン族の貴族制度などはそれです。
一方、対する王権側の存在として登場するヤマトタケルは雷鳴轟かす七本の矢によって敵を蹴散らし、八本の矢によって八人の敵を倒している。土蜘蛛側の武器は「猪鹿弓猪鹿矢」。植物製対動物製?それとも狩猟用の弓矢?
「槻」はケヤキの別名のようですが、呪術的な意味があるのかどうかは不明です。まあ葉が鋸状に尖っているので魔除け、そのぐらいしか思いつきません。事例の研究が必要です。
ここで構造的に考えてみると、確かに植物対動物ではあります。しかし「多連張猪鹿弓猪鹿矢於石城而射官兵」と書いてあるのを見ると、土蜘蛛側が数に頼んで猪鹿矢を打ちまくったのに対して、ヤマトタケルがたったの15本で勝利している点が注目される。やはりヤマトタケルには神秘的な力があるというのがこの伝承の眼目でしょう。敵が八人というのも、数が多いという意味の八かもしれません。
この伝承、『常陸国風土記』夜刀神伝承と比較するとはっきりしますが、王権が地方を征圧したというだけの伝承ではない。国造磐城彦は敗走しています。でも「これはヤマトタケルの英雄伝承だからだ」で終わっても面白くないです。後に英雄らしく悲劇の最後を迎えるとは言え、皇子たるヤマトタケルは「王権の英雄」ですから。
現実問題としては狩猟民や山岳民族のほうが強い。武器の優劣はもちろん大きいですが、ゲリラ戦などではやはり狩猟民の方が強い。それは近代戦争などでも証明されていることだと思います。武器の優劣があまりない古代の戦争ならばなおさらです。ならば王権はどのように地方を征服したのか?その後ろ盾は経済力だったはず。武器物資の供給・人員の動因・買収・分断工作などなど。つまり実際には物量・人海戦術をとるのは王権のはずなのです。
にもかかわらず、伝承では皇子が呪術的な力で一騎当千の働きをして、多数の野蛮人を討ち果たした。ということになっている。つまり「野蛮に対して神秘的な力で勝る」のが王権の主張=神話、ということです。神から得た正統性・神聖性と言っても良いでしょう。
ところで「辞典」には、貴人が矢で撃ったと伝えられる「矢立て杉」、僧侶などの聖人が箸を立ててそれが成長したという「箸立松」の伝承が載っています。八槻伝承と比べると、箸立松のほうが近い気はします。
「箸立松」のほうに埼玉岩槻城の事例が紹介されていますが、それによると太田道灌は食後に「この城が長く繁栄するならばこの箸より芽を出せ」といって庭に箸を立ててそれが成長したといいます。この手の伝承は當麻寺近くの石光寺で役小角が仏教不朽の願を込めて植えた「不朽の桜」もそうでしょう。また根付くという意味では稲荷の杉もそうです。
つまり、ヤマトタケルは誓約こそしていないものの、槻弓が根付いたというのは王権の勢力が根付いたことを表している可能性がある。まあそこまで考えなくても、ヤマトタケルにまつわる槻木が存在していればそれだけで統治の正統性を保障すると言う伝説の機能は果たしていると言えるわけですが。
福島県棚倉町には八槻都都古別神社という式内社がありますが、陸奥一宮だそうです。この地でヤマトタケルは千度戦い千度勝ったとかいうことで、源義家が千勝大明神と名付けたとか。
しかし社伝ではアジスキタカヒコネが大国主の命令で奥羽を開拓したことが縁起とされているそうです。 
白虎隊士の墓 / 福島県会津若松市一箕町八幡
慶応4年(1868)正月に京都で始まった戊辰戦争は、やがて東へと戦線は移り、江戸城開城と上野山の戦いを経て、いよいよ5月に奥羽越列藩同盟と新政府軍との衝突となった。この戦闘は、圧倒的な火力を擁する新政府軍が徐々に制圧を開始、7月末には同盟は総崩れの状態となり、会津藩は直接新政府軍の総攻撃を受けることになる。8月21日の母成峠の戦いである。最も手薄であった峠を急襲された会津軍は敗走、僅か1日で藩境を突破されることとなる。さらに翌日には新政府軍は猪苗代城を攻略、そのままの勢いで若松城を目指して進撃する。
この怒濤の攻めに対して、会津軍は主力を欠いたまま防戦に努める。藩主の松平容保は滝沢本陣まで出陣して救援部隊を指揮するが、新政府軍の勢いは止まらず、ついには藩主護衛の任に当たっていた白虎隊士中二番隊も救援部隊として出陣することとなった。本来は最前線で戦闘に参加するはずのない彼らは、非常事態であるために最も過酷な戦闘の場に狩り出されたのである。そして戸の口原の戦いで白虎隊士中二番隊は大打撃を受けて潰走する。42名あった隊士もちりぢりとなり、23日ようやく飯盛山にたどり着いた時には20名の隊士だけとなっていた。そしてそこで見たものは城下に上る黒煙であった。それを城の陥落と見た少年たちはその場において自害、20名中19名が死んだ。
飯盛山の山腹に、この地で命を絶った19名の墓がある。その脇には白虎隊として他の地で亡くなった者の墓、会津の攻防戦で亡くなった婦女子の慰霊碑、その他白虎隊の精神を賞賛するイタリア・ドイツから戦前に寄贈された碑などが置かれている。
白虎隊の悲劇は、唯一の生き残りである飯沼貞吉の証言によって広く世に知られるようになったのだが、彼がその真相を語ったのは晩年の時、しかも一部の史家のみだったと言われる。そして後に同地に墓碑が建てられるが、19名とは離れた場所に単立している。
観世寺 黒塚(かんぜじ くろづか) / 福島県二本松市安達ヶ原
陸奥の 安達ヶ原の 黒塚に 鬼籠もれりと 聞くはまことか
平兼盛の歌で有名な“安達ヶ原の鬼婆”の伝承は、細部が多少違うものもあるがおおよそ次のような展開となる。
岩手という名の女性が、とある公家に奉公していた。その家の姫は幼い頃から不治の病であったために、岩手はその病を治すための薬を求めて各地を転々とした。その薬とは、妊婦の腹の中にある胎児の生き肝であった。やがて岩手は安達ヶ原の岩屋に潜み、標的となる妊婦が通りがかるのを待ち構えていた。
ある時、若い夫婦が岩屋に一夜の宿を求めた。女は臨月の身重、しかも夫は用事があってそばを離れた。岩手は女を殺すと、胎児の生き肝を取り出して遂に目的を果たした。しかしふと女の持ち物に目をやると、見覚えのあるお守りがあった。それは幼くして京に残した実の娘に与えたものであった。今自分が手に掛けた女が我が子であることを悟った岩手は、そのまま気が触れて鬼となった。そして岩屋に住み続け、旅人を襲ってはその肉を貪り食うようになった。
時が過ぎて神亀3年(726年)、紀伊国の僧・東光坊祐慶は旅の途中で日が暮れてしまったために、安達ヶ原の岩屋に宿を求めた。そこは岩手が鬼と化して住み着く場所であった。岩手は薪を拾いに行くので、奥を覗かないように言って外に出た。祐慶は気になって覗くと、そこには累々と人骨が積まれており、ここが安達ヶ原の鬼婆の住処であると気付いて逃げ出した。やがて戻ってきた鬼は、旅の僧がいないことに気付いて後を追い掛けた。鬼は僧を見つけると、恐ろしい速さに追いつこうとする。そしてもう少しで手が届くところとなり、祐慶はもはやこれまでと如意輪観音像を笈から取り出して経文を唱えた。すると、観音像が天高く飛びたつや、光明を放ちながら白真弓に矢をつがえて鬼婆を射抜いたのである。
その後、祐慶は鬼婆の危難を救った如意輪観音を本尊として真弓山観世寺を建立したのである。
観世寺の境内には鬼婆が住んでいた岩屋や、出刃包丁を洗ったとされる血の池など、鬼婆伝説の舞台が残されている。また宝物館には、鬼婆使用の出刃包丁などのおどろおどろしい道具や祐慶の使っていた錫杖などが展示されている。
観世寺から少し離れた川岸に「黒塚」と呼ばれる塚がある。ここが射殺されて成仏した鬼婆を葬った場所とされている。
蛇骨地蔵(じゃこつじぞう) / 福島県郡山市日和田町字日和田
養老7年(713年)に開かれたという蛇骨地蔵堂であるが、次のような伝説が残されている。
日和田の領主であった安積忠繁には、あやめ姫という美しい娘があった。家臣の安積玄蕃が求婚したが、忠繁に拒絶され、それを怨みとして主家を滅ぼしてしまった。さらに残されたあやめ姫に言い寄ったが、姫はついに沼に身を投げて命を絶ってしまった。しかしあまりの怨みのために姫は大蛇と化し、玄蕃一族を祟って滅ぼしたのである。それでもなお大蛇は怒り狂い、村人に毎年娘を人身御供とするように求めたのである。
娘が33人目の人身御供に選ばれた権勘太夫は、娘の命を救うべく大和国の長谷観音に詣でて、佐世姫という娘と出会う。佐世姫は話を聞くと、自らが代わりに犠牲になると言った。
佐世姫は人身御供となって、沼のほとりに置かれた。そして一心に法華経を唱えていると、大蛇が現れた。ところが大蛇はその法華経によって天女の姿に変わっていき、昇天したのである。天女は佐世姫に礼を述べ、残された蛇骨で地蔵を作ってくれるように依頼した。それが蛇骨地蔵の由来であるという。
この地蔵堂の裏には、大蛇の人身御供となった32人の娘と佐世姫を供養するための三十三観音像が安置されている。また大蛇伝説を残す“蛇枕石”や“蛇穴”といった伝承地もある。
正法寺 幽霊の墓(しょうぼうじ ゆうれいのはか) / 福島県会津若松市東山町大字石山
かつては境内裏手の山の中腹にあったとされるが、本堂への参道の途中に無縁墓群があり、その中央最前列に「即心即佛」と彫られた墓碑がある。これが“幽霊の墓”と呼ばれるものである。
保科正之が会津の藩侯であった時、阿蒲大郎左衛門という者があった。その妹が他家に嫁に行って間もなく兄が不慮の死を遂げ、さらに妹もじきに亡くなってしまった。妹は死の間際に実家の墓に葬って欲しいと懇願したが、願いは聞き届けられず婚家の墓に埋められた。
その葬儀の日から、実家の菩提寺である正法寺の二世斧山和尚の枕元に、その妹の幽霊が現れて「この寺に改葬して欲しい」と頼むようになった。その幽霊の執心ぶりに、和尚は婚家に事情を話して改葬を掛け合った。最終的に婚家も折れて改葬を認めたために、晴れて妹の亡骸は正法寺に引き取られたのである。その時に斧山和尚が建てた墓碑が“幽霊の墓”と呼ばれているのである。そしてそれ以降は幽霊は姿を現さなくなったと言われている。
白河の関(しらかわのせき) / 福島県白河市旗宿
奥州三関の1つとされる白河の関であるが、その創設の時期は不明である。関と名が付くが、実際には国境の警備をおこなう防衛施設の性格が強いとされている。そのためおそらく大和朝廷の勢力が関東にまで広がった5世紀頃には、北の防衛のために作られていたのではないかと推測される。
大和朝廷の勢力がさらに広がり、東北北部にまで及んだ平安時代の前期には、白河の関は機能の失っていたと考えられる。ところが、思わぬところから白河の関は有名になる。
都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関
能因法師が詠んだこの歌によって、白河の関は歌枕として一躍脚光を浴びることとなる。しかし白河の関そのものは廃止され、その所在も不明となってしまう。ただ陸奥の入り口という符丁として生き残り続けることになる。
白河の関があった場所が定められたのは、寛政12年(1800年)のこと、白河藩主である松平定信の考証による。その場所は白河神社の建つところとされ、そこに古蹟跡碑が建てられた。その後、1960年代に調査がおこなわれ、土塁や空堀などの防御施設の跡が発見され、関の存在が実証されたのである。
文知摺石(もぢずりいし) / 福島県福島市山口字寺前
文知摺観音堂を中心に信夫文知摺公園がある。この「文知摺」という名であるが、この信夫地方に古来あった染色法であり、紋様のある石に絹をあてがい、その上から忍草の葉や茎を擦りつけて染色したものという。これにちなんで名付けられたのが文知摺石(別名:鏡石)である。
中納言・源融が陸奥国按察使として赴任していたが、ある時信夫で道に迷い、村長の家に泊まった。そこで娘の虎女を見初めて相思相愛の関係となった。しかし都に戻るよう命を受けた融は再会を約してその地を去った。残された虎女は融に一目会いたい一心で観音堂に願を掛け、文知摺石を麦草で磨き続ける。そして満願の日、ついに磨き込まれた文知摺石に融の姿を一瞬見いだしたのである。だが、そこで精根尽き果てた虎女は病の床に就き、そのまま亡くなってしまう。その死の直前に、都にあった融から一首の歌が届く。それが古今和歌集に残る
“みちのくの しのぶもぢずり 誰ゆえに 乱れんと思う 我ならなくに”である。
この伝説の有名さ故、後世の歌人達も多く訪れており、松尾芭蕉も実際にこの石を見ている。ただ『奥の細道』によると、通りすがりの人々が麦の葉をちぎって石を磨くので、村の者が怒って石を谷へ突き落としてしまって、半分埋まってしまった状態であったらしい。一説によると、この石は未だにひっくり返ってしまっている状態のままであるとも言われている。
この公園内には、常に人肌程度の温もりを保ち続ける“人肌石”や北畠親房が揮毫した不思議な文字の“甲剛碑”などがあり、非常に面白いスポットとなっている。
夜泣き石(よなきいし) / 福島県河沼郡河東町八田字大野原
会津若松の市街地から東へ行ったところ、国道49号線沿いに戸ノ口原という場所がある。幕末の会津戦争の折、会津軍と薩長軍が激突した古戦場であり、白虎隊が実戦で奮闘した地としても有名な場所である。このような古戦場の地にひっそりとあるのが“夜泣き石”である。
戦国時代、会津地方を蘆名氏が治めていた頃の話。無実の罪で処刑されようとした男の家族が、累が及ぶことを怖れ、夜陰に紛れて逃げようとしていた。途中ここまで来て、幼い男の子が疲れ果てて石の上で寝てしまった。母親はこの子を連れてこれ以上逃げることはかなわないと見て、捨て子にして死を免れさせようと思い立ち、この石の上に寝かせ付けたまま去っていった。その後目が覚めた子供は母恋しさに泣き叫ぶと、闇の向こうから母が呼ぶ声がする。喜び勇んで行こうとすると、なぜか身動きが取れない。足が石に吸い付いて前へ進めないのである。そのうちに朝となり、追っ手がこの石のところまでやって来た。しかし追っ手と思っていたのは、父親の冤罪を知らせるために来た者であり、男児はその後成人して家督を継いだという。実は、夜中に聞こえた母親の声は魔性の石が子供を食い殺すために発したものであり、その災難を救わんとするために子供の寝ていた仏性の石が足止めをさせていたというのが真相だったという。
実際にこの石には、幼い子供の足形と言ってもおかしくないくぼみがある。このリアルな物証が伝承を後押ししているのは間違いなく、子供を背負ってこの石にお参りすると夜泣きがなくなるという信仰の対象ともなっている。そして、このくぼみになぞらえるように、いつしか靴を奉納する習慣も出来ているようである。
なお、この石にまつわる伝承には、玄翁和尚と九尾の狐が登場するバージョンがあり、狐が化けた子供を背負った玄翁和尚がこの石で休んだところを襲われたが、法力で退治したという話も残されている。 
 
 

 

おくのほそ道
旅立ち
弥生も末の七日、明ぼのゝ空朧々として、月は在明にて光おさまれる物から、不二の嶺幽にみえて、上野・谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし。むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗て送る。千じゆと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝぐ。
○ 行春や鳥啼魚の目は泪
是を矢立の初として、行道なをすゝまず。人々は途中に立ならびて、後かげのみゆる迄はと見送なるべし。
草加
ことし元禄二とせにや、奥羽長途の行脚只かりそめに思ひたちて、呉天に白髪の恨を重ぬといへ共、耳にふれていまだめに見ぬさかひ、若生て帰らばと、定なき頼の末をかけ、其日漸早加と云宿にたどり着にけり。痩骨の肩にかゝれる物、先くるしむ。只身すがらにと出立侍を、帋子一衣は夜の防ぎ、ゆかた・雨具・墨筆のたぐひ、あるはさりがたき餞などしたるは、さすがに打捨がたくて、路次の煩となれるこそわりなけれ。
室の八嶋
室の八嶋に詣す。同行曽良が曰、「此神は木の花さくや姫の神と申て富士一躰也。無戸室に入て焼給ふちかひのみ中に、火々出見のみこと生れ給ひしより室の八嶋と申。又煙を読習し侍もこの謂也」。将、このしろといふ魚を禁ず。縁記の旨世に伝ふ事も侍し。
日光
仏五左衛門
卅日、日光山の梺に泊る。あるじの云けるやう、「我名を佛五左衛門と云。萬正直を旨とする故に、人かくは申侍まゝ、一夜の草の枕も打解て休み給へ」と云。いかなる仏の濁世塵土に示現して、かゝる桑門の乞食順礼ごときの人をたすけ給ふにやと、あるじのなす事に心をとゞめてみるに、唯無智無分別にして、正直偏固の者也。剛毅木訥の仁に近きたぐひ、気禀の清質尤尊ぶべし。
日光山
卯月朔日、御山に詣拝す。往昔此御山を二荒山と書しを、空海大師開基の時、日光と改給ふ。千歳未来をさとり給ふにや。今此御光一天にかゝやきて、恩沢八荒にあふれ、四民安堵の栖穏なり。猶憚多くて筆をさし置ぬ。
○ あらたうと青葉若葉の日の光
黒髪山は霞かゝりて、雪いまだ白し。
○ 剃捨て黒髪山に衣更 曽良
曽良は河合氏にして、惣五郎といへり。芭蕉の下葉に軒をならべて、予が薪水の労をたすく。このたび松しま・象潟の眺共にせん事を悦び、且は羈旅の難をいたはらんと、旅立暁髪を剃て墨染にさまをかえ、惣五を改て宗悟とす。仍て黒髪山の句有。「衣更」の二字力ありてきこゆ。
廿余丁山を登つて瀧有。岩洞の頂より飛流して百尺、千岩の碧潭に落たり。岩窟に身をひそめ入て瀧の裏よりみれば、うらみの瀧と申伝え侍る也。
○ 暫時は瀧に籠るや夏の初
那須野が原
那須野
那須の黒ばねと云所に知人あれば、是より野越にかゝりて、直道をゆかんとす。遥に一村を見かけて行に、雨降日暮る。農夫の家に一夜をかりて、明れば又野中を行。そこに野飼の馬あり。草刈おのこになげきよれば、野夫といへどもさすがに情しらぬには非ず。「いかゞすべきや。されども此野は縦横にわかれて、うゐうゐ敷旅人の道ふみたがえん、あやしう侍れば、此馬のとゞまる所にて馬を返し給へ」と、かし侍ぬ。ちいさき者ふたり、馬の跡したひてはしる。独は小姫にて、名をかさねと云。聞なれぬ名のやさしかりければ、
○ かさねとは八重撫子の名成べし 曽良
頓て人里に至れば、あたひを鞍つぼに結付て、馬を返しぬ。
黒羽
黒羽の館代浄坊寺何がしの方に音信る。思ひがけぬあるじの悦び、日夜語つゞけて、其弟桃翠など云が、朝夕勤とぶらひ、自の家にも伴ひて、親属の方にもまねかれ、日をふるまゝに、日とひ郊外に逍遙して、犬追物の跡を一見し、那須の篠原をわけて玉藻の前の古墳をとふ。それより八幡宮に詣。与一扇の的を射し時、「別しては我国氏神正八まん」とちかひしも此神社にて侍と聞ば、感應殊しきりに覚えらる。暮れば桃翠宅に帰る。
修験光明寺と云有。そこにまねかれて行者堂を拝す。
○ 夏山に足駄を拝む首途哉
雲巌寺
当国雲岸寺のおくに佛頂和尚山居跡あり。
竪横の五尺にたらぬ草の庵 むすぶもくやし雨なかりせば
と、松の炭して岩に書付侍りと、いつぞや聞え給ふ。其跡みんと雲岸寺に杖を曳ば、人々すゝんで共にいざなひ、若き人おほく道のほど打さはぎて、おぼえず彼梺に到る。山はおくあるけしきにて、谷道遥に、松杉黒く、苔したゞりて、卯月の天今猶寒し。十景尽る所、橋をわたつて山門に入。
さて、かの跡はいづくのほどにやと、後の山によぢのぼれば、石上の小庵岩窟にむすびかけたり。妙禅師の死関、法雲法師の石室をみるがごとし。
○ 木啄も庵はやぶらず夏木立
と、とりあへぬ一句を柱に残侍し。
殺生石
是より殺生石に行。館代より馬にて送らる。此口付のおのこ、短冊得させよと乞。やさしき事を望侍るものかなと、
○ 野を横に馬牽むけよほとゝぎす
殺生石は温泉の出る山陰にあり。石の毒気いまだほろびず。蜂蝶のたぐひ真砂の色の見えぬほどかさなり死す。
遊行柳
又、清水ながるゝの柳は蘆野の里にありて田の畔に残る。此所の郡守戸部某の此柳みせばやなど、折ゝにの給ひ聞え給ふを、いづくのほどにやと思ひしを、今日此柳のかげにこそ立より侍つれ。
○ 田一枚植て立去る柳かな
白河
心許なき日かず重るまゝに、白川の関にかゝりて、旅心定りぬ。いかで都へと便求しも断也。中にも此関は三関の一にして、風騒の人、心をとゞむ。秋風を耳に残し、紅葉を俤にして、青葉の梢猶あはれ也。卯の花の白妙に、茨の花の咲そひて、雪にもこゆる心地ぞする。古人冠を正し、衣装を改し事など、清輔の筆にもとゞめ置れしとぞ。
○ 卯の花をかざしに関の晴着かな 曽良
須賀川
とかくして越行まゝに、あぶくま川を渡る。左に会津根高く、右に岩城・相馬・三春の庄、常陸・下野の地をさかひて、山つらなる。かげ沼と云所を行に、今日は空曇て物影うつらず。すか川の駅に等窮といふものを尋て、四、五日とゞめらる。先白河の関いかにこえつるやと問。長途のくるしみ、身心つかれ、且は風景に魂うばゝれ、懐旧に腸を断て、はかばかしう思ひめぐらさず。
○ 風流の初やおくの田植うた
無下にこえんもさすがにと語れば、脇・第三とつゞけて、三巻となしぬ。
此宿の傍に、大きなる栗の木陰をたのみて、世をいとふ僧有。橡ひろふ太山もかくやとしづかに覚られてものに書付侍る。其詞、栗といふ文字は西の木と書て西方浄土に便ありと、行基菩薩の一生杖にも柱にも此木を用給ふとかや。
○ 世の人の見付ぬ花や軒の栗
郡山・二本松
等窮が宅を出て五里計、桧皮の宿を離れてあさか山有。路より近し。此あたり沼多し。かつみ刈比もやゝ近うなれば、いづれの草を花かつみとは云ぞと、人々に尋侍れども、更知人なし。沼を尋、人にとひ、かつみかつみと尋ありきて、日は山の端にかゝりぬ。二本松より右にきれて、黒塚の岩屋一見し、福島に宿る。
福島
信夫の里
あくれば、しのぶもぢ摺の石を尋て、忍ぶのさとに行。遥山陰の小里に石半土に埋てあり。里の童べの来りて教ける。昔は此山の上に侍しを、往来の人の麦草をあらして、此石を試侍をにくみて、此谷につき落せば、石の面下ざまにふしたりと云。さもあるべき事にや。
○ 早苗とる手もとや昔しのぶ摺
佐藤庄司が旧跡
月の輪のわたしを越て、瀬の上と云宿に出づ。佐藤庄司が旧跡は、左の山際一里半斗に有。飯塚の里鯖野と聞て尋ね尋ね行に、丸山と云に尋あたる。是、庄司が旧館也。梺に大手の跡など、人の教ゆるにまかせて泪を落し、又かたはらの古寺に一家の石碑を残す。中にも、二人の嫁がしるし、先哀也。女なれどもかひがひしき名の世に聞えつる物かなと、袂をぬらしぬ。堕涙の石碑も遠きにあらず。寺に入て茶を乞へば、爰に義経の太刀、弁慶が笈をとゞめて什物とす。
○ 笈も太刀も五月にかざれ帋幟
五月朔日の事也。
飯塚温泉
其夜飯塚にとまる。温泉あれば湯に入て宿をかるに、土坐に筵を敷て、あやしき貧家也。灯もなければ、ゐろりの火かげに寝所をまうけて臥す。夜に入て雷鳴、雨しきりに降て、臥る上よりもり、蚤・蚊にせゝられて眠らず。持病さへおこりて、消入斗になん。短夜の空もやうやう明れば、又旅立ぬ。猶、夜の余波心すゝまず、馬かりて桑折の駅に出る。遥なる行末をかゝえて、斯る病覚束なしといへど、羇旅辺土の行脚、捨身無常の観念、道路にしなん、是天の命なりと、気力聊とり直し、路縦横に踏で伊達の大木戸をこす。
白石・名取
鐙摺・白石の城を過、笠嶋の郡に入れば、藤中将実方の塚はいづくのほどならんと人にとへば、是より遥右に見ゆる山際の里をみのわ・笠嶋と云、道祖神の社・かた見の薄今にありと教ゆ。此比の五月雨に道いとあしく、身つかれ侍れば、よそながら眺やりて過るに、蓑輪・笠嶋も五月雨の折にふれたりと、
○ 笠嶋はいづこさ月のぬかり道
岩沼
岩沼に宿る。武隈の松にこそ、め覚る心地はすれ。根は土際より二木にわかれて、昔の姿うしなはずとしらる。先能因法師思ひ出。往昔むつのかみにて下りし人、此木を伐て、名取川の橋杭にせられたる事などあればにや、「松は此たび跡もなし」とは詠たり。代々、あるは伐、あるひは植継などせしと聞に、今将、千歳のかたちとゝのほひて、めでたき松のけしきになん侍し。
「武隈の松みせ申せ遅桜」と挙白と云ものゝ餞別したりければ、
○ 桜より松は二木を三月越し
仙台
名取川を渡て仙台に入。あやめふく日也。旅宿をもとめて四五日逗留す。爰に画工加右衛門と云ものあり。聊心ある者と聞て知る人になる。この者、年比さだかならぬ名どころを考置侍ればとて、一日案内す。宮城野の萩茂りあひて、秋の景色思ひやらるゝ。玉田・よこ野・つゝじが岡はあせび咲ころ也。日影ももらぬ松の林に入て、爰を木の下と云とぞ。昔もかく露ふかければこそ、「みさぶらひみかさ」とはよみたれ。薬師堂・天神の御社など拝て、其日はくれぬ。猶、松嶋・塩がまの所々、画に書て送る。且、紺の染緒つけたる草鞋二足餞す。さればこそ風流のしれもの、爰に至りて其実を顕す。
○ あやめ草足に結ん草鞋の緒
かの画図にまかせてたどり行ば、おくの細道の山際に十符の菅有。今も年々十符の菅菰を調て国守に献ずと云り。
多賀城
壷の碑
壷碑 市川村多賀城に有。つぼの石ぶみは高サ六尺餘、横三尺斗歟。苔を穿て文字幽也。四維国界之数里をしるす。此城、神亀元年、按察使鎮守府将軍大野朝臣東人之所置也。天平宝字六年参議東海東山節度使同将軍恵美朝臣修造而、十二月朔日と有。聖武皇帝の御時に当れり。むかしよりよみ置る哥枕、おほく語傳ふといへども、山崩川流て道あらたまり、石は埋て土にかくれ、木は老て若木にかはれば、時移り代変じて、其跡たしかならぬ事のみを、爰に至りて疑なき千歳の記念、今眼前に古人の心を閲す。
行脚の一徳、存命の悦び、羈旅の労をわすれて、泪も落るばかり也。
末の松山
それより野田の玉川・沖の石を尋ぬ。末の松山は寺を造て末松山といふ。松のあひあひ皆墓はらにて、はねをかはし枝をつらぬる契の末も、終はかくのごときと、悲しさも増りて、塩がまの浦に入相のかねを聞。
塩釜
塩釜
五月雨の空聊はれて、夕月夜幽に、籬が嶋もほど近し。蜑の小舟こぎつれて、肴わかつ声々に、つなでかなしもとよみけん心もしられて、いとゞ哀也。其夜、目盲法師の琵琶をならして奥上るりと云ものをかたる。平家にもあらず、舞にもあらず。ひなびたる調子うち上て、枕ちかうかしましけれど、さすがに辺土の遺風忘れざるものから、殊勝に覚らる。
鹽竈明神
早朝塩がまの明神に詣。国守再興せられて、宮柱ふとしく彩椽きらびやかに、石の階九仞に重り、朝日あけの玉がきをかゝやかす。かゝる道の果、塵土の境まで、神霊あらたにましますこそ、吾国の風俗なれと、いと貴けれ。神前に古き宝燈有。かねの戸びらの面に文治三年和泉三郎寄進と有。五百年来の俤、今目の前にうかびて、そゞろに珍し。渠は勇義忠孝の士也。佳命今に至りてしたはずといふ事なし。誠人能道を勤、義を守べし。名もまた是にしたがふと云り。日既午にちかし。船をかりて松嶋にわたる。其間二里餘、雄嶋の磯につく。
松島
松島湾、雄島が磯
抑ことふりにたれど、松島は扶桑第一の好風にして、凡洞庭・西湖を恥ず。東南より海を入て、江の中三里、浙江の潮をたゝふ。島々の数を尽して、欹ものは天を指、ふすものは波に匍匐。あるは二重にかさなり、三重に畳みて、左にわかれ右につらなる。負るあり抱るあり、児孫愛すがごとし。松の緑こまやかに、枝葉汐風に吹たはめて、屈曲をのづからためたるがごとし。其気色、よう然として美人の顔を粧ふ。ちはや振神のむかし、大山ずみのなせるわざにや。造化の天工、いづれの人か筆をふるひ、詞を尽さむ。
雄島が磯は地つゞきて海に出たる島也。雲居禅師の別室の跡、坐禅石など有。将、松の木陰に世をいとふ人も稀々見え侍りて、落穂・松笠など打けふりたる草の庵、閑に住なし、いかなる人とはしられずながら、先なつかしく立寄ほどに、月海にうつりて、昼のながめ又あらたむ。江上に帰りて宿を求れば、窓をひらき二階を作て、風雲の中に旅寝するこそ、あやしきまで、妙なる心地はせらるれ。
○ 松島や鶴に身をかれほとゝぎす 曽良
予は口をとぢて眠らんとしていねられず。旧庵をわかるゝ時、素堂松島の詩あり。原安適松がうらしまの和歌を贈らる。袋を解きて、こよひの友とす。且、杉風・濁子が発句あり。
瑞厳寺
十一日、瑞岩寺に詣。当寺三十二世の昔、真壁の平四郎出家して入唐、帰朝の後開山す。其後に雲居禅師の徳化に依て、七堂甍改りて、金壁荘厳光を輝、仏土成就の大伽藍とはなれりける。彼見仏聖の寺はいづくにやとしたはる。
石巻
十二日、平和泉と心ざし、あねはの松・緒だえの橋など聞伝て、人跡稀に雉兎蒭蕘の往かふ道そこともわかず、終に路ふみたがえて、石の巻といふ湊に出。「こがね花咲」とよみて奉たる金花山、海上に見わたし、数百の廻船入江につどひ、人家地をあらそひて、竈の煙立つゞけたり。思ひがけず斯る所にも来れる哉と、宿からんとすれど、更宿かす人なし。漸まどしき小家に一夜をあかして、明れば又しらぬ道まよひ行。袖のわたり・尾ぶちの牧・まのゝ萱はらなどよそめにみて、遥なる堤を行。心細き長沼にそふて、戸伊摩と云所に一宿して、平泉に到る。其間廿余里ほどゝおぼゆ。
平泉
三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有。秀衡が跡は田野に成て、金鶏山のみ形を残す。先、高館にのぼれば、北上川南部より流るゝ大河也。衣川は、和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落入。泰衡等が旧跡は、衣が関を隔て、南部口をさし堅め、夷をふせぐとみえたり。偖も義臣すぐつて此城にこもり、功名一時の叢となる。国破れて山河あり、城春にして草青みたりと、笠打敷て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ。
○ 夏草や兵どもが夢の跡
○ 卯の花に兼房みゆる白毛かな 曽良
兼て耳驚したる二堂開帳す。経堂は三将の像をのこし、光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。七宝散うせて、珠の扉風にやぶれ、金の柱霜雪に朽て、既頽廃空虚の叢と成べきを、四面新に囲て、甍を覆て雨風を凌。暫時千歳の記念とはなれり。
○ 五月雨の降のこしてや光堂
出羽越え
南部道遥にみやりて、岩手の里に泊る。小黒崎・みづの小嶋を過て、なるごの湯より尿前の関にかゝりて、出羽の国に越んとす。此路旅人稀なる所なれば、関守にあやしめられて、漸として関をこす。大山をのぼつて日既暮ければ、封人の家を見かけて舎を求む。三日風雨あれて、よしなき山中に逗留す。
○ 蚤虱馬の尿(ばり)する枕もと
あるじの云、是より出羽の国に大山を隔て、道さだかならざれば、道しるべの人を頼て越べきよしを申。さらばと云て人を頼侍れば、究境の若者、反脇指をよこたえ、樫の杖を携て、我々が先に立て行。けふこそ必あやうきめにもあふべき日なれと、辛き思ひをなして後について行。あるじの云にたがはず、高山森々として一鳥声きかず、木の下闇茂りあひて夜る行がごとし。雲端につちふる心地して、篠の中踏分踏分、水をわたり岩に蹶て、肌につめたき汗を流して、最上の庄に出づ。かの案内せしおのこの云やう、此みち必不用の事有。恙なうをくりまいらせて仕合したりと、よろこびてわかれぬ。跡に聞てさへ胸とゞろくのみ也。
尾花沢
尾花沢にて清風と云者を尋ぬ。かれは富るものなれども、志いやしからず。都にも折々かよひて、さすがに旅の情をも知たれば、日比とゞめて、長途のいたはり、さまざまにもてなし侍る。
○ 涼しさを我宿にしてねまる也
○ 這出よかひやが下のひきの声
○ まゆはきを俤にして紅粉の花
○ 蚕飼する人は古代のすがた哉 曽良
山寺
山形領に立石寺と云山寺あり。慈覚大師の開基にして、殊清閑の地也。一見すべきよし、人々のすゝむるに依て、尾花沢よりとつて返し、其間七里ばかり也。日いまだ暮ず。梺の坊に宿かり置て、山上の堂にのぼる。岩に巌を重て山とし、松栢年旧土石老て苔滑に、岩上の院々扉を閉て物の音きこえず。岸をめぐり岩を這て仏閣を拝し、佳景寂寞として心すみ行のみおぼゆ。
○ 閑さや岩にしみ入蝉の声
大石田
大石田
最上川のらんと、大石田と云所に日和を待。爰に古き誹諧の種こぼれて、忘れぬ花のむかしをしたひ、芦角一声の心をやはらげ、此道にさぐりあしゝて、新古ふた道にふみまよふといへども、みちしるべする人しなければとわりなき一巻残しぬ。このたびの風流爰に至れり。
最上川
最上川はみちのくより出て、山形を水上とす。ごてん・はやぶさなど云おそろしき難所有。板敷山の北を流て、果は酒田の海に入。左右山覆ひ、茂みの中に船を下す。是に稲つみたるをや、いな船といふならし。白糸の瀧は青葉の隙隙に落て仙人堂岸に臨て立。水みなぎつて舟あやうし。
○ 五月雨をあつめて早し最上川
出羽三山
六月三日、羽黒山に登る。図司左吉と云者を尋て、別当代会覚阿闍利に謁す。南谷の別院に舎して憐愍の情こまやかにあるじせらる。四日、本坊にをゐて誹諧興行。
○ 有難や雪をかほらす南谷 
五日、権現に詣。当山開闢能除大師はいづれの代の人と云事をしらず。延喜式に「羽州里山の神社」と有。書写、「黒」の字を「里山」となせるにや。「羽州黒山」を中略して「羽黒山」と云にや。「出羽」といへるは、「鳥の毛羽を此国の貢に献る」と風土記に侍とやらん。月山・湯殿を合て三山とす。当寺武江東叡に属して天台止観の月明らかに、円頓融通の法の灯かゝげそひて、僧坊棟をならべ、修験行法を励し、霊山霊地の験効、人貴且恐る。繁栄長にして、めで度御山と謂つべし。
八日、月山にのぼる。木綿しめ身に引かけ、宝冠に頭を包、強力と云ものに道びかれて、雲霧山気の中に氷雪を踏てのぼる事八里、更に日月行道の雲関に入かとあやしまれ、息絶身こゞえて頂上に至れば、日没て月顕る。笹を鋪、篠を枕として、臥て明るを待。日出て雲消れば湯殿に下る。 
谷の傍に鍛治小屋と云有。此国の鍛治、霊水を撰て爰に潔斎して劔を打、終月山と銘を切て世に賞せらる。彼龍泉に剣を淬とかや。干将・莫耶のむかしをしたふ。道に堪能の執あさからぬ事しられたり。
岩に腰かけてしばしやすらふほど、三尺ばかりなる桜のつぼみ半ばひらけるあり。ふり積雪の下に埋て、春を忘れぬ遅ざくらの花の心わりなし。炎天の梅花爰にかほるがごとし。行尊僧正の哥の哀も爰に思ひ出て、猶まさりて覚ゆ。
惣而此山中の微細、行者の法式として他言する事を禁ず。仍て筆をとゞめて記さず。坊に帰れば、阿闍利の需に依て、三山順礼の句々短冊に書。 
○ 涼しさやほの三か月の羽黒山 
○ 雲の峯幾つ崩て月の山 
○ 語られぬ湯殿にぬらす袂かな 
○ 湯殿山銭ふむ道の泪かな 曽良  
 
関東地方  
    坂東札所巡り
茨城県 / 常陸

 

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筑波嶺(つくばね)に黒雲かかり 衣手(ころも)でひたちの国 常陸国風土記
鹿島神宮 要石 / 鹿島市
    鯰と地震
古代の霞ヶ浦は広大な内湾をなし、北は北浦、南は印旛沼、西は手賀沼からさらに今の利根川・鬼怒川流域に広がってゐた。その東の入口に鹿島神宮がまつられた。
○ 浪高き鹿島が崎にたどり来て 東の果てを今日見つるかな 夫木抄
枕詞に「あられ降り鹿島」ともいひ、鹿島の神(武甕槌たけみかづち命)は、天孫降臨に先立って高天原より天降って来た武神とされる。
○ み空より跡垂れ初めしあとの宮 その代も知らず神さびにけり 夫木抄
○ めぐり逢ふ初め終りの行方かな 鹿島の宮にかよふ心は 慈円
鹿島神宮の要石かなめいしは、地震発生の元となる大鯰を、鹿島の神が押さへこんだ大釘の石で、地中深く埋もれて、その深さははかりしれないといふ。香取神宮に続くともいふ。
○ 揺ぐともよもや抜けじの要石 鹿島の神のあらん限りは 地震除の歌
をとめの松原 / 鹿島郡
鹿島神宮の南方に軽野の里があり「をとめの松原」の伝説がある。
むかし、那賀郡の寒田村に、神に仕へる美しい少年がゐた。海上郡の安是村に、やはり神に仕へる美しい少女がゐた。二人の評判は村々を越えて伝はり、やがてお互ひの耳にも入るやうになると、いつしか二人の間には、密かな思ひが芽生へていった。
ある年のこと、軽野で歌垣の集ひが催され、そこで二人は偶然出会ふことになった。
歌垣の初めに、神を招き寄せた松の木のかたはらに侍してゐた少女は、群集の中に少年の姿を見つけた。目と目が合ひ、少年の口から、これまでの思ひが歌になって出た。
○ いやぜるの安是(あぜ)の小松に木綿垂ゆ ふしでて吾あを振り見ゆも。安是小島はも
歌の意味からいへば、歌垣の中心人物だった少女が、訪れる神の子として少年を指名したことになる。足早に近寄ってくる少年に対して、少女も答へて歌ふ。
○ 潮には立たむといへど 汝夫なせの子が 八十島隠かくり吾を見さ走り
二人は、歌垣の途中で庭を抜け出し、やや離れた松の木の下に人目を避けた。夜の更け行くのも忘れ、語り合ひ、契りあった。二人が目覚めた朝、互ひの顔を見合せ、昨夜の出会ひの意味もわからず、ただただ恥づかしさにかられて、二人は松の木となり果てたといふ。少年の松を奈美松なみまつといひ、少女の松を古津松こつまつといふ。(常陸国風土記)
白鳥の里 / 鹿島郡
鹿島神宮の北方に白鳥の里がある。むかし天より飛び来たった白鳥があった。朝に舞ひ降りて来て、乙女の姿となり、小石を拾ひ集めて、池の堤を少しづつ築き、夕べには再び昇り帰って行った。少し築いてはすぐ崩れて、いたづらに月日はかさむばかりだった。さうしてある日のこと、乙女らは歌を残して天に舞ひ昇り、二度と舞ひ降りて来ることはなかったといふ。
○ 白鳥の羽はが堤をつつむとも あらふ真白き羽壊はこえ 常陸国風土記
(白鳥の石いはが堤をつつむとも、洗ふまも憂き羽壊え白鳥 小山田与清)
潮来 / 行方郡潮来町
北浦を間に鹿島神宮に向かふ行方郡潮来町は、港町として栄えた。徳川時代初めに利根川が改修されて銚子の沖に通じると、東北地方からの船は、まづ潮来に碇泊し、波の荒い外房の海を避けて、利根川から江戸川を経由して江戸に向かった。港町は当然花街としても栄えた。
○ 潮来出島の真菰の中に 菖蒲咲くとはしほらしや 潮来節
大杉神社 / 稲敷郡桜川村
霞ヶ浦の南、東へ突き出した半島伏の地域を、「安婆島あばのしま」といった。この地にそびえる杉の巨木は、航海の標識でもあり、海や川を守護する神木でもあった。
神護景雲元年(767)日光の二荒山を開く旅の途中の勝道上人が、この地方の疫病を退散させるため、巨杉の下で祈祷すると、三輪(大神神社)の神が杉の大枝に飛び移り、ここに留まった。これが大杉大神で、以来、「海河守護、悪疫退散」の守護神としてまつられてきた。文治年間(1185〜1190)ごろ常陸坊海存といふ社僧があり、数々の奇跡を興して、巨体で天狗のやうな容姿だったことから、天狗信仰も広まった。江戸時代には、舟運の発達により、関東の河川流域や沿岸地方にまたたくまに分社が拡大し、民謡「あんばばやし」(大杉ばやし)を歌ひながら人々はこの地に詣でた。大杉の神の信仰は、「あんば信仰」ともいはれる。
○ あんば大杉大明神 悪魔をはらってヨーイヤセ… あんばばやし
○ あんばの方から吹く風は 疱瘡かるくの便り風 あんばばやし
河童碑 / 稲敷郡牛久町
稲敷郡牛久町の牛久沼のほとりに、河童の絵を好んで描いた画家・小川芋銭の旧宅「草汁庵」があり、河童碑がある。
○ 誰知、古人画竜の心 小川芋銭
利根川、鬼怒川流域には河童の伝説も多い。河童が人や馬の足を引っ張らうとして失敗して捕まり、傷に効くといふ河童の妙薬と引き換へに許しを乞ふ話が多いやうだ。
平将門 / 北相馬郡守谷町
今の鬼怒川と利根川に挟まれた地は、江戸時代までは下総の国に編入されてゐた。関東地方のほぼ中央に当る。古くは霞ヶ浦から入江が続き、鬼怒川と利根川は江戸湾にそそいでゐたので、船の交通の要の地でもあった。天慶二年、北相馬郡守谷の守谷城を本拠に、関東の王国を樹立したといふ平将門は、船で一気に関八州の国府を占拠したといふ。将門戦死の地(岩井市)には、国王神社がまつられてゐる。将門は全身鉄の肉体で生れ、こめかみだけが生身だったとの伝説がある。
○ 将門はこめかみよりぞ射られけり 俵藤太がはかりごとにて
女化稲荷 / 龍ヶ崎市馴馬町 女化神社
永正(1504〜)のころ、常陸国河内郡根本村の忠五郎が、土浦の町に筵むしろを売りに行った帰りに、小野川の近くの高見ヶ原を通ると、猟師が狐を射殺さうとしてゐた。このとき忠五郎は筵の売上げ金を猟師に渡して、狐を助けた。家に帰ると、旅の娘と老人が門口にうずくまり、忠五郎に宿を乞うたので、二人を泊めることにした。翌朝なぜか老人はゐなくなってゐた。娘は、みちのく信夫で父母に死なれ、老僕とともに一族を頼って鎌倉に行く途中だったといふ。娘はそのまま忠五郎の家に住んで田畑を手伝ひ、妻となって三人の子を設けた。
ある日、母が末の子に乳ちち を与へてゐるところを、長子が見ると、それは狐の母親だった。狐は、見られたことを恥ぢて、一首を残して去った。
○ みどり子の母はと問はばをなばけの 原になく泣く伏すと答へよ
忠五郎一家がいくら探しても、母を見つけることはできなかったといふ。村の鎮守の女化稲荷にかかはる伝説である。
筑波山
昔、祖先の大神が、諸国を旅したときのこと、駿河の国で日が暮れてしまった。そこで富士の神に宿を請ふと、「今日は新嘗にひなめ祭のために家中が物忌ものいみをしてゐるところですので」と断られた。次に、筑波の山で宿を請ふと、筑波の神は、「今宵は新嘗祭だが、敢へてお断りも出来ますまい。」と答へ、よくもてなした。これ以来、富士の山は、いつも雪に覆はれて登ることのできぬ山となった。一方、筑波の山は、神のもとに人が集ひ、歌や踊りで、神とともに宴する人々の絶えることは無いといふ。坂東の諸国の男女は、春に秋に、神に供へる食物を携へてこの山に集ひ、歌垣を楽しんだといふ。(常陸国風土記)
○ 筑波嶺つくばねに 逢はむと いひし子は
(筑波嶺の歌垣で逢はうと約束したあの娘は?)
誰たが言こと聞けば 神嶺かむみね 遊あすばけむ
(いったい誰の誘ひを受けて、もう神山に籠ってしまってゐるのだらう)
筑波山には男体山と女体山にょたいさんがあり、二つの山の流れが合流して、みなの川となる。
○ 筑波嶺の嶺より落つるみなの川 恋ぞつもりて淵となりぬる 陽成院
昔、西行法師が筑波山に登らうとすると、岩の上に若い女が立ってゐたので、不思議に思って、歌を詠んだ。
○ 磯遠く海辺も遠き山中に わかめあるこそ不思議なりけり 西行
女は実は女体山にょたいさんの神の化身で、歌を返した。
○ つくばとは波つく山といふなれば わかめあるとも苦しかるまじ 女体山の神
歌に負けた西行は、恥ぢ入って、その場から引き返して下山したといふ。その地を「西行戻し」といふ。「西行戻し」と呼ぶ地は全国に分布し、西行が女や子供に歌で負ける滑稽な話になってゐる。
新治 / 新治郡新治町
倭武やまとたける命(天皇とも)が、新治にひばりの地で、国造のひならすの命に、新しい井戸を掘らせたところ、清き泉が流れ出た。その水をお褒めになり、手を洗はうとされると、衣の袖が垂れて泉に浸った。袖をひたしたことから、「ひたち」の国の名となったといふ。
○ 筑波嶺に黒雲かかり 衣手ころもでひたちの国 常陸国風土記
「衣手」は常陸の枕詞であり、右のやうな物語が篭められた言葉として、古くは使はれた。
桜川 / 西茨城郡岩瀬町磯部
むかし長暦(1037-40) のころ、筑紫に桜子といふ美少年がゐた。商人に拐かされて東国に売られて来たが、運良く桜川のほとりの磯辺明神の社僧の神宮寺に拾はれて、稚児となってゐた。筑紫の母は、わが子をたづねて東国をさまよひ、探し疲れて桜川の岸辺にたたずみ、桜の花びらの流れる川水をすくってみては、わが子はこの水底に眠ってゐるに違ひないと、大声で泣いた。これを見た里人が憐れんで、女を連れて神宮寺に相談にゆき、母子は再会をはたしたといふ。(謡曲「桜川」)
○ つねよりも春べになれば桜川 波の花こそまなく寄すらめ 紀貫之
磯部稲村神社(西茨城郡岩瀬町磯部)は、祈雨の神、安産守護などの神として信仰される。
蚕になった金色姫 / 日立市川尻町(旧豊浦町)
むかし天竺に金色姫といふ美しい姫があり、継母に迫害されて桑の木で作ったうつぼ舟で流された。その舟は日本の豊浦の浜(日立市川尻町)に流れ着き、姫は村人に助けられたが、まもなく姫はこの里で息を引きとった。その翌朝、姫の棺の中を見ると、姫は一匹の蚕と化してゐた。村人は、桑の舟のことを思ひ出してこの蚕に桑の葉を与へたといふ。これがわが国における養蚕の始りとされる。日立市川尻町(旧豊浦町)の養蚕こがひ神社に歌碑がある。
○ 里人が飼ふこの糸の一筋に 祈らば神もうけひまじやは 本居豊頴
養蚕神社では、毎年五月五日に近くの小貝こがひヶ浜から美しい貝を拾ってきて蚕棟にあげると、繭のできが良いとされた。筑波市館の蚕影こかげ神社付近を詠んだと思はれる万葉歌もある。
○ 筑波嶺の新桑繭にひくはまゆのきぬはあれど 君がみ衣けししあやに着欲しも 万葉集
東北地方では、養蚕を伝へた神はオシラ様といひ、馬に乗った姫の話になってゐる。
諸歌
元禄のころの、伊勢神社(久慈郡金砂郷町)の祠官と、西山荘(常陸太田市)に隠居してゐた徳川光圀との贈答歌。
○ ちはやぶる神と言ふ神の有るが中に 恵みも深き西山の月 鈴木宗興
○ 西山の峰にとどくる月かげの 光ぞうつる国の花房 徳川光圀
常陸太田市は、江戸で都々逸節を完成させた都々逸坊扇歌の生誕地でもある。
○ 磯辺たんぼのばらばら松は 風も吹かぬに気がもめる 都々逸坊扇歌
福島県境の北茨城市磯原には、野口雨情が生まれた。
○ 松に松風磯原は 磯の蔭にも波がうつ (磯原節)野口雨情
北茨城市大津町の五浦海岸には、明治の末、岡倉天心により日本美術院が移設された。
○ 碑文棒書「亜細亜は一つ」冬の涛 中村草田男
天保のころ水戸に藩校の弘道館が建てられた。
○ 行末もふみなたがへそ蜻蛉島 大和の道ぞ要なりける 徳川斉昭
筑波山麓四六のガマ
がまの油を主成分とするといふ軟膏を大道で売りさばく香具師の口上。がまの油売りは関東の筑波山、関西の伊吹山が知られる。
「サアサアお立合ひ、ご用とお急ぎのない方、ゆっくりと聞いてらっしゃい。遠出山越え笠のうち、聞かざるときは物の白黒、出方、善悪がトンとわからない。山寺の鐘がゴンゴンと鳴るといへど、童子きたってしゅもくをあてざれは、トンと鐘の音色がわからない。
サテお立合ひ、手前ここに取り出だしたるは万金膏ガマの油、ガマと申しましても普通のガマとは違ふ。これより北、北は筑波山の麓、オンバコといふ露草を食って育った四六のガマだ。四六、五六はどこで見分けるか。前足の指が四本、後足の指が六本、これを合はせて四六のガマ。山中深く分け入って捕へましたるこのガマを、四面鏡ばりの箱に入れたるときほ、ガマは己が醜き姿の鏡にうつるを見て驚き、タラーリ、タラーリと油汗を流す。この油汗をば柳の若葉にて、三七と二一日の間、煮つめましたるが万金膏はガマの油。
このガマの油の効能は、ひび、あかぎれ、しもやけの妙薬。まだあるよ。大の男が七転八倒する虫歯の痛みもピッタリ止まる。しかし、お立合ひ、口上だけではわからない。刃物の切れ味をとめてみせようか。取り出だしたる夏なほ寒き氷のやいば。一枚の紙が二枚、二枚が四枚、四枚が八枚、八枚が十六枚、一六枚が三二枚、三二枚が六四枚、ホレこの通りフッと散らせば比良の暮雪は雪降りの型。これなる名刀もひとたびガマの抽をつけたるときは、たっちまちなまくら。押しても引いても切れはせぬ。サア、ガマの油の効能がわかったら買っていきな。」
 

 

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鹿島神宮・香取神宮の要石
大鯰に剣を打ち下ろす武甕槌大神要石(かなめいし)は、茨城県鹿嶋市の鹿島神宮と千葉県香取市の香取神宮にあり、地震を鎮めているとされる、大部分が地中に埋まった霊石。
地上に見えている部分はほんの十数cm。香取神宮の要石の地上部分は丸いが、鹿島神宮の要石の地上部分は凹んでいる。鹿島神宮の要石は、境内ではあるが社殿群から離れた、森の中の小さな祠にある。香取神宮の要石は総門の手前にある。
伝承では地上部分はほんの一部で、地中深くまで伸び、地中で暴れて地震を起こす大鯰あるいは竜を押さえているという。あるいは貫いている、あるいは打ち殺した・刺し殺したともいう。そのためこれらの地域には大地震がないという。ただし、大鯰(または竜)は日本全土に渡る、あるいは日本を取り囲んでいるともいい、護国の役割もある。なお、鹿島神宮と香取神宮は、日本で古来から神宮を名乗っていたたった3社のうち2社であり(もう1社は伊勢神宮)、重要性がうかがえる。
鹿島神宮の要石は大鯰の頭、香取神宮の要石は尾を押さえているという。あるいは、2つの要石は地中で繋がっているという。
要石を打ち下ろし地震を鎮めたのは、鹿島神宮の祭神である武甕槌大神(表記は各種あるが鹿島神社に倣う。通称鹿島様)だといわれる。ただし記紀にそのような記述はなく、後代の付与である。武甕槌大神は武神・剣神であるため、要石はしば剣にたとえられ、石剣と言うことがある。鯰絵では、大鯰を踏みつける姿や、剣を振り下ろす姿がよく描かれる。
万葉集には「ゆるげどもよもや抜けじの要石 鹿島の神のあらん限りは」と詠われている。江戸時代には、この歌を紙に書いて3回唱えて門に張れば、地震の被害を避けられると言われた。
1255年(建長8年)に鹿島神宮を参拝した藤原光俊は、「尋ねかね今日見つるかな ちはやぶる深山(みやま)の奥の石の御座(みまし)を」と詠んでいる。
古墳の発掘なども指揮した徳川光圀は、1664年、要石(どちらの要石かは資料により一定しない)の周りを掘らせたが、日が沈んで中断すると、朝までの間に埋まってしまった。そのようなことが2日続いた後、次は昼夜兼行で7日7晩掘り続けたが、底には達しなかった。
1855年10月の安政大地震後、鹿島神宮の鯰絵を使ったお札が流行し、江戸市民の間で要石が知られるようになった。地震が起こったのは武甕槌大神が神無月(10月)で出雲へ出かけたからだという説も現れた。
ないの神(ないのかみ・なゐの神)
日本神話に登場する地震の神である。 「日本書紀」の「推古天皇紀」に、推古天皇7年(599年)夏に大和地方を中心とする大地震があり、その後、諸国に「地震神」(なゐのかみ)を祀らせたとある。「なゐ」は地震のことであるので、これは神名ではなく「野の神」「海の神」のような神格を表したものである。神名や出自などは記されていない。後に鹿島神宮にある要石(かなめいし)が地震をおさえているとの伝承から、鹿島神宮の祭神であるタケミカヅチが地震を防ぐ神とされるようになったが、「記紀」にはタケミカヅチと地震を関連づけるような記述はない。また、地主神系の神や陰陽道系の神とする説もある。 三重県名張市に式内社の名居神社(ないじんじゃ)があり、これが伊賀国における「なゐの神」を祀る神社であったとする説がある。現在は大己貴命を主祭神としている。
鹿島神宮2
鹿島神宮の祭神は、武甕槌命(たけみかづちのみこと 建御雷命とも書く)とされている。経津主命(ふつぬしのみこと)と共に、天照大神の命を受け、出雲に下って大国主命と国譲りの交渉に当たり、国土を奉還させた武神である。
ただし常陸国風土記にはこの神の名を見ることがなく、「香島の天の大神」が高天原から天下って香島の地に鎮座し、崇神天皇の時代に朝廷の奉幣を受けるようになった、との伝承をつたえている。
その時の奉納品が風土記に詳しく記載されているのは驚くべきことであるが、大刀・鉄弓・鉄箭など、武具がその大半を占めており、香島の大神が古くから武神と考えられていたことを示している。記紀神話の建御雷命が香島の大神と同一視される素地はじゅうぶんにあったのである。
鹿島神宮の正殿は、神社には珍しく北を向いており、これは国全体の北方を護るためだと古くから言われてきた。日本の国にとって、この地は永らく北の護りの要であり、国土鎮護の宮だったのである。
万葉集の歌がよまれた頃、防人として西辺に派遣された庶民にとっても、鹿島の神は強い心の拠り所となっていた。そのことは万葉巻二十、大伴家持が集めた防人歌から推測されるのである。
○ 霰降り鹿島の神を祈りつつ皇御軍すめらみいくさに我は来にしを 大舎人部千文
「霰降り…」の歌碑
「霰ふり」は鹿島に懸かる枕詞。「来(き)にしを」の「を」は感嘆を示す助辞であり、皇軍の一員として遥か故郷を後にして来た感慨を籠めた表現である。作者の大舎人部千文(おおとねりべのちふみ)は常陸国那珂郡の人。
いわゆる「鹿島立ち」の原型となった歌で、大東亜戦争中はことに愛誦された歌であった。
中世以後も鹿島の神は源頼朝や徳川家康の篤い保護を受け、武運守護の神として崇敬を集めてきた。平和と言われる今の世にも、参拝者が絶えることはない。

大鳥居も拝殿も、思いのほか質素で小ぢんまりとしたものだった。しかし徳川秀忠奉納という本殿は、細工の凝った優美な造りである。これは参道から見て、拝殿の背後に石ノ間でつながっている。いわゆる権現造りの社殿様式であるが、せっかくの美しい本殿に気づかずに通り過ぎてしまう参拝者も少なくないようだ。
奥宮へは、神門を抜け、鬱蒼たる森の中の道をゆく。杉檜の類よりも照葉樹のめだつ原生林である。並び聳える巨木は苔むし、荒々しく枝を伸ばしている。浅春の肌寒い日だったが、木漏れ日は春の温もりを伝えた。
途中、鹿苑がある。奈良の春日大社から招いた神鹿(しんろく)を飼っているという。しかし春日の鹿はもとはと言えば鹿島の神鹿であるから、子孫が先祖の土地に戻って来たことになる。春日の鹿が鳴くのはあまり聞いたことがないが、鹿島の鹿は参拝者に餌をねだって盛んに甘えたような鳴き声を出していた。
奥宮は徳川家康の奉納と伝える。秀忠によって新しい本殿が寄進される以前は、こちらが本殿だったとのことである。
ここからさらに森の中の道をゆき、有名な要石を拝む。見たところ、何の変哲もない直径三十センチほどの丸い石が地面に埋まっているだけだが、大地震を抑える巨石がわずかに露頭しているものだという。水戸光圀が試みに掘らせてみたところ、七日七晩掘っても底に至らなかったとの伝えがある。多くの学者はこれを荒唐無稽な俗話として顧みなかったが、近年、境内の水道工事で花崗岩の岩盤が確認されたとの話である。
要石はかなり昔から霊石として知られていたようで、建長八年(西暦1255年)神宮に参詣した藤原光俊は、この石を見て感激し、次のような歌を残している。
○ 尋ねかね今日見つるかなちはやぶる深山みやまの奥の石の御座みましを
禊ぎに使うという御手洗池に下れば、広大な境内を一巡りしたことになる。池の畔には清水の湧き出る場所があって、近所の人だろうか、何本も用意して来たペットボトルに水を満たしていた。花崗岩の岩盤上には、良質の湧水がわくという。
足も疲れたので、池のそばの茶店で一休みする。醤油が香ばしい焼き立ての団子と、御手洗池の清水で沸かしたという熱いお茶に満足し、帰路に就いた。
○ めぐり逢ふはじめをはりのゆくへかな鹿島の宮にかよふ心は 慈円
石船神社 (いしふねじんじゃ) / 茨城県東茨城郡城里町
創祀年代は不詳。祭神は、鳥之石楠船神(別名、天鳥船神)。古事記・国譲りの話で、建御雷神とともに降臨した神。祈雨の神でもあり、航空の神でもある。
創祀の年代は不詳である。記紀神話によると、 當社の祭神である鳥石楠船神は、建御雷神に副て天降りな され、大功をたてられたといふことが述べられてゐる。そ こで、建御雷神を奉齋する鹿鳥神宮のある同じ郷内に、當 杜が祭られた、といふことが『新編常陸國誌』に見える。
「此神(○鳥石楠船神)亦名ヲ天鳥船神ト云フ、上古 建御雷神出雲ニ降リ玉フ時、此神ヲ副テ遣サレキ、コ ヽニ建御雷神、天租ノ大命ヲ陳テ、大國主神ニ此國ヲ 避ケ奉ランヤ否ヲ問ヒシニ、僕ハ得白サジ、我子八重 事代主神白スベキヲ、鳥ノ遊ビ漁リシニ御大ノ前ニ至 リテ、未ダ還リ來ズト云リ、故レ天鳥船神ヲ遣ハシ テ、事代主神ヲ徴シ來テ問ハシ賜フ時二、即此國ヲ天 神ノ御子ニ獻リキ〔日本紀、古事記〕、カク建御雷神 ニ副奉リテ、大キナル功ヲ建シ神ナレバ、鹿島神ニ由 縁アル鹿島郷内〔本村ハコノ郷内ナリ〕ニ祭ラレシモ ノナルベシ〔延喜式、和名鈔大意〕、」
次に神體石ならびに社名の由來について、『常陛國二十 八杜考』には、左のやうに見える。
祠傍有二一大石一、形如レ船、長一丈八尺餘、廣一許丈、 前有二清流一、呼爲二岩船川一、水中有二小石一凡四十有餘、 咸成二小船形一、恰若二人造一、要又非二人力所一就也、故祠 有二石船之稱一也、村亦因レ祠爲レ名、
祠の傍に船のやうな形をした大きな石(長さ一丈八尺 餘、廣さ一丈詐)があり、その前に清流があつて岩船川と 呼ぶ。川中には小石が四十餘個あり、これが小船形をして ゐるところから、石船の稱があるのだといふ。こゝに述べ られてゐる大きな石といふのは、俗に黒御影と呼ぱれる花 崗岩で、これが御神體として祀られてをり、本殿はこの石 を瑞垣で圍んでゐるのである。岩船川は小川のやうな清流 が、こんにちも神社の右側(向つて左)から社前を横切つ て流れてゐる。  
天鳥船神1 (あめのとりふねのかみ)
別名 鳥之石楠船神:とりのいわくすふねのかみ / 天磐橡樟船:あまのいわくすふね
伊邪那岐神・伊邪那美神の夫婦神が生んだ船を司る神。出雲国譲り神話において、武甕槌神の副神として出雲に降下し、 事代主神を徴すときの使者として派遣される。
『日本書紀』一書には大己貴神の海の遊具の一つにこの名称が記されている。船の神というより、船そのものという考えもある。『日本書紀』に、大己貴神が御子神事代主命の意見を聞くため使者として稲背脛を熊野諸手船に乗せて遣わしたという条があり、 この船のまたの名を天鳩船という。
鳥と船との結びつきの所以については、船と鳥との形の相似によるとする説、鳥も船も死者の霊魂を運ぶものであるとする説、 古代人は航海の際、鳥を船上に積み込んでいたとする説などがある。
天鳥船神を祀る神社 石船神社(茨城県東茨城郡城里町大字岩船) / 息栖神社(茨城県神栖市息栖) / 神崎神社(千葉県香取郡神崎町) / 美保神社 境内 宮御前社(島根県松江市美保関町) / 住吉大社 境内 船玉神社(大阪府大阪市住吉区) / 隅田川神社(東京都墨田区堤通)  
天鳥船神2
1 天鳥船神とはどのような神か
天鳥船神とは、『古事記』神代段に見え、葦原中国との国譲り交渉に際して、高天原の代表としての建御雷之男神に副えて派遣された神である。この交渉に当たった神の名については、記・紀や紀の一書、『古語拾遺』『旧事本紀』『出雲国造神賀詞』とそれぞれに所伝が異なるが、要は1武甕槌神と、2経津主神ないし天鳥船神、天之夷鳥命という二神が関与し、それが並立ないしどちらかが主で他が副という関係に集約される。『出雲国造神賀詞』では、出雲国造の祖・天之夷鳥命に布都怒主命を副えてとあるが、この場合には布都怒主命は武甕槌神と同神という見方に因るものであろう。
このようにみると、経津主神、天鳥船神、天之夷鳥命の三神はみな同神と考えられる。『神道大辞典』も、建比良鳥命が出雲国造の祖で、天夷鳥命・武三熊大人らが皆同一神であって、「天鳥船神とも同一神なるべく」と記している。
2 天鳥船神を祀る神社と浮島宮
ところで、天鳥船は天鴿船(はとぶね)、熊野諸手船とも同じで、天鳥船命は鳥石楠船命(とりのいわくすふね)と同じとされる。鳥石楠船命を祭神として祀るのが、神崎神社(千葉県香取郡神崎町神崎本宿)、隅田川神社(東京都墨田区堤通。もと浮島宮という)や、常陸の石船神社(茨城県東茨城郡城里町。常陸国那珂郡の式内社)などである。
この石船神社は那珂川の支流・岩船川沿いに鎮座し、兜石と呼ばれる巨岩が神体とされるが、近隣に粟・阿波山という地名が見える。河内の岩船神社の祭神、饒速日命は天鳥船に乗って現在の大阪市に天下ったとされる神話伝承もあり、全国各地の多くの石船(磐船、岩船)神社が物部一族により奉斎されたことに留意される。
かつ、天鳥船神を祀る神社が全国で少ないうえ、利根川下流域から常陸国那珂郡にかけての地域に集まる事情にある。那珂郡には阿波郷の地名も見えるが、このあたりには、少彦名神・天日鷲翔矢命の後裔で安房忌部の同族たる衣服氏族の倭文連・長幡部一族が繁衍し、静大社や鷲子山上神社などを奉斎した。倭文連・長幡部一族はその近隣の久慈郡にも拡がったが、久慈郡を領域としたのが物部氏族の久自国造であり、その祖も景行巡狩に関与した(後述)。久慈郡には狭竹物部も居た。
隅田川神社は古くは浮島宮などと呼ばれた。浮島宮は、景行天皇の東国巡狩の際の行宮であって、『高橋氏文』では安房(正確には「上総国の安房の浮島宮」)、『常陸国風土記』では常陸国南部の信太郡の浮島(現稲敷市桜川地区、旧桜川村に所属)にあったと記される。具体的な比定地としては、そこから葛飾野に狩に出たといい、しかも安房国説(伴信友)の浮島のほうは平群郡の勝山海岸の西方沖に浮かぶ小島(現安房郡鋸南町)にすぎず、行宮の所在地としては疑問が大きいから、『風土記』の所伝のほうに妥当性がある(更に後述)。そのいずれにせよ、安房忌部の祖がこの地で奉仕したと伝える。
安房忌部の関係か、信太郡では浮島の南西方近隣には阿波崎・阿波津・阿波(いずれもに現稲敷市域。前二者は旧東村、阿波は旧桜川村)という地名も見える。阿波にある大杉神社は、関東・東北地方に分布する大杉神社の総本社であり、祭神は倭大物主神で水上交通の神とされるが、祭神のほうはおそらく訛伝であろう。この神社名に通じる杉山神社が、式内社をはじめとして武蔵の南西部に多く分布し、杉などの木種をわが国に伝えた五十猛神(天孫族の始祖)を主祭神として安房忌部の支族が奉斎した事情があるからである。水上交通の神とは舵取りすなわち香取に通じ、鳥船神に通じる点に留意される。大杉の神の信仰は、「あんば信仰」ともいわれるが、悪魔ばらえの神として、常総から陸奥の太平洋沿岸方面に拡がりを見せるから、この点でも香取神を想起させるものがある。経津主神らが悪神の天津甕星(別名、天香香背男)を制圧した神とされる(『書紀』の一書)、からである。
大杉神社の鎮座地の阿波については、もう少し調べると更に興味深い事実が浮上する。すなわち、『常陸国風土記』には安婆(あば)の島とするが、上古には半島状地形が島状の様子を呈していたため、その呼称があるとされる。この一帯はかつて菟上の国(海上国)という上古の東総地方にあった国域に含まれたが(後の下総及び上総の海上郡はその一部)、大杉神社の巨大な杉は「あんばさま」と呼ばれて、常総内湾の交通標識の役割を果たし、この地域の信仰の対象であった。
阿波は、浮島の西南近隣に位置するから、浮島もやはり海上国域に入り、従って景行当時の浮島は常陸ではなく、「総」の一部であったことになる。ということは、『高橋氏文』の表現「上総国の安房の浮島宮」は、正しくは「総国の安房(阿波)という地の浮島宮」であって、安房は国名ではなかった。安房国は古くは上総国に属し、奈良時代になって分離したから、「上総国の安房」と書かれたとみる説は誤りと分かる。そして、浮島宮が『常陸国風土記』編纂当時は常陸にあったとする記事が正しいことも明確になる。
信太郡は利根川を挟んで香取郡の北西隣に位置し、この地を領域としたのが、物部志太連である。その先祖が孝徳朝に小山上物部河内らと『風土記』に見え、筑波・茨城郡から割いて建郡したとされるから、彼らが郡領になったとみられる。常陸の風土記に唯一、フツ大神が信太郡に見えるのも、当地の物部一族が奉斎した故であろう。
物部一族といえば、浮島宮で景行天皇に対し食膳奉仕したのが膳臣(後に高橋朝臣)及び膳大伴部(『姓氏録』左京皇別)の祖・磐鹿六雁命であるが、『高橋氏文』の記事に若湯坐連の祖・物部意富売布連と豊日連の親子も見え、豊日連は忌火の鑽(き)り起こしをしたと見える(忌火の神とは、大八島竈神と一体の宮中の内膳司にあった竈の神であり、斎戒して鑽り出された新火を忌火という)。この親子は上記の久自国造の祖であるとともに、後裔においては、景行巡狩に先祖が膳部職として奉仕したということで、代々膳大伴部を職掌として宮廷に供奉し、これに因む大部造姓を負った。
大部造の一族は常陸国内で久慈郡のほか、筑波・茨城・信太の諸郡に分かれたが、信太郡では中家郷(『和名抄』の地名配置からみて、浮島の近在とみられる)にあり、その子孫から『三代実録』に見える遠江介従五位下の大部造氏良を出した。筑波郡の郡領を世襲した大部造は後に有道宿祢姓となり、武蔵北部に繁衍した児玉党諸氏となった。
ここまで見てきた物部や衣服氏族の常陸における分布を見ると、『書紀』『風土記』や『高橋氏文』などに見える景行天皇の東国巡狩は整合性をもった伝承であることが分かり、その史実性は否定できない。
3 東国の麻・衣服関係の地名と神社
利根川下流域の両総・安房あたりから武蔵・下野にかけての地域には、フサ(総)、麻生(常陸国行方郡)、結城(木綿キで、木綿を作るカヂの生える地)等々の麻・衣服関係の地名が多く見える。麻生は、『常陸風土記』行方郡条に見える古い地名(現行方市)であり、大麻神社が鎮座する。現在の祭神は天太玉命とも、武甕槌神・経津主神などともするが、おそらく安房忌部の祖・大麻比古命(天日鷲命の子)が本来の祭神ではなかろうか。
麻・衣服関係の地名と共に、麻植神たる天日鷲翔矢命を祭神とする神社が上記地域には多く分布する。安房の下立松原神社 (白浜町)、下総国葛飾郡や下野国都賀郡の鷲宮神社や多くの鷲神社・大鳥神社・大鷲神社がそうした神社としてあげられる(現在、「大鳥・大鷲」を名乗る神社の祭神が日本武尊とされるものがあるが、これは後世の訛伝)。
鷲神社でいえば、酉の市で知られる台東区浅草や、千葉県市原市今津朝山、香取市(旧佐倉市)先崎、稲敷市鳩崎などあるが、今津朝山は麻穀の播殖で良質の麻の産地だったと伝える。香取連の先祖に苗益(苗加。ともに「なえます」と訓)という名前(称号)が見えるのも、麻の苗を殖やすという意味になろう。
4 鷲宮神社と香取の神
関東各地の鷲神社の本社とされるが、葛飾郡の鷲宮神社(埼玉県北葛飾郡鷲宮町。利根川中流域西岸)であり、同社は香取郡の神崎神社を本宮として、別宮の関係があるという。いま鷲宮神社の祭神にあげる武夷鳥命は、神崎神社の祭神天鳥船命と同一神とされる。この神崎神社は、もとは香取神社の末社であり、香取市先崎の鷲神社は香取神宮の西方近隣に鎮座する。香取市大戸にある大戸神社は、清宮秀堅が『下総国旧事考』で「大戸ノ社ト云ハ、天の鳥船ノ荒魂ナルベシ」と指摘しており、鳥船神は船の舵取りにも通じる香取の神にふさわしい。
香取神社の真東約十キロで利根川対岸には、天鳥船神を祭神とする息栖神社が位置する。その鎮座の息栖(現在の訓はイキス。茨城県神栖市、旧鹿島郡神栖町)の地は、古くはオキスの津(港)と呼ばれたところである。同社は、その北方に位置する鹿島神宮の摂社であるが、鹿島・香取・息栖で東国三社と呼ばれた。『延喜式』では式外の神社ではあるが、国史見在であって『三代実録』(仁和元年三月条)所載の「於岐都説神」に比定される。
天鳥船神は、全国でも下総の香取に関係ある地域に集中して見られることに留意される。
5 結論
このように、様々に関連しながら廻り廻って、天日鷲命は天鳥船神、ひいては経津主神につながる。神統譜での位置づけでいえば、天日鷲命(とその系統)は経津主神(すなわち、天太玉命とその系統)に従属していて、その弟にあたるが、経津主神が天鳥船神で、物部祖神であり、出雲国造祖神でもあると考えられる。天日鷲命のほうは、阿波・安房などの忌部や弓削連、そして矢作連や香取連の祖に位置づけられる。
これを記紀にあらわれる分かり易い神名でいえば、兄が天目一箇命で、弟が少彦名神である。「経津主」も剣の名に使われるから普通名詞に近く、一人に特定すれば天目一箇命になるが、その兄弟一族や後裔も武神一族として、名前の一部に「フツヌシ」を共通する称をもった可能性がある。これは、香取連の系譜が示唆するし、安房忌部の系譜に見える少彦名神の孫の「由フツヌシ」も示唆するところである。
これらの神々は天孫族系であって、その関係地には、鍛冶・衣服関係や巨石信仰・鳥トーテミズムが顕著に見られる。わが国の神々は先祖として奉斎する氏族・部族により名前を異にして伝えるから、それら神々を体系化する神統譜の原型探索は困難をきわめるが、祭祀・地名・職掌や習俗などから、神統譜と氏族の流れを適切に整理しないと上古史の研究は意味をなさなくなることに留意しておきたい。
歴史学界で応神天皇より前の上古史がこれまで切り捨てられてきたのも、関係する学究らが神統譜関係の適切な把握ができなかった(理解できなかった)という事情に起因する。  
建御雷神と天鳥船神
「ここに天鳥船神(あめのとりふねのかみ)を建御雷神(たけみかづちのかみ)に副(そ)へて遣(つか)はしき。これを以(もち)て、この二柱(ふたはしら)の神、出雲国の伊那佐之小浜(いなさのおはま)に降り到(つ)きて、十掬剣(とつかのつるぎ)を抜きて、浪(なみ)の穂に逆さまに刺し立てて、その剣の先に趺(あぐ)みまして、大国主神に問ひたまはく、「天照大御神、高木神(たかぎのかみ)の命(みこと)以(もち)て、問ひに使はせり。汝(いまし)がうしはける葦原中国(あしはらのなかつくに)は、我(あ)が子(みこ)の知らさむ国と言依(ことよ)さし賜へり。かれ、汝の心奈何(いか)にぞ」とのりたまひき。」『古事記』
天鳥船神(あめのとりふねのかみ)とは、天菩比神(あめのほひのかみ)の御子である武夷鳥神(たけひなとりのかみ)の別名ですが、とくに国平に功ある神とうかがわれ、他にも多くのご神名をもっています。
『日本書紀』に、「即ち天穂日命(あめのほひのみこと)を以て往きて平(む)けしめたまふ。しかれどもこの神、大己貴神(おおなむちのかみ)に佞(おもね)り媚びて、三年(みとせ)になるまで尚報聞(かえりごとまお)さず。かれ、よりてその子、大背飯三熊之大人(おおそびのみくまのうし)を遣はす。これまたその父に還順(したが)ひて遂に報聞(かえりごとまお)さず」とありますが、この「大背飯三熊之大人」も武夷鳥神つまり天鳥船神の別名です。また『遷却祟神詞(たたるかみをうつしやらふことば)』にも、「諸(もろもろ)の神等(かみたち)皆量(はか)り白(まお)さく、天穂日命を遣はして平(む)けむと白(まお)しき。これを以て天降し遺はす時に、この神は返言(かえりごと)白(まお)さずて、次に遣はしし健三熊之命(たけのみくまのみこと)も、父の事に随(したが)ひて返言(かえりごと)白さず」とあり、この「健三熊之命」も武夷鳥神の別名で同じ神です。
『古事記』にはこれらの伝が欠けていますが、この天鳥船神が天穂日命(天菩比神)に次いで天降り、父神と共に大国主神の心を和ませ、天津神の詔(みことのり)に従って、この国(地球上)を奉るように仕向けるために励んだことが伝えられています。
また以前に、稲背脛命(いなせはぎのみこと)が白兎に変体して天降ったことがありましたが、これも天鳥船神の別名で同神であり、かねてからこの神は大国主神のことをよく知っており、今回この神が天降ってきたことも深い神量(かむはかり)と思われます。
この時、諸神の神議によって神使として選ばれたのは建御雷神(たけみかづちのかみ)ですので、いわば正使であり、天鳥船神つまり天鳥船神は副使ということになりますが、しかしながらこの時は、むしろ副使の方に重要な役割があるものとうかがわれます。(『日本書紀』では建御雷神ではなく経津主神(ふつぬしのかみ)となっており、出雲国造(いずものくにのみやつこ)家に伝わる『神賀詞(かむほぎのことば)』では、「天夷鳥命(あめのひなとりのみこと)に布都怒志命(ふつぬしのみこと)を副へて」となっていますが、建御雷神と経津主神の関係は前述したとりで、この時は一柱と成って天降ったものと考えられます。)
建御雷神は剣の先に趺(あぐら)をかいて威厳を示し、天津神の詔(みことのり)を告げるのですが、地球の修理固成経営の神業は、もともと伊邪那岐神より須佐之男命に伝えられ、須佐之男命が黄泉国(よみのくに)に入った後は大国主神に継承され、葦原中国(地球上)の主権はすべて大国主神に帰すべきものですので、たとえ天津御祖大神(あまつみおやのおおかみ)といえども、大国主神の承諾がなければどうすることもできないのが造化自然の摂理です。
つまり、神使として剛(たけ)き荒魂(あらみたまのかみ)を遣わしても、大国主神に戦いを挑むことが目的ではなく、大国主神の御心を和ませて平和的な交渉を図るため、以前に大国主神のもとにもまし、その御心をよく知る天鳥船神が副使として天降ったものとうかがわれます。(逆に和魂(にぎみたま)の神が正使で荒魂の神が副使の場合は、最初から武力を示す威嚇的な交渉となり、信頼関係を築くことは困難で、交渉が決裂する可能性が高くなります。)
また、神前で奏上される祝詞にも「平らけく安らけく」とあるように、もともと日本人は争いを好まず、平和を愛する大和心(やまとごころ)をもつ民族ですが、その心は遥か遠い神代の時代から受け継ぎ伝えられてきたことがわかります。
以上のことより、皇孫降臨に際し、天穂日命並びに天鳥船神は、顕においては皇孫万世一系の基(もと)を開き、幽においては大国主神との深き幽契が存し、天津御祖大神の詔によって万世この神孫を大国主神の御魂が鎮まる天日隅宮(あめのひすみのみや、後の出雲大社)の斎主と定められ、遠く神代の太古より今日に至るまで、男系承祖の正統を以て奉仕なされる出雲国造(いずものくにのみやつこ)家は、無比の名家というべきでしょう。  
筑波山 / つくばのやま
昔、筑波山は関東平野のどこからでもよく見えたらしい。海抜800メートル程度の山に過ぎないが、広大な平野が東北方向に尽きるあたり、平坦な台地の上にいきなりその秀麗な山容を顕しているからである。
筑波はどこから見ても姿のよい山であるが、男山と女山、双つの嶺がぴったり寄り添って見えるような方角から眺めるのが最もよい。それはまるで大地に横たわった巨大な女神の乳房のようだ。常陸の古老が、駿河の富士と比べた筑波山の情の篤さを讃美している(常陸国風土記)のも、尤もだと肯かれるのである。筑波はエロティックな饗宴の山であった。
○鷲の棲む 筑波の山の 裳羽服津(もはきつ)の その津の上に
率(あども)ひて 未通女(をとめ)壮士(をとこ)の 行き集ひ かがふかがひに
人妻に 吾(あ)も交はらむ わが妻に 人も言問へ
この山を うしはく神の 昔より 禁(いさ)めぬわざぞ
今日のみは めぐしもな見そ 言こともとがむな
○反歌
男神(をのかみ)に雲立ちのぼり時雨ふり濡れとほるとも吾帰らめや
「筑波嶺に登りてカガヒせし日に作れる歌」と題された、高橋連虫麻呂歌集出典の万葉歌である。カガヒは歌垣(うたがき)と同じことを指しているらしい。常陸国風土記の寒田郎子と安是嬢子の伝説にみられるように、未婚の男女が歌をやりとりすることで、求婚相手を見つける集いの場であった。気の合ったカップルは、そのまま歌垣の場を抜け出し、木陰などに隠れて共に一晩を過ごしたのである。上の虫麻呂歌集の歌からは乱婚パーティーのような印象も受けるが、そうした風聞もあったのだろうか。おそらくこれは、筑波のカガヒの噂だけ聞き知っていた都人士を娯しませるための、専門歌人によるサービス過剰な(?)誇張表現だったのではないかと思われるのだが。
万葉時代の都人にとって遥かな東国の果てであった筑波山が、すでに伝説の山であり、一種の名所となっていたことは確かである。たまたま常陸に赴任する機会を得た官人たちは、苦労を厭わず筑波に登り、その感懐をいくつかの歌に残している。
○筑波岳に登りて丹比真人国人がよめる歌
鶏(とり)が鳴く 東(あづま)の国に 高山は 多(さは)にあれども
二神(ふたかみ)の 貴き山の 並み立ちの 見が欲し山と
神世より 人の言ひ継ぎ 国見する 筑波つくはの山を
冬こもり 時じき時と 見ずて行かば まして恋(こほ)しみ
雪消(ゆきげ)する 山道すらを なづみぞ我(あ)が来る
○反歌
筑波嶺(つくはね)を外(よそ)のみ見つつありかねて雪消の道をなづみ来るかも
○筑波山に登れる歌
草枕 旅の憂へを 慰(なぐさ)もる こともありやと
筑波嶺に 登りて見れば 尾花散る 師付(しづく)の田居に
雁がねも 寒く来鳴きぬ 新治(にひはり)の 鳥羽の淡海(あふみ)も
秋風に 白波(しらなみ)立ちぬ 筑波嶺の よけくを見れば
長き日に 思ひ積み来(こ)し 憂へはやみぬ
○反歌
筑波嶺の裾廻(すそみ)の田居に秋田刈る妹がり遣らむ黄葉(もみち)手折らな
むろん、土地に根づいた人々にとっては、筑波は自ずから別な意味を持っていた。生産に追われる日常に、ふと見上げては抒情を託する対象であったろうし、恋人の面影に結びつく親しい歌枕として、さかんに歌にうたわれたのである。また防人として故郷を遠く離れなければならなかった男たちにとって、痛切な望郷のシンボルであったことは言うまでもない。
○ 筑波嶺に雪かも降らるいなをかも愛(かな)しき子ろが布(にの)乾さるかも
○ 筑波嶺にかか鳴く鷲の音(ね)のみをか泣きわたりなむ逢ふとはなしに
○ 我(あ)が面(もて)の忘れもしだは筑波嶺を振りさけ見つつ妹は偲はね 占部小龍
○ 筑波嶺のさ百合(ゆる)の花の夜床にも愛(かな)しけ妹そ昼も愛しけ 大舎人部千文
○ 橘の下吹く風のかぐはしき筑波の山を恋ひずあらめかも 占部広方
平安時代以降も、「筑波嶺」「筑波の山」は歌枕としてもてはやされた。古今集仮名序には「つくば山にかけて君をねがひ」と、筑波山を代表的な歌枕のひとつに挙げている程である。男女二峰を有する山容と歌垣の連想から、歌人たちは筑波を恋の山として仰いだのである。また動詞「付く」の懸詞として使われることも多い。
○ 筑波嶺の木のもとごとにたちそよる春のみ山の陰を恋ひつつ 橘潔興「古今」
○ 筑波嶺のこのもかのもに蔭はあれど君がみかげにます影はなし 「古今」
○ 人づてにいふ言の葉の中よりぞ思ひつくばの山は見えける 「後撰」
○ 筑波嶺の峯より落つるみなの河恋ぞつもりて淵となりける 陽成院「後撰」
○ 筑波山は山しげ山しげけれど思ひ入るにはさはらざりけり 源重之「新古今」
○ 今はみな思ひつくばの山おろしよ繁き嘆きと吹きもつたへよ 定家
平安時代に詠まれた筑波山は、多くの歌枕同様、現地を知らないまま想像の中でのみ詠われたようである。しかし、この時代でも、奥州行脚を試みた能因法師など、実際筑波山を訪れた人もいたらしい。
○ よそにのみ思ひおこせし筑波嶺の峰の白雲けふ見つるかな 能因集
筑波山系周辺には平安時代の山岳寺院跡が点在しており、筑波山は当時神仏習合の山として仏教者の信仰を集めていたことがわかる。以後も修験の山として、また民間信仰の山として、篤い敬いを受け続けて今日に至っている。以下には、中世から近世にかけて詠まれた、叙景風の筑波山の歌を挙げよう。
○ おしなべて春はきにけり筑波嶺の木のもとごとに霞たなびく 実朝
○ 筑波嶺の裾わの田ゐの松の庵このもかのもに煙立つなり 桓覚「新拾遺」
○ を筑波も遠つ葦穂も霞むなり嶺越し山越し春や来ぬらむ 賀茂真淵
○ 筑波山雫のつらら今日とけて枯れ生の薄春風ぞ吹く 賀茂真淵
○ しげ山も葉山もわかぬ霧のうへにほのぼの見ゆる筑波山かな 香川景樹
白遠(しらとほ)ふ新治の国は北に白じらと霞み、立雨(たちさめ)ふり行方(なめかた)の国・霰ふり香島の国は東の霞の彼方である。
○ 筑波嶺ゆ振りさけ見れば水の狭沼(さぬま)水の広沼霞たなびく 長塚節  
筑波嶺
筑波嶺(つくばね)の 峰より落つる 男女川(みなのがは)
  恋(こひ)ぞつもりて 淵(ふち)となりぬる 陽成院 『後撰集』
(筑波のいただきから流れ落ちてくる男女川(みなのがわ)が、最初は細々とした流れから次第に水かさを増して深い淵となるように、恋心も次第につのって今では淵のように深くなっている。)
筑波嶺(つくばね)の / 「筑波」は常陸国(現在の茨城県)の筑波山のことです。山頂が男体山と女体山の2つに分かれ、万葉の昔からよく歌に詠まれました。古代には、春と秋に男女が集まって神を祀り、求愛の歌を歌いながら自由な性行為を楽しむ「歌垣」として知られていました。また「つくばね」の「つく」は相手側に「付く」という意味を表します。
峰より落つる / 「山頂から(の水の流れが)落ちていく」という意味です。「嶺」「峰」と繰り返すことで山の高峻さがクローズアップされています。
男女川(みなのがは) / 「水無乃川」とも書きます。男体山、女体山の峰から流れ出る川なのでこう呼ばれます。川は筑波山の麓を流れて桜川に合流し、霞ヶ浦に流れ込みます。ここまでが序詞になります。
恋ぞつもりて / 「恋情がだんだんつのって」という意味で、細かった川の流れが峰から里に下るにつれて太く強い流れになっているイメージと重ね合わせています。
淵となりぬる/ 「淵」は流れがたまって深くなっている場所です。恋の気持ちと川の流れを重ね合わせ、恋心がつのっていく様子を表現しています。「ぬる」は完了の助動詞「ぬ」の連体形です。後撰集では「なりける」となっていますが、「ぬる」の方が思い詰めた感覚が強く表れているようです。
陽成院(ようぜいいん。869〜949) / 清和天皇の皇子で、第57代天皇に10歳で即位しましたが、病のため17歳で譲位しました。勅撰集にはこの歌のみが残されています。
最初はほのかだった恋心だけれど、時間がたつにつれてゆっくりと深くなっていく。まるで筑波山のいただきから滔々と流れ落ちる男女川がだんだん太い流れになり、麓で深い深い淵になるように、私の恋心はこんなにも大きく強くなったのだ。後撰集の詞書には「釣殿(つりどの)の皇女(みこ)につかわしける」と書かれています。釣殿の皇女とは光孝天皇の娘、綏子(すいし)内親王を指しており、後に陽成院のお后となります。どうでしょうか。具体的な相手がいたラブレターだったわけです。最初は淡い恋心だったのだけど、どんどんあなたのことを想いつのり、深く愛するようになりました、という意味が筑波山の川に込められて語られます。
これが平安の恋のワン・エピソードだと思うと、なかなかロマンがあります。清純な若き恋心の発露でしょうか。陽成院は脳を病んでいたと伝えられ、しばしば宮中で狂態を演じたとも伝えられます。しかし、この歌はそうした背景は別として、現代にも通じる愛の誠実さが感じられます。当時の宮中においては、筑波山は現代と違って、文化の届いていない東国にある、というイメージがありました。野蛮で素朴といった印象の土地だったのです。当然作者もそこへは行ったことがなく、伝聞や絵図でのみイメージをふくらませたのでしょうが、それが素朴で清楚といったこの歌の印象ととてもよく合っているような心持ちがします。
この歌の舞台になった筑波山は、茨城県つくば市にある有名な山です。山は2つに分かれており、西の男体山が871m、東の女体山が877mと低いですが、「西の富士山、東の筑波」と称されるほど古くからその優美な姿を愛されており、しかも朝は藍色、夕刻には紫に色をさまざまに変えるため「紫峰」とも呼ばれます。周囲は水郷・筑波国定公園に指定される美しい自然景観が楽しめる場所で、山腹には梅林や北条大池、桜並木やカブトムシなどがたくさん生息するクヌギの大きな林などがあります。また、国の重要文化財で、縁結び・夫婦和合の神で有名な筑波山神社もあり、夏の8月にはガマの油売りの口上が楽しめるガマ祭なども開催されます。
常陸国 (ひたちのくに)
阿自久麻(あじくま)山 歌枕名寄などは常陸国の山とする。筑波郡筑波町平沢の北の子飼山、同町の平沢山とする説がある。
○ あど思へか阿自久麻山の弓絃葉(ゆづるは)のふふまる時に風吹かずかも 万葉集
葦穂山(あしほやま) 筑波山の北、現在の足尾山。
○ 筑波嶺にそがひに見ゆる葦穂山あしかるとがもさね見えなくに 万葉集
鹿島(かしま) 茨城県鹿島郡。
○ 霰降り鹿島の神を祈りつつ皇御軍士(すめらみいくさ)に我は来にしを(大舎人部千文 万葉)
霞の浦 霞ヶ浦。
○ 春がすみ霞の浦をゆく舟のよそにも見えぬ人を恋ひつつ 定家
恋瀬川(こひせがは) 筑波山より霞ヶ浦に注ぐ。「雫の田居」のそばを流れる。
○ 恋瀬川つれなき中にゆく水は年もせかれぬ涙なりけり 藤原家隆
桜川 西茨城郡岩瀬町の鏡池に発し、霞ヶ浦に注ぐ。
○ 常よりも春べになれば桜川花の波こそまなく寄すらめ 貫之[後撰]
雫(しづく) 筑波山の東裾。茨城県新治郡千代田村志筑。
○ 草枕 旅の憂へを 慰もる こともありやと 筑波嶺に 登りて見れば 尾花散る 師付の田居に 雁がねも 寒く来鳴きぬ 新治の 鳥羽の淡海も 秋風に 白波立ちぬ 筑波嶺の よけくを見れば 長き日に 思ひ積み来し 憂へはやみぬ  万葉集
高間の浦 鹿島神宮の東方の鹿島灘を言ったらしい。海浜部は「高松浜」と呼ばれ、別名を高天原(たかまのはら)と称したらしい。
○ よそにみて袖やぬれなん常陸なる高間の浦の沖つしら浪 光俊[続古今]
筑波山(つくばのやま) 
○ 筑波嶺に雪かも降らるいなをかも愛(かな)しき子ろが布(にの)乾さるかも 万葉集
男女川(みなのがは) 筑波山から流れ出、桜川に合流して霞ヶ浦に注ぐ。
○ 筑波嶺の峰より落つる男女の川恋ぞ積りて淵となりける 陽成院  
潮来 / 茨城県行方郡潮来町
茨城県の南東部にある霞ヶ浦(西浦)は琵琶湖に次ぐ日本第二の湖である。利根川水系の堆積作用による閉塞や干拓などで狭められたが、かつてははるかに広大で、古代には千葉県の印旛沼や手賀沼までつながる巨大な入海であった。古代には湖全体の呼称はなく、『常陸国風土記』によれば信太しだ流海、榎浦流海、高浜の海などと地域によって呼ばれ、霞ヶ浦の名称が定まったのはようやく江戸時代初期のことである。
霞ヶ浦の流水は常陸利根川・外浪逆そとなさか浦をへて利根川本流に合するが、その途中に水郷の町として知られる行方なめがた郡潮来町がある。潮来は古くは板来・板久などと記され、常陸国府(現石岡市)と鹿島神宮を結ぶ往還の要所であった。『常陸国風土記』によれば海浜に臨んで駅家が置かれ、その海に「塩を焼く藻・海松・白貝・辛螺・蛤、多に生へり」とあるように、海中の洲には、春に鹿島・行方両郡の男女が多数集まって貝を拾ったという。また同書は板来の地名の由来を建借間命たけかしまのみことの東征にあたり、国栖くずの首領夜尺斯やさかし・夜筑斯やつくしの二人が頑強に抵抗したので「建借間命、騎士をして堡を閉ぢしめ、後より襲ひ撃ちて、尽に種属を囚へ、一時に焚き滅しき。此の時、痛く殺すと言ひし所は、今、伊多久の郷と謂ひ」と記す。
「常陸国なる内の海」(神皇正統記)と呼ばれた霞ヶ浦の周辺には漁猟や塩焼に携わりながら舟運の担い手ともなった海民が、津と呼ばれた小集落を根拠に古くから活発に活動していた。これらの海民は平安時代末期の応保年間(一一六一‐六三)までに「海夫」と呼ばれるようになり、香取神宮に供祭料を貢献し、漁猟・交通上の特権を与えられていた(「大禰宜長房申状写」香取文書)。応安七年(一三七四)と思われる海夫注文(香取文書)によれば潮来町周辺の津は島崎・板久・信方(延方)などである。
慶長七年(一六〇二)に佐竹氏の秋田移封にともない板来は水戸藩領となり、元禄一一年(一六九八)藩主徳川光圀の命で潮来村と改称される(水戸紀年)。江戸時代にも引き続き交通の要衝であったが、とくに東北諸藩の江戸への物資輸送の中継地として繁栄し、仙台・津軽両藩などの蔵屋敷も設けられていた。東北諸藩の荷物は那珂湊から涸沼ひぬま川に入り、海老沢河岸(現東茨城郡茨城町)から下吉影しもよしかげ河岸(現同郡小川町)まで陸送、巴ともえ川を下って、北浦・浪逆浦・北利根川を通って利根川本流へ出、北上して下総関宿せきやど(現千葉県東葛飾郡)から江戸川に入る船が多かった。潮来村と称していたが、実際は在郷町で一‐八丁目に区分され、町並は前まえ川の北岸沿いに発達した。各丁に年寄が置かれ、庄屋は年寄の中から選ばれた。明和四年(一七六七)の家数は七三〇、人数は二六〇八人であった(須田家文書)。水戸藩は天和二年(一六八二)に遊郭の設立を認可し、関戸家文書によれば正徳五年(一七一五)には遊女屋九軒、遊女九五人を数え、年間の遊客二万四二〇〇人、遊興金は一万六九四〇両に及んだという。しかし享保期(一七一六‐三六)頃から前川が埋まり、また利根川の銚子河口から江戸入りする船が増加したことにより、しだいにさびれていく。
前川と常陸利根川の間には常陸利根川の土砂が浪逆浦に堆積して形成された洲がある。近世初期に開発されて新田村が成立し、「二重谷旧記書上」(須田家文書)によると、はじめは下総国新島しんしま(現千葉県佐原市)領域に属していたが、正保元年(一六四四)に板久村の農民が幕府に開拓を願い出て、翌二年に許可され、同年以降海運上として永銭五〇〇文を納入したという。延宝二年(一六七四)には田地一一町七畝、年貢米一一石となり、元禄四年の検地では二二町四反余に増大。同一五年の常陸国絵図改正により常陸国に編入されたが、年貢諸米は従来通り幕府へ納入した。この頃二重谷にじゅうや村と名づけられたという。しかし開拓地へ家屋を建てることは許されず、すべて潮来村からの出作地とされた。元禄郷帳では無高とあるが、延享元年(一七四四)の検地で反別六二町八反余、村高四九二石余となり(二重谷旧記書上)、天保郷帳では五四二石余に増加する。
宝暦二年(一七五二)に二重谷村掟(関戸家文書)が定められ、村の自治運営がなされた。村掟は安永四年(一七七五)などに改正され、明治一〇年に二重谷村条例、同二二年に二重谷村規約と改称されたが、掟の基本は次のように要約される。(1)村は全村民の開発で、全村民が平等に権利・義務を有する。(2)耕地はすべて村の所有とし、個人の家屋構築は禁止する。(3)耕地の良悪による不公平をなくすため、三年ごとに土地の割替えをする。(4)村に関することは、潮来村八人頭の合議により決定する。その後、田取人(耕作者)の増大で規約による自治運営は困難となり、明治三四年に分割規定を定めて、田取人九二四人の個人所有地に分割された。  
潮来節
江戸時代の流行歌である。茨城県潮来に起源する。
「利根川図志」(1855年)に、潮来曲(いたこぶし)の唄として掲載される小唄は、「さまよ鹿島に神あるならば、あはせたまへや今一度」、「潮来出島の十二の橋を、行きつ戻りつ思案橋」、「いたこ出島のまこもの中に、あやめ咲くとはつゆしらず」などであるが、これよりも古く「山家鳥虫歌」(1772年)常陸の部3首の中には、「潮来出島のすな真菰(まごも)、殿に刈らせて我ささぐ。さつさおせおせ」、「潮来出てから中島までは、雨は降らねど袖しぼる。さつさおせおせ」という潮来唄を載せるが、おそらくはこれが潮来節の元となった民謡であろうという。
潮来はその最盛期、享保(1716-36)、元文(1736-41)の頃には銚子口から親船が多く来航し、地元の唄が調子を改めて花街の宴席などで行なわれ、船の乗客を相手に調子付けられたために、従来の潮来節が舟唄のような囃子ことばを持つようになった。
まもなく江戸で歌われ、宝暦(1751-64)、明和(1764-72)の頃に流行しはじめ、天明(1781-89)、寛政(1789-1801)の頃の洒落本では、すでに流行した「投節」の名前が消え、しばしば潮来の文字が見える。当時の洒落本の潮来節の小唄は「お前主持ちわたしは抱へ、天井つかへてままならぬ。セイセイセイセイ、トウトウトウトウ」(山東京伝「仕懸文庫」寛政2年)、「潮来好くやうな浮気な主に、ナゼナゼ、惚れた儂が身の因果」(式亭三馬「船頭新話」文化(1804-18)年間)など。
江戸においては、安永(1772-81)の頃から替え歌が増え、遊郭を中心に短い情歌として流行した。そして潮来節の変種として、「よしこの節」が生まれ、さらによしこの節の変種として「都々逸」が生まれた。
邦楽にも取り入れられ、うた沢では「いたこ出島」の原歌のほかに、「宇治の柴ふね、早瀬をわたる、わたしや君ゆゑ、のぼりふね、アアヨイヤサヨイヤサ」ほかがある。

日本の古歌謡,民謡の曲名。茨城県南部の水郷潮来に発生したもので,明和8 (1771)年頃から江戸にも流行し,操人形の地方 (じかた) などにも用いられた。「潮来出島のまこもの中にあやめ咲くとはしおらしや」の歌詞は有名。 
潮来音頭と甚句
潮来音頭
揃うた揃うたよ 踊り子が揃うた(アリャサー) ※または(アリャセー)
  秋の出穂より よく揃うたションガイー
  (よく揃うた)秋の出穂より よく揃うたションガイー   ※以下、唄ばやし同じ
潮来出島の 真菰の中に あやめ咲くとは しおらしやションガイー (しおらしや)あやめ咲くとは しおらしやションガイー
私ゃ潮来の あやめの花よ 咲いて気をもむ 主の胸ションガイー (主の胸)咲いて気をもむ 主の胸ションガイー
花を一本(ひともと) 忘れてきたが あとで咲くやら 開くやらションガイー (開くやら)あとで咲くやら 開くやらションガイー
此処は前川(加藤洲) 十二の橋よ 行こか戻ろか 思案橋ションガイー (思案橋)行こうか戻ろうか 思案橋ションガイー
潮来出てから 牛堀までは 雨も降らぬに 袖しぼるションガイー (袖しぼる)雨も降らぬに 袖しぼるションガイー
向こう通るは 清十郎じゃないか 笠がよう似た 清十郎笠ションガイー (清十郎笠)笠がよう似た 清十郎笠ションガイー 
主と別れて 松原行けば 松の露やら 涙やらションガイー (涙やら)松の露やら 涙やらションガイー
並ぶ灯しは 潮来の曲輪(くるわ) 月は朧の 十二橋(きょう)ションガイー (十二橋)月は朧の 十二橋ションガイー
さらばこれより ションガイ節(音頭を)やめて 次の甚句に 移りましょションガイー

上の句を音頭が歌い、下の句を他の人が歌い、更に返しを付けるといった歌い方をすることから「音頭」といわれているようです。ただ最後に「ションガイー」を付けるところから「ションガイ節」とか「潮来節」と呼ばれる唄であったようです。利根川流域で「浄観節」といった同種の盆踊り唄があるといいますし、「越後いたこ」といった盆踊り唄が新潟県に残っていることから、この《潮来音頭》も、もともとは盆踊り唄であったようです。
潮来甚句
揃うた揃うたよ 足拍子手拍子(アラヨイヨイサー) 秋の出穂より ヤレよく揃うた
   ※以下、各唄に「唄ばやし」がつく
潮来出島の 真菰の中に あやめ咲くとは ヤレしおらしや
潮来出島の ざんざら真菰 誰が刈るやら ヤレ薄くなる
私ゃ潮来の あやめの花よ 咲いて気をもむ ヤレ主の胸
ここは加藤洲 十二の橋よ 行こか戻ろか ヤレ思案橋
潮来出てから 牛堀までは 雨も降らぬに ヤレ袖しぼる
姐さどこ行く サッパ舟漕いで 潮来一丁目に ヤレ紅買いに
からりからりと 細棹さして 島の姐らは ヤレ会いに来る
出島よいとこ 真菰のかげに 紅い襷が ヤレひらひらと
潮来出島の 十二の橋を 往きつ戻りつ ヤレ夜が明ける
泣いて別れた 出島の田圃 風に真菰が ヤレさらさらと
筑波颪を 片帆にかけて 潮来出島へ ヤレひと走り
潮来崩しと 頭で知れる 藁で束ねた ヤレ投げ島田
どうせやるなら 大きな事おやり 奈良の大仏 ヤレ蟻が引く
潮来姐やの 投げ盃は 親の意見じゃ ヤレ止められぬ

これは牛深ハイヤ節を源流とする「ハイヤ節」が元であるといいます。潮来は、奥州仙台藩から江戸へ送る米を千石船に積んで送られてきた場所であって、宮城県の騒ぎ唄である《塩釜甚句》が潮来にも持ち込まれ、潮来化したものと言われます。本来の「ハイヤ節」のような「ハイヤー」という歌い出しは失われていますが、もともとの威勢よさや、賑やかな唄ばやしがつくあたりは、「ハイヤ節」の名残は伝わっています。
これらの《潮来音頭》と《潮来甚句》はそれぞれ別に歌われることが多いのですが、続けて組唄のように演奏される場合、《潮来あやめ踊り》として演奏されます。その場合、《潮来音頭》の最後の歌詞を、
さらばこれよりションガイ節(音頭)をやめて 次の甚句に移りましょ
として、返しを付けずに甚句に移ります。
また、三味線の調子は《潮来音頭》が二上りで、潮来甚句が本調子ですので、音頭が終わると途中で、三味線の調子を変えて続けて演奏します。どちらも潮来ならではの雰囲気を醸し出す唄に仕上げられ、しかも個性ある音頭と甚句を続けることで、音楽的にも面白い構成となっています。 
金色姫伝説
兵庫県養父郡の上垣守国が、奥州(福島県)で買い求めた蚕種を研究し、養蚕を但馬、丹波、丹後地方にひろめた。彼が、享和2年(1802)に「養蚕秘録」(全3巻)を著した中に、金色姫の伝説が紹介されている。
昔、雄略天皇の時代(478頃)に、天竺(インド)に旧仲国という国があり、帝はリンエ大王といい、金色姫がおりました。後添えの皇后が金色姫を憎み、大王の留守に、獣の多い山へ捨てたり、鷲や鷹のいる山へ捨てたり、海眼山という草木のない島へ流したが、ことごとく失敗して、4度目に庭に生き埋めにしました。ある日、庭から光がさして城を照らしているのに、大王が気づき、庭を掘ると、やつれた金色姫がいました。大王は継母の仕業と知り、姫の行く末を嘆き、泣く泣く桑の木で造ったうつぼ舟に乗せ、海上はるかに、舟を流し、逃がしました。舟は荒波にもまれ、風に吹かれ、流れ流れて、茨城県筑波の豊浦に漂着しました。権太夫という漁師に助けられ、その漁師夫婦により、大切に看護と世話をされていましたが、病を得て、亡くなってしまいました。夫婦は不憫な姫をしのんで、清らかな唐びつを創り、姫のなきがらを納めました。ある夜、夢の中に姫が現れ、「私に食物をください。後で恩返しをします。」と告げました。唐びつを開けると、姫のなきがらは無く、たくさんの小さな虫になっていました。丸木舟が桑の木であったので、桑の葉を採って虫に与えると、虫は喜んで食べ、成長しました。ある時、この虫たちが桑を食べず、皆一せいに頭を上げ、ワナワナとしていました。権太夫夫妻が心配していると、その夜、また夢に姫が現れ、「心配しないでください。天竺にいるとき、継母に4たび苦しめられたので、いま休んでいるのです。」と告げました。4度目の「庭の休み」のあと、マユを造りました。マユが出来ると、筑波の仙人が現れ、マユから糸を取ることを教えてくれました。ここから、日本で養蚕が始まったといわれています。権太夫は、この養蚕業を営んで栄え、豊浦の船つき河岸に、新しく御殿を建て、姫の御魂を中心に、左右に富士、筑波の神をまつって、蚕影山大権現と称号しました。これが蚕影山神社のはじめです。
蚕影神社(こかげじんじゃ)
茨城県には養蚕に関する地名や神社が多く存在し、、現在でも残っております。
「常陸国の三蚕神社」
○ 日本一社 蚕影神社(こかげじんじゃ) つくば市神郡豊浦
○ 日本最初 蚕養神社(こがいじんじゃ) 日立市川尻町豊浦
  近くに小貝浜=蚕飼い浜がある
○ 日本養蚕事始の蚕霊神社(これいじんじゃ)鹿島郡神栖町日川(豊良浦)
蚕養神社(こがいじんじゃ)
ここ、小貝浜の蚕養神社に立ち、遥か太平洋をのぞみ、思いをしばし廻らせると、古(いにしえ)の人々が眼にうかんでくるように思われます。本州の最東端は、岩手県宮古市のトドヶ崎ですが、万葉の頃は、千葉県の犬吠埼が最東端で、日立市川尻町のここ豊浦の湊が、飛鳥朝廷の勢力が及ぶ、最北端の、蝦夷との国境線であったとおもわれる。日立市〜いわき市にかけての常磐沖は、太古の昔から黒潮と親潮の潮境で、鰯と鰹の一大漁場であったのに間違いない。のぼり鰹を求めて北上してきた近畿地方の漁師達の、北端の漁港であり、補給地であった。また蝦夷との最大の交易地でもあったのではないかと思われる。ヤマトタケルノ尊も、坂上田村麻呂の軍も、ここの湊に上陸して、あるいは経由して蝦夷地へ進軍していったという記録があります。
ここ蚕養神社は夏草が刈られ、参道もよく整備されていました。近郊の人々の熱い信仰と伝承を守ってゆく心構えが伺われました。
静神社(しずじんじゃ)
織物の祖神 倭文神(しどりのかみ)。
東国の三守護神・・・鹿島神宮・香取神宮・静神社
宮司さんにお目にかかり、さまざまな伝承や由来をお聞きすることができました。飛鳥時代、蘇我氏との権力抗争に敗れた物部氏一族のある集団が、ここ常陸の国に落ち延びてきたと言われているそうです。その集団の中に、養蚕と機織の技術と技法をもった秦(波多)氏の親族が居り、この地に養蚕と織物を伝授したそうです。現在でも、織物の祖神として信仰されています。

日本書紀に、建甕槌命(たけみかづちのみこと・鹿島神宮祭神)と経津主命(ふつぬしのみこと・香取神宮祭神)が天照大神の命を受けて東国平定にあたった時に、地方豪族の抵抗にあい、苦戦した。このため、建葉槌命(たけはずちのみこと・別名倭文神しどりのかみ)の援軍をえて、平定したとある。静を中心にした郷名は、倭文郷であるが、この名は倭文神の神名によるもので、倭文を「シドリ」と読むのは、静織ノ里「シッオリ」の約言といわれています。
昔、大和朝廷の誕生間もない頃、東国平定のための朝廷軍が苦戦をした。そのとき、地元の豪族(物部氏の子孫)の援助と協力があってなんとか平定できた。この地の安寧と平安を願って、東国三守護神として神社を建立する時に、この地(静の一帯)では、ときの朝廷に配慮して、軍神の建葉槌命を祭神とした。地元の住人は、物部氏代々信仰してた神をあがめ、かつ朝廷に配慮して、静ノ里神社と呼び慣わした。
この静の一帯は、静神社を中心にした霊地であり、水戸から奥州に通じる棚倉街道の要所でありました。また水戸藩の祈願所と定められ、藩により保護されてきました。産業開発、特に織物の祖神として江戸時代には全国的に信奉されました。写真の手前にある「織姫像」は、近年、東京織商組合の寄進によるものです。 
金色姫と蚕の起源
蚕影山縁起には、金色姫が桑の舟に乗せられ筑波山近くの豊浦湊に漂着する。上陸した金色姫は変身して蚕になった。という話がある。(つくば市)
昔、インドに一人の王女がいて、継母にいじめられ、四回も捨てられたがその度に助かった。不憫に思った王が、どこかの国へ行かせようと桑の木の丸木舟に姫を乗せて海へ流したが、船は筑波山麓の豊浦へ流れついたという。しかし疲労のため、間もなく姫は亡くなり、その遺骸が蚕になり、筑波の神の指導で養蚕が始められたという。今色姫の伝説である。
蚕神の本地物語「蚕の草子」
天竺のある国にこんじき姫という姫がいたが、母が死に、後妻にいじめられる。獅子吼山に棄てられたが獅子に背おわれ宮中に帰る。次に鷹群山に棄てたが鷹狩りに来た兵によって宮中に帰る。次に海眼山へ流し地中に埋められる。父王が悲しんでいると、清涼殿の花園の土中に光が見えた。掘ってみると姫であった。父王は姫を桑のうつぼ船に入れて海に流し、自分は桑の森に庵を作って世捨て人になった。世捨て人を桑門というのはそのためである。
この船は日本の常陸国豊浦に漂着し、権太夫に助けられたが、姫は死ぬ。その屍は蚕に変わり桑によって育てられた。姫は夢に現れて養蚕の方法を伝えた。また筑波山のほんどう仙人が来て錦にする方法を教えたので、権太夫は富み栄えた。
筑波山に祀られていた欽明天皇の娘かぐや姫は「私は元は天竺の大王の娘で欽明天皇の娘となって、この国に蚕飼いを伝えた。これから富士山に行く」と神託した。筑波の神と富士権現とは一体で本地は勢至菩薩である。(『神話伝説辞典』「蚕の草子」要約)
昔蚕はお姫様だったが、継母にいじめられ、二度までも厩の脇に埋められたが、馬に助けられた。次は船に乗せられ流されたが、助けられ戻ったが、また庭に埋められた。三度助けられたもののあまりの苦しみに虫に生まれ変わり、繭にこもってしまった。(『神話伝説辞典』「蚕神と馬」要約)
茨城県つくば市にある蚕影神社(こえいじんじゃ)の縁起譚。一番最後は採集地不明の類話です。この蚕影神社、古くは「蚕影山桑林寺」などとも言われたそうなので、普通に神仏習合の聖地だったと思われます。
『神話伝説辞典』「蚕の草子」には、上にあげた伝承のあとに次のようなことが書かれています。
「福島県及び関東地方に流布している蚕神の由来譚は右に述べたところと全く一致している。これは蚕の種屋がこの伝説の流布に有力に参与しているらしいが、その中心となった常陸蚕影山の縁起は、中世における熊野神明の信仰宣布と共に撒布した物語が蚕の本地となったと考えられる。これはおしら祭文より古いと見てよい。」
まずこの伝承が福島県まであるということを押さえておきましょう。おしら祭文式の蚕起源伝承は岩手県が有名ですが、南限はどの辺りでしょうか?しかし福島県にはオシラサマと同系統だと思われる「オシンメサマ」という似たような神への信仰があるようです。
「蚕の種屋」というのは蚕の種が付いた紙?を売って歩く業者のことですが、熊野との関係性は良くわかりません。所謂「伝承者」の問題というのは、なかなか立ち入るのが難しいですが、ちょっと漠然としすぎている気がします。蚕影神社が独自に神話を作って流布したっていいわけですし、業者が考えたっていいと思います。
おしら祭文より古そうだ、というのはそうでしょう。遠野で養蚕が始まったのはそんなに古くないと、『注釈遠野物語』か『遠野/物語考』に書かれていたと思います。
所謂箱舟漂流型の話型を持っているこの「蚕の草子」ですが、姫はすぐに死んで蚕に変化します。
日本で箱舟漂流型の話型というと柳田の「うつぼ舟の話」に詳しく、大隅正八幡宮の縁起譚が有名ですが、その場合は日光感性型懐妊譚とともに語られて、母子信仰へとつながります。しかしこの話の場合は漂着してすぐに死んでしまいますから、どちらかというと「死体化生型事物起源神話」ということになるでしょう。
同じく箱舟漂流モチーフを持ち、茨城県でも信仰されている神に「淡島様」があります。婦人病を治す御利益があるとか。『神話伝説辞典』の記載を引用します。
「淡島様は女性で、天神の六番目の姫君として十六歳の春に住吉明神の一の后となったが、下の病にかかったのでうつろ船に乗せられて堺の浜からながされ、三月三日に和歌山県海草郡加太浦の粟島に流れ着いたという。したがって同情感によって同病の者の病を治すと伝える。(中略)淡島様は病気の性質上、色町の女に強い信仰を受けたが、また女性の神として針仕事などの上達と祈願する者もあった。」
姫の受難の部分で、『神話伝説辞典』の内容は省略があるようです。第三・第四の受難がごっちゃになってます。
第三の受難として、島流し→漁師に助けられる。
第四の受難として、庭に生き埋め→光ったので掘り出される。
この受難の部分に何故こだわるのかというと、「四度の受難は、蚕が繭を造る前に四回脱皮をすることを表している」という説があるからです。
欽明天皇の娘だという「かぐや姫」(各谷姫)や筑波山の仙人「影道仙人」が製糸技術や織布技術を教えたと言います、「かぐや姫」の方はその後、富士山へ移ったので「筑波の神と富士権現とは一体で本地は勢至菩薩である」などとあります。『御伽草子』の伝承でしょうか?  
銭亀橋
昔から、銭の斑紋がある亀がいる。その名をとって、ここに架けられた橋は銭亀橋と呼ばれている。(桜川市)
「銭亀」とはクサガメ或いはニホンイシガメの子供のことらしいです。江戸時代の場合はニホンイシガメらしいので、ここでもニホンイシガメの幼体のことも言っていると考えて良いでしょう。「銭亀」に関わる信仰が二つ紹介されていました。一つは浅草浅草寺弁天山、銭亀弁天と言われていたそうです。もう一つは、信貴山千手院銭亀堂。銭亀善神を祭っているとか。四月に祭があるそうです。ここに詣でた人が高額の宝くじに当たったとかで有名らしい。銭亀橋・銭亀弁天・銭亀善神の関係性は不明です。  
猿の祟り
猿のたたりの話は多くある。山で孕み猿が命乞いをするのを無視して殺したところ、猿と寸分違わぬ顔の女の子が生まれた。また、3人までもが唖の娘であった。猿殺しの祟りだといわれた。
「筑波山の猿」という文章に載る事例ですが、特に筑波山の伝承という感じはあまりしません。
・京都府船井郡 冬の大雪の日に老松の影で大猿を見つけ、命乞いをするのを無視してこれを射た。調べてみると妊娠した猿で、その祟りで家が没落した。
・長野県北佐久郡軽井沢村 ある猟師が山で妊娠していた猿を撃った。その後間もなく猟師の3人の子が死に、血統が絶えてしまった。猿を殺した祟りと言われている。
・伝承地不明 孕み猿を撃ったりすると、妻の出産が大変になったり流産するといわれる。また子供は猿に似た子が生まれると言われる。
・静岡県磐田郡豊岡村 必ず自転車が横転する場所があり、転んだものは口の周りに怪我をするので坊さんに見てもらうと、そこは昔猟師が猿を撃ち殺した場所で、その悪霊が祟っていた。坊さんは祈祷を続けて、自分の命と引き換えに悪霊を鎮めてその場所での事故はなくなったが、祟りは猿を殺した家におよび、その家では代々不幸な子どもが生まれたという。
上三つは妊娠した猿が祟るということで共通しています。結果としては「家が没落」「子ども三人が死に、家系断絶」「難産・流産・猿に似た子が生れる」。四つ目の事例は妊娠した猿を殺したとは言っていませんが、やはり家系の子孫に不幸が生じています。
妊娠した動物を殺したという伝承は、例えば京都革堂の縁起などでも言われていますが、動物であっても妊娠している個体を殺してしまった場合などは同情を禁じ得ない、ということが昔から言われていたのだと思います。さらに、猿の場合は、やはりある種「人間的な動物」という観念があったのでしょう。中国故事の「断腸の猿」などもそうです。
しかし「祟りで猿に似た子供が生れる」などといわれるのは、猿婿伝承のような伝承との関連性があるのかもしれません。猿婿と蛇婿は水引型などでほぼ同じ話型を共有する場合がありますが、忌避感・恐怖の理屈は真逆と言っていいでしょう。蛇の場合は「人間と全く似ていない動物であるから恐ろしい」、猿の場合は「人間と似ているのに動物=野性だから恐ろしい」。「殺した相手と似た子が生れる」という意味では「六部殺し」とも似てきます。  
雷とお茶
伝右衛門という人が筑波山に詣でたとき、雷がなったので茶店で休んでいると、茶店の主人が雷はお茶が好きだと言ったので、伝衛門は茶ぐらいならいつでも出してやろうと言った。その後大雷雨の時雷が伝右衛門の家に降りてきたが、お茶の用意をしていなかったので雷は怒って七輪にかけてあった湯を台所一面にまいた。
雷の話ですが、雷がお茶が好きというのは珍しいと思います。しかし「筑波山 伝右衛門」でGoogle検索したところ、薄田泣菫の大阪毎日新聞連載コラム「茶話」の大正五年1916年にこの伝承についての記述があることが解りました。それによるとこの話の伝右衛門は北相馬郡桑原村(現取手市桑原)の人だったらしいです。
「桑原」と言えば雷除けの呪いですが、地名としても各地にあって、雷を捕まえて「そこにはもう落ちない」と約束させた話などが伝承されていることが多いです。取手市桑原には特にそういう有名な伝説があるわけではないようですが、関係ないとは思えません。
『神話伝説辞典』「雷神」には次のように書かれています。
「北関東などは、雷電の名所といわれる地帯であるため、ことに雷電を祀る社が古来多く、そうした祭が行われている」
茨城県で雷と言えば、『常陸風』那賀郡茨城里の「クレフシノ山」伝承を思い出しますが、改めて確認してみると「蛇神で天に上ろうとした」とあるだけで、直接的に雷を使ったとか雷神だとは言ってません。  
石の中の魚
延享の頃、筑波山の麓に住む人の家に見知らぬ人がやって来て、1つの庭石を買いたいといった。その人は後で取りに来るといって近くの山中に入っていった。主人はせっかくだからその石を熱い湯で洗って渡そうとしたが、帰ってきた彼はその行為に嘆く。彼はこの石の中には赤い魚が住んでおり、湯で洗うと死ぬという。割ると死んだ魚が出てきた。(岡村良通『寓意草』)
著者の岡村良通(1699-1767)は江戸時代の幕臣で後に浪人になって諸国をめぐったと言います。長崎県にも似た伝承があり、同じ本の中で紹介されています。「ある外国人が長崎を出航する直前に、宿の主人に庭石を黄金5両で欲しいと言い、3年間預かってくれと交渉した。主人は了承したが、3年経っても来ないので石を割ると中から赤い魚が出てきた。翌年彼がやって来て言うには、かの石を擦り磨けば水槽のようになり、中の魚が透けて見える。この魚を朝夕見ると寿命が延びるという。」(岡村良通『寓意草』) 民間伝承では、中国人ということになっています。
文中では「魚石」と言っていますが、中国では「石中魚」とも言うようです。「百度百科」によると「その魚を食べると不老長寿になる」とも言っていますが、長崎の事例では石を割った段階でダメそうです。この辺り、「魚石」「石中魚」の取り扱いにはいくつかの説があるのかもしれません。
また志怪小説に良く登場するモチーフと書かれていますが、残念ながら事例が引かれていません。『捜神記』にはあったかどうか・・・。
関係あるかわかりませんが、中国では魚は「余」という語と同音であるため、吉祥として描かれたりもします。中国由来のモチーフである可能性が高いですが、長崎県にあるのはある意味妥当だとしても、それがどうして茨城県にあるのか?不思議です。  
「筑波かくし」と「高道祖の七不思議」
高道祖村からは筑波山がはっきりと見えるはずなのに、一ヶ所見えない所があるという。遮るものは何もなく、一間手前からはよく見えて、一間過ぎるとまたよく見えるのに、そこからだけはどうしても見ることができないという。(下妻市)
ある一地点からのみ筑波山が見えない、遮るものは何もないのに見えない、という伝承。「一間」は大体180pですが、その位置でだけ見えないと言います。「富士かくし」はあります。丹沢の大室山の別名で、八王子や相模原の方から見ると富士山を隠してしまうので、そういう名称がついたとか。「浅間隠し」については「浅間隠山」という名前が正式な名称らしく、こちらも中之条町や吾妻町など東北から見て浅間山を隠してしまうことから名前が付いたようです。
つまり実際に有名な山を隠してしまう、手前にある山を「○○かくし」と呼ぶことは、まああることなのだと思います。しかし「筑波かくし」の場合は「遮るものがないのに見えない」という、不思議な現象の名称なのです。
でも「遮るもの=隠すものはない」わけですから、「筑波見えず」とかの方が当たっているような気もします。まあそんな言い方自体ないのだと思いますが。伝説とも言い難いような伝承ですが、類話があるのでしょうか?筑波山だけ、ということはないと思うのですが。
ところで、この「筑波かくし」は実は「高道祖の七不思議」というものの一つだそうです。高道祖は下妻市の一地区。以下、下妻市立高道祖小学校のHPから要約。総合学習用の資料でしょうか?
「筑波かくし」についても具体的な場所が記載されていました。
・鏡ヶ池 晴れの日には水面に筑波山と富士山両方が見える。しかしその近くから筑波山や富士山が見えるわけではない。今はもう水がない。
・逗孔塚 椀貸淵ならぬ塚。椀を返さない者がいて、それ以後貸してくれなくなった。
・庚猫塚 下妻の殿様が高麗から持ち帰った虎の耳を埋めた塚。450年ほど前には周囲の猫が晩に集まって歌ったり踊ったりしていたが、何者かに邪魔されたので集まらなくなった。
・片葉の葦 お姫様がある若者に恋をして、高道祖までやって来たが、病気になって池の近くて死んでしまった。村人たちは彼女を道祖神(さやのかみ)として祭った。彼女が杖にしていた葦は池の辺で根付いたが、全ての葉が片方に向いて生えていたので「片葉の葦」と呼ぶようになった。
・弥六ヶ清水 弥六という男は金もないのにいつも酔っているので、主人が訪ねるとある泉から酒がわいているという。しかし主人が飲んでもただの水である。しかし弥六が飲むときには酒であり、仕事もまじめにせずに酔っ払っているので、主人は怒ってその泉に小便をしたところ、弥六が飲んでも酒の味はしなくなった。
・筑波かくし 高道祖から明野町大字東石田へ通じる真壁街道中の坂の一点。高さ二メートルの塚(盛り土)があったとも、そこには一本の松が茂っていたとも。
・乳草ヶ池。 赤子を連れた女性が池のそばで自殺した。赤子は拾われ付近の住民によって育てられた。拾った男が池に行って草を買っていると、その草から乳のような白い液体が出ていることに気が付いたので、それを赤子に挙げて見たところ喜んで飲んだ。その後はその草を毎日刈って、汁を絞って赤子に与えて育てた。女は小田15代城主小田氏治に恨みを持つ者だったという。
この「七不思議」に「鏡ヶ池」というもう一つ筑波山に関わる伝承がありますが、こちらは「筑波かくし」とは真逆で、「見えないはずの場所なのに、筑波山が水面に映る(ついでに富士山も映る)」という伝承です。
伝承 「高道祖村からは富士山が見えないのに、鏡が池にだけは山影が写ったという。今はない。」
ここでは筑波山は言及されていません。富士山のみです。「筑波山と富士山が両方映る」というのは、「筑波山にも気を使ってみた」という感じで、もとは富士山だけに関わる伝承だったのかもしれません。  
筑波山麓12月1日の水怪祭祀
・12月1日に川へ魚釣りに行った子供が、ウワバミのようなものに呑まれそうになり、餅を投げつけて難を逃れた。カビッタリ餅を川へ投げる由来。(真壁郡明野町)
・12月1日、朝早くカビッタリ餅を3つ川へ投げる。上げないと河童に引き込まれる。(新治郡八郷町)
「水の怪物に飲まれそうになって、物を投げて逃げ切った」という話は遠野の荒谷というところにもありました。
・荒屋「沼の御前」 沼の御前という沼がある。昔、雨降りの夜、荒屋の万兵衛なるものの家に、沼の主が大きな口を開けて迫ってきた。万兵衛は菰を投げて追い払おうとしたが、ぱっくり飲み込んでしまう。一枚二枚ではどうにもならず、千枚もの菰を一度に投げつけると、沼の主は水底に姿を消した。翌朝、沼へ行って見ると口の裂けた大きな鰻が死んでいた。
ただこの伝承ではどうも供物らしく、12月1日に川にカビッタリ餅を投げ込むという習俗の起源伝承になっています。
川に供物を沈める、という話なら、中国の屈原入水伝承=端午節とも近いかもしれません。伝承内容は全く違いますが、儀礼の実践としてはほぼ同じ。恐らくは水の神に供物を捧げる行為は共通しており、その由来をどう語るかが中国と日本では全く違うということなのだと思います。
また「カビッタリ餅」というのは「黴た餅」かと思ったのですが、そういうわけではないようです。
茨城県西茨城郡 1965年頃までは、12月1日には思案餅もしくはカピタリ餅、カワッペリ餅と呼ぶ餅をついていた。うるち米は丸餅に、餅米はのし餅にして切り分け、焼いて食べたり、屋敷を出て最初に渡る橋まで行って、河童にやるといって橋の下に投げたりした。
福島県福島市 12月1日はカッパレ、カッパリヤの朔日という。仕事を休みにしてぼた餅を川に流す。川の好きな子どもがこの日、友達の河童にぼた餅をやった。あとで河童がいうには、河童の親が病気で、子供の生肝を食わせれば治るというので肝を狙っていたが、ぼた餅をもらったので殺せなかった。ぼた餅を食わせたら治ってしまった。だからこの日にぼた餅を食わないと川を越せない、河童に引かれるという。
福島県福島市 12月1日はカッパレ、カッパリヤの朔日という。ある男がはやま様に泊まっていたら、難産で観音様がはやま様を誘いにきた。しばらくして観音様が「無事男の子が生まれたが、13歳の12月1日に河童(水神)に捕られる」といった。男が帰ってみると、それはわが子のことだった。13歳になった12月1日に、妙に川に行きたがるので、あきらめてぼた餅を持たせてやった。すると河童が出て来てぼた餅を腹一杯食って帰ってしまい、子供は無事だった。以来この日にぼた餅を川に流すようになった。
福島県福島市 12月1日をカッパレ(川入り)の朔日といって、昔この日にある家の息子が毎日海に行くのでお母さんがかっぱっこ(河童)に食べられてしまうと心配して、ぼた餅をついてくれ、息子はそれを河童に食べさせ、お腹いっぱいにさせ、息子は命びろいしたということからぼた餅を食べる。
福島県福島市 12月1日はカッパレ、カッパリヤの朔日という。仕事を休みにしてぼた餅を川に流す。この日に仏に上げたぼた餅を食べた子供は、河童に引かれない。
河童に餅をやる日、ということで一致していますが、福島市の事例ではある子供がぼた餅を河童に食べさせて無事だったという伝承が付随していることが特徴です。カッパレ・カッパリヤの朔日。
福島県いわき市 磐城地方では、12月1日はカワペリノツイタチである。この日は川辺に餅を供えたり、川中に投げ込んだりする。この日、橋を渡る前にはぼた餅を食べなければならない。それは橋を渡ろうとした時に亀のお化けに襲われ、ぼた餅を投げ付けて難を逃れたという故事からきている。
福島県いわき市 磐城地方では、12月1日はカワペリノツイタチである。この日は川辺に餅を供えたり、川中に投げ込んだりする。この由来には、この日朝早く白羽の立った家では沼の大蛇に娘を捧げなければならない。そこで、毎年娘の代わりに餅を沼に入れることにあるという。
福島県いわき市 磐城地方では、12月1日はカワペリノツイタチである。この日は川辺に餅を供えたり、川中に投げ込んだりする。昔この日に子供が川で釣りをしていた。その時一匹の大蜘蛛が川の中から出たり戻ったりしていた。子供は糸にまかれ川に落ちて死んだ。これは、子供が朝に小豆御飯を食べなかったからだという。
このいわき市三事例は興味深い。河童とは言わず、「亀のお化け」「沼の大蛇」「大蜘蛛」が相手ということになっています。二番目は典型的な人身御供伝承です。カワベリノツイタチ。
千葉県君津市 12月1日にカビタリモチを作り、鼻の頭にアンをつけて川へ行って尻をひたすという。これは子どもがいくつかのときに水のモノにとられるという話が理由である。その年のその日に水のモノのところへ子どもが行くのに、牡丹餅をついて持たせてやった。川へ行くと水のモノが「わざわざ捕られに来たのは感心だ、可哀想だから見逃してやる」と言った。おかげで子どもの命が延びたので、今でもカビタリモチを作るのだという。
福島市二番目の理由と関係ありそうな儀礼です。子供が水怪にとられる運命だという話。カビタリ=川浸り。
栃木県芳賀郡 旧12月1日の朝に川ピタリ餅をつく。附近の川に投げ入れて水神に捧げ、この餅を食べてから橋を渡ると、水難除けになるという。
栃木県芳賀郡 カビタレモチとは、栃木県芳賀郡で12月1日のカビタリのツイタチに搗く餅のことで、これを食べると水難を逃れ、また水泳をしても河童に襲われないという。類似した風習は多くの地域にある。
群馬県邑楽郡板倉町 12月1日の川浸りの日は大蛇に人身御供を奉げる日だった。名主の一人娘が人身御供に当り、両親は娘を唐櫃に入れて橋のたもとに置き、橋の上から餅を投げた。娘を呑むはずだった大蛇は餅で腹一杯になり、娘は助かった。以来餅を川に流すようになった。川浸りの由来。
群馬県桐生市 12月1日の川浸りの日に川に餅を投げれば、河童に襲われなくなる。
栃木第一の事例でははっきりと「水神」と言っています。神に供物を捧げることと、河童に供物を捧げることは結局同じというわけです。最後の者はいわき市第二事例と同じく人身御供伝承。川浸り。
新潟県佐渡郡畑野町 オトゴのツイタチの日の供え物に関する俗信。12月1日には、煮た餅と塩ナスビを神に供え、川に流すが、これによって、子どもがカッパにつけられないという。
富山県魚津市 12月1日を川渡りの朔日、川浸りの朔日という。餅を川に投げたり食べたりすると水難をまぬがれ、河童にとられることもないという。
日本海側にも少しはあるようです。川浸り・川渡り。
熊本県球磨郡多良木町 青蓮寺では旧2月と12月1日に檀家に水神の札を配り、水難除けの祈願として餅を作り、川原の石に「南無大師遍照金剛」と書いて餅とともに水神様にあげるといって檀家の者が川に投げ込む。2月と12月1日は水難をするガワッパがでがわりする日でもある。
二月と十二月、つまり「事八日」と同じようなものとして語られていますが、河童が山と行き来するという伝承があると『神話伝説辞典』にも書かれています。山の神田の神交代説ですが、一方でここでは水神様に餅をあげるとはっきり言っています。
長崎県 壱岐では12月1日の朝に粥を作り、食べるほか神仏に供えた。「渡り粥(ガイ)」または「渡し粥」と呼び、この粥を食べる前にはどんな小橋も渡ってはならず、渡ると鯉が飛びつくと言われた。この日は「魚の山越し」といって、山に行くと魚が腹をつきぬくとも言った。
餅でも河童でもなく、あまり関係なさそうですが、面白かったので。橋を渡ってはいけない上に山に行っても行けない、とは結構面倒な禁忌の日です。『神話伝説辞典』によると、「仏壇神棚に上げた供物を少しでも食べていくと河童の難に遭わない」という伝承もあったようなので、似ていると思います。  
筑波山麓の狐
・イズナという狐は祈祷者が使う。昔はこの狐を飼っている家もあった。
・狐憑きは赤飯を炊いて送り出すと抜ける。病人が歩いて行ってブックリカエルと、そのときに狐が抜けたということになる。
・味噌豆を煮ると狐が「豆くれ」と来る、という。ある人が与えたら、熱い熱いと逃げて行ったという。
まず、イズナ使いの祈祷者がいたと言います。『神話伝説辞典』は憑物を、一時的に個人に憑く「憑き」と親族家系に継承される「持ち」とに分けた上で、狐は「人狐・飯綱・おさき・くだ」と言った名称で中部以東と中国地方に広く分布している、としています。犬神は四国九州。
これについてはやはり修験の山・筑波山麓に、修験崩れ?的な半聖半俗の宗教者が多くいたであろうことと関係しているのだと思います。修験道の修行に来たけれど途中でやめてしまい、山麓で占いや呪術(医術込)に関わることで生計を立てるようになり、後に結婚した、などということもあったと思います。
二つ目はキツネツキの落し方。赤飯を炊くというのは意外と簡単な方法です。
三つ目は狐は熱い豆が苦手という話。
狐が憑いた時の対処法として、赤飯や油揚げを供物としてあげて、出ていってもらうというのは良くある伝承のようです。しかし三つ目を見ると、狐は熱い豆が嫌いなのでは?とも思います。
「狐は油揚げが好き」ということにはやはり象徴的な意味があるような気がするのですが、事例があまりに多岐にわたっているためになかなか手が出ません。逆に「狐が嫌いなモノ」とかを見ると意味が分かってくるかもしれません。  
筑波山の天狗
知り合いの老禅が若い時、同行とともに筑波山に詣でようと、椎尾という山背から登った。途中で暴風が吹き、この風と競うように谷を過ぎる僧がいた。丈は普通ではなく、緋衣を着ていた。足が速い人だと思いながら遅れていた同行を待っていたが来ないので、立ち帰ってみたところ、同行は岩陰に打ち臥し酒に酔ったような状態であった。同行を抱えて本堂の前に至ると、堂守と思しき僧がこれを見て、山人にあったのかと言った。これはいわゆる天狗のことだろう。愛宕山や吉野山でも天狗に人が取られる事はよくある。野狐にかどわかされた状態とは大いに異なる。(伴蒿蹊『閑田耕筆』1801年)
筑波山にも天狗がいた、という江戸時代の記録です。
ビジュアル的には修験者のような服装をしているというのが良く言われることですが、やはり修験道の道場がある山に天狗が住んでいそうな気がします。「山道を尋常でない速度で走って行った」などというのは、完全に修行中の修験者の目撃譚でしょう。
この伝承で「椎尾という山背から登った」とありますが、『神話伝説辞典』によると「天狗は通り道が決まっていて、その道筋では天狗倒し(木が倒れる音が聞こえる)・天狗笑い(大勢の人の笑い声が聞こえる)・天狗つぶて(どこからか石が飛んでくる)などの怪異が起る」と載っています。
山中で体験する不思議な現象を「天狗」という妖怪のしわざと考えるわけですが、一方で「天狗の道には入ってはいけない」という、注意喚起の意味もあると思います。
「野狐にかどわかされた状態とは大いに異なる」とありますが、狐に化かされた場合でも「酒に酔ったような状態で発見された」というのはよくあるような気がするのですが?まあ、狐と天狗がともに「人をかどわかす」怪異として認識され、比較されていたということは覚えておきましょう。
それと堂守が「山人」と言っています。『遠野物語』では天狗も山人も使われていますが、関東でも両者の呼び方が使われていたようです。  
筑波山縁起
筑波山縁起によれば、当神社の創祀は遠く神代に始る。天地開闢の初、諾冊二尊が天祖の詔をうけて高天原を起ち、天之浮橋に並び立ち給う、天之瓊矛(あめのぬぼこ)を以って滄海をかき探り給えば鉾の先よりしたたり落ちる潮凝って、一つの島となる。即ち二神は東方霊位に当る海中に筑波山を造り得て降臨し給い、天之御柱を見立て、左旋右旋して東西御座を替え給い、相対面なされて夫婦となり大八洲国及び山河草木を生み給う。次に日神、月神、蛭児命、素盞鳴尊を生み八百万神を生み給う。記紀に伝える「おのころ島」とは筑波山のことで、この故に筑波山は日本二柱の父母二神、皇子四所降臨御誕生の霊山であり、本朝神道の根元はただ此山にあるのみと伝えている。
また詞林采葉抄は「筑波山といふ名は、天照大神此の山嶺にて紫の筑琴をひかせたまふに、水波の曲に至り、鹿島の浦の波雲に乗って飛び登り、此の山の嶺に着きにたりけり。よりて着波山といふ。しかして琴名によって筑波山といふ」と記し、山麓の小田城中で北畠親房卿が神皇正統記を著した頃、筑波山が父母二神を祭る天照大御神御親祭の貴き斎庭(ゆには)であったと伝える伝承が広く行われてたことを示している。春秋二季の御座替祭の由緒や筑羽子(つくはね)羽子板(はごいた)の起源伝説にも諾冊二尊と天照大御神とが筑波山に密接して語り継がれ、文化年代の筑波山私記にも「土民相伝ふ、日神筑波山に降臨あり、のち伊勢に遷り給うと。此山、日神の御山なりといふこと三歳の小児まで伝説す。史伝・旧記に引証するを待たずして人これを信ず。真の口碑といふべし」と記しているように、筑波山における諾冊二尊と天照大御神の説話は、他社に比類なき神秘に富んだものを伝えている。
『筑波山縁起』は国立公文書館にありますが、ネット上ではまだ公開されていないので、筑波山神社HPより引用。成立年代は文化5年、1808年ということで良いのでしょうか?要確認です。ここでは「筑波山=オノゴロ島」説が明確に打ち出されています。そこに伊弉諾・伊弉冉が降臨。続いて『日本書紀』本文に倣った形で、国生み・神生み、そして四貴子日神、月神、蛭児命、素盞鳴尊が生れたとされています。
筑波山=オノゴロ島という思想が何時頃生じたのか?初出の文献は『筑波山縁起』なのか?そもそも原文ははっきりと「筑波山=オノゴロ島」説を主張しているのか?もうちょっと詰めたい部分もありますが、とりあえず現状、筑波山神社の主張として、「筑波山=オノゴロ島」説は確固たるものです。
普通に考えると「山が島?」というところから不思議な気もするわけですが、下の写真を見てもらえば感覚的にもそれほど強引な発想とも言えないだろうと思います。古代霞ヶ浦=「香取海」は今よりもっと大きかったわけですから、南或いは東の方から見た場合、筑波山塊自体が水に浮かぶ島のように見えただろうことは想像に難くない。そしてそれは本来の国生み神話が伝承されていたであろう、淡路島付近と似通った光景だったのだと思います。
「筑波山=オノゴロ島」説は何もないところから思いついたわけではない、というのは今まで長々と資料をあげて見てきたとおりです。「二つの峰=男女神」という古くから記録されている神話的発想と、「東方+太陽の門としての二上山=太陽信仰」という辺りが融合し、記紀神話の「伊弉諾・伊弉冉・天照」に結びつけられ、発展して言った言説なのだと思います。
ただ、所謂「中世神話」では仏教的な言説が多用されるのに対して、この『筑波山縁起』の伝承は記紀神話、特に『日本書紀』本文に則って語られているというのはなかなか興味深い事実です。
前に「神々の個別の信仰地が近くにある近畿地方では、六神を一同に会する聖地は作りにくかったのではないか」と書きましたが、もしかすると「中世神話」の形成についでも似たような事情があったのかもしれません。近畿地方、或いは中央との関係が近い寺社は記紀神話の神々をそのまま読み替えることには抵抗があったのではないか、と思いますが、どうでしょうか?神が仏教への帰依を宣言するような伝承も結構あるようですが、それよりは「本地垂迹」で仏教に擦り寄りつつ、インド的というかジャータカ的な伝承を新たに語る方が、正直自然な気もするのです。
『筑波山縁起』の伝承は「記紀神話の地方的展開」という見方が可能な伝承だとは思いますが、こういう「記紀神話的な中世神話」と所謂「仏教的な中世神話」には分布に特徴があるのではないか?というようなことを考えました。まあ両者の中間のような伝承もありそうですし、『筑波山縁起』並に記紀神話丸写しな伝承が他にもあるのかは調べて見ないとわかりません。既に誰かやっている人が良そうですが。
ここまで筑波山を巡る伝承を見て来て、連想するのは琵琶湖竹生島の生成伝承です。「水界に陸地が生じる神話」という意味ではやはり同じ系統と言えると思います。
竹生島縁起は神話的なモチーフを持っているものの一つの島(聖地)の起源を語るものです。一方、筑波山は最終的には、日本国の原初的な「島」であるオノゴロ島と同体であると語ることでまさしく「天地開闢の舞台」となってしまいましたが、地方的な「小さな創世神話」として伊弉諾・伊弉冉以前にも神話があったのではないかとも思います。前に挙げた『古今序註』の伊弉諾・伊弉冉降臨神話は、二峯の起源について言及していますが、元は伊弉諾・伊弉冉ではない、在地の男女神の降臨伝承だった可能性もあると思います。
柳田國男は日本の民間には「神話」が少なく、「伝説」が多い、と良く言っていました。  
筑波山は長男の山
『筑波山上画図』
二神於乃古呂嶋天降而四方之国生玉、而此山東方初而産出玉、故称長男山也。前所謂二神并四所王子垂迹之山也。天浮橋而東山見出玉其四所王子鎮座四嶽、両尊鎮座男体女体之二峰。謂筑波者、日神天照皇太神慰父母之両尊而弾琴、其声清雅而響動東方鹿嶋海潮固号筑波山也。
『常陸國筑波山上画図』。国立公文書館デジタルアーカイブで見つけました。「宝暦五年(1755年)森幸安模図」とあります。この森幸安という人は地図マニアだったらしく、自ら京都・大阪を歩いて地図を書写するだけでなく、日本全国、果ては世界地図まで収集していたそうです。国立公文書館収蔵品だけでも222もあるとか。「模図」というのは、元になる他の地図があったということでしょうか?
上記の文章は「絵」の上に書かれていたものの一部です。その前段には次のような記事があります。
・筑波山は武蔵・上総下総・上野から見える。下野・信州の境の碓氷峠からも見える。
・六所権現=男体女体+四所王子=日神・月神・蛭児・素戔嗚。他66末社。
・禅定所十か所。稲村窟・女体窟・聖天窟・不動窟・阿左登古窟・千手窟・天神窟・仙人窟・十一面窟・龍神窟。
後段は祭の日時や座禅の日程(禅定日)や受講のしかた?などの案内です。基本的には巡礼手引きと言えますが、今で言うところの観光ガイド的な意味合いもありそうです。
さてその内容ですが、「二神がオノゴロ島で四方の国を産んだが、此の山は東方で初めて生まれた山なので、長男山と称する」とあります。やはり「筑波山=オノゴロ島」ではありませんが、「東で一番初めに生まれた(富士山より先に?)」とのことで「筑波山」=「長男山」という名称をあげています。
この「長男山」伝承、単独事例ではありません。安永二年(1773)に書かれた『筑波名跡誌』、明治年間に書かれた『筑波山略縁起』にも「長男山」という呼称が載っています。二つの峰を持ち、男女神を祭る山が「長男」と呼ばれることには少し違和感を感じますし、「次男以下はいないのか?」などと無駄なことを考えてしまいますが、「富士山を差し置いて最初の山である」という主張はくみ取れるでしょう。
この「富士山への対抗心」、というか「東国一の山」という自負みたいなものが、行き着くと「筑波山=オノゴロ島」説へとつながっていくのかもしれません。
その後に四王子鎮座が続きますが、単なる祭祀起源説とするなら特に面白くもない部分です。
しかしよくよく考えてみると、「伊弉諾・伊弉冉・天照大神・月読・蛭子・素戔嗚」を一つの山で祭るというのは、関西地方ではなかなか難しかったのではないかとも思います。関西ではそれぞれに中心となっている信仰地が比較的近くにありますから、一カ所で六神がそろい踏みで祀られるというのは少ない気がします。
一つ気になっていたことに「日神・月神・蛭児・素戔嗚」という順序があります。普通良く知られている記紀神話の順序ならば、蛭子が一番初めのはずですが、三番目に来ています。これは『筑波山上図画』もそうですし、『筑波山略縁起』でもそう。『筑波山流記』なども同様のようです。単に並べ方の問題かとも思ったのですが、ふと気になって『日本書紀』を見返してみると、第五段「三貴子誕生」段本文の順序がそうなっているのです。すっかり忘れていました。
この『日本書紀』本文の伝承では「国生み〜三貴子誕生」まで、国生み・神生みが連続しています。『古事記』では「国生み・諸神誕生・火神誕生と伊弉冉の死・黄泉の国訪問・呪的逃走・産屋起源・禊による三貴子誕生」となるわけですが、『日本書紀』本文の場合は伊弉冉の死と黄泉の国訪問がなく、「国生み・諸神誕生・三貴子誕生」まで途切れがありません。
『日本書紀』本文の伝承というのは最も権威のある伝承といえますが、権威があるから選んだというわけではないでしょう。筑波山の神話的ランドスケープとして、「男女二神の山」というのはぜったいはずせない大前提です。ということはそれを前提として伊弉諾・伊弉冉二神を祭神とする場合でも、『古事記』的な伝承は採用できません。伊弉諾と伊弉冉が三貴子誕生以前に別れてしまうからです。しかし『日本書紀』本文の伝承ならば、伊弉諾・伊弉冉と四貴子が一同に会する状況が作れます。まあ蛭子は流されてしまうので、完全な整合が取れているか?というとそうでもないのですが、伊弉冉がいないよりはましでしょう。また、その場合舞台はずっと「オノゴロ島」なわけで、「筑波山=オノゴロ島」説へ、さらに一歩近づくことになります。
ちなみに「筑波六所権現」は神仏習合的には、六観音の垂迹となります。中世近世期は観音霊場としての意味づけも強かったのだと思います。
最後の部分はアマテラスが琴(=筑)を引いたことと、筑波山の名称起源について書いてありますが、それについては前に書きました。ただアマテラスがどうして琴を弾いたのかという、理由が書かれていて、「慰父母之両尊」とあります。
追記
文化年間(1804-1818)『筑波山私記』に、「土民相伝ふ、日神筑波山に降誕あり、後、伊勢に遷りたまうと。此の山、日神の御山なりと云うこと三歳の小児まで伝説す」という記述があるそうです。「アマテラスは筑波山で生まれて伊勢に移った」ということですが、これも『日本書紀』本文のテキストにのっとった伝承だと考えるべきでしょう。「伊弉諾・伊弉冉は筑波山でミトノマグワイをして、国を産み、諸神を産み、三貴子を産んだ」ということです。そうなれば、やはり「筑波山=オノゴロ島」ということになるわけです。  
筑波山と五台山
『木曽路名所図会』
筑波山中禅寺 夫此山は、原本名筑坡と書す、いにしへ東海逆流して波たつ事多し、故に堤防を築てこれを避る、これによつて築坡と書す、後人訛りて筑波と名づく、二神登山し給ひて水波を鹿島の海に退け、こヽに鎮座し給ふ、〈◯中略〉男体女体の峰よりおつる一流の瀧のながれを美那濃川と号す、これ女男の神の霊泉たれば、多く恋に詠じ、みたらしと名附、陰陽和合の流れなり、故に此山女人結界にあらず、坂東五番の霊山なり、特には東関官家の御帰依あれば、日々繁昌し、詣人道を遮る、こヽを東路の霊嶽、まだ敷島の道の御神と仰ぐも、恐れありとしられける、抑此筑波山は、漢土の五台山の西南劈開けて、こヽに飛来したるといふ、故に山中に異草珍木多し・・・
『木曽路名所図絵』は文化2年(1805)に出版されたモノ。江戸時代末期はこのような「名所図会」が色々あってちょっとしたブームだったようです。それ自体研究対象として面白そうです。筑波山の名称起源。みなのがわ(男女川)について。筑波山は中国の五台山が飛来したもの。大体三つのことが書かれています。
まず地名起源についてですが、「東海が逆流することが多かったから堤防を造ったので、『筑坡』。それがなまって『筑波』になった」としています。「筑波山は堤防」説、ということですが、誰が造ったのかは言及していません。続く「二神(イザナミ・イザナギ)が山に上って波を鹿島灘に退けて鎮座した」という部分とは実は食い違っていますが、あまり拘らなかったのかもしれません。でも、このように書くと「イザナミ・イザナギが堤防を造った」とも読めます。この「二神」についてですが、この記載の前の部分に「男体山・伊弉諾」「女体山・伊弉冉」とはっきり箇条書きで書かれているので疑義はありません。ただこの資料では「筑波山はオノゴロ島」とは言っていません。
引用部で「中略」になっている部分、原文では「桓武天皇の時代に法相宗僧・徳一が二神を勧請した」という記載があります。中禅寺の開基です。中禅寺の成立年代にも諸説があるようですすが、おおよそ延暦から天長(782-834)の辺り。『元亨釈書』(1322年)には徳一が「筑波山寺」を建てたことが書かれています。これが中禅寺の前身とのこと。特にこれといった伝承等はないのですが、僧侶列伝部分の「徳一」の項目で「筑波山寺」の開基がはっきり書かれていた所を見ると、当時中央でもそれなりに有名な東国寺院として認識されていたのだと思います。
この徳一という人物は最澄や空海と論争した人物として、よく資料に登場するようですが、一方で各地の寺院の開基であるという伝承も多々あるとか。筑波山周辺でもいくつかの寺院が徳一開基を伝えているようです。しかもその開基年代で特に多いのが、あの「大同」年間だと言います。遠野の研究をしていると必ずと言ってもいいほどぶち当たるのが、「大同」という年号ですが、これについては別にまとめた方が良いと思います。
ただ、この徳一なる僧侶が平安仏教の二大ヒーローたる最澄・空海とは「別の流れに身を置いている」存在であるということは特記しておくべきでしょう。伝承というのは常に主流に迎合するばかりではなく、あえて自らを反主流に位置付けることがありえます。「中国=黄帝の子孫」に対する「ベトナム=神農氏の子孫」などはその最たるものです。まあ主流を強く意識するからこそ、反主流を始祖とする言説が生じるという側面が強いのだと思いますが。
一方前回見たように『ホキ内伝』『ホキ抄』などで筑波山は安倍晴明と関係づけられています。この辺調整しているのか?そもそも筑波山勢力というのは一枚岩なのか?筑波山伝承も幾つか系統があるのではないか?などなど色々と考えさせられます。
みなの川ですが、『倭訓栞』によると下流は桜川とも言うそうです。『倭訓栞』はそれを理由として祭神をコノハナノサクヤヒメとする説を載せています。男体女体二峯から流れる男女川、陰陽和合の象徴だと言いますが、これは当然『常陸国風土記』にも載る歌垣とも関係があるでしょう。それで「女人結界がない」というのも納得できる理由づけです。「常陸は豊かな土地である」という認識は『常陸国風土記』序文でも強調されていましたが、それは「富士と筑波」の伝承とそれに続く歌垣の描写にも表れていると思います。水の豊かな平野に聳える緑豊かな山、男女に見立てられる二つの峰、二つの峰の間から流れ落ちる陰陽和合の川、その下流では桜が咲き誇り、男女が愛を語らう・・・
ということで、筑波山は「常陸の豊穣性」を象徴する聖地としてはほぼ完璧な場所だと言えるでしょう。
五台山とは中国山西省にある山。「中国三大霊山」「中国四大仏教名山」の一つ。南北朝・北魏時代に寺院が造られたのが始まりで一時期は300を超える寺院があったとも。文殊菩薩の聖地とのことですが、その起源も南北朝時代からということで、かなり古い。四川省峨眉山の普賢菩薩信仰と並び称されているようですが、それも南北朝から、ということなのでしょうか?文殊・普賢は釈迦如来の脇侍です。またチベット仏教とも交流があったそうで、例の「白塔」もある。現在でもチベット仏教との聖地の一つということになっているそうです。
平安・鎌倉期に中国に留学した日本の僧侶たちは天台山と、この五台山に良く行っていたとのこと。京都嵯峨野の清凉寺の山号は「五台山」ですが、開基のチョウ然という僧侶も五台山を巡礼したとか。ということで、かつての日本仏教界ではかなり著名な仏教聖地だったと考えるべきでしょう。
「山が飛んできた」という伝承はどこかで見たことがあるような気もするのですが、思い出せません。中国では「山が海を渡って南へ移動した」という伝承がありますから、ことによると中国にある伝説モチーフなのかもしれません。一方日本の伝統的なモチーフとしては、天から降りて来た山「天香具山」伝承を連想します。伊予国・阿波国にもありました。
他の資料にはない筑波山起源説ですが、なぜ特に五台山と結びつけられているのか?理由はあるのでしょうか?ちょっとわかりません。
しかし天香具山伝承と同じ効果を狙っていることは間違いないでしょう。「高天原の山が降って来た場所は、高天原と同じく聖なる場所である」ということ。つまり、「中国三大仏教聖地の一つである五台山の一部が日本に飛来して筑波山となった、ということは筑波山は五台山と同じく、仏教の重要な聖地である」と言いたいわけです。
「天台山が」と言わないあたり、徳一を開基とするのと同じく少しひねっている感じもありますが、この伝承がとの程度一般的に語られていたのかは不明です。知識人向けの説のような感もあります。「山が飛んでくる」伝承ですが、富士山にありました。謡曲『富士山』では「富士山は天竺から飛んできた」とされているようです。  
筑波山はオノゴロ島
『簠簋内伝』
~上吉日
乙丑、法身大日垂跡和光出注荘蝙錘嚼水上、五味薬湯源置居、湯殿権現顕給日也、
己巳、辰孤王三女子、此国飛来、天女厳島、赤女竹生島、黒女江島三州垂跡給日也、
壬申、二柱~自高天原天逆矛差下、自凝島造得、築波山落下、顕男体女体現鹿島香取両大明~日也、
癸酉、素盞烏尊行幸出雲国退治八隻大蛇日也、然妻愛稲田妃産得大己女尊日也、
壬午、鹿島大明~為阿久留王退治、下東海汀、向北方構陳社、塞東北方鬼門開日也、
甲申、天照大~開天倔戸、和光秋津州芦原国一天、垂跡伊勢国二見浦、内宮外宮現日也、
甲午、能野三所権現自芸旦国来、我朝紀伊国眸漏郡音無川源屏風岡玉宝殿建立給日也、
『ホキ内伝』は安倍晴明によって編纂されたとされている占術書。正式名称は『三国相伝陰陽輨轄簠簋内伝金烏玉兎集』。『金烏玉兎集』とも。江戸中期の安倍家当主は「『ホキ内伝』は安倍家伝来のモノではない」と語っているそうです。
一方『ホキ内伝』の注釈諸と言われる『ホキ抄』は「中世末期成立か?」とされているので、まあ少なくともそのぐらいには『ホキ内伝』も成立していたと考えてよいと思います。さらにここで扱う筑波山の話はもっと古くから伝承されていたものだと考えてよいと思います。
「神吉日」というのは何かというと「神事・参詣・祭礼などに良い日」で、暦の下段に書かれる吉凶を示す「歴注下段」の一項目、らしいです。
筑波山については「神吉日」の中でも「上」に分類されていますから、重要なものだと考えて良いでしょう。並んでいるモノを見ると「出羽三山顕現」「厳島・竹生島・江の島(日本三大弁財天)顕現」「八岐大蛇退治」「阿久留王(悪路王?)退治と鹿島鎮座」「天照大神=伊勢神宮顕現」「熊野権現顕現」とあります。
「伊勢」「熊野」の重要性はまあわかります。出羽三山もまあ一大聖地ではあります。日本三大弁財天はちょっとつながり的に弱い気もしますが、これを強調したい意図があったのでしょう。八岐大蛇とアクル王調伏はまあどちらも神の武功を讃える意味があるでしょう。
また常陸国について二つも「神上吉日」があるというのは少し気になる所です。『ホキ内伝』には『ホキ抄』で語られる安倍晴明が常陸國で育ったという伝承はまだないはずですが、既に常陸國を重視するような記述傾向があったのかもしれません。
中世期の関東地方というのは信仰・伝承関係の資料があまりまとまったモノが残っていないようですが、前に見た和歌の注釈書とかそういうものから地道に資料を拾っていくしかないのかもしれません。
「壬申は、二柱の~、高天原より天の逆矛を差下し、自凝島を造り、築波山に落下し、男体女体と顕れ、鹿島香取両大明~と現れたまひし日なり」
明治45年、柄沢照覚という人が書いた『ホキ内伝』の書き下し文ですが、書き下してみても良くわかりません。
「二柱の神」はイザナミ・イザナギで問題ないでしょう。その二神が「高天原」から「天逆矛」を下して「自凝島」を造ったと。記紀神話の「天瓊矛」が「天逆矛」になっているあたり、やはり中世神話的な言葉の選び方をしていると言えますが、内容的には記紀神話と同じです。
問題は「自凝島を造り」から「筑波山に落下し」への脈絡です。記紀神話のストーリーを知っているものが読めば全員が「オノゴロ島を造ったのに降りるのは筑波山なの?」と突っ込みを入れたくなるでしょう。
これは「オノゴロ島は実際にはどこなのか?」という平安時代から続く疑問を利用したものでしょう。基本的には瀬戸内海、淡路島付近の小島であるという説が平安期『新撰姓氏録』や鎌倉初期『釈日本紀』に載っているわけですが、記紀原文には記載がないので確定は出来ていません。
それを「自凝島を造り、築波山に落下し」としれっと併記することで、「自凝島=筑波山」という誤読というか解釈を提示しているのだと思います。「鹿がいっぱいいるから春日山は鹿野苑なんだ!」と言い張ることに比べれば大したことじゃありません。
『ホキ内伝』自体の成立がはっきりしないので、確定的なことは言いにくいですが、少なくとも中世期には筑波山とオノゴロ島を結びつける言説があった、と言える資料だと思います。
あと気になるのが、「男体女体と顕れ、鹿島香取両大明~と現れたまひし日なり」という部分です。素直に読めば「イザナギイザナミは筑波山の男体山女体山の神であり、鹿島香取両大明神である」ということになってしまいます。確かに鹿島香取は、今よりもっと大きかった霞ヶ浦=香取海を挟んで一対の神社ではありましたが、男女神と云う説は一般的ではないと思いますが。  
筑波山の鹿王
『謡曲拾葉抄』白楽天
或抄云、筑波山は昔欽明の御代迄は、深山にて陰深かりき、金毛の鹿王、生剥にはがれて、此の山を恨みて、伏見の郷に逃げ去る、諸鹿随鹿王同じく伏見に去る、于時山の火四面に起りて、諸木焼け失せて空しき山となる、鹿王伏見の澤中の小島に臥して死す、伏見を改めて名鹿島郡、是則健甕槌命の来去を示すなり、云々
『謡曲拾葉抄』は江戸前期〜中期に成立した謡曲注釈書。筑波山の伝承ではありますが、結論としては「鹿島」の伝承に落ちています。
ほぼ同様の伝承が『新編常陸國誌』が引用している「筑波山記」という書物にあります。そこでは上とほぼ同じ伝承の前に次のようなことが書かれています。
「アマノコヤネノミコトが金の鷲に乗ってアマテラスにしたがって常陸に降り立った。常陸は元々『神嶋』と言われていて、後にそれが山(筑波山のこと)の名前になった。イザナミ・イザナギが降臨し、後に諸神がここから各地に旅立ったので「旅立ち」のことを『神嶋立ち』というようになった。釈迦がこの山で説法をしたところ龍王が波に乗ってきたので『筑波山』という名前が付いた。」
「神嶋=鹿島」というのは言うまでもありませんが、流れをまとめると、「常陸全土の名前→ある山の名前→その山には後に筑波山という名前が付く→筑波山から去った鹿王に因んで現在の鹿島の地名起源」
神の出現としては「アマテラス・アマノコヤネ→イザナミ・イザナギ→釈迦」という順序です。・・・なんというか色々な伝承を何となく列挙してみたという感じにも見えますが、「鹿がたくさんいた筑波山で釈迦が説法」というのは、鹿野苑説話を素地にしたものでしょう。
奈良県春日山を鹿野苑と見立てる話は謡曲「春日龍神」に含まれている説話。筑波鹿王伝承も「筑波山は鹿が多い→鹿野苑→釈迦が説法」という発想がある意味当てはまる上に、藤原氏の始祖であるアマノコヤネの名前が登場しているあたり、「筑波山記」なる書物が藤原氏系の伝承を記録したものである可能性は高そうです。「春日」「鹿島」はともに藤原氏と関係の深い神社ですから。
話の内容として「金毛の鹿王」が目を引きます。仏教経典などにあるかと思ってネットで調べて見ましたが、たぶんジャータカ(本生譚)と関係があるでしょう。『大智度論』巻第十六に釈迦の前世が鹿だった話があります。また京都嵐山に「鹿王院」というお寺があるそうですが、関係あるのかな?
「皮を剥がれた」理由は良くわかりませんが、『新編常陸國誌』の方では「悪人」がいて皮を剥いだと言っています。やはり理由は不明。また皮を剥がれて生きられるものでしょうか?
違いでいえば、『新編』は鹿たちが鹿王にしたがって筑波を離れたと書いてあるだけです。しかしこの伝承では筑波山を焼いてしまい、「空しい山」になったと言います。
筑波山が緑深い山であることは、『常陸國風土記』でも『古今序註』でも強調されていましたし、実際木々の生い茂っている山なわけですが、どうして「空しい山」などという話になったのでしょうか?ちょっと良くわかりません。
この「筑波山の鹿王伝承」ですが、正直意義の良くわからない伝承ではあります。釈迦の説法地ということで「鹿野苑」を模したかった、ということかもしれません。一方で鹿島信仰との関連付けというのもあったのかなあと思います。鹿島についてはあまり詳しくないのですが、信仰の古さや格という意味では筑波山より数倍由緒がありますから、それと中央の神仏習合的な発想も春日信仰経由で取り入れやすかったのかもしません。  
筑波山とイザナミ・イザナギ
『古今序註』
一説云、彼の山は我が朝の秘処也、伊弉諾、伊弉冉二神、彼の山に天降り給ひき、男体女体と申す、山の頂き、二つに分れて、東西両峯に御座す、其の中間、漸々にたわみにして、龍の馬場と名づく、遠さ七里也、日神、月神、蛭兒、素戔嗚の四神ともに合すれば、六神御座す故に、六処大明神と申す也、此の山は諸神降臨の本処也、故に云神嶋、されば三十二億神、八百万諸神達、此の山に来下して、処分を受二神尊、遂に大神五十余神、中神五百七十八神、小神三千七百七十二神、此の山より国々郡々郷々に配分して行列す、諸神此の山より初めて分れて出てければ、今の世までも、何くにても旅の始めを神嶋だちとは申す也
再び『古今序註』より。恐らく、筑波山とイザナギイザナミを結びつけた説としては、最も古い事例だと思います。
イザナギイザナミがそれぞれ東西の山へ降臨したこと、その中間がたわんで「龍の馬場」と名づけられたこと、二尊と日月蛭子スサノオで「六処大明神」と呼ばれたことが述べられています。また32億の神々が筑波山へやって来て、二尊の差配によって各地へ配分されたとしています。
この伝承、上に書いたように筑波山をイザナギ・イザナミに関連付けた最古の事例だと思われますが、現在言われている「筑波山=オノゴロ島」説はとっていません。
「二尊が降臨してきた秘所であり、その二神のために山頂の頂が二つに分れた」と解釈できますから、筑波山が二尊降臨と同じ深度の歴史を持っていることを主張していることは確かです。筑波山で御子神を産んだとまでは言っていませんが、そういう連想は容易な感じの記述になっています。
しかし後半部は「国生み神話」ではなく、神々の派遣ということになっています。あくまでもイメージの問題ですが、仏教的だと思います。
「三十二億神、八百万諸神達」はどっちなのか良くわかりません。仏教的な数字かと思い、ネットで検索してみたところ、仏の身体的特徴を表す「三十二相八十種好」というのがありました。
明確な関係があるかどうかわかりません。しかし「説話において具体的な数字、特に大きな数字を列挙する」というのは、それだけで仏教的な気もします。仏教的というよりも、インド的、なのかもしれませんが。
その意味では、イザナミ・イザナギ伝承ではありますが、この伝承もやはり仏教的な色合いの強い伝承だと思います。  
『常陸國風土記』の筑波山 その一
古老のいへらく、昔、神祖の尊、諸神たちのみ處に巡り行でまして、駿河の國福慈の岳に到りまし、卒に日暮に遇ひて、遇宿を請欲ひたまひき。此の時、福慈の神答へけらく、「新粟の初甞して、家内諱忌せり。今日の間は、冀はくは許し堪へじ」とまをしき。是に、神祖の尊、恨み泣きて詈告りたまひけらく、「即ち汝が親ぞ。何ぞ宿さまく欲りせぬ。汝が居める山は、生涯の極み、冬も夏も雪ふり霜おきて、冷寒重襲り、人民登らず、飮食な奠りそ」とのりたまひき。更に、筑波の岳に登りまして、亦客止を請ひたまひき。此の時、筑波の神答へけらく、「今夜は新粟甞すれども、敢へて尊旨に奉らずはあらじ」とまをしき。爰に、飮食を設けて、敬び拜み祗み承りき。是に、神祖の尊、歡然びて謌ひたまひしく、
愛しきかも我が胤 巍きかも 神宮 天地と竝齊しく 日月と共同に 人民集賀 飮食富豐く 代々に絶ゆることなく 日に日に彌榮え 千秋萬歳に 遊樂窮じ
とのりたまひき。是をもちて、福慈の岳は、常に雪ふりて登臨ることを得ず。其の筑波の岳は、往集ひて歌ひ舞ひ飮み喫ふこと、今に至るまで絶えざるなり。
さて言わずと知れた「富士と筑波」の話です。非常に有名な話ですから事典の類に一般的な見方は書かれていますが、改めて読み返してみると気になることがいくつかあります。
よく比較されるのは蘇民将来伝承や弘法大師巡行伝承。旅の僧侶や神を歓待したものは福を得、歓待しなかったものには不幸が訪れるという伝承です。
両者ともに来訪者は異人ですから、「異人歓待」などと言われたりします。中国の民間などでも端午節習俗の起源や土地陥没伝承で同じようなモチーフが現れます。漢族にも少数民族にもあります。
しかし、冷静に考えてみるとこの「富士筑波」の伝承で巡行してくる神は異人ではありません。「神祖」つまり親神だと言っています。また断る理由が「新嘗の祭りだから」というものですが、「新嘗の祭りだから、諸々の神の元を回っていた」のではないのでしょうか?これについては受け入れた筑波の側も「今夜は新粟甞すれども、敢へて尊旨に奉らずはあらじ」と言っています。
ということは、この伝承の前提としては「新嘗の祭りにおいて祖神がやってくることは普通ではない、イレギュラーなことだ」と言っているわけです。
では、新嘗の祭では何の神を祭っていたのか?親神でないなら、穀霊でしょうか?気になりますがこの伝承だけでは何とも言えません。
結果として富士山には草木が生えず、雪が増えて登る人がいない。筑波山は逆に人々が登って楽しむ、とされています。これは後世になっても同じだったようで、筑波山は修験の霊場だったにもかかわらず女人禁制ではなかったとか。それについてはこの後に続く、歌垣も関係あるかと思いますし、『万葉集』にもあるように男女神として早くから認識されていたこととも関係あるのだと思います。  
『常陸國風土記』と筑波山 その二
それ筑波岳は、高く雲に秀で、最頂は西の峯崢しくたかく、雄の神と謂ひて登臨らしめず。唯、東の峯は四方磐石にして、昇り降りはけはしく屹てるも、其の側に泉流れて冬も夏も絶えず。坂より東の諸國の男女、春の花の開くる時、秋の葉の黄づる節、相携ひつらなり、飮食を齎齎て、騎にも歩にも登臨り、遊樂しみ栖遲ぶ。其の唱にいはく、
筑波嶺に 逢はむと いひし子は 誰が言聞けば 神嶺 あすばけむ。
筑波嶺に 廬りて 妻なしに 我が寢む夜ろは 早やも 明けぬかも。
詠へる歌甚多くして載車るに勝へず。俗の諺にいはく、筑波峯の會に娉の財を得ざれば兒女とせず。
西が「雄の神」となっています。東については言及がないものの、対であると考えれば、東は「雌の神」でしょう。『常陸國風土記』の段階で「筑波の神は男女神」という認識があった可能性は高いと思います。
ところで、ずっと気になっているのですが、「西峰(871m)東峰(877)」なのになぜ西が男体山で東が女体山なのでしょうか?「高さでなく山容で判断している」というわけでもないです。実際上記部分でも「西の峯崢しくたかく」と西=「雄の神」(男体山)が高いと強調しているわけです。
これはやはり「どの角度から筑波山を見るのか?」ということと関係しているのでしょう。普通に考えれば西側から見れば西峰の方が高く見えると思いますが、奈良時代常陸國国府があったのは筑波山の東の石岡市だったりします。或いは霞ヶ浦から見る角度でしょうか?6mの差ですから、遠くから見れば容易に高さを見誤るとは思いますが。
後半部は春と秋に男女が筑波山に登って飲み食いし、歌を歌い合う歌垣の様子が描写されています。筑波山は今も昔も「登って楽しむ山」だということなのだと思います。「春と秋」ということは年中行事的な位置づけがなされていたと考えて良いのでしょう。そのような習俗が何時頃まであったのかというのも気になる所です。しかし古くから男女神がまつられ、それが後世イザナミ・イザナギと言われるようになったことを考えると、筑波山は古代中世を通じて歌垣にふさわしい山であったのだと思います。現代の御利益も縁結びが強調されているようです。  
筑波山の祭神
衣手 常陸の国 二並ぶ 筑波の山を 見まく欲り 君来ませりと 暑けくに 汗かき嘆き 木(こ)の根取り 嘯(うそむ)き登り 峯(を)の上を 君に見すれば 男神(をのかみ)も 許したまひ 女神(めのかみ)も ちはひたまひて 時となく 雲居雨降る 筑波嶺(つくはね)を さやに照らして いふかりし 国のまほらを つばらかに 示したまへば 嬉しみと 紐の緒解きて 家のごと 解けてそ遊ぶ 打ち靡く 春見ましよは 夏草の 茂くはあれど 今日の楽しさ 『万葉集』
「常陸国従五位下筑波神為官社。以霊験頻著也。」(『日本紀略』823年)
「常陸国無位筑波女大神並従五位下。」(『続日本後紀』842年)
「常陸国筑波山神二柱授四位」(『文徳天皇実録』858年)
「常陸国従四位上筑波男神正四位下。従四位下筑波女神従四位上。」(『日本三代実録』870年)
『神祇宝典』(1646) 「卜部説云筑波山神二社一社者日本武尊一社者弟橘比賣也。俗曰陽陰二柱尊」
『神名帳考証』(1733) 「陽峯埴山彦神陰峯埴山姫神」
『常陸國廿八社鎮座』(不明) 「所祭二座伊弉諾尊在陽峯、伊弉冉尊陰峯、通謂之筑波大明神。摂社四座。朱嶽祀素戔嗚尊。其一小原本社在吉野嶺祀蛭兒命。其一和多利社在國割嶺祀月読命。其一稲村社在鷲峯祀天照皇大神。」
『倭訓栞』(1777〜1887) 「常陸筑波山は、二尊を祭れりといふ。(中略)常陸風土記の説に、筑波神社木花咲耶比[女羊]を祭ると見ゆ」
『倭訓栞』にはコノハナノサクヤヒメ説も紹介しています。筑波山には桜が多かったからか?と注が入っています。また前の記事で紹介した筑波山名称起源説ではアマテラスが単独で登場していました。東の名山にして「太陽遥拝の二上山」である筑波山に太陽信仰が存在した可能性は低くないと思いますから、アマテラスを祭神とするような言説もあったかもしれません。
しかし、やはり基本的には男女二神です。『万葉集』「六国史」からして男女二神です。この路線は覆しようがないでしょう。明治以後は「筑波男大神=伊弉諾、筑波女大神=伊弉冉」ということで固定されたようですが、江戸時代までは他の説もあったようです。
『神祇宝典』
ヤマトタケルとオトタチバナヒメの伝説は『常陸國風土記』にも現代の伝説にもありますから不自然ではありません。ただ「俗曰陽陰二柱尊」とあるのはイザナギイザナミだと思われます。あえて地元の言説と異なる祭神を主張したのは、この本の著者が尾張国名古屋藩の初代藩主徳川義直(家康の九男)だったからかもしれません。尾張一宮は熱田神宮。言うまでもなく、ヤマトタケル伝承と深いかかわりを持つ神社です。「武士のヤマトタケル信仰」とかもあるかもしれませんが、この辺調べたことがないので何とも言えません。
『神名帳考証』
埴山彦神・埴山姫神はどこから出てきたのか?正直よくわかりません。これも著者の都合でしょうか?この書籍の著者は伊勢神宮の神官・渡会氏の人・延経。説明には「式内社の多くが神名や鎮座地を不明とすることを嘆いた延経がそれらを考証著述したもの」と言いますが、確かに伊勢神宮の世界観的には筑波山の神をイザナギイザナミとする説は異端に感じたのかもしれません。
『常陸國廿八社鎮座』にはイザナミ・イザナギと三貴子+蛭子まで言及されていますが、これは単純に「それらを祭る神社があった」ということに止まらなかったようです。どうも江戸時代には「筑波山はオノゴロ島で、二つの峰に伊弉諾・伊弉冉二神が天降り、国造りをして、三貴子を産んだ」という神話が成立していたらしい。
何処かの神社からの勧請というならともなく、アマテラス出生にも関わるような新たな神話をつくられて、伊勢神宮側として「はい、そうですか」と認めるわけにはいかない。恐らくそんな事情で『神名帳考証』は筑波神=イザナミ・イザナギを否定するために他の対偶神を持ってきたのかなあと思います。
では「筑波二神=イザナギイザナミ」という説はいつごろ発生したのかというと、良くわからないようですが、江戸時代初期にそのような説があったことは事実のようです。
上述の話とはちょっと食い違うのですが、『ホキ内伝』には以下のような記述もあります。
「壬申、二柱~自高天原天逆矛差下、自凝島(おのころしま)造得、築波山落下、顕男体女体現鹿島香取両大明~日也」
イザナギイザナミ二神が鹿島香取の神となっていて、筑波山の話ではないのですが、オノゴロ島との関係は既に言われています。
『ホキ内伝』の成立自体はっきりしないようですが、少なくとも江戸時代よりは前でしょう。
「二つの峰の神が男女神で、イザナギイザナミ」。
それだけなら別に大したことでもないのですが、どうもその説の背景には関東平野を舞台とした中世神話が構築されていたらしい。  
筑波山と巨人
昔巨人が筑波山と富士山を天秤に掛け重さを比べようとした。その時筑波山が落ちて山頂が2つに裂けた。また足跡の片方が代田に残っている。
茨城県にはダイダラボッチ伝承があります。現地の名称としては「ダイダラ坊」です。
「茨城県では多くのところに巨人伝説がある。ダイダラボウは30箇所ほどあり、貝を食べる話もある。山を移した話や、川や湖を作った話がある。弁慶伝説は、その力に関わる話が多いが、ダイダラボウほどではない。」
「ダイダラ坊が串をさして魚を焼く場所なので大串だという説がある。ダイダラ坊はオーダラ出身の大男である。村人の為に、山を移動させたり、川の流れを変えるので地神であるオーナマズが怒ったことがある。ダイダラ坊の足跡なども残っている。」
「水戸にダイダラ坊伝説がある。この巨人はみんなに好かれていて、仲も良かった。村は高い山によって日が差してこなかったので、ダイダラ坊は頼まれて山を動かしてやった。ダイダラ坊の指で作った池や、手を洗った所だという伝説もある。」
一番上はまとめっぽい話。二番目と三番目はどうも同じ水戸の話っぽいです。水戸市大串町。ここの巨人伝承は『常陸国風土記』那賀郡条にも記載があります。
「平津の驛家の西一二里に岡あり。名を大櫛といふ。上古、人あり。躰は極めて長大く、身は丘壟の上に居ながら、手は海濱の蜃を摎りぬ。其の食ひし貝、積聚りて岡と成りき。時の人、大の義を取りて、今は大櫛の岡と謂ふ。其の踐みし跡は、長さ三十餘歩、廣さ廾餘歩なり。尿の穴の徑、廾餘歩許なり。」
『風土記』の地名対応表には「大多坊」が大串岡に座って東海で足を洗ったとあります。
伝承は石岡市で採集されたもので、水戸市大串の巨人との関係性は不明です。しかも富士山と筑波山が天秤に掛けられているあたり、大きさにかなりの無理があるものの、「筑波山は富士山と並び称する価値のある山だ」という発想が見受けられます。
このダイダラボッチ伝承とよく似たものが埼玉県横瀬町にありました。埼玉にもダイダラボッチ伝承がいくつかありますが、横瀬町の話は筑波の話とよく似ている。
「巨人がひとつのモッコに武甲山、ひとつのモッコに宝登山を入れて尾田藤の長尾根を天秤棒にして担いできたが、縄が切れ、モッコが地上に落ちてしまった。武甲山は固い岩だったので残り、こぼした山は宝登山と箕山になった。」
武甲山は1304m。秩父と横瀬の間にある山。下の二つも秩父の山です。宝登山(ほどさん)は497m。箕山(みのやま)は587m。宝登山と箕山を足すと1084mということで、僅かに足りないものの武甲山と対にして天秤棒に載せらるぐらいの差だと言えるでしょう。
しかし筑波山の場合は男体女体足して1700越えですが、富士山とは比べようもないです。筑波山塊全部合わせれば富士山と同じ重量・体積になるかもしれませんが。
もちろん、ダイダラボッチの天秤の釣り合いを真面目に論じてもあまり意味はありません。ただ埼玉県の事例があくまでも秩父地域周辺の山の起源を語っているのに対して、筑波山は富士山と同時に発生したと語られているわけです。しかも筑波山の二つの峰はその時に割れたものだという。単独峰である富士とは対照的と言っても良い二つの峰。その二つの峰が富士と筑波という関東を代表する二つの山の起源とともに語られるというのは、なかなかに印象的です。
富士と筑波、と言えば当然想起されるのが『常陸国風土記』祖神来訪神話です。全く違う話型であり、伝承方法としても一つは官主導の書承、もう一つは民間口頭伝承と全く異なる位相にあるはずの二つの伝承が、「富士と筑波を対比する」という共通の視点を持っているというのは非常に面白いと思います。
ところで、筑波の名称起源の回に「縄文海進」について触れましたが、その学説は「貝塚がなぜ海岸ではなく内陸部にあるのか?」という疑問から発して提唱されたものだそうです。上記大櫛のダイダラボッチ伝承には貝塚の由来が語られていますが、古代人も貝塚の位置に疑問を持っていたということが解ります。筑波山の地名起源も、ダイダラボッチ伝承も「縄文海進」に関係しているということになるわけですが、この「縄文海進」は「古鬼怒湾」、後の「香取海」、別名「流海(ながれうみ)」「浪逆海」を形成したと言います。『常陸国風土記』では塩を生産していたそうなので、完全な内海だったようです。
現代でもかなり大きい霞ヶ浦がそんな状態、武蔵国や下総国が湿地帯だったということになると、富士山と筑波山は「旅人感覚的にはかなり近い」ということになりそうです。何しろ東海道→上総→下総→常陸という移動ならば「富士山の次の山は筑波山」ということになるからです。  
筑波山の名前の由来
1 崇神天皇によって筑波国造に任命された筑箪命(つくはのみこと)という人物に由来。采女臣氏系統の筑箪命が、「我が名を国につけて、後世に伝えたい」と筑波に改称した。(『常陸国風土記』)
2 「風俗の説に、「握飯(にぎりいひ)筑波の国という。」(『常陸国風土記』)
3 東海が昔、逆流した時があった。その時は国中が水没したが、この山だけは高くて堤防のような役割を果たした。こうして波を防いだことから筑波と呼ばれるようになったと言う。
4 縄文海進により、縄文時代の筑波山周辺には波が打ち寄せていたと考えられ、「波が寄せる場」すなわち「着く波」(つくば)となった。
5 縄文時代の筑波山周辺は海であり、筑波山は波を防ぐ堤防の役割を果たしたため「築坡」(つきば)と呼ばれ、のちに筑波となった。
6 「つく」は「尽く」で「崖」を意味し、「ば」は「端」を意味する。
7 新たに開発して築いた土地として、「つくば」は「築地」ないし「佃地」を意味する。
8 「つく」は「斎く」(いつく、神を崇め祀る)あるいは「突く」(つく、突き出す)であり、「ば」は「山」を意味する。
9 「平野の中に独立してある峰」の意の「独坡」にちなむ。
10 アイヌ語のtuk-pa(とがった頭)またはtukupa(刻み目)にちなむ。
11 歌垣の習慣にちなみ、マオリ語のtuku-pa(交際を許される)に由来する。
まず筑波山について客観的なデータ。男体山:871m / 女体山:877m / 広く見れば福島県から続く八溝(やみぞ)山地の南端、狭く見れば筑波山塊の最高峰。海までは41qぐらい。
『常陸風』の「ツクハノミコト」説は勿論後付だと思います。しかし崇神天皇の時に遣わされたという辺り、常陸国が古くから天皇の統治下にあったことを強調する意義があるでしょう。『常陸風』では筑波郡の前に載る「新治郡」でもその地名起源を崇神天皇の東方征伐に求めています。神武天皇+欠史八代を常陸国と結びつけるのは、王権神話としても無理があったのでしょう。そうなると崇神天皇代が妥当ということになります。
もう一つの「握飯筑波」について、平凡社ライブラリー版『風土記』註では、「握飯」は「筑波」にかかる詞だとしています。理由としては筑波山には「飯名社」があって飯盛山と見られていたため、と。土橋寛の解釈によると「(神饌である)握飯(の粒が手に)付く」の「付く」が「筑波」の「筑」に掛かっていると言います。この手の枕詞的な言い回しは正直あまり知識のないジャンルで、単なるダジャレのようにも見えてしまいます。しかし「握飯」が意味の上でも「掛かる」と考えるならば、「(米の豊かな土地で、多くの)握り飯(を神饌として祭られる)筑波(山の神)」という解釈もありでしょう。常陸国そのものが豊かな土地であることは、『常陸国風土記』序文に強調されていますし、その国の中心と言っても良いランドマークが筑波山です。
以下その他の地名起源について。
11 マオリ語説ですが、いくらなんでも遠すぎると思います。
10 アイヌ語説にはロマンを感じますが、信憑性は判断できないので棚上げ、というかアイヌは東日本のどの辺まで居たとするのが妥当なのか、最近の研究はどうなっているのでしょうか?
その上の三つはちょっとひねりすぎな気がする。
9 上述しましたが、筑波山は筑波山塊の一つ。確かに一際高くはありますが「独峰」とは言えないかなあ。8 「つくば」が「神を祀る山」という意味ならば、もっと日本全国にあっても良さそうですが。7 「築地」説も同上です。6 「尽きる端=崖」説ですが、筑波山全体を崖と見るならば、発想としてはその上の三つに近づいて来ると思います。
ということで、信憑性が高そうな筑波地名起源説は以下の三つと言えそうです。
3 東海が昔、逆流した時があった。その時は国中が水没したが、この山だけは高くて堤防のような役割を果たした。こうして波を防いだことから筑波と呼ばれるようになったと言う。
4 縄文海進により、縄文時代の筑波山周辺には波が打ち寄せていたと考えられ、「波が寄せる場」すなわち「着く波」(つくば)となった。
5 縄文時代の筑波山周辺は海であり、筑波山は波を防ぐ堤防の役割を果たしたため「築坡」(つきば)と呼ばれ、のちに筑波となった。
微妙に違ってはいますが、35「波を防いだ筑土」と4「波が寄せてきた土地」、実は「情景」としてはほぼ同じと言えます。
ただ3「海の逆流=津波」と45「縄文海進の波打ち際」では、事の切迫性がかなり違う気もします。まあどちらにしても「筑波」の地名起源は成立しますし、信仰対象ともなりえますが。
4 5 が「縄文海進」(氷河期末期に生じた海水面の上昇)という科学的知識から発した推論であるのに対して、3は筑波山麓で記録され、『旅と伝説』に掲載された現地の伝説です。
3 の伝説は「津波を防いでくれた山」というイメージを導き、筑波山信仰の由来を語る言説にも発展しうるでしょう。日本では洪水神話が始祖神話につながる例はすくないですが、このように祭祀起源伝承や地名起源伝承になる例は意外とあるような気もします。
ところで、「縄文海進」という言葉を知って思い出した伝承があります。
それは行方郡麻生町の「鯨岡」伝承。クジラが這って来て寝てしまったものだと言います。茨城県沖には近代以前は結構クジラがいたそうですし、「荒井クジラ」の伝承もあります。クジラがいたなら屍体が海岸に打ち上げられたりすることもあると思います。久慈郡の地名起源は鯨に似た丘があったからですが、鯨を目撃することが多かったであろう久慈の人々の直観的な連想だったのでしょう。しかし行方郡麻生町は、霞ヶ浦と北浦に挟まれた場所にあり、海に面していないのです。もちろんクジラが川をたどってやって来たと考えることもできるかもしれません。しかし海水面が5m上昇するだけで霞が関・北浦は「湖」ではなく、「内海」になる。
鯨岡伝承も、筑波山も、もしかすると縄文時代の記憶が伝説化したものなのかもしれません。  
補足1
「天照大神が山頂に登って筑を弾じて水波曲を奏でた。すると鹿島の海瀬が逆流してその波濤が山頂にまで届いたので、この山の名前を筑波山と呼ぶようになったと言う。」
「筑を弾じて」とありますが、筑は中国古代の楽器で、筝の小さい物をいうそうです。「筑」の字義を調べると、漢和辞典でも国語辞典でも中国語の辞典でも第一義は楽器です。しかし漢和辞典では同系統の漢字として「築」(地づき)と同系であるとしています。また「筑紫国」の語源は「道を石で敷いた」という意味の「築石」が変化したものらしいですから、必ずしも楽器の字義にこだわる必要もないのでしょう。にもかかわらずこの伝承では「筑」の元々の意味である楽器として解釈しています。どのぐらい民間に受容されていた楽器なのでしょうか?
またその「筑」を使って「水波曲」を引いたと言います。そんな雅楽の曲でもあるのかと思って調べて見ましたが、どうもそれらしきものはない。しかし図らずもこの伝承そのものの元ネタらしきものを見つけてしまいました。
『別紙追加曲』(鎌倉後期から南北朝期成立の歌謡集)の「鹿島霊験」。『詞林采葉抄』(南北朝期成立の万葉集注釈書)の「筑波山」。「天照大神」「鹿島」という固有名詞が登場しているのは『詞林』の方ですが、神が筑という楽器を奏て波浪が山頂まで達したことが筑波の名称起源であるという点では共通しています。
恐らく今回取り上げた伝承も、これらの書物からか、或いはそれの下になった伝承によっているのだと思いますが、民間にも浸透していたものだったのか?それとも知識層の間で好まれた伝承だったのか?ちょっとわかりません。
内容的に気になるのはアマテラスが登場していることですが、筑波山には確かにアマテラスを祀っている場所があります。「高天原」と名づけられている大岩の上の「稲村神社」という祠の神がアマテラスということになっています。それにしても筑波山に何故アマテラスなのか、というと実は良くわかりません。ただどうも筑波山には太陽信仰があるらしい。と言いますか、そもそも筑波山のような「二上山」は太陽を遥拝する門という意味付けをされることが多い。とは、野本寛一先生の説ですが。更に現在筑波山で最も重要とされている春季・秋季の例大祭「御座替祭(おざがわりさい)」は元々冬至・夏至に行われたそうで、太陽信仰との結びつきが考えられます。この祭については「山頂本殿と中腹拝殿にいる親子の神が場所を入れ替える祭」とも言われており、複雑でもあります。拝殿は一つしかありませんが、山頂本殿は男体女体と二つあるのですが?
筑波山の男女神がイザナミ・イザナギだとされていることと、アマテラスの信仰があること、そして「御座替祭」において親子神の交代が想像されていることを重ねてみると、なかなか楽しそうです。
筑波山では一月一日を元旦祭と称して各種祈祷を行っているそうですが、普通に初日の出を見るために筑波山に登る人も多いようです。
今回の伝承が載っている二つの文献はともに南北朝期のモノでしたが、その時代には既に筑波山の地元の信仰にも中央の信仰が影響を与えていて、アマテラスが登場する新たな神話を作り出していたのかもしれません。 
補足2
『古今序註』
一説云、此ノ山ムカシ深山ニシテ、月ノ光モ漏レヌユエニ、月木葉(ツキハ)山ト云フ、然ルニ釈尊此ノ山ニ降臨アリテ、仏恵ノ実説ヲ開演シ給フ、沙迦羅竜王、瀛浪ヲ扣キ挙ゲテ、乗波彼山半腹ニ至リテ、仏説を聴聞セシ時、波築彼山、故云築波山、雖然本名ノ月木葉山ハ、茂キ深山ナリケレバ、其レニ寄リテ、此面彼面ノ陰トハ云フ也
『古今序註』ですが、その名の通り『古今和歌集』の注釈書。ただ平安末期の僧侶・勝命が書いた物と室町前期の僧侶・了誉聖冏が書いた物があります。この辺全く疎いのですが、「六巻」とありますから、十巻本の「了誉序注」だと思います。成立は1406年。
その了誉は常陸國出身。「椎尾」という氏族の出身者ですが、この氏族は現在の桜川市が本拠地だったようです。つまり筑波山のすぐ近くで生まれ育ったということです。仏教、神道ともに通じた人だったようです。
記事の内容的は『古今集』、「つくばねの このもかのもに かげはあれど 君が御影に ますかげはなし」の解釈です。
ここには筑波山の名称起源について二つの説が載っています。一つは「月の光も漏れぬほどに木の葉が多い山=月木葉山」というもの。最終的に歌の解釈としては、この説をとっています。確かに歌の内容に見合っているのはこちらの説ですが、地名起源の正当性としては微妙な気がします。ただ、『常陸國風土記』でも強調されていた、緑の豊かな様はここでも共通していると言えるかもしれません。
そしてもう一つの説ですが、これは非常に面白い。時代的に見て、前に紹介したアマテラスの地名起源の元ネタはこの伝承だと見て間違いないでしょう。「釈迦が筑波山に降臨!?」という部分は普通に考えれば荒唐無稽ですが、中世神話の世界観として「日本は仏国土であり、古代インドと時空を超えて直結している」と考えることは良くあります。「奈良の春日山は鹿野苑である」というのもその一例です。
更に、その釈迦の説法を龍が聞きにくる。
「沙迦羅竜王」というのは、八大龍王の一人で、法華経で「龍女成仏」する「善女竜王」の父親。この「善女竜王」については空海が神泉苑での雨乞いで勧請したり、醍醐寺で「清瀧権現」として祭られるなどしていますから、日本の真言密教的にはメジャーな存在と言っても良いでしょう。
また、龍が高僧の読経を聞きに来るという話は日本の民間伝承でも良くあるものです。岐阜県夜叉が池伝承にもありますし、身延七面天女の伝承にもあります。
まあどちらにしても読経を聞きに来るのは、「龍女」が多いわけですが、ここではその父の龍ということになっています。どうしてか?
「京都の諸伝承と被るのを避けたかった」というのもあるかもしれませんが、もう一つ考えられる理由は「沙迦羅=サーガラ」というサンスクリット語は元々「大海」の意味だったから、というものです。太平洋から波に乗って現れるとしたら、「大海の龍王」がふさわしい、ということです。
もちろん、仏教的な龍伝承だけでなく、古代常陸國に伝わっていた蛇神の伝承も素地になっているのだと思います。穴を掘って海に出ようとした大蛇もいましたし。
アマテラスの伝承では、「筑で水波曲を引いたら『波が山に着いた』、だから『つくばさん』」という説明がなされていました。しかしここでは、「『波が築いた山』だから、『築波山』」と言っています。「釈迦が山で説法」と前に書いているので、矛盾はあるのですが。内容というか、情景的にはほぼ同じような気がするのですが、片や「つく」で片や「築」。やはり地名起源のゴロ合わせにしても、日本の神的には和語から、仏教伝承的には漢字から、という傾向みたいなものがあるのでしょうか。 
偉人が植えた植物
行方郡牛堀町上戸「観音寺」 真言宗の寺。昔、小野小町が眼病をわずらって各地を転々とした折り、観音寺にも参篭して百か日の祈願をした。病気が全快し、そのお礼として枝垂桜を寄進したと伝えられている。
行方郡潮来町「あやめ」 徳川光圀が水戸へあやめを運ぶ途中、急に不用になり、潮来の真菰の茂る中に捨てたのが繁茂して、あやめの名所になったと伝えられる。
行方郡潮来町「臨済宗長勝寺」 文治元年(一一八五)源頼朝が武運長久のために創立したといい、本堂前の古梅一株は頼朝手植えの梅で文治梅といっている。仏殿の屋根には源氏の紋「笹りんどう」が三つついている。梵鐘は北条時宗寄進で国重文。
小野小町の枝垂桜、徳川光圀のあやめ、源頼朝の梅です。結構バランスの取れた花の選択な気がしますが、「あっちが桜ならこっちは梅でいこう」というような発想があったかどうかは不明です。
小野小町が各地を遍歴したという伝承はかなり広く分布しているようですが、特に神仏に祈って病気を治したとするものも多いようです。あと山形県米沢市などには小野小町が発見した温泉の伝承などもあるようです。
美容と健康などと言いますが、美人の代名詞である小野小町が病を得て、それを神仏の力で除去するという伝承はまさに美容と健康がつながっているという観念の表れのように思われます。上記伝承は眼病で容姿に影響するものかどうかはわかりませんが、「小町は瘡が体中にできたので神仏に祈ったら回復した」という伝承もあります。
逆に言えば、病=醜という観念が有るということでしょう。
また小町と桜とのイメージのつながりというのは地方民間でも強いものがありそうです。「花の色はうつりにけりないたずらにわが身世にふるながめせしまに」。百人一首の小町歌もそんな感じですから。
光圀の伝承と言うのは茨城県以外ではあまりないように思うのですが、どうなのでしょうか?潮来は実際にアヤメの名所のようです。あやめまつりとか毎年開催されているようです。非常に漠然とした伝承なのですが、ふとダイダラボッチ伝承に似ているような気もしました。ダイダラボッチの伝承にもいくつかのパターンがありますが、「何かをやろうとして失敗したり、途中でやめたりして放り出したモノが山や丘など特徴的な地形になる」というのに似ている気がするのです。
長勝寺は源頼朝創建、水戸光圀再興というお寺。文治元年(1185年)という元号が強調されていますが、この年は平家が滅亡し、奥州藤原氏を攻める前に当たります。義経追討も始まります。
ということで「武運長久」などと言いつつも奥州攻めの成功祈願的な意味も多分にあったような気もします。また奥州征伐の通り道である常陸国にこのような寺を建てることで、その地域の安静をはかり、奥州攻めの時に後顧の憂いを断つ、というような意味もありそうです。  
義家の落胤
西茨城郡
源義家が奥州征伐の途中に、長者の家に泊まった。その娘に手をつけ、もし子供ができたら、この片袖を持って鎌倉に申し出るようにといった。義家は去ったが、その子が後に鎌倉へ申し出て、袖山という 。
西茨城郡というのは既にありませんが、現在の笠間市を中心とした地域だったようです。袖山姓は但馬国が元だそうですが、茨城県にも結構いるようです。実際に茨城県に存在している袖山姓の由来を解く伝承だと考えていいでしょう。義家とのつながりは権威づけとして使われています。ということは以前上げた長者没落伝承とは異なる「義家イメージ」を持っていると言えるでしょう。  
真言宗愛染院
行方郡延方水原「真言宗愛染院」
ここの本尊は如意輪観音で、源義家の守護仏であったという。義家は一軍を率い水原の里へ来て、鹿島の里に渡ろうとしたが風のため渡ることができなかった。ある夜、不思議な夢を見てから、守護仏の観音に深く帰依し、それを安置して、一軍の武運長久を祈り七日七夜水行を行った。そして、満願の日、風も穏やかになったという。また一説では台風に遭って船が延方に流され、吹き飛ばされた幟が新宮の松の木にかかると、その松を村人は旗替松と呼んだという。義家は農家に泊まったが、出発の時、主人に一寸八分の金の観音像をお礼として与えて去ったという。そこで水原の人たちがお堂を建て、その観音像を安置したのだと伝えられている。
義家の伝承ですが、前々回に紹介した長者伝承とは違って悪いイメージはありません。むしろ現存する寺院の本尊を権威づける方向で登場しています。この伝承は水上交通を阻害する神の伝承でもあり、その安全を守護する観音の伝承でもあります。観音信仰の内容は多岐にわたりますが、基本的には水の神であるという指摘がありますし、東西を水に挟まれた行方において信仰を集めていたのは当然と言えば当然です。
また伝承の存在である長者と違って、現在の存在する寺に関わる伝説であるということも義家イメージの相違と関係がありそうです。旗替松の伝承は前回上げた高須の一本松とついになっているようにも思います。松の依代的な象徴的意義は共通しています。やはり英雄としての側面はあるでしょう。
さらに、ここでは農家に泊めてもらってお礼として金の観音像を送っています。長者が歓待した時は皆殺しにして、農家の場合はお礼をしているわけですが、この相違は面白いです。  
高須の一本松
行方郡玉造町高須「高須の一本松」
源義家が奥州征伐の時、台風を静めようと鹿島の神に祈願し、岸近くの一株の小松を見て「千早ふる鹿島の神の授け松なほ万代も君は栄えよ」と詠んだその松だという。また後代、徳川光圀が巡視の時、「高須崎波にゆらるる一つ松さぞや山路が恋しかるらむ」とも詠じたという。この高須の一本松も最近のマツクイムシには勝てなかった。
再び源義家の伝承です。一応その辺りには行きましたが、現在は道の駅と公園があります。奥州征伐の途中の話とはっきり言われていますが、台風を鎮めようとしたという辺り、ヤマトタケル伝承との類似も考えられると思われます。(衣川関の戦いで安倍貞任と義家が歌の掛け合いをした伝承があります。)
しかし義家が地面に刺した箸・杖・鞭・矢などから生えた木の伝承は結構あるようです。栃木県・宮城県・福島県など。この伝承はヤマトタケルにもあります。また義家が射た矢の鏃が今も残っているという「矢立杉」伝説も結構あるようです。さらに義家によって生じた泉の伝承も結構ある。これもヤマトタケル伝承にあります。  
長者伝説
行方郡玉造町「諸井長者屋敷跡」
「毎年朝廷に綾織を献上していたが、ある年、織姫が夕方までに間に合わず、太陽の沈むのを待ってもらったという」
この伝承は典型的な「朝日長者」のモチーフを持っています。種本でも「田植が終わらずに、扇で太陽を招いた長者の話と同類であろう」というコメントがあります。しかし没落したとは言われていません。種本でその個所を省略したのか?ということも考えられますが、「毎年朝廷に綾織りを献上していた」とありますから、自分のために太陽を招き戻そうとする朝日長者伝承とは異なります。朝廷のためにおっている綾織ですから。
行方にはもう一つ長者伝承があります。
行方郡「唐ヶ崎長者」
「病弱な一人娘のために、長者夫婦は西蓮寺薬師如来に祈願し、その功徳によって娘は成長した。数十年過ぎて、好む娘が老婆になった時はちょうど源義家の奥州征伐の時期にあたるが、ここへ立ち寄った義家はあまりの豪勢さに後顧を憂えて一族を皆殺しにしたという。しかし、老婆だけは生き残り、一族の冥福を祈って供養し、念仏三昧の余生を送った。今でも九月の西蓮寺の常行三昧会には西蓮寺婆さんとして、その徳を称えているという」
この伝承は長者没落譚ですが、結論としては西蓮寺への信仰を進める伝承に落ち着いています。薬師如来にの加護によって成長した娘は源義家の虐殺にも生き延び、死ぬまで念仏三昧だったと言います。「西蓮寺婆さん」は自身が念仏三昧の生涯を送り、かつ信仰対象にもなっているわけで、理想的な信者の手本として伝承されてきた存在でしょう。まあ家族は皆殺しにあっているので仏の加護を強調する伝承としては釈然としない気もしますが。
しかし、なぜこのような中途半端な伝承が生じたのかというと茨城県には結構長者没落伝承があるからです。
茨城県には源義家によって滅亡させられたという長者の伝承が幾つかあります。全て義家を款待したにもかかわらず、それがあまりに豪華であったり、大量の笠をすぐに準備するなど大きな財力持っています。義家はそれを見て、後に力をつけ対抗勢力になるのではないかと恐れて皆殺しにしたと伝えています。
○水戸市「一盛長者屋敷跡」
○岩間町安居(あご)「持丸長者」
○土浦市桜村金田「金田の長者屋敷」
先にあげた西蓮寺婆さんの伝承は茨城県に伝わっている長者没落譚を素地にして二次的に発想せられた伝承だったのだと考えることができると思います。
「長者没落譚」と言いましたが、朝日長者伝承のような長者の没落は基本的には神の怒りに触れたことが原因となっていたと思います。しかし茨城県の長者没落譚は源氏による虐殺ということになっています。この相違は注意する必要があるでしょう。この辺の歴史について私は良く知らないのですが、常陸国の諸勢力は源氏に対抗していたのでしょうか?また上記にあげた諸例は全て源義家なのですが、やはり前九年・後三年の役と関係がありそうです。
常陸国にとってはヤマトタケルも源氏も侵略者です。しかし『常陸国風土記』のヤマトタケルは土蜘蛛を征伐して英雄視されている。一方、民間伝承の源義家は自分を歓待してくれた在地の長者を一族ごと皆殺しにしています。上記の伝承では義家に対する感情までは読み取れませんが、普通に考えたら「ひどい話だ」ということになるでしょう。
「『常陸国風土記』は朝廷の正統性を支持するために中央から派遣された官僚がねつ造したのだ。地方は中央によって常に迫害されていたのだ」とか言ってしまうのは簡単ですが、現実にはもっと複雑だと思います。
『風土記』において「土蜘蛛」などと言われていた地方勢力の性格にもいろいろなものがあったでしょう。在地の首長として民衆の支持を得てリーダーになったものもいたでしょうし、山賊のように民衆をイジメていたものもあるでしょう。
また在地首長同士の同盟や対立もあったはずです。強力な在地首長に一矢報いたい、ぶっちゃけ排除したい、などと思った地方勢力は中央の進撃を利用してその目的を実現させようと考えるかもしれません。そして勝利後は中央から公認をもらって自身の勢力を安定させる。そして中央から来た侵略者を「新たな文化をもたらした」とか「野蛮な土蜘蛛を殺してくれた」などと持ち上げ、さらに「我々は英雄を助けたので、この土地の統治をまかされたのだ」と自分自身を正当化するために使う・・・  
鳥塚橋
行方郡玉造町羽生「鳥塚橋」
「鳥塚橋には弟橘姫命の伝説がある。走水の海で嵐に遭い、海神のいけにえになった姫の笄がここに流れ着き、それを守るために、たくさんの鳥が群がり、塚のように見えたのでこの名がついたという。なお羽生も鳥にちなんだ名だという。」
常陸国にヤマトタケル関係の伝承が多いということは前にも書きましたが、今回はオトタチバナヒメに関する伝承。東征に赴いたヤマトタケルに同行し、船が進まなくなってしまった走水で身を投げた女性です。その笄が常陸国に流れ着いたという話。オトタチバナヒメについては『常陸風』にも伝承があるので、ヤマトタケル伝承の一環として常陸国でもその存在が知られていたのだと思います。
『常陸国風土記』 「此より南に相鹿・大生の里あり。古老のいへらく、倭武の天皇、相鹿の丘前の宮に坐しき。此の時、膳炊屋舍を浦濱に構へ立て、はしぶねを編みて橋と作して、御在所に通ひき。大炊の義を取りて、大生の村と名づく。又、倭武の天皇の后、大橘比賣命、倭より降り來て、此の地に參り遇ひたまひき。故、安布賀の邑と謂ふ。」
この伝承も行方郡です。行方郡とは西浦と北浦に挟まれた土地。現在の衛星写真を見ると西浦と北浦をつなぐ川?というか水路があるので半島状に見えますが、その川?水路が古代からあったかどうかは不明です。しかし少なくとも現在は、この行方市や南の潮来市に行くには、北からは普通に入れますが、南からは必ず橋を渡ることになります。
ところで、行方郡ではありませんが、鹿島の方に次のような伝承があります。
平井「常盤橋」 「常盤御前が今若、乙若、牛若の三人の子を連れて、夫の源義朝の後を追って奥州へ行く途中、平井を通過した。その時、小川に橋がなく、村人が橋を架けて渡したという。この橋を常盤橋といっている。」
源義朝とその妻常盤御前の伝承です。
ヤマトタケルと義朝はともに中央からやってきた英雄であると言えますし、「鳥塚橋」「常盤橋」両伝承はそれを追ってきた妻に関する伝承であるという共通点があります。『常陸風』の「相鹿」伝承もそうです。
「中央からやってきた英雄とそれを追ってきた妻の物語」。
このような伝承には義経と静御前の伝承も当てはまるでしょう。単なるロマンスである様にも思いますが、地方と中央との関係性を語る伝承の一環だと考えることもできると思います。
「鳥塚橋」と「常陸橋」は「橋」に関わる伝承ですが、「橋を巡る男女の物語」という側面もあるでしょう。ただ「鳥塚橋」については「橋」の伝承と言うよりは、橋の名前になった地名の伝承という位置付けなので、両者を同列で考えるのは微妙と言えば微妙。  
砂山で死んだ座頭
鹿島郡波崎町「日本一の砂山」
茨城県の東南端で銚子大橋の対岸は千葉県。町の中央部に南北に横たわる砂丘は日本一の砂山といわれてきた。昔、砂山に紛れ込んだ座頭が、夏の暑さで焼け死んだという話も伝わっている。
座頭というのは盲目の琵琶法師などを呼ぶ言葉。『平家物語』を語る盲目の琵琶法師集団「当道座」が元だったそうです。伝承文学の研究でよく取り上げられる「こんな晩」=「六部殺し」で殺されるのは「六部」とされることが多いですが、座頭である場合もあります。
この伝承は非常に断片的で砂山の大きさを強調する以外には解釈できません。
しかし「座頭が死ぬ話」と捉えると長野県に類話があります。
昔、座頭が村人に諏訪へ行く道を尋ねたが、村人が嘘を言ったため座頭は道に迷ってしまった。泣きながら坂をさまよい続けたが遂に日が暮れてしまい、途方にくれた座頭は三味線を持ったまま淵に飛び込んでしまったという。今でもその淵からは、三味線の音が聞こえてくるという。泣きながらさまよった坂を「泣き坂」と呼んでいる。
この伝承で座頭は諏訪を訪れようとしていますが、恐らく諏訪大社の参拝が目的ということだったのだと思います。善光寺ではないです。各地の寺社を回るものだったのでしょうか?だとすれば鹿島神宮に詣でようとして砂山で死んだ、というストーリーが元々あった可能性があります。  
神栖町神之池のおとり手掛け松
神栖町「神之池(ごうのいけ)(別名軽野池・安是湖(あぜのうみ))」
この神之池の溝口に五郎兵衛という漁師が妻と娘のおとりと三人で住んでいた。ある年不漁になると彼は、「おとりを差し上げますから魚をたくさんとれるようにしてください」と願をかけた。大漁になって喜んでいると、大蛇が現われ、約束どおり娘のおとりを連れていった。五郎兵衛のいうおとりとは鳥居の意味だったのだが、娘ととり違えられたのだ。娘は連れていかれるのをいやがって、松に手をかけてふんばった。その松もいつしか枯れてなくなったが、おとり手掛松として今に語り伝えられている。
神栖市は茨城県の海岸沿い、最南端にあります。神之池は現在もあるようですが、工業地帯建設のためにほとんど埋め立てられたそうで、元々の大きさは今の七倍もあったとか。西浦・北浦などとともに霞ヶ浦を形成する湖沼の一つだったと思われます。かつては鯉・鮒・鰻なども生息し、漁業も盛んでしたが、今は釣り人がブラックバスなどをつっているだけだそうです。
娘を連れていかれたのは誤解ではありますが、人身御供伝承・水乞型蛇婿伝承の一種でしょう。誤解されて人身御供を取られるという事例もどこかであった気がしますが、ちょっとすぐには思い出せません。「鳥も鳴かずば撃たれまい」とか近い気がしますが。ただ雨乞いではなくて不漁が原因であるということですから、農業共同体の伝承というよりはあくまでも漁民の伝承ということになるでしょうか。というか霞ヶ浦の場合は水量はかなり多いですから雨乞いの伝承はあまりないかも?でも琵琶湖近辺では雨乞い伝承もありました。余呉湖桐畑太夫の羽衣伝承。霞ヶ浦近辺でも注意しておく必要はあります。
雨乞い伝承と不漁の伝承とはやはりちょっと違うような気がします。雨乞いにこたえてくれる神は天候をつかさどるかなり強力な神だと言えそうですが、不漁を解決する神は「魚の主」のような神格だと思思われるからです。まあ農民でも漁民でも困っている時に助けてくれる神は重要ですし、話型そのものが似ているなら比較するべきだとは思います。ただ、この手の人身御供伝承は数限りなく存在するので今回はパスします。
類話その一。 不漁の為、神社に鳥居を奉納すると約束した後、魚が取れるようになる。だが神が鳥居と娘のおとりを聞き違え大蛇が娘を貰いに来た。娘は抵抗したが力尽きて池に引き込まれたが蛇に姿を変えられて松に巻きつかれた。松を切ると血が出る。おとりの霊を祀る所もある。全く同じ場所の伝承です。ただこちらには「手掛け松」について異なる伝承が伝わっています。蛇に姿を変えられて松に巻き付いたというのは、蛇神と結婚した娘が蛇の姿になるという「夜叉が池伝承」などと同じモチーフです。もう「手掛け」じゃないです。また松を切ると血が出る、ということは松そのものに娘の霊魂が宿っているとも言えます。一方でこの場所は『常陸国風土記』のウナイ松原にも近い場所。つまり「人間が水辺の松に変化した」という伝承が古来から伝わっている場所でもあるのです。話型も登場人物と松との関わりも全く違いますが、奇妙な類似だと言えるでしょう。
類話その二。 大昔、近江の琵琶湖に住む漁夫が、不漁の続く際娘を捧げるかわりに大漁を祈った。すると魚が良く捕れ水神が蛇となって娘をもらいに来た。娘は白鳩になって逃げ出し新島まで追い詰められた。そして逃げ込んだ差地山の躑躅の枝で目をつき、飛べなくなって喰い殺された。こちらは「伊豆七島の伝説」という文章に引用されていたものなのですが、琵琶湖に言及しています。この伝承では猟師がはっきり娘をささげていると言っていますし食い殺されていますから、人身御供伝承と言うしかないですが、娘がそれを拒んだという辺りは神之池伝承と共通しています。またここでは娘が白鳩になるというのが特徴的なモチーフですが、神栖市の「おとり」という名前も「鳥」です。
最後に手掛け松を調べてみましたが、鹿島の伝承が出てきました。神社に鳥居を寄進するので、漁の成功を祈願した。大蛇の神が娘のおとりと、鳥居を聞き間違え、娘のほうを連れ去った。この時、娘が取りすがった木が、おとりの手掛松と呼ばれている。神栖市と鹿島市は隣り合っていますから、ほぼ同じような伝承があるのもうなづけるところではあります。もう一つは宮城県に伝わる「小野小町手掛松」ですが、あまり関係はなさそうです。
更に「血 松」で調べると、全国的にいくつか切ると血が出る松の事例があるが、福島県に二つ気になる伝承があったので紹介します。
どちらも福島県双葉郡のものです。
岩城判官正道公が謀反人として殺され、その夫人は一男一女をつれて放浪していたが、海賊に二人の子を奪われ、後この地で死んだ。海賊に奪われた兄弟と別れ別れになった安寿姫は悪者の手から逃れたが、飢えと疲れで世を去った。これをあわれんだ村人は、なきがらを埋め松を植えて祠を建てたが、ある村人がこの松を切ろうとしたら、切り口から血が流れた。直後には切り口すらなくなって元通りになっていたという。
悪者から逃れた安寿姫が代を去ったところにあった松の木を伐りかけたら紅血がほとばしりだした。ここから朝日が見えるので、血の出松が訛って日の出松になったと言われる。
どちらも「安寿と厨子王」伝承に関わるもので、恐らく同じ松に関する伝承なのだと思いますが、神栖市の伝承と同じく非業の死を遂げた若い女性と関わるものでした。  
荒井クジラ
大野村荒井「荒井クジラ」
「角折ツントデテ ツント流サレタ 荒井クジラニ ダマサレタ 青塚網箱 持出シタ」
「角折、荒井、青塚は大野村の地名で、昔、宝蔵寺の住職が檀家からの布施を無断で使い込んだ。それを知った村人たちは、住職を寺の池にほうり込んで殺した。その後、住職が鯨に生まれ変わり、その怨霊が次々に船を沈めると恐れられた。観音様の縁日には天候がよくても急に曇り出して海難をよんだという。」
海難事故や海難事故の原因となりやすい季節的な気候現象を殺された破戒僧の悪霊が起こしているという伝承群があります。福井県の東尋坊が有名。佐々木喜善『聴耳草紙』に紹介されている「島の坊」も狼藉を働くので殺され、その後不漁になったために供養したという話があります。まあ同系統の話です。
まあいわゆる「海坊主」ですが、ヨーロッパでも破戒僧が人魚になったりします。「荒井クジラ」の伝承もそれらと同じもののように思いますが、鯨に変化して船を襲っているという点は特殊だと思います。
死者が鯨になる話というのは他にもあり、石川県には結構あるようです。「死者が鯨になって帰ってくる」という伝承なのですが、その場合の鯨は人を襲ったりするものではなくて、漁の対象です。北陸の漁村にとっては鯨は神であり漁の対象でもありました。だからありがたい存在です。
それに対して荒井クジラは船を転覆させる化け物鯨。完全に違います。常陸国では鯨を食べなかったのか?食べたにしても北陸ほどの重要性はなく、逆に漁師にとっては危険な動物だったのかもしれません。
海難・水難事故の発生原因は上に書いた「殺された破戒僧」以外に、女性であったりする場合があります。岩手県三陸の「小百合嵐」など。他には海難事故で死んだ人の魂が成仏できずに仲間を増やそうとして嵐を起こす、などという伝承は千葉県にもあります。  
角折の浜
大野村「角折の浜」『常陸国風土記』
「その南に有らゆる平原を角折の濱と謂ふ。謂へらくは、古、大きなる蛇あり。東の海に通らむと欲ひて、濱を堀りて穴を作るに、蛇の角、折れ落ちき。因りて名づく。」
「或るひといへらく、倭武の天皇、此の濱に停宿りまして、御膳を羞めまつる時に、都て水なかりき。即て、鹿の角を執りて地を堀るに、其の角折れたりき。この所以に名づく。」
常陸国で有角の蛇と言えば真っ先に思い出すのは、同じく『常陸国風土記』の「夜刀神」です。
「夜刀神」は行方郡の話ですが、角折とは北浦を挟んですぐの位置関係にあります。というか「行方郡の夜刀神が海に出ようとして」という話として普通に読めるぐらいの近さだと思います。方角もあっていますし。
もう一つ、後半の伝承はヤマトタケル伝承です。
『常陸風』でヤマトタケルが「天皇」と呼ばれているのは常識なのですが、その理由についてあまり納得のいく説明を聞いたことはありません。
「水がなかったので、鹿の角で地面を掘る」というのは泉を湧出させるための行動です。これで泉が湧き出れば泉の起源の伝承で終わりだったのですが、鹿の角が折れてます。角折という地名の起源を語る伝承ではあるのですが、どちらも地面を彫ろうとして角を折っている点は注目すべきでしょう。  
大洋村の観音堂
大洋村汲上「観音堂」如意輪観音
「この観音は昔、汲上の海岸へ薦に包まれて流れ着いたものだという。初めは難破船の破片だろうとだれも相手にせず、村人が斧で割ろうとしたら不思議な光を放った。よく見ると観音像だったので、村人たちは驚いてお堂を造り、この観音像を安置した。観音堂は初め東向きだったが、沖を通る船が観音堂の前を通過する時、帆を下げないと停止して困るので、西向きにした。するとこんどは参道の前を通る馬が歩けなくなってしまった。それ以来、馬を引く人は必ず降りて、観音様に参拝して通ったという。」
川から上がる仏像というモチーフは非常に古く、『日本書紀』には既にありますし、『霊異記』や『今昔』にもあったと思います。またそれに付随したもちーふとして「単なる材木かと思ったら光った」というものがあります。仏像は光るもの、という認識があったのだと思われます。
ただこの伝承そのものは木材が流れてきたわけではなくコモにまいた観音像が流れてきています。だから彫刻を彫る人(僧侶など)は登場しません。
船や馬を停めてしまうというモチーフもけっこうあります。『遠野物語』か『拾遺』にもあったと思うのですがちょっとすぐには見当たらりません。琵琶湖竹生島には船を停めるというのがありました。
香川の事例に馬が立ちすくむ馬頭観音堂の事例があり、秋田では乗っている人を振り落すという事例がある。単に神の霊威を表す表現で、地域性はないと思います。
場所は地図で見ると海岸にごく近い所です。北浦と海に挟まれている細いところです。つまり東は海。元々は東福寺というお寺の堂宇の一つだったそうですが、その東福寺は明治時代に火災で焼失したそうです。その時に観音堂を建て替えた、というわけでもないようですが。
本尊の如意輪観音は平安初期とのことで、関東の田舎とは言え既に仏教の信仰がかなり入っていたことがわかります。本尊の開帳は2月18日と8月9日でお祭りもあるそうです。  
鳥栖の親鸞伝承
鳥栖(とりのす)「浄土真宗無量寿寺」
「承久三年(一二二一)、地頭の村田刑部少輔平高時の妻が十九歳で難産のため死んだが、魂魄はこの世にとどまった。ちょうど親鸞上人が鹿島神宮へ参詣の途中、経塚を築き供養し霊を慰めた。これが女人成仏御経塚である。これと同類の話は鳥栖の教信寺、上富田の無量寿寺にも伝えられている。なお鳥栖には姥捨伝説の捨亡窪もある。」
茨城県には親鸞の伝承が結構あります。
常陸太田市 「平将門の乱で敗れた武将のお姫様が奥州に逃げる途中で死んでしまい、7人の家来もそこで切腹した。親鸞上人が哀れがり、そこにぼだい樹を植えた。それが話者の家のぼだい樹で、枝を折ると災難があると言う。ある人がぼだい樹から蜂の巣をとったら、話者の妹がひきつけをおこした。行者にお祓いしてもらったら治った。」
西茨城郡西山内村 「稲田の西念寺には、親鸞上人が越後から突いてきた杖が成長して杉の大木がある。この他に鹿島の神が賜った杖をもって水を湧き出させたという話もある。」
鹿島郡鉾田町 「額に両角のある鬼となった婦人安鬼がいた。嫉妬深いので婿も嫌になり家を出た。追いかけてきた安鬼は親鸞聖人にあった。聖人は気の毒に思って読経を続けると、角が折れ、柔和になり家庭も円満になった。安鬼はそれから急に亡くなったが、埋葬した所が安塚である。」
常陸太田市の伝承は鳥栖の伝承とも通じます。女人往生を唱えた親鸞にはふさわしい伝説だと思いますが幽霊に得度したという辺りが特殊でしょう。本来ならば成仏できない霊魂をも成仏させる。それが親鸞伝承の傾向だと思われます。
西山内村の伝承に鹿島の神が登場していますが、当時鹿島神宮は関東一の経典収蔵量を誇っていたそうで、親鸞は何度も訪れていたそうです。鹿島神宮内から出土した経文が書かれていた石は「親鸞上人の経文石」と呼ばれているそうです。
鉾田町は鳥栖の近くですが、「両角のある婦人」というのはかなり意味深です。二つの角というのは鹿の角ではないのか?鹿の角の生えた婦人というのは、鹿の子供であるという伝承のある光明皇后や和泉式部を思わせます。
それにしてもこの伝承では別に死んで鬼になったわけではないのです。生きたまま鬼になったという話です。それを読経によって解決したわけですが、これは完全な現世利益的な解決です。  
白鳥郷
鹿島郡大洋村札「白鳥郷」『常陸国風土記』
「郡の北三十里に白鳥の里あり。古老のいへらく、伊久米の天皇のみ世、白鳥ありて、天より飛び來たり、僮女と化爲りて、夕に上り朝に下る。石を摘ひて池を造り、其が堤を築かむとして、徒に日月を積みて、築きては壞えて、え作成さざりき。僮女等、白鳥の羽が堤をつつむとも粗斑眞白き羽壞え。かく口口に唱ひて、天に升りて、復降り來ざりき。此に由りて、其の所を白鳥の郷と號く。」
白鳥が処女になる伝承ではあるのですが、結婚とかありません。なぜか石を拾って堤を作ろうとしています。理由はよくわかりません。
「完成しない建造物」のモチーフというと、夜のうちに建造物を完成させるという賭けをして、結局鶏の鳴き声を聞いて未完成のままになってしまった、という話があります。『大系』の話型で言うと「弘法大師の彫残し」だと思いますが、それもやはりちょっと違います。
「永遠と無駄なことを続けている鳥」というモチーフでは、『山海経』の精衛伝承を思い出しました。精衛はカラスに似た鳥だと言いますが、元は炎帝の娘だったといいます。しかし東海に遊んだ時不幸にも溺死してしまう。その後鳥になったのですが、西の山から石や木の枝を拾ってきて海に捨てる。大海を埋めようとしている、と言われていますが、自分が死ぬ原因となった海を憎んで、ということでしょうか?
白鳥郷の伝承では白鳥たちの行動の原因は不明なので、直接関係があるとは思えませんが、やはり似ているような気がします。まあ白鳥郷の場合はあきらめて帰ってしまうので、違いもありますけど。
弁慶と鐘
鹿島鉄道鉾田駅付近「七日原・八日の堤」
「昔、弁慶がここから男女二つの鐘をひきずって原野を横断し、上太田まで七日、そこから大谷川を越えて田崎まで着くのに八日間かかった。全行程たったの四キロであったが、弁慶の苦労を後世に伝えるため、七日原、八日の堤などの地名が生まれたという。」
土浦市の事例 「弁慶は盗み出した金を積んで船で霞ヶ浦を渡ろうとしていたが、三又沖で急に風が吹いて船が転覆しそうになる。そこで金を湖中に沈めたところ風も止んで天気も良くなった。今も鐘は湖中にあり、嵐の夜に耳を澄ますと鐘の音が聞こえる。」
愛知県の事例 「釣鐘松の近くの田の中に弁慶の持って来た釣鐘が埋まっている。今でも折々は地の底から鐘音が聞えることがある。」
共通しているのは、「鐘の音が聞こえる」ことです。鐘の姿は現在では確認できませんが、環境の問題で鐘の音のような音が聞こえる場所があり、そこに鐘が埋まっているor沈んでいる、などという伝承が生まれたのだと思います。
しかし「七日原・八日堤」の伝承では、地名起源伝承にはなっていますが、鐘の音については言及されていません。
鐘、というとお寺の鐘を想像するのが普通でしょう。弁慶ならばお寺の大きな鐘も一人で運べたはず。鐘の伝承に怪力の僧侶というのは配役としては正しいです。
ただ、それではその鐘の出所は重要ではないのか?上記の伝承にはありませんが、調べてみたところ、この「七日原・八日堤」伝承の鐘は国分寺の鐘らしいです。
「平安時代の終わりごろ、石岡国分寺の僧が鐘を造るため諸国に寄付を求めて歩いたとき、ある池のほとりで白蛇が姫の姿であらわれ男女二つの鐘を松の木にかけて姿を消したという。その鐘の運搬を弁慶が引き受けた。七日目に通ったのが上釜の七日原、八日目に通ったのが上太田の八日堤など、今でも伝説が地名で残っている。」
「石岡国分寺」とありますが、常陸国国分寺です。
この鐘については他にも伝承があるようです。上記土浦市の話も弁慶ではなく単なる盗賊の話として、その常陸国国分寺の鐘伝承の一部だったようです。
問題はなぜ弁慶の話になったのか?ということですが、上にも書いたように連想によって弁慶が想起されただけとも言えます。しかしそれだけでしょうか?
常陸国は陸奥への通り道に当たります。
筑波山の「弁慶七戻の岩」も有名ですし、猿島郡には静御前の伝承もあります。ちょっと意外でしたが、茨城県には源義家の伝承が結構あります。ついでに田村麻呂が「悪路王の首」を奉納したという神社もあります。
現実問題、東北へのルートとして常陸を通ったのかどうか、私にはわかりません。しかし栃木や群馬の山を越えていくよりは常磐道を通ったほうが格段に楽だと思います。そういう意味では東北とつながる土地であると言えそうです。
しかし茨城県と東北、特に岩手県とは他にも共通点があるような気もします。
それは古代社会において中央に反旗を翻した反逆の英雄が存在していることです。
奥州安倍氏と平将門です。まあ将門は調べてみると、朝廷が勝手に震え上がっていただけで、そんなに明確な反逆の意志や勢力があったわけでもないみたいなんですが。
また陸奥も常陸も鄙でありながら、中央とは異なる繁栄を築いていた場所だったとも言えます。まあ豊かな土地柄を背景にして土着の勢力が生じたのだとも言えるのですが。
さらに、茨城県=常陸国の魅力は古代の風土記が残っているということです。五風土記のうち、常陸を除く四か国は濃淡はあれどヤマトの成立にも大きく影響を及ぼした可能性の高い土地柄です。しかし常陸は違います。ヤマト成立後に組み込まれた可能性が高い。その意味では日本国成立最初期における一つの「辺境」であったと言えます。
「辺境」がどうやって国家に組み込まれ「内部」化していくのか?それを古代において探れるのは常陸国を置いてほかにありません。さらに後代にも決して中心化することなく、「辺境」への経路であり続けた常陸国。結構、面白い研究対象だと思います。
磯節
この唄の元は《イッチャ節》という酒盛り唄であるとも、大洗あたりの海岸の漁師が歌っていた《艪漕ぎ唄》ともいいます。それが那珂湊あたりの花柳界で歌われ、また大洗の祝町の渡辺精作(竹楽房)という俳句の宗匠が、今日の形に近いものをまとめたといいます。
○ 磯で曲り松 湊で女松(めまつ) 中の祝町 男松
と歌われている大洗・祝町は、願入寺の寺領が開放され、海の男相手の花街になったところといいます。
更に、那珂湊の置屋の藪木萬吉(ゲタ萬)が今日のものにし、三味線の手も編み出したようです。その娘、水戸の花柳界の金太が歌う節回しが、現在よく知られているもののようです。現在よく耳にするものよりも、ややテンポが遅く、しっとりとした唄でした。
一方、《磯節》を広めた関根安中も忘れられません。彼は明治10年生まれで、大洗で鍼医をしていました。ところが、水戸出身の横綱・常陸山に見いだされ、彼は安中をたいこもちとして、各地の巡業に連れて歩き、先々で《磯節》を歌わせたといいます。なお関根安中の歌う《磯節》は、割合野性的な唄でした。
大洗町と那珂湊とは那珂川を挟んで、向かい合っている場所です。「磯で名所は大洗様の…」と歌われた大洗様とは、大洗海岸を見下ろす場所にまします大洗磯前神社です。また海岸沿いの大洗町観光協会の裏には、「磯節発祥の碑」があります。字は西條八十の書による《磯節》の歌詞が書かれています。また、この場所に立つと、両脇にあるスピーカーから、関根安中演唱による《磯節》の録音が流れ出します。
大洗の祝町、願入寺あたりも歩いてみましたが、現在とても静かな佇まいの町並みで、往時をしのぶ雰囲気はありませんでした。また那珂川を挟んだ、ひたちなか市那珂湊は海の町!といった佇まいでした。那珂湊は天満宮の八朔祭で知られます。

(ハーサイショネ)
磯で名所は 大洗様よ (ハーサイショネ) 松が見えます ほのぼのと 
(松がネ)見えますイソ ほのぼのと  ※ 以下唄ばやし同様
三十五反の 帆を捲き上げて 行くよ仙台 石巻 (行くよネ)仙台イソ 石巻
船はちゃんころでも 炭薪(すみまき)ゃ積まぬ 積んだ荷物は 米と酒 (積んだネ)荷物はイソ 米と酒
荒い波風 やさしく受けて 心動かぬ 沖の石 (心ネ)動かぬイソ 沖の石
ゆらりゆらりと 寄せては返す 波の背に乗る 秋の月 (波のネ)背に乗る 秋の月
葵の御紋に 輝朝日かげ 薫も床しい 梅の花 (薫もネ)床しいイソ 梅の花
あれは大洗 大洗松よ 鹿島立ちして 見る姿 (鹿島ネ)立ちしてイソ 見る姿
あまの小舟の わしゃ一筋に 主を頼みの 力綱 (主をネ)頼みのイソ 力綱
当たって砕けて 別れてみたが 未練でまた逢う 岩と波 (未練でネ)また逢うイソ 岩と波
朝日昇るよ 神磯上へ 降りて鎮まる 大洗 (降りてネ)鎮まるイソ 大洗
磯や湊の 東雲鴉 来ては泣いたり 泣かせたり (来てはネ)泣いたりイソ 泣かせたり
磯で曲り松 湊で女松(めまつ) 中の祝町 男松 (中のネ)祝町イソ 男松
磯の鮑を 九つ寄せて これが九貝(苦界)の 片想い (これがネ)九貝のイソ 片想い
行こか祝町 帰ろか湊 ここが思案の 橋の上 (ここがネ)思案のイソ 橋の上
色は真っ黒でも 釣竿持てば 沖じゃ鰹の 色男 (沖じゃネ)鰹のイソ 色男
岩に寄りつく 青海苔さえも 好かれりゃ焼いたり 焼かせたり (好かれりゃネ)焼いたりイソ 焼かせたり
羨ましいぞえ あの碇綱 みずにおれども 切れやせぬ (みずにネ)おれどもイソ 切れやせぬ
沖にチラチラ 白帆が見ゆる あれは湊の 鰹船 (あれはネ)湊のイソ 鰹船
沖の漁火 三つ四つ五つ 月の出潮に 見え隠れ (月のネ)出潮にイソ 見え隠れ
沖の暗いのに 苫とれ苫を 苫は濡れ苫 とまとれぬ (苫はネ)濡れ苫イソ とまとれぬ
沖の瀬の瀬の 瀬で打つ浪は みんなあなたの 度胸さだめ (みんなネ)あなたのイソ 度胸さだめ
沖の瀬の瀬の 瀬の瀬の鮑 主さんが取らなきゃ 誰が取る (主さんがネ)取らなきゃイソ 誰が取る
沖に見ゆるは 大亀磯よ 鶴も舞い来る 真帆片帆 (鶴もネ)舞い来るイソ 真帆片帆
沖の鴎に 汐どき聞けば 私ゃ立つ鳥 波に聞け (私ゃネ)立つ鳥イソ 波に聞け
沖の鴎と 芸者のつとめ 浮いちゃおれども 身は苦界 (浮いちゃネ)おれどもイソ 身は苦界
沖で鰹の 瀬の立つ時は 四寸厚みの 櫓がしなう (四寸ネ)厚みのイソ 櫓がしなう
思い重ねて 波打つ胸に 春の南東風(いなさ)が 肌をさす (春のネ)南東風がイソ 肌をさす
親のない子と 浜辺の千鳥 日さえ暮れれば しをしをと (日さえネ)暮れればイソ しをしをと 
海門橋とは 誰が岩船の 恋の浮名も 辰の口 (恋のネ)浮名もイソ 辰の口
君と別れて 松原行けば 松の露やら 涙やら (松のネ)露やらイソ 涙やら
君を松虫 涼みの蚊帳に 更けて差し込む 窓の月 (更けてネ)差し込むイソ 窓の月 
恋の那珂川 渡しを止して 向こうへ想いを 架ける橋 (向こうへネ)想いをイソ 架ける橋
心残して 湊の出船 揚がる碇に すがる蟹 (揚がるネ)碇にイソ すがる蟹
心寄せても さきゃ白波の 磯の鮑の 片想い (磯のネ)鮑のイソ 片想い
咲いてみしょとて 磯には咲けぬ 私ゃ湊の 浜の菊 (私ゃネ)湊のイソ 浜の菊
実の平磯 情けの湊 男伊達なる 磯の浜 (男ネ)伊達なるイソ 磯の浜
白む沖から 朝霧分けて 夜網上げくる 流し船 (夜網ネ)上げくるイソ 流し船
潮風吹こうが 波たたこうが 操かえない 浜の松 (操ネ)かえないイソ 浜の松
汐どきゃいつかと 千鳥に聞けば 私ゃ立つ鳥 波に聞け (私ゃネ)立つ鳥イソ 波に聞け
汐は満ち来る 想いはつのる 千鳥ばかりにゃ 泣かしゃせぬ (千鳥ネ)ばかりにゃイソ 泣かしゃせぬ
すがりついても 主ゃ白波の 磯の鮑で 片想い (磯のネ)鮑でイソ 片想い
底の知れない 千尋の海に 何で碇が おろさりょか (何でネ)碇がイソ おろさりょか
浪が打ち寄る 磯辺の月に 泣くは千鳥と わしばかり (泣くはネ)千鳥とイソ わしばかり
涙隠して 寝る夜はともに 浜で千鳥が 泣き明かす (浜でネ)千鳥がイソ 泣き明かす 
泣いてくれるな 出船の時にゃ 沖じゃ櫓櫂が 手につかぬ (沖じゃネ)櫓櫂がイソ 手につかぬ
西は広浦 東は那珂よ 漁る蓑着に 水焔る (漁るネ)蓑着にイソ 水焔る
原山並木が 何恐かろう 惚れりゃ三途の 川も越す (惚れりゃネ)三途のイソ 川も越す
平磯沖から 帆を巻き上げて 那珂の川口 走り込む (那珂のネ)川口イソ 走り込む
人の前浜 何怖かろう 入道山さえ 越えて行く (入道ネ)山さえイソ 越えて行く
更けて琴弾く 浜松風に 鼓打ち合う 浪の音 (鼓ネ)打ち合うイソ 浪の音
船の戻りが 何故遅かろう ちょうど東南風の 送り風 (ちょうどネ)東南風のイソ 送り風
船は千来る 万来る中で わしの待つ船 まだ来ない (わしのネ)待つ船イソ まだ来ない
船底枕で 寝る浜千鳥 寒いじゃないかい 波の上 (寒いじゃネ)ないかいイソ 波の上
湊とまりに 入り来る船は 夢も静かな 舵枕 (夢もネ)静かなイソ 舵枕
水戸を離れて 東へ三里 波の花散る 大洗 (波のネ)花散るイソ 大洗
水戸の梅が香 どこまで香る 雪の桜田 御門まで (雪のネ)桜田イソ 御門まで 
山で赤いのは 躑躅に椿 咲いて絡まる 藤の花 (咲いてネ)絡まるイソ 藤の花
私ゃ平磯 荒浜育ち 波も荒いが 気も荒い (波もネ)荒いがイソ 気も荒い
私とあなたは 酒列磯よ 世間並みには 添われない (世間ネ)並みにはイソ 添われない 
春の曙 見渡す船は 浪も静かに 帆を上げて (来るよネ)鮪のイソ 大漁船
夏の夕暮れ 千船の帰帆 釣った鰹は 朝鰯 (あれはネ)湊のイソ 大漁船
秋は広浦 船行く空も 晴れて嬉しき 月今宵 (招くネ)尾花をイソ 女郎花
冬枯れ寒さに 彩る浪は どこに群がる 大鰯 (獲ってネ)五反のイソ 萬祝
水戸で名所は 偕楽園よ 梅と躑躅に 萩の花 (月のネ)眺めはイソ 千波沼
月の姿に ついほだされて 鳴くや千波の 渡り鳥 (鳴くやネ)千波のイソ 渡り鳥
深き思いの あの那珂川に 水に焦がれて のぼる鮭 (恋はネ)浮名をイソ 流し網
平磯名所は 磯崎岬 君が建てたる 観濤所 (下にネ)護摩壇イソ 神楽岩
浪に浮かれた 鰯の色は 沖で鴎が 立ち騒ぐ (舟でネ)鴎がイソ 立ち騒ぐ
昇る朝日に 白帆が見ゆる あれは函館 鰊船 (摘んだネ)荷物はイソ 那珂湊
春の出初めに 白帆が三艘 初め大黒 なか恵比須 (あとのネ)白帆はイソ よろずよし
新艘おろして 七福神が 大漁祝いも 初日の出 (鶴とネ)亀とがイソ 舵を取る
もしや来るかと わが胸騒ぎ 惚れりゃ風にも だまされる (憎やネ)嵐がイソ 戸を叩く 
霞ヶ浦の生い立ち
1 古代、中世の「霞ケ浦」
「霞ヶ浦」という名前 「かすみがうら」という名称は、『常陸国風土記』(710年代の編纂)に載る「香澄郷」(かすみのさと、潮来市牛堀とその周辺に比定)に由来するといいます。『風土記』には「大足日足天皇(景行天皇)が、下総国印波の「鳥見の丘」(現利根川南岸の台地だが比定地に諸説あり)から東を望まれ、お付きのひとに『海には波がゆったりただよい、陸には霞が朦朧とたなびいて、朕には(香澄郷のある)国が霞と波の中にあるように見える』と仰せられたことから、当時の人びとはこの地を「霞の郷」と言っている」(意訳)とあります。「かすみ」は気象現象の霞ですが、「神住」(かみすみ、加住)、「浙み」(かすみ、水に潤うこと)とする説もあるようです。
霞ケ浦はむかし「霞の浦」と呼ばれたようです。たとえば
仄かにも 知られてけりな 東なる 霞のうらの あまのいさり火 (順徳院 新後撰和歌集(1301年編纂))
のように、平安末期から鎌倉時代に詠まれた多くの歌に「霞のうら」が登場するので、「霞の浦」は都人(みやこびと)に伝聞として広く知られていたと思われます。「霞の浦」が「霞が浦」になったのは江戸時代らしく、歌枕の「霞関」も中世の「かすみのせき」が江戸時代に「かすみがせき」ち詠んだそうです。「の」を「が」に置き換えるのは関東訛りと言います。
「霞浦」を「カホ」と音読みにすれば西浦の雅称で、旧制土浦中学校の校歌に「カホの水」とあり、今は消えた霞浦劇場もカホ劇場と称していました。墨田川(隅田川)の川堤を江戸の文化人が墨堤(ぼくてい)と呼んだようなものでしょう。
流海・内海・香取海
『常陸国風土記』の行方郡の条は、「行方郡、東南(西)並流海、北茨城郡」とはじまり、このことから奈良時代の西浦、北浦が「流海」(読みはウミ、ナガレウミ、リュウカイ)と認識されていたことが分かります。赤松宗旦(現利根町の人)の『利根川図志』(1855年ころの著作)に『仙覚抄』(万葉集註釈、成立は1266〜69、鎌倉時代の天台僧仙覚律師の著作)からの引用として「常陸の鹿島の崎と下総の海上(うなかみ)との間から遠くまで入り込んだ海があり、先は二流に分かれる。風土記はこれを流海(りうかい)といったが、いまの人は「内の海」という。この海の一流は鹿島郡と行方郡の間に入り、もう一流は、北は行方郡、南は下総国との境を経て信太(しだ)郡、茨城郡まで入り込む。この内の海は、ことに満ち潮のとき波が遡るので浪逆浦という」(意訳)とあるので、風土記時代の「流海」は室町時代に「内の海」(内つ海、浪逆浦)と呼ばれたようです(文中の海上は現在の利根川河口付近両岸から神の池あたりまでを含む古い郡名、信太郡は現在の阿見町・美浦村の全域と土浦市・稲敷市・牛久市の一部にまたがる郡名、中世の茨城郡は現在の石岡市、かすみがうら市の一部を含む)。
狭義の霞ヶ浦の別名は西浦で、西浦の東に北浦があります。現在の香取市北佐原から稲敷市の旧東町地区を含む「内の海」の中心部は中世に「香取海」(かとりのうみ)、「香取浦」と呼ばれた浅い海で、香取海は鹿島流海(北浦)、香澄流海(西浦)に続いていました。香取海では平安時代の末期から海夫(かいふ、漁業水運従事者)が活躍し、彼らは香取神宮大宮司の支配下にあったそうです。香取海からみると北浦は北に、西浦は北西にあります。『利根川図志』の「香取浦」の項に「香取志(小林重規著、1833年序の書物)いう、この海の西は利根川に続き、東は銚子に10 余里、北は潮来に1里余、北西は「霞か浦」に10 里余、北東は鹿島、息栖に3里という大河なので、昔から渡り難い浦とされており、香取の浦、香取の海、香取の沖などを詠む古歌が多くある」(意訳)とあります。印旛沼(印旛浦)も香取海に続く入り江でした。
榎浦・谷原・常陸川
香取海の西は「榎浦」(えのうら)と呼ばれる内海でした。『常陸国風土記』に「信太郡、北信太流海、南榎浦流海」とあります。いま榎浦は堆積土砂で埋まり、新利根川両岸の水田地帯になっています(大重沼、平須沼、大浦沼などを榎浦のなごりと見ることができる)。榎浦の西、現在の龍ヶ崎市・利根町・河内町・印西市などにまたがる低地は『風土記』で「葦原」、のちに「谷原」(やわら、埜原)と呼ばれる帯状の湿地帯で、『風土記』に鹿の多いことが書かれており、奈良時代には鹿が住める程度に陸化が進んでいたと思われます。谷原には毛野川(衣河、絹川、明治以降は鬼怒川と記す)が注ぎました。谷原の西、現在の守谷市・柏市の間から菅生沼あたりまでの低地は「藺沼」(いぬま)という細長い湿地帯でした。
「藺沼」の上流(現坂東市方面)は多くの池沼(大正時代に干拓された大山沼(前林沼)・釈迦沼(水海沼)・長井戸沼・鵠戸沼(くぐいどぬま)など)の落ち水を集める帯状の沼沢地帯で、平将門が活躍した平安時代に「東の広河、広潟」(あずまのひらかわ、ひらかた)、室町時代に「常陸川」(ひたちのかわ)と呼ばれたようです(常陸川はいま利根川の河道です)。古代から中世の霞ケ浦水域は香取海を中心に北と西に深く入りこむ浅い内海で、西の入り江の奥は帯状の湿地帯だったのです。
榎浦のあたりがごく浅い内海であったことを物語るものに『今昔物語集』(1120年代ころの成立と言う)の巻二十五(第九)に載る「源朝臣、平忠恒を責むる語」があります。今は昔、常陸守に任じられた源頼信は、下総でわがままに振る舞う平忠恒を攻めようと軍勢を整え、衣河の尻まで来ると、そこは「海の如し」で、渡しの舟はみな隠されていました。忠恒の館はこの内海をはるかに入り込んだ向こうにあり、陸路を回れば7 日もかかって急襲できません。頼信は、どうしたものかと思案中、ふと「この海には渡る幅一丈ばかりの道がある」との家伝を思い出し、「誰か道を知るものはないか」と家来に問うと、真髪高文という者が「私はたびたび渡りましたのでご案内しましょう」と答え、従者に葦(あし、ヨシ)一束を持たせて馬に乗り、うしろに葦を挿し挿し渡ります。葦を頼りに軍勢が続くと、途中泳ぐところが二ヶ所あったものの、全員無事に内海を渡ることができたというのです。
この浅い内海は年月をふるに従って徐々に埋まってゆき、家康が江戸に入った1590年には一部の開田が可能となっていました。『利根川図志』の「十六島」の項に「本名新島 香取浦の洋中にある。香取志いう、何百年か経つうち洋中に自然に州ができ、年を経るごとに大きくなった。ここに天正18年(1590年)水陸田を開き、まず上島が完成」(意訳)とあります。  
2 霞ケ浦の誕生
湖岸の地層
霞ケ浦のまわりは、南東部にある香取海由来の低地を除くとみな台地です。台地は新治(にいはり)台地・筑波稲敷(つくば・いなしき)台地・行方(なめがた)台地・鹿島(かしま)台地に区分され、これらをあわせて常陸台地、千葉県側(下総台地)を含めて常総台地と呼びます。台地の末端はたいてい崖です。崖に露出する地層を見ると、表面の黒土(土壌)の下に赤土の層があり、その下に砂礫や粘土の層が重なって、さらに下は比較的きれいな砂の層(貝殻が混じる)になっています。地質の専門家は赤土の層を関東ローム層、砂利混じりの層(竜ケ崎層)と粘土層(常総粘土層)を合わせて常総層、比較的きれいな砂の層を成田層と呼んでいます。成田層は下総層群と呼ばれる地層群の最上部にあたります。
地質学では、およそ260 万年前から現在までを「新生代第四紀」と呼びます。第四紀は今から約1 万年前まで(最終氷期の終わり)の「更新世」と、その後の「完新世」に分けます。湖岸の崖をつくる地層はすべて更新世の堆積物で、その堆積は霞ケ浦の誕生に深くかかわっています。
古東京湾
放射性同位元素の分析などから、成田層の貝殻が12 万年〜14 万年前の堆積物であると分かっています。矢部長克(やべ・ひさかつ、1878〜1969、わが国地質学の先駆者のひとり)は、成田層が北は常総台地から南は横浜の台地まで広く分布することに着目し、関東平野の一帯に広がり現在の鹿島灘方面に開く海湾を想定して、これを「古東京湾」と名づけました。その後、さまざまな調査が進んで、今では霞ケ浦誕生の道筋を、およそ次のように考えています。
第四紀のはじめごろ、関東平野の一帯は房総半島の先端部と三浦半島の一部を残して海の底でした。上総海盆(かずさかいぼん)と呼ばれるこの海底地形の東縁は1000m 級の深海となって太平洋に続いたようです。200 万年ほど前になると、南部の海底が隆起して三浦半島が陸化するとともに、房総半島の南半が島となりました。このため三浦半島〜房総島の北側にあたる現在の関東平野の一帯は広い海湾となります。これが古東京湾で、古東京湾地域の堆積物が下総層群です。
下総層群には4つの不整合面(層と層の重なりが乱れる面)があります。不整合面は海底の堆積層が陸化し浸食を受けて表面がでこぼこになり、その上に新しい堆積物が積もってできたと考えられます。繰り返しやってきた氷期の海面は現在より80m から100m〜130m ほど低く、間氷期には海面が上昇したので、古東京湾の浅海底は陸化と水没を繰り返したのです。氷期に海面が低下し浅海底が離水して海岸平野になると地表面は浸食され、その上に山地から延伸してきた川が砂礫を運び込みます。間氷期に海面が上昇すると砂礫層は海面下に沈み、その上に内湾性の泥が、続いて外洋性の砂が積もります。しかし、つぎの海退期になると、海はまた浅くなって浅海底に泥が堆積するようになり、離水すれば堆積面が浸食を受けます。海進と海退の繰り返しにともなって下総層群が堆積したのです。いちばん新しい海進期の堆積層が成田層です。
下末吉海進と北浦の誕生
成田層が堆積した12〜13 万年前を中心とする海進を下末吉海進(「しもすえよし」は横浜市鶴見区の町名)と呼びます。古東京湾は下末吉海進より前から現在の西浦方面に達しており、西浦の北西部は海底谷の中にありましたが、下末吉海進で湾岸は涸沼方面に北進しました。石岡市街の北西、標高40m ほどの地点にある「波付き岩」は、この時代の汀線の跡です。かすみがうら市崎浜の牡蠣殻層(かきがらそう)は、この時代の浅瀬で形成されたものです。
下末吉海進のころ、古東京湾の東部(湾口付近)の海底が帯状に隆起しはじめました(鹿島・房総隆起帯)。この隆起が水の疎通を妨げて、古東京湾は閉鎖性を強めたようです。隆起帯の一部はやがて南北に並列する2 本の帯となって離水し、台地となりました。この台地が現在の鹿島台地と行方台地です。ふたつの隆起帯に挟まれた区域は沈降して細長い谷となります。この谷が北浦の原型です。
古鬼怒川三角州 下末吉海進はおよそ10 万年前に終わり、海退の時代となります。8〜10 万年前の西浦一帯は広い潟で、この潟に古鬼怒川(鬼怒川の前身)が山地から土砂を運んで堆積させ、大きな鳥趾状三角州を形成しました。この三角州が新治台地と筑波稲敷台地の起源で(小野川や一之瀬川・菱木川は鳥趾指の間の低地を流れる)、三角州をつくる堆積物が常総層です。このころ火山活動が活発となり、古箱根火山などから飛来した火山灰が潟の水底に積もって常総粘土層となりました。
古鬼怒川の浸食谷
およそ3万年前に最終氷期が訪れて海面はさらに低下し、同時に古東京湾地域の地盤が急速に隆起しはじめます。このため古東京湾の海底は平坦な台地にかわり、台地には山地から延伸してきた河川が谷を刻みました。そのころ那須・男体・榛名・赤城・浅間などの火山活動が活発になって多量の火山灰を噴出し、飛来した火山灰が台地面に積もりました。この火山灰層が現在の赤土(関東ローム層)です(ローム層は陸成の火山灰層、粘土層は水成の火山灰層です)。
西浦で行われた湖底ボーリング調査は、現湖底の下約20m に幅広い樋状の平坦面が埋まっていることを明らかにしました。平坦面には2 本の谷が刻まれ、谷底は現在の湖面下約50m に達しています。平坦面に載る礫は安山岩・石英斑岩など鬼怒川上流域に分布するもの、谷底の礫は花崗岩など筑波山方面に分布するものです。このことから、およそ2.9 万年前(礫に挟まる材について年代測定、もう少し早い時期かもしれない)に古鬼怒川が現在の古里川低地(旧大和村)から桜川〜西浦〜鹿島灘(河口は現在の軽野の先あたり)の筋を流れて樋状平坦面を形成したと考えられました。桜川低地と霞ケ浦で採掘されてきた砂利(土浦礫層)は、この時代の古鬼怒川が山地から運びこんだものです。
およそ2 万年前(最終氷期の最盛期)になると古鬼怒川は元の小貝川筋に戻り、古鬼怒川が作った平坦面を桜川と恋瀬川の原型が流れるようになります。そのころの海面は現在より80mほど低く、古東京湾は消滅していたので、桜川と恋瀬川の原型が樋状平坦面を海側から深く掘り込んで2 本の溝を刻んだのです。最終氷期は1 万数千年前に終りに近づき、海面が上昇して古鬼怒川が作った凹地を海水が満たしはじめます。こうしてできた海湾が西浦の原型です。そのころの気候は温暖化と寒冷化を繰り返し、およそ1.1 万年前(海面は現在より約40m 低い)の西浦は広い沼沢地だったようで、繁茂していた植物の遺骸が泥炭層(厚さ約1m)となって湖底に埋もれています。
古鬼怒湾(縄文海進)
その後も温暖化が進んで海面は上昇し、約6 千年前の海面は現在より3mほど高くなりました。この海進を「縄文海進」(有楽町海進)、縄文海進で古鬼怒川旧河道にできた海湾を「古鬼怒湾」と呼びます(東京湾側には「奥東京湾」が形成されます)。海進の最盛期はおよそ5000年前(縄文時代中期)で、3000年前(縄文後期から晩期)になると気候は弥生の小寒冷期に向かい、海は退きはじめます。この海退のようすは周辺の台地に分布する貝塚を年代別に整理することで追跡されています。海退期の古鬼怒湾では河川が運び込む土砂が湾口に堆積し、また海砂が潮汐三角州をつくって湾口を塞ぎました。このため古鬼怒湾は湖沼の性質を強めます。西浦の湖心で堆積が進み始めたのは約2500年前(弥生時代早期)と推定されています。
気候が寒冷化に向かうと樹林(木の実や狩猟動物)が変るとともに、海が退いて浅海性漁労が困難になりました。これを契機に縄文から弥生への生活様式転換が進んだとされています。海退で奥東京湾は消滅し、海岸線はほぼ現在の東京湾岸まで退きましたが、古鬼怒湾側では霞ケ浦が残り、漁労の継続を可能にしました。このため霞ケ浦地域では縄文の生活様式が比較的遅くまで続いたということです。
海湾から湖へ
弥生の小寒冷期が終わると平安時代を中心とする小温暖期が訪れます。鎌倉時代から室町時代にかけての関東南部では海面が現在より2m ほど高かった可能性があり、その影響もあってか霞ケ浦は14 世紀ころまで海の姿を残しました。しかし、やがて海面が低下するとともに湾口では堆積が進みます。西浦の汽水化は15 世紀〜17 世紀に進んだと考えられています(湖底堆積物の調査による)。西浦の湖底約50cm の深さにヤマトシジミ(汽水性)の貝殻層があり、これは15〜16 世紀の堆積と考えられます。香取海では堆積が進み洲が発達して、16 世紀末(1590年)に新島(十六島)が開田します。
海との水の交換が西浦より容易であった北浦の汽水化は西浦より遅れ、18 世紀であったと考えられます。北浦では富士宝永火山灰層(1707年噴出)より新しい湖底堆積層で海洋性の珪藻(けいそう)が消え、その後100年ほどで汽水性の種類も消滅して、淡水性の種類ばかりとなっています。18 世紀はヨーロッパから日本にかけての小寒冷期で、海面が少し低下した可能性があり、これが北浦、西浦の淡水化に寄与した可能性もあります。
霞ケ浦の浅化を早めた要因のひとつに1783年8 月(天明3年7 月)の浅間山噴火による降灰(浅間A)があります(降灰は佐原で3cm 程度か)。火山灰は自然に川に流れ込みますが、それに加えて人々が田畑に積もった灰を川に運んで捨てたため、利根川や霞ケ浦下流部の河床が著しく上昇したのです。1823年(文政6年)麻生村提出の嘆願書(茨城県史料近世社会経済編U286)に「近年は不漁が続くが、麻生前は先年から六、七尺も埋まり、このごろは深いところで三、四尺、浅い所は一、二尺となって、魚も陰を隠しかね、自然と寄り付かなくなっている」(意訳)とあります。
3 利根川の東遷
鬼怒川水系
鬼怒川はいま利根川の支流ですが、江戸時代より前の鬼怒川は利根川と別の大河で、榎浦〜香取海の堆積地を貫流し銚子口で海に注いでいました。霞ケ浦は鬼怒川水系の湖だったのです。鬼怒川水系の東端は北浦、西端は常陸川です。鬼怒川水系の西に渡良瀬川水系があり、渡良瀬川は平野部で太日河(布止井川、ふといかわ、江戸川の原型)となって旧江戸川河口付近(現在は旧江戸川放水路を江戸川としている)で海に注いでいました。そのさらに西が利根川水系で、利根川は荒川を(最下流部で入間川も)合わせて住田川(隅田川)となり、いまの隅田川河口付近、荒川を分離したのちは中川河口付近で海に注いだようです。渡良瀬川と利根川は羽生〜栗橋付近で絡み合い、二つの川に挟まれた地域は両川が乱流する湿地帯でした。
利根東遷
「利根川の東遷」と呼ばれる工事は徳川家康が関東に封じられた1590年から江戸時代初期の1654年まで、中断を挟みながら約60年をかけて実施された大規模な「瀬替え」(河道の付け替え)の工事です。この工事は第一に利根川の流路を整理し、第二に利根川と渡良瀬川を合流させ、第三に太日河を改修して江戸川を起こし、第四に利根川と常陸川を連結する新河道(赤堀川)を掘削しました。これによって利根川の洪水が常陸川筋を下るようになり、霞ケ浦の堆積、洪水と水運に大きな影響を与えました。
利根東遷の工事内容はたいへん複雑ですが、霞ケ浦との関係からは大きく2つに分けることができます。その一は1「会ノ川の締切り」(文禄3年、1594年完成)、2「新川通りの開削」(元和7年、1621年完成)、3「権現堂川の開削」(寛永18年、1641年完成)の3工事で、乱流を整理して利根川と渡良瀬川を合流させましたが、常陸川(霞ケ浦)と直接の関係はありません。権現堂川(ごんげんどうがわ)は現在の茨城県五霞町と埼玉県久喜市・幸手市の境となる下総(現茨城県となる部分)と武蔵(現埼玉県となる部分)の国境の川ですが、1928年に廃川となり、1992年に調整池とする工事が完成しています。
その二は4「江戸川」の開削、5「逆川」の開削(寛永18年、1641年完成)と6「赤堀川」の開削(承応3年、1654年完成)です。江戸川は太日川(庄内川)を改修した新河道、逆川(ぎゃくかわ)は権現堂川と赤堀川をつなぐ水路、赤堀川(栗橋〜境間)は渡良瀬川と合流した利根川を常陸川につなぐ、赤土の台地を掘って作った水路です(赤堀川はいま利根川の本流です)。赤堀川の開削は、現古河市、境町と陸続きであった現五霞町を川向こうの埼玉県側に切り離しました。この工事の結果、栗橋で渡良瀬川と合流した利根川はすぐ2分岐し、北側は赤堀川経由で常陸川に、南側は権現堂川経由で江戸川に連結することになりました。逆川が赤堀川と権現堂川をつないでいます。こうした形に変えられた利根川を『利根川図志』はつぎのように記しています。
上野国(群馬県)藤原の奥から渡良瀬川との落合(合流点)までを上利根川という。その下、栗橋の関所の前に渡しがあり、これを房川(ぼうかわ)ノ渡という。以下2川に分かれ、南を権現堂川、北を赤堀川という。権現堂川は2里ばかりで関宿に至り、赤堀川から分岐した逆川を合わせて江戸川となり、下総国葛飾郡堀江新田(現江戸川区堀江)で海に注ぐ。赤堀川は権現堂川との分岐から1里半ばかりで逆川を分け、平時の逆川は江戸川に落ちる。洪水時は関宿の杭出しに遮られて川(逆川)が逆流し中利根川に落ちる。赤堀川の下は中利根川となり、6里を下り蚕養川(こかいがわ)との落合の下で下利根川となって銚子に落ちる 。
この記述から、東遷工事で利根川の本流が江戸川に移るとともに、赤堀川〜常陸川が江戸川の放水路になったことが分かります(逆川は平時に西流して江戸川に、増水時は東流して赤堀川に落ちた)。文中の「杭出し」(ふつう「棒出し」と呼ぶ)は江戸川の飲み口に作られた水制です。『利根川治水史』(栗原良輔、1943)によると「棒出しは川幅を狭めて流量を調節する構造物で、はじめは乱杭を打っていたが、のちに両岸から堤防を突き出し、その法面を三段に石枠で固め、その先に長い杭を打ち詰めたもの」でした。江戸川の流量を制限して洪水を中利根川(常陸川)に落とすための仕掛けです。
掘削当初(1621年)の赤堀川は幅7 間と狭く、河床が高くて水が流れなかったようです。1625年に3間拡幅しますが十分でなく、1654年に拡幅と掘り下げを実施して、ようやく利根川の洪水が常陸川筋を流れるようになったといいます。赤堀川はその後も改修され、1698年には川幅27 間(49m)深さ2丈9尺(8.7m)になっていました。天明の浅間噴火で河道は一変しますが、文化6年(1809年)の改修で赤堀川は幅40 間(72m)となり、利根川の洪水がおもに常陸川筋を流れ下るようになったのです。
もともと水量の少なかった常陸川が利根川の洪水を受けるようになると、中流で下刻作用が、下流で堆積作用が進んで霞ケ浦の洪水が頻発するようになりました。
利根東遷の理由には諸説(江戸の水防、東北諸藩に対する防衛線、湿地の開田、舟運の確保など)がありますが、現在は全体計画に基づくものでないとの説が有力で、開拓が主目的と思われるものの、日光街道の整備が目的だとする説もあります。江戸川、荒川の周辺は奥東京湾が残した湿地で、耕地化するには排水が必要だったのです(戦国の合戦録に泥中で身動きがとれず大勢が討ち取られる話があります)。利根川東遷の工事と同時に、江戸川と中川を結ぶ新川および中川と隅田川をつなぐ小名木川(行徳と江戸を結ぶ運河)が改修されて、銚子、霞ケ浦と江戸をつなぐ舟運が開かれました。
江戸時代の新島付近
江戸時代初期の利根川下流は現在の横利根川〜北利根川〜浪逆浦の筋を流れて無堤でしたが、新島での新田開発が進むにつれて居村の周囲に水除堤(輪中堤)が築造され、やがて連続堤になると河道が確定して、1720年ころに横利根川が定まったようです。1740年の大洪水のあと、利根川の河道は横利根〜北利根の筋から佐原新堀川(佐原〜浪逆浦)に移って、横利根、北利根は派川(本流から枝分かれする川)となります。西浦の湖水は横利根(ときに逆流する)、北利根を経て下利根に落ち、この地形は明治10年代測量の迅速測図(第一軍管地方二万分一迅速測図)に見ることができます。
新利根川の開削
1662年(寛文2年)、現在の利根町押付から「谷原」の地を掘って新島(稲敷市上之島)まで、約35km に及ぶ新川(谷原新川、新利根川)の開削がはじまりました。新川は4年後に完成、布佐と布川の間に堤を作って利根川を塞ぎ利根川の水を導入しました。しかし、水路が直線的なので乾きやすいうえ、氾濫すれば大被害をもたらすので元に戻すことになりました(新川は揚排水路に使う)。流頭を締め切り、利根川の塞ぎを取り外し、羽根野に水門を設け蚕養川の水を堰き入れる工事が1670年に終わっています(堰は天保年間に豊田に移され、豊田堰はいまも残る)。新利根川が利根川として機能したのはわずか3年です。新川をなぜ開削したか定かではありませんが、谷原、手賀沼、印旛沼の排水、開拓が目的に含まれていただろうと想像できます。
このほか江戸時代初期には鬼怒川と小貝川の分離、鬼怒川河口の付け替え(大木丘陵を掘削)、小貝川河口の付け替え(羽根野台地を掘削)、利根川狭窄部の新設(布佐〜布川間の台地を開削)が行われています。これらは印旛沼・手賀沼・谷原の開拓と常陸川(利根川)の水量増加による舟運の利便性向上などを狙ったものと思われ、工事でできた地形は現在に引き継がれています。工事はみな台地を掘って川を通していますが、洪水を台地に当てて上流側を遊水池とし、下流の増水を軽減する策であったようです。
利根東遷の完成 
歴史としての「利根東遷」は江戸時代初期の出来事とされますが、河川工学的にみると、利根川の河口を銚子口とする工事の完成は昭和5年(1930)と考えるのが妥当です(江戸時代の東遷工事は利根川河口を旧江戸川河口に固定した)。中利根川は浅間噴火後の赤堀川改修で洪水流量が増したものの、平時の流量は少なかったようです。赤堀川は毎年底浚えをしても舟運の確保が困難で、冬には2 週間も舟が動けないことがあり、その打開策として明治になってから利根運河(野田運河)が開削されています。
利根川筋はたびたび洪水に見舞われ、その抜本改修が明治10年代から叫ばれましたが、財政の逼迫から実現できませんでした。大氾濫が明治18年、23年、29年と続き、そのころ足尾の鉱毒が顕在化します。政府は行徳(現市川市)の塩田に毒水を入れないよう、明治31年(1898)に江戸川への流入を強く制限しました(棒出しを幅9間とする)。これによって中利根の流量は増したと考えられます。こうしたなか、明治32年(1899)に利根川の大改修計画がようやく帝国議会を通過し、翌明治33年(1900)から30年計画の近代工法による利根川水系改修工事が佐原から始まりました。これによって浪逆浦に入っていた利根川は現河道をとるようになり、江戸川の棒出しは撤去されて水閘門に変わります。利根川本川と江戸川、中川を含めた利根川大改修が完成するのは昭和5年(1930)です。これによって上利根川の水が常時常陸川筋を下るようになり、「利根川河口は銚子」と言えるようになったのです。
助川(すけがわ) / 茨城県日立市
茨城県日立市は東を太平洋に臨み、西は多賀たが山地の丘陵となっていて、南北に細長い市域である。市域のほぼ中央、西寄りの地にあたる助川町および助川町一‐五丁目は、古代の史料にみえる「助河」「助川」の遺称地で、江戸時代には水戸藩領で助川村といい、現在の国鉄日立駅東側の海岸にまで及ぶ広い地域で、中世-近世には「介川村」とも記された。
古く『常陸国風土記』は久慈郡の項に
此ここ(密筑の里)より艮うしとらのかた廿里に助川の駅家うまやあり。昔、遇鹿あふかと号なづく。古老のいへらく、倭武の天皇(日本武尊)、此に至りましし時、皇后、参り遇ひたまひき。因りて名づく。国宰、久米の大夫の時に至り、河に鮭を取るが為に、改めて助川と名づく。俗の語に鮭の祖おやを謂ひて、須介すけと為す
と記し、日本武尊の伝説とかかわる遇鹿の地名伝承、また鮭にかかわる助川の地名伝承を述べる。遇鹿は南方の現会瀬おうせ町、相賀あいが町付近、河は北方を流れる宮田みやた川に比定されている。
助川駅は陸奥へ向かう官道に養老二年(七一八)頃設けられたと考えられるが、史料では『日本後紀』弘仁三年(八一二)一〇月二八日条に助川駅が廃止されたことが出ている。その位置は南方の台地上の地に比定される。
また『尊卑分脈』に、奈良時代の参議藤原巨勢麿こせまろの子右兵衛佐弓主の次男助川は、母が常陸国久慈郡の人とある。当地土佐とさの崖下にある八幡清水は、源義家が奥州出陣のとき矢を突刺して水を得、兵たちの渇きをいやした泉との所伝を有する。県北部に多い義家伝説の一つである。
常陸国北部は、源氏一統に連なる佐竹氏が古代末期に土着して以来、徳川家康によって慶長七年(一六〇二)秋田へ国替させられるまで、その勢力下にあった。佐竹知行目録には応永二五年(一四一八)「介川村半分佐竹民部丞跡 宍戸弥四郎入道」と見える。丘陵地東麓に蓼沼たてぬま館の跡があり、『石神組地理志』には長さ一二〇間余、横一七間余と記される。
佐竹氏は四代秀義が源頼朝に従って鎌倉御家人となり、その後、戦国の荒波を乗りきって、義宣の代には豊臣秀吉と結び、文禄四年(一五九五)には五四万八千石を領するまでになった。その繁栄は政治的・軍事的手腕のほか、常陸北部の金山経営による財力を無視できない。常陸は当時、越後・佐渡・陸奥につぐ産金額を示していた。助川では大峯おおみねと呼ばれる丘陵上の金山かなやま(標高三五〇メートル)が、『石神組地理志』に「古昔金をほりし所。享保延享の頃迄鑿試し事あり」と記される。
「古昔」がどこまでさかのぼるかは不明だが、江戸時代の『水府志料』は南方の金沢かねさわ村(現日立市金沢町一帯)の項で「飯盛山、立割山、妙見山と云所より金を産す。佐竹氏の時、飯盛尤多く出せしと云。」とあって村名もこれによると述べており、この地域の金の産出と佐竹氏との関係をうかがわせる。
江戸時代の助川村は、『水府志料』によると村の南北一里一〇町余、東西三里余で、文化(一八〇四‐一八)初め頃は戸数三一〇、南北に通る岩城いわき -相馬そうま街道の宿駅であった。文化九年の『国用秘録』によると市場もあった。石灰石を焼いて石灰をつくり(加藤寛斎随筆)、砥石も産出している(宝暦四年の「介川砥御運上証文」ほか)。
文政七年(一八二四)五月、藩領北部の大津おおつ村(現北茨城市)に突然イギリス人一二名が上陸、驚いた水戸藩や幕府は海防への努力を強化した。藩主徳川斉昭は天保七年(一八三六)、一万石を知行する家老の山野辺義観を新設の海防惣司に任じ、助川村内の大平おおひら山(現助川町五丁目)に城堡を築いて館主とした。同九年第一期工事が完了し、侍二八騎・足軽若党八七人・手廻雑人一三二人が城堡に入った。
助川海防城跡(県指定史跡)は海を望む高台にあり、中世の城郭跡を利用したもので、本丸の海上見張櫓は小さいながら天守のような感じであったという。家中子弟の教場である養正館や銃砲教練場・馬場などもつくられ、同一二年の第二期工事完了で総面積六八町四反余となった。安政三年(一八五六)には海防農兵二組一〇〇人が配置されている。しかしこの城堡も幕末の元治元年(一八六四)、水戸藩党争の天狗・諸生の乱で焼失してしまった。 
泉が森(いずみがもり) /茨城県日立市水木町
泉神社は、創建が崇神天皇の頃と伝わる古社である。霊玉がこの地に降臨し、霊水が湧いて泉が出来たという。その霊玉の神霊が天速玉姫命とされ、この泉が森にある泉神社の祭神となっている。この泉が森は『常陸国風土記』にも“密筑(みつき)の大井”として記載されており、相当古くからの景勝地として知られている。
延命院(えんめいいん) / 茨城県坂東市神田山
平将門の首は京都へ送られ、数々の伝説を残して、現在は東京の大手町の首塚にあるとされる。しかし将門の胴体は、戦没地とされる場所からそれほど遠くない場所に埋められているとされる。それが延命院にある胴塚である。
延命院の創建については不明な点もあるが、将門がこの地を支配した時期には伽藍が建てられたという。そしてそこに弟の将頼らが首なき胴体を運んできて埋めたという伝承になっている。
延命院の山号は“神田山”であるが、それは将門の“身体”を埋めた場所だから名が付いたという説がある。だが実際には、この付近一帯は相馬御厨として伊勢神宮へ寄進された荘園であることから“神田”とされたと思われる。また伊勢神宮ゆかりの土地であったために、墳墓は荒らされずに残されたとも言われる。
現在、胴塚は古墳として文化財指定を受けており、また塚の上から生えた榧の木は天然記念物となっている。そして東京にある将門塚(首塚)保存会より贈られた「南無阿弥陀仏」の刻まれた石塔婆が建っている。
大甕神社 宿魂石(おおみかじんじゃ しゅくこんせき) / 茨城県日立市大みか町
社伝によると、この宿魂石とは、この地をを治めていた甕星香々背男(ミカボシカカセオ)が化身したものであるとされる。この甕星香々背男は星の神であり、別名、天津甕星(アマツミカボシ)と言う。『日本書紀』によると、国譲りの大役を終えた武甕槌命と経津主神はその後もまつろわぬ悪神を平らげていったが、最後まで屈服しなかったのが香々背男であった。最終的にこの二神に代わって服従させたのが建葉槌命(タケハヅチノミコト)であり、大甕神社の祭神となっている。伝説では、香々背男の荒魂を封じ込めた石が成長するが、建葉槌命が金の沓で蹴り上げたところ、石が砕け散ったという。
この神社は初め大甕山にあったのだが、元禄2年(1689年)に徳川光圀の命によって、宿魂石の上に遷宮している(宿魂石は実際には巨石が集まってできた小高い丘である)。『日本書紀』にある由緒に基づいて遷宮したとされるが、それだけ荒ぶる神であったという認識があったものと思われる。
海禅寺(かいぜんじ) / 茨城県守谷市高野
海禅寺は、平将門が父の菩提を弔うために建てた寺である。また本尊は、将門の娘・妙蔵尼の持仏であったとも伝わる。その後、将門の子孫を名乗る下総相馬氏の菩提寺となるが、戦国時代後期以降の相馬氏の衰退と転封によって荒廃する。江戸時代に入って領主の堀田氏が再興、奥州相馬氏も参勤交代の折りに立ち寄ったという。
海禅寺の境内には、8基の石塔が整然と並んでいる。これが平将門と七騎武者の墓である。一番右端の大きな石塔が平将門の墓といわれ、中央部に「平親王塔」と刻まれている。そして残りの石塔は平将門の7人の影武者の墓とされている。寺伝では、承平7年(937年)に京から帰国した将門を待ち伏せていた平良兼と平貞盛に襲撃された時に、身代わりに討ち死にした家臣7名であるという。将門本人の墓と称されるものは数多いが、家臣の墓は珍しいものである。
鹿島神宮 七不思議 / 茨城県鹿嶋市宮中
常陸一の宮である鹿島神宮は、平安期より伊勢神宮・香取神宮と共に「神宮」と呼び慣わされた名社であり、香取神宮・息栖神社と共に「東国三社」とされてきた。その祭神は武甕槌大神であり、天孫降臨に先だって葦原中国平定(いわゆる「国譲り神話」)をおこなった武神である。鹿島神宮はその祭神の性格を反映するように、創建時から東国(蝦夷)平定の最前線として位置づけられていたと考えられる。
鹿島神宮には、七不思議と呼ばれるものが伝わっている。以下の7つである。
1.要石 / 地震を起こす大鯰の頭を押さえつけていると言われる石。この石があるため、鹿島地方では大きな地震は起きないと伝わる。かつて徳川光圀がこの石の根を確かめようと七日七晩掘らせたが、結局根に辿り着くことができず、事故が頻発したので取りやめたという。
2.御手洗池 / 参拝前に身を清めたとされる湧水の池。大人でも子供でも池に入ると、水面が胸の高さまでしかこないと言われる。
3.末無川 / 神宮境外にある川。川の流れが途中で地下に潜って切れてしまい、その末がわからない川とされる。
4.御藤の花 / 藤原鎌足が植えたとされる藤の木。その木が付ける花の数で、作物の豊凶を占った。(現存せず)
5.根上がり松 / 神宮境内にある松の木は全て、伐っても切り株から芽が生えて、何度伐っても枯れることがない。(現在は不明)
6.松の箸 / 神宮境内の松で作られた箸はヤニが出ないとされる。(現在は箸が作られていないとのこと)
7.海の音 / 鹿島灘の波の音が、北から聞こえると晴れ、南から聞こえると雨となる。
東国三社 / 鹿島神宮(祭神:武甕槌大神)、香取神宮(祭神:経津主神)、息栖神社(祭神:岐神・天鳥船神)。道祖神と同一とされる岐神を除き、三神はいずれも「国譲り神話」において高天原の使いとして登場しており、密接な関係があると考えられる。また、この3つの神社を結ぶと二等辺三角形ができるなど、人工的な仕掛けも施されている。
国譲り神話 / 地上を支配していた大国主命に対して、天照大神をはじめとする高天原の神は支配権を譲るように使者を派遣するが、ことごとく失敗する。そこで武甕槌命らの二神(『古事記』では天鳥船命、『日本書紀』では経津主命)を派遣する。武甕槌命らは稲佐の浜に降り来たり、剣の切っ先に胡座をかいて国譲りを迫った。また国譲りに反対した建御名方命に対して力比べをおこない、その両手を握りつぶし、諏訪まで追いかけて服従させた(建御名方命は諏訪の地から出ないと誓い、諏訪神社の祭神となる)。
カッパ松 / 茨城県牛久市城中町
牛久沼にはいくつかの河童の伝説が伝わる。その中でも一番有名なのが、カッパ松である。
牛久沼の河童はいつも悪さばかりしており、人々は困り果てていた。ある時、彦右衛門という百姓が度重なる悪戯に憤慨し、力尽くで河童を捕らえると、沼のそばの松の木に括りつけた。炎天下に三日三晩晒された河童はとうとう頭の皿の水を全て失い、命乞いを始めた。哀れに思った村人は戒めを解き、二度と悪さをしないように言いつけた。その後、河童による悪さはなくなり、そればかりか、沼の水草などの掃除までおこなうようになったという。
今でもこの河童を縛り付けたという松の木が残っており、カッパ松と呼ばれている。
そのほか、このカッパ松の近くには、河童をこよなく愛した小川芋銭の住居兼アトリエであった魚雲亭があり、芋銭の業績を称える河童の碑がある。
北山稲荷神社(きたやまいなりじんじゃ) / 茨城県板東市辺田
天慶3年(940年)2月14日。新皇を名乗り、関東一円を支配下に置いた平将門が討ち死にする。藤原秀郷・平貞盛の軍勢と合戦中、誰が放ったか判らない矢が額(或いはこめかみ)に当たり落命したという。この将門最期の地となるのが北山古戦場である。
この古戦場の有力な比定地が北山稲荷神社である。すぐそばを幹線道路が走り、24時間営業のコンビニエンスストアが隣接しているにもかかわらず、神社の中は手入れされていない草木が延び放題となっていて、全く時空から隔絶されたかのような印象がある。ある種の(魔所)である。
この稲荷神社が将門最期の地と考えられるようになったのは、昭和50年(1975年)にこの場所から1枚の板碑が発見されたためである。この板碑には平将門の命日が刻まれており、さらにそれを供養したのが長元4年(1031年)、源頼信であることが記されていたのである。長元4年は、平将門の乱以降で最も激しい内戦が関東で繰り広げられた平忠常の乱を、頼信が鎮圧した年であり、信憑性はそれなりに考えられるところである。
源頼信 / 968-1046。父は源(多田)満仲、兄は源頼光。河内源氏の祖。甲斐守在任中に起こった平忠常の乱を収束させ、その後、関東の武士団と主従関係を結ぶことで、源氏の東国基盤を形成する。その基盤は子の頼義、孫の義家と継承され、鎌倉幕府成立にまで及ぶ。
平忠常の乱 / 平将門の叔父にあたる平良文を祖父に持つ平忠常が起こした反乱。忠常は上総の有力武士であり、広大な領地を背景に強大な武力を有して専横が目立っていたが、安房の国司を焼殺して朝敵となる。約3年間朝廷軍に対して抵抗を続け、上総・下総・安房は荒廃する。そして源頼信が朝廷軍の主将となると、忠常は出家して降伏してしまう(護送中に病死。死後斬首となる)。この戦いを契機に、頼信は関東の武士と主従関係を結び、源氏の東国基盤を作り上げた。
大黒石(だいこくせき) / 茨城県笠間市笠間
佐白山の山頂にはかつて笠間城があり、江戸期には笠間藩の藩庁があった。この城の起源を遡ると、初代笠間氏によって鎌倉時代前期には既に館が築かれていたとされる。さらに城が築かれる以前には、この山頂一帯には正福寺という広大な寺院があった。
正福寺は、七会にあった徳蔵寺とたびたび勢力争いをしていた。ある時、徳蔵寺の僧兵達は不意をついて正福寺を攻め立て、佐白山の中腹あたりまで兵を押し進めていた。あと少しで正福寺を落とせるという時、いきなり山頂付近にあった巨石が揺れ出すと、徳蔵寺の僧兵に向かって転がり落ちた(一説によると、正福寺側の僧兵が落としたともされる)。この石に押し潰される者、はね飛ばされる者が多数出て、徳蔵寺側は這々の体で逃げて行き、正福寺は難を逃れたという。
この時に転がった巨石がこの大黒石と呼ばれる岩である。名前の由来は、この岩は元々2つの巨石が並んでおり、1つは大黒様の姿に良く似ており、もう1つは大黒様がかつぐ大きな袋に似ていたため、そう呼ばれていたと言われる。転がり落ちたのはその“袋”の方であり、そして不思議なことに、もう一方の巨石はこの騒動の最中どこかに消えてしまったという。
この巨石は大きさが縦横が約5メートルほど、高さが約3メートルという大きさである。現在では“大黒”の名前が付いているためか、御利益をもたらすものとしての伝承されており、“へそ”と呼ばれるくぼみに続けて3回石を投げ入れて一度でも成功すると願いが叶うと言われている。実際、このくぼみにはいくつか小石が入っていて、今でもやっている人がいるようである。
笠間氏 / 宇都宮氏の支流・塩谷氏を祖とする。元久2年(1205年)頃に僧坊間の争いに乗じて塩谷時朝が左白山を占拠して城を築き、笠間氏を名乗る。豊臣秀吉の小田原攻めの際に北条氏に与したため、宗家である宇都宮氏によって滅ぼされたとされる。
法蔵寺 累の墓(ほうぞうじ かさねのはか) / 茨城県常総市羽生町
法蔵寺には、後世に演劇の題材として取り上げられて有名となった「累ヶ淵」の伝承が残されている。この話は『死霊解脱物語聞書』という書物として江戸時代に流布しており、以下のようなあらすじとなる。
事件は、寛文12年(1672年)に羽生村の百姓・二代目与右衛門の娘である菊に霊が憑依したことから始まる。
菊に憑いていたのは、二代目与右衛門の最初の妻であった・累(るい)の霊であった。累の霊は、正保4年(1647年)に入り婿の二代目与右衛門によって川に突き落とされ殺されたことをはじめ、数多くの悪事を暴露した。そして自らの供養を求めて菊に取り憑いたのだと語った。そこで近くの弘教寺の住職・祐天が引導を渡し、累の霊は成仏した。
しかしその直後、再び菊に何ものかが取り憑いて怪事を引き起こした。祐天は再び取り憑いたものに問い質すと、助(すけ)と名乗る子供の霊であった。村の古老に尋ねると、助は累の異父姉にあたり、初代与右衛門の後妻・お杉の連れ子であったが、生来片目で手足が不自由であったために義父の初代与右衛門に疎まれ、慶長17年(1612年)にお杉によって、後に累が殺されたのと同じ場所で川に投げ込まれて殺されたのである。さらに、助の死んだ翌年に生まれた累は容貌が瓜二つと言ってよいくらい似ており、村人は累の容貌は助の祟りと噂し合っていたのであった。祐天は、この助の霊も成仏させ、60年にも及ぶ悪因縁を絶ったのであった。
法蔵寺の境内には、累の一族の墓がある。その正面には3基の墓がある。左より菊、累、助の墓とされる。また本堂にはこの3名と祐天上人の木像が安置されており、また祐天上人が死霊供養に用いたとされる数珠も保管されている。 
 
 
栃木県 / 下野

 

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下野(しもつけ)や神の鎮めし二荒山 ふたたびとだに御世は動かじ 賀茂真淵
日光・二荒山 / 日光市
下野しもつけ国と上野かみつけ国はもとは一つの毛野けの国といひ、豊城入彦とよきいりひこ命の子孫の上毛野かみつけの 君が国造となってゐた。二国が渡良瀬川を境に分れたとき、国造家も分かれて、奈良別ならわけ王が最初の下野国造となった。その奈良別王が、祖先の豊城入彦命や大物主おほものぬし神などをまつったのが二荒山神社であるといふ。のち藤原秀郷(俵藤太)などの武将の崇敬もあった。足利氏も藤原秀郷の流れをくむといふ。
○ 下野や神の鎮めし二荒山 ふたたびとだに御世は動かじ 賀茂真淵
むかし二荒山の神が大蛇となり、赤城の神が百足むかでとなって湖沼をめぐって争ったといふ伝説がある。近江国で百足退治をした俵藤太は、当地でも隣国の赤城山近くの百足を退治した。藤太の後裔の武将たちは、百足を描いた旗を掲げて合戦に臨んだといふ。
二荒山は、男体山とも黒髪山ともいふ。
○ ながむながむ散りなむことを君も思へ 黒髪山に花咲きにけり 西行
那須の温泉神社 / 那須郡那須町
舒明天皇の御代に、那須の茗荷沢村の猟師、狩ノ三郎行広が、白鹿を追って那須岳の麓の霧生谷に至ると、濃霧が立ち込めて行く手をはばんだ。すると岩上に白髪の翁が現はれ、温泉のありかを教へた。三郎がその温泉に行くと、白鹿が傷を癒してゐたといふ。白鹿を射止めた三郎が、その地にまつったのが、温泉神社である。源平の決戦のときには、ここで那須与一が戦勝を祈願したといふ。那須郡内には約八十の「温泉神社」といふ名の神社がある。
○ みち多き那須野のみ狩りの矢さけびに のがれぬ鹿の声ぞ聞こゆる 信実
○ 湯をむすぶ誓ひも同じ石清水 芭蕉
那須野は源頼朝の巻狩の地としても知られる。
○ もののふの矢並つくろふ小手の上に 霰たばしる那須の篠原 源実朝
殺生石 / 那須郡那須町 那須湯本
むかし鳥羽法皇の寵愛を受けた玉藻の前は、実は天竺や中国から来た九尾きゅうびの狐の化身だった。狐は陰陽師の安倍泰成に正体を見破られ、那須野に逃げて殺されたが、その霊は殺生石となって、近寄る人を死に導いたといふ。のち玄翁げんのう和尚の祈祷により、石は大金槌(玄翁)で砕かれた。和尚の名にちなんで大金槌のことを玄翁といふ。
○ 石の香や夏草あかく露あつし 芭蕉
遊行柳 / 那須郡那須町芦野 遊行柳
むかしある僧が白河の関から那須に至り、広い道を歩いてゐると、一人の老人が現はれ、前の僧は川岸の細道を通ったと教へた。老人に案内されて僧がその道を行くと、古い柳の木があった。朽木くちきの柳といふ名木で、西行が歌に詠んだ名木だといふ。(謡曲・遊行柳)
○ 道の辺に清水流るる柳蔭 しばしとてこそ立ちどまりつれ 西行
室の八島 / 栃木市国府町
    「室の八島」の歴史
栃木市国府町の下野国総社大神神社の池は、かつて八つの島が浮んでゐたことから「室の八島」と呼ばれ、水面からは常に水けむりを発生させてゐたといふ。
○ いかでかは思ひあるとも知らすべし 室の八島のけむりならでは 藤原実方
むかし下野国のある長者の娘を、国司が見初めて求婚した。長者はさっそく婚礼の準備をすすめたが、そのころ長者の家では九州から来たさる高貴な青年を宿泊させてゐた。娘がこの青年の子を宿したことを知った長者は、困りに困り果てた末に、妙案を思ひついた。娘が死んだことにして、棺にツナシ(鮗{このしろ}の方言) といふ魚を詰め込んで、国司の使の前で焼いて見せたのである。鮗を焼くにほひは、死体を焼く臭ひに似てゐるといふ。
○ 東路あづまぢの室の八島に立つ煙 誰が子の代しろにつなし焼くらん
子の代として焼いたことから、この魚を「このしろ」といふやうになったとか。
あやつひの神 / 晃石神社 下都賀郡大平町西山田
晃石神社の境内の鏡石は、昔は日夜光り輝いてゐたといはれ、その輝きから「綾都比あやつ ひの神」ともいはれた。
○ あやつひの照る日の山の大神に 山田ぞ人の仕へたまへぞ 古歌
藤原秀郷が再建したとき、先祖の天児屋根あめのこ や ね命を合祀したといふ。
稲葉の高尾 / 下都賀郡壬生町上稲葉 高尾神社
源平の戦が終ったころ、安徳天皇の御母・賢礼門院にお仕へした高尾は、暇を与へられ、一人の下女とともに京を去り、故郷の因幡国へ帰ることになった。ところがその旅の途中、下女は病死し、高尾は一人旅のまま悪人に捕へられ、遊女に売られようとした。そこへたまたま通りかかった金売吉次に救出されたのだが、吉次はそのまま奥州へ立ち去ってしまった。吉次と別れた高尾は、もう一度吉次に逢ひたいものと、道を引き返して奥州へ向った。下野国に入り、都賀郡の稲葉の里で吉次が滞在してゐるといふ噂を聞き、喜びいさんで来てみれば、吉次はすでにこの世の人ではなかった。高尾は、身の不運を歎きつつ、墓を築いて吉次の霊を供養した。これまでの長旅の疲れが襲ひ、まもなく高尾は病の床に伏した。その床で郷里の因幡を思ひつつ歌を詠んだ。
○ ふるさとの道のしるべも絶えはてて ちぎるいなばの名こそつらけれ 高尾
高尾は、世話をしてくれた村人たちに身の上を語り、錦の袋に入れた懐剣と錦の服紗包みを取り出して、「この懐剣はこの家に伝ふべし。またこの服紗包みは大内裏の御宝の一品にて、この家にて持つべきものにあらざる故に、所を定めて埋めてわが在所、因幡国峰の高尾大明神をまつりてほし」と言ひ残して息絶えた。文治四年(1188)九月のことといふ。
村人は高尾の遺言にしたがひ、服紗の包みを土中に埋め、翌年九月、高尾大明神を勧請して祀った。高尾の神は、疫病除けの神として信仰されていった。
安蘇沼の鴛鴦 / 安蘇郡
むかし下野国の安蘇郡に一人の鷹使の男がゐた。ある日、男は鷹狩の帰りに安蘇沼のわきを通ると、ひとつがひの鴛鴦がゐたので、そのうちの雄鳥を射て、鷹に与へた。鷹は頭の部分を食べ残したので、餌袋に入れて家に持ち帰った。その夜、男の夢になまめかしい女が現はれた。女は、泣きながら夫を殺された恨みを切々と述べ、歌を詠んで飛び去った。
○ 日暮るればいざやと云ひしあそ沼の 真菰まこもの上に一人かも寝む
男が目覚めて餌袋を開いてみると、雌鳥が雄鳥のくちばしをくはへて死んでゐた。これをあはれに思った男は、出家したといふ。(沙石抄)
同様の話は全国にあり、鷹使の男が寺を建て、名は鴛鴦寺といったが、何かのときに名を変へたといふ話になってゐる。下野の安蘇沼氏は、藤原秀郷(俵藤太)の流れで、頼朝の奥州平定への功績により、所領を賜はってこの地に移住したといふ。
○ 下つ毛野けの安蘇の川原よ石踏まず 空ゆと来ぬよ汝なが心告のれ 万葉集
馬槽 / 下野国(所在不明)
むかし下野国に長年暮した夫婦があったが、男が心変はりして、妻の家をすっかり引き払って他の女と住まうとした。妻の家に下男の「まかぢ」が使ひにやってきて、最後に残った馬槽(馬の餌箱)まで持って行かうとするので、妻は歌を付けてやった。
○ ふねも往ぬまかぢも見えじ今日よりは うき世の中をいかで渡らむ
この歌を見て、男は妻の心に打たれて、縒りを戻したといふ。(大和物語)
諸句
栃木市の栃木女子高校出身の吉屋信子の句。新潟県生まれで、鎌倉に住んだ。
○ 秋灯し机の上の幾山河 吉屋信子 
 

 

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下野の歌枕
[万葉集](744-759年)東歌
○ 下つ毛野安蘇(あそ)の川原よ石踏まず 空ゆと来ぬよ汝 (な)が心告(の)れ
○ 下つ毛野みかもの山のこ楢(なら)のす まぐはし子ろは誰 (た)が笥(け)か持たむ
大江朝綱(886-957年)
○ 下野や室の八島に立つ煙(けぶり)思ひありとも今日(けふ)こそは知れ
[能宣集] 大中臣能宣(おおなかとみのよしのぶ、921-991年)
○ ふたらの山 、やしろあるとまへに旅人多く行く、月いでたり
たまくしげふたらのやまのつきかげはよろづよをこそてらすべらなれ
[廻国雑記](1487年下野旅) 道興准后(1430?-1501年?)著
○ ふりにける身をこそよそに厭ふとも黒髪山も雪をまつらむ
○ 法の水みなかみふかく尋ねずばかけてもしらじ山すげの橋
[金槐集](きんかいしゅう) 源実朝(みなもとのさねとも、1192-1219年)
○ 武士(もののふ)の矢なみつくらう小手の上にあられたばしるの篠原
(註)学者によれば、この歌は那須で詠んだ歌でもなく、那須を詠んだ歌でもなく、那須を利用した歌だそうです。
下野国 安蘇(佐野市付近、または安蘇郡付近)、三鴨(佐野市・岩舟町・栃木市との境界付近)、室の八島(栃木市)、ニ荒の山(ふた(あ)らのやま)(日光・日光山、日光市)、黒髪山(男体山、日光市)、山菅の橋(神橋、日光市)、那須(那須郡など)などがあります、あるいはかつてありました。
中でも群を抜いて多くの和歌に詠まれたのが室の八島です。平安時代以来詠まれた和歌は、ざっと百首以上はあるでしょう。
黒髪山を詠んだ歌もそこそこありますが、古くは岡山県阿賀郡新見町の山、あるいは奈良県の佐保山丘陵の山が専ら黒髪山として詠まれており、どれが下野の黒髪山を詠んだ歌か判然としません。それ以外の歌枕については和歌に詠まれたとは言え、その数はあまり多くありません。そういうことで室の八島は下野国随一の歌枕なのです。歌枕の定義にはいろいろ小難しい話がありますが、室の八島はもっとも歌枕らしい歌枕のひとつと言ってよいでしょう。そうして江戸時代には徳川三代将軍家光が日光社参の帰途に立ち寄る(1640年、[徳川実紀])ほどの名所でした。室の八島は、少なくとも芭蕉らが訪れた(1689年)頃までは、下野国随一の歌枕であったばかりでなく、今の我々には信じがたい話ですが、「当州に無双の名所なり。」([下野風土記]1688年編著)だったのです(今のように観光開発の進んでいない当時、歌枕は本来の意味どおり昔から和歌に詠まれた名所だったのです)。
芭蕉は、歌枕を訪ねることを目的の一つにした[奥の細道]の旅(1689年)で、日光に行く前、小山(おやま)の木沢(小山市喜沢)から日光街道(奥州街道)を逸れてまでして、室の八島を訪れていますが(曽良随行日記)、その理由がこれでおわかりいただけると思います。[奥の細道]の旅の本来の目的から言えば下野国の最大の目的地は日光ではなく室の八島なのです。
芭蕉の時代、中禅寺湖や華厳の滝のある奥日光などという山奥に物見遊山で行けるべくもなく、また徳川家康を神として祭った東照宮は、事前に各藩の許可をもらっていなければ門内に入ることは許されませんでした。芭蕉らは事前に参拝の許可を得ていたから、東照宮をお参りすることができたのです。現在の感覚で室の八島や日光を判断すると誤ることになります。当時と言うか昔からと言うか、日光へ行く人の多くは二荒山神社(ふたらさんじんじゃ)を始めとする諸寺社にお参りするのが主な目的でした(参考)。しかし芭蕉らが東照宮以外の寺社を訪れた様子はありません。芭蕉らが日光を訪れたのは日光にある諸寺社見物が目的ではなく、東照宮参拝だけが目的だったと言えます。歌枕でもなく、旧跡でもない東照宮(1636年完成)は、[奥の細道]の旅における本来の目的地ではありません。
二荒の山(ふた(あ)らのやま)
(1) [古今和歌六帖](976-982年?) 読人しらず(喜撰?)
○ 下野やふたごの山のふたごころありける人をたのみけるかな
(註)この「ふたごの山」は「ふたらの山」の誤りとする説が有力です。
(2) [能宣集] 大中臣能宣(921-991年)
○ ふたらの山、やしろあるとまへに旅人多く行く、月いでたり
○ たまくしけ-ふたらのやまの-つきかけは-よろつよをこそ-てらすへらなれ
(3) 能因法師(988年-1053〜69年)
 1) [能因法師集]
○ きみもこす-ひともとはすは-しもつけや-ふたあらのやまと-われやなりなむ
 2) [能因歌枕]
「下野國 ふたご山、きぬがは、中つかさの宮、いほのぬま、まゆみの杜」
(註)[能因歌枕]の「ふたご山」は”ふたらの山”の誤写の可能性があります。中つかさの宮、いほのぬま、まゆみの杜の所在については全く分かっていないようです。
(4) [新和歌集](1260年前後) 権律師謙忠
日光にて神祇の歌よみける中に 
○ 世を照らす日の光こそのどかなれ神の名におふ山のかひより
この頃までには、二荒山の二荒を音読みして、「にっこう(日光)」と呼ぶようになっていたのでしょう。なお「日光」の初出は、1138年作成の大般若経の奥書のようです。
(5) [廻国雑記](1487年下野旅)  道興准后(1430?-1501年?)
日光山にのぼりてよめる。また昔は二荒山といふとなむ。
○ 雲霧もおよばで高き山のはにわきて照りそふ日の光りかな
(註)道興准后は奥日光の中禅寺湖までは登っているようです。
(6) [下野国誌](1850年刊) 河野守弘
二荒山(フタラヤマ)日光山の古名にて、もと補陀洛山なるを、歌にはふたら山とよみ来たれり。・・・
那須(なす)
(1)[能宣集]大中臣能宣(921-991年)
世の中を 思へば苦し 忘るれば えも忘られず 誰も皆 同じみ山の 松が枝と 枯 るる事なく すべらぎ(天皇)の 千代も八千代も 仕へんと 高き頼みを 隠れ沼の  下より根ざす あやめ草 あやなき身にも 人並に かかる心を 思ひつつ 世に降る雪 を 君はしも 冬は取り積み 夏はまた 草の蛍を 集めつつ 光さやけき 久方の 月 の桂を 折るまでに 時雨にそぼち 露に濡れ 経にけむ袖の 深緑 色褪せ方に 今は なり かつ下葉より 紅に 移ろひ果てん 秋に会はば まづ開けなん 花よりも 小高 き陰と 仰がれん 物とこそ見し 塩釜の うら寂しげに なぞもかく 世をしも思ひ  那須の湯の 滾る故をも 構へつつ 我が身を人の 身になして 思ひ比べよ  百敷に 明かし暮らして 常夏の 雲居遥けき 皆人に 遅れてなびく 我もあるらし
(2)[金槐集] 源実朝(1192-1219年)
○ もののふの矢並つくろふこてのうへに霰(あられ)たばしる那須の篠原
(3)[夫木和歌抄](ふぼくわかしょう) 藤原信実(ふじわらののぶざね、1177-1265年)
○ 道おほき那須の御狩(みかり)の矢さけびにのがれぬ鹿のこゑぞ聞ゆる
(4)[歌枕名寄](うたまくらなよせ、1303年頃)
三宮
○ しもつけや-なすのゆりかね(註)-ななはかり-ななよはかりて-あはぬきみかな
中務卿親王(?宗尊親王 むねたかしんのう、1242-1274年)
○ あふことは-なすのゆりかね-いつまてか-くたけてこひに-しつみはつへき
(註)ゆりがね:淘金。土砂にまじっている砂金を水中で揺すって選び分けること。また、その砂金。ゆる:揺る。(「淘る」「汰る」とも書く)水の中などで、ふるい動かして選び分ける。「砂金を―・る」
黒髪山
(1) 柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ、?-700年前後?)
[柿本集]
○ うはたまの-くろかみやまの-やまくさに-こさめふりしき-ますますそおもふ
○ うはたまの-くろかみやまを-あさこえて-やましたつゆに-ぬれにけるかも
[万葉集](744-759年)
○ ぬはたまの-くろかみやまの-やまくさに-こさめふりしき-しくしくおもほゆ
○ ぬはたまの-くろかみやまを-あさこえて-やましたつゆに-ぬれにけるかも
(註)この頃の黒髪山は岡山県阿賀郡新見町の山、あるいは奈良県の佐保山丘陵の山とする説が有力です。
(2) [堀河百首](1105年)
藤原公実(ふじわらのきんざね、1053-1107年)
○ たひひとの-ますけのかさや-くちぬらむ-くろかみやまの-さみたれのころ
源俊頼(みなもとのとしより(-しゅんらい)、1055-1129年)
○ うはたまの-くろかみやまに-ゆきふれは-なもうつもるる-ものにそありける
隆源(りゅうげん、1086-1105年頃の歌人)
○ うはたまの-くろかみやまの-いたたきに-ゆきもつもらは-しらかとやみむ
源師時(みなもとのもろとき、1077-1136年)
○ うはたまの-くろかみやまを-あさこえて-やましたゆきに-ぬれてけるかな
(考察)隆源の歌の「黒髪山の頂」をみると、この山は男体山のような気もしますが、源師時の歌の「黒髪山を朝越えて」をみると、これが男体山とは思えません。
(3) [新和歌集](1260年前後) 仙風法師
○ 白雪の消えぬかぎりは烏羽玉のくろかみ山も名のみなりけり
この頃までには男体山が黒髪山と呼ばれていたようです。
(4) [廻国雑記](1487年下野旅) 道興准后(1430?-1501年?)著
日光山にのぼりてよめる。また昔は二荒山といふとなむ。・・・黒髪山の麓を過ぎ侍るとて、われ人いひすてどもし侍りけるに、
○ ふりにける身をこそよそに厭ふとも、黒髪山も雪をまつらむ
 おなじ山の麓にて、迎へとて馬どもの有りけるを見て、
○ 日数へてのる駒の毛もかはるなり黒かみ山の岩のかげ道
(5) [下野国誌](1850年刊) 河野守弘 著
「黒髪山(クロカミヤマ) 都賀郡日光山の奥にあり。・・・世俗は男体山とも呼なり。・・・」
安蘇(あそ)
(1)[万葉集](744-759年)巻14(東歌)下野國歌-3425
○ 下つ毛野 安蘇の河原よ 石踏まず 空ゆと来ぬよ 汝が心告れ
(考察)現在この河原がどこに在ったのか分かっていないようです。「下野国の・・・」と詠んでいるという事は、安蘇の河原は他国にも知られた名所だったのでしょうか?それとも地元ではよく知られた河原だったということでしょうか?河原の面積はかなり広かったのでしょうね。そしてそこには、大きさは分かりませんが石がゴロゴロしていたようですね。この歌が詠まれた頃と現在では、すっかり河原の様子はかわってしまっているでしょう。
なお 万葉集の東歌にある次の歌についても、下野の歌であるとする説があるようですが、筆者にはよくわかりません。ということで上記の歌の歌枕としては”安蘇の河原”とくくるべきでしょうが、これらの歌のように”安蘇”については”河原”ばかりが詠まれているのではないので、ここでは便宜上”安蘇”とまとめてくくっています。
○ 上つ毛野 安蘇のまそむら かき抱き 寝れど飽かぬを あどか我がせむ
○ 上つ毛野 安蘇山つづら 野を広み 延ひにしものを あぜか絶えせむ
(2)[和名類聚抄](わみょうるいじゅ(う)しょう、934年頃成立)国郡部第十二 下野国
「下野国安蘇郡 安蘇、説多、意部、麻続」
(註)「安蘇、説多、意部、麻続」は郷の名です。安蘇の郷は現在の佐野市辺りに比定されているようです。
(考察)「あそのかはら」の「あそ」は郡の名?郷の名?それとも川の名?それらのうちのどれか一つに絞ることができるでしょうか?現代なら「××川の河原」といいますが 安蘇川という川があったんでしょうか?
(3)清輔集(1174年頃) 藤原清輔(1104-1177年)
○ ひさきおふる-あそのかはらの-かはおろしに-たくふちとりの-こゑのさやけさ
(考察)この歌が”あそのかはら”を詠んだ現存する二首目の歌でしょうか?、[ 万葉集]に詠まれてから400年後の作です。下野の安蘇の河原は、400年間も名所でありつつづけたのでしょうか?それほどの場所なら今でも面影が残っていてもよさそうですが、 そういう話を聞きません。この河原は消滅してしまったのでしょうか?
この歌は”あそのかはら”の風景描写が緻密で実景を詠んでいるように見えます。しかし藤原清輔の経歴を見ても、彼が下野に来た様子はうかがえません。この歌は下野の安蘇の河原を単に想像して詠んだ歌?それともこの河原、下野国以外の「あそのかはら」だったりして。
(4)[万代集](1248、1250年)、[新和歌集](1260年前後)蓮生(宇都宮頼綱 1172-1259年)
○ いしふまぬ-あそのかはらに-ゆきくれて-みかほのせきに-けふやとまらむ
(考察)この歌は安蘇の河原が「いしふまず」と[ 万葉集](744-759年)に詠まれてから500年後に、その歌を本歌取りして「いしふまぬ」と詠まれた歌です。この歌は[万葉集]や[和名類聚抄]などを参考にすれば、安蘇の河原の場所を実際に知らなくても想像で詠める歌なので、当時の安蘇の河原を知る手掛かりに利用してはいけません。
(5)[下野風土記](1688年編著) 編著者未詳
「阿蘇川原並美加保乃関 : 今案云三毳カ、足利ヨリ佐野エ入道ニ有リ。」
(考察)「阿蘇川原ならびに美加保乃関」の書き方から、この著者は上の宇都宮頼綱の歌を念頭において言っているのでしょう。しかし上に書きましたように、それは根本的に間違っているのですが。つまりこの時点で確実に参考にできる資料は、[ 万葉集]の歌と[和名類聚抄]しかありません。[万葉集]以外の歌は実景を詠んでいるかすこぶる疑問です。
この著者はこれらの場所をともに三毳の地に在ったのか?と言っています。この頃はまだ安蘇の河原の所在は疑問符付きであり、三毳の位置も足利市と佐野市の間として、現在の比定地(佐野市・岩舟町・栃木市との境界付近)とは異なります。「足利ヨリ佐野エ入 道ニ有」る阿蘇川原の川とは何川でしょう?
(6)[下野国誌](1850年刊) 河野守弘(こうのもりひろ、1793-1863年)著「安蘇川原(アソノカワラ)安蘇郡佐野天明駅の西を流るる川なり。往古は天明の東を流れしといえり。水上(ミナカミ)は、同郡秋山と云う所より出て、末は佐野ノ中川とともに利根川に入るなり。
[万葉集]十四 東歌 下野国相聞往来歌
○ しもつけぬあその河原ゆ石ふまず空ゆと来ぬよ汝がこころのれ
(考察)[ 万葉集]が編集されてのち千年も経ってから、突然[万葉集]に安蘇の河原と詠われた川の詳細な所在地が、この[下野国誌]に出現します。しかし、所在地解明のヒントが上記[ 万葉集]の歌と[和名類聚抄]だけで、和歌に詠まれて後千年も経ってから、安蘇の河原と詠われた川の所在がわかるのでしょうか?安蘇郡には大きな川といったら秋山川しかないのでしょうか?この辺りの地理に暗いので分かりませんが。
三鴨
(1)[万葉集](744-759年) 巻14(東歌)下野國歌-3424
○ 下つ毛野 みかもの山の こ楢のす まぐはし子ろは 誰が笥か持たむ
(考察)この歌「こならのす」以下の意味が断片でしかわかりません。全体を通した現代語訳というのはありますが、とても素直に受け入れられるような訳ではありません。この歌からは、みかもの山が下野国にあるということはわかりますが、それ以上のことは全くわかりません。
(2)三毳山(みかもやま)古窯跡群(600年代末-800年代終わり頃)
佐野市から岩舟町・栃木市にかけての現在の三毳山とその周辺に20ヶ所以上の窯跡があるようです。
(3)[延喜式](えんぎしき)(905年編纂開始-927年奏進-967年施行) 巻二十八 兵部省
「下野 駅馬 足利、三鴨、田郷、衣川、新田、磐上、黒川」
(註)足利駅家(うまや)は足利市伊勢町・助戸町付近に、三鴨駅家は、駒場(こまば)や馬宿(うまやど)という地名からの推定や畳岡遺跡発掘調査結果から、岩舟町の新里(にっさと)から畳岡(たたみおか)にかけての辺りに比定されているようです。
(考察)さて「みかも」という土地が下野国に存在したことがわかったので、 万葉集の歌にある「みかもの山」の「みかも」が土地の名前なのか、山の名前なのかわからなくなってしまいました。「みかも」を土地の名前としてもその範囲がよくわかりませんので、 万葉集の歌が、「みかも」の地のどの山を指しているのかよくわかりません。
(4)[和名類聚抄](934年頃成立) 国郡部第十二 下野国
「下野国都賀郡 布多、高家、山後、山人、田後、生馬、秀文(註1)、高栗、小山、三島(註2)、駅家」
(註1)秀文は委文(しどり)の誤りで、栃木市志鳥町をその遺称地とする説があるようです。
(註2)三島は三鴨の誤りとの説があるようです。
(5)[万代集](1248、1250年)[新和歌集](1260年前後) 蓮生(宇都宮頼綱 1172-1259年)
○ いしふまぬ-あそのかはらに-ゆきくれて-みかほのせき(註)に-けふやとまらむ
(註)「みかほのせき」については、「みかほのさき」と書かれたものもあり、また「みかほ」は「みかも」の誤りだろうと書いた参考書もありますが、今となっては確認できません。ここでは「みかほのせき」「みかほのさき」は[延喜式]にある三鴨の駅家のこととしておきます。
(6)[下野風土記](1688年編著) 編著者未詳
阿蘇川原並美加保乃関 : 今案云三毳カ、足利ヨリ佐野エ入道ニ有リ。」
「三毳山 : [歌枕名寄]ニハ下野ノ名所ニ入」
(考察)「阿蘇川原並美加保乃関」の書き方から、この美加保乃関は宇都宮頼綱の歌の「みかほのせき」を指しているものと思われます。「今案云三毳カ、足利ヨリ佐野エ入道ニ有リ」は、”安蘇の河原とミカホの関は、足利から佐野へ入る道にある三毳の地にあったのか?”の意味と思われます。この頃はまだミカホの関の所在は疑問符付きであり、また三毳も現在の比定地とは場所も違います。
また次の三毳山の説明の、「歌枕名寄ニハ下野ノ名所ニ入」は、”三毳山は[歌枕名寄]では下野の名所に入れられているが所在不明”という意味でしょう。これから三毳山という名称の山が現在は存在しますが、この当時はまだ存在しなかったのでしょう。(この山は太田和山(おおだわ-)という名称の山だった可能性があります)もし存在していれば「歌枕名寄ニハ下野ノ名所ニ入」などというまどろっこしい書き方はせず、直截”どこそこにあり”と書いたでしょう。
(7)[下野国誌](1850年刊) 河野守弘 著
「三毳山(ミカモヤマ)駅 都賀郡にあり。[兵部式]に三鴨駅とあるも此所なり。[和名抄]にもあり。山頂まで七・八町許の登りなり、東北面は下津原村(現、岩船町下津原)と云、西面は西浦村(佐野市西浦町)、南面は太田和村(栃木市藤岡町大田和)とて三ケ村入会の地なり。ともに古は三鴨ノ郷なり。さて後に三香保崎とあるも、此所にてミカホはミカモの訛(ヨコナマリ)なり。
[万葉集]十四 東歌 下野国相聞往来歌
○ 志もつけぬ みかもの山の こならのす まくはしころは たかけかもたむ
(参考)[下野国誌]には上記三毳山の説明に続いて次の説明あり
「三香保崎(ミカホノサキ)関 同所なり。[八雲御抄]に、三香保崎、慈覚大師誕生の地とあり。今下津原に大師の産湯あび給う跡とて盥窪(タライクボ)と云う所あり。烏丸光広卿の[日光山紀行]にもみえたり。さて此山の北より西に関川と云う流れあり。末は鯉名沼とて南北二十町、東西十五町許の沼に入、江尻の流れは安蘇川(註)に落ちるなり。(和歌省略)」
(註)[下野風土記](1688年編著)の時代には、安蘇川という名称の川は存在しなかったと考えられ、また現在も存在しません。従いまして[下野国誌]の時代にのみ安蘇川という名称の川が存在したとは考えられません。
(考察)[下野国誌]は 万葉集にある「みかもの山」を現在の三毳山としていますが、そこまで断定する証拠は無いでしょう。なお現在の三毳山を三毳山と呼ぶのはおそらく[下野風土記](1688年編著)より後にこじつけられたものでしょう。
歌枕の地を推定する上で極めて重要な基本事項は、まずその歌枕の地を特定できるだけの情報が揃っているかどうかです。三毳の山が下野国の歌枕であるというのは言ってよいでしょう。さらに三鴨という地名が古代から存在したので、みかもの山もその辺りに存在したのか?という程度のことは言ってよいでしょう、しかしそれ以上詳細な所在については今まで説明して来ましたように情報量不足で特定することは不可能です。そういうことを充分わきまえた上で述べないと、それは学問ではなく単なる空想遊びということになってしまいます。世間には、その歌枕の地を特定できるだけの情報が揃っていないにもかかわらず、そんなことにおかまいなく場所を特定している例が多々ありそうです。
山菅の橋(やますげのはし)
(1)808年
下野国司橘利遠が朝命により本宮神社の社殿を建立し、また山菅の橋(山菅橋、山菅の蛇橋)を架けて往来の便に供す。
(2)[転法輪抄](てんぽうりんしょう) 聖覚(1167-1235年)編集?
「日吉大宮橋殿供養表白 日本国名所大橋は、みな大権菩薩が作るところなり。摂州長柄橋は行基菩薩これを造る。山崎の橋は十一面観音の化身これを渡す。下野二光山山菅の橋は、河深さ一十七丈、更に柱を立つことなし。二光権現、巌を彫り、穴を作り、これによって彼の橋を構え、これを造る。」
(註)転法輪抄:永暦二年(1161年)から建仁二年(1203年)に至る澄憲の作品を主とし、聖覚の編述であるとされています。
(3)[廻国雑記](1487年下野旅) 道興准后(1430?-1501年?)著
「日光山にのぼりてよめる。また昔は二荒山といふとなむ。・・・此の山にや、やますげの橋とて深秘の子細ある橋侍り。くはしくは縁起にみえ侍る。また顕露(註)に記し侍るべき事にあらず。<法の水みなかみふかく尋ねずばかけてもしらじ山すげの橋>」
(註)顕露:はっきりあらわれること。露顕。
(4)[下野国誌](1850年刊) 河野守弘 著
「山菅ノ橋(ヤマスゲノハシ) 日光山の入口にあり。今は神橋(ミハシ)と唱うるなり。・・・[八雲御抄]に、下野の山菅橋とあり、[枕草子]に『山菅の橋名をききたるおかし』とあり、・・・」
しわぶきの森(しわぶきの杜)
藤原朝忠(910-966年)
本院の将曹、しはぶき(=咳払い)するをききて
○ しもつけや-しはぶきのもり(の)-しらつゆの-かかるをりにや-いろかはるらむ
この歌の「しもつけ」は、見れば見るほど下野国ではなく植物の”シモツケ”(註1)に見えて来ます。「花の色はうつりにけりな・・・」、白露がかかる時季に色が変わっているのは、下野国のしわぶきの森ではなく、今となってはその所在のわからぬしわぶきの森に咲くシモツケの花でしょう。そして「しもつけや」の「や」は呼び掛けの意味など、「しもつけ」を強調する意味があるんでしょう。歌に「しもつけ」とあるからと言って、それが下野国を意味するのはざっと半分、残りの半分は植物のシモツケを意味するのです(註2)。ところで、近世後期に下野国府付近の森に比定される以前にしわぶきの森を詠んだ歌は、この藤原朝忠の歌一首以外にあるのでしょうか?この一首の歌は、そこに登場する場所の所在を特定して文化財の史跡に指定するほどの価値ある歌なのでしょうか?それとも朝忠は下野国にゆかりのある人物なのでしょうか?(考察)
(註1)シモツケ:バラ科。北海道から九州にかけての日本各地、朝鮮および中国の山野に自生する。成木の樹高は1mほどであり、初夏に桃色または白色の集合花を咲かせ、秋には紅葉する。古くから庭木として親しまれてきた。
(註2)一例紹介  [拾遺集](1005-07年) 読人不知
○ しもつけ うゑてみる-きみたにしらぬ-はなのなを-われしもつけむ-ことのあやしさ  
しめじが原(標茅が原)
[古今和歌六帖](976-982年?)
○ しもつけや-しめつのはらの-さしもぐさ-おのがおもひに-みをややくらむ
しめじが原については、この歌の「しもつけ」を下野国と解し、かつ「しめつのはら」をしめぢが原として、その”しめぢ”を”湿地(しめぢ)”と解し、かつて下野国府があったと思われる辺りの湿地帯、今の栃木市川原田町辺り(ここは栃木市付近で最後まで残った湿地帯でした)にこじつけたものと思われます。この歌の「しもつけ」についても、これを下野国とするにはおおいに疑問があります。川原田町辺りをしめじが原にこじつける事こそ、しめじが原の項の河野守弘の言葉ではありませんが、まさに「論にもたらず。」で、この辺りは、このホームページの主題である室の八島、広義の室の八島の一部だったでしょう。
さしも草の伊吹山
[古今和歌六帖](976-982年?)
○ しもつけや-しめつのはらの-さしもぐさ-おのかおもひに-みをややくらむ
○ あぢきなや-いぶきのやまの-さしもぐさ-おのがおもひに-みをこがしつつ
○ なほざりに-いぶきのやまの-さしもぐさ-さしもおもはぬ-ことにやはあらぬ
○ いつしかも-ゆきてかたらむ-おもふこと-いぶきのさとの-すみうかりしを
そしてさしも草の伊吹山も、[古今和歌六帖]において、しめつの原の歌と同じく「さしも草」が詠み込まれているというただそれだけの根拠から、しめじが原なる湿地帯から最も近い山(120-30m、栃木市吹上町)にあてはめて、さしも草の伊吹山であるとこじつけたものと思われます。なお江戸時代には、下野国府付近の伊吹山として、吹上町の山説ばかりでなく、太平山を伊吹山とする説もあったようです。
このように書くと滋賀県、岐阜県の人は”さしも草の詠まれた伊吹山は、やはり滋賀・岐阜の県境にある伊吹山(標高1,377mの高山です)だったか!”と喜ぶかもしれません。確かに鎌倉時代以降の和歌には、その伊吹山のさしも草を詠んだ歌が登場します。
俊成女(1171?-1254年?)
○ さしもやは-みにしむいろも-いぶきやま-はげしくおろす-みねのあきかぜ
(註)この強風を”伊吹おろし”と呼ぶようです。
しかし、平安時代に詠まれたさしも草の伊吹の山、と言いますか最初に伊吹の山のさしも草と詠まれた山は、その伊吹山ではなさそうです。どこか所在のわからぬ伊吹の里の名も無き裏山か、誤解にもとづく架空の山であった可能性があります。その伊吹の山について最も詳しく書かれた史料(と言ってもたったの二行ですが)は、[枕草子]の次の歌です。
[枕草子](1001年?) 清少納言 著
「まことや××くだる」と言ひける人に(註)
○ 思ひだに掛からぬ山のさせも草 誰か伊吹の里は告げしぞ
(註)××部は、伝本によって「しもつけへ」「かかへ」「かうやへ」「やかては」と異なるため無視します。教科書にあるこの歌の意味にとらわれることなく、じっくり眺めてみて下さい。いろいろ見えてきます。
さしも草 / そもそも、さしも草(させも草)をヨモギであるとする通説自体、すこぶるあやしいものです。というより さしも草はヨモギではないでしょう。
しめじが原、さしも草の伊吹山 下野国説のまとめ
ここで[下野風土記]や[下野国誌]などが標茅が原とさしも草の伊吹山を下野国府付近とした根拠を推測してまとめてみましょう。
1)[古今和歌六帖](976-982年?)
○ しもつけや-しめつのはらの-さしもぐさ-おのかおもひに-みをややくらむ
あぢきなや-いぶきのやまの-さしもぐさ-おのがおもひに-みをこがしつつ(以下省略)
この「しめつのはら」の歌の「しもつけ」を下野国と誤解した。また同じく[古今和歌六帖]にあってしめつの原同様さしも草が詠まれている伊吹の山はしめつの原の近くにあったんだろうとかってに想像した。そして 万葉集にある「あその河原」「みかもの山」の歌、および室の八島の場所から、しめじが原(しめつの原)や伊吹(の)山の場所も下野国府付近ないしは下野国府に至る東山道沿いにあったんだろうと考えた。
2)江戸時代には、しめじが原を湿地(しめじ)が原であるとする妄説があり、それを信じた。それでしめじが原は、下野国府付近ないしは下野国府に至る東山道沿いにあった湿地帯だろうと考えた。しかし、下野国府に至る東山道沿いには他にも湿地帯があったと思われますが、なぜ栃木市の川原田町・合戦場辺りとしたのか、まではわかりません。おそらくは下野国府に近いというただそれだけの理由でしょう。もちろんしめじが原なんていう名前の場所は存在しません。おそらく「何々原」なんていう名前もそこにはなかったでしょう。
3)さしも草の伊吹山の所在地については、[勝地吐懐編]の「標茅原は伊吹山の裾野なるべし」(ただし[勝地吐懐編]の著者契冲(1640-1701年)は、[古今和歌六帖]の歌から想像して、しめじが原は滋賀県と岐阜県の県境にある有名な高山伊吹山の麓にでもあったんだろうか?と言っているのでしょう。当時の「べし」の使い方をよく知りませんが)を信じた。しかし「標茅原は伊吹山の裾野なるべし」なんて位置に山はありません。(ですから、契冲が「標茅原は下野国の吹上村の伊吹山の裾野なるべし」なんて考える訳がないのです。)そこでしかたなく川原田町・合戦場からみて最寄の山である吹上町の山を伊吹山とこじつけた。しかも和歌に詠まれるのにふさわしい特徴が何ひとつなく、土地の人しか知らないような山を。つまり伊吹山を吹上町の山とした根拠は[勝地吐懐編]の「標茅原は伊吹山の裾野なるべし」だけであるということです。しかも「標茅原は伊吹山の裾野なるべし」という表現から判断すれば、まず誰でも知っている伊吹山があって、その麓を探したら標茅原が見つかったとなるべきだが、これは全く逆なのである。もちろんしめじが原同様伊吹山なんていう名前の山なんかもともと存在しません。
室の八島1
大神神社
社伝によれば、大神(おおみわ)神社は、倭大物主櫛玉命(やまとおおものぬしくしみかたまのみこと)を主祭神とし、木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)、瓊々杵命(ににぎのみこと。咲耶姫の夫)、大山祇命(おおやまつみのみこと。咲耶姫の父)、彦火々出見命(ひこほほでみのみこと。咲耶姫の子)を配神とする神社で、創建は神武天皇からかぞえて10代目の崇神(すじん)天皇のころとされる。
崇神天皇の皇子豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)が東国平定のときに、大和国三輪山(奈良県桜井市)に鎮座する日本最古の神社、大和国一之宮三輪明神・大神神社の分霊を奉斎し、民の平安と戦勝を祈願したのが始まりと伝えられている。
7世紀後半、下野国府が当地に置かれ、国司が下野国の延喜式内社(平安初期の朝廷の儀式や制度などを記した「延喜式」の神名帳に官社として登録されている神社)の神々を大神神社に合わせ祭って惣社(総社)としたという。
ちなみに、惣社(総社)とは、国司が国内の神社を管理することが任務となっていたため、国府または国府の近くに一の宮・二の宮(諸国の上位1、2位につける格式ある神社)を一同に集めて祭った神社の称号である。
大神神社は、天正12年(1584年)に皆川広照と北条氏直との戦いで焼失したが、三代将軍徳川家光が日光参詣で立ち寄った際、あまりの衰退ぶりを目の当たりにし、諸大名に多数の金品を寄進させるとともに、自らも社領三十石を献じ、杉の苗木一万本を寄進して社殿を復興させた。その後、大正15年(1926年)になって、社殿の老朽化にともない大改修が行われ現在に至っている。
歌枕「室の八島」
大神神社は古来「室の八島」ともいわれ、境内の、水を張った池の中に石橋や朱塗りの橋が架かった島が8つあって、それぞれの島に筑波神社、天満宮、鹿島神社、雷電神社、浅間神社、熊野神社、二荒山神社、香取神社が鎮座している。
なぜ「室の八島」と言われるかについては、曽良の言葉として「無戸室に入て焼給ふちかひのみ中に、火々出見のみこと生れ給ひしより室の八嶋と申」と「おくのほそ道」の本文に書かれている。
室の八嶋に詣す。同行曽良が曰、「此神は木の花さくや姫の神と申て富士一躰也。無戸室に入て焼給ふちかひのみ中に、火々出見のみこと生れ給ひしより室の八嶋と申。又煙を読習し侍もこの謂也」。将、このしろといふ魚を禁ず。縁記の旨世に伝ふ事も侍し。 (おくのほそ道 「室の八島」の章段)
これは、古事記にある「一夜で懐妊したため貞操を疑われた木花咲耶姫が、不貞でできた子なら焼け死んで出産できないはずと、身の潔白を誓って無戸室に入って火を放ち、燃え盛る炎の中で無事に彦火々出見命ら三柱を産み落とした」という神話に依るもので、大神神社が「かまど(古くはかまどを『やしま』といった)のごとく燃え盛る無戸室」で出産した咲耶姫を祭っていることから「室の八島」と呼ばれるようになったことを説明している。
かまどを意味した「やしま」が「八島」に変わって境内に8つの島が築かれ、周囲の池から煙の如く立ち上がる水蒸気がかまどからの煙に見立てられたが、正徳4年(1714年)に刊行された貝原益軒の「日光名勝記」には、当時、池に水は無く、したがって水蒸気が立ち上がる景も見られなかったと記されている。
また、「おくのほそ道」に「又煙を読習し侍もこの謂也」とあるように、室の八島を詠む歌は、上の神話の謂れから煙にちなんだものにする習わしがあった。
○ いかでかは思ひありとも知らすべき室の八島の煙ならでは 「詞花集」藤原実方
○ 暮るる夜は衛士のたく火をそれと見よ室の八島も都ならねば 「新勅撰集」藤原定家
○ 煙たつ室の八島にあらぬ身はこがれしことぞくやしかりける 「新拾遺集」大江匡房
「このしろといふ魚を禁ず」
「おくのほそ道」の中で、室の八島の謂れに続けて「このしろといふ魚を禁ず」という件(くだり)がある。これは、ニシン科の魚でコハダとも呼ばれる「このしろ」を焼くと人体を焼いたときの匂いがするとされたことから、火の中で貞操を証した木花咲耶姫を慮(おもんばか)って、大神神社がこれを禁忌しているということを叙しているのだろう。
「このしろ伝説」1
下野国に、むかし、五万長者と呼ばれる長者がおり、長者には常陸国の国司に嫁ぐことを約束した娘がいた。ある日、下野国に流離(さすら)い着いた孝徳天皇の子有馬皇子が長者の家に住み込み、いつしか娘と恋仲になった。国司は婚姻の約束を果たすよう長者に催促するが、すでに娘は有馬皇子に心が移ってしまい長者は途方に暮れる。そこで思い立ったのが娘を死んだと見せかけて国司に婚姻を断念してもらうことだった。偽りの葬儀で、長者は棺(ひつぎ)に「子の代(このしろ。子の代わり)」として「つなし(ニシン科)」とニラを入れて野辺送りをした。すると、これを焼いた匂いが人を焼いたときと同じ匂いのため、国司は娘がほんとうに死んだものとあきらめ、常陸国に帰って行った。いつしか「つなし」は「このしろ」とも呼ばれるようになった。むかし、大神神社で行われていた毎年9月9日の「つなし」を焼いて捧げる神事は、この謂れによるという。
「このしろ伝説」2
むかし此処に住けるもの、いつくしき娘をもてりけり。国の守これを聞給ひて、此むすめを召に、娘いなみて行ず。父はゝも亦たゞひとりの子なりけるゆへに奉る事をねがはず。とかくするうちに、めしの使数重なり、国の守の怒つよきときこえければ、せむかたなくて、娘は死たりといつはり、鱸魚(ろぎょ。スズキの別称)を多く棺に入て、これを焼きぬ。鱸魚を焼く香は、人を焼に似たるゆへなり。それよりして此うをゝ、このしろと名付侍るとぞ。歌に、あづま路のむろの八島にたつけぶりたが子のしろにつなじやくらん。此事十訓抄にか見え侍ると覚ゆ。このしろは、子の代にて、子のかはりと云事也。此魚上つかたにては、つなじと云。 [「奥細道菅菰抄」安永7年(1778)高橋(蓑笠庵)梨一著]  
室の八島2
室の八島がなぜ多くの和歌に詠まれたかといえば、室の八島が煙を介して恋の歌と結びついたからではないかと考えられます。”室の八島の煙は恋の煙”これがなんとも魅惑的で多くの歌人の心を引き付けたのではないでしょうか。しかし、室の八島の景色を見ながら、あるいは実景を知っていて詠んだ歌というのはわずかしかなさそうです。そして室の八島の実景を描写した歌は一首もなさそうです。”室の八島の煙は恋の煙”というイメージが一人歩きして多くの歌人に詠まれたようです。歌枕とはそういうもののようです。
この室の八島ですが、国語辞典や参考書などで調べると、栃木県栃木市惣社町(そうじゃちょう)にある大神神社(おおみわじんじゃ)のことである、その境内にある八つの小島のある池のことである、大神神社のある栃木市惣社町辺りの土地のことである、野中に清水のあるところである、いや本来は釜、または竈(かまど)、あるいは大晦日(おおみそか)に行われる竈の行事のことで室の八島は実在した場所ではない、等々いろいろ出てきます。これらを細かく分類したら何種類の室の八島が出てくるものやら。
インターネットで室の八島を検索すると、ほとんどは松尾芭蕉が[奥の細道]の旅で訪れた歌枕として登場し、室の八島を大神神社あるいはその境内にあるそれぞれに小祠を祭った八つの小島のある池であるとしています。
また室の八島の煙についても、上記の池から立ち上る水蒸気を煙に見立てたものである、木花咲(開)耶姫が無戸室(うつむろ)に入って身を焼いた際に、無戸室から立ち昇る煙のことである、野中の清水から立ち昇る水蒸気を煙に見立てたものである、炊煙、つまり竈の煙であるとまちまちです。
しかし、本来の室の八島は一つのはずですから、これらのほとんどは誤りか、あるいは時代を限定して、××時代の室の八島は○○であると言わなければ正しいとは言えません。室の八島は、平安時代末期以来、様々に変貌を繰り返しながら今日に至っています。つまり室の八島には歴史があります。その歴史を無視して室の八島とは何であると言っても正解とは言えません。
では、その室の八島の歴史を紹介しましょう。室の八島の歴史をわかりやすく次の観光宣伝文にまとめてありますので、まずはそれから。
絶えず立つ恋の煙 歌枕室の八島へのいざない
あなたはご存知のつもりかもしれませんが、実は何一つご存知ない歌枕室の八島、その歴史の旅へ、これからあなたをご案内致します。
室の八島(むろのやしま)とは、下野国府(いまの栃木県栃木市国府地区(こうちく)一帯)付近にあったと考えられる関東有数の、そして下野国随一の歌枕で、平安時代以来「室の八島の煙」のように煙と結びつけて数多くの歌人に詠まれた名所です。そして江戸時代には将軍徳川家光が訪れ、松尾芭蕉が[奥の細道]の旅の最初に訪れています。
平安室の八島-絶えず立つ恋の煙
室の八島が、下野国府付近のどこにあり、どんなところであったかは、詳しく記した史料がないのでよくわかりませんが、平安時代の史料に、これは室の八島が本来の景観を失った後の姿と考えられますが、「野中に清水のある」ところとの記述があり、これはまさに近年まで各所に湧水の見られた”巴波川低地”(うずまがわていち)の特徴そのものです。
そこで室の八島とは、広義には、栃木県南部を流れる利根川水系思川(おもいがわ)の水が一部伏流して、栃木市の川原田町辺り、あるいは大宮地区で地表に湧出している湧き水を水源として、栃木市街を南北に貫流する巴波川の本流および支流一帯に、かつてあったと思われる広範囲にわたる湿地帯・沼沢地、狭義には、そのどこかにあった、名勝松島を内陸部に再現したような景勝地ではないかと思われます。そして”蔵の街”でおなじみの栃木市街を含む一帯は、周囲の地区、すなわち西部の皆川地区、吹上地区、東部の国府地区などより歴史的に見て開発されるのがかなり遅れましたが、それはそこが室の八島の湿地帯で、開発に適さない土地であったためではないかと推測されます。またそこを流れる現在の巴波川は、室の八島が川に姿を変えて、今に残ったものではないかと思われます。
この平安室の八島は、1100年ころには、はるばる京の都から見物に来ようと思うほどの場所でした。さぞ素晴らしい景勝地であったろうと想像されます。そこがどんな風景であったか、現地を訪れて、「室の八島」という名称、あるいは「下野国の野中に島あり」などの史料の記述をヒントに、あなたなりに想像されてはいかがでしょうか。
また室の八島は、由来がはっきりしませんが、「煙立つ室の八島」「絶えず立つ室の八島の煙」のように煙と結びつけて和歌に詠まれ、初期の歌によれば、室の八島の煙は”恋の煙”-恋の思いが形となって現れたもの、恋の思いを伝える狼煙(のろし)-でした。当時の都人は、まだ見ぬ室の八島に想いを馳せながら恋の歌を詠んだのです。あなたも一首いかがでしょうか、恋の歌を。
○ 下野や室の八島に立つ煙(けぶり)思ひありとも今日(けふ)こそは知れ 大江朝綱
○ いかでかは思ひありとも知らすべき室の八島の煙ならでは 藤原実方
○ かくばかり思ひ焦がれて年経(ふ)やと室の八島の煙にも問へ 狭衣物語
○ 東路の室の八嶋に思ひ立ち今宵ぞ越ゆる逢坂の関 隆源
中世室の八島-さすらいへの旅立ち
その後室の八島は景観を失ったのか、平安時代も終わりの頃になりますと、室の八島の中心がその周縁部にあった下野国府の集落の方に移動して、下野国府の集落一帯が室の八島と呼ばれるようになります。[平治物語]によれば、平治の乱(1159年)に際して、藤原成憲(成範)や源師仲(もろなか)が室の八島に流されますが、この室の八島とは下野国府の集落のことです。
○ 夏くれば室の八島の里人もなほ蚊遣火(かやりび)や思ひ立つらむ 小侍従
○ 待てしばし煙の下にながらへて室の八島も人は住みけり 藤原隆祐
その後、1300年代までに下野国の政庁が現小山市に移転し、それまで下野惣社周辺にその中心のあった下野国府の集落は次第に寂れていきます。室町時代の1509年に、連歌師の柴屋軒宗長(さいおくけんそうちょう)が室の八島を訪れていますが、当時の室の八島は、「誠に打見るより淋しく憐れな」風景でした。また江戸時代初期に近くを通りかかった公家・歌人の烏丸光広(からすまるみつひろ)にとって、室の八島は「胸の煙も空せばき心地して、涙は水よりも流れぬ」ほどの思いを抱かせる場所でした。
○ 跡もなき室の八島の夕煙なびくと見しや迷ひなるらむ 法印守遍
○ あづま路の室のやしまの秋のいろはそれとも分かぬ夕烟(けぶり)哉 柴屋軒宗長
近世室の八島〜現在の室の八島-宗教という迷路へ
いつ頃のことでしょうか、前記下野惣社の前、すなわち中世室の八島の地に本来の室の八島を想像して、八つの小島のある大きな池が作られます。そしてその池は、いつしか本来の室の八島であると誤解されるようになります。
ところがそこに或る神道組織が関与してきて、室の八島とは池ではない、その池のある神社のことであると、とんでもないことを言い出します。1689年、松尾芭蕉が[奥の細道]の旅で訪れる最初の名所として室の八島を訪れますが、芭蕉が案内された室の八島とは、室の八島大明神(下野惣社のこと)という神社でした。それは、芭蕉がそれまで聞いていた室の八島のイメージと全く異質のものでした。そのため芭蕉は疑い、[奥の細道]では室の八島の印象を一言も述べておりません。
さて芭蕉が頭に描いていた本来の室の八島のイメージは、平安室の八島か、それとも中世室の八島か?いずれにせよ、今では陽炎(かげろう)が立つような「誠に打見るより淋しく憐れな」風景の場所に変わってしまったと聞いていたので、芭蕉はそれを思って「涙は水よりも流れぬ」ほどの思いに浸りたかったことと思われます。ちょっと時代がずれてしまいましたが、芭蕉の訪れたかった場所を探し出し、もし芭蕉がそこに来ていたら、そこで彼はどんなことを考えたか想像してはいかがでしょう。
○ 糸遊に結びつきたる煙かな 松尾芭蕉 (糸遊=陽炎)
そうして現代においては、かつて下野惣社であった現在の大神神社(おおみわじんじゃ)、および/またはその境内にある、それぞれに小祠を祭った八つの小島のある小さな池、これらが歌枕室の八島であると広く信じられております。というより「奥の細道」ゆかりの場所として「俳枕室の八島」となっております。
さて、さまよえる歌枕室の八島は、この後どこへ向かうのでしょう。平安時代の故郷に戻ることができるでしょうか。
歌枕「室の八島」
室の八島(むろのやしま)とは、平安時代の西暦900年頃以来、”室の八島の煙”のように煙と結びつけて数多くの歌人に詠まれた関東有数の、そして下野国(しもつけのくに・しもつけこく、今の栃木県)随一の歌枕である。そして本来の室の八島は、かつて下野国府付近の広範囲にわたって存在したであろう湿地帯・沼沢地にあった、八島の名によって表現されているような景色の景勝地と推測されるが正確なところはよく分からず(解析には自信がありますが、当時の室の八島そのものに関する情報量が少ないので断言は避けます)。ところがその室の八島は1100年頃までには本来の景観を失ってしまったのか、その後の1150年頃までには室の八島の場所が移動し、それ以来今日まで室の八島はさまよい続けることとなる。
さまよい始めた後の室の八島について概略説明すると、まず中世には室の八島の周縁部にあった下野国府の集落一帯が室の八島と呼ばれるようになり、近世には、中世室の八島の「下野国府の集落」がイメージを変えた「かつて栄えた室の八島の町」のイメージや、本来の室の八島を想像して中世室の八島の地に作られた八つの小島のある大きな池などが室の八島とされる。なお近世は室の八島の名が最も広く知れ渡った時代である。その後近代になって、学者達の間から室の八島とは元々は宮中の竈(かまど)のことだったのであるという説や、大晦日(おおみそか)に行われる竈の行事のことだったのであるなどとする説が出てきて、栃木県の室の八島などという場所は元々存在しなかったのであると考えられるようになるが、戦後(1945年戦争終結)は、主に近世の俳人松尾芭蕉の[奥の細道]およびその解説書の影響で、栃木市の大神神社(おおみわじんじゃ)、および/またはその境内にある、それぞれに小祠を祭った八つの小島のある小さな池が室の八島であると広く信じられている 。
なお2006年現在、室の八島の煙を水面から立ち昇る水蒸気とする見方が一般的だが、これは1100年頃に現れた見方であり、本来の煙は「恋の煙」、すなわちホントの煙ではなく和歌における恋の思い-火-煙の縁語関係 から生まれた架空の煙であると推測される。また当初、煙は室の八島の縁語ではなく、八島の掛詞(かけことば)の相手であった、竈神(かまどがみ)あるいは竈を宮中の隠語(?)で八島と呼んだ、その八島の縁語だった、つまり室の八島と何ら関係のない竈の煙だった可能性がある。
後世[奥の細道]の旅で松尾芭蕉も訪れた平安時代以来の歌枕室の八島に、波乱万丈の歴史があったなどと誰が想像し得たでしょう! 室の八島はかつてはかなり名の知られた歌枕だったので、このHPでその多くを紹介してますように和歌を含めて史料は豊富にあります。にもかかわらず今まで学術的に調査されたことは一度もなかったのでしょうか、今回調査してみると、通説とは全く違っていた室の八島。その真実の姿”さまよえる歌枕”の数奇な運命をたどる歴史の旅へ、これからあなたをご案内致します。
○ 下野や室の八島に立つ煙(けぶり)思ひありとも今日(けふ)こそは知れ 大江朝綱
○ いかでかは思ひありとも知らすべき室の八島の煙ならでは 藤原実方
○ かくばかり思ひ焦がれて年経(ふ)やと室の八島の煙にも問へ 狭衣物語
○ 糸遊(いとゆう)に結びつきたる煙かな 松尾芭蕉

[奥の細道]の中で道連れの曽良が、室の八島とは神社(の境内一帯)のことですと芭蕉に紹介しています。どういう事かと言うと、なまじっか神道に詳しい曽良は神社に騙されたのです(先に言いましたように、神社という表現は正確ではありません。)。曽良は、室の八島を当神社(の境内一帯)とし、祭神木花咲耶姫の故事に絡めてその由来を説明していますが、そもそも木花咲耶姫がこの神社に関係してくるのは、室の八島が歴史上に登場して来た時代よりずっと後の近世になってからです。と言うことで、室の八島が神社であるなどとは、話になりません。
野越えと小姫かさね
日光へ続く街道の一つに、奥州街道の大田原から分岐し、矢板、玉生(たまにゅう)、船生(ふにゅう)、大渡を経、今市で日光街道に合流する「日光北街道」がある。芭蕉一行が、黒羽を目指して踏み入った野中の道が、この日光北街道である。
当時、この脇街道は、行けども行けども広漠とした原野が続き、保肥力・保水力のない火山灰土に雑草のみが繁茂する様相で、後年、芭蕉の旅を辿った山崎北華は「蝶の遊」の中で、飲み水にさえ窮する旅の有様を記している。
また、藤原信実朝臣が「道多き那須野の御狩の矢さけびにのがれぬ鹿の声ぞ聞こゆる」(夫木和歌抄)と詠んだように、この野の道は昔から縦横に分岐して迷い易く、こうした点からも那須野越えは、旅の難所だったことが窺い知られる。
陸奥にくだらむとして、下野国まで旅立けるに、那須の黒羽と云所に翠桃何某の住けるを尋て、深き野を分入る程、道もまがふばかり草ふかければ、
○ 秣(まぐさ)負ふ人を枝折の夏野哉 芭蕉 (陸奥鵆)
元禄2年(1689年)4月2日(新暦5月20日)、日光を立った芭蕉一行は、往路を今市の手前まで戻り、会津西街道に入った。これを北上し、途中から日光北街道に旅路を移して鬼怒川を越える。激しい雷雨の中、どうにか玉生宿に到着し、当夜の宿、玉生の名主宅に草鞋を脱いだ。
那須の黒ばねと云所に知人あれば、是より野越にかゝりて、直道をゆかんとす。遥に一村を見かけて行に、雨降日暮る。農夫の家に一夜をかりて、・・・ (おくのほそ道)
一 同二日 (中略)
一 同晩 玉入(玉生)泊。宿悪故、無理ニ名主ノ家入テ宿カル。 (曽良随行日記)
野越え二日目の様子について、曽良は何も記していないが、芭蕉は、人里に至るまでの旅を次のように記している。
明れば又野中を行。そこに野飼の馬あり。草刈おのこになげきよれば、野夫といへどもさすがに情しらぬには非ず。「いかゞすべきや。されども此野は縦横にわかれて、うゐうゐ敷旅人の道ふみたがえん、あやしう侍れば、此馬のとゞまる所にて馬を返し給へ」と、かし侍ぬ。ちいさき者ふたり、馬の跡したひてはしる。独は小姫にて、名をかさねと云。聞なれぬ名のやさしかりければ、
○ かさねとは八重撫子の名成べし 曽良
頓て人里に至れば、あたひを鞍つぼに結付て、馬を返しぬ。 (おくのほそ道)
本章段は、日光の「仏五左衛門」に続き二人目の登場人物となった野夫「草刈おのこ」が、芭蕉の助力哀願に対し、思案の末、「うゐうゐ敷旅人」の道行を案じ、野飼いの馬を貸し与えるという逸話の展開である。
(「草刈おのこ」のくだりについて、世阿弥の謡曲「錦木」の一節「けふの細道分け暮らして、錦塚はいづくぞ、かの岡に草刈るをのこ心して、人の通ひ路明らかに教へよや」を踏まえたものとする捉え方がある。)
一会の旅人に温情を傾けたこの「草刈おのこ」の叙述は、殺生石への途次、芭蕉に短冊を乞うた「口付のおのこ」の逸話と協和して、那須野が原の紀行を、牧歌的に、抒情詩的に仕上げるのに功を奏している。
これを助長しているのが、馬の後を追う「ちいさき者ふたり」で、中でも、小姫「かさね」は、その名がめずらしく、優美で風情のある聞こえであったことから芭蕉の心に強く残り、「おくのほそ道」の旅の後、然(さ)る人の赤子に「かさね」の名を授け、次の文を認めている。
みちのく行脚の時、いづれの里にかあらむ、こむ[す]めの六ツばかりとおぼしきが、いとさゝやかに、えもいはずをかしかりけるを、「名をいかにいふ」と問へバ、「かさね」と答ふ。いと興有(ある)名なり。都の方にては稀にもきゝ侍ざりしに、いかに伝て何をかさねといふ[に]やあらん。我、子あらば、此名を得させんと、道連れなる人(曽良)に戯れ侍しを思ひ出でて、此たび思はざる縁に引かれて名付親となり、
賀重(かさねをがす) 
○ いく春をかさねがさねの花ごろも  しは(皺)よるまでの老もみるべく  はせを 
雲巌寺
雲巌寺は、臨済宗妙心寺派の禅寺で山号を東山という。筑前博多・聖福寺、越前・永平寺、紀州由良・興国寺とともに禅宗の四大道場の一つとされる。
縁起には、仏国国師が関東地方を行脚中、黒羽東方の八溝山山麓に草庵を結んだ折、高梨勝願法印が国師に参禅。勝願はその恩に報い国師に八溝山を献上し、弘安6年(1283年)になって執権北条時宗が当地に雲巌寺を建立した、とある。
雲巌寺は、旧黒羽町(現在、大田原市の一部)の中心部から東へ車で20分ほど行ったところの山ふところにあり、武茂(むも)川に架かる独木橋(どくもくきょう)を渡って更に進むと、境内の入口付近に碑面が文字で尽された大き目の石碑が目に止まる。この石碑は、旧黒羽町に3つある「おくのほそ道」文学碑の1つで、芭蕉が元禄2年(1689年)4月5日(新暦5月23日)に、土地の若い門人らを伴って雲巌寺を訪れたときの紀行を綴る、雲巌寺の章段が刻まれている。
当国雲岸寺のおくに佛頂和尚山居跡あり。
○ 竪横の五尺にたらぬ草の庵 むすぶもくやし雨なかりせば
と、松の炭して岩に書付侍りと、いつぞや聞え給ふ。其跡みんと雲岸寺に杖を曳ば、人々すゝんで共にいざなひ、若き人おほく道のほど打さはぎて、おぼえず彼梺に到る。山はおくあるけしきにて、谷道遥に、松杉黒く、苔したゞりて、卯月の天今猶寒し。十景尽る所、橋をわたつて山門に入。 さて、かの跡はいづくのほどにやと、後の山によぢのぼれば、石上の小庵岩窟にむすびかけたり。妙禅師の死関、法雲法師の石室をみるがごとし。
○ 木啄も庵はやぶらず夏木立
と、とりあへぬ一句を柱に残侍し。 (おくのほそ道)
仏頂和尚は、深川隠棲中の芭蕉が朝夕なく参禅に赴いた禅師で、芭蕉の作風に大きな影響を与えた人物でもある。芭蕉が雲巌寺を訪れたのは、仏頂が修行時代この寺の山中にこもり、「竪横の五尺にたらぬ草の庵むすぶもくやし雨なかりせば」の歌を傍らの岩に松の炭で書き付けた、と芭蕉に語っていたからで、一行が目指した仏頂禅師の山居跡は雲巌寺の裏山にあった。
雲巌寺の章段を刻む石碑をあとにして、そのやや先から左に切れると、独木橋、瑞雲橋、涅槃橋、梅船橋とともに東山五橋に数えられる朱塗りの瓜(か)てつ橋が見えてくる。橋を渡ると、端正な植木を傍らにした石段が続き、登り詰めたところに「雲巌寺専門道場」の看板を掲げた山門が構えている。山門を抜けると広々とした境内に出る。
広い境内は、いかにも禅寺らしい楚々とした佇まいで、いくつかの堂宇が離れて建てられている。山門をくぐって左に行くと、紫陽花の植え込みの中に、芭蕉が雲巌寺を訪れた謂れを記す説明板が建ち、その奥に、仏頂禅師の歌と芭蕉の「木啄も庵はやぶらず夏木立」の句を刻む碑がある。この句歌碑は、享和3年(1803年)に建てられた石碑が痛んだため、明治12年(1879年)になって再建されたもので、碑陰に「碑破裂二付再建」の刻印が見られる。
句歌碑のあるところから山門まで戻り、その右手の鐘楼前から石段を登って右に歩いていくと、仏頂禅師の山居跡に通じる山道がある。しかし、今は道を塞がれ訪ねることはできない。禅師は、雲巌寺四十五世徹通和尚と親交が厚かったことから、晩年、雲巌寺裏山に山居を営んだが、正徳5年(1715年)、病により74歳で没した。山居は、その後、幾代かの庵主を得たが次第に廃虚と化し、大正15年(1926年)山内に水道がひかれたとき、当地に防火用の水槽が築かれた。 
殺生石の謂れと伝説
殺生石(中央からやや左寄りの石) 那須湯本温泉の源泉となっている「鹿の湯」の西方に、山肌がむき出しで草木の絶えた谷あいがあり、この奥に、かの殺生石が鎮座している。
殺生石の周辺からは、硫化水素や亜硫酸ガス、砒素などの有毒ガスが噴出し、昔ほどではないと言われるが、今でも異臭のするガスが吹き出している。
古人は、この場所で人や動物が死亡することを、石に宿る霊の仕業と考え、石を特定して「殺生石」と名付けた。さらには、その石に、全身を金色の毛で覆い9本の尾をもつという「白面金毛九尾の狐」の物語を添加したことにより、殺生石は、恐怖の石として世に広く伝播するところとなった。
那須温泉神社社務所発行の「伝説 殺生石」の中で、「九尾の狐」の物語は次のように展開されている。
九尾の狐の誕生。中国の王の后に姿を変えて、悪行を尽す。インドに渡り、太子の后となって悪行を尽し、ある夜、突然姿を消す。数百年後、16、7歳の女子に姿を変え、遣唐使の船で日本に渡る。約360年後、赤児に化け、子宝に恵まれない夫婦に拾われる。藻女(みずくめ)と名付けられ、夫婦の寵愛のもと、美しく成長する。18歳で宮中に仕え、才色兼備と称えられる。名を「玉藻の前」(1) と改められ、鳥羽院のそばに仕える。鳥羽院を殺し、やがてはこの世を治め、人の世を滅亡させようとするが・・・。鳥羽院の前で、実の姿が露見しかける。陰陽師・阿部泰成、玉藻の前を九尾の狐と見破る。玉藻の前、泰成との対決に破れ、「白面金毛九尾の狐」の姿で逃げる。九尾の狐、那須野に現われ、婦女子をさらう。那須の領主須藤権守貞信、朝廷に九尾の狐の退治を要請する。朝廷、三浦介と上総介を将軍、泰成を参謀に、八万余の軍勢を那須野へ派遣。軍勢、九尾の狐退治のため、犬追物(2) で騎射を訓練する。貞信、「目的物に必ず命中し、刺さったら抜けない矢」を得る。貞信、九尾の狐を射殺。九尾の狐、巨大な毒石に姿を変える。村人、毒石を「殺生石」と名付ける。鎮魂のため派遣される名僧、殺生石の毒気で次々と倒れる。源翁和尚、殺生石を教化。その時、石、3つに割れて飛び、1つが残る。殺生石、急激に毒気を弱めるが、今なお毒を吐きつづけている。
元禄2年(1689年)4月12日(新暦5月30日)、芭蕉は桃雪に誘われて、騎射を練習するため犬を追物射したという蜂巣の犬追物(2)跡と、祭神が玉藻の前(1)で、九尾の狐を射止めた所と伝えられる那須篠原の玉藻稲荷神社を訪ねた。芭蕉は、これらの史跡から那須野に伝わる殺生石伝説の詳細を知り、殺生石を訪ねる決心を固めたと思われる。
それから7日後の4月19日(新暦6月6日)、芭蕉は、異臭がただよう荒涼とした谷あいに足を踏み入れ、殺生石を目の当たりにした。「おくのほそ道」の中の「蜂蝶のたぐひ真砂の色の見えぬほどかさなり死す」は誇張して書かれたものだろうが、おどろおどろしい光景の中で、場合によっては命さえ失いかねない異臭の中で、芭蕉と曽良は思わず二の足を踏んでしまったに違いない。 
下野 / 国名。現在の栃木県。
下野武蔵のさかひ川に、舟わたりをしけるに、霧深かりければ
○ 霧ふかき古河のわたりのわたし守岸の船つき思ひさだめよ
下野の國にて、柴の煙を見てよみける
○ 都近き小野大原を思ひ出づる柴の煙のあはれなるかな
「さかひ川」利根川のことといいます。
「古河」茨城県古川市のことか?。古河市は利根川流域にあり、栃木県と接している。  
黒髪山 日光の男体(なんたい)山。山岳宗教の霊地。
○ ふりにける身をこそよそにいとふとも黒髪山も雪を待つらん 道興
標茅(しめぢ)が原 栃木市の北、伊吹山の裾野。戦場が原の異称とする説もある。
○ 猶たのめしめぢが原のさしも草我が世の中にあらむかぎりは 清水観音「新古今」
那須 那須郡那須町。古くは下野国北東部の原野一帯を言った。
○ もののふの矢並つくろふ小手の上に霰たばしる那須の篠原 源実朝
室(むろ)の八島 栃木市惣社。室の八島は下野国(しもつけのくに)の惣社、大神(おおみわ)神社境内にある。
大神神社は、今から千八百年前、大和の大三輪神社の分霊を奉祀し創立したと伝えられ、祭神は大物主命です。惣社は、平安時代、国府の長官が下野国中の神々にお参りするために大神神社の地に神々を勧請し祀ったものです。また、この地は、けぶりたつ「室の八島」と呼ばれ、平安時代以来東国の歌枕として都まで聞えた名所でした。幾多の歌人によって多くの歌が、残されています。
奈良時代以前にまで遡る古社であることは確からしく、本殿も周囲の雰囲気も、それらしい風格を漂わせる。付近には古墳が多く、一帯は古代下野国の中心であった。
「室の八島」は当社境内の池にある八つの島をいう、ということになっている。もっとも、歌枕の本などをみると、もともと下野国とは何の関係もなく、宮中大炊(おおい)寮(づかさ)の竃(かまど)のことを言ったらしい。「むろのやしまとは、竃をいふなり。かまをぬりこめたるを室といふ。(中略)釜をばやしまといふなり」(色葉和難集)。つまり、竃=塗り込めた釜、を宮中の隠語(?)で「室の八島」と謂い、これがいつしか下野の国の八島に付会された、ということである。そうして、この辺りを流れる清水から発する蒸気が「室の八島のけぶり」と見なされた。これを、恋に身を燃やす「けぶり」に喩えて、多くの歌が詠まれたのである。
○ いかでかは思ひありとも知らすべき室の八嶋の煙ならでは 藤原実方
○ 人を思ふ思ひを何にたとへまし室の八島も名のみ也けり 源重之女
○ 下野や室の八島に立つ煙思ひありとも今日こそは知れ 大江朝綱
○ 煙たつ室の八嶋にあらぬ身はこがれしことぞくやしかりける 大江匡房
○ いかにせん室の八島に宿もがな恋の煙を空にまがへん 藤原俊成
○ 恋ひ死なば室の八島にあらずとも思ひの程は煙にも見よ 藤原忠定
恋に焦がれる心情の比喩としては、「海人の塩焼く煙」なども和歌の常套であったが、「室の八島の煙」はもう少し控えめというか、抑えに抑えた(それでも隠しきれない)鬱屈した恋の想いを詠むのに用いられているようである。相手に対しては、あからさまに知らせることができないが、それとなく知ってほしい、というようなニュアンスである。王朝の恋の美学には、かなったイメージを提供する歌枕だったのであろう。
現存する「室の八島」は、まことに小さな池の小さな島である(夏の盛りにも、蒸気を発しているようには見えない)。それぞれの島には小さな祠があり、各地の効験あらたかな神々を勧請している。
『おくのほそ道』を見ると、こうある。
室の八嶋に詣す。同行曾良が曰、「此神は木の花さくや姫の神と申て、富士一躰也。無戸室(うつむろ)に入て燒給ふちかひのみ中に、火ゝ出見(ほほでみ)のみこと生れ給ひしより室の八嶋と申(まをす)。又煙を讀習(よみならは)し侍(はべる)もこの謂(いはれ)也。」將(はた)このしろといふ魚を禁ず縁起の旨世に傳ふ事も侍(はべり)し。
曾良の怪しげな蘊蓄を記したあと、唐突な魚の縁起話に触れているだけである。芭蕉が訪れた頃、八島の清水は涸れ果てて、痕跡さえも残っていなかったから、こんな話でお茶を濁すしかなかったのだろうか。今ある境内の池は、さらに後世の造作という。源重之女の歌にある通り、「室の八島も名のみ也けり」だったのである。
『曾良随行日記』には、この地で芭蕉が残した句が記し留められている。境内には句碑があって、わずかに先人の足跡を偲ばせてくれた。
○ 糸遊に結びつきたる煙哉
遊行柳(ゆぎやうやなぎ) 那須郡那須町芦野。下記西行の歌の故地とされる。
○ 道のべに清水流るる柳かげしばしとてこそ立ちどまりつれ 西行「新古今集」
○ 田一枚植えて立ち去る柳かな 芭蕉「奥の細道」  
天平の下野國
下野国府
国府は律令国家によって設定された都市である。その国数は、八世紀初めに五八ケ国、三島。八二四年以降は六六ヶ国二島で全国にこれだけの数の国府があった。今日、各地には国府、府中などの地名を残している。その地名などから推定され陸奥(多賀城)、出羽(城輪柵遺跡)、下野、近江、出雲、伯耆、印旛、肥前、筑後など、多くの国では発掘調査によって所在地が確認されている。
国府では、政庁を中心に、その周囲に行政実務を行う官舎、国司の居住する館、正倉、兵庫などの倉庫、学校、国で使用する製品を作る工房などが配置されていたと考えられる。
下野国庁の所在地については、「和名類聚抄」という平安時代の本に「国府在都賀郡」とだけ書かれている。「都賀郡」は現在の栃木市、小山市、鹿沼市、下都賀郡を合わせた広い地域であるが、地名、田畑の形状、都からの交通の便などから、栃木市国府地区(旧下都賀郡国府村)のどこかにあったと考えられていた。
下野国庁の位置が確定したのは、一九七九年(昭和五四)八月、国府跡を探すための発掘調査を開始されてから四年目のことだった。調査はその後もさらに四年間続けられ、その結果から国府が、栃木市田村町宮の辺に存在したことがわかった。
大神(おおみわ)神社と室の八嶋
栃木市惣社に鎮座する大神神社は元の下都賀郡国府村惣社の地、栃木市街の東北約四キロの郊外にあり、七千五百坪ほどの広い神域を持つ社である。
大物主神を祭神とする大神神社の由緒は、第十代崇神天皇の長子、豊城入彦命が勅令を受けて東国治定の時、天皇の崇拝厚い大和三輪山の大三神大神(奈良県松井大神神社)を当地室の八嶋の琵琶島に奉斉した。
第十二代景行天皇は国々の府中に六所明神を祀り惣社六所明神と称した。これが後に室八嶋明神となった。延喜式神名帳に下野十一社の制定により、当社がその筆頭にあげられた。
惣社とは、平安時代、国府の長官が国内にまつられている神々をお参りするために国庁に近い神社の地にすべての神々を勧請し祀ったものである。大神神社は古くから「下野惣社」として知られている。
また、大神神社の境内は、室の八嶋の地として伝えられている。この神社の本殿に向かって左手前の木立のなかに小さな空壕がある。それを巡り名ばかりのいくつかの島があり、それぞれの神々を祀る祠がある。
それらの島々には橋が架けられ、その神祠を巡拝できるように造られている。そこが平安時代以来、多くの歌に詠まれた歌枕、「室の八嶋」、である。
室の八嶋の池は、おそらく後世の好事家が、その名に基づいてしつらえたものと思われるが、元禄年間、陸奥に杖を引いた芭蕉が訪れた時は、すでに今日見るようなたたずまいになっていたようである。
室の八嶋を詠み込んだ歌はかなりの数にのぼるが、それらによれば、その地は煙によって知られていたことがわかる。その煙がいかなる所に立ち昇るものであり、それが何の煙であるかは明らかではない。
通説としては「かまど」から立つ「煙」と意味とする説が一番多いが、水煙、恋いに身を焼く煙、水蒸気の煙、「名のみあって実なきもの」として多くの人が「いとあそび」と読み意味不明としている糸遊や陽炎(かげろう) 、蜘蛛(サクヤ姫伝承との結び付き)などをも意味して歌は詠まれている。
古代、近世歌人が室の八嶋を詠んだ歌には次のような歌がある。
○ いかでかな思いありとも知らすべき 室のやしまのけふりならでは 藤原実方
○ いかにせむ室のやしまに宿もかな 恋のけふりを空にまかせて 藤原俊成
○ 朝かすみふかく見ゆるやけふり立つ 室のやしまのわたりなららむ 藤原清輔
○ くるる夜は衛士のたく火をそれと見よ 室のやしまもみやこならねば 藤原定家
○ たえず焚く室のやしまのけふりにも なおたちまさる恋のあるらむ 摂津公
○ さらにまた思ひありとやしくるらむ 室のやしまのうき雲の空 藤原信実
○ 思ひやる室のやしまをそれた見ば 聞くにけふりのたつやますらむ 連生法師
○ しもつけやむろのやしまに立つけふり おもひありとはいまそしるべし 詠み人知らず
○ 霧はるるむろのやしまのあきかせに のこりて立つはけふりなりけり 藤原宗秀
○ けふりなきむろのやしまをおもひせば きみがしるへとわれそたたまし 藤原親朝
○ 立昇る煙も空となりにけり 室の八嶋の五月雨のころ 藤原家隆
○ 煙かと室の八嶋を見しほとに やかても空のかすみぬるかな 源俊頼
○ 糸遊(いとゆう)に結びつきたる煙哉 芭蕉
○ 見上ぐれば秋の大空突く如く 室の八嶋の秀枯(ほがれ)しの杉 長塚節
○ 灰暗(ほのぐら)き室の八嶋の神領の 三万余坪みな蝉のこえ 伊藤左千夫
○ 糸遊に結びつくべき煙なし 風趣風情なし雑木の芽生え 土屋文明
○ 松の間の雨に匂へる桜花 これ皆木の花のさくや姫 土屋文明
古人は、実際に室の八嶋に赴いてその感懐を述べ歌を詠んだ。しかし、室の八嶋を詠む歌のほとんどが実際に室の八嶋を眺めてのものでなく、「煙」とか、「思ひ」とかをいわんがために、あるいは、「下野」のゆかりを思わせるために歌枕として室の八嶋を詠み込んだ。
東国の歌枕例。
上野国 / 伊香保沼、佐野船橋
○ 上毛野(かみつけの)伊香保の沼に 植ゑ子水葱(こなぎ)かく 恋ひむとや種求めけむ 万葉集
○ 上毛野佐野の舟橋摂り放し 親は離(さ)くれど五は離(さか)るがへ 万葉集 
常磐國 / 鹿島、筑波領、筑波山
○ 霰(あられ)降り鹿島の神を祈りつつ 皇御運(すめらみくさ)にわれは来にしを 万葉集
○ 筑波領のみねより落つるみなの川 恋ぞつもりて淵となりける 後撰集 陽成院
○ 妹が門いや遠そきぬ筑波山 隠れぬ程に袖ば振りてな 万葉集
下総国 / 真間の継橋
○ 足の音せず行かむ駒もが葛飾の 真間の継橋やまず通はむ 万葉集
武蔵国 / 調布(たづくりの)多摩川、堀兼井、武蔵野
○ 松風の音だに秋はさびしきに 衣うつなり玉川の里 千載集 源俊頼
○ 武蔵なる堀兼の井の底を浅み思ふ 心を何にたとへむ 古今六帖 よみ人知らず
○ 武蔵野に占へ肩焼きまさでにも 告(の)らぬ君が名卜(うら)にいでにけり 万葉集
相模国 / 足柄、小余綾磯(こゆるぎのいそ)、箱根山
○ 足柄の御坂かしこみくもりよの あが下ばえをこち出つるかも 万葉集
○ 相模路のよろきの浜の真砂なす 児らは愛しく思はるるかも 万葉集
(「余呂伎(よろき)」の浜はこよるぎ、こよろぎ、こゆるぎの磯と歌われて王朝貴族に親しまれる)
○ 足柄の箱根飛び越え行く鶴(たづ)の ともしき見れば倭(やまと)し思ほゆ 万葉集
歌枕は、和歌の長い歴史の中で、平安時代以降、特に中世和歌において、その表現技巧の上で、重要な役割を果たして来た。
天平の丘 防人街道
白村江の戦
古代朝鮮半島には、高句麗、新羅、百済の三国があり、日本の国は古くから百済との友好関係をもっていた。その百済が六六〇年、唐と新羅の軍隊に滅ぼされた。滅ぼされた百済は以後、復興を企図し友好国である大和朝廷へ救援を求めてきた。このことが白村江の戦の発端である。これに応じて六六三年(元智二、中大兄皇子称制)、日本軍と百済復興軍は挑戦南西部の錦江河口付近で、唐、新羅の連合軍と交戦する。白村江は錦江の古名。戦は二日にわたって行われたが、河口の岸上に陣を張った百済軍は新羅軍に打ち破られ、日本軍は海上で唐軍に大敗する。
これが白村江の戦であり、六世紀以来の大和朝廷の対朝鮮外交は、この戦をもって終止符が打たれた。その後の日本の動向は、圧倒的な戦力を支えていた唐の法律や制度の摂取を加速させ、律令国家体制を築いていくことになる。
防人
白村江の戦に大敗し朝鮮半島から手を引いた日本は、唐軍による列島侵攻におびえ国土防衛が急務になったのを機に本格的に実施し、瀬戸内海沿岸や九州に防御施設を次々に建設し、対島、壱岐、筑紫に兵を送った。この西辺の守りにあたった兵士「防人」は、「アを守る人」として東国(今の関東地方)出身者を中心として九州の太宰府一帯に兵士は編成された。任期は三年で、三千人が派遣された。赴任にあたっては、難波(今の大阪)の港までは自分で食糧を調達し、それから船で筑紫(今の福岡)の港へ向かい海辺の守備の他に付近の空地で農作に従事したという。
防人の歌
天平の丘を訪れて、防人街道を歩きながらまづ、最初に目にしたのは繁む木立の幹に書き添えられているたくさんの防人の歌だった。
防人の歌は、大伴家持が編者として関わったとされる「万葉集」の巻一四に五首、巻二十に九十三首、計九十八首収められている。
防人歌が撰録された理由は、当時、防人を統括する兵部少輔の地位に大伴家持が就いていたことと関係が深い。歌は、防人が出発の際や任地へ向かう途上の宴席などの集団の場で詠まれた直情的な歌で、東国農民の心の歌であり、家族との離別の悲しさや望郷の念が溢れている。
家持は、それらの歌を献上させた。献上された歌は、遠江、相模、駿河、上総、常陸、下野、下総、信濃、上野、武蔵一〇ケ国の一六六首。家持が、拙劣歌を没にしたのちの約半数を、「万葉集」に収めたのであった。
防人歌の主流をなしている歌 三首
○ 我が妻はいたく恋ひらし飲む水に 影さへ見えて世に忘られず
○ 父母も花にもがもや草枕 旅は行くとも捧ごて行かむ
○ たらちねの母を別れてまこと我 旅の仮廛に安く寝むかも
下野の防人歌 十首
○ 今日よりは顧みなくて大君の 醜(しこ)の御楯(みたて)と出で発つ吾は
○ 天地の神を祈りて征矢(さつや)貫き 筑紫の島をさして行く吾は
○ 松の木の並みたる見れば家人の 我を見送ると立たりしもころ
○ 母刀自(おもとじ)も玉にもがもや頂きて 角髪(みづら)の中にあへ纏(ま)かまくも
○ 月日やは過ぐは往けども母父が 玉の姿は忘れ為(せ)なふも
○ 白浪の寄そる浜辺に別れなば 甚(いと)もすべなみ八遍(やたび)袖振る
○ 難波門を漕ぎ出て見れば神さぶる 生駒高嶺に雲を棚曳く
○ 国ぐにの防人つどひ船乗りて 別ると見れば甚(いと)もすべ無し
○ 旅行(たびゆき)に行くと知らずて母父(おもしし)に 言申さずて今ぞ悔(くや)しけ
○ 津の国の海のなぎさに船艤(よそ)ひ 発(た)し出も時に母が目もがも
防人の歌には、公の立場(最初の歌が例)で詠まれた歌があるがその数は少なく、ほとんどは私の感懐とかが歌われている。
万葉集にみる下野国の東歌は僅か二首である。これに対して防人の歌は十首もあって甚だ多い。下野国の防人は、武に、歌に優れ、歌にはかって人々に愛誦せられた。
国分寺、国分尼寺について
奈良の東大寺は、華厳宗大本山で七二八年(神亀五)、信仰厚い聖武天皇が早世した皇太子、基親王の菩提をとむらうために建てた寺である。
華厳教の教えは、「真実の法に目覚めた釈迦の境地は、まるで無数の華で飾られた、清く美しく、香り高い庭園のようなものである」、と教典に説いて、生きとし生けるものはすべて因縁によって起こり、この世がそのまま真実の仏の世界である、と教えている。
七四〇年(天平十二)、時の政治を批判し、藤原広嗣の乱がおこると、聖武天皇は、とつぜん東国への旅に出て乱が鎮圧されても奈良の都へは帰らなかった。
旅の最後の地、山背国(京都府)で都づくりをはじめとし、府を恭仁京へ、近江国(滋賀県)紫香楽宮へ、難波宮(大阪府)へとつぎつぎに都をうつした。
聖武天皇による遷都の混乱は、役人たちの説得で、けっきょく平城京へもどることでおさまったが、この混乱のなかで天皇は、七四一年(天平十三)に国ごとに「国分寺をたてる」、という政策を発表した。
国が全国に国分寺を建てるということは、それがこの時代の仏教が、人々の心をすくうためのものではなく、仏教の持っている呪術の力を国家を守るために利用しようとした鎮護国家思想にもとずいている。
天皇は、実際に、七三七年(天平九)に藤原四兄弟を死においやった天然痘をしずめるために、国ごとに釈迦三尊像を作らせ、「大般若経」を写すことを命じている。これが今回の国分寺造営に発展した。
東国の国分寺、尼寺所在地(旧名)
 ・下野国 栃木県下都賀郡国分寺町国分
 ・上野国 群馬県群馬郡群馬町東国分
 ・常陸国 茨城県石岡市石岡
 ・下総国 千葉県市川市国分
 ・上総国 千葉県市原市惣社 尼寺は同市山田橋
 ・安房国 千葉県館山市国分 尼寺は未詳
 ・武蔵国 東京都国分寺市西元町
 ・相模国 神奈川県海老名市国分
国分寺は、僧寺と尼寺から成り立っており、僧寺には二十人、尼寺には十人を置くということもきめられ、七重塔に金光明最勝王経をうつしおくこと、僧、尼は毎月八日にかならずこの経を読誦することになっている。
この経とは、これを読誦すれば仏国守護の四天王が、その国王、国土、国民をいっさいの災難から守ってくれる、とされている経である。このことは、国分寺の中心が七重塔であることを示している。(残念ながら全国で現存する七重塔は一つもない。)
聖武天皇の詔により造営された六十八ケ国の国分寺のうち、僧寺は数ケ国を除いてその所在地が確認されているのに対し、尼寺は三十ケ国ほどしか現状わかっていない。寺地の広さは、僧寺は二町四方、尼寺は一町半四方が原則であったようである。
国分尼寺の正式名称は、「法華減罪之寺」といい、この名は、罪深い人々も(女性も召めて)、成仏できることを説く法華経から付けられた。元来、仏の教えや深い慈悲を説く法華経は、国家の減罪を期待され、護国の教典として尼寺で読まれた。
下野国分寺、尼寺跡は発掘調査を待って、国指定史跡となっている。これらの遺構は、往時のありさまを今に思わせて、天平の悠久の文化を肌で感じさせてくれている。
鑑真和尚
奈良時代、日本から多くの留学生、学問僧が唐にわたって学び、帰国して活躍しているが、逆に唐から遣唐使船で来日し大きな業績を残した人もいる。
その代表が唐の高僧、鑑真である。七三三年(天平五)の遣唐使船に二人の若い学問僧がのりこんだ。栄叡と普昭で、二人は、正式な授戒が出来る高僧をさがして、日本に招く任務を背負っていた。
二人は唐の洛陽で一人の高僧を説得し、日本にわたることを約束すると、さらに徳の高い名僧をさがし求めた。そして、このころ唐でも名高い龍興寺の僧、鑑真にあう。栄叡らの熱心な説得に応じることになった鑑真とその高弟たちは、命がけで日本への渡航を図るが渡航に五回も失敗する。
十二年の難苦に耐え、盲目になっても渡航を貫徹した鑑真は、七五三年の秋、その前年に来た遣唐使船にのることになった。この時はじめて鑑真に運が味方した。
四隻のうちの第一船にのる予定だったがおろされ、副便がひそかに第二船にのせる。そして、第二、第三船だけが日本にたどりつくことが出来た。鑑真らが平城京についたのは、七五四年(天平勝宝六)、東大寺で大仏開眼供養が晴れやかに行われた二年後のことである。
二月に平城京に入った鑑真は、四月に授戒師として大仏殿前に土壇を築き、聖武上皇、皇太后以下に戒律を授けた。授戒の僧らは四四〇人、なかには旧戒律を捨てて鑑真から戒を受けた大僧もあった。五月一日、鑑真は、建物としての戒壇院の建立を指導した。
戒壇は戒律を授けるところ、受戒は僧侶として守るべきことを仏前に誓う儀式である。東大寺の戒壇は、官僧の養成の場として重きをなした。律令国家にとって、仏教は国家を守るためにあった。
そのため、寺院の多くは国の力で建立するなどして保護するかわりに、僧尼の資格も国家で管理しようとした。
ところが、聖武天皇が大仏建立を全国にうったえて以来、仏教がひろく民衆を救うものとしてとらえられ、僧尼になる人が急激にふえ、毎年大量の得度(仏門にはいること)が行われるようになった。このような急激な僧尼の増加にともない、教典が読めない僧尼もふえるようになり、質の低下を生んだ。
七六一年(天平宝字五)一月、僧尼の統制強化をはかる朝廷は、下野薬師寺に戒壇を設置。下野薬師寺が東国を、筑紫、観世音寺が西国を統轄。東大寺とともに「天下之三戒壇」といわれた。
七六三年(天平宝字七)五月六日、鑑真は、自身が開いた唐招提寺で生涯を終える。来日以来一〇年たらずだったが、鑑真が日本に与えた影響は大きかった。
下野薬師寺の別院である龍興寺(鑑真開基)の墓地内に鑑真和尚碑がある。ひの塔は、弟子たちが師の遺徳を偲び建立した供養墓である。
宇佐八幡宮神託事件
孝徳天皇 道鍾の年譜(略記)
・孝謙天皇 / 七一八年出生 聖武天皇の皇女、阿部内親王。
・道鏡 / 出生不詳 出自に天智天皇皇子説と物部守屋子孫説の二説がある。
・七三八年(天平十)一月、阿部内親王が女性として初めての皇太子となる。
・七四九年(天平勝宝元)七月 阿部内親王が即位、孝謙天皇となる。
・七五七年(天平宝字元)八月 孝謙天皇は坂東諸国の兵士に課していた防人を廃止する。
・七五八年(天平宝字二)八月 孝謙天皇が譲位、淳仁天皇へ。
・七六二年(天平宝字六)四月 孝謙太上天皇が保良宮で病気になり、看病の僧、道鏡の「宿曜秘法」で快癒するという、以後、道鏡を寵愛する。
・同年五月 孝謙太上天皇と淳仁天皇との間に不和が生じ、平城宮へ帰還。
・同年六月 孝謙太上天皇が恵美押勝の擁する淳仁天皇の権限を剥奪、国政掌握を宣言する。
・七六四年(天平宝字八)九月 道鏡を大臣禅師とする。
・同年十月 淳仁天皇を廃し孝謙太上天皇が重祚する、称徳天皇。
・七六五年(天平神護元)十月 道鏡を太政大臣禅師とする。
・七六九年(神護景雲三)九月 称徳天皇に派遣された和気清麻呂が、宇佐八幡宮の「道鏡を天皇に」、とする先の神話は偽りで、皇位は皇緒とする神託を伝える。清麻呂と女官で姉の広忠は、天皇と道鏡の怒りを買い、配流。
・七七〇年(宝亀元)六月 称徳天皇、病に臥す。
・同年八月 称徳天皇 死去 皇太子白壁王(後の光仁天皇)が道鏡を下野薬師寺に左遷する。
・七七二年(宝亀二)四月 道鏡下野薬師寺で死去。
七六九年五月のころ、九州の太宰府で神事を担当している習冥阿曽呂という人物が、宇佐八幡の神の教えと称して、「道鏡を皇位につかせれば天下太平であろう」、と奉上した。
これについては、例によって道鏡のしくんだ芝居であろうとか、あるいは逆に、道鏡をたおすために藤原氏がしくんだ芝居であろうとか、さらには天皇が道鏡に位をゆずりたいために奉上させたのであろうとか、道鏡にとりいって宇佐八幡宮の権威を高めるために、神官たちがつくりあげたことであろうとか、いろいろな解釈がなされている。
しかし、本当のところはだれにもわからない。ただ、道鏡がこれを喜び、皇位への野望をいだいたことだけはたしかだった。天皇は、和気清麻呂という人を宇佐に派遣して、直接に神の教えを聞かせることにした。
清麻呂の姉、尼法均が天皇の女官として、信任が厚かったからである。かって、道鏡に儒学を教えたことのある路豊永は、清麻呂の出発のとき、「もし道鏡が皇位につくようなことがあれば自分はどうして臣下として仕えるようなことが出来よう。
同志二、三人といっしょに山に入って、日本の伯夷になるつもりだ。」といったという。伯夷というのは、弟との叔斉とともに周の武王に仕えるのを恥じて、首陽山にかくれ、わらびを食べてついに餓死したという、中国古代の伝説的な聖人である。
清麻呂は帰京して、「我が国は建国以来君臣の別は定まっている。臣をもって君とすることは、いまだかって一度もないことである。天皇の位には、かならず皇族を立てよ。臣の身をもって皇位をのぞむような無道のものは早く追放すべきである。」と復命した。道鏡はおおいにおこった。
清麻呂は退官させられて大隅の国(鹿児島県)に流され、姉の法均も還俗のうえ、備後の国(広島県)に流された。(清麻呂は後、垣武天皇に能力と剛直さを買われて栄進した。)
七七〇年(宝亀元)四月ごろ、称徳天皇が病に臥すと、道鏡の勢力はおとろえを見せてきた。道鏡には助けとなる大きな一族のバックがなかったから、たのみにする女帝が病気ということになると、勢力の回復をねらっている藤原氏の動きをおさえきれなくなった。
八月四日に称徳天皇がなくなると、その日のちに、藤原永手や藤原百川らの推す白壁王が皇太子となった。道鏡は、その後まもなく都を追われて、下野国の薬師寺の別当に任命された。道鏡の六年間の栄華は夢と消えた。
道鏡が下野国でその生涯をおえたのは、二年後の七七二年(光仁宝亀三)四月である。下野薬師寺別院の龍興寺には道鏡塚がある。この塚に重葬された。
龍興寺を訪れていただいた、「弓削の道鏡さんものがたり」の小冊子には、「道鏡さんは不運なお方でした。葛城山の修験堂から奈良の都に呼ばれて、七六三年(天平宝字七)九月、少僧都の位に就きました。
この少僧都のままでおられたならば、恐らく東大寺の管長さんなどを歴任なさって、道鏡さんは、生涯を安楽に過ごすことが出来たのではないでしょうか。」と書かれている。
龍興寺から少し離れるが、上大領の地に、孝謙天皇神社がある。神社には、
「今から約千二百余念の昔、下野国薬師寺の別当に弓削道鏡が配流された。かって道鏡は法王として孝謙天皇(女帝)に最も厚い信任を得ていました。
女帝は配流された道鏡をあわれみ、この地にまえり病没したと言い伝えられていますが、女帝の崩御後、道鏡と共に女帝に仕えていた高級女官の篠姫、笹姫も配流されてきた。
二人は奈良の都には永久と帰ることが出来ないことと悟り、女帝の御陵より分骨をして寺に安置し、女帝の供養につとめた。
その後、西光寺は廃寺となり、村人達は舎利塔を御神体に祀り孝謙天皇神社と改め、八月四日(崩御の日)に女帝を偲び、清楚なお祭りを催し今日に至っています。
なお、二人の女官の墓は、ここより南五百メートル位の所に篠塚、笹塚として戦前まで保存されていたが、残念ながら現在はその跡しか残っておりません。」氏子
一.祭日 九月四日(月遅れで実施) と書き記されていて、孝謙天皇神社の由来を訪れる人に伝えられている。

天平文化は、聖武天皇を中心とした奈良時代の文化を総称し、唐文化をはじめ世界各地の文化の影響をうけ、律令国家最盛期を反映して豪壮雄大、また貴族的で仏教的色彩の濃い文化である。聖武天皇は、深く仏教を信じ国分寺をつくり、東大寺の廬舎那大仏を鋳造するなどして、天平文化の黄金期をつくった。 
大中寺 七不思議(だいちゅうじ) / 栃木県栃木市大平町
大中寺ははじめ真言宗であったが、延徳元年(1489年)に領主の小山氏が快庵妙慶を招いて曹洞宗に改宗された。その後、徳川家康の関東移封後には、曹洞宗の関八州僧録職(人事統括)に任ぜられ、さらに関三刹の1つとして全国の曹洞宗寺院を管理する寺院となった。同時に曹洞宗の徒弟修行の道場として栄え、多くの雲水を抱える大寺院でもあった。
上田秋成の『雨月物語』にある「青頭巾」の話は、快庵妙慶の大中寺再興の伝説であり、また“大中寺七不思議”の1つ(根無し藤)として有名である。
当代の住職は、旅の折に連れてきた稚児を仏事を疎かにするほど可愛がっていたが、その稚児が急の病で亡くなると、遺体を葬らず、ついにはその肉を喰らい尽くして、鬼と化してしまった。諸国行脚の身であった快庵は、その話を聞くと寺に赴き、一夜の宿を求めた。鬼と化した住職は夜半に快庵を喰らおうとするが、その姿を見つけることができず、己の浅ましい所業を悔いて懺悔した。快庵は住職に青頭巾を被せ、一つの句を与えてその意味を考えるよう諭した。そして翌年、快庵が再びこの地を訪れると、同じ場所に住職の姿があった。句を繰り返しつぶやく住職を見て、快庵は藤の木の杖で打ち据えると、たちまち姿は消えて骨と頭巾だけが残るのみであった。……そして手厚く住職を葬った快庵は、打ち据えた藤の木の杖を地面に突き刺して寺の繁栄を祈願したところ、根が生えて大木となったのである。“大中寺七不思議”にはその他にも
(油坂)…ある学僧が夜間の勉学のために本堂の灯明の油を盗んでいたが、それがある時ばれそうになって逃げようとして誤って石段から転げ落ちて死んでしまった。それ以降、この石段を上り下りすると不吉なことが起こるとして、使用が禁じられた。
(枕返しの間)本堂の一角にある座敷は、そこに泊まると翌朝には必ず頭と足の向きが逆さまになってしまうという。
(不断の竈)…ある修行僧が疲れのために竈の中に入って寝ていたが、それを知らずに火をつけてしまい、修行僧は焼け死んでしまった。その後、夢枕にその修行僧が現れ「火さえついていればこんなことにはならなかった」と言ったため、それ以降は火を絶やさないようにした。
(馬首の井戸)…近隣の豪族・晃石(佐竹)太郎が戦に敗れて、大中寺に逃げ込んだ。しかし住職は匿うことを拒否したため、晃石は恨みに思って馬の首を切り落として井戸に投げ込み、自身も切腹して果てた。それ以来、その井戸を覗き込むと馬の首が浮かび出るとか、いななきが聞こえるとか言われるようになった。
(開かずの雪隠)…晃石太郎の後を追って奥方も大中寺に逃げ込んだが、夫の死を知ると、雪隠へ籠もってその場で自害した。それ以来、その雪隠には奥方の生首が現れると言われた。
(東山の一口拍子木)…大中寺の東にある山の方から拍子木の音が一回だけ鳴ると、寺に異変が起こると言われる。ただしその音は住職以外には聞こえないという。 
金屋町(かなやちょう) / 栃木県佐野市
栃木県西南部に位置する佐野市は、江戸時代には例幣使れいへいし街道の宿場町・天明てんみょう宿があった地で、同時代中頃の史料には「往古ハ天命ト云、今ハ天明ト云」と記されている。この地は、わが国初の図入り百科事典『和漢三才図会』に、西の筑前・芦屋あしや釜と並び賞せられた、東の天明釜の産地として紹介されている。
天明釜は正長年間(一四二八〜二九)から天文年間(一五三二〜五五)頃のものを古天明、その後のものを後天明といい、当時の茶人たちの間で珍重された鉄製の茶の湯釜である。また、釜のみではなく、中世から近世にかけて天明で生産された梵鐘・鰐口・鳥居・刀剣などの鉄製・銅製の品々は、北関東を中心とした各地に数多く伝来し、鍋・釜などの日常品や、鋤・鍬などの農具類とともに天明鋳物の名で親しまれてきた。
天明鋳物を生産した職能集団は天明鋳物師てんみょういもじと称され、その起源については天明土着の鋳物師を起源とする説と、河内国からの移住説とがある。後者は平将門の乱に際し、将門征討軍の長であった下野押領使藤原秀郷が、天慶二年(九三九)武器鋳造のために、河内国の鋳物師五人を現佐野市西方の寺岡てらおか村(現足利市寺岡町)に移住させたと伝えられるもので、寺岡村は金屋寺岡村と称したといわれる。
網野善彦氏は中世鋳物師の存在形態についての一連の研究(『日本中世の非農業民と天皇』所収)の中で、平安末期から鎌倉前期にかけての鋳物師は畿内を本貫の地としながらも、天皇―蔵人所牒くろうどどころちょうによって諸国の自由通行権を保証された遍歴・交易を業とする商工民集団が多かったとしており、彼らを率いる惣官が多くの場合、荘官クラスの武士であったことから、鋳物師集団の武装性についても興味深い指摘を行なっている。こうした遍歴する武装職能集団の存在は、天明鋳物師の河内からの移住説を裏付ける根拠となりうるかもしれない。
平安後期に寺岡村より天明の地に移住したとされる鋳物師は、慶長七年(一六〇二)佐野信吉がその居城を現佐野市北方の唐沢山からさわさん城から市街北方の春日かすが山に移築した際、城下町形成の計画のもとに、金屋町に鋳物師集落として集住させられた。現在、その付近には金屋仲町かなやなかちょう・金屋下町かなやしもちょう・金吹町かなふきちょうといった町名が残っている。金屋とは、鉱石を溶かしてその含有物をそれぞれ吹き分ける仕事をするための建物、すなわち製鉄所・精錬所を意味する。金屋のほか鉄屋・鋳物師屋なども、鋳物師の根拠地・工房を表す言葉と考えられるが、これらが姿を現してくるのは鎌倉後期から南北朝期にかけての時期といわれる。『大日本地名辞書』においても、直接鋳物師との関係に言及しないものも含め、大和・紀伊・越後・美濃・武蔵・陸奥・若狭などの国々に金屋の地名の存在が記載されているが、このほかにも全国各地に同種の地名の分布が知られる。
一例を挙げると、嘉吉年間(一四四一〜四四)頃の若狭では、鋳物師大工は一人、細工所(金屋)も一ヵ所しかなく、国府に近い太良たら庄がその根拠地であったという。その後、鋳物師はその数を増し、慶長一七年一〇月一五日の紀年銘をもつ太良庄日枝ひえ神社鐘には「金屋村」(現福井県小浜市金屋)の名がみえ、天明の場合と同じく江戸初期における集住化がうかがわれる。
金屋の分布の広がりの背景として次のようなことが考えられる。先に遍歴する鋳物師集団の存在について述べたが、弘長二年(一二六二)一二月日付の蔵人所牒写(真継文書)には、守護・地頭・権門勢家の保護下に入る供御人の存在とともに、関東・北陸地方へ逃亡し、年貢・公事を未進する鋳物師の出現が指摘されている。ここには、中央、すなわち天皇の支配下から離脱し、諸国への移住・定着を図った自立した鋳物師たちの姿が想定され、遍歴から定住へという時代の変化をみることができる。他方、金屋の中でも重要とされるものが、若狭の例にみられるように国府・守護所・一宮などの近辺に集中しているという事実から、定住化が国司や守護などの明確な職人支配のもとに行なわれたという面も忘れてはならないだろう。
金屋の地名は、単に鋳物師に与えられた給免田の所在地にすぎないという場合も想定されるが、多くは何らかの形で鋳物師の根拠地・工房と関係をもつ金屋の名称が地名化したものと考えられよう。
諸国に伝わる天文二二年三月日付の鋳物師由緒書には、初めて鋳物の器を用いた天児屋根命あめのこやねのみことの二字をとってその名とした鋳物師天命某が、仁平年中(一一五一〜五四)に鉄燈炉の逸品を近衛天皇に献上し、その病の平癒に貢献したことを賞され、勅によって天命を天明と改め、藤原姓を与えられて朝廷に在番するようになった経緯が述べられている。先述した“往古は天命、今は天明”との相似性や天明鋳物師の由来との関連がうかがわれ、興味深い由緒書といえよう。 
足利の歴史
古代律令制下のまちづくりと信仰
○律令制によるまちづくり
奈良時代になると、政治の中心である朝廷は、律令により国を治め、全国は約65の国に分かれ、その国はまたいくつかの郡に分けられていた。このうち、足利郡と梁田郡と呼ばれる2つの郡が、現在の足利市域にあたり、その地名は今に残る。
この時代、足利と都のある畿内は東山道と呼ばれる道で結ばれるようになり、足利駅が設けられた。足利駅は足利市街地の西部、現在の緑町から西宮町にかけて置かれたとの説がある。郡の役所である足利郡衙はJR足利駅周辺にある国府野遺跡に、梁田郡衙は中里阿弥陀前遺跡にそれぞれ推定されている。郡は里、その後は郷として集落単位にまとめられ、足利郡のうち波自可里(葉鹿郷)は市内西部の葉鹿町にある宇津木遺跡とその周辺区域、田部郷は渡良瀬川右岸の田中町にある反過遺跡とその周辺、梁田郡の大宅郷は 伊勢宮遺跡とその周辺に推定される。
また、周辺の平野部には、1辺約109mの正方形による土地区画である条里制が敷かれ、前時代までの集落や生産の場を引き継ぎながらも、律令制下のまちづくりが足利において着実に進められた。現在は、郡衙や条里等の痕跡を地上部にて直接確認することは困難であるが、埋蔵文化負としてその存在が多く確認されている。
○初期仏教から山岳密教へ
律令制の社会は、貴族や地方官人にはその地位や負産を守るのに好都合であった一方、民衆は苛酷な収奪をされ、苦しい生活を強いられていた。信仰の面では、奈良において奈良六宗ができる等、高度な仏教文化が栄えたが、底辺にいる農民にとっては無縁なものであった。
そのような社会において、薬師寺の僧であった行基は、灌漑や土木工事等の社会事業の普及を行うとともに、民衆に仏教を説いてまわった。713年、この行基が足利を訪れたとされ、行基は行道山、大岩山、両崖山に堂宇を築き、足利の民衆に仏教を説いたといわれている。
平安時代に入ると、最澄・空海による山岳密教が興隆し、足利においても東大寺の僧定恵が小俣の山中に堂宇をおこした(現在の鶏足寺)。また、前代に築かれた堂宇も、浄因寺(行道山)、最勝寺(大岩山)等として山岳密教信仰の場となっていった。
○二つの足利氏
この頃、通5丁目と緑町の八雲神社が下野守等として足利を治めていた藤原村雄(藤原秀郷の父・藤原姓足利氏の祖)により創建されたとされている。緑町周辺には明石姫や薬師堂など藤原氏に関わる伝承が残されており、足利市の市街地西部に古代藤原氏の拠点施設がおかれていた可能性があり、古代のまちの守りとして上下の八雲神社が祀られたと考えられる。
一方、八幡太郎義家は後三年の役で奥州に向かう途上に八幡宮(八幡町)を創建したとされる。八幡宮の北西には「源氏屋敷」という地名があり、八幡宮の南方には義家が陣を張ったとされる大将陣という地名が残っている。平安時代後期、足利は2つの足利氏によってまちづくりが行われていた。
郡衙跡/国府野遺跡、中里阿弥陀前遺跡
条里跡/田中・朝倉条里跡、助戸・大月条里跡
集落跡/助戸勧農遺跡、丸山耕地遺跡、伊勢宮遺跡、宇津木遺跡、新田町遺跡、常見遺跡
窯跡/馬坂古窯跡、田島岡古窯跡
製鉄所跡/栗谷製鉄址
神社/御厨神社、神明宮、伊勢神社、示現神社
寺院・寺院跡/行道山浄因寺、最勝寺、大岩毘沙門天、鶏足寺、徳正寺、大日堂跡
神社(藤姓足利氏による創建)/八雲神社(緑町)、八雲神社(五十部)、八雲神社(田中)、八雲神社(通)
神社(源氏による創建)/八幡宮
関連する人物/行基、定恵、藤原村雄  
日本最古の学校・足利学校と学校を守り伝えた人々
○足利学校の歩み
足利学校は「日本最古の学校」である。
その創建については、古代の国ごとに置かれた教育施設「国学」の名残であるというもの、参議であった小野篁により創建されたというもの、足利義兼が子弟の学問所として設立したというもの等諸説があるが、はっきりとわかっていることは永享11年(1439)、時の関東管領上杉憲実により再興されたということである。その後、応永元年(1467)には上杉氏の代官・長尾景人によって現在の場所に移されたという。
足利学校の活動がピークを迎えたのは戦国時代である。全国から「学徒三千人」が集まったとされ、学徒は儒学、易学、兵学、医学等を学び、卒業生は戦国武将の参謀として活躍した。また、日本に布教に来ていたフランシスコ・ザビエルやルイス・フロイスは「坂東のアカデミア」として足利学校を紹介し、キリスト教の布教の妨げになると本国に報告している。
長尾氏の滅亡後、豊臣秀吉により足利学校は廃止の危機にあったが、天正17年に第9代庠为となった三要が尽力し保存に成功した。三要は家康の学術顧問となり円光寺の創立や、木活字本による出版事業を行っている。第10代庠为の寒松も足利学校の地位を守るとともに多くの書籍の収集を行った。代々庠为による書籍の収集、建物の整備、幕府による保護などにより江戸時代を通じて学問の中心としての地位が守られた。また、江戸時代には、毎年新年にその年の占い(年筮)を徳川将軍に届けた。学校としての役割は薄れたが、中世から守り伝えられてきた古典籍を見るため、全国各地から文人たちが訪れるようになった。
度重なる落雷や火災による危機を乗り越えてきた足利学校であったが、明治維新により、一時足利藩の藩校となり、その後すぐに栃木県の管理下におかれ廃校となった。その後、足利藩士であった相場朊厚が中心となって保護運動がおこり、明治14年には地元有志らが県から足利学校遺蹟保護委員に委嘱され、明治28年には管理委員となり、次いで明治36年には町長を委員長とする管理委員会がつくられ、同年に新設された足利学校遺蹟図書館と一体となって、貴重な書物を守ってきた。明治6年には敷地の東半分が小学校(後の足利市立東小学校)となったが、大正10年には内務省より国の史跡に指定された。ところが、昭和7年(1932)頃には足利市によって土塁の一部が破壊され、これに対し丸山瓦全は毅然と立ち向かい、市を訴えるという事件があった。
その後、昭和57年には東小学校が移転し、発掘調査によって足利学校の遺構が明らかになった。平成2年には史跡整備が完了、現在は年間18万人の参観者を迎える。
学校跡/足利学校跡(聖廟、三門含む)
書籍/宋刉本文選、宋版禮記正義、宋版周易註疏、宋版尚書正義、宋刉本附釈音毛詩註疏、宋刉本附釈音春秋左傅註疏、宋刉本周禮、宋版唐書列伝残巻、足利学校旧鈔本、足利学校記録、足利学校平面図、足利学校絵図[以上足利学校跡]
美術工芸/堀川国広足利学校打の短刀[足利市民文化負団]、源景国足利学校の刀[足利市所有]、孔子坐像[足利学校跡]、小野篁坐像[足利学校跡]
行事等/釈奠(せきてん)、曝書(ばくしょ)、論語の素読
足利学校関連人物ゆかりの地・記念碑等/浄林寺、雲龍寺人見家墓地、本源寺、善徳寺、龍善寺墓地、瑞泉院、文宣王碑、木村半兵衛宅跡
関連する人物/小野篁、足利義兼、上杉憲実、上杉憲忠、上杉憲房、快元、九華、三要、寒松、長尾景人、徳川家康 フランシスコ・ザビエル、ルイス・フロイス、人見竹洞、田代三喜、曲阿瀬道三、土井利房、渡辺崋山、岡谷繁実、戸田忠行、川上広樹、田ア草雲、相場朊厚、丸山瓦全、白沢博士 
近世足利の交流と発展
○街道と舟運を活かした交流
足利は古代以来、東山道が通り、足利の駅が設けられるなど交通の要衝であった。東山道を起源とする足利の東西を貫く通りは位置を尐しずつ変えながらも中世、近世、近代、そして現代も重要な道である。
河川も原始以来物資を運ぶ重要な交通路であった。古墳時代前期、矢場川流域には藤本観音山古墳や小曽根浅間山古墳といった首長墓が築造され、矢場川が首長にとって抑えるべき重要な河川であったことが推定される。古墳時代後期、足利の首長墓群のある毛野地区の常見遺跡は足利の河川流域を押さえる拠点でもあった。
時を経て、江戸幕府を開府した徳川家康の没後、朝廷より日光東照宮に幣帛を奉献するための勅使(日光例幣使)が通る道として日光例幣使道が整備された。足利における例幣使道には八木宿、梁田宿の2つの宿が置かれ、往来する人々で賑わいを見せるようになった。幕末には梁田宿で幕府軍と官軍との間で戦争が勃発している。例幣使道沿いには道しるべや例幣使ゆかりの神社などが残されている。また、八木節の発生については諸説あるが、例幣使道の宿にいた遊女が唄い、街道沿いに馬方が伝え、大正時代に馬方出身の堀込源太がレコーディングして全国にひろめたとされている。
一方、寛永元年(1624)以降、年財米を江戸へ運ぶために、渡良瀬川を利用した舟運が行われるようになり、沿岸には河岸が築かれた。幕府に認められた河岸は奥戸河岸と猿田北河岸と南河岸であるが、幕末になるとアウトサイダーの船がさらに上流の新町にも上るようになった。猿田河岸は、周辺地域からの荷物の集積地として、渡良瀬川上流域の物資を利根川の水運に結びつける機能を有し、江戸と足利を結ぶ舟運により江戸との交流が盛んとなった。猿田北河岸の回漕問屋萬屋の当为・長四郎三は江戸でも貸金業を営んだ豪商で、茶人としても知られた。猿田の屋敷には茶室物外軒を建て、そこで催される茶会には江戸の名だたる文人も集ったという。長四郎三は菩提寺である徳蔵寺に五百羅漢や千庚申を寄進している。
渡良瀬川の舟運は明治時代に入ってからも引き続いて盛んに行われ、明治21年(1888)に両毛鉄道が開通し、陸運による流通が为流となるまで続けられた。
○都市と農村の発展
長尾氏滅亡後、徳川幕府により大名や旗本の再編成がおこなわれ、足利における支配体制も大きく変わった。各村々は天領として、あるいは大名や旗本による分割支配となった。18世紀初頭には戸田氏が足利藩藩为として現在の雪輪町に陣屋を構え、街並みを整備された。人々の交流が盛んとなり、都市としての賑わいが見られるようになった。
一方で、長年にわたり災害に見舞われてきた渡良瀬川の治水策としての堤防を築いたり、街の基盤が整えられていった。
柳原用水や御厨用水が開削され新田開発が進み、農村も発展した。
街道/日光例幣使道、桐生街道
街道に関連する記念碑等/日光例幣使道道標、梁田戦争戦死塚、日光例幣使短冊[川崎天満宮]、道しるべ、庚申塔、旗川渡河点
旧宿場町/旧八木宿、旧梁田宿
河岸跡/猿田河岸跡、奥戸河岸跡
交流の産物・証/木造五百羅漢像附羅漢堂[徳蔵寺]、千庚申塔[徳蔵寺]、八木節、円空仏[永宝寺]
神社/川崎天満宮
陣屋跡/足利藩陣屋跡、足利藩陣屋門
まちの地割/路地、三間道路
用水路/三栗谷用水、柳原用水
関連する人物/戸田忠利、岡上次郎兵衛影能、長四郎三、柳田市郎衛門、堀込源太  
織物産業の隆盛と近代化するまち
○織物産業の歴史と隆盛
足利の織物の歴史は古く、和銅6年(713)、足利織物が文献上に残る最古のものといわれている。また、鎌倉時代末期に書かれた随筆「徒然草」には、時の足利氏棟梁の足利義氏が執権北条時頼に「足利の染物」を贈った話が語られている。
もともと足利地方では農家の副業として織物が織られていた。江戸時代に入り高機が導入されると、足利も絹織物の为産地として発展し、その立地条件から江戸との取引き、交流が活発になった。また、江戸時代も半ばを過ぎた頃には綿織物も生産するようになり、京都・大阪や東北地方にまで販路を拡大していった。
明治時代になると、織物の輸出が盛んになり、織物の生産量が増えるとともに、粗悪品が出回り問題となった。足利の買継商を中心に組合を組織して粗悪品を取り締まるとともに、織物・染色技術の向上が課題となっていた。そこで、明治18年に今福村に織物講習所を設立し後進の育成を図った。後の足利工業高校である。
こうした織物業界の努力等により足利の織物産業は更に隆盛した。初代木村浅七は明治16年から輸出絹織物に転換し、明治から大正にかけて本格的な工場制機械工業に成長した。明治36年には足利模範撚糸工場が建築され、現在も大谷石造の工場棟の一部が保存活用されている。大正2年には煉瓦造の足利織物工場が設立され、現在も工場として操業している。
昭和初期には足利銘仙が全国一位の生産高を誇った。足利銘仙は有名画家にポスターを描かせるなど宣伝にも力を入れ、一大ブームを巻き起こした。戦後は織物業を復興する業者もあったが、トリコットに転換し昭和30年代後半から40年代前半にかけて全盛期を迎えた。
足利織物の守り神として奉られている足利織姫神社はもともと小さな社殿であったが、昭和12年(1937)に社殿が新築された。新社殿の設計は社寺建築を得意とした小林福太郎で宇治の平等院を模している。当時としては珍しいコンクリート造りであり、隆盛を極めた織物業界挙げての大事業でもあった。
○まちの近代化
明治維新による版籍奉還、廃藩置県により足利藩は足利県、同じ年の11月には栃木県となった。明治22年には町村施行により足利町となる。明治以降、織物産業の発展とともに、足利の街は急速に近代化を推し進めることとなった。明治6年には学校が設立され、明治17年には栃木県令三島通庸により桐生と佐野をつなぐ三間道路が建設された。三間道路のほとんどはその後、拡張や改修されているが、今福町、助戸町、富田町に一部が残っている。また、古くから懸案であった渡良瀬川の架橋については、近代技術の導入によって、明治35年の渡良瀬橋(木造トラス造、後昭和9年に鉄骨橋として架け替え)、昭和10年の中橋等、本格的な橋が実現することになった。それにより南北の流通・交流が盛んになった。さらに、織物の運送手段としての鉄道の敷設が木村半兵衛らによって計画され、明治21年に両毛鉄道が開通した。
また、生活基盤としての電気・ガス・水道を供給する施設においても近代技術の導入が推進され、昭和5年(1872)には今福浄水場が竣工した。
このように、織物産業の発展を背景としてつくられた建築物、土木構造物等、まちの近代化を物語る近代産業遺産が今も遺されている。
織物産業関連の工場/足利織物株式会社(現・トチセン)、足利模範撚糸工場(現・アンタレススポーツクラブ)、旧木村輸出織物工場、影萬捺染工場、栃木県立足利工業高校 等
織物産業関連の住宅/原田家住宅、柳田家住宅 、大川家住宅 等
神社/織姫神社
絵馬/大手神社の絵馬、水使神社の絵馬 等
祭り/まゆ玉市、足利の花火
美術工芸品/紋織物(南無大師偏照金剛の軸)、足利銘仙、足利銘仙ポスターとその原画、足利銘仙サンプル帳、八丁撚糸機、ジャガード機械、木村半兵衛資料[以上足利まちなか遊学館] 織物機械等(足利工業高校) 雲井織(栃木県意匠登録第1号 足利工業高校)
近代土木施設・建造物/今福浄水場、水道山記念館、渡良瀬橋、中橋、友愛会館 両毛鉄道等
関連する人物/木村半兵衛、木村浅七、金井繁之丞、川島長十郎、荻野萬太郎、近藤徳太郎、原田定助、原田政七、秋間為八、田島藤兵衛、岡嶋忠助、岩本良助、殿岡利助、富永金吉、前橋真八郎、茂木富二  
田ア草雲を生み出した足利の芸術文化
○田ア草雲
田ア草雲は、文化12年(1815)10月15日に、江戸神田小川町足利藩邸内にて生まれた。幼い頃から親戚の金井烏洲絵画の手ほどきを受け、20歳のときに脱藩し谷文晁・渡辺崋山らの画風を学んだ。嘉永6年(1853)には、足利藩の絵師に登用された。
一方で、草雲は志士たちと交友を深め、尊王の志を強くし、幕末・維新の動乱期には誠心隊という民兵組織を結成し治安維持にあたり、足利を戦火から守った。明治維新後も木村半兵衛や旧足利藩士・相場古雲らとともに足利の近代化に尽くした。
明治11年(1878)には、蓮岱寺山(現 足利公園内)に白石山房を建て、山水・花鳥・人物など様々な作品を描いた。草雲の描く作品は、パリ万博やシカゴ世界大博覧会等で名誉牌を受けるなど国内外で高い評価を受け、明治23年(1890)には、芸術家にとって最も名誉ある帝室技芸員に橋本雅邦らとともに選ばれた。草雲の画業は単なる絵師としてのものではなく「文人」としてのそれであった。
明治31年(1898)、84歳で静かにその生涯を閉じた。草雲没後は弟子や足利藩士を中心に草雲を顕彰するとともに草雲が残した白石山房や絵画を守った。昭和43年には白石山房の傍らに鈴木栄太郎氏により草雲美術館が建設され、足利市に寄付された。田ア草雲の代表作は美術館等で良好に保存され、今日でもその高い芸術性を観賞することができる。
○文人文化
室町時代足利の庄を支配した長尾景人は狩野派の祖である狩野正信と姻戚関係にあったとされ、景人も絵を良くした。当時の武将は教養として和歌や連歌を詠み、絵画も集めた。長尾氏が仕えた上杉氏の周辺も文化サロンを呈していた。
中国の士大夫(知識人階級)にはじまる文人文化は、江戸時代の日本で多彩に開花した。月谷町にある巌華園は足利源氏を祖とする旧家で、江戸後期には椿椿山や高隆古といった文人墨客が遊び、サロンとなっていた。当为も椿椿山に絵を学んだ。国登録文化負となっている巌華園庭園は当時谷文晁が作庭し、その弟子の渡辺崋山によって命名されたとされている。当時は中国の絵画を模写することが修練であり、巌華園庭園も文人が学んだ中国絵画に描かれた山水を習っているところに特徴がある。
また、足利学校には貴重な古典籍や絵画などが所蔵されていたことから、各地から文人が来訪した。江戸後期からは丹南藩代官岡田東塢、大河内清香といった文人が活躍し、法楽寺等の寺院も文人らの交流の場となった。文人が集う場は寺院や豪商の屋敷等が中心であり、そこには庭園がつくられた。庭園はその後も足利織物産業の興隆に伴い昭和時代まで作られ市内各所に残されている。そうした庭園の中には、池庭と茶室周辺の露地により構成される邸宅庭園の意匠や足利の茶の湯文化を現在に伝え、造園史上の意義が深いと考えられるものも多く遺されている。
以上のように、草雲の影響を受け近代化を促進した文化人や、豪商などの経済的富みを文化芸術に捧げた、明治・大正・昭和の文化を創造した多くの先人の文化負群が遺されている。
田ア草雲のアトリエ/白石山房(草雲美術館・田ア草雲旧宅)、田ア草雲墓所
田ア草雲の作品/絹本著色蓬莱仙宮図、絹本墨画冨獄図、花鳥図、筧に小禽図、青松白帄図、山市雪霽図、蓬莱山図[以上草雲美術館]、牡丹図屏風[足利市民文化負団]
文人サロン/足利学校跡、厳華園、浄林寺離れ
塾・寺子屋/
芸術作品/翎毛虫魚画帖(渡辺崋山筆)[草雲美術館]、紙本著色四季山水図襖絵(奥原晴湖・渡辺晴嵐筆)[永宝寺]、・三柱神社天井絵、長谷川沼田居の作品[長谷川沼田居美術館]
浄土庭園(跡)/樺崎寺跡(法界寺)、吉祥寺、法楽寺、智光寺跡
戦国時代の庭園/長氏居館跡
近世の寺院庭園/徳正寺庭園、法楽寺庭園
住宅庭園/物外軒庭園・茶室、厳華園庭園 等
関連する人物/長尾景長、田ア草雲、相場古雲、大河内清香、岡田東塢、渡辺崋山、東雲、古川竹雲、小室翠雲、飯塚瀬北、長谷川沼田居、川上広樹、牧島如鳩、川島理一郎、岡崎龍太郎 
足利の庶民による祈り
○多様な祈りのかたち
原始・古代において人々は自然に対して畏怖の念を持っていた。制御できない力を畏れながらも祈り、敬いながら対峙してきた。その祈りの対象としては山や巨木、湧き出す泉など、祈りの形は土偶や石棒といった祭祀遺物に表れている。
その後自然への祈りは原始神道へ引き継がれ、仏教の流入によって新たな信仰の形が取り入れられていった。仏教導入期には軋轢があったものの、神仏習合という知恵によって乗り越えられ日本の祈りの形が定まっていった。
初期仏教は鎮護国家の思想の基に国分寺、国分尼寺が国ごとに建てられ、信仰とともに民衆支配の手段でもあった。足利には国分寺、国分尼寺はないが、大同年間に創建されたと伝えられる小俣の世尊寺(後の鶏足寺)が平将門の調伏祈願をするなど鎮護国家の役割として存在していた。大岩山や行道山が開かれたのもこのころである。
仏教の民衆への普及は村落内寺院の調査などによって8〜9世紀には受容されていったことが明らかになりつつある。中世には足利氏を始めとする武士によって支配領域に寺社が建てられ、鎌倉時代中期には供養塔としての石造塔が造立されるようになった。火葬して石造供養塔を建てるのは一部の武士や僧侶に限られたが、戦国期以降は小型五輪塔や廟墓の造立が流行し、下層の武士や町衆にまで石塔の造立が広がっていった。
江戸時代にはキリシタン禁制を進める幕府の寺請制度により、寺院が地域のよりどころとなっていった。一方、明治新政府の神仏分離政策によりこれまで神仏が一緒にまつられていた寺社、あるいは修験など檀家をかかえない寺の多くが神社となった。また、その後の神社合祀運動により小さな神社が統合されていった。
現在、足利には宗教法人として登録されている神社172社、寺院が125カ寺を数える。このほかお堂や祠などを含めると更に多く、寺社の多いまちといえる。300を超える寺社の中には足利を治めた足利氏や長尾氏ゆかりのもの等が多く、それらは為政者や権力者による信仰あるいは支配の形ではあったが、その後庶民の信仰に支えられ、現在まで残されている。
また、足利には風土に培われた民衆の独特の信仰が遺されている。浅間神社をはじめとする富士講、庶民が競って奉納した数々の絵馬、寺社の境内や路傍にまつられている石造物などである。神社の祭礼の時、神様に捧げる歌や舞である神楽が、今日へと受け継がれ、伝統芸能として遺されているなど、民衆の間で伝承され、語り・謳い継がれてきた独自の民俗に関わる文化負群が良好に遺されている。
出土品/常見遺跡土偶、神畑遺跡石棒、板倉神社の石棒
石造物/(多数)
富士講関連/長谷川角行修行の場、長途路川、仙元宮、浅間神社胎内洞穴、富士講碑、富士塚
修験道関連/篠生神社、高松坊、河内家文書、水垢離跡(島田町、名草町)
絵馬/三崎稲荷神社の絵馬[三崎稲荷神社]、絵馬外国船の図[鑁阿寺]、絵馬銘酒玉の井繁昌の図[鑁阿寺]、千匹猿の絵馬[須花講中]、大岩毘沙門天本堂の絵馬及び奉納額[最勝寺]、地租改正絵馬[星宮神社]、大手神社の絵馬、水使神社の絵馬 等
庚申塔/金蔵院の庚申塔、名草大阪の庚申塔、朝倉の庚申塔、養源寺の庚申塚
地蔵/かな地蔵尊[徳蔵寺]、たむし地蔵、耳だれ地蔵
神楽/御神楽(大和流渋井派)、大山祇神社太々神楽、示現神社神代神楽、樺崎八幡宮太々神楽、南大町宮比講神楽、足利雷電神社大和流神代神楽
祭り/石尊山の梵天祭り、浅間神社のペタンコ祭り、板倉神社の神迎祭、御厨神社の御田植、御厨神社の御筒粥、大岩山の悪口祭、燈篭流し、まゆ玉市、茅の輪くぐり、地蔵盆、獅子舞、夏祭り、花祭り、足利の花火、神輿かつぎ、七五三、初詣、成人式、庚申講(五十部町田地区)
山車/小俣山車、葉鹿山車
現代に息づく民間信仰の地/大日さま(鑁阿寺)、学校様(足利学校跡)、出世稲荷、逆藤天満宮、ごんごろ様(五霊宮)、栄富稲荷と天満宮、井草閻魔堂[利性院]、延命地蔵[高福寺]、織姫さま(織姫神社)、門田稲荷(縁切稲荷)、長尾弁天、名草の弁天、寺家の弁天
彫刻/常念寺の神像  
足利を支えた女たち
○北条時子
日本の中世において、武家の女性は負産、相続権をもっていた。北条時子はそうした中世の武家の女性の代表者の一人である。
足利義兼の正室であった北条時子には、次のような伝説が残されている。
夫・義兼が鎌倉に滞在中に腹部が膨れて妊娠したような状態になり、侍女の讒言により義兼に密通の嫌疑をかけられた末、遂には、「死後わが身をあらためよ」との遺言を残して自害をしてしまった。時子の死後、遺体を調べたところ、腹部に蛭が充満しており、それは山野に出かけた際に飲んだ水が原因であったことが判明する。このことを知った義兼は、大いに悔やんだと言われる。
この時代の具体的な女性についての伝承が残されている例は尐なく、この他様々な伝説が残されている北条時子は、足利氏にとっても大きな存在であったことを示しており、足利の女性史を語る上で欠かすことのない人物であると言える。
法玄寺は、非業の死を遂げた時子を弔うために、時子の子・義純によって創建された寺院で、境内には時子のものと伝わる鎌倉期の五輪塔がまつられている。
また、足利氏の廟所である樺崎寺(法界寺)の下御堂跡には焼骨が納められた白磁四耳壺(北宋時代のもの)2個体が埋納されていたと推定され、鑑定の結果、焼骨は女性の骨であったことがわかった。これは義兼の母と妻・時子との説もある。
○織物産業を支えた女性
足利を含む上州における強いものの代表として「かかあ天下と空っ風」という言葉がある。足利は古代以来、下野国であるが、地勢的にも経済的にも上州圏にあり、この言葉は足利でも通用する。「空っ風」は冬場に西の赤城山から吹き下ろす強風のことで、かつては吹き始めると三日はやまないと言われていたが、近年は温暖化の影響かだいぶ穏やかになった。
「かかあ天下」はどうか。通常、「かかあ天下」とは、家庭の実権を妻が握っている、というイメージであろうか。しかし、本来は「女性は働き者」という意味である。
足利は織物産業で栄えたまちであり、その産業を支えたのは多くの女性であった。足利における織物生産の基本的な仕組みは、注文を出す町や村に居住する元機(もとはた)と、下請けで製織にあたる为として村に居住する賃機(ちんばた)であり、織手のほとんどは女性であった。また、大規模な工場を抱える織元には周辺地域や東北地方、信越地方からも職工として多くの女性が集められ、養蚕の仕事も多くは女性達の手によっていた。このように、女性たちは現金収入を得て経済力を持ち、その経済力を背景に強くなったのは当然のことであった。また、全国有数の生産高を誇った足利銘仙も多くの女性を彩った。
一方、地方から集められた職工たちは尐しでも機織りの腕を上げ賃金を稼ごうと絵馬に祈りを込めた。嫁いだ女性は後継ぎを望まれ、子宝祈願のため神社に詣で、婦人病で苦しむと人知れず絵馬を奉納した。村の女性たちは十九夜様で安産祈願だけでなく、世間話に花を咲かせ、日頃の苦労をねぎらいあっていた。
織物産業隆盛の時代、「かかあ天下」と呼ばれ、か弱くもたくましく生きてきた足利の女性たちの記憶をとどめる様々な文化負が今も足利に残されている。
北条時子関連の建造物・記念碑等/鑁阿寺智願寺殿御屋(蛭子堂)、鑁阿寺中御堂(不動堂)、伝北条時子姫五輪塔[法玄寺、樺崎寺下御堂跡[樺崎寺跡(法界寺)]、薬師堂
石造物/月待講、女人講、十九夜様、乳房地蔵、二十二夜様、二十三夜様
歴史資料/三行半(古文書)、土偶、人物埴輪
織物関連の品/足利銘仙、足利銘仙サンプル帳、織物機械、ポスター[以上足利まちなか遊学館]、ポスター原画[足利市立美術館]、織姫神社織姫図
絵馬/大手神社の絵馬、水使神社の絵馬、女郎参詣図、桜下花魁道中図 等 ペタンコ祭り
女性教育の地/実践女学校 、足利女子高、足利西高、上岡学園
関連する人物/北条時子、山下りん、上岡た津、明石姫  
自然と共に歩む人々の営み
○人々の営みと関わる自然
原始以来人々は自然と闘いあるいは利用しながら暮らしを営んできた。旧石器時代から縄文時代にかけては狩猟採集により、野山の恵みを食料としていた。山の緩斜面には落し穴を仕掛け獲物を得て、トチやドングリ等の木の実、キノコ等も貴重な食料であった。そうした暮らしのようすは神畑遺跡や奥戸遺跡の発掘調査成果から伺うことができる。
紀元前2000年頃には大陸から稲作が伝わり、列島に広がっていった。これまでの狩猟採集だけでなく農耕によって計画的に食料の生産・消費を行うことができるようになった。稲作を行うため水路を整備し水田を耕作しなければならない。初期の稲作では小さい谷地等の小河川を利用して水田を耕作していた。水位を保つため小区画水田が地形に沿って作られていた。足利では菅田西根遺跡の発掘調査で古墳時代の小区画水田跡が出土している。
一方、山林も大きな資源であった。木の実だけでなく、木は建築用材、燃料などに利用した。特に古墳時代中期以降伝播した窯業は山の斜面を利用して登り窯を築き、平地から吹き上げる風も利用した。山から切り出された岩は古墳の石室の石材や建物の基礎として利用された。名草の花崗岩は江戸時代に盛んに切り出され、神社の鳥居、旗立、橋などに加工されている。松田の粘板岩は硯石として、石灰は肥料や消毒として流通した。
○渡良瀬川の鉱毒被害
渡良瀬川はもとは現在の矢場川の位置を流れ、渡良瀬川には清水川(冷水川)と呼ばれた小河川が流れていた。田を潤す水源であるが、時には洪水をおこし流域の住民に牙をむいた。中世末から度々大きな洪水を起こした渡良瀬川は永禄年間に清水川に流れ込み、ほぼ現在の河道となった。元亀年間には御厨用水が開削され、足利の穀倉地帯とも言える御厨地域に恵みをもたらした。
ところが、明治13年頃より足尾鉱山から流失する鉱毒被害が知られるようになった。足尾銅山は江戸時代初期から銅を産出していた。明治初期に古河市兵衛が銅山を買い取り、巨額の資金と最先端の技術を投入して開発を進めた。急激な開発により山の樹木は枯死し、渡良瀬川は水量の減尐、降雤時の洪水、鉱毒水流出による鉱毒害をもたらした。
明治20年代には鉱毒被害の原因が足尾銅山にあることが確認され、明治24年には田中正造が帝国議会において初めて政府を糾弾した。被害地の各村々では上申書を提出するなどの行動に出たが、古河鉱業はわずかな保証金で示談を進め懐柔していった。しかし、安政6年以来の大洪水と言われた明治29年の大洪水により、甚大な被害を受け、このころから鉱毒問題は当事者だけでなく中央でも活発化した。これを受け鉱毒被害民は明治30年上京請願(押出し)を決行した。激しい行動に政府も鉱毒問題解決に取り組む姿勢を見せ始めたが、被害民に対する免租は町村の負政を破綻に追い込んだ。地方自治破壊に対する救護を求める請願運動は田中正造らによる運動と相まって明治31年の第3回押出し、明治33年第4回押出しヘと最高潮を迎えることとなった。第4回押出しでは請願運動の指導者が逮捕者され、訴訟となった(川俣事件)。その後の大正末期には鉱毒問題は三栗谷用水組合の問題として取り上げられるようになり、昭和10年から三栗谷用水幹線改良事業鉱毒を除去するための事業が始まった。この事業では御厨町長であった岡村勇が尽力し、戦後まで5次に渡り継続し昭和43年に一応の完成を見た。
信仰の対象となった自然/名草の巨石群、行道山、両崖山、八幡山、大小山、石尊山、根本山、浅間山、弘法の池[南大町神明宮]、姥川源流の和泉
芸術の対象となった自然/行道山(浄因寺)(葛飾北斎の「諸国名橋奇覧足利行道山くものかけはし」)、渡良瀬川と渡良瀬橋(歌「渡良瀬橋」)
人々に恵(産物)をもたらした自然/名草の巨石群と花崗岩の石切り場跡、こころみ学園ココファームワイナリー、御厨田圃、採石場跡、鉱山跡、植林地、渡良瀬の鮎
特徴的な自然/ミツバツツジ自生地、足利のフジ、最勝寺暖地性植物自生地、ニホンカワモズク自生地(南大町神明宮)、迫間湿地
鉱毒被害/室田忠七鉱毒事件日誌、三栗谷用水幹線改良事業記念碑、長福寺
田中正造の足跡/田中正造墓地(寿徳寺)、渡良瀬川、田中正造の手紙、田中正造の書(西中学校)
関連する人物/田中正造、原田定助、木村浅七、早川忠吾、長祐之、室田忠七、亀田佐平、岡村勇  
    足利銘仙
 
群馬県 / 上野

 

茨城栃木群馬埼玉東京千葉神奈川

上野(かみつけ)の伊香保のみ湯のわく子なす 若返りつつ帰り来ませ君 橘千蔭
貫前神社 / 富岡市(甘楽郡)
むかし香取の経津主ふ つ ぬし命が、諏訪の建御名方たけみなかた命と、上信国境の荒船山で戦った。そのとき経津主命の陣地は、安中市鷺宮(磯部温泉の南)にあったといふ。経津主命は「抜鉾ぬきほこの神」の名で磯部氏らによって鷺宮の地にまつられた。今の咲前さきさき神社の地である。抜鉾の神は、のちに南へ遷って、貫前ぬきさき神社(富岡市一ノ宮)の神となったといふ。貫前神社には経津主神と姫大神ひめのおほかみがまつられてゐる。姫大神は養蚕と機織の神ともいふが不明で、かなり古い神であるらしい。
貫前神社の裏を流れる丹生川の上流、旧丹生村を詠んだ万葉歌がある。この歌はめっき法を詠んだ歌(水銀に金を溶かして仏像などに塗り、水銀だけ蒸発させる金めっき法)といはれる。
○ 真金(まかね)吹く丹生(にふ)の真朱(まそほ)の色に出て 云はなくのみそあが恋ふらくは 万葉集
羊太夫 / 多胡碑多野郡吉井町
多野たの郡は、古くは多胡たこ郡といひ、和銅四年に甘楽かんら郡から分割された。
○ わが恋はまさかも悲し草枕 多胡の入野の奥も悲しも 万葉集
(まさか=今現在)
○ 多胡の嶺に寄せ綱延はへて寄すれども あに来や沈しづしその子は寄らに 万葉集
(多胡山から寄綱を延ばして寄せても、どうして来るものか。動かない。あの子は寄ることも無い)山を綱で引き寄せるといふ発想は、後述の八束脛のやうな巨人伝説をふまへてのものだらうか。
多胡郡ができたときの古い記念碑が、吉井町の鏑川かぶらがは近くに現存し、「多胡碑」と呼ばれる。碑文に書かれた「羊」とは土地の豪族の「羊ひつじ太夫」のことだといふ。
むかし羊太夫は、八束脛やつかはぎといふ足の長い男を従者を使ひ、この男の力で空を飛び、驚くほどの速さで大和へ通ってゐた。ある日八束脛が昼寝をしてゐるときに、太夫は悪戯に八束脛の脇の下の黒い羽のやうなものを抜いてしまった。そのために大和へ通へなくなった羊太夫は、謀反の疑ひをかけられて、都から差し向けられた軍に滅ぼされたといふ。八束脛は金の蝶と化して月夜野の石尊山まで逃れ、洞窟に隠れ住んだといひ、その遺跡に八束脛神社(利根郡月夜野町後閑)がまつられ、鳥居に「八束脛三社宮」とある。洞窟が三段になってゐるので「三社」といったのだらうか。サンジャには別の意味があるかもしれない。羊太夫は、和銅年間に武蔵国の秩父で銅を発見して富み栄えたともいふ。羊神社は安中市などにある。
佐野山・佐野の渡 / 高崎市山名町
多胡碑のある鏑川の下流、烏川との合流地近くの高崎市の山名やまな丘陵に、多胡碑とほぼ同時代の「山ノ上碑」と「金井沢碑」があり、「上野三碑」と呼ばれ、古代文化の繁栄を偲ばせる。山名丘陵は古くは佐野山といったといふ。
○ 佐野山に打つや斧音をのとの遠かども 寝もとか子ろが面おもに見えつつ 万葉集
この地の山名八幡宮は、安元年中(1175〜1177)に、新田氏の祖の新田義範による創建といふ。新田氏からは山名の地名を苗字にした山名氏が出て、南北朝のころは足利氏に従ひ、山名宗全は応仁の乱の西の雄となった。佐野山の北を流れる烏川の渡は「佐野の渡し」といひ、謡曲「鉢の木」の舞台ともなった。
榛名山・伊香保 / 群馬郡榛名町
榛名山の東南の旧久留馬くるま村(榛名町に合併)の車持くるまもち神社には、榛名の神とともに、車持公がまつられてゐる。車持氏は豊城入彦とよきいりひこ命(上野国造の祖)の子孫とされ、「くるま」から群馬の地名となった。榛名山は万葉時代には伊香保嶺いかほねとも呼ばれた。
○ 伊香保ろの岨そひの榛原(はりはら)わが衣に 着き寄らしもよ堪へと思へば 万葉集
○ 上野の伊香保のみ湯のわく子なす 若返りつつ帰り来ませ君 橘千蔭
○ さだめなく鳥やゆくらむ青山の 青のさびしさ限りなければ 竹久夢二
赤城の神 / 勢多郡宮城村 赤城山
上毛野君かみつけのきみの一族は、崇神天皇の皇子・豊城入彦命の子孫で、上毛野国の国造となり、東国一帯を治めた。上毛野君により東国鎮護の神として祀られたのが赤城神社とされる。
○ 上野の勢多の赤城のからやしろ 大和にいかであとをたれけむ 源実朝
神道集によると、もと赤城の神は上州一宮であったのだが、機を織ってゐる時に、「くだ」が不足し、貫前の神に借りて織りあげたので、織物が上手で財持ちである貫前の神に一宮を譲って、自分は二宮になったのだといふ。
倭文神社 / 伊勢崎市東上之宮町甲
倭文神社の田遊祭は、中世祭祀のおもかげを残す行事といはれ、一月十四日午後六時ごろに始まり、神事の佳境に至ると、神官以下一同は提灯を回し、太鼓に合はせて御神歌を歌ふ。(倭文神社由緒)
○ えーとう えーとう えーとう 前田の鷺が御代田にぎろり
 ぎろぎろめくのは なんだんぼ 一本植ゑれば 千本になる 唐々芒子の種
赤城山南麓地域には、古い旋律の田植歌が多く伝へられ、「浜辺」や「千鳥」が歌はれる。○ 夕暮れに浜辺を見れば千鳥鳴く やよ鳴け千鳥ヤーハノ声くらべ
小新田山 / 太田市金山(新田郡)
太田市街の北の金山かなやまは、古くは新田山、小新田山をにひたやまといはれた。
○ 新田山嶺ねには着かなな吾わに寄そり 間はしなる子らしあやに愛かなしも 万葉集
○ 白遠しらとほふ小新田山の守もる山の 末枯れせなな常葉ときはにもがも 万葉集
元弘三年(1333)、新田義貞は生品いくしな神社(新田町)の前で挙兵し、鎌倉へ進軍して幕府崩壊に導いた。金山城は文明年間に新田一族の岩松氏の築城といひ、城趾には明治初期に新田義貞をまつる新田神社が創建された。新田町の生品神社は、大己貴おほなむち命を主祭神とするが、平将門をもまつってあるとの伝説もあるやうだ。
新田郡細谷村で生まれた高山彦九郎は、寛政の三奇人の一人として知られたが、明治維新の先駆としての評価を受け、明治十二年に太田市の高山神社(旧県社)にまつられた。
○ われをわれとしろしめすかや皇すめろぎの 玉の御声のかかる嬉しさ 高山彦九郎
館林藩士に生まれた生田万は、平田篤胤の弟子となって国学を学び、藩政改革の意見書を出したがもとで藩を追はれ、江戸で浪人暮しとなった。天保二年(1831)に帰国を許され、太田で私塾を開くことになった。
○ しらとほふをにひた山のもる山の 山守りとしも我やなりにき 生田万
○ 田と鋤かれ畑と打たれてよしきりの 住まずなりたる沼ぞかなしき 田山花袋
八木節 / 新田郡
    八木節
    木崎音頭
○ またも出ました三角野郎が 四面四角のやぐらの上で…… (八木節)
正徳のころ越後から新田郡の木崎宿(新田町)へ来た小夜といふ遊女が伝へた新保広大寺くづしといふ曲がこの地方の盆踊唄となり、栃木県足利郡八木宿(足利市福居町)へ広まり、堀込源太といふ馬方が芝居小屋などで早いテンポの曲にして歌ってから、広く大流行したものといふ。歌詞は長い口説調で「国定忠次」他の演目がある。小夜といふ名は漂泊の女性によくある名である。
伊奈良の沼 / 邑楽郡板倉町
県の東端の水郷の町、邑楽郡板倉町は、万葉集によまれた伊奈良いならの沼があった所といはれる。
○ 上つ毛野いならの沼の大ゐ草 よそに見しよは今こそ益され 万葉集
この沼の名残が、雷電神社の東の雷電沼である。雷電神社は、もとは広大な沼に浮かぶ小島にまつられてゐたといふ。むかし坂上田村麻呂将軍が蝦夷と戦って苦境におちいったとき、雷電社の神の化身といふ「不思議の童子」に救はれた。将軍は、その報賽に、伊豆国板倉山から良材を運び、三年をかけて社殿を造営寄進した。延暦二四年のことで、新築の祝の庭に、どこからか金色の冠を着けた翁が現れ、歌舞ひをしたといふ。
○ 雷公は雲の間に乗り遷り そのままそこに宮造りせし
江口きち / 武尊(ほたか)山
利根郡の武尊山の南麓の川場村の貧しい家に、江口きちは生まれた。青春を障害者の兄とともに生き、歌を詠み、薄幸の生涯を閉ぢた。
○ 武尊嶺(ほたかね)はわが生あれどころ小さきいのち いのち終らば眠らむところ 江口きち
昭和十三年暮れ、二十六才で自殺する朝の歌。
○ 大いなるこの寂しづけさや天地あめつちの時刻 あやまたず夜は明けにけり 江口きち
小桜の内侍 / 利根郡月夜野町
利根郡月夜野町の村主八幡神社の境内に若宮塚がある。
室町時代の中ごろ、この地方の長者の家に如意姫といふ美しい娘があった。姫は、その美貌と歌の才によって都に召され、小桜こざくらの内侍ないしと呼ばれた。姫は後花園帝の寵愛を一身に受けたが、後宮の女たちの妬みによって都を追はれ、御子みこを宿したまま故郷へ帰った。御子の明賢親王が生まれてまもないころ、都から「石の袋」を題に歌を求めて来た。姫は御子のたどたどしく口にした「いさご」の言葉から、機知に富んだ歌を送った。
○ 勅なれば石の袋も縫ふべきに 砂いさごの糸を縒りて給はれ 如意姫
(帝の求めなら石の袋も縫ひませうが、ならばその前に砂で縒った糸をお与へください)
御子は二才で病死し、若宮塚に葬られたといふ。
添ふが森、添はずが森 / 吾妻郡高山村尻高
上州吾妻郡の尻高しったか村に泉照寺といふお寺があった。この寺は戦国時代に全焼して泉勝寺として再建された。平将門の乱のとき、小野俊明といふ侍は、あはび姫との恋に迷ひ、戦に間に合はなかったことから、そのことを大いに恥ぢて、出家して泉照寺に入り、禰津ねづ太江と名告った。まもなく太江を恋ひ慕って、あはび姫が寺を訪れたが、出家の身であることを示す歌を渡すだけで、誰にも逢ふことをしなかった。
○ 美しき花に一足ふみ迷ひ 出家の道をかがやきにけり 禰津太江
「かがやく」とは方言で「探す」の意味だといふ。
あはび姫は、旅の荷物を泣く泣く名久田川に沈めて、川の南の鳥美の森で息絶えた。
○ 半形となるもあはびの片思ひ 未来は深く添ふが森せぬ あはび姫
あはび姫を葬った塚を、鳥美とみ塚といひ、この森は「添ふが森」と呼ばれるやうになった。
太江はのちに熱退和尚と名告り、七代目の住職として生涯を終へた。
○ 身を思へば世に名をよごす人々の 迷ひの花を散らしけるらむ 熱退和尚
遺言により、「添ふが森」の対岸に葬られ、里人はこの塚を熱退塚と呼び、森を「添はずが森」と呼んだ。ここに石の祠が立てられ、不添森そはずがもり神社といふ。里人は、恋の成就には「添ふが森」に祈り、縁切りの為には「添はずが森」に祈ったといふ。
御救ひ梅 / 甘楽町小幡 菅原神社
甘楽町小幡の菅原神社は、御神体が川から引き上げられたので、川上天神ともいふ。
むかし小幡の土地の長者の娘が、継母にうとまれ、川に突き落とされた。娘は水に溺れまいと、必死に川上の神を祈って歌を口ずさんだ。
○ 川上の神の誓ひもあらなむに 救はせたまへこの川の主
すると突然、目の前に花を咲かせた梅の枝が見えたので、枝にすがりついた。ふと我にかへってあたりを見ると、菅原神社の社前の梅の枝にしがみついてゐたといふ。
妙義山
「波己曽はこその大神」ともいはれた妙義神社の背後の妙義山は、奇岩と怪石の多い景勝地でもある。画家の狩野芳崖が、明治二十年三月に妙義山、中ノ嶽の景色を詠んだ歌。
○ 美くしくあやに尊しかむろぎの 神のつくれるこのおほみ山 狩野芳崖
碓氷峠
○ 日な曇り碓氷の坂を越え時しだに 妹いもが恋しく忘らえぬかも 万葉集
○ 碓氷嶺の南おもてとなりにけり くだりつつ思ふ春の深さを 北原白秋
江戸時代の記録によると、碓氷峠の昇りくちに数字だけを書いた歌碑があった。「一つ家の碑」とよばれ、武蔵坊弁慶の作だといふ。
○ 八万三千八三六九三三四四一八二四五十二四六 百々四億四百
(やまみちはさむくさみししひとつやによごとにしろくももよおくしも)
(山道は寒く 寂しし 一つ家に 夜毎に 白く 百夜 置く霜)
義経弁慶の主従が奥州へ下るときに、ここで仮泊したときの歌だといふ。別の記録によると少しが文字が異なるが、註記なしで読めるだらう。
○ 八万三千八三六九三三四七一八二四五十三二四六 百々四億四百 
 

 

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碓氷
碓氷郡松井田町と長野県の軽井沢町との境、碓氷峠の周辺。近くをいわゆる五街道の1つ、中仙道が通る。日本書紀 にその名称が見えており、日本武尊が碓氷山から南東の方を臨み、海に身を投じた亡き弟橘媛を偲んで「吾嬬者耶(あづまはや)」と三歎した伝承はよく知られている。
『万葉集』の中に「碓氷」の地名は、上野国歌と防人歌2例が見出される。
○ 日の暮に碓氷の山を越ゆる日はせなのが袖もさやに振らしつ
○ ひなくもり碓氷の坂を越えしだに妹が恋しく忘らえぬかも
旅行く者と残されて見送る者、歌う立場は逆ではあるが、2首の状況は酷似している。碓氷を越えれば信濃国、つまり他国である。上の2首は、国境にある山という碓氷の地理的条件に対する認識を前提にして成り立っているのである。
中古・中世においては、平安時代後期の藤原範兼『五代集歌枕』では「碓氷の山」「碓氷の坂」の項目のもとに万葉歌2首が引用され、同『和歌童蒙抄』の「坂」の項目に後者が引用され、藤原清輔『奥義抄』の「出万葉集所名」に「碓氷の山」と「碓氷の坂」が挙げられ、また鎌倉時代以後も『夫木抄』に「碓氷の山」「碓氷の坂」として2首が収められ、『歌枕名寄』でも「碓氷山」の項目に2首が引用される、という具合に、碓氷は『万葉集』に見える歌枕として確実に記憶され続けている。だが一方、実作に碓氷が用いられる事は極めて少なく、
○ 白妙に降りしく雪の碓氷山夕越えくればしかも道あり [宝治百首・定嗣]
くらいしか見出されない。過去の歌枕として記憶されるに過ぎなかった、という事になろうか。
江戸時代になり、歌枕「碓氷」は少しばかり存在感を取り戻したように見える。それは、近世初期に東山道に基づいた中仙道が整備され、宿駅も設けられて、近辺への人々の往来が活発化したという交通事情の変化と関わるものであったと想像される。
○ との曇り碓氷のみさか霞みゐてあづまの国ぞはやく春なる [うけらが花]
には、微かながらも日本武尊伝承の面影が感じられる。真淵門下の国学者でもあった加藤千蔭らしい詠みぶりと言えそうだ。
また、唱歌「紅葉」の詞は碓氷峠周辺の紅葉の風景に触発されたものだそうだが、江戸時代に既に紅葉の名所として謳われていたようで、
○ 山の名は碓氷といへどいくちしほ染めて色濃き峰の紅葉葉 [千曲の真砂]
○ 碓氷とはいつの代よりか濃き紅葉昔の人に会うて問はばや [閑度雑談]
といった、紅葉を取り合わせたものも詠まれている。ともに名称「碓氷」が紅葉の色の「濃き」と対照されているのが一目瞭然であろう。名称に着目した機知的趣向というのは歌枕詠の典型的手法の1つだが、いささか薄っぺらな印象がある事は否めない。 
碓氷峠
碓氷峠には、古くは日本書紀や万葉集の時代から、中世、中山道時代、夏の軽井沢の文士たちの近代文学の時代まで、 他の地域に比類無いくらい多くの歌碑や文学碑、碓氷峠を頂点とした山麓に多くの文学作品が残されている。
碓氷峠の呼び名の起源
『万葉集』では「宇須比」と訓じているし、『和名抄』では碓氷郡の訓としておなじく「宇須比」である。また『日本書紀』の景行天皇紀では「碓日坂・碓日嶺」とあり、ウスヒを示している。比較的古い時代の文献にウスヒが多いとすれば、まずウスヒから考えてゆかなけれぼならない。
『上野志』という江戸時代中期頃の地方誌によると、碓氷川の説明に、「源鼻曲山の麓なり。此所水たまり侯処あるなり。東南向にて日向故日当能き所なり。如何様の寒き時にも薄い氷なり。依りて名づけしと。」と説明し、ウスヒはウス(薄)ヒ(氷)だとしている。
またウスヒは薄陽ではないかということが考えられる。
関東平野の平坦部から一気に信濃国の高原になるいわば陸上の階段のような碓氷峠は、気流の関係から暖く熱せられた気流と、冷えた気流との関係で濃霧の発生することで知られている。碓氷峠の東北一帯を霧積山と称し、霧積温泉のあることでも知られている。この霧積という地名がいつ頃からあったかはっきりしない。
しかし、この峠一帯がガスの発生しやすいところであることは現に知られている。ガスの多発地として昔からそうであったから、つぎの日本武尊伝説が発生Lたのである。峠の熊野神杜の縁起によると、日本武尊がこの峠を越えようとしたところ、山の神が邪魔をし、雲霧が立ちこめて一寸先も見えなくなった。そのとき、紀伊国熊野の八沢烏が現われ、朴(ほう)の葉をくわえて尊の前に落としながら道案内をし、ぶじに峠の頂上に出られたというのである。
この話も、碓氷峠一帯がガスの発生地であることが背景になっている。ガスが発生すれば太陽すなわち「ひ(陽)」は薄く見える。そのために薄日の山といわれたのではないかということも考えられる。もとはウスヒで、ウスイとはいわなかったとすれぼいっそうウスヒに起源をもとめなくてはならない。とすれぼ、薄陽説も一つの根拠にはなる。(萩原進著 碓氷峠 より)
碓氷峠近辺は確かに霧が多い。昔、霧積山塊の鼻曲山に登った時も霧に囲まれて山頂で一夜を明かしたことがある。また、国道18号旧道の碓氷峠や碓氷バイパスを車で走っていて、数メートル先も見えないような濃い霧に取り囲まれた経験をお持ちの方は多いと思う。何となく薄氷説より薄日(ウスヒ)説のほうが実感が湧く。
万葉集に見る碓日嶺(碓氷峠)
万葉集は、我が国最初の歌集で八世紀中頃の編。碓氷峠は古くは、宇須比、碓日嶺などと表記されていた。
○ 日の暮れにうすひの山を越ゆる日は背なのが袖もさやに振らしつ 詠み人知らず
(日の暮れ時に、碓氷の山の峠を越える日に、我が夫が、別れの時に目につくほどはっきりと袖を振っていた。峠を越えて去ってゆく夫を慕う妻の心情を表している。)
○ ひなぐもりうすひの坂を越えしだに妹が恋しく忘らえぬかも 
(ひなくもり(碓氷を導く枕詞)碓氷の坂を越える時は、国へ置いてきた妻のことが恋しくて忘れられない。碓氷峠越えの別れの恋歌。)
碓氷峠歌碑
碓氷峠数字 / 江戸時代の市川団十郎の作、あるいは板東三津五郎の作とも言われている。武蔵坊弁慶の歌碑とも言われている。
○ 八万三千八 三六九三三四七 一八二 四五十三二四六 百四億四六
(山路は 寒く淋しな 一つ家に 夜ごと身にしむ 百夜置く霜)
関橋守 / 安政6年夏、榛名町下室田の国学者、歌人、明治16年没。
○ ありし代に かへり見してふ 碓氷山 いまも恋しき 吾妻路の空
相馬御風 / 安政6年夏、新潟県出身の詩人。
○ なりなりて おのの清かる 高山の 氷にうつる 空の色かな
曽根出羽 / 神主、近世末期の人。
○ 四四八四四 七二八億十百 三九二二三 四九十四万万四 二三四万六一十
(よしやよし 何は置くとも み国ふみ よくぞ読ままし ふみよまむひと)
北原白秋 / 福岡県出身の詩人・歌人、昭和17年没。
○ 碓氷嶺の 南おもてと なりにけり くだりつおもふ 春の深さを
杉浦翠子 / 川越生まれの歌人、昭和35年没。
○ のぼる陽は 浅間の雲を はらひつつ 天地霊あり あかつきの光
芭蕉
○ ひとつ脱てうしろにおひぬ衣かへ
○ 馬をさへなかむる雪のあした哉 
碓氷の紅葉
歩を進めれば他国、振り返れば故郷。信濃国との境に位置する碓氷峠を越えて行く上野国の人々の思いは、格別のものであっただろうと想像される。『万葉集』の中に碓氷の地名は二首に用いられている。
○ 日の暮に碓氷の山を越ゆる日はせなのが袖もさやにふらしつ
○ ひなくもり碓氷の坂を越えしだに妹が恋しく忘らえぬかも
連作でもないこの二首が、見送る者と旅行く者の心情を各々よく表わしているだろう。しかし、中古・中世においては碓氷を詠んだ和歌はきわめて少ない。歌枕書などは「碓氷の山」「碓氷の坂」の項目を掲げ、先の万葉歌を引用しているのだが、言わば知識の中の歌枕にとどまり、和歌の中に再生されることはほとんどなかったのである。
江戸時代になり、中山道の整備に伴ってであろう、碓氷の地は人々にとって親しいものになったようだ。特に紅葉の名所として喧伝されるようになり、碓氷の紅葉をよんだ和歌が登場するようになる。
○ 山の名は碓氷といへどいくちしほ染めて色濃き峰の紅葉葉 (千曲の真砂)
○ 碓氷とはいつの代よりか濃き紅葉昔の人に会うて問はばや (閑度雑談)
一読して明らかなように、どちらも紅葉の色の「濃き」と地名の「碓氷」を対比したおもしろさを狙った、趣向中心の歌である。
ところで私たちは、もう一つ碓氷の紅葉の歌を知っているはずだ。高野辰之の作詞による有名な小学唱歌「紅葉」である。碓氷の山中にあった信越本線旧熊ノ平駅からの眺望に基づくというその歌詞の中に、そういえば「濃いも薄いも数ある中に」とある。掛詞かと考えたくもなるが、いや、思い過ごしであろう。 
波己曽山
はこそやま、と読む。但し、現在その名称で通用する山はない。妙義神社の古称を波己曽社といい、その妙義神社がある妙義山を指したもの、と考えられている。奇岩怪石を連ねたその独特の山容が、遠目に見る者にさえ強烈な印象を齎す山である。
因みに、その妙義神社には、南朝の貴族で歌人として知られ、『耕雲口伝』等の著作を残している花山院長親も祭神として祀られている。長親の法名は明魏というが、これが現在の「妙義」という名称に深く関わるらしい。
群馬県内の歌枕の大部分は、『万葉集』の東歌の中に登場するものが継承されたものであるが、この「波己曽山」は『万葉集』に見えず、また平安時代以後の用例も非常に少ない。平安時代に1例、鎌倉時代に1例の計2例を検索し得ただけであった。先ずは平安時代の例、『能因集』所載の和歌を紹介してみよう。
○ 草枕夜やふけぬらん玉くしげ波己曽の山は明けてこそ見め [能因集]
詞書には「はこその山」とあるのみで、修行の旅の途中で波己曽山付近を通過した時の歌か都で題詠的に詠んだ歌か判然としないが、家集でその前後に旅関係の歌が多い点、またこれ以前に用例が見当たらない程に和歌の世界で無名である波己曽山を題詠的に詠む必然性が見出せない点から判断すれば、前者である可能性が高いように思われる。
夜が更けたらしいから波己曽の山は夜が明けてから見よう、と意味内容的にはまことに他愛ない歌である。「玉くしげ」が「はこ(箱)」の縁で「波己曽の山」を導き、「明けて」が「空けて」に通じて「波己曽の山」の「はこ」と縁語関係を結んでいる。そうした「はこ」を巡っての技巧を主目的にした一首であると言って良かろう。
もう一首は、鎌倉時代の東国出身の歌人信生の『信生法師集』に見える例であるが、実は詞書・和歌本文ともに「はこそ」ではなく「はこう」となっている。『信生法師集』は孤本として書陵部蔵本が伝わるのみであるから、他伝本によって校訂する事は不可能であるが、「はこう山」の例が他に皆無であり、またそう呼ばれる山が存在しない事、そして「曽」の草体が「う」に類似する事をも勘案すれば、「はこそ」が「はこう」に誤写されたものと判断して支障ないと思われる。以下には「はこそ」と改めて掲出する事にする。
○ かうづけや波己曽の山のあけぼのに二声三声鳴くほととぎす [信生法師集]
詞書には「かうづけの波己曽の山の麓にとどまり侍る暁、ほととぎすの鳴き侍るを」とあり、上の能因詠と同様に、いやそれ以上に確実に、実際に波己曽山近辺で詠まれたもの、その麓で一泊し、暁方に時鳥の鳴き声を聞いて詠んだ歌という事になる。
この歌の奇妙さにお気付きだろうか。詳細はここでは述べないが、古典和歌の常識として、時鳥は一度しか鳴かない。実際の時鳥の習性とは全く別に、和歌の世界ではたった一声しか鳴かない鳥として扱われる。つまりこれは常識破りの歌なのだ。和歌的伝統とは未だ関わりが薄い東国出身者の信生とてその程度の約束は心得ていたであろう事は、『信生法師集』の中に古歌を踏まえた詠作が少なからず見えている点からも十分に想像し得る。いや、時鳥は一声しか鳴かない鳥であるという和歌的通念を承知しているからこそ、このような歌が詠まれたと考えるべきではなかろうか。その通念を知らず、複数回鳴く事が当然であると思って詠んだのだとすれば、一層詠んだ意図がわからない歌になってしまうように思う。時鳥は一声しか鳴かない、しかしこの波己曽山の時鳥は例外的に二声三声鳴く、と詠んだ歌なのだ。
となれば、波己曽山の何らかの特性・属性が時鳥を二声も三声も鳴かせた事になる。しかしその具体的な意味を理解するまでに、率直に告白すれば、かなりの時間を費やし、ある時はたと思い当たった。ヒントは能因詠である。「はこ」の音を含む波己曽山だから、時鳥も「ふた(箱の上部)」声も「み(箱の下部)」声も鳴いたのだ。要するに、「はこ」「あけ」「ふた」「み」と縁語を揃えた歌であった事にようやく気が付いたのである。
波己曽山を詠んだ古典和歌は、結局その名称が「はこ」という音を含む事に対する興味に終始した二首だけで終わってしまった。だがこうした詠み方も、歌枕を詠む上で少なからず用いられた方法であった事は疑いない。 
妙義山と花山院長親
妙義山の主峰白雲山の中腹に、妙義神社がある。567年の創建と伝えられ、『日本三代実録』にも「波己曽神」としてその前身波己曽神社の名称が何度か見えている。祭神は日本武尊・豊受大神・菅原道真・権大納言長親。
この「権大納言長親」が何故に祭神としてここに名を連ねているのだろうか。
先ずは、権大納言長親=花山院長親について概説しておこう。1350年頃に誕生、1429年に没した、南北朝期〜室町時代前期の歌人である。祖父、尹大納言師賢は後醍醐天皇の側近として知られる人物であり、父妙光院内大臣家賢を含め、三代にわたって後醍醐天皇・南朝に奉仕し、南朝で内大臣に至った。1389〜1392年の間に出家、法名明魏、また耕雲と号す。出家後の1410年代には室町幕府将軍足利義満や義持の信任をも得、和歌活動を共にした。著作に歌論書『耕雲口伝』がある。
祖父師賢は元弘の変で捕らえられ、下総国に配流されてその地で没し、小御門神社に祀られているが(千葉県成田市。但し創建は明治年間)、無論長親は流されたわけでもないし、波己曽山の和歌を残しているわけでもない。因みにこの長親についての先行研究としては井上宗雄氏『中世歌壇史の研究 南北朝期』や福田秀一氏『中世和歌史の研究』等があるが、長親と妙義山や妙義神社との関連についての言及は全くない。対照的に、群馬県内で刊行された妙義山関係の書籍の殆どには長親の名が載っており、歴史的事実ではなく地元の伝承に基づいた結び付きである事が想像されるのだが、それにしても両者の結び付きは如何にも唐突に思えるし、内大臣に至ったはずの長親が「権大納言長親」として祀られている点も気になる。
ところで、長親の名が登場する妙義山関係の書籍の中で必ずと言ってもいいくらい触れられているのは、妙義山の名称の由来である。長親の法名明魏は、普通メイギと読まれるが、ミョウギとも読み得る。この明魏が妙義の由来となったとする言い伝えがあるようだ。例として『松井田町誌』からそれに関わる部分を引用してみよう。
公卿であった花山院藤原長親卿は、明徳五年(一三九四)妙義神社の宮司となって、再起を期した。魏々たる山容が明るい朝日に映える妙なる様を見て、自ら「明魏」と号し、後の妙義の名の起こりとなった。近在を始め、各所に南朝方の募兵をしたが、志を果たせないまま、永享元年(一四二九)妙義で没した。この三十五年間に社殿を整え神に奉仕したので、中興の人と崇められ、後に祭神の一人として合祀された。
上は伝承そのものの記述ではないが、一読して伝承に基づいた記述であろう事は明白であろう。南朝の内大臣が突如妙義神社の宮司になってしまうという設定からしてあまりに不自然に過ぎるし、出家したのも没したのも都周辺と考えられていて、妙義ではない。また南朝方の貴族が関東に渡って南朝に与する軍事勢力を募った例としては北畠親房が真っ先に想起されるが、長親に同様の動きがあった事は知られていないし、そもそも1392年に既に南北朝合一が成されている。勿論それによって北朝・南朝の対立が完全に解消されたわけではなく、後南朝勢力の抵抗はしばらく続くが、長親はといえば、足利将軍家や北朝歌壇の和歌活動に参加して、言わば「敵方」との交誼を重ねているのである。
となると、上の記述が踏まえた伝承は史的事実からかけ離れたものであったと認定せざるを得ないのだが、問題は、何故そこまでして南朝の一貴族、歌人であるとはいえ一般的にそれほど有名人とも思えない長親を話の中に呼び寄せねばならなかったのか、であろう。彼の法名と山の名称が同音である事も一因ではあるのだろう。だが、例えば関東に縁が深く、長親よりはるかに有名人である足利尊氏の戒名は「等持院殿仁山妙義大居士長寿寺殿」、こちらは音のみならず表記までも合致する。何故、尊氏でなく長親なのか?
長親と妙義山はおろか関東との接点は文献上に見出せないのだが、僅かなりともその可能性を想定する事はできないかどうか。ある人物を介在させた時に、その僅かばかりの可能性が拓けてくるかもしれない。長親の著作、『耕雲口伝』を引用してみよう。
ここに信州の中書王ときこえさせ給ひしは、かけまくもかたじけなき後醍醐の帝の御子、外祖父は為世入道大納言、御母は贈従三位為子ぞかし。木曽路をわけのぼりて、吉野の奥に住み給ひしに、この道の誉れ幼齢より世に隠れなく、晩年の風格あめが下ためし少なくおはせしかば、朝夕親近して、この道を問ひ奉りしほどに、日頃のあやまち氷の如くに消え、雪の如くにとけて、露ばかりの力量も出来にけるにや。後には新葉集撰定のことをさへ委ね付せられ奉りしかども、いくほどもなくてまた雲水漂泊の身になりて・・・
長親が和歌を学んだこの「信州の中書王」とは、後醍醐天皇の皇子の一人、宗良親王のこと。南朝の本拠地吉野・賀名生を離れ、信濃国伊那のあたりを拠点として周辺で転戦していた。母は二条為世の娘為子で、歌道家の血のせいか和歌にも優れ、南朝歌人の和歌を集成した准勅撰集『新葉集』の撰者としても知られる人物である。
1374年、宗良親王は三十六年ぶりに吉野に戻った。「木曽路をわけのぼりて、吉野の奥に住み給ひしに」の記述が蓋しこの事実に対応するもので、長親は吉野で「朝夕親近して、この道を問」い、その和歌指導に深く心酔したようだ。やがて宗良親王は『新葉集』撰定に着手するが、完成前の1378年に一時信濃に戻り、その留守の間編纂を長親らに託す(「後には新葉集撰定のことをさへ委ね付せられ奉りしかども」)。1380年に河内国に戻った宗良親王は編纂作業を続行、翌1381年に『新葉集』は完成して長慶天皇(後醍醐天皇の孫)に奏覧された。宗良親王はその後また信濃国に帰ったのであろう、1389年以前に没したが、終焉の地は信濃であったとする説が有力である。
あと、「内大臣長親」でなく「権大納言長親」とあった事の関連で、長親の官職の動向を確認しておこう。南朝の官職の動きについては史料が乏しく、長親についても例外ではない。
1371年 「南朝三百番歌合」出詠。作者表記「新中納言」
1375年 12月13日付宣旨案の「上卿花山院大納言」は長親を指すか
1389年 自身の「天授千首」を書写。奥書に「内大臣」
僅かこれだけの史料では極めて大雑把な推測しか成し得ないが、長親が権大納言になったのは1371〜75年の間の事で、1389年以前に内大臣に昇進した事になる。
さてここから大胆な推論を展開する羽目になるのだが、「権大納言」長親と妙義山が関わり合う機会はなかったのだろうか。宗良親王を介在させた時、ごく僅かながらもその可能性が生じてくるようにも思うのである。例えば宗良親王が『新葉集』編纂を長親らに託して信濃に一時戻っている間に、編纂に関する伺いのために信濃に赴く事はなかったのか。或いは、『新葉集』完成後に師を慕って信濃を訪れた事はなかったか。宗良親王の本拠地伊那は上野国とは遠いが、拠点は信濃国内にいくつかあったようで、そこから碓氷峠まで足を伸ばして上野国内に入り、妙義周辺に足跡を残した可能性は皆無ではないかもしれない。宗良親王を仲介させる事によって、両者が結び付く違和感がほんの少し緩和されるように思う。
権大納言当時の長親が実際に妙義山周辺を訪れていたかもしれない…これはあまりに恣意的、推論に推論を重ねた、むしろ暴論である事は十分に自覚している。だがそんな御都合主義的な推測を立てねばいられないほど、私には南朝貴族長親と妙義山との結び付きがあまりにも唐突に思えて仕方ないのである。
しかし、上の暴論が幾許か的を射ていたとしても、それは両者の結び付きのきっかけに過ぎない。そのきっかけから伝承を生み出し、長く温存していた地盤とは如何なるものだったのだろうか。
この問題に対する明確な答を持ち合わせてはいないが、1つの仮説として、群馬という土地が南朝寄りの雰囲気を有していたのではないか、南北朝の対立の終結後までも南朝贔屓のムードが残っていたのではないか、という点を指摘してみたい。
群馬と南朝、と聞いて誰もが真っ先に想起するのは新田氏であろう。後醍醐天皇と決別して反旗を翻す道を歩む足利尊氏と対照的に、最後まで忠義を尽くす武士の代表格が新田義貞であり、1338年に義貞が戦死した後も、義貞の弟脇屋義助、義貞の子義興・義宗、義助の子義治らが南朝の軍事勢力として力を保っていた。義興・義宗・義治は宗良親王の軍勢とともに、観応の擾乱で対立した弟足利直義討伐のために鎌倉に下っていた尊氏を攻撃して悩ませたが、その新田氏の拠点が東毛太田周辺にあったのは周知の通りである。
ところで、南朝側の有名人の1人に児島高徳という人物がいる。その詳しい伝記等は不明であるが、元弘の変で捕らえられた後醍醐天皇の宿所を密かに訪れ、桜の幹に「天莫空勾践 時非無范蠡」と彫りつけた逸話で知られ、特に戦前の教育で天皇の忠臣として高く評価された。この児島高徳の墓(と伝えられる)が太田に隣接する大泉町の古海という地にある。付近には高徳寺、児島神社という寺社まである。脇屋義治の配下となり、その縁でか古海太郎広房なる人物を頼って晩年を古海で過ごして没したという伝承があるのだそうだ。
因みにネットで調べたところに拠れば、児島高徳の墓と伝えられるものは全国に9つあるそうで、南朝の忠臣として古くから人気があった様子が窺い知れる。ところで遺跡というものは、その「もの」の存在だけで成立するものではあるまい。その遺跡がそこにある「根拠」とセットになって、初めて意味を成すものであると考える。蓋しその9つの墓各々が、児島高徳がその地に葬られる「根拠」となるような伝承、例えば大泉町のそれにおける古海太郎広房が登場する話のようなものを抱えていた(今日まで伝わっているか否かは別として)に相違ない。
9つの墓所のうちいずれが信憑性が高いかについては、私は判断する術を持っていない。そして、こういう言い方は失礼かと思うが、あまり関心もない。私にとって興味深いのは、南朝軍事勢力の1つ新田氏の拠点太田が、児島高徳というこれまた南朝の有名人を、或いはその伝承を引き寄せている、という事実である。実は児島高徳に限ったわけではない。新田義貞の愛人勾当内侍の墓、後醍醐天皇の孫長慶天皇の墓と伝えられるものも太田にある。新田氏の拠点東毛太田周辺にそういった土壌が形成されていた事は、これらの例で納得されるのではなかろうか。
南朝の軍勢というと後醍醐天皇に忠誠を尽くす人々ばかりのように思われるかもしれないが、必ずしもそんな純粋なものではない。反尊氏・反室町幕府という立場から南朝に荷担した軍勢も少なからずあった。そういう意味での南朝勢力の、群馬における代表的存在は桃井直常だろう。
桃井氏は榛東村出身の一族であり、直常は尊氏の弟足利直義の有力な家臣であった。つまり元々は後醍醐天皇に敵対する側であったのだが、観応の擾乱で尊氏と直義兄弟が対立、直義が没した(病没或いは尊氏に毒殺されたとも)ために反尊氏の立場から南朝に与する事となる。直常の主たる活躍の場は北陸地方であり、群馬の南朝勢力と認められるか不安はあるが、紆余曲折はあるにせよとにかく南朝側に与したこの桃井直常も群馬出身者である事は記憶されて然るべきであろう。
ここで再び宗良親王に話が戻るのだが、『太平記』の中で一度だけ宗良親王が「上野親王」という名称で呼ばれている。先述の通りその本拠地は信濃国であったが、拠点の1つが上野国内にあって滞在した事でもあったのだろうか。滞在までは確認し得ないが、上野国に入って来ている事は疑いない。軍勢を引き連れて碓氷峠を越え、新田の軍勢と合流、ともに南下して足利軍を攻撃しているのだから。
この2つの南朝勢力を結ぶ道、それは南朝軍事ルートとでも呼べるものではないかと想像しているのだが、各々の拠点(といっても宗良親王側については未勘であるが)が南朝色を帯び、それを長く温存していたように、それを繋ぐ南朝軍事ルート周辺もまた南朝色を帯び、その雰囲気を長く伝えていたという事はないだろうか。ここで問題にしている妙義山もそのルート上にある碓氷峠から遠くない(参考までに、上述桃井氏の拠点もおそらくそのルートから離れていないだろう)。花山院長親と妙義神社を関わらせた伝承が朽ちずに残っているのは、こうした温床があったからではないかなどと見通しを立てている。因みに妙義神社には、児島高徳ゆかりと伝えられる灯籠や石碑が存在するという。それらが製作された年代を考証すればどうやら付会に過ぎないようだが、しかし少なくとも伝承世界において、この妙義神社も南朝軍事圏内にあった事を示唆する役割は果たしているのではなかろうか。
更に言えば、都の記録では足利義満や足利義持の和歌活動に出詠したりその遊覧に同行したりと、足利将軍家と交誼を重ねている頃の長親が、伝承の中では妙義で南朝の軍勢を整える画策をしている、史実に比せば荒唐無稽でさえある長親像の造型に、この伝承を支え伝えてきた土壌の性格が反映されているようにも思えるのである。 
荒船
荒船山は、甘楽郡下仁田町・同郡南牧村と長野県佐久市に跨るあたりに位置する。山頂部分が台地状に広がっており、その遠景が荒海を押し進む船に見立てられて、このような名称になったという。奇勝で有名な妙義山の近くにあり、妙義山とはまた異なる意味で、山容が強いインパクトを有する山である。
さて、便宜的に荒船山の説明から書き出したのだが、歌枕とされるのは山そのものではなく、そこにある「荒船神社」である。そして率直に言えば、実はこうして「群馬県の歌枕」の1つとして取り上げるべきものである確証はない。群馬県の「荒船」なのかどうかわからないのである。
『能因歌枕』は歌枕書として古いものに属するが、その「かむつけの国」の項の中に「あらふねの宮」と見える点は注目される。群馬県説は決して後代に付会されたものではなく、むしろ古説であった事が知られるのだが、とはいえ歌人達の認識が一致していたわけでもないらしい。鎌倉時代末頃に成立した『歌枕名寄』においては、「上野国」の項に「荒船神社」を載せながらも「筑前又入之」との注記を付し、一方「筑前国」の項にも「荒船神社」を載せて、ともに同一の和歌1首を引用しているのである。更に、ずっと後の文献であるが、江戸時代の契沖の『勝地通考目録』では、荒船神社は「筑前」にのみ見えて、「上野」にはその名は見えない、といった具合である。
煩瑣な話が先行したが、そろそろ実例を見てみよう。荒船神社を詠んだ古典和歌は僅か1首しか知られていない。「荒船の御社」との題が付された、
○ 茎も葉もみな緑なる深芹は洗ふ根のみや白く見ゆらん [拾遺集]
のみである。一読して意味を解せる平易な歌であると思うが、どう見ても神社を歌ったものとは思えないし、内容的にも甚だ他愛なさ過ぎるというのが率直な感想であろう。
物名(もののな)または隠題と呼ばれる技巧がある。題として出された言葉の文字続きを、簡単にそれとわからないように和歌の中に詠み入れる技巧である。簡単にはわからないように凝らすのだから、その題を歌の意味内容の主題とする事はあり得ない。そして課題をクリアーする事自体で精一杯であり、歌の意味は二の次にされるから、意味的には取るに足らない詠になるのが普通である。実は上の一首は、物名の代表的な歌として歌学書等にしばしば引き合いに出されるものなのである。漢字混じり表記にしたので気付きにくかったかもしれないが、改めて見れば第四句から第五句にかけて「あらふねのみやしろ」の9文字が隠されているのがわかるだろう。これだけの文字数が連続して詠まれる物名歌は稀有である。
だが、物名歌としていかに優れていようと、ここから荒船神社のイメージを導く事は到底無理な話である。勿論、上野か筑前かを考証する手助けにもなり得るはずがない。 
伊香保
県内でも有数の、というより日本でも最も有名な温泉地の1つと言っても過言ではないであろう伊香保は、榛名山の東側に位置している。小説「不如帰」の舞台となり、その生涯をこの地で終えた徳富蘆花に因んで記念文学館が置かれる等、近代文学との関わりも深い。和歌の中には「伊香保嶺」「伊香保沼」といった形でも登場しているが、「伊香保嶺」が榛名山を、「伊香保沼」が榛名湖を指しているとすれば、そもそもは現在の伊香保町よりも広範囲の地域を指し示した地名であったかと想像される。
伊香保は『万葉集』巻14の「上野国歌」22首の中に、
○ 伊香保ろにあま雲いつぎかぬまづく人とおたはふいざ寝しめとら
○ 上毛野伊香保の沼に植ゑこなぎかく恋ひむとや種もとめけん
○ 伊香保嶺に神な鳴りそねわが上にはゆゑはなけども児らによりてぞ
○ 伊香保風吹く日吹かぬ日ありといへど吾が恋のみし時なかりけり
○ 上毛野伊香保の嶺ろに降ろ雪の行き過ぎかてぬ妹が家のあたり
等、「伊香保嶺」や「伊香保沼」も含めて、その地名が見える歌は8首にも及んでおり、上野国の最も代表的な歌枕であった観を呈している。しかもそこに「神(雷)」「風」という、いわゆる上州名物まで早くも取り合わせとして登場しているのが何とも興味深い。
ところが、平安時代になると、伊香保詠は大きな変貌を遂げる事になるようだ。対象が主に伊香保沼に集中する事もさりながら、その質的な変化を見逃すわけにはいかない。取り敢えず平安時代中期の文献に見える伊香保詠を挙げると、以下の通りである。
○ 呉竹の世々の古事なかりせば伊香保の沼のいかにして思ふ心をのばへまし… [古今集・忠岑]
○ 伊香保のや伊香保の沼のいかにして恋しき人を今一目見ん [拾遺集・詠人不知]
○ かくれなく逢はずなりなばみちのくの伊香保の沼の我いかにせん [古今六帖]
○ かんつけの伊香保の沼に植ゑしなぎかく恋ひんとや種もまきけん [古今六帖]
少し解説を加えておけば、「呉竹の」詠は長歌の一部、「かんつけの」詠は若干の本文異同はあるものの前掲万葉3434詠と同じである。また「かくれなく」詠では「みちのくの伊香保の沼」とあり、文字通りであれば別個の歌枕として扱うべきものだが、誤伝の結果である可能性を考慮して、一応ここに挙げておいた。
さて、上の4例のうち万葉歌である「かんつけの」詠を除く3首は著しい共通性を見せている。何れも言葉として「伊香保沼」を詠んではいるが、沼としての実体は全く詠まれていないのである。「いかにして」「いかにせん」を同音で導く序詞的役割を果たすのみであって、歌の主意には関わらない。音のみを残して実体を喪失してしまった、とも言えようか。平安時代も後期になると、
○ 東路の伊香保の沼のかきつばた袖のつまより色ことにみゆ
[堀河百首・源顕仲、『夫木抄』では「袖のつまずり」]
といった、明らかに上とは路線を異にする歌も詠まれているが、概して言えば、平安時代は伊香保がその名を残して空洞化した時期であったという事になりそうだ。
鎌倉時代に入って1215年、順徳天皇のもとで「内裏名所百首」が行なわれた。歌枕百を選び、それを春夏秋冬恋雑に振り分けて、各歌枕を題として詠んだ百首であるが、その百の歌枕の1つとして伊香保沼が選ばれ、夏部に配されたのである。
○ まこもおふる伊香保の沼のいかばかり波こえぬらん五月雨のころ [順徳院]
○ こなぎうゑし伊香保の沼のあやめ草長き程をば誰もとめけん [行意]
○ 唐衣かくる伊香保の沼水に今日は玉ぬくあやめをぞひく [定家]
○ 伊香保のやいかにほどふる五月雨に沼のいはかき波もこすらん [家衡]
○ 影くらき伊香保の沼は夏草の露の水際に月ぞやどれる [俊成卿女]
○ 思ふことあやめの草の長き根に伊香保の沼のいかでのこらん [兵衛内侍]
○ 五月雨に伊香保の沼のあやめ草今日はいつかと誰かひくらん [家隆]
○ いはかきもみごもり深くなりぬらん伊香保の沼の五月雨のころ [忠定]
○ 五月雨に伊香保の沼のあやめ草刈る人なみに朽ちやはてなん [知家]
○ おりたちて引く手に夏はなぎの葉の伊香保の沼のいかがすずしき [範宗]
○ かはづ鳴く伊香保の沼にすむ蛍もゆる思ひに音をぞあらそふ [行能]
○ 水鳥の玉もの床やしをるらん伊香保の沼の夕立の空 [康光]
平安時代に多く詠まれたわけではない伊香保沼の歌がここでまとめて12首詠出された意義は大きい。しかもたまたま夏部に割り当てられたために、その夏の景が詠まれる事になる。伊香保沼が実体を回復したのである。「いか」を同音で導く、平安時代の用法の典型とも言うべき序詞的用法も3例に見えるが、何れも同時に実体としての伊香保沼を兼ねた有心序へと変化している。また取り合わせられた素材に注目してみると、万葉歌を継承した「なぎ」との取り合わせが2例見える他、「五月雨」「あやめ草」が目立っている。だがそれは、伊香保沼に関わる題材の拡張というよりは、たまたま夏部に配されたがための結果と解するべきかと思う。その意味では、これらの詠はやや没個性化しているとも言えるだろう。
この後伊香保詠が急増するとまでは言い難いが、例えば「新撰和歌六帖」において、
○ 底深き伊香保の沼のいかほどに恋しきことを思ふとか知る [家良]
○ 我が身今なほも頭にかみつけの伊香保の沼のいかが悲しき [信実]
と、やや平安時代的用法ではありながらも、2人の歌人が伊香保沼を詠んでいるし(残りの3首では沼は特定されていない)、
○ 伊香保風吹く日吹かぬ日まじらはばなど我が袖のほす時のなき [宝治百首・定嗣]
○ くちなしにさえたる雲のかかれるは伊香保の嶺ろに雪ぞ降るらし [夫木抄・顕朝]
○ 伊香保風いかに吹けばか沼水の春をばよそになほこほるらん [柳葉集]
等、万葉歌を思わせる口吻の歌も詠まれるようになった。おそらく「内裏名所百首」が歌人達に歌枕伊香保の記憶を喚起させる契機となったのであろう。 
赤城
県のほぼ中央部に位置し、群馬県の象徴とも言えそうな赤城山であるが、不思議な事に、古典和歌とは疎遠であったと言わざるを得ないようである。その一事をもってしても、そもそも古典和歌或いは歌枕というものが、いかに地方の生活者の実感と無縁なところで成り立っているかが理解できるのではなかろうか。
赤城山は(おそらく)古く『万葉集』巻14の「上野国歌」の中に詠まれたものではあるが、実は「赤城」という現在の名称そのものは『万葉集』には見出す事ができず、
○ 上毛野くろほの嶺ろのくづはがた愛しけ児らにいや離り来も
と詠まれている「くろほの嶺」が赤城山を指すものと考えられている。この歌は藤原俊成の歌論書『古来風体抄』や『歌枕名寄』にも引用されているのだが、結局「くろほの嶺」は歌論・歌学書におけるそれらの引用によって辛うじて痕跡を残したに過ぎず、後代の実作の中で再生される事はないままで終わってしまったようだ。
さて、「赤城山」ではないのだが、「赤城」の地名を詠んだ和歌が鎌倉時代になって現われた。鎌倉幕府第三代将軍源実朝の家集の中に、
○ かみつけの勢多の赤城のから社やまとにいかで跡をたれけん [金槐集]
と、「赤城の社」つまり赤城神社が詠まれているのである。赤城山は古くから神格化された山で、周辺に多数の赤城神社が存在しているが、『金槐集』の詞書には「神祇歌あまたよみ侍りしに」とあるだけであって、その何れの赤城神社を念頭にしてどのような機会に詠まれたものか、皆目わからない。周知度からすれば、赤城大沼の赤城神社、勢多郡宮城村三夜沢の赤城神社、前橋二之宮の赤城神社の何れかである可能性が高いか。
ところで「から社」とは何だろう。辞書の類に見えないようだし、仮に載っていたとしても、この一首から推察された意味が掲げられるに過ぎないであろう。上の引用は定家本『金槐集』に拠ったものだが、実はこの箇所には本文異同があり、貞享本『金槐集』では「かみ社」とされている。「ら」と「ミ」の誤写はいかにも起こり得そうだ。「かみ社」ならば、「神社」或いは「上社」であろうと想像され、単語の意味の問題は解消されそうだが、改めて全体を読み通すと、わかったようなわからない歌になってしまう。「やまとにいかで跡をたれけん」と訝る(?)、その動機が全くわからないのである。訝りでなく賞賛であるとしても、赤城神社の何を、何故このような言葉で称えるのか、その関係性が見出せない。
『夫木抄』の引用でも「から社」とされている事もあり、ここはやはり定家本本文に拠りたい。「唐社」と表記すべきものかどうか確証はないが、我々の大多数と同様に実朝も「唐社」と解し、我々と同じ違和感を感じた。そのギャップに強く関心を喚起されて、「から」と「やまと」を対照した上の歌が詠まれたのだと考えたい。
だがそれにしても、「から社」とは何だろう。異称であるとすれば神社関係の文献に見えそうなものだが、見当たらないとなると、一部に通用していた俗称のようなものだったのであろうか。『金槐集』の注釈では異国風建築の神社と解かれたりしている。神社の建築様式が唐風であるというのも甚だ奇妙な気がするが、もし赤城神社の建築様式が特異であった事を示す文献の所在を御存知の方がいたら、御教示いただければ幸いである。 
多胡の入野
多野郡吉井町石神に「入野遺跡」がある。入野中学校に隣接した、古墳時代後期のものとされる竪穴式住居等から成る遺跡であり、そこから約2kmほどの北、吉井町池に所謂上毛三碑の一つ、多胡碑があることを考え合わせると、古代におけるこの一帯の文化の高さが想像されるだろう。
この「多胡の入野」も、早く『万葉集』の東歌に見えながらもその後詠まれることが極めて稀であったものだが、まずはその『万葉集』所載の1首を挙げてみよう。
○ 吾が恋はまさかもかなし草枕多胡の入野のおくもかなしも
万葉仮名表記や枕詞の掛り方等の問題を有する歌であるが、ここでは当面の問題のみに絞りたい。この歌における「多胡の入野」とは地名なのだろうか。それとも、「多胡」はともかく、「入野」は固有名詞でなく普通名詞、入り込んで奥深い野(『日本国語大辞典』)といった意味を表わしているに過ぎないのだろうか。
無論、普通名詞としての呼び名が固有名詞、地名として固定するケースは多々ある。試みに「入野」をインターネットで検索してみると、日本中のあちらこちらに「入野」(読みは「いりの」か「いるの」か確認していないが)の地名が散在している様子が知られ、蓋しそれらは普通名詞から固有名詞へと発展したものだったのだろう。では上の万葉歌の「入野」はどうなのだろう。つまり、「入野」は万葉時代に存在した地名だったのか否か。
現在では吉井町に合併されてその名を留めていないが、かつてこの付近に「入野村」が存在した。この「入野村」の名称は古くからの地名を長く継承してきたその名残であるのだろうか。残念ながら答えは否である。この名称は、明治時代の村合併に際して上の万葉歌に因んで用いられたに過ぎない(このあたりに関しては、北川研究室のページ、「公開講座資料」中の「今に生きる群馬の古代地名」参照)。もちろんこの一事で地名説を否定することはできないが、古い文献に地名としての「入野」が見えない限りは普通名詞的に理解する方が穏当であると考えたい。上でマークが便宜的なものである旨をお断りしたのもそのためである。
平安時代後期から中世・近世にかけて成立する歌枕書類には、「多胡の入野」が上野国の歌枕の1つとして取り上げられている。実状はともかくとして、歌学の世界では、「多胡の入野」という形で地名として認識されていた、ということになろう。だが、万葉の1首は記憶されながらも、上述の通り新たな和歌の中で再生されることは少なかったようで、管見の及ぶ限りでは以下の僅か3首しか見出せなかった。
○ 葛の葉をふく夕風にうらぶれて多胡の入野に鶉鳴くなり [新続古今・季広]
○ 露深き多胡の入野の草枕ぬれてもこよひまたやむすばん [新撰六帖・光俊]
○ 暮れゆけば月ぞ宿かる草枕多胡の入野の秋の白露 [自葉和歌集(中臣祐臣)]
光俊詠と祐臣詠は上記万葉歌に基づいたものと判断して良かろう。万葉歌は恋歌であるが、第3・4句「草枕多胡の入野の」の「草枕」の連想から、旅の歌へと主題を転換し、野での旅寝という状況から自然に「露」を取り合わせた歌である。
1首目は二十一代集の最後『新続古今集』の歌として掲出したが、『万代和歌集』や『夫木和歌抄』等にも見える。作者源季広は、平安時代末期の『千載集』初出歌人の季広であろうか。となれば3首の中で最も早く詠まれたことになるのだが、何故ここに「多胡の入野」が登場するのか、『新続古今集』『万代和歌集』の詞書によれば「鶉」を詠んだ題詠歌であるが、何故その舞台として「多胡の入野」が選ばれたのか、「葛」や「鶉」といった景物との結び付きの由来が奈辺にあるのか、私にはよくわからない。
参考までに、「さを鹿の入野」「旅人の入野」「狩り人の入野」といった詞続きで詠まれる「入野(いるの)」という歌枕がある。所在については諸説があって明らかでないが、例歌は非常に多い。その「入野」と「鶉」との関係についても参照してみたが、特に顕著な関わりは認められなかった。「入野」と「鶉」との関係が「多胡の入野」と「鶉」との関係に拡大された、という可能性を探ってみたのだが、その想像も的外れであった、という次第である。 
佐野の舟橋
地名「佐野」の語源は普通名詞「狭野」であったようで、日本各地にその地名が残っている。例えば北関東においては栃木県の佐野市が圧倒的に有名だが、群馬の「佐野」という地名を聞いて直ちに所在地がわかる人は、必ずしも多くないだろう。今の高崎市、倉賀野駅近くの烏川沿いに、上佐野町・下佐野町・佐野窪町の名が辛うじて残っている。実はその佐野こそが、中古・中世の和歌の世界で、いやもっと広範に古典文学の世界で最も有名な群馬県内の地名だった、と思う。北条時頼が佐野源左衛門常世に宿を求めた、謡曲「鉢木」の舞台でもある、そう言えば少しは納得されるであろうか。
『万葉集』巻14の「上野国歌」の中で、この佐野の地名は以下の3首の歌に詠まれている。
○ 上毛野佐野のくくたち折りはやし吾は待たむゑ今年来ずとも
○ 上毛野佐野田の苗のむら苗にことは定めつ今はいかにせも
○ 上毛野佐野の舟橋取り放し親はさくれど吾はさかるがへ
数として多いわけでもないが、この中に平安時代以降の歌人達に甚だ強烈な印象を与えたらしい歌が1首あった。3439番である。「舟橋」というのは、川に舟や筏を並べて繋ぎ、その上に板を渡した仮の橋を言うが、そのいわばエキゾティックな情景が都の歌人達を大いに刺激したのではなかろうか。以下、この「佐野の舟橋」を中心にして述べていく。
平安時代中期、既にこの「佐野の舟橋」はある程度有名であったらしい。例えば『枕草子』に「橋は、あさむつの橋、長柄の橋、あまびこの橋、浜名の橋、一つ橋、うたたねの橋、佐野の舟橋(以下略)」と挙げられているし、『能因歌枕』にも「橋を詠まば、は(ママ)にはの橋、浜名の橋、佐野の舟橋とも詠むべし」とある。また、和泉国に佐野の地名がある事を知らされた和泉式部が
○ いつ見てかつげずは知らん東路と聞きこそわたれ佐野の舟橋 [和泉式部続集]
と詠んでいるのも、当時その存在や所在についての知識が歌人達の間に広まっていた事の証左となるであろう。但し、この頃の和歌にはまだ用例が多いわけではない。
○ 東路の佐野の舟橋かけてのみ思ひわたるを知る人のなさ [後撰]
○ 東路の佐野の舟橋はじめより思ふ心ありいとひすな君 [古今六帖]
後撰詠では初二句が「橋」の縁語「かけて」を導き、更に同じく縁語である「わたる」を連ねて、古今六帖詠では「舟橋」が同音の「はじめ」を導く。ともに序詞として用いられるのみであり、実体としての舟橋が詠まれているものではない。上掲万葉3439詠の初二句は序詞とも実景とも解せるため、構造的類似性を指摘する事は難しいが、しかし後撰詠・古今六帖詠ともに恋歌の中で用いられているあたりには、万葉詠との一脈の繋がりが感じられるようにも思う。
そして、数量的に増加し始める傾向を見せる平安時代後期になると、同時にその詠まれ方も多様性を示し始めるようだ。
○ いかがせん佐野の舟橋さのみやはふみだに見じと人のいふべき [永久百首・忠房]
「佐野」が同音で「さのみ」を導き「橋」の縁語「ふみ」と言う、技巧上の必要性から「佐野の舟橋」を引き合いに出しただけの、上記の用法の応用のような歌も引き続き詠まれる一方、「佐野の舟橋」を実体として詠む歌も多くなってくる。
○ 東路の佐野の舟橋くちぬとも妹しさだめばかよはざらめや [堀河百首・顕季]
では、佐野の舟橋を恋人のもとへの通い路の途中に設定している。殊更に古風な口吻は、万葉歌との強い関係を想起させるであろう。
○ 今更に恋路にまよふ身を持ちてなに渡りけん佐野の舟橋 [堀河百首・師頼]
○ さらぬだに道ふみまどふくもる夜にいかで渡らん佐野の舟橋 [田多民治集]
「まよふ」「まどふ」とあるように、ここでは「佐野の舟橋」が単なる「橋」でなく「舟橋」であるが故の属性、つまり「不安定さ」が明確に意識されている。前者は、恋そのものの頼りなさ、はかなさを舟橋の不安定性で象徴しているようにも読め、ここまで殆ど「佐野の舟橋」が恋歌の中で詠まれてきた事実を考え合わせると、その象徴化が非常に興味深いが、「遇不逢恋(あひてあはざるこひ)」題で詠まれた事を踏まえれば、「舟橋」であるがために途絶えて、逢えなくなった事を表わすと考えておくのが穏当だろう。
○ 夕霧に佐野の舟橋音すなり手なれの駒の帰りくるかも [詞花・俊雅母]
は場面を佐野の舟橋に設定した必然性が今一つわかりにくい歌だが、舟橋であるがために軋むような音を想定しているのだろうか。
○ 五月雨に佐野の舟橋浮きぬればのりてぞ人はさし渡るらん [山家集]
○ 風吹けば佐野の舟橋波越すと見ゆるは葦の穂末なりけり [林葉集]
は、ここまで見てきた例歌の中で最も叙景的な2首であろう。当然ながら佐野の舟橋が実体として詠まれており、それぞれの趣向、つまり川の増水のために浮く事も、風に靡く葦の穂に埋もれたように見える事も、やはり「舟橋」としての属性と深く関わっている。
中世になると佐野の舟橋を詠んだ例は更に増加する。
○ 恋ひわたる佐野の舟橋影絶えて人やりならぬ音をのみぞなく [拾遺愚草]
○ 東路の佐野の舟橋白波の上にぞかよふ花の散るころ [秋篠月清集]
○ 東路の佐野の舟橋明日よりや暮れぬる春を恋ひわたるべき [後鳥羽院御集]
○ よばふべき人もあらばや五月雨に浮きて流るる佐野の舟橋 [千五百番歌合・越前]
等、新古今歌人達の和歌の中に佐野の舟橋は散見するが、とりわけ特筆すべきなのはまとめて12首もの歌が詠まれる機会となった、1215年の「内裏名所百首」であろう。順徳天皇内裏で行なわれた百首歌で、歌枕百を選んでそれを春夏秋冬恋雑の各部に振り分け、その歌枕を題として詠んだものであり、その百題の1つに佐野の舟橋が選ばれた。恋部にあてられたのは、ここまでの流れを辿れば当然の処置と言えるだろう。
○ かけてだに契りし仲はほど遠し思ひを絶えね佐野の舟橋 [順徳院]
○ 人知れぬ心をいそのかみつけやかけてもふりぬ佐野の舟橋 [行意]
○ ことづてよ佐野の舟橋はるかなるよその思ひにこがれわたると [定家]
○ 東路の佐野の舟橋霧こめてよそにのみやは思ひわたらん [家衡]
○ 尋ねても渡らぬ仲の月日さへかげ絶えはつる佐野の舟橋 [俊成卿女]
○ 東路にかけては過ぎし中河の瀬絶えもつらし佐野の舟橋 [兵衛内侍]
○ 思ふ人波の遠方尋ぬべき佐野の舟橋えやはうごかん [家隆]
○ もらさばや波のよそにも三輪が崎佐野の舟橋かけじと思へど [忠定]
○ なかなかにかくる心も苦しきに絶えなば絶えね佐野の舟橋 [知家]
○ かけて猶いく世か恋ひんよそにのみ聞きこそわたれ佐野の舟橋 [範宗]
○ 絶えねただうきにつれなき身なりともさのみは待たじ佐野の舟橋 [行能]
○ 東路や佐野の舟橋いたづらに渡りしころも袖やぬれなん [康光]
「かく」「わたる」といった「橋」の縁語、「佐野」「さのみ」の同音の繰り返しの技巧は既に見えたが、新たにやはり「橋」の縁語である「絶え」が5例も見える点は注目される。「舟橋」である事を意識したためであろうか。ところで、恋部に割り当てられた事もあってか、これらの中に実体を詠む歌はむしろ少ないのだが、かといって平安中期のように序詞で用いられているわけでもない。では佐野の舟橋は何かと言えば、はかない恋、頼りない恋路の比喩・象徴としか言いようがないのではなかろうか。もともとはかなく不安定な「舟橋」の属性を有し、その殆どが恋歌の中で詠まれるという歴史を経てきた、その必然的な結果がここに提示されているように思われるのである。
佐野を舞台とした謡曲として先に有名な「鉢木」を挙げたが、もう1つ「舟橋」がある。ある男が佐野の舟橋を渡って女のもとに通っていたが、それを厭う親が橋の板を外し、知らずに渡ってきた男は川に転落して溺死する。その邪淫の妄念故に地獄に落ちた魂が、旅の山伏によって救われる話であり、明らかに万葉3439詠を踏まえたものである(引用もされている)が、強い決意を歌う万葉歌と悲恋の謡曲を一直線に結んで済ませるのはやや唐突な気もする。下敷きにされた伝承が存在した可能性もあるが、それとともに、中古から中世にかけて和歌の世界で確立していく佐野の舟橋のイメージも、悲恋の謡曲の形成に幾許か関わっていたのではないだろうか。 
佐野の舟橋は他国にもあった?
本説中に引用した和泉式部の歌をここでもう一度引いてみよう。
○ いつ見てかつげずは知らん東路と聞きこそわたれ佐野の舟橋 [和泉式部続集]
紹介したように、和泉国に佐野の地名がある事を知らされた時の歌で、簡単に言えば、佐野の舟橋は東国にあるものと聞き続けていたのに、と真新しい情報を聞いて驚いているのである。これを文字通り解するならば、和泉国にも佐野の舟橋があった事になるだろう。だが、念のために『和泉式部続集』の詞書を引用してみると、「和泉といふ所へ行きたるをとこのもとより、佐野の浦といふ所なんここにありけりと聞きたりや、といひたるに」とあるのみであって、佐野の舟橋があるとは書かれていない。となると、佐野の地名を聞いた和泉式部が連想的に佐野の舟橋を持ち出しただけである可能性も生じてくるだろう。この1首を根拠として、もう1つの佐野の舟橋の存在を想定する事はかなり大きな危険を孕んでいる。
試みに、ネットの検索で「佐野」の地名を求めてみると、多数ヒットする。因みに、上の例の詞書中の「佐野の浦」の地名は確認できなかったが、大阪湾に面している大阪府泉佐野市であろうか。普通名詞「狭野」に由来するのだとすれば、それだけ多くの「佐野」が存在する事も納得されるが、同じ地名であるがための混乱も多々あったのだろう。
本説の方では引用しなかったものであるが、平安時代後期の歌人行尊の家集『行尊大僧正集』の中にも佐野の舟橋の歌が1首登場している。
○ 都にてとはずがたりに思ひ出でよ佐野の舟橋今日ぞ渡ると [行尊大僧正集]
詞書には「佐野といふ所を過ぐる程に、思ひがけず知りたる殿上人のあひて侍りしに」とあり、「佐野」の地で詠まれた歌である事が知られるが、これが何れの「佐野」であったかの明記までは成されていないのだが、修行者行尊の行動範囲を考え合わせれば、少なくとも上野国の佐野でない事は確実だろう。この歌の前後の詠の詞書にも地名が見えるので、参考までに挙げておくと、30「熊野にさぶらひしに」、31「熊野よりまたほかへこもりに出で侍りしに」、そして32の「佐野といふ所」を挟んで、33「室といふ所にて」、34「和泉に、吹飯の浦と申す所にて」と続いている。この中では33の「室」の所在が定かでなく、「津の国の室のはやわせ」と詠まれたり「紀伊の国の室のはやわせ」と詠まれたりしているのだが、大雑把に言えば和歌山・大阪周辺の歌枕が集中しているという事になろうか。これらが一連のものである保証は実はないのだが、蓋然性が高そうなのは上述の和泉国の佐野、もしくは紀伊国の佐野(和歌山県新宮市。これも歌枕である)であろう。
さて、今度は和歌に「佐野の舟橋を渡った」とある。文字通り解せば、和泉或いは紀伊と思しいその地に佐野の舟橋があった事になろう。だが詞書には舟橋は登場しない。佐野という名の地で偶然に知人の殿上人に遭遇した事を、「佐野の舟橋を渡った」と洒落て表現した可能性をも考慮すべきではなかろうか。
鎌倉時代、藤原定家の子で定家を継いで歌壇を統率した藤原為家の家集には佐野の舟橋を詠んだ歌がいくつか見えるが、その1つに、
○ 立ちわたり都をかけて忍べども程はるかなる佐野の舟橋 [為家集]
という歌がある。詞書には「佐野の舟橋同五年十月」とあり、「同五年」は建長五年(1253)を表わしている。初句に本文異同があるが、『夫木抄』に載っている
○ 恋ひわたる都をかけて忍べども程はるかなる佐野の舟橋 [夫木抄・為家]
と同一歌と見做して間違いないだろう。
ところで、その『夫木抄』の詞書に「毎日一首中」、左注に「この歌は、建長五年東へくだりけるに、足柄のふもとに佐野といふ所にてよめる歌、毎日一首中」と記されている。年次以外は『為家集』に見えない情報であるが、『夫木抄』が現存していない資料から多く為家詠を入集させている事は確かであり、この点を疑う必要はないだろう。『夫木抄』で「毎日一首中」とされるものには様々な年次のものが見え、その同じ建長五年の詠を拾っていくと、「東へくだりける道にて」(8437詠・8493詠・8622詠)、「東へくだるとて、駿河国にてよむ」(11320詠)等、一連の作品と思しいものが散見する。因みに『為家集』の建長5年10月・11月の注記が付された歌には、東国への道すがらの歌枕を詠む歌が多く見出される。また『為家集』に「旅時雨建長八年十一月鎌倉日吉別当尊家法印勧進」という詞書の歌があるが、『中院集』『中院詠草』に拠れば「八年」は「五年」の誤りである可能性が考えられ、だとすれば、この旅の目的地は鎌倉であったかもしれない。煩瑣になったが、当該1首は、これらの歌とともに、建長五年の冬の関東下向の折に詠まれたものと見做して良さそうだ。
さて、今度の「佐野」は足柄山の麓である。相模国であろうか。西側の、静岡県裾野市にも佐野の地名があるが、ここを足柄山の麓と呼ぶには無理がある。ではその相模国らしい佐野に佐野の舟橋があったのだろうか。上の和泉や紀伊と違って今度はまさしく「東路」ではあるが、よりによって歌道家出身の為家が、他に全く例が見えない相模の佐野に佐野の舟橋があると勘違いしたとはどうしても思えないのである。単に、佐野の地名に触発され、連想的に佐野の舟橋を詠んだに過ぎない、と見る事はできないだろうか。
一応ここまでは、他国の佐野の舟橋の存在について懐疑的な意見を述べてきたが、最後に、同じ名称のものが存在した可能性が高いと思われるものを挙げておこう。近江国のそれである。
永承元年(1046)、後冷泉天皇の大嘗会が行なわれた。その折に悠紀となったのは近江国、悠紀方の歌人を務めたのは藤原資業であったが、その屏風歌18首の中に「佐野船橋調物持運」と記された次のような歌が見えている。
○ 古きあとにあひてぞ運ぶ貢ぎ物佐野の舟橋道も絶えせず
大嘗会屏風和歌は、悠紀・主基にあてられた国の名所を描いた屏風に添える和歌であり、「佐野船橋調物持運」は屏風のその面の絵柄の説明に当たるが、近江国の名所を詠んだ和歌が並ぶ中に佐野の舟橋の歌が含まれているのである。更に、大嘗会和歌で佐野の舟橋が詠まれたのはこの時だけではない。承保元年(1074)の白河天皇の大嘗会において大江匡房が悠紀方(やはり近江)の風俗和歌の「辰日楽急」として
○ 山もとや佐野の舟橋長々と楽しきことを聞きわたるかな
と詠み、建久9年(1198)の土御門天皇の大嘗会での悠紀方(やはり近江)の屏風和歌の中にも、「佐野船橋運調人多往復」と記された、
○ 貢ぎ物運ぶよほろぞさりもあへぬ佐野の船橋音もとどろに
という藤原光範の歌が見えている。
大嘗会という重大行事での和歌に3度も詠まれ、屏風の絵柄にその絵まで描かれていたこの佐野の舟橋は、やはり上の3例とは一線を画して考えられねばならないだろう。『夫木抄』が佐野の舟橋の所在を「近江又上野」とし、『歌枕名寄』が近江国の歌枕を列挙する中に佐野の舟橋を載せて「上野同名アリ」と注記するのも、故なしとしない。平安時代も半ばを過ぎた頃に急に和歌の世界に現われたこの佐野の舟橋は古くから伝わるものではなかったかもしれないが、そう呼ばれたものが当時の近江国に存在した事は最早疑い得ないと思うのである。
因みに、この近江国の佐野の舟橋と上野国のそれとの詠まれ方の大きな相違にも注目しておこう。大嘗会という機会に詠まれる歌であるから、当然歌の内容は祝儀性を伴う。例に挙げた3首のうち、資業詠と光範詠では繁栄が詠まれ、匡房詠では不安のない世が謳歌される如くである。そうした歌で詠まれる佐野の舟橋は、不安定で頼りないという舟橋の属性とは無縁でなければならない。つまり、本説で辿ったように恋の不安定性を象徴するに至る上野の佐野の舟橋とは、同名でありながらも全く路線を異にするものであった。 
佐野の舟橋と定家神社
佐野の舟橋の跡地とされる近く、高崎市下佐野町、上越新幹線の高架のすぐ端に定家神社がある。その近くには常世神社もあり、こちらが佐野の地を舞台とした「鉢木」に因んだものである事は明白であるが、何故この地に、藤原定家の名前を冠した神社があるのか。やはりそこには何かそれなりの「必然性」が潜んでいると考えねばなるまい。万が一それが客観的に見れば付会であったとしても、である。
定家は順徳天皇が主催した「内裏名所百首」の出詠メンバーの一員であるから、勿論そこで佐野の舟橋の歌を残しているし、和歌活動が本格化する最初期に詠んだ「初学百首」の中でも佐野の舟橋を詠んでいる。ともに本説で掲げた和歌であるが、再掲しておこう。
○ 恋ひわたる佐野の舟橋影絶えて人やりならぬ音をのみぞなく [拾遺愚草]
○ ことづてよ佐野の舟橋はるかなるよその思ひにこがれわたると [拾遺愚草]
その意味で確かに定家は佐野の舟橋と関わり合いを有すると言える事にもなろうが、上の2首は定家の和歌の中で周知されたものとはどうにも言い難い。極端な言い方になるが、それなら例えば「内裏名所百首」に出詠した歌人全員が神社に祀られる可能性があった事になる(無論、その全員が神格化するに足る歌人であったわけではないが)し、定家が詠んだ歌枕の数だけの「定家神社」が建てられた可能性もあった事にもならないだろうか。必然性というにはあまりにも脆弱に過ぎる。
さて、本説で「内裏名所百首」の歌を列挙したのだが、その中に実はいささか奇妙な歌が1首含まれている事にお気付きだっただろうか。
○ もらさばや波のよそにも三輪が崎佐野の舟橋かけじと思へど [忠定]
「三輪が崎」も地名であるが、佐野の舟橋と合わせて詠まれているからには、三輪が崎は佐野の舟橋の近隣に存在する地であるはずであろう。しかし佐野の舟橋の周辺には、三輪が崎或いはそれに類する地名は見当たらないのである。
だが、「三輪が崎」と同一であろう「三輪の崎」が「佐野の舟橋」でなく「佐野」とともに詠まれているかなり有名な和歌が、『万葉集』の中に見えている。
○ 苦しくも降りくる雨か三輪の崎佐野の渡りに家もあらなくに
そう、三輪の崎と佐野は確かに隣接しているのだ。無論、この「佐野」は群馬の佐野ではない。新宮市三輪崎と新宮市佐野、つまり紀伊国、補説1の中でも言及した和歌山県の佐野である。上の忠定詠はこの万葉歌を踏まえたものであろうが、紀伊国の歌枕と上野国の歌枕とを隣接させてしまったのである。それが作者忠定個人による「誤認」なのかどうかは今は措いておこう。
ところで、上に挙げた万葉歌が有名なのは、それを踏まえて詠まれた定家の和歌1首が有名であるせいでもあろう。
○ 駒とめて袖うち払ふかげもなし佐野の渡りの雪の夕暮 [新古今・定家]
では、この歌における「佐野」は一体どの佐野なのであろうか。上の万葉詠を踏まえ、同様に「佐野の渡り」という詞続きで詠まれた「佐野」は、やはり同じく和歌山県の佐野と考えるしかないだろう。むしろ南国的なイメージさえあるその土地が雪景色の中で詠まれる違和感をも承知した上で、そう認定せざるを得ないのである。だが、その認定が定家自身の認識と合致しているのかどうか。それに関する本人の発言が見当たらない以上、状況証拠的な資料から認識を推測する他ないのだが、平安時代後期に成立した藤原範兼『五代集歌枕』では、「みわのさき」の例歌の1つに前掲万葉歌を挙げ、「みわのさき」の注記として「大和御本云、越前歟」と記載する。当然、それに隣接する「佐野の渡り」も大和或いは越前でなければならないことになる。また順徳院の『八雲御抄』では「渡」の項に「さのゝ」、「崎」の項に「みわのさき」が挙げられ、ともに「大」の注記が付されており、大和国の歌枕として扱われているのである。これらに拠って想像する限り、「三輪」に引かれたせいであろうか、「三輪が(の)崎」は大和の地名とする認識が一般的であり、必然的に、それと隣接した「佐野の渡り」も大和の歌枕であると見做されたのであろう。
では、少し時代を下って成立した『歌枕名寄』ではどのように扱われているだろうか。大和国「三輪」の項の中に「崎并佐野渡」とあり、そこに万葉詠と定家詠とが配置されている。『五代集歌枕』以来の認識に沿った結果が伺われることになるが、実は同書の中にはもう1つ、2首が並んで配置された箇所が存する。上野国「佐野」の項に「渡神崎」の項目があり、そこに2首が重出しているのである。即ち、平安以来の大和国説とともに、「佐野の渡り」を上野国の歌枕と見做す異説が掲出されていることになる。
ここである意味で参考になりそうのが、先に挙げた「内裏名所百首」での忠定詠であろう。「三輪が崎」と「佐野の舟橋」を詠み入れたこの歌において、「佐野の舟橋」の「佐野」と「佐野の渡り」の「佐野」とが同一視されていたのだが、まさにその同一視、混同が上野国説を発生させた淵源であったであろうことは想像に難くない。「舟橋」「渡り」という、その「佐野」が水辺に所在することを表わす語が付随することも、両者の混同を促す一因になったであろう。忠定詠を上野国説の淵源と考えるわけではない。誤認されやすかったことを示唆する一例に過ぎない。
上掲『五代集歌枕』の注記に越前国説が見えたが、『歌枕名寄』の上野国「佐野」の「渡」の項には「或云大和国云云、仍範兼卿彼国載之了、或云近江或云丹後或云摂津、説説雖多管見在当国、仍重所載之也」とあり、同書成立当時には「佐野の渡り」の所在について多様な説が並存していたことが知られるが、その中で『歌枕名寄』編者は敢えて上野国説に拘り、大和国に挙げた2首を上野国で再掲出した。この編者の判断を一般化して、上野国説が大和国説に次いで有力であるかの如く考えることは危険であろうが、少なくとも中世においては、「佐野の渡り」を上野国の歌枕と見る説が存在していたことは確認された。
高崎の佐野の地に定家神社が存在する根拠は、おそらく「佐野の舟橋」の「佐野」と「佐野の渡り」の「佐野」とを混同して発生した、定家の「駒とめて」詠で有名な「佐野の渡り」を上野国の歌枕と見做す、中世歌学の一説にある、と考えたい。 
船橋
「船橋」は、古来「浮橋」と称され、「舟橋」とも書かれました。
古くは『古事記』や『日本書紀』に「浮橋(天の浮橋)」がみられます。また同じ頃成立した『常陸国風土記』の養老7年(723)の行方郡の部には、日本武尊が舟を繋ぎ合わせて橋をつくって渡った伝説があります。
『万葉集』の歌の中にも「淀瀬に浮橋渡し・・・」とあります。また、上野国の歌(巻14)に「上毛野佐野の舟橋取り放し 親は離れど吾は離るがへ」と歌われ、「さののふなはし」(佐野の舟橋)は上野国の歌枕になったほどでした。
奈良時代には主に天皇などの貴人の通行に架けられたようです。
船橋が広く用いられるようになったのは中世で、軍事、交易、参詣、旅等の臨時的架設、橋梁が破損した時などの応急処置的架設、住民の渡船賃の負担を軽減するための慈善的架設など多様であったようです。天正6年(1578)に柴田勝家が架けた福井の九頭龍川が有名です。
江戸時代は、軍事上の備えとして大河に橋を架けることが制限され、美濃路と同様に特別な通行のために臨時に架けられた場合として、東海道の天龍川・富士川・酒匂川・相模川などの例がありました。そのほか将軍の日光社参の際には利根川に、また、将軍の鹿狩りの際には江戸川にそれぞれ船橋が架けられました。常設の富山の神通川の船橋が名高く、そのほか盛岡の北上川や岐阜県飛騨市古川町の宮川などの急流に架けられ、明治や大正になって橋が架けられるまで存続している場合も多かったようです。
明治時代は江戸時代からの船橋のほかに、明治になってからも水量が多かったり、深い川など橋梁を架けにくい川に船橋が架けられています。また、臨時として明治天皇の行幸の際にも架けられました。しかし次第に橋梁が架けかえられていき、大正時代になると船橋はほとんど姿を消すようです。また、軍隊の訓練など軍事的な臨時の仮橋として利用されることもあったようです。
船橋は架けはずしが比較的に容易であったため、川幅が大きく、深くて橋脚を立てられない所や、水量が多く流れの速い所に架けられ、軍事用に迅速に渡す場合にも用いられてきました。
洪水のときは、船橋の中程を切って船を両岸へ分けて流失を防ぎ、水かさが減ってからまた繋げて架けなおしました。架橋技術が未熟な時代に資材が少なくてすむ橋として船橋は利用されたのでした。 
「鉢木」の舞台 佐野
群馬の地を舞台とする古典文学作品でもっとも有名なものの一つが、謡曲「鉢木」である。大雪の夜、旅僧に身をやつした最明寺入道北条時頼が、上野国佐野で佐野源左衛門常世のもとに宿を求め、常世は秘蔵の鉢の木をたいて暖をとらせ、後に鎌倉からの召集に真っ先に駆けつけた時に、一夜のもてなしへの返礼として、時頼から梅・桜・松の名を持つ三つの土地を賜った、という話である。話に聞き覚えがあっても、舞台が群馬県内であることを知らない人も多いかもしれない。佐野の地の所在を言い当てられる人は、むしろ少数だろう。高崎市内、上佐野町・下佐野町・佐野窪町といった町名にかろうじて名を残す烏川の東岸の地であり、この話にちなんだ常世神社という小さな神社が建てられている。
ところで主人公である佐野源左衛門常世は実在人物ではなく、また特定のモデルがいたわけでもないらしい。だとすれば自然と一つの疑問がわいてくるだろう。群馬県民にさえ馴染み深いわけでもないこの佐野が、なぜ「鉢木」の舞台とされたのだろうか、と。
実は佐野は上毛三碑の碑文に見える古い地名で、『万葉集』上野国東歌の中にも多く登場する。そこに見える「佐野の舟橋」は『枕草子』の「橋は」の段に取り上げられ、また平安時代以来和歌に多く詠まれた、群馬を代表する歌枕(和歌に登場する地名)であった。『新古今集』の代表的な歌人藤原定家の名を冠した定家神社がここにあるのも、そんな関係だろう。そして「鉢木」同様、佐野を舞台とする謡曲「舟橋」というものも存在する。
佐野は、古典文学の世界において群馬でもっとも名高い地であった、と考えて良かろう。それで疑問のすべてが解決されるわけではないが、まずは前提として、佐野という地の意義を再認識することが重要であると思うのである。 
伊奈良沼
県の東南端、鶴舞う形の頭部に位置する邑楽郡板倉町の一部が、以前は伊奈良村と呼ばれていた。板倉町周辺は、南西を流れる利根川と北東を流れる渡良瀬川の流域に挟まれた湿地帯として知られており、地図を開くと現在でもあちこちに沼が点在している様子がわかる。おそらく当時存在していた、そうした沼の1つが「伊奈良沼」と呼ばれていたのだろう。
猶、町内にある雷電神社には、聖徳太子が「伊奈良沼」の小島に祠を作ったのが創祀であるとする伝承が残り、板倉中学校の校歌にも「伊奈良沼」が登場するのだそうだ。
この伊奈良沼も、『万葉集』巻14の上野国東歌の中に登場している地名である。
○ 上毛野伊奈良の沼のおほゐ草よそに見しよは今こそまされ
第三句の「おほゐ草」はカヤツリグサ科の植物、フトイのこと。水辺に群生し、2メートルもの高さになるという。和歌に詠まれる事が珍しい植物である。
この万葉歌は、平安時代にもある程度の関心を持たれていたようで、『古今和歌六帖』の草部に載る他、平安後期の歌学書『五代集歌枕』で「伊奈良の沼」の項に、『綺語抄』で「おほゐ草」の項にそれぞれ引用されている。あまり聞き慣れない地名と植物名が歌学的興味を喚起したのであろう。だが、平安時代に詠まれた歌の中に伊奈良沼が登場している例は、現在判明する限りにおいては一つも見当たらない。
鎌倉時代に至って、少数ではあるが、ようやく「伊奈良沼」を詠んだ歌が現われた。その1つが、自らの著書『八雲御抄』名所部の「沼」の項に伊奈良沼を収め、ついでに言えば、枝葉部の草部「草」の項に「おほゐ」を収めている順徳院の次の歌である。
○ 逢ふ事は伊奈良の沼のおほゐ草よそにや恋ひん袖はくつとも [夫木抄]
家集『紫禁和歌草』では肝腎の第二句が「いなべの沼の」と本文異同を呈しているが、ここは『夫木抄』本文に従うのが妥当だろう。第二句から第四句の「よそに」まで万葉歌に完全に一致し、恋歌である事と併せて、強い影響を受けている事は間違いないが、「伊奈良」に「否む」の意を掛けた点が独創である。端で見ていた状態から親しく逢えるようになり、一層愛おしさが増したと恋の喜びを謳歌する万葉歌に対し、逆に逢う事を拒まれて、更に端で見ているしかない状態が続く嘆きを訴えた歌となっている。
それに続いて、為家によって
○ おほゐ草波は上にぞなりにける伊奈良の沼に晴れぬ五月雨 [夫木抄]
と詠まれた。『夫木抄』によれば、貞応三年(1224)に詠まれた百首歌の中の1首である。こちらも「おほゐ草」との取り合わせが踏襲されているが、長く降り続く五月雨のために沼の水位が増した様子を描く叙景歌である。
「伊奈良沼」を詠んだ和歌は、この程度しか検索されなかった。歌枕が繰り返し詠まれる歌枕となるための典型として、特定の景物と結び付くケースがある。「おほゐ草」とともに詠まれる「伊奈良沼」は、そうなり得る条件を備えていたとも言えるのだが、結局珍しい歌枕と珍しい植物として終わってしまったようだ。 
上野 / 国名。現在の群馬県。
○ さみだれに佐野の舟橋うきぬればのりてぞ人はさしわたるらむ
「佐野の舟橋」 上野の国の歌枕。群馬県高崎市上佐野。 
草津(くさつ) / 群馬県吾妻郡草津町草津
群馬県は大半が山地である。那須・鳥海両火山帯の南端にあたり、湯泉地帯をなしている。本白根もとしらね山は北西部で新潟・長野との県境をなす三国山脈に連なり、標高二、一六五メートル。東側へ扇状になだらかに傾斜する。この山腹の標高一、二〇〇メートルあたりに草津の地がある。
古くは「草津」のほかに「九草津」「草生津」「九相津」とも記すから、「くそうづ」と呼ばれたことがわかる。現地では今でも「くさづ」と訓む。
「くそうづ」は、温泉より発生する硫化水素の強い臭気によるという(萩原進『草津温泉史』)。湧水を「そうず」「しゅうず」「しよず」などというから、「くそうず」は「臭い泉」の意味である(谷川健一編『地名の話』)。ちなみに、秋田県の草生津くそうづ川、山形県の草津くさつ・草津くさつ川、新潟県の草生津くそうづ・草水くそうず・臭水くそみずなど、いずれも石油含有土のあった土地の名や、そこから流れ出る川の名である。
この地に「くそうず」を発見したのは行基菩薩(光泉寺縁起)とも、源頼朝(草津温泉来由記)とも伝えるが不詳。
文献上に草津の名が見えるのは室町時代にはいってからであり、すでに保養・治療の地として現われる。文明一八年(一四八六)、越後の柏崎から三国峠を越えて上野国に入った歌人堯恵は、旅日記『北国紀行』に
重陽の日、上州白井と云所にうつりぬ、(略)是より桟路をつたひて、草津の温泉に二七日計入て、詞もつゞかぬ愚作などし、鎮守の明神に奉りし
と記す。また明応四年(一四九五)上野国金山かなやま城主横瀬成繁が草津へ行ったことが『松陰私語』にみえる。
嫡子成繁者四月十三日草津へ湯治、可走廻被官人等三百余人供奉、金山者弟四郎只一人在城、大油断之時分也、
迂闊にも湯治のために城を空にしてしまったというのである。
草津は時代が降るにつれ、その名が広く知られるようになった。大永年間(一五二一‐二八)には「三国一之名湯候」とまでいわれている(「上杉家文書」一二月一六日長尾顕景書状)。戦国時代、戦傷者の治療に特に利用されたものであろう。永禄一〇年(一五六七)上州攻略を進めていた武田信玄は、この年の六月から九月までの間、次のように一般の入浴を禁じている(黒岩嗣佐喜氏所蔵文書)。
自来六月朔日至于九月朔日、草津湯治之貴賤一切停止之畢、近辺之民依于御訴訟申、如此被仰出候者也、依如件、   永禄十年丁卯   跡部大炊助奉之   五月四日(朱印)   三原衆
武田方の将兵の入浴を優先させるための処置であったのであろう。
天正一八年(一五九〇)一二月、沼田城主真田信之は、この地に湯本三郎右衛門とその同心三一名に対し、計四五八貫四三六文の給地を与えた(熊谷家文書)。湯本氏の出自は不明だが、この地の伝統的な豪族といわれる。草津は沼田城主真田氏の支配下、重臣湯本氏の給地として江戸時代を迎える。天和元年(一六八一)真田氏が改易されるに及んで、天領に編入された。寛延二年(一七四九)牧野駿河守領となったものの、翌年再び天領にもどされ明治に至る。
文化二年(一八〇五)江戸の国学者清水浜臣が、善光寺参りの帰路草津に立ち寄った。その旅日記『上杉日記』は村の様子を次のように記す。
こゝは山里といふか中にもいとふかき山里にて、田畑といふもの四方七八里かあひたにみえす。米なとすへて十里もへたてたる所よりはこふ也、さるにあはせてはひと里のにきはひいといかめし。まつ家居すへて四百軒にあまるとかや。大きやかなるか四十はかりは三階つくり也。旅人やとすつほね百五十つゝもつくりつらねたり。皆しかそある。髪ゆはす家五つ、小弓ひかす所十軒あまり、酒のみてゑひあそふへき家七八軒あり。
この頃は繁栄の絶頂期にあたるという。温泉地としての賑わいに比べて、この地での生活は厳しい。村高をみると「寛文郷帳」(一六六八年)で七八石八升五合、「上野一国高辻」(一七〇三年)で四四石三斗三升一合、「天保郷帳」(一八五四年)で五〇石七斗三升六合と低い。「寛文郷帳」では、草津村に「畑方」と注記する。硫黄の影響をまぬがれる地に、少しばかりの畑がひらかれていたものであろうか。
この山間の地は、とても一年中居住できるものではなかった。「是地極て寒し、十月より四月始までは、小雨村に住す」(『上野国志』)と、冬は番人を残すのみで、峠越し東南二里の地の小雨こざめ村(現六合村)に移住した。「草津冬住村」とも呼ばれた小雨村は、草津村との標高差四〇〇メートル余、山間とはいえ南斜面にあたる日当りのよい地にある。この冬住みの制は、のちに旧暦一〇月八日に下山、四月八日を登山の日として、明治三〇年(一八九七)まで続いたという。 
根利山(ねりやま) / 群馬県利根郡利根村
群馬県の北部は山岳地帯で、利根村も三みつケ峰(二〇三二メートル)・笠かさケ岳(二二四六メートル)・錫すずケ岳(二三八八メートル)・皇海すかい山(二一四三・六メートル)や赤城あかぎ連山に囲まれて、村の大部分は山地である。そのうち栃木県上都賀かみつが郡足尾あしお町との境にある皇海山の西麓一帯を根利山と通称する。平安時代、利根郡内に京都鳥羽とばの安楽寿あんらくじゅ院領「土井出つちいで・笠科かさしな庄」があり、東限は「練山」とされていたが、この練山は根利山のことであろうと考えられている。根利山の南方には根利川が流れ、上流に根利集落がある。
資源にとぼしい日本の産業の近代化にとって国内鉱山の開発は重要で、国策として推進されたが、当初は江戸時代以来稼行してきたヤマに依存することが多かった。足尾町にある足尾銅山もその一つで、別子べつしと並んで日本屈指といわれたが、一方銅を含んだ廃水によって渡良瀬わたらせ川を汚染、鉱毒事件を引き起こしたことはよく知られている。
根利山から流れ出す栗原くりばら川の源流近く、標高約一千三〇〇メートルに砥沢とざわとよばれる一角がある。足尾銅山(足尾鉱業)を経営する古河鉱業株式会社が、ここに銅山で使う用材などの伐り出しのため、根利林業所を設けたのは明治三一年(一八九八)である。同林業所は主として根利山中から伐採した用材を県境を越して足尾町の銀山平ぎんざんだいらまで輸送する業務を担当した。同年業務が始まったが、事務所や飯場の建設、道路工事、そして最大の難工事は用材・生活用品の輸送のための鉄索道の建設であった。同三四年第一回の国有林払下げを受けて伐採を始めたが、銀山平から砥沢の手前の権兵衛ごんべえまで索道が通じたのが同三五年、そして基地となる砥沢まで延長されたのは同三七年である。
同三九年には北方にひろがる古河鉱業の私有林(平河山林)開発のための平河索道が通じて、泙たに川上流の平滝ひらたきにもう一つの基地が建設された。大正期に入ると平滝からさらに北上して広河原ひろがわら線(大正一〇年)と唐沢からさわ線(同一二年)、また砥沢から八丁はつちょう峠を越えて不動ふどう沢に至る不動沢線(同一二年)などが完成して最盛期を迎えた。こうして四〇年間にわたって伐採を続けたが、昭和一三年(一九三八)に至り、用地大半の伐採を終えたため撤退することになり、最高時約一千五〇〇人(大正一四年当時の従業員数約八三〇)もいた根利山も同一四年閉山、再び無人の地となった。
大正一五年発行の『利根郡誌』や根利山会発行の『利根の歴象』によれば、大正一三年度の根利林業所の作業区域(東西三里、南北五里)内における一カ月の生産高は次の通りである。(一)用材(角材・丸太材・支柱材)三万一千六八〇石、(二)薪三千七〇〇棚、(三)木炭(黒消炭・白消炭)一二四万貫、(四)矢板一四万四千枚、(五)木羽板(屋根葺用)六千二〇〇束、(六)下駄材三万八千束。根利山の山林の樹齢は二〇〇年から三〇〇年のものが多かったといい、伐採後は整地のうえ、松・杉・柏などを植林した。木材の搬出は牛馬は使わず、木曽や大和十津川とつかわ方面から熟練の木屋がきて担当した。溜池を作り用材を押し出す「鉄砲流し」、山の斜面を利用して滑り落す「修羅落し」、土橇道を使って人力による「橇曳き」などの方法があり、このほかトロ道(軌道)、軽便索道や谷の深い所からの捲き上げなどがあった。
明治三一年以降、根利山へ移住した人達は漸次増加、宿舎のほか様々な施設が整えられていた。神社や寺院(説教所)、診療所も設けられ、山中に新しい一大集落が出現した。こうしたなか大きな問題になったのが、従業員子弟の義務教育の問題である。砥沢は当時、赤城根あかぎね村大字根利のうちであったが、根利とは往来が不可能で、何とか麓の村との連絡が可能なのは、東あずま村に属する平滝であった。そこで東村の世話で平滝に分校を置き、さらに平滝と砥沢の中間に位置する津室つむろに仮教室を設けて、砥沢から通学することになった。こうして明治四二年、平滝(在校生六一名)・砥沢(同五〇名)の二教室が開校した。以後閉校(平滝は昭和一三年、砥沢は同一四年)になるまでここで教育が行われたが、両校とも最高一三〇人台の生徒数があったという。
なお根利山に移住した人々の出身地は、足尾を初めとする栃木県、利根・沼田を中心とする群馬県のほか、富山・石川・新潟・福島県などにわたっていた。閉山後、全体の八割は足尾銅山に入ったという。
根利山の北方、片品かたしな村戸倉とくらの山中にも昭和一〇年代、大規模な鉱山集落が形成されていた。標高約一三〇〇メートルの通称紅葉平もみじだいらといわれる所で、三菱鉱業根羽沢ねばざわ鉱山があり、同六年から金が採掘された。最盛時の同一七年頃には従業人数一千人以上に達し、宿舎のほか浴場・マーケット・郵便局・駐在所・劇場などが設置されており、高等科のある小学校(最盛時の在校生二五〇名余)も開校していた。しかし第二次世界大戦の拡大により従業員も次々に出征、同一八年戦争遂行上の政府の方針により閉山され、集落は廃虚となった。 
板鼻(いたはな) / 群馬県安中市
中世、現在の安中あんなか市東部から隣接する高崎市にかけての一帯を板鼻と称したが、中心部は高崎市八幡やわたの八幡はちまん宮(板鼻八幡宮ともよばれた)、大聖護国だいしょうごこく寺近辺であったようである。信濃から上野に入り、下野、陸奥に向う東山道(東あずま道)、信濃、上野、武蔵を経て鎌倉に向う鎌倉街道が通り、また碓氷うすい川から烏からす川、利根川筋に続く水陸交通の要地であった。近世になり五街道の一つ中山道が整備されると、安中市の東端近くに板鼻宿が設けられた。
『義経記』巻二によると、雌伏時代の源義経一行が奥州平泉に向う途中板鼻に至り、伊勢三郎義盛の館に逗留している。義盛はこのとき義経の臣下となり、以後『玉葉』『愚管抄』などに登場するが、源義仲の首級をあげ、また屋島・壇ノ浦での活躍は知られるところである。居所については『源平盛衰記』では荒蒔あらまき郷(現前橋市)、古活字本『平治物語』では松井田まついだ(現群馬県碓氷郡松井田町)とされている。東山道の宿駅沿いに義盛に関する伝説が多く残り、板鼻には屋敷跡と伝える地がある。
正和三年(一三一四)八月、武蔵国児玉こだま郡(現埼玉県)を経て信濃に向う善光寺詣での一行について、『宴曲抄』は「豊岡かけて見わたせば、ふみとゞろかす乱橋の、しどろに違坂(板)鼻、誰松井田にとまるらん」と記す。児玉郡を経て鎌倉に入る鎌倉街道の分岐点で、烏川・碓氷川などの合流するデルタ地帯に、散り懸りに橋が渡されていた様子が知られる。
治承・寿永内乱時には、源頼朝が木曾義仲勢への討手を板鼻宿までさしむけ、永享一二年(一四四〇)の結城合戦でも、結城方信州勢の進出を阻止せんと長尾景仲が板鼻に着陣するなど(『神明鏡』)、上信国境に近い軍事上の要衝としてしばしば軍勢が駐屯した。一二世紀中頃には板鼻八幡宮の預所は上野国守護安達景盛であり、建武四年(一三三七)に同宮及び板鼻を含む八幡庄が守護領として上杉憲顕に預けられている(上杉家文書)。
文亀二年(一五〇二)、ときの管領上杉顕定の母の十三回忌が板鼻海竜かいりゅう寺で行われた。板鼻には管領館もあり(『談柄』)、交通集落、宿町として発展する一方、領主層らが集住する地方政治都市としても機能したと思われる。前述の八幡宮・大聖護国寺のほか、十三回忌の折一般僧衆の会した板鼻道場、称名しょうみょう寺などもあった。板鼻道場とは、一遍建立と伝える時宗道場聞名もんみょう寺のことと推定される。聞名寺は弘安三年(一二八〇)に一遍が信濃から遊行の途中開き、弟子の念称をとどめたと伝え、寺に蔵する一遍の笈は県の重要文化財に指定されている。正安二年(一三〇〇)には時宗の浄阿上人が一遍の事跡を慕って板鼻を訪れている(『浄阿上人行状記』)。
天正一一年(一五八三)六月四日、板鼻の上宿町人衆中にあてた掟書である北条氏邦印判状(福田文書)が出された。八項の一つ書きからなり、「其一、宿之用心」が至上命令の臨戦態勢下にある宿内の様子をうかがわせる。一般の平和条項や「日暮候てから他所へ出入仕間敷候」などの規定とともに、昼夜六人交替の木戸番が置かれ、町人頭による夜毎の人改めがなされていたこと、町人衆中という組織があったことなどが知られる。また「上宿」とあることから、宿内が上・下に分かれ、独自に町共同体を作っていたと思われる。
近世には中山道の宿駅として中世にかわらず繁栄した。板鼻宿は江戸日本橋から一四番目にあたり、東の一三番高崎宿、西の一五番安中宿の間に位置する。中山道上州七宿のうちでも最も栄えたという。中山道は板鼻近辺ではほぼ現在の国道一八号のルートで、板鼻宿の町並は東西に延びていた。寛政三年(一七九一)の御用留(福田文書)によると宿高は一千二九八石余、宿内間数は九町一四間、家数二三二軒であった。本陣・脇本陣は各一軒あり、旅籠屋四三軒が軒を連ねた。嘉永五年(一八五二)の宿明細帳(安中市教育委員会蔵)では人数一千五四九人で、問屋場は上番と下番の二所にあり、市日は二月二九日、五月四日、七月九日と定められている。
本陣は街道の北側にあった本家木島家で、屋敷間口は一五間半、奥行三〇間、四五六坪の面積を有した。現存する書院は寛永(一六二四‐四四)中期の建築で、文久元年(一八六一)の和宮下向の際に使用された。そのとき用意した上草履が保存されている。商人の荷物輸送を業とする中馬宿(高野家)や牛馬宿(金井家)があり、本陣向いの中馬宿の屋敷は間口一九間、奥行三〇間、五七〇坪、本屋の畳数は六〇畳、書院は四七畳という大規模なものであった(『安中市誌』など)。
慶応四年(一八六八)の西上州打毀しの際に、浜屋・肴屋・角屋・角ひしや・穀丈・安居などが打毀しにあっている。
現在の板鼻には往時の面影を残す家は少なく、旧街道沿いの庚申塔・道祖神・道標などに名残りをとどめる。 
島村(しまむら) / 群馬県佐波郡境町
氾濫を繰り返してきた利根川も、明治三〇年代からの改修工事によって流路が定まり、(群馬)県南東部、埼玉県本庄ほんじょう市・深谷ふかや市に接する佐波さわ郡境さかい町大字島村付近では、両岸の堤防間の距離は約一キロにおよぶ。島村は江戸時代を通じてひとつの村であった。しかし、度重なる河川改修によって、集落は利根川を挟み南北に二分された。南北間の往来は、板東ばんどう大橋、上武じょうぶ大橋を利用すると大きくコの字型に迂回しなければならないため、利用は減ったものの今も竿漕ぎ渡船が北岸の北向きたむかいと南岸の新野しんのを結ぶ。増水などにより舟止めがしばしばあったため、かつては一村でありながら「北部には嫁にやるな、親の死に目にも会えないときがある」などといわれたという。
「島村郷土誌」の利根川流路変遷図などをみても、江戸時代を通して当地を流れる利根川の偏流蛇行ははなはだしい。洪水にたびたび襲われ、その度ごとに流路が変わっていた。島村の中央に本野ほんのと称される古くからの集落があったが、洪水・変流・川欠けによって移転を強いられ、寛文(一六六一‐七三)の頃から南方(右岸)に新野・新地しんち・新田しんでん・立作りゅうさく、北方(左岸)に北向・西島にしじまなどの集落が次第に形成されていった。これらの集落名は、以前の居住地であった本野に対応してつけられたものと考えられるが、その本野集落は大正四年(一九一五)河川改修工事のため解散、利根川の川底となった。
島村は自然条件を包み込んで、江戸時代以来何度か生業の転回をみせる。洪水の被害により耕地が狭小で収入も不安定であったため、立地を活かし江戸時代初頭から舟運業に従事した。とくに盛んになるのは天保(一八三〇‐四四)の頃からで、河岸問屋も二軒置かれたという。五〇〇俵ほど積載できる親船は江戸との物資輸送にあたり、二五俵積の小船は下流の妻沼めぬま(現埼玉県大里郡妻沼町)付近まで親船で運ばれてきた荷を積換え、上流へと輸送した。安政(一八五四‐六〇)以前に親船が一〇〇艘、小船が二〇〇艘近くもあったという(前掲郷土誌)。農作物による収入があてにならなかったため、この頃は住民にとって生活必需品であった船を利用した舟運業が主な収入源であった。
一方文政(一八一八‐三〇)の頃から徐々に蚕種製造業が普及していく。同年間に続いた洪水により耕地は「砂田」と化したため、日当たり、風通りがよい砂礫地帯に向く桑が植えられていったものとおもわれる。よく知られるように当地方では製糸・絹織物業が盛んであり、この移行は当然ともいえるが、島村ではとくに蚕種製造が主であったことによって、幕末から明治初年にかけて黄金時代を迎える。
蚕種はもと養蚕家の自家製であったがのち分業化され、当地方のものは「上州種」と称され上質との評価を受けた。安政六年(一八五九)に横浜が開港し、元治元年(一八六四)には蚕種輸出禁止令が解かれる。当時ヨーロッパでは蚕に微粒子病が流行していたため輸出価格がはね上がり、島村住民のほとんどがこの機をのがさず蚕種業者となった。「養蚕新論」を著した当村の田島弥平や田島武平は蚕の飼育法の研究に励み、また畑の境界に植える従来の「あぜ桑」から、一面に植え込む「桑園」化も進んだ。蚕種の景気がよくなると多くの賃労働者が来村し、蚕期の人口はふくれあがったという。
明治四年(一八七一)生産過剰と粗悪品の横行のため、蚕種価格の暴落が起こる。島村では田島武平・田島弥平・栗原勘三らが中心となり、翌年島村勧業会社を設立し、蚕種の品質向上と輸出方法の改善を目指した。同一二年には三井物産の援助のもと、イタリアに渡航して蚕種五万枚を直売した。この試みはのち明治一三年と同一五年にもなされたが、価格暴落が続き途絶している。島村の蚕種家田島定邦の手記(「群馬県蚕糸業史」所収)に当時の様子がうかがわれる。
最盛の時は一枚五円八十八銭を呼び、滅亡の時は一枚十八銭に下落す。万事皆斯の如し、豈蚕種貿易のみならんや。余等初年以来蚕種貿易に従事し、身親しく所謂黄金時代に居り、又下落の苦痛を嘗めたるもの、顧みて感慨の転た深きを覚ゆ。
実際破産したものも少なくなく、当村の蚕種家は激減して明治初年の二百数十人から輸出途絶後はわずか三、四十人となり、多くが農業や養蚕業に転業した。
明治の中頃から近隣の伊勢崎銘仙が盛んになり、島村でも賃機が重要な副業となる。同時に蚕種の需要も増加したが、住民はすでに多角的な農業経営を指向し、牧畜や養豚・養鶏などが始められていた。現在はホウレンソウ・ネギ・ゴボウなど蔬菜栽培を中心に近郊農業が営まれ、県内でも屈指の生産を誇っている。 
市野井(いちのい) / 群馬県新田郡新田町
新田にった庄一井いちのい郷領主大館宗氏と同庄田島たじま郷領主岩松政経との間で繰り広げられていた用水争論は、元亨二年(一三二二)一〇月二七日の関東下知状(正木文書)により終止符が打たれる。用水堀を打ち塞いだとして訴えられた宗氏は、「一井郷沼水」を下流の田島郷へ元通り通水するように鎌倉幕府から命じられた。大館氏、岩松氏はともに新田氏の一族である。しかし、用水をめぐっての争いは一族内では解決できずに幕府まで持ち込まれ、前掲の裁許が下った。
一井郷の遺称地、現群馬県新田郡新田町市野井は、赤城あかぎ山南方に開けた水田地帯の中にあり、同地の生品いくしな神社は新田義貞挙兵伝説の地としても名高い。大間々おおまま扇状地の扇端湧水地帯にあたり、地名の由来となったとされる重殿じゅうどの湧水や一いちの字じ池など、今でも二〇近い湧水があって貴重な農業用水源となっている。田島郷は市野井の約五キロ南方、太田市の上・下田島や新田町の上田島一帯に比定される。現在同地区の灌漑は渡良瀬川の水を引く用水路長堀ながほり幹線(旧新田堀の末端)などに依るところが大きいが、上田島の古老の話によると、近年まで同地区は「ジュウドノの出水ですい」を用水としてもらっていたという。『新田町誌』は水論のあった鎌倉期、一井郷の湧水は湧水点の周囲に堀(沼)をつくって貯水し、水量や水温を調節(冷水を温める)、新田庄在家農民の手によって開削された用水堀によって田島郷など下流域へ農業用水として引水されたと推定している。新田庄域には前掲の重殿をはじめ水殿ずうどの・増殿ぞうどの・城殿じょうどのなどの地名が分布、すべて水と関連を有する地形環境にあることから、用水供給源である湧水や池を信奉する「水殿」という意味に由来するとみられ、太田市の脇屋わきやには重殿神社、沖野おきのには増殿神社がある。
新田庄が立地した大間々扇状地は、赤城山東南麓の群馬県山田やまだ郡大間々町を扇頂部として、東は太田市の八王子はちおうじ丘陵、金山かなやま丘陵を結ぶ線、西は佐波さわ郡赤堀あかぼり町、伊勢崎いせさき市を結ぶ線に画される。南北約一八キロ、東西は扇端部で約一三キロに及んで、栃木県の那須なす扇状地(那須野ヶ原)、東京都の武蔵野むさしの台地と並ぶ関東地方有数の大型開析扇状地で、中央を南流する早川をほぼ境に、地質学的に東西に大きく二分される。西部には古代佐位さい郡、中世淵名ふちな庄(佐位庄)、東部には古代新田郡、中世新田庄がいずれも扇状地扇端部の湧水を用水源として、下方の沖積低地を開発するという形で展開した。しかし、大間々扇状地を形成した渡良瀬わたらせ川は、有史以前に東へ大きく曲流して流路が同扇状地から外れたため、一般の扇状地形よりさらに水利条件は悪く、大規模な用水工事が早くから試みられている。加えて降灰による被害も確認される。国指定史跡の女堀は、上野国の田畠に壊滅的な打撃を与えた天仁元年(一一〇八)七月二一日の浅間山大噴火(『中右記』同年九月五日条)によって荒地となった淵名庄の耕地を再び水田にしようとしたものとする説もあり、一二世紀中頃の開削とされる。未完に終わったものの古利根川(現在の桃木川・広瀬川)から揚水し、赤城山南麓の洪積台地を延々一二キロにわたって通水する壮大な計画であったと推定される。一五世紀中頃の開削ともいわれる新田堀は渡良瀬川から引水、大間々扇状地の扇端湧水帯をつないで西流し、南へ向きを変えて利根川支流の石田いしだ川へ落水させるもので、新田庄経営に大きく関わったと考えられる。
新田庄域の湧水(井)については自然湧水説、人工的な手が加わったとする説など意見が分れている。吉田東伍は「是等の井と申す名前は、皆人工と見て宜かろう」として人工説、群馬県立大泉高校教諭の沢口宏氏は自然湧水説をとる。また群馬県史編さん室の能登健氏の説は示唆に富んだものといえる。源泉周囲の自然地形や溜井のあり方などで湧水を幾つかのパターンに分類、源泉が谷頭中央にあって周囲に縄文遺跡を伴うものが自然湧水、それ以外は人工的掘削によるものとし、開発の時期なども推定している。同氏によれば市野井の重殿は人工的なもので、新田庄の湧水には意外と人工的なものが多いという。一〇世紀に編まれたわが国最初の分類百科事典『和名抄』では、「井」の本義は地をうがって泉を取水することとあり、「井」は泉より人工的なものといえる。
大間々扇状地の東部扇端湧水帯には昭和四三年(一九六八)当時で六〇近い湧水が分布し(新田町誌)、市野井のほかにも新田町には金井かない・小金井こがねい、太田市には寺井てらいなど井のつく地名が帯状に並んでいる。同様に那須扇状地の扇端湧水帯には今泉いまいずみ・桜井さくらい(現太田原市)、武蔵野台地の湧水地帯には小金井こがねい・貫井ぬくい(現小金井市)、井草いぐさ(遅野井とも、現杉並区)など水にまつわる多くの地名が残り、水利に乏しかった扇状地に住む人々の水に対する執着をうかがわせる。 
岩神の飛石(いわがみのとびいし) / 群馬県前橋市昭和町
群馬大学病院の西に「岩神稲荷神社」というちょっとした神社がある。この神社の背後には小さな山のような巨大な石が見える。これが“岩神の飛石”と呼ばれる巨石である。
高さが約10メートル弱、周囲が約60メートルという巨大な岩石である。相当遠景からでなければ石全体を写真におさめることは出来ず、神社の背後から見るとほぼ完全に社殿が隠れてしまう程の大きさである。
地質考古学的見地から言うと、この巨石は約10万年以上前に赤城山の噴火の際に飛び出した火山岩が冷え固まったものであり、さらに約2万年前に起こった浅間山の噴火による土石流によってこの地まで流されてきたものであると推測されている。
いわゆる「赤土」と呼ばれる関東ローム層が形成された時期と同じ頃に火山から噴出された岩石であるが故に、この飛石も全体が赤褐色に近い色をしている。この石にまつわる伝承の中で最も有名な話も、勿論この“赤色”が重要な役目を果たしている。
昔、石工達がこの岩を削って石材にしようと考えたことがあった。そこである石工がこの石にノミを当てて打ち込んだところ、その部分から血が噴き出してきたという。そして打ち込んだ石工は急死し、誰もこの石を削ろうという者はいなくなり、やがて祟りを鎮めるために神社(岩神稲荷)を建立したという(ちなみにこの神社は江戸期に藩侯が建てたものという話も残されており、この奇怪な伝承が具体的なものとして成立したのもその時代であったと推測できるだろう)。まさにこの石の色から連想された神意譚であると言える。 
鎌原観音堂(かんばらかんのんどう) / 群馬県吾妻郡嬬恋村鎌原
天明3年(1783年)の浅間山大噴火は関東周辺に甚大な被害をもたらした。中でも壊滅的な被害を受けたのは、北部に位置した鎌原村であった。大噴火の3ヶ月ほど前から火山活動が盛んとなり、多くの火山噴出物が溜まりに溜まったところで噴火が起こり、土石流と火砕流による大崩落が起こったのである。
当時、鎌原村の人口は約100世帯で570名。馬を200頭ほど飼っていたという記録があり、上州と信州を結ぶ宿場町を形成していた、かなり規模の大きい集落であったと推測されている。しかし、この大噴火によって一瞬にして村は壊滅、土砂の下に埋まってしまった。生き残った村人は僅かに93名。そのほとんどは高台にあった鎌原観音堂にまで避難出来た人であったという。
現在、観音堂に登るために設けられた石段は15段であるが、言い伝えでは100段を超える長い階段であったとされていた。昭和54年(1979年)の発掘調査で、15段の石段の下にさらに35段の石段が続いていたことが判明、村に流れ込んだ土石流の凄まじさが改めてわかった。そしてこの石段の最下部から2体の白骨遺体が発掘された。若い女性と年配の女性であり、その態勢から若い女性が年配の女性を背負ったままここまで逃げてきたが、力尽きてここで土石流に埋もれてしまったのだろうと推測された。さらに顔の復元から、この2人の女性は親子かあるいは年の離れた姉妹ではないかとされた。
壊滅的な被害から人々を救ったということで、現在、鎌原観音堂は厄除け、特に災害除けのご利益があるとされている。そして鎌原の集落はうち捨てられることなく、その後、災厄から逃れた村人自身によって再び復興を遂げている。
桐生大炊介手植の柳(きりゅうおおいのすけてうえのやなぎ) / 群馬県桐生市東
桐生市東七丁目の公園の真ん中にある柳の大木である。樹齢は約400年、根元回りは5mを超す。(平成25年4月、強風により根元付近より折れたとの報がある)
桐生一帯を治めていた桐生氏は、藤原秀郷流の足利氏の支流とされる(室町幕府を開いた足利氏は源氏の支流)。室町時代から歴史の表舞台に登場するようになる小領主で、関東で対立する古河公方・足利氏と関東管領・上杉氏の間を行き来しながら、所領を拡大させた一族である。
永正13年(1516年)、当主であった桐生重綱は愛馬の浄土黒に乗って、この辺りに鷹狩りに訪れた。そしてその最中に思わぬ事故に遭遇する。愛馬の浄土黒がいきなり倒れたのである。乗っていた重綱も地面に叩きつけられ、その時の傷が元で亡くなってしまう。
重綱の子の助綱は、浄土黒が倒れた場所にその遺骸を埋め、その上に柳を植えた。それがこの“大炊介手植の柳”である。なお浄土黒が突然死に至ったのは、ダイバ(頽馬)神の仕業であるとされている。
桐生助綱 / 1512-1570。父は重綱(ただし重綱を祖父とし、父を真綱とする系図もある)。桐生氏中で最も傑出した当主とされ、助綱の代に最盛期を迎える。
ダイバ(頽馬)神 / 馬を即死させる風の怪異。緋色の着物に金の髪飾りを着けた少女の姿をした妖怪に擬されることもある。夏の季節に多く、地方によって特定の種類の馬だけが被害に遭うともされる。またダイバに襲われた時は馬の耳を少し切って血を流すと助かるとも、ダイバ除けの腹掛けをすると襲われないとも言われる。
元景寺 淀君の墓(げんけいじ よどぎみのはか) / 群馬県前橋市総社町植野
曹洞宗の古刹である。創建は天正18年(1590年)、秋元長朝が父の菩提を弔うために建立したとされる。その後、関ヶ原の合戦後に長朝はこの総社の地を領有し、総社藩1万石の藩主となる。そして高齢ながら大坂夏の陣にも参戦している。
総社には、この大坂夏の陣にまつわるまことしやかな伝承が存在する。大阪城落城の折、秋元家の陣中に豪奢な着物を身にまとった女性が飛び込んできて、命乞いをしたという。長朝はその女性を、大阪城の主・淀君であると察して匿ったのである。そして戦いが終わった後、所領である総社へ駕籠に乗せて連れて帰ったというのである。
元景寺には、秋元家の墓のそばに淀君の墓と伝えられるものが残されている。そこに刻まれている戒名は「心窓院殿華月芳永大姉」。戒名としては最高位の諡号となっており、説明にある“側室の墓”というには無理があると考えられる。また元景寺には、正絹の大打掛と豪華な籠の引き戸が伝えられており、これが淀君所有の品であるとされている。
しかし、総社に連れて来られた淀君の後半生は不幸であったとされる。世を憚って“お艶”という名で呼ばれるようになった淀君であるが、その美貌から秋元長朝に言い寄られたものも拒絶したため、遂には箱詰めにされて利根川に沈められたとも言われる。また生活になじむことが出来ず、自ら利根川に身を投げたともされる(身を投げたとされる岩が“お艶が岩”として敷島公園に残されているが、この岩には別伝も存在する)。いずれにせよ天寿を全うすることなく亡くなったという伝承で終わっている。
秋元長朝 / 1546-1628。はじめは北条氏に仕えていたが、小田原落城の際に隠棲。その後、推挙によって徳川氏に仕える。関ヶ原の戦いでは、会津の上杉景勝への詰問の使者として、さらに戦後に上杉降伏に尽力し、その功で総社藩1万石の大名となる。その後、息子の代で転封となり、総社藩は消滅する。
淀君 / 1569?-1615。浅井長政とお市の方(織田信長の妹)の長女。後に豊臣秀吉の側室となり、秀頼を生む。史実では、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣において大阪城内にて自害したとされる。
囀り石(さえずりいし・しゃべりいし) / 群馬県吾妻郡中之条町大道
県道53号線を中之条町市街地から北上すると、「囀り石」という表示に出くわす。県道に面した道路脇にある巨岩がそれである。
敵討ちのために諸国を歩いていたある男が、この岩で一夜を過ごしていると、人の声が聞こえる。その声は、自分が寝ている岩の中から聞こえてくる。しかも話の内容は、自分の求めている仇にことであり、その居場所まで喋っている。男はその話の内容を頼りに仇を捜し当て、本懐を遂げたのである。
それ以降、岩はさまざまなことを話し出し、またその内容が有益なことが多かったので、人々はこの岩を祀るようになった。しかしある時、通りがかった旅人の前で岩が喋り出したため、驚いた旅人が岩を斬りつけてしまった。それ以来、岩は何も言わなくなってしまったという。
現在もこの岩の上には小さな祠が置かれ、道に面した場所には灯籠があり、それなりに信仰を集めていることがわかる。
善導寺(ぜんどうじ) / 群馬県吾妻郡東吾妻町原町
特異な形をした岩櫃山の麓に善導寺はある。創建は貞治年間(1362〜1368)、吾妻太郎が開基とされる。この寺には吾妻一族にまつわる怪異があると伝えられている。
永禄6年(1563年)、甲斐の武田信玄は上野国への侵攻を本格化させ、岩櫃山にある岩櫃城攻略を目指した。派遣されたのは主将の真田幸隆以下、約3000の兵であった。
堅城を誇る岩櫃城は力攻めでは落ちない。一旦和議を結び、幸隆は内応に応ずる者を求めて調略を図った。それでも事が上手く運ばないため、再度城を取り囲んで水路を断つ策に出たが、一向に埒が開かない。幸隆は、城内に水を運び入れる場所があるとにらんだ。そこで城との和議に際に交渉役に当たった善導寺の住職に尋ねたところ、水利の秘密をいとも簡単に喋ってしまった。武田勢は水路を断つと、たちどころに城内は動揺。ほどなくして城主が逃亡して落城となったのである。
それからしばらくして善導寺は火事を起こして焼け落ちた。人々は岩櫃城落城の祟りであると噂した。その後、善導寺では本堂を再築するたびに火事が起こった。記録によると慶長4年(1599年)、寛文3年(1663年)、享和3年(1803年)、天保8年(1837年)、明治35年(1902年)と5回も起きている。しかも出火の原因は不明であり“鳥が火のついた物をくわえて飛んできた”とか“火の玉が飛び込んでいった”とかいう怪異の噂が立つばかりであった。明治の大火の時も“本堂から火の玉がいくつも落ちてきたと思ったら、手の着けようもない猛火となった”という話が伝わっているという。
現在は明治の大火以来の本堂が新しく建てられている。
岩櫃城の落城 / この善導寺の怪異の伝説では、武田氏による岩櫃城落城の際の城主の名が“吾妻太郎”となっているが、史実としては“斎藤憲広”である。南北朝時代に、岩櫃城は一度落城しており(ただし戦国時代のものとは異なる規模であったとされる)、その時の城主が“吾妻太郎行盛”であったため、話が混乱しているものと考えられる。ただ、この吾妻行盛の忘れ形見の嫡子が成人して斎藤姓を名乗って岩櫃城を奪回し、以降代々城主となっているので、ある意味、吾妻氏の城であると言ってもおかしくはない。
チャンコロリン石 / 群馬県安中市安中
安中はその昔、中山道の宿場町として栄えていた。その頃の話。ある夜、いきなり街道をチャンコロリン、チャンコロリンとお囃子のような音を立てて移動するものが現れた。宿場の人々は驚いてこっそりと様子を探ると、音を立てて移動しているのは、一抱えもある大きな石である。しかもそれはひとりでに転がりながら動いている。この光景を見て、人々は怖じ気づいてしまったのである。
そのチャンコロリンと転がる石は毎夜のような現れる。ある者が恐る恐るその石の後を付けていくと、それが宿場にある大泉寺の境内に入っていく。正体が分かったので、退治しようと安中藩の侍が石を斬りつけたが全く動じる気配がない。さらにと鉄砲を撃ってみたが、少し穴が開いただけで何も変わらない。そのうち噂が近隣に広まり、安中の宿場に泊まろうという者がいなくなってしまい、宿は閑古鳥が鳴く始末となった。
宿場の人々は、とうとう大泉寺の住職に法力で封じてもらえないかと頼み込んだ。住職は快く引き受けると、お経を唱えながら石に近づいて、やにわに釘を打ち付けたのである。するとその夜から石は町に出ることもなく、またチャンコロリンという音も立てることもしなくなったという。
大泉寺の境内の片隅に、いまだにチャンコロリンの怪石が残されている。供養塔のようになっている,その真ん中の丸石がチャンコロリンの正体であるという。今でも刀傷や鉄砲傷が付けられているのが確認できる。そしてこの供養塔そのものがチャンコロリンの墓であるという、何とも奇妙なことになっている。
虎姫観音(とらひめかんのん) / 群馬県前橋市大手町
群馬県庁の西側、利根川河畔に六角形のお堂がある。昭和43年(1968年)に建立された、比較的新しいお堂であるが、その由来は江戸時代前機にまで遡る。
延宝6年(1678年)、厩橋城主の酒井雅楽頭(忠清)は赤城山での鷹狩りの最中に、お虎という名の美しい娘を見初める。お虎は早速城に召し出され、雅楽頭の身の回りの世話をするように命ぜられる。このただならぬ寵愛ぶりに嫉妬に駆られたのが、以前からいた奥女中達である。色々とお虎のあらを見つけようとするが、全くそのようなものは見当たらない。とうとう女どもはお虎を罠にはめようと、雅楽頭の飯茶碗に折れた針を忍ばせたのであった。何も知らないお虎が差し出した茶碗飯から針を見つけた雅楽頭は激怒。さらに奥女中の讒言を鵜呑みにすると、可愛さ余って憎さ百倍、有無も言わさずお虎を蛇や百足の入った箱に押し込めると、生きたまま利根川の淵へ沈めてしまったのである。
その惨い仕打ちを受ける際、お虎は「城を取り潰し、七代まで祟ってやる」と言い放ったという。そしてそれ以降、毎年利根川は氾濫し、そのたびに城の建つ土地は浸食されるようになる。宝永3年(1706年)には本丸の櫓が倒壊。明和4年(1767年)、遂に本丸倒壊の危機となり、城は打ち棄てられることになったのである。酒井忠清から数えて七代目の藩主の時であった。
虎姫観音は、無惨な死を遂げたお虎の霊を慰めるため、お虎が沈められたとされる淵あたりに建立されたものである。
酒井忠清 / 1624-1681。4代将軍・家綱の時代に老中、さらに大老の地位にまで上り詰める。その権勢は将軍に匹敵し、邸が江戸城の下馬先の近くにあったため“下馬将軍”という異名が残る。家綱の死後、将軍が綱吉に代わると大老職を解かれ、その1年後に死去する。
前橋(厩橋)藩 / 関ヶ原の戦い後、酒井重忠が藩主となり、それ以降、酒井家が代々受け継ぐ。忠清は4代藩主。酒井家9代藩主の忠恭の時、寛延2年(1749年)に姫路へ移封、代わって姫路から松平朝矩が入封する。そして朝矩の代で前橋城本丸が倒壊のおそれがあるため、同領内の川越へ藩庁を移転することとなり、前橋藩は事実上廃藩となる。
宝積寺 お菊の墓(ほうしゃくじ おきくのはか) / 群馬県甘楽郡甘楽町轟
宝積寺は、国峰城を拠点とした豪族・小幡氏の菩提寺である。本堂の裏手の高台に、小幡氏累代の墓がある。その傍らに「菊女とその母の墓」が今なおある。
菊女は、小幡信貞の腰元として寵愛されていた。しかしそれに嫉妬した正室が、信貞不在の折に、膳飯の中に針を入れるという無実の罪を着せて、樽に蛇や百足と共に押し込めて、菊が池に沈め殺してしてしまったのである(あるいは信貞本人が処刑を命じたとも)。伝承では、この菊女の助命嘆願をしたのが宝積寺の住職であり、小柏源介という者が菊女を救い出したが、既に事切れていたとされる。これが天正14年(1586年)のことと伝わっており、それから4年後に豊臣秀吉の小田原攻めがおこなわれ、小幡氏は北条氏滅亡と共に歴史の表舞台から消えてしまう。
小幡氏の滅亡後も、菊女の祟りと言われるものがあったとされ、宝積寺では度々追善供養をおこなっていた。さらに明和5年(1768年)に菊が池に大権現として祀られ、平成5年(1993年)には菊女観音像が建立されている。
実は、この菊女の伝説が『番町皿屋敷』の原型の1つであるという説がある。上野の小領主として滅亡した小幡氏であるが、その後は信貞の養子(実子はいなかった)が幕府旗本をはじめ、松代の真田家、紀伊の徳川家、加賀の前田家、姫路の松平家にそれぞれ仕官しており、その子孫から各地の「皿屋敷」伝説が形成されていったと考える説である。(永久保貴一氏による)
「皿屋敷」伝説とは直接関係ないが、小幡氏には菊女の祟りがつきまとい、さらにその祟りが移動によって伝播しているとも取れる怪談話が残されている。
真田藩が沼田から松代へ移封される時、家臣の小幡上総介信真もつき従ったのだが、松代へ着くと駕籠代を多く取られた。不審に思って尋ねると、二十歳ばかりのやつれた女性が乗っていた駕籠があったという(あるいは、誰が乗っているのか判らない女駕籠があったが、松代に着いて中を改めると誰も乗っていなかったいうパターンも)。それを聞くなり小幡は、松代までお菊の亡霊が付いてきたに違いないと思ったそうである。
小幡信貞 / ?-1592?。一族の内紛から上野を追われ、武田信玄に仕える。信玄の上野侵攻の先鋒となって、国峰城主に復帰。武田二十四将の一人とされ、赤備えの騎馬部隊を率いた戦巧者とされる。武田家滅亡後は織田配下から北条配下となる。豊臣秀吉の小田原攻めの時に北条配下として戦うが、敗北。その後は盟友の真田昌幸を頼る。
『番町皿屋敷』 / 元となった『皿屋敷弁疑録』は、宝暦8年(1758年)に馬場文耕が著している。さらにこの話を元に作られた歌舞伎芝居が明和2年(1765年)に江戸で公開されている。宝積寺で盛大な供養がおこなわれた時期と重なっている点は、注目されるべきである。
宝積寺 天狗の腹切り石(ほうしゃくじ) / 群馬県甘楽郡甘楽町轟
宝積寺の本堂脇、ちょうど小幡氏歴代の墓群へ向かう途中に、非常に不自然な感じで、注連縄が張られ卒塔婆が立てかけられた巨石が置かれている。宝積寺創建当初より、修行の僧が座禅石として使っていたとされる。しかし今では「天狗の腹切り石」という不思議な名前で呼ばれている。
永禄6年(1563年)、国峰城主であった小幡家で一族同士の内紛が起こった。城から逃れた兵は宝積寺に陣を張り、味方する僧と共に敵軍に応戦した。その中に巌空坊覚禅(ガンクウボウ・カクゼン)という巨体の僧がおり、薙刀や丸太を振り回して敵を蹴散らしていた。しかし多勢に無勢は覆しがたく、本堂も火に包まれてしまい、味方もほとんどが倒されてしまった。巖空坊はもはやこれまでとばかり、本堂の脇にあった座禅石の上に立つと、その場で腹を掻き切って果てたのである。この超人的な巨僧の最期の場所ということから「天狗の腹切り石」と呼ばれるようになったという。
茂林寺(もりんじ) / 群馬県館林市堀江町
茂林寺の開山は大林正通(ダイリン・ショウツウ)であり、応永33年(1426年)に館林に小庵を建て、応仁2年(1468年)に正通に深く帰依した赤井正光が現在の地に堂宇を建立したのが始まりである。その正通が館林を訪れた時に、一人の僧を伴っていた。諸国行脚の旅の途中、伊香保で出会ったとされる守鶴和尚である。守鶴はその後も代々の茂林寺住職によく仕えることとなる。
元亀元年(1570年)、茂林寺で千人法会がおこなわれることとなり、大勢の来客のために湯釜が必要となった。すると守鶴はどこからか1つの茶釜を持参してきた。その茶釜はいくら湯を汲んでも尽きることがなかったという。守鶴はこの茶釜を「分福茶釜」と呼び、この茶釜の湯を飲むと8つの福が授かるとしたのである。(現在も茶釜は残されており、観覧可能)
守鶴はその後も寺に仕えていたが、ある時、つい居眠りをした折に尻尾を出してその正体を晒してしまった。守鶴は数千年を生きた狸だったのである。正体がばれてしまったため守鶴は寺を去ることとし、別れの際に、源平合戦の屋島の戦いを再現して見せたという。正道禅師に従って館林に移り住んで161年、天正15年(1587年)のことであった。茂林寺では守鶴を鎮守として崇敬し、守鶴堂を建てて祀っている。
この守鶴の伝説は、松浦静山の『甲子夜話』に残されているが、この伝説を元に作られたおとぎ話が「ぶんぶく茶釜」である。ある男が助けた狸が恩返しに茶釜に化けて、寺の住職に売られていくが、火に掛けられて逃げ出す。今度は綱渡りをする茶釜として見世物小屋を開いて成功し、男は裕福となり、また狸も幸せに暮らしという話。 
養行寺 静御前の墓(ようぎょうじ しずかごぜんのはか) / 群馬県前橋市三河町
養行寺は、厩橋(前橋)藩初代の酒井重忠の母が、生国の三河に建立した一寺から始まる。寺は重忠の転封に従い、三河から武蔵川越、さらに上野厩橋へと移転、現在地に置かれた(寺のある地が三河町と称するのもこのためらしい)。
前橋には、なぜか静御前にまつわる伝承が残されている。『吾妻鏡』によると、義経と吉野で別れた後に捕らえられて鎌倉に送られた静御前は、鶴岡八幡宮で白拍子の舞をするように命じられる。その時に朗じた歌に頼朝は激怒したが、妻・政子らの取りなしにより放免されたとされる。そしてその後の消息は不明である。
前橋の伝承は、おそらくその放免後のものであると推測される。奥州にいるという義経を慕って静御前は旅立つ。しかし前橋の地に辿り着くと病を得て、結局この地で亡くなったという。
養行寺にあるのは、墓というよりは供養塔に近いものである。寺の変遷から考えても、おそらく江戸時代以降に建てられたものであると考えてよいだろう。
静御前 / 生没年不明、出処不明。白拍子。住吉大社で祈雨の舞をしたところを源義経に見初められ愛妾となる。『吾妻鏡』では、義経が頼朝と対立した後より義経と共に行動を共にする。鎌倉方に捕らえられた時には義経の子を宿していたが、男児であったために殺される。しかし静御前の登場する記録は『吾妻鏡』に限定されており、実在を疑問視する説もある。
酒井重忠 / 1549-1612。徳川家譜代の家臣。徳川家康の関東移封の際に、川越に1万石の所領を得る。関ヶ原の戦いの後に厩橋'前橋)3万3千石を領する。子孫には酒井忠世以下、大老・老中などの幕府の中枢を担う者を輩出した。
龍神宮(りゅうじんぐう) / 群馬県伊勢崎市宮子町
伊勢崎市内を流れる広瀬川の河川敷にちょっとした森がある。そこにあるのが龍神宮という神社であり、その森は“龍宮の森”と呼ばれている。淵群馬県という海のない場所であるが、ここには浦島伝説が残されている。
伊勢崎に残されている『口口相承龍宮本記』によると、このあたりは川の中から巨大な岩窟がそそり立つ淵であり、履中天皇の御代に高辺左大将家成という人がこの岩窟で遊んでいると、美女が現れて「この岩窟は龍神の正殿である。粗略にするではない」と言って消えたために、それ以降この場所を龍宮と呼ぶようになったとされる。また雄略天皇の御代に御子の岩城皇子が、龍宮姫と名乗る一人の乙女から岩窟の存在を聞き及びこの地を訪ねると、龍宮姫が現れて産土神として祀るよう頼んだともされる。
そして天文16年(1547年)、この地に住む阿感坊という者が川のほとりで藤ツルを伐っていると、誤って鉈を川に落としてしまった。川底に鉈があるのが見えるので取ろうと思うが、なかなか手が届かない。そうこうしているうちに、とうとう深みにはまってしまった。気付くと、川の底には御殿があり、現れた娘に「乙姫様が鉈を気に入ったので3日間だけ貸して欲しい」と告げられ、阿感坊は御殿で歓待を受けたのである。3日後、乙姫様から「龍宮のことは誰にも告げてはならない」ときつく言われ、玉手箱・瑪瑙玉・観音像をもらって地上に戻ってきた。しかし3日間だと思っていたのが、実際には3年もの月日が流れていた。噂を聞いた役人が詳細を尋ねるが、阿感坊は約束を守って答えなかった。すると役人は刀を振りかざして強要したので、やむなく阿感坊が話したところ、突然苦しみだして死んでしまったという。
この阿感坊こそが浦島太郎のモデルであるということで、この神社には亀の背に乗った浦島太郎の石像が置かれている。
高辺左大将家成 / 南北朝時代の文和・延文年間(1352〜1360)に成立した『神道集』に収められている“赤城明神”にまつわる縁起に高野辺左大将家成という人物が登場しており、おそらく同一人物として想定されているものと推測できる。17代履中天皇の御代は5世紀前半であると考えられている。
岩城(磐城)皇子 / 第21代雄略天皇の長子。同母弟の星川皇子は、雄略天皇の死後、実母にそそのかされ反乱を起こしたが、その時に二人を諫めたとされる。後に星川皇子は焼き殺され、異母弟の白髪皇子が22代清寧天皇となる。 
東毛
東武伊勢崎線世良田駅から徒歩20分の「東毛(とうもう)歴史資料館」を訪れた。東毛地域とは大間々扇状地の南端、利根川と渡良瀬川に挟まれた群馬県南部の地域をいう。古くには毛野国(上毛野)と呼ばれた地域で、赤城山麓の森林と涌水・沼沢地・河川など自然環境に恵まれ、原始・古代遺跡が多い。歴史資料館は、世良田東照宮と長楽寺からなる太田市歴史公園の一隅にある。東毛の古代遺跡出土品のほかに、徳川氏発祥の地として、また中世荘園の典型遺跡「新田荘」としての文化財が収められている。
平安時代の末に、源氏の頭領・八幡太郎義家の孫・義重が新田荘を開き、新田氏の祖となった。義重の子・義季は徳川の地を領して徳川氏を名乗った。南北朝時代に、徳川氏は南朝方に組し北朝方の足利氏に敗北し、後裔は流浪、仏門に入り豊田市の松平家の入婿になった。以後代々相続し、永禄9年(1566)に家康は松平姓から徳川姓に復姓する。家康が関東入国した後、世良田藩徳川の地は徳川氏発祥の地として将軍家の厚い庇護を受け、長楽寺境内に東照宮が祀られた。現在の東照宮拝殿(国重文)は、日光東照宮の寛永修築時に日光から移築したものである。
関東周辺の古墳を見て歩くと、毛野国の古墳の大きさ・規模に圧倒される。日本書紀では「崇神天皇は皇子・豊城入彦命(トヨキイリヒコノミコト:異母兄が垂仁天皇)に東国を治めることを命じた。上毛野国は豊城入彦命を始祖とする」とある。豊城入彦命が何者かは別として、大和朝廷成立時に毛野は注目された土地であることは事実であろう。
縄文海進が最も進んだ縄文前期末には板倉町付近まで海面が入り込んでいた。全国的に遺跡の多い縄文中期(5000〜3000年前)には、利根川と渡良瀬川周辺に多くの遺跡が見つかるが、後期になると遺跡数は少ない。毛野の地に弥生文化が伝わるのは、西日本に比して遅く、紀元前1世紀頃から利根川を北上し、板倉町辺りから始まったようだ。一方では、西毛の丘陵地帯、北毛の山間地帯に長野北部からの樽式土器文化が伝わっている。本格的な毛野への弥生あるいは古墳文化の移入は、伊勢・東海からの集団移住者の入植によるものだったと想像されている。この入植者が大和朝廷から派遣された将軍的役割をもつ首長達であったとすると記紀記述と符合する。
東毛の初期古墳・朝子塚古墳は、墳丘全長124mの前方後円墳で、前方部が後円部より5mほど低く、優美な形状をなしている。古式の大型円筒埴輪の方形配列が認められ、4世紀末〜5世紀初頭の築造で、近隣の大古墳である別所茶臼山古墳(墳丘長165m)、太田天神山古墳(墳丘長210m)に先立つ首長墓とみなされる。 
国定忠治 (八木節)
    国定忠次 (忠治)
ハァーまたも出ました三角野郎が 四角四面の櫓の上で 
音頭取るとはお恐れながら 国の訛りや言葉の違い
お許しなさればオオイサネー 
さてもお聞きの皆様方へ チョイト一言読み上げまする 
お国自慢は数々あれど 義理と人情に命をかけて
今が世までもその名を残す 男忠治のその生い立ちを
 不弁ながらも読み上げまするが オオイサネー
国は上州佐位郡にて 音に聞こえた国定村の 
博徒忠治の生い立ちこそは 親の代には名主をつとめ
人に知られた大身なるが 大事息子が即ち忠冶 
蝶よ花よと育てるうちに
幼なけれども剣術柔 今はようやく十五の年で 
人に優れて目録以上 明けて十六春頃よりも
ちよっと博奕を張り始めから 今日も明日も明日も今日も 
日にち毎日博奕渡世
負ける事なく勝負に強く 勝って兜の大じめありと 
二十才あまりの売り出し男 背は六尺肉付き太く
器量骨柄万人優れ 男伊達にて真実の美男 
一の子分が三つ木の文蔵
鬼の喜助によめどの権太 それに続いて板割浅太 
これが忠治の子分の中で 四天王とは彼らのことよ
後に続いた数多の子分 子分小方を持ったと言えど 
人に情は慈悲善根の
感じ入ったる若親方は 今は日の出に魔がさしたるか 
二十五才の厄年なれば すべて万事に大事をとれど
丁度その頃無宿の頭 音に聞こえた島村勇 
彼と争うその始まりは
かすり場につき三度も四度も 恥をかいたが遺恨のもとで 
そこで忠治は小首をかしげ さらばこれから喧嘩の用意
いずれ頼むとつわ者ばかり 頃は午年七月二日 
鎖かたびら着込を着し
さらばこれから喧嘩の用意 いずれ頼むとつわ者揃い 
頃は午年七月二日 鎖かたびら着込を着し
手勢揃えて境の町で 様子窺う忍びの人数 
それと知らずに勇親方は
それと知らずに勇親方は 五人連れにて馴染みの茶屋で 
酒を注がせる銚子の口が もげて盃みじんに砕け
けちな事よと顔色変えて 虫が知らせかこの世の不思議 
酒手払ってお茶昼を出れば
酒手払ってお茶屋を出れぱ いつに変ったこの胸騒ぎ 
さても今宵は安心ならぬ 左右前後に守護する子分
道に目配ばせよく気を付けて 目釘しめして小山へかかる 
気性はげしき大親方は
気性はげしき大親方は およそ身の丈け六尺二寸 
音に聞こえし怪力無双 運のつきかや今宵のかぎり
あわれ命はもくずのこやし しかもその夜は雨しんしんと 
闇を幸い国定組は
今は忠治は大音声で 名乗り掛ければ勇親方は 
聞いてニッコリ健気な奴ら 命知らずの蛆虫めらと
互い互いに段平物を 抜いて目覚す剣の光り 
右で打ち込む左で受ける
秋の木の葉の飛び散る如く 上よ下よと戦う内に 
運のつきかや勇親方は 胸をつかれて急所の痛手
ひるむ所へつけ込む忠治 首をかっ切り勝鬨あげて 
しめたしめたの声諸共だが オオイサネー 
 
埼玉県 / 武蔵

 

茨城栃木群馬埼玉東京千葉神奈川

武蔵野は今日はな焼きそ若草の 妻もこもれり吾もこもれり 伊勢物語
    秩父札所巡り
産塚八幡 / 神川町元阿保
武蔵七党のうちの丹党の支流である阿保(あぼ)氏は、旧可美(かみ)郡阿保郷(神川町元阿保付近)を本拠として鎌倉室町期に独自の勢力を築いた。阿保忠実のころ、秋山新蔵人に攻められて、妻は井に身を投げたとも、生き埋めにされた(埼玉県伝説集成)ともいふ。その地には乳ちちを求めて愛児の亡霊が夜毎ただよふといふので、里人は塚を築き祠を建てて霊をまつった。祠は、産塚(うぶづか)八幡宮と呼ばれ、安産守護を願ふ参詣者が絶えなかったといふが、明治の末に元阿保の阿保神社に合祀されたたとき、旧地に「産塚の碑」が建てられ、歌が刻まれてゐる。
○ 世の人もこころにいのれ産塚の 千代まで残るこれの石文 金鑽宮守
○ ありし世のむかし語りをしのぶ草 偲ぶもゆかし産塚の跡 金鑽宮守
「八幡宮」とは、稀に尋常ではない死に方をした御霊(荒御魂)を意味するときがある。
秋山は旧那珂(なか)郡秋山村(児玉町)の者だらう。足利高氏・直義兄弟が争った観応の擾乱のころ、賀茂川原合戦で秋山蔵人源光政の戦死を知った父光助の歌がある。
○ なべて世のならひと思ふことわりも この別れには知れざりにけり 草庵集
金鑽神社 / 神川町
児玉郡神川町の金鑽かなさな神社は、武蔵国二宮といはれ、群馬県境の神流川を上った山地の入口にある。むかし日本武やまとたける尊が東征の折り、伊勢の倭姫やまとひめ命から授かった火鑽金ひきりがねをこの地に納め、天照大神と素戔嗚すさのを尊をまつったものといふ。
本庄市小島付近に、文明のころ道興が北陸路から武蔵国へ訪れたときの歌。
○ 今日ここに小島の原を来てとへば わが松原はほどぞ遥けき 道興
塙保己一 / 児玉町
群書類従を編纂した塙保己一は児玉町保木野に生まれ、七歳で失明したといふ。
○ 言の葉の及ぼぬ見には目に見ぬも なかなかよしや雪の富士のね 塙保己一
児玉町の雉岡城は、戦国時代に、上杉氏(夏目氏)、北条氏、松平氏と支配が代はって行った。
○ もののふの弓影にさわぐ雉子が岡 矢並に見ゆるかぶら川…… (善光寺修行)
那珂の曝し井 / 美里町
今の美里町の大部分を那珂郡といった。万葉集に歌はれた「那珂の曝し井」を、那珂郡(美里町)広木に比定する説もある。
○ 三栗の那賀なかに向へる曝し井の 絶えず通はむそこに妻もが 万葉集
「那賀」は常陸国那珂郡とも、紀伊国ともいふ。
防人となった武蔵国那珂郡の檜前舎人ひのくまのとねり石前いはさきを送る妻・大伴部真足またりの女の歌が万葉集にある。
○ 枕太刀腰にとり佩はきま愛かなしき 兄せろがまき来む月つくの知らなく 万葉集
岡部原 / 岡部町
大里郡岡部町は、一ノ谷の戦で平忠度を討ち、勇名を轟かせた源氏の家臣岡部六弥太ろくやた忠澄の本拠地である。このあたりは、戦国時代の数々の戦で、数万の兵が死んだといふ。古墳が多い。
○ なきをとふ岡部の原の古墳ふるづかに 秋のしるしの松風ぞ吹く 道興
岡部町山河の伊奈利大神社の奉納額にある元埼玉県知事の歌。
○ 神がきをさやかに月のさしながら かげなほくらし森のしたみち 千家尊福
清心寺の忠度桜 / 深谷市萱場
深谷市萱場の清心寺に、桜の古株があり、忠度桜といふ。忠度を討った岡部六弥太の何かのゆかりの地に、忠度の歌にちなんで桜が植ゑられたのだらう。清心寺は後世の創建である。
○ ゆきくれてこの下かげを宿とせば 花や今宵の主ならまし 平忠度
清心寺は天文のころ深谷上杉氏の重臣・岡谷清英によって建立された。石流山八幡院清心寺といひ、その鎮守の八幡宮は、正徳のころ萱場村の隣村の上野台村(深谷市上野台)に遷されてその鎮守となった。左は八幡神社の祭礼のささら(獅子舞)で歌はれるほめ歌の一つ。各地の獅子舞で同様の歌が歌はれ、当地でも歌はれる。
○ まゐり来てこれのお庭を眺むれば 金の御幣があるぞ獅子ども
人見四郎 / 深谷市人見
平家物語の一ノ谷の戦の場面に源氏方として登場する人見四郎は、今の深谷市人見出身の土豪であった。人見の人見山は平地に孤立した小山で、源頼朝の富士の巻狩のころ、関東に八つの浅間社をまつったうちの一つともいふ浅間神社が山頂にある。仙元山(浅間山)ともいふ。
四郎の子孫である同じ名の人見四郎は、太平記では鎌倉方で、河内の赤坂城の合戦で、七十三才の老齢の身に死に場を求め、総攻撃の前夜に抜け駆けを決行し、壮絶な最期を遂げたといふ。
○ 花咲かぬ老い木の桜朽ちぬとも その名は苔の下に隠れじ 人見四郎
桜は、郷里の浅間神社(祭神木花開耶姫命)の御神木である。山の麓には昌福寺があるが、人見氏の墓は一乗寺にある。
楡山神社 / 深谷市原郷 字八日市
旧幡羅郡総社といはれた楡山神社の森の奥には、かつて塚があって「里人不入の地」といはれた。大正時代には既に塚はなかったやうだ。明治の初めに、森の奥の大部分が上地令によって国有林に編入され、伐採がなされたときに崩された可能性が高い。奥の森は大正初年に買ひ戻されて再び植林がなされた。
○ いち人や神の姿ににれ山の 入らずの森は奥処おくが知らねど 神詠
○ 楡山の杜の朝風高だかに 神の御稜威みいつを仰がせて吹く 額賀大直
旧神領に神田数十町の記録がある。宮城県多賀城址から発掘された木簡には「武蔵国幡羅郡米五斗部領使ことりづかひ……」とある(吉橋孝治「古典で読むふるさと」)。旧幡羅郡は、奈良時代のころからの米の産地だったらしく、東北の官衙に物資を供給した。

熊野大神社(深谷市東方) 文化十四年(1817) 江戸神田須田町 藤原信清百首和歌奉納
○ いとなみの業わざもかぎりの有とても あはれを添へよ天地あめつちの神 信清
庁ノ鼻、狭山 / 深谷市国済寺、熊谷市三ヶ尻みかじり
文明十八年、尭恵法師が、十二月半ばのある朝、庁ノ鼻ちょうのはなといふところで歌を詠んだ(北国紀行)。庁ノ鼻とは深谷上杉氏が最初に館を構へた庁鼻祖こばなわ(深谷市国済寺)のことである。
○ 朝日欠け空は曇りて冬草の 霜に霞める武蔵野の原 尭恵
本来の武蔵野は入間郡の周辺の丘陵地帯をいふのだが、霞の中に広がる枯尾花などの冬草のイメージが武蔵野といふ歌枕にふさはしかったのだらう。。庁鼻祖には国済寺があり、ここで一泊した朝の歌と思はれる。尭恵はそのまま馬を走らせ、箕田といふところを経て、狭山さやま(熊谷市三ヶ尻みかじりの観音山)のふもとの池を見て歌を詠んだ。
○ 氷りゐし水際の枯野ふみ分けて 行くは狭山の池の朝風 尭恵
狭山の名は隣接する川本町瀬山せやまに残り、瀬山の人は観音山は瀬山のものだったと今でもいふ。
島田道竿の大蛇退治 / 妻沼町日向
天喜五年、奥州の安部貞任追討(前九年の役)の命を受けた源頼義が、武蔵国司の成田助高に援軍をたのみ、助高の居城である幡羅郡西城(妻沼町西城)に滞在したときのことである。その城の東に龍海といふ四町四方の大きな池があった。池には大蛇が棲み、田畑を荒らし、村人を悩ませてゐたので、村人はこれを頼義へ訴へ出た。頼義は、村の祖(土豪)の島田大五郎道竿に弓と帯刀を賜り、毒蛇退治を命じた。
道竿は日夜八幡神に祈り、村人を指揮して、まづ池から利根川へ堀を掘って水を落した。これを道竿堀といふ。池の水が引いたころ、道竿は馬に乗り、池の汀に近づいて馬上から声をあげると、長さ四丈余りの大蛇が忽然と顕れ這ひ出た。道竿が弓矢で毒蛇の眉間を射ると、大蛇はたけり狂って蛇身を躍らせ、道竿を呑み込まうと襲ひかかった。馬で退却した道竿は、池から五町余り過ぎたころ、再び馬上から矢を引き放つと、矢は毒蛇の右の眼から咽下までを射通した。大蛇のひるんだところで道竿は刀を抜き、たちまちに大蛇を寸々に斬りきざんだといふ。
これを見た頼義は、誠に東夷征伐の門出に目出度い吉事であるとして、大蛇を退治した場所に八幡宮を勧請した。宮には村人の訴への書を納め、道竿の弓矢を納め、道竿の子孫を代々の神官とした。また大蛇の出た場所に弁財天を祀った。この八幡宮は、幡羅郡長井庄日向ひなた郷の総鎮守とされ、文政六年、旗本・石川左近将監が奉納した和歌がある(大里郡神社誌)。
○ この神の恵みの露に民草の 世々栄ゆべき秋ぞ見えぬる 石川左近将監
八幡宮は、明治九年に村内数社を合祀し、長井庄にちなんで長井神社と改称された。
熊谷と久下 / 熊谷市熊谷、久下
○ うちむれて熊谷をとこ久下くげをとめ むつましげにもみゆき待つなり
江戸時代の初めまで荒川の本流はほぼ今の元荒川を流れ、越谷の先で利根川と合流してゐた。それ以前の熊谷近辺は、川の流れの定まらない地で、熊谷氏(直実)と久下氏(直光)での領地をめぐる境界争ひの話が伝はるのは、耕地を荒川に侵食されたためもあるだらう。荒川は熊谷と久下の間を流れてゐた時期もある。久下といふ地名は県内に数ヵ所あり、川のそばが多く、おそらくは、くぐひ(白鳥)の飛来した地の意味だと思はれる。荒川土手には桜が植ゑられた。
○ 行く先も熊谷さくら咲きぬらし 春の眺めは深谷と思へば 置石村路
大里村
大里郡大里村の吉見神社は、もと「天照大神宮」と称した。この地は旧吉見郡にあたり、興味深い古文書がある。その要旨は次の通り。
天穂日あめのほ ひ命は、天孫降臨に先立って出雲に降った神である。その天穂日命が、諸国を巡って国見をされ、東国へ来て「ここは葦草の茂れる萌刺埜もえさしの」といったので、旡邪志むざし(武蔵)といふ。その子・建比奈鳥たけひ な とり命が、出雲国から降ったとき馬を入れた地を、入馬いるま(入間)といふ。建比奈鳥命の子・建予斯味たけよ し み命が、出雲国より入間郡に遷られた。その地を吉見といふ。予斯味命は、牟刺(武蔵)国造の始である。
景行天皇の御代に、豊城入彦とよきいりひこ命の曽孫の御諸別みもろわけ王が、東山道の十五か国を拝領したとき、陸奥で蝦夷の騒動があった。王は即座にこれを平定し、以来東国に浪風は無い。 当時の武蔵国入間郡は、国民も少く田畑も荒廃し、これを歎いた御諸別王は、天皇に奏上して、大和、山城、河内、伊賀、伊勢の五国の多里人・八百九十七人を武蔵国入間郡に移住させ、多里郡(大里郡)を置いた。御諸別王は、郡の鎮守として新宮を造って天照大御神をまつり、その末子を神官とした。御神体は、天照大御神が高天原で機を織るのに使ってゐた御筬を、天穂日命が賜り、子の建比奈鳥命へ伝へ、これを東国守護の形見として、豊城入彦命、彦挟島ひこさしま王、御諸別王と受け継ぎ、ここにまつられたものである。(大里郡神社誌)
鴬の瀬 / 川本町畠山
源氏の家臣の畠山重忠は「秩父殿」と呼ばれ、一ノ谷の戦では、鵯ひよどり越えのとき愛馬を背負って越えたといふ。また、秩父の竜神の母から生まれたともいふ。
畠山重忠が、配下の榛沢はんざは六郎成清の家に滞在してゐた日のこと、畠山の館から急ぎの者がやってきた。聞くと、鎌倉幕府から急ぎの使ひが来たといふ。
重忠はすぐさま身仕度を整へ、いざ鎌倉とばかりに館に帰らうと馬を走らせた。ところが荒川の岸まで来ると、川は折りからの雨で水が氾濫し、どこが浅瀬かわからない。重忠がしばらくためらってゐると、どこからか鴬の声が聞こえたかと思ふと、川面低くをすうっと飛んで渡って行った。重忠は、これはまさに神の助けと、一首を詠んだ。
○ 時しらぬ岸の小笹の鴬は 浅瀬たづねて鳴き渡るらむ 畠山重忠
そして馬を躍らし、鴬の渡った跡を追って、無事に川を渡ることができたといふ。これを「鴬の瀬」といひ、井椋ゐむれ神社の裏手の渡し口になってゐる。この付近の荒川は、大昔から川筋を変へたことはないといふ。(大里郡神社誌)
板井の八雲橋 / 江南町板井
江南町板井の出雲乃伊波比神社は、はしかや熱病に霊験ありとされ、社前の和田吉野川に架る八雲橋の下を、次の神詠歌を唱へながら潜り、また渡れば、平癒するといはれる。
○ 八雲橋 かけてそたのめあらもかさ あかき心を神につくして
男衾三郎絵巻 / 寄居町、大里村
鎌倉時代に、武蔵国の大名の息子に、吉見二郎、男衾三郎の兄弟がゐた。吉見二郎は、京の美しい女を妻に迎へ、慈悲といふ名の一人娘を得て、吉見の館で貴族のやうな風流で裕福な暮しをしてゐたが、旅に出たとき盗賊に殺され、妻や娘は不幸な運命をたどることになった。一方、男衾三郎は、質実剛健そのままで荒武者のやうな暮らしぶりだった。死んだ兄の領地を得て、男衾の妻のいふままに兄の娘の慈悲を「子ねの日」と名を変へさせて下女に使った。あるとき、赴任したばかりの国司が吉見の館を訪ね、下女に似合はぬ美しい娘に気をとめた。のち国司がその娘を妻にと望んだとき、男衾の妻は、自分の娘を着飾って会はせたが、国司は年が明けても返事をせず、ひとり歌を詠むばかりだった。
○ 双葉より緑変らで生ひたらむ 子ねの日の松の末ぞゆかしき
○ 音に聞く掘兼ほりかねの井の底までも 我わびしむる人をたづねん (男衾三郎絵巻)
この絵巻は最初の部分しか伝はらず、男衾三郎を主人公として描くまでに至ってゐない。旧男衾郡は、荒川の南の寄居町・川本町などをいふ。吉見郡は大里村・吉見町あたり。
利根川帰帆ほか
北河原村の照巌寺に保存の題詠「近世八景」のうち四首(大里郡方面を詠んだのもある)。
利根川帰帆(利根川)
○ 雲ひらく利根の川戸の見るうちに こなたや泊り帰る舟人 武者小路実陰
熊谷晩鐘(熊谷市熊谷)
○ 鐘の音に聞くは昔の夕暮も あはれ忍ぶる袖や濡らさん 高野保光
長井夜雨(妻沼町)
○ 寝いねがてに夜半も長井の秋は さぞ思ひやるだに雨ぞさびしき 高松重季
成田落雁(行田市または熊谷市上之)
○ 幾つらぞ成田の面に落つる雁 いづみの山の峯を越え来し 日野資時
さきたま / 行田市埼玉
行田市のさきたま古墳群の稲荷山古墳は、六〜七世紀ごろのものとされ、長文を刻んだ鉄剣が発掘されたことで知られる。埼玉郡は、(古)利根川と(元)荒川に挟まれた地域をいふが、水運を利用して、早くからひらけた土地のやうで、万葉集にも歌はれ、埼玉の県名ともなった。
○ 埼玉の津にをる船の風をいたみ 綱は絶ゆとも言な絶えそね 万葉集
○ 埼玉の小崎の沼に鴨そ羽根きる 己が尾に振り置ける霜を掃ふとならし 万葉集
古墳群のそばの前玉さきたま神社は前玉姫命をまつる。
○ 和らぐる光を花にかざされて 名をあらはせるさきたまの宮 西行 夫木抄
○ さきたまの里のとねらが作る木綿ゆふ 神の幣帛にきてをゆひてけるかも 賀茂真淵
村君の里 / 羽生市下村君
羽生市下村君の鷲神社は、東国開拓の祖の天穂日あめのほ ひ命をまつる。元は古墳の上に建てられたといひ、明治の末に横沼神社を合祀してゐる。横沼神社は、天穂日命の子孫の彦狭島ひこさしま王の子・御室別みむろわけ王の姫(娘)をまつった社で、父・彦狭島王をまつる樋遣川村の御室社へ、「お帰り」といふ里帰りの神事が行なはれてゐた。
この村君の里に、文明十八年、京から道興准后が訪れて詠んだ歌がある。
○ 誰が世にか浮かれそめけん朽ちはてぬ その名もつらきむら君の里 道興
はにしの宮 / (鷲の宮)〜 久伊豆神社
南埼玉郡鷲宮町の鷲宮神社は「土師はにしの宮」ともいはれ、崇神天皇の御代の創建といふ。河内国から東国へ移住した土師氏がその先祖をまつったもので、おそらく浅草の浅草寺・浅草神社をまつった土師氏の一族が、利根川や荒川をさかのぼって埼玉郡の地に移住したのだらう。
岩槻市宮町の久伊豆神社は、欽明天皇の御代に、土師氏の一族がこの地に移住して、出雲の大国主命を祀ったものといふ。神社選定の「久伊豆神社奉賛歌」がある。
○ 元荒川に影うつす杜の宮 居の宮柱 揺るぎなき世を守るなる 我が久伊豆の御社
越谷市の久伊豆ひさい づ神社には土師氏の伝承はないやうだ。
○ いふきのやいつの御霊の宿れりし あとなつかしき越ヶ谷の里 土井晩翠
白岡八幡宮 / 南埼玉郡白岡町白岡
仁明天皇の嘉祥二年、勅命によって慈覚大師が埼玉郡白岡の地に下り、杉の木の本で三社(正八幡宮・若宮・姫宮)の御神体を彫刻して、八幡宮を建立したといふ。次に本地弥陀薬師の像を彫刻し、それを池の辺で清めてゐると、西方より光とともに三神が現はれ、また三羽の白鳩が舞ひ降りてきた。白い鳩から白岡となづけ、西方の光から西光寺と号し、杉の本で成就したので、杉本坊と称した。また、歌を詠んだ。
○ いけ水に月のかげさす白岡は 八幡ごえなる神の御社 慈覚大師
都鳥 葛飾早稲
古代の東京湾は内陸深く入り込み、したがって隅田川の河口も今より北となり、在原業平が都鳥を歌に詠んだ隅田川の地とは、春日部市の浜川戸八幡宮の付近だともいふ。
○ 名にし負はばいざ事問はむ都鳥 わが思ふ人はありやなしやと 在原業平
北葛飾郡三郷みさとのあたりは古来から早稲の産地で、ひところ早稲田村の村名もあった。三郷市丹後の稲荷神社に万葉歌碑がある。
○ 鳰鳥にほどりの葛飾早稲を饗にへすとも その愛かなしきを外とに立てめやも 万葉集
氷川神社 / 旧大宮市高鼻
武蔵国一宮の氷川神社は、素戔嗚すさのを尊をまつり、氷川は出雲の斐川にちなむ名といふ。
○ 武蔵なる氷川の森に雪つもり 八重垣こもる神の御社 橘千蔭
天保のころの縁起によると、神武天皇の大和入りのときに、当時大和国にゐた饒速日にぎはやひ尊の子の可美真手うましまで命(宇摩志麻遅うましまぢ命)が天皇に帰順した。可美真手命の子の日賢安良彦ひさかあらひこ命が東国へ下って物部もののべの姓を名告り、氷川社をまつったといふ。
社殿の脇にまつられてゐる門客人社は、今はてなづち、あしなづちの神をまつるといふが、江戸時代には豊石窓・櫛石窓の二神をまつり、古くは荒脛巾あらはばき神社といった(新編武蔵国風土記稿)。主祭神を守護する土地の神のことらしい。
八百比丘尼 / 旧大宮市
大宮市櫛引の観音堂の前に槻(欅)の木が二本あった。「神願木」と呼ばれ、むかし八百比丘尼の植ゑたものといふ。母乳の乏しい女が祈祷すれば霊験ありといはれた。
○ 八百姫の植ゑし二木も限りあれば 名残り朽ちさぬ石文ぞこれ 平正彦
八百比丘尼(福井県の項参照)の植ゑたと称する木は、全国にあるが、椿が多いやうだ。
武蔵野の逃げ水
関東平野の西部に広がる武蔵野は、どこまで行っても、すすきの原だったといふ。
○ 武蔵野は月に入るべき山もなし 尾花が末にかかる白雲 藤原通方
○ 武蔵野はゆき行く道のはてもなし 帰れといへど遠く来にけり 釈迢空
春から夏にかけてのよく晴れた日に武蔵野を歩くと、やや遠方に水溜りのやうな流水のやうなものが見える。近づいて見るとそこに水はなく、遠方に逃げるやうに移動して見える。武蔵野の逃げ水といふ。現在でも舗装道路の遠方に良く見えることがある。あるいは逃げ水とは泉が枯れやすくまた他に発生しやすいことの意味だともいふ。
○ 東路にあるといふなり逃げ水の にげかくれても世を過ぐるかな 俊頼 夫木抄
野火止 / 新座市
武蔵野では古代に焼畑が行なはれたらしい。芒や潅木の野を焼いて灰の中に種を蒔き、翌年は別の野を焼く。数年で一巡するころには、元の野は再び潅木が繁ってゐる。
○ おもしろき野をはな焼きそ古草に 新草交じり生ひは生ふるがに 万葉集
○ 武蔵野は今日はな焼きそ若草の 妻もこもれり吾もこもれり 伊勢物語
右の歌は、「こもれり」と二度繰返すやうに、妻と吾が別々の場所にこもってゐる。妻といふ呼び方からも、結婚の前の物忌のこもりなのだらう。焼畑のとき、延焼を止めるために塚や堤を築いたのが野火止である。新座市野火止の地名に残る。
○ 若草の妻もこもらぬ冬ざれに やがても枯るる野火止の塚 道興
野寺の鐘 / 新座市野寺
江戸時代の話、新座郡野寺村の畑で、めかご(芋)の蔓のだいぶ大きいのが生へて来た。村の者は、さぞかし芋も大きからうと、掘って見ると、さして大きくもない芋だったので、さらに深く掘ってみると、カチンと音がして、中から古鐘が出てきた。これは「いも鐘」だといふことになったが、鐘には「野本寺」と記してあった。村の満行寺の和尚さんに見せると、これは「野寺の鐘」だといった。この村には昔たいそう立派な寺があって、戦乱の世に火事になったとき、その寺の和尚が鐘を守るために池に鎮めたといふ。その池が長い年月の間に埋まって、今は畑となって、そこから掘り出されたわけである。
○ 音に聞く野寺を問へばあと古りて 答ふる鐘もなき夕べかな 道興
○ 武蔵野の野寺の鐘の声聞けば 遠近人(をちこちびと)ぞ道いそぐらん 在原業平
新座郡
朝霞市浜崎の浜崎氷川神社は大宮の氷川神社から分祀されたものといふ。県南部から東京都にかけて氷川社は多い。
○ 武蔵野を分けつつ行けば浜崎の 里とは聞けど立つ波もなし 道興
朝霞市の川越街道の膝折といふ珍しい名前の地を詠んだ歌。
○ 商人あきうどはいかで立つらん膝折の 市でかつけを売るにぞありける 道興
かつけとは脚籠きゃこのことで、椀を収める足つきの籠であるが、膝折といふ地名から脚気をしゃれた歌である。
和光市新倉あたりを「うけら野」といったらしい。
○ 恋しけば袖も振らむを武蔵野の うけらが花の色に出づなゆめ 万葉集
○ わが兄子を何あどかも云はむ武蔵野の うけらが花の時無きものを 万葉集
堀兼の井 / 狭山市堀兼
日本武尊が、武蔵野の地で兵の渇きを癒さうとして井戸を掘らせたところ、掘っても水は出ず、掘り兼ねた。そこで竜神に祈って水を引かせたといふ。武蔵野の台地地帯は地下水が深い。井戸を掘り兼ねたので、掘兼ほりかねの井といひ、狭山市堀兼の浅間社の地といふが、候補地は多い。
○ 武蔵野の堀兼の井もあるものを うれしく水の近づきにけり 俊成 千載集
○ 汲みて知る人もありなんおのづから 堀兼の井の底のこころを 西行
○ おもかげぞ語るに残る武蔵野や 掘兼の井に水はなけれど 道興
所沢
元弘三年 新田義貞が上州で挙兵し、宗良親王を奉じて鎌倉へ進軍した。入間郡小手指原(所沢市)で、北条高時の軍を迎へ討つとき、宗良親王が詠んだ歌。
○ 君のため身のため何か惜しからん 捨てて甲斐ある命なりせば 宗良親王
武蔵野の台地地帯では芋類の栽培も盛んである。
○ 野遊びのさなかに山のいも添へて ほりもとめたる野老ところ沢かな 道興准后
三ヶ島藍子は、所沢市の社家に生まれた歌人で、所沢市宮本町の神明社に歌碑がある。
○ しみじみと障子うすぐらき窓のそと 音たてて雨のふりいでにけり 三ヶ島藍子
田野武の里 / 川越市藤倉
伊勢物語の風流子が、入間郡のみよし野で、ある娘を見初めた。娘の母は、男が高貴な人なので、自分が夢中になって、いつまでもこの里にとどまるやうに頼みの歌を贈った。
○ みよし野の田の面むの雁もひたぶるに 君がかたにぞ寄ると鳴くなる 娘の母
男の答へた歌はそっけないもので、良くあることだと思ってゐるらしい。
○ わがかたによるとなくなる三芳野の たのむの雁をいつか忘れん 男
太田道潅と川越城、山吹の里
川越氷川神社は、欽明天皇二年(571) に氷川神社(大宮)を分祀したものといふ。長禄元年に川越城を築いた太田道真・道潅の父子は、川越氷川社を深く崇敬し、道潅は和歌を献納した。
○ 老いらくの身をつみてこそ武蔵野の 草にいつまで残る白雪 (慕景集)
太田道潅が歌の道に入るきっかけとなったといふ山吹の里とは、新宿区面影橋付近ともいふが、入間郡越生町だともいふ。道潅の開基といふ龍穏寺も越生町にある。
○ 七重八重花は咲けども山吹の みの一つだになきぞかなしき
○ 歌にゆかしいあの山吹の 里よ武蔵野アリャ越な町 (越生小唄) 野口雨情
回国雑記の歌
川越 最勝院にて
○ かぎりあれば今日分けつくす武蔵野の 境もしるき川越の里 道興
入間川
○ 立ち寄りて影をうつさば入間川 わが年なみも逆さまに行け 道興
大井、嵐山
○ 打ち渡す大井河原の水上に 山や嵐の名を宿すらん 道興
伊古乃速御玉姫・淡洲明神 / 比企郡滑川町
滑川の中流域、比企郡滑川町伊古に式内社・伊古乃速御玉姫神社がある。この神は、素直に考へれば、土地を潤す滑川の神であり、沼の神であり、この丘陵地帯に多い溜め池を守護する水の神である。元宮があったといふ二ノ宮山では雨乞の獅子舞が行なはれ、そのとき歌はれる雨乞獅子の歌がある。
○ 天河の堰のもとに雲が立つ お暇申していざ帰らんか 雨乞獅子の歌
伊古乃速御玉姫神社は別名を淡洲あはす明神といひ、隣接の七つの字に淡洲神社があるが、室町時代の初めにはこの名があったといふ。
伊古乃速御玉姫神社の社前の松は、何代目かのもので、昔から安産の霊験ありといはれてきた木である。御祭神の気長足姫命おきながたらしひめのみこととは、神功皇后のことで、お産の神とされることも多い。境内摂社には八幡社もある。他にない神社名であることから色々なことが権威ある書においても言はれたが、語呂合せの範囲を出ないものばかりなので省略する。
高負彦根命 / 比企郡吉見町
比企郡吉見町から大里郡大里村付近を、古く横見郡とも吉見郡ともいった。
○ 月をだに吉見の里の秋の暮 松風ならでとふ人もなし 俊成卿の女
大里村に近い吉見町田甲の高負比古根たかふひこね神社の裏に、玉鉾山といふ岩の丘があり、岩の上を踏みならせば鼓のやうな音が響くので、ぽんぽん山ともいふらしい。
○ 雲さそふ峰のこがらし吹き靡き 玉の横野にあられ降るなり 歌枕名寄
むかしこの地方には鬼が住み、鬼の毒気により市野川の水も飲むことができなかった。里人たちは川辺の楡の木の下で相談をしたが、良い考へも浮かばずに解散した。一人の若者が居残って市野川の流れを見てゐると、美しい娘が声をかけ、一掬ひの水を求めた。若者が毒の水だから飲めないと事情を告げると、娘は、里人のために清い水にしてみせませうといって、剣を若者に授けて、自分は市野川に飛びこんだ。すると川底から不思議な石が現はれて霊気を発し、たちまち澄んだ清らかな水となったといふ。若者は剣で鬼を退治した。娘は岩室の観音様の化身といひ、若者の名は高負彦根命といふ。(藤沢衛彦・北武蔵の伝説)
岩室観音堂は吉見の百穴の南にあり、さらに南には松山城趾がある。
松山城 / 吉見町、東松山市
天文六年、川越城主・上杉朝定は、北条氏綱に敗れて川越城から没落し、一族の扇谷上杉氏を頼って松山城へ逃れた。更に松山城に押し寄せる北条軍に対し、難波田弾正は城を出て戦を挑んだが、すぐに逃げ帰って来たので、山中主膳がからかって歌を詠んだ(拾遺集の翻案)。
○ 悪しからじ良かれとてこそ戦はぬ なに難波田が崩れ行くらん 山中主膳
難波田弾正が応へた歌(古今集読人不知の歌と同じ)。
○ 君を置きて仇し心を我が持たば 末の松山波も越さなん 難波田弾正
上杉氏は川越城奪還を試みたが、天文十四年の川越夜戦に敗れて、北条氏の支配が広がって行った。
忠七めし / 比企郡小川町
慶応のころ、比企郡小川町竹沢の知行地に、山岡鉄舟がよく訪れた。鉄舟は小川にある二葉といふ老舗の料亭によく立ち寄り、あるとき「調理に禅味を盛れまいか」と注文を出した。そこで八代目当主の忠七は、独自の茶漬を創案し、鉄舟に差し出すと、鉄舟は「わが意を得たり」といって喜んだといふ。これが「忠七めし」である。
○ この釜を日々に炊きなば福禄寿 中よりわきて尽くるきはなし 山岡鉄舟
○ 冬かげり海苔めし柚の香はなちけり 長谷川かな女
紙漉きの里 / 比企郡小川町
文化年中に清水浜臣といふ人が、古寺村(今の小川町南西部)を通ったとき、山間の村のどの家からも紙を漉く音が聞えたといふ。(都伎山日記・埼玉叢書)
○ 秋ならできくもめづらし山川に 紙うつ音のつれて落ち来る 清水浜臣
秩父神社、犬戻り橋 / 秩父市
秩父神社は、崇神天皇の御代に、知知夫ちちぶ国の国造の知知夫彦命が、祖先の八意思金やこころおもひかね神をまつったのに始まるといふ。武士による妙見信仰との習合ののち、近世は養蚕の神として信仰を集めた。
○ 秋蚕あきごしまうて麦蒔き終へて 秩父夜祭待つばかり 秩父音頭
十二月三日は秩父神社の例祭で、「秩父夜祭」ともいはれる。その夜、全町の屋台が「お花畑」と呼ばれる御旅所に参集する。神輿も渡御し、秩父神社の妙見の女神と武甲山の男神が、年に一度めぐり逢ふのだともいふ。
秩父神社は「兄の社」ともいはれ、その森を「柞ははその森」といふ。
○ 兄の社はこのかみの名か 藤原清輔 
秩父山ははその森に言問はん童 兎久波集の連歌。
犬戻り橋 / 秩父市
むかしの秩父神社には広大な神領があり、その片隅に位置した犬戻り橋は、むかしの神域を守る神犬が、神域を忌んでこの橋から外へは決して出なかったことから、橋の名となったといふ。戻り橋の名を忌んで、婚姻の決まった娘たちはこの橋を通ることを避けたともいふ。
○ 渡らじなこれより犬の戻り橋 水をもここに墨染めてけり
この橋で西行と翁のやりとりした歌も伝へられるが、児童向けではない。
秩父三十四ヵ所、十日夜 / 横瀬町ほか
秩父地方には三十四ヵ所の霊場が定められ、今でも巡礼の小団体が多い。五番目に語歌堂(長興寺)といふ面白い名の寺があるが、「五果」などの仏教用語による命名とは思ふが、「こか」の音の類似からなのだらうか、西国三十三所の粉河寺の御詠歌が語歌堂のものとよく似てゐた。(横瀬町)
○ 父母の恵みも深き語歌の堂 大慈大悲の誓ひたのもし 御詠歌
十日夜(とをかんや)
十日夜は、稲の収穫を祝ふ旧十月十日の祭である。田の神が田から山へ帰って行く祭といはれ、近県に多い。秩父地方では、その日は子供が歌ひながら藁の棒で土を叩いて遊ぶ。
○ トーカンヤ トーカンヤ 朝そばきりに昼だんご ヨーメンくったらひっぱたけ
武蔵嶺 / 武甲山
○ 武蔵嶺むさしねの根岸の里は晴れかたみ 風吹き荒らす雲の下影 
「秩父の美しさはその影の中にこそある。この盆地に生活する人々は常に影を見て暮らしている」(清水武甲)といふ。武蔵嶺とは武甲山のこととされる。武甲山は、日本武やまとたける尊が鎧冑を納めて戦捷を祈った山といはれ、雨乞歌も歌はれる。
○ 武甲の神の大前に 雨だんべえー 竜王なぁ、
 長の日照りのそのために 五穀の種もつきるゆゑ
 武甲山の神々へ 氏子が集り御願ひ テケテッドコドン テケテッドコドン
日本武尊は、秩父盆地西部の小鹿野から西方の両神山(八日見山)を八日間見たといふ。それで八日見山と名づけられたといふが、これは「八おかみ」の意味で、おかみとは竜神のこと、つまり八大竜王(雨乞の神)をまつった山なのだともいふ。
○ 筑波嶺とはるかへだてて八日見し 妻恋ひかぬる小鹿野の原 安積艮斎
元明天皇の御代に、蓑山の南(秩父市黒谷)から銅が発見され、和銅と改元された。そのとき天皇から賜った銅製の巨大な百足二匹が、聖神社の御神体になってゐるといふ。
明治の秩父事件を歌った歌。
○ 楓の葉いろづきそめぬ秩父山 自由守りし血潮讃へむ 松本仁
城峰山の桔梗
天慶の乱に敗れた平将門は、下総国をのがれ、愛妾の桔梗の前らとともに、秩父の阿隈(吉田町)から城峰じょうみね山にたてこもったといふ。幾日かが過ぎたころ、桔梗の前は、理由もなく館を出て、山道をさまよひ歩くなど、不審な行動が見られた。案の定、数日後に藤原秀郷の軍に山を包囲された。将門は怒り狂って桔梗の前を斬り殺した。このときの桔梗の前の恨みによって、秋の七草のうち桔梗だけはこの山には咲かないといふ。
○ 秋の七草うす紫の花の桔梗がナアソラショなぜ足らぬ 城峰昔の物語 (秩父小唄)
三峰神社
○ 朝にゃ朝霧 夕べにゃ狭霧 秩父三峰霧の中 野口雨情
奥秩父の三峰山の三峰神社は、修験の道場として開かれ、江戸時代ごろから火防盗賊除けの信仰を広めた。
○ 白波は三峰山をよけて打ち
右の川柳の「白波」とは、歌舞伎の白波五人男のことで、泥棒衆の意味である。宮本武蔵は、三峰の岩戸神楽の女神の舞ふ二刀流を見て、その二刀流を開眼したともいふ。 
 

 

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秩父
埼玉県立博物館に武蔵武士大河原時基が鎌倉時代末の嘉暦四年(一三二九)、播磨国広峯ひろみね神社(現兵庫県姫路市)に奉納した一振の太刀が蔵されている。国宝となっているこの太刀は鎬しのぎ造、庵棟いおりむねの刀身は長さ八二・四センチ、元幅は三・一センチで、茎なかごの表裏に次のような銘がある。
(表)広峯山御剣願主武蔵国秩父郡住大河原 左衛門尉丹治時基於播磨国完粟(ママ)郡三方西造進之 / (裏)備前国長船住左兵衛尉景光 作者進士三郎景政 嘉暦二二年<己巳>七月日
これによれば、この太刀は武蔵国秩父郡を本領(名字の地)とする大河原時基が、播磨国穴粟しそう郡三方西みかたにし(現兵庫県波賀町)の地でこれを造らせ、当時同国随一の武神として崇敬されていた広峯神社に奉納したもので、作者は備前国長船おさふね(現岡山県長船町)の刀工景光・景政であった。
大河原時基は、丹治姓を名乗っているように武蔵七党の一つ丹たん党の一族で、秩父郡三山さんやま郷(現埼玉県小鹿野町)を本拠とした中村氏から分れて同郡大河原おおがわら郷(同東秩父村)に居を構え、同所を名字の地とした大河原氏の嫡流とみなされている。承久の乱後、中村(大河原)家泰が地頭として三方西に入部、次第に勢力を拡大していった。正応三年(一二九〇)八月二日の「関東下知状」(中村文書)には三方西小野おの村に在家一宇をもつ中村馬允光時の名がみえ、光時は波賀はが城を築き以後天正五年(一五七七)まで代々が城主であったという。
武蔵国に本領をもつ武士を一般に武蔵武士といい、その頂点に立っていたのが、平将恒(将常)の系譜につながる秩父氏である。秩父氏は将恒の曽孫重綱のとき武蔵国留守所総検校職に任じられ、一族には次男の系統でありながら重綱から家督を継いだ河越かわごえ氏、さらに文治元年(一一八五)河越重頼が源義経に縁坐して処刑されると総検校職に任じられた畠山重忠の畠山氏のほか、江戸氏・豊島氏・葛西かさい氏・千葉氏などがいる。一方、武蔵国留守所総検校職の支配下にあった中小武士団は武蔵七党と総称された。『平家物語』巻五に「畠山が一族、河越・稲毛・小山田・江戸・葛西、其他七党の兵ども」とあるのが、その関係性をよく表現している。ただし、この七党の数え方は一定ではなく、丹党のほか横山・猪俣・野与・村山・西・児玉の六党を合わせて七党とするほか、野与党・村山党をのぞいて私市党・綴党を加える数え方などがある。
秩父氏一族や諸党に属して鎌倉時代に活躍した武蔵武士は、史料で確認できるものだけでも九七名に上るとされ、丹党大河原時基もその一人である。丹党は桑名・中村(上下)・大河原・安保あぼ・高麗こま・加治・小鹿野おがの・横瀬よこぜ・榛沢はんざわなど計四五氏で構成され(「丹党系図」『諸家系図纂』)、秩父郡のほか入間いるま郡・高麗郡・賀美かみ郡・児玉郡に勢力を有し、ほぼ同地域に混在していた児玉党と競い合う存在であった。なお彼ら武蔵武士の生活ぶりが知られる史料はほとんどないが、『発心集』の「武州入間河沈水の事」や『男衾おふすま三郎絵詞』がその一端を伝えている。
秩父に三十三観音霊場(札所)が開かれた時期は不明だが、大河原氏が三方西に入部したことと関係があると考えられている。現在の第三二番札所小鹿野町法性ほっしょう寺で所有する長享二年(一四八八)の秩父札所番付の奥書には、播磨国書写しょしゃ山円教えんきょう寺(現姫路市)の性空のことが強調して記されている。また秩父各札所開設の伝承にも性空をあげるものが多い。円教寺は西国第二七番札所で性空が開いたものであるが、大河原氏が地頭となった三方西とは地理的に近い位置にある。おそらく大河原氏が円教寺に入信したことが秩父札所開設の契機となったものと思われる。長享の札所番付が中村氏の居館があったと考えられている秩父大宮の定林じょうりん寺を一番とし、以後周辺に及ぶ順番となっていることもこれを証拠だてているとみてよいだろう。定林寺の南方約八〇〇メートルには秩父神社がある。
大河原時基が広峯神社に太刀を奉納したのに先立つ正中二年(一三二五)、時基はその父と思われる大河原入道沙弥蔵蓮とともに、刀身に「秩父大菩薩」と刻んだ太刀(現御物)を同じく三方西で景光・景政に造らせ、遠く故郷の地の氏神秩父神社に奉納している。さらにこの御物太刀と併せて同神社に奉納されたとみられる元享三年(一三二三)銘景光作の短刀(国宝)も現存している。この短刀は、戦国期上杉謙信の差料さしりょうであったことから謙信景光の異称があるが、御物太刀と同じく刀身に「秩父大菩薩」の刻銘をもち、作者を同じくし、製作年も接近していることから、本来揃いのものであったと考えられている。これら三振の太刀と短刀は、大河原時基らが故郷秩父と新領地播磨の名神に一族の繁栄と安泰を祈願して奉納した一連のものであったといえるだろう。
一九九三年春、短刀は埼玉県の所有に帰し、約七〇〇年ぶりに二振揃って県立博物館で展観されることになった。 
鬼鎮神社(きちんじんじゃ) / 埼玉県比企郡嵐山町川島
全国的にも珍しい、鬼が祭神として祀られている神社である。節分の際には「福は内、鬼は内、悪魔外」と掛け声をして豆をまく。鬼は内と言うのは、他の寺社から追い払われた鬼がここにやって来られるようにするためとも言われ、また悪魔とは参拝者に取り憑いた魔のことであり、これだけをうち払うのだという。また武運長久にご利益があり、それが叶うと金棒を奉納する伝統がある。鬼を非常に意識した神社であることは間違いない。
この神社の創建は寿永元年(1182年)、畠山重忠の菅谷館の鬼門に当たる場所に厄除けとして設けられたのが始まりである。鬼門封じに建てられた神社であるから、創建当初から鬼と関わりがある。さらに地元では「鬼鎮様」と呼ばれる伝説も残されている。
ある刀鍛冶の元に若者が弟子入りした。そして大いに働きだし、ある時、親方の娘を嫁に欲しいと言ってきた。鍛冶屋は「1日に刀を100本打てたら嫁にやろう」と約束する。すると若者は一心不乱に刀を打ち始めた。その勢いは凄まじく、親方は気になって様子を覗いた。すると若者の姿はいつしか変じて鬼となっていたのである。おののいた親方は、無理やり鶏を啼かして夜が明けたことにして、作業を中断させた。そして夜が本当に明けた頃に仕事場に行くと、最後の1本を作るところで若者は槌を握ったまま死んでいた。哀れに思った親方は「鬼鎮様」として宮を建てて祀ったという。 
畠山重忠 / 1164-1205。鎌倉幕府成立期の有力御家人の一人。その言動から“板東武者の鑑”と評され、後世にまで伝えられる。武蔵地方一帯を領有し、菅谷館は畠山氏の本拠地とされる。
慈恩寺 玄奘塔(じおんじ げんじょうとう) / 埼玉県さいたま市岩槻区慈恩寺
玄奘三蔵法師と言えば、『西遊記』でおなじみの唐の名僧である。経典を求めてはるばるインドへ赴き、それらを持ち帰って漢語訳した事績は、中国ばかりか日本の仏教発展に大いに寄与した。その遺骨が安置されているのが、慈恩寺の玄奘塔である。
玄奘の遺体は最初長安にあったが、宋の時代に頭骨だけが南京へ移動したとされていた。ただその所在は長らく不明であった。昭和17年(1942年)、当時南京を占領していた日本軍は、稲荷神社建立のための整地をしていたところ、偶然石棺を発見した。その中に納められていたのが、行方不明であった玄奘の遺骨であると判明したのである。日本軍は中国南京政府にこの遺骨を返還し、昭和19年(1944年)になって南京市街に玄奘塔が建築され、式典が催されるに至った。その席で、中国側の提案で、遺骨を日本へ分骨する提案がなされたのである。
日本にもたらされた分骨は、最初は仏教連合会の本部のあった東京の増上寺に安置されることとなる。しかし既に東京への空襲が始まっており、破砕を怖れた連合会は、会長の倉持秀峰の住職寺のある蕨市内へ分骨を移す。さらに空襲のおそれの少ない慈恩寺へ移動させ、そこに仮安置させることとなったのである。
終戦後、仮安置だった分骨は正式に慈恩寺に置かれることとなった。そこで中国側の最終的な意向を尋ねたところ、返還の必要なく、慈恩寺に安置を認める蒋介石の返答を得た。そして建塔が始まり、昭和25年(1950年)に基礎部分に納骨、そして塔そのものの落慶法要が昭和28年(1953年)に執りおこなわれ、慈恩寺の飛び地境内に玄奘塔が完成したのである。
なお、慈恩寺は天長元年(824年)に慈覚大師によって建立された古刹。その寺名は、かつて慈覚大師が唐で修行した大慈恩寺より採られている。この大慈恩寺こそが、玄奘がインドより持ち帰った仏典を漢語訳した寺院である。この縁をもって慈恩寺に玄奘の分骨がなされたのである。
玄奘 / 602-664。629年にインドへ赴き、645年に帰唐。『大般若経』や『般若心経』などの漢訳をおこなう。また旅の記録として『大唐西域記』を著しており、これが後の『西遊記』のモチーフとなっている。
慈覚大師 / 794-864。円仁。最澄の弟子であり、第3代天台座主。838年に唐へ赴く。その後約10年にわたって中国各地で修行をおこなって帰国する。その期間の様子を克明に記した『入唐求法巡礼行記』は有名である。
日月神社 蜻蛉の寄生木(じつげつじんじゃ とんぼのやどりぎ) / 埼玉県所沢市北秋津
住宅街にあるごく普通の神社であるが、その境内には立ち枯れてしまったケヤキの御神木がある。かつてこのケヤキの木の途中からエノキの木が生えていて、なかなか有名なものであったらしい。そしてこの不思議な様子の木には、ある伝説が残されている。
この秋津村には、無理難題を言って家臣を困らせていた殿様があった。ある時、自分の年齢と同じ数の蜻蛉を捕ってくるよう家臣に命じた。ところが集められた蜻蛉の数が1つ足りない。怒った殿様は日月神社に行って、「もし本当に神の力があるのなら、このひとかたまりの蜻蛉を、御神木の木の股から別の種類の木にして生やしてみせろ。出来なかったら祠を取りつぶす。出来たならもう無理難題は言わない」と言い放って、御神木に蜻蛉を投げつけた。
すると途端に、ケヤキの御神木からエノキが生えてきた。蜻蛉がエノキの寄生木に変わったのである。それと同時に、殿様は無理難題どころか声を発することが出来なくなってしまったという。
秋津 / 日月神社のある地域の名称であるが、古来、蜻蛉のことを秋津と呼んでおり、おそらく上記の伝説に唐突に登場する蜻蛉の存在と大きく関係していると考えられる。
浄誓寺 平将門首塚(じょうせいじ たいらのまさかどくびづか) / 埼玉県幸手市神明内
関東に覇を唱えた平将門であるが、その後人々がいかに慕っていたかを知る一つの目安に、将門に関する墓や塚が複数残されている点が挙げられるだろう。東京の大手町にある首塚が最も有名であるが、幸手市にも将門の首塚が存在する。
伝説によると、将門が最後の一戦に臨んだ場所が幸手であり、ここで敗れて討ち死にしたのだという。そして首が埋められた場所が現在の首塚であるとされる。さらに一説によると、埋められた首をこの地に運んできたのは将門の愛馬であったとも言われている。
この浄誓寺の近くには、将門の血で染められた木があったことから“赤木”と付けられた地名など、将門にちなんだ伝承が残されている。
白旗塚 / 埼玉県所沢市北野
この白旗塚のある小手指ヶ原は、元弘3年(1333年)に鎌倉に攻め上る新田義貞が幕府軍と最初に合戦に及んだ地である。その合戦の地に小さな小山のようにあるのが白旗塚である。
この塚は古代の前方後円墳と言われるが、半ば自然の中に溶け込んでしまっている感じで、人工物のように見えない。実際、この塚の頂上まで登ることができ、そこには白旗塚と刻まれた石碑や、浅間神社の祠がある(この祠の存在から、後年、この塚は富士信仰の場となっていたと考えられる)。
塚の名前の由来は、新田義貞がこの塚の頂上に源氏の象徴である白旗を掲げたという伝承からきている。
調神社(つきじんじゃ) / 埼玉県さいたま市浦和区岸町
『延喜式神名帳』にも名が残されている古社である。社伝によると、創建は開化天皇の時代にまで遡るとされる。 “調”と書いて“つき”と読ませるのは、この神社の境内に伊勢神宮に納める貢ぎ物(調)を保管する倉を造り、武蔵国をはじめとする南関東の初穂米や調を集めたところから始まるとしている(一説によると、伊勢に天照大神を祀った(現在の伊勢神宮)倭姫命が直接下向して定めたとも言われる)。この貢ぎ物を境内に運び入れるために、神社の入口に鳥居を置かない風習ができたとされ、これが現在も調神社の七不思議の1つとなっている。
また“つき”という呼び名から、月待ち信仰、さらに兎を神使とする信仰が起こったとされる。そのため境内には数多くの兎の像が置かれており、狛犬ならぬ狛兎もある。そして“ツキ”を呼ぶ神社としても有名である。
調神社七不思議 鳥居がない / 松の木がない / 狛兎 / 御手洗池の片目の魚(池は現存せず) / 日蓮上人駒つなぎのケヤキ / 境内にハエがいない / 境内に蚊がいない
寅子石(とらこいし) / 埼玉県蓮田市馬込
高さ4mの板碑であり、それが水田の広がる一画にスクッと立っている。刻まれている内容によると、この板石塔婆は延慶4年(1311年)に、親鸞の高弟であった真仏法師の法要供養のため、唯願という者が銭150貫で建てたものである。しかし、この碑は「寅子石」という名で呼ばれ、この地方に伝わる悲劇を語り継いでいる。
この付近に住む長者夫妻には、寅子という見目麗しい娘がいた。一説によると、寅子は実の子ではなく、承久の乱後に姿を消した三浦義直という侍の娘であり、母子で父を求めている最中に母がこの地で病を得て亡くなったために長者の娘になったという。
成長するにつれてその美しさは際立ち、周辺の若者達は毎日のように長者の許を訪れて嫁に欲しいと頼み込んできた。最初は喜んでいた夫妻であるが、求婚話のせいで周囲でいさかいが起きるようになって、却って心配事に変わっていった。そして寅子も自分のためにいがみ合い騒ぎとなる状況に心を痛め続けたのであった。
ある時、長者夫妻は寅子に求婚してきた若者全員を酒宴に呼んだ。いよいよ寅子の婿が決まる時と若者達は勇んで屋敷を訪れた。そして豪勢に盛られた膾を肴にして酒を呑みその時を待ったが、一向に肝心の寅子が現れない。業を煮やした若者達が長者に詰め寄ると、長者は涙ながらに真相を語り出した。
皆の者に求婚され悩み果てた寅子は自害しました。最期に「皆様に等しくこの身を捧げたい」と望んで死にました。先ほど出しました膾こそ、寅子の腿の肉。寅子の遺言通り皆の者に等しく分け与えました。
その言葉を聞いた若者達は言葉を失い、そして己の浅ましさを恥じ、寅子の冥福を祈るために全員で供養塔を建立したという。さらに出家をする者もあり、供養塔が見える土地にそれぞれ自分たちの俗名にちなんだ源悟寺・満蔵寺・慶福寺・正蔵院・多門院を建てたとも伝わる。 
三峯神社
由緒は古く、景行天皇が、国を平和になさろうと、皇子日本武尊を東国に遣わされた折、尊は甲斐国(山梨)から上野国(群馬)を経て、碓氷峠に向われる途中当山に登られました。尊は当地の山川が清く美しい様子をご覧になり、その昔伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉册尊(いざなみのみこと)が我が国をお生みになられたことをおしのびになって、当山にお宮を造営し二神をお祀りになり、この国が永遠に平和であることを祈られました。これが当社の創まりであります。
その後、天皇は日本武尊が巡ぐられた東国を巡幸された時、上総国(千葉)で、当山が三山高く美しく連らなることをお聴き遊ばされて「三峯山」と名付けられ、お社には「三峯宮」の称号をたまわりました。
降って聖武天皇の時、国中に悪病が流行しました。天皇は諸国の神社に病気の平癒を祈られ、三峯宮には勅使として葛城連好久公が遺わされ「大明神」の神号を奉られました。又、文武天皇の時、修験の祖役の小角(おづぬ)が伊豆から三峯山に往来して修行したと伝えられています。この頃から当山に修験道が始まったものと思われます。
天平17年(745)には、国司の奏上により月桂僧都が山主に任じらました。更に淳和天皇の時には、勅命により弘法大師が十一面観音の像を刻み、三峯宮の脇に本堂を建て、天下泰平・国家安穏を祈ってお宮の本地堂としました。
こうして徐々に佛教色を増し、神佛習合のお社となり、神前奉仕も僧侶によることが明治維新まで続きました。
三峯山の信仰が広まった鎌倉期には、畠山重忠・新田義興等が、又、徳川期には将軍家・紀州家の崇敬もあり、殊に紀州家の献上品は今も社宝となっています。又、新田開発にカを尽した関東郡代伊奈家の信仰は篤く、家臣の奉納した銅板絵馬は逸品といわれています。
東国武士を中心に篤い信仰をうけて隆盛を極めた当山も、後村上天皇の正平7年(1352)新田義興・義宗等が、足利氏を討つ兵を挙げ、戦い敗れて当山に身を潜めたことから、足利氏の怒りにふれて、社領を奪われ、山主も絶えて、衰えた時代が140年も続きました。
後柏原天皇の文亀二年(1503)にいたり、修験者月観道満は当山の荒廃を嘆き、実に27年という長い年月をかけて全国を行脚し、復興資金を募り社殿・堂宇の再建を果たしました。
後、天文2年(1533)山主は京に上り聖護院の宮に伺候し、当山の様子を奏上のところ、宮家より後奈良天皇に上奏され「大権現」の称号をたまわって、坊門第一の霊山となりました。以来、天台修験の関東総本山となり観音院高雲寺と称しました。
更に、観音院第七世の山主が京都花山院宮家の養子となり、以後当山の山主は、十万石の格式をもって遇れました。
現在、社紋として用いている「菖蒲菱(あやめびし)」は花山院宮家の紋であります。
やがて、享保5年(1720)日光法印という僧によって、今日の繁栄の基礎が出来ました。「お犬様」と呼ばれる御眷属(ごけんぞく)信仰が遠い地方まで広まったのもこの時代であります。
以来隆盛を極め信者も全国に広まり、三峯講を組織し三峯山の名は全国に知られました。その後明治の神佛分離により寺院を廃して、三峯神社と号し現在に至っています。
山犬信仰(三峯講)
三峰信仰の中心をなしているものに、御眷属(山犬)信仰がある。 この信仰については、「社記」に享保12年9月13日の夜、日光法印が山上の庵室に静座していると、山中どことも知れず狼が群がり来て境内に充ちた。法印は、これを神託と感じて猪鹿・火盗除けとして山犬の神札を貸し出したところ霊験があったとされる。
また、幸田露伴は、三峰の神使は、大神すなわち狼であり、月々19日に、小豆飯と清酒を本社から八丁ほど離れた所に備え置く、と登山の折の記録に記している。
眷属(山犬)は1疋で50戸まで守護すると言われている。文化14年12月14日に各地に貸し出された眷属が4000疋となり、山犬信仰の広まりを祝う式があり、また文政8年12月2日には、5000疋となり同様の祝儀が行われている。
明治後期の文献と思われる「御眷属拝借心得書」には、御眷属を受け、家へ帰られたならば、早速仮宮へ祀られ注連縄を張り、御神酒・洗米を土器に盛り献饌し、不潔の者の立ち入らぬようにされたいとある(仮宮へ祀るのは講で受けた場合で、個人で受けた場合神棚でよいとされる)。 
忍城(おしじょう) / 埼玉県行田市
忍城は四方を池沼によって囲まれ、浮城の別称があった。永正六年(一五〇九)一〇月、連歌師柴屋軒宗長は年来の望みであった奥州白河関を訪れ、その帰途忍城で連歌の千句興行を行った。宗長は「あしかものみきはは雁の常世かな」と詠じ、「水郷也、館のめぐり四方沼水幾重ともなく蘆の霜かれ、廿余町四方へかけて、水鳥おほく見えわたりたるさまなるへし」(『東路の津登』)と、忍城の冬枯れの光景を描写している。
忍城のあった行田ぎょうだ市は、埼玉県北端部のやや東寄りに位置し、北は利根川で群馬県邑楽おうら郡千代田町と境を画する。市域の西部は荒川新扇状地の末端に続き、北部と中部から東部にかけては、妻沼めぬま低地と加須かぞ低地が接する沖積平野からなる。標高一七‐二〇メートルの平坦地が広がり、南境近くを流れる元荒川と利根川の乱流跡に沿って自然堤防が幾条にも形成され、この上に集落や交通路が発達してきた。
市域の南部には、辛亥銘鉄剣などの出土で知られる稲荷山古墳を含む埼玉さきたま古墳群があり、五世紀から六世紀にかけては武蔵の中心地であった。古墳群の北西に忍城跡があり、この辺りから西に隣接する熊谷市、南の北足立郡吹上町、鴻巣市、北埼玉郡川里村にかけては、平安時代末期以降国衙領忍保に含まれていた。在地領主は武蔵国衙の在庁官人の系譜を引くと思われる忍氏であった。
忍城は長尾景春の乱中、文明一一年(一四七九)閏九月二四日の足利成氏書状(別符文書)にみえ、景春を支援する古河公方足利成氏は別符宗幸に対し、忍城の防備について成田顕泰と相談するよう命じている。成田氏は熊谷市東部から行田市西部にかけて所在した成田郷を本貫地とする。始祖助高の嫡男助広が成田氏を継ぎ、次男行隆は別符氏、三男高長は奈良氏、四男助実は玉井氏の始祖となった。
成田氏は忍城を本拠として関東管領上杉氏、新興勢力である小田原北条氏、越後上杉氏との間に二転三転の去就を繰返しながら、親泰・長泰・氏長の三代、約一〇〇年を経た。永禄一二年(一五六九)上杉輝虎(謙信)と小田原北条氏との間で越相同盟が結ばれたが、同盟の破綻後成田氏長は小田原北条氏につき、忍城は北条氏の支城となった(「成田系図」龍淵寺蔵など)。
天正一八年(一五九〇)四月、豊臣秀吉により小田原城が包囲されたが、このとき成田氏長は一千騎を率いて小田原城に詰めており、氏長の叔父泰季を城代とする忍城は、武蔵北東部の北条方の拠点として豊臣方の大軍に激しく抗戦し続けた。城中には五〇〇余の侍・足軽、三〇〇余の雑兵・町人・百姓などが立て籠っていたという(『忍城戦記』など)。攻撃軍の大将は石田三成であったが、要害堅固の忍城を攻めあぐね、「忍之城之儀、(中略)諸勢水攻之用意候て」(六月一三日「石田三成書状」浅野家文書)とあるように、水攻めの戦法をとることになった。
水攻めについては、応仁・文明の乱中の文明一五年(一四八三)八月、畠山義就が河内国十七箇所じゅうしちかしょ(現大阪府寝屋川市)の幕府軍を水攻めにするため、淀川の堤を切って水を深野ふこの池に引入れ、茨田まんだ郡の大半を水没させたのが(『大乗院寺社雑事記』同月二二日・二八日条)、早い例とされる。また秀吉による水攻めは、天正一〇年の備中高松たかまつ城(現岡山市)攻撃のさい長大な堤防を一二日で築き、梅雨で増水中の足守あしもり川の水を引入れて人造湖としたのが(『花房氏記』)、最初といわれる。
忍城の場合、城を土塁で囲んだ中に利根川と荒川の水を引入れる計画が立てられた。六月七日の下見のあと、昼は一人六〇文・米一升、夜は一〇〇文・米一升の米銭で人夫を徴集し、一一日から水を入れたと伝える(『忍城戦記』)。土塁は一四キロにも及び、現在も一部が残存して石田堤とよばれている(県指定史跡)。しかし七月に入っても城は陥ちず、秀吉も「忍面へ早々相越、堤丈夫ニ可申付候」(七月六日「豊臣秀吉朱印状」上杉家文書)などと述べている。小田原城が陥ちたのちも持ちこたえたが、七月中旬激戦の末ついに開城、武蔵の戦国時代は終りを告げた。
天正一八年八月関東に入部した徳川家康は、三河以来の股肱の家臣を要地に配し、忍城には城整備のために松平(深溝)家忠が入った。寛永一六年(一六三九)阿部豊後守忠秋が入城した頃には城の規模も成田氏時代と変わらず、「大木繁り黒々候は本城難知」(石岡道是覚書」阿部家文書)という要害であった。城の北東には中世以来の城下町である行田町が発展をみせていた。元禄年間(一六八八‐一七〇四)以降大名居城としての体裁も整ったが、内曲輪周辺の屋敷地では「居住の士城主の所に出仕するには多く堀中を舟行して赴」き、また「堀幅殊に広くしてなかなか堀を隔ては互に人声のとどかざる程」の場所もあり(『甲子夜話』)、中世の面影を留めていたようである。
明治六年(一八七三)の城破却後は城濠も漸次埋め立てられ、現在は南部の大沼のみが水城公園として整備されている。 
金鑽(かなさな) / 埼玉県児玉郡神川町
神流かんな川は、埼玉県(武蔵国)・群馬県(上野国)・長野県(信濃国)の県境に位置する三国山(一八一八メートル)の北麓に発して、はじめは群馬県域を、その後は群馬・埼玉の両県境沿いに流れを進め、群馬県佐波さわ郡玉村たまむら町と埼玉県児玉こだま郡上里かみさと町の境界で烏からす川に注ぎ、神流川を合わせた烏川はすぐに利根川に合流する。この神流川の中流右岸にそびえる御嶽みたけ山(三四三・四メートル)の北東麓、埼玉県児玉郡神川かみかわ町二にノ宮みやの地に金鑽神社が鎮座する。
金鑽神社に本殿はなく、拝殿から背後の御室みむろ山(御嶽山の一峰)を神奈備かんなび山として遥拝する古い社殿様式である。御嶽山東側中腹の境内地には国の特別天然記念物に指定される「御嶽の鏡岩」があり、文化文政期に成立した紀行文『遊歴雑記』には「金鑽の神社の後の山岸に平かに差出たる大石あり、根張の大きさは土中に埋ミてその程をしらず、表へあらハれし処壱丈五尺に九尺ばかり、柿色にして石面艶よく磨たるが如く光あり、(中略)此石に向へば人影顔面の皺まで明細にうつりて、恰も姿見の明鏡にむかふがごとし」と紹介される。梅雨の一日、筆者は御嶽の鏡岩を見学に神川町へ出かけた。
金鑽神社は『延喜式』神名帳に児玉郡の名神大社「金佐奈カナサナノ神社」とみえる。現在の祭神は天照皇太神・素盞嗚命・日本武尊の三柱で、社蔵の「金鑽神社鎮座之由来記」によると、日本武尊が東征の折に火鑽ひきり金(火打金)を御霊代として山中に納め、天照大神・素戔嗚尊を祀ったのが創始という。社名の金鑽=金佐奈は金砂の意で、鉱物の産出を霊験として崇めたといわれ、御嶽山では鉄や銅が採鉱されたとの伝承もある。同じく文化文政期の幕府官撰地誌『新編武蔵風土記稿』は、一説として祭神を採鉱・製鉄を司る金山彦神としており、古代の製鉄に関わる技術者集団(渡来人か)が周辺に存在し、彼らが金鑽神社の祭祀集団となっていたとの考え方もある。
旧児玉郡域には、製鉄に関連する地名が多く残る。神流川は「かんな」すなわち砂鉄・鉄穴の意とされ、児玉郡美里みさと町阿那志あなしは古くは「穴師」とも記され(「記録御用所本古文書」国立公文書館内閣文庫蔵)、鉄穴師(鉱工業者)に関わるものと考えられている。さらに神社東方の同郡児玉町には金屋かなやの地名が残り、古くから鋳物師の活動が知られる。
埼玉県立博物館が所蔵する懸仏の裏面に、長享二年(一四八八)六月吉日の年紀とともに「武州児玉金屋中林家次」の陰刻があるが、中世以来の金属製美術品は郡域各地に伝えられ、金屋の天龍てんりゅう寺にある宝永八年(一七一一)に倉林氏が鋳造した銅鐘(埼玉県指定文化財)はその代表例とされる。広く知られるように、近世の鋳物師は京都真継家の支配下におかれていたが、文政一一年(一八二八)から嘉永五年(一八五二)にかけての「真継家諸国鋳物師名寄記」(真継文書)には金屋村の倉林治兵衛・中林庄右衛門らの名が載る。
こうした鋳物師集団の存在や関連地名の分布が、すぐに古代の採鉱や製鉄に結び付くものではないが、金鑽神社の周辺にこういった条件が揃うことを考慮すると、神社と製鉄との関連の深さに思いがいたる。
ところで、神流川から取り入れる九郷くごう用水は、現在の児玉郡から本庄ほんじょう市にかけての一帯を潤しているが、この用水の開削伝承にも、金鑽神社が登場する。言い伝えによると、古代、干魃や洪水に苦しめられた当地方のために国造が金鑽神社に祈願したところ、神流川に金色の大蛇が出現し、大蛇が縦横に泳ぎまわった道筋が九郷用水の流路となったという。
用水開削時期については、古代説のほかにも中世の児玉党によるとする説などもあり、明確な見解は得られていない。しかし、流域では古代に開削したとみられる大溝が確認されており、当時かなりの先進技術が導入されていたことは推測される。金鑽神社北方の神流川右岸沿いに分布する青柳あおやぎ古墳群やその他の周辺古墳群の存在は、こうした技術を裏付けているといってもよいだろう。
もちろん採鉱・製鉄と用水開削は異なる分野だが、たとえば「掘削技術」を共通項とすれば、活動は同一の技術者集団によるものと考えることも可能で、その技術者集団の信仰対象が金鑽神社だったという推測も成り立つ。
筆者が訪れた金鑽神社の鳥居の横には「<武蔵二之宮> 金鑽神社」と彫られた巨大な石柱が建ち、目指す鏡岩は拝殿から三五〇メートルほどの急坂を登った御嶽山中腹にあった。約三〇度の傾斜をもつこの岩は八王子はちおうじ構造線が形成された際の断層の一つと考えられている。強い摩擦力によって岩肌が磨かれているが、かなりの部分が苔などで覆われていた。しかし、前夜の雨に濡れた岩肌の露出部分は、確かに前面の杉木立を映し出していた。鏡岩全体は保護のためか鉄柵に囲まれており、『遊歴雑記』が記すように、人影を映すことはなかったものの、同書の描写の確かさはうかがえた。鏡岩の岩質は赤鉄石英片岩で、成分中にはかなりの鉄分が含まれているという。
その後、筆者は御嶽山の山頂に登った。晴れていれば、群馬県の榛名はるなや赤城あかぎの山並も眺められるというが、生憎の梅雨空。それでも山裾の金鑽神社から東方の金屋の家並、そして北方には流下する神流川と水田地帯という眼下に開ける展望は、歴史を追想するには充分なものであった。 
 
 
東京都 / 武蔵

 

茨城栃木群馬埼玉東京千葉神奈川

多摩川に曝す手作りさらさらに 何そこの子のここだ愛かなしき 万葉集
浅草寺 / 台東区浅草
    「とはずがたり」浅草観音・隅田川
推古天皇三六年の三月十八日、宮戸川(隅田川)で三人の漁師が漁をしてゐると、網に観音菩薩の像がかかった。三人の漁師は、もと都の人で、土師はにしの真仲知まなかち(登茂成ともなり)とその従者、桧隈ひのくま浜成・竹成の兄弟だった。像は十人の草刈の童によってあかざ(藜)で屋根を葺いた堂に安置され「日の権現あかざ堂」と呼ばれ、のち浅草寺となった。本堂向かって右の三社権現(浅草神社)には、土師真仲知ら三人がまつられてゐる。浅草神社の三社祭は神田祭、山王祭とともに江戸三大祭といはれる。
○ 浅草や川瀬の淀に引く網も ひろき誓ひにたぐへてぞ見る
○ 鳩鳴くや大堤燈に春の風
○ 慶応のころに古巣を立ちのけど 雷門と名のみ残れり (土産の色紙)
都鳥 / 隅田川
むかし在原業平が東国を旅したとき、隅田川の船から鳥が見えたので、何といふ鳥かと船頭に聞くと、「都鳥」だと答へた。都といふ言葉に京のことが想ひ出されて、歌を詠んだ。
○ 名にし負はばいざ言問こととはむ都鳥 わが思ふ人はありやなしやと 在原業平
言問こととひ橋、業平橋の付近(向島)の牛島神社や三囲みめぐり神社を詠んだ歌句。
○ 牛の御前言問橋もうつりけり 移りがたしもわが旧ごころ 釈迢空
○ 夕立や田を三囲りの神ならば (雨乞の句) 其角
梅若塚 / 隅田川
昔(平安時代)、京の公卿の子に、梅若丸といふ少年がゐた。母が近江の山王権現に祈願して授かった子で、美しく利発に育ち、叡山の稚児となってゐた。梅若が十二歳のとき、人買ひにさらはれ、遠く江戸まで連れ去られてしまった。梅若は故郷の母を慕ふあまりに重い病にかかり、隅田川に捨てられて死んだ。
○ 尋ね来て問はばこたへよ都鳥 隅田河原の露と消えぬと
わが子をたづねて旅に出た母は、気がふれてしまい、一年後に隅田川を訪れて、梅若の塚の前で、嘆き悲しんだといふ。母は尼僧となり、小堂をいとなんで梅若の霊をとむらった。
○ くみしりてあはれと思へ都鳥 子に捨てられし母の心を
梅若丸は山王権現の申し子といはれたことから、塚の背後に、山王権現が祀られた。後にそこに建てられたお寺は、「梅」の字を二つに分けて木母寺といひ、向島の梅の名所となった。(謡曲・隅田川、歌語日本史)
浅茅ヶ原、一つ家の鬼婆 / 浅草
江戸浅草の橋場町あたりは、かつては浅茅ヶ原と呼ばれたさびしい場所であった。
○ 人目さへ枯れてさびしき夕まぐれ 浅茅ヶ原の霜を分けつつ 道興
この近くに鏡が池といふ池があった。池のそばには袈裟懸松があり、采女うねめ塚もあった。采女塚は吉原の遊女を葬ったもので、寛文のころ、采女といふ名の遊女が、僧との悲恋の末に、この松に小袖をかけて、身を投げて死んだ。袖には歌が残してあったといふ。
○ 名をそれと知らずとも知れ猿沢の あとをかがみが池にしづめば 采女
「猿沢のあと」といふのは、奈良の猿沢の池に入水した采女(宮廷の女官)に、己をたとへたやうだ。(奈良「猿沢の池」の段参照)
浅茅ヶ原には、姥が池、石の枕、一つ家の伝説があった。野寺とは観音様のこと。
○ 武蔵には霞が関や一つ家の 石の枕や野寺あるてふ 伝白河院
むかし浅茅ヶ原に老夫婦がゐた。夫婦は、娘の器量の良いことに遊女に仕立て、道を行く男を誘った。男と娘が里のはづれの石を枕に共寝をしたころ、夫婦は男の頭を打ち砕いて殺し、衣類や持ち物などすべてを奪って、生計を立ててゐた。娘はかうした暮らしがいやになり、父母をだまさうと思って、客を取ったふりをして、自分は男のなりをしていつもの枕に寝た。いつもの通り夫婦が頭を打ち砕き、着物を脱がしてみれば、わが娘であったといふ。悪事を恥ぢた老婆は、竜に化身して池に身を投げた。その池は、姥が池(姥が淵)といふ。老婆の悪事を憐れんだ浅草の観音さまが、草刈の童の姿で笛を吹くと、その音は歌に聞えたといふ。
○ 日は暮れて野には臥すとも宿借らじ 浅草寺の一つ夜(家)のうち
不思議なこの笛の音は、道を行く旅人の行く末を守ったものといふ。
神田明神 / 千代田区外神田
    神田神社(平将門) 
神田神社の社記によると、奈良時代には千代田区大手町の将門塚の付近に最初の宮があったらしい。それから約二百年後に、平将門の乱がおこり、将門は敗れて首を京都のはづれに晒されたが、一族がその首を奪って神田に塚を築いて葬った。のち鎌倉時代の末に塚の近くに社殿が建てられ、土地の神とともに将門の霊もまつられたといふ。徳川時代に入り江戸の町が開けたころ、神田明神は江戸の鎮守として将軍家にも信仰され、将門に対しても八所御霊(早良親王以来の八柱の御霊)の例にならって、国家鎮護の神として朝廷に認められたといふ。
○ 泣きつれて声よりこゑもますらをの 心にかへる夜半の雁がね 太田道潅
笠森お仙 / 台東区谷中
谷中の笠森稲荷のそばの茶屋に、お仙といふ評判の美人の娘がゐた。お仙見たさに江戸中から男たちが集まり、稲荷さまも茶屋もたいへんな繁昌だったらしい。お仙はもと武州草加の貧しい名主の生れで、茶屋に売られて養女となった。養父に横恋慕され、若い男とかけおちしたともいふ。
○ 向こう横丁のお稲荷さんへ一銭あげて ちょっとおがんでお仙のお茶屋へ
 腰をかけたら渋茶を出して 渋茶よこよこ横目で見たら
 お米のだんごかお土のだんごか おだんごだんご
 このだんごを犬にやろうか猫にやろうか とうとうとんびにさらわれた   (手鞠唄)
諸歌
○ 亀戸の藤も終りと雨の日を から傘さしてひとり見に来し 伊藤左千夫
亀戸の龍眼寺(萩寺)
○ 萩寺の萩おもしろし露の身の 奥津城おくつきどころ此処ここと定めむ 落合直文
千代紙塚王子駅前
○ 千代紙のうつくしき見れば忘れゐし 幼きときにあふ心地する 東久迩宮総子
秋色桜上野清水堂の井戸端にある桜。女流俳人の秋色が植ゑたといふ。
○ 井戸ばたの桜あぶなし酒の酔 秋色
竹芝の里 / 港区三田(または埼玉県大宮市)
以下は亀塚神社由緒記よりほぼそのまま引用する。更級日記が元になってゐるやうだ。

武蔵国住人某(竹芝某)、衛士にて禁中奉仕せるが、或る時御庭にてふと古郷のことども思ひ浮かべて、我ともなく、
「鳴呼、我が古里に七つ三つ造りし酒壷にさしわたしたるひた柄のひさごの、南風吹けば北になびき、北風吹けば南になびき、西吹けば東になびき、東吹けば西になびく。今は如何にあらん」
と東の空眺めて望郷の涙に目を曇らす折柄、時の御帝最愛の皇女宮、唯御ひとり御簾の際に立ち出で給ひて、柱に寄掛かり、御庭を御覧じおはしませしが、今衛士の独言をもの珍しく聞こし召されて、御簾を押し明けられ、「彼の男こちへ寄れ」と召されければ、衛士は高欄のつらに参りてかしこまりぬるに、宮は「そなたの言ひつる事、今一度我に言ひて聞かせよ」と仰せられければ、彼の酒壷の事どもまたさらに一返し申し上げたりけるに、宮は如何思ひて召し給ひけるにや、「我を連れ行きてその壷見せよ。我に思ふ仔細あり」と仰せられけり。衛士は畏こく恐ろしと思ひけれども、過ごし世の縁にや、終に心を決してひそかに宮を背負ひ奉りて武蔵国へ下向せり。便りなく人の追ひや来らんと思ひて、その夜幾多の橋の本に宮を居たてまつりて橋をこぼち、また揆き負ひ奉りて七日七夜といふに無事に古里に行き著きにけり。
都にては皇女の宮の失せ給ひぬと思し迷ひて、厳しく探し求め給ふに、武蔵国より召されたる衛士のいと麗はしきものを首に引きかけて飛様に逃げたると、申し訴へたるものあり。衛士を尋ぬるに無かりければ、論なく本国にこそ行きしならむと、公よりの使ひ下りて追ふに、幾多の橋こぼれて得行きやらず。三月といふに武蔵国に行きつきて此男尋ぬるに、宮は公の使ひを召して仰せけるは、「我いかなる縁にや、此男の家ゆかしく思ひて、連れていけと言ひしかば、連れて来りてみれば、思ふにまして住み心地よく覚ゆ。若し此男罰せらるれば、我はいかで世にあらむ。是れも此国に跡垂るべき前の世の約束にあるらん。早く帰りて公に此由を奏し奉れ」と仰せられ、動かし給はねば、御使ひもせんかたなく空しく帰り上りて、帝にかくとありのままを奏しければ、今はいひかひなし。
竹柴の男に世にあらん限り武蔵国を預けとらせ、宮を預け奉るのよし宣旨下りければ、此男の家を内裡のごとく造りて宮を住まはせ奉りける。宮失せたまひぬる後、寺になしたるを竹芝寺といふなり。
其頃より彼の酒壷のもとに白色の霊亀あり。国人崇め敬ひて神に祀り、和合豊熟を祈り奉るに、立願立ちどころに成就し、霊験響きの物に応ずるが如し。是れぞ亀塚稲荷神社の間輿なりとぞ。

○ 月見酒下戸と上戸の顔見れば 青山もあり赤坂もあり から衣橘州
更級日記にいふ竹芝寺は、港区三田の済海寺の場所にあったといふ。ところが別の説もあって、埼玉県大宮市の氷川神社付近だともいふ。竹柴の男と皇女(宮)の間の子は、武蔵国を預り、武蔵の姓を賜ったと更級日記にある。武蔵姓の一族が氷川神社周辺に住んだらしい。
烏森稲荷 / 港区新橋
天慶三年(940)、平将門の乱のとき、藤原秀郷(俵藤太)が、武蔵国のある稲荷明神に戦勝を祈願したところ、白狐が現はれて白羽の矢を授けた。この矢で秀郷は将門のこめかみを射たといふ。のち秀郷の夢に現はれた白狐が、神烏の群れるところが稲荷神の霊地だと告げたので、秀郷はその地を求めて武州桜田村の森に至り、森の上空に烏の群を見て社殿を建ててまつった。これが烏森からすもり稲荷(烏森神社)の起りであるといふ。
明暦三年(1657)の大火(振袖火事)では、不思議にも烏森稲荷だけは類焼を免れた。
○ くろやきになるべき烏森なれど やけぬは神のいとく成りけり
塵塚お松 / 港区三田
宝暦(1751-64) のころ、三田の三角といふところの岡場所に、お松といふ私娼がゐた。塵塚(ごみ捨場)の近くだったので、塵塚お松、別名はきだめのお松とも呼ばれ、賎しい男たちを相手にしてゐた。ところがお松は場所に似合はぬ美貌で、そのものごしの和らかさからも育ちの良さをうかがはせ、美しい筆跡で和歌も詠んだ。ある武士が珍しがってお松のところをを訪れ、題に困って「塵塚お松」を題に歌を求めたが、お松はさらっと詠んで見せたといふ。
○ 塵塚の塵にまじはる松虫も 声は涼しきものと知らずや お松
お松は阿波藩の武士と結婚したともいふが、その後の消息は不明のやうだ。
暗闇坂むささび変化 / 港区麻布十番
○ 所は東京麻布十番 折しも昼下がり 暗闇坂は蝉時雨…… 松本隆
麻布界隈には坂が多く、麻布十番には狸穴坂まみあなさかがある。江戸のころまで坂の周囲に鬱蒼とした森があり、その中に狸の穴があったといふ。明治以来外国領事館などが建ち並び、麻布は高級住宅街となっていった。歌や詩は、本来は音声や音楽やそのほかの文字以外のものをともなふものである。音楽といへば欧米音楽のその圧倒的な影響力の中で、戦後の詩人はおぼろげな何かを見たらしい。暗闇坂は実在するともいふが、故郷であったはずの地に見た仮装都市の中の暗闇坂が、その入口だったのだらう。「暗闇坂むささび変化」の作曲は細野晴臣。
面影橋 / 新宿区早稲田
明応のころ、高田の里に生まれた於戸姫おとひめといふ美しい女が、嫁いだ夫と、横恋慕してきた夫の友人との争ひから二人を死なせ、里へ帰って、神田川の橋のたもとで行きつ戻りつして、橋から身を投げたといふ。新宿区早稲田の面影橋である。
○ 変りぬる姿見よとや行く水の うつす鏡の影にうらみし 於戸姫
○ 限りあれば月も今宵は出でにけり 今日見し人も今は亡き世に 於戸姫
面影橋のたもとには太田道潅ゆかりの「山吹之里」の碑がある。
    七重八重
○ 七重八重花は咲けども山吹の みの一つだになきぞかなしき
成就庵 / 品川区 戸越八幡神社
むかし戸越村(品川区戸越)の籔清水の池の傍らに小さな草庵があった。大永六年(1526)八月、諸国行脚の僧・行永法師がこの庵に立ち寄った夜のことである。法師が十五夜の月を眺めてゐると、突然、池から清水が激しく湧き出して、水中から何か像のやうなものが現はれた。掬ひあげてよく見ると、八幡大菩薩の神像である。法師はこれを草庵に安置してまつった。以来、願ひごとがよく成就するので「清水の上の成就庵」といはれ、江戸からの参詣人も多かったといふ。
○ 江戸越えて清水の上の成就庵 ねがひの糸のとけぬ日はなし 古歌
「江戸越え」から、戸越の地名が起ったといふ。元禄元年に社地を遷して鎮守としてまつったのが戸越八幡神社である。
千束の松 / 大田区 千束八幡神社
千束八幡神社は、貞観二年(860)に豊前国の宇佐八幡を勧請して、千束郷の総鎮守として創祀されたものといふ。約八十年後の平将門の乱のとき、鎮守副将軍として都から派遣された藤原忠方は、乱の平定後に、洗足池(千束池)のほとりに館を建てて土着し、八幡宮を氏神とした。忠方の館は池の上手なので、池上氏を名告った。境内には大松があったといふが、大正十三年に枯衰したらしい。
○ 日が暮れて足もと暗き帰るさに 空に映れる千束の松
恋が窪 / 国分寺市
むかし武州畠山(埼玉県川本町)の荘司、畠山重忠は、鎌倉街道の国分寺宿の遊女夙妻太夫と恋仲となった。寿永二年(1183)、木曽義仲追討のために重忠は京へ出陣し、長く国を離れることになった。その間、太夫に横恋慕した家来の「殿は討死に」の偽りの知らせに、夙妻太夫は悲嘆して「姿見の池」に身を投げてしまった。のち平氏を滅ぼして凱旋した重忠は、国分寺宿を訪れてその事情を聞き、太夫を憐れんで池の傍らに松を植ゑた。この松は、葉が一本しか生へなかったといひ、「一葉松」と呼ばれた。この土地はいつの頃からか「恋が窪」と呼ばれるやうになった。
○ 朽ち果てぬ名のみ残りて恋が窪
諸歌
○ 玉川の流れを引ける小金井の 桜の花は葉ながら咲けり 正岡子規
青梅市沢井
○ 西多摩の山の酒屋の鉾杉は 三もと五もと青き鉾杉 北原白秋
多摩川べりに住んだ画家の川合玉堂は、ある日、孫が桂川(山梨県)で拾ってきた石が、色、形ともよい凹みのある石なので、そのまま硯にしたといふ。「白頭翁の硯」と名づけた。
○ 河狩りに孫の拾ひしこの小石 すずりになりぬ歌書きて見し 川合玉堂
小河内村 小河内ダムがある
○ 水底とつひに沈まむみ湯どころ 小河内の村に一夜寝にけり 北原白秋 
○ 亀戸の藤も終りと雨の日を から傘さしてひとり見に来し 伊藤左千夫
亀戸の龍眼寺(萩寺)
○ 萩寺の萩おもしろし露の身の 奥津城(おくつき)どころ此処(ここ)と定めむ 落合直文
千代紙塚/王子駅前
○ 千代紙のうつくしき見れば忘れゐし 幼きときにあふ心地する 東久迩宮総子
秋色桜/上野清水堂の井戸端にある桜。女流俳人の秋色が植ゑたといふ。
○ 井戸ばたの桜あぶなし酒の酔 秋色
 

 

茨城栃木群馬埼玉東京千葉神奈川

武蔵 / 武蔵の国。現在の東京都、埼玉県と神奈川県の北東部。
○ 玉にぬく露はこぼれてむさし野の草の葉むすぶ秋の初風
○ 汲みてしる人もあらなむおのづからほりかねの井の底の心を
○ むかしおもふ心ありてぞながめつる隅田河原のありあけの月
○ 和らぐる光を花にかざされて名をあらはせるさきたまの宮
「むさし野」 武蔵野。現在の東京都、埼玉県及び神奈川県の一部を含めた広範な地域を指す。古来からたくさんの歌に詠まれてきた。 
「ほりかねの井」堀兼の井。武蔵の歌枕。埼玉県狭山市堀兼にある井戸といいます。
「隅田河原」武蔵の歌枕。隅田川は武蔵の国と下総の国の堺を流れる川。在原業平の歌が有名で(都鳥)とともに詠まれることが多い。
「さきたまの宮」埼玉県行田市埼玉の前玉神社のこと。
東路・あづま
東國修行の時、ある山寺にしばらく侍りて
○ 山高み岩ねをしむる柴の戸にしばしもさらば世をのがればや
○ 東路やあひの中山ほどせばみ心のおくの見えばこそあらめ
○ 東路やしのぶの里にやすらひてなこその關をこえぞわづらふ
○ 入りぬとや東に人はをしむらむ都に出づる山の端の月
○ 白河の關路の櫻さきにけりあづまより來る人のまれなる
北まつりの頃、賀茂に參りたりけるに、折うれしくて待たるる程に、使まゐりたり。はし殿につきてへいふしをがまるるまではさることにて、舞人のけしきふるまひ、見し世のことともおぼえず、あづま遊にことうつ、陪從もなかりけり。さこそ末の世ならめ、神いかに見給ふらむと、恥しきここちしてよみ侍りける
○ 神の代もかはりにけりと見ゆるかな其ことわざのあらずなるにて
○ あづまへまかりけるに、しのぶの奥にはべりける社の紅葉を
○ ときはなる松の緑も神さびて紅葉ぞ秋はあけの玉垣
あづまの方へ修行し侍りけるに、富士の山を見て
○ 風になびく富士の煙の空にきえて行方も知らぬ我が思ひかな
あづまの方へ、相知りたる人のもとへまかりけるに、さやの中山見しことの、昔になりたりける、思ひ出でられて
○ 年たけて又こゆべしと思ひきや命なりけりさやの中山
あひ知りたりける人の、みちのくにへまかりけるに、別の歌よむとて
○ 君いなば月待つとてもながめやらむあづまのかたの夕暮の空
「あひの中山」どこか不明。駿河、相模、伊勢にあるといいます。相模の歌枕です。
「しのぶの里」陸奥の歌枕。福島県福島市。「信夫ずり」で有名。「信夫の摺り衣、もじずり」の言葉を入れて詠まれている歌も多い。
「なこその關」陸奥の歌枕。福島県いわき市。白河・念珠の關とともに奥州三關。
「白河」 陸奥の歌枕。陸奥の入り口にあたる。福島県白河市。
「あづま遊び」舞楽の題名。現在も八坂神社などで演じられている。  
「富士」駿河の國の歌枕。富士山のこと。静岡県と山梨県にまたがる日本最高峰。
「さやの中山」静岡県掛川市にある。遠江の歌枕。東海道の難所。
「みちのく」陸奥の國のこと。 
その他地方
○ めづらしなあさくら山の雲井よりしたひ出でたるあか星の影
○ 夕されやひはらの嶺を越え行けば凄くきこゆる山鳩の聲
○ ふる畑のそばのたつ木にをる鳩の友よぶ聲の凄き夕暮
○ いたけもるあまみか時になりにけりえぞが千島を煙こめたり
○ いまもされなむかしのことを問ひてまし豐葦原の岩根このたち
「あさくら山」舞楽の題名。九州の実在の朝倉山の説がある。
「ひはらの嶺」ヒノキの原の嶺のこと。夫木抄に「たはらのみね」とあり、山城の宇治田原のことか・・・?
「ふる畑」不明。(古畑)として紀伊と大和の国境近くの地名という。
「えぞが千島」不明。陸奥の海岸地方を指すか・・・?。それとも北海道の島々を指すか?
「豊葦原」日本の国の古い別称。
「をりたる崎」不明。 
武蔵
ほりかねの井(堀兼之井、堀難井之井) いかでかは 思ふ心は 堀かねの 井よりも猶ぞ 深さまされる (『伊勢集』、伊勢)
埼玉県狭山市堀兼に「堀兼之井」の旧跡が現存するが、「ほりかねの井」が特定の井戸を指すものかどうかについては不詳。狭山市堀兼の「堀兼之井」は「まいまいず井戸」と呼ばれる構造を持っており、同一の構造を持つ井戸は武蔵野台地上に点在する。これらの井戸全般を指す一般名詞とも見られる。みよし野 みよし野の たのむの雁も ひたぶるに 君が方にぞ よると鳴くなる(『伊勢物語』)わが方に よると鳴くなる みよし野の たのむの雁を いつか忘れむ(同上)
比定地については埼玉県川越市的場、同じく伊佐沼、坂戸市三芳野と説が分かれる。
現東京都
隅田川(すみだがわ) / 『新勅撰和歌集』初出(詞書では『古今和歌集』初出)。わがおもふ 人に見せばや もろともに 隅田川原の 夕暮れの空(『新勅撰和歌集』)名にしおはば いざ言問はむ みやこ鳥 我が思ふ人は ありやなしやと (『伊勢物語』)
武蔵野(むさしの) / 『万葉集』に初出。行く末は 空もひとつの 武蔵野に 草の原より 出づる月かげ(『新古今和歌集』、藤原良経)武蔵野は 月の入るべき 山もなし 草よりいでて 草にこそ入れ (『万葉集』) 
浅茅ヶ原の鬼婆1
(あさぢがはらのおにばば) 東京都台東区花川戸に伝わる鬼婆の伝説。「一つ家の鬼婆(ひとつやのおにばば)」ともいう。
用明天皇の時代の頃。花川戸周辺に浅茅ヶ原と呼ばれる地があり、奥州や下総を結ぶ唯一の小道があったが、宿泊できるような場所がまったくない荒地で、旅人たちは唯一の人家であるあばら家に宿を借りていた。この家には老婆と若く美しい娘が2人で住んでいたが、実は老婆は旅人を泊めると見せかけ、寝床を襲って石枕で頭を叩き割って殺害し、亡骸は近くの池に投げ捨て、奪った金品で生計を立てるという非道な鬼婆だった。娘はその行いを諌めていたが、聞き入れられることはなかった。
老婆の殺した旅人が999人に達したある日、1人旅の稚児が宿を借りた。老婆は躊躇することなく、寝床についた稚児の頭を石で叩き割った。しかし寝床の中の亡骸をよく見ると、それは自分の娘だった。娘は稚児に変装して身代わりとなり、自分の命をもって老婆の行いを咎めようとしていたのだった。
老婆が自分の行いを悔いていたところ、家を訪れていた稚児が現れた。実は稚児は、老婆の行いを哀れんだ浅草寺の観音菩薩の化身であり、老婆に人道を説くために稚児の姿で家を訪れたのだった。その後は、観音菩薩の力で竜と化した老婆が娘の亡骸とともに池へ消えたとも、観音菩薩が娘の亡骸を抱いて消えた後、老婆が池に身を投げたとも、老婆は仏門に入って死者たちを弔ったともいわれている。
老婆が身を投げたという池は「姥ヶ池(うばがいけ)」と呼ばれて後に伝えられており、かつては隅田川に通じるほど大きな池だったが、明治時代に大部分が埋め立てられている。また浅草寺の子院・妙音院には、鬼婆が旅人を殺害する際に用いたといわれる石枕が寺宝として伝えられ、鬼婆の天井絵馬もあるが、ともに公開は行われていない。
浅茅ヶ原の鬼婆2
浅草寺本坊の伝法院にある石棺は、明治二年に観音堂裏の熊谷稲荷社の塚をくずすときに発見されました。このことから古墳時代末期には浅草寺あたりに人が住んでいたことが確認されます。承応縁起に書かれた「浅茅ヶ原ひとつ家」は浅草寺創建の頃の話なので、浅茅ヶ原伝説もまたかなり古くからあったことがわかります。
室町時代に道興准后(どうこうじゅごう)が「この里のほとりに石枕といへるふしぎなる石あり」と『廻国雑記』(1487頃)に書いています。この石枕とは、老婆が美しい娘を使って旅人を招きよせ、石枕で客の頭をたたき割り、その金品を奪っていたという「浅茅ヶ原鬼婆伝説」の石枕のことです。
『江戸名所図会』によると、『廻国雑記』に書かれているエピソードは一般に流布しているものと異なります。鬼婆の単独犯ではなく、両親による共犯なのです。娘も美女というほどではなく、「容色おおかた世の常なり」となっています。美人すぎるとかえってあやしまれるのでしょう。
こうしてこの家族は悪事を重ねていくのですが、娘はしだいに耐えられなくなってきます。「あなあさましや、幾ほどもなき世の中に、かかるふしぎのわざをして、父母もろともに悪種に堕して、永劫沈淪せんことのかなしさ」と嘆き、「父母を出しぬこう」と決意をかためます。
「道行く人あり」と告げて、娘は石に臥せました。いつものように両親は旅人を殺します。しかしそこに人がひとりしかいないことに気づき、それが娘であることがわかったのです。後悔した両親はすみやかに発心し、たびたびの悪業をも慚愧懺悔して、娘の菩提を弔ったのでした。
鬼婆伝説は鬼子母神の説話とよく似ています。物語自体は仏教説話のバリエーションといえるでしょう。しかしこのことから、古くより(用明天皇の時代の6世紀となっている)浅草寺のあたりが交通の要衝であったことがわかります。
江戸時代の古地図を見ると、たしかに浅草寺の南に鬼婆が死体を投げ入れたという姥が池があります。かつては隅田川に通じていたというから、もとはもっと大きな池だったのでしょう。あたりは茅(かや)ばかりの原が広がり、そのなかの道を歩くのは怖かったでしょう。実際、旅人を襲う強盗は多かったのです。
『遊歴雑記』には「里諺にいいつたふ、日はくるる野には臥すとも宿からじ浅草寺の姥が庵に」という歌がのっています。浅草寺には賑わいがあっても、すぐその隣には鬼婆の潜む暗闇の世界があったのです。 
梅若丸と木母寺
平安時代の中頃、吉田少将惟房と美濃国野上の長者の一人娘・花御膳の間には梅若丸という男の子がありました。若くして吉田少将がこの世を去った後、梅若丸は比叡山月林寺で修行に励むようになります。
しかし、同輩との諍いが原因し、月林寺を下山した梅若丸は、琵琶湖のほとり大津の浜(現・滋賀県)で人買いの信夫藤太と出合います。信夫藤太は梅若丸を売り払おうと考え、奥州(現・福島県)へと旅を始めます。
長い旅を続けて二人が 武蔵国と下総国の間を流れる隅田川の東岸 関屋の里までやって来た時です。梅若丸は幼い身での長旅の疲れから重い病気にかかり、動くことができなくなってしまいました。
信夫藤太はそんな梅若丸を置き去りにしたのです。
関屋の里人たちに見まもられ、いまわの際に
尋ね来て 問わば応えよ 都鳥 隅田川原の 露と消えぬと
という辞世の句を残し、貞元元年三月十五日、梅若丸はわずか12歳の生涯を閉じてしまうのです。
一方、梅若丸の失踪を知った花御膳は狂女と化し、我が子を探しさまよい歩きました。
信夫藤太と梅若丸から遅れること一年、隅田川の西岸までたどり着いた花御膳は、川をわたる舟の中から、東岸の柳の下に築かれた塚の前で大勢の里人が念仏を唱えている光景を目にします。舟から上がった花御膳に問われるままに里人は、当時12歳の梅若丸という幼子が病気になり、此の地で亡くなったのが、ちょうど一年前の今日であり、塚を築き、柳一株を植えて供養しているところだと告げます。
「其は我子なり 梅若丸は此処にて果てたるか」
探し求めた我が子がすでに他界していたことを知った花御膳は深く嘆き悲しみながらも、里人たちとともに菩提を弔います。その後、塚の傍らに庵が建てられ、花御膳が暮し始めますが、悲しみに耐えきれず水面に身を投げ、自ら命を断ってしまったそうです。
墨田区堤通の梅柳山木母寺は、梅若丸を供養するために建てられた庵が起源とされています。元は隅田院梅若寺と呼ばれていましたが、天正18年(1590年)、徳川家康によって、梅若丸と塚に植えられた柳に因み、「梅柳山」の山号が与えられたそうです。その後、梅の字の偏と旁を分け「木母寺」となったそうです。 
隅田川と梅若伝説
桜に縁のある能の一つに「隅田川」がある。これは別に桜が主題であるわけではなく、舞台にもそれらしき様子は現れないが、時期をことさらに旧暦三月の十五日に設定し、隅田川の堤を舞台にしているので、それを見る観客は、おのずから心の目に桜を見ながらこの曲を聴くこととなる。物語に展開される余りにも哀れで悲しい運命が、桜の花のおぼろげな雰囲気と対象をなして、聞くもの見るものに、ひとしお悲しい思いをさせるのである。
能「隅田川」は人買いにさらわれた子どもの悲しい運命と、その子を捜し求める母親の絶望をテーマにした物語である。能には失った子どもを捜し求める同様のテーマをあつかったものが他にも四つばかりあるが、それらのいずれもが、親子の再開が実現し、ハッピーエンドで終わっているのに対し、この曲ばかりはそうならない。母親は子どもの死に接して絶望するのである。
能には人間の絶望をテーマにしたものはそう多くはない。それだけにこの曲は異彩を放っているばかりか、人間の悲しい運命に対して日本人が抱いていた感情を、ドラマティックな形で表しえている。
作者は世阿弥の長男観世元雅である。元雅は父の世阿弥が幽玄の能を追求したのとは異なり、現実を見据えたリアリスティックな作品を多く作った。形式も現在能の形を取り入れ、物語性を強く意識したものが多い。
この作品は元雅の代表作といえるものだが、元雅が何を典拠にしてこの曲を書いたかは明らかではない。恐らく彼の創造になるものだろう。だが曲の内容が余りにも迫真性を帯びていたために、これを見た人々は、現実にあった話だと思い込んでしまった。そこから梅若伝説が生まれ、それをもとに隅田川のほとりに梅若を祀る寺まで建てられた。木母寺という寺がそれで、そこには梅若塚というものまで設けられている。
梅若の母親は、能「班女」の主人公花子の後の姿だと設定されている。「班女」は父世阿弥が書いた作品である。元雅はそれとかかわらせることで、物語に一定のリアリティを付与しようとしたのかもしれない。
舞台を隅田川に設定したのは、業平の伝説と結びつけることで、曲に色を添えようと思ったのであろう。これ以後、業平と梅若が結びつくことで、隅田川は文学的な情緒と深く結びつくようになった。
まず舞台正面に舟の作り物が置かれ、その脇でワキの船頭が口上を述べる。
ワキ「これは武蔵の国隅田川の渡守にて候。今日は舟を急ぎ人々を渡さばやと存じ候。又此在所にさる子細有って。大念仏を申す事の候ふ間。僧俗を嫌はす人数を集め候。其由皆々心得候へ。
「今日は」のところは「コンニッタ」、「大念仏を」のところは「ダイネンブット」と発音する。当時の音便を能は保存しているのである。そこへ、先を急ぐ旅人が舟に乗り込んでくるが、道々面白い女物狂いを見たといって、船頭に話しかける。
ワキツレ「末も東の旅衣。末も東の旅衣。日も遥々の心かな。かやうに侯ふ者は。都の者にて候。我東に知る人の候ふ程に。後の者を尋ねて唯今まかり下り候。
道行「雲霞。あと遠山に越えなして。あと遠山に越えなして。いく関々の道すがら。国々過ぎて行く程に。こゝぞ名におふ隅田川。渡に早く着きにけり。渡に早く着きにけり。
詞「急ぎ候ふ程に。これは早隅田川の渡にて候。又あれを見れば舟が出で候。急ぎ乗らばやと存じ候。如何に船頭殿舟に乗らうずるにて候。
ワキ詞「なか/\の事めされ候へ。先々御出候後の。けしからず物騒に候ふは何事にて侯ふぞ。
男「さん候。都より女物狂の下り候ふが。是非もなく面白う狂ひ候ふを見候ふよ。
ワキ「さやうに候はゞ。暫く舟を留めて。彼の物狂を待たうずるにて候。
女物狂いの話に興味を持った船頭は、女がやってくるかも知れぬと思い、しばらく舟を出すのをためらう。するとそこへうわさの女物狂いが現れる。
シテサシ一声「実にや人の親の心は闇にあらねども。子を思ふ道に迷ふとは。今こそ思ひしら雪の。道行人に言づてゝ。行方を何と尋ぬらん。聞くや如何に。上の空なる風だにも。
地「松に音する。習あり。
(カケリ) ここでシテは、舞台を一巡するカケリを演ずるが、その間幾度かテンポを狂わせる動作をして、心の乱れているさまを表出する。
シテ「真葛が原の露の世に。
地「身を恨みてや。明け暮れん。
シテサシ「これは都北白河に。年経て住める女なるが。思はざる外に独子を。人商人に誘はれて。行方を聞けば逢坂の。関の東の国遠き。東とかやに下りぬと聞くより心乱れつゝ。そなたとばかり。思子の。跡を重ねて。迷ふなり。
地下歌「千里を行くも親心子を忘れぬと聞くものを。
上歌「もとより契仮なる一つ世の。契仮なる一つ世の。其中をだに添ひもせで。こゝやかしこに親と子の。四鳥の別これなれや。尋ぬる心の果ならん。武蔵の国と下総の中にある隅田川にも。着きにけり隅田川にも着きにけり。
女は自分の身の上にふれ、人買いにかどわかされて生き別れになった息子を探し求めて、はるばる隅田川までやってきたのだと述べる。
女は舟に載せてくれと頼むが、船頭は面白く狂わねば船には乗せぬと意地悪をする。それに対して女は当意即妙な受け答えをして船頭を感心させる。
シテ詞「なう/\我をも舟に乗せて賜はり候へ。
ワキ詞「おことは何くよりも何方へ下る人ぞ。
シテ「これは都より人を尋ねて下る者にて候。
ワキ「都の人といひ狂人といひ。面白う狂うて見せ候へ。狂はずは此舟には乗せまじいぞとよ。
シテ「うたてやな隅田川の渡守ならば。日も暮れぬ舟に乗れとこそ承るべけれ。かくの如く都の者を。舟に乗るなと承るは。隅田川の渡守とも。覚えぬ事な宣ひそよ。
ワキ詞「実に/\都の人とて。名にし負ひたる優しさよ。
シテ「なう其詞はこなたも耳に留るものを。彼の業平も此渡にて。名にしおはゞ。いざ言問はん都鳥。我が思ふ人は有りやなしやと。
詞 なう舟人。あれに白き鳥の見えたるは。都にては見馴れぬ鳥なり。あれをば何と申し候ふぞ。
ワキ「あれこそ沖の鴎候ふよ。
シテ「うたてやな浦にては千鳥とも云へ鴎とも云へ。など此隅田川にて白き鳥をば。都鳥とは答へ給はぬ。
ワキ「実に/\誤り申したり。名所には住めども心なくて。都鳥とは答へ申さで。
シテ「沖の鴎とゆふ波の。
ワキ「昔にかへる業平も。
シテ「有りや無しやと言問ひしも。
ワキ「都の人を思妻。
シテ「わらはも東に思子の。ゆくへを問ふは同じ心の。
ワキ「妻をしのび。
シテ「子を尋ぬるも。
ワキ「思は同じ。
シテ「恋路なれば。
地歌「我もまた。いざ言問はん都鳥。いざ言問はん都鳥。我が思子は東路に。有りやなしやと。問へども/\答へぬはうたて都鳥。鄙の鳥とやいひてまし。実にや舟ぎほふ。堀江の川のみなぎはに。来居つゝ鳴くは都鳥。それは難波江これは又隅田川の東まで。思へば限なく。遠くも来ぬるものかな。さりとては渡守。舟こぞりて狭くとも。乗せさせ給へ渡守。さりとては乗せてたび給へ。
以上の場面は、伊勢物語の「都鳥」の段を踏まえ、一曲に花を添えているところだ。
船頭はいよいよ船を出す。対岸に大勢の人手があるのを不審に思った旅人がそのわけを訪ねると、船頭はこれには深いわけがあるのだと返す。
ワキ「かゝるやさしき狂女こそ候はね。急いで舟に乗り候へ。この渡は大事の渡にて候。かまひて静かに召され候へ。
男詞「なうあの向の柳の本に。人のおほく集まりで候ふは何事にて候ふぞ。
ワキ詞「さん候あれは大念仏にて候。それにつきてあはれなる物語の候。この舟の向へ着き候はん程に語つて聞かせ申さうずるにて候。
ここで船頭は、櫓を漕ぐ仕草もゆったりと、昨年の同月同日に、人買いに伴われた幼い子が、ここで俄かに病気にかかり、先へ進めなくなったところを、残忍な人買いたちに捨てられて、ついに息絶えた様子をしみじみと語りだす。
語「さても去年三月十五目。しかも今日に相当て候。人商人の都より。年の程十二三ばかりなる幼き者を買ひとりて奥へ下り候ふが。此幼き者。いまだ習はぬ旅の疲にや。以ての外に遺例し。今は一足も引かれずとて。此川岸にひれふし候ふを。なんぼう世には情なき者の候ふぞ。此幼き者をば其まゝ路次に捨てゝ。商人は奥へ下つて候。さる間此辺の人々。此幼き者の姿を見候ふに。よし有りげに見え候ふ程に。さまざまに痛はりて候へども。前世の事にてもや候ひけん。たんだ弱りに弱り。既に末期と見えし時。おことはいづく如何なる人ぞと。父の名字をも国をも尋ねて候へば。我は都北白河に。吉田の何某と申しゝ人の唯ひとり子にて候ふが。父には後れ母ばかりに添ひ参らせ候ひしを。人商人にかどはされて。かやうになり行き候。郡の人の足手影もなつかしう候へば。此道の辺に築き籠めて。しるしに柳を植ゑて賜はれとおとなしやかに申し。念仏四五返称へつひに事終つて候。なんぼうあはれなる物語にて候ふぞ。見申せば船中にも少々都の人も御座ありげに候。逆縁ながら念仏を御申し候ひて御弔ひ候へ。よしなき長物語に舟が着いて候。とう/\御上り候へ。
ワキツレ「いかさま今日は此所に逗留仕り候ひて。逆縁ながら念仏を申さうずるにて候。
対岸に着いた船頭は、船中の客に下りるよう促すが、あの狂女のみはいつまでも下りようとしない。その不幸な幼子こそ自分の探し求める息子だと知った狂女は、そのときの様子をもっと詳しく知りたがる。
ワキ「いかにこれなる狂女。何とて船よりは下りぬぞ急いで上り候へ。あらやさしや。今の物語を聞き候ひて落涙し候ふよ。なう急いで身より上り候へ。
シテ「なう舟人。今の物語はいつの事にて候ふぞ。
ワキ「去年三月今日の事にて候。
シテ「さて其児の年は。
ワキ「十二歳。
シテ「主の名は
ワキ「梅若丸。
シテ「父の名字は。
ワキ「吉田の何某。
シテ「さて其後は親とても尋ねず。
ワキ「親類とても尋ねこず。
シテ「まして母とても尋ねぬよなう。
ワキ「思もよらぬこと。
シテ「なう親類とても親とても。尋ねぬこそ理なれ。其幼き者こそ。此物狂が尋ぬる子にては候へとよ。なうこれは夢かやあらあさましや候。
この部分で、この狂女が「班女」の主人公花子の後の姿であることがほのめかされている。ことの仔細を知った船頭は大いに驚き、母親を梅若丸の墓所まで案内する。
ワキ詞「言語道断の事にて候ふものかな。今まではよその事とこそ存じて候へ。さては御身の子にて候ひけるぞあら痛はしや候。かの人の墓所を見せ申し候ふベし。こなたへ御出で候へ。
シテ「今まではさりとも逢はんを頼みにこそ。知らぬ東に下りたるに。今は此世になき跡の。しるしばかりを見る事よ。さても無慙や死の緑とて。生所を去って東のはての。道の辺の土となりて。春の草のみ生ひ茂りたる。此下にこそ有るらめや。
「さりとては人々此土を。かへして今一度。此世の姿を母に見せさせ給へや。
地「残りても。かひ有るべきは空しくて。かひ有るべきは空しくて。有るはかひなき帚木の。見えつ隠れつ面影の。定めなき世の習。人間憂の花盛。無常の嵐音添ひ。生死長夜の月の影不定の。雲おほへり実に目の前の。憂き世かなげに目の前の憂き世かな。
わが子の墓の前で呆然と立ちすくみ、絶望に落ち込んだ母親に対して、船頭はただただ幼子の後世のために念仏を唱えるようにと勧める。母親の念仏と地謡の念仏が交差して、なんとも言えず悲痛な雰囲気が舞台を支配するのである。
ワキ詞「今は何と御歎き候ひてもかひなき事。たゞ念仏を御申し候ひて。後世を御弔ひ候へ。既に月出で河風も。はや更け過ぐる夜念仏の。時節なればと面々に。鉦鼓を鳴らし勧むれば。
シテ「母は余りの悲しさに。念仏をさへ申さすして。唯ひれふして泣き居たり。
ワキ詞「うたてやな余の人多くましますとも。母の弔ひ給はんをこそ。亡者も喜び給ふべけれと。鉦鼓を母に参らすれば。
シテ「我が子の為と聞けばげに。此身も鳧鐘を取り上げて。
ワキ「歎をとゞめ声澄むや。
シテ「月の夜念仏もろともに。
ワキ「心は西へと一すぢに。
シテワキ二人「南無や西方極楽世界。三十六万億。同号同名阿弥陀仏。
地「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
シテ「隅田河原の。波風も。声立て添へて。
地「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏。
シテ「名にしおはゞ都鳥も音を添へて。
地、子方「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。
念仏の声に混じって、子どもの念仏を唱える声が聞こえてきた。それは塚の中から響いてくるように思われる。母親はたとえ幻なりとも子の面影がみたいと、声のする方向へにじり寄る。すると舞台には子方が現れ、母親の思いに応えるかのような仕草をする。
シテ「なう/\今の念仏の中に、正しくわが子の声の聞え侯よ。此塚の内にてありげに候ふよ。
ワキ「我等もさやうに聞きて候。所詮此方の念仏をば止め候ふべし。母御一人御申し候へ。
シテ「今一声こそ聞かまほしけれ。南無阿弥陀仏。
子方「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と。
地「声の内より。幻に見えければ。
シテ「あれは我が子か。
子方「母にてましますかと。
地「互に手に手を取りかはせば又消え/\となり行けば。いよ/\思はます鏡。面影も幻も。見えつ隠れつする程に東雲の空も。ほのぼのと明け行けば跡絶えて。我が子と見えしは塚の上の。草茫々として唯。しるしばかりの浅茅が原と、なるこそあはれなりけれ、なるこそあはれなりけれ。
母親が我が子と思ったものはやはり幻であったことがわかり、気がつけばそこにはぼうぼうたる浅茅が原がひろがるのみ。凄惨とした雰囲気の中で一曲が閉じる。 
「梅若忌」
謡曲や浄瑠璃の『隅田川』の題材となっている、吉田少将惟房の子・梅若丸が976(天延4)年に12歳で亡くなった日。
その主人公「梅若丸」を供養した「梅若塚」は、今、東京・墨田区堤通の木母寺(もくぼじ)にあり、木母寺は中世の「梅若伝説」ゆかりの寺で開基は古く、天台宗東叡山に属する寺で、貞元年間(976〜78)の草創とされている。梅若塚(梅若山王権現堂)の由来については、同寺に現存する絵巻物「梅若権現御縁起」で伝えられている。
梅若丸の死んだとされる3月15日(陰暦)は毎年「梅若忌」とされ、江戸時代には大念仏が行なわれていたらしいが、この日はよく雨が降り、その雨は「梅若の涙雨」だと言われていたそうだ。
小林一茶も「雉子鳴かかの梅若の涙雨」の句を詠んでいる。今日では新暦4月15日に「梅若忌」が催され謡曲「隅田川」が奉納されているそうだ。
謡曲「隅田川」作者は、世阿弥の長男・観世元雅(かんぜ・もとまさ)。
元雅の謡曲では、”隅田川の川岸で大念仏が行われるので、渡し守が乗船の客人を待っていると、ひとりの狂女が来て乗船を頼む。渡し守は女に対して、「狂って見せたら、乗せてやろう」と言うのに対し、狂女は、最初はたしなめていたが、ついに発作的に狂ってしまう。渡し守はそれに憐れを感じて乗船させてやる。対岸へと漕ぎ出し、その途中で、渡し守から今日の大念仏の仔細を聞き、回向を受けるその子供が我が子であることを知り船中に泣き伏す狂女に、渡守は船を岸に着けた後、この母を墓所に伴って回向を勧める。狂女はこの土を掘ってもわが子を見せてくれと嘆くが、渡し守にそれは甲斐のないことであると諭される。母も気を取り直して大念仏を唱えていると、そこに聞こえたのは愛児が「南無阿弥陀仏」を唱える声である。尚も念仏を唱えると、子方(梅若丸の亡霊)が一瞬姿を見せる。だが夜が明けるとともに消え失せ、母親の前にあったのは塚に茂る草に過ぎなかった。・・・謡曲「隅田川」は、狂女物といわれるものであるが、その中でも、この曲の女主人公は永久に子供にめぐり逢えない運命のもとに置かれた、救いのない悲しい物語である。その演出をめぐっては、父の世阿弥との間に論争のあったことが、「申楽談儀(さるがくだんぎ)」という家伝の書に記録されているそうだ。それは、最後の見せ場、梅若丸の幽霊が墓の陰から姿を現し、母親と言葉を交わすところで、世阿弥は、この子(梅若丸)は現実にいる子ではなく亡者であるから、幽霊役の子どもは出さない方がおもしろいといい、元雅は出した方がいいと反論。結局、「まあやってみて、いい方を採用すればよい」と父親が折れた形で決着したそうだ。以後、幽霊役の子どもが出演し続けているが、流派などにより、子どもが出演しないものもある。
昔は「気が狂う・狂気」ということを人々は「物が憑いた」とも言っていたようである。世阿弥はこの物狂いというのを二つの種類に分けて説明しており、ひとつは神仏・生霊・あるいは死霊などが取り憑いた物狂いで、これはその乗り移ったものの正体を把握して演技すれば役作りが出来る。もうひとつは、親に別れたり・子供と別れたり・夫に捨てられたり・妻に死なれたりして狂乱する物狂いで、この役作りは容易ではなく、こういう物狂いの場合は、相手のことを一途に思うという戯曲の主題を役作りの根本に置くべきであると言っているそうだ。死んだ人間が幽霊として出てくるのが夢幻能であるが、この物語では、母親の幻影に出てくる幽霊なので、同じ亡霊と言っても夢幻能の延長線上の亡霊ではない。 だから、子方を出さない演出では、子の存在を母親の狂乱状態のなかでの幻影としなければならないのでそれは確かに難しいだろうね。 
謡曲「隅田川」で、母親は千里の道のりを歩み。ようやく隅田川のほとりに着く。「ここぞ名に負う隅田川、渡りに早く着きにけり、渡に早く着きにけり」
中世の時代、隅田川というのは「東の果て」と同義語であった。この時代、能をつくり、見た人は主に都の人である。彼らから見れば箱根八里を超えればなにがあるかわからない異郷の地である。その更に東の果てに隅田川があり、都より東の国にいたる終着地。つまり、隅田川は、異界との「境界」を形成する場所としての悲劇性が哀愁を高揚させる。
又、船上での渡し守と狂女の問答のカケ合いの中から、尋ねる我が子が今はこの世に亡く、東の果ての道のほとりのこの塚の下に永遠に眠っていると知った母の悲しみは、クライマックスに達し、絶望の淵へと誘う「現世と来世の境界」の中に身をかされることとなる。そして、尋ねる子は既に土の下となり「南無阿弥陀仏」の声の中を、塚と対面する。そして、塚の上に我が子の声を聞き、面影を見るのである。しかし、それも束の間、闇から光りへの「境界」によって、面影は消え去り、狂女は茫然自失の中に肩をおとし、佇むしかなかった。
隅田川のテーマーは悲しみと哀傷そして命である、元雅はこのテーマーに沿って、観るものに深く感銘を与え、人々の不安や悲しみの浄化を目指す力として「空間的な境界」「現世と来世の境界」「夜と朝の境界」の3つの境界を導入しているといわれる。
隅田川は、江戸時代より前は、利根川の下流の名前だった。現在の利根川は、関東平野を西から東に流れて、銚子で直接太平洋(鹿島灘)に流れ出ているが、徳川家康が江戸にやってきた頃の利根川は途中から南に流れ、現在の隅田川のルートを通って東京湾に注いでいた。 家康の江戸入府から六十年以上かけて、いわゆる「利根川東遷」の大工事を行い、四代将軍家綱の時代になってようやく現在のような利根川・荒川・隅田川の形が完成した。隅田川には、江戸時代には二十ヶ所近い渡し船があったと言われる。
そのうち、橋場の渡しが謡曲「隅田川」の舞台となったところという。橋場の渡しは、現在の白鬚橋の南側にあたる。大正初年に地元の人が「白鬚橋株式会社」を設立して木橋を架け、橋場の渡しは消滅したそうだ。
雅作の謡曲「隅田川」では狂女の姿になって登場する斑女の前は渡しの舟に乗って隅田川東岸に着いてそこで梅若丸の死を知るという筋になっている。つまり、梅若塚(梅若の死んだ場所)が東岸にある。(梅若塚のある木母寺は昭和43年に隅田区堤通りに移転しているが、もとの梅若塚のあった場所には石碑が建っている。)
しかし、梅若は重病で川を渡るどころではなくて、商人は無慈悲にも梅若を隅田川の西岸の橋場の辺り・昔の浅茅が原あたりに打ち捨てて、梅若はそこ(西岸)で死んだらしいと思われる。梅若が隅田川西岸で死んだらしいことは妙亀塚が西岸に現存していることでも推測できる。妙亀塚は、妙亀尼をまつる塚である。妙亀尼の伝説は向島の木母寺にある梅若塚と対をなす話で、人買いにさらわれた我が子梅若丸が向こう岸の塚に葬られているのを知らされ、我が子の成仏を願い塚の傍らに庵を作って念仏三昧の生活を続ける。だが、かわいい我が子が忘れられず、ついに発狂して浅茅ヶ原の鏡ヶ池に身を投じてしまうという哀れな物語である。鏡ヶ池の傍らに妙亀尼の墓が作られ、それが今の妙亀塚だという話である。(台東区妙亀塚公園、鏡が池は埋め立てられて現存しない。)梅若が東岸で死んだのならば斑女の前が庵を作るのに対岸にわざわざ住むわけはないし、妙亀塚も対岸に建てられることはなかっただろう。妙亀塚は息子の塚の傍にあるのが自然であろうが、どうして梅若塚が隅田川西岸ではなくて東岸にあるのか?・・・・よく分からない謎だそうだ。
真相は不明であるが、謡曲「隅田川」の影響か何かで・梅若塚は隅田川東岸にわざわざ移されたのではないかと推測しているものもいる。確かに、我が子の姿を求めて狂女の姿でさまよい歩く斑女の前がやっとの思いでたどり着いたのが東国の果てとも言うべき隅田川の渡しであったことを考えると、前に述べた「境界」のことからも、梅若塚は「他界」である隅田川東岸にあった方が、この曲の悲劇性は高まる。 
生と死の境 「隅田川」
1) 隅田川の死のイメージ
明治の詩人たちは昔の江戸を懐かしんで、隅田川の流れをセーヌの流れに見立てたりしたものでした。しかし、関東大震災のルポルタージュのために上京した作家・夢野久作が、隅田川についてこんなことを書いています。(夢野久作は「浄瑠璃素人講釈」の著者・杉山其日庵(茂丸)の息子であります。)
『隅田川は昔から身投げが絶えぬ。都会生活に揉まれて、一種の神経衰弱に陥った人間が、かの広い、寂しい、淀みなく流るる水を見ると、吸い込まれるような気持ちになるのは無理もないであろう。しかし、江戸の人口に差し支えるほど身投げがあったら大変で、隅田川が江戸を呪っていると云うのはそんなわけではない。もっと深刻な意味があるのである。隅田川は昔から水っ子の始まった処であった。水っ子と云っても、その中には堕胎した児、生まれてから殺した子、または捨て子(これも結局はおなじことであるが)が含まれている。しかもその数は統計にも何にも取られたものでないが、江戸っ子の人口減少の一端を引き受けたと認めているのだから恐ろしい。隅田川はこんな残忍な冷たい流れなのである。』(夢野久作「街頭から見た新東京の裏面」)
隅田川は身投げが多かったというのは、これはどうも本当のことらしいです。そういえば黙阿弥の「三人吉三」に土左衛門伝吉という人物が登場します。伝吉は和尚吉三の父親ですが昔は盗賊で、 その後改心して隅田川に浮いた水死者を引き上げては埋葬することをするようになって、それで誰とはなく彼を「土左衛門伝吉」と呼ぶようになったということになっています。このような設定があるくらいですから、隅田川への身投げは確かに江戸の昔も多かったようです。
しかし、これは大都会生活によくある「心の病」のせいというだけではなさそうです。隅田川の流れには、心を病んだ人たちを吸い寄せるような魔力があるのかも知れません。実は江戸の世にあっては、隅田川の向こう岸(東岸)は他界(あの世)として意識されていたのです。他界として意識されていたからこそ、そこに回向院が建てられたわけです。「隅田川」の流れに、江戸の人々はそこに「生と死の境」を感じたのかも知れません。
2) 梅若が死んだのは西岸か東岸か
東国の辺境の地というべき隅田川の名が京都の人々に知れるようになったのは、「伊勢物語」での在原業平の東下りによってでした。「名にし負はばいざこと問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと」という歌はあまりにも有名です。言問橋とか業平とかいう橋名や地名が残っています。
そして、もうひとつ、隅田川の名を人々に忘れられないものにしているのは、古くから言い伝えられている「梅若伝説」です。 四十三代円融天皇の御代(970−980)のことですが、比叡山の月林寺に梅若丸という稚児がありまして、大変に学業に優れて評判の稚児であったそうです。梅若丸は京都の吉田の少将惟房(これふさ)とその妻斑女(はんじょ)の前との間の子ですが、梅若が5歳の時に父親が亡くなり、7歳の時に月林寺に入ったのです。
ところが同じ比叡山の東門院に松若丸という稚児がいて、これも梅若丸と学才を競うほどの秀才でしたが、それぞれを応援する寺の僧侶たちが争いをする事態に発展してしまったのです。12歳になった梅若はこれに悩んで、こっそりと寺を抜け出してしまいます。 しかし、道に迷って京都に行くつもりが間違って大津の方へ出てしまったのです。そこで梅若は陸奥の人買い商人信夫藤太(しのぶのとうだ)にかどわかされて、同じように集められた数人の少年たちとともに東国に連れて行かれるのです。
しかし、体の弱い梅若は長旅の疲れも重なって病気になってしまって、武蔵国の隅田川の渡しに差し掛かった時にはもはや歩けないほどの重態になっていました。信夫藤太は面倒臭く思って足出まといになる梅若をその場に打ち捨てて、他の少年たちを連れて川を渡ってしまいます。土地の人たちは梅若を哀れに思っていろいろ手を尽くしましたが、看病むなしく梅若はまもなく息を引き取ってしまいます。「たずねきて問はば答えよ都鳥すみだ川原の露と消えぬと」というのが辞世の歌だと言われています。梅若の遺骸は土地の人たちによって手厚く葬られ、そこに塚が作られました。それが梅若塚です。
梅若丸の死んだのは貞元元年(976)3月15日のことと言われていて、毎年3月15日は「梅若忌」とされて江戸時代には大念仏が行なわれました。この日はよく雨が降ったそうで、その雨は「梅若の涙雨」だと言われたものです。「雉子鳴かかの梅若の涙雨」は小林一茶の句です。
ところで、その一年後に梅若の母・斑女の前が我が子を求めて隅田川にまでたどり着き、そこで我が子の死を知ります。斑女の前はこの地で剃髪して妙亀尼と名乗り、梅若塚の傍に庵を建ててそこで念仏の日々を三年ほど送るのですが、ある日のこと、近くの鏡が池の水に映る我が子の姿を見て、そのまま池に飛び込んで死んでしまったのです。(別の説では自らの変わり果てた姿に絶望したからだとも言います。)そこで土地の人たちはそれを哀れんで、この薄幸の母親の菩提を弔うために塚を作りました。これが妙亀塚です。
以上は「江戸名所図会」などに出てくる梅若丸にまつわる言い伝えです。ここでまず気が付くことは、観世十郎元雅作の謡曲「隅田川」では狂女の姿になって登場する斑女の前は渡しの舟に乗って隅田川東岸に着いてそこで梅若丸の死を知るという筋になっていることです。つまり、梅若塚(梅若の死んだ場所)が東岸にあることになっています。もちろん言うまでもなく、現在知られている梅若塚は隅田川東岸にあるのです。(梅若塚のある木母寺は昭和43年に隅田区堤通りに移転していますが、もとの梅若塚のあった場所には石碑が建っています。)
それでは何が気に掛かるかと言うと、「江戸名所図会」では、『今はひとあしもひかれずとて角田川のほとりにひれふしたるを、なさけなくも商人はうちすてて奥にくだりける。梅若丸はいくほどなく むなしくなりにける。』とあって、梅若は重病で川を渡るどころではなくて、商人は無慈悲にも梅若を隅田川の西岸の橋場の辺り・昔の浅茅が原あたりに打ち捨てて、梅若はそこ(西岸)で死んだらしいと思われることです。確かに舟に乗るには舟賃が要るわけで すから、強欲な商人が瀕死の梅若丸を舟に乗せて対岸に渡すことはなさそうです。
梅若が隅田川西岸で死んだらしいことは別のことからも推測できます。妙亀塚が西岸に現存していることです。(台東区妙亀塚公園、鏡が池は埋め立てられて現存していません。)梅若が東岸で死んだのならば斑女の前が庵を作るのに対岸にわざわざ住むわけはないし、妙亀塚も対岸に建てられることはなかったでしょう。妙亀塚は息子の塚の傍にあるのが自然ではないでしょうか。それならば、どうして梅若塚が隅田川西岸ではなくて東岸にあるのか・あるいは梅若塚はもともと西岸にあったのがある時期に何かの理由で東岸に移されたのではないかとも思われますが、よく分からないそうです。
そういうわけで真相は不明なのですが、もしかしたら謡曲「隅田川」の影響か何かで・梅若塚は隅田川東岸にわざわざ移されたのではないか、という気がしなくもありません。確かに我が子の姿を求めて狂女の姿でさまよい歩く斑女の前がやっとの思いでたどり着いたの が東国の果てとも言うべき隅田川の渡しであった・そしてその川の向こうに我が子の墓があったという設定の方が劇的効果ははるかに高いようです。
いや劇的効果というだけではありません。平安の世においては武蔵国・隅田川の渡しは京都の朝廷の政治の及ぶ東の果ての地であって、隅田川を渡ればそこは奥州への入り口であり・都人にとっては想像を絶する 辺境の地であったのです。そうした都人の隅田川のイメージは「この世の果て・生と死の境界」のイメージとも重なっています。隅田川の向こう・あの世の世界に我が子・梅若はいるのだということなのです。謡曲「隅田川」が生まれた室町時代においてもこういうイメージは大して変わっていないわけですから、梅若塚は「他界」である隅田川東岸になければならなかったのでしょう。
江戸の町を俯瞰しますと 、江戸城の鬼門と浅草寺を結ぶ線の延長上に吉原(遊郭)・小塚原刑場・千住宿が連なっています。千住は奥州街道(日光街道)の基点であって、聖なる江戸と他界である東北(=蝦夷)との境界でありました。こういうイメージも決して江戸幕府だけが作ったものではなくて、平安時代から日本人の心のなかに植え付けられた隅田川の他界のイメージが基点にあるのだということが分かるでしょう。そうやって江戸幕府のかぶき者隔離の思想が江戸の住民の心の深層心理のなかに何の抵抗もなく・スンナリと入り込んでいくということなのです。
そう考えると「隅田川は昔から身投げが絶えぬ」というのも、これは今でもそうなのかは知りませんけれど、隅田川の死のイメージがこれほどまでに人の心を呪縛するものなのかと考え込んでしまいます。「三人吉三」の大川端において、お嬢吉三が「月も朧に白魚の 篝もかすむ春の空・・・」という有名な長台詞の場面なども華やかなイメージがありますけれど、刀を持って隅田川の流れを見込んでのこの場面はもっと陰惨なイメージがあるのかも知れません。舞台の上のお嬢吉三は華やかであっても、隅田川の流れは人の心を吸い込んでしまいそうなほどに暗く深いのです。深夜の川端でお嬢吉三がおとせを川に突き落とす直前の会話が象徴的かも知れません。
(おとせ)「ただ世の中に怖いのは人が怖うございます」(お嬢)「・・・ほんに人が怖いの」
歌舞伎に登場する隅田川の流れは、現代の我々が想像するよりも深く暗く陰惨な流れなのかも知れません。
3) 「梅若伝説」の示すもの
ちょっと話がそれたかも知れません。舞踊「隅田川」の舞台を見ると陰惨な隅田川の死のイメージはあまり浮かんでこないのではないでしょうか。 吉之助にとっては「隅田川」と言えば 六代目歌右衛門であり・歌右衛門と言えば「隅田川」でもありましたが、歌右衛門の「隅田川」の舞台は陰惨ではなかったと思います。歌右衛門の「隅田川」の舞台は幻想的で、死のイメージよりは子を思う母・斑女の前の哀れさの方に目が行ってしまいます。斑女の前の哀しみは洗い上げられて幽玄のなかに昇華されています。歌右衛門の「隅田川」は海外でも何度も上演されて大好評を博しました。歌右衛門の「隅田川」は日本舞踊とか歌舞伎というジャンルをも超えてしまって、世界に通用する芸術作品になっていたと思います。
しかし、作品として「隅田川」を読むうえではやはりこのような死のイメージを直視することは大事なことです。当時は飢饉が起こると子捨て・子売り・あるいは子をかどわかして売るなどの行為が日常茶飯事に行なわれていたので、子を失って悲嘆にくれて正気を失う母親の姿があちこちに見られたようです。これは西欧でも中世期においてはまったく同様でした。だから「隅田川」の主題は西欧人にもスンナリ理解されるのでしょう。イギリスの作曲家ベンジャミン・ブリテンは謡曲「隅田川」の舞台からインスピレーションを得て歌劇「カーリュー・リバー」を作曲しています。
「隅田川」が問いかけているのは、死の淵から照射された「生きることの意味」です。母親である斑女の前にとっては残酷なほど無慈悲なる生。まさに神も仏もないように思えます。しかしそれでも人間は生きねばならぬということです。
芸術作品においてはそういうものは昇華されてしまって生(なま)な形では提示はされないものです。「隅田川」においても母の哀しみは痛切に感じられますけれど、「無慈悲なる生」という印象は幽玄のなかで浄化されてしまっています。しかし、「梅若伝説」が人々の心をいつまでもとらえて放さないのは、我々の心の「ふるさと」がそこにあることを人々が感じ取るからに違いありません。 
圓乗寺 お七の墓(えんじょうじ) / 東京都文京区白山
文京区白山にある圓乗寺。ここは八百屋於七のゆかりの寺院である。
天和2年(1682年)12月、大火事で焼け出された八百屋於七の一家は、檀家である圓乗寺へ避難していた。そこで於七が出会ったのが、この寺の小姓・生田庄之助。 彼に一目惚れした於七は、また火事になれば会えると思い込み、翌年3月に自宅へ放火。未遂に終わったが、当時の江戸では放火は大罪。3月29日に鈴ヶ森で 於七は火炙りの刑に処せられてしまう。これがいわゆる(八百屋於七)の事件である。
芝居や小説などでは様々なフィクションが入り乱れているが、どうも上に挙げた話が真相のようである。要するに一人の少女が一目惚れの彼氏に会いたいがために狂言放火をやらかし、当時の法令に基づいて罰せられた事件ということである。
於七の墓であるが、都合三基が並べられている。中央にあるのが一番古い墓で、刑死直後に造られたもの。右が、舞台で於七を演じたこともあるという岩井半四郎が百十二回忌の供養に立てたもの。そして左が、二百七十回忌に有志が立てたもの(戦後間もないころである)である。
この圓乗寺にはさらに(於七地蔵)なるものが安置されている。この地蔵の由来によると、この地蔵は於七が成仏したことの証として作られたものであるらしい。
八百屋お七 / お七が有名となったのは、処刑から3年後に井原西鶴が『好色五人女』でこの事件を取り上げてから。その後は創作世界でさまざまな形で脚色され、伝承が拡張している。有名な「振袖火事」の犯人であるとされたり(この明暦の大火は、お七の誕生より約10年前)、丙午の年に生まれたとされたり(これも史実に照らし合わせると2年ほどずれている)しているが、実際には上に書いた通りである。
於岩稲荷田宮神社(おいわいなりたみやじんじゃ) / 東京都中央区新川町
四谷左門町以外にも“於岩稲荷田宮神社”を名乗る神社が存在する。中央区の新川(越前堀)にその神社は存在する。この神社はニセ物どころか、本家本元と称しても間違いないというべき存在なのである。
『東海道四谷怪談』が評判を得て、田宮神社もかなりその恩恵に浴した様子である(史実とは相当な隔たりがあり、神社としては不本意な結果と言えるかもしれないが)。特に上演の際の祟りの噂から、演劇関係者の参拝があり、数多くの役者から崇敬されるようになっていた。ところが、四谷にあった田宮神社は、明治 12年に周辺の大火の被害にあって焼失してしまう。そのような非常事態の際に手をさしのべたのが、歌舞伎役者の市川左団次。彼は私有地を提供し、田宮神社を再興する。しかし、そこは四谷ではなく、芝居小屋に近い新川だったわけである。
田宮神社は移転後も芝居関係者の崇敬を受け、またその知名度から多くの人々の参拝があったという。そうして戦後間もなくまで平穏に新川にあったのだが、事態は一変する。
突如として四谷に“於岩稲荷”を称するものが移転してくる。それが現在も四谷左門町にある陽運寺である。これに慌てたのが田宮神社である。四谷を離れて既に60年ほどになる。しかも陽運寺は、田宮神社が元あった場所の目の前に建立され、お岩様を大いに喧伝している。そこで田宮神社が下した結論は、元の四谷に帰ることであった。
昭和27年に田宮神社は四谷に戻るのであるが、新川にある田宮神社もこの地に残ることになった。つまり神社の歴史からいえば、新川の田宮神社の方が本家とも取れるわけである(実際には越前堀の田宮神社は同格の分社という扱いになっている)。
於岩稲荷田宮神社(おいわいなりたみやじんじゃ) / 東京都新宿区左門町
四谷左門町にある於岩稲荷は、旧田宮家の屋敷跡に所在すると言われる。元々田宮家内にあった稲荷社からできた神社であるが、かの『東海道四谷怪談』と絡んで取り上げられることが多い。曰く、芝居や映画で『四谷怪談』を上演する時、事前にここへ参拝しないと事故が起こるという、まことしやかな噂である。
田宮神社(この神社は田宮家の子孫が代々継いでいる)によると、実は『四谷怪談』はフィクションである。四谷左門町に田宮家が存在し、そこに“お岩”という名の女性がいたことは事実であるが、彼女が夫に裏切られ、毒を盛られて殺されたという話はまさにでっち上げである。更に夫の行状に嫉妬して失踪した“お岩”という女性があったという、土地の有力者の上申書『於岩稲荷来由書上』も存在するが、これは『四谷怪談』上演の2年後に書かれたものである。つまりこれもまた芝居の信憑性を高めるために捏造されたものであるとみなしている。
要するに『四谷怪談』とは、作者の鶴屋南北が当時の江戸で起こったさまざまな情痴事件を集大成させ、それを全て於岩稲荷に祀られていた“お岩さん”に結びつけてしまったというのが真相というわけである。
“お岩”は夫の伊右衛門を助けて火の車だった家計を立て直し、再び家を盛り返したとされる。それ故、現在の於岩稲荷は夫婦円満のご利益がある。経済的困苦を乗り越えた妻が信心していた屋敷神を、他の人があやかって信仰されてきた神社だと主張しているのである。
『東海道四谷怪談』 / 文政8年(1825年)鶴屋南北作。享保年間に編まれた『四谷雑談集』を元に作られる(ここで書かれている内容は、お岩の失踪以外は芝居とほぼ同じ)。
『四谷怪談』の祟り / 上演前に役者が参拝する慣習は以前からあったものだが、戦後に再び流布するようになったのは、参拝を怠っていた講談師・一龍斎貞山の奇妙な死と、岩波ホールで上演された際の白石加代子の奇妙な体験談(スタッフの右部位の怪我続発、飲食の際に余計に出されるコップ、更には白い着物を着た女性の目撃談など)あたりが最高潮であろうか。その後も舞台で取り上げられるたびに怪我人の話が出てくる。ただしこれは“『四谷怪談』だから起こるアクシデント”ではなく、“『四谷怪談』だから表面化するアクシデント”と捉えた方が正解だと思う。『四谷怪談』の舞台で起こるアクシデントは全て“祟り”とみなされ、喧伝されるわけである。決してこの芝居以外にアクシデントが起こっていないわけではないのである。特に『四谷怪談』の舞台は灯りをしぼった演出が施されているため、役者の怪我が多くなっているのではないかという説もある。
二人の“お岩” / 田宮神社が主張する“お岩”は江戸初期(元和〜寛永)の頃に存命していた者であり、それ以外に元禄頃にも“お岩”と名乗る女性が存在していたことが判っている。しかもこの代から100年以上田宮の名前が過去帳に現れていない事実もある。同じ名前の別人物、それも全く異なる人物像を持つ者があったために、こうした混乱が生じた可能性が高い。詳細は小池壮彦氏の『四谷怪談 祟りの正体』を参照のこと。
於岩稲荷陽運寺(おいわいなりよううんじ) / 東京都新宿区左門町
四谷左門町の於岩稲荷田宮神社の向かい側には、於岩稲荷陽運寺がある。両者とも(於岩稲荷)と名乗っており、いわゆる本家争いを繰り広げている(現在はお互いの存在を無視しあう形で並存しているらしい)。お岩様ゆかりの地として探訪する者も多いが、この睨みあうようにして並び立つ2つの寺社には必ずと言っていいほど面食らわされるのである。
結論から言ってしまうと、歴史的な背景を辿っていけば、田宮神社の方が本家である。元々この地が田宮家の旧宅跡であり、既に江戸時代には存在していたことが記録されている。翻って陽運寺は、戦後にこの四谷に移転してきた日蓮宗の寺院である(陽運寺そのものが昭和になって創建された寺院である)。
一番肝心な点であるが、田宮神社に祀られているお岩は史実として田宮家にあった女性であり、それに対して陽運寺に祀られているお岩はまさに『東海道四谷怪談』に登場する主人公なのである。田宮神社は、この鶴屋南北の芝居に登場するお岩はフィクションであると広言し(もし事実であれば田宮家は断絶しており、神主である田宮氏が子孫であるという事実に反するわけである)、陽運寺は積極的にこの物語のイメージを喧伝しているのである。つまり、両者が“お岩様”呼ぶものは全く次元の違う存在を指していると言ってもおかしくないのである。
お岩水かけ観音(おいわみずかけかんのん) / 東京都新宿区四谷三丁目
地下鉄丸の内線の四谷三丁目駅前に(丸正)というスーパーがある。その1階入り口に、その場の光景から切り離されたようにあるのが(お岩水かけ観音)である。名前からして「四谷怪談」ゆかりの曰く因縁の土地なのかと思いがちであるが、石版の由来を読むと、どうもこの丸正スーパーの社屋建設の際(昭和46年)に社長の肝煎りで建立されたらしい。特にここで何かがあったという伝承地ではないが、「四谷といえばお岩さん」という感覚で作られたランドマークと言っていいだろう。ミスマッチ感が強いために、インパクトはなかなかのものであると思う。
女塚神社(おなづかじんじゃ) / 東京都大田区蒲田
矢口渡で新田義興を騙し討ちにしたのは竹沢右京亮と江戸遠江守であるが、彼らの策略はかなり用意周到なものであった。 鎌倉公方の執事である畠山国清と謀り、わざと罪を得て鎌倉から追放されたり、鎌倉方と不和になったりすることで、義興の属する南朝方に近づいたのである。最初は二人の行動に対して疑念を持っていた義興であるが、徐々に彼らを信用するようになってきた。二人もとにかく取り入るためにかなりの努力をしている。その一番最たるものは“色仕掛け”である。二人は連日のように酒宴を開いては義興を招き、その席に多数の美女をはべらせて接待したのである。
竹沢右京亮が義興に奉った美女が少将局である。少将局は京都から来た16歳ぐらいの上臈であったとされるが、義興はいたく気に入ったようである。そして少将局も竹沢らの謀略に加わりながらも、次第に義興に惹かれていったという。一方いよいよ時機到来と見た竹沢は、義興を自宅へ招いて謀殺しようとする。しかし、竹沢の企みを知る少将局は義興に夢見が悪いので七日間は外へ出ないように文をしたためる。義興はその文を見て外出を取りやめて危機を脱したが、少将局は事が露見して竹沢らによって殺されてしまうのであった。
殺された少将局の遺骸は打ち捨てられたままであったが、村人が憐れんで塚を建てた。その塚のあった場所に八幡宮を移したのが女塚神社である。“女塚”という名称は言うまでもなく、少将局のことである。場所は東急蒲田駅から歩いて数分、かなり繁華街に近い場所にある。そして新田神社からもそれほど離れてはいない。神社本殿の脇に祠があり、これが女塚を祀る祠であるらしい。ちなみにこの神社にある石碑では、少将局は義興の死を知って自害したとされている。
兜神社(かぶとじんじゃ) / 東京都中央区日本橋兜町
東京証券取引所のすぐそば、首都高速道路が真後ろを走るというとんでもない都会の一隅に兜神社はある。日本経済の中心地の一つに置かれた神社は、現在では商業の神様としてこのエリアの守護をしている。由来によると、この近辺にあった兜塚が兜神社(源義家が祀られている)となり、更に鎧稲荷(平将門が祀られている)が合祀されて今の兜神社となったようである。合祀後の明治初期に祭神の源義家を廃して倉稲魂命を勧請し、現在に至っているようである。つまりこの神社そのものは既に伝説的二人の武人とは何の関係もないことになる。
しかし、この神社の名になった“兜”にまつわるものは残されている。それが兜岩である。この兜岩についても二人の武人が大いに絡んでくる。
義家の関連で言うと、東北凱旋後の義家が鎮定のために兜を埋めて塚をなした、あるいは義家が東北遠征のおりに兜を岩に掛けて必勝祈願をした。将門の関連で言うと、藤原秀郷が将門の首を兜を添えて持ってきたが、この地で兜だけを埋めて塚をなした。いずれも決定的な証拠はないのだが、何らかの祭祀がかなり昔からおこなわれていた場所であることは間違いないところである。
神田明神(かんだみょうじん) / 東京都千代田区外神田
正式名称は神田神社。元々この神社は平将門首塚のある場所(芝崎村)にあった。当初は大已貴命のみを祀る神社であったが、日輪寺を建立した真教上人が平将門を神として祀り、延慶2年(1309年)に合祀した。平将門という伝説的武将を祀っているために、戦国時代は多くの武将の崇敬を受ける。
江戸城増築の際に幕府が現在の地に移転させた。江戸総鎮守として江戸城の鬼門を守護する役目を果たすためである。
だが明治に入り、平将門は朝敵であり、天皇が参詣するには不敬であるという理由で祭神から外し、代わって少彦名命を勧請する(オオナムチとスクナヒコナという神の組み合わせは、よくあるケースである)。その後、昭和59年になって、平将門は摂社であった将門神社から再び本殿の祭神として祀られるようになり、現在に至る。
さてこの(神田(カンダ))という名の由来であるが、やはり将門の存在が見え隠れする。首塚が築かれたこの地は“身体のない遺骸を祀る山”と いうことで“からだ山”と呼ばれ、それがいつしか“かんだ”という名に転訛したのだという説がある。(ただし漢字から由来を探ると、昔この地が伊勢神宮の “神田”であったために付けられたという。ただし祭神の関係から考えると、少々無理がある部分もある)
平将門首塚(たいらのまさかどくびづか) / 東京都千代田区大手町
この首塚の祟りは周知のごとく凄まじい。かなり信憑性のある記録に残っているのでは、関東大震災後に大蔵省が首塚を潰して仮庁舎を建てた直後に大臣以下14名が死亡した件。そして終戦後にGHQがブルドーザーで整地中に事故が起こり死傷者が出た件。いずれもその祟りぶりは凄いものがある。
そしてオフィス街にまことしやかに噂されるのは、首塚に尻を向けた格好で机を配置すると祟られるという話である。また塚の供養を怠った企業は何らかのトラブルに巻き込まれるという話もある(首塚の隣りにあった某銀行が20世紀の終わりに破綻したのは祟りだという噂まであるらしい)。
関東で兵を起こした将門は藤原秀郷・平貞盛に討たれ、その首は京都四条河原に晒された。ところが、その首が「今ひとたび一戦を」と声を立て、三日後に自力で東国へと飛んでいったのである。そして武蔵国芝崎村にてとうとう力尽きたのだが、その首が落ちた場所がこの地である。住人が首が落ちた所に塚を作り、祀ったという。首塚の碑の後ろにある石灯籠の辺りが塚のあった場所と言われている。
この首塚の脇には蛙の置物がおかれている。将門が蝦蟇を自由自在に操ることができるということで、願いが叶うとお礼に置いていくという。そしてひときわ大きな蛙の一つであるが、誘拐された某商社のマニラ支店長が解放された直後に、真っ先に奉納したものであるという。ちなみにこの商社は首塚の隣にあり、首塚の街灯の電気代をずっと負担しているとのことである。
平将門 / ?-940。桓武天皇5世。一族の所領争いから朝廷勢力に反旗を翻し、やがて関東一円を実行支配する。自ら「新皇」と名乗ることで朝敵となり、藤原秀郷によって討ち取られる。関東を中心に数々の伝承を残す。
江戸期以前の首塚 / 塚が出来た当初置かれていた神社は津久土明神(現・築土神社)。そして徳治2年(1307年)に真教上人が塚を修復して日輪寺を建立、さらに神田明神を建立する。江戸幕府成立後に、日輪寺は浅草へ、神田明神は駿河台へ移転し、首塚だけが当地に残される。
首塚の祟り / 関東大震災で首塚が崩れたのを期に学術調査がおこなわれた。石室はあったものの、一度盗掘されていて、めぼしい副葬品が発見されなかった(最終的に将門の墓であることを照明するものは出てこなかった)ため、取り崩されて大蔵省の仮庁舎が建てられた。その後、大蔵大臣の早速整爾が病死(発病後3ヶ月で他界。享年57歳)したのを皮切りに、幹部クラスも含めて14名が2年以内に死去。政務次官・事務次官以下多数の者が足を負傷する。そこで昭和2年に仮庁舎を取り壊して、首塚を復元して、盛大な供養をおこなった。昭和15年6月には、大蔵省庁舎が落雷によって全焼。この年は将門没後千年目に当たり、またもや祟りの噂が流れ、大蔵省による祭祀が執り行われた(現在の供養碑はその時に再建されたもの)。戦後、大蔵省敷地はGHQが接収し、首塚は一時整地され駐車場となったが、整地時にブルドーザーが横転事故を起こして日本人運転手が死亡。土地関係者が「昔の大酋長の墓」であるとして陳情して、塚は保存されることとなった。
鬼王神社(きおうじんじゃ) / 東京都新宿区歌舞伎町
新宿歌舞伎町のはずれにあるのが鬼王神社である。正式には“稲荷鬼王神社”といい、大久保の稲荷神社に鬼王神社を合祀してできた神社である。この“鬼王”という名称を持つ神社はここにしかなく、節分会では鬼を悪者とせず、「鬼は内、福は内」と言って豆を撒くらしい。
この珍しい名前の由来であるが、大久保の百姓、田中清右衛門が熊野にあった鬼王権現を勧請してきたのが始まりであるという。ただ、現在熊野に鬼王権現は存在せず、神社で鬼王権現が祀られているのは全国でここだけと称している。
そもそも“鬼王権現”とは“月夜見命”“大物主命”“天手力男命”の三神である。実際、鬼王神社の祭神としてこの神々は祀られている。しかし、この“鬼王”という名にはもう一人、重要な人物の存在が見え隠れしている。それが平将門なのである。将門の幼名こそが(鬼王丸)なのである。だが、この神社の由来には全くその名は記されていない。
神社の前に置かれた手水鉢にはあやしい伝承が残されている。この手水鉢はかつて加賀美某の屋敷内にあったのだが、文政の頃(1800年代初頭)毎夜のように水音が聞こえるという怪異が続いた。そこでこの手水鉢を斬りつけたところ、水音はしなくなったが、家人に不幸が続いたため、この神社へ預けたという(天保の頃というから、ちょうど稲荷神社と鬼王神社が合祀された直後のことと思われる)。
怪しげな水音の正体であるが、この手水鉢の土台になっている鬼の仕業であるとされている。手水鉢を斬りつけたというのも、実際にはこの鬼を斬りつけたらしく、肩のあたりに傷跡が残っているとされているが、それらしき痕跡はあるものの、はっきりとした傷には見えなかった。ちなみにこの斬りつけた刀は“鬼切丸”という名が付けられ、手水鉢と同時に神社に納められたがその後盗難にあって行方知れずであるという。 
桐生稲荷(皿明神)(きりゅういなり さらみょうじん) / 東京都千代田区富士見
全体的に整合性を欠く内容となっており、それ故伝承の域を超え出ない東京の『番町皿屋敷』の話であるが、なぜかたった一つだけ、皿屋敷に関する歴史的な遺構が存在するという。それが桐生稲荷と呼ばれる小さな祠である。
怪談『番町皿屋敷』の原典は『皿屋敷弁疑録』であるが、それ以前にもこれに類似した話が書かれている。中でも『江戸砂子温故名跡誌』では“牛込御門内で 下女が誤って井戸に皿を落としたために殺され、その後、皿を数える声だけが井戸から聞こえてきたのだが、その地に(皿明神)なる社を祀り霊を慰めたところ、声が聞こえなくなった。その社は稲荷である”とある。この話に基づいて古地図を見ると、実際にこれと比定できる稲荷社がある訳である。それが桐生稲荷である。
この社であるが、元を質せば個人の屋敷に祀られた稲荷社なのである。三田村鳶魚氏によると、この屋敷には英国公使アーネスト・サトウの家族が住んでおり、その頃には『皿屋敷』を演じる者が詣でていたらしい。現在よりも昔の方が由緒正しい社として認識されていたと見てよい。
その後この屋敷の所有者はこの地を去ったのであるが、この社だけは残していったようである。だが残された稲荷社は、やがて“お菊さんの霊を慰めた”という伝承の部分が消えてなくなり、土地の守り神としての性格だけが伝えられるようになったみたいである。そのため現在の正式名称は桐生稲荷であり、皿明神という通り名はほとんど伝えられていない。
『番町皿屋敷』 / 元となった『皿屋敷弁疑録』は、宝暦8年(1758年)に馬場文耕が著している。…火付盗賊改方の青山主膳の屋敷は、かつて千姫が住んでいた屋敷の更地に建てられた。主膳は大盗賊・向坂甚内を捕らえ、その娘の菊を下女にする。菊は青山家の家宝である十枚一組の皿の一枚を割ってしまい、主膳に折檻されて指を切り落とされる。そして菊は井戸に身投げしてしまう。その後、生まれてきた主膳の子は生まれつき指が一本欠け、さらに井戸から菊の亡霊が現れて、皿を枚数を数えるに至る。この怪異は公儀の知るところとなり、青山家は断絶する。しかし井戸から菊の亡霊は現れ続けたために、了誉上人が引導を渡して菊を成仏させる。…この話はその後に歌舞伎や芝居に掛かり、評判を得て、皿屋敷伝承の主要なストーリーとなる。
『江戸砂子温故名跡誌』 / 享保17年(1732年)に菊岡沾凉が著す。
アーネスト・サトウの一家 / サトウは1862年に通訳として来日、以降1883年まで長期滞在する(その後、英国公使として1895年に赴任)。内縁の妻に武田兼がおり、3人の子供を東京でもうけている。伊藤篤『日本の皿屋敷伝説』によると、兼一家が明治10年代に住んでいた飯田町の屋敷に皿明神があり、富士見町へ引っ越しをする際に神社も移転させたという。さらに昭和50年に武田氏が移転した時にも、社を移している(兼の孫の証言)。
十寄神社(じっきじんじゃ) / 東京都大田区矢口
矢口渡での新田義興謀殺の際に従っていた側近は、全部で13名。そのうちの3名は果敢にも向こう岸にたどり着いて討ち死にしたが、残りの10名は義興公と共に、沈み行く船の上で自害して果てたという。この10名の側近が祀られているのが、この十寄神社である。
当然のことながら、この神社の祭神はこの自害した10名である。その名は神社の入り口に掲げられている神社の由緒書きにも記されており、世良田右馬助義 周、井弾正左衛門、大嶋周防守義遠、由良兵庫助、由良新左衛門、進藤孫六左衛門、堺壱岐権守、土肥三郎左衛門、南瀬口六郎、市河五郎の10名であるという (ただし人数については諸説あり、土肥・南瀬口・市河の3名は向こう岸にたどり着き奮戦した者である、あるいは松田与市、宍道孫七を加えた12名と義興本人で13名とするなどの説もある。いずれにせよ、この程度の人数であったのは確かなのだろう)。
“新田神社へ願掛けへ行く前に、まずこの十寄神社へ行ってお願いしないと、願いは叶わない”という。独立した神社ではあるが、新田神社との関係は生きていた頃と変わらないと言えるだろう。
浄閑寺(じょうかんじ) / 東京都荒川区南千住
浄閑寺。通称「投込寺」。安政の大地震の時に、新吉原の遊女の遺体が打ち捨てられるように数多く葬られたことから、この通り名で呼ばれる。一部では、吉原が出来た頃から病死した遊女の遺骸が投げ込まれてきたように言われているが、どうもそれは誤りであるらしい。
やはり(新吉原総霊塔)がまず第一である。『生まれては苦界 死しては浄閑寺』と詠まれた事実が全てを言い尽くしているように、死してもなお寄る辺のない遊女の霊を慰めるために建てられたのがこの総霊塔である。L字形になった墓地のちょうど角に近いところに総霊塔はある。花などの供え物も新しい、よく清められた場所のように感じる。
この浄閑寺であるが、新吉原の遊女に関係するもの以外にもいろいろと見所がある。
中でも不気味なのが(本庄兄弟 首洗いの井戸)というものである。親の仇である平井権八を追った本庄兄弟であるが、先に兄が平井の返り討ちに遭い、さらに兄の首を井戸で洗っていた弟もそこを襲われ命を落とす。仇討ちに失敗し、悲惨な末路をたどった兄弟の最期の地が この井戸である。
鈴ヶ森刑場跡(すずがもりけいじょうあと) / 東京都品川区南大井
歴史的な重みを考えると、この土地ほど血塗られた場所はないのではないだろうか。とにかく十万単位の人間がここに屍を晒しているのである。
この鈴ヶ森の刑場だけにあったと言われる処刑法は「火炙」と「磔」である。それに使われたという台石がここには残されている。この二つの処刑方法 は他の刑罰よりも遥かに凄惨である。
まず火炙の方法であるが、これは足元からじわじわと焼く。しかし火の勢いは強くなく、途中海風が強く吹くと火が消え、罪人は何度も悲鳴を上げては悶絶するという(実際、八百屋お七の処刑の際には、数キロ四方まで悲鳴が聞こえたそうである)。そして多くの罪人の死因は窒息死。一気に焼き殺されず、自分を焦がしていく煙に巻かれて死ぬのである。
一方の磔の方法であるが、こちらも負けず劣らず残酷である。槍を両脇腹から突き刺し、一気に反対側の肩口(頸動脈の辺り)に突き通す。そして槍を引っこ抜くと更にそれを二十回前後繰り返す。死体はずたずた、特に臓物などが散乱したという。いずれにせよ、斬首のように一瞬でけりがつくような死に様ではなく、まさに街道筋での見せしめ的行為であったと言える。
それほど広くないエリアには、刑場にまつわる3つ目の遺跡をである(首洗いの井戸)がある。ただし井戸は完全に金網で防備されており、中を覗き込むことは出来ない。
栖岸院 お菊の墓(せいがんいん おきくのはか) / 東京都杉並区永福
お菊さんの怪談と言えば『番町皿屋敷』である。これの元ネタは『皿屋敷弁疑録』という本であり、大まかな話は以下の通りである。
事件が起こったのは承応2年(1653年)正月二日。火付盗賊改役(1665年創設)の青山主膳が、盗賊・向坂甚内(1613年刑死)の娘・菊を役宅にて下女として使っていたが、その菊が誤って家宝の皿を割った。青山は菊の中指を切り落とし、手討ちにするために監禁していたが、菊はその直前に井戸に身を投げて 自害する。その後、その井戸から菊の亡霊が現れては皿の数を数え、青山の本妻が産んだ子の中指が欠けているなどの怪異が続き、青山家は取り潰しとなる。しかし井戸の幽霊は消えず、小石川伝通院の了誉上人(1420年没)の力によってようやく成仏することになる。
年代を見ればこの話の信憑性など一挙に吹き飛んでしまうが、とにかくこのような話が伝承され、『番町皿屋敷』として人気を博した訳である(ちなみに“番町”というのは、青山主膳の屋敷が(牛込御門内五番町)にあったとされるためである)。
ところがほぼ虚構に近い話であるにもかかわらず、このお菊さんの墓が存在するのである。場所は永福の栖岸院。栖岸院は伝通院と同じく浄土宗の寺院であり、江戸期には住職が将軍へ直接お目見えできるほどの寺格を持っていたという。そして大正時代に現在地へ移転する前は麹町にあったのである。麹町と番町とはほぼ地続きであると言ってもおかしくないほどの距離にある。
栖岸院にあるお菊さんの墓は丁重に扱われているが、現在のところ特別にそれを喧伝するような表示案内はない。『番町皿屋敷』の話はあくまで伝説のたぐいであるということなのだろう。
立石様(たていしさま) / 東京都葛飾区立石
葛飾区立石の地名の由来ともなった立石様であるが、応永5年(1398年)に出された『下総国葛西御厨注文』にその名があり、その頃には既に有名な物件として知られていたと思われる。江戸期には“冬に縮んで、夏になると膨張する”という不思議な現象が起こる石として噂にのぼっていたとも言う。そして、文化2年(1805年)に近隣の者がこの石の根元を確かめようと掘り下げたことから騒動が始まる。結局掘り下げても根元は現れず、さらには関係者の間で疫病が発生したために“祟り”ということで急遽取りやめ、その後石祠を建てて立石稲荷神社として祀ることになったのである。今でこそ鳥居が設けられ、神様扱いとなっているが、それはさほど古い出来事ではないということである。その後も立石様の噂は生まれ、“掘ったり触ったりすると祟りがある”とか“近くの流れる中川が蛇行しているのは立石様の根を避けているため”とかいう話にまでふくらんでいる。
現在の立石様は、写真で見る通り、水色の柵に囲まれた真ん中に申し訳程度頭を覗かせている石でしかない。多分地面から数センチほどの高さでしかないだろう。しかし天保5年(1834年)に出された『江戸名所図会』の挿絵を見る限りでは、立石様は大人の腰下あたりまでの高さがあり、しかも一抱えほどの大きさの岩として描かれている。さらに石は雨晒しで祀られている形跡はなく、それどころか人が平気で触っている。話によると、立石様は明治以降“弾よけ”の御守りとして削られることが多く、また土砂の堆積や地盤沈下で埋もれてしまったために、現在のような姿になってしまったようである。
実はこの立石様は上流から流れてきた岩ではなく、千葉県鋸南から切り出されてきた石(房州石)であることが調査によって判明している。つまりこの石は人工的にこの地に置かれたものなのである。しかもこの石と同じ材質のものが、近隣の南蔵院裏古墳の石室に使われている。そのため古墳石室の一部ではないか(実際の調査でも地下部分に空洞があるという指摘がある)、あるいは官道の道標として流用されたものが、いつしか歴史の記録から消え去り、後世に珍奇な石として認識されたと考えられる。
築土神社(つくどじんじゃ) / 東京都千代田区九段北
地図で確認すると、築土神社はビルの並ぶ区画のど真ん中に位置する。ビルの前に立つ鳥居から中へ入り込んでいく。そして神社は高層ビルに取り囲まれるように建っている。
この神社が今の九段に置かれたのは戦後の昭和29年。それ以前は新宿の牛込辺り、そして江戸幕府ができる前は田安にあり(このころは田安明神と称していたらしい)、更に最初は上平川にあったという。とにかく都内各地を転々としている神社である。現在では本当に小社と言っておかしくない規模であるが、かつては神田明神・日枝神社と共に江戸を代表する古社であった。
神社の歴史を紐解くと、創建は940年。平将門が討たれたその年に、その霊を祀るために建てられたのである。言い伝えによると、上平川に津久土明神としてできたのは、ここに将門公の首が落ちてきたためであるとのこと(つまり現在の首塚の場所に作られた社である)。実際、束帯姿の将門公の木像と共に “首桶”が納められていたらしい(戦災により現存せず。写真のみ残る)。
転々と移動している神社であるが、邪険に扱われているわけではない。田安に移したのは太田道灌であり、江戸城の裏鬼門の護りのためと伝えられる。また江戸幕府が移した理由も江戸城内の敷地になるためであった。そして戦後に今の場所に移されたのも、戦災で消失し、元の位置に近い場所に移そうとした結果であるという。
殿塚・姫塚(とのづか・ひめづか) / 東京都練馬区石神井台
扇谷上杉家の家宰(筆頭家臣)であった太田道灌の生涯はまさに戦闘に明け暮れたといっても過言ではないだろう。その中でも最もめざましい戦功を立てたのは、文明8年(1476年)に始まった長尾春景の乱である。
山内上杉家の家宰である長尾家の家督争いから山内・扇谷の両上杉家に反旗を翻した長尾春景であるが、それに呼応して関東の豪族が蜂起して大乱となった。扇谷上杉家の支配する武蔵・相模でも春景に味方にする有力豪族が現れた。中でも最も厄介な存在となったのが、石神井城を拠点とする豊島泰経であった。豊島氏は名族であり、石神井城・練馬城・平塚城(東京都北区)に拠って、道灌の居城である江戸城と、扇ガ谷上杉家の居城である川越城を分断するに至った。そのため、道灌は急ぎその障害を取り除くべく、兵を動かして豊島氏を攻撃する。
文明9年(1477年)4月、道灌は泰経の弟・泰明の平塚城を攻撃。寡兵と見せて泰明を城外へおびき出し、さらに援軍に駆けつけた泰経軍と合わせて江古田で合戦に及び、これを完膚無きまで叩く。泰明は討ち死、泰経は石神井城へ逃げ戻るが、道灌に取り囲まれるという事態に陥ったのである。
もはやこれまでとした泰経は、家宝の金の鞍を白馬に乗せて跨ると、三宝寺池にそのまま飛び込んで自害する。そしてその姿を見届けた二女の照姫も三宝寺池に入水し、ここに石神井城は落城となり、名族の豊島氏も滅亡した。道灌の平塚城攻撃から一月足らずの出来事であったという。
三宝寺池は、今は石神井公園の一部として残され、池の周囲には遊歩道もできている。その遊歩道に2つの塚が残されている。一つは泰経を祀る「殿塚」、そしてもう一つは照姫を祀る「姫塚」とされる。今でもこの塚のある辺りから池底を眺めると、金の鞍が見えると言われている。また、石神井落城の頃には「照姫まつり」が催される。
ただし、この伝説は史実ではなく、明治時代に書かれた小説が下敷きになっているのではないかという説もある(小池壮彦氏による)。
太田道灌 / 1432-1486。扇谷上杉家の家宰として辣腕を振るい、扇谷上杉家の南関東支配を確立させた。特に上の豊島氏との戦いはほぼ独力で敵方を滅亡させる働きをする。しかしその後、これらの活躍に対して主家が怖れを抱き、暗殺という結末を迎えることになる。
長尾春景の乱 / 1476-1480。山内上杉家の家宰であった長尾家の家督相続に端を発する戦乱。山内・扇ガ谷の両上杉家と20年近く戦ってきた古河公方・足利成氏が味方し、春景に同調する豪族も多かったが、太田道灌がことごとく居城を落としていったために古河公方側から和睦の申し入れがあり、膠着することなく短期間で終わる。孤立した春景は逼塞するが、道灌暗殺後に起きた両上杉家の戦いの際に扇谷側に味方をして、再び山内との戦いに臨んだ。
豊島泰経 / 生没年不詳。現在の東京23区の大半を領有していた名族。伝説では三宝寺池に入水して亡くなったとされるが、史実では落城の際に脱出に成功、その翌年に平塚城で再挙するが再び道灌に蹴散らされ、最終的に武蔵の小机城に逃げ込んでいる。しかし小机城の落城後は行方知れずとなり、豊島氏は事実上滅亡する。
鳥越神社(とりごえじんじゃ) / 東京都台東区鳥越
祭神は日本武尊。東征の折にこの地に留まったことを近在の者が尊び、白鳥神社を建立したのが始まりとされる。その後、永承年間に源義家が奥州征討へ赴く際、この付近を渡河しようとし、白い鳥に導かれて浅瀬を渡ることが出来たため、鳥越神社と改称したという伝承が残る。
しかし神社の由来書きにない伝承もある。それが平将門にまつわるものである。この鳥越神社は将門公の首が飛び越していったので「鳥越(=飛び越え)」という地名になり、この社名となった。あるいは、将門の身体はバラバラにされて江戸各地に埋められたが、この鳥越神社には手が埋められているという。
この神社と将門を結びつけるものはいくつかある。神社の紋を(七曜紋)としているところ(将門の紋は(九曜紋)であり(七曜紋)も同種とみなされる)。また宮司である鏑木家は将門ゆかりの千葉一族の中でもかなり由緒のある家柄であることが、挙げられるだろう。全く縁もゆかりもない土地ではないわけである。
日本武尊 / 第12代景行天皇の第二皇子。父の命により全国へ征討をおこなう。鳥越の地に関する記述は記紀ともにない。死後白鳥となって飛び立っていったという伝説が残されており、日本武尊を祀る神社の名称は(白鳥神社)が多い。
源義家 / 1039-1106。八幡太郎の通称。前九年・後三年の役で源氏の関東地盤を確立させる。その剛勇ぶりから、後年超人的な英雄とされる。鳥越の伝承は永承年間とされるため前九年の役(1051年)の時の話と推察できる。
平将門と千葉氏 / 千葉氏の祖は、将門の叔父に当たる平良文。千葉という名は、源頼義・義家親子に臣従した頃から名乗るようになったと考えられる。家紋の(九曜紋)は千葉氏の妙見信仰を顕すものであり(将門も信仰していたとされる)、月星を示す紋様である。また(七曜紋)もそのバリエーションであり、北斗七星の数に合わせていると考えられる。なお鳥越神社と平将門を積極的に結びつけようとする着想は、加門七海氏の『平将門魔法陣』に詳しい。
頓兵衛地蔵(とんべえじぞう) / 東京都大田区下丸子
新田義興謀殺を題材にして浄瑠璃『神霊矢口渡』を書いたのが平賀源内である。彼はこの芝居の中で、謀殺に一役買った船頭に“頓兵衛”という名前を付けた。この頓兵衛であるが、義興以下13名の武将を船に乗せ、多摩川の半ばまで来た時にわざと櫓を取り落とし、それを拾うと偽って川に飛びこんだ。さらに、あらかじめ細工していた船底の栓を抜いて船を沈め、そのまま向こう岸に泳いで逃げていったという。ここまでのことをやれば、直接手を下していなくても頓兵衛が義興を殺したと言われても仕方がないところである。当然のことながら、頓兵衛は竹沢右京亮・江戸遠江守と並んで、源内の浄瑠璃では悪役である。
ところが、竹沢・江戸の両名が義興の祟りにあって死ぬに至って、頓兵衛も前非を悔いて地蔵を一体作った。それが“頓兵衛地蔵”と呼ばれる地蔵なのである。だが、義興の祟りはこの地蔵にも直撃し、その顔を溶かしたのである。それ故、この地蔵は一名“とろけ地蔵”とも言われることになった。
住宅地の一角に頓兵衛地蔵の祀られたお堂がある。中を見ると(お堂の外ではない)、なるほどボロボロと崩れた地蔵であるのがわかる。実はこの地蔵は砂岩でできており、その崩れやすい材質のためにこのような姿になったらしい。またこのような姿であるために“いぼ取り”の効験があるとされ削り取られた、あるいは義興を殺した張本人が祀った地蔵に八つ当たりした者が石をぶつけてボロボロにしたという説もある。いずれにせよ義興の祟りの凄まじさを後世に伝える物証となった訳である。
ちなみにこの地蔵にはもう1つの説が存在する。この地蔵は義興の供養のために頓兵衛が作ったのではなく、祟りにあって狂死した頓兵衛自身の供養のために造られたものだという。
新田義興 / 1331-1358。南朝の武将である新田義貞の次男。足利将軍家の不和に乗じて1352年に関東で挙兵し、一時は鎌倉を攻略する。足利尊氏死去直後に謀殺される。祟りの顛末については、平賀源内によって書かれた『神霊矢口渡』という浄瑠璃でも有名となる。
『神霊矢口渡』 / 1770年初演。この芝居に登場する頓兵衛は剛胆で、義興ばかりではなく、弟の義岑をも殺害しようとする。さらに義岑の身替わりとなって殺される娘の諫言にも心動かされることなく、最期は新田家の神矢に貫かれて絶命する。
南蔵院 しばられ地蔵(なんぞういん しばられじぞう) / 東京都葛飾区東水元
水元公園の近くにある南蔵院は、関東大震災で罹災したため現在地に移転してきたが、かつては本所(現在の墨田区)にあった寺院である。この境内にある「しばられ地蔵」は、荒縄で地蔵を縛ることで願いを叶えてもらうという、奇妙な信仰が今でも続いている。その風習の由来とされるのが『大岡政談』に収められた「縛られ地蔵」の逸話である。
日本橋のある呉服商の手代が荷車に反物を積んで南蔵院の前で休憩をしていたが、うっかりそのまま居眠りをしてしまった。起きてみると荷車ごと反物を盗まれていた。奉行所に訴えると、町奉行・大岡越前は「門前にいながら、盗人の所業を一部始終見ていただけの地蔵も同罪である。引っ立てよ」と命じる。そして地蔵は縄を掛けられて市中引き回しの上、南町奉行所に連れて行かれたのである。
あまりに不思議な裁きであるため、多くの人々がぞろぞろと地蔵のあとを追って、そのまま奉行所の中にまで入ってしまった。すると越前は門を閉じて「奉行所に勝手に入るとは不届き千万。科料として各人反物を一反差し出すこと」と野次馬を叱りつけたのである。そうして集められた反物を手代に見せると、その中に盗まれた反物が一つまざっていた。奉行所はそれを出した者を割り出すと、その背後にあった盗賊団も一網打尽にしたのである。
この逸話のため、しばられ地蔵のご利益は盗難除け。さらには足止めや厄除け、また縄で縛ることから縁結びまで、さまざまな願い事を聞き届けるとされている。ちなみに願いが叶うと縛った縄を解くことになっているが、大晦日には縄解き供養もおこなっている。
『大岡政談』 / “享保の改革”と呼ばれる8代将軍・吉宗の治世に江戸町奉行となった大岡忠相(1677-1752)を主人公として、その機知と人情味に溢れる名裁きを講談や読本などを通して発表されたもの。ただし特定の人物によってまとめられた作品ではなく、大岡忠相の名声にあやかって各々の逸話が作られていったものと推測される。『大岡政談』として括られる一群の話には、実際に大岡が裁いた事件はほとんどなく、そのストーリーの原型は他の奉行の事績や中国古典の判じ物などに求めることが出来る。
日輪寺(にちりんじ) / 東京都台東区西浅草
今でこそ、大手町にある平将門の首塚は塚の碑だけが残っている状態なのだが、以前はその塚に隣接する形で神社と寺院があった。神社は言うまでもなく(神田明神)である。そして寺院の方は(神田山日輪寺)という。
嘉元3年(1305年)、時宗の真教上人が首塚の地を訪れた時には、塚は荒れ果て、周辺には将門の祟りが原因と言われる疫病が流行っていた。そこで上人は“蓮阿弥陀仏”の法号を与え、塚を修復して供養した。すると疫病は止み、上人もそばにあった日輪寺に留まることとなった。さらに上人は近くの神社を修復し、そこに将門の霊を合祀して神田明神としたのである。まさしくこの真教上人こそが、祟り神であった将門を鎮護の神へと変えた人物なのである。
その後、江戸幕府成立直後、神田明神は江戸の総鎮守社として現在の地に移転し、日輪寺も明暦3年(1657年)に現在の西浅草の地に移転した。神田明神がその後も将門と関係深くあったのに対し、日輪寺の方は本来の時宗の念仏道場として名が広まり、将門との直接の関係は薄れてしまったようである。
しかしこの寺には非常に貴重なものが残されている。真教上人は将門公供養のために“蓮阿弥陀仏”という法号を与えたが、徳治元年(1307年)にその法号の直筆を石塔婆に刻ませたのである(これによって上人は塚を修復し、祟りもおさまったらしい)。この石塔婆が現在もこの寺に置かれているのである。しかも、 現在大手町にある首塚に置かれている石塔婆は、この日輪寺の石塔婆に刻まれた真教上人の書を拓本して作られたのである。首塚のシンボルのオリジナルということで、貴重なものであると言えるだろう。 
新田神社(にったじんじゃ) / 東京都大田区矢口
東急線武蔵新田駅周辺には、南北朝の武将・新田義興にまつわる史蹟が点在する。義興は父・新田義貞の没後、関東の新田一族を率いて室町幕府軍(北朝方)と武蔵を中心に戦いを繰り広げていた。その剛勇ぶりのため、関東公方足利基氏の執事・畠山国清は、竹沢右京亮と江戸遠江守を使い、謀殺を試みる。竹沢・江戸両名は寝返ったと見せかけて義興に近づき、しきりに鎌倉攻めを進言する。そして延文3年(1358年)10月10日、近習のみを率いた義興は、多摩川の矢口の渡しで両名の裏切りに遭う。13名の側近は討ち死にあるいは自害し、義興も船上にて腹を切り、自害して果ててしまうのである。
ところがその直後から、この渡し場付近に怪光が飛び交い、義興の怨霊が雷神と化し、謀殺に関わった者はことごとく変死したという。このため義興が葬られた塚に建立されたのが新田神社である。建立された年が1358年と、謀殺と同じ年になっているのは、それだけこの謀殺が悲惨なものであり、また義興の祟りが凄まじかったことを 意味していると言えるだろう。
その後江戸時代になると、新田神社は隆盛を極める。徳川氏は家系図上、新田氏が祖先となっているからである。そして明治の廃仏毀釈後も神社は残り(南朝方の武将は全て天皇家の忠臣とみなされる)、現在に至っている。
新田神社の本殿裏には、義興が葬られたとされる塚が控えている。この神社を建立する場所として選定された目印になった塚である。言うならば、本当の意味での御神体である。現在は完全に柵で囲まれて入ることが物理的に不可能になっているが、昔からここは“荒塚” あるいは“迷い塚”と称されて、この塚に立ち入ると抜け出られなくなるという伝承が残されている。
そしてもう一つ、新田神社に残る伝承は“唸る狛犬”である。義興謀殺を企んだ畠山一族の者がこの神社に近寄ると、この狛犬が唸りをあげ、雨が降るという伝承である(現在、この狛犬は戦災によって一体だけが残されており、神社の境内の一角に祀られている)。
本然寺 お菊稲荷(ほんぜんじ おきくいなり) / 東京都台東区西浅草
西浅草の金竜公園のすぐそばに曹洞宗・本然寺という寺院がある。ここになぜか“お菊さん”にまつわる非常に珍しいものが祀られている。それが(お菊稲荷)と呼ばれている祠である。
永久保貴一氏の“お菊さん”関連の漫画での考察によると、“お菊さん”の伝承は“菊理姫”の伝承が変化したものであるという。その“菊理姫”を祀ったのが白山神社であり、さらに白山神社を寺内社としているのが“曹洞宗”の寺院なのである。前述している通り、本然寺は曹洞宗の寺院である。そして 一方“菊理姫”の実体は農耕神、特に稲の神であるという。稲荷社はその名の通り、日本における“稲の神”として認知されている。このあたりのリンクが、この一切の来歴不明の社の存在に関わっていると推測するのも一興かもしれない。
水稲荷神社(みずいなりじんじゃ) / 東京都新宿区西早稲田
加門七海氏の『平将門魔方陣』によると、この神社も平将門関連の地なのであるが、他の伝承地とは違和感がある。というのも、討伐した藤原秀郷との関連の方が大きいからである。この地に秀郷が稲荷神社を勧請したのが天慶4年(941年)、つまり将門を討った翌年となる。おそらく討伐が成功したお礼の意味合いが強いものであると思われる。
将門との関連はさておき、この神社の裏手には古墳がある。(冨塚古墳)というもので、藤原秀郷が最初に稲荷明神を勧請したのもこの塚の上であり、冨塚稲荷と呼ばれていた。そしてこの辺り一帯はこの塚の名前を取って(戸塚)と呼ばれるようになったという。(当時は、塚も神社も現在の早稲田大学の構内にあったのだが、昭和30年代後半に早稲田大学との土地交換によって現在の地に遷座している)
冨塚稲荷から水稲荷という名称に変わったのは、元禄15年(1702年)のこと。神木の根元から霊水が湧き出て眼病に効くという評判が立ち、さらに火難退散の神託があったことで改名となったとされる。
またこの神社には「耳欠け神狐」と言って、身体の痛い箇所と同じ部分を撫でると痛みがとれるという狐の像がある。
密厳院 お七地蔵(みつごんいん おしちじぞう) / 東京都大田区大森北
天和3年(1683年)3月29日に八百屋お七は鈴ヶ森で火刑に処せられた。本来ならば処刑された者をただちに懇ろに葬ることは認め られていないのだが、なぜかお七だけは異様な早さで供養が施されている。複数の伝承によると、裁いた奉行が、罪を一等減じさせるためにわざと年齢を15にしたにもかかわらず、お七がそれを否定したので、火刑が決まったらしい。“未遂罪”という法的解釈がないために極刑が下されたようである。それも考慮に入 れると、わずか16歳という年齢と可憐な容姿に同情が集まったためだけではなさそうである。
鈴ヶ森からあまり離れていない大森の地に密厳院という古刹がある。そこにはお七の三回忌供養のための“お七地蔵”が置かれている。お七の実家のある小石川の住民が寄贈したものであり(ここからもお七の放火が大した被害を出していないことが判るだろう)、台座も含めると2mほどというかなり大きなお地蔵様である。
この地蔵菩薩の一番の特徴は何と言っても(振袖姿)であることだ。普通の地蔵菩薩でもかなり丈の長い振袖のような着物なのだが、それがさらに強調されているのが目立つ。お七といえば振袖姿がトレードマークのようなものである。実際の処刑の際も艶やかな振袖姿で臨んだという徹底ぶりである。その強烈な印象が、この地蔵菩薩に凝縮されているといって過言ではないだろう(ちなみにお七が起こした放火が“振袖火事”と呼ばれる大火であるとしている資料もあるが、それは史実として誤伝である)。
公式にはお七がこの寺に葬られていたために地蔵が建立されたとされているが(ただしお七の墓はこの密厳院には現在存在しない)、それとは別に奇妙な伝説が残されている。元々この地蔵は鈴ヶ森に置かれていたのだが、ある時一夜にしてこの大森の密厳院に移動したとも言われている。
妙行寺(みょうぎょうじ) / 東京都豊島区西巣鴨
お岩の墓は西巣鴨にある。都電の新庚申塚駅を降りると、すぐ目の前の通りには“お岩通り”なる名が付けられている。
なぜ四谷で生活していたお岩様の墓が西巣鴨にあるのだろうか。その解答は妙行寺の門前にある石碑にあった。明治42年に四谷よりこの地に移転してきたとある。さらに“お岩様の寺”とまで刻まれている。既にこの当時から無視できない存在であったことがわかる。
そこそこ広い墓所の一角に、寺院とは不釣り合いな赤い鳥居が立っている。ここがお岩様の墓へ通じる入り口である。“お岩様の墓”と言っても、別に後世に建立された碑だけがあるわけではない。実際の墓石が信仰の対象である。しかもお岩様の墓は田宮家代々の墓が並ぶエリアにあるのだ。
妙行寺は元々四谷にあった時から田宮家の菩提寺であった。お岩の墓はその菩提寺に田宮家の代々の墓と共に置かれてあるわけである。これはお岩の存在がフィクションではなく、実在の人物であるという証である。だが、ひっそりとたたずむ他の墓とは別に、びっしりと周囲を取り囲むように並べられた卒塔婆や 特別に目立つように置かれている状況を見ると、やはり虚構の部分を担っているようにも感じる。
妙蓮塚三体地蔵(みょうれんづかさんたいじぞう) / 東京都大田区下丸子
新田義興と共に矢口渡で命を落とした側近たちは十寄神社に祀られている。しかし、伝承によると、十寄神社は別名(十騎神社)と言い、義興公側近の内、10人の霊を慰めるために造られた神社であるとという。そしてこの十寄神社とは別の場所に義興側近を祀る場所がある。それが妙蓮塚三体地蔵である。
十寄神社の由緒書きには10名の側近の名が記されているが、何名かは名前が入れ替わることがある。しかし妙蓮塚三体地蔵については、祀られている人物の名は完全に特定されている。土肥三郎左衛門、南瀬口六郎、市河五郎の3名であり、いずれも渡河中にだまし討ちに遭った時に向こう岸にまでたどり着き、敵と刃を交えて討ち死にしたとされている。この3名の忠烈を思い作られたのが、この三体の地蔵なのである(ちなみに十寄神社の由緒書きにも彼ら3名は名を連ねている)。
この三体の地蔵が祀られている場所は、新田神社・十寄神社からそこそこ離れている。かつてはこの二つの神社と 地蔵の間には多摩川が流れていたという。つまりこの地蔵が建っている場所は、3名の側近が川を渡りきって奮戦し、そして討ち死にした場所なのである。
妙蓮塚という名が残っているのは、この地蔵をこの地に祀ったのが妙蓮という尼であったということからであるらしい。特に寺社の境内にあるわけでもなく、いわゆる“道端のお地蔵さん”という感じなのだが、すごく手入れされたお堂に安置されている。
鎧神社(よろいじんじゃ) / 東京都新宿区北新宿
ここの由来はその名の通り“鎧”である。ただ神社の由来書によると、第一の説としては日本武尊がこの地に甲冑を納めたこととしている。しかしながら、歴史的な事実として天暦元年(947年)に平将門の鎧を納めた記録があるらしく、こちらの方が有力な説であるように感じる。
地元の人々が将門の威徳を慕って鎧を納めたのが始まりとする説もある一方で、藤原秀郷が残党狩りをしている最中ここで不意の病に倒れ、将門の霊を鎮めるために将門の鎧を奉納したともされる。
さらには将門の弟である将頼がこの地で鎧を脱いで休んでいたところを襲われて討ち死にし、その霊を慰めるために将門の鎧を納めたという異説まである。とにかく将門と鎧というキーワードは共通であり、鎧が埋められているのは確実だと思われる。 
鎧の渡し(よろいのわたし) / 東京都中央区日本橋兜町
兜神社から徒歩で数分のところに「鎧の渡し」という場所がある。ここにも平将門と源頼義(源義家の父)の伝説が残されいる。
源頼義が東北遠征へ行く際、この地で暴風雨に遭い、この淵に鎧を沈めて龍神に祈ったところ、風雨が止んで川を渡ることができたという。この由来からこの辺りを「鎧が淵」と呼ぶようになり、ここにできた渡し場を“鎧の渡し”と名付けたそうである。
将門の由来については、この地に兜と鎧を納めたということになっている。“兜”という名で思い出すのが兜神社であるが、向こうでの兜の由来は将門公の死後の出来事であり、どうも関連性は薄いようである。
江戸時代にはこの“鎧の渡し”は有名だったらしく、名所図会にも取り上げられている。しかし、明治5年に橋が架けられ、渡し場は消滅してしまった。という訳で、現在ではこの橋が「鎧橋」と呼ばれるようになっている。
八王子城址 御主殿の滝(ごしゅでんのたき) / 東京都八王子市元八王子町
八王子城は関東屈指の山城と言われる。現在、城址は史跡として復元されているが、実際の規模はそれを遙かに上回り、住宅地となっている周辺地も城址であるとされている。
八王子城は、関東を実効支配していた北条氏によって建てられた。城主は、北条3代目・氏康の三男、氏照である。当初は滝山城を居城としていたが、より防御の堅固な山城を築くことにした。小田原に本拠を構える北条氏とすれば、関東平野の各地に守りの堅い支城を建設して敵を食い止めれば、小田原からの本隊が攻撃。敵の侵攻を確実に抑えることが出来た。着工は元亀2年(1571年)頃。ちょうど武田信玄と関東各地で戦いを繰り広げていた頃である。
ところが、天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原攻めは、圧倒的な兵力で関東全域の支城を落としていったのである。八王子城も、豊臣軍の北陸部隊である前田・上杉の約3万の兵力の前に落城する。しかもその戦いは、小田原攻め最大の悲劇とも言われるほどの悲惨なものであった。
北陸勢は碓氷峠から関東に侵攻、北条氏邦の守る支城の鉢形城を開城させるが、これに1ヶ月も費やしたために秀吉より叱責を受けていた。そのために次に攻める八王子城では、出来るだけ素早く決着をつけて信頼を回復させる必要があった。対して八王子城では、城主の氏照以下主力の兵は小田原城で籠城しており、わずかの守備兵と近隣の女子供ばかり約3千名ほどが籠城して戦いに備えた。
6月23日、北陸勢の主力は一気に城へ殺到。対する守備側は一時的に反撃するが、適わぬとみて自刃、あるいは御主殿の滝に身を投げて全員が死を選んだのである。わずか1日の攻防で、滝を流れる川は三日三晩血で染まったという。さらに北陸勢は見せしめとばかりに、婦女子の首を刎ねて小田原に運び、城から見えるように並べたのである。難攻不落と謳われた小田原城が開城するのは、それから12日後のことであった。
その後八王子城は、直後に関東に移封された徳川家康の命によって廃城となった。そして付近の村では、血で染まった川の水で米を炊くと赤く染まるとの言い伝えが残り、供養のために赤飯を炊いたともいう。戦いで最も多くの死者を出した御主殿の滝は今でもあり、そのそばには供養のための碑がある。未だに奇怪な噂が聞かれる場所となっている。
北条氏照 / 1540-1590。北条氏康の三男。北条氏の主力として武田氏・上杉氏と戦う。居城を滝山城から八王子城へ移している(これが八王子の地名の由来)。豊臣秀吉との戦いでは主戦派として小田原城に籠城する。開城後は宗家の氏政(実兄)と共に切腹を命じられる。ちなみに鉢形城主の北条氏邦は氏照の実弟。小田原籠城ではなく野戦を主張したために、小田原を離脱して鉢形城で敵を迎える。開城後は一命を許されて剃髪。
雪おんな縁の地碑(ゆきおんなゆかりのちひ) / 東京都青梅市千ヶ瀬町
小泉八雲(ラフカディオ=ハーン)の晩年の傑作である『怪談』に収められた“雪おんな”の話は、この著名な妖怪にまつわる伝承の最も一般的なものとされている。
巳之吉という樵の若者が、冬のある夜に吹雪で戻れなくなり、茂作という老人と共に、川の渡し場にある小屋で一夜を明かそうとした。真夜中に吹き付ける雪に目を覚ました巳之吉の前には、白ずくめの美しい女がいた。女は茂作に息を吹きかけて凍死させるとると、巳之吉に近づいた。しかしその女は、この夜の出来事を話さないと約束するなら命は助けると言って、去ってしまった。
数年後、巳之吉はお雪という女と出会い、結婚。10人の子供をもうけた。お雪は美しく、いつまでも年をとらなかった。そしてある夜、子供を寝かしつけた後、巳之吉はお雪の顔を見ながら思い出したように、あの小屋で出会った女のことを話してしまう。するとお雪は、自分こそがあの時の“雪おんな”であるが、既に子供もなしてしまった今は、殺してしまうことは出来ない、と言うとその場で消えてしまった。
この話は八雲の創作ではない。『怪談』の序文には“武蔵の国、西多摩郡調布の百姓が、自分の生まれた土地の伝説として物語ってくれた”と明記されている。さらにこの話をしたとされる人物は、八雲の家で奉公していた、調布村出身の親子であると推断されている。
さらに、かつての調布村にあった川の渡し場で最も有名な場所が“千ヶ瀬の渡し”であるということから、おそらくこの有名な怪談話の舞台が比定されたのである。そして平成14年(2002年)、この渡し場のそばにある調布橋のたもとに、雪おんな縁の地碑が作られたのである。碑文は、八雲の孫にあたる小泉時が揮毫。碑の裏側には“調布村”が記載された『怪談』の序文とその和訳文のプレートが付けられている。
小泉八雲 / 1850-1904。ギリシア(当時はイギリス領)のレフカダ島の生まれ。父はアイルランド人、母はギリシア人。若くしてアメリカに渡り、ジャーナリストとして活動。40歳の時に来日、旧制松江中学の英語教師となる。松江で小泉セツと結婚。その後、熊本第五高校、東京帝国大学の英語講師となり、帰化し小泉八雲と名乗る。著作は『怪談』をはじめ、日本の霊性の本質を紹介する怪異譚を集めたものが多い。なお八雲は日本語が読めないため、妻のセツがさまざまな書籍を読み、また周辺の者から話を聞き集めた内容を、八雲に語り聞かせ、それをもとに執筆していたという。
調布村・調布橋 / 調布村は明治22年(1889年)の町村制施行により成立(当初は神奈川県)。昭和26年(1951年)に町村合併により青梅市となり、消滅。調布橋は、大正11年(1922年)に吊り橋として秋川街道に架けられる。それまでは、現在の橋の少し下流にあった“千ヶ瀬の渡し”が交通の手段となっていた。  
    江戸時代劇の大川 (隅田川)
    東京人心のルーツ   
    お大尽
    色里
 
千葉県 / 下総・上総・安房

 

茨城栃木群馬埼玉東京千葉神奈川

玉の浦の清き渚を、行きかへり、浪にかがやく月をみるかな海上胤平
玉前の神 / 長生郡一宮町 玉前神社
九十九里浜の南端、長生郡一宮町の玉前神社は、海神の娘である玉前の神(玉依姫命)をまつったものである。
むかし玉前の神が懐妊されたとき、三年目にやうやく若宮がお生れになった。その時、浜辺に一個の明珠あかるたまが流れ着いたといふ。
また、里の長者の翁が、ある夜の夢に感じるところがあり、夜の浜に出ると、突然、東風が起り、波間に光り輝く物が見えた。その光の玉は大波とともに浜に流れ着き、翁がこれを拾ひ上げて祠を建てて祀ったのが、玉前神社の始りであるといふ。
○ 玉の浦の清き渚を行きかへり 浪にかがやく月をみるかな 海上胤平
○ 夕潮に月さへみちて打ち寄する 浪もかがやく玉崎の浦 海上胤平
浜に流れ寄る神 / 長生郡長生町本郷 住吉神社
江戸時代の初め(元和二年)に、九十九里浜の一松郷蟹道の磯に、一体の神像が漂着した。これを拾った里人が、しばらく自宅の稲荷さまの中にまつっておくと、ある夜、住吉の神が夢に現はれ「吾は摂津の国、住吉大明神なり。高根郷八幡の森は住吉の杜に髣髴たれば彼の地に遷座せられんことを」との御神託があった。驚いて高根郷の神官と里人に告げると、皆喜んでこれを迎へ、八幡社に合祀して社名も住吉大明神と改めた。合祀当時の歌とされるものがある。
○ あづま沖青海原の汐路より 現はれ出でし住吉の神 古歌
蓑作りの翁の乙女 / 長生郡長南町 笠森寺
むかし平安時代の中ごろ、冷泉天皇の皇子、五条の宮が上総守として赴任したとき、その従者として蔵人清光とその妹いもうとも東国へ下向した。「少将の君」と呼ばれ、美貌の上に、また美しく琴を奏で、たちまち宮の寵愛を受けるやうになった。あるとき都から天皇の重病が知らされ、宮は都へ戻って行った。残された少将の君は、すでに宮の子を宿してをり、やがて姫が生まれた。少将の君はひたすら宮との再会を十一面観音に祈願したが、その甲斐もなく病にかかり帰らぬ人となった。兄の清光夫婦は、幼い姫をひきとり、市原郡尾野上の里で蓑や笠などを作りながらひっそりと暮らしたといふ。姫は「蓑作りの翁の乙女」と呼ばれた。
十数年後、後一条天皇が妃をなくされ、東国に美しい妃を求められたとき、使者の嵯峨の中将によって、姫に白羽の矢が立った。清光夫婦とともに都へのぼり、妃となった姫は、故郷の尾野上の里に一寺を建立し、笠森寺と名づけ、本尊として母のゆかりの十一面観音を安置したといふ。笠森寺は奇岩の上に高い柱を組んで建てられてゐる。
○ 五月雨やこの笠森にさしもくさ 芭蕉
○ 袖に添ふ涙の雨に濡れじとて 今日笠森をたづね来にけり 日蓮
右の歌の日蓮は、安房郡天津小湊町の誕生寺のある地に生まれた。
阿須波の神 / 八日市場市 松山神社
八日市場市の松山神社の境内にある阿須波神社は、万葉時代に西国へ旅立つ防人が、旅の安全と留守宅の無事を祈ったといふ話を伝へる。
○ 庭中の阿須波(あすは)の神に小柴さし 吾は斎いははむ帰り来るまで 防人の歌
香取神宮 / 佐原市
佐原市香取に鎮座する香取神宮は、経津主ふつぬし神{別名、伊波比主いはひぬし命}をまつる。経津主神は、鹿島神宮の武甕槌たけみかづち命とともに、天孫降臨に先立ってこの国土を平定した武神とされ、古代の大和朝廷の東国経営の前進基地として鎮祭されたともいはれる。
○ 大舟の香取の海に碇下ろし 如何なる人か物思はざらむ 万葉集
○ 香取潟百船人のぬさ立つる 神の宮居は幾代経にけむ 村田春海
枕詞は「大舟の」とあるが、香取神宮の午年ごとの式年神幸祭には、神輿は船で利根川を往復する。
神崎の大楠 (なんぢゃもんぢゃの木)
香取郡神崎かうざき町の神崎神社は、天鳥船あめのとりふね命ほかをまつり、白鳳二年に、常陸国に近い大浦沼二つ塚より現在の地に遷ったといふ。広大な神崎の森は、常緑の原生林で、その山の形から、ひさごが丘、ひょうたん山、双子山、などとも呼ばれる。
高田与清の『鹿島日記』に、社前の御神木のことが書かれ、歌もある。
○ 神代より繁りて立てる湯津桂(ゆつかつら) 栄え行くらむ限り知らずも 高田与清
歌にある湯津桂(斎つ桂)の木は「なんぢゃもんぢゃ」の名で呼ばれる。むかし水戸光圀が参詣したとき、「この木はなんといふかな、さて何といふもんぢゃろか」と自問自答して感嘆されたことにより、その名となったといふ。今は「神崎の大楠」ともいふ。「なんぢゃもんぢゃ」の名で呼ばれる巨木は関東などの各地に存在し、欅、椋、楡、榎、楠など種類はまちまちだが、巨樹を神聖視しての呼び名なのだらう。神崎の大楠は「樹齢は約二千年(牧野富太郎博士推定)」と社記にある。
手賀沼の高田堤 / 南相馬郡手賀沼
利根川に近い南相馬郡の手賀てが沼は、江戸時代以降干拓がすすめられた。享保のころ、江戸の豪商の高田友清は、私財を投じて堤防を作り干拓をすすめて、二百町歩、二万石の新田を開墾した。友清が築いた堤防は、千間堤といひ、また高田堤ともいはれる。高田家の養子となった幕末の国学者の小山田(高田)与清ともきよが、先祖を偲んだ歌。
○ 築きなせし手賀沼堤つつむとも いさを高たの名はや隠るる 高田与清
真間の手児奈 / 市川市真間町
万葉集の高橋虫麻呂の歌をそのまま口語訳する。
鳥が鳴く東の国の昔語として、今に伝はる話である。葛飾の真間の手児奈は、粗末な麻衣に青黒い衿で、地味な麻の裳を着て、髪も束ねず、沓さへ履かずに水汲みに行くのだが、錦綾に身を包む都の斎女だって及びはしない。望月のやうに明るくふくよかな面立ちに、花のやうな笑みをたたへて港に立てば、夏虫の火に入るが如く、港に舟の押し寄せる如く、男たちが寄り集まって声をかける。そんなとき、どうせ人は長くは生きられないといふのに、すでに死ぬときを悟ったといふのだらうか、波の音の騒く港に身を投げてしまった。その奥津城の前に立てば、遠い昔の出来事だといふのに、つい昨日のことのやうに思へてならない。
○ 葛飾の真間の井見れば立ち平ならし 水汲ましけむ手児奈し思ほゆ 高橋虫麻呂
「立ちならし」とは、歌垣で歌はれた古歌では常套句になってゐて、男女のダンスのやうにも受けとめられるが、巫女などの呪的な行為なのであらう。
○ 葛飾や昔のままの継橋を 忘れず渡る春霞かな 慈円
千葉の妙見さま / 千葉市中央区
千葉神社は「千葉の妙見様」とも呼ばれ、八月の妙見大祭で歌はれる盆歌がある。
○ 千葉の妙見さんの孔雀の鳥が 稲穂くはへて羽根ばたき 盆歌
妙見様は武士の間では弓矢の神として信仰され、平安時代以降、東国の平氏やその子孫の千葉氏、相馬氏などの代々の守護神として崇敬された。
○ 月星を手にとるからにこの家の 栄えんことは恒河砂の数 妙見御本誓の歌
放牧の民が星をまつるのは東洋に多いといふ。日本の近世の妙見信仰は富士講と関係するものも多いらしい。富士の女神は養蚕の神ともされた。
お富・伊三郎 / 木更津(君津郡)
むかし江戸深川の芸者お富は、木更津の貸元源左衛門に身請けされて、木更津に住むことになった。ある秋、八幡さまの祭礼で、江戸育ちの三味線弾き、与三郎と知り合った。以来、浜で逢ひ引きを重ねてゐたが、貸元に知られるところとなり、二人は半殺しのめにあった。二人はなんとか逃れて江戸で再会し、夫婦となったといふ。
○ 誰がひくやら明け烏 ついてくるきかお富さん
諸歌
○ 牛飼が歌よむ時に世の中の 新しき歌大いに起る 伊藤左千夫
○ 天地の四方の寄合を垣にせる 九十九里の浜に玉拾ひ居り 伊藤左千夫
鴨川市細野 古泉千樫生誕地
○ わが家の古井の上の大き椿 かぐらにひかり梅雨はれにけり 古泉千樫
安房神社 / 館山市
天太玉あめのふとだま命の孫の天富あめのとみ命は、阿波国(四国)の忌部いむべ氏の一部を率ゐて東方に土地を求め、安房の地に移住し、祖神の天太玉命を安房神社にまつり、房総半島に麻穀の栽培を広めた。天富命は房総開拓の神として下の宮に祀られてゐるといふ。
○ 安房峯ねろの峯ろ田に生はるたはみ蔓づら 引かばぬるぬる吾あを言ことな絶え 万葉集
房総の頼朝 / 山武郡蓮沼村
伊豆で平家追討の兵を挙げた源頼朝は、最初の戦に敗れて安房へ逃れた。安房では多くの里人が頼朝を匿って世話をしたといひ、頼朝公から苗字を賜ったと今に伝へる家は数知れない。頼朝が九十九里浜の景観に見せられて浜の長さを測ったときに、一里毎に矢を挿し、ちょうど九十九里の中央にあたる山武郡蓮沼村に祠を建てて弓矢の神をまつったといふ。今の箭挿やさし神社である。
○ まん丸や箭挿やさしが浦の月の的 源頼朝 
 

 

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上総下総の国号
上總・下總國號
下總(シモフサ)・上總(カヅサ)は、總(フサ)とは木の枝を謂(イフ)。昔、此國大なる楠を生ず。長(ナガサ)數百丈に及べり。時に帝(ミカド)之(コレ)を怪(アヤシ)み、之を卜占(ウラナハ)し給ふに、大史(タイシ)奏(ソウ)して云(イハク)、「天下の大凶事也」。因(コレニヨリテ)彼(カノ)木を斬捨(キリスツルニ)南方に倒(タフ)れぬ。上の枝を上總(カヅサ)と云(イヒ)、下の枝を下總(シモフサ)と云(イフ)。風土記。(國花萬葉記十)
下総・上総の地名起源伝承。昔大きな楠があったのを天皇が切り倒した。これが南に向って倒れたので、南の方が上の枝という意味の上総、北の方が下の枝という意味の下総になった。
現実的には律令制以前には凡そ今の千葉県にあたる地域に「総国」があり、これが律令制以後二つに分かれたときに「東海道=海路による交通において畿内に近い」ということで南の方が「上総」になったそうです。電車の上り下りと同じです。で、後に半島南部の安房国が独立したと。
奈良平安時代、武蔵野国と下総国の辺りは小さな舟しか通れない湿地帯だったそうですが、これはなかなか興味深い。この地域にある式内社などの記録を追うと当時の状況がたどれそうな気もします。埼玉県の氷川神社は周囲が湿地帯だったとも言いますし、大物主を祭る式内社茂呂神社周囲の地名「三輪野山」は「水輪の山」だったとの解釈もあります。
また「総」の説明として、『古語拾遺』では「総とは麻のことだ」と書かれているようです。四国阿波から天富命が忌部(斎部)を従えてより豊かな土地を求めて東海道を移動し、「総国」に着いて麻や穀物を植えたところ非常に良く育った。それで麻=総の国というようになったというのです。さらに後に独立する半島南部の「安房」は四国の「阿波」から取った名前だそう。「総」に麻の意味があるというのは、字典的な意味では無理があるようですが、藤原京の考古学資料によるとどうも元は「手求(ふさ)」の字であって、イコール「房」「総」の意味で、麻の実も房状になることから、妥当性があるだろうとのこと。後に良い意味の「総」に変えたとも。
さらに阿波忌部氏の祖神天日鷲神は紡績の神だとも言います。書紀天岩戸条一書では「粟国忌部の祖天日鷲神の作った『木綿』を用いる」とあります。「木綿」とは「ゆふ」で楮(こうぞ)の木の皮から作る繊維。麻と同じく綿以前に使われたもので祭祀でよく使用されます。
それでこの神は紡績の神として信仰されているわけですが、「麻・木綿(ゆふ)」という古い時代の服飾文化と関係が強い。服飾史の知識など皆無ですが、麻・綿・絹という変化があって、それぞれに地域性や信仰の相違変化などがあったことは考慮すべきかもしれません。その意味では「麻の国」であった上総・下総・安房=「総国」はやはり辺境であるという位置付けなのだと思います。
余談ですが、崇神記三輪山神婚譚に登場する「苧環」も麻糸を玉状に巻いたもの。絹糸でも綿糸でもない、というのは何かしら意味があるのでしょうか?
「総」の解釈に思わぬ広がりがあったために、かなり寄り道しましたが、上記伝承の解釈に戻りましょう。
上記伝承は「なぜ南にある国が上で、北にある国が下なのか?」という疑問に発した解釈のように思います。上野=群馬と下野=栃木は横並びですからあまり違和感はありませんが、地図を見るだけでは陸続きの北部よりも半島部のほうが近畿から見て近いとするのは疑問がありますから。
北を上と考えるのは地図に親しんでいる現代人の感覚かもしれませんが、それでも「天子南面」していた近畿の都においては北に行くにしたがって「上る」であったはずです。少なくとも現在でも使われている京都の住所表記では北に行くのを「上ル」としています。
「総」は「ふさ」で、普通は「房」と同じ意味で、「ぶどうの房」などのように実や花が寄り集まっている状態を指しますが、ここでは「枝」ということになっています。すでに「麻」=「手求」=「総」の意味が失われている解釈で、それほど古くないようにも思います。
しかし、巨木伝承として見ると日本古代のそれと近い伝承ではあります。日本古代における巨木は切られて、水平に意味を成す。世界樹・世界の中心・天地を結ぶ柱と言った意味合いはありません。
日本は地勢が山がちで平野が少ない。したがって、天地をつなぐものとしては木よりも山の方がふさわしく思われたのかもしれません。また日本の高山は山頂に木が生えません。台湾では2600m以上の阿里山でも山頂は樹木が茂っています。しかも巨大な檜などが。しかし日本では2000mでも山頂には木が生えません。それでは天に近いものとして木を想定するのは難しいでしょう。
所謂世界樹神話が存在している地域について気候や地形、植物相などを比較すると「平地が多めで山が少ない」或は「温暖湿潤で山頂も木々に覆われている」などの共通項があるかもしれません。もちろん気候変動などありますから、現在の状況だけではなく過去の気候なども考える必要があるでしょう。あくまでも予想です。
ではなぜ日本の巨木伝承の巨木たちは常に倒されるのでしょうか?
所謂天地分離神話では天地をつないでいた柱なり樹木なりは必ず倒れます。これは現実として天地が別たれていることから当然です。しかし日本の場合はそもそも「天地をつないでいる」という前提がありません。切られる以前の巨木にしても「影が○○から××まで射した」といわれるだけです。この巨木の陰についてその土地勢力の範囲を表すという分析もあったと思いますが、実際にはどうなのでしょうね?上記伝承で「占いしたら天皇にとって不吉と出た」というのも勢力範囲説と関係があるような気もするはします。でもあまり面白くありません。
大木には妖怪がすむと言う伝承が多い。あとは病気と関係があるとか。神木であるとする場合でも「切ると祟りがある」というように恐れの方が強調される感じがします。この辺、常に樹木を生活の道具として使ってきた日本の物質文化との関係があるような気もします。上記伝承にはありませんが、巨木伝承が「それを遣って作った船は早い」などという材木としての価値を強調しているのもそのせいかもしれません。
諸外国の世界樹神話自体あまり詳しくないのですが、例えばユグドラシルのあるゲルマン神話などでは森は常に恐ろしい場所であり、また樹木よりも石の構造物が多いのも事実でしょう。
上総国
(かずさのくに、正字体:上總國、正仮名遣:かづさのくに) かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。常陸国・上野国とともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は上総介であった。
「上総」の名称と由来
『古語拾遺』によると、よき麻の生きたる土地というところより称したとされる捄国(ふさのくに)から分立したという。分立の時期については、『帝王編年記』では上総国の成立を安閑天皇元年(534年)としており、毛野国から分かれた上野国と同じく「上」を冠する形式をとることから6世紀中葉とみる説もある。
6世紀から7世紀にかけ多くの国造が置かれ、後の安房国も併せ8つの国造の領域が存在しているが、ヤマト王権からはこれらの国造の領域を合わせ捄国(もしくは上捄国)として把握されていたものと考えられ、ヤマト王権と緊密なつながりを有していたともされている。藤原宮出土木簡に「己亥年(699年)十月上捄国阿波評松里□」とあり、7世紀末には「上捄」の表記であったと推測されるが、大宝4年(704年)の諸国印鋳造時には「上総」に改められた。読みは、古くは「かみつふさ」であったが、「かづさ」に訛化した。「かみつふさ」の転であるため、正仮名遣(歴史的仮名遣い)では「かづさ」と表記されるが、現代仮名遣いでは「かずさ」とするため、「つ」に由来することが見えない状況となっている。

律令制以前は、須恵、馬来田、上海上、伊甚、武社、菊麻、阿波、長狭の8つの国造が置かれていた。律令制において、市原郡、海上郡、畔蒜郡、望陀郡、周淮郡、埴生郡、長柄郡、山辺郡、武射郡、天羽郡、夷灊郡、平群郡、安房郡、朝夷郡、長狭郡の15の郡(評)をもって令制国としての上総国が成立し、東海道に属する一国となった。元々東海道は海つ道(海路)であり、房総半島の畿内に近い南部が上総国、遠い北部が下総国とされた。
養老2年5月2日(718年6月4日)、阿波および長狭国造の領域だった平群郡、安房郡、朝夷郡、長狭郡の4郡を割いて安房国とした。天平13年12月10日(742年1月20日)、安房国を併合したが、天平宝字元年(757年)に再び安房国を分けた。この時から長く領域は変わらなかった。そして天長3年9月6日(826年10月10日)、上総国と常陸国、上野国の3国は、国守に必ず親王が補任される親王任国となり、国級は大国にランクされた。親王任国の国守となった親王は「太守」と称し、官位は必然的に他の国守(通常は従六位下から従五位上)より高く、親王太守は正四位以上とされた。親王太守は現地へ赴任しない遙任だったため平高望、良兼や菅原孝標がそうであったように、国司の実質的長官は上総介であった。
古代末期から中世にかけて上総氏が活動し、鎌倉期には上総広常、その亡き後は足利氏となる。室町時代の守護には、高氏、佐々木氏、千葉氏、新田氏、上杉氏、宇都宮氏の各氏が就いた。15世紀半ばごろより、原氏、武田氏、酒井氏、土岐氏、正木氏らの各氏が割拠。16世紀前半には、下総生実に拠った小弓御所足利義明の影響が強まった。足利義明が天文7年(1538年)の国府台合戦で敗死した後は、小田原の後北条氏、安房の里見氏の抗争の地となり、在地の諸豪の動きはきわめて流動的であった。
豊臣秀吉の小田原征伐後、関東に徳川家康が転封されると、大多喜の本多氏を筆頭に万石5氏が置かれ、江戸時代には久留里藩、飯野藩、佐貫藩、鶴牧藩、一宮藩、大多喜藩、請西藩の7藩と幕府領・旗本領が展開し、村数は約1,200ヵ村(天保期)を数えた。
幕末から明治政府成立の過程で、請西藩は、朝命に抗したという理由で明治元年(1868年)12月に領地没収となる。また、徳川家達を駿河静岡藩70万石に封じたことによって、明治2年(1869年)までに、菊間藩、金ヶ崎藩(のちに桜井藩)、小久保藩、鶴舞藩、柴山藩(のちに松尾藩)、大網藩の6藩が新たに置かれた一方、幕府領・旗本領は安房上総権事・柴山典の管轄下に置かれた。
明治2年(1869年)の版籍奉還で藩主は知藩事に、旧幕府領・旗本領は安房上総知県事となり、安房上総知県事の管轄地には宮谷県が置かれて柴山典が権知事となり、管轄地は上総において約8万7,800石。安房を加えると計37万1,700石であった。明治4年(1872年)、廃藩置県が行われると、旧藩領と宮谷県は大きく木更津県に統合された。明治6年(1874年)には木更津県と下総を管轄していた印旛県が統合して千葉県が成立し、管轄が移行した。
施設
国府
市原市と推定されており、国分寺跡、国分尼寺跡が発掘されているが、国府の遺構はまだ見つかっていない。中世の国府は能満(府中)にあったと考えられている。
国分寺・国分尼寺
上総国分寺 / 法燈は医王山清浄院国分寺(市原市惣社、本尊:薬師如来)が伝承する。
上総国分尼寺 / 未詳。
神社
延喜式内社 『延喜式神名帳』には、以下に示す大社1座1社・小社4座4社の計5座5社が記載されている。大社1社は、名神大社である。
埴生郡 玉前神社(長生郡一宮町一宮) - 名神大社
長柄郡 橘神社(現 橘樹神社、茂原市本納)
海上郡 島穴神社(市原市島野)姉埼神社(市原市姉崎)
望陀郡 飫富神社(現 飽富神社、袖ケ浦市飯富)
総社・一宮以下 
総社:戸隠神社(市原市惣社)-鎮座地名が惣社であることから、総社であったと推定されるが未詳
一宮:玉前神社
二宮:橘樹神社
三宮:三之宮神社
このほか、市原市八幡の飯香岡八幡宮が「総社八幡」であった。中世以降、飯香岡八幡宮が総社として機能した。
安国寺利生塔
安国寺 / 仏光山白智院安国寺(富津市亀田、本尊:阿弥陀如来)が継承
利生塔 / 長柄山眼蔵寺(長生郡長柄町長柄山、本尊:釈迦如来)が継承
駅 (いずれも律令時代の駅)
大前駅(千葉県富津市岩瀬・小久保付近)
藤潴駅(木更津市下望陀・大寺付近)
嶋穴駅(市原市島野付近)
天羽駅(富津市湊・数馬・売津付近)
大倉駅(市原市八幡付近)
湊・津
内海 八幡湊 / 五井湊 / 奈良輪湊 / 木更津湊 / 中野湊 / 富津湊 / 湊 / 竹岡湊 / 金谷湊
外海 興津湊 / 勝浦湊 / 福原湊 / 一宮本郷湊 
安房国
(あわのくに) かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。
古代の安房国は、豊かな漁場に恵まれたことから御食国に任じられ、皇室や朝廷の御饌を担当した。膳氏を司る伴造氏(後に高橋氏と改称)の出自を示した『高橋氏文』によると、景行天皇が東国に行幸した折に、安房国にて磐鹿六雁命(いわむつかりのみこと、膳氏の始祖とされる)が蛤(はまぐり)を捕り、天皇に料理して献上したところ、天皇の子孫代まで御食を供するよう膳臣を授かったという記述がある。そのことに由来し、当時、中央官庁の大膳職で御食津神として祀られた安房神社や高家神社などが存在する。
養老2年(718)、上総国のうち阿波国造と長狭国造の領域だった平群郡、安房郡、朝夷郡、長狭郡の4郡を分けて安房国として独立した。天平13年(742)に上総国に合したが、天平宝字元年(757)に元に戻され、東海道に属する一国となり、国級は中国にランクされる。
国府は現在の南房総市府中付近に置かれ、古代末期から中世にかけて丸氏、長狭氏、安西氏、神余氏などの武士団が活動し、平安時代末期には源頼朝の再起の地となる。鎌倉時代の守護は不明。室町時代の守護には結城氏、上杉氏が就いた。15世紀半ば頃より里見氏が台頭し、戦国期には安房統一を果たして上総から下総の一部に至るまで勢力を張った。
豊臣秀吉による小田原城攻め以後は、安房一国が里見氏の領地となった。関ヶ原の戦いでは、里見氏は徳川家康を支援して加封を受けたものの、江戸幕府成立後の慶長19年(1614)に里見忠義が大久保忠隣改易に連座して伯耆国倉吉に転封。その後は、東条藩、勝山藩、上総百首藩、北条藩、館山藩などの諸藩と、幕府領・旗本領が置かれた。村数は280ヵ村(天保期)。明治2年(1869)安房では勝山、館山、北条の3藩に、新たに長尾藩、花房藩の2藩が置かれた。この地の幕府領・旗本領は安房上総知県事・柴山典の管轄となり、翌年に宮谷県が置かれて柴山典が権知事となり、安房4郡の約5万6千石を管理した。明治4年(1872)、廃藩置県によって木更津県に編入され、明治6年(1874)木更津県と印旛県の合併により千葉県に編入された。明治30年(1897)には安房国4郡が統合されて、千葉県安房郡に再編された。
「安房」の名称と由来
『古語拾遺』によれば、阿波国において穀物や麻を栽培していた天富命は、東国により良い土地を求め阿波の忌部氏らを率いて黒潮に乗り、房総半島南端の布良の浜に上陸し開拓を進めた。そして阿波の忌部氏の住んだ所は、「阿波」の名をとって「安房」と呼ばれたという。上総国阿幡郡、上総国阿波郡、上総国安房郡という表記の木簡があり、古くは「阿幡」、「阿波」とも表記された。 
姉埼神社
(あねさきじんじゃ) 千葉県市原市にある神社。式内社で、旧社格は県社。社名は「姉埼」であるが、所在地の地名は「姉崎」となっている。
『古事記』・『日本書紀』によれば、景行天皇40年、日本武尊が東征の際、走水の海(浦賀水道)で暴風雨に遭ったが妃の弟橘姫の犠牲によって上総に上陸することができた。社伝では、日本武尊が当社鎮座地の宮山台で弟橘姫をしのび、風の神である支那斗弁命を祀ったのが当社の始まりと伝える。
日本武尊の歿後、父である景行天皇は日本武尊の縁の地を歴訪し、当社に日本武尊を合祀した。成務天皇5年、当地を支配していた上海上国造・忍立化多比命が天児屋根命と塞三柱神を合祀し、履中天皇4年、忍立化多比命の孫の忍兼命が大雀命を合祀した。姉崎一帯は上海上国造の勢力の中心地であり、多くの古墳(姉崎古墳群ほか)が残っている。
平安時代中期の『延喜式神名帳』には「上総国海上郡 姉埼神社」と記載され、小社に列している。かつては島穴神社と深い関係にあり、神輿が両社を行き来していた。
明治維新後、当地は木更津県となり、近代社格制度において県社に列格した。
昭和61年(1986)火災に遭い、本殿と神木が焼失した。現在の本殿はその後に再建されたものであり、神木は焼け残った芽から育て直された。
元慶元年(877年)5月17日、従五位上勲五等から正五位下勲五等 『日本三代実録』表記は「姉前神」
元慶8年(884年)7月15日、正五位上勲五等 『日本三代実録』表記は「姉前神」
伝承
当社境内には松の木がない(境内の木々は多くが杉の古木である)。松をきらう由来や地名の起源については以下のように諸説あり、混在している。
あるとき支那斗弁命が、出かけたきり(旅に出たきり、とも)いつ帰ってくるかわからない志那都比古尊を思い、「待つのはつらい」と嘆いたことから、「待つ」に通じる「松」が当地では忌まれるようになった(なお、参道の前を走る平成通りが開通すれば、島穴神社と一本道で結ばれることになる)。
支那斗弁命と志那都比古尊がこの地を訪れた際、姉神(支那斗弁命)の方が先に来て当地で弟神(志那都比古尊)を待ったので「あねがさき」という地名になった(この時「待つ身はつらい」と言ったという説もある)。
元々の地名は「姉ヶ松」であったとする伝承も存在する。この地では姉妹がいる家からは妹ばかりが先に嫁いで行き、姉が実家に長く残ることが多かったとされ、「あねがまつ(姉が待つ)」という地名にその原因があるのではと考えた人々が、姉から先に嫁に行けるようにとの願いを込め、地名を「あねがさき(姉が先)」に変えたのだとされる。 また、氏子区域内では正月に松を飾らないという風習がある。したがって門松を飾ることも避けられ、松ではなく榊を用いた門榊(かどさかき)が飾られる。ほかに、鰯の頭などの魔除けや、市原市役所などが配布する門松カードや門榊カードを代用とする家庭も多い。 
印旛沼(いんばぬま) / 東京湾と結ばれた沼
千葉県最大の沼である印旛沼の周辺は、東京の通勤圏として大規模な住宅地の開発がなされ、景観は大きく変化した。しかし、沼一帯は比較的自然が残り、周辺住民の憩いの場となっている。かつての印旛沼は下総国印旛郡のほぼ中央に広がっており、周囲四七キロ、面積二〇平方キロほどであった。
現在は中央部が干拓されて北部調整池(五平方キロ)と西部調整池(五・五平方キロ)に二分され、この二つの池を印旛捷水路と中央排水路が結んでいる。北部調整池と利根川は長門ながと川で結ばれ、西部調整池には鹿島かしま川・師戸もろと川などが流入している。西部調整池は東京湾(江戸湾)ともつながり、八千代市の大和田おおわだ排水機場を境として、上流の印旛沼側を新川、下流の東京湾側を花見はなみ川と呼ぶ。
印旛沼では古くから漁猟が行われ、また、舟運や農業用水に利用されるなど、地域に恩恵を与えた一方で、洪水時には大きな被害をもたらした。近世に入り全国的に治水・新田開発が盛んに行われるようになると、印旛沼もその対象となっている。
寛文元年(一六六一)江戸幕府は下総国と常陸国の間を流れていた下利根川流域の新田開発を企て、同六年までに新利根川の開削、布佐ふさ村(現我孫子市)と布川ふかわ村(現茨城県利根町)間の利根川締切工事を一応、完了させている。耕地が潰れた常陸国河内かっち郡や下総国相馬そうま郡・香取かとり郡の村々は、その代替地として印旛沼周辺の笠神かさがみ・大瀬野おおせのの両埜原を与えられ、荒蕪地を開発して多くの新田村が成立した(吉植家文書)。
しかし、この普請では手賀沼・印旛沼の排水には成功せず、また新利根川は水位が低く、舟運にも適さなかったために、同七年(「下総旧事考」では同九年)に利根川の閉塞部分を除去して再び水を流し、新利根川の取入口を埋戻した。さらに北方の羽根野はねの村(現利根町)で小貝こかい川から取水する羽根野堰を設け、この水を新利根川に入れて用水とする工事を同一〇年に完成させている。
印旛沼と江戸湾を結ぶ水路を開削して沼水の安定を図ることは、耕地の増大を図ることと同様重要な課題で、享保九年(一七二四)平戸村源右衛門が中心となって、幕府に新田開発を願い出たときには、紀州流治水技術の祖井沢為永や新設された普請役の視察を受け、公金を借用して平戸村から検見川けみがわ村(現千葉市花見川区)までの掘割普請にとりかかったが、失敗に終わった(佐倉市保管文書)。
安永九年(一七八〇)から天明六年(一七八六)にかけては老中田沼意次の音頭取りで大規模な開発が実施されたが、意次の失脚もあってやはり不成功に終わった(平山家文書)。寛政三年(一七九一)には布鎌ふかま新田(現栄町)中組重右衛門が、老中松平定信の役人衆に宛てて沼の新開発を願い出、滑川なめがわ村(現下総町)まで利根川に沿って掘割を造成し、沼水の七割を抜くことを提唱している(山田家文書)。
最後の大規模な開発は、老中水野忠邦が実施した天保一四年(一八四三)の利根川分水路印旛沼古堀筋御普請であった。これは新田開発のほか、懸案であった現在の新川・花見川にあたる掘割を造成し、印旛沼と江戸湾を結ぶことを目指すものであった。水野忠邦は領地であった惣深そうふけ新田(現印西市)の名主の干拓情報を代官を通じて仕入れ、幕府の政策としてとりあげた。この工事では出羽庄内藩・上総貝淵藩・駿河沼津藩・因幡鳥取藩・筑前秋月藩に御手伝普請が命じられている。当時、普請役は経費だけを負担する「お金手伝い」化していたが、この時は前代に復して実務が求められた。庄内藩は江戸町人で口入屋の百川屋を通じて人足を集める一方、国元からも領民を呼び寄せて掘割工事に当たらせた(致道博物館所蔵文書)。しかし水野忠邦はじき失脚し、新水路の完成には至らなかった。佐藤信淵が著した「内洋経緯記」は、忠邦の工事計画について、外国侵攻の際の江戸湾封鎖を想定し、常総・奥羽の物資を浦賀水道を通ることなく江戸に運ぶことを可能にする点を指摘、江戸防備・海防政策の観点からその意義を論じている。
第二次世界大戦後、何度か印旛沼の干拓計画が立てられ、昭和三八年(一九六三)に「印旛沼開発に関する事業実施計画」が認可された。内容は治水と利水の両方からなり、その結果大和田排水機場が同四二年に竣工。台風などの増水時、沼水を印旛疎水路(新川・花見川)を通じて東京湾に放流する仕組みができ、江戸時代以来の難題であった新川開削工事はようやく完了した。 
木更津 / 千葉県木更津市
「しがねえ恋の情けが仇」の名せりふで知られる当り狂言「与話情浮名横櫛よわなさけうきなのよこぐし」(三世瀬川如皐作、通称「切られ与三」)は、上総木更津の名を一躍有名にした。江戸の伊豆屋の若旦那与三郎がお富を見初める羽織落の所作が印象的な「木更津浜辺の場」から物語は始まる。木更津は東京湾の東側、房総半島のほぼ中央部の西海岸に位置し、江戸とは指呼の間にあった。
木更津の地名は、茂原もばら市三ヶ谷さんがや永興えいこう寺の本尊釈迦如来像胎内文書に含まれる文永一〇年(一二七三)六月一八日の奉納願文に「きさらすの女房」とみえるのが早い。ほかに「来去津」(清浄光寺蔵「時衆過去帳」貞和四年八月一八日)、「木佐良津」(鎌倉本覚寺蔵応永一七年一一月八日付梵鐘銘)などと表記され、「木更津」に落ち着くのは元禄期(一六八八‐一七〇四)以降とされる。茂原市藻原そうげん寺の「仏像伽藍記」によると、文和二年(一三五三)七月二二日に木更津から妙光みょうこう寺(藻原寺の旧号)四天王像造立のための御依木が到来している。前掲の永興寺本尊の胎内文書などからも、当地と房総半島東岸の茂原方面とを結ぶ交通路が発達していたことが想像される。
この頃湊としては南方の古戸ふんと(現富津市)が繁栄していたらしく、木更津の南側に位置する波多沢はたざわ村(現木更津市)から金沢かねさわ称名しょうみょう寺(現横浜市金沢区)に納める年貢の一部が古戸問料として支払われており(応安三年一〇月三日「周東郡波多沢村検見帳」金沢文庫文書)、中世鎌倉の外港として栄えた六浦むつら(現同区)と結ぶ津があって、問丸が荷を扱っていた。文明一六年(一四八四)九月には称名寺の僧が風渡(古戸)から陸路で当地を通過している(「鏡心日記」同文書)。京都聖護しょうご院の道興も同じく陸路で「ふと」から当地を経て吾妻あづま(現木更津市)に向い、「爰にふと木更津の郷過れとも猶あつまのうちとこそきけ」(『廻国雑記』)と戯れに詠じている。
江戸時代には江戸から安房方面に向う往還の継立場であり、また湊からは安房や西上総一帯からの物資が積出された。往還は木更津地内で寺町通、旅籠屋はたごや通、海岸通の三本に分かれ、「木更津千軒」といわれるほど寺院・商家・土蔵・旅籠・茶屋が立並び、木更津船によって江戸の風俗・文化が直接入り込むため、小江戸の観を呈したという。木更津船とは当地と江戸を結んだ船のことで、五大力ごだいりき船が用いられた。五大力船は長さ三一尺(約九・四メートル)から六五尺(約一九・七メートル)ほどの小型廻船で、長さに対して幅は若干狭く、海から川に乗り入れて江戸市中の河岸に着けた。
木更津船の由緒書(重田家文書)によれば、大坂の陣に際し、木更津村は徳川氏から水主かこ二四名の出役を命じられ、半数が戦死した。帰国した者は戦死者の遺族のために願い出て、大久保長安の計らいにより木更津近辺二万石の幕府領の年貢米を運送する許可が二四名の家に与えられたという。江戸日本橋船町(のち材木町に移転)の河岸場(通称木更津河岸)に間口三間の荷揚場が定められ、上総・安房への旅客の乗船権を得たと伝えられる。この三つの特権は元禄期には確立していたと考えられる。
海上九里の江戸までの運賃は米一〇〇石につき一石一斗、順風の場合で四、五時間を要した。享保六年(一七二一)頃木更津船の所持者が仲間を結成し、幕府川船役所に六八艘を登録している(『徳川禁令考』・重田家文書)。房総と江戸を結ぶ船には下総行徳ぎょうとく村(現市川市)を拠点とする行徳船もあったが、木更津船はとくに関所を通ることなく往来できるのが利点であった。湊の様子は木更津出身の落語家木更津亭柳勢作の木更津甚句に歌われ、この甚句は安政期(一八五四‐六〇)に江戸で流行した。
木更津海岸からは三浦半島や遠く富士山も望むことができる。風景の良さから観光地あるいは保養地としても知られ、安藤広重の「山海見立相模・上総木更津」、司馬江漢の絵馬「木更津浦之図」や洋風日本画「下総木更(上総木更津)浦晩景」などにも描かれる。お富と与三郎も浜見物に出かけての邂逅であった。
古代においても木更津地方は交通の要衝で、官道である東海道は奈良時代初頭までは東京湾を渡って木更津市域周辺に上陸し、上総国を通過するルートが本道であった。市域の古墳からは畿内産の三角縁神獣鏡や中国製の二神二獣鏡が出土しており、三世紀中頃に畿内勢力と深い関係をもつ豪族がいたことが知られる。各地の古代の交通路周辺と同様に、市域には日本武尊にかかわる伝説が数多く残る。日本武が東征の際、走水はしりみず(浦賀水道)に入水した妃の弟橘比売命を悲しみ、当地を去らなかったことから「君不去きみさらず」とよび、のち「きさらず」になったと伝える。
現在の木更津海岸は一部を残しかつての面影はない。昭和八年の国際連盟脱退後の軍備拡大の一環として海岸線の七〇万坪が埋立てられた。木更津近辺には海軍航空隊基地や第二海軍航空廠本工場が置かれ、木更津は軍都として全国に知られた。第二次世界大戦後は臨海部に八幡製鉄(現新日本製鉄)を中心とする企業が進出した。平成九年には東京湾横断道路が開通する予定で、木更津はまた新たな物語の舞台となるだろう。 
勝山(かつやま) / 千葉県鋸南町
勝山は浦賀水道に面して入江が発達し、沖合約一キロには漁礁であり、防波堤の役目もになう浮うき島がある。古くは加知山・賀知山と書き、カチヤマとよんだ。近世には勝山村と表記されたが、カチヤマとよび、明治に入って再び加知山村に戻っている。しかし明治二二年(一八八九)の町村制施行で誕生した新しい村は勝山かつやま村を名乗り、昭和三〇年(一九五五)鋸南きょなん町が成立したのちは大字勝山となった。
浮島は平安時代初期に成立した『高橋氏文』に景行天皇行幸の伝承が載る。景観の特異さで知られていたらしく、延宝二年(一六七四)に訪れた徳川(水戸)光圀は『甲寅紀行』に「岩石嶢屹、秀奇にして多景」と記している。カチヤマも室町時代から史料にみえ、文明一八年(一四八六)九月初旬頃、京都聖護院しょうごいん道興どうこうは、那古なご浦(現館山市)から南下して野島のじま崎(現白浜町)を眺め、再び北上して加知山で「駒はあれとかちよりそゆくかち山の里にこはたそ思ひやらるる」と詠み、「河名」(現鋸南町元名もとな)へ向かった(『廻国雑記』)。
江戸時代初期の勝山村の村高は一〇七石余、永荒や川欠を引いた残高は一〇五石余で、内訳は田方八石余(免五ツ)・畑方四三石余(免三ツ八分)・新山畑五斗余(免二ツ三分)・舟役五二石余(免三ツ)である(万治二年「佐倉藩勝山領取箇帳」吉野家文書)。村高の約半分を舟役(海高)が占めていることから知られるように、房総の海付村のなかでもとりわけ漁業への依存度が高い村であった。房州捕鯨の最大拠点であり、『捕鯨志』は房州捕鯨場として加知山村と南の岩井袋いわいぶくろ村(現鋸南町)をあげ、両村ともに慶長(一五九六‐一六一五)以前すでに捕鯨術が紀州から伝えられていたが、元禄一六年(一七〇三)の海嘯のために捕鯨に関する旧記を失い、それ以前の事蹟は文献では確かめられないと記している。
元禄一六年の海嘯とは同年一一月二三日未明の地震による津波で、『楽只堂年録』は、当時勝山村に藩庁(陣屋)を置き、当地方一帯に領地をもっていた酒井氏の勝山領浜方(浦方)の被害を、流家二九六軒(うち一軒は寺)、潰家七〇軒、流失船一九七艘、田畑潮押砂入五町四反余、死者一三七人(男一一五、女二二)、損牛四、流網無数、岡方の被害を潰家一七三軒、田畑山崩川欠一〇町一反余、死者一一三人(男七、女一〇六)、損牛馬五と記録している。この地震・津波で房総全域に甚大な被害があったが、総じて津波の被害が大きく、浜方は壊滅状態に陥ったところが少なくない。
捕鯨以外の漁業の戦国期までの様子も史料を欠いて不明である。しかしいずれにしても商品化に結びつく漁業は、江戸開府以後であろう。正保三年(一六四六)には以前からの課役として、勝山浦を中心とした近隣七ヵ浦(勝山・岩井袋・吉浜・保田・久枝・高崎・小浦)で、年に海請運上金一三〇両・海士運上金三〇両・水主役金四〇両を負担しており、この年さらに買運上金三〇両を加えられた。以後買運上金には増減があり、延宝六年(一六七八)には五ヵ浦(勝山・岩井袋・保田・吉浜・久枝)で八一両を課せられていたが、そのうち勝山浦は三八両二分を負担していた。うち九両余は北接する龍島りゅうしま村(現鋸南町)の分で、これは当時自村の地先海面だけでなく、龍島村の海に対しても漁業権を専有していたためである(以上、平井家文書、『鋸南町史』など)。
元禄地震・津波から九〇年たった寛政五年(一七九三)の村高とその内訳は、万治二年当時と大差なく、田方の年貢は定免で米一〇俵(寛政三年は旱損で二俵二斗納め)、畑方・舟役を合せた年貢は永九貫七三三文、このほか浜方運上を春・秋に六両二分ずつ納めている(宝永七年龍島村が地先海面の漁業権を獲得したため自村分のみ)。家数二九九・人数一千五二二(うち男八二二)。東接する下佐久間しもさくま村(現鋸南町)の村高は寛政四年には一千三五〇石余、田方の年貢は米八一七俵、畑方は永一八貫三八五文であり、文政一〇年(一八二七)の家数二一五・人数一千一〇四。村高で一二倍強の下佐久間村を家数・人数において上廻っていることは、当時の漁業がいかに多くの人々の生活を支え得たかを示している。寛政五年には船数九六を数え、浦付小漁船八九艘・江戸通船生魚船四艘・五下船二艘・渡船一艘であった。小漁船のうちかなりの船は年々六月一〇日前後から八月中旬まで鯨突を行なった(以上、「勝山村明細帳」平井家文書、「下佐久間村差出帳」「下佐久間村農間商渡世取調書」富永家文書など)。捕鯨には捕獲から捌きまでを扱う組が組織されており、勝山浦元締醍醐新兵衛の醍醐組の場合、明治二年(一八六九)には大組一七艘・新組一六艘・岩井袋組二四艘で構成され、乗組員五〇〇余名と出刃組・釜前人足などの陸廻り七〇余名が従事していた。鯨は浮島沖の槌鯨で、醍醐組は脂肪皮・骨・筋をとり、また鯨油を江戸の問屋へ運んだ。肉は船方と村人で分け合ったという(『鋸南町史』)。
浮島にある浮島神社の祭礼での鯨歌は鯨念仏と称され、捕鯨を祝うとともにその供養であろうとされる。当時大黒だいこく山南麓には勝山捕鯨を確立したといわれる初代醍醐新兵衛定明の墓があり、龍島地内板井いたいヶ谷やつの厳島神社には鯨塚がある。 
芋井戸(いもいど) / 千葉県南房総市白浜町
房総半島の南端にある土地でも、弘法大師の伝説は残されている。全国を行脚する大師が土地の者に施しを願い、それに対して親切にした者には幸いをもたらし、邪険に扱った者にはそれ相応の報いを与えるという伝説である。
ある老婆が芋を洗っていると、旅の僧が「芋を分けてもらえないか」と尋ねた。老婆は芋を与えるのを惜しんで「この芋は石のように堅くて食べられない」と答えた。そして家に帰って芋を煮て食べようとすると、本当に石のように堅くなってしまっていた。怒った老婆はその芋を道端に捨ててしまうが、そこから水が湧き出て、芋は芽を吹き出したのである。驚いた老婆は改心し、この旅の僧が弘法大師であると知ったのである。
いわゆる“石芋(食わず芋)”伝説と呼ばれるパターンなのであるが、芋を捨てたところから水が湧き出るという展開は他にまず例がなく、非常に珍しい話であると言える。現在でもこの霊泉は滾々と水を湧きだしており、今でも伝承通り、芋の葉を繁らせている。
雄蛇ヶ池(おじゃがいけ/おんじゃがいけ) / 千葉県東金市田中
雄蛇ヶ池は慶長19年(1614年)に完成した灌漑用貯水池である。10年の歳月を掛けて造られ、周囲は約4.5kmとかなり大きい溜め池である。現在では灌漑用水に利用されるだけでなく、釣りや池周辺の散策などのレジャースポットにもなっている。
歴史の長い池である故に、不思議な伝説も多い。特にその名が示す通り、大蛇にまつわる内容が多い。
池が出来る前よりこの辺りには水源となる沼があり、ここに蛇神が住んでいたとも言われる。雄蛇ヶ池の造営にあたることとなる島田重次の枕元にその蛇神が現れて、造営を促したという。
あるいは、蛇神は白い蛇であり、身分違い故に一緒になることが出来ないことを悲観した娘が池に入水して変化したものであるという言い伝えも残されている。
さらには、池の近くに住む娘が、意識のないまま夜な夜な家を抜け出して池のふちまでやって来ることを繰り返す。そのたびに年老いた両親が連れ戻していたが、ある時、草履を残したまま姿を消してしまった。慌てた両親が池の周りを探して7廻りしたところ、突然池の中から大蛇が姿を現し、それきり娘は帰ってこなかったという伝説もある。(雄蛇ヶ池には「池の周りを7周半すると、大蛇が水面に現れる」という言い伝えが残されている)
そして蛇の登場しない伝承もある。若夫婦の嫁が姑に苛められ、ついには自慢の機織りを貶され、雨乞いのために奉納する布をずたずたに切り裂かれた。今まで我慢してきた嫁であったが、この出来事に耐えきれず、池に身投げをしてしまった。それ以降、しとしとと雨の降る夜には池の底から布を織る音が聞こえるという。
神余の弘法井戸(かなまりのこうぼういど) / 千葉県館山市神余
その名の通り、弘法大師伝説をもつ井戸である。
昔、弘法大師がこの地を行脚していた時、土地の女が小豆粥でもてなした。大師が食べてみると、全く塩気というものがない。訳を尋ねると、貧しくて塩が手に入らないという。ならばと大師は、近くの川岸に下りて、祈祷しながら錫杖で地面を突き刺して引き抜くと、塩辛い水が吹き上がってきたという。土地の者は後に、この僧が弘法大師であることに気付き、この塩水を出す井戸を弘法井戸と呼んだという。
現在、この井戸は巴川の川中にある。やや黄色がかった水であり、水の湧き出るところからは少しだけ泡が出ているのが分かる。川底から天然ガスが出ており、この効果で塩辛い水となっているとのこと。ただし現在は飲用不可である。
金谷神社 大鏡鉄(かなやじんじゃ だいきょうてつ) / 千葉県富津市金谷
国道127号線から鋸山ロープウエー乗り場に入るところにある、小さな神社が金谷神社である。祭神は、豊受姫神、金山彦神、日本武尊。ある意味どこにでもある普通の神社であるが、ここに納められている「大鏡鉄」は一見の価値がある。
大鏡鉄は、直径が1.6m、厚さ11p、重さ約1.5tもある巨大な円盤形の金属器である。この金属器は、文明元年(1469年)に、この神社の沖合から引き揚げられたものであると伝えられる。しかも沖の海中で光るものを発見し、確かめたところがこの大鏡鉄であったと言われ、引き揚げようとしたが重くて運べず、金属を司る神である金山彦神を祀る金谷神社に祈願したところ、7日間海が荒れてその後2つに割れた状態となったので陸に揚げることが出来たという。この巨大な円盤状の金属器という珍しさもあるが、長らく海中に没していたにも拘わらず腐食していないことが奇異とされ、“鉄尊さま”と呼ばれ、不老長寿の効験があると近隣の信仰も篤い。
この大鏡鉄の正体を探る研究は古くからなされ、伝説としては“海龍王の釜の蓋”であるとされてきた。江戸時代後期になると、平田篤胤は『玉襷』の中で“日本武尊が東国征討で浦賀沖から房総半島へ船で渡った際に、船首につけていた大きな鏡”であると推論した(これが“大鏡鉄”の名の由来となっている)。さらに昭和42年(1967年)に文化財指定を受ける時と前後して科学的調査がおこなわれ、三浦半島において造られた鋳鉄であり、類似の遺物から製塩用の平釜であると考えると結論づけられた。ただし、100年単位の長期にわたって海中に沈んでいたという仮設は、その錆び具合から謎とされ続けている。
弘法寺 涙石(ぐほうじ なみだいし) / 千葉県市川市真間
市川市真間に弘法寺という日蓮宗の古刹がある。高台の上に建立された本堂へ向かう長い石段があるが、その下から数えて27段目の左側にある石だけが、なぜか年中濡れた状態にあるという。この不思議な現象には次のような伝承が残されている。
江戸時代のはじめ、日光東照宮造営のため、作事方御大工頭であった鈴木修理長頼が伊豆より石材を市川に船で運び入れた際に、突然石が動かなくなってしまった。やむなく長頼はこの石材を弘法寺の石段に使ってしまった。ところがその不正が幕府の知るところとなり、長頼はこの弘法寺の石段の上で切腹して果てたという。その時の恨み辛みによってこの石は四六時中濡れたままであり、それ故に“涙石”と呼ばれるようになったという。
ただこの話は史実としては誤りである。作事方として東照宮造営時に当主であったのは長頼の祖父である長次であり、弘法寺の大檀家として石段を寄進したのも長次である。しかしながら、長次が“東照宮造営の残石”を寄進した記録があり、さらに長頼以降の鈴木家が急速に没落している事実がある。おそらくこの伝承は、真間ゆかりの鈴木家の栄華と没落を示すべく作られたと言えるかもしれない。
七天王塚(しちてんのうづか) / 千葉県千葉市中央区亥鼻
千葉大学医学部のキャンパス内外にある7つの塚。これが七天王塚である。キャンパス内に5つ、残り2つは敷地に面した道路沿いにある。いずれの塚も牛頭天王を祀っており、しかもかなり大きな木が生えている。そしてこの7つの塚は、上空から見ると北斗七星の形に配置されているとされている。
亥鼻地区は、かつて下総・上総を領有していた千葉氏の本拠地である。千葉氏は平常兼を祖とする房総平氏の一族であり、さらにそれを遡れば平忠常、そしてその母方の祖父として平将門に繋がる。
七天王塚の伝承は、平将門を抜きにしては語れない。七天王塚は北斗七星をかたどっているが、これは将門が信仰していた妙見信仰の象徴である。また祀られている牛頭天王も、妙見信仰に関わる神である。さらにこの塚についても、将門の7人の影武者の墳墓であるという説もある。
このほかにも、七天王塚に葬られているのは千葉氏の7人の兄弟であるとか、千葉氏の居館の鬼門に置かれたものであるとか、墳墓や祭祀的なものであるという説がもっぱらであるが、中には千葉氏居館の土塀の名残であるという説もある。また最新の調査では古墳時代の古墳群の可能性もあると言われる。
平将門に絡むためなのか、この七天王塚にはまことしやかに祟りの噂がある。特に有名なものは「塚の生えている樹木の枝を切り払うと祟る」というもの。さらにこの噂のバリエーションとして、伐採を主張した大学関係者に不幸があったという話まである。祟り系の噂としてはさほどのものではないが、大学医学部の敷地内にいまだに保存されているという事実が、妙な信憑性を生み出している側面があると思われる。
證誠寺(しょうじょうじ) / 千葉県木更津市富士見
「日本三大狸伝説」と言えば、上州館林の“分福茶釜”と伊予松山の“八百八狸物語”、そして木更津の“證誠寺の狸囃子”となる。證誠寺は江戸時代初め頃の創建、木更津では今なお唯一の浄土真宗の寺院である。狸囃子の伝説も比較的新しく紹介されたもので、明治38年(1905年)に松本斗吟という人物が地元文芸誌で紹介したのが最初という。しかしその名を一躍有名にしたのは、当地を訪れた野口雨情が大正14年(1924年)に『証城寺の狸ばやし』という名の童謡として発表したことによる。
ある秋の夜のこと。住職は外の騒々しい音に目を覚ます。庭を見ると、大勢の狸がお囃子をしながら踊っているではないか。驚いた住職だが、そのうちそのお囃子の調子に合わせて踊り出す。すると狸も負けじとお囃子や踊りをして、とうとう夜が明けるまで競争になってしまった。
翌日も、その翌日も月夜の晩に住職と狸は歌や踊りに興じた。しかし4日目の夜、狸達ははとうとう夜明けまで現れなかった。住職は不審に思って辺りを調べてみると、いつも腹鼓を叩いていた一匹の大狸が腹の皮が裂けて死んでいた。そこでその哀れな狸のために塚を築いたという。それが今に残る狸塚である。
千人塚(せんにんづか) / 千葉県銚子市川口
千人塚は利根川の河口、まさに川と海が接する突端にある。この塚から海を見渡せば、空を遮るものはほとんどない。
この塚は海難事故で亡くなった漁民を祀っている。江戸時代、銚子の川口は潮の流れが急で、阿波の鳴門、伊良湖の渡合と並んで船頭にとって三大難所と言われた場所であった。地元では「銚子川口てんでんしのぎ」と言われ、この辺りを船で通る時は他の船のことを構わず、自分の操船だけを心懸けよと戒められていたらしい。それほどの難所である故に、長い年月に渡ってこの地に多くの供養のための碑や仏像が置かれている。
言い伝えによると、この地で最初の供養が行われたのは、慶長19年(1614年)に起こった地震による津波で1000人以上の漁民が死んだのためであるとされている(しかし、江戸最初期に銚子の集落だけで1000人を超える人が住んでいたかはかなりあやしいとされている)。その後もこの付近で海難事故で亡くなった人はこの塚に祀られたとされ、その数の多さ故に“千人”という数で表記されるようになったようである。
宗吾霊堂(そうごれいどう) / 千葉県成田市宗吾
正式名称は鳴鐘山東勝寺。桓武天皇の命を受けて坂上田村麻呂が開基したという伝承が残る古刹である。しかし今では義民・佐倉惣五郎の祀る場所として知られている。
佐倉惣五郎は、嘉永4年(1851年)に上演された歌舞伎『東山桜荘子』によって全国的な知名度を持つに至り、明治なると『佐倉義民伝』と銘打って役名を実名で上演。福沢諭吉などの賞賛を受け、自由民権運動の高まりにも影響があったともされる。江戸時代に起こった数々の農民蜂起によって誕生した“義民”の中の代表格と言っても過言ではない。
佐倉惣五郎は、本名を木内惣五郎。印旛郡公津村の名主であった。当時の公津村は佐倉藩に属していたが、度重なる凶作のために周辺の村は衰退、多くの村人は年貢が払えず逃散する者、果ては餓死する者すらあった。しかし藩は追い打ちを掛けるように様々な税を課して生活を圧迫する。そこで惣五郎らの名主は藩に訴え出るが、にべもなく却下。そこで江戸に上って、老中・久世大和守に訴状を出す。一旦は受理されたものの、他藩への干渉を理由に訴えは退けられた。
かくなる上は将軍への直訴しかないと考えた惣五郎は単身、寛永寺に赴く将軍・徳川家綱に籠訴し、無事に受理される。承応元年(1652年)のことである。窮状を慮った家綱は、佐倉藩藩主である堀田正信に命じて税の免除をおこなわせたのであった。
将軍から失政を咎められたに等しい正信は、翌年、年貢の免除を命ずると共に、惣五郎への処分もおこなった。妻は惣五郎と共に磔、女児を含む4人の子供は全員打ち首というものであった。しかも惣五郎と妻は、目の前で4人の子供が斬首されるのを見届けさせてから磔されたのである。直訴に及ぶ直前に妻を離縁し、子を勘当した惣五郎にとっては無念としか言いようのない処罰であった。
それから間もなくの万治3年(1660年)、堀田正信は突如、幕政批判の書をしたため、江戸から無断で佐倉へ帰るという前代未聞の不祥事を起こしてしまう。その真意は今なお不明であるが、協議の結果、正信は“狂気の作法”として所領没収の上に、実弟に預けられる。そして無断で配所を抜け出して京都へ赴くなどの奇行をおこなった後、延宝8年(1680年)に将軍・家綱死去の報に接し、鋏で喉を突いて自害してしまう。この一連の騒動を人々は「惣五郎の祟り」であると噂したのである。(芝居では、夜な夜な正信の寝所に、磔されたままの姿の惣五郎の怨霊が現れるという場面が設定されている)
堀田家が去って後の佐倉藩は、頻繁に領地替えがおこなわれた。そして延享3年(1746年)、佐倉藩に入封してきたのが堀田正亮であった。正信の実弟の家系ではあるが、堀田家が再び佐倉藩を所領としたのである。
正亮は、惣五郎の百回忌にあたる宝暦2年(1752年)に「宗吾道閑居士」の法号を贈ることで、祖先の非を認め、その遺徳を公にしたのである。その後も、各時代の藩主が石塔を寄進したり、惣五郎の子孫とされる家に供養田を与えるなどの措置をおこなっている。そのためなのか、それまで頻繁に領主の代わった佐倉藩であったが、幕末まで堀田家が代々藩主を勤め上げることとなったのである。
惣五郎については、一揆を蜂起したり、将軍へ訴状を提出したりという行為に関する史料が全く残されておらず、その存在自体が創作ではないかの疑いを持たれた時期があった、しかし戦後になって、児玉幸多による研究で実在がようやく確認されている。現在霊堂のある境内には、惣五郎の御廟がある。この墓のある場所で処刑がおこなわれたとされ、多くの者が参詣に訪れている。
佐倉惣五郎とは、公津村の名主・木内惣五郎の事績に重ね合わせて生み出された、時代の英雄と言うべきなのかもしれない。
真間の継橋(ままのつぎはし) / 千葉県市川市真間
真間地区はかつて入り江となっており、弥生時代には既に集落があったとみなされている。またすぐそばには下総国の国府があり、古来より行き交う船の停泊地として栄えた。
この土地は入り江と共に砂州が広がっていた。そこを往来するには橋が必要となるので、掛けられたのが真間の継橋である。“継橋”という名は、砂州と砂州を繋ぐようにいくつもの橋が渡され、それを1つの橋と見たことから付けられたという。この橋は真間の象徴として『万葉集』にも詠まれており、歌枕として知られた存在であった。
現在、継橋は弘法寺の参道の途中にわずか数メートルの長さだけ架けられている。しかも橋の下には川は流れておらず、かつて存在した橋の痕跡だけを記憶させるモニュメントとなっている。橋のそばには万葉集の歌碑があり、歌枕ゆかりの場所として保存されている。
八幡の藪知らず(やわたのやぶしらず) / 千葉県市川市八幡
“迷宮”の代名詞として使われる八幡の藪知らず(不知八幡森)であるが、国道14号線に面し、市川市役所の斜め向かいにある。まさに都会のど真ん中にあるが、ここだけは全く手つかずの状態で柵に囲われている。ただし大きさは18m四方で、おおよそ100坪ほどの広さしかない。これは近代化に伴って土地開発がおこなわれたためではなく、江戸時代中期には既にこの程度の大きさしかなかったようである。
江戸時代後期には『江戸名所図会』をはじめとした旅行記や名所案内本の中で有名な「禁足地」として取り上げられ、一度入ると出られなくなる、入ると祟りがあるとされている。そしてこの土地が禁足地となったかの理由についても、諸説書かれている。
最も有名な逸話は、徳川光圀が単身この藪へ入り、やっとの思いで帰還したという話。光圀はこの藪の中で数多くの妖怪変化と遭遇し、最後に若い女性(または白髪の老翁とも)が現れて「今回だけは見逃してやろう」と言われて脱出することが出来たという。あるいはからがら出てきた光圀は、土地の者を集めて禁足地にするよう申しつけただけで、中の詳細については全く語らなかったともいう。
これと並んでさかんに登場するのは、平将門にまつわる話。この藪は、将門を討った平貞盛が将門の死門(八門遁甲で言うところの凶相)の地として陣を張っていた場所とも、あるいは将門の首を守った近臣6名が時を経て土人形として朽ち果てた場所であるとも言われる。
さらには、東国へ赴いた日本武尊の陣所であった、馬に乗った里見安房守の亡霊が現れる場所であるとの奇怪な話もある。そして藪の中から機織りの音がしたり、若い女が夜な夜な近所に機織り道具を借りに来るが、翌日返された物には血が付いているという、かなり恐ろしい噂もある。
逆に非常に合理的で現実的な禁足地の理由付けもある。近くにある葛飾八幡宮の旧宮跡である(実際、この藪は現在葛飾八幡宮の土地となっている)。貴人の古墳である。八幡の隣町にあたる行徳の飛び地である(行徳の土地だから、八幡の地区の者は与り知らぬ場所となる)などが、昔から語り継がれている。また近年では、藪の中央が凹んでおり、元々八幡宮の放生池であったために禁足地となったのではないかという説も出ている。
喧噪をよそに、八幡の藪知らずは今もなお禁足地として近隣住民から畏敬の念を払われた存在である。最近造り替えられたばかりであろう、不知森神社の鳥居の真新しさが印象的であった。 
    姉ア郷土史 
 
神奈川県 / 相模

 

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さねさし相模の小野に燃ゆる火の 火中に立ちて訪(とひ)し君はも 弟橘媛
走水の海 / 横須賀市走水
東国平定の旅にあった日本武(やまとたける)尊は、走水はしりみづの海辺の地にしばらく留まった。このときの御在所のあった場所が、今の御所ヶ崎の地であるといふ。船出にあたり、尊は歓待してくれた村人に御自身の冠を与へた。村人はその冠を石櫃に納めて土中に埋め、社を建ててまつった。これが走水神社(横須賀市走水)の始りとされる。
尊の船が沖へ出ると、突然激しい暴風雨となり、海は荒れ狂ひ、高波が船を襲った。后の弟橘媛(おとたちばなひめ)命は、海神(わたつみ)の荒御魂(あらみたま)を鎮めようと、船から海中に飛び降りた。波の上には、菅畳八重、皮畳八重、あしぎぬ畳八重が敷かれ、そのとき歌を詠んだ。
○ さねさし相模の小野に燃ゆる火の 火中に立ちて訪(とひ)し君はも 弟橘媛
すると、うそのやうに波風は静まり、船は水の上を走るやうに上総国に到着したといふ。以来、「水走る走水」といふ。数日後、弟橘姫の櫛が海辺に流れついたので、村人はこれを拾って社に納め、橘神社としてまつった。橘神社は明治のころ走水神社に合祀されてゐる。
「畳八重」の上に乗るといふことは、海神の后となることを意味するやうである。「さねさし」の歌は、相模の焼畑を歌った民謡なのではないかとの説もあるが、婚姻のための妻の籠りを終へて、その籠り屋を焼いたときに、いよいよ夫が現はれたことを歌ったものと思はれる。籠り屋を焼くといふ習俗は、万葉集の生田川の歌にも見える。
関東の平定を終へて帰途についた日本武尊は、箱根の碓氷の坂で、東の走水の海の方向を臨んで、「吾妻はや」と言はれたといふ。
青葉の楓 / 称名寺 横浜市金沢区
二代執権北条義時の孫の金沢実時は、学問に優れ、和漢の書物を収集し、今の横浜市金沢区の館に金沢文庫を開いた。その近くには称名寺を創建した。
むかし歌人の藤原為相が称名寺に参詣したとき、山の木々の中で、紅葉してゐる楓を目に止めて、歌を詠んだ。
○ いかにしてこの一本に時雨れけん 山に先立つ庭のもみぢ葉 藤原為相
以来その楓は、冬でも青々とした葉を保ち続けたといふ。「青葉の楓」といふ。
横浜
レストランで「ソーダ水の中を貨物船が通る」(荒井由実・海を見てゐた午後)と歌はれた横浜港は、ペリー来航以来国際貿易港として発展し、山手に外国人居留地もできた。異人向けの軽飲食店のことを、チャブヤといったらしい。
○ 横浜や昔と名がつきゃさまよた 街の錦魚チャブでもなつかしい 長谷川伸
義経の財宝 / 大和市下鶴間 浅間神社
徳川時代に江戸を中心に浅間信仰が広まり、厚木街道筋にあたる今の大和市地方でも富士講が盛んとなった。大和市下鶴間の浅間神社には、宝永四年の富士山大噴火の際に、火山灰を集めて、富士を型どって築いた塚がある。
この浅間神社には、「義経の財宝」の伝説がある。
文治元年(1185)三月、源義経は平家一族を壇ノ浦に破り、平宗盛、清宗らを捕虜として京の都に凱旋した。その後、義経は捕虜を鎌倉へ送るために関東へ向かひ、鎌倉を目前にしたころ、北条時政が捕虜を受取りに来た。しかし捕虜は受け渡されたが、兄頼朝は義経一行の鎌倉入りを許さなかった。再度の許しを乞うて待てども許しは来ず、一行は再び京へ戻るしかなかった。その途中、鶴間の浅間神社で休んだとき、一羽の鶴が鎌倉の方へ飛んで行くのを見て、義経は「あの鶴でさへ鎌倉へ入れるのに……」と嘆き、「自分は二度と鎌倉の地は踏めないだらう」といって、頼朝への土産に持参した財宝のすべてを浅間神社の境内のいづこかに埋め、壁に歌を書いて立ち去ったといふ。
○ 朝日さし夕日かがやく木の下に 黄金千両漆万杯
全国各地の埋蔵金伝説の地に同じ歌が伝はる。
なんぢゃもんぢゃの木
大和市深見の深見神社の御神木の「なんぢゃもんぢゃの木」は樹令五百年といふ巨木である(社記だけを見た限りでは木の種類は不明だが、松かもしれない)。この木の北側に元の御神木「延喜の松」があったといふ。
海老名市本郷にある「有馬のなんぢゃもんぢゃ」(有馬は旧村名)は春楡の巨木で、樹皮を煎じて飲むと安産になるといふ。なんぢゃもんぢゃの木は各地にあるが、その地方で珍しく、木の種類もよくわからぬほどの巨木をいふことが多い。千葉県神崎の大楠の項参照。
鎌倉
鎌倉市に源氏の総氏神の鶴岡八幡宮がある。
○ 宮柱太敷き立てて万代に 今ぞ栄えん鎌倉の里 源実朝
西田幾多郎は、京都大学退官後の晩年は鎌倉姥ヶ谷に住んだ。
○ 七里浜夕日漂ふ波の上に 伊豆の山々果し知らずも 西田幾多郎
稚児が淵 / 藤沢市江の島
むかし鎌倉の建長寺の自休和尚は、弁才天に願掛けに行った折り、美しい稚児を見初めた。鎌倉相応院の稚児で、名を白菊といった。それ以来、和尚は白菊のもとに毎日のやうに通ひつめた。和尚の愛を受け入れる白菊だったが、思ひ悩んだ末、江の島の南岸の淵に立ち、歌を残して身を投げたといふ。
○ 白菊をしのぶの里の人問はば 思ひ入り江の島と答へよ 白菊
○ うきことと思ひ入り江の島陰に 捨つる命は波の下草 白菊
白菊の死を知った自休和尚も、辞世を残してあとを追った。
○ 白菊の花の情けの深き海に 共に入り江の島ぞ嬉しき 自休
以来、この淵を稚児が淵と呼ぶやうになったといふ。
松が岡 万寿姫 / 鎌倉市
鎌倉松ヶ岡の東慶寺は、縁切寺、駆込寺ともいはれた。
○ 出雲にて結び鎌倉にてほどき
○ 松ヶ岡ふりがなつきの経を読み
夫婦どちらに非があってもここで三年間、にはか仕立の尼として暮らせば、女は離縁できたといふ。
むかし木曽義仲の臣の手塚太郎の娘の唐糸からいとは、頼朝の命を狙ったかどで捕はれたところを、松が岡の尼僧に助けられて信州へ逃げた。しかし梶原景時に捕へられて鎌倉の洞窟に長く幽閉された。唐糸の娘の万寿姫まんじゅひめは、十三の歳に侍女らとともに信州から母をたづねて鎌倉を訪れ、頼朝の前で歌舞をして、その歌舞の功徳によって母を救出したといふ。
○ 春はまづ咲く梅が谷やつ扇の谷 たにに住む人の心は涼しかるらん
秋は露置く佐々目ささめが谷、泉ふるかや雪の下、万年変らぬ亀がへの谷… (お伽草子)
かっぱ筆塚 / 鎌倉市
鎌倉に荏柄天神社があり、菅原道真をまつる。
○ 里古りぬなになかなかの梅が香は 春やむかしも忘れぬる世に 源孝範
境内の「かっぱ筆塚」は、鎌倉に住んだ漫画家の清水崑が、愛用の絵筆を納めたもので、横山隆一ほか漫画家一五四名のかっぱ絵をレリーフした青銅製の「絵筆塚」もある。毎年十月中旬の絵筆塚祭には多数の漫画家が参列するといふ。
小栗判官・照天姫 / 藤沢市
    小栗判官・照手姫・餓鬼阿弥
鎌倉末期に創建された清浄光寺は、時宗の総本山として信仰され、藤沢はその門前町として栄えた。境内に小栗判官と照天姫の塚がある。
むかし奔放な行動が災ひして京から常陸国へ流された小栗判官満重は、相模の豪族横山氏の一人娘の照天姫てるてひめと強引に関係してしまひ、横山氏に毒を盛られた。照天姫も相模を追はれ、仮死状態の小栗判官ともに紀州熊野へ行き、判官は熊野の湯につかって復活して結ばれたといふ。
○ うち向ふ心の鏡曇らずば げにみ熊野の神や守らむ 小栗判官
○ 世のうさを身にしつ待つはつひにこの 法華の道も知らで過ぐらむ 照天姫
大山 / 伊勢原市
大山は万葉時代に相模嶺とも呼ばれたらしい。
○ 相模嶺さがみねの小峰をみね見遥みそくし忘れ来る 妹いもが名呼びて吾あを哭ねし泣くな 万葉集
近世には雨降あめふり山ともいひ、大山おほやま阿夫利あぶり神社は祈雨や農耕の神として信仰を集めた。アメフリが縮まってアブリとなったともいひ、麓の八大竜王社が、大山阿夫利神社の元宮だったともいふ。建暦元年(1211)七月の相模国の大洪水のときに鎌倉の将軍が祈った八大竜王とは、大山の神だらうといはれる。
○ 時により過ぐれば民の嘆きなり 八大竜王雨やめたまへ 源実朝
鴫立沢 / 中郡大磯町鴫立庵
むかし西行法師が陸奥への旅の途中、大磯の地で詠んだ有名な歌がある。
○ こころなき身にもあはれは知られけり 鴫立つ沢の秋の夕暮れ 西行
江戸時代の初め、俳人の大淀三千風がこの地に住み、その庵は鴫立庵と呼ばれた。この庵の近くの小川を鴫立沢といふらしい。
○ 鴫立ちし沢辺の庵をふきかへて こころなき身の思ひ出にせん 大淀三千風
付近の虎子堂は、曽我十郎の恋人の虎女をまつる(虎女の墓は各地にあり)。
○ 大磯も虎はむかしに猫の恋 也有
曽我の里 / 小田原市曽我
古く曽我郷といはれた小田原市東部の曽我は、鎌倉時代の初め、富士の巻狩で仇討をとげた曽我兄弟の育った地である。宗我神社は、小澤大明神、宗我都比古そがつひこ、宗我都比女そがつひめをまつる古社で、神職の尾崎家からは作家の尾崎一雄が出てゐる。
○ 宗我神社宗我村役場梅の中 虚子
三浦荒次郎 / 小田原市城山 居神神社
戦国時代、相模国の武将、三浦義同の子・荒次郎義意は、八十五人力といはれた怪力の若武者で、白樫の八角棒を打ち振り、群がる北条軍五百人を次々と薙ぎ倒し、獅子奮迅の働きもむなしく、永正十五年(1518)、父とともに油壷(三浦市)で戦死した。
○ うつ者もうたるる者もかはらけよ 砕けて後はもとの土くれ 三浦義同
斬られた首は、空を飛んで、小田原まで到り、小田原城近くの井神の森の古松の枝に懸かり、三年の間眼を開いたまま落ちなかったといふ。路往く人は、恐ろしい形相の首を見て気絶し、死に至る者さへあったといふ。あるとき総世寺の忠室和尚が、松のそばで歌を手向けた。
○ うつつとも夢とも知らぬ一眠り 浮世の隙を曙の空 
すると、首は松の枝から落ちた。その松の下に祠を建て、荒次郎の霊を祀ったのが居神ゐがみ(井神)神社であるといふ。
ゐざり勝五郎 / 箱根町塔の沢
大阪で道場を開いてゐた飯沼三平は真陰流の達人で、ふとしたことで佐藤郷助といふ侍の怨みを買って闇討された。三平の弟の勝五郎は、仇討を心に決めて大阪を出て奥州へ向かった。白石で九十九新左衛門の道場へ入門。めきめき剣の腕前をあげた勝五郎は、新左衛門の娘の初花を妻とした。仇討のため初花ととともに奥州をあとにした勝五郎だが、足の病にかかり、歩くこともままならず、車に乗せられて初花に引かれ、箱根にしばらく滞在した。
○ ここらあたりは山家ゆゑ 紅葉のあるのに雪が降る
湯につかる勝五郎と、塔の沢の滝に打たれて神に念じる初花。やがて勝五郎の足も回復し、小田原で佐藤を討ったのは天正十九年のことであるといふ。(人形浄瑠璃・箱根霊験躄仇討)
箱根伊豆二所権現
むかし天竺のシラナイ国の大臣の源中将尹統これまさの娘、常在じょうざい御前は、継母にたびたび迫害されて、旦特山の深い穴に突き落とされた。継妹ままいもの霊鷲りょうしゅう御前は、姉を慕って旅に出たが、旦特山の穴のそばで泣き伏すばかりだった。そこへハラナイ国の二人の王子が現はれ、姉妹を救出した。姉妹は二人の王子の妃に迎へられ、ハラナイ国でやうやく安らぎを得た。
○ 君ならで昔の契り深くして めぐりてぞ逢ふ神の恵みに 常在御前
父の中将は、仏に祈って娘たちの所在を知り、ハラナイ国へ来て再会を果たしたが、継母は恐ろしい大蛇と化して追ってきた。そこで一家は日本へ渡ることにし、船で相模国の大磯の浜に着いた。中将と太郎王子と常在御前は、箱根三所権現(箱根神社)として現はれ、二郎王子と霊鷲御前は、伊豆権現(伊豆山神社)として現はれたといふ。(神道集)
諸歌
○ 生くることかなしと思ふ山峡は はたら雪降り月照りにけり 前田夕暮 
 

 

茨城栃木群馬埼玉東京千葉神奈川

相模 / 国名。現在の神奈川県の大部分。
○ 箱根山こずゑもまだや冬ならむ二見は松のゆきのむらぎえ
八嶋内府、鎌倉にむかへられて、京へまた送られ給ひけり。武士の、母のことのはさることにて、右衛門督のことを思ふにぞとて、泣き給ひけると聞きて
○ 夜の鶴の都のうちを出でであれなこのおもひにはまどはざらまし
○ 雪とくるしみゝにしだくから崎の道行きにくきあしがらの山
「箱根山」相模の歌枕。神奈川、静岡県境にある大型の火山。火口原に芦ノ湖がある。
「鎌倉」鎌倉山として歌枕。源頼朝が1192年に幕府を開府。鶴岡八幡宮や長谷大仏がある。
「あしがらの山」足柄山。相模の歌枕。この歌の意味不明。近江の(から崎)と相模の(足柄山)では距離的にあわない。松屋本では五句は(しがらきの山)とあるから近江の歌と解釈するほうが自然。 
相模国の足柄山と伊豆国の大船の初め
足輕山
相摸(ノ)國(ノ)風土記に云(イハク)、足輕(アシカラ)山は、此山の杉の木をとりて舟につく(造)るに、あし(脚)の輕き事、他の材(キ)にて作れる舟にこと(異)なり。よりてあしから(足輕)の山と付(ツケ)たりと云々。(續歌林良材集上)
足柄山に関する伝承。
といっても箱根山の一部ということのようです。というか「箱根山」というのはいくつもの峰をもった火山で、芦ノ湖はカルデラ湖、さらに火山活動によって段階的に生成された火山地帯の総称。で、「足柄山」はその北側、現在の「金時山」から「足柄峠」辺りをいったそうで、駿河と相模の国境。「坂東」への関所でもあり。
船脚が早い=軽いから「あしがらやま」というわけです。
船と言うことでは「枯野」をはじめとする巨木伝承とも絡みますし、地名起源としては「飛騨」とも非常に良く似た伝承です。
そして実は伊豆国風土記逸文にもよく似た伝承があります。
准后親房記曰 應神天皇五年甲午冬十月 課伊豆國造船 長十丈 船成泛海 而輕如葉馳 傳云 此舟木者 日金山麓奧野之楠也 是本朝造大船始也(鎌倉實記第三)
こちらの伝承は地名起源ではなく日本で大きな船を造り始めたという伝承で、応神天皇の御代とされています。そしてやはり「軽きこと葉のはしる如し」といってその速さを語っています。
両伝承はどちらも船の起源を語っている伝承ですが、「船」とは象徴的には何なのか?
船は海上を移動するための交通手段です。「上総・下総」のところで書きましたが、古代日本において海上交通は地域によっては陸上交通をしのぐ移動手段でした。記紀には「鳥之石楠船神」別名「天鳥船」とも言われる神が登場しますが、古代においては天地の交通にも船が想起される。その意味では動物に引かせる車などとは比べ物にならない文明の利器であったと考えて良いでしょう。
「鳥之石楠船神」は神生み条に初めて登場する神ですが、『古事記』の出生順序としては「ククノチ(木の神)」−「ヤマツミ」−「カヤノヒメ(野の神)」−「ヤマツミとカヤノヒメが生んだ神々」−「鳥之石楠船神」−「オホゲツヒメ」−「カグツチ」−「カグツチ出生の後イザナミが生んだ神々」となっています。
この順序をどのように解釈するか?いろいろ見方はあるでしょうが、私は「自然の一部分ではあるが文化のカテゴリーに入る神」として食物神と火の神に並立する存在だと見ます。陰陽五行説などのように理論化された自然観ではなく、「植物から食物を得る」「植物には火が含まれている」のと同じで、「木から船=交通手段が生じる」という経験に即した発想が表現されているのだと思います。
一方で木そのものに関する伝承は常に自然=神々の領域にあり、だからこそ王権にとっては恐怖の対象となるので切り倒されて、船にされる。
日本に世界樹神話が存在しないことについて、前の記事では日本の自然景観から解釈じみたことを言いましたが、他にも「古代の天界観がはっきりしない」ということが挙げられると思います。
日本で異界と言えば海中異界が中心で、山は生活と近すぎるせいか伝承的な異界化は乏しい。さらに天の異界は「高天原」として王権の出自地としては機能するけれども、民間ではそれが共有されることはなかったと思われます。古代の天人女房伝承で天人がどこから来て天に家族がいるのかといったことが全く触れられないことはそれを証明してると思います。夫が天に登るタイプはそれこそ七夕伝承の影響でしょう。また王権神話についても「死後天に昇った」などという伝承は存在しないわけです。高天原はあくまでもアマツカミ−神々の世界であり、そこから降臨した天皇にとってももはや到達できない場所なわけです。
となると巨大な木が繋ぐべき「天」そのものが存在しないと言うことになる。天に上ることが想定できないとするならば、その高さは遠くから見るか、影を見るかで測るしかないわけです。更に言えばタケミカヅチですら、天鳥船にのって天地を移動している。『辞典』によると『霊異記』道場法師も天鳥船で地上に降りたそうです。異界とこの世界を繋ぐのは「世界樹」ではなく、既にして「船」であると考えられていたということでしょう。
移動手段としての船は木によって作られるが、その木が霊妙なモノであれば船も早く走る。だから木に対する解説がつくわけです。「影が〇〇から××まで伸びた」とか。逆に足の早い船を造る木を産出する山は山自体が神聖である。足柄山はまさしく聖山です。坂田金時の出生地です。
安部清明大神碑(あべのせいめいたいしんひ) / 神奈川県鎌倉市山ノ内
『吾妻鏡』の治承4年(1180)10月9日の項には次のような内容が書かれている。“源頼朝の鎌倉の館を建てるが、出来上がるまでは山ノ内の兼道という有力者の館を移築して仮屋とする。この館は正暦年間に建てられたが、一度も火災に遭ったことがない。晴明朝臣が鎮宅の符を押した ためである”
この記述が、安倍晴明が鎌倉へ赴いたことを示す証拠であると言われている(正暦年間は晴明75歳頃)。ではこの館はどこにあったものなのだろうか? 最も有力な場所とされているのが、鎌倉街道とJR横須賀線が交差する場所である。ここには小さいながらも(安部清明大神)と刻まれた碑があり、何らかの関連があると考えられる。
この石碑は明治39年に作られたものであり、またかなりの年月に渡って放置されていたらしい。この碑の隣に<五山>と いう蕎麦屋があるが、そこの主人が偶然発見して祀ったという話である。
不思議なのは、碑の奥に広がる空き地である。観光地として一等地にありながら、なぜか駐車場として放置されている。実は、地元の人によると、この場所に建物が建たないのは“頻繁に起こる火事”のせいであるらしい。とにかく建てるたびに火事に遭うらしい。伝承とは逆の現象が起こっているのだが、裏を返せば(鎮宅霊符神)の札を貼らねばならないほどの場所であり、現在はその札が散佚してしまったために火事が起こりやすくなっていると想像することも可能だろう。
『吾妻鏡』 / 鎌倉時代末期に成立した歴史書。鎌倉幕府初代将軍の源頼朝から6代将軍の宗尊親王まで(1180−1266)の出来事を編年体で著している。鎌倉幕府の歴史を見る上で第一級の史料。
鎮宅霊符神 / 凶宅に住みながら裕福な劉名進が神より授かった霊符を、漢の文帝が広めたのが嚆矢とされる。家内安全・無病息災に効験がある。通例では(鎮宅七十二霊符)として72枚の霊符でまとめられている。その中心にあるのが鎮宅霊符神である。日本伝来後、北辰北斗信仰と結びつき、陰陽道において発展する。御姿は北辰北斗になぞらえ、玄武に乗っている。
医王寺 蟹塚(いおうじ かにづか) / 神奈川県川崎市川崎区旭町
医王寺境内の鐘楼のそばに蟹塚がある。これにには次のような伝説が残されている。
医王寺の鐘は朝と夕に撞かれたが、その音を怖がって白鷺が寄りつかないために、境内の池に棲む魚や蟹は捕られることもなく暮らすことが出来ていた。
ある時、近隣から火の手が上がり、やがて医王寺にも延焼した。山門を焼き、やがて火が鐘楼に迫ってきた時、池から何百もの蟹が現れて鐘楼に上ると泡を出して火を消し止めようとした。火は猛威を振るい多くの蟹が焼けて死んでいったが、一向に蟹の数は減らなかった。そして翌朝、鎮火した後の境内には鐘楼だけが焼けずに残っており、その周りには焼けた蟹の死骸が大量にあったという。
寺では、命がけで鐘楼を守った蟹の徳を後世に伝えるべく塚を建てた。そしてそれ以降、医王寺の池に棲む蟹は、火で焙られたかのように背中が赤いものばかりになったという。
浦島太郎足洗の井戸 / 神奈川県横浜市神奈川区子安通
京急子安駅の南側の住宅地にある。この付近には昔ながらのポンプ式の井戸が点在しており、現在でも防災時の飲料水確保のために現役であるという。その中に浦島太郎が足を洗ったとされる井戸がある。
現地には特別な案内板もなければ、それと分かるような痕跡もない。ネット上にあるいくつかの紹介記事を頼りに現地に辿り着き、さらに近隣の事情に詳しいお年寄りに尋ねて何とか特定できた次第。しかしながら、伝承に関しては単純に「浦島太郎が足を洗った」ということだけで、他にとりたてて何かあるわけではなかった。かつては長命にあやかり、病気に罹らないということで、産湯にも使われていたらしい。
浦島太郎の伝説が神奈川の地にあるのは、大郎の父が相模国の出身であったためで、竜宮城から帰還して身寄りがなくなってから故郷を懐かしんで戻ってきたということになっている。これだけは神奈川の浦島太郎伝説共通の設定である。
浦島太郎が足を洗ったという場所は、この井戸以外にもある。それが足洗川である。既に暗渠となって久しいが、かつてはこの川で足を洗うと、足の病気によく効くとされたらしい。また近所にある浦島寺へ参詣の折には、この川で足を清めてから詣るとされていたという。今では「足洗川の碑」というものが残されているだけである。
お菊塚(おきくづか) / 神奈川県平塚市紅谷町
平塚駅の近く、紅谷公園の一角に「お菊塚」がある。この塚の主は『番町皿屋敷』の主人公であるお菊と伝えられている。
この塚の由来によると、お菊は平塚宿の宿役人であった真壁源右衛門の娘とされる。番町に住む旗本・青山主膳の屋敷に行儀見習いに奉公に出ていたところ、誤って家宝の南京絵皿十枚の内の一枚を割ってしまい、主膳が斬り捨てて井戸に投げ込んでしまったという。(一説では、お菊に懸想して振られた主膳の家来が罪をなすりつけとも言われる。いずれにせよ「番町皿屋敷」伝承の域を超えない展開である)
お菊の遺体は、罪人と同じ扱いで長持に入れられて、平塚宿に戻された。馬入川の渡しで遺体を迎えた父親の源右衛門は、「あるほどの 花投げ入れよ すみれ草」と詠み絶句したという。そして罪人扱いとして墓を作らず、センダンの木を墓代わりに植えたとされる。その後、青山主膳の屋敷では、井戸からお菊の幽霊が現れてさまざまな障りが起こったと伝えられている。
この事件は元文5年(1740年)の出来事であるとされ、全国各地にある「皿屋敷」伝説の中でも比較的新しいものである。おそらく、実際に“お菊”という名の女性が江戸の旗本屋敷に奉公に出て、そこで何らかの粗相をして手討ちにあったのであろう。ただ名前が“お菊”という関連から、いつしか「皿屋敷」の伝説と絡まって新しい伝説として伝えられるようになったと推測される。
しかし、公園の一角に塚があるのにはかなり不思議な謂われが残っている。昭和27年(1952年)に戦後復興のための区画整理がおこなわれ、この地に元からあった青雲寺は移転。そこにあった墓と共にお菊の墓も移動させようとしたが、工事に支障が出ることがたびたびあったので、結局、塚を築いて残したのである。
お玉ヶ池(おたまがいけ) / 神奈川県足柄下郡箱根町元箱根
近世の箱根と切っても切れないものは“関所”である。旧東海道である県道732号線の途上にあるお玉ヶ池も、この関所にまつわる伝説の地である。
元禄15年(1702年)2月、関所破りの罪で一人の少女が捕らわれた。伊豆国大瀬村の百姓の娘で玉という名であった。江戸に奉公に上がっていたのであるが、家恋しさに店を抜け出し、通行手形もないままに箱根まで来たのである。そして関所の裏山を抜けていこうとしたところを役人に見つかり、牢に繋がれたのである。
2ヶ月の吟味の後に下された処分は、打ち首獄門。お玉は捕らえられた場所で斬首となった。街道から外れた裏山に入ったところの坂道であった。これを哀れに思った村人は、獄門に晒されたお玉の首をこの池で洗ったという(あるいはこの池のほとりに獄門に晒されたとも)。それ以来いつしか“薺(なずな)ヶ池”という名が“お玉ヶ池”と呼ばれるようになった。そして処刑された坂道も“お玉ヶ坂”となったという。
また一説では、今日の旅芸人であった二人の少女が、親方嫌さに一座から逃げ出したが、旅芸人は手形がなくとも芸を披露するだけで通行できることを知らず、関所を破ってしまった。役人の追っ手を撒こうとしたが、結局逃げ切れず、二人はこの池に身を投げて死んだという。この旅芸人の名がお玉であったと伝わる。
箱根関所 / 元和5年(1619年)から明治2年(1869年)まで江戸幕府によって設置された関所。“入鉄砲出女”に象徴される、厳格な取り締まりがおこなわれ、掟を破った者(関所破り)は重罪として磔獄門に処せられると定められた。ただし実際には、役人に取り入って見逃してもらったり、また“藪入り”と言って道に迷ったとして寛大な処分を施したりして、極力処刑はおこなわないようにしていたとされる。記録によると、箱根での関所破りは元和から明治の間でわずか5件(6名)のみであった。お玉が磔獄門ではなく一等軽い処罰である打ち首獄門となったのは、偶然の不幸が重なって処罰に至ったという“配慮”を感じるところである。
佐助稲荷 / 神奈川県鎌倉市佐助
伊豆に流されていた源頼朝はある時夢を見る。夢の中に老人が現れ「源氏の嫡流として打倒平氏の兵を挙げるのだ。何かあれば儂が助けてやる」と言う。そして頼朝が名を尋ねると「隠れ里の稲荷である」と名乗った。3日続けて夢を見た頼朝は、挙兵して平氏を倒したのである。そして鎌倉に入った頼朝は隠れ里の稲荷を探させ、佐助ヶ谷に祠を見つけて再建したのがこの佐助稲荷神社である。この神社の名前は、当時の頼朝の呼び名であった 「佐殿(すけどの)」から来たとも、「佐殿」を助けたからだとも言われている。
また時代が下って13世紀頃に、ある漁師が狐を助けてやったことから霊夢を見てこの神社に住み、その後鎌倉を襲った疫病に効く薬を作ったという伝説も残っている。とにかく大きな社ではないにせよ、結構信仰を集めているように感じる。
本殿を少し登った場所には、鳥居が建てられた洞穴のような塚がある。辛うじて読みとれる立て札の案内によると、ここは社殿が建てられる前からあった信仰の場であったらしい。由来によると、頼朝がここに神社を建てる前に既に稲荷があったとされているから、平安時代の後半にはここが斎場とされたり祭りが催されたりしていたのだろう。
『吾妻鏡』によると、1185年に頼朝はこの隠れ里の巫女に一人1枚の藍染めの織物を贈ったという。この年に平家は壇ノ浦に滅びており、頼朝の覇権が確定したと言ってもよい時期である。何らかの報酬であるといって間違いないだろう。また神社が成立したのもこの時期である。
「佐殿」の呼称 / 頼朝は1159年の平治の乱の最中に右兵衛権佐という官職に就く。その後乱に敗れ、職を解かれた後も、鎌倉の御家人からは尊称として「佐殿」と呼ばれた。この右兵衛権佐から権大納言の官位へ昇進するのは、1189年のことになる。
『吾妻鏡』 / 鎌倉時代末期に成立した歴史書。鎌倉幕府初代将軍の源頼朝から6代将軍の宗尊親王まで(1180−1266)の出来事を編年体で著している。鎌倉幕府の歴史を見る上で第一級の史料。
菖蒲沼跡/鹿沼公園(しょうぶぬまあと/かぬまこうえん) / 神奈川県相模原市中央区淵野辺/鹿沼台
相模原に残る、デイラボッチ(ダイダラボッチ)伝承ゆかりの地である。
大昔、雲に届かんばかりの大男、デイラボッチがいた。ある時、東の方に高い山がないので、富士山を東に持ってこようと思い立ち、抱え上げると動かしだした。ところが、さすがに富士山は大きくて重いので途中で一休みしようと、山を地面におろしてそこに腰掛けて一服した。しばらくしてまた運び始めようとしたが、山に根が生えてしまって持ち上がらない。何とかしようと頑張ったが、結局動かせないと分かるとそのまま富士山をほったらかして動かすのを止めてしまったという。その時、足を踏ん張った場所が菖蒲沼と鹿沼であると言い伝えられている。
どちらの沼も相当以前に埋められてしまい、菖蒲沼の方は跡地であることを示す石碑が建っているのみで、全く痕跡を残していない。一方、鹿沼の跡は公園用地となり、昭和48年(1973年)に鹿沼公園となった。公園の中心部には白鳥池という、鹿沼の名残を伝える池があり、その形は巨人の足を想起させるものになっている。
ダイダラボッチ / 全国各地に伝説が残る巨人。山の成り立ちにまつわる伝承や、手形や足形が池沼となった伝承などが残されている。
第六天社(だいろくてんしゃ) / 神奈川県鎌倉市山ノ内
鎌倉五山の第一とされる建長寺の門前に、その第六天社はある。この第六天社は建長寺の四方鎮守の一つで、南の方角の守護にあたるという。1674年に徳川光圀が書いた『鎌倉日記』にその存在が示されているので、江戸初期には建てられたと考えられる。
この建長寺にある第六天社はその建てられた理由から考えると、方除けの神としての性格を帯びていると考えるべきであろう。そしてその入り口付近に、何の脈絡もないかのように(安部清明大神碑)が置かれている。この碑もおそらく(鎮宅霊符神)と同じ意味合いで、特に火難除けとして祀られたとみなしてよいかもしれない。
第六天 / 第六天とは、仏法における他化自在天(神道における第六番目の神)。他化自在天は欲界の最高位にあり、他者の快を己の快とすることが出来るとされる。また第六天魔王(単に魔王とも)と呼ばれる。
「安部清明」の名称 / 歴史上の人名としては正しくは“安倍晴明”なのであるが、実際にはこの「安部清明」と表記する場合もある。それは人形浄瑠璃・歌舞伎の『蘆屋道満大内鑑』などの後世に作られた芝居でのことである。それ故に、この鎌倉の安倍晴明伝承は、江戸期以降に現在ある姿に形成されたと考えてもおかしくないかもしれない。
泣塔(なきとう) / 神奈川県鎌倉市寺分上陣出
現在は鎌倉市所有の土地となっているが、かつてはJR東日本大船工場の敷地であった場所にある。鎌倉市文化財に指定されている(戦前は国の重要美術品にも指定)宝篋印塔である。
今でもこの塔の周辺にはフェンスが張り巡らされており、入口には南京錠が掛けられている(鎌倉市に問い合わせると開けてもらえるが)。指定文化財にしても、かなり物々しい印象である。そしてこの塔自体が奇怪な伝承を多く持っているために、一種異様な空間を形成していると言える。
銘によると文和5年(1356年)に建てられた石塔であり、その背後に“やぐら”が設けられていることから、おそらくこの年号より少し前に付近で複数の人間が亡くなった出来事、具体的に言えば、新田義貞と北条守時が戦った洲崎合戦の北条方供養碑であると考えられている。即ちこの地は多くの人の血が流された、しかも鎌倉幕府滅亡という悲劇的な戦いの場なのである。
そしてこの“泣塔”という奇妙な名であるが、次のような伝承が残されている。この石塔を近くの青蓮寺に移動させたところ、夜な夜なこの石塔からすすり泣きが聞こえたという。そこで元の場所に帰りたいのであろうということで、元に戻したと言われている(あるいは住職の夢枕で「帰りたい」と訴えたとも言われる)。このために“泣塔”と呼ばれるのである。
しかしこの石塔にまつわる怪異譚の真骨頂は、この石塔のある敷地を所有すると不幸に遭うとか没落するという話である。特に有名なものは、昭和17年(1942年)にこの地に横須賀海軍工廠深沢分工場が設立されることとなり、用地を買収して泣塔周辺も更地にする計画だったが、塔を移動しようとすると怪我人や死者が出て、さらに工事現場で怪事が度々起こったために取り除くことをやめたとという話である(地域住民からも祟りを恐れて嘆願があったという)。そして昭和20年(1945年)に終戦を迎え、海軍は解体されるのであった。
海軍の次に泣塔を含む土地の所有者となったのは、国鉄。だが、国鉄も昭和62年(1987年)に分割民営化されて消滅した。この2つの大組織の末路から、泣塔の負の伝説がまことしやかに噂されたのである(次の所有者であるJR東日本鉄道は平成18年(2006年)に土地を手放したために没落を免れたとの噂もある)。
その他にも近隣に幽霊が出るとか、泣塔を訪れた後には必ず幽霊に遭遇するなど、あまり良い噂はない。しかしこれらの噂によって、泣塔は周囲の変化の波にも耐え、かつての風景のまま保存されてきたことも事実である。南北朝時代の宝篋印塔としても最も美しいものの一つであり、時代の波に取り残された一画は、一見の価値があると思う。
やぐら / 特に鎌倉周辺で多く見られる、武士などの支配層の人々を埋葬する横穴式の墳墓。鎌倉時代から室町時代にかけて多く造られる。
北条守時 / 1295-1333。北条氏一門の赤橋流の出身。第16代執権(鎌倉幕府最後の執権)。嘉暦元年(1326年)執権となるが、政治的権力は得宗家(北条家嫡流)の北条高時と内管領の長崎高資に握られ続ける。妹婿が足利高氏(尊氏)であったため、高氏が倒幕へ叛旗を翻して以降、幕府内での立場が悪化。死を覚悟して身の潔白を示すために、鎌倉へ攻め入ろうとする新田義貞の軍勢に対して先陣を切って攻撃。洲崎合戦にて自刃する。
洲崎合戦 / 鎌倉へ攻め入る新田義貞の軍勢と、それを防ぐ北条守時との戦い。巨福呂坂から出撃した北条守時は一日一夜に65回の突撃を繰り返し、化粧坂にあった新田義貞の陣近くの洲崎まで至る。しかし兵力の大半を失っており、退却してまた謀反の疑いをかけられることを嫌い、守時はここで部下90余名と共に自刃する。新田義貞の鎌倉攻めでも屈指の激戦と言われる。
二枚橋(にまいばし) / 神奈川県川崎市麻生区西生田
五反田川に架かる橋。現在は何の変哲もない橋であり、説明板と、欄干のデザインに伝承にまつわる透かしがあることで,ようやくそれと分かる程度である。
治承4年(1180年)、伊豆で源頼朝が反平氏ののろしを上げて挙兵をした折、平泉にいた弟の義経は取るものも取りあえず、勇んで関東の兄の許へ馳せ参じることとした。その途中、義経主従は五反田川を渡ろうとするが、橋があまりにも粗末であるために、馬でも渡れるような橋に造り直した。丸太を並べてその上に土を盛るという手法で造られた橋は、横から見ると、まるでのし餅を2枚重ねたように見えるために「二枚橋」と呼ばれるようになったという。
女躰神社(にょたいじんじゃ) / 神奈川県川崎市幸区幸町
JR川崎駅にほど近い場所にある神社である。その名の通り、女性の悩みを取り除き、また願いを叶える御利益があるとされる。そしてこの神社の創建にも一人の女性の存在がある。
このあたりは多摩川の南側に当たり、たびたび水害に悩まされてきた。ある時、今までにないほど酷い水害が起こり、田畑はほとんど水没してしまった。あまりの惨状に、一人の女丈夫が意を決して水中に身を投じ、水神の怒りを鎮めたのである。そのせいか、このことがあって以降大きな水害が起こることはなくなり、村人はこの女丈夫の徳を称え偉業を後世に残すために、祠を建てたのである。はじめは多摩川辺りの「ニコニコ松」の下(正確な位置は判らず)にあったが、その後現在の場所に社が出来たという。
猫の踊り場(ねこのおどりば) / 神奈川県横浜市泉区中田南
昔、戸塚宿に水本屋という醤油屋があった。主人夫婦と一人娘の家族3人と、奉公人の番頭と丁稚が住んでいた。そして娘が雌の黒猫の“トラ”を飼っていた。
醤油の付いた手を拭くので、毎日晩になると5人分の手ぬぐいを洗って干しておくのが、この家の習慣であった。ところがある時、丁稚の手ぬぐいがなくなり、翌日には主人のものもなくなった。主人は丁稚がわざとなくしたのだと思って問い詰めたが、埒が開かない。一方、丁稚はいわれのないことで怒られ、泥棒の正体を暴いてやろうと夜なべして見張った。すると夜中に手ぬぐいが地を這うように走って行くのを見たが、結局正体は分からなかった。
翌日、主人は用事で隣町へ行ったその帰りの夜道で、不思議な光景に出くわす。人気のない空き地で、手ぬぐいをかぶった何匹かの猫が人語で会話しているのである。月明かりの下、猫たちは踊りの師匠を待っている様子。そこへ来たのが、手ぬぐいをかぶった黒猫、まさしく飼っている“トラ”である。しかも“トラ”は、晩御飯に熱いおじやを食べて舌を火傷して満足に喋れないとぼやきつつ、踊りの手ほどきを始めた。腑に落ちた主人は,店に戻ると内儀に猫の晩御飯を尋ねると、案の定熱いおじやであった。
翌日の晩、家族と店の者を連れて主人は、昨日の空き地へ行った。隠れて待っていると、やがて手ぬぐいをかぶった猫が集まりだし、そして“トラ”が音頭を取って踊りを始めた。不思議な光景であったが、全員が得心がいったようにその場を離れた。
それ以降、戸塚宿では猫が踊る光景を見に行く人がぽつぽつ現れた。しかし見られていることに気付いたのか、そのうち猫が空き地で踊りをすることはなくなってしまった。そして“トラ”もいつの間にか水本屋からいなくなってしまったという。
横浜市営地下鉄戸塚駅の次の駅は「踊場」駅という。ここが、猫たちが踊りをしていた空き地のあった場所であると言われている。当然、駅名の由来はこの伝説であり、駅構内には猫をモチーフとした意匠が数多く見られる。そして2番出口の脇には、「踊場の碑」と言われる石碑がある。案内板には“猫の霊をなぐさめ、住民の安泰を祈願して”とあり、元文2年(1737年)に建てられたとされる。今でも猫の置物が供えられており、猫供養のための碑と言えるだろう。さらにこの石碑から見て、交差点の斜め向かいとなる場所に交番があるが、この場所が実際に猫が踊りをしていた空き地の跡であるということ。
戸塚宿 / 東海道五十三次の5番目の宿場。江戸から早朝出発するとちょうど宿を取る時間帯に到着できる場所として、慶長9年(1604年)に宿場町として開けた。ちなみに伝説に登場する水本屋は現存しない。
「猫の踊り場」伝説 / 細部は異なるが、これとほぼ同じパターンの伝説が、戸塚以外にも静岡県函南町、同富士市などに残されている。人間に飼われているうちに特殊な能力を持つようになった化け猫の、1つの典型的なパターンであると考えてもよいだろう。
走水神社(はしりみずじんじゃ) / 神奈川県横須賀市走水
祭神は日本武尊と弟橘媛命。
日本武尊の東征の折、相模国の走水に着くと、ここから海路で上総国へ向かうことになった。日本武尊は海を眺め「小さな海だ。これなら飛び上がっただけで渡れよう」と言ったが、いざ船で渡り始めると突然の暴風雨となり、船は進むことも退くことも出来なくなった。
すると后の弟橘媛は「この嵐はきっと海神の仕業です。私が身代わりとなって海に入りましょう」と言うと、海に入っていったのである。するとたちまち暴風雨は止み、日本武尊は弟橘媛の犠牲によって無事に上総国へ行くことが出来た。
走水神社の創建は、日本武尊が海を渡る前にしばらくこの地に滞在していたが、土地の人々が慕ったので出航に際して自らの冠を与えた。人々はそれを石櫃に納めて土中に埋め、その上に社を建てたことによるとされる。
一方、弟橘媛が入水して数日後、媛が身につけていた櫛が浜に流れ着いた。人々はこの櫛を日本武尊が仮の宮としていた場所に社を建てて、橘神社として崇敬した。しかし明治になってからこの場所が軍用地として接収されることとなったため、橘神社は走水神社の境内に移され、さらに明治42年(1909年)に走水神社に合祀されたのである。
現在、境内には弟橘媛に殉じた侍女を祀る別宮、弟橘媛が入水に際して詠んだ歌「さねさし 相模の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問いし君はや」を刻んだ碑、また弟橘媛のレリーフをはめ込んだ舵の碑など、弟橘媛に関するものが多く見られる。さらに社殿の裏手には、水神として河童を祀る水神社もある。
日本武尊の東征 / 父である第12代景行天皇の命を受けて、蝦夷の討伐へ行く。途中、伊勢で叔母にあたる倭姫命に会い、天叢雲剣を賜る。駿河(相模)で罠にはまり火攻めに遭うが、天叢雲剣と火打袋で難を逃れる(弟橘媛の最期の歌はこの時の出来事を詠んでいる)。そして走水での悲劇を経て、無事に蝦夷を平らげた日本武尊は帰途に就き、その途中で東を見やり「吾妻はや」と嘆息する。これは弟橘姫を偲んでの言葉であり、ここから“東=あずま”と呼ぶようになったとされる。
腹切りやぐら(はらきりやぐら) / 神奈川県鎌倉市小町
元弘3年(1333)5月22日、鎌倉幕府は新田義貞の軍勢によって滅ぼされる。事実上の滅亡の場になったのが、執権北条氏の菩提 寺である東勝寺である。ここが執権北条高時をはじめとする一族郎党870余名が立て籠もり、寺に火を放ち、自害して果てた場所である。日本の歴史上、政権が瓦解する時に、これほど為政者一族(一門の自害者だけで283名とされる)が悲惨な死を遂げたということはない。
この北条高時をはじめとする一族郎党の菩提を弔うために作られたのが“腹切りやぐら”である。余りにもストレートなネーミングである。鎌倉で土地整備をすると必ず人骨が出るという噂をよく聞くが、幕府滅亡時の戦乱で亡くなった人のものであるらしい。それだけ多くの血が流れた場所であり、その中核となるのがこの腹切りやぐらと言うことになるだろう。
北条高時 / 1309-1333。鎌倉幕府14代執権。『太平記』では闘犬にうち興じ、酒色に耽る暗君として描かれる。特に有名なのは、ある夜怪しい者たちと酒宴を張ったが、翌朝目覚めると辺り一面に鳥の足跡のようなものが残っており、烏天狗にたぶらかされたのだろうと言われた逸話である。
やぐら / 鎌倉地方に見られる、中世の上流階級の墳墓。山の斜面などに横穴を掘り、そこに火葬した遺骨を納めたり、五輪塔などを置いて供養をしている。
三浦道寸の墓(みうらどうすんのはか) / 神奈川県三浦市三崎町小網代
三浦一族は相模国三浦郡を所領として代々“三浦介”を名乗る、板東武者の名門である。源氏に仕えて鎌倉幕府成立に大きく貢献するが、執権・北条氏と対立して一旦宗家は滅ぼされる。しかし傍系の佐原氏が三浦姓を名乗り、南北朝時代は相模国守護、その後、扇谷上杉氏が相模国守護となるとその重臣(守護代)として勢力を伸ばす。そして新井城を拠点に、三浦郡・鎌倉郡を支配する勢力に成長する。
しかし三浦道寸(義同:よしあつ)が当主となった頃、相模国は新興勢力によって危機に晒されていた。実力で伊豆国を手に入れた伊勢宗瑞(後の北条早雲)が相模国に進出してきたのである。明応4年(1495年)、宗瑞は手始めに大森氏の小田原城を手に入れる。大森氏が母方の叔父であるため道寸は戦うが、扇谷上杉氏と共に一時期和睦。だが領土的野心を持つ宗瑞との関係は徐々に悪化し、遂に道寸と宗瑞は永正7年(1510年)お互いの居城を攻めることになった。
さらに宗瑞は三浦領へ侵攻。永正9年(1512年)、道寸は新井城まで退却、扇谷上杉氏に援軍を要請する。ところが、この援軍を宗瑞側が迎撃して敗走させてしまう。このため道寸は新井城に籠城せざるを得なくなってしまったのである。
三方を海に囲まれ、強力な水軍を持つ新井城は難攻不落であり、籠城戦は3年にも及んだ。しかしその間に宗瑞は相模国内の他の豪族を支配下に置くことに成功し、三浦氏はますます孤立無援となっていった。
永正13年(1516年)、扇谷上杉氏の援軍が再び撃退された後、道寸は城を打って出て総攻撃をおこなうことを決心する。その夜城内で酒宴が催されたが、城から逃げ出す者は皆無であったという。翌朝、三浦勢は城から出て大いに戦ったが、圧倒的な敵の前に全員が討死に。城を臨む入り江は三浦の兵の血で赤く染まり、油を流したようになったために“油壺”と呼ばれるようになった。そして道寸は辛くも城へ戻りその場で自害して果て、これによって名門三浦氏は再び滅亡したのである。享年66。
三浦氏の居城であった新井城は、現在の油壺マリンパークや東京大学地震研究所・岬臨海実験所辺りにあったとされている。そして三浦道寸の墓もそのそばにあり、参拝する人も多いという。また三浦一族の霊を慰めるために、毎年“道寸祭り”がおこなわれている。
三浦道寸 / 1451?-1516。父は扇谷上杉氏より養子となった三浦高救(扇谷定正の異母弟にあたる)。定正による太田道灌暗殺を機に、高救が扇谷上杉氏当主の座を狙って、道寸に家督を譲る。しかし養父である三浦時高の怒りを買って追放され、道寸は小田原城主の大森氏を頼る。その後明応3年(1494年)、道寸は大森氏の援助で時高の新井城を攻めて自害に追い込み、当主に返り咲く(時高病死の後に新井城を奪取したとの説も)。だが当主となった翌年より伊勢宗瑞の相模侵略が始まり、最後は新井城落城により敗死。嫡男の三浦義意も討死となり、三浦氏は滅亡する。
伊勢宗瑞 / 1432(1456)-1519。出自は不明な点が多いが、姉妹が駿河の今川氏親の実母であり、その縁で駿河で活動し、文明19年(1487年)に氏親を当主に就ける功績で重臣となる。明応2年(1493年)、伊豆の堀越公方の内紛に乗じて伊豆国を奪取。その後も今川家と協力する形で領土を拡張させる。相模侵攻は、小田原城を知略で乗っ取ってから20年かけて三浦氏を滅ぼして平定させている。なお“北条”の名は、実際には嫡男の氏綱が使用し始めたものであり、北条早雲という名を生前に使用したことはない。
源実朝公御首塚(みなもとのさねともこうみしるしづか) / 神奈川県秦野市東田原
建保7年(1219年)1月、鎌倉幕府3代将軍・源実朝は鶴岡八幡宮で暗殺された。武士として初の右大臣昇進の拝賀がほぼ終わった時であった。暗殺に及んだは、実朝の甥で猶子、さらに鶴岡八幡宮寺の別当であった公暁である。公暁は実朝を襲うとその首を切り落として、放さず持ち続けた。だが同日、乳母夫であった三浦義村の邸宅へ赴く途中、義村の送った討手である長尾貞景・武常晴ら5名によって急襲され殺害された。そして実朝の首はそこから行方知れずとなり、墓にも首を納めることが出来ず、胴体に下賜された髪の毛一本だけが棺に納められたという。
ところが鎌倉から馬で半日掛かるとされた秦野の地に、その実朝の首が祀られている場所がある。伝承によると、首を運んできたのは、公暁の討手の一人であった武常晴であり、当時の秦野を治めていた波多野忠綱に供養を願い出て葬ったとされる。ただ波多野氏と三浦氏は縁戚でもなく、むしろ関係は良好ではなかったと言われる。一説によると、実朝暗殺を画策して公暁をそそのかして暗殺させたのが三浦義村であり、それを知った武常晴が憤って、首を秦野まで持ち出したのではないかとも言われている。ただし実際には、なぜこの地に首がもたらされたのかは、実朝暗殺の背景と共に謎である。
源実朝 / 1192-1219。鎌倉幕府3代将軍。源頼朝の次男。兄である源頼家に代わり将軍に就く。生来病弱で厭世観の強い性格であったと言われている。また『金槐和歌集』を出すなど、歌人としても有名。実朝の異例の昇進は、朝廷側による“位打ち”の呪法であるとされ、分不相応の地位に就けることで呪い殺そうとしていると、生前に側近の大江広元が諫言している。実際、死の前年の建保6年(1218年)には権大納言、左近衛大将、内大臣、右大臣と4回も昇進している。その死によって、源氏の嫡流は断絶する。
公暁 / 1200-1219。鎌倉幕府2代将軍・源頼家の次男。実朝の甥にあたる。6歳の時に父が暗殺されて後、祖母の北条政子の手で育てられ、12歳の時に出家。修行のために京都へ上り、実朝暗殺の2年前に鎌倉へ戻り、鶴岡八幡宮寺の別当となる。「親の敵はかく討つぞ」と言って実朝殺害に及んでおり、父親の敵であると誤解(実際には頼家は北条氏の手に掛かっている)していたようである。ただ、出家後も全く剃髪をしなかった、暗殺後は三浦義村に「我は東国の大将軍なり」と伝えたとされ、公暁本人が将軍の座を狙っていた節もある。
三浦義村 / ?-1239。鎌倉幕府の有力御家人。建暦3年(1213年)の和田合戦では、和田義盛と北条氏打倒を画策しながら、最後に北条氏に寝返っている。そのため実朝暗殺についても、公暁をそそのかした黒幕として考えられる向きがある(討手を差し向けて公暁を殺害したのは口封じのためとも言われる)。その後も幕府の政変には常に重要人物として顔を出しており、それと共に北条氏に次ぐ幕府の実力者ともされている。
北条義時 / 1163-1124。鎌倉幕府第2代執権。北条政子の弟にあたる。父の時政と共に政治の中枢を握り、有力御家人を排除して北条氏の地位を確立した。実朝が右大臣昇進の拝賀をおこなった時には、実朝の脇に位置する太刀持ちの役であったが、当日体調不良を訴えて源仲章と交代して難を逃れている(代役の仲章は、暗殺の巻き添えを食らって死亡している)。そのため実朝暗殺を事前に知る立場にあったとの説もある。
源頼朝の墓(みなもとのよりとものはか) / 神奈川県鎌倉市西御門
鎌倉の街の基礎を作り上げた人物は言うまでもなく、鎌倉幕府初代将軍である源頼朝である。だが、鶴岡八幡宮の裏手の小高い丘にあるその墓はすこぶる質素である。
頼朝の死は歴史的な謎の一つとされている。鎌倉幕府の正史ともいえる『吾妻鏡』において、頼朝の死去した前後の記述が意図的に省かれているためである。 とりあえずは1199年1月13日に落馬による事故が引き金となって死亡したとされるのだが、武家の棟梁としての面目が立たないためなのか、現在では乗馬中の心臓発作とか脳溢血ということで“合理的な”理由付けがなされている。
だが、江戸期に作られた『北条九代記』には、まことしやかに伝えられた奇怪な死因について語られている。頼朝は、自らの命で抹殺された怨霊によって殺されたというのである。
1198年12月27日、稲毛三郎が妻の冥福を祈って架けた橋供養に頼朝は出かける。その帰り、矢的原という場所にさしかかった時にただならぬ気配となり、そこに源義経主従や源行家の亡霊が現れた。それを見て頼朝は恐怖を覚え、身の縮む思いで立ち退いた。そして稲村ヶ崎まで来ると、今度は波間に子供の亡霊が見える。これが壇ノ浦に沈んだ安徳天皇であると悟るや、ついに頼朝は 失神し、落馬したというのである。
実際、頼朝は鎌倉幕府成立のために多くの血を流している。特に近親者への憎悪が激しく、情け容赦なく敵を潰すために、怨霊に取り殺されてもおかしくないという風に見られたのであろう。
『吾妻鏡』の欠落部分 / 頼朝の死の前の3年分の記録が完全に欠落しており、これを頼朝の死と関連付けてさまざまな憶測が流れている。『吾妻鏡』自体には他にもいくつかの欠落部分が存在しており、いずれも鎌倉幕府にとって重要な出来事があった時期であるとされている。現在では自然散佚ではなく意図的に削除された可能性の方が高いという見解が主流という。
『北条九代記』 / 江戸時代、1675年刊の戦記物。北条時政から貞時までの9代にわたる鎌倉執権の時代の物語。浅井了意の作とされる。
八雲神社 晴明石(やくもじんじゃ せいめいいし) / 神奈川県鎌倉市山ノ内
JR北鎌倉駅から大船方面へ向かうこと200メートルほど。小高い丘の上に八雲神社がある。ここに(晴明石)と呼ばれる石がある。
この石も全国各地に散らばる安倍晴明伝説の一つなのだが、この石自体にも不思議な伝承が残されている。もともとこの石は鎌倉街道沿いの橋のたもとにあり、この石が(晴明石)であることを知らずに踏むと足が丈夫になるが、知って踏むと不幸に見舞われるというのである。このような災厄をもたらすものは安倍晴明関連の遺跡の中でもかなり珍しい。
(晴明石)が八雲神社に祀られるようになったのは、戦後の昭和30年代のことらしい。鎌倉街道の拡張工事をした際に往来の邪魔になるということで移設したとのこと。
かつてこの山ノ内周辺に安倍晴明が(鎮宅霊符神)の札を貼った家があり、その後200年間火災に遭わなかったと伝えられる。(晴明石)が水を祀るもので火難除けの効験あらたかであるという伝承と図らずも一致する。
しかもこの石が最初に置かれていた場所は、鎌倉街道沿いの“十王堂橋”。つまり(晴明石)のあった橋の近 くには“十王”を祀る御堂があったと推察される。この“十王”の中心にあるのが“閻魔王”である。さらに現在(晴明石)が置かれている“八雲神社”であるが、この名の神社は明治以前はほぼ間違いなく“牛頭天王社”として“素戔嗚尊”を祭神としている。
これら“閻魔王”“牛頭天王”“素戔嗚尊”と同一神であると言われるのが“泰山府君”、まさに陰陽道における最高神なのである。謂われのない橋のそばに偶然あったのでもなく、移設の際に最寄りの神社という理由だけで選ばれたわけでもないと言えるだろう。
鎮宅霊符神 / 凶宅に住みながら裕福な劉名進が神より授かった霊符を、漢の文帝が広めたのが嚆矢とされる。家内安全・無病息災に効験がある。通例では(鎮宅七十二霊符)として72枚の霊符でまとめられている。その中心にあるのが鎮宅霊符神である。日本伝来後、北辰北斗信仰と結びつき、陰陽道において発展する。御姿は北辰北斗になぞらえ、玄武に乗っている。
十王 / 地獄にあって、亡者に審判を下す10人の王。秦広王(しんこうおう)、初江王(しょこうおう)、宋帝王(そうたいおう)、五官王(ごかんのう)、閻魔王(えんまおう)、変成王(へんじょうおう)、泰山王(たいせんのう)、平等王(びょうどうおう)、都市王(としおう)、五道転輪王(ごどうてんりんのう)。初七日から百ヶ日を経て、三回忌までそれぞれの区切りで裁きをおこなうとされる。
八雲神社 / 牛頭天王という社名が明治の神仏分離政策によって禁じられたため、素戔嗚尊にまつわる名称として「八雲神社」に改名した神社が多い。名前の由来は素戔嗚尊が詠んだとされる「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠に 八重垣作る その八重垣を」の歌による。(牛頭天王と素戔嗚尊との関連性であるが、『日本書紀』によると素戔嗚尊は新羅の曽尸茂梨(そしもり)から高天原へ来たとされ、この「そしもり」という言葉が、朝鮮語の「牛頭」または「牛首」に当たることから、両者の習合がなされた)
素戔嗚尊 / さまざまな側面を持つ神であるが、ここでは「根の国」の支配者としての性格が強調されている。「根の国」は死者の住まう国であり、地獄を統括する閻魔王との共通点があるとする。
泰山府君 / 中国にある泰山を神聖視し、それに尊称を付けたもの。生死や寿命をつかさどり、生前の罪に合わせて懲罰をおこなう性格から、閻魔王と同一視される。
蓮法寺 浦島太郎供養塔(れんほうじ) / 神奈川県横浜市神奈川区七島町
神奈川区には浦島太郎に関する伝承地が数多く残されている。その来歴は古く、江戸時代に書かれた『江戸名所図会』にも既に浦島太郎ゆかりの寺院として“帰国山浦島院観福寿寺”という名が挙げられており、かなり有名な観光名所であったと推測される。
観福寿寺の山号からわかるように、神奈川の浦島伝説は、竜宮城から帰ってきてから後の話となっている。竜宮城から戻ってみて誰一人身寄りもなくなった浦島は、丹後から両親の故郷である白幡の峯へ赴き、そこで父母の供養塔を建てたという。つまりこの相模の国が父の故郷であり、浦島太郎の生国でもあるというのである。
江戸期には、観福寿寺に浦島太郎にまつわる寺宝が納められていたのであるが、明治元年(1868年)の大火によって寺院は焼失、その後の廃仏毀釈などで結局廃寺となってしまった。寺宝の一部は慶運寺(神奈川区)に移されたのであるが、大正時代になって、観福寿寺があった場所に蓮法寺という日蓮宗の寺院が移転してきて現在に至っている。そして蓮法寺には浦島太郎父子の供養塔が残されており、さらに乙姫の供養塔とされるものも一緒に置かれている。
なお、この付近には“浦島”や“白幡”という地名が今なお残されている。  
橘樹郡の郡名の起こり
新編武蔵風土記稿巻之五十八橘樹郡之一総説(冒頭)
橘樹郡は、國の中央より南の方にて、多磨郡よりは東南に續けり、郡名の起りは其正しきことを聞す【古事記】及【景行記】等に載たる倭建命東征の時、相武國より船を浮べ給ひしに、海中にして船の進まざりしかば、后の弟橘媛海中に入給ひしにより、命の船忽進むことを得し條を證として、當郡にかの弟橘媛の墓ある故に橘をもて地名とせしならんと云説あり、今按に郡中子母口村立花の神社は、弟橘媛を祭れるなりと云ときは、橘媛の墓といへるもの、もし是なりといはんか、今彼社傳を尋ぬるに更に證とすべきこともあらざれば、是等のことは今より知べからず、
其正しく橘花の地名の正史にあらはれしは【安閑紀】を始とすべし、安閑天皇元年十二月壬午の條に、武藏國造笠原直使主が、國家の爲に當國の内横渟、橘花、多永、倉樔の四所に屯倉を置し事あり、此橘花といふもの即この郡ならん、
又【萬葉集】に天平勝寳七歳二月二十日、武藏國部領防人使椽正六位上安曇宿禰三國が進歌二十首の内に、橘樹郡上丁物部直根及妻椋椅部弟女が詠ぜし所の歌を載す、橘樹の郡名爰に初て見ゆ、
又【續日本紀】稱徳天皇神護景雲二年六月癸巳、武藏國橘樹郡人飛鳥部吉志五百國が、久良郡にて白雉を獲て獻ぜしことを記せり、以上の文によれば文字も古は橘花とかきしを、
【元明紀】和銅六年五月の條に載せし、郡郷の名には好字を著すべきの詔ありし時などより、橘樹の二字を用ゆるならん、されど唱は古きによりてかはらざりしなり、
【類聚國史】貞觀十四年當郡節婦のことを載たる條にも、橘樹郡としるせり、
【和名鈔】郡名の部に、橘樹の二字の訓を太知波奈と註せり、後世或は立花としるせるものは誤なり、

倭建命(やまとたけるのみこと)と弟橘媛(おとたちばなひめ)に関する「たちばな」の謂れの部分がありますが、ちょっと分かりにくいかと思いますので、下の「東国征討」をお読み下さい。橘樹郡に弟橘媛の墓があり、子母口の立花神社は弟橘媛を祭っている神社である。そう言われると、一口で伝説と片付けられないものがあります。また、時代によって「たちばな」の書き方が変わっている事も分かります。

倭建命(ヤマトタケルノミコト)は、第12代景行天皇(けいこうてんのう)の第3王子で、古事記では「倭建命」、日本書紀では「日本武尊」と記されている。
倭建命は、神代における「須佐之男命」(すさのおのみこと)と同様に、古代王権の宗教的超越性(国土の上に豊穣繁栄をもたらす穀霊の継承者としての霊威)の一方の極(負性・マイナス)を開示する異端としての機能せしめられた形象の一つとされ、生来の暴力的性向・奸智(かんち)ゆえに王権の中央から疎外され周辺へ放遂された異端者小碓命は、その異端性を王権に服従しない王権外部の悪・異端の征討に発揮させられることになる。
東国征討
天皇は、都に上った倭建命に対し、直ちに東国12か国の荒れすさぶ神や服従しない人々の平定を命じた。勅命を受けた倭建命は東国に向かう途中、伊勢神宮に参拝し叔母の倭比売命に会い、軍兵も付けず即座に東国に追い立てる父天皇の酷薄さを嘆いて訴えた。倭比売命は「草薙剣」(くさなぎのつるぎ)と一つの袋を与えた。
倭建命は相模国へ到着すると「美夜受比売」(みやずひめ)と結婚の約束をして、東国へと向かい荒れすさぶ神や服従しない人々を平定し従えた。相模国では、相模の国造(くにのみやっこ)が倭建命を欺いて野に誘い、野に火を放った。倭建命は草薙剣で草を刈り払い、袋から火打ち石を取り出して向火(むかひび)を付けて難を逃れ国造どもを斬殺した。
更に進み走水海(はしりみずのうみ)を渡ろうとすると、その海峡の神が荒波を立てて船を回すので先に進むことが出来なかった。后の「弟橘比売命」(おとたちばなひめのみこと)は、倭建命が皇命を完遂することを願い、自ら犠牲となって海に身を沈め神を和(なご)めた。するとその荒波は自然に穏やかになって船は先に進むことが出来た。
こうして倭建命は更に奥へ進み荒れ狂う蝦夷(えみし)を平定し、また荒れすさぶ神々を平定し帰路についた。足柄山の坂で足柄峠の神が白い鹿になって現れたのを打ち殺し、坂の上に立って亡き后を偲んで「ああ我が妻よ」と嘆いた。倭建命は、相模国から甲斐国、科野国を経て尾張国に戻り、結婚の約束をしていた国造の祖美夜受比売のもとに寄った。その時比売は月経になっていて二人は問答の歌を交わし結婚した。
倭建命は、所持していた草薙剣を美夜受比売のもとに置いて、伊吹山の神を討ち取るために出かけた。 
 
 
日本の伝説 / 柳田國男

 

再び世に送る言葉
日本は伝説の驚くほど多い国であります。以前はそれをよく覚えていて、話して聴かせようとする人がどの土地にも、五人も十人も有りました。ただ近頃は他に色々の新に考えなければならぬことが始まって、よろこんで斯(こ)ういう話を聴く者が少なくなった為に、次第に思い出す折が無く、忘れたりまちがえたりして行くのであります。私はそれを惜むの余り、先ず読書のすきな若い人たちの為に、この本を書いて見ました。伝説は斯ういうもの、こんな風にして昔から、伝わって居たものということを、この本を読んで始めて知ったと、言って来てくれた人も幾人かあります。
日本に伝説の数が其(その)様に多いのなら、もっと後から後から別な話を、書いて行ったらどうかと勧めて下さる方もありますが、それが私には中々出来ないのです。同じような言い伝えを、ただ沢山に並べて見ただけでは、面白い読みものにはなりにくい上に、わけをきかれた場合にそれに答える用意が、私にはまだととのわぬからであります。一つの伝説が日本国中、そこにもここにも散らばって居て、皆自分のところでは本当にあった事のように思って居るというのは、全く不思議な又面白いことで、何か是(これ)には隠れた理由があるのですが、それが実はまだ明かになって居らぬのです。私と同様に何とかして之(これ)を知ろうとする人が、続いて何人も出て来て勉強しなければなりません。その学問上の好奇心を植えつける為には、よっぽどかわった珍らしい話題を、掲げて置く必要があるので、そういう話題がちょっと得にくいのであります。白米城(はくまいじょう)の話というのを、今私は整理しかかって居ります。十三塚の伝説も遠からずまとめて見たいと思って居ますが、斯ういうのが果して若い読者たちの、熱心な疑いを誘うことが出来るかどうか。とにかくにこの本の中に書いたような単純でしかも色彩の鮮かな話は、そう多くはないのであります。
最近に私は「伝説」という小さな本を又一つ書きました。これは主として理論の方面から、日本に伝説の栄え成長した路筋を考えて見ようとしたものですが、曽(かつ)て若い頃にこの「日本の伝説」を読んで、半分でも三分の一でも記憶して居て下さる人であったら、興味は恐らくやや深められたことと思います。それにつけてもこの第一の本が、今少しく平易に又力強く、事実を読む人の心に残して行くことの出来る文章だったらよかろうにと、考えずには居られません。それ故に今度は友人たちと相談をして、又よほど話し方を変えて見ました。日本の文章は、一般にやや耳馴れないむつかしい言葉を今までは使い過ぎたようであります。伝説などの如く久しい間、口の言葉でばかり伝わって居たものにはどうしても別の書き現わし方が入用かと思いますが、その用意もまだ私には欠けて居たのであります。新にこの本を見る諸君に、その点も合せて注意していただかなければなりません。昭和十五年十一月 
はしがき
伝説と昔話とはどう違うか。それに答えるならば、昔話は動物の如く、伝説は植物のようなものであります。昔話は方々を飛びあるくから、どこに行っても同じ姿を見かけることが出来ますが、伝説はある一つの土地に根を生やしていて、そうして常に成長して行くのであります。雀や頬白(ほおじろ)は皆同じ顔をしていますが、梅や椿は一本々々に枝振りが変っているので、見覚えがあります。可愛い昔話の小鳥は、多くは伝説の森、草叢(くさむら)の中で巣立ちますが、同時に香りの高いいろいろの伝説の種子や花粉を、遠くまで運んでいるのもかれ等であります。自然を愛する人たちは、常にこの二つの種類の昔の、配合と調和とを面白がりますが、学問はこれを二つに分けて、考えて見ようとするのが始めであります。
諸君の村の広場や学校の庭が、今は空地になって、なんの伝説の花も咲いていないということを、悲しむことは不必要であります。もとはそこにも、さまざまのいい伝えが、茂り栄えていたことがありました。そうして同じ日本の一つの島の中であるからには、形は少しずつ違っても、やっぱりこれと同じ種類の植物しか、生えていなかったこともたしかであります。私はその標本のただ二つ三つを、集めて来て諸君に見せるのであります。
植物にはそれを養うて大きく強くする力が、隠れてこの国の土と水と、日の光との中にあるのであります。歴史はちょうどこれを利用して、栽培する農業のようなものです。歴史の耕地が整頓して行けば、伝説の野山の狭くなるのも当り前であります。しかも日本の家の数は千五百万、家々の昔は三千年もあって、まだその片端のほんの少しだけが、歴史にひらかれているのであります。それ故に春は野に行き、藪(やぶ)にはいって、木の芽や草の花の名を問うような心持ちをもって、散らばっている伝説を比べて見るようにしなければなりません。
しかし、小さな人たちは、ただ面白いお話のところだけを読んでお置きになったらいいでしょう。これが伝説の一つの木の中で、ちょうど昔話の小鳥が来てとまる枝のようなものであります。私は地方の伝説をなるたけ有名にするために、詳しく土地の名を書いて置きました。そうして皆さんが後に今一度読んで見られるように、少しばかりの説明を加えて置きました。昭和四年の春 
咳(せき)のおば様 

 

昔は東京にも、たくさんの珍しい伝説がありました。その中で、皆さんに少しは関係のあるようなお話をしてみましょう。
本所(ほんじょ)の原庭町(はらにわまち)の証顕寺(しょうけんじ)という寺の横町には、二尺ばかりのお婆さんの石の像があって、小さな人たちが咳が出て困る時に、このお婆さんに頼むと直(じき)に治るといいました。大きな石の笠をかぶったまま、しゃがんで両方の手で顎(あご)をささえ、鬼見たようなこわい顔をしてにらんでいましたが、いつも桃色の胸当てをしていたのは、治ったお礼に人が進上したものと思われます。子供たちは、これを咳のおば様と呼んでおりました。
百年ほど前までは、江戸にはまだ方々に、この石のおば様があったそうであります。築地(つきじ)二丁目の稲葉対馬守(いなばつしまのかみ)という大名の中屋敷にも、有名な咳の婆さんがあって、百日咳などで難儀をする児童の親は、そっと門番に頼んで、この御屋敷の内へその石を拝みにはいりました。もとは老女の形によく似た二尺余りの天然の石だったともいいますが、いつの頃よりか、ちゃんと彫刻した石の像になって、しかも爺さんの像と二つ揃(そろ)っていました。婆さんの方は幾分か柔和で小さく、爺さんは大きくて恐ろしい顔をしていたそうですが、おかしいことには、両人は甚だ仲が悪く、一つ所に置くと、きっと爺さんの方が倒されていたといって、少し引き離して別々にしてありました。咳の願掛けに行く人は、必ず豆や霰餅(あられもち)の炒(い)り物を持参して、煎(せん)じ茶と共にこれを両方の石の像に供えました。そうして最もよくきく頼み方は、始めに婆様に咳を治して下さいと一通り頼んでおいて、次ぎに爺様のところへ行ってこういうのだそうです。おじいさん、今あちらで咳の病気のことを頼んで来ましたが、どうも婆どのの手際では覚束(おぼつか)ない。何分御前様にもよろしく願いますといって帰る。そうすると殊に早く全快するという評判でありました。(十方庵遊歴雑記五編)
この仲のよくない爺婆の石像は、明治時代になって、暫(しばら)くどこへ行ったか行く方不明になっていましたが、後に隅田(すみだ)川東の牛島(うしじま)の弘福寺(こうふくじ)へ引っ越していることが分りました。この寺は稲葉家の菩提所(ぼだいしょ)で、築地の屋敷がなくなったから、ここへ持って行ったのでしたが、もうその時には喧嘩(けんか)などはしないようになって二人仲よく並んでいました。そればかりでなく咳の婆様という名前も人が忘れてしまって、誰がいい出したものか、腰から下(しも)の病気を治してくれるといって、頼みに来る者が多くなっていました。そうしてお礼には履き物を持って来て上げるとよいということで、像の前にはいろいろの草履などが納めてあったそうです。(土俗談語)
食べ物を進上して口の病を治して貰った婆様に、後には足の病気を頼み、お礼に履き物を贈るようになったのは、ずいぶん面白い間違いだと思いますが、広島市の空鞘八幡(そらざやはちまん)というお社の脇にある道祖神(さえのかみ)のほこらには、子供の咳の病が治るように、願掛けに来る人が多く、そのお供え物は、いずれも馬の沓(くつ)であったそうです(碌々(ろくろく)雑話)。道祖神は道の神また旅行の神で、その上に非常に子供のすきな神様でありました。昔は村中の子供は、皆この神の氏子でありました。馬に乗って方々のお産のある家を訪ねて来て、生れた子の運勢をきめるのは、この神様だという昔話もありました。すなわち子供を可愛がる為に、馬の沓の入り用であった神なのであります。路を通る人が馬の沓や草鞋(わらじ)を上げて行く神はどこに行ってもありますが、今では名前がいろいろにかわり、また土地によって話も少しずつ違って居ます。咳のおば様なども、もしかするとこの道祖神の御親類ではないか。それをこれから皆さんと共に私は少し考えて見たいのであります。
咳のおば様の石は東京だけでなく、元は他の県にもそちこちにありました。例えば川越(かわごえ)の広済寺(こうさいじ)というお寺の中にも、しやぶぎばばの石塔があって、咳で難儀をするのでお参りに来る人がたくさんにあったそうですが、今ではその石がどれだか、もうわからなくなりました。しわぶきは古い言葉で、咳のことであります。(入間(いるま)郡誌。埼玉県川越市喜多町)
甲州|八田(はった)という村にあるしわぶき婆は、二貫目ばかりの三角な石で、これには炒り胡麻(ごま)とお茶とを供えて、小児が風をひいた時に祈りました。もとは行き倒れの旅の老女を埋めた墓印の石で、やたらに動かすと祟(たた)りがあるといっておそれておりました。(日本風俗志中巻。山梨県|中巨摩(なかこま)郡|百田(ひゃくた)村上八田組)
上総(かずさ)の俵田(たわらだ)という村の姥神(うばがみ)様は、近頃では子守神社といって小さなお宮になっていますが、ここでもある尊い御方の乳母が京都から来て、咳の病で亡くなったのを葬ったところといっております。それだから咳の病に願掛けをすれば治してくれるということで、土地の人は甘酒を持って来て供えました。そうして頼むと必ずよくなったという話であります。(上総国誌稿。千葉県君津郡|小櫃(こひつ)村俵田字姥神台)
姥神はまた子安(こやす)様ともいって、最初から子供のお好きな路傍の神様でありました。それがだんだんに変って来て、後には乳母を神に祀(まつ)ったものと思うようになり、自分が生きているうちに咳で苦しんだから、お察しがあって子供たちの百日咳も、頼むとすぐに救うてもらうことが出来るように、信ずる人が多くなったのであります。
下総(しもうさ)の臼井(うすい)の町でも、城趾(しろあと)から少し東南に離れた田の中に、おたつ様という石の小さなほこらがあって、そこには村の人たちが麦こがしとお茶とを上げて、咳の出る病を祈っておりました。臼井の町の伝説では、おたつ様は昔|臼井竹若丸(うすいたけわかまる)という幼い殿様の乳母でありました。志津胤氏(しづのたねうじ)という者が臼井の城を攻め落した時に、おたつはかいがいしく若君を助けて遁(のが)れさせ、自分はこのあたりの沼の蘆原(あしはら)の中に隠れていました。追手の軍勢が少しも知らずに、沼の側を通り過ぎようとしたのに、あいにく咳が出たので見つかって、乳母のおたつは殺されてしまいました。それが恨みの種であるゆえに、死んで後までも咳をする子供を見ると、治してやらずにはおられぬのであろうと、土地の人たちも考えていたようであります。麦こがしは炒(い)り麦をはたいて作った粉であって、皆さんも御承知のとおり、食べるとよく咳が出るものであります。それを食べて今一度、咳の出る苦しさを思い出して下さいというつもりであったと見えて、近頃では焼き蕃椒(とうがらし)を供える人さえあるという話でありました。それからお茶を添えるのは、こがしにむせた時に茶を飲むと、それで咳が鎮まるからであろうと思います。(利根川図誌等。千葉県|印旛(いんば)郡臼井町臼井)
しかし東京などの咳のおば様は、別にそういう来歴がなくても、やはり頼むと子供の百日咳を治してくれたといいますから、この伝説は後で出来たものかも知れません。築地の稲葉家の屋敷の咳の爺婆は、以前は小田原から箱根へ行く路の、風祭(かざまつり)というところの路傍にあったのを、江戸へ持って来たものだということであります。風外(ふうがい)という僧が、庵(いおり)を作ってそこに住み、後に出て行く時に残して置いたので、おおかた風外の父母の像であろうといいましたが(相中|襍志(ざっし))、親の像を残して去る者もないわけですから、やはりこれも道の神の二つ石であったろうかと思います。山の峠や橋の袂(たもと)、または風祭のように道路の両方から丘の迫ったところには、よく男女の石の神が祀ってありました。箱根から熱海(あたみ)の方へ越える日金(ひがね)の頂上などにも、おそろしい顔をした石の像が二つあって、その一つを閻魔(えんま)さま、その一つを三途河(そうずか)の婆様だといいました。路を行く人が銭を紙に包んで、わんと開いた口の中へ、入れて行く者もあるそうです。しかしそこではまだ咳の病を、祈るということは聞いていません。
浅草には今から四十年ほど前まで、姥(うば)が淵(ふち)という池が小さくなって残っていて、一つ家石の枕の物凄(ものすご)い昔話が、語り伝えられておりました。浅草の観音様が美しい少年に化けて、鬼婆の家に来て一夜の宿を借り、それを知らずに石の枕を石の槌(つち)で撃って、誤ってかわいい一人娘を殺してしまったので、悲しみのあまりに婆はこの池に身を投げて死んだ。姥が淵という名もそれから起ったなどといいましたが、この池でもやはり子供の咳の病を、祈ると必ず治ると信じていたそうであります。これは竹の筒に酒を入れて、岸の木の枝に掛けて供えると、まもなく全快したということですから、姥神も、もとはやはり子供をまもって下さる神であったのです。(江戸名所記)
何か必ずわけのあることと思いますが、姥神はたいてい水の畔(ほとり)に祀ってありました。それで臼井のおたつ様のように、水の中で死んだ女の霊が残っているというように、説明する話が多くなったのであります。静岡の市から少し東、東海道の松並木から四五十間北へはいったところにも、有名な一つの姥が池がありました。ここでは旅人が池の岸に来て「姥|甲斐(かい)ない」と大きな声で呼ぶと、忽(たちま)ち池の水が湧(わ)きあがるといっておりました。「甲斐ない」というのは、今日の言葉で、「だめだなあ」ということであります。それについていろいろの昔話が伝わっているようですが、やはりその中にも咳の病のことをいう者があります。駿国雑志(すんこくざっし)という書物に載せている話は、昔ある家の乳母が主人の子を抱いてこの池の傍(そば)に来た時に、その子供が咳をして大そう苦しがるので、水をくんで飲ませようと思って、下に置いてちょっと目を放すと、その間に子供は苦しみのあまり、転げて池に落ちて死んでしまった。乳母も親たちに申しわけがなくて、続いて身を投げて死んだ。それだから「姥甲斐ない」というとくやしがり、また願掛けをすると咳が治るのだというのであります。ところが、うばは金谷(かなや)長者という大家の乳人(めのと)で、若君の咳の病がなおるように、この家の傍の石の地蔵様に祈り、わが身を投げて主人の稚児の命に代った、それでその子の咳が治ったばかりか、後々いつまでもこの病にかかる者を、救うのであるといっているものもあります。伝説はもともとこういうふうに聴くたびに少しずつ話が変っているのが普通ですが、とにかくにこの池のそばには咳の姥神が祀ってあり、ある時代にはそれが石の地蔵様になっていたらしいのであります。そうして地蔵様も道の神で、また非常に子供のすきな御方でありました。(安倍郡誌。静岡県清水市入江町元追分)
姥神がもと子安様と同じ神で、常に子供の安全を守りたもう神であるならば、どうして後々は咳の病ばかりを、治して下さるということになったのであろうか、何かこれには思い違いがあったのではないかということを、考えて見ようとした人もありました。上総国の南の端に関という村があって、以前そこには高さ約五尺、周囲二十八尺ばかり、形は八角で上に穴のある石が二つありました。大昔この村に関所の門があって、これはその土台の石であるということで、土地の人は関のおば石と呼んでおりました。おば石は御場石と書くのがよいという者もありましたが、やはりほんとうは姥石であったようで、ちかごろ道普請のために二つある石の一方を取り除(の)けたところが、それから村内に悪いことばかりが続くので、また代りの石を見つけて南手の岡の上にすえて、これを姥神といって祀ることになりました。もとの地に残っている方の一つの石も、姥石だと思っている人が多いようであります。そうして他の地方にある神石と同様に、この百年ほどの間に重さが倍になったという説もありました。(上総町村誌。千葉県君津郡関村関)
咳のおば様は実は関の姥神であったのを、せきというところから人が咳の病ばかりに、祈るようになったのであろうという説を、行智法印(ぎょうちほういん)という江戸の学者が、もう百年余りも前に述べていますが(甲子夜話(かつしやわ)六十三)、この人は上総の関村に、おば石があることなどは知らなかったのであります。関の姥神はもちろん、上総と安房(あわ)との堺(さかい)ばかりにあったのではありません。一番有名なものは京都から近江(おうみ)へ越える逢阪(おうさか)の関に、百歳堂(ももとせどう)といってあったのも姥神らしいという話であります。後には関寺小町(せきでらこまち)といって、小野小町が年を取ってからここにいたという話があり、今の木像は短冊と筆とを手に持った老女の姿になっていますが、以前はこれももっとおそろしい顔をした石の像であり、その前はただの天然の石であったかも知れませぬ。せきはすなわち塞(せ)き留める意味で、道祖神のさえも同じことだ、と行智法印などはいっております。いかにも関東地方の道祖神には、石に男と女の像を彫刻したものが多く、姥石の方にも実は爺石と二つ並んだものが、もとはたくさんにあったのでありますが、人が婆様ばかりを大切にするようになって、二つの石はだんだん仲が悪くなりました。
これには閻魔さまの信仰が盛んになるにつれて、三途河の婆様の木像を方々のお寺に祭るようになったことが、一つの原因であったかも知れません。お寺ではこのこわい顔をした婆のことを、奪衣婆(だつえば)といっております。地獄の途中の三途河という川の岸に関をすえて、この世から行く悪い亡者(もうじゃ)の、衣類を剥(は)ぎ取るというので有名になっております。仏説地蔵菩薩発心因縁十王経(ぶっせつじぞうぼさつほっしんいんねんじゅうおうきょう)という日本でつくった御経に、この事が詳しく書いてありまして、それを見ると奪衣婆も決して後家ではないのです。懸衣翁(けんえおう)というのがその爺の方の名でありました。
「婆鬼は盗業を警(いまし)めて両手の指を折り、翁鬼は無義を悪(にく)んで頭足(ずそく)を一所に逼(せば)む」ともあって、両人は夫婦のように見えるのでありますが、木像は大抵婆の方ばかりを造ってありました。これにも深いわけがあるのですが、皆さんにはそんな話はつまらないでしょう。
とにかくにこの奪衣婆を拝むようになってから、姥神は多くは一人になり、またその顔が次第におそろしくなりました。江戸で関のおば様に豆炒りを上げるようになった頃から、市内の寺にも数十箇所の木像の婆様が出来、今でもまだそちこちで盆にはお詣(まい)りをする者があります。それからはやり病などの盛んな時に、こわい顔をした婆のはいって来るのを見たというような話が、だんだんに多くなったようであります。甘酒婆といって、甘酒はないかといいながらはいって来る婆が、疫病神だなどというひょうばんもよく行われました。可愛い子供をもつ親たちは、こういう場合には急いでどこかの婆神様にお詣りしました。関のおばさまが江戸でこのように評判になったのも、私はきっと質(たち)の悪い感冒の、はやった年などが始めであったろうと思っています。
それにしてもせきのおば様というような、古い名前が残っていながら、どうしてこんな石の婆の像のところへ、子供の病気を相談に行くのかは、もうわからなくなっていたようであります。三途河の婆様の三途河という言葉なども、やっぱり関ということでありました。三途河はにせものの十王経には葬頭河(そうずか)とも書いてありますが、そんな地名が仏教の方に前からあったわけでなく、そうずかは日本語でただ界(さかい)ということであったのを、後に誰かがこんなむつかしい字をあてはめたのであります。富士山その他の霊山の登り口または大きなお社に詣る路には、大抵はそういう場所があります。精進川(しょうじがわ)と書くのが最も普通で、実際そこには水の流れがあり、参詣(さんけい)の人はその水で身を潔(きよ)めたようですが、それが初めからの言葉の意味を、表したものであるかどうかはまだ確でありません。ただそこが神様の領分の堺(さかい)であるために、いよいよ厳重に身をつつしみ、また堺を守る神を拝んだようであります。昔の関の姥神は、おおかた連れ合の爺神と共に、ここで祀られた石の神であったろうと、私などは考えています。それを仏教の方に働いていた人たちが、持って行って地獄に行く路の、三瀬川(みつせがわ)の鬼婆にしたのであります。それだからこの世にある諸国のそうずかには、多くは奪衣婆の像を祀ってあるのであります。
日本本土で一番北の端にあるのは、奥州|外南部(そとなんぶ)の正津川(しょうづがわ)村の姥堂で、私も一度お参りをしたことがあります。東海道では尾張(おわり)の熱田(あつた)の町にある姥堂は、古くから有名なものでありました。これは熱田神宮の精進川に架けた御姥子(おんばこ)橋、一名さんだが橋の袂(たもと)にある御堂で、もとは一丈六尺の奪衣婆の木像が置いてあった為に、熱田神宮は御本地(ごほんじ)閻魔王宮だなどとおそれ多いことをいう者さえありましたが(紹巴(しょうは)富士見道記)、これは姥神のもとのお姿を、忘れてしまった人のいうことであります。十王経はうその御経でしたが、これに基づいて地獄の絵解きをする者が全国を旅行しており、それがまた婦人でありました為に、わずかな間に方々の御姥子様が、見るもおそろしい奪衣婆になってしまいました。以前はこれよりずっとやさしい顔であったことと思います。そうでなければわざわざ地獄からやって来て、活きた人間の子供のために、こんなに親切に心配をしてくれるはずはないからであります。
今でも三途河の婆様はこわい顔をしながら、子供たちの友人であります。盆の十六日には藪入りの少年が遊びに来ます。そればかりでなく、もっと小さな子供の為にも、頼まれると乳の心配をしたなどというのは、まったくの商売ちがいのように見えますが、それがかえって昔からの、姥神の役目であったのです。羽後(うご)の金沢の専光寺(せんこうじ)のばばさんは、寺では三途河の姥だといっていますが、乳の少い母親が願掛けをすると、必ずたくさんに出るようになるといいます。この像は昔専光寺の開山|蓮開上人(れんかいしょうにん)の夢に一人の女が現れて、われは小野寺の別当林の洞穴(ほらあな)の中に、自分の像と大日如来の像とを彫刻して置いた。早く持って来て祭るがよいと教えてくれた。さっそく行って見るとその通りの二つの像があったので、迎えて来たといい伝えています。雄勝(おかち)の小野寺は芍薬(しゃくやく)の名所で、小野小町を祀ったという寺がありますから、そこから迎えて来た木像ならば、たとえ小町ほどに美しくはなくても、まさか鬼見たようではなかったろうと思います。(秋田県案内。秋田県|仙北(せんぼく)郡金沢町荒町)
荘内(しょうない)大泉村の天王寺のしょうずかの姥も、乳不足の婦人が祈願すれば乳を増すといって、多くの信者がありました。これも至って古い作の木像だそうですから、後に名前だけが改まったものであろうと思います。(三郡雑記。山形県西田川郡大泉村下清水)
遠州|見付(みつけ)の大地蔵堂の内にある奪衣婆の像は、新しいものだろうと思いますが、ここでも子供の無事成長を祈る人が多く、そのお礼には子供の草履を上げました。新に願掛けをする者は、その草履一足を借りて行き、お礼参りの時にはそれを二足にして納めるので、いつも地蔵堂の中は、子供の草履で一杯であったといいます。(見付次第。静岡県|磐田(いわた)郡見付町)
それから上州の高崎市には、大師石という一つの霊石があって、その附近には弘法(こうぼう)大師の作と称する石像の婆様があり、これをしょうずかの婆石といっておりました。これには咳をわずらう人が祈願をして、しるしがあればやはり麦こがしを持って来て供えたということであります。(高崎志。群馬県高崎市赤坂町)
越後では長岡の長福寺という寺に、古い十王堂があって閻魔様を祀っていましたが、ここでは米の炒り粉を供えて咳の病を祈ると、立ちどころに全快するということで、咳の十王といえば誰知らぬ者もなかったそうです。閻魔に米のこがしを上げるのは珍しい話ですが、ことによるともとは見付の地蔵堂の草履のように、同居をしていたもとの姥様のおつきあいであったかも知れません。閻魔と地蔵とは同じ一つの神の、両面であるといった人もあります。もしそうだったら地蔵は子供の世話役ですから、わざわざこわい顔をした婆さんに頼む必要はないのですが、以前はこれがわれわれの子安神であった上に、いつも御堂の端の方に出ていて、参詣人の目につき易いところから、子供やその母親の願いごとは、やはりその婆様の取り次ぎを頼む方が、便利であったものと思われます。実際また人間の方でも、地蔵や閻魔の祭りに加わった者は、つい近い頃まで総て皆婦人でありました。それが子安姥神の三途河の婆になって後も、永くもてはやされていた一つの原因であろうと思います。 
驚き清水(しみず) 

 

乳母が大切な主人の子を水の中に落して、自分も申しわけのために身を投じて死んだという話は、駿河(するが)の姥(うば)が池の他にもまだ方々にあります。これだけならばほんとうにあったことかと思われますが、なおその外にもこれによく似た不思議話があるので、それが伝説であることが知れるのであります。
越後の蓮華寺(れんげじ)村の姨(おば)が井という古井戸などもその一つで、そこでも人が井戸の傍(そば)に近よって、大きな声でおばと呼ぶと、忽(たちま)ち井戸の底からしきりに泡(あわ)が浮んで来て、ちょうどその声に答えるようであるといいました。或(あるい)はこれを疑う者が、かりにあにと呼び、またはいもうとと呼んで見ても、まるで知らぬ顔をしてすこしも泡が立たなかったということであります。(温故之栞(おんこのしおり)十四。新潟県三島郡大津村蓮華寺字仏ノ入)
すなわち死んでもう久しくなった後まで、姨の霊が水の中に留(とどま)っていると考えさせられた人が多かったのであります。同じ国の曽地(そじ)峠というところには、またおまんが井というのがありました。これも傍に立っておまんおまんと呼ぶと、きっと水の面に小波(さざなみ)が起ったといいます。おまんはこの近くに住んでいた某(なにがし)という武士(さむらい)の女房でありました。夫に憎まれて、殺されてこの井戸に投げ込まれたゆえに、いつまでもそのうらみが水の中に残っているのだということであります。(高木氏の日本伝説集。新潟県|刈羽(かりわ)郡|中通(なかどおり)村曽地)
これとよく似た伝説は、上州伊勢崎の近くの書上原(かきあげはら)というところにもありました。それは阿満(あま)が池という小さな池があって、その岸に立って人があまと呼ぶと、清水がすぐにその声に答えて下から湧(わ)き上り、「しばしば呼べばしばしば出づ」といっております。(伊勢崎風土記。群馬県|佐波(さわ)郡|殖蓮(うえはす)村上植木)
あまもおまんもまた姨が井のおばも、その声がまことに近いのは、何か理由があることかも知れません。駿河の姥が池でも人がうばと呼べば湧き上り、姥甲斐なしといえばいよいよ高く泡を吹いて、水を動かしたという話であります。清水の湧き出る池や井戸では、永くじっとみていると泡が上り、また周りの柔かい土を踏むと、水が動くこともあるかと思いますが、ただ大きな声で呼ぶと呼ばぬとで、湧いたり止ったりすることがあるというのは奇妙です。しかしこれも早くから評判になっていて、人が特別に注意するために、こういうことがわかったのかも知れません。
同じような不思議は実はまだ方々にありました。それを少しばかりお話して見ましょう。
摂津(せっつ)有馬(ありま)の温泉には、人が近くへ寄って大声で悪口をいうと、忽ち湧き上るという小さな湯口があって、これを後妻湯(うわなりのゆ)と呼んでおりました。うわなりという言葉は後妻のことですが、後に女の喧嘩(けんか)のことをいうようになってからは、別に悪口をする者はなくても、若い娘などが美しく化粧をして湯の傍に行くと、すぐに怒って湧き立つという評判になり、それを妬(ねた)みの湯という人もありました。これなどはよほど姥が池の話と似ております。(摂津名所図会。兵庫県有馬郡有馬町)
野州(やしゅう)の那須の温泉でも、もとは湯本から三町ばかり離れて、教伝(きょうでん)地獄というところがありました。人がそこへ行って、「教伝甲斐ない」と大きな声でどなると、たちまちぐらぐらと湯が湧いたといいます。昔教伝という男は山へ薪(たきぎ)を採りに行く時に、朝飯が遅くなって友だちが先に行くのに腹を立てて、母親を踏み倒して出かけたので、其(その)罰でその魂がいつまでも、こんなところにいるのだという話もありました。(因果物語。栃木県那須郡那須村湯本)
伊豆の熱海にはまた平左衛門湯(へいざえもんゆ)というのがあって、「平左衛門甲斐ない」とからかうと湯が湧くといい、旅の人がそれを面白がるので、村の子供たちが銭をもらって、呼ばって見せたということであります。それが多分今の間歇泉(かんけつせん)のことであろうと思いますが、前にはその東に清左衛門湯、一名|法斎湯(ほうさいゆ)というのもあって、そこでも大声に念仏を唱えて暫(しばら)く見ていると、高く湯が湧き上るといっておりました。法斎も人の名のように聞えますが、実は法斎念仏という踊りの念仏のことで、それだから法斎念仏川とも呼んでおりました。念仏でなくとも、高声に何か物をいえば湧くのだといった人もありますが、だまって見ていても自然に湧き上ったのかも知れません。(広益俗説弁遺篇其他。静岡県|田方(たがた)郡熱海町)
温泉ではなくとも、念仏を唱えると水がわくという池は方々にありました。京都の西の友岡村では、百姓太右衛門という人の屋敷の後に、いつもは水がなくて、岸に立って念仏を申すと、忽ち湧き出すという池があって、それで念仏池といっておりました。近頃はどうなったか、私はまだ行って見たことがありません。(緘石録。京都府|乙訓(おとくに)郡新神足村友岡)
美濃(みの)の谷汲(たにぐみ)の念仏池は、三十三所の観音の霊場である為に、はやくから有名でありました。池には小さな橋が架かっていて、これを念仏橋といい、橋の下には石塔が一つあり、橋からその石塔に向って念仏を唱えると、水面に珠の如く沸々と泡が立つ。しずかに唱えればしずかに立ち、責め念仏といって急いで唱えると、泡もこれに応じてたくさんに浮んだという話であります。(諸国里人談。岐阜県|揖斐(いび)郡谷汲村)
この県には今一つ、伊自良(いしら)の念仏池というのがありました。やはり同じ伝統があったのかと思います。少し甘味があるというくらい良い清水で、皮膚病の人などはこの水を汲んで塗ると、すぐに治るとまでいっておりました。(稿本美濃誌。岐阜県山県郡上伊自良村)
上総の八重原(やえはら)という村でも小学校の裏手に、念仏池というのが今でもあるそうです。これは泡ではなく池の畔(ほとり)に立って念仏を唱えて見ていると、水の底から忽ち清い砂を吹き出すというのは、やはり清水がわいているのであります。(伝説叢書上総の巻。千葉県君津郡八重原村)
これとちょうど正反対の例は、陸前の岩出山(いわでやま)の近く、うとう阪という阪の脇にありました。いつも湧き上って底から砂を吹いていますが、人がその側に近づいて南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)を唱えて手を打てば、暫くの間は湧き上ることが止(や)むというのです。そのくせ泉の名を驚きの清水と呼んでおりました。(撫子日記。宮城県|玉造(たまつくり)郡岩出山町)
驚きの清水というのは、普通の池や泉とちがって、人のような感覚をもった活きた水ということであったようです。豊後(ぶんご)風土記という千年あまりも前の書物にも、そんな話が書いてあります。たぶん今の別府(べっぷ)の温泉の近くでありましょうが、玖倍利(くべり)湯の井という温泉は、いつも黒い泥が一ぱいになって湯は流れないが、人がこっそりと湯口の傍に近より、ふいに大きな声を出して何かいうと、驚き鳴って二丈あまりも湧きあがるといっているのであります。それが後になると念仏の話ばかり多くなったのは、つまり念仏が非常にはやったからであると思います。この国でも田野の千町牟田(せんちょうむた)には、朝日長者の屋敷跡というところがあって、そこには念仏水という小さな池がありました。人がその岸に立って南無阿弥陀仏を唱えると、水もこれに応じて泡を立て、ぶつぶつといったという話が残っています。(豊薩(ほうさつ)軍記。大分県|玖珠(くす)郡飯田村田野)
それからこの県の東の沖にある姫島という島では、拍子水(ひょうしみず)と名づけて、手を叩けばその響きに応じて、迸(ほとばし)り流れるという泉があって、これを姫島の七不思議の一つに算(かぞ)えておりました。この島の神様|赤水(あかみず)明神は姫神でした。この水を掬(く)んで歯をお染めになろうとすると水の色が赤錆(あかさび)色であったので、また銕漿水(おはぐろみず)という名前もありました。お社はその泉の前の岩の上にあり、御神体は筆を手に持って、歯を染めようとする女の御姿(みすがた)でありました。不思議なことにはただ手拍子につれて水が湧くというばかりでなく、胃腸の悪い人はこの水を飲むと治り、また皮膚病にも塗れば治ったということは、美濃の伊自良の念仏池などと同じでありました。(日女島(ひめじま)考等。大分県東|国東(くにさき)郡姫島村)
支那にもこれとよく似た泉が方々にあったそうで、土地によっていろいろの名をつけております。あるところでは咄泉(とつせん)といっておりました。どなると湧き出す清水ということであります。あるところでは笑泉(しょうせん)。人が笑い声を出すと水が急に湧いたというので、すなわち驚きの清水も同じ意味であります。喜客泉は、人が来ると喜んでわく清水、撫掌泉(ぶしょうせん)といったのは、手を打つとその声に応じて流れるという意味でありました。日本でもぜひ念仏を唱えなければ、湧き出さぬというわけでもなかったのであります。実地に行って見ないと確なことは知れませんが、大抵は周囲の土が柔かで、足踏みの力が水に響いたのではないかと思います。常陸(ひたち)の青柳(あおやぎ)という村の近くには、泉の杜(もり)というお社があって、そこの清水も人馬の足音を聞けば、湧き返ること煮え湯のようであるといい、それで活き水と呼び、また出水川(いずみがわ)三日(みか)の原はここだともいう人がありました。(広益俗説弁遺篇。茨城県|那珂(なか)郡柳河村青柳)
甲州|佐久(さく)神社の七釜(ななかま)の御手洗(みたらし)という清水なども、人がその傍を通ると水がたちまち湧きあがり、細かな砂が浮き乱れて、珍しい見物であるという話であります。ただ近くに行っただけですぐに湧くくらいですから、南無阿弥陀仏といったり、姥甲斐ないとでもいおうものなら、もちろん盛んに湧き上ることと思いますが、ここでは誰もそんなことをして見ようとはしなかっただけであります。(明治神社誌料。山梨県|東八代(ひがしやつしろ)郡富士見村河内)
昔の人たちは飲み水を見つけることが、今よりもずっと下手でありました。井戸を掘って地面の底の水を汲み上げることは、永い間知らなかったのであります。それだからわざわざ川や池に出かけたり、または筧(かけひ)というものを架けて、遠くから水を引いて来たので、あまり離れたところには家を建てて住むことが出来ませんでした。たまに思いがけない土地に泉を見出すと、喜んでそこに神様を祀り。それからおいおいにその周囲に村を作り、また旅人もそこを通って行きました。水がないので一番困ったのは旅の人でありますが、その中には水を見つけることが普通の人よりも上手な者があって、土地の様子を見て地下に水のあることを察し、井戸を掘ることを教えたのも、彼等であったろうということであります。諸国の山や野を自由にあるいていた行脚(あんぎゃ)の僧、ことに空也上人(くうやしょうにん)という人などが、多くの村々に良い泉を見立てて残して行ったということで、永く住民に感謝せられております。空也はわが国に念仏の教えを弘(ひろ)めた元祖の上人でありました。後の世にその道を慕う人たちは、いつでも美しい清水を汲むたびに、必ずこの上人の名を想い出しました。阿弥陀の井という古い井戸が各地に多いのは、多分その水のほとりにおいて、しばしば念仏の行をしたためであろうと思います。空也派の念仏は多くの人が集って来て、踊り狂いつつ合唱する念仏でありました。念仏池の不思議が土地の人に注意せられるようになったのも、それにはそれだけの原因があったのであります。しかしそれだけの原因からでは、他のいろいろな驚き清水、おまんが井や阿満が池の伝説は出て来なかったろうと思います。念仏の僧たちが諸国を行脚してあるくよりもなお以前から、水の恵みを大切に感じて、そこに神様を祭ってそのお力を敬うていたことが、むしろ念仏の信仰を泉のへんに引きつけたのかも知れません。そうしてその神様が、後に姥神の名をもって知られた子安の神であったことは、まだこれからお話して見ようと思う多くの伝説によって、おいおいにわかって来るのであります。 
大師講の由来 

 

伝説の上では、空也上人よりもなお弘く日本国中をあるき廻って、もっとたくさんの清い泉を、村々の住民のために見つけてやった御大師様という人がありました。大抵の土地ではその御大師様を、高野(こうや)の弘法大師のことだと思っていましたが、歴史の弘法大師は三十三の歳に、支那で仏法の修業をして帰って来てから、三十年の間に高野山を開き、むつかしい多くの書物を残し、また京都の人のために大切ないろいろの為事(しごと)をしていて、そう遠方まで旅行をすることの出来なかった人であります。こういうえらい方だから、亡くなったと見せてほんとうはいつまでも国々を巡って修業していられるのであろうと思っていた人も少くはなかったので、こんな伝説が弘く行われたのでもありましょう。高野の大師堂では、毎年四月二十一日の御衣(おころも)替えに、大師堂の御像の衣を替えて見ると、いつもその一年の間に衣の裾が切れ、泥に汚れていました。それが今でも人に知られずこっそりと、この大師がわれわれの村をあるいておられる証拠だなどという人もありました。
とにかくに伝説の弘法大師は、どんな田舎の村にでもよく出かけました。その記念として残っている不思議話は、どれもこれも皆似ていますが、中でも数の多いのは今まで水のなかった土地に、美しくまた豊なる清水を与えて行ったという話でありました。東日本の方は大抵は弘法井、または弘法池などといい、九州ではただ御大師様水と呼んでおります。もとは大師様とばかりいっていたのを、後に大師ならば弘法大師であろうと、思う者が多くなったのであります。あんまり同じような話がたくさんにあって、いくつも並べて見てもつまりませんから、私はただ飛び飛びに今知っている話だけを書いて置きます。皆さんも誰かに聞いて御覧なさい。きっと近くの村にこういういい伝えがあって、それにはいつでも女が出てきます。その女がほんとうは関の姥様(おばさま)であったのであります。
普通は飲み水の十分に得られないような土地に、こういう昔話が数多く伝わっています。人がいつまでも忘れられないよろこびの心を、起さずにはいられなかったからであろうと思います。石川県の能美(のみ)郡なども、村々に弘法清水があって、いずれも大師の来られなかった前の頃の、水の不自由を語っております。例えば粟津(あわづ)村|井(い)の口(くち)の弘法の池は、村の北の端にある共同井戸でありますが、昔ここにはまだ一つの泉もなかった頃に、ある老婆が米を洗う水を遠くから汲(く)んで来たところへ、ちょうど大師様が来合せて、喉(のど)が乾いたからその水を飲ませよといわれました。大切な水を惜しげもなくこころよくさし上げますと、そんなに水が不自由なら一つ井戸を授けようといって、旅の杖(つえ)を地面に突き立てると、忽(たちま)ちそこからいい水が流れ出して、この池になったといっております。鳥越(とりこし)村の釜清水(かましみず)という部落なども、釜池という清水が村の名になるほど、今では有名なものになっていますが、もとはやはり水がすくなくて、わざわざ手取(てとり)川まで汲みに行っておりました。土地の旧家の次郎左衛門という人の先祖の婆さまが、親切にその水を大師に進めたお礼に、家の前にこの池をこしらえて下されたのであります。それだから今でも池の岸には大師堂を建て、水の恩を感謝しているということであります。花阪(はなさか)という村にももとは良い水がなくて、ある家の老女が遠方から汲んで来たのを、大師様に飲ませました。そうするとまた杖をさして、ここを掘って見よといって行かれました。それが今日の花坂の弘法池であります。ところがその近くの打越(うちこし)という村では、今でも井戸がなくて毎日河へ水汲みに出かけます。これはまた昔その村の老婆が、大師様が水をほしいといわれた時に、腰巻を洗う水を勧めたその罰だと申します。湊(みなと)という村にも以前は二つまで弘法大師の清水があって、今ではその一つは手取川の堤の下になってしまいましたが、これも大師が杖のさきで、突き出した泉であるといっておりました。ところがその隣りの吉原という村には、そういう結構な井戸がないばかりでなく、今でも吉原の赤脛(あかすね)といって、村の人が股引(ももひき)をはくと病気になるといい伝えて、冬も赤い脚を出しているのは、やはりある姥が股引を洗濯していて、せっかく水を一ぱいくれといわれた弘法大師に、その洗い水を打ち掛けたからだといっております。良い姥、悪い姥の話は、まるで花咲爺、または舌切り雀などと同じようではありませんか。(以上みな能美郡誌)
それから能登(のと)の方では羽阪(はざか)という海岸の村では、昔弘法大師がこのへんを通って水を求められた時に、情なくも惜しんで上げなかったため、大師は腹を立てて一村の水をしまい込んでおしまいになったといって、今でもどこを掘って見ても水に銕気(かなけ)があって使うことが出来ず、仕方なしに食べ物には川の水を汲んで来るという話でありました。(能登国名跡志。石川県鹿島郡鳥尾村羽阪)
また羽咋(はくい)郡の末吉(すえよし)という村でも、水を惜しんで大師に与えなかったために、今に良い清水を得ることが出来ぬといっていますが、その近くの志加浦上野(しがうらうえの)という部落では親切にしたので、大師はそのお礼にそばの岩を指さすと、忽ちその岩の中から水が湧いたといっています。そして名産の志賀晒布(しがざらし)また能登縮(のとちぢみ)をこの水で晒(さら)して、いつまでもそのめぐみをうけているということであります。(郷土研究三編。石川県羽咋郡志加浦村上野)
若狭(わかさ)の関谷川原(せきやがわら)という所は、比治(ひじ)川の水筋がありながら、ふだんは水がなくして大雨の時にばかり、一ぱいになって渡ることの出来ない困った川でありました。これも昔この村の老女が一人、川に出て洗濯しているおりに、僧空海が行脚して来てのどがかわいたので、水でも貰いたいとこの老女にいわれたところが、この村には飲み水がありませんと、すげなく断りました。それを非常に立腹して唱えごとをしてから川の水をことごとく地の下を流れて行くことになって、村ではなんの役にも立たぬ川になってしまったのだそうです。(若狭郡県志。福井県|大飯(おおい)郡|青(あお)郷(ごう)村関屋)
近江の湖水の北にある今市(いまいち)という村でも、村には共同の井戸が一つあるだけで、それがまたすぐれて良い水でありました。これも弘法大師が諸国を歩きまわって、ちょうどこの村に来て一人の若い娘に出逢い、水が飲みたいといわれました。すると親切に遠いところへ汲みにいって、久しい間大師を待たせましたので、大師がそのわけを聴いて気の毒に思い、持っていた杖でそこいらの岩の間を突かれると、すなわち清水が湧き出たのがこの井戸であるといいます。(郷土研究二編。滋賀県|伊香(いか)郡片岡村今市)
伊勢の仁田(にた)村では井戸世古(いどせこ)の二つ井といって、一つは濁って洗濯にしか使われず、その隣りの井戸はまことによい水でありました。やはり老いたる女が洗濯をしているところへ、弘法大師が来て水を求めた時に、その水は悪いからといって、わざわざたいへん遠いところまで行って汲んで来てくれましたので、大師がそれは困るだろうといって、杖を濁り井のすぐ脇の地面に※[「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている](さ)すと、そこからこのような清い泉が湧き出たというのであります。(伊勢名勝誌。三重県|多気(たき)郡|佐奈(さな)村仁田)
紀州は弘法大師の永くおられた国だけに、幾つかの名水が大抵はこの大師のお蔭ということになっています。日高(ひだか)郡ばかりでも弘法井は南部(みなべ)の東吉田(ひがしよしだ)、上南部の熊岡、東内原(ひがしうちはら)の原谷(はらたに)にもあり、西内原の池田の大師堂の近くにもありました。船津(ふなつ)の阪本の弘法井は、今でも路通る人が花を上げお賽銭(さいせん)を投げて行きます。高家(たかいえ)の水飲谷(みずのみだに)にあるのは、弘法大師が指先で穿(ほ)ったといって結構な水であります。南部の旧熊野街道の山路に、今一つある弘法井などは、親切な老婆が汲んで来た水が、千里の浜まで汲みにいったものだという話を聞いて、それはたいへんなことだといって、大師が錫杖(しゃくじょう)のさきで、穿って下さった井戸だといっております。(以上みな南紀土俗資料)
伊都(いと)郡の野村という所などは、弘法大師が杖で突いてから涌(わ)き出したと伝わって、幅五尺ほどの泉が二十五間もある岸の上から落ちて、広い区域の田地を潤しています。話は残っているかどうか知りませぬが、それを今でも姥滝というのであります。杖(つえ)が藪(やぶ)という村にも大師が杖で穿ったという加持水(かじすい)の井戸があって、その杖を投げて置かれたら、それが成長して藪になったといい、村の名までがそれから出ているのであります。(紀伊続風土記。和歌山県伊都郡高野村杖ヶ藪)
こんな話は幾らでもありますから、もういいかげんにして置きましょう。四国などは大師の八十八箇所もあるくらいですから、この突きさした杖に根が生えて、だんだん成長したのだという大木の数だけでも、数え切れないほどたくさんにあり、悪い婆さんと善い婆さんとが、たった一杯の水を惜しんだか与えたかによって、片方はいつまでも井戸の水が赤くて飲まれず、他の片方はこんな良い水を大師様に貰ったという伝説が、もう昔話のようになって多くの村の子供に語り伝えられております。
杖の清水の話の中でも、殊に有名なものは、阿波(あわ)では下分上山(しもぶんかみやま)の柳水(やなぎみず)、この村にはもとは水がなかったのを、大師がその杖で岩を突き、そこから清水が流れ出るようになりました。杖は柳の木で、永くその泉の傍に青々と茂っていたそうであります。(阿州奇事雑話。徳島県|名西(みょうざい)郡下分上山村)
伊予では高井(たかい)の西林寺(せいりんじ)の杖の淵(ふち)。この村にも昔は水がなかったのですが、大師が来て杖を地に立ててから、淵になるまでの立派な泉が涌き出したのだそうです。しかしその杖は今ではもうないので、竹であったか柳であったかわからなくなってしまいました。(伊予温故録。愛媛県温泉郡久米村高井)
どうして旅の僧が行く先々に、杖を立ててあるくのかということを、私はいろいろに考えて見ましたが、池や泉と関係のないことははぶいて置きます。九州の南の方では性空上人(しょうくうしょうにん)、越後の七不思議の話では親鸞(しんらん)上人、甲州の御嶽(みたけ)の社の近くには日蓮上人などが、竹の杖を立ててそれが成長したことになっていますが、水が湧き出した話には、どうも大師様が多いようであります。東京の附近では入間(いるま)郡の三つ井という所に、弘法大師が来られた時には、気立てのやさしい村の女が、機を織っていたそうであります。水がほしいといわれるので、機から下りて遠いところまで汲みに行きました。それは定めて不自由なことであろうと、さっそく杖をさして出るようにして下さったという清水が、今でも流れて土地の名前にまでなっております。(新篇|武蔵(むさし)風土記稿。埼玉県入間郡所沢町上新井字三つ井)
女が機を織っていたという話も、何か特別のわけがあって、昔から語っていたことのようであります。大師の井戸の一番北の方にあるのは、今わかっているものでは山形県の吉川という所で、ここまで伝説の弘法大師は行っておられるのであります。その昔大師が湯殿山(ゆどのさん)を開きに来られた時に、喉(のど)が乾いてこの村のある百姓の家にはいって、水を飲ませてくれと申されますと、女房がひどい女で、米の磨(と)ぎ汁を出しました。それを大師はだまって飲んで行かれたが、あとで女房の顔が馬になってしまった。それからまた二三町も過ぎたところのある家では女房は機を織っていました。ここでも水がほしいといわれますと、いやな顔もせずに機から下りて、遠いところまで汲みに行ってくれました。大師は喜んでこの村には良い水がないと見える。一つ掘ってやろうといって、例の杖をもって地面に穴をほりますと、こんこんとして清水が湧きました。それが今もある大師の井戸だというのであります。(郷土研究一編。山形県西村山郡川土居村吉川)
ここでまず最初に、われわれが考えて見なければならぬのは、それがほんとうに弘法大師の僧空海であったろうかということであります。広い日本国中をこの通りよく歩き廻り、どこでも同じような不思議を残して行くことは、とても人間わざでは出来ぬ話でありますが、それを神様だといわずに、なるべく誰か昔の偉い人のしたことのように、われわれは考えて見ようとしたのであります。それには弘法大師が最もその人だと、想像し易かっただけではないでしょうか。温泉の方にも杖で掘り出したという伝説が少しはあります。上州の奥にある川場(かわば)の温泉なども、昔弘法様が来てある民家に一泊したときに、足を洗う湯がないので困っていると、さっそく杖をその家の入り口にさして、出して下されたのがこの湯であるといい伝えております。それだからこの温泉は脚気(かっけ)によくきくのだと土地の人はいい、またその湯坪の片脇に、今でも石の小さな大師様の像を立てて、拝んでいるのだということであります。(郷土研究一編。群馬県|利根(とね)郡川場村川場湯原)
ところが摂津(せっつ)の有馬(ありま)の湯の山では、豊臣秀吉がやはり杖をもって温泉を出したという話になっております。太閤(たいこう)が有馬に遊びに来た時に、清涼院(せいりょういん)というお寺の門の前を通ってじょうだん半分に杖をもって地面の上を叩き、ここからも湯が湧けばよい。そうすれば来てはいるのにといいますと、たちまちその足もとから、温泉が出たといいます。それでその温泉の名を上の湯、一名願いの湯とも呼んでおりましたが、後にはその名ばかり残って、温泉は出なくなってしまいました。(摂陽郡談八)
太閤様は思うことがなんでも叶(かな)った人だから、そういうこともあったか知れぬと、考えた者はずいぶんありました。ぜひとも弘法大師でなくてはならぬというわけでもなかったのであります。尾張(おわり)の生路(いくじ)という村には、あるお寺の下に綺麗(きれい)な清水があって、これも大師の掘った井戸だと、土地の人たちはいっておりましたが、それが最初からのいい伝えでなかったことは明かになりました。四百年ばかり前に、ある学者がこの寺に頼まれて書いた文章には、大昔|日本武尊(やまとたけるのみこと)が、ここに来て狩りをなされ、渇きをお覚えなされたが水がないので、弓※[弓+悄のつくり](ゆはず)をもって岩をおさしになると清い泉が湧いた。それがこの井戸であると誌しております。近頃はもう水も出なくなりましたが、以前は村の者が非常に尊敬していた井戸で、穢(けが)れのあるものがもしこれを汲もうとすると、俄(にわか)に水の色が濁ってしまうとまで信じていたそうであります。(張州府志。愛知県知多郡東浦村生路)
これと同じような伝説は、他の地方に数多くありまして、ただ関係した人の名が違っているばかりであります。関東などで一番多くいうのは、八幡(はちまん)太郎|義家(よしいえ)であります。軍(いくさ)の半(なかば)に水が得られないので、神に念じ、弓をもって岩に突き、また矢を土の上にさすと、それから泉が流れて士卒ことごとく渇を癒(い)やした。よってこれを神水として感謝のため神の御社を建てて永く祀(まつ)ったといって、その神も多くは八幡様であります。小高い所から泉の湧く場合には、大抵は土が早く流れて岩が現れて来ますので、一そう普通の人間の力では、見出すことが出来なかったように想像する者が多くなったことなのかと思います。すなわちこの石清水(いわしみず)八幡の伝説なども、後になるほどだんだんに数が多くなったわけでありますが、それがお社も何もない里の中や道の傍、または人家の間に挾(はさ)まってしまうと、話はどうしても杖を持った行脚の旅僧という方へ、持って行かれやすかったようであります。
それからまた他のいろいろの天然の不思議を、あれもこれも同じ弘法大師の仕事のように、説明するふうが盛んになりました。その中でも最も人のよく知っている例に、石芋(いしいも)といって葉は全く里芋の如く、その根は硬くて食べることの出来ない植物、または食わず梨(なし)といって、味も何もない梨の実などであります。いずれもその昔一人の旅僧がそこを通って、一つくれぬかと所望したのを、物惜しみの主人が嘘をついて、これは硬くてだめですとか、または渋くて上げられませんとかいった。そうかといって旅僧は行ってしまったが、後で聞くとそれが大師様であった。その芋また梨はそれから以後硬くまた渋くなってしまって、食べることが出来なくなったなどというのであります。伝説の弘法大師は全体に少し怒り過ぎ、また喜び過ぎたようであります。そうして仏法の教化とは関係なく、いつもわれわれの常の生活について、善い事も悪い事も共に細かく世話を焼いています。杖立て清水をもって百姓の難儀を救うまではよいが、怒って井戸の水を赤錆(あかさび)にして行ったり、芋や果物を食べられぬようにしたというなどは、こういう人たちには似合わぬ仕業であります。ところが日本の古風な考え方では、人間の幸不幸は神様に対するわれわれの行いの、正しいか正しくないかによって定まるように思っていました。その考え方が、今でも新しい問題について、おりおりは現れて来るのであります。だから私などは、これを弘法大師の話にしたのは、何かの間違いではなかろうかと思うのであります。
そのことは今に皆さんが自分で考えて見るとして、もう少し珍しい伝説の例を挙げて置きましょう。石芋、食わず梨とちょうど反対の話に、煮栗焼き栗というのが方々の土地にあります。これも今では弘法大師の力で、一旦煮たり焼いたりした栗の実が、再び芽を吹いて木になったといって、盛んに実がなっているのであります。越後の上野原(うえのはら)などにある焼き栗は、親鸞上人の逸話になっていますが、やはりある信心の老女がさし上げた焼き栗を、試みに土に埋めて、もし私の教えが後の世で繁昌をするならば、この焼き栗も芽を出すであろうといって行かれた。そうすると果してその言葉の通り、それが成長して大きな栗林となり、しかも三度栗といって一年に三度ずつ、実を結ぶようになったというのであります。どうしてこのような話が出来たかというと、この一種の柴栗が他のものよりはずっと色が黒くて、火に焦げたように見えるからでありますが、京都の南の方のある在所では、やはり同じ話があって、これは天武天皇の御事蹟だというのであります。天武天皇が一時|芳野(よしの)の山にお入りになる時、この村でお休みなされると、煮た栗を献上したものがあった。もう一度帰って来るようであれば、この煮た栗も芽を吹くといって、お植えになった実が大木になって栄えたということで、その種が永く伝わっております。或(あるい)はまた春日(かすが)の明神が初めて大和にお移りになったときに、お付きの神主が煮栗の実を播(ま)いたともいう者もあります。こういうように話はぜひとも弘法大師でなければならぬというわけでもなかったのであります。
それからまた片身の魚、片目の鮒(ふな)などという話もあります。焼いて食べようとしているところへ大師がやって来て、それを私にくれといって、乞い受けて小池へ放した。それから以後その池にいる鮒は、一方だけ黒く焼け焦げたようになっている。または片目がない、もしくは片側がそいだように薄くなっているというのです。動物学の方から見て、そんな魚類があるものとも思われませんが、とにかくに片目の魚が住むという池は非常に多く、それがことごとく神の社、または古い御堂の傍にある池であります。池と大師とは、またこういう方面においても関係があるのであります。
或はまた衣掛(きぬか)け岩、羽衣(はごろも)の松という伝説もあります。これも水の辺(ほとり)で、珍しい形の岩や大木のある場合に、不思議な神の衣が掛かっていたことがあるというので、普通には気高い御姫様などの話になっているのですが、それがまたいつの間にか、弘法大師と入り代っているところもあるのです。備前の海岸の間口(まぐち)という湾の端には、船で通る人のよく知っている裳掛(もか)け岩という大岩があります。これなども飛鳥井姫(あすかいひめ)という美しい上※[「藹」の「言」に代えて「月」](じょうろう)の着物が、遠くから飛んで来て引っ掛かったといういい伝えもあるのですが、土地の人たちは、またこんな風にもいっている。昔大師が間口の部落へ来て、法衣を乾かしたいから物干しの竿(さお)を貸してくれぬかといわれた。竿はありませんと村の者がすげなく断ったので、大師もしかたなしにこの岩の上に、ぬれた衣を掛けてお干しなされたというのであります。おおかたこれも一人の不親切な女の、後で罰が当った話であったろうと思います。(邑久(おおく)郡誌。岡山県邑久郡裳掛村福谷)
安房(あわ)の青木という村には、弘法大師の芋井戸というのがあります。井戸の底に芋のような葉をした植物が、青々と茂っています。昔大師がこの村のある老婆の家に来て、芋をくれないかと所望したのを、老婆が物惜しみをしてこの芋は石芋ですと嘘をいった。そうすると忽ち家の芋が皆石のように堅くなり、食べることが出来ぬから戸の外に棄てると、そこから水が湧き出してこの井戸になったというのは、きっと二つの話の混合で、芋では罰を受けたが、井戸は土地一番の清水でありました。伝説はこういうふうに半分欠けたり、また継ぎ合せて一つになったりするものであります。(安房志。千葉県安房郡白浜村青木)
会津(あいづ)の大塩(おおしお)という村では山の中の泉を汲んで、近い頃まではそれを釜で煮て塩を製していました。こういう奥山に塩の井が出るというのは、土地の人たちにも不思議なことでした。それでやはり弘法大師がやって来て、貴い術をもって潮を呼んで下されたといっていますが、これにはまたどういう女があって関係したものか、今ではもう忘れてしまった者が多いようであります。(半日閑話。福島県|耶麻(やま)郡大塩村)
ところが安房の方では神余(かなまり)の畑中(はたなか)という部落に、川の流れから塩の井の湧くところがあって、今でもその由来を伝えています。その昔|金丸(かなまる)氏の家臣|杉浦吉之丞(すぎうらきちのじょう)の後家|美和女(みわじょ)、施しを好み心掛けのやさしい婦人でありました。大同三年の十一月二十四日に、一人の旅僧が来て食を求めたので、ちょうどこしらえてあった小豆粥(あずきがゆ)を与えると、その粥には塩気がないから、旅僧は不審に思いました。うちが貧乏で塩を買うことが出来ぬというのを聴いて、それはお気の毒だと川の岸に下りて、手に持つ錫杖を突きさして暫(しばら)く祈念し、やがてそれを抜くと、その穴から水が迸(ほとばし)って、女の顔のところまで飛び上りました。嘗(な)めて見るとそれが真塩(ましお)であり、その僧は弘法大師であったと、古い記録にも書いてあるそうです。(安房志。千葉県安房郡豊房村神余)
いくら記録には書いてあっても、これが歴史でないことは誰にでもわかります。弘法の旅行をしそうな大同三年頃には、まだ金丸家も杉浦氏もなかったのであります。それよりも皆さんにお話したいことは、十一月二十四日の前の晩は、今でも関東地方の村々でお大師講といって、小豆の粥を煮てお祭りをする日だということであります。天台宗のお寺などでは、この日がちょうど天台|智者(ちしゃ)大師の忌日に当るために、そのつもりで大師講を営んでいますが、他の多くの田舎では、これも弘法大師だと思っているのであります。智者大師はその名を智※[凱のへん+頁](ちぎ)といって、今から千三百四十年ほど前に亡くなった支那の高僧で、生きているうちには一度も日本へは来たことのなかった人であります。また弘法大師の方はこの十一月二十三日の晩と、少しも関係がなかった人でありますが、どこの村でもこの一夜に限って、大師様が必ず家から家を巡ってあるかれると信じて、このお祭りをしていたのであります。
旧暦では十一月末の頃は、もうかなり寒くなります。信州や越後ではそろそろ雪が降りますが、この二十三日の晩はたとえ少しでも必ず降るものだといって、それをでんぼ隠しの雪といいます。そうしてこれにもやはりお婆さんの話がついておりました。信州などの方言では、でんぼとは足の指なしのことであります。昔信心深くて貧乏な老女が、何かお大師様に差し上げたい一心から、人の畠にはいって芋や大根を盗んで来た。その婆さんがでんぼであって、足跡を残せば誰にでも見つかるので、あんまりかわいそうだといって、大師が雪を降らせて隠して下さった。その雪が今でも降るのだという者があります(南安曇(みなみあずみ)郡誌その他)。しかしこの話なども後になって、少しばかり間違ったのではないかと思う点があります。信州ではこの晩に食物を供えるお箸(はし)は、葦(あし)の茎をもって必ず一本は長く、一本は短く作ることになっています。これもでんぼ隠しの記念であって、その婆さんはでんぼで且(か)つ跛(ちんば)であったからという人もあるが、所によっては大師様自身が生れつき跛で、それでこの晩村々をまわってあるかれるのに、雪が降るとその足跡が隠れてちょうどよいと喜ばれるといい、「でえしでんぼの跡隠し」という諺(ことわざ)もあるそうです(小谷口碑集)。越後の方でも古くから大師講の小豆粥には、栗の枝でこしらえた長し短しのお箸をつけて供えました。耳の遠い者がその箸を耳の穴に当てると、よく聴えるなどともいいました。それからこの晩雪が降ると跡隠しの雪といって、大師が里から里へあるかれる御足の跡を、人に見せぬように隠すのだといい伝えておりました。(越後風俗問状答)
そうするとだんだんに大師が、弘法大師でも智者大師でもなかったことがわかって来ます。今でも山の神様は片足神であるように、思っていた人は日本には多いのであります。それで大きな草履を片方だけ造って、山の神様に上げる風習などもありました。冬のま中に山から里へ、おりおりは下りて来られることもあるといって、雪は却(かえ)ってその足跡を見せたものでありました。後に仏教がはいってからこれを信ずる者が少くなり、ただ子供たちのおそろしがる神になった末に、だんだんにおちぶれてお化けの中に算えられるようになりましたが、もとはギリシャやスカンジナビヤの、古い尊い神々も同じように、われわれの山の神も足一つで、また眼一つであったのであります。それとこれとは関係はないかも知れませんが、とにかく十一月二十三日の晩に国中の村々を巡り、小豆の粥をもって祭られていたのは、だだの人間の偉い人ではなかったのであります。それをわれわれの口の言葉で、ただだいし様と呼んでいたのを、文字を知る人たちが弘法大師かと思っただけであります。
だいしはもし漢字を宛てるならば、大子と書くのが正しいのであろうと思います。もとはおおごといって大きな子、すなわち長男という意味でありましたが、漢字の音で呼ぶようになってからは、だんだんに神と尊い方のお子様の他には使わぬことになり、それも後にはたいしといって、殆ど聖徳太子ばかりをさすようになってしまいました。そういう古い言葉がまだ田舎には残っていたために、いつとなく仏教の大師と紛れることになったのですが、もともと神様のお子ということですから、気をつけて見ると大師らしくない話ばかり多いのであります。信州でもずっと南の方の、竜丘(たつおか)村の琴が原というところには、浄元大姉(じょうげんだいし)といって足の悪い神様を祀っております。その御遺跡を花の御所、後醍醐(ごだいご)天皇の御妹であったなとどいう説さえありますが、これもまただいしと姥の神とを、拝んでいたのが始めのようであります。この大子も路で足を痛めて難儀をなされたので、永く土地の者の足の病を治してやろうと仰せられたといって、今でも信心にお詣(まい)りする人があり、そのお礼には草鞋(わらじ)を片足だけ納めることになっています。そうしてこの地方にも、「ちんば山の神の片足草鞋」という諺があるそうであります。(伝説の下伊那(しもいな)。長野県下伊那郡竜丘村)
高く尊い天つ神の御子を、王子権現といい若宮児宮(わかみやちごのみや)などといって、村々に祀っている例はたくさんあります。また大工とか木挽(こびき)とかいう山の木に関係のある職業の人が、今でも御太子様といって拝んでいるのも、仏法の方の人などは聖徳太子にきめてしまっておりますが、最初はやはりただ神様の御子であったのかも知れません。古い日本の大きなお社でも、こういう若々しくまた貴い神様を祀っているものが方々にありました。そうしていつでも御身内の婦人が、必ずそのお側(そば)に附いておられるのであります。それから考えて見ますと、十一月二十三日の晩のおだいし講の老女なども、後には貧乏な賤(いや)しい家の者のようにいい出しましたけれでも、以前にはこれも神の御母、または御叔母というような、とにかく普通の村の人よりは、ずっとそのだいしに親しみの深い方であったのではないかと思います。それぐらいな変化は伝説には珍しくないのみならず、多くのお社や堂には脇侍(わきじ)ともいって、姥の木像が置いてあり、また関の姥様の話にもあるように、児と姥との霊を一しょに、井の上、池の岸に祀っているという、伝説も少くないのであります。
私は児童の守り神として、姥の神を拝むようになった原因も、大子が実は児の神のことであったとすれば、それでよくわかると思っています。姥はもと神の御子を大切に育てた故に、人間の方からも深い信用を受けたのであろうと思います。それについてはまた二つ三つの少し新しい伝説もあります。紀州|岩出(いわで)の疱瘡(ほうそう)神社というのは、以前は大西という旧家の支配で、守り札などもそこから出しておりました。その大西家で板にした縁起には、こういう話が書いてありました。ある年十一月の二十三日の晩に、白髪(しらが)の婆さまが一人訪ねて来て、一夜の宿を借りたいといった。うちは貧乏で何も上げるものがないというと、食事には用がない。ただ泊めて下さればよいといって、夜どおし囲炉裏の火の側に坐っていた。夜の明け方に清水を汲んで貰って、それを湯に沸かして静かに飲み、そうして出て行こうとして大西家の主人に向い、私はこの家の先祖と縁のある者だ。今またこうして親切に、宿をしてもらったのはありがたいと思うから、そのお礼にはこれからいつまでも、大西の子孫と名乗る者は疱瘡が軽く、長命をするように守ってやろうといって帰った。その跡を見送ると、ちょうど今のお社のあるところまで来て、愛染明王(あいぜんみょうおう)の姿を現じて行方知れずになったといってあります。種痘ということの始まるまでは、疱瘡はまことに子供たちの大敵でありました。それだから殊に疱瘡神をおそれ敬うていたのでありますが、この老女は実はそれであったらしいのです。愛染明王はもとは愛欲の神であったそうですが、愛という名からわが国では、特に小児の無事息災を祈っていました。それ故にお姿も若々しく、決して婆さまなどに化けて来られる神ではなかったのです。それを一つにしてこの大西家の先祖の人は、まぼろしに見たのであります。前から姥の神の後には児の神のあることを、知っていた為であろうと思います。(紀伊続風土記。和歌山県那賀郡岩出町備前)
伊勢の丹生(にう)村は古くから鉛の産地ですが、そこには名の聞えた鉱泉が一つあります。近頃ではいろいろの病気の者が入浴に来るようになりましたが、昔はただこの地方の女たちが、お産の前後に来て垢離(こり)を取り生れ子の安全をお祈りするところであった為に泉の名を子安の井といい、やはり弘法大師の加持水だという伝説をもっていました。戦国時代にはこの土地が荒れてしまって、井戸も半分は埋もれ、そういういい伝えを忘れた人が多くなり、近所の百姓たちがその水を普通の飲料に使う者もありましたが、そういう家ではどうも病人が多く、中には死に絶えてしまった家さえあったので、驚いて御鬮(みくじ)を引いて明神様の神意を伺ったそうです。実際は水に鉛の気があって、それで飲む者を害したのかも知れませんが、昔の人はそうは思わなかったのであります。それで御鬮の表には、子安井は産前産後の女のために、子育てを助け守りたもうべき深い思(おぼ)し召しのある井戸だから、早く浚(さら)えて清くせよと出たので、それからはいよいよこれを日用のために汲む者が、祟(たた)りを受けるようになったということであります。(丹洞夜話。三重県多気郡丹生村)
子安の池というのは、また東京の近くにもあって、これにも杖立て清水とよく似た伝説をもっておりました。板橋の町の西北の、下新倉(しもにいくら)の妙典寺(みょうてんじ)という寺の脇にあったのがそれで、昔日蓮上人がこの地方を行脚していた頃、墨田五郎時光(すみだのごろうときみつ)という大名の奥方が、難産で非常に苦しんでいました。日蓮がその為に安産の祈りをして、一本の楊枝(ようじ)をもって加持をすると、忽ちここから優れたる清水が湧き出した。その水を掬(く)んで口そそぎ御符を戴かせたら、立派な男の児が生れたといって、その池の傍にある古木の柳の木は、日蓮上人の楊枝を地に※[「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている]したのが、芽を吹いて成長したものだとも語り伝えておりました。(新篇武蔵風土記稿。埼玉県|北足立(きたあだち)郡白子町下新倉)
伝説は子安の池の、岸の柳の如く成長しました。東京は四百年この方に漸(ようや)く出来た都会ですが、ここへも弘法大師がいつの間にかやって来ています。上野公園の後の谷中(やなか)清水町には、清水|稲荷(いなり)があってもとは有名な清水がその傍にあったのです。この清水がまだ出なかった前に、やはり一人の老母が頭に桶(おけ)を載せて、遠いところから水を運んでいたところへ、大師が来合せてその水を貰って飲みました。年を取ってから毎日こうして水を汲んで来るのは苦しいだろうといわれますと、そればかりではありません、私にはたった一人の子があって、永らく病気をしているので困りますと答えました。そうすると大師は暫く考えて、手に持つ独鈷(とっこ)というもので、こつこつと地面を掘り、忽ちそこからこの清水が湧くようになりました。味わいは甘露の如く、夏は冷かに冬は温かにして、いかなる炎天にも涸(か)るることなしという名水でありました。姥の子供の病気は何病でありましたか、この水で洗ったら早速に治りました。それから多くの人が貰いに来るようになって、万(よろず)の病は皆この水を汲んで洗えば必ずよくなるといいました。稲荷のお社も、この時に弘法大師が祀って置かれたということで、おいおいに繁昌して今のように町屋が立ち続いて来たのであります。(江戸名所記。東京市|下谷(したや)区清水町)
野州|足利(あしかが)在の養源寺(ようげんじ)の山の下の池などは、直径三尺ほどしかない小池ではありますが、これも弘法大師の加持水といい伝えて、信心深い人たちが汲んで行って飲むそうです。昔ある婦人が乳が足りなくて、赤ん坊を抱いて困り切っていたところへ、見馴れぬ旅僧が来てその話を聞き、しばらく祈念をしてから杖で地面を突きますと、そこから水が湧き出したのだそうです。これを自分で飲んでもよし、または乳のようにして小児に含ませても、必ず丈夫に育つであろうといって行きました。それが弘法大師であったということは、おおかた後に養源寺の人たちが、いい始めたことであろうと思います。(郷土研究二編。栃木県足利郡三和村板倉)
土地の古くからのいい伝えと、それを聴く人の考えとが食い違った時には、話はこういうふうにだんだんと面倒になります。だいしが世に名高い高僧のことだとなってしまうと、また一人別に姥の側へ、愛らしい若児を連れて来て置かねばならなかったのであります。あんまり気味の悪い話が多いから、詳しいことはいわぬつもりですが、日本でよくいう産女(うぶめ)の霊の話なども、もとはただ道の傍に祀った母と子の神でありました。姿が弱々しい赤んぼの様でも、神様の子であった故に不思議な力がありました。道を通る人に向って抱いてくれ抱いてくれと母親がいうので、暫く抱いているとだんだんに重くなる。その重いのをじっと我慢をしていた人は、必ず宝を貰い、または大力(だいりき)を授けられたのであります。それが後には、またある大師に行き逢うて、却ってその法力をもって救われたという話に変って来て、産女は普通の人の幽霊のごとくなってしまいました。しかし幽霊が子供づれで来るのもおかしいことですし、福を与えるというのも、ますます似合いません。これには何か他の理由があったのであります。土地によって、夜|啼(な)き松または夜啼き石などといって、真夜中に橋の袂(たもと)や阪の口で、赤子の啼く声がするという話もありますが、それをおそろしいことと考えずに、村にお産のある知らせだなどという土地もあります。或はまた一人の女があって、夜になると赤んぼが啼くのに困って、その松の木の下に行って立っていると、行脚の僧が通りかかって抱いてくれた。そうして松の小枝を火にともして、その光を子供に見せると啼き止(や)んだ。それから後この松の下に神を祀り、また夜啼きをする子の家では、その小枝を折って来て燈(ともし)の火にするという所もあります。九州の宇佐八幡(うさはちまん)の附近では、弘法大師といわずに、この僧を人聞菩薩(にんもんぼさつ)と呼んでおります。人聞菩薩は八幡大菩薩が仮にこの様な姿をして、村々をお歩きなされるのだという人もありましたが、こんな奇妙な僧の名もあるまいと思いますから、私などはそれを人の母、すなわち人母(にんぼ)という言葉が、この神の信仰について、古く行われていた名残であろうと思っています。子安という母と子との神は、今でも関東地方には方々に祀っています。気高い婦人が子を抱いた石の像であります。姥というのはただ女の人のことでありました。親の妹を叔母というのも、または後々叔母になるべき二番め以下の娘を、小娘のうちからおばと田舎でいっているのも、もとは一つの言葉でありました。それを老女のように考え出したために、しまいには三途河(そうずか)の婆様のような、おそろしい石の像になったのであります。仏教が日本にはいって来るより前から、子安の姥の神は清い泉のほとりに祀られていました。弘法大師が世を去ってから千年の後までも、なお新なる清水は常に発見せられ、いわゆる大師の井戸、御大師水の伝説は、すなわちこれに伴うて流れて行きます。生きて日本の田舎を今も巡っている者は、寧(むし)ろわれわれの御姥子(おんばこ)様でありました。それだからこの神を路の傍、峠の上や広い野はずれ、旅人の喜び汲む泉のほとりにまつり、また関の姥神という名も起ったので、熱田の境川(さかいがわ)のおんばこ堂なども、もとはこういう姥と子を祀っていたからの名であろうと思います。箱根の姥子も古い伝説は人が忘れていますが、きっとあの温泉の発見について、一つの物語があったのです。なお皆さんも気をつけて御覧なさい、古くからの日本の話には、まだまだ幾らでも美しいかしこい児童が、姥とつれ立って出て来るのであります。 
片目の魚(うお) 

 

この次ぎには子供とは関係はありませんが、池の伝説の序(ついで)に片目の魚の話を少ししてみましょう。どうして魚類に一つしか眼のないのが出来たものか。まだ私たちにもほんとうのわけはよくわかりませんが、そういう魚のいるのは大抵はお寺の前の池、または神社の脇にある清水です。東京に一番近い所では上高井戸(かみたかいど)の医王寺(いおうじ)、ここの薬師様には眼の悪い人がよくお参りをしに来ますが、その折にはいつも一尾の川魚を持って来て、お堂の前にある小さな池に放すそうです。そうするといつの間にか、その魚は片目をなくしているといいます。夏の頃出水の際などに、池の下流の小さな川で、片目の魚をすくうことが折々ありますが、そんな時にはこれはお薬師様の魚だといって、必ず再びこの池に持って来て放したということです。(豊多摩(とよたま)郡誌。東京府豊多摩郡高井戸村上高井戸)
上州|曽木(そき)の高垣明神(たかがきみょうじん)では、社の左手に清い泉がありました。旱(ひでり)にも涸(か)れず、霖雨(ながあめ)にも濁らず、一町ばかり流れて大川に落ちますが、その間に住む鰻(うなぎ)だけは皆片目であった。それが川へはいると、また普通の眼二つになるといいましたが、それでもこの明神の氏子は、鰻だけは決して食べなかったそうです。(山吹日記。群馬県|北甘楽(きたかんら)郡富岡町曽木)
甲府の市の北にある武田家|城址(じょうし)の濠(ほり)の泥鰌(どじょう)は、山本勘助に似て皆片目であるといいました。泥鰌が片目であるばかりでなく、古府中(こふちゅう)の奥村という旧家は、その山本勘助の子孫である故に、代々片目であったという話もありましたが、実際はどうであったか知りません。(共古日録その他。山梨県西山梨郡相川村)
信州では戸隠雲上寺(とがくしうんじょうじ)の七不思議の一つに、泉水に住む魚類、ことごとく片目なりといっていました。また赤阪の滝明神の池の魚も、片目が小さいか、または潰(つぶ)れていました。神が祈願の人に霊験(れいげん)を示す為に、そうせられるのだといっております。(伝説|叢書(そうしょ)。長野県|小県(ちいさがた)郡殿城村)
越後にも同じ話が幾つもあります。長岡の神田町では人家の北裏手に、三盃池(さんばいいけ)という池がもとはあって、その水に住む魚鼈(ぎょべつ)は皆片目で、食べると毒があるといって捕る者がなかった。古志(こし)郡宮内の一王(いちおう)神社の東には、街道をへだてて田の中に十坪ほどの沼があり、そこの魚類も皆片目であったそうです。昔このお社の春秋の祭りに、魚のお供え物をしたお加持の池の跡だからといっておりました。四十年ほど前に田に開いてしまって、もうこの池も残っていません。それから北魚沼(きたうおぬま)郡の堀之内(ほりのうち)の町には、山の下に古奈和沢(こなわざわ)の池という大池があって、その水を引いて町中の用水にしていますが、この池の魚もことごとく片目であるといいました。捕えてこれを殺せば祟りがあり、家に持って来て器の内に置いても、その晩の内に池に帰ってしまうという話もありましたが、実際は殺生禁制(せっしょうきんせい)で、誰もそんなことを試みた者はなかったのであります。(温故之栞(おんこのしおり)。新潟県北魚沼郡堀之内町)
青森県では南津軽の猿賀(さるが)神社のお池などにも、今でも片目の魚がいるということで、「皆みんなめっこだあ」という盆踊りの歌さえあるそうです。私の知っているのでは、これが一番日本の北の端でありますが、もちろん捜せばそれより北にもたくさんにある筈であります。(民族。青森県|南津軽(みなみつがる)郡猿賀村)
それからこちらへ来ると話は多くなるばかりで、とても一つ一つ挙げていることは出来ませんから、私はただ魚が片目になった原因を、土地の人たちがなんといい伝えていたかということだけを、皆さんと一しょに考えて見ようと思います。その中で早くから知られていたのは、摂津の昆陽池(こやのいけ)の片目鮒(かためふな)で、これは行基菩薩(ぎょうきぼさつ)という奈良朝時代の名僧と関係があり、話は少しばかり弘法大師の杖立て清水に似ています。行基が行脚をしてこの池のほとりを通った時に死にかかっている汚い病人が路に寝ていて、魚を食べさせてくれといいました。かわいそうだと思って、長洲(ながす)の浜に出て魚を買い求め、僧ではあるが病人の為だから自分で料理をして勧めますと、先に食べて見せてくれというので、それを我慢をして少し食べて見せました。そうしているうちにその汚い乞食は薬師|如来(にょらい)の姿を現し、私は上人の行いを試して見る為に、仮に病人になってここに寝ていたのだといって、有馬の山の方へ、金色(こんじき)の光を放って飛び去ったということであります。行基はその不思議にびっくりして、残りの魚の肉を昆陽池に放して見ると、その一切れずつが皆生きかえって、今の片目の鮒になった。それで後にはこの池の魚を神に祀って、行波(ぎょうは)明神と名づけて拝んでいるというのでありました。あんまり事実らしくない話ではありますが、土地の人たちは永くこれを信じて、網を下さず、また釣り糸を垂れず、この魚を食べる者はわるい病になるといっておそれていたそうであります。(諸国里人談その他。兵庫県|川辺(かわべ)郡稲野村昆陽)
またある説では行基は三十七歳の年に、故郷の和泉国(いずみのくに)へ帰って来ますと、村の若い者は法師を試して見ようと思って、鮒のなますを作って置いて、むりにこれを行基にすすめた。行基はそれを食べてしまって、後に池の岸に行ってそれを吐き出すと、なますの肉は皆生きかえって水の上を泳ぎまわった。その魚が今でも住んでいる。家原寺(いばらじ)の放生池(ほうしょういけ)というのがその池で、それだから放生池の鮒は、皆片目だといいました。しかしなますになってから生きかえった魚ならば、それがどうして片目になるのかは、ほんとうはまだ誰にも説明することが出来ません。(和泉名所図会等。大阪府|泉北(せんぼく)郡八田荘村家原寺)
これと全く同じ話は、また播州(ばんしゅう)加古川(かこがわ)の教信寺の池にもありました。加古の教信という人は、信心深い念仏者でありましたが、やはりむりにすすめられたので、仕方なしに魚の肉を食べ、後で吐き出したのが生き返って、永くこの池の片目の魚になったといいました。寺ではその魚を上人魚(しょうにんうお)といったそうですが、それは精進魚(じょうじんうお)のあやまりかと思います。そうしてこの池を教信のほった池だという点は、行基の昆陽池の話よりも、いま一段とお大師水に近いのであります。(播磨鑑(はりまかがみ)。兵庫県加古郡加古川町)
しかし魚が片目になった理由には、まだこの他にも色々の話があります。
例えば下野(しもつけ)上三川(かみのかわ)の城趾(しろあと)の濠の魚は、一|尾(ぴき)残らず目が一つでありますが、これは慶長二年の五月にこの城が攻め落された時、城主|今泉但馬守(いまいずみたじまのかみ)の美しい姫が、懐剣で目を突いて外堀に身を投げて死んだ。その因縁によって今でもその水にいる魚が片目だというのであります。この「因縁」ということも、昔の人はよくいいましたけれども、どういうことを意味するのか、まだ確にはわれわれにわかりません。(郷土光華号。栃木県河内郡上三川町)
そこでなお多くの因縁の例を挙げて見ると、福島の市の近くの矢野目(やのめ)村の片目清水という池では、鎌倉権五郎|景政(かげまさ)が戦場で眼を傷つけ、この池に来て傷を洗った。その時血が流れて清水にまじったので、それで池に住む小魚はどれもこれも左の目が潰れている。片目清水の名はそれから出たといいます。(信達一統志。福島県|信夫(しのぶ)郡|余目(あまるめ)村南|矢野目(やのめ))
鎌倉権五郎は、八幡太郎義家の家来です。十六の年に奥州の軍(いくさ)に出て、敵の征矢(そや)に片方の眼を射られながら、それを抜かぬ前に答(とう)の箭(や)を射返して、その敵を討ち取ったという勇猛な武士でありましたが、その眼の傷を洗ったという池があまりに多く、その池の魚がどこでも片目だといっているだけは不思議です。その一つは羽後の金沢という町のある流れ、そこでは権五郎の魂が、死んで片目の魚になったというそうです。ここは昔の後三年(ごさんねん)の役(えき)の、金沢の柵(さく)のあった所だといいますから、ありそうなことだと思う人もあったか知れませんが、鎌倉権五郎景政は長生をした人で、決してここへ魂を残して行く筈はないのでありました。(黒甜瑣語。秋田県仙北郡金沢町)
次ぎに山形県では最上(もがみ)の山寺の麓(ふもと)に、一つの景政堂があってそこの鳥海(とりのうみ)の柵の趾(あと)だといいました。権五郎が眼の傷を洗った池というのがあって、同じく片目の魚が住んでいました。どうしてこのお堂が出来たのかは分りませんが、附近の村では田に虫がついた時に、この堂から鉦(かね)太鼓を鳴らして虫追いをすると、忽(たちま)ち害虫がいなくなるといっておりました。(行脚随筆。山形県東村山郡山寺村)
また荘内(しょうない)の平田の矢流川(やだれがわ)という部落には、古い八幡の社があって、その前の川でも権五郎が来て目を洗ったといっています。そうしてその川のかじかという魚は、これによって皆片目であるという伝説もありました。(荘内可成談等。山形県|飽海(あくみ)郡東平田村北沢)
こうして福島県の片目清水まで来る途中には、まだ方々に目を洗う川や池があったのですが、驚くべきことには権五郎景政は、遠く信州の南の方の村に来て、やはりその目を洗ったという話が、伝わっているのであります。信州|飯田(いいだ)から少しはなれた上郷(かみさと)村の雲彩寺(うんさいじ)の庭に、杉の大木の下から涌(わ)いている清水がそれで、その為にそこにいるいもりは左の眼が潰れているといいます。清水の名はうらみの池、どういううらみがあったかは分りませんが、権五郎は暫(しばら)くこの寺にいたことがあるというのであります。(伝説の下伊那。長野県下伊那郡上郷村)
何かこれには思い違いがあったことと思われますが、またこういう話もあります。作州|美野(みの)という村の白壁の池は、いかなる炎天にも乾(ひ)たことのない物凄(ものすご)い古池で、池には片目の鰻がいるといいました。昔一人の馬方が馬に茶臼(ちゃうす)を附けて、池の堤を通っていて水に落ちて死んだ。その馬方がすがめの男であった故に、それが鰻になって、また片目であるという話であります。今でも雨の降る日などに、じっと聴いていると、池の底で茶臼をひく音がするなどといいました。(東作誌。岡山県勝田郡吉野村美野)
越後には青柳(あおやぎ)村の青柳池といって、伝説の上では、かなり有名な池があります。この池の水の神は大蛇で、折り折り美しい女の姿に化けて、市へ買い物に出たり、町のお寺の説教を聴きに来たりするといったのは、おおかた街道のすぐ脇にこの池があった為に、そこを往来する遠くの人までが評判にしていたから、こういう話が出来たのであろうと思います。昔|安塚(やすづか)の城の殿様|杢太(もくた)という人が、市に遊びに出て、この美しい池の主を見染めました。そうして連れられてとうとう青柳の池にはいって、戻らなかったということで、この杢太殿が、また目一つであったところから、今にこの池の魚類は一方の目に、曇りがあるといい伝えております。(越後国|式内(しきない)神社案内。新潟県|中頸城(なかくびき)郡|櫛池(くしいけ)村青柳)
池の主の大蛇は、水の中にばかり住んでいて、へびともまるで違ったおそろしい生き物でありました。そういう物が実際にいたかどうか、今ではたしかなことはもうわからなくなってしまいました。絵などに描く人は、もちろん大蛇を見たことのない者ばかりで、仕方なしにこれを大きな蛇のように描くので、だんだんにそう思う人が多くなりましたが、この大蛇の方は水の底にいて、すべての魚類の主君の如く考えられておりました。片目の杢太殿が池の主に聟入(むこい)りをして、自分も大蛇になったといえば、魚類はその一門だからだんだんかぶれて、目が一つになろうとしているのだと、想像する人もあったわけであります。
静岡市の北の山間にある鯨の池の主は、長さ九尺の青竜であったといい、または片目の大きなまだら牛であったともいいますが、化けるのですからなんにでもなることが出来るわけです。昔|水見色(みずみいろ)村の杉橋(すぎばし)長者の一人娘が、高山の池の主にだまされて、水の底へ連れて行かれようとしたので、長者は大いに怒って、何百人の下男人夫を指図して、その池の中へあまたの焼け石を投げ込ませると、池の主は一眼を傷ついて、逃げて鯨の池にひき移ってしまいました。それから以後、この鯨の池の魚は、ことごとく片目になったというのは、とんだめいわくなおつき合いであります。(安倍(あべ)郡誌。静岡県安倍郡|賤機(しずはた)村)
又、池の主は領主の愛馬を引き込んだので、多くの鋳物師(いものし)をよんで来て、鉄をとかして池の中へ流したともいいますが、どちらにしてもそれがちょうど一方の眼を傷つけ、更に魚仲間一同の片目のもとになったというのは、珍しいと思います。ところがこういう話は、まだ他にも折り折りあります。同じ安倍郡の玉川村、長光寺という寺の前の池でも、池の主の大蛇が村の子供を取ったので、村民が怒って多くの石を投げ込むと、それが当って大蛇は片目を潰し、それからは池の魚も皆片目になっているといいました。
蛇が片目という伝説も、また方々に残っているようであります。例えば佐渡の金北山(きんぽくさん)の一つの谷では、昔順徳天皇がこの島にお出でになった頃、この山路で蛇を御覧なされて、こんな田舎でも蛇はやっぱり目が二つあるかと、独言に仰せられましたところが、そのお言葉に恐れ入って、以後この谷の蛇だけはことごとく片目になりました。それで今でも御蛇河内(おへびこうち)という地名になっているのだといいます。加賀の白山(はくさん)の麓の大杉谷の村でも、赤瀬という一部落だけは、小さな蛇までが皆片目であるといっています。岩屋の観音堂の前の川に、やすなが淵(ふち)という淵がもとはあって、その主は片目の大蛇であったからということであります。
昔赤瀬の村に住んでいたやす女(な)という者は、すがめのみにくい女であって男に見捨てられ、うらんでこの淵に身を投げて主になった。それが時折り川下の方へ降りて来ると、必ず天気が荒れ、大水が出るといって恐れました。やす女の家は、もと小松の町の、本蓮寺(ほんれんじ)という寺の門徒であったので、この寺の報恩講には今でも人に気付かれずに、やす女が参詣(さんけい)して聴聞(ちょうもん)のむれの中にまじっている。それだから冬の大雪の中でも、毎年この頃には水が出るのだといい、また雨風の強い日があると、今日は赤瀬のやすなが来そうな日だともいったそうであります。(三州奇談等。石川県|能美(のみ)郡大杉谷村赤瀬)
すがめのみにくい女といい、夫に見捨てられたうらみということは、昔話がもとであろうと思います。同じ話は余りに多く、また方々の土地に伝わっているのであります。京都の近くでも宇治の村のある寺に芋を売りに来た男が門をはいろうとすると、片目の潰れて一筋の蛇が来て、真直になって方丈の方へ行くのを見ました、なんだかおそろしくなって、荷を捨てて近所の家に行って休んでいましたが、ちょうどその時に、しばらく病気で寝ていた寺の和尚(おしょう)が死んだといって来ました。この僧も前に片目の尼を見捨てて、そっとここに来て隠れていたのが、とうとう見つかって、その霊に取り殺されたのだといいました。(閑田耕筆)。或はまた身寄りも何もない老僧が死んでから、いつも一|疋(ぴき)の片目の蛇が、寺の後の松の木の下に来てわだかまっている。あまり不思議なので、その下を掘って見ると、たくさんの小判がかくして埋めてあった。それに思いがのこって蛇になって来ていたので、その老僧がやはり片目であったという類の話、こういうのは一つ話というもので、一つの話がもとはどこへでも通用しました。中にはわざわざ遠い所から、人が運んで来たものもありましたが、それがいかにもほんとうらしいと、後には伝説の中に加え、または今までの伝説と結び付けて、だんだんにわれわれの村の歴史を、賑(にぎや)かにしたのであります。人が死んでから蛇になった。または金沢の鎌倉権五郎のように、魂が魚になったということは信じられぬことですけれども、両方ともに左の眼がなかったというと、早それだけでも、もしやそうではないかと思う人が出来るのです。しかしそれならば別に眼と限ったことはない。またお社の前の池の鯉鮒鰻ばかりを片目だというわけはないのであります。何か最初から目の二つある者よりも、片方しかないものをおそろしく、また大切に思うわけがあったので、それで伝説の片目の魚、片目の蛇のいい伝えが始まり、それにいろいろの昔話が、後から来てくっついたものではないか。そういうことが、いま私たちの問題になっているのであります。
歴史の方でも伊達政宗(だてまさむね)のように、独眼竜といわれた偉人は少くありませんが、伝説では、ことに目一つの人が尊敬せられています。その中でも前にいった山本勘助などは、武田家一番の智者であったように伝えられていますが、これがすがめで、またちんばでありました。鎌倉権五郎景政の如きも、記録には若くて軍に出て眼を射られたというより他に、何事も残ってはいないのに、早くから鎌倉の御霊の社に祀られていました。九州ではまた方々の八幡のお社に、景政の霊が一しょにおまつりしてあるのです。
奥羽地方の多くの村の池で、権五郎が目の傷を洗ったという話があるのも、もとはやはり眼を射られたということを、尊敬していたためではないかと思います。そうすると片目の魚といって、他の普通の魚と差別していたのも、必ず何かそれと似たようなわけがあったので、女の一念だの、池の主のうらみだのというのは、ちょうど池の辺(ほとり)の子安神に、「姥母甲斐(うばかい)ない」の話を持って来たと同じことで、後に幾つもの昔話を繋(つな)ぎ合わせたものらしいのであります。
つまり以前のわれわれの神様は、目の一つある者がお好きであった。当り前に二つ目を持った者よりも、片目になった者の方が、一段と神に親しく、仕えることが出来たのではないかと思われます。片目の魚が神の魚であったというわけは、ごく簡単に想像して見ることが出来ます。神にお供え申す魚は、川や湖水から捕って来て、すぐに差し上げるのはおそれ多いから、当分の間、清い神社の池に放して置くとすると、これを普通のものと差別する為には、一方の眼を取って置くということが出来るからであります。実際近頃のお社の祭りに、そんな乱暴なことをしたかどうかは知りませんが、片目の魚を捕って食べぬこと、食べると悪いことがあるといったことは、そういう古い時からの習わしがあったからであろうと思われるのみならず、また話にはいろいろ残っております。例えば近江(おうみ)の湖水の南の磯崎明神では、毎年四月八日の祭りの前の日に、網を下して二尾の鮒を捕え、一つは神前に供え、他の一つは片面の鱗(うろこ)を取ってしまって、今一度湖に放してやると、翌年、四月七日に網にはいって来る二尾のうち、一つは必ずこの鮒であるといいました。そんなことが出来るかどうか疑わしいが、とにかくに目じるしをつけて一年放して置くという話だけはあったのです。
また天狗(てんぐ)様は魚の目が好きだという話もありました。遠州の海に近い平地部では、夏になると水田の上に、夜分多くの火が高く低く飛びまわるのを見ることがある。それを天狗の夜とぼしといって、山から天狗が泥鰌を捕りに来るのだといいました。そのことがあってからしばらくの間は、溝(みぞ)や小川の泥鰌に眼のないのが幾らもいたそうで、それは天狗様が眼の玉だけを抜いて行かれるのだといっていました。これと同じ話は沖縄の島にも、また奄美大島(あまみおおしま)の村にもありました。沖縄ではきじむんというのが山の神であるが、人間と友だちになって海に魚釣りに行くことを好む、きじむんと同行して釣りをすると、特に多く獲物があり、しかもかれはただ魚の眼だけを取って、他は持って行かぬから、大そうつごうがよいという話もありました。
また宮城県の漁師の話だというのは、金華山(きんかざん)の沖でとれる鰹魚(かつお)は、必ず左の眼が小さいか、潰れている。これは鰹魚が南の方から金華山のお社の燈明の火を見かけて泳いで来るからで、漁師たちはこれを鰹の金華山|詣(まい)りというそうであります。必ずといったところが、一々調べて見ることは出来るものではありません。人がそう思うようになった原因は、やはり神様は片目がお好きということを、知っていた者があった証拠だと思います。
それからまた、お社の祭りの日に、魚の目を突いて片目にしたという話も残っています。日向(ひゅうが)の都万(つま)神社のお池、花玉川(はなたまがわ)の流れには片目の鮒がいる。大昔、木花開耶姫(このはなさくやひめ)の神が、このお池の岸に遊んでおいでになった時、神様の玉の紐(ひも)が水に落ちて、池の鮒の目を貫き、それから以後片目の鮒がいるようになった。玉紐落と書いて、この社ではそれをふなと読み、鮒を神様の親類というようになったのは、そういう理由からであるといっております。(笠狭大略記。宮崎県|児湯(こゆ)郡下穂北村妻)
加賀の横山の賀茂(かも)神社に於(おい)ても、昔まだ以前の土地にこのお社があった時に、神様が鮒の姿になって御手洗(みたらし)の川で、面白く遊んでおいでになると、にわかに風が吹いて岸の桃の実が落ちて、その鮒の眼にあたった。それから不思議が起って夢のお告げがあり、社を今の所へ移して来ることになったといういい伝えがあります。神を鮒の姿というのは変な話ですが、お供え物の魚は後に神様のお体の一部になるのですから、上げない前から尊いものと、昔の人たちは考えていたのであります。それがまた片目の魚を、おそれて普通の食べ物にしなかったもとの理由であったろうと思います。(明治神社誌料。石川県|河北(かほく)郡高松村横山)
昔の言葉では、こうして久しい間、神に供えた魚などを活かして置くことを、いけにえといっておりました。神様がますますあわれみ深く、また魚味をお好みにならぬようになって、いつ迄(まで)も片目の魚がお社の池の中に、泳ぎ遊んでいることになったのでありますが、魚を片目にする儀式だけは、もっと後までも行われていたのではなかろうかと思います。俎岩(まないたいわ)などという名前の平石が、折り折りは神社に近い山川の岸に残っていて、そこでお供え物を調理したようにいっています。備後の魚が池という池では、水のほとりに大きな石が一つあって、それを魚が石と名づけてありました。この池の魚類にも片目のものがあるといい、村の人はひでりの年に、ここに来て雨乞いのお祭りをしたそうであります。(芸藩通志。広島県|世羅(せら)郡神田村蔵宗)
阿波では福村の谷の大池の中に、周囲九十尺、水上の高さ十尺ばかりの大岩があって、この池でも鯉鮒を始めとし、小さな雑魚(じゃこ)までが、残らず一眼であるといっています。その岩の名を今では蛇の枕と呼び、月輪兵部殿(つきのわひょうぶどの)という武士が、昔この岩の上に遊んでいた大蛇を射て、左の眼を射貫き、一家ことごとくたたりを享(う)けて死に絶えた。その大蛇のうらみが永く留(とど)まって、池の魚がいつ迄も片目になったのだといいますが、これもまた二つの話を結び合せたものだろうと思います。(郷土研究一編。徳島県|那賀(なが)郡富岡町福村)
大蛇といったのは、むろんこの池の主のことで、片目の鯉鮒は、その祭のためのいけにえでありました。それとある勇士が水の神と戦って、初めに勝ち、後に負けたという昔話と、混同して新しい伝説が出来たのかも知れません。しかしこういう池の主には限らず、神々にも眼の一箇しかない方があるということは、非常に古くからいい伝えていた物語であります。どうしてそんなことを考え出したかはわかりませんが、少くともそれがいけにえの眼を抜いて置いたということと、深い関係があることだけはたしかであります。それだから、また目の一方の小さい人、或(あるい)はすがめの人が、特別に神から愛せられるように思う者があったのであります。大蛇が眼をぬいて人に与えたという話は、弘(ひろ)く国々の昔話になって行われております。その中でも肥前の温泉嶽(うんぜんだけ)の附近にあるものは、ことに哀れでまた児童と関係がありますから、一つだけここに出して置きます。昔この山の麓のある村に、一人の狩人(かりゅうど)が住んでいましたが、その家へ若い美しい娘が嫁に来まして、それがほんとうは大蛇でありました。赤ん坊が生れる時に、のぞいてはいけないといったので、かえって不審に思ってのぞいて見ますと、おそろしい大蛇がとぐろを巻いて、生れ子を抱えていました。それがまた女になって出て来まして、姿を見られたからもう行かなければならなくなった。子供が泣く時にはこの玉を嘗(な)めさせてやって下さいといって、自分で右の眼を抜いて置いてお山の沼へ帰って行きました。それを宝物のように大切にしておりましたが、その評判が高くなって殿様に取り上げられてしまい、赤ん坊がお腹がすいて泣き立てても、なめさせてやることが出来ません。こまり切って親子の者が山へ登り、沼の岸に出て泣いていると、にわかに大浪がたって片目の大蛇が現れ、くわしい話を聴いて残った左の方の眼の玉を抜いてくれます。喜んでそれを貰って来て、子供を育てているうちに、その玉も殿様に取り上げられます。もう仕方がないから身を投げて死のうと思って、また同じ沼へやって来ますと、今度は盲の大蛇が出て来て、その話を聴いて非常に怒りました。そういうひどいことをするなら、しかえしをしなければならぬ。二人は早くにげて何々という所へおいでなさい。そこでは良い乳を貰うことが出来るからといって、親子の者をすぐに返しました。そうしてその後でおそろしい噴火があって、山が崩れ、田も海も埋まったのは、この盲の大蛇の仕返しであったというのです(筑紫野民譚(つくしのみんたん)集)。遠州の有玉(ありたま)郷では、天竜川の大蛇を母にして生れた子が、二つの玉を貰ってそれを持って出世をした話が、古くからあったようですが、眼を抜いたということは、そこではいわなかったと思います。(遠江国(とおとうみのくに)風土記伝)
何にもせよ、目が一つしかないということは、不思議なもの、またおそるべきもののしるしでありました。奥州の方では、一つまなぐに傍点]、東京では一つ目小僧などといって、顔の真中に眼の一つあるお化けを、想像するようになったのもそのためですが、最初日本では、片目の鮒のように、二つある目の片方が潰れたもの、ことにわざわざ二つの目を、一つ目にした力のもとを、おそれもし、また貴(とうと)みもしていたのであります。だから月輪兵部が、大蛇の眼を射貫いたという話なども、ことによると別に今一つ前の話があって、その後の勇士のしわざに、間違えてしまったのではないかと思います。
飛騨(ひだ)の萩原(はぎわら)の町の諏訪(すわ)神社では、又こういう伝説もあります。今から三百年余り以前に、金森(かなもり)家の家臣佐藤六左衛門という強い武士(さむらい)がやって来て、主人の命令だから是非この社のある所に城を築くといって、御神体を隣りの村へ遷(うつ)そうとした。そうすると、神輿(みこし)が重くなって少しも動かず、また一つの大きな青大将が、社の前にわだかまって、なんとしても退きません。六左衛門この体(てい)を見て大いにいきどおり、梅の折り枝を手に持って、蛇をうってその左の目を傷つけたら、蛇は隠れ去り、神輿は事故なく動いて、御遷宮をすませました。ところがその城の工事のまだ終らぬうちに、大阪に戦が起って、六左衛門は出て行って討ち死をしたので、村の人たちも喜んで城の工事を止め、再びお社をもとの土地へ迎えました。それから後は、折り折り社の附近で、片目の蛇を見るようになり、村民はこれを諏訪様のお使いといって尊敬したのみならず、今に至るまでこの社の境内に、梅の木は一本も育たぬと信じているそうであります。(益田(ました)郡誌。岐阜県益田郡萩原町)
この話なども佐藤六左衛門がやって来るまでは、蛇の目は二つで、梅の木は幾らでも成長していたのだということを、たしかめることは出来ないのであります。もっと前からこの通りであったのを忘れてしまって、この時から始まったように、考えたのかも知れません。わざわざ梅の枝など折って、しかもお使者の蛇の目だけを傷つけるということは、気の短い勇士の佐藤氏が、しそうなことでありません。そればかりでなく、神様が目を突いて、それからその植物を植えなくなったという伝説は、意外なほどたくさんあります。その五つ六つをここで挙げて見ますと、阿波の粟田(あわた)村の葛城(かつらぎ)大明神の社では、昔ある尊い御方が、この海岸に船がかりなされた折りに、社の池の鮒を釣りに、馬に乗っておでかけになったところが、お馬の脚が藤の蔓(つる)にからまって、馬がつまずいたので落馬なされ、男竹(おだけ)でお目を突いてお痛みははげしかった。それ故に今にこの社の神には眼の病を祈り、氏子の四つの部落では、池には鮒が住まず、藪(やぶ)には男竹が生えず、馬を置くと必ずたたりがあるといいました。(粟の落穂。徳島県板野郡|北灘(きたなだ)村粟田)
美濃の太田では、氏神の加茂県主(かもあがたぬし)神社の神様がお嫌いになるといって、五月の節句にも、もとは粽(ちまき)を作りませんでした。大昔、加茂様が馬に乗って、戦いに行かれた時に、馬から落ちて薄(すすき)の葉で眼をお突きなされた。それ故に氏子はその葉を忌んで、用いないのだといっておりました。(郷土研究四編。岐阜県加茂郡太田町)
信州には、ことにこの話が多く伝えられています。小県郡|当郷(とうごう)村の鎮守は、初めて京都からお入りの時に、胡瓜(きゅうり)の蔓に引っ掛ってころんで、胡麻(ごま)の茎で目をお突きなされたということで、全村今に胡麻を栽培しません。もしこの禁を犯す者があれば、必ず眼の病になるといっています。松本市の附近でも、宮淵の勢伊多賀(せいたが)神社の氏子は、屋敷に決して栗の木を植えず、植えてもしその木が栄えるようであったら、その家は反対に衰えて行く。それは氏神が昔この地にお降りの時、いがで目を突かれたからだというのです。また島立(しまだて)村の三の宮の氏子の中にも、神様が松の葉で目を突かれたからといって、正月に松を立てない家があります。橋場稲扱(はしばいなこき)あたりでも、正月は門松の代りに、柳の木を立てております。昔|清明(せいめい)様という偉い易者が稲扱に来ていて、門松で目を突いて大きに難儀をした。これからもし松を門に立てるようであったら、その家は火事にあうぞといったので、こうして柳を立てることにしたのだそうです。(南安曇郡誌。長野県南安曇郡安曇村)
小谷四箇荘(おたりしかそう)にも、胡麻を作らぬという部落は多い。氏神が目をお突きになったといい、または強いて栽培する者は眼を病んで、突いたように痛むともいいました。中土(なかつち)の奉納という村では長芋を作らず、またぐみの木を植えません。それは村の草分けの家の先祖が、芋の蔓につまずいて、ぐみで眼をさしたことがあるからだといっております。(小谷口碑集。長野県北安曇郡中土村)
東上総(ひがしかずさ)の小高(おだか)、東小高の両部落では、昔から決して大根を栽培せぬのみならず、たまたま路傍(みちばた)に自生するのを見付けても、驚いて御|祈祷(きとう)をするくらいでありました。他の村々でも、小高の苗字の家だけは、一様に大根を作らなかったということです。これも小高明神が大根にけつまずいて、転んで茶の木で目を突かれたせいだといいますが、それにしては茶の木の方を、なんともいわなかったのが妙であります。(南総之俚俗(なんそうのりぞく)。千葉県|夷隅(いすみ)郡千町村小高)
中国地方でも、伯耆(ほうき)の印賀(いんが)村などは、氏神様が竹で目を突いて、一眼をお潰しなされたからといって、今でも決して竹は植えません。竹の入り用があると山を越えて、出雲(いずも)の方から買って来るそうです。(郷土研究四編。鳥取県日野郡印賀村)
近江の笠縫(かさぬい)の天神様は、始めてこの村の麻畠(あさばたけ)の中へお降りなされた時、麻で目を突いてひどくお痛みなされた。それ故に行く末わが氏子たらん者は、忘れても麻は作るなというお誡(いまし)めで、今に一人としてこれにそむく者はないそうです。(北野誌。滋賀県|栗太(くりた)郡笠縫村川原)
また蒲生(がもう)郡の川合(かわい)という村では、昔この地の領主河井|右近太夫(うこんだゆう)という人が、伊勢の楠原(くすはら)という所で戦(いくさ)をして、麻畠の中で討たれたからという理由で、もとは村中で麻だけは作らなかったということです。(蒲生郡誌。滋賀県蒲生郡桜川村川合)
関東地方に来ると、下野(しもつけ)の小中(こなか)という村では、黍(きび)を栽培することをいましめておりますが、これも鎮守の人丸(ひとまる)大明神が、まだ人間であった時に、戦をして傷を負い、逃げて来てこの村の黍畠の中に隠れ、危難はのがれたが、黍のからで片目をつぶされた。それ故に神になって後も、この作物はお好みなされぬというのであります。(安蘇(あそ)史。栃木県安蘇郡旗川村小中)
この近くの村々には、戦に出て目を射られた勇士、その目の疵(きず)を洗った清水、それから山鳥の羽の箭(や)をきらう話などがことに多いのですが、あまり長くなるからもう止めて、この次ぎは村の住民が、神様のおつき合に片目になるという話を少しして見ます。福島県の土湯(つちゆ)は、吾妻山(あずまさん)の麓にあるよい温泉で、弘法大師が杖を立てそうな所ですが、村には太子堂があって、若き太子様の木像を祀っております。昔この村の狩人が、鹿を追い掛けて沢の奥にはいって行くと、ふいに草むらの間から、負って行け負って行けという声がしましたので、たずねて見るとこのお像でありました。驚いてさっそく背に負うて帰って来ようとして、途中でささげの蔓にからまって倒れ、自分は怪我をせずに、太子様の目を胡麻|稈(がら)で突いたということで、今見ても木像の片目から、血が流れたようなあとがあるそうです。そうしてこの村に生れた人は、誰でも少しばかり片目が細いという話がありましたが、この頃はどうなったか私はまだきいていません。(信達一統誌。福島県信夫郡土湯村)
眼の大きさが両方同じでない人は、思いの外多いものですが、大抵は誰もなんとも思っていないのです。村によっては昔鎮守さまが隣りの村と、石合戦をして目を怪我なされたからということを、子供ばかりが語り伝えている所もありますが、大抵はもう古い話を忘れています。それでも土湯のように、実際そういう御像が残っている場合だけは、間違いながらもまだ覚えていられたのであります。三河の横山という村では、産土神(うぶすながみ)の白鳥(しらとり)六社さまの御神体が片目でありました。それ故にこの村には、どうも片目の人が多いようだということであります。(三州横山話。愛知県|南設楽(みなみしだら)郡|長篠(ながしの)村横川)
石城(いわき)の大森という村では、庭渡(にわたり)神社の御本尊は、もとは地蔵様で、非常に美しい姿の地蔵様でしたが、どういうわけか片目が小さく造られてありました。それだから大森の人は誰でも片目が小さいと、村の中でもそういっているそうです。(民族一編。福島県石城郡大浦村大森)
それからまた村全体でなくとも、特別に関係のある、ある一家の者だけが、代々片目であったという話は方々にあって、前にいった甲州の山本勘助の家などはその一つであります。丹波の独鈷抛山(とっこなげやま)の観音さまは片目でありました。昔この山の頂上の観音岩の上で、観音が白い鳩の姿になって遊んでござるのを、麓の柿花(かきはな)村の岡村という家の先祖が、そうとは知らずに弓で射たところが、その箭がちょうど鳩の眼に中(あた)りました。血の滴りの跡をついて行くと、それがこの御堂の奥に来て、止まっていたので驚きました。それからこの家では子孫代々の者が眼を病み、たまたま兄が弓を射れば、必ず弟の眼に中るといって、永く弓矢のわざをやめていたそうであります。(口丹波口碑集。京都府南桑田郡|稗田野(ひえだの)村柿花)
羽後(うご)の男鹿(おが)半島では、北浦の山王(さんのう)様の神主竹内丹後の家に、先祖七代までの間、代々片目であったという伝説が残っています。この家の元祖竹内弥五郎は弓箭(ゆみや)の達人でありました。八郎潟の主八郎権現が、冬になると戸賀の一の目潟に来て住もうとするのを、一つ目潟の姫神に頼まれて、寒風山(かんぷうざん)の嶺(みね)に待ち伏せをして、射てその片眼を傷つけたということであります。そうすると八郎神は雲の中から、その箭を投げ返して弥五郎の眼にあたったともいい、またはその夜の夢に現れて、七代の間は眼を半分にすると告げたともいって、とにかくに弥五郎神主の子孫の家では、主人が必ずすがめであったそうです。(雄鹿名勝誌。秋田県南秋田郡北浦町)
この竹内神主の家には、神の眼を射たという箭の根を、宝物にして持ち伝えてありました。神に敵対をした罰として、片目を失ったということが間違いでなければ、こういう記念品を保存していたのが変であります。神が片目の魚をお喜びになったように、ほんとうは片目の神主が、お好きだったのではなかろうかと思われます。
野州(やしゅう)南高岡村の鹿島神社などでは、神主若田家の先祖が、池速別皇子(いけはやわけおうじ)という方であったといっております。この皇子は関東を御旅行の間に、病のために一方の目を損じて、それが為に都にお帰りになることが許されなかった。それでこの村に留まって、神主の家をおたてになったというのであります。(下野神社沿革誌。栃木県|芳賀(はが)郡山前村南高岡)
奥州の只野(ただの)村は、鎌倉権五郎景政が、後三年(ごさんねん)の役(えき)の手柄によって、拝領した領地であったといって、村の御霊(ごりょう)神社には景政を祀り、その子孫だと称する多田野家が、後々までも住んでおりましたが、ここでも権五郎の眼を射られた因縁をもって、村に生れた者は、いずれも一方の目が少しくすがめだといっていました。少しくすがめというのは、一方の目が小さいことです。昔平清盛の父の忠盛なども、「伊勢の平氏はすがめなり」といって、笑われたという話がありますが、勇士には片目のごく小さい人は幾らもありました。そうして時によってはそれを自慢にしていたらしいのであります。(相生集。福島県|安積(あさか)郡多田野村) 
機織り御前 

 

越後の山奥の大木六(おおぎろく)という村には、村長で神主をしていた細矢(ほそや)という非常な旧家があって、その主人がまた代々すがめでありました。昔この家の先祖の弥右衛門という人が、ある夏の日に国境の山へ狩りに行って路を踏み迷い、今の巻機(まきはた)山に登ってしまいました。この山は樹木深く茂り薬草が多く、近い頃までも神の山といって、おそれて人のはいらぬ山でありましたが、弥右衛門はこの深山の中で、世にも美しいお姫様の機を巻いているのを見かけたのであります。驚いて立って見ると、向うから言葉をかけて、ここは人間が来れば帰ることの出来ぬ所であるが、その方は仕合せ者で、縁あってわが姿を見た。それでこれから里に下って、永く一村の鎮守として祀(まり)られようと思う。急いでわれを負うて山を降りて行け、そうして必ず後を見返ってはならぬといわれました。仰せの通りにして帰って来る途中、約束に背いて思わずただ一度だけ、首を右へ曲げて背中の神様を見ようとしますと、忽(たちま)ちすがめとなってしまって、それから以後この家へ生れる男子は、悉(ことごと)く一方の目が細いということでありました。今でもそういうことがあるかどうか、私は行って尋ねて見たいと思っています。(越後野志と温故之栞(おんこのしおり)。新潟県|南魚沼(みなみうおぬま)郡中之島村大木六)
大木六ではこの姫神を巻機権現ととなえて、今も引き続いて村の鎮守として祭っているのでありますが、土地によっては神を里中へお迎え申すことをせず、もとからの場所にこちらからお参りをして、拝んでいる村がいくらもあります。そうすると参拝する時と人とが分れ分れになって、もとからあった伝説もだんだんに変って来るのであります。それで山の神様が女であった。小さな子を連れた姥神(うばがみ)であったということなども、後には忘れてしまったところがずいぶんありますけれども、どうかすると話の大切な筋途(すじみち)から、いつまでもそれを覚えていなければならぬ場合もありました。例えば静かな谷川の淵(ふち)の中で、機を織る梭(ひ)の音をきくといい、または人が行くことも出来ぬような峰の岩に、布をほしたのが遠く見えるというなどはそれで、こういう為事(しごと)は男がしませんから、その為に山姥山姫のいい伝えはなお永く残るのであります。
殊に山姥は見たところは恐ろしいけれども、里の人には至って親切であって、山路に迷っていると送ってくれる。またおりおりは村に降りて来て、機織り苧績(おう)みを手伝ってくれるという話もありました。また仕合せの好い人は、山奥にはいって、山姥の苧つくねという物を拾うことがたまにある。その糸はいくら使っても尽きることがないともいいました。また山姥が子を育てるという話も、決して足柄山(あしがらやま)の金太郎ばかりではありません。
以前はどこの国の山にも山姥がいたらしいのですが、今はわずかしか話が残っておらぬのであります。そうしてその山姥ももとは水の底に機を織る神と一つであったことは、知っている者が殆どなくなりました。備後の岡三淵(おかみぶち)は、恐ろしい淵があるから出来た村の名で、おかみとは大蛇のことであります。村の山の下には高さ二丈余もある大岩が立っていて、その名を山姥の布晒(ぬのさら)し岩といい、時々この岩のてっぺんには、白いものが掛かってひらめいていることがあるといいました。(芸藩通志。広島県|双三(ふたみ)郡作木村岡三淵)
因幡国(いなばのくに)の山奥の村にも、非常に大袈裟(おおげさ)な山姥の話がありました。栗谷(くりたに)の布晒し岩から、それと並んだ麻尼(まに)の立て岩、箭渓(やだに)の動(ゆる)ぎ石の三つの大岩にかけて、昔は山姥が布を張って乾していたといいました。この間が二里ばかりもあります。また箭渓の村の西には、山姥の灰汁濾(あくこ)しと云う小さな谷があって、岩の間にはいつも灰汁の色をした水がたまっています。この水でその山姥が布を晒していたというのであります。(因幡志。鳥取県岩美郡元塩見村栗谷)
こういう話を子供までが、大笑いをしてきくようになりますと、だんだんと伝説がうそらしくなって来て、山の崩れたところを山姥が踏ん張った足跡だといったり、小便をしたあとだなどという話も出来て来ます。土佐の韮生(にろう)の山の中などでは、岩に自然の溝(みぞ)が出来ているのを、昔山姥が麦を作っていた畝(うね)の跡だといいました。(南路志。高知県|香美(かがみ)郡上韮生村|柳瀬(やないせ))
春になると子供が紙|鳶(こ)をあげるのに、「山の神さん風おくれ」というところもあれば、また「山んぼ風おくれ」といっている土地もあります。今では山姥は少年の知り人のように、呼びかけられているのであります。或る夕方などに山の方を向いて、大きな声で何かわめくと、直にあちらでも口まねをするのを、普通にはこだまといいますが、これは山姥がからかうのだと思っていた子供がありました。こだまというのも山の神のことですから、もとはそれを女だと想像していたのであります。
山姥は少し意地悪だ。いつも子供のいやがる様な、にくらしい口答えをよくするといって、あまんじゃくという言葉が、素直でない子のあだなのようになったのも、ほんとうはこの反響が始めなのであります。前に姥が池の話でいったように、あまんもおまんも姥神さまのことであります。東京のような山から遠い土地でも、昔は夕焼け小焼のことを「おまんが紅(べに)」といっておりました。天が半分ほども真赤になるのを、どこかで山の大女が、紅を溶かしているのだといってたわむれたのであります。
この山姥が機を織ったという話が、またいろいろの形に変って伝わっております。遠州の秋葉の山奥では、山姥が三人の子を生んで、その三人の子がそれぞれ大きな山の主になっているといい、その山姥がまた里近くへ来て、水のほとりで機を織っていたといいました。秋葉山のお社から少し後の方に、深い井戸があります。この山にはもと良い清水がなかったのを、千年余り前に神主が神に祈って、始めて授かった井戸だということで、この泉の名を機織の井というのは、その後奥山に山姥が久良支(くらき)山から出て来て、このかたわらに住んで神様の衣(きぬ)を織り、それを献納していったから、この名になったのだというそうです。そういういい伝えのある井戸は、まだこの近辺の村にも二つも三つもあります。(秋葉土産。静岡県|周智(しゅうち)郡犬居村|領家(りょうけ))
秋葉の山の神は俗に三尺坊さまと称(とな)えて、今でも火難を防ぐ神として拝んでいるのは、おおかたこの貴い泉を、支配する神であったからであろうと思います。山姥とこの三尺坊様とは、一通りならぬ深い関係があったので、そのお衣を山の姥が来て織ったというのも、それ相応な理由のあることでした。相州箱根の口の風祭(かざまつり)という村は、後に築地(つきじ)へ持って来た咳(せき)の姥の石像のあったところですが、その近くにも大登山秋葉寺(だいとうざんあきばじ)という寺があって、いつの頃からか三尺坊を迎えて祀っています。この寺にも一夜にわき出したという清水があり、水の底には二つの玉が納めてあるともいって、雨乞いの祭りをそこでしました。三百五十年ほど前に、ここへも一人の姥が来て布を織ったことがあるので、井戸の名を機織りの井と呼びました。その布に五百文の鏡を添えて寺におくり、姥はいずれへか行ってしまいました。その銭は永くこの寺の宝物となってのこり、布は和尚(おしょう)が死ぬときに着て行ったということであります。(相中|襍志(ざっし)。神奈川県|足柄下(あしがらしも)郡|大窪(おおくぼ)村風祭)
今でも姥神は常に機を織っておられるが、それを人間の目には普通は見ることが出来ぬのだというところがあります。信州の松本附近では、人が病気になって神降(かみおろ)しという者に考えてもらうと、水神のたたりだという場合が多いそうであります、水神様が水の上に五色の糸を綜(へ)て、機を織って遊んでいられるのを、知らずに飛び込んでその糸を切ったり汚したりすると、腹を立ててたたりなさるのだと、想像している人があったのであります。それが為に時々は小さな流れの岸などに、御幣(ごへい)を立て五色の糸を張って祭ってあるのを、見かけることがあったという話です。(郷土研究二編)
戸隠の山の麓(ふもと)の裾花(すそばな)川の岸には、機織り石という大きな岩があって、その脇には梭石(ひいし)、筬石(おさいし)、※[「縢」の「糸」に代えて「木」]石(ちぎりいし)などと、いろいろ機道具に似た形の石がありました。雨が降ろうとする前の頃は、この石のあたりでからからという音がするのを、神様が機をお織りになるといったそうで、この音がきこえるとどんな晴れた日も曇り、二三日のうちには必ず降り出すといったのは、恐らくもとここで雨乞いをしていたからでありましょう。(信濃奇勝録。長野県|上水内(かみみのち)郡|鬼無里(きなさ)村岩下)
木曽の野婦池(やぶのいけ)というのもひでりの年に、村の人が雨乞いに行く池でありました。この池では時おり山姥が水の上で、機を織っておるのを見た者があるといいました。この山姥はもと大原という村の百姓の女房であったのが、髪が逆立ち角が生えて、しまいに家を飛び出して山姥になったといいます。或(あるい)はまた突いていた柳の杖を池の岸にさして置いて、水の中へはいってしまったという話もあって、そのあたりに柳の木がたくさんに茂っているのを、山姥の杖が芽を出して大きくなったものだともいっていました。(木曽路名所図会。長野県|西筑摩(にしちくま)郡日義村宮殿)
水の底から機を織る音がきこえて来るという伝説なども、土地によって少しずつは話し方が変っていますが、探して見るとそちこちの大きな川や沼に、同じようないい伝えがあります。羽後(うご)の湯の台の白糸沢では、水の神様が常に機を織っておられるので、夜分周囲が静かになれば、いつでも梭の音がこの淵の方からきこえるといいました。(雪之飽田根。秋田県北秋田郡|阿仁合(あにあい)町)
飛騨(ひだ)の門和佐(かどわさ)川の竜宮が淵というところでは、昔は竜宮の乙姫の機織る音が、たびたび水の底からきこえていたものであった。それがある時一人のいたずら者があって、馬の鞦(しりがい)をこの淵へほうり込んで以来、ばったりその音をきくことが出来なくなったといいます。神代の天の岩屋戸の物語にも、似通うた所のある話であります。(益田(ました)郡誌。岐阜県益田郡上原村門和佐)
昔は村々のお祭りでも、毎年新たに神様の衣服を造ってお供え申していたようであります。その為には最も穢(けがれ)を忌んで、こういうやや人里を離れた清き泉のほとりに、機殿(はたどの)というものを建てて若い娘たちに、その大切な布を織らせていたかと思います。その風がだんだんにやんで、後には神のお附きの女神が、その役目をなさるように考えて来ました。そのわけももうわからなくなって、しまいには竜宮の乙姫様などということになりましたけれども、ここできこえる機の音は竜宮のものでなく、最初から土地の神様の御用でありました。ちょうど片目の魚が生(い)け牲(にえ)のうちからおそれ敬われたように、後々神の御身につく布である故に、その機の音のするところへは、ただの人の布を織る者は、はばかって近よらぬようにしていたのであります。旧五月一と月の間は、ただの女は機を織ってはならぬといういましめがあり、これを犯す者が厳しく罰せられる村は今でもあります。
安芸(あき)の厳島(いつくしま)などは、島の神が姫神であった為か、昔は島の内で機を立てることが常に禁じられてありました(棚守房顕手記)。また機道具をもってある池の側を通った女が、落ちて死んだという話が他の村々に多いのも、その為かと思います。
若狭の国吉山(くによしやま)の麓の機織り池なども、今はすっかり水田になってしまいましたが、前には水の中から機織る音がきこえるといいました。まだこの池が大池であった頃、一人の女が機の道具を持って、池の氷の上を渡ろうとしたところが、氷が割れて水にはいって死んだ。機織姫神社というのは、その女の霊を祀ったのだといっていますが、それは多分思い違いで、この姫神の社もある程の池だから、こんな恐ろしい話が出来たのであろうと思います。(若狭郡県志。福井県|三方(みかた)郡山東村阪尻)
それよりも更に物すごい話が、近江の比夜叉(ひやしゃ)の池にあります。もとはこの池には水が少くて、どうすればよいかと占いを立てて見ると、一人の女を生きながら池の底に埋めて、水の神に祀るならば、きっと水が持つということでありました。その時に領主の佐々木|秀茂(ひでもち)の乳母比夜叉御前が、自ら進んでこの人柱に立ち、持っていた機の道具とともに、水の下に埋められました。それからは果していつも水が池一杯あるので、今でも比夜叉女水神と称えて信仰せられています。そうして真夜中にこの池の脇を通る人は、いつも水の底から機を織る音をきいたということであります。(近江輿地志略(おうみよちしりゃく)。滋賀県阪田郡大原村池下)
乳母がわざわざ機道具を持って、池の底にはいって行ったという点は、今一つ前からの話の残りであろうと思います。比夜叉という池の名も、もとはおそろしい池の主がいた為らしいのですが、美濃(みの)の夜叉池の方でも、やはりそれを大蛇に嫁入りした長者の愛娘(まなむすめ)の名であったようにいっています。即ちこういう伝説は昔話になり易いのです。昔話の最も面白い部分を、持って来て結びつけられ易いのであります。
上総(かずさ)の雄蛇(おんじゃ)の池などでも、若い嫁が姑(しゅうとめ)ににくまれ、機の織り方が気に入らぬといっていじめられた。それで困ってこの池に身を投げたという話になっていますが、雨の降る日には水の底から、今でも梭の音がするという部分は伝説であります。もとはこの話は必ずもう少し池の雄蛇と関係が深かったのだろうと思います。(南総乃俚俗。千葉県|山武(さんぶ)郡大和村山口)
しかしその昔話の方でも、もし伝説というものがなかったら、こうは面白くは発展しなかったのであります。一つの例をいうと、土佐の地頭分(じとうぶん)川の下流、行川(なめかわ)という村には深い淵があって、その岸には一つの大岩がありました。昔ある人がこの岩の下にはいって見ると、淵の底に穴があってその奥の方で、美しい女が綾(あや)を織っているのを見たという伝説があります。(土佐州郡志。高知県土佐郡十六村行川)
この伝説は殊に弘く全国に行き渡ってありますが、大抵はこれに伴って気味の悪い、または愉快な話が語り伝えられているのであります。
羽後の小安(こやす)の不動滝(ふどうだき)の滝壺では、昔あるきこりが山刀をこの淵に落し、水にはいってこれをさがしまわっていると、忽ち明るい美しい里に出た。御殿があって、その中には綺麗(きれい)な女の人がいました。山刀はここにあるといってこの男に渡し、二度と再びこんなところへは来るな。あの鼾(いびき)の声をききなさい。あれは私の夫の竜神の寝息だ。私は仙台の殿様の娘だが、竜神に取られてもう逃げ出すことが出来ぬといったという話。これには女が機を織っていたという点が、早すでに落ちております。(趣味の伝説。秋田県雄勝郡小安)
ところが私のきいた陸中(りくちゅう)原台の淵の話では、長者の娘は水の底に一人で機を織っており、鉈(なた)はちゃんとその機の台木に、もたせ掛けてあったということで、そうしてうちの親たちに心配をするなという伝言をしたというのです。(遠野(とおの)物語。岩手県|下閉伊(しもへい)郡小国村)
更に岩代(いわしろ)二本松の町の近く塩沢村の機織御前の話などは、また少しばかり変っています。昔ある人が川の流れに出て鍬(くわ)を洗っていて、あやまってそれを水中に取り落した。水底にはいってさがしまわっているうちに、とうとう竜宮まで来てしまいました。竜宮では美しいお姫様がただ一人、機を織っていたといいます。久しく待っていたところへようこそおいでといって、大そうなおとり持ちでありましたが、家のことが気になるので、三日めに暇乞(いとまご)いをして、腰元に路まで送ってもらって、もとの村に帰って来ました。そうすると三日と思ったのがもう二十五年であった。それから記念の為に、この機織御前のお社を建てたという話であります。ただしそれにもまた別のいい伝えはあるので、私はそのことを次ぎにお話して、もうおしまいにします。(相生集。福島県|安達(あだち)郡塩沢村)
機織御前を織物業の元祖の神として、祀っている地方は多いのであります。その一つは能登の能登比※[「口+羊」](のとひめ)神社、この神様は始めて能登国に御兄の神と共にお下りなされ、神様の御衣服を作って後に、その機道具を海中にお投げになったのが、今は織具島(おりぐじま)という島になって、富木浦(とぎのうら)の沖にある。この地方の織物業者が、稗(ひえ)の粥(かゆ)を織糸にぬるのは、もと姫神様のお教えであったといって、今でも四月二十一日の祭礼に、稗粥を造ってお供えすることになっているそうです。(明治神社誌料。石川県|鹿島(かしま)郡能登部村)
野州の那須では那須絹の元祖として、綾織池のかたわらに綾織神社を祭っております。大昔、館野(だての)長者という人が娘の綾姫の為に、綾織大明神を迎えに来たというのが、今の歴史でありますが、その前には驚くような一つの奇談がありました。この池は今から二百五十年前の山崩れに埋まって、小さなものになってしまったが、もとは有名な大池であった。その頃に池の主が美しい女に化けて、都に上ってある人の妻となり、綾を織って追い追いに家富み、後には立派な長者になった。ある時この女房が昼寝をしているのを、夫が来て見ると大きなる蜘蛛(くも)であった。それを騒いだので一首の歌を残して、蜘蛛の女房は逃げて帰った。そうしてこんな歌を残して行ったというのであります。
恋しくばたづねて来(きた)れ下野(しもつけ)の那須のことやの綾織りのいけ
それで夫が、跡を追うて尋ねて来て、再びこの池のほとりで面会したという話もあります。歌はこの地方の臼(うす)ひき歌になって永く伝わっていたといいますから、これもまた那須地方の伝説であったのです。(下野風土記。栃木県那須郡黒羽町北滝字|御手谷(ごてや))
この歌が安倍晴明(あべのせいめい)の母だという葛(くず)の葉の狐の話と、同じものだということは誰にも分りますが、那須の方は子供のことをいっておりません。ところが、歌の文句にある那須のことやというのが、もしこのお社のある御手谷(ごてや)のことであるならば、福島地方の絹の神様、小手姫御前はもとは一つであろうと思いますが、こちらには親子の話があるのであります。小手姫様は今の飯阪の温泉の近く、大清水の村に祀ってあるのが最も有名で、土地では機織御前の宮といっております。いろいろのいい伝えがあって、少しも一致しませんが、今でもよく知られているのは、羽黒山の神様|蜂子(はちこ)の王子の御母君であって、王子のあとを慕ってこの国へお下りなされ、年七十になるまで各地をあるいて、蚕を養い絹を織ることを人民に教え、後に、この大清水の池に身を投げて死なれたというのであります。それはとにかくに、社の前には左右の小池があって水至って清く、今も村々の人は絹を織れば、その織り留めをこの御宮に献納するということであります。(信達二郡村誌。福島県|伊達(だて)郡飯阪町大清水)
この小手姫の小手という語には、何か婦人の技芸という意味が、あったのではないかと思いますが、今の小手川村の内には、また布川という部落もあって、小手姫がここの川原に出て、自ら織るところの布を晒したともいっています。すなわち布を織る姥の信仰の方が、却ってこの地方に絹織物の始まりよりは古かったようであります。そうすると小手姫を蜂子王子の御母といい始めた理由も、幾分か明かになります。すなわち王子の御衣服を調製する役として、早くから共々に祀っていたのが、後に絹工業が盛んになって、独立してその機織御前だけを、拝むようになったとも見えるのであります。前に申した二本松の機織御前なども、領主の畠山高国(はたけやまたかくに)という人が、この地に狩をした時、天から降った織姫に出あって、結婚して松若丸という子が生れた。その松若丸の七歳の時に、母の織姫は再び天に帰り、後にこの社を建てて、祀ることになったと、土地の人たちはいっていたそうで(相生集)、話はまた那須の綾織池の方とも、少しばかり近くなって来るのであります。こういう風に考えて来ると、機を織る姫神を清水のかたわらにおいて拝んだのも、もとは若い男神に、毎年新しい神衣を差し上げたい為であって、どこまで行っても御姥子様の信仰は、岸の柳のように一つの伝説の流れの筋を、われわれに示しているのであります。 
御箸(おはし)成長 

 

御箸を地面にさして置いたら、だんだん大きくなって、大木になったという話が方々にあります。
東京では向島(むこうじま)の吾妻(あずま)神社の脇にある相生(あいおい)の楠もその一つで、根本から四尺ほどの所が二股(ふたまた)に分れていますが、始めは二本の木であったものと思われます。社のいい伝えでは、昔、日本武尊(やまとたけるのみこと)がここで弟橘姫(おとたちばなひめ)をお祭りになった時、お供え物についた楠のお箸を取って土の上に立て、末代天下泰平ならば、この箸二本とも茂り栄えよと仰せられました。そうすると果してその箸に根がついて、後にはこんな大きな木になったというのであります。この楠の枝を四角にけずったものを、今でも産をする人がいただいて行くそうです。それをお箸にして食事をしていれば、必ずお産が軽いと信じた人が多く、またこの木の葉を煎(せん)じて飲むと、疫病をのがれるともいっておりました。(江戸志以下。土俗談語等)
また浅草の観音堂の後にある大公孫樹(おおいちょう)は、源頼朝がさして行ったお箸から、芽を出して成長したものだといういい伝えもありました。(大日本老樹名木誌。東京市浅草公園)
頼朝のお箸の木は、これ以外にも、まだ関東地方には、そちこちに残っております。
武蔵(むさし)ではまた土呂(どろ)の神明様の社の脇の大杉が、源義経の御箸であったと申します。義経は蝦夷地(えぞち)へ渡って行く以前に、一度この村を通って、ここに来て休憩したことがあるのだそうです、そうして静かな見沼(みぬま)の風景を眺めながら昼の食事をしたというのであります。その時に箸を地にさして行ったのが、芽を生じて今の大杉になったといっております。(大日本老樹名木誌。埼玉県|北足立(きたあだち)郡|大砂土(おおさと)村)
武蔵の入間(いるま)郡には椿峯(つばきみね)という所が二箇所あります。その一つは、御国(みくに)の椿峯で、高さ四五尺の塚の上に、古い椿の木が二本あります。これは昔新田義貞が、この地に陣取って食事をした時に、お箸に使った椿の小枝をさして置いたのが、後にこの様に成育したといい伝えております。(入間郡誌。埼玉県入間郡山口村)
いま一つは山口の北隣りの北野という村の椿峯で、これは新田|義興(よしおき)が、椿の枝を箸にして、ここで食事をしたようにいっておりますが、ちょうど村境の山の中に、双方がごく近くにあるのですから、もとは一つの話を二つにわけていい伝えたものであります。(同書。同郡|小手指(こてさし)村北野)
それからいま一つ外秩父(そとちちぶ)の吾野(あがの)村、子(ね)の権現山(ごんげんやま)の登り口に、飯森杉という二本の老木があります。これは子の聖(ひじり)という有名な上人(しょうにん)が、初めてこの山に登った時に、ここで休んで、昼餉(ひるげ)に用いた杉箸を地にさして行ったと伝えております。こういうふうに人はいろいろに変っても、いつもお昼の食事をした場所ということになっているのは、何か理由のあることでなければなりません。(老樹名木誌。埼玉県秩父郡吾野村大字南)
甲州では、東山梨の小屋舗(こやしき)という村に、また一つ日本武尊の御箸杉という木がありました。それは松尾神社の境内で、熊野権現の祠(ほこら)の後にある大木でありました。日本武尊の御遺跡という所は、山梨県にはまだ方々にありますが、いずれも詳しいことは伝わっておりません。(甲斐(かい)国誌。山梨県東山梨郡松里村)
そこから余り遠くない等々力(とどろき)村の万福寺(まんぷくじ)という寺にも、親鸞(しんらん)上人の御箸杉という大木が二本あって、それ故に、また杉の御坊とも呼んでおりましたが、二百年以上も前の火事に、その一本は焼け、残りの一本も後に枯れてしまいました。昔、親鸞がこの寺に来て滞在しいよいよ帰ろうという日に、出立(でたち)の膳の箸を取って、御堂の庭にさしました。阿弥陀如来(あみだにょらい)の大慈大悲には、枯れた木も花が咲く。われわれ凡夫もそのお救いに洩れぬ証拠は、この通りといってさして行きましたが、果たせるかな、幾日もたたぬうちに、その箸次第に根をさし芽を吹いて、いつしか大木と茂り秀(ひい)でたというのであります。(和漢三才図会以下。東山梨郡等々力村)
関東では東上総(ひがしかずさ)の布施(ふせ)という村の道の傍にも、幾抱えもある老木の杉が二本あって、その地を二本杉と呼んでおりました。これはまた、昔源頼朝が、ここを通って安房(あわ)の方へ行こうとする際に、村の人たちが出て来て、将軍に昼の飯をすすめました。箸には杉の小枝を折って用いたのを、記念の為にその跡にさし、それが生えついて、この大木となったといって、そこも新田義貞の椿峯と同様に、小さい塚になっていたと申します。(房総志料。千葉県|夷隅(いすみ)郡布施村)
なおこれから四里ばかり西に当って、市原郡の平蔵(へいぞう)という村の二本杉にも、同じく頼朝公が御箸をさして行かれたという伝説が残っておりました。いつも頼朝であり、また箸であることは、よほど珍しい話といわねばなりません。(房総志料続編。千葉県市原郡|平三(へいぞう)村)
上総では、また頼朝公の御箸は、薄(すすき)の茎をもって作り、食事の後にそれをさして置いたらついたので、今でも六月二十七日の新箸(にいばし)という祭り日には、薄を折って箸にするといい伝えている村があります。(南総之俚俗。千葉県|長生(ちょうせい)郡高根本郷村宮成)
越後などでは、七月二十七日を青箸の日と名づけて、必ず青萱(あおかや)の穂先を箸に切って、その日の朝の食事をする村が多かったそうです。そのいわれは、昔川中島合戦の時に、上杉謙信が諏訪明神(すわみょうじん)に祈って、武運思いの通りであった故に、その後永く諏訪の大祭りの七月二十七日の朝だけは、神のお喜びなされる萱の穂を、箸に用いることにしたのだといっておるのであります。(温故之栞巻二十)
或(あるい)はまた頼朝は葭(よし)を折って、箸に用いたとも伝えております。上総の畳が池は、八段歩に近い大池でありますが、一本も葭というものが生えません。それは昔頼朝公が、この池の岸で昼の弁当を使い、葭を折って箸にしたところが、あやまって唇を傷つけました。それで腹を立てて葭の箸を池に投げ込んだので、今でもこの池には葭が育たぬのだといっております。(上総国誌稿。千葉県君津郡清川村)
下総(しもうさ)では、印旛(いんば)郡|新橋(にっぱし)の葦(あし)が作(さく)という所に、これは頼朝の御家人(ごけにん)であった千葉介常胤(ちばのすけつねたね)の箸が、成長したという葦原があります。やはりこの池を通行して昼の食事をするのに、葦を折って箸に使い、後でそれを地面にさして行くと、その箸に根を生じて、追々に茂ったといい、元が箸だから今でも必ず二本ずつ並んで生えるのだと伝えておりました。(印旛郡誌。千葉県印旛郡富里村新橋)
安房の洲崎(すのさき)の養老寺という寺の庭には、やはり頼朝公の昼飯の箸が成長したと称して、清水の傍に薄の株がありますが、これは前の話とは反対に、毎年ただ一本だけしか茎が立たぬので、一本薄の名をもって知られておりました。尾花は普通には何本も一しょに出ますから、何か特別の理由がなくてはならぬというふうに、考えられていたものと思われます。(安房志。千葉県安房郡西岬村)
葦と薄の箸の話は、もうこの他には聞いておりません。東北地方では、陸中横川目の笠松(かさまつ)があります。黒沢尻から横手に行く鉄道の近くで、汽車の中からよく見える松です。これは親鸞上人の御弟子の信秋(のぶあき)という人が、やはり甲州の万福寺の話と同じ様に、仏法のたっといことを土地の人たちに示すために、食事の箸に使った松の小枝を二本、地面にさして行ったのが大きくなったのだといわれております。(老樹名木誌。岩手県和賀郡横川目村)
それからまた、越後に来て、北蒲原(きたかんばら)郡|分田(ぶんた)村の都婆(つば)の松が、これまた親鸞上人の昼飯の箸でありました。この松は女の姿になって京都に行き、松女と名乗って本願寺の普請の手伝いをしたというので、非常に有名になっている松であります。(郷土研究一編。新潟県北蒲原郡分田村)
能登の上戸(うえど)の高照寺(こうしょうじ)という寺の前に、古くは能登の一本木ともいわれた大木の杉がありました。これは八百年も長命をしたという若狭の白比丘尼(しろびくに)の、昼餉の箸でありました。白比丘尼は、ある時眼の病にかかって、この寺の薬師|如来(にょらい)に、百日の間願かけをしました。そうして信心のしるしに、杉の箸を地に立てたともいっております。この尼は箸ばかりでなく、諸国をめぐって杖(つえ)や椿の小枝をさし、それが皆今は大木になっているのであります。(能登国名跡志以下。石川県|珠洲(すず)郡上戸村寺社)
加賀では白山(はくさん)の麓(ふもと)の大道谷(だいどうだに)の峠の頂上に、また二本杉と呼ばるる大木があって、これは有名なる泰澄(たいちょう)大師が、昼飯に用いた箸を地にさしたといっております。ここはちょうど越前と加賀との国境で、峠の向うは越前の北谷、この辺にも色々と泰澄大師の故跡があります。(能美(のみ)郡誌。石川県能美郡白峰村)
越前では丹生(にう)郡の越知山(おちさん)というのが、泰澄大師の開いた名山の一つであります。泰澄はこの山に住んで、食べ物のなくなった時に、箸を地上にさしたのが成長したといって、大きな檜(ひのき)が今でも二本あります。くわしい話はわかりませぬが、これも信心の力で、やがて食べ物が得られたというのであろうと思います。(郷土研究一編)
近江国では、聖徳太子が百済寺(くだらじ)をお建てなされた時に、この寺もし永代に繁昌すべくばこの箸成長して、春秋の彼岸に花咲けよと祝して、おさしなされたという供御(くご)の御箸が、木になって二本とも残っております。土地の名を南花沢、北花沢、その木を花の木といっております。楓(かえで)の一種ですが、花が美しく、また余りたくさんにはない木なので、この頃は非常に注意せられるようになりました。しかし美濃三河の山中などにも、たまに大木を見かけることがあって、大抵はあるとうとい旅人が、箸を立てたという伝説を伴うているそうであります。(近江国輿地誌略以下。滋賀県|愛知(えち)郡東押立村)
この地方では今一つ、更に驚くべき御箸の杉が、犬上(いぬがみ)郡の杉阪という所にあります。大昔|天照大神(あまてらすおおみかみ)が、多賀(たが)神社の地に御降りなされた時に、杉の箸をもって昼飯を召し上り、それをお棄てなされたのが栄えたと伝えて、境の山に大木になって今でもあります。(老樹名木誌。滋賀県犬上郡脇ヶ畑村杉)
聖徳太子の御箸の木は、大阪にももとは一本ありました。玉造(たまつくり)の稲荷(いなり)神社の地を栗岡(くりおか)山、または栗山といってのは、その伝説があった為で、ここでは栗の木をけずったお箸であったといっております。太子が物部守屋(もののべのもりや)とお戦いなされた時に、このいくさ勝利を得べきならば、この栗の木、今夜のうちに枝葉|出(い)ずべしといって、おさしなされたお食事の箸が、果して翌朝は茂った木になっていたと伝えられます。もちろん普通にはあり得ないことばかりですが、それだから太子の御勝利は、人間の力でなかったというふうに、以前の人は解釈していたのであります。(芦分船(あしわけぶね)。明治神社誌料)
美作(みまさか)大井荘の二つ柳の伝説などは、至って近い頃の出来事のように信じられておりました。ある時|出雲国(いずものくに)から一人の巡礼がやって来て、ここの観音堂に参詣をして、路のかたわらで食事をしました。この男は足を痛めていたので、これから先の永い旅行が無事に続けて行かれるかどうか、非常に心細く思いまして、箸に使った柳の小枝を地上にさして、道中安全を観音に祈りました。そうして旅をしているうちに、だんだんと足の病気もよくなり、諸所の巡拝を残る所もなくすませました。何年か後の春の暮れに、再びこの川のほとりを通って気をつけて見ると、以前さして置いた箸の小枝は、既に成長して青々たる二本の柳となっていました。そこで二つ柳という地名が始まったと伝えております。二百年前の大水にその柳は流れて、後に代りの木を植えついだというのが、それもまた大木になっていたということであります。(作陽誌。岡山県|久米(くめ)郡|大倭(やまと)村南方中)
四国で二つあるお箸杉の伝説だけは、もう今日では昼の食事ということをいっておりません。その一つは阿波の芝村の不動の神杉(かみすぎ)というもの、二本の大木が地面から二丈ほどの所で、三間四方もある大きな巌石を支えております。昔弘法大師が、この地を通って、大きな岩の落ちかかっているのを見て、これはあぶないといって、二本の杉箸を立てて去った。それが芽をふき成長して、大丈夫な大きな樹になったのだと伝えております。(徳島県老樹名木誌。徳島県|海部(かいふ)郡川西村芝)
伊予の飯岡村の王至森寺(おうじもりじ)にあるものに至っては、なん人(びと)の箸であったかということも不明になりましたが、それでも杉の木の名は真名橋杉、まなばしとは御箸のことであります。八十年余り前に、この木を伐(き)ってしまったところが、村に色々の悪いことが続きました。或は真名橋杉を伐ったためではなかろうかといって、新たに今ある木を植えて、古い名を相続させ、それを木の神として尊敬しております。(老樹名木誌。愛媛県|新居(にい)郡飯岡村)
九州には、またこんな昔話のような伝説が残っております。昔肥前の松浦領と伊万里(いまり)領と、領分境をきめようとした時に、松浦の波多三河守(はたみかわのかみ)は、伊万里|兵部大夫(ひょうぶだゆう)と約束して、双方から夜明けの鶏の声をきいて馬を乗り出し、途中行き逢うた所を領分の堺に立てようということになりました。ところがその夜、岸嶽(きしだけ)の鶏が宵鳴きをしたので、松浦の使者は早く出発し、隣りの領の白野(しらの)なた落(おち)という所に来て、始めて伊万里の使者に行き逢いました。これではあまりに片方へ寄り過ぎるというので、伊万里方から頼んで、十三塚という所まで引き下ってもらって、その野原で馬から下りて、酒盛り食事をしました。その時用いたのは栗の木の箸でしたが、それを記念のために、その場所に※[「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている](さ)して帰って来ますと、後に箸から芽を出して、そこに栗の木が茂りました。不思議なことには毎年花が咲くばかりで、実はならなかったといい伝えております。(松浦昔鑑)
これと同じ様な話は気をつけていると、まだいくらでも知っている人が出て来ます。以前はほんとうにそんなことがあったと思っていた者が多かったので、永い間皆が覚えていたのであります。里でも山の中でも村の境でも、神のお祭りをする大切な場所には、必ず何か変った木が伐り残してありました。それが近江の花の木の如く、種類の非常に珍しいものもあれば、また向島の相生の樟(くす)のように、枝振りや幹の形の目につくものもありましたが、最も普通には、同じ年齢の同じ木を二本だけ並べて残したのであります。そうして置けば、すぐに偶然のものでないことが後の人にもわかったのであります。
そうして一方にはお祭りの折りに限って、木の串(くし)または木の枝を土にさす習慣がありました。同時にまた新しい箸をけずって、祭りの食事を神と共にする習慣もありました。箸は決して成長して大木となることの出来るものではありませんが、大昔ならば、また神様の力ならば、そんなことがあっても不思議でないと思ったのです。それもただの人には、とうてい望まれぬことである故に、かつて最も優れた人の来た場合、もしくは非常の大事件に伴うて、そういう出来事があったように、想像する者が多くなりました。しかし実際はそれよりもなお以前から、やはりこれは大昔の話として、語り伝えていたものであったろうと思います。 
行逢阪(ゆきあいざか) 

 

境は、最初神々が御定めになったように、考えていた人が多かったのであります。人はいつまでも境を争おうとしますが、神様には早く約束が出来ていて、そのしるしにはたいてい境の木、または大きな岩がありました。大和と伊勢の境にある高見山の周囲では、奈良の春日(かすが)様と伊勢の大神宮様とが、御相談の上で国境をおきめなされたといっております。春日様は余り大和の領分が狭いので、いま少し、いま少しとのぞまれて果てしがない。いっそのこと出逢い裁面(さいめん)として、境をつけ直そうということになりました。裁面はさいめ、すなわち堺のことで、双方から進んで来て、出おうた所を境にしようというわけであります。そこで春日の神様は鹿に乗ってお立ちになる。伊勢は必ず御神馬(ごしんめ)に乗って、かけて来られるに相違ないから、これはなんでもよほど早く出かけぬと負けるといって、夜の明けぬうちに出発なされました。そのために却って春日様の方が早く伊勢領にはいって、宮前(みやのまえ)村のめずらし峠の上で、伊勢の神様とお出あいになりました。おお春日はん珍しいと声をおかけになった故に、めずらし峠という名前が出来ました。ここを国境にしては余りに伊勢の分が狭くなるので、今度は大神宮様の方からお頼みがあり、笹舟を作って水に浮かべて、その舟のついた所を境にしようということになりました。
その頃はまだこの辺は一面の水で、その水が静かで、笹舟は少しも流れません。それで伊勢の神様は一つの石を取って、これは男石といって水の中に投げこまれますと、舟はただようて今の舟戸(ふなど)村にとまり、水は高見の嶺を過ぎて大和の方へ少し流れました。それを見て伊勢の大神が、舟は舟戸、水は過ぎたにと仰せられたので、伊勢の側には舟戸村があり、大和の方には杉谷の村があります。二村共に神様のお付けになった古い名だといっております。その男石は今もめずらし峠の山中にあって、新道を通っても遠くからよく見えます。村の家に子供の生れようとする者が、今でもこの石を目がけて小石を打ちつけて、生れる子が男か女かと占います。男が生れる時には、必ずその小石が男石に当るといっております。三十年ほど前までは、この男石の近くに、古い大きな榊(さかき)の木が、神に祀(まつ)られてありました。伊勢の神様が神馬に乗り、榊の枝を鞭(むち)にしておいでになったのを、ちょっと地に※[「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている](さ)して置かれたものが、そのまま成長して大木になった。それ故に枝はことごとく下の方を向いて伸びているといいました。この木をさかきというのも、逆木の意味で、ここが始まりであったと土地の人はいっております。(郷土研究二編。三重県|飯南(はんなん)郡宮前村)
大和と熊野との境においても、これと近い話が伝わっておるそうであります。春日様は、熊野の神様と約束をして、やはり肥前の松浦人と同じように、行き逢い裁面として領分境をきめようとせられました。熊野は烏に乗って一飛びに飛んで来られるから、おそくなっては負けると思って、まだ夜の明けぬうちに春日様は、鹿に乗って急いでおでかけになると、熊野の神様の方では油断をして、まだ家の内に休んでおられました。約束通りにすると、軒の下まで大和の領分にしなければならぬのですが、それでは困るので無理に春日様に頼んで、熊野の烏の一飛び分だけ、地面を返してお貰いになりました。それ故に、今でも奈良県は南の方へ広く、熊野は堺までがごく近いのだといいますのは、まるで兎と亀との昔話のようであります。
これとよく似たいい伝えが、また信州にもありました。信州では、諏訪大明神が国堺を御きめなされるために、安曇(あずみ)郡を通って越後の強清水(こわしみず)という所まで行かれますと、そこへ越後の弥彦(やひこ)権現がお出向きになって、ここまで信濃にはいられては、あまり越後が狭くなるから、いま少し上の方を堺にしようという御相談になり、白池(しらいけ)という所までもどって堺を立てられました。それから西へ廻って越中の立山(たてやま)権現、加賀の白山(はくさん)権現ともお出あいなされて、つごう三箇所の境がきまり、それから後は七年に一度ずつ、諏訪から内鎌(ないがま)というものが来て、堺目にしるしを立てたということであります。(信府統記)
同じ話を、また次のように話している人もあります。昔国境を定める時に、諏訪様は牛に乗り、越後様は馬に乗って、途中ゆきおうた所を境にしようというお約束がきまって、越後様は馬の足は早いから、あまり行き過ぎても失礼だと思って、夜が明けて後にゆっくりとお出かけになる。諏訪様の方では、牛は鈍いからと、夜中にたって大急ぎでやって来られたので、先に越後分の塞(さい)の神という所まで来て、そこでやっと越後様の馬と出あわれた。これは来過ぎたわいと、少し引き返して出直して行かれたという所を、諏訪の平というのだそうであります。(小谷口碑集。新潟県|西頸城(にしくびき)郡根知村)
昔はこういうふうに、国の境を遠くと近くと、二所にきめて置く習慣があったらしいのであります。そうすればなるほど喧嘩(けんか)をすることが、少くて済んだわけであります。豊後(ぶんご)と日向(ひゅうが)との境の山路などでも、嶺から少し下って、双方に大きなしるしの杉の木がありました。そうして豊後領に寄った方を日向の木、これと反対に日向の側にある方の杉を、豊後の木といっておりました。百年ほど前にその豊後の木が枯れたので、伐って見ますと、太い幹からたくさんの錆(さ)びた鏃(やじり)が出ました。これは矢立(やたて)の杉ともいって、以前はその下を通る人々が、その木に向って箭(や)を射こむことを、境の神を祭る作法としていたのであります。箱根の関山にも甲州の笹子(ささご)峠にも、もとは大きな矢立杉の木があったのです。信州の諏訪の内鎌というのも、その箭の代りに鉄の鎌を、神木の幹に打ちこんだものと思われます。近頃になっても、境に近い大木の幹から、珍しい形をした古鎌が折り折り出ました。そうしてそれと同じ鎌が、諏訪では今もお祭りに用いられるので、薙鎌(なぎがま)と書く方が正しいようであります。何にせよ諏訪の明神が、境をお定めになったという伝説は、鎌を打ちこむ神木があるために、出来たものに相違ありませぬが、その話の方はおいおいに変って行くのであります。例えば越後の神様は、諏訪の神の母君で、御子の様子が聞きたくて、越後からわざわざお出でになる路で、ちょうど国境の所で、諏訪の神様とお出あいなされ、諏訪様が鹿島(かしま)、香取(かとり)の神に降参なされたことをきいて、失望してここから別れて、越後へお帰りになったなどというのは、後に歴史の本を読んだ人の考えたことで、安房(あわ)や上総で、源頼朝の旅行のことを、附け加えたのと同じ様な想像であろうと思います。
飛騨(ひだ)の山奥の黍生谷(きびうだに)という村などは、昔川下の阿多野郷(あたのごう)との境が不明なので、争いがあって困っていた時に、双方の村の人が約束を立て、黍生谷では黍生殿、阿多野は大西殿という人を頼み、牛に乗って両方から歩み寄って、行き逢うた所を領分の境とすることにしました。尾瀬(おせ)が洞(ほら)の橋場で、その二つの牛がちょうど出あい、それ以後はこれを村堺に定めたといっております。その黍生殿も大西殿も、共に木曽から落ちて来た隠居の武士(さむらい)であったといいますが、話はまったく春日と熊野、もしくは諏訪と弥彦の、出逢い裁面の伝説と同じものであります。(飛騨国中案内。岐阜県|益田(ました)郡朝日村)
美濃の武儀(むぎ)郡の柿野(かきの)という村と、山県郡北山という村との境には、たにのしおという所があって、そこに柿野の氏神様と、北山の鎮守様とが、別れの盃(さかずき)をなされたといい伝えております。金の盃と黄金の鶏とを、その地へ埋めて行かれたので、今でも正月元日の朝は、その黄金の鶏が出て鳴くといっております。(稿本美濃志。岐阜県武儀郡|乾(いぬい)村)
二つの土地の神様を、同じ日に同じ場所で、お祭り申す例は方々にありました。そうすれば隣り同士仲が良く、境の争いは出来なくなるにきまっています。地図も記録もなかった昔の世の人たちは、こうしでだんだんにむりなことをせずに、よその人と交際することが出来るようになりました。だからどこの村でも伝説を大事にしていたので、もし伝説が消えたり変ったりすれば、お祭りのもとの意味がわからなくなってしまうのであります。
行き逢い祭りをするお社は、別になんという神様に限るということはなかったのであります。信州では雨宮(あめみや)の山王(さんのう)様と、屋代(やしろ)の山王様と同じ三月|申(さる)の日の申の刻に、村の境の橋の上に二つの神輿(みこし)が集って、共同の神事がありました。その橋の名を浜名の橋といっております。東京の近くでは、北と南の品川の天王様の神輿が、二つの宿の境に架けた橋の上で出あい、橋の両方の袂(たもと)のお旅所でお祭りをしました。そうしてその橋を行き逢いの橋というのであります。東京湾内の所々の海岸には、まだ幾つでもこれと同じお祭りがありますが、もとは境を定めるのが目的であったことを、もう忘れている人が多いようであります。そうして一方が姫神である場合などは、これを神様の御婚礼かと思う者が多くなったのであります。 
袂石(たもといし) 

 

昔|備後(びんご)の下山守(しもやまもり)村に、太郎左衛門という信心深い百姓があって、毎年かかさず安芸(あき)の宮島さんへ参詣(さんけい)しておりました。ある年神前に拝みをいたして、私ももう年をとってしまいました。お参りもこれが終りでござりましょう、といって帰って来ますと、船の中で袂に小さな石が一つ、はいっているのに心付きました。誰か乗り合いの人がいたずらをしたものであろうと思って、その石を海へ捨てて寝てしまいました。翌朝目が覚めて見ると、同じ小石がまた袂の中にあります。あまり不思議に思って大切にして村へ持って帰り、近所の人にその話をしましたところが、それは必ず神様からたまわった石であろう。祀(まつ)らなければなるまいといって、小さなほこらを建ててその石を内に納め、厳島大明神(いつくしまだいみょうじん)と称(とな)えてあがめておりました。その石が後にだんだんと大きくなったということで、この話をした人の見た時には、高さが一尺八寸ばかり、周りが一尺二三寸程もあったと申します。それからどうしたかわかりませんが、もし今でもまだあるならば、またよほど大きくなっているわけであります。(芸藩志料。広島県|蘆品(あししな)郡|宜山(むべやま)村)
信州の小野川には、富士石という大きな岩があります。これは昔この村の農民が富士に登って、お山から拾って来た小石でありました。家の近くまで帰った時、袂の埃(ごみ)を払おうとして、それにまぎれてここへ落したのが、いつの間にかこのように成長したものだといっております。(伝説の下伊那(しもいな)。長野県下伊那郡智里村)
また同じ地方の今田の村に近い水神の社には、生き石という大きな岩があります。これは昔ある女が、天竜川の川原で美しい小石を見つけ、拾って袂に入れてここまで来るうちに、袂が重くなったので気がついて見ると、その小石がもう大きくなっていました。そうして自分が爪の先で突いた小さな疵(きず)が石と共に大きくなっているので、びっくりしてこの水神様の前へ投げ出しました。それが更に成長して、しまいにはこのような巌(いわお)となったのだといい伝えております。(伝説の下伊那。長野県下伊那郡竜江村)
熊野の大井谷という村でも、谷川の中流にある大きな円形の岩、高さ二間半に周りが七間もあって、上にはいろいろの木や草の茂っているのを、大井の袂石といってほこらを建てて祀っておりました。それをまた福島石ともいっていましたが、そのわけはもう伝わっておりません。(紀伊国絵風土記。三重県|南牟婁(みなみむろ)郡五郷村)
伊勢の山田の船江(ふなえ)町にも、白太夫(しらだゆう)の袂石という大石があります。高さは五尺ばかり、周りに垣をして大切にしてありますが、これは昔|菅公(かんこう)が筑紫(つくし)に流された時、度会春彦(わたらいのはるひこ)という人が送って行って、帰りに播州(ばんしゅう)の袖の浦という所で、拾って来たさざれ石でありました。それが年々大きくなって、終(つい)にこの通りの大石となったので、その傍に菅公の霊を祀ることになったといい伝えて、今でもそこには菅原社があります。(神都名勝誌。三重県宇治山田市船江町)
土佐の津大(つだい)村と伊予の目黒村との境の山に、おんじの袂石という高さ二間半、周り五間ほどの大きな石がありました。これは昔曽我の十郎五郎兄弟の母が、関東から落ちて来る時に、袂に入れて持って来たものといい伝えております。この地方の山の中の村には、曽我の五郎を祀るという社が方々にあり、またその家来の鬼王団三郎(おにおうだんさぶろう)の兄弟が住んでいたという故跡なども諸所にあります。曽我の母が落人(おちゅうど)になって来ていたということも、この辺ではよく聞く話なのであります。(大海集。高知県|幡多(はた)郡津大村)
肥後の滑石(なめいし)村には、滑石という青黒い色の岩が、もとは入り海の水の底に見えておりましたが、埋め立ての田が出来てから、わからなくなってしまいました。この石は神功(じんぐう)皇后が三韓征伐のお帰りに、袂に入れてお持ちになった小石が、大きくなったのだといっておりました。(肥後国志。熊本県玉名郡滑石村)
九州の海岸には神功皇后の御上陸なされたといい伝えた場所が、またこの他にもいくつとなくあります。そうして記念の袂石を大切にしていたところも、方々にあったのではないかと思います。一番古くから有名になっていたのは、筑前|深江(ふかえ)の子負原(こうのはら)というところにあった二つの皇子(みこ)産み石であります。これはお袖の中に※[「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている](はさ)んでお帰りになったという小石ですが、万葉集や風土記の出来た頃には、もう一尺以上の重い石になっておりました。卵の形をした美しい石であったそうです。後にはどこへ移したのか、知っている人もなくなりました。土地の八幡(はちまん)神社の御神体になっているといった人もあれば、海岸の岡の上に今でもあって、もう三尺余りになっているという人もありました。(太宰(だざい)管内志。福岡県糸島郡深江村)
大きくなった石というのは、大抵は遠くから人が運んで来た小石で、始めからそこいらのただの石とは違っておりました。下総の印旛(いんば)沼の近く、太田村の宮間某という人の家では、屋敷に石神様のほこらを建てて、五尺余りの珍しい形の石を祀っていました。むかしこの家の前の主人が、紀州熊野へ参詣の路で、草鞋(わらじ)の間に挾(はさ)まった小石を取って見ますと実に奇抜な恰好をしていました。あまり珍しいので燧袋(ひうちぶくろ)の中に入れて持って帰りますと、もう途中からそろそろ大きくなり始めたといっております。(奇談雑史。千葉県印旛郡根郷村)
また千葉郡|上飯山満(かみはざま)の林という家でも、この成長する石を氏神に祀っていました。これはずっと以前に主人が伊勢参りをして、それから大和をめぐって途中で手に入れた小石で、巾着(きんちゃく)に入れて来た故に、その名を巾着石と呼んでいました。(同書。同県千葉郡二宮村)
土佐の黒岩村のお石は有名なものでありました。神に祀って大石神、また宝御伊勢神と称(とな)えております。これもずっと昔ある人が、伊勢から巾着に入れて持って来てここに置いたのが、終にこの見上げるような大岩になったのだといっております。(南路志|其他(そのた)。高知県高岡郡黒岩村)
筑後にも大石村の大石神社といって、村の名になった程の神の石があります。昔大石越前守という人が、伊勢国からこの石を懐に入れて参りまして、これを伊勢大神宮と崇(あが)めたともいえば、或(あるい)は一人の老いたる尼が、小石を袂に入れてこの地まで持って来たのが、次第に大きくなったともいっております。今から三百年前に、もう九尺三方ほどになっておりました。そうして別に今一つ三尺ほどの石があって、村の人はそれをも伊勢御前と称えて、社をたてて納めておりました。その社殿を何度も造り替えたのは、だんだん大きくなって、はいらなくなって来たからだといっております。(校訂筑後志。福岡県|三瀦(みずま)郡|鳥飼(とりかい)村)
この大石村のお社には、安産の願掛けをする人が多かったそうです。石のように堅く丈夫な子供、おまけに知らぬ間に大きくなるという子供を、親としては望んでいたからでありましょう。熊野から来たという石の中には、ただ成長するだけでなく、親とよく似た子石を産んだという伝説もありました。例えば九州の南の種子島(たねがしま)の熊野浦、熊野権現の神石などもそれでありました。このお社は昔この島の主、種子島|左近将監(さこんのしょうげん)という人が熊野を信仰して、遠くかの地より小さな石を一つ、小箱に入れて迎えて来ましたところが、それが年々に大きくなって、後には高さ四尺七寸以上、周りは一丈三尺余、左右に子石を生じてその子石もまた少しずつ成長し、色も形も皆母石と同じであったと申します。(三国名勝図会。鹿児島県熊毛郡中種子村油久)
これとよく似た話がまた日本の北の田舎、羽前(うぜん)の中島村の熊野神社にもありました。今から四百年ほど前にこの村の人が、熊野へ七度詣りをした者が、記念の為に那智の浜から、小さな石を拾って帰りました。それが八十年ばかりの間にだんだんと大きくなって、後には一抱えに余るほどになりました。形が女に似ているので姥石(うばいし)という名をつけました。それが年々に二千余りの子孫を生んで、大小いずれも形は卵の如く、太郎石次郎石、孫石などと呼んでいたというのは、見ない者にはほんとうとも思われぬ程の話ですが、これをこの土地では今熊野といって、拝んでいたそうであります。(塩尻。山形県北村山郡宮沢村中島)
土佐では今一つ。香美(かがみ)郡|山北(やまきた)の社に祀る神石も、昔この村の人が京の吉田神社に参詣して、神楽岡(かぐらおか)の石を戴いて帰って来たのが、おいおいに成長したのだといっております。(土佐海続編。高知県香美郡山北村)
伊勢では花岡村の善覚寺(ぜんかくじ)という寺の、本堂の土台石が成長する石でした。これは隣りの庄という部落の人が、尾張|熱田(あつた)の社から持って来て置いたもので、その人はもと熱田の禰宜(ねぎ)であったのが、この部落の人と結婚したために、熱田にいられなくなってここへ来て住んだといって、そこには今でも越石(こしいし)だの熱田だのという苗字(みょうじ)の家があります。(竹葉氏報告。三重県|飯南(はんなん)郡|射和(いさわ)村)
肥後の島崎の石神社(いしがみやしろ)の石も、もとは宇佐八幡の神官|到津(いとうづ)氏が、そのお社の神前から持って来て祀ったので、それから年々太るようになったといっております。(肥後国志。熊本県|飽託(ほうたく)郡島崎村)
この通り、大きくなるのに驚いて人が拝むようになったというよりも、始めから尊い石として信心をしているうちに、だんだんと大きくなったという方が多いのであります。だからその石がどこから来たかということを、今少しお話しなければならぬのでありますが、安芸の中野という村では、高さの二丈もある田圃(たんぼ)の中の大きな岩を、出雲石(いずもいし)といっておりました。これもまだ小石であったうちに、人が出雲国から持って来て、ここに置いたのが大きくなったといっております。(芸藩通志。広島県豊田郡高阪村)
その出雲国では飯石(いいし)神社の後にある大きな石が、やはり昔から続いて大きくなっておりました。石の形が飯を盛った様だからともいえば、或は飯盒(はんごう)の中にはいったままで、天から降って来た石だからともいっております。(出雲国式社考以下。島根県飯石郡飯石村)
どうしてその石の大きくなったのがわかるかといいますと、その周りの荒垣を作りかえる度毎に、少しずつ以前の寸法を、延べなけらば納まらぬからといっております。豊前(ぶぜん)の元松(もとまつ)という村の丹波大明神なども、四度もお社を作り替えて、だんだんに神殿を大きくしなければならなかったといっておりました。昔丹波国から一人の尼が、小石を包んで持って来て、この村に来て亡くなりました。その小石が大きくなるのでこのほこらの中に祀り、丹波様と呼ぶようになったのだそうであります。(豊前志)
石見(いわみ)の吉賀(よしが)の注連川(しめがわ)という村では、その成長する大石を牛王石(ごおういし)といっております。これは昔四国を旅行した者が、ふところに入れて持って帰った石だと申しています。(吉賀記。島根県|鹿足(かのあし)郡朝倉村)
富士石という石がまた一つ、遠江(とおとうみ)の石神村にもありました。村の山の切り通しのところにあって、これも年々大きくなるので、石神大神として祀ってありました。多分富士山から持って来た小石であったと、土地の人たちは思っていたことでありましょう。(遠江国風土記伝。静岡県|磐田(いわた)郡上阿多古村)
関東地方では秩父(ちちぶ)の小鹿野(おがの)の宿に、信濃石という珍らしい形の石がありました。大きさは一丈四方ぐらい、まん中に一尺ほどの穴がありました。この穴に耳を当てていると、人の物をいう声が聴えるともいいました。これは昔この土地の馬方が信州に行った帰りに、馬の荷物の片一方が軽いので、それを平にするために、路で拾って挾んで来た小石が、こんな大きなものになったというのであります。(新編武蔵風土記稿。埼玉県秩父郡小鹿野町)
その信州の方にはまた鎌倉石というのがありました。佐久(さく)の安養寺(あんようじ)という寺の庭にあって、始めて鎌倉から持って来た時には、ほんの一握りの小石であったものが、だんだん成長して四尺ばかりにもなったので、庭の古井戸の蓋にして置きますと、それにもかまわずに、後には一丈以上の大岩になってしまいました。だからすき間からのぞいて見ると、岩の下に今でも井の形が少し見えるといいました。(信濃奇勝録。長野県|北佐久(きたさく)郡三井村)
こうしてわざわざ遠いところから、人が運んで来るほどの小石ならば、何かよくよくの因縁があり、また不思議の力があるものと、昔の人たちは考えていたらしいのでありますが、中にはまたもっと簡単な方法で、大きくなる石を得られるようにいっているところもあります。九州の阿蘇(あそ)地方などでは、どんな小石でも拾って帰って、縁の下かどこかに匿(かく)して置くと、きっと大きくなっているように信じていました。やたらに外から小石を持って来ることを嫌っている家は今でも方々にあります。川原から赤い石を持って来ると火にたたるといったり、白い筋のはいった小石を親しばり石といって、それを家に入れると親が病気になるなどといったのも、つまり子供などのそれを大切にすることも出来ない者が、祀ったり拝んだりする人の真似をすることを戒める為にそういったものかと思います。
だから人は滅多に石を家に持って来ようとしなかったのですが、何かわけがあって持って来るような石は、大抵は不思議が現れたといい伝えております。奥州|外南部(そとなんぶ)の松ヶ崎という海岸では、海鼠(なまこ)を取る網の中に、小石が一つはいっていたので、それを石神と名づけて祀って置くと、だんだんと大きくなったといって、見上げるような高い石神の岩が村の近くにありました。(真澄遊覧記。青森県下北郡脇野沢村|九艘泊(くそうとまり))
隠岐島(おきのしま)の東郷という村では、昔この浜の人が釣りをしていると、魚は釣れずに握り拳ほどの石を一つ釣り上げました。あまり不思議なので、小さな宮を造って納めて置きますと、だんだん成長して七八年の後には、左右の板を押し破りました。それで今度は社を大きく建て直すと、またいつの間にかそれを押し破ったといって、後にはよほど立派なお宮になっていたそうです。(隠州視聴合記。島根県|周吉(すき)郡東郷村)
阿波の伊島という島でも、網をひいていますと、鞠(まり)の形をした小石が網にはいって上りました。それを捨てるとまた翌日もはいります。そんなことが三日続いて、三日めは殊に大漁であったので、その石を蛭子(えびす)大明神として祀りました。それから一そう土地の漁業が栄え、小石もまたほこらの中で大きくなって、五六年のうちにはほこらが張りさけてしまうので、三度めにはよほど大きく建て直したそうです。(燈下録。徳島県那賀郡伊島)
こういう例はいつも海岸に多かったようであります。鹿児島湾の南の端、山川の港の近くでも、昔この辺の農夫がお祀りの日に潮水を汲(く)みに行きますと、その器の中に美しい小さな石がはいっておりました。三度も汲みかえましたが、三度とも同じ石がはいって来るので、不思議に感じて持って帰りましたところが、それが少しずつ大きくなりました。驚いてお宮を建てて祀ったといい伝えて、それを若宮八幡神社といっております。そうして御神体はもとはこの小石でありました。(薩隅日(さつぐうにち)地理|纂考(さんこう)。鹿児島県|揖宿(いぶすき)郡山川村成川)
沖縄県などで今も村々の旧家で大切にしている石は、多くは海から上った石であります。別にその形や色に変ったところがないのを見ますと、何かそれを拾い上げた時に、不思議なことがあったのであろうと思います。薩摩(さつま)には石神氏という士族の家が方々にありますが、いずれも山田という村の石神神社を、家の氏神として拝んでおりました。そのお社の御神体も、白い色をした大きな御影(みかげ)石の様な石でありました。昔先祖の石神重助という人が、始めてこの国へ来る時に道で拾ったともいえば、或は朝鮮征伐の時に道中で感得したともいい、これも下総の宮間氏の石の如く、草鞋の間に挾まって何度捨ててもまたはいっていたから、拾って来たという話がありました。しかし今日では運搬することも出来ない程の大石ですから、これもやはり永い間には成長したのであります。(三国名勝図会等。鹿児島県薩摩郡永利村山田)
石に神様のお力が現れると、昔の人は信じていたので、始めから石を神として祀ったのではないのですが、神の名を知ることが出来ぬときには、ただ石神様といって拝んでいたようであります。それだから土地によって、石のあるお社の名もいろいろになっております。備後(びんご)の塩原の石神社などは、村の人たちは猿田彦(さるたひこ)大神だと思っておりました。その石などもおいおいに成長するといって、後には縦横共に一丈以上にもなっていました。普通には石神は路のかたわらに多く、猿田彦もまた道路を守る神であった為に、自然にそう信ずるようになったのであります。(芸藩通志。広島県|比婆(ひば)郡|小奴可(おぬか)村塩原)
常陸(ひたち)の大和田村では、後には山の神として祀っておりました。これは地面の中から掘り出した石と伝えております。始めは袂の中に入れるほどの小石であったのが、少しずつ大きくなるので、清いところへ持って来て置くと、それがいよいよ成長しました。それで主石(ぬしいし)大明神と唱えていたといい伝えております。(新編常陸国志。茨城県鹿島郡|巴(ともえ)村大和田)
石には元来名前などはないのが普通ですが、こういうことからだんだんに名が出来るようになりました。伊勢石、熊野石が伊勢の神、熊野権現のお社にあるように、出雲石、吉田石、富士石、宇佐石なども、もともとそれぞれの神を祀る人たちが、大切にしていた石でありました。鎌倉石も多分鎌倉の八幡様の、お力で成長したものと考えていたのだろうと思います。しかしどうして来たかがよく分らぬ石には、人がまた巾着石とか袂石というような、簡単な名を附けて置いたのであります。
羽後の仙北(せんぼく)の旭の滝の不動堂には、年々大きくなるという五尺ほどの岩があって、それをおがり石と呼んでおりました。おがるというのはあの地方で、大きくなるという意味の方言であります。(月之出羽路。秋田県仙北郡大川西根村)
備後の山奥の田舎にはまた赤子石というのがありました。それは昔は三尺ばかりであったのが、後には成長して一丈四尺にもなっていたからで、そんなに大きくなってもなお赤子石といって、もとを忘れなかったのであります。(芸藩通志。広島県比婆郡比和村古頃)
飛騨の瀬戸村には、ばい岩という大岩がありました。海螺(ばい)という貝に形が似ているからとも申しましたが、地図には倍岩と書いてあります。これもおおかたもとあった大きさより倍にもなったというので、倍岩といい始めたものだろうと思います。(斐太後風土記。岐阜県益田郡中原村瀬戸)
播州には寸倍石という名を持った石が所々にあります。たとえば加古(かこ)郡の野口の投げ石なども、土地の人はまた寸倍石と申しました。ちょうど郷境の林の中にぽつんと一つあって、長さが四尺、横が三尺、鞠の様な形であったそうですから、前には小さかったのが少しずつ伸びて大きくなったと、いい伝えていたものと思われます。投げ石という名前は方々にありますが、どれもこれも大きな岩で、とても人間の力では投げられそうもないものばかりであります。(播磨鑑(はりまかがみ)。兵庫県加古郡野口村阪元)
大抵の袂石は、人が注意をし始めた頃には、もう余程大きくなっていたようであります。そうして土地で評判が高くなってから後は、ほんとうはあまり大きくはなりませんでした。前にお話をした下総の熊野石なども、熊野から拾って来た時は燧袋の中で、もう大きくなっていたというくらいでありましたが、後にはだんだんと成長が目に立たなくなりました。二十年前に比べると、一寸は大きくなったという人もあれば、毎年米一粒ずつは大きくなっているのだという人もありましたが、それはただそう思って見たというだけで、二度も石の寸法を測って見ようという者は、実際はなかったのであります。或は出雲の飯石神社の神石のように、もとはお社の中に祀ってあったといい、または筑後の大石神社の如く、以前のお宮は今のよりも、ずっと小さかったという話は方々にありますが、それは遠い昔のことであって、石の大きくなって行くところを、見ているということは誰にも出来ません。筍(たけのこ)のように早く成長するものでも、やはり人の知らぬうちに大きくなります。ましてや石は君が代の国歌にもある通り、さざれ石の巌(いわお)となる迄(まで)には、非常に永い年数のかかるものと考えられていたのであります。つまりは一つの土地に住む多くの人が、古くから共同して、石は成長するものだと思っていた為に、こういう話を聴いて信用した人が多かったというだけであります。 
山の背くらべ 

 

石が出しぬけに大きくなろうとして、失敗したという話も残っております。例えば常陸(ひたち)の石那阪(いしなざか)の峠の石は、毎日々々伸びて天まで届こうとしていたのを、静(しず)の明神がお憎みになって、鉄の沓(くつ)をはいてお蹴(け)飛ばしなされた。そうすると石の頭が二つに砕け、一つは飛んで今の河原子(かわらご)の村に、一つは石神の村に落ちて、いずれもその土地ではほこらに祀(まつ)っていたという話があります。一説には、天の神様の御命令で、雷が来て蹴飛ばしたともいって、石那阪ではその残った石の根を、雷神石と呼んでおりました。高さは五丈ばかりしかありませんが、周りは山一杯に根を張って、なるほどもしこのままで成長したら、大変であったろうと思うような大岩でありました。(古謡集其他。茨城県|久慈(くじ)郡阪本村石名阪)
陸中|小山田(こやまだ)村のはたやという社の周囲にも、大きな石の柱の短く折れたようなものが、無数に転がっておりましたが、これも大昔の神代(かみよ)に石が成長して、一夜の中に天を突き抜こうとしていたのを、神様に蹴飛ばされて、このように小さく折れたのだといっておりました。(和賀稗貫二郡志。岩手県和賀郡小山田村)
南会津(みなみあいづ)の森戸村には、森戸の立岩という大きな岩山があります。昔この山が大きくなろうとしていた時に、やはりある神様が来て、その頭を蹴折られたといっております。そうしてそのかけらを持って来て、逆さに置いたのがこれだといって、隣りの岩下の部落には逆岩という高さ八丈、周り四十二丈ほどの大きな岩が今でもあります。(南会津郡案内誌。福島県南会津郡|館岩(たていわ)村森戸)
山を木などのように順々に大きくなったものと、思っていた人がもとはあったのかも知れません。富士山なども大昔|近江国(おうみのくに)から飛んで来たもので、その跡が琵琶(びわ)湖になったのだという話がありました。奥州の津軽では、岩木山のことを津軽富士といっております。昔この山が一夜のうちに大きくなろうとしている時に、ある家のお婆さんが夜中に外へ出てそれを見つけたので、もうそれっきり伸びることを止(や)めてしまった。誰も見ずにいたら、もっと高くなっている筈であったという話であります。磐城(いわき)の絹谷(きぬや)村の絹谷富士は、富士とはいっても二百メートルほどの山ですが、これもちょうど地から湧(わ)き出した時に、ある婦人がそれを見て、山が高くなると大きな声でいったので、高くなることを止めてしまいました。もし女がそんなことをいわなかったら、天にとどいたかも知れぬと、土地の人たちはいっております。(郷土研究一編。福島県|岩城(いわき)郡草野村絹谷)
駿河(するが)の足高山(あしたかやま)は、大昔|諸越(もろこし)という国から、富士と背くらべをしに渡って来た山だという話があります。東海道を汽車で通る時に、ちょうど富士山の前に見える山で、長く根を引いて中々大きな山ですが山の頭がありません。それは足柄(あしがら)山の明神が生意気な山だといって、足を挙げて蹴くずされたので、それで足高は低くなったのだといっております。その山のかけらが海の中に散らばっていたのを、だんだん寄せ集めて海岸に、小高い一筋の陸地をこしらえました。それが浮き島が原で、そこを今鉄道が通って居ますが、以前の道路は十里木(じゅうりぎ)という所を越えて、富士とこの足高山との間を通っておりました。そうして右と左に二つの山を見くらべて、昔の旅人はこんな話をしていたのであります。(日本鹿子。静岡県|駿東(すんとう)郡須山村)
伯耆(ほうき)の大山(だいせん)の後には韓山(からやま)という離れ山があります。これも大山と背くらべをするために、わざわざ韓(から)から渡って来た山だから、それで韓山というのだといい伝えております。それが少しばかり大山よりも高かったので、大山は腹を立てて、木履(ぼくり)をはいたままで韓山の頭を蹴飛ばしたといいます。だから今でもこの山の頭は欠けており、また大山よりは大分低いのだということであります。(郷土研究二編。鳥取県|西伯(さいはく)郡大山村)
九州では、阿蘇山の東南に、猫岳(ねこだけ)という珍しい形の山があります。この山もいつも阿蘇と丈競(たけくら)べをしようとしていました。阿蘇山が怒ってばさら竹の杖をもって、始終猫岳の頭を打っていたので、頭がこわれて凸凹(でこぼこ)になり、また今のように低くなったのだといいます。(筑紫野|民譚(みんたん)集其他。熊本県阿蘇郡|白水(はくすい)村)
山が背くらべをしたという伝説は、ずいぶん広く行われております。例えば台湾の奥地に住む人民の中でも、霧頭山(むとうざん)と大武山(だいぶさん)との兄弟の山が競争して、弟の大武山が兄の霧頭山をだまして一人でするすると大きくなったという話があります。それだから大武山は、兄よりも高いのだといっております。(生蕃(せいばん)伝説集。パイワン族マシクジ社)
それからまた古い時代にも、同じ伝説があったのであります。近江国では、浅井の岡が胆吹山(いぶきやま)と高さくらべをした時に、浅井の岡は胆吹山の姪(めい)でありましたが、一夜の中に伸びて、叔父さんに勝とうとしました。胆吹山の多々美彦(たたみひこ)は大いに怒って、剣を抜いて浅井姫の頸(くび)を切りますと、それが湖水の中へ飛んで行って島になった。今の竹生島(ちくぶじま)は、この時から出来たということを、もう千年も前の人がいい伝えておりました。(古風土記逸文考証。滋賀県東浅井郡竹生村)
大和では天香久山(あまのかぐやま)と耳成山(みみなしやま)とが、畝傍山(うねびやま)のために喧嘩(けんか)をした話が、古い奈良朝の頃の歌に残っております。それとよく似た伝説は、奥州の北上川の上流にもありまして、岩手山と早地峯山(はやちねさん)とは、今でも仲が好くないようにいっております。汽車で通って見ますと二つのお山の間に、姫神山という美しい孤山が見えます。争いはこの姫神山の取り合いであったともいえば、或はその反対に岩手山は姫神をにくんで、送り山という山にいいつけて、遠くへ送らせようとしたのに、送り山はその役目をはたさなかったので、怒って剣を抜いてその頸をきった。それが今でも岩手山の右の脇に載っている小山だともいいました。(高木氏の日本伝説集。岩手県岩手郡滝沢村)
日本人は永い年月の間に、だんだんと遠い国から移住して来た民族です。昔一度こういう話を聴いたことのある者の子や孫が、もう前のことは忘れかかった頃に、知らず識らず似たような想像をしたというだけで、わざとよその土地の伝説を真似ようとしたのではありますまいが、山が右左に高くそびえて、何か争いでもしているように思われる場合が、行く先々の村里の景色にはあるので、それをじっと眺めていて、幾度でもこんな昔話をし出したものと見えます。
青森の市の東にある東嶽(あずまだけ)なども、昔|八甲田山(はっこうださん)と喧嘩をして斬られて飛んだといって、胴ばかりのような山であります。その頸が遠く飛んで岩木山の上に落ち、岩木山の肩には瘤(こぶ)みたいな小山が一つついているのが、その東嶽の頸であったという人があります。津軽平野の土地が肥えているのは、その時の血がこぼれているからだともいいます。そうして岩木山と八甲田山とは、今でも仲が好くないという話もあります。(高木氏の日本伝説集。青森県東津軽郡東嶽村)
出羽の鳥海山(ちょうかいざん)は、もと日本で一番高い山だと思っていました。ところが人が来て、富士山の方がなお高いといったので、口惜(くや)しくて腹を立てて、いても立ってもいられず、頭だけ遠く海の向うへ飛んで行った。それが今日の飛島(とびしま)であるといいます。飛島は海岸から二十マイルも離れた海の中にある島ですが、今でも鳥海山と同じ神様を祀っております。これには必ず深いわけのあることと思いますけれども、こういう変った昔話より他には、もう昔のことは何一つも伝わっておりません。(郷土研究三編。山形県|飽海(あくみ)郡飛島村)
負けることの嫌いな者は、決して山ばかりではありませんでした。全体に日本では、軽々しく人の優劣を説くのは悪いこととしてありましたが、交通がだんだん開けて来ると、どうしてもそういう評判をしなければならぬ場合が多く、それをまた大へんに気にする古風な考えが、神にも人間にも少くなかったようであります。阿波の海部川(かいふがわ)の水源には、轟(とどろ)きの滝、一名を王余魚(かれい)の滝という大きな滝があって、山の中に王余魚明神という社がありました。この滝の近くに来て、紀州熊野の那智の滝の話をすることは禁物でありました。那智の滝とどちらが大きいだろうといったり、またはこの滝の高さを測って見ようとしたりすると、必ず神のたたりがあったというのは、多分この方が那智よりも少し小さかったためであろうと思います。(燈下録。徳島県海部郡川上村平井)
橋などは、殊に遠方の人が多く通行するので、毎度他の土地の橋の噂(うわさ)を聴くことがあったろうと思いますが、それを非常に嫌うという話が多いのであります。橋の神は、至ってねたみ深い女の神様であるといっておりました。
甲府の近くにある国玉(くにたま)の大橋などは、橋の長さが、もとは百八十間もあって、甲斐国(かいのくに)では、一番大きな、また古い橋でありましたが、この橋を渡る間に猿橋(さるはし)のうわさをすることと、野宮(ののみや)といううたいをうたうこととが禁物で、その戒めを破ると、必ずおそろしいことがあったといいました。今でも土地の人だけは、決してそういうことはせぬであろうと思います。猿橋は小さいけれども、日本にも珍しいという見事な橋でありますから、それと比べられることを、この大橋が好まなかったのであります。そうして野宮は、女のねたみを同情したうたいでありました。(山梨県町村誌。山梨県西山梨郡国里村国玉)
九州の南の端、薩摩の開聞岳(かいもんだけ)の麓(ふもと)には、池田という美しい火山湖があります。ほんの僅な陸地によって海と隔てられ、小高い所に立てば、海と湖水とを一度に眺めることも出来るくらいですが、大洋と比べられることを、池田の神は非常にきらいました。そうして湖水の近くに来て、海の話や、舟の話をする者があると、すぐに大風、高浪がたって、物すごい景色になったということであります。(三国名所図会。鹿児島県|揖宿(いぶすき)郡指宿村)
湖水や池沼の神は、多くは女性でありましたから、独(ひとり)隠れて世の中のねたみも知らずに、静かに年月を送ることも出来ました。山はこれとちがって、多くの人に常に遠くから見られていますために、どうしても争わなければならぬ場合が多かったようであります。
豊後の由布嶽(ゆふだけ)は、九州でも高い山の一つで、山の姿が雄々しく美しかった故に、土地では豊後富士ともいっております。昔|西行(さいぎょう)法師がやってきて、暫(しばら)く麓の天間(あまま)という村にいた頃に、この山を眺めて一首の歌を詠みました。
豊国(とよくに)の由布の高根は富士に似て雲もかすみもわかぬなりけり
そうするとたちまちこの山が鳴動して、盛んに噴火をし始めたので、これはいい方が悪かったと心づいて、
駿河なる富士の高根は由布に似て雲も霞(かすみ)もわかぬなりけり
と詠み直したところが、ほどなく山の焼けるのがしずまったという話であります。西行法師というのは間違いだろうと思いますが、とにかく古くからこういう話が伝わっておりました。(郷土研究一編。大分県|速見(はやみ)郡南端村天間)
もとはほんとうにあったことのように思っていた人もあったのかも知れません。そうでなくとも、よその山の高いという噂をするということは、なるたけひかえるようにしていたらしいのであります。多くの昔話はそれから生れ、また時としてそれをまじないに利用する者もありました。例えば昔|日向国(ひゅうがのくに)の人は、癰(よう)というできものの出来た時に、吐濃峯(とののみね)という山に向ってこういう言葉を唱えて拝んだそうであります。私は常にあなたを高いと思っていましたが、私のでき物が今ではななたよりも高くなりました。もしお腹が立つならば、早くこのできものを引っ込ませて下さいといって、毎朝一二度ずつ杵(きね)のさきをそのおできに当てると、三日めには必ず治るといっておりました。これも山の神が自分より高くなろうとする者をにくんで、急いでその杵をもってたたき伏せるように、こういう珍しい呪文(じゅもん)を唱えたものかと思います。(塵袋七。宮崎県|児湯(こゆ)郡都農村)
山が背くらべをしたという古い言い伝えなども、後には児童ばかりが笑ってきく昔話になってしまいました。そうしてだんだんに話が面白くなりました。肥後の飯田山(いいださん)は熊本の市から、東へ三四里ほども離れている山ですが、市の西に近い金峯山(きんぷざん)という山と、高さの自慢から喧嘩をしたといっております。いつまで争って見ても勝負がつかぬので、両方の山の頂上に樋(とい)をかけ渡して、水を流して見ようということになりました。そうすると水が飯田山の方へ流れて、この山の方が低いということが明かになりました。その時の水が溜(たま)ったのだといって、山の上には今でも一つの池があるそうです。これには閉口をして、もう今からそんなことは「いい出さん」といった故に、山の名をいいださんというようになったとも申します。(高木氏の日本伝説集。熊本県|上益城(かみましき)郡飯野村)
尾張小富士という山は、尾張国の北の境、入鹿(いるか)の池の近くにある小山ですが、山の姿が富士山とよく似ているので、土地の人たちに尊敬せられています。それがお隣りの本宮山(ほんぐうざん)という山と高さ比べをして、やはり樋を掛け水を通して見たという話が伝わっております。そうして見た結果が、小富士の方の負けになりました。毎年六月一日のお祭りの日に、麓の村の者が石をひいてこの山に登ることになったのは、少しでもお山の高くなることを、山の神様が喜ばれるからだという話であります。(日本風俗志。愛知県|丹羽(にわ)郡池野村)
これと同じような伝説は、また加賀の白山(はくさん)にもありました。白山は富士の山と高さ競べをして、勝負をつけるため樋を渡して水を通しますと、白山が少し低いので、水は加賀の方へ流れようとしました。それを見ていた白山方の人が、急いで自分の草鞋(わらじ)をぬいで、それを樋の端にあてがったところが、それでちょうど双方が平になった。それ故に今でも白山に登る者は必ず片方の草鞋を山の上に、ぬいで置いて帰らねばならぬのだそうです。(趣味の伝説。石川県能美郡白峰村)
樋を掛けたということはまだききませんが、越中の立山も白山と背競べをしたという話があります。ところが立山の方が、ちょうど草鞋の一足分だけ低かったので、非常にそれを残念がりました。それから後は、立山に参詣(さんけい)する人が、草鞋を持って登れば、特に大きな御利益(ごりやく)を授けることにしたといっております。(郷土研究一編。富山県|上新川(かみにいかわ)郡)
それから越前の飯降山(いぶりやま)、これは東隣の荒島山(あらしまやま)と背くらべをして、馬の沓(くつ)の半分だけ低いことがわかったそうであります。それ故にこの山でも、石を持って登る者には、一つだけは願いごとがかなうといって、毎年五月五日の山登りの日には、必ず石をもって行くことになっております。(同上。福井県大野郡大野町)。
三河の本宮山と、石巻山(いしまきやま)とは、豊川(とよかわ)の流れを隔てて西東に、今でも大昔以来の丈くらべを続けていますが、この二つの峯は、寸分も高さの差がないということであります。それで両方ともに石を手に持って登れば少しも草臥(くたぶ)れないが、これと反対に小石一つでも持って降ると、参詣はむだになり、神罰が必ずあるといいます。つまり低くなることを非常に嫌うのであります。(趣味の伝説。愛知県|八名(やな)郡石巻村)
有名な多くの山々では、みんなが背くらべのためではなかったかも知れませんが、非常に土や石を大切にして、それを持って行くことをいやがりました。山に草鞋を残して来る習慣は、今でもまだ方々に行われております。白山や立山にはあんな昔話がありますが、世間にはもっと真面目に、その理由を考えていた者も多かったのであります。例えば奥州|金華山(きんかざん)の権現は、山と土が草鞋について、島から外へ出ることを惜しまれるということで、参詣した者は、必ずそれをぬぎ捨ててから船に乗りました。(笈埃随筆。宮城県|牡鹿(おじか)郡鮎川村)
富士山のような大きな山でも、やはり山の土を遠くへ持って行かれぬように、麓に砂振いという所があって、以前は、必ずそこで古い草鞋をぬぎかえました。そうして登山者が、踏み降した須走口(すばしりぐち)の砂は、その夜のうちに再び山の上へ帰って行くともいいました。
伯耆の大山でも、山の下の砂が、日が暮れると峯に上り、朝はまた麓に下るといっております。山をうやまい、山の力を信じていた人たちには、それくらいのことは当り前であったかも知れませんが、それでも出来るだけ皆で注意をして、少しでも山を低くせぬように努めていたのであります。富士の行者(ぎょうじゃ)は山に登る時に特に歩みをつつしんで石などを踏み落さぬようにしていたそうですし、また近江国の土を持って来て、お山に納める者もあったそうであります。富士は皆様も御存じの通り、大昔近江の土が飛んで、一夜に出来た山だといい伝えていますので、それを今もとの国の土をもって、少し継ぎ足そうとしたのであります。 
神いくさ 

 

日本一の富士の山でも、昔は方々に競争者がありました。人が自分々々の土地の山を、あまりに熱心に愛する為に、山も競争せずにはいられなかったのかと思われます。古いところでは、常陸の筑波山(つくばさん)が、低いけれども富士よりも好い山だといって、そのいわれを語り伝えておりました。大昔|御祖神(みおやがみ)が国々をお巡りなされて、日の暮れに富士に行って一夜の宿をお求めなされた時に、今日は新嘗(にいなめ)の祭りで家中が物忌みをしていますから、お宿は出来ませぬといって断りました。筑波の方ではそれと反対に、今夜は新嘗ですけれども構いません。さあさあお泊り下さいとたいそうな御馳走をしました。神様は非常に御喜びで、この山永く栄え人常に来(きた)り遊び、飲食歌舞絶ゆる時もないようにと、めでたい多くの祝い言を、歌に詠んで下されました。筑波が春も秋も青々と茂って、男女の楽しい山となったのはその為で、富士が雪ばかり多く、登る人も少く、いつも食物に不自由をするのは、新嘗の前の晩に大切なお客様を、帰してしまった罰だといっておりますが、これは疑いもなく筑波の山で、楽しく遊んでいた人ばかりが、語り伝えていた昔話なのであります。(常陸国風土記。茨城県筑波郡)
富士と浅間山が煙りくらべをしたという話も、ずいぶん古くからあった様ですが、それはもう残っておりません。不思議なことには富士の山で祀(まつ)る神を、以前から浅間大神と称(とな)えておりました。富士の競争者の筑波山の頂上にも、どういうわけでか浅間(せんげん)様が祀ってあります。それから伊豆半島の南の端、雲見(くもみ)の御嶽山(みたけやま)にも浅間の社というのがありまして、この山も富士と非常に仲が悪いという話でありました。いつの頃からいい始めたものか、富士山の神は木花開耶媛(このはなさくやひめ)、この山の神はその御姉の磐長媛(いわながひめ)で、姉神は姿が醜かった故に神様でもやはり御|嫉(ねた)みが深く、それでこの山に登って富士のうわさをすることが、出来なかったというのであります。(伊豆志其他。静岡県賀茂郡|岩科(いわしな)村雲見)
ところがこれから僅二里あまり離れて、下田(しもだ)の町の後には、下田富士という小山があって、それは駿河の富士の妹神だといっております。そうして姉様よりも更に美しかったので、顔を見合せるのが厭(いや)で、間に天城山(あまぎさん)を屏風(びょうぶ)のようにお立てになった。それだから奥伊豆はどこからも富士山が見えず、また美人が生れないと、土地の人はいうそうであります。おおかたもと一つの話が、後にこういう風に変って来たものだろうと思います。(郷土研究一編。同県同郡下田町)
越中|舟倉山(ふねのくらやま)の神は姉倉媛(あねくらひめ)といって、もと能登の石動山(せきどうさん)の伊須流伎彦(いするぎひこ)の奥方であったそうです。その伊須流伎彦が後に能登の杣木山(そまきやま)の神、能登媛を妻になされたので、二つの山の間に嫉妬(しっと)の争いがあったと申します。布倉山(ぬのくらやま)の布倉媛は姉倉媛に加勢し、甲山(かぶとやま)の加夫刀彦(かぶとひこ)は能登媛を援けて、大きな神戦(かみいくさ)となったのを、国中の神々が集って仲裁をなされたと伝えております。一説には毎年十月十二日の祭りの日には、舟倉と石動山と石合戦があり、舟倉の権現が礫(つぶて)を打ちたもう故に、この山の麓(ふもと)の野には小石がないのだともいっておりました。(肯構泉達録等。富山県上新川郡船崎村舟倉)
これと反対に、阿波の岩倉山は岩の多い山でありました。それは大昔この国の大滝山と、高越(こうつ)山との間に戦争があった時、双方から投げた石がここに落ちたからといっております。そうして今でもこの二つの山に石が少いのは、互にわが山の石を投げ尽したからだということであります。(美馬(みま)郡郷土誌。徳島県美馬郡岩倉村)
それよりも更に有名な一つの伝説は、野州(やしゅう)の日光山と上州の赤城山との神戦でありました。古い二荒(ふたら)神社の記録に、くわしくその合戦のあり様が書いてありますが、赤城山はむかでの形を現して雲に乗って攻めて来ると、日光の神は大蛇になって出でてたたかったということであります。そうして大蛇はむかでにはかなわぬので、日光の方が負けそうになっていた時に、猿丸太夫という弓の上手な青年があって、神に頼まれて加勢をして、しまいに赤城の神をおい退けた。その戦をした広野を戦場が原といい、血は流れて赤沼となったともいっております。誰が聞いても、ほんとうとは思われない話ですが、以前は日光の方ではこれを信じていたと見えて、後世になるまで、毎年正月の四日の日に、武射(ぶしゃ)祭りと称して神主が山に登り赤城山の方に向って矢を射放つ儀式がありました。その矢が赤城山に届いて明神の社の扉に立つと、氏子たちは矢抜きの餅というのを供えて、扉の矢を抜いてお祭りをするそうだなどといっておりましたが、果してそのようなことがあったものかどうか。赤城の方の話はまだわかりません。(二荒山神伝。日光山名跡志等)
しかし少くとも赤城山の周囲においても、この山が日光と仲が悪かったこと、それから大昔神戦があって、赤城山が負けて怪我をなされたことなどをいい伝えております。利根郡|老神(おいがみ)の温泉なども、今では老神という字を書いていますが、もとは赤城の神が合戦に負けて、逃げてここまで来られた故に、追神ということになったともいいました。(上野(こうずけ)志。群馬県利根郡東村老神)
それからまた赤城明神の氏子だけは、決して日光には詣(まい)らなかったそうであります。赤城の人が登って来ると必ず山が荒れると、日光ではいっておりました。東京でも牛込(うしごめ)はもと上州の人の開いた土地で、そこには赤城山の神を祀った古くからの赤城神社がありました。この牛込には徳川氏の武士が多くその近くに住んで、赤城様の氏子になっていましたが、この人たちは日光に詣ることが出来なかったそうであります。もし何か役目があって、ぜひ行かなければならぬ時には、その前に氏神に理由を告げて、その間だけは氏子を離れ、築土(つくど)の八幡だの市谷(いちがや)の八幡だのの、仮の氏子になってから出かけたということであります。(十方庵遊歴雑記)
奥州津軽の岩木山の神様は、丹後国の人が非常にお嫌いだということで、知らずに来た場合でも必ず災がありました。昔は海が荒れたり悪い陽気の続く時には、もしや丹後の者が入り込んではいないかと、宿屋や港の船を片端からしらべたそうであります。これはこの山の神がまだ人間の美しいお姫様であった頃に、丹後の由良(ゆら)という所でひどいめにあったことがあったから、そのお怒が深いのだといっておりました。(東遊雑記その他)
信州松本の深志(ふかし)の天神様の氏子たちは、島内村の人と縁組みをすることを避けました。それは天神は菅原道真(すがわらのみちざね)であり、島内村の氏神|武(たけ)の宮は、その競争者の藤原|時平(ときひら)を祀っているからだということで、嫁婿ばかりでなく、奉公に来た者でも、この村の者は永らくいることが出来なかったそうであります。(郷土研究二編。長野県|東筑摩(ひがしちくま)郡島内村)
時平を神に祀ったというお社は、また下野(しもつけ)の古江(ふるえ)村にもありました。これも隣りの黒袴(くろばかま)という村に、菅公(かんこう)を祀った鎮守の社があって、前からその村と仲が悪かったゆえに、こういう想像をしたのではないかと思います。この二つの村では、男女の縁を結ぶと、必ず末がよくないといっていたのみならず。古江の方では庭に梅の木を植えず、また襖(ふすま)屏風(びょうぶ)の絵に梅を描かせず、衣服の紋様にも染めなかったということであります。(安蘇(あそ)史。栃木県安蘇郡|犬伏(いぬぶし)町黒袴)
下総の酒々井(しすい)大和田というあたりでも、よほど広い区域にわたって、もとは一箇所も天満宮を祀っていませんでした。その理由は鎮守の社が藤原時平で、天神の敵であるからだといいましたが、どうして時平大臣を祀るようになったかは、まだ説明せられてはおりません。(津村氏|譚海(たんかい)。千葉県|印旛(いんば)郡酒々井町)
丹波の黒岡という村は、もと時平公の領分であって、そこには時平屋敷(しへいやしき)があり、その子孫の者が住んでいたことがあるといっていました。それはたしかな話でもなかったようですが、この村でも天神を祀ることが出来ず、たまたま画像(えぞう)をもって来る者があると、必ず旋風(つむじかぜ)が起ってその画像を空に巻き上げ、どこへか行ってしまうといい伝えておりました。(広益俗説弁遺篇。兵庫県|多紀(たき)郡城北村)
何か昔から、天神様を祀ることの出来ないわけがあって、それがもう不明になっているのであります。それだから村に社があれば藤原時平のように、生前菅原道真と仲が悪かった人の、社であるように想像したものかと思います。鳥取市の近くにも天神を祀らぬ村がありましたが、そこには一つの古塚があって、それを時平公の墓だといっておりました。こんな所に墓があるはずはないから、やはり後になって誰かが考え出したのであります。(遠碧軒記。鳥取県岩美郡)
しかし天神と仲が善くないといった社は他にもありました。例えば京都では伏見(ふしみ)の稲荷(いなり)は、北野の天神と仲が悪く、北野に参ったと同じ日に、稲荷の社に参詣してはならぬといっていたそうであります。その理由として説明せられていたのは、今聞くとおかしいような昔話でありました。昔は三十番神といって京の周囲の神々が、毎月日をきめて禁中の守護をしておられた。菅原道真の霊が雷(らい)になって、御所の近くに来てあばれた日は、ちょうど稲荷大明神が当番であって、雲に乗って現れてこれを防ぎ、十分にその威力を振わせなかった。それゆえに神に祀られて後まで、まだ北野の天神は稲荷社に対して、怒っていられるのだというのでありますが、これももちろん後の人がいい始めたことに相違ありません。(渓嵐拾葉集。載恩記等)
或(あるい)はまた天神様と御大師様とは、仲が悪いという話もありました。大師の縁日に雨が降れば、天神の祀りの日は天気がよい。二十一日がもし晴天ならば、二十五日は必ず雨天で、どちらかに勝ち負けがあるということを、京でも他の田舎でもよくいっております。東京では虎の門の金毘羅様(こんぴらさま)と、蠣殻町(かきがらちょう)の水天宮(すいてんぐう)様とが競争者で、一方の縁日がお天気なら他の一方は大抵雨が降るといいますが、たといそんなはずはなくても、なんだかそういう気がするのは、多分は隣り同士の二箇所の社が、互に相手にかまわずには、独(ひとり)で繁昌することが出来ぬように、考えられていた結果であろうと思います。
だから昔の人は氏神といって、殊に自分の土地の神様を大切にしておりました。人がだんだん遠く離れたところまで、お参りをするようになっても、信心をする神仏は土地によって定まり、どこへ行って拝んでもよいというわけには行かなかったようであります。同じ一つの神様であっても、一方では栄え他の一方では衰えることがあったのは、つまりは拝む人たちの競争であります。京都では鞍馬(くらま)の毘沙門様(びしゃもんさま)へ参る路に、今一つ野中村の毘沙門堂があって、もとはこれを福惜しみの毘沙門などといっておりました。せっかく鞍馬に詣って授かって来た福を、惜しんで奪い返されるといって、鞍馬参詣の人はこの堂を拝まぬのみか、わざと避けて東の方の脇路を通るようにしていたといいます。同じ福の神でも祀ってある場所がちがうと、もう両方へ詣ることは出来なかったのを見ると、仲の善くないのは神様ではなくて、やはり山と山との背競べのように、土地を愛する人たちの負け嫌いが元でありました。松尾のお社なども境内に熊野石があって、ここに熊野の神様がお降りなされたという話があり、以前はそのお祭りをしていたかと思うにも拘(かかわ)らず、ここの氏子は紀州の熊野へ参ってはならぬということになっていました。それから熊野の人もけっして松尾へは参って来なかったそうで、このいましめを破ると必ずたたりがありました。これなども多分双方の信仰が似ていたために、かえって二心を憎まれることになったものであろうと思います。(都名所図会拾遺。日次(ひなみ)記事)
どうして神様に仲が悪いというような話があり、お参りすればたたりを受けるという者が出来たのか。それがだんだんわからなくなって、人は歴史をもってその理由を説明しようとするようになりました。例えば横山という苗字の人は、常陸の金砂山(かなさやま)に登ることが出来ない。それは昔佐竹氏の先祖がこの山に籠城(ろうじょう)していた時に、武蔵の横山党の人たちが攻めて来て、城の主が没落することになったからだといっていますが、この時に鎌倉将軍の命をうけて、従軍した武士はたくさんありました。横山氏ばかりがいつまでもにくまれるわけはないから、これには何か他の原因があったのであります。(楓軒雑記。茨城県|久慈(くじ)郡金砂村)
東京では神田(かんだ)明神のお祭りに、佐野氏の者が出て来ると必ずわざわいがあったといいました。神田明神では平将門(たいらのまさかど)の霊を祀り、佐野はその将門を攻めほろぼした俵藤太秀郷(たわらとうたひでさと)の後裔(こうえい)だからというのであります。下総成田(しもうさなりた)の不動様は、秀郷の守り仏であったという話でありますが、東京の近くの柏木(かしわぎ)という村の者は、けっして成田には参詣しなかったそうであります。それは柏木の氏神|鎧(よろい)大明神が、やはり平将門の鎧を御神体としているといういい伝えがあったからであります。(共古日録。東京府|豊多摩(とよたま)郡淀橋町柏木)
信州では諏訪の附近に、守屋という苗字の家がたくさんにありますが、この家の者は善光寺にお詣りしてはいけないといっておりました。強いて参詣すると災難があるなどともいいました。それはこの家が物部守屋連(もののべのもりやのむらじ)の子孫であって、善光寺の御本尊を難波(なにわ)堀江に流し捨てさせた発頭人(ほっとうにん)だからというのでありますが、これも恐らくは後になって想像したことで、守屋氏はもと諏訪の明神に仕えていた家であるゆえに、他の神仏を信心しなかったまでであろうと思います。(松屋筆記五十。長野県長野市)
天神のお社と競争した隣りの村の氏神を、藤原時平を祀るといったのは妙な間違いですが、これとよく似た例はまた山々の背くらべの話にもありました。富士と仲の悪い伊豆の雲見の山の神を、磐長媛であろうという人があると、一方富士の方ではその御妹の、木花開耶媛を祀るということになりました。どちらが早くいい始めたかはわかりませんが、とにかくにこの二人の姫神は姉妹で、一方は美しく一方はみにくく、嫉みからお争いがあったように、古い歴史には書いてあるので、こういう想像が起ったのであります。伊勢と大和の国境の高見山という高い山は、吉野川の川下の方から見ると、多武峰(とうのみね)という山と背くらべをしているように見えますが、その多武峰には昔から、藤原鎌足(ふじわらのかまたり)を祀っておりますゆえに、高見山の方には蘇我入鹿(そがのいるか)が祀ってあるというようになりました。入鹿をこのような山の中に、祀って置くはずはないのですが、この山に登る人たちは多武峰の話をすることが出来なかったばかりでなく、鎌足のことを思い出すからといって、鎌を持って登ることさえもいましめられておりました。そのいましめを破って鎌を持って行くと、必ず怪我をするといい、または山鳴りがするといっておりました。(即事考。奈良県吉野郡高見村)
この高見山の麓を通って、伊勢の方へ越えて行く峠路の脇に、二丈もあるかと思う大岩が一つありますが、土地の人の話では、昔この山が多武峰と喧嘩をして負けた時に、山の頭が飛んでここに落ちたのだといっております。そうして見ると蘇我入鹿を祀るよりも前から、もう山と山との争いはあったので、その争いに負けた方の山の頭が、飛んだという点も羽後(うご)の飛島(とびしま)、或は常陸の石那阪の山の岩などと、同様であったのであります。どうしてこんな伝説がそこにもここにもあるのか。そのわけはまだくわしく説明することが出来ませんが、ことによると負けるには負けたけれども、それは武蔵坊弁慶が牛若丸だけに降参したようなもので、負けた方も決して平凡な山ではなかったと、考えていた人が多かった為かも知れません。ともかくも山と山との背くらべは、いつでも至って際どい勝ち負けでありました。それだから人は二等になった山をも軽蔑(けいべつ)しなかったのであります。日向(ひゅうが)の飯野郷というところでは、高さ五|尋(ひろ)ほどの岩が野原の真中にあって、それを立石(たていし)権現と名づけて拝んでおりました。そこから遠くに見える狗留孫山(くるそざん)の絶頂に、卒都婆(そとば)石、観音石という二つの大岩が並んでいて、昔はその高さが二つ全く同じであったのが、後に観音石の頸が折れて、神力をもって飛んでこの野に来て立った。それ故に今では低くなりましたけれども、人はかえってこの観音石の頭を拝んでいるのであります。(三国名所図会。宮崎県西|諸県(もろかた)郡飯野村原田)
肥後の山鹿(やまが)では下宮の彦嶽(ひこだけ)権現の山と、蒲生(がもう)の不動岩とは兄弟であったといっております。権現は継子(ままこ)で母が大豆ばかり食べさせ、不動は実子だから小豆を食べさせていました。後にこの兄弟の山が綱を首に掛けて首引きをした時に、権現山は大豆を食べていたので力が強く、小豆で養われた不動岩は負けてしまって、首をひき切られて久原(くばら)という村にその首が落ちたといって、今でもそこには首岩という岩が立っています。揺(ゆる)ぎ嶽(だけ)という岩はそのまん中に立っていて、首ひきの綱に引っ掛かってゆるいだから揺嶽、山に二筋のくぼんだところがあって、そこだけ草木の生えないのを、綱ですられた痕(あと)だといい、小豆ばかり食べていたという不動の首岩の近くでは、今でもそのために土の色が赤いのだというそうであります。(肥後国志等。熊本県|鹿本(かもと)郡三玉村) 
伝説と児童 

 

諸君の家のまわり、毎日あるいている道路のかたわらにも、もとはこれよりもっと面白い伝説が、いくらともなく残っていたのであります。学校に行く人たちがいそがしくなって、暫(しばら)くかまわずに置くうちに、もう覚えていて話してくれる人がいなくなりました。それから美しい沼が田になり、見事な大木が枯れて片付けられてしまうと、当分はそのうわさをすることがかえって多いけれども、後に生れた者には感じが薄いので、おいおいに忘れて行くようになるのであります。村などはこのために大分さびしくなりました。
伝説は、今までかなり久しい間、子供ばかりをきき手にして話されておりました。尤(もっと)も大人も脇にいてきいてはいるのですが、大抵はおさらいをするおりがないために、子供のように永く記憶して、ずっと後になってから、また他の人に話してやる程に、熱心にはならなかったのであります。子供のおさらいは、その木の下で遊び、またはみんなと連れだって、その岩の前や淵(ふち)の上、池の堤をただ通って行くことでありました。話は不得手だから誰もくわしくは話しませんが、その度毎に一同は前にきいたことを想い出して、暫くは同じような心持ちになって、互に眼を見合うのであります。人が年を取って話をすることが好きになり、また上手になって後に、昔のことだといってきかせる話は、大方は、こうした少年の頃に、覚えこんだ話だけでありました。だからどんな老人の教えてくれる伝説にも、必ずある時代の児童が関係しております。そうしてもし児童が関係をしなかったら、日本の伝説はもっと早くなくなるか、または面白くないものばかり多くなっていたに違いないのであります。
だから皆さんが若いうちに、きいて置く話が少くなり、またそれを覚えていることがだんだんにむつかしくなると、書物をその年寄りたちの代りに、頼むより外はないのであります。書物には大人にきかせるような話、大人が珍しがるような話が多いのでありますが、今ではこの中からでないと、昔の児童の心持ちを、知ることは出来ぬようになりました。国が全体にまだ年が若く、誰でも少年の如くいきいきとした感じをもって、天地万物を眺めていた時代が、かつて一度は諸君の間にばかり、続いていたこともありました。書物は廻り廻ってそれを今、再び諸君に語ろうとしているのであります。
もとは小さな人たちは絵入りの本を読むように、目にいろいろの物の姿を見ながら、古くからのいい伝えをきいたり思い出したりしていたのであります。垣根の木に来る多くの小鳥は、その啼(な)き声のいわれを説明せられている間、そこいらを飛びまわって話の興を添えました。路のほとりのさまざまの石仏なども、昔話を知っている子供等には、うなずくようにも又ほほえむようにも見えたのであります。其(その)中でも年をとってから後にその頃のことを考える者に、一番懐かしかったのは地蔵様でありました。大きさが大抵は十一二の子供くらいで、顔は仏さまというよりも、人間の誰かに似ているので見覚えがありました。そうしてまた多くの伝説の管理者だったのであります。
村毎に別の話、一つ一つの名前を持っていたのも、石地蔵に最も多かったようであります。こういう児童の永年の友だちが、いつの間にかいなくなりそうですから、ここには百年前の子供等に代って、書物に残っている三つ四つの話をしてみましょう。古くから有名であったのは、箭(や)負(お)い地蔵に身代り地蔵、信心をする者の身代りになって、後に見ると背中に敵の矢が立っていたなどという地蔵ですが、これはまだその人だけの不思議であります。土地に縁の深い地蔵様になると、特に頼まずとも村のために働いて下さるといって、むしろ意外な出来事があってから後に、拝みに来る者がかえって多くなるので、その中でも、ことに地蔵は、農業に対して同情が厚いということが、一同の感謝するところでありました。足洗わずの地蔵というのは、時々百姓の姿になって、いそがしい日に手伝いに来て下さる。水引き地蔵は田の水の足りない時に、そっと溝(みぞ)を切ってこちらの田だけに水を引き、そのために隣りの村からうらまれるようなこともありましたが、それが地蔵の仕業だとわかると、怒る者はなくなって、ただ感心するばかりでありました。
鼻取(はなとり)地蔵というのもまた農民の同情者で、東日本では多くの村に祀(まつ)っております。私の今いる家から一番近いのは、上作延(かみさくのべ)の延命寺(えんめいじ)の鼻取地蔵、荒れ馬をおとなしくさせるのが御誓願で、北は奥州南部の辺までも、音に聞えた地蔵でありました。昔この村の田植えの日に、名主の家の馬が荒れて困っていると、見馴れぬ小僧さんがただ一人来て、その口を取ってくれたらすぐに静かになった。次ぎの日、寺の和尚(おしょう)がお経を読もうとして行って見ると、御像の足に泥がついている。それで昨日の小僧が地蔵様であったことが知れて、大評判になったということです。(新編武蔵風土記稿。神奈川県|橘樹(たちばな)郡向丘村上作延)
ところがまた八王子の極楽寺(ごくらくじ)という寺でも、これは地蔵ではないが、本尊の阿弥陀様(あみださま)を、鼻取|如来(にょらい)と呼んでおりました。昔この近所にあった寺の田を、百姓がなまけて耕してくれぬので困っておると、これも小僧が現れて、馬の鼻をとって助けたといっております。どういうわけでかこの阿弥陀如来は、唇が開き歯が見えて、ちょっと珍しい顔の仏様であるので、一名を歯ふき仏とも称(とな)えたそうであります。(同上。東京府八王子市|子安(こやす))
駿河の宇都谷(うつのや)峠の下にある地蔵尊は、聖徳太子の御作だというのに、これも鼻取地蔵という異名がありました。かつて榛原(はいばら)郡の農家で牛の鼻とりをして手伝ってくれられたということで、願いごとのある者は、鎌を持って来て献納したというのは、農業がお好きだと思っていたからでありましょう。ある時はまた日光山のお寺の食責(じきぜ)めの式へ出かけて、盛んに索麪(そうめん)を食べたといって、索麪地蔵という名前も持っておられたそうです。(駿国(すんこく)雑志。静岡県|安倍(あべ)郡長田村宇都谷)
鼻取りというのは、六尺ばかりの棒であります。牛馬を使って田をうなう時に、この棒を口の所に結わえて引き廻るのです。今ではそれを用いる農家が、東北の方でも、だんだん少くなりましたが、田植えの前の非常に忙がしい時に、もとはこの鼻とりに別の人手がかかるので、仕方なしに多くは少年がその役に使われ、うまく出来ないのでよく叱られていました。地蔵が手伝いに来てわざわざそういう為事(しごと)をして下さるといったのは、まことに少年らしい夢であります。もとはこういうさすの棒もなしに、直接に牛や馬の鼻の綱をとりましたから、かれ等にはかなりつらい為事でありましたが、もともと牛馬を田に使うということが、東の方ではそう古くからではありません。だからこれなども新しく出来た伝説であります。石城(いわき)の長友(ながとも)の長隆寺(ちょうりゅうじ)の鼻取地蔵などは、ある農夫が代掻(しろか)きの時に、ひどく鼻とりの少年を叱っていると、どこからともなく別の子供がやって来て、その代りをしてくれて、それは農夫の気に入りました。後で礼をしようと思ってさがしてみたが見えない。寺の地蔵堂の床の板に、小さな泥足の跡がついております。さては地蔵が少年の叱られるのをかわいそうに思って、代って鼻とりをつとめて下さったのだと、後にわかってあり難がったという話であります。この地蔵は安阿弥(あんなみ)とかの名作で、今では国宝になっている大切なお像であります。(郷土研究一編。福島県石城郡大浦村長友)
また福島の町の近くで、腰浜(こしのはま)の天満宮の隣りにある地蔵にも同じ話があって、お堂の名を鼻取庵といっておりました。これも子供に化けて田の水を引き、馬の鼻をとって引き廻して手伝いました。昼飯の時に連れて来て御馳走をするつもりで、田からあがって方々を尋ねたが見えない。尋ねまわってお堂の中にはいって見ると、地蔵の足に田の泥がついていたというのであります。(信達一統志。福島県福島市腰ノ浜)
登米(とよま)の新井田(あらいだ)という部落では、昔隣りの郡から分家をして来た者が、七観音と地蔵とを内神として持って来て、屋敷に堂を建ててていねいに祀っておりました。村の人たちもお参りをして拝んでいましたが、農が忙しい頃には、時々見たことのない子供がやって来て、方々の家の鼻とりの加勢をしてくれることがあって、それがこの地蔵様だと皆思っていたそうで、代掻地蔵と称えて今でも拝んでいます。(登米郡史。宮城県登米郡宝江村新井田)
それから安積(あさか)郡の鍋山(なべやま)の地蔵様も、よく農業の手つだいをして下さるという話があって、わざわざこの村を開墾する際に、隣りの野田山から迎えて来たのだそうです。(相生集)
地蔵菩薩霊験記(じぞうぼさつれいげんき)という足利時代の書物にも、こういう話はいろいろと出ております。出雲の大社の農夫が信心していた地蔵様は、十七八の青年に化けて、その農夫が病気の時に、代りに出て来て、お社の田で働いたということです。あまりよく働くので奉行が感心して、食事の時に盃(さかずき)を一つやりました。喜んで酒を飲んで、その盃を頭の上にかぶり、後にどこへか帰って行きました。翌日になって、農夫がこのことをきき、もしやと思って厨子(ずし)の戸を開けて見ると、果して地蔵様が盃をかぶって、足は泥だらけになって立っておられたといいます。近江の西山村の佐吉という百姓は、病気で田の草もとることが出来ずにいると、日頃信心の木本(きのもと)の地蔵が、いつの間にか来て、すっかり草をとって下さった。朝のうち参詣(さんけい)の路で見た時には、あれほど生い茂ってどうしようかと思った田の草が、帰りに見るともう一つも残らずとってある。どうしたことかと思って近くにいた者に尋ねると、今のさき七十ばかりの老僧が、田の畔(くろ)を一まわりあるいていられるのを見た他には、誰も来た人はないというので、それでは地蔵の御方便で助けて下さったものであろうと、引き返してお堂へ行って見ると、そこらあたりが一面に泥足の跡で、それがお厨子の中までも続いていたと書いてあります。
或(あるい)はまた、田植えの頃に水喧嘩(みずげんか)があって、一人の農夫が怪我をして寝ていると、夜の間に小僧さんが来て、その男の田に水を入れている。それをにくむ者が後から箭(や)を射かけると、逃げてどこかへいってしまった。後にこの家の地蔵様を拝もうとして見ると、背中に箭が立って、田の泥が足についていた。こういう水引地蔵の話も古くからありました。また筑後国の田舎では、八講の米を作る田へ夜になると水を引く者がある。村の人が大勢出て見ると、若い法師が杖(つえ)をもって田の水口に立ち、溝(みぞ)の水をかきまわしているのが、月の光でよく見えました。杖を流れに入れて掻くようにすれば、細い溝川が波を打って、どうどうと上手へ流れ、水はことごとくその田にはいりました。これも箭を射られて後で見ると、地蔵の背中に立っていたといいますが、その箭が山鳥の羽をもってはいであったというのは、前に申した足利の片目清水と似ています。この不思議に恐れ入って、その田を寄進してお寺を建て、それを矢田寺(やだでら)と名づけたということであります。
こういう話は、地蔵様でなくても、或は上総(かずさ)の庁南(ちょうなん)の草取|仁王(におう)だの、駿河の無量寺(むりょうじ)の早乙女(さおとめ)の弥陀(みだ)だの、秩父の野上(のがみ)の泥足の弥陀だのというのが、そちこちの村にはあったのですが、その中でも一番に人間らしく、また子供らしいことをなされたのが地蔵でありました。仏教の方でも、地蔵尊は人を救うために、どこへも行き誰とでもお附き合いなさるといって、つまらぬ旅僧の姿で杖を持って、始終あるいていられるように考えていますが、日本の話はそれだけではないようであります。遠州の山の中のある村では、百姓が粟畑(あわばたけ)の夜番をするのに困って、もしこの畑の番をして、鹿猿に食わさぬようにして下されば、後に粟の餅をこしらえて上げましょうと、石地蔵に向っていいました。そうして置いてすっかり忘れていると、地蔵が大そう腹を立てて、その男は病気になりました。気がついて驚いて粟の餅を持って行ったら、すぐに全快したという話もあります。尾張の宮地太郎という武士(さむらい)が花見をしていると、山の地蔵様が山伏に化けて来てのぞきました。そうしてよび込まれて歌をよみ、烏帽子(えぼし)をかぶり鼓を打って、お獅子(しし)を舞ったという話もあります。
またある所では、信心深い老人があって、毎日夜明け前に門口に出て、地蔵様の村を廻ってあるかれるお姿を見ようとしていました。なん年かそうしているうちに、とうとう地蔵様を拝んだということであります。その様子がまるで人間と少しもちがわなかったといっております。地蔵の夜遊びということは、多くの村できく話でありました。例えば埼玉県の野島(のじま)の浄山寺(じょうざんじ)の片目地蔵などは、あまりよく出て行かれるので、住職が心配して、背中に釘(くぎ)を打って鎖でつないで置くと、たちまち罰が当って悪い病にかかって死んだといいます。それからは自由に夜遊びをさせていたところが、ある時茶畠にはいって茶の木で目を突いたといって、今でもその木像は片目であります。またその目の傷を門前の池の水で洗ったといって、今でもその池に住む魚は、悉(ことごと)く片目であるそうです。(十方庵遊歴雑記。埼玉県南埼玉郡萩島村野島)
東京でも下谷金杉(したやかなすぎ)の西念寺(さいねんじ)に、眼洗(めあらい)地蔵というのがありました。それから鼻欠(はなかけ)地蔵だの塩嘗(しおなめ)地蔵だのと、面白い名前が幾らもありました。夜更地蔵、踊地蔵、物いい地蔵などというのもありますが、伝説はもう多くは残っておりません。また時々は路傍の地蔵で、いたずらをして旅人を困らせたという話もあります。相州(そうしゅう)大磯には化け地蔵、一名|袈裟切(けさぎり)地蔵というのがもとはありました。伊豆の仁田(にった)の手無仏というのも石地蔵であって、毎晩鬼女に化けて通行の者をおどしているうちに、ある時強い若侍に出あって、手を斬られて林の中へ逃げ込みました。翌朝行って見ると、地蔵の手が田の畔に落ちていたというのもおかしな話であります。(伊豆志。静岡県|田方(たがた)郡|函南(かんなみ)村仁田)
しばられ地蔵というのにはいろいろあって、京都の壬生寺(みぶでら)の縄目地蔵などは、一つは身代り地蔵でありました。武蔵の住人|香匂新左衛門(かがわしんざえもん)、この寺にかくれて追手を受け、既に危いところを本尊の地蔵が代って下されて、しばって来てからよく見ると、地蔵尊であったというのは、そそっかしい話であります。そうかと思うと品川の願行寺(がんぎょうじ)のしばり地蔵などは、願いごとをする者が毎日来て、縄で上から上へとしばりました。それを一年に一度十夜の晩に、寺の住職がすっかりほどいて置くと、次ぎの日からまたしばり始めるのでありました。(願掛重宝記。東京府|荏原(えばら)郡品川町南品川宿)
もとはこれなどは縄を結んだので、しばったのではないようであります。今でも神木とかお堂の戸の金網とかに、紙切れや糸紐(いとひも)を結びつけることがよくあって、こうして人と神様との間に、連絡をつけようとしたらしいのであります。前に鼻取地蔵の話をした上作延の村などにも、しばり松、一名|聖松(ひじりまつ)という大木がもとはあって、願掛けをする人は縄を持って来て、この松をしばりました。そうして願いごとがかなうと、お礼に参ってその縄を解いたのであります。しばるというために、何か悪いことでもしたように考えて、いろいろの話が始まりました。亀井戸の天神の境内には、頓宮神(とんぐうじん)という小宮があって、その中には爺と婆との木像が置いてありました。その後には青赤二つ鬼が縄を持って立っています。頓宮神というのはこの爺様のことで、昔菅公が筑紫に流された時に、婆は親切であったが、爺の方はまことにつらく当りました。それで今でもお参りをする人は。わざわざ鬼の持っている縄で爺の体を巻き付けて天神に願掛けをする。そうして七日目にその縄を解くのだといっております。(願掛重宝記。東京府南|葛飾(かつしか)郡亀戸町)
雨乞いの祈祷(きとう)にも、よく石地蔵はしばられました。羽後の花館(はなだて)の滝宮明神は水の神で、御神体は昔は石の地蔵でありました。これを土地の人は雨地蔵、または雨恋地蔵とも称えて、旱(ひでり)の歳には長い綱をしばりつけて、石像を洪福寺淵(こうふくじぶち)に沈めて置くと、必ずそれが雨乞いになって雨が降るといいました。(月之出羽路。秋田県|仙北(せんぼく)郡花館村)
所によっては、ただ雨乞地蔵の開帳をしただけで、雨が降るものと信じていた村もありますが、なかなかそれだけでは降らぬので、おりおりはもっときついことをしたのであります。熊野の芳養村(はやむら)のどろ本の地蔵尊などは、御像を首の根まで川の水に浸して雨乞いをしました。(郷土研究一編。和歌山県|西牟婁(にしむろ)郡中芳養村)
播州(ばんしゅう)船阪山の水掛地蔵は、堂の脇にある古井の水を汲(く)んで、その中で地蔵を行水させ、後でその水を信心の人が飲みました。今では雨乞いとは関係がないようですが、この井戸もいかなるひでりでも涸(か)れることがないといっております。(赤穂(あこう)郡誌。兵庫県赤穂郡船阪村高山)
肥前の田平(たびら)村の釜が淵などでは、ひでりの時には土地の人が集って来て、一しょう懸命になって淵の水を汲み出します。深さが半分ばかりにも減ると、水の中に石の頭が見えて来るのを、地蔵菩薩の御首(みぐし)といっていまして、それまで替えほして来ると、たいてい雨が降ったということです。(甲子夜話(かつしやわ)。長崎県北松浦郡田平村)
こういう雨乞いのし方は、ずっと昔から日本にはあったので、地蔵はただ外国からはいって来て、後にその役目を引き継いだばかりではないかと思います。
筑後の山川村の滝の淵という所では、昔平家方のある一人の姫君が、入水(じゅすい)してこの淵の主となり、今でも住んでおられる。それは驚くような大鯰(おおなまず)だなどといっておりますが、岸には七霊社というほこらを建てて姫の木像が祀ってあります。ひでりの場合にはその像を取り出し、淵の水中に入れて置くのが、この土地の雨乞いの方法でありました。(耶馬台国(やまたいこく)探見記。福岡県|山門(やまと)郡山川村)
大和の丹生谷(にうだに)の大仁保(おおにほ)神社は、俗に御丹生さんといって水の神で、また姫神であります。ここでも雨乞いには御神体を水の中に沈めて、少し待っていると必ず雨が降るということでありました。(高市(たかいち)郡志料。奈良県高市郡舟倉村丹生谷)
武蔵の比企(ひき)の飯田(いいだ)の石船(いわぶね)権現というのは、以前は船の形をした一尺五寸ばかりの石が御神体でありました。社の前にある御手洗(みたらし)の池に、この石を浸して雨を祈れば、必ず験(しるし)があると信じていましたが、どうしたものか後には御幣ばかりになって、もうその石は見えなくなったといいます。(新編武蔵風土記稿。埼玉県比企郡大河村飯田)
それから石地蔵に、いろいろの物を塗りつけること、これも仏法が持って来た教えではなかったようであります。雨乞いのためにする例は、羽後の男鹿(おが)半島に一つあります。鳩崎(はとざき)の海岸に近く寝地蔵といっていたのは、ただ梵字(ぼんじ)を彫りつけた一つの石碑でありましたが、常には横にしてあって、雨乞いの時だけこれを立てて、石に田の泥を一面に塗ります。そうするときっと降るといっておりました。(真澄遊覧記。秋田県南秋田郡北浦町野村)
これは恐らく泥で汚すと、洗わなければならぬから雨が降るのだと、思っていたのでありましょうが、そうでなくても地蔵には泥を塗りました。大和の二階堂の泥掛地蔵などは毎月二十四日の御縁日に、今でも仏体に泥を掛けてお祭りをしています。(大和年中行事一覧。奈良県|山辺(やまべ)郡二階堂村)
油掛地蔵といって、参詣の人が油を掛けて拝む地蔵もありました。大阪の近くの野中の観音堂の脇には、墨掛地蔵という真黒な地蔵さんがありました。願いごとのかのうた人が、必ず墨汁を持って来て掛けたのだそうです。(浪華(なにわ)百事談)
羽前|狩川(かりかわ)の冷岩寺(れいがんじ)の前には、毛呂美(もろみ)地蔵というのもありました。以前普通の家でも酒を造ることが出来た頃に、この近所の者は、もろみといって酒になりかけの米の汁を、先ず一杯だけくんで来て、地蔵の頭から浴せる。それがだんだんと腐って路を通る者が鼻をつまむ程臭かったけれども、誰一人としてこれを洗い清める者がなかったそうです。昔ある農夫があまりきたない地蔵様だといって、それをすっかり洗って上げたところが、たちまち罰を被って一家内疫病にかかり、大きな難儀をしたという話もあり、おそれて手をつける者がなかったのであります。(郷土研究二編。山形県東田川郡狩川村)
それからまた、粉掛地蔵というのもたくさんあります。伊予の道後の温泉にあるものは、参詣の人が白粉(おしろい)を持って来てふりかけました。その名を粉附地蔵といい、ほんとうは子好き地蔵だろうという説もありましたが、たしかなことはどうせわかりません。(日本周遊奇談。愛媛県温泉郡道後湯之町)
駿河の鈴川の近くにも、小僧に化けたというので有名な石地蔵がありましたが、これもお祭りの時に白粉を塗って化粧をしました。(田子之古道。静岡県富士郡元吉原村)
相模(さがみ)の弘西寺(こうさいじ)村の化粧地蔵、これも願掛けをする人が白粉や、胡粉(ごふん)を地蔵のお顔に塗って拝みました。(新編相模風土記。神奈川県|足柄上(あしがらかみ)郡南足柄村弘西寺)
近江の湖水の北の大音(おおと)村の粉掛地蔵は、このへんの工場で糸とりをする娘たちが、手が荒れた時には、米か麦の粉を一つかみ持って来て、この地蔵に振り掛けると、さっそくよくなるといっております。(郷土研究四編。滋賀県|伊香(いか)郡伊香具村大音)
安芸(あき)の福成寺(ふくしょうじ)の虚空蔵(こくうぞう)の御像には、附近の農民が常に麦の粉や、米の粉を持って来て供えました。それはこの仏の御名を「粉喰うぞ」というのかと思って、それならば粉を上げたら喜ばれるだろうということになったとの話もありますが(碌々雑話)、これとてもはやくから粉を掛けていたために、一そうそんな説明が信じ易くなったのかも知れません。とにかくに虚空蔵は、地蔵に対する言葉で、もとは兄弟のような仲であったのですが、土に縁の深い地蔵尊だけが、特別に農村の人気を集めることになったので、それには諸君のごとき若い人たちが、いつでもひいきをしていたことが大いなる力でありました。
京都ではもう古い頃から、毎年七月の二十四日には六地蔵詣りといって、多くの人が近在の村を廻ってあるきました。村の方では休み所をつくってお茶を出し、子供は路の傍(はた)の石仏を一つ所に集めて来ました。そうしてその顔を白く塗ってすべてこれを地蔵と名づけ、花を立てて食べ物を供えて、町から来た人に拝ませました(山城(やましろ)四季物語)。私などの田舎でも、夏の夕方の地蔵祭りは、村の子の最も楽しい時で、三角に結んだ小豆飯の味は、年をとるまで誰でも皆よく覚えています。
土地によっては寒い冬のなかばに、地蔵の祭りをした所もあります。伯耆国(ほうきのくに)のある村では、それを大師講といって、十一月二十四日の夜の明けぬ前に、生の団子を持って路の辻に行き、それを六地蔵の石の像に塗りつけました。一番早く塗って来た者は、大きくなってから美しい嫁をもらい、好い男を婿に取るといっておりました。(霞(かすみ)村組合村是。鳥取県日野郡霞村)
大阪天王寺の地蔵祭りは、以前には旧の十一月の十六日でありました。この朝早く子供たちは、米の粉を持って来て地蔵のお顔に塗り、その夕方にはまた藁火(わらび)を焚(た)いて、真黒にいぶしました。そうして「明年の、明年の」とはやして、お別れの踊りを踊ったということであります。(浪華百事談)
人によっては、これを道碌神(どうろくじん)の祭りともいいました。道碌神は道祖神(さえのかみ)のことでありますが、これも少年と非常に仲の好い辻の神で、もとは地蔵と一つの神であったのですから、そういっても決して間違いではありません。道祖神はたいていの所では、正月十五日にそのお祭りをしました。木で作った場合にでも、やはり子供等は白いものを塗りました。東京から西に見える山の中の村などでは、この日のどんど焼きの火の中へ、石の道祖神を入れて黒くいぶしました。信州川中島の村々では、二月の八日がお祭りの日でありますが、この朝は餅を搗(つ)いて、これを藁製の馬に負わせ、道碌神の前までひいて行き、その餅を神様の石像に所嫌わず塗りつけるそうであります。
町の児童も近い頃まで、「影や道碌神」と唱えて、月の夜などには遊んでいました。東北の田舎では三十年ぐらい前まで、地蔵遊びという珍しい遊戯もありました。一人の子供に南天の木の枝を持たせ、親指を隠して手を握らせ。その子をとり巻いて他の多くの子供が、かあごめかあごめのようにぐるぐると廻って、「お乗りゃあれ地蔵様」と、なんべんも唱えていると、だんだんにその子が地蔵様になります。
物教えにござったか地蔵さま
遊びにござったか地蔵さま
といって、皆が面白く歌ったり踊ったりしましたが、もとは紛失物などのある時にも、この子供の地蔵のいうことをきこうとしました。またある村では、遊び地蔵といって、いつも地蔵さまの台石ばかりあって、地蔵はどこかへ出かけているという村もありました。そういうのは、若い衆が辻の広場へ持ち出して、力試しの力石にしているのです。嫁入り聟(むこ)入り祝言のある時にも、やはり石地蔵は若い衆にかつがれて、その家の門口へ遊びに来ました。地蔵講の地蔵には、廻り地蔵といって、次ぎから次ぎと仲間の家に、一月ずつ遊んで行くのもありました。
子供が亡くなると、悲しむ親たちは腹掛や頭巾、胸当などをこしらえて、辻の地蔵尊に上げました。それで地蔵もよく子供のような風をしています。そうして子供たちと遊ぶのが好きで、それを邪魔すると折り折り腹を立てました。縄で引っ張ったり、道の上に転がして馬乗りに乗っていたりするのを、そんなもったいないことをするなと叱って、きれいに洗ってもとの台座に戻して置くと、夢にその人のところへ来て、えらく地蔵が怒ったなどという話もあります。せっかく小さい者と面白く遊んでいたのに、なんでお前は知りもしないで、引き離して連れてもどったかと、散々に叱られたので、驚いてもとの通りに子供と遊ばせて置くという地蔵もありました。
なるほど親たちは何も知らなかったのですけれども、子供たちとても、またやはり知らないのであります。今頃新規にそんなことを始めたら、地蔵様は必ずまた腹を立てるでしょうが、いつの世からともなく代々の児童が、そうして共々に遊んでいるものには、何かそれだけの理由があったのであります。遠州|国安(くにやす)村の石地蔵などは、村の小さな子が小石を持って来て、叩いて穴を掘りくぼめて遊ぶので、なん度新しく造っても、じきにこわれてしまいました。それを惜しいと思って小言(こごと)をいったところが、その人は却(かえ)って地蔵のたたりを受けたということです。(横須賀郷里雑記。静岡県|小笠(おがさ)郡中浜村国安)
このようなつまらぬ小さな遊び方でさえも、なお地蔵さまの像よりはずっと前からあったのであります。昔というものの中には、かぞえ切れないほど多くの不思議がこもっています。それをくわしく知るためには、大きくなって学問をしなければなりませんが、とにかくに大人のもう忘れようとしていることを、子供はわけを知らぬために、却って覚えていた場合が多かったのであります。木曽の須原(すはら)には、射手(いで)の弥陀堂というのがありました。もとは春の彼岸のお中日に、この宿の男の子が集って来て、やさいこといって小弓をもって、阿弥陀の木像を射て、大笑いをして帰るのがお祭りであったそうです。(木曽古道記。長野県西筑摩郡大桑村須原)
仏像を射るということは、大へんなことですが、これにも神様が目をお突きになったという類の、古い伝説があったのかも知れません。越後の親不知(おやしらず)の海岸に近い青木阪の不動様は、越後信州東京の方の人は、不動様といって拝み、越中から西の人は、乳母様と称えて信心していました。お寺では今から四百年ほど前に、野宮権九郎という人が海から拾い上げた仏様だといいますが、土地の人は、もとからこの沖の小さな島に、子産み殿といって祀ってあった神様だと思っていまして、字を知らぬ人のいった方がどうも正しいようであります。というわけは、このお堂へは、母になって乳の足りない女の人が、多くお参りをして来たのでありました。そうしてお礼には小さなつぐらといって、赤ん坊を入れて置く藁製の桶(おけ)のような物を持って来て、堂の側(かたわら)の青木の枝にぶら下げますがその数はいつも何百とも知れぬほどあるといいます。この神様も地蔵と同じように、非常に子供がお好きであるということで、何かという時には、村々から多くの児童が集って来たということです。あんなこわい顔をした不動様でも、姥神(うばがみ)と一しょに住めばつぐらの子の保護者でありました。お盆になると少年が閻魔堂(えんまどう)に詣るのも、やはりあの変な婆さんがいるからでした。(頸城(くびき)三郡史料。新潟県西頸城郡名立町)
日本は昔から、児童が神に愛せられる国でありました。道祖も地蔵もこの国に渡って来てから、おいおいに少年の友となったのは、まったくわれわれの国風にかぶれたのであります。子安姫神の美しく貴いもとのお力がなかったら、代々の児童が快活に成長して、集ってこの国を大きくすることも出来なかった如く、児童が楽しんで多くの伝説を覚えていてくれなかったら、人と国土との因縁は、今よりも遙(はる)かに薄かったかも知れません。その大きな功労に比べるときは、私のこの一冊の本はまだあまりに小さい。今に出て来る日本の伝説集はもっと面白く、またいつまでも忘れることの出来ぬような、もっと立派な学問の書でなければなりません。 
伝説分布表 

 

この本に出ている伝説の中で、町村の名の知れている分を、表にしてならべてみました。この以外の県郡町村でも、ただ私が知らなかったというだけで、むろん尋ねてみたら幾らでも、同じような伝説があることと思います。下の数字はページ数です。自分の村の話が出ていましたら、まずそこのところから読んで御覧なさい。
東北地方
青森県
東津軽郡東嶽村……………………………山の争い
南津軽郡猿賀村……………………………片目の魚
下北郡脇野沢村九艘泊……………………石神岩
岩手県
岩手郡滝沢村………………………………送り山
和賀郡小山田村……………………………はたやの神石
同横川目村…………………………………笠松の由来
下閉伊郡小国村……………………………原台の淵
宮城県
玉造郡岩出山町……………………………驚きの清水
登米郡宝江村新井田………………………代掻地蔵
牡鹿郡鮎川村………………………………金華山の土
秋田県
南秋田郡北浦町……………………………片目の神主
同同野村……………………………………寝地蔵
雄勝郡小安…………………………………不動滝の女
北秋田郡阿仁合町湯の台…………………水底の機
仙北郡金沢町………………………………片目の魚
同同荒町……………………………………三途河の姥
同花館村……………………………………雨恋地蔵
同大川西根村………………………………おがり石
山形県
東村山郡山寺村……………………………景政堂
西村山郡川土居村吉川……………………大師の井戸
北村山郡宮沢村中島………………………熊野の姥石
飽海郡東平田村北沢………………………矢流川の魚
同飛島村……………………………………鳥海山の首
東田川郡狩川村……………………………毛呂美地蔵
西田川郡大泉村下清水……………………しょうずかの姥
福島県
福島市腰浜…………………………………鼻取庵
信夫郡余目村南矢野目……………………片目清水
同土湯村……………………………………片目の太子
伊達郡飯阪町大清水………………………小手姫の社
安達郡塩沢村………………………………機織御前
安積郡多田野村……………………………氏子の片目
南会津郡館岩村森戸………………………立岩
耶麻郡大塩村………………………………大師の塩の井
石城郡草野村絹谷…………………………絹谷富士
同大浦村大森………………………………すがめ地蔵
同同長友……………………………………鼻取地蔵
関東地方
茨城県
那珂郡柳河村青柳…………………………泉の杜
久慈郡阪本村石名阪………………………雷神石
同金砂村……………………………………横山ぎらい
鹿島郡巴村大和田…………………………主石大明神
筑波郡筑波町………………………………筑波山の由来
栃木県
河内郡上三川町……………………………片目の姫
芳賀郡山前村南高岡………………………片目の皇子
那須郡黒羽町北滝…………………………綾織池
同那須村湯本………………………………教伝地獄
安蘇郡犬伏町黒袴…………………………天神の敵
同旗川村小中………………………………人丸大明神
足利郡三和村板倉…………………………大師の加持水
群馬県
高崎市赤坂町………………………………婆石
北甘楽郡富岡町曽木………………………片目の鰻
利根郡東村老神……………………………神の戦
同川場村川場湯原…………………………大師の湯
佐波郡殖蓮村上植木………………………阿満が池
埼玉県
川越市喜多町………………………………しやぶぎ婆石塔
北足立郡白子町下新倉……………………子安池
同大砂土村土呂……………………………神明の大杉
入間郡所沢町上新井………………………三つ井
同小手指村北野……………………………椿峯
同山口村御国………………………………椿峯
比企郡大河村飯田…………………………石船権現
秩父郡小鹿野町……………………………信濃石
同吾野村大字南……………………………飯森杉
南埼玉郡萩島村野島………………………片目地蔵
東京府
東京市浅草区浅草公園……………………箸銀杏
同下谷区谷中清水町………………………清水稲荷
荏原郡品川町南品川宿……………………縛り地蔵
豊多摩郡淀橋町柏木………………………鎧大明神
同高井戸村上高井戸………………………薬師の魚
南葛飾郡亀戸町……………………………頓宮神
八王子市子安………………………………歯吹仏
千葉県
千葉郡二宮村上飯山満……………………巾着石
市原郡平三村平蔵…………………………二本杉
印旛郡臼井町臼井…………………………おたつ様の祠
同酒々井町…………………………………仲の悪い神様
同富里村新橋………………………………葦が作
同根郷村太田………………………………石神様
長生郡高根本郷村宮成……………………新箸節供
山武郡大和村山口…………………………雄蛇の池
君津郡清川村………………………………畳が池
同小櫃村俵田字姥神台……………………姥神様
君津郡八重原村……………………………念仏池
同関村大字関………………………………関のおば石
夷隅郡千町村小高…………………………大根栽えず
同布施村……………………………………二本杉
安房郡西岬村洲崎…………………………一本薄
同豊房村神余………………………………大師の塩井
同白浜村青木………………………………芋井戸
神奈川県
橘樹郡向丘村上作延………………………鼻取地蔵
足柄上郡南足柄村弘西寺…………………化粧地蔵
足柄下郡大窪村風祭………………………機織の井
中部地方
静岡県
清水市入江町元追分………………………姥甲斐ない
賀茂郡下田町………………………………下田富士
同岩科村雲見………………………………富士の姉神
田方郡熱海町………………………………平左衛門湯
同函南村仁田………………………………手無仏
駿東郡須山村………………………………山の背くらべ
富士郡元吉原村……………………………化け地蔵
安倍郡長田村宇都谷………………………鼻取地蔵(索麪地蔵)
同賤機村……………………………………鯨の池
小笠郡中浜村国安…………………………子供と地蔵
周智郡犬居村領家…………………………機織の井
磐田郡見付町………………………………姥と草履
同上阿多古村石神…………………………富士石
山梨県
東山梨郡松里村小屋舗組…………………御箸杉
同等々力村…………………………………親鸞上人の箸
西山梨郡相川村……………………………片目の泥鰌
同国里村国玉………………………………国玉の大橋
東八代郡富士見村河内組…………………七釜の御手洗
中巨摩郡百田村上八田組…………………しわぶき婆の石
長野県
長野市………………………………………善光寺と諏訪
北佐久郡三井村……………………………鎌倉石
小県郡殿城村赤阪…………………………滝明神の魚
下伊那郡上郷村……………………………恨みの池
同竜丘村……………………………………花の御所
同竜江村今田………………………………竜宮巌の活石
同智里村小野川……………………………富士石
東筑摩郡島内村……………………………仲の悪い神様
西筑摩郡日義村宮殿………………………野婦の池
同大桑村須原………………………………矢さいこ行事
南安曇郡安曇村……………………………門松立てず
北安曇郡中土村……………………………芋作らず
上水内郡鬼無里村岩下……………………梭石※[「縢」の「糸」に代えて「木」]石
新潟県
長岡市神田町………………………………三盃池
北蒲原郡分田村分田………………………都婆の松
三島郡大津村蓮華寺………………………姨が井
北魚沼郡堀之内町堀之内…………………古奈和沢池
南魚沼郡中之島村大木六…………………巻機権現
刈羽郡中通村曽地…………………………おまんが井
中頸城郡櫛池村青柳………………………片目の聟
西頸城郡名立町青木阪……………………乳母神とつぐら
同根知村……………………………………諏訪の薙鎌
富山県
上新川郡……………………………………立山と白山
同船崎村舟倉………………………………山のいくさ
石川県
能美郡白峰村………………………………白山と富士
同同村………………………………………二本杉
同大杉谷村赤瀬……………………………やす女が淵
河北郡高松村横山…………………………片目の魚
羽咋郡志加浦村上野………………………大師水
鹿島郡能登部村……………………………機織と稗の粥
同鳥尾村羽阪………………………………水無村の由来
珠洲郡上戸村寺社…………………………能登の一本木
福井県
大野郡大野町………………………………山の背くらべ
三方郡山東村阪尻…………………………機織池
大飯郡青郷村関屋…………………………水無川
岐阜県
揖斐郡谷汲村………………………………念仏橋
山県郡上伊自良村…………………………念仏池
武儀郡乾村柿野……………………………黄金の鶏
加茂郡太田町………………………………目を突いた神
益田郡萩原町………………………………蛇と梅の枝
同上原村門和佐……………………………竜宮が淵
同中原村瀬戸………………………………ばい岩
同朝日村黍生谷……………………………橋場の牛
愛知県
丹羽郡池野村………………………………尾張小富士
知多郡東浦村生路…………………………弓の清水
南設楽郡長篠村横川………………………氏子片目
八名郡石巻村………………………………山の背くらべ
近畿地方
三重県
宇治山田市船江町…………………………白太夫の袂石
飯南郡宮前村………………………………めずらし峠
同射和村……………………………………成長する石
多気郡佐奈村仁田…………………………二つ井
同丹生村……………………………………子安の井
南牟婁郡五郷村大井谷……………………袂石
滋賀県
蒲生郡桜川村川合…………………………麻蒔かず
栗太郡笠縫村川原…………………………麻作らず
愛知郡東押立村南花沢……………………花の木
犬上郡脇ヶ畑村大字杉……………………御箸の杉
阪田郡大原村池下…………………………比夜叉の池
東浅井郡竹生村……………………………竹生島の由来
伊香郡伊香具村大音………………………粉掛地蔵
同片岡村今市………………………………大師水
京都府
乙訓郡新神足村友岡………………………念仏池
南桑田郡稗田野村柿花……………………片目観音
奈良県
山辺郡二階堂村……………………………泥掛地蔵
高市郡舟倉村丹生谷………………………雨乞と地蔵
吉野郡高見村杉谷…………………………入鹿を祀る山
和歌山県
那賀郡岩出町備前…………………………疱瘡神社
伊都郡高野村杖ヶ藪………………………杖の藪
西牟婁郡中芳養村…………………………雨乞地蔵
大阪府
泉北郡八田荘村家原寺……………………放生池
兵庫県
川辺郡稲野村昆陽…………………………行波明神
有馬郡有馬町………………………………うわなり湯
加古郡加古川町……………………………上人魚
同野口村阪元………………………………寸倍石
赤穂郡船阪村高山…………………………水掛地蔵
多紀郡城北村黒岡…………………………時平屋敷
中国地方
鳥取県
岩美郡元塩見村栗谷………………………布晒岩
同郡…………………………………………時平公の墓
西伯郡大山村………………………………韓山の背くらべ
日野郡印賀村………………………………竹栽えず
同霞村………………………………………大師講と地蔵
島根県
飯石郡飯石村………………………………成長する石
鹿足郡朝倉村注連川………………………牛王石
隠岐周吉郡東郷村…………………………釣上げた石
岡山県
邑久郡裳掛村福谷…………………………裳掛岩
勝田郡吉野村美野…………………………白壁の池
久米郡大倭村大字南方中…………………二つ柳
広島県
豊田郡高阪村中野…………………………出雲石
世羅郡神田村蔵宗…………………………魚が池
蘆品郡宜山村下山守………………………厳島の袂石
双三郡作木村岡三淵………………………布晒岩
比婆郡小奴可村塩原………………………石神社
同比和村古頃………………………………赤子石
四国地方
徳島県
那賀郡富岡町福村…………………………蛇の枕
同伊島………………………………………蛭子神の石
海部郡川西村芝……………………………不動の神杉
同川上村平井………………………………轟きの滝
名西郡下分上山村…………………………柳水
板野郡北灘村粟田…………………………目を突く神
美馬郡岩倉村岩倉山………………………山の戦
愛媛県
温泉郡道後湯之町…………………………粉附地蔵
同久米村高井………………………………杖の淵
新居郡飯岡村………………………………真名橋杉
高知県
土佐郡十六村行川…………………………綾を織る姫
香美郡山北村………………………………吉田の神石
同上韮生村柳瀬……………………………山姥の麦作り
高岡郡黒岩村………………………………宝御伊勢神
幡多郡津大村………………………………おんじの袂石
九州地方
福岡県
糸島郡深江村………………………………鎮懐石
三潴郡鳥飼村大石…………………………大石神社
山門郡山川村………………………………七霊社の姫神
佐賀県
西松浦郡大川村……………………………十三塚の栗林
長崎県
北松浦郡田平村……………………………釜が淵
熊本県
飽託郡島崎村………………………………石神の石
玉名郡滑石村………………………………滑石の由来
鹿本郡三玉村………………………………山の首引
阿蘇郡白水村………………………………猫岳
上益城郡飯野村……………………………飯田山
大分県
東国東郡姫島村……………………………拍子水
速見郡南端村天間…………………………由布嶽
玖珠郡飯田村田野…………………………念仏水
宮崎県
西諸県郡飯野村原田………………………観音石の頭
児湯郡下穂北村妻…………………………都万の神池
同都農村……………………………………山と腫物
鹿児島県
揖宿郡山川村成川…………………………若宮八幡の石
同指宿村……………………………………池田の火山湖
薩摩郡永利村山田…………………………石神氏の神
熊毛郡中種子村油久………………………熊野石 
 
廻国雑記 / 道興准后

 

道興は、左大臣近衛房嗣の子で、京都聖護院門跡などをつとめた。室町時代・文明18年(1486)の6月から約10か月間、北陸路から関東へ入って武蔵国ほか関東各地をめぐり、駿河甲斐にも足をのばし、奥州松島までの旅を紀行文にまとめたのが、「廻国雑記」であり、すぐれた和歌や漢詩などを多く納める。 
【 常門跡譜云聖護院道興准后後知足院関白房嗣公息 】
文明十八年六月上旬の頃、北征東行のあらましにて、公武に暇のこと申し入れ侍りき。各々御対面あり。東山殿(八代足利義政)ならびに室町殿(九代足利義尚)において数献これあり。祝着満足これに過ぐべからず。翌日東山殿へ二首の瓦礫をたてまつる。
○千さとまで思ひへだつな。富士の嶺の煙の末に立ち別るとも
○旅衣たつよりしぼる、武蔵野の露や涙を、はじめなるらむ
御返し、
○思ひたつ富士の煙の末までも、へだてぬ心、たぐへてぞやる
○立ちかへる程をぞたのむ武蔵野の露分け衣、はるかなりとも
室町殿、此の御贈答を聞し召し及び侍りて、下れける、
○思ひやれ。はじめてかはす言のはの富士の煙にたぐふ物とは
御使をまたせて、とりあへず、
○富士の嶺の雪もおよばず、仰ぎみる君が言ばの花にたぐへて
禅閤(近衛房嗣、道興の実父)ことしは八十五にてましましけり。此の度の行末様々とどめさせ給ひけれども、我が身すでに耳したがふ齢に及び侍れば、行歩もいよいよかなひがたし。かくていたづらに明し暮さむ事もそらおそろしく侍れば、厳命に応じ侍らぬことのみ心苦しく侍れども、すでにあひ定め侍るうへは力及ばす。さる程に馬のはなむけとて、骨肉皆々来り集り給ふ。禅閤より使を賜りて、老屈のしぎにて合期しがたく侍れども、余りになごりもせちに侍れば、是まかでみなみなの跡を慕ひ侍るよし承りて、盃酌の席に出で給ふ。ややありて盃のひまによみてたまひける歌、
○身は老いぬ。また相見むも難ければ、今日や限りの別れなるらむ
あはれさ肝に銘じて、満座の老少感涙にたヘず。返歌すべきよし侍りしかば、かの在中将(在原業平)が老母、長岡にてのぶること、ふと心に浮び侍れば、
○君がため千世もと祈るしるしあらば、さらぬ別れを神も憐め
同十六日早朝に、なか谷の蓬畢#をたち出でて、大原越に赴きけり。とし月馴れし柴の庵、しばしばかりの名残さへ、立ち別るるは心細きを、あだしよの習ひといひ、身既に老後の事なれば、立ちかへり住居すべしともたのまれず。池の辺にたたずみて、
○住みなれしこの山水の哀れ、わが誘はれ出づる行衛しらずも
大原まで皆々うち送りに来侍る。中に乗々院法印経親、神明の拝殿にて、わりごなど携へ侍りて、数刻興を催し侍りき。此の社頭は伊勢にて渡らせ給ひけるとなむ。西山の大原を思ひ出でて、神殿に法楽し奉りける、
○大原の神は、天てるかげながら、たのむ春日も、おなじ光りを
近江国
葛川を一見してよめる、
○白露の玉まくくずの、かつら川。くる秋にしも我はかへらむ
今宵は朽木に泊りて、いつしか故郷も遠ざかりて、われ人心細く侍れば、【朽木村】
○浮世をばわたりすてても、山川や、朽木の橋に行きかかりつつ
若狭国
これより若狭国小浜にいたる。曹源院といへる禅院に宿す。兼ねてより武田大膳大夫入道申しつけられしとなり。かの寺は先年順礼の時も立ち寄りけるよし申す人あり。よくも覚え侍らす。爰に老僧侍り。聊か文才などあるよし見えければ、筆にまかせて、【小浜市】
遠来城門成客来 ー房何処擁蘿苔
曾遊此地都如夢 老衲相迎攀小台
翌日未明に出で侍るあひだ、和韻を見るに及ばす、紫念の至りなり。行印法印といへる法師侍り。恵順法眼が同朋なり。古へ連歌の席にて度々逢ひ侍りき。朽木より供し侍るが、善光寺参詣ののぞみ有りとなむ。小浜に暫く休みて、波をながめて、かの法印に申しかけける、
○かげ涼し立ちよる波の浜びさき
○まさご露けき夏のむらさめ      行印法印
同じ国三方といへる所にて、渺々たる海路をながめやりて、
○蜑小舟渡なかの浪に漕ぎいでて三方の海を四方にみるかな
かくて、こひの松原打ち過ぎて、浦見坂といへる所にて思ひつづけける、【三方町】
○問はばやな。誰が世に誰をうらみ坂。つれなく残る恋の松原
此の所々を打ち過ぎて、はたおりの池といへる所にやすみて、
○蝉のはの衣に夏は残れども、秋の名にたつ、はたおりの池
越前国
越前国敦賀につきけるに、浦のけしき面白く侍れば、しばしながめ侍りて、【敦賀市】
○はるはまた立ちぞかへらむ。梓弓つるがの浦の沖つ白浪
しらきどの橋椅といへる所にて、里人に尋ね侍れども、答ふるものも侍らずして、【敦賀市白木】
○里の名もいさしらきどの橋柱、立ちより問へば波ぞこたふる
またおなじならひに、たかきの里といへる所に、柳の侍りけるかげに、われ人すずみて物がたりし侍りける間に、【武生市、福井市?】
○里の名を名のるたかぎの柳蔭、秋かぜしのぶ夕すずみかな
加賀国
加賀国にいたり、たちばなといへる所に宿をかり侍りて、【加賀市橘町】
○旅立つも、さつきの後の身なりけり。我に宿かせ。橘の里
すはま川といひて、其の姿さながら庭などに造りたるすはまに少しも違ひ侍らず。そのまはり四五町にも余りぬらむか。奇妙なる姿なり。里人の申し侍りしは、相馬の将門作りたりなど語り侍りき。信用にたらず。
○すはま川。誰すみすてし遣水の跡とか見まし、庭のおもかげ
これよりしき地、いみなみうち過ぎて、いぶり橋とて、危くいぶせき橋に行きかかりぬ。【加賀市動橋町】
○行き暮れて、ふめば危うきいぶり橋。命かけたる波の上かな
同じ国もとおりを通り侍りけるに、人のきぬをおりけるを見侍りて、【小松市本折町】
○誰かもと、おりそめつらむ賀びを加ふる国のきぬのたてぬき
汐こしの松を尋ね侍りて、
○年波の外にもたかき汐ごしの松の昔ぞ、汲みてしらるる
ほとけの原といへる所を過ぎ侍るとて、
○わがたのむ仏の原に分け来てぞ、行ふ道のかひもしらるる
吉野川といへる所にいたりてよめる、【吉野谷村】
○妹背山、ありとはきかず。夏にしも、よしのの河の名に流れつつ
白山禅定し侍りて、三の室に至り侍るに、雪いと深く侍りければ、思ひつづけ侍りける、【鶴来町白山比盗_社】
○白山の名に顕れて、み越路や、峯なる雪の消ゆる日もなし
下山の折ふし、夕だちし侍りければ、
○のふだちの雲はしらねの雪げかな
これより、吉岡といへる所に、しばらくやすみて、【河内村】
○旅ならぬ身も仮初の世なりけり。うきもつらきも、よしや吉岡
下白山といひて、本のしら山の麓に、つるぎといへる所侍り。そのかみ剣飛び来しより、此の名を残しけるとなむ。【鶴来町】
○しら山の雪のうちなる氷こそ、麓の里のつるぎなりけれ
今宵は矢矯の里といへる所に宿りけるに、暁の月をながめて、【野々市町矢作】
○今宵しも、矢はぎの里にゐてぞみる夏も末なる弓張の月
明くれば、野の市といへる所を過ぎ行きけるに、村雨に逢ひ侍りて、【野々市町】
○風おくる一村雨に虹きえて、野の市人はたちもをやまず
つばたといふ里に宿りけるに、住む人も稀にて、殊の外に閑素に侍りければ、【津幡町】
○旅人の枕の上におくたちの、つばたの里は、さびわたりけり
同じ国高松といへる所に行き暮れて、煙のたつをなかめやりて、【高松町】
○すむ人のたのむ木蔭や、それならむ。烟にくるる高松の里
能登国
これより能登国に到り侍りて、菅原といへる所にて、【志雄町菅原】
○ふしみにはあらぬ野山を分け過ぎて、今宵かりねを菅原の里
また杉のやといへる所を通るとて、【志雄町杉野屋】
○待人の思ふしるしは見えねども、とはではいかや、杉のやの里
よつ柳といへる所に、柳のあまた侍りければ、立ちよりて、【羽咋市四柳町】
○里人の鞠の庭にはしめねども、いとなつかしき、よつ柳かな
小金森といへる所にて、しばらく休みて、【鹿島町小金森】
○みちのくの山に花さく小金森。此の里までも種やまきけむ
藤井といへる所は、浦ちかき里なりければ、波をみてよめる、【鹿島町藤井】
○浦ちかき宿りをしめて、春ならぬ藤井の里も、波になれつつ
くゑのやちといふ所にてよめり。【鹿島町久江】
○心からうきすまひにも馴れぬらむ。八千たび何をくゑの里人
石動山に参詣して法楽し奉れる、【鹿島町石動山】
○うごきなき御世に変りて、石動の山とは、神や名づけそめけむ
越中国
かくて越中国にいたる。ながれの森といふ所にて、【富山市流杉?】
○年なかば、ながれの森に立ちよれば、老の涙も、その名なりけり
ねりあひといへる里に、野人ども物語しけるを見て、ある同行にざれごと歌を、
○足よわき老のカにともなひて、おきなもここにねりあひの里
岩城川といへる大河侍り。故里なる谷近きその名を思出して
○故郷の山に近しと、こひわたる岩くら川の影もなつかし
大森といへる所を過ぎけるに、残暑未だ散じやり侍らねば、われ人木蔭にすずみとりて、
○風はもり、てる日はうとき、大森の蔭にたちよる初秋の空
かくて立山に禅定し侍りけるに、先づ三途川に到りて思ひつづけらる。【立山町】
○この身にて渡るも嬉し、みつせ川。さりとも後の世には沈まじ
翌日下山のついでに、もろもろの地獄を廻りけるに、熱湯の体火炎など、とりどりに浅ましかりければ、
○しでの山。その品々や。湧きかへる湯玉に罪の数をみすらむ
禅定するするととげて、下向し侍る道にて、
○都をば遠く越路にかへる山。ありとなぐさむ旅の空かな
宮崎を立ちて、さかひ川、たもの木、かさはみ、砥なみ、黒岩などいふ所を打ち過ぎ、駒がへりといへる所にて、【礪波】
○行末をいそぐとすれど、跡にのみ心をかくる、こまかへりかな
やまと川にてよめる、
○漕ぐ舟のさほの山べは遠けれど、名に流れたる大和川かな
越後国
七月十五日、越後の国府に下着。上杉兼ねてより長松寺の塔頭貞操軒といへる庵を点じて宿坊に申しつけ、相模守路次まで迎へに来たり。七日逗留。毎日色をかへたる遊覧ども侍り。爰を立ち侍るとて、二首の詠を残しとどむ。【上越市】
○千とせへむ、しるしをみせて、この宿の軒端に高き松の村立
○日数へて、なれぬる旅の中やども、なごりは尽きじ。都ならねど
府中を立ちて長浜といへる所にやすみて、【上越市長浜】
○行末の道をおもへば、長浜の真砂を旅のうき数にして
柏崎を過ぎけるに、秋風いと烈しく吹きければ、【柏崎市】
○おしなべて秋風ふけば、柏崎。いかが、葉もりの神はすむらむ
あふみ川、かさ島など打ち過ぎて、鯨なみといへる浜を行きけるに、折節鯨の潮を吹きけるを見て、【柏崎市青海川、笠島、鯨波】
○わきてこの浦の名にたつ鯨波。曇るうしほを風も吹くなり
やすだ、山むろ、みをけ、しぶ川、大井、きおとしなど打ち過ぎて、うるし山をこゆとて、【柏崎市安田、山室、小国町三桶、川西町木落】
○初秋の露にぬるてふうるし山。今一しほぞ、風も涼しき
壷池といへる里にしばし休みて、或人に遣しける俳諧うた、
○あぢ酒をすすむる人もなき宿に、水のみわくや。壷池の里
これより、くつぬぎといへる里を過ぎ侍るとて、
○我も亦、あしをやすめて立ちぞよる水かふ駒の、沓ぬぎの里
ふくろふといへる里にて、ねざめに思ひつつけける、
○此の里のあるじかほにも名のるなり。深き梢のふくろふの声
あひまた、湯の原、などいふ所を分け行き侍りけるに、道のほとりの尾花を眺めやりて、
○すむ水はありともみえぬ池の原。尾花さわぎて、高き波かな
此の原をうち過ぎて、なぎなた坂といへる所をこえ侍るとて、またある同行にいひかけ遣しける俳楷歌、
○杖をだにおもしといとふ、山越えて薙刀坂を手ぶりにぞ行く
上野国
上野国大蔵坊といへる山伏の坊に、十日あまりとどまりて、同国杉本といふ山伏の所へ移りける。道にからす川といへる川に、鵜からすなど相交りて侍りけるを見て、また俳諧、
○とりもえぬ魚の心を恥ぢもせで、鵜のまねしたる烏川かな
大が松といへる所を過ぎ侍るとて、
○名のみして宮木にもるる大が松。ひく人なしに年やへぬらむ
この所より、信濃の浅間の嶽、近々と見え侍ると聞きしにも過ぎて、其の風情すぐれ侍りき。
○今は世に烟をたえて、しなのなる浅間の嶽は、名のみ立ちけり
杉本に十日ばかり逗留し侍りき。八月十五日夜淡雨茫々として、いとど旅店の物うさも、一入の心ちして、
○身こそ、かく旅の衣に朽ちはてめ。月さへ名をもやつす雨かな
この坊を立ちて、宮の市、せしもの原、しほ川、しろいし、いたづら野、あひ川、かみ長川など、様々の名所を行きゆきて、おしまの原といへる所に休みてよめる、【藤岡市白石、神流川、本庄市小島】
○今日ここにおしまが原を来てとへば、わが松島は程ぞ遥けき
武蔵国
武蔵野にて残月をながめて、
○山遠し有明のこるひろ野かな
おなじ野をわけくれてよめる、
○草の原、分けもつくさぬ、武蔵野の今日の限りは、夕なりけり
この夜は、しの野に仮寝して、色々の草花を枕にかたしきて、少しまどろみ、夢の覚めければ、
○花散りし草の枕の露のまに、夢路うつろふ、武蔵野の原
○武蔵野の草にかりねの秋の夜は、結ぶ夢ぢも、はてやなからむ
此の野の末にあやしの賎の屋にとまりて、雨をききて、
○旅まくら、都に遠きあづまやを、いく夜か秋の雨になれけむ
岡部の原といへる所は、かの六弥太といひし武夫の旧跡なり。近代関東の合戦に数万の軍兵討死の在所にて、人馬の骨をもて塚につきて、今に古墳教多侍りし。暫くゑかうしてくちにまかせける、【岡部町】
○なきをとふ、岡べの原の古塚に、秋のしるしの松風ぞふく
むら君といへる所をすぐるとて、【羽生市下村君】
○たが世にか浮れそめけむ。朽ち果てぬ其の名もつらき村君の里
浅間川をわたるとてよめる、
○名にしおふ山こそあらめ。浅間川。行せの水も烟たてつつ
下総国
古川といふ所にて舟にのりて、【古河】
○こがくれに浮べる秋の一葉舟。さそふ嵐を川をさにして
○河舟をこがの渡りの夕浪にさして、むかひの里や、とはまし
なり田といへる所にて、はじめて富士をながめて、【成田】
○言のはの道も及ばぬ富士の嶺を、いかで都の人に語らむ
夕あけぼのに、ながめのかはれることを、
○俤のかはる富士の嶺。時しらぬ山とは、誰かゆふべあけぼの
かの嶽は、遠く行くに随ひて、空にも及ぶばかりに侍りければ、
○遠ざかりゆけば、ま近く見えてけり。外山を空に登る富士の嶺
下総・こほりの山
下総国こほりの山といへる所に、伊豆の三島を勧請し奉りて、大社ましましけり。かの別当の坊にしばらく逗留し侍りけるうちに、歌など度々いひすてども、少々しるし置き侍りける、
○尋ね来て、ここにみしまのおなじ名を思ひぞ、いづの国つ神風
ある夜、皎えわたるに、士峰の雪嬋娼たりければ、
○富士のねの麓に月は影しろし。空に冴えたる秋のしら雪
虫のね物すごき夜、ねざめかちにて、
○かりねとふ草の枕の虫のねに、催されてもなきあかしつつ
ある夕つかた、はつかりの声をききて、
○おくれゐて聞きこそわぶれ、初かりの都にいそぐ夕暮の声
おなじとき発句、
○かりなきて秋かぜたかき雲路かな
色こき蔦の、夕日に映じけるを見て、
○色うすき秋の日かげは、紅のながめもかはる蔦かづらかな
野外の萩やうやう散りがたにみえければ、遠山には、木々の梢色付きわたりけるをみて、
○のべの萩ちればとやまの錦かな
旅館の萩をながめ侍りて、
○萩みればふるさとちかき軒瑞かな
かくて、こほりの山を立ち出でてゆく道に、葛のいと繁く侍りけるをみて、
○わが方に帰らむことも遠き野の、まくずうらやむ秋風のくれ
またすすきを分けはべりて、
○思ひいづる故郷人の心かと、まねく尾花か、袖もなつかし
同じ野を分け過ぎけるに、しをにといへる花をみて、
○尋ね見む、あだちが原のしるべかも、此の野にあへる鬼の醜草
宮城野の萩とて人のみせければよめる、
○宮城野の木の下ふしのかり枕、まはぎ折り敷き、独りかもねむ
ある旅宿にて、明がたに雁の鳴きけるをききて、
○しののめの横雲まよふ峯こえて、ともにたなびく天つ雁がね
ある人すすめ侍りけるに、
旅天月、
○よなよなの月は、都のかげながら、やつるる袖におも変りして
夕鹿
○我が方をこひつつきけば、さを鹿の妻とふ声も、うきタベかな
旅店にて、愁懐の余り、夜更くるまで短檠に封して、
弧館残燈欲五更 暗蛩切々夢難成
故人記取不平事 日々寒垣想洛城
山をこえ過ぎて浦ちかくながめやりけるに、遠景限りなくみえ侍りければ、感興に堪えず。和漠両篇ロに任せける、
客旅尚添雙鬚花 江山阻跡故人遐
弧帆明滅暮煙外 落日天辺雁陣斜
○からろおす船を友とや声をほにあげておちくる天つ雁がね
上総国
上総国千種の浜といへる所にて、色貝をひろひて、【市原市千種海岸】
○野路つづく千ぐさの浜のうつせ貝。海さへ秋の色に出でけり
桜井の浜といへる所にて、桜貝を拾ふとて、【木更津市桜井】
○春はさぞ花おもしろく、桜井の浜にぞ拾ふ。おなじ名の貝
吉野郷といへる所あり。宗良親王芳野の花をここに移して植ゑさせ給ふといひ伝ふ。
○花ざかり、思ひやられてみよしのの桜の紅葉、これも名残と
ふと、木更津、あづまなどいへる所を打ち過ぐるとて、思ひつづけしこと、ロに任せて、俳諧、【木更津市】
○ここにふと木更津の郷過ぐれども、なほもあづまの内とこそきけ
神野山といへる道場にまうでて、【鹿野山】
○なく鹿の、野にも山にも聞ゆなり。妻こひわぶる秋の夕暮
安房国
安房国清澄山にまうで、通夜し侍る暁、【天津小湊町清澄山】
○暁のたれときぼしも、きよすみの海原遠くのぼる山かな
東のかたへ下山し、天津といへる所にて、【天津小湊町天津】
○昔もし雲の通ひぢ吹きとぢば、乙女の姿、今も見ましを
まへ原といへる所にて、【鴨川市前原】
○まへばらの里のうしろの山おろし。舟にもみぢの錦つむなり
磯村といへる所は、名にしおひて、磯伝ひの村なれば、【鴨川市磯村】
○海近く磯づたひゆく、いそむらに村々見ゆるあまの釣船
那古の観音にまうで、ぬかづき終りて、タの海づらをながめやるに、寺僧の出で来て、あれ見給へ、入日を洗ふ沖津自浪とよめるは此の景なりといへり。されど、それは津の国住吉郡なごの浦をよめるとかや。そのなごの浦に難波津をまもれる人の住みしによりて、其の浦を津守の浦といひ、また子孫の氏によびて、津守氏ありとかや。今はなごの浦の所に、さだかにしれる人なしとなむ。此の歌いづちにしてよめるもしり難けれを洗ふ僧のいふに任せてしるすものなり。まことに今も入日ど、寺沖つ波、眼前の景色えも言ひがたし。【館山市那古】
○なごの浦の霧のたえまに眺むれば、ここにも入日を洗ふ白浪
【 新古今春上 後徳大寺左大臣 なごの海の霞のまよりながむれば入日をあらふおきつしらなみ 】
今宵はここに通夜し、明くるあした、名にしおふ野島が崎をみれば、朝露ここかしこに立ち消ゆるさまただならず。【白浜町野島崎】
○あまをぶね、見えつかくれつ、朝あけの野しまが崎の霧の村々
かち山といへる所にて、【館山?】
○駒はあれど、からよりぞ行く、かち山の里にこはたぞ、思ひやらるる
河名といへる所にて、里人の菜を洗ふをみて、
○つみためて洗ふ河なの里人よ、たが羹のそなへにやなす
此所より右の方に、鋸山といへる山あり。峰の嵐に雲晴れて、あからさまに其の嶺みゆ。段々ありて、誠に鋸の様になむ侍れば、俳諧、【鋸南町鋸山】
○宮木ひく峯の嵐に雲はれて、のこぎり山はかがりとぞ見ゆ
相模
是より舟にのりて、三崎といへる所にあがりて、【三浦市三崎】
○あはれとも誰かみさきの浦づたひ、しほなれ衣、旅にやつれて
浦川の湊といへる所に到る。こ、は昔頼朝卿の鎌倉にすませ給ふ時、金沢、榎戸、浦河とて、三つの湊なりけるとかや。【浦賀】
○えの木戸はさしはりてみず、浦川に門をならべて見ゆる家々
鎌倉にて第三まで独吟、【鎌倉市】
○霧ふかしかまくら山のほし月夜
○あさなく鶴か岡のまつかぜ
○葛の葉の色づく野沢水かれて
鳥はみといへる所を過ぎ行きけるに、日暮れ侍りければ、【古河市鳥喰?】
○誘はれて我も宿りに急ぐなり。かへるタベのとりはみのさと
九月九日、野を分けつくして山に到りけるに、菊いと面白く咲きて、感緒きはまりなし。重陽宴には菊を擬し侍りて、
○今日はまた、野を分け過ぎて、仙人となりてや、菊の花をかざさむ
○長月のここのがさねを思ひ出で、衣にうつす菊のしら露
下野国
【 蜻蛉日記 下野や桶の二荒をあぢきなき影も浮かばぬ鏡とぞ見る 】
さのの舟はしをよめる、【佐野市】
○かよひけむこひぢを、今の世語りに聞くこそ渡れ、さのの舟橋
日光山にのぼりてよめる。また昔は二荒山といふとなむ。【日光市】
○雲霧もおよばで高き山のはに、わきて照りそふ日の光りかな
此の山にや。やますげの橋とて、深秘の子細ある橋侍り。くはしくは縁起にみえ侍る。また顕露に記し侍るべき事にあらず。
○法の水みなかみふかく尋ねずば、かけてもしらじ。山すげの橋
瀧の尾と申し侍るは、無隻の霊神にてましましける。飛瀧の姿目を驚し侍りき。
○世々をへて結ぶ契りの末なれや。この瀧の尾の瀧のしら糸
この山の上三十里に、中禅寺とて権現ましましけり、登山して通夜し侍る。今宵はことに十三夜にて、月もいづくに勝れ侍りき。渺漫たる湖水侍り。歌の浜といへる所に、紅葉色を争ひて月に映じ侍れば、舟に乗りて、【中禅寺湖】
○敷島の歌の浜辺に、舟よせて紅葉をかざし、月をみるかな
翌日、中禅寺を立ち出でける道に、かつ散りしける紅葉の、朝霜のひまに見えけれは、先達しける衆徒長門の竪者といへる者にいひきかせ侍りける、
○山深き谷の朝霜ふみ分けて、わがそめ出す下もみぢかな
かくしつ、下山し侍りけるに、黒髪山の麓を過ぎ侍るとて、われ人いひすてどもし侍りけるに、
○ふりにける身をこそよそに厭ふとも、黒髪山も雪をまつらむ
おなじ山の麓にて、迎へとて馬どもの有りけるを見て、
○日数へてのる駒の毛もかはるなり。黒かみ山の岩のかげ道
また本坊坐禅院に帰りつき侍りて、さまざま遊覧あり。或夜時雨を聞きて、
○越えゆかむをのへの雲も、先だちて山めぐりする、初時雨かな
軒近く瀧おち侍り。さながらねざめのしぐれに聞きまがひ侍りければ、
○山水の音をねざめの時雨にて、老の泪はいつはりもなし
ある夜月いと面白かりけるに、別当坐禅院法印昌深かたよりよみて給ひける、
○さてもなほ思はぬ袖のかりねゆへ、こよひや都月の山ざと
とりあへずかへし、
○ことのはの光りをそへてみる月に、よしや都の秋もしのばじ
一山の老弱酒宴を興行して、児わらは数輩集りて、色々曲を尽し侍りき。、宴席終りて、藤乙丸といへる少人、休所へ礼に来りて、暫く物語し侍りて帰り侍りけるが、次の日いひつかはしける、
○おとにぞと云ひしもさぞな、相みての心尽しを誰かしらまし
藤乙丸かへし、
○あひ見しは夢かと計り辿れるを、うつつに返す言のはのすゑ
或る夜、またかの児おとづれ侍りて、余りに月の面白さに誘はれ侍るよし申して、しばし物語し侍りけるに、一首よみ侍るべきよし、しひて所望しければ、取りあヘず、
○月見つつ思ひ出でなば、もろともに空しき峯や、形見ならまし
名残も今日あすばかりにて侍れば、更け行くをもしらず遊びけるに、五更の鐘既に告げわたりければ、帰りて長門の竪者して申しおこせける。
藤乙丸
○いかにせむ。また頼みある世なりとも、秋の別れは愚ならめや
かへし、
○別れ路の露とも消ええむ時しもあれ、秋やは人にとのみ嘆きて
そへてつかはしける歌、
○忘れめや、一夜の夢のかり枕、人こそかりに思ひなすとも
同じ国宇津宮につき侍り。粉川寺といへる所に聖道所あり。かの坊にとどまり侍りき。此の寺の称号いかなるゆゑにかと思ひ侍りければ、紀伊国粉川寺をうつし侍るとなむ。彼の本寺門跡管領の在所なれば、ふしぎなる機縁にて侍るよし申しきかせて、短冊をつかはしける。【宇都宮】
○契りあれや、東路とほく紀の国にあらぬこがはの寺に宿れる
ある夜きぬたの音を聞きて、
○ねざめうき旅の夜床を思ひやれ、衣をうつの宮の里人
この旅宿にて、人々月のうたよみける中に、
○めかれせず月にかかるは心にて、空に雲なき秋の夜半かな
宇津宮を立ちて、きぬ川といへる所にてよめる、【鬼怒川】
○もみぢ散る山は、錦をきぬ川にたちかさねたる、波のあやかな
常陸国
常陸国にいたりぬ。小栗といへる所に、熊野神社おはしましけり。法施の序によみて奉る。【協和町小栗】
○たちそひて守る心の道なれや、いづくに来てもみくまのの神
桜川をわたり侍りければ、紅葉うつろひて波に映じけるを見てよめる、【岩瀬町桜川】
○秋の色にうつろひきても、桜川、紅葉に波の花をそへつつ
同じ国山田慶城といへる山伏の坊にやどりてよめる、
○めぐり来て今日は吾妻のひたち帯、結びそへてや、草枕せむ
此の坊に逗留の間、歌あまたよみける中に、夕時雨といへる題にて、
○もみぢ葉を染むるのみかは、夕時雨、我が寂しさも色増りけり
また夜時雨といへる心を、
○色みえぬ時雨のいとや、山姫のよるの錦を、おり乱すらむ
九月廿三日、欲詣筑波山疾風迅雨太無矣。乃亀居草庵而ロ号一絶。
蕭條竟日鎖柴門 風雨似憐吾脚踉
還恨楓林断秋色 明朝山上祭吟魂
翌日筑波山に参詣し侍りけるに、初雪ふりて、紅葉はうすくれなゐに見えければ、【筑波山】
○いづれをか深し浅しとながめまし、もみぢの山のけさの初雪
神前にして詠じて奉りける、
○さはりなく今日こそここにつくばねや、神の恵みの、は山繁山
まことにこのもかのもと詠ぜしもことわりにて、山々の紅葉たとへむ方も侍らず。道すがらくちずさびける歌、
○筑波山、この面かの面のもみぢ葉に、時雨も繁き程ぞしらるる
みなの川は此の山のかげにながれ侍り。恋ぞつもりてと詠ぜし歌をおもひいでて、
○筑波ねのもみぢうつろふみなの川、淵より深き秋の色かな
また山に八重がさねといへる霊石侍り。いひすての発句、
○きてぞ見るもみぢのにしき八重がさね
旅宿にて、夕鹿といへることを、人々によませ侍りける次に、
○山陰や、木のはしぐれて暮るる日に忍びかねたる、さを鹿の声
雁のわたりけるを聞きてよめる、
○萩の葉にありとしらでや、玉づさを翅にかけて渡る雁がね
暁虫といへることを、
○きりぎりす、よわるねざめの有明に枕さびしき床の上かな
旅の宿寂しさの余り、これかれ題を探りて歌よみけるに、鹿、
○なるこには驚く鹿も、妻恋のきづなに、などかはなれざるらむ
筑波根の麓をたちて、他国へうつりける道にて、きく、もみぢおもしろき所にいたりて、
○旅の空うつろひかはり行く道に、紅葉も、菊も、をりをしれとや
つくば川をわたりけるに、いささのはしを過ぐるとて、
○わたりきて末たとたどし筑波川、いささの橋にかかる夕暮
ここを過ぎて、うがひ川といへる所に、紅葉盛りにみえければ、立寄ちりて、
○冊をばもみぢぞてらす鵜かひ川、水すさまじき瀬々の松かぜ
ある野径を分け行きけるに、浅茅いと深かりければ、
○故郷の庭の浅ぢもかくやとて、分けわぶる野を哀れとぞみる
九月廿入日、稲穂の別当か坊にて、湖水をながめて、
山色湖光秋又窮 郷書曾不詑飛鴻
砧声近報孤村晩 旅懐何堪憂患躬
下総国
下つ総の国児の原といへる所あり。いかなるゆゑに、かかる名の所は侍るぞと、さと人に尋ねければ、此の在所白波青林横行の地たるによりて、ある少人のとほりけるに、衣装など剥ぎ取るのみならず、剰へ殺害し侍りき。夫より此の所をかやうに号し侍るよし語り侍れば、今更の心ちして、塚のほとりに立ちよりて、思ひつづけて廻向し侍りける。
佳人落命荒原上 蘇底古碑空刻名
勿恨青林犯花影 浮生有限辱兼栄
○白波に浮名をながす児の原恋ぢにすつる身とも聞かばや
草の原さまざま枯れわたりて、むしのね所々に残りけるを、
○虫のねの稀になりゆくのべみれば、独りはかれぬ霜の下草
あるとき題をさぐりて歌よみけるに、菊、
○紫にうつろふ菊の花は、まだあらぬ種より吹くかとぞ見る
また砧を、
○秋風に人の夜寒をうちそへて、砧にあやなねざめをぞする
ある少人の許より、暮秋紅葉といへる題をたびて、歌よみて
と侍りしかば、その使をまたせて、
○帰るさを思ひたつ田の秋とてや、山も錦のをりをしるらむ
ある夕ぐれに、雁なきて秋風物すごく吹きなしければ、
○雲路行くかりがねさむみ、秋更けてゆふべの山に風渡りつつ
国々あまた過ぎ行き侍りけれども、富士の高ね猶おなじさまに見え侍りしかば、
○身にそふる俤なれや、いづかたにゆけども近き富士の高ねは
晴れ曇る時雨の空に向ひて、旅客の愁への泪に思ひよそへてよめる、
○うき秋の涙の袖は、隙ぞなき時雨は空にはれくもれども
九月尽にある旅宿にて、
○いかにせむ、今日を限りの秋ながら、わが帰るさの行方しらねば
○旅の空我はいつとも白露をかたみにおきてかへる秋かな
十月朔日よみて人につかはしける、
○春といふ名にはふれども、神な月、しぐれて霞む山の瑞もなし
○今日よりは春と冬との神無月、げにさだめなき初時雨かな
今日小春のしるしにややいささかのどかに侍りければ、皆々いなほの湖水にうかびて、舟のうちにて酒など興行し侍りき。富士のね湖にうつれる心を皆々よむべきよし申しければ、
○湖の波まに影をやどしきて、またたぐひある富士を見るかな
稲穂をたちて行きける道に、いろいろの名所ども侍り。いひ捨の発句歌など、あまた侍りしかども、途中の事なれば記すに及ばす。あやしの橋といへる所にて、
○川風の渡る霧まにほのみえて、あやしの橋の末ぞ、あやふき
武蔵国
岩つきといへる所を過ぐるに、富士のねには雪いとふかく、外山には残んの紅葉色々にみえければ、よみて同行の中へ遣しける、【岩槻市】
○富士の嶺の雪に心をそめて見よ。外山の紅葉色深くとも
浅草といへる所に泊りて、庭に残れる草花を見て、【台東区浅草】
○冬の色はまだ浅草のうら枯に、秋の露をも残す庭かな
此の里のほとりに、石枕といへるふしぎなる石あり。其の故を尋ねければ、中ごろのことにやありけむ、なまざぶらひ侍り。娘を一人もち侍りき。容色大かたよの常なりけり。かのちち母、むすめを遊女にしたて、道行人に出でむかひ、彼の石のほとりにいざなひて、交会のふぜいをこととし侍りけり。かねてよりあひ図のことなれば、折りをはからひて、かの父母枕のほとりに立ちよりて、とも寝したりける男のかうべを打砕きて、衣装以下の物を取りて、一生を送り侍りき。さる程に、かの娘つやつや思ひけるやう、あな浅ましや、いくばくもなきよの中に、かかるふしぎの業をして、父母諸共に悪趣に堕して、永劫沈倫#せむ事の悲しさ、先非におきては悔いても益なし、これより後の事様々工夫して、所詮我父母を出しぬきて見むと思ひ、ある時道ゆく人ありと告げて、男の如くに出でたちて、かの石にふしけり。いつもの如くに心得て、頭を打砕きけり。いそぎものども取らむとて、ひきかつぎたるきぬをあけてみれば、人ひとりなり。あやしく思ひて、よくよく見れば我がむすめなり。心もくれ惑ひて、浅ましともいふばかりなし。それよりかの父母速に発心して、度々の悪業をも慙愧懺悔して、今の娘の菩提をも深く弔ひ侍りけると語り伝へけるよし、古老の人の申しければ、
○つみとがのくつる世もなき、石枕、さこそは重き思ひなるらめ
当所の寺号浅草寺といへる、十一面観音にて侍り。たぐひなき霊仏にてましましけるとなむ。参詣の道すがら、名所ども多かりける中に、まつち山といふ所にて、
○いかでわれ頼めもおかぬ東路の待乳の山に、今日はきぬらむ
○しぐれても逐にもみぢぬ、待乳山落葉をときと木枯ぞ吹く
○梅花無尽蔵云、川辺有柳樹、吉田之子、梅若丸墓所也、其母北白河人。
あさぢが原といへる所にて、
○人めさへかれてさびしき夕まぐれ、浅茅か原の霜を分けつつ
おもひ川にいたりてよめる、
○うき旅の道にながるる思ひ川、涙の袖や水のみなかみ
かくて、隅田川のほとりに到りて、皆々歌よみて、披講などして、古の塚のすがた、哀れさ今の如くに覚えて、【隅田川】
○古塚のかげ行く水の隅田川、聞きわたりても、濡るる袖かな
同行の中に、さざえを携へける人ありて、盃酌の興を催し侍りき。猶ゆきゆきて川上に到り侍りて、都鳥尋ね見むとて人人さそひける程に、まかりてよめる、
○こととはむ、鳥だに見えよ、すみだ川。都恋しと思ふゆふべに
○思ふ人なき身なれども、隅田川、名もむつまじき都鳥かな
やうやう帰るさになり侍れば、夕の月所がらおもしろくて、舟をさしとめて、
○秋の水すみだ川原にさすらひて、舟こぞりても月をみるかな
秋の日浅草を立ちて、新羽といへる所に赴き侍るとて、道すがら名所ども尋ねける中に、忍の岡といへる所にて、松原のありける蔭にやすみて、【】
○霜ののちあらはれにけり。時雨をば忍の岡の松もかひなし
ここを過ぎて、小石川といへる所にまかりて、【文京区小石川】
○我がかたを思ひ深めて、小石河、いつをせにとかこひ渡るらむ
とりごえの里といへる所に行きくれて、【台東区鳥越】
○暮れにけり。宿り何処と急ぐ日に、なれもねに行く鳥越の里
芝の浦といへる所に到りければ、しほやのけぶりうち靡きて物寂しきに、塩木運ぶ舟どもを見て、【港区芝浦】
○焼かぬよりもしほの煙名にぞたつ舟にこりつむ芝の浦人
此のうらを過ぎて、あら井といへる所にて、【横浜市】
○蘆まじりおふるあらゐのうち靡き、波にむせべる岸の松風
相模国
まりこの里にてよめる、
○東路のまりこの里に行きかかり、足もやすめず急ぐ暮れかな
駒林といへる所に到りて、宿をかり侍るに、あさましげなる賎の伏屋に、落葉所をせき侍るを、ちとはきなどし侍りける間、たたずみて思ひつづけける、
○つながれぬ月日しられて、冬きぬとまたはをかふる駒林かな
新羽を立ちて鎌倉に到る道すがら、さまざまの名所ども、委しく記すに及び侍らず。かたひらの宿といへる所にて、 
○いつ来てか、旅の衣をかへてまし、風うら寒きかたひらの里
岩井の原を過ぐるとて、 
○すさまじき岩ゐの原をよそに見て、結ぶぞ草の枕なりける
もちゐ坂といへる所にて、俳諧の歌、
○行きつきて見れ共みえず、もちゐ坂、ただ藁靴に足をくはせて
すりこばち坂といへる所にて、また俳緒歌をよみて人に見せ侍りける。
○ひだるさに宿急ぐとや思ふらむ。路より名のる、すりこばち坂
はなれ山といへる山あり。誠に続きなる尾上もみえ侍らねば、
○朝まだき旅立つ里のをち方に、其の名もしるきはなれ山かな
鎌倉中、かなたこなた順見し侍りて、先やつやつを人に尋ね侍り。亀がゐのやつにてよめる、
○幾千とせ鶴が岡べに伴ひて、よはひあらそふ亀がゐのやつ
扇が谷にて、 
○秋だにもいとひし風を、折しもあれ、扇が谷は名さへすさまじ
○写し絵の扇がやつや、これならむ。月はうな原、雪は富士の嶺
ささめがやつ、
○霜さやぐ、さざめが谷のふしのまに一夜の夢も嵐ふくなり
梅が谷、
○冬枯の木立さびしき梅が谷、もみぢも花も、おもかげぞなき
うりが谷、
○ひと夏はとなりかくなり暮過ぎて冬にかかれる瓜が谷かな
霧がやつ、
○此の里の古井のもとの桐がやつ、おちばの後は汲む人もなし
胡桃か谷
○住みなれし鎌倉山のやまがらや、くるみが谷に秋をへぬらむ
べにが谷をとほりて、化はひ坂を越ゆとて、俳譜、
○顔にぬる紅が谷よりうつりきて早くも越ゆるけはひ坂かな
鶴が岡の八幡官に参詣し侍れば、伝へ伝へ聞き侍りしに勝わたる宮だちなや。きしとに信心肝にめいじて尊くおぼえ侍る。抑当社別当祖師隆弁僧正、経歴年久し。その階弟道瑜准后、号をば大如意寺といひ、両代彼の職に補し侍りき。由緒無双なることを思ひ出でて、神前に奉納の歌、
○神もわが昔の風を忘れずば、鶴がをかべのまつとしらなむ
由井か浜にまかりて、鳥居など見侍りて、暫く皆々あそび侍りけるに、
○朽ちのこる鳥居の柱、あらはれてゆゐの浜べにたてる白浪
此の序でに、建長円覚以下の五山を順見し侍りて、是より、瀬戸金沢といへる勝地の侍るを尋ねゆくに、瀬戸の沖に漁舟あまたみえけるを、 
○よるべなき身のたぐひかな、波あらき瀬戸の汐あひ渡る舟人
磯山づたひ、残の紅葉、見所多かりければ、
○冬さればせとの浦わのみなと山、幾しほみちて残る紅葉ぞ
金沢にて時宗の庵の侍りけるに、立ち寄りて茶を所望しけるに、庭に残菊の黄なるをみてよめる、
○誰ここにほりうつしけむ、金沢や、黄なる花さく菊の一本
此の在所に称名寺といへる律院侍り。ことの外なる古所にて、伽藍などもさりぬべきさまなる所々順礼し侍りけり。三重の塔婆にまうでけるに、老僧に行逢ひぬ。この塔の由来など尋ねければ、これにこそ楊貴妃の玉の簾二かけ安置し侍り。我がはからひにて侍らましかば、一見させ侍るべき物をとて、懇切なる芳志ぞみえ侍りき。既に下向せむとしけるに、この僧いろいろに思案して申すやう、暫くあひまち侍れ。住寺に申し試みむとて、僧立ち入りぬ。ややありて立ち帰りていふ様、此の玉簾、当寺の霊宝として、毎年三月十五日に取出すより外には、かたく禁制し侍れども、拙老経廻の義、前後其例有り難く侍れば、衆僧談合し侍りて、一見を許し侍るべきよし申す。まことにふしぎなる機縁なり。簾の長さ三尺四寸、広さは四尺ばかりにて、水精の細さ、世の常の簾よりも猶細く、形は見え侍らず。玉妃のその古へに、九花帳に掛け侍りけむ事など思ひやり待れば、千古の感緒今更肝に銘じて、皆人袖を濡し侍りき。
○遠き世のかたみを遺す玉簾、思ひもかけぬ袖の露かな
藤沢の道場、聞えたる所なれば、一見し侍りき。ある寮にて茶を所望し侍り、暫く休みけるに、池の紅葉のちりけるを見て、 
○沢水もかげは千いろの木の葉かな
道場の前に、ふりたる松に藤のかかりければ、
○紫の色のゆかりの藤さはに、むかへの雲をまつぞ木だかき
ここを立ちて、小田原といへる所へまかりける道に、花水川といへる河を渡りて、
○咲くとみえ、ちるとみゆるや。風わたる花水川の波のしら玉 
大磯の宿といへる所は、古へ虎といひける好色の住みける所となむ。ある同行に戯れに申しきかせける。 
○今はまたとらふすのべとあれにけり。人は昔の大磯の里
鴫たつ沢といふ所にいたりぬ。西行法師ここにて、心なき身にも哀れはしられけりと詠ぜしより、此の所をかくは名づけけるよし、里人の語り侍りければ、
○哀れしる人の昔を思ひ出でて、鴫たつ沢をなくなくぞとふ
梅沢の里を過ぎ侍るとて、
○旅衣春まつ心かはらねば、聞くもなつかし梅ざはのさと
まりこ川にて、俳諧、
○鈴かけのくくりを上げて、まりこ川、おひ綱かいつ今日は暮さむ
小田原に着き侍れば、早川の浦とて、水上は大河にて、海辺につづきたるによりて、かやうに申し侍るとなむ。 
○末遠く流れ出でたるはや川のうらや、千尋の波路なるらむ
一夜この所に留りて、旅泊の愁緒かへりてその興も多かりけり。夜もすがらまどろまむ隙も侍らざりければ、
○蘆の家は、波を枕にしきたへの床には、夢のたちもかへらで
これより箱根、三島などへ参詣せむとて、風祭の里といへる所にて、渡し舟さしよせけるとき、 
○舟出せむ。みなと江近き里の名も、げに白波のかざまつりかな
箱根山に行きくれて、今夜は社参に及ばず。翌朝まうでて落葉を見て、 
○木枯の錦をたたむ箱根山、あけて見るにぞ紅葉なりけり
○嵐ふくをのへの紅葉散りみだれ錦をたたむ箱根山かな
伊豆国・駿河国
かくて三島にまうでて、 
○波たてぬみよにと祈る三島江のあしてふことを払へ、神風
矢立の杉とて大木あり。軍陣へ出づる武士ども、この木に矢を射たてて吉凶を見侍るよし伝へければ、
○武夫のためしにひける梓弓、やたての杉や、しるしなるらむ
あしたか山をながめて、 
○浮雲のあしたか山は早けれど、なづめる駒ぞ、進むともなき
桂山を越え侍れば、いづれの木末も落葉して、物さびわたり見えければ、静岡市桂山
○冬枯に名のみ残りて、かつら山、まさきも、つたも、色ぞ稀なる
すはま口といふより、富士の麓に到りて、雪をかきわけて、
○よそにみし富士の白雪、今日わけぬ心の道を神にまかせて
富士のむら山とて、大嶽の麓に侍り。所々に紅葉の残れるをながめて、 
○高ねには秋なき雪の色さえて、紅葉ぞ深き富士のむら山
田子のうらを、はるばるとながめやりてよめる、 
○千里より千さとにつづく富士の嶺の雪の麓や、田子の浦浪
富士のなる沢をよめる、               
○久かたの天の川せの声なれや。雲まにむせぶ富士の鳴沢
みほの入うみをながめ侍りて、 
○浮雲のみほの入うみ。見渡せば、松のうへこす沖つしら浪
浮島が原をながめ侍れば、松原遠く暮れかかりて、やうやう月澄み昇りければ、
○たちつづく松のはごしの波わけて、月のみ舟も浮島が原
相模国
あしがら山をこゆとてよめる、 
○足柄のやへ山越えて眺むれば、心とめよと、せきやもるらむ
やまびこ山にて、
○こたへする人こそなけれ、あし曳の山びこ山は、嵐ふくなり
さきのたび渡りける鞠子川をまたとほるとて、俳諧、
○まりこ川またわたる瀬やかへり足
八幡といへる里に神社侍り。法施のついでに、
○あづさ弓、八幡をここにぬかづきぬ。春は南の山に待ち見む
剣沢といへる所にて、氷を見てよめる、
○此のごろは水さび渡れる剣沢、氷りしよりぞ名は光りける
蓑笠の森とて、社頭ましましけり。暫く法施侍りて、
○天が下守らむ神のちかひとや。ここにきやどるみのかさの杜
ふたつはしといへる所を過ぎ侍るとて、
○おぼつかな、流れもわけぬ川水にかけ並べたるふたつ橋かな
宿相州大山寺、寒夜無眠。而閑寂之余、和漢両篇口号。 
蓑笠何堪雪後峰 山隈無舎倚孤松
可憐半夜還郷夢 一杵安驚古寺鐘
○わが方をしきしのべとも、夢路さへ適ひかねたる雪のさむしろ
此の山を立ち出でて、霊山といふ寺に到る。本尊は薬師如来にてまします。俳諧歌をよみて、同行の中につかはしける、
○釈尊のすみかと思ふ霊山に、薬師彿もあひやどりせり
日向寺といへる山寺に一宿してよめる、
○山陰や雪気の雲に風さえて、名のみ日なたときくも頼まず
熊野堂といへる所へ行きけるに、小野といへる里侍り。小町が出生の地にて侍るとなむ、里人の語り侍れば、疑しけれど、
○色みえて移ろふときく、古への言葉の露か、小野の浅ぢふ
半沢といへる所にやどりて、発句、
○水なかば沢べをわくやうす氷
名に聞きし霞の関を越えて、これかれ歌よみ連歌など言ひ捨てけるに、
○吾妻路の霞の関に、としこえは我も都に立ちぞかへらむ
○都にといそぐ我をばよもとめじ。霞の関も春を待つらむ
武蔵国
此の関をこえ過ぎて、恋が窪といへる所にて、 
○朽ちはてぬ名のみ残れる恋か窪、今はたとふも、契りならずや
ある人の許にまかりて遊び侍りけるに、題を探りて三十首よみ侍りけるに、
深夜寒月
○春秋にあかしなれぬる心ざし、深き霜夜の月ぞしるらむ
松雪夕深
○嵐さへうづもれはててふる雪に、松のしるべもなき夕かな
思不言恋
○さすがまたかくとはえこそ岩小菅、下に乱れてわぶとしらなむ
むねをかといへる所を通り侍りけるに、夕の煙を見て、 
○夕けぶりあらそふ暮を見せてけり。わが家々のむね岡の宿
堀兼の井見にまかりてよめる。今は高井戸といふ。【狭山市掘兼】
○おもかげぞ語るに残る、武蔵野や、ほりかねの井に水はなけれど
○昔たれ心づくしの名をとめて、水なき野べを堀かねのゐぞ
やせの里は、やがて此の続きにて侍り。
○里人のやせといふ名や、堀兼の井に水なきを侘び住むらむ
これよりいるま川にまかりてよめる、【入間川】
○立ちよりて影をうつさば、入間川、わが年波もさかさまにゆけ
此の河につきて様々の説あり。水逆に流れ侍るといふ一義も侍り。また里人の家の門のうらにて侍るとなむ。水の流るる方角案内なきことなれば、何方をかみ下と定めがたし。家々の口は誠に表には侍らず。惣じて申しかよはす言葉なども、かへさまなることどもなり。異形なる風情にて侍り。佐西の観音寺といへる山伏の坊に到りて、四五日遊覧し侍る間に、瓦礫ども詠じ侍る中に、【狭山市笹井?】
南帰北去一李闌 露宿風食総不安
贏得行金乗詩景 千峰萬壑雪団々
くろす川といへる川に、人の鵜つかひ侍るを見て、【入間市黒須】
○岩がねに移ろふ水のくろす川、鵜のゐる影や、名に流れけむ
故郷の事など思ひ出で侍りて、暁まで月に向ひて、
吾郷萬里隔音容 一別同遊夢不逢
客裡断陽何時是 西山月落暁楼鐘

ささいをたちて、武州大塚の十玉が所へまかりけるに、江山幾度か移り変り侍りけむ。其の夜のとまりにて、
山攣唆険海波瀾 到処多其行路難
踈屋終宵風雪底 凍鶏喚夢月西寒
ある時大石信濃守といへる武士の館に、ゆかり侍りて、まかりて遊び侍るに、庭前に高閤あり。矢倉などを相かねて侍りけるにや。遠景勝れて、数千里の江山眼の前に尽きぬとおもほゆ。あるじ盃取り出して、暮過ぐるまで遊覧しけるに、
一閑乗興屡登楼 遠近江山分幾炎
落雁斗霜風颯々 自沙翠竹斜陽幽
十玉が坊にて、人々に二十首歌よませ侍るに、
閑庭雪
○跡いとふ庭とて人のつれなくば、とはぬ心の道もうらみじ
霰妨夢
○ふしわぶる笹のしのやの玉霰、たまさかにだにみる夢もなし
年内待梅
○春をまつ心よりさく初花を、いつか冬木の梅にうつさむ
別後切恋
○消えにける玉の行方とけさはみよ。別れし君が道芝の露
河越といへる所に到り、寂勝院といふ山伏の所に一両夜やどりて、【川越市最勝院】
○限りあれば、今日わけつくす武蔵野の境もしるき河越の里
此の所に、常楽寺といへる時宗の道場侍る。日中の勤聴聞のために罷りける道に、大井川といへる所にて、【大井町】
○打ち渡す大井河原の水上に、山やあらしの名をやどすらむ
此の里に月よしといへる武士の侍り。聊か連歌などたしなみけるとなむ。雪の発句を所望し侍りければ、言ひつかはしける、
○庭の雪月よしとみる光りかな
これにて百韻興行し侍りけるとなむ。これより武士の館へ罷りける道に、うとふ坂といへる所にてよめる、
○うとふ坂こえて苦しき行末を、やすかたとなく鳥の音もがな
すぐろといへる所に到りて、名に聞きし薄など尋ねてよめる、
○旅ならぬ袖もやつれて武蔵野や、すぐろの薄、霜に朽ちにき
また野寺といへる所ここにも侍り。これも鐘の名所なりといふ。この鐘、古へ国の乱れによりて、土の底に埋みけるとなむ。ぞのまま掘り出さざりければ、【新座市野寺】
○音にきく野寺をとへば、跡ふりて、こたふる鐘もなき夕かな
此のあたりに野火どめのつかといふ塚あり。今日はなやきそと詠ぜしによりて、蜂火忽にやけとまりけるとなむ。それより此の塚をのびどめと名づけ侍るよし、国の人申し侍りければ、【新座市野火止】
○わか草の妻も籠らぬ冬されに、やがてもかるるのびどめの塚
これを過ぎて、ひざをりといへる里に市侍り。暫くかりやに休みて、例の俳諧を詠じて、同行に語り侍る、【朝霞市膝折】
○商人はいかで立つらむ。膝折の市に脚気をうるにぞありける
武蔵
ある所に一宿し侍りけるに、たて侍りける屏風、扇蓋しにて侍り。そのうちに、ほねばかり書きたる扇侍りけり。其の上に書きて置き侍る、
破崩本来非破扇 銀餞工有飾丹青
今何零落只残骨 見此人間生滅形
ある僧和韻とて後日に人の見せ侍りける、
取破扇猶見玉扇 従来正色又非青
雖今茲残骨零落 豈比人間八苦形
或時旅宿にて二十首の歌皆々よませけるに、
暁更雪
○草も木も、わがまだしらぬ程ながら、花に明け行く東雲の雪
雪中鷹狩
○ふり紛ふ雪のの原にたつ鳥は、白ふの鷹に身をや捨てなむ
池水鳥
○池水につがはぬをしや、友とみて、片われ月の影に鳴くらむ
契二世恋
○沈むべき後をもしらで、みつせ川、水漏さじと契るはかなさ
ある夜故郷の人を夢に見侍りて、さめて後なごりおほかりければ、
客牀夢覚故人帰 空夜悽然独湿衣
不識回期其底日 洛陽千里信音稀
十玉が坊にて、三十首の歌詠み侍りけるに、
冬地儀
○おしなべて草木に変る色もなし。誰かはむつの花とみるらむ
月前雪
○すむ月のみふね静かによわたるや。千里晴れ行く雪の白浪
浪上千鳥
○網人のうけの綱手をよそにみて、千鳥も友をひく波路かな
初尋縁恋
○たよりふく風に靡かば、初を花、ほのめかしつつ、いざ心見む
おなじ宿坊にて、よもすがら炉辺に粛吟して、
寒燈桃尽夜沈々 独臥空牀思不禁
為我詩神如有感 松風生砌助愁吟
雪のあした、ある所の高閣にのぼりて偶作、
危楼朝上百花鮮 交友無憐詩酒筵
此地逍遥似何処 乱山畳嶂雪嬋娼
十玉か同宿十仙といへるもの、連歌に数寄侍りて、切々に興行し侍りけるとなむ。ある時発句所望しければ、
○待つ日のみ山につもりて雪おそし
人々十五首のうたよみ侍りけるに、
川千鳥
○はまな川や風さえぬらむ行き帰り氷をつくるさよ千鳥かな
懸樋水
○柴の戸ははや出でがての冬さわにかけひの水も氷とぢけり
炉火似春
○埋火のはひかきわけて向ふよは春の光りを手に任せつつ
依涙顕恋
○せきかぬる我が衣手の涙ゆゑ、人のうきなも流れやはせむ
山海眺望
○渡津海の波の千里を隔てきて、山にもみるめ刈らぬ日はなし
旅天歳暮、いつしか引きかへたる式にて、雪月の夜、寒梅に封して偶作、
歳云晩急若吾何 白髪蒼顔愁又加
風雪還如慰旅懐 野梅映月影横斜
武蔵・所沢
ところ沢といへる所に遊覧に罷りけるに、福泉といふ山伏、観音寺にてさあえをとり出しけるに、薯芋といへるもの肴にありけるを見て、俳諧、【所沢市】
○野遊びのさかなに山のいもそへて、ほり求めたる野老沢かな
此の所を過ぎて、くめくめ川といふ所侍り。里の家々には井なども侍らで、ただ此の河を汲みて朝夕用ひ侍るとなむ申しければ、【東村山市久米川】
○里人のくめくめ川と夕暮になりなば、水はこほりもぞする
武蔵〜
ある夜、ちご若衆など、隣国よりしるよしありて訪ひ来り侍りて、酒宴の隙に二十首の歌すすめ侍る中に、
樵路雪
○をりたかむ心を賎がたのまずば、拾ふにたへじ。雪のした柴
深夜寒月
○更け行けば流れぬよはもなき月のこほれる影ぞ。人頼めなる
惜歳暮
老のかずそはで春まつ身なりせば、何かは年の暮を慕はむ
祈不逢恋
○つれなしと人をばなどかゆふしでの我に靡かぬ神や恨みむ
述懐涙
○うき身にはともなふ人もうとき世に、忘れず袖をとふ涙かな
ある江山を過ぎ行きけるに、遠村に鐘の響きて、勤の声幽かに聞えければ、
西泊東漂分幾州 天涯流路屡吟遊
踈鐘遥度野村晩 清梵声残江寺秋
閑緒を慰めむがために、夜坐して十五首の歌よみ侍りけるに、
宿鳥驚雪
○月にだにおどろく杜の村烏、ねぐらの雪に声さわぐらし
沢畔水鳥
○葦鴨の青羽は霜につれなくて、沢べのみくさ、枯れも残らず
契不来恋
○契りしも、今はかひなく更け過ぎて、鐘より後は我ぞねをなく
社頭松
○すみよしの神代も遠き言のはの尽きせぬ種や、松となるらむ
ある人、旅天の鄙懐を一絶吟し侍るべきよし所望しければ、扇に書きて遣しける、
一別長天西又東 残生蹤跡転飄蓬
傍山臨水労吟歩 詩肺辛酸難得工
これかれ炉下に集りて閑吟のついでに、野径乾草、
○かげろふのをのの冬枯、見渡せば、あるかなきかの雪のした草
従門帰恋
○うしつらし、真葛にとづる松の門、跡吹きおくる袖のおひかぜ
鶴翔天
○沢べより雲ゐにのぼるあしたづの声もしられて、高き空かな
旧里の音信もなきことを述懐して、徒然の余りに、寒梅を尋ねに罷りて、ある夕暮月に乗じて、
冷衣歩月出寒村 幽処探梅風雪昏
郷信不臻春信到 臘前惆悵憶中原
武州大塚といへる所に住み侍りける時、近衛前関白殿下より、初めて御書到来し侍り。これをひらきて、一度は喜び、一たびは恋慕の憂へに沈みて、
従兼君別始看書 異国天涯千里余
忽憶帰期涙先落 待春遊子数居諸
連日雪いたくふり侍りければ、野遊の興さへ叶ひ侍らで、いとど都の事も思ひやりて、
向来投錫掩幽扉 平野陰崖片雪飛
想見旧庭残臘底 記春草木記吾非
越年の式、右にいへる如く、ためしなきありさまどもなり。さるからいとなむこと侍らぬのみ心やすく侍りけり。早梅を翫びて春の至れることを覚え侍るばかりなり。
歳晏無営旅客情 在身寒餓憶華京
柴局半掩夜来雪 一点梅開使我驚
焚火のもとにて、十五首の歌よみ侍りけるに、
疎屋聞霰
○ぬる玉はまたもかよはで、終夜、ねやもるあられ、枕もるなり
寄琴恋
○ひく琴にわがねをそへてたぐへやる風は、心の松よりぞ吹く
寄夢恋
○人しれぬ枕のしたの海河に、かけてかひなき夢のうき橋
浜辺旅泊
○夢ぞなきもしほの草の枕より、跡より、波のあらき浜べは
老後懐旧
○見し人のなきは、津守のうらめしく残るかひなき老の波かな
ある時、故郷にあまた侍る連枝のことなど思ひやりて、
雲路隔蹤鴻雁行 他郷何耐想家郷
暗香吹断故園雪 唯有梅花似洛陽
春色漸く揺ぎ、いづくも風まづおくれる日、その興多く侍れども、更に詩人墨客の是を賞する類ひ侍らぬことのみ念なくて、
辺塞曾無風騒ノ 窓梅牆柳独其春
為誰黄鳥出幽谷 淑気迎晴一曲新
これも、骨肉のことどもゆかしく思ひやりて、
野水海漂鴻雁影 天風頻動春令枝
暮来其会知帰路 旧里山花落後時
正月朔日試筆の歌、
○あづまより今日たつ春は、都にて花さくころぞ、我をまちえむ
今朝雪太降。祝豊年之嘉瑞、裁短冊一章矣。
青陽朔旦日 瑞雪示豊年
料識萬邦土 歎娯正決然
同じき六日、雪聊か降し侍りければ、武蔵野に出でて若菜をもとめて、
○武蔵野に今日つむ若菜、行末の限りしられぬよの例かも
此の野より帰るとて、馬上にて、ある同行に申しかけける、
○のる駒に武蔵鐙をかけぬれば、流石に名ある野にもなづまず
ある所にまかりて、一両日すみ侍りけるに、山深き所なれば、鴬も花も未だ春をしらざれければ、
寒鴬幽谷棲吾家 一曲朝来出靄霞
簷外厭梅半籬雪 何時乗月見横斜
武蔵野に出でて、酒など飲みて遊びけるに、はじめて雲雀の揚るをみて、
○若草の一本ならぬ武蔵のにおつる雲雀も、床まよふらむ
浅ましげなる田夫の屋に、一両日泊り侍りけるに、野嬢草席などいひし姿なりければ、感緒に堪へず、口にまかせける、
吾此幽棲似謫居 従渭城別絶音書
淡雲流水随行処 自黄梁手煮蔬
旅宿に梅の咲きたりけるを一技手をりてよめる、
○梅が香をやどすのみかは、春風の都をうつす袖とこそなれ
鈴寒ことの外に侍りけるあした、鴬のなけるを聞きて、
○花ゆゑに谷の戸いでし鴬も、梅も、雪にや冬ごもるらむ
武州に山家の勝地侍り。罷りて十日ばかり逍遥し侍りけるに、ある夜筆にまかせ侍りし、
一旬此地上遊迸 雲水森然山有霊
残夜無眠聴春雨 簫々深院短檠青
次の夜、雨散じて、月いと面白きに、軒近く梅の薫りければ、和漢第三まで独吟、
○まくらとふ梅に旅ねの床もなし
月引古郷春
○山とほくかすむかたより雪消えて
翌日、雨にふり籠められて、野遊の興も叶ひ侍らざりければ、徒然とながめ暮し、花鴬を友として口すさみける、
旅亭暮雨日如年 回野逍遥絶往還
贏得嘯吟戦間緒 黄鳥交語問詩筵
またの日、雨晴れて雪になりければ、霞立ち消えて余寒甚しく侍りければ、
○淡雪のふりさけみれば、天の原、消えて跡なき朝霞かな
十玉が方より、紅梅の色こきをはじめて見せければ、
○こころざし深くそめつつながむれば、なほ紅の梅ぞ色そふ
かの老僧扇の賛を所望し侍りき。かの絵に、山路に雲霧を分け侍る行人、橋に行きかかりたる所、
同遊相引歩徐々 靄霧阻山前路処
独木橋辺人不見 松間鐘勤夕陽初
おなじ心を和にて書きそへ侍りける、
○山もとの村のタ暮。こととへば、まだ程遠し。入あひの声
野遊のついでに、大石信濃守が館へ招引し侍りて、鞠など興行にて、夜に入りければ、二十首の歌をすすめけるに、
初春霞
○かさならぬ春の日数を見せてけり。また一重なる四方の霞は
帰雁幽
○霞みつつ、しばし姿はほのみえて、声より消ゆる雁の一つら
浦春月
○藻塩やく浦わの煙、つらき名をかすみてかくせ。春のよの月
夢中恋
○さめてこそ思ひの種となりにけれ。かりそめぶしの夢の浮橋
後朝恋
○かきやりし浜の床の朝ねがみ、思ひのすぢは我ぞまされる
大石信濃守、父の三十三回忌とて、さまざまの追修を致しけるに、聞き及び侍りければ、小経を花の技につけて贈り侍るとて、
○散りにしはみそぢ三年の花の春。今日この本に、とふを待つらむ
武蔵野の末に、浜崎といへる里侍り。かしこにまかりて、【朝霞市浜崎】
○武蔵野をわけつつゆけば、浜崎の里とはきけど、立つ波もなし
甲斐国
此の程長々住みなれ侍りける旅宿をたちて、甲州へおもむき侍りけるに、坊主のことの外に名残を惜み侍りければ、暫く馬をひかへてよみつかはしける、
○旅立ちてすすむる駒のあしなみもなれぬる宿にひく心かな
かくて甲州に到りぬ。岩殿の明神と申して霊社ましましけり。参詣して歌よみて奉りける、 
○あひ難き此の岩殿の神やしろ。世々に朽ちせぬ契りありとは
猿橋とて、川の底千尋に及び侍る上に、三十余丈の橋を渡して侍りけり。此の橋に種々の説あり。昔猿の渡しけるなど里人の申し侍りき。さる事ありけるにや。信用し難し。此の橋の朽損の時は、いづれに国中の猿飼ども集りて、勧進などして渡し侍るとなむ。然あらば其の由緒も侍ることあり。所から奇妙なる境地なり。 
○名のみしてさけぶもきかぬ。猿橋の下にこたふる山川の声
同じ心を、あまた詠じ侍りけるに、
○谷深きそばの岩ほのさる橋は、人も梢をわたるとぞみる
○水の月なほ手にうとき猿橋や、谷は千ひろのかげの川せに
此の所の風景、更に凡景にあらず。頗る神仙逍遥の地とおぼえ侍る。
雲霞漠々渡長梯 四顧山川眼易迷
吟歩誤令疑入峡 渓隈残月断猿啼
同じ国はつかりの里といへる所を過ぎ侍りける折節、帰雁の鳴きけるを聞きて、 
○今はとて霞をわけてかへるさに、おぼつかなしや。初雁の里
かし尾といへる山寺に一宿し侍りけねば、かの住持のいはく、後の世のため一首を残し侍るべきよし、頻りに申し侍りければ、立ちながら口にまかせて申し遣しける。かし尾と俗語に申し習し侍れども、柏尾山にて侍るとならむ。
○蔭頼む岩もと柏。おのづから一よかりねに手折りてぞしく
花蔵坊といへる山伏の所に、十日ばかりとどまりけるに、武田刑部大輔礼に来りき。盃とり出でて、暫く遊覧し侍りければ、愚詠を所望しければ、翌日使をつかはすついでに、
○消えのこる雪のしらねを花とみて、かひある山の春の色かな
また此の国の塩の山、さしでの磯とて、並びたる名所侍りければ、 
○春の色も今一しほの山みれば、日かげさしでの磯ぞかすめる
此の二首を遣し侍りき。其の後さしでの磯にて鴬を聞きてよめる。
○はる日影さして急ぐか。しほの山。たるひとけてや、鴬のなく
宿坊の軒に梅いと面白く咲き薫りて、月影朧なる夜もすがら、かりねの夢も忘れはてて、
○梅かをり、月かすむ夜の旅まくら、夢に都をなにか忍ばむ
武田が館に梅あまた侍り。宿所へのことは憚りありとて、祖母の比丘尼の寺へ招引し侍りて、さまざまの風情をこらし侍りき。此のあたりに菊島といへる名所侍り。一首所望し侍りしかば、 
○吹き匂ふ花の春風うらやみて、秋をよそにもきくかしまかな
今日のみちに、笛吹川といへる川侍り。馬上にてよめる、 
○春風に岸なる竹も音そへぬ。ふえふき川の波のしらべに
同じつづきに、花鳥の里といへる所を過ぎ侍るとて、
○色にそみ、声にめでつつ、やすらひて永き日暮す。花鳥の里
是より七覚山といへる霊地に登山す。衆徒山伏両庭歴々と住める所なり。暁更に至る迄、管絃酒宴興を尽し侍りき。宿坊の花やうやう吹き初めけるを見て、
○蕾技の花も折りしる此の山に、七のさとり、ひらきてしがな
翌日、此の山を出でて、同じ国吉田といふ所に到る。富士の麓にて侍りけり。今夜は二月十五日、いとかすみて、富士の嶺さだかならざりければ、 
○きさらぎや、こよひの月の影ながら富士も霞に雲隠れして
かた柳といへる所をとほるとて、 
○一しほのみどりになびく糸はけに、春のくるてふかた柳かな
道すがら故郷の花を思ひやりて、
○東路の春をしたはば、故郷の花は我をや恨みはてまし
すくもの渡りといへる所を行き侍りける。朝霞いと深く靡きあへるを見て、
○里人の夜半にたく火の煙かと、すくもの渡り、今朝かすみつつ
上野国・下野国
三月二日、とね川、青柳、さぬきの庄、館林、ちづか、うへのの宿などうち過ぎて、佐野にてよめる、【館林、館林市千塚町、佐野市植野町】
○古への跡をばとほくへだてきて、霞かかれるさのの舟橋
字津宮慈心院といへる聖道所に、花あまた侍り。人々誘ひ侍りければ、社参のついでに門外までみやり侍りけり。いと尋常なるすまひにて侍り。児などのはづれみえければ、ゆかしくおぼえて、帰りていひつかはしける、
○立ちよりてみる程もなき木のもとの心にかかる花の白雪
此のあたりの人、百韻興待して、社頭に奉納すべき宿願ありて、発句を乞ひ侍りければ、
○ちらぬまはあらしや花の宮木もり
うつの宮を立ちて行く道に、塩のやといへる所侍り。暮れ行くままに、里々の煙立つを見て、【宇都宮】
○旅衣うらぶれて行くしほのやに煙さびしき夕がすみかな
狐川といへる里に行暮れてよめる、
○里人のともす火かげもくるる夜に、よそめあやしき狐川かな
朽木の柳といへる所に到る。古への柳は朽ちはてて、その跡にうゑつぎたるさへ、また苔に埋れて朽ちにければ、
○みちのくの朽木の柳、糸たえて苔の衣にみどりをぞかる
陸奥
是より、いな沢の里、黒川、よささ川などうち過ぎて、白河二所の関に到りければ、いく木ともなく山桜吹きみちて、心も詞も及び侍らす。暫く花の蔭にやすみて、
○春は唯花にもらせよ、白川のせきとめずとも過ぎむものかは【白河市】
おなじ心を、あまたよみ侍りける中に、
○とめずともかへらむ物か、音にのみ聞きしにこゆる白川の関
○しら川の関のなみ木の山桜、花にゆるすな。風のかよひぢ
白川入道妻に後れて、歎きの中に侍るとて、礼にも来侍らず。孫をもて様々の礼儀をいたし侍りき。かの入道歌道数奇のよし伝へきき侍りければ、いひつかはしける、
○立ちよるも、一樹の蔭の契りとて、散りにし花の跡もなつかし
ここを立ちて、矢つぎといへる所へ赴き侍りける道に、うたたねの森といひて、いと木深き林侍り。やうやう花の散り過ぎけるをみて、
○ちる花を、ただ一ときの夢とみて、風に驚くうたたねの杜
かくて人わすれずの山といへる所にて、矢つぎの別当坊に一両夜泊りて、
○梓弓矢つぎの里の桜がり。花にひかれておくる春かな
是より田村といへる所に罷りける道すがら、さまざまの名所ども多かりけり。いひすてし歌など記すに及ばず。あさかの沼にて、
○はながつみ、かつぞうつろふ下水のあさかの沼は、春深くして
あさか山にてよめる、【郡山市安積山】
○ちりつもる花にせかれて、浅か山、浅くはみえぬ山のゐの水
あぶくま川を過ぎ侍るとて、【阿武隈川】
○かくしつつ故郷人に、いつかさて阿武隈川の逢瀬にはせむ
しほの山といふ所は山中にて侍る。是より海辺へは十里ばかり侍るとなむ。
○浦遠き山は、霞の色ばかりみちてくもれるしほの山かな
衣の関〜松島
衣の関にてよめる、【岩手県衣川村】
○みちのくの衣の関をきてみれば、霞もいくへたちかさねけむ
武隈の松蔭に暫らく立ち寄りて、ふりぬる身のたぐひなりと、思ひよそへてよみ侍りける、
○徒らに我も齢はたけくまのまつことなしに、身はふりにけり
末の松山遥かにながめやりて、さてもはるばると来にけることなど思ひつづけて、いつのまに春も末にならぬらむと思ひわびて、
○春ははや末の松山一ほどもなくこゆるぞ、旅の日なみなりける
またおなじ所にて、
○人なみに思ひ立ちにしかひあれや。わがあらましの末の松山
今日の道に、実方朝臣の墳墓とて、しるしのかたち侍る。雨はふりきぬと詠じけるふるごとなど思ひ出でてよめる、
○桜がり雨のふるごと思ひいでて、今日しもぬらすたび衣かな
※拾遣抄春題よみ人しらず 桜がり雨はふりきぬおなじくはぬるとも花のかげにかくれむ
関の清水といへる所を過ぎけるに、杉村の侍りければ、かたがた相坂の山ぢ思ひ出でられて、
○あふ坂の山にはあらぬ杉村に立ちより、関のしみづをぞくむ
かくてみやぎ野に到りぬ。一村雨し侍りければ、暫らく木蔭に立ち寄りて、過ぐるを待ち侍やける間に、【仙台市】
○木の下に雨宿りせむ。宮城野や、みかさと申す人しなければ
奥の細道、松本、もろをか、あかぬま、西行がへりなどいふ所方をうち過ぎて、松島に到りぬ。浦々島々の風景辞も及びがたし。かねて聞き侍りしは物の数にても侍らず。皆々帰り【松島町】
かね侍りければ、
○この浦のみるめにあかで、松島や、惜まぬ人もなき名残かな
籬か島を見渡せは、藤、つつじなど咲ききあひて見え、風景多かりければ、
○まがきじま、たがゆひそめし岩つつじ、巌にかかる磯の藤波
これより塩竃の浦へわたり侍るとて舟のうちにて、【塩竃】
○松島や、松のうはかぜ吹きくれて、今日の舟路は、ちかの塩竃
つつじが岡を越え行きけるに、わらびをみて、
○名にしおふ躑躅が岡の下蕨、ともに折りしる春の暮れかな
とどろきの橋を過ぎ侍るとて、
○かち人も駒もなづめる程なれや。ふみもさだめぬ轟の橋
名とり川にてよめる二首、
○人しれぬ埋木ならば、名とり川、流れての世になど聞ゆらむ
○いつの世に顕れそめて、名取川、みかくれはてぬせぜの埋木 
 
「蝦夷地」と「近世大阪」

 

はじめに
大阪で生まれて育ったが、私は、子どもの頃から遠く離れた北海道に漠然と親しみを感じていた。その根拠は「食い物」である。昆布《こんぶ》と鰊《にしん》の二つだ。どちらも北海道だけで獲れると、おとなが教えた。大阪人はコンブ佃煮や塩コンブを好んで食べるが、「松前屋」という屋号の塩コンブ屋が長年繁昌している。専門業者だけでない。母親たちは賽の目に切ったコンブと大量の醤油を鍋に入れ、火鉢の火にのせてことこと煮詰めて塩コンブを作った。塩コンブと山椒の香りが家中にただよった。町の公設市場へ行くと、隅っこのコンブ屋で親父が鋭い刃先きでコンブを削る作業を見るのがおもしろかった。おぼろコンブととろろコンブは、コンブを削る方向を変えることで作り分けることを、私は知った。大阪ではコンブを食材として色々使いこなしているが、“ばってら”と呼ぶサバの押し鮨に透き通るような薄いコンブがかぶさっていないと、話にならない。また、“大阪の味”をつくるには、コンブ出しが欠かせない。
もう一つのニシンについては、コンブほどの馴染みはなかったが、ニシンのコンブ巻きという佃煮がある。安い惣菜なので、弁当のおかずに入れるのを朝近所の佃煮屋へ買いにやらされた。ニシンが大阪と馴染みが薄いと言うのは、とんでもないことで、幼い私が知らなかっただけだ。江戸時代後半から明治時代前半にかけて蝦夷地で獲れたニシンは〆粕《しめかす》に加工され、農業肥料として畿内および西国へ大量に供給され、綿作を中心とする商業的農業の発展を支えたのである。
コンブやニシンと縁が深いのは大阪だけではない。京都鴨川にかかる四条大橋の東詰、南座の一角に店舗を構える小さな角店《かどみせ》は、ニシンそばの元祖「松葉」である。創業は文久元年(1861)で、維新の数年前だが、明治十五年(1882)頃に二代目店主松野与三吉がニシンそばを考え出して、評判を取った。四代目の松野泰治社長は、与三吉は京都の町のおばんざい(お惣菜)をもとにしてニシンそばを考案しただろうと推量する。
「わたしたちの子どもの頃、北海道から身欠きニシンが入ってくる夏が来ると、ニシンと茄子の煮き合わせをよく食べさせられました。京都人にとって、ニシンというのはどうしても身欠きニシンでなくてはならないのです」
かつて、芝居見物のあとニシンそばで空き腹をしのいで家へ帰るという暮らしの楽しみ方があった。昔から京都は富と貧、高尚と卑俗、そして贅沢と倹約がなかよく同居する町である。今日でもニシンそばは最多売上を維持する「松葉」の看板商品だ。
また、日本海沿岸の富山市の一世帯当りの年間コンブ購入量は全国第一位である。ニシンのコンブ巻きはもちろんのこと、コンブ巻きかまぼこ、とろろコンブ、おぼろコンブの消費が大きい。そして、カジキマグロ、アマダイ、キス、タラ、ヒラメ、サヨリなどの生鮮魚をコンブで締める独得の料理法が発達した。この地方はかつて北前船の船主が輩出したので、北海道海産物の中継地市場になっていた。北海道と北陸、京阪の地を結んで、「コンブの道」と「ニシンの道」が形成されていたのである。その伝統はいまも生き続けている。
数年前にある刊行物《パンフレット》のなかに「鰊《にしん》のミステリー」と題する十数枚の原稿を書いたことがある。かつて春になると北海道の西海岸へ大挙して押し寄せ沿岸の町々を繁栄させたニシンが、あるところから資源減少の一途をたどり出して、ついに忽然として姿を消したという出来事に興味を覚え、漁業資源管理の見地から短いレポートをまとめたのである。その後、ニシンについてあれこれ資料を読むあいだに、北海道春ニシン興隆と衰亡には人間の行為がもたらす多くの社会的・経済的条件のからみ合っていたことが分かって、さらに関心を深めた。
北海道春ニシン漁の興亡は独立した完結的な自然現象ではなかった。それは人間と自ドラマ然の交渉の膨大な集積が産み出した、歴史の劇《ドラマ》である。したがって「鰊のミステリー」を究明するには、ニシン漁業の変遷を「歴史の弁証法」(へーゲル)の位相においてとらえなければならない。まずニシン漁が盛大になったのは、その背景に松前藩の「場所請負制《ばしょうけおいせい》」という植民地経済型の生産関係が確立されていたからである。「商場《あきないば》知行制」という他に類例のない藩体制および同藩の執った蝦夷(アイヌ)政策こそ、春ニシン漁を形成する基礎であった。つぎに、時代を同じくして日本海沿岸航路に「北前船《きたまえぶね》」と呼ぶ海商たちの船団が登場した。これが蝦夷地(北海道)から畿内および瀬戸内海沿岸各地までの海産物の長距離輸送を実現した。ハチの巣のように細かく仕切られた徳川幕藩体制社会のなかで北前船の船主たちが広域的営業をくりひろげて成功することができたのは、彼らが緻密で機敏な情報活動を駆使して日々の商売に役立てていたからである。そして、ニシンを畿内先進地の大きな需要に結び付ける結節として働いたのが、近世の近江商人であり大阪商人であった。もし大阪の干鰯《ほしか》市場の支えがなかったなら、松前と江差が経済的繁栄を極めることはむずかしかっただろう。いわばインターネットのプロバイダーのような役割を果たしていた近世大阪経済の特質に眼を注ぐ必要がある。地域内および地域間における「人間と自然の交渉」の積層が生産─流通─消費という大きな経済循環を形成したのである。
春ニシン漁の盛行、北前船の活躍、商業的農業の発展─これらが近世にあい前後して出現したことは一つの「偶然」にすぎなかったかのように見える。しかし、それらはたがいに脈絡をつけながら、一つの経済的・社会的現象へ発展した。いずれも未来へ賭ける人間たちの「挑戦」《チャレンジ》によって貫かれていたので、それが歴史という「必然」へ導いたのである。
私は「挑戦」を人間が人間になるための根本的な行為としてとらえる。物事を考えるとき、言葉の語源をたずねるのが有益である場合が多い。
challenge 1歩哨が誰何《すいか》すること。Who goes there? 2陳述の真実性の立証を要求すること。3〔法廷で〕異議を申し立てること。4決闘、試合を申し込むこと。
暗闇に向かい声を発して問い質すことが、挑戦である。歴史を作るものは「英雄豪傑」でもなければ、「歴史法則」でもない。人間集団の知恵と勇気の「挑戦《チャレンジ》」が歴史を作る。第二次世界大戦で、一九四四年六月六日連合国軍はノルマンディ上陸作戦を敢行してナチス・ドイツを撃破し欧州戦線を終息にみちびいたが、その際、英国首相ウィンストン・チャーチルが「これは終わりの始まりかも知れないし、あるいは、始まりの終わりかも知れない」という警句を吐いたことが有名である。これは歴史の主体性と歴史の不確実性の争闘の機微をよく伝える逸話だ。人間社会の歴史を貫くものは、後世において歴史的主体の使命を担う者と認定された人間集団のおこなう「挑戦《チャレンジ》」の連鎖である。

大阪の「阪」の字は江戸時代までは一般的に「坂」の字を使っていた。明治以降しばらく二つの字を混用したが、その後「阪」に統一された。二つの文字を使い分けるのはわづらわしいので、近世、近代を問わず全て「大阪」あるいは「大阪城」で通した。 
あれがエゾ地の山かいな
桜の頃に江差追分《えさしおいわけ》を聞きに行こうと考えた。毎年九月に北海道江差町で「江差追分全国大会」の開かれることは知ってはいるが、それは待ちどおしい。それなら、松前城の桜と江差追分の一石二烏を狙おうと思い付いたのだ。私が住む多摩丘陵地帯で、桜の開花期は四月第一週である。三月の終わりにあちらこちらの花便りが新聞の「県版」に現れて、四月七日、八日、九日あたりに満開する。私の町の小田急線に沿って流れる疎水の両岸の桜は見事なもので、駅前のスーパーヘ買物に出かけたついでに見て歩いた。足早に咲いて散る花は、まいとし人の心を騒がせる。北海道の桜を思うと、二重に心が騒いだ。青森県弘前城址のソメイヨシノの開花期は四月下旬である。そして満開になるのは四月二十九日頃だった。数日のあいだに、桜前線は津軽海峡を渡って北海道渡島半島の南岸へ取り付く。函館、松前、江差の花の見頃は五月のゴールデンウイークが終わったあたりだろう。あと四週間しかない。疎水のまんなかを流れる花びらの行列を眺めながら、私は、旅に出かけるやりくりをつけることで頭がいっぱいだった。
江差追分は「鰊場《にしんば》」で歌われた。鰊沖揚音頭(ソーラン節)とともに、北海道の代表的な民謡だ。
かもめの鳴く音に ふと目を覚まし あれが蝦夷地の山かいな [本唄]
信州の山国で産まれた馬子唄「信濃追分」が海辺の土地へ出て「越後追分」となり、船乗りたちに歌い継がれ、船で越後から北海道江差まで運ばれたと言う。一方、伊勢松坂の民謡「松阪節」が越後に入って祝い唄となり、「越後松坂くずし」としてうたわれていた。天明年聞(1781〜88)に、越後の座頭松崎|謙良《けんりょう》が松前に渡り、松前藩の重臣のもとに寄寓するあいだ酒席で祝い唄を巧みに歌いまわしたので、評判をとって「謙良節」と呼ばれるようになった。その後、天保年間(1830〜43)に南部盛岡の琵琶師の座頭佐之市が江差へ渡り、謙良節を元に越後追分を加えて編曲し、作詞をして「二上がり」の調子で歌った。これが「江差追分」の興りである。「恋の道にも追分あらばこんな迷いはせまいもの」という佐之市の作詞に馬子唄の名ごりが見える。
江差追分の歌い方はふたとおりあった。一つは、浜小屋と称する娼家で酌婦らと戯れる漁夫や舟子たちが歌う酒盛り唄で、彼らは荒々しい情念をこめて思いの丈を歌った。もう一つはニシン場の親方や北前船の船頭衆が茶屋と呼ぶ山の手の小料理屋の座敷で三味線や踊りをつけて歌う節回しの江差追分で、これは艶節《つやぶし》あるいは新地節と呼ばれた。粗野な浜小屋節は江差のノド自慢たちによって長短、高低、抑揚や止め方を練り上げられ、また船に乗り、船乗りたちによって西へ運ばれていった。加賀の「山中節」や隠岐の島の「どっさり節」は、江差追分の血筋をひくと言われる。
ニシンは北海道の魚である。太平洋ニシンの生物学上の分布の南限は日本列島では日本海側は秋田県ぐらい、太平洋側は宮城県ぐらいまでと考えられており、幕末から明治にかけての資源増大期に青森、秋田、宮城で好漁を見た記録があるが、その後途絶えた。近世に入るまで北海道は「日本」の外の異境だったので、ニシンという魚の名前が歴史に現れることはまれであった。山口和雄(日本漁業経済史学)は〈天文十七年の『運歩色葉集』に鯡《にしん》とあり、『御湯殿の上の日記』慶長十二年十二月二十四日の條に「女御の御かたより かずのこ、とりのこまいる」とある〉のが比較的古い記録だとしている。
ニシンは、昔は、農業資源の乏しい北国の貧しさを象徴する魚だった。豊漁期に大量に漁獲されることともあいまって、西洋でも日本でも保存食品として活用する加工法と調理法が発達した。北欧では獲ったニシンの内蔵を取って塩のなかでかきまわし、樽詰めにして塩蔵ニシンを作る。食べる時に塩抜きをして甘酢に漬け、トマトソースをかけたりスパイスを用いて野菜といっしょにサラダをこしらえた。日本でも同様に塩を使って一塩《ひとしお》・塩蔵・糠漬《ぬかづけ》・粕漬・麹漬《こうじづけ》・塩辛・なれ酢《ずし》を作ったが、一番ポピュラーなのは塩を使わないで乾燥する「身欠《みが》きニシン」と塩蔵数の子、干し数の子である。江戸っ子はニシンには目もくれず猫の食う魚だとさげすんだが、かえってエゾ地から一層遠く隔る北陸や関西地方でニシンは重用された。また獲れ過ぎた時代に、ニシンは魚油を採るほかに家畜の餌や畑の肥料に用いられた。飼肥料の原料となるフイッシュミール(魚粉)を製造する産業は、世界で一般的には、第二次大戦後に発達したが、日本では早く江戸時代に農業肥料を供給するニシン|〆粕《しめかす》を作る手工業が発達した。魚油製造や肥料生産がひきおこした漁業の産業化は、漁業資源に重大な影響をおよぼしたのである。
北海道のニシン漁場は日木海側に集中していた。これは沿岸の海底地形と関係する。地図を眺めると、オホーツク沿岸および十勝平野、勇払平野の太平洋沿岸はきれいな弧状の海岸線がのびているが、ここは遠浅の砂浜海岸がひろがっている。他方、日木海沿岸は、松前から稚内までバスに乗って北上するとすぐ分るが、切り立った崖の隆起海岸が多い。急深の岩礁海岸が連続しているのである。岩礁海岸へは高塩分の外洋水の波が打ち寄せるので、コンブ、ワカメ、ホンダワラ、ヒジキなどの褐藻類が繁茂する。そして、ニシンは褐藻類に卵を産み付けるのである。北海道ではニシンを「春告魚《はるつげうお》」と呼んだ。春の花にさきがけて産卵のために沿岸へおしよせ、海一面を真っ白に濁らせたからである。待ちかまえていた漁師たちはいっせいに船をこぎ出し、胴網に乗ったニシンを枠網へ攻め落とした。江差の町がニシン漁で繁栄したのは、江戸時代の文化・文政年間(1804〜29)から明治二十年代にかけての約一世紀であった。近世期に松前がエゾ地の政治都市の役割を受け持ったのに対し、江差は商業都市として栄えた。その頃江荒には現在の人口のおよそ二倍の三万人が住んでいた。ニシンの集荷地として、また内地から運ばれる米や味噌、塩、酒などの荷揚港としてにぎわい、回船問屋、海産間屋、金融業者たちは巨利を得て、我が世の春をうたった。彼らは「江差の五月は江戸にもない」と言ったのである。 
松前の花守りたち
連休明けの五月六日朝、私は羽田空港から函館へ発った。松前を訪ねるには函館空港から函館駅前へ出て函館バスに乗る。函館湾に沿って走る海岸道路は知内町を過ぎると大きく右へ曲がって内陸部へ入るが、福島町でふたたび海岸へ出る。そして北海道最南端の白神岬に立つ白神灯台の下を通過すると、道路は緩やかな下り勾配に人り、右手の海岸段丘の上に発達した松前の町が視野に入ってくる。左手には岩礁海岸がつらなる。
松前藩の福山港(松前港)は、固い岩盤の波蝕人り江を開いて作った小さな港である。港の水深は二十メートル以浅で、干潮時に狭い入江のそこそこに岩礁が現れる。天然の防波地形を持たず港湾条件に恵まれていないのだが、ここに近世エゾ地の最重要港が開かれたのは、その地政学的位置から見て明らかだ。松前が本州北端の重要港である十三湊《とさみなと》(現在の十三湖)から至近距離に位置していたからである。このことはエゾの側から見ると、松前を本州(日本国)への最前線としてとらえることができた。松前はエゾ地と本州を結ぶ中核港湾《ハブ・ポート》として働いたのである。
史跡松前城の入口になる多門櫓跡に「桜前線本道上陸標準木」という標識が立ち、一本の染井吉野《そめいよしの》が植わっていた。それは葉桜に変わっていた。二の丸の崖をめぐって並ぶ紅色の南殿《なでん》は満開であったが、色あせはじめていた。ところどころに立ち交じる淡紅の普賢象《ふげんぞう》、濃紅の関山《かんざん》、淡黄色の御衣黄《ぎょいこう》は、いまが盛りだった。今年の桜前線は例年より十日ほど早く日本列島を北上した。ゴールデンウィークのあいだに舞台装置が入れ替わってしまった。出かけるのが一週間遅かったと思った。だが私は間違えていた。
春の松前では二百五十種、約一万本の桜が咲く。光善寺の「血脈桜《けつみゃくざくら》」を親木にして増やされた濃艶な南殿が主流をなす品種だが、この他に一重、八重、紅、白、黄とさまざまな種類の桜花が四月下旬から一ヵ月間、次から次に咲き競う。その背景に「花守り」の物語があった。明治の終わりから大正にかけて松前ではニシン凶漁が続いた。当時役場の職員をしていた鎌倉兼助(1878〜1968)は人心の荒廃に心を傷め、桜を増やして人々をなごませようと思い立ち、大正四年光善寺近くの畑の一隅に桜苗園をつくった。町内の老木から接穂を収集して接木による増殖を開始したのである。鎌倉による桜の増殖と移植は大正期から第二次大戦後にいたるまで続けられた。戦後に後継者が登場する。松城小学校の教諭として赴任してきた淺利政俊氏(現北海道教育大学講師)である。淺利氏は科学的な桜の増殖方法を研究し、全国各地から珍しい桜の苗木を収集して松前に移植した。さらに桜の品種改良に取り組み、桑島《くわじま》、優雅《ゆうが》、北鵬《ほくおう》など約百種類の「松前品種」を生み出した。昭和三十五年に町の有志が「松前桜保存会」を結成した。松前の人々は、これら先覚者と支援者たちを「花守り」と呼ぶ。
松前公園には桜見本園がある。ここでは各地から収集した桜と淺利氏が開発した新品種を合わせて百四十種、二百八十五本の桜が植えられ、保存と管理がおこなわれている。落花と木漏れ陽のまだら模様を地面に敷いた園内を散策したあと、私は、となりの桜資料館に入って桜に関する書画や工芸品を眺めた。出口のところで振舞ってくれた桜湯を縁台に腰をおろして飲んだが、湯飲みを口に近付けて微かな桜の香りをかいだ時に、私は、ふと思案した。明治の初めに東京の染井村(現豊島区駒込)の植木商がヒガンザクラとオオシマザクラをかけあわせて作った新品種がソメイヨシノである。花は一重で大きく華やかであり、木の成長がはやいので、明治いらい公園や堤防などいたるところに植えられて日本中に普及した。そのせいでか、桜といえばソメイヨシノの花姿を思い浮かべるのが普通になった。いわばソメイヨシノによる桜の「近代化」のおかげで、自分を含めて日本人の「桜花観」がかたよってやせたものになっていたことを認めないわけにいかなかった。桜花の個性と品種の多様性を追求した松前の「花守り」は、それとは別な「近代化」の道のあったことを私に教えた。  
「商場知行制」という独得の封建体制
松前城は市街地を見渡す丘の上にある。松前|慶広《よしひろ》が慶長五年(1600)から六年がかりでこの城を築いた。古くは福山館《ふくやまのたて》と称した。しかし、その原型は現在は失われている。幕末の嘉永二年(1849)、徳川幕府は藩主松前崇広に城の改築を命じた。その頃津軽海峡にしきりに出没する外国艦船に対し、北辺の警備を固めるための緊急措置であった。この時、本丸御門の右手に通称「天守」と呼ばれる三重|櫓《やぐら》が築かれ、城郭東南部に太鼓櫓、櫓台が設けられた。また津軽海峡をにらむ三の丸塁上外の崖上に七座の砲台を設置し、城周辺の沿岸台地九ヵ所に二十五門の大砲を据えた。松前は北辺の防人《さきもり》として「要繁都市」の陣容を固めたのだが、明治維新の開国まで砲門が火を吹くことは一度もなかった。明治六年(1873)の廃城令で松前城は「天守」と本丸御門の二つを残して解体された。また天守は昭和二十四年(1949)の失火で焼け落ちてしまった。いま見る天守は、銅板葺き、鉄筋コンクリート造りで昭和三十六年に再建されたものだ。
幕末に大改修された松前城は本丸を中心に二の丸、三の丸の曲輪《くるわ》(城郭)をめぐらせており、近世築城法を踏まえた日本で最後の和式築城の遺構である。だが、それは北海道でただ一つの伝統様式をそなえる「お城」であるとともに、かなり特異な性格を持つ「お城」であった。日本近世の城郭は、封建領主の「居城」であるとともに「政庁」であり、また一朝有事の際に用事拠点となる「砦」である。ところがエゾ地(北海道)では近世にいたるまで、「城」を「館」と呼んだ。慶長年間の城普請を完成させた松前慶広は、新しい居城を幕府に対して「館」と報告し、エゾ(アイヌ)に向かっては「チャシ」と言っている。もし、「館=チャシ」であるのなら、松前城(福山館)は近世城郭の常識からかけはなれた異色の存在となる。「チャシ」はアイヌの砦と解釈されているが、道内に約五百の遺跡が確認されている。チャシはアイヌのコタン(集落)の後背地に設けられていて、部族の祭祀《さいし》場であるという見解もある。海岸部の「館」が海を見下ろす段丘の上や河口付近の微高地に位置しているのに対し、内陸部のエゾの「チャシ」は河川沿いに見出される。どちらも交通の要衝を占めていた。館あるいはチャシを開設して運用管理する者は館主《たてぬし》あるいはエゾの惣大将《そうだいしょう》である。そこは権力者の「居城」であり、「政庁」であり、戦いの時には「砦」になる。しかし、それだけではない。館およびチャシは部族にとって「祭祀《さいし》場」であるとともに、異部族と交易活動をおこなう「市場」としても機能した。この仮説は、近年の研究のなかで有力になっている。昭和四十三年(一九六八)、函館市郊外の「志苔館《しのりたで》」付近から約四十万枚におよぶおびただしい埋蔵古銭(主に北宋銭)が出土して、「館」と交易の結び付きを裏付けた。また祭祀と交易を関係させて考えることは、世界史的に見て決して奇異ではない。一般に「市場」は交易の自由と公正を保証するために「平和」と「政治的中立」を確保しなければならないが、そのために特定の場所を柵囲いや濠などで区画して、ここは「聖なる土地」であると宣言するのである。
都市は幾層もの「古層」の上に築かれる。「要塞都市」の下に隠れているのは「殖民都市」である。さらに、その下に「交易都市」が埋もれている。江戸期に封禄一万石以上を将軍から認められていた大名のなかで、エゾ地(北海道)を領有する松前氏は他に見られない特徴をそなえていた。それは、近世を通じて「商場知行制るびあきないばちぎょうせい」を敷いたことである。江戸期の北海道で米は産しなかったので、松前藩は幕藩体制の根幹である石高制を敷くことができなかった。松前氏は石高を持たない「おかしな大名」である。幕府から最初は「七千石格」で扱われ、享保年間から「一万石格」になった。藩の財政はエゾ(アイヌ)との交易で得る収益を主要財源とした。交易でもたらされるエゾ産物はサケ、ニシン、コンブなどの海産物が主要なものであり、他に鷹、獣皮、鷲の羽のような狩猟の獲物があった。これ以外に藩は、領民から徴収する諸税、諸国から松前へ往来する商船・商人に賦課する「船役」(出入港税)、砂金探取に対する運上金、鷹捕獲に対する運上金をあわせて収入源にしたけれども、交易から上がる収益の比重が圧倒的に大きかった。
他方、藩主は道内の一定地域六十一ヵ所に「商場《あきないば》」を設定し、家臣の身分に応じた大きさの商場をそれぞれに給付した。家臣らは、この商場でエゾと独占的な交易を営み、自らの収入を得た。これが「商場知行制」である。ところが、元来商いにうとい武士が交易をうまくおこなって十分な収益を上げることは難しかったので、家臣たちは、しだいに自分の商場でのエゾ交易を商人に一定期間請負わせて、商人から運上金を徴収するやり方を採るようになった。この傾向は寛文年間(1661〜72)に発生し、本州からエゾ地へ進出する商人の数が増えるにつれて広まり、元文年間(1736〜41)までに全藩に行き渡った。これを「場所請負制《ばしょうけおいせい》」と呼ぶ。
商場知行制という独得の封建体制のなかから「商場」の経営権を商人へ引き渡すという場所請負制が展開されたことで、中世いらい「エゾ」と「和人」のあいだに形成された交易関係は、大きく変質する。場所請負人となった商人は、本州で仕入れた米、塩、鉄器類の各種産品を「商場」へ運び、海崖物をはじめとするエゾ産品と物々交換し、これをふたたび本州へ持ち帰って売りさばき、利潤を得た。最初はこれだけで莫大な利潤を得たが、エゾ地へ進出する商人が噌えて初期の利幅を確保するのが難しくなると、利潤を増やすためにエゾ産品を増やす手段をとらなければならなくなった。獣皮、鷹などの狩猟やコンブ採り、ナマコ採りの採集はエゾ固有の伝統技術に依存する他ないが、サケ漁やニシン漁については漁業技術を進歩させることで生産性の向上が可能になる。請負人は本州の漁具・漁法を導入して、それをエゾに教えた。この「開発輸入方式」がかなりの成果を上げたことはもちろんだが、漁法が進化して操業規模が大きくなると、エゾ自身が漁具を製作して自分たちで操業することが不可能になった。場所請負人自ら漁業経営に乗り出し、生産手段を失ったエゾは請負人に使役される賃労働者に転落せざるを得なかった。場所請負人たちは漁場開拓に精力を注いだ。とくに大量に漁獲できるニシンの増産に目を付け、肥料として用いる魚粕の製造を開始したことがニシン漁業の発展をうながした。松前藩は、はじめニシン漁を東は亀田、西は熊石の番所までの松前本領に限定して認めていたが、元禄期(1688〜1703)に入ると藩の禁制がゆるみ、瀬棚〜寿都〜磯谷〜歌棄の西エゾ地へ出漁する者が現れた。また寛政五年頃、有力な場所請負人である江州の往吉屋西川伝左衛門が美国〜古平〜忍路〜高島と積丹半島の奥地の場所を請け負ってニシン場を立てた。江差追分に「忍路高島およびもないが、せめて歌棄磯谷まで」とうたわれるのは、一説では、江州の住吉屋に続けと策を弄して藩に取り入り、やっと利権を手に入れた商人たちの心情をよみこんだ文句だという。
松前本領から離れてエゾ奥地の処女漁場を開拓していくことを「追鰊《おいにしん》」と呼んだ。松前、江差の松前本領のニシン漁が薄くなると、資力のある場所請負人たちはつぎつぎに瀬棚〜歌棄の「近場所」から磯谷〜高島の「奥場所」へ進出していった。天保年間(1830〜43)以降は石狩〜厚田〜浜益〜増毛〜留萌とニシン漁場は日本海沿岸をさらに北上して漁業域を拡大する。追鰊の盛行を支えたのは、ただ同然の安価な報酬で使える豊富な労働力である。場所請負人はエゾを漁夫として雇い入れ、「交易」を「生産」に変換することによって「資本の原始的蓄積」を進めた。請負人たちの蓄財の華々しい成功を助けた要因に商人の「詐欺」「瞞着」とエゾの「無知」「未開性」を強調するのが従来の通説である。しかし、事はそんな単純なものではない。近世のエゾ地でくりひろげられた出来事は、「農業社会」と「非農業社会」の衝突である。前者が後者を圧倒することにより、植民地《プランテーション》経済が無制限に発達した。搾取(取りつくすこと)の対象になったのはエゾの労働力だけでない。主として狩猟と漁労を営む非農業社会が生存するために必要とする「資源」にまで搾取の手は伸びたので、人間と自然を結ぶ「代謝過程」(マルクス)が徐々に破壊され、ついにエゾは「民族」として自立するアイデンティティの基盤を失ってしまう。だが、この問題については、視点を変えてエゾの側からも検証しなければならない。  
ニシン場に「工場制手工業」が形成された
松前で一泊し、翌朝またバスにのって江差に向かった。松前から北へ約二時問、隆起海岸に沿って走る。江差の後背地は檜山《ひのきやま》と呼ばれ、古くからアスナロ檜、エゾ松、トド松、桂《かつら》、栴《せん》、シコロ、朴《ほお》の七木を産した。とくにアスナロ檜は建築良材として知られ、松前五代の慶広が豊臣秀吉へ献上して面目をほどこしたという言い伝えがある。江差は檜材の積出港であった。ところが江戸元禄期(1688〜1703)以降、ニシン漁業が急速に成長して藩経済に大きな役割を持つようになる。江差は漁場開発基地として、また流通経済の中枢として発展を続けた。宝暦三年(1753)に松前の絵師の描いた一双塀風絵が往時の繁栄を伝えている。
かって北海道の春ニシン漁は、松前、江差、瀬棚、積丹と渡島半島西海岸の南から始まって、しだいに北上した。彼岸過ぎに風がぬるみ、どんより曇った日暮れに沖から陸へ吹く風が立つと、ニシンの産卵群が岸に抑し寄せてくる。漁業者たちは海象、気象や隣りの浜からとどく情報を総合して「ニシン模様」があるとか、まだないとか議論した。漁期が熟してくると、船頭と漁夫たちは網起こし船と枠船に分乗して沖泊まりをし、ニシンが「群来《くぎ》る」のを待つ。漁夫たちは船の胴の間にころがり、苫《とま》をひきかぶって仮眠をとるが、枠船に乗り組んだ大船頭は寝ずの番で、指に巻きつけた「触《さわり》」という魚信を探る糸を手から離さず、潮の動静と胴網の網成《あみな》り(水中での網の形状)に眼を凝らす。夜半過ぎ、大船頭の「起こせえ」の声が闇のなかに響く。それに呼応して、起こし船を指揮する起こし船頭が「起こすぞお」と叫ぶと、漁夫たちは跳ね起きて船べりにとびつき、胴網の網目に指をかける。そして、声自慢のハオイ船頭のやーせい、やーせいの音頭に合わせてヤーセイ、ヤーセイ、工ーンヤサ、工ーンヤサと漁夫たちは下声《したごえ》をそろえて網起こしを始める。魚群が濃い時は、大船頭の「起こせえ」が三度、四度と繰り返された。東の空が白む頃、磯の海面が牛乳を流したように雄ニシンの放出した精液で白く濁った。
ニシンを獲る「場所」を「鰊場《にしんば》」と呼んだ。網を立ててニシンを漁獲する地先水面の漁場と漁獲物を陸揚げして魚体処理をし水産加工作業を進める浜の施設の両方を総合した生産拠点《プラントサイト》が、ニシン場である。ニシン場を経営する場所請負人は、「鰊場の親方」と呼ばれた。町中では「大宅《おおやけ》(金持)の旦那《だんな》」と敬称をたてまつられた。本州漁業の「網元《あみもと》」と同じ身分である。親方は、自分が請け負った「場所」のすべてを直営したのではない。木州からの出稼ぎ漁業者へ漁場の一部を割譲して建網(定置網)や刺し網を営ませた。権利を譲り受けた者は水揚げ高の十分の二を親方へ上納するので、彼らは「二八《にはち》取り」と称された。
ニシン場は海浜の広大な面積を占有した。まず「袋澗《ふくろま》」と呼ぶ私設の小漁港を石垣を築いて作り、そばに陸揚げ桟橋を設置する。そして約二千坪の海産干し場を整備している。敷地内には、親方の居宅と雇い入れた漁夫の宿舎をあわせた「番屋《ばんや》」をはじめ「廊下」と呼ぶ製品収納庫や網倉、米倉、味噌倉などの建物群を構えていた。
漁獲したニシンの生産形態は 1粒ニシン(鮮魚販蓼、2掛ニシン(身欠きニシンの製造販売)、3粕玉(魚肥〆粕の製造販きの三種類に大別され、これに「数の子」生産がくわわる。また副産物として「笹目」(エラ)、「白子」(雄ニシンの精のう)の乾燥品が作られたが、どちらも肥料にした。
粒ニシン、掛ニシン、粕玉の商品三様態のうち粒ニシンは箱詰めかナワ掛けにして市場へ出すが、掛ニシンと粕玉についてはそれぞれ次のような工程で加工をした。
【掛ニシン】1ニシン潰し→2尻つなぎ→3納屋掛け(乾燥)→4ニシン裂き→5身欠き抜き→6身欠き結い〔付帯作業=7胴ニシン結束、8数の子干し、9白子干し、I笹目干し〕
【粕玉製造】1釜ゆで→2圧搾→3胴抜き→4乾燥→5玉切り→6乾燥(発酵)→7俵詰め
北海道西岸のニシン漁業の発展形態は一様ではなく、各地のニシン場は地域ごとに異なった展開を示した。それはニシンの生物的特性による漁場形成パターンとニシン場の地理的条件の二つと密接に関係していた。冬の日本海は北から下がる冷水塊が発達するので、北上する対馬暖流の勢力は南へ後退する。だが春三月中旬から対馬暖流はしだいに勢力を増し、北海道の日本海沿岸の水温は上昇し出す。この頃、太平洋を回遊して成長し日本海へ回帰してきていたニシンは、対馬暖流の最前線まで南下して、そこで接岸し、産卵する。性成熟するのは高年齢魚が早く、若年魚は遅い。北海道西岸沿いでは、まず松前、江差から積丹半島までの道南地方に高年齢魚が現れる。漁期が進むにつれてしだいに若いニシンに主体が移るが、同時に対馬暖流の卓越におしもどされて、主漁場は松前、江差方面から銭函、石狩の内湾や浜益、増毛、留萌、苫前、天塩、宗谷の北部海岸へ移動する。ニシン漁場を、松前、江差方面から積丹半島までを「走り場所」、積丹半島から石狩湾までを「中場所」、増毛・留萌方面から天塩.宗谷までと天売・焼尻・利尻・礼文の離島を「後場所」と呼んで区別した。走り場所では魚体が大きく、文字どおり漁期初めの走り物が獲れたので、手早く粒ニシンで送り出すか、さもなければ丸干ニシンや開きニシンの食用品に加工して出荷した。中場所は海上の難路で有名な積丹半島をひかえるので、輸送がやや困難である。食品加工は保存性の高い身欠きニシンと数の子の製造に重点が置かれ、あわせて胴ニシン、白子、笹目の肥料を製造した。そして掛けニシンに処理できなかった分を〆粕加工に回したのである。だが漁期が進むと気温が上昇して魚体処理がいそがされる。食用加工と肥料製造の両面作戦は不可能なので、〆粕作業に没頭することになる。そして漁期がいちばん遅い天塩、宗谷などの後場所は、魚体が小さく、しかも交通不便な奥地であり、ニシン漁業は最初から粕玉加工の魚肥生産に専念した。
ニシン漁は松前、江差地方の走り場所で興り、はじめ漁法は刺網漁を主体としたが、場所請負制の普及とともに走り場所から中場所へ、さらに後場所へとニシン場の開拓が進展し、その過程で生産手段は刺網漁法から漁獲能力のより大きな建網(定置網)漁法へと発達した。主として中場所、後場所のニシン場に、漁獲・沖揚げから水産加工・出荷までの海陸一貫生産体制をとった一種の「工場制手工業《マニュファクチュア》」が形成されたのである。江戸中期以降幕末期にかけて北海道ニシン漁は増加の一途をたどり、天保年問(1830〜43)の漁獲高は十五万石に達している。ニシン十五万石というのは生産量で約十一万トン、〆粕干し上げ重壁で約二万二千トンの大きさである。明治時代に入って漁場制度が解放されると、さらに飛躍的な上昇をとげ、明治十年代から「ニシン百万石」の時代が約二十五年間つづいた。西海岸の漁村にはニシン漁全盛期に建てられた豪壮な「番屋」が建ちならんでいた。その一つ、留萌郡小平町の「花田家番屋」は建坪二百七十余坪の建物で、最盛期には定置網十八ヵ統を営み、漁夫約二百人が番屋に寝起きした。「百万石(約七十五万トン)時代」といわれた明治二十年代半ばの二十五年統計によると、北海道春ニシン漁に従事する漁業者数は八万三千人を越えていた。これは当時北海道で各種漁業に就労した漁業者総数十三万六千人の六十パーセントを占める数字であった。 
商業的農業と海運がニシン漁繁栄を支えた
春ニシン漁繁栄の背後に江戸時代の農業発展があった。日本の漁業は近世に入ると三つの需要に支えられて発展する。
(1) 江戸、大阪、京都の三都をはじめ各地の城下町で鮮魚消費が拡大したこと
(2) 農業先進地に始まり、全国へ魚肥需要の増入がひろまったこと
(3) 長崎から中国(清)ヘイリコ、干しアワビ、フカヒレの俵物《たわらもの》三品が大最に輸出されたこと。
このうち需要量が最も大きくて、漁業生産に深甚な経済的効果をもたらしたのが魚肥であった。魚肥の代表はマイワシである。マイワシは獲れた浜で干鰯または鰯〆粕に加工されて、農村へ肥料として供給された。最初から肥料に使うことを目的にして漁獲したのである。海辺の土地では古くから魚介類や海藻類を自給肥料に使っていたが、近世の商業的農業が発達し出してから「金肥」(金を出して買い求める肥料)が大量に流通するようになった。戦国時代末期の永禄年間(1558〜69)から天正年問(1573〜91)にかけて、和泉、摂津、紀伊および若狭、丹後の地でイワシ類を専門に獲る地曳き網、八手《やつで》網、まかせ網の漁業が出現している。ワラ縄で網具を作り、いずれも漁夫数十人で操業する大がかりな漁業である。この頃、漁獲されたマイワシは鮮魚で食べる以外に大部分干物や塩蔵品に加工されただろう。だが江戸時代に入ると、イワシ漁業は肥料生産を目的にして摂津、和泉、紀伊の出稼ぎ漁民によって相模、房総、常陸へ伝播し、また西国の阿波、伊予、長門、肥前へ広まった。日本海側でも若狭、丹後を中心に越中、越後あるいは因幡、出雲と東西へひろがった。イワシ漁業は商業的農業の発達と歩調を合わせて発展したのである。
江戸時代最大の商品作物は木綿である。戦国時代の半ば頃から木綿の国内栽培が始まり、近世に入ると大和、山城、摂津、河内、和泉の畿内に綿作が興り、それが寛永期(1624〜43)前後から急速に普及した。江戸中期の享保(1716〜35)の頃から木綿栽培は畿内に加えて伊勢、三河の東海地方および播磨、讃岐、備前、備後、安芸、周防の西国地方へ拡大し、これらは自給的栽培の限度を越えて商品生産として発達する。当然、干鰯、鰯〆粕の需給は逼迫する。十八世紀中頃から十八世紀末にかけ、天文、寛保、宝暦、天明、寛政の頃に摂津、河内の村々で干鰯高値に抗議する農民たちの村訴訟がたびたび起きた。
慢性的な干鰯不足を補うために登場したのが北海道産ニシンの〆粕である。北海道ニシンを最初に本州へもたらしたのは近江商人である。近江商人が先駆的な場所請負人としてエゾ地の漁場開拓と経営に当たったことは有名だが、すでに享保期にサケ、コンブ、数の子などの海産物とあわせて肥料としてのニシンを敦賀経由で近江路、中国地方へ送り込んでいた。いちばん早くニシン粕を導入したのは近江の湖東地区で、ニシンを油カスや干鰯と併用していたことが村方史料に見られる。はるばる海路数百里をはこばれてきたニシンが近在の浦々で漁獲されるマイワシに対抗して魚肥市場へ食い込み、畿内および西国へ商圏を広げていくことができたのはなぜか。価格が安かったからだ。近世漁村史研究者の荒居英次(1927〜81)によると、幕末期の天保元年から文久二年にかけての三十三年間について大阪干鰯市場における北海道産ニシン〆粕と九州佐伯産イワシ〆粕の価格比較をした史料があるが、大阪への海上距離がはるかに短い佐伯産〆粕の方が安かったのは七年間だけであった。〆粕十貫目当たりの九月相場は、北海道産ニシン〆粕が佐伯産イワシ〆粕を、例年、銀一〜二匁下回っている。北海道ニシン漁は多数のエゾ(アイヌ)や後には内地からの出稼ぎ漁夫を使って経営された。かれらの労働搾取の上に成り立つ漁業だったから、生産コストを低く押さえて、市場でいつも有利な価格設定をすることができたのである。農業用肥料としてニシンはマイワシを全国的に圧倒した。
安価な労働力のほかにニシン〆粕の低価格をもたらした要因が、もう一つある。それは、船による海上大量輸送の経済性を存分に活用したことである。近世海運は諸物質の輸送を担って経済循環を図る上に、今日の私たちが想像する以上に大きな働きをした。江戸中期の宝暦(1751〜63)の頃、「北前船《きたまえぶね》」と呼ぶ回船が日本海西回り航路に登場する。これが北海道産ニシン〆粕を畿内と西国へ輸送した。最初は百石積、五百積の中型船だったが、幕末の頃には千五百石積から二千石積の大船が主力になった。大阪の西船場には船大工、船釘屋、櫓擢屋、碇屋、船板屋、解船屋など造船関連の職人と商人が二千人以上集住して日本最大の造船拠点を形成していたが、ここで瀬戸内海の塩飽《しわく》諸島で活躍していた船型を原型《プロトタイプ》に取り入れて「弁才船《べんざいせん》」と呼ぶ大型船が開発された。従来の回船が帆走と櫓走の兼用であったのに対し、弁才船は帆走専用船である。船長約十五メートル、船幅約八メートル、深さ約三メートルの千石船を帆で走らせるのは、目のつんだ軽量でしかも堅牢な帆布が要る。繊維がこわくて目の粗い麻布は帆布に適さないので、それまで船の帆にはワラで編んだ莚《むしろ》かコモで織った菰《こも》を使っていた。ここで木綿がモノを言う。風が抜けず、よく風をはらむ木綿帆が近世海運に一大画期をもたらした。いま各地の神杜に残る奉納絵馬には白い帆が大きく描かれているが、千石船は二十五反帆と言って総巾約二十メートル、丈二十数メートルの巨大な帆を上げる。それは江戸時代の産業経済の推進力を象徴した。。石井謙治氏(日本海事史)によると、下関経由の西回り航路で酒田から江戸までの八百海里を千石から二千石の米を積む御城米船が平均約六十日で航海している。速い船では三十日余りで走破した記録がある。 
江差追分はタバ風が産んだ歌だ
いま江差にニシン漁は影も形もない。江差港、五勝手漁港、泊漁港の三つを統括するひやま漁業協同組合江差支所には三トン型、五トン型を中心に二十トン未満の沿岸小型漁船百六十隻あまりが所属するが、漁業者たちは冬のスケソ延縄漁と夏のスルメイカ釣り漁を操業する。そのほかはマス、サケ、ホッケ、タコなどを獲り、また船外機付きの小さな舟でアワビ、ツブ貝、ナマコ、ホヤ、コンブを採る磯漁に従事している。
ニシン場は滅びた。だが江差の町の人々はニシン場で産まれた江差追分をいまでも歌っている。それどころか昭和三十八年に辻以智郎町長(当時)は江差追分の振興を目的として「箪回江差追分全国大会」を町主催で開催した。ことし平成十年で三十六回を数える。去年平成九年の大会では道内はじめ国内および国外各地の百四十四支部、会員約五千人のなかから三百五十人が参加した。予選会(二日澗)、決選会あわせてあわせて三日間の日程で「江差追分日本一」を選び出す。また昭和五十五年に本田義一町長(当時)は江差追分を地域文化として江差に根付かせることと全国の追分けファンに便宜を図ることの二つを目的にして、町営の「江差追分会館」を建設することを計画、総工費約六億円を投じて敷地一七五〇坪、建坪三六五坪の土蔵造り風の文化施設を完成させ、五十七年五月に竣エオープンした。百畳敷の演芸場を毎年の全国大会会場に当てるほか四月から十月まで毎日江差追分を実演し、冬の二月には江差追分セミナーを開催する。館内には江差追分の生い立ちと変遷をたどる数々の資料をそろえた資料展示室を作った。
なぜ江差の人たちは、そんなに江差追分を好むのか。彼らがひたすら追憶の世界に生きているとは思われない。彼らはどんな未来を見詰めているのか。私は江差という不思議な町をいちど訪ねたいと前々から考えていた。
江差では松村隆氏がわたしを迎えてくれた。松村氏は定年まで町役場で働いた人だが、最後に経済部長を務めた。その時に、追分け会館建設計画が持ち上がったのである。公務員人生の最後に意義深い大仕事に取り組むことができたのは幸福だったと語る。
「民謡を保存する運動に国や道が補助金を付けてくれるわけがない。資金集めの仕事はゆるくなかった。折りも折り、農水省から農村定住促進対策という新施策が打ち出された。これは、圃場整備や漁港整備というモノ作りではなく、生活環境改善を図るソフト作りの政策。これの適用を受けることができて何がしかの助成が付いたので弾みが付いた。しかし金集めに歩くのは切なかった。しまいに、これは勧進《かんじん》なのだと思った。寺院や仏像を修復するために、坊さんが諸国をまわって喜捨を乞いますね。あれです。」
ムラ起こしという経済活動の核心部分へ文化を導き入れなければならない。そう考えると、松村さんのハラが据わった。全国支部の江差追分ファンヘ瓦一枚ずつ寄付してくれと呼びかけて、一億円を集めた。江差は追分で持つ。追分は江差追分で持つ。
「人聞は、自分たちが生きている土地に愛着し、そこで、満足を得なければならない。そこから誇りと自信が生まれます。誇りを持ち続けるなら小さな町でも輝いて生きていくことができる。」江差追分は冬の江差に吹き荒れるタバ風(北西季節風)が産んだ歌だ、と松村さんは言う。苦しい暮らしのなかで歌われた歌が人々を慰め、励ますのである。 
繁栄のなかに衰亡のタネがまかれた
江差はなぜ衰退したのか。ニシンの群が来なくなったからだと言うのでは身も蓋もないので、春ニシン漁の盛行のなかに衰退の種子がまかれて、それが徐々に退廃の構造を形成していったと考えなけれぱならない。
(1) 近世エゾ地の経済的発展は植民地経営の形態をとって開始された。エゾ交易の先駆けをした近江商人らから飛騨屋、栖原屋、須原屋など近世中期に進出した木州商人まで、冒険商人たちを前へ押したものは十五世紀のスペイン人やポルトガル人を新大陸へ駆り立てたのと同じ「黄金にたいする神聖な渇望」(アダム・スミス)であった。近江商人はいずれも松前城下に出店を張り、「場所」という事業現場へ支配人を差し向けた。場所請負人は排他的な独占貿易で巨利を獲得したが、利潤は近江あるいは江戸の本店へ回収したので松前に資本は蓄積されなかった。
(2) エゾ地の海産物はサケ、干しアワビ、イリコ、コンブなど多彩であるが、魚肥需要が増大してニシン粕の商品価値が高まると、西エゾ地の漁業はニシンの漁獲に精力を集中するようになった。モノカルチユアに特化した漁業は処女漁場を追い求めながら、ひたすら生産規模を拡大していったのである。
(3) 支配層である武士は、藩主から商場知行主である家臣にいたるまで貢租に依存する利子生活者と化した。彼らは自分の財政が逼迫すると、場所請負人へ運上金の増額を命じ、そのかわり新規漁場の選定などは「勝手次第に出精いたすべし」と放任した。消費生活は著移に流れ、華美を競った。松前藩主の多くが京都公家から正室を迎えたことに象徴されるように、松前領内には京風文化が浸透した。商家では椀や膳、重箱などの調度を会津塗りは下品だと言ってきらい、能登輪島の朱椀、朱膳を取り寄せた。「江差の五月は江戸にもない」という哩諺には、江戸に対する優越と負い目が入り混じっている。
(4) 十八世紀初頭の江戸中期(正徳・享保.元文)に入ると、江差に一群の在郷商人が頭角を現し、地元経済の中枢をにぎるようになった。彼らの多くは越後、能登、加賀、越前などから裸一貫で渡来し、江差に骨を埋める覚悟で土着し、近江商人の手代や、舟子、旅商人として粉骨砕身働いて財を蓄え、江差回船問屋株を手に入れた成功者たちである。関川与左衛門、岸田三右衛門らは江差商人の第一人者とうたわれた。回船問屋は松前藩の沖の口支配の代行者として税関業務をおこない、徴収した入出津税のなかから二分《にぶ》の取り扱い手数料を藩から支給された。手数料収入は微々たるもので、むしろ公的業務に携わる特権を利用して倉庫業を営むほか、海産物の出荷問屋と入津荷物の荷受け問屋の両方を一手に引き受けて、大きな利潤を手に入れた。さらに財力がそなわると、質屋・回船業・海産商・酒造業などと多角的に家業を拡大したのである。独占が在郷商人の利益の源泉であり、江差に商人資本・高利貸し資本の集中を生んだのである。
(5) ニシン漁業には漁業資材購入費や漁夫雇い入れ費をととのえる「仕込《しこ》み」を欠かすことができなかったので、江差では質座《しちざ》、頼母子講《たのもしこう》、無尽講《むじんこう》の金融システムが発達した。在郷商人の富豪は講元を務めるばかりでなく、個々の漁業者に対し、「仕込み親方」として着業資金を融資した。ニシン漁は年によって豊漁・不漁の波があり、収入は不安定で、漁業者は勢い仕込みに頼らざるを得ない。仕込み親方から受けた前借金は漁獲物の売り上げ金のなかから返済するが、仕込み金は三割という高利であり、不漁年は大きな欠損を出した。そのような場合、漁業者は精算赤字分と新たに借り入れる仕込み金を合算し、担保物件を書き入れて、借用証文を書き替えた。仕込み親方は何年にもわたり返済が滞っても担保物件を引き上げることはせず、右の方法で融資を継続するのが常であった。仕込み親方にとって、仕込み融資で得る利息は収益の一部分である。彼は、一手に集荷する漁獲物で大きな販売利益を上げたし、また漁業者に対する融資は現物仕込みの方法を取ることが多かったので、そこでも漁具、資材、食料品などの卸売り・小売商としてもうけることができた。富商は蓄財のために、漁業者は生存のために仕込み金融を継続して前浜の漁業を継続しなければならなかった。借用書文に見られる累積赤字は、仕込み親方と漁業者を一つの運命共同体に結び合わせる靱帯であった。
(6) 近世中期から明治期にかけての江差の経済繁栄はひたすら春ニシン漁によって支えられた。増殖する商人資本・高利貸し資本はエゾ奥地の漁場開発をおしすすめた。しかし、それは「開発」と言うよりは、自然と人間に対する「収奪」と呼ぶのが適切である。文化.文政期(1804〜29)はニシンの豊漁期に入り、石狩〜厚田〜浜益〜増毛〜留萌とニシン場が拡大していった時代だが、この時期に西エゾ地のエゾ(アイヌ)人口が激減したのに対し、和人の出稼ぎ人口の増加していることが認められる。場所請負商人は労働力確保のために各自で場所内の「蝦夷人別帳」というものを作成しているが、それらに基く西エゾ地のエゾ人口は文政五年(1822)の九、一二一人(二、一二五戸)から安政元年(1854)の四、三八四人(一、〇五五戸)に減った。約三十年間で半減したのである。その背景に和人がもたらした疫病による死亡や疫病禍を逃れて海岸から内陸へ逃散した人口移動が考えられる。ニシン場でのエゾに対する労働使役は過酷であって、彼らの生活共同体と生活圏をしだいに破壊した。ここに、「場所」の労働力不足を補うために本州から大量の出稼ぎ漁夫を雇い入れる端緒がひらかれる。
(7) ニシンを獲る漁法は、近世から近代まで一貫して、来遊する産卵群を獲りつくそうとする沿岸漁法であり、ニシンの生活史と回遊形態に合わせた沖合漁法は発達しなかった。長年の繁栄のなかで形成された漁場秩序が沖合への進出を許さなかったのである。このためにニシン資源の循環と再生産機構についての理解が深まらなかった。先住民のエゾが熊祭りをはじめとするさまざまな「イヨマンテ(物を送る)」の儀式に見られるように、自然資源の循環について深い理解と信仰を身に付けていたことを考えあわせなければならない。
ひととおりの取材を終えると、夕方、江差港から目と鼻の先に見える鴎島《かもめじま》へ足を向けた。高所から見下ろすと鳥が羽をひろげたような形に見えるので、そう名付けられた。昔は離れ島だったが、いまは潮止めの堤防がつくられて町と地つづきになっている。島の砂浜のところからすぐ石段があり、百六十段上がると、海抜二十メートルの平坦地へ出た。右手の奥へ入る小道をたどると、小さな朱塗りの社があった。元和元年(1615)、回船問屋仲問が海上安全を祈願して建立した。江戸時代には弁財天社とされたが、明治元年(1868)に厳島神社と改称された。鳥居に「加賀橋立船頭中」と刻まれている。天保九年(1838)三月吉日に加賀国橋立村の北前船頭衆が奉献したのである。鳥居のそばに手水鉢があった。この手水鉢は天端が長方形の形で、鉢の凹みのかたわらに東西南北と十二支の方位が刻まれている。ここは、日和山《ひよりやま》であった。
神社から数十歩移動すると、島の西岸へ出た。さえぎるもの一つとしてない日本海が目の前にひろがり、海触崖を吹き上げる西風が頬を打つ。日和山というのは潮見台や魚見山と同じで、一般的な呼称である。船頭たちは、ここへやって来て西の空を眺め、雲の形や空の色を観察して明日の空模様と海象を思案した。彼の判断に積み荷の安全と乗組員の生命がかかっていた。航海は、よく人生にたとえられる。そこでは人間と自然とが格闘を続け、必然と偶然があざなえる縄のように交錯する。黄色いタンポポがところどころに群生する草地にあぐらをかいて海を眺めながら、私はこれから始めようとしている自分の小さな「航海」について思いめぐらせた。「蝦夷地」の繁栄と「近世大阪」の繁栄の類似性に興味を覚えたのが発端である。少し話がうまくできすぎているとも懸念されるが、先のことはやって見なければ分からない。私は社殿のところへ戻り、北前船頭衆にならって神のご加護と「航海安全」を祈願した。 
ほんとうにニシンが来ない
昭和二十九年、三十年、三十一年(一九五四〜五六)の決定的な凶漁で、北海道の春ニンン漁は潰滅した。その頃の沿岸漁村の惨状を子どもたちが作文に書いている。次の二つの文章は、安東次男著『にしん 凶漁地帯を行く』(柏林書房、一九五五)から引用したものである。
別刈に鰊がこない  (別刈小・六年男)
別刈村は鯨がふりょうで、父や母はもう鰊がこないので、みんなはあきらめなければならない。毎日、毎日まっていた修学旅行が鰊のために、たのしい修学旅行がなくなって、みんながっかりした顔を、みんなにみせている。わかいものは、もうかえったところもある。わかいものは、みんなかたまって来年はもう別刈にはこないと、わかいものはいいながらかえった。ほんとうに鰊はこない。
いもほり  (別刈中・一年男)
十月十日ごろ、家ぞく全部が、あばしりへゆくことになった。家には一せんの金もなく、春に使った道具などを売って、汽車ちんをこしらえた。ゆくときは、海はしけているし、雨がふるし、天気になれば風がふいて、すながとぶ、バスに乗ればほとんどがでかせぎの人だ。別刈は鰊がとれない、だから別刈には人はいなくなった。汽車の中では、おしあいをして乗った。半日くらいでついた。ごはんをたべるときは、節約して、いもばかりたべていた。学校は、遠くて遠くてぜんぜんかよえなかった。別刈を思うと、雪がそろそろふりはじめただろう。どこかの家では、あみ物をしているひともいるだろう、いもほりをやめて帰るときは、もうまっ白だった。おや方から、いくらかの金をもらったので、また、らいねんのことをあいさつして、別刈にやってきた。やはり、別刈だって、雪をいただいていた。いぬぞりや、長ぐつをはいた友だちが出むかえに来てくれてうれしかった。家へかえって、げんかんをいたでうっていたのを、はずしてはいった。これからの生活は、でんぷんと、いもばかりたべてくらそうという計画でした。
別刈《べつかり》は増毛《ましけ》町にある漁業集落の一つである。日本海に面し、留萌市の南に位置する増毛町には北から阿分《あふん》、舎熊《しゃくま》、増毛、別刈、岩尾《いわお》、雄冬《おふゆ》の漁村がある。阿分から別刈までは低地か低い海岸段丘の上にあるが、岩尾と雄冬は海へ落ちる断崖の斜面にのっていて、昔は増毛から船でいくしかなかった。増毛および留萌は天保十一年(1840)、本州商人の伊達林右衛門、栖原仲蔵が連署で請願して場所請負が許可され、二八《にはち》取りの出稼ぎ漁業者によって漁場開発が進められた。この地方はいわゆる後場所に属し、春ニシン漁の終末期にいたるまで漁獲は比較的安定していた。
昭和三十年当時、北海道西岸の宗谷地区、留萌地区、石狩地区、後志地区それぞれのニシン漁業への依存度を見ると、留萌地区が最も高く、漁獲生産量の八五パーセントをニシンが占めた。また、漁家戸数の七〇パーセントが定置網または刺網でニシン漁を営んでいだ。最後の資源崩壊が起きる直前の昭和二十六年(1951)、留萌地区南端の増毛町の漁業生産は、年間総漁獲量五八五万貫(二一、九〇〇トン)のうち八八パーセントの五一五万貫(一九、三〇〇トン)がニシンであった。
作文を書いた子どもの「別刈小・六年男」の父親は定置網漁を営んでおり、「別刈中・一年男」の方はおそらく刺網漁業者であろう。この頃、増毛漁業協同組合の組合員は約千四百人で、このうち定置網漁業者は約八十人、刺網漁業者は約五百人いた。北海道春ニシン定置網漁業経営者には、(1)季節労働者二十五〜三十人を雇い入れて網一カ統を経営する小生産者(2)数カ統の網を経営し、雇い入れ漁夫が五百人を超える資本的漁業の経営者(3)海産物問屋業、金融業、酒屋業、呉服業などの本業を営む者で、町有の「場所」一〜三カ統を落札して経営する者(4)数人で株を持ち寄って資金を調達して経営する者など、いくっかのタイプがあった。三年続きの凶漁で彼らを等しく直撃したのは、極度の資金不足である。春ニシン漁では、例年、着業資金の六割を借入金に依存しており、自己資金は四割内外に過ぎない。ひとたび凶漁に見舞われると、経営者は翌年の漁の資金調達に四苦八苦した。雇入れ漁夫に渡す旅費・支度金と食料費を準備しなければならない。「米のことを考えると、気が狂いそうになる」がニシン場の親方たちの挨拶の言葉であった。留萌支庁の定置網漁業者の自己資金率は、昭和三十一年には二六パーセントにまで低下している。自己資金の窮迫とともに資金調達源が変わっていった。従来は漁協の系統融資を主とし、それについで水産加工業、海産商、銀行の順に借り入れをしていたが、続く不漁で系統金融も危機におちいり、そのため水産加工業などの仕込み金融が急増した。凶漁が数の子と身欠きニシンの浜値を高騰させたので、春ニシン漁は投機的性格を強めたのである。
増毛で生まれて育ち昭和四十年から平成二年まで増毛漁業協同組合の専務理事を務めた長田博氏は、昔の事を正確に記憶していた。増毛のニシン漁業のピークは昭和二十一年(1946)の一三、五三三、〇〇〇貫(五〇、七四八トン)だった。最盛期には増毛駅からなま百輌の臨時貨車を仕立てて、毎日八〇〇〜一、〇〇〇トンの生ニシンを積み出した。仕向け地は道内六割、本州四割であった。生で出荷し切れないものは身欠きと数の子に自家加工した。四〜六月の三ヶ月で一年分の生活費と翌年の着業資金を稼ぎ出した。そのニシンがやって来なくなったのである。前浜の海がとろりと凪いで、夜の海にニシンの群が沸き立つように岸へおしよせてくる情景はいま思い返しても夢のようだ、と長岡さんは回想する。
留萌地区のニシン定置網経営者の転向は昭和三十年から始まっている。借金を抱えて廃業し離村を余儀なくされた者、都市へ移住して賃労働者になった者、水産加工業・雑貨商、石炭販売業・土建業など自分の本業へ回帰した者、沖合スケソ延縄漁、沖合刺網漁などへ漁業転換を図る者など様々であった。ひたすらニシンに頼っていた資本的漁業は四散したが、他方、ニシン刺網業者は主として家族労働力に依存する零細漁民である。彼らは前浜を離れて生きる術を持たなかった。ニシンが群来《くき》らなくなると、タコ空釣り・タコ函・カレイ刺網・タラ延縄など、考えられる漁業を次から次に手がけ、収入の足らない分を出稼ぎで補った。夏のあいだ北見、十勝地方の澱粉工場に雇われて、ジャガイモ掘り仕事で働いた。漁業者たちがやりくりしながら窮状をしのぐあいだ、漁業協同組合では新しい漁業の開発を模索した。タコ漁は函・樽・縄など五種類の漁法を使い分けるようになり、そのタコは関西地方のタコ焼き材料として販路を固めた。またエビ籠漁、エビ桁網漁およびホタテ稚貝養植が開発され、それらはタコ漁やカレイ刺網漁とともに中軸的な漁業に育っていった。沿岸漁業に欠かすことができない重層的な漁業構造をしだいに作り上げていったのである。 
ニシン場の消滅は南から始まって北へ拡大波及した
ニシンは寒海の同遊魚で、太平洋ニシン(Pacific herring)と大西洋ニシン(Herring)の二種類がある。どちらも、産卵場および同遊経路によって数多くの系統群(local stock)に分かれているが、まず、外洋を回遊して大きな資源変動を繰り返す外洋性ニシンと沿岸域、内湾あるいは汽水湖の狭い範囲で生きる地域性ニシンの二つに大別される。地域性ニシンの資源量はいずれも小さい。北海道の春ニシンは、北海道の日本海沿岸とオホーツク沿岸およびサハリンの南岸と西岸を産卵場にし、日本海、オホーツク海および太平洋を回遊する外洋性ニシンである。日本沿岸の産卵群とサハリン沿岸の産卵群は交流しているので、「北海道・サハリン系群」と命名されている。
成熟したニシンは春三〜五月に産卵域へ来遊し、群をなして岸へ接近しては雌は岩礁帯の海藻へ卵を産み付け、雄が周囲の海中へ放精して受精がおこなわれる。私たちが食べる「数の子」は漁獲したニシンから取った未成熱卵であり、「子持ちコンブ」は海藻へ産み付けられた卵である。艀化した仔魚は体長十ミリほどで活発に運動するようになって藻場から離れ、索餌回遊に移る。その後の成長過程と生活域の関係については不明の点が多く、日本海・オホーツク海・太平洋を大回遊するという説と、太平洋へは出ないとする説の二派に分かれている。この議論は資源崩壊の原因についての議論ともからみあうが、ここでは大回遊説に従うことにする。
ニシンの寿命は十七年である。オホーツク沿岸を南下し、千島列島のあいだを抜けて太平洋へ出た未成魚群は、北海道から三陸にいたる沿崖海域と沖合を時計回りに大回遊しながら約二年を過ごす。その後オホーツク海へ戻り、一部の群は三年目に日本海へ回帰して翌春産卵する。またオホーツク海の滞留群は、その翌年日本海へ入って産卵群に加わる。産卵を終わったニシンは日本海の沖合へ出て越夏し、秋から冬にかけて南下を開始、春にふたたび産卵のために接岸する。毎年これを繰り返えすので、五〜六年のあいだ「春ニシン」として漁獲の対象になる。
近代以前のニシン資源の増減については、概念的なことしか分からない。山口和雄(日本漁業経済史学)は北海道の春ニシン漁が本格化したのは寛文・延宝(1661〜80)以降のことであるとして(I)寛文〜明和(1661〜1771)(U)安永〜享和(1772〜1803)(V)文化〜慶応(1804〜67)の三期に分って概観している。T期は豊漁、U期は不漁、そしてV期にまた豊漁がかえってきた。とくに文化・文政期はニシン漁の絶頂期であった。明治維新後に春ニシン漁はさらなる大発展期へ突入する。場所請負人制度の廃止による漁場解放で、「ニシン場」は逐次北方へ広がり、北海道西岸全域とオホーツク沿岸の北東部まで漁場開発が進められた。また、明治一八年(1885)に改良型定置網の「角網《かくあみ》」が出現して従来の「行成網《ゆきなりあみ》」に取って替わるとともに、しだいに漁貝は大型化した。着業数増加と漁具の改良・大型化の二つがあいまって漁獲量は著増し、明治二十年代から三十年代にかけて北海道のニシン漁業は隆盛を極めた。明治三十年(1897)に史上最高の百三十万石(約一〇〇万トン)の漁獲を記録した。これは尾数に換算すると、約四十億尾になる。
しかし明治三十年をピークに、その後春ニシンの漁獲は年々減少する傾向が現れ出した。大正元年頃に渡島地区のニシン漁が途絶え、ついで大正六、七年に桧山地区のニシンが消えた。さらに明治、大正を通じて豊漁を続けていた後志地区が昭和にはいると乱高下を繰り返しながら減少し、昭和四年と九年の大凶漁を最後に滅んだ。留萌地区、宗谷地区は昭和十三年の大凶漁の後、一時資源回復して持ちなおすかに見えたが、昭和十八年、十九年をピークとしてふたたび漁獲は急激に減り、昭和三十年前後にいずれの地区でも春ニシン漁は消滅した。この過程で注目すべきは北海道春ニシン産卵群の消滅が南から始まって規則的に北へ拡大波及していったことである。  
魚の「生活戦略」が資源変動を主導する
海という自然のなかから人間が「資源」として取り出して利用している魚は、その資源量がつねに変動する。とくに、マイワシ、ニシン、アジ、サバ、サンマなど「浮魚《うきうお》」と呼ばれる多獲性回遊魚にっいては、豊漁期と凶漁期の漁獲量の差が大きくて、劇的でおる。最近マイワシの資源減少が大きな問題になっている。マイワシは日本列鳥周辺の海のほぼ全域で獲れる魚だが、十六世紀以降現在までに数回の豊凶変動を繰り返してきた。近年では昭和五年頃から十四年頃までの一九三〇年代に年々百万トン前後のマイワシを漁獲していたけれども、戦中・戦後の時代にどんどん下降線をたどり、昭和四十年(1965)には全国漁獲量が九万トンに落ち込んだ。東京銀座の飲み屋で目刺しが「おふくろの味」ともてはやされたのは、この頃の話である。ところが、その数年後からまた勢いを盛りかえした。昭和五十年(1975)頃からマイワシ資源の回復が顕著になり、各地め漁獲量は年々ウナギ上りに上昇した。そして、昭和六十三年(1988)四百四十九万トンの史上最高を記録した。豊漁はここまでである。翌年から漁獲は減り始め、年を追って減衰は加速され、平成七年(1995)に七十万トンを割った。マイワシの資源後退はまだ続くものと見なければならない。
水産資源はなぜ豊凶をくりかえすのか。これは水産研究者たちが長年取り組んできた最重要課題の一つであり、議論が絶えることなく続けられてきた。資源の変動要因について、研究者たちは大きく二つの意見に分かれて対立している。それは、(1)親と子の個体数の密度関係によって資源は増減するという考え方と、(2)海洋環境の変動によって資源増減がひきおこされるという考え方である。北海道春ニシンについても、事情は同じであった。(1)の説をとる人は、長年のあいだ継続されたニシン漁業の漁獲圧力が「北海道・サハリン系群」の産卵域をしだいに収縮させ、ついに生物群集の再生産機構が崩壊して、春ニシンの資源を壊滅させたと考える。ある魚種の系統群(local stock)の大きさは親魚の個体数と産卵によって生まれる仔魚の個体数の数量関係で決まるので、毎年の資源純増分に見合うように適正な範囲で漁獲がおこなわれていれば、種の再生産は維持される。しかし、親魚を過度に漁獲し続けると、産卵量が減って稚仔の補給が減少し、そのことによって産卵域も縮少するという説である。
他方、環境変動説によると、ニシン資源の消長は地球規模で生じる海洋の寒冷化または温暖化の変動が、海洋環境に対する適合種の増加と不適合種の減少をもたらしていると考えるのである。そして資源の大きさの変動は、系統群のなかの年級群(year class)の大きさによって支配される。これは大西洋ニシンについて研究したヨルト(J.Hjort)が立てた学説である。ニシンやマイワシのような極端な資源変動が生じる魚種について、毎年の漁獲物の年齢構成を調べると、ある年に際立って大きな個体数を示す年級群が出現することがある。そして、その年級群が寿命に達するまでのあいだ、年々漁獲量全体のなかで卓越した割合の大きさを維持していることが明らかにされた。これを卓越年級群(dominant year clss)と呼ぶ。もし、卓越年級群が数回にわたり連続的に出現すると、これらの積み重ねで資源量は幾何級数的に増大する。卓越年級群が寿命を終わって系統群から姿を消して行き、その後、小さい年級群しか出ない時期が続けば、資源量は急速に減退する。では、卓越年級群はなぜ発生するのか。ある年級群が卵からかえったばかりの稚仔の段階で、適水温と豊當な餌に恵まれている好環境に出会えば、初期死亡率が低下して莫大な最の稚魚が生き残り、おおきな年級弾を形成する。反対の場合には、大きく落ち込む。生物の発生初期の海洋環境が資源の大きさを決定するので、親子関係は無視してよい。これが環境変動説の骨子である、近年の水産資源研究は、魚類の生物学的特性と海洋環境の二つのダイナミックスを統一的に説明する理論を構築する方向へ深化しようとしている。それには、「個体としての魚」と「群集としての魚」の二つの位相を一つに統合する観点を獲得しなければならない。千葉県水産試験場に長年勤務して沿岸漁業資源の調査研究をおこない、水産の現場へ向かってマイワシの「漁況予報」の活動を続けてきた平木紀久雄氏は、最新の著書『イワシの自然誌』(中公新書)でマイワシの生態・生活史の全体像に迫っている。平本氏は、まず杉の古木の年輪幅を調べて近世以降の房総半島の気候変動を推測し、そのカーブを九十九里浜イワシ漁の豊凶史と重ね合わせてみた。そして、マイワシ豊漁はおおむね気候の温暖化または寒冷化という気候の変動期に現れており、他方、不漁期は極端な寒冷期や安定した温暖期に生じるという仮説を立てた。日本近海のマイワシは1970年代初めから増加し始め、80年代後半に最大資源に達し、その後減少に転じたが、この期間に収集された産卵場広さと産卵量・索餌期の分布域・発育期間と魚体発育度等の膨大なデータを時間経過にそって分析することによって、平本氏は、次のような「マイワシ増減説」を立てた。
───マイワシの資源変動は長期的に見れば環境変化(気侯変動)に左右されるが、いったん増加してしまえば、減少のきっかけはむしろマイワシの発育期間や魚体発育度の変化に起因すると考えられる。資源増加は餌不足をもたらすが、マイワシは発育を遅らせたり分布域を広げたりして資源の維持を図っている。しかし、それが限界に達すると、分布域の縁辺部に孤立する群が現れたり産卵場が産卵に不適当な海域まで拡大したりして、破局が生じるにいたる。マイワシは環境変化または密度効果を引き金にして、その生活戦略によって群集の生活様式を変化させたり、あるいは個体の質的変化を生じさせる。そうすることによって資源の増減が開始されるのである。マイワシという種に固有の「生活戦略」が資源変動を主導するというとらえかたに、私は大きな魅カを感じた。  
日本海ニシン増大対策が開始された
北海道春ニシン漁は崩壊したが、「北海道・サハリン系群」のニシンは絶滅したのではない。サハリン南西側の日本海では産卵ニシンのいることが確認されており、この海域で五月に産卵するニシンは「北海道・サハリン系群」とみてよいと北海道立中央水産試験場の丸山秀佳資源科長は言う。沿岸漁が消滅した後も、北海道の沖合底曳漁船は冬に宗谷海峡の東方水域やオホーツク沖合で索餌回遊群をわずかながら他の魚種といっしょに混獲してきた。サハリン(ロシア)側では沖合の巻網漁を認める以外は、産卵群ニシンについて禁漁措置を取り続けている。
〈北海道・サハリン系ニシンが北海道沿岸に再び出現したのは1985年で、まず日本海側に出現し、その後オホーツク海に移動して、翌年には沖合底びき網を中心に約七万トンが漁獲された。1987年の春には日本海を中心に産卵ニシンが来遊し、約二千トンが漁獲された。しかし、一九八八年には産卵群は出現しなかった。この一時的な資源の増加は1983年生まれの発生量が多かったためで、この年級群のニシンは一九八九年までに約十万トンが漁獲された。〉(丸山秀佳、1991)
時ならぬニシンの「群来」に留萌沿岸はわき立ったが、わずかながらやって来た春ニシンはことごとく獲られてしまったようで、翌年の産卵回遊は見られなかった。産卵鮮を絶やさないで資源回復を図るためには、取り過ぎてはならない。
ニシンは産卵場と回遊域が異なる数多くの系群に分けられる。それぞれの系群は固有の鱗相、背骨推数などの形質を持ち、産卵時期や成熟期間が少しずつ違う。そして資源変動様態に独自の特徴が認められる。北海道の周辺では外洋性の(1)北海道・サハリン系群、(2)テルベニア(サハリン東岸)系群のほかに、厚田、サロマ湖、熊取湖、風連湖、厚岸、湧洞沼などに産卵場を持つ (3)地域性ニシンが存在する。地域性ニシンのうち厚田を中心に生息する系群に、昭和四十年(1965)前後から注目すべき現象が見られるようになった。北海道中央水産試験場の調査結果報告によると、石狩湾におけるニシン漁獲統計は昭和三十五年を最後に消えたが、昭和三十六年厚田で試験操業したところニシン一・八トンの漁獲を見た。その後、三十九年二〇トン、四十年十八・六トンの水揚げがあり、四十一年には石狩湾全体で五十五・三トン、四十二年七十二・八トンと近年としては相当の量に達した。しかし、四十三年に八・〇トンヘ急減した。四十二年の漁獲量七十二・八トンのうち三年魚と四年魚の産卵ニシンが七二・六トン(九九・七%)を占め、小ニシンは〇・二トンにすぎない。漁場範囲は石狩湾の茂生〜小樽の区間だが、中心的漁場は厚田沖である。
石狩湾では以前から春ニシン漁期前の一月、二月に散発的に漁獲される少量のニシンがあった。漁業者たちは、これを「遊びニシン」と呼んでいた。昭和三十一年頃、北海道立中央水産試験場では従来の北海道・サハリン系ニシンと異なった鱗相を持つものが出現していることを確認して、最初これをニシンの形質変化を示すものかと注目したが、その後かっての遊びニシンの鱗相に類似しているところから、このニシンは狭い区域を生息場にする小群であると推測している。昭和四十一年から四十三年三月まで実施した調査研究によって、中央水試は、現在石狩湾に来遊するニシンは同一系群に属する地域性ニシンであると特定し、「石狩湾系群ニシン」と命名した。石狩湾系鮮の近年の漁獲状況は、石狩・留萌・宗谷の三管内で平成九年一四九・八トン、十年一二一・五トンである。圧倒的に大きな北海道・サハリン系群が消滅すると、その蔭に隠れていた石狩湾系群が顕在化したのである。
北海道水産林務部は平成八年度から六カ年計画で「日本海ニシン増大対策」に取り組み出した。石狩湾系ニシンの種苗放流をおこなって、天然資源の再生産を助長するという構想である。天然ニシンの母集団の存在が確認されていることと、種苗生産についてすでに(社)日本栽培漁業協会が厚岸と宮古の事業場で湖沼ニシンの艀化放流事業を行っていて、その技術を導入することが可能であることの二点が計画具体化の決め手になった。道では(社)北海道栽培漁業振興公杜札幌センターで種苗を生産し、海中で中間育成した後、平成八年石狩湾へ十万尾、九年石狩湾および留萌海域へ四十万尾、十年石狩湾、留萌海域および宗谷海域へ百万尾を放流した。事業費は平成八年三千七百万円、九年一億五百万円、十年(予算)一億三千九百万円であった。今後、平成十一年、十二年、十三年の三年にわたり百万尾ずつを放流する計画である。また、かって多大の漁獲生産をあげた北海道・サハリン系群ニシンについては、道内で親魚を得ることは困難なので、平成九年サハリン漁業海洋学研究所の協カを得てサハリンで採卵と受精をおこない、空輸した卵を道立栽培漁業総合センターで艀化飼育試験を行っている。
平成十年二月十八日厚田沖で漁獲されたニシンのなかから耳石を赤い色で染色した標識魚一尾が確認された。平成八年六月に厚田で放流したものである。日本海ニシン増大対策事業に関して認められる成果は、いまのところこれ一件だけである。今後、この事業は(1)種苗ニシンの艀化・放流と並行して、(2)ニシン産卵場の状況調査と藻場造成技術の開発、(3)放流後の生残率、成長率の調査と放流稚魚の保護対策の開発(4)石狩湾系群ニシンの生態調査と資源管理のための基礎的研究を同時に進めなければならない。事業の成果を評価できるのは、まだまだ先の話である。  
木遣り音頭は漁夫たちの祈りの声
「日本海ニシン増大対策」に踏み切った道政には、一つの「思い」が籠められていた。北海道の日本海沿岸はニシンによって一番はやく漁業のひらかれた地域だが、いまでは道内漁業の最後進地帯に変わって低迷している。漁家二戸当たりの年間水揚高は、オホーツク沿岸二〇〇〇万円、太平洋沿岸一、一〇〇万円に対して日本海沿岸七〇〇万円と最も低い。日本海側の漁業振興は道水産界の重要課題の一つである。では何を対象に取り上げるか。やはりニシンが選ばれた。いまだに漁業者たちはニシンに期待をかけている。ニシン刺網を倉庫に保存し続ける古老は幾人もいる。
北海道庁での取材をすませると、私は小樽市へ向かった。「忍路《おしょろ》高島およびもないが……」と歌われた小樽市忍路である。忍路のニシン場は昭和二十九年の漁を最後に滅びた。ニシン場の親方たちはさまざまな事業に手を出して、生き延びようとした。ニシンは消えたが、ニシン場の幻は消えなかった。歳月がたつにつれて、ニンン場で歌われた作業歌が口を突いて出るようになり、「もう群来はやって来ないが、あの歌と儀式は後世に伝えたい」と親方たちの思いが一致して、昭和四十九年、「忍路鰊場の会」が生まれた。鰊場の会の公式行事は(1)網おろし(三月中旬)、(2)忍路神社夏祭の輿海上渡御、(3)廊下洗い(秋の宴会)の三つである。三十二人の会員は網元の屋号を白く染め抜いた濃紺の印半纏を着て祭事に参加し、神事のあとの宴会でニシン場の歌を歌う。会で保存に務めているのは「船漕ぎ歌」、「網おこし歌」「木遺り音頭」「沖揚げ音頭」「子はたき音頭」の五曲だ。ことし三浦一郎氏が三代目会長を引き受けた。忍路育ちだが漁業経験はない。さきごろ長年勤めたNTTを定年退職し、いまは小さな畑でサクランボを栽培する。会員の高齢化がどんどん進行するが、自分も、生きているあいだは忍路の文化として鰊場の会を守り続けたいと言う。小樽市は、会が伝えるニシン場の作業歌と儀式を無形民俗文化財に指定しており、そのため年に何回かあちらこちらからお座敷がかかる。会員たちは毎月第四土曜日の午後漁協の集会所に集合して歌を練習する。時々、長老たちと意見の食い違うことがあって困る、と三浦さんは苦笑いした。
「その場、その場の身のこなしが古老たちとずれるのでしょう」
「そう、そう。実際にニシン漁をやった者とそうでない者とでは、どうしても船漕ぎや網起こしの所作に違いが出てくるのです」
儀式と歌は、人間の生活のなかから産まれた。儀式の身ぶりや歌の節回し・拍節には生活行為の刻印が打たれている。かつての漁労行為からあまりかけはなれると、長老たちは我慢ならなくなるのだ。
 ほーらあ-えーえ
 このあみおこせば
 やーあえーい
 ヤートコセー
 ヨーイヤセ
 ホーラヤ
 せんりょうまんりょうの
 かねじゃもの
 よーいとーなあ
 ホーラーエンヤ
 アラアラードオーコイ
 ヨーイトーコ
 ヨーイトーコナー  (木遺り音頭)
いつかまたニシンは帰って来ると希望を持つことは、良いことだ。しかし、生活行為の根を切られてしまった「無形文化財」とは、何なのだろう。それとも人間を未来へ方向付け、勇気付けてくれるものが「文化」なのだろうか。忍路の海は深い藍色で、風が強く磯に砕ける白波は高かった。三浦さん宅を辞して小樽駅ヘバスで帰るあいだ考えたが、私に答えは出なかった。三浦さんがくれた「忍路鰊場の仕事の唄」というパンフレツトの文章の一部分を引用しておく。
〈船上の漁夫たちは、船頭の音頭により力を結集して網を曳き揚げましたが、「木遺り音頭」は鰊場の漁夫たちの、人力を出しつくしたときの祈りの声であり、勝利のかちどきの唄でもあり、聞く人々の心を強い感動でゆさぶります〉 
エゾ交易独占権を獲得したかった
文禄二年(1593)正月二日、朝鮮出兵の軍役に応じて肥前名護屋城へ参陣した蝦夷松前の被官領主蛎崎慶広《かきざきよしひろ》は、本営で指揮をとる豊臣秀吉に謁見した。秀吉は「狄《てき》の千嶋の屋形(つまり異境の領主)がはるばる長途をしのいで馳せ参じたのは、まことにもって神妙である。これで高麗国(朝鮮)をわが掌中におさめること疑いなし」と大喜びした。前年三月、秀吉は朝鮮半島侵略の兵端をひらいた。日本軍は釜山上陸から京城占領、さらに平壌城陥落まで緒戦で快進撃を続けたものの、朝鮮水軍の抵抗で征海権を奪われて補給路を断たれる事態に直面した。さらに明の援軍を得た朝鮮軍の反撃で進撃は不可能になり、戦線は泥沼化し、日本軍の将兵は厳寒のなかで兵糧の欠乏に苦しんでいた。三日後の正月五日には明の李如松を総司令官とする四万の大軍に囲まれて小西行長の軍勢は平壌に敗れ、京城へ敗走している。はやくも敗色濃く苦悩する名護屋の本陣に現われた「狄《てき》の千嶋」の一党の異容が、秀吉の目に吉兆と映ったのは無理なかった。
その二年前、秀吉の奥州征討に際して、蛎崎慶広はエゾ(アイヌ)で編成した毒矢隊を多数引きつれて九戸氏攻撃に参戦し、自分を秀吉に印象付けている。名護屋城で、秀吉は蛎崎氏が諸国から松前に往来して交易する船の商人から「船役」(出入港税)を徴収することを従来通り許可するという主旨の朱印状を慶広に与えた。慶広は目端の利く如才無い人物であったようで、数日後の七日、豊臣政権ナンバー・ツーの実力者である徳川家康にも陣中で謁している。家康が慶広の着ていた「唐衣《からころも》」を欲しがると、ただちにそれを脱いであるじ献上した。唐衣とは明から渡来する錦織で作った山丹人の晴れ着である。「狄の千嶋」の主にふさわしい正装だが、慶広には、その異彩を権力者と周囲の諸大名へ見せびらかしておく必要があった。
秀吉と蛎崎慶広とではスケールの大きさが違うけれども、辺境から出て身を起こし、「中央」へのしあがって政治体制の統一を実現した点で二人は共通している。まるで狙いでもつけたように、二人は無秩序と混沌のなかに登場した。そして人々へ理念を示し、「カリスマ型支配」(ウエーバー)を強行することによって慶広は「エゾ地」の、秀吉は「日本」の秩序化を進めた。彼らは、自分が生きている社会の制度的危機を洞察する覚醒した眼を持つ人間であったが、それと彼らの抱いた熱狂的な現状否定との複合《コンプレックス》を私たちはどう解釈したらよいだろうか。
関ケ原の戦いの起こる前年の慶長四年(1599)十一月、蛎崎慶広は、家康に呼ばれて大阪へおもむき、大阪城で対面した。家康は「北高麗の様体」を慶広に語り、さらに蛎崎氏の系図をたずね、「蝦夷島」(北海道)の状況を慶広と話し合うなどした。〔この時から蛎崎氏は「松前氏」に改姓した〕この年家康は、対馬の宗氏および薩摩の島津氏を通じて、秀吉の死による朝鮮侵賂中止後の明、朝鮮との講和に着手している。彼は明帝国へ通じるもう一つのルートとして韃靼(北方アジア)の地をにらみ、それに隣接すると考えていた「蝦夷島」の地政学的位置を重視した。一方、慶広には彼自身の魂胆があった。先年名護屋の陣中で秀吉へ願い出た「蝦夷島」における夷仁(アイヌ)との交易独占権を、こんどは現物で自分の手ににぎりたかったのである。慶広の宿望は三年後にかなえられる。慶長八年(1603)二月、家康は征夷大将軍に就任した。その年の冬、松前慶広は祝賀の名目で江戸へ参勤するが、年明けて一月二十七目、「蝦夷交易の制三章」と呼ばれている家康の「お墨付き」を賜った。
その内容は次の三つである。
(1) 諸国から松前へ往来して夷仁と交易しようとする者は、志摩守(松前氏)の承諾を得なければならない。無断で夷仁と直接取引をおこなうことは違法行為である。
(2) 志摩守に無断でみだりに松前へ渡海して売買をおこなう者がいたら、ただちに幕府へ訴え出よ。(ただし夷仁は、自分からどこへ往来しようと自由である)
(3) 夷仁に対して海賊行為などの非道を働く者は厳しく罰せられる、先の秀吉朱印状を得て慶広は太閤政権の「直忠臣」となり、蝦夷管領安藤氏の支配下から脱却することができた。東西のアイヌ首長を集めて朱印状を読み聞かせ、自分が中央政権の後ろ盾を持つことを示威した。いままた家康の黒印状によって、松前氏は夷仁との交易独占権を手に入れるとともに、独立大名として徳川幕藩体制のなかに明確に位置付けられたのである。 
秀吉が新しい国家観をもたらした
松前藩を立藩する基礎を築いて実質上の藩祖になった松前慶広と秀吉およぴ家康との政治交渉の劇《ドラマ》は、私たちが「日本史」を考える上に大切な間題点を含んでいる。それは、中世から近世に移る歴史のなかで、どのような「国家観」が作られていったかという問題である。中世まで、日本列島の上に少なくとも三つの「民族」(「人種」ではない)が生きていて、それぞれ地域を分けて棲み分けていた。「蝦夷」と「琉球人」および北の蝦夷からはシャモ、南の琉球人からはヤマトンチュウと呼ばれる「日本人」である。「日本人」のなかから国内統一の覇権者が登場した。そして覇者たちは、大航海時代という「国際化」の潮流のなかで国家統一の事業を進めていかなければならなかった。すでにイエズス会を先遣隊とする西欧列強勢力の波はこの列島の岸に打ち寄せていた。イエズス会宣教師ルイス・フロイスは、それまで日本人が世界の果てと考えていた天竺(インド)のはるか向こうにポルトガルという文明国のあること、そして自分たちがそこからやってきた人間であることを、信長に告げ知らせている。
一方、十六世紀半ばの東アジアは激動期に入った。十五世紀から十六世紀にかけて東アジアの国際関係は、明帝国を中軸に秩序を保っていた。明は「海禁政策」をとって私貿易を禁止したが、「冊封《さくほう》」の関係を結んだ近隣諾国とは朝貢の形式を踏む勘合貿易をおこなった。冊封とは、明皇帝の使いが勅書をたずさえて行き、相手の国王に爵位を授けることである。十六世紀に入ると、明朝の貿易統制に反抗する和冦《わこう》の活動が激しくなり、和冦《わこう》は中国大陸沿海で活躍するばかりでなく、上陸して南京の近くにまで迫った。また北方では諸民族の活動が活発化した。蒙古のアルタン・カンは中国内地へたびたび侵入し、1550年には北京を包囲している。いわゆる「北虜南倭《ほくりょなんわ》」の害にさらされて、「中華世界」を軸とする東アジアの平和秩序が動揺し始めたのである。
このような歴史的状況の中で、秀吉は権カ政治《パワー・ポリティクス》をひっさげて登場した。武力で「天下」を統一するのは信長と同じ考えだが、秀吉の視野のなかには「世界」が取り入れられていた。天正十六年(1588)七月、秀吉は「刀狩令」と同時に「海賊停止令《かいぞくちょうじれい》」を発している。全国の海賊衆を掌握して自分の支配統制下に置くことによって、日本近海はもとより東シナ海、南シナ海までの海上路の平穏を実現しようとしたのである。彼は「唐、南蛮まで、さらには天竺まで」を支配下におさめると豪語した。二度にわたる朝鮮出兵は朝鮮半島の歴史に深手の傷を負わせた。その傷は、いまでも日韓国交関係の中でうづいている。いまとなっては、過去の独裁者の妄想に発した侵略行為だと言うしかないが、しかし秀吉の朝鮮出兵戦賂が彼の国家観の深所から生まれていたことは否定できない。「世界の中の日本」という新しい国家観が、彼によってもたらされたのである。
徳川幕府は国内に幕藩体制を敷き、国外に向けて「鎖国」体制をとることによって「国家」の形を整えていった。「蝦夷」も「琉球」も、「日本」という国家の中へ取り入れたのである。「鎖国」というのは幕末から使われ出した言葉で、幕府は完全封鎖の孤立国を作ろうとしたのではない。近年、近世史研究者のあいだで「鎖国」の見直しに力が注がれており、そのなかから荒野泰典助教授(立教大学)は、徳川幕府は外国との交易ルートとして「四つの口」を開いており、それらは幕藩体制の「軍役」の論理で統一的に編成されていたという説を提出している。「四つの口」というのは(1)長崎→明・清、オランダ、(2)対馬→朝鮮、(3)琉球→明・清、(4)松前→蝦夷地である。荒野助教授によると、徳川慕府は私的な海外渡航と貿易を禁止する海禁政策をとる一方で、国家権カが意図するような貿易を「四つの口」を通しておこなった。長崎は幕府が直轄し、対馬は宗氏に、琉球は畠津氏に統制管理を委任した。また松前ははじめ松前氏の所領にしたが、後に一時期のあいだ幕府直轄領に切り換えている。「四つの口」はいずれも「日本」の領土であり、江戸時代の外国貿易の窓口である。だが、いったん外交関係が紛糾した場合には、幕府は、これらを一つの「暖衡装置」として活用することで事態をしのいだ。ここに一つの「国家観」をうかがうことができる。秀吉および家康とその後継者たちが作り上げた「国家観」が、その後どのような変遷をたどったかを現代に生きる私たちはよく考えなければならない。歴史は繰り返さないが、「国民性」という独特の発想の型は歴史の中で繰り返し頭をもたげるだろうから。
【注】たとえば平成七年(1995)から大きな問題となって論議されている、日米安保体制に基く沖縄米軍基地返還問題を考える時、右の「四つの口」論を想起する必要がある。 
「蝦夷」のなかから「エゾ(アイヌ)」があぶり出された
ここで少し回り道になるが、「蝦夷」という言葉の意味を考えることにしよう。「蝦夷」は(1)「エミシまたはエビス」とも(2)「エゾ」とも読む。二つの意味は微妙に重なり合い、また微妙にずれるので少し厄介である。喜田貞吉、金田一京助いらい議論の多い箇所だが、ここでは以下のように整理しておく。
日本の歴史に「蝦夷」という言葉は古くから現われる。『日本書紀』に遣唐使が「みちのくの蝦夷男女二人」を連れて行き、首都長安で唐の天子である高宗にご覧に入れたという記述がある。多難な海路をはるばる長安まで連れていったのは、髪を小槌の形に結び、あごひげを四尺ほど延ばし、体に入れ墨をほどこした「蝦夷」をただ見せ物にするためではない。わが朝廷が周辺の野蛮な民族まで服属させていることを誇示するためであっただろう。西暦六五九年の出来事だった。この頃、大化の改新(西暦645)から斎明紀(655〜661)にかけて「日本書紀」に阿部臣、阿部引田臣比羅夫《あべのひらふ》、阿部引田臣などと書き分けられている武将・阿倍比羅夫が断続的に蝦夷征討をおこなっている。
つぎに「蝦夷」が現われるのは八世紀の終りである。平安京へ遷都された延暦十三年(794)、大伴乙麻呂は初代征夷大将軍として蝦夷を討つが、この時副将軍に任命された坂上田村麻呂は征討戦に大功を立て、延暦十六年には自らが征夷大将軍に任ぜられ、同二十年、蝦夷に壊滅的な打撃を与えて胆沢城を築き、奥蝦夷を平定した。
征夷大将軍は「征夷」を目的として朝廷が武将に任命する官職名で、天皇から委任された非常の大権を帯びる。田村麻呂が武名を上げたので有名になったが、奥羽がほぼ鎮圧された九世紀初めに廃絶された。ところが、その後、三百数十年たって源(木曽)義仲がこの職に任ぜられた。そしてその木曽義仲を討ち、平氏一族を滅ぼして東国に武士政権を立てた源頼朝は、自ら奥州へ発向して源義経を衣川に殺し、義経をかくまった平泉の藤原泰衡一族を滅ぼした。翌年上洛した頼朝は征夷大将軍の官職を求めるが、後白河法皇の反対でかなえられなかった。法皇の崩御を待ち、建久三年(1192)、源頼朝は征夷大将軍に任ぜられて、鎌倉に幕府を開く。また、近世覇権者の織田信長と羽柴秀吉は征夷大将軍の位を望んだが、かなえられず、右大臣あるいは太政大臣の公家の位を得た。近世封建体制を完成させた徳川家康は武士の伝統を踏まえて征夷大将軍の称号を朝廷へ要求した。日本の歴史に見え隠れする「蝦夷」は、いつも「朝威」と結びつけられていた。徳川幕府の崩壊寸前に国体論がやかましくなった時には、「尊王嬢夷」というスローガンが跳び出している。
「蝦夷」は夷、秋、毛人などとも書きあらわす。訓読みではエビスあるいはエミシという。エビスやエミシは特定の人種や部族を指す言葉ではなく、畿内に成立した中央政権から見て、天皇を「まつろう」ことのない辺境、異境の民のことである。日本に同化しない異民族として、その未開性と野蛮性が強調されたのである。島や浦辺に住む海人たちをエビスと呼ぶことがあったし、中世には武士をエビスといい、京都の貴族たちは鎌倉武士を「あずまえびす」とか「荒えびす」と称した。以上に述べた「蝦夷」観には、中国の古代に産まれた「華夷思想」が反映している。自国と周囲の異民族を厳しく区別して自国を「華」として尊び、周辺異民族を「夷」として軽蔑する思想である。
さて、もう一つの言葉の「エゾ」が何を指すか。緒論をまず言うと、「エゾ」とは「アイヌ」に他ならない。日本近世史研究者の海保嶺夫氏(北海道開拓記念館学芸員)によると、「エゾは確実なところ十二世紀中頃から史料に登場し、従来より、アイヌ民族のみをさす」とされている。エゾは古くは樺太(サハリン)南部、千島、北海道および本州奥羽地方の広大な範囲に数多くの部族杜会をつくって生活していた。彼らは間宮海峡や日本海を渡って大陸と往来し、北アジアの諸民族と交渉を持った。しかし彼らを日本列島における北方民族として一括することはできない。一つの共通の歴史を担ってきたと言えないからである。私は北海道の道央から道南かけての地帯に居住してきたエゾだけを見つめることにする。つぎにアイヌの歴史を眺める時、「日本史」で用いる原始時代・古代・中世・近世・近代(現代)という時代区分のモノサシを使うことはできない。もし土器を使用した時代を原始時代に入れるのなら、アイヌの社会は十三世紀頃まで原始時代が続いていた。北海道在住の文化人類学者、河野本道氏はアイヌ史の「通史」を試み、時代区分の基礎固めに主眼を置いて『アイヌ史・概説』(北海道出版企両センター、一九九六)を著した。河野氏は、アイヌ史に関して初めて次のような時代区分を設定している。
(1) 前近代先古層期
(2) 前近代古層期
(3) 前近代変容期
(4) 近現代
前近代先古層期および前近代古層期は人類学と考古学がアプローチする時代だが、約二万数千年前に始まり十五世紀に終る。つぎの前近代変容期は、河野氏によると、室町時代から江戸時代の終りまでである。この時期からアイヌは「有史時代」に入る。それは「蝦夷」と概括されていた異境人のなかから「エゾ(アイヌ)」という固有の民族があぶり出されて、近世期に入ると北海道のなかに「エゾ地」として居住地域を限定され、徳川幕藩体制のなかへ編入されていく変容の歴史であった。それは権力ヘの隷従を強いられる苦難の歴史だったが、同時に、アイヌが自らの「民族」を自覚し、アイヌ杜会を形成していく歴史でもあった。最後の近現代は明治以降現在までの時期を指す。これを、私は、アイヌにとって「第二の変容期」と呼ぶことができると考える。明治新政府は明治二年(1869)に「開妬使」を設置して北海道経営を開始した。また明治三十二年(1899)には「北海道旧土人保護法」を制定してアイヌを同化する政策をとった。「開拓」と「土人保護」の論理と政策はアイヌから狩猟・漁撈の白由を奪い、農耕民への転換を強いるものであった。生産基盤を失ったアイヌは、しだいに辺地へおいやられ、拡散と孤立の二つの道を歩きながら、民族としてのアイデンティティを失うに至る。さて、私はアイヌの歴史を「前近代変容期」だけに限定して考えることにする。この「変容」のなかに固有の「アイヌ文化」をとらえることができるし、また、日本の「近代国家」の萌芽がひそんでいるとも考えるからだ。 
「和人」と先住民族とで構成される地域杜会
かって安藤氏という豪族が奥州地方の津軽半島、下北半島、男鹿半島各地に勢力をふるっていた。宗家は津軽安藤氏で、下国家《しものくにけ》と称せられた。津軽安藤氏は、はじめ藤崎(北津軽郡)を根拠にしたが、後に岩木川河口の土三湊《とさみなと》(十三湖)へ本拠を移した。安藤氏の根拠地はいずれも「湊」である。なかでも十三湊は鎌倉期に三津七湊の一つに数えられ、「夷船、京船群集して、艦《ろ》先を並べ、舳先《へさき》を調へ、湊は市を成す」とうたわれたように、日本海沿岸諸港との交易活動を活発におこなう重要港であった。
安藤氏は古くからの土豪だが農耕民ではない。自らも交易をおこなう商人的性格の強い海の武士団であった。頼朝の奥州征伐に従った功によって津軽守護職ならびに蝦夷地管領に任ぜられ、また執権北条義時から蝦夷島管領を命じられている。これが安藤氏の権カの根拠である。幕府の蝦夷成敗権を代行する「東夷の押《おさえ》」として北奥の地と「夷ヶ島《えぞがしま》」を統括的に支配した。北条氏滅亡後に歴史は南北朝の内乱期へなだれこむが、在地勢カとしての安藤氏の地位がゆらぐことはなかった。かえって下国殿と呼ばれる宗家を中心に一族の結束を固めたのである。
しかし安藤氏にも危機はやってきた。糖部郡南部を根拠にして、しだいに勢力を広げてきた南部氏が南北朝合体後の十五世紀に入ると動きが活発になり、秋田と津軽へ侵攻を開始した。永享四年(1432)またはそれ以前に、下国家の当主安藤盛季は南部義政に攻め立てられ、遂に十三湊を放棄して小泊へのがれ、さらに「夷ヶ島」に渡ったという。
中世の「日本人」は、北海道に(1)「日の本《ひのもと》」、(2)「唐子《からこ》」、(3)「渡党《わたりとう》」の三種類のエゾが群居していたと観察している。研究者の諸家が引用する『諏訪大明神絵詞《すわだいみょうじんえことば》』という延文元年(1356)に編集された書物に出てくる言葉で、エゾの乱を制圧するために参戦した鎌倉武士の報告文である。それによると日の本、唐子の二類は外国につながっていて、風貌は夜叉のようであり、禽獣魚肉を食って言葉はまったく通じない。他方、渡党は和国の人間に似通っていて、言葉はだいたい通じる。ただし髪長く、ヒゲ面で体毛が濃い、というのである。渡党エゾは源頼朝の奥州藤原氏征討の際に津軽から北海道へ逃げ込んだ者や源実朝将軍の代に北海道へ追放された者の子孫だと伝えられる。彼らは先住民と同じ生活様式を採ることによって、「アイヌ化」したのである。これら三種類のエゾを「三つの勢力」と呼ぶのはためらわれる。それぞれの勢カ圏がはっきりしないからである。『諏訪大明神絵詞』にあるように、大海の中央にある蝦夷ヵ千島(北海道)に日の本・唐子・渡党の三類が「群居」していたと受け取るのが自然であろう。 
植民集団である渡党は、渡島半島南西岸の船の出入りに便利な河口域に居住地を求め、アイヌとの交易をおこなうかたわら自分たちも狩猟や漁撈に従事して、交易と自給の二つで生活していた。渡党のなかから、当然、階級が発生し、政治的支配体制が形成される。十五世紀中葉には、東は函館東部の志苔《しのり》から西は上ノ国町にいたる沿岸に十二の館《たて》があった。館主は「蝦夷管領」安藤氏の血縁者か臣下の関係にある者たちであった。彼らは安藤氏の被官として「湊」を管轄し、館を拠点にする交易活動を支配したのである。
渡党アイヌ、つまり「和人」の末裔たちは沿岸部アイヌと同じ生活領域を共有していた。近年発掘調査の続けられている上ノ国町の勝山館跡からは、館主の高度な生活水準を象徴する陶磁器や旺盛な生産活動を伝える鍛冶関連遺物と金属製品の他に、アシカ、オットセイ、トド、クジラの海獣骨と海獣骨を素材とするや鏃《やじり》や箝《やす》などの骨角器が出土している。松崎水穂氏(上之国町教育委員会)によると、館が「和人」と「夷ヶ島」在来の民族の両者で構成される地域社会《コミュニティ》であったことが推定できるのである。 
和人勢力の統制強化とエゾの抗争
安藤氏はたびたび津軽奪回を図ったが、いずれも失敗した。しかし盛季から三代後の政季になって、康正二年(1456)、湊安藤氏が同族のよしみで支援をして政季を秋田の小鹿島(男鹿半島)へ招き、さらに河北部を政季に渡した。その後安藤政季は河北郡を足場に下国安藤氏の再興を図る。その子忠季は出羽檜山(秋田県)に堀内城を築き、檜山の屋形として繁栄した。これより檜山安藤氏と称して、代々夷ヶ島を領有文配したのである。
四半世紀のあいだ安藤宗家が松前に現地支配者として駐留したことは、その後の夷ヶ島の政治史に大きな影響を与えた。安藤政季は松前を離れて小鹿島に渡る時、「下之国」を弟の下国家政に、「松前」を下国定季に、「上之国」を蛎崎季繁に預けてそれぞれ守護職とした。安藤氏と十二の館の館主との政治的関係を「蝦夷管領─守護職─館主」という支配体制に整えたのである。これは夷ヶ島の政治的緊張を高めたにちがいない。三つの守護職の設定は、とりもなおさず箱館(函館)、大館(松前)、上ノ国の三拠点にエゾ交易の商品流通を集約することになるからである。館主らの経済基盤はエゾと日本海沿岸諸港を結ぶ中継貿易にあった。館主としては近隣エゾとの交易関係を深めるとともに、他地域のコタン(エゾ集落)へも手をのばして自分の交易圏を拡大しようと努めていたので、館主間相互の関係が孕んでいた矛盾は安藤氏の統制強化によって顕在化する。
他方、集権化はエゾ(アイヌ)の側にも矛盾を深化させた。「夷船、京船群集して艦《ろ》先を並べ」と在るように、アイヌは、舟底に枠板をつづり合わせた構造船に帆を立てた外洋帆船で海上を縦横にかけめぐり、本州と直接に交易する活動をくりひろげていた。アィヌは、漁撈と狩猟を主要な生産活動にするが、海上交通を駆使して、目本列島の北部を含む北アジアの広大な領域で異民族間交易をおこなう「交易民族」である。食料の自給を図る以外は、交易の振興と獣皮など交易品の生産活動をおこなうことがアイヌの基本的な生活様式であった。
自由交易を生存の基本条件とするアイヌにとって、安藤氏を枢軸にする和人勢カの緒集と彼らによる支配体制の形成は、自分たちの自由を大きく拘束するものである。とくに本州から流入する大量の鉄器類や金属製品は、アイヌの共同体首長の権力強化を助けて彼らの成長をうながしたので、首長らは和人の直接的な支配と収奪にさらされることには我慢できなかった。和人勢力の総帥である安藤政季が松前を離れた翌年の長禄元年(1457)五月、東部エゾの首長コシャマインの率いる武装集団は、まず志苔館と箱館を攻撃、さらに渡島半島南岸にある和人の館を襲撃して次々に攻め落とした。攻撃をまぬがれたのは西の端に位置した茂別館(下国家政)と花沢館(蛎崎季繁)の二館だけであった。軍事力はアイヌが圧倒的に優勢であり、和人兵力をことごとく海へ追い落とす勢いだった。この時、和人軍の総指揮官になって軍略を発揮し、めざましい活躍をしたのが、蛎崎氏の客将であった武田信広である。信広はコシャマイン父子を射殺し、数多のアイヌを斬って蜂起を鎮圧した。この軍功をたたえて、上ノ国の館主蛎崎季繁は、自分が嗣子を持たなかったので、信広へ家督を譲った。また他の館主も臣従を示したので、武田(蛎崎)信広は和人のなかで現地最高司令官となった。アイヌと和人との最初の大規模な「民族戦争」が蛎崎氏を台頭させ、和人側に統一政権を成立させる端緒をつくったのである。その後、「下之国」「松前」の二つの館主がふたたびアイヌの攻撃を受けて滅亡するや、信広の子蛎崎光広は間隙を突いて「上之国」から大館(松前)へ進出した。三人の守護職のうち二人が亡んだので檜山安藤氏へ使者をつかわして請願し、「松前之守護職」の承認を得ることに成功した。
しかし夷ヶ島が平定されたのではない。コシャマインの戦争のあと約九十年のあいだ、大きいものだけで前後十回エゾは蜂起して和人と抗争を繰り広げている。天文十九年(1550)六月、檜山安藤家の当主安藤舜季は長年のアイヌとの争いを終結させるために松前に渡った。舜季立ち会いのもとに渡党の首領である蛎崎季広は西方アイヌ(唐子)の有力首長ハシタインと東方アイヌ(日の本)の有力首長チコモタインの二人を招いて協議をし、次のような取り決めを締んだ。
(1) 渡島半島南西岸の知内から天ノ河(上ノ国町)までを渡党居住地として承認すること。
(2) ハシタインを西夷の「尹」(=長官)とし、チコモタインを東夷の「尹」となすこと
(3) 蛎崎氏は諸国商船から徴収した船役の一部を「夷役」として東と西のアイヌの「尹」へ納めること
(4) 松前へ往来するアイヌの商船は、知内または天ノ河を通過する際にいったん帆を下げて表敬すること
この「通商航海条約」の内容から推して、一世紀になんなんとするアイヌの和人に対する執拗な攻撃の主因が自由交易権の確保にあったことが分かる。圧政者である和人の暴虐、搾敢と被支配者であるエゾの絶望的な反抗というような図式はあてはまらない。蛎崎季広、ハシタイン、チコモタイン三者の高度の政治判断によって長い戦乱に終止符が打たれ、交易の航行安全が確保された。また蛎崎氏は交易収益の一部をアイヌに与えるという譲歩をすることにより、ようやく「夷ケ島」へ橋頭堡《きょうとうほ》を築くことができたのである。東は知内、西は上ノ国を境にして渡党エゾの占有地を設定したことは、近世における植民地経営の根幹となる「和人地」の土台がつくられたことを意味する。
蛎崎氏の権力基盤は、政治的にも軍事的にも不安定であった。武田信広以降、第二世光広、三世義広、四世季広と代々エゾ地統一政権者として権力強化に努めたが、蛎崎氏内部に争いがあり、またそれに乗じた家臣の謀反があった。一方、宗家の檜山安藤氏に対してたびたび軍役奉公を勧めなければならなかった。このほか安藤氏一族と婚姻関係を結んで関係強化を図ったり、武田信広が出た若狭の武田氏へ使者を派遣して交誼を求めるなどして外交に心を砕いている。五世当主蛎崎慶広は秀吉の懐へとびこんで臣従を示し、また関ケ原合戦の前年に家康に服従した。二つとも、のるかそるかの「大博打《おおばくち》」だった。二人の近世権力者の国家経営政策のなかに「夷ヶ島」がしっかりした像を結んでいたので、慶広の戦賂は成功した。文禄二年(1593)三月二十八日、慶広が秀吉から下賜された朱印状を携えて松前に帰還した時、老父季広は朱印状へ頭を垂れ、手を合わせた。貴殿はいまや日本国の大将軍太閤秀吉公の直忠臣となった。これで家運はいやましに長久、子孫繁栄の基いが築かれたと、季広は子に向かって慇懃に三礼している。
蛎崎氏が夷ヶ島の一角に頭角を現わして松前藩を立藩するにいたるまでの過程は、まぎれもなく一つの民族運動であった。蛎崎氏は「渡党」を統一し、「日の本」「唐子」と講和を結び、松前半島の沿岸に自分たちの居住地域を設定して、そこに集住した。つぎに蝦夷管領安藤氏の支配下から脱却して松前藩を興し、自らの民族的性格を明確にした。しかし、東西の他のアイヌから加えられる圧迫に対抗して渡党アイヌの自立を守るには、秀吉や家康の庇護下に入って中央政権と直接結びつく必要があった。これが蛎崎氏(松前氏)にとって、ぎりぎりの選択であった。
松前藩が成立して、日の本、唐子、渡党が「群居」していた夷ヶ島の領域は大きく再編成される。エゾ交易の独占が松前藩の存立基盤であったから、それを確保する具体的な措置をほどこさなければならなかったのである。
(1) 夷ヶ島を、和人(渡党)が屠住する「和人地」と、エゾ(日の本、唐子)が屠住する「エゾ地」の二つに明確に区分した。東西の境界に番所を置いて和人とアイヌの往来を検問し、両者が直接交易をおこなうことをきびしく取り締まった。(和人地は近世初期には東は亀岡から西は熊石までと定められたが、時代を追って拡張され、幕末期には渡島半島のほぼ全域が和人地になった)
(2) 「エゾ地」において、松前藩主および家臣らの「商場」が設定され、エゾは商場で藩主もしくは特定の家臣と交易するよう強制された。
(3) 本州から渡来する交易船は、当初は、松前一港に出入港を限定され、藩役人は各船から船役を徴収した。(後に交易が拡大して船の往来が輻輳するようになると、松前のほかに江差と箱館が指定港に追加された)
松前藩のエゾ交易独占体制は寛永期(1624〜42)にほぼ完成する。これによって、北海道に居住するアイヌは奥州アイヌと分断され、北海道に封じ込められた。従来おこなっていた奥州各地との交易関係は遮断されたのである。右の(1)〜(3)項を実行することで、家康黒印状に但書きされていたエゾの自由航行権は事実上空文と化した。「和人地」は「日本国」の植民地であり、松前はその総督府である。アイヌの眼に松前藩主は和人の侵略者と映ったにちがいない。だが徳川幕閣や諸大名から、松前藩主は「蝦夷大王」であると特別の目で見られていた。松前藩の二律背反的な性格は、夷ヶ島の「前近代変容期」の歴史を通して、主調低音として鳴り続けている。 
自然に働きかけ、自然を利用し、自然と「共生」する文化
二つの文化の衝突を、それによって生活権を侵害された者の側から眺めることにしよう。古来、アイヌは漁撈、狩猟、探集を営む民族だが、毎年河を上るサケやマスを主要な食料源にしたので河川漁への依存度が高く、河口域や中流域の河川に沿って定住性の高いコタン(集落)を形成した。コタンの規模は数戸から十数戸までさまざまである。コタンには集落のなかで相互扶功を図ったり、紛争を調停したり、また祭事をつかさどる指導者が存在したが、この人物をコタンコルクルと呼んだ。一つの河川系にいくつものコタンが作られた。それらは緩やかに結ばれた河川系生活共同体を形成し、そこに「大将」という指導者が生まれた。それぞれのコタンはイオル(漁撈圏・狩猟圏)を持つ。イオルは山脈、丘陵、渓谷などの地形によって境界が定められ、相互不可侵のルールが成立していた。イオルに関して紛争が生じた時は、コタンコルクルと「大将」が調停者として働いた。
アイヌは、様々な形態に仮装して現われるカムイ(神)と共に生きるという、汎神論的世界に生きる民族であった。クマやシカ、サケ、マスなどはすべて神の化身である。一年のあいだにクマを迎える儀式があり、クマを送る儀式があった。サケ儀礼については遡上の直前と初漁、終漁の三回にわたって祭りをした。このほかシカ、マス、メカジキなども儀礼の対象になった。迎える儀式と送る儀式をくらべると、より重要なのは送る儀式のイヨマンテ(物・送る)である。イヨマンテのなかではへペレ(仔グマ)を屠ってカムイシモリ(神の国)へ送る「熊祭り」が最も重要であった。
狩猟で殺したクマに対して儀礼をおこなう風習はユーラシアから北米にかけての狩猟民族のあいだに広く分布していたが、アイヌは、山捕りのクマだけではなく、自分たちが飼育した子グマに対して儀礼をおこなう独特の習慣を持っていた。山で捕らえた子グマをコタンに設けた木柵の囲いのなかで大事に育てた。三歳になると、それ以上育つと手に負えなくなるので、殺して熊祭りに供する。冬至が来るとクマを広場へ引き出し、首に縄をかけて中央の柱へしばる。四方から矢を射掛け、弱ったところを丸太で首を締め、四、五人がかかって圧し殺す。特別に設置したカムイの座に死んだクマをうつぶせにすると、その前に座って人々は祝詞をあげ、酒杯をかわした。解体したクマの頭骨は、コタンの裏手の所定の場所にあるヌサ(送り場)の棚にかかげ、イナウ(木幣)を祭り、その他のイコロ(宝物)を供えた。つまり、クマをはじめ人間が利用するすべての鳥獣魚類は、天上界からとどけられる神の賜物である。アイヌは、それらを屠り、肉を食べる時に神に感謝を捧げるが、食べ残した肉や不用の骨と臓物はヌサに祭って天上界へ送り返す。この神の恩恵に対する人間の報告と感謝の儀式を、アイヌは、イヨマンテ(送る儀式)と呼んだ。
先史人類学の渡辺仁教授は、アイヌ文化の核心をなすものとして「熊祭り文化複合体」というモデルを構想した。この仮説に従って、アイヌの民族特性を考えて見よう。熊祭りは、人間が神との互酬性を確かめる宗教的側面とともに、共同体の成長をうながす経済的側面と共同体の安定を確保する杜会的側面をあわせ持つ。伝統的にアイヌはクマを特別視した。クマの肉はシカ、ウサギ、キヅネ、タヌキの肉とちがって貴重品扱いされ、その食肉管理は男性の務めであった。クマ猟は危険をともなう集団猟である。トリカブトの毒矢を装填した仕掛け弓で獲るが、クマを仕留める技術は専門化していて、クマ猟師はコタンのなかで信望が厚く、熊祭りでは彼らのために特別の席が設けられた。クマの効用は、その食肉価値もさることながら、重要なのは毛皮である。クマ皮は和人との交易品として際立った経済価値を発揮した。
アイヌが和人との交易で入手するものには、食料品、衣料品の生活物資のほかに鉄器類、漆器類があった。鉄器類や漆器類は斧、マキリのような生産の道具や目用品も含まれるが、基本的に重要なのは、鉄器は宝物としての刀剣類に、また漆器は熊祭りに欠かすことのできぬ祭具として用いられたことである。これらの「非生活物資」はアイヌにとって食料品、衣料品と同等、いや、それ以上に貴重な「財」として取り扱われた。イコロ(宝物)は社会的威信と富の象徴である。それは有力者の手元に蓄積されて彼の指導的立場を強化し、また、コタンの経済成長をうながす「開発要因」として働いたのである。
祭りは、一般に、人間が平等性を回復して共同体としての連帯を確かめ合う社会安定機能を持つ。熊祭りでは、蓄積された富の「再分配」がおこなわれた。そこでは多数のイコロがクマヘの供物として放出され、貴重な食料品と酒が大量に、しかも一度に消費された。ここには文化人類学者たちがオセアニア地域の諸文化で発掘した「ポトラッチ」の風習と同じ生活原理が働いている。ポトラッチというのは、祭りの日に部族の酋長が他の部族の酋長と贈り物を交換することを繰り返して、たがいに気前の良さを競う杜会的制度である。熊祭りはアイヌの「経済」と「文化」を一つに統合する「杜会的装置」であった。呪術的行為と経済的行為、社会的行為の三要素が融け合って、一つの全体を構成する。現代の高度に発達した産業社会で見えにくくなっている生活原理だが、がんらい人間は人為的な「装置」を発明して、それを媒介として自然に働きかけ、自然を利用し、自然と「共生」する関係を築いてきたのである。 
自由と尊厳を侵されたとき、怒り狂って戦う
近世に入ってアイヌは本州産品への依存度をしだいに強めていった。とくに鉄器を中心とする金属器の流入は祭具、武器、生産道具を充実させたので狩猟生産活動を活溌にし、「大将」を首長にする河川系共同体の生産基盤の確立を助けた。さらに固有の文化が形成されて民族としての自覚を深めたことは共同体の政治的成長をうながした。海保嶺夫氏によると、寛文年間(1661〜72)には共通の生産形態を持つ複数の河川系共同体が結集して地域連合体が産れ、それぞれに「惣大将」と呼ぶ統一的指導者が現われている。アイヌを簡単に狩猟・漁撈民族と呼ぶことはできない。広大な北海道の地で彼らは採集・狩猟・漁撈・原始的農耕および交易のすべてを生業として複合的に営んでいたので、地域によって独自の生産活動を自分たちの主業としたのである。五つの地域連合体が確認されている。それは「余市アイヌ」(惣大将・八郎右衛門)、「石狩アイヌ」(ハウカセ)、「メナシクル」(シャクシャイン)、「シュムクル」(オニビシ)、「内浦アイヌ」(アイコウイン)であった。石狩アイヌとメナシクルは大河川の漁撈、内浦アイヌは内浦湾の漁撈、余市アイヌは山丹交易、シュムクルは狩猟と若干の農業生産を共通基盤にして結合していた。
一方、松前藩は「商場」における交易権を家臣に与えて「知行」とするとともに、藩主の財政を強化する目的で砂金採取の直接経営と諸大名の需要が多い鷹を捕獲する鷹場所の設置を始めた。商場での交易では、松前藩側は河川系共同体の首長である「大将」を直接の交渉相手にするので、「惣大将」の政治的立場を脅かす。また砂金採取と鷹狩りはアイヌの漁撈権、狩猟権を保証しているイオルヘの侵害行為となった。イオルとは「それの中」という意味でエゾの生活圏を指すが、人間が居住している「アイヌコタン」(人間集落)と目に見えない神と動物神・植物神が住まう「カムイコタン」(神の集落)の二つで構成される。イオルはアイヌにとって、生産基盤であるとともに自分たちの生存と自由を守ってくれる小宇宙《ミクロコスモス》であった。
人間は、自分たちの生活が危うくなった時はためらわず何者かに従属する関係に入ることを選ぶが、自分たちの自由と尊厳が脅やかされた時には怒り狂って戦うものである。幕藩体制の下で「エゾ地」にしばりつけられ、和人経済への従属性を強めながら和人によって「イオル」を蚕食されるという自己矛層を激化させて、ついに、アイヌは松前藩に反逆した。江戸期にアイヌの蜂起は三度数えられるが、このうち最も規模が大きく、しかも最も組織立った闘争が、日高、十勝地方を勢力圏にするメナシクルの惣大将シャクシャインによる戦いである。争いの始まりはアイヌ同士のイオルをめぐる対立と抗争だったが、松前藩が対立する二つの部族の片方を煽動したことが事態をこじらせてしまい、アイヌが抱いていた怒りに火を付けて、矛先を松前藩に向けさせた。寛文九年《1669》六月、立ち上がったアイヌは二千余人というから、当時約二万人のアイヌ人口の一割近くが戦いに加わったのである。各地で交易船十九隻が襲撃され、和人二百数十人が殺害された。アイヌ蜂起の報せを聞いた幕府は、ただちに旗本松前泰広を派遣して現地で総指揮をとらせるとともに、津軽、秋田、南部三藩に軍事動員を命じて松前藩の後方支援に当らせた。幕府にとって島原の乱いらいの大患であり、事態を重視したのである。七月、シャクシャインの本隊は松前へ攻め上がろうとエトモ(室蘭)に達し、八月にはクンヌイ(国縫)で松前藩の先鋒隊と対峙した。クンヌイでは、遅れて到着した松前本隊が加わって約二十日間にわたり最大の会戦がくりひろげられた。アイヌ軍は敗れて後退するが、幕府の命によって松前軍は東エゾ地へ追撃し、十月、シベチャリ(静内)でアイヌ軍を降伏させ、シヤクシャイン以下の首長層をだまし討ち同然に殺害した。
シャクシャインの敗北はアイヌの民族的挫折を意味した。この後、松前藩に対するアイヌの組織的な反抗は跡を絶つ。幕府はエゾ(アイヌ)を和人から厳しく差別するとともに支配を強化した。コタンの首長を「乙名《おとな》」と呼び替えて傀儡《かいらい》化し、幕藩体捌のなかへ取り込んでいったのである。イオルを侵犯されたアイヌは民族としての誇りをしだいに失ない、大いなる零落の道をたどった。異民族に対する抜き難い蔑規が弱者を作り出し、弱者の存在すること自体が支配者を苛立たせ、邪悪な行為へと駆り立てるのである。最上徳内や松浦武四郎のような幕末の蝦夷探検家の「旅行記」は、場所請負人の手下たちがアイヌに対して暴行と凌辱の限りを尽くしたことを記録している。  
「日本列島通史」が構想されなくてはならない
どこに救いと希望を見いだしたらよいだろうか。熊祭り(イオマンテ)の儀式に見られるように、アイヌは、知恵深くて美しい宇宙観を持ち、気概と謙遜を持つ民族である。また、口承の大叙事詩「ユーカラ」を作り上げた。詩は民族のなかから産まれるのである。古来、詩をはぐくまなかった民族はいない。これらのことは、現代の産業杜会のなかで、私たちが人間への信頼を回復するための貴重なよりどころになるだろう。
日本政府は、明治時代から現代まで「アイヌ同化政策」を百年近く統けた。そのなかで個人の多くは「内地人」と結婚することでアイヌ杜会から離脱していった。とくに太平洋戦争(第二次世界大戦)は、アイヌに「目本国民」の意識を植え付ける上に大きな働きをした。現在、ウタリ(アイヌのこと)およびその家族で構成される(社)北海道ウタリ協会に参加している会員は約四千二百世帯であるが、札幌支部の会員約三百世帯について見ると、夫婦の片方が「和人」である世帯が九十数パーセントに達していると推定される。もう「アイヌ」と「和人」とを形質的にも、社会的にも、文化的にも二分することは難しい。
しかし人間の頭のなかから「民族」の記憶と意識をぬぐい去ることはできない。昭和五十九年(一九八四)に北海道ウタリ協会は「アイヌ新法(案)」を発表し、それ以来制定促進運動を進めた。日本国のなかに「少数民族」あるいは「先住民族」としてアイヌの存在することを国家が認め、その固有文化の存続を国家が保証することを要求する、というのがこの運動の主旨である。これは世界歴史の潮流のなかに現われている一つの水脈、エスノセントリズム(自民族中心主義)に属する動きの一つであるだろう。運動は新しいタイプの「アイヌ民族」を創造しようとしているのである。
約二百年の歴史を持つ世界の「近代国家《ネイションステイツ》」は、二度の世界大戦を体験し、米ソ二大強国の冷戦対立と対立の崩壊を体験して、いま歴史の模索を続けている。人間と国家との関係に鋭い疑問が投げ掛けられているのだ。「民族」は新しい装いを身に着けて登場し、これからの地球社会に「熱い」問題を次々に持ち出すにちがいない。この観点から、平成九年五月に国会で成立した「アイヌ文化振興法(アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及ぴ啓発に関する法律)」に意義を認めることができる。しかし、「アイヌ」だけを取り上げて立法化によるアイデンティティ回復を図ることは、「旧土人法」と同様に差別と支配を再生産したり、あるいは特権層をつくり出す恐れがある。少し誇大な発想になるが、「アイヌ文化」を啓蒙普及する事業と並行して「アイヌ」「琉球人」および「日本人」の三者を総合する「日本列島通史」とも呼ぶべき新たな歴史観が構想されなくてはならない。 
飢餓が海商活動を活性化した
昔、「北前船《きたまえぶね》」と呼ぶ回船が大阪や兵庫の湊に入った。大阪や瀬戸内海から見て日本海側を「北前」と呼んだのである。千石積みの弁才船で、船の長さにくらべて船の幅が広く、水切りと凌波性を良くするために一本水押《いっぽんみよし》(船首材)を大きく反《そ》り返らせていたのが特徴で、ドングリ船とも呼ばれた。北前船はエゾ地の松前、江差、函館から身欠きニシン、ニシン、〆粕《しめかす》、カズノ子、干しタラ、コンブなどの海産物を運んできた。これを上荷《のぼりに》という。大阪、兵庫からエゾ地へ向けて積み出すものを下荷《くだりに》といい、米、木綿、酒、醤油、砂糖のほかにさまざまな日用品を積み合わせた。北前船は徳島、多度津、下津井、竹原、下関など瀬戸内海の港々と境、敦賀、福浦、小木、新潟など日本海沿岸の主要港に寄港した。江戸時代中期以降、明治時代の半ばまで北前船はエゾ地と大阪を結ぶ太い物流パイプとして活躍した。
北前船は一年に一航海した。日本海は、春と夏のあいだは本州の背梁山脈を越えて吹きおろす「地の風」が沖から寄せるうねりを押さえ付けるので晴朗で凪《な》いだ日が多いけれども、九月の秋口から冬を通して翌春三月までは大陸から吹き出す北西季節風がうねりを増幅して大時化になる。冬の航海はとうてい無理だった。
北前船の主要な根拠地は越前(福井県)、加賀(石川県)、越中(宮山県)である。年明けて春祭りをすませると、船頭はじめ船乗り衆はそろって村を立つ。四、五日から一週間かかって大阪へ着くと、船の囲みを解いて傷んだ部分の修理をし、下り荷の買い付けに取りかかる。三月末か四月初めに大阪を出帆、途中で紙、塩、蝋、ムシロ、カマスなどの雑貨を買い足し、下関への寄港を最後に日本海へ出る。故郷の浜で「親方前《おやかたまえ》」といって半日停泊した。出迎える家族に大阪みやげの雪駄《せった》や縞木綿《しまもめん》を渡し、打ちそろって船主に門出の挨拶をすませると、ただちに船に乗り組む。松前へ向う船があれば江差、函館へ向う船があった。風まかせの帆走だが、エゾ地へはニシンの漁獲と〆粕加工が真っ盛りの五月、六月に着いた。下り荷を揚げて売りさばき、問屋から買い付けたニシンで船が満載になりしだい、つぎつぎに出帆して一路下関を目指す。二百十日がやってくるまでに瀬戸内海へ入りたかったのである。船頭が各地の相場を読みながら寄港地を選んで港々で積み荷を売りさばき、最終地の大阪に入るのは秋の終わりから初冬の頃だった。
図書館で北前船に関する文献をあれこれ読み漁っていると、天明の飢饉(1782〜87)が全国的な海商活動を活性化させて北前船の興隆をうながしたという記述に出会って、意表を突かれた。斎藤善之氏(日本福祉大学知多半島総合研究所)の論文「流通勢力の交代と市場構造の変容」によると、五大北前船主の一人と称された越前の右近権左衛門家では天明七年から九年(1789〜89)の二年間に資産額を急激に増やしている。同家の資産状況を見ると、取引先商人に対する貸越金・売掛金である「残金」の残高が増え出しているが、それにもまして手元に留保した現金資産である「有金」の残高の急増が目立つ。「万年店おろし帳」の天明六年の有金額は二十両に満たなかったが、天明七年九十両、八年百九十両、九年二百八十両と倍増の勢いである。天明期に獲得した資本蓄積で右近家は数年後の寛政七年(1795)に新造船を建造し、「一杯船主」を脱却して有力船主へ成長する足がかりをつかんだ。さらに、この五十年後に起こった天保の飢饉(1823〜36)が回船経営にさらなる飛躍をうながす画期となった。飢饉が終息した嘉永二年(1849)から右近家では毎年のように持ち船を新造しており、明治元年には廻船数が十隻を越えた。この船団増強の好景気は明治二十年頃まで続く。これは特異な事例ではない。江戸時代中期の宝暦〜天明期から、北前船ばかりでなく各地に地回り船が簇生しているのである。
天明、天保の飢饉は享保の飢饉とともに歴史に残る大飢饉であった。天明の飢饉では天明二年(1782)の天侯不順による凶作に引き続いて、翌三年七月の浅間山大噴火が関東一円の田畑を不毛にし、低温と冷雨が東北地方に大災害をひきおこした。また天保の飢饉では天保四年(1833)の風水害と天保七年(1836)の冷夏が東北地方を中心に全国的な凶作をもたらした。どちらの飢饉でも、東日本では餓死者、流亡民がそれぞれ数十万人に上り、村々では屍肉をむさぼったり、人を殺して食う凄惨な状況が生まれたと伝えられる。私は飢饉という言葉から日本全土が「飢餓列島」と化してもだえる絵図を思い描いていたが、北前船の歴史は私の「常識」を砕いた。何事も半可通でいると危い。
飢餓は半ば「天災」であり、半ば「人災」である。農業生産カがまだ低く、しかも流通の発達していない杜会では、ある年のある地域での主穀物の凶作が次の年の収穫端境《はざかい》期の食糧不足を増幅し、これに買占めという人災的要素が加わって数年にわたって連続する飢饅をひきおこす危険度が高い。これに輸をかけるのが封鎖的な藩制経済体制である。藩政が飢饉を激化させ、広域化する。凶作が続くと奥羽諸藩は米の領外への移出を禁止する「津留《つどめ》」を強化したので、米価騰貴と食糧不足に苦しむ各地の都市で打毀《うちこわ》しの騒動がひろがった。
しかし他方では、全国の農村に商品作物の生産が拡大するとともに都市および農村の加工業が発達して、地域間の商品流通が展開されようとしていた。幕府や藩の規制をはねかえすようにして民間の経済が生まれつつあった。江戸時代の経済杜会が大きな転換点にさしかかっていたのである。「船往来手形」を携行する北前船の船頭は、商業利潤を求めて目本海沿岸から瀬戸内海沿岸を自由に往来したのである。  
「買積船」と「賃積船」の歴史的役割
世界史のなかで海運業は次のような段階を踏んで発展した。まず荷主が自分で船を建造して保有し、自分の手で貨物を海上輸送する形態の海運業が現われる。これをプライベート・キャリア(自己運送)と呼ぶ。プライベート・キャリアは二種類に分かれた。
(1) マーチャント・キャリア(商人船主)=貨物を積み地で商品として買い入れ、揚げ地で商品として売りさばいて利益を獲得する。つまり商業と海上運送業の二つを兼ねる「海商」である。海運発達史の初期に多く現われた。十四世紀のハンザ同盟諸都市の海運や大航海時代に活躍したポルトガル、スペイン、イギリス、オランダの帆船は、マーチャント・キャリアが運航した。
(2) インダストリアル・キャリア(産業船主)=荷主が自分の工場で消費する原材料や燃料資源を輸送するために船舶を保有し、運航する場合をいう。これは現代でも多数存在するので、たとえば石油元売会杜が原油を、製鉄会社が鉄鉱石、石炭を輸入するのに子会杜の船会杜を設立して海上輸送に当らせている。
ついで登場するのがコモン・キャリア(他人運送)である。コモン・キャリアというのは複数の荷主から委託された貨物を輸送する専業海運の形態をいう。インダストリアル・キャリアを別にすると、世界の海運はプライベート・キャリアからコモン.キャリアヘ向って発展してきた。海商といわれるマーチャント・キャリアは近代に入ってしだいに姿を消したのである。つまり海運業が商業と海上輸送業の二つに分化した。そのきっかけは十九世紀初頭の汽船の出現だった。蒸気機関で走る汽船が実用化されると、それは航海速力をしだいにはやめて快速帆船を追い抜くようになり、おまけに航海の定時性を高めた。また船体は木船から鉄船、さらに鋼船へと進化したので、船型を少しずつ大型化していく道がひらけた。ここへ来て海運業は、商品売買を捨てて大量の海上輸送に専業し、運航効率を高めることで運賃増収を図る方が得策だと方針を変えた。また産業の発達が大陸間の貿易拡大と海上荷動き量の増加を約束したのである。
さて日本の近世海運を眺めると、そこにはマーチャント・キャリアとコモン・キャリアが混在していた。マーチャント・キャリアを「買積船《かいづみせん》」といい、コモン・キャリアを「賃積船《ちんづみせん》」と呼ぶ。十七世紀前半に現れた菱垣回船、樽回船はどちらも賃積船であった。そして本書で取り上げる北前船は、それより遅れて江戸時代半ばの宝暦〜天明期(1751〜88)に成立したが、みんな買積船であった。買積みの経営形態を採ることで、大躍進したのである。また北前船のほかに、文化期(1804〜17)以降幕末期にかけて周防、安芸、伊豫、豊後、岩見、出雲などの各地に小規模の地まわり回船が出現するが、これらは荷物の種類によって買積みと賃積みの両方を使い分けていた。日本の近世海運史は世界海運の「教科書」どおりに動いていないところがある。なぜそうなったかを知るには近世問屋制度の特徴を調ベひいては幕藩体制下の経済構造を把握しなければならないが、ここでは北前船の盛衰の跡をたどることにとどめよう。 
経営危機が船乗りたちを立ち上がらせた
エゾ地と大阪を交易の糸で最初に結んだのは、近江商人である。近江の国は現在の滋賀県で、まわりを若狭、越前、美濃、伊勢、伊賀、山城の諸国にかこまれ、まんなかに琵琶湖がある。湖東にひろがる近江盆地は昔から穀倉と呼ばれるほど農業が豊かだった上に水路、陸路ともに交通の要衝にあったから、中世の頃から多数の市がおこり、商業が盛んだった。近江は江州《ごうしゅう》とも呼ぶ。この地は数多くのすぐれた商人を育てたので「江州商人」という呼称が生まれ、伊勢商人とならび称された。大阪では、「江州商人の通った跡はペンペン草も生えない」という俚諺が私の子どもの頃にまだ生きていた。これは、近江商人たちの大胆な機略と緻密な計算が編み出す卓越した商法に驚嘆し、それを悪口に言いかえたのだ。近江商人は湖東、湖西の各所から輩出しているが、なかでも八幡、彦根、日野から近世、近代の大商人が登場している。
「近江商法」の最大の特徴は領国外へ向ける行動力の発揮にあった。もちろん近江国のなかで商いを営む商人はたくさんいたが、あえて近江商人と呼ぶのは、他国へ出て行商する人々を指したのである。彼らは販路開拓の目的地を決めると、まず、できるだけ大量の荷を送りつけて旅宿に預け、それから自分が現地へ乗り込んで商売を展開した。有望な土地の旅宿には「日野商人定宿」といった看板をかけさせた。商業発展のカギは需要と供給の二つを「有無相通じ」させるところにあると見抜いていたので、全国を股にかけて行商するあいだに各地に「出店」をつくり、甲地の特産物を乙地に送って売りさばくとともに、乙地の特産物を丙地へ送って新しい需要を掘りおこした。これを「諸国産物回し」といった。
はやく天正十六年(1588)に近江国柳川村の建部七郎右衛門と田村新助は、初めて松前に渡り、野菜の種子を行商している。その後慶長〜寛永年間(1596〜1643)に柳川村、薩摩村、八幡村から幾人もの商人が松前へ進出し、両浜組という同志を作って松前と交易をおこなうようになった。彼らは干鱈《たら》、干鮭《さけ》、昆布、獣皮などを買うと近江を経て京や大阪へ送り、内地から米、味噌の食料品や日用品、衣類などをエゾ地へ送りこんだ。「場所請負制」が始まると、多くの近江商人が請負人に選ばれたが、彼らは諸物資の売買や仕込み(前貸し)を通じて場所(商権)を広げていった。両浜組は海上輸送のために、松前と敦賀のあいだを往復する船を定期傭船した。これを荷所船といったが、賃積船である。荷所船《にところぶね》に雇われた船主は越前国敦賀、河野および加賀国橋立、瀬越の者が大部分であり、彼らは荷所船仲間を作った。
越前や加賀の船乗りと近江商人との親密な関係は長年続いたが、十八世紀後半に大転機を迎える。近江商人以外に能登、飛騨、紀伊、陸奥から有カ商人が進出してきたため、エゾと本州との交易構造に変化が生じた。新規参入者たちは近江商人を経由しないで独自のルートで藩政に食い込み、留萌、増毛、天塩など奥エゾ地の場所を請負ったので、これによって近江商人の特権的地位が弱められた。さらに近江商人が請負い場所を持つ松前周辺のニシン漁が不漁になった。これらの状況変化で両浜組の近江商人はしだいにエゾ地から撤退し始め、両浜組と荷所船主との定傭関係は徐々に崩れていったのである。越前、加賀の船乗りたちは新たな対応に迫られた。彼らは両浜組の雇われ船から独立し、自力で商業活動を営む買積船への転換を図った。その背景に、各地の問屋商人との結び付きを作ることによって買積船経営が成り立つほど広汎な商品流通が、畿内ばかりでなく西国一帯に形成されていたのである。ここから北前船の歴史が始まる。北の国の船乗りたちを立ち上がらせたのは、彼らの冒険精神だけではなかった。独立へ踏み切った彼らを成功へ導くチヤンスが熟していた。
(1) 魚肥需要の拡大。江戸時代の最大の商品作物である木綿の栽培は、十八世紀に入ると寒冷地を除いてほぼ全国に広まった。また木綿の普及にともなって、それの関連産業ともいうべき青色染料をとる藍の栽培が発達した。藍作は阿波、摂津を中心にさかんにおこなわれたが、そのほか筑後、備前、伊予、薩摩、長門にも産地を形成した。綿作、藍作は、どちらも畑に多量の肥料を投入する。
(2) マイワシの不漁期。魚肥の主宗は干鰯(マイワシの乾燥品)であった。ところが、享保期(一七一六〜三五)あたりから文化・文政(一八〇四〜二九)の頃までの約百年間、マイワシは長い不漁期に回りあわせている。魚肥需要が拡大するなかで干鰯に替わるものとしてニシンの〆粕が脚光を浴び、魚肥供給の前面へ押し出された。
長年の近江商人との付き合いのなかで、北前船主と船頭たちは「諸国産物回し」のマーケティング技術をしっかり身に付けていたことだろう。北前船は幕藩体制の崩壊期に勃興して、明治の近代的産業社会が形成されるまでの約一世紀のあいだ日本海航路で活躍した商船隊であった。 
冒険的ビジネスの緻密な情報管理
出雲崎船、岡山領内回船、尾州回船などの地回り船は乗組員数四、五人の百石積みないし五百石積みの中型船である。これに対し、長距離幹線輸送を受け持つ北前船は「弁才船」と呼ぶ千石積みの大型船で、後期には千五百石積みから二千石積みの大船が出現した。近世初期まで日本の船の作りは(1)刳船《くりぶね》から進化した平底の「面木《おもき》造り」と(2)航《かわら》と呼ぶ船底材(西洋船型の竜骨《キール》に相当する)を敷いて、それに根棚《ねだな》、中棚《なかだな》、上棚《うわだな》を順次取り付け、上部を多数の船梁《ふなばり》で補強する「棚板構造」の二種類に大別された。弁才船は棚板構造の船型である。もともと内海の船だから凌波性能に乏しかったが、太い「みよし」(船首部)を作り、外ドモ構造に改良を加えて対航性能を獲得した。そして、なによりも「はぎ合わせ」という木工技術によって幅広の長大な航《かわら》を作るようになったので、千石積み、二千石積みの大船建造が実現したのである。船頭以下水主《かこ》の乗組員数は二十人を越える。水主とは江戸時代の「船乗り」という言葉だ。
北前船の場合、一隻に乗り組む水主の種類は船頭、知工《ちく》、表《おもて》、片表、親父《おやじ》、若衆《わかいしゅう》、炊《かしき》に分かれた。知工は船の会計責任者。表は揖取《かじとり》とも呼ぶが航海長の任務を遂行する。親父は船内労務を取り仕切り荷役監督をする立場で、現代の一等航海士と甲板長の二つを兼ねたような役である。知工、表、親父の三人を船方三役といい、彼らは船頭を補佐するキーパーソンであった。三役以外の乗組員は年齢にかかわらず「若い衆」と呼んだ。なかでも十五、六歳から二十歳前後までの若者は見習い水夫で、炊事と船内掃除などの雑役をして働いた。
船頭が運航の最高責任者であることはもちろんだが、北前船では積荷(商品)の売買に責任を持つので、西洋の帆船時代の「船長《マスター》」と同じである。船主が自分で船に乗り組んで指揮をとるのを直《じき》船頭といい、雇われて乗る場合を沖《おき》船頭と呼んだ。船主が業績を上げて何隻もの船を回して経営するようになると、船の数だけ沖船頭を雇って自分は陸《おか》から采配をとるが、そのような船持ちを居《おり》船頭と呼んだ。
沖船頭は積荷保全と商品取引について、船主から大きな責任をまかされる。両者の信頼関係に北前船経営の成否がかかっていた。多くの船主は自分の息子や直系血縁者を沖船頭にした。北前船の船頭はマーチャント・キャリアである。毎航、安全航海を達成するとともに、積荷商品を安く買って高く売り、売買差益で航海経費をまかなった上でなお相応の利益を計上することが、彼の仕事であった。幕末期に「一航千両」という言葉があった。その頃千石船の建造費が約千両であったから、新造船で回船経営に乗り出すと初年度の一航海で造船費用を償却して、二年目から利益を稼ぎ出すという意味になる。こういう業界通念がある以上、船頭は、それを努力目標としたにちがいない。下り荷、上り荷あわせて千両を稼ぐのだが、下り荷はエゾ地で残らず売りさばくことが第一義で、下り荷の売価にはあまり神経を使わなかった。船主家に残されている損益計算書で下り品売買損益はいつも上り品売買損益を下回る。上り荷の稼ぎ、つまり端的には魚肥としてのニシンの販売成績が北前船の浮沈にかかわった。ここで、海の荒くれ男たちの一擾千金をねらうバブル商売などを空想してはいけない。買積船の経営はたしかに冒険的ビジネスだが、それは緻密な情報管理によって運営管理されていた。
北陸沿岸には、かつての北前船主屋敷がいくつか一般公開されている。加賀市橋立町の「北前船の里資料館」、「蔵六園」、福井県河野村の「北前船主の館・右近家」である。私は橋立町を訪ねた。二つの屋敷はどちらも豪壮な邸宅と銘石を配する凝った庭園を持ち、邸宅内には往時の家具調度や衣装のほかに北前船に関する船具、証文類、船絵馬などをたくさん展示していた。実は、私は沖船頭たちと船主が取り交わしたというおびただしい分量の書状(手紙)を見たかった。しかし、それは見当たらなかった。ふと思いついて、私は、著名な北前船研究家で大聖寺に住む牧野隆信氏の自宅へ電話を入れ、二、三の書状を閲覧させて欲しいとお願いした。突然の申し出は快く受け入れてもらえた。牧野先生は、いま加賀市の委託を受けて橋立の船主増田家の土蔵から出た古文書類を預り、自宅で資料整理と目録作成の仕事を進めている。文政期(1818〜29)から明治時代までの書状だけで手紙五、八九六通、ハガキ一、九四三通、電報三九五通がある。手紙を読み出すと、どれもこれも内容がおもしろいので読み通してしまい、整理作業が一向はかどらない。しかし自分はもう八十一歳になったから、目録作りのピッチを少し上げて今年中には約束を果たさないといけない、と先生は笑う。
白状すると、毛筆で書いた草書を私は判読できない。しかし淡黄色に変色した和紙に残る墨痕は絵画的美しさをそなえていて、どれもこれも達筆だと感じる。活字に印刷された資料を読むと、文章は簡潔であり、的確である。風雪に耐え、荒波を乗り越えて自分を鍛えてきた「知性」がある。寄港地の旅宿の部屋に端座して、巻紙に筆を走らせている男の姿がぼんやり浮かぶ。牧野先生は、船主増田又右衛門が長男の船頭又七郎へ送った手紙を読み下してくれた。船と乗組員の安否を問う書き出しで始まり、自分が入手した各地の市況情報をこまごまと伝えているが、今年は秋風の立つのが早くなりそうだ、船の荷を軽くして早く上《のぼ》ってこい、と情のある言葉で結んでいる。
近世商業流通史を研究する高部淑子氏(国士舘大学講師)は論文「北前船の情報世界」のなかで、船主家に残る書状を採り上げて検討し、かつての船乗りたちの情報活動を生き生きと再現している。高部氏が選んだのは越前国河野浦を本拠にする右近権左衛門家の書状だが、同論文のなかから一、二例を引用させてもらう。次は「伊勢丸」の船頭嘉助が船主の右近権太郎に宛てて、エゾ地から発した手紙である。元治元年(1864)頃のものだ。
〈当方(伊勢丸)は五月十八日に蝦夷《えぞ》地に到着した。当地は大量であるにもかかわらず、停泊している北前船は不足していて、大小とりまぜてようやく六十隻ほどが停泊している。しかし、伊勢丸は到着が遅れたので白子はまったく手に入れられず、百四十〜五十俵程度しか入手する見込みがない。運上家からは白子を積み込ませてもらえず困っている。いずれにしても伊勢丸の積み荷は敦賀行きに仕立て、白子を百四十〜五十俵、後は〆粕を加える。さらに、右近権太郎〔船主〕の方で白子を二百俵ほど調達してもらいたい。堂の間・三の間には筒鰊《つつにしん》を積む予定である。ところで、当地では下り船が不足しているため、積み残しの荷物が多く生じている。そのため、今後の取引には面白いこともあるのではないかと自分なりに考えている。そのため、もし八幡丸が到着して、他に赴く予定の港がないのであれば、当地へ差し向けてもよいのではないだろうか。荷物、特に〆粕はたくさん残っている。
永福丸は当地で米百俵余を十二匁五分〜十三匁で売却して、売れ残った米をすべて積んで五月五〜六日頃にオショロクチ(忍地・小樽市)へ移動した。その後、大部分を売却したが、右近権太郎が永福丸の米を売却した三人の商人、大三印・十五印・内保印から書状が来たので、オショロクチヘ「態《わざと》飛脚」を派遣した。すると、永福丸の米は四百俵残っていて、大三印は即金であったので二百俵、十五印へ百五十俵、内保印へ五十俵の割合で売却することに決定した。この点について承知してもらいたい。永福丸の船頭栄吉からは連絡がないが、永福丸の積込みは当地〔船〕より遅れると予想している。当地〔船〕は五月二十五、二十六日ころには積込みをするので、この点も承知してもらいたい〉(高部淑子訳)
沖船頭は湊々から船主へ手紙を発したが、それには(1)自船の動静、(2)揚げ地・積み地の状況(エゾ地の漁獲状況または瀬戸内の作柄状況)と相場、(3)自船の取引状況、(4)僚船の動静と自船との連携を報告し、その上で今後の自分の方針を述べて船主の了解を求めている。商機を逃してはならないので、船頭がある値段で売買できると判断したら自分の判断で取引をおこない、「左様に御承知下さるべく侯」と事後承諾を求めている場合が多い。ただし、別の書状に、「三盆糖の買い手が皆無で取り引きできない。延売(信用売り)をして荷をさばこうと考えるのだが、いかがか。御承諾いただけないなら、荷は船に積んで持ち帰る」という文言が出ている。これについて高部氏は、延売するかしないかが船頭に認められた裁量の限界点であっただろうと考えている。
船主と船頭のあいだに交わされる手紙は、江戸時代には飛脚で運ばれた。火急の場合は「態《わざと》飛脚」という特別便を仕立てた。また「幸便《こうびん》」といって他船に書状を託す方法がさかんに用いられた。他船は同じ船主の僚船に限るのではない。本拠地が同じなら他の船主の船へ託すことができたし、また情報のやりとりもしたのである。そして各地の回船問屋が書状交換の中継点として機能した。船が出帆したあとなら、回船問屋は書状を次の入港予定地へ転送した。 
跛行的な経済発展のなかで巨富を蓄える
菱垣回船や、樽回船では、荷送問屋である大阪二十四組問屋と荷受問屋である江戸十組問屋が株仲間を組織して回船を運航支配し、江戸〜大阪間の海上物流を独占した。問屋仲間が商品の価格形成力をにぎっていたので、回船業者や船頭たちに積荷を売買してかせぐ余地はなかった。ところが菱垣回船、樽回船より約一世紀遅れて登場した北前船は、買積みを駆使して遠隔地間商業の利益を存分にかせいだ。船主ばかりか、船頭にも「帆待ち」といって積荷の一部を自分で売り買いしてもうける自由が与えられていた。両者の違いは商品生産の発展にともなって新しい商品流通が形成されるようになり、それが江戸期の経済構造を揺り動かしたことを物語る。経済史家たちは十八世紀後半の宝暦〜天明期を経済変革の画期としてとらえている。
北前船は、次の二つの社会的・経済的条件が共存する段階で繁栄した。
(1) 幕藩体制下で諸藩のとる経済政策は複雑多岐に分かれ、また農業生産力の地域格差が大きかった。財政難に悩む諸藩は特産物による殖産興業に力を入れたが、閉鎖的な藩専売制を取った。ブロック経済風が分立したけれども、「全国市場」は形成されなかったので特定商品の地方による価格差がはなはだしかった。
(2) 他方で、局地的市場圏が全国各地に彩成された。地回り船の発達がそれを裏付ける。たとえぱ、斎藤善之氏の研究によると、日本海沿岸の新潟から酒田にかけて「天道船」と呼ばれる十石積み二十石積みの回船が盛んに就航していた。天道船は北前船の入る新潟港と加茂港を両端とし、そのあいだの浦々を細かく結んで物資を輸送した。積荷は米、塩、薪などの生活必需品だけでなく、上方から運ばれてきた奢侈品も多数含んでいた。つまり千石船の入る港が「中核港」として機能し、地回り船がそこから各所へ荷を分散する「フイーダー船」として働くことによって「遠隔地流通」が実現した。特定作物がこの物流ルートに乗って遠隔地に販路を見出すと、商品として急速に成長する可能性を秘めていた。
北前船の経営は右の二つの条件のどちらか片方を欠くと成立しなかった。跛行的な経済発展が進展するなかで、自分が選んだ在地問屋と継続的な取引をして巨富を蓄えたのである。情報が商売のカギをにぎっていた。遠隔地間の不等価交換が利益の源泉であると言っても、混乱につけこんで暴利をかすめ取る火事場泥棒的な商いをしたのではない。明治に入っても北前船は活躍を続けたが、汽船の出現、鉄道の発達、電信の普及などが一つずつ北前船の存在根拠を奪ったので、明治二十年代に凋落の影を濃くし、明治時代の終末とともに歴史から姿を消して行った。北前船主のなかにはカムチャッカ漁場へ進出して漁業に新活路を求めた平田喜三郎、西出孫左衛門や汽船を購入して買積み輸送から賃積み輸送へ転換した広海二三郎のような人物もいたが、多くは酒谷家や右近家のように「金銭貸付業」の道を選んで投資家に変じた。 
やがて船頭衆がござるやら
北前船に関する取材を終えると、私は、山中温泉へ足を延ばした。加賀温泉郷の奥座敷というベき温泉で、ここで山中節が産まれた。大聖寺川の上流、鶴仙渓と呼ぶ渓谷沿いに旅館、ホテルが並び、こじんまりとまとまって落ち着いた温泉町である。宿に入って荷物を置くと、まだ陽は高かったが、宿がくれたタオルを提げて惣湯の「菊の湯」へ出かけた。昔の風呂屋によくあった天平風造りの玄関を入ると、果たして、「山中節」が館内に流れていた。
ハア忘れしゃんすな 山中道を、
東ゃ松山 西ゃ薬師
昔の旅籠に内湯はなかったので、湯治客はみんな惣湯と呼ぶ共同浴場へ来て湯に入った。客が湯に入っているあいだ、ゆかたべといわれる湯女が浴衣を持って外で待っていた。客とゆかたべの応酬話法から「湯の廊下節」のような歌が生まれたという。菊の湯の浴槽は深くて、内側の踏み石に尻をおろすと肩まで湯につかる。たっぷり汗をかいて湯を出たが、無論、ゆかたべは待ってくれてはいない。湯上がりの裸で脱衣場のベンチに腰かけて、テープから流れる山中節に聞き惚れていた。温泉には、宿の展望大浴場で晩飯の前にもういちど入った。こちらの浴槽は広々としていて浅い。浴槽のへりを枕にして足をのばしてあおむけに寝そべっていた。全面嵌め殺しのガラス窓いっぱいに渓谷の対岸の山がせまる。西日を浴びた樹々の若葉が次々とたわやかに揺れるので、谷を吹き渡る風の動きが見えた。
全国に「何々追分」と呼ぶ民謡はたくさんあるが、それらは一つの共通する「型」を完成させている。追分様式の民謡は目本の声楽を代表するのである。「信濃追分」「江差追分」そして「山中節」の三つを聞きくらべて見よう。まず歌詞は、いずれも七・七・七・五調だ。これは江戸小唄や都々逸と同じ韻律で江戸時代後期に生まれた定型詩である。歌詞の形が定まることで庶民のあいだで愛好され、人から人へ歌い継がれ、土地から土地へと伝播したのである。また楽式の面でも、三つの民謡は一つの法則的な共通性を持つ。世界の民謡を踏査研究して独自の業績を遺した小泉文夫(1927〜83)によると、追分様式の民謡は、言葉から生まれる朗唱と感情表出から生まれる詠唱の二つの要素が一つの楽句のなかに融合され、一定の法則に従って展開するところに大きな特徴がある。
(1) 歌い出しは言葉をはっきり伝えようとする意図が強い。「小諸」、「鴎」、「忘れ」の最初の三字は短い音符で明瞭に歌われる。
(2) 歌い出しである高さの旋律を獲得すると、すぐ続いて、発声した音を長く保持しようとする力が働き始める。母音を長く引き伸ばしながら歌うのだが、その場合、固有の音階の枠のなかを進行するので、強い持続感がもたらされる。
(3) 伸びやかに歌い上げてきた声に、さらに、装飾音符(コブシ)がつけくわわる。歌い手は音程を細かく揺り動かせながら楽句を閉じる。
楽句の長さは不ぞろいだが、右の1→2→3の過程をたどる構造を持つことで一貫するので、歌は楽句ごとに「出発」・「進行」・「終止」の印象を聞く者に与える。これが反復されることで、聞く者は(おそらく歌う者も同様に)大きなリズムを感じ取るのである。次から次に沖から寄せる波がしだいに盛り上がって大きなうねりとなり、ついに波自体のエネルギーが波高を持ちこたえられなくなって砕け、白くたぎちながら砂浜へ吸い込まれていく。そんな情景にたとえて見てもよい。
山が赤うなる木の葉が落ちる
やがて船頭衆がござるやら 〈山中節〉
秋深まる頃、春から夏にかけての航海を終えて船どころの橋立村や瀬越村へ帰ってきた北前船の船頭衆と舟子たちは、骨休めの湯治に山中温泉へやってくる。彼らは十日以上、時には三、四週間滞在した。湯につかりながら気持ちよく口ずさむのは江差追分である。その節回しは、彼らを待ちわびていた湯女たちへ伝わった。牧野隆信先生は、江差追分の変曲として生まれた山中節の形が定まったのは昭和の初年だと言う。地元芸妓の米八姐さん(初代)「正調山中節」の節回しを練り上げた。即かず離れず、あしらうように弾く三味線の伴奏にのせて、艶のある高い女声が女心を切々と歌う。歌を運ぶ男たちがおり、それを受け入れる女たちがいて、新しい歌が生まれた。そして、歴史がそれを育てたのである。その頃、北前船はとうに歴史から姿を消していた。湯治にやって来る北前船頭衆もいなかった。
民謡は、いずれも民衆の労働生活のなかから産まれた歌だ。そこには人間の労働行為が作るリズムと感情の高まりが反響している。しかし追分様式の歌は作業唄ではない。それは小泉文夫が指摘しているように、労働や暮しの辛さと悲しみ、そして喜びを追想する歌である。さきごろ「のど自慢・イン・ブラジル」というNHKのTV番組で、金田さんという下関出身の七十歳の男性が「江差追分」を歌うのを聴いた。五十年前、ブラジル移民船で発つ前夜に、彼の父親が送別の宴で江差追分を歌ってくれたという。金田さんはブラジルヘ渡ってら、折に触れて、この歌を歌ってきた。餞に贈った歌が、地球の裏側まで運ばれて望郷の歌に変わる。歌は、その極相において鎮魂歌である。 
売買利潤富貴の湊なり
私の幼い日、母は長いだいた裁縫台の前に座って手内職の縫い物をするあいだ、時々歌を口ずさんだ。その一つに「船場の子守唄」があった。
ねんねころいち天満の市で だいこ大根そろえて舟に積む
舟に積んだらどこまで行きやる きづ木津やなんば難波の橋の下
この歌は、今でも耳底に残っているが、私に一つの情景が浮ぶ。それは、下働きのおなごし女子衆が、泣いてむずかる主家の幼な子をねんねこにくるんで背負い、空が赤く染まる夕暮れの町を辻から辻へと拾い歩く姿だ。母は京都丹波の桧山村に生まれた。幼い頃に両親を失い、田畠のいっさいを取り仕切る祖母に育てられた。そのお婆さんが亡くなると頼る人がいなくなったので、二つ歳下の妹と二人風呂敷に包んだ針箱と物差しを胸に抱えて大阪へ出て、北浜あたりの仕立て物屋に入ってお針子奉公をした。「船場の子守唄」は、あるいは、彼女自身の労働歌であったかもしれない。子守唄は大阪が水運によってひらかれた商業都市であったことを伝えている。そして、都市は近郊農村および畿内各地から大量の労働力を吸収しながら発達した。
地質学によると大阪平野と大阪湾は瀬戸内陥没地帯につらなるが、北、東、南の三方を山地で囲まれ、西を淡路島がさえぎるので、一つの大きな海盆状の地形を作る。更新世(洪積世)に海は深く入り込んで古河内湾を形成していた。淀川と大和川の運ぶ土砂が堆積してしだいに沖積平野を形成したのである。大阪市が明治二十七年に制定した市章は四本の棒を組み合わせた図形だが、これはみおつくし澪標といって内湾や河口付近に水路を示すために立てる杭を図案化したものだ。大阪の中心部の地形は洪積層の台地と沖積層の低地の二つに分かれている。近世まで海は台地の西端まで入り込んでいて難波江と呼ばれ、また台地の東側は旧大和川が北上して淀川と合しており、合流点周辺はしばしば氾濫原になった。台地は南部山地に発して北へ延び、先端が淀川近くまで達している上町台地と、それの南西部に斜めに走る我孫子台地の二つである。とくに上町台地は古くから開発され、古代文化の発祥地だった。五世紀初めに仁徳天皇が営んだなにわのたかつのみや難波高津宮は現在の大阪城付近の台地上にあったと推定されるし、天武天皇と聖武天皇が造営したなにわのみや難波宮は台地でいちばん標高の高い法円坂一帯から遺跡が発掘されている。また中世に蓮如が明応五年(1496)、いまの大阪城本丸のあたりに石山本願寺を建立した。土居をめぐらし、濠を掘って防御を固めた寺院は周囲に六つの親町と四つの枝町をかかえ、浄土真宗総本山として約八十年のあいだ繁栄した。
大阪が畿内と西国を結ぶ「回廊」である瀬戸内海の東端に位置したことは、極めて重要である。台地の北端が要害の地であるとともに交通の要衝となるので、征服者たちの眼に最高の戦略基地と映った。〈日本の地は申すに及ず、唐土・高麗・南蛮の舟、海上に出入、五畿七道之に集り、売買利潤富貴の湊なり〉(信長公記)織田信長は石山本願寺を攻めおとすのに前後十一年を費やしている。信長が死力をつくして戦ったのは、封建的支配に反抗して「百姓が持ちたる国」と豪語する一向一揆の勢力を残らず撫で切りにすることと「日本一の境地」である大阪を手に入れることの二つを達成しないでは、彼の「天下布武」は実現しないと確信していたからである。
元和元年(1615)五月の大阪夏の陣で豊臣氏は滅び、秀吉が築いた大阪城はわずか三十二年で灰土と化した。家康は、ただちに自分の外孫である伊勢亀山五万石の松平忠明を十万石大名に抜擢し、新しい領主として大阪の再建に当らせた。大阪の陣で軍功を上げた忠明は、焦土に変じた市街地の復興にも手腕を発揮する。まず本丸、二の丸、三の丸から成っていた豊臣氏の城郭のうち約一・五平方キロの広さを持つ三の丸をつぶして新たに市街地をひらき、ここへ京都伏見の町人を移住させた。伏見はかつて伏見城の城下町として栄えたが、徳川氏が伏見城を重視しなかったのでしだいにさびれつつあった。忠明はこれに目を付けて、伏見商人へ集団移住をすすめたのである。つぎに寺院と墓地の統合移転をおこなった。寺院は城の周辺の天満、高津、天王寺の三カ所に集めて寺町をつくらせた。この目的は将来の市街地発展を見越した区画整理であったが、非常時に寺院を軍兵の駐屯所に転用して大阪城の防衛に当らせるという和戦両用の構えから生まれた都市計画であった。忠明は市中の河川整備にも着手した。すでに豊臣時代に東横堀、西横堀、阿波堀、道頓堀が掘られて船場がひらかれていたが、元和三年、阿波堀の北側に京町堀を掘り、また、その北側に江戸堀を掘った。河川整備は、そののちも続けられた。元和八年、うつぼ靱、天満の商人らが町奉行へ願い出て新開地へ移り住み、市街地を開発整備するとともに長堀、いたちぼり立売堀、薩摩堀の開削をすすめたので、新町と堀江の町がひらかれ、大阪三郷の市街地が完成した。運河の河岸に荷揚げ場を設け、「水の商都」の基盤を築いたのである。
市街地復興の大任を果たした松平忠明は、元和五年二月、さらに二万石を加増され、大和郡山に転封された。幕府は大阪を直轄領として大阪城代を置く。そして翌六年正月、将軍秀忠は伊勢、越中より西の六十五家の大名に軍役を命じて大阪城の大改修工事に着手した。この天下普請は秀忠、家光の二代にまたがり、工期は三期に分かれ、前後十年を費やしてようやく完成した。いま残る城郭は、この工事によって成ったものである。昭和三十四年十二月、大阪市がおこなった発掘調査で、大阪城本丸の地下約十メートルの土中に「のづらづ野面積み」の石垣が埋没していることが確認された。野面積みとは、山から切り出した石にほとんど手を加えないで組み上げる方法で、関ヶ原合戦の頃までに築かれた石垣に見られる初期の築城形式である。その後築城技術が急速に進歩したので、近世の城には石の角や表面を打ち欠いて石と石との隙間を小さくする「打込はぎ」や角と表面をきれいに削った方形の石を隙間なく積み上げる「切込はぎ」がひろまった。現在の大阪城の石垣に野面積みは見当らない。秀忠は普請奉行の藤堂高虎に大阪城を周到に作り替えるよう命じたので、高虎は本丸および二の丸の地面を約十メートル高く地上げして旧大阪城を埋め戻し、濠の深さや石垣の高さを旧大阪城の倍の規模にした。三の丸を壊平したことで城の防衛力が減退したことを補う方策だったが、あわせて豊臣氏の大阪城の姿を完全に地上から消し去り、徳川氏の威容を天下に示す意図があった。西国には毛利、浅野、蜂須賀など有力な外様大名が割拠していて、まだ油断ならなかったのである。 
大阪は江戸の賄い方として働いた
徳川幕府が再建した大阪城は、たびたびの落雷と幕末の戊辰の戦火で焼失している。昭和六年(1931)になり、大阪市は市民の寄付を基金に昭和天皇即位を祝う記念事業として、旧天守台上に鉄筋コンクリート造りの天守閣を建設した。地上三階、地下一階の構造だが、外観は黒田家に伝わる「大阪夏の陣図屏風」に描かれた豊臣時代の天守を模した五層矢倉である。この天守閣の姿は、私の心に親しい。大阪駅から外回り環状線に乗って桜ノ宮駅に入る時、淀川の向うに天守閣を望むことができ、京橋駅を出て大阪城公園駅へ進むあいだ車窓にその全容を現わす。緑青を吹いた五層の屋根が青空の下に映えるのを眺めると、「大阪へ帰って来た」という感情が湧くのである。大阪城は太平洋戦争のあいだ無傷ですんだ。高さ五十三メートルの特徴のある高層建築物は、米空軍のB29爆撃機が攻撃目標を測定する時に絶好のランドマークになったに違いない。城の東側にあった大阪砲兵工廠は徹底的に破壊された。赤錆びた鉄骨とコンクリート塊が累々とつらなる砲兵工廠跡は長いあいだ生い繁る夏草のなかに放置されていたが、いまは大阪城公園に面目一新して市内で有数の緑地帯になっている。多くの大阪人は「大阪城」に愛着を持っており、それを大阪の歴史と文化の象徴として眺めることだろう。だが仔細に眺めると、それは徳川幕府が築いた基礎の上に豊太閤の夢を再現しようとした「けったいな文化財」である。
このことは昭和の天守閣再建の際に関係者のあいだで議論されたのではないだろうか。秀吉時代の遺構が確認されたのは第二次大戦後のことだが、小野清著『大阪城誌』(明治三十二年刊)によって江戸期の城郭大改修ははやくから指摘されていた。
A課長「家康がこわして秀忠が作りなおしよった石垣の上へ太閤はんの城を再建するというのは、具合悪いのんとちがうか。話がつろくせえへんやないか」
B係長「しかし秀吉の大阪城を正確に復元することは不可能です。城郭そのものを元へ戻すことなどできまへん」
C部長「いまある石垣がそのまま使えるのやから、それはそれでええやないか。残ってるものを使うのは、タダや」
これで衆議一決したと、私は空想する。たいていの大阪人は「タダ」と聞くと目を輝かせるからだ。しかも彼らは、他方で、「タダほど高いものは無い」という金銭哲学をにぎって離さないのである。
「天下の台所」とは、大阪を扱った書物にかならず出てくる常套句だ。いつごろ誰が言い出したのか。大阪西町奉行の久須美祐雋が安政三年(一八五六)に著した本の中で〈浪花の地は、日本国中の船路の枢要にして、財物輻輳の地なり。故に、世俗の諺にも、大阪は日本国中の賄所とも云い、又は台所なりとも云えり〉と書いているから、すでに江戸時代に定着していたキャッチフレーズなのだろう。「天下の台所」の「天下」は、豊臣秀吉の天下ではない。徳川家康がつかみ取り、彼の後継者たちが築いた天下のことである。近世中期に全国貨物の七割が集散して大阪経済は繁栄したが、それは幕藩体制と「米遣い」を基本とする経済構造の二つで支えられていた。徳川幕府が倒れて突っかい棒が外されると、「天下の台所」はくたくたと崩折れたのである。
大阪は、どのようにして「天下の台所」へ発展することができたのだろう。「近世」の政治経済体制は織田信長と豊臣秀吉が骨格を作り、徳川家康と彼の後継者たちが肉付けをした。信長は将軍足利義昭から「公儀」を合法的にもぎとって「天下一統」の仕上げをした。公儀とは公権力を指すが、室町幕府時代あるいは戦国時代の争乱の頃から、それを体現する人物を指すようになった。公儀権力の観念を具体化したのは、信長の後継者である秀吉だ。秀吉は天下人を自認して「てんか」と文書に署名した。秀吉の最大の事蹟は「刀狩り」と「太閤検地」の二つである。そして、この二つはワンセットにして考えることが大切だ。
中世民衆勢力の基盤となった「いっき一揆」を押さえ込むために、秀吉は、天正十六年(1588)百姓から武器を取り上げ、「百姓は農具だけを持って耕作に専念するなら、子々孫々まで平和に暮すことができるのだ」と、自分が慈悲心を持って百姓を支配すると宣言した。「刀狩り令」は、もう一つの側面を持つ。それは兵農分離によって武士層から農業という生産手段を奪い、「下克上」の根を絶ったことである。この後、武士が封建的土地所有から切り離される社会が作られていく。これより先、天正十年(1582)から秀吉は桝や尺の度量衡を統一して国内全土の検地を開始する。太閤検地は武力による威嚇によって進めたが、それは、1土地の生産力を田畠の作柄にかかわらずことごとく米の生産高に換算して、法定生産力を耕地ごとに決定し、また2土地の直接耕作者を検地帳に登録して「一地一作人」の原則を打ち立てた。こうして秀吉は日本全土の土地所有権を自分一個の手に握り、百姓を国家経済の担い手として直接に支配し、自らの権力体制の基礎に据えた。そして所領をあんど安堵した大名に対し、自分の土地所有の一部をちぎょう知行(土地の支配権)として与えるという「石高制」による支配体制を整えた。豊臣政権から王権を簒奪した徳川家康は、この世界史的に見て特殊な封建的土地所有体制を、そのまま引き継いだ。家康は最初の公儀法度である慶長八年(1603)の「覚」で、「百姓むざと殺し候事御停止なり」と言明し、領主の百姓に対する生殺与奪権を抑制した。殿様は「当座」の主人だが、田畠は「公儀」の物であるという社会が産まれたのである。三代将軍家光の代に盤石の徳川幕閣体制が築かれた。ここで「ご公儀」が完成する。これから約二百年のあいだ、「公儀」が至上の国家主権としてこの国に君臨することになる。
農民がコメをもって領主へ税を納め、領主はコメをもって家臣へ俸禄を与えるとともに自らの費用を支弁する。この石高制はただちに貨幣を媒介とする交換経済、すなわち市場経済の発達をうながしたが、これが「近世史」のなかの最大のパラドックスである。近世社会は「コメの経済」と「貨幣の経済」が格闘して、覇権を賭ける社会であった。社会を「生産者」と「非生産者」の二つに分けて身分を固定したこと、コメを「キーカレンシー基軸通貨」に据える一方で貨幣鋳造権を幕府が独占して貨幣流通を図ったこと、高度に開発されている畿内を避けて遠く隔たる関東の地に新都を建設したこと―――これらの幕府政策はいくつもの社会的不均衡を生んだ。だが江戸初期の段階では、社会的不均衡のもたらす摩擦や葛藤が人々の生き方に刺激を与え、社会の有効需要を生み、経済を活性化させるのに役立ったと言える。いちばん大きな「おこぼれ」にあずかったのが、江戸の賄い方として働いた大阪である。 
近世城下町は巨大な「人工的装置」だ
近世城下町は兵農分離と石高制の二つが作り出した大きな「人工的装置」である。その代表が「江戸」であった。建築技術史研究者の内藤昌教授によると、家康が江戸の都市建設を開始して十数年たった慶長末年の頃、京都の人口が約四十万人、大阪二十万人であったのに対し、江戸は十五万人程度だった。しかし寛永期に江戸は京都と肩を並べるようになり、さらに元禄八年(1695)に至り町人三十五万人、武家四十万人、寺社人口約五万人、合計八十万人となって、天下一の「大江戸」が出現した。注目しなければならないのは、八十万都市の人口の半分が武士という非生産者集団で占められていたことである。江戸開府から一世紀たたぬうちに巨大な消費都市が作られたのである。新興都市である江戸は、都市の周辺に農業と工業が育っていなかったので、資材や生活物資全般を他の地方から受け取らなければならなかった。コメは関東、東北、東海の諸藩が供給したが、その他の生活物資は主として五畿内〔山城、大和、摂津、河内、和泉〕から大阪を経由して供給された。 
江戸時代の経済は江戸と大阪の二大都市が楕円形の二つの焦点のように組み合わせられて、循環運動をおこなっていた。その場合、水運の働きを見落とすことはできない。陸上の人馬の交通については、参勤交代制が東海道、中仙道、甲州街道、日光街道、奥州街道の五街道と五街道から派生する脇街道の整備を促進して宿駅伝馬制の交通システムを完成させたが、物資の大量輸送は水運に頼らなければならなかった。江戸と大阪を起点と終点にする海上輸送による都市間の長距離幹線輸送が構築され、それに二つの都市それぞれに都市内部の河川舟運が連結されて「物流体系」が完成すると、大きな経済機能を発揮するようになった。
元和五年(1619)、堺の商人が紀州富田浦の二百五十石積の船をチャーターし、木綿、油、酒、酢、醤油などの日用品を積んで大阪から江戸へ回したが、これがひがき菱垣回船の興りである。荷が落ちないよう竹を菱形に組んだ垣を両舷に立てまわしたので、そう呼ばれた。大阪〜江戸間の荷動きが盛んになって大阪で回船問屋を営業する者が増え、定期便へ発達した。その後、伊丹や灘の酒の江戸送りが増えると、寛文年間(1661〜73)に大阪近郊伝法村の船問屋が伊丹の酒造家の援助を受け、酒樽を江戸へ下すことを始めた。これが樽回船である。はじめ樽回船は酒樽を主要貨物にしたが、しだいに酢、醤油、塗物、紙、木綿、金物、畳表などの雑貨を積み合わせるようになり、高速と低運賃を売り物にして菱垣回船に対抗し、とうとう菱垣回船を圧倒する勢力に育った。  
河村瑞賢は大阪の恩人である
海運の発展は航路開発にかかる。近世海運を盛運へ導いた最大の功労者は河村ずいけん瑞賢(1618〜99)である。瑞賢は江戸時代初期の豪商あるいは海運と治水の大事業家として名を残した。瑞賢の最大事績は東回り航路および西回り航路の開発による奥羽海運の刷新と琵琶湖に発する淀川水系の改修による畿内治水の二つだが、二つとも近世大阪の経済興隆に測り知れないほど大きな貢献をした。大阪にとって、河村瑞賢は恩人である。瑞賢は伊勢の国の人。少年時代に志を立てて江戸に出たが、二十歳を過ぎる頃まで車引きをしながら細々と暮していた。やがて土木工事の指図をしている幕府の役人と知り合って、その信頼を得て人夫頭に雇われると、人夫の采配に優れていたのでたちまち頭角をあらわした。少しばかりの元手を作り、江戸下町に店を張って材木商を営んだ。明暦三年(1657)の江戸大火の時、木曽の材木を買い占めて一躍巨利をつかむ。これから土木建築業を営み、幕府や大名から注文を受けるようになった。才覚が働き当意即妙の機転が利く人で、幕府要人に取り入ることに巧みであったが、瑞賢の特色は、なによりも技術に卓越した手腕を発揮したところにあった。海運や治水の事業に取り組む時は綿密な踏査に基いて計画を立て、周到な航海支援対策を取るのが特徴であった。
寛文十年(1670)の冬、幕府は奥州福島盆地の天領(幕府直轄地)の米数万石を江戸に回漕するよう瑞賢に命じた。それまで若干の米を江戸の商人が銚子まで海路で送り、それから利根川を溯っていたが、人口増加によって江戸の米需要が増え、産出量の大きい奥羽地方の米を江戸に大量移入する必要が生じたのである。幕命を受けた瑞賢は、まず配下の者を派遣して江戸から仙台湾阿武隈川河口の荒浜にいたるまでの港を視察させ、地図を添えた報告書を提出させた。盆地の米は阿武隈川の舟運を用いて荒浜へ集める。瑞賢は川の水路をくわしく調べて、途中の難所や両岸の要地を絵図に書き出した。そして海上輸送の寄港地を平潟、那珂湊、銚子、安房小湊とし、房州からいったん相州三崎(三浦半島)か豆州下田(伊豆半島)まで行き、西南風を待って江戸湾へ入る航路を設定した。湾口での遭難を警戒したのである。船は堅牢とされた伊勢造り船型を選び、伊勢、尾張、紀伊の熟練した水夫を雇い入れた。船には「御城米船」ののぼり幟をかかげ、代官に命じて寄港地に立務場を置き、御城米船の保護に当らせるとともに過積載がないか一隻ずつ検査させるようにした。これだけの準備を整えると、寛文十一年の春、船団が江戸を出発して荒浜へ向うのを見とどけた瑞賢は、陸路を荒浜へ行き、約一ヶ月滞在して川舟からの積み下しと回船への積み込みを監督した。四月、米を積み込んだ回船は次々に出帆した。瑞賢も荒浜を出発し、陸路をたどって寄港地の立務場を視察しながら江戸へ帰った。七月になって船は江戸に到着した。荷傷みはなく、費用と日数も従来より少なくてすんだので、幕府はこれを賞し、瑞賢は面目をほどこした。
寛文十二年(1672)、幕府はふたたび瑞賢を起用して出羽国最上郡(山形県)の天領の産米を江戸へ廻送するよう命じた。こんどは西回り航路の開発整備である。前回同様、瑞賢は瀬戸内海沿岸の諸国へ人をつかわして航路選択の利害得失、灘の難所の処在、浦々の利便などを調べさせた。また積出し港酒田の形勢を把握した。長大な航海距離を考慮に入れて、船は瀬戸内のしわく塩飽船型を重用し、それまで日本海航路で用いられていたほっこくぶね北国船は採らなかった。佐渡の小木、能登の福浦、但馬の柴山、岩見のゆのつ温泉津、長門の下関、摂津の大阪、紀伊の大島、伊勢の方座、志摩のあのり安乗、伊豆の下田を途中の寄港地とし、これらに立務場を置いたのは東回りの場合と同じである。とくに関門海峡は暗礁が多く入港に困難なので水先案内船を備えさせ、また志摩菅島では山の中腹に毎夜篝火を焚いて船の目標にした。今回も瑞賢は積み地の酒田に部下とともに乗り込んで一ヶ月間城米の積み出しを指揮監督し、五月二日の初出帆を見とどけてから酒田を立ち、立務場を設けた諸港を視察して回った。七月に入って船は逐次江戸に入ったが、途中の海難は一件もなく、御城米に損傷はなかった。幕府は瑞賢に金三千両を賜与した。
日本海沿岸の奥羽、北陸地方の港を出て北へ向い、津軽海峡を通り抜けて太平洋側へ出て江戸へ達する航路を東回り航路と言い、他方、西へ向って関門海峡を通り瀬戸内海を経て大阪へ入り、さらに江戸に至る航路を西回り航路と言う。東回り航路も西回り航路も、河村瑞賢以前に開拓者がいなかったのではない。東回り海運が開かれたのは江戸時代に入ってからで、仙台藩が慶長・元和(1596〜1624)の頃に石巻から江戸へ海路で米を送ったのが始まりである。その後、寛永二年(1625)に津軽藩が青森港から、明暦元年(1655)に秋田藩が土崎港から回船を江戸に出している。しかし、これらは江戸表への直航便ではなかった。常陸の那珂湊で荷揚げすると、その先は河川湖沼の水運と陸運を利用して江戸まで運んだのである。銚子以南の海路が開かれたのは寛文期(1661〜73)に入ってからとされている。瑞賢の成功が刺激になって、しだいに東回り海運は盛んになった。しかし東回り航路は江戸までの距離は短いが、津軽海峡の航行が困難であることと三陸沿岸に港がひらかれていないことから、西回り海運にくらべるとあまりふるわなかった。とくに三陸沿岸から常磐沿岸にかけて、春から夏に濃霧が発生して停滞する。これが帆船の沿岸航法に大きな妨げとなった。
日本海沿岸の海上交通は古代から発達した。古代、中世には京都を中心にして交通が発達したので、北国から出た船は敦賀(福井県)または小浜(福井県)に入り、ここで陸揚げした荷は陸路を琵琶湖北岸まで運び、それから湖上を船で大津まで運び、その先は陸運によって京都へ送られた。ところが江戸時代に大阪に蔵屋敷を置くようになると、奥羽、北陸の諸藩は途中での積み替えをきらって海路で直接大阪へ送ろうと試みた。加賀藩が寛永十六年(1639)に米百石を下関経由で大阪へ送ったのが西回り海運の先駆けである。その後、越後、庄内、秋田、津軽からも同じことが試みられている。しかし運航体制が確立されていなかったため、回漕が滞り、海損も大きかった。沿岸の航海施設に改良を加えた瑞賢の働きによって、はじめて航海安全が確実なものとなり、西回り海運が定着して江戸時代から明治の初めまで日本の物流を支える動脈の一つになった。
航路開発は一つのエクスペディション探検だが、それは緻密なロジステイクス兵站術を必要とする。瑞賢は、積み出し港から荷揚げ港にいたるまでのすべての寄港地の港湾事情を確認して必要な港湾施設、航海施設を整えるとともに、さらに船型の選択、船頭・水夫の資質や技量と彼らの雇用条件を掌握し、それらを一つのシッピング・マネジメントにまとめ上げた。ここに、私たちは近代海運経営の原型を見出すことができる。河村瑞賢は今日言われる意味での「企業家」の精神力と技術力を兼ね備える人物であった。  
大和川の切替えが河内平野をひらいた
瑞賢の畿内治水の業績に触れておかなければならない。琵琶湖を主たる水源にする淀川は近畿地方中央部の大河である。琵琶湖から流れ出た瀬田川は京都府に入って宇治川と呼ばれ、府境付近で右岸から桂川、左岸から木津川を入れて淀川となり、山崎の地峡から大阪平野へ出る。途中江口で平安時代に開かれた運河(神崎川)を右に分け、また毛馬で西流する中津川〔明治時代に中津川を改修して新淀川が生まれた〕を分け、淀川本流は南下して大阪市街地へ接近するが、大阪城の北方、京橋付近で旧大和川および寝屋川と合流し、合流点で西流に転じる。市街地を西行する淀川は堂島川と土佐堀川に分かれて中之島をあいだに挟み、やがて尻無川と木津川に分かれて大阪湾に注ぐ。これが江戸時代初期の淀川の流路だった。淀川の氾濫は甚しかった。下流域では多くの河川を集めるので水量が増すばかりでなく、土砂が堆積して川底を高くしていたので、いったん大雨が降ればたちまち川は溢れたのである。寛文・延宝(1661〜1680)の頃は毎年のように下流域が水害に見舞われたので、とうとう幕府は治水の策を講じなければならなくなった。天和三年(1683)、稲葉岩見守、彦坂壱岐守、大岡備前守の三人は幕府の命を受けて畿内の河道の視察におもむいたが、それに随行したのが河村瑞賢である。一行は宇治川、桂川、木津川の上流を探り、伏見から舟で淀川河口まで下り、また東の大和川筋を見、水害に苦しむ摂津西南部の水流を調査し、さらに海上へ出て神崎川、中津川の川口から住吉、堺に至るまでを視察した。江戸に帰った三人の大名は諸河川の上流に植林の必要があることと治水の策は瑞賢に一任するのが良策であることの二つを具申した。この議が容れられ、幕府は瑞賢を工事責任者に取り立てる。
貞享元年(1684)正月、瑞賢は大阪へ出て工事に取りかかった。彼は堂島川と土佐堀川が一つに合して海へ出ようとするところに九条島があるため川は南へ屈曲しているが、このため水勢が弱まって上流で土砂堆積を促していることに着目した。九条島に一本の運河を貫通させて一気に海へ流れこませて水勢を強めなければならないと判断し、湾へ直進する新河を開削した。これが現在の安治川である。次に淀川と中津川の二つに分かれる長柄において川筋を改修し、両者の水量を均等に按配して市内へ入る淀川の流れが停滞しないように図った。さらに堂島川の川底の土砂をさらえて通水を良くし、二度の大阪城築城の時に水上輸送中に誤まって川に沈めた多数の石垣用の大石を破砕して河岸の改修に当てた。工事は四年かかって完成し、瑞賢は貞享四年(1687)五月に江戸に帰った。これで水害はなくなり、新しく開かれた河岸は商人の集住する町を作ったのである。
瑞賢の畿内治水に関して興味深い話が一つある。それは旧大和川の「川違え」(切り替え工事)である。その頃一般には、生駒山地と金剛山地のあいだの地峡を大和盆地から大阪平野へ出て石川と合し、いくつかの支流に分かれて蛇行しながら河内の国を北上する旧大和川が、水難の元兇だとされていた。江戸期に入って河内郡今米村の庄屋中川九兵衛は同志と語らって流域を実地調査し、大和川を石川との合流点からまっすぐ西へ流すよう新水路を開削する必要があると判断した。地元の村々の同意を得ようと奔走したが、新河道を開くことで田畑を失う村と利害対立するので合意は得られなかった。他方、瑞賢は、水患の根源は下流にあると考えた。安治川放水路の開削や堂島川はじめ諸所の河道整備に精力を注いだので、大和川切り替え論は重視しなかった。『布施市史』は、河村瑞賢が新大和川開削に踏み切らなかったのは新川の運ぶ土砂が大阪湾の河口を浅くして港湾機能を低下させることを懸念したからだと評価している。九兵衛の子中川甚兵衛は親の遺志を継いで「川違え」のプロジェクトに取り組んだ。促進派と反対派が入り乱れて争うなか約四十年のあいだ幕府へ訴願を重ねた。新川造成で川床および堤防となる潰地面積のほぼ半分が幕府直轄領であった。甚兵衛らの努力が実を結び宝永元年(1704)二月川違え工事が開始された。工事は八ヶ月で完成した。大和川切り替えがもたらした経済効果には驚くべきものがある。川違え工事が終ると、すぐさま新田が開発されたが、宝永五年(1708)頃までにほぼ開発しつくされ、鴻池新田、深野新田、山本新田、深野南新田など大小四十八の新田が産まれた。総面積は千六十三町歩(約一、〇六三ヘクタール)におよぶ。この新開拓地が「河内木綿」興隆の生産基盤を用意した。だが、新大和川の河口に位置する堺の湊は、瑞賢が予言したとおり、しだいに衰微したのである。 
「出船千艘、入船千艘」とうたわれた
江戸〜大阪間の大量取引が近世経済の根幹を作った。十七世紀中頃の畿内では、高い農業生産力を基盤として、さまざまな種類の手工業が発達した。とくにに衣料品については二次加工、三次加工までの分業体制が地域のなかに集積されていた。その頃の地域ごとの産業の発達度合いをうかがわせる史料として、寛永年間に京都の旅宿業、大文字屋吉右衛門が著した『けふきぐさ毛吹草』という書物がある。旅宿の客から聞き取った情報を元に各地特産物を詳細に書き出しているのだが、宮本又郎教授(大阪大学)によると、〈品種総数一,八〇七のうち畿内だけで七〇六、すなわち、三九パーセントを占めている。畿内のうちでは、京をふくむ山城国が四三七品目で群を抜き、ついで、摂津・大和・和泉・河内の順であった。また、農林水産物および鉱物・動物を除いた品目をひとまず手工業品とすると、畿内はじつに七〇パーセントという高いシェア〉を占めていた。一方、江戸における物資移入の状況はどうであったか。享保十一年(1726)の江戸湊への貨物入荷量とその内容を見ると、繰綿・木綿・油・酒・醤油については大阪からの入荷量が圧倒的に大きな割合を占めているが、米・炭・魚油・塩・薪・味噌について大阪市場からの供給はゼロか、あっても極くわずかである。江戸は食料と燃料などの日用必需品を地場でまかない、加工度の高い「商品」は、まだ上方に依存していたのである。農業と手工業が重層的に発達した畿内へ人口が集中し、いくつもの地域的な産業経済圏を形成していた。大阪は域内および域外との交易の結節点となって、経済力を蓄えたのである。
大阪には、「三大市場」があった。天満の青物市場、ざこば雑喉場の魚市場、そして堂島の米市場である。なかでも日本全土に名をとどろかせたのが堂島の米市場である。近世初期に米市場は大阪だけでなく、江戸、京都、大津、下関などにも形成されたが、それらのなかで一頭地を抜いて大発展したのが大阪の堂島だった。元禄期(1688〜1703)の終りに諸藩から大阪への回米量は一一八〜一四一万石に達している。これに藩の蔵屋敷を通さない「納屋物」のコメを合わせると、一五〇万石前後が常時大阪へ移入された。十八世紀初頭で武士階級が掌握していた全国石高は幕府領・旗本領約七〇〇万石、諸大名領約一八〇〇万石、合計二,五〇〇万石であった。大阪へのコメ流通量はこれの約六%に当る。コメの全国経済が形成されて、堂島は、それの「中央卸売市場」の機能を発揮したのである。堂島が最初から全国のコメを牛耳ったのではない。諸大名は年貢米を有利な価格で売るため、経済の先進地で需要がもっとも大きい畿内諸都市と結びつく必要があったけれども、遠隔地間の商品流通が未発達の段階で領主たちは輸送手段を持たなかった。西国大名たちは領内町方や領外のいくつかの中小都市へ売りさばくのが実状で、仕向け地は一定しなかった。一方、奥羽、北陸の北国諸藩は海路でコメを敦賀と小浜へ送り出していた。この年貢米の流通に活躍したのが若狭の土豪商人である。彼らは中継港で買い取ったコメを陸運と舟運の二つを駆使して京都へ運び入れ、巨富を蓄えた。
幕府が通貨を統一し、それが全国に浸透して商品経済が発達すると、コメの「貨幣的価値」はいよいよ増大した。大名領主たちは年貢米を領内から最大消費地である畿内へ一貫輸送する体制を確立することに心をくだく。動きは西国の藩から始った。細川藩、広島藩では寛文期(1661〜72)から徐々に大阪回米の量を増やし出す。この流れを一気に加速したのが、河村瑞賢による西回り海運の開発だった。加賀藩は天和二年(1682)に六〜八万石を西回り航路で大阪へ送り、ひきつづき元禄四年(1691)に二十万石余りを送った。高田藩、庄内藩、弘前藩も西回り海運を利用して大阪市場に参入するようになった。日本海沿岸から下関を経て大阪へ至る西回り航路は敦賀・小浜〜琵琶湖〜京都・大阪のルートよりはるかに長いが、それでも海上運賃の方が安く、また途中の荷傷みが少なかったのである。これで若狭の初期豪商はつぎつぎに没落した。
大阪は「出船千艘、入船千艘」とうたわれた。菱垣回船、樽回船のほかに西回り航路のきたまえぶね北前船や四国、九州からの回船がたえまなく湊へ出入りした。大型船は安治川の河口に停泊し、うわに上荷船が往来して市中の堀川の河岸へ荷揚げした。諸藩の蔵屋敷は堂島川、土佐堀川の川筋一帯に軒をつらね、ここへは年貢米はもとより諸藩の特産物が送り込まれて、それらの販売拠点となった。堂島の蔵屋敷は元禄期には九十五を数えた。堂島米市場はプライスリーダーとなって全国のコメ相場を支配する。堂島の相場は飛脚によって各地へ伝えられたが、一刻を争う仲買人らは屋根の上の楼に上って手旗信号を逓送して遠隔地まで伝えた。井原西鶴の『日本永代蔵』は、堂島米市場の活況を次のように活写している。
〈難波橋より西を見渡した時の光景はといえば、数千軒の問屋が棟をならべ、蔵の白壁が雪の曙以上に白く輝き、杉の形に積んだ米俵を、山がそのまま動くかのように馬につけて送ると、大道がとどろ轟き地雷のようだ。上荷船、茶船が数限りなく川波に浮かんだ様は、水面に秋の柳の枯葉が散らばったのと同じだ。先を争って米刺しを振り回す若い衆の勢いは、虎のふ臥す竹林とも見え、大福帳は雲のようにひるがえ翻り、そろばん算盤はあられ霰が屋根にはじけるごとく、てんびん天秤の針口をたたく音は時の鐘の響きにまさり、各商家とも、それぞれの家風でのれん暖簾を翻し、繁盛している〉〔谷脇理史訳〕  
金融・財政テクノクラートたちが豪商へのしあがった
いまは淀屋橋という橋の名前に痕跡をとどめるだけだが、淀屋は、近世初期に大阪随一の豪商であった。創業者の与三郎常安は山城国岡本荘の出身。豊臣治世の頃大阪へ出て材木商を営み、淀屋を興した。慶長八年(1603)に元締衆の一人に選ばれて町人代表として大阪の町政にかかわるが、中之島を開発して町造りをおこない、淀屋橋を架けた。二代目こあん小庵言当は業容の拡大を図った。青物市場や塩干魚市場の開設に貢献するとともに、寛永八年(1631)にはいとわっぷ糸割符商人になることを願い出て許可された。さらに加賀藩の蔵米一万石を売りさばいたのを契機に米市場へ進出し、明暦元年(1655)正米取引の朱印状を与えられて店先で米市をひらく。これが淀屋米市と呼ばれる堂島米市場の前身に当るものである。淀屋は豊臣時代からの蓄財を基礎に、徳川幕藩体制の下で特権商人の地盤を着々と広げていった。
これらの業績とあわせて淀屋の名を後世に伝えるのが、宝永二年(1705)の淀屋闕所《けっしょ》処分である。闕所というのは、江戸時代では町人に対する刑罰の一つで、獄門・死罪・追放などの付加刑として土地家屋や財産を没収する処置を言う。市中に建てられた闕所沙汰の高札を見て、大阪商人は震え上ったにちがいない。九代目当主の淀屋辰五郎三郎右衛門は、まだ十九歳の若輩だったが、酒色におぼれて遊里通いの放蕩に明け暮れるばかりか、金銀細工の贅を尽くした書院を造ったり、座敷の天井をガラス張りにし、水槽を据えて金魚を泳がせ、夏座敷と洒落れて興じていた。これらを町人の分際を超えたおごりとして、幕府は咎めたのである。それだけではない。淀屋から諸大名への融資残高が「銀壱億貫目余」に上っていた。今日の貨幣価値に換算して一千数百億円の大金である。大名蔵屋敷への立入り町人として年貢米の販売取扱いに当った淀屋は他の蔵元商人や掛屋と同様に大名へ融資をおこなったが、この「大名貸」のコゲ付きが積り積って銀一億貫目に上った。幕府処断の力点はこちらの方にあったと考えてよい。「御公儀」という金の成る木が倒れないあいだは「コメの経済」が崩壊することはないので、貸した方も借りた方も別段あわてることはない。途方もなく増殖する「大名貸」に脅威を感じたのは、むしろ幕府の方だった。淀屋を血祭りに上げて貸し借りを帳消しにする一種の「徳政」を強行することが目的だったので、驕奢うんぬんは幕府の言い掛りである。
淀屋闕所沙汰は近世経済史のなかで画期となる事件であった。歴史家たちは「寛文・延宝期」(1661〜80)を徳川幕藩体制の確立された時期としているが、安定した政治体制の下で社会経済は伸長し、やがて元禄期(1688〜1703)の「高原景気」を迎える。そして発展とともに変化が始まった。江戸草創期の経済活動の担い手は中世以来の酒屋・土倉・問丸の系譜を持つ在地商人や、あるいは朱印船貿易や糸割符貿易にかかわって蓄財した豪商であり、京都、堺、博多、長崎に勢力を張っていた。彼らは幕府要人や大名とパーソナル個人的に結びついた特権的御用商人であった。しかし封建制度を守るための幕府の基本政策は「コメの経済」を国内に貫徹させることである。そのため年貢米を商品化する中央卸売市場を整備してコメの流通体制を確立することに力を注いだ。東回り航路・西回り航路の開発は、この施策の一環である。また他方で、幕府は外国貿易で得られる利益の独占を図って諸藩の自由貿易を禁止し、貿易による商業資本の成長を押え付けた。国内の商品流通が発達するなかで、初期豪商らは幕藩体制からしだいに排除されて没落していった。
新しいタイプの特権商人が登場する。堂島の大名蔵屋敷に出入りする蔵元と掛屋である。蔵元は蔵米の出納をつかさどって販売を取り仕切る者で、はじめは留守居の藩役人の役目だったが、寛文の頃から町人が登用されるようになった。掛屋は銀掛屋の略称だが、蔵米を売った代銀を預り、江戸藩邸または国元へ送金する役目を負う商人である。掛屋の多くは、両替屋を兼ねた。掛屋は蔵米を担保にとって大名へ金銀を貸付けることもした。蔵元、掛屋は藩財政に深く食いこんでいたので、蔵元と掛屋の二つの役目を兼ねると、自らの財力をバックに藩財政を思いのままに動かすことができたという。大阪でいちばん有名な両替屋のこうのいけ鴻池善右衛門は加賀藩、広島藩、岡山藩、阿波藩、柳川藩など数藩の蔵元・掛屋を兼ね、名字帯刀をを許されて、各藩から合わせて約一万石の扶持米を受けていた。
両替屋は、江戸の経済社会に欠かすことのできぬ存在だった。徳川幕府は金・銀・銅〔銭〕の三種類の貨幣を正貨として流通させた。金は両・分・朱の単位で数える計数貨幣だが、銀は取引の都度、品位と重量を鑑定・秤量する秤量貨幣であった。しかも「関東の金遣い、上方の銀遣い」といわれるように主体となって流通する貨幣が地域によって異なっており、しかも金・銀・銭の三貨の交換比率は日々の相場で変ったから、両替屋がどうしても必要だったのである。また江戸、大阪、京都の三都を結んだ遠隔地商業が発達すると、為替の取り組みと決済が増え、さらに米切手、砂糖切手、ほしか干鰯切手など商品の蔵預証書を担保に貸付を求める金融需要が高まった。これらを背景に、今日の銀行の先駆的機能を果たすものとして、両替屋の隆盛を見たのである。
大阪経済の担い手となった新興町人は、二つの顔を持っていた。一つは利にさとく何よりも信用を重んじる商人の顔である。金銀を借りて約束の日限に返済しない時は、「人中で御笑い下さる」べき旨を記した証文を交わした。もう一つは戸高制社会の制度に順応し、幕藩権力の保護を受けて市場の独占的支配力を獲得しようとする「オーガニゼーション・マン組織化された人間」の顔である。二つの顔を一個の人格に統合するように働いたのが問屋仲間や両替仲間と呼ばれる「株仲間」であった。株仲間といちばん近い意味を持つ現代用語は、「業界団体」である。蔵元、掛屋や両替屋は「コメの経済」と「貨幣の経済」を媒介する金融・財政のテクノクラート専門家たちであった。彼らは、求めに応じて融資シンジケートを結成して幕府や藩の財政を支えた。株仲間に対する幕府政策は、禁止・解散あるいは保護・奨励と江戸期を通じて二転、三転している。公権力の下での統制と同業者相互の権益独占は商業資本勃興期に実効を上げ得たけれども、江戸中期以降の封建制の矛盾が深化するなかで、株仲間は、徳川幕藩体制の「延命装置」の役を負わされたように見える。新興町人層から幾人もが豪商へのしあがって、彼らは「御公儀」の傘の下で繁栄を競ったが、結局、徳川幕府と運命を共にして亡んでいった。極く一部を除いて、明治維新後にまで生き延びて発展を続けた者はいない。
「天下の台所」は徳川幕府といっしょに潰えた。だが、近世大阪の経済と社会的諸力が大きな可能性を孕んでいたことを見過ごすわけにはいかない。その一つは、摂津、河内、和泉一円に発達した綿作・綿業である。木綿は江戸時代最大の商品作物であり、畿内では河内の国が生産中心地となり、「河内木綿」は全国に名をとどろかせた。江戸中期以降に問屋制家内工業が成熟し、幕末期から明治初期にかけて一部の在郷商人は一種の「マニファクチュア工場制手工業」を形成するまで成長した。しかし、欧州からおしよせた産業資本主義勢力にひとたまりもなく押しつぶされたのである。
私は、河内木綿興亡の跡をたどろうと思う。それは死児の齢を数えることとは違う。歴史に残る「挫折」を取り上げて失敗の原因を究明する作業は、それが到達できたかもしれない成功をあれこれ思い描くのが目的ではなくて、現実の諸条件のなかから生まれた事業が現実の加えるさまざまの手かせ足かせと戦いながら矛盾をのりこえていこうとする運動過程を知りたいという動機に支えられる。つまり、歴史の担い手を問うのである。 
木綿が麻をおしのけて急速に成長した
柳田国男は『木綿以前のこと』で、日本の民衆が麻にかわる新しい衣料として木綿を受け入れた衝撃と感動を、瑞々しい官能的な文章でよみがえらせている。
〈色ばかりか之を着る人の姿も、全体に著しく変わったことと思はれる。木綿の衣服が作り出す女たちの輪郭は、絹とも麻とも又ちがった特徴があった。其上に袷の重ね着が追々と無くなって、中綿がたっぷり入れられるやうになれば、また別様の肩腰の丸みができて来る。全体に伸び縮みが自由になり、身のこなしが以前よりは明らかに外に現れた〉
古来日本人が衣服の材料に用いてきたのは、絹、麻およびふじ藤・くず葛・こうぞ楮などさまざまな植物からとった繊維であった。絹の使用は上層階級に限られていて、庶民はもっぱら麻で織った布を着用した。古代、中世の文書に「布」とあるのは麻布を指している。麻は肌触りが良く体温を速く放散させるので涼しく、いまでも夏には愛用される。しかし熱の良導体であることは保温性が劣るという大きな欠点になる。冬は何枚もの麻布を引きかぶって寒さをしのぐほかなかった。冬の夜、妻や子は寒気に耐えかねて泣き叫ぶ、と山上憶良は歌っている。
麻はクワ科の植物で世界に幾種類も存在するが、日本では主にちょま苧麻(からむし)を栽培した。苧麻は多年草で、宿根で育てる。春にでる一番芽を焼いて二番芽を育てるが、七〜八月の土用の頃に背丈一・五〜二メートルに成長した茎を刈り取って、ただちに繊維づくりにとりかかる。麻は庭先の屋敷畠や家屋からほど遠くない前栽畑に植えた。これは刈り取り後に茎の皮をはがして糸を取り、布に織り上げるまでの作業が女の仕事だったからである。麻布一反を織るのに大体四十日かかる。秋から春にかけて毎日朝から夕まで織り続けても、三反ぐらいが普通だという。家族に着せる衣類をまかない貢納品を生産するために、女性は、娘時代から年老いるまでの生涯のなかで膨大な時間をおび苧引き、おづ苧績みと機織りの労働に投じていた。
木綿は、日本では応仁の乱(1467〜77)以降戦国時代にかけて各地で栽培が始まった。文禄年間(1592〜96)に耕作地帯が急速に広がり、江戸時代に入ると畿内を中心に木綿生産が一大発展を遂げた。これで日本の民衆の衣料は麻から木綿へ転換したのである。それは人々の暮らしを一変させる「材料革命」であったばかりでなく、社会の経済構造にも変革をうながした。国内産木綿の普及は、それを基軸にする商品経済を発展させ、中世経済から近世経済への転換を決定的にした。さらに近世中期から後期にかけての綿作と綿業の興隆は「産業連関」的な経済効果をもたらしたので、ここに「近代産業」の萌芽を見ることができる。明治時代に入って伝統的な「本邦綿業」は崩壊し、途絶したけれども、その歴史は日本の近代産業発達史の特質を考える上に、重要な意味を持つだろう。
中国に南方から木綿が伝えられたのは遠く後漢の時代だったが、木綿栽培が本格的になるのは明朝初期の十四世紀末から十五世紀初頭にかけてである。また、中国で綿作が盛んになると時を経ないで朝鮮へ伝えられ、宋代末期に朝鮮半島南部で栽培が始まり、李朝が成立した十四世紀末に本格的な展開期に入り出した。日本へは遣明船による勘合貿易で「唐木綿」がもたらされ、また西国の守護大名が李朝へ送る使送船が日本からの舶載品に対する回賜品として「朝鮮木綿」を受け取った。木綿は、はじめ貴族や僧侶の珍重する貴重品だったが、戦国時代に入ると兵衣や侍の衣服、陣幕、旗、幟および火縄、帆布といった軍事用に用途を広げていった。戦乱の世の合戦が長期化し広域化するとともに木綿の需要はますます高まったので、それが国産化を促進したと考えられる。徳川家康のもたらした「天下泰平」が日本の木綿を軍事用からさらに広い民需用へと導いていった。
綿布生産が麻布をおしのけて急速に成長したのは、着心地の良さ・高い保温性能・染色のしやすさと鮮明さといった品質の優位性もさることながら、木綿の「加工性」が麻にくらべて格段に優れていたからである。素材の持つ自然的性質によって、麻は、畑から刈り取った茎からあおお青苧と呼ぶ原料を取り出すまでの工程を、栽培農家の手元で一貫して連続的に進めなければならなかった。作り出した青苧を十本ぐらいずつ束ねて二、三日陰干しし終わったところで、初めて半成品として保管や移動ができたのである。これに対して木綿は畑から採取したみわた実綿をそのまま保存しておいても変質するおそれはなく、また袋詰めにして簡単に他の場所へ移動させることができた。そこで、しのまき篠巻といって細竹に巻き付けた綿を作り出すまでの工程を分解して、時間と場所の都合に合わせて組み立てなおすことができた。つまり綿作の生産規模が大きくなると、農家から実綿を受け取って種を取り除く「繰屋」、繰り綿を打つ「綿打屋」、解きほぐした綿をしの篠に巻きつける「篠巻屋」が派生し、それぞれ専門化して社会的分業を形成したのである。
つぎに、糸を紡ぐ段階の作業についても、麻と木綿の効率の差は歴然としていた。麻は長さ一・五〜二メートルの長繊維である。麻糸を作るおづ苧積みの仕事には熟練と根気が要った。
〈さて、苧積みは、青苧を一茎ごとにバラして、湯で煮てやわらかくし、一茎を平らにひろげ、爪を使って細かく裂き割り、指でよ撚り、繊維が乾いてくると口にふくんで湿しながら繊維をつないで糸にし、「おぼけ苧桶」とよぶ手桶にくりこむ。この作業は、木綿を紡ぐ場合のように糸車を使って糸を早い速度でひき出すようにはゆかず、繊維は手でつなぐのだから、能率がきわめて悪いのである。〉(永原慶二『新・木綿以前のこと』)
苧桶に積みあげた糸を撚車にかけてヨリをかけ、やっと麻糸が仕上がる。他方、木綿の糸紡ぎは糸くり機という道具を使う。木綿は短繊維で、綿毛の長さはアジア綿の場合九〜二〇ミリだが、綿毛は乾燥すると「天然撚」を生じるので繊維同士の抱合力が強く、一本の長い糸を紡ぐことができる。篠巻綿を左手に持ち、それから引き出した粗糸をつむ錘に巻き付けてから糸車に接続し、右手で糸車を回転させながら糸を紡ぎ出すが、左手を後へ引いては元へもどす動作を糸車の回転と合わせてくりかえしながら、糸の太さとヨリの強さを手加減する。糸繰りには一定水準の技術が要求されたけれども、苧積みにくらべて比較的にやさしく、また生産性が高かった。
綿布を織るには、麻布を織るのと同じこもばた下機を用いた。絹布を織るたかばた高機との相違点は、下機では手元のチマキ(布巻具)をコシアテ(腰当)を介して織り子のからだへ連結させ、腰を引く動作でタテ糸の張力を加減しながら織ることである。麻糸には乾燥すると切れやすいという難点はあるが、織布工程の労働生産性は麻と木綿で大してちがわない、と酒野晶子氏(東大阪市民美術センター・主査学芸員)は言う。コシアテの操作に熟練を要したのではないかと質問すると、「なあに、私だって一人前に織れますよ。麻も木綿も」と答えた。紡糸工程で木綿は麻を圧倒する優位性を発揮した。綿布一反分の糸を三日で紡ぎ出すのが普通の技術であったという。 
十七世紀後半に農民の経済余剰が生まれている
畿内では元亀・天正の頃(1570〜91)から木綿栽培が広がり出した。摂津、河内、和泉が全国綿作の一大中心地の地位を確立するのは江戸期に入ってからで、元禄・宝永(1688〜1710)の頃に一つの頂点に達し、宝暦期(1751〜63)、天保期(1830〜43)へ向けてさらに上昇を続けた。「河内木綿」の生産とくりわた繰綿取引の中心地であった平野郷(大阪市平野区)の場合、宝永三年(1706)当時、田と畑あわせて三百六十二町歩の耕作面積の実に六〇パーセントに当る二百二十町歩余りに木綿が植え付けられていた。米麦以外の作物を栽培する「勝手作り」を厳しく制限する幕府政策の下で、これは驚くべき事実である。『大阪府誌』によると、天保の頃の河内木綿の産出高は二百万反以上に達していた。一反は大人一人分の着物を作るのに必要な布地の量で、鯨尺で幅九寸、長さ二丈六尺の大きさを言う。綿作は、施肥量の多い少ないと栽培管理の良否で、収穫成績が大きく左右された。河内国では綿畑一反(約十アール)につき干鰯を一石(約百八十リットル)あまり投下していた。金肥使用量の大小が農業発展の地域格差を産み出した。農業のなかに「資本」が動きはじめたのである。
綿作に、あまり肥沃な土壌は避ける。茎と葉ばかり成長して、花実の付き方が少なくなるからである。江戸後期の農書、大蔵永常『めんぽようむ綿圃要務』(天保四年刊)では、砂まじりの黒土に碁石ほどの小石のある土地が最適だが、あるいは肥沃度が中程度の土を肥料で手入れしながら栽培するとよい結果が得られると教えている。そして、どんな土地であっても、常に水はけが良いことと日照りの時に灌水の便の良いことの二つは必要であった。
綿作の土地利用法は畑作と田作りのふたとおりあった。畑作では収穫前の麦のうね畝の両側へ綿の種をまくか、または刈り取ったあとの麦株を掻き起こし、地ならしをして種をまいた。他方、水田利用のやり方では、「かきあげた掻揚田」といって田の土をかきあげて高いあぜ畦を作り、畦に綿を植え、低い溝に稲を植えるのである。掻揚田は河内の国で発達した。
綿の栽培は種子をよく選んで採取して保管することと、「けも毛揉み」といって種子にすす煤、ぬか糠、塩をまぶして数日寝かせ、種子表面の油脂を取り除いて吸水を良くする播種準備から始まる。八十八夜前後、天気を見計らって種まきをした。綿は他の作物とちがい、肥料を入れる時期を遅らせると枝葉ばかり繁って、実が少ない。発芽して十数日たつと、畝に五〜六寸の穴を掘り、こまかく砕いた魚肥を入れる。これを一番肥と呼び、反当たり四〜五斗の魚肥を施す。これが足らないと実付きが悪い。梅雨明けに二番肥を反当たり九斗、さらに一ヶ月あとに三番肥を反当たり五斗入れる。以上は河内国八尾近在の綿作農家、木下清左衛門の『家業伝』(天保十三年)に見える施肥法だが、同家では反当たり一石九斗の魚肥を投下したのである。これは銀百五十匁でまかなわれた。また肥料は魚肥だけでなく、油カス・うすめた小便・草木灰をこまめに併用した。
栽培管理にも緻密さが要求された。まず梅雨明けまでの苗木の段階で、間引きおよび浅く耕して根の発育を促進するちゅうこう中耕をそれぞれ三回おこなう。さらに綿木が繁り早咲きの花が二、三目につくようになる土用の頃に、「てきしん摘心」をした。梢の先二、三寸を摘み取って発育枝の成長を止め、実を結ぶ側枝の方の成長をうながす作業である。
綿は開花すると桃に似た形の小さな実を作るが、種子の表皮に綿毛を発生させる。三、四週間で綿毛が伸長し切ったところで乾燥した果皮が割れ、綿毛を外部へ吹き出すのである。旧暦七月盆の頃、綿畑は花盛りを迎え、収穫期が近づく。初秋、晴天の日に綿つみ仕事が始まる。十分に開いて吹いた綿実を選んで摘み、前垂れの両裾を帯にはさみ、そのなかへ取っては入れ取っては入れする。いっぱいになると篭に入れ、篭を背負って帰り、戸板かヨシズにひろげて干したのである。一番綿、二番綿、三番綿と、彼岸過ぎて秋深まる頃まで収穫はくりかえされた。
綿の栽培は施肥や管理の上手下手で収量と品質に大きな差が出た。栽培技術ばかりでなく、十分な資金と労働力を必要とした。これらを総合する経営力を綿作農民は持たなければならなかったのである。
河内木綿の研究に半生を打ち込んだ武部善人氏は、河内木綿の旺盛な生産増進について次の二つの要因を挙げている。
(1) 河内の国で木綿が最も濃密に栽培されたのは生駒山脈南部の大阪平野側の山麓から平野部にかけてであるが、この地帯には古代に錦部または錦織連の帰化工人が集住して、綿帛の機織や染織の技術を伝えてきた。
(2) 宝永元年(1704)の大和川切り替え工事によって、旧大和川流域に約一千ヘクタールの新田が開発され、ここへ主として綿が栽培された。大和川の切り替えが河内木綿の発展に大きく貢献した。
歴史学者らは、近世の比較的早い時期、つまり寛文・延宝期(1661〜80)から元禄期(1688〜1703)にかけての十七世紀後半に、日本の農民の暮しに「経済余剰」が生まれていたと判断している。これは江戸時代の全期間のなかで起きた最も重大な変化である。その背景に、さまざまの出来事を挙げることができる。長い戦乱の時代が終わって「天下泰平」の世に入ると、諸国の領主たちは農業振興に力を入れた。戦国時代に土豪(在地小領主)の手で始められた新田開発は、江戸期に入ってからも勢いに衰えを見せず、四代将軍家綱の治世まで諸藩は各地で堤防修築や用水路の開削によって平野部の開発を積極的におしすすめた。江戸時代初頭1600年頃に百六十万町歩であった全国耕地面積は、江戸時代中期の享保五年(1720)に二百九十七万町歩にまで拡張されている。もちろん、新田開発は幕府や藩主たちが農民からより多くの年貢米を徴収するための方策だが、後には、農民へ「小農経営」を作り出す基盤を提供することになった。
山野の開発をあまりに進めすぎたため治水が悪化したのを反省した幕府は、寛文六年(1666)、「諸国山川掟」という法令を出して新田開発にブレーキをかけた。ここで日本の農業は大きく方向転換した。規模拡大主義を捨てて「集約型農業」を育てることに精力を注ぐようになったのである。集約型農業というのは、家族労働力を主体とし、米作を中心にして色々な作物を同時に並行して栽培し、あわせて家畜を飼育するという日本独特の複合的な農業経営を言う。そこでは栽培管理の緻密さが重んじられたので、一口に言うと、労働力を多投する園芸的農業が発達した。そして農業技術にさまざまな改良が加えられた。深耕用の備中鍬《びっちゅうぐわ》、脱穀能率を高める千歯扱《せんばこぎ》、穀物を選別するのに便利なとうみ唐箕や千石 などが考案されて普及した。灌漑に踏車の水車が使われるようになったのも、この時代からである。さらに農民は、自給肥料(草木灰、家畜糞、人糞尿)にくわえて魚粕や油粕のきんぴ金肥(購入肥料)を積極的に取り入れるようになった。 
これらの潮流のなかから数多くの「商品作物」の栽培が各地で開始された。桑(養蚕用)、麻・木綿(衣料原料)、油菜(灯油原料)、楮《こうぞ》(製紙原料)、野菜、たばこなどだが、とくに出羽の紅花《べにはな》、駿河・山城の茶、紀州の蜜柑、備後のいぐさ藺草、阿波のあい藍といった特産品がつぎつぎに誕生した。農業技術の進歩が米の生産性を高めて貢納率を相対的に低下させるとともに、商業的農業の発達が貨幣収入を増やして農民に「経済余剰」をもたらしたのである。生産物は貨幣を媒介にする社会的交換の場(すなわち市場)へ送り出すことによって、価値を幾倍にも増大させる可能性を持つ。技術の向上と貨幣経済の発達が人々の眼を「価値増殖」へ向けさせる段階へ社会を成熟させていった。 
「コメの経済」と「貨幣の経済」の格闘
徳川幕閣の代々の為政者は「祖法墨守」(家康公の遺訓を守ること)と「農本主義」を金科玉条とした。そのなかでただ一人異色の「エコノミスト」は、家治の治世(1760〜86)に側用人から老中にまで取り立てられて幕政の実権をにぎった田沼意次《たぬまおきつぐ》である。意次が経済閣僚としてすぐれた着眼と手腕をそなえていたことは、「明和五匁銀」と「南鐐二朱判」の二種類の貨幣を新鋳造して国内通貨の一元化を図ろうとしたところに現われている。どちらも銀で作った貨幣だが、貨幣価値を表面に刻印した計数貨幣である。それまでの秤量貨幣である銀をしりぞけて「金」と「銀」の交換比価を定位させ、「金貨」と「銀貨」が直接的に連動する通貨体系を実現しようとしたのである。この政策は日々の金、銀の相場変動で利鞘を稼ぐ大阪の両替商の猛反対と抵抗に会い、二つの貨幣はどちらも発行後数年で姿を消すが、通貨安定と経済発展に適合する近代的貨幣の先駆けであった。意次の経済政策は享保の改革に見られる吉宗の殖産興業政策を継承して、それをさらに発展させようとするものであった。元禄期いらいの商業の発達に着目して、そこに新しい財源を見出したのである。ただし商人の成長が幕府の基礎をゆるがせることのないよう、商人に営業の自由は許さなかった。株仲間という「業界団体」を活用して商業を統制した。営利事業を企てる者は株仲間を結成し、冥加金《みょうがきん》あるいは運上《うんじょう》と呼ぶ上納金を幕府へ差し出すことを申し出て、株仲間による営業独占の特権を与えられた。大阪や江戸の株仲間の多くは田沼時代に結成されたものと記録されている。上納金と引き替えに特権を与える商業振興策は、安易に流れて幕政の腐敗と幕吏の不正を生んだ。募る社会不安と天明の大飢饉(1783〜87)の災厄のなかで意次は失脚し、閉門と所領没収を命じられた。意次の業績には印旛沼・手賀沼の干拓事業、長崎俵物貿易の振興策、蝦夷地の開拓とロシア貿易の計画があったが、いずれも意次の失脚で頓挫した。
田沼意次と聞けば「わいろ」を連想し、田沼政治を江戸期通じての一大悪政と見るのが歴史の常識だが、彼は時代の悪弊をすべて一身に背負わされた人物のように見える。徳川幕府を作ったのは圧倒的な軍事力である。そして、それを盤石の体制に固めたのは、家康が遺した莫大な量の金銀と幕府直轄領として押さえ込んだ各地の金山、銀山であった。しかし綱吉が五代将軍職に就く延宝の頃には、さしもの家康の遺産もほとんど食いつぶされており、また金鉱・銀鉱は枯渇しようとしていた。あとは、天領約四百万石から上る年貢米が幕府の唯一の財源である。他方、諸藩の財政もこの頃から窮乏し始めて、幕藩体制に亀裂が入り出していた。田沼意次が幕政に登場するのは、この閉塞状況が現れてから数十年後である。利権を獲得しようとして策動する商人たちを許容し、大胆かつ放漫に産業経済の振興策を推進する意次の政治姿勢は、貨幣経済が発展するなかで石高制に基盤を据える幕藩体制に身を挺して苦闘する財務家の姿であった。それは「コメの経済」と「貨幣の経済」の格闘そのものであった。 
都市商人と農村生産者の争闘の歴史
白木綿はもちろん、半成品のくりわた繰綿も商品性の高い生産物として流通する。大阪では、江戸初期の寛永年間(1624〜43)に綿商人が出現して、木綿の流通機構を形成した。当時、大阪町奉行所へ江戸へ白木綿や繰綿を積み出す「江戸綿買継積問屋仲間」と「三郷綿仲間」の二つが届け出て公許を受けていたが、三郷綿仲間は1畿内はじめ諸国から繰綿を買い入れて、これを北国や西国の遠隔地へ積み出す問屋仲間、2繰綿を買い入れて問屋へ転売したり地元小売へ販売する仲買仲間、3問屋や仲買から繰綿を買い入れて綿を打って小売りをする小売・綿打ち仲間―――の三業態に分かれてグループを作っていた。後に、1の問屋仲間がグループから分かれて独立し、「三所綿問屋仲間」と称するようになる。
さらに宝暦十年(1760)、大阪と堺に繰綿の先物取引をおこなう「繰綿延売買会所」が設立された。綿にかぎらず米、油、肥料、塩などあらゆる商品について商業規模が拡大すれば、「延買い」と「延売り」の信用取引が発達する。大阪市内の綿問屋は綿作農民へ納税期に先銀を貸して先物を買い取ったり、地方の仲買へ買入資金を融通してまだ到着していない綿荷を売り出したが、この延売買で「資本」を安全かつ円滑に運用するため、当然、いつでも先物売買の取引相手を見つけることのできる場所、すなわち「会所」を必要とした。
他方で、十七世紀後半から十八世紀に入って摂津、河内、和泉一円に綿作が広まると、堺、八尾、久宝寺、富田林などの在郷に集荷組織が発達し、綿作農民のなかから半農・半商の綿商人が生まれた。河内木綿を中心とする畿内綿作・綿業の発達史は、生産者と流通業者の抗争の歴史である。それは都市と農村(在郷)の争いという構図であった。たとえば大阪平野郷では享保の頃から農民の副業としての綿繰りが盛んになり、それによって在郷綿商人の形成がうながされたが、これに対抗して大阪市中の綿問屋は明和九年(1772)に繰綿延売買会所の支所を平野郷に設置し、在郷商人を排除して綿作農民から直接実綿や繰綿を買い取る体制を整えることに成功した。綿の信用取引が一般化すると、資金力のある綿問屋が価格形成力を完全ににぎることになる。綿作農民たちは綿延売買会所へ攻撃の矛先を向けた。安永六年(1777)十一月から翌七年一月にかけて河内国村々の庄屋、惣代たちは、三回にわたり、連名で綿延売買会所廃止要求の訴えを奉行所へ起こした。近年綿の延売買が膨張したため「正綿」(現物)の荷動きが低下して産地安値に貼り付いてしまった。このままでは百姓は御年貢を納める銀の調達に差し支えることとなる。恐れ多いが会所での延売買を禁止していただきたい、というのが訴えの主旨である。農民の訴えが再三におよんだので、天明七年(一七八七)から八年にかけて、大阪町奉行所は大阪と堺の綿延売買会所を廃止した。
もう一つの大事件は文政六年(1823)の摂津、河内の綿作農民による「こくそ国訴」であった。国訴とは江戸時代の農民闘争のなかでその規模が村を越えて郡や国にまで拡大した運動をいうので、訴訟という合法的手段に訴える経済闘争である点で、一揆や暴動とは性格が異なる。文政六年五月、摂津、河内の千七カ村にまたがる綿作農民が三所綿問屋仲間を非難して大阪東町奉行所へ提訴した。近年、三所綿問屋が村々へ入り込み、問屋株仲間の公許をタテに取って他国から出入りする綿商人を排撃し、また在郷商人を系列支配下におさえこんで他国への直接販売を禁止し、勝手に綿の値段を買い叩き、自分の過重な口銭を上積みする。摂津、河内の百姓たちは、わずか十数軒の問屋にひきまわされて難儀している。いままでの商慣習どおり近国、遠国のどこへでも手広く売りさばけるようにして頂きたいと訴えた。恐れながら、このままでは年貢納入に差しさわりがあるというのは、農民が上訴するときの常套句だ。三所綿問屋十八軒のさしだす冥加金と摂津、河内千七ヵ村の年貢のどちらを取るのかと迫ったのである。奉行所は三所綿問屋仲間の弁明を聞いた上で、七月に農民代表を呼び出して「以後農民の綿売買は勝手次第」と申し渡した。
綿作農民と在郷商人の共同戦線は都市の綿問屋仲間から大きな譲歩を勝ち取ったが、その背景に、木綿生産の全国的展開と流通勢力の交代という時代の流れが働いていた。元禄期まで畿内は全国随一の綿作地帯であり、大阪はそれの一大集散地であったが、木綿需要が広まるにつれて畿内から各地へ先進技術が伝播され、まず木綿加工業が興り、ついで綿作がおこなわれるようになった。綿作に長い伝統を持つ東海地方は刺激を受けて、「伊勢木綿」「尾張木綿」「三河木綿」などの特産品を産み出していった。また播磨や讃岐、備前。備後、安芸、周防など瀬戸内海沿岸の中国筋、四国筋へ綿作と綿業が広まった。さらに木綿の最大需要地である江戸についても、関東各地にいくつかのローカルな産地が形成されて、その分だけ大阪への依存度を低めたのである。さらに江戸中期以降、財政悪化に苦しむ諸藩は「殖産興業」を旗印に掲げて特産品の育成を奨励したが、領内生産力のもたらす経済効果を独占してブロック経済圏を確立しようと努めたから、この方面からも大阪市中の特権商人は自らの基盤を脅やかされることになった。 
「営業の自由」を獲得できなかった
間隙を縫って打って出たのは河内国の八尾、富田林などで古くから「木綿仲買渡世」を続けてきた在郷商人である。彼らは実綿や繰綿でなく、製品になった木綿を村々で買い付け、大阪市中の問屋を通さずに近江、若狭、加賀、能登、越中、越後まで売りさばくようになった。享保十九年(1734)に八尾に木綿屋が七十六人いたが、幕末の頃には百八十四人の多数にのぼっていた。また木綿問屋十人が営業していた。彼らの出自は地元の綿作農民であり、はじめは半農半商の形態で繰綿買いに手を付けたが、株仲間を作って力をつけながら綿の集荷組織を形成し、市中問屋へ結びついて産地仲買の立場を手に入れた。彼らのなかのある者は、地元の機織りが盛んになると、扱い商品を繰綿から綿布へ切り換えることによって大阪の買い占め問屋の手かせ足かせを逃がれ、在郷の木綿問屋として頭角を現わした。武部善人氏によると、河内国随一の在郷商人として知られた八尾の木綿問屋「綿吉店」の木綿売上量は、宝暦九年(1759)に二万一千反であったが、江戸時代後期の文政九年(1826)に五万二千反、幕末期の元治元年(1864)には七万九千反に達している。在郷木綿問屋の繁栄は、組仲間の自粛統制、新規参入の厳しい抑止、公儀権力への恭順など数々の苦労の積み重ねの上に築かれたものである。
江戸時代の農民が綿作はじめ各種の商品作物の栽培に情熱を注いだのは、それらの反当り収益が稲作にくらべてはるかに大きかったからである。綿作の場合、油粕や魚粕の「金肥」を稲作の約二倍畑に入れ、しかも八十八夜の種まきから秋の綿実取りまでに、これも稲作のほぼ二倍の労働力を投入しなければならなかった。しかし綿作の土地生産性は稲作の二倍あった。『八尾市史』によって武部善人氏が試算したところによると、元治元年(1864)河内国渋川村での米と綿の収益比較は小作人の米作一反当りの地主納めを差し引いた粗利益が銀七九・五匁であるのに対し、綿作の年貢と肥料代を差し引いた粗利益が銀一六八・二匁であって、綿作の有利性は歴然としている。幕府は、はやく寛永二十年(1643)に「田方ニ木綿作り申間敷事」というおふれ御触を発しているが、農民は禁令をはねかえすようにして綿作りを広げていった。享保の頃から綿作農民は綿を売った代銀で年貢を金納するか、あるいは安価な地米や他国米を購入して貢納するようになっていた。「田方木綿の百姓勝手作り」に対して、代官は「稲作上毛」並に課税をして、農民の経済余剰を吸い上げようとする。ここから幕府の増徴策と農民の嘆願・強訴のイタチごっこが始まる。それでも農民は綿作を捨てようとはしなかった。繰綿を家内労働力で加工して木綿に織れば、さらに、倍の付加価値を産み出すからである。しかも機織りは課税を免れていた。ここに河内木綿興隆のエネルギーの源泉があった。
しかし、この経済活力は幕藩体制の深部に生じている亀裂から噴出したマグマのようなもので、繁栄の陰に混乱と貧困と没落が増大していた。木綿の商品価値の増大は、あわせて生産費用の上昇をまねかずにおかない。魚肥や油粕の肥料代金を肥料商から前借りしながらかつがつ綿作を営む下層農民は、いったん凶作や不時の不幸に見舞われるとたちまち借金返済不能におちいり、田畑を失って小作に転落した。「銀が銀を産む」世のなかで、中堅的な本百姓(高持ち百姓)の減少と無高水呑百姓の増加、および土地の兼併による大地主の出現という農村社会の分解が江戸時代後期に進行する。天明三年(1783)に東老原村の百姓十三人が家屋、土蔵、建具戸障子のいっさいを質入れして銀七貫四百匁を堺の小間物商人から借り入れたという記録が見える。一人当り銀六百匁足らずであり、三反程度の実綿収入に相当する借金であった。天明の大飢饉が全国に吹き荒れた頃の話である。当時は畿内でも、村々からの逃散、家出、失人が続出した。
武部善人氏は幕末期の在郷綿問屋の実態を伝える興味深い資料を発掘して、『河内木綿史』のなかに紹介している。それは慶応元年(1865)八月に河内国八尾地区の綿問屋六人が連判で二人の庄屋宛へ申し出た「一札」だが、武部氏による現代語訳を引用する。
〈今秋の長防征伐(1864〜66)には莫大な御入費と思います。私達は昔から木綿商をして来ていますが、冥加のため、此度金子三千両の上金(献金)を願い、なお国産の木綿反物類および木綿糸類の取締をする問屋株および仲買株ともに御免許下さるならば、年々冥加銀二十二匁ずつ上納したいということを、小堀数馬様〔代官〕御役所へ願出たいので、あなた様御二人から周旋(斡旋)して下さい。なおこのことがうまくいく、いかんにかかわらず、費用がどんなにかかっても私達が支払います〉
慶応元年というのは徳川慶喜が「大政奉還」を乞う前々年である。その頃でも、河内の綿商人たちは「御公儀」を信頼して疑わなかったのだろうか。江戸時代の豪商や豪農のなかから社会変革の担い手が登場したことはない。彼らは自分たちを一つの社会勢力に育てていくのに必要な「営業の自由」と「経営の自由」を、まだ獲得していなかった。公儀権力への恭順と組仲間の相互規制という紐帯を最後まで絶つことができなかったのである。 
華族、政商らが産んだ日本の「産業資本」
「富」とは何か。金銀財宝の蓄積を言うのではない。分業と協業とで結び合わされた健全な生産力の体系こそ社会の「富」を産み出す原資である。このアダム・スミスの洞察は人間の思想史のなかで起こった革命の一つであった。労働は富の父であり、自然はその母であると考えるスミスは、農業に発生する生産余剰を重視した。ここから引き出される「生産的労働」と「不生産的労働」の区別は後代の経済学者のあいだにさまざまな波乱をひきおこしたけれども、労働に価値の源泉を発見したスミスの思想は現代においても瑞々しく輝いている。人間社会へ不断に「富」をもたらす「生産力の体系」を築くには、貨幣が「資本」に転化されて、資本による生産が開始されなければならないが、それと同時に、あるいは、それに先行して営業の自由と経営の自由を保証する社会的条件が整えられなければならない。そして、そのような環境のなかで熟練の増大や道具の改良、生産費の低減などの企業努力が進められる。封建的支配体制と特権的仲間制度が限りなく崩壊していく過程で右のような社会的・経済的条件が熟した時に、初めて近代的な産業資本が形成される。産業資本は前期的な問屋制商業資本や高利貸資本の遺産を相続する者ではない。むしろそれらと対立し、それらの緊縛から自分を解き放ち、公然と敵対する立場を獲得して、産業資本は出発する。近世後期以降に抬頭してきた河内の在郷商人らは外形的には「マニファクチュア工場制手工業」の形態をとるまでに成長したが、その後、近代の産業経営者へ自らを発展させることはできなかった。
河内平野の綿作と綿業は、安政の横浜開港で日本へ流入し出した外国産の綿糸、綿布に圧迫され、大阪紡績会社の設立を皮切りに出現した「機械制大工業」に駆逐され、明治二十九年(1896)の「綿花輸入関税の撤廃」で息の根を止められた。
薩摩藩は慶応元年(1865)に五代友厚を英国へ渡航させて紡績機械一式を注文し、翌三年五月鹿児島紡績所を設立し、明治二年(1869)には河内、和泉の綿作地帯に着目して堺紡績所を設置した。しかし、どちらも業績は振わなかった。短くて太い国産綿花は機械生産に不向きで、良質綿糸を作ることができなかったのである。堺紡績所は廃藩置県の時に政府が買い上げ、その後民間へ払い下げられた。明治に入り木綿需要はますます増大したが、日本に近代紡績業の基礎を築いたのは渋沢栄一である。明治十四年(1881)、第一国立銀行頭取の渋沢は銀行の取り扱う荷為替に輸入綿製品の異常に多いことを発見して、由々敷き事態だと危機感を抱いた。彼は大倉喜八郎に相談し、華族、政商らを説いて回って株主を募り、資本金二五万円で大阪紡績会社を設立した。最新のミュール紡績機を十五台、総錘一万五百錘を設置し、昼夜兼行の二直制を採用して十六年七月に操業を開始した。原動機に蒸気機関を採用した。
操業開始後まもなく大阪紡績では工場内六五〇灯の照明をすべて石油ランプから電灯へ切り替えた。エジソン電灯会社(1882年設立)から発電機と電灯設備一式を輸入したのである。これによって着実に工場稼働率を高め、営業成績が伸長したので、早くも明治十七年六月資本金を五六万円に増やし、三万一千三百二十錘に設備拡張した。さらに二十年には一二〇万円に増資して紡績機と原動機に設備投資をおこなっている。大阪紡績の好況に刺激されて、明治二十年頃から大規模工場がぞくぞくと設立され出した。大阪では大阪撚糸、天満紡績、浪華紡績、摂津紡績など明治二十年代に十数社が誕生した。明治二十五年(1892)に綿糸の全国生産量五二六万貫のうち大阪府は九〇%を上回る四七二万貫の生産を上げ、綿業の中心地の地位を獲得した。その後、「東洋のマンチェスター」の異名を取る。
河内木綿が衰亡史をたどるのは明治二十年代から三十年代前半にかけてで、それは日本で「産業革命」が進行した時期と一致する。明治二十八年(1895)、八尾在の綿問屋と地主たちがカタン糸および玉捲撚糸の製造販売を目的に「日本カタン糸株式会社」を設立したが、経営不振のためにわずか三年一ヶ月で解散した。経営者たちは日清戦争後の好況で企業熱にうなされたのだが、近代紡績業が要求する資本主義的生産と合理的経営の担い手になり得なかったのである。河内平野の綿畑は野菜畑や養豚場、養鶏場に変わっていった。
河内木綿の主産品は厚手の「白木綿」であったが、江戸期中頃からは様々の縞柄の「縞木綿」が織り出されるほか、「無地紺染木綿」「型染め木綿」「筒描染め木綿」が産み出された。木綿は長着・羽織・じゅばん襦袢・腰巻・半天・前掛・足袋《たび》・浴衣《ゆかた》の衣類や夜具・蚊帳《かや》・風呂敷・座布団《ざぶとん》・暖簾《のれん》・幟《のぼり》など暮しのなかの多様な用途に普及したので、それぞれの用途に合った品質・デザインの多彩な製品群を全国へ送り出したのである。河内木綿の復元と技術伝承という課題に取り組む酒野晶子氏によると、河内木綿は丈夫で長持ちのする実用品という定評を取った。明治以後は布団の中入れ綿生産と機械紡績糸と化学染料を使う木綿織りが一部の地区で大正時代まで細々と続けられたが、「終末期の河内木綿は下級品になってしまい、江戸時代の品質と風合いを失った」と言う。松坂木綿や丹後木綿のように、独自の技術を生かして生き残ることはできなかったのである。
河内に次ぐ綿作地帯であった和泉の対応は対照的であった。外国産綿糸の流入が増えると、泉州の機織り業は機械糸(外国産糸)をタテ経糸とし、手紡ぎ糸(国産糸)をヨコ緯糸に用いる「半唐木綿」を作り出した。さらに地元の綿作がしだいに減退して原料市場を機械糸が支配するようになると、経糸・緯糸とも機械糸を用いる「全唐木綿」に生産を切り替えていった。この間にチョンコ機から太鼓機へと織機の改良発明を進める。太鼓機を買入れる資本を持たない農家は賃織りに転向した。明治二十年代に泉州一帯に綿織業のマニュファクチュア的経営が広がり、多くの零細な農民層は賃労働者に転じて働いた。織元のなかの有力者は工場制機械綿織工業の経営者へ成長した。彼らは、和泉地方の泉大津、岸和田、貝塚に進出してきた大資本企業とともに紡績・紡織の工業地帯を形成する。かつての綿畑は一面のタマネギ畑に変貌した。近代以降の大阪の郡部に都市近郊型農業が発達したが、泉大津・岸和田・貝塚・泉佐野の泉州平野一帯は第二次大戦後の都市スプロール化の開始されるまでのあいだ、タマネギの一大特産地を形成したのである。  
明治維新論は「プロクルステスの寝台」だった
「蝦夷地」と「近世大阪」の繁栄は幻と終わった。幻と書いたが、すべてを虚妄と言うのではない。「徳川幕藩体制」という巨大な虚構の中で苦闘した人間の生き死にには、真実がある。
徳川幕府が倒れ、明治維新が成立して、日本は「近代国家」への道へ踏み出した。これは、この国で歴史を学ぶ者の「常識」である。しかし明治維新の歴史的意義について歴史家たちの解釈は一様ではなく、「天皇制を枢軸とする絶対主義王制の確立」「不徹底に終わったブルジョア革命」「民衆エネルギーに支持された民主主義革命の先駆的発展過程」などさまざまの歴史観が鋭く対立している。その論議は今日にいたるまで決着していない。これら諸家の論文を読む時、私は、いつもギリシャ神話のなかにある「プロクルステスの寝台」の話を思い出す。街道筋で旅宿を営むプロクルステスは実は悪らつな追いはぎだった。彼は宿に長短二つの寝台を用意していたが、通りかかった旅人をそのどちらかへ寝かす。長い方へ寝かせて旅人の身の丈が短すぎると槌で叩いて引き伸ばして寝台の長さに合わせ、短い方へ寝かせてからだが長すぎると寝台からはみ出した足を鋸で切り取った。明治・大正・昭和の先駆的な歴史研究者たちは近代西洋史学のセオリー理論を輸入して急いで我が物にすると、その理論の枠組に合わせるように、波乱万丈の幕末維新の歴史的現象を切り取る作業を続けたのである。ただし、先人たちの研鑽に敬意を払うことを忘れてはいけない。近代史学の苦悩は歴史自体の苦悩を反映する。維新改革の実行者たちと日本の民衆もまた、プロクルステスのように振舞ったのである。
世界の歴史は古代・中世・近代という三つの時代区分で構成される。これはヨーロッパでルネサンス期に成立したパースペクティブ透視法であって、今日まで踏襲されている。ところが日本の歴史に関してはこれに「近世」がつけくわわり、中世と近代のあいだに挿入され、古代・中世・近世・近代という四つの時代区分で構成されている。もしヨーロッパ史における三分法の歴史観を正統とする立場の人がいたら、その人は日本の歴史の「近世」を一つのねじれだと考えるだろう。近代国家の成立あるいは産業革命の進展といった歴史的事実一つだけを取り上げて見ても、イギリス、フランス、ドイツ、その他のヨーロッパ諸国およびロシアでは雁行的に進行してそれぞれ固有の形態を取ったのだから、日本史に独自の時代区分を立てても別段おかしくはないのだが、しかし、日本の歴史を学ぶ上で「近世」の特質を見極めようとするのは、はなはだ厄介な問題であり、かつ最も重大な課題の一つなのである。ここに「日本の近代化論」の困難がある。  
われわれの時代は本質的に悲劇の時代である
二十世紀初期の英国の小説家、D・H・ローレンス(1885〜1930)は彼の主要な作品をつぎの言葉で書き出している。―――われわれの時代は本質的に悲劇の時代である、と。人々が悲劇を悲劇として認めたがらないこと、そのことがまことに悲劇的だというのである。
ローレンスは男と女の性と愛という根元的なドラマを一篇の小説に仕立てたいと考え、一組の男女が森のなかで情事に耽る世間離れした物語を考え出したが、恋人たちのまわりに傲慢な性的不能者、おしゃべりな皮肉屋、堪え性のないヒステリー女など、利己心が強くて非社交的な人物を配し、そして、背景にイングランド中部地方の炭坑の黒煙と夜の闇の底で燃えるボタ山の赤い火を入念に描いた。厭世的な瞑想詩人は「産業」と、それを支持する「近代合理主義」の二つを心から憎んだのである。小説の性行為の描写は、ところどころで滑稽なくらい極端であって、発表当時に英米の良識人を憤慨させたほど刺激的である。それも、自分の目に映る産業社会の奇怪な姿に対抗するうえで避けられない方法だと、ローレンスは考えたのだろう。
この冒険的な小説「チャタレイ夫人の恋人」は、主人公の驚くほど平凡な感想をもって終る。貴族の森番の職から追放され、農場に新しい働き口を見つけた男は、遠く離れた女に宛てた手紙を書く。―――愛するコニーよ、少しも心配することはない、安心していて欲しい……、いま私たちにいちばん必要なものは、忍耐と貞潔なのだ……。ここまで読んだ読者はもういちど振り出しへ連れもどされるだろう、われわれの時代は本質的に悲劇の時代である、と。
悲劇の真の作者は人間の自由意志である。不幸な神託が下ったときヒーロー英雄にそれと戦う役が振り当てられる。劇が発展するために神託は因果の鎖で彼をしばろうとする。いよいよ破局のとき、彼は、屈服するかわりに自由意志の命ずるとおりに戦いつづけ、破滅または死を選ぶのである。宿命論を断固としてしりぞける高邁な態度に、実は、ある徹底した素直さ、恭順がかくされている。そこに、観客は神へ向ける供儀を見出すのである。彼らは舞台の上の不幸な出来事に涙を流したあとで、拍手し、安心する。
ところで自由意志など、誰も手にとって見た者はいない。それをそうだと気付かせるのは、厳密な形式と抜き差しならぬ時の歩みである。人間が自由意志を発揮するためには日々の具体的な決断と行為が欠かせないので、自由は人間の内面の霊的存在とかかわりをもつだけでなく、肉体的存在や社会的な諸関係ともかかわらなくてはならない。また、その決断と行為が人間と人間の共感や交易にまで高められるためには、社会が様式とか通念とか呼んで容認している妥当な判断基準が用意されなければならない。つまり人間の自由は、人々が共有する世界観と歴史観の複合型式のなかで孕むことと肉化することの二つのクリティカルな段階を通過し得て、はじめて実現されるのである。悲劇を悲劇と観ずるのは、不幸な出来事に一つの統一的な意味を与える人間の自由な精神の働きである。もし現代が本質的に悲劇的であるというなら、それは世界の動揺があまりにも激しいために悲劇を生み出すに足るだけの共感の型式を見失ってしまったということになるだろう。
「近代化」の発祥地は西欧だが、それがすでに汎世界的な運動として展開されていることは誰の眼にも明らかだ。近代文明の最大の発明品は政治イデオロギーと科学テクノロジーの二つであった。二つとも人間の個人的体験を捨象する非人格性を特徴としており、それによって今日見るような普遍的な力を獲得したのである。西欧に発した「近代」は、極度に抽象化され、緻密に体系づけられた世界観と歴史観を基底に据える文明であった。まさにそのために「近代」は西欧世界の枠を越えて世界へひろまった。しかし、それは、初めがあれば終わりもあるというキリスト教的終末観の徹底したセキュラリゼイション世俗化である。啓蒙主義もマルキシズムも実存主義も、みんな右の「近代」の定義のなかにおさまる。わが国の思想界は、この「近代」に包摂される一元論的世界観・歴史観と日本人はどう対決してきたか、それを問わなければならない。
洋の東西を問わず、中世は、古代から神を受け継いだのである。神を世界の外あるいは歴史の外の定った位置に据え、人々がそれに服することによって天上界、地上界すべての存在の秩序を体系づけた時代であった。聖と俗をきびしく区別することで世界と歴史に一つの形態を与えたのである。俗界は儀礼と暦によって構築され、人々はそのなかであらゆるものを産み、育て、葬り、すべての収穫と分配をおこない、あるいはそこから出発し、そこへ回帰した。
これに対して近代は、厳密には西欧における近代は、神から離脱して人間の自律性を確立しようとした時代であった。神の啓示を傍へおしやり、それにかえて人間的な価値体系を構築しようとした。政治、学問、経済、芸術などすべての分野が公然と掲げた人間の自律性は、自然・理性・法則の三つで保証されるべきものであった。すなわち、価値は数えたり量ったりできるものに変わったのである。したがって「近代」の基礎を築いた宗教改革、市民革命、そして産業革命は、いずれも非可逆的な進行といささかも仮借ない変革を特徴とした。
D・H・ローレンスは「近代」が産んだ機械文明を憎悪し、そこから派生するものに冷酷なメカニズムと飽くことのない欲望の二つしか認めなかった。まるで頭上から屋根が崩れ落ちるように世界は崩壊したと感じたのだが、しかも彼は生きることを願い、そのために優しさと触れ合い(touch)を求めたのである。
少し荒っぽいが、人間社会の歴史を「プレ・モダン前近代」と「モダンエイジ近代」の二つに分けて考えることにしよう。ただし、私は「ポスト・モダン後近代」というアイデアは眼中に入れない。人類の歴史的体験のなかで「近代化」は大分水嶺になる。「近代化」の実体にせまるには、宗教・政治・経済・文化など様々な方面から多面的な接近を試みなければならない。少なくとも次の四つの諸相について考察を加えないでは、過去数百年間この地球上を徘徊している怪物の正体を見失うだろう。
(1) 宗教と民族性の関係について
(2) 権力者と民衆の関係について
(3) 自然と生産の関係について
(4) 文化様式と人間類型の関係について
四つのフェーズ位相が一つの形態にまとめられて、はじめて人間社会の存在形態が固められるのである。いわゆる「近代化論」の多くは(2)の政治と(3)の産業・経済の分析に議論を集中させてきた。(1)の宗教と(4)の文化を傍景にしりぞけてきたきらいがある。その場合、非人格的な発展段階説がまるで"デウスエクスマキーナ機械仕掛けの神"のように登場して、過去と現在を裁き、未来を方向づけるのである。そこにローレンスが激しく求めた「優しさと触れ合い」を受け入れる余地はほとんどなかった。
事実、「近代的工業は、けっしてある生産過程の現存形態を最終的なものとは見なさず、……生産の技術的基礎とともに労働者の機能および労働過程の社会的結合をたえず変革する」(マルクス)という考えを否定することは、はなはだ難しい。
私たちは人間の精神と情念に関する思索を取り戻さなければならない。そうすることによって、「近代化」の本当の担い手である「民衆」が見えてくるだろう。そして歴史、政治、経済の側面からだけでなく、宗教と文化の側面からも迫らなければならない。ただし、人間の「産業社会」と自然の「環境」とのあいだに調停が成立するまでには、少く見積っても五十年や六十年はかかる。 
近代国家づくりの「パイロットファーム実験農場」
北海道は「近代国家日本」の大きなパイロットファーム実験農場であった。北海道開拓使や札幌農学校で始まる「農業国」の建設をせいし正史とするなら、民間資本が政治権力と手をにぎって強引に進めた「水産国」の開発ははいし稗史になる。
かつて北洋漁業は「水産王国北海道」を象徴した。北洋漁業とは北太平洋およびベーリング海、オホーツク海を漁場にする遠洋漁業で、サケ・マスながしあみ流網漁業とスケトウダラそこびき底曳網漁業が代表格であった。最盛期の昭和四十八年(1973)に北洋漁業は約三百万トンを漁獲して国内漁業総生産量千七十六万トンの三割を分担している。他方、世界では海洋に関する新しい国際秩序を構築しようとする動きが始まっていた。1958年から82年まで二十四年にわたって続けられた国連海洋法会議は、1973年から82年まで開催された第三次会議に入って大詰めを迎える。会議は難航したが、「人類の共有財産である海洋資源の公正・公平な利用」を訴える発展途上国の主張が受け入れられて、1982年十二月に採択された「国連海洋法条約」には〈領海十二カイリ〉と〈沿岸二百カイリの排他的経済水域〉が設定された。同条約は一九九四年十一月に発効している。「父祖たちが血と汗で開拓した北洋漁場を守り抜け」が日本水産界の与論であり、海洋法会議で日本政府代表は公海自由の原則に立って〈領海三カイリ〉を主張し、日本遠洋漁業の長年の実績を強調したが容れられず、孤立した。昭和五十二年(1977)から「二百カイリ体制」が現実化したので、米国、カナダ、ソ連との二国間漁業交渉のなかで日本の操業水域は年々縮小され、母船式トロール漁船や母船式サケ・マス漁船はつぎつぎに撤退した。
たしかに北洋漁業の歴史は古い。十八世紀の終り頃、松前藩から場所請負人の免許を受けた商人が樺太(カラフト)に漁場を開いている。明治八年(1875)、維新政府は帝政ロシアと「千島樺太交換条約」を調印したが、このなかでロシア側は日本人がオホーツク海沿岸およびカムチャッカ半島沿岸のロシア領に入漁する権利を認めている。日本人の漁業技術を利用して極東沿岸の開発をすすめようというロシア政府の意図がこめられていた。しかしロシア企業家の極東進出が増えると、ロシア政府は特定漁区に関して経営者、漁民ともロシア国民に限定することを規定したり、漁区租借料の決定に競売を導入して価格を吊り上げるなどして日本人の入漁に圧迫を加えるようになった。
いわゆる「露領漁業」の基礎の固まるのは日露戦争後である。明治三十八年(1905)八月、米国ポーツマスで調印された日露講和条約には、「ロシア国は日本海、オホーツク海およびベーリング海に面するロシア領沿岸において日本国民に漁業を許与することを日本国と協定する」という条項が盛り込まれた。これを受けて明治四十年(1907)七月、日露漁業協約が締結される。これに基いて日本の漁業者は日本が領有することになった南カラフトだけでなく、広大なカムチャッカ半島の東西両海岸やオホーツク海沿岸で借区料を支払って公然と操業できるようになった。主な漁獲物はサケ・マスとニシンである。
露領漁業の成立とあい前後して明治四十年、根室の漁業者有志が北千島の漁業開発にとりかかった。最初幌筵島でタラはえなわ延縄漁を操業してぼうだら棒鱈を南米へ輸出したが、後にサケ定置網漁やカニ刺網漁へ発展して缶詰工業を現地に興した。これを「北千島漁業」と呼ぶ。
さらに大正末期から昭和の初めにかけて、公海上で操業する「母船式カニ漁業」と「母船式サケ・マス漁業」の二つが開発された。カニの沖取り操業は大正十年に北千島沿岸のカニ漁業者が第一次大戦後の不況で生じた過剰船腹の転用を目的として試験操業をおこなったのがきっかけである。大正十二年(1923)以降、経営者と出漁母船が急増し、昭和五年(1930)に十三経営体、二十六隻に達した。また「母船式サケ・マス漁業」の開発の背景にはロシア革命(1917)による体制変化が働いていた。革命後のソ連国営漁業の極東進出増大にともない、露領漁業のなかで日本漁業者の租借区が減らされる傾向が強まったので、それに対抗して日本側ではソ連の領海外でサケ・マス回遊群を沖取りしようとする動きが現れたのである。すでに大正三年(1914)いらい水産講習所実習船「雲鷹丸」が三度にわたりサケ・マスの沖取り操業の実験をおこなってフィージビリティ実現性を確かめていたが、昭和四年(1929)日魯漁業が母船二隻を出漁させて企業的成功をおさめた。昭和八年から他社も参入して十社、母船九隻が操業した。だが公海上の母船式操業といっても、母船は距岸二十カイリ前後の地点に投錨し、川崎船と呼ぶキャッチャーボートは距岸四〜五カイリの水域まで入り込んで網を建てる。しかも日本は「領海三カイリ」、ソ連は「領海十二カイリ」を主張していたので、たえず漁場紛争が生じた。そこで、漁期中は、日本側は青森県大湊の海軍基地から駆逐艦または特務艦が出動し、ソ連の監視船を威嚇して操業船団の護衛に当たったのである。
露領漁業・北千島漁業・母船式カニ漁業・母船式サケ・マス漁業――この四つは歴史的な脈絡を持って重畳的に形成されたもので、明治いらい第二次大戦前までに築かれた北洋漁業の全体である。その中でかなめいし要石となる露領漁業については「日露戦争で戦った十数万将兵の血潮であがなわれた国家権益である」という観念が生まれ、国民的常識を形成していた。
露領漁業を開拓し発展させることに努めた経済主体は何者であったか。初期にオホーツク海をのりこえてカムチャッカへ出漁したのは、北海道南部と日本海沿岸の東北、北陸諸県の中小資本家たちだった。一部の北前船船主や海産問屋、回漕業者など、いわゆる「前期的商業資本」が主体である。零細な沿岸漁業者に漁区租借料、漁船購入費、労賃など多額の資金を準備する力はなかった。しかし、第一次大戦中の好景気と戦後の不況・ロシア革命・昭和経済恐慌と次々に襲いかかる環境の激変動をしのいで企業の独立自営を守り抜くことは至難の業である。大正中期から昭和初期にかけて企業の集中合併がくりかえされて、サケ・マスについては日魯漁業が、カニは共同漁業(日本水産の前身)が北洋漁場を独占的に支配する体制が作られ、中小漁業者は両社の系列下におさめられた。ついこのあいだまで、日本では数社の大水産会社が遠洋漁業を牛耳って水産界を主導していたが、その基本構造は第二次大戦前の北洋漁業においてできあがっていた。
特筆すべき人物は日魯漁業の創業者、堤清六(1880〜1931)である。堤は新潟県三条町の呉服商の子に生まれた。青年時代に貿易商になろうと、少しばかりの雑貨をかついでロシアへ渡ったが、アムール河々口の町で生涯の盟友となり、後に自分の後継者になる平塚常次郎(1881〜1974)と出会う。平塚は、そこでムシロ小屋を立てて漁撈と買魚を営んでいた。平塚から北洋サケ・マス資源の無限の可能性に眼を開かされた堤は、郷里の町へ帰ると父の清七、伯父の清吉をはじめ親類縁者を説得して回った。一万二千五百円の元手を手にした堤清六は新潟市の伯父の家に「堤商会」の看板をかけたのである。明治四十年(1907)六月四日、漁業用資材と買魚用商品を積み込んだ西洋型帆船「宝寿丸」(一六三総トン)は、新潟港信濃川西突堤からカムチャッカへ向けて出航した。上乗りをする船主堤青年は二十七歳、平塚青年は二十六歳だった。
堤清六の特徴は、近代的な企業家精神にある。鋭い先見力と果敢な実行力で現実に立ち向い、困難や危機のなかからチャンスをつかみとった。第一回の出漁で約三万尾の魚を新潟へ持って帰ったが、紅ザケが多く混じっていたので魚問屋は買い叩き、かろうじて赤字をまぬがれる成績だった。日本人が好んで食べるのは塩蔵の白ザケで、紅ザケはあまり歓迎されなかった。ある日、カナダ産サケ・マスの缶詰がヨーロッパ市場を独占しているという知識を仕込んできた平塚が「紅ザケを缶詰に加工すればロンドン市場へ売り込むことができる」と言った。これを聞いた堤は、紅ザケ缶詰の製造へ踏み出す決意を固めた。伝統的な塩蔵サケをもって狭い国内市場へ食いこんでいく戦略を捨てたのである。明治の日本で缶詰は売れない。あくまで国際市場へ打って出ることに社運を賭けた。
明治四十一年、四十二年とカムチャッカ出漁を続けながら、堤は自分の構想を具体化する努力をした。まず東京越中島の水産講習所(東京水産大学の前身)を訪問し、製造科主任の伊谷以知二郎に質してカムチャッカ産の紅ザケは缶詰原料魚としてアラスカ産やカナダ産のサケに優るとも劣らないことを確かめた。堤は自分の計画を伊谷に打ち明けて、自分を支援してくれるよう請うた。明治四十三年(1910)五月、伊谷の指示を受けた水産講習所製造科教官の鍋島態道は、二人の技術者と職工十数人をつれてカムチャッカに渡った。堤商会の漁区の浜に建てられたトタン屋根、コモ囲いの工場にレトルト蒸釜ほかの缶詰製造機械を据え付けた。この機械は自動巻締器を持たず、缶のフタを手でハンダ付けして閉じるという原始的方法を用いたが、露漁場に日本人による最初の缶詰工場が誕生したのである。その後、堤は逐次缶詰機械を改善しながら、先進国から最新鋭の高速自動式缶詰生産ラインを導入することを目指した。そのために米国から破格の高給で技師を雇い入れることもしている。缶詰の販売に関しては、東京八重洲町で貿易商を営む英・米資本のセール・フレーザー商会との結び付きができた。堤商会では、塩蔵サケに用いる塩は日本塩よりも英国塩の方がはるかに品質の良いことを知り、明治四十三年から同商会を通じて英国塩を輸入するようになったが、堤は自社で使用するだけでなく他の露領漁業者たちへも同商会から英国塩を輸入することを推奨した。セール・フレーザー商会は、これを多として、堤商会の紅ザケ缶詰をロンドン市場へ売り込むことに力を入れ、また融資をしてくれた。"あけぼの印"のサケ缶詰が日魯漁業の礎石となり、北洋漁業における産業革命を推進したのである。
第一次大戦後の不況と昭和恐慌のなかで日本では漁業資本の集中が進み、漁業独占資本が形成される。他を圧倒する勢いで企業合同を進めたのが、北洋漁業における堤清六である。
○ 大正九年(1920)「堤商会」・「輸出食品」→「輸出食品株式会社」
○ 大正十年(1921)「輸出食品」・「勘察加漁業」・「(旧)日魯漁業」→「日魯漁業株式会社」
いずれの場合も堤・平塚コンビは筆頭株主として会社支配権をおさえ経営の実権をにぎったが、合併に際して堤は自分の会社の名前を未練気なく捨てて相手方の社名を継承するとともに、相手方の社長を新会社の社長の座に据えるという斬新な手法を取った。堤清六を企業合同へ駆り立てたのは第一次大戦後の経済不況のなかでの資金難と革命後のソ連国内の混乱の二つである。群小漁業者を結集して漁区獲得の過当競争を排除するとともに、「国家権益」の旗の下に結束してソ連の社会主義企業体の圧力に対抗する以外に露領漁業の生き延びる道はない、と堤は確信した。しかし企業合同を進めるには株式取得に多額の資金が要る。大正十年の三社合併に取りかかる際に堤は時の政友会政権の原敬首相に接近して窮状を訴え、政府の保護を求めた。原は「堤商会の事業は国家に代って重要な権益を産業化したものと認める。この漁業に群雄が割拠しているのは対露関係上不利益を招くばかりだ。君等の手で完全統制の方向へ進むことが出来るなら、高橋(是清)蔵相と相談して援助しよう」と約束した。原首相の内命を受けた井上準之助日銀総裁は、特殊銀行である朝鮮銀行から一千万円の融資をおこなうことを決定する一方、三社の債権者銀行を呼んで露領漁業の企業合同を援助する見地から三社に対する貸付の償還を延期するよう勧告し、それぞれに納得させた。輸出食品・勘察加漁業・(旧)日魯漁業の三社が合併して生まれた新しい日魯漁業株式会社は、露領漁業のサケ・マス缶詰生産高の六七%を占有した。
日魯漁業を中軸とする企業合同劇はこれ以後も継続されるので、昭和六年に堤が病没したあとは、平塚常次郎をトップとする日魯首脳陣が奮闘する。ついに、昭和十八年(一九四三)の水産統制令によって、露領サケ・マス漁業、沖取母船式サケ・マス漁業、北千島サケ・マス流網漁業、北千島サケ・マス定置漁業、タラ漁業は国策会社である日魯漁業とその直系子会社の下に強制的に統合された。
昭和二十年(1945)八月十五日の敗戦で、日本の北洋漁業はすべての漁場権益と陸上の漁業施設、缶詰工場などの資産を失い、また多数の船舶を戦火のなかで失って壊滅した。昭和二十六年(一九五一)、サンフランシスコ平和条約調印によって国家主権を回復した日本は、翌二十七年に「日米加漁業条約」を締結した。北洋サケ・マス漁業が再開されることになったのである。昭和二十七年五月一日、日魯漁業・日本水産・大洋漁業の母船三隻と独航船五十隻は函館港を出航した。北洋漁業は、やがて戦前をしのぐ隆盛を見せるが、その結末は先に述べたとおりである。
第一次大戦後から第二次大戦中にかけて出現した漁業独占資本の形成には、軍事的性格の濃い「国策」の支配力が強く働いていた。漁業産業資本は「国家権益」の観念を媒介にして政治権力と手を結び、「産業報国」「勤労奉仕」を経営理念に据えて資本蓄積を進めた。しかし、それだけではない。そこには資本制漁業に固有の独占的・非妥協的な運動法則を見出すことができる。
(1) 生産の技術革新による商品価値の創造―――資本制漁業は大きな操業規模を維持するために特定の魚種を対象にし、その商品化に全力をあげる。技術革新を漁撈・加工・販売の全面にわたり遂行する。サケ缶詰、カニ缶詰、冷凍すり身などの高価格・高品質商品をもって漁撈・加工・販売を垂直的に統合し、高い市場占拠率と強い価格形成力を獲得するのである。市場価値の低い混獲物は漁獲後に洋上投棄する。
(2) 資本多投型の漁場拡大―――漁船を大型化し高性能化を図って、つねに資源豊度の高い処女漁場を開拓する。世界の海で資源豊度の高いのは大陸棚上の沿岸海域であり、遠洋漁業発展の行き着くところは他国の領海ぎりぎりのところまで侵入して漁業域を確保することであった。
(3) 漁業制度による保護―――漁場秩序を守るために政府は操業に対して種々の規制を加えなければならないが、その場合、かつての遠洋漁業では国家の制度による「隻数制限」や「許可」が、特定漁業資本が処女漁場の先取によって獲得した超過利潤を長く確保することを助けた。
(4) 前近代的な雇用と労務管理―――漁業独占資本の形成期に、漁業経営者は古い慣行にもとづく「船頭制」で労働力を集めた。戦前の最盛期である昭和十年前後には三〜四万人が北洋漁業に従事したが、漁労監督・大船頭・工場長・職長など一部の常傭管理職を除いて、あとの下船頭・おか陸まわり船頭・雑夫長・小頭・漁夫・雑夫などの現場労働者はすべて「出稼型季節労働者」であった。漁撈部門では大船頭が自分が必要とするだけの下船頭、陸まわり船頭を地元の漁村で集めると、漁夫・雑夫の雇い入れと労務管理を彼らにまかせた。出稼者のほぼ半数は渡島、桧山、後志の「ニシン不漁」にあえぐ北海道南部の沿岸漁村と函館市の貧民街の出身であり、残り半分は青森、秋田、岩手の東北各県と北陸地方の農・漁村から集まった。漁夫・雑夫に雇われる者は農家・漁家の二、三男が多く、昭和五年(1930)の統計によると、カニ工船の乗組員で二十歳以下が三三・五%、二十五歳以下では五一・四%を占めていた。
小林多喜二の小説『蟹工船』(昭和四年)は、大正十五年九月に起こったカニ工船「博愛丸」の事件を題材にして書かれたものである。「おい地獄さえ行ぐんだで!」の一句で始まる小説船内ストライキの最後の一行の文章は極めて正確な記述である。
少なくとも第二次大戦が終結するまでの期間、近世いらい日本国にとって北海道は「開拓」の対象となるフロンティアであり続けた。しかも北海道の開拓と経済発展は「内国植民地」の体制の下で進められたのである。北洋漁業全般に労働事情は似たり寄ったりの状況であったとおもうが、昭和五年のカニ工船漁夫の労働時間は五月の漁期初めと八月中旬以降の終漁期は一日十二〜十五時間で、七〜八月の盛漁期には十七〜十八時間の労働が継続された。またカニ工船の一日当り平均賃金は漁夫一円十五銭、雑夫一円十九銭で同年の函館市のガラス製造工二円、菓子製造工一円六十銭を下回った。乗船中の食事代は経営者がまかなったが、「朝食・味噌汁(芋がら)、昼食・焼き魚(鮭一夜塩)、夕食・三平汁(大根、玉葱・馬鈴薯)」というような劣悪な献立が毎日続いた。戦前の北洋漁業の労働事情は、江戸時代の場所請負人が「鰊場」で現地住民であるアイヌや「若い衆」と呼ばれる本州東北部からの出稼労働者を使役するやり方と何ら変らなかったのである。 
歴史は死んでふたたび生き返る
権力者はいずれ全て死ぬ。あらゆる支配の体制は時代とともに古びて、ついに滅亡する。しかし、歴史は死んで、そしてふたたび生き返るのである。死とルネッサンス再生を重ねて、歴史は、その面貌を現わす。人々はがれき瓦礫のなかで立ち上がって、新しい社会の建設に取りかかるだろう。そこに新しい信用関係が生まれて、新たな経済循環が働き出す。明治に入って春ニシン、北前船、河内木綿の三つは次々に滅びた。「近代国家」の建設のなかで、北海道と大阪は別々に異なった道を歩み始めたかのように見える。しかし地理と風土はそのまま動かないで存在しているのだから、かつてなかった新しい形態の連帯の生まれる可能性もまた存在する。たしかにマルクスが予言したように、近代工業が「生産の技術的基礎とともに労働者の機能および労働過程の社会結合をたえず変革する」という状況はこれからも果てしなく続けられるだろう。しかし、この変革は民衆の創造性のなかから産み出され、民衆の挑戦によって支えられるものである。その限りにおいて、発展の永続性が保証される。
いま私は取材旅行で歩いた北海道日本海沿岸のいくつかの町のことを思い返している。函館、松前、江差、小樽、札幌、留萌、稚内―――みんな歴史の光と影の陰翳を街並みに残している、魅力のある町だ。
小樽では「鮨屋《すしや》横丁」の話がおもしろかった。ホテル備え付けの市内案内パンフレットで「鮨屋横丁」を見つけたので、今夜はここで晩飯をとろうと出かけた。鮨屋が軒を並べる狭い横丁を想像したのだが、どうも様子が違う。界隈に何軒かある鮨屋のなかで大通りに面して比較的店構えの大きな、店先の明るい店を選んで入った。夜七時をまわったばかりで、長いカウンターの客は私一人だったが、背後の座敷でにぎやかな笑い声が続いていた。宵の内から繁昌していますねと聞くと、ツアー団体旅行のお客さんですと答える。私の相手をする中年の鮨職人は、鮨屋横丁の由来を話してくれた。何年か前、町の中心部にある数軒の鮨屋の親方が語らって、ひとつわれわれの店を共同で宣伝しようと決めたが、その時に「鮨屋横丁」のネーミングを作った。幸い作戦が図に当たり、各店の客足は増えた。そして、これに便乗するように周辺に何人かの鮨屋が新規出店したものだから、鮨屋横丁のイメージは定着した。観光雑誌に鮨屋横丁の名前が出るようになると、旅行会社が話を持ち掛けてきた。鮨屋横丁元祖の親方たちは協議をして、ツアーコースに組み入れてもらう提携契約を旅行会社と結んだのである。おかげで多数の一元客を安定的に獲得できるようになった。しかし話はよいことづくめではない。口数は少ないが丁寧に語る鮨職人の話をまとめると、こうなる。まず観光バス一台分の客を受け入れられるよう座敷を増改築しなければならなかった。つぎに店の売上高は伸びたが、「客単価」は逆に低下する。採算を取るために、仕込みのネタを標準化しなければならない。そうなると、口の肥えた常連さんの足が遠のく心配が出てくる。「小樽ツアー人気がいつまで続いてくれることやら。われわれ職人としては、いた痛しかゆ痒しなんだよねえ」しゅくつ祝津鰊御殿はもう古い、石原裕次郎記念館に自分は望みをつなぐ、と彼は言った。ツアー団体旅行人気というのは魔軍が通過するようなものだ、と私は思った。
鮨屋を出ると、教えられたように回り道をして日本銀行小樽支店のそばを歩いた。植込みのかげの投光器が投げかける光のなかにレンガ造りの二階建てビルが浮かび上る。重厚で優美なルネッサンス様式。赤レンガの東京駅を設計した明治の建築家、辰野金吾の作品である。小樽港は北海道開発資材の荷揚げ場として明治五年(1872)に埠頭が築かれた。ついで、石狩炭田が開発されると、札幌〜小樽間に道内最初の鉄道が敷かれて石狩炭積み出し港として活動し出す。さらに、日露戦争後に日本が樺太(サハリン)を領有すると、小樽港は特別輸出港として一挙に港勢を伸ばした。これより先、明治三十五年(1902)に小樽港の移出入貨物量は函館港を抜いて道内トップに立つが、これを契機に日本銀行はそれまでの小樽派出所を小樽支店へ昇格させたのである。市内には昔の盛況をしのばせる古い建築物が他にいくつも残されている。
日本列島のなかでいちばん広大で、豊かな自然と資源を抱える北海道では、ときどき魔軍が通過する。それは、ある時期に驚くほど巨大な富を町にもたらすが、魔軍が風のように去った後に癒しがたい傷痕を残すのである。バブル景気のあとに生じた平成九年の北海道拓殖銀行の破綻は地元企業の連鎖倒産をまねいただけにとどまらないで、道内の人々の心に痛手を負わせた。これも魔軍通過のしるしだろう。さもあらばあれ。町が衰退しても、人々が誇りを持ち続けるなら、江差の松村隆さんが語ったように町は小さくても輝いて生きる。郷土を愛して暮らす人々がいるかぎり、歌は残り、また新しい歌が生まれる。時たま人と行き交うだけの広くて明るい夜の舗道は、私の心を落ち着かせた。
ああ一人残した 小樽の人よ
霧笛がむせぶ フェリーあざれあ
口から出まかせの歌を低く歌いながら、私はホテルへ戻った。
明治に入って日本国は「上から」の産業革命をおしすすめ、「上から」の政治・社会の近代化を図ってきた。今日までの日本の「近代化」は偏頗であり、社会の公平を欠いたものである。しかし戦争と敗戦の惨禍を体験して、私たちは、どのような権力構造をもってしても根絶やしにできない日本人の人格構造をそこに見出している。人格の本質は「自由」であり、それを守るのにいちばん必要なものは、お互いの忍耐と貞潔、そして勇気なのだ。いま日本人は政治・経済・社会・文化のあらゆる分野で「国際的自由化」の試練に立たされている。して見れば、日本の「近代化」は、緒に就いたばかりだと結論してさしつかえないのである。    〔完〕 
 
上野国上州利根郡奈良村の歴史

 

伊奈良村 / 群馬県の南東部、邑楽郡に属していた村。万葉集の東歌の一「上つ毛野伊奈良の沼の大藺草」の伊奈良沼はここに有った伊奈良沼の事。1889年(明治22年)4月1日 町村制施行により、岩田村、板倉村、籾谷村、内蔵新田が合併し伊奈良村が成立する。1955年(昭和30年)2月1日 西谷田村、海老瀬村、大箇野村と合併し板倉町となる。 
大昔
BC660年 / 初代天皇の神武天皇即位(伝説―古事記・日本書紀)。
BC150年頃 / 100余りの倭人国があり、前漢に朝貢していた(漢書地理志)。
BC57年 / 新羅(朴氏新羅。朴氏・昔氏・金氏の3氏の新羅王族がいてそのうちの1つ)が前漢から自治権を得て建国(伝説―朝鮮三国史記)。新羅は秦の亡命者が造った国と言う(後漢書)。
BC50年 / 新羅の建国の重臣として倭人瓠公(ホゴン、ココウ)の名が現れる(三国史記)。
BC37年 / 高句麗が前漢から独立して建国(伝説―三国史記)。ツングース系民族による国家で前漢が満州南東部に置いた高句驪県に由来し夫余国の王族の朱蒙(チュモン)が建国したという。
BC18年 / 百済建国(伝説―三国史記)。高句麗の始祖朱蒙の子が南進して建国したという。
AD42年 / 百済から伽耶(金官国等の小国家群からなり倭人文化圏であったという)が独立。
AD57年 / 倭奴国の大夫が後漢の光武帝から金印「漢委奴國王印」を授けられる(後漢書)。昔氏新羅が立国(伝説。王の出生地は日本列島兵庫県但馬あたりという)。
107年 / 倭国王「帥升」らが後漢の安帝へ生口(奴隷又は留学生?)160人を献じた(後漢書)。
110年頃 / 日本武尊の東征、上州武尊山中腹の武尊神社など伝説多数(沼田町史、但し第12代景行天皇の王子・第13代成務天皇の兄・第14代仲哀天皇の父で空白の第4世紀の頃とも言われる)。
2世紀中頃 / 倭国の大乱あり(魏志倭人伝、後漢書。後漢も184年黄巾の乱後衰退して魏呉蜀三国時代へ)。
174年 / 倭の女王卑弥呼が新羅に朝貢(三国史記)。
239年 / 邪馬台国卑弥呼が魏の民帝に生口10人献じた(魏志倭人伝)。
243年 / 邪馬台国卑弥呼が魏の少帝へ生口を献じた。
248年 / 邪馬台国台与が魏に生口30人を献じた(魏志倭人伝)。
266年 / 邪馬台国台与が西晋に使者を派遣した(晋書)。
(この頃までが渡来人倭国移住:第1の波)。
3世紀後半 / 第10代崇神天皇によるヤマト王権の始まり(実在したとされる天皇の初代で未確定、BC1世紀との説もあり)。この頃から前方後円墳の築造始まる(大和を中心として九州、出雲・吉備、関東、朝鮮の伽耶(加羅)など)。
崇神天皇は皇子の豊城入彦命に東国の治定を命じたが、豊城入彦命は東国には至っておらず、孫の彦狭島王が東山道十五国都督に任じられるも赴任途上で死亡、東国に赴いたのは其の子御諸別王(ミモロワケオウ、豊城入彦命の3世孫(曾孫))が最初とされ、東国の統治に善政を敷いたという(日本書紀)。豊城入彦命・彦狭島王・御諸別王の墓は上野国にあるとも言うが今なお見つかっていない。
昭和村森下の久呂保村御門塚は豊城入彦命の墓とも言われていたが片品川の決壊により流失して今はもうない。森下古墳群の鏡石古墳、月夜野町三峰神社裏古墳は榛名山二ツ岳噴火の前のもの(489年より前)という。
321年 / 第14代仲哀天皇崩御、その皇后の神功皇后摂政となる(日本書紀では201年。これから〜269年の69年間在位)。(日本書紀の紀年は未だ確定されておらず干支によるため60又は120年の差違があるという)。
(仲哀天皇は日本武尊の第2皇子とも言われており、皇后の神功皇后が新羅を討てとのご神託を受けたのを真に受けず再び逆らう九州討伐に向かい逆に殺されてしまったという。仲哀天皇死後熊襲は自ら服属してきて神宮皇后が新羅征伐から戻り応神天皇が生まれたので皇子の応神天皇の父は熊襲との説もある。この頃九州は熊襲国(狗奴国(肥後国)+投馬国(日向国)、筑紫国、豊国などがあったという)
神功皇后摂政5年325年(274年又は394年ともいう)新羅との戦で葛城襲津彦は人質等を連れて帰国しヤマトの4つ邑(奈良県葛城に桑原・佐糜(さび)・高宮・忍海(おしぬみ)など「4つ邑」)に住まわせ、その一つが奈良県葛上郡桑原郷(現御所市池之内)である。これらが渡来系(百済人、新羅人、弓月君など漢人)の技術者集団となった。神功皇后摂政49年新羅征伐(三韓征伐)(日本書紀)。
330年 / 第15代応神天皇即位(日本書紀では270年。390年ともいう。存在確認された天皇の初代、八幡神、神功皇后の子、仁徳天皇の父)によるヤマト王権(≒古墳時代)の成立。葛城氏がヤマト王権で活躍。
弓月君(秦氏)、百済人、新羅人、任那人など応神朝に多くの渡来人が移住した(古事記、日本書紀)。応神天皇14年(343年、日本書紀では283年)に弓月君が来朝し天皇に援軍を求め民と共に日本への帰化を奏上して、紆余曲折を経たが数年後に葛城襲津彦が弓月君の百済の民を引き連れて日本に帰った。(日本書紀)。
(この頃が渡来人倭国移住:第2の波)。
(この頃空白の第4世紀=中国の正史に記録がないことを言う。朝鮮との往来は盛んであった)
356年 / 史実上の新羅(金氏新羅)立国。(新羅王族の始祖として朴氏・昔氏・金氏の3氏があるとされている。新羅第17代王の奈勿尼師今が即位、以後金氏新羅が続くが917年高麗に滅ぼされる)。
367年 / 百済の近肖古王が使節を倭国に派遣朝貢、百済とヤマト王権の同盟成立。
新羅が倭国に朝貢。
372年 / 百済王から同盟の証として神功皇后へ七支刀が贈られた(日本書紀では252年神功皇后52年)。
373年 / 第16代仁徳天皇即位(日本書紀では313年、古事記では394年、崩御427年、在位34年)。仁徳天皇の頃、毛野国が上毛野国・下毛野国に分割され、豊城入彦命の末孫のそれぞれの国造を上毛野君(初代は豊城入彦命5世孫の多奇波世君。但し豊城入彦命の孫の彦狭島王とも其の子御諸別王が初代ともいう)、下毛野君(初代は豊城入彦命6世孫の奈良別王ナラワケオウ)と言うようになった(先代旧事本紀第10巻国造本紀)。この頃から国造制が大和朝廷の地方行政組織となって行く。
389年 / 神功皇后崩御(日本書紀では269年)。
391年 / 倭国が朝鮮(高句麗)へ出兵、百済、新羅を臣下とした(好太王碑)。
399年 / 仁徳天皇崩御(427年ともいう)。
高句麗の圧迫を受けた百済からの要請で倭国出兵して新羅に侵攻(好太王碑)。 
402年 / 百済の第17代阿シン王が倭国に使者を派遣(好太王碑)。
414年 / 好太王碑が子の長寿王により高句麗(現吉林省集安市)に建立された。
438年 / 倭王珍(五王 讃・珍・済・興・武のうちの一人)が南朝宋より安東将軍に任じられる(宋書)。
451年 / 倭王済が宋の文帝より六国諸軍事の号を受ける。
456年 / 眉輪王の変。葛城円大臣が殺されて以後葛城氏は衰退し、まもなく大伴金村により葛城真鳥大臣(平群氏)も誅殺されて以後大伴氏が台頭する。そしてやがて継体天皇の頃物部氏へ、更に聖徳太子の頃蘇我氏へ、と有力豪族が入れ替わって行き、大化の改新で蘇我氏も滅び名実ともに天皇中心の権力体制になっていく。 
475年 / 高句麗が百済を攻めて百済王を殺す。 
(この頃が渡来人倭国移住:第3の波)。
478年 / 倭王武(五王の一人、雄略天皇?)が宋の順帝より六国諸軍事安東大将軍倭王に任じられる(宋書)。
479年 / 倭王武が斉へ使者を送る。
(5世紀は倭の五王が中国に使節を屡々送り、朝鮮の任那(現在の咸安、伽耶の一小国)にもヤマト王権の出先機関があった(日本書紀)、前方後円墳もあり。しかしその後五王の中国への朝貢は途絶えた)。
(第19代允恭天皇(仁徳天皇第4皇子、倭の五王の一人済?)の時にヤマト王権時代からある姓(カバネ)制を制度化して臣連制を編成し、公/君(きみ),臣(おみ),連(むらじ),直(あたい),首(おびと),史(ふひと),村主(すぐり)を導入した。しかしこの爵位・官職の制度はその後さらに684年天武天皇の時に八色の姓の制度に変わり、奈良時代以降次第に有名無実化して行った。しかし朝臣等一部は明治までなお形骸化して続いたものもある)。
489年〜 / 榛名山二つ岳が複数回噴火、利根の地も軽石層20-30cm堆積した。
奈良村の奈良古墳群(奈良の百塚)はこの堆積層の上にあるという。
507年 / 大伴金村の要請で第26代継体天皇が即位、20年かけて北陸越前から大和に入る。
513年 / 継体天皇は百済の要望に応えて南朝鮮の任那を百済に割譲し、百済は五経博士を献上した。これにより儒学文化の導入やと蘇我氏や物部氏などの氏族の名付けや帝紀・旧辞等の記録作成がなされたと考えられている。
任那・加羅の運営は大伴氏が担っていたが、この任那4県の百済への割譲について物部氏が大伴氏の外交政策を糾弾して大伴氏が衰退、以後軍事を司る物部氏が台頭してくる。
527年 / 筑紫君磐井の乱勃発(親新羅派の磐井と親百済・任那派のヤマト王権継体天皇との日本列島統一戦争で、物部氏の貢献でヤマト王権勝利となり日本列島分裂が免れた)。
この後から各地で集団移住政策(畿内から地方、地方から畿内の双方向)が積極的に行われるようになった(日本書紀、続日本紀)
534年 / 武蔵国造の乱(日本書紀)。ヤマト王権の日本統一過程で西日本での磐井の乱の頃東日本でもヤマト王権に対抗する一大勢力があったが、この頃より東日本もヤマト王権の支配下になって,上毛野君が支配するようになっていく。
537年 / (宣化天皇2年)新羅の任那侵攻に対して大伴金村の子の大伴狭手彦を任那に派遣し任那を統治し、百済を救ったという(日本書紀)。大伴氏の出自は任那という(新撰姓氏録)。
525〜550年頃 / 榛名山二ッ岳再び大噴火。
540年 / 新羅が任那を併合。
562年 / 新羅により任那日本府が滅ぼされたとある(日本書紀)。
587年 / 丁未の乱。蘇我氏対物部氏の戦いで後の聖徳太子は蘇我氏に味方し蘇我氏が勝利した。仏教対神道の戦いとも言われる。 
飛鳥
592年 / 飛鳥時代始まる。崇峻天皇5年(592年)に飛鳥に都が置かれ、まもなく蘇我馬子の謀略で天皇暗殺されて翌年推古天皇即位、聖徳太子摂政。
593年 / 聖徳太子 四天王寺を建立。同地に四箇院(敬田・悲田・施薬・療病)を併設した。後の社会救済事業の原点となる。聖徳太子摂政となる。
600年 / 第1回遣隋使派遣するも外交儀礼に疎く国書も持たなかったため外交関係を拒否されたという(この派遣は失態のために日本書紀には載っておらず中国の史書にのみあるという)。
601年 / 聖徳太子 斑鳩宮を造営。百済僧の恵聡、高句麗僧の恵便・慧慈を師と仰いで聖徳太子は自己研鑽を積んでいた。朝鮮半島は互いの抗争の時代で日本への期待は高句麗、百済ともに大きかったという。度重なる新羅の任那侵攻に対して兵を新羅に派遣して任那の救援を命じた。
604年 / 聖徳太子 十七条憲法制定。律令制の位階制の基になった冠位十二階を制定。
607年 / 聖徳太子 法隆寺建立。第2回(日本書紀では第1回)遣隋使を派遣した。小野妹子に「日出ずる処の天子、書を日没するところの天子に致す、つつがなきや云々」との国書を持たせた。隋の皇帝煬帝は激怒するも高句麗との抗争もあり国交を結ぶことが出来たが返書は帰国途中に百済に奪われてしまったという。その後も5〜6回派遣あり。
618年 / 中国では隋がわずか27年で滅びて唐が成立。初回の遣唐使は630年犬上御田鍬が派遣された。
622年 / 聖徳太子 没。
3〜7世紀 / 古墳時代(奈良の百塚と言われる利根郡奈良村の奈良古墳群があり、これは後期6〜7世紀のもの。盗掘等保存不良で詳細不明、現在は痕跡を含めると同地東側に17基のみだが昭和30年調査では同地東側に59基あったという。西側一帯は当時から完全な畑になっているがその畑からも耕作中に大きな両刃?の刀剣が出て来たという。更に西側の龍の鼻には大塚という古墳があったとも言われるが未発掘という。西側も含めれば実際に百個以上あったとも思われる。646年大化薄葬令後も8世紀初めまで続いた。645年大化改新後の国郡里制による利根四郷の一つ奈萬之奈郷(男信郷、ナマシナゴウ)に属す。龍ノ鼻には五輪塔の一部も多数出土するがなお未発掘という。東側も西側も五輪塔の一部が見つかり重葬があったと思われ、鎌倉以降も定住が続いていることを示している。(池田村史、川田村史、白澤村史、利根村誌、沼田市史、古馬牧村史)
(利根四郷はヌマタ・ナマシナ・カサシナ・ナグルミ、でナマシナは発知村・奈良村・川場村・白澤村・赤城根村を指す。川場村の生品に名称の名残あり。郡衙は現在の昭和村森下と推定されている。国衙は前橋市。古馬牧村史によればヌマタ:旧古馬牧村+師+後関+政所古墳群、ナマシナ:川場村+旧池田村、カサシナ:旧久呂保村+森下+川額古墳群、ナグルミ:旧桃野村+塚原+上津+月夜野古墳群(延喜式、和名抄、沼田市史、古馬牧村史))。和名抄(938年)ではナマシナ:ホッチ・カワバ・タカヒラ・アカギネとなっている。
江戸中期1766年の名苗顕然記にも沼須村はいにしえの片品なり、とあり、現在の片品とは異なっている。カサシナは利根川に合流する片品川の沼須村を含む両岸周辺という。ナマシナは奈良古墳群を含む奈良村・秋塚村・川場村天神・高平村に及ぶとも言う。
645年 / 大化の改新。豪族を中心にした政治から天皇を中心にした政治へと移り変った。(中大兄皇子は645年孝徳天皇を即位させて自らは皇太子として実権を握り飛鳥宮から難波宮に遷都、しかしまもなく孝徳天皇654年崩御、次の重祚の斉明天皇も661年崩御するもなお即位せず、称制で中大兄王子は668年まで皇太子のままでいた)
(公地公民制、律令制、国郡里制、薄葬令、租庸調令等大改革あり、利根郡四郷にも統括する郡衙が現昭和村森下に置かれた。ヤマト王権の国造制は廃止され有名無実化していき国郡里制になり中央集権政治の体制に変わった。国司はこの頃より任じられたが初期は小宰、大宰ともいい太宰府はその名残という)。
<王土王民の改革理念はこの時にあったと思われるがこれらの改革はすぐには進まずその後の近江令や大宝律令に至って徐々に具体化していった>。
<前支配者の総てが徹底的に破壊消滅させられた易姓革命がその都度起こっていた中国に対して、日本は古代から現在に至るまで王胤の家(皇族)と臣下の家の区別は常に変わることはなく続いて来た。これは世界に類を見ないという。 位階制度と官職制度のもとに臣下の家の中で家格が形成されて行き現在に至るまで、歴史上王胤の家の内部対立を利用した争いは勿論あったが、戦争はあくまでも臣下の家の争いであったという>。
648年 / 大友皇子生まれる。
660年 / 百済が唐新羅連合軍によって滅亡する。
百済と高句麗が争っているときは遣唐使が新羅を通って唐から帰国する配慮を唐がしたことも有るといい高句麗・百済・新羅との日本の外交バランスは重要だったという。中大兄皇子は653年・654年連続で遣唐使派遣して親唐政策を模索していたが、660年百済が唐・新羅連合軍に滅ぼされるもなお百済遺民の抗戦を知りその救援依頼に応えて日本に滞在していた百済王子 扶余豊璋を送り返し中大兄王子はその復興運動を援助し征新羅将軍として阿倍比羅夫らを派遣した。これが白村江の戦いに繋がる。
663年 / 白村江の戦。中大兄皇子は数万以上の兵を派遣し唐新羅連合軍と戦ったが大敗し、百済遺民も一掃された。中大兄王子は亡命を希望する百済貴族等の難民を受け入れた。この時上野国からも上毛野君稚子が将軍として兵2万7千を率いて新羅に出兵し戦功を立てた。以後対馬や北九州太宰府には防人を置くようになった(757年養老律令成立までは防人は東国からのみ徴用されてかつ税の免除も帰国手当もなかったので3年の年季明け後に東国に戻ることもできずに帰国途中で死ぬ者も多くいたという)。また唐新羅侵攻に備えて都を難波から内陸の近江京に遷都を計画した。
百済王子 豊璋王は唐により流刑されたが弟王子 禅広王は日本に亡命してその子孫は天皇より百済王氏の姓を賜り陸奥国の金を発見するなど平安時代中期まで活躍した。
666年 / 白村江の戦以後急増した百済からの亡命人を近畿だけでは収容できなくなり百済人2000余人を東国に移動させた。
667年 / 近江京遷都。翌668年天智天皇即位して近江令を制定して律令制度の概略を創設、大化の改新時の王土王民の理念が具体化されつつ681年天武天皇の律令制定の詔書により701年大宝律令につながる。行政区画の五畿七道や国郡(ク)里制の制定もこの頃である。
668年 / 唐新羅連合軍によって百済に次いで高句麗も滅亡。新羅が朝鮮統一した。高句麗人民は一部北方へ強制移住させられて、一部は日本に逃れてきた。武蔵国高麗郡は高句麗からの移民によって作られた(続日本紀)。
(この頃が渡来人倭国移住:第4の波)。
天智天皇即位して近江朝廷が成立し、大友皇子に反旗を翻した大海人皇子(天武天皇)の壬申の乱まで続く。天智天皇は近江朝廷で初めて太政大臣を置き天智天皇の太子大友皇子を据えた。近江での大友皇子の支持勢力が大友姓の始まりとされる。
672年 / 天智天皇没。この年唐が日本に攻めてきたが国内混乱中につき貢ぎ物を送り戦わずして降伏。壬申の乱、大友皇子に大海人皇子が反乱を起こし反乱側勝利、その翌年に天武天皇が王位に就く。大伴氏は大海人皇子側について戦う(なお823年淳和天皇(大伴親王)が即位するとその諱を避けて一族は伴(とも)と氏を改めた)。
681年 / 山上碑(上野三碑の一つ)成る(日本最古の石碑、群馬県高崎市山名町、佐野三家(ミヤケ)の子孫の僧がその母のために建立したという。漢文ながら日本語の語順で読めて日本語の流れの解明にも貴重な碑文という。古墳築造のエネルギーが寺建立のエネルギーに変わっていく頃を示すという)。
天武天皇が川島皇子らに日本書紀編纂を勅命。その臣下に上毛野三千の名がある。
684年 / 八色姓が制定される。
687年 / 新羅・高句麗からの移住者100余人を東国へ移動。
689年 / 新羅人を東国へ移住。
この年天武天皇の遺志を継いで持統天皇の時に飛鳥浄御原令が制定された。この時に国号「日本」、「日本天皇」号が初めて法典に正式に記載されたとされる。海外での初出は702年唐の則天武后に遣唐使が国名変更を初めて明言した。
701年 / 大宝律令制定。行政区画の五畿七道や国郡(ク)里制が確立されて、律令制の国家体制が整う。740年には里を廃止して郷制となった。前記利根4郷の名称もこの時期のものである。国名も二字表記になった。上野国は13郡(利根・勢多・碓氷・群馬・吾妻・片岡・甘楽・緑野・那波・佐位・新田・山田・邑楽・)で構成された。
<この律令制によって王土王民の具体的施策である公地公民制、一律兵役義務制、一律納税義務制、国郡里制、官僚制等が確立されるが、まもなく743年墾田永年私財法施行により100年足らずで容易に崩れ去っていく>。  
奈良
710年 / 第43代元明天皇(天智天皇の皇女,持統天皇の妹)が藤原京から平城京に遷都して奈良時代始まる。
711年 / 多胡郡が新たに設置され、上野国は13郡から14郡となった。利根郡は4郷、多胡郡は6ク300戸であった。(通常1クは50戸、1戸は5〜6家族20〜30人で構成されていたという)。
多胡碑(上野三碑の一つ)成る(渡来人のために上野国に多胡郡を新設し羊太夫に支配させたという。藤原鎌足の次男の藤原不比等の時代で不比等は天智天皇の御落胤ともいう。現群馬県高崎市吉井町。書道の手本としても貴重)。
712年 / 古事記成る。大化の改新・壬申の乱で天皇家の記録等が消失したために天武天皇の勅命で稗田阿礼の暗誦することを大安万呂が筆録して編纂した。天皇家の正統性を示すためと言われている。日本書紀と同じく元明天皇になって完成して献上された(天明天皇は平城京遷都・風土記編纂詔勅・古事記日本書紀完成等行った)。
713年 / 風土記編纂が元明天皇によって詔勅された。
714年(和銅7年)九州大隅国に桑原郡が置かれた。奈良後期に大隅国国衙を桑原郡(肝属郡桑原郷ではない)に置く。(領主は曽君一族の系譜を引くという。この頃から原住民の懐柔のため中央からの移住が各地で積極的に行われていた)(続日本紀)。(利根4郷もこの頃に置かれたとも言うー白澤村史)。
上野国守に大宅朝臣大国が任ぜられた。(古馬牧村史)
716年 / 東国各地から武蔵国に高麗人1799人を移して高麗郡(埼玉県日高市)を設置した。(続日本紀)
719年 / 上野国守に多治比真人が任じられた。相模国及び下野国の国守を兼務した。(古馬牧村史)
720年 / 日本書紀成る。663年白村江の敗戦から9年後672年に唐が日本に攻めてきて丁度天智天皇没のために戦わずして降伏し貢ぎ物を送ったことを契機に更にその9年後の681年に天武天皇が命令して、それから39年の歳月を掛けて出来上がった日本最初の史書と言われている。しっかりした歴史を持った正統な国で在ることを示すために遣唐使にも持たせたという。「日本」「天皇」という言葉も初めて使われたという(702年の遣唐使が最初に使ったという)。
723年 / 三世一身法施行、20年後の743年墾田永年私財法施行。長屋王は食糧増産を目的にこの法令を作ったが、これによって公地公民制が崩れていく。この頃上野国の農民が蝦夷地を治めるために陸奥国・出羽国などの東北地方へ移住させられたという。行政区画と同名の道路の東山道は碓氷峠・坂本・野後・群馬・佐位・新田の駅路があったが沼田・川場・片品・尾瀬・會津の会津街道もあった。
726年 / 金井沢碑(上野三碑の一つ)成る。(群馬県高崎市山名町、上野国群馬郡の三家氏が仏教に基づく祖先の供養とともに一族の結集繁栄を願って建立したという。「群馬」の文字が現れた最古のもの)。
740年 / 藤原広嗣の乱。勢力衰退気味の藤原氏の藤原広嗣は太宰府次官に任命されたことを左遷されたと不満をつのらせて反乱を起こしたが鎮圧殺害された。治世に不安を抱いた聖武天皇が国分寺等を建立するきっかけとなった。
741年 / 国分寺・国分尼寺の創建の詔が聖武天皇により発せられた。上野国分寺は749年完成、金堂と七重塔高さ60メートルという。立派な寺とは反対に民の暮らしはかえって苦しくなっていった。税を払えぬ人々は寺社・貴族の私有人となり放置された田畑は益々荒れ税収も却って減少して悪循環となった。代わって723年三世一身法施行及び20年後の743年墾田永年私財法施行により有力者の荘園が成立していく。有力農民も武装化するものが出て来てこの頃より武士の出現にもつながっていく。
(寺社・貴族への寄進による荘園のほか豪族(地方有力者や武装農民)も独自に開墾地を所有するように成り名田・治田を所有するようになっていき自らの土地を守るために武装し、その武装農民がその後の桓武天皇の健児の制と共に武士が台頭するきっかけとなった。またその後1016年藤原道長が摂政になり国の富が藤原一族に集中していく。)
753年 / 鑑真来日。唐玄宗皇帝の反対等様々な困難を乗り越えて6回目の密航、10年の歳月をかけてやっと来日、この時第10回遣唐使に同道した大伴古麻呂が鑑真来日に大きく貢献した。聖武上皇の庇護のもとに律宗を開く。大伴古麻呂は757年橘奈良麻呂の変で拷問死した。
771年 / 武蔵国が東山道から東海道に編入された。
780年 / 万葉集成る。
792年 / 桓武天皇が健児(こんでい)の制を発布。これにより一般農民の兵役の義務がなくなり武芸に秀でた者を選抜して軍団を組織し健児には税を免除して軍務に専念できるようにした。これがやがて平安時代後期院政時代の武士につながっていく。 
平安
794年 / 桓武天皇が平安京に遷都。桓武天皇の母は百済人という。
797年 / 続日本紀が成る。勅撰国史(六国史の第二)として桓武天皇の時に全40巻が完成した。(第20巻758年(天平宝字2年)6月の条に同祖の桑原史・大友桑原史・大友史・大友部史らが桑原直姓を賜う(同族,史=ふひと,直=あたい)、また同条に帰化した近江国の桑原史人勝ら1155人が桑原直姓を賜う、天平神護2年(766年)2月桑原村主岡麻呂ら40人に桑原公(きみ・君)の姓を賜う、等とある。姓(かばね)制下(公キミ・臣オミ・連ムラジ・直アタイ・史フヒト・村主スグリなど)では史=ふひと=文書記録を司る役、という。
808年 / 保高山(武尊山)から武尊明神を沼田郷に移し榛名宮の始となった。
808年 / 大同類聚方成る。(漢方医学の流入に対して和法医学の衰退を危惧した桓武天皇の遺命でその逝去数年後に成った日本最古の和方医学書。
811年 / 第52代嵯峨天皇より葛原親王(第50代桓武天皇の第3皇子、父:桓武天皇、母:多治比真人真宗タジヒマヒトマムネ)に上野国利根郡長野牧(旧古馬牧村等、現上牧下牧)を賜う(続日本後紀、沼田町史、古馬牧村史)。
815年 / 新撰姓氏録成る。(嵯峨天皇の命により編纂された新撰姓氏録に皇別・神別・諸蕃に分けて姓氏が記述され、皇別の桑原氏は多奇波世君を祖とし、諸蕃の桑原氏は万徳使主を祖とするとある。
818年 / 赤城南麓大地震発生。
(892年完成の「類従国史」の弘仁9年7月の項に記載有り)。
825年 / 葛原親王がその子に臣籍降下を上奏して平姓を許される(孫の高望王が889年宇多天皇の勅命で平姓を賜与された)。
826年 / 清原夏野(天武天皇曾孫)の上奏により親王任国の制度が制定され、常陸・上総・上野の3国のみ親王任国とされた。従って国守は国介と呼ばれるようになった(現地最高位の国守は常陸介、上総介、上野介と呼び国守は現地には赴かず太守と呼ぶようになった)。
831年 / 葛原親王が一品親王に叙せられる。
838年 / 桓武天皇第3皇子の葛原親王が上野太守となる(続日本後紀)。
840年 / 日本後記成る。
848年 / 葛原親王を開基として上野国利根の地に迦葉山竜華院弥勒寺を建立する。
850年 / 葛原親王が太宰府帥(長官)となる。(墓所・宅地跡ともに京都にあるという)。
853年 / 上野国利根の地に発知村が記録に現れる(開村)。(池田村史、沼田町史)
864年 / 富士山の貞観大噴火発生。青木ヶ原溶岩はこの時に出来た。
869年 / 東北地方に貞観地震発生。
880年 / 在原業平没(桓武天皇の孫、六歌仙の一人、伊勢物語の主人公とも云われる)。
889年 / 大宅真人(利根氏)が長野牧牧監として長野大神宮を創建。(棟札が古馬牧村下牧に保管されているというーー古馬牧村史)
889年 / 葛原親王の孫高望王(平高望タカモチ、桓武天皇の曾孫)が初めて平朝臣の姓を賜り、898年常陸上総介及びその後上野太守に任官した。これが平氏の祖となり子孫が発展した。
☆任官しても任地に赴かないのが普通の中、高望王と下記その子らは任地に赴いて任期終了後も帰らず開拓して財力を蓄えて行き武士団を形成していく。
長男国香(常陸国中心、伊勢平氏常陸平氏の祖、平清盛は8代後裔にあたる)、
次男良兼(上総国中心、父高望の任期終了を継ぎ上総介となる)、
三男良将(良持、下総国中心、将門の父、良兼の婿)、
五男良文(武蔵国中心、側室の子、坂東八平氏の祖となる)、以上の通り桓武平氏のうちの高望王流武家平氏は東国で生まれその祖となって以後全国に拡がって行くことになる。相模平氏もその一つである。
901年 / 昌泰の変。菅原道真が藤原氏との政争に敗れて九州太宰府へ左遷された。
902年 / 高望王が九州西海道の国守となり太宰府に赴任。(903年菅原道真太宰府で死亡、911年高望王太宰府で死亡)。
905年 / 上野国に九牧が定まる。(トカリ、アリマシマ、ヌマオ、ハヤシ、クヤ、イチシオ、オオアイ、シオヤマ、ニイヤの9つ。クヤとオオアイは利根郡内という。オオアイは白澤村尾合にその名残ありというー白澤村史、クヤは長野牧とも言われるー古馬牧村史)。長野牧は既に葛原親王に下賜されていた。朝廷直営と私営の牧場があったという。
915年 / 在地国守の上野介藤原厚載が上野百姓(庶民のこと)の上毛野基宗らに殺されるも朝廷は武力で対処出来なかった(朝廷のコントロールが効かなくなっていた)。
931年 / 染谷川の戦。東下途中の平将門と平良文が上野国国府付近(群馬町引間)で戦い妙見様の加護で平良文が勝利(妙見信仰の伝承、新編武蔵風土記)という。
935年 / 承平天慶の乱始まる。
939年 / 平将門が常陸国・下野国の国府を落とし更に12月19日には上野国も落として(在地国守の上野介藤原尚範を追放)関東一円を手中に納めて「新皇」を自称し独自政庁を下総国岩井に置き諸国の除目も行った。
940年 / 平将門の乱終息。
長野牧牧監の利根平八が平将門追討軍に利根氏として記録に見える(前太平記、古馬牧村史)。
この乱で利根平八と共に平氏の一統、利根に来たりて井土上の荘田城に住し、これが平経家の祖となった(経家は平将門を討った藤原秀郷の後裔とも言われる)、という。
(続々群書類従第四の沼田記では平将門の頃は既に繁栄していた七田の庄(師・下沼田・恩田・町田・硯田・川田・庄田で沼田荘の始まり、渭田郷に相当)があり、盗賊が跋扈する中でこの天慶の頃に平経家の祖先が井戸上の荘田城に移住してきてこれを尊敬のもと受け入れたとある)(沼田市史)
第56代清和天皇の子・孫の計16人が臣籍降下して源姓を賜ったが特に第六皇子貞純親王(桃園親王)の子経基が源姓を賜り(第52代嵯峨天皇以来の多数の源姓があったが)清和源氏の祖となり子孫が発展した。
経基の一子源満仲とその長男頼光(摂津国を本拠)、満仲次男頼親(大和国を本拠)、満仲三男頼信(河内国を本拠、義家は孫、義朝は六代後孫)らの源氏の初期は、平氏が関東を本拠地にしたのとは対照的に、畿内を本拠地に力を蓄えた。その後1028年長元の乱(房総3国での平氏反乱)、1051年〜前九年の役(奥州安倍氏討伐)、1083年〜後3年の役(奥州清原氏討伐)さらに1156年保元の乱、1160年平治の乱を経て東国にもやっと根をはるようになり、平氏政権打倒の以仁王の令旨をきっかけに1185年源頼朝がやっと政権を取る。東国の武家平氏達はそれを下から支えることになる。
981年 / 沼田根元記巻六に拠れば沼田が開発された。
984年 / 医心方成る。丹波氏により日本最古の漢方医学書成る。
1013年 / 伊勢平氏の祖の平維衡が上野介となる。
1016年 / 藤原道長摂政となる。翌年太政大臣となる。
1031年 / この頃紫式部没(異説多数あり)。
1062年 / 安倍貞任・藤原経清が源頼義・義家・清原光頼軍に破れ討ち取られ安倍一族滅亡(前九年の役=1051―1062年=奥州12年合戦)、藤原経清の遺児が清原氏に母共々引き取られて清原清衡(後の藤原清衡)となる。藤原経清は錆びた刀で鋸引き斬首されたという。利根郡上発知村の阿部氏は安倍一族の末裔という。(池田村史)
1063年 / 下牧村玉泉寺の八幡宮を利根太郎宗平が建立。棟札が下牧公民館に保管されているという。利根太郎宗平は奥州征伐等源義家に仕え沼田姓を賜る。師の小字上の原に大友良部助善正が住した大友氏居館址の碑があり子孫が後年建てたものといい平経家の祖という(古馬牧村史、このコメマキムラ史に従えば平経家の祖は古墳時代の難波皇子の子大宅真人の末裔の利根氏でもあるということになる)。
1087年 / 後三年の役(1083―1087年)。清原氏内紛で清原清衡・源義家が勝ち清衡は父の姓藤原清衡を名乗る(清衡の妻子は全員殺された)。源義家は戦功を認められず私戦と非難され、配下への恩賞は私財を放出した。上野国はじめ関東を育んだのはもともと平氏であったが、これがきっかけとなり、後に関東に於ける源氏の名声を高め頼朝の勝利に繋がる。清衡は藤原清衡から三代栄華を極めるが後に源義経の扱いをめぐり四代目泰衡就任直後に1189年奥州藤原氏は滅亡した。上州藤原村はその落人部落と云われている。
1108年 / 浅間山の天仁大規模噴火発生。この時上野国一帯が埋まり田畑の再開発で豪族の私有化とその荘園化が一気に促される契機になったという。
1142年 / 安楽寿院領足利庄が成立。足利庄は源義国が安楽寿院に寄進し、家人の藤原姓足利家綱が開発領主として在地の下司となり源義国がその預所職(統括職)となった。その後源義国の次男源義康も父から足利庄を相続して足利義康を名乗りその下司職になっていたという。この時はまだ藤原姓足利氏と源姓足利氏は協調関係にあった。
1143年 / 鳥羽上皇が1137年創建した安楽寿院の所領の荘園のなかに利根郡の荘園として初めて土井出笠科庄がその範囲の記録とともに現れ利根郡の東半分を含んでいた(東:根利山、南:昭和村長井坂、北:越後境、西:隅田荘。薄根川流域も含むというので利根川以西が隅田荘か(沼田市史)。安楽寿院古文書。鎌倉以降の地頭は大友氏だが安楽寿院領目録には1306年に地頭から年貢を納めた記録がある。これ以降安楽寿院領ではなくなり、万里小路家領・大友氏所領が混在?1364年大友領になったがその後の1428年建内記にも万里小路家所領争いがある)。
(沼田榛名神社鐘銘1290年では既に「利根庄」が現れて薄根クを含み1364年大友氏時所領注進状案では利根庄=土出庄=土井出笠科荘となって広範囲で用いられている)
1150年  源義国は藤原実能と争って家臣が京屋敷を焼き払った等で勅勘を蒙り下野国足利庄に下り謹慎。初期の頃は藤原姓足利氏とは協力しながら領地開発をしていたというが開発が進むに従って競合関係になっていく。
1157年 / 新田庄が成立。源義家の孫で源義国の長男の新田義重が空閑地を開発して私領を形成して寄進したことにより、花山院藤原忠雅(平氏方)の任命で在地の下司職になり新田庄が成立した。
源義国の長男新田義重が上野国八幡庄と新田庄を相続し新田氏の祖となり、次男の足利義康が源姓足利氏の祖となる。
上野国の各地の荘園化は1108年の浅間山天仁噴火以後に成立していったという(日本歴史地名大系第10巻1987年)。
(安楽寿院領の土出笠科庄も同様に寄進されていたものと思う)。
1159年 / 平経家(利根四郎経家、和田四郎経家)、18才の時一族と共に京に上り平治の乱の後に平清盛より上野国の利根および勢多の地の二郡を賜う。(1156年ともいう。この利根・勢多は現利根沼田全域を含む)。(川場村の歴史と文化、古馬牧村史)。沼田根元記巻六に拠れば沼田4代目が上洛して平清盛公より利根勢多両郡を拝領すとある。
1167年 / 平清盛が太政大臣となる。
1170年頃 / 表面上は清盛に従いながら内実では源氏方として伊豆流配中の頼朝に経家は娘(利根局)を1172年側室に差し出し世話をさせる。
1171〜4年 / 奈良村は承安の頃沼田左衛門経家領、とある(群馬県利根郡誌(千秋社1996年)。(立村前から平経家の領地と認知されていたと思われる)。
1172年 / 平経家が平清盛より相模国大友郷を賜る。平経家は前期沼田氏=大友沼田氏の祖と言う。
頼朝側室の利根局が大友能直を生む。頼朝は中原親能(藤原親能、)に利根局を娶らせて中原親能の子として育てた。
(平経家(利根四郎経家、大友経家、波多野経家、和田太郎経家)の祖は平将門の後裔ともその乱を鎮めた藤原秀郷の後裔とも言われ、相模国波多野氏←→三浦氏との関係も元々深く経家の妻は三浦義継の娘。相模国足柄上郡沼田邑(狩野荘沼田郷)にも波多野一族沼田氏ありこれは平経家の弟の沼田七郎家通で越中沼田氏の祖という。平経家は大友沼田氏=前期沼田氏の祖という。)(沼田町史、白澤村誌、尊卑分脈前田家本。池田村史)
1180年 / 2月安徳天皇即位。4月後白河法皇第3皇子以仁王が平氏追悼の令旨を発し以仁王・源頼政は足利忠綱(藤原秀郷流の藤原性足利氏で源姓足利氏とは別)により早期に鎮圧されて敗死。8月以仁王の令旨を受けて源頼朝伊豆国蛭ヶ小島(現伊豆の国市四日町)で挙兵。10月源頼朝が鎌倉に入り所願成就を願って相模国桑原郷を鶴岡八幡宮に寄進した。(吾妻鏡)
新田義重は荘園領家の家人として京に居て頼朝討伐の名目で上野国に下ったが鎌倉街道・東山道の要衝地の寺尾城にて兵を集め、初め頼朝を軽視していたが安達盛長の説得で源頼朝に帰属した。
木曾義仲は信濃制圧後に父の縁を頼って上野国多胡庄に来て兵を集めた。この頃新田義重と木曾義仲の関係は同族ながら反目し合っていた。
1183年 / 足利忠綱は頼朝方の小山朝政軍と戦い敗走、この時父足利俊綱も家臣桐生六郎に殺害されてここに藤原秀郷流の足利氏の嫡流は頼朝によって滅亡した。 
鎌倉
1185年 / 鎌倉幕府成立。1185年4月壇ノ浦の戦で平氏滅亡、沼田太郎実秀も参戦。
7月文治京都地震(方丈記)。
12月後白河法皇より文治の勅許(守護地頭の設置とその任免権)が頼朝に与えられ、大江広元の提案で公領・荘園を問わず全国に守護地頭を置くようになった。これをもって幕府成立と考えられるようになった。
(1180年鎌倉大倉郷に侍所設置、1183年東国支配権の宣旨、1190年公卿に任ぜられ、1192年征夷大将軍に宣下)。
(上野国守護は安達盛長がつき、頼朝没後の1285年の霜月騒動で安達氏滅亡するまで代々将軍の代官として地頭などの上野御家人の管理統制と警察権を行使し、権力基盤を強化していった。1285年安達氏滅亡以降の上野国は北条得宗家の守護国となり北条の権限浸透に伴って在野の武士の反感を買うようになりやがて新田義貞等の挙兵に繋がっていく。)
1186年 / 大友経家、頼朝より利根の地頭職に任ぜられる。この頃から大友一族が利根沼田全域を支配。利根荘は大友氏領となっている。この頃の利根荘≒沼田荘≒隅田荘で土出笠科荘の西側利根郡を云う。土出笠科荘は安楽寿院領であるが従前より平経家が地頭であった。
1189年 / 頼朝による奥州出兵により奥州藤原氏滅亡、この時大友能直も従軍している。その落人部落といわれている利根郡藤原村は数年後の頼朝の富士の巻狩の人足帳に既に記録が有る(みなかみ町藤原)。
この時の功により佐原十郎左衛門義連は陸奥国会津を拝領した。その子盛連が三浦半島の地蘆名に因んで蘆名氏を名乗り代々黒川城(会津城)城主として君臨した。
1190年 / 大友実秀(上野沼田太郎実秀)が頼朝に従って後白河法皇の命で上洛(吾妻鏡北條本)。
1193年 / 源頼朝が富士の巻狩を行う。その時の夫人足帳に利根郡29ヶ村から384人との記録あり、隣村岡谷村・発知村・川場村の名はあるが奈良村・秋塚村・横塚村の名はないので未だ分村成立していなかったと思われる。奥州藤原氏の落人部落といわれる藤原村は既にこの時記載有り。
1192年 / 源頼朝が征夷大将軍に任ぜられる。
1193年 / 相模国大友郷に住する大友能直は22才で、頼朝より豊前、豊後の守護職に任ぜられ、かつ鎮西奉行(鎮西守護職)となる。
1196年 / 大友能直九州に下る。豊後の地で神角寺の戦で大神一族を征し家臣団に組み入れた(大友能直は父は源氏、母は平氏、養父は藤原ゆえに大友の三姓と言われる)。この時点で大友氏は九州にあって、豊前・豊後・相模・利根等の多くの地を支配することになり有力豪族になっていった。九州・京都を往き来していたとも言う。
1199年 / 源頼朝落馬して急逝する。
この年鎌倉浪人の石田勘解由ら上野国上州利根郡奈良村に流寓す。この時に奈良村が開村したと伝わる(上野国郡村誌)。奈良古墳群の隣村秋塚村横塚村の由来はワキヅカ、ヨコヅカから来ているという(横塚は愛宕神社の旧名野狐塚ヤコツカが訛ったものともいう)。
1217年 / 平家物語成る。
この頃荘園は土出荘・笠科荘・沼田荘・利根荘・藤原荘がある。この頃の利根荘はいにしえのナマシナ郷を中心としてどこまで含むかは不明だが漸次拡大していき、1364年大友氏時所領注進状では土出・笠科を含む利根荘となっている(沼田市史は沼田荘も含む広大なものと解釈している)。(川場村の歴史と文化、沼田市史)
1221年 / 承久の乱。実朝の死後に倒幕計画が起きたが幕府方北条義時が勝利し後鳥羽上皇隠岐に流配。この時の幕府方に上野沼田氏も参戦している[即ち後期沼田氏=三浦沼田氏の前に前期沼田氏=大友沼田氏が滅亡せずに続いていたことを意味している]。(沼田市史)。
(この乱をきっかけに全国の反幕府側の荘園や領地に幕府側の地頭が派遣されて荘園制度は崩壊していく。)
1222年 / 川場村谷地に大友館が築かれる。(沼田市史、川場村の歴史と文化)
1247年 / 宝治合戦。北条時頼に攻められて三浦氏一族500人以上が集団自決して相模三浦氏滅びるも、泰村の次男三浦景泰(弟家村は木曽へ逃れた)が逃れて利根の荘田城(薄根村井戸上)に来る。これが後期沼田氏(三浦沼田氏)初代となる(沼田町史)。同じ頃九州豊後高田にも三浦一族を緒方氏がかくまっているので緒方沼田氏説もある(白澤村史)。
同じ頃上州路沼田荘牧主の沼田景泰が兄の33回忌を行ったという記録有り。
この頃(宝治の頃)より奈良村を沼田氏が世々領すとある(池田村史)。
この頃は利根荘と沼田荘(荘田城中心)は明らかに併存しており1270年頃に分かれたともいう。
同じ頃大友親秀(利根次郎大友親秀、九州大友2代)が近隣の古馬牧村に明徳寺城(天神山城、みなかみ町後閑)を築く(孫の利根次郎頼親か?)。(沼田町史)。
(この時点で現川場村と現月夜野町後関には大友沼田氏が既にいて、現沼田市井戸上には三浦沼田氏が混在することになりこの後三浦沼田氏が優勢になって各村に分家を作って行く。大友親秀の妻は三浦義連=佐原十郎左衛門義連の娘)。
1250年 / 京都閑院殿(平安京内裏焼失で仮皇居の役割)の造営に沼田太郎跡が関東公事として参加[即ち平経家嫡子沼田太郎実秀の子孫が存続していたということ]。(吾妻鏡、沼田市史)
1271年 / 後期沼田氏(三浦沼田氏)第3代景盛の長男景継(平長忠)が家督を嗣ぎ、次男が下沼田次郎景家、三男が発知村を分知されて発知三郎景宗と名乗り発知城を築く。(四男平為時が上川田城にいたといい川田村東光寺に墓あるも年代に矛盾有り――川田村史)。
その後沼田氏6分家に分かれて利根沼田地方は主に三浦沼田氏一族の支配が1351年足利尊氏勝利直前まで続く(沼田氏・発知氏は領地没収される)。
1274年文永の役、1281年弘安の役(元寇、蒙古襲来) 大友氏は北條時宗執権の時には大友氏3〜5代にわたって九州の地で鎮西奉行として日本防衛総司令官として活躍した。
1285年 / 霜月騒動で安達氏が執権北条貞時に滅ぼされる。
1300年 / 発知二郎妻尼明法(熊谷氏娘)と熊谷彦次郎直光との領地を巡る訴訟の記録あり(吾妻鏡)。(沼田市史)
1321年 / 大覚寺統の後醍醐天皇が即位して院政を廃止し、国家権力の天皇集中の政治形態を目指した。鎌倉幕府は皇室内の二派の対立を両統迭立の調停をしていた(沼田市史)。
1324年 / 正中の変(第一回倒幕計画)、倒幕失敗。
1331年 / 元弘の変(第二回倒幕計画)、倒幕失敗、笠置城陥落、後醍醐天皇隠岐へ流配。
1332年 / 護良親王の吉野での挙兵、楠木正成の大阪千早城での再挙兵。この時の幕府方軍団の中に新田一族・大胡一族らと共に沼田氏、白井氏の名が出てくる。この時新田義貞らは戦いの途中で戦意喪失して仮病を使って帰国(北条専制に対する鎌倉御家人達の不満が元々あった)。(沼田市史)。
この年に中巌円月禅師が7年の元への留学から帰国し、大友貞宗の保護を受け、7年後に上野国川場村に吉祥寺開山する。この五山文学でも知られる中巌円月禅師は8才より孤児同然で鎌倉寿福寺にて僧童として育ち志を立てて25才で元に留学した。 
室町
1333年 / 後醍醐天皇が隠岐を脱出して、赤松氏・名和氏、九州菊池氏等が反幕府方で蜂起、足利尊氏、新田義貞もこの時から反幕府方に付くことになった(沼田市史)。
建武の中興。新田義貞らによって、北条高時が自刃し北条氏滅亡して鎌倉幕府消滅し後醍醐天皇の親政はじまる。(この頃沼田氏本家からは発知氏・名胡桃氏・川田氏・小川氏(後閑氏)・岡谷氏・石住氏の6分家が成立していた。皆利根川周辺と西岸に偏っている――沼田市史)。
上野国・越後国・播磨国の国司は新田義貞がなり一族の代官が政務を執った。
大友貞宗が子の氏泰に利根庄を譲る。
1334年 / 新田義貞三男の新田義宗が越後国弥彦神社に太刀を奉納する。
1335年 / 足利尊氏は上野国守護を新田義貞から上杉憲房に任命替えし、越後国守護も兼務させた。翌年子の上杉憲顕は八幡庄を与えられてこの地を拠点とした(東山道と鎌倉街道が交わる要衝の地)。上杉氏の被官の長尾氏は守護代として総社・白井・玉村御厨などを所領として上杉氏による上野支配の重要な担い手になった。
1336年 / 足利尊氏離反して南北朝時代始まる。足利幕府成立(新田氏・足利氏の対立)。
大友氏泰・貞載が九州の戦い最中に南朝新田方から北朝足利方に寝返る。
1338年 / 新田義貞が越前国藤島にて討ち死。足利尊氏が征夷大将軍となる。
1339年 / 川場村谷地に吉祥寺創建(大友氏泰が父貞宗の追善のために建立、中巌円月が開山)。
1346年 / 下沼田次郎が井土上に成孝院を創建。
1351年 / 観応の擾乱。足利尊氏・直義兄弟の対立、直義毒殺される。
上杉憲顕は直義方に就いたために上野国・越後国の守護職は下野国宇都宮氏に与えられたが抗争が続くため10年後には上杉氏に戻された。
尊氏は沼田荘内のシカマ氏(石墨石住氏?)・ショウダ氏(井戸上沼田氏?沼田氏6分家の一部)の所領を没収し大津の園城寺青竜院(大友皇子の皇子が開基)に寄進した。(沼田市史)(発知氏をはじめ沼田氏一族はすべて新田方とされ両氏が領地没収され没落したとあるが、1405年第8代沼田景朝が小澤城を築いているので、領地没収されていない沼田氏一族も居た。)
沼田氏一族某が足利尊氏から若狭国熊川郷を賜り後に熊川城を築いたという。(熊川城は沼田光兼の時戦国時代1569年に落城。この頃「加沢記」によれば沼田万鬼斎の子上野介(光兼?)が近江国を領有していたとある。光兼の次男沼田祐光は落ちて弘前藩津軽氏に仕え名軍師として活躍したという。戦国時代の細川忠興の母沼田麝香は熊川城主沼田光兼の娘で嫁細川ガラシャ自害の影響を受け1601年洗礼を受けて細川マリアとなった)。
1352年 / 新田義宗(義貞3男)・脇屋義治(義宗従弟)らが足利氏追討の挙兵、一時鎌倉占拠するも越後へ敗走。
1358年 / 足利尊氏没。
1359年 / 筑後川の戦いで南朝方菊池武光に北朝方の大友氏時(九州大友第8代)が破れる。
1361年 / 第2代将軍足利義詮が鎌倉執事上杉憲顕に命じて利根荘を大友氏時に返付せしめた(この時の利根荘は沼田荘を含む利根郡ほぼ全体を含むのではないかと沼田市史は指摘している)。
(この頃から利根荘は沼田荘・笠科荘・土井出之荘を含む利根郡全体を指すようになり、九州大友氏の遠隔所領として大友氏の在地代官が沼田荘ではなく川場村を拠点として利根の荘の各郷に代官を置くようになった――沼田市史)。
(但し1416年には沼田氏・発知氏が再び実権を握り逆転?以後江戸時代まで支配関係はめまぐるしく変わる)。
1362年 / 大友貞宗から氏泰に継ぐときの継状にすべてを嫡子(長男でなくてもよい)に譲るという嫡子単独相続制が行われるようになった記録あり、そして同年氏泰死亡し弟の氏時が家督を継ぐ。
大友氏時豊後の鳥屋城で菊池武光との戦いを最期に戦意喪失して利根に下る。
1363年 / 大友氏時が逃れて利根郡川場村に来て谷地の大友館に住す(沼田町史、利根村誌、川場村の歴史と文化。大友氏時については異説あるも大友氏時妻大智庵祐宗比丘尼・大友家家老桜井兵部および大友一族であったことは確かという。また氏時の子珠垣媛もいたという)。
この時、大隅国桑原郡の大桑城主源定世(多田満仲(源満仲)流の源氏)が大友氏とともに上野国利根郡に来て、川場村門前に土着した(川場村桑原吉右衛門先祖、群馬県議会史別巻、川場村名主館記)。
川場村湯原の正楽寺住職の宮崎秀雄氏所有の古メモ:落人なりとして7人の氏名の記載あり。大友の落人:今井氏、高山氏、関氏、吉野氏、桑原氏、久保田氏、外山氏(大友氏時は7人の郎党を連れて落ちて来ている)「川場村の歴史と文化」。大友氏時はこの5年後に新田義宗に討たれるまで川場の地で豪奢な生活を送っていたとのこと(沼田町史)。(発知氏は領地没収されて既に没落していた)。この頃大友氏は豊後国守護であるとともに利根庄の地頭でもあったという。
同じ頃隣村奈良村の奈良原遺跡にも豪族館があったことが発掘確認されているが詳細不明で資料もないという(上毛新聞1989年12月27日)。この地は高王山の麓でのちの1581年に沼田平八郎景義の高王山城の戦いの際その東毛の援軍が通った場所である。
1364年 / 吉祥寺1世住職円月禅師の去った後に大友氏時の招きで2世住職祖能禅師が就任した。祖能禅師は13年後足利義満の招きで鎌倉円覚寺の住職になる。
1368年 / 白澤村戦争。前年に第2代将軍義詮・弟の基氏(初代鎌倉公方)が没したため新田義宗・脇屋義治が越後で挙兵上野国に入る。3月に南朝方義宗らにより北朝足利方の大友氏時が川場村で討ち取られる。7月には利根沼田各地で鎌倉足利方と戦い新田義宗も白澤村で討ち死にする(地元民による新田方、足利方の両者多数死亡者を弔う塚跡が残存する)。(大友氏時の内室と娘珠垣媛は生き残った。珠垣姫は高平領主根岸登格之輔騰雅タカマサの3男に嫁し茂木主馬之助シュメノスケと名を隠し一時流浪しその後貝之P村に来て旧姓根岸に戻り帰農したという。根岸虎司氏は大友氏時19世の孫という(糸之瀬村誌、貝之Pの墓誌))。脇屋義治は出羽に逃れたとも阿波に逃れたとも言われる。
この時、川田村屋形原、利根村及び白澤村高平は新田方、川場村は足利方で敵同士であった。沼田氏一族は新田義貞方で戦いその後尊氏に領地を没収されて衰退していった(白旗一揆のグループに入りのちに再起する)ので、この時点は各々の代官が足利方か新田方か不明。利根沼田地方は新田源氏挙兵の重要地点でありかつ狭い地域で敵味方入り乱れていた(沼田市史、沼田町史、白澤村史、薄根村史、川場村の歴史と文化)。川田村屋形原で防戦した新田方大将は屋形原八幡宮に祀られている新田義貞の孫の生形義脇とされている(川田村史)。
1392年 / 明徳の和約により南北朝時代終了。南朝後亀山天皇が吉野より京に帰還して三種の神器を北朝後小松天皇に譲り退位した。
以後も利根沼田地域は内輪もめ、足利、上杉、北条、武田、真田、長尾等入り乱れて秀吉全国統一まで約200年続く戦乱の時代に突入する。
1405年 / 第8代沼田景朝が小澤城(薄根村町田)を築き荘田城より移る。小澤城址に眞田昌幸に謀殺された沼田平八郎を祀った祠と法城院がある。
1406年 / 沼田景朝が沼田氏の支城川田城名胡桃城を略奪されたのに腹を立てて群馬郡国分の村上出羽守を討ち国分寺の十一面観音像(快覚作)を奪い持ち帰った。現在も三光院(柳町)にある。
1416年 / 上杉禅秀の乱。関東管領上杉禅秀氏憲の乱で白旗一揆(傭兵軍団)が係わり鎌倉公方足利持氏が勝利、これによって利根荘の地頭職が沼田氏、発知氏に再び任せられた(この頃は利根荘は利根沼田地方全域を指すようになっている、奈良村・川場村は発知氏か、狭義沼田荘→沼田氏、狭義利根荘→発知氏?)。この年万里小路家領利根庄が白旗一揆(沼田氏系)に押領されるようになった―白澤村史。
この頃に安楽寿院領から万里小路家に領家が変わったらしいという。新田義貞に味方して没落していた沼田氏・発知氏が勢力を挽回する。
1426年 / 沼田長忠(沼田憲義,第10代景世?)が白井城主長尾景信の娘の婿となり沼田探題として沼田の地に来た。そして玉泉寺と舒林寺を建てた(開基は大友氏時の名前を使っている)。(川場村の歴史と文化)
1428年 / 公家万里小路時房の日記「建内記」に所領利根荘の年貢を地頭が納めないと上野守護上杉憲実に訴え出たが鎌倉公方足利持氏も承知の上なので解決できず代官那波宗元を送ったが進展しないとの記録有り(飛鳥時代は4郷だったがこの頃は40郷あった、しかも1447年には沼田荘(利根川西岸?)・利根荘(男信郷+笠科郷+?)と二つに分割されている記録有り、そして40郷のうち12郷しか年貢を納めなかった、この時の利根荘の地頭は発知氏か(沼田市史、利根村史、池田村史)
公家の荘園の不知行化は戦国時代に向けてさらにひどくなって行く。
1438年 / 永享の乱。鎌倉公方足利持氏が上杉憲実に敗れて翌年2月自殺し鎌倉府は滅亡。
1440年 / 結城合戦。自殺した持氏の残党やその遺児を立てて6代将軍義教に反乱を起こすも下総結城城落城して室町幕府側が勝利、しかし翌年将軍義教も暗殺された。
1454年 / 享徳の乱(1454〜1482年)。京都での応仁の乱に先駆けて関東でも享徳の乱始まる(足利持氏の遺児成氏が鎌倉公方となり関東管領上杉憲忠を謀殺、これが始まりで室町幕府も成氏討伐を決めて1455年成氏は古河に移る。そして管領上杉方+京都幕府方+堀越公方方、古河公方方が入り乱れての戦いが始まる。長尾景春が古河公方方へ寝返り五十子の陣が陥落古河公方(足利成氏)方が一時勝利して1478年管領上杉方と古河公方方和議を結ぶも不十分で上杉氏と長尾景春がなお衝突を繰り返し1482年になって将軍義政より成氏に御内書が下されて正式に和睦成立)。これに傭兵軍団(白旗一揆)が加わっていた。
1456年 / 天巽禅師が迦葉山を天台宗から曹洞宗に改宗して中興開山とした。
1467年 / 応仁の乱(1467〜1478年)。関西では同じ頃応仁の乱発生、8代将軍足利義政の継嗣争い等で発生し、室町幕府管領の細川氏と有力守護大名の山名氏が争い、一部の地方を除く全国に拡大した。以後戦国時代で約150年続く。それまでの家格秩序・身分秩序が崩壊。1477年の幕府による「天下静謐」の祝宴で終息したが誰も罪に問われなかった。義政の正室日野富子も権力を保持し続けた。
(以後の形式上幕府100年間は戦国時代と重なる)。
1476年 / 享徳の乱の最中に長尾景春の乱発生。公方方(古河公方の成立、古河市)、上杉方(五十子、本庄市)をそれぞれ本拠地として板倉・館林・伊勢崎等で激闘繰り拡げ、1477年長尾景春の内部謀反で五十子(いかっこ、現在の本庄市)は陥落、その4ヶ月後には扇谷上杉家臣太田道灌らにより再び奪回、景春敗走。この時越後上杉からの援軍や沼田氏・発知氏の白旗一揆の援軍は大いに貢献して管領山内上杉顕定方で勝利した。
1478年 / 享徳の乱の和睦交渉始まる。1482年上杉方と古河公方方和睦成立。
1483年 / 都鄙合体(とひがったい)という和議成立して享徳の乱終結。古河公方、堀越公方ともに並立のまま。古河公方の成氏も幕府から赦免された。太田道灌ら扇谷上杉側は不満を呈していた。
このころより山之内上杉氏(関東管領山内顕定が鉢形城に入るー越後上杉方)と扇谷上杉氏(扇谷上杉定正が河越城に入るー古河公方方)の対立が始まり、関東静謐を求める扇谷上杉氏家宰の太田道灌が両上杉氏から恨みを買い1486年上司の扇谷定正の館で謀殺されて表面化する。成氏の説得で長尾景春は扇谷上杉氏についた。長享の乱へと発展する。この間扇谷上杉氏の所領の相模国は同じ扇谷側についた北条早雲により浸食されていく。
南北朝内乱の頃より沼田は上越・會津との結節点となり三国街道・清水峠越往還・会津街道(尾瀬沼,片品,沼田)は重要な役割を果たした。
1487年 / 長享の乱。(山内上杉氏・扇谷上杉氏との上杉家同士の戦い)、管領山内上杉顕定勝利。
1492年 / 第6代沼田城主沼田景久が小川城(月夜野)を築城し次男景秋を入れて小川氏を名乗らせた。同様に三男景冬を名胡桃氏(名胡桃城)、四男景信に川田氏(上川田城)、五男泰久に石墨氏(石墨館)を名乗らせた。
1493年 / 伊勢宗瑞(北條早雲、後北条初代)が伊豆討ち入り。堀越公方滅亡。
1495年 / 北条早雲が大森氏より小田原城奪取。
同年迦葉山龍華院弥勒寺中興開山の天巽禅師87歳で没、弟子の中峰に私は迦葉仏の化身であると告げ昇天してそのあとに天狗面が残っていたという言い伝えあり迦葉山天狗面の由来となった。天巽禅師が一時住職を務めた大雄山最乗寺も天狗で知られるがその開山僧了庵のひこ弟子が天巽禅師という。
1496年 / 石山本願寺が浄土真宗の蓮如上人により成る。(後に1580年信長により炎上するがその落とし難い地の利に注目した秀吉が同地に後年大阪城を築く。)
1507年 / 越後守護上杉房能が守護代長尾為景に殺され、越後での下克上。
北条早雲は長尾為景や景春と結んで管領上杉顕定を牽制した。
同年京都では室町幕府管領細川政元が家臣によって殺害された。
1509年 / 関東管領上杉顕定が白井城を攻め長尾景春は敗走し管領上杉軍勝利。さらに上杉軍は越後まで出陣して越後支配し、発知氏も参戦し戦功を重ねて魚沼の地にも領地を与えられた。しかしまもなく再び越後長尾氏が勢力を吹き返し沼田・白井は越後勢の支配下になった。
1510年 / 顕定の死により長尾景春が相模で挙兵して白井城の奪還を試みるも失敗。
その後の景春は駿河今川氏のもとで亡命生活、72才で死亡、北条早雲は長尾景春を勇士として賞賛したという。関東管領は養子顕実が嗣いだが同じく養子憲房が越後から帰還して養子同士衝突して山内上杉氏も衰退していく。
1519年 / 第11代沼田泰輝が幕岩城(沼田市柳町)を築き小澤城より移る。13年後には子の顕泰によって沼田城に移る。この頃奈良村竜ノ鼻に桑原万五が住んでいたという(奈良村名苗顕然記)。
1530年 / 第12代沼田万鬼斎顕泰が沼田城(倉内城)築城開始、白澤用水も工事始まる。
この頃沼田万鬼斎は利根沼田地方だけでなく吾妻・赤城南面を含む上野国北半分を領有していた(加沢記)。箕輪城主長野業政の娘を側室にしていた。
1531年 / 山内上杉憲政(憲房の子)関東管領になる。
沼田氏と発知氏の骨肉の争いの記録あるも詳細は不明(沼田市史、池田村史)。
この頃、発知城は廃城となったが、発知氏はその後もなお越後の上杉氏配下で活躍。江戸時代に子孫が戻ってきて帰農している、家紋も左三つ巴から鹿抱角に変えた(池田村史)。
沼田顕泰は四男の朝憲に小川城を与えた(利根郡村誌)。小川可遊斎が1532〜55までこの城に拠ったが北条氏直に滅ぼされた。
1532年 / 第12代沼田万鬼斎顕泰による沼田城成り、幕岩城から移る。
この頃奈良村龍ノ鼻に万五の屋敷、万五の清水、薬師堂があったという(奈良村名苗顕然記)。
1537年 / 甲駿同盟(武田信虎、今川義元)で北条氏と敵対。
1544年 / 甲相同盟。武田信玄、北条氏康が同盟を結び、長尾景虎(上杉謙信)は相洲北条と甲斐武田の2正面作戦を強いられるようになる(越後の下克上を行った父長尾為景が1536年隠居してからその後継に兄晴景が就いていたが病弱で謀反等が起きても景虎が実質的指揮を執っていた)。
1546年 / 河越夜戦(北条氏康と上杉憲政・古河公方晴氏との五回目の戦い)。北条方の河越城を氏康が救援を送り夜戦を仕掛けて1/10の兵力で河越城を守り、上杉憲政は平井城(藤岡市)へ退却・山内上杉氏は滅亡・晴氏は古河へ退却、長野業政も箕輪城に退却した。
1547年 / 志賀城の戦い。上杉憲政は河越夜戦での敗戦にもかかわらず大軍を送り武田信玄に敗退(重臣長野業正の諫言を無視して倉賀野城金井秀景を大将とする西上野衆の大軍を派遣して敗退、雑兵を含めた数千の晒し首が並べられたという)。
この頃敗戦側は奴隷扱いや人身売買は当たり前で奥方の悲話もあるという、昭和の時代まで嫁入り時懐刀を持参したと言うことが頷ける。
1549年 / 三ツ寺尾の戦い。武田方が市河氏・小幡氏の先導で西上野に侵入し上杉方の安中氏・倉賀野金井氏・和田氏が戦うも意見の違いから長野業政は不参戦。
フランシスコ・ザビエルによりキリスト教伝来。
1552年 / 2月御嶽城が北条氏康の攻撃を受けて落城し数千人の兵が討ち死に、安保氏降伏してから長野業政ら西上州諸将は上杉憲政から離反し(日頃の乱行無道で人心が憲政から離れたという)、
3月引き続いて氏康は上野国に初めて侵入して平井城も落城(箕輪長野業政北条方、厩橋長野道賢上杉方、この頃長野賢忠は子の道安又は道賢に家督を譲っていた?)。関東管領上杉憲政(顕定の養子の子)は平井城を棄てて越後の長尾景虎(上杉謙信、上杉憲政の叔父房能を襲撃して越後下克上を行った長尾為景の4男)を頼って1558年になって入越する(1552年7月?説もあるが有力ではない)が、途中沼田にも滞在している。景虎は関東管領上杉の称号を譲ることを前もって知らせを受けていたので御と号する城を用意して待っていたという。
4月上杉謙信が従五位下弾正少弼に叙任される。
8月謙信は本庄繁長らを関東に派兵して平井城を奪回、沼田城も北条軍から守った。北条軍の北条幻庵らは上野国から武蔵国松山城に退いた。
上杉憲政の重臣であった沼田城主沼田万鬼斎顕泰は家督を次男の沼田憲泰に譲った。上杉憲政はその憲泰を頼るも白澤村雲谷寺を御座所にするなど対応が煮え切らず、更に川田村地頭山名信濃守義秀方へ身を寄せたが力不足と感じて見切りを付けてその後に越後を目指したと言う。(白澤村史、川田村史)
加沢記に依れば顕泰の嫡子上野介(沼田光兼?、顕泰の弟ともいう)は将軍義輝の近臣として近江国を領していたという。次男の沼田憲泰は顕泰の嫡子として平井城にて憲政に出仕していたが後に対立して廃嫡し1558年殺害し若くして死亡。憲泰が北条方についたためという。1562年?家督は3男の朝憲が嗣いだ。
1553年 / 8月第一次川中島の戦い(謙信自ら出陣)。
9月上杉謙信1回目の上洛(越後国・信濃国の討伐を賞する綸旨を与えられた)。この時に石山本願寺、堺商人とも接触し鉄砲確保、交通確保等の実益も計っている。京では将軍義輝・細川氏と三好氏が対立していた。
1556年 / 白沢用水なる(沼田記、着工から25-6年かかった)。
1557年 / 沼田顕泰が川場村天神城築城。既に憲泰に家督を譲っていた顕泰は、妾子平八郎と共に川場村天神城に隠居す(上杉派と北条派に分かれた内紛があったためという)。この年4月武田信玄が西上州に侵入(三日尻の戦い、武田方:市河氏・小幡氏、上杉方:長野氏・倉賀野氏・安中氏・和田氏)、同時に謙信自身は第3次川中島の戦いで参戦。
1558年 / 岩櫃城主齋藤憲広が北条氏康に降伏した。
この頃、厩橋城長野道賢、沼田城沼田憲泰(第13代城主?)も降伏(沼田氏内紛があった?)した。沼田顕泰は憲泰を廃嫡殺害したという。沼田顕泰は厩橋長野氏に攻められて退城し越後上杉氏に逃れた。箕輪長野氏、白井長尾氏、足利長尾氏も北条に従属した。
1559年 / 後北条氏第3代氏康は家督を氏政に譲って隠居。この頃上野国は北条氏がほぼ領国化した。
2月織田信長が上洛して将軍義輝に拝謁。
4月上杉謙信が関東管領職を受け入れて2度目の上洛。将軍足利義輝からの要請で義輝に拝謁して関東出陣の認可を得た。将軍義輝と上杉謙信との取り次ぎには大舘春光が大きな役割を果たした。またその時の関白近衛前久とも肝胆相照らす間柄となり、関白近衛前久自らも翌1560年越後へ下向、翌々1561年越山して上野国等へも赴き謙信帰国後も危険を顧みず古河城に一時残って上杉謙信の関東平定を助けた。関白らしからぬ行動家であったという。
8月北条氏康が北条孫次郎康元を沼田城主に配置し沼田康元と名乗る(歴代沼田氏とは違う)。――沼田城の第1回北条支配。
1560年 / 5月桶狭間の戦いで信長勝利。
一方上杉謙信は3月越中に初めて出陣し富山城を攻め落とし、8月29日発9月上旬着で(三国峠又は清水峠経由?)上野国沼田に初めて出陣して南側の長井坂城に布陣して沼田と北条の連絡を絶ち、沼田康元は逃走、沼田城落城(沼田の初回北条占拠終了)。沼田城番に河田豊前守長親を、厩橋城番に北条丹後守高広(キタジョウ)を配置した。厩橋城主は長野道賢で上杉方であったが暴れ馬騒ぎで謀反と間違われて死亡して北条高広を置いた。沼田氏は朝憲が沼田城に復帰したが上杉謙信の麾下に下った。碓氷秋間城齋藤氏・吾妻岩下城齋藤氏・那波赤石城那波氏も落城し、東毛の一部を除き上野国の大半は上杉謙信の支配になった。
沼田城攻めでは箕輪城の長野業政・白井城の長尾憲景・総社城の長尾顕景も上杉方で参戦した。以後1578年謙信死去まで沼田領は一貫して上杉配下として続く。上杉方沼田城城番は河田長親(1560〜66年)→河田重親・小中家成・新発田右衛門3人衆(1566〜68年)→河田重親・松本景繁・上野家成(1569年)→河田重親(1570〜78年)という(金沢大学栗原修氏)。
(この間沼田氏は城主の名目を保ちつつ上杉謙信の配下に属していた)。
1561年 / 2月まで謙信は厩橋城で越年した。謙信は関東の武将に広く参陣を求め1月〜3月頃作成と思われる関東幕注文が小田原城を攻めるために作成された。謙信の呼びかけに応じた武将は7カ国255名にのぼり沼田氏・発知氏を含め関東の武将の多くが上杉方に付いた。沼田衆14名のうち10名は沼田氏同族ですべて左三つ巴紋と記載がある。沼田姓は1名のみで顕泰ではなく平八郎ではないかという。
3月小田原城を取り囲んだ。
4月には都合で鎌倉に向かい鶴岡八幡宮で山内上杉家家督相続と関東管領就任式。
5月関白近衛前久も越山して上野国厩橋に転居、その後古河城に拠り上杉謙信の関東平定を助け、1562年2月厩橋→越後→8月京へ戻った。(松平家康を徳川姓に改めて従五位下三河守への叙任の斡旋を朝廷にした。1587年3月上野国草津へ湯治に下向したこともある。公卿らしからぬ行動力を持ち、地方遍歴が多く文化の地方への伝播に多くの役割を果たしたと云われている。) 
8月川中島第4次戦い。海津城(松代城)はこの前年に山本勘助に命じて武田信玄が築城した(1622年になり眞田信幸が上田城より転封、加増されたが信幸は不満が強かったという)。
12月には(上洛していない?)将軍義輝から1字を頂き輝虎と改める。
12月?長野業政病死、3男の長野業盛が箕輪城主を嗣ぐ。、「業政ひとりが上野にいる限り、上野を攻め取ることはできぬ」と嘆いたと言う武田信玄は直ちに攻撃を始めたという。
この年も謙信は厩橋城で越年した。
1562年 / 織田信長と徳川家康が同盟を結ぶ。上杉謙信は2月館林城主赤井氏を滅ぼし、3月唐沢山城佐野氏を攻める。7月越中国へ出陣。12月には武蔵国松山城が北条・武田連合軍に攻められたため救援のために12月上野国沼田城に入り沼田城にて越年。救援に向かったものの間に合わず翌2月松山城落城。
沼田顕泰が沼田弥七郎朝憲(沼田城主第14代?)に家督を譲り再び天神城に移る。
1563年 / (畿内での永禄の変の2年前)。2月救援間に合わず松山城落城し、怒った謙信は3月騎西城、4月小田城を攻略。この時敵方の記録甲陽軍鑑には謙信らしからぬ残酷な仕打ちを描いている。
9月長野原合戦・岩櫃城合戦。(武田方と上杉方の代理戦争。武田方:鎌原城鎌原幸重(宮内少輔)・眞田昌幸ら信州勢、上杉方:岩櫃城斎藤憲広・羽尾入道・沼田万鬼斎ら沼田衆・白井城長尾憲景・中山城中山景信・越後衆)。海野兄弟・齋藤弥三郎環忠の謀反等で武田方勝利、吾妻の守護は眞田幸隆がなり加勢衆は眞田にお預けとなり本領安堵という(加沢記)。
この年も謙信は厩橋城で越年。上杉謙信は特に寵愛した側近の河田長親を沼田城代に据えて上野の重要拠点として以後の上野出陣と帰国は沼田城を経ていた。謙信は1560年〜1570年まではほぼ毎年秋に上野に出陣して翌年春に越後に帰国するか越年という行動をとった(1560,1562,1564,1566,1569,1570年)。この時発知氏は河田長親の配下になっていたという。
1564年 / 8月川中島第5次戦い。10月唐沢山城の佐野氏攻撃、再び謙信は降伏させた。
1565年 / 永禄の変。剣豪将軍と言われた第13代将軍足利義輝が三好三人衆・松永久秀に御所で襲われ敢えて逃げずに討ち死に。弟の義昭も命を狙われ細川藤孝らに助けられて逃亡。
上野国の吾妻岩櫃城が真田幸隆により陥落して武田領となり斎藤氏に代わり真田氏城代となる。これが後の真田氏沼田支配のきっかけとなる。
1566年 / 9月箕輪城落城。長野業盛の箕輪城が武田信玄により落城、西上野が武田支配となる。真田幸隆・信綱が箕輪城代を務める。この時武田信玄の仕官要請を断った上泉伊勢守信綱は諸国流浪の旅に出て以後新陰流の祖と言われるようになる。
西上州への武田氏の侵攻に不安を感じた新田金山城主由良氏および厩橋城の北条高広が、北条氏康の誘いに乗り上杉方から北条方へ寝返り、越相同盟に向けて動き出した。謙信が沼田城で越年。(1569年越相同盟成立で厩橋城の北条高広は上杉方に復帰する。この間2年半の沼田城番松本景繁・河田重親・小中家成の3人衆は越相同盟折衝の窓口のために両者の間に立って使者の送迎・もてなし・情報合戦等大変だったという。北条方から沼田方が眞田岩櫃城を攻めるよう要請もあったという)。
1567年 / 真田幸隆が病気のため嫡男信綱に家督を譲り隠居1574年死亡、その信綱も翌1575年長篠の戦で死亡して真田昌幸が家督を継ぐ。
1568年 / 10月仏門から還俗した足利義昭が信長らの助けで上洛し天皇より第15代将軍に任命された。
上杉謙信はその新将軍足利義昭からも関東管領に任命された。(朝倉氏家臣の明智光秀の仲介で三管領斯波氏の家臣の織田信長の尾張国へ身を寄せたが、9月より織田信長・浅井長政の軍と共に上洛開始して10月将軍宣下とともに同時に従四位下、参議・左近衛権中将にも昇叙・任官された)。
関白近衛前久が永禄の変への関与を疑われて足利義昭により朝廷から追放された(後に復帰)。
1569年 / 正月織田信長による殿中御掟9ヶ条が将軍義昭に提出された(まもなく21ヶ条となる)。この頃から幕府再興を目論む義昭と天下布武で自ら天下統一を目指す信長との考え方の違いから関係が冷却化していく。
正月川場合戦(天神城の戦い)。沼田万鬼斎顕泰(第12代沼田城当主)わが子四男弥七郎朝憲(第13/14代?当主、母箕輪城主長野業政姉、正室前橋城の長野賢忠(又は子の道安又は道賢)の娘(この時城主は既に北条高広でかつ1566年上杉から北条へ寝返っていた))を殺す(北条側に着いた次男憲泰もかつて殺害している)。家臣らに反逆されて同族の會津蘆名氏を頼って落ち行くも途中で万鬼斎死亡、平八郎會津へ逃亡(弥七郎:北条方、顕泰:上杉方の対立のためとも言われる。その後平八郎は1581年由良の援助のもとに再起して沼田を攻めるも滅亡)。沼田城番からの依頼により11月上杉謙信が沼田城に入城越年。城番は河田伯耆守重親の他の2人は替わった。(加沢記ではまず柴田右衛門(=新発田右衛門?)が3月に城主亡き後の初代城代としている?地元誌の名苗顕然記でも柴田右衛門・河田伯耆守となっているので1569年まで柴田右衛門は沼田に居たと思われる)。
同6月武田信玄に対抗するために北条・上杉の越相同盟成立。一時北条方であった北条丹後守高広は上杉への帰参を許された(由良氏・厩橋北条氏が仲介、北条氏康は謙信の信州出兵を希望、氏康の子七男北条三郎氏秀を謙信の養子とした)。越相同盟は北条方の足利義氏を古河公方として認めることになり常陸国佐竹氏など関東諸将は謙信に不信感を抱くようになり安房里見氏はあくまでも反北条氏として謙信から離反して武田氏と組むようになる。
閏5月上杉謙信は入洛した足利義昭を祝し織田信長に鷹を贈ったという。
1571年 / 越相同盟で武田氏の背後を上杉氏が突くことを期待したが謙信は動かず焦りを感じていた北条方は、北条氏康逝去して氏政が越相同盟破棄。甲相一和成立して武田と同盟。西上州を武田、東上州を北条が支配する相甲の国分け協定成立。
1572年 / 武田家臣の真田幸隆により白井城陥落、上杉謙信の沼田城・厩橋城の連携は分断された。
上杉謙信は怒って関東にも出兵し、同時に北陸越中の一向一揆とも対戦する。謙信・信長・家康との間で同盟連携して戦いが進行。
織田信長が「十七条の異見書」を出して将軍足利義昭の悪口を世間に流布した。  
安土桃山
1573年 / 武田信玄逝去。
2月将軍義昭が信長追討の檄文を出したために3月織田信長が出陣しその後、第15代将軍足利義昭を京より追放した(但し天正16年1588年まで義昭が征夷大将軍に名目上在位していて、この年をもって室町幕府滅亡。義昭は退位後も秀吉によって厚遇されたという)。
1574年 / 3月織田信長が上杉謙信に狩野永徳筆の「洛中洛外図屏風」を贈る。4月北条氏政と上杉謙信の第二次利根川の対陣。5月謙信は越後へ帰国。
1573年〜1574年 / 謙信越中を支配した後に上野に出陣し、翌年にかけて北条氏政側についた新田金山城の由良氏を討つべく渡良瀬渓谷の黒川谷合戦等あり。
1575年 / 5月長篠の戦い。武田勝頼が織田信長に負ける。11月信長は従三位権大納言兼・右近衛大将に叙せられる。豊臣秀吉は筑前守に任ぜられる(従五位下叙任は1584年)。
1576年 / 安土城の築城始まる。1579年完成。1582年本能寺の変後に焼失。足利義昭は信長から逃れるように毛利氏を頼って紀伊由良から備後鞆の浦に移り鞆幕府を構えてそこから盛んに反信長の御教書を出していた。
1578年 / 3月上杉謙信逝去。上杉謙信は織田信長との同盟を破棄して、能登七尾城、加賀手取川の戦いで織田軍を破り越中と能登を平定してから帰国、つづいて関東平定に向けて出陣を決めた直後に脳出血で逝去した。この時には前年からの関東諸将からの救援要請および将軍義昭や毛利輝元からの上洛催促の密書が届いていたという。
謙信は後の信長や豊臣秀吉と違い、国人衆連合の盟主という地位から脱することが出来ず、かつ謀反人の北条高広や佐野昌綱や本庄繁長など反乱を繰り返す家臣を許してしまうという点で権力集約に限界があったとされる。
謙信逝去直後からの御の乱で沼田城・厩橋城は上杉景虎(北条氏秀)側についた(武田氏・北条氏はこの時点ではまだ同盟関係にあった)。
6月景勝側からの要請で武田勝頼と越甲同盟成立、領土分割協定を結び東上野も武田領とした同盟を景勝は結んだ。北条氏政は弟北条氏邦を送りその弟上杉景虎を支援するために越後に向けて出兵するも途中の沼田で景虎自害を知る。 
1579年 / 3月上杉景虎は戦いに敗れて自害して上杉景勝側勝利。
7月鉢形城の北条氏邦が沼田城を攻撃して北条氏政により沼田城無血開城(沼田の第2回北条氏支配)。
上杉氏から沼田城を預かっていた沼田城番衆は一枚岩では無く、河田重親、厩橋城の北条高広は景虎側で上杉景勝から転じて北条氏家臣になったが沼田城番上野家成は北条に逆らい沼田城に籠城したが破れて越後上杉へ戻った。まもなく河田伯耆守重親は不動山城(赤城村)に移り猪俣邦憲・用土新左衛門尉重連(まもなく弟の用土信吉=藤田能登守信吉に代わる)・金子美濃守泰清が沼田城代となる。越甲同盟で武田氏の東上野進出も始まっており北条も沼田領の上杉勢力を完全掌握できず氏邦は逆に敗退する。河田重親のその後は不詳であるが江戸時代の旗本につながって生き残っているという。
上杉景虎没命により既に越相同盟は破棄されており、北条氏は既に東上野進出していた。
7月武田勝頼の妹菊姫が上杉景勝に輿入れした。
9月北条氏政は甲相同盟も破棄されて武田勝頼とも戦闘を始めた。
1580年 / 2月眞田昌幸は小川城、猿ヶ京城、名胡桃城を調略により武田方に引き入れた。
5月真田昌幸により沼田城包囲、用土信吉(兄の用土重連は実はこの時義兄弟でもある主君氏邦に謀殺されていて弟の用土信吉が北条の沼田城城代となっていた。藤田能登守信吉は武田勝頼から賜った名という)が降伏して沼田城が無血開城し幸隆弟の矢沢頼綱が城代になる。吾妻岩櫃城・名胡桃城・小川城・猿ヶ京城・川田城が陥落、利根川を超えて明徳寺城・沼田城も陥落、昌幸は岩櫃城、沼田城および支城、白井城を統括する役目を担った。川田城では75人が晒し首になったという。
北条方であった城代藤田能登守信吉・金子美濃守は寝返り降伏、猪俣邦憲は鉢形城に退いた。この時眞田昌幸は降伏して配下になった金子美濃守には中之条横尾八幡城を与え、沼田城代藤田能登守信吉には生品・白澤村・奈良村・秋塚・発知村等を恩賞として与えた(沼田市史、白澤村史)。信吉まもなく沼須城主に移る。(藤田能登守信吉は北条氏邦の義弟だがその後、北条→武田→織田→上杉→北条→上杉→徳川と主を替えて生き残り大阪夏の陣にも徳川方で従軍したが信濃で死去)。 
1581年(天正9年) / 2月真田昌幸が沼田城を降伏させてさらに前橋城攻撃中に万鬼斎遺児の沼田平八郎景義(側室金子美濃守娘の子)再起して沼田城に帰還するべくその南の阿曾城に太田・新田・勢多方面の援軍3000人と共に詰め田北名の原で戦い勝利するもその後3月15日沼田城代の金子らに騙されて城内にて殺される(沼田氏滅亡)。この時に沼田平八郎景義は発知氏支城の高王山城に奈良原を通って陣取り沼田城に対峙していた。この時和田主水や発知景朝も沼田平八郎景義に味方してその一族の多くがこの時戦死したという。
10月には吾妻の鎌原氏や金子美濃守の讒言に騙された昌幸により攻められて岩櫃城・沼田城の海野兄弟が自決した。
1582年 / 天正壬午の乱。3月武田勝頼が織田信長に追い詰められて自害し、主不在の旧武田領の争奪戦始まる。
信長は上野国にも織田信房らの軍を派遣して、甲斐・信濃・上野の3国ともに織田信長の支配下に入った。この流れを見て眞田昌幸も信長に帰属し黒葦毛の馬を送り臣下の例を取った。信長は喜び令状を送ったという。滝川一益を関東管領に信長は任命して上野国の城主は殆ど滝川に帰属し眞田昌幸も帰属して岩櫃城、沼田城、小県・佐久を一益に明け渡した。信長は昌幸を一益の与力とした。滝川一益は厩橋城入城、沼田城には甥の滝川義太夫が城代として入城(人質として真田信繁も入る)。昌幸は信長死後6月上杉に従属、7月北条に従属、10月家康に従属するも同月の北条・徳川和睦により再び離反して上杉に帰属した。
6月2日本能寺の変で信長が横死。なお在城していた沼田城の元城主藤田信吉は義太夫に返却を迫ったが昌幸に返すのが筋と言ってそれを拒んだ。
6月19日北条氏直の大軍と滝川一益との神流川合戦で北条氏勝利して沼田城から滝川義太夫ら信濃に敗走。この神流川合戦後に藤田信吉は越後の上杉景勝方へ敗走した。6月21日昌幸は叔父矢沢頼綱、嫡子信幸を送り込んで沼田城を奪回。真田昌幸は織田支配下から6月24日上杉に臣従、7月9日には北条氏直の支配下になった。沼田領内は北条配下の赤井氏がいて真田氏が1本化出来ず7月沼田氏一族の恩田氏に発知所領を与えている。さらに真田氏は9月25日には北条から寝返り徳川家康配下になった。10月29日徳川家康と北条氏直との織田信長旧領の再配分同盟により、関東の北条支配は手柄次第となり北条氏の沼田攻めが活発になった。翌1583年2月徳川・真田の仲介役の依田信蕃が戦死して真田は上杉方へ寝返り徳川と敵対する。
勝頼・信長の死後は徳川・北條・真田・上杉が絡み合って混戦。
この頃から真田昌幸は利根・吾妻・佐久・小県の4郡を確保して戦国大名として自立するようになった。
北条の沼田城攻め:1578年・1579年・1582年・1583年・1584年・1585年・1586年・1587年等。沼田城周辺だけでなく周辺村々が悉く北条兵に荒らされ放題で財宝略奪・男女を問わず切り捨てられ酷い状況だったとの記録有り。 
1582年〜信長死後より1598年秀吉没まで太閤検地あり。
1583年 / 真田昌幸が平城上田城を築城。万鬼斎1532年築城の沼田城も再築城開始。秀吉は信長により焼却された石山本願寺跡に大阪城築城開始。大阪城は1615年大阪夏の陣で落城後1620年再築城、1665年落雷で天守焼失。以後1931年の天守閣復興まで天守なし。
1584年 / 小牧・長久手の合戦で豊臣秀吉と徳川家康・織田信雄が対立し、家康は北条との融和策から沼田領を北条に渡すように真田昌幸に命じたが昌幸は拒否して家康と決裂。
1585年 / 5月伊達政宗の蘆名攻め(関柴合戦)。
6月四国を統一して秀吉に逆らっていた土佐の長曾我部元親を毛利輝元らに四国攻めを秀吉が命じ、8月降伏した。
7月関白相論の混乱に乗じて秀吉が関白となる(菊亭晴季の助言で名目上折り合いの悪かった近衛前久の猶子となる)。翌1586年9月豊臣姓を正親町天皇より賜りさらに12月太政大臣となる。
7月家康と決裂した真田昌幸は上杉景勝の支配下に入った。
8月神川合戦(第一次上田合戦)で真田昌幸と徳川家康の大軍が戦って真田勝利して戦国大名真田氏の名が広まる。後に家康が小松姫を信之に嫁がせて懐柔策をとるきっかけになった。同じ頃北条氏直も沼田城を攻めるが城代矢沢頼綱(昌幸の叔父)が撃退に成功している。秀吉の仲介で家康の上田城攻撃は断念されて真田氏は秀吉に従属するようになる。
11月人取り橋の戦い。佐竹・蘆名連合軍と伊達軍の戦い、連合軍が4倍以上の圧倒的兵力差で伊達軍の敗戦であったが佐竹家の内紛で伊達軍壊滅状態の中で佐竹軍撤退。 
1586年 / 4月徳川家康と豊臣秀吉の和議成立、朝日姫が家康に嫁ぐ。真田昌幸は徳川配下の豊臣大名という立場になった。
7月二本松城無血開城。政宗は城主に家臣の伊達成実を置いた。二本松城を足がかりに政宗の蘆名攻めは加速する。
1587年 / 秀吉は関東奥羽両国惣無事之儀を出し、関東の領土紛争は沼田領を除いて無くなった。
関東では沼田領を巡る真田、北条の争いは収まらず、1571年相越同盟破棄以来〜1589年までの間は北条の沼田侵入は複数回に及び北条方が沼田城下を攻撃し、しかも周辺の村々を含めて酷く北条の兵に荒らされ、財宝奪取、男女の区別無く切り捨てられたという。
奥州でも伊達、蘆名の対立が続き、後継者が夭逝して後継者争いが伊達派・佐竹派の間で起こった黒川城主蘆名氏は佐竹義重次男の義広12歳を養子に迎えて蘆名義広(後に盛重と改名)を後継とした。
1588年 / 郡山合戦。佐竹・蘆名連合軍と米沢城主伊達政宗の合戦、引き分け。
第15代将軍足利義昭は1573年信長に追放されたが念願の上洛復帰は1587年で形式上の退位は1588年秀吉に忠誠を誓っての辞任となり室町幕府終了、権限が全く与えられなかったが退位後も秀吉から1万石を与えられて最期まで貴人として遇された。この意味では戦国時代は室町時代の後半部にほぼ重なる。
1589年(天正17年) / 6月摺上原の戦い、蘆名氏敗走。出羽米沢の伊達政宗による會津黒川城攻めで、蘆名氏滅亡。黒川城主蘆名義広は生家で兄の佐竹義宣を頼って常陸国に落ち延びた。勝利した米沢城の伊達正宗は以後蘆名家の本拠の黒川城(會津若松城)を本拠とする。
蘆名義広(翌年盛重と改名)の子又十郎盛近は常陸国田島村に逃れ潜伏し政宗に害されるという従臣の勧めで佐部盛近と改名(遠祖の佐原義連・外祖父服部寛清の一字ずつを採ったという)。
7月秀吉裁定で沼田城は真田方から北条方へ引き渡し。真田・北條の対立で秀吉裁定により沼田城を含む利根川東岸部を北条領、名胡桃城を含む西岸側を真田領とした。このため真田昌幸は東部一帯の家臣の領地を信州伊那郡箕輪を替え地として家臣に与えた。真田領1/3、北条領2/3であったが両者とも不満ながらも秀吉に従い沼田城は真田から北条に引き渡された。沼田城には猪俣邦憲、名胡桃城には鈴木主水重則が入った。
(沼田の第3回北条氏支配)
その土地から離れられない農民達の動きを示す資料はみつからない。
沼田城代には北条氏邦家臣の猪俣邦憲がなった。
11月猪俣は続いて真田方の名胡桃城城代鈴木主水重則を偽手紙で誘き出し不在中に城を奪い取った。鈴木主水はそれを羞じて正覚寺に於いて立腹した(立腹:立ちながらの切腹)。上洛中の眞田昌幸は使者からそのことを聞き秀吉に訴え出たが、北条氏直は知らぬ事と弁明し通して猪俣邦憲も氏政・氏直に責められることはなかった。
12月秀吉は関東奥惣無事令への違反としてこれが直接原因となって小田原城攻撃命令を出した。
秀吉の小田原攻めでは沼田城・厩橋城・和田城・倉賀野城・箕輪城・松井田城・金山城・館林城・白井城など上野国国衆は北条氏邦らの北条方の管轄であった。
1590年(天正18年) / 3月眞田昌幸は秀吉の小田原城攻めに参加のために上田城を出発。眞田昌幸は上杉景勝・前田利家らと北国軍として碓氷峠から上野国に入り松井田城・箕輪城・厩橋城等次々と降伏させて、5月には武蔵国の鉢形城を攻撃して北条氏邦降伏、続いて八王子城北条氏照降伏、7月北条氏直降伏。
北条方の沼田城城代猪俣邦憲が真田方の名胡桃城を占領したことをきっかけに秀吉は小田原城を攻め、3ヶ月で無血開城、氏政・氏照は切腹、氏直は高野山に追放。早雲以来の後北条氏は滅亡した。
7月に宇都宮城で戦後措置の宇都宮仕置を行う。この時伊達正宗は小田原攻めへの遅参・惣無事令違反の蘆名攻めを理由に會津郡等没収減封されて米沢城へ、會津は蒲生氏郷に与えられ蘆名義広(盛重)に返却されなかった。
その為寄る辺を失った蘆名又十郎盛近(佐部盛近)は上野国沼田佐山に移り住んだという。父蘆名義広は常陸国江戸崎領4万8千石を与えられ名を義広から盛重に改名。盛重兄の佐竹義宜は水戸領49万石を与えられた。しかしその後1602年関ヶ原不参加を咎められて佐竹義宜は秋田へ移封、蘆名義重も家臣となって秋田に移った。翌年蘆名盛重(更に義勝と改名)は秋田角館を分領したが数代続いて断絶したという。一方上野国へ移り住んだ佐部又十郎盛近の末葉はその後左部と更に改姓し今もある。
眞田昌幸はこの宇都宮仕置きにて、沼田・上田・小県を安堵され、沼田領(吾妻・利根)全体は子の信之に委ねた。引き続き行われた奥州仕置き(伊達政宗→米沢城に戻る、黒川城→蒲生氏郷、浅野長政→鳥谷ヶ崎城、等)にて秀吉の天下統一が完了した。
1590年(天正18年) / 再び沼田城が真田方のものになる。昌幸は自分は上田にいて25才の信幸(信之、伊豆守)を沼田城主とした。真田信幸が沼田領の最初の検地行う。奈良村に奈良村中興の名主として桑原杢右衛門および石田茂左衛門との記録がみえる(奈良村名苗顕然記1766年)。
1590年徳川家康が関東に入国。秀吉は関東一円をほぼすべて徳川家康に与え、真田昌幸には信濃上田2郡、上野国利根・吾妻2郡を与えた。しかし他藩の主従関係と違い真田は家康の被官という立場だった。
1590年(天正18年) / 真田信幸の招きで平等寺が越後塩沢より来る(真田信幸の室の乳母の父が慶長15年(1610年)沼田城下巽の原中に1寺を開基し2年後に塩沢より第14世宗圓来り平等寺となったともいう――利根郡誌)。
1590年8月25日付けの沼田の「下河田之郷検地帳」が残されている(戦国期の検地方式?)。
1591年 / 伊達政宗は米沢城から岩出山城へ移封、米沢城主は蒲生ク安がなった。
1593年 / 真田信繁が従五位下左衛門佐、真田信之が従五位下伊豆守に叙任される。
1596年 / 太閤検地(真田信幸により沼田領検地)。利根郡一円95ヶ村計1万8千石+勢多7ヶ村700石+吾妻73ヶ村1万2千石、都合3万石。
1597年 / 真田信之により沼田城を改築して、1606年には5五層の天守閣に築城なる。
川場用水も着工、第2代信吉に至るまで続く。
1598年 / 1月秀吉裁定で伊達政宗から取り上げていた會津120万石は上杉景勝が得て米沢城主は直江兼続がなった。4月越後春日山城は上杉氏の後に堀秀治が入ったがその堀氏が徳川に対する上杉の叛意ありと訴えたことがきっかけで上杉に疑念が生じ上杉討伐の底流を作ったという。蒲生氏は宇都宮に減移封となった。
8月豊臣秀吉没。
1581年〜1681年 沼田藩の真田氏支配(1589年秀吉裁定結果の一時的北条支配を除く)。
1600年 / 會津征伐および関ヶ原合戦。上杉景勝の家康に対する軍備増強を疑われる中、3月には直江兼続から家康に内通していると疑われた藤田信吉が上杉景勝から離反して家族皆殺しになったが信吉本人は徳川秀忠を頼って逃れ上杉氏軍備増強の讒言をした(伏線に敵対勢力の山形城主最上義光、春日山城主堀秀治らによる讒言がある)。5月家康に届いた直江状をきっかけに徳川家康が上杉景勝討伐に6月徳川軍出発。真田も出陣したその途中、石田三成の急使に接し、真田親子・兄弟の下野国佐野の犬伏宿の別れが7月21日にあり、昌幸・幸村と信之はここで袂を分けた。昌幸・信繁が上田への帰途沼田城に立ち寄り城外に閉め出されるも留守を預かる小松姫との城外の正覚寺での面会逸話あり。同年9月5日第二次上田合戦、9月15日関ヶ原合戦わずか6時間で決着した。
1600年〜1616年 上田城及び沼田城が家康より真田信幸に与えられ両城主時代。
1601年 / 8月上杉景勝が家康により會津黒川城から出羽米沢30万石へ移封減封される。
この頃?蘆名氏末裔の佐部孫右衛門が上佐山村より奈良村に来る。
1602年 / 常陸の佐竹義宣が秋田領へ減封になり弟の蘆名義広も蘆名義勝と改名して同行し秋田領角館の領主になった。 
江戸
1607年 / 眞田信之が五層の天守を築く。
1611年 / 真田昌幸が和歌山九度山にて蟄居中病死、65才。
1612年 / 江戸幕府キリシタン禁止令。
1615年 / 大阪夏の陣で真田信繁が5月8日戦死、49才。
7月元和偃武を宣言、元号を元和と改めて関東の享徳の乱・関西の応仁の乱以来の約160年間の戦乱が終了、幕府が天下平定の完成を宣言した。
1616年 / 真田信吉が第2代沼田城主。信之は領民に惜しまれながら上田に移る。小松姫も共に上田に去った。
1618年 / キリシタン東庵が川場村に住む(九州大友氏の館が川場にあるのを念頭に置いていたという。1620年フェルナンデス神父沼田にてキリスト教布教(九州大友氏は1587年秀吉のバテレン追放令で既に表向き棄教していた)。
1616年〜1634年 第2代真田信吉城主時代(幼名蔵人、河内守信吉)。参勤交代で江戸出府中に天然痘で1634年11月28日40才で逝去。 
1620年 / 小松姫が江戸より帰国途中、鴻巣で客死。沼田正覚寺に宝筺印塔と御霊屋がある。鴻巣と上田にも分骨。
1622年 / 真田信之が上田から松代に移封、加増されて10万石となるも信之不満ありて植木を悉く松代へ引き抜いて持って行ったという。信之は沼田・上田・松代いずれにおいても善政を施したという。(信之は小松姫の没後、更に国替えになり寂しさから以前より親しかった才女の誉れ名高い小野お通に松代にくるよう手紙を出したが、「姥捨ての山にはいらじ名を聞きて車を返す人もこそあれ」と返歌で断られたという。お通の娘小野図子(お円)は真田信政の長男真田勘解由信就(信景?)を生んだ。子孫の真田勘解由家に記録が残っているという。)
1622年 / 元和の大殉教。キリスト教徒55人が長崎で処刑(火刑25名斬首30名)。火刑を見ていた画家が描いた油絵がローマに送られて今でもジェズ教会に保存されている。フェルナンデス神父もこれを記録してなお日本各地に神出鬼没して知右衛門と称して身を隠しキリスト教布教を続けたが山口周防にて捕縛長崎に送られ逆さずり刑で1633年殉教。この後キリスト教徒迫害は更に凄惨になっていった。1639年には宗門改め役が置かれた。
1628年 / 川場用水がつくられる。奈良村の石田勘解由晴栄が没。
1634年 / 信吉の指示で城鐘が鋳造される。沼田城破却の時に堀に埋められることを悲しんだ平等寺住職覚遵が請い受けて同寺に下げ渡された。その後太平洋戦争の供出の対象にもなったが二度の危機を免れて現存している。
1635年〜1638年 第3代真田熊之助城主(信政後見)、7才夭逝。
1637年 / 島原の乱。鎖国令。
1639年 / 信政(43才)が第4代沼田城主となる7月入城。(若いときはプレイボーイで素行不良であったが藩主になってからは土木事業等努力したというが労役過重で領民からは不満がでたといい、効果が出る前に1657年松代に移った)。信政派信利派に別れて策動がある中73才の信之が松代から沼田に乗り込み鶴の一声で決めた。その際信利5歳と母お通(依田氏、小野お通ではない)には5千石の化粧料(奈良村等?)を与えて小川古城を改築して住まわせた。
1639年〜1656年 / 真田内記信政第4代沼田藩主(内記、大内記)。沼田城下の区画整理・4か村堰(1653年4月完成で、通称伊賀堀とも言うがこれは間違い)などの土木事業を行う。月夜野町もこの時に新たに出来た。(1639年信利5才が移り住んだ小川城跡の新居がある下小川村に後関村・真庭村・政所村を合わせて信利のために信之の意向を入れて作ったという)。
この頃「筑地の内の・・某・・伊豆守様の御目掛けに成る。此腹に信州の右衛門様ご誕生。・・・」と名苗顕然記にある(幸道の母は高橋氏ゆえ、幸道の間違いでは無く信之の子道鏡(1642年12月生まれ)と思われる)。
1643年 / 寛永の検地。第4代沼田藩主の真田信政が沼田領を検地し、4万2千石。
1653年 / 下総国佐倉の木内惣五郎が上野寛永寺に参拝の途中の第4代将軍家綱に駕籠直訴、夫婦磔刑、子供4人死罪。
1656年 / 5月信之が幕府に隠居を願い出る。信利(幼名は喜内・兵吉、1647年14才で元服伊賀守信澄、沼田城主となり信利(信俊ともいう)、1673年9月延宝と改元に合わせて信直、と改名した。信吉側室依田氏娘お通の子)が沼田藩主となる。
1656年信之隠居のために信政が3万石沼田藩主から10万石松代藩第2代藩主になる、この時沼田藩はまだ松代藩の分地であった。
1656〜1680年真田伊賀守信利が第5代城主。
1662年〜1680年同城主の悪政。
1657年 / 真田信之(剃髪して一当斎と号す、川中島殿)が川中島柴に隠居して信政が7月松代城主として入城。9月25日には信利が小川の館から沼田城に入城。しかし松代城主信政はわずか在城7ヶ月で翌2月に逝去。
この頃奈良村で今村助兵衛と石田茂左衛門・桑原杢右衛門との間で公事あり眞田信之の仲裁による裁断があった。
1658年 / 2月5日信政死去で幸道派・信利派の家督騒動が幕府を巻き込んで表面化したため、まだ存命(92才)の信之の裁定で信政の子2才の信房(のちに幸道、右衛門佐幸道と改名、信政側室高橋氏娘の子)を第3代松代藩主とした。信利が起こした家督騒動は信之の迅速な行動で予定通り幕府裁定にて決定。かつ沼田藩はそれまでの真田藩分地から独立立藩となった(信之の迅速な対応が無かったら真田氏は滅亡していたとも言われる。相続争いに破れた信利は松代を見返してやろうとの心が芽生えて無理が始まる)。
10月真田信之93才で大往生(川中島柴に隠居してわずか2年、信政逝去して8ヶ月)。後継争いに敗れた伊賀守信利は松代藩10万石に対抗して沼田藩3万石を増やそうと信利の無理が始まる。父信吉が1627年行った検地では沼田領3万石(利根郡1.8万石+吾妻郡1.1万石+勢多郡7百石)、叔父信政が1643年行った検地では4万2千石であったが、信利が1662年春〜1年半で行った検地では14万石、改易後の見直しで1684年〜2年半かけて行った貞享検地では6万石であった。
1660年 / 藩財政が厳しい中信之の遺金八万両返還申し入れを担当させられた城代家老の根津宮内が失敗を責められて失脚(その後も尾を引き1664年幕府評定所が公事に訴えるとは不届きなりと沼田藩が裁定された)。
もともと沼田藩は信州勢と元北条麾下の沼田勢が拮抗していたが信政が松代へ引き連れて行ってしまったためそのバランスが崩れ、主人に諌言する信之以来の主人思いの重臣を遠ざけて次々に失脚追放・知行召し上げを行い、甘言する家臣を取り立てた信利が自らの身を滅ぼすことになって行く。
1661年 / 奈良村の石田勘解由長男外記・四男源右衛門、繻エ左近大夫長男内蔵助共に同年没。
この年吾妻郡伊勢町の名主青柳源右衛門の倅六郎兵衛が伊賀守に重大な献策をしたという(当領の田畑反歩なく永銭にて石高を記す儀無明に御座候、田畑反別に改め、分米を以て石高記し度く願い奉る)。新たに検地をして永銭で納めていた年貢を米で納めるようにしたいと言う意味で、伊賀守は喜んでこの増税策を採用したという。この後各地で貫文制から急速に石高制に変わっていく。
1662年 / 寛文の拡大検地。第5代藩主真田伊賀守信利が沼田領内検地開始、1663年終了、14万4千石。(眞田領:利根郡95ヶ村・吾妻郡79ヶ村・勢多郡7ヶ村計181ヶ村、この段階で既に3万石から16万石になったとも13万石余りとも資料によって異なる。吾妻郡73ヶ村ともいう。)
寛文―延宝年間(1661〜1681年)には上野国内の各領の総検地はほぼ完了し貫文制から石高制検地に変わり幕藩体制の基礎が確立していたという。
この頃上野国の総石高51.5万石、郡数14,村数1133村、利根郡は95ヶ村であった。江戸期全期を通じて新田開発による石高増加率は全国平均1.6倍とされる中、上野国の増加率は1.2倍と極めて低かったがこれは主に畑作地開発が主であり耕地の7割が畑であったためという。沼田眞田領はこれらに比べても苛酷過ぎる増加であった。なぜ過酷であったかについて昭和39年月夜野第一中学校の生徒が「石畑の研究」の自由研究を行い全日本学生科学賞という最高総理大臣賞を獲得したという。また家老鎌原縫は自分の所領の検地に反対したため役人は竿入れしないで石高を推定で増石したという。
1669年 / 高貞院(真田信吉次女、伊賀守姉、国女→高貞院→長姫)が京都千種三位へ長姫と改名して輿入れ。(のちに祖父信之の大鋒寺に因み京都妙心寺に大法院を建立して改易後の伊賀守4男辰之助を引き取り京極大納言に縁付け、自身は念仏三昧の静かな余生を送ったという。)
1672年 / 信利が更に追加検地の新田検地行う。
1674年 / 和算の大家の関孝和が「発微算法」を発表。
1677年 / 検地を伊賀守に薦めて出世した息子六郎兵衛への地元の風当たりが強く、吾妻伊勢町名主青柳源左衛門と中之条名主狩野新左衛門は地元百姓から租税軽減の訴願をするよう強請されて断れず沼田町の重役に哀訴したところ百姓の手先になるとは何事だと立腹されて、百日の入牢と家財を没収競売に付されて中山村後藤伊兵衛が50両で買い受け同額で本人たちに売り渡したという。本人たちは伊勢町青柳加左衛門、中之条劔持太左衛門と改名して再起したという。伊賀守が大阪城加番で不在の時というので家臣の横暴もあったという事を表している。吾妻郡には残酷物語を現す水牢が多くあったという。あらゆるものに税金がかけられて家の窓にも窓役という税金が掛けられたために窓を無くして穴倉のような住居もあったといい滞納すれば水牢が待っていたという。
1680年 / 5月家綱死去して館林城主綱吉が第5代将軍となる。同年大老酒井雅楽守忠清(信利の遠戚)を解任。綱吉は在任中大名を三十余家・旗本を百余家を改易・取り潰ししたという。就任早々租税の苛酷を戒めたり諸国の代官を集めて民政の訓示をしたという。後に度が過ぎて犬将軍といわれるようになる。
1681年 / 1月真庭政所村の松井市兵衛が出府して幕府目付櫻井庄之助に単独で越訴、12月真庭政所村の利根河原にて斬首刑、同家の位牌に「松井市兵衛伊賀守様ニ付けヲハル」と記されているという。市兵衛は茂左衛門と密かに連絡を取り合っていたが情報漏洩を恐れて単独で行ったという。
時を同じくした1月付けの訴状が信利が幼少時育った小川館のあった下小川村の杉木茂左衛門によって沼田領177ヶ村の農民を代表して第5代将軍綱吉に輪王寺の文箱を使って直訴された。
11月眞田伊賀守改易。11月23日幕府の裁断が下り城地召し上げ等の処罰が決まって真田氏改易・沼田真田氏滅亡。安藤対馬守他幕府側総勢6500人が沼田領内に入り沼田城内で12月19日引き渡しが行われた。
1682年 / 正月早々から沼田城の取り壊しが始まり3日から13日までの10日間で総て破却1月29日には終了し全員が引き上げていった。鉄砲・建具等の持ち去れる物は持ち去り、こまごまとした具足や陣笠は皆お堀に埋めた。埋めようとされた城鐘は平等寺の懇願により現在まで残されている。
領地召し上げの報を聞いた直後の沼田城下は百鬼夜行の状況で不安におののく侍達が町にあふれて生きた心地がしなかったというが、幕府側も間髪を入れず城破却を済ませその処理は速く治安維持も決定直後の1681年12月19日には竹村・熊沢両代官が沼田に着任していてその任に当たっていたという。家臣1261人が生活の場を失ったという(沼田市史)。
沼田藩は幕府直轄領となり代官支配始まる。竹村嘉躬・熊沢良泰により沼田領統治はじまる。両代官は隠密を出して民情査察を細やかに行い1681年の凶作で飢え・餓死等困窮している百姓に対しても年貢軽減や雑税廃止、当座の手当、再検地を講じていたがそれでも叶い難くて「茂左衛門を犬死にさせるな」を合い言葉に代官に1683年再検地願いが出されたという。
茂左衛門は一時下総国高岡山真城院の計らいでその檀徒鵜沢利右衛門の屋敷に身を寄せていたが沼田領内に再検地運動が立ち上がったことを聞き月夜野に帰った所を隠密の手に捕縛されたという。捕縛された杉木茂左衛門は1682年11月5日月夜野竹之下河原で磔刑、妻も打首。上野輪王寺の口添えで幕府から赦免状が出て早馬が出たが1里手前の井戸上村にて刑が執行されてその早馬の服部某は責任を感じその場で割腹したという。
杉木茂左衛門は伊賀守信利が5才〜23才まで過ごした小川城跡新居に近い月夜野の農民でありあどけない兵吉様と呼ばれた幼少時を良く知っており取り巻き家臣が奸臣であるための悪政であると考えていたというがその甘さは覚端法印の指導で変わっていったという。信利本人もわがままに育ち輪王寺の息のかかった三光院の高海や大宝院の覚端も酷く迫害されていたという。
沼田藩真田伊賀守の悪政は既に江戸にも知られており、上野輪王寺及び上野寛永寺との関係深い須川村大宝院の昌月覚端法印が相談に乗り知恵を授けて訴状も書きその手段に二段作戦をとったと言われている。その覚端法印も真田改易前に恩田の道端で生ながら石小詰の極刑で惨殺されたという。茂左衛門の墓碑は所有跡地を買受けた川端家の墓地の中に戒名も年号も無い石塔を建てて弔われている。
1683年 / 貞享3年沼田領の村々が幕府に再検地を願い出る。複数の代表が別々に江戸まで出掛けた大規模な訴願行動であったという。
1684年 / 貞享のお助け検地。6万5千石。幕府が酒井忠挙(前橋藩主)に真田領の総検地を命じる。3月家老高須隼人を総奉行として前橋藩の総勢248人でかつ老中大久保以下6人の署名付きで事前に検地項目の公布・検地役人の心得を指示・事前に領民の協力を求める、という準備周到のもとに4月から測量開始された。1組4人宛て20組に分かれて配属され、更に組下に竿取り4人宛てつけた。東入り追貝村から始まり吾妻に移り最期に森下村にて全領の勘定を1686年9月5日終了。翌1687年8月各村々に下付された。足かけ4年の大事業でこの貞享検地は「お助け縄」と領民からは救世主のように感謝されたという。正確さと技術の高さで地域の文化財として大事に秘蔵されているという。また領民が高須隼人を生神様として祠ったと言われるが物は見つかっていない(後関祐次:磔茂左衛門)。
それまでの利根郡95村は分村もあり117村となった。
1687年 / 生類憐れみの令。
1703年 / 旗本本多正永が下総舟戸藩から沼田藩に移封。沼田城再興される。
上野国はじめ各地に領地を持つ大阪城番兼務の内藤正友氏が武蔵国赤沼藩から信州岩村田藩へ去り、1月11日幕府若年寄本多正永が沼田領を拝領し沼田城主を兼務して幕命で沼田城を再建した。5月再築工事開始し1707年12月一応の完成をした。この時沼田藩の本多氏所領は5万石のうち3万石余りであった。本多氏になってから年貢・夫役は大幅に増加し直訴事件等の訴願行動が計画されたが沼田藩の探索行動に阻まれ農民は力で押さえ込まれ、従わざるを得なかったという。1722年村々の代表が幕府へ直訴を企てるも失敗した。大半が沼田藩領であったが一部幕府領、旗本領になった村が混在した。沼田藩の参勤交代路は沼田街道(沼田,長井坂城,米野,前橋)と大間々街道(沼田,根利,大間々)であった。
1707年 / 宝永地震の49日後の12月16日に富士山の宝永大噴火が発生。その後は噴気・鳴動はあったが噴火は現在までの所起きていない。
1709年 / 4月14日月夜野町の馬市で山屋事件発生。越後国山屋村の馬喰商人十右衛門が越後国湯沢村の馬喰大勢と大喧嘩し乱闘の末に3人を斬り殺し自身は町裏の大石の上で割腹したという。(かつて伊賀守が出戻り姉高貞院のために新巻村から月夜野町に市を強引に移し小川館の城下町として発展を図り暴君と呼ばれるきっかけに成った月夜野町の六斎市での出来事であった。)
1711年 / 本多正武が第2代沼田藩主となる。
1721年 / 本多正矩が第3代沼田藩主となる。
1730年 / 本多正矩が駿河の田中城に移封。再び沼田藩代官時代。黒田氏が拝領するまでは前橋藩主酒井氏と村松藩主堀氏が沼田城番を交代で務めたがその間の本多氏旧領沼田領は幕府代官の後藤庄左衛門が支配した。この時本多氏時代の年貢をその前の額まで下げるよう減額願いが出された。吾妻郡下7ヶ村は沼田城付き領から外して欲しいとの願いがだされた。
1732年 / 5月黒田直邦が常陸下館藩から沼田藩城主になる。年貢改善策が検討されたが効果は出ず、藩側も木材を財源確保に当てる等行い領内の木材が約10年の黒田氏時代にほぼ伐り尽くされてしまったという。
1735年 / 黒田大和守直純が第2代沼田藩主となる。
1742年 / 7月28日黒田氏第2代直純は下総国久留里城の再築と転封を命ぜられて移封。同日沼田城主に老中の土岐丹後守頼稔ヨリトシ(初代沼田藩主、幼名兵部)が封ぜられる。(この時五十嵐権左衛門忠俶(26歳)を忍び御用として派遣して8月1日江戸出発したが「寛保の大洪水」で沼田へ行くことが出来ず12日江戸に戻ったという報告書が残っている。城替えの時は家臣が事前にこのように探索したという)。幕府の上使の立ち会いの基に黒田家家老から土岐家家老に諸事引き継ぎ10月21日沼田城を受け取った。以後明治の版籍奉還、第12代城主土岐頼知ヨリオキまで土岐時代(土岐領・幕府領・旗本領が混在)が続く。沼田城主に先立つ1730年大阪城代に任命された土岐頼稔は美作国53カ村1万4千石の飛地を加増されていた。土岐頼稔は槍術の達人で祖父土岐頼行が沢庵禅師から槍術奥義を伝授されたものを引き継いでいたという。1744年9月頼稔死去行年50歳。
1744年 / 頼稔の長男土岐儀八郎が第2代沼田藩主土岐伊予守頼煕ヨリオキとなる。
1746年 / 2代目五十嵐権左衛門忠俶30歳は台風被害で作州の領民困窮の急使を受けた沼田藩によって急遽9月作州代官に任命され11月26日作州に到着した。年貢減免・年賦金500両等の救済策を取纏めて1747年12月病のため大阪土岐屋敷に移り更に江戸在勤の後1751年沼田へ戻った。この間藩主に20回以上も褒美を頂戴しているという。美作国飛地には恩を感じた領民により五十嵐神社が建てられている
1749年 / 沼田俳壇の乙人・初江ら12名が蕉風の松露庵派の鳥酔編「己巳歳旦」に入集し、乙人が鍬入れをしたという(乙人:石田甚蔵静有事左部勝右衛門の3男要之助、松永権右衛門養子武左衛門となる。初江:2代目五十嵐権左衛門忠俶の俳号。
1756年 / 五十嵐権左衛門忠淑は病没40歳、作州飛地に割賦で貸出した藩金500両の償還が上手く行かず沼田中町の林数右衛門屋敷にて切腹したともいう。急死する直前に安田勘十郎14歳を養子を迎入れ3代目権左衛門恭周を後継とした。)「沼田領代官覚え書」。
(当時の年貢の平均は五公五民であったが、沼田藩領の利根および飛地の群馬郡の年貢は3割5分という低年貢であったのに比し作州の飛地の年貢は5割6分と高くしかも屡凶作に見舞われて全納しても年貢不足の惨状になっていたために既に代官2人(1742年10月宇野弥兵衛・1751年8月小坂与左衛門)が自決しているという)。
1755年 / 頼稔の五男土岐頼母が第3代沼田藩主土岐美濃守定経となる。
1766年 / 石田要右衛門(後に見取り騒動で永牢)らが奈良村名苗顕然記を撰する。
1767年 / 4月3代目五十嵐権左衛門恭周,25歳,俳号書郊,が作州代官を仰附けられ5月作州に着任、1年間務める。
5月(明和4年) 奈良村桑原源兵衛家が下の屋敷より現在地居平に移転。
1770年 / 蕉風俳人の初江亡き後に沼田俳壇を率いた春路(小林要人)が「俳諧はるの遊び」を編著。
1776年 / アメリカ合衆国が独立。
1779年 / 沼田領の増税計画が立てられた。(大坂城代は10万石相当の家格とのことで譜代の土岐氏の沼田領台所事情はくるしかったというが、1781年閏5月に大阪城代に任命されて8月に大阪に赴任するまでは1764年3月以来寺社奉行で江戸詰でしかも大阪城代役料1万石加増されているので増税計画の理由にはならない。1779年12月江戸に行った五十嵐権左衛門恭周は見取場改役等仰せつけられていてしかも翌正月には紋付上下を拝領していたというので増税計画に積極的に係っていたと言える)。
10月俳諧の松露庵派の烏明が江戸より下り沼田城下に逗留、如舟/其雲(左部亀十郎/才十郎)と交わる(松露庵派と白雄坊派の対立あり)。
1780年 / 増税計画の元に町田村等の土岐領の検地は順調に行われたという。
1781年 / 天明元年見取り騒動。2年前より始まっていた沼田領の増税計画で奈良村はこの年見取り改めとなった。
4月14日惣奉行五十嵐権左衛門恭周(俳号書郊、五十嵐権左衛門忠俶養子,安田杢兵衛次男勘十郎)らから桑原伊兵衛・左部善兵衛宛てに「麻上下着用の上朝五ッ時に役所まで出頭せよ」との差紙が届く。(俳友善兵衛廻兌事如舟と書郊は増税策を巡っては対峙する立場にあった)。
5月土岐美濃守定経が大坂城代となる(土岐氏3回目の大阪城城代に任命された)。
8月頃群馬郡等西上州にて打ち毀し騒ぎあり、幕府が警備兵を派遣した。
8月大坂城にて土岐定経死亡55歳。8月定経次男の千之助が第4代沼田藩主土岐伊予守頼寛ヨリヒロに就任するも3ヶ月で死亡(没年19歳)、
11月三男の正吉が第5代沼田藩主土岐美濃守定吉になる(4年後20歳で没)。
12月沼田藩第3代藩主土岐定経の時に見取り騒動発生、家老が大阪に向けて出発。翌正月大阪城着、
1782年 / 4月大阪から許可を得て戻った家老月岡修理勝澄により各村々の名主に検地中止が知らされて見取り騒動収まる。
5月より見取り騒動の関係者一斉検挙はじまる。
この年民右衛門から要右衛門に奈良村名主交代するも2人共入牢のため5月より石田勝右衛門に更に交代した。奈良村石田要右衛門・石田民右衛門・立岩村小林佐七は首謀者として永牢となった。
8月土岐美濃守定経死去行年55歳、病死とされるが自殺との風評もあった。11月第4代沼田城主伊予守頼寛在位1か月で死去行年19歳。第5代美濃守定吉も在位4年で1786年死去行年20歳。第6代老之助定富在位3年9か月で1790年死去行年17歳。
(地獄にも勝る拷問を受けていた永牢の3人は城主の重なる不幸によって衰弱極まる中で拷問が中止されやがて3年後の天明5年1785年秋痩せ衰えた民右衛門がまず出牢、翌1786年6月骨と皮ばかりの要右衛門と佐七が出牢、牢内で死なれるのを嫌ったという。同年1786年8月7日要右衛門死亡(44歳没)、1816年民右衛門死亡(71歳没、どういう訳か現在墓石見つからず)、毒殺されたとも言う。)。
この騒動は53カ村全村参加では無く戸鹿野村・沼田榛名村・川場天神組・沼須村・高平村・後閑村・硯田村は参加せず褒美金を貰ったという。沼田藩は増税に失敗して家中倹約に向かう。
1783年 / 7月8日午前十時頃浅間山の天明大噴火。この時土石流で鎌原村が全滅。鬼押し出し溶岩もこの時出来た。同じ年先んじてその4ヶ月前には東北地方の岩木山も噴火しており翌年の寒冷凶作による天明の大飢饉に拍車を掛けたという。鎌原村は全村火砕流埋没して田畑も96%が埋没した。溶岩泥流は前橋から玉村下之宮までに及んだという。
1786年 / 土岐老之助(定経五男、三之助)が第6代沼田藩主土岐定富サダトミとなる、4年後17歳で死亡。
1790年 / 土岐英之助(土岐定経七男)が第7代沼田城主土岐山城守頼布ヨリノブ(のちに美濃守)となる。39歳で家督を頼潤に譲った後も63歳まで生きた。
1800年 / 書郊(五十嵐権左衛門恭周、忠俶養子)が俳諧集の「松桂集」編著を刊行。五十嵐権左衛門恭周は1815年73歳で没。
1813年 / 阿部正倫次男兵部がョ布の養子となり第8代沼田藩主土岐山城守頼潤ヨリミツとなる。
1816年 / 関東地方が大型台風に襲われる。
1818年 / 間引きによる人口制限に天明大飢饉が加わり農村は荒廃の極みに達して、土岐頼潤が間引き防止の教戒書を発出して小児養育制度整備した。
1819年 / 土岐氏が村々に郷倉の設置を指示。
1822年 / 伊香保神社掲額事件(北辰一刀流千葉周作門下と真庭念流第17世樋口定輝門下の門人同士の一触即発の騒動で数百人が伊香保温泉旅館に分宿した)で騒動を代官が未然に防いだ。
1826年 / 信濃田藩からの養子堀幸吉が第9代沼田藩主土岐山城守頼功ヨリカツになる。1833〜1839年(天保4〜10年)天保の大飢饉の時の藩主。
1830年 / 薗原騒動勃発。
同8月平等寺惠順上京して継目致す。
1831年 / 百姓町人の院号居士号は停止、石塔も以後4尺以内とするようご公儀より触れ有り(徳川禁令考によると文化3年1806年となっているが石田家家史の日誌に拠れば1831年となっている。情報の伝達遅延なのか1831年が正しいのかは要検討)。(以後墓石は簡略縮小化したが一部はその後も宝筺型がなお作られているので徹底しているわけでは無い)。
5月9日 石田平左衛門家焼失。
1833〜9年 / 天保の大飢饉。
1838年 / 奈良村下組にて、はやり病で人多く死す。
1840年 / 土岐頼潤五男の英之助が沼田第10代藩主土岐伊豫守頼寧ヨリヤスと称す。
1846年 / 桑原伊兵衛家焼失。
1847年 / 松平徳之助が頼寧の養嗣子になり沼田藩第11代藩主土岐頼之ヨリユキとなる(美濃守→山城守→和泉守と改名)。
1849年 / 12月30日 昼八ツ時原町平等寺焼ける(石田侃家文書)。
1853年 / ペリー浦賀に来航。
1854年 / 黒船来航の翌年奈良村石田伝九郎らは御用で帯刀の上江戸へ出府、給金も出たという。
1856年 / 高崎藩医高島昌軒死す(刑死解剖を行って解剖図を残す)。
1861年 / 和宮下向にて坂本宿助ク1500人集められる。
1864年 / 4月7日夜沼田町大火、200戸以上焼失。
11月16日下仁田戦争。水戸藩の天狗党925名が上野国を通過し幕命で高崎藩兵が西上州下仁田で戦うも高崎藩が敗退。
天狗党は尊皇攘夷運動の中で横浜港閉鎖を要求して筑波山で挙兵し中山道を通って西上して越前国で投降するが、その過程で軍資金に困り6月5日栃木宿では軍資金を出さない町に対して恫喝と手当たり次第の町民惨殺と放火略奪殺戮を行い明らかな暴徒集団と認識されるようになったという。栃木宿では軍資金3万両を要求したが5千両しか出せないことに逆上して宿場に放火し消火に集まった町民を手当たり次第に惨殺し237戸が焼失したという。各地で報復と私刑が繰り返されたがこれらは幕府の決められない政治と朝廷の甚だ相応しからぬお言葉とに起因しているともいう。明治の無血革命でも煮え切らない支配層の対応が表に出にくい悲惨な状況を作り出す実態を示している。
1866年 / 大飢饉となり、利根郡を含む各地で打ち毀し騒動が起こる(2月吉井町・渋川石原村・白井町、3月下仁田、6月武州名栗村等各地で頻発したが官軍に服従した各藩兵によって鎮圧された)。6月上野国・武蔵国北部の旧幕府領・旗本領が岩鼻県となった。
1867年 / 4月16日頼功三男の土岐英之助が第12代沼田藩主土岐隼人正頼知ヨリオキとなる。頼知は即日朝廷に対して恭順の意を表して上京した。沼田藩は新政府軍の配下となった。
10月14日大政奉還、これにより幕府消滅して幕臣は幕府の大義名分を失い統率不能となった。11月新田郡の新田満次郎(岩松俊純)、大舘謙三郎らが新田勤王軍として倒幕を試みるも失敗。12月9日王政復古宣言。
10月24日左部彦次郎生まれる(東京風間佐兵衛事左部左弥太次男、後に早稲田在学中より田中正造と交流し足尾鉱毒闘争に深く関与する)。 
明治
1868年 / 1月3日(新暦1月27日)鳥羽伏見の戦いで戊辰戦争始まる(1869年5月の箱館戦争で終わる)。翌4日錦籏を掲げたことで新政府軍が官軍となった(偽造とも言われるが朝廷は追認している)。6日大阪城に居た慶喜は密かに脱出して船で江戸に向かった。
3月明治天皇の五箇条のご誓文公布。3月神仏分離令公布、これが廃仏毀釈運動のきっかけを作った。
5月戸倉戦争。8月三国戦争、この時幕臣羽倉鋼三郎・元前橋藩士屋代由平・日光山の僧櫻正坊隆邦3人は7日間のさらし首の後に埋葬されたという。
9月8日明治と改元の詔書出る(1月1日に遡って明治となる)。
1869年 / 3月全国総ての藩が版籍奉還して旧藩主は知藩事に任命された。
1870年 / 1月26日 桑原源兵衛家全焼、以南の家々9軒ほどすべて焼失。
沼田藩主土岐頼知(ヨリオキ)朝廷に勤王の誓約書を提出。
1871年 / 廃藩置県。
1873年 / 旧暦明治5年12月2日の翌日から明治6年1月1日となり、旧暦(太陰太陽暦)から新暦(太陽暦)が導入された(旧暦明治5年12月2日までで翌日から新暦明治6年1月1日となったので12月3日から12月30日(旧暦は30日まで)は存在しない)。
1874年 / 清水往還、清水越新道完成。1885年能久親王ご臨席のもとに馬車で通行して開通式を行った。現在でも帳簿上は国道291号となっている。
1879年 / 1月31日高橋おでん市ヶ谷処刑場にて斬首刑。(この事件は新聞各紙が取り上げて、仮名垣魯文が「高橋於伝夜叉譚」で虚実織り交ぜて毒婦に仕立て上げたことから有名になったが、本人を知る地元下牧村の人の話では実際は内山仙之助(吉蔵)によって殺された夫高橋波之助の敵討ちをしたもので、教養もあり美人で闊達な人だったという。自分の体を張って1名殺人を犯したが執行猶予とも言える犯罪で有るにもかかわらず、犯罪の奇異性からおでんの供述は一切取り上げられず、今で言う冤罪の原点の様なものである。死体は解剖に付され肉体の一部が保存されている。辞世の句は「なき夫のために待ちえし時なれば手向けに咲きし花とこそ知れ」という。聞外妙伝大姉という戒名の墓は下牧にある。異説あるもこれが地元の見方である「沼田意外史」)。とすれば、理不尽な社会を甘んじて受け入れて自分を全うした諦観の境地と思う。女性版の侍のようである。  
上州利根郡奈良村について
楫取素彦県令の指示により編纂された上野国郡村誌(明治10年編、昭和60年復刻版利根郡(1))の奈良村沿革に「正治元年(1199年)鎌倉浪人石田勘解由ナル者本村ニ流寓ス、石田ノ子孫五郎兵衛代々ノ過去帳を有ス、コレヲ開村ノ祖ト言伝フ」とある。また「沼田記撮抄ニ、源義家奥州征伐ノ時岡谷村ヨリ生科村(川場村生品)へ云々、野道(飛火坂)を越スニ鹿トモ四方ヘ駆け出ケレバ、奈良ニヒトシト仰ケレバ奈良ト名付云々」、と奈良村の由来が記されている。前者は石田氏家史の記述を基にしたものと思われる。
別の古老によればお林が春日山に似ていたからとも周囲が三輪山に似ていたからとも言い伝う。突飛坂から見るとおはやし等が3つの山に見えるという。
また、崇神天皇王子の豊城入彦命の6世孫の奈良別王(ナラワケオウ)は下野国造であったが帰途奈良村古墳群の地にも立ち寄って名の由来もこれから来ているのではないかという推測もある。
岡谷村→突飛坂→奈良村宮久保薬師堂(武尊社?)→秋塚村→川場村→片品村の経路は昔は會津裏街道とも呼ばれていたという。平安時代末期の奥州征伐で八幡太郎義家らがここを通過して行ったと考えてもおかしくはない。
一方、その後平経家(大友経家)が1159年平清盛より上野国の利根・勢多を賜って、さらに1172年相模国大友郷を賜り、相模国に転居してより大友姓を名乗っている。そして頼朝より1186年に改めて自らの所領の利根の地頭に任ぜられ、更に1193年孫の大友能直が頼朝より九州の豊前・豊後を賜りかつ鎮西将軍に任ぜられるに及んで大友氏は日本各地に領土を有する有力豪族になっていく。1222年の川場村の大友館やまもなく築かれた古馬牧村の明徳寺城も大友氏の命により築かれていたことは、利根の地にも管理する代官を置いていたことを示している。その後も1274年の元寇など大友氏は九州の地で蒙古来襲に対峙していて1193年鎮西将軍任ぜられた以降は利根の地を考える余裕はなかったであろうが、相模国大友郷と利根の地はこの頃から浅からぬ縁で既に結ばれていたと考えて良い。
従って頼朝急死により1199年に相模国(鎌倉)から、頼朝と関係する人々(多分集団で)が奈良村に来村して土着して以降、相模国出身という共有意識のもとにまとまっていたとしても不思議はない。
また、群馬県立文書館の石田家文書の家史に「宇田源氏ノ近江源氏、近江国石田村住人石田判官為久ハ佐々木一統也、粟津ヶ原ニ而朝日将軍義仲ヲ射落、其子孫越後国上杉家、長尾家之籏下ニ而石田丹波守、石田備中守、石田采女正也、其子主計佐上州沼田奈良村江来住ス」とある。これらは戦国時代末期に先祖の地に再び戻ってきた事を示している。
大友姓の由来が672年壬申の乱の近江朝大友皇子の近習衆にあることから近江国及び相模国のそれぞれの大友郷・石田郷・桑原郷もそれぞれ共通の祖先の移住者で造られたものであろう。大友郷と桑原郷はヤマト王権の頃の渡来系氏族の移住によって造られた地に由来する。
江戸時代1766年に石田要右衛門によって書かれた奈良村名苗顕然記と合わせると、1199年源頼朝急死の年に奈良村に来寓した祖先の地に、その後各地に散っていった其の末孫が戦国時代に再び先祖の地奈良村に戻ってきたとも言える。佐原氏→蘆名氏の末孫の左部氏の江戸初期流寓も相模国の縁故の関係であったと思われる。

上州奈良村の奈良古墳群(奈良の百塚)には古墳時代以降途切れること無く住民が居たことが明らかであるが、その既土着住民と平将門の乱以降土着してきた平経家先祖移住民との関係は想像しうる古記録はないが、移住民が支配権を拡げていったのは間違いない。平安時代中期に既に繁栄していたとされる七田の庄への移住で、当時山賊・強盗が跋扈する中での平経家祖先の移入は尊敬の念で受け入れられたものと考えられる(沼田市史)。奈良時代の人口は上野国利根郡全体で現在の20分の1(5千人位)位しかいなかったという。 鎌倉時代初期には発知村や藤原村が既にあるのに比し奈良村は頼朝の富士裾野巻狩夫人足帳には載っていない。分村前で発知村の一部かそれまでのナマシナ郷の一部のままであったと思われる。 源頼朝の1193年の富士巻狩夫人足帳に利根郡29ヶ村384人と載っており、それに隣村岡谷村・発知村・川場村の名はあるが奈良村・秋塚村・横塚村の名はない。源頼朝没年の1199年奈良村開村という記録と一致する。
発知村は800年代よりあり奥州藤原の落人部落と言われる藤原村も頼朝の時代にはすでにある。奈良村の名は頼朝没後に出て来て、横塚村・秋塚村の名もその後で主古墳群奈良の百塚の横塚・脇塚から来ているという言い伝えにも合致する(横塚は愛宕神社の旧名野狐塚ヤコツカが訛ったものともいう)。
奈良古墳群のうち、現存している古墳は墳丘のあるものは9基しかないが痕跡を含めると17基有るという。昭和30年の調査では計59基が確認されているが総て同地域の東側に偏在している(沼田市史)。当時既に完全な畑になっていた西側の畑からも長い両刃の刀剣が出土したと言われており、西側に大きめの古墳があったとの記録もあることから(日本歴史地名体系第10巻上野国)全体に分布していてかつては百基以上実際に有ったと思われる。更に西側の龍の鼻はそれ自体が古墳ではないかとも言われている。文書記録はないが、奈良古墳群の調査を1955年群馬大学が行い一部の古墳からは五輪塔の空風輪がみつかり重葬にも使われていたという。奈良古墳群西の龍の鼻の堂面には多数の五輪塔が見つかると池田村史(1964年)にある。古老に拠れば龍の鼻の小山は全体が古墳ではないかとのことで昭和30年頃その持ち主が龍の頭に相当する大岩を石屋に頼んで割ったが期待した石窟等の穴が出てこなかったがその南数メートルの所には畳二畳ほどの平石が当時在ったとのことである。未だ正式な発掘はなされず将来の研究に待ちたいとその村誌にある。当時沼田市の教育委員会に古墳群の保存を願い出たが叶わず古墳群は土地整備で殆ど潰されて田畑になった。開村の時期の問題はともかく、これらは古墳時代より鎌倉期以降も奈良村には住民が絶えることなく居住していたことを示している。
飛鳥奈良時代の北毛4郷の一つナマシナ郷の一角に奈良百塚はあり、文書記録はないが奈良百塚の古墳時代からナマシナ郷、そして其の隣地の字龍ノ鼻の空風輪等の鎌倉時代以降の墓石の出土は、古代から途切れること無く無名の人々が連綿と生き続けてきている事を示している。歴史記録はヤマト王権継体天皇の時代に百済から五経博士が来てから可能になったと言われているが、後年の記録も無いと言うことは無名の人々であるという証でもあろう。この下奈良だけで無く上奈良にも字奈良原に南北朝時代の豪族館跡が発掘されている(上毛新聞1989年12月27日)。これは奈良村にも支配者が居たことを示しているが古文書記録はなく不詳という。奈良村が一村落共同体として機能していて族長もいたと思われる。現代とは違って盗賊が跋扈する中での自衛手段は村民の同族意識等に支えられる互助以外には自衛方法はなかったため当然であろう。

近隣の村々には沼田氏分家(発知村:発知氏、岡谷村:岡谷氏、小川村:小川氏(後閑氏)、名胡桃村:名胡桃氏、石墨村:石墨氏、川田村:川田氏)、や大友氏家臣(川場村:九州大友氏家臣団)がいたが、奈良村はなぜか沼田氏・大友氏が分家等を置かなかった村の一つである。
戦国時代は強いことのみが優先され逆らう者はねじ伏せられたり抹殺されたり徹底していた中で奈良村のようにじっと生き延びられたのは見方を変えるとそのような沼田氏の(力を分散する)不徹底さが沼田氏が大名になれずに没落していった所以とも思われる。石田勘解由も沼田勘解由も第3者からみれば身分は同じレベルであったと思われる。1362年大友氏は嫡子単独相続制を執り権限の分散を防ぎ、眞田昌幸は国衆仲間の室賀正武を抹殺して権限の集約を計ったが、沼田氏にはそのような策略は見られない。
大友氏が鎮西奉行として九州に赴いている時の1222年に川場村谷地に既に大友館が築かれ、大友親秀(利根次郎大友親秀、九州大友2代、その城代?)により近隣の古馬牧村(みなかみ町後関)に明徳寺城が築かれ、1247年には薄根村井土上の荘田城に宝治合戦で滅びた生き残り三浦沼田氏が入り、1271年には発知村に分家してきて発知氏となった。そして奈良村は三浦沼田氏が利根の地に来て以来沼田氏の支配下に入っていたという(池田村史)。足利尊氏に敗れて沼田氏とともに発知氏も領地没収されて没落したのが1351年。大友氏とその家臣団が大隅国桑原郡等の九州から川場村に来たのが1363年なのでその時には奈良村は領主不在で川場村大友氏が支配していたと言うことになる。奈良村にも豪族館があったが50年後1416年の発知氏再興するまでは川場村大友氏ないしその代官が支配していたと思われる。
新田義貞3男義宗南朝方と北朝鎌倉足利方(大友氏時と言われるが少なくとも其の奥方と家老等家臣団がいたのは確かという)との1368年の白沢村戦争、1531年の沼田氏・発知氏との内輪もめ、1569〜1581年の沼田万鬼斎息子殺しでの内輪もめ、その都度のそれぞれの因縁で住民同士や肉親が敵味方に分かれて戦わざるを得なかった事情が窺われる。各村の地衆もその都度敵味方入り乱れて戦わざるを得なかったと思われるが痕跡はない。新田義宗の白澤村戦争、沼田万鬼斎の川場村天神城の戦い、沼田平八郎景義の阿曾城の戦い・高王山城の戦い、戦国時代の後北条、上杉、真田、入り乱れての戦い、など、蹂躙されながらよく現在まで生き延びて来られたと思う。
「戦国時代は最も暗黒な世の中、弱肉強食、下克上、親も子も敵も味方も無視され、勝つ、強いことが優先した時代、勝った人の行跡のみをことさら正当化することのないよう期待したい」と利根村誌はしている。特に戦国時代は親子・兄弟関係なく殺し合い、しかも軍律厳しい上杉謙信の時に比べて、北条氏が利根沼田地域に数回に及び侵入して来たときは盗賊以上に酷く物は盗られ男女のみさかい無く斬り殺されたので住民はその都度山の中に逃げ込んで震えていたという記録も地誌に有る。

江戸時代になってからも杉木茂左衛門直訴の磔刑、赦免が出たがその早馬が間に合わずその使者服部某も途中で切腹、江戸中期の見取り騒動の石田民右衛門・要右衛門・小林佐七3名永牢、数年後赦免はされたが毒殺されたともいう。理不尽な時代を乗り越えての現在がある。
奈良村名称の由来は前記の如くなれども、古墳時代以来途切れることなく営々と無名の人々が暮らしてきた土地であり特に戦国時代の見境無く殺し合う時代を生き抜いて今があるその子孫達の住む地である。中世沼田氏が各村に置いた分家を何故か置かなかった村の一つでもある。
生き抜いて行くために互助の自衛手段しかなかった時代を生き抜くには、一族意識等の同族意識のもとにまとまっていく以外に安心を得る方法が無かったであろうことから、1363年以来の大友家臣団の川場村に対して、奈良村は相模国あるいは三浦一族等の同族意識の基に形成されてきた村であろうと思われる。そして鎌倉時代以来既に帰農していたと思われるが村住民を守るためには沼田氏を国衆とすれば地衆に相当する役割でその都度戦わざるを得なかったであろうことも充分推定される。終始目立たないようにとじっと耐えて密かに生きてきた村のような印象がある。  
大伴姓(古代)と大友姓(古代)の関係について
a 古代大伴氏は、ヤマト王権の時代の神功皇后〜応神天皇〜仁徳天皇にわたって天皇を凌ぐ活躍をしていた葛城氏が456年眉輪王の変で衰退して行き取って代わった古代の有力豪族であり任那統治を担っていた。渡来系氏族とも言われる。しかし513年任那4県の百済への割譲問題でやがて大伴氏も衰退していく。その後は物部氏が勢力を握ったがそれもやがてその次の蘇我氏に代わった。そして大化の改新でその蘇我氏も衰退して以後名実ともに天皇中心の国家形成が確立された。なお、823年淳和天皇(大伴親王)が即位するとその諱を避けて一族は伴(とも)と氏を改めた。新撰姓氏録(815年成立)には、任那に出自を持つ10氏が記載されているが大伴氏の出自は任那国主龍主王孫佐利王也とある。大友皇子が24才で自害した壬申の乱では大伴氏は敵方に付いている。 
b 古代大友氏は、近江国滋賀郡大友郷を本拠にしてその周辺に住んだ渡来系の氏族が大友氏の由来という。応神朝時代(日本書紀では応神20年)に渡来した阿知使主(阿知王)とその1党、七姓漢人とその1党など多くの漢人・百済人等の渡来系氏族が朝鮮半島から日本に帰化したという。応神朝期に近江国大友郷に移住してきて大友氏を称した氏族は後漢の霊帝を始祖とする者、阿知王と共に渡来した漢人の後裔とする者がいるという。新撰姓氏録に拠れば大友氏始祖の一つは百済国人白猪奈世之後也とある。古代大友郷が近江京遷都した天智天皇の皇子大友皇子名の由来と思われ、在地の大友氏が養育役だったという。
c 相模国大友郷は古代近江国大友郷から各地に移住した古代大友氏に由来するものであり、大友経家(平経家)およびその孫の大友能直の大友姓は後年1172年相模国大友郷を賜ってその地名を称した氏族なので、古代大友郷の氏族とは無関係であり、大伴氏・大友氏ともに渡来系という共通点を除けば無関係である。但し、平安時代の六歌仙のひとり大友黒主は大伴列(おそう)の子であるが、大友氏の養子になったという。そして後年、実姓の大伴氏を用いたというのでこの点では関係有る(近江国滋賀郡史)。またその地域に住むと言うことはその在地DNAも少しは入るということでありその意味でもわずかは関係有るということになる。
注:「史実」というものは、自分の視点のみで書かれていることが多く、他者の視点では恐らく違った見方をするであろうことにも気付く。しかし偏った古文書でも無視すれば暗中明を求めることができず、あくまでも道しるべで在ることを前提として採り上げることが賢い選択であることを実感する。従って筋の通らない記録は別の視点の記録も探す事が肝要である。
 

 

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