言語・文学・日本語 [2]

国文学の発生1 / 呪言から寿詞へ叙事詩の成立語部の歴史賤民の文学戯曲舞踊詞曲
国文学の発生2 / 呪言の展開巡遊伶人の生活叙事詩の撒布唱導文学1唱導文学2説法資料考察
諸説 / 「物のあはれ」語源学パンティ学近代詩の擬声語阿部知二「北京」芥川龍之介「歯車」芥川龍之介の死芥川の遺書蕪村攷「東の国から」蜀山人(南畝)狂歌天明狂歌覚え書五句三十一音詩霊能者蝉(シカダ)藤村「嵐」藤村「破戒」の背後川端康成の深い音正岡子規考音楽と幽霊日本人と言葉竹山道雄死の日本文学史死者の書・・・
 

雑学の世界・補考   

国文学の発生1 / 唱導的方面を中心として 折口信夫

呪言から寿詞へ
呪言の神
たゞ今、文学の信仰起原説を最(もつとも)頑なに把(と)つて居るのは、恐らくは私であらう。性の牽引や、咄嗟の感激から出発したとする学説などゝは、当分折りあへない其等の仮説の欠点を見てゐる。さうした常識の範囲を脱しない合理論は、一等大切な唯の一点をすら考へ洩して居るのである。音声一途に憑(ヨ)る外ない不文の発想が、どう言ふ訣(わけ)で、当座に消滅しないで、永く保存せられ、文学意識を分化するに到つたのであらう。恋愛や、悲喜の激情は、感動詞を構成する事はあつても、文章の定型を形づくる事はない。又第一、伝承記憶の値打ちが、何処から考へられよう。口頭の詞章が、文学意識を発生するまでも保存せられて行くのは、信仰に関聯して居たからである。信仰を外にして、長い不文の古代に、存続の力を持つたものは、一つとして考へられないのである。
信仰に根ざしある事物だけが、長い生命を持つて来た。ゆくりなく発した言語詞章は、即座に影を消したのである。
私は、日本文学の発生点を、神授(と信ぜられた)の呪言(ジユゴン)に据ゑて居る。而(しか)も其(その)古い形は、今日溯れる限りでは、かう言つてよい様である。稍(やや)長篇の叙事脈の詞章で対話よりは拍子が細くて、諷誦の速さが音数よりも先にきまつた傾向の見える物であつた。左右相称・重畳の感を満足させると共に、印象の効果を考へ、文の首尾の照応に力を入れたものである。さうした神憑(ガヽ)りの精神状態から来る詞章が、度々くり返された結果、きまつた形を採る様になつた。邑落の生活が年代の重なるに従つて、幾種類かの詞章は、村の神人から神人へ伝承せられる様になつて行く。
春の初めに来る神が、自ら其種姓を陳(の)べ、此国土を造り、山川草木を成し、日月闇風を生んで、餓ゑを覚えて始めて食物を化成した(日本紀一書)本縁を語り、更に人間の死の起原から、神に接する資格を得る為の禊(ミソ)ぎの由来を説明して、蘇生の方法を教へる。又、農作物は神物であつて、害(そこな)ふ者の罪の贖(あがな)ひ難い事を言うて、祓(ハラ)への事始めを述べ、其に関聯して、鎮魂法の霊験を説いて居る。
かうした本縁を語る呪言が、最初から全体としてあつたのではあるまい。土地家屋の安泰、家長の健康、家族家財の増殖の呪言としての国生みの詞章、農業に障碍する土地の精霊及び敵人を予め威嚇して置く天つ罪の詞章、季節の替り目毎に、青春の水を摂取し、神に接する資格を得る旧事を説く国つ罪―色々な罪の種目が、時代―に加つて来たらしい―の詞章、生人の為には外在の威霊を、死人・惚(ホ)け人の為には游離魂を身中にとり込めて、甦生する鎮魂(タマフリ)の本縁なる天ノ窟戸(いはと)の詞章、家屋の精霊なる火の来歴と其弱点とを指摘して、其災ひせぬ事を誓はせる火生みの詞章、―此等が、一つの体系をなさぬまでも、段々結合して行つた事は察せられる。
本縁を説いて、精霊に過去の誓約を思ひ出させる叙事脈の呪言が、国家以前の邑落生活の間にも、自由に発生したものと見てよい。尤(もつとも)、信仰状態の全然別殊な村のあつた事も考へられる。が、後に大和に入つて民族祖先の主流になつた邑落は固より、其外にも、同じ条件を具へた村々があり、後々次第に、此形式を模して行つた処のある事も、疑ふ事は出来ない。私は倭の村の祖先の外にも、多くの邑落が山地定住以前、海に親しい生活をして居た時代を考へて居る。
延喜式祝詞で見ると、宮廷の呪言は、かむろぎ・かむろみの発言、天照大神宣布に由る物だから―呪言、叙事詩以来の古代詞章式の論理によつて―中臣及び、一部分は斎部の祖先以来代宣して、今に到つてゐると言ふ信仰を含めて説き起すのが通有形式である。呪言の神を、高天原の父神・母神として居るのである。而も其呪力の根源力を抽象して、興台産霊(コトヾムスビノ)神―日本紀・姓氏録共にこゝとと訓註して居るのは、古い誤りであらう―といふ神を考へて居る。さうして同じく、祝詞の神であつた為に、中臣氏の祖先と考へられたらしい天児屋(アメノコヤネ)ノ命は、此神の子と言ふ事になつてゐる。むすびと言ふのは、すべて物に化寓(ヤド)らねば、活力を顕す事の出来ぬ外来魂なので、呪言の形式で唱へられる時に、其に憑り来て其力を完うするものであつた。興台(コトヾ)―正式には、興言台と書いたのであらう―産霊(ムスビ)は、後代は所謂詞霊(コトダマ)と称せられて一般化したが、正しくはある方式即とを具へて行ふ詞章(コト)の憑霊と言ふことが出来る。
こやねは、興言台(コトヾ)の方式を伝へ、詞章を永遠に維持し、諷唱法を保有する呪言の守護神だつたらしい。此中臣の祖神と一つ神だと証明せられて来た思兼(オモヒカネ)ノ神は、たかみむすびの子と伝へるが、ことゞむすびの人格神化した名である。此神は、呪言の創製者と考へられてゐたものであらう。尤、此神以前にも、呪言の存在した様な形で、記・紀其他に伝承せられてゐるが、かうした矛盾はあるべき筈の事である。恐らく開き直つて呪言の事始めを説くものとしておもひかねによつて深く思はれて出来たのが、神の呪言の最初だとしたのであらう。即、天ノ窟戸を本縁とした鎮魂の呪言―此詞章は夙(はや)く呪言としては行はれなくなり、叙事詩として専ら物語られる事になつたらしい。さうして其代りに物部氏伝来の方式の用ゐられて来たことは明らかである―を、最尊く最完全な詞章の始まりとしたものらしい。
時に、日神聞きて曰はく「頃者、人雖二多請(シバシバマヲス)一未レ有下若二此言之麗義一者上也。」(紀、一書)
請は申請の義で、まをすと訓むのは古くからの事である。申請の呪言に、まをす・まをしと言ふから、其諷誦の動作までも込めて言うたのだ。前々にも呪言を奏上した様に言うてあるが、此は本縁説明神話の常なる手落ちである。
善言・美辞を陳(つら)ねて、荘重な呪言の外形を整へ、遺漏なく言ひ誤りのない物となつたのは、此神の力だとする。此神を一に八意思金(ヤゴヽロオモヒカネ)ノ神と言ふのも、さうした行き届いた発想を讃美しての名である。
こやねは、神或は、神子の唱へるはずの呪言を、代理者の資格で宣する風習及び伝統の発端を示す神名であり、諷誦法や、副演せられる呪術・態様の規定者とせられたのであらう。斎部の祖神と謂はれる天ノ太玉ノ命は、其呪術・態様を精霊に印象させる為に副演する役であつた。さうして、呼び出した正邪の魂の這入る浄化したところを用意して、週期的に来る次の機会まで、其処に封じ籠めて置く。此籠める側の記憶が薄れて、浄化する方面が強く出て、いむ・ゆむ・ゆまふ・ゆまはるなど言ふ語(ことば)の意義は変つて行つた。斎部氏はふとだま以来と言ふ信念の下に、呪言に伴ふ神自身の身ぶりや、呪言の中、とりわけ対話風になつた部分を唱へる様になつたと見ればよい。呪言の一番神秘な部分は、斎部氏が口誦する様になつて行つた。天(アマ)つ祝詞(ノリト)・天つ奇護言(クスシイハヒゴト)と称するもの―かなり変改を経たものがある―で、斎部祝詞に俤(おもかげ)を止めてゐるのは、其為である。
中臣祝詞の中でも、天つ祝詞又は、中臣の太詔戸(フトノリト)と言はれてゐる部分である。此は祓へを課する時の呪言であつて、さうした場合にも古代論理から、呪言の副演を行ふ斎部は、呪言神の群行の下員であつて、みこともち(御言持者)であつた、主神役なる中臣が此を口誦し、自ら威(イツ)の手で―これまた、神の代理だが、 万葉集巻六の「すめら我がいつのみ手もち……」と言ふ歌の、天子の御手同時に神の威力のある手ともなると言ふ考へと同じく―祓への大事の中心行事を執り行うた―大祓方式の中の、中臣神主自ら行ふ部分―のである。斎部宿禰の為事が、段々卜部其他の手に移つて行つて、その伝承の呪言も軽く視られるやうになつてから、天神授与の由緒は称へながら、斎部祝詞は、神秘を守る事が出来なくなつた。
中臣祝詞の間や末に、斎部の唱へる部分があつた習慣から、斎部祝詞が分離したものか。斎部祝詞が、祝詞の精髄なる天つ祝詞と唱へて、祓除(ハラヘ)・鎮斎(イハヒ)に関した物ばかりである事―此部分だけ独立したのだらう―、辞別(コトワキ)の部分が斎部関係の事項であるものが多い事―幣帛や、大宮売(オホミヤノメ)ノ神や斎部関係の事が、其(それ)だ。辞別は、必しも文の末ばかりでない処を見ると、こゝだけ辞の変る処であつたのだ。「又申さく」「殊(コト)更に申さく」などの意に考へられて、宣命にも、祝詞にも、さうした用例が出て来た―などが此を示して居る。延喜式祝詞の前後或は中に介在して、宣命と同じ形式の伝宣者の詞がある様に、今一つ古い形の中臣祝詞にも、中臣の言ふ部分と、斎部の誦する部分とがあつたのであらう。
かう考へて来ると、呪言には古くから「地」の部分と「詞」の部分とが分れる傾向が見えて居たのである。此が祝詞の抜きさし自由な形になつて、一部分を唱へる事も出来、伝来の詞を中に、附加文が添はつて来たりもした理由である。さうして、此呪言の神聖な来歴を語る呪言以外に附加せられた部分が、第一義ののりとであつたらしく、其心(シン)になつてゐるものが、古くはよごとを以て総称せられて居たのだ。よごとが段々一定の目的を持つた物に限られる様になつてから、元の意義の儘のよごとに近い物ばかりを掌(つかさど)り、よごとに関聯した為事を表にする斎部の地位が降つて来る様になつたのも、時勢である。其は一方、呪言の神の原義が忘れられた為である。
かむろぎ・かむろみと言ふ語には、高天原の神のいづれをも、随意に入れ替へて考へる事が出来た。父母であり、又考位・妣位の祖先でもある神なのだ。だから、かむろぎ即たかみむすびの神に、天照大神を並べてかむろみと考へてゐた事もある。此両位の神に発生した呪言が、円満具足し、其存続が保障せられ、更に発言者の権威以外に、外在の威霊が飛来すると言ふ様に展開して行つた。私の考へでは、詞霊(コトダマ)信仰の元なることゞむすびは、外来魂信仰が多くの物の上に推し拡げられる様になつた時代、即わりあひに遅れた頃に出た神名だと思ふ。  
常世国と呪言との関係
おもひかねの命を古事記には又、常世(トコヨ)ノ思金ノ神とも伝へてゐる。呪言の創始者は、古代人の信仰では、高天原の父神・母神とするよりも、古い形があつた様である。とこよは他界で、飛鳥・藤原の都の頃には、帰化人将来の信仰なる道教の楽土海中の仙山と次第に歩みよつて、夙くから理想化を重ねて居た他界観念が非常に育つて行つた。
とこよは元、絶対永久(とこ)の「闇の国」であつた。其にとこと音通した退(ソ)く・底(ソコ)などの聯想もあつたものらしく、地下或は海底の「死の国」と考へられて居た。「夜見の国」とも称へる。其処に転生して、其土地の人と共食すると、異形身に化して了うて、其国の主の免(ゆる)しが無ければ、人間身に戻る事は出来ない。蓑笠を著た巨人―すさのをの命・隼人(竹笠を作る公役を持つ)・斎明紀の鬼―の姿である。とき どき人間界と交通があつて、岩窟の中の阪路を上り下りする様な処であつた。其常闇の国が、段々光明化して行つた。海浜邑落にありうちの水葬―出雲人と其分派の間には、中世までも著しく痕跡が残つて居た―の風習が、とこよの国は、村の祖先以来の魂の集注(ツマ)つて居る他界と考へさせる様になつた。海岸の洞穴―恐ろしい風の通ひ路―から通ふ海底或は、海上遥かな彼岸に、さうした祖先以来の霊は、死なずに生きて居る。絶対の齢(ヨ)の国の聯想にふり替つて来た。其処に居る人を、常世人とも又単にとこよ・常世神とも言うた。でも、やはり、常夜・夜見としての怖れは失せなかつた。段々純化しては行つたが、いつまでも畏しい姿の常世人を考へてゐた地方も多い。
冬と春との交替する期間は、生魂・死霊すべて解放せられ、游離する時であつた。其際に常世人は、曾(かつ)て村に生活した人々の魂を引き連れて、群行(グンギヤウ)(斎宮群行は此形式の一つである)の形で帰つて来る。此訪問(オトヅレ)は年に稀なるが故に、まれびとと称へて、饗応(アルジ)を尽して、快く海のあなたへ還らせようとする。邑落生活の為に土地や生産、建て物や家長の生命を、祝福する詞を陳べるのが、常例であつた。
尤、此は邑落の神人の仮装して出て来る初春の神事である。常世のまれびとたちの威力が、土地・庶物の精霊を圧服した次第を語る、其昔(カミ)の神授の儘と信じられてゐる詞章を唱へ、精霊の記憶を喚び起す為に、常世神と其に対抗する精霊とに扮した神人が出て、呪言の通りを副演する。結局精霊は屈従して、邑落生活を脅かさない事を誓ふ。
呪言と劇的舞踊は段々発達して行つた。常世の神の呪言に対して、精霊が返奏(カヘリマヲ)しの誓詞を述べる様な整うた姿になつて来る。精霊は自身の生命の根源なる土地・山川の威霊を献じて、叛かぬことを誓約(ウケヒ)する。精霊の内の守護霊を常世神の形で受けとつた邑落或は其主長は、精霊の服従と同時に其持つ限りの力と寿と富とを、享ける事になるのである。かうした常世のまれびとと精霊(代表者として多くは山の神)との主従関係の本縁を説くのが古い呪言である。
呪言系統の詞章の宮廷に行はれたものが一転化して、詔旨(宣命(センミヤウ))を発達させた。庶物の精霊だけでなく、身中に内在する霊魂にまでも、威力は及すものと信ぜられて居た。年頭の朝賀の式は、段々、氏々の代表者の賀正事(ヨゴト)(天子の寿を賀する詞)奏上を重く見る様になつたが、恒例の大事の詔旨は、此受朝の際に行はれた。賀正事(ヨゴト)は、詔旨に対する覆奏(カヘリマヲシ)なのであつた。此詔旨が段々臨時の用を多く生じて宣命が独立する様になつたのだ。延喜式祝詞の多くが、宮廷の人々及び公民を呼びかけて聴かせる形になつてゐるのは、此風から出て、更に他の方便をも含んで来たのである。宮廷の尊崇する神を信じさせ、又呪言の効果に与らせようとする様になつたのだ。だから延喜式祝詞は、大部分宣命だと言うてもよい様な姿を備へてゐる。宣命に属する部分が、旧来の呪言を包みこんで、其境界のはつきりせぬ様になつたものが多いのである。
詔旨は、人を対象とした一つの祝詞であり、やがて祝詞に転化する途中にあるものである上に、神授の呪言を宣り降す形式を保存して居たものである。法令(ノリ)の古い形は、かうした方法で宣(ノ)り施された物なることが知れる。
呪言は一度あつて過ぎたる歴史ではなく、常に現実感を起し易い形を採つて見たので、まれびと神の一人称―三人称風の見方だが、形式だけは神の自叙伝体―現在時法(寧、無時法)の詞章であつたものと思はれる。完了や過去の形は、接続辞や、休息辞の慣用から来る語感の強弱が規定したものらしい。神亀元年二月四日(聖武即位の日)の詔を例に見て頂きたい。父帝なる文武天皇は曾祖父、元明帝は祖母、元正帝は母と言ふ形に表され、而も皆一つの天皇(スメラミコト)であつて、天神の顕界(ウツシヨ)に於ける応身(オホミマ)(御憑身)であり、当時の理会では、御孫(ミマ)であつた。日のみ子であると共に、みまの命であると言ふのは、子孫の意ではなく、にゝぎの命と同体に考へたのだ。おしほみゝの命が、大神と皇孫との間に介在せられるのは、みまを御孫と感じた時代からの事であらう。聖武帝の御心も、元正帝の御心も、同一人の様な感情や待遇で示されてゐる。長い時間の推移も、助動詞助辞の表しきつて居ない処がある。
さうした呪言の文体が、三人称風になり、時法を表す様になつて来たのは―(宣命の様に固定した方面もあつたが)―可なり古代からの事であつたらしい。此が呪言の叙事詩化し、物語を分化する第一歩であつた。
わたつみの国も常世の国と考へられて行つた。わたつみの神は富みの神であり、歓楽の主であり、又ほをりの命に、其兄を征服する様々の呪言と呪術とを授けた様に、呪言の神でもあつた。又一方よみの国は、呪言と其に附随してゐる占ひとの本貫の様な姿になつて居た。
すさのをの命は、興言(コトアゲ)の神であり、誓約(ウケヒ)の神である。祓除・鎮魂の起原も、此神に絡んでゐるのは、理由がある。鎮火祭の祝詞は、よみの国のいざなみの命の伝授であつたらしく、いざなぎの命の檍原(アハギハラ)の禊ぎも呪言から出た行事に相違ないが、此もよみの国を背景にしてゐる。
ことゞと言ふ語は、よもつひら阪の条では、絶縁の誓約の様に説かれてゐるが、用例が一つしか残つて居ない為の誤解であらう。興台産霊(コトヾムスビ)の字面がよくことゞの義を示してゐる。ことゞふは、かけあひの詞を挑みかける義で、歌会(カヾヒ)の場(ニハ)などに言ふのは、覆奏を促す呪言の形式を見せて居る。ことあげはことゞあげの音脱らしく、対抗者の種姓を暴露して、屈服させる呪言の発言法であつた。紀に泉津守道(ヨモツチモリ)・菊理(クヽリ)媛など言ふよみの精霊が現れる処に「言ふことあり」「白す言あり」など書いたのは、呪言となつた詞章のあつた事を示してゐるのであらう。又唾を吐いた時に化成した泉津事解之男(ヨモツコトサカノヲ)は、呪言に関係した運命定めの神である。呪咀をとこふと言うた事も、とこよと聯想があつたのではないかと思はれる。
年の替り目に来た常世神も、邑落生活上の必要から、望まれる時には来る様になつた。家の新築や、田植ゑ、酒占や、醸酒(サカガミ)、刈り上げの新嘗(ニヒナメ)などの場合である。
くしの神常世にいますいはたゝす少御神(スクナミカミ)の神ほぎ祝ぎ狃(クル)ほし、豊ほぎ、ほぎ廻(モトホ)しまつり来しみ酒(キ)ぞ……(仲哀記)
掌(タナソコ)やらゝに、拍ち上げ給はね。わがとこよたち(顕宗紀、室寿詞の末)
妙呪者(クスリシ)は、常のもあれど、まらひとの新(イマ)のくすりし……(仏足石の歌)
など歌はれた常世神も、全然純化した神とならぬ中に、性格が分化して来た。其善い尊い部分が、高天原の神となり、怖しく醜い方面が、週期的に村を言ほぎに来る鬼となつた。だから常世(トコヨ)ノ思金(オモヒカネ)ノ神(カミ)といふ名も、呪言の神が常世から来るとした信仰の痕跡だと言へよう。田植ゑ時に考・妣二体或は群行(グンギヤウ)の神が海から来た話は、播磨風土記に多く見えて居る。椎根津彦(シヒネツヒコ)は蓑笠著て老爺、弟猾(オトウカシ)は箕をかづいて老媼となつて、誓約(ウケヒ)の呪言をして敵地に入り、天ノ香山(カグヤマ)の土を持つて帰り、祭器を作つて呪咀をした(神武紀)。此も常世神の俤であつた。
とこよのまれ人の行うた呪言が段々向上し、天上将来の呪言即天つ祝詞など言ふ物が行はれて来、呪言の神が四段にも考へられる様になつた事は前に言うた通りである。処が邑落どうしの間に、争ひが起つたり、異族の処女に求婚する様な場合には、呪言が闘はされる。相手の呪言が有勢だつたら、其力に圧へられて呪咀を身に受けねばならぬ。自分の方の呪言に威力ある時は、相手の呪言の威霊を屈服させて、禍事(マガゴト)を与へる事が出来る。此反対に、さうした詞の災ひを却(しりぞ)けて、善い状態に戻す呪力や、我が方へ襲ひかゝつて来た呪咀を撥ね返す能力が考へられて来た。人に「まがれ」と呪ふ側と、善い状態に還す方面とが、一つの呪言にも兼ね備つて居るものと考へ出される。禍津日(マガツヒ)ノ神・直日(ナホビ)ノ神の対照は、実際は時代的に解釈が変つて来た処から出た呪言の神であつたのだ。「檍原(アハギハラ)の禊(ミソ)ぎ」に、此二位の神が化生したと説くのは、禊ぎの呪言に、攻守二霊の作用の本縁を物語つてゐたものであらう。
風土記などにも夙く、出雲意宇(オウ)郡に詔門(ノリト)ノ社の名が見えてゐる。其機能は知れぬが、速魂社と並んで居る処を見ると、呪言の闘争判断方面の力を崇めたのではなからうか。其とは別に、延喜式にも既に「左京二条ニ座ス神二座。太詔戸命神櫛真智命神」と載せてゐる。
…自リ二夕日一至ル二朝日照ルニ一(万)天都詔戸乃太詔刀言遠以告礼。如此告波麻知波弱蒜仁由都五百篁生出牟。…(中臣寿詞)
とある文によると、太祝詞とまちとは一続きの現象なのである。
まちは卜象の事である。亀卜・鹿卜では、灼き出されて罅(ひび)入つた町形(マチカタ)の事だ。町形を請ひ出す手順として、中臣太詔詞を唱へて祓へ浄める。其に連れて卜象も正(マサ)しく顕れて来る。卜部等が亀卜を灼くにも、中臣太詔詞を言ひ祓へ反覆して、町形の出現を待つのであつた。其ため祓への太祝詞の詞霊を、卜象の出るのを護る神と見たのであらう。櫛真智は奇兆(クシマチ)で、卜象其物或は、卜象を出す神であらう。「亀卜祭文」と言ふは、亀卜の亀のした覆奏(カヘリマヲシ)の形式の変形と見るべきもので、此に対しての呪言を求めれば、中臣太詔詞の外はない。亀卜の亀の精霊が、太詔戸ノ命では訣(わか)らぬ事である。「亀卜祭文」なども、神祇官の卜部等の唱へ出したものであらう。  
奏詞の発達
呪言は元、神が精霊に命ずる詞として発生した。自分は優れた神だと言ふ事を示して、其権威を感銘させる物であつた。緘黙(シヾマ)を守る岩・木・草などに開口(カイコウ)させようとしても、物言はぬ時期があつた。其間は、其意志の象徴としてほ(又はうら)を出さしめる。呪言に伴うて精霊が表す神秘な標兆として、秀(ホ)即末端(ウラ)に露(あらは)れるものゝ意である。
答へて曰はく「はたすゝきほに出しわれや、尾田吾田節(ヲタアタフシ)の淡(アハ)の郡に居る神なり」と。(神功紀)
かうした用語例が転じて、恋ひ心のそぶり顔に露れることを「ほにいでゝ……」と言ふ。うらも亦、
武蔵野に占(ウラ)へ、象灼(カタヤ)き、まさでにも告らぬ君が名、うらに出にけり(万葉集巻十四)
など、恋愛の表情に転じた。うらは又「……ほに出にけり」と言うても同じだ。此等のほ・うらの第一義は、精霊の意志標兆であるが、呪言に伴ふ処から、意義は転じ易かつた。うらがうらふ(卜)・うらなふの語根になつた理由は、呪言の希望が容れられ、又は容れられない場合のうらの出方が違ふ処から出る。
此が一転すると誓約(ウケヒ)と言ふ形になる。呪言を発する者に対して、標兆を示す者は幽界の者であつた。両方で諷誦と副演出とを分担して居る訣である。たつて物言ふまいとする精霊を表したのが「(ベシミ)の面」である。此時が過ぎて精霊が開口しかけると、盛んに人の反対に出る。あまのじやくと称する伝説上の怪物が、其から出て居る。気に逆らふ事ばかりする。口返答はする、からかひかける、横着はする。此が田楽以来あつた役目で、今も「里神楽(サトカグラ)」の面にあるもどき―ひよつとこの事で、もどくは、まぜかへし邪魔をし、逆に出るを言ふ―に扮する人の滑稽所作を生んだ。
能楽の方では、古くもどきの名もあるが、専ら狂言として飛躍した。事実は脇役なども、もどきの変態なのであつた。狂言方の勤める「間語(アヒカタ)り」なども、もどきの口まねから出て、神などに扮した人の調子の低いはずの詞を、大きな声でとりつぐ様な役が分化してゐた。其が、あひ語りまで伸びて行つたのだ。宮廷神楽の「才(サイ)の男(ヲ)」の「人長」との関係も、神と精霊とから転化して来たのだ。此系統が千秋(センズ)万歳を経て、後世の万歳太夫に対する才蔵にまで、大した変化なく続いた。
又もどきは大人を悩す鋭い子役に変化してもゐる。延年舞以後ある大・少の対立で、田楽・能楽にも此要素は含まれて居た。殊に幸若舞系統から出た江戸歌舞妓では大・少の舞以外にも、とりわけ「少」の勢力が増して来た。猿若の如きは「少」から出たものである。若衆歌舞妓も其変態であつた。日本の演劇史に、もどき役の考へを落したものがあつたら、無意味な記録になつて了ふであらう。
天狗・山男或は、四国の山中に居るといふさとりなど言ふ怪物は、相手の胸に浮ぶ考へは、一々知つて了ふ。思ひがけなくはね返した竹の輪や、炉火の為に敗亡して了うたと言ふ伝説が数へきれぬほどある。精霊に呪言を悟られぬ様にせねばならない。此をあべこべに唱へかけられると、精霊に征服せられるものと考へたらしい。神武天皇が、道臣ノ命にこつそり策を授けて、諷歌倒語で、国中の妖気を掃蕩せしめられたと日本紀にある。悪霊・兇賊が如何に速かに呪言を唱へ返しても、詞どほりの効果しか無かつた。意想外に発言者の予期した暗示のまゝに相手に働きかけて、亡ぼして了うたのである。舌綟り、早口文句などが発達したのも、呪言の効果を精霊に奪はれまい為であつた。
山彦即木霊は、人の声をまねる処から、怖ぢられた。山の鳥や狸などにも、根負けしてかけあひを止めると、災ひを受けると言ふ伝へが多い。呪言の効果が相殺してゐる場合、一つ先に止めると、相手の呪言の禍を蒙らねばならないのだ。
精霊と実際呪言争ひをする時はなかつたとしても、此畏れの印象する場合が多かつた。祭りの中心行事は、神・精霊の両方に扮した人々の呪言争ひが繰り返されるのであつた。国家時代に入つて、呪言から分化した叙事詩から、抒情脈の叙事詩なる短詩形の民謡が行はれる様になると、群行の神を迎へる夜遊びが、邑落によつては、斎庭に於て行はれた。神々に扮した村の神人と、村の巫女たる資格を持つた女たちとが相向き立つて、歌垣の唱和を挑んだ。最初はきまつた呪言や、呪言の断篇のかけあひをしたのに過ぎなかつたのであらうが、類型ながら段々創作気分が動いて来た。此場の唱和に特別の才人でなければ、大抵苦い目を見てゐる。此が呪言争ひの体験である。又外の村人どうし数人づゝ草刈り・山猟などで逢へば(播磨風土記などに例がある)呪言のかけあひが始まる。今も地方によつては、節分の夕方・十四日年越しの宵などに、隣村どうし、子どもなどが地境に出て、型どほり悪たいのかけあひをする処もある。民間伝承には、此通り、呪言唱和の注意せられた印象が残つて居る。文学史と民俗学との交渉する処は大きいと言はねばならぬ。  
奉仕の本縁を説く寿詞
ほくはほかふとも再活し、語尾が替つてほむともなつて居る。又ほさくと言ふ形もあつた。うらふは、夙く一方に意義が傾き過ぎたが、ほくは長く原義に近く留つて居た様に見える。唯恐らくは、ほの現出するまで祝言を陳べる事かと思ふのに、記・紀・祝詞などの用例は、象徴となる物を手に持ち、或は机に据ゑて、其物の属性を、対象なる人の性質・外形に準(ヨソ)へて言ふか、全く内的には関係なくとも、声音の聯想で、祝言を結びつけて行くかゞ、普通になつて居た。
其中常例として捧げられた物は御富岐(ミホキ)ノ玉である。聖寿を護る誓約(ウケヒ)のほとして、宮殿の精霊が出す―実は、斎部の官人が、天子常在の仁寿殿及び浴殿・厠殿の四方に一つ宛懸けるのである―事になつて居たらしい。大殿祭(ホカヒ)を行ふ日の夜明けに、中臣・斎部の、官人・御巫(ミカムコ)等行列を作つて常用門と言ふべき延政門におとづれて、其処から入つて斎部が祝詞を唱へて廻る。宮殿の精霊に供物を散供して歩くのが、御巫の役だ。此は、呪言の神が宮殿を祝福し、其と同時に聖寿を賀した古風を残して居るのである。玉は、呪言の神の呪言に対して、宮殿の精霊の示したほなのである。だから大殿祭祝詞の御吹支乃玉(ミフキノタマ)の説明は、後代の合理と言うてよい。斎部の扮する呪言の神は、元別に時々来臨する者のあつたのが、絶えてからの代役で、其すら長い歴史を持つ様になつたのではないかと思ふ。
中臣氏のは其と違つて、水取りの本縁を述べた「中臣ノ天ツ神ノ寿詞(ヨゴト)」を伝へて居た。此は氏々の寿詞の起原とも称すべきもので、尊者から卑者に誓(ウケ)は―信諾を約せ―しめる為の呪言が、卑位から高位に向けて発する第二義の呪言(寿詞)を分化し、―今一つ別の考へも立つ―繁栄させる風を導いた。極めて古い時代には、朝賀の賀正事(ヨゴト)には専ら此を奏上して、神界に君臣の分限が明らかだつた事始めを説いて、其時の如く今も忠勤を抽んでゝ天子に仕へ、其健康を保障しようとする事を誓うた。だから、氏々の人々も、此を各の家の聖職の本縁を代表する物と信じ、等しく拝跪して、其誓約の今も、家々にも現実の効果あるべきを示した。
中臣寿詞以外、氏々の賀正事(ヨゴト)―誄詞(シヌビゴト)も同じ物で、其用途によつて別名をつけたまでゞある。氏々の誄(シヌビゴト)・百官の誄など奏したのも、或期間、魂の生死に弁別がなかつた為だ―にも共通の慣用句であつたらしい「現御神止大八洲国所知食須大倭根子天皇云々」と言ふ讃詞は、天子の神聖な資格を示す語として、賀正事から、此に対して発達したと思はれる詔旨(公式令)の上にも、転用せられて行つた。氏々の聖職の起原―転じては、臣従の由来―を説く寿詞(賀正事としてが、最初の用途)が、朝賀の折に、数氏の長上者(カミ)等によつて奏上せられる様になつてからは、其根元たる中臣寿詞は、即位式―古くは二回、大嘗祭にも―に奏上せられることに定まつて来たのである。
中臣氏の神のほは、水であつた。初春の聖水は、復活の威霊の寓りとして、変若水(ヲチミヅ)信仰の起因となつたものである。天子のみ代(ヨ)替りを以て、日(ヒ)の御子(ミコ)の断えざる復活の現象と考へ、其を促す力を水にあるものと見たのである。ほの原始に近い意義として、古典から推定出来るものは、邑落時代に持つて居た、邑落―の守護霊―外来威力―の寓りと看做された形ある物及び現象であつた。ほを提出する事が、守護の威霊を護り渡して、相手の威力・生活力を増させる訣である。ほを示す即ほく動作が臣従を誓ふ形式になる所以である。
ほくが元、尊者から卑者にする事であつたのは、一方親近者の為に、威霊を分つ義のあつた事からも知れる。天照大神が、おしほみゝの命―み子であるが、すめみまの命と言ふ事は、語原及び其起原なる古信仰から見てさしつかへはない―の為に、手に宝鏡を持つて授けて、祝之(ホキテ)曰く、
此宝鏡を視ること我を視るごとくなるべし。床を同(トモ)にし、殿を共にして斎鏡(イハヒノカヾミ)とすべし。(紀一書)
と言はれたとも、「鏡劔を捧げ持ち賜ひて、言寿宣(コトホキノリ)たまひしく」(大殿祭祝詞)と言ふ様な伝へもある。此は、「己(オノ)が命(ミコト)の和魂(ニギタマ)を八咫鏡に取り託(ツ)けて」(国造神賀詞)など言ふ信仰に近づいてゐるのだ。威霊を与へると云ふ点では一つである。身替りの者の為に威霊の寓りを授ける呪言を唱へる事も、ほくと言ふやうになつた事を示してゐる。古代から近代に伝承せられた「衣配(キヌクバ)り」の風習も此である。外来魂を内在魂と同視した処から「とりつける」と言ふ様な考へ方になつて来る。
とにかく、ほくは外来魂の寓りなるほを呼び出す動作で、呪言神が精霊の誓約の象徴を徴発する詞及び副演の義であつた。其が転じてほを出す側から―精霊の開口(カイコウ)を考へ出した時代に―ほに附随した説明の詞を陳べる義になつて、ほを受ける者の生命・威力を祝福する事と考へられ、更に転じてほが献上の方物となり、其に辞託(コトヨ)せて祝福を言ひ立てる―或は、場合や地方によつて、副演も保存せられた―事を示すやうになつた(イ)。
この以前からほき詞(コト)は、生活力増進の祝福詞である為に、齢詞(ヨゴト)の名を持つて居たらしく、よごと必しも奏詞にも限らなかつた様である。其が段々のりとの宣下せられるのに対して、奏上するものと考へられる様になつて来たのは、宮廷の大事なる受朝朝賀の初春の宣命(ノリト)と奏寿(ヨゴト)―元日受朝の最大行事であつた事は後の令の規定にまで現れてゐる―の印象が、此を区別する習慣を作つて行つたものと思はれる。尚よごとは縁起のよい詞を物によそへて言ふ処から、善言・美詞・吉事などの聯想が、奈良の都以前からもあつた。其前から、霊代(たましろ)としてのほの思想もあつた処から転じて、兆象となる物を進めて、かくの如くあらしめ給へと、呪言者の意思を代表する意義のほと、其に関聯したほく動作も出て来た(ロ)。
(イ)のほくは寿詞(ヨゴト)であり、(ロ)のほくは、宮廷では、のりと―斎部祝詞の類―に含めてよごとと区別して居た。詔旨(ノリト)と寿詞(ヨゴト)との間に、天神に仮託した他の神―とこよ神の変形。呪言神の資格が低下した時代の信仰―の、精霊を鎮める為に寄せた護詞(イハヒゴト)が考へられてゐた。此は、家屋の精霊のほを、建築の各部に見立てゝ言ふ形式の詞章で、此を「言ひ立て」又「読(ヨ)み詞(ゴト)」と言ひ、さうした諷誦法をほむと言うて、ほくから分化させて来た。「言ひ立て」は、方式の由来を説くよりも、詞章の魅力を発揮させる為の手段が尽されてゐたので、特別に「言寿(コトホギ)」とも称してゐた。
さうして、他の寿詞(ヨゴト)に比べて、神の動作や、稍複雑な副演を伴ふ事が特徴になつてゐた。此言寿に伴ふ副演の所作が発達して来た為、ほく事をすると言ふ意の再活用ほかふと言ふ語が出来た。ほかひは、ことほきの副演なる身ぶりを含むのが用語例である。斎部祝詞の中心なる大殿祭をおほとのほかひと言ひ馴れたのも此為である。さうした異神群行し来つて、鎮祭を司る遺風を伝へたものは、大殿祭や室寿(ムロホギ)ばかりではなかつた。宮廷の大祓へに伴ふ主上の御贖(オンアガナ)ひの節折(ヨヲ)りの式にも、此があつた。上元の行事たる踏歌節会(タウカノセチヱ)の夜に、ことほきびとの高巾子(カウコンジ)などにやつした異風行列の練り歩くのも、此群行のなごりである。  
叙事詩の成立と其展開と  

呪言から叙事詩・宮廷詩へ
祭文(サイモン)・歌祭文などの出発点たる唱門師(シヨモジン)祭文・山伏祭文などは、明らかに、卜部や陰陽師の祭文から出て居る。祝詞・寿詞に対する護詞(イハヒゴト)の出で、寺の講式の祭文とは別であつたやうだ。だが此には、練道(レンダウ)・群行(グンギヤウ)の守護神に扮装した来臨者の諷誦するものと言ふ条件がついて居た様である。
詔旨(ノリト)と奏詞(ヨゴト)との間に「護詞(イハヒゴト)」と言ふものがあつて、古詞章の一つとして行はれて居た。奈良以前からの用例に拠れば、此はよごとと言ふ方が適当らしいのに、其中の一部、伝承の古い物には、のりととも称したのが、平安朝の用語例である。斎部祝詞は多く其だ。此三種類の詞章の所属を弁別するには、大体、其慣用動詞をめどにして見るとよい。のりとはのる、よごとにはたゝふ、氏々の寿詞ではまをす、ことほぎのよごとにはほく・ほむ、いはひ詞にはいはふ・しづむ・さだむ・ことほぐなど、用語例が定まつて居たことは察せられる。其正しい使用と、実感とが失はれた時代の、合理観から来る混乱が、全体の上に改造の力を振うた後の整頓した形が、平安初期以後の祝詞の詞章である。
かうした事実の根柢には、古代信仰の推移して来た種々相が横たはつて居る。代宣者の感情や、呪言伝承・製作者らの理会や、向上しまた沈淪した神々に対する社会的見解―呪言神の零落・国社神の昇格から来る―や、天子現神思想の退転に伴ふ諸神礼遇の加重などが、其である。延喜式祝詞は、さうした紛糾から解いてかゝらねば、実は隈ない理会は出来ないのである。
とと言ふ語(ことば)が、神事の座或は、神事執行の中心様式を示すものであつたらうと言ふことは、既に述べた。恐らくは神座・机・発言者などの位置のとり方について言ふものらしいのである。ことゞ・とこひど(咀戸)・千座置戸(チクラオキド)(くらとととは同義語)・祓戸(ハラヘド)・くみどなどのとは、同時に亦のりとのとでもあつた。宣る時の神事様式を示す語で、詔旨を宣べる人の座を斥(サ)して言つたものらしい。即、平安朝以後始中終(しよつちゆう)見えた祝詞座・祝詞屋の原始的なものであらう。其のりとに於て発する詞章である処からのりと詞(ゴト)なのであつた。天(アマ)つのりととは天上の―或は其式を伝へた神秘の―祝詞座即、高御座(タカミクラ)である。其処で始めて発せられ、其様式を襲(つ)いでくり返す処の伝来の古詞が「天つのりとの太のりと詞」なのである。のりとごとのことを修飾上の重言のやうに解して来た此までの考へは、逆に略語としての発生に思ひ直さねばならぬのである。
前に述べたとほり、よごとの意義が低くなつて行くのはやむを得なかつた。其と共に、上から下へ向けての詞章は別の名を得る様になつた。其がのりと詞である。卑者が尊者に奏する詞がよごとと呼ばれるものと言ふ受け持ちが定まつて来ると、人以外の精霊を対象とする詞章も亦、よごとの外にいはひ詞と言ふ名に分類せられる様になつた。此類までものりとにこめた延喜式祝詞の部類分けは、甚(はなはだ)、杜撰なものであつた。
いはひ詞を諷誦し、其に伴ふ副演を行ふ事が、ほかふの用語例である事は、前章に述べた。宮廷祝詞の中では、斎部氏が担当してゐた方面の為事が、呪言の古意を存して居た。民間の呪言に於ても、いはひ詞及び其ほかひが、全体として原始的な呪言に最近いものであつたのである。呪言の中に既に、地(ヂ)と詞(コトバ)との区別が出来て来て、其詞の部分が最神秘的に考へられる様になつて行つた。すべては、神が発言したと考へられた呪言の中に、副演者の身ぶりが更に、科白(セリフ)を発生させたのである。さうすると、呪言の中、真に重要な部分として、劇的舞踊者の発する此短い詞が考へられる様になる。此部分は抒情的の色彩が濃くなつて行く。其につれて呪言の本来の部分は、次第に「地(ヂ)の文」化して、叙事気分は愈(いよいよ)深くなり、三人称発想は益(ますます)加つて行く。かうして出来た 言葉の部分は、多く神の真言と信じられる処から、呪言中の重要個処・秘密文句と考へられる。だから、呪言が記録せられる様になつても、此部分は殆どすべて、口伝として省略せられたのである。延喜式祝詞に、天つのりとの部分が、抜きとられてゐるのは、此為である。
呪言の中、宗教儀礼・行事の本縁を語ると共に、其詞章どほりの作法を伴ふものと、既に作法・行事を失うて、唯呪言のみを伝へるものとが出来て来た。鎮魂法の起原を説く天窟戸の詞章は、物部氏伝来の鎮魂法を行ふやうになつては、儀礼と無関係な神聖な本縁詞に過ぎなくなつて居た。大祓詞を以て祓へを修する時代になつては、すさのをの命を始めと説く天つ罪の祓への呪言―天上悪行から追放に到る物語を含む―も、国つ罪の起原・禊(ミソ)ぎの事始めを説明した呪言―いざなぎの命の黄泉(よみ)訪問から「檍原(アハギハラ)の禊ぎ」までをこめた―も、単なる説明詞章に過ぎなくなつて了うた。
神事の背景たる歴史を説く物と、神事の都度現実の事件としてくり返す劇詩的効果を持つ物との間には、どうしても意義分化が起らないではすまなくなる。此が呪言から叙事詩の発生する主要な原因である。だから、呪言は、過去を説くものでなく、過去を常に現実化して説くものであつた。其が後に、過去と現在との関係を説くものばかりになつたのは、大きな変化である。叙事詩の本義は現実の歴史的基礎を説く点にある。而も尚全くは、呪言以来の呪力を失うた、単なる説話詩とは見られては居なかつた。やはり神秘の力は、此を唱へると目醒めて来るものとせられて居たのである。叙事詩に於て、 言葉の部分が、威力の源と考へられたのは、呪言以来とは言へ、地の文の宗教的価値減退に対して、其短い抒情部分に、精粋の集まるものと見られたのは、尤(もつとも)なことである。
呪言の中の言葉は叙事詩の抒情部分を発生させたが、其自身は後に固定して短い呪文或は諺(コトワザ)となつたものが多かつた様である。叙事詩の中の抒情部分は、其威力の信仰から、其成立事情の似た事件に対して呪力を発揮するものとして、地の文から分離して謳(うた)はれる様になつて行つた。此が、物語から歌の独立する経路であると共に、遥かに創作詩の時代を促す原動力となつたのである。此を宮廷生活で言へば、何振(ブリ)・何歌(ウタ)など言ふ大歌(オホウタ)(宮廷詩)を游離する様になつたのである。宮廷詩の起原が、呪文式効果を願ふ処にあつて、其舞踊を伴うた理由も知れるであらう。
呪言の総名が古くは、よごとであつたのに対して、ものがたりと言ふのが叙事詩の古名であつた。さうして、其から脱落した抒情部分がうたと言はれた事を、此章の終りに書き添へて置かねばならぬ。  
物語と祝言と
日本の歌謡史に一貫して、其声楽方面の二つの術語が、久しく大体同じ用語例を保ちながら行はれて居る。かたるとうたふとが、其だ。旋律の乏しくて、中身から言へば叙事風な、比較的に言へば長篇の詞章を謡ふのをかたると言ふ。其反対に、心理律動の激しさから来る旋律豊かな抒情傾向の、大体に短篇な謡ひ物を唱へる事をうたふと称して来た。此二つの術語は、どちらが先に出来たかは知れぬが、詞章としてはかたり物の方が前に生れて居る。其うちから段々うたひ物の要素が意識せられる様になつて来て、游離の出来る様な形になり、果ては対立の地位を占める様になつて行つた。
うたふはうつたふと同根の語である。訴ふに、訴訟の義よりも、稍広い哀願・愁訴など言ふ用語例がある。始め終りを縷述して、其に伴ふ感情を加へて、理会を求める事に使ふ。此義の分化する前には、神意に依つて判断した古代の裁判に、附随して行はれる行事を示して居た。勿論うたふと言ふ形で其を示した。神の了解と同情とに縋る方法で、うけひ(誓約)と言ふ方式の一部分であつたらしい。うたふと云ふ語の第一義と、うたふ行為の意識とが明らかになつたのは、神判制度から発生したのである。うけひの形から男女の誓約法が分化して、ちかひと称せられた。
此ちかひの歌が、うけひの際のうたへの形式を襲いで、抒情詩発生の一つの動機を作り、うたへの声楽的な方面を多くとりこんだ為に、うたふが声楽の抒情的表出全部を言ふ語となつたものと思ふ。段々うたふの語尾変化によつて、うたへとうたひとを区別する様になつた。従つてうけひの場(ニハ)で当人の誦する詞が、うたと言ふ語の出発点といふ事になる。尤、うたふことの行為は前からあつたもので、其がうけひにうたをうたふのが、其代表的に発達した形だつたからであらう。全体うたと語根を一つにしてゐるらしい語には、悲愁・寃屈(ゑんくつ)・纏綿などの義を含んでゐるのが多い。
後世のくどきと言ふ曲節は此に当るもので、曲舞・謡曲時代から、抒情脈で縷述する部分の術語になつて居た。其が、近世では固定して、抒情的叙事詩の名称になつて、くどきと言へば、愁訴を含んだ卑俗な叙事的恋愛詞曲と言ふ風になつた。発生的には逆行してゐる次第である。一人称で発想せられてゐるが、態度は、三人称に傾いた地の文に対して、やはり叙事式の発想をしながら、くどき式に抒情気分を豊かに持つたものがうたと見ればよからう。さうした古代の歌には、聴きてを予想してゐたらうと思はれる様な、対話式の態度が濃く現れて居る。
私は、叙事詩よりも呪言系統の物から、歌の発生の経路を見た方が、本義を捉へ易いと考へるから、一例として、万葉集巻十六の「乞食者詠」について説明を試みたい。乞食者は祝言職人である。土地を生業の基礎とせぬすぎはひ人の中、諸国を流離して、行く先々でくちもらふ生活を続けて居た者は、唯此一種類あつたばかりである。行基門流の乞食者が認められたのは、奈良の盛時に入つてのことである。だから、乞食者とは言ひでふ、仏門の乞士以後の者とは内容が違つてゐる。ほかひによつて口すぎをして、旅行して歩く団体の民を称したのである。
詠は、うたと訓みなれて来たけれど、正確な用字例は、舞人の自ら諷誦する詞章である。だから、いはひ詞(ゴト)を以てほかひして歩いた祝言職人の芸能に、地に謳ふ部分と、科白として謳ふ歌の部分とのあつた事が推定出来る。言ひ換へれば、此歌は劇的舞踊の詞章であつて、別に地謡とも言ふべき呪言のあつた事が、表題の四字から察せられる。
更に本文に入つて説いて行くと、呪言とほかひゞとと、叙事詩と歌との関係が明らかになる。「いとこ汝兄(ナセ)の君(キミ)」と言ふ歌ひ出しは「ものゝふの我がせこが。……」(清寧記)と言つた新室の宴(ウタゲ)の「詠」と一つ様である。又二首共結句に
……我が身一つに、七重花さく八重花栄(ハ)ゆ(?)と、白賞尼(マヲシタヽヘネ)。白賞尼(マヲシタヽヘネ)
……我が目らに、塩塗り給(タ)ぶと、時(?)賞毛(マヲシタヽヘモ)。時賞毛(マヲシタヽヘモ)
とあるのは、寿詞の口癖の文句らしい。「鹿」の方の歌の「耆矣奴吾身一爾……」を橋本進吉氏の訓の様に、おいやつこと訓むのが正しいとすれば、顕宗帝の歌の結句の
おしはのみこのやつこみすゑ(記)
おとひやつこらまぞ。これ(紀)
と言ふのに当るもの、此亦(これまた)呪言の型の一つと言はれ、寿詞系統の、忠勤を誓ふ固定した言ひ方と見る事も出来る。
対句の極めて多いのも、調度・食物類の名の畳みかけて述べられてゐる事も、地名の多く出て来るのも、新室の寿詞系統の常用手法である。建築物の内部に満ちた富みを数へ立て、其出処・産地を述べ、又其一つ一つに寄せて祝言を述べる方法は、後の千秋万歳に到るまでも続いた言ひ立てである。而も二首ながら「あしびきの此傍(カタ)山の……」と言つて木の事を言ふのは、大殿祭(オホトノホカヒ)や山口祭(ヤマクチマツリ)の祝詞と一筋で、新室祝言の型なる事を明らかに見せて居る。
室寿詞は、いはひ詞の代表形式で、すべての呪言が其型に這入つて発想せられた事実は証明する事が出来る。此二首なども元、農業の害物駆除の呪言から出たのであるが、やはり、室寿詞の定型を履(ふ)んでは居る。農村の煩ひとなる生き物の中、夜な 夜な里に出て成熟した田畑を根こそげ荒して行く鹿、年によつてはむやみに孵(かへ)つて、苗代田を螫み尽す蟹、かうした苦い経験が、此ほかひ歌を生み出したのである。元は、鹿や蟹(其効果は他の物にも及ぶ)に誓はす形であつた呪言が、早く芸能化して、鹿・蟹の述懐歌らしい物に変化して行つたのである。即(すなはち)鹿・蟹に対する呪言及び其副演の間に、当の田畑を荒す精霊(鹿・蟹を代表に)に扮した者の誓ふ身ぶりや、覆奏詞(カヘリマヲシ)があつたに違ひない。其部分が発達して、滑稽な詠、をこな身ぶりに人を絶倒させる様な演芸が成立して居たものと思ふ。二首ながら、夫々(それぞれ)の生き物のからだの癖を述べたり、愁訴する様を謳うたりして居る。又道行きぶりの所作―王朝末から明らかに見えて、江戸まで続いた劇的舞踊の一要素たる海道下り・景事(ケイゴト)の類の古い型―にかゝりさうな箇所もある。
古代の舞踊に多かつた禽獣の物まねや、人間の醜態を誇張した身ぶり狂言は、大凡(おほよそ)精霊の呪言神に反抗して、屈服に到るまでの動作である。もどきの劇的舞踊なのである。後世ひよ ひよ舞と言はれる鳥名子(トナゴ)舞・侏儒(ヒキウド)の物まね(殊舞と書くのは誤り)なるたつゝまひ、水に溺れる様を演じる隼人のわざをぎ―海から来る水を司る神、作物を荒す精霊との争ひの記憶が大部分に這入つてゐる―さうしたふりごととしての効果は、此二首にも、十分に現れて居る。
鹿・蟹が甘んじて奉仕しようとすると言つた表現は、実は臣従を誓ふ形式から発して来たものと解するがよい。私は此二首を以て、飛鳥朝の末或は藤原朝―飛鳥の地名を広くとつて―の頃に、ほかひゞとの祝言が既に、演劇化してゐた証拠の貴重な例と見る。尚此に関聯して言ひたい事は、呪言の副演の本体は人間であるが、もどき役に廻る者は、地方によつて違つて居たことを言ひたい。其が人間であつたことも勿論あるが、ある国・ある家の神事に出る精霊役は、人形である事もあり、又鏡・瓢などを顔とした仮りの偶人であつたことも考へてよい根拠が十分にある。
此ほかひの歌の如きは、時代の古いに係らず、其先に尚古い形のあつて、現存の呪言に絶対の古さを持つものゝない事を示して居る。だが同時に、此詠から呪言の中に科白が生じ、其が転じて叙事詩中の抒情部分が成立し、又其独立游離する様になる事の論理を、心に得る事は出来るのである。
私はことほぎを行ふ者と、物語を伝誦する語部との間に、必しも絶対的な区劃があつたものとは考へない。けれども大体に於て、此だけは言つてもよい様である。叙事詩及び若干のまだ呪力の信ぜられた呪言を綜合して、可なりの体系をなした物の伝承諷誦を主とする職業団体を語部と呼んでよい事、特殊な呪言と呪力とを相承し、其に関聯した副演出を次第に劇化して行つた団体で、さうした動作が清浄な結果を作るものと信頼せられてゐたのが、宮廷では斎部―及び後々の卜部(ウラベ)―国々村々では、ほかひゞと・ことほき(ことほきびとの略語)或は亦斎部とも卜部とも言つた事である。倭宮廷及び社会状態の其と似通うた国々村々の多くでは、此語部・ほかひゞとの職掌範囲が分れてゐた事は実際である。  
語部とほかひゞとと
私の考へ得た処では、語部の伝統や職掌は、宮廷のものすら一定不変ではなかつた。時代によつて、目的・伝統が変化して居る。家筋の側から言へば、更に幾筋の系統を考へる事も出来さうだが、大凡三つの部曲は明らかに認めてもよい。第一猿女(サルメ)・第二中臣女(ナカトミメ)・第三天語部(アマカタリベ)、此三つの系統の語部である。猿女・中臣女の如きは、恐らくは時を同じくして併立して居たものであらうが、勢力にはそれ ぞれ交替があつた。天語部は後のわり込みで、猿女・中臣女に替つたものと見る事が出来る。
猿女の統率階級は猿女(サルメ)ノ君(キミ)で、伝説の祖先うずめの命以来、女戸主を原則とした氏族である。此系統の語部は、まだ呪言と甚しく岐れない時代の叙事詩を諷誦したらしく、主として鎮魂法の為に、鎮魂の来歴を説くを職としたやうである。而も此天(アマ)ノ窟戸(イハト)の物語を中心にした鎮魂の呪言に、其誘因として語られた天つ罪及び祓(ハラ)へ・贖(アガナ)ひの起原を説く物語、更に魂戦(モノアラソヒ)の女軍(メイクサ)の由来に関聯した天孫降臨の大事などが、一つの体系に組織だてられて来た。
さうした結果、うずめ中心の猿女叙事詩が、宮廷が国家意識の根柢となつた時代には纏(まとま)つて居た。開闢の叙事詩よりも、天孫降臨を主題とする呪言の、栄えて行くのは当然である。聖職を以て宮廷に仕へる人々或は家々では、其専門に関した宮廷呪言に対しては、其反覆讃歎をせねばならなかつた。此が肝腎の天子ののりとを陰にして、伝宣者が奉行するやうな傾きを作り出したのである。
此伝宣の詔旨―より寧(むしろ)、覆奏―は、分化して宣命に進むものと、ある呪言の本縁を詳しく人に聴かせる叙事詩(物語)に向ふものとが出来て来た。中臣女(ナカトミメ)と汎称した下級巫女の上に、発達して来たものと推定の出来る中臣ノ志斐(シヒ)ノ連(ムラジ)の職業は茲(ここ)に出自があるものと思ふ。平安宮廷の女房の前身は、釆女其他の巫女である。其女房から「女房宣」の降つた様式は、由来が古いのであつた。宮廷内院の巫女の関係したまつりごとののりと詞(ゴト)は、其々の巫女が伝宣した習慣を思はせる。
国魂の神の巫女なる御巫(ミカムコ)や釆女等の勢力が殖えるまでは、猿女が鎮魂呪法奉仕を中心に、中臣・斎部と対照せられてゐた。だから古代宮廷に於て、猿女が宮廷呪言を、中臣・斎部と分担して伝承して居た分量の多さは察せられる。祭祀・儀礼に発せられたのりと詞の叙事詩化して、猿女伝承に蓄へられた物が多かつたであらう。其鎮魂呪言が自然に体系をなして、更に種々の呪言を組織だてゝ行つた事は考へてよい。さうして、其が呪言以外の目的で、奏と宣との二方便に亘つて物語られるやうになつたのである。かうした方面から見れば「中臣寿詞」もやはりまだ、分化しきらない物語だつたのである。天孫降臨を主題にした叙事詩は猿女系統の口頭伝承に根ざしてゐるのである。
古事記の基礎となつた、天武天皇の永遠作業の一つだと伝へられて居る、習合せられた宮廷叙事詩を、諳誦して居たと言ふ阿礼舎人(アレトネリ)も、猿女ノ君の支族なる稗田氏であつた。  
いはひ詞の勢力
宮廷の語部が「のりと伝承家職」から分化したことは、既に述べた。其に、自家のよごとを含めて組織したものが、語部の語り物即(すなはち)「物語」である。宮廷以外の豪族の家々にも、規模の大小こそあれ、氏の長上と氏人或は部民との間に、のりと・よごとの宣・奏が行はれ、同じく語部の叙事詩の物語られた事は、邑落単位だつた当時の社会事情から、正しく察せられる。奈良の末に近い頃の大伴ノ家持の「喩族歌」は、大伴氏としてののりとの創作化したものであり、「戒尾張少咋歌」の如きは、のりとの分化して、宣命系統の長歌発想を採つたものである。山ノ上ノ憶良の大伴ノ旅人に餞(はなむけ)した「書殿餞酒歌」の如きものは、よごとの変形「魂乞ひ」ののみ詞(ゴト)の流れである。殊に其中の「あが主(ヌシ)の御魂(ミタマ)たまひて、春さらば、奈良の都に喚上(メサ)げたまはね」とある一首は、よごととしての特色を見せてゐる。
家々伝来の外来魂を、天子或は長上者に捧げると共に、其尊者の内在魂(タマ)の分割(フユ)を授かつた(毎年末の「衣配(キヌクバ)り」の儀の如き)申請(ノミマヲシ)の信仰のなごりが含まれて居る。又遥かに遅れて、興福寺僧の上つた歌(続日本後紀)の如きも、よごとを新形式に創作したと言ふだけのものであつた。
長歌について見ると、のりと・よごと系統のものが著しく多い。藤原ノ宮ノ御井ノ歌の如きは、陰陽道様式を採り容れた創作の大殿祭祝詞(実はいはひ詞(ゴト))であり、藤原ノ宮役民(エノタミ)ノ歌は、山口祭か斎柱祭(イムハシラマツリ)の類の護詞(イハヒゴト)の変態である。短歌の方でも、病者・死人の為の祈願の歌や、挽歌の中に、屋根の頂上(ソラ)や、蔦根(ツナネ)(つな・かげ)・柱などを詠んでゐるのは、大殿祭・新室寿の詞章の系統の末である。挽歌に巌門(イハト)・巌(イハ)ねを言ひ、水鳥・大君のおもふ鳥を出し、杖(ツヱ)策(ツ)いてのさまよひを述べ、紐を云々する事の多いのは、皆、鎮魂式の祭儀から出て居る。極秘となつたまゝで失せた古代詞章から、其文句や発想法が分化して来たものと考へるのが、適当なのである。死後一年位は、生死を判定することの出来なかつたのが、古代の生命観であつた。さうした期間に亘つて、生魂(イキミタマ)を身に固著(フラ)しめようと、試みをくり返した。此期間が、漢風習合以前の日本式の喪(モ)であつたのである。
こふ(恋ふ)と云ふ語の第一義は、実は、しぬぶとは遠いものであつた。魂を欲すると言へば、はまりさうな内容を持つて居たらしい。魂の還るを乞ふにも、魂の我が身に来りつく事を願ふ義にも用ゐられて居る。たまふ(目上から)に対するこふ・いはふに近いこむ(籠む)などは、其原義の、生きみ魂(タマ)の分裂(フユ)の信仰に関係ある事を見せてゐる。
だから恋歌は、後に発達した唱和・相聞の態を本式とすべきではない。生者の魂を身にこひとる事は、恋愛・結婚の成立である。古代伝承には、女性と男性との争闘を、結婚の必須条件にして居た多くの事実を見せてゐる。死者の霊を呼び還すにも、同じ方法の儀式・同じ発想の詞章が用ゐられた。其為、 万葉集の如き後の物にすら、多くの挽歌が恋愛要素を含み、相聞に挽歌発想をとつたものを交へてゐるのである。恋歌分化後にも、類型をなぞる事は絶えなかつたからである。
氏々伝承の詞章から展開した歌詞の系統は、右の通り、随分後まで見える。其等の詞章は、大体におふせとまをしとの二つの形に分れる。寿詞が勢力を持つ時代になると、おふせの影は薄くなり、大体まをしに近づく。奈良の宣命や、孝謙・称徳天皇の遣唐使に仰せられた歌(万葉集)などを見ると、まをしの形が交つて来てゐる。此は神に対してとるべきおふせの様式が、神の向上によつて、まをしに近づいて来た事の影響である。平安の祝詞の悉(ことごと)くが、まをし式になつて了うた原因も、こゝにある。
だから、寿詞が多く行はれ、本義どほりののりとは、宮廷で稀に発せられるだけで、宮廷から下つたものを伝奏・宣下する以外には、のりとと言ふ事が許されなくなつた痕が見える。貴族・神人の伝承詞章は、のりとに這入るべきものでも、よごとと呼ぶ様になつて行つたらしい。かうしたよごとの分化に伴うて、のりとから分化して来たのが、いはひごと(鎮護詞)であつた。だから、よごとであるべきものが鎮護詞(イハヒゴト)と呼ばれたり、又祝詞と呼ばれる物の中にも、斎部(イムベ)などのいはひ詞を多く交へてゐる訣である。宮廷のものは何でものりとであり、民間のものはすべてよごとと称へ、よごとの中にいはひ詞の分子が殖えて行つて、よごとと言ふ観念が失はれる様になり、そして、のりとに対するものとして、いはひ詞が考へられる様になつた。一般に言ふ平安朝以後の祭文である。だから神託とも言ふべき伝来のものはせみやう・せんみやうなど、宣命系統の名を伝へてゐるのだ。
かうして、伝統的によごとと呼ぶものゝ外は、此名目が忘れられて、よごとは、のりとの古い様式の如くにさへ思はれてゐる。此が寿詞をなのる祝詞にすら、いはひ詞と自称してゐるものゝある訣である。一つは、宮廷其他官辺に、陰陽道の方式が盛んになつて、在来の祭儀を習合(合理化)する事になつた為でもある。神祇官にすら、陰陽道系の卜部を交へて来たのは、奈良朝以前からの事である。其陰陽道の方式は鎮護詞(イハヒゴト)と同じ様な形式を採つた。固有様式で説明すると、主長・精霊の間に山人の介在する姿をとるのである。祭儀も詞章も、勢ひかうした方面へ進んで行つた為に、文学・演芸の萌芽も、鎮護詞及び其演出の影響ばかりを自然に、深く受けなければならない様になつた。
広い用法で言へば、日本古代詞章の中、わりに短い形の物は、鎮護詞章と其舞踊者の転詠―物語の歌から出た物の外は―から出て居ると謂うてよい程である。鎮護詞章は寿詞であるが、同時に、いはひ詞の発生を導いた内的動機の大きなものになつてゐる。中臣の職掌が益向上し、斎部がいはひ・きよめの中心になる様になると、其わきに廻るのは、卜部及び其配下であつた。さうして、広成(ヒロナリ)ノ宿禰(スクネ)は、斎部の敵を中臣であると考へてゐた様に称せられるけれども、実は下僚の卜部を目ざしたのであつた。斎部の宮廷に力を失うた真の導きは、卜部の祭儀・祭文や、演出をもてはやした時代の好みにある。
斎部・卜部の勢力交迭は、平安朝前期百年の間に在る様だが、さうなつて行つた由来は久しいのである。陰陽道に早く合体して、日漢の呪法を兼ねた卜部は、寺家の方術までも併せて居た。かうして、長い間に、宮廷から民間まで、祭式・唱文・演出の普遍方式としての公認を得る様になつて来た。卜部は、実に斎部と文部との日漢両方式を奪うた姿である。
さて、唱導の語は、教義・経典の、解説・俗讃を意味するのが本義であるから、此文学史が宣命・祝詞の信仰起原から始めた事にも、名目上適当してゐる。が併し、其宣布・伝道を言ふ普通の用語例からすれば、卜部其他の団体詞章・演芸・遊行を説く「海部芸術の風化」以下を本論の初めと見て、此迄の説明を序説と考へてもよい。同時に其は、日本文学史並びに芸術史の為の長い引を作つたことになるのである。併し、私の海部芸術を説く為に発足点になるほかひとくゞつとの歴史を説くのには、尚聊(いささ)かの用意がいる。  
物語と歌との関係並びに詞章の新作
先づ呪言及び叙事詩の中に、焦点が考へられ出した事である。のりとで言へば地(ヂ)の文―第二義の祝詞に於て―即、神の動作に伴うて発せられる所謂天つのりとの類である。其信仰が伝つて、叙事詩になつても、 言葉の文に当る抒情部分を重く見た。其がとりも直さず、うたであり、其諷誦法うたふからうたひと訴へ(うたへ)とが分化して来たのである。
呪言・叙事詩の詞の部分の独立したものがうたであると共に、ことわざでもあつた。さうした傾向を作つたのは、呪言・叙事詩の詞が、詞章全体の精粋であり、代表的に効果を現すものと信じて、抜き出して唱へるやうになつた信仰の変化である。だから、うたの最初の姿は、神の真言(呪)として信仰せられた事である。此が次第に約(つづま)つて行つて、神人問答の唱和相聞(カケアヒ)の短詩形を固定させて来た。久しい年月は、歌垣の場(ニハ)を中心にして、さうした短いうたを育てた。旋頭歌を意識に上らせ、更に新しくは、長歌の末段の五句の、独立傾向のあつたのを併せて、短歌を成立させた。そこに、整頓した短詩形は、遅れて新しく語部の物語に這入つて来る様にもなつた。だが、様式が意識せられるまでは、長歌・片哥・旋頭歌などゝ「組み歌」の姿を持つて居たものと見るべき色々の理由があるのである。奈良朝になつても、うたが呪文(大歌などの用途から見て)としての方面を見せてゐるのは、実は呪言が歌謡化したのではなかつた。呪言中の真言なるうたの、呪力の信仰が残つてゐたのである。
くり返す様だが、ことわざは、神業(わざ)出の慣例執行語(イヒナラハシ)であり、又物の考慮を促す事情説明の文章なるわざことと言ふ処を、古格でことわざと言うたのである。ことわざの用語例転化して後、ふりと言ふ語を以て、うたに対せしめた。古代の大歌に、何振(何曲)・何歌の名目が対立して居た理由でもある。此を括めて、歌(ウタ)と言ふ。其旧詞章の固定から、旧来の曲節を失ひさへせずば、替へ文句や、成立の事情の違ふうたまでも、効果を現すとの信仰が出来る様になつた。追つては古い詞章に、時・処の妥当性を持たせる為の改作を加へる様にもなる。歌垣其他の唱和神事が、次第に、文学動機に接近させ、生活を洗煉させて行つてゐた。創作力の高まつた時代になつて、拗曲・変形から模写・改作と進んで来たうたが、自由な創作に移つて行く様になつたのは、尤である。
此種のうたは、鎮護詞(イハヒゴト)系統から出たものばかりであつたと言うてよい。殿祭(トノホカヒ)・室寿(ムロホギ)のうたは、家讃め・人讃め・旅・宴遊のうたを分化し、鎮魂の側からは、国讃め、妻覓(マ)ぎ・嬬(つま)偲び・賀寿・挽歌・祈願・起請などに展開した。挽歌の如きも、しぬびごと系統の物ではなく、思慕の意を陳べて、魂を迎寄(コヒヨ)せて、肉身に固著(フラ)しめるふりの変態なのであつた。
歌の中、鎮魂の古式に関係の遠いものは、叙事詩及び其系統に新しく出来た、壬生部(ミブベ)・名代部(ナシロベ)・子代部(コシロベ)の伝へた物語から脱落したものである。又或ものは系譜(ヨツギ)―口立(クチダ)ての―の挿入句などからも出てゐる事が考へられる。
記・紀に見えた大歌は、やはり真言として、のりとに於ける天つのりと同様、各種の鎮魂行儀に、威力ある呪文として用ゐられたのがはじまりで、後までも、此意義は薄々ながら失せなかつた。大歌は次第に、声楽としての用途を展開して行つて、尚神事呪法と関係あるものもあり、其根本義から遠のいたものも出来た。記・紀にすら、詞章は伝りながら、既に用ゐられなくなつたもの、わざ・ふりの条件なる動作の忘れられたもの、後代附加のものも含めて居る様だ。だから替へ歌は文言や由来の記憶が錯乱したのや、詞章伝つて所縁不明になつたものも、勿論沢山にある道理だ。鎮魂祭・節折(ヨヲ)り・御神楽共に、元は、鎮魂の目的から出た、呪式の重複した神事である。うたに近づいて行つたのは、信仰の変改である。
鎮魂と神楽とは、段々うたを主にして行つた上、平安中期以前既に、短歌の形を本意にする様になつて居た。さうした大歌も、必しもすべて宮廷出自の物に限つて居なかつた。他氏のうた或は、民間流伝の物までも、其に伴ふ物語又は説話から威力を信じて、採用したのも交つてゐる。
大歌には既に其所属の叙事詩の亡びて、説話によつて其由来の伝へられたものも多かつたらしい。併し、其母体なる物語の尚(なほ)存してゐて、其内から抜き出したものも多い事は、証明出来る。由来の忘られたものは、民間理会によつて適当らしい人・時・境遇を推し宛てゝ、作者や時代を極めてゐる。其為、根本一つに違ひない大歌に、人物や事情の全く違うた両様の説明が起つた。更に其うたを二様に包みこんだ別殊の叙事詩があつたりもした。
氏々の呪言・叙事詩の類から游離したうた・ことわざのあつた事、並びに、其が大歌や呪文に採用せられたことは明らかである。大抵冒頭の語句を以て名としたふりと称するものは、他氏・他領出自の歌であつた。さうして、其には必、魂ふりの舞ぶりを伴ふ。此が「風俗(フゾク)」である。中には、うたの形を採りながら、まだ「物語」から独立しきつて居ないばかりか、其曲節すら、物語に近いものがあつたらしい。天語歌(アマガタリウタ)・読歌(ヨミウタ)などが、其である。  
天語と卜部祭文との繋り
名は神語(カムガタリ)・天語歌(アマガタリウタ)と区別してゐるが、此二つは、出自は一つで、様式も相通じたものである。唯天語歌の方が、幾分壊れた姿でないかと思はれる。而も却つて、神語の方に天語らしい痕跡が多い。
いしたふやあまはせつかひことの語り詞(ゴト)も。此者(コヲバ)
と言ふ形と、其拗曲した、
ことの語り詞も。こをば
と言ふのと、
豊(トヨ)み酒(キ)たてまつらせ
と乱(ヲサ)めるものと二つある。又此二つが重(かさな)つて、
豊み酒たてまつらせ。ことの語り詞も。こをば
となつたのなどがある。此から見ると、酒ほかひの真言と、憤怨を鎮める呪文とには、共通の詞章や、曲節の用ゐられた事が考へられる。結婚の遂行は条件として、戦争とおなじく「霊争(モノアラソ)ひ」を要した古代には、名のり・喚(ヨ)ばひにすら、憤りを鎮めるうたが行はれたのである。
あまはせつかひとは、海部駈使丁(アマハセツカヒ)の義である。神祇官の配下の駈使丁(ハセツカヒ)として召された海部(アマベ)の民を言うたらしい。此等の海部の内、亀卜に達したものが、陰陽寮にも兼務する事になつたものと見える事は、後代の事実から推論せられる。此等の海部駈使丁(アマハセツカヒ)や、其固定した卜部が行うたことほぎの護詞や、占ひ・祓への詞章などの次第に物語化し―と言ふより一方に傾いたと言ふ方がよい―たものが「海部物語(アマガタリ)」であり、其うたの部分が「天語歌」であつたと言へよう。海部駈使丁の聖職が分化して、卜部と天語部とを生じた。天語部を宰領する家族なる故の天語連(アマガタリノムラジ)のかばねまで出来た。
其伝へた詞章の中のある一類は、神語とも伝へたのであらう。神語は天語の中の秘曲を意味するらしく、天語なる事に替りはない。古くすでに「海部物語(アマガタリ)」を「天つ物語」と感じて、神聖観をあまの音に感じ、天語と解したのである。其囃(はや)しとも乱辞(ヲサメ)とも見える文句は、天語連の配下なる海部駈使丁の口誦する天語の中の歌だと言ふ事を保証するものであつた。其が替へ歌の出来るに連れて、必然性を失うて、囃し詞に退化して行つたのである。
天語ノ連(或は海語ノ連)は斎部氏の支族だとせられてゐる。其から見ても、神祇官の奉仕を経て、独立を認められて来た、卜部関係の語部なる事が知れる。
記・紀・万葉集に、安曇(アヅミ)氏や、各種の海部(アマベ)の伝承らしい伝説や歌謡の多いばかりか、其が古代歴史の基礎中に組み込まれてゐるのは、此天語部が、宮廷の語部として採用せられたからである。  
語部の歴史

中臣女の伝承
宮廷の語部が、護詞を唱へる聖職から分化したものなのは、猿女ノ君の場合に、殊に明らかであつた。其に次いで行はれたらしいのは、中臣系統の物語である。禊ぎ祓へに奉仕した中臣女が「中臣物語」の伝承をも併せ行うたらしい。
男性の中臣の聖職は次第に昇進したが、女性の分担は軽く許りなつて行つた。嬪・夫人にも進むことの出来た御禊奉仕の地位も、其由来は早く忘れられて了うた。加ふるに御禊の間、傍に居て、呪詞を唱へる中臣の職は、さほど重視せられなくなり、「撰善言司」設置以後、宣命化したのりとを宣する様になつた。だから大抵の寿詞・護詞系統の物語は、中臣女の口に移つて行つたものと見てよいことは、傍証もある。
中臣女から出た一派の語部は、中臣ノ志斐(シヒ)ノ連などであらう。志斐(シヒ)ノ連には、男で国史の表面に出てゐるものもある。持統天皇と問答した志斐(シヒ)ノ嫗(万葉集巻三)は(しひに二流あるが)中臣の複姓(コウヂ)の人に違ひはない。此は、男女とも奉仕した家の例に当るのであつて、物部・大伴其他の氏々にもある例である。後に其風を変へたのは猿女で、古くは、男で仕へるものは宇治ノ土公(ツチギミ)を名のり、女で勤めるのが、猿女であつたと見る方がよい。男女共同で家をなしたものが、後に女主に圧されて、男も仕へる時は、猿女ノ君の資格でする様になつたものである。「猿淡海(サルアフミ)」など言ふのも宇治土公の一族で、九州にゐた者であらう。女でないから、猿だけを称したのである。
其、族人の遊行するものが、すべて族長即、氏の神主の資格(こともちの信仰から)を持ち得た為に、猿丸太夫の名が広く、行はれたものと考へてよい。其諷誦宣布した詞章が行はれ、時代―の改作を経て、短歌の形に定まつたのは、奈良・平安の間の事であつたらう。さうして其詞章の作者を抽き出して、一人の猿丸太夫と定めたのであらう。柿ノ本ノ人麻呂なども、さうした方面から作物及びひとまろの名を見ねばならぬ処がある様に思ふ。
とにかく、伝統古い猿女の男が、最新しい短歌の遊行伶人となつた事を仮説して見るのは、意義がありさうである。鎮魂祭の真言なる短章(ふり)が、或は、かうした方面から、短詩形の普及を早めたことを思ひ浮べさせる。
語部の職掌は、一方かういふ分科もあつた。語部が鎮魂の「歌(ウタ)ノ本(モト)」を語る事が見え、又「事ノ本」を告(ノ)るなど言ふ事も見えてゐる。うたやことわざ・神事の本縁なる叙事詩を物語つた様子が思はれる。
大祓詞の中、天つ祝詞が秘伝になつて離れてゐるのも其で、元はまづ、天つ祝詞を唱へて演技をなし、その後物語に近い曲節で、大祓の本文を読み、又天つ祝詞に入ると言ふ風になつて居たからで、此祓詞には、天つ祝詞が数个所で唱へられたらしい。其が、前後に宣命風の文句をつけて、宮廷祝詞の形を整へたので、後の陰陽師等の唱へた中臣祓は、此祝詞を長くも短くも誦する様だ。併し、天つ祝詞は伝授せなかつたのである。護詞(イハヒゴト)の中のことわざに近い詞章の本義を忘れて、祝詞の中の真言と感じたのだ。地上の祓への護詞と、真言なる章句とを区別したのである。
呪詞に絡んだ伝来の信仰から、此祓詞を唱へる陰陽師・唱門師の輩は、皆中臣の資格を持つ事になつたらしい。後に此等の大部分と修験の一部に、中臣を避けて、藤原を名のつてゐたものが多い。此は自ら称したと言ふより、世間からさう呼んだのが始まりであらう。呪詞を諷誦する人は、元の発想者或は其伝統者と同一人となると言ふ論理が、敷衍せられて残つたのである。
宮廷の語部は女を本態としてゐるが、他の氏々・国々では、男を語部としてゐるのも多かつた。宮廷でも、物部・葛城・大伴等の族長が、語部類似の事を行ふ事が屡(しばしば)あつた。  
祝言団の歴史
語部の能力が、古詞を伝承すると共に、現状や未来をも、透視する方面が考へられて来たらしい。即、語部と其詞章の原発想者との間に、ある区別を考へない為に語部の物語る間に、さうした能力が発揮せられて(神がゝりの原形)新しい物語を更に語り出すものとした。顕宗紀に見えた近江の置目(オキメ)などが、此である。父皇子の墓を告げて以来、大和に居て、神意を物語つて、おきつべき事を教へたのであらう。おきめはおき女である。予め定めおきつるのが、おくの原義である。日置部(ヒオキベ)のおきなども、近い将来の天象、殊に気節交替に就てのおきをなし得たからである。後に残すおく、残されたおくるも、此展開である。
かうして、呪言・叙事詩系統の詞章の、伝来の正しさを重んずる事の外に、其語り人の神格化を信じて、新しい詞章を請ふ様にもなつたのだ。此が又、宣命・よごと・のりと・いはひごとなどの新作を、神聖を犯すものとせず、障りなく発達させる内的の第一の動機となつた。
語部は、神がゝりすると言ふより、寧、神自身になつて、古詞章を伝へる内に、段々新聖曲を語り出す様にもなつた。此点にも、呪言と叙事詩との岐れ目がある。呪言では、新詞章の出来たのは、叙事詩よりも遅れてゐる。此には、宣命の新作が、大きな動力になつた。だが、其以前から、発生的に叙事詩と通用して、殆ど同体異貌のものであつたから、変り始めては居た事であらう。
語部の新詞章の語り始められたのは、恐らく、長い飛鳥の都以前からもあつたであらう。尚一面、壬生部の叙事詩が此と絡みあうて、名代部・子代部の新叙事詩を興した事も考へねばならぬ。其は、古い叙事詩を自然に改作し、而も新しい感触を含んだ物語や、歌を数多く入れた身につまされる様なのが出て来た。此名代部・子代部の伝承をある点まで集成したらしいのが、既述の海語部(アマガタリベ)である。
其は宮廷の語部としての、男性本位の団体で、芸術的意味をも含んで、採用せられたものらしい。彼等は民間より出て、宮廷に入つたが、大部分は尚民間を遊行して居た。さうして、生活の間に演奏種目を交換し、数を殖して行つた。都鄙・異族の叙事詩はかうして融通伝播したのである。
彼等は海村の神人として、農村の為に水を給する神に扮し、呪詞・物語・神わざを演出する資格があつた。かうして、ほかひして廻つた結果、ほかひゞとの階級を形づくつた。海語部の外にも、社々・国々の神人の、布教・祝福の旅を続けたらしい者も、挙げることは出来るが、団体運動の歴史や、伝承系統の明らかなのは、此種族である。安曇と言ひ、天・尼・海を冠し、或は海部(カイフ)と言ふ地名の多いのが、現実の証拠である。漁り・潜(カヅ)きの地を尋ねて、住ひを移すと共に、かうしたほかひをして廻つたのであつた。此にも男女の生業の違ひが認められた。此が山の神人としての山人の信仰が現れるまで、又其以後も、海の神人として尊まれ、畏れられ、忌まれもした水上・海道の巡游巫祝の成立であつた。
ほかひ・語り・芸能・占ひを兼ねた海の神人たる旅行団が、山神信仰時代に入ると、転じて、山人になつたのも多い。信州の安曇氏は固より、大和の穴師(アナシ)神人などが其だ。伊予の大三島の神人の如きは、海の神人の姿を保ちながら、山の神人の姿に変つて行つたもので、伊豆の三島神人は、其が更に山人化したものである。
叙事詩化した呪詞を伝承して、祝福以外に、一方面を拓いたのが、語部の物語であつた。だから、多少芸術化した叙事詩は、音楽的にも、聴く者の内界へ、自らなる影響を与へた。其上に、此には更に、鎮魂の威力をも考へねばならぬ。其は臣下からは、教育の出来ぬ宮廷・豪家の子弟の魂に、語部の物語の詞章が触れて、薫化するものと考へられてゐた事である。語部は此意味に於て、家庭教師らしい職分を分化して来た。平安の宮廷・豪家で、女房たちが、子女の教師であり、顧問でもあつた遠い源は、こゝに在る。だから、女房たちの手になつた平安の物語類は、読み聴かせる用途から出たのであつた。そして、黙読する物になり、説明から鑑賞に移つて、文学化を遂げた。其外に尚一つ、語部職の分化する大きな理由があつた。其はつぎの伝承である。  
系図と名代部と
つぎはよつぎと言ふ形になつて、後代まで残つたものである。意義は転じたが、其でも、原義は失ひきらなかつた。継承次第を主として、其に説明を添へて進むと言つた、書き入れ系図の、自由な姿の口頭伝承である。
平安中期以後のよつぎは、記録せられた歴史をも言ふが、其前は、記載の有無にも拘らずよつぎと言ひ、更に古くは、語根のまゝつぎと言うたのである。此を記録し始めた時代からある期間は、つぎぶみ(纂記・譜第)と称へて居た。宮廷のつぎは日を修飾にして、ひつぎと言ふ。日のみ子或は日神の系図の義で、口だてによつて諷誦せられたものである。恐らく、主上或は村君として持たねばならぬ威力の源なる外来魂を継承する信仰から出たものであらう。つぎに加へる事をつぎつ(下二段活用)と言ふ。
極めて古い時代には、主上或は村君は、不滅の人格と考へられて居る。だから、個々の人格の死滅は問題としない。勢(いきほひ)、つぎ・ひつぎの観念も発達して居なかつたと見える。信仰の変化から神格と人格との区別が考へられる様になつて、始めてつぎが現れたのである。
奈良朝以前のつぎは、生の為でなく、死の為のものであつた。つぎにつぎてられるのは、死が明らかに認められた後であり、生死の別が定まるまでは、鎮魂式を行ひ、氏々・官司奉仕の本縁を唱へて、寿詞を奏する。此を、日本紀などには、後世風の誄(シヌビゴト)と解して書いて居るが、古代はしぬびごと自体が、哀悼の詞章ではなかつた。外来魂が竟(つひ)に還らぬものと定まると、この世の実在でないと言ふ自覚を、死者に起させようとかゝる。死者の内在魂に対して、唱へ聴かす詞章がなくてはならぬ。此がつぎであつた。
此つぎと、氏々・官司の本事(モトツゴト)(略してこととも言ふ)とを混淆して、一列にしぬびごとと称せられ、又宣命の形式のまゝで、漢文風の発想を国語でするしぬびごとも出来かけた。即、つぎは鎮め葬つた上、陵墓の前で諷誦すべきものである。而も、其が夙(はや)くから紊(みだ)れて居た様である。名をつぎてられずに消えて行く事は、死者の魂に、不満と不安とを感じさせるものと考へられ、内在魂を完全に退散させる方便としてのつぎの意義も出て来た。
主上・村君等のつぎが、次第に氏族の高級巫女なる后妃・妻妾・姉妹・女児を列し、宮廷で言へば、ひつぎのみこ更に継承資格を認められて居た兄弟中の数人を加へる様になつた。さうして更に進んで、多くの皇子女を網羅する様になつて行つたのだと言ふ事が出来る。主上・村君以外は、傍流をつぎてなかつた時代には、其外の威力優れた人の為には、つぎこそなけれ、一つの方法が立てられてゐた。
威力あつて、つぎに入らなかつた人の死後、其執念を散ずる方便には、新しい村が立てられた。在来の村に新しい名をつける事もあり、全く新しく村を構へさせる事もあつた。其村々には、必、死者の名、或は住み処などの称への、其人を思ひ出し易い数音を被せて名とした。此が、名代部(ナシロベ)又は子代部の発生である。
後には、つぎに入つた人にさへ、名代の村を作る様にもなつた。さうなると、子のない人々も亦、歿後の名を案じて、生前自ら名代部を組織する(一)。愛寵する人(子のない)の為に、死後は固より生前にも名代を与へる様になる(二)。(一)(二)の二つは子代部とも称せられた。
かうして見ると、名代部には荘園の淵源が伺はれるのみならず、古く既に、さうした目的さへ現れてゐたことが訣る。即、村を与へる外に、職業団体としての部曲(カキベ)、珍らしい才技(テワザ)・豊かな生産、村々・氏々から羨まれてゐる職業団体、或は分布区域の広い部曲などを授ける事がある。かうして、名代制度の中に、経済観念が深まつて行つた。
名代部は、国・村の君の上につぎのある様に、新しく出来た村なり、団体なりに、其人から始まつた新しいつぎを語り伝へさせるのが目的であつた。軽部(カルベ)は木梨ノ軽ノ太子の為に、葛城部(カツラギベ)は磐ノ媛皇后の為に、建部(タケルベ)は倭建命の為に、春日部は春日皇后の為に立てられた名代・子代であつた。皆、美しく、苦しき、猛く、弛(ユル)さぬ、あはれな物語を伝承して居た。
子のない為に作つたのが、名代の原義ではなかつた。だから、其人に子孫のある時は、其地を私用して、一種の村君の生活をした。
つぎの第一義的効果は、死霊退散にあつたのだから、後漸(やうや)く、つぎ自身呪文の様な威力を持つて来た。即、君主・族長の人格的現実観が、其神格に対する畏敬をのり超えて了ふやうになると、其信仰威力を戻す為に、実証手段として、つぎの諷誦が行はれる。最正しい伝統によつて神格を享けてゐる人ゆゑ、其稜威は精霊・魂魄の上に抑圧の威力を発揮する。かうした畏怖を相手方に起させるものと信じた。其が更に、つぎを唱へるだけで、呪力が発動するものとの信仰を生んだ。
戦争も求婚も、元は一つ方法を採つた。魂の征服が遂げられゝば、女も従ひ、敵も降伏する。名のりが其方式である。呪言を唱へかけて争うたのが、段々固定して、家と名とを宣(ノ)る様になつた。さうして、相手の発言を求める形になつた。つぎを諷誦して、家系をあかした古代の風習が、単純化して了うたのであらう。
名代部の最初の主のつぎには、其人の生れた様から、嫁とり、戦ひ、さうして死に到るあり様まで、色々の事を型通りに伝へて行くであらう。其が、或部分だけ特殊の事情で、ぬけて発達して、何部・何氏・何村の、物語・歌として、もてはやされるものが出来る。其等の歌は、何れも鎮魂に関係あるもの故、内外のほかひゞとに手びろく利用され、撒布せられた。
甘橿(アマカシ)の丘のことのまかとの崎で、氏姓の正偽を糺した事実(允恭紀)は、つぎに神秘の呪言的威力を考へて居たからである。其諷誦によつて、偽り枉げてゐる者には、錯誤のある呪言の神が、曲つた呪はれた結果を示すものと信じてゐたのだ。此時の神判は、正統を主張する氏々の人を組み合はせて、かけあひさせたものなのだらう。誤つたり、偽つたりして呪言を唱へる者を顕して、直ぐに直日ノ神の手に移すのが、まがつみの神元来の職分であつて、誓約(ウケヒ)の場合に、呪言の当否を判つのであつた。更に転じては、誓詞と内心との一致・不一致を見別ける様になつて他のたゞしの神格を分化した。
ことあげの中にも、前者の系統・種姓を言ふ部分がある。神・精霊等を帰伏させるのに、前者の呪言なるつぎを自由にすると言ふ意味もあつたのであらう。
つぎも亦、君主・族長の唱へる為事だつた。其を神人に伝達(コトモ)たせたところから、語部の職分となつたのであらう。
神聖なつぎの中にも、神授の尊いものと、人の世の附加とが、自ら区別せられて居た。宮廷のひつぎで言へば、神代の正系の神は、殊に糺されてゐる。紀に一書を列ねた理由である。記の綏靖以降開化までの叙述と、下巻の末のとは、おなじく簡単でありながら、取り扱ひが違うてゐる。  
賤民の文学

海語部芸術の風化
最新しく宮廷に入つた海語部(アマガタリベ)の物語は、諸氏・諸国の物語をとり容れて、此を集成した。
其は種類も多様で、安曇(アヅミ)や海部(アマベ)に関係のない詞章も多かつたことは明らかである。此語部の物語は、在来の物に比べると、曲節も、内容も、副演出も遥かに進歩してゐて、芸術意識も出て来て居たらしく思はれる。朝妻ノ手人(テビト)龍麻呂が雑戸を免ぜられて、天語ノ連の姓を賜はつた(続紀養老三年)のは、其芸を採用する為であつて、部曲制度の厳重な時代ではあつたが、官命で転職させて、相応した姓を与へたのである。
海部の民は、此列島国に渡来して以来、幾代とも知れぬ移居流離の生活の後、或者はやつと定住した。さうした流民団は、海部伝来の信仰を宣伝する事を本位とする者が出来て来た。海人部(アマベ)の上流子弟で、神祇官に召された者が、海部駈使丁(アマハセヅカヒ)であり、其が卜部にもなつた事は、既に述べた。さうして、護詞(イハヒゴト)をほかひすることほぎの演技と、発想上の習慣とを強調して、当代の嗜好を迎へて行つた。
卜部のする護詞(イハヒゴト)は、平安期では祭文(サイモン)と言ひ、其表出のすべてをことほぎと称へ替へた。そして、寺々の守護神・羅刹神の来臨する日の祭文は、後期王朝末から現れた。
陰陽道の日本への渡来は古い事で、支那の方士よりも、寧、仏家の行法を藉りて居る部分が多い。宮廷の陰陽道は漢風に近くても、民間のものは、其よりも古く這入つて来て、国民信仰の中に沁みついて居た。だから、神学的(?)にも、或は方式の上にも、仏家及び其系統に近づいた呪禁師(ジユゴンシ)の影響が沁みこんでゐる。貴僧で同時に、陰陽・呪禁に達した者もあつた。第一、仏・道二教の境界は、奈良の盛時にすら明らかでなかつたのである。
斎部の護詞(イハヒゴト)に替つた「卜部祭文」は、儒家の祭文とは別系統であつて、仏家の祭文をなぞつた痕が明らかである。而して、謹厳なるべき寺々の学曹の手になる仏前の祭文にまで影響して行つた。はじめは仏家の名目を学びながら、後には―名も実も―却つて寺固有の祭文様式を変化させた。祭文の名は、陰陽寮と神祇官とに行はれた名である。
寺々の奴隷或は其階級から昇つた候人流の法師或は、下級の大衆なども、寺の為のことほぎを行ふのに、宮廷の卜部に近い方式をとつた。此は寺奴の中には、多くの亡命神人を含んで居たからである。さうでなくとも、家長の為によごと・いはひ詞をまをす古来の風を寺にも移して、地主神・羅刹神に扮した異風行列で、寺の中に練り込んだのである。
室町の頃になると、芸奴と言ふべき曲舞・田楽・猿楽の徒は、大抵寺と社と両方を主と仰ぎ、或は数个寺・両三社に仕へて、ことほぎを寺にも社にも行うた。更に在家の名流の保護者の家々にも行ふ様になつた。平安末百年には、かうした者が完全に演芸化し、職業化して行つた。
其初めに出来たのは、多く法師陰陽師の姿になつて了うた唱門師(シヨモジン)(寺の賤奴の声聞身の宛て字)の徒を中心とした千秋万歳(センズマンザイ)であつた。其ことほぎを軽く見て、演芸を重く見た方の者を曲舞(クセマヒ)と言ふ。寺の雅楽を、ことほぎの身ぶり・神楽のふりごとに交へて砕いたもので、正舞に対する曲舞(キヨクブ)の訓読である。
男の曲舞では、室町に興った[#「興った」はママ]「幸若舞」なる一流が最栄えた。此も、叡山の寺奴の喝食の徒の出であるらしい。だから千秋万歳同様の演技を棄てなかつた。江戸になつて、幸若には、昔から舞はなかつたと称して、歌舞妓に傾いた女舞から、自ら遮断しようとした。
女舞は、女曲舞とも、女幸若とも言うた。江戸の吉原町に隔離せられて住み、後には舞及び幸若詞曲に伴ふ劇的舞踊を棄てゝ、太夫と称する遊女になつた。江戸の女歌舞妓の初めの人々が此である。地方の社・寺に仕へて居た者は、男を神事舞太夫、女を曲舞太夫或は舞々(マヒ マヒ)と称して、男は神人、女房は歌舞妓狂言を専門としたのが多い。
此は、唱門師が、陰陽師となるか、修験となるかの外は、神人の形を採らねばならなくなつた為である。桃井幸若丸を元祖と称する新曲舞も、前述の通り、やはり千秋万歳(センズマンザイ)の一流であつたのだ。
猿楽師になると、社寺何れを本主とするか訣らない程だ。が、社奴の色彩の濃い者で、神楽の定型を芸の基礎として居る。而も、雅楽を伝承した楽戸の末でもあつた。其が、時勢に伴うて、雅楽を棄てゝ、雑楽・曲舞を演じたのだ。何にしても「曲舞」の寺出自なるに対して、多くは社及び神宮寺を仰いだ一流である様である。
其先輩の田楽は、明らかに、呪師(ノロンジ)の後で、呪師の占ひに絡んだ奇術や、演芸に、外来の散楽を採り込んで、神社以前から伝つた民間の舞踊・演芸・道具・様式を多くとり込んでゐる。此は、恐らく、法師・陰陽師の別派で、元は神奴であつたものであらう。さうして演芸期間も、他の者の正月・歳暮なのに対して、五月田植ゑの際に―或は正月農事始めにも―行うた「田舞(タマヒ)」の後である。此「田舞」は散楽と演芸種目も似て居る処から、段々近よつて行つたと見る方がよい。やはり、田畠のことほぎで、仮装行列を条件として居る。曲舞の叙事詩を、伝来の狂言の側から採り込んで、猿楽の前型となつたわけである。
此外、種々の芸人皆、寺奴・社奴出自でないものはない。其芸人としての表芸には王朝末から鎌倉へかけても、まだことほぎを立てゝゐた。即唱門師(シヨモジン)の陰陽師配下についたわけである。此等が悉く卜部系統の者、海語部の後とは言はれないが、戸籍整理や、賦役・課税を避けたりして、寺奴となつたほかひゞとの系統を襲(ツ)ぐものとだけは言はれる。
そして又、ほかひゞとには、卜部となつた者もあり、ならない者もあつたらうし、生活様式を学んだ為に、同じ系統と看做された者もあらうが、海部や、山の神人(山人・山姥など、鬼神化して考へられた)の多かつた事は事実である。
ほかひ人の一方の大きな部分は、其呪法と演芸とで、諸国に乞食の旅をする時、頭に戴いた霊笥(タマケ)に神霊を容れて歩いたらしい。其霊笥(タマケ)は、ほかひ(行器)―外居・ほかゐなど書くのは、平安中期からの誤り―と言はれて、一般の人の旅行具となる程、彼等は流民生活を続けて居た。手に提げ、担ぎ、或は其に腰うちかけて、祝福するのがほかひゞとの表芸であつた。  
くゞつの民
莎草(ハマスゲ)で編んだ嚢(ふくろ)を持つたからの名だと言ふくゞつの民は、実は平安朝の学者の物好きな合理観から、今におき、大陸・半島或は欧洲に亘る流民と一つ種族の様に見られて居る。が、私は、此ほかひゞとの中に、沢山のくゞつも交つて居ることゝ思ふ。くゞつの名に、宛て字せられる傀儡子の生活と、何処迄も不思議に合うてゐる。彼等は人形を呪言の受けて即、わきとしたらしい。志賀(シカ)ノ島の海部の祭りに出る者は固より、海部の本主となつた八幡神のわき神も、常に偶人である。
室町になつて、淡路・西ノ宮の間から、突然に「人形舞」が現れて来た様に見える。が、其長い間を、海部の子孫の流民の芸能の間に潜んで来たものと見るべきである。人形は精霊の代表者であり、或は穢悪の負担者であるから、此を平気に弄ぶまでには、長い時日を要したわけである。
宮廷の神楽は、八幡系統のものであるが、人形だけは採用しなかつた。人間の才(さい)の男(を)があつたからである。だが、社々では、人形か仮面かを使うた処が多い。遂に人形が主神と考へられる様にもなつた。
人形が才の男、即、反抗方(モドキ)に廻るのだから、くゞつ本流の演芸では、偶人劇と歌謡とを主としたらしい。だから、舞踊に秀でたものもあつたが、演劇の方面は伸びなかつた。
ほかひゞとは神人でもあり、芸人でもあり、呪禁(ジユゴン)師()でもあつた。時には呪咀もし、奪掠もした。けれども、後代の意味の乞食者の内容を備へて来たのは、平安朝になつて後の事である。
聖武の朝、行基門徒に限つて、托鉢生活を免してから、得度せないまでも、道心者の階級が認められて来た。其と共に、乞食行法で生計を立てるものは、寺の所属と認められ、ほかひゞと即(すなはち)寺奴の唱門師となつたのであらう。さうでない者は、村に定住して農耕の傍、ほかひをする様になつた。だから、僧形ではなくて、社奴の様な姿をとる事になつたのであらう。
後世、寺社奉行を設けなければならなかつた一つの理由は、かうした治外法権式の階級が発達して、支配に苦しめられた事もあるのである。此様に、形式上寺家の所有となつたゞけだから、法師・陰陽師の妻が巫女であつたり、盲僧が歌占巫女を女房としたりしたのである。
くゞつとほかひゞととの相違は、くゞつの海・川を主として、後に海道に住み著いて宿(シユク)をなした者も多いのに、ほかひゞとは水辺生活について、何の伝説も持たない。早く唱門師になつた者の外は、山人又は山姥と言はれた山の神人として、山中に住んだのもあらう。又、くゞつに混じて、自らさへくゞつと信ずる様になつた者もあらう。
ほかひゞとは細かに糺して見ると、くゞつと同じものでない処が見える。海語部の外に、他の国々氏々の神人も多く混つてゐた。唯(ただ)後に、僧形になつて仏・道・神三信仰を併せた形になつたものと、山に隠れ里を構へて、山伏し・修験となつた一流と、くゞつに混淆した者とがあつたことは言はれる。
今は仮りに、ほかひゞとを、海から天に字を換へた様に海部から山人に変つたものと、安曇氏の管轄に属する海部以外の者と見て置く。私は、くゞつ・傀儡子同種説は、信ずる事が出来ないで居る。くゞつの民は、海のほかひを続けて、後代までえびす神を持ち廻つた様に、猿女などの後ではないかと思ふ。  
社寺奴婢の芸術
此項に言ふ事は、わりに文学に縁遠い方面に亘らねばならぬ。宮廷の物語は平安に入ると、記録せられるものもあり、亡びるものは亡びる事になつたらしい。其が、先代の語部の意義において仕へてゐた女房の仮名文によつて、歌物語の描写が、段々新作を導く様になつた。中篇小説から長篇小説に進んで、源氏物語の様な大家庭小説までも生んでゐる。だが、短篇小説は、細かく言へば、別の経路を通つてゐる。真言からうた・ことわざが出来た。だからうたは必須知識として、ことわざ同様の呪力あるもの、或は氏・国の貴人として、知らねばならない旧事とせられて居た。
其成立の事情は、説話として、口頭対話式をとつたのも、奈良以前から既にあつたものと言うてよい。此が風土記などゝ別な意味で、国別に書き上げを命ぜられた事もあつたらしい。東歌・風俗の様なものは、奈良以前からあつたと考へてよい。だから歌物語は逸話の形をとつてゐた。中篇は家によつて書く形で、今考へられる形は、ある人物のある時期の間の事実を主としてゐるものだ。源氏物語は、歌物語と中篇小説とを併せた形である。
宮廷の女房文学では、かうまで発達したが、地方の伝承では、飛鳥末から段々、宮廷伝承に習合せられ、又は自身調子を合せる様になつて行つた。家々の纂記、後代の本系帳式の物や、国々の「語部物語」の説話化したのや、土地によつて横に截断した物を蒐集したりして、風土記の一部は編纂せられた。
出雲風土記には、語部の伝誦を忠実に書きとつたらしい部分が多いが、播磨のになると、大抵説話化して居たらしい書き方である。が尚、古い物語の口写しらしい処も見える。国は古くても、定住のわりに新しい里が多かつたのであらう。
一体、風土記に歌を録することの尠いのは、奈良人の古伝承信用の形式に反(そむ)いて居る。常陸の分は、長歌めいた物は漢訳するつもりらしいが、短歌やことわざは、原形を尊重して記してゐる。此は短歌が文学化し始めた頃であり、枕詞・序歌・訓諭などが、短篇小説に近い物語・説話を伴うて居た為であらう。常陸のは、まづ文学意識の著しく出た地誌と言へる。
概して言へば、諸国・諸土豪の物語は、中央の宮廷貴族の伝承より、早く亡びたものと見てよからう。旧国造は、多く郡領に任ぜられて、神と遠のかねばならなかつた。さうした国や氏々は幸福な方で、早く滅された国邑の君を神主と仰いだ神人たちは、擁護者と自家存在の意義とを失うて了うたのである。此が、ほかひゞととして流離した最初の人々であらう。神人は、大倭の顕(あき)つ神の宰(みこともち)たる国司等の下位になつた神の奴隷として没収せられ、虐使せられる風があつた様だから、どうしても亡命せねば居られなかつた地方もあつたであらう。
此等の民が、或は新地を遠国の山野に得て、村をなした例もある。此は奈良朝より古い事らしい。郷国では、神と神との「霊争(モノアラソ)ひ」に負けた神として、威力を失うても、他郷に出れば、新来(イマキ)の神として畏れ迎へられるのである。どうしても、団体亡命の事情が具つて居た訣である。
国々の語部の物語も、現用のうたに絡んだものばかりになり、其さへ次第に頽(すた)れて行つたらしい。わりに長く、平安期までも保存せられたものは、其国々の君が宮廷に奉仕した旧事を物語つて「国ぶりうた」の本(モト)を証し、寿詞同様の効果をあげることを期する物語である。さうした国々は、平安中期には固定してゐた。其事情は、色々に察せられるが、断案は下されない。
古くは、数人の語部の中、或は立ち舞ひ、或は詠じ、或は又其本縁なる旧事を奏するものなどがあつたであらう。
後期王朝中期以後には、物語は大嘗祭にのみ奏せられた。「其音祝(ノリト)に似て、又歌声に渉(ワタ)る」と評した位だ。語部は、宮廷に於てさへ、事実上平安期には既に氓(ほろ)びて、猿女(サルメ)の如きも、大体伝承を失うて居た。まして、地方は甚しかつたであらう。唯語部と祝師(ノリトシ)との職掌は、分化してゐる様でしてゐない有様であつたから、祝師(正確に言へば、ほかひゞと)には物語が伝つて居たのである。
ほかひゞとの国まはりの生計には、ことほぎの外に、諷諭のことわざ及び感銘の深い歌が謡はれ、地の叙事詩が語られる様になつたと見られる。其演奏種目が殖えて行つて、ほかひ・ことほぎよりも、くづれとも言ふべき物語や狂言・人獣の物まね・奇術・ふりごとなどがもてはやされた。此等は、奈良以前から既にあつた証拠が段々ある。
平安朝になると、一層甚しく、祝言職と言へば、右に挙げたすべての内容を用語例にしてゐたのである。平安朝末から鎌倉になると、諸種のほかひゞと・くゞつは皆、互に特徴をとり込みあうて、愈複雑になつた。ちよつと見には、どれが或種の芸人の本色か分らなくなつた。「新猿楽記」を見ると、此猿楽は恐らく皆、千秋(センズ)万歳の徒の演芸種目らしく思はれる。其中には、千秋万歳系統のほかひの芸は勿論、神楽の才の男の態、呪師・田楽側の奇術や、器楽もあれば、狂言があり、散楽伝来の演劇がゝつたものもあり、同じ筋の軽業の類もある。又盲僧・瞽女(ごぜ)の芸、性欲の殊に穢い方面を誇張した「身ぶり芸」も行はれた事が知れる。尤(もつとも)、まじめな曲舞なども交つてゐたに違ひない。
此が、田遊び・踊躍(ユヤク)念仏を除いた田楽の全内容にもなつた。今、能楽と言ふ猿楽も、初めはやはり、此であつたであらう。田楽が武家の愛護を受けてから、曲舞に近づいて行つたと同じく、猿楽も肝腎の狂言は客位に置く様になつて、能芸即神事舞踊に演劇要素を多くした。声楽方面には、曲舞・田楽・反閇(ヘンバイ)などの及ばぬ境地を拓いた。取材は改り、曲目も抜群に増加し、詞章はとりわけ当代の美を極めた。そして、室町将軍の擁護を受ける様になつてからは、愈向上した。けれども、元は唱門師(シヨモジン)同様の祝言もする賤民の一種であつて、将軍の恩顧を得たのも、容色を表とする芸奴であつたからである。
幸若太夫が「日本記」と称する神代語りを主とするのは、反閇(ヘンバイ)の謂はれを説くためである。田楽法師の「中門口(チユウモングチ)」を大事とするのは、神来臨して室寿(ムロホギ)をする形式である。猿楽に翁をおもんじ、黒尉(クロジヨウ)の足を踏むのも、家及び土地の祝言と反閇(ヘンバイ)とである。  
唱門師の運動
唱門師は、神事関係の者ばかりでなく、寺との因縁の深かつたものも多かつた。だが、大寺の声聞身(シヨモジン)なる奴隷が、唱門師(しよもじん)の字を宛てられる様になつたのは、陰陽家の配下になつた頃からの事である。
彼等の多くは、寺の開山などに帰服した原住者の子孫であつたから、祀る神を別に持つてゐて、本主の寺の宗旨に、必しも依らねばならないことはなかつた。神奴でも同じで、祖先が主神に服従を誓うた関係を、長く継続せねばならぬと信じてゐたゞけで、社の神以外に、自身の神を信じて居た例が段々ある。
さうした「鬼の子孫」の「童子」のと言はれる村或は、団体が、寺の内外に居た。其等ほかひ人と童子との外に、今一つ声聞身出自の一流派に属する団体がある。其は修験者とも、山伏し・野ぶしとも言うた人々である。
修験道の起りは藤原の都時代とあるが、果して役(エン)ノ小角(ヲヅヌ)が開祖か、又は正しく仏教に属すべきものか、其さへ知れないのである。役ノ行者の修行は或は、其頃流行の道教の仙術であつたのかも知れない。当時には大伴仙・安曇仙・久米仙などの名が伝へられて居り、天平には禁令が出て、出家して山林に亡命することを止めたのである。其文言を見ると、仏教・道教に厳重な区劃は考へてゐなかつた様であるが、 万葉集巻五の憶良の「令反惑情歌」は、其禁令の直訳なのに拘らず、道教側の弊ばかり述べてゐる。
其よりも半世紀も前の事である。山林に瞑想して、自覚を発した徒の信仰が、果して仏家の者やら、道教の分派やら、判断出来なかつたに違ひない。続日本紀を見ても、平安朝の理会を以て、多少の記録に対した処で、もう伝来の説を信じるより外はなくなつて居たらう事が察せられる。修験道の行儀・教義は、ある点まで、新しい仏教―天台・真言―の修法を主とする験方の法師等の影響を受けて居さうである。だから、奈良以前の修験道を考へる事は、平安時代附加の部分のとり除かれない間はおぼつかない。
山の神人即、山人の信仰が、かうした一道を開く根になつたのである。其懺悔の式も亦、懺法などの影響以前からある。山の神は人の秘密を聴きたがるとの信仰と、若者の享ける成年戒の山ごもりの苦行精神とが合体してゐるのである。
足柄の御坂(ミサカ)畏(カシコ)み、くもりゆの我(ア)が底延(シタバ)へを、言出(コチデ)つるかも(万葉集巻十四)

畏(カシコ)みと告(ノ)らずありしを。み越路(コシヂ)のたむけに立ちて、妹が名告(ノ)りつ(万葉集巻十五)
恋しさに名を呼んだのではなく、「今までは、身分違ひで、名をさへ呼ばずに居た。其に、越路へ越ゆる愛発(アラチ)山の峠の神の為に、たむけの場所で、妹が名を告白した」と言ふのである。
修験道の懺悔は、此意義から出て、仏家の名目と形式の一部を採つたのである。又、御嶽精進(ミタケサウジ)も、物忌みの禁欲生活で、若い人々の山籠りをして神人の資格を得る、山人信仰の形式から出たものと見る方が正しいのである。唯、女の登山を極端に忌んだのは、山の巫女(山姥)さへ択び奨めた古代の信仰とは違ふ様だが、成年戒を享ける期間に、女に近づけぬ形の変化なのだ。
山人の後身なる修験者は、山人に仮装し馴れた卜部等の、低級に止つた唱門師(シヨモジン)と同じ一つの根から出てゐた。修験者の仮装して戒を授ける山神は、鬼とおなじ物であつた。其を引き放して、仏家式の天狗なる新しい霊物に考へ改めた。だから天狗には、神と鬼との間の素質が考へられて居る。よく言ふ天狗の股を裂くと言ふ伝へも、身体授戒の記憶の枉(まが)つて伝つてゐるものらしい。
役ノ小角が自覚したと言ふ教派は、まづ此位の旧信仰を土台にして、現れたものらしい。其に最初からも、後々にも陰陽道の作法・知識が交つたものらしい。
平安以後の修験道は、単に行力を得る為に修行するだけで、信仰の対象は疾くに忘れられてゐた。奈良朝以前の修験道と、平安のと、鎌倉以後の形式とでは、先達らの資格から違うてゐる。平安期には、験方の加持修法を主とする派の験者以外に、旧来の者を優婆塞(ウバソク)・山ぶしなどゝ言ひ別けた。さうして、両方ある点まで歩み寄つてゐた。鎌倉以後になると、寺の声聞身等が、優婆塞姿であり、旧来の行者同様、修験者の配下について、此方面に入る者も出来た事は考へられる。山伏しになつた中には、陰陽師と修験者とを兼ねた、ことほぎ・禊ぎ・厄よけ・呪咀などを行ふ唱門師(シヨモジン)もあつた事は疑ひはない。此方面に進んだものは、最自由にふるまうた。
此山ぶし・野ぶしと言ふ、平安朝中期から見える語には、後世の武士の語原が窺はれるのである。「武士(ブシ)」は実は宛て字で、山・野と云ふ修飾語を省いた迄である。此者共の仲間には、本領を失うたり、郷家をあぶれ出たりした人々も交つて来た。党を組んで、戦国の諸豪族を訪れ、行法と武力とを以て、庸兵となり、或は臣下となつて住み込む事もあつた。そして、山伏しの行力自負の濫行が、江戸の治世になつても続いた。諸侯の領内の治外法権地に拠り、百姓・町人を劫(おびや)かすばかりか、領主の命をも聴かなかつた。其為、山伏し殺戮が屡(しばしば)行はれてゐる。
叡山を中心にした唱門師の外に、高野山も亦、一つの本部となつてゐた。苅萱唱門(ソウモン)など言ふ萱堂聖以外に、谷々に童子村が多かつた。高野聖、後に海道の盗賊の名になつたごまのはひなども、此山出の山伏し風の者であつた。
今も栄えてゐる地方の豪族の中には、山伏しから転じて陰陽師となり、其資格で神職となつたのが多い。かういふ風に変化自在であつた。山伏しの唱文を、陰陽師式に祭文と称へた理由も明らかである。陰陽師の禊祓の代りに、懺悔の形式をとつて、罪穢を去るのである。「山伏し祭文」は、江戸になつて現れて来るが、事実もつと早くから行はれたに違ひない。先達代つて、罪穢を懺悔すれば、多くの人々の罪障・触穢・災禍が消滅すると考へるのである。身の罪業を告白すると言ふ形式が、芸術化して来たのである。
室町時代の小説類に多い「さんげ物」は勿論だが、江戸の謡ひ物の祭文は「山伏し祭文」から出て、ある人の罪業告白の自叙伝式の物になり、再転して「色さんげ」から、故人の恋愛生活などを言ひ立てることになつた。錫杖(しやくぢやう)と法螺(ほら)とを伴奏楽器とした。唱文は家の鎮斎を主として、家を脅すもの、作物を荒す物などを叱る詞章であつた。其くづれの祭文が、くどきめいたものであつた。其傾向が、他の条件と結合した。
さんげ物語は山伏しの祭文以外にも、高野其他の念仏聖或は熊野比丘尼などの自身の半生を物語る様な形で唱へた身代りさんげ・菩提すゝめの懺悔文から影響せられてゐる様だ。寧、山伏しは祭文のおどけに富んだ処へ、男女念仏衆のさんげ種を、とり込んだのであらう。さうして、もつと明るく、浮き立つ様なものにしたのではないか。色祭文・歌祭文など、皆ちよぼくれとなり、あほだら経となるだけの素地を見せて居た。祭文には「さんげ念仏」と共通のさんげの語句があつた。さうした処から次第に念仏に歩みより、遂には、山伏しの手を離れて、祭文語りの側に移つたらしい。
歌比丘尼は、悪道苦患の掛軸を携へて、業報の贖(あがな)ひ切れぬ事を諭す絵(ヱ)解きを主として居た。其が段々変化して、石女(ウマズメ)の堕ちる血の池地獄のあり様、女の死霊の逆に宙を踏んで詣る妙宝山の様などをも謡ふ様になつた。
其に対して、歌順礼は、主として成年戒得受以前に死んだ者の受ける悩みを、叙事詩や、短詩形の短歌で謡うた。此は熊野の歌占巫女(ウタウラミコ)から胚胎したのであらう。三十三所の順礼歌の最後が「谷汲」であり、さんげ念仏の小栗転生物語の小萩の居たのは青墓であつた。熊野と美濃との関係は閑却出来ぬ。
あひの山ぶしは、和讃・今様から、絵解きに移り、更に念仏化したものらしい。男性のたゝきの一方の為事になつて行く。
此たゝきと言ふものは、思ふに「節季候(セキゾロ)」が山の神人(山人)の後身を思はせる如く、海の神人の退転したのではあるまいか。私は、くゞつの民の男性の、ほかひゞとの仲間に入つたものゝ末の姿だと思うてゐる。其以前の形は、あまの囀りの様に、早口で物を言うて、大路小路を走る胸たゝきであつた。此に対する女性は、姥たゝきと言はれるものがあつた。此外にも、くゞつの遊女化せぬ時代の姿を、江戸の末頃近くまで留めてゐたのは、桂女(カツラメ)である。あの堆(うづたか)く布を捲き上げた縵(カヅラ)は、山縵ではなかつた。  
他界を語る熊野唱導及び念仏芸
聖の徒は、僧家の唱導文を、あれこれ通用した。説経の座にも、成仏を奨める念仏の庭にも、融通してゐる内に、段々分科が定まつて行つたらしい。
口よせの巫術は「本地(ホンヂ)語り」に響いた。此を扱ふのは、多くは、盲僧や陰陽師・山伏しの妻の盲御前(メクラゴゼ)や、巫女の為事となつた。熊野には、かうした巫術が発達した。初めに唱へられる説経用の詞章が、陰惨な色あひを帯びて来ないはずはない。
念仏踊りの源も、また大きな一筋を此地に発した。念仏の両大派の開祖の種姓は伝説化してゐるが、高貴の出自を信じることは出来ない。やはり単に、寺奴なる「童子声聞身(シヨモジン)」の類であつたらしい。念仏の唱文に、田楽の踴躍(ユヤク)舞踊を合体させたものが、霊気退散の念仏踊りになつたらしい。田楽が念仏踊りの基礎となり、田楽の目的なる害虫・邪気放逐を、霊気の上に移したばかりなのを見ても、念仏宗開基の動機は、あまりに尋常過ぎて居る。自然発生らしい信仰が、開祖の無智な階級の出なる事を示して居るのである。
熊野念仏は、寺奴声聞身(シヨモジン)から大宗派を興す動機になつた。熊野田楽のふりと、熊野巫覡の霊感とが、聖(ヒジリ)階級の念仏衆の信仰・行儀に結びついたのだ。熊野巫女や熊野の琵琶弾きは、何時までも、信者の多い東国・奥州へ出かけて、念仏式な「物語」を語つた。義経記(ギケイキ)は、盲僧の手にかゝつて、一種の念仏式説経となり、瞽巫女(ゴゼ)や歌占巫女の霊感は、曾我物語を為(シ)あげて、まづ関の東で、地盤を固めた。曾我物語は、熊野信仰の一分派と見られる箱根・伊豆山二所を根拠とする、瞽巫女の団体の口から、語りひろげられ、語りつがれたものらしいのである。
義経記及び曾我物語は、此ら盲巫覡の幻想の口頭に現れ始めた物語で、元は、定本のなかつたものと見てよい。此二つの物語の主人公の、若くして寃屈(ゑんくつ)の最期を遂げた霊気懺悔念仏の意味から出たもので、其物語られる詞は、義経や、曾我兄弟の自ら告げたものであるから、邪気・怨霊・執念の、其等若武家には及ばぬものを、直ちに退散させるものとの信仰もあつたのであらう。
生霊・死霊の区別の明らかでない古代に、謡ひ物のとはず語りから得る実感は、語り手を曲中の人物と考へる癖が伝つて居た。後には主人公自身でなく、其親近の人の、始めて語つた物であり、同時に目前に現れて物語つてゐると言ふ錯覚が起つた。即、義経記では生き残つた常陸房海尊、曾我物語では虎御前と考へたらしい。最初の語り手から受けついだ形が転じて、生き存(ナガラ)へた人の目撃談、とりも直さず、其神に仕へる巫覡が伝宣する姿に移して考へる様になつたのだ。
室町時代に、京に上つて来たといふ若狭の八百比丘尼なども、念仏比丘尼の上のさうした論理の投影した長寿信仰であつたのであらう。さうしておもしろいのは、常陸房にも、八百比丘尼にも、一个処懺悔の俤(おもかげ)を残してゐることだ。比丘尼は人魚の肉を盗み喰うた事、海尊は主従討ち死の時に居あはさなかつた事を悔いて居る。
不老不死の霊物を盗んで、永生する説話は到る処にあるが、比丘尼の場合は、長寿の原因を言ふ必要がないのであつた。此はさんげの形式に入れた証拠だ。「五十年忌歌念仏」には、お夏自身、亡夫の妹と、念仏比丘尼となつて廻国する処で書き収めてある。念仏の一つの特徴である。又、西沢一風は姫路で、お夏のなれのはてといふ茶屋の婆を見たと書いてゐる。お夏は実在したかどうかも分らぬもので、熊野聖の笠を歌うた小唄をとり込んだ「清寿さんげ」の念仏物語から来た社会的幻想であらう。熊野比丘尼の一種に、清寿と言ふものがあつたらしい―白霊人書・水茎のあと―のだ。やはり歌念仏を語る女なるが故に、其詞章の上の、女主人公或は副主人公とも言へる人物其物と、信じられてゐたのだ。かうした論理の根拠を考へなかつた為、お夏実在説が信じられたのである。念仏衆のさんげ唱導に属する世間信仰の、ひよつくり現れたのだと言ふ事が知れる。
念仏衆が長文のさんげ念仏を語ることは稀になつた。同様に衰へて行つたものに、念仏の狂言がある。此をする地方は、まだ間々あるが。
沖縄では、日本の若衆歌舞妓をまねたものを、若衆(ニセ)(似せともとれる)念仏(ネンブツ)と言うた時代もあつた(伊波普猷氏の話)。あの島へは、念仏聖が早くから渡つてゐる。さうして、其持つて行つた芸道は、稍(やや)長篇の歌、順礼系統の哀れな叙事詩、唱門師関係のことほぎの詞章、童子訓の様な文句、其他いろ いろ残つてゐる。又京太郎(チヤンダラ)と言ふ人形芝居があつた。柳田国男先生の考へで、念仏者の村は、浄土聖の行者の住みついたものと定つた。いづれにしても浄土の末流に、尠くとも此幾倍かの演芸種目を携へて、琉球まで来たものがあつたのだ。江戸の初期を降らない頃から、或はもつと早くに渡つて居たであらうと考へられる。沖縄の伝説中に、内地の物語と暗合の余り甚しいものゝあるのは、浄土説経の諷誦から来たものだと言ふ事が知れる。尤、袋中(タイチユウ)和尚其他相当な島渡りの浄土僧からも伝へられたらうと言ふ事も考へられないでもない。
念仏聖の中にも、名は念仏を称しても、既に田楽・猿楽の如く、遊芸化した団体を組んだ者もゐたのである。即、たゞの念仏の外に、念仏興行を頼まれゝば、出向いて盂蘭盆・鎮魂・鎮花其他の行儀を行ふ上に、演劇・偶人劇・舞踊・諷誦等雑多の演芸種目を演じる者もあつたのである。室町には、かうした念仏職人の中には、山伏しにあつたと同じく、敗残の土豪等も身を寄せてゐた。或は、山伏し同様、呪力・武力を以て、行く先々の村を荒し、地を奪うて住み著く様になつた芸奴出身の成り上り者もあつたらう。
上州徳川の所領を失うたと言ふ江戸将軍の祖先徳阿弥父子は、遊行派の念仏聖として、方々を流離した末、三河の山間松平に入つて、其処で入り壻となり、土地にありついて、家門繁昌の地盤を築いた。此事などは、念仏其他の興行に、檀那場を廻つてゐた聖・山伏しの小団体の生活の、一つの型を髣髴させる歴史である。
すつぱ又、らつぱといひ、すりと言ふのも、皆かうした浮浪団体又は、特に其一人をさすのであつた。新左衛門のそろりなども、此類だと言ふ説がある。口前うまく行人をだます者、旅行器具に特徴のあつたあぶれもの、或は文学・艶道の顧問(幇間の前型)と言つた形で名家に出入りする者、或はおしこみ専門の流民団など、色々ある様でも、結局は大抵、社寺の奴隷団体を基礎としたものであつた。かう言ふ仲間に、念仏聖の芸と、今一つ後の演劇の芽生えとなつた伝承が、急に育つて来た。其は、荒事(アラゴト)趣味である。室町末から、大坂へかけての間を、此流行期と見なしてよい。実は古代から、一時的には常に行はれた事の、時世粧として現れて来たのである。
祭りや法会の日に、神人・童子或は官奴の神仏群行に模した仮装行列、即前わたり・練道(レンダウ)などの扮装が、次第に激しく誇張せられて来た。踏歌節会(せちゑ)のことほぎに出る卜部たちや、田楽師等の異装にも、まだ上の上が出て来たのだ。
田楽が盛んになつてから、とりわけ突拍子もない風をする様になつた。田楽師に関係の深い祇園会の、神人・官奴などの渡御の風流などになると、年々殆ど止りが知れぬ程だつた。祇園祭りや祇園ばやしなどが、国々に、益(ますます)盛んになつて行くに連れて、物見の人までが、我も 我もと異風をして出かけた。竟(つひ)に、日常の外出にさへ行はれ出した。戦国の若い武士の趣味には叶ふ筈である。大きく、あらつぽくて、華美で、はいからで、性欲的でもあると言うた、目につく服装ばかりに凝つた。此には念仏聖などが殊に流行を煽つた様である。呪師の目を眩す装ひをついだ田楽師、其後を承けた念仏芸人である。
若い武家の無条件で娯(たのし)めるのは、幸若舞であつた。舞役者の若衆の外出の服装や姿態が、変生男子風の優美を標準とした男色の傾向を一変した。
以前、風流(フリウ)と言うた語(ことば)に代る語が、どこの武家の国から現れたものか、戦国頃から流行し出した。かぶくと言ふ語が其である。此方言らしい語が、新しい、印象的な、壮快で、性的で、近代的である服装や、ふるまひを表すのに、自由な情調を盛り上げた。かぶく・かぶかう・かぶきなど言ふ変化の具つたのも、固定したふりうよりは自在であつた。
此語が現れてから、かぶきぶりは段々内容を拡げて行つた。そして、恣(ほしいまま)にかぶきまくつたのは、唱門師(シヨモジン)及び其中に身を投じた武家たちであつた。彼等は、かぶきぶりを発揮する為に、盛んに外出をし、歩くにも六方法師の練りぶりをまね、後に江戸の丹前ぶりを分化した六方で、道を濶歩して口論・喧嘩のあくたいぶりや、立ちあひぶりに、理想的にかぶかうとした。名護屋山三郎の、友人と争うて死んだのも、かうしたかぶき趣味に殉じたのである。
幸若の様に固定しない念仏の方は、演奏種目を幾らでも増すことが出来た。即かぶき男の動作を取り込んで、荒事ぶりを編み出し、念仏踊り及び旧来の神事舞・小唄舞を男舞にしたてゝ、をどり出した。流行語のかぶきを繰り返して詠じたから、かぶきをどりの名が、直ちについた。或は、幸若の一派に「かぶき踊り」と言ふものが、既にあつたのかも知れぬ。だが、よく見ると、念仏踊りであつたゞけに、名古屋山三郎の亡霊現れて、お国の踊りを見て、妄執を霽(はら)して去ると言ふのは、やはり供養の形の念仏である。念仏踊りは、田楽の亜流であり、鎮花祭の踊りの末裔であるから、神社にも不都合はなかつた。即、田楽の異風なもので、腰鼓の代りに、叩き鉦を使ふだけが、目につく違ひである。念仏踊りの出来た初めには、古い名の田楽を称してゐたものもあつたらうと思ふ。又、後世まで、念仏でゐて、田楽を称したのもある位だ。
お国の「念仏踊り」は、旧来の物の外に、小唄舞を多くとり込んで発達した。田楽との距離の大きい「念仏踊り」の一つに違ひない。其上、よほど演芸化して、浮世じたてのものが多くなつて居た。 
説経と浄瑠璃と
念仏聖の多くは、放髪にして禿(カブロ)に断(キ)つたものである。剃つたものは、法師・陰陽師であつた。だが、禿(カブロ)即、童髪(ワラハガミ)にした「童子(ドウジ)」ばかりであつたわけではない。寺奴にも段階があつて、寺主に候ふ者・剃髪を許された者・寺中に住める者・境外即(すなはち)門前或は可なり離れた地に置かれて居た者などがある。其最下級の者が、童子村の住民であつた。此階級の人々は、念仏宗の興立と共に、信仰の上にまで、宿因・業報だとばかり、あきらめさせられてゐた従来の教理から解放せられた。だから、高野は勿論、叡山其他寺々の童子は、昔から信仰に束縛のなかつた慣例から、浄土・一向・融通・時衆などに趨(おもむ)いた。
処が、平安末の念仏流行の時勢は、公家・武家にも多くの信者を出したと同時に、寺に居て、寺の宗義を奉じながら、一方新しく開基せられた念仏宗を信じた僧さへ出て来た。洛東安居院(アグヰ)は、天台竹林院派の道場で著れてゐた。其処に居て、安居院(アグヰ)法師と称せられた聖覚(セイカク)は、天台五派の一流の重位に居ながら、法然上人の法弟となり、浄土宗の法統には、円光大師直門の重要な一人とせられて居る。此人は叡山流の説経伝統から見て大切な人だ。父はやはり説経の中興と言はれた程の澄憲(テウケン)(同じく安居院の法印)であり、信西入道には孫である。澄憲は其兄弟中に四人まで、平家物語の作者だと言はれる人を持つてゐる。さうして桜の命乞ひをした話や、鸚鵡返しの歌で名高い桜町中納言も、其兄弟の一人である。
私は経を読み、又説経する時に、琵琶を使うたのが平安朝の琵琶法師だと考へてゐる。平家物語の弾かれたのが、琵琶の叙事詩脈の伴奏に使はれた初めだとは思はない。其以前に「経を弾いた」事があつたと認められる。澄憲の説経には、歌論義・問答・頓作めいた処が讃へられた様に思はれる。平家物語もある点から見れば、説経である。其上、目前平家の亡んだ様子が、如何にも唱導の題材である。私は源氏物語の作為の動機にも、可なりの分量の唱導意識がある、と考へてゐるのである。
説経の材料は、既に「三宝絵詞」があり、今昔物語があつた。此等は、唱導の目的で集められた逸話集と見るべき処が多い。古くは霊異記、新しくは宝物集・撰集抄・沙石集などの逸話集は、やはり、かうした方面からも見ねばならぬ。かうした説経には、短篇と中篇とがあつて、長篇はなかつた。処が、中篇或は短篇の形式でありながら、長篇式の内容を備へたもの―源氏・平家の両物語は姑(しばら)く措いて―が出来た。其は安居院(アグヰ)(聖覚)作を伝へる「神道集」である。神道と言ふ語は、仏家から出た用語例が、正確に初めらしい。日本の神に関した古伝承をとつて、現世の苦患は、やがて当来の福因になる、と言ふ立場にあるもので、短篇ながら、皆ある人生を思はせる様な書き方のものが多い。巧みな作者とは言へぬが、深い憂ひと慰めとに満ちた書き方である。此は、聖覚作とは言ひにくいとしても、変改記録せられたのは、後小松院の頃だらう。さうして此が説経として、口に上つてゐたのは、もつと早かつたらうと思はれる。
説経はある処まで、白拍子と一つ道を歩んで来た。其間に、早く芸化し、舞踊をとり入れた曲舞・白拍子・延年舞は、実は、皆曲舞の分派である。白拍子・歌論義、其等から科白劇化した連事、其更に発達したのが宴曲である。説経は次第に、かうした声楽をとり込んで来た。
唱導を説経から仮りに区別をすれば、講式の一部分が独立して、其平易化した形をとるものが唱導であつて、法会・供養の際に多く行はれる様になつて居たらしい。其法養の趣旨を述べるのが表白(ヘウビヤク)である。此も唱導と言ふが、中心は此処にない。唯、表白は祭文化、宴曲化し、美辞や警句を陳(つら)ねるので、会衆に喜ばれた。今日の法養の目的によく似た事実を、天・震・日の三国に亘つて演説する。此が、読誦した経の衍儀(えんぎ)でもあり、其経の功徳に与らせる事にもなるのである。唱導の狭義の用例である。其上で形式的に、論義が行はれ、口語で問答もする。
室町以後の説経になると、題材が段々日本化し、国民情趣に叶ひ易くなつたと共に、演説種目が固定して、数が減つて行つた。講座の説経のみならず、祭会に利用せられて、仏神・社寺の本地や縁起を語る事に、讃歎の意義が出て来た。家々で行ふ時は、神寄せ・死霊の形にもなつて来た。此意味の説経は、其物語の部分だけを言ふのである。
琵琶法師にも、平安末からは、言ほぎや祓への職分が展(ひら)けて来た痕が見える。又寺の講師の説経の物語の部分を流用して、民間に唱導詞章を伝へ、又平易な経や偽経を弾くやうになつた。説経の芸術化は、琵琶法師より始まる。其為、後には寺の説経には伴奏を用ゐず、盲僧の説経には、唱門師としての立場から、祓除の祭文に当る経本を誦した。平家も最初は、扇拍子で語つたと言ふ伝へは、寺方説経の琵琶と分離した痕を示すのだ。
鎌倉室町に亘つて盛んであつた澄憲の伝統安居院(アグヰ)流よりも、三井寺の定円の伝統が後代説経ぶしの権威となつたのには、訣がある。
澄憲流は早く叡山を離れて、浄土の宗教声楽となり、僧と聖とに伝つたが、肝腎の安居院は、早く氓びて、家元と見るべきものがなくなつた。定円流は其専門家としての盲僧の手で、寺よりも民間に散らばつたらしい。浄土説経は絵ときや、念仏ぶしに近づいて行つたが、三井寺を源流とする盲僧は、寺からは自由であり、平家其他の物語や、詞曲として時好に合ふ義経記や、軍記などの現世物を持つて居た。浄土派の陰惨な因果・流転の物語よりは、好まれるわけで、段々両種の台本を併せて語るやうになつた。其中、神仏の本地転生を語る物を説経と言ひ、現世利益物を浄瑠璃と言ふ様になつたらしいのである。説経・浄瑠璃は、また目あきの芸にもなつて、扇や簓(サヽラ)を用ゐる様にもなつた。
一方盲僧の説経なる軍記類は、同じ陰陽配下の目あきの幸若舞などの影響から素語りの傾向を発達させた。そして物語講釈や、素読みが、何時か軍談のもとを作つて居た。口語りの盛衰記や、かけあひ話の平家や、猿楽の間語(アヒダガタ)りの修羅などが、橋渡しをしたらしい。盛衰記は幸若を経て、素語りを主とする様になり、太平記にも及んだ。此が、戦国失脚のかぶき者などに、馴れた幸若ぶしなどで語られて、辻講釈の始めとなつたのである。
釜神の本縁を語り、子持ち山の由来・諏訪本縁を述べたりする説経の、既に、南北朝にある(神道集)のは、平安末の物と違うて来た事を見せ、荒神供養や、産女守護・鎮魂避邪を目的とする盲僧の所為であつたことを見せるのか。
浄土派の説経の異色のあるのは、安居院(アグヰ)流のだからであらう。浄土の念仏聖は此説経を念仏化して、伝道して歩いたらしく思はれる。たとへば、大和物語に出た蘆刈りの件「釜神の事」の様なものである。其が、沖縄の島にさへ伝へられ、奥州地方にも拡つてゐる。
大体、近松の改作・新作の義太夫浄瑠璃の出現は、説経と浄瑠璃との明らかな交迭期を見せてゐる。一体、説経にも旧派のものと、新式の物とがあつて、新式のものは、やがて、近松の出て来る暗示を見せてゐるのであるが、さういふ側が更に「歌説経」に進んだのである。
説経は平家を生み、平家は説経を発達させた。現に、北九州の盲僧所謂(いはゆる)師の房らの弾くものには、経があり、説経があり、くづれがあり、其説経には、重いものとくづれに属するものとがある。そして、幸若流の詞曲が重いものとなつてゐる。盲僧の妻は瞽女であるが、盲僧の説経や平家に対して、瞽女は浄瑠璃を語るのが、本来であつたらしい。
説経は本地を説き、人間苦の試錬を説いて、現世利益の方面は、閑却してゐた。其で、薬師如来の功徳を述べる、女の語り物の説経が出来た。女には、正式な説経は許されてゐなかつた為もあらう、浄瑠璃と言ふ様になつた。薬師如来は、浄瑠璃国主だから、幾種もの女説経を、浄瑠璃物語と称する様になつた。
其以前、曾我物語は瞽女の語り物になつてゐた。「十二段草子」は、浄瑠璃として作られた最初の物だとは言はれまい。此草子自身も、新しい改作の痕が見えてゐて、決して初稿の「十二段草子」とは言へなさゝうである。其上「やす田物語」と言ふ浄瑠璃系統のものが、更に古くあつたと言はれてゐる。さすれば、因幡堂薬師の縁起だ。やはり、浄瑠璃の名が、瞽女の演芸種目から、盲僧の手にも移つて行く事になつたのである。薬師の功徳を説かなくても、浄瑠璃は現世式の語り物の名となつた。
かうして段々、説経よりも浄瑠璃の方が、世間に喜ばれる様になつた。浄瑠璃の方が気易いから、三味線も早く採用する事が出来た。門(かど)説経は扇拍子であつても、盲僧の語る説経は、琵琶を離すことが出来なかつたのであらう。段々目あきの演芸人が出来た。説経も台本を改作し、楽器も三味線に替るやうになつた。
かうして、次第に、自然に現実味と描写態度とを加へて来たが、近松になつて徐々に、さうして姑(しば)らくしてから急激に変化し、飛躍して、其後の浄瑠璃は唱導的意義を一切失ふ様になつて了うた。でも、昔のなごりで、宮・寺の法会、追善供養などを当てこんだ作物の出たのは、説経本来の意義が、印象して居た為である。唱導芸術らしい努力が、古い詞章の改作に骨折つた時代にはなくて、却つて自由な態度で囚はれずに書いた作物(心中ものゝ切りなど)に見えてゐる。現世の苦悩を離れて行く輝かしさを書いたのは、世話物が讃仏乗の理想に叶ひ難いといふ案じからであらう。だが後になる程、陰惨な場合も、わりに平気で書いてゐる。此人の文学観が、変つて来たのである。
さて、説経には三つの主体があつた。大寺の説経師・寺の奴隷階級の半俗僧、今一つは琵琶弾きの盲僧である。そして江戸の説経節へ直ぐな筋を引くものは、最後のものであるが、此を最広く撒布して歩いたのは、童子聖の徒であつて、隠れてはゐるが、芸術的には大きな為事をしてゐる。あみいばとしての努力を積んで、江戸の浄瑠璃の起つて来る地盤を築きあげて居たわけである。
日本文学の一つの癖は、改作を重ねると言ふ事である。私は源氏物語さへも「紫の物語」と言つた、巫女などの唱導らしいものゝ、書き替へから始つたのだと考へてゐる。「うつぼ」などは、鎌倉の物には相違ないが、でも全然偽作ではなく、改作をしながら、書きついで行つたものであらう。住吉物語も信ぜられて居ないが、源氏物語で見れば、ある点、今の住吉物語の筋通りである。さすれば、やはり改作と見る外はない。落窪物語なども、改作によつて平安朝の特色を失うた処もあり、文法も時代にあはなくなつて了うたらしく、偽作ではなくて、やはり書き継ぎ書き加へたものである。こんな風で、説経も其正本が出るまでには、幾度口頭の変改を重ねて来てゐるか知れないのである。  
戯曲・舞踊詞曲の見渡し  

歌舞妓芝居は、只今ですら、実はまだ、神事芸から離れきつてゐないのである。其発生は既に述べた如くで、久しく地表に現れなかつたからとて、能楽よりも後の発生であり、能楽の変形だなどゝ考へてはならぬ。
江戸の歌舞妓の本筋は、まづ幸若舞で、上方のものは念仏踊りを基礎とした浮世物まねや、組み踊りを混へてゐる。
豊臣時代頃から、画にも芝居にも、当世のはいからぶりをうつす事が行はれて、芝居では殊に、美しい少人がはでな異風をして練り歩くと言つた、一種の舞台の上のあるきが喜ばれた。
名護屋山三郎は、浪人でかぶき者であつた。其蒲生に仕へたのは、幸若舞などによつて召されて居たらしく、早歌(サウカ)をお国に伝授したらしい。早歌は、表白(ヘウビヤク)と千秋万歳の言ひ立てとから出て、幸若にも伝つてゐるのだ。上方の芝居は、出雲で芸道化したお国の念仏巫女踊りに、幸若の形や、身ぶりを加へたものである。上方では座頭の女太夫を、和尚と言うたらしく、江戸では太夫と呼んでゐたと言ふ。
立役(タチヤク)と称するものゝ元は、狂言方である。此に、大人なのと、少人なのとがある。お国の場合には、少人ではなく、此に当るものは、名護屋山三郎であつた。「若」の意義が拡つて来たのである。江戸の中村勘三郎も其である。大人・少人の狂言方の出るのは王朝末にもある事で、若衆が狂言方に廻つたのが、江戸歌舞妓である。此が猿楽役であつて、狂言方・わき方を兼ねてゐるのだ。若が勤めたから、猿若と呼ばれたらしい。而も、江戸の女太夫は、幸若の女舞であるから、念仏踊りは勘三郎が行うたらしい。
中村屋勘三の「早(ハヤ)物語」と言ふ琵琶弾きの唄(北越月令)を見ると、此だけのことが訣る。勘三が武蔵足立郡で百姓もして居た事。鳴り物の演芸に達してゐた事。縁もない琵琶の唄に謡はれて居るのは、中村屋と琵琶弾き盲僧との間に、何かの関係があつた事の三つの点である。さうすると、勘三もやはり、一種の唱門師(シヨモジン)で念仏踊りの組合(座)を総べてゐた事と、江戸芝居にも念仏踊りが這入つて居た事とが言へる。さすれば、猿若狂言に使ふ安宅丸の幕の緋房と言ふのは、実は、念仏聖の懸けた鉦鼓の名であり、本の名にまでなつた「金(キン)の揮(サイ)」は、単に念仏聖の持つぬさかけ棒であらうか。  
女太夫禁止以後、狂言・脇方の若衆が、幸若風に、して方に廻つて、若衆歌舞妓が盛んになつた。若衆の立役が主人役と言ふ感じを与へるまでの機会を作つたのであらう。
念仏踊りと、田楽系統の科白の少い喜劇に飽いた世間は、さうした変成(ヘンゼウ)の男所作と新しい「女ぞめき」のふりを喜んだ事であらう。此は、幸若の「曾我」などを、物まねにうつせば、出て来る事であつて「傾城買ひ」或は「島原狂言」の元であり、更に此に、前述の前わたり・道行きぶりを加へて来たのである。
歌舞妓の木戸に、後々まで狂言づくしと書き出したのは、能狂言に模したものを幾つも行ふ意ではなかつた。日本の古い演劇が、舞踊・演劇・奇術・歌謡、さうした色々の物を含んでゐた習慣から出た名で、歌舞妓踊りも、狂言も、小唄・やつし唄も、ありだけ見せると言ふ積りであつた。猿楽・舞尽しと言へなかつた為、同じ様に古くからある狂言と言ふ語(ことば)を用ゐたのである。名は能狂言で、其固定した内容を利用したかも知れぬが、能狂言から思ひついたとは言へないのである。農村に発達した、村々特有の筋と演出とを持つた古例の出し物があつたのだ。どこの村・どこの社寺の、どの座ではどれと言ふ風に、二立て目に出す狂言は極(きま)つて居て、狂言も其一種であつたのが、無数に殖えたのである。江戸の猿若で言へば、猿若狂言と定式狂言とが其なのである。後の物は総称して狂言と言ふが、内容は種々になる訣である。
其一つの能狂言が、対話を主として栄えたことを手本にして、改良せられて行つた。此は、能や舞に対しては踊りである。狂言の平民態度に立つてゐるのから見れば、此は武家情趣を持つて居る。但、役者自身歌舞妓者が多かつた為、舞台上の刃傷(にんじやう)や、見物との喧嘩などが多かつた。  
江戸の荒事は、金平(キンピラ)浄瑠璃と同じ原因から出たらうが、お互に模倣したものとは言へない。団十郎の初代は、唐犬権兵衛の家にゐたと言ふから、やはり町奴の一人となる資格のあつたかぶき者だつたのである。
かぶきと言ふ語は、又段々、やつこと言ふ語に勢力を譲るやうになつた。旗本奴にも、歌舞妓衆と言はれる徒党があつて、六方に当る丹前は、此等の奴ぶりから出た。その、寛濶・だてなどゝ流行語を易(か)へるに従うて、概念も移つて行つて、遂に「通」と言ふ「色好みの通り者」と言ふ処におちついた。
かぶき者は半従半放の主従関係だつたので、世が静まつても、さうした自由を欲する心の、武士の間にあつた事が知れる。だから渡り奉公のやつこの生活を羨んで、旗本奴などゝ言ふ名を甘受してゐたのだ。
吉原町・新吉原町に「俄(にはか)狂言」の行はれるのは、女太夫の隔離せられた処だからで、女歌舞妓以来の風なのである。又太夫の名も、舞太夫であるから称へた、歌舞妓の太夫であつたからだ。其名称は、京阪へも遷つた。
ばさら風と言ふのは、主として、女のかぶきぶりで、其今に残つてゐるのは、男の六方に模して踏む「八文字」である。廓語(くるわことば)の、家によつて違ふのも、元はそれ ぞれ座の組織であつた為、村を中心とする座の相違から来る方言の相違と用語とにも、なるべくばさらを好んだ時代の風と俤とを残してゐるのである。  
江戸発生の舞踊がすべて、をどりと言はれて居るのは、其発生が皆、歌舞妓芝居にあつて、幸若舞系統なることは、絶対に否定せられてゐたからである。其為にをどると舞ふとは、区別があるにも拘らず、舞に属するものも皆、をどりと称せられる様になつた。
をどりは飛び上る動作で、まひは旋回運動である。まひの方は早く芸術的な内容を持つに到つたが、をどりの方は遅れてゐた。
神あそび・神楽(カグラ)なども、古く、をどりとくるふとの方に傾いてゐた。まひの動作の極めて早いのがくるふである。舞踊の中に、物狂ひが多く主題となつてゐるのは、此くるひを見せる為で、後世の理会から、狂人として乱舞する意を併せ考へたのである。
正舞は「まひ」と称し、雑楽は何楽(ナニガク)と言うた。猿楽・田楽は、雑楽の系統としての名である。がくと言ふ名に、社寺の奴隷の演ずる雑楽の感じがあつたのだ。曲舞は社寺の正楽の稍乱れたものだからの名で、此は詞曲にも亘つて言ふ詞とした。舞は曲舞以来、謡ふ方が勝つて居たらしく、動きは甚しくない物となつて来たらしい。もとより此も社寺の大切な行事として、まひと言はれたのである。  
能はわざ即、物まねの義で、態の字を宛てゝゐたのゝ略形である。而も其音たいを忘れて、なうと言ふに到つた程に、目馴れたのだ。「才(サイ)ノ男(ヲ)ノ能」などゝ書きつけたのを、伶人たちの習慣から、さいのをののをを能と一つに考へ、遂になうと言ふに到つたのであらう。わざは神のふりごとであるが、精霊に当る側のをこな身ぶりを言ふ事になつて来た。其が鎌倉に入ると、全く能となつて、能芸(ナウゲイ)などゝ言ふ様になつた。芸は職人の演ずる「歌舞」としたのだ。能芸とは、物まね舞で、劇的舞踊と言ふ事になるのである。田楽・猿楽に通じて、能と言ふのも、ものまね狂言を主とするものであつたからで、即、劇的舞踊の義である。
ことほぎは舞よりも、わざの方ではあるが、宮廷の踏歌や、社寺の曲舞に、反閇(ヘンバイ)の徘徊ぶりが融合して、曲舞の一つとなつた。千秋万歳も、だから舞である。其物語に進んだ物なる幸若も亦(また)舞である。
呪師の方では、舞とも、楽とも言はないで、主に「手」を言ふ。舞踊よりも、奇術に属するものであつたのが、わざや狂言を含んで来、「手」を「舞ひ方」と解する様になつたのであらう。田楽の前型なのである。
狂言はわざに伴ふ対話である。わざは、其古い形は、壬生念仏の様にもの言はぬ物ではあるが、狂言を興がる様になつてからは、わざをも籠めて狂言と言ふ様になり、能とは段々少し宛(づつ)隔つて行つた。
神遊びに出た舞人は、宮廷の巫女であるが、神楽では、人長は官人で、才の男は元山人の役であつたらしい。つまり神奴である。ことほぎに出るのも山人の積りだから、やはり神奴である。才芸の徒は雑戸で、其位置は良民より下るが、社寺の伶人は更に下つて、神人・童子であつた。而も、位置高い人の勤める役を、常に代つて奉仕するが故に、身は卑しながら、皆祭会には、重い役目であつた。身は賤しながら楽(ガク)の保持者である。  
所属する主家のない流民は、皆社寺の奴隷に数へられた。此徒には、海の神人の後なるくゞつと、山人の流派から出たほかひゞととが混り合つてゐた。それが海人がほかひゞとになり、山人がくゞつになりして、互に相交つて了うた。此等が唱門師の中心であつた。舞の本流は、此仲間に伝へられたのである。
今一つ、山海の隈々に流離して、山だち・くゞつなど言はれた団体の女性は、山姥・傀儡女(クヾツメ)として、細かな区別は段々無くなつたが、前者は舞に長け、後者は諷誦に長じて居た。此等の流民の定住するに到るまで、久しく持ち歩いたうたと其叙事詩と呪言とは、幾代かの内に幾度となく、あらゆる地方に、あらゆる文芸の芽生えを植ゑつけた。尤(もつとも)此等の二つの形式を併せ備へてゐる者もあつて、一概に其何れとは極(き)めて了ふことは出来ない。併し、其等の仲間には、常に多くの亡命良民と若干の貴種の人々とを交へて居たのは事実である。
此等の団体を基礎として、徒党を組んだ流民が、王朝末・武家の初めから、戦国の末に到るまで、諸国を窺ひ歩いた。さうして、土地或は勤王の主を得て、大名・小名或は家人・非御家人などの郷士としておちついた。
其位置を得なかつた者や、戦国に職を失うた者は、或は町住みして、部下を家々に住み込ませる人入れ稼業となり、或はかぶき者として、自由を誇示して廻つた。併し、いづれも、呪力或は芸道を、一方に持つて居た。かう言ふ人々及び其余流を汲む者の間から、演劇が生れ、戯曲が作られ、舞踊が案出せられ、小説が描かれ始めた。世を経ても、長く残つたのは、放蕩・豪華・暴虐・淫靡の痕跡であつた。
ことに、著しく漸層的に深まつて行つたのは、歌舞妓芝居に於けるかぶき味であつた。時代を経て、生活は変つても、淫靡・残虐は、実生活以上に誇張せられて行つた。他の古来の芸人階級は、それ ぞれ位置を高めて行つても、この俳優連衆ばかりは、江戸期が終つても、未だ細工・さんかの徒と等しい賤称と冷遇とを受けて居た。此はかぶき者としての、戦国の遺民と言ふので、厭はれ隔離せられた風が変つて、風教を害(そこな)ふ程誘惑力を蓄へて行つた為である。
又、都会に出なかつた者は、呪力を利用して博徒となり、或は芸人として門芸を演じる様になつた。
更に若干の仲間を持つた者になると、山伏しとして、山深い空閑を求めて、村を構へ、修験法印或は陰陽師・神人として、免許を受けて、社寺を基とした村の本家となつた。或は、山人の古来行うてゐる方法に習うて、里の季節―の神事・仏会に、遥かな山路を下つて、祝言・舞踊などを演じに出る芸人村となつた。
わが国の声楽・舞踊・演劇の為の文学は、皆かうした唱導の徒の間から生れた。自ら生み出したものも、別の階級の作物を借りた者もあるが、広義の唱導の方便を出ないもの、育てられない者は、数へる程しかないのである。  
山人の寿詞・海部(アマベ)の鎮詞(イハヒゴト)から、唱門師の舞曲・教化、かぶきの徒の演劇に到るまで、一貫してゐるものがある。其はいはひ詞の勢力である。われわれの国の文学はいはひ詞以前は、口を緘(とざ)して語らざるしゞまのあり様に這入る。此が猿楽其他の「(ベシミ)の面」の由来である。其が一旦開口すると、止めどなく人に逆ふ饒舌の形が現れた。田楽等の「もどきの面」は、此印象を残したものである。其もどきの姿こそ、我日本文学の源であり、芸術のはじまりであつた。
其以前に、善神ののりとと、若干の物語とがあつた。而も現存するのりと・ものがたりは、最初の姿を残してゐるものは、一つもない。其でも、此だけ其発生点を追求する事の出来たのは、日本文学の根柢に常に横たはつて滅びない唱導精神の存する為であつた。
ほかひを携へ、くゞつを提げて、行き行きて又行き行く流民の群れが、鮮やかに目に浮んで、消えようとせぬ。此間に、私は、此文章の綴(トヂ)めをつくる。
 
■国文学の発生2

呪言の展開
神の嫁
国家意識の現れた頃は既に、日本の巫女道では大体に於て、神主は高級巫女の近親であつた。併(しか)し、其は我々の想像の領分の事で、而(しか)も、歴史に見えるより新しい時代にも、尚(なほ)村々・国々の主権者と認められた巫女が多かつた。
神功皇后は、其である。上古に女帝の多いのも、此理由が力を持つて居るのであらう。男性の主権者と考へられて来た人々の中に、実は巫女の生活をした女性もあつたのではなからうか。此点に就ての、詳論は憚りが多い。神功皇后と一つに考へられ易い魏書の卑弥呼(ヒミコ)の如きも、其巫女としての呪術能力が此女性を北九州の一国主としての位置を保たして居たのであつた。
村々の高級巫女たちは、独身を原則とした。其は神の嫁として、進められたものであつたからだ。神祭りの際、群衆の男女が、恍惚の状態になつて、雑婚に陥る根本の考へは、一人々々の男を通じて、神が出現してゐるのである。
奈良朝の都人の間に、踏歌化して行はれた歌垣は、実は別物であるが、其遺風の後世まで伝つたと見える歌垣・歌会(カヾヒ)(東国)の外に、住吉(スミノエ)の「小集会(ヲヅメ)」と言うたのも此だとするのが定論である。
だから、現神(アキツカミ)なる神主が、神の嫁なる下級の巫女を率寝(ヰヌ)る事が普通にあつたらしい。平安朝に入つても、地方の旧い社には、其風があつた。
出雲・宗像の国造――古く禁ぜられた国造の名を、尚(なほ)称しては居たが、神主としての由緒を示すに止まつて、政権からは離れてゐた――が、采女(ウネメ)を犯す事を禁じた(類聚三代格)のは、奈良朝以前の村々の神主の生活を窺はせるものである。采女は、天子の為の食饌を司るもの、とばかり考へられてゐるが、実は、神及び現神(アキツカミ)に事へる下級巫女である。
国々の郡司の娘が、宮廷の采女に徴発せられ、宮仕へ果てゝ国に還ることになつてゐるのは、村々の国造(郡司の前身)の祀る神に事へる娘を、倭人の神に事(ツカ)へさせ、信仰習合・祭儀統一の実を、其旧領土なる郡々に伝へさせようと言ふ目的があつたものと推定することは出来る。現神が采女を率寝(ヰヌ)ることは、神としてゞ、人としてゞはなかつた。日本の人身御供の伝説が、いくらかの種があつたと見れば、此側から神に進められる女(喰はれるものでなく)を考へることが出来る。
その為、采女の嬪・夫人となつた例は、存外文献に伝へが尠い。允恭紀の「うねめはや。みゝはや」と三山を偲ぶ歌を作つて采女(ウネメ)を犯した疑ひをうけた韓人の話(日本紀)も、此神の嫁を盗んだ者としての咎めと考へるべきものなのであらう。此事が、日本に於ける初夜権の実在と、其理由とを示して居る。出雲・宗像への三代格の文は、宮廷にばかり古風は存して居ても、民間には、神と現神とをひき離さうとする合理政策でもあり、文化施設でもあつたのだ。
地物の精霊の上に、大空或は海のあなたより来る神が考へられて来ると、高下の区別が、神々の上にもつけられる。遠くより来り臨む神は、多くの場合、村々の信仰の中心になつて来る。「杖代(ツヱシロ)」とも言ふ嫁の進められる神は、此側に多かつた様である。時を定めて来る神は、稀々にしか見えぬにしても、さうした巫女が定められて居た。常例の神祭りに、神に扮して来る者の為にも、神の嫁としての為事は、変りがなかつた。此は、村の祭り・家の祭りに通じて行はれた事と思はれる。
まれびと
新築の室(ムロ)ほぎに招いた正客は、異常に尊びかしづかれたものである。
新室(ニヒムロ)を踏静子(フミシヅムコ)が手玉鳴らすも。玉の如 照りたる君を 内にとまをせ(万葉集巻十一旋頭歌)
と言ふのは、舞人の舞ふ間を表に立つ正客のある事を示して居るのであらう。家々を訪れた神の俤(おもかげ)が見えるではないか。
新室の壁草刈りに、いまし給はね。草の如 よりあふ処女は、君がまにまに(万葉集巻十一旋頭歌)
は、たゞの酒宴の座興ではない。室(ムロ)ほぎの正客に、舞媛(マヒヒメ)の身を任せた旧慣の、稍(やや)崩れ出した頃に出来たものなる事が思はれる。
允恭天皇が、皇后の室(ムロ)ほぎに臨まれた際、舞人であつた其妹衣通媛を、進め渋つて居た姉君に強要せられた伝へ(日本紀)がある。嫉み深い皇后すら、其を拒めなかつたと言ふ風な伝へは、根強い民間伝承を根としてゐるのである。
来目部(クメベ)ノ小楯が、縮見(シヾミ)ノ細目(ホソメ)の新室に招かれた時、舞人として舞ふ事を、億計(オケ)王の尻ごみしたのも、此側から見るべきであらう。神とも尊ばれた室ほぎの正客が弘計(ヲケ)王の歌詞を聞いて、急に座をすべると言ふ点も、此をかしみを加へて考へねばなるまい。
まれびとなる語(ことば)が、実は深い内容を持つて居るのである。室(ムロ)ほぎに来る正客は稀に訪ふ神の身替りと考へられて居たのである。恐らくは、正客が、呪言を唱へて後、迎へられて宴の座に直つたものであらう。今も、沖縄の田舎では、建築は、昼は人つくり、夜は神造ると信じて居る。棟あげの当日は、神、家の中に降つて鉦を鳴し、柱牀などを叩き立てる。其音が、屋敷外に平伏して居る家人の耳には、聞えると言ふ。勿論、巫女たちのする事なのである。
八重山諸島では、村の祭りや、家々の祭りに臨む神人・神事役は、顔其他を芭蕉や、蒲葵(クバ)の葉で包んで、目ばかり出し、神の声色や身ぶりを使うて、神の叙事詩に連れて躍る。村の祭場での行事なのである。又、家の戸口に立つては、呪言を唱へて此から後の祝福をする。大地の底の底から、年に一度の成年式に臨む巨人の神、海のあなたの浄土まやの地から、農作を祝福に来る穀物の神、盂蘭盆の家々に数人・十数人の眷属を連れて教訓を垂れ、謡ひ踊る先祖の霊と称する一団など皆、時を定めて降臨する神と、呪言・演劇との、交渉の古い俤を見せて居る。
沖縄本島の半分には、まだ行はれて居る夏の海神祭りに、海のあなたの浄土にらいかないから神が渡つて来る。其を国の神なる山の神が迎へに出る。村の祭場で、古い叙事詩の断篇を謡ひながら、海漁、山猟の様子を演じるのが、毎年の例である。
万葉集人の生活の俤を、ある点まで留めてゐると信ぜられる沖縄の島々の神祭りは、此とほりである。一年の生産の祝福・時節の移り易(かは)り、などを教へに来る神わざを、段々忘却して人間が行ふ事になつた例は、内地にも沢山ある。
明治以前になくなつて居た節季候(セキゾロ)は、顔を包む布の上に、羊歯の葉をつけた編笠を被り、四つ竹を鳴して、歳暮の家々の門で踊つた。「節季に候」と言うた文句は、時の推移と農作の注意とを与へた神の声であらう。万歳・ものよしの祝言にも、神としても、神人としても繰り返して来た久しい伝承が窺はれる。
「斎(ユ)の木の下の御方(オンコト)は(如何今年を思ひ給ふなどの略か)」「されば其事(に候よの略)。めでたく候」(郷土研究)と言ふ屋敷神との問答の変化と見える武家の祝言から、今も行はれる民間の「なるか、ならぬか。ならねば伐るぞ」「なります。なります」と、果物(ナリモノ)の樹をおどしてあるく晦日・節分の夜の行事などを見ると、呪言と言ふよりは、人と精霊との直談判である。見方によつては、神が精霊にかけあふものゝ様にも見える。併し、此は見当違ひである。其は万歳と才蔵との例でも知れる事だ。
万歳について来る才蔵は、多分「才(サイ)の男」から出たものだらう。又せいのうとも発音したらしく、青農と書いて居る事もある。但、此場合は、人形の事の様である。才の男は、人である事もある。内侍所の御神楽に「人長(ニンヂヤウ)の舞」の後、酒一巡(ズン)して「才の男の態」がある(江家次第)。此は一種の猿楽で、滑稽な物まねであつた。処が、人形の青農を祭りの中心とする社もちよくちよくある。殊に、八幡系統の社では、人形を用ゐる事が多かつた。一体、今日伝はる神楽歌は、石清水系統の物らしい。此派の神楽では才の男同時に青農で、人形に猿楽を演ぜしめたのではないかと思はれる。
才の男は最初、神に扮し、神を代表したものであらうが、信仰の対象が向上すると、神の性格を抜かれて置去られて了ふ様になつた。そこで、神の託宣を人語に飜訳し、人の動作にうつして、神の語の通辞役に廻る事になつたのであらう。神の暗示を具体化する処から、猿楽風の滑稽な物まねが演出せられる様になり、神がして、才の男がわきと言ふ風に、対立人物が現れる事になつたのであらう。狂言の元なる能楽の「脇狂言」なども、今日では誠に無意味な、見物を低能者扱ひにした、古風と言ふより外に、せむもない物になつたが、以前は語りを主にするものではなく、今の狂言が岐れ出るだけの、滑稽な、寧(むしろ)、能楽の昔の本質「猿楽」の本領を発揮したものであつた筈である。神事能の語りは、武家の要求につれて、おもしろい「修羅物」などに偏つて行つたのである。
内容は段々向上して、形式は以前の儘に残つて居る処から、上が上にと新しい姿を重ねて行く。狂言やをかしなどが、わきの下につく様になつたのも此為である。
「俄」「茶番」「大神楽」などにも、かうした道化役が居て、鸚鵡返し風なおどけを繰り返す。前に言うた旋頭歌が形式に於て、此反役をして居るが、更に以前は、内容までが鸚鵡返しであつたものと思はれる。問ひかけの文句を繰り返して、詞尻の?を!にとり替へる位の努力で答へるのが、神託の常の形だつたのである。
ほかひ
寿詞を唱へる事をほぐと言ふ。ほむと言ふのも、同じ語原で、用語例を一つにする語である。ほむは今日、唯の讃美の意にとれるが、予め祝福して、出来るだけよい状態を述べる処から転じて、讃美の義を分化する様になつたのである。同じ用語例に這入るたゝふは、大分遅れて出た語であるらしい。満ち溢れようとする円満な様子を、期待する祈願の意である。たゝはしと言ふ形容詞の出来てから、此用語例は固定して来たものと思はれる。讃美したくなるから、讃はしと言ふのではないらしい。
再活用してほかふ、熟語となつて、こと(言)ほぐと言うたりするほぐの方が、ほむよりは、原義を多く留めて居た。単に予祝すると言ふだけではなかつた。「はだ薄ほに出し我や……」(神功紀)など言ふ「ほ」は、後には専ら恋歌に使はれる様になつて「表面に現れる」・「顔色に出る」など言ふ事になつて居る。併し、神慮の暗示の、捉へられぬ影として、譬へば占象(うらかた)の様に、象徴式に現れる事を言ふ様だ。末(うら)と、秀(ほ)とを対照して見れば、大体見当がつく。「赭土(あかに)のほに」など言ふ文句も、赭土の示す「ほ」と言ふ事で、神意の象徴をさす語である。此「ほ」を随伴させる為の詞を唱へる事を、ほぐと言うて居たのであろうが、今一つ前の過程として、神が「ほ」を示すと言ふ義を経て来た事と思ふ。文献に現れた限りのほぐには、うけひ・うらなひの義が含まれてゐる様である。
ある注意を惹く様な事が起つたとする。古人は、此を神の「ほ」として、其暗示を知らうとした。茨田(まむだ)の堤(又は媛島)に、雁が卵(コ)を産んだ事件があつて、建内宿禰が謡うた(記・紀)と言ふ「汝がみ子や、完(ツヒ)に領(シ)らむと、雁は子産(コム)らし」を、本岐(ほぎ)歌の片哥として居る。常世の雁の産卵を以て、天皇の不死の寿の「ほ」と見て、ことほぎをしたのである。寿詞が、生命のことほぎをする口頭文章の名となつて、祝詞と言ふ語が出て来たものと思はれる。原義は、其一に書いたとほりの変遷を経て来るのである。唯ほぐ対象が生命であつた事は、事実らしい。
くしの神 常世にいます いはたゝす 少名御神(スクナミカミ)の神(カム)ほき、ほきくるほし、豊ほき、ほきもとほし、まつり来しみ酒(キ)ぞ(記)
と言ふ酒ほかひの歌は、やはり生命の占ひと祝言とを兼ねて居る事を見せて居る。敦賀から上る御子品陀和気(ホムダワケ)の身の上を占ふ為に、待ち酒を醸して置かれたのである。一夜酒や、粥占を以て、成否を判断する事がある。此も、酒の出来・不出来によつて、旅人の健康を占問ふのである。さうして帰れば、其酒を飲んで感謝したのであらう。
酒ほかひと言ふのは、唯の酒もりではない。酒を醸す最初の言ほぎの儀式を言ふのだ。どうかすれば、酒をつくる為の祝ひ、上出来の祈願の様に見えるが、其は当らない。「……ますら雄のほぐ豊御酒に、我ゑひにけり」(応神紀)は、ほぎしの時間省略の形である。此は、待ち酒の恒例化したもので、酒づくりの始めを利用して、長寿の言ほぎして占うたものなのである。此部分が段々閑却せられて来ると、よく醗酵する様に祈ると言ふ方面が、ことほぎの一つの姿となつて来る。酒ほかひなる語が、酒宴の義に近づく理由である。かうした変化は、どの方面のほかひにもあつた事なのである。唯、酒は元もと神事から出たものだから、出発点に於ける占ひの用途を考へない訣(わけ)にはいかない。
室ほぎの側になると、此因果関係は交錯して居る。弘計(ヲケ)王の室ほぎの寿詞は、恐らく世間一般に行はれて居た文句なのであらう。建て物の部分々々に詞を寄せて、家長の生命を寿して居る。柱は心の鎮り、梁は心の栄(ハヤ)し、椽は心の整り、蘆(エツリ)は心の平ぎ、葛根(ツナネ)は命の堅め、葺き芽は富みの過剰(アマリ)を示すと言ふ風の文句の後が、今用ゐて居る酒の来歴を述べる讃歌風のもので、酒ほかひの変形である。さうして其後が「掌やらゝに、拍(ウ)ちあげ給はね。わが長寿者(トコヨ)(常齢)たち」(顕宗紀)の囃し詞めいた文で結んでゐる。此処にも、室ほぎと生命の寿との関係が見える。
新築によつて、生活の改まらうとする際に、家長の運命を定めて置かうとするのである。此方は、生命と其対照に置かれる物質とはあるが、占ひの考へは、含まれて居ない様だ。唯あるのは、譬喩から来るまじなひである。
新築の家でなくとも、言ほぎによつて、新室とおなじ様にとりなす事の出来るものと考へた事もあるらしい。毎年の新嘗に、特に新嘗屋其他の新室を建てる事は出来ないから、祓(ハラ)へと室ほぎとを兼ねた大殿祭(オホトノホカヒ)の祝詞の様なものも出来た。例年の新嘗・神今食(ジンコンジキ)並びに大嘗祭には、式に先つて、忌部が、天子平常の生活に必出入せられる殿舎を廻つて、四隅にみほぎの玉を懸けて、祝詞を唱へて歩いた。みほぎと言ふのは、神が表すべき運命の暗示を、予め人が用意して於て祝福するので、此場合、玉は神璽(しんじ)として用ゐたのではない。出雲国造神賀詞の「白玉の大御白髪まし、赤玉のみあからびまし、青玉のみづえの玉のゆきあひに、明(アキ)つ御神と大八島国しろしめす……」など言ふ譬喩を含んだものなのである。
よごと
寿詞が、完全に齢言(ヨゴト)の用語例に入つて来たのは、宮廷の行事が、機会毎に天子の寿をなす傾きを持つてゐたからであらう。民間の呪言が、悉く家長の健康・幸福を祈る事を、目的としてばかり居たとは言へない。単純に、農作・建築・労働などに効果を招来しようとする呪言が、多くあつたに違ひない。
毎年々頭、郡臣拝賀のをり、長臣が代表して寿詞(ヨゴト)を奏した例は、奈良朝迄も続いたものと見る事が出来る。文字は「賀正事」と宛てゝ居るが、やはりよごとである。家持の「今日ふる雪のいや頻(シ)け。よごと」(万葉集巻二十)は、此寿詞の効果によつて、永久に寿詞の奏を受けさせ給ふ程に、長寿あらせ給へと言ふのである。又「千年をかねて、たぬしき完(ヲ)へめ」(古今巻二十)なども、新年宴の歓楽を思ふばかりでなく、寿詞によつて、天子の寿の久しさを信じ得た人の、君を寿しながら持つ豊かな期待である。古くは各豪族各部曲から、代表者が出て、其々(それぞれ)伝来の寿詞(ヨゴト)を申した事、誄詞(シヌビゴト)と同様であつた事と思はれる。其文言は、中臣天神寿詞・神賀詞などに幾分似通うたものであらう。真直に延命の希望ばかりを述べる事は、尠かつたらうと考へる。
最古い呪言は、神託のまゝ伝襲せられたと言ふ信仰の下に、神の断案であり、約束であり、強要でもあつたのである。神の呪言の威力は永久に亡びぬものとして大切に秘密に伝誦せられて居た。「天(アマ)つのりとの太(フト)のりと言(ゴト)」と称せられるものが、其なのである。文章の一部分に、此神授の古い呪言を含んだものが、忌部氏の祝詞並びに、伊勢神宮祝詞・中臣氏の天神寿詞の中にある。
殊に其古い姿を思はせて居るのは、鎮火祭の祝詞である。
天降りよさしまつりし時に、言(コト)よさしまつりし天つのりとの太のりと言を以ちて申さく
と前置きし、
…と、言教へ給ひき。此によりてたゝへ言(コト)完(ヲ)へまつらば、皇御孫(スメミマ)の尊の朝廷(ミカド)に御心暴(いちはや)び給はじとして……天つのりとの太のりと言をもちて、たゝへ言完(ヲ)へまつらくと申す。
と結んで居る。其中の部分が、天つ祝詞なのである。火の神の来歴から、其暴力を逞くした場合には、其を防ぐ方便を神から授かつて居る。火の神の弱点も知つて居る。其敵として、水・瓢・埴・川菜のある事まで、母神の配慮によつて判つて居ると説く文句である。神言の故を以て、精霊の弱点をおびやかすのである。此祝詞は、今在る祝詞の中、まづ一等古いもので、齢言(ヨゴト)以外の寿詞(ヨゴト)の俤を示すものではなからうかと思ふ。但、天つ祝詞以外の文句は、時代は遥かに遅れて居る。
最愛季子(マナオトゴ)に火産霊(ホムスビノ)神生み給ひて、みほと焼かえて岩隠りまして、夜は七夜、日は七日、我をな見給ひそ。我が夫の命と申し給ひき。此七日には足らずて、隠ります事あやしと見そなはす時、火を生み給ひてみほと焼かえましき。
など言ふ文は、古風であるが、表現が如何にも不熟である。此程古拙なものは、他には見当らない。呼応法の古い形式を、充分に残してゐる。
他の天つのりと云々を称する祝詞は、皆別に天つ祝詞があつて、其部分を示さなかつたのかと思はれる程、其らしい匂ひを留めぬものである。大祓祝詞に見えた天つ祝詞などは、恐らく文中には省いてあるのであらうが、中には、精霊を嚇す為に、其伝来を誇示したものもある様だし、或はもつと不純な動機から、我が家の祝詞の伝襲に、時代をつけようとしたのかと思はれるものさへある。
天つ祝詞の類の呪言が一等古いもので、此は多く、伝承を失うて了うた。所謂三種祝詞と称するとほかみゑみためと言ふ呪言が、天つのりとだとするのは、鈴木重胤である。
天つ祝詞
天つ祝詞にも色々あつたらしく思はれる。鎮火祭の祝詞などでも、挿入の部分は、とほかみゑみためなどゝは、かなり様子が変つて居る。天つ祝詞を含んで、唱へる人の考への這入つて居る此祝詞は、第二期のものである。今一つ前の形が天つ祝詞の名で一括せられてゐる古い寿言なのである。第三期以下の形は、神の寿詞の姿をうつす事によつて、呪言としての威力が生ずると言ふ考へに基いて居る。其製作者は、現神(アキツカミ)即神主なる権力者であつたであらう。第四期としては、最大きな現神の宮廷に、呪言の代表者を置く事になつた時代で、天武天皇の頃である。
「亀卜祭文(釈紀引用亀兆伝)」には、太詔戸(フトノリト)ノ命の名が見え、亀兆伝註には、亀津比女(カメツヒメ)ノ命の又の名を天津詔戸太詔戸(アマツノリトフトノリト)ノ命として居る。一とほり見れば、占ひの神らしく見える。今一歩進めて見れば、三種祝詞に属した神と言ふ事になる。思ふに、亀津比女ノ命は固より亀卜の神であらう。太詔戸ノ命は一般の天つ祝詞の神であり、亀津比女ノ命は其一部の「とほかみゑみため」の呪言の神なのではなからうか。此神は祝詞屋の神で、一柱とも二柱とも考へる事が出来たのであらう。若し此考へがなり立つとすれば、太詔戸ノ命は、寿詞・祝詞に対して、どう言ふ位置を持つ事になるであらう。
呪言の最初の口授者は、祝詞の内容から考へると、かぶろき、かぶろみの命らしく見える。併し、此は唯の伝説で、こんなに帰一せない以前には、口授をはじめた神が沢山あつたに違ひない。ところが伝来の古さを尊ぶ所から、勢力ある神の方へ傾いて行つたのであらう。天津詔戸太詔戸ノ命は、古い呪言一切に関して、ある職能を持つた神と考へられたものとしても、何時からの事かは知れない。
神語を伝誦する精神から、呪言自身の神が考へられ、呪言の威力を擁護し、忘却を防ぐ神の存在も必要になつて来る。此意味に於て、太詔戸ノ命と言ふ不思議な名の神も祀られ出したのではなからうか。其外に、今二つの考へ方がある。呪言口授の最初の神か、呪言の上に屡(しばしば)現れて来る神、即ある呪言の威力の神格化、かうした事も思はれる。
亀卜の神にして、壱岐の海部(アマ)の卜部(ウラベ)の祀つた亀津比女が何故祝詞と関係をもつかと言ふ問ひは、祝詞と占ひとの交渉の説明を求めることになる。三種祝詞ばかりでなく、寿詞・祝詞には、占ひと関聯する事が多い様である。酒ほかひの如きも、占ひに属する側が多かつた。神の示す「ほ」は譬喩表現である。ある物の現状を以て、他の物の運命を此とほりと保証する事がほぐの原義であつて見れば、人は「ほ」の出来る限り好もしい現れを希ふ。祈願には必、どうなるかと言ふ問ひを伴ふ。祝師(のりとし)の職掌が、奇術めいた呪師(のろんじ)を生んだと言ふ推定を、私は持つて居る。奇術は、占ひの芸道化したものなのである。
この玉串をさし立てゝ、夕日より朝日照るに至るまで、天つのりとの太のりと言をもて宣(ノ)れ。かくのらば、占象(マチ)は、わかひるに、ゆつ篁出でむ。其下より天(アメ)の八井(ヤヰ)出でむ。…(中臣寿詞)
かうして見ると、呪言には直ちに結果を生じるものと、そして唱へる中に結果の予約なる「ほ」の現れるものとの二つある事が知れる。其次に起る心持ちは、期待する結果の譬喩を以て、神意を牽(ひ)きつけようとする考へである。
内容の上から発生の順序を言へば、天つのりとの類は、結果に対して直接表現をとる。ほぐ事を要件にする様になるのは、寿詞の第二期である。神の「ほ」から占ひに傾く一方、言語の上に人為の「ほ」を連ねて、逆に幸福な結果を齎さうとするのが、第三期である。わが国の呪言なる寿詞には、此類のものが多く、其儘祝詞へ持ちこしたものと見える。外側の時代別けで言へば、現神なる神主が、神の申し口として寿詞を製作する頃には、此範囲に入るものが多くなるのである。第四期の呪言作者の創作物は、著しく功利的になる。現神思想が薄らぐと共に、人間としての考へから割り出した祈願を、単に神に対してする事となる。
まじなひ
呪言が譬喩表現をとり、神意を牽引する処からまじなひが出て来る。大殿祭・神賀詞のみほぎの玉は既に、此範囲に入つてゐる。殊に言語の上のまじなひの多いのは、神賀詞である。御ほぎの神宝が、一々意味を持つて居る。白玉・赤玉・青玉・横刀・白馬・白鵠(クヾヒ)・倭文(シドリ)・若水沼間(ワカミヌマ)・鏡が譬喩になつて、縁起のよい詞が続いて居る。此等は名称の上の譬喩から、更に抽象的に敷衍して居るのである。古くから伝へて居る譬喩ほど、具象性と近似性が多くなつて居る。常磐・堅磐は実は古代の室ほぎから出たもので、床岩(トキハ)・壁岩(カキハ)と、生命の堅固との間に、類似を見たのである。
天の八十蔭(天の御蔭・日の御蔭)葛根(ツナネ)など言ふのは、皆屋の棟から結び垂れた葛(カツラ)の縄である。やはり、室ほぎに胚胎した。其長いところから、生命の長久のほかひに使はれて居る。桑の木の活力の強さから「いかし八(ヤ)桑枝」と言ふ常套語が出来てゐる。此等は近代の人の考へる様な単純な譬喩ではなく、其等の物の魅力によつて、呪術を行うた時代があつた為であらう。其等の物質の、他を感染させる力によつて、対象物をかぶれさせようとするのである。
おなじく感染力を利用するが、結果は頗(すこぶる)交錯して現れる所の、今一つ別の原因がある。言語精霊の考へである。従来、無制限に称へられて来た、人語に潜む精霊の存在を言ふ説は、ある点まで条件をつけねばなるまい。散文風に現れる日常対話にはない事で、神託・神語にばかりあるものと信じて居たのである。太詔戸ノ命が、或は此意味の神ではなからうかと言ふ想像は、前に述べた。ことだまは言語精霊といふよりは寧、神託の文章に潜む精霊である。
さて、言霊(コトダマ)のさきはふと言ふのは、其活動が対象物に向けて、不思議な力を発揮することである。辻占の古い形に「言霊のさきはふ道の八衢(やちまた)」などゝ言うて居るのは、道行く人の無意識に言ひ捨てる語に神慮を感じ、其暗示を以て神文の精霊の力とするのである。要するに、神語の呪力と予告力とを言ふ語であるらしい。其信仰から、人の作つた呪言にも、神の承認を経たものとして、霊力の伴ふものと考へられたのである。此夕占の側から見ても、亀津比女との交渉は、説明が出来るのである。
私の話は、寿詞を語りながら、まだ何の説明もしない祝詞の範囲まで入り込んで行つた。併し、此二つほど、限界の入り乱れて居るものはない。一つを説く為には、今一つを註釈とせぬ訣には行かない。寿詞の範囲が狭まり、祝詞が段々新しい方面まで拡つて行つた為、大体には、二様の名で区別を立てる様になつた。新作の祝詞と言ふべき分までも、寿詞と言つたのが飛鳥朝の末・藤原の都頃であつた。祝詞の名は、奈良に入つて出来たもので、唯此までもあつた「告(ノ)り処(ト)」なる神事の座で唱へる「のりと言(ゴト)」に限つての名が、漸くすべての呪言の上におし拡められて来たのである。  
巡遊伶人の生活

祝言職
人の厭ふ業病をかつたいといふ事は、傍居(カタヰ)の意味なる乞食から出たとするのがまづ定論である。さすれば、三百年以来、おなじ病人を、ものよしと言ひ来つた理由も、訣(わか)る事である。ものよしなる賤業の者に、さうした患者が多かつたか、又は単に乞食病ひと言ふ位の卑しめを含ませたものとも思はれる。ものよしが、近代風の乞食者となるまでには、古い意味の乞食者即、浮浪祝言師――巡遊伶人――の過程を履(ふ)んで来て居る事が思はれる。千秋万歳(センズマンザイ)と言へば、しかつめらしいが、民間のものよしと替る所がなく、後々はものよしの一部の新称呼とまでなつて了うた。
奈良の地まはりに多い非人部落の一つなるものよしは、明らかにほかひを為事にした文献を持つて居る。
倭訓栞に引いた「千句付合」では、屋敷をゆるぎなくするものよしの祝言の功徳から、岩も揺がぬと言ひ、付け句には「景」に転じてゐる。
あづまより夜ふけてのぼる駒迎へ、夢に見るだに、ものはよく候
とある狂歌「堀川百首」の歌は、ものよしの原義を見せてゐる。ものは物成(モノナリ)などのものと同様、農産の義と見えるが、或は漠然とした表し方で、王朝以来の慣用発想なる某――「物(モノ)」なる観念に入れて、運勢をものと言うたのかも知れない。
江家次第には、物吉の字の一等古い文献を留めてゐる。ものとよしと言ふ観念の結びつきは確かだが、語尾の訓み方に疑ひがある。賀正事(ヨゴト)の非公式になつたもので、兼ねて「斎(ユ)の木(キ)の祝言」の元とも言ふべき宮廷の新年行事である。ものの意義は、内容が可なり広く用ゐられてゐる。年中の運勢など言ふ風にも感じられる。
大小名の家で家人たちのした祝言は、千秋万歳類似のこと以外にも色々あつたであらう。暮から春へかけて目につくのでは、其外にも二つの事がある。一つは「夢流し(初夢の原形)」、他は、前に書いた「斎(ユ)の木(キ)の祝言」である。此等の為事は、思ふに、古くから一部さむらひ人(ビト)の附帯事務であつたらしい。
家人と言つても、奴隷の一種に過ぎないやつこが、家の子と時代に応じて言ひ換へられても、後世の武家が「御家人(ゴケニン)」なる名に感じた程、名誉の称号ではなかつた。門跡に事へた候人は、音読してこうにんとも言うたが、元はやはりさむらひゞとで、舎人(とねり)を模した私設の随身(ズヰジン)である。其が寺奴の出であらうと言ふ事は、半僧半俗と言ふよりは、形だけは同朋(ドウボウ)じたてゞあるが、生活は全くの在家以上で、殺生を物ともせなかつた。山法師や南都大衆は此候人の示威団体だつたのである。室町御所になつて出来た同朋が、荒事を捨てゝも、多く、社奴・寺奴の方面から出て居たのは、一つの註釈になる。
侍の唱へる「斎(ユ)の木(キ)の下の御方(オンコト)は」に対して「さればその事。めでたく候」と答へる主公は、自身の精霊の代理である。即、返し祝詞と言はれるものゝ類である。寿詞を受けた者の内部から発するはずの声を、てつとり早く外側から言ふ形であらう。謂はゞ天子の受けられる賀正事(ヨゴト)に、天子の内側の声が答へると言ふ形式があつたものとすれば、よく訣る事だ。自分の内部に潜む精霊の、祝言に応じて言ふ返事の、代役と言ふ事になるのであらう。賀正事も唯の廟堂の権臣としての資格からするのではなからう。それぞれの氏(ウヂ)ノ上(カミ)たり、村の君たる者として、当然持つた神主の祭祀能力から出たものと見える。
返し祝詞は、宮内省掌典部の星野輝興氏が、多くを採集して居られる。
千秋万歳の、宮中初春の祝言に出るのは、室町頃から見えてゐる。此は北畠・桜町の唱門師の為事であつた。忌部の事務の、卜部の手に移つたものは多い。其が更に、陰陽道の方に転じて、その配下の奴隷部落の専務と言ふ姿になつたものであらう。社寺の奴隷はある点では、一つものと誤解せられる傾きがあつた。それを又利用して、口過ぎのたつきとした。社寺の保護が完全に及ばぬ様になると、世の十把一とからげの考へ方に縋つて、大体同じ方向の職業に進むことになつた。手工類の内職で、伝習に基礎を置くものは別として、本業は事実、混乱し易く、此を併合しても目に立たなかつた。唱門師なども、大抵寺奴であり、社奴であると言ふ資格から、入り乱れて、複雑な内容を持つた職業を作り上げたが、唱門なる語の輪廓がむやみに拡つて、すべてを容れる様になつたと言ふ側からも考へられる。
寺の奴隷から出たものは、三井寺の説経師・叡山の導師の唱導を口まねをした、本縁・利生・応報の実例を、章句としては律要素の少い、口頭の節まはしに重きを置くやうな説経を語つて、口過ぎのたつきとしたらしい。さうして後から出た田楽や、猿楽能の影響を受けながら、室町に入つて、曲目も一変したらしい。一方、神人と言はれる社奴の方には、卜部の部下が、忌部以来の寿詞風の「屋敷ぼめ」や、此徒唯一の財源でもあり、神人の唯一財源とも見えた、民間様々の時期の祓(ハラ)へに頼まれて、暮しを立てゝゐた。其が、王朝の末から、段々融合して、「今昔物語」にも見えるやうな、房主頭で、紙冠をつけた祓神主さへ出現する事になつて来た。神職・神人が神の外に仏に事(つか)へることを憎しまなかつた時代だから、かう言ふ異形の祭官をも、不思議とせぬ時が続いて来た。而も、尚一つ唱門の本職と結びつかねばならぬ暗示が、古くからあつた。其はほかひゞとの一等古い形式が、前型になつて居るのである。
土御門家の禁制によつて、配下の唱門師が説経節を捨てなければならなくなつたのは、江戸の初めの事である。其までの間は、新形の説経として、謡曲類似の詞曲と「曲舞(クセマヒ)」とを持ち、祓(ハラ)へや、屋敷(ヤシキ)ぼめをして居たのである。唯、わりあひに戦国の世には、歴史家の空想を超越した安らかな生活が、下々の民の上には在つた。彼等は、土地を離れない生活を営む様になつてゐた。副業も活計を支へる事の出来る程、世間から認められて来た。此点が稍(やや)違ふのであるが、田楽・猿楽の役者たちが、屡檀那なる豪族の辺土の領地を巡遊した事から見ても、全くの土着の農民と一つに見る訣には行かぬ。
ものよしは早く社との関係を失ひ、宮廷の千秋万歳も、唱門師と手をとりあふ様になると、地方の大小名の家の子のする年頭の祝言は、ある家筋の侍には限らなくなつたであらう。祝言にも、愈(いよいよ)職業化したものと、職業意識を失うたものとが出来た訣だ。
ものよしと万歳とは、民間と宮廷との違うた呼び名から、二つに見える様になつたが、実は元一つである。地方のものよしがすべて宮廷式・都会風の名に改まつて行つて、明治大正の国語の辞典には「癩病の異名。方言」として載せられる位に忘れられた。
語(ことば)から見ても、ものよしの方が「千秋万歳」を文句の尻にくり返したらしい後者よりは、古い称へであつたであらう。此ものよしが直ちに、意義分化以前のほかひゞとの続きだとは、速断しかねるが、大体時代は、略(ほぼ)接して居るものと言へる様である。日なみ月なみ数へ・勧農・祝言、様々の神人がゝつた為事が、順ぐりに形を変へて、次の姿になつたと見るよりは、一つの種が、時代と地方とで、色々な形と、色々な色彩とを持つて、後から後から出たものと見る事も出来よう。でも、其は却つて論理を複雑にするものであるから、直系・傍系と言ふ点の考へに重きを置くことをやめて、事実を見る外はあるまい。
「乞食者詠」の一つの註釈
万葉集巻十六は、叙事詩のくづれと見えるものを多く蒐(あつ)めて居る。其中、殊に異風なのは、「乞食者詠」とある二首の長歌である。此を、必しもほかひゞとのうたと訓まなくとも、当時の乞食者の概念と、其生活とは窺はれる。土地についた生業を営まず、旅に口もらふと言ふ点から、人に養はれる者と言ふ侮蔑を含んで居る。決して、近世の無産の浮浪人をさすのではない。而も、巡遊伶人であることは、確かである。
平安の中頃には、ほかひが乞食と離れぬ様になつてゐるのだから、仮りにこゝを足場として、推論を進めて行つて見る事も出来よう。ほかひゞとは寿詞を唱へて室(ムロ)や殿のほかひなどした神事の職業化し、内容が分化し、芸道化したものを持つて廻つた。最(もつとも)古い旅芸人、門づけ芸者であると言ふ事は、語原から推して、誤りない想像と思ふ。
さうすれば、ほかひゞとの持つて歩いた詞曲は、創作物であるかと言ふ疑ひが起る。寿詞が次第に壊れて、外の要素をとり込み、段々叙事詩化して行つて、人の目や耳を娯(たのし)ませる真意義の工夫が、自然の間に変化を急にしたであらう。此までの学者の信じなかつた事で、演劇史の上に是非加へなければならぬのは人形のあつた事である。其に、叙事詩にあはせて舞ふ舞踊のあつた事である。此事は後に言ふ機会がある。
此歌は、其内容から見ても、身ぶりが伴うて居てこそ、意義があると思はれる部分が多い。「鹿の歌」は、鹿がお辞儀する様な頸の上げ下げ、跳ね廻る軽々しい動作を演じる様に出来て居る。「蟹の歌」も、其横這ひする姿や、泡を吐き、目を動すと言つた挙動が、目に浮ぶ様に出来て居る。其身ぶりを人がしたか、人形で示したかは訣らない。舞踊の古代の人に喜ばれた点は、身ぶりが主なものである。事実、其痕は十分見えて居る。此が神事の演劇と複雑に結びついて、物まねで人を笑はせようと言ふ方へ、益(ますます)傾いて行つた。猿楽も、歌舞妓芝居も、其名自身、人間の醜態や、見馴れた動物の異様な動作の物まね・身ぶりであることを見せて居る。
想像が許されゝば、私は此歌にかう註釈したい。鹿は山地、蟹は水辺の農村にとつて、恐しい敵である。鹿は勿論、蟹に喰はれ、爪きられて、稲の荒される事は、祖先以来経て来た苦い経験である。農作予祝の穀言(ヨゴト)が、風や水に関係した文句を持つて居たらうと思はれる事は、後に出来た祝詞から想像がつく。併し、動物の害事を言うては居ない。けれども、宮廷から国々の社に伝達せられた祝詞の外に、社に伝来した土地の事情に適切な呪言があつた事は疑ひもない。鳥獣や虫類を脅かして、退散させようとする呪言もあつた事と思ふ。
ほかひの様式が分化して芸道化しかけた時、其等の動物を苦しめる風の文句が強く表され、動作にも其を演じて見せる様になり、更に其が降服して、人間の為に身を捧げる事を光栄とすると言つた表現を、詞にも、身ぶりにも出して来るとすると、此歌の出来た元の意義は納得出来る。此歌の形式側の話は、後にしたい。
当てぶりの舞
呪言の効果を強める為に、呪言を唱へる間に、精霊をかぶれさせ、或はおどす様な動作をする。田楽・猿楽にすら、とつぎの様を実演した俤は残つて居る。此は精霊がかまけて、生産の豊かになる事を思ふのである。精霊をいぢめ懲す様も行はれたに違ひない。此が身ぶりの、神事に深い関係を持つ様になる一つの理由である。而も、神事の傾向として、祭式を舞踊化し、演劇化する所から、身ぶり舞をつくり上げたのである。
隼人のわざをぎは、叙事詩の起原説明には、単に説明に過ぎなからうが、舞踊化の程度の尠いものと察せられる、水に溺れる人の身ぶり・物まねである。
殊舞(たつゝまひ)は起ちつ居つして舞ふからの名だ、と言ふ事になつて居るが、王朝以後屡(しばしば)民間に行はれた「侏儒舞(ヒキウドマヒ)」の古いものを、字格を書き違へて伝へ、たつゝなる古語を名として居た為に、訣らなくなつたのであらう。此舞を舞うたのは弘計ノ王で、度々言うて来た縮見(シヾミ)の室ほぎの時であつたのも、家の精霊を小人と考へて居た平安朝頃の観念を、溯らして見る事が出来れば、説明はうまくつく。
鳥名子(トナゴ)舞は、伊勢神宮で久しい伝統を称してゐるものである。普通ひよひよ舞と言うた上に、鶏の雛の姿を模する舞だと言ふから、やはりあの跛の走る様なからだつきの身ぶりなのだ。
鹿や蟹のをこめいた動作をまねる人か人形かの身ぶりが、寿詞系統のほかひゞとの謡について居なかつたとは言はれないのである。
ほかひゞとの遺物
ほかひゞとの後世に残したものは、由緒ある名称と、門づけ芸道との外に、其名を負うた道具であつた。延喜式などに見える外居(ホカヰ)・外居案(ホカヰヅクヱ)など言ふ器は、行器(ほかひ)と一つ物だと言はれて居る。其脚が外様に向いて猫足風になつて四本ある処から出たものと思はれて来た。かなり大きなもので、唐櫃めいた風らしく考へられる。其稍(やや)小さくて、縁(フチ)があつて、盛り物でもするらしい机代りの品を、「外居案(ホカヰヅクヱ)」と言ふらしい。「ひ」と「ゐ」とは、音韻に相違はあつても、此時代はまだ此二音の音価が定まらないで、転化の自由であつた時なのだから、仮字の違ひは、物の相違を意味せないのである。
だが、稍遅れた時代の民間のほかひは、其程大きな物ではない。形も大分変つて来てゐる様である。絵巻物によく出て来る此器は、形はずつと小さくて、旅行や遠出に、一人で持ち搬びの出来る物である。
私は、ほかひゞとの常用した此器を便利がつて、大小に拘らず其形を似せて、一般に用ゐ出したのだと思ふ。今一歩推論してもよければ、頭上・頸・肩に載せたり、掛けたり、担いだりして、出来る限りの物を持つて出かけるのが、昔の人の旅行であつたであらう。其が、ともかく担ぎなり、提げなりして、二人分も三人分もの荷物を搬ぶ道具を国産する様になつたのが、旅行生活に慣れたほかひの徒の手からであつたものらしい。さうなら、ほかひゞとの略称なるほかひが、発明者の記念として、器の名となるのも、順当な筋道である。
行器を、清音でほかひと発音するだらうと言ふ事は、外居の宛て字からも考へられる。古泉千樫さんも、其郷里房州安房郡辺では、濁らないで言ふことゝ、山の神祭りの供物を、家々から持つて登る時に使ふ為ばかりに保存せられて居る事とを、教へて下さつた。
宮廷に用ゐられた外居が、行器とおなじ出自を持つて居るものとすれば、何時の頃どう言ふ手順で入り込んだか、すべては未詳である。唯、神事に関係のある器である事だけは、確からしい。
巡遊伶人として、芸道の方面に足を踏み込む様になつても、本業呪言を唱へる為事は、続けて居たと言ふ事は考へられる。彼等の職業はどう分化しても、一種の神の信仰は相承せられて行つた。寿詞を誦し、門芸を演じながら廻る旅の間に、神霊の容れ物・神体を収めた箱を持つて歩かなかつたとは考へられない。漂泊布教者が箱入りの神霊を持ち搬んだことは、屡例がある。ほかひは元、実は其用途に宛てられてゐたのだが、利用の方面を拡げて来たものと言ふことが出来よう。柳田国男先生は、曾(かつ)て「うつぼと水の神」と言ふ論文(史学)を公にせられた。箱が元、単なる容れ物でなく、神霊を収めるもので、其筋を辿ると、ひさご・うつぼの信仰上の意味も知れる事をお説きになつて居る。あれを見て頂けば、私の議論はてつとり早く納得して貰へよう。
ほかひと言はれる道具の元は、巡遊伶人が同時に漂泊布教者であつた事を見せて居り、長旅を続ける神事芸人の団体が、藤原の都には既に在つた事を思はせるのは、微妙な因縁と言はねばならぬ。
ほかひの淪落
乞食者詠の出来たのは、どう新しく見ても、民衆に創作意識のまだ生じて居なかつた時代である。創作詩の始めて現れたのは、人を以て代表させれば、柿本ノ人麻呂の後半生の時代である。蟹や鹿の抒情詩らしく見える呪言叙事詩の変態の出来たのは、前半期と時を同じくして居るか、少し古いかと思はれる頃である。
形は寿詞じたてゞ、中身は叙事詩の抒情部分風の発想を採つて居る。此は寿詞申しと語部との融合しかけた事を見せて居るのである。さうして其ほかひたちが、どういふ訣で流離生活を始める事になつたか。
叙事詩を伝承する部曲として、語部はあつたのだが、寿詞を申す職業団体が認められて居たかどうかは疑問である。ほかひなるかきべの独立した痕は見えないばかりか、反証さへある。祝詞になつては勿論だが、寿詞さへ、上級神人に口誦せられて居た例は、幾らもあるし、氏々の神主――国造=村の君――と言つた意味から出た事であらうが、氏ノ上なる豪族の主人であつた大官が、奏上する様な例もある。さすれば此が職業としての専門化、家職意識を持つた神事とはなつて居なかつたとも言へる様である。而も一方、平安朝には既に祝師(のりとし)などゝ言ふ、わりあひに下の階級の神人が見え出して来た。其に元々、呪言を唱へることが、村の君の専業ではなく、寧、伝来ある村の大切な行事の外は、寿詞に関係せなくなる。さうなると、此為事に与る神人の資格は、段々下の方に向いて行くであらう。其上、当時まだ、村の君など言ふ頭分を考へなかつた時代の記憶を止めて居た地方では、成年式を経た若者たちが「一時(イツトキ)神主」として、神にも扮し、呪言をも唱へた。其が沖縄ばかりか、大正の今日の内地にすら残つて居るのである。さう言ふ風に若者中、神人・神主と、色々に呪言を誦する人々がある上に、突如として宗教的自覚を発する徒などがあつて、呪言を取扱ふ人々は、必多様であつたに違ひない。
村々の家々と其生産とを予祝する寿詞は、若者か、下級の神人の為事になつて行く傾きのある事は考へられる。村々の宗教が、段々神社制度に飜訳せられて行くと、社に関係の薄い者から落伍しはじめて来る。ほかひは元、神社制度以前のもので、以後も、神社との交渉は尠かつた。其に与る神人も、正しい神職でなかつたりする為に、漸く軽く見られる傾きが出て来た。宮廷では、中臣・忌部の神主が共に呪言を奏するのに、中臣は神社制度に伴ふ側に進み、忌部は旧慣どほりほかひを主とした点からも、前者にけおとされねばならぬ事になつたのである。
社々にだつて、ほかひ側の為事はない訣ではない。而も祓へ・占ひ・まじなひなどの外は、よごとの語義に関係の深い「祈年(トシゴヒ)呪言(穀言)」・「長寿呪言(齢言)」すら、ほかひの範囲から逸れて了ふ事になつた。
神社の有無が、神の資格定めの唯一の条件になつて来ると、ほかひの対象なる精霊は、位づけが明らかに下つて来る。さうなると、寿詞の価値も自ら低くなつて、高い意味の寿詞並びに、醇化した神の為の新しい呪言が、のりとの名を以て、其にとつて替る事になつたのである。
既に地位の下りかけて居た祝言が、更に分化して一種の職業となつたほかひの徒のはじまりは、どう言ふ種類の人々であつたであらう。一時神主(イツトキカンヌシ)として、ほかひに習熟した村の若者出の人々や、後楯なる豪族に離れた村々の神人の、亡命或は零落した者が、占ひ・祓へ・まじなひと共に、祝言をのべて廻つたのが、此が職業化した古い姿と思はれる。
村と村との睨みあふ心持ちは、まだ抜け切らぬ世の中でも、此旅人はわりに安心であつたであらう。異郷の神は畏れられも、尊ばれもした。霊威やゝ鈍つた在来の神の上に、溌溂たる新来(イマキ)の神が、福か禍かの二つどりを、迫つて来る場合が多かつた。異郷から新来の客神を持つて来る神人は、呪ひの力をも示した。よごとを唱へると同時に、齢(よ)と穀(よ)とを荒す、疫病・稲虫を使ふ事も出来た。駿河ではやつた常世(トコヨ)神(継体紀)、九州から東漸した八幡の信仰の模様は、新神の威力が、如何に人々の心を動したかを見せて居る。ほかひゞとの、異郷を経めぐつて、生計を立てゝ行く事の出来たのも、此点を考へに入れないでは、納得がいかない。
村々を巡遊して居る間に、彼等は言語伝承を撒いて歩いた。右に述べた様な威力を背負つて居た事を思へば、其為事が、案外、大きな成績をあげた事が察せられるのである。
其外に、神奴も、此第一歩の運動には、与つて居さうに思はれる。併し、奴隷階級の者がどうして自由に巡遊する事が出来たか、此点の説明が出来さうもない。だから、此は今姑(しば)らく預つて、考へて見たいと思ふ。
叙事詩の撒布
ほかひが部曲として、語部の様に独立して居なかつた事は、巡遊伶人としての為事に、雑多な方面を含む様になつた原因と見る事が出来る。
乞食者詠を見ても知れる様に、寿詞(ヨゴト)の様式の上に、劇的な構造や、抒情的な発想の加つて来たのは、語部の物語の影響に外ならぬのである。私は保護者を失うた神人の中に、村々の語部をも含めて考へて居る。其上ほかひ(祝言)が神人としての専門的な為事でないとすれば、語部にしてほかひ、ほかひにして「物語」をある程度まで諳じて居ると言つた事情の者もあつたであらう。元々、神に対してまるまるの素人でない者の事である。語部の叙事詩を、唱へ言の中にとり入れて、変つた形を生み出す様になつたのも、謂はれのない事ではない。
単にとり込んだばかりでなく、本義どほりにはほかひとは縁遠い叙事詩を、其儘に語る様なことも、語部がほかひの徒の中にまじつたとすれば、あるべき事である。事実又、其痕跡は段々述べて行くが、確かに残つてゐる。
わりに完全な物語と、物語の断篇とが、或村から離れて他の所へ持廻られる。すると、其処に起るのは、物語の交換と、撒布とである。更に見逃されないのは、文学的な衝動を一度も起さなかつた人々の心の上に、新しい刺戟が生じたことである。記・紀・ 万葉集・風土記の上に、一つの伝説の分岐したものや、数種の説話の上に類型の見つかる事が、沢山にある。此を単純に解決して、同じ民間伝承を飜訳した神話・伝説が、似よりを見せるのは当然だとばかりは、考へられなくなつた。尠くとも、奈良朝以前から既に、巡遊伶人があつた事情から見ても、一層強い原動力を此処に考へないのは、嘘である。  
叙事詩の撒布

うかれびと
語部(カタリベ)の生活を話す前に寿詞(ヨゴト)の末、語部の物語との交渉の深まつて来た時代のほかひの様子を述べなければならなくなつた。此については、既に書いた概説とも言ふべきものによつて、一つの予備をつくつて頂けて居る事と思ふから、後前御免を願うて、ほかひが叙事詩化して行つた経路を辿り続ける事とする。日本の遊女の発生と、其固定に到る筋道は、柳田国男先生の意見が、先達の考案の蔑にしてよいものゝ多い、わが学界にとつては、後にも先にもない卓論であり、鉄案でもある。先生は微細な点までもじぷしいと殆ど同一の生活をして居た我が古代の浮浪民(うかれびと)なる傀儡子(くゞつ)と、其女性なる遊行女婦(うかれめ)との実在を証拠だてられた(明治四十一年頃の人類学雑誌に連載)。先住民の落ちこぼれで、生活の基調を異神の信仰に置いた其団体が、週期を以て、各地を訪れ渡つて居る中に、駅・津の発達と共に、陸路・海路の喉頸(ノドクビ)の地に定住する事になつた。女性の為事なる芸能(歌舞と偶人劇)と売色を表商売とする様になつて、宿々の長又は長者と言ふ事になつたと言はれて居る。私は、此同化せなかつた民族の後なるうかれびとの外に、自ら跳ね出して無籍者になつた亡命の民がまじつて居さうに考へる。つまり其がほかひゞとである事は、前に述べた積りである。
神人が大檀那なる豪族の保護を失ふ理由には、内容がこみ入つて居る。神を守つた村君が亡びた事、そして村君の信仰の内容が易(かは)つた事。此にも、内わけが三つ程に考へられる。倭本村の神をとり入れるか、飜訳して垂跡風にした類(一)。弱い村・亡びた村の出(デ)であつても、新来神(イマキガミ)として畏敬せられた類(二)。同じ類にあげる事も出来る所の、道教の色あひを多分に持つた仏教(三)。此信仰の替り目に順応する事の出来なかつた地方では、段々「神々の死」がはじまつて来た。さうした神々のむくろを護りながら、他郷に対しては、一つの新神があると言ふ威力を利用して、本貫を脱け出す者が、後から後からと出た。従うて其信仰様式は、古くもあり、又本意を失うた固定をする事にもなつた。うかれ人の祀つた神が、平安中期以後の人々の目には、不思議な姿に映つたのも、一つは此為である。人形の事は、今までに発言の機会を逸して来たが、倭本村に深い関係を交錯してゐる村々の中で、古くから神の形代(カタシロ)なる人形を持つたものが、段々ある。倭の村にだつてなかつたとはきめられぬ。臨時に出来る神の形代が、段々意義を失うて、人の形代が多くなつて来る時代には、常住専ら偶人を斎(いつ)く団体の信仰が異端視せられるに不思議はない。
倭本村から一目置かれて居た大村の神と神人とは、次第に倭化はしながらも、幸福な推移をして行つたであらう。が、村君と血統上の関係を結びつけて考へるに到らなかつた神を祀つた村では、村君は郡領として尚(なほ)勢力を失はずに居ても神と神人とは不遇な目を見た。政教をひき裂く大化の政の実効のまづ挙つたのは、此種の村々であらう。而も何かの理由で、国造と関係のない者がとつて替つて郡領となつたり、さうでなくても中央から来た国司が、地方の事情を顧みないで事をする場合には、本貫に居る事が、積極的に苦しみの元であつた。日向の都野(ツヌ)神社の神奴は、国守の私から、国司の奴隷とせられた。神の憤りは、国司に禍を降す代りに、神奴の種を絶されるに到つた(日向風土記逸文)。此は国造の神が、郡領に力はあつても、倭から置かれた官吏には無力であつた事の、悲しい証拠である。と同時に、恐らく下級神人の二重奴隷と言ふ浮む瀬のない境涯に落ちた事を見せて居るのであらう。村々の神人にして、新しく這入つて来た倭の神の神奴にせられた者、神々の階級が下つた処から、神人の神奴の様にとり扱はれた者もあらう。本貫を離れない事の苦しみは、まだ此ばかりではなかつた。
村々の部曲の中で、保護者を失つても、自活の出来るのは、主として手職をうけ襲(つ)いだ家である。其以外の者のみじめさは、察しるに十分だ。時勢と保護とから第一にふり落されるのは、神人階級の部曲である。
亡命を、一二人又は一家の上にばかりある事と考へるのは、近世の事情に馴れ過ぎたのだ。戦国以前までは、尠くとも新知を開発する為に、と言ふ名で、沢山の家族団体を引き連れて数百里離れた地へ、本貫を棄てゝ移つた家々は、数へきれない。信仰の代りに、武力を携へて歩いたうかれびとに過ぎないのである。此新うかれびとは庸兵軍として、道々の豪族に手を貸しもした。運よく行つたのは大名となり、あまり伸びなかつた者は、豪族の下に客人格の御家人となり、又非御家人・郷士と窄まつて了うたりした。我国の戸籍の歴史の上で、今一度考へ直さねばならぬのは、団体亡命に関する件である。住みよい処を求める旅から、終には旅其事に生活の方便が開けて来て、巡遊が一つの生活様式となつて了ふ。彼等の持つて居る信仰が力を失うても、更に芸能が時代の興味から逸れない間、彼等の職業が一分化を遂げきる迄の間は、流民として漂(ウカ)れ歩いたのである。
近世芸術は、殆ど柄傘(カラカサ)の下から発達したと言うてもよい位、音曲・演劇・舞踊に大事の役目をして居る。売女に翳(かざ)しかけた物も、僣上して貴人や、支那の風俗をまねたものではあるまい。足柄山で上総前司の一行に芸能を見せたうかれ女は、大傘を立てた下に座を構へた(更級日記)。大鏡に見えた「田舞」も、田の中に竪てた傘を中心にした様である。此二つは、平安朝末のやゝ古い処である。其以後は、田楽を著しいものとして、民衆芸能に傘の出て来ないものは尠かつたと言ふ事も出来よう。傘の下は、神事に預る主な者の居る場所である。大陸風渡来以前から倭宮廷にあつた風で、神聖感を表現もし、保護もしたものなのである。うかれ女系統の楽器らしい簓(サヽラ)と言ふ物も、形は後世可なり変化したであらうが、実は 万葉集人の時代からあつたものと言ふ推測がついて居る。此等の事は、力強い証拠とは出来ぬかも知れぬが、異風と見られる点も、実は定住人とさしたる違ひのなかつた事を見せて居るのではなからうか。
唯一点、人形については、近世の神道学者の注意が向いて居ないばかりか、古代日本の純粋な生産と考へない癖がついて居る様だから、話頭を触れておかねばならぬ気がする。
くゞつ以前の偶人劇
浮浪民なるくゞつの民の女が、人形を舞はした事は、平安朝中期に文献がある。其盛んに見えたのは、真に突如として、室町の頃からである。此時代を史家は、戦争と武人跋扈との暗黒時代ときはめをつけて居るが、書き物だけでは、実際、江戸の平民の文明を暗示する豊かな力の充ち満ちた時代である。上層・中層の文明のをどみに倦んで、地下(ヂゲ)の一番下積みになつて居た物の、顧みかけられた世間であつた。此以前にも、偶人劇が所々方々に下級神人や、くゞつの手で行はれて居た事が察せられる。新式であつた為、都人士に歓ばれた偶人劇の団体が、摂津広田の西の宮を中心とするものであつたらう。が、恐らく、此を人形芝居の元祖と見る事は出来ぬ。此側の伝へでは、淡路人形を重く見て居る。併し、西の宮が海に関係深い点から観るべきで、此神の勢力の下にあつた対岸の淡路の島人から、優れた上手が出たのも、尤(もつとも)である。室町になると、段々、男の人形を使ふ者の勢力が出て来るが、西の宮系統の偶人劇は元、女殊に遊女の手に習練を積まれたものであらう。淀川と其支流の舟着きに、定居生活をし始めて居た遊女は西の宮と関係が深かつた。西の宮信仰が関西に弘まつたのは、うかれ人の唱導が元らしい。うかれ人が、ほかひの古風な神訪問の形式を行うたのだらう。えびすかきと言うた人形舞はしは、此古い単純な形を後世に残したのであつた。
大正の初年までも、面を被つて「西の宮からえびす様がお礼に来ました」と唱へて門毎に踊つた乞食も、此流れである。「大黒舞」も又えびすかきの偶人に対する、神に扮した人の身ぶり芝居の一つであつた事が知れる。遅れて出た「大黒舞」が、元禄以前既に、ほかひ以外の領分を拡げて、舞ひぶりの単純なわりには、歌詞がやゝ複雑な叙事に傾いて居たのは、幾度でもほかひが同じ方角に壊れる上に、落ちつく処は、劇的な構想を持つた詞曲である事を示して居る。
西の宮一社について見れば、祭り毎に、海のあなたから来り臨む神の形代(カタシロ)としての人形に、神の身ぶりを演じさせて居たのが、うかれ人の祝言に使はれた為に、門芸として演芸の方に第一歩を、踏み入れる事になつたのであらう。
人形を祭礼の中心にするのは、八幡系統の神社に著しいけれども、離宮八幡以外にも、山城の古社で人形を用ゐる松尾の社の様なのがあり、春日も人形を神の正体(ムザネ)とする場合がある様だ。地方の社では、現在偶人を中心に、渡御を行ふのがなかなかある。此人形の事を「青農(セイナウ)」と言ふ。
宇佐八幡の側になると、「青農」の為事が殊に目に立つ。八幡に関係の深い筑前志賀(シカ)ノ島の祭りには、人形に神霊を憑らせる為に沖に漕ぎ出て、船の上から海を(ノゾ)かせる式をする。
平安朝の文献に、宮廷では、此人形と、一つの名前と思はれる「才(サイ)の男(ヲ)」といふのが見える。御神楽(ミカグラ)の時に出る者である。此まで、才の男は専ら、人であつて、神楽の座に滑稽を演じる者と言ふ風に考へられて居る事は、呪言の展開の処で述べた。江家次第・西宮記などにも「人長(ニンヂヤウ)の舞」の後、酒一巡(ズン)して「才の男の態」があると次第書きしてゐる。此は、後には、才の男を人と考へる事になつたが、元は、偶人であつた事を見せて居るのである。「態」の字は、わざ・しぐさを身ぶりで演じた事を示して居る。神楽の間に偶人が動いてした動作を、飜訳風に繰り返して、神の意思を明らかに納得しようとするのかと思はれる。又、人形なるさいのをを使はぬ時代に、やはり古風に人形の物真似だけをしたのかも知れぬ。今の処、前の考への方がよいと思ふ。相手の一挙一動をまねて、ぢりぢりさせる道化役を、もどき(牾)と言うて、神事劇の滑稽な部分とせられて居る。「才の男の態」と言ふのは、もどき役の出発点を見せてゐるのであるまいか。一体、宮中の御神楽は、八幡系統の影響を受けて居るものだと言ふ事が、色々の側から説明出来る。だから、才の男を「青農」と同じく、偶人と見る考へはなり立つ。
昔は疫病流行すれば、巨大な神の姿を造つて道に据ゑて、其を祀つた(続紀)。今も稲虫払ひには、草人形を担ぎ廻つて、遠方に棄てる。稲虫が皆附いて行つてしまふと考へるのである。此は穢・罪・禍の精霊の偶像である。其将来した害物を悉皆携へて、本の国へ帰る様にとの考へである。
人間の形代なる祓(ハラ)への撫(ナ)で物(モノ)は、少々意味が変つて居る。別の物に代理させると言ふ考へで、道教の影響が這入つて居るのである。
ともかくも、昔の人の常に馴れて居たのは、自分の形代か、或は獅子・狗犬から転じて、常々身近く据ゑて、穢禍を吸ひとつて貯めて置く獣形の偶像かであつた。だが、人形の起原を単に、此穢れ移しの形代・天児(アマガツ)・這子(ハフコ)の類にばかりは、かづけられない。人形(ニンギヤウ)を弄ぶ風の出来た原因は、此座右・床頭の偶像から、まづ糸口がついたとだけは言はれよう。穢や禍や罪の固りの様な人形(ヒトガタ)ながら、馴れゝば玩ぶやうになる。五節供(セツク)は皆、季節の替り目に乗じて人を犯す悪気を避ける為の、支那の民間伝承である。此に一層固有の祓への思想の輪をかけて、節供祓へを厳重にした。三月・五月の人形は、流して神送りをする神の形代を姑らく祀つたのが、人形の考へと入り替つて来たのである。七夕・重陽に人形を祀る処は今もある。盂蘭盆の精霊棚にも、精霊の乗り物以外に、精霊の憑る偶像のあつた事が想像出来る。盆も亦「夏越(ナゴシ)の祓へ」の姿を多分に習合して居るのである。
更級日記の著者が若い心で祈つたをみな神、宮廷の宮祭(ミヤノメマツ)りに笹の葉につるした人形、北九州に今も行はれる八朔の姫御前(ひめごじよ)、此等は穢移しの品でない。而も神の正体なる人形は、原則としては、臨時に作る物である。常住安置する仏像とは、根柢から違ふのである。神の木像などが、今日残つて居るのは、神仏の境目の明らかでなかつた神又は人のである。祭礼の時に限つて、神の資格を持つ人形は、新しく作られる事が多いが、常は日のめも見せず、永く保存せられる物はすくなかつた。
そして、神の正体としての人形は、人間を迷惑させる神には限らない様である。此点が明らかでないと、人形は、触穢(ソクヱ)の観念から出たものとばかり考へられさうである。
人形を恐れる地方は今もある。畏敬と触穢と両方から来る感情が、まだ辺鄙には残つて居るのである。文楽座などの、人形を舞はす芸人が、人形に対して生き物の様な感触のあるものと感じて居るのは事実である。沖縄本島に念仏者(ニンブチヤア)と言ふ、平民以下に見られてゐる人々が居る。春は胸に懸けた小さな箱――てらと言ふ。社殿・寺院・辻堂の類を籠めて言ふ語(ことば)。人形の舞台を神聖な神事の場と見るのである――の中で、人形を舞はしながら、京太郎(チヤンダラ)と言ふ日本(ヤマト)人に関した物語を謡うて、島中を廻つたものである。其人形は久しく使はぬ為に、四肢のわかれも知れぬ程になつたが、非常にとり扱ひに怖ぢてゐた。此人形に不思議な事が度々あつたと言ふ。
人形が古代になかつたと言ふ様な、漠とした気分を起させる原因は、其最初の製作と演技が、聖徳太子・秦(ハタ)ノ河勝(カハカツ)に附会せられて居る為である。仮面は殊に、外国伝来以後の物の様な感じが深いが、此とて日本民族の移動した道筋を考へれば、必しも舞楽の面や、練供養の仏・菩薩の仮面以前になかつたものだと言はれまい。唯、此方の、技術家なる面作(オモテツク)りは、寺々に属してゐて、神人の臨時に製作したやうなものは、彼らの技巧の影響を受けたり、保存の出来る木面の彫刻を依頼したりなどした為、固有の仮面の様式などは知れなくなつて了ひ、仮面の神道儀式に使はれた事まで、忘れきつたものと見る方が適当であらう。
仮面は、人間の扮して居る神だと言ふ事を考へさせない為だから、非常な秘密でもあつたらうし、使うた後で、人の目に触れる事を案じて、其相応の処分をした事であらうから、普通の人には、仮面といふ考へが明らかでなかつたであらう。其上、土地によつては、村人某が扮したのだと云ふ事が訣らねばよいと言ふ考へから、植物類の広葉で顔を掩ふと言ふ風な物があつた事は、近世にも見える。だから、仮面もあり、仮面劇も行はれたのに違ひないが、今の処まだ、想像を離れる事が出来ない。
柳亭種彦の読み本「浅間个嶽俤草紙」の挿絵の中に、親のない処女の家へ、村の悪者たちが、年越しの夜、社に掛けた色々の面を著けておし込んで、家財を持ち出す処が描いてある。年越しの夜に、仮面を著けた人が訪問すると言ふ形は、必民間伝承から得たものに違ひない。
面には、かづく或はかぶると言ふ語が、用語例になつて居るのは、古代の面が頭上から顔を掩うて居た事を示して居る。
能楽で見ても、面をつけるのは、神・精霊の外は女である。女は大抵の場合、神憑きと一つものと思はれる狂女である。能役者が、直面(ヒタオモテ)では女がつとめられないと言ふ理由の外に、神のよりましなる為に同格に扱うたと考へる事が出来るかも知れぬ。太子と能楽との伝説を離れて、静かに考へて見ると、翁などの原型として、簡単な仮面に頭を包んだ田遊びの舞ひぶりが、空想せられるのである。当麻寺の菩薩練道(レンダウ)の如きも、在来の神祭りに降臨する神々の仮面姿が、裏打ちになつて居るのではあるまいか。
古事記に残つて居る文章のなかで、叙事詩の姿を留めたものを択りわけて見ると、抒情部分のうたばかりでなく、其中に叙事部分のかたりに属するものも見出される。叙事部は地の文である。地の文の発生は、第一歩にはないはずだ。必(かならず)形は一人称で、而も内容は三人称風のものである。其が、明らかに地の文の意義を展いて来るのは、下地に劇的発表の要求があるのである。此事は様式論として、詳しく書く機会があらう。
かくて、偶人劇の存在した事は信じてよい。併し、どの程度まで、身体表出をうつし出したか。どの位の広さに亘つて、村々の祭りに使はれたか。すべては疑問である。遥かな国から来る神と、地物の精霊と二つ乍ら、偶人を以て現したか。其も知れない。後世の材料から見れば、才の男は地物の精霊らしく見える。併し此事に就ては、呪言の展開に書いて置いた。其上、人と人形との混合演技もなかつたとは言へぬ様である。
偶人の神事演劇には単純な舞ばかりのもあつたゞらう。叙事詩に現れた神の来歴を、毎年くり返しもしたであらう。要するに神事演劇は、人・人形に拘らず、演技者はすべてからだの表出ばかりで、抒情部分・叙事部分の悉くが、脇から人の附けたものである。
後世の祭礼の人形の、唯ぢつとして、動かない様なものでは無かつたであらう。「才の男の態」を行ふ者の様子から推すと、人形其物も、可なり身軽くおどけふるまうたと見えるのである。
祭礼のだし人形の類は、決して近世の案出ではない。すべて祭り屋台の類はほこ・やま・だし・だんじりなど、みな平安朝まであつた「標(ヘウ)の山(ヤマ)」と、元一つの考へから出て居る。平安朝初期に、既に「標の山」の上に蓬莱山を作り、仙人の形を据ゑた。「標の山」は神の天降(アモ)る所であつて、其を曳いて祭場に神を迎へるといふ考へなのだ。此作り山は、神物のしるしなるたぶうの物を結ぶと共に、神の形代(カタシロ)を据ゑるといふ考へもあつたのである。「標の山」は恐らく木の葉で装うた作り山で、神を迎へる為にした古代からの儀礼の一つである(出雲風土記)。其作り山の意義は固より、上に据ゑた人形の存在理由は早く忘れられて了うた。
道教出と思はれる仙人形が、字面のとほり、人形と見られるなら、奈良朝の盛時には既にあつて、恐らく此も玩具ではなく、方士の祀つたものであらうと思ふ。藤原・奈良、及び平安の初期に亘つて行はれた仙人の内容は、艶美であつて、人間の男との邂逅を待つて居る仙女なども這入つて居たのである。後世のぼろをさげた様な仙人ばかりではなかつた。「標の山」は本義を忘れられて、装飾に仙山を作り、天子の寿を賀する意を含めたものであらう。平安朝にはじまつた意匠でないと思はれる所の、人形を此に据ゑると言ふ事は、原義の明らかだつた時代には、神の形代であつたらうと思はれるのである。
新しいほかひの詞
石ノ上布留(フル)の大人(ミコト)は、嫋女(タワヤメ)の眩惑(マドヒ)によりて、馬じもの縄とりつけ、畜(シヽ)じもの弓矢囲(カク)みて、大君の御令畏(ミコトカシコ)み、天離(アマサカ)る鄙辺(ヒナベ)に罷(マカ)る。ふるころも真土の山ゆ還り来ぬかも(石上乙麻呂卿配土左国之時歌三首並短歌の中、 万葉集巻六)
土佐に配せられた時の歌とあるばかりで、誰の歌ともない。普通の書き方の例から見ると、此は「時人之歌」とでもあるべき筈である。でなければ、古義などの様に、前二首を「乙麻呂の妻(又、相手方久米ノ若売とも見てよからう)の歌」、後二首を「乙麻呂の歌」と言ふ風に、註があるべきである。まづ巻一の「麻続王流於伊勢国伊良虞島之時人哀傷作歌」と同様に扱ふのが正しからう。さうすると、言ひ出しの文句のよそよそしさも納得がつく。布留・石上は、極(ごく)近所だから、又石上氏・布留氏共に物部の複姓(コウヂ)で、同族でもあるから、かう言うたものとも考へられるが、併し布留氏は別にれつきとして存して居るのだから、かうした表現を採る訣がない。やはり枕詞を利用して、石上氏をきかし、聯想の近い為に、却つて暗示が直ちに受けとれ相な布留を出して、名高い事件の主人公を匂はしたのは、偶然に出来たのであらうが、賢い為方である。此が、身の近い者の作でない最初の証拠だ。「嫋女のまどひ」も、物語の形を継いだ叙事脈の物でなくては、言ふ必要のない興味である。次には、地名の配置が変な点である。此歌で見ると、真土山を越えて行くことを見せて居る。ところが三番目の歌では、河内境の懼(カシコ)の阪と言ふのを越す様にある。さうして、住吉の神に参るのが順路だから、第二の歌に出て来る住吉の社も、唯遥拝する事を示すのではないと思はれる。さうすると、矛盾が考へられる。四番目の短歌には、どこの国にもある所の大崎といふ地名を出して居る。此も紀伊だと限つて説くのは、横車を押す態度である。ちぐはぐな点が、此歌の当事者の贈答でない事を露して居るのだ。
土佐へ渡るのに、紀伊へ出るのは、順路ではない。紀の川口から真直に阿波の方へ寄せて、浜伝ひ磯伝ひに土佐へ向ふ事もないとは言はれぬが、当時の路筋はやはり、難波か住吉へ出たものである。どちらにしても、順路にくひ違ひのある事は事実である。
巡遊伶人があり来りの叙事詩をほかひして居るうちに、段々出て来た自然の変形が、人の噂に尚(なほ)身に沁む話として語られて、而も歴史の領分に入りかけた時分になると、記憶の混乱が、由緒の忘れられた古い叙事詩の一部を、近世の悲恋を謡うたものと感じる様になり、無意識の修正が、愈(いよいよ)其事実に対する妥当性を加へて来る事になる。言ひ出しの文句などは、此事件との交渉のなかつた前は、他の人名であつた事が考へられる。叙事詩・伝説の主人公の名ほど、変り易いものはないからである。
古事記の倭建(ヤマトタケル)の臨終の思邦(クニシヌビ)歌が、日本紀では、景行天皇の筑紫巡幸中の作となつて居り、豊後風土記(尚少し疑ひのある書物だが)にも同様にある。此はほんの一例に過ぎない。
時と処とに連れて、妥当性を自由に拡げてゆくのが、民間伝承の中、殊に言語伝承の上に多く見える事がらである。此なども、木梨ノ軽皇子型の叙事詩の一変形と見てさし支へないものなのである。いつたい、軽皇子物語が、一種の貴種流離譚なので、其前の形がまだあつたのだ。神の鎮座に到るまでの、漂泊を物語る形に、恋の彩どりを豊かに加へ、原因に想到し、人間としての結末をつけて、歴史上の真実のやうな姿をとるに到つた。だから、叙事詩の拗れが、無限に歴史を複雑にする。更に考へを進めると、続日本紀以後の国史に記されて居る史実と考へられて居る事も、史官の日次記や、若干の根本史料ばかりで、伝説の記録や、支那稗史をまねた当時の民間説話の漢文書きなどを用ゐなかつたとは言はれない。
最大きな一例を挙げると、楚辞や、晋唐時代の稗史類には、民間説話を其まゝ記録した、神仙と人間との性欲的交渉を一人称や三人称で記したものが数多くある。其が人間界の仙宮と言うてよい宮廷方面にまで拡つて来て、帝王と神女の間を靡爛した筆で叙(の)べるばかりか、帝王と後宮の人々との上にまで及ぼして、愛欲の無何有郷を細やかに、誘惑的に描写して居る。
元々空想の所産でなく、民間説話の記録なのであるから、小説と言ふ名も出来たのだ。「小」は庶民・市井などの意に冠する語で、官を「大」とする対照である。説は説話・伝説の意である。
小説・稗史は、だから一つ物で、民間に伝はる誤謬のある事の予期出来る歴史的伝承と言ふ事になる。史官の編纂した物を重んじ過ぎるからさうなつたのだが、段々史実の叙述以外に空想のまじる事を無意識ながら、筆者自身も意識する事になつた。其処で伝奇と言ふ名が、ようろつぱの羅馬治下の国の所謂ろうまんすを持つて、地方々々の伝説を記したろうまんすなる小説と、成立から内容までが、似よりを持つて来る様になつた次第である。
既に遊仙窟だけは確かに奈良朝に渡つて来て居て、其を模倣した文章さへ万葉集(巻五)には見えて居るが、其外にもなかつたとは言へない。高麗・日本の人々が入唐すると、必、張文成の門に行つて、書き物を請ひ受けて帰つた(唐書)と言ふことは、宋玉一派の爛熟した楚辞類は元より、神仙秘伝・宮廷隠事の伝説を記録した稗史類を顧みなかつたと言ふ事にはならぬ。寧、其方面の書籍が、沢山輸入せられた事を裏書きするものと言へると思ふ。其上に帰化人が生きた儘の伝承を将来してゐる。而も、世界の民族は、民間伝承の上にある点までの一致を持たないものがない。日本と支那との間にも、驚くばかりの類似が、其頃段々発見せられて来た。飛鳥の末・藤原の宮時代の人々の心に、先進国の伝承と一致すると言ふ事が、どんなに晴れやかな気持ちをさせた事であらう。
 
唱導文学 1 ―序説として―

唱導文学といふ語は、単なる「唱導」の「文学」と言ふ事でなく、多少熟語としての偏傾を持つて居るのである。事実において、唱導文学は、説経文学を意味しなければならぬのであるが、わが国民族文学の上には、特に説経と称するものがあり、又其が唱導文学の最大なる部分にもなつてゐる。だが、その語自身、あまり特殊な宗教――仏教――的主題を含んでゐる為、其便利な用語例を避けて、わざ/\、選んだ字面であつたのである。其れが今日では、既に多少普遍化して来て、又語らざるに、却て仏教的な説経文学の意義に考へられかけて居る。実は、もうさうなつてもよい、と考へてゐる私である。元、漂遊者の文学、巡游伶人の文学などゝ命けて、考察を続けて来た間に、その頃此国の文学史家が、徐ろにとり入れかけたのが、もうるとん氏の文学論及び文学史に関する諸論文であつた。右の先輩の文学に対する態度は、其前から盛んであつた仏蘭西の民俗学的な研究法から、甚しく影響を受けたものであつた。其だけにおなじく、民俗学的態度に拠る事の多い私どもの研究法からは、極めて些細な点までも、差異が見え透いた。あめりか流に常識化したやりくちが、如何にも気易げに感ぜられたのであつた。そのもうるとん氏を立てる方々の間に、漂流文学と言ふ術語が喜ばれ出した時期があつた。で其混乱を避ける為に、わざと唱導文学の字面を採ることにもしたのであつた。だから、宗教以前から、その以後までを包含してゐる訣なのだ。
殊に民俗文学の発生を説く事に力を入れたい、と言ふ私自身の好みからは、是非とも此点を明らかにしておかうと考へる。さうして同時に、「非文学」及び「文学」を伝承、諷誦する事によつて、徐々に文学を発生させ、而も此同じ動向を以て、文学を崩壊させて行く、団体の宗教的な運動を中心として見ると謂つたところを、放さないで行きたいものである。
文学は旅行する
題目の少し、効果的である事は恥しいが、殆ど宿命的に、唱導文学には、旅行と言ふことがついて廻つて居たのである。まづ発生の第一歩からして、さうであつた。さうして、「非文学」が次第に、文学となつて行つて居る間にも、一方絶えず、旅行が文学となつて居た。其ほど文学は、旅行そのものであつた。私は実際口のすつぱくなるほど、異人の文学と言ふものを説いて来た。常世(トコヨ)と称する異郷から、「まれびと」と言ふべき異人が週期的に、此|土(くに)を訪れたのである。さうしてその都度、儀礼と呪詞とを齎らした。儀礼が大体において、祭祀となり、芸術的には、演劇と舞踊と、又若干の奇術とを分化した。呪詞は常に、同一詞章のくり返されてゐる間に、次第に小区分を生じ、種々の口頭伝承を分化した。何故文学が、非文学から生じたかと言ふ事の、第一条件となるものは、さうした来訪者の口唱する呪詞の固定である。だが、其よりも先に大切な事は、その人々は、実は旅行者でなく、ある邑落と不即不離の関係で、生活してゐる者でなければならなかつた。此言ひ方は実は少々、錯乱を含んでゐる。同じ村の生活者の一部が、週期的の来訪時と考へられた時期に、恰も遥かな――譬へば通例、海彼岸(カイヒガン)に在ると考へられた――国土から出発して来向つたもの、と信仰的に考へられて居た。これが多分、最古くからの正しい形で、亦最後世までも俤を存したものと見える。其に対して、或は今一つ前の姿と誤認せられ易いのは、次に言ふものである。其邑落と、平常に何の交渉もない社会生活を続けて居て、単に祭祀の短い期においてのみ、訪問して来る団体の出る、別殊の部落――多くは、訪れを受ける村よりは、小い組織の村と考へられてゐたらしい――があつた。要するに、後代まで山奥或は、岬(ミサキ)・島陰の僻陬に構へた隠れ里から、里の祝福を述べる為に、年暦の新なる機会毎に来訪すると言ふ形の、部落があつたのである。此意味において、古代日本民族の中心となつてゐた邑落に対して、海部(アマ)或は山人(ヤマビト)の住みかと言ふものが、多くは指顧する事の出来る様な近い距離に、構へられる様にもなつた。其為こそ、伝襲的に愈々盛んになつた文学上の題目、海士(アマ)や山賤(ヤマガツ)の生活があつたのである。後に段々、単に文学者の優美に触れるものとしてよりか、扱はれなかつたとしても、言語伝承として、其形骸だけでも久しく存続した訣なのだ。此意味のものも、最古い姿においては存外、邑落自身の民の派出して生じたものと見られるのである。つまり祭祀の時の神として来向ふ若干の神人が、臨時に山中・海島に匿れて物忌みの後、神に扮装(ヤツ)して来ると言ふ風が、半定住の形を採つたのである。即、さうした里離れた地における隔離生活が、段々延長せられて行つて、遂にはある邑落に関聯深い特殊な儀礼奉仕の部落が成立する様になる。とゞのつまり、祭儀の為の奴隷村と言つた形を採つて、村同士の関係が固定したまゝ、永続する様になつて行く。而も更に次に言はうとする形の団体と、部落以外の人からは同一視せられて、邑落との関係が、非常に自由になつて行く。数個の邑落と交渉を生じ、更に幾つとも知れぬ檀那(パトロン)村を生じて、祝福を職業とする乞食者(ホカヒビト)となつて行つたものもある。だから実際は、山部(ヤマベ)・海部(アマベ)の種族と言ふでふ、元日本民族の分岐(エダモノ)者であつたのが、多いのではないかと思ふ。さうして其を逆に、俘虜・新降の徒(トモガラ)、即異神を奉じて、其力を以て、宮廷及び地方的権威者を祝福するものだ、と信じられる様になつたものゝ方が、多かつたのではないかと考へる。
第三は、真の旅行団体、巡游伶人とも言ふべきものである。此こそ今挙げたものと、前後の関係を交錯して居るのである。判然と言ひわける事は、却て不自然で、謬つた結果に陥る訣なのである。先住民或は、後住族が、何時までも国籍を持つことなく、移動をくり返す事、あまりに古代日本中心民族と、生活様式を異にして居た。さうして、その訪問する邑落の範囲は、極めて広く遠く及んでゐた為に、中世武家盛んなる時に及んで、漸く人中に韜晦して了ふものが出来ても、尚その落伍者は、過去千年以前からの流転の形を保つて居た。さうして今も恐らくは、さうした種族の後と思はれる者が、南島の海士の中に、又旧日本の山伝ひをする剽悍な部族として残つてゐるものと考へられて居る。
古代からの素朴な考へ方からすれば、此形式のものばかりを考へてゐたのである。現実に存在するもの、と信じたのである。此は真実もあり、錯誤もあつたに違ひない。だが、かうした種族の存在を考へるに到つた元は、その人々と同じくして、もつと畏しいものとして迎へられた神々の群行であつたのだ。週期的に異神の群行があつて、邑落を訪れ、復来むまでの祝福をして通るものと信じてゐた事にある。此信仰が深まると共に、時として忽然極めて新なる神々の来臨に遭ふ事も、屡(しばしば)であつた。さうした定期のをも、臨時のをも、等しく漠たる古代からの考へ方で信じてゐたのである。畏しくして、又信頼すべきものとしてゐた。其等の神の持ち来した詞章は勿論、舞踊・演劇の類は、時を経ると共に、此土の芸術として形を著しく固めて行つた次第である。たとひ此等の異人の真の来訪のない時代にも、村々の宿老(トネ)は、新しく小邑落の生活精神としての呪術を継承する新人(ニヒビト)を養成する為に、秘密結社を断やす事なき様に努めて来た。其処で、ある期間の禁欲生活(モノイミ)を経た若者たちは、その解放を意味する儀礼としての祭祀において、神群行の聖劇を行つた。行道或は地霊克服を内容としての演劇であつた。又苛酷な訓練や、使役の反覆、憑霊状態に入る前後の動作、さう謂つたものが次第に固定し、意識化せられて芸能となつて来た。つまり其等の信仰の原体は、「常世の稀人(マレビト)(賓客)」なる妖怪であつた。さうして、合理化しては、邑落の祖先なる考妣(チヽハヽ)二体を中心とする多数の霊魂であるとした。我が国古風の祭祀では、その古義を存するもの程、其多くの群行する賓客を迎へる設備をしたものである。藤原の氏の長者権の移動を示すものとして、考へられてゐた朱器(シユキ)・台盤(ダイバン)の意義を、私は古くから、此賓客を饗応する権力即「あるじ」たる力を獲る事にあるとして居た。近頃、村田正言学士が、此「二種の神器」の外に、蒭量と言ふもののある事を教へてくれた。まだ円満な解釈に達しないが、字から見れば、「くさはかり」又は「ひくさ(干草)ちぎり」とでも言ふべき、古代の重さを見る計量器――即、恐らくは其容れ物――であつたらしい事は察せられる。さすれば、馬の飼葉(カヒバ)を与へる事を意味してゐるものがありさうに思はれる。
其駒
その駒ぞや われに草乞ふ。草はとり飼(カ)はむ。みづはとり 草はとり飼はむや――其駒
さゝ(ひ)のくま 日前(ヒノクマ)川に駒とめて、しばし飲(ミヅカ)へ。かげをだに(我よそに)見む――古今集 昼目
又、
いづこにか 駒をつながむ。あさひこがさすや 岡べのたま篠のうへに。たま篠のうへに――神楽 昼目
此岡に 草刈る小子(ワクゴ)。然(シカ)な刈りそね。ありつゝも 君が来まさむ御馬草(ミマクサ)にせむ――万葉巻七
類例は、煩はしい程ある。我々は昔から唯の処女が、恋人を待ち兼ねての心いそぎの現れと見て、単にいぢらしいものゝ類型と考へて来た。だが古い思案はちよつと待て、と云ひたくなる。私どもの長く最親しい同伴者西角井正慶君の新著「神楽研究」は劃期的の良書である。此章では、暫らく西角井君と二人分しやべらして頂くつもりである。神楽の「昼目歌」は、勿論其直前の「朝倉」に引き続いての朝歌である。詳しく言へば、吉々利々(キリキリ)で、明星(アカボシ)を仰いで、朝歌は初まるのである。さうして、実はもう朝倉だけで、神楽は夜の物の、「遊び上げ」になつてよいのである。だから、其を延長したものとして、昼目歌が続く訣である。御覧のとほり、昼目・其駒、実質的には変りはない。其他に、本によつて、色んな歌のついて来るのは、「名残り遊び」で、庭|浄(ギヨ)めに過ぎない。即、朝倉・昼目・其駒、一つ物の分化したゞけに過ぎないので、神楽は実に、茲きりの物だつたのだらう。此等を通じて見える精神は、「神上げ」であり、「名残惜しみ」に過ぎない。だから、神の乗り物の脚遅からむことを望むことが、同時に神を満足させる事になるのである。神送りはいづれも、さうするのであつた。だから、駒を主題として、「おなごり惜しの。また来て賜れ」の発想を、古今集の神楽(カミアソビ)歌の「さゝのくま」では、名残り惜しみの義に片寄せて用ゐて居たのだ。神楽のは、「つながむ」で其が示されて居るつもりで謡はれたのだらうが、全体としては、神讃めと言つた形に近い。さうして何だか支離滅裂な気分歌である。万葉のは、待つ間のある一日の感懐と言ふやうに見えるが、ほんたうならば、こんな表現はしない筈である。段々類型が偏傾を生じて、かうさせたのである。若しも之を神楽などに利用すれば、今度来る時への誓約(カネゴト)として利いて来る。草苅る事を禁ずる形式の歌は、此型を外にして、まだ幾つかの違つた形を持つて居る。ともかくも、遠旅(トホタビ)を来た賓客(マレビト)に対して、「その駒」に蒭飼(クサカ)ふ事は、歓待の一表出である。「其駒」自体の様に、何処に目的のあるやら、だから、腑の抜けた様な歌が、生彩を放つて来る訣である。
田楽は、恐らく固有の「田遊(タアソビ)」と踏歌(タウカ)・呪師(ジユシ)芸能の色んな形に混合したものと思はれる。だが単に庭或は、座敷芸と考へてはならない。群行即道行きの練り物であり、又「門入り」を主とするものであつた事は訣る。即、練道(レンダウ)の途次、立ち寄つて、芸能の一部を演じて行く家々があつた。水駅・飯駅・蒭駅など呼んだところから見ると、旅人の駅路を来るに擬したものと思つてよい。飯駅は、その家では屯食(トンジキ)にでもありつくのだらう。水駅は、人の上にも解せられるが、主として、馬に飲(みづか)ふ駅舎に見立てたのだらう。蒭駅は勿論、馬に飼ふ干草(ヒクサ)をくれる処との考へである。だから考へると、蒭量を藤氏の氏上相承の宝とした訣もわかつて来る。秣と称して、実は馬に扮した人の纏頭となる物が与へられたのでもあらうか。が古くは、やはり想像にも能はぬ事だが、馬糧の草籠の類が用ゐられたのであらう。「蒭」は、ひくさではあるが、秣・※[くさかんむり/坐]の様に、まくさとは訓まれないのが本道だ。馬糧にも使ふが、用途は外にもあつた。諏訪社には祭礼に廻る木並びに其他の地物があつた。此を「湛(タヽヘ)」と称へてゐる。此解釈も区々だが、大体において、神長官の順廻する所なのは、確かだ。其一つに「ひくさ湛」と言ふのゝあるのは、やはり蒭に関したものなのではないかと思ふ。かうして、主たる目的の家に達すると、賓客の外出入り禁断の中門で、最力のこもつた芸能を、演じなければならなかつた。其為こそ、後世ちらばらになつた諸国の田楽でも、凡皆「中門口」と称する曲目は、名だけでも失はず居た。此が田楽の「能」として、俤を残したと思はれるのは、名だけ伝つた「熱田春敲門の能」と称するものである。此中門は、外廓の門を入つて、更に内庭に入らうとする所にあつた。宮殿と後に言ふ「寝殿」へ通る入り口である。群行神なればこそ、中門を入らうとして此口において、芸を奏したのである。万葉巻十六の「乞食者詠(ホカヒビトノエイ)」の「蟹」の歌に、「ひむがしの中の御門ゆ参(マヰ)入り来ては……」とあるのは、祝言職者の歌である為、中門口を言うてゐるのである。後には、中門も、東西に開き、泉殿(イヅミドノ)・釣(ツリ)殿を左右に出す様に、相称形を採る様になつたが、古くはどちらかに一つ、地形によつて造られて居たものと思はれる。だから場合によつては、南が正面にも、北が其になる事も、あつたであらう。又、宮廷の如きは、四方の門を等しく重く見るのが旧儀であつて、其が次第に、南面思想に引かれて行つたものらしい所を見ると、宮廷内郭の玄輝門或は、其正北、外廓に当る朔平門に関して考へねばならぬ。其北の最外郭にあるのは、古くから不開御門(アケズノミカド)と呼ばれた偉鑒門(ゐかんもん)である。即、正南門の朱雀門に、対当する建て物であつた。彼通称を得た理由としては、花山院御出家に際して、此門から遁れ出られた事の不祥を説いて居るが、此は民俗的な考へ方だけに、史実でない事が思はれる。
北御門(キタミカド)
普通、社寺或は民家で、「あけずの門」と称する物は、必祭日或は、元旦などに、神を迎へる為に開く為のみの用途を持つて居たもの、と言ふ事は、明らかである。其だけに、此宮門正北の不開門も、昔は時を定めて稀に開く事があつた事と思はれる。北方の諸門は、皇后・中宮その他、後宮の出入所になつて居た。だから従つて偉鑒門も、後宮に関係深かつたものだ、と思はれる。所謂不開門になつてからは、その為事を達智門に譲ることになつた。宮廷に行はれた四種の鎮魂儀礼の中、鎮魂祭は、大倭宮廷の旧儀である。其外、清暑堂の御神楽と、内侍所の御神楽とでは、自ら性質が違つて居り、尚その他にも幾種類同様なものが練り込んだか知れないが、其中俤の察せられるのは、北御門の御神楽なるものゝ存在である。唯、其が独立して居たものやら、この神楽の一部分やら訣らぬ事である。恐らくこの神楽歌の名称には其北方から、宮廷に参入して来た姿を留めて居るのではないか。結局「承徳三年書写古謡集」に並記せられた介比乃(ケヒノ)神楽(気比神楽)と一続きのものであるまいか。宮廷において北御門と正式に呼ぶ事の出来るのは、此門だけである。私は曾て、偉鑒門外で警蹕をかけ、反閇を行うた神楽のあつた事を想像する。たとへば、ある神に属する神楽は、応天門――勿論朱雀門を過ぎて――豊楽院(ブラクヰン)の後房なる清暑堂に入り来つたとも考へられる。此歴史を守つたのが、清暑堂の御神楽となつた。西角井君の「研究」に拠つて物を言へば、明らかに単に、数種の宮廷神楽の一つの名称を言ふ事にとつてよいのだ。清暑堂焼亡の後も、他の殿舎の辺りで、「清暑堂御神楽」と言ふ名で行はれてよい訣なのである。此は、大内裡全体に対して行はれたものと考へる。内侍所の御神楽は、今すこし小規模で、至尊平常起臥の構内に関係したものと思はれる。言ふまでもなく、神楽奉奏の為に、神参入するのでなく、神入り来つた事の条件として、神楽が奉仕せられた訣である。後に本末顛倒して、神楽の為に時を設ける様になつたが、結局神楽は、元宮廷内で発生したものでなく、冬期の祭日に、外から入り来る異人の反閇(ヘンバイ)所作であつた事が考へられる。神楽次第からすると、内侍所の御神楽は、人長(ニンヂヤウ)の警蹕からはじまる。二声「鳴り高し」をくり返すと言ふ。即、群行神の主神が、茲に出現した形である。警蹕の本義から見れば、かうした形は第二次以下のものではあるが、ともかくも風俗歌譜で見ると、一つの歌詞のやうにまでなつて居たのだ。「音なせそや。みそかなれ。大宮近くて、鳴り高し。あはれの。鳴り高し」「あなかま。従者(コンドモ)等や。みそかなれ。大宮近くて、鳴り高し。あはれの。鳴り高し」。此から見ると、「鳴り高し」の意義が思はれる。宮門においてする警蹕なのである。内侍所御神楽は、伝来を尋ねると、確かに石清水八幡出のものである。だが、此由緒は、清暑堂の御神楽と混淆して居ないとも限らない。「韓神(カラカミ)」の歌、或は枯荻をかざし舞ふ所作などが、重要視せられ、ある種の神楽によると、韓神歌が重複したりしてゐる。其から見ると、平安京城の地主神たる薗・韓神の宮廷祝福の為に、参入した事を暗示してゐるのでないかと思ふ。
どれがどれと言ふ風に、三種の神遊以外に更にあつたと思はれる宮廷神楽を明確に分たうとする事が、不自然であり、現に其目安となつてゐる歌詞さへ、混乱してゐるのだから、出来ない相談でもある。が、北御門の神楽の所属は、ある神楽謂はゞ、中門口の芸であつた所から、詞章が少かつたのか、又全然別殊のものか、今後も、尚問題になる事と思ふ。
椎柴に 幡(ハタ)とりつけて、誰(タ)が世にか 北の御門(ミカド)と いはひ初(ソ)めけむ――北御門の末歌
三島木綿肩にとりかけ、誰が世にか 北の御門と いはひそめけむ――本
八|平盤(ヒラデ)を手にとり持ちて、誰が世にか 北の御門と いはひ初めけむ――末
此後の二首は普通は、下の句は「我韓神のからをぎせむや」となつてゐる。どちらかが替へ文句である。全体から見て訣るやうに、韓神の歌の下の句の自由性を模倣し、上句をその儘にしておいたのが「北御門」の伝文の方らしい。即、替へ歌である。韓神の歌を転用して居る点から見ても、――却て近い関係を説く論理もなり立ちさうだが――韓神とは、別の遊行神に属する神楽だと思はれる。
神楽はその奏上次第から見て、正しく宮廷外の神の練道芸能である。つまり一種の野外劇になつて行く傾向を示してゐる。だが、偶然、日本の神事の特色として、大家(オホヤケ)に練り込むと言ふ慣例のあつたのに引かれて、謂はゞ「庭の芸能」と言ふ形を主とする事になつて行つた訣だ。だから此形の外に、ぺいぜんとの形式を採つた部分もあつた事が、辿れるやうになる事と思ふ。さすれば、踏歌や、田楽と極めてよく似て居て、唯、ある差異があつたと言ふ事になる。即、神楽では、謡ひ物としては、短歌形式が主要視せられた事が、其一つである。其二は、古くから「神遊び」と称せられてゐたものに似て居て、同一の見方に這入ることが出来た事、さうして其が其特徴たる「かぐら」の名を発揮して来たこと。だから最初「かぐら神楽(カムアソビ)」など言ふ名で呼ばれて居た事を考へて見る方が、古態を思ひ易くてよい。第三は、其巡行の中心として所謂「かぐら」なるものが行進の列に加つて居た事。さうして其|神座(カグラ)に据ゑた神体が、異風なものであつたらしい事。さうして、其|神座(カグラ)に居る神の実体は、後の神楽には、閑却せられて了ふ様になつたらしい。だから神楽も、古いものほど、神体を据ゑた神座(カグラ)なるものを中心とした群行だつたに違ひない。神楽では、安曇(ノ)磯良を象つた鬼面|幌身(ホロミ)の神楽獅子に近いものだつたのではないか。
才(サイ)(ノ)男(ヲ)が、宮廷以外は、多く人形を用ゐたらしい処から見ると、神楽の形も想像が出来ると思ふ。此事は却て逆に神自身が、偶像に近い形のもので、之を持ち出す事によつて、俄かに、威霊が活躍し出すと謂つたものではなかつたかと思ふ。たとへば神楽と最関係深い八幡神布教状態から見ても知れる様に、高良山神――武内宿禰と説く――に象つたと称する人形を先頭に立てゝ歩いたのであつた。その為、高良の大太良男大太良女(オホタラヲオホタラメ)(ノ)神が、世間に知られて、大太郎(ダイタラ)法師と言ふものゝ信仰が行はれた訣である。八幡神を直に人形身で示した証拠がなくとも、其最側近なる神を偶像を以て表し、又其を緩慢にでも操(アヤツ)る事によつて、一種の効果を齎したものとすれば、石清水系統に神座(カグラ)のあつた事が考へられる。八幡神の如きも、大いに遊行する神であつて、宇佐から上つて、東大寺の大仏を拝した如きは、聖武天皇の朝の事で、其群行と主神の如何様なるものであつたかゞ、判断出来る訣である。
巡游伶人
神楽の神が旅をして、而もある種の文学を生みひろげて行く事を語つた。北御門へ来る神楽は、恐らく北方からくる神であつて、或はおなじ八幡に仮託せられる様になつたとしても、気比(ケヒ)の神らしい処が見えるのである。八幡神が、誉田(ホムダ)天皇の御事と定まつて来たのも、単なる紀氏の僧|行教(ギヤウケウ)などのさかしらよりも早く、神楽によつて、合理的な説明が試みられてゐたのかも知れない。
「優婆塞が行ふ山の椎が本」など言ふ語は、譬へば後世の所謂法印神楽などに関聯する所が多い様に見える。だが歌などは、何とでも説明出来るが、まあかうした歌を用ゐるやうになつたゞけ、遅い時代の游行神の文学の姿を示したものと、言ふ事が出来る訣である。一体神楽は、かうした旅行異人の齎した文学としては、様式こそ昔ながらなれ、内容は新しくなつてゐるのである。極めて古い物は、呪詞の形を採つてゐたのに、平安朝になると、かうした歌の形を主とするやうになつてゐたのである。而も此後といへども幾回、幾百回、かう言ふ儀礼がくり返されたか知れないのである。さうして、転じては又「今様」を主とする時代さへも、やつて来たのである。其が変じて武家時代の初頭には、「宴曲」などがその意味においての主要なものになり代り、又一転して、説経の伴奏琵琶が勢力を得るやうになつて、説経が永く本流となるやうになり、而も其が分岐して、浄瑠璃を生じる事となつた。かうして盲目の唱導者が、漸く著しくなつて行つた。
私どもは今、顧みて神楽以前、日本文学の発生時代の事を語つてよい時に達した様である。
最初に色々あげた形のうち、遠旅(トホタビ)を来るとしたものが、此論文では主要なものとならなければならぬ。従つて、此咄し初めに、神楽を主題とした訣でもあるのだ。此は単に出て来る本貫の、遥かだと言ふには止らない。旅の途次、種々の国々邑落に立ち寄つて、呪術を行ふ事を重点において考へるのである。神としての為事と言ふ事は勿論、或は神に扮してゐると言ふ事をすら忘却する様になる。すると、人間としての為事即、祝言職だと言ふ意識が明らかに起つて来る。祝福することを、民族の古語では――今も、教養ある人には突如として言つても感受出来る程度に識られてゐる――「ほく」或は「ほかふ」と言つて居た。二つながら濁音化して、「ほぐ」「ほがふ」と言ふ風にも訓(ヨ)まれて来てゐる。その名詞は、「ほき」又は「ほかひ」である。だから祝言職が、人に口貰(クチモラ)ふ事を主にする様になつてからは、語その物が軽侮の意義を含むやうになつて来た。その職人を「ほきひと」「ほかひゞと」と称したのが、略せられて、「ほきと」を経た形は「ほいと」となり、――陪堂の字を宛てるのは、仏者・節用集類のさかしらである。――又単に「ほかひ」と称せられる事になつた。此等の者の職業は、だから一面、極めて畏怖すべきものを持つて居て、其過ぎ行く邑落において、怨み嫉みを受ける事を避けると共に、呪術を以て、よい結果を与へ去つて貰はうとした心持ちが、よく訣る。即、既に神その物でなくなつてゐたとしても、神を負ふ者であり、神を使ふ者である。だから大概は、食物を多く喰はせ、又は持ち還らせる事によつて、其をねぎらひ、あたせられざらむことを期してゐた。だから当然多くの檀那(パトロン)場を廻ることになつたのである。乞食者の字面を「ほかひゞと」に宛てゝ居るのは、必ずしも正確に当つて居ないのである。此方から与へると言つた意味の方が多いのだ。かう言ふ生活法を採つて居るからと言つて、必ずすべてが前述の如き流離の民の末とは言へない。ある呪術ある村人が、其生活法を嫻(ナラ)つてさうした一団を組織した例も多いのである。彼等の間には、勢ひ、食物の貯蔵に関する知識が発達した。かれいひ(かれひ・干飯)や、鮓は、其一例である。又その旅行具が次第に、世間人に利用せられる様になつた。所謂「行器」を訓む所の「ほかひ」である。倭名鈔などには、外居の字を宛てゝ居るが、此頃すでに、は行[#「は行」に傍線]・わ行両音群の融通が行はれて居たからで、義は自ら別である。何故(ナゼ)なら、「ほかひ」には、脚のないものが沢山あつたのである。外居は、所謂猫足なる脚の外に向つた所から言ふのだとする説は、成り立たないのである。乞食者が携へ又は、荷つて廻つた重要な器具だつたからである。後世に到るまでの、此器の用途を考へると、第一は巡游神伶団の、神器及び恐らくは、本尊の容れ物であつたらしい。本尊容れで、他の用途に使はれたものは、「ほかひ」以前か、又同時にか、尚一つ考へられる。即、櫛笥(クシゲ)である。此笥に関する暗示は、柳田国男先生既に書かれてゐる。恐らく魂の容器だつたものが、神聖な「髪揚(クシア)げ」の品を収める所となつたのだ。同時に櫛以外の物も這入つて居り、而も尚元の用途は忘れられなかつたのであらう。而も行器に収められてゐると信じられてゐた本尊は、後世の印象を分解して行けば、甚幻怪なものであらう。武家時代に入つて、行器は久しく首桶に使はれた。東京芝大神宮の行器(ホカヒ)――ちぎ・ちげ又は、ちぎ櫃(ビツ)と言ふ――は、大久保彦左用ゐる所の首桶だと言ふ。而も食物容れだと言ふ事は、其処でも忘られては居ない。其上、今も祭礼・婚葬の儀礼の食物は、之に盛つて贈る風が、関東・東山の国々には行はれて居て、ほかい・ほけなど称へてゐる。一方又、梓巫女の携へてゐる筥は、行器とは形は違つてゐるが、此中に犬の首が入れてあるのだなどゝ伝へてゐる。巡游神伶の持ち物の中には、本尊と信ぜられた、ある神体の一部が這入つてゐるものだ、と言ふ外部の固い推測が、長く持ち伝へられるだけの、信仰的根柢があつたには違ひないのである。
祝言の乞食者が持ち廻つた神器が、又謂はゞ一種の神座(カグラ)でもある訣であり、同時に食器であり、更に運搬具でもあつたのだ。之を垂下し、又|枴(アフゴ)で担ひ、或は頭上に戴いても歩いて居た。時としては、之に腰を卸して祝言を陳べる様な事もあつた。武家時代に残存してゐた桂女(カツラメ)などは、「ほかひ」を携へて「ほかひ」して歩いた「ほかひゞと」の有力な残存者であつた訣である。「ほかひ」に宛てるに行器の字を以てし、又普通人の旅行にも、之が模造品を持ち歩いた処を見ても、如何に神人の游行の著しかつたかゞ察せられる訣だ。而も此「巡伶」の人々が、悉くほかひなる行器を持つて居た訣でもなからうし、同じく「ほかひゞと」と言はれる人々の間にも、別殊の神の容器を持つた者のある事が考へられる。つまり、何種類とも知れぬ、「ほきと」「ほかひゞと」が、古くは国家確立前から、新しくは中世武家の初中期までも、鮮やかな形において、一種唱導の旅を続けて居たのである。さうした団体が、五百年、千年の間に、さしたる変化もあつたらしくないやうに、内容の各方面も、時代の影響は濃厚に受ける部分はありながら、又一方殆罔極の過去の生活を保存して居た事も、思はねばならないのである。
ことほぎ
神座を持つて廻つて、遂に神楽と言ふ一派の呪術芸能を開いたものでも、亦「ほかひ」である点では一つであつた。唯大倭宮廷に古くあつた鎮魂術(タマフリ)の形式上の制約に入つて、舞踏を主として、反閇の効果を挙げようとしたのが、かぐらであり、「言(イ)ひ立(タ)て」によつて、精霊を屈服させようとする事と、精霊が「言ひ立て」をして、服従を誓ふのと、此二つの形を一つにごつたにして持つものが、「ほかひ」であつたとは言へる。さうして、ほかひの中、所作(フルマヒ)を主としたものが「ことほぎ」であつた。凡、「ほかひ」と謂はれるもの、此部類に入らないものはない。つまり純乎たる命令者もなく、突然な服従と謂つたものもない訣で、両方の要素を持つた精霊の代表者の様な者を、常に考へて居たのである。だから、宮廷、社会の為に、精霊を圧へに来ることは、常世の賓客の様でありながら、実に其地方の地主(ヂシユ)なる神及び、その眷属なる事が多い。私は、神楽・東遊などに条件的に数へられてゐた陪従(ベイジユウ)――加陪従もある――などは、伴神即、眷属の意義だと信じてゐるのだ。此等の地主神――客神(カウジン)・摩陀羅神・羅刹神・伽藍神なども言ふ――は、踏歌|節会(セチヱ)の「ことほぎ」と等しい意味の者で、怪奇な異装をして、笑ふに堪へた口状を陳べる。殊に尾籠(ヲコ)な哄笑を目的として、誇張による性欲咄と、滑稽・皮肉を列ね言ふのであつた。だから、詞章から言へば、いはひごと――鎮護詞――と言ふべきものを元として、其を更にくづして唱へたものらしい。「歌」物語以外において、日本文学の滑稽の出発点を求めれば、此点を第一に見ねばなるまい。態度としての滑稽は、「歌」ばかりからは出て来ない訣だからである。歌物語における滑稽は、歌諺類を、すべての人をして、信じ難い方法で以て、而も強ひて巧みに説明する技巧から出て来るのである。だが、其外に確かに、今挙げた別途の笑ひの要素が含まれてゐる。
かうした「いはひ詞」を持つて、諸国の檀那場を廻る様になる。其が、進むと千秋万歳(センジユマンザイ)である。此は、平安朝に早く現れて、而も人の想像する程の変化もなく、近代の万歳芸に連接してゐるのである。
併しさうした笑ひを要素とした祝言職以外に、もつと古風な呪芸者の群れがある。自団の呪術――主として禊祓の起原に関聯した叙事詩を説く事によつて其術の効果の保証せられるものと信じて居た――を持つて廻つた、各所の霊地の神人団が、其だ。此に信仰の宣布と共に、新地の開拓と言ふ根本的目的を持つて居た。つまりある信仰の拡まる事は、其国土の伸びる事となるのだ。
天子の奉為(オンタメ)の神人団としては、其|朝(テウ)々に親※[目+丑]申した舎人(トネリ)たちの大舎人部(オホトネリベ)――詳しく言へば、日置(ヒオキノ)大舎人部、又短く換へて言ふと、日置部|日祀部(ヒマツリベ)など――の宣教する範囲、天神の御指定以外に天子の地となる。皇后の為にも、同様の意義において、私部(キサイツベ)が段々出来て行つた。かうして次第に、此他の大貴族の為に、飛び/\に認可せられた私有地が出来て来る。さう言つた地には、此に其建て主又は、其邑落に信奉せられてゐる呪法の起原の繋る所の叙事詩の主人公――元来の土地所有者の生涯の断片に関して語り伝へたものである。さうして、同一起原を説く土地の間において、歴史的関係が結ばれて来る訳である。
過去の人及び神を中心として、種々の信仰網とも言ふべきものが、全国に敷かれて居たのである。之を行うたのは、誰か。言ふまでもなく、巡游伶人である。而も、其中最その意味の事業を、無意識の間に深く成就して行つたのは、何れの団体であらう。其は、海部の民たちである。
之を外にしては、大体において、山部と称へてよい種類の、山の聖水によつてする禊ぎを勧める者が多く游行した様に思はれる。
まきもくの 穴師の山の山びとと 人も見るかに、山かづらせよ
穴師(アナシ)神人の漂遊宣教は、播磨風土記によつて知られるが、同時に此詞章が、神楽歌|採物(トリモノ)「蘰(カツラ)」のものである事を思ふと、様々な事を考へさせられる。山人が旅をする事の外に、近い里の祭儀に参加したのである。さうして祝福の詞を述べた事が屡あつた。此は、奈良都以前から行はれて居た事で、更に持ち越して、平安朝においてすら、尚大社々々の祭りに、山人の来ること、日吉・松(ノ)尾・大原野の如き、皆其であつた。
海部と言ひ、山人と言ひ、小曲を謡ふやうになつたと言ふ事は、同時に元(はじめ)長い詞章のあつた事を示してゐるとも言へる。呪詞又は叙事詩に替るに、其一部として発生した短歌が用ゐられることになつたので、之を謡ふことが、長章を唱へるのと同等の効果あるものと考へられたのである。だが同時に、小曲の説明として、長章が諷唱せられる事があるやうになつた。即順序は、正に逆である。かう言ふ場合に、之を呼んで「歌(ウタ)の本(モト)」と称してゐた。歌の本辞(ホンジ)(もとつごと)言ひ換へれば、歌物語(ウタモノガタリ)の古形であつて、また必しも歌の為のみに有するものと考へられて居なかつた時代の形なのだ。
古く溯る程、歌よりも、その本辞たる叙事詩或は、呪詞の用ゐられることが、原則的に行はれてゐた。歌の行はれる様になると、同時に「諺」が唱へられたらしい。「諺」は、半意識状態に人の心を導く一種の謎の様な表現を古くから持つたもので、同時にある諷諭・口堅めの信仰を含んでゐるものでもあつた。簡単な対句(ツヰク)的な形式の中に、古代人としての深い知識を含んでゐるものでもあつた。だから、諺に対しては、ある解説を要する場合が多く、其解説者としての宿老(トネ)が、何処にも居つたのである。其で諺については、どうしても説話が発達しないでは居なかつた。歌と呪詞・叙事詩との関係を、寧逆にしたのが諺の場合である。所謂歌から生じた後の歌物語なるものは、諺とその説話との関係を見倣つて進んで来たのだと言ふことが出来る。諺の最(もつとも)諺らしい表現をせられる時は、即「謎(ナゾ)」に近づいて来る。と言ふより、謎は此から出たと言ふのが、正しいであらう。懸け合ひすることを、祭祀の儀礼の重要な部分とするのが、古代の習慣であつた。神及び精霊の間に、互に相手方の唱和を阻止する様な技巧が積まれて来てゐた。即応する事が出来ねば負けとなる訣である。元来は真の頓才(ヰツト)による問答であつたらうが、次第に固定して双方ともにきまつたものをくり返す様になつた事である。唯、僅かづゝの当意即妙式な変化と、順序の飛躍とがあつたに過ぎないであらう。
歌物語においては、如何にも真実らしく感じる所から、自然悲劇的な内容を持つものが多くなつて行くが、諺物語においては、次第に周知の伝承を避け、而も意表に出るを努める所から、嘘話としての効果をねらふ様になり、喜劇的な不安な結末を作る方に傾くのである。
早歌(ハヤウタ)
(いづれぞや。とうどまり。彼崎越えて)
本」何処だい。行き止りは。末」そんなこつちや駄目だ。あの崎越えてまだ/\。
(み山の小黒葛。くれ/\。小黒葛)
本」山のつゞらで言へば、末」もつと繰れ/\。山の小つゞら。
(鷺の頸とろむと。いとはた長ううて)
本」鷺の首をしめようとすると。末」ところが又むやみに長くつて
(あかゞり踏むな。後なる子。我も目はあり。先なる子)
本」踵のあかぎれを踏んでは困る。うしろの人間よ。末」言ふな。おれだつて、目がついてるぞ。先に行く奴め。
(舎人こそう。しりこそう。われもこそう。しりこそう)
本」若い衆来い。ついて来い。末」手前も来い。ついて来い。
(あちの山。せ山。せ山のあちのせ)
本」向うの山だから、其で背山だ。末」背山でさうして、向うのせ山。
(近衛のみかどに、巾子(コジ)おといつ。髪の根のなければ)
本」陽明門の前で、冠の巾子をぽろりと落した。末」為方がないぢやないか。髪のもとゞりがないから。
(をみな子の才(ザエ)は、霜月・師走のかいこぼち)
本」そんなら問はう。婦人の六芸に達したと言ふのは。末」十一、十二月に、少々降る雨雪で、役にも立たぬ。
(あふりどや。ひはりど。ひはりどや、あふり戸)
本」ばた/\開く戸。(其も困るが)つつぱつてあかぬ 末」(此奴も困り者だ)。つつぱり戸に、ばた/″\戸。
(ゆすりあげよ。そゝりあげ。そゝりあげよ。ゆすりあげ)
本」戸ならばゆすつてあげろ。しやくつてあげろ。末」しやくつてあげろ。ゆすつてあげろ。
(谷からいかば、岡からいかむ。岡から行かば、谷から行かむ)
本」お前が谷から行くとすりや、おれは高みから行かう。末」お前が高みから行くとすりや、おれは谷から行かう。
(これからいかば、かれからいかむ。かれからいかば、これからいかむ)
本」お前が此処をば通るなら、おれは向うを通る。末」お前が向うを通るなら、おれは此処を通る。
かうした口訳を作ることは、くどい事だし、尚、当然誤訳もあるだらうし、私自身に別説もある。これは頓作(トンサク)問答だから、早歌と言つたのだが、歌と言ふほどの物でもなからう。その中「近衛御門云々」は即座の応酬だらうし、「女子(ヲミナゴ)の才(ザエ)云々」は諺だつたらう。
神楽の歌詞から、神楽の原義は固より、その過程を引き出さうとする事の無謀であることは、勿論の事である。其だけ替へ歌が、沢山這入つて来てゐる訣だ。だが、早歌を見ると、如何にも山及び遠旅の印象が、明らかに出てゐる。其上に、「近衛御門に巾子落いつ」などになると、踏歌に出る仮装者の高巾子(カウコンジ)や、其に関聯して中門口の行事などが思ひ浮べられる。謡ひ方も勿論早かつたであらうが、其は問答に伴ふ懸け合ひの早さであり、頓作問答としての意義を含んでゐるのである。人長・才男の問答で、其早歌が流行した結果、白拍子歌にまで入りこんで、幾つもの今様を懸け合ひで連ねて行くところから、宴曲の早歌が出て来たものと考へられる。ともかくも、神楽においては、才(サイ)(ノ)男(ヲ)は、これで引きこみになる訣で、全体の趣きから見ても、名残惜しみの様子が見えてゐる。
海部の伝承は、記紀・万葉を見ても、其物語歌の性質から見て、或は、その名称から見て察する事の出来るものが多い。更に大きな一群としては、海語部(アマガタリベ)の手を経て宮廷に入つたものと思はれるものがあるのである。此には多少の疑問はあり乍ら、私どもにとつては、既に一応の検査ずみになつて居るのである。現在の処では、山人及び山部に属する人々の伝承は、鎮魂とその舞踊とが名高くなつて、其詞章の長いものは、わりに失はれたものが多い様に見える。今度の試みにおいて、西角井君の為事を記念する意味において、神楽を主題にしたのも、実にこゝに一つの焦点を結ばうとした理由もあるのだ。日本紀には、「山」について、却て大きな伝承群のあつたらう趣きを示してゐる。応神帝崩後、額田(ヌカタ)ノ大中彦(オホナカツヒコ)、倭ノ屯田・屯倉を自由にしようとなされて、是屯田は元来「山守ノ地」だから、我が地だと言はれた。大中彦は、大山守尊の同母弟だからと言ふが、実は一つの資格なのだ。大鷦鷯尊、倭ノ直(アタヘ)祖麻呂を召し上げて、其正否を問はれた時、「私は存じません。唯、臣の弟|吾子籠(アコゴ)、此事を知れり」と奏上した。其で、韓国(カラクニ)に使して居た同人を急に呼び寄せられた。吾子籠の御答へには「倭の屯田は天子の御田です。天子の皇子と申しても掌る事は許されぬ事になつて居ます」と答へたのは、倭ノ直氏人の中、神聖な物語を継承する資格即|語部(カタリベ)たる選ばれた力が吾子籠にあつたのだ。さうして、倭氏であるだけに、「山」に関係が深かつたのである。山神に仕へる資格を持つた倭国造家の人である。これも単に唯、保証人と謂つた為事だけなら、わざ/″\韓国から、氏人の中、限られた者の呼び寄せられる理由はなかつた筈だ。
かうした「山の伝承」が、山人、山部及びその類の神人の間にあつたのが、早く詞章を短縮した歌殊に短歌の方に趣いたのは、神遊(カムアソビ)詞章の特殊化であつた。私などは、海部が其豊富な海の幸と、広い生活地を占めてゐる為の発展力を、何処までも伸して、神遊びまでも、平安朝に到つて自家のものを推し出して来たが、元は、「山神楽」が重要なものだつたと思ふ。「採物」を見ても、殆(ほとんど)山及び山人、山の水に関係ある物ではないか。
あまりに物を対比的に見ることは、誤つたしうちに違ひないが、私は後世式にかう言はう。海部(アマ)の浄瑠璃、山部の小唄。即前者は、平安期の末まで、長い叙事詩を持ち歩き、後者は早く奈良朝又は其前にすら短歌を盛んに携行したものと見られるのである。たとへば、山部宿禰赤人、高市連黒人、皆山ノ部に関係深い人々である。柿本ノ朝臣人麻呂にしてからが、倭の和邇氏の分派であり、其本貫、其同族を参考にしても、山に関係が深いのである。かう言ふ見方は、必しも正確を保する事は出来ない。が、一応は考へに置いて見る必要がある。
ひと言
私の言ふべき事は、単に緒についたまでゞある。此等の海及び山の流離民(ウカレビト)が、国中を漂遊して、叙事詩、抒情詩を撒布して歩いた形から、其が諸国に諸種の文芸を発生する事を述べるのは、此からである。其上、其中心は、何と謂つても、都の流行である。此芸能者の交迭が、色々な文学・芸能を、宗教的に説経的に生んで行く事を、もつと落ちついて咄す筈であつた。だが、其に入る前に制限は、既に遥かにのり越してゐる。是非なくこゝに筆を擱く。だが、日本の唱導文学は、此後何時までも、江戸の末期までも、形こそ変へたれ、主題は一つ。神――及び仏――の流離|転生(テンジヤウ)を説くものゝ、種々な形の変化である。さうして、其が近代ほど貴人となり、又理想的雛男となり易るだけであつた。さうして、江戸期において、ほゞ大きな四つの区分、説経・浄瑠璃・祭文(サイモン)・念仏が目につくが、此が長く続いた叙事詩の末である。其他にも幾多の芸能文学が出没したが、すべて皆奴隷宗教家の口舌の上に転(コロ)がされることによつて維持せられて来た事も、一つの忘るべからざる事実である。  
 
唱導文芸序説 2

唱導といふのは、元、寺家の用語である。私の此方面に関心を持ち出したのも、実はさうした側の、殊に近代に倚つての、布教者の漂遊を主題としてゐた。だが、最近さうした方法が、寺家及びその末流――主として、此等の人々の自由運動に属する者が多いが――の採用することになるよりも前の形の方が、もつと大切な事の様に考へられて来た。即日本における、特殊な文学運動でもあり、又其よりも更に、大きな宗教運動の形を作る基礎になり、又地方経済生活の大きな因由を開いたものなることを、思はずに居られなくなつたからである。
唱導文学と言ふよりも、寧唱導芸能といふ方が、更に適切らしい気がする。其ほど、関聯深き他の芸との連鎖が緊密であつて、到底放しては、考へることの出来ないものなのである。だが、其れの文学側から見たものなることを意味させる為に、仮りに唱導文芸と言ふ程の名にしておきたい。文学であることよりも、まづ声楽であつたのである。更に多くは、単なる声楽たるに止らず、舞踊をも伴うて居たのである。又更に、ほんの芽生えではあるが、演劇的の要素をも持つて居り、後代になると、偶人劇としてある程度まで、発達した形をすら顕して来る様にもなつた。類似の芸能の上に見ても、必奇術・曲芸の類の演技をも含んで居つたことが思はれる。殊に、其が漂遊を、生活の主な様式とする人々の間に発達したことにおいて、後世の所謂演芸分子の愈増大した事が想はれ、又事実において、さうした傾向が、著しく窺はれもするのである。
唱導文学とは、宗教文学であると共に、宣教の為の方便の文学であり、又単に一地方の為のみではなく、広い教化を目的とするものである。ある宣布を終へた地方から、未教化の土地へ向けて、無終に展べられて行く事を考へてゐる者でなくてはならない。だから当然、旅行的な文学である。さうして唯、其文学が旅行するばかりでなく、文学そのものゝ主題が亦、旅行的なものにすら傾いて来るのである。此は、概論でなく、事実であつた。譬へば、最後代的なものを捉つて見ても、さうである。
高野山に於ける浄土聖、萱堂の非事吏(ヒジリ)の間に発達したと思はれる苅萱道心親子の物語は、出発点を九州に、頂点を高野山に、結末を信州に置いて、一見、此説経者の文芸が、其三つの地の何れに発祥したものか知れなくなつてゐる。又、おなじ五説経の「山椒太夫」にしても、前者が、善光寺親子地蔵の縁起である様に、「かなやき地蔵」の由来と伝へて、丹後由良湊の事の様に見えてゐるが、事実は津軽岩木山の神と、切つても切れぬ因縁を持つてゐる。簡単な結論の容易につけられない問題ではあるが、ある部分まで言うて正しいことは、一つの地方に根ざした信仰が、搬ばれて行つた途中にも、根を卸す場所が出来て、其処を以て、一条の物語の結末を告げ、又くらいまっくすを作ることになつたのである、と言ふ見方も確かに成り立つのである。文芸が旅行することによつて、その物語の主人公も、漂遊を重ねると謂つた風に考へられ、更に其旅程も、次第に確実なものとなつて来る訣である。其文芸の中、可なり古代的なものから見ても、さうである。譬へば、「天田振(アマタブリ)」として、大歌――宮廷詩――に採用せられたものに就いて見ても、さうである。啻(ただ)に謫流地の伊予と、元の地なる都との間における事件を述べるに止めずして、尊い女性が、思ひ人の後を追うて漂浪する風に語りひろげる様にすらなつてゐる。旅行の主題に添うて物語られる事によつて、次第に旅の気分が深まつて来てゐるのである。譬へば又、「天田振」の、やゝ文学的要素の濃度を加へたと思はれる、石上乙麻呂(イソノカミノオトマロ)の土佐流謫事件を謡うた万葉集所収の小長歌にしても、さうである。乙麻呂自身の心に浮んで来るはずのない様な叙述の詞章の心の底には、先行して行はれた天田振が流れてゐるのである。而も之を、幾種かの類型を間に立てた中臣宅守・茅上(ノ)郎女の相聞歌と比べて見ると、其が文学意識を濃厚に持つた極めて長い連作短歌の集団と言ふ特殊な形をはつきり出してゐる。其は一方にかうした二つの事件を表現する上において、幾様かの同時代の相が見られるのだとも言へよう。即、ある層においては、古物語の中の、くどきの部分とも見るべき形で、如何にも、個性乏しいものになつて出て居る。が、又ある層に属する人々は、之を新文学における、地の文は漢文、抒情部分短歌と謂つた、奈良期の新感覚に適した様式に為立てあげて来た訣なのだ。而も、此二篇とも、旅行の印象を叙べる側に、著しく進んで来た事を示してゐる。
この様に、事件を叙述する事よりも、旅先又は旅の中途の感情を主とするのが、つまり二つの土地の聯絡と言ふことを心に持つて来たことを示して居るのである。謂はゞ後者は、古い道行きぶりの形の進んだものであり、前者は、主題以外は齣毎に目的を展開する多幕劇に近づいて来てゐるのだ。だがともかくも、唱導的な意義の遺却せられない文芸として、一貫的に、その信仰の中心たる神・仏或は人の、其大を成すに到る道程の発達を意味する苦しみを語る事に力を集めて居り、其に多くの漂浪の歎きを絡まして居る。
日本古代における威力神が、常にある旅程を経て来り、而もかよわい神であつた者が、此土において、俄かに其能を発揮すると考へられた――と言ふよりも、逆にさうした信仰を生み出す習俗が行はれて居た――ところから、かうした唱導の主題は生まれて来るのである。同時に又、多趣多様の唱導が、元極めて少数類型の分化に過ぎなかつた事も考へられるのである。だから、此種の文芸は、古い物程、罪障によつての流離を説く。此点殊に、説明を要する所であるが、今は此程度に止める。此は、その神人の奨める禊祓の法の起原を説明し、贖罪の原由を、神に基くものとする様になつて来てゐるのである。
わが国の古代宗教の中、旅行による布教法をとつたもの――すべての宗教が、其であつたに違ひないが――は、何時からか、海の水或は、山の水を以てする禊ぎを、儀礼の中心としたものであつた。時としては、単に其を行ふ呪法そのものゝ様にも見えた。さうして、神は其を人々に慂める為に、此土に姿を現(ゲン)じて居るものゝ様にすら考へられた。さうして多くの場合、此神自身之を行ふ事の代りに、神の介添へとも、神の育て主とも言ふべき大忌人があつて、神を守(モ)りながら、諸国を歩く。
さて、此神人団は、時として分裂して、ある適当な地に残り、一部は更に旅行を続けて行くと謂つた形を持つて居た。さうして、其儀礼の威力を正当に顕す為に、其神と、其儀礼との関聯する本縁を説く所の詞章を諷誦したものらしい。
譬へば、穴師(アナシ)神人の山の聖水を以てする呪法は、恐らく穴師部所伝の詞章を生んだものと思はれる。即、穴師|兵主(ヒヤウズ)(ノ)神(カミ)なる水神に関する物語として、抱き守りの巫女と、幼君を主としたものに飜訳せられ、一つの「ひな神」信仰の形を採る事になつた。又譬へば、丹後風土記逸文に見えた、八処女起原説明古伝とも言ふべき、天(ノ)真名井の羽衣物語である。記述では、わなさ翁は、薄情な人間悪の初まりを見た様に説かれてゐるが、此物語の彼方に見えるものは、わなさ翁なる神人にして、遂に神と斎かれたものが、元ひな神の抱き守りだつた俤を持つてゐることである。「阿波来経(アハキヘ)わなさ彦」と言ふ出雲風土記に見えた神は、尠くとも出雲国だけで言へば、ある古代に阿波の美馬(ミルメ)から、此亦出雲に斎かれた社の多い「みぬま」の女神を将来した神人の神格化したものである。此「みぬま」の女神の、信仰の中心となつたものは、天真名井に行はれた以来の行法と信ぜられた禊ぎである。此が亦宮廷の神及び主上に伺候する丹波の八処女の起原であると共に、丹後風土記には、みぬま――風土記的には、ひぬま――の女神自身、禊ぎをした事の様に伝へられてゐる。
わなさ神人の手で育まれたひな神、長じて家を放たれ、漂浪して遂に道に斃死し、其が復活転生して威力ある米の神――飯及び酒の神――となる。かう言ふ風に、代表的な遊行神伶の持ち伝へた神の姿を見せて居る。
此丹後風土記所伝の女神の物語は、甚竹取物語の要素に牽かれて来た様に見える。どうしても、禊ぎの介添へたる湯坐(ユヱ)の巫女と、巫女の父なる大忌人との上に今一つ、此物語では、巫女の陰に没してゐる幼神があつたに相違ないのだ。即、竹取型になる以前の形があつて、誉津部(ホムツベ)・多遅比部(タヂヒベ)などの部曲伝承に近かつたものと思はれる。
誉津部の伝承と思はれるものは、此|子代部(コシロベ)の開祖誉津別皇子の歴史を説いた貴種養育譚において、出雲風土記所伝の鴨神あぢしきたかひこねの物語と殆ど一つである。又謂はゞ、通常称する所の鴨神の其父神大国主、更に其父神すさのをにも、共通する部分がある。即、妣の国を慕ひ哭く荒神の慟哭の描写は、「八拳(ヤツカ)髯|胸前(ムナサキ)に垂れ云々」からが、其印象のまゝである。又、兄八十神に殺されては、復活を重ね、其都度偉大に成り整うた大国主の、母神及び貝(カヒ)姫の介添へを得た様は、全くそのまゝ誉津別皇子の物語に入つて居る。而も、此皇子の威力は、出雲大神の霊験に由つて現れることになるのだから、どうしても、上の二柱を祖神とする出雲国造家の禊ぎに由来するものなることは察せられる。而も、其出雲人の系図は、記紀何れの伝へで見ても、殆ど総べて水神――寧、水の聖役を奉仕する者として――を列ねてゐるもの、と考へられるのである。我々に伝はらない事で、出雲の神道には、喫ぎを中心とした鎮魂術の存在して居た事を示すものであらう。其上此行法に由る布教と、その由来を説く詞章とがあつたらうと言ふことが考へられる。
又一方、多遅比部の伝承とおなじものが、少なくとも三種類は見られる。幼神をとりあげ・養育(ヒタ)す事を説くに、やはり選ばれた「島の清水」――淡路の瑞井――と、特殊な呪法とのあつたことが窺はれる。而も歴史の記述以外に、丹氏(タンシ)の広く諸国に拡つてゐるのは、此物語を以て、儀礼の起原と威力とを盛んにした布教団のあつた事を示すものである。
偶然乍ら、誉津部の場合には、幾分其痕跡が見られる。古事記によると、皇子、出雲大神を拝みに、大和から出向かれる時、到る所に誉津部を残された由が見えてゐる。つまり、此皇子を中心にして、出雲神道の分派を、宣伝した神伶部曲が、其止る所毎に部落を構へ、又幼神養育の物語を伝へて行法を事とした痕を示してゐるのだ。
凡、かう謂つた種類の数限りない古代の宣教部曲は、その構成と方法と、旅行の形と詞章の内容とに亘つて、類型的なものを通有してゐたことは事実だつたらしいのである。
私は、此等の部曲の運動から説き起して、日本における宗教文学の内容と形式との推移を尋ねたいと考へてゐるのである。
私は、今日この原稿を江州日野の外山に向ひ乍ら、書いてゐる。明日からの数日は、緘黙(シヾマ)の近代民なる木地屋の本貫、君(个)畑・大君(个)畑の山わたりして、勢州へ越える。その山道が空想らしく、極めて寂しげに浮んで来る。実は、此黙々たる山の部曲も、昔はある文芸を携へて、里人の上に唱導の影を落して過ぎたのではないか。かうした考へすら、ひらり/\心をかすめて通つてゐる。  
 
日本において編纂された説法資料に関する考察

要旨
唱導と称される営為は、宗教を布教する方法として広く用いられてきた。日本仏教においても経典や教義を説き明かすべく、さまざまな「場」に、あらゆる階層の人々を対象として営まれたことが知られる。説法・説経・談義・法談など、同種の営為を表現する語は数多い。が、「唱導」という語は、種々に行われた布教活動の総称として、宗教さえ限定することなく、幅広く用いられている。日本では「富樓那尊者再誕」と称されるほどに「説法の上手」と讃歎された学侶が、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した。安居院澄憲である。澄憲は、国家行事として営まれた法会や、貴族の私邸で営まれた私的な法会など、知識階層を対象として活動した天台僧である。澄憲が法会において表白した「説法詞」は記録され、それを伝えるテクストも現在に至るまで少なからず伝存している。現在、日本仏教における唱導が、澄憲の説法、後に「安居院流唱導」と称される説法を中心課題として研究されているのは、澄憲が「説法の上手」であったからでなく、説法を一道とみなすために「説法道」を提唱し、本来「語られる言葉」であって、記録することを義務付けられていなかった「説法詞」を記録し、テクスト化したことによっている。では、澄憲の説法はなにゆえに「上手」と評価されたのだろうか。これまでの研究史を紐解きながら、伝存する説法資料など読み解きつつ考えることにしたい。
一、「安居院流唱導」の始祖と「説法道」
『平家物語』諸本の一つに数えられる『源平盛衰記』巻第三には、承安四年(1174)五月に営まれた最勝講をめぐる一話が記されている。
今年ノ春ノ比ヨリ天下旱魃シテ、夏ノ半ニ至リ江河流止リケレバ、土民耕作ノ煩ヲ嘆、国土農業ノ勤ヲ廃ス。井水絶ニケレバ、泉ヲ堀テゾ、人ハ集ケル。清涼殿ニシテ恒例ノ最勝講被二始行一。五月廿四日ハ、開白也。二十五日ハ、第二日也。朝座ノ導師ハ、興福寺権少僧都覚長、夕座ハ山門ノ権少僧都澄憲、々々天下ノ旱魃ヲ嘆、勧農ノ廃退ヲ憂テ、啓白ニ言ヲ尽シ、龍神ニ理ヲ責テ、雨ヲ祈乞給ケリ。
『源平盛衰記』には、右に引用した箇所に続けて、安居院澄憲が啓白(表白)した「説法詞」を記録し、澄憲が祈雨を果たした効験によって勧賞に預かった顛末を記す。本話は、澄憲が権大僧都に勧賞された経緯を史実に基づいて語るもので、九条兼実の日記『玉葉』ほか多くの記録に伝えられている。澄憲が啓白した「説法詞」も、醍醐寺蔵『表白集』に「最勝講第四座啓白詞 但除釈経之詞」と題して収録される(後藤丹治『戦記物語の研究』筑波書店、1936)ほか、少なからざるテクストに確認することができる。ただし『玉葉』は、この勧賞をめぐって次のように伝えている。
或人云、今度勧賞等事、法皇不許之、執柄強之云々
澄憲を権大僧都に勧賞することに、後白河法皇は難色を示したが、関白藤原基房(松殿)が強行したというのである。最勝講は法勝寺御八講・仙洞最勝講とともに「三講」と称せられ、「玉体安穏、宝祚延長」などといった言辞に象徴される、天皇や国家の安泰を祈願するために営まれた公的法会であった。この時期、「三講」の講師に勤仕することは僧綱補任の要件とされており、この講師が勧賞に預かった事例も多かった。また承安四年には、祈雨を果たした効験によって、醍醐寺や東寺の密教僧が勧賞されている。後白河法皇が澄憲を勧賞することに積極的でなかったのは、いかなる所以であったのだろう。『玉葉』には、関白(松殿基房)と余(九条兼実)の言を伝えて、
関白又被語余云、啻非感説法之優美、被尊祈請之効験也、則是炎旱性渉旬、民戸有愁、仍祈以請雨、蓋是御願之趣也、昨日祈申此趣、言泉如涌、聞者莫不動心情、自暁天果以降雨、故有此叡感者也者、余云、有先例哉、関白云、依説法雖有勧賞之例、不被仰勧賞、無御感之例、今度可無勧賞哉者、余云、唯不堪説法之優美、猶有不次之朝恩、何況今已有祈雨之霊験、何無其賞哉者、関白諾
と記されてもいる。松殿基房が、澄憲の説法を「啻に説法のを感ずるのみならず、祈請の効験を尊ばるるなり」と評価したことは注目されよう。真言宗小野流の開祖である仁海が請雨経法をよくして「雨僧正」と称されたことは周知だが、仁海以後も請雨・祈雨を果たすべく、東密を修する僧は孔雀経御読経や請雨経法など行い、その効験は僧綱補任の要件とされていた。が、承安四年の最勝講において、澄憲が祈雨を果たしたのは、竜神を感応せしむる「説法詞」によってである。『法則集』(信承撰、安居院における作法故実を伝える一書)には、説法について「総三段也。表白・正釈・施主段也」と解説している。澄憲が祈雨を果たした「説法詞」が、この三段のうち「施主段」に表白されたものであることは、すでに指摘したことがある(拙稿「安居院澄憲の〈説法〉」『仏教文学』24,2000)。最勝講のような顕教法会では、教学研究の披露としてある「論義」や、説法における三段のうちでも経典解釈を講説する「経釈」に眼目があった。護国経典を講説し論義することによって「玉体安穏、宝祚延長」すなわち天皇や国家の安泰を祈願したわけである。澄憲を勧賞するか否か。それは「経釈」や「論義」でなく、「施主段」における言辞によって祈雨を果たしたと認めるべきであるか否かが決せられることだった。
では、澄憲が「施主段」において表白した「説法詞」とは、いかなる言辞であったろうか。澄憲は最勝講の願旨を通例のごとく
寔是、鎮護国家第一之善事、攘災招福無双之御願也
と述べ、その意図を請雨祈願に読み替えるべく「抑も、厳重御願の筵、天衆影向の場に当たりて、聊か訴へ申すべきの事あり」と表白しており、続いて
伏見我聖朝御願、金光最勝両会、迎春夏無怠、帰仏信法御願、送歳月弥盛、而項年七八箇年、毎歳有旱魃之憂、不知如何
と転じつつ、「旱魃の憂へ」が起こった原因を「恐らくは龍神の嗔を為すこと有らんか」と明している。そして、旱魃を含む天災が「聖代・治世」に生じた例証として、漢朝における「九年の洪水」と「湯七年の炎旱」、本朝における「貞観の旱」「永祚の風」「承平の煙塵」「正暦の疾疫」を列挙し、「朝に善政あり、代に賢臣多けれども、天災の災気は、実に遁るること能はず」と述べつつも、承安四年の旱魃については「而して近年の小旱に至りては、普天に満ち遍つるの災に非ず、紀運然らしむの反に非ず。恐らくは龍神聊か相嫉み、天衆少しく祐けざる事あるか」と切り返す。そして先ず、
我大日本国、本是神国也。天照大神子孫、永為我国主、天児屋根尊子孫、今佐我朝政。以神事為国務、以祭祀為朝政。善神尤可守之国也。龍天輙不可棄之境也
と述べ、またさらに「何況や欽明天皇の代、仏法初めて本朝に渡り、推古天皇より以来、この教盛に行はるるをや」以下、聖武天皇の御宇に大仏が造立され、畿内・七道に寺院が建立されたことや、上宮太子・行基菩薩・弘法大師・伝教大師の寺院建立を列挙して、本朝における仏法興隆の有様を説き、「法弘まりてまた滅ぶる時あり。道盛にして必ず衰ふる国あり」と続けて、天竺における法滅の事例(耆闍崛・毘舎利国など)に「阿育大王正法に帰して後、弗沙密多のために滅ぼされ、梁の武帝正法を崇めし後、唐の武宗のこれを滅すに値へり」と加えて、天竺や震旦に比べても、いかに本朝が「帰仏信法」なる国土であるか、「我が国家一たび仏に帰して永く改むることなく、一たび法を弘めて遂に堕ちざらんには。欽明より当今に至るまで五十二代、いまだ仏法に背くの君を聞かず、推古天皇より以来五百七十余年、いまだ仏法を棄つるの代を見ず」と説き明かして、ようやく祈雨を果たすべく、次のように言い放ったのである。
天人不護我国者、即不護常住三宝、龍神若悪我国者、即奉悪三宝福田。
不降雨失地利者、仏界皆施供養、不止災損人民者、出家定滅徒宗歟。
護国四王、発誓願於仏前、龍神八部、奉仏勅於在世。
忘護法誓於心中歟、誤我国風於眼前歟。
天人龍神、過勿憚改。速降甘露雨、忽除災旱憂
澄憲は、本朝が「帰仏信法」の国土であることを執拗に述べるとともに、旱魃が生じたのは、龍神が仏法擁護の誓願を違えたゆえと責め立てたのである。『源平盛衰記』に「啓白に言ヲ尽シ、龍神ニ理ヲ責テ、雨ヲ祈乞給ケリ」と読み解かれていたことを想起させる。『源平盛衰記』には、「理」により責め立てた弁舌に、龍神が感応したことを加えるべく、
龍神道理ニセメラレ、天地感応シテ、陰雲忽ニ引覆、大雨頻ニ下ケリ
と記されてもいる。龍神の感応は、澄憲の「詞」によってもたらされ、その巧みなる弁舌ゆえに得られたのである。降雨に至ったとはいえ、読経や修法と同様に、その効験を認めるべきであるかが躊躇われたとしても首肯される。が、澄憲は勧賞されたのである。この勧賞を経て説法は、読経や修法と同様に効験あるものと公認されたわけである。
安居院澄憲は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した天台僧である。諸記録によって、同時代の人々から「富楼那尊者の再誕」と称され、「説法の上手」の名声を欲しいままにしたことが知られる。しかし、承安四年の最勝講における顛末には、読経や修法と同様に効験を現すものと、説法について認識されていなかった事情を読み解かせる。澄憲以前にも「説法優美」の文言をもって称讃された学侶は数多く存在したし、もちろん平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて「説法の上手」と謳われたのも澄憲だけでなかった。そして、そういった学侶が勧賞に預かる事例も少なくなかったのである。しかし澄憲は自ら得意とし、称讃を博された説法によって、祈雨の効験を認められたのである。龍神を感応せしめた「説法詞」は、後白河法皇に召し上げられることともなる。
最勝講啓白詞、謹以令注進候、一驚叡聞忽蒙異賞、再及叡現、一道之光栄、万代之美談也。骨縦埋龍門之土、名宜留風闕之雲、喜懼之至、啓而有余而也、澄憲恐懼謹言
記録化した「説法詞」に添えられた「注進文」には、澄憲の口吻を伝えて余りある文言が綴られている。説法、さらにいえば説法において表白された「詞」に、読経や修法と同様の効験が公認されたことは、澄憲が説法を一道とするべく「説法道」を提唱し、「説法道」に辿る先哲と、自らが作文した「説法詞」の記録とテクスト化に向かう契機となったと考える。そして「説法詞」を類聚し編纂する作業は、澄憲の真弟子である聖覚へと引き継がれる。後に「安居院流唱導」と称される説法(唱導)の一流は、こうした経緯をもって誕生するのである。そして現在まで連なる、「安居院流唱導」を伝えるテクスト(説法資料)の流伝がはじまるのである。
二、研究史概観
日本において編纂された説法資料は、仏教史学あるいは仏教教学においてでなく、おもに日本文学の形成を説き明かすべく研究されてきた。「唱導文学」の語を始めて使用したのは折口信夫だが、折口は「唱導文学」(『折口信夫全集4』所収、初出は『日本文学講座2』、1934)に、
唱導文学は、説経文学を意味しなければならぬのであるが、わが国民族文学の上には、特に説経と称するものがあり、又其が唱導文学の最大なる部分にもなつてゐる。だが、その語自身、あまり特殊な宗教ー仏教ー的主題を含んでゐる為、其便利な用語例を避けて、わざわざ、選んだ字面であつた(中略)宗教以前から、その以後までを包含してゐる訣なのだ。殊に民俗文学の発生を説く事に力を入れたい、と言ふ私自身の好みからは、是非とも此点を明らかにしておかうと考へる。さうして同時に、「非文学」及び「文学」を伝承、諷誦する事によつて、除々に文学を発生させ、而も此同じ動向を以て、文学を崩壊させて行く、団体の宗教的な運動を中心として見ると謂つたところを、放さないで行きたいものである
と述べ、「唱導文芸序説」(前掲書所収、未発表原稿)にも、独自の文学観を盛り込んで次のように定義した。
唱導といふのは、元、寺家の用語である。私の此方面に関心を持ち出したのも、実はさうした側の殊に近代に倚つての、布教者の漂遊を主題としてゐた(中略)唱導文学とは、宗教文学であると共に、宣教の為の方便の文学であり、又単に一地方の為のみではなく、広い教化を目的とするものである。ある宣布を終へた地方から、未教化の土地へ向けて、無終に展べられて行く事を考へてゐる者でなくてはならない。だから当然、旅行的な文学である
そして折口の「唱導文学(文芸)」観は、筑土鈴寛に継承される。筑土は「唱導文学」の範囲を具体化しつつ、民俗学的方法を用いて解読を進める一方、梁慧皎撰『高僧伝』をはじめとする文献資料に依拠した考察を行った。「唱導と本地文学と」(『筑土鈴寛著作集第三巻』所収、初出は『国語と国文学』7・8と9、19,1930)には、その冒頭に
斎会の後中宵に至って、一座疲労倦怠あるを以て、別に宿徳を請じ、唱名読誦の外に因縁譬喩を交へた話をする。夫が唱導だと宋高僧伝唱導の科に云つてゐる。唱導は説経、談義と同じだ。表白もその中に含まれる。この唱導には二様の方法があつたやうに思ふ。自分一個では、仮に表白体の唱導、口頭の唱導とに区別してゐる。即ち前なるは雑筆体の修辞法によって製作される成文である。綺製彫華、文藻横逸したるものを以て可しとする。勝れた唱導師の持つ詞章は後々襲用され、書留められて、説経模範書と云つたやうなものになる。表白体の唱導とても、全く成文に依つてなしたとも云切れぬであらう。或は機に臨んでは、頓作口辞も必要であつて、表白秀句にも勝つたのが飛出したかも知れぬ 、
述べるほか、元亨二年(1322)に虎関師錬が編纂した『元亨釈書』巻第二九「志三 音藝志七 唱導」から、唱導が「学修・度受・諸宗・会儀・封職・寺像・音藝・拾遺・黜争・序説」のうち「音藝志」に採り上げられた、その実態を
説経師は諂譎交々生じ、変態百出、身首を揺し、音韻を腕にし、人心を感ぜしむるに自ら泣き、詐偽俳優の伎をなす実に以て痛むべきことと、師錬をして歎息せしめ 
と読み解き、澄憲に始まる「安居院」に加えて「三井寺に寛元の比(13世紀半ば頃)定円があり又一流をなして」、鎌倉時代末期には、唱導の「二家」と認識されていたことを指摘した。筑土は『言泉集』『澄憲作文集』『唱導鈔』など「安居院流唱導」を伝える説法資料を採り上げ、澄憲・聖覚父子の事跡に及ぶなど、他に先駆けて「安居院流唱導」の研究に着手したのである。またさらに、安居院以前の説法を伝える『法華修法一百座聞書抄』を読解して、説法のうちでも経典解釈を講説する段(経釈)の構造を、
説経は元来経の講説がその規範となつてゐるやうだ。先づ経名の解題より始め、経の来歴を講じ、内容に入つの判釈がある。八講とか最勝講とかはこの形式であるが、大安寺百座放談などは此型が骨子となつてゐる説経のよい標本である
と指摘するとともに、本書をはじめ、説法資料に因縁譬喩譚が数多く含まれる
意義を、説経に於いて我々が最も興味深く感ずるのは、一座の倦怠を除き、睡魔を払はんため、古往今来、和漢梵に亘る因縁譬喩談を用ゐたことだ。而して此は散怠、覚醒のためのみではない。教説を布衍し、俚耳に入り易からしめ、信仰を誘ふに、恰好の武器であつたのである
と述べた。そして説法資料に包含される因縁譬喩譚と『今昔物語集』などに収録される「説話」を比較しつつ、次のように指摘した。
説話文学と説経とは真に皮一重である。今昔や打聞集の類は、この方面からも考へねばならぬ 
『平家物語』研究において、後藤丹治が唱導(説法)の影響を指摘したのも同時期である(前掲書)。筑土の指摘は、日本文学研究を方向付けるとともに、日本文学史の領域を拡大することとなる。山岸徳平が筑土に呼応して「澄憲とその作品」(『山岸徳平著作集T』所収、1972,初出は『日本諸学研究報告』6、1942)を発表するなど、説法資料は日本文学研究の課題と認識されていく。
一方、櫛田良洪は「金沢文庫蔵安居院流の唱導書について」(『日本仏教史学』4,1942)、「唱導と釈門秘鑰」(『印度学仏教学研究』1の1,1952)など発表して、神奈川県立金沢文庫に保管される説法資料から「安居院流唱導」を伝える説法資料を紹介するのみでなく、説法資料を仏教史学や教学研究の立場から考究した。櫛田は唱導の意義を探って、「唱導と釈門秘鑰」(前掲)の冒頭に次のように記している。
唱導とは今日の説経、乃至は説法に比せらるべきもので、中世初頭の社会を飾った仏教の一風潮である。中世の人達は之によつて仏教入信の基因となつて、広く庶民と繋がりを生んだものである。それ丈に社会の人達に深い感銘を与へ、期待を以つて迎へられた。確かに中世に唱導と名づくべき一の新興仏教が生まれ、天台でも、真言でもない一の型態を採つてゐた。その説く所は絶待三学思想、法華超入の思想、諸行往生思想にも依り乍ら、時には一向専修弥陀本願思想をも説いて、真俗一貫、信心為本の道理を説かんとしたものである。旧来の型式を打破し、造寺造塔の功徳を否定したのでなく、却つて之を肯定して転正の因となし諸行は更に深妙であると説いて専ら欣求浄土への往生を期待せしめんとした。即、唱導は観念理観の旧来の仏教にも讃し難く、称名念仏の新思想のみをも説くことなく、時と処と、機根を異にして世俗の文字、放言綺語を以つて讃仏乗の転法輪の縁とせんことを目的とした
三、現在の研究動向と問題点
ところで「安居院流唱導」に代表されるところの説法さらには説法資料に関する研究を、現在の動向を含めて概観すれば、この領域をめぐる研究が、永井義憲の研究成果と方法論に基づいて進められていることに気付かされる。永井は、筑土による文献資料に依拠した研究を引き継ぎ、『日本仏教文学研究第一集』(1966)を上梓して、中国から日本に及ぶ「唱導史」の提示を試みるとともに、清水宥聖と『安居院唱導集上巻』(角川書店、1972)を上梓することによって、説法資料の公刊も進めた。永井の研究は、文献資料に依拠することを徹底するものであり、必定、研究対象とする説法(唱導)はテクスト化された範囲に限定されることとなった。永井は、折口が提唱した「唱導文学」とは異なった概念で研究を進めることを宣言する(「唱導文学史稿」、前掲『日本仏教文学研究第一集』所収)。日本には文献資料が数多く伝えられているが、その伝存状況など明かであるとは言い難い。永井以後、説法ならびに説法資料に関する研究は、新出資料の発掘を期した文献調査を不可欠なものとして、その紹介と、個々の資料を読解することに終始する。また「唱導文学」あるいは「唱導」の語も、折口が提唱したところを払拭されたまま、弁舌をもって営まれた布教活動全般を含み込む、使い易い語として、研究者ごとに微妙に異なる定義をもって使用されることとなる。近年ようやく、小峯和明が「法会文芸の提唱」(『説話文学研究』39,2004)に、「唱導」という語を濫用することに注意を促す。どういった「場」において表白されたか具体的に表現することは重要である。しかし、小峯の提唱する「法会文藝」とは、テクスト化されることが多い、法会における説法(唱導)を研究対象とする。文献資料に依拠することを徹底した、永井の研究成果に発想された提唱であることを読み取らせるのである。種々の場に営まれた説法・唱導は、様々な階層の人々が集う場でもあった。もちろん時代や土地によって、その実態はさまざまであったと推定される。しかし、テクスト化されることのなかった、そういった説法・唱導をも含む「唱導史」を構築することこそ、ひろく日本文化の形成と、人々の意識を辿るうえに有効なのではないだろうか。
日本文学の形成を辿る課題として説法資料を認識することは、筑土から永井へと引き継がれ、多くの日本文学研究者にも通底するに至る。が、説法資料に因縁譬喩譚を内包する意義を明かした指摘は、日本文学研究さらには仏教教学・仏教史学研究においても、必ずしも筑土が意図したのでない結論を導きつつある。『元亨釈書』に記された「唱導」批判も加わったのだろう。因縁譬喩譚を語ることは「俚耳に入り易からしめ、信仰を誘ふ」、狂言綺語であるかに理解されたのである。説法(唱導)をよくした安居院澄憲が、天台教学の研鑽を積んだ学匠として理解されず、また「説法優美」の言をもって称讃された「説法詞」とは因縁や譬喩を豊富に織り込んだもの、言い換えるとすれば、そういった説法こそが、澄憲の説法すなわち「安居院流唱導」であったと評価されてきたのである。日本文学の研究領域において「安居院流唱導」を伝える説法資料が珍重される所以ではあるが、なにゆえに澄憲が「説法の上手」と称されたか、そして「説法詞」が「優美」と称される一端は、承安四年の最勝講における顛末を採り上げて、前章に指摘したとおりである。説法、さらには説法において表白された「説法詞」の評価は、因縁や譬喩を内包する意義も含めて再考されるべきである。
「安居院流唱導」に代表されてきた唱導(説法)、そして「唱導史」をめぐる問題は、日本文学研究のみならず、仏教教学や仏教史学、文化史的環境や歴史的背景をも踏まえた読解をとおして説き明かされていくだろう。学際的な読解を必要とすることは、研究の進展を遅らせる所以ともなっている。『元亨釈書』に基づいて、鎌倉時代末期に「安居院流」と「三井寺流」の「二家」が「説法・唱導の家」と認識されていたことを指摘したのは筑土だが、いまだにこれが通説とされることを指摘して、筆をおくことにしたい。  
 
諸説  
源氏物語の「あはれ」と「物のあはれ」


「あはれ」と「物のあはれ」については、今日まで多くの研究がなされてきた。或いは語学的に、或いは歴史的に、或いは美学的・哲学的に、.精しく考察せられてきた。ここでは「あはれ」と「物のあはれ」との意義を検討し、源氏物語の文芸的感動として、それをいかに考えるべきかという問題を考察する。この問題については早'しく本居宣長が注目して、紫文要領・源氏物語玉の小櫛などで平語は「物のあはれ」を書いだのだと提唱して以来、今日まで有力な説となっている。,宣長の説が委曲をつくしているので、それを目安として考察をすすめるが、その説で問題となる主な点は、(一)「あはれ」と「物のあはれ」との関係の理解が不十分であること、(二)「現世的あはれ」だけを認めて、 「精神的あはれ」の意義を正しく認めていないこと、その「あはれ」ぽ雅びの情を主とし、源語全体の文芸附感動について考えていないことなどである。
「あはれ」の品詞は感動詞が根元であり、つづいて名詞が生じ、これを根幹として種々の品詞の語ができた。即ち接尾辞のういた名詞(あはれさ・あはれげ・あはれみ)動詞(あはれむ・あはれがる)形容詞(あはれし・あはれつぽい)形容動詞(あはれなり・あはれげなり)などができ、また「に」「と」が.ついた副詞的用法も生じた。古く記紀などでは感動詞だけであり、 万葉集になると感動詞のほかに、名詞ができている。平安時代になると名詞が大いに行われ、・源氏物語大成の索引によると、感動詞は三十で、名詞が九十九あり、「物のあはれ」が十三ある。ほかに形容動詞は約八百あ・るが、今日形容動詞を品詞と認めない説もあり、それによれば名詞「あはれ」と、助動詞「なり」とに分解される。
宣長が「あはれといふは、もと見るもの、きく物、ふるd事に、心の感じて出る歎息の声」 (玉の小櫛yとするのは、・「あはれ」の根元が感動にあることをいう。大言海でも感動詞は,「喜・怒・哀・楽、スベテ、心二感ズルニ発スル声」とし、名詞では「優賞ムベキコト。優レタルコト」と、 「哀憐レムベキコト。心ヲ傷ムルコト」の二種とする。玉の小櫛でも「あはれは悲哀にはかぎらず、うれしきにも、おもしろきにも、たのしきにも、をかしきにも、すべ篤てあdはれと思はるdはみなあはれ也」というので、大言海は玉の小櫛の説を整理したような意味がある。広辞苑では名詞をこまかく七種とし、別に感動詞「あはれ」が名詞として用いられたものとして、五種を説く。
「物のあはれ」について、宣長は「物といふは、云を無いふ、かたるを物語、又物まうで、物見・物いみなどといふたぐひの物にて、ひろ《いふときに添ることばなり」 (玉の小櫛)という。しかし宣長のあげる「物」はすべて接頭辞である。 「物のあはれ」の「物」は、「物」+「の」+「あはれ」 (名詞+助詞+名詞)という連語の「物」で、性質が違っている。宣長は「物」を極めて軽くみて、 「あはれ」と「物のあはれ」とを区別していない。この考え方は破綻を生ずるが、その事は後で述べる。
大言海では「物のあはれ」を二種に分けて、 「物ゴト降心ヲ傷マシメ、深キ思ヲ誘フ情景」と「有情非情ニツキテ、動ク人ノ心」とする。「物のあはれ」を情景とするのは、理解しがたいが、それよりも、この解説が常識的で、 「あはれ」との関連が少しも考えられていない点に不満がある。 「物のあはれ」は「あはれ」に「物」が加わったのであるから、当然「あはれ」の意義をふまえて、考えらるべきである。
広辞苑では「(1)「もの」即ち対象客観と、 「あはれ」即ち感情主観の一致する所に生ずる調和的情趣の世界。優美・繊細・沈静・観照的の理念」とし、 「(2)しみじみとした情趣、人の世のなさけ」とする。(2)は「あはれ」に含まれている。(1)の解釈は久松潜一博士の説を受けているのでないかと思う。博士は「物のあはれ」は物の中に見出した「あはれ」で、 「あるがままのものの上に見出したあるべき世界」だといい(上代日本文学研究二二頁)、また物は対象で「あはれ」はその物によって起こる。 「物とあはれとが相互に限定されつつ、情趣の形象といふべき境地を構成し、更にそれをより高次な段階に進展せしめる」ともいう(日本文学大蚊典第七巻一八三頁)。
和辻哲郎博士も「物」に重要な意義をおく。「「もの」は意味と物とのすべてを含んだ一般的な限定せられざる「もの」である」「「もののあはれ」とはかくの如き「もの」がもつ 「あはれ」に他ならぬであらう」。またこの「もの」には人の心の一つの根源が現わされたもので「「もののあはれ」とは畢意この永遠の根源への思慕でなくてはならぬ」という(日本精神史研究二四一頁)。 「永遠の根源への思慕」ということには賛成できないが、これは博士の哲学であるから問題としない。問題となるのは、 「もの」がコ般的な限定せられざるもの」を指すという点と、 「もののあはれ」とはかくの如き「もの」が、もつ「あはれ」だとする点である。
「物のあはれ」を「物」が持つ「あはれ」とするのは、広辞苑の説、久松博士の説と通ずるが、そのように考えることが、国語学的にみて許されることであろうか。
「物のあはれ」のような連語の構造の語は、源氏物語大成の索引によると約八十ある。頻度の高いものは、物の怪(五一)物の音(四〇)物の心(一一二)物の聞え(一五)物の上手(=二) 「物のあはれ」 (=二)物の序(=一)物の師(=)物の映(八)物の色(六)物の隈(六)物のたより(六)などである。これらのすべてにおいて、 「物」が加わらないもとの語には、加わった語の意味が含まれて」いる。大言海によると、「け」には「異」と「病」と「怪.恠」の意があり、「怪・惟」には怪異と、もののけ・崇の二義がある。 「け」に「物」がついて「物の怪」となると、これらの中の最後の意味を示す。 「ね」には「声ノイロアルモノ、細クヤサシゲナル音」「音・コエ」「泣ク声」などの意味があり「物」がっくと最初の意味を指す。 「こころ」では六種を説くが、 「物の心」はその申の「コトワケ・意味・意義」を指す。 「きこえ」には単に聞えるだけの意味と、「聞伝フルコト・ウハサ・トリサタ」の意味とがあり、 「物」が加わると後者だけを指す。その他の語についても同じである。
「物」がっく用語例から帰納すれば、 「もの」は多義の原語について、その中の或る一義-託るもの一を指示するはたらきをしている。「あはれ」の中の「興るもの」が「物のあはれ」であり、「怪」の中の「或るもの」が「物の怪」であり、「心」の意味の中の「承るもの」が「物の心」であり、 「師」の中の「著るもの」が「物の師」 (芸能の師)であり、 「色」の中の「去るもの」が「物の色」 (衣裳の色)である。
「物」は決して対象を示すものではない。 「物のあはれ」を「物」 (対象)がもつ「あはれ」とする論法から推すと、 「物の心」は「物」 (対象)がもつ心となり、 「物の聞え」は「物」 (対象)が持つ評判・噂となり、その語義に合わない。-「物しが対象をさすとすれば、 「あはれ」には対象がない事になる。 「あはれ」と感ずるためには必ずその心の対象は存在するのであり、 「物」が加わって対象ができるのではない。逆に、 「あはれ」に対象があるとすれ源氏物語の「あはれ」と「物のあはれ」ば、 「物」が対象を指すという説は成り立たない。「物」は「あはれ」の中の「或物」たる意味を表わすのであって、 「一般的な限定されざるもの」ではない。この事は「物のあはれ」の用例からも察知することができる。例えば、
(1)物のあはれ知りすぐしはかなき序のなさけあり、云々。 (帯木一左馬頭の言)
(2)かかるさまの人は物のあはれ知らぬものと聞きしを、云々。(柏木・女三宮の言)
(3)所につけてこそ物のあはれもまされ。 (手習・中将の言)
などにおいて、 「物」をとり去って「あはれ」としても、本質的意義を損ずることはない。特に撃フ場合にはこの言葉につづいて、中将は「山里の秋の夜深きあはれをも物思ふ人は思ひこそすれ」と歌をよむが、この歌の「あはれ」は前の「物のみはれ」と同じ意味とみてよい。 「あはれ」に「物」がっくとその意味を限定するが、限定された意味が原語に含まれているという点では、両語は本質的には変らない。しかし限定されていみという点からいえば、同じでないといえる。また語形も違っているので語感も同じではない。土語は本質的部分では共通しながら、なお以上のような違いも考えられる。それならば両語はいかなる点で共通し、いかなる点で差異があるのであろうか。  

「物のあはれ」が「あはれ」と違う主要な点は、.第一に意味する所が狭いこと、第二に観念的であって、生動する感動でないこと、第三に人として感ずべき感動であって、理想性を帯びることなどである。この三点とも「あはれ」に内在するが、 「物のあはれ」はそれを特立させている。
第一 源語に「物のあはれ」の用例は十三あるが、その意味は大体三種にすることができる。(一)は優雅な情趣で八例、(二)はしみじみとした深い感動で三例、(三)は人間としての温かい情愛(人情)・で二例ある。(一)は例えば、前にあげた(2)(3)の如きであり、また
(4)物のあはれをも、をかしき事をも、見知らぬさまに引入りなどすれば、何につけてか世にふるはえぐしさも、常なき世のつれづれも慰むべきぞは。 (夕霧・紫上の心)
の如きである。(二)は
(5)秋の頃ほひなれば、物のあはれ取り重ねたる心地して、云々。(松風・明石上の心)
の如きであり、(三)は前にあげた(2)の如きである。これらの意味も「あはれ」に含まれているが、「あはれ」はこれに限らない。「あはれ、さも寒き年かな」 (末摘花) 「あはれなりける(可憐な)人かな」(宿木)のような、感動詞や形容動詞が意味するものは、「物のあはれ」にはない。辞書類では「あはれ」の意味を種々に分けて説き、尊い・有りがたい・めでたい・立派である・いじらしい・気の毒である・可愛そうだ(広辞苑)などをあげるが、これらも「物のあはれ」には含め難い。 「物のあはれ」の意味は明らかに「あはれ」より狭くその一部であるが、その特色は第二・第三の点から把握することができる。
第二 「あはれ」.は直接心に生動する感動ではなく、思われ、知られるという、観念的性質を帯びている。「あはれ、いと寒しや」コ涙ぐみつつ、あはれ深く契り給へる」 「怪しれぬあはれ、はた限りなくて」などの「あはれ」は、直接心に生動する感動であるが、「物のあはれ」はこれらとはちがう。前にあげた(1)(2)(4)は「物のあはれ」を知るのであり、(3)は話されたものであり、汲ヘ直接的感動に近いが、それでも「心地して」である。その他
(6)物つつみせず、心のまdに物のあはれも知りがほ作り、云々。(胡蝶・源氏の言)
(7)すべて物のあはれも、,(中子)広う思ひめぐらす方々添ふ事、云々。 (幻・源氏の言)
(8)さいふばかり、物のあはれ知らぬ人にもあらず。 (蜻蛉・匂宮の心)も「物のあはれ」は知るのであり、思うのである。
(9)をかしき事も物のあはれも、入がらこそあんべかんめれ、 (濡標・源氏の心)
(10)物のあはれも面白さも残らぬ程に、陵王の舞ひて、云々。 (御法・地の文)
(11)みつから取り分くる志にしも、物のあはれはよらぬわざなり。(幻・源氏の言)の「物のあはれ」も思われ、語られたものでいずれも観念的である。ただ
(12)物のあはれえすぐし給はで、珍らしきもの一つ弾き給ふ。 (若菜上・源氏の事)
(13)木の葉の音なひにつけても、過ぎにし冷めあはれ取り返しつつ、云々。 (朝顔・女房達の事)
は直接の感動を表わすようであるが、それも「えすぐし給はで」とか、「取り返しつつ」とか、消極的な表現であり、微温的な感動である。このような事例も多少あるが、全体を概観して、 「物のあはれ」は殆ど直接心に生動する感動ではなく、思われ、語られた、間接的感動であうて、観念化されている。このように心に思われる用法は「あはれ」にもある。 「深き夜のあはれを知る」 「ようつのあはれをおぼしすて」「おほかたのあはればかりは、おぼし知らるれど」などである。 「物のあはれ」はこのような「あはれ」をはつぎりと指示するが、それだけではない。更に第三の性質を帯びており、そのことに重要な意味がある。
第三 「あはれ」には自然発生的また自然存在的な感動もあれば・心ある人として感ずべき感動もあるが、「物のあはれ」は後者だけを意味する。宣長は「あはれ」を、見聞する事物について、心の感じて出る「歎息の声」と、自然発生的にみるが、、「物のあはれ」については、 「人は何事にまれ、感ずべき事にあたりて、感ずべきこころをしりて感ずるを、もののあはれをしるとはいふを、かならず感ずべき事にふれても、心うこかず、感ずることなきを、物のあはれをしらずといひ、心なき人とはいふ也」という。即ち「物のあはれ」は人として感ずべき感動であるゆ久松博士が「物のあはれ」を「あるがまdのものから、あるべきものを見出し、それを高揚せしめた境地」とする事には、多少行き過ぎを感ずるが、理想性を認めている点では、宣長と通ずる。
ここに宣長が「あはれ」と「物のあはれ」とを区別しなかったことの矛盾が出ている。宣長は「あはれ」を自然発・生的な歎息の声で、漢字の「感」の字に当るとして、 「よき事にまれ、あしき事にまれ、心の動きて、あdはれと思はる 」は、みな感ずるにて、あはれという詞」によくあたるというが、それならば是非善悪にかかわりのない感動である。然るに他方で人として感ずべき事に感ずるのが、 「物のあはれ」を知るのだというのは、 「物のあはれ」に理想性を帯びさせることになる。宣長は弘徽殿女御が桐壺帝の歎きをよそに、管絃の遊びをして「物のあはれ」を知らぬというが、実は「月の面白きに、夜ふくるまで遊び」をしたのであって、月夜の「あはれ」をよく知っている。自然的な「あはれ」は感じているが心ある人として感ずべき「あはれ」に感じないから「物のあはれ」を知らないのである。宣長の立場では、 「あはれ」は自然的で是非善悪にかかわらないもの、 「物のあはれ」はその中の「是」であり「善」であるもの、即ち理想性を帯びるものとなるので、宣長が両者を区別しなかったのは正しくない。
具体的事例についてみるに、前の(4)は「物のあはれ」を知って、それを表わしたいことをいい、(5)は季節の情趣を知るもの、(12)は場面の情趣を知るもので、いずれも心ある人として感ずべきものである。また(2)は出家者は世外の人で、人間の情愛を知らぬというもの、(8)は薫は浮舟の死に、哀れを感じないような冷たい心の人ではないというもので、共に「物のあはれ」を知ることが、温かい人間の情愛であることを意味する。これに対して、(1)(6)について、宣長は「さしもあるまじき事にも、ようつにあはれ知りがほなるふるまひ」が過ぎて、 「あだなる」もので、 「まことにはもののあはれしらざるなり」という。心ある人として「物のあはれ」は知らねばならないが、知り顔なる振舞は「あだなる」ものであって、非難さるべき事である。
「あはれ」は「物のあはれ」とちがって、いつでも理想性を持つものではない。 「あはれ進みぬれば、やがて尼にな吻ぬかし」 (帯木・左馬頭の言)は、男から逃避した女の感情が昂進すると、尼になるというのであって、左馬頭はこの「あはれ」にまかせたやり方を、思慮が足りないと難じている。源氏は一夜空蝉を「あはれ知るばかり」 (帯木)口説くが、人妻空蝉はこの「あはれ」を知ってはな尉ないのである。人として「物のあはれ」は知らねばならないが、「あはれ」は必ずしも知るべきでない。もとより知ってよい「あはれ」も少くない。 「山里のあはれ知らるる声々にとり集めたる朝ぼらけかな」 (総角・薫の歌)の「あはれ」も、「おりふしの花紅葉につけて、あはれをもなさけをも交はすに、にくからず物し給ふあ興り、云々」 (豊本。薫の心)の「あはれ」も、心ある人の感ずべき「あはれ」である。
以上を要約すると、(一)「物のあはれ」は「あはれ」の一部で、その本質は「あはれ」と同じであるが、(二)生動する感動ではなく、心に思われた感動であって、観念的であり、それは(三)心ある人として感ずべき感動で、理想性を帯びるものとなる。「あはれ」「にはこの三者が含まれているとしても、三者が結合している場合は、極めて少ないようである。そしてこの三者、特に(二)と(三)とが結合している9点に、 「物のあはれ」の特色がある。この(二)と(三)との結合は偶然ではなく、(二)観念的である故に、日理想性を帯び得るのである。生動する感動は自然的で、理想性を帯びることは困難である。
「物のあはれ」が観念的であり、理想性を持つという事は、神道・仏教・儒教・陰陽道などと対立する、思想的意義をもつこととなる。この思想性も「あはれ」に内在しないのではないが、それは多義であるから、思想性を特立させて、定着さすことはできない。「物のあはれ」は「あはれ」の或部分を、即ち観念的.理想的な部分を特立させて、思想的意義を持つ点で独自の性質・意義が生じている。それは「あはれ」から離脱したものではなく、それを浄化したような性質を帯びている。  

畳語が「あはれ」を描くということは、物語の中の人々が「あはれ」に感動することを描くというこ之である。人々が感動する「物のあはれ」の内容は、甚だ多岐にわたるが、主要なものは男女間における愛情であり、和歌・物語・歌舞・絵・書などの芸術芸能の美であり、花鳥風月などの自然の美であり、容姿・教養・気立などの人間の美であり、人間関係における人情の美などである。源語の人々はこれらにおいて、 「あはれ」の情趣を充足さすことを望み、それを生活理想としているといってもよい。少くとも宣長の説く「物のあはれ」の内容は、以上のような事物・事象における美的感動であり、すべては現世生活充足のための「あはれ」であるつしかし源語には仏教によって、これらの「現世的あはれ」を否定する「あはれ」が生み出されている。それは「物のあはれ」を十分知りながら、宗教的に高貴なものを求めるため、「現世的あはれ」を放棄するもので、 「宗教的あはれ」といってよい。また道徳的理想のために「現世的あはれ」を放棄する事によって、生み出される「あはれ」もあり、それ・は「道徳的あはれ」といってよい。また芸術・芸能・学問などの理想を追求する場合にも生ずる。それでここでは何かの理想を追求するため、 「現世的あはれ」と衝突して生ずる「あはれ」を、 「精神的あはれ」と呼ぶこととする。
宣長も仏教から深い「あはれ」の生ずる事実は認めている。仏道はあらゆる人間的情欲を絶つの忍びがたき道であり、「あはれ」を知っては行いがたく、「しひて心づよくあはれしらぬものになりておこなふ道」である。「そはしばしあはれをしらぬやうなれど、長きよの闇にまどはむを、あはれみてのをしへなれば、其道よりいへば、まことは物のあはれを深くしれる也。儒のをしへなども、その心ばへは同じことそかし」 (玉の小櫛・以下同)という。また「仏の道といふ物は殊にもののあはれをばすつる道」で、儒よりもきびしく、 「人の情には遠かるべき道」であるが、却って人の心を動かすもので、人々はこの道に心を傾けやすい。仏道に入り身をやつして、山奥で修行することなどは、「さるかたにつけて物のあはれ深きことおほきにより」この物語でも源氏をはじめ心深い人は、この道を思うが、これは「さるならひになりぬるよの人の情のもののあはれ」であり、仏の道を知らすためではなく、「ただそのすぢにつきてのあはれを見せたるもの」だという。
仏の道が人の情に遠く、「もののあはれをすつる道」であるのに、(一)何故人が心を傾けるのか。(二)「あはれ」を否定して、何故「あはれ」が生ずるのか。(三)その「あはれ」の性質はいかなるものか。「あはれ」を人の性情に基礎づけて、その性質を説く宣長は、当然この異質的な「あはれ」についても、それを解明せねばならないが、彼はこの問題に対して、正しくは答えていない。(一)について、 「さるならひになりぬるよ」の「物のあはれ」であるというのは、事実をいうだけで、理由の説明ではない。また「さるかたにつけて物のあはれ」が深いからだともいうが、人々は「物のあはれ」を求めて仏道に心を傾け6のではない。それでは「物のあはれ」を否定して、「物のあはれ」を求めるという矛盾に陥る。(二)については「其道よりいへば深くあはれ」を知るというが、物語は文芸であるから「其道」からではなく、 「文芸」の立場で「あはれ」が生ずる理由を説くべきである。日についてはただ「さるかたにつけて」「物のあはれ」が深いとか、「ただそのすぢにつきてのあはれ」とか、外面的事象をいうだけで、性質は説いていない。宣長は「現世的あはれ」の立場で「精神的あはれ」を説こうとするが、両者は性質が違うので、それは不可能である。
「精神的あはれ」は人間自然の性情に立つ「あはれ」ではなく、入間が向上を希求する、理想性に基づく「あはれ」である。文芸的感動は宣長の考えるように、人間の自然の性情に基づくだけではなく、理想を追求する心からも生まれる。それは宗教や道徳の理想に生きようとして、理性や意志の力で自然の性情を抑える事によって生まれる感動で、崇高美・悲壮美の性質を帯びる。(一)仏教に人々が心を傾けるのは、高貴な理想に心を傾けるためであり、(二)この理想を求める心が、自然的心情(現世的あはれを求める心)と衝突するため、 「精神的あはれ」が生じ、日その「あはれ」は崇高」悲壮などの性質を帯びるのである。
物語の人々は一般的には、 「現世的あはれ」に生きることを理想とするが、心ある人々は現世のいとなみのはかなさを思い、来世の応報を思い、極楽永遠の楽果を思って、仏道に心を寄せる。 「現世的あはれ」は人々が追求する「あはれ」であるが、 「精神的あは'れ」は宗教を求めることに伴謝するもので、目的的に求めるものではない。宣長が仏道は「さるかたにつけて物のあはれ」が深いから人々が心を寄せるというのは事実ではない。人々は仏道に宣長のいうような、 「物のあはれ」を求めてはいない。.「現世的あはれ」は仏道と対立し、それを放棄して仏道を求める所に、「精神的あはれ」は生まれる。
源語には「精神的あはれ」がしばしば描かれている。それは紫上や源氏の晩年の心境にもみられるが、特に著しいものは宇治十帖の八宮・その娘大君・浮舟などにみられる。塁上は女三宮の降嫁によって、身の不安を感じて出家しようとする。源氏にとめられで果たさないが、人の世の無常を思うその心情には、さびしく悲しいものがある。源氏は紫上の死後この世に生きる望みを失って、幻の巻で出家の心構を養うが、諦観と愛惜と悔恨とを交えた、寂蓼の思いで、満たされている。その心は仏道に生きる喜びよりも、 「現世的あはれ」を棄てる淋しさが主となっているが、これは「あはれ」を描く物語としては当然である。
八宮が晩年出家を望みながら「俗聖」にとどまって、それを決行し得なかったのは、二人の娘の将来が不安なためである。余命いくばくもないことを悟って、ついに娘を見捨てて山寺に入るが、その時には「見ゆつる人もなく、心細げなる御有様どもを、打捨ててむがいみじきこと。されどさばかりの事に妨げられて、長き夜の闇にさへ惑はむがやくなさ」 (椎本)と、心を鬼にする。仏道に入るために、娘の事を「さばかりの事」と振り捨てるのは、悲壮であるが、潜在する無意識の心では奮起をすて得なかった。山寺で亡くなっても迷える魂となり、わが子中君の夢に在俗の姿でさまよひ、宇治の阿武梨の夢では成仏できないから、供養をしてくれと頼む。それで大君は父に罪を作らせたと心を痛める。八宮は仏道の願いと、恩愛の思いとに、心緒を乱した悲しい人間である。
大君は不遇なわが身の上を思い、恋愛や栄花の頼みがたさを思って、 「まめ人」薫の心をつくしての再三の求婚にも応ぜず、病死を願い、死ねないならば、出家しようと思うが、ついに病死する。それは正編の女が願い求めた「現世的あはれ」を、たのむに足らないものとして、仏道に心を寄せるのであるが、その心ば潜血のように、欣求浄土の願いのために、 「現世的あはれ」を捨てるのではなく、恋愛や栄花を頼むに足りないとする思いが先行して、安住の場を仏道に求めたのである。しかしこの恋愛や栄花をはかなむ現世厭離の心を懐くことが、既に仏道無常の思想で啓培されたものである。薫の求婚を容れない大君の心は、現世の「あはれ」に生きる立場からは全く異常であり、女房達の中には「世の人のいふめる怖ろしき神ぞつき奉りつらむ」 (総角)という程であるが、その心はわが身を思い、父を思い、妹を思って、千々に砕けて、まことに哀切である。
浮舟も薫にかくまわれ、匂宮が通う頃は、正篇の女と同じ「現世的あはれ」に生きる女であったが、身の処置に窮して死をはかり、助けられてからの心境は一変して、ひたすら現世からはなれて、仏道に生きようとする。即ち「ひたぶるに無きものと人に見聞きすてられてもやみなばや」(手習・以下同)と思い詰め、愛護してくれる尼(横川の僧都の妹)の厚情に背いて、無理に出家する。そして、「思ひもよらず、あさましき事もありし身なれば、いとうとまし。すべて朽木などのやうに、人に見捨てられてやみなむ」と、世捨人になる決意を固くするが、浮舟も大君と同じように、欣求浄土の思いよりも、現世厭離の思いが先行している。
八宮は仏道に入るため、大君は薫の愛情が信ぜられないため、浮舟は犯した罪の思いのため、共に「現世的あはれ」を放棄した。三人の心は「あはれ」説の立脚する、人の情のまことに背くものであるが、そのことによって、 「精神的あはれ」が生み出されている。現世離脱は仏教としては推賞すべきことであり、当時の往生伝はその立場で書かれているが、物語はその棄却を慣習する立場で描かれる。その哀嬰.の心の奥底には、高貴なものを求める心が潜んでおり、単なる悲哀寂蓼ではないが、希望の喜びは殆ど表には出ず、僅
かに浮舟においてそれをみるが、それとても弱く、物語全般としては歓喜崇高の趣よりも、悲哀悲壮の感動が主となっている。その点では「現世的あはれ」と変らないようでもあるが、これは人生の問題iいかに難くべきかの問題一を命がけで考えて生じた「あはれ」であるから、思想的な裏付けがあって、深い趣のある感動となっている。そしてこれは源語の後半、特に宇治十帖では、「現世的あはれ」よりも重要な意義をもっている。  

宣長の源語が「物のあはれ」を描いたとする説には、その「あはれ」が狭ますぎる事と、 「あはれ」以外の情趣を正当に認めない事との欠点がある。 「此物語は殊に人の感ずべきことのかぎりを、さまざまにかきあらはして、あはれを見せたるもの」 (玉の小櫛)と人の感動のすべてが「あはれ」であるようにいうが、これにつづいて説く「あはれ」の具体例は、殆ど雅びの情趣だけである。即ち公私の営みのめでたさ、四季の花鳥風丹の趣、人の容姿品位などをその例として説く。 「初山.踏」でも「すべて人は雅の趣をしらでは有るべからず。これをしらざるは、物のあはれを知らず、心なき人なり。かくてそのみやびの趣をしることは、歌をよみ、物語書などをよく見るにあり」という。「あはれ」は「人の感ずべきことのかぎり」ではなくて、和歌物語などで表わされている雅びの趣である。「あはれ」をこのように狭く解したのでは、例えば、柏木の悩み死にする深い「あはれ」や、宇治十帖の「精神的あはれ」などを正しく理解することはできない。
宣長は弘徽殿女御・その父右大臣・紫上の継母などを「物のあはれ」を知らない人と非難し、朧月夜や木枯の女を「物のあはれ」を知りすごして、仇なる振舞をするとして非難している。非難は道義的立場からであって、文芸的立場からではない。文芸的には「物のあはれ」を知らない人も、知り過ごす人も、それぞれの趣があり、意義がある。知らない人にはさがなさ・はしたなさ・意地悪るさなどの趣があり、知り過ごす人にはなまめかしさ・すきがましさ・あだあだしさなどの趣がある。たとえ「あはれ」が主であるとしても、それだけでは物語の世界は構成されない。演劇において、悪役も道化役もそれぞれの意義があり、能において、シテの外に、ワキもツレもなくてはならないのと同じ事である。物のあはれの欠除と過剰とに対しては善し悪しの批判ではなく、そのことの文芸的意義を明らかにすべきである。それは「物のあはれ」でないから、宣長はその意義を認めることができないのであり、そこに宣長の情趣観の狭さがある。
宣長は螢の巻「おどろおどろしくとりなしけるが、目驚きて、云々」に対して、これは「あはれ」とはちがう「あやしくめづらしき事」で、 「まれまれには一興に書ける也」という。.源語にはおどろおどろしい情趣をはじめ、その他の「非あはれ的」情趣が少からず描かれているが、宣長はそれに殆ど注目していない。例えば、夕顔の死んだ某院の深夜の情景には物おそろしさが、また東山にその死体を見に行く事には悲痛な思いが、強く描き出されている。須磨の暴風雨は人々の身も魂も消えるほど物すごく、野分の巻の野分もまた物すさまじいものであり、浮舟の倒れていた宇治の院の場も、恐ろしく気味の悪いさまである。これらは外的事象であるが、六条御息所の怨念は生霊死霊の物の怪となって、そのうとまレさが強く描かれている。葵上の加持の場で、みずから源氏になまめかしく語りかけるうとましい妖気、紫上の加持の場で、加持僧が、 「頭よりまことに金けぶりを立てて」祈るという物すさまじい状景なども、まことに感興の深いものがある。衷た女三宮と密通して源氏を恐れる柏木の心は、悔しく、悲しく、やるせない思いで、哀切極まりないものであり、浮舟にも生きて再び人々に顔が合せられない噺憐の思いがある。以上の諸例は雅びの「あはれ」ではなく、宣長は注目していない。これは「まれく一興に書ける也」というような、軽い意味のものではなく、描くべき必要があって描いた情趣である。
源語には「非あはれ」的情趣が少からず描かれている。それを表わす語で比較的頻度の高いものをあげると、いみじ(六九一) 浅まし(二〇七) 憎し(一七七) わりなし(一六七) うたて(一五〇) 恐ろし(二二三) つれなし(一〇九) うらめし(一〇六) ねたし(七〇) おどろ-重し(七〇) 心づきなし(六八) すさまじ(四七) すごし(三八) かたくなし(三一)ものし(三〇) などがある。 (括孤内の数は頻度数でその三〇以上をあげた)。韓語にはこのような「非あはれ」的意味を表わす語で、 「非あはれ」的な趣が少からず描かれており、決して「あはれ」だけを描いているのではない。
源語には雅びの「あはれ」を主とする「現世的あはれ」のほかに、(一)「精神的あはれ」があり、(二)宣長が非難した「物のあはれ」欠除と過剰との趣があり、(三)夕顔の死以下で具体的に例にしたような外面的・内面的な強い感興があり、(四)それほど大きく強くなくても、 「非あはれ的」な感動語が示すような、多種多様な「非あはれ的」情趣が描かれてい惹。これらの情趣はそれ自体で文芸的意義を持うと共に、それみ\が映発譜調して、源語.全体の複合美の世界を構成している。源語の情趣の主潮が「あはれ」にあるとしても、それだけでは一味単調になり、その特色も発揮されない。源語の文芸的感動を考えるとすれば、雅びの「あはれ」だけでなく、その他の情趣の存在と、その性質意義にも、考えを及ぼさなければならない。
以上考察してきた所を要約すると、 「物のあはれ」は「あはれ」の中の回る部分-人として感ずべき理想性を帯びるもの一を意味するものである事、宣長の説く「現世的あはれ」のほかに、 「精神的あはれ」があり鴇それは源語の終りになる程、重要な意義をもつようになっている事、 「あはれ」が源語の主潮ではあっても、これと異なる種々の情趣があって、互に映発譜調して複雑な情趣の世界を構成し、そのこどによって「あはれ」の特色も鮮明になっている事となる。その間において、 「物のあはれ」に「あはれ」をはるかに超越する高遠な意義を考えるのは、根拠の乏しい抽象論である事、源語の情趣が「現世的あはれ」だけであるかの如く思うのは、事実を無視した狭い考えである事などを指摘した。
 
語源学 / パンティ学・入門

「引き出しの中にきちんと折ってくるめられた綺麗なパンツが沢山詰まっているというのは人生における小さくはあるが、確固とした幸せのひとつ(略して小確幸)」(村上春樹 「ランゲルハンス島の午後」)
「サラリーの語源を塩と知りしより幾程かすがしく過ぎし日日はや」(島田修二)
「語源」(「語原」とも書く)というとどうしても思い出してしまう話がある。
金田一春彦さんが隠岐に旅行された時である。
トイレに入ったら、当時はまだトイレットペーパーがなくて草の葉が置いてあった。
それが「蕗」(ふき)の葉だった。
国語学者の金田一さんは「なるほど、これが蕗の語源だったのか」と納得したという。
人は、ある日突然、語源を意識する。
父とは50歳近くも離れていてあまり思い出がないのだが、小さい頃、連れられて富山市の大和(だいわ)デパートの食堂で「親子丼」を食べたのが唯一の楽しい思い出かもしれない。
だから、「親子丼」というのは親子で仲良く食べるから「親子丼」だと思っていた。
大きくなってから「他人丼」というのを初めて食べた時に「親子丼」の語源が分かった(余談だが、「ラーメンライス」という言葉を知った時にどんな食べ物か想像できなかった)。
こんな思い出は誰でもが持っていることだろう。
「ままはは」って初めて聞いた時に「ぱぱちち」はいるのだろうかとか、「ねこばば」と聞いて「いぬじじ」はいるのだろうかと思ったことはないだろうか?
ないと知ったら、「継母」や「猫糞」の語源に興味を抱くはずである。語源から言葉に興味を持つ。「猫舌」と聞いたら「犬舌」は冷たいものが苦手なのかと誰もが考える。
正月になると「鏡餅」というのが分からない。調べると「鏡」には丸いものという意味があったようで、ただ「丸い餅」といっているに過ぎない。
こうした語源意識をもっているとNHKを見たときに加賀美幸子アナウンサーの名前はこの「鏡」から来ていることに気付くのである!?
池上嘉彦は「記号論への招待」の中で次のように書いている。
日頃見慣れた景色が、ある時ふとしたことから急に、初めて見る時のような新鮮な美しさに輝いて見えることがある。言葉にも同じことが起こる。「蛤(はまぐり)」というのは日常の 言葉ではある種の貝を指す符号にすぎないけれども、改めて見直してそこに 「浜」と「栗」を見出すなら、われわれのこの語に対する印象は一変するであろう。
これがメタ言語能力というもので、特に語源への興味は「語源意識」という。語源意識が言葉への関心につながると思う。
語源というとすぐに「サンドウィッチ」を挙げる人がいるが、これは誰でも知っていることだし、これだけではちっとも面白くない。むしろ、面白いのは日本語で賭博場のことを「鉄火場」ということから「鉄火巻」の語源にも気付くこと(鉄火で熱くなった赤を意味していたようだ)、つまり、同じような現象を身の回りでも見つけることである。
岡山で「ままかり」という魚を食べたがこれ「まま(ご飯)を借りてきても食べたくなるようなおいしさ」から来ている。なるほど、と思うが、酒の肴に「酒盗」というのもある。これは「酒をぬすんできても飲みたくなる」肴だからだ。そんなにおいしいものが他にもあるか考えてみると一時流行った「ティラミス」がそうである。これはTiramisu.「私を上(天)に連れていって」という、おいしさのお菓子なのだ。一説によると18世紀のヴェネツィアで夜の街で遊ぶための栄養補給源のデザートだったという。また別の説ではこのお菓子に含まれている強いエスプレッソのカフェインが興奮をもたらすための命名だという。スポンジにコーヒーリキュールをひたしてあることから、アルコールがほんのりといい気分にさせてくれるとも考えられる。文字通りの「語源」は分かるが、それ以上は証明しようのないことだ。
お菓子といえば、「金平糖」がポルトガル語のconfeito(英語のconfection砂糖菓子、confectioneryお菓子屋)から来ているというのも有名である。
なお、「サンドウィッチ」「カーディガン」「ボイコット」のように人名などがモノの名前になるのは「エポニム」(eponym名祖なおや)と呼ばれる。日本では「出歯亀」(池田龜太郎という出っ歯の変態性欲者の名から)「土左衛門」(水死体が成瀬川土左衛門という力士に似ていたから)「八百長」(これも相撲社会から起こった語で八百屋長兵衛という人の名によると言う)、【柄井】川柳、沢庵【和尚】、隠元【禅師】、【宮崎】友禅、金時豆(坂田金時=金太郎)、金平ごぼう(金平=金太郎の息子)、のろま(野呂松勘兵衛=人形遣い)、阿弥陀くじなど人名から生まれている。ただ、名前を優先させる欧米よりも随分少ない(大体、「ヨーロッパ」だって、「アメリカ」だって、神様の名前や人の名前に由来している)。
パリのレストランのマキシムは人名から来ているが、マキシムには「格言」という意味がある。これはマキシマム(最大)の名言ということから来ている…。
こんな風に語源についての蘊蓄を語りたかったら、本屋にいっぱい並んでいる「面白語源辞典」なんていう本を読めば十分である。ここではむしろ、語源をどう考えるかを述べてみたい。
語源学というのは言語学の中で地位が低い。専門家の仕事ではなくて、素人学者の仕事だと思われているフシがある。ちょうど、クラシックの愛好家に“蘊蓄屋”とでも呼ぶべき人々がいて、演奏家が彼らを嫌うのに似た精神構造かもしれない。知らないことを知ることが大切なのに“蘊蓄屋”は知っていることだけ知っていて自慢する。言語学の場合、“蘊蓄屋”の性癖は誰も知らないような語源を述べて、だから「○×だ」という結論を出すものだ。
例えば、次のようにギリシャ語やイタリア語を駆使すると蘊蓄らしくなる。リンゴのことをギリシア語ではmelon(μηλον)という。これは別に歴史の過程でリンゴがメロンに化けた訳ではない。メロンや瓢箪の類をpeponといい、のちにそのpeponの一種がmelonとpeponを合わせてmelonpeponと名づけられた。そのmelonpeponの前半だけが俗語の中で切り取られ呼び名とされたのが、今日のメロンである。強弱自在の音が出せるというのでpianoforteと名づけられた楽器が今日ピアノといわれるのと同じ原理である…。
語源的思考ができれば文章は簡単だ。どれだけでも書ける。例えば、

先日、ひょんなことから友人に「ひょんな」って何だと聞かれた。お前は言語学者だろう、調べろ、といわれて「ひょんなー」なんて思ったものだ。
研究室に戻って調べてみるとなかなか面白い。
大体、「ひょんな」という言い方は江戸時代からある。
じゃあ、「ひょん」て何だろうと思って、これまた調べてみると、江戸時代、柞(いすのき)のことを「ひょん」と呼んだらしい。つまり、「ひょん」とできるからだと思っていたら、この常緑の高木である柞には葉に大きな虫こぶができて、子どもたちが笛にして遊んだ。そこから方言で「ひょんのき」といったらしい。
昔の人はこの「ひょん」を取って、頭にかざしたともいう。目出度い印とされたのである。「ひょん」を神聖なものとして考える古代人の心性に触れたような気がする。
そこから、「ひょん」というのを予期しない出来事のことを指すようになってきたのだ。
最近は間違って「ひよんな」と書く人も増えてきたが、発音が「ひよんな」とはっきりいうためだろう。
中には、いい年をした大人までが若者に媚びて「ひよんな」と書いている。
私はいいたい。
お前ら、ひよんな!(←日和るな、でしょ。)

しかし、これは元の意味を知らないでも生きていける現代人にとって、また、言語学を専門とする者にとってもあまり生産的な話ではない。「さかな」というのは「酒+菜」からできているが、いちいちそんな風に分解して考える人はいないし、いたら、おかしい(と思っていたら、国研の調査で関西地方の一部で「うお」と「さかな」を呼び分けている地域があったという。前者は生きているもの、後者は調理されたものだという。なお、前者を川魚、後者を海魚という風に分けている地域もあるそうで、これは内陸では生きている魚は川魚だけで、海魚は調理されたものでしか見ないからだという)。「魚」を「さかな」と読めるようになったのは1973年の当用漢字改訂以降だという。それまでは「うお」として読めなかった。
とはいえ、言語学の分野の中で一番か二番目に素人受けがよくて言語学者が言語学を習っていてよかった、と思える瞬間を作ってくれる。何しろ、それまで変人とかにしか思われてなかったのが、いきなり「物知り」と認められるようになるからだ。
サバを読む、というのは鯖の数をごまかしたことから始まるが、英語でも“baker'sdozen”というと、元々1ダースをごまかしたパン屋に厳しい刑罰が課せられたことから、逆に13個になった…なんて話を延々とすることができる。
まあ、生意気そうなことをいう人がいて気分が悪い時に、僕は語源を使って、ケムに巻くことを覚えた。英語のヴァニラはヴァギナと「莢」(さや)という意味で語源が同じとか、相手に合わせて適当に語源の蘊蓄を傾けておけばいいのだ。
もう一つ、素人受けのいいのは「日本語起源論」である。こちらは言語学界の「忠臣蔵」と呼ばれる。「忠臣蔵は芝居の気付け」という言葉があるほど、芝居の入りが悪い時、客足を取り戻す切り札は日本で「忠臣蔵」、西洋で「ハムレット」に決まっている。10年位の周期で思い出したように新しい説が出てきて、マスコミを巻き込んで大騒ぎとなる。学者の系統論だけでも、1889年の大矢透、白鳥庫吉に始まり、1930年代の新村出、小倉進平、金田一京助、50年代の泉井久之助、大野晋、服部四郎、70年代の亀井孝、村山七郎、西田龍雄、80年代の川本崇雄、大野晋、中本正智などがある。
もっとも素人受けしたのは1955年の安田徳太郎の「レプチャ語説」である。チベットのレプチャ語で万葉集は読める、というものだったが、金田一春彦がすぐに「万葉集の謎は英語でも解ける」を書いた。「 万葉集」というのは「たくさんの頌歌のの陳列」“many+ode+shew(showの古形)”であると喝破した。最近では藤村由加というグループで書いている 「人麻呂の暗号」などを揶揄して安本美典が「朝鮮語で万葉集は解読できない」という本を書いた。これによれば「万葉集」は「あなたの手を見せよ」「男たちの昔の船」「農民兵による戦争」「若者たちがくちびるを当てる」「累々たる骨は、だれのものか」という5つの可能性があるという。つまり、どの可能性もないのである。李寧煕 「もう一つの万葉集」なども同様である。
富山でも方言を全部アイヌ語で説明しようという人がいる(間方徳松「アイヌ語は日本語の源北陸篇・南方篇」)。
そんな人は清水義範の「序文」(「蕎麦ときしめん」)というパスティーシュを読んでほしい。ここには吉原源三郎なる学者が日本語を英語で説明するために次のような語を挙げている。

汁(ju)→juice(ジュース)
斬る(kiru)→kill(殺す)
だるい(darui)→dull(だるい)
坊や(boya)→boy(少年)
名前(namae)→name(名前)
下司(gesu)→guess(下司の勘ぐり)
負う(ou)→owe(負う)
たぐる(taguru)→tag(引き寄せる)
疾苦(sikku)→sick(病気)
場取る(batoru)→battle(戦い)
抛る(horu)→fall(落ちる)
述べる(noberu)→novel(小説)

どれだけ馬鹿馬鹿しいか分かってもらえると思うが、本人たちは必死である。
と学会・編「トンデモ本の世界」にはドン・R・スミサナ「古代、アメリカは日本だった!」があげられているが、例えば、次のような説明が並んでいるという。

テキサス=敵刺す
ミズーリ=水入り江
マサチューセッツ=鱒駐節
カンザス=関西
ケンタッキー=関東京
カナダ=金田
ナイアガラ=荷揚げ場
アパッチ=あっぱれな者
エスキモー=アシカの肝

そして、まさかと思うだろうが、「オハイオ」は「お早う」と説明しているのだ。
こんなのは偶然の一致だ。ドイツ語の“Name”と「名前」が似ているのは知られているが、“Nanu”というのもある。これは驚きや不審の念を表す際に使う感嘆詞で、日本語の「あれっ?」「何だって?」と同じように「なぬっ?」と使う(短く「ナヌッ」と発音するパターンと「ナヌー」と伸ばして発音するパターンがあり、唇をとがらせて言う)。ドイツ語で“Achso”といえば日本語の「あ、そうか!」という意味だ。イタリア語で「乾杯」は「チンチン」(Cincin!)というが、オノマトペであって、日本語のチンチンとは無関係だ(「君の瞳にチンチン」なんて…)。
「ロリータ」の作家ナボコフも英語の中にロシア語っぽい言葉をまるで珍種の蝶々を集めるようにしていたという。
他にも探せば「スケベニンゲン」という土地がオランダに、「エロマンガ島」がフィジーにある。どんなところか男としては興味があるが、言語学者としては興味がない(水没したという噂が流れたことがあるが、「イロマンゴ島」という表記になったため)。ただ、これらはトンデモ本だけど、よく売れるから、儲からない言語学の人間としては本当に羨ましい。
こうしたトンデモ本、妄想史観のルーツは明らかに「成吉思汗ハ源義経也」という本を出した小谷部全一郎である。ジンギスカンはニロンの落人だったのだが、ニロンは日本に他ならず、母ホエルン・イケは池の禅尼、父エゾカイは蝦夷海、テムジンは天神であり、ジンギスカンという名前も源義経(ゲンギケイ)がゲン・ギ・スとなまったものである。という。トンデモ本は病理的現象であり、妄想史観だから、小谷部の精神史を徹底的に調べたのが長山靖生 「偽史冒険世界カルト本の百年」である。そして、これ以上の言及はそちらに譲る。
そうそう、バスク語というのはヨーロッパの他の言語と違っているのだが、バスク人の多くはバスク語と日本語は同源だと信じているそうだ。なにしろ、「鳥」を「チョリ」というそうだ。ここから一気にザビエルが日本を目指したのはバスク人だったから、などという人が出てこよう。
英語で「台風」のことを“typhoon”だということを学ぶと、日本語から来ているように思うが、英語の方は16世紀に登場している。逆で明治時代末に、当時の中央気象台長・岡田武松が「颱風(たいふう)」を使ったのだ。中国語の「大風」とギリシャ神話のテュポン“typhon”の話が混ざった語源のようである。そして、“typhoon”の翻訳として「颱風」「台風」が日本語に入ってきた。テュポンは黒い舌のちらつく100ものヘビの顔を持ち、目からは炎を噴く怪物で、その口は、雄牛のようにほえ、シュウシュウと音をたてたという。その強さもゼウス相手に壮絶な立ち回りを演じ、一時は手足の腱(けん)を切って動けなくするまで追い詰めたほどだという。だが、人間の食物を食べると急に弱くなり、結局はゼウスの雷を受けて地底の闇に追いやられてしまう。彼はそこで人に害をなすすべての風の父となった。袋をかかえた少しひょうきんな日本の風神とは違ったすさまじい神だ。しかし、アラビア語で、ぐるぐる回る意味の「tufan」が、「typhoon」となり「颱風」となったという説もある。
言語の起源と民族の起源は違うが、一致する場合もある。日本人の起源に関しては2001年に「NHKスペシャル日本人」でブリヤート族とDNAが近いことが紹介された。縄文人とアイヌ民族のDNAが近いことも検証されている。日本語起源論は新しい段階に来ているように思える。
NHKのクイズ番組「日本人の質問」に寄せられる質問の半数以上は語源についてのものだという。語源に対する関心は非常に強いのである。にもかかわらず、国語学者の反応は鈍い。
例えば、柴田武「日本語を考える」の「語源について」には次のように書いてある。

現在、「わたしは語源が専門だ」と語源学者を名のっている専門の国語学者は五人といないのではないか。毎年発表されるおびただしい数の論文の題目を見ても「……の語源について」というものは少ない。あっても、それは、素人や素人に近い人の手になる随想的なものである。専門の国語学者は、語源に研究に対して冷たい態度をとり続けているかに見える。

2002年には語源が訴訟になった。フジテレビのクイズ番組「クイズ$ミリオネア」に出演した静岡県沼津市の男性会社員が、答えが間違っていないのに不正解とされ、賞金が得られなかったとして、フジテレビを相手取り、賞金650万円の支払いを求める訴えを起こした。男性は今年2月21日放送の同番組に出演。マヨネーズの語源を問われた4択問題に対し、「人の名前」と解答したが、番組では「町の名前」が正解とされた。男性は、正解なら750万円を獲得できるはずだったが、不正解とされたため、それまでの正解分として100万円しか得られず、「事典などで人の名前という説も有力に主張され、間違いではない」と、差額分650万円を求めている。一般にはリシュリュー公爵が1756年スペインのメノルカ島にある港町Mahon港を攻め落とした後、食事を求めたが、調理してなく、食べられるものをかき混ぜて食べたことから「マオネーズ」と呼ばれ、後に「マヨネーズ」となったという説がよく知られている。元々はバイヨネーズといい、フランスのベアルヌ地方のバイヨンヌ(生ハムが有名)にちなむ、マイエンヌ公爵の料理人が作ったから、あるいは卵黄を意味する古いフランス語のモワイユという言葉からきているなどともいわれる。果たしてどうなるか?【裁判で新阜裁判官は34の文献を取り上げた上で「いずれの文献も町名説に触れているが、人名説に触れているのは一つしかない」と指摘して「人名説があることを考慮して選択肢から除外するなどの配慮を欠いた面はあるが、フジテレビの正解設定には相当性が認められ、正解は町の名前のみというべきだ」と述べた。男性の弁護士は「少数説が正解とされないことや正解権限が被告側にあるというのは納得できない」と話している】。
語源で何が正解か探るのは難しい。「バカ貝」という貝があって別名「青柳」というが、「青柳」の方が後(市原市のの青柳で明治期に養殖された)で、「バカ貝」が本当の名前だという。
「すき焼き」は「鋤の金属部分の上で肉を焼いて食べたところから」というのが現代の辞書の解釈だが、寺田寅彦は「言葉の不思議」で次のように懐疑している。

話は変わるが二三日前若い人たちと夕食をくったとき「スキ焼き」の語原だと言って某新聞に載っていた記事が話題にのぼった。維新前牛肉など食うのは禁物であるからこっそり畑へ出てたき火をする。そうして肉片を鋤(すき)の鉄板上に載せたのを火上にかざし、じわじわ焼いて食ったというのである。こういうあんまりうま過ぎるのはたいていうそに決まっていると言って皆で笑った。そのときの一説に「すき」はsteakだろうというのがあった。日本人は子音の重なるのは不得意だからstがsになることは可能である。漆喰(しっくい)がstuccoと兄弟だとすると、この説にも一顧の価値があるかもしれない。ついでに(Skt.)jvalは「燃える」である。「じわりじわり」に通じる。
なすの「しぎ焼き」の「しぎ」にもいろいろこじつけがあるが、「しき」と変えてみると、結局「すき」と同じでないかという疑いが起こる。
昔から語源に関して多くの人が興味を持っていた。あのプラトン君の話によれば、ソクラテスさんだってheros(英雄)の語源をeros(恋愛)としたようだが、理由は恋愛から英雄が生まれたからというのだ。
もっと前に遡ると聖書にも例えばish(男)から生まれたからissha(女)だという。現在でもman(男)から生まれたからwoman(女)だという人がいる。つまり、womb(子宮)から生まれたからwomanなどといいかねない。本当はwif(wife)+manでmanは別に「男」の意味ではなかったのだが、そういう説明の方が人気がある。
というのも、語源というのは証明が難しい。
その前に、語源といっても単語のでき方に2種類あることに注意しておきたい。
つまり、「梅干し」というのは「梅を干し」たたものだからという具合に合成語はある程度説明ができるけど、元の名前がどうしてそう決まったかは神様にも分からない。「梅」は中国語の「梅」(メとか発音されていたはず)から来ている(「馬」もマから)が、どうして中国語で「梅」がメなのか、日本語で「干す」ことを「干し」といういうのか(「ほ」+「し」かもしれないが)誰にも分からない。「ダフ屋」は「札」を隠語として逆さまにした「ダフ」から来ていることは言えるが、どうしてチケットのことを「札」というようになったか説明はできない。「チケット」と「エチケット」の関係は分かるが、なぜ「チケット」というようになったか分からないのである。
語源に遡り、原義を知れば、「真」なるもの(etymos)が判明する、という論理(logos)がある。これを「語源的論理」といってもいいだろう。
しかし、これは一種の「歴史主義」ともいえ、タマネギのように剥いていったら最後には何も残らないことも多い。
なぜかといえば、「さかな」が「酒+菜」、「みなと」が「水+の+門」などと語源に遡ることができる。そして、こうした「歴史主義」は「魚」の語源が「酒+菜」だからといって、子どもに食べさせないようなものだ。
なぜ「酒」が日本語で「さけ」というか「水」を「み」というかまでは分からない。

言語の体系はすべて、記号の恣意性という・万一無制限に適用されたならばこの上ない紛糾をもたらすに相違ない不合理な原理にもとづくものであるが、さいわいにして精神は、記号の集合のある部分に秩序および規則性の原理を引き入れてくれるのである。これこそ相対的有縁の役割にほかならない。

などとソシュールは難しく書いて(語って)いるが、言語記号は指示内容(意味されるもの)と無関係であるから、遡ることができないということだ。同じことを、ドイツの哲学者フッサールは「伝統とは起源の忘却である」といっている。つまり、起源をたどっていくと、まるで違うものに行き着いてしまう。
いや、日本語はどこかの言語から生まれたのだから、それを求めれば答えが分かる、という人がいるかもしれない。実際、印欧語の場合は研究が進んでいる。
中にはこれを突き詰めて、世界の言葉は全て「ヤフェテ語」から生まれたとした学者がいた。ソ連のマールという学者で「マーリズム」とあだ名される。「ヤフェテ語」というのはハム、セムの兄弟である。つまり、ノアの方舟に乗った男なのであるが、ハム・セム語などと同様な言語があったはずで、勝手に「ヤフェテ語」と名付けて人類言語の元だとした。
この問題はこれだけで長くなるので、はしょるが、マールはソ連の御用学者となり、多くの立派な言語学者の粛清にもつながった。しかし、スターリンはマールを批判した論文「マルクス主義と言語学の諸問題」を書いて彼の時代は終わったのだ。スターリンの論文は唯一、自己批判した文章だといわれている。
また、「ノストラ語」説というのもある。全ての言語は「ノストラ」(ラテン語「我々」から命名)から生まれているとする説である。これに関してはディクソンが「言語の興亡」で徹底的に批判している。
これらは言語起源論とも関係があり、際限のない話で、何とでも思弁的な結論を見いだせるので、1866年パリ言語学会創立に際し、同学会規約第二条で「当学会は言語の起源や普遍言語考案に関するいかなる論文も受理しない」ことが決められている。
源泉主義はミロのビーナスの両腕を探そうとするようなものである。「民間語源」というのは勝手に腕を想像することである。
あらびっくりなのは、「アラビア数字」を考案したのはインドだから「インド数字」にしなければならない。インドは数学で最大の発明とされる「0」の発祥地で森本哲郎はインドを「ゼロの文明」と称していた。8世紀には今のような表記が普及し、バグダッドの学者がこの表記と、これによる加減乗除などの計算法を詳述した本を書いたことで、欧州に広まり、「アラビア数字」と誤解されたようだ。
ある言葉を誰が使いだしたか分からないと同様、語源というのは証明できないものである。「うるち米」の「うるち」がサンスクリットのvrihiから来ていると言われても、誰も一緒にその語を見守ってきたわけではないので分からない。
稀に証明できるものもある。金田一京助の本に出てくるが、彼は「バリカン」の語源を知りたくてずっと調査していた。ある日、古いバリカンが見つかって、それを見たらBarriquandetMarreというフランスの製造会社の名前が刻んであった。
最近では黒板消しを「らーふる」と呼ぶのが宮崎、鹿児島、愛媛だけに見られる「方言」だということで、騒がれた。普通はそんな分布をしないはずである。よく調べてみると、実は名古屋のしにせ業者の商品名でいつの間にかこの三県だけが黒板消しそのものを指すようになったという。

英語っぽいけれどそうではなく、当の業者も語源は分からないと言う。宮崎国際大助教授だった岸江信介さん(方言学・現徳島大)によると、鹿児島では七十代でも使うが、宮崎ではせいぜい四十代まで。まず鹿児島で教員が広め、宮崎に移ってきたらしい。宮崎日日新聞

そして、驚くべきことに、「ラーフル」というのは内田洋行などでごくごく普通の普通名詞として使われていた。そして、日本理化学工業ではもっと衝撃的な記述があったという。それはオランダ語のRAFELから来ているというものだ。英語のRAVELに相当して「こする、磨く」だというが本当だろうか?
これを確かめるためにはオランダへ行ってRAFELで通じるかどうか、レアリアが分からなければならない。つまり、オランダ人が黒板消しを「ラーフル」と呼んでいれば問題ない(オランダ語の専門家で 「エクスプレス・オランダ語」白水社などを書いている桜井隆さんに聞いたが、思い当たる言葉はないという)。
他の可能性を勝手に考えると「ウエス」(英語の“waste”から)が「ボロ布」から「雑巾」の意味で使うのと同様、英語の“raffle”(「ゴミ、がらくた」)から黒板拭きになったというものである。そう思っていたら真田信治・友定賢治 「地方別方言語源辞典」には愛媛方言として出てくるが、語源はオランダ語rafel(ぼろ切れ)だとしている。実際に黒板を消すのにぼろ切れが使用されていたという。
さて、ここで思い出すのは富山方言である。富山弁ゼミナールには次のような記述がある。

富山市近在では、今でも70歳を越えた人であれば、時には消防自動車のことを「らふらんす」と言うことがはずである。
大正10年(1921)8月に富山市は、新威力を誇るロータリー式消防自動車を1台購入した。赤一色に塗られ、異様なサイレンのうなりをあげて街を疾走する姿は、市民の目を大きく奪ったことであろう。この消防自動車が、アメリカのラフランス会社製であったので、人々は消防自動車のことを「らふらんす」と呼ぶようになったわけである。

消防車のことは他の地方でも「らふらんす」と呼んだはずである。ということは「火消し」からの類推で「黒板消し」を「らふらんす」と呼んだ地域があっていいはずである。その「らふらんす」を縮めて「らふる」、そして「らーふる」になった。
なんて推測が成立すれば面白いのだが、今となっては誰にも分からない。
分からない語源で一番有名なのはOKの語源かもしれない。この語源説は30ほどある(とハッタリをきかせると相手は聞いてくれる「色々あるけれど、Oll Korrect < All Correct = All Rightから来ているという説が有力だね…」)。
こうなるとほとんど呪文の世界だ。幸田露伴は娘の文に掃除を稽古させた。鍛錬と呼べるほどの厳しさで、ぞうきんの絞り方、用い方、バケツにくむ水の量まで指導は細かい。終わると「あとみよそわか」と呪文を唱えさせたという。「あとみよ」は「跡を見て、もう一度確認せよ」、「そわか」は成就を意味する梵語“svaha”で密教で呪文の最後につける語で、密教ではさまざまに解釈するが、元来は仏への感嘆・呼びかけの語だという。江戸の草双紙にも「後看世蘇和歌」(蘇婆訶/薩婆訶とも表記)とあり、露伴の造語ではないらしい。「馬鹿」というのも語源が分からなくなっていて、既に呪文になっているが…。
語源を遡ると、いろいろのことが判ってくる。
僕らには日が「暮れる」と「暗い」は無関係のように思われる。ところが古くは夜の「明ける」と「明るい」、夜が「ふける」と「深い」など、これらの動詞と形容詞は密接な関係にあった。「暮れる」と「暗い」は、明りのない古代の人たちの生活を考えれば、まったく自然の関係だった。
最初の使用者がどういう意味で使ったか、なんてことはその人に聞かなければ分からないし、ある人が一人で「犬」を「ゴッド」といっても聞いた方が理解できなければ言葉は成立しない。
起源を求めれば「正しい日本語」が分かるというなら、「本腰を入れる」(NHKでは使ってはいけない言葉になっている)とか「女性上位」(時代)などを使う度に顔を赤らめなければならない。
メディアが発達すると最初に使った人が誰だか分かることもある。例えば、「エッチする」という言葉でセックスという重さから解放したのは島田紳助だということが分かっていて 「現代用語の基礎知識85年版」に初めて載った(これさえ明石家さんまという説がある)。好きな言葉ではないが、「視線」と言わず、「目線」と最初に言い出したのは連合の初代事務局長山田精吾だと、ある経済団体の機関紙に書いてあった。視線だと冷たい。目線ならあったかい。山田は、目線を低くして組合員に語りかけたという。「情報」という訳語もドイツのクラウゼヴィッツ(Clausewitz)の 「戦争論」の翻訳の際、森鴎外がNachsicht(敵情報知)の訳語として使用して日本語として定着させたというのが定説だが、実際にはさまざまな説が出ている。
作家のペンネームだって、津島修治がどうして「太宰治」になったか分からないし、「男はつらいよ」の「車寅次郎」という名前も様々な理由が見つけられる。ごく最近のことなのに、語源を探ることは容易ではない。
しかも、聞いても使っているうちに意味が変わっているなんてことが多い。作家の場合は都合のいい、面白い説があるとその説で通してしまうこともある。「根暗」という言葉を作ったのはタモリであることは間違いないし、「笑っていいとも」という番組であることも、時期も分かっている。しかし、タモリは後に「この言葉は表面は明るいが実は暗い内面を持つような人を指していた」と述べているように、「ひたすら暗い人」を指しているのではなく、屈折した気持ちをもつ人を指していたのである。当然、差別語ではなかった。
差別語でいえば、「馬鹿チョン」カメラの「馬鹿チョン」があるが、カメラに付いている時は意識しないが、「馬鹿でもチョンでも…」というと意識せざるを得ない(しかし、これは江戸時代からあった表現で差別ではないという説もある---だからといって現在使っていいということにはならない)。
大好きなのは「ちちんぷい」の語源だ。気休めのまじないなのだが、徳川家光の乳母の春日局が「智仁武勇御代(ごよ)の御宝(おんたから)」の略が語源だという説がある。病弱だった家光が徳川幕府の基礎固めを果たしたのだから威力がある。
命名論とも関わるのだが、最初に名付けた人の命名の理由は一つではない。自分の子どもにどんな名付け方をしたか、たった一つの理由という人はいないだろう。
アニメ「となりのトトロ」の由来は「所沢のお化け」というのを、子どもが所沢をいいにくくて「トトロ」となったというのが通説である。ところが、映画の中で小さいメイがお姉さんのサツキに自分が出会ったお化けを説明する時に「トトロ」という。「トトロって、絵本に出ていたトロルのこと?」というサツキの問いかけに対して「コックリするメイ、大まじめ」と宮崎監督のト書きにも書かれているから、メイ本人は確かに「トロル」のことだと思って「トトロ」と発音したようだ。うまく「トロル」と発音できなかったメイは、舌足らずに「トトロ」としか言えなかったということだ。
語源と原典(“あやかり”のモデル)を区別した方がいいかもしれない。
「しゃれこうべ」というのを考えてみると「舎利(骨)+頭」だと思えてくるが、辞書をみると「晒れ+頭」という具合に書いてある。僕の頭がただの「しゃれ頭(こうべ)」だった!
こんなのは笑い話だというかもしれないが、例えば「ねずみ」の語源について説がいっぱいある。

「大言海」などは「根住・根棲」の意味。「東雅」も「ネは幽陰の所をいう。スミは栖の義」
「日本古語大辞典」などはアナズミ(穴住)説。
「菊池俗言考」などはネズミ(不寝魅)説で夜も寝ないからという。
「和訓栞」は人が寝た後、「寝盗」からという。
「名言通」は人が寝た後、出てネイツミ(寝出見)からという。
「日本釈名」はヌスミの転だという。

一つだけ見ると、すごい学者だと思うかもしれないが、実際にはこんな風にして、親父ギャグ大会になっている。特に大槻文彦の「大言海」には大限界がある。その文彦先生だって苦労はしていたのである( 「言海」「言葉のうみのおくがき」明治二十四年四月)。

某語あり、語原つまびらかならず、或人、偶然に「そは何人か西班牙語ならむといへることあり」といふ、さらバとて、西英對譯辭書をもとむれど得ず。「何某ならば西班牙語を知らむ」「君その人を識らば添書を賜え」とて,やがて得て,その人を訪ふ、不在なり。ふたゝび訪ひて遇へり、「おのれは深くは知らず、某學校に、その國の辭書を藏せりとおぼゆ」「さらば添書を賜へ」とて、さらにその學校にゆきて、遂にその語原を、知ることを得たりき。

ロシアの亡命作家ナボコフも珍種の蝶々を収集するようにロシア語っぽい英語の単語を探すことに熱中していたという。駄ジャレをいわずにはいられない人がいるように、外国語の中に母国語の痕跡を探さずにはいられないというのは母国を失った人の性(さが)なのである。
「テキヤ」の語源にも諸説あるが、仏教の教えを分かりやすい言葉で説きながら香や仏具を売り歩いた武士「香具師(こうぐし)」が「野士(のし)」と呼ばれるようになり、やがて祭礼や縁日で者を売る商人全体を指すようになる。これが明治以降「ヤー的」に、更に上下を逆にして「テキヤ」になったという説が強い。他に「目の前の通行人はすべて敵と思って商売せよ」という意味からテキヤになったという説もある。面白いと思う説を信じるしかないのである。こうして、語源学者は「テキヤ」と変わらなくなる。
昔話の「花咲かじいさん」になぜか「ポチ」という犬が出てくるが、「ポチ」というのは日本語としてかなり珍しい音形である。これを英語の“Spotty”だとする人もいる。スポット、つまり、ぶち犬でなければならないのである。更に“pooch”とかフランス語の“petit”からという説もある。調べてみるとポチという犬の名前が流行したのは明治3,40年だという。少なくとも「花咲かじいさん」が今の形になったのはそんなに昔のことではないようだ。が、本当のことは誰にも判らない。
最初に書いたように言葉の起源は分からない。起源とか根源を求めても、何もないのが本当だ。ニーチェは「始まりの拒否」をしたというのはミシェル・フーコーの言葉だが、語源といっても始まりを考えないことが大切だ。19世紀のパリの言語学会で言語の起源についての論文は認めないことになっているように、起源や根源はない。
言語学で問題にすべきは「民間語源」のような「発生」である。どのように発生してきたかで民衆の言葉に対する力が見えてくるのである。
「たぬきそば」の語源は「新明解国語辞典」によれば「東京、世田谷の砧(キヌタ)家で始めたキヌタソバがその始まりという」としっかり書いてあるのだが、「きつねうどん」(もちろん、きつねは油揚げが大好きだから)が先にできていて、キツネ:タヌキ=うどん:そばという図式があって初めて定着したのである。定着するためにも民間語源の力が必要なのだ。
ところで、関東ではうどんもそばも具材が揚げ玉だったら「たぬき」、油揚げがのったら「きつね」になる。「きつね」は1893年創業の大阪のうどん屋で考案され、後にそば版のたぬきが登場したという。東京では天ぷらの「タネ」を抜いたものだから「たぬき」となったという説もあるのだ。東洋水産が「緑のたぬき」を出した直後には違うという苦情もあったという。
柳田国男は「節用禍」という言葉で語源に対して戒めている。つまり、「節用集」という辞書に載っているから語源はこうである、ああである、という態度は間違っているという。文字や文書の知識が言葉の姿を歪めたり、解釈を曲げたりする現象を批判している。英語で語源はOEDに載っている通りだと決めつけてしまうようなものだ(山田俊雄にも「節用禍・辞書禍」 「詞林間話」角川書店がある)。
「ねずみ」の語源のように、ある本に書かれていたから語源はこうだ、という決めつけてはいけない。もっと言えば、日本人は文字信仰というものがあって、印刷されたものに権威をみつけ、そこで思考停止することが多い。文字から脱却しなければならない。それはどんな学問でも同じだ。
語源の場合は、特に後から漢字を当ててあって、「あんばい」が「塩梅」で梅干しを付けるのにちょうどの塩の量だ、という語源説が人口に膾炙される。「案配、按配、按排」(ほどよく配列する)という漢字もあるし、柳田のように「間(あわい)」が変わったものだという説もある。
しかし、柳田がどんなに偉大でもこの説が正解とはいえないのである。
もう一つ大切なことは借用である。自国語だと思っているのに、元は外来語ということがままある。天ぷらは日本独特の料理だが、ポルトガル語である。「合羽」や「南瓜」(読める人もすくなくなっただろうけど)なども日本に定着している。
逆にアイヌ語で「神」は“kamui”、「高坏」は“tukui”などの言葉になっているが、同源と考えるよりは借用と考えた方がよさそうだ(ただし、縄文学や遺伝子研究の進展で見方が違ってくるかもしれない)。
学者の説も民間の説もそんなに変わらない。だから「民間(民衆)語源」(folk etymology)が生まれてくる。
「民間語源」というのは古今東西を通じて民衆がいつの間にか言葉を分解して考えているような例である。民衆の語るこじつけの語源解釈だが、なかには的をはずしていないものがある。へたな役者のことを「大根」というが、これは「素人」の「しろ」から「大根」になったとか、下手な役者のことを「馬の脚」というが、これとの連想からという説があるが、大根は生でも煮ても、決して「あたらない」というのは後からできた説でも説得力がある。英語では“ham”というが、不器用な人間を賞賛するminstrel showの歌The Hamfat Manからの造語で“hamfatter”の短縮という説があるが、一説には米国のHamish McCullough(1835-85)の劇団Ham's Actorsからという説もある。
武士などが使った「一所懸命」が「一生懸命」に変わったのは「一所」を「一生」だと民間の人たちが間違えたからである。
「ビー玉」の語源は古来、「ビードロ玉」から来ているとされていた。「ビードロ」はポルトガル語でvidroで「ガラス」というのは歌麿の浮世絵「ビードロを吹く女」などで知られているが、近年、ラムネ(lemonadeが語源)に用いるA玉があって、この規格外がB玉とされたことから、という説があって、こちらの方が面白いから、みんな飛びついて、「民間語源」として残っていく。「エー玉」「ビー玉」というのがどこかで使われていない限り(文章に残っていないと証明できない)、受け入れ難い。とはいえ、「ビードロ玉」というのも文献にあるかというと、(寡聞ながら)ない。ウィキを見ると「言語学の世界では完全に否定されている」と書いてあったが、「ビー玉の語源について」という学会があった話も(寡聞ながら)聞いていない。「俗説」と決めつけることはとても難しいのだ。
柴田武が書いているが、「青大将」は「青い」「大将」(お仲間!?)だからと民間語源で考えがちだが、実は「青大蛇」が訛ったものである。「大将」はタイシヤウ、「大蛇」はダイジヤと書かれたことから証明できる(タイシヨウだったら「大蛇」とは結びつかないことになる)。
こんな風に表記が変わって語源から遠ざけられることが多い。「稲妻」というのは「稲の夫(つま)の意味で、古代、いなびかりによってイネの穂が孕むと信じられていたことから呼ばれたが、今の表記は「いなづま」だけでなく、「いなずま」でもいいとされる。そして、「いなずま」となると語源から離されることになる。
「むすびの神」は結婚式を司る、ただの「縁結びの神」だと民間では思われているが、もともと「産霊」と書かれていて、「ムス・ピ」から出ていることが国語史から分かってくる。ムスは「苔むす」のムスで「生む」「生み出す」の意味。ピは「霊」のことをいう。つまり、「むすびの神」は、男女に「子を生み出させる神」のことで、結婚しても子どもを生まない夫婦は「むすびの神」に見離された存在ということになる。
民間語源の典型的なのは「夜這い」であろう。「夜這っていく」からと思われるが、「呼び合う」が縮まったものである。「歌垣」(うたがき)とか「かがい」と呼ばれた行為と同じ風習に遡る。
日本語の語源を考える時に注意することは、もともと音声だったのが、それに合わせた漢字で書かれた途端に、漢字に引っ張られて解釈することが多く、惑わされるということだ。地名や姓名などの語源などもカタカナで考えなければならない。
英語だとasparagusをa sparrow + grassと分析して「雀」+「草」だと思っているアメリカ人も多い(実際には“spark”と近い語源を持ち、ギリシャ語の「膨らむ」から来ている)。
ハンバーガーの語源は「ハンバーグ」から来ているが、「ハンバーグ」はドイツのハンブルグから来ている。都市の名前が語源になっているのだが、問題は「ハンバーガー」から「チーズバーガー」とか「月見バーガー」というのができた瞬間に、これは民間語源でできた語という(「異分析」という)。だって、「バーガー」という代物はなかったのだ。そのうち、ダイエット用で半分にした「4分の1バーガー」なんてものも生まれるかもしれない。
「帝王切開」(Caesar/Caesarean section/operation)というのはジュリアス・シーザーが帝王切開して生まれたからという説があるが、実際にはラテン語のcaesarea「切る」とCaesar「シーザー」とをドイツ人がお節介にも間違ってしまい、「シーザー(帝王)の切開」となってしまったのである。
スコットランドで、新種のゲームが考案され、そのゲームのうたい文句がGentlemen Only, Ladies Forbidden...(紳士のゲームにして、ご婦人の為すこと能わず...)ということからGOLFになった、というのはウソである。
面白い話はいくらでも作れる。「ベーコン」の起源はイギリスの哲学者フランシス・ベーコンである。ベーコンは内臓を取り出した鶏に雪を詰めて保存する実験をしていて死亡した。寒空の下で風邪を引いたとも、食した肉にあたったとも伝えられている。冷凍食品づくりの先駆者だろう。その道に携わった人の経験談によれば冷凍の技術よりも、いかにして鮮度を保ちつつ常温に戻すか、解凍の技術に頭を悩ませたという。ベーコンは政策に携わる者に戒めを残している。「いわく遅緩、いわく腐敗、いわく傲慢、いわく軽挙」だという。…というのは全くのガセネタである。
腐ったような大豆が「納豆」で、箱に納めてもないのに「豆腐」は逆ではないか、などと民間語源がジョークに使われることも多い。
民間語源が洗練されると物語になる。竹取物語も富士山の民間語源の物語(沢山の兵士が登ったので「士が富める」、不死の薬を燃やしたので「不死」の二つの説)と考えることもできる。そう言えば、かぐや姫が求婚者の一人、あべの右大臣に出した難題は「火鼠(ひねずみ)の皮衣」の入手だった。右大臣は唐に使いを出したが、ニセモノをつかまされ、燃えぬはずの皮衣はめらめら燃えてしまう。「あべなし=あえなし」という語呂合わせで終わるあっけない結末だった。竹取の作者は駄ジャレが好きだったのだ。
どうして「部屋」というようになったか、という次のような昔話もある。

結婚したばかりのお嫁さんが、亭主がいなくなると姑と二人きりになる。お嫁さんは窮屈で、何とか夫婦の部屋がほしい。若夫婦なので欲求不満も募ってくる。そして、姑とケンカをして、追い出されてしまう。原因はお嫁さんの放屁がストレスからやたら大きかったということだ。
家を出て、通りすがりに商人が牛の背に商品をいっぱい載せてやってくる。そこにあった梨の木を見上げて、あの梨を全部もらえらば、俺の荷物を全部あげてもいいのに、と口走った。たまたま、梨の木の下にいたお嫁さんがおならを一発ならした。すると振動があまりにも大きくて、梨の実が全部落っこちた。それで商人の荷物を全部自分のものにすることができた。そこへ亭主が追いかけてきたので、二人で商品を町にもっていき、大金を手にした。そして、とうとう自分たちだけの部屋を持つことができた。

これが「屁屋」、つまり、「部屋」の語源である。
もう一つ、日本独自の「民間語源」がある。言葉と次元が違う、漢字の起源に関する「民間字源」である。
「娘」川崎洋(「詩集言葉遊びうた」)
娘はみんな 良い 女 とはかぎらない
例えば、「漢字って面白いですね。良い時代は“娘”と書いて、家に入るから“嫁”になって、古くなると“姑”になって、顔に波が出ると“婆”になる」なんて説明をする人がいる。「アリは義理堅い虫だから“蟻”って書くんですね」なんていう人がいる。「“泊”と“晒”は逆ではないか、だって、白くする方は“泊”で、陽が西に傾いた時に“晒”のではないですか?」という質問をする人がいる。
子育ての話で「“親”という漢字は“木の上に立って見てる”ですから、そんな風に子どもを見守ってください」とも言われる(ちなみに「親りに」で「まのあたりに」と読む)。「“歩”っていうのは「少し止まる」と書くでしょ、だから、ちょっと止まっていても前進はしているのよ」…。
料理家の神田川俊郎は「人を良くすると書いて「食」」だと言っていた。
これらの多くは漢字の起源を無視した議論なのである。(実際の発音は少し違うが)“娘”をリョウ、“嫁”をカ、“姑”をコ、“婆”をバなどという発音が先にあって、これらを表す漢字の左を意味、右を音としたのであって、右側の旁(つくり)に積極的な意味はない。もっとも、「嫉妬」はどちらも女偏だが、藤堂明保編 「学研漢和大字典」の「妬」の説明に「女性が競争相手に負けまいと、真っ赤になって興奮すること」と書いてある。知ーらないっと。
そういえば、「鮫」は魚類の中では珍しく交尾をすることから、漢字では魚偏に交で鮫と書くという説があるが、まだ確かめていない。
アリのことをギ、船が泊まるのをハク、布を晒すことをセイと言ったから“蟻”や“泊”や“晒”になった形声文字なのであって、中国語の音を忘れて日本人が勝手に面白いということはできない。
阿辻哲次によれば「私の話を信用してください。ほら、儲かるという字は“人”の“言”うことを“信”じる“者”と書くじゃないですか」といってトリし寄りを騙す詐欺師もいるそうだ。儲という字は“人”と、字音を表す“諸”からなっている字ででたらめだ。
民間語源ではないが、「頁」は中国で「頁」の近代音「よう」が「葉」と同音であることから用いたもので、漢字なのにカタカナ表記するところは非常に奇妙に思える。
今の漢字で考えると間違えることもある。例えば、「親切」はそのままだと「親を切って」何が親切かと思うが、漱石などの頃は「深切」と書いて、「身を深く切られるように、身に沁みること」という意味だったという。今の漢字によって元の意味が裏に隠れてしまう。
でも、今度から、“「愛」という字は「心」を「受」けると書く”なんて話をして女の子を口説こう!

「蕾」杉山平一(「杉山平一詩集」)
誰がつくった文字なのだろう
草かんむりに雷とかいて
つぼみと読むのは素晴らしい
とき至って野山に
花は爆発するのだ
遠い遠い花火のように
その音はまだ
この世にとヾいてこない
語源は証明が難しい。方法論としては文献調査、比較、内的再建というのがあるのだが、難しい。「竹取物語」のように文献に書いてあったからといって正しいとは限らない。比較は日本語の場合、同源の言語が知られていないから無理だ。内的再建というのは「さけ」と「さか」が「酒」と「酒屋」で交替する現象を通してどちらが先か考えていくものである。
「民間語源」に対して「学者語源」ということがあるが、学者だって人の子だ。
「神」と「上」は同じ語源かという問題がある。貝原益軒、新井白石、賀茂真淵らは「上」からだといっていたが、実は「神」と「上」では使われる漢字の種類が違うのである。同じイの音でも「神」の方は乙音と呼ばれる音で「上」は甲音と呼ばれる音なので違う物なのだ。だから語源は違う、なんてことにはならない。つまり、少なくとも“kam-”の部分は共通していて、ここが同源なのかもしれないのである。
今の若い人は使わないし、状況自体少なくなっているが「えんこ」という言葉がある。これは「エンジン・故障」の省略だと考えられるが、実は江戸時代の「柳多留」の中でも使われていて、子どもが動かなくなった状況を「えんこ」というから違うことが分かる。語源学では、こうした「○×の語源は△□ではない」という否定的な言い方しか生まれてこない。
「岩波古語辞典」はそうした証明を飛ばしてできた辞典の一つである。これは言語学者ではなく、国語学者の大野晋が編纂したもので自分の知っている言語で説明できるものは説明してある。「ツマ」というのは端にあるもので「爪」や「妻」というのはここから派生した、というのは構わないにしろ、これを朝鮮語で説明するのは、学会で承認されたものではない。
英語やフランス語などで「語源学」が成立するのは、インド・ヨーロッパ語族の研究が進んでいて、どの語がどういう派生をしたかすぐに分かるからである。英語の語源を調べたかったらOxford English Dictionaryを調べさえすればいい。American Heritage Dictionaryでも十分に調べられる。
もちろん、それにも限度があって、風間喜代三先生は「印欧語の故郷を探る」で次のように描いている。

どの印欧語をみても、その語彙には語源不明のものがかなり含まれている。ギリシア語についてフランスのP・シャントレヌの語源辞書のあげる全語彙のうち、52.2パーセントが語源不明、残る語彙の6分の1(全体の8パーセント)がセム系などからの借用語で、印欧語起源を持つものは全体の40パーセント以下といわれている。最も古い資料であるヒッタイト語の場合。対応が認められるのは約2割にすぎない…
比較文法にとってギリシア語は重要な言語である。しかしはたしてその全語彙の何割が印欧語系であろうか。いわゆる地中海文明を担った人たちのものと思われる出所不明の形が,ギリシア語には数えきれないほど見られるが、ホメーロスの「イーリアス」の最初の2行の詩句の中で、印欧語系と思われる語彙は一つも含まれていない。一つの言語の長い歴史を考えればこのような語彙の混合は当然のことである。
日本語で成立しないのは日本語の起源が分かってないからである。
今まででもっとも面白かった語源論は村山七郎の「ティダ考」だった。沖縄で太陽のことを「ティダ」という。だから灰谷健次郎の小説「太陽の子」はルビが「てぃだのふぁ」となっている。この語源をいろいろ調べたがなかなか分からず、ようやくたどり着いたのが、「お天道様」と同源で「天道」だった!とするものである。これは沖縄方言との音韻対応など比較が学問的にしっかりできているから成功したのである。それ以外は望み薄だ。実は、村山七郎は日本語が南島語から来ているとする説を唱えていて、日本語起源論は本当に難しいと思う。
大野晋は朝鮮語で説明することもあるが、タミール語で説明することが多い。しかし、言語学者は誰もタミール語と日本語が同系だとは思っていないのである。
語源は証明が難しいので「本物」の言語学者は手を染めないものである。
でも、タミール語と日本語が関係がない、と証明することも難しい。「ある」ことの証明に比べ、「ない」ことの証明は格段に難しく、不存在証明が「悪魔の証明」と言われるのと同じだ。
僕は国語学では素人なので手を染めてみる。
金田一春彦がウメモドキの語源について書いていたが、「梅に似ているから」というのは間違いで、「もどく(挑く)」は非難する、抵抗するという意味の動詞。中世の芸能では主役と張り合う役を「もどき」といった。つまり赤い実を付けて「梅にだって負けないぞ」と張り合っているように見えるのでウメモドキと名付けた、という。僕は言語学者モドキなのである。
あくまで一つの例として「パンティ」の語源を考える。
まず、「パンティ」というのは間違った英語だ。正確にはpantiesと複数形にしなければならない。これは「はさみ」scissorsとか「ズボン」trousersとか「眼鏡」glassesのように対になったものを示すための複数形である。理屈に合っているように見えるが、ブラは単数形だ。“Why is “brassiere” sngular and “panties” plural ?”というジョークがある。
「パンティーズ」で正しいとしても「パンツ」に対して「ィー」というのは何か。
これは言語学で指小辞と呼ばれるもので、英語ではbirdにbirdie, babeにbaby, pussにpussy【子猫ちゃん】などが知られる。日本語だと「小鳥」「小賢しい」「小理屈」「夕焼け小焼け」の「小」やロシア語では-ka(vodka<voda水)などがある。
では、「パンツ」は何かというと日本語は「ブリーフ」など下着を指していてこれもおかしいが、元々はイギリス英語で下着の方をpantsと言っていたからである。アメリカ英語でpantsが「ズボン」の意味になったのだが、最近の日本人がちゃんと「ズボン」の意味で「パンツ」を使っているようにイギリスでもアメリカ英語に押されてpantsで「ズボン」の方を指すようになってきたようだ。
そのため、日本の年寄りvs.若者と同じことがイギリスでも起きているようで、誤解を避けるためには下着の方はunderpantsという。
男性の下着のパンツは日本でブリーフとトランクスに区別されている。英語ではbriefsとかshortsとかいう。女性用はpantiesになる。
なお、下着デザイナーの鴨居羊子は1955年に日本で紐のようなパンティであるスキャンティを発表(紹介)したのだが、当時は「スキャンダル」と「パンティ」を合わせた言葉だとされていた。これは「わずかな」という意味のscantyから来ていて、“scanties”はRandom House English Dictionaryによれば、“a very brief underpants, especially for women”となっていて和製英語ではない。
さて、「パンツ」の語源はフランス語などの「パンタロン」に由来する。ところが、これもおかしくて日本ではラッパ形に開いた女性用のズボンを指す。
ではどうして、長いズボンを「パンタロン」といったかというと、19世紀になってからコメディア・デラルテの中で長いズボンをはいた人物として描かれたパンタレオーネPantaleoneという登場人物が長いズボンをはいていたからである。パンタレオーネは女のコロンビーネのお父さんということになっている。もう一人の登場人物はハーレクィン(アルルカン)である。
喜歌劇の原型とされるペルゴレージの「奥様女中」に出てくる主人のウベルトはまさにパンタレオーネの流れをくんでいる。
では、この男がパンタレオーネと呼ばれたかというと、彼は出身がヴェネツィアということになっていて、ヴェネツィアの代表的な人名から採ったのである。それは4世紀のヴェネチアの聖パンタレオーネで、「パンタレオーネ」という名前の聖パンタレオーネはヴェネツィアの守護神だったからである。この神様はだぶだぶのズボンをはいていた。キリスト教でライオンは聖マルコの象徴( 「エゼキエル書」1:10に登場する四つの生き物に由来し、それぞれ四人の福音記者と福音書にあてはめられている)で聖マルコはヴェネツィアの守護聖人であるため、サン・マルコ(聖マルコ)広場にあるライオンの像を始め、ヴェネツィアのいたるところでライオンの像を見ることができる。ヴェネツィアには彼の名前を取って名付けた人が多かったことは容易に想像できるし、そのため、ヴェネツィア人の代表的な名前の一つになったことも想像できる。
鹿島茂「フランス歳時記」には次のように書いてある。

…聖マルコは、聖ペトロの弟子で通訳もつとめ、福音書「マルコ伝」を著した。聖遺物(遺骨)がヴェネチアに箱がレ他ところから、ヴェネチアの守護聖人となった。サン=マルコ聖堂や広場は彼にちなむ。ペトロの通訳だったところから、通訳の守護聖人であり、ペンと本、それに翼のあるライオンがエンブレムになっている。

ヴェネツィアの水夫たちはこの種のズボンを着用していたが、市民服にズボンが登場するのは18世紀のフランス革命時である。キュロット(culotte“半ズボン”)をはいた貴族に対して、長ズボン姿の職人や労働者をサンキュロット(sans-culotte“キュロットなし”)とさげすんだのだが、本人たちには誇らしかった。こうして愛国党員は縞のパンタロンをはいて半ズボン派を打倒した。これ以後男子服にパンタロンが定着していった。もし貴族と庶民のズボンが逆だったら、今ごろ半ズボンにタイツ姿が標準になっていたかもしれない。
OEDによれば、パンタレオーネの意味で最初に使われたのが1590年で、ズボンの意味で使われたのが、王政復古の頃の1661年だということも分かる。
この後は言語学の問題ではなく、歴史学や社会学など別の分野のお話になっていく。
クレオパトラなどはチュニックと呼ばれる、下着みたいな上着みたいなものを着ていたが、パンティははいてなかった。シーザーの方は英語で“loincloth”と呼ばれる腰巻きみたいなものをつけていたが、同じくノーパンだった。ただ、これが現在のパンツのルーツになっているという。
クレタ島の女性たちに胸を強調したシルエットが流行して、胸は大きく開き、スカートの裾はふわりと広がった。
15世紀になって十字軍を契機に東方文化が流れ込んできた。留守の間、心配なものだから「貞操帯」(chastitybelt)が発明された。金属製の鍵がかかる立派なものだったが、もちろん、鍵なんて簡単に開けられただろうし、逆に、これが取れなくて、不潔になって病気になった女性も多かった【今も売られているので興味ある人は自分で検索してね】。
フランスでは16世紀にイタリアからルネサンスをもたらしたカトリーヌ・ド・メディシスがカルソンと呼ばれるズロースを履いたことが知られている。乗馬が趣味だったが、脚線美が自慢だったカトリーヌは横乗りはしないで、脚部が見えるように左足だけをあぶみに乗せて、右足は折り曲げて鞍の上にのせるスタイルを好んだという。するとスケートがめくれて美脚が見せられることになったのだが、はずみで奥の方まで見えてしまうというジレンマに陥った。ということで、男がつけていたパンツをつけることにしたのだという。
男女平等のルネサンスの精神が服装でも花開いたのだが、宗教改革のためにあっさりと姿を消した。やがてフランス革命の後、パンタロンが女性に広まったが、娼婦たちが履いたこともあって「不作法だ」とか「ふしだらで悪魔的」とブルジョワから攻撃された。こうして一進一退を繰り返しながら浸透していき、修道院も「慎みの筒」として認めるようになってきた。
ジョージ3世(1806年)の時代、王宮で開かれた華やかなパーティで、シャーロット姫が椅子にスカートをふわりと広げて腰掛けた。お姫様の従姉妹が見てびっくりした。スカートの裾から下着が丸見えなのだが、姫はこれがおしゃれだと言ったという。穿いていたのはスリムなモンペ【古い!】みたいなものだった。これが「パンタレット」(pantalets)と呼ばれて大流行した。みんな目立つために、スカートの裾からのぞく下着の足首の紐にリボンやレースをつけて飾ったという。
1830年代を過ぎてビクトリア王朝時代になると再びノーパンになったという。この時代はフランス革命の反動で、性は汚らわしい、嫌らしい、下品な、隠すべきものと考えられ、女性の体の輪郭があらわになると性的だというので、バッスル(婦人用スカートの後部を膨らませるために用いる腰当て)とかクリノリン(スカートの広がりを支えたペチコート)を使ってスカートを膨らませたり、ロングスカートにより脚が露出しないようにしたという( 「ジャポニカ」参照)。
英語に“bowdlerize”(「わいせつ部分を削除する」)という言葉があるが、イギリスのシェイクスピア学者バウドラー(1754―1825)が性的な部分をすべて削除した 「家庭向けシェイクスピア」を出したりして出版物から性を追放しようとしたからだ。しかし、その裏面ではポルノグラフィーが流行し、ロンドンには8万人の売春婦がいて40万人の男がこれに関係し、1851年にはイングランドとウェールズの成人女子の8%が私生児を産んでいたという。
そして、ズロースの時代になる。“drawers”というと「ドロワーズ」が正しい発音だと思われがちであるが、「ドゥローズ」で日本語はしっかりしていたのである。元はイタリアの女性が乗馬の時に穿いたといわれる。考えてみたって、何も穿かないで馬の堅い鞍に乗るわけにはいかない。鞍なしだと馬の方が背中がくすぐったくて仕方がないだろう。
なお、18世紀のオランダにはズロース条例というのがあったそうで、「ズロースを他人が穿いているのが分からせるべからず。ただし、次の場合は着用が判明しても可とする。(1)高いところに立って窓を拭くとき(2)スケートをするとき」だったという。ただし、ニーナというプリマバレリーナが踊ってズロースが見えて、逮捕されたともいう。
1848年、アメリカのエリザベス・ミラー夫人によって始められ、1849年にアメリカの女性解放運動の機関紙「リリー」の編集長だったアメリア・ブルーマー女史(A. J. Bloomer)がブルーマー服なるものを提唱する(考案したのはエリザベス・スミス・ミラー夫人)。女性の地位向上のために改良された衣服でズボンの採用が特色だった。ブルーマー女史は「スカートの下には必ず、活動的な下履きをはきましょう」と提案した。しかし、当初ニューヨークでは受け入れられず、1851年ロンドンで発表するに及んで、大きな反響をよんだ。アメリカではのスタイルは女性解放運動の象徴となり、反対派からの非難やからかい、風刺の対象となり、ブルマー女史本人もわずか8年ほどで着用をやめ日常着として定着しなかった。1880年代のアメリカでセーラー服と組み合わせて着用するブルマー型ズボンは女子体操服として復活し、この時期、日本から留学していた井口あくりが帰国して東京女子高等師範学校に赴任し、女子体育教育の重要性を説き、併せてブルマーの普及に情熱を傾けた。女子が男の領分=ズボンに侵食していくことについては社会的な反発や抵抗があった。それでも、政府の富国強兵策にマッチする健康な母体作りに繋がることもあって学校体育界を支配していく。
おかげで、日本でもちょっと前まで、腿の部分にゆとりのある「提灯ブルマー」や後のぴったり化繊のものが女子高生のシンボルだったが、おじさんがそう思っていただけで女性たちはあまり好まなかった。これについても高橋一郎他の「ブルマーの歴史」があり、1851年に考案されたものが、80年代に復活し、日本に井口あくりという人が普及に情熱を傾けた。ところが、1990年前後の10年間にすっかりなくなったのは93年に「ブルセラ・ブーム」が起きたためにいかがわしい感じを与えるようになったということだ。後に中嶋聡 「ブルマーはなぜ消えたのか」という本も出た。ただ、これだとスカートだっていかがわしいかも知れないし、何よりも好んでミニにしたがるのは女子高生なのだから説明はできないような気がする。
フランスでは1880年以降、自転車の普及とともにスカートをはかない女性が生まれてきた。同時に、スカートを膨らませるクリノリンが廃れてしまい、プジョーなどもともとクリノリンを作っていたメーカーは自転車メーカーになっていったという(プジョーがクリノリンに関わっていたことは公式ページに書いてある)。
性を汚らわしいものとしたビクトリア朝の考え方は、第一次世界大戦後のマスコミや交通の発達、ジャズや映画の流行、女性解放などによって消え去り、性をありのままのものとして受け入れる傾向が広まった。
“panties”という語が記録されるのは1845年だが、実際に広まったのは1924年以降、つまり、「フラッパー」と呼ばれる新しい女性たちの出現と深い関係がある。シャネルがファッション的に満足のいく下着を次々に発表したといわれている。
女性はズボンをはかなかったら、“wear the trousers/pants”というと「かかあ天下」のことを指すようになっている。
1959年のオットー・プレミンジャー監督映画で「或る殺人」(Anatomy of Murder)では「パンティ」という言葉が恥ずかしくて使えない状況が描かれている。「レイプ」を扱った事件なのだが、法廷で何て呼べばいいか問題になる。「レイプ」という言葉も最初「トラブル」と言いかえられた時代なのだ。裁判官がジェームズ・スチュワート演じるビーグラー弁護士とジョージ・C・スコット演じる検事を呼んで相談するがまとまらない。“アンダーウェア”という案も出てくるのだが、「それは一体何だ?」「パンティだ」という議論がされ、すったもんだする。“アンダーウェア”ではレイプの緊急性が出てこない。フランス語案も出てくるのだが、よけいイヤらしい感じが出てしまうとかで避けられる。結局、判事は「パンティ」(“OK, Mr. Biegler, you've got your panties in evidence now.”)を使うことにして裁判を続ける。なお、この映画で判事を演じたのは実際の弁護士のジョーゼフ・ウェルチで陸軍の弁護士としてマッカーシー上院議員を叩きつぶしたことで有名だった。
日本人はパンティを履く習慣がなく、脱がす楽しみももたなかった。「古事記」には「帯、衣、褌」の文字が出ているが、「褌」といっても袴みたいなものだったらしい。大宝律令(762年)の衣服令には女性は膝まである上衣と帯と肩掛けをして、下には腰巻き状の布を巻くと記述されている。平安時代の十二単の下はノーパンだった。
慶応2年に福沢諭吉はズロースの存在を知って効用を説いているが、日本女性はスカートをはくようになってもズロースをはじめとする様式の下着にすぐになじめず、下には腰巻きをしていた。鷲田清一は「洋装下着の受容と身体感情の変容」( 「近代日本文化論3ハイカルチャー」)で次のように書いている。

それは、きものが身体にふんわりとまとうものであって、身体に密着し、それをしっかり梱包するという感覚に乏しかったからかもしれない。しかし被われるべきプライヴェートな身体という観念、あるいは「秘部」という表象になかなかなじめなかったということが、より大きな理由として考えられるかもしれない。じっさい、わたしが幼児であった昭和二〇年代後半には、まだまだ近所に上半身はだかで夕涼みするひと、きものの裾をめくり上げて後ろ向きに立ち小便する女性が、道ばたにごくごくふつうにいた。

1932年2月23日に白木屋火事(99年に閉店となった東急日本橋店の前身)が起き、下から見られるのが嫌で、そのまま焼死したり、和服の裾を押さえようとして墜落死した女性が14名もいた(朝日新聞百年史の中にこの記事が載っている)。それまでは毎日閉店後に掃除婦が掃くと野球のボール大のヘアが集まったそうだ。この事故の後、パンティを履くことが奨められたが青木英夫 「下着の文化史」によればせいぜい1%という。ただ、東北の女性は「もんぺ」とか「もんぺえ」という下履きを履いていたようだ。やっぱり寒いからだ。「もんぺ」が普及するのは第二次世界大戦中だったが、これは国防と深い関係があった。
なお、井上章一は「パンツが見える」の中でこれが伝説だとしている。パンチラを恥じる女の羞恥心、それを悦ぶ男の助平心という図式が成立するのは井上によれば1950年代で実はつい先日のことだという。それ以前の一般的パンツ観は「股間を隠蔽(いんぺい)する保護膜」以上のものではなかった。それがどのようなプロセスと力学によって高度の記号的変換を遂げるに至ったのか?一週間後、白木屋の山田専務が新聞記者に語った談話が次のようだという。つまり、防火体制の不備の責任をパンツのせいにしてしまったのだ。

「女店員が折角(せっかく)ツナを或はトイを伝わって降りて来ても(略)下には見物人が沢山雲集(たくさんうんしゅう)して上を見上(あげ)て騒いでいる、若い女の事とて(和服の=藤森注)裾(すそ)の乱れているのが気になって、片手でロープにすがりながら片手で裾をおさえたりするために、手がゆるんで墜落をしてしまった。(略)こうしたことのないように今後女店員には全部強制的にズロースを用いさせる積(つも)りですが、お客様の方でも万一の場合の用意に外出なさる時はこの位の事は心得て頂きたいものです」

隠すだけならそれまでの腰巻きでも十分なのに、なぜ女性はパンツをはくようになったのか。
パンツは防犯用に使ったという。パンツが急速に普及する昭和10年代から戦後にかけての時期、今は死後になった「ブリキのズロース」というすごい言葉があって、男相手の接客業の女性たちが二枚、三枚と重ねていたという。敗戦後は、アメリカ兵対策として良家の子女が二枚、三枚と履いたという。似たような話が井上ひさし(「いのうえ」というのに「いのした」が気になるのだろうか)の 「青葉繁れる」にはデートするのにワンピースの水着を着ていく女の子の話が出てくる。
ヨロイのようなものであって、パンツが見えること自体は何ら恥ずかしくはなかった、と井上章一はいう。ただ、例外は野坂昭如で、世間のほとんどがパンツをヨロイとしか見ていなかった時期にいちじるしくパンツ・コンシャスで、脚の魅力に敏感な谷崎と対抗的な資質だと指摘する。そして結論は「パンチラが、新しい眼福として公認されるのは、やはり、一九五〇年代後半からであったろう」だという。
留学生たちにも若い女性がパンティを見せないようにするのは奇妙だといわれたことがある。だって、パンティを履いていたら、別に変なもんが見える訳ではないじゃないか!僕が高校生の頃、朝日新聞に掲載されていた 「フジ三太郎」がパンチラにあれほどこだわる理由がよく分からなかった。でも、それは性のシンボルだったのだ。シャネルの5番しか身につけなかったモンローがセックスシンボルとして持てはやされたように、パンティはシンボルだった。このことを上野千鶴子は 「スカートの下の劇場」で次のように書いている(言われなくても分かるが)。

バタフライ【ストリッパーが局部につける小さい布】が意味しているものは、機能性ではなくて、シンボル性です。ストリップ・ティーズは、男のもっている女性の身体に対するファンタジーに合わせて、女が演技します。そのファンタジーの求心点は当然女性器ですから、その周縁からまわりこんで行って、最後に求心点にストンと入る。その焦らしのテクニックの中で、最後に取り去る小さな布切れがバタフライです。つまり最後の部分を隠す、取るために隠す装置です。
パンティの起源はそれしかないのではないか、と思えてくる。そうでも考えないと、ブルマー型のパンティからいまのようなタイプのパンティへの変化は、断絶が大きすぎます。
しかしながら、上には上がいるもので、鹿島茂は「関係者以外立ち読み禁止」の「白木屋ズロース伝説について」でフランス人が同じような話をボン・マルシェ(このデパートについて詳しくは鹿島茂 「デパートを発明した夫婦」講談社現代新書)の話として聞いたという。

ようするに、十九世紀の末のフランスにおいても、戦前の日本のように、パンティの類は一部の女性の間では普及していたものの、なお、それをまったく身につけない女性がかなりのパーセンテージで存在していたのである。そして、こうした認識が広く社会に受け入れられていたからこそ、若い女性が多数いる大型デパートなどで火事が起きると、下半身が丸だしになることを恐れた女性が焼死したり転落死したりしたという伝説が生まれたのだ。あるいは、ボン・マルシェが火事になった一九一五年でも事態はそう変わりはなかったのかもしれない。
都市伝説が生まれるのは、それをいかにもと思わせる社会構造が存在しているときである。もっともらしさのほうが真実よりも流布するスピードは速い。これだけはいつの時代も変わらないようだ。
こうして、現在に至るのだが、こんなことは言語学の話ではなく、歴史学の問題だ。
なお、ズボンの起源については米原万里が「ガセネッタ&シモネッタ」の「フンドシチラリ」で馬上民族のモンゴル起源説をチラリと述べている。「発明マニア」では「故ローマ法王ヨハネ・パウロII世の秘密発見」というエッセイを書いている。法王は何と、マザー・テレサのパンツを大事に持っていたというお話だ。本当かどうかは是非、読んでみてください。
文学の問題になるかどうか知らないが、丸谷才一には「パーティでパンティが脱げたら」というエッセーがある。他人の家のパーティでパンティが脱げてしまった時の対処法をいろいろ考察してあるのだが、パンティがそんな簡単に脱げるものとは考えられない。
と思っていたのだが、ある時、同級生が「あの時はびっくりしたなぁ」という。小学校5年生の時、担任のI先生が教壇で何かパニックしたのはしっかりと覚えているのだが、何が起きたのか、後ろの席の僕には分からなかった。
いわゆる三十年ぶりの真実となったのだが、その時、I先生のパンティが突然、床に落ちたのだという。
文学には通暁しておくものだと感心した。

ひとくちで言ってしまえば、彼女は1967年の夏を一人で引き受けたような女の子だった。彼女の部屋の戸棚には1967年の夏に関するすべてが、整理された下着みたいにきちんと収められているんじゃないか、という気がした。村上春樹「夢で会いましょう」
ところで、加藤主税の「日本語七変化」によると、最近の若い女性はパンティをはかないのだそうだ。
下穿きはちゃんとつけるのだが、世俗の垢で下穿き以外のニュアンスのほうが強くなってきたせいなのか、「パンティ」と呼ばずに「パンツ」という女性が増えてきているのだと書いている。
しかし、この記述は必ずしも正確ではない。というのも女性が元々、パンティを「パンティ」と呼んでいたかどうか怪しいのである。確かに特に区別する必要があれば「パンティ」ということがあるが、女性どうしの話でも「下着」といったり、「パンツ」と言っていたのである(ただ、彼女らは「ズボン」のことも「パンツ」といって困ることがある)。

夕暮の繁みの中で彼女は茶色のスリップオン・シューズを脱ぎ、白い綿の靴下を脱ぎ、淡い緑のサッカー地のワンピースを脱ぎ、あきらかにサイズが合わないとわかる奇妙な下着を取り、少し迷ってから腕時計を取った。それから僕たちは朝日新聞の日曜版の上で抱き合った。村上春樹「風の歌を聴け」

つまり、最初からオジサン言葉だった可能性がある。
 
近代詩における擬声語について

はじめに
明治維新以降、日本の文章表現が変遷していくにつれて、様々な古い要素が捨象され、また一方で新しい要素が導入されていった。このことは、国文学・国語学史上、見逃せない事実である。生活の変化とともに言語も変化し、社会の変化とともにその実態を語る文学的表現も変化することも至極、当然のことと思われる。
これまでの語彙研究においては、「近代文章の変革は語彙を中心になされたといってもよい」(木坂基「近代文章の成立に関する基礎的研究」風間書房、一九七六年、八十八頁)という指摘、すなわち外来語の増加、学術用語の導入、翻訳語の工夫などが国語史や国文学史の観点からして最も目立つ類の指摘と言えよう。しかし、同時に、言文一致研究によって明らかになったように、新文章の成立の問題は、語彙レベルを超えるものもあり、二葉亭四迷や山田美妙、尾崎紅葉などのような作家を起点として日本の文章が文体のレベルでも大きく変遷したこともよく知られている。二葉亭らは徐々に文章に口語的な要素を導入し、言文一致運動や口語体の成立に大いに貢献したが、明治大正時代、新しい文章の成立とともに、どのような新しい文章表現が成立し、または多用されたかという点に関しては、現在なお多くの課題が残されている。
本日は、近代日本文学における文章表現としての擬声語の位置付けを考察する。ここでいう擬声語とは、聴覚を介して感知される現象を模写する擬音語と、動作・様相等の現象を音声象徴によって表わす擬態語とを含むものである。この発表では、近代の文章には擬声語を従来より多用する傾向が見られるとともに、それがどのように口語体への変遷を特徴づけているか、とりわけ近代自由詩を対象とし、代表的詩人による擬声語の使い方を紹介する。
擬声語については多くの先行研究がすでになされ、「源氏物語」及び「今昔物語」、抄物などにおいて、中古文学から中世文学にかけて擬声語の使われている作品が少なくないことは定説となっている。つまり擬声語は中古からすでに広く使用されており、近代文学の特色の一つと見なすことには無理があるようである。そしてこれら先行研究においては次の指摘がなされている。
「擬声語を使用するのは、文の内容を描写するにあたり実に具体的で直接感覚に訴え、しかもそれはまことに簡単な方法でなされる」(寿岳章子「室町時代語の表現」清文堂、一九八三年、一八五頁)。
「擬声語は学術論文や知的内容の文学作品の中に登場しにくいものであり」(寿岳章子「室町時代語の表現」、一八六頁)、いいかえれば「文章語的色彩が濃い文体になればなるほど、存在しにくいわけである」(山口仲美「今昔物語集の象徴詞―表現論的考察―」 「王朝」第五号、一九七二年、十三頁)。「擬態語副詞は、現実描写性を反映して、強い口語性を持つ」(木坂基「論説的言文一致文章の用語法―「真政大意」と「百一新論」の副詞―」 「近世文芸稿」第二十二号、広島近世文芸研究会、一九七七年、一一三頁)。
「わが国の文学作品に限って言えば、象徴語の使用は、全体として、昔より今の方が多い」(大坪併治「象徴語彙の歴史」森岡健二他編「講座日本語学」第四巻、明治書院、一九八二年、二三四頁)。
これらの指摘から、描写を特有の手法とした近代文学においては、口語化が進むにつれて、擬声語の使用率も増加していった可能性が高いことがわかる。先行研究では擬声語の口語性や写実性が指摘されているし、擬声語が近代文章表現の特徴の一つと考えられることを促すものもある。しかしながら、たとえ明治維新以降の文壇でその頻度が増加したことを実証できたとしても、その理由については未だ明らかにされていない。この解明のためには、近代化をともなった俗語の新しい認識の問題をまず考える必要があろう。  
俗語の価値に関する新しい認識の問題
坪内逍遥が「小説神髄」(一八八五〜八六年)の中で写実主義を主張して以来、近代小説の展開を通じて最も顕著に現われたのは、言語表現における写実的傾向である。「この写実的傾向は、ただ叙述形式のみにあらわれた傾向ではなく、表現全体を支配して、これを近代風に特色づけている」(島方泰助 「明治小説論」明治書院、一九四九年、三一〇頁)と考える。この写実的傾向に沿って細密な描写と俗語の使用が進むなか、近代文学は新しい社会の現実を描写、表現することとなった。しかし、「近代の口語は、江戸時代において、すでに八文字舎本などのなかに姿をみせている」し、「それは、会話の叙述としてあらわれ」ていた。また、それは「会話に口語を選んだ理由が、会話を現実に行われつつある会話そのままの様態に近く表現しようとする描叙的意図にもとづいたものであるということは疑えない」(「明治小説論 」三二三頁)のである。つまり、俗語は既に江戸小説に広く登場しており、特に「明治に入っての言文一致運動の効果の早くいちじるしかったのは、江戸時代における俗文の普及していたことが、その一原因であると見るべき」(中村幸彦 「近世的表現」<<中村幸彦著述集>>第二巻、中央公論社、一九八二年、一〇三頁)である。
事実、江戸小説の起源を辿ってみれば、仮名草子や浮世草子にはすでに擬声語を含めた口語的な要素が広く見受けられ、当時の口語用法の研究資料として有用であることはよく知られている。また、以降の散文に大きな影響を与えたとされる洒落本や滑稽本も、擬声語を含めて俗語を生かし、近世的内容に応じ得る表現を求めたのであった。結果的に、これらのなかで用いられた俗語は単なる様態の描写にとどまっておらず、「その背後にはおそらく写実型特有の小説言語の法則が埋在しているはず」であり、「常談平語は写実型固有の小説言語として一つの「修辞上の文彩」たりえている」(野口武彦「江戸期小説の言語構造」 「言語生活」第三〇九号、一九七七年六月)と言うことができる。すなわち、当時の俗語は文章表現における新しい修辞であり、近世文学から近代文学へかけての移行過程を最も特徴づけている要素のひとつであったのである。
さらに、もう一つの課題がある。それは近代文学特有の表現形態である小説の再定義である。平安時代以降、雅俗の対立が激しくなると、芸術の一分野と見られていた文学作品では俗語が使われづらくなった。その後江戸時代に入ると、小説のなかに俗語が取り入れられるようになった。ただ、江戸時代の小説は娯楽のためのものと見なされており、それが本格的に芸術と認められるようになったのは、逍遥の 「小説神髄」以降である。明治に入り芸術と認められた小説は、その表現も芸術と見なされ、俗語は庶民の言語の再現だけではなく、新しい現実社会を描写するための一つの有用な手法となった。そして、その価値について新しい認識を提起し、擬声語のような日常的表現の新しい位置付けを促す結果をもたらした。
近世文学の中には俗語である擬声語が広く使われていた。擬声語は近世の戯作文学などにおいてはすでに特有な表現方法となっていた。そして明治時代以降も写実法の一つとして文章に使い続けられ、やがて新文章の特徴にもなっていったのである。擬声語は、二葉亭四迷、小栗風葉などの写実主義系の作家をはじめ、自然主義系の小杉天外、真山青果、または私小説系統の葛西善蔵等の多くの作家たちに多用された。つまり新式文章への変遷過程を最も反映した表現法の一つなのである。
また、それだけではなく、擬声語が、当時、近代的表現として多くの文章論の中で評価されていたことも見逃せない重要な点である。たとえば、一九一二年の「作文講話及文範」では、擬声語は事物を具体的に写すことに最も必要なものであり、他のあらゆる修辞を捨てて擬声語だけを十分に使うことができれば、相当な名文を綴ることができるとされている(芳賀矢一・杉谷虎蔵 「作文講話及文範」冨山房、一九一二年、一七七頁)。国文学者芳賀矢一によれば、擬声語は、中国の文章あるいは西洋の文章よりも、日本の文章で最も多用され、古来の日本では有名な文学者であれば擬声語を使用しないものがなかった等という。芳賀は、無技巧を訴える当時の自然主義の文章では、擬声語だけは盛んに用いられ、国文の長所を発揮しようと思えば是非とも擬声語を使用しなくてはならないとさらに述べている(「作文講話及文範 」一八三頁)。
写実主義・自然主義文学の文体における擬声語の位置付けについては、当時、早稲田大学教授の五十嵐力も言及している。五十嵐は修辞学者でもあったが、氏によれば、新式文章では修辞を使わない傾向があったにもかかわらず、擬声語いわば声喩という修辞だけは多く用いられたという(五十嵐力 「新文章講話」早稲田大学出版部、一九〇九年、四四〇頁)。同様な指摘が美学者渡辺吉治にも見られた。渡辺は「かかる擬声語は、比喩を工夫する暇のない実生活の会話においても多く用いられます。したがって、また実生活の言語を用いる口語体の現代文に用いられる」(渡辺吉治 「現代修辞法要」神保書店、一九二六年、二二一頁)と述べ、擬声語を自然主義の無技巧論に背反しない、実生活と深いかかわりを持つものとして位置付けている。こうして擬声語という言語表現と、「近代性」という概念との間には新しい関連性が見出されるようになった。明治末期、自然主義を中心とする文壇では、芸術と人間の実生活との関係が求められた。文壇では、形式主義に頼らない、思想と一致するような表現が目的とされた。そしてそれは古い修辞法ではなく、人間の生活の現実に即した日常言語による表現に還元すべきとされた。この意味では、文章が口語体へ変遷する過程で、擬声語のような表現が多く用いられても決して不思議ではなかった。事実、このような傾向は多くの作家に見られた。例えば、森 鴎外は、文語文による 「舞姫」(一八九〇年)と「うたかたの記」(同年)では擬声語をほとんど用いていないが、口語体で書いた「半日」(一九〇九年)、「ヰタ・セクスアリス」(一九〇九年)及び 「雁」(一九一一〜一九一三年)では比較的多く使用していると言える。同様に、尾崎紅葉の場合も、文語文による「金色夜叉」(一八九七〜一九〇二年)と、口語文の「多情多恨 」(一八九六年)を比較すると、後者において擬声語をより多用していることがわかる。
擬声語は近代文学において多く用いられたが、擬声語は当時の文壇を支配した自然主義による無技巧論に背反しなかったこと、現実の状況を細密に模写できるものとして当時の文章にかかせないものとされていたこと、実生活を表現できる俗語としてよく愛用されていたこと、の三点がその主な理由として挙げられる。
しかし、擬声語は小説だけに多用されたわけではない。むしろ、擬声語の表現性が最も発揮されたのは詩であろう。この発表では、特に自由詩に焦点をあて、そこに見られる擬声語の表現性を考察する。  
自由詩における擬声語について
自由詩においては口語体化の進行に伴っての擬声語の増加、及びその用法の多様化、また擬声語による様々な修辞的効果が得られるようになったことが、最も注目に値する点である。
ちなみに、詩における言文一致運動は、一八八二年に新体詩の提唱によって始まったとされている。この年に刊行された「新体詩抄」では、新しい詩の誕生のために、次の二点が提唱された。
(1)用語の範囲を拡大し、俗語を取り入れて、読者に理解しやすいようにすること。
(2)和歌、俳句、漢詩のような従来の詩形では表わせないことを表現すること。(羽生康二「口語自由詩の形成」雄山閣、一九八九年、六頁)。
上記の二点から明らかなように、「平俗性と即物性と直叙性とによって、オノマトペ(すなわち、擬声語)は、新体詩語の資格を賦与された」のである(塚原鉄雄「近代詩人とオノマトペ」 「言語生活」第二七三号、一九七四年六月、四頁)。その上に、定形詩の制約を持たない自由詩では、擬声語は自らの生産的性格を発揮し、三・四音節の語だけでなく、十音節以上の形態をなすものも多く見られるようになった。このような珍しい形態は、定型詩においては制限されていたが、制約を持たない自由詩では使用され得るものであった。
詩の口語体化の進展につれ、擬声語がより多用されるようになったことは、口語自由詩の完成者とされる詩人の中によく見られる現象である。例えば、高村光太郎の場合、「「道程 」の詩編を書いていく過程で、光太郎は文語から脱却し口語へと移行した」と既に指摘されている(羽生康二「口語自由詩の形成」一一八頁)。「道程」は一九一〇年から一九一四年にかけて書かれた詩集であるが、一九一〇年の他の作品と 「道程」とを比較してみると、光太郎が口語体へ移行する段階で擬声語の語数が増加することがわかる。とりわけ、一九一二年に書かれた「雨」及び一九一三年に書かれた「牛」、「山」、「粘土」などでは同様な現象が見られる。同じく、石川啄木の場合、一九〇五年の 「あこがれ」と、彼の最も口語的な詩集とされている「心の姿の研究」(一九〇九年)、「呼子と口笛」(一九一三年)及び書簡・日記中の詩とを比較すると、後者で擬声語がより多く使われていることがわかる。さらに、萩原朔太郎の場合も、口語自由詩の画期的な作品とされている 「月に吠える」(一九一七年)及び「青猫」(一九二三年)では、擬声語が圧倒的に多い。しかし、それ以前の少年時代の作品「愛燐詩篇」と、文語帰りの作品とされる「郷土望景詩 」(ともに一九二五年の「純情小曲集」に所収)とにおいては、擬声語の使用率がそれほど高くない。つまり、この三人の詩人において、文語から口語への移行は、擬声語の採否に関連してくるのである。自由詩の中で擬声語が多くなおかつ巧みに使用されていることは、既に指摘されている(小嶋孝三郎 「現代文学とオノマトペ」桜楓社、一九七二年及び大坪併治「擬声語の研究」明治書院、一九八九年を参照)が、この発表ではどのように使用されているのかに特に焦点を当て、考察を進めることにする。
自由詩においては、擬声語の反復が最も頻繁に見られる修辞的操作のひとつである。とりわけ、自由詩作家の代表的存在であった萩原朔太郎や北原白秋は、反復法をよく採用し、擬声語を意識的に特定の位置で用いることによって印象的な平行法的効果を作り出している。ここで反復法の一種である結句反復の例をあげておく。  
萩原朔太郎「鶏」「青猫」
しののめきたるまへ
家家の戸の外で鳴いてゐるのは鶏です
声をばながくふるはして
さむしい田舎の自然からよびあげる母の声です
とをてくう、とをるもう、とをるもう。
朝のつめたい臥床の中で
私のたましひは羽ばたきをする
この雨戸の隙間からみれば
よもの景色はあかるくかがやいてゐるやうです
されどもしののめきたるまへ
私の臥床にしのびこむひとつの憂愁
けぶれる木木の梢をこえ
遠い田舎の自然からよびあげる鶏のこゑです
とをてくう、とをるもう、とをるもう。
(後略) 
結句反復とは、句や節及び文の末尾の重要な語句を後続する句や節及び文の末尾で繰り返す表現法であるが、上記の詩の場合、擬声語を規則的に詩節末に配列することによって、結句反復による平行法的効果が生み出されている。実際、朔太郎は、詩の中で同様な擬声語の反復を特に好んでおり、この他にも例えば「軍隊」や「遺伝」(ともに 「青猫」に所収)の中でそれぞれ「づしり、づしり、ばたり、ばたり」、「ざっく、ざっく、ざっく、ざっく」や「のをああるとをああるやわあ」を規則的に各節末で繰り返している。また、規則的にではないが、たとえば「雲雀の巣」(「月に吠える 」)及び「薄暮の部屋」(「青猫」)の中でもそれぞれ「ぴよぴよぴよ」と「ぶむぶむぶむ」を幾度か繰り返しており、朔太郎においてはこのような擬声語の使い方がひとつの特徴になっていると言えよう。つまり「象徴詩を作るほどの人は文字の視覚に注意する以上に 「言葉の音楽」に注意してもらひたい」(「朔太郎の感想」「感情」第十号、一九一七年五月)と述べた朔太郎にとって、擬声語の反復による効果は、視覚的効果あるいは心象伝達効果に加えて、音声上の効果という観点からも極めて重要なのである。
時代が少々隔たるが、詩節末に規則的に擬声語を配列することは、例えば、草野心平にもよく見られる修辞的操作である。
草野心平「凱旋部隊」「絶景」
寒い鉛の天の下を。
まつ北からの風のなかを。
まるで違つた
もうあの時の顔々でない。
ざつく。ざつく。ざつく。
ざつく。ざつく。ざつく。
ざつく。ざつく。
靴音は高いがしづかである。
疲れも興奮も…しづかである。
湖に沈む雪のやうなあんなしづけさ。
これはもうただのしづけさでない。
ざつく。ざつく。ざつく。
ざつく。ざつく。ざつく。
ざつく。ざつく。
自分は見た。
山形や秋田や岩手の汽車のなかから
もんぺの女たちが窓々の兵士にお茶を出すのを。
刈入れの百姓が稲の東と鎌とを高く振り上げて見送ってゐるのを。
胸々の潮ざゐと高鳴りと崩れ渦巻く興奮とを。
停車場毎の旗と楽隊と万歳と天によぢのぼる大鯨波を。
ざつぐ。ざつく。ざつく。
ざつく。ざつぐ。ざつく。
ざつく。ざつく。
(後略)
草野心平「夜の海」「マンモスの牙」
遠い深い重たい底から
暗い見えない涯のない過去から
づづづづわーる
づづづんづわーる
ぐんうんうわーる
黒い海はとどろきつづける
黒のなかに鉛色の波がうまれ。
鉛色のたてがみをしぶかせて波はくずれ。
しめつぽい渚に腹ばつてくる。
鉛の波は向うにも生まれ。
そして黒汁色に呑まれてしまう。
けれどもまた現われて押よせてくる。
づづづづわーる
づづづんづわーる
ぐんうんうわーる
(後略) 
上記の例からわかるように、擬声語の規則的反復は心平においても特徴的な表現法の一つであるが、似たような用い方は、大正時代の詩人、山村暮鳥の詩にも見られる。
山村暮鳥「歓楽の詩」「風は草木にささやゐた」
ひまはりはぐるぐるめぐる
火のやうにぐるぐるめぐる
自分の目も一しょになつてぐるぐるめぐる
自分の目がぐるぐるめぐればいよいよはげしく
ひまはりはぐるぐるめぐる
ひまはりがぐるぐるめぐれば
自分の目はまつたく暈み
此の全世界がぐるぐるとめぐりはじめる
ああ!
上の例では、暮鳥は、同じ擬声語を各行末で幾度か繰り返している。一方、以下の詩では首句反復による平行法的効果が見られる。北原白秋の作品である。
北原白秋「野茨に鳩」「水墨集」
おお、ほろろん、ほろろん、ほろほろ、
おお、ほろほろ。
春はふけ、春はほうけて、
古ぼけた草家の屋根で、よ。
日が啼く、白い野鳩が、
啼いても、けふ日は逝つて了ふ。
おお、ほろろん、ほろろん、ほろほろ、おお、ほろほろ。
庭も荒れ、荒るるばかしか、
人も来ぬ葎が蔭に、よ。
茨が咲く、白い野茨が、
咲いても、知られず、散つて了ふ。
おお、ほろろん、ほろろん、ほろほろ、おお、ほろほろ。
何を見ても、何を為てもよ、
ああいやだ、寂しいばかりよ。
椅子か揺れる、白い寝椅子が、
寝椅子もゆさぶりや折れて了ふ。
(後略)
首句反復とは、文頭や行首を以下の節頭や行頭において繰り返す表現法である。白秋は春の田舎家の風景の中に亡びゆくものの哀感を描くことによって自らの胸に宿る普遍的虚無感を表現しているのであろう。けだるい春の日に漂う倦怠感が巧みに象徴されている。このような風景の中で鳩の鳴き声が聞こえてくる。その鳴き声を摸写する「ほろろん、ほろろん」が規則的に各連(この詩は十一連から成っているが)の冒頭で繰り返されており、首句反復による平行法の効果が生み出されることになる。
一方、行や句、節の最後のあるいは重要な語を以下の節や行の初めで繰り返す表現法は前辞反復と言う。ここでは白秋作品のなかの二例を挙げる。
北原白秋「人形つくり」「思ひ出」
(前略)
その頭は空虚の頭、
白いお面がころころと、ころころと......
ころころと転ぶお面を
わかい男が待ち受けて、
(後略)
北原白秋「柳の左和利」「東京景物詩及其他」
ほの青い雪のふる夜に、
電車みちを、
酔つて、酔つて、酔つぱらつてさ、ひょろひょろと、
ふらふらと、凭れかかれば、硝子戸に。
Yoi!......Yoi!......Yoitona!.........
前辞反復は主題を強調する役割を果たす技法である。散文では、前句末で使用された表現を反復して後句を始めるのは、不協和音的効果を起すこともあるため、一般的に避けられているが、詩においては特にリズムとポーズを強調できる操作としてよく使用される。上記の例では、「人形つくり」の場合、「ころころ」という擬声語が二節にわたって繰り返されている。それに対し、「柳の左和利」の場合、「ふらふら」が前句の「ひょろひょろ」に交代して用いられている。後者では、使われている擬声語が異なるので、完璧な前辞反復としては認めがたいが、白秋においては、まったく同一の擬声語ではなくても、擬声語を用いて節を結ぶ、あるいは前句と後句をつなげるという特徴がある。
次に、一語反復という表現法の二例をあげておく
北原白秋「雨の日ぐらし」「邪宗門」

ち、ち、ち、ち、と、ものせはしく
刻む音…
(後略)
萩原朔太郎「雲雀の巣」「月に吠える」
ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよと
空では雲雀の親が嗚いてゐる。
おれはかはいさうな雲雀の巣をながめた。
(後略)
またも時代がさがるが、草野心平には、次のような興味深い詩がある。
草野心平「汎神論に雪が降る」「凸凹」
(前略)
しんしんしんしん
しんしんしんしん
しんしんしんしん
しんしんしんしん
しんしんしんしん
しんしんしんしん
しんしんしんしん
しんしんしんしん
しんしんしんしん
一語反復とは、「ち、ち、ち、ち、」「ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ」のように接続詞を省略して語句を繰り返す表現法である。これは定型詩である俳歌ではあまり見られない表現法であったが、制限を持たない自由詩には最も見られる技法の一つとなった。
次の詩は、擬声語の反復による交錯配列法的効果が見られる一例である。
北原白秋「柳の左和利」「東京景物詩及其他」
ほの青い雪のふる夜に、
電車みちを、
酔つて、酔つて、酔つぱらつてさ、ひょろひょろと、
ふらふらと、凭れかかれば、硝子戸に。
Yoi!......Yoi!......Yoitona!.........
ほの青い雪はふり、
店の中ではしんみりと柳の左和利、
酔つて、酔つて、酔つぱらつてさ、ふらふらと、
ひょろひょろと首をふれば太棹が......
Yoi!......Yoi!......Yoitona!.........
(後略)
交錯配列法とは、同一あるいは類義の語をABBAの形式で繰り返す表現法である。「柳の左和利」では、第一節の「ひょろひょろ」「ふらふら」が第二節では交代して「ふらふら」「ひょろひょろ」という順番で用いられている。
一方、次の詩では擬声語の反復による頭韻法の例が見られる。
萩原朔太郎「春の実体」「月に吠える」
(前略)
たとへば蛾蝶のごときものさへ、
そのうすき羽は卵にてかたちづくられ、
それがあのやうに、ぴかぴかぴかぴか光るのだ。
(後略)
草野心平「汎神論に雪が降る」「凸凹」
ふんふんふんふん
ふんふんふんふん
シャシャシャシャ
シャシャシャシャ
ショビショビショビショビ
ショビショビショビショビ
ぽつしぽつしぽつしぽつし
ぽつしぽつしぽつしぽつし
しんしんしんしん
しんしんしんしん
しししししししし
しししししししし
(後略)
頭韻法とは、二語以上の初めを同音または同字にして繰り返す表現法である。通常言語では同音の連続は不快音調を生み出すことが多く、一般には避けられているが、擬声語においてはこういった同音の連続は、よく見られるものである。例えば、上記の朔太郎の詩では、朔太郎自身の特異な感覚が捉えた春の「実体」が描かれている。朔太郎が捉えた春の実体は卵である。春を作っている桜の花、柳の枝、蛾蝶などはすべて卵から生み出され、その卵は空気の中にも見出される。朔太郎がここで「ぴかぴかぴかぴか」という擬声語に「光る」を並列したことによって、軟口蓋の無声破裂音/k/が繰り返され、頭韻法の効果が生じるのである。
この他にも、近代の自由詩には擬声語の使用による様々な修辞的効果を見出すことができる。そして、これらの修辞的効果は反復法によるものばかりではない。例えば、転義の領域の中に分類される直喩、隠喩、擬人法などもよく見られる表現法である。まず直喩としては以下の一例をあげることができよう。
萩原朔太郎「酒精中毒者の死」「月に吠える」
(前略)
こんなさびしい風景の中にうきあがつて、
白つぽけた殺人者の顔が、
草のやうにびらびら笑つてゐる。
直喩は「AはBのようである」という形式を取るが、上記の朔太郎の詩では、殺人者の笑う様子と草の間に類似点が見い出され、直喩で表わされているのである。一方、次の詩では、隠喩の一例が見られる。
萩原朔太郎「春の芽生」「蝶を夢む」
(前略)
それらはじつにちつぽけな
あるかないかも知れないぐらゐ芽生の子供たちだ
それがこんな麗らかの春の日になり
からだ中ぴよぴよと鳴ゐている。
隠喩は「AはBである」という形式であるが、AとBにの間に類似点が認められた時に、AをBに喩えて表現することによって隠喩的な意味が生じるという。上記の例では、朔太郎は芽生と小鳥との間に類似性を発見したので、通常小鳥、ひよこ等の場合に使用される「ぴよぴよ」という擬声語を用いた。つまり、この例では、芽生は小鳥に見立てられ、そこに「ぴよぴよ(と嗚く)」という表現が用いられたことによって隠喩的効果が生じたのである。
最後に、朔太郎における擬人化の一例をあげておく。
萩原朔太郎「猫」「月に吠える」
まつくろけの猫が二疋、
なやましいよるの家根のうへで、
ぴんとたてた尻尾のさきから、
糸のやうなみかづきがかすんでゐる。
「おわあ、こんばんは」
「おわあ、こんばんは」
「おぎやあ、おぎやあ、おぎやあ」
「おわああ、ここの家の主人は病気です」
この詩において、朔太郎は猫の鳴き声を擬声語によって再現しているが、描かれている猫達の会話そのものが一つの擬人化の試みであると見ることができよう。
以上、擬声語が自由詩の中で多数かつ巧みに使用されていることを述べた。自由詩の代表的詩人にとって、擬声語は俗語として日常性を表現できるものであるとともに、詩的表現として詩人の内面生活を叙情的に表現できる言語操作であり、また、詩においても口語化が進む中で詩人にとって「近代性」を表わすための一つの表現手段であったのである。
先行研究では、描写が細かく具体的になってきた近代の文章表現では擬声語の使用率が増加したとの指摘はすでに散見されるものの、何故擬声語が近代の文章表現において多く使用されているかについては解明されないままであった。よってこの発表では、試みとして次の点を挙げた。まず、擬声語はすでに俗語を重視した近世文学の表現手法の一つであったこと、その後新式文章では近世文学で多用された修辞的技巧がおおむね徐々に姿を消していったのに対して俗語的表現である擬声語はそのまま使い続けられ、近代の文章表現の特色の一つともなっていったこと、そしてその主な理由として、擬声語が自然主義の無技巧論に背反しないものとして多くの文学者に評価され、広く使用されたこと、である。
一方、擬声語の増加は近代文学の特有な表現形態であった自由詩にも見受けられることも述べた。擬声語の問題は、個人の好みや選択に深く関わるものであるので、如何なる時代であっても作品や作家によって擬声語が多く用いられることもあれば、ほとんど用いられない場合もある。しかし、自由詩は定型詩と異なり何ら制約が無いゆえ、当時の多くの作品において、擬声語が単なる言語操作ではなく、「近代的」表現として用いられたのである。つまり、擬声語は詩人の内面の言語記号化の手段として、必然的選択によって用いられる、すなわち必要不可欠なものとなっていったと言えよう。  
 
阿部知二が描いた「北京」

はじめに
北平の南京に対する地位は、丁度東京にたいする京都のやうなものである。北平と京都はいづれも古い都であつて、その周囲には、南京や東京のやうな新らしい首都に見られない一種の香気と神秘、歴史的な魅力、と云つたものが漂ふてゐる。南京や東京が新時代、進歩性、産業主義、国家主義等を代表するのに反して、北平こそは、永く培はれて来た穏やかな古い支那の魂を代表するものと云つてよい。そこには好ましい生活と申し分のない暮らしがあり、最大限に恵まれた文化的慰安と、田舎風の生活の最大限の美との関係が、完全に調和されてゐるのである。(林語堂「古都北平」 「改造」「支那事変増刊号」一九三七年十一月)
この文章は中国の現代作家である林語堂が蘆溝橋事件後、日本軍に占領された北京を惜しむ心情で綴ったエッセイです。古都を讃美する文字は故郷が蹂躙されることを痛む心から生まれたのでしょう。北京と京都との比較から書き出したこの文章は、読者に、もし美しい京都が外国の軍隊に占領されたら、どう思うだろうという問いかけを日本人にむけて投げかけたものでしょう。美しい古都が占領で滅びようとしていると思えば、その魅力をより一層懐かしく思う気持ちは、中国人も日本人も同じでしょう。
かつて、私は、美しい古都北京への愛着を表現した林語堂の文章を読んで、感動したことがありました。今度、日文研の外国人研究員として、憧れの京都に滞在することになり、これをきっかけとして、北京と京都を比較したこの文章をもう一度読むことにしました。そして、日本の作家は、北京をどう表現したのだろうという問題に関心を抱くようになりました。
調べてみると、近代日本の文化人は北京について、数多くの作品を残していたことが分かります。例えば、徳富蘇峰の「支那漫遊記」(大正七年六月民友社)、中野江漢の「北京繁昌記 」(大正十一年支那風物研究会)、芥川龍之介の「支那遊記」(大正十四年十一月改造社)、服部宇之吉の「北京籠城日記」(大正十五年七月服部宇之吉刊)、阿部知二の「北京 」(昭和十三年四月第一書房)、清水安三の「朝陽門外」(昭和十四年四月朝日新聞社)、奥野信太郎の「随筆北京」(昭和十五年三月第一書房)などが、挙げられます。それは旅行や留学、あるいは従軍報道などの形で、直接、中国の大地に足をのばすことによって、書かれた作品であります。さまざまな角度から北京を表象した作品の中で、文学作品としてよく知られているのは、やはり芥川龍之介の 「支那遊記」と阿部知二の「北京」だと思います。
ところが、文学史を読んでも、研究史を振り返ってみても、横光利一の小説「上海」(昭和七年改造社)に比べて、「北京」に関する研究は少ないようです。どうも、文化研究の分野では、植民地でありながら、モダニズムを生み出した都市空間としての上海に較べて、封建王権の都としての北京は近代の都市空間論として論じにくいためか、注目度も低いようです。しかし、ロンドンやパリやベルリンを描いた小説に比べると、中国と日本をめぐって、民族や歴史、国際政治や文化など複雑な関係を描いた小説として、 「北京」は、さまざまな問題を含んでいます。とくに、一九三〇年代は、近代中日関係史上、最悪な時代であります。その時代に、書かれ読まれた文学作品として、「北京」は、どのように北京を表現したか、まだ明らかにされていないのです。そこに潜んだ問題を、我々は今日なおひきずっているように思われます。本論では 「北京」の研究を通じて、阿部知二の文学における「北京表象」を解明していきたいと思っております。まず、最初にあらすじを見ておきましょう。
東京のある私立大学の講師である大門勇は元明清代の、「西教」を中心とする東西の文化交流を調べるという名義で、一九三五年の春に北京に来たものの、晩夏初秋を迎えて、予定を切り上げて急に帰ろうとしていました。北京をさまざまな角度から観察し、北京の人々と交流するうちに、大門は美しい古都北京に魅せられてゆきます。
大門は昔日本の商社の「買弁」をした王世金の家に寄寓しています。王世金は三人の夫人を持っていて、第三夫人の子供の家庭教師の女性にまで手を出して自分の愛人にしています。日本による華北侵略の機運の下、王世金は活躍のチャンスを狙って、自分の家の一部を日本料理屋にして、日本に協力をして利益を得ようとしています。
王家の息子である王子明は日本や英国に留学して、北京のある大学で哲学の教師をしています。大門と親しくなって、二人は日中関係など、日中の知識人が共に直面している問題を議論します。
大門は王子明を通じて、中国の若い知識人の苦悩を理解しようと努力します。それは、日本の勢力(侵略)が北京に迫りかかってきた時に、反抗的に行動するかどうかという現実問題です。王子明は中国伝統文化や西洋文化の教育を受けた若い知識人として、「頽廃」的な一面をもっていながら、抗日運動に参加するようになっていたのです。大門は北京の街角で大陸を放浪する教え子の加茂と再会し、加茂から中国大陸で関東軍の通訳となり、満州、蒙古で従軍し、満鉄関係の仕事をしてきたことなどを聞かされました。加茂はいま通信社に勤める沼の仕事の手伝いをしながら、通訳の試験を準備しています。加茂は中国の農民の中に潜入して、農民を自覚させて、大陸の変革のために、行動する熱意に燃えています。東洋のために、祖国のために、青春と熱血を捧げたいという加茂は、大門の目には「右翼的」とも「左翼的」とも一言では決めにくい青年です。大陸で抱負を実現できない限り日本には戻らないと豪語した加茂は、万里の長城からの帰りに、大門を下級の淫売窟に誘って、一夜を明かします。その帰りに加茂は疲れ果てた老人力車夫を殴りつけます。大門と別れた加茂はそれきり消息を絶ってしまいます。その加茂の足取りを探すために、大門は沼とともに人力車夫の住む貧民窟に踏み込み、その悲惨な現実を目のあたりにします。沼に誘われた大門は高級妓楼に上がり、そこで鴻妹という妓女の魅力に惚れ、ついには出発のチケットを破ってまでして、鴻妹との一時を過ごしました。北京を離れる前夜の中秋節に、大門はもう一度恋しい鴻妹に会いに行き、頽廃的な感情を味わいました。
北京の街に魅せられた大門は、日本人の仲間から「北京村の聖者」などとからかわれ、ヒューマニズムを堅持して行動してきたものの、自分もまた日本人として、とうとう、「加害者」の仲間入りをしたのに気付いたのです。北京を離れて大連に滞在した大門は新聞で、日本軍の侵略により緊迫する華北情勢を知る一方、友人の手紙を通じて、鴻妹が北京から消えたことを知らされます。  
一 記録文学としての「北京」
阿部知二は一九三五年九月一日から十三日まで、二週間ほど北京に滞在しています。帰国してから、北京の印象記や観察記をエッセイにして、新聞や雑誌に発表しました。例えば、 「読売新聞」の文芸欄に発表した「隣国の文化――北平の印象から」(一九三五年十月二十六、二十七、二十九日)に、「私が書かうとするのは、その「東洋の故郷」ともいふべき支那と、この吾々の日本とに、西洋の文化がそれぞれどのやうに侵入したかについての(前にも断つたやうに)旅行記的な印象だ」と述べ、中国古代の知恵を再発見し、そこに伝統と現代の融合を感じたと述べたのです。彼は中国での体験や観察を通じて、近代文明がもたらした歪みを克服するヒントを得た、というような発言もしたのです。この旅行経験を踏まえた中国観察記には、そのほかに「支那の眼鏡」(「文化学院新聞 」一九三五年十月二十五日)、「北京雑記」(「セルパン」一九三五年十一月)、「北京から新京へ―日記帳より―」(「月刊文章講座」一九三五年十一月)、「美しき北平」(「新潮 」一九三五年十二月)などがあります。
北京を題材にした最初の小説は「文芸」(一九三七年一月)に発表した「燕京」です。その次は「文学界」(一九三七年五月)に発表した「北平の女」です。蘆溝橋事件後の一九三七年九月には「北平眼鏡」(「改造 」増刊号)を発表しています。
一九三八年四月に出版された「北京」は「燕京」を約三倍に書き伸ばして出来た長編小説で、それまで書いた北京に関する作品をその材料としたものです。一九三五年秋以来、蘆溝橋事件後の日本軍による北京占領という事態に直面した阿部知二は、積もりに積もった北京への思いを、一気に放出して、作品に織り込んだのです。
すでに、あらすじで見たように、「北京」は主人公の半年間にわたる北京滞在を全体の枠組みにしています。主人公が北京を去るまでの何日間を縦の時間軸に、その行動や人間関係を横の軸にして、物語は織り出されています。この作品について、阿部知二は「自作案内」という文章で自分の創作意図や方法を次のように解説しています。その後北京に行った人々は、お前の見たやうな呑気な街ぢゃない、といふ。だからこそそれを描きたい。せめて、あの時の美しい街の雰囲気の千分の一でも、これも行と行との間に立登る匂としてあらはせたら、と念ずる。さて、この「北京」では、何を私は追求しようとしたか。(中略)一つは、ただわけもなく、この私といふ一個の生身の人間の感覚、感受性に触れてきたその街の空気、色、匂、花、物、音、人の顔、建物さういつたものを、筋も思想もなく、ただ感覚的にあらはしたいといふ欲望。一つは、やはり、眼をつむり耳をふさいでゐても、迫つてくるあの地のあの時代の氏[民?]族的関係の現実。(中略)私は、「記録文学」といはれるところの新しい方法論を知らず、また必しもそれをしようとも思はない。昔ながらの旧態依然たる文学心で小説を書くことしか念じてゐない。(「文芸 」一九三八年三月「阿部知二全集」第十巻河出書房新社一九七四年十月)
また、「北京」の跋にも、自作案内を書いています。
この小説は時局的文章ではない。一九三五年の秋のはじめの「北平」を場面とした、ひとつの感傷紀行録であり、幻想曲であるにすぎず、やや遠慮しながらの支那観察記といふほどのものにすぎぬ。さらに断わつて置かなければならぬのは、ここに描かれた「北平」は、過ぎた日のそれである。西欧の古い詩人の言葉を藉りれば、「去日の美女」の面影であらう。(「北京 」第一書房一九三八年四月)
この小説が発表された時、日本による中国侵略戦争はすでに全面的に展開され、日本国内では戦時体制が整えられつつあり、この年の四月一日には「国家総動員法」が公布されて、言論統制が厳しくなります。阿部知二は繰り返して、この作品の主眼が「あくまで 「文学的」なところにあつた。読者も、その心持でみてもらへるならば幸せである。今日の眼から見れば、日支間の事象に対する考へなどには、間違つたところ、滑稽なところすらあるではあらうが、私はただ、その過ぎた日に、旅人としての自己が、この心に感じたままを書いたのである、といふことを以て、支へとしたい。敢て支那を描いたといはない。私の心に映つた支那を描かうとしたのだ」(「北京 」一九三八年四月第一書房)と説明したのです。阿部知二は明らかに「検閲」を意識していたと思われます。作者は北京旅行の印象や観察をその時の心情に即して書いたものだと強調したが、読者はむしろこの文章から、作者の自己体験と「事変」後との断絶をはっきり意識していたことを読み取れることでしょう。  
二 北京の都市空間
地名の政治性
さて、阿部知二の北京に関する一連の作品は、その題名に、「北平」、「燕京」、「北京」と、三つの地名を使いわけています。同じ「北京」の中でも、「北平」と「北京」との両方が使われています。これは何を意味するのでしょうか。
戦国時代から燕京と称されてきたこの町は、金の時代から何回も都に定められました。貞元元年三月辛亥、上至燕京……乙卯以遷都詔中外、改燕京為中都。「金史」の「海陵記」に記されたように、正式に建都してから、当時の燕京は中都と改称されました。貞元元年は西暦の一一五三年となり、「三月乙卯」は四月二十一日です。以来、金、元、明、清、の五つの王朝の首都とされました。金の時代に中都と称し、元の時代は大都と呼ばれ、明の時代は、最初に北平と称していましたが、一四〇三年(永楽元年)首都を北平に移して、これを北京と改称したのです。清朝も北京を首都としていました。一九一二年四月、中華民国臨時政府の首都とさだめられましたが、一九二八年六月二十一日、中華民国は首都を南京に定めたので、北京は「北平」と改称されました。蘆溝橋事件後、一九三七年十月十三日、日本軍が支持した中華民国臨時政府(傀儡政府)は北平を北京と改称したのです。このような地名の変更からも、民族と民族の戦いの歴史や中国の内戦の歴史や外国による侵略の歴史が窺われます。幾度にもわたる改称から、時代に翻弄された北京の歴史を垣間見ることができます。
阿部知二はこうした状況を踏まえて、また、自分の歴史認識に基づき、物語の時間にそくして、小説のタイトルを選んだのでしょう。その小説の題名に使われた地名の選択に、すでに阿部知二の北京の歴史への思いが刻まれています。
「北京」の都市空間
「北京」は主人公である大門勇が下宿した家=「東城の一胡同の王邸」の「豪奢な」空間の記述からはじまります。この王邸を拠点にして、大門は北京を観光し、人々と会いそこから、旅先のさまざまな物語が生まれたのです。
この舞台の設定は作者自身の旅の経験に基づいています。阿部知二が北京(当時は北平という)から帰国した後、新聞や雑誌に発表した北京旅行のエッセイの中で、例えば、「美しき北平」(「新潮 」一九三五年十二月)は、「W氏の邸は遂安伯胡同といふところにある。隣には無量大人胡同といふのがある。胡同とは蒙古語からきたので、露地といふのださうだが」と、自分の下宿した邸を書き記しています。また、阿部知二が北京から送った妻宛の手紙も残っていますが、その発信地は「北平東城遂安伯胡同九号黄宅」と分かっています(「阿部知二文庫目録―阿部知二遺族寄贈・寄託資料―」姫路文学館一九九五年三月)。
蘆溝橋事件後になると、東単牌楼から燈市口に至る間の胡同は日本人経営の料理店や喫茶店などの指定地域とされ、阿部知二の居た時、この界隈では日本人が急増します。この現象は、事件に先だって小説の中で、王世金が大門の下宿した部屋を日本料理屋にする計画を実施する設定によって、予告されていたのです。それでは、この邸宅とはいかなるものだったのでしょうか。
王邸について、次のように描かれています。
広い邸の入口の中央に、豪奢な応接室があり、その奥には第二、第三、第四夫人――第一夫人は亡くなつてゐた、――の房が、樹木の中に並び、さらにその廻りに、親戚、召使、息子王子明の家と、合計五十人にも近いもののゐる家が並んでゐた。こちらの庭隅に、洋風の数間が離れて立ち、昔は世金の愛妾を入れたところだつたが、つい先頃までは日本の某中佐がゐた。そこに大門は入つたのだが、少し日本語も分るボーイもそのまま残つてゐたので都合がよかつた。(一章)
この描写から「買弁」商人、王世金の豪奢な生活ぶりが窺えます。この邸は伝統的な北京の建築様式である「四合院」でありますが、その離れに洋風建築が建てられるという設定は、伝統と現代を無理矢理に融合したものです。王家の「四合院」の離れに洋式の建物が造られているという空間構造は、半植民地時代の「買弁」の性質の象徴的な表象となっています。北京はそれ自体が、金の時代から明清を経て、八〇〇年間、帝王の都として造営されてきた一つの巨大な四合院だと見えます。立体的に北京を見て、正陽門を「垂花門」とすれば、紫禁城は「正房」である母屋となります。紫禁城自体も大きな「四合院」であります。この巨大な「四合院」には、阿片戦争以来、特に、義和団事変(北清事変)後、日本を含めて、列強諸国がその一隅に領事館や銀行や兵舎を建てて、治外法権地域を作りだしたのであります。その西洋化された東交民巷地域はまさに、王城の離れに建てられた「洋風の数間」であります。小説に描かれた王家の邸は北京の空間構造を圧縮したように構想されたと考えられます。全盛期の王世金の豪奢な生活ぶりは、大門の目を通して住居の空間描写によって描き出されています。
広い、天井の高いその室の、壁の高いところについてゐる窓から、白々と光の束がながれこんできて、この龕のやうになつた寝処の紅と金色の蝙蝠を縫ひこんだ緑の帳を照らし、白蛉を防ぐ金網を射し通して、寝牀の奥の紅いシェイドの枕電燈と、朱の枠のついた枕鏡の辺りまで、仄あかるませてゐた。この寝処は、この邸の主人王世金が、全盛の頃にでも気に入りの女を置いて楽しんだところであらう。(一章)
ここには西洋的なものが取り入れられて、「中西折衷」した邸の離れを大門の活動の拠点として、小説の舞台が動き出しています。小説の空間描写は明らかに映画のモンタージュの手法を連想させるもので、場面の切り替えが目まぐるしいほど多いのですが、これは北京の空間描写を舞台として設定した上で、そこに、大門につながる人物を配して、物語を紡ぎ出すという書き方です。
主人公の行動空間
つぎには、主人公大門の行動空間について、以下のようにいくつかのコースに整理できます。
a.王邸→哈達門通り→ツーリスト・ビューローの支店→交民巷→王府井→東安市場→王邸(二章)
b.王邸→楊の寄宿舎(米国系宗教女学校隣の木造洋館)→西直門→万性(牲)園(動植物園)→西太后の別荘の跡(西洋建築)→上義師範礼拝堂→西洋宣教師の墓地→北京の西郊→平則門→王府井→北京飯店(四章)
c.王邸→正陽門の停車場→西直門→清華大学→青龍橋駅→八達嶺長城→西直門→市街地の露西亜飯店→日本カフェ→正陽門→前門外歓楽街の下級売春窟(七章)
d.王邸→哈達門付近にある加茂の安宿→哈達門→外城の町外れの貧民窟→前門外歓楽街の下級売春窟→芝居小屋→前門外歓楽街の小班(上級売春窟)(九、十章
)
e.王邸→哈達門通りのツーリスト・ビューロー→交民巷→故宮の宝物殿(武英殿文華殿)→北海→W教授宅→王府井通→天安門→中山公園→王府井通→前門外歓楽街の小班→交民巷→王邸(十一章)
このように観光コースをほぼなぞるコースに基づいて構成された各章によって、阿部知二の観察した北京の都市空間が物語を分節してゆきます。その間の章において、王邸に戻るコースまたは邸の中を物語の舞台にしながら、都市空間の内部をより細かく表現することができました。
このように、阿部知二は北京滞在の経験に基づき、北京のさまざまな空間を描こうとしたばかりでなく、そこに集まる人間を観察して、時代に伴う悲劇や喜劇を描くこともしようとしたのです。その空間描写によって、ルポルタージュ的な小説が出来たのです。すなわち、豪邸に住んで、妻妾に囲まれる「買弁」王世金、「奥の房」に住んで親父と違った生活態度を持った王子明、洋風の家を貸家にした王家の空間は、それ自体北京の縮図ともなります。そして、紫禁城、北海公園、万寿山、万里の長城など、景観や歴史や文化をもつ観光名所の空間性は、作品のテーマとなっています。それは美しい北京の空間的記号となっています。また、外国の大使館や駐屯軍、商社の集まる交民巷は、半植民地中国の象徴であります。それから、外国人や上流社会の人々が集まるホテルや歓楽街を通じて、中国をめぐる利権を争う世界中の人々が暗躍している北京の現状も表現されています。さらに、下級の売春窟や場末にある苦力の居住空間を描き出したことによって、人力車夫の代表する民衆の悲惨な世界に注目したことは、阿部知二の中国認識の姿勢を示しているのです。その空間に踏み込むことによって、夏目漱石以来の、中国の下層社会に対する日本の知識人の差別的な眼差しを転換しようとする阿部知二の姿勢までも見ることができるでしょう。  
三 登場人物とモデル
ルポルタージュ
記録文学として書かれた「北京」ですが、その登場人物には殆どモデルがあると考えられます。主人公の大門は阿部知二の分身として読んでもよいでしょう。「阿部知二年譜」(「抒情と行動――昭和の作家阿部知二 」姫路文学館一九九三年九月)によれば、一九三五年に、阿部知二は三十二歳で、文化学院の講師(一九三一〜四〇)をするかたわら、明治大学文芸科兼任講師でもありました。小説 「北京」は、実際の北京旅行の経験を生かして、書かれたものです。
大門は、日本の中国侵略が刻一刻と迫った一九三五年に、戦時下に置かれる直前の美しい古都=北京を訪れました。北京に滞在中、大門は「北京村の聖者」と笑われて、「北京にゐる日本人の仲間では、ほとんど除け物になつてくらしてゐた」のです。北京で会う日本人は「役人、軍人、商人、留学生、みな、政治の話から切り出して女の話に入つてゆくか、あるひは、その逆かだ」(二章)のに、大門はそういう話題から自らを遠ざけていたのです。大門は精神的孤独に陥りながらも、北京の美に惹かれて、頽廃の美を求めるようになった若い知識人像として描かれたのです。
大陸浪人の青春像
もう一人の登場人物である加茂も若い日本の知識人像として描かれたのです。そのモデルは、北京滞在中の阿部知二の通訳をつとめたKという日本人青年です。「北京雑記」などのエッセイではKという頭文字を使っています。阿部知二が北京から妻の阿部澄子に宛てた手紙には「片山君」(姫路文学館「阿部知二文庫」〈阿部知二遺族寄贈・寄託資料〉による)と書かれています。エッセイ「北京雑記」(「セルパン 」一九三五年十一月)の中に、「K君は満州で通訳をし、匪賊討伐にも従つたが、今北平に勉強にきてゐるといふ若き志士といつた青年で、黒々と焼けた精悍な体に藍色の支那服を着てゐる」と書かれています。小説にはこの北京を案内してくれた「片山君」の言行を生かして書かれたのです。
加茂は大陸浪人風の若者で、中国の歴史と現実について、理論らしいものを持っているし、「東洋のために、祖国のために」、「この体を祖国と数億の民とに捧げたものとしてゐる」という豪言壮語を口癖にしています。彼の中国の民衆を救う論法は、一つは民衆の中に入って、溶け込んで、「生力を盛り上げる」こと、もう一つは、「力で圧服して置いて、そして、徹底的な善政を施す」というのです。
この右翼とも左翼ともいうようなあやめも分からない青年に対して、その無謀さに「ドン・キホーテ」を思い起こした大門は「この青年がさつき山の上で、支那の為に流す、といつた血が、真赤だといふことだけが事実だとすれば、傍にゐる自分などにとつては、その善意を感じ、その成功を祈つてゐるほかはない」(七章)と半信半疑ながら応援する気持ちを持ちはじめたのです。しかし、加茂は女遊びもするし、都市の民である人力車夫に暴力を振るうなど、大陸にきた日本人一般と同じ行動をも取っているのです。大門は加茂とともに起こした車夫暴力事件に、罪意識を感じて、自分は「殺人教唆者」だと、「人道主義」を標榜した自分を責める声を心の中に聞いたのです。この加茂という人物はまさに日本の中国侵略の縮図であります。この人物のように、日本の左翼や右翼が入り乱れ、言論的にも、行動的にも中国侵略へ走り出したことに対して、阿部知二は自己批判も含めて、警鐘を鳴らそうとする意図を持ったのだろうと考えられます。
若き中国人の知識人像
作者が力点を置いて描いたもう一人の人物は王子明であります。先行研究では、この人物のモデルについて問題提起をした論文がありますが、王子明にモデルらしきものはなく、虚構性の強い人物であるという結論が主流となっているようです。
たとえば、水上勲の「「北京」論」(「阿部知二研究」双文社出版一九九五年三月)では、「王子明にはモデルらしきものはなく、虚構性の強い人物である」。矢崎彰の「阿部知二と旧都北京――最初の中国体験と長編 「北京」をめぐって」(杉野要吉編「淪陥下北京1937―45交争する中国文学と日本文学」三元社二〇〇〇年六月)では、「外の登場人物の多くが実在の人物をモデルとしているのに対して、この王子明についてはモデルは明確ではない」というように指摘されています。
加茂とか、鴻妹とかいう人物は、阿部知二が北京で会った人物らしいのですが、王子明のような知識人にも、会ったと考えられます。例えば、周作人の息子が宿泊先まで訪ねてきた記録が「北京雑記」の中にあり、「家に帰ると、周作人氏の令息が来て待つてゐた。北京大学で日本文学を研究しているといふことで久しぶりに文学の話に熱中した。現代文学だけでなく、俳句が研究したいといふことだったが、ほんたうに私達よりも俳句の落ち着きと含蓄がわかるかも知れぬと思わせるほど閑雅で温厚な青年紳士だ」と書かれています。当時、周豊一は二十三歳(一九一二年五月十六日生まれ)で、北京大学で日本文学を研究していたのです。この引用から、小説の第五章に書かれた「もし、日本が、徳川の時代に、清朝と自由に交通してゐたとすれば、いま頃両国はどうなつてゐるだらうか」、「芭蕉や馬琴や近松が、あるひはこの北京に、あるひは江南に、自由に旅をしてゐたら、どんな文学をつくつてゐたか」という会話は周豊一との間に、交わされたものと想像できます。
また、第十一章では、大門が王子明に誘われて、先輩のW教授に会いに行く場面にも、周豊一の存在が考えられます。というのは、このW教授のモデルは間違いなく周作人(一八八五〜一九六六)だからです。その根拠として「隣国の文化――北平の印象から」(一九三五年十月二十六日)に、「ある日周作人氏の談話をきいたが、文学の流行、殊に外国文学の流れの変遷のはげしいのを嘆いてゐられた」という記述が見られます。また、「美しき北平」の中にも周作人にあって故宮をめぐる話をしたと書かれています。それらの会話は第十一章の中に生かされたと思われます。「日支の比較」をめぐる会話から、当時、北京にいた知日派として周作人はまず連想される人物でした。
「頭を剃った、仏僧のやうな感じのするそのWといふ王子明の先輩の教授は、樹々の茂つた庭の中に、閑静な書斎をかまへてゐた」(十一章)というように、小説に描かれた人物像も周作人だと連想できます 。
さらに、奥野信太郎の回想録には次のような記述があります。「昨今の北京を訪れる人々は、万寿山や故宮の見物を一通り済ますと必ず周作人へインタヴュウを求めることが彼等の旅程の一節に繰りいれられてゐるらしい。(中略)どうやら八道湾の苦茶齋も北京名所の一つとなつたらしい感がある」(「随筆北京 」第一書房一九四〇年五月)。周作人は自分の八道湾の邸の書斎を「苦茶齋」と名付けて、彼の作品集には「苦茶齋序跋文」(上海天馬書店一九三四年)などがあります。当時、この家を訪れた日本人が多かったと思われます。
周作人が日本の知識人の間で相当な人気があったことは、これらの文章からも分かります。そういう読者にとって、W教授が周作人だという読み方は十分あり得ることでしょう。
水上勲は王子明のことを、小説に登場する日本の知識人に対する「鏡的な人物」だと指摘しています(同上)。つまり、王子明は阿部知二が日本の知識人である大門の中国側の相手方となる人物として、大門が中国論や日中関係論を展開する時、それに適切な批判を加える中国の知識人として、構想した人物であります。大門と王子明は中日知識人の象徴的人物として小説に登場し議論を交わします。とすれば、王子明は阿部知二の思っていた若い知識人の代表格でなければなりません。そう考えれば、その造型は周作人の息子である周豊一のみでは力不足です。とすれば、これを補強できるモデルとなったのは誰でしょうか。そこで、もう一人、考えられる人物は周作人の後輩である林語堂です。  
林語堂の影
作品の中では、この仮説を裏付けるように、王子明について次のように書かれています。
日本と、英国とに少しづつ留学したことのあるこの王子明との会話は、日本語だつたり、英語だつたり、大門の下手な北京官話だつたりする。そのやうなとき、「故国」を見失ひがちなインテリゲンチァ、といふ感慨のさびしさが、ふと影のやうに、二人の間に流れこむこともある。しかし、互の気持を妨げまいといふやうな礼節から、二人はこの広い邸で、ほとんど顔を合はせることもなく暮してゐた。(一章)
「互の気持を妨げまいといふやうな礼節から、二人はこの広い邸で、ほとんど顔を合はせることもなく暮してゐた」という描写から見ても、大門と王子明が顔を合わせる機会はほとんどありませんでしたが、大門が帰国する間近にやや頻繁に会うようになったのです。
王子明という人物は、日本語と英語が両方できて、東洋と西洋の文化に理解を示しています。林語堂は日本に留学した経験こそありませんが、中日比較論を書いたことがありますので、日本について、研究をしたことがあると思われます。 「WithLoveandIrony」(The John Day Company, 1940)に収録された「中国人と日本人」は蘆溝橋事件直後に書かれた随筆だと考えられます。
阿部知二から見れば、林語堂は中国の知識人として代表的な人物です。彼の書いた林語堂論を読めば、林語堂の著作や言論にずっと注目していたことが分かります。
去年の正月、ある人が「知合のアメリカ人が面白い本だといつてゐた」といつて、そのアメリカ人所有の「我国土・我国民」を借りてゐたのを、また借りて読んだのであつたが、そのうち事変が勃発し、やうやく「林語堂」の名は支那を論じるに当たつての重要なものゝ一つとなつた。いはゆる知識人はみな、彼の著述を面白くかつ有益だといふのである。(「林語堂の 「支那」」「東京日日新聞」一九三八年九月二十〜二十二日)
阿部知二が真剣に林語堂の中国論を読んだ証拠は、この文章からも窺えます。彼の林語堂との出会いは「我国土・我国民」という本の中でのことです。彼は林語堂の著作を参照しつつ、中国論を展開しようとしたのであります。「支那及び支那人観の三座標」(「セルパン 」一九三八年四月)で述べられた意見は「北京」のテーマと一致すると考えられます。その中に中国や中国人を認識する「基本座標」として、阿部知二は、「例の林語堂の 「我国土、我国民」「生命尊重論」等は、この支那的基準学の樹立への大胆な試みとして推賞されなければならず、彼の掲げるいくつの「支那的基準」は、賛成するにせよ、異を樹てるにせよ、充分研究する必要がある」と推賞しています。そこで言及されたのが、「林語堂などのいふ 「夢」なき民族としての支那人論、(彼は「夢」多き民族としては、日本人、獨逸人をあげてゐる)」であります。この議論は林語堂の「The Importance of Living」(「生活の発見 」)に見られますが、「北京」の第八章でvisionをめぐる日中比較論として生かされています。
(前略)王は、やや沈んだ声でつづけた。「本当のことを、あなただけに云ひますと、僕は、――僕一個としては、それほど、さうした行動への突進を尊重してはゐないのです。逃避するのではありません。僕たちには、ほかに仕事、使命があるとおもふのです。それは何かといへば、幻影を造るといふことです。――言葉がうまく僕の意味を伝へるかどうか危ぶみますが、――vision――それを理念といつても、抽象的な精神といつても、夢といつても、イデオロジイと今の言葉でいつても、どうしても適切に表現できないのですが、とにかく、そのvisionが、われわれの国民に欠けてゐるのです。これを造ることが、本当に長い目でみるならば、僕たちのすべき仕事だとおもふのです。」(八章)
「(前略)さう考へると、あなたの国民は、visionを持ち、それによつて現実に動くことで、西洋人以上だ、といふことも、いはなくても肯定なさるでせう。――しかし、この国には欠けてゐるのです。(後略)」(八章)
引用した文章は王子明が「行動」と「vision」をめぐって、中国と日本の比較論を展開した一部です。日本人はvisionを持ち、現実的に行動するのに対して、中国人はvisionに欠けて、現実的に行動しないのです。この章の終わりに、中国の知識人として、「科学でも、美でも、進歩でも、民族でもいい、それを愚かなほど頑なに、同国人の頭に植ゑつけ、現実は現実だと」決心した王子明に、大門は心を動かされたというように描写されています。林語堂(一八九五〜一九七六)は、一九二三年、アメリカやドイツに留学して帰国した後、北京大学の英文学と言語学の教授をして、一九二六年まで、北京に住んでいました。一九二四年九月に、魯迅や周作人たちの同人雑誌 「語糸」の同人になり、周作人の後輩に当たります。一九二七年十月、林語堂は上海に移住して、国立中央研究院外国語編集主任になり、英語で書かれた「北京を語る」というエッセイは 「中央副刊」(第六十五号五月二十八日)に掲載されました。一九三五年九月に、四十一歳の林語堂が英語で書いた「我国土・我国民」(My Country and My People: New York: Reynal & Hitchcock)は、 「大地」でノーベル文学賞を取ったパール・バック(PearlS.Buck)の協力を得て、アメリカで出版され、たちまち、欧米でベストセラーになりました。その後、一九三七年十一月、英語で書かれた 「生活の発見」(The Importance of Living)もアメリカでベストセラーとなりました。阿部知二は北京旅行の直後から、林語堂に注目するようになったと考えられます。二人が会ったかどうか定かではありませんが、阿部知二にとって、中国研究の座標を提供してくれる友人のような人物だったことでしょう。後に、一九四四年九月から一九四五年四月まで、阿部知二は林語堂が勉強した聖約翰(セント・ジョンズ)大学の講師を勤めます。蘆溝橋事件後、その前年、アメリカに移住した林語堂は雑誌 「Time」に「日本は中国を征服できぬ」(一九三七年八月二十九日)を掲載したり、「我国土・我国民」の十三版にあわせて第十章の「新中国の誕生」を書き加えて、抗日戦争による新中国の誕生を予言したりして、抗日的な言論を次々と発表していました。 「改造」の「支那事変特輯号」(一九三七年十一月)には、林語堂の「古都北平」と阿部知二の「王家の鏡」とが同時に掲載されています。訳文の後ろには、訳者のつぎのような注記が記されています。訳者。
此一文は林語堂氏が極最近「紐育タイムズ」紙上に発表せる随筆である。氏は目下上海を去つて、紐育に在住してゐるやうである。
もともと「二都物語」というタイトルで「ニューヨークタイムズ」に発表された林語堂の「古都北平」の翻訳者は署名されていませんが、阿部知二ではないかと推測できます。この故郷喪失の心情を表した随筆に描かれた「古都北平」には、阿部知二の 「北京」と相通じる部分が多いのです。もちろん、「北京」に展開された王子明の中日文化論は林語堂の言論そのものではありませんが、阿部知二が林語堂の著作から得たヒントと、自分の中国観察を総合して、作品に織り込んだものだと言えます。林語堂の説を下敷きにした痕跡が、作中には多く見うけられます。  
中国経綸論の分析
ここで、王子明という人物の見解を林語堂の議論に照らしあわせて、検討してみたいと思います。「北京」の中では、中国論や日中関係論が大門と王子明の間に展開されています。北京飯店屋上のサロンに集まった日本人の沼や香住との会話を背景に、大門が中国の同化力という話題を提供して、「いまでも中国にはその力がありそうだ」と話したことに対して、王子明は反対の意見を述べました。
「僕はさつきからその話をきいてゐたのですが、たとへさういふ同化力といふものが、中国人にあるとしても、僕たちはもはやそんなものを有難いとは思はないのです。なるほど、今迄は、そのやうな力で、何度も生き返つて来たかも知れないが、もはや、そんなことを繰返したくないのです。いろいろのものを、呑み込むたびに、中から腐つてゆくからです。一度砂漠のやうに、――ちやうど魯迅の言葉をここで思ひ出すわけですが、――乾いてしまつた方がいいのです。その後に、全く新らしい何物かで、生き返りたいのです。それが、いかにして可能か、といふことは、今いへないのですが。」(五章)
この議論からは、中国の若い知識人が歴史の重みを捨てて国を改造しようとする、苦悩と意欲とが感じられるのです。また、王は中国の知識人は古来抵抗の伝統を持つことに言及して、現代知識人の抵抗を「運命」として、受け止めています。しかし、王はまた中国の同化力に変えられなかった日本の頑強な力にも関心を示したのです。
「中国は、昔はユダヤ人さへ呑み込みましたからね、しかし、隣りの日本人だけは、いつまでたつても、決してわれわれの色に染めることは出来ません。隣り合はせに、こんな極端な二民族、あなたのいふ消化力無比な僕たちと、僕の見る頑強無比なあなた方とが、並んで住んでゐるといふ宿命には、到底、マルキシズム以上の興味があります。」(五章)
同化力から二つの民族がどのようにつき合うかという問題まで議論は発展しましたが、大門は「世界平和は、夢のごときものだ」し、「集団と集団の闘ふことが事実」だと認めながら、「人と人とは、みんな親しみ合はうとする心を持つてゐることも事実だ」と強調しました。それに対して、王子明はニーチェの言葉で返答をしました。
「《友となりたければ、まづ彼に向つて戦いを挑め》《抵抗、それは奴隷の道徳だ》と、ツァラトゥストラがいつてゐます。」(五章)
大門は王子明の身の上に中国知識人の「閑雅で、柔和な」裏に強い意志を発見しました。時局の変化に伴って、「親日か抗日か」に入らない中間派の王子明も、行動を持って抗日運動に参加するようになったことは、小説の後半に描かれた大門と王子明の知識人の「行動」をめぐる議論によって暗示されています。大門が仲秋名月の中山公園で、王子明の顔に「慍つている」表情を発見してびっくりした場面には、リアリティがあります。それは中国に後ろめたさを持った当時の日本知識人が感じる中国知識人の表情でしょう。「北京人は、――おそらく支那人は、みな慍つた顔だ」(十一章)という大門の感覚は日本の中国侵略に対する中国人の抵抗が現実に起きているという認識を言外に示したものです。小説では大門の「温情主義」など幻想に過ぎないということを、王子明という鏡を通して読者に納得させ、その反省を促す狙いがあったのでしょう。このように小説に書かれた王子明の議論は、林語堂の 「我国土・我国民」につき合わせて読めば、はっきりと林語堂の著作を出典としているものだと分かります。例えば、中国人の同化力に関する議論は、「我国土・我国民」の第一章「中国人」に基づいて構想されたものと考えられます。とくに、「ユダヤ人さへのみこみました」という例は、次のような記述に見られます。
豚肉を食はないといふ猶太人の習慣は、単なる思ひ出に過ぎないやうになつたほど、今日徹頭徹尾支那化した河南の猶太人を支那人化したのは全く中国の家族制度の賜である。(「我国土・我国民 」新居格訳豊文書院一九三八年七月五二ページ)
また、作品に書かれた「大学教授と学生との反抗的運動」(五章)は「我国土・我国民」の第一章にも書かれています。阿部知二は中国の知識人の抵抗運動の必然性を、その歴史のうちに立証しようとしたのでありますが、「今日の抗日支那の淵源を」見つけたのは林語堂の著作においてでした。そこで、彼は林語堂論の中でも林語堂の中国抵抗論を強調したのだと思われます。
そこで、それでは林語堂は、全世界に向かって、噛まぬ犬としての支那を紹介してゐるか、といふと、さうではない。われわれは、そのやうに呑気になつてゐられぬ。日本に対する時、彼は、俄然、噛む犬の支那を振り向ける。――それを知るには、「支那における出版と与論の歴史」(一九三六、上海)といふ一書を読めばよろしい。実は、「我が国土」「生活の発見」よりも、この本について紹介したかつたのだ。余白はないが、これは、他の二書に書かれざる支那を書いてゐる。これは、「支那インテリ史」でもあり、「支那反抗思想史」でもあり、紛れもなく、今日の抗日支那の淵源を知るべき書である。その結論は日本への攻撃であり、ここには彼は、噛む犬を出してゐる。(「林語堂の 「支那」」「東京日日新聞」一九三八年九月二十二日)
阿部知二が特に注目した「支那における出版と与論の歴史」という本は、英語で書かれたもので、一九三六年上海の別発洋行から発売され、アメリカのThe University of Chicago Press から出版されたのです。英語名は 「A History of the Press and Public Opinion China」です。この文章を読めば、阿部知二が林語堂の中国論をちゃんと研究したうえ、その林語堂の議論を 「北京」の登場人物である王子明に語らせて、中国理解の必要性を訴えようとしたことが読み取れます。阿部知二が林語堂を王子明のモデルとして構想し、「北京」に書き込んだこともはっきりと断言できます。ちなみに、晩年の林語堂も英語で北京の文化や歴史を記述した 「帝都北京」(Imperial Peking: Seven Centuries of China)(Crown Publishers 1961)を執筆して、北京の魅力を読者に訴えようとしたのです。  
四 阿部知二の「北京案内」
一九〇〇年の「義和団事件」(北清事変)から、日露戦争後の満州占領、満州事変などの歴史的事件への関心は、新聞や雑誌などの近代的メディアによって、日本人の読者に広まってゆきました。また、大正トゥーリズムの流行に伴って、「古都北京」は日本人にとって、憧れの東洋の都となってゆきます。前にも触れた北京旅行記に加えて、観光案内の出版も増えるようになりました。筆者が調べた限りでは、一九二〇年代から、日本や中国で数多くの北京案内が出版されたことは明らかであります。例えば、次のような北京案内が挙げられます。
「北京名所案内」脇川壽泉編纂改版増補第五版北京壽泉堂一九二一年三月
「天津・北京案内」上野大忠編[天津]日華公論社一九二二年
「北京」丸山昏迷著増訂第三版北京丸山幸一郎一九二三年十月
「北京・名勝と風俗」村上知行著北京東亞公司一九三四年九月
「北京遊覽案内」石橋丑雄著東京ジャパン・ツーリスト・ビューロー一九三六年
特に、蘆溝橋事件前後、北京は世界から注目を集める、時事問題の焦点となったのです。蘆溝橋事件に至る段階で日本軍と中国軍の衝突による「北支事件」、「冀東自治政府」、「塘沽協定」など、中日間の摩擦が頻繁に発生していました。蘆溝橋事件後、日本は不告宣戦して、中国に対する全面戦争に突入したのであります。蘆溝橋事件後、新聞では連日日本軍の中国戦線への展開が報道され、 「中央公論」や「改造」等の有力雑誌も特集を組んで、従軍記者の報道や戦争をめぐる議論を掲載しています。戦争報道と同時に、北京に関する観察記や紀行などの文章が目立つようになりました。たとえば、
村松梢風「北京城雑記」(「中央公論」「支那問題特集」一九三七年九月)
尾崎士郎「悲風千里」(「中央公論」「拡大事変特別編輯」一九三七年十月特大号)
原勝「北平籠城手記」(「改造」「日支事変特輯」一九三七年九月)
山本実彦「北平・通州・青島」(「改造」「日支事変特輯」一九三七年十月増大号)
中野江漢「北平以北」(「改造」「日支事変増刊号」一九三七年十月)
林芙美子「北支那の憶ひ出」(同右)
阿部知二「王家の鏡」(同右)
橋川時雄「北京文化の再建設」(「改造」「上海戦勝記念」一九三七年十一月)
杉山平助「北京より」(「改造」「新年号」一九三八年一月)
その他、夥しい「北支」に関する言説がメディアに満ちてきます。北京は「事変」の中心にあったからこそ、いろんな角度から言及されていたのです。
北京はどういう町であるか、北京をどう見るべきか、ひいては、中国をどう見るべきか、中国人をどう見るべきか…などは、当時の読者がとりわけ注目した問題です。「北京」はそのような言説の空間に答えるべく、阿部知二が自らの知性と良識をもって、読者の期待に沿うべく、執筆した長編小説だと思います。
実際に、阿部知二の書いた「北京」を読んで、北京の町に憧れる人々もいたのです。林芙美子は「北支那の憶ひ出」の中に、その気持ちを記しています。
私は阿部知二氏の書かれた燕京と云ふ小説を読んで、半晴半曇の北京の街にあこがれ、北京の風物に就いては何の知識もなくふらふらと出かけて行つたのです。
前述のとおり、「燕京」は一九三七年一月改造社の文芸雑誌「文芸」に掲載された中編小説です。「北京」はそれを吸収して約三倍に書き改められて出来た長編小説です。「文芸時評」を書いた飯島正も「特に、僕は、最近北京に行き、且その印象を 「東洋の旗」の一書として上梓しただけに、事変前の北京をこの作者の筆に依つてうかがひ見ることは、その比較の意味からのみ云つても、まことに面白い」(「新潮」一九三八年七月)と述べているように、事変前後の北京の街を比較的に読むことによって、阿部知二の描いた北京を通していわば言語都市的にその街への幻想を呼び起こされて、おもしろさを感じたのです。蘆溝橋事件後、日本人は大挙して北京に押し寄せ始めます。当時の「北京案内」をみれば、「殖える!殖える!邦人一万二千余名四月一日平均百名の増加」というキャッチ・フレーズが、観光地図にこれ見よがしに印刷されています。
北京は元来商業地で無い関係上、邦人の発展は極めて遅々たる観があったが、近来数年間の支那政情の不安定、特に南京、済南事件以後、急に避難引揚者を続出し、又首都南遷後に於ける邦人経営の商社の縮小に因り、逐次在留の減少を来たし、昭和元年末の現在邦人一六一六人を最頂点として、一時殆ど半数に減じたことすらあつたほどである。昭和八年五月の日支停戦協定後、北支政情の安定と共に、漸次その増加を見るに至つたのである。春と共に北支の新天地を目指し満州、内地から押し寄せた邦人は夥しい数を示し、四月中に北京へ来住せる邦人のみにでも内地人二千七九人、朝鮮人九百十一人、台湾人八名と二千九百九十八名に達し、実に一日約百人の増加振りで三月の増加率(一日六十名)を悠々と破り北京在住邦人総人口は遂に一万人を突破に至った。(「北京遊楽観光市街展図」北京・大亜印書局一九三九年十二月)
そのような時期に、北京に関する情報、とりわけ、街なみ案内や滞在者の報告が、広く、求められるようになったのです。「最新ポケット北支那便覧」(資料年報編輯局泰山房一九三八年五月)のような中国情勢案内も出版されています。そうした中、小説の 「北京」の持った影響力も無視できないものでした。「北京」はある種の観光小説とも云えます。読者は、当時の観光案内に挙げられた観光名勝を、主人公の大門の眼を通して見ることが出来ます。また、語り手によって、物語の中に織り込まれている北京の都市空間を案内される気分にもなります。と同時に、 「北京」はまた、中国認識や中国人とのつきあい方を提示したものでもあります。結局、読者は、日本人の反省を促すべく作者が織り込んだメッセージを読み取れることにもなったのでしょう。 「北京」が刊行された時期に、阿部知二はそのかたわらで、前述の「支那及び支那人観の三座標」(「セルパン」一九三八年四月)を発表して、中国理解の必要性を呼びかける一方、「為政者指導者の支那、庶民の支那、知識階級の支那」という中国認識の三座標を提起したのです。そして、「基準座標の混乱を克服し、実証に加ふるに理論を得たときにのみ、支那は 「謎」でなくなるだらう」と指摘したのです。このようなメッセージを「北京」を通じて意図的に送ろうとしたのでしょう。  
五 抒情文学としての「北京」
美しき北京
――それから、汽車が漆黒な闇の中を走つて北京に彼を運び、自動車が真夜中の暗い街を王邸に運び、一夜が明けたときの、鮮かな印象。何といふ明るい、澄明な春であつたらうか。窓のそとの紫丁香の白紫の花むらのかがやき、楊柳や槐樹の濃やかな緑のうへにひろがる真蒼な空。大門は、とるものもとりあへず、案内者を頼んで街に出た。のびやかな、広い街。紫禁城の、黄金色と碧瑠璃と朱と紫の甍や壁は、燦然として、空に涯しもなくひろがつて光つてゐた。北海公園の白塔のうへから、この樹々と水と宮殿とに溢れた、大平原の中の壮麗な大都を眺めまわしたよろこび。――たしかに、北京は美しい都であつた。(二章)
この北支の世界に、何事があるのであらうとも、僕としてはただかうした美しいなごやかな光だけを心に残してこの北平を去つてゆきたいのだが、それは僕といふ人間の利己主義といふものであらうか、と王子明にささやかうとしたけれども、それをいふのも心憂いほど、この室々のなかは、のびやかな美の世界だつた。(十一章)
同時代の評論家も「現在の阿部氏に近い映像が最も正直に、最も素直な美しさで、描かれている」(安藤一郎「阿部知二論」「三田文学」一九三八年九月)と評価したように、小説では大門の五感を通じて、その印象に即して、抒情的な筆致で北京の美が描き出されました。
大門にとって北京滞在は、美の世界を泳いでいるかのようです。しかし、まもなく、この北京の美しさを曇らせる暗雲が近くに靡いてきたという予感を持ったにせよ、大門にはそれに抗する何の術もありません。 「北京」の抒情性はこの近未来に対する閉塞感と感傷を持った大門の美の観照によって表されたのです。
このように「美しい」北京を描くことが出来たのは何故でしょうか。まず、考えられるのは阿部知二が北京の魅力に見とれ、北京への愛着の気持を持ったことであります。その次は、やはり文学の方法論に長じる作者の文体の力です。野間宏はその文体の特徴を次のようにまとめ上げています。
小説作品の構造にたいする特別な関心、小説の叙述の文章のなかに新しい知的思考を挿入し、感覚の比較考察を行い、一つの事態を描く時、それについて、必ず正、負のまったく逆の解釈が可能であることを示すのである。そしてこれらの作業の綜合を求めるところに、その独自な文体が成立する。(「冬の宿」の解説 「阿部知二全集」第二巻一九七四年六月)
「北京」の「跋」では「この小説は時局的な文章ではない」と繰り返して断りましたが、「事変」後、現実に滅びていく古都北京の美しさをいとおしみつつ表現したことは、著者の「時局」への関心の有様を示しているものでしょう。「占領」または戦火にさらされる北京への哀惜は小説の文章に滲んでいます。戦争が美を滅ぼすものだと批判する意図を読者は読み取れるのでしょう。
「去日の美女」=北京
「北京」は阿部知二の北京という街に感情移入しながら描いた作品です。この「美しい北京」を阿部知二は「美女」というイメージで文学的に捕まえています。彼の自作案内である「跋」では、「晩夏初秋の澄明な大気のなかにかがやいてゐる北京に、私はいはば一眼の恋におちたやうなものだつた。この年闌けた美女にこころ惹かれた私は、判断心も忘れてしまつて愛着したのであるかも知れなかつたが、それもよろしい、と今でもおもつてゐる」と自分の北京への愛を吐露しています。彼は北京を訪ねてから、その美しさに魅了され、北京を「美女」に喩える表現がその作品にしばしば現れるようになります。エッセイ「美しき北平」(同前)では「あの土地は美しい女が多くのものに争われるやうに、美しいが為に昔から民族に争われてきたといふ宿命を持つてゐるのであらう」と感嘆したり、「支那の眼鏡」(同前)では「街を女に喩へるならば、私は一眼で、蒼白く老いかけた彼女に惚れたのである」と感想を語ったりしました。この気持ちがずっと沈殿して、詩情の溢れる小説を作り上げることとなったのです。 「北京」の中に現れる「美女」のイメージが多く、それを列挙してみましよう。
第一章大門と王子明の対話:
僕は、こんな美しい、静かな旧都の空気を、四ヶ月も吸つただけで、一生の想ひ出をしたとおもつてゐますよ。
いいえ、もはや死んでしまつた女の、何の役にも立たぬ美しさを褒めていただくだけでも、いやな土地だといはれるよりはうれしく感じます。
第二章大門は万寿山で幻の美女と巡り会う:
水色の羅衣をまとつた、しなやかな若い女の半身と、黒衣の老婆のずんぐりとした半身とが見えた。(中略)すばやく顔を蔽つて隠れてしまつたその娘が、すごいほど美しかつたやうな気もするし、また有りふれた醜い田舎娘であつたやうな気もする。ただ、妖しく心を惹かれながら、彼の身は、雨滴の散りかかる祠の中にふるへてゐた。
第五章北京飯店でみた中国女性:
真紅な羅衣の裾から、繊い脚をのぞかせた美しい支那の女が、白麻の服の支那の青年と、英語で囁きながら踊つてゐる。
この屋上のあらゆる人種の女のなかでも、一番美しいとさつきから感じてゐた、紫衣の支那服の少女と、王子明はゆるやかに円舞曲ををどつてゐた。
それらの美しい女はすべて、大門にとって、ただ眺めやる存在で、近づいても逃げ去ってしまう幻の美女です。それに対して、大門が自らに近寄せたのは「小班」の妓女である鴻妹でした。この美しい妓女とは身体的にふれあうことができましたが、それは一種の「頽廃」な美だと大門は感じています。その「鴻妹」についての描写に注意してみましょう。鴻妹は小説中に、二回登場しますが、一度目には、水色の服、二度目には紅色の服とその装いが書き分けられています。そこに作者の思いが込められていたはずです。
そのやや角張つた顔全体の表情は、何千年の洗練をもつてゐるのだといふやうに、優美さと艶しさに調和されてゐる。長い円頸は高い領子に締めつけられ、肩の下の胸は張り、ながい胴の下の腰はまつたく繊くくびれて、水色の薄衣の下にくねつてゐた。投げ出した脚は細く円い。(十章)
真紅な服をきた鴻妹が入つてきたが、仲間の妓たちに会釈するのでもなく、王子明に媚びるのでもなく、はずむやうな小足で室の中を二三度あちこち歩きながら煙草をすつてゐたが、ものもいはずに、やはり昨夜のやうな冷やかな笑を漂はせながら、すつと大門の坐つてゐる長椅子のとなりにきて掛けると、真紅の衣の腰に白々と揺れてゐた花紐を邪慳に外して、彼の襟に挿しながら、「白蘭花と茉莉花。」といつた。(十一章)
「水色の薄衣」と「真紅な服」の対比がはっきり現れています。このような描写を読めば、「鴻妹」は北京という街のイメージをしながら、それを凝縮するようにして描かれた美女であると言えます。と申しますのも、初秋の北京の街では、青い空と水色の湖と紅い紫禁城の城壁が人々の視覚に映えるからです。阿部知二が感覚的にそれらの色彩のイメージを捉えたのも当然でしょう。水色は「万寿山」の湖、「南海」から「北海」などの水面や秋の空を表すのに対して、紅い色は楼閣の紅い壁を表現したのでしょう。ややおくれて日本占領下の北京を描いた梅原龍三郎の絵画(一九三九年〜一九四三年)をみれば、そこにもこの二つの色彩が鮮やかに画面に現れています。北京に対する、日本の芸術家の色彩感覚が一致したことは興味深いことです。こうしてみると、 「北京」は阿部知二の北京への思いを妓女「鴻妹」に重ねて描き出した抒情的な作品であると評価できます。しかし、それだけではありません。
象徴としての恋物語
大門と妓女鴻妹との出会いはこの小説のクライマックスです。小説は感傷性溢れる恋物語(但し成就しないこともはじめからわかっている)の構成を持つようになり、読者を引きつける新たな展開の力が感じられます。文学仲間の三上秀吉の阿部知二宛の手紙は、阿部知二の描いた鴻妹像の生き生きとした様をつぎのように評価しています。
今度の作品は北京といふ劇詩を土地と人物とにふくらませて行って特異な美しい作品になつてゐると思ひました殊に鴻妹をあまり活躍させないで非常によく描いてゐると思ひましたこれはこれまであなたのお書きになつた女性の中で最も好きな人物でしたそして印象深くはつきり感じられますそれは美しい女といふだけでなく、鴻妹のことは少ししか書かれないけれど、その少しのことがとてもこまかくて、挙動や気質が生々と目に見えました(中略)近頃読んだ后でこんなにきよらかにされたものはありませんでした(昭和十三年五月三日)(「抒情と行動――昭和の作家阿部知二 」姫路文学館一九九三年九月)
鴻妹は高慢な妓女ですが、大門にとって、「この女の高慢さ全体がいひやうのない無邪気なもののやうに感じられたり、あどけなさそのものが、ある険しさを含んでいるやうにみえたりする」のです。
大門は鴻妹に「愛情のしるし」の花をもらい、身体的に接近できて、「やつぱり自然と茶番じみ度くなるやうな衝動をおこす」「支那の力」を感じたり、「一人の女によつてかきおこされた情感が、彼の中をいまも駆けめぐつてをり、もはやいつまでも抜けることがないとおもはれる」ようになったのです。しかし、「鴻妹」は華北の「政局の有力者」にも、「大尽遊びの日本人」にも、華北自治の工作に携わる日本人にも取り囲まれています。大門はその魅力に惚れるものの、「横暴な征服者のやうにこの女に対しよう」とはしないし、またそうすることもできないのです。このまま、北京に残ることは無意味だと自覚しつつ、名残を惜しみながらも、主人公は北京を去るのです。
北京を離れたその大門に「鴻妹女士は、数日前に、この北平より姿を消したといふことです」という沼の知らせが届きます。それは「華北事変」直後のでした。大門の感傷はつぎのように叙されています。
西方の空には、真紅な雲片が一つ横にたなびいてゐた。その雲の輝きのなかに、紅衣の腰に香り高い白い花をつけたひとりの女の像を結ばうとしてみたができなかつた。その雲の下の街はまつたく遠く遙かであつて、そこでは人も事件も自分とはかかはりなく動いてゐるものとおもはれた。(十三章)
こうして、紅衣の女も北京の街も幻影として、主人公の記憶に残るしかなかったのです。このもとより成就することを許されぬ、淡い恋物語は、阿部知二の北京に対する思いの象徴でもあります。日本軍に蹂躙されつつある美しい北京に対して、阿部知二は知識人の無力感を感じたのです。彼は、自分の求める「東洋の故郷」が、ほかならぬ自分を含めた日本人によって滅ぼされるのではないか…という危惧を抱えながら、精神的な「恋人」と別れを告げる感傷の紀行を綴って、読者に訴えかけることしかできなかったのです。  
おわりに
以上、分析してきたように、「北京」において、阿部知二は北京という都市の空間と時間を物語にしようとしたのです。その都市の物語に、旅の経験を記録するという形を取りながら、書き手は一九三五年という特定な時間を枠組みに、北京の都市空間、その空間の中で動いていた人物の関係、また、そこで起きた歴史的な事件を、編み物のように編みこんでいったのであります。
「北京」は特殊な時期における北京案内として書かれた作品です。というのも、そこには北京の持つ空間性が、景観的な空間、歴史的な空間、政治的な空間、都市住民の階級による空間など、さまざまな側面にわたって、描き出されたのみならず、そこにはまた、滅びゆく美の発見と美を滅ぼす力に対する無力感をも読み取ることができます。また、作者は小説の時局性を否認しながらも、時局への観察が作品の隅々に織り込まれています。読者を北京の持つ東洋的空間美へ誘い込むように、描かれたこの小説では、阿部知二の中国認識も知的に描き出されました。作者は日本の中国に対する侵略戦争の現状と未来に危惧を示しながら、より知的な中国認識の必要性も訴えたのであります。
とともに、美しい北京の魅力に魅せられた主人公の北京に対する哀惜の感情を、ある美女とのはかない恋愛にだぶらせて描きあげた「北京」は、とりわけその抒情文学の側面によって、読者を引きつけたものと思われます。阿部知二は抒情的な文体を用いて読者を感動させる才にもたけた作家としての資質をここに示しています。
また、下級娼婦や人力車夫を描くところでは、夏目漱石以来、日本の知識人が持ってきた否応なき中国貧民層蔑視の視点を打破しようとする作者の意図が見られますが、結局、阿部の描く主人公は無力感や自己嫌悪に陥って、解決策を見つけることが出来ません。 「北京」では、中日間の問題の扱いも含めて、主人公の視点があくまでも、一観光客の「感傷旅行記」に止まっていることは否めず、それ以上に踏み込んで中国の「内部」を描くことはできなかったのです。それは時局に配慮するほかなかった、当時の日本知識人の置かれた限界をあぶりだすことでもありました。
 
芥川龍之介「歯車」 ストリンドベリそして狂気

はじめに
一九一七年一月十二日、芥川龍之介はアウグスト・ストリンドベリの「地獄」を読み終わったところでした。この小説はあたかも作者自身の地獄的体験を忠実に述べることを目的としているかのように書かれています。この本の結語は作者による読者への誘いの言葉で締めくくられています。「本書を創作物だと思われる読者には、一八九五年以来毎日つけている私の日記をごらん下さるようお願いする。今諸君が手にされる本書は、その日記の抜萃を増補し整頓したものに過ぎないのである。」芥川にとってこのストリンドベリの誘いは全くの蛇足だったようです。なぜならば、芥川がストリンドベリの告白文を真実の体験の表現としてそのまま理解したと思われる理由があるからです。小説を読み終わったあと自分の 「地獄」のブックカバーの内側に次のような言葉を書き留めています。「この本をよんでから妙にSuper Stitiousになって弱った。こんな妙なその癖へんに真剣な感銘をうけた本は外にない」と 。
この中で注目をしたいのは、「真剣」という言葉です。今日の講義はフィクションと現実との関係を扱うものではありません。つまり現実を忠実に書き表せるか否かということについてではない訳です。また、芥川がストリンドベリに影響を受けた、これは疑いのない事実ではありますが、そのことを証明しようという試みでもありません。どちらかというとフィクションを読むのに伝記物を読むときの読み方を用いたために起こる不思議な結果についてのことなのです。すなわち、フィクションを現実の表現と見なして読んだときの結果についてお話をしたいと思います。
「地獄」を読んで一〇年経った後、芥川は自分自身の地獄への下降を「歯車」に書く運命にたどり着いたのでした。芥川の地獄の叙述はストリンドベリのそれと重なるところが多いのです。それについてこれからお話ししたいと思います。そして、スウェーデンではストリンドベリが書きつづった狂気について、それが本当にかれ自身のものであったか否かについて未だに終わりのない議論が続いています。この議論を踏まえて、今日の講義では芥川の狂気が彼自身のものであったかどうかにも言及してみたいと思います。  
1
ストリンドベリは「地獄」を一八九七年の五月三日から六月二五日の間に書きました。そして、その話は一八九四年から彼がおもにパリで過ごしていた頃の経験を扱ったものです。この頃ストリンドベリは自然科学に傾倒していたため一時期的にフィクションを書くのを投げ出していました。いろいろなことに加え、彼は硫黄は元素ではないということを証明するための実験を行なったり、また錬金術にも情熱を注いでいたりしたのです。実際、科学雑誌に記事を載せることもでき、科学学会からある程度認められるようにもなっていました。パリでは、一元論を解く"Introduction aune Chimieunitaire"(統一の化学への導入)というタイトルの論文を刊行しました。 「地獄」やその同じ時期に執筆した他のいろいろな文章から考えると、彼がこの時期自然界と心霊界の隠された統一の法則を探し求めていたということは間違いないと思われます。
さて、「地獄」の主人公は誇大妄想や自己侮辱やパラノイア(被害妄想)の間を揺れ動いています。この小説は、ストリンドベリがこの時期に精神的な危機を経験し、一時的に発狂していたことの証明として取り上げられてきました。いうまでもなく主人公と作家を同一視する前提の上で初めて導くことの出来る結論ではありますが。
一方「歯車」の方を見ますと、「歯車」は日付のことなる章からなっており、それによりますと芥川は一九二七年の三月と四月にこの小説を書いたことになります。つまり、自殺をするほんの数ヶ月前ということになります。この小説は主人公の地獄のような悪夢の経験を呼び起こすものなのです。また芥川は、ストリンドベリと似たような方法で、読者がこの話を自叙伝として認識するように努力しています。 「歯車」の主人公であり語り手である「僕」は、Aと呼ばれています。そして、文のあちらこちらに散らばっている詳細は作家の伝記の知られている事実と一致するように書かれているのです。ある場面では、「僕」は芥川自身が書いた 「侏儒の言葉」という作品から、ひとつの格言を引っ張り出して、自分が書いたものと述べてさえいます。「人生は地獄よりも地獄的である」と。芥川が人生の終焉に向けて深い憂鬱を経験しているということは疑う余地のない事実なのでした。それにも関わらず 「歯車」に登場するいくつかの主人公の鬱状態の叙述が本当に芥川自身の物であるかどうか疑問がもたれるのです。
2
ストリンドベリの名前は「歯車」のなかで何度かあげられています。例えば「僕」は丸善の二階で「地獄」の続編であるストリンドベリの「伝説」をみつけます。その中に書いてあることが自分自身の経験からほど遠くないということを見つけるためかのようにいくつかのところを手当り次第に読むのです。このことからもわかるように、ストリンドベリは間違いなく 「歯車」の舞台裏のどこかに潜んでいるはずなのです。しかしながらこのようなはっきりした形でストリンドベリを取り上げることよりも重要なのは、否定できないストリンドベリ的性質を有した主人公の経験なのです。 「歯車」と「地獄」の二つの作品の主人公の間の最も明白な共通の特徴は間違いなく、二人ともが、「僕はこの暗合を無気味に思ひ」と語っているということです。「暗合」とは偶然の出来事にたいしてなにか重大な意味を見つけているということです。そして、その不吉な暗合は主人公にとって、なんとなく自己の破滅の兆しのように思えます。そこで、私は本日の講演のタイトルに、この言葉を選んだわけです。 「歯車」ではこの引用は主人公が自分の乗っているタクシーのドライバーが寒い日なのにも関わらず古いレエン・コオトを着ているのに気付いた場面に登場します。そしてこの雨合羽というのは、小説の最初の章は「レエン・コオト」と題されていますが、その章から不吉のサインとして登場しています。
さて、「地獄」のほうを見てみましょう。この小説にも、「歯車」と同じく、重大な意味を持つ不吉な偶然や幸運な偶然が数多く出現することに気づきます。「地獄」の主人公の役目は、あたかも関係がないように見えるものの裏側に潜む関係のしるし、つまり「暗合」を解くところにあるかのようです。ひとことでいうと主人公は不可思議な兆候や類似性(相応性)の解読者なのです。そういう風に、 「地獄」の中のストリンドベリは、偶然ということを認めたくない、つまり、世界には偶発的な出来事があるということを簡単に認めたくはないのです。
「歯車」の主人公についても同じことがいえます。彼が住んでいる避暑地の道をほんの少し歩いている間に白黒の犬が四回とおりすぎていきます。それを見て、まず漢字の四の音読みはシ、つまり死ぬことを暗示していると思います。この縁起の悪い数字が不吉な雰囲気をさらに高めているのです。また犬の色も主人公に地下室のバーで「ブラックアンドホワイト」のウイスキーを頼んだときの不快な経験を思い出させるのです。ここでは地下室のバーだということに注目してください。地下室のバーという場所の設定が既に初めから暗い雰囲気を決定的にしているのです。すべての詳細がきっちりと地獄のイメージを読者に呼び起こすために組み立てられています。さらに、主人公の「僕」はストリンドベリ、道で今さっきすれ違った黒と白のストライプのネクタイをしたスウェーデン人、のことを回想しています。ここでついに主人公にとって一度にあまりにも多くの白と黒が襲ってくるという感じになってしまうのです。この一連の出来事は、彼には、ただの偶然とは思えず何か違った力の仕業だとおもえるのです。
全体的にみて、「地獄」の場合も「歯車」の場合も、色は主人公にとって大変意味のあるサインとして表されています。色は幸運を運んでくる色と不吉な色とに分けられています。そういったわけで 「歯車」の「僕」は幸運の緑のタクシーをつかまえる前に黄色のタクシーをやり過ごさなければならなかった訳です。「僕」は、インクを買いに入った店で、どのインクよりも常に自分を不快にするセピア色のインクしか見つけることができずに手ぶらのままでお店を出ることになったりするのです。そして、ここで疑いなくいえることは、 「地獄」においても色は象徴的な規律を持った物として取り扱われているということです。例えば、薔薇色の寝室の壁や薔薇色のインクの例をご参照ください。
インクのところで表されているように「僕」は些細な邪魔が入ることにより平常心を失うのです。これはまた、ストリンドベリの世界を思い起こさせます。あるときホテルの階段や廊下をうろついていると、 「歯車」の「僕」は突然厨房にいる自分に気がつきます。そこで白い料理帽子をかぶった料理人たちが冷たい目を「僕」に注いでいます。それがもう一度「僕」に地獄に落ちるという戦慄を与えるのです。しかも、この場面では刑務所のような廊下と厨房の燃え上がるかまどの炎によって地獄的な喚起が強調されます。この点で芥川の彼自身の経験からなる自伝的材料へのアプローチはストリンドベリのそれより抑制的だと言わざるをえません。といいますのは、ストリンドベリは自分自身の些細な体験をもっと誇大に潤色するからです。場合によっては、かれはダンテのインフェルノをためらいもなく呼び起こします。例えば、 「地獄」の主人公が訪問中のオーストリアの村を散歩するときの叙述を例にとってみましょう。この場面ではストリンドベリは自分の経験した出来事を躊躇なく大きなスケールの地獄の光景に塗り替えています。そこには天使もいれば、悪魔もおります。
付け加えて言いますと、私の解釈は芥川龍之介が実際ホテルの廊下を彷徨っていたという仮定に基づいています。同じようにストリンドベリの場合は実際彼がオーストリアの村で散歩に足を伸ばしたという仮定に基づいています。とにかくここでの仮定はこれらのエピソードは実際起こったとしても何の不思議もないということなのです。しかしながら 「歯車」や「地獄」のなかの虚構の表現と、実際に作家が経験したエピソードとを等しいものとしてみることを避けた方がいいかと思われます。なぜならば、自叙伝の形で書かれている小説も結局はフィクションなのです。
それにしても、芥川の「歯車」の「僕」はいったいどうして廊下をうろうろしていたのでしょうか。この質問は奇妙な質問と聞こえるかもしれません。しかしながらこの答えは「地獄 」におけるもうひとつの主題的特徴を認めるための助けになるのです。ある小説の原稿を書きつづけることができなくて主人公はベッドに横になり本を読み始めます。ほどなく起き上がり大きなネズミめがけて力いっぱいにトルストイの本を投げつけます。ネズミは風呂場のほうにいなくなりますが、ネズミがどこにいったかわからずにいる「僕」はまた急に強い不吉な予感に囚われます。彼は部屋から大慌てで逃げ出します。このことにストリンドベリの読者なら誰でも以前にも何度も見たような感じを引き起こされるでしょう。
こういうふうに「歯車」にも「地獄」にも主人公が逃げ出さずにはいられなくなる場面が多く書かれています。ホテルの部屋や寝室から、いろいろな建物から、または、カフェやバーから。どちらの作品も取り憑かれた主人公は四方の壁の中に自分を監禁されることに耐えられないのです。そのことが密閉空間恐怖症的な感じを読者に与えています。
そしてもうひとつ「歯車」の全体を通して繰り返し現れる顕著なストリンドベリを思いおこさせる特徴は、主人公が本を開け、手当たり次第に読み始めるところです。彼がたまたま出会う文章の行には彼個人宛ての隠された伝言が含まれていると思い込むのです。運命とでもいうべきものが間に入って、ある選ばれた本の特別の一節に、彼を導いているのです。運命の裏には何かがぼんやりと見えます、それは主人公には不吉に思える別の高い次元の規律からの指示なのです。 「地獄」のほうに戻りますと、主人公の目を秘密のメッセージを含んでいる特別な一節に導くために本は自ら開きさえするのです。二人の主人公が偶然に耳に入れる会話のかけらについても同じことが言えます。主人公はその会話のかけらに隠れた伝言を認めるのです。  
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いろいろと芥川の引用の例をあげてきましたがまだまだ、芥川の「歯車」にみられるストリンドベリの作品を想わせるようなところを網羅したわけではありません。今までに述べた主題とモチーフに加え 「地獄」からの借用とみられる例(パラフレーズ)をいくつか加えることを忘れてはなりません。その中には「僕」が銀座の道で出会った女性の話のように「地獄」における挿話的な類似も含まれます。遠くから見るととても美しく見えたのに近くで見るとしわだらけで醜い女性であることがわかったというものです。この女性は 「地獄」で、すでに述べたオーストリアの散歩の場面で、主人公が出会う女性を思い起こさせます。この女性も同じく遠目には美しく見えますが、よくみると歯なしの奇怪な女性であったのです。
もっと具体的な借用が、はっきりわかるところがあります。「歯車」の中には、「僕」を尊敬する若者が近づいてくる場面があります。若者は尊敬をこめて「僕」を先生と呼びます。その言葉は「僕」にとって、もっとも嫌悪する言葉なのです。彼は自分がありとあらゆる罪を犯したという気持ちを持っているため、尊敬に満ちた形容で呼ばれることに、我慢ができないのです。そのように呼ばれることは、何ものかに嘲られていると感じずにはいられない訳です。いうまでもなく、その「何ものか」を信仰することが神秘主義を信仰するという結論を彼にもたらすのですが。しかし、彼の「物質主義」は、「神秘主義」を受け入れることができないのです。
「地獄」のほうに戻りますと、形而上学的な力の存在について同じような疑いを表す一節を見つけることができます。主人公はくるみが目を出すのを待っていました。最初の双葉が出たとき、彼は女性か子どもの二つの手が何かを嘆願するように彼にむかって手を差し伸ばしている様子をそこにみます。最初彼はこれが幻想か妄想かと疑います。しかし友人にこの双葉を確かに合掌した手に見えると確認してもらったとき、彼はこの出来事の意味は何だろうと自問するのでした。しかし、それにしてもあまりに疑い深く、経験主義あるいは実証主義に頼る教育に飼いならされていたため、彼はこのことを深く考えずにそのままにしておくのです。
「歯車」の「物質主義」と「地獄」の「経験主義的教育」との間で共通点が認められるというのは過言ではないはずです。両方の作品に、「地獄」から一節を抜き出せば、「出来事の抵抗できない条理をおこす見えない手の存在」の信仰と、それに対する反対の力も機能しています。そして、ストリンドベリのいう「見えざる者の手」と「見えざる力」と芥川のいう「何ものか」の間には、ほんの少ししかギャップはないように思われます。
「地獄」での苦悩の原因は以下の忘れがたい文に示されています。「誰かが私の運命をどこかで操っているようだ。」この文は「歯車」の圧倒する不吉の雰囲気と主人公の気持ちをもよく表しています。全般的に、二つの作品を結び付けているのは機能不全の現実感という雰囲気です。現実感は、条理がもはや機能しない人生の夢的な経験に道を譲っているわけです。  
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もちろん「歯車」は真空の中で書かれたものではありません。芥川が彼の苦悩の状態に虚構の形を与えようとしたとき、彼はある特定のジャンルに頼ることが出来たのです。すなわち地獄の叙述をなすジャンルなのです。地獄のジャンルの中で、 「歯車」の文学的先例として一番にストリンドベリの「地獄」を選ぶべきだということが明らかになってきたに違いありません。ついでにいっておきますと、「地獄」がまだ大きな賛美を受け始める前に、芥川はこの小説の価値を見抜いたのでした。その芥川の深い洞察力と感性を賞賛したいと思います。実際、発表当時 「地獄」はスウェーデンの文壇ではおおよそ読む価値のないナンセンスとして扱われました。
そして、いうまでもなく、前に例のないような小説を書くというのはもはや不可能に近いことに違いありません。文学の歴史は小説家が文学的な影響を他の作品から受けることと、他の作品と応答し合うという例に満ちています。ある文学作品を書くということは、限りなく無限で多様な、他の作品と参照し合う対話に入りこむということです。すなわち、作家が書き出すとたん、その文章は既存の文章との関係の中にいきなり複雑なかたちで巻き込まれてしまうのです。といった訳で、 「歯車」と「地獄」が類似しているということは他にも見られる当たり前のことで、それ自体は私たちの注意を引くものではないのです。このケースを特別の興味深いものとしているのは、一般に自叙伝を読むときに適用される読み方が今回はフィクションに適用されているという事実なのです。それは一般の読者について言えることだし、芥川についても言えると思います。この読み方によれば自叙伝的文章は生の体験を正直に表した正真正銘の信用できる文書として扱われます。たしかに、自叙伝的小説と実際の出来事は混同してはならないということが普通は主張されます。批評家の間でも自叙伝的文は正確さという点に注意して読まなければならないという意見で一致しています。実際には、このように普通にいっているにもかかわらず、多くの批評家そして一般の読者においてはいうまでもなく、虚構の文を作家の信頼できる告白として使い続けているのです。この傾向は日本において少なからず見ることが出来ます。私たちが今見ているのはストリンドベリと芥川の受け入れ方なのです。しかし、これは作家の方が読者に期待する、または計算する受け入れ方にも関係してくるのです。文壇のスターになるため作者はいうまでもなくこの文字どおりの読み方を利用して自分のキャリアのために使っているということは否定できないのです。  
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芥川の場合においては、彼がストリンドベリを読む場合に多少とも、そこに書かれていることをそのままストリンドベリ自身の体験と信じこみ、フィクションの主人公とその作家その人を混同していたであろうと信じる理由があります。このような彼の態度は、既に述べた 「侏儒の言葉」という遺稿となったアフォリズム集から抜き出した以下の文から窺えます。
二つの悲劇
ストリントベリイの生涯の悲劇は「観覧随意」だつた悲劇である。が、トルストイの生涯の悲劇は不幸にも「観覧随意」ではなかつた。従つて後者は前者よりも一層悲劇的に終つたのである。
ストリントベリイ
彼は何でも知つてゐた。しかも彼の知つてゐたことを何でも無遠慮にさらけ出した。何でも無遠慮に、いや、彼も亦我々のやうに多少の打算はしてゐたであらう。

ストリントベリイは「伝説」の中に死は苦痛か否かと云ふ実験をしたことを語つてゐる。しかしかう云ふ実験は遊戯的に出来るものではない。彼も亦「死にたいと思ひながら、しかも死ねなかつた」一人である 。
芥川はここで明らかにストリンドベリの自叙伝的小説、すなわち「伝説」の外に「痴人の懺悔」、「女中の子」、「地獄」を引き合いに出しています。もちろんこれらの作品はある程度までストリンドベリの人生の出来事に基づいています。そしてもちろん芥川はストリンドベリの告白に打算の要素も混ざっていると注意を払っているのです。しかしそれにもかかわらず、芥川は基本的に、虚構として書かれた叙述を実際の体験というふうに読んでいるようです。例えば、ストリンドベリが「死の実験」を実際行なったかどうかは、知る由もないはずです。
芥川自身はこういったことについてあまり気にしてはいなかったのではないかということを述べておくべきかと思います。そのことは「「私」小説論小見」に示されています。その中で芥川はつぎのように断言します。作者は結局、自分の心の中に既に存在していたことだけを表現できると。例えばもし、ある作家が私小説の主人公について自分自身は持っていない(親)孝行の美徳の性格を与えれば、道徳的にいえば、作家は嘘をついていると言うのは当たっているかもしれません。しかし、「こう言う主人公を具えた或 「私」小説はまだ表現されない前に既に彼の心の中に存在していたのでありますから、彼は嘘つきどころではない」ということになります。「唯、内部にあったものを外部へ出して見せただけであります」と。この意味において芥川は私小説家にカルトブランシュ(白紙委任状)を与えたと言えるでしょう。それでも、芥川も含めて当時の読者は、ストリンドベリという作家は「冷酷な懺悔」を自分のトレードマークにしたり、自分の生活や危機を小説の材料を得るために演出したりした作家だと認めていなかったのは事実なのです。つまり彼は計画的に狂気を装うことによって自分の周囲を操ったわけです。という訳で、芥川が私小説家にカルトブランシュを与えたときに、かれはおそらくストリンドベリのような、狂気を装いそれを材料に作品を書くといったような作家を想定してはいなかったはずです。これはあくまでも、私小説と誠実さとの関係の議論に関する私の分析にすぎないのですが。いうまでもなく、何を書くかは作家のみに委ねられているのですから。  
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ここで、芥川のストリンドベリの読み方にまた戻ります。興味深いことに芥川の読み方はスウェーデンやほかの国で確立されているストリンドベリの受け入れ方と一致するのです。つまりストリンドベリが作家のキャリアに乗り出したとき以来、文学史家、批評家、精神病医学者、そして読者や一般の人々は彼のことを狂気扱いしつづけていました。芥川もそのことを感じた一人だった訳です。ストリンドベリが今日でも他の作家を抜いて輝くスウェーデンにおいて、ストリンドベリが確かに狂気だったという強く根付いた確信あるいは神話があります。ストリンドベリの文を一行も読んだことのない人でさえ彼が狂人だったことだけは知っているのです。それに加え、二十世紀の初めから今までストリンドベリのケースは精神病医学界の注意を引き続けています。診断はたいていの場合、彼のフィクションである小説、日記、手紙や彼を知っていた人や会ったことのある人たちの証言に基づいています。しかし外国の研究家の研究の場合には、ほとんどの場合ストリンドベリの小説だけに頼っているのです。という訳で 「地獄」から導き出された結果は、この作家は躁鬱病、精神分裂病、被害妄想などの影響下にあると診断されるのです。実際一九五六年にストリンドベリのカルテを調べたドイツの精神病医学者はストリンドベリが死後に少なくとも三十六種の病状を診断されていたことを発見しました。二十世紀のはじめにはストリンドベリの書いたものは完全に自伝であったという当時の仮説に拍車をかけられたドイツの精神病医学者たちによって行われたストリンドベリに関する研究がたくさんあります。当時の精神病医学界では、小説を分析しさえすれば、その作家の精神を分析しえたことになっていました。自叙伝や告白文のスタイルの小説では、なおさらその作家の経験がそのまま出ていると考えてしまうのでした。つまり主人公は作者自身そのものとは限らないということはこれらの科学者にとっては何も考えが及ぶところではないのです。とくにストリンドベリについては、これらの傾向がはなはだしかったのです。シーグフリッド・ラーマーという精神病医学者はいとも簡単にストリンドベリの作品は彼の感情の反映によって構成されたものだと結論しています。つまり彼の作品は彼の感情をそのまま反映しているという考えですからストリンドベリは精神分析者にとって格好の都合のよい患者になるわけです。
しかしながら、後になってスウェーデンの精神病医学的研究がストリンドベリをはっきりした精神病として診断することに気が進まない姿勢を見せていることを、ここで述べておく必要があるでしょう。彼らの研究がかわりに提案しているのはストリンドベリは多分一時的な被害妄想症にかかっていたのではないかという事です。  
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ところが、一九七九年には著名なスウェーデンの文学史家であるオロフ・ラーゲルクランツがストリンドベリの伝記を刊行しました。この伝記はたいへんに注目され、批判とともに多くの賞賛も受けたのです。もっとも議論になったのは 「地獄」を取り扱った章です。この章でラーゲルクランツはストリンドベリのいわゆる「地獄の危機」をラディカルに解釈しなおしたのです。彼は「地獄」も含めてストリンドベリのすべての自叙伝として主張されている作品は、まず作られたフィクションとして理解しなければならないと主張したのです。
しかし、もし「女中の子」と「痴人の懺悔」が絶対的な自叙伝的材料として信頼性がないとすれば、「地獄」はもっと信頼性がないということになります。この本はその頃のストリンドベリの生活を表す材料としては全く使いものにならなくなります。ちょうど 「懺悔」に見られるように詳細は事実にそっているのですが、全体的な像が偽物なのです。「偽物」といってはあまりにも強い言葉に聞こえるでしょう。「地獄」は内面的な真実を所有していて、いつの時代にでも人間の偉大な文書としてみられるでしょう。しかしその中心人物、ストリンドベリは私たちが今の伝記で扱っている人物と同一ではないのです。彼は虚構の人物なのです 。
つまりラーゲルクランツがしたことというのは、ストリンドベリにまったく健康だという証書をあたえたということなのです。ラーゲルクランツはストリンドベリの一八九四年のパリ旅行の目的が自分のキャリアを高めるため、文学でも、科学の面でもヨーロッパの文化の中心であるこの街を支配するということだったことを強調するのです。その目的達成のためにかれは自分自身の周りに騒ぎをおこし最新の文学の流行を自分のものにしないといけなかった訳です。彼は文学の前衛の地位、できれば前衛を率いる地位を確立する必要があったのです。当時の先端の動向にあわせるために彼は自分の作品の看板を変えたのでした。 「令嬢ジュリー」は彼が数年前に自信を持って史上最初の自然主義派の戯曲として出したものです、しかし今では象徴主義の劇になったのです。ストリンドベリは過去の人という風に見られないために、当然ながら自然主義派から遠ざからなければならないと感じたのでした。そして、ラーゲルクランツはツルゲーネフやヘンリー・ジェイムズとはいかないまでも、ストリンドベリはフランスの文化人のエリートの周辺に輝く星のひとつになることに成功したというのです。しかし、パリで人々の注目を集めていたのは彼の芸術的技術ではなく、エキゾチックな特徴や過激な意見といったことで、北欧の粗野な天才というストリンドベリのイメージに相応しいものに限られていたともいっています。「女性の男性に対する劣性」、これはストリンドベリが書いた突飛な悪名高い記事のひとつです。一八九五年の一月、この話題のために、数週間の間、街中がストリンドベリのことを話題にしたのです。
「地獄」の計画の形が出来上がってきたときストリンドベリはそのころの流行だった神秘主義にのめりこみ始めました。友人への書簡に彼はこう書いています「あなたはこの間、オカルト〔神秘主義〕のゾラが必要だと言っていました。私はその要求を聞き入れた、壮大で高尚な意味で。 「地獄」という散文詩だ」。ラーゲルクランツによるとストリンドベリは書く材料を集めるためと、天才的狂人としての自分の自画像を誇張するために、恐怖症や過度の発想を意識的に育んでいたというのです。このラーゲルクランツの指摘によれば、ストリンドベリは他のいろいろなことに加えて彼の潜在的な被害妄想を大げさにあらわし、すすんで生け贄の羊の役を請け負ったということです。したがって、彼の前に立ちはだかる出来事と偶然の無限の組み合わせの背後に支配者の手を想像したりするのです。不可解な一致と調和の背後で作用する統一の力を探し求める者、それがストリンドベリという 「地獄」の主人公なのです。ラーゲルクランツはストリンドベリのいわゆる「地獄の危機」を理解するための鍵を与えてくれます「ストリンドベリは内部の耳で聞いて自分の空想と夢に現実性を与えたのですが、それを外部の生活の事実と混同しませんでした」。ストリンドベリが、狂っていなかったというラーゲルクランツの主張の多分一番大きな論点は、手紙などから判断すれば、問題の時期のストリンドベリの言葉を扱う能力と知性はずっと正常のままであったという点です。それは彼のドラマがクライマックスを迎えているはずだった時においてもそうなのです。  
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さて今度は、芥川の方に目を向けてみましょう。私は芥川がストリンドベリの小説を自叙伝を読む方法で読んだという議論をしてきました。このことを証明するのは簡単なことではありません。私は芥川ほどの読者がストリンドベリを表面的な方法で読んだに違いないとか、彼を誤解したに違いないとかいっているのではありません。また、芥川はストリンドベリを自叙伝として読んだことによる影響についてのこれといった文を残している訳でもありません。どちらかといえば、芥川の文章を全体として考慮した結果、この結論に及んだのです。純粋な審美的評価を超越した感動を芥川がストリンドベリから受けたと何となく思われるのです。芥川のストリンドベリについてのいろいろなコメントを調べますと、かれがストリンドベリの人生のドラマに強く心を動かされていたということが感じられます。つまり、もし彼がストリンドベリの作品を純粋な虚構、フィクションとして読んでいたとしたら、このほとんど考えられないような形で感動を受けてはいなかったはずです。芥川はストリンドベリの仲間として、苦悩の魂の所有を認め、芸術家としても一個の個人としても自分と同一とみなしたのだということを私はいいたいのです。
さて私のお話も一番大事なところにさしかかってきました。もう一度この講義の目的を思い出してください。それは自叙伝の形をとったフィクションを文字どおりの自叙伝として読む時の結果、およびその影響を吟味するということでしたね。芥川とストリンドベリの交点はこのようなことの分析の格好の例になります。
「歯車」の芥川は発狂することを死ぬほど恐れています。話の中で、彼はある精神病院に電話をかけようとしますが、そこにはいるということが彼にとっては死と同じことを意味するということに気づき気が変わります。実際芥川の母は彼が一歳になる前に発狂していて、芥川は成長していく過程で母の病が遺伝性であったらどうしようという恐れにつきまとわれていたのです。それにもまして、芥川は実際、半透明の歯車の幻影に悩まされていたのでした。その歯車は次第に数を増し彼の視野を半ば塞いでしまうのでした。このことは仮想ではない証拠で裏打ちされています。結果的には、苦悩する魂が深く感じた証言としての 「歯車」の一般的な真実性を疑う理由はないでしょう。(ついでにいっておきますと、一般に作品の評価に関していい評価を得るためには、その作品は誠実な心情を表してはいけないとか、経験に基づいた真実でなければならないなどといっている訳ではありません。)どちらにしても、ストリンドベリの文学的喚起に関わらず、つまりストリンドベリのまねの要素も若干関わってくるにも関わらず、私たちは芥川の落ち込みを事実として考えてよいでしょう。
一九二七年七月二四日未明、芥川が致死量の睡眠薬を飲み込んだとき、彼は友達宛に遺書のようなものを書簡の形で残しました。その中でかれは「何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」のことを語っています。自尊心の強い作家が自殺をするという先例がある日本においても、芥川は神経衰弱の限界で苦しむ芸術家のイメージを背負ってきているのです。彼の死はまた、この時代の魂と一つの時代の終わり、つまり大正時代の終わりを象徴してもいるのです。芥川の文学に限らず、芥川その人についての読者のイメージも、ある意味で近代日本の自己認識にはいったと断言しても間違いはないと思えます。なぜならば、日本には、 「歯車」のような作品を自叙伝的に読むという用意ができていたからです。つまり、作家と主人公を同一視して読む準備ができていたのです。確かに批評家は「歯車」はまずはフィクションとして理解すべきだと議論しています。しかしながら、特に日本では二十世紀初期に私小説の強い影響があって、自叙伝的フィクションを文字どおり(作者の実際の経験として)に受け止めるという傾向があります。つまり芥川は、夏目漱石のような、ある意味では近代化の犠牲とでもなった作家とともに、近代性の悪い意識として日本人の自意識のどこかに居残っているのではないでしょうか。したがって、芥川の特定のある苦悩が少しでも日本の精神に影響を与えたと推測するのは大げさなことではないはずです。  
むすび
既に見てきましたように「歯車」に表される芥川の苦悩はストリンドベリのそれに吹き込まれた点があります。もしそうだったとしたら反対にストリンドベリの苦悩は何なのでしょうか、誰に吹き込まれたものでしょうか。よく知られたメタファーによりますと、ちょうど真珠がアコヤガイの中のはいったゴロゴロする砂粒から自分を守ろうとする時にできる異常の産物であるように、芸術家の偉大な作品は病んだ心の賜物だといわれます。十九世紀の終わりにはヨーロッパでは天才と狂気の違いは紙一重だという信念の全盛期でした。そうであれば、すばらしい知性の才能に必要なものは異常な精神状態であるといえるでしょう。この風潮はブルジョアの正常さに対抗するボヘミア文化の出現によって拍車をかけられたのでした。現代芸術がブルジョアによって狂気と診断されるとともに、狂気というものも社会への反逆の文化として何か願わしいものとしての地位を得たのでした。混乱した感情の動きを経験することは狂ったという印であるのみならず芸術的才能と見られたのです。狂気が精神の市場での流行の商品となった訳です。ストリンドベリは意識的に文学の枠組みの中でのみならず私的な生活でも狂人になる準備をすることによってこの流行をどのようにして自分に優位な方向にするかを知っていました。彼は神秘主義を肥やしとして狂気のイメージを育んでいったのでした。
このように我々はストリンドベリのいわゆる狂気における歴史的、なおかつ文化的背景を確認しました。芥川は多分気づかずに神秘主義思想や半狂気の天才といったイメージをストリンドベリを通して受け入れたのではないかということを述べておきたいのです。もっといえば、このストリンドベリより芥川への路は、このようなヨーロッパの近代的な考えが日本へはいってきた通路の一本であることを述べておきたいのです。実際、芥川はストリンドベリを近代精神の代表者として見なした発言が残っています、
読んだ本の中で、義理にも自分が感服しずにゐられなかつたのは、何よりも先ストリントベルグだつた。その頃はまだシエリングの訳本が沢山あつたから、手あたり次第読んでみたが、自分は彼を見ると、まるで近代精神のプリズムを見るやうな心もちがした。彼の作品には人間のあらゆる心理が、あらゆる微妙な色調の変化を含んだ七色に分解されてゐた。いや、 「インフエルノ」や「レゲンデン」になると、怪しげな紫外光線さへ歴々としてそこに捕へられてゐた。
しかし、このような結果がどうして自叙伝的読み方に依るのでしょうか。繰り返していうならば、第一に、もし芥川がストリンドベリを自叙伝的に読んでいなかったら、彼はあんなに強烈にストリンドベリの人生のドラマに感動していなかったでしょう。そして次には、もし強く感動していなかったら自分の苦悩をあのような文字どおりの意味で 「歯車」の中でストリンドベリのそれと並べる必要性を感じなかったでしょう。簡単にいえば、私たちの知る「歯車」はなかったことになるでしょう。
告白文のジャンルは複雑なシステムの変装やベールによって成り立っています。その背後で真実性あるいは信頼性の概念がつるつる滑る石鹸のように手の間をすり抜けてしまうのです。私にとっては 「歯車」はストリンドベリ風に書かれた芥川の自画像に外ありません。また、ヨーロッパに出現した狂気の天才の信仰が「歯車」の中に投射されていることを認めることが出来ます。私の意見では、このケースはどのようにヨーロッパの世紀末の考え方が近代日本人の自意識に入り込んだかという確固たる例を見せてくれると思うのです。
これは近代化あるいは西洋化の実現以外の何物でもありません。もし、近代化に対しての抵抗の文化も近代化の一部であるならば。
 
芥川龍之介の死

松本清張の「昭和史発掘」を読んでいたら、「朴烈大逆事件」につづいて「芥川龍之介の死」という章があった。それで、何か自分の知らない新しいことが記載されているのではないかと、松本清張の文章を注意して読んだ。
私にとって収穫だったのは、芥川が帝国ホテルで実行したとされる「自殺未遂事件」の真相を知ることが出来たことだった。私がこれまで読んだ本によると、芥川龍之介は平松麻素子と心中しようとして帝国ホテルに泊まっているところを発見されたとあったのだが、松本清張によれば、事実はこれとは異なり、女は芥川と帝国ホテルで心中する約束をしたものの、直前になって約束を破ったため心中には至らなかったというのである。
この間の事情は、芥川の友人だった小穴隆一が著書「二つの絵」のなかに克明に書いているという。けれども、小穴は芥川の研究者達からその発言の信憑性を疑われているため、小穴証言はこれまで無視されて来たのだが、それを松本清張は、正面から取り上げて上記のような記述を敢えてしたのである。
小穴隆一=松本清張の語る事件の推移を、もっと細かに書けば次のようになる。
芥川の妻文子は、夫の言動から彼が自殺を計画しているのではないかと疑うようになり、不安に襲われて突然二階に駆け上がって夫の無事を確かめるようになった。
彼女は彼女なりに思案し、芥川に文学の分かる女友達をあてがえば、夫の孤独感が解消するのではないかと考え、幼友達の平松麻素子に救いを求める。平松麻素子は文子より2、3才年長の独身の女だった。父親は弁護士で裕福な暮らしをしていたが、生まれつき病弱だったため、結婚しないで弟妹の面倒を見ていたのである。彼女は短歌などを作り、芥川の作品をすべて読んでいた。
平松麻素子は文子から事情を聞いて、芥川の話し相手になることを承知した。文子は、彼女が訪ねてくると二階の芥川の書斎に案内するようになった。それ故、しばらくの間は平松麻素子が芥川の書斎で竜之介と文学談義をしていると、文子がニコニコしながら茶菓を運ぶという光景が見られた。
やがて芥川と平松麻素子は、文子に隠れて二人だけで外で会うようになる。
芥川は麻素子との逢う瀬を重ねているうちに、彼女をスプリングボードにして自殺を決行しようと考えるようになり、下谷を連れだって散歩している折、一緒に死んでくれないかと切り出した。もっとも、プライドの高い芥川は、「或阿呆の一生」の中で、話を持ちかけたのは女の方からだと書いている。
<彼女はかがやかしい顔をしていた。それは丁度朝日の光の薄氷にさしているようだった。彼は彼女に好意を持っていた。しかし恋愛は感じていなかった。のみならず彼女の体には指一つ触れずにいたのだった。
「死にたがっていらっしゃるのですってね」
「ええ。──いえ、死にたがっているより生きることに飽いているのです」>
二人は、心中する約束を交わし、帝国ホテルで実行する日時を決めた。皮肉なことだった。芥川の死を思いとどまらせる役目を負った女が、芥川の心中相手になったのである。
約束の日に(昭和2年春)、芥川は家を出た。
文子が、「お父さん、どこに行くんですか」と尋ねても応えないで、彼は黙って歩み去った。芥川は散歩する様子でもないし、何処かに原稿を書きに行くふうでもなかった。胸騒ぎを感じた文子は、小穴隆一の下宿に駆けつけた。
「どうも主人の様子が変です」
文子が小穴と話し合っているところに、意外な女性がやってきた。平松麻素子であった。彼女は芥川との約束を破って帝国ホテルに行かなかったが、何となく気になって芥川と親交のある小穴のところにやってきたのだ。彼女は文子が来ているのを見ていった。
「まあ、いまお宅にあがろうと思っていたところよ」
文子もほとんど同時に言った。
「わたしも、いま、お宅にあがろうと思っていたところなの」
とにかく、芥川の行方を捜さなければならない。小穴には心当たりがあったから、「これから探しに行きます」というと、文子は家のことが気になるのか、「では、どうかよろしく」といって急いで家に帰っていった。小穴が下宿を出ると、平松麻素子もついてくる。小穴は、まず芥川が原稿執筆のためによく利用している帝国ホテルに行くつもりだった。省線電車の田端駅まで来たとき、平松麻素子が不意に秘密を打ち明けた。
「さっき文子さんの前では言えなかったけれど、私は芥川さんのいるところを知っているんです。帝国ホテルです」
二人は揃って省線電車に乗って帝国ホテルに出かけたが、カウンターで聞いてみると、芥川は確かにホテルにやってきて部屋を取ったが、また何処かへ出かけていったという。小穴は迷ったけれども、一旦、田端にある芥川家に戻ることにした。すると、平松麻素子も一緒に行くという。芥川家に着き、小穴が二階の書斎に駈上って調べると、「小穴隆一君へ」と記した遺書らしい封筒があった。彼は文子に、とにかくこれからホテルに行こうと誘い、小穴、文子、甥の葛巻義敏の三人で帝国ホテルに出かけることになった。さすがに平松麻素子は、芥川に合わせる顔がなかったらしく、近くにある実兄の家に去った。
松本清張は、その後の状況を次のように書いている。
・・・・・
< 芥川の泊っている部屋のドアを叩くと、「お入り」と、大きな声で芥川が怒鳴った。小穴がドアをあけ、うしろから文子と葛巻とが従った。芥川はベッドの上にひとりで不貞腐れて坐っていたが、甥の葛巻を見ると、「なんだ、おまえまで来たのか。帰れ」と、叱りとばした。葛巻が泣きながら出て行くと、あとは芥川と、文子、小穴の三人だけになった。「M子さんは死ぬのが怖くなったのだ。約束を破ったのは死ぬのが恐しくなったのだ」と、またベッドに仰向けになっていた芥川は、怒鳴るよぅな、訴えるような調子で言って起き上がった。「わたし、帰ります」と、文子は廊下へ消えて行った。その晩、小穴は芥川と一緒に夜明けまで話した。朝になって文子が来て小穴と替った。(二つの絵)>
・・・・・
松本清張はいっている、平松麻素子に逃げられたのは芥川の側に過信があったからだと。芥川が平松麻素子と体の関係を持っていなかったことは、事実だと思われる。肉体的交渉のない女が、自分と一緒に死んでくれると思いこんだところに芥川の甘さがあり、その甘さは自己の名声に対する過信から来ているというのである。
この事件があってから平松麻素子は芥川家に寄りつかないようになった。
松本清張が平松麻素子の裏切りについて縷々述べているのは、彼がこの一件を芥川自殺への重要なステップと考えているからだった。芥川はこれ以来、自殺に対して一歩踏み込んだ姿勢を示すようになり、スプリングボードなどを当てにせず、単独で自死を決行する決意を固めはじめるのである。
そして彼が自殺のために使用した青酸カリは、平松麻素子が彼に与えたものだったのである。
平松麻素子のその後について、松本清張は、「その後、肺患のため清瀬療養所に入り、文学愛好の患者達のリーダーのようになっていたが、昭和32年1月に死んだ」と書いている。勘定してみると、私が清瀬の病院を退院するのと入れ違いに彼女はこの療養所に来たことになる。もしかしたら、私は彼女と一目会う機会があったかもしれないのだった。
芥川龍之介が自殺した原因について、体調悪化とか、義兄の自殺を含む近親者の相継ぐ不幸とか、プロレタリア文学の勃興を前にして作家としての将来に不安を感じ始めたとか、いろいろな理由があげられている。だが、それらはすべて二次的な原因でしかないのではないか。
以前に私は、芥川が中国旅行の折りに、性病を背負い込んだことが自殺の原因ではないかと考えていた。自殺する前の芥川は、子どもが、「お化けだ」と怯えるまでに衰えていた。見るも無惨に衰弱していたのである。こういう衰え方は、外国で性病に罹患した患者によく見られたものらしい。シベリア出兵でロシアに乗り込んだ兵士達のうち、ロシア人娼婦を買って梅毒になったものたちは極めて激烈な症状を呈した。中国に渡って現地で性病にかかった者たちの衰弱ぶりも、「ロシア梅毒」と同様だったといわれる。
芥川龍之介は、内地にいた頃から、仲間の作家達を驚かすほどの「発展家」だった。芥川の悪所通いについては、作家仲間達による証言がいろいろ残っている。中国に渡って同じようなことを繰り返した芥川が、そこで不運にも病魔に犯されたとしても不思議はない。
しかし、松本清張は、芥川の死の原因を別のところに求めている。彼を巡る複雑な家族関係に原因があったというのである。死の直前、芥川は自身の一家だけでなく、義兄の家族や、実家の家族の面倒を見なければならなかった。義兄が自殺し、実家の当主(異母弟)が病死したため、彼は三つの家族を支えねばならなくなったのである。
だが、松本清張はそれが直接の原因ではなく、芥川にとって養父の存在が大きな負担になっていたのではないかと推測する。
< 養父道章は芥川の第一回河童忌(七月二十四日だが、暑いので参会者の迷惑を考えて六月二十四日にくりあげた)の翌朝、庭を掃除しているうちに急に気分が悪くなり、床についた二日後に死んだ。こんなことを書くのはどうかと思われるが、若し、(という仮定が宥されるとすれば)養父の死が一年早かったなら、芥川の自殺は無かったかもしれないとも思われる。孝養を尽くした芥川ではあるが、養父の死によって、彼の上にのしかかっていた重苦しいものが除れ、頭上の一角に窓が開いたような「自由な」空気が吸えたのではないか。養父に先に死なれることで後の「ぼん やりした不安」の要因が消えるわけではないが、少くとも 自殺の決行をもっと先に延ばしたのではなかろうか。その間にその死を制めることが出来たのではなかろうか。(「昭和史発掘・芥川龍之介の死」)>
芥川家の老人たちは、なぜ彼を追いつめるほどのヒステリーを起こしたのか。もちろん、肝心なことは部外者には分からない。
芥川の伝記には、死の直前、彼が自家の老人達のヒステリーに悩んでいたことが記されている。主治医の下島勲が龍之介の健康を心配していろいろ助言しているのに対し、彼は「こちらのことは御心配なく。それよりもどうか老人たちのヒステリーをお鎮め下さい」と手紙で頼んでいる。彼はまた別のところで、「老人のヒステリーに対抗するには、こちらもヒステリーになるがいいと教えられたので、今それを実践中です」というような手紙も書いている。
芥川は結婚後、養父母と伯母という三人の老人と同居していたが、はじめそのことを取り立てて苦にはしていなかった。彼は一日中、二階に腰を据えて原稿を書くか、訪ねてくる編集者や友人と会うかしており、同じ家にいても老人達と言葉を交わすことがほとんどなかったからだ。彼が痔疾を悪化させるほどに二階の書斎にこもりきりだったのは、一つには扶養する老人達との交渉を避けるためだったと思われる。
だが、義兄や異母弟が亡くなって、芥川家が一族の中心になると、彼は老人達と腹を割って話さなければならなくなった。彼は老人達と相談して親族会を開き、親戚らの意見をとりまとめる必要に迫られた。彼は、あらかじめ養父母の意見も聞いておかなければならなかったのだ。龍之介が一族の中心になるにつれて、養父母と伯母の力関係も微妙に変わってきたに違いない。それまで兄夫婦の厄介になって肩身の狭い思いをしてきた伯母は、龍之介が一家の主になったことで、兄夫婦より優位に立つようになり、それがトラブルの背景になったとも考えられる。
しかし、芥川の体調悪化も、老人達のヒステリーも、所詮は二次的な原因でしかない。まわりにどんな悪条件があっても、執筆意欲があるうちは、作家が自死することはない。人間は、やりたいことがあるかぎり、自分から死ぬことなど考えないものだ。
明治以降、わが国では前途有望な作家の自殺するケースが多かった。そして、その理由として、通例作家としての行き詰まりがあげられるけれども、これをもっと端的にいえば彼らは書くことに興味や喜びを感じなくなったのである。では、なぜ書くことに喜びを感じなくなるのか。
自殺する作家には、世評に敏感なものが多い。自分の作品が編集者や読者から歓迎されなくなったと感じたとき、世評を執筆動機にしている作家は書くことに興味を失う。趣味でも道楽でも何でもよい、生の先導役をつとめる興味があるうちは人は死なない。が、世評重視型の作家は、執筆に興味を失うと同時に、もぬけの殻のようになって人生のすべてに興味を失ってしまうのである。
芥川龍之介や三島由紀夫は、世評に敏感な作家だった。彼らが書くことに興味を失って自死したとしたら、その対極にある作家は森鴎外ではなかろうか。鴎外は世評に頓着しないで、一般の読者にとっては退屈極まる史伝や「元号考」を死ぬまで営々と書き続けた。
芥川の死を理解するには、生きていく上で先導的な役割を果たした興味が何であったか、彼について、その質を分析しなければならないと思う。人間本来の先導的な興味は、趣味や道楽などを含め、大いなる自然や普遍的な真実を志向している。だが、その興味の方向が本来的なものからそれて文章の彫琢や人工美の構築に向かったりすると、やがて興味は色あせてきて「娑婆苦」がひしひしと身に迫って来るのである。  
 
芥川龍之介の遺書

僕等人間は一事件の為に容易に自殺などするものではない。僕は過去の生活の総決算の為に自殺するのである。しかしその中でも大事件だつたのは僕が二十九歳の時に秀夫人と罪を犯したことである。僕は罪を犯したことに良心の呵責は感じてゐない。唯相手を選ばなかつた為に(秀夫人の利己主義や動物的本能は実に甚しいものである。)僕の生存に不利を生じたことを少からず後悔してゐる。なほ又僕と恋愛関係に落ちた女性は秀夫人ばかりではない。しかし僕は三十歳以後に新たに情人をつくつたことはなかつた。これも道徳的につくらなかつたのではない。唯情人をつくることの利害を打算した為である。(しかし恋愛を感じなかつた訣ではない。僕はその時に「越し人」「相聞」等の抒情詩を作り、深入りしない前に脱却した。)僕は勿論死にたくない。しかし生きてゐるのも苦痛である。他人は父母妻子もあるのに自殺する阿呆を笑ふかも知れない。が、僕は一人ならば或は自殺しないであらう。僕は養家に人となり、我儘らしい我儘を言つたことはなかつた。(と云ふよりも寧ろ言ひ得なかつたのである。僕はこの養父母に対する「孝行に似たもの」も後悔してゐる。しかしこれも僕にとつてはどうすることも出来なかつたのである。)今僕が自殺するのは一生に一度の我儘かも知れない。僕もあらゆる青年のやうにいろいろの夢を見たことがあつた。けれども今になつて見ると、畢竟気違ひの子だつたのであらう。僕は現在は僕自身には勿論、あらゆるものに嫌悪を感じてゐる。
     芥川龍之介
P.S.僕は支那へ旅行するのを機会にやつと秀夫人の手を脱した。(僕は洛陽の客桟にストリントベリイの「痴人の懺悔」を読み、彼も亦僕のやうに情人に※[言+墟のつくり]を書いてゐるのを知り、苦笑したことを覚えてゐる。)その後は一指も触れたことはない。が、執拗に追ひかけられるのには常に迷惑を感じてゐた。僕は僕を愛しても、僕を苦しめなかつた女神たちに(但しこの「たち」は二人以上の意である。僕はそれほどドン・ジユアンではない。)衷心の感謝を感じてゐる。

     わが子等に
一、人生は死に至る戦ひなることを忘るべからず。
二、従つて汝等の力を恃むことを勿れ。汝等の力を養ふを旨とせよ。
三、小穴隆一を父と思へ。従つて小穴の教訓に従ふべし。
四、若しこの人生の戦ひに破れし時には汝等の父の如く自殺せよ。但し汝等の父の如く他に不幸を及ぼすを避けよ。
五、茫々たる天命は知り難しと雖も、努めて汝等の家族に恃まず、汝等の欲望を抛棄せよ。是反つて汝等をして後年汝等を平和ならしむる途なり。
六、汝等の母を憐憫せよ。然れどもその憐憫の為に汝等の意志を抂ぐべからず。是亦却つて汝等をして後年汝等の母を幸福ならしむべし。
七、汝等は皆汝等の父の如く神経質なるを免れざるべし。殊にその事実に注意せよ。
八、汝等の父は汝等を愛す。(若し汝等を愛せざらん乎、或は汝等を棄てて顧みざるべし。汝等を棄てて顧みざる能はば、生路も亦なきにしもあらず)
     芥川龍之介

     芥川文子あて
追記。この遺書は僕の死と共に文子より三氏に示すべし。尚又右の条件の実行せられたる後は火中することを忘るべからず。
再追記僕は万一新潮社より抗議の出づることを惧るる為に別紙に4を認めて同封せんとす。
4 僕の作品の出版権は(若し出版するものありとせん乎)岩波茂雄氏に譲与すべし。(僕の新潮社に対する契約は破棄す。)僕は夏目先生を愛するが故に先生と出版書肆を同じうせんことを希望す。但し装幀は小穴隆一氏を煩はすことを条件とすべし。(若し岩波氏の承諾を得ざる時は既に本となれるものの外は如何なる書肆よりも出すべからず。)勿論出版する期限等は全部岩波氏に一任すべし。この問題も谷口氏の意力に待つこと多かるべし。

一、生かす工夫絶対に無用。
二、絶命後小穴君に知らすべし。絶命前には小穴君を苦しめ并せて世間を騒がす惧れあり。
三、絶命すまで来客には「暑さあたり」と披露すべし。
四、下島先生と御相談の上、自殺とするも病殺とするも可。若し自殺と定まりし時は遺書(菊池宛)を菊池に与ふべし。然らざれば焼き棄てよ。他の遺書(文子宛)は如何に関らず披見し、出来るだけ遺志に従ふやうにせよ。
五、遺物には小穴君に蓬平の蘭を贈るべし。又義敏に松花硯(小硯)を贈るべし。
六、この遺書は直ちに焼棄せよ。

一、他に貸せしもの、――鶴田君にアラビア夜話十二巻あり。
二、他より借りしもの、――東洋文庫より Formosa(台湾)一冊。勝峯晋風氏より「潮音」数冊。下島先生より印数顆、室生君より印二顆。(印は所持者に見て貰ふべし。)
三、沖本君に印譜を作りて貰ふべし。わが追善などに句集を加へて配るもよし。
四、石塔の字は必ず小穴君を煩はすべし。
五、あらゆる人々の赦さんことを請ひ、あらゆる人々を赦さんとするわが心中を忘るる勿れ。
 
蕪村攷

二もとの梅に
蕪村を遺忘のくらがりより見出し、光明の中に据ゑしは、蕪村歿後およそ百年の明治二十六年、古俳諧を渉獵して博覽、強記の正岡子規なり。向後子規の周邊にて蕪村再評價の氣運もりあがりを見せ、明治三十一年より八年有餘、内藤鳴雪、高濱虚子、河東碧梧桐らによる「蕪村句集講義」「蕪村遺稿講義」なる輪讀會がもよほされ、『ホトトギス』に連載されたり。當初子規も參加せしが、「蕪村句集講義秋の部を殘すこと數枚」にして逝く。換言せば、子規の死後も弟子たちが講義をつづけしほどの蕪村熱といふを得む。
さりながら、この根岸派俳人らの蕪村評價は、子規の寫生主義を鵜呑みにせしものにして、蕪村の畫家をなりはひとせることを念頭に、客觀的敍景の、繪畫的俳句なりと斷ぜしものなり。
二もとの梅に遲速を愛す哉 (蕪村句集)
「虚子曰。蕪村の庵に梅が二本ある。一方は早く咲き一方は遲く咲く、其の遲速があるのを愛するといふので、自然に安んじて樂しんでゐる所が克く見える。」
對するに
「子規氏曰。此句は自然に安んじて居るなどゝいふ趣よりは、句法の斬新な處が主になつて居る。此頃でこそ此句法を模倣する者が多いから珍しくも思はなくなつたけれど、始めて此句を見た時は、こんな句法が世の中にあるかやと驚いた者であつた。」(蕪村句集講義 明治三十二年四月六日)
講義と稱せるものの内容、かくの如きものにて、根岸庵の庭から辿りし寫生的類推を出でず、いかに斬新なる句法かなどの説明もなされてはをらぬ。この句にかかはる書簡に目を通す機會もなかりし故と察せらるるにせよ、この程度の淺き讀みにて、よくも蕪村熱のつづきしものと、その方にこそ感嘆せらるると共に、蕪村句の深みに呪縛せられしならむとも覺ゆ。
花火に遠き
枯淡、寂び、風流などてふ心境に甚だ遠く、「趣味的に俳句を毛嫌ひ」しをりし萩原朔太郎なれども、『郷愁の詩人與謝蕪村』なる書を著はすまでに、俳人たる蕪村は愛讀し熱愛せしと言ふ。さりながら、かかる朔太郎にてはありたれど、ホトトギス派や多くの蕪村好き一般に向ひては大いに異を唱へたり。
「子規一派の俳人たちは、詩からすべての主觀とヴィジョンを排斥し、自然をその『有るがままの印象』で、單に平面的スケッチすることを能事とする、所謂『寫生主義』を唱へたのである。かうした文學論が如何に淺薄皮相であり、特に詩に關して邪説であるかは、ここで論ずべき限りでないが、とにかくにも子規一派は、この文學的イデオロギーによつて蕪村を批判し、且つそれによつて鑑賞した爲、自然蕪村の本質が、彼等の所謂寫生主義の規範的俳人と目されたのである。」
子規の主義を邪説と難じ朔太郎は言ふ。
「反對に蕪村こそは、一つの強い主觀を有し、イデアの痛切な思慕を歌つたところの、眞の抒情詩の抒情詩人、眞の俳句の俳人であつたのである」
まづは、明治になり更めて存在を認められし蕪村が、一段と深き理解を得られたりと言ふを得べし。しからば朔太郎の蕪村評釋はいかなるものならむや。
遲き日のつもりて遠き昔かな
「蕪村の情緒、蕪村の詩境を單的に咏嘆してゐることで、特に彼の代表作と見るべきだらう。この句の咏嘆してゐるものは、時間の遠い彼岸に於ける、心の故郷に對する追懷であり、春の長閑な日和の中で、夢見心地に聽く子守歌の思ひ出である。そしてこの『春日夢』こそ、蕪村その人の抒情詩であり、思慕のイデアが吹きならす『詩人の笛』に外ならないのだ。」
朔太郎の貼りつけし「郷愁の詩人」なる護符は驗あらたかなれば、後に蕪村を論ずる者を「郷愁」なる語に金縛りとせり。後の詩人とて「ふるさとは遠きにありておもふもの」と故郷に滯在のをりに歌ひて、屈折せるにせよ郷愁の詩あり。またわびしき生活の中にて「遠き花火を見る」は、次の蕪村句の想ひ出でられ、やはり觸發されて郷愁を歌ふに組するならむ。
もの焚て花火に遠きかゝり舟
然かりと言へど、「郷愁」の一語のみにて蕪村のすべてを掩ひつくせるものならむか。朔太郎の説は、蕪村の一面を語るに過ぎずと言ふを得べし。
井手を流るゝ鉋屑
森外が『妄想』の中にて引用せしことばに、人の福と思つてゐる物に跡腹の病めないものは無い中に、その無いのは、只藝術と學問との二つ丈なりとあり。己が經驗に照らしうべなへる意見といふべし。されば藝術とは何ぞ。蕪村よりの大なる影響ありといはるる漱石に、靈台方寸のカメラに澆季溷濁の俗界を清くうらゝかに收め得れば、詩は画は足るの言あり。いはゆるホトトギス派的寫生主義に似るも、さすが漱石といふべきか、現實の單なる寫生といはむより、たましひの宿るカメラの寫せるところなるを示唆す。沙翁は一歩を進め王子ハムレットの口を藉りて言ふ。自然に向ひて鏡をかかげ、善は善なるままに、惡は惡なるままに、その眞を抉りだし、時代の樣相を浮びあがらせるものこそ劇、すなはち藝術なりと。あるはかくも言ひ換へ可能ならむか。假面を表舞臺にのせ、その假面の奧にある眞、素面を觀客に悟らせんとするものが藝術なりと。蕪村も書簡にて「詩の意(こころ)なども、二重にきゝを付て句を解(かいし)候事多クあり」と注す。詩は、藝術は素面に假面をかけたるものにて、アンビヴァレントなるものなりの意ならむ。二重の意味、ダブル・ミーニング、さらに多重の意味を籠めて人生の、世界の深みを探り得るものならむ。
山吹や井手を流るゝ鉋屑
「只一通(とほり)の聞(きき)には、春の日の長閑なるに、井手の河上の民家などの普請などするにや、鉋屑のながれ去(さる)けしき、心ゆかしき樣也」と蕪村は書く。表の心なり。されども下心には故事を踏ふ。能因法師がさる數寄者とはじめて出會ひたるをり、引出物とて錦の袋より鉋屑一筋を出し「是は我重寶也。長柄の橋つくる時の鉋屑也」と云に、數寄者も懷中より紙に包めるもの取出し「是は井手の蛙也」とかれたる蛙をあらはす。ともに感嘆して各また懷中して退散す、といふ話にて、井手も長柄も歌枕なり。
蕪村、ある人の「三尺の鯉くゞりけり柳影」につきかく評す。「眼前の實景にて眞卒なる句に候へども、是は左のみ作者の粉骨も見えぬ句にて、不用意の句にて候。あしき句にてはなく候へども、骨を折たる作者の意を失ひ候」 發句は見たままにてはなく、粉骨碎身、頭を絞りて生み出すものにて、二層、多層に意味をふくらますべきと説く。一見單純に見ゆる蕪村句とても、讀み手が解釋するにあたりては作者同樣、粉骨の意をもちゐ、絶えざる用心の肝要なること、この言にても知らる。
漂母が鍋を
蕪村が發句は、その採上げし語句ないし語彙の種別多樣なること、人の想像を越ゆといひ得。當時の發句は句會におきて作られしことしばしばにして、その際は兼題とてあらかじめ主題の提出さるる場合ほとんどなり。されど兼題は誰にも通用の「枯尾花・しぐれ」といふ類の凡俗なる語句のみ。その提題の語から聯想さるる人事、状況、筋書などより發句は形作らるるものなるが、その際に蕪村は、その豐富なる東西の古典に探査の目を飛ばす。兼ねて用意の古典知識滿々たるものがあつたればなり。終生畫家を生業とせし蕪村は、一方に職業上多くの繪畫知識を持つ。蕪村の腦中に在る洋々たる記憶の海には、言葉のロゴスと繪畫のエイドスが二つながらに渦卷き、そこを博搜し發句の想を得る。想起の機構はかくのごときなるが、さらにその力の、殊更に強きが蕪村の天稟ならむ。
雪霰が激しく降り、邊り一面に白き玉となりて跳ねる。外に放り出されし煤けたる鍋にも霰は激しく當りて散る。並の俳諧師なればかやうなる光景を眺めて一句ひねり出さむとせば、「玉霰煤けし鍋をみだれ打つ」といひしところが精々ならむ。されど蕪村とならば黒ずみし鍋をめぐりて頭が廻轉しはじむ。白黒の色の對比のみにては不可なり。かくのごとき古ぼけたる鍋にて飯を作り人を養ふ。ふと、まづしく、飢ゑてをりし頃の韓信が想起せらる。哀れみて飯を給するは洗濯をこととせる漂母なり。かくて句がなる。
玉霰漂母が鍋をみだれうつ
かかる句を蕪村以外の誰が案出しえようか。
先學の注より取上げし蕪村語句の出典例
[漢文]樂府・芥子園畫傳・古文眞寶(前集、後集)・圓機活法・錦繍段・孔子家語・三(唐)體詩・詩人玉屑・史記・淮南子・晉書・楚辭・莊子・杜律集解・唐詩選・陶淵明集・白氏長慶集・文選・蒙求・碧巖祿・蒙求・列仙傳・聯珠詩格・論語・王安石・瑯邪代醉編・臨川集・佛典(維摩經など)
[和文](ただし、蕉門は別途)萬葉集・古今和歌集・新古今和歌集・伊勢物語・源氏物語・枕草子・百人一首・徒然草・井蛙抄・宇治拾遺物語・平家物語・和漢朗詠集・玉葉集・拾遺集・後拾遺集・後撰集・後續拾遺集・新敕撰集・山家集・金塊和歌集・撰集抄・發心集・無名抄・太平記・一休咄・滑稽雜談・近世畸人傳・五元集・新撰菟玖集・曾我物語・甲子夜話・春曙抄・醒睡抄・西京雜記・武備志・攝陽奇觀・兵庫名所記・禪林句集・百隱禪師坐禪和讚・草山集・袋草子・日本歳時記・日次紀事・夫木抄・風雅集・俵藤太物語・搨貶輪・和歌威徳物語・本朝語園・本居宣長・和漢三才圖繪・謠曲(實盛・東岸居士・阿漕・皇帝・竹生島・岩船・三輪・枕慈童・錦木・隅田川・熊野・大江山・張良・邯鄲・求塚)・諺・故事・傳説
[蕉門]芭蕉および去來、嵐雪らの作品全て・笈日記・去來抄・風俗文選・芭蕉句解  
今日もあり
該博なる知識を持ち想起力に惠まるればよき詩がよき藝術が生みだしうるとは言ひえぬ。蕪村が蕪村たる所以は、それと共に、敢へて言はば終生、人間實存への自覺を持すとさへ言へるところありたる故なり。「存在することの驚き」を最期に至るまで持ちつづけたりと推量せらるるなり。それを感ずるがゆゑに筆者と擧例せる句は異れど、ハイデガーの思考との類似を指摘するは森本哲郎や佐賀啓男などなり。現存在・ダーザインを身に體して意識せりと見らるる故にて、うべなへる指摘といはむ。されどハイデガーは希臘、羅典系の言語にて思索をなせる哲人なり。現存在は言葉に立ちあらはれるとせる上にて、東洋には東洋の言葉があり、東洋なりの存在の立ちあらはれやうがあらうと言ふ。佛者である道元が存在と時間につき思索を重ねるは、東洋の宗教者の中にては先驅的なれと必然のことともいへるが、文藝の世界にて現存在のありやうを提示するかと見える蕪村は、文藝を越えた高みの世界に屆いてゐたと言へなくもなし。
かかる考察をなせし後、蕪村ほど存在の意味にて「あり」なる語を使ふ俳諧師は見當らざることに氣付く。
はるさめや暮なんとしてけふも有
がその典型ならむ。春雨の降りつづきて一日が暮れしことの鬱々たる「アンニュイの感情をよく表現す」といふ人あれど、かかる退嬰的な感情を越え、むしろ、今日の、今の現存在を再確認せる發句と見なすべきと信じらる。
けふのみの春をあるひ(い)て仕舞けり
最期の「けり」は咏嘆ならむ。「歩いて」「歩く」は「ありく」を語源とし、「有り・在り」と密なるかかはりを有す。蕪村の意識せるところならむ。この句の意味せるは、かけがひのなき「今日のみ」「今のみ」なる瞬間瞬間の存在に對する感慨を詠みしものと思はる。淨土門の人なれど碧巖録にも目をとほしてをりし蕪村なれば正法眼藏を讀みもしたらん、道元の存在と時間に關はる思考過程に近く、「さきありのちあり、前後ありといへども、前後裁斷せり」の境地を理解し、體驗せるもののごとし。更なる參考句、
きのふ暮けふ又くれてゆく春や 袷着て身は世にありのすさび哉  
浪もてゆへる秋つしま
「人は言葉の杜に栖む」なる詩的表現にて哲學を語るハイデガーは、「詩人的に人は住ふ」とも言ひてヘルターリンを採上ぐるが、芭蕉の句も識りたるは周知のことなり。(蕪村を論ずる者にとりては、蕪村の獨譯ありせば打つて付の題材となりしものをと慨歎するのみ)。
メスキルヒ市の謝肉祭に猫と鼠の面をかぶりて騷ぐ猫連なる若者たちが、ハイデガーを目にとめ署名を頼みしところ書きたるが、芭蕉の句「麥めしにやつるる戀か猫の妻」なりきとは、早稻田大學の川原榮峰師の報ぜしところなり。猫連相手とならば直ちにかくのごとき句の泛ぶほどに芭蕉句はハイデガーの頭に入りたるなり。
芭蕉句の中にても殊更に「雲雀より上に安らふ峠かな」を好めりとさるるは、さすが哲學者といふべきか。ドイツにて雲雀は、神近くの高みにまでのぼり、美聲にて神を贊美すとさるるゆゑ、それよりもさらに上に在ることを稱へたりと解かるるが、逆に、上の世界より形而下の世界を一望にせりとする解釋も成立たむ。「この道や行人なしに秋の暮」から類推せば、己ひとりの高みの境地を詠みたりとも言ひ得べし。
蕪村にも高みからの句が何句もあり、ときに宇宙感覺と稱すべきめまひを感ぜしむ。
ほとゝぎす平安城を筋違に
この句は、碁盤目に作られし京の街の上を、ほととぎすが端から端に斜に飛びたりと解さるるものにて、中村草田男は夜の音のみから想像せるものとするは當らず。晝の東山の上より見たる景とするが一般ならむ。
夏山や京盡し飛鷺ひとつ
更に廣大といへるこの句からすると、ほととぎすの句も、もはや東山からなどといはむより、空から見たりとするがよしと想はる。
稻づまや浪もてゆへる秋つしま
古今集よみ人しらずの「白妙の浪もてゆへる淡路島山」の語句を藉りはするものの、淡路が「あきつ島」となると規模雄大、日本全體を指すこととなり、暗闇に稻妻一閃するや白波に縁取られし日本が見えたりとなる。こは、峠よりはるか上方、飛行機にても間に合はず、宇宙船よりの光景ともみなすべきならむ。
月天心貧しき町を通りけり
この句、作者が下々の住む町を通れりと解する説も多く、草田男に至りては月を頭上のものとして視野から消せるところを凄じきものと稱贊せり。されど筆者は「天心の月から俯瞰されている感じがある」とせる安東次男に近し。筆者の論據となすは、「月光西にわたれば花影東に歩むかな」なる名句の存在することなり。天空の眞中に照れる月が、形而下の町を通りゆくと想像するも可ならむ。蕪村の作句視點、遂には月の高みに至れるものなり。
大河を前に家二軒
蕪村句には、數字が平氣の顏にて出てくること多く、そを一つの特徴とも言ひつべし。明示的なる數のあるがためにイメージの具體化せらるる效果ありて、句に躍動感をあたへ得たり。
孝行な子ども等にふとんひとつづつ
稻妻や二折三折劍沢
四五人に月落ちかゝるおどり哉
小春凪眞帆も七合五勺かな
冬ごもり母屋へ十歩の椽伝ひ
不二颪十三州のやなぎかな
廿五の曉起やころもがへ
麥蒔や百まで生るばかり
ところてん逆しまに銀河三千尺
引き換へ芭蕉は、句中の對象物などの數が知れぬこと多し。「古池や」の蛙が飛込みしは一匹なるか二匹以上なるかは前々より爭はれしところにて、小泉八雲の複數に英譯せしが問題提起の嚆矢ならむか。大方の日本人は一匹と信じをれども、筆者は八雲に組して複數を可とするものなり。複數にても句の價値は變らず。
芭蕉が談林風の諧謔の遊びから、禪的な枯淡の世界へ移行する始めの句とされたる「枯枝に烏のとまりたるや秋の暮」にても事情同樣にして、烏の數は知られぬ。水墨畫のひえやせたる寒鴉枯木の世界を文藝の世界に移せるがこの句なりとさるる故か、この句、多くの日本人は鴉一匹が當然と思ひこみをるものの如し。そこに思ひあはさるるが蕪村の繪、『鳶鴉圖』の烏なり。視覺による繪なれば數は明瞭にして、二羽が寄り添ひ、秋の暮に枯木にとまるよりは、降る雪に一段とひえてをりしも、こちらは優なる圖ならずや。そこよりさらに想起さるるが次の句なり。
さみだれや大河を前に家二軒
降りつづく五月雨、川の水は増水を始め、いつ溢れて家の流さるるやも知らぬ。生存にとりての不安。そこにしかしこれが「家一軒」とされたるならば救ひ無からむ。賤の家にせよ、不安に身を寄せあひて竝びゐたる姿に、句作者の心やさしきを知る。さらに言はば、かかる風景は作者の心の中の實存的光景を描けるものかも知れぬ。
寒さと孤獨とに身をふせるはながら歌ひたる西行の歌
さびしさに堪へたる人の又もあれないほりならべん冬の山ざと
と似た心の眞實が發句となりしならむ。同じ心、同じ目は次の句からも讀み取れむ。やはり數字が出づるが、この度は爲政もからむ五人組なるか。
こがらしや何に世わたる家五軒 
ゆく春や逡巡として遲ざくら
蕪村が師とせるは、京より戻りて江戸日本橋石町に住まひし、夜半亭巴人なり。その歿後三十年近く、京師の門人達の推擧によりて蕪村は「夜半亭」繼承を肯んずるも、几董を後繼者とするを條件としてのことなり。安永九年(一七八〇)にその几董と兩吟歌仙「もヽすもヽ」を刊行するに至りたるが、そは數年の兩者の書翰、面談の推敲によるものなり。その往復書翰の一つに見らるるが次の句なり。
二もとのむめに遲速を愛すかな
この句紹介の書翰に書き加へたる追つて書きには、「紫狐庵(蕪村の別號)より文のはしに、人の口のさがなさをいきどほりてかく聞えければ、梅の句にうぐひすを添て、柳のいと長き交りをあらはす」とあり。この蕪村よりの文のはしに「かく聞え」たるの事情とは、交友を重ねたる伊勢の俳人、樗良(ちよら)と蕪村とは、表向きは仲良く見せながら、陰にては「蕪村は樗良がはいかいを嘲、樗良は蕪村が俳諧を笑ふと沙汰いたすよし告る者有之候。・・・恐るべき事に候」てふものにて、蕪村が樗良に報告せる書簡によりて知らる。さうと知らば、二もとの梅とは、蕪村と樗良とに引き當てらるるもの、それゆゑ、二重の意味を擔ふ句となし得む。すでに(その一)にて虚子の解を引用せしが、その他の評釋にせよ、片方の梅が早く咲きたり、こは遲く散りたりなど、實景を寫生せしものと表層のみにて高く評價せるは、至らぬものといふべし。この句、蕪村句集に「草菴」と前書きさるるは、己の庭の梅にてはなきことを示すためと推測せらる。
遲速に關しては『和漢朗詠集』上 早春 慶滋保胤(よししげのやすたね)に「東岸西岸ノ柳、遲速同ジカラズ。南枝北枝ノ梅、開落已ニ異ナリ」があり、「春の生ることは地形に逐(したが)ふ」との作者の注からは、凡俗の發想によるものと知らるるが、蕪村はそれを本歌となして、「遲速を愛す」と斷言せることにより、一段も二段も立體的なる作りとなし、世間の口さがなさに隱喩にて應へしならむ。
この句、數字を使ひたる點に特徴のあらはれの見らるると共に、「遲速」「愛す」などの漢語の多用が如何にも蕪村らしき用語法を示すものにて、殊に抽象語を適切に用ゐたるは、日本人には類の少なきことならむ。
三椀の雜煮かゆるや長者ぶり
なども趣きは異れど、十七文字に數字と漢語を納めたり。さらに、
ゆく春や逡巡として遲ざくら
における「逡巡」なる漢語、「遲」など、蕪村の鋭敏な時間感覺をよく示せるものといふべきなり。
鐘をはなるゝかねの聲
若きとき攝津の故郷を去りし蕪村は江戸に出で、二十二歳の頃、日本橋石町に居を定めたる早野巴人の内弟子となる。其角、嵐雪につながる巴人、すでによはひ六十を過ぎし清貧の俳人にて、蕪村を拾ひたすけ、蕪村もまた「枯乳の慈愛深かりける」巴人を父親のごとく慕ふ。往時石町には時鐘あり、近隣の人々、小錢を寄せて鐘衝きに時を告げしむ。舟の行き交ふ魚河岸も近ければ巴人、唐張繼の「夜半ノ鐘聲 客船ニ到ル」にあやかりてその住ひを「夜半亭」と名付く。「わが宿とおもへば涼し夕月夜」(巴人) 應ずるがごとき蕪村句に次あり。
涼しさや鐘をはなるゝかねの聲
初案に「短夜や」とあれば早朝の景となし得。音聲を波紋のごとく實體あるものと見なし、一種の抽象化をなしたるところに蕪村の特徴を示す佳句なり。さらに涼しさといふ肌に感ぜらるる觸角的認識と、音ならぬ聲てふ人間的聽覺認識との共通感覺がこの句を、再歸的語法と相俟ちて滑稽感を伴ひながらも深き認識の句となせり。
この石町にて薪炭の勞を共にせる五年は、その後の蕪村に懷舊の情の泉となりたるもののと推測さる。巴人の歸らぬ人となりしときの蕪村の嘆きは、「我泪古くはあれど泉かな」の追悼句にて知らる。江戸に流れつくまでにも多くの涙あり、その上更に泪の滾々と、の意ならむ。人生の諸相に接し、朝な夕なに時の鐘を耳にしながら、存在とは、時間とはと沈思せるもののごとし。蕪村にとりての「ふるさと」の地、「懷舊」の舊の時間なり。
鐘をよみし他の句あり。
釣鐘にとまりてねむるこてふ哉
大きく、重々しく、一たび撞かるれば大音響を發する釣鐘に、かよわく可憐なる胡蝶の一身を托し留りたる光景をよむとさる。對比の面白きをとらへた情景描寫の句とさる。されどかくの如き解釋の前提は佛寺の鐘との思ひこみにあらん。筆者はこの鐘を、都會の庶民の生活に組込まれし、佛教とは無關係、即物的なる時間のための鐘と見る。飛びつかれて時間まで一休みする蝶ともされやう。生きつかれたる蕪村の姿。あるいは、睡るとは現世の時間を忘るることなれば、時の鐘を意識しながら、無時間の世界に遊ぶ蕪村の姿を描きしならむか。胡蝶の夢を時鐘に包まれて見るおのれの姿とならばいかにも多義的な蕪村の句と映らう。
遲き日のつもりて
日暮日暮春やむかしのおもひ哉
この句、伊勢物語の「月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身ひとつはもとの身にして」、またそを本歌とせる俊成女の「面影のかすめる月ぞ宿りける春や昔の袖の涙に」より誘發せられし句なれど、和歌のいづれも「戀」の部に置かれたるに對し、この「思ひ」、春の夕暮に昔てふ遠き時間を思ふとも解せられむ。
近代科學は假説を樹て、實驗、實證をなして成果を擧ぐるもの、殊に數學は出發點の發想、藝術作品創作にも劣らぬイメージの湧出が大切とかねがね聞き及びをれば、かつて中高にて數學を教ふる同僚に、積分につきては如何なるイメージを持たるゝやと尋ねしことあり。美しきその教師の應じて曰く、積分といはば、粉雪の霏々と降れる樣浮び出づと。さこその妙なるイメージなりと、それ以上積分に理解の及ばぬ身なれば長く忘れざりしに、さる時蕪村の句を口ずさみし折にその言葉思ひ出でらる。
遲き日のつもりて遠きむかしかな
春日遲々、長き日なる語と同類の「遲き日」からは、暮れさうなれど中々に暮れざる日暮の、今か今かと時間の小刻みに意識されて、細分化せる時の思ひとも言ふべきものこの句より傳はらん。かくの如き時間の、雪の細片の降り積むに似て積りつもりしものが「遠き昔」ともなるか、他の類句とともに、懷舊と稱する蕪村の時間感覺、ことにインテグラルにとらへし感覺に驚嘆するのみ。因みに、蕪村の同年代、和算においても定積分表の作られ、面積計算のなされたる由、さらに微分法も考へいだされしといふ、これも一つの時代精神のもたらせるものなるか。
かの教師、微分のイメージとしては鰹節を一途に削るがごとくなりと言へり。女性ならではの發想にして、とは言へ人をして微分の理解を容易ならしむと諾へり。蕪村に微細なるものを採り上げし句少なからず、中より一つを採らば次の句なるか。
蚊の聲す忍冬の花の散ルたびに
ほのかなる香を發する忍冬唐草の微細なる花の散る度に、小さき蚊の驚きて羽音を立つるとも、蚊の動くによりて花びらの小片の散るとも解し得ん。意想外なることに蚊は花の蜜を好むと言はる。誰か知らん、蕪村ならではの精細なる觀察ありてこの句生まる。即物ながら、微細なる世界の音聲と視覺と嗅覺とをよみこみて、微分的小世界を共通感覺の宏大なる宇宙となせる句といひうべし。
花影東に歩むかな
廣大無邊なるわれらが宇宙に「右・左」はありやなる問の發せられたることありしに、科學者より左右の對稱は存在すとの證明行はれたりと聞く。この世の中心がいづこにあるやは誰も知らぬことなれど、男女なる對は、同性具有はあれども中性は存在せざるに似たるか。二頭立ての馬車を驅使せる中國におきては對概念の語句を用ゐる駢儷の詩文多ければ、そに通曉せし蕪村にとりて、十七文字の一句に對となる語句をはめこむはたやすきことならむ。しかも佳句多し。いま、方角の東西にそれを見む。
淺河の西し東シす若葉哉
西吹ケ ば東にたまる落葉かな
菜の花や月は東に日は西に
次なる一句にも東西なる語の表はれて、句に迫力を與へたり。
花影上欄干、山影入門など、すべてもろこし人の奇作也。
されど只一物をうつしうごかすのみ。
我日のもとの俳諧の自在は、
渡月橋にて、
月光西にわたれば花影東に歩むかな
嵯峨渡月橋に月光の移りゆくを見、兩岸に夜櫻を眺めて、王安石の詩「月移ツテ花影欄干ニ上ル」を思ひ出でたるか。月と花なる對の座を型通りにふまへ、渡月橋も詠ひこむ。影のみを動かす漢詩に比し、光と影の西に東にうつろひゆく情景が、本人の認むるがごとく一段と生動感溢るる句に造形せられたり。對比の際立てるゆゑなり。
もろこしの漢詩に對し、日のもとの俳諧の自在を嘯くが、その俳諧自體におきてもさらに自在なることは、その音數律からも窺へむ。「げつくわう にしにわたれば くわえいひがしに あゆむかな」と、五七・七五と對稱をなす。「夜桃林を出てあかつき嵯峨の桜人」など初句は九音なり。芭蕉の頃にはなかりし形式にして、近代詩に通ずる自由詩、例へば「晉我追悼曲」などを幾つも作りし蕪村ならではの自在なり。
蕪村の意識は、もろこしと日本を絶えず兩極に置く。蕪村は、漢畫を倣ふことによりて文人畫家に成長せるものなれども、晩年の畫の款記に「日本東成謝寅」、あるは「日東東成謝寅」と記す。「から」に對する「日の本」、西に對する東が、遂に頭より去らざりしがごとし。
美人の腹や減却す
老杜之句一片花飛減却春
さくら狩美人の腹や減却す
前へ書より杜甫の詩を踏へし句なること了解さる。花の一片散れば春の殘り一段と減るの意にて、子規に、「一片花飛の句は杜甫が年老いて・・・杜甫が月竝に落ちた時代の作なので云々」とあり、「此句も前置きがあるので例の通り洒落になつてゐる。〃減却〃といふ字を洒落たのです。」 洒落たは落ちたる讀取りにて、杜甫の詩の蕪村の句と意味に相通ずるところなければ、蕪村はひたすら「減却」なる一語を活かさむとて發想したるものと知れる。
場は 山坂の多き吉野ならむか。櫻にまがふ美人の、櫻狩に歩き疲れ、腹減りて窶れたる面持ちなるを見る。却へりて美しさの増せる「花疲れ」の樣の如し。中村草田男が評に「輕い興味だけの句であつて深みはないが、蕪村の機知縱横・囘轉滑脱ぶりが際立つて・・・」とさるるが、蕪村の腦中の囘轉は果してそれのみにて了はりたるとは信じられず。
對句法 parallelism は、句と句の對應のみを越えて對偶法とも呼ばる。中國人の倍數を好む性向によるといひ、斯かる形式を守らむがために虚僞の表現に走り勝ちなるが缺點なりと言はる。筆者のおもへらく、蕪村のこの句、察するに天台僧快川の、信長攻撃を受けたる折の死に臨みて詠ぜし漢詩と對偶關係にありと。
〈安禪不必須山水〉、滅却心頭火亦涼(心頭ヲ滅却スレバ火モ亦涼シ)
(禪僧) 心頭 ・滅却 ・ 火
(美人) 腹 ・・減却 ・ 櫻竝木
洒落てゐるとせば、かかる他詩との對偶法にこそあらめ。
菜の花や月は東に日は西に
蕪村は己が生涯の前半を語ること皆無に近かけれど、生地の、大阪の近在毛馬村なることは晩年の手紙にて知らる。蕪村の幼少期、この淀川の氾濫に惱まされがちなる農地は、稻の裏作として菜の花が栽培されたること、文樂、歌舞伎の「新版歌祭文」が野崎村の段よりも推察せらる。野崎村は毛馬村の隣地ともいひうるところ、當時、照明用としての燈油の需要増大し、他方油搾り技術進みたることもありて、一帶「菜種菜の花咲き亂れ」たるなり。かくてこの句の光景は、蕪村の幼き頭に自づと燒付けられたるものなるやも知れぬ。近時、和蘭の鹽田風景のテレヴィに映りたる中に、廣き菜の花畑ありて意外の感を催す。まさに、「なのはなや昼ひとしきり海の音」の世界なり。揮發油代りの菜種油、佛蘭西より輸入さるとの報道あれば、今や菜の花の句の景は、我が國にて郷愁を誘ふもののみにあらずして、世界普遍のものなるを知る。
「蕪村」なる雅號の名付けの意味につき、一説は故地の天王寺村の産物「蕪・かぶら」に因むとす。このかぶらも油菜、つまり菜の花の一種なり。一方、大方は「荒蕪」「蕪雜」などの熟語より類推し、そが意、「荒る」「雜草が茂る」より、荒れたる故郷のイメイジから名付くとなす。されど爾雅には「蕪豐也」「蕪者繁蕪也」とあり、同じ「荒る」にせよ、何物も無くて荒れ果たるものとは異り、雜草の繁りすぎたる雜多、豐富を意味す。有り過ぎて外見の荒れたる如く見ゆる姿なり。漢文に造詣深き蕪村のことなれば、本意を識りて、表は荒るゝ樣を見せながら、内に豐かさを祕めたる世界をイメイジしたるもの、まさに眞(まこと)の詩人にあらずや。
菜の花畑と共に、日と月が詠みこまる。先賢により調べられたること種々あり。月が東、日が西と同時にあるは毎月の望の前後にて、大きさも同じに見ゆるといふ。さらに陶淵明が「白日西阿(西の山)に(しづ)み、素月東嶺に出づ。遙々たり萬里の輝き、蕩々たり空中の景」の詩より作れるものとする説あり、柿本人麻呂が「東の野にかぎろひの立つみえてかへりみすれば月かたぶきぬ」を踏まへたるもの、李白が詩「日は西に月は復東」より、さらには丹後の民謠「月は東に昴は西に、いとし殿御は眞中に」より發想せるものとも詮索せらる。この句につき内藤鳴雪は、「一面に菜の花が咲いて居る。折から月が東に見え、日は西に入りかかつて居るといふ、東西同時に月と日を見たといふ廣々とした景色ではあるが、云々」と寫生句と解して面白き句にはあらずとせるが、敍景のみにてはなきこと、かくの如くである。
月日は何を意味するものならむ。最澄はその願文におきて、牟尼の日、久しく隠れて、慈尊の月、未だ照らさずと、日を釋迦に月を彌勒に喩へたり。蕪村は如何。歌仙「もゝすもゝ」の序に書付けたるは次のごとし。
夫俳諧の闊達なるや、實に流行有て實に流行なし。たとはゞ一圓郭に添て、人を追ふて走るがごとし。先ンずるもの却て後れたるものを追ふに似たり。流行の先後何を以てわかつべけむや。
長距離走などにおきて圓形トラックを走るを見るに、どの選手の何周なるか、先か後かの分明ならざるときあり。俳諧の流行もそれに似るといふ、天周にても日が先か月が先かを喋喋するに、何の意味ありやと。 na no ha na ya と開放的な a 音の多用による明るさ、切れ字「や」の效用と共に、かほど平易なる語にて、かほどに大きなる世界を現前さする句は古今稀にてはあるまいか。
老が戀忘れんとすれば
芭蕉が故國伊賀を出、江戸にて世に交りたるは歳二十九、しかるに三十七歳にして深川に退隱し、「簡素茅舍の芭蕉にかくれて、みづから乞食(こつじき)の翁と呼ぶ」と懷紙に認む。かかる若さにして乞食の翁を自稱する心がうちは、乞食の境涯をよそはば、浮薄なる點者とは一線を畫せること弟子たちの目に立ち、恬淡とせる枯淡の老成者を自稱することにより、背伸びせる姿の匿さるゝことあらむと意圖せるものにして、屈折せる諧謔的心情と言ひ得べし。因みに、蕪村が句に、「とし守夜老はたうたく見られたり」とあり。 一般に江戸時代、隱居し家督を讓りたる後は「某老」と呼ばれたるもののごとくにて、某の年齡とはかかはりなきこと、律冷制にて老は六十一歳より六十五歳までと規定せられたるとは異るところなり。
蕪村には韜晦の心性なく、隱居せることなけれど、五十歳を過ぎたる頃より書翰などにて老の字を用ゐ始めたるもののごとし。明和五年の書翰には「拙老」と自稱し、「老心つかれ候」とも書く。發句などにも老の字、よく現はる。
さみだれのうつほ柱や老が耳(明和六年)
よき角力いでこぬ老のうらみかな(明和七年)
「うつほ柱」とは寢殿造にて用ゐらるる中空箱型の雨樋を指す由にて、耳遠くなりたる老人が五月雨る心に、うつろに響く耳音にまことに適ひたる句と言ひえやう。油繪なれど、仙人熊谷守一が描ける雨樋が聯想せらる。
人老いぬ人又我を老(らう)と呼ぶ(安永四年)
「此ほとり 一夜四歌仙」に見らるる付句にて、今のわれらも日常に體驗することならむか。久しぶりに逢ひたる知人を見て、心の中に、いや、あの人もなんと老けたるものかなと思ふに、相手も我を見て、某老と呼びかくるに驚き、やはりと氣を落す。
老が戀忘れんとすればしぐれかな(安永二年)
五十八歳の時の句なり。「世上皆景氣(風景)のみ案じ候故、引違候而いたし見申候」と紹介の書翰にありて、心情吐露の句とす。さては蕪村の體驗を詠めるかと思ふに、こは「巫山の雨」、楚の懷王の夢に神女と契りしを暗示すといふ。戀心を胸にしまはんとするに、夕の雨が夢の中のたのしび憶ひいださるの意なり。されど、蕪村にいささかの戀情なからむか。「しぐれ」は冬をしらする冷き驟雨。此の歳なり、忘れむ、忘れむと思ふ心に追打をかけるがごとき時雨に逢ふ。そが心情を句に表現するところに、後ろ髮引かるゝ思ひが殘る。
蕪村になじみたる藝妓あり、小糸といふこと、何通もの書翰に現はるるによりて知らる。かなり親しかりしならむ、天明二年の「花櫻帖」に「いとによる物ならにくし巾(いかのぼり) 大坂うめ」てふ、女性の如何にも直截的なる心情の句見らる。うめは大阪の藝妓ならむ。そが「いと」と蕪村の仲を妬きをる樣を句にせるなり。さほど目立ちたる仲なりしならむ。
安永九年、蕪村は弟子の道立へ手紙を書く。
青樓の御異見承知致し候。御尤の一書、御句にて小糸が情も今日限に候。よしなき 風流、老の面目をうしなひ申候。禁ずべし。去ながらもとめ得たる句、御披判可被下候。
妹がかきね三線草(さみせんぐさ)の花さきぬ
これ、泥に入て玉を拾ふたる心地に候。
眞面目なる弟子道立の、蕪村の茶屋遊びに忠告したるに對するものなり。されど、さらなる佳句を得て、蕪村の心は躍る。先の大阪うめ女の句からも、小糸とのつきあひは淡くとも切れはせざるもののごとし。蕪村には、道心より戀心、美の世界こそ確かなる世界と信じられたるにやあらむ。
寒梅を手折響や老が肘
畑打や耳うとき身の只一人  
うつつなきつまみごゝろ、負くまじき角力
蕪村が句の多義性、多層性は、ひとつには十七字にて言ひきらねばならぬ俳句の特性よりくるものとも言ひえむ。芭蕉の常々いましむるところは、「いひおほせてなにかある」、「くまぐま迄謂つくすものにあらず」にて、當然ながらに象徴的にも隱喩的にもおちゆかう。蕪村は多義語を意識して使ふこと多けれど、この項にとりあぐる二つの句が二樣三樣に解釋を許すは、蕪村の創作意識を越えたるものと言へやう。
うつゝなきつまみごゝろの胡蝶哉
『蕪村句集講義』(輪講)にて高濱虚子は言ふ、「胡蝶の羽をおさめてとまつて居るのをつまんだ時の心持で、其時の心持はうつゝでは無い即ち現在では無い夢のやうなぽーツとした心持であるといふのである。莊周の故事で胡蝶といふと多少夢を連想する、其連想もいくらかあるのであらう」 。この説に贊成せるは、河東碧梧桐、中村草田男などにて、すなはち「つまみごゝろ」を、人が蝶を抓んだ氣持と解する立場なり。「うつゝなき」も人の心持とす。
因みに、この句におきて、「うつゝなき」は連體形にて、「こゝろ」にも、「胡蝶」にも掛り得。また「つまみ」は、「つまむ・他動詞」の連用形の名詞になりたるものにて、「酒のつまみ」「摘み菜」にて知りえむ。名詞の機能ははたせど、他動詞の意識は殘りて目的語を求む。されば主語はいづれか、目的語は何か、誰が何を抓むものなるかによりて見解の分かるゝところとならむ。人がつまむか、蝶がつまむか、蝶をつまむか、留れるところをつまむか也。
この組合せうる數だけ句の解釋可能ならむ。そこより、虚子とは逆の理解生じたり。蝶が何かを抓みながらうとうととうつつなき夢心地にてある姿と見ゆるとする。「つまむ」の主語の、人より蝶へと變はる。さらに佐藤紅緑は、うつつなき胡蝶を見をる人が、さやうなる蝶を抓みたしと思ふ心地になる、とまた一段の解釋違ひを提示せり。果たして蕪村の作意はいづこにやあらむ。讀み手に依らむと投げかけしものと想像するよりなからむ。
過去のことなるか、明日のことなるかに惑はさるゝ句あり。
負くまじき角力を寢ものがたり哉
「寢物語」は、男女が床をともにしながら語り合ふこと、乃至その話を言ふ。 輪講には次のごとき興味のもたるる發言あり。
鳴雪氏曰。角力取も往々女房を持てゐるものがある。此句も或る負相撲が其夜宅へ歸つて夫婦の寢ものがたりに話すところ、今日の相撲は負ける相撲ではなかつたが殘念な事をしたとか何とか夫婦中よく殘念氣に話してゐるのであらう。稻川が女房おとわに向つて話してゐるやうな趣きがある。尤も稻川のは未來の勝負のであるが、これは負けた時の句と解した方がよい。他三人皆曰(碧梧桐、紅緑、虚子)。角力取夫婦の寢もの語りとは思ひもよらぬ御説で、又負まじきは未來とした方がよからうと思ふ。これは相撲を見物するものがあすの勝負を氣遣ひつゝ自分のひいきのあの相撲はあす負けてはならぬ負かしたくないと互に念じつゝ其由を寢もの語りにしてゐるのであらう。鳴雪氏曰。これは又意外な御説で、私は私の解釋以外に御説があらうとは豫想しなかつた。其を三人揃つて私の説が思ひもよらぬなどとは其こそ思ひもよらねわけである。
子規いふ。これは無論鳴雪翁の解釋より外に解釋のあるべき筈がない。併し翁の解釋中に相撲取夫婦とあるのは贊成しなし。誰れでもよいわけではあるが僕は男同志の寢もの語りにしたい。例へば誰かの相撲部屋で小相撲などが互に話し合ふてゐる場合と見てもよい。
「まじき」は、「べし」の否定「まじ」の連體形なり。 さすれば、文法書にはその意味を、打消の推量・意志・當然、不可能、禁止とあり。そこより「負くまじき」は、一、負けるはずなき、二、負けてはならぬ、三、負けなからむ、その他の意味とときうる。虚子らは二の、負けてはならぬ大事な一戰とせしが、芥川龍之介はこの句を、負くるわけのなき今日の晝間の負け相撲を寢物語とする、と解せり。鳴雪と同じ解釋なり。
そを金田一京助が「芥川氏の解は文法にとらはれない、直ちに日本語法の精髓に徹した、深い理解であると歎ぜざるを得ない」と文藝春秋誌上にて讚へたとは、太田行藏の證言なり。この金田一京助なる人物、言語學者を自任せるも、「文法家、言語學者などは銃後の護で、精々規則性をあとからあとから發見して記述して行く立場である。文法の拘束力などは、ただ語學の實習途上にあるものに對して持つだけ、・・・」などと己が天職をおとしむるがごとき發言を安易になす。言語は文法を内包せるものなり。いかなる文も文法をはみ出すわけに行かぬものなる自覺さらさらになし。そを芥川に媚を賣るがごとく、芥川氏の解は文法的ならずとも深く理解せるものと歎じてみせたり。自己撞着の最たるものと言ひうべし。戰後かかる人物により日本語の損壞せられしをこそ筆者は歎じるものなり。
この句、文法から解釋にては勝負のつけられぬもの、されど蕪村自身が決着を示す、俳畫の自畫贊によりてなり。「懷舊」とあり。同じ俳畫に四人の句も書かれ、内三人はすでに故人となれるものなり。そが多重に構成されたる意圖はともかく、この句が過去に破れたたたかひを指すものなることが知らる。大男のいぢいぢせる愚癡を妻のやさしく受けとめたる情景の想像せられ、一段と蕪村藝術の力量のほど、はかられたり。
一つの意味より持たぬ作品と比べ、幾つもの解せらるるは、作品を讀む樂しみならずや。  
天明の兄
人間の「ことば」の中に産み落さるゝと同樣、文藝作品におきても、先人の作なくば後人は己が文藝世界を築くことあたはず。されど、いかなる先達を選び取るかは後人の器によるものにて、先人の影響が如何なる展開をなすかは逆覩しがたきものあり。芭蕉は西行宗祇に倣ひ、蕪村は芭蕉を敬仰せるは、後世よりかへりみれば自然の流れと見らるるも、なにゆゑその先蹤に惹かれたるかの必然性皆無といふべし。ここに、逆の觀點より蕪村が如何なる影響を後世に與へたるかを、多くの説に配慮したる上にて語らん。
正岡子規、高濱虚子らの蕪村講義を始めしは明治二十六年のことにて、それが流行になりたるか、後に與謝野晶子、石川啄木、北原白秋などが、明らかに蕪村の影響を受けたる作品を作れり。いづれも俳句にてはなく、和歌や詩の形に換骨奪胎せしものなり。殊に晶子には、直接句を引用せるもののほか、「集とりては朱筆すぢひくいもうとが興ゆるしませ天明の兄」なる歌あり、妹なる自分が、天明の兄なる蕪村の句集に朱を入るゝを許せとうたふ。かなりの打込みやうなり。
夏目漱石なれば、正岡子規の友人なるが故に蕪村句を讀みたるに違ひはなく、みづからも俳句數多く作りたれば、影響を受けぬはずはなし、といはむよりは、蕪村の世界を身に體せる創作態度散見す。そを一歩進めたるは森本哲郎にして、「蕪村の世界をそのまま再現したるが『草枕』にてはなきか」と多くの具體例によりて論斷す。筆者の、漱石の作品中にて殊に草枕に惹かるゝはなにゆゑかと思ひきたれるに、この森本哲郎が犀利なる説得によりて腑に落ちたる經驗あり。そもそも草枕の主人公の畫家なること、小説中に「下つて蕪村の人物である、・・・惜しいことに雪舟、蕪村等の力(つと)めて描出した一瞬の氣韻は」と、蕪村が繪につきての引用あることより蕪村世界との親近感は知らるゝところ、さらに、滯在する那古井の温泉場における春宵の雰圍氣、主人公の書付くる俳句の數々、は明らかに蕪村の世界を連想さするものなり。
宿の夜低唱する聲のして遠ざかるに畫家眼をさまし障子をあける。背の高い女の姿消ゆ。また床に戻りて枕元の寫生帖に句を書付く、「正一位女に化けて朧月」。こは蕪村が「公達(きんだち)に狐化けたり宵の春」に相寄る光景ならずや。畫家の寤寐(ごび)の境に逍遥せるとき、入り口の唐紙があき、幻影の女が滑り込みて戸棚をあけて手を差入れたかと思ふもすぐに閉めて入口より出づ。かかる情景、明らかに蕪村が句「藥盜む女やは有おぼろ月」を踏まへしものならむ。他にも蕪村が世界を髣髴とさする描寫數々あれば、森本哲郎が、漱石、蕪村の世界を再現すとせる説、まことに説得力有りといふべし。
ここにカナダ人グレン・グールド登場す。三十歳頃までの六七年間、演奏會にてピアノを演じて名聲を博しをりたるグールドは、三十一歳以後聽衆の前には立たず、もはらレコードへの録音による演奏の世界に閉ぢこもりて、しかも名聲を維持せる天才音樂家なり。五十歳より先はピアノは彈かずと豫言せしその年に急逝せるも、その折に枕邊に置かれたる本は聖書と『草枕』なり。つまりグールドは、夏目漱石の著はし、英國人アラン・ターニィAlan Turneyの譯になり、書込みのせられたる小説『草枕』が譯本を死に至るまで枕頭に置きたるものなり。英語の題名は "The Three-Cornered World"、本文中の「四角な世界から常識と名のつく一角を摩滅して、三角のうちに住むのを藝術家と呼んでもよからう」よりとられたるものなり。音樂以外にラジオや映畫にも手を擴げたるグールド、放送にて草枕の第一章をおのれ自身にて朗讀もし、さらには草枕全體をラジオ番組にせむとも企圖したるほど草枕にうちこめり。終生獨身なりしグールドの、虚構の世界の中なる異國女性、那美さん及び那美さんにまつはる傳説的女性たちに惹かれたるならむか、はたまた蕪村が世界の再現とさるる漱石が藝術觀に同調せるゆゑなるか。
蕪村より漱石、果てはグールドに至る、けやけき三題話なり。 
柳ちり清水かれ石ところどころ
「草枕」が蕪村の世界をなぞるがごときところあるは、そこにあまた現はるる俳句にて知らるゝが、草枕本文には「 畫家としての蕪村」が名見えたり。「惜しいことに雪舟、蕪村等の力つとめて描出した一種の氣韻は、あまりに單純で且あまりに變化に乏しい」と登場人物の畫家、己のこれより描かんとする、内心の複雜なる繪に比べて言ふ。いづれも天橋立を繪にせることを漱石知るがゆゑにとりあげしものか。ここに蕪村、なんと畫聖と讚へらるる雪舟とならべられたる畫家としての榮譽を擔ふ。
蕪村、幼少より繪を描くことを好み、若くより畫家たらんとの志を持ちたりと察せらるるも、殊更なる師につきたる氣配なく、習作的なる繪はあれど、四十を過ぎてもさしたる画業なし。繪にて生業なりはひを樹てられしは五十歳近くになりてのことなり。
ここに一書あり、名づけて「芥子園畫傳(笠翁畫傳)」といふ。明末に鹿柴(王安節)、歴代名家の山水の畫式を集めたるを、清の康煕十八年に至りて李笠翁が畫譜として版行したる一種の繪畫教科書なり。畫論あり畫材説明あり、豐富なる插繪ありの行き屆ける書にて、意味むつかしき、などを始めとする專門用語ちりばめられをり。さはあれど、繪を學ばんとする者には必須の書と認めらるるに至りたれば、日本にもいち早く元祿末には將來せられたり。荻生徂徠が弟の繪の御用申付けられし折に將軍吉宗に笠翁畫傳を進呈して喜ばれたりと傳ふ。一方、將軍家御用繪師として盛りを極はめたる狩野派の權威主義は、笠翁畫傳などは「日本にて云ふ町繪也、中々ヨキ繪ニテハナシ」と齒牙にもかけぬ風情を示せり。
亨保期には、やはらかなる筆致を特色とせる大陸の南(宗)畫の影響を受けながらも、日本的變貌を垣間見する文人畫起る。日本にては、專門家にあらざる文人による繪、さらには水墨による山水畫をあらはせる畫を意味せる大陸の文人畫とは異り、池大雅をその筆頭とする樣式を呼ぶもののごとくで、山水も日本の自然を對象とせらるるやうになれり。
大雅はこの芥子園畫傳によりて繪を描く蘊奧を會得せりとされ、弟子に本書を講じもしたり。以後人文畫家は必ず本書を繙きて繪の修行をせり。大雅より八歳は上の蕪村もまたその例外にはあらで、かなり熱を入れて本書を熟讀玩味せること、蕪村が書翰などよりよく知らるるところなり。『春泥句集序』に蕪村は書く、「畫家ニ去俗論あり。曰、画去俗無他法。多讀書則書卷之氣上升、市俗之氣下降矣」 ここに蕪村が云ふ「去俗」はそのまま芥子園畫傳初集に見らるる論なり。師を持たざる蕪村にとりて、この畫傳こそが教科書たるとともに畫の師と思はる。
時鳥ほととぎす絵になけ東四郎次郎しろじろう
芭蕉は伊賀に生れて江戸に在住し大阪に死す。蕪村は大阪に生を受けたりとされ、江戸、常陸に滯在し、京に移り住みて死せり。二人とも何ゆゑの江戸行きなるや、誰もおしはかるのみ。
二十頃に蕪村は江戸にありて、宋阿と號する俳諧の宗匠夜半亭巴人の内弟子たり。宋阿が薪水の世話と座の執筆役をつとむ。おそらくはこの二人、京都にて識り合ひ、江戸俳壇の墮落を救はんことを望まれし高潔の士巴人が江戸に戻るに伴ひたり。日本橋は石町に住む。芭蕉もこのあたりに住みたることあれど、近邊に多き點取り俳諧師との交りを好まず深川に隱退せり。芭蕉がさびしをりを旨とせし宋阿は日本橋に居を据ゑたれど、五年ほどが内にこの世を去る。蕪村は江戸の俳壇とは肌合ひを異にするものなれば、日本橋に孤獨を噛みしむるに至りて、常陸の結城、下館の俳人達の世話を受く。更に淨土宗の寺にも止宿して、佛弟子ともなる。後あちこちと旅するに、この黒衣の法體は無一文に近い蕪村に何かと役に立つたること容易く想像せらる。芭蕉にあやかる奧の細道の旅には三年の歳月をかけたり。
畫俳二道とも言はるゝ蕪村は、なればいつの頃より繪を習ひ、描き始めたるものならむか。推測するのみなれど、下館の滯在の五年の間の句作はあまり知られぬ。寢食を忘れて畫道の修行に勵みたりとの滯在中村家の口傳へある由。中國明時代の畫家文徴明の描きたる「八勝圖」を懸命に寫したるもの、今に殘る。 後年蕪村は、弱冠のころより俳諧にふけりと囘想せるが、江戸俳諧の現状を知り、、眞摯な姿勢は貫けるものの常陸の狹き俳壇に寄食の身にては己を活かすこと適はずと悟りたるに違ひなし。言葉の藝は誰にても關はりうるが、繪にて立たむとせば、中國の文人とは相異り、本邦にては專門の職となさねばならぬ。しかも良き繪を多く見ねば腕をあげること能はず。當時の關東には江戸狩野派の因習的なる畫と固陋なる畫人ばかりにてはなからむか。句集の配付は刷り物により、中に版畫も含まるゝこともあれど、句が主にて畫業とは言へず。鈴木春信、喜多川歌麿らの浮世繪の流行するは蕪村の次の世代にて、しかも俳諧の世界とは縁遠し。
三十六歳にて、二度と戻ることのなかりし關東を離れ、京に登りたる蕪村は、桃山期の豪壯なる障壁畫などを見巡りては「おもしろく相暮し」、たとへば大徳寺を訪ひ、襖繪の「四季花鳥圖」を見て冒頭の句を詠む。東四郎次郎とは、狩野元信がことなり。中國より舶載せられし樣々なる樣式の繪畫をも目にしたことは確かにて、それらを肥し畫業を擴げて行たり。されば蕪村は、紳士録ともいふべき『平安人物志』には、畫家の部に分類せられたり。
烏來て鶯余所へ
芭蕉が句〈枯れ枝に烏のとまりたるや秋の暮〉につき萩原朔太郎は、「枯れ枝に止つた一羽の烏は、彼の心の影像であり・・・漂泊者の黒い凍りついたイメージなり」とし、寂びしをりの禪的境地を代表するものと見る。この際の烏は、誰もが一羽のみと見る。
朔太郎により望郷の詩人なる評價を定着せられたる蕪村も、平安の都に安住したりとは言へ、故郷を離れしままの漂泊者と言ひ得む。蕪村が烏を詠めるは二句ほどより知られぬ。その一つ〈烏來て鶯余所にいなしぬる〉には、烏の出現にて小鳥の追ひ散らさるゝ、烏の尊大さ示さるるのみ。枯れ枝に止れる孤影の姿とは月と鼈すつぽんなり。
畫家としての蕪村は、俳句の句題とせるものを畫題にすること少なし。逆手をとりて言はば烏の句の殆ど無きが故か、蕪村には幾つもの烏の繪あり。〈夏景山水圖〉〈晩秋飛鴉圖〉〈雪中飛鴉圖〉〈曙鴉圖〉、更には重要文化財にもなれる〈鳶・鴉圖〉あり。この繪の鴉は芭蕉枯木句と對蹠的に、二羽の烏が、雪の積れる大樹の幹に身を寄せ合ひてつかまり、靜かに降りくる雪の中、何かに耐ふる姿なり。夫婦なるか、そこには芭蕉の凍りつきたるイメージとは程遠き暖かささへ感じ得。
朔太郎は續けて芭蕉の句〈何にこの師走の町へ行く鴉〉を取擧ぐ。これは群れたる鴉の動きならむ。「年暮れて冬寒く、群鴉何の行く所ぞ! 魂の家郷を持たない芭蕉。永遠の漂泊者である芭蕉が、雪近い冬の空を、鳴き叫んで飛び交ひながら、町を指して羽ばたき行く鴉を見て、心に思つたことは、一つの絶叫に似た悲哀であつたらう」と評せる上に、更にニーチェまで援用す。「芭蕉と同じく、魂の家郷を持たなかつた永遠の漂泊者、悲しい獨逸の詩人ニイチェは歌つてゐる。
鴉等は鳴き叫び
翼を切りて町へ飛び行く。
やがては雪も降り来らむ ─
今尚、家郷あるものは幸ひなる哉」
芭蕉句を散文にて説明せるがごとき詩なり。世紀末の哲學者ニーチェに斯かる詩のあるを萩原朔太郎に始めて教はりたるも、群鴉の飛ぶイメージに東西同じく故郷喪失者ハイマートロス の影を重ぬるを奇しとす。更に類推せば、ニーチェと同じ世代に畫家ヴァン・ゴッホあり。その死の直前に描けるは、黒き鳥の群れ飛ぶ麥畑の光景なり。時は夏七月の寫生畫なれど、日本にて麥秋と呼ばるゝ如き色彩の黄と赤土色が畫面の半ば以上を占む。ここには前作の〈星月夜〉にあらはれたる、宇宙感覺よりする渦卷く空が描かれ、西歐にては不吉とせらるることの多き鴉の群がその空へ、異界とも見らるゝ心の故郷へ戻らんとするかの樣なり。ゴッホはこの鴉の繪につき母へ手紙を書く、「これを描いている僕の気持の静けさは、どうやら余りに大き過ぎます」 現世に理性にて對處する一方、狂へりとされし他方の意識は分裂せる鴉となりて、宇宙大の靜けきゴッホの世界、魂の故郷へ歸りゆかんとす。
蕪村に〈棕櫚叭叭鳥ははてう圖〉あり。叭叭鳥とは大陸よりもたらされたる鴉の類にして、慈照寺、すなはち銀閣寺の方丈の襖繪に描かれしものなり。部屋の東北西三方の廣き空間に棕櫚の疎に立てる中を、八羽の叭叭鳥が列なりて飛ぶ。描かれたる棕櫚も叭叭鳥も渡來のものにして、その異國的雰圍氣は、ゴッホとは對蹠的なる世界を作る。餘白の多き白の世界にて、禪的なる靜謐さに滿さる。處はまさしく東山文化の中心、銀閣寺なれば、蕪村がその唐物尊重の風を寫さむと意圖せるは明らかなり。己の東山文化に對する共感にもよるものならむ。
〈夏景山水圖〉にも鴉の群たる姿を見る。されど此の繪、オーバーハングせる巨岩に抱かれたる巣へ、自然の故郷へ戻らむとするかに見ゆ。同じ群鴉を描くに、ゴッホと蕪村の家郷は大いに異ると言ふべし。
 
ラフカディオ・ハーン「東の国から」

ラフカディオ・ハーン(日本名・小泉八雲)の身長は160センチ弱。1900(明治33)年の17歳の日本人男子の平均身長は157.9センチ。ギリシャ生まれの西洋人、ハーンは意外と小柄なのだ。
小泉八雲熊本旧居(熊本市安政町)を訪れると、そのことに得心がゆく。下級武士の屋敷だったこの家は、当時の「日本人仕様」。かもいまでの高さが170センチほどしかなく、身長175センチの記者は頭をぶつけてしまう。
しかしひざを折り曲げて160センチになると、目と同じ高さにいろんなものが映る。柱の美しい木目、障子を通し差し込む柔らかい光、庭のチョウが飛ぶ軌跡−。この家は「ハーン仕様」なのだ。
「ハーンは特に夕日が好きで、西側の部屋を書斎にしていました」。旧居の中島衛館長(60)に導かれた部屋には、執筆に用いた机といすが置かれていた。身長の割に双方とも高さがあるが、「左目の視力を失ったハーンが、顔の近くで読んだり書いたりするために特注したものだそうです」と中島館長。
机から顔を上げると、夕日の差す方が見える。かつて家の近くは墓地が広がっていた。ハーンは墓地を愛したという。
熊本で執筆された日本での第二作、「東の国から」の冒頭に「夏の日の夢」が収められている。長崎旅行の帰途、熊本・三角の宿屋「浦島屋」に立ち寄ったことから、ハーンは浦島太郎を思い起こす。
「その宿屋の屋号が、人をまぼろしの世界へ誘いつれてゆく、或る歌ものがたりに出てくる名前と、そっくりおなじだったからである」
現実の女将に竜宮城の乙姫を重ねたかと思うと、浦島の物語を始めたり、赤ん坊の泣き声を考察したりと、人力車に揺られながら夢と現実の世界を行き来する紀行文だ。
墓地は、あの世とこの世をつなぐ場でもある。現世の人は墓前で祖先を思い、死者の世界との境界をあいまいにする。そんな空間を160センチの視点でながめ、発想したのでは、と思わせる一編だ。西向きの部屋は西方浄土と向き合っている。
ハーンはこの家から、第五高等中学校(現熊本大)の教壇に立つため人力車で通った。車に乗ると、160センチの視点が二メートル近くまで持ち上がる。
車上では「ただ、けしきを眺めるか、それとも、うつらうつら物でも考えるよりほかに、することがない」(『東の国から』「博多で」)のだから、きっと熊本の風景の中に、思索の材料を求めていたのだろう。
ところでハーンは、「熊本が好きではなかった」という説がある。説を裏打ちするのは例えば、「東の国から」に収められた「九州の学生たちと」。
「(第五高等中学では)わたしが出雲の中学で見かけたような、打ち解けた師弟関係はまったくみられない」「(九州の)重要都市である熊本は、保守的精神の中心地になっている観がある」。ハーンは悲しんでいる。「日本のうちでもっとも醜悪な、もっとも不愉快な都会です」と書き送った手紙も残っている。
日本で初めて安住し、教え子たちと深く交わった松江と比べては、確かに熊本は不利だ。西南戦争(1877年)で町の大半が焼け、新しい建物は西洋風のものばかり。八雲が求めた古き良き日本は、松江ほどは残っていなかったのだろう。
しかし「東の国から」の諸作品を通読すると、ハーンの熊本への愛着がそこここに読み取れる。それを強く感じるのは「石仏」だ。
熊本大学の裏手、小峯墓地の小高い丘に上った。案内板をたどりながら、ハーンが心ひかれた石仏を探した。それは暑い日差しの中、「蓮華の花のうえに座して」いた。
160センチの視点で、ハーンは石仏と正対したのだろうか。隣に座り、柔和な顔を見上げたのか。
ハーンは石仏の前を流れすぎた時間を思う。「加藤清正の時代にも今と同じように座っていらしたのだろう」「長い年月の風霜に(中略)形をゆがめられてできた表情である」。そして東洋と西洋を比較し、自然と科学を論じ、過去と永遠について語る。ハーンの世界観が自由ほん放に広がり、展開してゆく過程は読んでいて楽しい。思索が小峯墓地の石仏のかたわらで生まれたのは、なかなかどうして、熊本の土地はハーンを強く刺激している証左だと思えるのだが。
熊本が、ハーンの「日本永住」を決定づけた。熊本近代文学館の馬場純二参事(44)は、そんな考察を披歴してくれた。幼いころから父母の愛に恵まれず、欧米を放浪したハーンの半生。長男一雄が誕生し、「水入らず」の家庭を築いた熊本。「ハーンは長男の誕生をとても喜んだ。熊本で、かけがえない家族を再認識したはずです。その思いが、日本を終(つい)のすみかとする決心につながったのでは」。馬場さんが例に引いたのが、前出の「夏の日の夢」。浦島の物語に触れる中、ハーンは玉手箱を開けた浦島ではなく、浦島の帰りを待つ乙姫の姿を想像し強く同情を寄せている。「子どものころ、1人預けられた親せきの家で、母の迎えを待つ自分の姿を重ねたのではないでしょうか」
別の文章で、ハーンは三角の海辺に立ち、はるか遠いギリシャを思ったと、記している。いくら背伸びしても、波の向こうに何かが見えるわけじゃない。それでも160センチの視点を高く高く持ち上げようとするハーンの姿が浮かんで、悲しい気持ちになる。夕日を好み、書斎の机を西に向けたハーン。その目は墓地や西方浄土を通り越して、生まれ故郷を真っすぐに見つめていたのだろう。
近年、「怪談」の作者としてのみ語らがちなハーン。しかし「東の国から」に代表される紀行文や文化論には、日本の現状、例えば「本当に美しい国」とは何かを考えるヒントが満ちている。熊本で生まれたハーンの思索は、古びていない。
ラフカディオ・ハーン
1850年6月27日、ギリシャに生まれる。父はイギリス軍医、母はギリシャ人。早くに父母と別離、16歳のとき左目を失明するなど不遇なときを送る。19歳で渡米し、新聞記者を経験。90年に来日。松江中で教べんを執り、小泉セツと結婚。翌年、熊本の第五高等中学校(現熊本大)に赴任する。主に熊本時代に執筆した「知られぬ日本の面影」(94年)、「東の国から」(95年)を後に出版。96年に小泉八雲と改名し、帰化。東京帝国大講師として上京した。「霊の日本」「骨董」「怪談」など日本研究書や小説を精力的に発表したが、1904年、心臓発作で亡くなる。54歳だった。
 
蜀山人(南畝)狂歌

例言 一、本集は蜀山家集四冊に金鶏の『あみざこ』一冊を附録して一巻とした。一、蜀山家集は家蔵写本を底本とした。これにはかなり誤脱もあるが、他に対校すべき善本を得なかつたので、已むを得ず不明の箇所は疑問標を付してそのまゝにして置いた。一、本書の校訂は金子実英氏を煩はし且同氏執筆の狂歌小史と蜀山人評伝とを巻首に加へて、狂歌の性質、変遷、作者の人物風格を知るの便に供した。昭和二年明治節の朝 藤井乙男識  
大田南畝
おおたなんぽ、寛延2年-文政6年(1749-1823)は、天明期を代表する文人・狂歌師。漢詩文、洒落本、狂詩、狂歌などをよくし、膨大な量の随筆を残した。勘定所幕吏として支配勘定にまで上り詰めたが、一方、余技で狂歌集や洒落本などを著した。唐衣橘洲(からころもきっしゅう)・朱楽菅江(あけらかんこう)と共に狂歌三大家と言われる。南畝を中心にした狂歌師グループを、山手連(四方側)と称した。名は覃(ふかし)。通称、直次郎、七左衛門。別号、蜀山人、玉川漁翁、石楠齋、杏花園。狂名、四方赤良。また狂詩には寝惚先生と称した。  
蜀山家集解説
蜀山家集四巻は蜀山人晩年の戯歌文を集めた家蔵の写本である。其の序文にもある通り、「朝な夕なのたはことを」出るにまかせて書きつけたのである。或は思ひ出るまゝに書き添へて行つたのである。だから玉石混淆である。未整理の草稿である。「千紅万紫」や、「万紫千紅」や、「千とせの門」などに収載されて居るものもあるし、居ないものもある。居ないものの中にも相当に面白いのがある。此の書の刊行が思ひ立たれた所以である。
「六々集」は文化十一年正月から翌十二年の夏までの草稿に、仮に名づけたものであり、「七々集」は十二年の夏から翌十三年春までの請作に冠した名である。此の「七々集」から抜かれて「万紫千紅」(文化十五年刊)に加へられたものがかなり多い。
次に「あやめ草」である。之は文化六年の暮から翌七年の秋と思はれる頃までのものが前半を領し、後半はずつと飛んで文政四五年の頃のものによつて占められて居る。
前半からは「千紅万紫」(文化十四年刊)に、後半からは「千とせの門」(弘化四年)に、多くの歌が採られて居る。
次に「をみなへし」である。之も初の方は天明頃のもので、中程から文化五六年のもが出て来、終の方には文政五年のものが現はれる始末である。初の方からは「千とせの門」へ、中程からは「千紅万紫」へ出て居るものが相当にある。最後に「放歌集」であるが、之は文化八年春頃から翌九年秋までのもので、主として「千紅万紫」と、「千とせの門」に収録されて居るのが多い。
さて、「七々集」及び、「放歌集」は別として、「あやめ草」と「をみなへし」の混乱はどうした事であらうか。
想ふに、前二者は蜀山人自ら草稿をまとめ、題名をつけて散佚を防いだのであらうが、後二者は散乱混雑した遺稿を秩序もなく取り集め、後人が勝手に二部に分ち、一を「あやめ草」他を「をみなへし」と名づけたのでもあらう。其の辺の事ははつきり解らない。単に推測に止まるのである。
原本は随分蕪雑で、誤写がかなり多く、往々意味の通じない所や脱落がある。其等はその儘にして置いた。置かざるを得ないのである。何となれば原本は今の所只一部しか無いので、異本校合による補正が不可能だからである。それから文法上の誤がいくらもあるが、之もそのまゝ訂正しないで置いた。
「あみざこ」の作者奇々羅金鶏は、上毛国七日市侯に仕へて居た医師である。本姓は赤松、奇々羅は其の戯号である。明和の頃江戸に生れ、若くして俳諧狂歌を嗜んだ。俳諧は也有翁に私淑し、狂歌は蜀山人を宗としたらしい。「網雑魚」は弱冠に近い頃の狂詠を集めたものである。鹿津部真顔と頭光の序を得て居る。天明三年の出版と思はれる。跋に耕雲堂主人蔦唐丸が上州第一の名物と称し、光の序に、今は上毛国七日市といふ所に在してとあるを見れば、その頃既に医を以て仕官して居たのであらう。若年ながら門人も相当にあつたらしい。狂歌そのものは概して平凡である。之といふ秀詠も無い様だ。天明七年に蜀山人の選した「才蔵集」に、其の片鱗を見得る。真顔や光程に多く採られて居ないのも頷かれる。三十六歳の時に致仕して、江戸の墨田川の畔に居をトし、花月を友として、悠々風狂を事とした。文化六年に死んで居る。「金鶏医談」「網ざこ」その他狂歌の著書がかなりある。戯作もしたと言ふが、今は見当たらない。  
狂歌小史
狂歌史を書くには、先づ狂歌の定義から始めねばならない。而も狂歌を定義する事は、即ち狂の字の字義を鮮明する事である。
さて狂の字には二つの意味がある。一つは狂気とか狂乱とかの狂で、之は説明の限ではない。他は狂狷とか狂簡とかの狂である。此の狂は高遠なる理想を抱きながら、それを実現する意力をもたない人々の心境を意味する。彼等は真の狂人ではない。只現実を逃避して以て自ら高しとする彼等の現行が狂気染みて見えるのである。常規を逸した奇抜な振舞にみえるのである。常規を逸した奇抜な振舞は見様によつては、滑稽でもあり、洒落でもあり、又皮肉でもある。
狂歌の狂の字の意味は当に之である。狂歌に対して和歌が存在する。和歌は真面目なものである。其処には遊びがない。自然の歌にしろ、恋愛の歌にしろ、悼亡の歌にしろ、作家の胸奥の琴線はピンと張り詰められている。精一杯に秋を鳴く鈴虫の様に、歌人は満腔の熱と力を以て、喜怒哀楽の情を歌ひ出す。けれども狂歌師はさうではない。彼等が自然とか人生とかに対する態度は確に弛緩して居る。善く言へば余裕があるのだが、悪く言へば不真面目である。冷やかで、上つ調子で人を感動させる力はない。その代りに滑稽や諧謔を以て、人を笑はせる事が出来る。軽快な気分を味はせる事が出来る。或は皮肉や風刺を以て、間接的にではあるが、人の世の欠陥を匡正する事が出来る。
斯う言つて来れば、ほゞ狂歌が何であるかと言ふ事が解るであらう。つまり和歌の生命とする所がまことであるならば、狂歌のそれは可笑味であり、たはむれである。和歌のねらふ所が優美で、高尚で風雅であるならば、狂歌のそれは滑稽で、凡下で、卑俗である。一方が貴族的尚古的であるならば、他方は平民的進取的である。
以上の事を一つの定義にまとめて見ると次の様になる。即ち、「狂歌とは用語及び取材に絶対的自由を与へられたる卑俗なる短歌であり、滑稽を旨とするものである。」要するに可笑味を有つ短歌なのである。泪の種ではなくて、笑の種を秘めて居る三十一字詩である。さて狂歌をさう言ふ風に定義すると、其の淵源は随分古い。古事記にもそんな歌があるかも知れない。 万葉集には沢山ある。巻の十六に見える戯咲歌は凡て狂歌と言ふべきである。なかなか面白いのがある。大伴宿祢家持が、吉田連石麿と言ふ痩人を笑ふ歌などは、最もいゝ例である。
石麿に吾もの申す夏痩によしといふものぞ鰻とりめせ
痩す痩すも生けらばあらむはたやはた鰻をとると川に流るな
此の外鼻の赤い池田朝臣と痩ぎすの大神朝臣が互に戯れ合ふ歌とか、或は色の白い土師宿祢と色の黒い巨勢朝臣がやぢり合ふ歌など、いくらでも挙げる事が出来る。素朴な 万葉集人の諧謔は、此の如く無邪気である。
竹の園生を礼讃し、人生への愛着を歌ふ人麿にしろ、自然の美を自然の美として写す赤人の歌にしろ、人間苦を人間らしい態度で歌ふ憶良の歌にしろ、その他無数の恋愛の歌や悼亡の歌や伝説の歌にしろ、集中の歌は総て皆真面目である。さう言ふ中に此の様な笑の歌、遊戯的な歌が混つて居るといふ事は、誠に面白い現象である。何故かと言ふ疑問は哲学の問題に属するから、此処では触れないで置く。
万葉集が選せられてから、百数十年後、即ち平安朝の中頃に、延喜の帝の詔を戴いて、紀貫之等が古今集を選進した。古今集には俳譜歌として、さう言ふ遊戯的な歌が集められて居る。此の俳諧歌はとりもなほさず後に言ふ所の狂歌である。現に俊成の「和歌肝要」にも「俳諧といふは狂歌なり」と見えて居る。併し俳諧歌は狂歌の一体であつて、其の凡てではない。俊成も「狂歌と言ふは俳諧なり」
と言つたのではないのだから、後世俳諧歌のみを以て真正の狂歌であると主張した一派の人々は、明かに論理の誤謬を犯して居るのである。況や狂歌の源流を古今集に求むるの非は論外である。其は 万葉集十六の巻なる戯咲歌或は無心所著歌に求むべきである。可笑味を有つ短歌と言ふ定義を以て万葉集以前に遡るならば、遠く記紀の歌にもそれに該当するもの、即ち狂歌が見出されるかも知れないのである。
さて古今の俳諧歌は狂歌の一体ではあるが、流石に勅撰集に採録されて居るだけあつて、概して上品である。余り狂し過ぎたものや、俗過ぎたものは無いと言つていゝ。
山吹の花色衣主やたれ問へど答へず口なしにして 素性法師
梅の花見にこそ来つれ鶯のひとくひとくと厭ひしも折る 読人しらす
逢ふ事の今ははつかになりぬれば夜深からではつきなかりけり 平中興
人恋ふることを重荷と荷ひてもあふごなきこそ侘しかりけれ 読人しらず
此の様にこゝろもしらべも共に優美である。優美な中に軽い洒落がある。それが俳諧歌の特質である。万葉集の戯咲歌は大抵内容そのものに可笑味があり、其の可笑味が短歌の形式によつて表現されて居る。之に較べると古今の俳諧歌は、別段可笑しくもない事をば、可笑味のある言葉で以て詠まれて居るのが多い。歌の修辞が段々進んで来た結果と見るべきであらう。狂歌としては戯咲歌の方が一等勝れて居る。何となれば戯咲歌の可笑味は言葉が描写する可笑味であるが、俳諧歌のそれは言葉が創造する可笑味であるからである。可笑味の性質としては言葉が創造する可笑味は、第二次的のものであるからである。江戸時代の狂歌も大体は古今集のそれの様に、言葉の可笑味であつて、内容の可笑味ではない。だからまことにくだらない。
と言つて古今集時代には俗意俗調を以て、ありの儘の滑稽を尽した狂歌らしい狂歌が無かつたと言ふのではない。
竹馬はふしがちにしていと弱しいま夕かげに乗りて参らむ
「袋草子」に出て居る壬生忠見の歌である。内裏から召された時に乗物が無いと答へると、重ねて、では竹馬にでも乗つて来いとあつた際に詠んだものである。或は、
昔より阿弥陀ぼとけのちかひにてにゆるものをばすくふとぞ聞く
藤原輔相字藤六がある下司の家へ入つて、家人の留守中に鍋の粥を抄ひ上げて食べようとする時、折悪しく見つけられ、三十一字の詭弁を弄したのである。「宇治拾遺物語」に見えて居る。探せばいくらもあらう。是等は所謂俳諧歌とは多少趣を異にする。狂歌らしい狂歌である。
つまり優雅な滑稽、言葉の上の可笑味を旨とする俳諧歌と、卑俗な滑稽、内容の上の可笑味をねらふ狂体の短歌が共に存在したのである。さう言ふ短歌を狂歌と呼んだのは鎌倉時代以後であらう。しかとした名称が与へられなかつた程、俳諧歌に圧倒されて居たのである。けれども圧倒はされても、之が後世の狂歌の正系である事に疑はない。正系ではあるが此の種のものは至つて少い。何故かと言ふと平安朝の中期から鎌倉時代へかけて、狂歌は全く人を嘲罵し世を誹謗する落首に用ひられたからである。落首とは短歌体の落書であり、落書とは「玉かつま」にもある如く、「言はまほしき事の、あらはに言ひ難きを、誰がしわざとも知らるまじく、書て落し置く」ものである。正面から正々堂々と他人の非行を攻撃したり、為政者の失態を論難したりする勇気をもたない者が、其の不平不満を洩す一つの方法である。だから本来は非常に真面目なもので、大いなる社会的意義を有するものであるが、我国にあつてはそんな深い意味を有するのものは、殆ど無いと言つていゝ。人道の為に人の罪悪を諷誡するとか、正義の為に要路の人々の専横を憤るとか言ふ事は絶対に無いのである。只人を誹つて自ら快を遣るとか、或は他人の気付かない社会の欠陥を指摘して、自ら足れりとするのが普通の様である。全くわるふざけに過ぎないものである。故に大宝令にも既に落書を罪する規定がある程度である。
江戸時代はそれに対する取締がなか/\厳重であつた。兎に角落書はさう言ふ性質のもので、歌に限らず詩でも文章でも可いのであるが、狂体の短歌は短くて伝誦し易い所から、盛に応用されたらしい。それを落首といふのである。素朴な 万葉集人はお互の身体的欠陥に就いて、無邪気に欺謔し合つたのであつた。此の体から観れば、狂体の短歌が落首に向つて進展するであらう事は、既に万葉集の戯咲歌に、暗示されて居るではないか。
落書の詩は「本朝文粋」巻十二に見えるのが最古のものであり、落首は「平治物語」巻下に、比較的古いのが見出されるとは、「松屋筆記」のいふ所である。
左馬頭義朝が平治の乱に破れて、長田ノ四郎忠致に殺されて、獄門に上げられた時である。「いかなる者かしたりけん、左馬頭もとは下野守たりしかば、一首の歌を書きつけたり。下野は紀の守にこそ成にけれよしとも見えぬあげ司かな
或る者此の落書を見て申しけるは、昔将門が首を獄門に懸けられたるを、藤六左近と云ふ数寄の者が見て、
将門は米かみよりぞ切られけるたはら藤太がはかりごとにて
と詠みたりければ、しいと笑ひけるなり。」と見えて居る。
藤六左近とは前出の藤原輔相で、大体古今集時代の人であるから、此の後の歌が落首としては古いものらしい。同じく「平治物語」に、長田四郎忠致は相伝の主義朝と、正しき婿鎌田正家の首を持参して恩賞を要求した所が、壱岐守に任ぜられた、それが不平であるとて、せめて美濃尾張を賜りたいと上訴して斥けられ、国元へ逃げ帰つた時の狂歌として、落ちければ命ばかりは壱岐の守みのをはりこそ聞かまほしけれ
とあり、更に彼が頼朝に殺される時の落首として、
嫌へども命の程は壱岐守みのをはりをば今ぞ賜はる
とあるのである。皆落首の上乗である。
「平家物語」の富士川合戦の条に、「さる程に落書ども多かりけり。都の大将軍を宗盛といひ、討手の大将をば権ノ亮(維盛)と言ふ間、平家をひらやになして、平屋なるむねもりいかに騒ぐらむ柱と頼むすけを落して」
とあるのも好い例である。
此の外「源平盛衰記」とか、或はもつと後の「太平記」「応仁記」などにもかなり多い。が孰れも他人の失敗を嘲笑したものであつて、時世に対する調刺は少い。江戸時代になると厳しい禁令を犯して、辛辣なる落首が往々現はれた。為政者の無能を冷罵した痛快なのがある。がそれとても真に社会意識に眼覚めた者が、社会組織の欠陥とか支配階級の横暴とかを、匡正すると言ふ様な意図をもつて作られたものではない事は、前述の通である。「寛天見聞記」や「武江年表」や、其の他江戸時代の随筆類をあされば、ざらに見付かる。要するに俳諧歌と同様に、落首も亦狂歌の一体である。狂歌と言ふのは其等の凡てを包括する広義の名称である。かう言へば近世宿屋飯盛が言ふ所の、狂歌は落首より出でたりと言ふ説の虚妄なる事は、自ら明らかであらう。
前にも述べた如く、狂体の短歌に狂歌と言ふ名称を付したのは、多分鎌倉時代初期の事であらう。古くは「本朝文粋」巻一に、源順が此の字を使つて居るが、之は自作の詩を謙遜してさう言つたのである。
「明月記」建久二年閏十二月の条に、「相次参一条殿。依昨日仰也。入夜被読上百首。事畢有当座狂歌等。深更相共帰家。」とあり、更に建保三年八月廿一日の条には、「日入以後参内。参御前。俄而召人々。各参入。始連歌。一両句間、雅経朝臣参入。按察可参之由女房申之。忽抑連歌。被待彼参入之間。有狂歌合。」とも見えて居る。
之によつて察すると、其の頃は和歌或は連歌の余興として、狂歌が詠まれたらしい。而して歌人或は連歌師は孰れも余技として狂歌を嗜んだらしい。ところが「井蛙抄」によると同じ頃御歌所に、柿の本衆と栗の本衆とがあつて、柿の本を一名有心と言ひ、普通の和歌を専にし、栗の本は無心と呼んで主として狂歌を詠んだとある。水無瀬殿の庭の大きな松の木を距てゝ、有心座と無心座とが対立して居た。或る日松吹く風の音を聞いて有心側の慈鎮和尚が
心あると心なきとが中にまたいかに聞けとか庭の松風
と詠み遣はすと、無心側も黙つては居ない、早速
心なしと人のたまへど耳しあれば聞きさぶらふぞ軒の松風
と返歌した。「耳しあればが生さかしきぞ」と言つて、後鳥羽院が御笑になつたと言ふ話である。之によると和歌に対する狂歌の位置は、かなり高い様に見える。けれども大体から言へば、狂歌はやはり和歌や連歌に対しては、従属的地位に在つたのである。序だから連歌の事を一言して置かう。連歌起源は 万葉集以前にあるのであるが、専ら盛に成つたのは、鎌倉時代から室町時代へかけてゞある。大体支那の聯句の影響を受けたもので、簡単に言へば一首の歌を二人がゝりで詠むのである。
源三位頼政が、夜な夜な近衛院を悩まし奉つた鵺を射止めた時に、院は御感の余り獅子王と言ふ御剣を賜つた。宇治左大臣頼長卿がそれを捧げて、南殿の御階を下りつゝ、折ふし一声二声啼いて過ぎた時鳥を聞きつけて、
時鳥名をも雲居に揚ぐるかな
と頼政の功を賞讃した。すると頼政は直に跪いて、傾く月を見遣りながら、
弓張月のいるにまかせて
謙遜した。それで益々叡感を深うしたといふ話が、「平家物語」に出て居る。之が即ち連歌である。崇徳院の御代に、俊頼が選進した「金葉集」から、其の代表的なものを一首引用する。
田に喰むこまはくろにぞありける 永源法師
苗代の水にはかげと見えつれど 永成法師
一首の和歌を二人して詠むといふ事が、既に遊戯的であり、それが大抵言葉の創造する可笑味に重心を置いて詠まれて居る以上、初期の連歌は全く俳諧歌或は狂歌と同一である。只作者が二人と一人の相違である。二人して詠むと言ふ点から、連歌と言ふ名称が与へられて区別されて居るのだから、それはそれでいゝ。
ところが鎌倉時代以後、斯ういふ連歌が複合されて、五十韻百韻の長篇が現はれた。いくら長篇になつても、之を歴史的発生的に見るならば、それはどこまでも可笑味を狙ふもので無ければならない。
然るに当時の歌人は、大体に真面目な普通の和歌を貴んだので、自然彼等の連歌は、俳諧の連歌或は狂歌の連歌ではなくて、和歌の連歌となつて了つた。上品ではある。が死んで了つた。自由で軽快で活々とした所が無くなつた。面倒な規則が出来たり、用語を彼此いふ様になつた。それでは面白く無いと言ふので、俳諧の連歌狂歌の連歌を鼓吹して、優美とか幽玄とかを生命とする普通の和歌や連歌に対して、滑稽諧謔の方面に於て、大気焔を揚げたのが、かの山崎宗鑑であつた。「犬筑波集」の中から一二の例を拾へば、
霞の衣すそは濡れけり
佐保姫の春立ちながら尿をして
舅のための若菜なりけり
沢水につかりて洗ふ嫁が脛
の類である。此の俳諧の連歌が貞門から談林を経て、益々滑稽に走り、理屈に堕して空疎なものと成つたのを承けて、之に生命を吹き込み、之に芸術的内容を与へたのが、元禄の芭蕉であつた。さて此の狂連歌は、こゝろと言ひ、すがたと云ひ、後世の狂歌と殆ど違はない。だから後世の狂歌は俳諧の連歌から遊離したものと考へてもいゝ。俳諧師であつた松永貞徳は一面狂歌師でもあつた。彼の門人も皆その通りである。併し、鎌倉時代にも狂歌と銘を打つて、和歌連歌に対立して居た狂体の短歌があつた事を忘れてはならない。只当時の狂歌は微力で、歌人や連歌師によつて、折々即興的に手をつけられたに止まる。彼等はみな座興的に狂歌を弄んだ。それは「明月記」の記す所によつても明かである。題しらず、
七瀬川やせたる馬に水かへばくせになるとてとほせとぞ言ふ 西行法師
発心の日より行住座臥西向きてのみありけり。或時東へ下るとて道につかれ馬に乗るに、うしろざまにのりながら詠める、
浄土にも剛の者とや沙汰すらん西にむかひてうしろ見せねば 蓮生法師
題しらず
からかさのさしたる咎はなけれども人にはられて雨にうたるゝ 北条時頼
暁月を近江国蒲生氏なる人いたはりて、寺地に田地など添置かれけるに、とかく我儘のみ度重りければ、所を立退き給へとこずきける時に詠める、
費長鶴張博浮木達磨芦暁月坊はこずきにぞのる暁月
「古今夷曲集」「後撰夷曲集」に多少採録されて居る。
室町時代に入つては、「七十一番職人歌合」「十二類歌合」「調度歌合」「狂歌合」などが出て、追々盛になつた。一方荒木田守武や山崎宗鑑によつて連歌の革新が企てられ、連歌は滑稽諧謔を旨とする様になり、それがやがて短歌の形式に於て分裂して、在来の狂歌と合流するに至るのである。
が此の頃とても未だ専門の狂歌師は居なかつた。けれども好んで多くの狂歌を詠んだ人に一休がある。一休は禅の妙諦を把握した一種の超人であつたので、凡ゆる言行が自然滑稽洒脱の趣を帯びて居た。「仏法とは如何」とやられるとすぐ、
仏法は鍋のさかやき石の鬚絵にかく竹のともずれの声
とやり返す。では「世法は如何」と二の矢を番へると、
世の中は食うてはこして寝て起きてさてその後は死ぬるばかりよ
と喝破する。是等は言葉の可笑味をねらふ様な皮相なものとは違ふ。其の洒脱なる人格と徹底したる悟道の自然の表れである。
豊臣氏時代には曾呂利新左衛門が居る。黒胡麻をふつた餡餅を茶菓子に出して狂歌を所望された時に、
黒ごまのかけて出でたる餅なれば食ふ人毎にあらうまと言ふ
と詠んで太閤を笑はせたと云ふ様な咄を集めたものに、「曾呂利狂歌咄」がある。之は偽託であるが、兎に角彼は狂歌に堪能であつたらしい。
織豊二氏時代から徳川時代初期へかけて、天下の詞宗を何(ママ)て任じた者に、松永貞徳がある。貞徳は玄旨法印細川幽斎に就いて、和歌連歌の奥旨を究めたが、宗鑑の俳諧連歌に共鳴し、「犬筑波集」を継いで、「淀川」及び「油糟」を出して其の正調を示し、更に「御傘」の一書によつて其の法式を明かにした。彼に「貞徳狂歌集」がある。歿後二十九年目、天和二年七月に刊行された。
さる人閨の戸さしこめて寝たりしに、隣にけはしく砧打ければ、響に驚き眼を覚しぬ。殊の外恨みて擣衣と言ふ題にて歌よみてけり。
肝心の寝入時分にまた衣うつけ者とや人に言はれん
森の紅葉
外からもほのかには見る松杉の枝の間々もりの紅葉ば
更衣
春過ぎて夏は来たれど帷子の着替もなくてあたまかくやま
右は比較的面白さうなのを抜き出したのである。それにしても言葉の遊戯が主であつて、内容的な可笑味は殆ど見当らない。俳諧に就いて彼の門に入つた半井卜養、石田未得、池田正式、梶山保友等は一面に於て狂歌師であつた。俳諧連歌から狂歌を分離せしめたのは全く彼等である。未得には「吾吟我集」があり、ト養には「卜養狂歌集」がある。ふる年に春立ちける日、人の子をまうけたるに詠み侍る、
年の内の春にむまるゝみどり子をひとつとや言はん二つとや言はん
首夏
春過て夏の日影にわたぬきの衣ほす今日汗のかき初め(吾吟我集)
ある人馬場に桜をうゑて花の頃歌よめといふて所望ありければ、
白妙に綿帽子着る花のかほ年もふる木のばゝざくらかな
花の頃興を催し花を見にまかりけるが、花も未だ開かざるその木の下にて酒飲みなどして、
花盛り下戸も上戸ものみたべて開かぬ先にさけさけといふ(卜養狂歌集)
ト養と未得は後江戸に住したのであるが、其の頃上方では永雄、信海、行風の三人が狂歌師として有名であつた。永雄は細川幽斎の姉の子で、建仁寺の長老であつた所から、雄長老と称した。
死ぬるとてでこせぬ事をしだいたはそもたれ人の所行無常ぞ
餌さしめがちやくとさすべき棹河の無用心にも鳴く千鳥かな
と言つた調子である。元和中「新撰狂歌集」を編み、「雄長老百首」なる自家集がある。信海は男山八幡の社僧で、豊蔵坊と号した。或は玉雲翁ともいふ。能書家で狂歌の方に於ても名高い。油煙斎貞柳の師である。家集を鴆杖集と書ふ。
上巳
我むねは今日はな焼きそ若草の餅もこもれり酒もこもれり
端午
美しきあやめの前の小袖より真菰かぶつた粽目につく
行風は生白堂と号し、浪華の高津あたりに棲んで居た。寛文五年に「古今夷曲集」を編して、後西院天皇の叡覧に供へた。次いで「後撰夷曲集」をも選集した。それは寛文十二年の春であつた。
寛文延宝から元禄享保の頃へかけて、上方の狂歌壇を牛耳つたのは油煙斎である。油煙斎は大阪御堂前の菓子屋で、父貞固は貞門の俳諧師安原貞室に就いて学んだ。その縁によつて、彼も俳諧を嗜み貞柳と号した。後八幡山の信海を師として狂歌に入つたのである。油煙斎といふ戯号の起原は、
月ならで雲の上まですみのぼるこれは如何なるゆえんなるらん
の詠であると云ふ。奈良の古梅園主松井和泉掾が、重さ二十余斤の大墨を調製して雲居に献上したのを賞めたのである。此の様に彼もやはり最初は、言葉の創造する可笑味を旨として、無内容の駄洒落を喜んだ。けれども彼の狂歌に対する観念は、決して之に止まらなかつた。彼は狂歌よりは寧ろ狂歌を詠むといふ心境を尚んだ。何ものにも拘泥しない、何ものにも執着しない、洒々落々たる自由人の心持を養ふ事が第一義だと考へた。「之は如何なるゆえんなるらん」などは、全くのこじつけで、狂歌の真髄に触れたものではない。真の狂歌は縁語や掛詞や地口や擬作をはなれて、軽妙洒脱な作家の心境が、自然に流露したものでなければならん。
ほうぐわん日とて心よしつねよりもべんけい勝れ静なときはじや
などは只言葉の意味の二重性を悪用したむだ口に過ぎないもので、少しも余韻余情と言ふものがない。技巧を衒ふ所が卑しい。もつと上品でなければならん。「狂歌は紙子に錦の裏を付ける」のだ。それに一般の人々は「布子にあかね木綿裏」である。
散ればこそいとゞ桜はめでたけれけれどもけれどもさうぢやけれども
住吉の木の間の月の片割はありけるものを此処に反橋
西行に杖と笠とは似たれども心は雪と墨染めの袖
終にゆく道とは兼ねて業平の業平のとて今日も暮しつ
かういふ風に一首を安らかに詠んで、其の安らかな中に作者の風流がしみ出て居るのでなければならん。無理があつては面白くない。さう言つて彼は門弟を訓へた。だから柳門の流を汲む者は、皆平易流暢を心掛けて、力めて拮屈晦渋の詠を避けた。
世の中は何の糸瓜と思へどもぶらりとしては暮されもせず 木端
出替の折は八十八夜にて今日を名残のしもの女子衆 華産
つくづくと花のながめにあくびしつ隣もあられ煎る音のして 貞柳
早乙女が気もせきやうの影法師東どなりの田を植ゑてゐる 奨圃
山吹の枝に手をかけ鳴く蛙花がほしくば大皷でも持ちや 貞佐
貞柳の歿後は大阪の栗柯亭木端と、岡山の芥川貞佐が其の遺風をうけ継いだ。門葉は全関西に拡つてなか/\盛であつた。けれども彼の所謂余韻余情の狂歌、或は箔の小袖に縄の帯の狂歌を理解する者は殆ど無かつた。そして一般の詠風は漸次平板に流れ、凡下卑俗なものと成り下つて行つた。木端への書簡に於て、彼は次の様に言つて居る。「之でなければ狂歌ならずと存候得共、我に等しき方御座なく候」と。それと同じ心持を、芭蕉は「此の道やゆく人なしに秋の暮」と吟じた。先覚者の淋しさである。開拓者の嘆きである。その嘆きの中に彼は死んで行つた。時に享保十九年である。生前会心の詠を、舎弟貞峨が門人知友に配つた。それに辞世がある。
知る知らぬ人を狂歌で笑はせしその返報に泣いてたまはれ
家集を「家土産」及び「読家土産」といふ。因に舎弟の貞峨は、豊竹座の浄瑠璃作者紀海音である。
江戸では寛文延宝の頃以来、前述の半井卜養、石田未得、斎藤徳元などが各々俳諧と共に狂歌を弄び、相当に繁昌した様であるが、元禄享保の間は一時中絶した。油煙斎の狂歌は全関西を風靡しただけで、其の勢力は関東へまでは及ばなかつた。
宝暦明和の頃に至つて、江戸に平賀源内、木室卯雲などが居つて、たま/\狂詠を事とする様ではあつたが、專らそれに身を委ねたのではなかつた。同じ頃尾張に横井也有が居た。也有は俳人ではあつたが、また狂歌も嗜んだ。「鶉衣」に「俳諧うた并弁」の一文がある。それによれば彼は古今集の俳諧体と俳歌うたとを区別し、更に俳諧うたと狂歌は同一ではないと主張して居る。古今集の俳諧体は歌人の俳諧うたで、俳人の歌ではないと言ふのだ。而して「狂歌は全体の趣向を求めず、其の物其の事に縋りて、他の物の名をかり秀句をとりなし、言葉をもぢりて全く言句にをかしみを求む」るものであり、俳諧うたは「趣向一つを立てゝ、其の事をすらすらと言ひ流して、言葉の縁字義の理窟は曾てとらざるもの」であると説く。例へば、
たつた今乞食叱りし門口へ直にむくいて掛乞が来る
などは正しく俳諧うたであり、
あてなしに遣ひ遣ひて節季には銭は無いとて留守遣ひけり
と詠めば、純然たる狂歌である示す。要するに彼の所謂俳諧うたとは内容に滑稽を有するものを指し、狂歌とは言葉にのみ可笑味を持つものを指すのである。私はどちらも狂歌と呼んで差支ないと思ふが、也有はさう別けて考へたのである。
その後安永天明の頃に至つて、江戸に俄然狂歌が勃興した。
只日本の政治的中心地たるに止つた江戸が、永い伝統を有する京阪を凌いで、真に日本の文化的中心地となつたのである。其の頃になつて漸く江戸は、其の文学に於て、美術に於いて、演劇に於いて、音楽に於て、京阪の模倣を離れて、独自な境地を開く様になつた。遊里や芝居や寄席や料理屋や見世物や、其の他都市としての亭楽機関が悉皆備つた。鉄砲は袋棚に納り、鎗は錦の袋をかぶつて長押に煤る御代である。火事か地震か喧嘩より他に、事件らしい事件が無いのである。
春は花見の飛鳥山、夏は涼みの両国橋といふ風に、市民は悠々と四季の行楽を娯しんだ。武士も町人も表向は四角い階級とかで、儼然と区別されては居るが、内証では全く対等である。或は其の位置を顛倒する事すらあつた。花街や戯場へ行くと、「わちきや二本指はとんと好きいせんのさ」と言ふ具合で、武士は一向もてなかつた。
平和な時代は何と言つても金である。幾ら柳生真影流の達人でも、金が無ければ駄目であつた。其の金を握つて居たのは町人である。町人は贅沢で自由で豪勢なものであつた。宵の中から惣花を打つて月と花との吉原を独占したり、役者に定紋付の衣裳を着せて、舞台から御礼を言はせたりする。十八大通が出る。黄表紙や洒落本や錦絵が生れる。小唄、都々逸、俳諧、狂歌、川柳、謎々、狂詩、狂文などが流行る。浮世は三分五厘で、間男が七両二分の世の中である。宵越の金は使はないのが江戸つ子で、意気だ伊達だ茶番だ狂言だと騒ぐのを得意とする。凡てが軽跳で浮薄で華奢で柔弱で皮肉で滑稽である。みんな笑つて、面白可笑しく世を渡らうとするのが、当事の風潮であつた。
さういふ空気の中へ唐衣橘州が出て来た。四方赤良が生れて来た。此の二人が江戸の狂歌壇を開拓したのである。彼等は共に内山椿軒に就いて、和歌を学んだ。椿軒は軽俊の才子で折々狂詠を洩した。
その影響を受けて橘州、赤良の徒も戯歌を口にする様になつたらしい。赤良の随筆「奴凧」によれば江戸で初めて狂歌会を開いたのは唐衣橘州である。橘州の書いた「弄花集序」は宝暦明和頃の江戸狂歌の濫觴から筆を起して、天明寛政の黄金時代に説き及ぼした小天明狂歌史とも言ふべきもの故、左に之を引用する。
「余額髪の頃より和歌を賀邸(椿軒)先生に学び、暁月が高古なる、幽斎(主旨法師)が温雅なる、未得が俊逸、玉翁(信海)が清爽の姿をしたひ、事につけつゝ口網を荷ひ出だし侍りし。或時臨期変的恋といふ事を、
今更に雲の下紐ひき締めて月のさはりの空言ぞ憂き
とよみて、先生に見せ侍りしに、此歌流俗のものにあらず、深く狂歌の趣を得たりと、ほとほと賞し給へりしは、三十年あまりの昔なりけり。其頃は友とする人、僅に二三人にて、月に花に余が許に集ひて、莫逆の媒とし侍りしに、四方赤良は余が詩友にてありしが来りて、凡そ狂歌は時の興に詠むなるを、事がましく集ひをなして、詠む痴れ者こそ烏許なれ。我もいざ痴れ者の仲間入せんと、大根太木てふ者を伴ひ来り、太木また木網、知恵ノ内子を誘ひ来れば、平秩東作、浜部黒人など、類を以て集まるに、朱楽菅江亦入り来れり。是れ亦賀邸先生の門にして、和歌は予の兄なり。和歌の力をもて狂詠自ら秀でたり。彼の人々よりより予が許、或は木網が庵に集ひて、狂詠やうやう多からむとす。赤良固より高名の俊傑にして、其徒を東に開き、菅江は北に興り、木網は南に聳ち、予も亦ゆくりなく西に拠りて、共に狂歌の旗上せしより、真顔、飯盛、金埓、光が輩次いで起り、之を狂歌の四天王と称せしも、飯盛は事ありて詠をとゞめ、光は早く黄泉の客となり、金埓は其の業によりて詠を専とせず、真顔ひとり四方歌垣と名乗りて、今東都に跋扈し、威霊盛なり。又一個の豪傑ならずや。之に次ぎて名だゝる者、淺草に市人、玉池に三陀羅を始として、尾陽、上毛、駿、相、奥、羽、総、房、常、越より、其外の国々のすき人、日を追ひ月を越して盛なり。斯く世に拡るは、実に赤良、菅江が勲にして、予は唯陳渉が旗上のみ。──」僅々二三十年で此の如き隆昌を見たのである。「岷江は始め觴を浮ぶるばかりなるも、楚に入て底なし」と、橘州が述懐して居るのも尤である。之は時代の風潮と狂歌の趣味とが完全に一致したからであらう。機智に富み、滑稽を喜び、皮肉を愛し、洒落を好んだ江戸市民が、其の戯謔癖を満足させるものとして、蓋し狂歌は上乗の手段であつたらう。「万才狂歌集」「古今馬鹿集」「徳和歌後万載集」「狂歌才蔵集」「万代狂歌集」を始として、各作家の家集が夥しく出版された。橘州の「酔竹集」、赤良の「千紫万紅」「万紅千紫」「巴人集」菅江の「朱楽館家集」、飯盛の「六樹園家集」金埓の「槍洲楼家集」、真顔の「蘆荻集」、手柄岡持の「我おもしろ」その他、赤良の「蜀山百首」「めでた百首」「狂歌百人一首」、金埓の「仙台百首」、蔦唐丸の「百鬼夜狂」、飯盛の判した「飲食狂歌合」などがある。中には未出版のものもあるが、大抵は上梓されたものである。以て当代の盛況を偲び得ると思ふ。さて此の時代の狂歌は京阪に於ける貞柳一派のそれとは、全く系統を異にするものである。貞柳は俳諧連歌の方から狂歌に入り、縁語掛詞を排して、余韻余情の歌を理想とした。つまり京阪の狂歌は連綿たる伝統を有するに対して、江戸のそれは全く独自的のものである。只滑稽諧謔を愛する癖から、和歌めいた駄洒落をもてはやす様になつたまでゞある。それが古来の狂歌と全く同性質のものであつたので、それを狂歌と呼ぶまでのものである。従つて之は縁語、掛詞、地口、語呂合の類を自由自在に駆使して、奇想天外より来る体の詠を尚ぶのである。内容の可笑味よりは言葉の可笑味を求めるのである。時代が時代だし、機智や皮肉に屈託の無かつた江戸人の事故、実に垢抜のしたすらりとしたものが出来た。さういふ軽い明るい、此の時代特有の調子を持つ狂歌を特に天明調といふ。
あらうなぎ何処の山のいもとせを割かれて後に身を焦すとは
お端女の立たが尻をもみぢ葉のうすくこく屁に曝す赤恥(四方赤良)
行春をしばし止めて眠らせよはたごやもなき海棠の花
楊貴妃の湯上りならし白牡丹うまく太りて露を含むは(唐衣橘州)
今日はまた引く手あまたの姫小松誰とねの日の春ののべ紙(朱楽菅江)
幾らでもあるから此位にして置く。古歌をもぢつたリ、故事成語を詠み込んだり、俚諺を用ひたりしたものも多い。だが孰れも言葉の創造する可笑味以上に出て居ない。けれども赤良や菅江や橘州などの大家になると、言葉の創造する可笑味が、洗練された窮極の形に於て、言葉の描写する可笑味、形式としての可笑味ではなく、内容的な可笑味にまで達して居るのがある。
時烏鳴きつる方に呆れたる後徳大寺の有明の顔(四方赤良)
邪魔致す男や槌で追ひぬらん妹が砧のま延び間詰り(朱楽菅江)
みどり子の裾吹き捲る涼しさや波もあら井の関の秋風(唐衣橘州)
一夜寝し妹がかたみと思ふにはうつり虱もつぶされもせず(宿屋飯盛)
多少の文学的価値は持つて居よう。が何と言つても言葉の手品である。言葉の遊戯に過ぎない詠が多いのである。江戸の様な呑気な時代、遊民やお洒落の多い都会に於てゞないと、決して栄えるものではない。一時殆ど全国的に流行したが、それも暫くであつた。天保以後、世の中が益々多事に成つて行くにつれ、狂歌は段々と衰微した。川柳の方は形が短いし、ダラダラして居ないから、今日でもかなり盛であるが、狂歌は駄目である。而してそれでいゝのである。其の滅亡の日も近からう。だが強ひて惜むに足らないと思ふ。さう言ふ理由の下に、文化文政以後の狂歌壇に就いての記述は、之を省略する。只専門の狂歌師が出来、大人と称し、判者と唱へて点料を貧り、益々狂歌の価値を下落せしめただけのものである事を附記する。  
蜀山人評伝
蜀山人太田南畝は、今は去る百七十六年前、寛延二年三月三日に、江戸牛込中御徒士町の組屋敷で呱々の声をあげた。其の家は代々幕府の御徒士で、七十俵と五人扶持を頂戴して居た。
七十俵とは、所謂御蔵米であるから、三斗五升入として、二十四石五斗となり、五人扶持とは、一人一日の食量を五合宛として、其の五人前と言ふ意味であるから、月に七斗五升、年に積れば九石となる。即ち両方合して、三十三石五斗の玄米が、其の歳入の総てである。三十三石五斗の玄米は、今日の米価、石四十円宛として、千三百四十円となり、月に割れば平均百二十円余となる。即ち南畝の家庭経済を、今日の其に翻訳すると、大体月収百二十円の官吏と言ふ事になる。月収百二十円の官吏の生活は、余裕どころか、随分苦しいものである。其から推しても南畝の家庭が決して経済的に恵まれたもので無かつた事を知る可きである。
況して元禄享保以後、一般の生活程度が向上するにつれて、物価はミ騰する一方で、米価が之に伴はなかつたから、所謂蔵米取は勿論の事、全武人階級の窮状はまことに憐む可きものがあつた。けれども保守的な幕府の事である。七十俵五人扶持は、いつまでも七十俵五人扶持である。其どころか折々は御勝手元不如意の名の下に、七十俵五人扶持が、七十俵五人扶持でなくなる事もあつた位である。と言つて、前垂掛で算盤を弾く訳にも行かず、跣足で肥桶を担ぐ訳にも行かない。お金は儲け度いが、お腰のものが邪魔になる。始末はし度いが、貧乏でも侍である。相当の体面は保たねばならないと来る。進退維れ谷つて、さて世の中を見ると何うだ。
経済上の勝利者としての町人の生活は何うだ。憎い奴とて斬り殺され、甘い奴とて貸り倒され乍ら、あの豪奢な暮し向は何うだ。遊里や芝居に於けるあの面憎い振舞は何うだ。之と言ふのもみんな金のお蔭だ。二本棒は駄目だ。此の世は金だ。
武士は食はねど高楊子と言つたのは、昔の夢だ。千軍万馬の真つ只中を、命を的に駈け巡つて、天晴れ武勲を輝かしたのは、其は祖父さんのその祖父さんであつた。今や弓は袋棚の上に煤け、お太刀は鞘形の小袖に纏はれ、鎧兜は笑道具となり果てゝ了つたのである。何時迄も武芸専念でもあるまい。先づお金の取れる算段をせねばならない。お侍衆は然う考へた。武士道も何もあつたものではない。一人息子を廃嫡して、町人の分限者の伜を養子にした旗本があるかと思ふと、上役に贈賄して出世をしやうとする御家人もあつた。要するに生活難と物質慾が、武士の魂をすつかり台無しにして了つたのである。
斯う言ふ風潮は明和安永天明の頃、即ち田沼時代に至つて、其の極頂に達した。
小やかな南畝の家庭は、此の様な時潮の中に、危くも支へられて居た。
彼の父は、至つて正直な、温厚な人であつた。三十余年の間、眇たる一御徒士として、御奉公に出精し、薄給の故を以て、不平を懐いたり、後めたい行を敢てしたりするやうな事は、微塵も無かつた。
能く足る事を知り、分に安んじて、頬笑みつ人生の行路を辿つた平和な幸福な性格の持主であつた。
母は気前の確乎した人で、足らず勝ちな収入を以て、能く家を治め、子女を養育して、甚だしい破綻は見せなかつたと言はれる。
が其でも、負債は相当にあつたと見えて、「蜀山文稿」中の興山士訓には、「嘗テ父ノ緒業ヲ承ケ、家宿債多シ。俸銭業ニ已に子銭家ノ有ト為レリ。」と記されて居る。
当時旗本御家人等の主たる金融機関であつた蔵前の札差から、俸禄を担保にして応分の借銭をして居たのでもあらう。が之は決して浪費の為ではなくて、自然の成り行きである。経済状態の変遷に順応して、俸禄を増加する事をしないで、物価が安くて、生活程度の低かつた幕府草創時代の制度を、其の儘に固守した当局者の罪である。いや当局者も旗本や御家人の窮迫を知らなかつたのではない。が肝心の幕府が、経済的に疲弊し切つて了つたので、策の施し様が無かつたのである。無い袖は振れなかつたのである。
さう考へると、之は日に日に進転流動して止まない経済状態に対して、固定不変の封建制度が、当然陥る可き必然の運命であつたと、言はねばならない。
其は兎も角、結局南畝の家は貧困であつた。
環境は人を造ると言はれる。物質生活が精神生活を左右すると言はれる。
其の人の人生観や処世観は、其の人の経済的生活によつても、かなり多くの制約を受けるものである。其の点から言へば、人生に対する南畝の現実的な功利的な態度、社会に対する実際的な唯物的な態度、及び其の性格に於ける生真面目な勤勉な努力的な半面などは、明らかに此の恵まれざる経済的環境の影響であると見る可きである。
彼の母の墓碑銘に、「覃(南畝の幼名)幼ニシテ塾師ニ就学スルヤ、先妣以テ之ヲ相スル有ル也。」とある句によれば、女ながらに、多少の見識があつて、貧しい中からも、嫡子の教育に深く意を用ひ、自ら師匠を撰定したものと推せられる。
南畝が初めて師事したのは、牛込加賀屋敷に住んで居た幕儒、内山賀邸であつた。賀邸は椿軒と号し本来は漢学者であつたが、国学の素養も相当にあり、和歌狂詩の孰れにも長じて居た。
峻厳犯す可らずと言ふ様な純学者肌の人ではなくて、冗談も言へば洒落も出る、至極気の軽い磊落な人であつた。
別に野心も有たず、大望をも抱かなかつたので権門勢家に阿諛する事もなく、恬淡寡慾悠々として、自ら好む所に従つた人であるが、此の人の風格が其の門人に及した影響感化はまことに大なるものがあつた。
「石楠堂随筆」を見ると賀邸の和歌凡そ二千首は、其の子明時の手によつて、十巻にまとめられたと記されて居る。其の狂詠は天明二年に、唐衣橘洲が撰した「若葉集」に収録されて居る。以て其の滑稽諧謔の才を見る可きである。
南畝と共に、天明の狂歌壇に雄飛した平秩東作・唐衣橘洲・朱楽菅江等は皆和歌に就いて、賀邸の門に遊んだ人々である。
橘洲は「弄花集」の序に、「余額髪の頃より、和歌を賀邸先生に学び、二十歳許りより戯歌の癖あり。
臨機変約恋と云ふ事を、
今更に雲の下帯ひき締めて月の障の空言ぞ憂き
と詠みて、先生に見せ侍りしに、此の歌流俗のものにあらず、深く狂歌の体を得たりと、ほとほと賞し給へりしは、三十年余の昔なりけり。」と述懐して居る。
「弄花集」は寛政九年に上梓されて居るから、三十余年前と言へば、ほゞ明和改元の頃となる。
又「蜀山集」には、
「癸の未の年は宝暦の十有五にて学に志す
六十一年前の癸未は、わが十五の歳なればなり。」とある。
即ち南畝は十五歳にして賀邸の門に入つたのであつて、明和改元の年は正に十六歳の少年であつた。少年ではあつたが、天禀の戯謔の才は、既に其の鋭鋒を顯はして、橘洲が江戸で初めて狂歌の会を催した時には、真つ先に其の同人となり、須臾にして一方の雄と推されたのである。
其は兎も角、賀邸門は実に天明狂歌の揺籃とも言ふ可く、幾多の駿足を輩出せしめて、斯界空前絶後の盛運を将来する上に、大いなる役割を演ずるものと言ふ可きである。当時に於ける各作家の眼覚ましい活動は、各人の天賦と時代の性質、殊に日本文化の中心地と成り了せた江戸が有した特異な都会情調に基づくのは勿論であるが、誘導触発その宜しきを得た賀邸の功績も、亦見逃されてはならないものである。
次に南畝が師事したのは、太宰春台門の逸材松崎観海であつた。
観海は丹波亀山の城主松平信直の家老で、熱烈な斯文の学徒である。志は詩賦文章よりも、寧ろ経世済民に在つたので、熊沢蕃山あたりの所論には深く共鳴して居た。経世済民の方法論としては六術がある。六術は彼が二十歳前後に書いたものであるが、今日から見ても余程の卓見と言ふ可き点が多々ある。春秋戦国の君子は、出でゝは即ち将、入つては即ち相、文即武であつて、孰れにも偏する事が無かつた。其の様に文武二道を打つて一丸とした立場に立つて、六術によつて経世済民の実を挙げると言ふのが彼の理想であつたのである。然う言ふ人であつたから、狂詠を弄んで門生と共に戯謔する椿軒先生とは夜と昼との相違で、此方はいつも怖い顔をして弟子を叱り飛ばした。
けれどもきつい言葉の裏には真心が溢れ、振り上げる鞭の先にはいつも慈悲が籠つて居たので、弟子達は衷心から彼に敬服して居た。
南畝が後年狂歌狂文を事として遊戯三昧の日を送り、而もしんから軟弱軽浮の風に化せられないで、何処かに世俗と相容れない高潔真贄の一面を所有して居たのは、明らかに此の森厳なる観海の性格と、熱烈なる其の思想の影響であらねばならない。
「蜀山文稿」中の与野子賤及び送熊阪子彦序の二文を見れば、南畝が如何に其の学に私淑し、其の徳に敬服し、其の教に期待して居たかを知る事が出来る。
然るに此の観海は、南畝が教を乞うてから幾何もなくして易簀した。其は安永四年乙未の冬であつたが、同じき秋から疥癬を病んで、薬餌に親しんで居た南畝は、突然其の訃に接して、哀悼の念に耐へず、落胆の余り食を廃する程であつた。
「蜀山女稿」中の与樋季成に次の様な一節がある。
「之ニ加フルニ、天憗ニ一老ヲ遺サズ、観海先生ハ季冬を以テ逝キ給ヒヌ。山頽レ梁崩レ、吾誰ニカ適従セン。覃沈痼ノ余リ此ノ大喪ニ遭ヘリ。頓ヲ廃スル事数日。甚シ覃ノ窮スルヤ。」
以て観海が如何に多く南畝の心を領して居たかを知る可きである。されば若し観海が、今数年其の齢を延べたであらうならば、南畝の一生は決して私が以下述べるが如きものとはならなかつたであらう。
「杏園詩集」に故師を哭する七律が二首あるが、其の後の一篇は、盛厳なる観海の子弟に対する態度と、敬虔なる心を抱いて彼に師事した南畝の悌を、髣髴せしめて余あるものである。
劉龍門こと宮瀬維翰は、南畝に詩を授けた人である。もと紀伊侯の医官であつたが、後龍門山に隠棲して蛍雪の功を積むこと数年、徂徠の学風を慕うて江戸へ赴き、服部南郭の門に入つた。門に入つて間もなく其の詩名は天下に轟き、其の講義を聴かうとする諸侯も随分多かつたが、自由と寛闊を愛する彼は、仕官は真つ平だと固辞して了つた。そして好きな笙を吹いたり、詩を作つたりして悠々自適し通したのであつた。
「杏園詩集」の中の賀龍文翼先生五十寿といふ七律に於て、南畝は先生の風格と声誉とを称揚して、
「社中遊好存兄弟、時下才名重古今」と詠つて居る。
南畝の詩は全く劉龍門の衣鉢を襲いだものであるが、勿々秀逸に富んで居る。其の秀逸が狂歌狂詩の盛名にけ押されて、一向世にあらはれないのは実に遺憾千万である。
平秩東作も其の随筆「莘野茗談」に於て、此の事に言及して居る。「南畝は狂詩専門と言ふべし。惜むらくは詩名之に蔽はれて知らぬ人多し。詩作も比類少き上手なり。」と。流石に肯綮に触れた言である。
次に服部南郭の門人であつた耆山和尚も亦南畝の先輩で、色々な点に於て彼の性格に影響を及ぼして居る人である。「仮名世説」に記するところに依れば、此の人は十二で芝の増上寺の僧となり、十八で堅義部頭を勤め、三十二で青山百人町へ遁棲した。なかなか詩才も有り、弁舌も爽やかで、常に文人や墨客と会して、雅筵を張り清遊を試みた。
「蜀山文稿」中の呈耆山上人に次の様な一節がある。
「前日ノ会、誠ニ忘ル可ラズ。上人十笏ノ室、能ク諸子ヲ容ル。上人ノ長広舌、片言以テ百万ノ鋒ヲ摧ク可ク、玄理ヲ剖析シ、間々諧謔ヲ展ブ。故ニ能ク人々ヲシテ厭心無カラ使ムルニ至ル」
此の外南畝の師事した人に沢田東江や井上金峨等がある。彼は飛目長耳博覧博聞を説く
蘐園の学風を受けたか、能ふ限り広く学び広く交り、凡ゆる機会を利用して、其の学殖の愈々深且つ大ならん事を求めた。其の老年に及んでも尚、常に自己を空しうして、他に聴くに吝でなかつたのは之が為である。
さて松崎観海・劉龍門・耆山和尚と並べて見ると、南畝の学問の系統が略々明らかに成るであらう。即ち其の主派をなすものは、何と言つても、物徂徠から発した蘐園の復古学であらねばならない。復古学を識らうとするには先づ朱子学を識る必要がある。故に朱子学から簡単に始める事とする。
朱子学の根本理論は理気説或は性理説である。性理説は一種の形而上学であつて、極端に言へば単なる主観的唯心的空理論であるに過ぎない。が朱子学徒は其の性理説に基づいて、孔孟の教を整理しようとする。彼等は人世百般の事件を、精神のみに依つて解決し得ると考へ、誠心誠意と言ふ事を喧しく言ふ。従つて財を卑しみ富を排し、畢竟人間の物質的慾望を否定する事を以て、経世済民の根本条件と思惟する者である。之は既に天下の政権を掌握した幕府にとつて、何といふ恰好の学説であらう。幕府は此の学派を御用学汲たらしめる事によつて、間接に其の支配権並びに優越権を擁護しようとしたのである。
之に対して起つたのが荻生徂徠である。徂徠の復古学は朱子学が独断的な性理説を以て、儒教本来の精神を曲解した点を猛烈に攻撃する。そして古文辞を習得して、古聖の遺書を如実に解釈しようとする。古聖の遺書を如実に解釈すれば、朱子学派の言ふ様な禁慾的な教は何処にも発見されない。聖教の本旨は慾望を全然否定する様な不合理なものでは無くて、只其を適宜に調節しようとする点に在るのである。即ち禁慾ではなくて減慾である。之が 蘐園学派の復古学の主張の大要である。
徂徠は言つた。「遊道は広きを要す。然るに日本の学者動もすれば党派を樹つるは何ぞや。学問の道は飛目長耳博く交り博く読むに在り。」さう言つて彼は学閥打破の大旆を翻へして、幕府に対する奴隷的奉仕に満足する朱子学派の党派的観念を破壊しようとした。実にも彼は学界に於ける熱烈なる反逆児であつた。英邁なる革命家であつた。が其丈けに彼の実生活は、多少の倫理的欠陥から免れる事が出来なかつたのである。誠心誠意を説き、禁慾生活を説き、絶対服従を説く朱子学派に反抗して起つた彼の実生活がどんなであつたかは、今更呶々するを要しないであらう。
蘐園の高足太宰春台が徂徠を評する語に、「志進取ニ在リ。故ニ其ノ人ヲ採ルヤ才ヲ以テシテ徳ヲ以テセズ。二三ノ門生モ亦其ノ説ヲ習聞シテ徳行ヲ屑シトセズ、唯々文学ヲ是レ講ズ。此ヲ以テ徂徠ノ門二蹉 跎ノ士多シ。其ノ才ヲ成スニ及ビテヤ文人タルニ過ギズ」とあるのは、その短所を剔抉して余蘊なきものである。
徂徠没後の蘐園は二派に分裂した。詩文の方は服部南郭が之を祖述し、経術の方は太宰春台が之を継承して居る。劉龍門は南郭の門に遊び、松崎観海は春台の衣鉢を襲いで居る。
故に此の二人に師事した南畝は、蘐園学派の長所と短所を併有し、詩酒風流を娯しむ享楽的遊戯的傾向と、経世済民の術を施す実際的慨世的傾向とを兼ね具へて居る訳である。
彼の生涯を通覧する時、此の相反する二面の世界が、交互に消長し相殺しつゝ、終に一個の円満にして圭角なき人格にまで、押し進められて行く過程を、明らかに看取する事が出来る。
明和二年十七歳にして、南畝は父の職を襲いで徒士となつた。徒士は毎日柳営に出入して、色々の勤務に服するのであつたが、非番の日には或は賀邸の塾に和歌を学び、或は観海に就いて経学を修め、或は龍門・東江等に從つて詩才を磨き、或は親しき友を会して宴飲吟行を娯しんだ。
「杏園詩集」の巻頭に掲げられた題壁なる一詩は、此の頃の彼及び彼をめぐる人々の生活及び思想の如何なるものであつたかを示すに充分である。
生長牛門十八秋 濁酒弾琴拊髀遊 功名富貴浮雲似 笑他文繍羨犠牛
人生上寿満従百 三万六千日悠々 満堂悉是同懐子 無酒須典我貂裘
濁酒一杯琴一曲 一杯一曲忘我憂 時人若問行楽意 万年江漢向東流
人生の須臾を嘆じ、名利に汲々たる輩を憐み、煩瑣なる社会生活を嫌忌し、大白の満を引いて絃声の妙に酔ひ、花鳥を友とし風月に嘯くのを以て、其の本領とした南畝の青春時代の享楽的傾向を見るべきである。
明和四年丁亥九月九日には、南畝の弱冠に近い頃の狂詩狂文を収録した「寐惚先生文集」が、風来山人の序を得て刊行された。之は彼の処女出版であつて、其の江戸滑稽文学界への華々しい首途を意味するものである。
平秩東作は「莘野茗談」に於て次の様に述べて居る。『寐惚先生文集と言へる狂詩集は、友人南畝が十七計りの時余が許へ来りて、此の頃慰に狂詩を作りたりとて二十首程携へ来りしを、申椒堂に見せければ達て懇望しける故、序跋文章などを書き足して贈りけるに、殊の外人の意に叶ひて、追々同案の狂詩出でたり』と。
東作の序跋は何故か刊本には収載されて居ない。風来山人の寐惚先生初稿序には、「友人寐惚子、余ニ其初稿ニ序セン事ヲ請フ。余之ヲ読ムニ、詩或ハ文若干首。辞藻妙絶。外ニハ無イゾ哉。先生則チ寐惚ケタリト雖モ。臍ヲ探ツテ能ク世上ノ穴ヲ知レリ。彼ノ学者ノ学者臭キ者ト相去ルヤ遠シ矣。嗚呼寐惚子ヨ。始メテ与ニ戯家ト言フ可キノミ。語ニ曰ク。馬鹿孤ナラズ必隣有リ。」と見えて居る。初めて顔を合せて間も無い南畝を呼ぶに、友人云々を以てして居る点から察すれば、其の烱眼既に南畝の人物及び滑稽諧謔の才の凡ならざるを、看破したものと言ふべきである。
其は兎も角、当時隋一の新人であり、併せて江戸滑稽文学界の耆宿であつた風来山人から、此の一言讃辞を得た南畝は、如何ばかり其の意を強うした事であらう。
後年彼が京伝の「御存商売物」を推賞して、総軸巻上々吉の栄誉を与へた事が、京伝を刺戟して、終に浮世絵師としてよりも、寧ろ草双紙の作家として立たしむるに至つたのと同様に、南畝は風来山人並びに東作等の助言、及び戯文戯作を歓迎する社会の好尚に乗じて、其の伸ぶるに由無き学問才能をば、専ら此の方面に傾注するに至つたのである。
「寐惚先生文集」中の水掛論は、風来山人をして感嘆措く能はざらしめたものであるとは、南畝自身の語る所である。
元来彼の学問に対する態度は、極めて自由にして、博大であつた丈けに、かの朱子学派との間に於ける論争に対する非難攻撃は、明快なる批判と辛辣なる皮肉の連続であつて、まことに面白く読まれるのである。
「夫レ儒ノ朱子学者タル者ハ、面ハ獅噛火鉢ノ如ク、体ハ金甲ノ如シ。縛ルニ三綱五常ノ縄ヲ以テシ、誉ムルニ格物致知ノ糟ヲ以テス。奥ノ手ノ許ハ、結糞ヲ便シテ生ケル聖人ト成ル也。徂徠派タル者ハ、髻は金魚ノ如ク、体ハ棒鱈ノ如シ。陽春白雪ヲ以テ鼻歌ト為シ、酒樽妓女ヲ以テ会読ニ交フ。足下ト呼ベバ不侫ト答ヘ、其ノ果ハ文集ヲ出シテ享保先生ニ比肩セント欲スル也。――故ニ曰ク。相互ニ気ヲ張リ以テ職敵ト為スハ、則チ人ノ味噌ヲ糞トシ、我ノ糞ヲ味噌ト為ルガ如シ。糞ニ瀉糞粘糞アリ、味噌ニ赤味噌白味噌アリ。斉シク是レ糞ト味噌トニシテ種類ノ分ナリ。糞味噌一ニシテ始メテ我糞ノ臭キヲ知ル。是ヲ之レ水掛論ト曰フ」
徂徠は嘗て群儒の党同伐異の悪弊を痛嘆し、学閥打破、門戸開放、自由討究の旗幟を押し立てゝ、天下に呼号した事があつたが、学風の統一と言ふ彼の理想は終に実現されなかつた。のみならず彼は其の復古学を以て一層学界を混乱せしめ、各派の対立抗争を愈々旺ならしめたのである。南畝は其の失敗を充分に識つて居た。そして学者相軋り相鬩ぐの愚と不利とを夙に感得して、清濁併せ呑む純学者的態度を失はなかつた。
けれども惜むらくは彼には徂徠の意気と熱とが無かつた。自家の所信を真つ向に振り翳して、堂々正面から積極的に、世の迷蒙を開明するには、余りに弱い南畝であつた。彼は其の鋭鋒を包むに戯女戯作を以てし、消極的な諷刺によつて世人の暗愚を嘲笑するに止つて居る。
南畝が狂歌師の群に投ずるに至つた頃の様子を覗ふに足るものに「奴凧」中の一文があるが、橘洲の「弄花集」の序を見れば、尚一層其の間の消息を明らかにする事が出来る。『其の頃(明和初年)は友とする人僅に二三人にて、月に花に余の許に集ひて逆莫の友とし侍りしに、四方赤良(南畝の狂名)は余が詩友にてありしが、「来りて凡そ狂詠は時の興によりて詠むなるを、事がましく集を為して詠む痴れ者こそ烏許なれ。我もいざ痴れ者の仲聞入せん」とて、太根大木てふ者を伴ひ来り、大木亦木網・智慧内子を誘ひ来れば、平秩東作・浜辺黒人など類を以て集まるに、二年許りを経て朱楽菅江また入り来る。是れ亦賀邸先生の門にして和歌は余が兄なり。和歌の力もて狂詠自ら秀でたり。彼の人々よりより余が許或は木網が庵に集ひて、狂詠漸く起らんとす。赤良固より高名の俊傑にして、其の徒を東に開き、菅江は北に興り、木網は南に聳ち、余もゆくりなく西に拠りて、共に狂歌の旗挙せしより、真顔・飯盛・金埓・光の徒相亜いで起り、之を狂歌の四天王と称せしも、――かく世に拡ごれるは、実に赤良・菅江の勲にして、余は只陳渉が旗挙のみなり』此の一文は簡単な天明狂歌史とも言ふべきであるが、文中南畝が、「狂詠は時の興によりて云々」と狂歌会を否定し乍ら、其の言葉の下から直ちに、「いざ我も痴れ者の仲間入せん」などゝ之を肯定した様な事を平気で言つて居るのは、まことに了解に苦しむ所である。其はさて置き一体何が故に南畝は、漢詩和歌よりも寧ろ狂歌により多く傾いたのであらうか。彼自身をして言はしむれば、春日詠寄七福神祝夷歌序に、「やつがれいはたけたる頃より、文の園に遊び、詞の林に立ち交り、唐詩の筵に七あゆみの韻をふみ、敷島の道に六種の一をわいため、身を立て道を行ひ、名を此の世に聞え上げんと思ひしも、陽春白雪の高き調は唱ふる者少く、下里巴人の下がかりは誘ふ者多しとか言へる言の葉に違はず、何時しか博士だちたる交らひを出でゝ、只管戯れたる方に身をはふらかしぬ」とあつて、最初周囲の誘惑が其の主な動機であつたらしく、南畝はいつも薄志弱行の為に、識りつゝ軽跳浮薄な方面へ身を堕して行つたのである。
彼の師内山賀邸が狂歌を弄んだ事は前述の通である。其の感化を受けた橘洲が先づ天明狂歌の烽火を揚げ、多少戯謔の癖ある社中の才子は忽ち其の麾下に馳せ参じ、相率ゐて斯道の興隆に力を尽したのであるが、彼等は狂歌興隆の手段として頻りに狂歌会を興行した。度々の会合に出席して詠を外部から強ひられるといふ事は、常人に在つては大いなる苦痛でなければならぬ。然るに南畝に在つては其が少しも苦痛では無かつた。彼には物に触れ事に当つて湧き起る泉の如き機智頓才があつた。故に転々会合に臨んでも、多々益々弁じた。言々皆滑稽であり、句々悉く諧謔であつた。口を衝いて出る秀逸佳作は、出る毎に人の称讃を博し、狂歌に於ける四方赤良の名は、頑童走卒も之を知らぬ者がないと言ふ程になつて来た。
南畝は内心甚だ得意であつたに違ない。得意であればこそ、
詩は詩仏書は米庵に狂歌俺芸者小万に料理八百善
と揚言する事が出来たのである。
賀邸は狂詠を娯しんだが、其に終始し其に没頭したのではなかつた。只文人の余技として、折々之を口にしたに過ぎなかつたのである。
「金曽木」を見れば南畝が、狂女浮楽経自堕落品を作つて賀邸に見せ、大いに叱られた旨の一節がある。惟ふに賀邸は其の門生の間に、段々不真面目な思想が胚胎し、楽天的遊戯的傾向が浸潤せんとするのを見て、私に非常な不安と責任を感じたのであらう。其で偶々南畝の一作を閲したのを機会に、一場の訓誡を垂れたのである。
また南畝自身にしても、一方には峻厳霜の如き観海先生の教もあり、他方には慷慨激越、相共に斯文の為に尽さんと誓つた旧友の手前もあり、旁々頽廃的な駄々的な方向にのみ進み勝ちな自己を、叱曹烽オ、激励もしたのであるが、何時も無意識にもとの遊戯的生活へかへる可く余儀なくされた。彼の旧友の一人大森見昌は。南畝と別れて久しく音信を絶つて居たが、偶々一書を寄せて南畝の学業が著しく進んだであらう事を喜んだ。
南畝は之に答へて、「今書来リテ僕ノ学業大イニ進ムト言フモノ過賞殊ニ甚シ。徒ラニ愧赧ヲ増スノミ。僕進ンデ栄ヲ明時ニ取ツテ、以テ父母ヲ顕ハス事能ハズ。退イテ道ヲ陋巷ニ楽シミ、以テ天命ヲ待ツ事能ハズ。疎放ノ性淪ンデ酒人ト為リ、遊戯ノ文大イニ俳倡ニ類ス──」と告白して居る。之によつて此を観れば、彼が滑稽文学に赴いたのは、時に志を得ざるよりの煩悶焦燥を忘れんが為であつたとも見受けられる。
けれども昔日の親友の言に聴いて、疎然として不甲斐ない自己の姿を見出した彼の悔悟の真情は、実に言外に溢れて居ると言ふ可きである。
此処に於て彼は発奮努力、以て新局面を展開すべく勇往邁進ずべきであつたが、而も行く手には幾多の障碍が、巍々として聳え、累々として横はつて居た。其に対して南畝の意志は余りに弱く、其の感奮は余りに果敢なく、其の努力は余りに短かつた。さて累々たる前途の障碍とは何であるか。其は言ふ迄もなく不合理な学制と不公平な階級制とである。
抑々林大学守は曩祖道春以来、代々程朱性理の学を奉じて天下の文権を一手に把握し、其の学派の出身者、若しくは他の学派に属するも陽に朱子学を奉ずる者に非る限り、断じて要路に立つ機会を与へないと言ふ風であつた。即ち幕府に仕へて栄達せん事を希ふ者は、どうしても朱子学を奉じなければならなかつた。
然るに南畝の学は御用学派たる朱子学とは、犬猿も只ならざる復古学である。而も自己を佯つて表面丈け朱子学を奉ずるなど言ふ事は、到底彼の忍ぶ能はざる所であつた。且つ生れつき清廉潔白で、権門に阿諛してどうと言ふ様な事は微塵も無かつたので、旁々立身出世は覚束なかつた。其の上に身分はと言へば、御目見以下の御家人である。祖先累代連綿として御奉公を励む御徒士である。
両国の橋くれ武士の年礼に槍一本の数に入らばや
と言つた所で、何うにも仕様がなく、御徒士は何処迄も御徒士で、到底侍にはなれなかつたのである。即ち如何に青雲の志があつたとて、如何に功名心が熾であつたとて、実力を以て栄達を願ひ得る世でもなければ身でも無かつた。封建社会の常として、上下の階級が厳重を極め、要路の高官は然るべき家からのみ選ばれ、然る可からざる家に生れた人材に対しては、固く固く登龍門が閉されて居た。
けれども絶対に閉されて居たのではない。人知れず折々開かれる通用門は別に存在して居たのである。此の通用門を開く鍵は何か。其は賄賂の行使である。南畝は其を知らなかつたのではない。知つて居ても七十俵五人扶持では、珍品の出所が無いのである。譬へ珍品が有つたとて、己を欺き人に阿り、七重の膝を八重に折ると言ふ様な事は、彼の断じて為すに忍びない所である。斯くて彼は伸ばすに由なき才能を滑稽文学の方面へぶちまけるのである。
「寐惚先生文集」に出て居る貧鈍行に
為貧為鈍奈世何食也不食吾口過君不聞地獄沙汰金次第于挊追付貧乏多
とあるのをば、全くの言葉の遊戯と一笑に付して了ふのは何うであらうか。成る程表現の方法は不真面目である。けれども私は其処に時世に対する彼の不平を見、不満を見更に進んで為政者に対する辛辣なる諷刺を見ようとする者である。
同じく貧々堂記に、「此堂穢ク、牛ノ廐ノ若シ。而モ中ニ千里一走ノ名馬アリ。故ニ以テ貧々堂ト名ク――焉」とあるが、此の千里一走の名馬とは即ち南畝自身である。其の名馬が其を相する伯楽に逢はないで、汚い廐舎に閉ぢ込められ、驥足を伸し得ない有様を、優れたる才能を有し乍ら、轗軻不遇の境に悶々の日を送る自己に譬へたものである。此の如く時世は已に彼にとつて非であつた。不合理な学制と、不公平な階級制度が全く彼の前途を遮つて了つた。故に彼にして若し革命的情熱と、英雄的意気があるならば、彼は須く此の人為的障碍に向つて猛烈なる爆撃を試みる可きであつた。けれども南畝は革命家ではない。英雄ではない。彼は古賀精里の所謂軽俊の才子であつた。飛んで灯に入る夏の虫を愚と笑ふ秋の鈴虫であつた。爆撃する事の代りにはヒラリと身を躱して此の障碍を見事に飛越した。と言つても哲学によつて解悶したのでもなければ、宗教に救を求めたのでもない。将た芸術に逃避したのでもなければ、学問に徹底したのでもない。只虐げられたるものゝ果敢ない諦めと、伝統的遺伝的従順さとから、然う言ふ対社会的戦闘意志反階級的不満感情を、否定し抑圧し忘却しようとしたに過ぎない。春日亀楼詠初芝居狂歌序を見れば、此の間の消息は自ら明らかと成るであらう。
「大塊我に問うて曰く。汝が口節あらず只酒を嗜む。汝が舌法あらず只無駄を吐く。酒は量無くして常に乱酔に及び、無駄は務を廃して自暴自棄に近し。汝を天地の無駄者と言ふ。如何に如何に。四方山人酒杯を挙げ、青天を望んで曰く。吾寧ろ欣々として大通の如くならんや。寧ろ黒鴨を連れて五侯の門に入らんや。将た白眼にして世上を見下さんや。寧ろ深き山に小路隠をせんや。将た水草よき所に岡鈞をせんや。寧ろ茶に蹂り上らんや。将た香に鼻ひこつかせんや。寧ろ碁将棊に暇を潰さんや。将た十露盤を枕とせんや。寧ろ糸竹を友とせんや。将た書画を愛せんや。寧ろ雲と蛍とを集めて万巻の書を読み破らんや。将た詩と文とを作りて千秋の業に誇らんや。寧ろ高天原に神いぢりをし拍手の音を聞し召せと申さんや。寧ろ老荘の徒たらんや。将た医トの道に隠れんや。富貴天に在り。窮達命あり耳朶を探るのみ。大塊我を笑ふ事勿れ」。凡てが運命である。一切が宿命によつて不可変的に規定されて居る。人間の力の及ぶ所ではない。自分が現在の境遇に不満を感じて居る事其自身が既に天の指令である。どうにも仕様がない。只自然の成行に任せて生きよう。其が最も賢い。其が最も安全である。彼はさう考へたらしい。其処で彼は詠じた。いざさらば円めし雪と身を成して浮き世の中を転げあるかん
斯くて南畝は、若い血潮の漲るまゝに、駄々的な享楽的な茶気満な生活を続けつゝ、其の天賦の妙才に任せて、江戸滑稽文学界の驍将として、大いなる活躍振を見せるのである。明和四年に「寐惚先生初稿」が公にされてから、天明八年に「俗耳鼓吹」が出る迄、凡そ二十年の間は、実に江戸軟文学界に於ける南畝の黄金時代とも言ふ可き時期であつた。狂詩と狂歌は自他共に許して斯道の第一人者なりとし、狂文は愈々円熟の境に入つて滑稽洒脱の妙を尽し、洒落本も亦一作毎に世の視聴を集めた。殊に草双紙に対する批評に至つては、彼の片言隻語が直ちに文壇の指南車となり、照闇燈となつたのである。
此の様に明和・安永・天明頃の南畝の文学的活動は、まことに眼覚ましいものがあつた。が吾々は其の華々しい活躍の背後には、必ず其を生み出し、其を特色づける生活のあつた事を閑却してはならない。凡ゆる作品が何等かの形に於て、作家の実生活の反映であり、直接経験の返照である事を想へば、其の作品から帰納的に其の人の実生活を復原する事が可能である。
既に其の実生活を推定し、更に進んで其の実生活を根拠づける人世観や処世観に迄及ぶ事が出来たならば、其処に於て踵をめぐらし、今度は演繹的に再び其の個々の作品に臨む可きである。其の時にこそ初めて個々の作品が生きて来るのである。此の意味に於て私は、飲酒と狂歌に耽溺し、青楼と戯場に出入して、徹底的に与太振を発揮した彼の享楽生活を、其の作品を通じて眺めようと思ふ。
「酒は百薬の長」と言ひ、「憂の玉箒」と言ひ、「酒無クバ須ク我ガ貂裘ヲ典ルベシ」と言ひ、「富は酒屋を潤し、徳利は身を潤す。心広く体よろよろと、足元の定まらぬこそ上戸はよけれ」と言ひ、「白銀の台に黄金の酒杯の――」と、水仙の花を見てさへも、直ぐ酒を思ひ出さねばならなかつた程、彼は酒好きであつた。酒がなくては一日も生きて居られない人であつた。
前掲の明和丙戌題壁や、同戊子五律中の「未遂三冬業、徒逢弱冠春、牀頭有樽酒、随意賞良辰」なる句によれば、南畝は弱年の頃から既に酒に親しんで居たのである。「杏園詩集」を繙けば、到る処に酒に関する吟詠を拾ふ事が出来る。蘐園の享楽思想の為に、或は階級的社会的不満感情を忘れんが為に、彼は若い時から酒を飲んだのであらう。
独り南畝に限らず、彼が交会した漢詩家流・狂歌者流の多くは、皆酒豪を以て誇る者であり、吟行会詠の際には必ず酒が用意されて居た。
「四方のあか」に収められたから誓文によれば、痛飲斗酒を傾けると言つた様な御連中の宴集の凄しさが充分に覗はれる。が只ガブガブと飲んで計り居ても曲がない。飲むからには愉快に気持よく飲むに越した事はない。そこで七拳式酒令などと、勿体振つた法式を作つて見たりした。之は例の竹林の七賢に倣つて、酒は飲むとも酒に飲まれず、何処迄も平静に上品に、一糸も紊れないで、陶酔の無我境を楽まうとする快楽主義的な意図から発案されたものに違ひない。
「四方の留糟」の此君盃の記を見ると、「たとひ時うつりうまごと去り,楽しみ悲しみ行き交ふとも、天さへ酔へる花の朝、頭もふらつく月の夕、雨の降る日も雪の夜も、日々酔ふて泥の如く、一年三百六十日、一日も此君無かる可けんや」と、アルコホル中毒に罹つた様な事を言つて居る。さうかと思ふと、グツとメートルをあげて、「君が為沽取ス十千ノ酒。一飲須ク数斗ヲ傾クベシ、已ニ玉杯ノ手ニ入リ来ルニ当ツテハ。胸中復磊塊有リヤ否ヤ、世人汲々タリ名利ノ間。歓楽未ダ極ラズシテ骨先ヅ朽ツ。千金ノ子万戸ノ侯。我ニ於テハ蜉蝣ノ如シ」と豪語する事もあつた。
或る時は家居独酙を楽しんで、「独酙青天ヲ望ム。青天何ノ知ル所ゾ。只憐ム独酒ノ杯。
浮雲ノ色ヲ帯ビザルヲ」と、虚無的な懐疑的な口吻を洩らし、或る時は戯謔して、「此ノ辺ノ居酒屋。処々借銭多シ。語ヲ寄ス番頭殿。我ニ許セ一本ノ波ヲ」と言ひ、更に「雀殿お宿はどこか知らねどもチヨツチヨと御座れさゝの相手に」などと洒落のめして、到る処に呑助を表明して居る。
老後銅座役人として大阪及び長崎に出張して居た頃にも、常に酒杯を離さなかつたのを見れば、余程好きであつたと思はれる。
狂文集「四方のあか」「四方の留糟」及び「巴人集」等によれば、如何に屡々狂歌の会合が催されたかを知る事が出来る。冬日逍遥亭詠夷歌序には、「戯れ歌は人の笑の種を蒔きて、万の口まめとはなりけらし。あるは浮世をまゝの土器町、砕けて元ノ木網が落栗庵。あるは本町二丁目の糸屋にあらぬ腹唐ノ秋人がよき砧庵など、月次の会たえずぞあんなりける」とある。即ち毎月定例に狂歌会を催す者及び其の道の好き者であつて、一身の名誉の為に、斯界一流の名士を招いて、盛大な雅宴を張る者などがあつたので、南畝・橘洲・菅江の輩は随分忙しかつたらしい。「巴人集」をだけ見ても、小伝馬町宿屋ノ飯盛ノ会・酒ノ上ノ不埓ノ日暮里ノ会・馬喰町ノ菱屋ノ会・雲楽斎ノ四谷別荘ノ会・牛天神下ノ山道高彦ノ会・坂上ノ竹藪ノ会・子ノ子ノ孫彦ノ会などを挙げる事が出来る。
亀楼狂歌会序を見れば、其の繁昌の有様は大したものであつた。而も南畝は第一流の判者として、此等の会合には無くて叶はぬ人であつたので、真実東奔西走して、席の温まる暇も無い程であつた。お徒士として御奉公に出るひまびまに処々の会合に転々列席して居たのであるから、其の生活はかなり放埓な空虚な不真面目なものであつたに違ひない。
「二大家風雅」の中の狂詩に、復銅脈先生の一篇がある。
暮春十日書卯月五日届委細拝見所益々御風流此方無別条馬鹿白相求八百八町会四里四方遊朝窺堺町幕夕上吉原楼恨不得先生作無礼講頭此は根も葉もない言葉の遊戯と見るよりは、寧ろ当時の南畝自身の生活を、有りの儘に表白したものと見る可きであらう。
春色花鳥媒に、正月早々流連の長閑さを述べて、「二人禿の門松の、繁きみ影の中の町、嘉例の酒の二日酔、三日の今日も流連の、糸遊なびく櫺子窓──」などと言ひ、或は青楼四季歌の春には、
「玉くしげ箱提灯の二人連花の中ゆく花の全盛」
と艶に時めく太夫の姿に見惚れ、同じく冬の歌には、
「やうやうと来てもぐり込む冷たさは君が心と鼻と雨脚」
と言ふ様に、随分穿つた皮肉に敵娼を困らせたりする。或は鳥文斎栄之の「傾城三福対」に題して、
「遊君五町廊苦海十年流二十七明夢嗚呼蜃気楼」
と憂き川竹の勤の身に深く同情して居る。
そんな事から推しても、当時の南畝が如何に遊里の事情に精通して居たかが分ると思ふ。実際天明三四年、南畝三十五六歳頃の狂歌を、巴人集に就いて見ると、彼が屡々家を明けて青楼の人となつた事実に遭遇するのである。例へば、
「睦月七日、五明楼に遊びて人々歌詠みけるに、八日は子の日なれば今日も泊り給へかしと、主人聞えければ詠める。
昨日からよそにねの日の松なれば今日はひとまづうちへ引かまし」
天明四年甲辰の吉原歳旦の詠に
「千金の春の廓の初買は五丁まちまちひらく惣花」
「三輪の里に朝顔を見て
たつた今別れてきたの里ちかく眼にちらつける朝顔の花」
北の里とは吉原を言ふのである。
思ふに天明のはじめから三四年にかけては、南畝の狂名は其の極に達して居た時である。そして吉原名代の妓楼である扇屋や大文字屋の亭主は、皆彼の門人となつた。そんな関係からして、彼は自由に之等の家に出入して、所謂狭斜情調を心ゆくまで味はふ事が出来たのである。十八大通の一人なる大和屋文魚に従つて、日夜遊里に入り浸り乍ら、経済的な破綻を見せなかつた京伝の生活とよく似て居る。
天明六年七月十五日には、新吉原江戸町、松葉屋の抱女三穂崎が、蛾眉を落してお賤と改名し、南畝の妾として牛込の家に引き取られた。
其に就いては、「松楼私語」巻末の狂詩に、「一擲千金贖身時」なる一句があるが、南畝としては実際千金は愚か百金すらも覚束ない。だから年季明けを幸に取つたか、でなければ京伝の妻玉の井ことお白合(ママ)の様に、楼主の好意によつて然うなつたか孰れかであらう。
南畝が頻々と戯場に出入したのも、俳優の間に多く知己を持つて居たからである。市川海老蔵こと五代目団十郎は、狂名を花ノ道つらねと言つたが、南畝は特に此の人と親しかつた。海老蔵が其の名を一子徳蔵に譲つて、五代目団十郎を立てる事とし、其の名広めの顔見世(天明二年壬寅)に親子揃つて舞台に立つたが、其の時新海老蔵が年に似合はぬ素晴しい荒事を見せた。それで市川贔屓の南畝等は有頂天になつて喜んだ。其の喜の徴として、趣向を凝らした狂歌狂文集「江戸の花海老」を連中の手から贈る事にした。其の請取が「巴人集」に出て居る。
「海老蔵方へ狂歌被遣、慥に受取申候。例の御連中様面白き御事に御座候。折節顔見世取込。早々以上。
十月廿六日成田屋七左衛門
四方御連中様」
と言ふのが其である。
此の他瀬川菊之亟をば籬ノき瀬綿、芳沢あやめをば菖蒲ノ真久良、中村仲蔵をば垣根ノ外成、松本幸四郎をば高麗屋洒落人、市村家橘をば橘太夫元家と、それぞれ狂名をつけて遣つたのは皆南畝であつた。当代一流の名優は凡て狂歌に就いては南畝の弟子であつたのである。
以上私は南畝壮年の家庭外の生活を、酒と狂歌と遊里と芝居の四方面から観察したのであるが、更に之を裏書するものは「千紅万紫」中の酒色財なる一文である。之によつて私は、彼が人生に対する現実的な態度、及び生活に対する駄々的な頽廃的な態度を、一層明瞭に理解する事が出来ると思ふ。
「凡て劇場青楼の楽しみは、老少となく雅俗となく、此の上やある可き。また儀狄とやらんか初めて造れる狂水と言ふ物こそおかしき物なれ。されどこの酒色の二つも、財と言ふもの無くては、其の楽しみを得難し。民生は勤むるにあり。挊ぐに追つく貧乏撫しと、左伝に載せしも、此処ら辺なるべし願はくは金の番人守銭奴とならで、酒色の二つも程よく楽しまば、五十年も百年にむかひ、百年も千代万づ代の心地なるべし。
千早振る神代の昔おもしろい事をはじめしわざをぎの道
全盛の君あればこそ此の廓の花も吉原月もよし原
世の中はいつも月夜に米の飯さてまた申し金の欲しさよ」
と言ふが其である。働いて金を儲けよ。金が出来れば酒も呑め女郎も買へ芝居も見よ。金と心中する様では金を儲けた所詮がない。男と生れた甲斐がない。
「世の中は色と酒とが敵なりどうぞ敵にめぐりあひ度い」
中年時代の南畝はさう考へて居たのである。少年時代の敬虔にして熱烈なる思想は、今や全く其の影をひそめて了つた。
宇宙や人生に対する根本的な疑ひ、神を求め自然に憧れる気高い心、愛と詩に捧げられた燃ゆる情熱、理想に向つて邁進する強い意志、良き戦を善く戦はんとする雄渾な気力――すべて然う言ふ脈の太い、生命の律動がありありと感得される様な態度は、微塵もないと言つていゝ。
其は彼の生得的傾向が自然さう言ふ方面へ、向はなかつた結果である。
と言ふのは、元来南畝は与へられたる世界に満足して居る人であつた。たとへ充分満足して居なくても強ひて満足して居ようと力めた人であつた。而も彼は与へられたる世界に在つては、能う限り多くを希求し、能う限り多くを享楽しようとした人であつた。此の点に於て彼は功利主義者であり、快楽主義者である。
彼はいつも自我と外界とを、巧に同調し妥協せしめつゝ、一日も長く偸安の生を持続しようとした人であつた。此の点に於て彼は、卑怯なるされど賢き平和主義者であり、瓦全主義者であつた。
自己並びに外界に向つて、絶えず厳正なる批判を下し、其の誤謬を指摘し、其の邪曲を糺弾し同時に真理と正義の何ものたるかを鮮明すると言ふ様な進取的な戦闘的な人では更々なかつたのである。之は独り南畝に限つた事ではなしに、当代一般の風潮、特に江戸市民の其が、其の通り無気力であり没理想であつたのである。明治維新はまだまだ先の事である。
被支配階級として、胸中多少の磊塊はあつても、彼等は強ひて其を忘れようとした。そして「今や四の海波静にして沖釣の鯛かゝらぬ日なく、十日の雨風障なくして、一升の土くれ金一升の富に潤へり。
されば猛き親分も太平楽を並べ、怪しの百姓も万歳を唱へて、誠に目出度う候ひけるとは、今此の時をや申すべき」と言ひ、或は「目出度めでたの若松さまよ、御代も栄えて葉も繁る」と唄ひつゝ、只管現実を肯定してかゝらうとするのである。肯定する所か、進んで其を讃美し、謳歌しようとするのである。
けれども南畝は単なる凡人ではない。少くとも彼は非凡なる凡人である。何となれば単なる凡人であるならば、学者社会の迷蒙や、社会制度の不合理に気附く筈は無いのであるが、南畝は其を明確に意識して居たからである。明確に意識して居乍ら、其の誤謬を匡正し、其の不合理と善戦する丈の勇気を持たなかつたのである。凡ゆる困難を排除しつゝ、人生を直進する革命家の情熱を持たなかつたのである。だが其れだけに、私は彼に充分落着いた足取を見る事が出来る。彼は何ものにも驚かない何ものにも激しない。いつも自分を失はないで、綽々たる余裕を示して居る。何ものにも熱中する事なく何ものにも徹底する事なく、両極端の分水嶺を巧に歩んで行く、其は随分危険な道でなければならない。けれども彼は臨機に煥発する機知頓才を以て、見事に此の難路を通過する。之が南畝を目して非凡なる凡人となす所以のものである。
「四方留糟」に見えた壁書に、一屁を放らば尻をすぼめよ。毒を食ふとも皿を舐る事勿れ。一寸先を闇と思はば、天道人を殺すべし」と言ふのがある。南畝の処世哲学である事は言ふ迄もない。
以上私は南畝中年の家庭外の生活に就いて述べた。今度は家庭内の其に就いて少しく書いて見よう。彼が結婚したのは明和八年辛卯、二十三歳の時であつた。花嫁は富原福寿と言ふ人の娘で、名はリヨと言つた。芳紀十七と報ぜられて居る。爾来一男二女を儲けた。長女は夭折した。「杏園詩集」安永二年の作に、悼女児なる七絶がある。二女は恙なく成人して、西丸御徒士佐々木某へかたづいた。嫡男の定吉は安永九年生れである。
南畝に二人の姉があつた。一人は野村新平なる人に嫁し、一人は吉見佐吉なる人に嫁した。佐吉の一子儀助は、狂名を紀定丸と言つて、狂歌黄表紙などに其の文才を示して居る。南畝の弟金次郎は、後に御家人島崎幸蔵の養子となるのである。
天明二年、彼が三十四歳の頃の家庭生活を覗ふに足るものに、「四方のあか」に収められた夏草なる一文がある。七十俵五人扶持の御徒士の生活苦がまざ/\と描き出されて居る。狭くてむさい五月雨の家に、ヤヤコシイ日を送つて居た彼、「此の頃は世をすね草の倦みはてゝ」、公わたくしの事も大流しに流」して、ゴロゴロして居た彼、「無駄は勤を廃して自暴自棄に近し」と言つた彼――彼はやはり時世に対して不平を抱いて居たのである。其の不平を忘れんが為、其の鬱悶を晴さんが為に、「疎放ノ性淪ンデ酒人ト為リ、遊戯ノ文大イニ俳倡ニ類」したのであつた。家に居つても面白くない。気が詰まるばかりだ。それで「八百八町ノ会」に臨み、「四里四方」の行楽を事とし、「朝ニ堺町ノ幕ヲ窺ヒ、夕ニ吉原ノ楼ニ」上つたのであつた。即ち本来楽天的な性格に、蘐園の感化が加はり、社会に対する不満が添ひ、更に周囲の誘惑が及んで、前述の享楽生活が始まつたのである
故に此の頃の南畝は、家庭の人としては、まことに冷たい人であつたらうと察せられる。けれども然うした生活は、決して彼の性格の全てではない。彼の性格中の然うした分子を、外的条件が刺戟し作用して、膨脹せしめ拡大せしめたに過ぎないのである。而も膨脹せしめられたものは、やがて収縮しなければならない。拡大せしめられたものは、やがて復原されなければならない。南畝はいつか本然の姿に還らねばならない。胸に秘めた観海先生の言葉を思ひ出さねばならない。之は「毒を食ふても皿まで砥」めない彼としては、当然すぎる程当然である。
明和・安永・天明の政局に立つて、権を專らにした者は田沼意次である。
意次は凄い腕を持つた実際的な政治家で、其の放胆な積極政策は非常な成績を挙げたが、一方収賄を事とし、官紀を紊乱し、士風を頽廃せしめた罪も決して浅く無いのである。従つて敵もあれば味方もあつた。が彼の性質として、自己の政策に対する批難の声は、どうしても黙許して置けないのであつた。それで彼は彼に対する中傷讒謗に絶えず耳を澄して居た。そんな時であつたので、南畝が不用意の間に吟んだ一狂詠が、図らざる禍を招く事となつて了つたのである。
天明六年の初夏の事である。彼は雨の中を番(御徒士が本御番・御供番・加番などの為に出仕すること)に出た。がひどい降で青漆の合羽に雨が染みとほつて、肌寒い位であつた。そこで彼は例の通り洒落て見た。

「せいしつと言へども知れぬ紙合羽油断のならぬあめがしたかな」
別に諷刺的な意を寓したのではなかつたが、神経過敏になつて居る意次の耳には、洒落が諷刺と聞えたのである。さあ大変だ。南畝はとうとう常職を解かれて、小普請入を命ぜられた。小普請組とは三千石以下であつて、年少又は虚弱の為に役に就き得ない者及び事情があつて、非役となつた者の凡てが属する団体の謂である。
時に父は七十一、母は六十三、南畝自身は三十八、嫡子定吉は九歳になつて居た。彼は悉皆困つて了つた。困つた揚句、来し方行く末の事を色々と思ひ案じた。上には年をとつた父母がある。下には愛しい妻子が居る。それに彼は徒らに詩酒風流の徒と交遊し、放浪自恣の日を送つて居た。「三十無為違宿志」と反省した甲斐もなく、四十に近い武士たる身を以て、一戯歌の為に父祖累代の職を失つて了つたのである。此処に於て彼は大いに前非を悔いた。そして健全にして充実せる新生を欲する様になつた。其の結果当分戯歌戯文に筆を断たうと決心した。
「物之本江戸作者部類」に、「天明七八年以来、憚る所ありて戯作をせずなりぬ」と言ひ、また其の頃の蔦重版の「吉原細見」の中にも、「四方山人は青雲の志を旨とせし故に、狂歌をすら止めたれば、細見に序を作らずなりぬ」と言ふ記事がある。ところが黒川春村の「壼すみれ」によると、寛政元年の蜀山翁月並会の題摺が其の手許に在つた様であるから確定は出来ないが、大体此の事件以来暫らく狂文学と関係を断つたのは事実である。関係を断つて真面目に勉強したのである。
さて幕府に於いては、天明七年三月、家斉に将軍宣下があり、六月には、白河城主松平定信が、天下の輿望を担つて老中となり、大いに田沼一派の弊政を改める所があつた。旗本御家人の腐敗と窮乏とは、明和安永以来、特に甚しかつたので、彼等を如何に救済す可きかに就いての定信の苦心は、実に並大抵ではなかつた。
彼は先づ経済と教養、物質と精神の二方面から,大々的の革新を断行する事にした。「宝暦現来集」の巻十七に、次の様なお触れが出て居る。「此度御蔵米取御旗本御家人勝手向為御救、蔵宿借金仕方御改正被仰出候」事と書き出して、六年前の借財は凡て無効とし、返済するの要なく、其の他は利子を下げて、年賦で償還す可しと言つて居る。札差仲間の怨嗟に引きかへて、旗本御家人等の喜悦、想ひやる可きである。「家宿債多ク俸銭已ニ業ニ子銭家ノ有」となつた南畝も、斉しく此の恩典に浴したのであらう。
斯うして経済上の窮困を、緩和してやると共に、定信は大いに、彼等の無学と放埓と優柔とを、誡めたのである。即ち次いで出た御達しは、よく礼節を弁へ、一意専心、文武両道を励む可き趣を伝へて居る。だが余りに文武々々と言つて何事も窮屈に成つたので中には此の改革を、喜ばない者があつた。
曲りても杓子は物をすくふなりすぐな様でもつぶすすりこ木
などは反つて田沼時代を、追慕するものであり、
孫の手の痒いところへとゞきすぎ足の裏までかきさがすなり
などは定信の改革の有難迷惑なる事を、仄めかすものである。「天下一面鏡梅鉢」だとか、「文武二道万石通」など言ふ黄表紙が出たのも、此の頃の事である。「甲子夜話」を見ると、「太田直次郎と言へる御徒士の吟みける歌」として、
世の中にかほどうるさきものはなしぶんぶというて夜も寝られず
と言ふ落首が出て居るが、南畝自身は其の著「一話一言」の中に於て、「是れ太田の戯歌に非偽作なり。太田の戯歌に時を誹りたるものは無し」と明言して居る。其もその筈である。時は正に南畝の謹慎中であり、狂詠はすつかり止めて居たのだから、南畝がそんな事を言ふ道理がない。殊に彼は此の名宰相の善政に隋喜し、今や四十年の非を改めて、新しい生涯に入らんとする念に燃えて居たのだから、旁々「甲子夜話」の説は附会である。寛政元年の夏には、「小普請ノ者、修身嗜芸ニ依リ、格式擢用ノ儀」の御達しがあつて、轗軻不遇に泣く人材が、始めて登用される時期が来たのである。今や彼には、新な世界が与へられた。彼は進んで自己をば、其に順応させようとした。
青年時代の彼は、熱烈なる経斯文の学徒、松崎観海の教を受けて、経世済民を以て其の使命と観じたのであつた。が中途で先生を喪ひ、其からは周囲の誘惑と、其の性格に於ける享楽的傾向の優勢との為に遂に身を狂文学に委ねて、少壮有為の二十星霜を空費したのであつた。
けれども多年の享楽生活の反動として、彼の性格の他の半面なる努力的傾向が、発顕しなければならなかつた。
時や佳し、前代に弛緩した綱紀は再び粛正され、経済的に危期に瀕した武人階級は巧に救済され、富の威力を揮つた町人階級は、暫らく抑圧され、寛政改革の方策は、着々として其の緒につきつゝある。かくて政界の更新と、南畝一身の更新とが、うまく一致したのである。彼はこの機会を逃さなかつた。即ち寛政六年の春には、四十六の齢を以て、初々しくも学問吟味に応じて、而も甲科に及第した。其の熱心、其の根気は、全く驚嘆に値する。試験の顛末は「科場草稿」に、精しく出て居る。
寛政八年には、狂歌堂真顔に、四方の姓を許し、判者の権を譲る事にした。そして自らは、此の年支配勘定を拝命して居る。支配勘定とは、勘定奉行に属する幕府の会計吏員である。勿論端役には違ひない。けれども新しい仕事を求め新しい生活を始めようとする南畝である。彼は其に満足した。彼は其に傾注した。かくて彼は幸福であつた。だが其の幸福は余りに果敢なかつた。と言ふのは彼は其の糟糠の妻を失つたのである。
四十歳で父を失ひ、四十五歳で妾を亡ひ、四十八歳で母を失ひ、五十歳で四十九年の非を改めて祝福すべき新生に入るに当つて、最もよろしき人生の好伴侶を失つたのである。前半生に於ける南畝程、妻に対してタイラントであつた者はあるまい。そして南畝の妻程、夫に対して奴隷的奉仕に甘んじた者は更にあるまい。南畝が一遊女を妾として、狭い家に妻と同居させた一事が其を証する。そして妻が少しも不平を言はず、嫉妬を抱かず、よく命に服した事が其を証する。南畝は自らよく其を知つて居る。だから彼は熱涙を呑まざるを得なかつたのである。其の嗚咽の名残が詩となつた。そしていたましき妻の碑を飾つた。「万点桃花雨、粛々袖不乾」と言ひ、「自今頭上雪、歳々益 毿々」と結ばれた美しき悲歌である。
ところが妻の死後数旬にして、淋しき彼は自らその五十の寿を賀して、
竹の葉の肴に板の箆たてむ鶴の吸物亀のなべ焼
と洒落て居る。其につけて思ひ出されるのは、天才画家レムブラントである。彼は美しき妻ザスーキアの柩を、教会の墓地に葬るや否や、直ちにそのアトリエに引き返して、千古不磨の傑作なる自画像を完成した。そして驚いた事には、其の夜から、幼子の乳母なる女を妻とした。
一切は流れると言ふ宇宙の摂理を信じ、凡てが自然現象であると諦めて、ひたすら芸術に精進したレムブラントの心境は、まことに貴いものであらねばならない。南畝にそんな深い理会と強い意志とが、有つたかどうかは知らない。が妻の死を悼む涙の底から、自らの五十を賀し、進んで新しい仕事を楽しんだ彼の心情は、等しく雄々しいものでなければならない。
牛込仲御徒士町の家から、毎日欠かさず御役所へ勤めに出た。軽い疲労を覚えて、家路を辿る彼を、喜んで迎へてくれる者は、嫡子定吉を措いて他には無い。
楽しみは春の桜に秋の月夫婦仲よく三度くふ飯
と歌つたのは、其は昔の夢である。父子二人の淋しい生活、女手のない不自由な生活に堪へ兼ねて南畝はやがて、定吉に嫁を迎へる事とした。其は寛政十二年中の事と推せられる。十一年には、銅座役人として、大阪在勤を命ぜられ、旅支度までしたが、急に御取止めとなり、林大学守が編算して居た「孝義録」を、完成すべき仰を被つた。此の間の消息は、「寛政御用留」に精しい。其の頃の南畝は、相愛らずの貧乏であつた。官遊の際には、旅の手当が下り、扶持も培増しになるのを見込んで、大分買物をしたのに、急に中止となつたので、忽ち支払に困つて了つた。それで毎年二両宛、十五箇年賦で返す約束で借りた官金が、たつた三十両と言ふ惨めさである。
其は兎も角、「孝義録」の編纂が済むと、引き続いて御勘定所の帳簿の整理を、仰せ付けられた。其の苦心の程は、「竹橋蠧簡抄」及び「竹橋余筆」の序文によつて、察す可きである。或る時は余りの単調さに、
五月雨や日も竹橋の反古調べ今日も降るてふあすも古帳
と吟んでも見たが、また思ひ直して、真面目に努力を続けた。そして其の努力は、終に報いられる時が来た。即ち此の南畝の抄物は、江戸時代の政治史並びに経済史の研究には、必要欠く可からざる文献となつたのである。だが其の後の事で、此の大事業に対する物質的報酬は、まことに気の毒な程であつた。即ち十二年の冬に、「御勘定所御帳簿御用骨折相勤候為」銀子七枚を、拝領したに過ぎないのである。「孝義録」完成の際は、白銀十枚を下し置かれたのである。だが別に十一年中は、銀一枚宛の月手当、十二年の冬からは、二人扶持を頂戴したので,家族は減る、収入は増えると言ふ結果、大分余裕は出来て来たのであつた。
かくて寛政十三年には、愈々銅座詰として、大阪に差遣せらるゝ事となり、就いては支度の為に金二十両、其の他数々の拝領物をして、二月の末に初めて、関西への旅の人となるのである。
旅は人を啓発する。ゲーテはイタリーへの旅行を了へて、著しく古典に関する趣味と知識を豊にし、万葉集人は旅によつて、自然に親しみ、人をなつかしみ、愈々其の歌境を純粋にした。芭蕉は旅によつて、自然即神、俳諧即宗教の域にまで達する事が出来た。旅は人格を完成する。
南畝の旅はほんとうの旅ではない。其でも彼が其の見聞を広め、人と物とに対する愛を深めて、益々其の人格を円満ならしめたのは、前後二回にわたる、大阪ならびに長崎への官遊に、俟つ処が多いのである。
彼が任地から、江戸の人々に当てゝ書いた数十通の尺牘は、まことによく彼自身を語るものである。其の頃の彼の思想と生活とは、全く其のみによつて遺憾なく知る事が出来る。親しき者への書信に於ては、人は少しも自分を飾る必要を有たない。見たまゝ、聞いたまゝ感じたまゝ、考へたまゝを、其の儘告げる。従つて然う言ふ尺牘には、其の人の不断の姿が表はれて居る。素顔の美しさが表はれて居る。此の故に私は狂歌よりも、狂文よりも、将た何よりも、彼の尺牘を愛する。彼の尺牘は実に温い父の愛の結晶である。其の平明なそして淡白な書き振りにすら、私は彼の個性の色を見る。匂を嗅ぐ。更闌けし灯の下に、しみ/゛\と其に読み耽る時、寛容にして博大なる彼の人格は、何時しか其の触手を伸べて、優しくも私を抱擁する。私は南畝の尺牘を愛する。
定吉の嫁の妊娠を喜び、安産を祝し、新夫婦の無経験を案じて、育児上の事にまで、細々と気をつけて遣つて居るのが嬉しい。初孫は鎌太郎と名づけられたが、後年長崎から送つた書信中に、次の様なのがある。
「鎌太郎唐詩を誦し候由、一段の事と存候。一詩を覚候はゞ餅少し宛賞し可被遣候。定めて今は、祖父の事忘居候哉、但は覚居候や、筆硯を弄び候や如何」
異境の空に、遙かに児孫を憶ふ彼の真情は、誠に掬す可きものがある。「一詩を寛候はゞ」と言ふあたりなどは、可笑しさを通り越して、寧ろ涙ぐましくなる程である。「定めて今は」の条は、此の大阪祇役の後一旦江戸へ帰つて、暫らく可愛いゝ孫と共に暮し、間もなく長崎へ行つて了つたから、さう言つたのである。
定吉が徒然なる父を慰める可く、近詠の狂歌を書き送つた時に、「我も是故に、流汚名候事故、無益の事と、本歌をば詠覚候が宜敷候。旅行などは、和歌宜敷候」と、誡めて居るのは、注目に値する。
けれども此の頃、南畝の狂名は、益々旺になり、狂詠を罷めたと言ふものゝ、其が為に反つて隆々たる名声を博したのである。
「此の地の者、孰れも余が詩歌を渇望致候。只今迄所持致居候物も偽物多く候。此度鑑定致候」とも言つて居る。
世の中の人には時の狂歌師と呼ばるゝ名こそおかしかりけれ
南畝自身は、然う言ふ心算でも、人が承知しないのである。即ち、
また今年扇何千何百本書き散すべき口開きぞも
と言ふ位の勢である。狂歌に淫する事は無かつたが、昔の思ひ出に、興に乗じて狂詠に筆を染める様に、成つたのであらう。
宿は南本町五丁目に在つて、二階も有り、土蔵もあつて、かなりゆつたりして居た。銅座の役所は過書町にあり、南本町からは十町余であつた。
「旅宿は風入第一。広く綺麗にて、屋根の漏候気遣無く、自由に成候はば、其表へ持参致度候」
と言ふので、江戸の家の惨めさが分ると思ふ。
「私印判一寸押候へば、穴蔵の畳をあげ、井戸車の如く銀箱を引揚、諷々と渡申候。昨日は三百貫目今日は四百九十八貫目、八千三百両などと申候には驚入候。私印判初ての事と大笑致候。さて/\重き御役と、始めて心附申候。是は大切の事故、外へは御沙汰なし」自分の仕事に、軽い誇と重い責任を感じつゝ、実直に立働らく彼の姿は、懐しさの限である。役所では随分忙しいが、
「旅宿に帰候へば、門庭闃として無雑賓、烹茗拠梧或抄書或賦詩、仙境に入候」
と言つた調子で、至つて気楽である。
風雅な友には、蕪坊といふ狂歌詠み、蘇州と号した医者、天洋と称した詩人、其の他博識を以て有名な兼葭堂などがあつた。
閑暇には市の内外の名所旧蹟、神社仏閣を巡拝して旅情を慰め、郷愁を忘れて居た様である。
享和二年の初夏、一旦役を了へて江戸へ帰つた南畝は、一年置いて、文化改元五十六歳の秋には再び銅座役人として、長崎へ赴任するのである。長崎には翌二年の十月まで逗留した。往途には蘭奢亭薫が行を共にし、夜毎に南畝の足腰を揉んで、深い親切を示したので、「甚だ実儀なる者にて狂歌師には珍敷候」と賞められて居る。其は扨て置き、此の一年間に特筆す可きは、彼が余財の許す恨り、書籍を購入し、其の奇(「講」の右側+リットウ)なるものは、之を借覧書写せしめた事である。
「此の方当時、歳暮年忘も何も無之、吏事と奇書のみに消日申候」
と言ふ位の凝り方である。こんなに書物熱にうかされて、有頂天に成つて居るかと思ふと、急に心細い事を言ひ出したりする。寄る年波は争はれないものだ。
「好奇の僻も奇物に飽果候。鶯谷の一隠吏として、読書小酙を娯み申度候。山水も奇書画も、最早左のみに存不申候。本膳の後の吸物を見る如く、胸につかへ申候」
けれども愈々花のお江戸へ、憧れの鶯谷へ帰る暁には、実に夥しい奇書珍籍が蒐められてあつたのである。彼が如何に典籍を愛護秘蔵し、如何に其の散佚を防がんとしたかは、次の尺犢によつて明かである。
「近藤重蔵へ北斎画五十三次摺物一帖。屋代へ善光寺縁喜(三冊板本)。塙検校取次にて、松浦公へ宴曲抄(古の謡の様なもの)一帙(二十巻か十八巻か)貸置候。是は折々御催促、御取返置可然候」
彼が一生涯抄書して倦まなかつた理由は、「南畝莠言」の序によつて見る可きである。兎に角彼の不断の努力と勤勉とによつて、其の堙滅を免れた書は多い。吾々は大いに其の労に謝す可く、其の功を永久に紀念す可きである。
長崎滞在中、ロシアの使節レサノツトに、会見する事の顛末は、くどいから省略する。「唐紅毛オロシア人にまで、名を書留られ、絵の如き山水を目のあたり見、書画を沢山得候計が儲物にて、一刻も早く帰府致度候」
で長崎を引き上げるのである。「小春紀行」は此の時の見聞を記したもので、なか/\面白い。文章も枯れ寂びて、床しさの限である。何でも芭蕉の「奥の細道」を讃む趣がある。
文化五年から六年へかけては、治水の事に就いて、武相の間を東西に奔走した。「調布日記」を見ると彼が老躯に鞭つて、懸命に職務に尽瘁した悲惨な姿が、まざ/\と眼に浮ぶ。南畝程の学識ある者をば、土方の親分めいた役にしか、就け得なかつた当局者の不見識は呪を通り越して寧ろ笑ひ度くなる。時代の力は怖ろしい。寛政の改革などは蟷螂の斧だ。南畝こそ良い面の皮である。が兎に角彼はベストを尽した。弱いと言へば弱い。だが真剣さは貴い。
其の頃末の孫女が、もがさを病んでゐると聞いて、早速其の辺で梨を五つ程買つて、人に持たせて、尋ねに遣つたが、帰つて来て、もう快くなつた、と聞いて、
「嬉しなどは世の常なり。春雨しめやかに降れば、若鮎をなめ、酒飲みて臥しぬ」と書いて居る。老いて淋しき人の生活が、しみじみと物の哀をそゝるではないか。
玉川治水の功によつて、御切米も百俵十人扶持となり、大分生活が楽に成つて来た。文化六年には公儀から新に宅地を賜つた。
衣食住餅酒油炭薪何不足無き年の暮かな
だが幾らお金が出来ても、年をとつては仕様がない。
願はくは通り手形をうち忘れあとへ還らん年のお関所
と言つても駄目だ。其で自然楽しかつた昔の追憶となる。
春雨のほちほち古きその昔ゐつゞけけしたる遊び思ほゆ
である。年をとつては、詩や歌もうるさくなる。
詩を作り歌を詠みしも昔にて芋ばかり喰ふ秋の夜の月
更に文化十一年、六十六歳の「吉書初」に曰く。
「――もう幾つ寝て正月と思ひし幼心には、余程面白きものなりしが、鬼打豆も片手に余り、松の下も数多度くぐりては、鏡餅に歯を立て難く、金平牛蒡は見た計なり。まだしも酒と肴に憎まれず。一杯の酔心地に命を延べ、一椀の吸物に舌を打てば、二挺皷の音を思ひて、三味線枕の昔を偲ぶ。止みなん。止みなん。我年十に余りぬる頃は、三史五経をたてぬきにし、諸子百家をやさがしゝて、詩は李杜の腸を探り、文は韓柳の髄を得んと思ひしも、何時しか白髪三千丈、此の如きの親父となりぬ。狂歌ばかりは言ひ立ての一芸にして、王侯大人の懸物を汚し、遠国波濤の飛脚を労し、犬打つ童も扇を出し、猫弾く芸者も裏皮を願ふ。わざをぎ人の羽織に染め、浮れ女の晴衣にもそこはかと無く書い遣り捨てぬれば、吉書初とは言ふなるべし」
文政改元七十歳の早春、登営の砌り、神田橋畔に躓倒してからは、急に衰弱を増し、暫らく病床の人となつて居た。「奴凧」に、
「つら/\思へば、老病ほど見たくでも無く忌々しきものはあらじ。家内の者には飽きられて、善く取扱ふ者無し」
と愚痴つて居るが、之は畢竟老の繰言である。定吉夫婦が彼を除け者にしたのでも何でも無い。彼等は共に孝心の篤い良い子であつたのである。而も南畝は何時しか一人の妾を抱へて居る。老衰はしたものゝ、酒も飲めば遊びもする。芝居へも行けば、花見にも出かける。支配勘定を辞したのは怖らく文政改元春夏の候であるらしいが、さうすれば七十歳まで、御奉公に余念が無かつたので、その精力の絶倫さには、全く驚かされる。
彼が死んだのは、文政六年四月六日である。年は七十五であつたが、死ぬ三日前には、まだ妾を伴れて市村座へ行き、馴染の梅幸と団十郎の狂言を見、帰つてからも平生通り酒を飲み、安らかに寝に就いた程であつた。南畝辞世の狂歌として、世に伝へられるものは、時鳥鳴きつるかたみ初鰹春と夏との入相の鐘
以上私は、其の作品の断片を以て、南畝の人物と生活に就いて、不完全なる記述と批評とを敢てして来た。
が要するに彼は時代の子であつた。唯優れたる時代の子であつた。時代思潮の進むが儘に進み、時代生活の移るが儘に移つて行つた才子肌の人に過ぎなかつた。時代を超越し、時代を指導する様な天才肌の人では無かつた。
自我の旗幟を押し立てゝ、人生を直線的に行進する戦闘的革命的な面影は無くて、自我を没し、衝突を避け、一歩退いた余裕に於て、人生を平行的に逍遥する平和的保守的性格の持主であつた。此の意味に於て、彼は当代の奇才平賀源内・近藤正斎等の如き野心満々たる怪傑とは自ら其の選を異にすると雖も、南畝も亦単なる凡人ではなかつた。即ち既に述べた如く、彼は非凡なる凡人であつた。其の密度と容積の大なる点に於て、彼の自我は、何時も時代の為に、圧迫され通しであつた。かれは正面から其に反抗する力は持たなかつた。が圧迫されたる自我は、何処かに其の放出口を見出さねばならない。其が前半世の享楽生活であつた。即ち社会的階級的党派的に、圧縮されたる自我が、其の方面に逃れたのである。そして後半世の奮闘生活は其の反動であり、逆潮である。
其の狂詩・狂文・狂歌・洒落本・落語などは、大体に於て前期の享楽生活を反映するものであり、其の日記・随筆・考証・雑著・尺犢・纂輯の類は、ほゞ後期の奮闘生活を返照する。重ねて言ふ。南畝は実に優れたる時代の子であつた。偉大なる精力家であつた。其が彼をして、平民文学と日本文献学の上に、不朽の名声と絶大の功績とを残さしむる所以であつたのである。  
蜀山家集
去年六十六のとしのはじめに書きぞめし狂歌に、草稿を六々集と名づけて、ことし六十七のとしの夏までに書きはてぬ。例の七夕七首のうたよまんとて、いまだ俗をまぬがるゝ事あたはずといひけん七のかしこき人のふる事を思ひいでゝ、たんざく竹のはやしに、臂をとりて入りしこゝ地するまゝに、つゐに七首のうたとはなりぬ。さるまゝにこれを又七々集と名づけて、朝な夕なのたはことを書きそへんとなり。
文化乙亥のとしはづきの比 蜀山人  
七々集
年々の七夕七首ひこぼしのひく牛に汗し、はたおり姫の梭もなりつべし。今年は竹の林のふる事ながら、かの犢鼻褌をさらせし事を思ひ、七のかしこき人々の名によそへて稽康
あまの川ひきて水うつ柳かげてんから/\とかぢのはのうた
阮籍
短冊の竹の林のあをまなこあすしら露のうきめをやみん
劉伶
七夕に婦人の言をきくなとはちとさしあひな妻むかへ酒
呂安
星合の天の戸口にかく文字は凡鳥ならぬかさゝぎのはし
山濤
璞玉のよにあらはれぬ天河ふかきちぎりやかさねこん金
阮咸
天河さらすふどしのさらさらにむかしの人のふりなわすれそ
王戎
折からの桃も林檎もありのみに苦き李は星に手向じ
朱楽菅江狂歌草稿序
むかしわかざれ歌の友がきに朱楽菅江といふ人ありけり。姓は山崎名は景基ときこへしが、後に景貫とあらたむ。字を遺文といひ卿助と称す。西城へつかへて先鋒騎士たり。市谷加賀のみたちのあと二十騎町といふところにすめり。和歌をよくし、俳諧をこのみ、前句附といふものをたしむ。その比の俳名を貫立といひしが、人みな心やすくなれて貫公々々とよびて、ついにその名となれり。これにあけらといふ文字をかぶらしめしは、安永の比わがやどりにまとゐせし夜、行燈はりたる紙にたはむれて、われのみひとりあけら菅江とかきしをはじめとす。中頃菅江二家の姓をはゞかりて、漢江とかきかへしが、あづまの比叡山の宮のきかせ給ひて、もとよりたはれたる名なれば菅江といふとも何かくるしからんとのたまひしより、またもとの名にあらためしとぞ。そののち朱楽館と称し、豆腐をすけるによりて淮南堂と呼び、不忍の池のほとりにうつろひて芬陀利華庵ともいひき。われ六十七のとし明和の比椿軒先生の筵にありて、其の師静山先生遠忌のうたに、古寺秋鐘といふ題にて、古寺の秋のわかれはさらぬだにかなしき秋をかねひゞくなり、と菅江よみしを先生鐘ひゞく声と直させ給ひしとき、はじめて景基ある事をしりき。天明の比万載集えらびし比は、朝夕にちなみて筆と硯をともにせし事いひつゞくれば昌平橋の真木のたばねつくしがたく、御成道の馬車ひきもきらざるべし。ことし神田のほとりにすめる独楽斎真木炭といへるもの、菅江自筆小集を携へ来りてわが序をこふまゝに、老のくりごとくりかへし、小手巻のいとながながしくかいつくるになんありける。菅江のよめるうたの中にも人々のもてはやせしは、
あし原やけさはきりんもまかり出ておのが角ぐむ春にあへかし
いつまでもさておわかいと人々にほめそやさるゝ年ぞくやしき
わが命直にはよしやかへずとも河豚にしかへばさもあらばあれ
此の外あまたあるべし。
傾城と樽酒と河豚とを画きたる扇子に
こがれゆく猪牙の塩さいふぐと汁ひとたる物をやぶる剣びし
新川米屋のもとより剣菱の酒を贈りけるに
入舟はいかゞと案じわづらひし憂をはらふ剣菱の酒
此比上方の洪水に酒舟のいりくる夕なければなり。
萩寺
みさむらい萩の下露わけゆけば伏猪の牙と見ゆる大小
松阪屋の別荘は根岸といふ処にあり。はつき六日こゝにはじめて萩の花を見て夕日かげ山の根岸の西陣に錦織り出す萩のはつ花
大阪米市の商売道具は火縄箱・水手桶・柏子木・小判丁銀・往来六間にて、終日商の手合するゆへに、木火土金水の五行の称にあへば、その道具をゑりきて歌よめとこふにより、さて書きやりぬ。拍子木の木、火縄箱の火、小判丁銀の金、水手桶の水、かけひきあらそふ米相場、上るはのぼりて天気次第、濁るは下りて土間のあきなひ、あはせて木火土金水の五行にかなへるを、ざれ歌によめと人のこふによりて
米といふ字は八木土金水これぞ五つの花の堂じま
堂島の古名を五花堂島といへばなり。
ある人のもとより蝦夷の黒百合の苗をおくれるに、月草の花さきけるもおかしくて、黒百合がさくかと思ひつき草のうつろひしとはえぞしらぬ事
庭に朝がほ夕がほあり。隣のやねに糸瓜の花さきしもおかしく、
藍しぼり黄色に白くさきたるはあさがほへちま夕顔の花
これをたゞごとうたともいふべくや。
古河のわたりにすめる人うかれめのもとにことづてゝ、桑の木もてつくれる飯櫃をおくりけるに
これなくは中気やせんとまくらかの古河のおきやくの思しめし次
萩寺にて人々まとゐすときゝて、竪川より舟にのりゆくとて
細はぎの力やすめて萩見んとふすゐの牙の舟にこそのれ
寄武具恋〔萩寺席上当座〕
なぎなたにあひしらはれし我なればあふ事もまたなまり庖丁
花やしきの秋の七草みにまかりけるに、歌妓おかつもきたりければ、
七くさの花はあれどもをみなへしたゞひともとにかつものはなし
俄見物をよめる
見物は江戸町の人さらになしみんな木篇に京町の鳥
関宿侯のもとより香の物たたきといふものを賜りけるに、
香のものたたきいたゞき御礼を申上ぐべきことのはもなし
狩野探幽斎かしく梅の画に
これがかのかの探幽が筆にかく梅としきけばめでたくかしく
狩野養川の福禄寿の画に
寿をやしなふ門のほとりには頭のこるよ山とこそみれ
布袋舟にのりたるゑに
きんざん寺和尚も舟にのりの道ながむる空に月ひとつなし
蒲の穂を画がきたるが鎗のごとくにみえければ、
その時代あるかしらぬがもたせたる蒲の冠者の鎗二三本
浅草庵の剃髪を祝して
あらためて浅草のりの道にいる東仲町もとの市人
小松屋といふ飯屋の釜に、春注連をひき置きける。その釜鳴りしを祝ひて歌よめと人のいふに
此釜のうなる子の日の小松屋に千とせの春のしめやひくらん
紅葉に鹿のゑに
秋はてしのちは紅葉の吸物となるともしかとしらでなくらん
秋述懐
いさほしのならぬ名のみや秋のよの長き夜すがら何かこつらん
十六夜の日萩寺にて
山寺の庭のま萩の下露にいさよう月をかけてやりみん
うば玉といふ菓子をしらぬ人をあさみて
うば玉か何ぞと人のとひし時求肥といひて胡麻かさんものを
柑林狗のゑに
朝夕の手がひのちんがこゝろにもまかせぬものはあづけたる菓子
ふきといへるうたひめによみて贈る
ふきといふ草の名なればことぶきのふき自在なる名こそやすけれ
遠州浜松ひろいやうでせまい、そこでもつて車が二丁たたぬといふうたうたふをきゝて
さみせんのいとにひかるゝ盃のそこでもつてや長くなるらん
市川三升むさし坊弁慶にて大薩摩源太夫安宅の浄るりかたるをきゝて河原崎座東西の国おほさへよ武蔵坊あたかも花の江戸のおや玉
三升狐忠信
忠信も江戸の市川七代は一世一代などと格別
此比中村座にて中村歌右衛門一世一代の狂言きつね忠信なればなり。
秋草に鹿ふたつかける画に
秋の野のにしきの床にふたりねて何を不足に鹿のなくらん
狸図
陰嚢八畳敷、腹皷一挺声、文武久茶釜、其名世上鳴
身仕舞部屋にうかれめのむらがれる画に
傾城の身仕舞部屋は藻をかつぐきつねも干鱈さげてこんこん
初茸の画に
秋の田のかりほの庵の歌がるた手もとにありてしれぬ茸狩
ことしの春中村芝翫のわざおぎに其九重彩花桜といふ九変化のかたかきたる豊国の絵に、四季の歌よめと芝翫のもとより乞ひけるによみてつかはしける

文使。老女の花見。酒屋の調市
けさぞ文つかひは来たり酒かふて頭の雪の花やながめん

雨乞小町。雷さみせんをひく
雨乞の空にさみせんなる神のとどろとどろとてんつてんてん

やりもち奴。月の辻君
辻君の背中あはせのやつこらさやりもち月の前うしろめん

江口の君。石橋
冬牡丹さくやさくらの花の名の普賢象かも石橋の獅子
中村芝翫餞別に硝子もてつくれる手拭かけを贈るとて
引戻す手拭掛は浪華津の大手笹瀬の連城のたま
高砂の尉さかづきをもち、姥の徳利をかくせるかたかきたるに
過ぎますと姥はいへども高砂やかのかた腕に帆をあげてのむ
得人雅堂書
魚麗干(「网」+「留」)鱨鯊、君子有酒旨且多、署名三嶽霞樵印、大雅堂
奈無名何、日本橋南四日市、買得青銭二十波、請看世上文無
者、千八万客日経過
蘇鉄のゑに
大きなる蘇鉄じやさかひ妙国寺文珠四郎の多きかな糞
ながつき朔日森田やのもとより新豆の豆腐贈りけるに
進物の御礼まうすも山々屋まことにこれはあたらしんまめ
芝氏飛弾の任にゆくを送るとて
一寸たち一寸たちかへる木の鶴は飛弾のたくみの細工なるべし
蓬莱亭扇屋の額
なるは滝の水茶屋なれば蓬莱の道はいづくぞなじよの翁や
盆石に品川の景をうつせしときゝて
盆石の景には芝の浜庇ひさしく底をながめ入海
南天に寒菊の絵に
北面の窓の雪にや動くらん南の天のともし火のかげ
土岐城州のみたちに参りけるに、あるじ、暮るゝともかへしはせじな稀人のたづね車の轄かくして、ときこへさせ給ひしかば
生酔のまはりかねたる口車うちいでぬべき轄なければ
和櫟園見寄韻
誰道東方九千歳、竊桃三度世中遊、功名已共金銭擲、日月徒随質物流、桔梗御紋看瓦入、櫟国言葉学狂稠、先生寐惚噛臍久、未到毛唐四百州、
原詩
寄蜀山人寐惚子。櫟園狂生
先生趣似東方朔、玩世年来面白遊、一段機嫌酒疑浴、百篇狂詠筆如流、近郷在町聞風起、遠国波濤結社稠、打犬児童知寐惚、名高六十有余州
近江屋といへる商家のみせの中に柱あり。そのはしらがくしのうたをこふ
あふみやのかゞみの山は楽屋にておもてにたてし大臣ばしら
九月六日は母の忌日、九日は父の忌日なれば
山くづれ海かれにしを忘れめやそのなが月のむゆかこゝのか
母の忌日に
たらちねの乳をたらふくのみしより六十七の年もへにけり
大津絵座頭杖をふり上げて犬褌をひく
世の中は四方八面めくらうちふんどしをひく犬ぞうるさき
武蔵野
花すゝきほうき千里のむさし野はまねかずとても民の止る
紀乙亥秋日劇場事
芝翫去之、市鶴為之奴、来芝飛而逃、江戸日坂有三津焉、狂言冷色鮮矣人
芝翫が句に、漕戻すあとはやみなり花火船といふを、秀佳のもとよりおこして評をこひければ
年々の花火はたえず川開き
又内々によみしは
三津又の花火はたえず川びらきぬしでなければ夜は明けいせん
下の句は此の頃もてはやせる青棲のことばをもて役者を評せしことばを用ひたり。うまごのわづらひし時、鬼子母神のかけ物をかしける人のありければ
親の親いのりきしもの神なれば子の子の末も守らざらめや
駿河町のおかつがいもとありときゝて
するが町ふじの裾野にはらからのありとしきけばかつがなつかし
もろ人とともに舟にのりて、深川といふところに、何がしの山里あるをたつねゆく。うたひめおかつおきくもともにのれり
秋もやゝ深川さしてゆく舟はきをひかゝつてかつ酒をのむ
額の上に紙をはりて息にてふく絵に
つばきにて額の上にしら紙をはりこの虎の風に嘯く
唐人あまた巻物をひろげて見る絵に
晴雨とも来る三月三日には蘭亭の記の会主王義之
神田祭の宵祭の日、大島町大阪屋にて
祭礼を、古くひるみやといふ事は夜みやに人の大伝馬町
ことしの御用祭は通旅籠町より出て豊年の稲刈のわざに亀の引物、富本豊前太夫弟子あまたきやりうたひて車を引くをみて
千早振神田祭に豊年のいねをかりつる亀の尾の山
もしさやの昔の通旅籠町むべも富本一世一代
宵祭の日大丸のもとにて
大丸の大丸一座大一座酒のまん引用心々々
横大工町巨勝子円うるもとにて、あるいらつめによみておくる
千早振神田祭の申酉のわたらぬ先にみてし君かも
神田祭
九月明神祭礼前、外神田至内神田、桟敷両側如花並、蝋燭金屏光照氈。
本町薬店太中庵のもとめによりて
正銘のこれが本町一丁目江戸の太中庵の妙薬

酒をのむ陶淵明がものずきにかなふさかなの御料理菊
水鳥のすがもの里のたそがれに羽白のきくの色ぞまがはぬ
秋野
むさしのの千草の秋はから錦やまとにしきも及ぶものかは
秋の野をわけゆく道は一筋の原につらぬく露のしら玉
海辺月
いかなればくらげといへる文字なれどあかるくみゆる海の月影
寄泉祝
新川の流れを樽の口あけばくめどもつきぬ泉なるべし
白水をながすといへる言のはの文字はすなはち泉なりけり
鎮西八郎の絵に
八郎は弓手のながき生れにて琉球いもをただとりてくふ
龍田川の画に
龍田川もみぢ葉流るめりめりとわたらば錦横ざけやせん
大津絵の鬼三味線ひくかたかきたるに
さみせんもね仏も同じ鬼の首かた/\おれてくだけおれ/\
同鬼の居風呂にいる。虎の皮の褌雲の上に在り
虎飛戻天鬼躍淵とは如何々々
同奴雷におそれ挟箱のふたとみにて、耳をふたぐかた
奴でも二つの耳をはさみ箱もつての外につらきなるかみ
おなじく女のおどるかた
ちらほらと裾からみゆる甚九もて甚九おどりか何かしら菊
同お杉お玉
田舎にもさてよいこきうさみせんはお杉お玉の相の山かも
おなじく弁慶
弁慶が七つ道具もなぎなたのたゞ一ふりにしくものぞなき
遊女花妻が竹の画に
川竹のふしどをいでゝきぬ/゛\に袖ひきとめてはなつまじくや
同大井のかける山水に
島田よりちゝの金谷へわたるよし大井の川のとをき水あげ
清元延寿太夫へよみて贈る。ちゝの延寿斎と年頃なじみふかゝりし事を思ひて源のきよ元なればそのながれ二世のゑん寿のちぎり幾千代
鰹と茄子のゑに
鎌倉の鰹ににたる三茄子みな一ふじの高ねとぞきく
布袋梅の枝をくゞる画に
松の下いくたびくぐる南極のほしの南枝の梅もめづらし
娘藍錆のかたびらをきて、青傘をすぼめてもつ絵に
藍錆の藍より出でゝ青傘をひらかぬうちを娘なりけり
紅白の梅の画に
とくおそく一二りんづゝさきわけし南枝北枝の紅白の梅
蝦蟇仙人
みな人は蛇をつかふに仙人はひきがへるのみつかへるはなど
九月尽の日植木やの荷をみて
菊紅葉おりしり顔に植木やの秋を一荷にになひゆくらん
お玉が池にて見奉りしある女君のもとより、梅が枝に冠と末広扇をそへし加賀紋の絹を賜りければ
池の名のおたまものとて末広きうゐ冠の梅がかが紋
書画会は多く百川楼万八楼にてあれば
万八の六書六法五七言落つれば同じ百川の水
おそろしや書画の地獄の刀番つるぎの山をふむ草履番
市川鰕十郎浪花にかへるを送るとて、文一子の画がける鰕に題するうた
(歌脱落)
市川市蔵−市鶴ことし鰕十郎−新升と改名して難波にかへるを祝して
あらたなるかへなをみます市のつるなにはの葦はいせの大鰕
荘子に蝶のゑに
二三年已前に植ゑし郭ちうのさかした黄菊としら菊の花
富士
みづうみの出来たあふみの御届の二三日すぎて富士の注進
鎌倉円覚寺什宝仏牙の舎利、牛込済松寺にて内拝ありしとき
おがむならならくにしづむ事あらじ仏の骨が舎利になるとも
儒者としてこの宝物を見る事はこれ仏骨の表裏の侍
同じ日水稲荷毘沙門堂の紅葉をみて
鎌倉の舎利を見たれば毘沙門の塔はまだまだ青いもみぢ葉
朝に鎌倉の舎利を見しが、夕つかた薬研堀の辺よしの屋にて、山谷の墨跡一巻を見たり。うたひめおかつ黒き繻子の帯して来りければ
鎌倉の舎利と山谷の墨跡としめてお勝が黒繻子の帯
めづらしきお勝がしゆすの帯の肌ちよとさはりても千代はへぬべし
此日十月三日にして已前も又三絶と云べし。必不得已而舎之、於斯三者矣。先曰舎舎利。又曰舎山谷。自古皆有帯。帯無心不立。ともいふべし
市川鰕十郎加藤清正のわざおぎのゑに

朝鮮で鬼とよばれし神の名を名のれや鰕の髭に及ばず
中村芝翫の舞台にてゑがける吃の又平の像に
上方の役者は性がきらひじやといはんとしては吃の又平
十二月の画賛
正月若水
湯の盤の銘にくめる若水はまことに日々にあらたまのとし
二月燕
かりがねの交代なればつばくらも野羽織きてやきさらぎのころ
三月鶏合
もゝ敷の桃の節句ににはとりを二羽あはせてやみそなはすらん
五月菖蒲
長命のいととしきけば薬玉のあやめの酒の百薬の長
七月二星に月
天の河ふたつの星の仲人はよひのものとや月のいるらん
八月稲穂に雀
むらむらと雀のさがすたつなもの落穂ひろふぞあまの八束穂
九月菊に琴と酒壼
淵明がつくらぬ菊に糸のなきことたるものは一盃の酒
十月柿栗
神無月神の御留守にうみ柿のいつみの栗とゑみさけてまつ
十一月(歌欠)
十二月(同上)
老子嬰児八十歳、東方桃樹三千年
よろこびのあまの羽衣たちぬはん君がみけしを置きそめし日に
浦島太郎の画に
乙姫の吸つけざしものまれねばあけてくやしき玉煙草かな
弁慶扇を里の子にわかちあたふるかたかきたる
弁慶が里の子どもにくれてやる堀河御所の万歳あふぎ
孟宗の画に
末の代となりゆきふりの孝行も孟宗竹もやすくこそなれ
桔梗
秋ちかく野べ一画にさきいでゝ月のかゞみや磨んとすらん
百合
くれないのあつき日影に夏の野の露わきかへるさゆりばの花
菜花
春の野の蝶々とまれなの花にこがねはたれもにくからぬ色
阪東秀佳〔三津五郎〕、中村芝翫〔歌右衛門〕やりもち奴のわざおぎのゑに
大和やと加賀やと江戸と大阪の奴は外にまたない/\/\
かねといへる小女の虫のやまひをやみける時
心よくいねのしだりほかりいれて虫のかぶれる気づかひはなし
金太郎小僧がもてる熊のゐにおかねが虫やふみつぶしけん
兎の画に
枇杷の葉をもときこしめし玉兎それでお耳や長くなりけん
蝦夷細工の飯匙に
駒の爪つがるの奥のゑぞ人の髭あげてくふめしやもるらん
紅葉に秋茄子のゑに(歌脱落)
なまづ二つ不忍池にはなつとて
おさへたるなまづはなしの種ふくべいけるをさくに不忍の池
下谷根津氏彦五郎菊見にまかりて
花よりも葉をやしなふやかたからん春からわけし根津氏の菊
同じやどりにいたらんとするに、河東節『松の内』をあるじのかたるをきゝて南陽の河東のふしをきくの花みこしの松の内ぞゆかしき
きくの花もすそに鞠のとくさぐさくずのからまる竹垣のもと
高砂尉と姥との絵に
高砂の松の落葉をかきよせてたくや二人の茶のみ友だち
神無月十三日甲子の夜、堺町泉屋のもとに、万秀斎の花を挿むをみて
甲子にこがねの菊をいけの坊水ぎはたちてきよきいづみや
うしろむきの大黒をゑがきて
世の中にうしろをみせてわがやどにむかひてゑめる大黒のかほ
土橋帰帆深川八景の内
あらがねの土橋にこがれゆく舟もちよとたちかへれひらに平清
平清は料理茶屋の名也。一号養老亭
八山紅葉
もみぢばも七つ八つ山御殿山にしきのとばりかゝげてぞみる
霊芝
ひとふたつ三つ秀たる草みればよつの翁のとしもつむべく
東厚子のもとにのろま狂言をみて
とりがなくあづまなまりの若かいでこれやのろまの玉子なるらん
猿猴盃をとる絵に
曲水のゑんこうが手をのばしてもとることかたきさかづきの影
福禄寿亀図
南極老人頭似匏、万年亀甲尾如毛、人間万事慾無戴、頭与年齢不厭高
みちのくの風俗かきたる巻物に
みちのくの十ふのすがごも一巻にかきつくしたる壼のいし文
栄之がゑがける柳に白ふの鷹に
右にすへ左にすゆるひともとの柳はみどり鷹はましらふ
白木や夷講十月二十二日
西の宮神のみまへにかけ鯛をならべてすゆる台のしろ木や
柳樽桜鯛をもこきまぜてけふぞ小春の若夷講
白木屋にて栄之のかける黄金の龍の富士の山をこす絵に
としどしにこがねの龍ののぼり行ふじの高根の雪のしろ木や
同じく高どのに、白隠禅師のかける竹の葉に鮎をつけたる絵に、鰷はせにすむ、鳥は木にとまる、人はね酒の気をやすむ、と書かせ給へるかたへに、一方をこひければ
惜いかな白隠和尚出家してさすがさびたる鮎もくはれず
此夜何がし新宅の祝にゆきけるに、去年伊勢に写せしとて見せられける往昔童謡録といへるものの内に、鰷は瀬にすむ、鳥は木に泊る、人は情の下に住む、といふ歌あり。白隠和尚のかき賜へることばも此の頃はやりし歌によりてなるべし。さてさて書物といふものは一日もよまねばならぬものにて、其の日の事が其の夜にしらるゝ重宝なるものなり。
仙人駕鶴
遼東の華表の前の立場にて仙人の乗る鶴の宿かる
茶屋長意のもとにて時雨ふりければ
村しぐれふりはへていこふ呉ふくばしなじみの茶やにきぬるうれしさ
同じ日歌妓おかつさはる事ありて来らざりければ
おかつとは馴染といへどかつみへず茶屋が茶屋でもいかゞなる茶屋
鎌倉河岸の豊島屋のもとにて夷講の日、辰斎夷の鰹つりたる所画きければ
名にしおふ鎌倉河岸の魚なれば鯛より先にゑびす三郎
酒ぐらは鎌倉河岸にたえせじなとよとしまやの稲の数々
大津絵の讃
雲井から落す太皷の鳴神は天の怒をおろしてやとる
福寿草の画讃
花生福海波、根固寿山名、
元日の草としきけば春風のふくと寿命の花をこそもて
弁慶が鐘をかつぐ大津絵に
叡山のゑい/\/\と弁慶が力の程を三井寺の鐘
桔梗おみなへしの画に
陣中へ女はつれぬはづなるを桔梗が原にたつ女郎花
鳥居にたんぽゝの絵に
初午の鳥居と思ふつぼすみれきねがつゞみのたんぽゝの花
茶事をあさみて
つくばひていかほど手をばあらふともにじり上りにつかむわらぐつ
大黒ゑびす二俵の米をさしあげたるかたかきたるに
大黒のふめる俵を曲持に布袋も腕をまくるなるべし
尾上梅幸、菊五郎と改名せしを賀して
千金の春をもまつの下陰に菊後の梅の花の顔みせ
松かげに立てるまなづるのゑに
高砂のまつの謡の一ふしにさす胡麻塩のまなづるの色
ひきがへる年始にきたるゑに
年々に御慶めでたく候とかいるのつらへかゝる若水
四日市魚会所にて、歌妓おきをの来りければ
あたらしき魚の数々品川のおきをのりこむ押おくり舟
何がしの宿に雪ふりける日、白き鳩の蔵の内に飛入りしを賀して
ふり来る三枝の礼のしら雪のみくらの内にはいる銀鳩
剥六々歌仙色紙、以古役者絵代為一帖因題
新明六ゝ歌仙店、張此狂言役者図、莫道狂言歌舞賤、其猶万葉集古今乎
十月晦日の花柳屋とともに市川三升をとひしに、十三年目にて堺町へかへりしときゝて
たれもきけ十三年のかへる花堺町ではしばらくの声
ことしの顔見世堺町は立形多ければ男湯とよび、木挽町は若女形多ければ女湯といふ。葺屋町は嵐三五郎ふあたりにてしまひし後は顔見世なし。故にあさみて薬湯ともよび、又は水きれにて休ともいふ
女湯も男湯もある世の中に足の病はいかゞくすり湯
芳村おますの女子をうめるを賀すしてよめる。名は米といふ。長芋問屋何がしの子なり
米の数ますにはかれどつきせじなちぎりも長きいもとせの中
酔中直江氏によみておくる
酒のんだ上杉なればはかりごとあるべき直江山しろの守
三升の暫のわざおぎを
暫くといふ一声に大入の二千余町の花の江戸ツ子
中村座に沢村田之助下りければ
男湯も入込の湯となりにけり衛士のたく火の松に田之助
関根氏美濃尾張の川々のつゝみを修理すべき仰せ事うけ給はれるに、虎の絵にうたをこひければ
千里ゆき千里かへれるいきをひは虎の尾張や美濃の川々
同じく毘沙門天をゑがきし扇に
来年は子のとしなれどうしとらの関根をまもらせたもん天
ある高どのによべより酒のみて、えもいはぬものつらきちらして
老ぬれば又あたらしく二丁目にこまもの店を出さんとぞ思ふ
文化乙亥のとし水無月十三日、難波の蕪坊みまかりけるときのうた
極樂の東門前にすみぬれば目をふさぐとも道はまよはじ
思へば享和はじめのとし、なにはにまかりし時、折々なれむつみし事きのふの夢の心地して
われむかし転法輪の車みちたづねし寺の西門中心
歌妓おかつの丸髭にゆひしをみて
さゞれ石のいはほとなれる寿はよもぎが島田丸くなるまで
栄之の画に瀬戸物町おのぶと駿河町おかつをかけるをみて
われものの瀬戸物町もまた過ぎぬ島田も丸くするが町より
大のしや富八の額に
盃も客の一座と大のしの富八此屋を潤しぬらん
新橋伊勢島画帖序
この比世に名だゝる人々の書画のふたつ文字牛の角文字、伊勢島のふるきをたづねてあたらしき橋のたもとに、雨にきる合羽の袖たゝみかさねつゝ、何がしのみたちの紋賜はりし蔦かづらながくつたへんとて、はし鷹の餌かひの雀の千声に鶴の一声をまじへ、鳩に三枝の礼義三百威儀、三千のこがねにもかへがたき一帖あり。之にそのことはりを書てよとあるじのもとめいなみがたく、あたり近き薬品の味をなめて、柳原のいとぐちをとくことしかり。
戴斗子三体画法序
書に真行草の三体あり。画も亦しかり。豈たゞ書と画とのみならんや。花のまさにひらくや真なり、かつちりかゝるは行なり。落花狼籍は草なり。月のまさにみつるや真なり。弓張月のかたぶくは行なり。みそかにちかき有様は草なり。雪の降りつもるや真なり。わた帽子とふりかゝるは行なり。大根おろしととくるは草なり。しからば雪ころばしはいかゞといはれ、この返答に行くれて、後へも先へもまゐりがたく、これなん窓の梅の北斎が雪の封きり絵本の版元、十二街中にあまねく円転して、世上に流行する事、猶雪まろげの布袋とよめり、雪仏とよめり、雪の山ともかたちをうつして、気韻生動いきてはたらくいきほいは、北斗をいただくきつねの如き変化自在の筆のあとに、かきつくす稿本数十張、これを三体画法と名づく。
文化乙亥のとし雪のあした蜀山人
ふきや町高木屋にて
高きやにのぼりて見ればふきや町民のかまどのにぎやかなみせ
千住にすめる中田六右衛門六十の寿に、酒のむ人をつどへて酒合戦をなすときゝ、かの慶安二年の水鳥記の事を思ひて
よろこびの安きためしの年の名を本卦がへりの酒にこそくめ

はかりなき大盃のたゝかひはいくらのみても乱に及ばず
定家卿月をみる絵に
十五夜にかたむく月の歌よめばあかつきのかねごん中納言
木挽町松川といへるやどの額に、伊川法眼の画がける梅に福寿草をみて
春風のふく寿さうさう咲きいでゝ梅の立枝の花をまつかは
竿の先に皿をまはしてたてるに、つばくらの竿にとまれるかたちかきたるに
春の日の長竿なればくるくるとまはれる皿にとまるつばくら
福禄寿のつぶりをから子のかつぎたる画に
福禄寿みつをかねたる長つぶりからこのかたにかけておもたき
冬至の日浅草司天台にて〔霜月二十六日天気よし〕
天正の冬至の晴かけふの日は七観音か御講日和か
小西氏八十八の賀に
長生ときく仙人の子にしあれば八そぢ八とせはいまた童べ
あづさ弓八そぢ八とせを玉椿やちよの春のためしにぞひく
岩井杜若のわざおぎをたゝへて
杜若もとゆえに紫の朱をうばへる女しばらく
みつ扇まねくこがねのやまとやは日本一の花の顔見世
見物は日々にあらたに又日々にはいる女の銭湯の盤
杜若に玉盃を贈るとて
硝子をさかさにくめばうつくしき玉のさかづき大入のさけ
瀬川多門名を菊の丞と改めしを祝して
大あたりきくのはま村いく瀬川きのふの多門卿の君が名
このたびよしつねのおもひもの卿の君のわざおぎなればなり。
中村座にて阪東杢蔵といへる少年、羅生門かし青野といへる小女のわざおぎをみて顔色の奇野がはらのきりみせもいまは千とせの鶴賀新内
因州鳥取の大夫のふところ紙いるゝものに、うたかけといはれてとりあへず
千年の鶴の鳥取たちわかれいなばの山の松に巣をくふ
源氏絵の色紙をみて
此の色紙土佐にもみえず狩野家にもあらねばすこし二割源氏絵
江口遊女象にのる絵
江口遊君尻自重、普賢大象鼻何長、文珠若衆是馴染、不駐西行乞食坊
現金にかひなばわづか百象のかりのやどりをおしむ君かな
同じく西行のゑに
ふんばりが江口をあいてかりのやどに心とむなと釈迦に心経
後水鳥記
文化十二のとし乙亥霜月廿一日、江戸の北郊千住のほとり、中六といへるものの隠家にて酒合戦の事あり。門にひとつの聯をかけて、
不許悪客〔下戸理窟〕入庵門南山道人書
としるせり。玄関ともいふべき処に、袴きたるもの五人、来れるものにおのおのの酒量をとひ、切手をわたして休所にいらしめ、案内して酒戦の席につかしむ。白木の台に大盃をのせて出す。其盃は、
江島杯五合入。鎌倉杯七合入。宮島杯一升入。万寿無彊盃一升五合入。緑毛亀杯二升五合入。丹頂鶴盃三升入。をの/\その杯の蒔絵なるべし。
干肴は台にからすみ、花塩、さゝれ梅等なり。又一の台に蟹と鶉の焼鳥をもれり。羹の鯉のきりめ正しきに、はたその子をそへたり。これを見る賓客の席は紅氈をしき、青竹を以て界をむすべり。所謂屠龍公、写山、鵬斎の二先生、その外名家の諸君子なり。うたひめ四人酌とりて酒を行ふ。玄慶といへる翁はよはひ六十二なりとかや。酒三升五合あまりをのみほして座より退き、通新町のわたり秋葉の堂にいこひ、一睡して家にかへれり。大長ときこえしは四升あまりをつくして、近きわたりに酔ひふしたるが、次の朝辰の時ばかりに起きて、又ひとり一升五合をかたぶけて酲をとき、きのふの人々に一礼して家にかへりしとなん。掃部宿にすめる農夫市兵衛は一升五合もれるといふ万寿無彊の杯を三つばかりかさねてのみしが、肴には焼ける蕃椒みつのみなりき。つとめて、叔母なるもの案じわづらひてたづねゆきしに、人より贈れる牡丹餅といふものを、囲炉裏にくべてめしけるもおかし。これも同じほとりに米ひさぐ松勘といへるは、江の島の盃よりのみはじめて、鎌倉宮島の盃をつくし萬寿無彊の杯にいたりしが、いさゝかも酔ひしれたるけしきなし。此の日大長と酒量をたゝかはしめて、けふの角力のほてこうてをあらそひしかば、明年葉月の再会まであづかりなだめ置きけるとかや。その証人は一賀、新甫、鯉隠居の三人なり。小山といふ駅路にすめる佐兵衛ときこえしは、二升五合入といふ緑毛亀の盃にて三たびかたぶけしとぞ。北のさと中の町にすめる大熊老人は盃のの数つもりて後、つゐに萬寿の杯を傾け、その夜は小塚原といふ所にて傀儡をめしてあそびしときく。浅草みくら町の正太といひしは此の会におもむかんとて、森田屋何がしのもとにて一升五合をくみ、雷神の門前まで来りしを、其の妻おひ来て袖ひきてとゞむ。其辺にすめる侠客の長とよばるゝ者来りなだめて夫婦のものをかへせしが、あくる日正太千住に来りて、きのふの残り多きよしをかたり、三升の酒を升のみにせしとなん。石市ときこえしは万寿の杯をのみほして酔心地に、大尽舞のうたをうたひまひしもいさましかりき。大門長次と名だゝるをのこは、酒一升酢一升醤油一升水一升とを、さみせんのひゞきにあはせ、をの/\かたぶけ尽せしも興あり。かの肝を鱠にせしといひしごとく、これは腸を三杯漬とかやいふものにせしにやといぶかし。ばくろう町の茂三は緑毛亀をかたぶけ、千住にすめる鮒与といへるも同じ盃をかたぶけ、終日客をもてなして小杯の数かぎりなし。天五といへるものは五人とともに酒のみて、のみがたきはみなたふれふしたるに、おのれひとり恙なし。うたひめおいくお文は終日酌とりて江の島鎌倉の盃にて酒のみけり。その外女かたには天満屋の美代女、万寿の盃をくみ酔人を扶け行きて、みづから酔へる色なし。菊屋のおすみは緑毛亀にてのみ。おつたといひしは、鎌倉の盃にてのみ、近きわたりに酔ひふしけるとなん。此外酒をのむといへども其量一升にもみたざるははぶきていはず。写山、鵬斎の二先生はともに江の島鎌倉の盃を傾け、小杯のめぐる数をしらず。帰るさに会主より竹輿をもて送らんといひおきてしが、今日の賀筵に此わたりの駅夫ども、樽の鏡をうちぬき瓢もてくみしかば、駅夫のわづらひならん事をおそれしが、果してみな酔ひふしてこしかくものなし。この日調味のことをつかさどれる太助といへるは、朝より酒のみてつゐに丹頂の鶴の盃を傾けしとなん。一筵の酒たけなはにして、盃盤すでに狼籍たり。門の外面に案内して来るものあり。たぞととへば会津の旅人河田何がし、此の会の事をきゝて、旅のやどりのあるじをともなひ推参せしといふ。すなはち席にのぞみて江の島鎌倉よりはじめて、宮島万寿をつくし、緑毛の亀にて五盃をのみほし、なほ丹頂の鶴の盃のいたらざるをなげく。ありあふ一座の人々汗を流してこれをとゞむ。かの人のいふ。さりがたき所用ありてあすは故郷に帰らんとすれば力及ばす。あはれあすの用なくば今一杯つくさんものをと一礼して帰りぬ。人々をして之をきかしむるに、次の日辰の刻に出立せしとなん。この日文台にのぞみて酒量を記せしものは、二世平秩東作なりしとか。
むかし慶安このとし、大師河原池上太郎左衛門底深がもとに、大塚にすめる地黄坊樽次といへるもの、むねとの上戸を引ぐしおしよせて酒の戦をしき。犬居目礼古仏座といふ事水鳥記に見えたり。ことし鯉隠居のぬし来てふたゝびこのたゝかひを催すとつぐるまゝに、犬居目礼古仏座、礼失求諸千寿野といふ事を書贈りしかば、其の日の掛物とはせしときこへし。かゝる長鯨の百川を吸ふごときはかりなき酒のともがら、終日しづかにして乱に及ばず、礼儀を失はざりしは上代にもありがたく、末代にまれなるべし。これ会主中六が六十の寿賀をいはひて、かゝる希代のたはむれをなせしとなん。かの延喜の御時亭子院に酒たまはりし記を見るに、その筵に応ずるものわづかに八人、満座酩酊して起居静ならず。あるは門外に偃臥し、あるは殿上にえもいはぬものつきちらし、わづかにみだれざるものは藤原伊衡一人にして、騎馬をたまはりて賞せられしとなん。かれは朝廷の美事にして、これは草野の奇談なり。今やすみだ川のながれつきせず、筑波山のしげきみかげをあふぐ武蔵野のひろき御めぐみは、延喜のひじりの御代にたちまさりぬべき事、此一巻をみてしるべきかも。
六十七翁蜀山人
緇林楼上にしるす
傘古骨買の声をきゝて
この頃の天気のよきにからかさのふるほねかひて雨やまつらん
猿子をあはれむ絵に
子を思ふさるの心は人間に三筋ばかりや毛もましぬらん
みやこの崋山のゑがきし女のゑに
ふり袖のみやこのてぶりわすられずなにはの帰りあしにみてしが

いにしへの吉野よくみし人しあらばかゝるあそびのさまやとはまし

みどり子をもつべき末はまろが竹すぎにしいもが袖にしらるゝ

なめてしるくるしきものと旅衣きそ道中の軒の玉味噌
詠五色狂歌

藍瓶の藍よりいで、紺屋丁柳つゝみになびく染もの

金屏風菜たねの花の御殿山同じ色なるてふてふつがひ

山王の夜宮の桟敷しきつめてみせの柱もつゝむ毛せん

八朔の白無垢きたる傾城の雲のはだへのふりもよし原

すみだ川墨すりながす雪ぞらに今戸の烟たつ瓦竈
十二月の景物に女の風俗をゑがけるに
正月羽子板に娘
ねがはくは手がひの狆となりてみんやあらよい子や千代のこきの子
二月摘草に囲者
籠の鳥かこはれもののつみ草はいつか広野にすみれたんぽゝ
三月汐干の浜女
つまとれる汐干にみえぬ貝と貝あはせてうつせはまのせゝなぎ
四月黒木売の女房
一声を人に忍ぶの黒木うりやせや小原の山ほとゝぎす
五月菖蒲湯娘
湯上りにみしをあやめのねざさしにて下女のさつきが文の取次
六月三線芸者
さみせんの駒がたさして二上りの舟は夕ベに三下りかも
七月七夕官女
黒がみもいつか素麺としどしの七夕のうたよむとせしまに
八月白無垢傾城
北国のしるしの雪のしろむくはたれをたのみのけふの約束
九月生花後家
此花の後にはいける甲斐なしとたけなる髪をきりかぶろ菊
十月夷講の下女
神代より赤女といへる魚の名に若えびすとてこしをぬかしつ
十一月酉の市屋敷者
御屋敷の外面如ぼさつ内心は慾の熊手にかきとりの市
十二月市帰り女房
浅草の市に女のたつ事は三十年も前にてはなし
海老のゑに
いせ海老もかまくらえびも芝海老のお江戸にこしをかゞめてぞよる
周信のゑに猩々雪を杯にうけもちたるかたかきたるに
酔ざめにいざひとさしと盃も雪をめぐらす猩々の舞
鍾馗捉鬼図
笛ぬすむ鬼をとらへて笛ならふをにこもれりとしらぬ大臣
浅草市
浅草の市にひかれて梓弓矢大臣門いづるひとむれ
歳暮
行くとしをしめゆふうちにくる春をまつやまつやの声ぞ聞ゆる
とめたとめた暮れゆく年をおつとめん草摺引のたぐひなりせば
低屋丸彦のろま人形つかふかたかきたる画に、歌かきてよとその子のこふにまかせて今の世にのこるくぐつのたはぶれもあたゞのろまの露の丸彦
芋のゑに
畑中にかぶりふれども皆人のほりするものはいもが面影
破魔弓のゑに
高砂の尉と姥とは一対の弓のつるかめ松と竹の矢
中村松江の来れるに
たまさかの君の御出を松江とて三光鳥の初ねをぞきく
甲子の日に小槌をゑがきて
智仁勇みつの宝をときどきにうち出の小槌ゑこそわすれね
仁と倹あへて天下の者たらずみつのたからをうち出の小槌
春の夜のたゞ一時も千金の月や小判のはし居してみん
達磨画賛
南天竺の菩提達磨はるばると西より来りては梁の武帝にまみへし時、民の膏血をしぼりし堂塔伽藍をつくるをみて無上功徳とこゝろえ、つゐに少林のもとにかくれて面壁九年、教外別伝不立文字とはいへど、一切経の板行もこの門流の末になりて、おがみづきのめしくふぼんさんも、この蘗板のおかげによりて大般若の転読も出来、五七言の偈でも作るはまだまだ此輩なるべし。いたづらに雪まろげの作りものとなりて、子供の杖に穴をあけられ、疱瘡見舞の不倒翁、おきやがれ小法師とあたまをはらるゝも、また白眼のいたりならずや。松前のうかれめを名づけて我の字といふ
松前のまつ人の名はえぞしらぬ我の字といへるわれならなくに
蜀山人々々々とにせ筆の多ければ
書きちらす筆は蜀山兀として阿房の出るにた山師ども
春の比みやこにゆく人に物をおくるとて蒔絵にせんといふうたをこふに
(歌脱落)
瓢箪から駒の出る絵に
瓢たんを出でたる駒やかひつらん斉の景公馬は千なり
香取屋又七四十二の厄に
四十二の厄もいつしかこゆるぎのいそいそとしてむかふいそかぜ
これよりは六七十も八十も九十も百もいはふ香とりや
尾関矢之助養子にゆきける祝に門松をゑがきて
松かざり一かどふえて破魔弓のねらひし的にあたる矢之助
白米吉と改名しければ
段々に禄もすゝみて取上る末はかりなき米の数々
傾城禿にきせるもたせたるかたかきたるに
けいせいの与力は通ふ神(脱字)吸付て出すきせる一本
生姜と蕃椒の画に
はじかみをすてずにくひし聖人もとうがらしをばくふやくはずや
服紗にかきし竹の画に
千代よろづ幾よをかけて音づるゝ風のふくさになびく呉竹
八景
日の宮の晴嵐
さしのぼる朝日の宮の朝あらしはれてまばゆき床の山風
高橋夕照
山にいる日も高橋と思ふまに田づら一面てりわたるかげ
鹿野山暮雪
さを鹿の山にはやつの御耳のふりたてを見る雪の夕ぐれ
花下楽秋月
上々も下々らも秋の月一つながむるこゝろ千差万別
歓喜晩鐘
二またの大根を時の撞木にて入相のかねくわん/\喜天
阪戸夜雨
夜もすがらしきりふる木の松の雨あすの阪戸の道やぬからん
原田落雁
ひらふべき人さへみえず目の下の原田にちかく落る雁金
畔洲帰帆
入船は一ばん二ばん洲の上に浦賀の切手帰る帆のあし
六十七になりけるとしのくれに
わがとしもけふの日あしも六十あまり七つ下りになりにけるかな
歳暮
雪ふらず天気もよくて火事もなしひまさへあればよい年の暮
祝歌
箒たて草履へ灸をすゆるとも千秋万歳われは長尻

冬がれに朽ちにし草も時をえて野辺の蛍の光とぞなる
豆男画巻序
いせ物がたりのまめ男はまめやかなる男なるべきを、形のちひさき豆にたとへて色事の豌豆まめにかきなせしは、一合八文舎のたはぶれにして、大通豆の世のことわざなる、青豆の青黛、黒豆の黒仕立、枝豆の枝をかはし、羽根をならぶる雁くひ豆も、鬼うち豆の年を重ねて、座禅豆のさとりをひらく豆右衛門のむかしがたりを、鳥文斎の筆まめにゑがゝれし一巻に、わが口まめの序をそへよと、豆のまめがら七あゆみ、七里かへりてくふみそ豆に、そら豆のそらごとをまじへてしるす。
白藤の説
主人の号を白藤といへるは熊野鈴木の氏によりて、藤白根といふ事なるべし。東上総の夷潜の郡白藤源太の事にてはあるべからず。そもそも長き藤かつらくりかへしいへば、藤原の宮のふるごとはさらなり天の児屋根のみこと藤氏の栄は北の藤波さかりにして、藤のしなひの三尺あまりと、いせ物がたりに書きしるし、源氏の藤壺藤のうら葉、南円堂の藤は南都八景にあらはれ、野田の藤は浪花の酔舞にのこれり。亀戸の藤は門字池にたれ、佃の藤は碇綱と長さをあらそふ。藤寺は根岸と小日向にして、藤沢寺は遊行の道場なり。大津絵の娘は藤花をかつぎ、神明の千木箱は藤をゑがく。香櫨の藤灰うづだかくして、香匙火箸をまち、連歌の藤のはながきは一軒の執事につたふ。牛は朝から藤のはなづらを通され、松のふぐりは藤づるにしめらる。八ツ藤の御紋、みとせの藤衣、色目に藤色藤ねづみ、紋に上り藤下り藤、八百屋お七の紋は藤巴といひつたへ、藤伊が紙子は富士山をはりぬく。藤屋のあづまは与五郎になじみ、遠藤武者はけさ御前にはまる。藤戸のわたしは佐々木が先陣、斎藤太郎左が身がはり番頭、佐藤兄弟が忠義、加藤清正が鬼しやぐはん、後藤又兵衛が生酔、藤堂家の先手のはなしはすり毛なしの馬谷にゆづり、近藤助五郎清春がむかし絵は骨董集の後編をまつ。呉服後藤今後藤、後藤がほりもの三所ものはみな藤棚の上にあげて、藤間のおどりを一おどり、狂言綺語のたはむれに、紫藤花落て鳥関々たる白氏文集、その白の字をちよとからかつて、藤といふ字の上におき、白藤などはどでごんすともいはまほしけれ。
十二単衣の装束に十軒店の節句前を思ひ、すべりがみのたけ長きに五丁町の髪洗をしのぶ
ひのはかま一つぬぎても二つ三つよついつゝぎぬむつかしき恋
六十八になりけるとし
五十から十八年のあまつ風春狂言の雪のまくあき
かうがいばしにて
年礼のかりの一つらかへるなり後なが先にかうがいのはし
春のはじめ麻布さくら田町霞山いなりの前にて
やがてさくさくら田町のさくら麻の麻布のほとりまづかすみ山
鳥越の明神にまうでゝ
六十あまり七曲りをもゆきすぎて又としひとつとりごえの神
筋違橋より浅草までの道を俗に七まがりと云。
むつき四日下谷のほとりの書肆にて、年比もとめし芭蕉翁の消息を得て
年比の思ひの丈の草まくらばせをにつゝむしかもまさゆめ
その消息は翁のもとより丈草に贈れる消息にて、卯の花やくらき峠の及びごしといへる発句あり。
梅に鷹の画に
はし鷹の身よりたなさき両袖にふれてや梅の軒羽うつらん
鷹の書に軒(「者」+「羽」)とかきてノキバウツとよむなり。
子の日ざうしがやにまうでける帰るさに、水道町のほとりなる松がね茶漬といふをたうべて
子の日してひくべきものもあらざれば松がね茶漬よりてこそくへ
姫路前侍從の君のもとより子日松を贈り給ひけるに
棹姫の姫路の国の姫小松子の日ねこじて賜ふ(以下脱落)
孔明
孔明の羽根の扇も綸巾もどこやら似たる菊水の紋
春月
春の日の長きよひるのにしききて花のみやこにゆく人はたぞ
むつき廿八日上野の松原にむかしわが友麗水子のめでたる野中の梅をゆきてみしにいまださかざりければ
むかしみし梅は野中の清水門もとの心を知るやしらずや
上野の桜をみて
剃立の月代ひえの山ざくら花のさくべき面影もなし
妻恋坂にて
もののふもさすがに恋のやまと竹あが妻恋のみこと思へば
仙人王処一の絵に
かへすべき所もしれず傘に王処一とはなどしるしなき
白川少将五十の御賀に〔今年丙子五十九歳にて五十の御賀〕
いそぢより末ぞたのしき久かたの天の下なる人におくれて
火をいましむる詞
火は五行の一にして民生一日もかくべからざるものなり。されどその災をなすにいたりては、むかひちかづくべからす。天火は猶さくべし。人火はつゝしまずばあるべからず。禍を転じて福となすは其の徳をおさむるにあり。柳々州が王参元の失火を賀する文も小むつかし。われに七字の秘文あり。毎朝手あらひ口そゝぎて、南にむかひて三遍となふべし。その文にいはく
家内安全火用心。ゆめゆめうたがふ事なかれ
ゐのしゝの子をつれてかけゆく絵に
いきほひをかるもの露にうり坊も臥猪の床やかけ出ぬらん
粟穂に雀の絵
粟坊も稗坊も出よ雀子は百になりても踊わすれず
七十の賀に
七十はをろか七百歳までも慈童ときくは古来まれなる
鷹の画に
あら玉の年のはじめの初夢は春駒よりもましらふの鷹
初午
手ならひの稽古に上るいなり山いねのいの字やかきはじむらん
わかゝりし頃は初午の前よりその日まで、太皷のかしましきまできこえし。近頃は稀なり
はつ午のたいこの音のすくなきは老たる耳の遠くなりしか
太田姫いなりはみやこのいもあらひといへる所より、太田道灌の西城にうつして後、今の所にはうつれるなりときゝて
山城のいもあらひなる稲荷をば世の一口に思ふべからず
傾城傘をさゝせて道中の絵に
八文字ふりだす雨の中の町ぬれにゆくべき姿なるべし
竹に菊の画に
くれ竹のよはひも長き菊慈童七百歳や千とせへぬらん
抱一上人月と鼈の画に
大空の月にむかへるすつぽんの甲のまろきや地丸なるらん
大阪にて鼈をまるといふ。看板に地丸とかき、又は○とかきしもあり。本草細目釈名に丸魚は俗名とあり。
同じく福禄寿に鶴
福禄寿みつの重荷に鶴一羽こづけをそへて一寸千年
梅と酒とを好む人の酒壼に歌かきつけん事をこふに
なには津にさくや此花寒づくり今をはるべと匂ふ一壼
きさらぎ十一日呉船楼にて歌ひめお勝あすは眉を落し歯黒めすときゝて
白い歯のけふはみおさめあすよりは又くろうととなりてさかえん
千金の眉を落して万金の歯をもそめなばよはひ十千万
同十二日よみて遣しける
青柳の眉うちはらふ春風のすがたを千々のかねつけてみん
黒き鷺に葦ある画に
白鷺の黒きもあれば難波江のよしとあしとのあらそひもなし
土岐甲州の馬見所の聯に
うま酒の壼うま場にてみるときは心の駒もいさみたて髪
上野の山に梅をふたゝびとひて
ふたもとの杉をしるしに二日まで一木の梅をたづねてぞきつ
すみ田川五百崎のほとりに百椿ありときゝて
玉つばき百種のみかは五百崎も八千代の数もいでんとぞ思ふ
紅葉のもと二人たてり。一人は若く一人はとしたけたり
むら紅葉ならびて二人たつた姫うすきは妹こきはあね君
庚申
みずきかずいはざる三つを守りなば三尸の神も感応の編
甲子
甲子にうち出の小槌うち出でゝ数の宝をまくやこの神
三巳
つちのとのみまちに願をかけまくもかけてぞいのるくちなはの神

信濃には竹なしときく王子猷一日も居る事はあたはじ
劉器之も一盃くふた蘇東披の玉版和尚その名たがへな
布袋笛をふく絵に
きんざん寺背中に目ある和尚殿あななき笛やふきすさむらん
両国橋のほとりにて此頃尾張の海にてとりしといふしやち鯨のみせ物あり
いさなとりいざや見んとて両国のはしによりつくわれ一の森
ふじの山に鶴をゑがきて戯子芝翫のうたよめと人のいひければ
吾妻なるふじをみすてゝなには江のあしべをさしてかへりつるかも
鶴は芝翫のかへ紋なり
布袋月を指さす画に
大かたは月を指さす指ばかりみて袋には一物もなし
万歳才蔵の肩に鳶凧の落ちかゝりたるゑに
鳶飛で天から落ちしいかのぼりいかゞはせんず万歳のかほ
麹塢のもとにて
細道は梅にたどられてたれもきく塢のやどぞしらるゝ
発句
江南の花や三百六十本
春もはや梅の世界となりにけり
新楽氏母君の八十の賀に、津の国三田にて陶すといふ富士の形したる小皿十枚をおくるとて
はたち山よつかさねたる八十より十づゝ十もさらにかさねん
神田明神肚内人丸大明神像縁起奥書
右崔下庵菊岡沽凉翁の記する所かくのごとし。已に翁の著はす所の江戸砂子にもそのよしをしるし、法楽の発句をさへしるせしに、いかなる故ありてか神田の社地にもおさめずして、今に菊岡氏の家にありしを、ことし藤原県麿此神影を拝して翁の志をつぎ、新に新田のみやしろの端、籬の中に宮づくりして此神影をうつす事とはなりぬ。嗚呼翁なくなりにたれど神のみかげとゞまれるかなともいふべし。
文化十三年丙子月杏花園しるす
梅くゞりの福禄寿のゑに、
南極のほしのつぶりのきらきらと梅の南枝の下くゞるらし
三月三日はわが生れし日なり。朝とく湯あみするとて
むそ八そをむかしのもゝの節句には産湯かゝりしはだか人形

雛と雛鶏合さんむさしのゝ原舟月雛に皇都玉山
はまぐりのあさつき鱠玉山と舟月雛やいかがみるらん
三月三日松の屋にてなにはの歌女市松がうたをきゝて
三千とせになるてふ桃の節句にはよもぎが島の内にこそいれ
浪花島の内の歌妓なれば也
三線のねあがり松の髪かたち見ればそのまゝ玉山の雛
狂歌堂真顔
雛棚のそのはちうへの桃よりも節おもしろきものは市松
朝顔
牽牛子の名におふ花は七夕ののちのあしたとみるべかりける
豆腐うる声なかりせば朝顔の花のさかりは白川夜舟
鶯谷に家居しける頃、あたりちかき乳のなき子をやしなひたてしが、ことし弥生ついたちうみの母のなくなりけるときゝて
鶯のかひこの中におひいでゝ死出の田長をしるやしらずや
やよひ五日上野の花をみて
山桜去年もけふこそ見に来つれ又のやよひのいつかわすれん
しら雲の上野の花はみよしのゝちもとの中のひともとゝきく
伝通院の糸桜やゝさかりなり。三月六日
百八の珠をつらぬく糸桜七分のかねに花やさくらん
和歌三神
朝霧に島がくれゆく舟かたをよくみつけたる人丸のうた
垂跡は玉津島にて御本地は衣通姫の流とこそみれ
和歌の浦のひかたまりたる芦田鶴も汐みちくればぱつとたつ波
南隣甲賀氏の庭の桜さかりなり
南殿の桜の宴やかくやらんこなた隣の花おぼろ月
木下川薬師開帳の奉納の聯に、なこその関の桜のゑかきたるに
山桜ちれど鎮守府将軍のなこその関の名こそ朽せね
瓢箪に鯰の画に
高値なうなぎはくへず顔淵の鯰をさいて一瓢の飲
弥生十二日舟にてすみだ川にまかりけるに、花いまださかず
すみだ川さくらもまだきさかなくにうきたる心花とこそみれ
春の日芝のほとりにて
春の日もやゝたけ柴の浜づたい磯山ざくら見つゝあかぬも
浜庇といへる茶屋にて
しばしとてやすらふ芝の浜びさしひさしく見れどあかぬ海づら
御殿山を見やりて
御殿山花はいづことしら雲のかさなる山やなゝつやつ山  
あやめ草
大津絵の賛
双六のひとつあまれば大津絵の四十八鷹五十三次
冬至府中戯作
冬至一陽勘定元、雪中生二下駄痕、烟筒灰動湯呑所、彩線尻長仕舞番
韓信股をくゞる画の賛
からはから、日本は日本、唐の紙屑のみを拾ひて、にほんの刀をわするゝ事なかれ道なかにたつの市人きりすてゝまたはくゞらぬやまとだましひ
鬼ノ念仏の画讃
悟れば九品のうてな、迷へば二本の角。念珠となりてくだくるとも、鬼瓦なりて全き事なかれ。
頼朝伏木がくれの絵に
七人の中にひとつの大あたまふしきのうちにかくしかねつゝ
久永氏の庭に白鷺池あり
しら鷺の池としきけばいやにても五位の上にはのぼるべきなり
将之浅草市、雪後道悪。半途而帰
浅草市泥残雪深、欲行引返半途心、近来乗駕不乗興、何必夜参観世音
わざおぎ人の市にゆくときき(ママ)ゝて、
浅草のけふ市村か中村か名にたてものとみたはひがめか
尾上松緑松助父子を祝して
周の春殷の柏のわか緑名は夏后氏の松をもつては
としのくれに
衣食住もち酒油炭たきぎなに不足なきとしの暮かな
此歌よみし師走廿五日大久保といふ所にて宅地賜りて住居を得たり。折からもちゐねる日にあたりしも、衣食住もちとつゞけしさとしにや名歌のとくもあればあるもの哉年の尾のしるしをみせて大まくり大小にこそ暮れて行くらめ
今さらに何かおしまん神武より二千年来くれて行くとし
防河の事うけたまはれる国のかみ二所よりしろがねを贈りければ
御手伝大名二軒二度の雪十七枚の銀世界なり
ことしのくれのよろこびをしるす
家くらの修復家うちのきぬくばり子孫繁昌屋敷拝領
六十二になりけるとしのはじめによめる
ことはざの人間六十二年とは甲陽軍を鑑もちかな
甲陽軍鑑第八品に人間六十二年の身をたもちかねといひかしことばを思ひいでゝなり。去年よりあまたたび雪ふりて、若菜一抱のあたへ七十二文にかふるもめづらしとて三文の若菜も雪の高ねにて七十二文棒にふりつゝ
ことしは若菜も芹にかふるもの多し
春の野の若菜も雪にうづもれて思はぬ岸の根芹をぞつむ
正月二月の夜雪ふりければ
初夢の一ふじの雪ふりいでてゝ茄子も白なす鷹もましらふ
花さかせ爺の絵に
むかしたれいかなつかさの灰をまきてかれ木の枝に花さかせけん
辰巳屋翁扮戯図
おまつりと神楽の堂にたつみやのかれ木むすめや花さかせぢゝ
示禅僧
逢仏殺仏、逢祖殺祖、逢布子殺布子、逢蚊屋殺蚊屋、通八箇月、始得解脱。
題土屋清三壁
地近若宮神徳深、居号土屋土生金、年中正直寿延命、家内安全火用心
去年より雪しばしばふりけるに
こぞことしふりつむ雪にあやかりてあくまで花をみるよしもがな
金馬亭にて岩井杜若が羽織のうらに書いてつかはしける
蓬莱山には千とせふる、万歳千穐かさなれり、松の枝には鶴すくひ、岩井の上に亀あそぶこれなん祇王が『君をはじめて』、静が『しづやしづ』とうたひし今様ともいふべきかも。
花井才三郎はじめて朝比奈のわざおぎすときゝて口とくよみてつかはしける
初春の花井才三が大入はこれ元日の三ツの朝比奈
席上作
唐大和堺町、葺屋町尤栄、春色千金富、市村第一評

岩井流清杜若叢、市川団助字三紅、更迎花井朝比奈、築地笑談対善公
金馬亭にて神農・張仲景の掛物を見る
神農も張仲景もあきれなん長沙の大酒その意ゑん帝
舟にのりて深川へ行くとて
宝舟のり初もよし千金の富ケ岡辺の春の一時
尾花楼のあるじ置酒洞と号す
千々の秋尾花なみよる高どのはまた格別に春をおく洞
節松嫁々むつき九日身まかりしと聞て
ふしまつの嫁女さまことしゆかれけりさぞや待つらんあけら菅江
堺町の番付に中村歌右衛門の名の左右をあけて書くもおかしくて
江戸ものの仲間はづれの歌右衛門左右のすきて見ゆる番付
杜老といへる二字を岩井杜若に書てもらふとて
少陵の野老帽子の紫のゆかりの色の名をかきつばた
けふより蜀山の杜老ともいはんかし
詠柳狂歌并序
六樹園のあるじ一樹の柳を題としてざれ歌のむしろをしく。その巻のひもとくとくの柳の糸のかゝれることのは、根ほり葉ほりあまさずもらさず、からのやまとの古事来歴、淵鑑類函・佩文韻府・五車韻瑞にもつみあまりて、淀ばしの水ぐるまくるくるめぐり、大木戸の荷付馬ひきもきらざるべく、今さら馬蹄の跡へんとなりて、覇橋の柳も折りつくしたれば、かの左の肘に生たる柳を枕として、柳原の何楼の刀、よいほり出しも中の町、道のほとりの二もと柳は柳まちの一ふしをつたへ、柳樽桜鯛千金還軽とは雲州の消息にみえたり。今少し柳花苑の調子をあげて怨を苑に書きかへし四角な文字で申さふならば、詩に柳を折り圃を樊ふ狂夫の狂の字もなつかしく、易の枯楊梯を生ずは大師の御鬮の吉なるべし。孟子に性は杞柳のごとしと、蝦夷檜の曲物にたとへ、草木子に柳を焼て炭となし。又灰計に入るときは銅を点じて銀となすといヘり。漢代の人柳は日に三度起きて三度眠り、楡柳の火のかちかち山には楊花の粥をすゝるとかや。大原にすむ御殿ものは岸柳秋風遠塞の情をうたひ、女郎花の姫君は青柳に五月の雨をこきまぜぬ。三河の柳堂はお有がたい御旧跡を残し、曹司谷の柳颪は風車の風になびく。本所に柳島、甲府に柳町、柳の道場、柳の馬場、柳原大納言、柳里恭のひとり寝は路柳檣花の趣をのべ、楊柳小蠻が腰もとは白楽天の御秘蔵なり。その外明律の柳葉刑はきくもおそろしく、柳花と柳絮と同じからずとは、寄園寄所寄のうがちにして、いひつゞくれば柳のはてしなく、絮煩をやめて話下にあらずとしやれておくべし。これはさておきこゝに又その小説の聞取法問、通俗本の俗語の両点、此比世にみちみちたり。其書たるをみれば殺伐の画だらけ、幽冥のうすどろどろ、御慶めでたき正月したる生ひさき祝ふわらはべの見るべきものにあらず。敵討といひ仇討といひ、柳子厚の駁復讐議、八重がたきの推刃の道、礼記の共に点を戴かざるは周礼の調人の役義をいかん。日本史の孝子伝にも曾我兄弟や阿新をのせて、史職旌表の跡たへし時の盛衰のためしにひけり。時の盛衰世の汚隆、隆達のやぶれ菅笠しめ子の兎の耳長く伝はりぬ。それかとみればあふみのや鏡の山のかんがらす鯛のみそずで四方の赤は太平の代のすがたにあらずや、がてんかがてんかと、ひとりがてんしたところが、千匹の鼻かけ猿、さるうたよみと人にいはるゝ難波のうみは伊勢の大人、あさか山の山のいも、うなぎの名びらき多かる中に、六樹の六租のから臼などはむかしとりたる杵づかなれば、四方の扇の要ぬけてばらばら扇となるとても、衣鉢も鯨爪もいるべからず。かゝるいくぢもない袖をふらせ、もえ杭に火のつくごとく如在の序をかけといふ。されどかの殺伐のはなし、幽冥のいまはしきにくらぶれば、めでたやめでたや春の初の春駒のかひに行きかふひなぶりなんどは、夢に見てさへよいとや申さん。よりて久しく休み株もあらたに、しめ木の糟をしぼりて、石炭のことばをかきまぜぬ。もとより火入のかんざまし、少々水のまじれるは、かた山の手の事なればなるべし。
ところ/゛\ふし/゛\ありてなまよみの甲州糸に似たる青柳
梅川詞
諾楽旅籠屋、三輪茶屋端、廿余四十両、遣果二分残
書画帖序
口より出るを詩歌といひ、尻より出るをおならといふ。たゞおならのみくさきにあらず。詩歌にも亦わるくさきあり。唐一代を四ツ割にして、初盛中晩の梯子屁といひしも、盛唐くさきの偽唐くさいのとブウブウをひり散して今は放翁・誠斎のすかし屁をこく世とはなりぬ。やまとうたは馬鹿律儀にして、奈良のはのおならのは外は、草庵集や新題林をにぎり屁のにぎりつめて、おもしろく候をかしく候と、屁玉のやうな御放庇をいただくもおかし。こゝに狂歌こそをかしこものなれ。師伝もなく秘説もなし。和歌より出てわかよりをかしく、藍より出し青瓢たん、そのつるよもにはびこりて、性はせんなり瓢箪の、丸ののの字をかくばかり、二百五十の同庵が、やきもちをやくこととはなりぬ。いらざる老のにくまれ口、こゝらで筆をとめ木のかほり、自讃くさいはくさいもの身しらずとでもいひなさへ。
女達磨のゑに題す
庭前柏葉斎宮紋、面壁九年弟子分、私同色客乗蘆去、教外別伝不立文
題寒垢離画
寒氷可履也、中庸不可能也
鰹の画に
鎌倉の海よりいでゝむさしのゝはらにいるてふ三千もとの魚
傾城の画に
白妙の藤伊は雪のふじのねをはりぬきにせし夕霧が文
猿牽の画に
身代在嚢猿在肩、不堪煩悩犬追懸、朝四生烟一升米、暮三起浪百文銭
さる引の百一升の米と銭あしたに四軒くれに三軒
出女の化粧するかたかきたる豊国の画に
頬べにの赤阪ちかき黒髪の油じみたる御油の出女
竹に雀の画に
とまるべき雀色にやなりぬらん夕くれ竹のふしどもとめて
鷺と柳に雪の絵
こもり江にひそめる魚やもとむらん柳がくれの雪のしら鷺
ことしの初年礼にきたる門々に返礼をせざる申訳とて
ふる雪も二三べん又三四へん御へん礼にはこまる正月
鳥羽絵の巻物のはし書
笛皷の音おもしろく戯をなすごときものあり。祈祷の壇を構へて大息つくがごときものあり。田楽法師のごときものあり。千引の岩よりおもかるべき宮木ひく綱きれてふしまろぶかたのごときものあり。綱代車の牛こてははなれて走るがごときものあり。すべてたなひく雲のたちゐ定めず。流れたゞよふ水茎の岡に、たゞ高山寺の三字のみさだかにみゆ。夢かと思へばうつゝ、うつゝかと見れば夢。
文化ときこゆる暦も七まきかさなれるとしのむつきの末、柳を結て車とし草をつかねて舟となすの日
遠桜山人
京都初午
いなり山稲をになへる老翁にあひしむかしを今に初午
難波初午
妻と子の手さげのにぎりたづさへて初午酒をひとつ杉山
江戸初午
いざあけんゑびや扇屋とざすとも王子のきつね鍵をくわへて
岩井杜若かわざおぎに墓よりほり出したるかたをみて
むらさきの江戸の根生のかきつばたほり出してこそみるべかりけれ
目のあたへ口のあたへも千両をたかにせん両かねのやまとや
俳諧は夏和歌は春いつとてもあたりはづさぬかきつばたかな
木挽町森田座の芝居になにはのわざおぎ人多く来りけるときゝて
百余里を三十間に引きよせて道頓堀の春の入ふね
市川市蔵・藤川友吉といへるわざおぎをみて
あづまぢにきかぬ藤川市の川美濃と播磨の新下り米
松有春色
梅やなぎ枝かはせども一もとの松のみどりの色ぞえならぬ
竹に雀の画に
雀どのおやどはどこかしらねどもちよつ/\とござれさゝの相手に
唐詩のことはをもてよめるうだ
高館に燈張れば風清く夜鐘残月雁帰声
不知心誰をか恨む朝顔はたゞるりこんのうるほへる露
月雪花
花はさかりに月はくまなきをのみ見るものかはと、ならびが岡のすねものはいへれど、花は立春より七十五日、月は三五夜中の新月、後の月もまためでたし。雪は豊年の貢物とはいへど、つめたく跡くさらかしもうるさしと、明阿弥陀仏の文にもかけり。けふふるとても若菜のあたひたかうならぬほどこそ、門田もる犬もよろこぶべけれ。
琵琶法師
あふさかの山はたくぼく流泉は関の清水ときくや蝉丸

蚕きせ米をくわせて花までもみよと造化のいかい御造作
無量山の花をみて
はかりなき仏の御名の寿を山の桜にゆづりてしがな
瘡寺いなりのやしろの前にしだれ桜あり
ひもろきの団子のくしをさしかざせしだれ桜の花のかさもり
上野に笠ぬぎざくらといふあり。慈眼大師の植ゑさせ給ふといへり。むかし黒人の社中の人の歌に
中堂のこなたにたてる一本は慈眼大師のおんさくら花といへるを思ひいでゝ
此花は慈眼大師のおんさくらみな笠ぬぎて拝あらせ給へ
上野第一の古木にしてよしのの種なり。かこみは一丈にあまれる大木なり
夷の画に
釣上げし赤女を横に抱きしめていつも心のわか夷かな
大黒のゑに
鬼は外幅はうち出の小槌にて数の宝をまかきやらの神
三番叟
舞よりもまたにぎはしき三番叟さあらば鈴をまいら千歳
中村座の狂言に沢村源之助梅の由兵衛をなせしとき
見物も八重さく花の大入の比は弥生の梅の由兵衛
山門五三桐といへる狂言の名題によせて
山門の高き弁当桟敷代五三の桐の金もおしまじ
葷酒でも何でもはいる山門に五三の桐のこがね花さく
おのぶといへる芸者によみてつかはしける
三味線の糸ながながとひきつれてちとせのよはひおのぶとぞきく
土屋にて紅梅をみる
紅梅をみんとてけふはこうばいの客も亭主も顔は紅梅
はとり阪道栄寺の桜をみてはとり阪といふを物名に
花あれば見にこそたづねくれはとりさかしき道のやみもあやなし
神齢山護国寺の花をみて
千はやふる神のよはひの山ざくらさかりもながき心地こそすれ
入相のかねはならねど山寺の花は寂滅為楽とぞなる
折から入相のかねをつきければ、
山寺にちりしく花の小紋形注文の通入相のかね
蓑市
七重八重こがねの蔵の山吹のみのひとつだにうれものこらず
隅田川に花を見て
遠乗の馬二三匹すみ田川つかれたりとも花につなぐな
わざおぎ市川市鶴によみて贈る
なにはえのあしのこやくのはじめより至上々吉の市鶴
御ひいきのひく木挽町尾張町市に鶴ありみせに亀あり
市川団作によみて遣しける
短冊も団作もまたたはれうた市川流のひとつ反古庵
反古庵はすみ田川の辺にかくれすみし白猿が庵の名なり。
木挽町の茶屋尾野屋といふによみてやる
山鳥の尾の屋にさく初桜ながながしくもあかぬ大いり
案山子のゑに
心なき弓矢に心ある鳥をいかゞしてかや驚かすらん
北馬子と外一人とともに巴屋の酒楼に酒のみけるに一人は下戸なりければ
みつ巴ひとつ巴はき下戸にてふたつ巴はゆらゆらの助
北馬のゑがける傾城の二人禿をつれたるに
北馬の槍北里と対の禿筆沢山さうに見る事なかれ
日光山よりうつせし桜ありときゝて
根ごしたる桜ひともとふたら山ふたをしつゝも風やいとはん
長瓠の銘
瓠子夕顔五条露、蕉翁朝飯四山烟
金埓がかける大般若六百巻転読の僧の画に
大般若六百巻も何かせん金埒が歌ははだか百貫
蘭洲がかける画月僊に似たれば
月僊かそれかあららぎ洲の上にたてるしら鷺しらがの親仁
桜のもとに三猿あり。一つの白猿口をとぢて両の手にてふたつの猿の耳と目をふたぎたるは、見ざるきかざるの心なるべし
面白い事をもみざるきかざるはさくらを花といはざるの智慧
徹山が鹿の画に
たがみても馬とは見へず徹山が羊の毛にてかけるさをしか
坂東三津五郎岩井半四郎大のしやと書たる傘をさして出しわざおぎに
浄るりの幕は大入大のしの相合傘のやまと大和屋
新材木町にすめる花の屋少々道頼をいたむ
思ひきや芝居がへりの道よりが香華の屋にならんものとは
少々の道よりなればよけれども十万億土さつてかへらず
郭公の玉章といふものさぬきの国しら峯にあり。うたよめと人のいふに
しら峯の山ほととぎすはま千鳥あとはなしともかよふ玉章
親鸞上人五百五十年忌
こゝのつのはすのうてなにあなうらをむすびしよりもとしはいくとせ
郭公
ほとゝぎすなきつるあとにあきれたる後徳大寺の有明のかほ
庸軒流生華の師五英女一週忌に
いつまでも猶いけ花と思ひしにはや一めぐり水ぎはぞたつ
吟蝉女二十七回忌
かぞふればはたとせあまり七とせの春秋しらぬ空蝉のそら
右の二うたは北馬のもとめによりてよめり。
小日向壁付番所といふ所に此君亭あり。中ノ橋普請にてまはり道せし時
江戸川をへだつる中の橋ばしらたつた一重の壁付番所
杜若の芸をみて
麻の葉のかのこまだらに業平のひしこそ立のふじの大和屋
住吉白楽天の画讃
青苔帯衣掛岩肩、白雪似帯廻山腰
苔ごろもきたるいはほはさもなくてきぬきぬ山の帯をするかな
楽天が詩白俗の称ありといへども、かゝる平仄のなき詩はつくらじ。神詠は神主の上手下手によるといへども、津守の何がしもかくつたなき歌はよむまじ。成事不説、既往不咎といへば、とにもかくにも謡つくれるものの心次第なるべし。
むだ口をはくらくてんがことのはも久しくこれですみよしの松
浅草並木巴屋にて蜂房の画会あり
さしてゆくはちはみつ蜂みつ巴むらがりあそぶ蜂房の会
かひこ庵に酒のみて
山まゆのいとひきいだすかひこ庵酔ひての夢は蝶とこそなれ
たちかへりまたくふべしとおもひきや鱧のほねきり難波江の波
すみといふうたひめによみてつかはしける
かくれなき江戸のすみからすみまでもすみよし町のすみがすみかは
かひこ庵にてすみかへらんとするに、又きよといへるうたひめの来りければ
はや一座すみてかへれば生酔におきよとつぐる三線の音
夏富士
時しらぬ山とはいへどさくや姫かのこまだらに裾は当世
狸酒かひに行くかたかきたるに
払はずに年ふる狸さけかひにゆくや化物やしきになるらん
布袋味噌する画
味噌すりてまたんお客のくるまでは五十六億七千万歳
さつき十一日萩の屋翁大屋裏住身まかりしときゝて
長櫃と思ひしものを重箱のを萩となりぬあきもこぬまに
五月十七日狂歌堂にて其子礼蔵有卦に入りし祝すときゝて
今日の祝とわれにさゝげ飯師走をうけに入りし礼蔵
五月雨
おりおりは時あかりしてからかさをたゝめばまたもひらく五月雨
有卦の祝に
福の数七ツにみてる幸をけふよりうけの年は来にけり
同祝にふの字七かさねて
うけにいる数はなゝとせ何事もわらふてくらせふゝふふゝふゝ
山水の画に堂あり虹あり
此堂は観音堂か夕立のはれわたるにじ無尽意菩薩
島田氏狂名をこふまゝに大井川明となづく
島田から通るは歌の御状箱俊成卿の九十川でも
鯉の画に
魚の名はむさし下総ふたつもじ牛の角文字川向ふ島
西行銀の猫のゑに
此猫は何もんめほどあらうとはかけてもいはぬ円位上人
福禄寿とから子を亀の甲にのせたる画に
福禄寿こだま銀をもかけそへてはかりくらべん万歳の亀
むかふ島のゑに
むさしやを出てまつちや/\と提灯ふりしむかし恋しき
さつき十七日狂歌堂にてわらはのうけに入りたる祝歌よめりしに、同十九日身まかりければ
思ひきや涙をひとめうけにいる七年の夜の雨ふらんとは
たらちねの親のまなこのおくつきはかのちゝのみの大きなる寺
小石川中台山光円寺なり。
水無月十九日真玄院慈光修言の墓にて
ちゝのみのしげれる寺の木のもとにたちよりてまづぬるゝ朝露
嵯峨釈尊回向院にて開帳のとき
両国の三国一のみほとけのとばりひらけばこがね花ふる
あつき日両国橋に鑓のかげたへければ
両国の橋に一筋たへたるはやりはなしなる世にこそありけれ
鰡魚
みなひとのいなとはいはぬすばしりの名よしの名こそめでたかりけれ
晴雲妙閑信女忌日
晴れわたる夏野の末の草の原朝露わけて誰かとはまし
雲となり雨となりしも夢うつゝきのふはけふの水無月の空
妙なりしみのりの花をねざしにて露もにごりにしまぬはちすば
閑にもしづの小手まきくりかへし思へばながき夏のひぐらし
天王祭
天王の夜宮の光やはらけく御殿の瓜もちりにまじはる
玳瑁の櫛いなだ姫二三人ゆかたのまゝで出雲八重垣
福禄寿
ふくと寿の二ツに事はたる酒の天の美禄も其中にあり
此頃狂歌さかりにて、彦星のひくうしうしうしら、いほはたたてる織姫の糸のちすぢにわかれたれば、何がしの連くれがしのつらを乱る初雁、あとながさきへゆくをやらじと、天の川波たちさはぎて、星にかすべき錦もなく、へんとつもなきことのはのみ。見るにものうく聞くもうるさし。そもそも狂歌におかしみなきは冷素麺にからしなく、刺鯖に蓼なきがごとしと、馮婦が虎の髭をなでゝ、久しいものだが七夕七首
彦星のひくてふ牛のよだれよりこのちぎりこそ長たらしけれ
中元の半元服や近からん三伏の夏たけしおり姫
いく秋のへちまちぢみのすかたびらてんつるてんの星にかさまし
かさゝぎのはしも紅葉のはしもあるを猶おいとまの妻むかへ舟
七夕のひよくの鳥の玉子酒れんりの枝の豆やくふらん
天河かしにまれなる秋鰹ほしのあふ瀬の一ふしもがな
星合の床ばなれには心せようき世の嵯峨の朝まいりども
桜に小町の画
日のもとに桜といへる花あれば小野小町といふ美人あり
四手綱ひく画に
鯉を抱く両手なけれど四手綱ひきてのどかに日をくらすめり
起あがり小法師の画に
ひいふうみよついつゝむつなゝころび八おきあがりて九年面壁
恵美須鯛を荷ひて来る画に
日本橋から三ぶといふ若夷かついで来たりあつらへの鯛
狐藻をかつぐ画に
浜むらの大夫さんには藻をかつぐきつねもかなやせん女なるべし
王子の月蔵坊に酒のみて
昼中に月蔵坊の門とへばまづ盃に酒のなみたつ
火炎玉屋といふ青楼にて
たまたまやとは思へどももえ杭に火のつきやすき火炎にぞいる
春日野といふうかれめ
春日野の若むらさきのうちかけにお客のみだれかぎりしられず
宮戸といふうかれめ
宮戸川わたりもあへず引四ツの鐘が淵こそはやうきこゆれ
題しらず
加賀笠の俘世小路になれなれてきぬる人とはたれかわかなや
川吉といふ船やかたにて大川に出しに、此ごろの雨に水たかうして船すくなく花火もなし
屋根船と思ひしものをやかた船花火なくともまゝの川よし
筋違橋に長芋問屋あり
川端の御用問屋の長芋はうなぎになりてにげぬべからん
梅川といへる酒屋のもとに舟さしよせて肴もとむるに、伴ふ人に松下忠兵衛といふ人あれば
梅川は松下ならぬ柳ばし相方の名はちつと差合
日本橋いづみやのもとに肴もとめに人をつかはすとて
あたらしき肴もとめにこゆるぎのいそぎ使のあしにほんばし
扇の画賛
伯夷
わらびばかりくふとはいかい不自由な焼豆腐でも周の豆かは
水のゑに
ゆくものはかくのごときかすみ田川昼夜をすてぬ猪牙とやね舟
やぶこうじ
和名薮柑子、漢字紫金牛、裏白根松外、先令此物求
大黒の画に賛せよと人のいふにまかせて
福分にあきたりぬれば大黒のおかほを見るも今はうるさき
数十枚たのみけるときなり。
元善光寺如来護国寺にて開帳。霊宝に寝釈迦あり
釈迦はちとねるがそこもと善光寺おたのみだ仏たすけておくれ
山王祭に船屋台あり。鉄砲洲よりいでしといふ
船頭が多くて船は山王の山にものぼるけふの祭礼
新場にて山王祭をみる
江戸ツ子のきほふ日吉のおまつりはげにあたらしき魚のたなごひ
盆すぎに鰹多く来りけるもをかしく
盆すぎにかつをかつをの声するは夏やせをして出ずやありけん
朝顔
思へどもなど葉がくれに咲きぬらんひかげまつまの露の朝顔
八朔二日十日ともに何事もなしといふ事をいはふて歌よめと人のいひければ
八朔も二日十日もおだやかにいはふ百姓なげくもののふ
埋三猫児
呼馬呼牛無町畦、非南非北豈東西、可憐三個猫児子、如是畜生発菩提
山城の名所のうたこひける人によみて遣し侍る
山城のこはたの里の馬かしは君を思はぬ人の得意場
月のもとにて蜆子和尚がはまぐりすくふかたかきたるに
蜆子かと思ひの外のはまぐりはげにぐりはまに思ひつき影
牛込のはしよりながれ落る滝のもとに舟さしよせて
たちよりて許由が耳やあらひなん巣父のひける牛込の滝
文武久茶釜の絵に
文武久の茶釜にも毛のはえたるは上手の手から水がもりん寺
江戸川大曲といふところに女の身をしづめしときゝて
すぐならぬ人の心のまがり江のなどうけがたき身をしづめけん
皷盆
大耋のなげきもまゝのかはらけのほとほとぎをやうちてうたはん
此比大用とゞこほりしを甲子の暁心よく通じければ
甲子のけふは二また大根を輪切にしたる大黒のくそ
名にしおふ文武丸をも用ひずによく通じたる小松教訓
これは飯田町小松屋といふ薬店にある文武丸といへる通じ薬を年比用ひたればなり。曾孫のはつ幟を祝して
あやめ草ふき自在にて上をみぬかさこにおほふ孫やしは子
たけの子の自然生して幟棹七代つゞきたつる珍宝
しらが昆布三千丈のあやめ草ひきくらぶればかくのごとく長し
あやめふく五月五関もやぶるべし青龍刀を御手にふりつゝ
六衛府のわかかぶとのあがりての世にも奢やふせぎかねけん
朝ごとに座禅豆きん時とうるものあり金時は赤豆の名なりとぞ
座禅豆きんときあづき西来の風の鬼神取拉くらし
夏菊
五斗米のあきをもまたず取こしてさつきのきくをみるもはづかし
富士
四季ともに雲をいたゞく気ちがひや方西国もあきれたる不二
浪華の人によみてつかはしける
思ひ出る鱧の骨きりすり流し吹田のくわゐ天王寺蕪
さつき廿日河原崎のわざおぎみてよめる
庖丁の音羽屋たかきはつがつほたいてはくはぬ江戸ツ子のはら
去年の此比深川狩野秦川のもとにて音羽屋にあひしに、発句江戸ツ子の肴なりけり初鰹といふ句かきてくれし事を思ひ出てなり。
市川門之助八百屋お七の役
八百八千代めでたき野屋の封じ文あけてうれしき大入の門
頭経寺帝釈天は祖師の筆なり
さしてゆく帝釈天はわたるべき舟をまつ戸のまかりかねむら
市川三升によみてつかはしける、ことし深川にて成田山不動の開帳あり
七代に成田の不動明王の霊験天下いち川の関
林麓草堂先生門人林亭雄辰、借両国河内楼、開書画会筵、賦贈林亭会自遠方遷、衆妙門人玄又玄、地転十番為両国、天廻森月照前門
もろこしの河朔の宴を河内屋にけふうつし絵の両国の会
趙氏連城玉屋船、由来花火満前川、只今元柳橋前後、曾照中洲両国辺
柳橋河内屋、麻布日南遥、六月雄辰会、尽来書画家
編笠きたる男奴をつれて里通ひとみゆる上に、郭公なきたるゑに
八助をつれてふし見の里がよひうきとしりてやなくほとゝぎす
いにしへのさんや通ひの編笠のてつぺんかけてなくほととぎす
ある人炭俵の中より出し茶碗を炭俵となづく茶碗は唐津なり
もろこしのけものの炭のたはらより出し茶碗や唐津なるらん
さつき廿八日川開には例のことゝて船出すべきを腹病にて
くだり舟くそ丸ゆへに例年の川開をもよそにこそみれ
長春花に四十雀のゑに
初老の四十からして長春の花のさかりをみるやいく春
天王燈籠の絵に櫛もて永代橋とし、玳瑁のかうがいを筏とし、毛筋通もて帆柱としたるに
橋の名の永たいまいのさしぐしに毛筋通してたてる帆柱
同じく毛抜をもて郭公をつくり、小き鏡を月となし、下に鰹船のあるところ
初かつほひたす新場の水かゞみぬきあはせになく郭公
同じく猿の臼引くかた
ゆき来つゝさるの臼引く水車くるゝ/\ときつる見物
仙台瑶光園鷹見をいたむ
ほとゝぎす鳴きつるかたのたかみには月なき瑶の光をぞみる
八十八のことぶきを
八十あまり八のとしよりいつまでも米の飯くふ事ぞめでたき
秋海棠に鳥の絵
比翼にはあらぬ一羽の烏鳴てねぶりをさます秋の海棠
過し寅のとしの二月つまづきしより病にふしければ
ながらへば寅卯辰巳やしのばれんうしとみし年今は恋しき
小舟町祇園会のつくりものは大きなる山門をつくりて、額に正徳五年始之と書けり、水無月十二日福の屋内成の稚室にまねかれて
新宅の格子にならび建てたるは正徳五年建てし山門
文晁のかける鬼箭のゑに
一筋に思ふ心は目にみへぬ鬼の箭ながらたつる錦木
千里遙来漢々躍、一年又過唐々春
唐船の舟玉あげに捧つかひ銅鐸うちならしかんかん踊
文晁のゑがけるかんかんおどり
かんかんの踊をみても本つめのむかしの人の名こそわすれね
文晁の故妻幹々といふ、唐画をよくせり。
六月十二日夜望月
凉風六月天如水、処々楼台烟樹裏、一葉軽舟遡墨河、独登艇
板誰家子
水無月のかげをすゞしくすみ田川棹さしのぼる舟はたが子ぞ
思ひいづるまゝに書きつけみれば、狂言にあらずまことの詩歌なり
かんかん踊
かんかんの舳のみなとのさはぎ歌もろこし船の舟玉まつり
かんかんの踊のしるしあらはれて五月雨もなく夕立もなし
如意宝珠
物ごとに意のごとくかなへるをさして宝珠のたまとこそいへ
水無月十九日例の晴雲忌に甘露門にて
三十年にひととせたらず廿日にはふつかにみたぬ日こそわすれね
虎山子の佐渡に帰るを送る
あら海を虎の子をわたし恙なく帰る故郷は千々の金山
文月一日美鱮子の二十一めぐりの忌に
難波江のあしきたよりの文月もはたとせあまり一つへにけり
伊勢人七十の賀に
七十は古来稀とはいせ人のひがごとならぬ千代の寿
辛巳七夕七首和歌
七夕迎夜
ほし合の顔やまち見ん秋風のそよぎもあへぬさゝの一夜に
行路萩露
花ずりの衣のすそもほしあへず露わけこゆる野路の萩原
初雁雲連
夕さればあまつ空より音づるゝ雲のかたての初雁のこゑ
秋夕傷心
何となくとありかゝりとうき秋の夕ぐれにさへなりにけらしな
対月待客
柴の戸の月かげきよく初秋のあつさにつどふ友ぞまたるゝ
山家擣衣
山ずみの軒端にすかくさゝがにのいとのみだれて衣うつらし
文月八日竹本氏のおくれるむなぎめすとて
水無月のそのはたちまり八日より十日ほどへてむなぎとりめす
あこや琴ぜめの絵
景清き月やいづこにやどるらむ雲ふきはらへ峯の松かぜ
松浦静山老侯より二画賛をこはる、旧作を小補してとみの責をふたぐ
月下子規
林高夏月明、霧滴郷心切、莫使子規啼、啼時山竹裂
葦間翡翠
ざれ歌の口ばしなればなには江のよしやあしともまゝのかはせみ
浅草広小路巴屋の額に三番叟の面あり
お客の手しきりになるは滝の水たえずとふたり酒の巴屋
六歌仙
文屋康秀
康秀のむかし御存じあらし吹くむべ山ばかりとるかるたうた
僧正遍照
僧正も乙女のすがたしばしとはまだ未練なるむね貞の主
喜撰法師絵に僧綱あり、いかゞ
わが庵は人も出入らず僧綱のゑり立衣御免あれかし
小野小町
やまと歌衣通姫の流義にてつよからぬこそ女はよけれ
在原業平
在原の業平といふいろおとこつくも髪をもやらずのがさず
大伴黒主
立よりて見んもうぬぼれかゞみ山髭むしやくしやと色の黒ぬし
十五夜の月
おとどしはおしよく去年は近星やこよひ無疵の月をこそみれ
山屋豆腐をくふ
燈籠や俄見にゆく足引の山屋の豆腐くふばかりなり
玄宗教楊貴妃笛図
玄宗皇帝鼻毛長、楊貴妃顔似海棠、且欲丁寧教横笛、陣中太皷響逸蕩
夕顔棚の下凉の絵に
万葉集のうちにもみえず夫木にも夕顔棚の下すゞみ歌
日の出に稲の穂の画
日のいづる本つ国とは臼と杵つくともつきじ稲の八束穂
芋の葉かげに桔梗の画
あきちかく花さきそむる恋風にかぶりをふれるいもはあらじな
摂門法師のいせのくにゝまかれるを送るとて
いすゞ川水と波とを神垣の内外のへだてあらじと思ふ
いせの海きよき渚の神かけて衣の袖に月やどさまし
髪長と神もないひそこれも又人の国なる人ならなくに
神田祭
らふそくの油町からこはめしの塩町かけておやとひまつり
かんかんの神田祭に唐人の踊もいでんとしま町より
拍子木の音なかりせばたをやめのいつまで踊るうすものの袖
九月十三夜蔦屋重三郎がもとにて月を見る
市中のけしきも蔦屋重三夜あすの祭を松の月かげ
十五日豊島や長兵衛がもとにて雨ふり出けるに
ふりかゝり雨と風とのふく来る長き兵衛のやどぞめでたき
贈梅幸
河原崎座有金箱、尾上松高菊五郎、玉藻前身外無類、忠臣後日又将当
久貝氏馬見所聯
勇立春駒一春始、馴来秋草千秋中
いにしへの耳のけものをまのあたり口とらせつゝみるぞめでたき
二条良基公の嵯峨野物語に馬を耳のけものと云ふあり。
ことし紅毛の国より来れるもの駱駝をひきて長崎に来れるかたをうつして、狂歌のすりものとなせるよし、五揚舎福富のもとよりいひおこしければ
老ては狂歌もよまぬが駱駝
と書きつかはしけるもおかし。
神田まつりの日雨ふりければ
笛太皷神田ばやしの曲撥の音もどんどとふりしきる雨
済松寺に菊ありときゝて白菊をこふに。とみに贈り給ひければ
そもさんか払子を竪におこせしはまさに一鉢しらぎくの花
しら菊の花一本はふる寺の雪の山をやいでゝ来にけん
神無月十七日ざうしがや大行院のつくり物をみて
かざり物みんと門辺にたつの口秋の小春の行合の川
巣鴨の植木屋弥三郎がもとの西施白といふ菊を
姑蘇台のしかと病も直らねば西施の肌のしら菊もみず
この菊もろこしよりただ一本大村の地にわたりしを、弥三郎が求め置きたるにて外になしと云。
佐々木花禅翁をいたみて
みほとけの手折りし花をうけ得つゝ笑をふくみし面影ぞする
家の風ふきもたゆまで鳥が啼くあづまぶりをやのこすことのは
あら玉のとしのはじめのあらましにちぎりしことも夢とこそなれ
ことしの顔見世の番付をみれば、松本幸四郎の名、京四条と河原崎と市村座にあるもおかしくて
顔見世の名は三韓の高麗屋京の四条と江戸両芝居
猫といへる火桶を抱きて
この猫はしろがねにてはあらがねの土一升の江戸今戸焼
井上氏の手づからつくれる菊をおくれるに
霜月の下着の黄菊白菊ははや諸太夫のしるしなるべし
坂太といへる札差の家督の祝に亀をゑがきて
老の阪たちこえゆかん万代の亀の子のこの子の末までも
顔見世は三軒ともにはじめたれど一向に評判なし
顔見世は三軒ともにはじめてもあら計にて見どころはなし
大江戸になにはのあしのみだれ入り市川流もたえてしばらく
初瀬川といへる角力、本所相生町にて人とたゝかひうせしときゝて
二もとの松さへかれぬ本庄の相生町の三丁目にて

角觝夫号泊瀬川、二株松樹立岩阿、乍聞讐敵雌雄決、不比尋常勝敗多
雲蜂のゑがける雲に郭公
ほとゝぎすなくてふ夏の雲の峰たてたる筆とはしり書
福の屋主人角力立狂歌合番文序
角力立のたはれ歌合は秋の田のほてといひ、人をまつほのうら手とよびし面影をうつして、その取合の番文を取組といふ。古の左右は今の東西とかはり、すまひの長をとしよりと名付るも、はばかりの関の大関せきわき、はた露ならぬ小結前頭などいひて、更に霞に霧や千重へだたつまくのうちとよぶ事になん。たはれうたも亦是にならひて、小鳥づかひのはじめより、抜出追相撲の末にいたるまで、勝と負とをわいだむる事とはなれりける。こゝに福の屋のあるじ、ことし文のまつりごち給ふ辛巳のとしの春のはじめより年の暮にいたるまで、みそじあまりひとつの角力立に、大かたいはゆる幕の内に入りたる番文を一巻とし、たはれし道のめいぼくにせんとて、これがはしつかたにそのことはりをしるしてよと、せちきのせちにこはるゝまゝ、筆のまにまにかいやりぬ。まことかの吉田の何がしとやらんが家につたへし追風のたよりをだにしらねば、今のすがたはたどたどしくなんありける。神風のいせ伝ははし鷹のゑとりやしきの、ふるきをたづねて、あたらし橋のほとりにすめり。つとにおきよはにいねて、その家の業におこたりなきをたゝへて
ざうしがやせんだ木村のむら雀すゞめの千声鷹の一こゑ
元日雪
初雪にけさはふりこめられたりし小野のむかしを思ふ元日
歳暮
七十にあまれるとしのくれ竹のよたびも松の下くぐるべき
立春小川町を錦のきれといふ
柳原桜の馬場をこぎ(ママ)まぜて春の錦のきれやたつらん
平戸の老侯静山公のもとめによりて、翁の画に
なるは滝の水のながれの音たへずとうとうたらりたらり長いき
若菜の日雪ふりければ
若菜つむ野路はみゆきにうづもれてたが七種の数をわくべき
焉馬翁八十のとしの春のはなし初の会に子の日といへる題にて
八十の春の子日の小松原十八公と若がへれかし
春雨
上天の事は音なくまた花のかもなき庭に春雨ぞふる
赤坂塚口氏といへる酒家の半切桶を、去年十二月朔日に失ひしが、ことし正月六日門前にしたゝかなる音せしをいでゝみれば、かの桶なり。これに神符と書付あり。鞍馬山の大餅舂にて清浄の盤をもとめてかり置きしが、今かへすなり。これより家内繁昌すべきむねありて、鞍馬山執事と書きしものあり。そのうたよみてよと塚口氏のこふにまかせてくらま山僧正坊のもちつきの御用にたちし半切の桶
その桶に雪のつきたるも不思議にて、都下に雲のふりしは翌七日のことなり
くらま山大もちつきの御用にも立臼ならぬ半切の盤
とよみ直せしなり。
夢想のうた
屠蘇の酒曲水花見月見菊年わすれまでのみつゞけばや
むつき廿五日亀戸天神にうそかへの神事あり。文政三年庚申よりはじまれり
此神のまことつくしのうそならば宰府の銭かへんとぞ思ふ
浜名納豆
から皮の猫にあらねばさみせんのいとをばひかぬ浜名納豆
みやこの画師のかける傾城のかたはらに禿文を手にもてり
ふもとよりふみ出す禿遠からず高きお山にならんとぞ思ふ
おなじく芸子
色糸の一の芸子のねをあげて二の転手をばまくぞあやしき
琵琶に転軫といひ三線に転手と云、ふるき草紙にもてん手海老の尾とかけり。閏むつきなぬかの日はじめて後園をうかゞふに一本の梅さけり
うづみ火のあたりをいでゝうかがへばいつしか梅の花さきにけり
新楽閑叟無性箱といふものをもて来て歌をこふ
みさかなに春はものうき蕨より夏秋冬も此無性箱
草履うちの画に
うつものもうたるゝものも奥女中かはらけならぬ毛沢山なり
あこや三曲の画に
世の中は皆つるのあし鳧の脛重忠もあり岩氷もあり
閏月九日市村座のわざおぎに
市川が又市村の再興はいち/\時にあたる狂言
正月のふたつあるとし市川をかさねてみます大入の春
式亭三馬閏正月六日身まかりしときゝて
ゆくものはかくのごときか江戸の水ながれて三馬駟馬も及ばず
とし比本町二丁目にて江戸の水といふものをひさぎければなり。
浅草巴屋歳旦のすり物に
春風のふくろひらけば鳴神のつゞみの殿のみつのともえや
甲州八幡差出磯のもの二人霜柿をもて来りければ
名物の品とさし出の磯千鳥はちやの柿も八千代なるべし
南岳の印譜に
よき玉をきざむこの手のあし鼎南の岳のおしてこそみれ
江島の富士の画に
北条がみつの鱗をさづかりしそのひとつかや江島の富士
越後獅子
謙信も軍が下手であるならばまづ鏡磨さて越後獅子
瀬川路考・岩井粂三郎がわざおぎをたゝへて、
浜村に岩井の水をくめさとは江戸紫のあたりなるべし
同ぬれ髪のおせき
浜村や瀬川の水にぬれ髪のせきもとゞめぬ木戸の大入
同放駒のおはや
大和屋の岩井のあたりはなれ駒おはやくおいで朝はとうから
彼岸の入の日八百善のもとにて
庖丁も八百善根やつくすらんさんやのほりのかの岸に入
病をつとめて法林堂とともに上野の花を見る
白雲の上野の花のさかりにはしばし心もはるゝうれしさ
扇に書たる詩に二句あり、今日の事に似たるもおかしくて
入洞題松遍
天台の霞の洞に入りぬればからうた書かん松原のまつ
看花選石眠
ねごゝろのよろしきところえらびつゝ石の上にも三春の花
同じ日浄行堂にて探幽の画けるといへる涅槃像をみる
世の中のはかなきためししらせんと釈迦もごろりと横にごねはん
きさらぎ廿一日青山堂、孫oとともに伝通院の花を見るに盛なり
此春の命ひとつのあるゆへに無量の山の花をしもみれ
白山の花をみてよめる、本社のかたに筆桜ありしがみえず
旗桜あれは備後の三郎がもてる矢立の筆ざくらならし
いせ伝のもとより寫ヨが画がける料理通のさし画の賛をこふ蝶や夢鶯いかゞ八百善が料理通にてみたやうなかほ
松浦静山老侯のもとより大神楽の獅子にむかひて犬の吠ゆる画に賛せよと宣ひければから国のおそろ獅子もやいかならん准南王の犬にむかはば
帰雁
秋冬をこしぢの帰雁とびたてばじだんだをふむ石亀ぞうき
白藤子によみて贈る
いかほどに波のぬれぎぬきするとももとよりかたき岩次郎どの
蕗と自在を画たるに
草の名のそのふき自在徳ありてめうがもあらせ玉琴のうた
桜ぐさ
むさしのの一もとならずむらさきの地に丁どおふ江戸さくらそう
桜草の唐名を紫花地丁とかいひし。
佐々木氏より牡丹の花をきりて贈られけるに
八十あまり八夜弥生の廿日草いつかもはやくいつか咲きにき
病気にて起居かなはず、十五日ばかりもふせればなるべし。
丸屋より藤花をおこせしに
亀井戸の藤とおもへばふじながら身をそり橋になしてこそみれ
牡丹
褻衣にせざるくれなゐ紫の色ふかみ草春のはれぎぬ
病中のうた
こしおれの歌のむくひかあさましやうしろにしめし前にしゝ筒
松魚
三両の初がつほにもあふ事はかた身で二百四十八文
卯旧朔日初がつほを献上になりしときゝて
たてまつるはつのかつほを夕河岸の衣にかへん卯月朔日
芍薬
穆々とふかみ草かも芍薬のたすくるはこれ花の辟公
躑躅
春ふかき霧島つゝじしらぬ火のもゆるが如き花とこそみれ
撫子
飛鳥井の色もこきんの撫子はから紅にやまといろ/\
杜若
あやめ草似たるやうでもかきつばたかほよき花の江戸の紫
夏菊
時しらぬ不時の花とてむらさきのかのこまだらにさける夏菊
白きつゝじ
花の名も所によりて岩つゝじ浪華の平戸江戸の琉球
卯月十四日の暁時鳥をきゝて
まてしばし蛙もだまれ鶯の巣を出る時の鳥の一声
国の守のおめぐみをかしこみて角力を興行せしに、そのしるしありてや守の殿の禄高うまし給ふときゝて
いのりつる弓矢八幡神かけて角力とろなら古河の御城下
上総国歯吹阿弥陀回向院にて開帳あり
願だてにたつ蛤の口あいて歯吹の弥陀の影ぞたうとき
津の国舎利尊勝寺の聖徳太子浅草八幡にて開帳
天王寺一舎利二舎利尊勝幸南無仏舎利の数の一粒  
をみなへし
蜀山人
男色の心をよみ侍る
女郎花なまめきたてる前よりもうしろめたしやふじばかま腰
鰻驪
あなうなぎいづくの山のいもとせをさかれてのちに身をこがすとは
橘州のもとにて障子のやぶれたるをみて
やぶれたる障子をたつてはらざるはそれゆうふくな家のしまつか
小島源之助(橘洲)のもとにて人々狂歌をよみ侍りしに、あるじの驪龍のたまをとられて鱗もとりあへぬといひければ
北条のうろこもなどかとらざらんひるが小島の源之助どの
多賀谷氏より三線をかりて
さみせんのどうもいはれぬ御無心にいとやすやすとかすたがやさん
ある人ゑびやの箙といへるうかれめのもとに通ふときゝて
ゑびらにはあらぬゑびやの梅折りて盆と暮とに二度のかけ取
あめ原憲の樞をうるほしていたくもりければ
さす板に雨のふる屋のむねもりはかさはりの子のしるしなりけり
返し
かさはりの子ならばよしやむねもりもさらでいとはじ雨のふる屋を
翫大菊
大菊をめづる狂歌ははなかみの小菊を折てかくもはづかし
西向寺の隠居のつくれる菊をみて
この花を東まがきにうゑたるは西に向へる寺の隠居か
うら盆
かけとりのみるめかぐはなうるさきに人にしのぶのうらぼんもがな

春の夜のたゞ一時も千金にかへまじものを花が三文
狐藻をかづく絵に
うつくしき女と見えし狐こそ人の思ひをやきねづみなれ
猿水の月とるかたかきたるに
水の面にてる月かげをとらんとはこれさるぢゑの最中なりけり
しのぶうりの女のゑに
しのぶ草京の田舎におひ出て八瀬や小原やせりうりとなる
羽子をつく小女のゑに
はごの子のひとこにふたこ見わたせばよめ子にいつかならんむすめ子
鍬のかたへに桜草のゑ
いにしへのならのみやこの桜草けふくわのえに匂ひぬるかな
鬼念仏
念仏を申す心のやさしさは鬼も十八檀林の僧
伊尹は爼板を背たらおひて成湯に目みえし、山かげの中納言は口腹のために
世味をわする、十能のひとつにかぞへ一座の興をたすく。それゆるかせにす可けんや。客をみてなぎなたならぬあしらひは料理に上もなきり庖丁
これは尾張のみたちにつかふなる料理をこのめる人にかきおくれるなり。
柳かげに女のたてる画に
ゑにかけるその女なら柳なら心も風もうごきこそすれ
大和菊
言の葉の花香にめでゝ立ちとまる人の心をたねのやまと菊
日本橋月
二千里の海山かけてゆく月もいでたつ足の日本ばしより
吉原花
吉原の夜みせをはるの夕ぐれは入相のかねに花やさくらん
堺町雪
評判はよそからつもる雪つぶであたりはづれぬ堺町かな
寄力恋
あふ事はかたひねりなるつかの間も心ほそ身に思ひきられじ
船饅頭
こがれよる船まんぢうの名に立ちてこの川竹の夜をふかすらし
十三夜橘州のもとにて諷謡十三番を題にて月のうたよみけるに田村を
あれをみよふしぎやなぐひ大空にひとたび放つ千々の月影
御紋菊
白がさねきまさん君が御紋菊ものきほしとぞあやまたれぬる
鰹魚にゑひて
鍋のふた明けてくやしく酔ひぬるは浦島が子がつるかつほかも
卯雲翁を下谷にとひて
狂歌をば天井までもひゞかせて下屋にすめる翁とはばや
大鳥明神にて
此神にぬさをもとりの名にしおはばさぞ大きなるかごありぬべし
千駄が谷八幡宮の門前にて道ゆく女の子をうめるとてさはぎあへりけるに
弓八幡宮ゐのわきで三番叟よろこびありやよろこびありや
寄煙草恋
うづみ火のしたにさはらで和らかにいひいひよらん言のはたばこもがな
寄火入恋
きゆるまで思ひ入りてもあふ事は猶かた炭のいけるかひなし
寄灰吹恋
灰ふきの青かりしより見そめたる心のたけをうちはたかばや
神無月祖師の御影供にざうしがやにて扇をひろひて
おちたるをひろひゑしきのもち扇とる手おそしの御影堂まへ
章魚をさかなに酒たうべて
誰にても酒をしひてや足あれど手のなきものぞたこの入道
御取越
みな人のきる肩衣の下なきは神無月にもおとりこしかな
恩報講
西東参る人々御中にひらく御文の御報恩講
等思両人恋
片身づゝわけし思ひの中落はいづれかつほの骨つきもなし
雲雀
舞雲雀籠のとりやが手に落ちてから直も高くあがりこそすれ
郭公
ほととぎすほぞんのみくりふりぬればいまはてつぺんかけたとやなく

わきて猶思ふ心の花だしや春をまつりの老にこそたて
咲きなばとわがおもほえし犬桜遠山鳥の尾をふりてみん
待遠の心いられやいり豆に花咲くほどの日数おもへば
よしの川そのしら波やふせがんとかけし木末の花ねむりかも
咲く花の帰る根付の琥珀にもなりて木かげの塵をすはばや
一八の花
うつくしき二八あまりのすがたよりこの一八の花ぞえならぬ
端午
のぼり竹すぐなるよとはかみしもの麻の中なる蓬にもしれ
卯雲翁に久しく音づれもえせで申遣しける
一寸のひまなき用にさしつまりつい五分さたとなりにけるかな
返し
此方も一寸のひまなきゆへにつまるところは無沙汰五分五分
布袋和尚牛にのりてから子のひきてゆく画に
寺子どもひきだす牛のつのもじはいろはにほてい和尚なるかな
飯田町雁奴のもとにやどれりけるに、となりのからうすの音におどろかされてごほごほとふむからうすに目さむれば東しらける飯田町かな
寄楽庵祝
卓子の四すみも腹におさまりて御代は太平楽庵の客
楽庵萱葉町にあり。唐料理の茶亭なり。
松かげに鳥さし竿をもちて天人をさゝんとねらふ絵に
乙女でもなんでもさいてくれは鳥さいとりさしを三保の松かげ
みどり町滝口氏のもとにて
庭の面にしげれる木々の緑町ふりそふ雨の音はたき口
扇に吉野の花かきたるを狂歌せよと人のいひ侍りしかば
むかしたれかゝる狂歌のたねまきて吉野の花もちりになしけん
日吉の祭みんとて星の岡にまかりけるに、いはきますやとかいへるくれはあきなふ者のさんじきに、よきむすめあなりとて人々とよみあひければよめる
みな人の心いはきにあらざれば思ひますやの娘をぞみる
猿猴素麺をくふ絵
足引の山ざるの手のひだり右ながながしくもすゝる素麺
文字六といへる豊後節の浄瑠璃をかたれるもの仙台浄るりを語りければ
仙台のことばをうつす浄るりもそのみちのくのしのぶ文字六
同じく地獄破りといへる浄るりを語りけるが折しも祇園の祭の夜なれば
けふは又牛頭天王の祭とて地獄やぶりの浄るりにめづ
箸紙に題す
米の飯の菩薩と同じ一体のはしがみといふ神はこの神
みどり町滝口氏にて扇に画かきたるをあまたもち出て狂歌せよと望む
芦に翡翠
とりあへずよめる狂歌は難波江のよしやあしともまゝのかはせみ
雪のふりつもる杉の間に伊達道具のみゆるところ
しら雪のふる行列のたて道具いづれの宿をすぎのむら立
角兵衛獅子の絵に
打出てみれば太皷の音にきく獅子奮迅もかくや角兵衛
わいわい天王のゑに
絵にかける天王さまを見はやしてすきの狂歌のたねをまくまく
高砂のゑに
たれをかも仲人にせん高砂の松もむかしの茶のみ友だち
末広といへる狂言のかたを扇にかきたるに
からかさも扇もともに末広の名にやめでてたくかい太郎冠者
淀橋のほとりにすめる五風子狂歌の巻に点せよとおこせしかば
淀橋の狂歌に点をかけてみんたがおまけやらおかち町やら
歳暮
借銭をもちについたる年の尾や庭にこねとり門にかけとり
かけとりをみてよめる
かけとりのわたらぬ金にむく目玉しろきをみればよぞふけいきな
辛丑歳旦
くれ竹のよの人なみに松たてゝやぶれ障子をはるは来にけり
同行四人龍隠庵に昼寝して
虎ならで龍隠庵に四睡とは耳にもきかづ目白にもみず
ほのといへるうかれめにあひて
ほのぼのとあかぎの山のひときりに玉かへりゆく馬おしぞ思ふ
浪花の耳鳥斎とかやかける牛若浄るり御前の絵の扇に狂歌せよと、浜辺黒人のいひければとりあへずよめる
しゝをみて矢はぎの里の琴の音にこゝろひかるゝ虎のしり鞘
牡丹
咲きしよりうつらうつらと酒のみて花のもとにて廿日酔ひけり

うつくしきはながみ入のふかみ草露のぼたんをかけてこそみれ
白牡丹
くれなゐのくるへる獅子の洞よりも又しら雪をはく牡丹かな
石燈籠に雪のふりたるに、みゝづくの赤き頭布きてとまり居る画に
木兎引の千引の石の燈籠にあかい頭巾をかぶりふる雪
柳に燕のかたかきたる絵に
つか糸にみだれてなびく柳原ならぶ刀のつばくらめかな
市川三升しばらくの画賛
市川のながれて四方にひゞくらん愁人のためにしばらくのこゑ
嵩松子かしらおろして土器のほとりにすめるよしをきゝて
おつぶりに毛のないゆへか若やぎてかはらけ町にちかきかくれ家
卯雲翁のもとより肥後の小代焼といへる花生をおくられければ
肥後ずゐきそれにはあらで花生の名におふいもがこしろやきかな
尾張のみたちにつかふまつれる岡田氏のもとよりかずの絵をかゝせて、これにたゝえごとをそへてよとておこされしうち蛍のゑに
勧学の窓に蛍はあつむれど尻からもゆる火をいかにせん
松かげに船の帆のみえて有明の月のこりたる絵に
あかつきのそのふんどしを真帆片帆かけて立たる松ふぐりかも
柳に馬のかたかきたるに
青柳にあれたる駒はつなぐともさいた桜のかげは御無用
車引牛車の上に仰さまにふしてひかれゆくかたかきたる
小車の牛の角文字ゆがみもじ大の字なりにいびきかくなり
おたふくうしろむきに鏡をうかゞふところ
尻くらひ観音にまたおたふくの弁才天をあはせ鏡か
南極寿星図
南極の星を三年まもりなば福禄寿ともそへてあたえん
同じく
宝船いざよい風がふくろく寿あたまのゑてに帆をあげてみん
溜池月
山里の猿となりてもとらまほし数のこがねをためいけの月
瀬川路考松本錦考おはん長右衛門道行瀬川仇浪の狂言の画に
金箱をせなかにおはん長右衛門二人が芸にあだなみはなし
音にきく瀬川のきしのあだなみはあてしや入のくづれこそすれ
小松引の画
子日する野辺に小松の大臣は今に賢者のためしにぞひく
滝見の李白
滝の音はたえてもたえぬ名の高き三千丈の大白の糸
僧正遍照落馬の絵賛
われおちにきと口とめも心もとなければ
女郎花口もさが野にたつた今僧正さんが落ちなさんした
すりばちのはたを白きねづみ黒きねづみのめぐるゑに
すりばちをめぐる月日のねづみ算われても末にあはん玉味噌
小原女
小原女がひくてふ牛の黒木よりこしおれ歌もかきのせてみん
橋場の慶養寺に慶長のむかし袖をたち桃をわかちしちかひより、はかなくなりし二人の墓ありときゝてたづね侍るしに、此寺もと浅草のみくらまへにありて、そののち亀戸村にうつり、また今の地に移れるよしにて、そのおくつきどころのあとだになしといふ。あまりにほいなくてたちいでつ。二人の事は羅浮子の藻屑物語に見へたり。
あとかたもなみのもくづの物語今かきわけてとふ方ぞなき
山手と同じく肥前座の操を見侍りし帰るさ、新和泉町の銭湯に入りしに、浴室新しく清げなれば
ひぜんなら薬湯へこそ入るるべきにこれはきれいな新和泉町
四角画の自賛
女芸者の絵
丸くとも一ト角あれな駒下駄のあまりまろきはころびやすきに
富士見西行
風になびく富士の煙の薄墨はかくゑもしらぬわが思ひつき
太刀折紙の使者
かどびしのたちおり紙のおり目高四角四面に通る使者の間
市川三升しばらくの所
三升をにせうにせうと思へどもかゝるかく画は一升に見ず
かんこ鳥
四角なる玉子をみてもかんこ鳥ふかくかく画の鳥おどろかす
朝とく野べをありきしに、つりがね草といふ草をみて
朝露のすはすはうごく風の間につりがね草を引きあげてみる
女の猫を愛する四角画
猫の目のかはるにつけて時々のはやりとも見よ身をばかく袖
煙草をのむ使客同画
稲妻に煙草の煙吹出すはこれ雷の喧嘩大將
石町に竹本佐太夫を訪ひて
石町の鐘よりひゞくその声はあまつ空まですみ太夫かな
はじめて茶屋四郎二郎にあひてよみてつかはしける
これは又よい折鷹の茶屋氏にお目にかゝるは初むかし哉
食肴飲酒曲肱而枕之楽亦在其中矣
てる月のかゞみをぬいて樽枕雪もこんこん花もさけさけ
春の日つくば山をみて
つくば山このもはかすみかのもにはまだ消残る雪もみへけり
三河島といふ処にて
舟つなぐ松も昔の海づらにいくたび小田やすきかへしけん
むつき三日上野にて夷曲
まいれどもなま物しりのかなしさはなま有がたき大師大黒
同じく護国院にて
大黒の宝の山に入りながらむなしく帰る湯ものまずして
岩み町本所青山白山小石川の五所までやしき給はらん事を願ひしに、その事かなひがたければ
梓引やしきなきこそ悲しけれ五たびねらふ的ははづれて
としのはじめに
門々の年始の礼のなかりせば春の心はのどけからまし
富ケ岡にて
春秋にとみが岡とて一むれの梅をかざしてまいる尾花や

ところどころふしぶしありてなまよみの甲州糸ににたる青柳
浅草庵にてもろ人梅のざれ歌よむと
風の神こちらをむけば浅草の庵にちかき梅匂ふ小屋
梅音院のもとの名を二王小屋とも匂ふ小屋ともいへばなるべし。
富小路殿貞直卿より
(歌脱落)
返し
千金の富の小路のたまものを拝してよものあからめもせず
真葛が原にすめる狼狽窟のあるじによみてつかはしける
長き日のあしにわらびの手をそへて真葛が原も風のとりなり
酒あれども肴なし、つまり肴の三のものの名によまばかくもあらんかし
からすみ、うるか、たらこ
金銀がないからすみぬ利をうるかまうけたらこのさかなもとめん
壬生狂言おけとりのゑに
千代のうが心をくまば桶取の水もたまらず月もやどらじ
寿祝九十賀
かぞへゆく春の日数のよはひより猶幾千代の花やかざさん
施薬所に梅の花をみて
花みれば気の薬なり腰ぬけになるとも梅のかげにたふれん
根立氏ふゆくのとしの賀に
のりこえぬひじりのみちをためしにて千代も心の思ふまにまに
銭屋金埒のもとより
ふたつもじ牛のつの文字ふたつもじゆがむ文字にてのむべかりける
返し
すぐな文字帯むすび文字お客文字字はよめずとものむべかりける
こいこくしやうといふ事なるべし。
一樹海前一放翁のこゝろを
梅のさかぬ野山もなかりけり身を百千にわけつゝも見ん
布袋川をわたる絵に
かりの世をわたりざりせば川のせにみるめありともたれかしるべき
伝通院に花見にまかりて
花にゑふ去年の春より今年までのみつる酒もはかりなき山
山を無量山といへばなり。
紅毛大通詞石橋氏餞別
阿蘭陀も花に来にけり馬に鞍をきなの句にもみえし道中
亀屋何がしの妾眉をそりし日にゆきて、その名を熊とあらためしときゝて
相生の中吉なればもろともに松の落葉をかく熊手かも
もと富ケ岡にめる(ママ)白拍子中吉といへるものなればなり。
春の雪ふるあした、すみだ川のほとりにすめる亀屋菊屋の何某と吹屋町升楼にてよめる
世の中の人には雪とすみだ川春風寒く吹屋町がし
升楼のいらつめ市といふが乞ふにまかせてその壁にかく
むかし人はかくいちはやきみやびをなんしけると書きし伊勢物語
庭のさくら盛なるに
きのふまでわか家桜ありとしもしらで野山の花になれにき
立てみつゐてみつ庭のなかばちりなかば桜の花の木のもと
さくらのちりけるに
花みんと思ふ心のなかなかにちりはてゝこそ長閑なりけれ
春雨の夜よみける
春雨の空かきくらしふる夜半はきのふ花みし事も思ほゆ
久米仙人の画に
たをやめのあらふ衣の塵ひぢやつもりてなれる恋の山人
庭の桜の枝に提灯をかけしに風ふきて提灯をうごかしけるに
火ざくらにてうちん桜焼きすてしまづ何事もなでんなりけり
嘯月園のふすまに秋の七草をゑがけるを春の夕ぐれにみて
風をむかへ月に嘯く山里や春の百花秋の七草
三又の江のほとりにて並木五瓶にあひて
生酔の八またのおろち三ツまたで五つの瓶にあふぞうれしき
かもめをみて
すみ田川沖のかもめをよくみればむかしのたぼのなりにことなり
駒が原のしだれ桃を見にまかりて
きぬがさを張るかとばかりみちとせの桃さく野べやさしてたづねん
卯月のはじめ雨ふりけるに
春雨の名さへ花にはいとひしをいとゞうづきは言の葉もなし
七年さきにうせにし美瑛子の夢のうちに、かたへにある刀かけといふものをうつすとみて
つるぎ太刀みにそふ影も今は世にかけはなれたる夢の浮橋
感応寺の牡丹の花見にまかりしに、ふかみ草といふ五文字を上におきて歌よみけるふる寺の庭の木蔭のふかみ草春の光をのがれてやさく
かしこしな千ぐさの花のおほきみの名におふ花や法の大君
見しや夢きゝしやうつゝ花鳥の色音の後にさく廿日草
くさぐさの草の中にも一枝のぼたにの花の色ぞえならぬ
さくらのみ花と思ひし目うつしにたぐひもなつの色ふかみ草
圓珠庵の楓のたねをうつし植ゑおきけるが、卯月ばかりに一枝折て政隣のもとにつかはしける
露ながら折りてや見せん若楓かげまどかなる玉と思へば
返し
まどかなるたまものなれや若楓君がことばの露もそはりて
浮舟のゑに
心からよるべもなみの浮舟の名にたち花の色はかはらじ
たけしまゆりといふを物名に
朝まだき咲きそめしより日たけしまゆりもこぼさぬ花の上の露
おなじく夷曲
年はたけ島田にゆへる娘かとみればうつむくさゆりばの花
咲出る花の形はひあふぎをかざすに似たるたけしまの百合
卯月のはじめ郭両をきく
鎌倉の海の初音もきかなくに山ほととぎす空に飛魚
おなじ日尚左堂にて初鰹をくふ
ほととぎす聞くみゝのみか初鰹ひだり箸にてくふべかりける
焼絵の富士の夷曲
風になびくふじの烟の空に消えて焼絵もしらぬかたを見るかな
嵐はげしき夜伊藤氏のもとに、屋代弘賢のすみ田川花見の記をみて、ひそかにたづさへ帰りてうつしてかへしける時
夜嵐に花の香ぬすむすみだ川いざしらなみの名にやたつらん
かき根に白き藤花さけり
いづこともしら波かゝる藤の花ながむる末のまつやこへけん
やよひの末内田屋に躑躅の花をみて
春もやゝ末寺町のいはつゝじ花は赤城の宮ちかくさく
むつきの頃白川楼のあるじに莫大河といふものをおくるとて
千金の春の光は莫大の海にながるゝ百川の水
三月三日中戸やみせ開の日に
梓弓やよひの色のみせびらきあたりはづさぬ文字の中戸や
五月五日馬蘭亭にて
此庭の馬蘭の葉にもにたるかなあやめのねざし長き出会は
六日のあやめといふ事をよめる
世の中はさつき六日のあやめ草猶いく年をひかんとぞ思ふ
たゞの扇にものかくとて
鳥にあらず鼠にあらず蝙蟷にものかきすさむ我ぞ何なる
市にかつほをあまたうりありくをみて
鎌倉の海の幸ありて大江戸の道もさりあへず鰹うるこゑ
夕立
一しきりはれゆくあとの山本にまたもたゞよふ夕立の雲
俳優沢村源之助表徳を曙山といふ、観世水と蝶のかたある染ゆかたをきたるをみてうたよめと人のいふに
観世水ながるゝ沢にむらむらとこてふの夢や曙の山
小野の滝の絵に
山さらにかすかにひゞく小野の滝木曾の伐木丁々として
狂歌堂の庭に秋草うゑたるをみて
ことのはの六くさの庵は秋草の一つ二つはたらいでもよし
七夕
七夕を思へば遠きあめりかのあまさうねんの事にや有けん
天河蓮台輿のなき世とて紅葉の橋やかさゝぎのはし
十五夜姫路の大守の高どのにて
中秋の月毛のこまの名にしおはば此大下馬の前にとゞまれ
馬蘭亭池の端にて池の坊流の花の会ありけるに鴨と芹を贈る
しのばずの池の坊なる会席に岸の根芹をちよとつまんかも
鉄砲矢場に真蘇芳の薄さけり
狂言の鉄砲矢場の花薄だあと一声はける真蘇芳
狂歌房米人、霊岸島檜皮河岸にうつりすみけるに
軒迎吾友論風骨、房詠狂歌題檜皮、
まきものの檜原が河岸に庵しめて狂歌の斧をとる人はたぞ
尚左堂のもとにまとゐして
霊宝は左へといふことのはも此やどよりやいひはじめけん
暮秋
菊おりてことしも秋はくれにけり梅をかざせし事もありしが
草も木もかれゆく比をゝのれさへわびしと秋やくれて行くらん
さんまひものといふ物名に
もろ人のとりめすものをわれも亦きなくさんまのひものとくとく
冬の柳を
木がらしにたてる柳の一葉なくちりはてゝこそ青みそめけれ
市人の酒をのむをみて
寒き日は酒うる門にむれゐつゝさかなもとめて酔へる市人
食火鳥
あつき日に水こひ鳥もあるものを火をくふ鳥もなどかなからん
和田酒盛の盃に
一門で三日三五十五城つらねし和氏がたまのさかづき
六俳仙女の画に
俳諧のうたも六くさの女郎花など男へしひとつだになき
冬の田をみて
鍋の尻するすみの世と思ふにも冬の田足をながめこそすれ
目白の滝
布引の滝をながめし目白台たつた手拭一すぢの水
賀七代三升元服
七代市川団十郎、吉辰元服仲冬望、三升滝水龍門鯉、天地乾坤大戯場
十二月八日柳長をいたみて
家々のいかきの目にも涙かなおことおさめにかゝる柳屋
六十になりけるとし
したがふかしたがはぬかは知らねども先これよくの耳たぶにこそ
六十の手習子とて里に杖つくやつえつき乃の字なるらん
元日狂歌堂にて賀茂の葵盆を曾津漆にぬりたる折敷に鶴の吸物を出しければ
二葉より千とせの春にあふひ盆かもにもまさる鶴の吸物
庭松契久真田大守七十の賀
久しきを契るためしにうつし植ゑて庭も籬もすみよしの松
さゝれ石のいはほに生る種よりや千とせを庭の松にちぎらん
立春雪
一面の銀世界にて千金の春の相場や安くたつらん
千金の春たつけふの両替は八千片のしろがねの雪
(題脱落)
鶯にさそはれいでゝ此春もまた谷の戸の花をながめん
春のうた源氏若紫の心にて読めり
みやこべは霞にこめて棹鹿もたゝずみぬべき春の山里
王寺権現に雪の山といへる桜ありしが、枝おれてもとのすがたにあらず
むかしみし桜の花の山もなし頭の雪はふりつもれども
あらきたといふ所にゆかんとて道にまよひて尾久村をすぐ
あらきたのあらぬかたへとひかれゆく狐の尾久の長き道筋
小金井の花みんと思ひしが道遠ければゆかず
花よりも先かごちんぞおしまるゝわづか一歩の小金井の道
袖の岡の花をみて
風もなき花の盛は大空におほふばかりの袖の岡かも
東海寺の中なるくすしのがりまかりしに、庭にひと木のひざくらあり
花見んとけさ立出し道のほどを思へば長き春のひ桜
すみだ川に花をみて
すみ田川堤の上に駒なべて花のあたりをゆくはたが子ぞ
すみだ川堤の桜さく比は花のしらなみよせぬ日ぞなき
あすはまた雨もやふらんすみ田川けふばかりなる花も見るべく
まなべかしにて魚をあみす
すなどりの翁の道をまなべかし属山
気は若さぎに髪は白魚万彦
庭のさくらさかりなるに
わがやどの花さくら戸をおし明て吉野初瀬も軒端にぞみる
郭公文化五年戌辰芝翫初て下る時の歌也
座がしらのてへんかけたる歌右衛門下駄も血になく初郭公
甚牟江戸子之気之衰也
久矣吾不復夢見白猿
江戸ツ子の随市川のおめおめとなど京談の下駄をいたゞく
公家悪の背負てたゝれぬ葛籠など大入なれど舟月が雛
若い衆の骨折ゆへに傘のたてもつきぬく金の勢ひ
いづ平が節も覚へぬ二才どもめづらしさうにみる猿廻し
いづ平は泉屋平兵衛八重太夫が事也。
さるなまけたる上方もの江戸の子とならん事をねがふときゝて
大谷か千日へゆけ大江戸は土一升に金が一升
大あたり大あたりとは金元と帳元座元よみと歌右衛門
ねぶたくて朝はとうからゆかれぬは無言の幕はみずにだんまり
五月十七日歌右衛門三階にて打れしよしをきゝて
うつものも歌右衛門も亦かはら者くだけてのちはもとの大入
八百善といふ酒家に郭公をきく
きくたびに新鳥越のほととぎすなくや八千八百善が門
山家に紅梅のかたかきたる扇に
紅のこぞめの梅の色そへて春の光も深き山ざと
西が原の牡丹見にまかりしにほととぎすいまだなかず
ほととぎす四の五のいふてなかぬまに四五の二十日の日数へし花
阪東三津五郎によみてつかはしける
三津といふ名は日本の三ケの津京大阪にまさる阪東
本朝廿四孝のわざおぎみる人女のみ多しときゝて
女にはみな孝行の芝居とて雪の膚にほれる竹の子
亀戸天神開帳に天国の太刀ありときゝて、みにゆくに雨にあふ
天国の御太刀のしるしみせんとて一ふりふつてはるゝ夕立
金語右庵亭にて古庵屋敷といふ事を
なみなみと金魚を池にたゝえしは小判やしきか古庵やしきか
述懐
とても世につながるゝ身はいとせめて思ふ人にぞあはまほしけれ
此比新川の船便なくて酒すくなしときゝて
菊の酒白衣はおろか入船のこもかぶりさへみえぬ此比
巣鴨村に菊をみる
畑ものの皆不出来なる秋なれや待にもたらぬ菊の花まで
どうだんつゝじ
よのつねの蔦や紅葉にくらぶれば言語道断つゝじなるかな
紅梅に雪のかゝりたる絵に
白妙の雪につゝめるくれないのこぞめの梅の色ぞゑならぬ
耳順のとし
わけもしらずものかけかけといふ人の耳にしたがふ年ぞうるさき
夕つかたざうしがやにまうでゝ
ざうしがや七ツ下りにくる人は高田あたりの麦の遅蒔
擣衣
こまのつめつがるの奥にせなをやりて立かへるべきころもうつなり
上野山に紅葉をみて
鐘の音ひゞくかた枝に色そふやあづまのひえの山のもみぢ葉
まかしよ無用といへる札をみて
大人大人がかくふえゆかば摺物をまかしよ無用の札や出なん
予が幼かりし頃はまかしよとはいはで御行といひしなり。此頃伝通院前の町に御行無用といへる札あり。古意を失はざる事思ふべし。礼失ひて野に求むといふ事のにもかよひ侍らんかし。
葛飾蟹子丸大のしやにてたはれ歌人をつどふまゝ、一筆かいて君奈斎のもとめいなみがたく、右に筆をとり左に盃をとりて、諸白のすみ田川にうかばんとなり
みさかなに大のしあはび蟹よけんかつ鹿早稲のにゐしぼり酒
北閭南瓦の末までも山東曲亭の風行はれて、あられぬ文字に仮名をふる事とはなりぬ蓬莱仙はまだ是当と思ひしが松をいろそふ仙をしまだい
やがて大人と書きてうまとよみ、難有とかきてくそくらへともよむべし。これは市村座顔見世の名題松二代源氏、中村座の名題御贔屓恩賀仙といへばなり。
みなひとこぞりてめできこゆるわざおぎをあざける
五常軍甘輝のやうな清盛はげに小芝居の翫びもの
中村芝翫の事なり、清盛の装束天冠に唐装束なり。
准南子の邪許は江戸ツ子のきやりうたなり、隣の松助うしろの豊前にもはづべしいか程に梅の加賀屋がうなるとも松と柳に及ぶものかは
加賀屋中村歌右衛門芝翫が事なり。
山の手の芸者まがひは引ずりの下駄もはきあへず昼ぞころべる
霜月初子
霜月の初子のけふの玉箒とりてはき出す貧乏の神
来年大小
小遣の帳は三六十八の大晦日なきとしとしるべし
同年の年徳
大門は鬼門の右にあきの方寅卯の間よろづよし原
かつををめすとて
水の江の浦島の子がつる鰹鯛にもまさる心地こそすれ
卯月の比かつをすくなければ
かしましい八千八声なかずとも三千本をたつた一本
賀三升初工藤
一臈工藤称別当、三升大人酒無量、天神七代唐天竺、日本市川団十郎
戊辰のとし浪花より中村歌右衛門とか何とかいへる下手な役者きたりて、都下をさはがせしがごとし。白猿が孫三升が工藤に鼻をひしがれぬ。もとより江戸は江戸浪花は浪花とはいへども、江戸には立小便する女と四文の蜜柑を四つにきりて一文に売るものはなし。これは焉馬が扇に書てやりし文字なり。ゆめゆめ人に見すべきものにあらじかし
葡萄
紫のひとも之ならぬゑびかつらつらぬきそめし玉かとぞみる
琴松亭の聯にかく
糸筋の十三峠木曾路より琴柱にかよふ峯の松風
防河使の一月の費用はこがねの三ひらとぞいふなる。俸米は日々十四口を養ふべし。去年の師走の半ばよりことし卯月のはじめにいたりて五ケ月をへたるを、衣をちゞめ食を減じてニケ月の用途をもてつぐのひたれば、三ケ月の衣食の費こがね九ひらをあませり。このこがねをもて酒のみ物くひつくさんも空おそろし。年比たくはへ置たる文の数々、千々にあまれるがおさむべきくらはあれど、棟かたむきつみ石くち、上もり下うるほひて風雨をだにさゝえがたし。いでやこのこがねあらましかばと思ひおこして、木のみちのたくみをめしてつちをこぼち石をかへ、柱のくちたるをつぎ棟のかたぶけるを正して、としごろの文をおさめ、むそぢの老の名をなぐさめんとするもおかしくて
くらなしの浜とないひそけふよりやおさめんちゞのふみの数々
すでに螟蛉の子を得たり。又よめが君もあれば鼠算の子孫は多かるべし。いでや浮世をはなし亀の池の汀にあそばんとすれば、猶一すじのほだしありて尾を泥中にひく事もあたはず。つらつら過ぎこしかたを思へば、首をのべ手足を出して富貴利達をもとめんとせしも、神亀のうれへ桑の木のいましめをまぬがれずして、首尾四足の六をかくして万代のよはひをたもたんには
つながれぬ心をつなぐ一筋の糸も緑の毛の長き亀
曾我祭をよめる
宮ばしら建て久しき四のとしさつきの廿日あまり八の日
清河玄同といへるくすしと岩井杜若のうはさしければ、杜若によみてつかはしける音たかき岩井の水を清河のながれの末にきくぞゆかしき
両国薬湯
両国の湯にいりぬれば伊豆相撲(ママ)あたみ箱根も及ぶものかは
夏月
久寒し春は朧に秋ぞうきめでたきものは夏のよの月
千秋井の記
千秋井のほりぬき井戸より水と金砂の出し事は、平津氏の気さんじに書きちらされしより、平沢のひらたくあやまり入て外にほるべき穴もみへず。されど流しても流してもぬけめなき朝白園のもとめいなみがたく、こがねの砂の数をひろはば、むかし周の国の御家門魯国御殿の御家老つとめし季桓子とやらいふた人あり。井をうがちて羊を得られしに御家老これをあやしみて、千年むぐらのたぐいにやと孔子といふ物しりをよびて尋ねられし時、何やらむつかしき事を引て木石の怪を鬼畜といひ、山の怪をももんぐわといひ、水の怪をかつぱの屁とやらいいふと答へ給ひしとなん。もとより紅皿闕皿の籠耳の事なれば、筒井づゝの井づゝにかけし丸でくわしくは覚へ侍らず。翁がむかしいとけなかりし時、よなよな聞きし物語の耳の底にのこれるあり。むかしむかし舌切雀のおうぢうばの物語に、重き葛籠の中よりはあやしきもの出、かろき葛籠の中はよろづの宝出しときく。此度ほり給へる井戸より此比もてあそべる五冊物の化物が出ずして、めでたき水とこがねの砂の出しこそ、舌きり雀のつゞらのためしにならはば心まめなるむくひなるべし。それ正直は日天様かけて浅草のそばの名のみにあらず。つゐに日月の憐をかふむる。かうべに神の宿札をうち給ふ所となん。さればほりぬきの井の深きめぐみありて、若水はやき車井のめぐりよく幸来るべしとまをす。
文化六のとしの六月蜀山人しるす
背面の芸子のゑに
唇の黒きはみねどはりがねのつとや都の手ぶりなるらん
納涼
日よけ舟すゞしゐの木に首尾の松うれしの森やちかづきぬらん
水無月十九日晴雲妙閑信女の十七周の忌にあたりければ、礼の甘露門につどふとて、しづのおだまきといふ七文字をかみにおきて、老のくりごとくりかへし、そぞろなるまゝにかいつけぬ
しるしらぬ人もとひきて夢うつゝさだめなき世の常やかたらん
つくづくとながめつるかなこしかたを思へばながき夏のひぐらし
のちの世はかくとみのりの味ひをあまなふ露の門にこそいれ
をみなへしおりつる時に思ひきや草の原までとはんものとは
たむけつるとうとうことの言のはのちりやつもりて山となるらん
まつの葉のちりうせぬ名の高殿にちよを一夜の夢とちぎりき
きのふけふいつか十年に七かへりたなばたつめの秋もちかづく
とよみけるも猶も思ひのやるかたなければ
夢うつゝむかしを今にくりかへすしづの小手巻はてしなきかも
朝顔
早起のたねともなれば朝顔の花みるばかりめでたきはなし
たなばたまつりといふ七文字を句ごとの上におきてよめば、歌のやうにもあらぬをぞそのまゝに手向となしぬ
たそがれにたなびく雲のたちゐつゝたなばたつめやたれもまつらん
名にしおふなつ引の糸長き日もなにか文月七日とぞなる
はねかはす橋をためしにはるかなるはつ秋の夜のはてしなきかも
たむけつるたがことのはの玉の露たもとの風のたちなちらしそ
まれにおふまどをの星のますかゞみまそでにぬぐふまどの月かげ
つきに日のつもる思ひはつむとてもつきじとぞ思ふつまむかへ舟
りうそくのりちのしらべのりともみよりしんのおれるりうたんの花
残暑
世の中に秋はきぬれどけふのごとのこるあつさの身をいかにせん
尾上松助同栄三郎がわざおぎを祝して
高砂の松の栄を三の朝尾の上のかねのひびく大入
坂東善好におくる
かたきとはうそをつき地の役まいり善を好むときくはまことか
八十八の賀に
山鳥の尾張の尾より寿は長い八十八の字の紋
八朔の日むかい町に幽璽のわざおぎをみて
白無垢のくるわをすてゝむかい丁北も南もはやる幽霊
朝顔
思へどもなど葉がくれに咲きぬらん日かげまつまの露の朝がほ
庭の桜のかれけるをみて
ちるをだにをしみし去年の桜花かれなんものと思ひしりきや
軒ちかき一木のさくらかれにけり遠き野山の花を見しまに
姉君の一周忌ちかくなれるに雨ふりければ
思ひいづることのは月のきのふけふこぞもかくこそ雨はふりしか
末の露先だつ草のはらからのもとの雫の身にこそありけれ
葉月十日の朝十千亭のあるじみまかりしときゝて
思ひきや野分の後の音信に露の玉の緒たえんものとは
かぞへみんはたとせあまり二とせのむかしの夢を今のうつつと
同じ夜夢にみえければ
なき魂のありかはきのふきその夜のゆめのただちにみえし面影
軒ちかき竹を童子の折りければ
軒ちかくされたる竹をわらはべの折りこそしつれ月もまたずて
十五夜月くもりけるに森山のふもと朝白園にて
月かげはくもの間をもり山のうなきのもなるさすがとぞみる
雲おりおり雨ちりちりと顔みせて思はせぶりな月にこそあれ
南川軒猫画
東西であらそふとてもきることはよしなんせんか猫の迷惑
丹霞焼木仏画
経文に人のあたまをわらせたるむくひは丹霞端的の斧
柳橋にすめる雪といへる娘によみて遣しける
花ならば初桜月十三夜雪ならばげに柳橋かな
しら雪のいとの音じめに盃もみつよついつゝ又六の花
鳥目生風四手駕、猪牙如月一扁舟
よし原に真さきかけし先陣はさあいけづきとするすみだ川
題五代市川三升顔見世扇
花道春風本舞台、颯開切幕暫徘徊、鼻高名家五代芸、猶飲三升大入盃
福牡丹は家のかへ紋なれば
富貴をも福の一字にこめておく牡丹は花の贔屓なるもの
癩病をうれへて
思ひきやわがしやくせんのしやくならでわき証文にこはるべしとは
品川月
品川の海にいづこの生酔がひらりとなげし盃のかげ
長櫃序
萩を姓とし藤を名とし給へる人、たはれたる名を紫由加里とよぶ。年ごろ赤良が筆の跡をもとめて一巻となし給ひぬれば、やがて長櫃とは名づけ侍りぬ。ゆめ/\人にみやぎ野の露ばかりももらし給ひそといふ。
四方赤良
巴人集序
巴人集は四方赤良が家集なり。按ずるに宝暦本絵草子に鯛の味噌ずで四方の赤、のみかけ山の寒鴉(かんとんびトモ)、今の本に載る事なし。築地善閤御説を以て、さまよがどうだと考ふるに、鯛は魚の名、進上目録に云鮮鯛一折と是なり。みそずは旧説みそうずといふは非なり。みそずは味噌すい物の下畧。(四方は)江都泉町の商家の名にして酒醤をひさぐもの。赤はあからななり。又文選ごさ花薦にいはく宋玉陽春の白雪は和するものすくなく、下里巴人は和する者多しといへることばあり。四方の家の紋、扇に三巴なり。彼是合せてかく名付たるか。或は四方山のはなしにかけて四方山人ともいひ、或は丈夫四方の志をいだくおもいれなきにしもあらず。くはしくは先の辻番に問ふべし。
天明四のとし皐月十あまり八日たれかしるす
追考、宝暦の頃鱗形屋絵草紙の作者にて津軽侯の邸にありし某というふものにて、婦人小子呼でおぢいといひしものなり。絵草紋やのものをつくりて酒銭にかへし隠者なり。かの鯛の味噌ずで四方の赤、大木のはへぎはふといのね等いへることばは、彼がつねに口ぐせにせし言葉なりといふ。
松風台の記
松風のうてなはいづれの緒よりしらベそめけん、琴のうてなのたぐひなるにや。相生の松の風は颯々の夢をたのしみ、李元礼が松の風は謖々の風をつたふ。行平の中納言のめでたまひし村雨のはらからか、又は何がしのえせ受領の浦さびしときこへししほ松風のふるごと、問へどこたへぬあけらかん江が丸ののの字のかく斗、相違あらざる譲り状、墨江にかける松風のうてななるべし。
北沢薬師糀町天神にて帳をひらき給ふが、大きなる灸をすゑて願かなふときけば此やいとすへてやるのは恩ならずすへさするのを恩にきた沢
鎌倉腰越の祖師の開帳、深川浄石寺に、佐渡阿仏房のみてらの開帳、下谷稲荷町東国寺にありときく
十三里さきのこしごへこしがたしましてや四十五里波の上
狂歌堂主人の愛子の十三回忌に
十あまりみかゝえほども年やへんちゝのみひとつのこしおきつき
白氏が詩を誦して
したしきもうときもわかず家桜花さく門やさしいでゝみん
壬午のとしさつき九日土性水性の人有卦に入るとて、謡曲のふの字の上にあるを七ツえらびて扇にゑがきて歌よみてよとこふ、その中に、
伏見の翁
蘭奢待ありとやきくの花もちて寺のたつまで伏見の翁
藤戸
宇治川のふちせのふかい浅いをばふゝふふつ/\人にかたるな
富士大皷
ふじ浅間烟くらべん今までの五年の無卦に七年の有卦
船橋
駒とめて水かふ事はまづよしにせいの詞の雪の夕ぐれ
船弁慶
弁慶がいが栗あたま知盛が烏帽子に勝てあとはしら浪
有卦のいはひのうた
七年のうけにいるべきうけ合は七なん即滅七ふく即聞
竹酔日より七日の間酒やめければ
さつきまつ竹の酔ふ日に酒やめば七賢人も中やたへなん
扶桑花
から人の扶桑といへるあだし名をうるまの国の花とこそみれ
紅麒麟
くれないの麟麟のふせる床夏は大和にあらぬ唐のなでしこ
栗鼠に葡萄の画
名にしおふ栗の鼠やえびかづらゑみかへりつゝもとめくらはん
狩野休意が老松のゑ
まめ人のともに老べきしるしをもそよ相生のもろしらがまつ
同じく六十六部矢立の筆にて堂のはしらにらく書する処
らく書は無用といひし一寸のひまをぬすめる六十六部
月仙がゑがけるといふ禅僧蘿蔔をみたるかたに
鎮州の土大根かとよくみればとりも直さず天王寺蕪
七夕
詩も歌もどこへか筆ははしり井の冷素麺をすゝる七夕
天にあらば比翼の鳥もち、地にあらば連理の枝豆、七月七日長
生殿、夜半無人私語時、シイ声が高い
壬午のとし新吉原燈籠の時、揚屋町に子供芝居あり、狂言は累与右衛門・しづか・狐忠信なり
燈籠に子供芝居をかさねがさねはつねのつゞみうち揚屋町
題鶴廼屋平伏丸門人狂歌五十人一首
万葉集称戯笑新、古今歌入俳諧真、浪華鶴廼屋生子、自五大人満百人
題狂歌房連中五十人一首狂歌首
茶碗頻傾巵米人、信濃陸奥四方巡、狂歌房在金吹町、大屋主人裏住隣
十日菊
清香の黄ぎくはいまだおとろへずきのふの節句折り残す枝
瀬川路考葛の葉の役
はまむらの菊はひいきのませがきの竹のしのだの森の葛の葉
岩井粂三郎おちよの役
半兵衛も岩井の水にたちよりておちよとまゝよちよつと粂さん
同牛若の役
振袖の鳥井をこした芸なればたれもひきての多き牛若
長月望の夜の暁の夢の吉に
すべらぎのみことかしこみいや高きふじの高根のうたたてまつる

ひとはちにみるもめづらし紫の雲の上なるしらぎくの花
文政いつつのとし壬午神無月二日、曾孫暫光如元童子をいたむ
月読の神なき月かしばらくのひかりはもとのごとくなれども
みなづきの朔日うまれいとまごひ九月の尽は三歳の尽
ぬぎすてしもがさのあとにのこれるは漁陽のつゞみ山陽の笛
大川の玉やかぎやの花火舟山王あかきまつりをも見き
わがひこの三ツ子のたましい百迄はいきずとせめて五十六十
雑司ケ谷大行院の会式に近江八景のからくりをみてけるに
水うみの瀬田の長はし長房の珠の時さんあふみ八景
岩井半四郎ふきや町へ下るときゝて
から衣きつゝなれにしかきつばた花のかほみせよい折句なり
大入の人の大和屋まちわびし花の吾妻風ふきや町
中村三光難波より下るときゝて
きのふけふ三光鳥がつき日ほしなにはの梅の花の立ふれ
霜月廿九日市川白猿十七回忌
わびしさにましらなゝきそ大入の山のかひある顔みせの度
銀といふ女八十八の寿に
しろがねの数よりは猶千代までも米のめしくふ事ぞめでたき
隣松のかける鰹に卯花
面白し雪を鄰の松の魚大根おろしにあらぬ卯の花
霜月廿日あまり四とひくる人に
中村の座元頭取さみせんの糸にひかれて紀の国の客
中村勘三郎中村少長は紀州熊野の人、三線の師とともにきたれるなり。  
放歌集
平千秋の佐渡の任におもむき給ひけるときよみて奉るうた
みちのくの山ならなくによろこびの長きためしのこがね花咲く
黄金はなさくてふ島にことのはの玉藻かるべき時もこそあれ
文宝亭が上毛下毛のくにゝゆくを送る
われもむかし黒髪山にのぼりしが今はかしらのしもつけの国
かみつけのいかほのぬまのいかひ事おつれもあれば面白い旅
赤羽ばしほとり上林といへる茶屋の夜ざくらの花をゑがきてうたをこふ
馬くるま立場の茶やの名にしおふ花はみよしの茶は上林
郭公
ほととぎす鳴きつる影はみへねどもきいた証拠は有明の月
山の手の山ほととぎす折々は庭の木ずへにとまりてもなく
山の手初夏
目に青葉耳に鉄砲ほととぎす鰹はいまだ口ヘはいらず
此比の雨に所々の開帳へまいるものもなければ
開帳の山ほととぎす雨ふれば国へかへるにしかずとやなく
童謡に、朝きて昼きて晩にきて、よるきてちよときて、帰れば何の事もない、させもを/\、とうたふをきゝて
朝夕に来つゝさせもをさせもをのさせもが露や命なるらん

わぎもこは朝なに夕なに夜に昼にあからさまにもきてはまかせず

慈悲心も仏法僧も一声のほうほけきようにしくものぞなき
日光後幸畑種抜漬唐がらし本紫蘇巻一箱を人のおくりけるに
ことのはのたねぬきづけの唐がらしお札を本に何と紫蘇巻
松有子のもとに沢村曙山来る約束ありしが、伝法院の僧来るときゝて来らず
でんぼうといふ名をきいて芝居ものおそれをなして来ぬもことわり
芝居の方言あたへなくしてただ見に来るものをでんぼうとはいふとなん、ふるくは油むしといひしなり。
滝の画に
酒かいに李白や里へゆかれけん三千尺の長い滝のみ
閏きさらぎ廿九日にたてしといふ日ぐらしの里修性院のいしぶみを見て
三河島みなかわらけに埋むともこのいしぶみのかけずくづれず
書ちらすこの手柏のふた面とにもかくにものこれいしぶみ
碑の面には詩を記し背にはざれ歌書たれば也。
平々山人伝
無量無偏王道平々たりとは洪範五行の大雑書にしるし、爾が来るをみれば平々たるのみとは世説新語のしやれ本に見へたる、その平々とは事かはり、平はたいらかたやすく本望ときこえし忠臣藏の義平の平でもなく、旦那おたわらにはや舟にのれといひし伊勢物語の船をさの平にもあらず、平音ハイにてハヒフヘホの相通、ハイは哇にかよふ、アカサタナハマヤラワの横通なり。何をきいても半といひ、かをきいても平といふ。平々平々頭を畳に平々平々、両手をついて平々平々、異見と小言は頭の上を通し、好事と大利は目の前に来る。司馬徳操が何をきいても好々といひしを学び、千人の諾々といひしたぐひなるべし。さればこそ上戸のたてしくらのうちには、経史の糟粕平太郎が棟にみち、稗官野乗の稗々々史平楽寺の古を思ひ、平陽の歌舞をやめにして、家業に奢る平家をいましめ、晏平仲よく人と交りて門には人馬平安散、平砂に落る雁金や青山堂の千巻文庫、あらゆる図書を左右にして、平日平話の宣千法皇太平楽をのぶるのみ。
文化八のとし辛未卯月甲子の日あたり近き伝通院大黒殿のみまへにしるす
伯牙琴をひき鍾子期きくゑに
古今唯有一鍾期
玉琴の糸をたちしもことはりやかなつんぼうの多き世の中
大きなる玉を亀の甲にいたゞくゑに
沢庵のおもしに似たる石亀の甲のものかや大きなるたま
さつきもちの日小石川木沢何がしの君の山荘にて
夏草の下ゆく水と思ひしをなぎさは玉のいさごをぞしく
世の中に夏ありとしも思ほへず水草浄き池の心は
小倉氏の別荘にあぢさいの花あり、井上氏の子のうつしゑにものせしに
ひとつふたつみつやよひらの露なしにのみほす酒のあぢさいの花
傾城猫をひくゑに
京町の猫もしやくしも大名も揚屋にかよふ里の全盛
題画〔鍾馗留主鬼洗濯ノ図〕
冠剣猶照壁、錘馗非出門、請看鬼洗濯、不洗虎皮褌
水無月十九日甘露門のおきつきにて晴雲妙閑信女をとぶらふ長歌并反歌
いくかへり、かゝなへみれば、十とせあまり、こゝのとせをや、過ぎぬらん、そのみな月の、けふの日もはつかにちかき、友がきの、あるはすくなく、なきは数、そふる中にも、末のつゆ、あきなふ門の、山寺の、もとのしづくの、とくとくの、ながれたへせず、としごとに、のりのむしろの、からにしき、たゝまくおしく、思ふそよ、思ひ出れば、久かたの、天あきらけき、としの比、長雨ふりて、川水の、みかさもまさり、ひたしける、水や空かと、たどるまで、舟をまつちの、山をかね、岡に、のぼりし、高どのの、名におふ松の、ことのはの、ちりうせずして、山ざとに、うつろひすみし、年月の、夢のうきはし、とだへして、むすびもとめぬ、玉のをの、長き別れも、つれなしや、つれなき色に、いづるてふ、大田の松の、大かたの、なげきならねど、たちまじる、うき世の事の、よしあしの、なにはにいゆき、しらぬひの、心づくしの、はてしなき、このまどひこそ、久しけれ、とにもかくにも、老にける、身をしる雨の、風さはぎ、むら雲まよふ、折からの、むかしを今に、なすよしも、なつの日ぐらし、わすられなくに
夕だちのふる事思ふひとしきりはれ行く雲のあとぞすゞしき
ながらのはし
長柄のはしの銫屑井出の蛙の陰干よりちとあたらしき慶長のとし、なにはの芦毛の馬をかへし、牛をはなせし唐人の寐ごとに、あづま錦のきれはしをかきあつめたる一帖は、青山堂の什物なるべし。
朽木形
朽木可雕、敝帚自珍、唯供雅翫、不示俗人
財源福湊序
これを好むものは拱璧にもかへずして十襲しておさめ、これを好まさるものは反古堆に擲ち紙屑籠にいれて惜む事なし。されど宇宙第一の書も壁の中の下張よりいで、惜字紙のいましめも陰隲の一助ともなれば、かの夕霧が文もて富士の山を張ぬきし如く、己が堂の青山をも張つくすべき勢ひに、人のねたみ世のそしりをもいとはず、からのやまとのいにしへに今に、雅でも俗でも木でも金でも、耳掻が一文微塵つもりて財の源福の湊と題せしは、学而第一のおつかぶせなり、先例のない事にはあらじかし。
文化辛未文月のはじめ
蜀山人
人聞至楽
此帖やはじめは書画会の書ちらしのごとくなり、中比は葛籠の下張か又は田舎のふすまの張まぜに似たれど、つゐには手鑑のぬけがらをまぬがれす。此帖に名をつけんとならば、何ともかとも名づけがたし。ヲツトそこらは北山時雨、反古千束の転学のことばによりて、人間至楽と題す。此比はやる白面の書生たちあんまり無理でもあるまへが、わろくば何とでもいひなさへ。
辛禾七夕蜀山人酔書
此帖の始に北山の書あり、北山住千束。
橘千蔭のかける百足の画に賛をこふ深谷氏
百の足千蔭の手もてうつし絵は猶よろづよをこめ多聞天
両替やのみせにて酒油うる所の画に
はかりなき大みき油手もたゆくあしにかへなんこがねしろがね
ふみつきなぬかといふ文字を上に七夕七首
ふみつき七日のけふにあふこともむそとせあまりみとせなるらし
みしや夢きゝしやうつゝ七夕の日もくれ竹のよゝのふるごと
つきもやゝかたむく庭に乙女子がほしのあふ夜をたちあかすらし
きみまさでまがきが島のまつもあるを星合の空を烟たえせぬ
なつ引の千曳の糸もはつ秋のけふの願やかけてまつらん
ぬさとみし紅葉のはしや中たえぬ錦をあらふ天の川なみ
かぢのはにかくともつきじ星まつる人の心をたねのくさぐさ
七夕のうたらしきものをよみてのち、例のざれごとうたもふみつき七日といふ文字を上にして
ふんどしをさらすとやみん珍宝の青とふがらし星にたむけば
みじゆくなる星のからうたやまとうたかきちらしたる文月のけふ
つる長く生ふるへちまのかはぶくろ鉢植ながら星にかさまし
きん銀の沢山ならば盆前に七夕まつりしてもあそばん
ながるべきしち草ながらけふばかり利上をしても星にかさなん
ぬい物が下手か上手か針の目どまつくらがりでとほす糸筋
かどなみに短冊竹をおしたてゝいろがみにかくかな釘のおれ
奉加帳序翁名燕斜又号豆三
燕斜が別業に題せし日は、嚢中おのづからまんまんたりしが、豆三暮四のいとなみも、引込紫衣の隠居となりては、渋団扇をばうちすてゝ、柿の衣の奉加せよと。さる大檀那のすゝめにまかせ、鬼の念仏の大津絵の、万人講の催に、心もいちゞせりなづな、五行たびらこ仏の座、台座後光もすゝびたる、すずなすずしろ箔しろの建立、思へば春の一籠の、土一升に金一升とつかへ兵衛の冥加銭は、御心持次第、秋の七草一葉づゝ、お志をまつのはの、ちりもつもれば山々、有がたく奉存候已上
時も時盆の十二日蜀山人庵主にかはりて書す。
万屋麗水をいたむ
麗水になるてふ金の足駄でも玉の行衛やたづねわぶらん
落栗庵元ノ木網水無月二十八日身まかりしときゝて
水神の森の下露はらはらと秋をもまたぬ落栗のおと
むかし水神の森にかざりおろして、つゐに浅草の寺のほとりにて身まかりしなり。文宝亭のみどり子生れて百日に廿五日たらでうせにしよしをきゝて
思ひきや七十五日はつものの一口ものに頬やかんとは
文月五日小田原町の人々ととみにすみ田川に舟逍遥しけるとき、十七年さきに故訥子のもてる塩や判官の短刀をその子源之助にゆづり遣すとて
鉛刀一割活人刀、手沢猶存沢子毫、附子勾欄歌吹海、当場喝采起波濤
つるぎたち身にそふ父の玉くしげふたたびかへすゑんや判官
松に月の蒔絵したる額に沢村訥子がたゝへごとすとて
明月の光もみちてきの国や沢村訥子もわかのうらまつ
清少納言の絵に
清といふ名代のむすめまくら絵の笑本よむはるのあけぼの
神齢山に月をみて
月よみの神のよはひの山たかく猶幾秋を松の下かげ
庚午の春の雪は盈尺の瑞をあらはし、辛未の秋の月は五夜の清光あり
去年は雪今年は月の大あたり思ひやらるゝ来年の花
菅原伝授の狂言大あたりなりときゝて中村座
人の目はくもらぬ天下一面の菅原伝授手ならひかゞみ
蛸の画あしければ
此たこは新場たことは思はれず三河町にてみたやうなかほ
和唐紙にものかけといふ人に
和唐紙に物かく事は御免酒にこはだのすしや豆腐つみいれ
樵雲楼といふ額は独立の書にして鎌倉河岸豊島屋十右衛門の二階にあり
生酔のたゞよふ雲にたきぎかる鎌倉河岸の秋のさかもり
ある人狩野秦川のかきし福禄寿の画を携へ来たり、南極を北極によみかへよといふに南極を北極にして見るからは此絵師もとは吉原がすき
秦川をしれる人はほゝゑむべし。
長橋東原書画の会に断申遣すとて
今日の無拠断に君が牛王をのまんとぞ思ふ
東原は神田紺屋二丁目牛王を出す家なり。
小田原海野やを賀するひとのあやまりて脇差のさやはしりけるを祝して歌よめと柳屋のこふにまかせて
おさまれる四海野なみにさか月の玉の兎もさやはしるらん
はまぐりの貝の口あく婚礼にみのいる豆のさやはしるなり
筆のさやはしり書せん相生の松こそめでたかる口のうた
沢村訥子菅原の狂言に覚寿と松王の二役なり
老の身はげにも覚寿のはゝたみて又若松をまちに松王
観戯場
本院時平車上乗、梅桜忠義向松凝、讒言一入筏沈波、斎世親王菅相丞
鳥文斎栄之三福対の画の表具に書きちらせり左つとにしたる赤貝より傾城のすがたを吹出したる表具に大尽舞の歌をかきて一文字に
花さかば御げんといひて赤貝のしほひの留守に使は来たり
中蛉貝より青楼の屋根の形と土手を四手駕籠の通るかた吹出したる絵かきたる表具に、まことはうその皮うそは誠のほねのことばとたはれ歌とをかきて一文字に
遊君五町廓、苦海十年流、二十七明夢、嗚呼蜃気楼
右つと苞にしたる蜆貝よりかぶろ二人ふきいだしたる表具には河東節の禿万歳の文句をかきさして
しゞみ貝つとめせぬまにさく梅の雪だまされし風情なり平
中村歌右衛門忠臣藏の寺岡平右衛門に菖蒲皮の衣きざるを嘲る
菖蒲皮きぬ足軽は虎の皮のふんどしをせぬ鬼も同前
菖蒲皮きぬ足軽のみえ坊は寺岡ならぬ米や平右衛門
菖蒲皮きぬ足軽はもののふの鎌倉風をしらぬ上方
鯉の画に
龍門の上下きたる出世鯉あられ小紋は滝のしら玉

秋の夜の長きに腹のさびしきはたゞくうくうと虫のねぞする
赤き紙に歌をこふ
疱瘡をかるくするがのうけ合は三国一の山をあげたり
枝折にかけるうた
龍田山去年のしをりは林間に酒あたゝめてしれぬ紅葉
市村の芝居に新場のものの喧嘩ありときゝて岩井杜若の事をよめる
われも亦岩井の水をくみぬれば新場の事のはやくすめかし
これはかつて杜若とともに酒くみけるとき戯に杜老とかきし事あればなり。
小田原町柳屋のもとに沢村訥子尾上三朝来りければ此の程の狂言を思ひいでゝ一鉢に植し松王さくら丸にほんのはしの柳屋のもと
同じ夜酔ひふして
活鯛の目をさましつゝよくみれば小田原町の秋の朝いち
九月六日は母の忌日八日は祖父九日は父の忌日なり
かぞいろのなくなりしよりしら菊の花にもそゝぐわが涙かな
ねがはくは九月十日にわれ死なん祖父ちゝわれと三世のみほとけ
煙草入に鷺をかきたる絵に狂歌をかけといふに
しら鷺はむかひにきたかたゞきたかしばしやすらへ煙草一ぷく
河東節の文句によりてなり。
菊の絵かきたる盃に
酒のめばいつも慈童の心にて七百歳もいきんとぞおもふ
すみ田川寺島村名主和昶の茶室に一円窓あり、竹のたがもてふちとせり
くれ竹のたが名の主かすみだ川一ゑんさうは見えぬかくれ家
三囲いなりの上に雲ありて雷のなるべきもよほしある絵に
秋ならば神もたて引く夕立を一ふりふらせ田をもみめぐり
題しらず
加賀笠のうき世小路になれなれてきぬる人とは誰かわかなや
玉の画に
下和氏がほり出したる連城の玉は代金十五枚かも
十三夜雨ふりければ
十三夜雨はふりきぬさといものきぬかづきてぞふすべかりける
紺屋町自身堂かけ物のことば
近松平安翁が用明天皇職人鑑に云、門に松たつあしたより桃に柳にあやめふく軒のとうろう二度の月菊の節句や年のくれと云々。近頃宮城野忍の上るりにも、古きをたづねてあたらしく、染め直したる洗張、ことし紺屋町の付祭、五節供の趣向あらたまのとしたつ松の引物に、弥生の汐干しさつきの兜、文月の女七夕長月の菊慈童、七百余歳八百八町、二千余町も千早振、神田祭の宵祭、あさはとうからあかねさす、べにかけ色の空色に、東天紅の諌鼓どり、わたらぬ先に筆とりて、早染草の正の字の、正筆酔て不断のごとし。辛未九月十四日の朝直筆書之
大津絵にかく鳥毛やりをもる奴をよめる
あづさ弓やつこ茶屋にも程ちかき翔雀堂の鳥毛やりかも
贈戯子三升
今歳中村与市村、狂言助六又菅原、祇園筒守多霊験、唯頼成田不動尊
市川三升七代目義経千本桜の狂言に五役をなすときゝて
市川の家桜にもなき芸をせんぼんざくらあたる忠信
評判もよしのの花のやぐら幕大入船や大物のうら
五役ははつねのつゞみうちつれてたれもこんこん狐忠信
あゝつがもない五役を一人の市川流にうけし江戸ツ子
市村の座頭高麗屋によみてつかはしける
男なら上方ものもにせてみよ河越太郎いがみの権太
岩井杜若がしづか御前りわざおぎをみて
薙刀で心しづかになぎちらせ小山の開山よしのやまとや
阪東秀佳がよしつねをみて
かくれがさかくれみの助時代より大だてものとみえし義経
花井才三郎亀井六郎なれば
亀屋より亀井の六郎きてみればよしのの花井才三郎丈
馬の耳に風のかたかきし羽織のうらに
うしろから羽織をかけていつお出なんすといへど馬の耳にかぜ
柳かげに西行の画に
立どまりつれもなくしてたゞひとり柳のかげにやすむ西行
七賢人のゑに
竹林に藪蚊の多き所ともしらでうかうか遊ぶ生酔
横須賀の城主のもとにて山寿といへる額をみて
いく千代も動かぬ山の寿や遠くあふみにつゞく櫛松
同じく小梅の山里の瓶に
一枝の小梅を折ていけ水に釣花いけの三日月の影
同じくみたちにて、姫君のあやめの琴柱に書つけるうた
ふき自在みやうがある上にいく千代もあやめのねざし長き草の名
おなじく琴の銘をこはせ給ひければ、あやめの縁によりて根差といふ名を奉れり。九月尽
もみぢちる菊や薄の本舞台まづ今日は是きりの秋
宗鑑が志那弥三郎、芭蕉が甚三郎、翁の大野や喜三郎いはずともよい事なり
たづねきしもとの木阿弥しろがねの町の子の子の子宝のやど
これはもとの木網の孫岸本氏の白銀町のやどりをとひてかきて贈れるなり。
時雨
おもふ事かなへつくづくながむればしぐれの空にふる小ぬか雨
神々の留守をあづかる月なれば馬鹿正直に時雨ふるなり
木挽町芝居にて岩井半四郎しら井権八もどり駕籠の狂言大入ときゝて、岩井杜若のもとによみてつかはしける
顔みせの花のかげ膳すへてまつ堺町へはいつもどり駕籠
かいつぶりの絵に
水鳥のかいつぶりをやふりぬらんうき世の事を人にとはれば
上総浦にて地引網ひくものによみて贈る
あら海をつくせるりやうの地引こそまことに上つ総々しけれ
太田姫いなり別当安重院にて
われも亦やしきをかへて院の名を安住すべき心地こそすれ
飯田町の亀屋の夷講に出店二軒の亀屋も来れり
本店に出店のけふの夷講三万年の亀や手をうつ
聞沢村宗十郎改名
観世水流溢沢村、宗徒贔屓若雲屯、十千万両金箱勢、郎党合紋い字繁
市の川市蔵市川となり、紋所の一つ字をもとりて三升となるを賀して
升にひく一文字をとりてあめつちのまことに和合太平記かな
和合一字太平記の故事なり。
中村芝翫が番付に兼々といふ宇を書きしをみて
当今の御諱をも憚らず書きちらしたる上方役者
浄るりの義太夫ぶしも内職にかねがね是をかねるとぞきく
橘の名を六歌仙によそへて歌よめと人のいひければ
駿河たらゑふ橘小野小町
もゝいろのうつらぬものかたち花の花にもまさる色にぞありける
今するが多羅葉在原業平朝臣
大かたは月あかき夜とみしゆきもつもればふじのするがなるもの
黄たらえふ喜撰法師
我いほはみやこのいぬゐきたら葉うき世の塵をはくさんの西
萌黄たら葉文屋康秀
吹からに秋の草木をいつまでも萌黄の色は外にあらじな
鳳凰たらえふ大伴黒主
鳳鳳の尾をたちよりてみてゆかん玉の光もますかゞみ山
玉子多羅葉僧正遍照
みがきなす玉子の君にもとむれば千々のこがねの色とあざむく
沢村宗十郎を祝して
二三年前から江戸の見物は宗十郎のきの国やなり
その位大政入道清盛を源翁和尚などゝおもふな
活鯛の目出度一寸しめませう尾ひれのつきし花のかほみせ
兼るといふ字を名の上に書きし俳優あり
もとよりも江戸にふさはぬ座頭に居兼るといふ文字をいたゞく
沢村訥子によみて贈る
沢村のかなのいの字の和らかに実事ばかり兼るものなし
十月十九日甲子に天赦日なれば
甲子の大黒天じやよろづよしあすは小春の若夷講
小春
朝めしと昼げの間みじかくて腹も小春の空の長閑さ
妻沼にすめる人利兵衛母の手織の羽織のうらに歌をこふ
たらちねの手織の羽織肩にきて綿よりあつきめぐみをぞ思ふ
女の己惚鏡をみる絵に
世の中に楊貴妃小町司などありともしらぬうぬぼれかゞみ
五明楼の遊女司ちかごろ出たればなり。
十一月七日酉の市の日、舟にて羅漢寺の普茶会にゆくとて
霜月のとりのまちがひ羅漢寺のわしのみ山へまいる普茶船
釜や堀より市川三升のもとに大火鉢をゐて贈りけるに、大中といふ文字をゐたりときゝて
よくよりてあたり給へや梅桜松の烟のたてる鉢の木
市川三升渋谷金王丸にて暫のわざおぎするをみて
暫の声は成田や不動尊七代目黒渋谷金玉
暫のこゑなかりせば雪のふる顔みせいかに春をしらまし
芝翫が一寸法師の狂言をみて
三丈のゐたけ高なるかけ声におそれてちゞむ一寸法師
花道をちよこちよこ出る座頭は膝がしらとぞいふべかりける
ちよこのちよこ平といへる名なればなり。
与市川三紅団之助
看君姑射一神人、綽約還疑婦女身、三尺寒泉浸紅玉、緑雲鬟
上紫綸巾
ねがはくは扇となりて君が手にふれなん三の紅の袖
霜月十九日の朝鷹の絵をゆめに見て
一富士のするが台にはみゝよりの願ひも叶ふはしたかの夢
此比駿河台のわたりのやしきとわがやしきとかへん事を願ふ時なればなり。
長崎丸山町遊女千代菊が菊の絵に
袖よりもすねふりてみん千代菊の籬のもとの露の丸山
千代菊の千代も長崎長月のすはの祭の折はたがはじ
いにしへの沈香亭の中葉にもおとらぬ千代の菊の一本
一元大武の肉を得て秋一無冬の禁もわするべし
牛くふて水をますかはしら太夫一石六斗二升八合
瀬川仙女一周忌
ぶんまはし年ひとめぐりめぐれどいかにせん女の顔も見せざる
青楼四季のうたの中に

▽くしげ箱提灯のふたりづれ花の中ゆく花の全盛

みじか夜を比翼莚の天鵞絨の毛のたつまなくぬるよしもがな

玳瑁のくしの光や硝子をさかさにつるす燈籠の鬢

やうやうと来てむぐりこむつめたさは君が心と鼻と両足
題古一枚絵
北廓大門肩上開、奥村筆力鳥居才、風流紅彩色姿絵、五町遊君各一枚
白川城主三夕の画に、
羅漢寺槙犬まきたつは御林か百姓山の秋の夕暮
藤沢の西行堂にゐる鴫の看経にたつ秋の夕ぐれ
此比は浦の苫屋も不蝋にて何もかもなき秋の夕ぐれ
早咲の梅を見て
おれを見てまた歌をよみちらすかと梅の思はん事もはづかし
年内追灘
歯がないと断いへど一つかみ鬼打まめをくれてゆくとし
年のくれまで雪ふらねば
暮てゆくとしも道中双六の亀山あたり雨ふりにけり
飛鳥山花見のゑに
山際飛鳥入、心遂落花狂、不覚青春暮、何知白日長
花そめの袖をつらねて飛鳥のあすかの山のさくらかざしつ
大神楽の獅子をみて
銭相場やすきも悪事災難は十二文にてはらふ獅子舞
雨ごひ小町
ことはりやさりとては又せめつけて空をながむる雨乞小町
医学道しるべ序
周礼に医師は上士二人中土二人疾医食医も二人づゝなり。それさへ一人は養生よければ療養におよばず。賤きものは風寒暑湿に疾あるゆへにこの官を設くといへり。わが日の本の古の典薬寮にも十人ばかりには過ぎざるべし。今時は横町の新道にも出格子もたぬ庸医なく、宿札かけぬ竹斎なし。されば酒屋は伊丹三白と号し、餅は今坂上庵と改め、大工は建前棟梁と名のり、八百屋は椎茸干瓢と称して、猫も杓子も藪の仲間にいらぬものなし。われかつてやまひあり。ある人医薬をすゝむ。こたふるに一いんの詩をもつてす。
吾奉先人体、直通生死路、草根与木皮、不使庸医誤
たゞしかくいへばとて明日にも疾病ならば、家内のおもはく親戚の外聞に、人参ものまねばならす、熊胆もしやぶらすばなるまじけれど、もとより死生にかゝはらぬ事なれば、これもまた世わたりのひとつなるべし。此の書の序をこふものあるによりて、うらずかはずの一ことを題して、白紙の数をよごすことしかり。
富士のすそに紅葉のゑに
白むくのふじのすそ野にぬぎすてしきぬや紅葉の錦なるらん
松伏村有松云曾根松種或請詩歌
播陽菅廟一株松、移植孤根手自封、偃蓋重々村落裏、歳時伏蝋蔭三農
はりまぢにありといふなる松の根をうつしてこゝにしげる一村
海老のゑに
海老の顔なまず坊主はおそるれど蜆子和尚やいかゞみるらん
釈迦荘子紫式部のうたかきたるに
釈尊の方便、荘子が寓言、紫式部のつくり物がたり等、みなまことから出たうそにして、人を道びくためなるべし。たとはゞ歌をうたひて飴をうり、こまをまはして歯磨をひさぐがごとし
雪の山出でし仏やいかゞみんみんなみの花湖の月
壬申試筆
又ことし扇何千何百本かきちらすべき口びらきかも
大川にかすみたつをみて
見わたせば大橋かすむ間部河岸松たつ船や水の面梶
焉馬のもとめに応じて矢の根五郎のゑに
虎をみて石に立川市川のかぶら矢の根のあたり狂言
六十四歳になりければ
わがとしも六十四文ねがならでうれのこりたる河岸の門松
宝船
長き夜のとをのねぶりの目ざましき数の宝をつみて入船
元日
あめつちのわかれそめしやかくならんむつきのけふの人の心は
堺町二番目狂言台頭霜のいろ幕の仕組よろしければ
鶯の笠や三勝台がしら梅のさくしやの出来し二番目
鶯村君の松の絵は金川宿羽根沢といふ桜の庭にある松なり
かな川の松の青木の台の物洲浜にたてる鶴の羽根沢
むつき六日夜遊侠窟にて酒のみけるに酔て足ふみあやまちて打身の療治をたのむとて新宅の壁をぬるべき瑞相に春からこてをたのみこそすれ
つねに筑摩鍋住が足袋はきてたかどのののぼりばしなおりそといひしいましめも思ひいでられて
足袋ぬげと思ひつくまの鍋住がことばのはしごすべりてぞしる
紅葉に鹿のならびたてる絵に
紅葉のにしきの床をふみしきてたてるや鹿のもろ声になく
二月三日任子補蔭のよろこびに
うみの子のいやつぎつぎにめぐみある主計のかづにいるぞうれしき
同じときによめる
子を思ふやみはあやなし梅の花今をはるべとさくにつけても
芝翫をほめてうたよめと人のいひけるに
はいりさへすればかまはずなには江のよしといふ人あしといふ人
傾城のゑに
千金の春のくるわの全盛も一両二分はたゞ二人なり
上野の花を見て
鳥がなくあづまのひえの山桜さくやゆたかに永き春の日
堀の内妙法寺にて
参詣のあゆみはとしのおそし様頭を上に掘のうちかな
男女の髪をきりて納めしはいかなる願にや
日蓮はかゝれとてしもうばかゝになど黒髪をきれといふべき
内藤宿に三河や久兵衛といふ酒家あり、人みな三久とよぶ、此家にてつくれる雛を見て
段々にのぼる位の内裏びなこれや龍門三きうの浪
きさらぎ十八日より十九日の朝までに、かまくら町豊嶋屋がみせにて白酒二千四百樽うりしときゝて申つかはしける
山川の酒のかけたるしがらみは道もさりあへぬ豊島やが門
樽徳利鎌倉がしをいくかへりかはんとしまやうらんとしまや
大久保七面社の花をみて
七おもて立かへりても見まほしき享保の頃の花の盛を
七面に赤井得水のかける額あり、社の前に筆ざくら二本さけり
七面と書きたる額の筆ざくら花の赤井のひもを得水
題雨降亭
富士山兼丹沢山、大山大聖石尊間、三山景色三山別、自似茶亭三客顔
送四方歌垣真顔西遊
乾坤無処不狂歌、南北東西山又河、段尻長過天満祭、燈籠恐及吉原俄
口にひく津々浦々の果までもみそぢひともじよものうた垣
神路山きびの中山ひえの山のち瀬の山をとはん四方山
旅衣ひつぱりだこにあひぬともつましき宿のいもなわすれそ
上野の花を見んとゆくみちに鐘の音をきゝて
九つは遅し八つにはまだはやし雲の上野の花をもる鐘
後にとへば午時のかねなり。
すみ田川の花みんと中田圃といふ処を過ぎて大音寺の前にいづる道は、むかし若かりし時山谷通ひに目なれし所なり
いまさらに恐れ入谷のきしも神あやうく過ぎし時を思へば
むかし見し鶴の園生の額もなし三本松やいくよへぬらん
若かりし日の出いなりをいく年の関のやしきやこえて行きけん
ながめやる天水桶のたがためにむかし飛立つ思ひなりけん
千束にあまる思ひや思ひ出る親の異見の大音寺前
すみ田川の花さかりなれば
仙人もかゝるおくにやすみ田川みなかみ清き花のしら雲
すみ田川月見の桜さく比は花のしら波たゝぬ日ぞなき
ある人天狗の鼻高きうたよめといふに
小天狗の鼻高かれと朝夕に僧正坊やつまみあぐらん
西来庵にて酒のみけるに、ふさといへるうたひめによみてつかはしける
さみせんの川をへだてゝきくもよしむさしと下つふさの一曲
せいといへるうたひめにおくる瀬戸物町おのぶの妹なり
何にせいかにせいとては酒をのむ寿命をのぶのいもととは猶
同じく二人のいらつめの歌うたふをきくに、醒が井の醒が井の水の垂井の水ざかりといふうたなり
花見酒酔ふてはいづる醒が井の雨の垂井に風の手おどり
駒込吉祥寺の桜をみる、此寺の門前に洞家済家襪子所あり
駒込の花をふむべき沓はなし洞家酒家の襪子あれども
神明社頭の桜一木は別当大泉院の先住千寿院といへる隠居九蔵のときうゑし木にして、九十六歳にて遷化せられしは四十年前の事なり
植置くも花に心をそみかくだつたえて千々の寿やへん
五百羅漢の開帳にゆかんとするに雨ふり風はげし
雨風のさはり三百ふり来り五百羅漢へゆくもゆかれず
けふの雨風をいとひて、あすはかならす開帳見にゆかんと、ある人のもとにいひやりけるに、道成寺の狂言みにゆきしときゝて
てらてらと日のさし出るをしたふなりけふ道成寺あすは羅漢寺
羅漢寺の庭に石にて亀のかたちをつくり、大きなる桜をうゑて蓬莱桜と名づけしをみて、烏亭焉馬によみてつかはしける
此さくら此開帳にあふ事はげにもうき木の亀の尾の山
弥生九日庭の桜さかりなるに月さへ出ければ
春の夜の月と花とをわがやどの一木の蔭にこめてこそみれ
わがやどの一木の桜さきにけりみはやしぬべき友垣もがな
河津股野
すけ殿もまさこも角力見物は赤沢山の棒柱の外
錦木をたつるゑに
にしき木は鬼木とともに朽にけり上総木綿かけふの細布
此比吉原に桜を植るを五百羅漢開帳の庭にも植しときゝて
南北に植し桜の花ざかり五百の羅漢三千の妓女
忍待恋
さすが又まきの板戸も明けやらでひとりしたうつ心くるしき
同じ心を狂歌に
はなのしたひそかにのべのつくづくしまちほうけたる身こそつらけれ
追灘の画に
郷人の鬼やらひには聖人も麻上下で椽側にたつ
柳屋安五郎が掌中の珠を得しよろこびに
手の上の玉の柳のやすやすとうまれいでたる春のみどり子
瀬川路考が浅間ケ嶽の狂言を奥州屋といふ茶屋にて
奥州やから奥州がたち姿見にこそ来つれ大入の客
同じく石橋の狂言
御贔屓の深見草とて石橋の獅子奮迅の大あたりかな
同じく三月廿日なれば
石橋のあたるやよひの廿日草花のさかりにくるふ菊蝶
阪東秀佳は鳴神、沢村訥子は雷といふ角力のわざおぎに
狂言のやまと紀の国世の中にひゞく鳴神雷の声
市川三升細川勝元のわざおぎに
細川も市川流はたれにてもまくる事なき勝元の芸
宇治の新茶柳葉といふを亀屋文宝のもとより贈られけるに
茶をわかす烟みだれて煮花さへほころびかゝる宇治の柳葉
麻布長谷寺に清水観音の開帳あり、梅窓院のうしろより田の中の溝をこゑて来るとて蛙飛ぶ田道あぜ道清水のお開帳へと心はせ寺
桂川国瑞翁の画がける大津絵の鬼の念仏に、国瑞の文字をいれて賛せよとこふ
帑署m珠数、椶櫚葉夜叉
鬼のつのつき地の筆の命毛もみだのみ国の瑞とこそなれ
今はなき人なればなり
三月尽の日道成寺のわざおぎをみて
行春の龍頭にたれか手をかけん思へば此かねけふの入合
にせ紫鹿子道成寺のわざおぎをみて
紫はにせか何かはしら拍子祇園守りに人のいり筒
中村東蔵によみておくる
上方のこがねの箱を持下り今は東の蔵の中村
よし菊といへるもの雄龍雌龍の身ぶりをするを見て
脇の下から火のもゆる龍の顔お龍め龍は何の雲なし
野の宮に月の出たるかたかきたる画に
斎宮の色事をしてかけ落の跡は野の宮高砂の月
升勘のみせに下駄をかふて本所一ツ目なり
ふみ切た鼻緒に下駄をかさゝぎのはしは一つ目二の口の村
狆に菓子あづけたるかたかきて
加茂川の水双六の賽よりかちんが心にまかせざる菓子
郭公
朝めしの山ほととぎす山もりにほし大根汁かけたかとなく
卯月三日日本橋柳屋のもとよりかつほを贈りければ
山の手をさして一本はつ鰹にほんのはしも取あへずくふ
松本錦升がほくに、度々の仁木古世のはつ鰹といふをみて
見るたびに仁木弾正はつ鰹いつも新せの心地こそすれ
松に鶴のすごもりの絵に
尺八の竹にはあらで千丈の松にやどれる鶴の巣籠り
新宅の釿始の日野見てふなごん墨金によみて贈る
飛弾たくみうつ墨金ぞゆがみなき野見てふなごん手をのはじめは
墨田川半右衛門がやどにて
江戸よりの船路は一里半右衛門世をのがれたるかたすみ田川
わればかり世をのがれしと思ひ入るひよけの舟のまたもつきの出
花の枝の画に
おみやげに吉野の雲をひとつかみつかみてかへる枝おりの花
傾城傾国は古よりのいましめ多しといへど、かゝるもの世になからましかば、東家の娘の袖をひき、小夜衣のかさねぎたえざるべし
人の城人の国をもかたぶけて子孫をたやすものぞ恋しき
談州楼焉馬が余があらたにいとなむ家の柱立しけるとき卯月廿八日
あゝつがもないとはいへどつか柱談州楼のたてし立川
沢村宗十郎が角力鳴神わざおぎを張子の人形につくりて、柳屋の初幟の祝につかはすとて
鳴神のとつしとつしと力士立ふみとどろかす本舞台顔
島原の城主の山荘を千代が崎といふ、さいつ比長崎にて見し人にあひて
はからずも千代が崎にてめぐりあふ事ぞうれしき玉々の浦
朝妻船のかたを柳橋の芸者のかたちにゑがきたれば
柳ばし両国橋のたもとよりよせてはかへすあだしあだ波
夢羅久がもとにて歯の落ちけるに
おしむらくむらくがやどで落る歯はおとしばなしといふべかりける
江戸芝神明前に江見屋元右衛門といふ草子やあり。三代目上村吉右衛門といふ者、延享元年甲子三月十四日はじめて合形の色摺を工夫し、紅色も梅酢にてとき初め、また板木の左に見当といふものをなして、一二遍ずりの見当とす。今に至るまで見当を名づけて上村といふ。はじめて市川団十郎の絵をすり、又団扇に大文字屋○の図を色ずりにして堀江町伊場屋勘右衛門といふものに贈りしより、今の五代の吉右衛門文化九年壬申まで、六十九年に及べり。此像は三代目上村吉右衛門の肖像なり。今其の流をくみて源をたづね、末を見て本を忘れざる人々にあたふるものならし
くれないの色に梅酢をときそめて色をも香をもする人ぞする
二幅対の絵左は塩がまの桜さけり
すまの浦の若木の桜二本よりつひに行平中納言殿
右は苫屋に紅葉あり
なかりけるとはいふもののあるもよし浦の苫屋の紅葉四五本
鉄砲洲松平君縫殿頭のたかどのにて
鉄砲洲打いでゝ見れば山の手のかくもはづれし玉たまの海
けいせいに郭公の画に
君はゆきわが身はのこるみつぶとんよつ手をおふてなく郭公
女芸者
さかもりのしやくとり女やね船にかゞみて入るはのびんためなり
浄るり太夫
よくきけば不忠不孝の相対死しかつべらしくかたるますらを
下村山城によみてつかはしける
雪の花つやおしろいをかはんとて誰しも村に人の山城
兼好法師ともし火のもとにふみよむかたかきたるゑに
よもすがらみぬよの人をともし火に命松丸よ茶をひとつくれ
逢恋
みつ蒲団よつ手にかゝむみだれがみ心に手ありゑりに足あり
狐拳のかたを融川法師のかける三幅対の絵に詩歌せよと、秋田の大守の求によりて、左狐
をぎつねにめぎつねまじり拳酒もきはまる時はらん菊の園
中名主、
名主組頭年寄交、門前高札守如教、常々急度能申付、在々何人放鉄砲
右鉄砲
てつぽうの玉の盃そこぬけにうつや一けん二けん三けん
六玉川のうた
山吹
山吹の口なし色やもらんとておたまじやくしも井出の玉川
卯花
玉川の卯花月や波はしる玉兎をぞいふべかりける
調布
玉川のむかしの人のてづくりは徳用向か何かしら波

旅人のから尻馬のからにしきふみこむはぎの野路の玉川
千鳥
生酔の引汐風にふかれては野田の玉川千鳥あしなり
毒水
六玉川同じ直段にかふならば毒水はちと高野山なり
神齢山のふもとに音羽町滝あり、玉すだれと名づくるとて
深山より落ちくる滝の玉すだれかゝげてやみんみな月の雲
寿命院にてお団を見て五月五日の日なりければ
此やうにお団のごとく円居して寿命をつなぐ続命の糸
たとへのことばをゑかきて歌よめと人のいひければ、賛語をもまじへてかけり盗人をみて縄をなふ
しら波をみて縄なふはとしのくれにかけ乞をみて金かるがごと
木から落ちたさる
おぼつかないづくの木からおちこちのたづきもしらぬ山中の猿
瓢箪にて鯰おさふる
にごり江に鯰おさふる瓢箪のぬらりくらりと世をわたらばや
鬼の眼に涙
蒼頡造字鬼神泣
てうちんにつりがね
泰山鴻毛
蛇の道はへび
くちなはの道一筋にたづねずば雲ゐにかけるたつをみましや
かいるのつらに水
面張生皮
寺にかつたる太皷
義経の手にうたれしや宇治川の寺に勝たる太鼓なるらん
しゝをみて矢をはぐ
渇而鑿井、戦而鋳兵
猫に小判
またゝびの草だにあらばみちのくのこがねの花もなにゝかはせん
目くらのかきのぞき
群盲評器、独立面牆
お月さまとすつぽん
天上玉兎、泥中野亀
鵜のまねする烏
何事も鵜の真似をして水をのむうかれ烏のうき世カアカア
足もとから鳥のたつ
草に臥す文字ともしらずくたびれし足もとよりや鳥のたつらん
狼に衣
墨染の世わたり衣上にきて身をやすやすと送りおほかみ
さつきの比塩引の鮭多くみえければ
流行にをくれたる身は此比の鰹にまじる塩引の鮭
北山先生身まかりしときくに、その墓はわが寺と同じければ
われも亦おしつけゆきた苔の下に永き夜すがらかたりあかさん
四方歌垣の子真言院慈光子三回忌
父は旅子はよもつ国ほととぎすともに帰るにしかじとやなく
遠州流挿花百瓶図序
様によりて胡蘆を画き柱に膠して琴瑟をひかば可ならんや。遠州百瓶の図を見て花を挿さんと思ふもまたかくのごとし。しかりといへども木馬にのらざれば馬を御する事あたはず。花法を学ばざれば剣を撃つ事を得ず。万巻の書を読むといへども一箇の誠なくば何ぞ聖賢のみちに入らんや。魚を得て筌をわすれ兎を得て蹄を忘る。後の挿花を学ぶもの此の書を以て筌蹄とせば挿化の妙を得るにいたらんか。これ師の弟子を養ふ道なるべし。豈たゞ挿花のみならんや。
狂歌水の巴序
久かたの天あきらけきとしの比、さゞれいしの川辺すゞしき岷江の流に觴を浮べ、楚に入て底ぬけの名をとりし糟句斎余旦坊といふ人ありけり。もとより絵のことは素人ならぬ、大に黒き神の形をゑがきし家の風に巴扇の風をまじへて、四方のすき人にまじはり、たはれ歌よみて心をやる媒とせり。そののち水戸の大城のもとにうつりすみて、畑うつわらは薪こる山人とともに、たはれ歌よみてたのしみとせり。敷島の大和にはあらぬ唐絹とかやいふ人、もろ人のうたをあつめて水の巴となづけ、そのいとぐちをとかん事をこふにまかせて、禿なる筆をとるものならし。
永代橋のもとなる生すにしたる鰡船にて
おほ江戸にいけるかひありて永代の名よしの船のはしをとるかも
芳町桜井といふ酒楼にて
正つらのやうにむす子に酒のめと教のこさん桜井の宿
やれたる壁に蛛のゐのかゝれる画に
わがせこがよしや来るとも此やどは何もくはせぬ蛛の振舞
花火
流星の玉屋たまやの声ばかりなど鍵屋とはいはぬ情なし
勝と亀文字といへるうたひ女とともに、永代橋のもとに舟をとゞめて酒くむ
酒かめもしばし舟とめかつ酌まん夏の日ざしの永き代のはし
勝といふうたひ女によみてつかはしける
盃もあさかの沼の花かつみかつみる度にいつも生酔
亀文字によみてつかはす
万代のたえせぬみつの緒をひくはこれ蓬莱の亀といふ文字
盃托銘橋爪寛平の求に応ず
さかづきをむかふの客へさしすせそいかな憂もわすらりるれろ
次第に酒がまはらば舌のまはらぬ事もあるべし。
瀬戸物町の妓王妓女には〔おのぶおせい〕しばしばまみえしが、駿河町の姉〔おかつ妹はおふさ〕とはたまさか舟を同じうして
今の世の仏御前とするが町かつは大通智勝仏かも
木賊刈の画に
老の身の枯木のごとくなりにけりとくさをかりて何を磨かん
小原女梅を折て牛の角にかけし画に
小原女の心も春や黒牡丹くろ木にしろき梅の一枝
吉野山桜木の枝折に
もろこしの吉野の花も万巻の文の枝折や一目千本
駒込の富士
駒込にうる麦わらの蛇の道はへびのしるべき鱣縄手を長崎名村氏進八たはれうたの名をこふに、扇末広と名づけて
いく千代をあふぎが島の末広くさし入る船や要なるらん
月ごとの十九日に物かきて人にあたふるは、晴雲妙閑信女の忌日なればなり、ことし水無月十九日例の甘露門にまとゐして、しふくにちといふ五文字を上にして五首のうたを手向けぬ
しづやしづしづのをだ巻はてしなくなど物思ふ夏のひぐらし
ふねの中なみの上なる浮草のやどりもいつか六とせ七とせ
くりかへす暦の数もはたまきにちうたばかりの手向とぞなる
にごり江のみかさまさりてすむ人の門辺もむかしみえずなりにき
ちかひてしはねもならべず松のはの枝もかはさず年をふるつか
日吉祭
傘鉾のおほはぬ町もなかりけりあつき日吉の神の水無月
寒山拾得
寒山が拾得きたる絵姿は医者でもあらず茶坊主てもなし
七夕祭のうたよむとて、ふみつきなぬかといふ七文字を上によめる
ふるくよりきゝわたりつる天河ほしのあふ瀬もこよひなるらん
みちのくのとふの菅ごも七ふをもなぬかのけふの星にかさまし
つきかげもほのめく空にありありとふたつのほしの影やあふらん
きならせし天の羽衣いく秋か七夕つめのみけしなるらん
ながめやるほしをこそまてさゝがにのいとなみたてし軒の高どの
ぬしやたれもとみし庭の松かげにほし合の夜やたちあかすらん
かぞいろのなにいつをだにつゞけぬとみどり子もなく梶のはのつゆ
新場いづみ屋にて夜鰹をよめる
ながながと長生をしてくふもよし新さかな場の秋の夜鰹
朝鮮国に天満宮あり、ある人奉納の額にうたこひければ
あまみつる神のめぐみは日の本のこまもろこしもへだてあらじな
休息六歌仙の画
文屋の康秀ゆかたにて、薄かいたる団扇をつかひて胸に風をいるゝ形かいたるに
ふくからに汗のくさきの湯かたびらむべ団扇をやつかふなるらん
僧正遍照ふくべの口より酒のむ
女郎花口もさが野にたつた今僧正さんが落ちなさんした
小野小町べにをつけたる
花の色もうつらふ小野の小町べにわが身ひとつの口につけばや
在原業平うつの山の十団子をくふ
てんとうまいかしらをうつの山辺にも夢にもくはぬ十団子なり
喜撰法師茶をたてたる
千服の茶の湯とちがひ我手前たつた一度と人はいふなり
大伴黒主鏡をもちてけぬきにて鼻毛をぬく
かゞみ山いざ手にもちてみてぬかん鼻毛の長くのびやしぬると
蜀都園
蜀は三都の賦の一にして、白狼の夷歌章をなせしは色紙の価もこれがために貴かるべく、そのはじめは桑楊の菴に觴の光を泛べて一つきふたつみつき連、岷江の流の底ぬけ上戸となりけらし。
青柳もくは子のまゆにこもり江の水や巴の文字にながれん
蜀錦園
柳原のやなぎ並木の桜こきまじへたる浅草のみやこぞ春の錦より、夏にもかゝる藤波のたちならびたるみくら町、錦番城のにしきなるべし
蜀江の波のあやおる西陣のにしきをあらふむらさきの藤
蜀雞園
碧雞の神はかたちをかゞやかし、蜀雞の冠はかたちを大にす。もとよりひろき広莫の野に無何有のさとの雞合、団扇をあぐるかたやはたそ。敷島の道ひろびろと長点を長鳴鳥のかけろとぞなく
雉に桜のゑに
きゞすなくけんけんけんをけんとして桜色なる色にかへめや
うたひめ豊仲が扇に
三味線のね心もよき仲ならばとよももゝよも座敷かさねん
同おれんが扇に
さみせんにうき世の塵をあらひ髪心の角もおれんとぞきく
音羽町玉水簾のもとに養老の滝の白玉扇をひらきて
玉だれの小がめの酒をくみ見ればあめが下みな養老の滝
寄冬瓜恋
百一つあふ夜を花にはふ鬘の長々し夜をひとりかも瓜
寄糸瓜述懐
世の中は何がへちまのかはぶくろしぼりとられし望月の水
室町高島周見といへるくすしのもとに、久しく見ざりし升屋のお市にあひて
市女笠きつれし中にましますやあまねくみつる人の目にたつ
そののちいなばの国の守のもとに召されしときゝて
立わかれいなばの山の松のいろます屋ときけばいちごさかへん
仁正寺侯の山荘楽山楼にて
はかせめく仁者はまさにあふみのや水の鏡の山をたのしむ
ことはざの一夜検校大名に半日なりし心地こそすれ
小網町おせんといへるいらつめによみて贈る
三味線の引手あまたの小あみ町けふを出舟のひきぞめにせん
題しらず
世の中は何かつねなる飛鳥山きのふの花はけふ桜ん坊
北里に菊を植しときゝて
菊は花の隠逸なりと唐人のいひしはたわけ見よ仲の町
三田元札の辻といふ所にすむ嘉山のもとに、近きわたりのうたひめ来れり
めづらしく芸者をけふはみたみたとみつけん番の元札の辻
楽屋新道丸七のもとにて関三十郎によみて贈る
あふ阪と鈴鹿と不破のいにしへにまされるものは今の関三
贈中村芝翫
山姥名残山又山、狂言大入五年間、吾妻贔屓兼京摂、柳緑花紅
色々顔
狂言のやまとうた右衛門山姥も小春のにしき着てや帰らん
鯉屋藤左衛門がかたにて河東節松の内をきく
末の代に沅湘日夜ながれてもむかしにかへれ花の江戸節
浅草の奥山に菊を植しときゝて
奥山に植たる菊を門番の風の神殿ふきな倒しそ
中村座三番叟翁七三郎千歳明石三番叟芝翫つとめしとき
ほのぼのと明石に七三三番叟芝かくれゆく幕おしぞ思ふ
題しらず
ぼんぼりにたつろうそくも二丁目の東籬にみゆるしら菊の花
隅田川雁
すみだ川のちのあしたも細見の山形なりにわたるかりがね
二藤の娘おらいが扇に都鳥の絵あり
みやこどりいざこととはんわが思ふ人に二藤はおるかおらいか
住吉町松本のもとに酒のみけるに、岩戸香といへる髪の油をひさぐ家なれば
神代よりひらけし天の岩戸町つたへてこゝにすみよしの松
この頃わが名をなのりて、市中にて物かき酒のむおこのものありときゝて
みな人のよもやにかゝる紫の赤良を奪ふ事ぞ悲しき
此方よりせりうり一切出し不申候。
中村歌右衛門十月十六日の舞納より、下駄はきて近きわたりにゆくふりにて、たゞちに甲州道中をへて浪花にかへりしが、その妻子はあとにのこりて、はつかすぎて女切手など乞ひうけて東海道を上りしが、川崎といふ所にて雲助四十人斗出て酒手をこひければ、こがねあたまとらせしが、これよりゆくさきも亦かくの如くならんと、ひとまづ江戸にかへりしときゝて
歌右衛門下駄ながらこそにげにけれ女の切手間にあはずとや
うた右衛門は上下の者五人やとひて金十五両遣しけるとぞ、その妻の川崎にて酒手をこはれしは三十五金ばかりとなん、此の比の世がたりなり。
豊島屋十右衛門扇橋別荘の碑に
山里は水をかなめの扇橋末ひろがりの海にこそ入れ
いづみや与四郎浪花にかへる餞別
なには江のあしたはよしやよしさんの声のみ耳にのこる秋風
鯉屋にて河東節松の内をきく
あら玉の空青みたるあけぼのはつねきく鳥もわか水の音
九月廿九日鯉屋にて鮟鱇汁をくふ
此冬も御鮟鱇とは秋ながら吸物わんのふたとりてしる
河東ぶしかぶろ万歳うたふをきゝて
にぎやかなつぶりの禿万歳は今をさかりの花の江戸ぶし
鳥羽絵にかける河津の角力に
此角力蟇股野は河津がけ鳥羽僧正の筆を取組  
網雑魚  

中つ代の諺にいへらく、雑魚とふいをもとゝ交と、且きゝつ此鰕雑魚とふものは、空かぞふおほうみの原を、棹楫ほさず射往廻ほる舟人らが、まりすつるくその潮左猪に凝りて、なれるになもありとぞ、否にや然にや、くはしきはしらず。爰に又、あみざことうは書せるとぢぶみあり。足はしも、野べの高萱草ぶかき国に在ながら、大江戸の手振をまねびて、其名風のとの遠くきこえたる荻野屋のぬしが荻の葉さやぎ、熟睡せられぬよひのすさびにいひ捨たるたはれ言を、おのがものから後みむには心なぐさむわざなりとて、ひたかい集たる物にもなも有ける。故くすしき人の見つゝ、多倶理をつきていやしむ事を思ひはかり、みづから八重だゝみへりくだりて、およづれ言に穢しつる、あやしきいをの名もて冠らせたるなるべし。こをとりてよむに、其数すべて三百余、たゞに網ざこの骨なき歌のみならず、いすぐはし鯨のたけある詞、おほをよし鮪のひれあるすがた、はたふくべのおかしき、あか棘鬣魚のめでたきをさへに、調べとゝのほり心ひでたるもいとさはに見ゆめり。これがはしに言くはへてしがなとこはるゝを、辞びていふ、おのれ真がほ、あら玉のとし月此芸にふけりて、わだの底澳津ふかえのふかきを極み、龍の窟のおくかをもうかゞはまくつとめれど、阿古や珠のひかり顕れつべき幸やなかりけん、あしがきの隣にだもしられずなむなりにたる、譬ば魔竭の魚にさばかりならぶものなきもおほよそ人のめには真しろなる山、あけなる海とのみ見さけられて、とほしろき魚ともしられざれば、いをとなり出しかひもなくて、藻にしづむ鮒にすらおとりぬるがごとし。かくいひつゝおるほどに、いよゝざへあざれ詞ふりにたれば、人みな真そでもて鼻おほはむ事を、やさしみおもへりとわびあへれど、彼ぬしさらに諾なはずしていへらく、臭を逐ふ人なからむや、屎鮒喫る女奴もあるをと、あまの栲縄くるしきまでさいなまるるをもだしやらで、なまなまにしかしるしつ。是ぞ此雑魚とふいをのとゝまじりと、許々良の人のみたまはむを、恥ざらめやもおそりざらめやも。
鹿津部真顔がいふ

それたはれ事のすき人らは、すさのをのみことを祭てふみな月のあつき、下照姫のてる日をも厭はす、春は飛鳥山のうなゐらが土器を投るたはむれにもよみ、難波津にさくやこのはなのしもけぬべう覚ゆる冬の日もよみ出ることになんありける。さればあかゞりのいたくすけるをこそ此道のすきとはいふめれ。こゝにひとりのすき人あり。かばねは赤松名は金鶏、家の名は荻野屋とかきこえし。うまれは大江戸のまなかにして、うぶ湯のたらひのまろくかどなき人になんありける。今は上毛のくになぬかいちといふ所にいまして此みちもてたのしみ、花につけ月につけてよみ出るざれ歌あまたなるを、一の巻となして、そのすけるてふゑにしあればとて、あみざことものして世にひろめ玉ふとかや。同じこゝろのすき人ら此巻をずし玉はば、金 雞子の道をすける事をもしり、はた歌のあさらけきいをのごとくなるをもしり玉はん。やつがれ年老、筆もたちかね侍れど、せちに乞るゝにいなみがたう、つたなき言の葉をのぶるになん。
桑楊庵光いふ  
網雑魚巻一 春之部
隠士赤松金鶏著
年内立春
うぐひすの時分つかひを待もせずをしかけて来る年内の春
立春
岩戸あけし神代のまゝのひかりにてちつともさびぬあら玉の春
関路立春
此あさけかすみのまくもあたらしやとしの関所へ春の交代
早春
うごきなき春やこよみの大将軍もちのそなへもかたく見へたり
初春
やり梅の中に柳の青表紙文武二道の春はきにけり
山霞
春がすみたなびきしより杣人もめをたてゝ見るのこぎりがだけ
関霞
あしがらの関のまむきにはるがすみたちはだかれどしかりてもなし

春もやゝこはだのすしや鯛のすしまどよりなるゝうぐひすの声
題しらず
みとれてはつゐに前後を忘じけり梅にうぐひすうぐひすにうめ
若菜
ぬり桶のわたのやうなる雪わけて一二把つまんまだき若菜を
残雪
春の日を七十五日ひきのばせのこんの雪のおはりはつもの

難波津に昨夜の雨やつよかりしけさほころびた梅の花がさ

淵明が隠者かた気やならひけん門の柳もちらしがみなり

采配に似たる柳をうつし植てうき世のちりをはたき出さん
早蕨
さほ姫の御紋か山の背をかけて一つ巴にいづるさわらび

をる人のにげゆくあとへ声かけて大事の花をしかりちらすな
山桜
ひろがりし足高山のさくら花徒士ならねども風はわきよれ
雨中花
ならづけのかすみやたてる遠山の花にあまけの雲を起して
落花
さくら花ちりてもおしき虎の尾はいづれふまれぬものにしぞあれ
春曙
おこされてよんどころなき寐覚にもこれはとおもふ春のあけぼの

心にはたれもおもへどかはづほど春のわかれをなくものはなし
欸冬
なにごともいはぬ色とぞしられけり他人めきたる山ぶきのはな
雲雀
春の野にけぶるたばこの舞ひばりみればやにむにあがりこそすれ
三月尽
花鳥にまちえし春も三ぶくめつねのごとくにせんじ詰たり

東へはもどりもやらでうぐひすのとんだ跡へ春のいぬめり  
網雑魚巻二 夏之部
更衣
春風の手形ありともぬぎかえてはな見しらみを夏へ通さじ

ぬぎかえて醭くさいかとかぐさへもとにかく春のはなをわすれず葵
是もまたときにあふひや氏なうてかく玉だれにのぼるさかえは
郭公
ほととぎす名のつてすぎよ青葉せし木の丸どののお目通りをば
山郭公
頼母子にいるさの山のほととぎすひと口ならずば半口もなけ
五月雨
くされつく畳より猶さみだれにひつたゝぬものは心なりけり
滝五月雨
布引にふりつゞきたるさつきあめひとはゞひろくおつるたきつせ
照射
夏むしのたぐひなりけり小男鹿のとんでともしの火にぞいりつつ
水鶏
たゝくのみ人もこずえのくひなにてつまどばかりかはなあかせぬる
夕立早過
神なりの太皷はやめてとろとろとひゞきの滝をすぐる夕立
納凉
竹夫人だいてぬるよのすゞしさはしやうのものより嬉しかりけり

夕すゞみ二十八宿あたりよりふき送る風や秋の先ぶれ

凉風にあつさわすれて思はずももとこべが夏をやり水の影
荒和祓
ひやひやとみそぎやすらん索麪の名にながれたる三輪の川なみ

やうやうと夏の仕舞へこぎつけて貴船の川のみそぎ凉しき  
あみざこ巻三 秋之部
初秋
凉しさはいかにもすこしおどろけどびつくりはせぬ秋のはつ風

きのふまで威をふるあふぎけふよりはしたにしたにと秋のはつかぜ
早秋
秋風の吹絵とや見んきのふけふちらりほらりとをつる木のはは
七夕
七夕もすゝりてはなきたまふらんひや索麪のながきわかれを
七夕河
天河小町がうたに似るものかなみのうねうねしける七夕
擣衣
われもまた遠のきぬたの相槌にねがへりをうつ秋の小夜中
山家虫
西陣はいかに桐生の山ざとははたおるむしの声も色よき

これやこれ七もゝとせのおきなぐさ杖はついても腰はかゞまず
紅葉
だまさるゝとはしりながらいなり山もみぢのにしき金と見る迄
九月尽
灸点の九喩かぎりにゆくあきをおさへてもけふひとひなりけり

八月のはちの名によぶ月なればはるゝも道理さすもことはり

のみつくせいざこれからは四斗樽傾くまでの月をこそ見め

月の中に老せぬくすり製すともこよひの月にくまのゐはされ
名所月
近々のうみと山とをひとまたぎまたいで出たるあしの屋の月
秋風
秋風をはりこの虎やおこすらんのべにちぐさのかぶりふれるは

風の神もいたみ入らんおしなべてのはきにあへる草の平伏
七夕船
恋中へ水をばさすなたなばたのとわたる船の梶原平三

山中のはぎの花妻手折なりごめん候へ鹿之すけ殿
野萩
宮城野のはぎのにしきをきて見ればわれも赤面するばかりなり

南鐐のみなみへかへるかりがねはただ一片の月になくなり
深夜雁
これ一番たのむの雁よ小夜中に汝なくともわれをなかすな
海霧
帆柱はうみのかための棒つきかすき間もあらぬきりの立番  
網雑魚巻四 冬の部
初冬
けふよりはおとこやもめの世帯かやかみさまのなき冬のさびしさ

十月はけし坊主にも似たるかないつの間にやらかみも立たり

山姫の発足したるそのあとへおるす見舞の冬は来にけり
落葉
かぜにのりてつばさなくとも飛ゆくは銭神論に似たるもみぢは
時雨
こぬか程しぐるゝ雨は山ひめの紅葉ぶくろの口やときけん

冬がれにときはの松の木むすめもはやそろそろとしもをこそ見れ

佐野の源左よんどころなく僧とめてない袖をふる雪の夕ぐれ

善光寺などはものかは雪ぼとけきえこそはすれ一寸八分
冬月
冬の夜はわきてするどし龍田山月のまなこのぴかりぴかりと
河上氷
水神の罰もあたるか河づらをはつたこほりに手のかゞむのは
神楽
月さえてうたふをきけば手もあしもかんじ入たる霜の夜神楽
埋火
おのがその山での事をわすれずに花に紅葉にまがふうづみ火
歳暮
くれてゆく月日の駒にしやくせんを小附にしてもどうぞやりたき

ひととせの尾張大根よかけとりをからみてかへすきものふとさは

年のくれ頭痛にやむはかべひとへちかき隣の千金の春  
網雑魚巻五 恋之部上

かなしきはふみまよふたる恋の道いかにととはん辻番もなし

恋やめばあはぬさきからやせるほどなみだに水をへらすくるしさ

玉しひを進物にしてくどけども御受納のなき君ぞつれなき

重代のゆづりものなるたましひをうばひ取しぞ恋はくせもの

うしや君恋かぜの手はありながら我いふことをとり上もせず

かくばかりからき思のつもりなば塩とや見へん雪のはだへも

だきつけどうしや女にまけずもふなげのなさけに身もころけたり

けいせいにあらねど君はおもかげを名代にしてあてがふぞうき

偽の数はいくつと十露盤にかけても見たり割くどいたり

よし今は門にたつをもやめにして腰をぬかすと君にしられん

恋やみのおもる斗でうき人はをちかぬるなり二十五のやく

君をしばしみそかの月にたとへし朔日丸をいまはすゝむる

うき人の心くだけよくだけよとわれのみ口をたゝくつれなさ
久忍恋
不思議にもしびれのきれぬ年月やしのぶあふせをかしこまり居て
祈恋
よし今は貧乏神やいのらまし手鍋さげてもそはんと思へば
待恋
我せこが来べきと思ふうらかたにうれしやよばひぐものふるまひ
待空
とひ来ねば夜着もろともに茶碗酒ひつかぶりつゝものをこそ思へ
逢恋
君今宵恋の山田のおろちなら七重にまいて我をかへすな

見るは目の毒といとひしうき人もあへば変じて薬とぞなる

肌とはだこほりつけよとおもふ夜はひよくの床のあたゝかもうし
初逢恋
とくよりも思ひのたねはまきぬれどちぎるは今宵はつ茄子なり
別恋
あふときに心のやみははれぬれどあかるく帰るきぬぎぬもうし

別路はまりの稽古に似たるかなさきへ一あしあとへ一あし

もそつと引ぱられてはよはるなり上州ぎぬの衣々の袖  
あみざこ巻六 恋之部下

かたいとのあはずば何をとばかりにわくわくものを思ふくるしさ
片思
君がこと夢にもしばしわすれずといふをかへつて寐言とや思ふ
欲絶恋
機にのぞみ恋に応じてくどけどもをちざる君に軍法ぞなき
恋雨
ふりしきる涙の雨もふせぎえぬみのひとつだにあるぞかなしき
春見恋
見そめてしその恋風と春風ははなのちり毛をそつと吹なり
秋待恋
約束の夜は恋風のそゝふくべふらりと君を待あかしぬる
旅恋
木まくらのをしやちぎりも一夜ずしなるゝまもなき旅の別路
恋命
あふにかふる命としれば我ながらあづかりものの心地こそすれ
恋心
此心老馬もしらじ雪のはだふみまよひたる恋の道をく
恋情
なさけある君が返事のあいあいはあゐよりもこき声の色かな
賤恋
しづが身も恋にはこゝろこがしつ胸に一ぱいむせかへりなく
寄雪恋
興つきてかへる心はさらになし君がはだへの雪のあけぼの
寄川恋
いつとなくなみだの川にしづみつゝ命しらずの恋もするかな
寄鷹恋
たかならばうき名の外にぱつとたつ小鳥もおのがえにしなるべき
寄馬恋
いくたびかくどきかけても馬の耳はねつけてのみきかぬ恋風  
網雑魚巻七 雑の部上

あかつきのしぎのはねかきもゝはがきのみにくはれて我ぞ数かく

人はみなおきいづるそのあかつきに小便をしてぬるぞたのしき
山家
山里にすむたのしさはうき事のきこへぬほどに松風ぞふく
海路
心ある人に見せばや画師も手をおき津あたりの春のあけぼの
むこの浦にて
波風もたゝでひときは目にたつはこぬか三合いりむこの浦
うつの山を越えける時いたうへりぬれど何たうふべきものなかりければ
すき腹をしめつゆるめつするが路や舌つゞみのみう津の山越
無題
たのしめや人間わづか五十けんちろりと酒のかんたんの夢

諺に酒はうれひの玉はゝきはき出したる跡ぞ清けれ
銭の賛
是を人の心ともがな銭の穴おもては丸くうらは四角に
白鼠かぶらをくふかたかけるに
大黒の番頭なれやしろねづみあそんでくらふかぶの大さ
亀の画に題して隠居の心を
おく山へかくれんよりは亀を見てをのれにかくせをのが手足を
俳優を見侍りて
鉄砲のあたりしばゐは桟しきもまづ五六間ぶちぬいて見ん

うしろから見るはそんじやと思ふ哉羅漢さしきにのつたりそつたり

見物はかくもしばゐにふける哉くびばかり出すうづら桟敷

いつの世にかく狂言の種をまきて芝居を人の山となしけん

くまどりの青き赤きをこき洗ふ楽屋の風呂ぞ錦なりけり  
網雑魚巻八 雑の部下
報恩の歌二首
半掃庵菴也有翁
御遺稿はひとり案内道中記筆の立場をおしえ玉はる
四方赤良先生
いづれ手もとゞかぬ程の御厚恩山より高し海より深し

うたゝねに千両富をとりしより夢てふものはたのみそめてき

夢の世ときけば彭祖や浦島はいかいたはけな大寐坊かな
述懐
われら事たしかにかりの命ながら千年ふるとも返済はいや

一つゝみ金がうのみにしたいかなひんの病にきつと即効

いかなれば貧の病の妙薬を千金方に書もらしけん
懐旧
またがりし乳母が脊中を正真の馬と見し世ぞ今は恋しき
山東ぬしの妹みまかりける時
かなしみのいたれる場には文もなしさぞ御愁傷さぞ御愁傷
松斎沙明がわらはをいためる
みくすりのしるしもさらにならさかやこのてがしはのとかくしぬれど
初午祭
はつ午にまつるこのしろあかのめし神はあがらせ玉ひけるかも
草薙の社にまうでゝ
くさなぎのふる身のつるぎ正銘もわからぬほどに神さびにけり

戸をあけてぬれどもさらにいさゝかのかぜさへひかぬ御代ぞめでたき

唐人もきけあしはらの腹つゞみうちおさめたる御代のしらべを
   校合門人 万徳斎 宝敦麿 寝語軒美隣  

金鶏狂歌集一名網雑魚。耕書堂主人所秘蔵也。唐丸申云。篇中狂詠高如妙義山、深似榛名沼。上州第一名物不可之者歟。即於彼人亭一覧此本。真希有之者也。今日席上応需闇雲加奥書畢。這金鶏集宜為淀屋宝、而虫干外勿許他見。可秘。可秘。穴賢。
   癸卯七月   伯楽軒主人判  
 
天明狂歌覚え書

第1章天明調出現以前
天明狂歌とは、江戸の地を中心として天明期前後に爆発的流行を見せた際の狂歌の呼称ですが、そこに話を進める前に、それ以前の狂歌についてもざっと触れておきたいと思います。
通常の和歌と同様、狂歌もその初期の頃は、主に京都近辺の、身分ある人々の周囲で作られていました。狂歌の祖と伝説的に扱われている暁月房も、俗説では藤原為家と、その妻で『十六夜日記』の著者阿仏尼との間の子ということになっています。また近世狂歌の祖と称えられ『新撰狂歌集』(狂歌と名のつく最初の撰集)編者に一時擬されていた建仁寺の高僧永雄長老は戦国大名若狭武田家の一族で、細川幽斎の甥だそうですから、決して身分の低いものではありません。
江戸時代初頭には、そうした風潮がまだ続いています。当時の代表的狂歌人とされるのは、後水尾天皇、尊純法親王ら皇族、また源通勝、烏丸光廣、正親町公通(風水軒白玉)ら公卿。松永貞徳をはじめとする俳諧師たちも狂歌をたしなんでいましたが、あくまで主力となるのはいわゆる上つ方の人たちでした。
蛍めをどっこいそっこい遣るまいぞあんだ辧慶武蔵野の原(後水尾天皇)
池に咲くはちす見てくむ酒の友水のやうなる淡きまじはり(正親町公通)
この期までの狂歌は京都を本拠とし、貴族的な上品さ、微笑程度の笑いが特徴となっています。
しかし、その末期と多少だぶってくる次の時代には根拠地は大阪に移り、狂歌は民衆の中に入っていきます。その期の中心的人物は鯛屋貞柳(由縁斎、油煙斎、言因)です。
百居ても同じ浮世に同じ花月はまんまる雪はしろたへ(貞柳の辞世)
貞柳は、大阪の裕福な菓子舗で禁裏御用までつとめた家に生まれました(一族には文芸に携わるものも多く、弟は浄瑠璃作家紀海音)。彼の門下は三千とも伝えられ、まさにその一派は浪花を根拠地に全国を風靡したといいます。しかし、彼らの狂歌の内容は、唐衣橘洲によって「貞柳卜養が風を庶幾せず、ただに暁月の高古なる、幽斎の温雅なる、未得が俊逸、白玉翁の清爽なる姿をしたひ」(『弄花集』序)といわれるような、四方赤良=蜀山人によって「貞柳とかやいひししれ者、いかなるゆえんの侍りしにや、雲の上まですみのぼる、烟の名を立てしより、その流れをくみ其ひちりきをあぐる輩、京わらべの興歌などいへる、あられもなき名をつくりて」(『狂歌堂に判者をゆずること葉』)といわれるような類のものであったようです。庶民的ということはともすれば低俗と結びつきがちですから。
貞柳の孫弟子にあたる一本亭芙蓉花が江戸に来た時、自信作「磨いたら磨いただけは光るなり性根玉でも何の玉でも」を絵馬に仕立て、浅草寺に奉納しました。この歌の浅薄な説教臭を嫌ったものか、すぐにお返しの落首が江戸の町に「磨いても磨いただけは光るまじこんな狂歌の性根玉では」と出て評判になり、その後今度は京の町に「光ろかのコンニャク玉も藍玉もタドン玉でもフグリ玉でも」とより痛烈な揚げ足取りの落首が現れた、というエピソードがあります。

江戸の地独特の狂歌は、明和以前には殆んどみるべきものがないといってもいいでしょう。慶安頃に石井未得、寛文頃に半井卜養という二人の名が知られているものの、両人とも関西の影響下にあって作歌していました。そのほか散発的に数人の狂歌愛好者がいるにはいて、それなりの水準の作品を残していますが、いずれも、その時期にたまたま江戸で狂歌をやっていたというに過ぎず、天明調狂歌に対し直接の重大な影響を与えた訳ではない、との意見が大勢です。唐衣橘洲や四方赤良をはじめとする一群の人々の登場を待って、はじめて新傾向の天明調狂歌時代が鮮やかに始まったのでした。  
第2章勃興期
明和年間、江戸開府から既に約150年が経過し、賄賂と重商政策で知られる田沼意次が実権を握らんとしていた頃。遊里や芝居町が繁盛の一途を辿り、天下は太平の夢に酔い痴れているようではありましたが、その実、幕政は沈滞し財政は逼迫し、サラリーマンたる武士は生活費の嵩むわりに収入が増えず貧しい暮らしを余儀なくされ、農民もまた運上課役の負担に悩んでいたのです。封建的身分制度は膠着し、社会機構の厚い壁は民衆の前に立ちはだかり続けたので、勢い人々のエネルギーは他にはけ口を求めて遊興に走らざるをえず、文化文政に続いていく末期的享楽的文化が始まっていました。こんな時期に現れた天明(調)狂歌に、風刺性や享楽性が見られるのは当然かもしれません。
年号は安く永くとかはれども諸色高くて今に明和九(落首より)
京町の猫も杓子も大名も揚屋に通ふ里の全盛(四方赤良)
一群の狂歌人たちも、全体的に言ってその伸びる力を抑制されて遊戯文学に向かったものであるという表現をしてよいかと思います。その主力は教養あり実力ある下級武士(四方赤良、唐衣橘洲、手柄岡持、朱樂管江ら)や、学問好きな町人(宿屋飯盛、平秩東作、元木網、鹿都部眞顔ら)であって、そこには、そのような硬直した社会でなければ、戯作などによらなくても十分一流人士となれるだけの素質力量を備えているものが多く含まれていました。
そうしたかなりの教養人たちの玩ぶ戯れ歌であるからこそ、卑俗な言語遊戯に大きく傾くことなく、新鮮な才気が感じられもするのでしょう。たとえば狂歌の技巧面にしても、特に天明調に至って、故事ことわざ古歌等に取材する本歌取り的手法が縦横にしかも鮮やかになされているのは、衒学趣味といえなくもありませんが、つまりは彼らの教養を物語っています。
ひとつとりふたつとりては焼ひて食ひ鶉なくなる深草の里(四方赤良)
歌よみは下手こそよけれあめつちの動き出してたまるものかは(宿屋飯盛)
前者は「夕されば野辺の秋風身にしみて鶉鳴くなり深草の里」(藤原俊成)のもじり、後者は『古今和歌集』序文の一節「ちからをもいれずして、あめつちをうごかし、めに見えぬ鬼神をも、あはれとおもはせ、おとこ女のなかをもやはらげ、たけきもののゝふのこゝろをも、なぐさむるは哥なり」(紀貫之)へのからかい。
天明調の狂歌を形容して他にいつも挙げられるのは、歯切れのよさ、洒落(しゃらく)奔放とかの語で、これらは「いき」の美意識の下に総括できる感覚といってよいでしょう。ところで「いき」とは、江戸が日本の中心都市としての実力を備えるに従い、文化の中心もまた江戸に移ってきて、関西とは異なる文化が生み出された、その江戸文化の特質的意識とされています。
これをまとめると、天明狂歌は、社会情勢、作者の個性教養、江戸の美意識(文学意識)の三つが結びついて生まれたということになりましょうか。
この稿では代表的作者のひとり四方赤良を中心に天明狂歌を概観しますが、特に彼をその位置に置く理由を述べておきます。
赤良は、明和6年の唐衣橘洲宅における第1回狂歌会のときから、つまり草創期から狂歌活動に参加し、その質的絶頂期に壮年を過ごし、凋落期に世を去った……天明狂歌とともに人生を歩んだ人物である、ばかりでなく、自身その流行衰退をもたらしたも同然であり、その全期間を通じて人気実力ともに第一人者であり代表者的存在でした。天明調の特色は前記の通り新鮮な機知とか、享楽的とか、衒学的といったことですが、彼はその特性を作品に全て備え、その表し方は鮮やかで、一頭地を抜いており、社中にも多くの有力狂歌人を擁していました。天明狂歌壇の最も重要な担い手であった訳です。
前にも触れましたが、天明狂歌人の多くは教養ある下級武士や町人でした。例えば宿屋飯盛は町人ながら学者石川雅望として高く評価されています。赤良は下級武士・御家人ですが、18歳のおりに『明詩擢材』という作詩の参考書を刊行、後年には学問吟味でお目見得以下の首席となっており、かなりの秀才であることは確かです(余談ながら、この時の学問吟味でお目見得以上の首席はかの刺青判官、遠山金四郎だったそうで)。まさに狂歌人の一典型たる人物でしょう。
赤良を中心にして天明狂歌を見ていくことは決して無意味ではありますまい。というより、天明狂歌を語ろうとすれば必然的に彼が中心に出てくるのです。

四方赤良は通称直次郎、名を覃。寝惚先生、四方山人、杏花園、玉川漁翁、石楠齋などなど別名は数え切れないほどですが、なかで最も有名なのは四方赤良と蜀山人でしょう。ごく初期に赤人、壮年の活躍時代にかけて赤良を用いており、蜀山人はいったん狂歌をやめて、晩年また再開した時に使い始めたもの。なお、よく知られている「大田南畝」は、学者としての名乗りです。寛延2年(西暦1749年)3月3日生まれ。狂歌仲間の元木網よりは20歳、大屋裏住よりは14歳、手柄岡持よりは13歳、朱樂管江よりは10歳、唐衣橘洲よりは6歳年下で、鹿都部真顔や宿屋飯盛、頭光らよりは年上になります。生家の大田家は、江戸牛込仲御徒町で代々幕府の徒士を勤める家でした。姉のひとりは吉見家に嫁し、吉見儀助つまり紀定丸を産んでいます。
宝暦13年、15歳の直次郎は、牛込加賀町に住む幕臣内山賀邸の門人となりました。賀邸、内山淳時(なおとき)は儒者であり国学者でありまた当時江戸の代表的歌人の一人でもありましたが、『狂歌若葉集』に彼の作が多数採られているところを見ると、学問一筋の謹厳実直な人物というわけではなさそうです。この師にしてこの弟子あり、賀邸の門下にはほかに田安家の臣小島謙之つまり唐衣橘洲、御手先与力の山崎景貫つまり朱樂管江、稲毛屋金右衛門こと平秩東作、といったやがて天明狂歌の担い手となる人たちが集まっていました。橘洲も管江も、早くから戯歌川柳の類に心を寄せていたとのことですので、こうした賀邸門の空気が、多感多才の少年にどんな作用を及ぼしたか、容易に想像できるというもの。この師に学んだことは赤良の文学的生涯に重大な意味を持ったようです。
賀邸門で最も早くから狂歌に興味を持っていたのは唐衣橘洲でした。初期の狂歌の集まりは殆んど彼が中心になって行われています。いわば彼は天明狂歌の創始者的存在で、のちには実力でも作風でも、赤良の対抗者となりました。
命こそ鵞毛に似たれ何のそのいざ鰒喰にゆきの振舞(唐衣橘洲)
その橘洲の家で、記録に残る初の狂歌会が開かれたのは明和6年(1769)。赤良は随筆集『奴師勞之』(文化15年)にその時の模様について、橘洲による『狂歌弄花集』序文の引用を添えて書き残しています。それによると、出席者は橘洲、赤良のほか、大根太木、飛塵馬蹄、大屋裏住、平秩東作ら、「おほよそ狂詠は、時の興によりてよむなるを、事がましくつどひをなして、詠む痴者こそをこなれ。我もいざしれ者の仲間いりせん」と、これが赤良のその折の言葉だといいます。
このときの出席者のうち大屋裏住は以前からの狂歌詠みで、20年以上の中絶後天明調狂歌人の仲間入りをし、赤良の門人となりました。また平秩東作は四谷新宿の煙草屋ですが儒者として立松懐之の名もある教養人です。大根太木は辻番請負。赤良の知人で、初狂歌会には彼に伴われてやってきました。この3人の代表作品を挙げておきます。
折とるは憎さもにくし心根のかはゆくもある花の盗人(大屋裏住)
そしてまたおまへいつきなさるの尻あかつきばかりうき物はなし(平秩東作)
借銭の山に住身のしづけさは二季より外にとふ人もなし(大根太木)
なお、赤良と大根太木の名は宝暦頃より江戸に流行していた「鯛の味噌津で四方のあか、のみかけ山の寒鴉……大木の生際太いの根云々」という無意味な言葉からとられたとか。四方のあか、は当時出ていた酒の名前です。浪花狂歌までの狂歌人の筆名は任意の号を二つ組み合わせる程度で、大して凝ってはいなかったのですが、天明のそれは何かの洒落やもじりをつかうのが通例で、そのようにふざけた名を狂名といいます。遊び心がそんな所にまで行き届いていました。
その後太木が元木網、智恵内子夫妻を誘い、濱邊K人なども加わってきました。木網は京橋の湯屋で、妻の智恵内子は、管江夫人節松嫁々と並ぶ女流の双璧とされています。濱邊K人は狂歌の点をつけて入花料と唱え、金を取る慣わしをはじめた人です。儲けるためではなく、印刷料の実費を各自に負担させたのでした。しかし、これが狂歌職業化のきっかけとなり、鹿都部真顔によって狂歌は完全専業化に至ることになりますが、それは後々のこと。
客はみなさいた櫻につながれてひかれくるわの春の駒下駄(元木網)
山姫も冬は氷のはりしごと瀧津せぬひやとづる布引(智恵内子)
くひたらぬうはさもきかずから大和たったひとつのもちの月影(濱邊K人)
明和7年、記録に残る初の江戸狂歌合、明和8年秋、橘洲宅で観月狂歌会。この頃、飢饉などで世情は騒然としており、市中には落書が流行、狂歌の勢いは機に応じて急伸して来ていました。
安永3年、牛込で宝合という戯れがはじめて行われました。宝物に擬したふざけた品物に狂文または狂歌を添えて出品し、優劣を競うというものです。集まった人々の名はみな狂名になっていたそうで、狂歌同好者の増えていることが分かります。この催しの主催者は一応酒上熟寝(市谷左内坂の名主島田左内)となっていますが、実のところは赤良だったということです。
この頃、赤良、橘洲と並び、狂歌三大家の一人に数えられる朱樂管江も狂歌を始めています。
借金も今はつゝむにつゝまれずやぶれかぶれのふんどしの暮
いつ見てもさてお若いと口々にほめそやされる年ぞくやしき(朱樂管江)
うかうかと長き夜すがらあくがれて月に鼻毛の數やよまれん(節松嫁々)
安永6年、当時の高名な俳人大島蓼太が「高き名のひびきは四方にわき出て赤ら赤らと子どもまで知る」の狂歌をたずさえて赤良を訪ねるという出来事がありました。ときに蓼太60歳赤良29歳。赤良が、幾分お世辞にもせよ「子どもまで知る」ほどの人気者になっていること、俳諧の老大家がわざわざ交際を求めに来るほどの名士になっていることは、彼と切っても切れない狂歌が、またどれほどのものになっているかを同時に示しているとは言えないでしょうか。
安永7年、大根太木主催15番狂歌合、8年8月13〜17日高田馬場で連日の観月狂歌宴。
そして安永10年は天明初年。天明期にその名を負う天明調狂歌が最盛期を迎えようとしていました。  
第3章絶頂期
天明の初め、もう天明調狂歌は十分な勢力を持っていたにもかかわらず、狂歌書の出版は天明2年の『初笑不琢玉』が最初でした。これはK人率いる芝濱連の作品を集め、橘洲と赤良の序跋を付けた小冊子だったとか。そして天明3年にやっと、『狂歌若葉集』『萬載狂歌集』と相次いで本格的な狂歌集が出版されました。この2歌集の出版を契機に数多の狂歌書が次々刊行され、狂歌人口は急増、狂歌熱は最高潮に達します。
『狂歌若葉集』は橘洲が中心になって編纂したもので、共編者は蛙面坊懸水、古瀬勝雄、平秩東作、元木網。当時の狂歌界の状態からして当然加わっているべき赤良と管江の名がありません。また入集歌数をみても橘洲がトップなのはともかく、赤良は5番目、管江は9番目だそうで、彼らの人気実力から見て不当な扱いになっています。この間の事情を探ると、若葉集中に橘洲の「赤良のぬしこの比ざれ哥にすさめがちなるに甥の雲助ぬしの哥口を感じて」と前書きのある
ざれ歌に秋の紅葉のあからよりはなも高尾のみねの雲輔
があります。雲輔とは紀定丸の初名、野原雲輔。赤良が狂歌界のみならず広く当代きっての人気者となり、諸所で興に任せて詠みに詠む歌のうちには、橘洲の目から「すさめがち」と感じられる作もあったものでしょうか。先達ともいうべき彼にして、手塩にかけた狂歌が冒涜されるような気がしたのかもしれません。そんなことが推測される前書きであり狂歌です。
大体橘洲と赤良は、狂歌に対する考え方も作風も、大幅に異なっていました。先にも引用したように「貞柳卜養が風を庶幾せず、ただに暁月の高古なる、幽斎の温雅なる、未得が俊逸、白玉翁の清爽なる姿をしたひ」(弄花集序)といささか懐古的な橘洲の姿勢に比べ、赤良は「其趣を知るにいたらば、暁月坊雄長老貞徳未得の跡をふまず、古今後撰夷曲の風をわすれて、はじめてともに狂歌をいふべきのみ」(『狂歌三体伝授跋』)と、自分たちで新しい狂歌を作り出していこうという気概に満ちています。二人の作品も「いまさらに雲の下帯ひきしめてつきのさはりの空ことぞうき」(橘洲)の古典和歌的に整った詠みぶりと「世の中はいつも月夜に米の飯さてまたまふしかねのほしさよ」(赤良)の大胆さとは、同じ月を題材にしながら同時代とは思われないほどです。こうした相違点に加え、気難しく一本気だったと伝えられる橘洲の、奔放な赤良に対する不快、下司の勘繰りかもしれませんが、後輩である赤良を持て囃す世評に対する不満、などがからみあって、この頃ついに完全な仲たがいにまで至ったのではないかと思われます。この確執は間もなく管江と木網の肝いりで解かれた…と、平秩東作による『狂歌師細見』には書かれているとのことですが、本当に元通りになるにはいま少し年月がかかったであろうといわれています。
赤良とその親友管江らの一派は、『狂歌若葉集』編集の企てを知り急遽対抗狂歌集出版を計画、若葉集の跡を追うように出されたのが『萬載狂歌集』です。こちらは作者の取り扱いも公平で、千載集になぞらえた構成に工夫が見られ、趣向を凝らしていました。萬載集は若葉集を圧倒し大成功、版元の須原屋伊八が喜びの余り「まんざいはわれらが家の大夫殿はらつつみうつとく和歌の集」と詠んだほどでした。この結果橘洲勢が後退し、赤良的歌風が天明調の本流として確立されます。
萬載集と、その続編『徳和歌後萬載集』および管江撰の『故混馬鹿集』(のち『狂言鶯蛙集』と改題。ともに天明5年刊)の3歌集は、天明狂歌に強固な地固めをして永年の流行の基礎をなしたものとして高く評価されています。
しかしこんな風に誰でもが我も我もと狂歌をひねるようになった時には、赤良や管江の方は反って興ざめしてきていたらしいのです。というのは、元来天明狂歌は教養主義と結びついており、その上赤良たちの気質才能なればこその向こう意気、洒落っけがあって初めて世の迎えるところとなったわけですが、一般の追随者らには先駆者の持っていたそうした特質を期待出来なかったからです。駄作者の激増は赤良に「属者(コノゴロ)狂歌花見虱ノ如シ」と歎かせ、管江にも『故混馬鹿集』で「この頃もはら狂歌を世にもてあそびて殊に戯れたる表徳を云ひ罵るに言葉はさしたるをかしきふし云出さざりければ」
糞船の鼻もちならぬ狂歌師も葛西みやげの名ばかりぞよき
と言わせています(表徳とは狂名のことです)。『徳和歌後萬載集』は天明4年春の刊行予定が5年1月に延びていますし、天明7年の『狂歌才蔵集』は赤良傘下の四方側の作ばかりが多く、総数が少なく、巻7には空白部分があるなど不体裁で、赤良編とはいいながらもはや彼は実際どの程度編集に関わっていたか疑問ですらあります。
そしてこの頃、外部からも彼らの狂詠を妨げる事件が起こってきていました。  
第4章衰退期
天保の末期から寛政初めにかけては、将軍家治の死、田沼意次の失脚、松平定信老中就任とそれに続く寛政改革、といった政局面の変動に伴い、相次いで筆禍事件が起き戯作界にとっても多難な時期となりました。よく知られているのは黄表紙作者の恋川春町こと駿河小島藩士倉橋寿平と、朋誠堂喜三二こと秋田佐竹藩江戸留守居役平沢常富の筆禍ですが、このふたり、春町は酒上不埒、喜三二は手柄岡持と名乗って、ともに天明調狂歌の主要メンバーでした。春町はその作『鸚鵡返文武二道』が寛政改革を題材にしているとして時の政権の忌むところとなり寛政元年に自殺したと伝えられ、喜三二はやはり『文武二道万石通』が同様の理由で忌諱にふれ、主君より止筆を命じられたと言われています。
きのふこそ煤はとりしかいつのまに葉竹そよぎて門松ぞたつ(酒上不埒)
金なきと隙のなきとにかへてまし病ある身と苦労ある身を(手柄岡持)
この時期、赤良も同じ難にあったとされ、『甲子夜話』(松浦静山)なども風評を伝えるような形で赤良の筆禍についてふれていますし、本人の著したものからこの間の事情を探ると『一話一言』に次のような一節があります。
世の中にか程うるさきものはなしぶんぶといふて身を責るなり
まがりても杓子は物をすくふなりすぐなやうでもつぶすすりこぎ
孫の手のかゆひ所へ届きすぎ足のうらまでかきさがす也
是大田ノ戯歌ニアラズ偽作也、大田ノ戯歌ニ時ヲ誹リタル歌ナシ、落書體ヲ詠シ事ナシ南畝自記
いかにも心外そうに書いているのをみると、世情を風刺する落首が彼の作とされ、そのため取調べを受ける等の迷惑をこうむったのは事実なのでしょう。彼は初期から「かりにも落首などといふ様な鄙劣な歌をよむ事なき正風體の狂歌師連中」(『市川ひいき江戸花海老』天明2年)といっているくらいで、落首体の歌を嫌い軽蔑する姿勢を見せていますので、こうした歌を詠みそうにありませんけれども、偽作というからには誰かが彼の名を騙ったのか、それとも世上で卓抜な落首狂歌を彼の作に違いないと取り沙汰したものか。おそらくは無名の優れた風刺詩人がいて、その作が余りにも秀逸であったがために、狂歌界第一人者であり最も機知に富んだ作風の持ち主として知られる赤良の作と擬されてしまったのでは、と思われるのです。
こうした事件の故か、天明6年彼は父祖の代からの職を解かれ、小普請入りとなっています。ついで不遇の状態のままに父の死にあい…彼はついに狂歌壇から脱退しました。脱退せざるを得なかったのかもしれません。自身の余りにも高い狂名の犠牲になった、と言っては言いすぎでしょうか。

寛政期に入ると、相変わらず一般の狂歌熱は高まり続けていたものの、赤良・岡持らが引退、東作・K人らの死、その他草創期のメンバーの熱意減退もあって、狂歌壇の中心にはその弟子格の人々が成り代わっていきました。なかでも寛政3年飯盛がある事件で江戸払いとなってからしばらくの間は、赤良の四方側の後継者たる眞顔がひとり威をふるい、ために狂歌の内容そのものが大きく旋回する事態を引き起こしました。
眞顔は赤良の弟子でありながら師の歌論を受け継がず、むしろその対抗者だった橘洲の考え方に近づいていき、さらに文化の半ばには今までの狂歌という名称すら否定、俳諧歌なるものを唱え始めました。遠く古今和歌集に同名の分類がありますが、狂歌をその流れと位置付け、和歌の一種として文法その他全てその規則に従うべきであり鄙俗の詞猥雑の体はとらない、というのです。彼はその持論のもと自身の号も狂歌堂から俳諧歌場とし、俳諧歌と名のつく歌集を次々に公にしましたが、その作品は当人の主張に沿ったもの、つまり今までの狂歌の魅力を失った面白くないものになってしまっています。思うに、彼は狂歌を和歌の一部として高く位置付けついでにそれに拠っている己の地位をも高く引き上げようとしたのではないでしょうか。また第3章でもふれましたが、彼は狂歌の点料を取って自分の生活費にあて、専業の狂歌師第1号となって、その点からも狂歌の堕落の原因をつくったのでした。
彼のこのいき方に反発する勢力も無論存在します。江戸払いが解けた飯盛とその一派は作風歌論からして真に天明狂歌の後継者というべき人たちで、眞顔の振る舞いを苦々しく眺め、事あるごとに対立抗争するようになりました。文化14年、既に蜀山人と名乗っていた赤良が2人を中村座へと芝居見物に呼び出し仲裁を図りましたが、心底からの和解には至らず、両派の対立は続いたということです。張り合いは、眞顔の商才がやや優勢で、狂歌は日に日に姿を変え内容の空疎なものになっていきました。
この2人、宿屋飯盛は日本橋小伝馬町の旅籠のあるじで、国学者としても知られています。父は浮世絵の石川豊信。鹿都部眞顔は戀川好町の名で黄表紙を書いていましたが、狂歌に転向し赤良の門人となったもの。野心的、名誉欲の強い男と評され、烏帽子水干姿で簾を隔てて人と会うなど、かなり癖のあるケレン味の強い性格でもあったようです。家業は汁粉屋。
初鶏かあけの鴉かしのゝめに声をかけたは何やつだエゝ
かけこひの夜あけにをもき革財布かつきし肩もはるはきにけり(宿屋飯盛)
あらそはぬ風の柳の糸にこそ堪忍袋ぬふべかりけれ(鹿都部眞顔)
天明調の真の発達は、赤良のさきの引退を以て終わったといってよく、この時代の狂歌は文政調とも称されています。
狂歌界を退いた赤良は文化年間蜀山人と名乗って独自に狂歌を詠み始め、狂歌壇復帰こそしなかったものの、大文化人として尊重されていましたが、文政6年他界。管江、橘洲、木網をはじめ、天明狂歌をともに創りあげた人々は既に世になく、彼の死と同時に天明狂歌史の幕は完全に下ろされることになります。  
第5章赤良の作品
赤良の作品について大正期に刊行された野崎左文『狂歌一夕話』では、粒が揃わず拙作が多いとの理由で、橘洲に次ぐものと評価しているそうです。なるほど彼の歌は橘洲の整ったきめの細かな作風に比べると大雑把かもしれません。しかし彼には橘洲のみならず他の何人の追随をも許さない個性の輝き、溌剌たるエスプリがあります。天明調狂歌の、人をひきつける魅力の真髄はつまりはそこなのですから、たとえ作品の出来にむらがあろうとも、なお四方赤良――大田蜀山人は、天明調狂歌の第一人者であると言い切らせていただきたいと存じます。
一めんの花は碁盤の上野山K門前にかゝる白雲
吉原の夜見世をはるの夕暮れは入相の鐘に花や咲くらん
玉くしげ箱提灯のふたりづれ花の中ゆく花の吉原
歌舞伎の舞台の華やかな雰囲気をそのまま、この絵画的江戸情緒の美しさはいかがでしょうか。
生酔の禮者を見れば大道を横すじかひに春は来にけり
本歌取りでもなく言葉の技巧も用いず、内容の面白さだけで作り上げるのを、「心の狂」と言います。上の歌などは心の狂優れた作のひとつです。
両国のはしより長き春の日に槍二三本立つ霞かな
早蕨のにぎりこぶしをふりあげて山の横つらはる風ぞふく
のびのびとした詠みぶりのなかに歯切れのよさ、温かみが感じられます。
彼の作のうち技巧的なものとしてよく挙げられるのは「あなうなぎ何處の山の妹と背をさかれてのちに身をこがすとは」でしょう。仲を裂かれた男女の歎き、鰻は山芋が変じてなるのだという俗説、不釣合いな取り合わせのふた筋の縁語の流れが見事にからみあって、なんともユーモラス。天明調を代表する名吟です。また「分厘の雲さへ晴れて十露盤の玉の三五の十五夜の月」も完成度の高い技巧、捨てがたい調子を持っています。
天明調狂歌は他の時期と比べ本歌取りの多いことは先にも述べましたが、彼の作にもその特色は顕著で、歌謡や諺、故事古歌を換骨奪胎、がらり異なる意味に変えたり、原典あるいはその作者を卑俗な位置に引きずりおろして冷やかしたりして、奇想天外な印象を与えています。彼の本歌取り狂歌には、『小倉百人一首』をそっくりパロディ化した『狂歌百人一首』(刊行は天保年間)もあります。
瀧の音は絶えてひさしくなりぬるといふはいかなる旱魃のとし
わが菴はみやこの辰巳午ひつじ申酉戌亥子丑寅う治
ほとゝぎす鳴きつる跡にあきれたる後徳大寺のありあけの顔
以上ざっと並べてみました。もちろんこれらは彼の佳吟中のほんの一部に過ぎませんが。  
第6章その他の天明調主要狂歌人
最後に、既出以外の主な狂歌人を。
頭光。赤良の愛弟子で、寛政のはじめに四方側を出、伯楽側を立てましたが、寛政8年43歳の若さで没しています。本所亀井町町代をつとめていました。
ほとゝぎす自由自在にきく里は酒屋へ三里豆腐屋へ二里
月みてもさらに悲しくなかりけり世界のひとの秋と思へば
馬場金埒。銭屋金埒ともいい、両替商。木網の弟子。眞顔、飯盛、光にこの金埒の4名を、狂歌四天王と称していました。
二つ文字牛の角もじ二つ文字ゆがみ文字にてひとつ飲まばや
鯉こく(こひこく)で一杯やりたい、と。この歌は『徒然草』中の次の一節(改行省略、句読点と〔注〕を挿入)からの本歌取りになります。
「延政門院〔後嵯峨帝の女〕、いときなくおはしましける時、院へ參る人に、御ことづてとて、申させ給ひける御歌、ふたつもじ牛の角もじすぐなもじゆがみもじとぞ君はおぼゆる。こひしく思ひまゐらせ給ふとなり」
浅草市人は光の門下で、浅草の質屋。
じゃうはりの鏡が池のあつ氷うつしてみたき傾城のうそ
竹杖為軽は医の名門桂川家の出で、本名森島中良。本草学・蘭学を学ぶため平賀源内(森羅萬象)に弟子入り、師の影響か戯作にも手を染めることとはなりました。二世森羅萬象。
千金の花のうははとみゆるかな小粒となりてふれる春雨
土師掻安は『萬載集』発行後に参加し天明8年には早くも没。「男女の中に子までありけれど、日ごろ中むつまじからず。女の出て行くを見て」と前書きのある
女房をさった峠の親しらず子しらずとなる内はあらうみ
がよく知られています。
加保茶元成は吉原の遊女屋大文字屋の主人で、吉原連を組織し指導しました。配下には蔦唐丸(版元蔦重)筆綾丸(喜多川歌麿)ら。「歸雁」と題した一首を挙げます。
年ごとに来てはかせいで歸れるは越路にたんとかり金やある
なお、彼の狂名の由来は、容貌がうらなり南瓜に似ており、吝嗇で抱え遊女の食事に南瓜ばかり出していたこともあって、他人が南瓜かぼちゃと渾名したのをそのままとったということです。
その他三陀羅法師、普栗釣方、唐来參和、鳴滝音人、花江戸住、山手白人、腹唐秋人、などなど名前だけ挙げるにしてもきりがないので、このくらいにしておきます。  
 
日本語と五句三十一音詩


平成十八年に出版した小著『あっ、螢歌と水辺の風景』(六花書林)の「後記」に私は「引用歌・引用文については、その都度、出典を明らかにした。引用箇所には濁点を付け、句点を設けるなどしたが必ずしも徹底していない。特に仮名遣いの誤用は直すことによって失うものがあるような気がしてならなかった」と書いた。あのときのためらい、逡巡、それらが綯い交ぜになった思いとは何だったのだろう。
具体的には狂歌と良ェだった。狂歌は『狂歌大観』(明治書院)・『近世上方狂歌叢書』(和泉書院)・『江戸狂歌本選集』(東京堂出版)に拠った。まず『狂歌大観』の凡例を見てみる。「文字」は「@漢字・仮名ともに、現行通用の字体に従うことを原則とした」「Aふり仮名は、底本に従った」「Bふり仮名・送り仮名の中に、片仮名・平仮名が混用される場合は、適宜その一方に統一した」「C特殊な略体・合字・草体・連字体は、すべてそのよみに従って現行の字体によって表記した」とある。しかしこれだけではよくわからない。『近世上方狂歌叢書』になると「原本の表記については、できるかぎり原本のおもかげを残すことに努めた」という一節があってわかりやすい。『狂歌大観』も、実はこの方向なのだ。『江戸狂歌本撰集』も同様で「凡例」に「翻字に当たっては、できる限り底本に忠実にするよう心がけたが、活字化の都合上およそ次のような方針を取った」とある。つまり「漢字」の扱いとして反復記号は三種とする旨、「仮名文字」の扱いについても「清濁は原本のままとした」「ルビは底本通りとした」、さらに仮名の反復記号は四種とする旨などが挙げられている。良ェの場合はどうか。『良ェ全集』(創元社)下巻より引用する。塩入れをもらったが、その蓋がない。
世の中にこふしきものははまべなるさざいのからのふたにぞありける
弟の由之に宛てた書簡である。蓋の代用品を依頼したのであった。「こふしき」は「こひしき」、同書簡では「そそふ」(「粗相」で正しくは「そさう」)・「やふやく」(「漸く」で正しくは「やうやく」)・「いりよふ」(「入り用」で正しくは「いりよう」)と誤りが少なくない。「こふしき」は「和歌」の方では「こひしき」に改められている。こちらに従う方法もあったが、考えた末に原文のままとした。谷川敏朗が『良ェの書簡集』(恒文社)の「ことわりがき」で「良ェの書簡には、ほとんど濁点や振り仮名がついていない。しかし、便宜上これに濁点をつけ、読みにくい漢字には仮名を補った。原文には仮名遣いの誤用もあるが、特別な場合を除いてそのままにした」と書く。谷川の姿勢に倣ったのであった。  

では『万葉集』や『古今和歌集』を引用する場合はどうなのか。前者の場合は考えなくてもいいだろう。なにしろ万葉集仮名すなわち漢字だけで書かれているのだ。素人がどうのこうのという世界ではない。『古今和歌集』の場合はどうなのか。小学館の『日本古典文学全集』の第七巻を開くと「凡例」に「濁音と推定される語には濁点を加え」といった箇所があったりする。また「仮名づかいは歴史的仮名づかい」に拠ったとある。念のために和歌の集大成ともいえる『国歌大観』(角川書店)の凡例を見てみよう。「表記は底本のそれをできるだけ尊重したが、よみやすさへの配慮から、次のような処置をとった」として「仮名遣いは歴史的仮名遣いに統一した」「反復記号は用いなかった」「清濁は区別して示したが、清濁をこえた掛詞として用いられるものについては、原則として清音とした」などを見ることができる。
この方針は『狂歌大観』『近世上方狂歌叢書』『江戸狂歌本撰集』と対照的だ。読みやすさに配慮するのか、おもかげを残すのか。その差は歴史的仮名遣いで統一するのかどうか、清濁は区別するのかどうか、反復記号をどのように扱うのか、おおむねこの三点に絞られる。『あっ、螢歌と水辺の風景』で私が迷ったのも、これだった。おもかげを残す。あるいはおもかげを辿りたい、『良ェの書簡集』が選んだのは後者である。あるいは敬うという気持ちだったかも知れない。  

そんなことを改めて思い出した。むしろ強く反省させられるきっかけとなったのはメールマガジン「狂歌徒然草」を発行してまもなくであった。キャッチフレーズは「五句三十一音の定型詩は名称を変えつつ時代の波をくぐり抜けてきた。そこには先行する五句三十一音詩の衰退があり、それを受けた復活劇があった。このような視点から『狂歌大観』『近世上方狂歌叢書』『江戸狂歌本選集』の世界を歌人の目で探訪します」。予定では『狂歌大観』の本篇と参考篇から百回、『近世上方狂歌叢書』と『江戸狂歌本撰集』から百回、併せて上下二巻本にするつもりで現在も進行中である。
さぎのゑに身はならはなれおもひかわ一たひあふてうかぶせもかな
初めは歴史的仮名遣いで統一するつもりだった。清濁も示すつもりだった。繰り返し記号は用いないつもりだった。しかし訂正が予想以上に多かった。右は第九回『四生の歌合』で取り上げた一首である。作者は「どぢやうのぬらりの助」、判者は「くぢらのだんざへもん」、この「うをのうた合」を含む「四生の歌合」の作者としては木下長嘯子が擬されている。豊臣秀吉の妻、北の政所の甥、当時では第一級の文化人である。ところが、その人に対して、
掲出歌は十二番「はいかいうた」、判に「思ひ川に身を沈め、苦しみに心を腐さんより一たび逢ふて浮かぶ瀬侍らば、たとへ鷺の餌に身はなるとも悔い悲しまじといへるにや」とある。原文では「悔い」は「くい」、アバウトな表記も念頭にあるが「食ひ」と同音である。
と、やってしまった。いくら何でも「アバウト」はないだろう。ともあれ三句の「かわ」は「かは」、「あふて」はウ音便「あうて」で「鷺の餌に身はならばなれ思ひ川ひとたび逢うて浮かぶ瀬もがな」となる。判者も「弾左衛門」なら「だんざゑもん」であろう。訂正の蓄積が長嘯子に至って爆発したのであった。そして爆発したあとで真相が見えてきた。
鹿の毛は筆になりても苦はやまずつゐにれうしの上で果てけり
作者は雄長老。狂歌集によっては別人作となる。もし『新撰狂歌集』の編者が雄長老なら詮議も不要であろう。「れうし」は料紙、これに猟師を掛けている。但し「料紙」は「れうし」だが猟師は「れふし」で完全一致しない。現代仮名遣いなら百点だが歴史的仮名遣いならどうだろう。「つゐに」も本来なら「つひに」であり、先にアバウトとも書いた。しかし最近になって原因は発音と表記のズレという日本語の問題だと気がついて修正を放棄した。
第十四回の抄出である。つまり『新撰狂歌集』に至って、伝家の宝刀のように振り回していた歴史的仮名遣いが雄長老や木下長嘯子の知るところではなかったということに気がついたのであった。不遜な態度が思い遣られて恥ずかしい。  

おさらいをするならば平仮名が生まれた平安時代は発音と書写が対応していた時代であった。加えて言文一致の時代でもあった。時代が下がると話し言葉と書き言葉は乖離していく、言文二途である。そのときに出発点である平安時代の言語体系を志向するのが文語体短歌であるならば、保守的な書き言葉に対して変化する話し言葉に依拠するという選択肢もあった。言葉の歴史の上では近代語の形成期である。
ほとときす鳴たあとしやとあきらめて只有明の月をみていの芥川貞佐
むさしのの末広がりにはるかすみたてた烏帽子と見るふじの山黒田月洞軒
さて発音と書写の関係であるが昭和六十一年七月一日付内閣訓令第一号「『現代仮名遣い』の実施について」を覗くと「九世紀に至って,草体及び略体の仮名が行われるようになり、やがて十一世紀ごろ、いろは歌という形での仮名表が成立したが、その後の音韻の変化によって、『いろは』四十七字の中に同音の仮名を生じ、十二世紀末にはその使い分けが問題になり、きまりを立てる考え方が出てきた。藤原定家を中心としてかたちづくられていった使い分けのきまりが、いわゆる定家仮名遣いである。定家仮名遣いは、ときに、その原理について疑いを持たれることもあったが、後世長く歌道の世界を支配した。次に、一七〇〇年ごろになって、契仲が 万葉集仮名の文献に定家仮名遣いとは異なる仮名の使い分けがあることを明らかにし、それ以後、古代における先例が国学者を中心とする文筆家の表記のよりどころとなった。一方、字音については、その後、中国の韻書に基づいて仮名表記を定める研究が進んだ。この字音仮名遣いと契沖以来の仮名遺いとを合わせて、今日普通に歴史的仮名遺いと呼んでいる」(「仮名遣いの沿革」)とあった。物差しが違うのである。しかも波間に揺れる笹船、混乱を抜けきっていない。  

その結果、私の「狂歌徒然草」では基本的に歴史的仮名遣いを放棄した。『狂歌大観』『上方狂歌叢書』『江戸狂歌本撰集』のおもかげを残す方向に加担することにしたのである。清濁もそのままである。但し、反復記号と送り仮名は今日風に改めた。読者にとっては読み辛い、見辛い面もあるが、それを犠牲にしてでも、ありのままの日本語に向き合う機会を大切にしたいと思った。とりわけ清音に濁点が付されていく過程を観察できのはありがたい。逆にいえば清音表記が真骨頂であったと思われる和歌の方は、現代の読者にとっては非の打ち所のない、どこまでも続く舗装道路である。それが当たり前と思っていたところに突如として姿を現した地道、それが狂歌の世界であった。おもかげを辿る、その懐かしさは、この地道を歩く楽しさのようでもある。
 
日本「霊能者」列伝

オカルトの魅力にハマった文豪たちと作品群
文明開化が叫ばれ、科学合理主義が行き渡っていく一方で、こっくりさんや催眠術が大流行した明治時代。科学が世の中の規範として広く認められていった時代だが、この時期には、心霊的な世界を科学の方法によって明らかにしていく試みや、超常能力を目覚めさせることができると宣伝された催眠術、さらにオカルト的な知も紹介されていった。こうした状況に対して、文学者たちも多様な反応を示している。
漱石と鴎外
たとえば、夏目漱石。イギリス留学時代から心霊研究の書籍に目を通していた漱石は、『吾輩は猫である』(1905〜6)でテレパシーや催眠術を話題にし、『琴のそら音』(1905)では、死の直後に遠く離れた夫の元に姿を現した妻の話を描いている。『行人』(1912〜13)に登場するのは、妻の心のうちを知りたくてテレパシー実験に熱中する、大学教授の長野一郎である。やがて彼は「死後の研究」にも興味を示し、メーテルリンクの神秘的著作などを読み耽るものの、心霊研究と同様、つまらぬものであると嘆息する。
漱石と並び称される文豪、森鴎外には、催眠術をテーマにした『魔睡』(1909)という作品がある。また彼の代表的な史伝に『渋江抽斎』(1916)があるが、抽斎の七男である渋江保は高橋五郎と並ぶ、日本での心霊学普及の功労者だった。同時期に心霊学に関心を示した作家としては、岩野泡鳴、柳宗悦などがいる。ちなみに明治天皇崩御の日、よりによってこっくりさんに興じていたのは、志賀直哉と武者小路実篤である。志賀には、精神感応をあつかった『焚火』(1920)という作品がある。(中略)
芥川の原点
さて、心霊学にとどまらず、妖怪、怪談にも深い関心を抱いていたのは、芥川龍之介である。若き日の芥川は『遠野物語』の影響下、さまざまな怪異譚を収集し、書きとめていた。『二つの手紙』(1917)、『妖婆』(1919)、『黒衣聖母』(1920)、『奇怪な再会』(1921)など、近代の怪異を描いた作品も多い。その芥川が横須賀の海軍機関学校に勤務していたときの同僚に、E・S・スティーブンソンがいる。彼は20世紀最大のオカルト的知である神智学(セオソフィー)の、日本における最初の紹介者である。芥川はこのスティーブンソンと関係があったらしい。
『保吉の手帳から』(1923)という作品に、スティーブンソンと思われる人物が登場している。保吉は学校へ通う往復の車中でしばしば彼といっしょになり、煙草の話や学校の話や幽霊の話で盛り上がる。彼はセオソフィストで、魔術や錬金術やオカルトサイエンスの話になると、必ずこう言ったという。「神秘の扉は俗人の思う程、開き難いものではない。寧ろその恐ろしい所以は容易に閉じ難いところにある。ああ云うものには手を触れぬが好い」。芥川の英米怪奇小説に対する膨大な知識のなかに、オカルト的な知が入り込んでいることは間違いなさそうだ。
霊能力者・宮沢賢治
ここまで紹介してきた作家たちが、主に知的な関心からオカルトに目を向けているのに対し、自らある種の霊能力を抱え込んでしまった作家もいる。ここですぐ名前があがるのは、宮沢賢治だ。壮大な幻視空間を童話と詩で表現しつづけた賢治だが、ときにその表現は、向こう側の世界を忠実に描いているように感じさせるものがある。たとえば『河原坊(山脚の黎明)』。1925(大正14)年8月10日の夜、霊蜂として南麓の登山口、河原坊をひとり訪れた賢治が、そこで野宿したさいの不思議な体験を描いたものである。
同じく、幼いときからある種の心霊体験を抱えていたのは、川端康成である。明くる日の天気や失せ物の所在などをあてることができたが、長じるにつれて、そういう能力は徐々に失われたと、川端は述べている。こうした体験ゆえか、川端には心霊体験をあつかった小説が数多くある。『白い満月』(1925)、『抒情歌』(1932)などだが、なかでも『花ある写真』(1930)には、心霊写真をはじめとする多様な心霊現象が描かれている。
二・二六事件と三島
そして最後にあげるべきは、やはり三島由紀夫だろうか。『英霊の声』(1966)は、霊を呼び出す帰神の会に現れた英霊たちの、怨嗟の声が響きわたる作品である。三島はこの作品の執筆にあたって、まるで何かに取り憑かれたかのように筆が進んだという。美輪明宏にその話をしたところ「二・二六事件の関係者があなたの背後にいる」と言われ、三島が顔面蒼白になったというエピソードが残っている。  
日本霊能者伝
観相家としても知られる水野南北ですが、その食に関する造詣の深さには驚かされます。しかも、そのすべてが自らの体験に基づくものだけに大変説得力があります。幕末の名医として知られる石塚左玄にも影響を与えたと言われている人物です。
南北の教えで特徴的なのは「食べ物が人の運命に影響する」という点です。なぜそのような考えに至ったのかといういきさつは本文中に詳しく触れてあります。
今日、わが国ではグルメブームということで、テレビでも食べ物を題材として美食を推奨するような番組が増えていますが、私たち日本国民の運勢がどんどん悪化の方向をたどっているように思えてなりません。こんな世の中だからこそ、水野南北の教えを謙虚に受け止めたいものです。

「人の運は食にあり」と啓示される
江戸時代中期の頃に生きた水野南北は、日本一の観相家といわれ、「節食開運説」を唱えた人物である。いわゆる霊能者と呼ばれる類ではないが、その人物史を見てみると、霊妙不可思議な出来事に何度も遭遇している。
まだ幼児の時に両親を失って孤児となり、鍛冶屋をしていた叔父に引き取られるが、性格はすさみ、10歳の頃から飲酒を始め、喧嘩ばかりしていたという。そして18歳頃、酒代欲しさに悪事をはたらき、入牢するに至っている。
だが、牢内での生活を通じて南北は、人相について興味深い事実を発見する。罪人として牢の中にいる人の相と、普通に娑婆生活を送っている人の相の間に、明らかな違いがあることに気づくのである。これがきっかけとなり、南北は観相家というものに関心を持つようになった。
出牢後、南北はさっそく、当時大阪で名高かった人相見を訪れ、自分の相を見てもらった。するとなんと、「剣難の相であと1年の命」と宣告されてしまった。愕然とした南北が、助かる方法はあるかと問うたところ、その唯一の方法は出家であると言われた。
南北は天下稀に見るほどの悪相・凶相の持ち主だったのである。
そこで禅寺を訪れて入門を請うが、住職は南北の悪人面を見、断ろうと思い、「向こう1年間、麦と大豆だけの食事を続けることができたなら、入門を許そう」と告げた。
助かりたい一心の南北は、この条件を忠実に実行に移す。港湾労働者として従事しながら、1年間、麦と大豆だけの食事を実践するのである。
こうして1年が経過し、約束通りのことを実行した南北は、禅寺の住職のところへ行く途中に、再び例の人相見を訪ねてみた。と、この人相見、南北の顔を見るなり驚いて、「あれほどの剣難の相が消えている。貴方は人の命を救うような、何か大きな功徳を積んだに違いない」と言った。南北が、食事を変えて1年間貫き通したことを話したところ、それが陰徳を積んだことになって、彼の凶相を変えてしまった、というのである。
これで禅寺に行く必要のなくなった南北は、自分も観相家の道を志そうと決意し、諸国遍歴の旅に出た。水野南北、21歳の時である。
南北はまず髪床屋の弟子となって、3年間人相を研究し、続いて風呂屋の手伝いをして、やはり3年間、全身の相について研鑽を深め、さらに火葬場の作業員となって、ここでもまた3年間、死人の骨格や体格などを詳しく調べ、人の運命との関連について研究を重ねたという。
この修業時代に南北は、相学の淵源は仙術にありとの思いから、仙師を求めて深山幽谷に分け入ったりしている。そして25歳の時、奥州の金華山山中でようやく求める仙人と出会うことが叶い、100日間に及んで相法の奥義を伝授されているのだ。
この仙師は、「これすなわち相法の奥秘にして寿を保つの法なり。たとえ俗人といえどもこの法を行なう時は寿命百歳に至りなお天気に至ること自らやすし」と教えたという。
仙道には、食について厳格な規則がある。その理想とするところは、不老不死である。相法の奥義も、病まず弱らない体のまま長寿を全うすることにあるとすれば、「運命(長寿)」と「食」とを関連づける両者の接点は大いにあると考えられる。
さらに南北は後年、そのことを確信させる神秘な体験をしている。
おそらく50歳頃のことであったと思われるが、彼が伊勢神宮へ赴き、五十鈴川で21日間の断食と水ごりの行を行なった際、豊受大神の祀られている外宮で、「人の運は食にあり」との啓示を受けるのである。
豊受大神は、五穀をはじめとする一切の食物の神で、天照大神の食事を司ると言われる。
南北は、「我れ衆人のために食を節す」という決意のもとに、生涯粗食を貫いた。その食事の内容とは、主食は麦飯で、副食は一汁一菜であった。米は一切口にせず、餅さえも食べなかった。また若い頃はあれだけ好きだった酒も、1日1合と決めて、けっしてそれ以上は飲まなかったという。
このような食生活を、盆も正月もなく続けたのである。南北はひどい凶相で、短命の相の持ち主であり、長生きしたり成功する相などは持ち合わせていなかった。しかし、食を慎んだことで運が開け、健康のまま78歳まで生き、大きな財を成したのである。
水野南北による「幸運を招来する法」とは、一言で言えば食の節制である。次にその要点を現代語訳したものの一部を挙げてみる。(佐伯マオ著『偉人・天才たちの食卓』)
食事の量が少ない者は、人相が不吉な相であっても、運勢は吉で、それなりに恵まれた人生を送り、早死にしない。特に晩年は吉。
食事が常に適量を超えている者は、人相学上からみると吉相であっても、物事が調いにくい。手がもつれたり、生涯心労が絶えないなどして、晩年は凶。
常に大食・暴食の者は、たとえ人相は良くても運勢は一定しない。もしその人が貧乏であればますます困窮し、財産家であっても家を傾ける。大食・暴飲して人相も凶であれば、死後入るべき棺もないほど落ちぶれる。
常に身のほど以上の美食をしている者は、たとえ人相が吉であっても運勢は凶。美食を慎まなければ、家を没落させ、出世も成功もおぼつかない。まして貧乏人で美食する者は、働いても働いても楽にならず、一生苦労する。
常に自分の生活水準より低い程度の粗食をしている者は、人相が貧相であっても、いずれは財産を形成して長寿を得、晩年は楽になる。
食事時間が不規則な者は、吉相でも凶。
少食の者には死病の苦しみや長患いがない。
怠け者でずるく、酒肉を楽しんで精進しない者には成功はない。成功・発展しようと思うならば、自分が望むところの一業をきわめて、毎日の食事を厳重に節制し、大願成就まで美食を慎み、自分の仕事を楽しみに変える時には自然に成功するであろう。食を楽しむというような根性では成功は望めない。
人格は飲食の慎みによって決まる。
酒肉を多く食べて太っている者は、生涯出世栄達なし。
また南北は、「運が悪くて難儀ばかりしているが、神に祈れば運が開くでしょうか」という質問に対して、こう答えている。
真心をこめて祈らなければ、神は感知してくれない。真心をもって祈るとは、自分の命を神に献じることである。そして食は、自分の命を養う基本である。これを神に献じるということは、自分の命を献じるのと同じことである。
どうするかというと、いつもご飯を3膳食べる人なら、2膳だけにしておいて、1膳を神に献じる。といっても本当に1膳分を神棚なら神棚にお供えする必要はなく、心の中で念じればよい。自分が祈りを捧げたい神仏を思い浮かべて、その神仏に向かって『3膳の食のうち1膳を捧げ奉ります』という。そうして自分で2膳を食べると、その1膳は神仏が受け取ってくれる。
そうすれば、どんな願いごとでも叶えられる。小さい願いごとなら1年で、普通の願いごとなら3年、そして大望は10年で叶うのである。
また、食の面以外にも、強運をもたらす秘訣として――、
毎朝、昇る太陽を拝む。
朝は早く起床し、夜は早めに就寝する。
夜に仕事をすることは大凶。
衣服や住まいも贅沢すぎるものは大凶。
倹約は吉であるが、ケチは凶。
――などといったことも挙げられている。
南北の説いたこのような観相学の要諦は、岡本天明が書記した「日月神示」に示された開運の法とも酷似しているのである。  
霊能者・霊感体質を自称する人
アリソン・デュボア
麻原彰晃(霊能者を自称し、信者を勧誘していた)
池田貴族
池田武央(心霊オーガナイザーの肩書で活躍する霊能者。旧名池田辰雄)
江原啓之(自身は霊能力者ではなく“スピリチュアリスト”と名乗っている)
大川隆法
岡本天明(岡本天明自身は霊能力者であるとは自称していない。むしろ、本人はこうした霊能力があることを嫌がっていた)
長南年恵(おさなみとしえ:明治時代の女性。「飲めば病気を治す水」を無から作り出したと言われる)
織田無道
川口喜三郎
宜保愛子(ぎぼ・あいこ)
木村藤子
久慈霊運(くじれいうん:1970年代-1980年にマスメディアにしばしば出演した。稲川淳二の「生き人形」という怪談にも登場する。)
隈本確(くまもとあきら)
弘法院恵正(こうぼういん・けいしょう)[5](心霊スポットを紹介する番組でよく見かける。守護霊をスケッチして鑑定)
新宿タケル(「an・an」「Hanako」「CanCam」で紹介され女性に人気の前世占い師だったが1991年引退)
江流琢水(こうりゅう・たくみ)
西塔恵(さいとうけい)
サイババ
下ヨシ子(しも・よしこ)
宗優子(そう・ゆうこ)
高橋弘二(「前世のカルマを落とし病気を治す」と称し、霊的治療を行っていた)
立原美幸
田村真(たむら・しん)『霊能者田村真の大除霊マニュアル〉』ぶんか社
中井椋
田中佐和(たなかさわ)
デヴィ(元「あいのり」出演者)(占いサイト「MIYAのスピリチュアルヒーリングルーム」を運営)
出口王仁三郎
寺尾玲子
寺坂多枝子(江原啓之の師)
テリー・ゴードン(「英国スピリチュアリスト協会」会長)
ドリス・コリンズ(イギリスの女性ミーディアム(霊媒))
中井涼平
中村豪(やるせなす)
樹寺島丈太郎
奈良文雄
ネラ・ジョーンズ(イギリスの女性ミーディアム。犯罪捜査にも協力したと言われる。)
バラート・クラーラ(ハンガリーの未解決・失踪事件番組『痕跡なし』(2002年9月-)にレギュラー出演し注目された。)
オービー・トライス
白翁祐玄(はくおう・ゆうげん「白翁流接神術」を習得。それをもとにした「素数学」を教える。宗教ではなく、臨床科学である)
深見東州(神道系宗教団体「ワールドメイト」を主宰)
福永法源(「天行力」と称し霊的相談、霊的治療などを行っていた)
福山貞心
文鮮明(ぶん・せんめい、統一教会(世界基督教統一神霊協会)の教祖)自身の霊感で合同結婚式で結婚する信者のカップルを組み合わせているとされる
北條希功子
松居泉典
松林秀豪
御船千鶴子
美輪明宏(霊能力はあるが、本職ではないので浄霊や御祓いはしないとしている)
森公美子(オペラ歌手、タレント)
光穂(明治神宮の「清正井」はブームになる以前から信者に勧めていた。光穂祈祷のお守りは高校球児やプロ野球選手が身に付けている。霊能者を見下す社会が変わらない限りメディアに出ない主義を通している。真言密教のお寺の娘。高僧が何年修行しても得られない能力を生まれながら持ち、その霊能力は『ほんとにあった怖い話』で漫画化された。)
星悠太(射撃選手)
三由デコ
宮地水位(宮地堅磐)
横尾忠則(両親の霊と通信できるという)
龍賢治(空手家、俳優、声優としても活動した異色の霊能者で法衣師と名乗っていた。法衣師とは本人の話によると沖縄の退魔師のことだと言う。2010年4月、詐欺罪で逮捕)
龍降臨(りゅうこうりん)
竜青小川(向田邦子の死を予言した事がきっかけで霊能力者として活動を開始。池田武央と心霊ビデオ作品で共演)
ルドルフ・シュタイナー(霊視により霊的な事象を語り、霊的五感を啓発する方法を本に著した)
ウィリアム・トーマス・ステッド(ジュリアという霊と交信していた)  
 
蝉(シカダ)

声にみな泣きしまふてや蝉の穀   日本の恋の歌
( 小泉八雲『影』/ 「蝉」初出は、"Shadowings"(1900年刊)の「日本研究(Japanese Studies)」の部の最初に収められている。ここでは小泉八雲全集(昭和6年刊)大谷正信の訳を採用した。大谷は、小泉八雲がこの「蝉」を書くための資料の蒐集に従事した。)  

日本文學では陸雲といふ名で知られて居る有名な支那の學者が、次に記載する 珍奇な蝉の五徳といふものを書いた。
『一、蝉は頭に或る模様か[註]徽號かがある。これはその文字、文体、文學 を現はして居る。
 二、蝉は地上のものは何も食はず、ただ露だけ吸ふ。これはその清潔、純 粋、礼節を証明して居る。
 三、蝉は常に一定の時期に出現する。これはその誠忠、摯実、正直を証明し て居る。
 四、蝉は麦や米は受けない。これはその廉直、方正、真実を証明して居る。
 五、蝉は己が棲む巣を造らぬ。これはその質素、倹約、経済を証明して居る 』
〔註 日本の蝉の一種がその頭の上に有つて居る妙な模様は、魂の名を示す文字 だと信ぜられて居る。〕
我々は之を二千四百年前に書かれたアナクレオンの蝉への美しい話掛と比較することが出來よう。一箇処どころか多くの点に於てこの希臘の詩人とこの支那賢者とは全然一致して居る。
『蝉よ、我等はいましを幸(さち)あるものと思ふなり、王者の如く、纔かの 露のみ吸ひて、木末に楽しく囀ることとて。いましが野原に眺むるもの総て、四 季がもたらすもの総て、皆いましが物なれぱ。されどいましは — 人を害ねんものは何物をも取ること無く — 土地を耕す者共の友にてあるなり。いのちある人 の子等は夏を知らする嬉しの先駆といましを尊み、ミユーズの神はいましを愛で給ふ。フイーブスもいましを愛で給ひて、清き鋭き歌をいましに与へ給ひぬ。 また年老ゆるもいましが身は衰へず。あぁ天賦すぐれしいましや、 — 地に生ま れ、歌を好み、苦をのがれ、肉あれど血の無き — いましが身は、神にさも似たるかな!」
〔註 希臘詩選集からのこの引用も今後の引用もすベてパアゼズの英訳に拠つた。〕
そして我々は、奏楽虫類を詠んだ日本文学の詩歌に匹敵するものを見出すには、 必らず希臘の古代文学に遡らざるを得ぬ。蟋蟀を詠んだ希臘韻文中の最も美はし いのは、恐らくはミリエヂヤの『恋の思ひをさまよはしむる、声音の糸を織り成 して……眠(ねむり)鎮むる、いましこほろぎ』といふ詩であらう。……が、蟋 蟀の囀りを詠んだもので、感念の微妙さ、殆ど之に譲らぬ歌が日本に澤山ある。 そして此の小歌人に報ゆるに新しい菲を以てしよう、『ちさくきざみし露の玉』 を以てしよう、といふミリエデャの約束の言葉は、奇妙に日本風にきこえる。そ れからアニテが書いたとされて居る、向分の秘蔵の蝉と蟋蟀とに墓を建ててやつ て、『説けど語れど聴き容れぬ』ヘイディズが自分の玩具を奪って行つたのだと 言つて泣いて居るミロといふ小娘を詠んだ詩は、日本の児童生活には有りふれた 一経験を叙述して居るのである。今日の日本の小さな女の子が、記念碑の用にと その上へ小石を置くのと丁度同じ様に、ミロ嬢は — (二十七世紀の後の今日、 その涙の玉は猶ほ如何に新しく輝くことであるか) — その秘蔵の虫に『よせ墓 』を造ったことと自分は想像する。然しもっと利発な日本のミロ嬢は、その墓に 向つて佛教の祈祷の文句を口ずさむことてあらう。
古代の希臘人が虫の曲調を愛したことを告白して居るのを見るのは、殊に彼等 が蝉を詠んだ歌に於てである。その証拠に、蜘蛛の係蹄に捕へられて、詩人が外 づしてやるまで、『か弱き械に悶え泣き』して居た蝉を詠んだ、名詩選集中の詩 句を詠んで見給へ。 — また「仰げぱ高き木の上に、夏の暑きに暖たまり、女の 乳にさも似たる、露を啜りつ』して居る、この『道行く人に歌きかす、酬も受け ぬ族樂師』を描いて居る、タレンタムのレオニダスの詩を読んで見給へ。 — 或 はまた『声明朗らかの蝉の君、露を啜りつ花の上、汝の風雅な断片を吟じて見給へ。……或はまた、エヴェヌスが夜鶯(ナイティンゲール)に与へて詠んだ、次記の微 妙な文句を誦して見給へ。 『蜜に育てる汝アティカの少女よ。囀りつ汝は囀れる蝉を捉へて、翼なき汝が 幼児へ持ち去りぬ、 — 囀り巧みなる汝が、囀り巧みなるものを — 外人たる汝 が、その外人を — 夏の子たる汝が、その夏の子をば! 放ちやらずや早く。歌 にたづさはる者が、歌にたづさはる者の口に滅びんは正からねば、理に悖れば』
之に反して日本の詩人は、セミの声よりも蟋蟀の声を遙か多く賞讃する傾向の ある、のを我々は認める。セミの詩は無数にあるが、その歌ひ声を褒めて居るの は極めて少い。固よりセミといふのは希臘人の知って居た蝉(シカダ)とは余程異 つて居る。真実青樂的な種類のものも少しはあるが、大多数は驚く許りに騒々しい、 — そのメンメンと鋭く叫ぶ声は、夏の大苦悩の一つに思はれて居る程に騒々しい。だが蝉を詠んだ日本の韻文幾百萬の中から、上に引用したエヴェヌスの 詩句に匹敵すべきものを探索するは、無益の労であらう。実際が、鳥に捕られた 蝉といふ題で自分が発見し得た日本の詩は、ただ次記の一つであつた。
 あなかなし鳶にとらるる蝉の声   嵐雪
或は『子供にとられる』と此詩人は述べてもよかつたことであらう — あの哀れ な啼き声を出す原因は、此の方が余程余計なのだから。ニキアスが蝉に代つて嘆 いた句は、日本の多数のセミの輓歌の用を為すことである。
『疾く動く、翅に音をば放ちつつ、楽しまむこと早絶えぬ、緑の蔭にやすら へる、我を図らず捉へたる、男の子が無慙の手に在れば』
序に此処へ書いてもよからう、日本の子供は通例鳥黐を尖端へ着けた紬長い竹 竿でセミを捕る。捉まつた折或る種のセミが放つ声音は実に可哀想である、脅さ れた折に鳥が放つ声ほどに可哀想である。その折の声は、人間が用ひる『声』と いふ意味での苦痛の『声』では無くて、特殊な発達を為し來たつた体の外側に在 る膜の所作であると、かう合点するのが困難な位てある。捕まった蝉が斯んな啼 き声をするのを聞いて、或る虫類の発達器は一種の楽器と考ふべきものでは無く て、言語の一機官と思ふべきもの、そしてその発達は鳥の音声もさうのやうに― ―非常な相違は虫はその声帯を躰の外部に有つて居るといふことで — 単純な情 緒と密接な関係を有つて居るのだ、と斯う全く新規な確信を近頃自分は抱くやうになつた。然し昆虫世界は全く妖魔榊仙の世界である。我々がその用を発見し得ない機官を有ち、我々がその性質を想像し得ない官能を有って居る動物が居る。 — 幾萬といふ眼を有つたり、背中に眼を有つたり、鼻や角の尖端て動き廻る眼 を有つて居る動物が居る。 — 腹や脚に耳があつたり、腰に脳!があつたりする動物が居るのである。だから或る種の昆虫が、偶々身体の内部でなくて外部に声を有つて居ても、誰れもその事実に驚く理由(いはれ)は無いことである。
自分は日本の韻文で、蝉の発声器に言ひ及んで居るものは — そんな韻文が存 在して居さうなものとは思ふが — まだよう一つも見出し得ないで居る。日本人 は、確に自國の啼く虫の特性に就いて、藪世紀の間馴染になつて居る。然し自分は日本の詩人が、蟋蟀の或は蝉の『声』というて居るのは不正確だ、と今言はう などいふ考は無い。虫は音薬を奏するにその翅と脚とを以てす、と現に説いて居 る古昔の希臘詩人も、斯くと知つては居ながら、 — 日本の詩人が使ふと正(ま さ)しく同様に — 『声』とか、『歌』とか、『囀り』とか言つて居る。例を挙げれぱミリェヂャは蟋蟀へ斯う言ひかけて居る。
『声音するどき翅を有ちて、身は自づからなる七絃琴の、いましこほろぎ我 が身の爲めに、声なす翅を脚もてたたき、歌ひきかせや楽しき節を!……』
ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)においては、英語"cicada"と日本語"Sémi"とは、ほとんど同義と解してよいが、その心裡においては、日本の"Sémi"は彼の解する真の"cicada"からは、やや外れていると考えていたのかもしれぬ。それが証拠に、彼は、日本の"Sémi"には"Japanese cicada"という限定詞をつけて呼ぶのに対し、ギリシアの蝉にはそういう限定詞をつけていないのである〔English Version〕。
彼がギリシアの蝉をじっさいに知っていたかどうかわからぬ。もし知っていなかったとしたら、彼にとっては、古代ギリシアの詩歌の対象となっていた蝉こそが、"cicada"と呼ぶにふさわしいと思っていたのであろう。たとえ実物を知らなかったとしても、ギリシアの蝉は全体におとなしい鳴き方をしたと考えられる。
ヨーロッパに一般的な蝉は、学名"cicada orni"と呼ばれる小型の種類である(左上図)。その鳴き声はいたっておとなしい(AU., 116K)。
もう少し大型でよく鳴くのは、学名"cicada plebeia"と呼ばれる種類で(右下図)、その鳴き声は(AU., 332K)。古代ギリシアの詩人たちを魅了したのは、こちらの蝉であろう。
それにひきかえ、日本の"Sémi"はいかにも「音楽的」である。そのことがハーンを引きつけたらしい。しかし、彼が認めるのはツクツクボウシとヒグラシぐらいまでで、それ以外はいかにもやかましいと思っていたようだ。
次章で、ハーンは、日本の詩人たちは「蝉で無い昆虫の名にセミの語を用ひさへして居る」というのだが、残念ながら根拠が示されていない。何をさして云っているのか、知りたいものである。  

進んでセミの詩文學に就いて語る前に、自分はセミその物に就いて二三の談論 を試みなけれぱならぬ。然し読者は何等昆虫學上のものを期待し給ふ要は無い。 日本の昆虫は、恐らく蝶類を除いて、科學者にまだ少ししか分かつて居ないので、 自分が蝉について言ひ得ることは、総て皆穿鑿により、個人的観察により、また 奥味はあるが全く非科學的な日本の古い書物によつて、知り得たものだけである。 著作家が、一番に能く知られて居るセミの名前や特性に就いて、互に矛盾して居 る計りでは無い、蝉で無い昆虫の名にセミの語を用ひさへして居る。
次記のセミの列挙は確に不完全である。が、能く知られて居る種類と最上の旋 律家とは綱羅して居る、と自分は信じて居る。が然し、或る種の蝉の出現時が日本の地方に依つて異つて居る事、同一種の蝉が國に依つて名を異にして居るかも知れぬ事、且つ此記述は東京で爲したものといふ事、これを心に有つて居て貰ひ たいと読者に乞はなければならぬ。
一 ハルゼミ
種々な小蝉が春出る。然し大きな蝉で耳にきこえる声を立てる第一番のはハル ゼミ(春蝉)、またの名ウマゼミ(馬蝉)、クマゼミ(熊蝉)など称するものである。 これはジーイーイーイーイーイイイイイイと、最初は低いが、段々と苦しい程高 い調子に上つて行く — 鋭いゼイゼイ声を立てる。春蝉ほど騒々しい蝉は他に無 い。が、此のセミの寿命はその時候と共に終はるらしい。これが屹度、
 初蝉やこれは暑いといふ日より   太無
と、古い句に詠まれて居るものである。
二 シンネシンネ
シンネシンネ — 又の名ヤマゼミ(山蝉)、クマゼミ(熊蝉)、オホゼミ(大蝉) — は五月に早歌ひはじめる。頗る大きな蝉である。体の上部は黒いといつていい 位、腹は銀白、頭には赤い妙な模様がある。シンネシンネといふ名は、その音色 から來て居るので、それはシンネといふ綴音を連続して早く反復するに似て居る。 此蝉は京都辺では普通、東京では稀に聞く。
[自分が初めてオホゼミを検べる機会を得たのは静岡であつた。その声音は日本の擬音が現はして居るよりも遥か複雑で、精一パイに廻して居る折の裁縫ミシ ンの音に似て居るやうに思ふ。音が二重で、金属性な鋭いリンリンといふ音が連 続して聞こえる計りで無く、その底に、もっとゆるく続いて居る重いヂャンヂャ ンといふ音がある。発声器官は色は薄緑で、胸廓に附着して居る小さな青葉一枚 といつたやうな外観のものである]
三 アブラゼミ
アブラゼミ即ち油蝉は夏早く現はれる。聞けぱその名は、その耳を貫くやうな 鋭い声が、鍋で油揚げをする折の音に似て居る、といふ事実に基づいて居るとい ふ事てある、その鋭い音がガチヤリンガチヤリンときこえるといふ作家もあるが、 湯の沸き立つ音にたぐへて居る者も居る。アブラゼミは日の出頃から歌ひ出す。 すると大きな低いシイシイといふ声があらゆる樹々から立ち昇るやうに思はれる。 そんな時刻に、即ち森や花園の木の葉がまだ露てきらきらして居る時分に、次記 の句は作られたものかも知れぬ。自分の蒐集中油蝉を詠んだものはただこれだけ である。
 あの声で露が命かあぶらぜみ   (?)
四 ムギカリゼミ
ムギカリゼミ(麦刈蝉)又の名ゴシキゼミ(五色蝉)は夏早く出る。シインシ ン — チイチイといふ綴音に似た、調子の異なった二様のはつきりした音を出す。
五 ヒグラシ或は『カナカナ』  
『日を暗くす」といふ意味の名を有つた此蝉は日本の蝉類中一番顯著なもので ある。一番巧妙の歌手といふのでは無い。然し旋律家としてもただツクツクボウ シの次位に位するだけである。他の多藪の蝉はその樂を燃える日盛にだけ奏して、 雨雲が日をかぎらふ折にさへ中止するのに、これは未明と日没にだけ歌ふ特別な 黄昏の樂師てある。ヒグラシは東京では通例六月の末七月の初め頃現はれる。其 驚くべき — カナ、カナ、カナ、カナといふ — 叫声は、いつも高い明瞭な調子 に始まつて、徐々に低うなるが、いかにも上等な呼鈴を極早く振る音に酷似して 居る。乱暴に振る時のやうな、ヂャリンヂャリンといふ音では無くて、速くキマ リがついて、兼ねてまた驚く許り清亮な音である。一匹のヒグラシを四分の一哩 離れた処で明瞭に聞き得ると自分は思ふ。でも古昔の日本詩人也有が言つたやう に『ひぐらしは多きも八釜敷からず』である。ヒグラシの叫は、金属の反響の如 くに、力の強いそして貫通す音ではあるが、優雅とも思へる許り音樂的である。 そしてそれには、暮れ初める時刻と調和した一種特別な悲哀な調がある。然しヒグラシの叫に關して最も驚く可き事實は、その一匹一匹の音色に特色を帯ぱしめ る個性である。正(まさ)しく同じ音調で歌ふヒグラシは一匹も居らぬ。十匹が 同時に歌ふのを聞いて居て、一匹一匹の一音色が判然と区別の出來ることを諸君 は認めるであらう。或る音色は銀の如く響き、或るものは銅の如く震ひひびく。 そして、重量と素質との異つた鐘を暗示する種々な音色のほかに、鐘の色んな形 状を暗示する差違すら音色に存して居るのである。
ヒグラシといふ名は — 黄昏、薄暗、朦朧の意味で — 『日を暗くす』といふ 意義を有つて居ることは既に述べた。ところで此の語を弄んだ — 次記の例に見 るやうに、その啼くのが暗黒の到來を促すと作者が信じて居る風にしての — 澤山の韻文が日本に在る。
 日ぐらしや捨てて置いても暮るる日を   すて女
或る悲哀な氣分を言ひ現はさうとした此の句は、西洋の読者にはこじつけに思 へるかも知れぬが、今一つの小詩 — 此声が横着者の良心に來たす効果に言ひ及 ぼして居るの — は、ヒグラシを聞き馴れて居る人は誰れも感服するであらう — この序(ついで)に、これが初めてはつきりした声で夕方鳴くと、鐘を突然に鳴 らすと同様に、全く人をびつくらさすことを述べてよからう。
 蜩や今日の解怠をおもふ時   里桂
六 ミンミンゼミ
ミンミンゼミは大暑の頃鳴き出す。ミンミンといふ綴音を — 初めは緩やかに 且つ甚だ声高く、後、倍々速かに且つ倍々声和らかに、終には声音がヴーンンと いふやうな音に消え去る迄 — 反覆するのに、即ちミンーミンーミンーミン、ミ ン、ミン、ミン、ミン、ミン、ズズズズズといふに似て居るので — ミンミンと 称せられて居るのである。その音は悲哀な調を帯ぴて居るが、不快では無い。往々僧侶が経文を誦する声にたぐへられて居る。
七 ツクツクボウシ
日本の旧暦(自然の変化と表現とに關しては比較にならぬ程西洋暦よりも精確 なもの)に拠って言つて、死者の祭日のすぐ後にツクツクボウシは歌ひ出す。こ の蝉は鳥のやうに歌ふと言つてよろしい。ツクツクボウシとも、チョコチョコウィスとも、ツクツクホウシとも呼ぱれて居る、 — いづれも擬音的命名である。 その歌の響は種々な作家に色々に模擬されて居る。出雲では普通の解釈は、
  ツク、ツク、ウイス
  ツク、ツク、ウイス
  ツク、ツク、ウイス —
   ウイ、オオス
   ウイ、オオス
   ウイ、オオス
   ウイ、オオス、ススススススス
他の解釈では、
  ツク、ツク、ウイス
  ツク、ツク、ウイス
  ツク、ツク、ウイス —
   チイ、ヤラ
   チイ、ヤラ
   チイ、ヤラ
   チイ、チ、チ、チ、チ、チイイイ。
ところが或る人は、この音はツクシコヒシだと言ふ。古昔筑紫(九州の古名)の人 が遠國で病氣の爲め死んで、その魂魄が一匹の秋蝉となつたもので、それてツクシコヒシ、ツクシコヒシ(『筑紫慕はし! 筑紫見たし!』)と絶え間無しに叫ぶ のだといふ伝説がある。
早出の蝉が一番聞き苦しい一番単純な音を出すといふのは奇妙な事實である。 音樂的な蝉は夏までには出て來ぬ。そして就中最も複雑な最も瞭喨たる声を発す るツクツクボウシは成育の最も遅いものの一つである。
八 ツリガネゼミ
此蝉は主もに四國に居るやうである。
ツリガネゼミは秋蝉である。ツリガネといふは吊るしてある鐘 — 殊に佛教寺 院の大鐘 — を指す言葉である。自分は此名称の解釈に惑うて居る。といふのは、 この蝉の音樂は、 — 立派な権威が明言して居るやうに — 真実日本のハアプ即 ち琴の音を思ひ浮かぱせる。だから此命名は、鐘のゴオンと響く音に似た処があ るからといふのでは無くて、鐘を撞いた後に響く、波また波の、好い唸り声に似 て居るといふので附けたものであらう。  

蝉に關する日本の詩歌は極めて短いのが普通である。そして自分の蒐集は主と して — 十七綴音の作品たる — ホックから成つて居る。此の発句の多数は、蝉 の声に — 否、寧ろその声が詩人の心裏に産出した威じに — 關して居る。次記 の例に附けてある人名は、殆ど皆昔の詩人の名で — 言ふ迄も無く実名では無くて、號即ち通例それて美術家文學者が世人に知られて居る文學上の名で — ある。
発句の作者として著名な、十八世紀の日本の詩人横井也有は、蝉を聴いた夏秋 の感情の、こんな天真な記録を我々へ残して居る。 —
「三伏の日ざかりの暑さにたへがたくて 螺あつし松きらぱやと思ふまで と口ずさびし日数も程なく立ちかはりてやや秋風に其声のへり行く程さすが哀に おもひかへりて 死にのこれ一つぱかりは秋の蝉」
ピエエル・ロティ(世界最大の散文家)の愛読者は、その「お菊夫人」の中で、 或る日本家屋に就いて、百夏の鋭い声の蟋蟀の爲めその古い乾いた木細工が妙音を孕んで居ると述べて居る面白い文句を記憶して居らるるであらう。それと全然相違しても居ない意匠を有つた日本の詩が一つある。 —
〔註 ロティは家屋の内部の描写をしようとする己が企に就いて斯う言うて居る。『自分が描写した此家には、そのか弱い風とその鋭いヴィオリン的な好い響とが欠けて居る。木細エを写して居る鉛筆のタッチに、その細工の極めて微細な精緻さが無く、またその非常な古雅なところが無く、またその申し分無しの清潔さが 無く、その乾上がつた繊維に百夏の間孕まされて居るらしく思へる蟋蟀の響も 無い』〕
 松の木に沁みこむ如し蝉の声   (?)
蝉を詠んだ日本詩歌の大多数は此虫の音声を苦痛だと述べて居る。そんな詩人 の不平に充分同情を感ずるには、二三種の日本蝉の真夏に於ける合奏を聞いてか らでなけれぱならぬ。然しその喧躁の経験の無い読者にも、次記の句は多分暗示 的だと思はれることてあらう。
 われ独り暑いやうなり蝉の声   文素
 うしろから掴むやうなり蝉の声  除風
 山の神の耳の病かせみの声    貞徳
 底の無い暑さや雲に蝉の声    左簾
 水涸れて蝉を不断の瀧の声    幻吁
 かげろひし雲また去つて蝉の声  几菫
 抱いた木は葉も動かさず蝉の声  可風
 隣から此木にくむやせみの声   其角
この句は、也有をおもひ出させる。蝉が頻繁に訪れる木を憫れんで居る別な詩人が居る。
 風はみな蝉に吸はれて一木かな  鳥酔
時には蝉の音声を或る動カだと叙べて居る。 —
 蝉の声木々に動いて風も無し   宗養
 竹に來て雪より重し蝉の声    桃月
〔註 日本の芸術家は、その頂に附いて居る雪の重みに曲つて居る竹の景色によ つて幾多の面白い感想を得來たつて居る〕。
 諸聾声に山や動かす木々の蝉   楚江
 楠も動くやうなり蝉の声     梅雀
時にその音を湯のたぎる音にたぐへて居る。 —
 日盛は煮えたつ蝉の林かな    露英
 煮えて居る水ばかりなり蝉の声  大無
此喧躁家の大勢なのと其喧嘆の遍在なのとに殊に愚痴をこぼして居る詩人があ る。 —
 ありたけの木に響きけり蝉の声  稻起
 松原を一里は來たり蝉の声    沽荷
たまたま此題目を滑稽な誇張を以て取り扱つて居る。
 ないて居る木よりも太し蝉の声   (?)
 杉高しされども蝉のあまる声   亀文
 声長き蝉は短きいのちかな     (?)
その声音の休止に次いで来る消極的な快感を讃へて居る詩人もある。 —
 蝉に出て螢に戻る納涼かな    也有
 蝉の立つあと涼しさよ松の声   梅雀
〔序に此処で『松の声』についての短い日本の歌のあることを言つてもよから う。この歌にある「ザザンザ』といふ擬音は、松葉を吹払う風の深い唸声を実にうまく現はして居る。 — ザザンザ! 濱松のおとは ザザンザ! ザザンザ!〕
ところがまた、蝉の音声が起こす威情は、全く聴く者の神経状態に依るのだ、 と宣言する詩人がある。 —
 森の蝉涼しき声やあつき声    乙州
 涼しさも暑さも蝉の心かな    不白
 涼しいと思へぱ涼し蝉の声    吟江
蝉の騒々しさに対する日本詩人のこの多数の不平を見て居て、そしてその蝉の 殻から日本でも支那でも — 多分、類は類を治す主義で — 耳病の藥剤!を昔時 製した、と聞き給ふ読者は定めし驚かるることであらう。
が然し或る詩は蝉の音樂に賞讃者のあることを証明して居る。 —
 面白いぞや我が子の声は 高い森木の蝉の声
この歌に能く似た歌がある。『面白いぞや、我が児の泣くは、千部施餓鬼の、 経よリも』
が斯んな賞讃は稀だ。蝉はその夜毎の露の馳走に与らうとて叫んで居るのだ、と説く方が余計である。 —
 蝉をきけ一日ないて夜の露    其角
 夕露の口に入るまでなく蝉か   梅室
蝉は時折恋の歌に読み込んである。次記のはその立派な標本である。これは普 通芸者共が歌ふ小唄の部類に属するものである。その拵へたやうな威傷的な処は 好ましからぬけれども、ただ意匠としては旨いと自分は思ふ。が日本人の趣味に は確に野卑である。たたくといふは嫉妬の爲めにである。 —
 ぬしにたたかれわしや松の蝉 すがりつきつきなくぱかり
實際次に示す小きな絵の方が、日本人の美術主義に從へぱ、一層真実な作品で ある(自分はこの作者の名を知つて居らぬ)
 蝉一つ松の夕日を抱へけり    (繞石)  

哲學的な詩歌は蝉を詠んだ日本詩篇には多数には無い。が全く異國風な情趣を 具へて居る。恰も蝶の変形変態が霊魂の昇天の表號を古昔の希臘思想に供給した 如くに、蝉の一生はその教理を説く比喩や寓言を佛教に与へて居る。
人間がその体躯を脱離するのは丁度蝉がその皮を脱ぐと同じである、だが肉身を得る度毎に前生の記憶が暗くなる。我々が前生を記憶して居ないのは、蝉が 自分が出て來た殻を記憶して居ないと同じである。蝉の中には自分が脱ぎ捨てた 皮膚の横で歌つて居るのも屡々見らるることであらう。だから或る詩人は
 われとわが殻やとむらふ蝉の声  也有
と詠んだ。
生きて居るやうに木の幹や枝にしがみついて居て、ギラギラした大きな眼で今 猶ほ何か凝視して居るやうに思へる、この脱殻即ち類像は、不信心な詩人にも宗教的な詩人にも、橦々な事柄を晴示し來たつて居る。恋の歌では屡々之を熱烈な 恋慕に痩せ枯れた身体に比して居る。佛致的な詩歌では、浮世の華箸の表象に — 人間の偉大と称するものも実は空虚なものだといふ表象になつて居る。
 世の中よ蛙の裸蝉の衣      可言
だが詩人は時々、啼いて居る翅のある蝉を人間の露に譬へ、破れた脱殼を後に 残した屍体に喩へて居る。 —
 たましひは浮世にないて蝉の殼  (?)
それから蝉類の日光に活氣づく大擾音 — あの如く早く過ぎ去る運命を有つた 夏時の陸暴風 — は、説教師や詩人に、人間の欲望の擾乱にたぐへられて居る。 蝉が地中から現はれ出て、暖氣と光線を受けに這ひ上り、囂々騒ぎ、間も無く再 ぴ塵土と沈黙とへ帰ると同じく — 代々の人間は、出て、騒いで、去つてしまふ のである。 —
 やがて死ぬ景色は見えず蝉の声  芭蕉
此小詩中の思想は、虫の声の悲調と共に自然の寂寞が我々へもたらす彼の夏の 憂愁を幾分か説明して居はせぬかと自分は思ふ。斯んな幾萬幾億の小生物どもは、 東洋の古代の知識を — 永久の眞理たる諸行無常の経典を — 無意識に説いて 居るのである。
だが、我々西洋の近代詩人て、虫の声に注意を払つた者は如何に僅少なことで あるか!
昔時自然がソロモンに語つたやうに、自然が今日、斯んな微かな可愛い震音 で語り得るのは、生の謎に刻薄にも煩はされて居る者だけへてあらう。
東洋の智慧は萬物の語を解する。そしてこの知識を身に得る人ぱかりが — ジィガルドが龍の膽を嘗めて突然鳥の談話を解したやうに — そんな人ばかりが、 虫の言葉を解することてあらう。  
 
藤村『嵐』 三つの「ご縁」を介して

秦恒平です、お招きにあずかり、恐縮で御座います。なぜ私を、この席に呼んで下さいましたか、もう、そのことは、勝手ながら、棚上げにさせて戴きましょう。この藤村文学根源の地に参りまして、藤村文学に新たな知見の一つなり加えて行く、なんどという、おおそれたことも毛頭考えておりません。それは前もってご承知おき願います。 それよりも、なんで私が、厚かましくこのお誘いをお受けしてしまったか、多少の自己紹介も兼ねまして、もっぱら私自身の、「藤村先生」とのご縁の方から、何かしらへのいとぐちを見つけ、話題を手繰って参りたい、と。 暫く、お耳を拝借いたします。
つよい地震の、被害も出ました宮城県・松島や仙台へ、地震より十日ほど前に遊びに参りました。青葉城の城址にも登りまして、藤村先生の詩碑にもお目にかかってきました。松島の瑞巌寺をうたわれた詩も「若菜集」に入っています。東北学院で教鞭をとられたことは、島崎藤村の文学生涯をつよくプッシュした文学史的な事跡でした。仙台へ発つまえから兆していた先生の詩情は仙台で「若菜集」として萌えあがり、さらに前途を祝したというわけでした。わたくしの勤務時代の後輩でまた久しい読者でもあります人が、いま、東北学院大学で教授をしていまして、私は、その学院の風情にも触れてみたかったのでした。ま、ささやかにも遠回しな「ご縁」でありまして、話のマクラとも申せませんが…。
さて、顧みまして、三十四年前に溯ります、昭和四十四年、一九六九年、に、私は小説「清経入水」という作品で、第五回太宰治賞を受けました。ま、これは、藤村先生の御作とは似ても似つかない、平家物語に取材し、遠い過去と現在と、此の世と他界とを、幻想的に往来して紡ぎ出した、ま、自然主義や写実主義とは途方もなく異なった仕事でした。
幸いに、当時の選者は、井伏鱒二、石川淳、臼井吉見、唐木順三、河上徹太郎、中村光夫という、最高級の「知性」であり「書き手」であり「読み手」でありました。こういう、鳴り響くような選者先生方の満票を得て受賞できましたことは、今でも、私の、それは大きな支えであり、むろん誇りであり、心して、この方達に恥ずかしくない仕事を、此の後も提出し続けたいと思いました。 今も、そう思っております。
受賞しますと、初体験の記者会見が東京都内のホテルであり、目の前が真っ白になるほどフラッシュを浴び、質問遭いました。その中に、「どんな作家を尊敬してきたか」という、思えばお決まりの質問がありまして、即座に、「島崎藤村、夏目漱石、谷崎潤一郎」と打ち返すように返辞しました。挙げた名前の大きいことに、それだけに余りに尋常なと聞かれたかも知れませんし、また余りに方角の異なる三人だとも思われたのでしょう、少なからず、記者席が、呆れたのでもありましょうか、どよめきました。くわしい理由も聞かれずに、そのまま次へ次へと、一問一答は動いて行きました。
この席へなんだかノコノコ出て参りました気持の奥に、あの時のあの自分がした返辞に、幾らかでも理由を述べることは、もう久しく成りました作家生活の、一つのケジメかも知れないなという気持が働いたのかも知れません。で、それを、直ぐさま話しにかかってもいいのです、が、そもそも、そんな、第一番に「島崎藤村」の名前を挙げるに到った、もう少し以前の「出逢い」に触れておくのが、順序のように思われます。断っておきますが、第一番ということは内心の序列を意味してはおりません。文学史的に早く登場していた順に随ったまでで、三人に優劣を付けるぐらいなら「三人」を並べたりはしませんでした。
三人に、「質的」に、まともに出逢った順番でいえば、戦後京都の、新制中学二年生で、毎朝待ちかねて読みました毎日新聞連載の「少将滋幹の母」つまり谷崎潤一郎が早く、そして、中学二年生の最期、上級生の卒業式を終えまして以降に、耽読また耽読した、夏目漱石の「こころ」になります。次いでずっと遅れまして、高校三年生、昭和二十八年八月二十五日発行の筑摩書房版、「現代日本文学全集8=島崎藤村集」を、発売早々、乏しい小遣いをはたいて、胸轟かせて買ってきた、という順番になります。この藤村集は、此の文学全集の確か第一回配本として大きく広告され、強く刺激されたにちがいありません。文学少年で、ことに小説が好きで、当時の秀才達は挙って小林秀雄にイカレておりましたけれど、私はもともと小説が好きで、それも谷崎より前に、与謝野晶子を介して源氏物語に強く強く惹かれていましたし、谷崎や漱石以外にも、沢山な国内外の小説に親しんでいました。むろん島崎藤村の大きな名前は、「若菜集」や「破戒」などの教科書からの知識でよく承知していました。その意味からは、むしろ藤村小説との出逢いは、たいへん、遅きに失していたと言えるほどです。
ご承知かと思いますが、此の筑摩版の一冊は、「若菜集」「破戒」「新生」「ある女の生涯」「嵐」「山陰土産」を収録し、正宗白鳥の「島崎藤村」と題した昭和七年二月の論考も収められていました。解説は瀬沼茂樹が書いていました。奥付には「島崎」と大きめの円い朱印の検印紙が、これは版元のせいですが、真っ逆さまに貼られていました。しかも奥付には、定価というのが印刷されていなかったのですね。ハコにだけ附いていました。売値を、いつでも付け替えて行こうという、そういう出版慣行が出来て行く、あれは、ハシリではなかったでしょうかね。この頃の筑摩書房は、文京区台町にありました。インクのプンプンいい香りのする、装幀もまことに当時として洒落て堅牢な佳い本でしたから、私はハコから出したり入れたり抱きしめるように「吾が物」の藤村集を愛しました。しかし藤村小説については、少しだけ遅れまして矢張り高校のうちに、古本屋で手に入れた、別のもう一冊、これが頗る大事な藤村認識の契機となりました。四六版でしたね、「並木」が巻頭に、ついで「家」が入っていまして、この「家」という小説から受けた底知れない感動は、ちょっと言い表しようがないくらいです。「家」「新生」「嵐」が胸の底に刻みつけられました。「破戒」を大事に感じたのは少し後のことでした。
その後、大学時代に手に入れた角川版・昭和文学全集の中で、また上京し結婚してから、毎月、水かさを増すように買い求めていった講談社版の日本文学全集。いずれも島崎藤村集を二冊ずつ入れていました。ことに後者の講談社版では「夜明け前」を、それはそれは気を入れて読みました。
私は、日本の近代文学に関する限り、かなりな読書家だと自分で言うても差し支えないだろうと思います。のちほど少し触れます、今も日々に「植林」するように作品の数を増しつづけています「日本ペンクラブ電子文藝館」の数百人に及ぶ作家達の作の九割九分は、私が選んで、私が校正して、掲載してきた物です。そんな中で、尊敬する作家として躊躇なく「島崎藤村・夏目漱石・谷崎潤一郎」と三人に絞り得た読書体験は、認識は、大方この頃までに形作られていたと申し上げて佳いのかも知れません。
白状しますと、むろん此の三人の全集を私は愛蔵していますけれど、潤一郎、漱石のものは、ほぼ残り無く読んでおりますのに対し、藤村先生の作品は、詩の全作品と、小説は、「破戒」「春」「家」「櫻の実の熟するとき」「新生」「夜明け前」「東方の門」の他は、初期の「旧主人」や愛読した「嵐」「配分」「ある女の生涯」などの他は、あまり手をつけてこなかったし、莫大な随筆類は「春を待ちつつ」などのほかはあまり読んでいないのです。私の、藤村世界を眺める視野には、明らかに多くの欠落のあることを自覚しております。そのへんはどうかご容赦下さいますように。
また、私のことを谷崎文学の研究者と紹介してくださる向きもあります。決してそんなことは有りません、漱石についても同様、熱心な一人の愛読者に過ぎません。とはいえ、潤一郎・漱石、ともに著作を何冊かずつ出版しております。けれど島崎藤村については、藤村学会に招いて戴き、「破戒」に触れて拙い講演をしたのが、ほぼ一度きり、の言及でありました。藤村先生に触れて何かを論じる、語る、という原稿を書いた記憶が、ほぼ全くございません。それにもかかわらず、やはり「三人」なのでありました、動かせないことでした。
その話をすべきでしょう。したいと思います。が、今しばらく棚に上げておいて、さらに、藤村先生と私との、そうですね、「ご縁」ですね、それを話すのが「順」のような気が致します。
ご承知でしょう、島崎藤村は、日本ペンクラブの初代の会長でした。日本ペンクラブは、国際ペンの、いわば日本支部に当たります。国際ペンは、国際ペン憲章によるグローバルな、文筆家の思想団体です。昭和十年、一九三五年、十一月二十六日に発足しました。 余計なことですが、私は、その一ヶ月近くあとに、京都市内で生まれました。私はペンクラブと全く同い年の、今年の暮れには、満六十八歳を迎えます。では、どういう思想でこの団体は運営されているかと申しますと、ちょうど今年四月、第十四代会長に就任した井上ひさし氏は、就任挨拶で、私たち理事に向かってこう言っています。「自分は、反戦・反核をつよく求め、日本国憲法、国際ペン憲章、国連憲章を尊重しつつ、世界平和への努力と自由な言論表現活動とがますます活溌に成されるよう尽力したい」と。 そういう思いを、「文学・文藝」の力を基盤にし、遂げて行きたい、と。藤村先生が最初の会長に推されたときは、まさに日本は戦争へ戦争へと傾斜して行く不幸な険しい時代でしたが、しかも国際ペンの意図するところを受け容れて「発会」に到ったことは確かでありましょう。索引の完備した全集があれば、藤村先生のペンクラブに寄せられた内心を幾らかでも窺えるのでしょうが、あやふやな推測を申し上げるのは控えねばなりません。そして藤村より以降、次に正宗白鳥、さらに志賀直哉、そして川端康成、芹沢光治良、中村光夫、石川達三、高橋健二、井上靖、遠藤周作、大岡信、尾崎秀樹、梅原猛さんを経まして、井上ひさし新会長下の体制が調いまして、まだ四ヶ月しか経っていません。
井上新会長の決意、まことにけっこうだと、私も率先して支持したのです。とは言え、現実問題として、そうそう「ペン」がいつも立派にやれているとは、胸も張りにくいし、活動を支える筈の「文学・文藝」の力が、今日どのようであるかと顧みますと、会員は二千人にも達していますけれど、これまた、あまり、威勢良くは胸が張れない。一つの表れを謂いましょう。毎年十一月二十六日の「ペンの日」の集会です。大会場に群衆しまして、型どおり会長と来賓の挨拶のあとは、殆ど全部の時間をかけ、嬉々として「福引」をします。景品は、みな、寄附された品物です、各方面からの。これが、ずうっと「ペンの日」の慣例なんです。六年前に理事になりまして以来、毎年この「福引」を見てきました。みんな楽しそうです。福を引くのですから、お祝いらしくて悪くない。が、妙に、私は寂しい。へんに、情けない。藤村や白鳥や直哉が「福引」なんかで、「ペンの日」を祝う気になれただろうかと。提案するのです、わたしは。いつも。たとえば「ペンの日」には、現会長挨拶よりも先に、初代会長「藤村詩集」の、あの、有名な序、少し抄して申しますが、  
遂に新しき詩歌の時は來りぬ。
そはうつくしき曙のごとくなりき。うらわかき想像は長き眠りより覚 めて、民俗の言葉を飾れり。
詩歌は静かなるところにて思ひ起したる感動なりとかや。げにわが歌 ぞおぞき苦闘の告白なる。
誰か舊き生涯に安んぜむとするものぞ。おのがじゝ新しきを開かんと 思へるぞ、若き人々のつとめなる。
思へば、言ふぞよき。ためらはずして言ふぞよき。いさゝかなる活動 に勵まされて、われも身と心とを救ひしなり。 (抄出)  
などと、誰かが朗読し、森繁久弥なんかも会員なんですからね、初代会長の若き雄志に耳も胸も洗われてから、せめて此の会を始めようではないか、と。こんな書生流に耳をかす人なんか一人も居ませんが、残念なことです。
大きな組織ですから、維持するにも運営するにも、お金がかかります。理事会は、もう何かというとお金の話に流れがちです。うそじゃないし、幾らかは仕方がないんです。また例の、「声明」また「声明」です。余儀なく、国会に提出される、ややこしい、問題の多い「立法」に対する、監視と、抗議声明とが必要になります、投げ出してはならない、それは本来のペンの活動であります。反戦・反核も大切、人権侵害・情報管理、そして言論の侵害に対しては、敢然、立ち向かわなくては成りません。いきおい、理事会や例会で、「文学・文藝」は、めったなことでまともな話題にならない。話題になんか成らなくても、現代文学が活溌であるならいいのですが、ご承知のように、出版界は、異様に荒廃の気味すら窺えますし、それも、とても近年に始まったことではない。
わたしは政治家でも思想家でも運動家でもありません、「文学・文藝」ないし「藝術」に関わっている以外に、取り柄のない人間です。そういう人間としてペンクラブに身を置き、まして理事の一人として何か役立てるとしたら、何をすればいいのか。頭の中には、あの島崎藤村を先頭に立てて歩み出した「日本ペンクラブ」なんだ、という思いが、ずんと、根をおろしているわけです、私の胸に。いつもです。ああこういう時に、島崎藤村先生なら、正宗白鳥先生なら、志賀直哉先生なら、何を考え、どうなさるだろう、と。
それで、私の企画を仲間に提案し、理事会にもはかって、実現したのが、「日本ペンクラブ電子文藝館」の開館、でした。現在、初代館長の梅原猛さんに次いで、外向きには私が「館長」役を務めています。その「電子文藝館」に、真っ先に掲載したのが、なによりも藤村先生の作品であったのは、私にすれば、当たり前の当ッたり前でありました。私は、その作品に、名作『嵐』を、ためらい無く選びました。 なぜ「嵐」か。一つには適当な分量であったことですが、それよりも、私が、そうですね、こう申しましょうか、「最も親しんだ、心なごんだ、読んで嬉しかった」作品だったから、と。その余は、もう少しあとに、時間の許す限りお話しすると致します。
コンピュータの、インターネットの、時代が来ています。ペンで紙に書いた原稿も、ディジタルに、電子化してインターネットで発信しますと、ワールド・ワイドに、蜘蛛の巣のような電子の網を通じて、たちどころに、世界中に発信されます。 適切な用意さえ有れば、全く同じ条件で、世界中の至る所へ同じ作品が届きます。現在、「ペン電子文藝館」には幕末のお芝居の河竹黙阿弥、落語や講釈の三遊亭圓朝、新知識人の福沢諭吉らに始まり、紅・露・逍・鴎から藤村・漱石・潤一郎・樋口一葉はもとより、白秋も朔太郎も梶井基次郎も太宰治も、むろん歴代全会長の作品も、この私のも、若い三十代現会員の作品も、およそ三百数十編が、無料公開されています。いつでも、タダで読めます。もし、これらを紙の本にして出版しますと、経費は何千万円かかかり、数十巻もの大部に及ぶのです。紙の本は、いちど造れば経費を回収しなくてはなりません、つまり売らなくては。しかしそれが容易でないことは、よくご存じでしょう。売れなければ保管に場所はとるし、第一ペンクラブは簡単に破産します。ところが、電子メディアを介して公表するのに、経費は、かぎりなくタダに近いのです。しかもいついかなる時にも「ペン電子文藝館」のサイトを機械上に開けば、簡単に、好きなように、いつ何時でもタダで読めるのです。つまり「ペン電子文藝館」の掲載作品は、そのまま「公共の文化資産=パブリックドメイン」として、あらゆる人たちのための「大読書室」を成しているわけです。紙の本のように、ヨゴレも、廃りも、絶版にもならないで、半永久的に、作品はいつも世界に開かれているわけです。私は、そういうものを創始創設することで、「島崎藤村以来の日本ペンクラブ」が、「優れた伝統に支えられた文化的な文筆家団体」であることを「自己証明」するとともに、会員に、誇りと自覚を新たにして貰いたかった。
で、藤村以来ということに、さらに藤村以前も……気持の上では近代日本どころか、はるか万葉集や源氏物語以来の日本文学史的伝統を受け継いできたという自覚も新たに、世界文学の一員でありたいと願ったのです。先達に恥じない仕事を遺して行くことで、日本ペンクラブとしての諸活動が、広範囲に訴求力をもてるようになりたい、と願いました。そういう希望こそが、島崎藤村以来という看板にふさわしいのだと考えたのです。入会したら、名刺に肩書きかのように「日本ペンクラブ会員」と刷り込んで、あとは年会費を払っていればよろしい、なんて、そんなペンクラブに何の意義があるか。会員の一人一人が自分はこういう仕事をしていると、自愛の作品を「ペン電子文藝館」に掲載し、広く社会の前に示すことを通して、会員らしい自負や自信をもちたい。
そのためには、亡くなった物故会員、藤村先生も其のお一人ですが、与謝野晶子も徳田秋声も谷崎潤一郎も横光利一も、岡本かの子も林芙美子も、みなもとはペンの会員だった人達です、こういう人達の作品もご遺族から頂戴したい、さらには、日本ペンクラブ創立以前に亡くなっている先達たちをも「招待席」に招き入れて、力作・秀作・問題作を戴きたいと、そう願って、着々それを実現してきたのです。一例をあげれば、第一回芥川賞作品、石川達三元会長作「蒼氓」も、遠藤周作元会長の芥川賞「白い人」も、また由起しげ子さんや木崎さと子さんの芥川賞作品も掲載されています。出久根達郎さんの直木賞作品も、私の太宰賞作品も掲載されています。みな、「ペン電子文藝館」の趣旨に賛同してもらったもので、豪華に贅沢な作品と作家が、幾つも、幾人も眼に入って、魅力溢れる図書室になっています。梅原前会長の「王様と恐竜」などは、新刊ピカピカの単行本表題作でして、こういうことは、他の類似のサイトでは逆立ちしてもありえないのです。
しかし現会員には、厳しい。これら優れた先達の作に質的に拮抗するものを出稿しなければならないプレッシヤーを感じています、現に。それも、実は、私のひそかに願っていたことで、「ペン電子文藝館」は、このご時世、薄っぺらい出来合いの無料作品掲載場なんかにしてはいけない、「現代文学の自己証明の場」でありたい。そのためにも、「歴代会長作品」や「物故会員作品」や、ことに「招待席」作品が、むしろ質的な重圧になって欲しいわけです、質的なレヘルアップのために。小説だけではありません。藤村先生には「嵐」とともに、詩も頂戴しております。評論・論考も、戯曲も、随筆も、詩歌のすべても、翻訳も、取り入れています。また純文学と読み物と、といった差別もなく、そういうことでの評価は、みな「読者に任せる」という、たいへん多彩で、自在なんです。掲載の仕方にも、何一つ差別を付けていない。藤村先生の「嵐」も、入会して間もないほぼ無名の会員の作品も、全く、分け隔て無く同じように掲載されています。それもまた、私の「理想」とした文藝館の在りようでした。文豪とならんで誰それサンの随筆が「ペン電子文藝館」に掲載になったと、地方紙に大きな記事が写真入りで出た例もあります、私は会員に会費だけ払えばいいなんてことでなく、こういうふうに自身を鼓舞し激励し、良い文学・文藝の誕生に力を尽くして欲しいと思うのです。つまりは、ペン電子文藝館とは、私の、初代会長島崎藤村先生への深い尊敬から出た、一つの「文学的答案であり文藝的創作」であったと申し上げておきます。  
さて、どうしても今一つの、藤村先生に戴いた、「ご縁」に触れねばなりません。 それは、先生の「緑陰叢書」という出版のことです。私はそれを研究対象として語ろうというのでなく、その動機の深みに降り立とうというのでも、ない。また、それぞれの、経済上の収益とか損失とか、製作過程や、読者へ流通の手段や実際などを、コト細かに、問題にしようというのでもありません。それは、もっとふさわしい篤学の方にお願いしたい。では、何故に。「緑陰叢書」が、文字通り「作家による自費出版」であったという簡明な事実、私は、それに眼を止めるのです。
ご承知のように「緑陰叢書」の第一篇は、あの「破戒」です。明治三十九年(1906)三月の、まさに画期的・文学史的な大事件でありました。次いで明治四十一年十月に「春」が、さらに第三篇として明治四十四年十一月には、「家」上下二巻、が刊行になります。第四篇は短編集の『微風』でした、大正二年(1913)の四月刊行。島崎藤村による、少なくも第三編まではハッキリしております、著者「自費出版」による「緑陰叢書」は、この大正二年で、跡を絶ちます。実に、この、同じ、大正二年四月のことでした。藤村は、「新生」事件を契機に、以後三年にわたるフランスヘのいわば「流刑」を自身に科したのでありました。「緑陰叢書」を、なぜ、藤村先生が考え出されたか、かすかに仄めかした物言いは、たしか「家」のなかでも、なさっていたようでした。
私は、それにも深入りしてみる気は今は無いのですが、また顧みて、小説家が、雑誌ならともかく、自作を単行本として出版するのに、出版社に頼まず、自分の手で出版する、といったようなことは、日本の近代、島崎藤村以前に、また以後に、有ったことでしょうか。現代では、どうでしょうか。申すまでもなく「緑陰叢書」という「出版社」から出されたのでなく、先生ご自身で命名された、これは藤村が藤村の作品を出版する「看板」でありました。むろん、他人の作品を出そうとはされなかった。
たしかに、無名の折に、「自費出版」で出発する書き手なら、今でも少なくはないでしょう。今日でも「詩歌の本」にはその類が多い。殆どがそうだとさえ言える程です。が、それでもなお、それなりに出版社らしき所から出版したという「体裁」だけはとっています。私家版ではないんです。藤村先生の「若菜集」も、春陽堂というきちんとした本屋から出版されていています。費用を自弁されたか、原稿買い上げだったか、印税が支払われたか、それとも出版費用は作者の手で版元へ支払われていたものか、そういうことを、こまごま調べてみたことはありませんが、結果として藤村先生の懐が大いに膨らんだ、なんてことは無かったかと思います。いくらかは、いや、大いに、不如意な実感をもたれたのではないか。その結果として「緑陰叢書」という作家自身の手になる出版、私家版が着想されたのかも知れない、と、そう推察してもいいのではないか。
現に、「著作の出版に関する経済的な問題」についての、「藤村の神経は、かなりこまかかった」と推測している、研究家や批評家はおられます。例えば、詳細な実証に優れた学風をもった長谷川泉氏は、「藤村は、『若菜集』以来の詩集出版で味わった、出版資本家と著作者の間に存する、封建的な隷属関係が、嫌いであった。『破戒』が、先ず自費出版の形をとり『緑陰叢書』第一篇として刊行されたのは、文学者の経済的自立と生活権の確立を期するためであった」と、明白に断定されていますし、これを裏付ける藤村自身の明白な言及も、有ります。
もう、よっく知られた事実でありますが、『破戒』の刊行に当たって、藤村は、妻である冬子夫人の里の秦家に、「四百円」という資金の提供を求めていました。それだけではどうでも不足で、長野県佐久の大地主、神津猛にも援助を懇願し、神津氏に宛てまして、『破戒』出版費用の明細を手紙に書き出した、文字通り「血のにじむ」ような、決意と苦境とを述べた手紙が残っています。当時の藤村は、妻だけでなく、すでに数人の子の父親でした。文学も、成し遂げるに容易ならず、実生活も維持するに容易なことでなかった。妻の実家から融通された金額も、その何割かは生計にあてざるをえなかったと、藤村は、神津猛に、ひたすら援助を懇願また懇願していました。しかも、そんな「貧」の結果として、相次いで藤村は三人もの我が子を死なせ、ついには妻をも死なせたのでした。
「経済的自立」を図ってそういう血のにじむ苦労を経てきた島崎藤村が、小説「嵐」に前後した名作「分配」のなかで、『破戒』出版の昔を顧みながら、以下、こんな風に書いている意味は、歴然としています。 即ち、「私はあの山の上から東京へ出て来て見る度に、兎にも角にも出版業者がそれぞれの店を構へ、店員を使って、相応な生計を営んで行くのに、その原料を提供する著作者が、少数の例外はあるにもせよ──食ふや食はずに居る法はないと考へた」と。これこそは、「著者」なる立場からする「出版業者」への、まことに痛烈な、しかも意義ある批判であり、指弾であったと云わねばならないでしょう。  
忘れてはならない、そういう藤村でありましたことを。
実を申しますと、私は、此の「緑陰叢書」という単行本発刊のシステムに、早くから注意をあつめ、何かしら「理想的」な印象をすら持っておりました。「出版」繁栄へと向かう時節に、藤村のとった姿勢は、一見時代を退行するような感じでもありますが、さにあらず、これは、実に意識的な姿勢、どこかで退行どころか、大きく「時代を先取りした予言的な作家の活動」かも知れないぞと考えていました。
そして現に今、此の私は、もう十七年余に亘り、もう七十六巻の多きを数えて、私自身の、いわば「緑陰叢書」を、いえ名乗りは違いまして「秦恒平・湖(うみ)の本」という、「全作品・私家版シリーズ」を刊行し続けているのです。 (実物を見せる) 現役作家の手になる、そんな例は、つまり作品が、作者から読者の手へ、日本列島北から南まで、海外にも及んで、直接手渡され続けている「出版」の例は、他に無いのです。私の、このような作家としての営みを、私は、まさしく藤村先生の「緑陰叢書」に学んで、実践してきた、いいえ実践し続けて行くのです、この先も。
では何故、そういうことを、私は、始めたのか。
「湖の本」の第一巻を刊行しましたのは、昭和六十一年(1986)の六月、桜桃忌の日でした。太宰治賞作「清経入水」から出版し始めたのです。
私は、太宰賞を受賞するまでに、つまり文壇にはまだ公認されない一人の作家予備軍として、実はひっそりと、四冊の私家版を、そうですね一冊ごとに、少ないとき150部、多くて三百部ほどずつ造って、知人に配っていました。イザとなるとそんなものを貰ってくれる知人なんて、少ないものです、狭い家に余ってしまって。で、知人の他には、何にも誰あれも知らない文学青年は、尊敬していた谷崎潤一郎や、志賀直哉の住所を調べたあげく、恭しく送ったりしました。思うだに冷や汗ものです。小説家では他に中勘助、詩人では三木露風、歌人では窪田空穂に送ったのを、今もよく覚えていまして、なんと谷崎先生をのぞく他の四人の先生からは、お返事まで届いたのですよ、どんなに嬉しかったか、想像していただけるでしょう。で、数年のうちに続いて四冊も出しました、その四冊目の私家版が、どこをどう経巡りましてか、著者の私の全く知らない間に、太宰治賞の最終候補作として選考の輪の中へ、差し込まれていたのでした。太宰賞は新人賞ですからね、作品は応募なんですよ。で、秦さん「応募」したことにしてくれないかと、筑摩書房から、私の勤めていました職場に、医学書院という出版社のデスクへ電話が入った時、どんなにビックリ仰天したか、これまたご想像してみて下さい。そして当選し、晴れて小説家として「文壇」に登録された、いわば招待されたのでした。「藤村、漱石、潤一郎」と、けれんみもなく大きな大きな名前を押し並べた記者会見は、その時、のことでした。
以来、十七年間を経た、昭和六十一年、一九八六年の同じ「桜桃忌」を期して、何故、私が「緑陰叢書」の、跡を慕うようにして、私自身の手で、「湖の本」シリーズを刊行しようとしたか。本が出してもらえない、だから、自分の手で…か。全くそうではなく、その時までに、私の市販単行本は、らくに七十冊に及ぶほど出版されていました。ずうっと、一年に四冊五冊六冊ずつも私の本は出版されて、私の本の広告が、月々の新聞・雑誌に出てないことはないような、人も驚き羨むほど、その点では、此の世間で、えらく厚遇されていたのです。そしてその後も、ずうっと、本は出続け、今は百冊にも及んで、もう、超えているぐらいです。
それなのに、何故か。
出た本が、あっという間になくなり、そして純文学や、批評・評論・エッセイというジヤンルでは、「増刷」などということは極めて例外に属するのですね。つまり、引き続いてその本が、あの本が、「読みたい」「探しても無い」と読者に嘆かれるわけです。ああ、これじゃ読者も気の毒、作品も可哀想、書いた作者も残念至極。で、今の「出版」企業の在りようでは、少部数の増刷を期待するなんて、実は或る意味で酷なはなしなんですから、では、それならば、私自身が、「編集」の経験と腕前とを活かして、出版に肩代わりして、本を、要望のある読者の手に、自身、お届けしましょう、と。在庫を常に確保して、「読みたい」人には、即日、ご希望の本を送ってあげられるようにしましょう、と。絶版・品切れ本を再刊するだけでなく、シリーズの中で、新刊もはさんで、途絶えなく刊行しましょう、と。と、そういう事業に展開していった、それが、もう、まるまる十七年間を経過しまして、実は、今日明日にも、創作とエッセイとを通算した「第七十六」巻めが出来てくるのです。家に帰るとすぐ、私と家内の手で、継続購読予約の読者の手に、それを、荷造りして、送り出すのです。  
「本=作品」というと、「作者と読者」という関係が、真っ先に大切と、建前では、誰もが考えます。しかしながら、今日の「本=作品」をめぐる環境は、「読書=本を読む」より先に、「販売=本を売る」という資本の原理が厚かましいほど先行していますから、「作者と読者」の関係なんかよりも、「出版と著作者」の関係の方が、遙かに重要視されています。事実は、「著作者」なんぞ括弧に入れられ、全く「出版主導」にただに従属・隷属している、というのが実態に近いでしょう。私は、よく嗤って云うんです。作家というのは、出版社の「非常勤雇い」に過ぎないと。そして此の、出版と著作の両者が、揃いも揃って、「読者」とは即ちただの「購買者」であると認知するだけで、「読み手」としては尊重していない。「読者とはほんとうに本を読む人か」と、疑念すら持ち、それはどうでもいい、「読者とは、本を買う人で」「それでけっこう」という位置づけで、つまり読者を、「頭の中身」より、ただの「頭数」として「勘定」してしまう。これが、「出版主導」の「紙の本=ペーパー・メディア」環境になってしまい、「ベストセラー・システム」という幻想のなかで、ただに「本が売れない」だけでなく、「好い本は売れない」「売れないから造らない(出版しない)」という「商習慣」に埋没してきた。悪循環してきた、わけです。今では、心ある誰でもが、それに、気が付いています。
例えば今、図書館活動の在りようが問題になっていまして、日本ペンクラブでも、いち早く「図書館」向けに「抗議」声明なんか出したり、「激突!! 著作者と図書館」なんてシンポジウムを開いたりしました。この際も、著作者の尻を押すような顔をして、「出版の資本原理」がずしりと坐っているわけですが、かんじんの「図書館利用者」である「読者の意向」などは、出版も著作者(と称する一部の売れ筋著作者も、)誰も、いっこう、確かめようとすらしない。問題にもしていない。
読者とは「質」ではない、「数」だと考えているからです。図書館を利用する読者達があるおかげで「本が売れない」と、かなりもかなりも短絡して、大手出版も、(小さい出版社たちは、むしろ逆さまのことを考えていますが、)また著作者の一部も(私をも含む大多数の書き手達は、やはり逆さまのことを考えているのですが、)ま、彼等はハッキリいって、眼前の利害感情や感覚に奔走して、そう、本気で図書館はヒドイというふうに憤慨しています。本は読んで貰って「なんぼ」のものとは考えていない、まさに売れて「なんぼ」のもの、と、質は二の次なんですね。
さてさて、島崎藤村は、何故に、「緑陰叢書」を発想したのでしょう。それには、出版支配の「主導ないし先導」や「肥大化」に対する、たとえかすかでも、先見的な警戒心が、働いていたからです、それは、さっきもハッキリ申し上げました。著作者としての、少なくも「自由な創作」や、「読者への親愛や期待やアピール」、また微妙に関連してくる「著者の収益面」に関する「擁護の気持」が働いていたわけです。もう一度、小説「分配」の言葉を、よく聴いておきましょう。即ち、「私はあの山の上から東京へ出て来て見る度に、兎にも角にも出版業者がそれぞれの店を構へ、店員を使って、相応な生計を営んで行くのに、その原料を提供する著作者が、少数の例外はあるにもせよ──食ふや食はずに居る法はないと考へた」と。これこそは、「著者」なる立場からする「出版業者」への、まことに痛烈な、しかも意義ある批判であり、指弾であったと、私も、今一度胸によく納めておきたいと思うのです。
これ以上は、もはや藤村先生に直接伺えることではないし、研究者が、率先この辺を、一度は考えてみるべきではないのでしょうか。藤村先生ご自身の「自費出版」であったとはいえ、その実態と成績とが、いかがなものであったか、分かりません。分かりませんけれど、ま、大きなお蔵は建たなかったことでしょう、先生の経済的な情況は、もっと後々の『嵐』や『分配』などを読んでおりましても、いくらか察しはつきます。私は思うのです、むしろ藤村先生の配慮のうちで、想像以上に重く、いつも、いつまでも、恐らく終生変わらなかったのは、ご自身の「読者」達を、たいへん大切に、常に、より身近に遇する、というお気持ちが有ったのではないか、と。「作者と読者と」が、索漠と、大きく乖離していては、実に「好ましからず」という、先生独特の姿勢、日本の作者達にはあまり従来考えられなかった、しかし実に健康で健全な「価値観」ではなかったか、という「推測」を私は持っているのです。多くの年譜的な記載は、それを暗示し、示唆し、表明しているように、私一人は、感じ、かつ共鳴し、敬意を覚えてきたのです。
藤村先生との「ご縁」について、あらまし申し上げましたし、これ以上、もう、くどくど申し上げるのは、よしましょう。これらもろもろ藤村の人と文学への、尊敬や感化や学習を通じまして、いま、私は、自分自身の「湖の本」活動の拡充と同時に、「ペン電子文藝館」の世界化活動にも、ほとんど身を粉にして、力を入れています。此の活動を、私や仲間達は、いわば「植樹」活動と同じに自覚しています。一本、一本、良い樹を此の「電子文藝館」という文学の山野に植え続けて行こうと。そして申すまでもなく、私は、最初の一本、よく繁って見るから美しい樹木として、島崎藤村、初代ペンクラブ会長の手になった『嵐』という小説を、躊躇いなく選んで、植え込んだのでした。  
『嵐』とは、どんな小説でしょう。その書誌的な解説なら、みなさん、どこででも容易く手に入れて読むことが出来ます。「嵐」を一篇の小説として作品論を展開することは、むろんこの際の私の任ではなく、ふさわしい大勢の学究がおいでです。今更に、特にこれを付け加えたい論じたいということは、私には無い。
小説『嵐』は、論じたい作品ではない。じつに、「読んで」嬉しい気持のする小説です、『分配』などと、ならんで。大正十五年九月「改造」に初出、藤村先生は五十五歳、たいへん好評の作品でした。ただに、私生活に取材しただけでなく、「内も外も嵐」という述懐がありますように、時代の関心や事件とも関わっています。文体は、誠に静穏、かつ素朴ななりに様式化をさえ帯びていまして、いかにも「藤村文学」が、静かに落ち着いたなあと思わせる。それまでの、響き高く、それが時には曰く謂いがたい高ぶりとも聞こえたような文体から、静かに平談して、しかも卑俗に流れない。藤村自身もこの作に触れて云っていますが、「世界大戦後の新しくあわただしい空気の中で、『子ヲ養フ、風塵ノ間』と昔の人の詩の句にあるやうな心持ちで書いたもの」と。  父の、子たちにあたえた愛情と配慮との、最も静かに美しい表現を得ているところが、『嵐』の、嬉しい限りの、温かみ、だとは、誰しもが肯定するところでしょう。この作品『嵐』の舞台は、飯倉片町の家でした。書かれたのも、此の家ででした。大正七年十月、藤村四十七歳のときにこの家に入り、六十五歳の昭和十一年まで藤村は、此処に住んで、結局ながくながくこの家を動きませんでした。「新生」はここで書かれ、全十二巻の藤村全集の刊行されたのも、此処した。あの大作『夜明け前』も此の家で書かれたのでした。一番近いポストへも二町、たばこ屋へも二町、湯屋へ三町、床屋へは五、六町もあるという、むしろ不自由な「谷蔭のやうな」家でした。そこへ父藤村は、男の子を三人、女の子を一人と、「新生事件」このかた離散していた子供達をみなあつめて、「家」の「内の嵐」に真向きに正座して暮らすような日々を送ったのでした。
ところで、でも、こういう事は申し上げて佳いのかも知れない。「嵐」は、明らかに二つの、いいえ三つの作品からの「到達点」を示しています、と。一つは「家」の、もう一つは「新生」の。そして、藤村の「実生活」面からする、じつに緑陰叢書第一巻「破戒」からの苦闘を経てきた「到達」でもあったわけです。では、藤村は、ひとまず「文学・創作」とは別問題としまして、この間に、どんな「現実の苦闘」「生活の苦闘」を経てきたか。一つは、明らかに「経済」問題です。作品「破戒」は、まさしく藤村・島崎春樹の家庭を破壊したとすら謂える、或る意味で、「貧」からの所産でした。多大の経済支援を妻冬子の実家「秦」家や、また知人に頼らずには、生活も、出版も、ともに成り立たなかったし、結果として、現実に何人もの娘や、また妻をも藤村喪いました。「破戒」それ自体は、文学史の栄光にも包まれましたが、一部には激越な非難の的ともなりました。「緑陰叢書」という自費出版の発想そのものにも、根には、作家として「経済的な自立」を図ろうとした、優れて自覚的な「出版」資本への「批評」「非難」の敢為でもありました。
今一つ、「家」からの重圧がありました。多くの親族との、忍びがたき経済的な葛藤が、すでに、いろいろに藤村の肩に、背に、のしかかっていましたし、深刻な夫婦生活の危機をすら含んだ、「家族・家庭」の、雪崩落ちるような破損と離散とが、「破戒」から、「家」へ、「新生」の時期へかけて、小絶えなく藤村を襲っていました。小説「嵐」は、そのような家庭の崩壊から、かろうじて、「二人育てるのも三人育てるのも同じ」「三人育てるのも四人育てるのも同じ」という思いの内に、亡き妻が忘れ形見の「子供達」との「家庭生活を回復」して行く小説でした。その子供達の一人一人には、「月給」という名の小遣いも必要なら、引越しして、空間的にも便宜の上でも「ゆとりのある家」を探し出すことも、また必要でした。じつに改造社による円本の発売、当時にして二万円というオソロシイほどの印税収入、その子供達への平等な「分配」に至るまで、島崎家の「貧」、または、それに近い状態は続きっぱなしであったのです。もとより、家庭という埒内で完結し得た経済問題ではなく、藤村には終始「親族」との関わりが有り続けました、いろいろに。
そこで親族・血族という「家」との関わりで、もう一つ云うならば、幾重もの意味での、「病」の重圧が、藤村を苦しめ続けていました。「破戒」「家」「新生」から、その後七年の「寡作の空白期」を経て、文字通り外から内からの「嵐」の襲いくる音に藤村は身をすくめていましたが、その間には、子供達の相次ぐ貧による死、妻冬子のさながらの窮死、そして親族にも相次いだ、死や、深刻な病気。その死や病気のかげで、くろぐろと口を開けていた最も深刻な「病」が、父や、姉を襲っていた精神の病であったことはよく知られていますし、さらに加えて、また「家」にも「新生」にも、なまなましく現れてきた「性的な」淫蕩・愛欲の絡まった、「家」と「血」との暗い騒がしい葛藤や懊悩が、島崎藤村を「執ねく」捉え続けていましたから、それにくらべれば、「嵐」の数年前に藤村自身を襲った病気・病臥などは、或る意味でまだ堪えやすい苦痛に、部類されていたことでしょう。「貧」と「家」と「いわば血の病」とを背負って、性的にも経済的にも、彼自身の云うほどは淡泊であり得なかった島崎藤村は、それらの一切をも、外なる時代を襲う歴史的な「嵐」とともに、避けがたい「内なる嵐」と感じながら、小説「嵐」から「分配」への時点に、やっとやっと辿り着いていた、と、いわざるを得ません。
そしてそれが生活上の「嵐」であるだけでなく、文学・創作的にも「嵐」を乗り越えて行く島崎藤村であり得たことで、この大正十五年の作品「嵐」は、言葉の正しい意味での、本当の意味での藤村「新生」「再生」「甦生」を、やっとやっと遂げ得た「達成であった」と謂うべきではないでしょうか。
この上に深く「嵐」を追いかけることは、しないでおきましょう。作品を丁寧に、また深く楽しんで読んで読み直せば、すべて足りることであります。
で、時間さえ許されるならば、一番最初の問題提起、というより私の発言に戻りまして、ほんの少しだけ、「感じ」というほどのことを申し上げて終わりたいと思います。例の尊敬してきたのは「藤村・漱石・潤一郎」という、もし仮に付け加えるなら「松本清張」かと申し上げた、その私の理解についてです。
もとより三人四人の大きな作家を比較し論ずるゆとりはありませんが、少なくも先の三人について申すなら、藤村はやり「家」の歴史から日本の歴史へ大きく歩んで出て行こうとした人でしょう。漱石は「心」の人でした。心には、「精神・魂」の側面と「分別」の側面をもち、その分別は「心理という論理」の駆使に傾きます。漱石は「静かな心」というものをついに持てないであろう人間の苦悩を、「疑いやすき心理」により書き通したように思われます。潤一郎は「女」を書きました。それも、善悪を度外視した「美」として追究しました。そしてこの三人の作家ともに、「性」に動かされました。藤村は「新生」を求めて安住なき嵐の旅人として久しく悶えました。漱石は「明暗」に惑いつつ、何度となく秘めた性の嘆きを、罪と感じつつ、狂気や自殺を通して業のように書かずにはおれませんでした。そして潤一郎は、若くより老人に至るまで、終生、性的な「瘋癲」を生きることで、「美」を建立しようとしました。彼等はいずれも「我という人の心は我ひとり我より他に知るものはなし」という潤一郎の歌に代弁されるように、「我が胸の底のここ」にある洞察や心理や観念を吐き出すように紡ぎつづけましたが、三人とも、ついに「政治」という社会的・歴史的な犯罪の領域には近づきませんでした。藤村先生だけがわずかに歴史とかかわることでそこへ接近しかけましたけれども。そういう領域へ、早く進んで踏み込み大きな仕事をした一人に、わたしは「松本清張」のような存在を顧みても良いのではないかという推測をもっておりますけれど、その点は、もっと適切な把握が必要かも知れません。いずれにせよ「家」「心」「美」を「性」的に通分し得た、打つて一丸とした大作はまだまだ日本文学に見当たらず、まして「政治」と「犯罪」を通じて文学そのものが大きな分厚い「社会的・文藝的」産物たり得た例は皆無なままに、むしろ現代文学の細小化こそが促進されているのではないかなあと、ま、私は眺めているわけで御座います。  
 
藤村「破戒」の背後

秦恒平でございます。こういう壇の上に立とうとは、ゆめ、思いませんでした。お引き受けしてしまったのを、何度も後悔しました。皆さんは藤村の研究者でいらっしゃる。私は、確かに愛読者ではありますが、それだけです。他の作家で、曲がりなりに書いたり話したりして参ったことは、幾らか、有るには有りました、が、藤村については、たったの一度も、ございません。難儀なことに、私の読んだような文献は、皆さん、先刻よくご存じなんです。受け売りは、まったく利かない。「藤村」理解に付け加えられるものなど、今さら勉強したって、在りっこないんです。もののはずみというのは、ほんとに怖い…。 ま、事のここに至りまして何を言おうも、無責任の上塗りでしかありません。お許しを願って、しばらくお付き合いをいただきます。あとで質問などして、どうか私を窒息死させないで下さいますよう、前もってお願いしておきます。藤村文学とまともに交錯しない方向へ、話を、あえて逸らすつもりでいます。かと申しまして、逸れきってしまうことの決して出来ない話題ーー私の、と限定させていただきますが、私の「差別」に関する知識なり見解なりを率直にお話ししてみることで、遠巻きに『破戒』の外堀を一寸でも二寸でも掘ってみたいと思うのです。
たいした仕事をして来たわけではありません、が、概して、私の小説については「美と倫理」とか「幻想」とか「王朝の伝統」とか言って紹介して下さる向きが多いのですが、全体の流れでみますと、最も私の力をいれてきました主題は、いろんな意味の「歴史的な差別問題」であったろうと自覚しております。むろん人間差別に対し、反省と抗議を示したということになりましょうか。そして、それは「京都」で生れ育ったことと無縁ではないはずです。京都は、何と言いましても千年の久しきにわたりまして、いわば貴賤都鄙の集約された町ですし、私は、その中でも、歴史的にも、風土的にも、社会的にも、色濃く寺社支配の残っています東山区で、明らかに人を差別してきた一人として、育ちました。東山にも、鴨川にも、ごくまぢかに育ちました。「日本の歴史的差別」を考えますときに、この山は紫の東山、水は明らかな鴨川は、無視できない大きな大きな意義をもっておりまして、そこに育まれました問題が、また、藤村の『破戒』に見られますような差別問題と、そう疎遠なものではありえないという事を、問題を、かなり時間的にも空間的にも押し広げまして、お話ししてみようと思うのです。それならば、藤村研究と即かず、またしかし離れることもなく、私なりに、責を塞ぐことが出来ようかと思うのです。 長い前置きのついでに、それでも、藤村と私との関わりをちょっと、ごく私的にお話しして置こうと思います。
私の育ての母親は、おそらく自分で実際に読んだということは無かったに違いありませんが、明治三十四年に生まれておりまして、小説家や詩人の名前を、ときたま、口にするぐらいのことは致しました。例の、紅露逍鴎といい夏目漱石といい、芥川、菊池寛、谷崎潤一郎なども、いま思えば、まるで知り合いの小父さんみたいに口にしましたし、泉鏡花や国木田独歩や田山花袋の名も知っていました。どういう情報によって知ったものか、我が家には、絶えてそのような小説本の影も形も、在ったためしは無かったのです。ただ、祖父の趣味だったと思われますが、漢籍はかなり豊富にございました。唐詩選、古文真宝、白楽天詩集などは、子供ごころに気をひかれ、よくひろげました。日本の古典も、湖月抄や俳諧ものや謡曲本などがあり、例えば謡本の、扉の裏の梗概など、面白がって読んでいました。私は、ことに日本の国史に興味をもち、明治時代の通信教育の教科書などがありましたのを、むさぼり読みながら幼稚園から国民学校三年生ぐらいまでを、つまり戦火を避けて丹波の山奥に疎開いたしますまでを、京都の町なかで過ごしました。すぐ近くに、上田秋成や、たぶん与謝蕪村なども住んだことのある、知恩院の袋町がありました。
ちょっと話が前後しましたが、じつは島崎藤村の名前も母に聞いたのが最初でした。母は藤村の作品として『若菜集』と『破戒』を、名前だけでしょう、知っていました。詩と小説とであることも知っていました、が、読んだとは思われません。 私は、恥ずかしながら、国民学校の、あれは二年生だった筈ですが、自分も小説というものを書いてみたいと思い、なんでも、武者修行に出て行く侍の門出から書き始めまして、ものの三行も書けずに、こりゃ大変じゃと投げ出しました。小説家の名前ばかり聞いて、なんとなくえらいものに思ったものの、作品は全然知らない。小説といえば、猿飛佐助や霧隠才三のようなのを書くものと思っていたのが、これで、ばれてしまいます。なんだか、母の話ばかり致しまして恐縮ですが、今年で九十六になり、まだ、なんとか私や家内と、筆談ができます。耳は全然聞こえません。で…、その母に、あれは私が高校の一年生ごろのことでしたが、谷崎さんの『細雪』が一冊本で出ていたのを、なけなしの小遣いで買いまして、読みまして、母にも見せました。母は読んで、「これは、ええ小説やね」と、一言、感想を漏らしました。あのとき私は、自分の母を尊敬しました。そして、もし本が読みたいだけ読める暮らしを、もし母がして来れていたなら、いろんな知っていた小説家たちの名前も、もっともっと母の心を豊かにし得ただろうにと、気の毒に感じました。残念な事に、私が、どんどん本を溜め込んで行くようになりました時分には、もう母は、骨の折れる読書などに、気を向けようとはしませんでした。
私自身は、藤村文学との出会いは、むしろ、遅い方でした。筑摩書房から現代日本文学全集が出て、第一回配本が、島崎藤村集でした。昭和二十八年八月初版で、それは久々に『破戒』が初版本文に復元された本でした。高校三年の二学期に入る直前でした。インクの匂いだかクロースの匂いだか、プンプン・クンクンするのを、清水の舞台をとびおりる気分で ー三五0円でしたー 買ってきまして、それはそれは夢中で読んでいました時に、『新生』という作品についてふと話しますと、母は、妙に、にやっと笑いました。母は、つまりはスキャンダラスに「新生」という小説のことを、聞き齧っていたんです。いったい、母だけじゃないんでしょうが、私の母はとくに、えらい人の名前を、或る種のスキャンダルと一緒に覚えていることが多かった。作家だから尊敬して覚えていたんじゃない、作家には自然スキャンダラスな話題がこびりついていたということになります。作家だけじゃない、母は、上村松園といった閨秀画家のことも、要するにアンマリド・マザーとして認識しながら、私に、その名をいつ知れず教え込んでいました。そして私は、後年に彼女を、松園を、小説に書かずにいられなかったのでした。スキャンダルであろうと無かろうと、「新生」は私をびっくりさせました。ああいう話にびっくりしたというのでは、ありません。作品の力にびっくりしました。「新生」を読み出した日、その頃持病のようにしていました腹痛に、夕方から悩んでいましたが、ねじふせるようにして二階の自室に腹這いまして、うんうん唸りながら「新生」に取り付きました。そして、いつのまにか腹痛など忘れ、寝るのも忘れ、明け方までまじろぎもせずに三段組みの長編を、ぜんぶ読んでしまいました。母との間で「新生」が話題になったのはその徹夜のためでした。そして母は、なぜか、にやっと笑ったのです。「新生」に優るとも劣らぬ感銘を得ましたのは、それより二、三年して古本で手に入れた「家」でした。さらに雄大な感動をもって読み終えました作品は、「夜明け前」でした。これは、しかし東京へ出てきてからでした。講談社版の、百冊以上もある全集を一冊一冊買っていました。そのうちに、私自身、小説を書き始めていました。その頃に「夜明け前」を読んで、深々とした読後感に満たされました。笑っちゃいけません、私は、こんなふうに思ったんです。これは、この小説は、長い長い日本の無明長夜を、とりわけ「神と仏」とが熾烈に闘って来ての「夜明け、前」を書いたもんだと。そういう長いサイクルで、私は、ものを見てしまうヘキが有るんですね。しかし、それについては、今日は、これ以上触れません。
昭和四十四年六月に第五回の太宰治賞を受けましたとき、選評のなかで、太宰治とずいぶんタチの違う作風だと言われていました。事実、私は太宰をあまり読んでいませんでしたし、太宰治賞のことも、雑誌「展望」の存在すら知りませんでした。賞は、偶然の事情で向こうから、招待状のように舞い込んできたのでした。で、その受賞の記者会見ででしたが、尊敬する作家はと聞かれました。即座に答えたのが「藤村・漱石・潤一郎」でした。一瞬座がどよめいて、なんだかむちゃくちゃに写真のフラッシュが焚かれ、ぼおっとしました。けれど、そう言ったことは実感でした。今でもそう考えています。この三人、家と詩性の藤村、私と心との漱石、性と美との潤一郎の、それぞれに抱えた文学的課題が、打って一丸となって達成されるほどの日本文学が生まれれば、どんなに立派かと、ま、こういうのを素人考えというのでしょう、が、自分の仕事は棚に上げておきまして、夢見ているという次第です。  
そこで、唐突に、本題に入ります。ところが、その本題も、なんだか閑話休題じみ、とりとめないと、そう思われるかも知れません。微妙に難儀な話題であることを、学問学会の名においてご了解いただきながら、ちょっとだけ、ご一緒に考えてみたいと思います。私ごとばかりを申しますが、『からだ言葉の本』というのを、昔に、筑摩書房で出しております。「腹芸」「肘鉄」「目を付ける」「腕が立つ」「背に腹は替えられぬ」「尻餅」「顎を出す」「爪弾き」「肩すかし」などと挙げますだけで、私の命名するところの「からだ言葉」は、説明の必要もなしにお分かり戴けましょう。おそろしい数、これが日本語の中にございます。そして日本人ならほぼ説明の必要なく、意味をとり違えることなく、日々に愛用され慣用されています。いわゆる慣用語の最たるものです。その本には、その語彙集も大雑把に編んで収めました。ついでに「こころ言葉」も…。「心根」「心得る」「心づくし」「心から」「気は心」「心底」「無心」などというもので、これまた慣用語の微妙なものとして、日本語を特色づけております。これについても、昔から、継続して発言し、また書き次いで参りました。日本人の「からだ」と「こころ」に就いて、ものを言うのなら、これら極めて具体的な「からだ言葉」「こころ言葉」を通して考えるのも、実に実に大事な手続きであると、ま、そう信じておるわけでございます。で、その厖大な量にのぼります「からだ言葉」の中でも、体の、どの部分に熟した「からだ言葉」が多いかといえば、第一に「手」です。ものすごく有る。次いで「目」と「頭」です。それぐらい「手」「目」「頭」に、人の意識は集まっていた。人体の部位で、「からだ言葉」に熟していない箇所は、ま、足の裏ぐらいなものです。掌には「掌を返す」というのがある。
「手」という漢字を宛てた「手ことば」の、最もお馴染みのものを挙げてみますと、上と下、これに手の字を添えた「訓み」が幾種類もありますね。「じょうず=へた」「かみて=しもて」「うわて=したて」「じょうて=げて」「じょうしゅ(ず)=げす」中学だったか、高校でしたかの国語の教科書に採用されたこともあり、もう古証文なんでありますが、要するに、人間は「手」を使います。最初は「手当たり次第」の「手さぐり」ですが、おいおいに「手順」「手続き」を発見して行きます、つまり文明が「手」に導かれて行くわけであります、が、この、「手さぐり」「手当たり次第」から「手順」や「手続き」への道程で、適切な「手加減」や「手直し」が、細心に成されねばならない。ごく象徴的・比喩的に申すのだとは、ご理解願いますが、ここのところで先ず「じょうず」と「へた」とが、個人の、集団の、種族や民族の、国の「運命」を分けて来た。それが、「歴史」です。歴然としております。あげく「じょうず」なものは、いつか「かみて」を占め、いつも「うわて」に出て、「じょうて」の文物を、欲しいまま用いまして、「じょうしゅ」つまり王や覇者や貴族や上つ方と、名乗りも、呼ばれも、するようになる。一方、「手さぐり」も「へた」なら、ものの道筋を、優れた「手順」「手続き」として適切に所有できない、つまり「へた」なものは、いきおい「じょうず」の「しもて」に立つよりなく、万事に「したて」に出て、「げて」ものばかり与えられ、「げす」と呼ばれますことに、甘んじなければならない、と…こういう個人や集団や国の歴史がこの地球上に展開されて来たわけであります。おおまかに申しますと、「上手」か「下手」かで、何と申しましょうか歴史上に分担すべき、広大な意味での「手分け」が出来てしまうわけです。私どもも、その「手分け」に応じ、生きている。生活している。これで、誰も彼もが例えば「文学」研究では、世の中成り立たない。広い世間は、つまりは「手分け」の出来た世界であります。そしてこの「手分け」というヤツが、また至極微妙でありまして、満足している人もあり、甚だ不満、甚だ苦痛な分担を強いられている例もある。どうも「手分け」に満足し切っている人の方が少なくて、そこに進歩、向上、上昇志向も働くわけでしょうが、つまりは、損や得が、どうしても「手分け」には、ついて回ります。そして大きな得を自覚している連中、つまりは「じょうず」に「かみて」を占め、「うわて」に出てきます連中ほど、得な手分けのまま、子々孫々まで伝え継がせたいと頑張ります。得な方の、つまり世襲です。王侯貴族たちがそうでしょう。地主や金持ちもそうでしょう。こういう連中が、世襲の「得」を、永代抱き込むためには、いきおい「損」な手分け、「損」な世襲を他者に押し付けておきたい。うっかり「手分けの手直し」などしては何が押し付けられるやら分からない。革命を恐れるのは常に「得」な、「楽」な手分けに安住してきた連中であり、一方不利な、「損」な、「苦痛」な手分けを代々世襲させられた者は、当然ですが、その桎梏をはねのけて、「手分け」の「手直し」を切望するでしょう。 ま、大なり小なり、人間の世の中は、そういう損得や、分担・手分けをめぐる複雑微妙な網目を成していると申しましても、これを否定できる人はいないでしょう。
一つ、ここに、大きな大きな円卓が在る、大勢が、この円卓を囲んでいるとしましょう。円卓の上には、無数の、形あるもの・形無きものが載っていると、想像してみて下さい。そして、いちばんすばしこく上手なヤツが、真っ先に手にし、一抜けたと、一人高い場所へ上ってしまいます。その手には王冠が握られていた。ま、そんな具合に、皆が、てんでに、我勝ちに、円卓上のモノを掴んでは、己が手持ちに従い手分けの場に赴きます。そこに「損得」や「美醜」や「強弱」や「苦楽」などの選択肢が働いてくるのは自然当然です。少しでもマシなのを取りたい。そして後へ残ってくるものほど、不満や不足や不愉快や不利益の度が強くなる。そう想像して、不自然ではないはずです、あくまで象徴・比喩的にですが。 では、いったい、最後まで円卓に残されてしまうのは何なんでしょう。私は、最後にその場に残った二人の兄弟が、目の前にした二つのモノは、それは、一つは「神」で、一つは「死体」であったろうと思っています。
文明を持っていようと、持っていなかろうと、「死」「死者」「死体=死骸」の三つとは、人類在るかぎり、太古このかた、付き合ってきた。付き合わずには済まなかったのです。中でも「死体」と「死」という観念、この二つは、最も早く、人間の視野と理解とにこびりついたと思います。見るも無残な死骸=死体の、変容と腐乱は、古事記のイザナミの死に、黄泉の国の描写に、はっきり見えています。「死」への恐れ=畏怖、「死体」の穢れへの恐れ=忌避。その「死」から、死者なる「神」が生まれ、「死体」からも、死者なる「神」が生まれました。前者の神は、おそらくは古事記に「そのミミを隠したまひき」とありますような、根源の姿を自然と化したような、観念の神でしょう。一方、具体的に「蛆たかり、とろろぎ」て腐乱死体と化してしまう変容の死者も、神とされ、敬遠ないし忌避の対象となります。霊魂の神でしょう。歴史が堆積すればするほど「死」の観念は、むしろ背景にますます隠れ、前景に「死者=神」と「死体」とが、処置を要する対象として、いつも取り残される。取り残したままでは済まなくて、結局は、誰かに、その面倒を見て・扱って貰わねば困るわけです。円卓の側に、最後に取り残された兄弟は、余儀無く、兄が「神」を、弟は「死骸」を、己が分担として手にします。「手分け」を、受け入れるしかなかったのです。祭りと葬り。祝ぎと清め。どっちも、欠くことは出来なかった。しかし、誰も、自分ではしたくなかった。いわば、押し付けたわけです。押し付けて置いて、しかし、その手分けを、けっして代わってやろうとはしなかった。身寄りの死者であり、生前は偉大な力をもったり、絶大な愛の対象であった死者の場合ですら、「死体」と化し「神」という死者と化したからは、出来るかぎり専従の世襲者に、代人に、その面倒見を委ねて行きます。平安時代も中期までに、既にその風を伝えております「金鼓(きんく)打ち」のような、死者の供養に、あちこち、霊験で以て聞こえた寺や社へ、金鼓を打ち打ち代理で参詣参拝する、いわば代参を業といたします者が現れています。「死・死者・死体」をめぐって、大きく申しまして、信仰と芸能とが、大昔、神代の昔から、日本でも、しっかり手を繋いでいる。神楽の起源として語られております、例の、天の岩戸前での、あの、アメノウヅメらの「歓喜咲楽」の様子、あれなどは、まさしくアマテラスのための葬送儀礼、ないし魂よばいが、幸いに成功した場面として語られておりまして、いかにも神事芸能の淵源と言い得るものを示唆しております。また、天つ神々の命をうけ、国譲りの交渉役として地上に派遣されながら、国つ神々に籠絡されましたアメワカヒコが、高天原からの矢に射抜かれて死にましたあとの、「日八日・夜八夜を遊びたりき」と語られております「遊び」にも、明らかに葬送儀礼としての芸と遊びのさまが、彷彿としております。
さらには「遊部」の伝承、それに発しまして後々の、「猿女」のこと、「猿さま」の女が宮廷まぢかに出入りしまして、歌・舞いの芸に遊ぶ様子を報告しております『枕草子』の記事、そしてまた万葉集から梁塵秘抄どころか今日の港・港に至ります長きに亘って、いわば水辺の、また山辺の女でもありました遊女たちの、性と芸での神(まれ人=男客)への奉仕など、はなはだ示唆するところの豊かな、「葬りと遊び」との切っても切れない習俗が、否認出来ないわけなんですね。鳥居本といわれ、またお寺の境内にまで、遊所・遊郭ができて行く、水駅ができて行く。参詣参拝という信仰の行為に、そういう女たちの性的な、また遊芸での奉仕を期待する楽しみ、そっちの方が優先しそうな「旅情」の演出が、いかに楽しまれたかは、盛んな熊野参詣や、厳島参詣や、お能の「江口」「住吉詣」「熊野」など、これを支持する例証はふんだんにございます。
芸能がいかに華やかになりましょうとも、そこに、常に死ないし死体、さらには死者への深い畏れや、忌み避ける気持ちが、下敷きに秘め抑えられていたことは、それがまさに、日本での、また世界での、根の深い芸能差別の理由でした。芸能は、死者の荒ぶる霊魂を宥め葬りつつ、裏返しには、生者のために寿福と延年とを祝う職掌にありました。それが「手分け」になっていた。観世・宝生・金春・金剛・喜多といった能楽座のめでたい名乗り、例えば万作とか千五郎とか文楽とか喜左衛門とか成駒屋とか、芸の一つ一つの中仕切りに「おめでとうございまぁす」と叫ぶ雑芸軽業とか、みな、祝う、言祝ぐ、つまり祝言の芸としての役割に忠実な、めでたい名乗りであり作法でありますけれど、その根底には、死・死者ないし死体との膚接が、歴史の名において認知し続けられていましたから、漠然とではありましたが、どこかに畏れ・忌み・避ける態度が持続され、その感情に添いまして、それを利用致しまして、「近世の身分化」が法制的に強行されてしまった。
言うまでもなく、その背景に、その根底に、は、無量無数の差別への前提事例が、古代の律令制の中ですら積み重ねられていて、その丁寧な検索はまだまだ出来ていない。検索されないままに、じつに謂われのない、「人種の違い」といったような決定的な笑うべき誤解、或る意味で我田引水の都合良い誤解が、ことさらに先行してしまいました顕著な例の一つが、『破戒』です。
藤村は、または丑松の意識にも、「人種」という、とんでもない言葉を用いて、差別の理由を固定化していますが、藤村の頭に、その根拠など、ほとんど無い。狭い範囲の慣習を盲目的に追認しているだけです。しかし、そこに「死体=死骸」処理にかかわる何かの視野を有していたことも、また、表現や叙述のなかに幾度となく見受けられる。ただ藤村には、死と死骸とをめぐる久しく久しい歴史上の役割分担、その社会的・階層的な世襲の強要、信仰と芸能との不可分であった伝統、まれ人として漂泊した芸能人たちの祝言芸の根のところへは、認識は殆ど及んでいません。人種差でも何でもない、政治の悪意が便宜に固定化してしまった「手分け」の問題でもあったことを、まったく認め得ない無知のなかで、「破戒」は書かれています。力作であり、文学史的にはじつに貴重な傑作であると推すに躊躇するところは、まったく無い。無い、けれども、そのモチーフかのように利用されました差別問題への認識・知識は、じつに嗤うべきヒドイものでありまして、これに猛然として抗議をよせました人たちの議論は、その観点に限って言えば、実に正当であると同時に、強烈に文学的な批評たりえています。ただ付録かのように扱うのでなく、『破戒』論の基本文献として、つねに参照されて至当な、読ませる文章になっている。
それですら、差別を、近世の政治的桎梏の程度に限定し過ぎています。もっともっと人類社会の根源に発した、「手直し」を拒まれ続けた、不利な、損な、いやな「手分け」、強いられた分業という「手=職掌」の問題として見直すべきだと思う。ところが「手直し」「見直し」は容易に行われずに、それを、「人種」といったばかげた固定化へ、つい、下心や恐れもあって人は持っていってしまいます。その証拠堅めかのように、いろんな勝手な伝説をつくり挙げて行く。じつに歴史の悪意というのはむごいものでありまして、みんなで渡れば怖くないとする大衆は、これに便宜に応じて、片棒どころか、全面的に差別やいじめを当然の役のように振舞って来た。明らかにそういう歴史がつい最近まで、どころか、今も、続いていて、いつまで続くやら知れたものではない。藤村は、何も知らないと言いましたが、むろん、或る面で、これは私の言い過ぎです。 ご承知のように、藤村に『海へ』というエッセイがある。その第一章の冒頭で藤村は、「再生」の願いを抱きながら、「海」という名の「死」と対話しております。
自分の周囲にあつたもので滅びるものはだんだん滅びて行つてしまつた。私は自分独り復た春にめぐりあふといふ心持が深い。私はいつまでも冷然として自己の破壊に対することが出来なくなつた。ふと私は思ひもよらない人の前に自分を見つけた。  
『君は。』 と私が尋ねて見た。
『僕は海から来たものです。』
『海から?』
『さういふ君を誘ひに来ました。』
この言葉に私は力を得た。私はその日まで聞いたことの無い声をその人から聞いたや うな気もした。左様だ、心を起さうと思はば、先づ身を起せ。海から来たといふ人は一 すぢの細道を私にささやいて聞かせて呉れた。私は長年住み慣れた小楼を、幼い子供等 を残して妻が死んだ後のがらんとした屋根の下を去らうと思ひ立つた。老船長よ、死よ、 と呼びかけて地獄の果までも何か新しいものを探し求める為に、水先案内を頼んだ人も ある。死よ、その水先案内を私も一つ頼もう。
例の『新生』事件を背景に、深い読みも浅い読みもいろいろ可能な箇所ですが、私は、そこへは関わりません。ただ、藤村が、「海」に「死」を、「再生」と表裏した「死」を、感じとっていた事実だけをここで指摘します。地球規模に於て伝統的な、いわば単に知識の問題に溶かし込んだだけの、認識だ、とも言えます。同じ伝統でも、島国日本の古来の感性に根差した理解を、奥深くから汲んだものとも、だが、申せましょう。たしかに日本の、死も、生も、海とのかかわり抜きに語ることの出来ない民俗により、支持されて来ました。もとより日本の海は、日本の山へ、いきなり続いています。南方の花祭が天竜川の最上流の山奥に綿々と保たれてきた事実一つを挙げれば、足りるでしょう。そして、それを可能にしたのは川の働きでした。海と山と川とに、日本の死は、死と表裏した生の繰り返しは、支えられていました。さらにいえば海は天とも遥かに溶け合っていました。「アマの原」という時、遥かに天と海とは一つものと意識されていました。国は、天と海とに挟まれた世界であったと思われます。そこに世界と世界との交渉があったのでしょう、天津神と国津神との国譲り神話は、太古の政治ドラマを、優に想像させます。
しかし、その方向へ私は話をもって行く気ではありません。  
話を海へ戻します…と、海あり、川があり、湖や沼や池もある、湿原・湿地もあった。日本の風土は、莫大な山地と狭い平地を覆うようにして、それらに織り成された世界でした。しかも、一言でいえば、つまり「水」に浸された世界でした。海と山と平野を、水が支配していた。「水の神」が支配していたとすら、言えるはずです。それは、あてずっぽうではない。日本中で、真に古社と言われるかぎりの古社に祭られた神々を調べて行けば、ほぼ例外なく「水の神」です。「水神」や「海神」です。もっとハッキリいえば、性根は「蛇」の神が殆どです。諏訪の神事の根は、藁の蛇体を室の中で、神官が大きく育てて行くものです。諏訪湖の「お巳渡り」もそうなら、蛇の化身とされる太刀を逆立て、その上に座って、国譲りの交渉に抵抗したタケミナカタの神話も、それを明かしています。出雲、熊野、三輪、住吉、八坂、松尾、気比、八幡、伊勢、稲荷、厳島、竹生島、白山、佐多、鴨、琴平、丹生、貴船、三島、熱田、籠、鹿島等々挙げれば際限ない、どの神社も、まず間違いなく水の、海の、川の、湖の神々、それも根は、蛇体へと辿り着くことになる神々を祭っているのです。水の神は、そのまま農事や猟り漁りを守る神でも在り得ました。
蛇や龍への畏怖は、人類全体に、大きな根深いものでした。その豊かな生殖の能力を、目の当たりにしていた日本太古の人々にとって、結界を意味したあの「しめなわ」のようなシンボル、青竹や綱で長虫を印象づけた民俗は、極めて自然でした。人の側からも、蛇なる神の側からも、お互いに、ここから先へは、出て来て下さるな、踏み込むな、という微妙な場所に、そういう神社は建てられ祭られてきたことは、その地勢に鑑みまして容易に知れる、見て取れるものです。神ではあるが、それは「生」と表裏した「死」のシンボルでもあったし、その正体は蛇かのように見立てられて、恐れられた。崇められた。
神は祭られるものでした。祭られるものとして祭るもの、神に仕える、奉仕する者、を要求していた。それは重労働でした。「髪落ち体痩かみ」痩せ衰えてと古事記にもありますが、とても女には負担のきつい仕事でした。遊部の職掌を伝えました古伝承にも、喪屋に籠り、死者の鎮魂慰霊に勤めます身分は、どうか男であってもらいたいということを、職掌を伝え保っておりました一族の女から申し出たことが語られております。しかし全体に神に奉仕して、つまり死者の霊魂に奉仕し、その荒ぶる威力を静め・慰めた担当者は、つまり遊びの女たちであった。神の妻として性的な奉仕と歌い踊りの芸能による奉仕を事としてきたようです。大神や末社どもを遊ばせた遊所の風を思ってみれば分かりは早い。 しかし、そういう「生き神」様との遊びで、事は済みません。現実に人は死んで死骸と化し、人の側では無数に鳥・獣も死んで死骸を晒します。死の穢れ畏れをそのままに人は日常を暮らして行けません。神を祭る職掌と重なって、死体と触れ合う職掌も分担された。 藤村に、『海へ』『エトランゼエ』と並んで、フランスから帰国後に『幼きものに』という、子供むけのお話の本がございます。その最初の呼び掛けが「驢馬の話」です。
太郎もお出。次郎もお出。さあ父さんはお前達の側へ帰つて来ましたよ。一つ驢馬の お話をしませう。仏蘭西の方で聞いて来たお話をしませう。ある時、年をとった驢馬が自分の子を幾匹も連れて、草藪の側をポクポク歩いて行き ました。そこへ悪戯好きな学校の生徒等が通りかかりまし  た。『驢馬のお母さん、今日 は。』とその学校生徒の一人が挨拶しました。驢馬は何と言って、その時返事をしまし たらう。『オオ、倅共か、今日は。』仏蘭西あたりでは、驢馬とは馬鹿の異名です。いたづらな学校生徒がその驢馬を年よ りと見て馬鹿にしてかかったのです。『馬鹿のお母さん、今  日は。』斯ういふつもりで、 からかつたのです。そこで驢馬は、ふざけることの好きな少年に、すこしばかり『礼儀』 といふものを教へたのです。
あの年をとつた驢馬の返事を、もう一度繰返して御覧なさい。
『オオ、倅共か、今日は。』
こう結んでいます。藤村は、なにも民話を拾いあげて「幼きものに」語ろうとしていたわけではない、続く話題をみれば明らかです。この「驢馬の話」は、甚だ寓意的に感じられるのですが、では、何を寓意しようとしていたか。「学校生徒」と「驢馬」という顔合わせが、既に寓意的です。驢馬が「馬鹿の異名」なら、学校生徒は、教育のある、しかも「悪戯好き」で「ふざけることの好き」な人間を代表している。しかしこれを動物と人間の問題とは読めない。馬鹿な動物扱いをされている人間と、動物扱いをしている人間との応答であるのは確実でしょう。それでこそ、驢馬のお母さんが、「オオ、倅共か」と即座に打ち返した挨拶の強さが響くわけです。ただ賢い、愚かといった対比には止まらない、明らかに人間差別の実情を見通しまして、藤村は、差別をされる方も、する方も、どこかで、みな親同士であり倅同士であらざるをえない、つまりそれは人種の差なんかではありえない、背後の社会の機構そのものが孕んできた「悪意と偏見」とに基づくことを、洞察し得ていたのだと読んで上げたい。「幼きものに」に対し、「あの年をとつた驢馬の返事を、もう一度繰返して」、耳によく聴けとよと教えています藤村は、たんに老人の知恵を若者に訓戒しているのでは、ないでしょう。おそらくは、はじめて藤村の耳にも、「瀬川丑松の父」や「猪子蓮太郎」の声が、本質を帯びて、聞こえだしていたのではないか。まこと人が人を、あたかも種類の違う驢馬かのように見る、人外に見る、空しさ謂れなさを、藤村は、ようやくようやく骨身にしみ、気付いていた…だろうと思いたい。
猿、犬にはじまり、げじげじだの蛆虫だのと、人が人のことを譬えて謂うことは、古来ありましたが、そのように露骨なものには、まだしも渾名っぽく、空気の抜ける逃げ道がまだあった。しかし、無意識に、意識の深層で、そのように想っていながら、禁忌のように表に出さず、しかし、重大な差別の根に蟠ったもの。歴史的に、また地球規模でも推量して、それは「蛇」や「龍」であったろうと、私は思います。ことに日本の「蛇」意識の背景には、「海」と「水」への信仰が大きく深くものを言っていた。ことに柳田国男との交友と感化のなかで、あの椰子の実を歌った藤村は、それに気付いていたでありましょう。  
 
川端康成の深い音

とことん、今回は、困惑しております。川端康成の久しい愛読者ではありますが、殆ど論じた事がありません。そういう気になれない作家なので、何度も、この話は、お断りしましたが。ほぼ一年、気にかけ、気にかけしながら、また、困惑の余りに「川端康成の深い音」なんて、わけの分からない仮題を出してしまい、それにも縛られまして、身動きの取れない思いのまま、今日のこの場にいたりました。申し訳ない気持でいっぱいです。
谷崎潤一郎なら、泉鏡花なら、これが夏目漱石であっても、幾らかは「論点」を持てると思います。しかし川端康成のことは、論じたいという欲求が湧きませんでした。川端康成は「読めば」いい。それで、自分は、いいんだ、と。
ま、事のついでのように川端康成、また川端文学について、触れたぐらいは、何度かありました、が、感想でした。論証や論考ではありません。一度、それもごく早く、昭和四十七年、丁度三十年前になりますが、川端康成が自殺し、ほとんど動転のままに、「廃器の美」と副題して、原稿を書いたことがあります。論証でも評論でもない、ま、エッセイでした、が。あの時、自分がどんなことを思っていたか。かなり気恥ずかしくもありますが、川端研究の人達から不評を買っていましたかどうか。参考文献に拾い上げて戴いたりもしていたようです。
で、その三十年前に、「死なれる」という喪失感に堪えて、どんな感想を書いていたものか、どの辺が、今も変わりなく、どの辺が、今ではそうは思っていないか。反芻してみたいと思います。大急ぎで注釈しなければなりませんが、"死なれた" は、なみの尊敬語ではなく、私には、重い「受け身」の感じ方でした。『死なれて死なせて』という単行本を私、出しておりますが、この物言いは、私の読者はよくご存知なんですが、私自身の仕事や人生にあって、ゆるがせにならない一つの鍵言葉なんです。
三島由紀夫に死なれて、あの日、昭和四十七年四月十六日、今また川端康成に「死なれた」と私は書いています。谷崎潤一郎の死に遭って、初めて小説創作の筆を執り、太宰治賞で作家となり、数年のうちに、つづいて三島、川端両氏に死なれてしまった。自分はそういう者だ、そういう者なのだと、喪失感に堪えて、私は胸の内で繰り返している、と書いています。
川端康成は、私には、こわい作家でした。漢字の「怕い」に借りて謂えば「心持ちの真っ白になるような」こわさであったと思い出せます。存在そのものが、そのまま、手厳しい批評であるような人には、"好き"というほどの、甘えた近づき方ができなかった。ですが、美しく割れた真っ白な磁器のかけらを、こわごわ眺めるように、繰り返し繰り返し、私は、川端康成の幾つもの作品に帰って行きました、何度も。ただ、いつも及び腰に、逃げ支度をしいしい近寄っていたように思い出します。
谷崎文学の場合は、およそ平凡作・駄作といえども、活字に唇を添えて、旨い滴りを吸っていた私が、川端文学に触れる時は、おそるおそるでした。うかうか手にとって、怪我すまいという風だったんです。多少、今もそんな気分は残っています。
よく耳にするように、川端文学が、小説も批評も、たとえ、き一んと鳴る支那の白磁のようであろうと、それが完好の名器であれば、私は、安心して親しみ、おそれず、何度も手にとって、嘆賞の声を惜しまなかっただろう、と、そう、三十年昔に書いています。ですが当時の私は、川端康成の世界に、十全にして無瑾の磁器を見ていませんでした。川端文学とは、一かけらの磁片、その断面に、白くてかすかな、焦ら立たしい光を結晶させた、「美しさ」さえもが、幾分危険な、「廃器」だったのではないか。ただ、それが、秀れてつよい、佳い一かけらだったが故に、充足や十全を超えた地平までを、瞬き照らす、生得の「批評の光」を備えている、と、川端文学の全部から、尖鋭な「批評性」を私は意識していたようです。円満具足の完璧なもの以上に、廃器の批評、破片の批評は、一層妖しく光り、一層なまめいて冷たく、何よりも、あまりに、いつもいつも、寂びしげだと私は書いています。この感想にも、今も何となし、同感できます。  
「寂びしげ」というのは、川端が死を凝視したからでしょうか。そうは思わない、と若い日の私は言い切っています。川端康成は、「死」に親しみ切れない眼で、いつも寡黙に「生」を眺め、人恋しい「歌」を胸の底に秘めていた。作品は、気早に死化粧を匂わせるかに見えながら、実は、作家は口籠もりがちに、寂びしい人の寂びしい生き方を、沈黙したまま歌っていた。歌声としては聴き取れなかったし、それ故に、或る種の視線には、あまりに川端は神経質に感じられる、という意味のことを私は、書いていました。少しく修辞的=レトリカルですが、また、私なりに、感ずべきは、感じ取っていたのかなあと、評価してやりたいと思います。この辺は、さらに、少しでも言葉をかえて、もっと追って行っていいところかなと、予感もしています。
さらに、こんなふうにも書いています。故人が、つまり川端康成自身が、生前洩らされていたように、「新感覚派」という名称や文学運動にはそう捉われないまでも、結局、終生、秀れた意味での、「感覚」で書き通してきた、と述懐されていた、その、生来の川端「 感覚」の原質というものが、今後、かなり厳しく究明されるに違いない、と。
殊にその文体。繊細で冴えたと謂えばそれまでですが、またどこか奇態に大味な、やや一人舞踊にも似て、物寂びしい流露感に、幾分の、「かすれ」や「やせ」の見える文体に就いては、あんなにも故人が、「日本」および「日本の自然」を語られていながら、果して、どこで、どう、川端文学が「日本的な真相」と関わり合えていたのか、という課題と共に、より率直に深切に、論じ直されていいだろう、と。
これは、かなり機微に迫っていたかも知れません。  
「一人舞踊」に似て「もの寂しい流露感」というのは、ある種私の、共感でも、批評でも、あった気がします。
その上に、畏れ多くも文豪川端の文体に、或る「かすれ」や「やせ」をすら感じているなどと、ポレミークなことを発言しています。自分でもどきどきしてしまう発言です。
もっと追いかけて、こうも書いています。川端康成の文章は、時に突然、白銀の糸でぴ一んと織りなされていたかの「趣」を、呆気なく、かき消してしまう。匂いの薄れた花びらのように、文字が、ただ、視野を漂うことがある。忽然と、今までたしかに感じていた或る文体の魅力が、溶暗(フェイドアウト)してしまう、などと。「なぜなのか、ここでは、言えない」とは言え、これは率直の感想であって、例えば「山の音」に、よかれあしかれ私は一番それを感じているのだ、と。なんたる大胆、若いというのは恐れ知らずなものです。しかも、「なぜなのか、ここでは、言えない」なんてことで、さっさと逃げています。どうしようもない。
そして──、同じ匂わぬ花でも、三島由紀夫は、丹念に彩色した輪郭の強い造り花、紙の花のように言葉を駆使した作家だと言っています。川端康成の花は、決して造り花ではない。だが匂うと思わせて、静かに匂いを喪って行く、枯れる寸前の、寂びしい花の色かのように、川端文学の言葉は織りなされている、と、三十代半ば過ぎた頃の私は書いています。「涸れる寸前の、寂しい花の色かのような美しさ」は、川端康成にとって、あたかも人間の運命、衰弱して行く "個性" の運命として、意識して巧まれたものであったかもしれない。その巧みと絡めて、「感覚」の如何が問われたなら、その時、川端文学の「類稀れな廃器の美しさ哀しさ」、その「尖鋭に光る批評性」の背景に、意外に「非日本的容貌」の(まして西欧でも大陸でもない)、むしろ一回限りの、 "神経" と" 趣味" に、構成され・演出されて成り立つ文学世界の表情が、まざまざと読まれるように、私は予測する、と──、ま、こんな大胆予測をしていたんです。「美しい日本の私」と、ノーベル賞を受けて演説した世界的な「日本的作家」の文学から、こともあろうに「非日本的容貌」を、この私は、秘かに、偸み見ていたというわけです。これは大問題です。
そして、短い文章をこう結んでいました。谷崎潤一郎は、堂々と咲き切った、厚咲きの桜だった。均しく "美学" の文字を作者の名前にいつも添えられながら、また銘々に「日本の自然や伝統」を、作風の「根」に据えようとしていた、谷崎と、川端と、三島と、それは、想像以上に種類の異なった存在、異質の三人だった。しかも三者三様に、三人の "死" は、強硬そのもので、長嘆息して、 "死なれた" とより他に、言いようがない。忘れてはならない、と。「日本読書新聞」の依頼で、昭和四十七年五月一日号への寄稿でした。
同じ魅力というにしても、譬えれば、三島由紀夫の小説は、「造花」の魅力、川端康成は「雨にうたれた花」のような魅力、谷崎は「満開の花」のよう、と。ま、レトリックですし、むろんこれは、優劣をつけたのではありません。三島由紀夫と三島文学とに対しては、率直に言いまして、私は、全面に「好き」などと決して云いません。しかし、川端康成と谷崎潤一郎なら、ほぼ、等価的に好きで、いつも感嘆し、まことに、天才的だと思います。自然、今日のこの後の私の話は、この二人の、関わりようや比較を、実質とするより他に、間のもてようがない気がしています。が、さ、どうなるのか、見当がついていません。
確かなこととは謂えませんが、川端は谷崎より遅れて登場したのは言うまでもなく、「新思潮」という同人誌でみましても、谷崎や和辻哲郎らの時代より遅れて、芥川や菊池寛の時代があり、川端康成はその菊池寛の引き立てで世に現われて出た作家ですから、谷崎は相当な大先輩です。そして、谷崎が川端康成の文学について書いたもの、発言したものは、記憶の限りですが、ありません。谷崎の批評でごく早いものは漱石の「門」を丁寧に論じた作が学生時代の「新思潮」にすでに載っておりますし、後には、「明暗」を酷評しています。また永井荷風の「つゆのあとさき」を深切に語っています。 しかし谷崎が、後輩作家に触れて特別の文章を書くことは少なく、書けば、大衆文学畑の中里介山「大菩薩峠」だの、直木三十五「南国太平記」だの、また水上勉さんの「越前竹人形」を褒めています。そしてデビューして間もない頃の大江健三郎の文章については、きつい不満を叩きつけたりしています。谷崎の押し掛け弟子と自称していたのが、今東光や舟橋聖一や川口松太郎なんぞ、みな、文壇主流を逸れていた人達ばかりなのも面白いことです。
むろん文芸時評をも得意技にしていたような川端康成は、自然に何度も谷崎には触れて書いていますでしょう、が、今日の主人公は川端なので、彼の谷崎評に重きを置くことは本末転倒だから、これ以上は触れません。興味深いのは谷崎が川端について殆ど口を利いていないという、むしろ、そのことです。おそらく、同じ畑の人の文学には触れたくないというのが、谷崎の場合、健康法のようなものであったろうと察しられます。川端のような純然文壇人種とちがい、谷崎は文壇から始終距離を置いて作家生活をいわば源氏物語体験の場のように虚構化してゆくところがありました。菊池寛らの文藝春秋派ではなかった、彼は終生中央公論派の作家でした。  
文春と中公のハナシになったので、本題に入る前に、一つ、脱線します。文藝春秋の創始者が大きな作家であった菊池寛であるのは、まだ記憶されていることです。そしてそのことを、誰も何とも今は思っていません。が、文春が雑誌や出版活動を始めた頃は、そうではなかったのでして、菊池寛が、中央公論社に殴り込みをかけまして、あわや中央公論社の当時の嶋中社長と乱闘という騒ぎが起きていたんですね。これは嶋中社長の子息の次の嶋中社長が書いておられます。喧嘩の原因は何か。作家が出版に手を出すとは何事だと、事あるごとに菊池寛はやられていた、嶋中さんはむかっ腹を立てていたわけです。堪忍袋の緒を切った菊池寛が中公へ乗り込んできたと嶋中さんは観ていたように書いています。面白いですね。そういう空気であったんですね、作家と出版というのは。今日、私が、出版に完全にそっぽを向いて、自力で自分の本をどんどん出す、それが十六年にも成り、もう七十巻も出し続け維持継続しているなど、やっぱり、既成の文芸出版からは、じつにみごとに総スカンを喰い、わたしは、孤軍奮闘していますが、時代が大きく変ってきました。紙の本ではなく、電子の本が可能になり、旧来の出版の力は今や大きく分散してきています。わたしは、「秦恒平・湖(うみ)の本」という紙の本のシリーズ出版と併行して、「電子版・湖の本」を発信しつづけ、おまけに、その中で電子文芸サロンである「e-文庫・湖umi」も創設して、新世紀の電子文藝に先駆けて行ける「場」を公開し提供して、百に及ぶ著者と作品とをすでに満載していますし、その経験を生かしまして、理事を務めています日本ペンクラブにホームページを立ち上げまして、そこに電子文藝館をひらいて、過去現在の会員三千人の各一作品を国内外の読者に無料公開するという文化事業を展開し始めてもいます。
日本ペンクラブは、昭和十年に島崎藤村を初代会長に発足しました。第一回芥川賞に石川達三の「蒼氓」が選ばれた年で、石川さんは後にペンの会長になられましたが、私の提唱して実現した電子文藝館には、藤村の「嵐」正宗白鳥の「今年の秋」志賀直哉の「邦子」など歴代会長の秀作と並んでその石川達三作「蒼氓」も掲載されています。川端康成の作は、「片腕」を載せています。川端は、最も長期間ペンの会長を務めた人で、日本が主催国の世界ペン大会をみごと成功させた人物でした。電子文藝館には、開館以来わずか二箇月半で、与謝野晶子、徳田秋声らから芥川賞の木崎さと子、三島賞の久間十義らに至る、すでに七十人近くが力作、秀作を展示しています。紙の本でなら三十册近い分量の出版にかけました経費は、限りなくゼロに近いものです。実に、こういう時代に、今は、成ってきています。このディジタル・ライブラリーは、繰り返しますが、完全に無料公開で、原稿料も、掲載料もなく、課金も一切しておりません。文学好きの読者に、吹聴、愛用して下さいますように。
冗談のようですが、むろん谷崎潤一郎も川端康成も、たぶん、ワープロの存在すらも知らなかったでしょう、ですが、もしも今日に生き長らえ、パソコンを身近に知ったとして、二人とも拒絶したか、二人とも興味をもち使ってみようすらしたか、片方は関心を示し、片方は見向きもしなかったか。これは、なかなか深読みの利くクイズのようなものであるなと思っています。
機械で小説が書けるモノでないとか、ごたくさ、ものを言う人もいますが、文体をもったまともな物書きなら、何と謂うこともありません。影響があるなら、見分けが利くはずですが、ある連載の途中から、完全に機械書きに転じたときも、誰一人、ここからが機械だなどと見分けた読み手は無かったのです。そういうものです、その手の議論は、もう過ぎた昔話でありましょう、その上で、今のクイズめく問題を、少しく、本題に絡めてものを思ってみますが。機械を実際に「使う・使わぬ」は別にしましても、川端文学の方が、機械で書くのに馴染みにくく、谷崎文学の方は、むしろ機械書きに応じて行きやすい、そんな、文学自体の性質の差がありそうな気が、私は、しています。結論ではありません、ただの予測です。予測以上に踏み込むのは危険過ぎますが、ま、いよいよ、本題に入ってゆき、手短かに、ちゃっちゃっと、お茶にして、しまいたいものです。
本題本題と言いますが、何が本題なのやら、川端康成の「深い音」って、何なんだと思われる方も、苦しまぎれに、あの『山の音』を念頭に置いたろうとは、見え見えにお察しの通りです。が、ま、その辺へ、話題を運んで行けるものかどうか、まだ分かりません。先が見えていません。お、と気がついたらその辺まで、辿り着いているという具合に行けば佳いのですが、実のところ、繪に描いたような見切り発車なんです。御免なさい。
あまりそういう経験は無い方なんですが、一度だけ似た困惑にまさに悶えたことがあります。  
「墨」という雑誌に、「秋萩帖」という小説を連載する話がありました。秋萩帖は、小野道風の筆になるかという伝の、極めつけ、書の国宝ですが、草仮名という、書の歴史では一時期を画しました書法書体で書かれているのも一特色でして、かなり登場の時期が限定されますが、これに関して、小松茂美博士の、ま、革新的な研究論文など出まして、私は、ずうっと注目しておりましたし、そのうち、小説に書きたくなりました。で、「墨」から話が来ましたので、なら、これでと、先方も大賛成。時間も迫っていましたので、「行けるだろう」という気でスタートしました。小説の事ですから、小野道風はいいとして、ヒロインも登場させたい。そしてそこには、恰好の女性が存在していたんです、名前は、大輔。古今集の次の、後撰和歌集で、女では、伊勢に次いで二番目に採られた歌数の多い、交際の範囲も皇太子から藤原時平から藤原実頼などまで絢爛豪華なんです、が、主人公たるべき小野道風とも、紛れもない恋の相聞歌を、一度ならず交わし合っていまして、これぁもう、ヒロインとして申し分がないと、それは書き出す前からよく知っていたものですから、よっしゃと飛びついて、創作の進行にも、ま、タカをくくったところがありました。作のモチーフは、恋愛なんかとは別に、ちゃんと持っていましたのでね。安心していました。安心の一つには、大輔ほどの大物女性ですから、氏素性明白だと思いこんでいたわけです。所がこれがとんだ誤算で、諸々の参考書に謂うこの大輔は、古今和歌集にも出ています大輔と同一人で、従って父親は、王族である源弼だと云うんですよ。
ですが、これは、多くの点で大間違いでした。第一、歌風がちがうし、年齢も、大幅に食い違ってきます。学界によく有るいわゆる孫引きで、誰かの説が無批判に踏襲されていただけで、精査しますと、早くに、少なくも源弼の女ではありえない、古今集と後撰集の大輔とは全く別人であるという論考が、ちゃんとその当時に出ていたんですけれど、埋もれていたんです。それじゃ、後撰の大輔、大鏡にも大和物語にもいろいろに噂の多い、大きな史実にも絡んでいる大輔の、親は誰かとなると、これが全然、研究も言及もされていない有様なんです。弱りました。連載は始まってしまったのに、ヒロインを自信を持って形作ってゆきにくい。なにしろ、彼女の関わってゆく貴族達はみな眩いほど錚々たる連中なんで、ヒロイン一人を、いい加減には持ち出せないわけです。あの時は、ほんとうに汗をかきました。で、仕方がない。小説を書いて行く一方で、研究者・学者もして来なかった、大輔の戸籍調べを、自力でやったんです、うんうん唸りながら。結果的に、これは、かなりな成功裏に収束しました。なにしろ小説家のこういう言説に、つねづね実に厳しい角田文衛博士が、京都からわざわざ、電話で、「よう調べあげましたねえ」と褒めてきて下さったんだから、ま、いい線に達していたものと今でも思っています。その詳細は、この席の本筋ではないのですべて略しますが、後戻りの利かない見切り発車というのは、じつに切ない苦しいものであること、今回の川端康成の話は、それに近い、いいえ、苦しいそのものの汗の掻きようである、と。泣き言と思ってくださって結構です。
ところで、今、古今和歌集の大輔、これは源弼の女でありますが、この人と、後撰和歌集の大輔との、「歌の風」が違いはせぬか、ということを申しました。この詮議は、むろん容易じゃないんです。古今集には、大輔という女性の和歌は、只一首が採られているだけでして、こういう歌です。
なげきこる山とし高くなりぬれば 頬杖(つらづゑ)のみぞまづつかれける
嘆きという木を、樵(きこり)する山、嘆き・ため息の「き」が凝り固まって、山になっている。そんな「山」に登ろうとなると、途方も無さに真っ先に「頬杖」がつきたくなっちまう。ま、そんな歌です。才走った言葉遊びと読めますし、物憂げな恋愛体験に裏打ちされている、とも読めます。そして、歌が硬い。伊勢ほどの名手と、勅撰和歌集で歌の数を競えるような秀歌詠みでも何でもないんです、「カ」行の、硬い音を、七音も、工夫無しに連ねています。
後撰和歌集の大輔の歌は、幾つもありますが、例えば、こんな感じです。
わびぬればいまはとものをおもへども 心に似ぬはなみだなりけり
ふるさとの奈良の都の初めより 馴れにけりとも見ゆる衣か
ともに古今調です、万葉調ではない。が、心持ち、後撰集の大輔の歌の方が、古今集の大輔のより、柔らかい。ずっと柔らかい。声に出して歌ってみると、感じがつかめます。
が、こんな微妙な「うた」の差異は、感覚的に、直感的に「認める」か「認められない」かのどっちかですから、頼りないと云えば頼りないが、違いの分かる者には、分かると言うて置くしかないようです。いま、小野道風の話が出ているので申し上げますが、源氏物語のなかで、紀貫之と小野道風との「書風」が競い比べられて、道風のほうに軍配が上がっています。その理由に、道風の方がわずかに今様である、今めかしいからだ、と言われています。しかし、紀貫之と小野道風との時代差なんて、ものの二十年ともありはしないほどなんです、が、物語中の人達は、たぶん、物語を読んで聴いて嘆賞していた読者達にも、この、かすかな古様古風と、新風今様とが、かぎ分けられていたわけですね。二人の大輔にも、わたしは、確実にそれが露出していると読み分けております。
ま、これは和歌の、「うた」の話です、が。それじゃ、「うた」って何でしょう。「音楽」じゃあ、ありませんか。詩歌とは、言語の音楽であればこそ、「うた」と呼ばれているわけです。定型による「外形の韻律」も「内在律」も、まさに音楽の効果に導かれて、言葉が、紡がれるように、好ましく表現されて行きます。これに異存のある人は少ない、無い、のではないか。と、同時に、では散文は、詩歌とは別ものなのか、と、問われれば、じつは散文もまた「音楽」性を、たとえば「絵画」性よりは、遙かに濃厚に、本来具有していることは、当然です。  
いまでこそ、滅多に小説を「音読」はしませんでしょうが、類似・相似のジャンルである、演劇や、話藝・ラジオ放送等の朗読には、言葉の音楽的な響きや、諧調や、快感に心惹かれることはあり、それが、かなりの度合い、「間」という音楽的旋律感や、文字通り間隔=インターバルの魅力で受け取られています。想像力を絵画的に刺激することは可能でも、言葉は、どうしても、例えば饅頭の甘さを、正確には言い得ないし、音色も、色彩も、硬さ柔らかさも、寓意的・比喩的に「表現する」しかないが、その「言葉自体の魅力」の取り込まれようが、音楽のそれに近いことは、論をまたないわけです。文学・文藝の魅力には明瞭に音楽性があり、もともと「音の楽しさ」と表記した音楽にならい、文の学問でなくて「文の楽しさ」というのが「文藝」の名称・表記であってこそ、より快いものが、そういう性格が、認められるわけです。
言い換えれば、文藝活動の芯の所で、意識の深層で、詩人も小説家も、本当は批評家ですらも、一人一人の個性のにじみ出た、独自の「音楽」を「奏でている」のだと謂えるところが、在る。間違いなく在ると、私は思います。
もう何十年か前のことですが、電器屋をしておりました父が、京都から東京の私に、まだリール式でしたが、テープレコーダーを送ってきてくれました。私は、親にものをせがむ、ねだるということをしない子でしたから、父からの自発的なプレゼントでしたが、その頃、私は三十前で、やっと、小説を書き始めていました、ごく孤独に、こつこつと。私は、カラオケ等の好みのない男でありますから、さて機械を何に使うのか。で、テープレコーダーの届きましたその晩、恥ずかしいものですから、妻子のみな寝静まりました深夜に、小声で、いきなり、「男がいた。」と吹き込みました。それから先、思いつくまま「話」を吹き込んで行きまして、そして寝ました。朝起きて、再生してみますと、なんだか、思いがけない自分の心根が覗いているんで、面白いなと、そんな試みを随分続けました。それが、私の「掌説」です。五十編以上ありましょう、かなりな意味で、私自身の「索引」を成しているように感じます。そして触発されまして、また古典物語体験の延長上からも、私の、「文学は音楽」である、少なくも音楽的魅力を、本質に抱えているという自覚が、格別に強くなりました。自分の小説を、書いては音読しつつ推敲して行く習慣のようなモノすら、出来て行きました。
皆さんにも御経験があろうと思いますが、ある種の文学作品を読みまして、その夜の夢に、なんとも謂えぬその作品の強烈な文章・文体の印象が、うねりにうねるように、旋回し、連続し、果てしないということ。私は、そういう体験を、例えば幸田露伴の「運命」、森鴎外の「即興詩人」や、ことに「渋江抽斎」を読んだ晩にしまして、魘されるというのでは、ない、えもいわれぬ「波」に載せられ運ばれる思いを夜通し、しつづけた覚えがあります。それは、バッハや、モーツアルトや、ベートーベンの、強い曲を聴いて寝たときにもあるのと似た、それよりはやや、夢魔に遭ったような疲労感すら伴う、ちょっと「降参しました」という感じなんですね。
小説「清経入水」で太宰治賞を受けましたあとの、記者会見で、私は、島崎藤村、夏目漱石、谷崎潤一郎を愛読し尊敬してきたと告白しまして、ま、驚かせたというか呆れさせたようなことのある人なんですが、この三人からも、まさに三様の「音楽」を、聴き続けて、楽しんだのだとも謂えましょう。お前さんの謂う「音楽」とは、「文体」のことではないのかと反問されましたなら、素直にそうですと返事するでしょう、が、しかし、それをわざと、「音楽」というように申しますのは、比喩的には、その方が明快であるからです。文学の「文体」とは、というと、「文章」とは、というのと混同されやすく、曖昧にわかりにくいものです、一般には。それに、文体は、個々の作家と作品とに属しています。文学の「音楽」というと、文学・文藝全体を覆った体に謂いましても、分かりがいいし、作家と作品とに即しては、もっと納得しやすい。今も申しました、漱石、藤村、潤一郎が文章によって演奏しています「音楽」は、まず、歴然と、指紋のように異なって聞こえます。甚だ、分かりが良い。
学生時代を終え、京都から東京へ出て参りました数年は、貧しく貧しく新婚生活しておりまして、テレビはおろか、ラジオもなく、新聞もとれませんでした。娯楽はといえば読書です、僅かに手元に置いていた潤一郎、藤村、漱石の何冊かを、わたしが、順繰りに朗読し、家内は聴いて過ごす。そういう生活でしたから、声に出し、耳に聴き、そのようにして文学の音楽を我々は、味わい得ておりました。 
では、そんな中に、川端康成は入っていなかったか、というと、じつは、入っていませんでした。私は、川端康成に、先ず彼の書いていたいわゆる「少女小説」から入ったのです、小学校、五、六年生の頃に。私のためにと新しい書物の買えるような家ではなかったので、読書はというと、家にあった、祖父の買い込んでいた漢籍や古典、父の謡曲本や事典類だけで、他は、古本屋での立ち読みか、人に借りるかでした、が、小学校の友達は、貸してくれても、山中峯太郎の「見えない飛行機」のたぐいか、女の子達の少女小説でした。川端康成の名前は、吉屋信子や佐藤紅緑らと並列で、この手の書き手なんだと思っていました。じつは、その頃にはわたしはもう縁有って漱石文学には出逢っていましたし、家にあった、頼山陽の日本外史だの、白楽天詩集だの日本国史だのを愛読もしていたのですから、とても少女小説として括られた、甘い、センチそうなシロモノには満足するわけがなかったのです。それぐらいなら佐々木邦のユーモア小説の方が、上等だと感じていました。つまり川端康成の名前を覚えた頃の私は、彼を、佐々木邦より下風にみていたとすら謂えます。
そんなわけで、中学生から高校生になり、既に谷崎文学の大方、藤村の代表作も、漱石全集もあらかた、出逢っていた頃に、ようやく、評判の小説「千羽鶴」ついで「山の音」を続けて読んで、感嘆しました。笑い話のようですが、見直したんですね、よっぽどの驚きようでした。とくに「山の音」に、魅了されました。それから、「雪国」を読んだのです。その後は、もう折りごとに読み進みました、いろいろと。しかし、全部じゃありませんし、よく谷崎の場合にいいますように、活字に唇をつけてうま味を啜るように読んだ、そんな風に読んだ、といった「谷崎愛」的に、川端康成を読んだというわけではなかったのです。
ごく尋常にというか、平凡にといいますか、自分にとって川端康成は、「伊豆の踊り子」「雪国」「山の音」そして十ほどの優れた短編、あとは晩年の「眠れる美女」「片腕」とか、批評の三つ四つ程度。それでも足りているかなあ、と。とても、こういう場所で、何かを話せるほどの入れ込みようではなかったのです。貶めていたわけではないのです。ただ全集を嘗めるように読みたいとは考えなかった。鴎外でも露伴でも、大変な敬意と愛情を持っていますが、何もかもじゃない、選んで、読んできましたからね。
何故だったろう、という、告白をしなくちゃいけませんね。強いて挙げれば、理由が二つほど謂えるかも知れません。二つではない、同じ一つであるのかも知れません、が。  
そこへ戻って行くべく、意図的に少しまた、脱線しますけれど。最近、ある人と電子メールで、或るやりとりをしました。その人は、一度も顔を見たことのない、関東平野の北の方に暮らしている若い女性のようです、小説を書く志のある人です。先ほども申しましたが、日本ペンクラブに、「電子文藝館」ディジタル・ライブラリーを創設しまして、島崎藤村初代会長から、以降、白鳥、直哉、川端康成、芹澤光治良、中村光夫、石川達三、高橋健二、井上靖、遠藤周作、大岡信、尾崎秀樹、そして第十三代の現梅原猛会長に至る、物故会員、現会員合わせて約二千数百人の文藝著作を、一人一作ずつ、作者紹介を添えて国内外に「無料公開」して行きつつあります。
こういうことが可能だと、私が見越して、企画し実現できましたのには、事前に、一つの実験をしておりました。私は、自分自身のホームページを持っていまして、すでに、二万枚を優に越すコンテンツを、多くのジャンルで書き込んでいます。写真など入れない、とことん「文字」による文藝文学のサイトなんですが、ペンクラブの電子文藝館開館のちょうど一年前から、更にこのホームページの中に、入れ子構造で略称「e-文庫・湖umi」という文学サロンを創設し、私の責任編輯で全ジャンルの作品を蒐集し募集しはじめたことを、先ほどもちょっと申し上げました。
文豪の作品も頂戴していますし、高校生や九十のおばあさんの小説も、科学者の随筆も、プロの歌人俳人詩人の作品も、満載しています。原稿料も払わず、掲載料ももらわず、読者への課金も一切していません。新世紀へむけて、ディジタルな文藝登場のための、まともな「場」を用意することが、とても大事だと思いました。水準の高さを設定すべく、既成の文士文人の作品も戴いて、あくまで、私がよしと思うものを責任を持って採るという、そういう「電子的な文学サロン」なんですね。
で、さきほど申しましたメール交換した人、若い女性というのも、「e-文庫・湖」への投稿者であったわけで、もう以前に、一作小説を掲載し、二作目がまた届いたという時の話、まだ最近に属する話、でした。投稿してきた人の第二作は、前作より遙かによく落ち着いて書けていました。ですが、前作がストーリィに重きがあったとすれば、今度は、かなり心理的に書いていた。心の内がたくさん書き込まれていまして、それなりの効果をあげていました、が、ふっと顧みて、これで読者は「面白い小説」と読むだろうかなあ、と感じました。で、たまたま考えてきたことでもあり、こんな「感想」らしきものを、技術的な二三の助言に続けて、述懐風に、書いて送ったのでした。
川端康成と谷崎潤一郎とを読んでいますと、それぞれの特色が明白に分かれ、川端は、精緻に、せつないほど内心を表現し解釈し、一挙手一投足にも「心理的な意味や背後」を透かし観せて、書きこみます。谷崎は、具体的な人物の行為と事件との推移の中で、「筋=ストーリー」に多くを語らせます。心理の説明に重きは置かずに、これで「心理もちゃんと書けているはず」という主張です。「春琴抄」での、彼のこういう言明は、特徴的によく知られていまして、その通りに、私も感じています。
川端作品では、「筋」の面白さのもつ比重は、さほどとは思われない。心理表現の犀利と精緻のなかに「あわれ」を感じさせて、大いに魅力に富みます。谷崎は、おおらかに物語自体を掴みだしてきて、具体的で、心理表現に立ち止まる神経質は、殆ど持ち合わせず、かなりストレートに、面白い小説世界へ誘いこみます。
あなたは(その投稿者のことですが、)自分の意欲が、どっち寄りであるかを、意識的に吟味したりしていますか。もし川端寄りというなら、まだまだ川端康成の足元にも遠く及ばないのだから、つまり、たいして面白いダイナミックな小説にはなりにくいまま、心の内を、むやみと解剖するような、そんな仕事ぶりが当分続くでしょう。また、谷崎寄りに、物語を創り上げて面白くするには、何かしら大きな部分を、吹っ切るようにして断念しなければならず、さらには、多面的な勉強が、話嚢の充実や話術が、必要になるでしょう…と、 ま、そんな風にメールを上げました。
そして数日して、念のためにもう一度、こう補足しました。強いてどっちかに寄ろうという必要はないのです。小説の書かれ方には、そういう大きな違いのあることを、分かっていれば済むことです、と。昔なら、谷崎と志賀直哉といった対比でよく語られました。その頃は、谷崎と川端は、むしろ、いつも一括りに感じられていました。三島由紀夫でさえも。しかし、書き方となると、三人は、ずいぶんちがいます。  
で、脱線していた話題を、もとへ戻してみますと、大まかな話、私には、「声」に出して読んでみたい作家・作品と、声に出して読みたいとは、感じない、そうは、仕難い作家・作品が有る、と、ごく自儘なことが、謂えば、言えるのです。谷崎は朗読したくなり、川端文学はそういう気にならない。むろんですが、これは、作品の「質」の高下とは無関係です。が、その「音楽性」の差に、質の違いに、どこかで微妙に触れているのだとは謂えるでしょう。その際、それは、「私にとっては」という限定が是非必要なのかどうか、その辺、確言できるほどの吟味も追究もしていないのですから、それ以上は申しません。申しませんが、かつて、潤一郎作「細雪」を、子ども達との食後に、少しずつ、全編朗読し通したことがあります。漱石の「こころ」も、そうすることで、家族での話題に採り上げた。昔ですよ、まだ子ども達が小さい頃のことですが、藤村の「家」のような小説まで、そのようにして音読・朗読しました。
藤村などに比べたら、小説の興味からすれば、川端の「雪国」や「伊豆の踊子」の方が、うんと入りやすいのですが、これが朗読となると、すこし違う。川端の方が入り難いんですね。
二つほど、その、理由らしきものを挙げてみますと。一つには、文から文へのつなぎに、川端の文章は、思いの外急峻な切迫があり、足が早く、意識して、ゆっくりと息をつがぬ限り、黙読には適していても、朗読には、少なからず間がもてないところがある、と、私は、実感しています。谷崎の文章・文体には、創作の際に、口述筆記しても効果をあげられる本来の性質ないし利点がありまして、「夢の浮橋」のように、全編口述筆記されたものが、いかにも、物語によく膚接していて、佳い仕上がりを見せていましたし、谷崎自身もかなりな満足を表明していましたが、川端作品に、事実として口述の作が有った無かったは知りませんけれども、「雪国」にしても、「山の音」にしましても、あれらは、口述では、到底創りきれないのではないでしょうか、息継ぎを、一つ、注目しましても、そう思います。
その点にも当然関わりますが、今一つの理由として、さっきの読者・投稿者とのメールに触れて居ますように、川端作品は、佳境に入れば入るほど、「雪国」「山の音」、また「片腕」なんかでも、心理的な独白、自問したり自答したり、気持や内なる推移にたいする、解釈や斟酌が俄然多くなり、そういう表現が、櫛の歯のように続き始めますと、これはもう、朗読ができるかどうかよりも、むしろ「黙読」にこそふさわしい、微妙な感情の「出入り」になって参ります。
外へ出る声音は、ふうっと殺されまして、内面へ内面へ沈潜した言葉で、読者自身も、対応せざるを得なくなる。妙な言い方をしますなら、谷崎の音楽は外へ向けて演奏されており、川端の音楽は、地下水のように沈潜して流れていて、「耳」に聞えるよりも、はるかに「胸」に、よく申します琴線というヤツに、直に、触れてくる。読者に挑発し、読者に和して、自然と「声」を出させるような谷崎流でなく、読者の声を吸い込んでしまって、自分の作品世界に、惹き入れてしまう、そういう川端文学の、いわば読者への声なく音もない誘惑が、それこそが、川端文学の「音楽性」の特色、かのように内在し、また内面化されてあると、私は、そのように川端康成の小説を読んできました。読んできた、ようであります。
だから、川端文学を、私は、音読しないのです。できない。それをやると、作品の魅力を、我流に、汚したり傷つけたりするように感じるのです。
映画を多くは観ていません、が、吉永小百合の「伊豆の踊子」原節子の「山の音」また木暮実千代の「千羽鶴」も。川端映画で記憶にあるのはそんな程度ですが、それぞれ気持のいい、また印象的で、映画として佳い出来のものでした。しかしながら、人物の「会話」だけを拾い出してみますと、まことに、どれも、普通の会話になっています。原作では普通でないのかというと、意外なことですが、川端の会話は、概して普通の会話のようなんですね。川端康成は、それほど奇矯な言語を、作中人物達に強要しているとは、私、感じません。けれど、その普通の会話が、それぞれに、川端流の深部心理や深部意識というか、「内面」という名の「重り」をぶら下げていまして、作品を読んでいますときは、その重りと共に一見「普通の会話」を読んでいるわけですが、映画になると、映画の文法によってすべて映像化されてしまい、原作の会話は、只、利用されている。容易なことでは、必ずしも「川端原作の効果」つまり「内面」や「深層」とは結びつかなくなり、ごく普通の会話っぽくなってしまっている。つまり小説の「粗筋」が映像化されているので、川端の独特な「深層音楽」が、あまり聞えて来ないんですね。すっかり敬遠されているか、それとも映像に馴染まないモノに成っている、ようなんですね。
谷崎作品の映画化したものは、幾つも見ています。「細雪」は何度も。「春琴抄」も。また芦刈の「お遊さん」や「鍵」「瘋癲老人日記」「痴人の愛」「無明と愛染」「卍」「蓼食ふ虫」「猫と庄造と二人のをんな」その他、数々ありましたが、これらはもう、原作にそのまま寄り懸かっても、よし。思い切った「解釈」を好き放題に加えても、よし。もともと、外向きに、物語や小説世界があけすけに提供されていますので、かえって、いろんな「趣向」が加えられやすく、原作とは「別の趣」に創られても、創られなくても、とにかく一つの映画になりきり、人物も、なかなか奇抜に会話したりしているのですね。
川端原作映画は、それほど、原作から自由になりきれてなかった気がしています。美しい絵にはなるけれど、川端文学の「音楽」が、絵では、映像という写真表現では、十分に汲み取れない。強い言い方を致しますと、川端文学の強固な意志として、簡単にその「音楽」は、「映像で」なんか汲み取らさないぞという、そういう途方もなく強い言語性質をもっているのだと思います。こんなところで、自分のことを喋るのはどうかと思いますが、私のようなものでも、小説を本にしますときに、何度か、担当編集者から、「もし映画化のハナシがありましたなら」云々というセリフを聴きました。わたしには、その方の欲望がないものですから、本気にもせず、何の対応も無論しませんでしたが、腹の中では、いつも、自分は、小説を、音楽として書いているつもり。絵に、写真に、映画になんぞ、出来るものならやってみろ、という気持がありました。今でも有ります。そういう気持で居ますときは、「谷崎愛」の私も、文学的には「川端康成の音楽」に、心服し敬愛している自分に、かなり気がついていた筈です。
その点、谷崎は、日本の近代作家の中でも、最も早く最も深く、最も実践的に「映画」を愛した作家でした。映画製作者でもあったし、家族の中から女優を世に出したり、家族中で映画出演したりしていたのです。私も趣味として映画は大好きですが、こと文学に関しては、作品に映像性を強いて与えるよりも、はるかに「表現に於ける音楽」を、「内在する音楽」を、「静かに深い音楽」を、求めてきました。  
川端康成が美術骨董の、いわゆるコレクターではなくても、大変な愛好家であったこと。では、この点をどう見るか。美術骨董は、彼の文学と、どう関わるか。その方面でも、若い研究者から、佳い報告があるようです。こまかな論証は、私の任ではないので勘弁願いますが、率直な感想だけで申しますと、川端康成という人は、たとえば骨董の場合、手で、掌で、指で、触れながら、目は閉じて、骨董の奏でています「音楽」に聴き入っている、それが「鑑賞」というものだと思っていたのではないか、そんな気が私はしています。「視覚」が行き届いて、まさしく「目利き」になるというのではなくて、むしろ「触覚」に導かれまして、対象への不思議な「聴覚」が研ぎ澄まされてゆく、そういう骨董愛好なのではなかったか、と。
もっと思い付きに近い推測を致しますと、あれほど内面描写や心理解剖に長けている川端康成ですが、はしなくも今、解剖とという言葉を使いましたけれど、比喩的に謂うと、川端という人は、「心を、あたかも体かのように」解剖してゆく、一種根源的な「からだ主義」者ではなかったろうかと、私には思われるのです。
「雪国」の島村がそうでありますように、川端康成は、舞踊好きの人でしたね。「舞踊会の夜」という小説もある、「舞踊靴」という小説も有るから、そう言う、と謂うのではないのですが、「舞踊」という小説には、「女は舞踊によってのみ、美を創造することができる」という、川端風の持論を、少しく実現してみせた趣もあり、いわば「体の音楽」に、かなり意識して触れています。つまり、さように、深層の性意識とも絡みながら、文学創作の根底部に、変な言葉を自前で創って申しますと、触覚と謂うよりも、もっと大きい、鋭い、深い「体覚」性の音楽が、言い換えれば「舞踊的な音楽」が、川端文学言語の「底」を支えているのではないか、という気がしてならないのです。具体的に、これは、たぶん挙証し論証して行けるのではないかとすら思います。
「音楽奇譚」のような、ややこしい家庭劇も川端は書いていますけれど、そういう、じかに「音楽」という言葉に交わるよりも、「伊豆の踊子」「雪国」「山の音」そして晩年の幾つかの作品から、それらの「文体の底」から湧いて出たような「体覚性の音楽表現」に、深く深く聴き入ってみることは、朗読するよりも、音読するよりも、遙かに遙かに、川端文学の味わい方として、「理」に、とは謂いませんが、作者の「意」にも「気」にも、よく適うもの、と私は感じております。  
 
「正岡子規」考

少年時代
正岡子規は慶応三年に伊予松山に生まれた。父親の正岡常尚は松山藩の下級武士で御馬廻りをつとめていたが、明治5年子規が満四歳のときに死んだ。子規はこの父親については殆ど記憶らしいものを持っていなかった。後に「筆まかせ」の中で回想している文章を読むと、大酒が災いして命を縮めたと評している通り、余り愛着を抱いていなかったようである。
そんなところから子規は母親の手で育てられた。母親の八重は松山藩の儒者大原観山の長女で、その係累には学問好きの人々が多かった。子規はこうした人たちに囲まれながら、祖父観山の薫陶を受けて、幼少期からすぐれた才能を育んでいったと思われる。
子規は観山から漢詩の素読を学んだ。その時身に着けた教養は、生涯子規の血肉となった。子規は後に俳句や和歌の刷新者として頭角を現すが、それらの作品に流れている骨太の自然表現は、漢語の論理的できびきびとした表現に通じるものがある。
大原観山が子規7歳のときに死んだ後は、観山の遺言によって、土屋久明が子規に漢詩を教えた。久明は観山の後輩であるが、謹厳実直な性格であったらしく、家禄奉還金を使い切ると、自分の役割は終ったといって餓死したというほどの人物である。子規は10歳のときに始めて漢詩を作り、久明に添削を受けている。
こうした人びとによる私的な教育のほかに、子規は明治6年に末広学校という寺子屋式の小学校に入り、翌年には勝山学校という本格的な小学校に転じた。勝山学校は旧松山藩の士族の子弟が集まっていたところである。子規は周りの子どもたちの雰囲気から、おのずと武家意識を強められたようである。
しかしその当時の武家が、かつての武門とはおよそ違ったものになりつつあることを、幼い子規も感じずにはいられなかったはずだ。子規が生まれて以来、徳川幕藩体制は崩壊の一途をたどり、それにつれて武家の特権は急速に失われていった。父親が死んだ明治5年には断髪令が敷かれ、明治8年には松山藩において家禄奉還が実施され、明治9年には帯刀禁止令が出されている。こうした流れを前に、子規は子供心に、自分の家を含め、故郷の武家が没落する運命を感じないではいなかっただろう。
また松山藩に特有の事情もあった。松山藩は西南の藩にしては珍しく、最後まで佐幕の立場を崩さなかったので、新政権からはとかく目の敵にされた。藩に代わって地元の統治を担当するようになった県の役人たちは、薩長出身者が要職を占め、松山藩出身者は冷飯食いの立場に甘んじていた。
また松山藩は他藩に先んじて旧藩士の家禄を奉還させたが、その内容は藩士の家計にとって過酷なものだったようだ。だから土屋久明のように、すぐにそれを使い果たして餓死するような人間も現れたのだった。
子規は明治十六年、15歳のときに故郷松山を去って東京に向かうことになる。そこには閉塞した故郷の状況に飽き足らず、新天地に向かって羽ばたきたいとの思いがあったはずだ。そんな思いをもたらしたのは、自分の境遇の周りで目覚しく展開している次代の流れだった。
こうした事情は別にして、少年時代の子規はどんな子供だったのだろうか。これについては子規自身が後に、「墨汁一滴」のなかで次のように回想している。
「僕は子供のときから弱味噌の泣味噌と呼ばれて、小学校へ往ても度々泣かされて居た。たとへば僕が壁にもたれていると、右のほうに並んで居た友達がからかひ半分に僕を押して来る、左へ避けようとすると、左からも他の友が押してくる、僕はもうたまらなくなる、そこで其際足の指を踏まれるとか横腹をやや強く突かれるとかいふ機会を得て直ちに泣き出すのである。そんな機会はなくとも二三度押されたらもう泣き出す。それを面白さに時々僕をいじめる奴があった。」
自分でいうとおり、子規は弱虫で周りの連中からよくいじめられていたようだ。
漱石は後年の子規について、何ごとにつけ自分が一番でないと気がすまない御山の大将だといっているが、それに比べると大きな違いだ。やはり女ばかりの家族の中で育った影響が、そんな形で現れていたのかもしれない。
そんな少年時代の子規の周りには、才気活発な仲間がたくさんいた。先ず母方の従兄弟として、藤野古白や三並良がおり、親友の中には、司馬遼太郎の「坂の上の雲」の主人公秋山真之などがいた。
子規の故郷松山は古くから俳句の盛んな土地柄だった。子規は俳句を通じて色々な人と出合った。河東碧梧桐、高浜虚子、寒川鼠骨などは子規より年は下であるが、みな子ども時代からの顔なじみである。
子規は15歳で松山を出てからも、折に触れて帰っている。母親と妹が引き続き松山に住んでいたという事情のほか、漱石が一時期松山中学校に赴任していたという事情も手伝ったろう。だが上述したとおり、松山は俳句が盛んな土地柄で、子規はその指導者として慕われていた。それゆえ松山との縁は生涯切れなかったのである。
そんな子規が故郷の松山を詠んだ句がある。
春や昔十五万石の城下かな
明治18年日清戦争への従軍の徒次松山に立寄った際の作である。子規の故郷への思いが伝わってくる一句である。
この句は今でも、松山駅前の句碑の中に彫りこまれて、松山市民に親しまれているそうだ。  
修行時代
正岡子規は明治16年の5月に松山中学を退学し、翌6月に東京に向かった。時に15歳の少年に、何がこんなことをさせたのか。
子規に限らず、当時の松山中学の生徒の間では、上京熱が高まっていたといわれる。新しい時代を迎え、すべてが東京中心に流れていると思われる状況の中で、少年たちは故郷とはいえ辺鄙な地で閉塞することを嫌い、中央で立身出世することを夢見ていたらしい。子規もまたその例にもれなかった。彼は政治家にならんと志し、その夢を実現するために、学業を放擲してまで東京に吸い寄せられたのだろう。
子規の上京を応援してくれたのは、母方の叔父加藤拓川だった。拓川は子規が松山中学を全うすることを望み、俄かな上京には反対だったが、ついに子規の情熱に負け、許したのだった。
子規は6月10日に船で三津浜港をたち、14日に東京の土を踏んだ。とりあえず旧藩主久松家のやっかいになり、そこの書生小屋や下宿を転々としながら、須田学者や共立学校といった進学予備校で受験準備をした。そのためには経済的な基盤が必要だったが、幸い明治十七年三月に、久松家の育英事業常磐会給費生に選ばれ、月額7円の生活費のほか、いくばくかの書籍代を支給されることとなった。
子規は翌明治17年9月に大学予備門(後の第一高等中学校)に入学する。その頃の子規は、政治家になろうとする意欲がようやく薄れて来た。東京に出てきて世の中の様子が少しずつわかってくるにつけ、政治を牛耳っているのは薩長の連中で、自分たちのようなかつて朝敵扱いされた藩の出身者には、チャンスがないと思ったからだろう。
一校時代の子規は、下宿にしけこんで友人たちと雑談をしたり、為永春水の人情本を読みふけったりの毎日で、勉学のほうには余り熱心ではなかったようだ。そのなかで注目すべきなのは、明治18年ころからぼちぼち俳句を作り出したということである。
明治21年の7月に一校の予科を卒業した子規は、9月には本科へと進級した。併せて一校の寮を出て久松家の常磐会寄宿舎に入った。漱石と知り合うようになるのは、この頃のことである。
明治22年は、子規にとって運命の分かれ目の年になった。この年5月、子規は大量の喀血をしたのである。それは結核の症状が進んでいることを意味していた。当時結核は不死の病と恐れられており、子規の周囲にも結核で死んでいった人が多くいた。だから子規は、この先末永くないと思われる己の運命を自覚したに違いない。
この喀血の中で、子規はホトトギスの句を詠んだ。
卯の花をめがけてきたか時鳥
卯の花の散るまで鳴くか子規
このほか四五十もホトトギスの句を作り、初めて子規と号した。卯の花とは卯年生まれの子規自身のことで、ホトトギスとは「啼いて血を吐くホトトギス」といわれたように、肺病の代名詞であった。
子規の喀血を知った漱石は、早速子規を見舞った。そして家に戻った後に、子規宛に手紙をしたため、その末尾に次のような句を添えた。
帰ろふと泣かずに笑へ時鳥
聞かふとて誰も待たぬに時鳥
子規と漱石が生涯に渉ってやりとりした往復書簡の、これが最初のものであった。
肺病の症状に小康を得た子規は、明治23年9月、帝国大学文化大学哲学科に入学した。子規はそれ以前からハルトマンをはじめドイツ哲学に関心を持っていたようで、その頃には政治家ではなく哲学者たらんと思っていたのである。だが哲学への関心はすぐに薄れ、翌明治24年1月には国文科に転入した。子規の中にあった文学への希求がようやく形を取り出したのである。
だが子規は最初から俳句に身を捧げようとは思っていなかったらしい。俳句への関心は18歳のころからあったようで、喀血に当ってはホトトギスの句なども作っているが、本格的に取り組むようになるのは明治24年以降のことである。それ以前には、ようやく形を整えつつあった近代風の小説に情熱を感じたらしく、いくつかの小説を自ら書いている。
すでに明治20年に「龍門」という小説を書いているが、これは習作の域を出ないものだった。明治23年には「銀世界」という小説を書いているし、明治25年には幸田露伴の「風流仏」に強い影響を受けて「月の都」を書いている。
だが明治24年に俳句分類という作業に取り掛かって以来、子規の俳句へののめりこみがはっきりとしてきた。こうして子規は次第に、俳句を作ることが面白くて、学校の授業などつまらなくなってしまった。
明治24年の年末試験には、漱石の援助などもあり追試験を受けてやっと及第するといった有様だったが、翌25年の年末試験には落第してしまった。子規はそれを契機にして大学を辞めることとする。
その時の子規にはさまざまな思いがあったろう。まず俳句に開眼したことだ。子規には、大学に残って卒業後世間並みの立身出世をすることより、好きな俳句で生きていこうという気持ちが強く働いたのだろう。それに、肺病にかかった自分の身はそう長くは生きられないかも知れぬ。そう思うと余計に好きな道を歩んでみたい。
こうして子規は二十台半ばを前に、己の人生に方向を見つけ、その実現に向かって残された人生を生きていこうと決心したに違いないのだ。
今日我々が知ることとなる、正岡子規という文学者の、自立のときだったといえよう。  
俳句
正岡子規は生涯に数万の俳句を詠んだ。彼はその中から保存するに耐えると思うものを選び出し、分類した上で手帳に清書して書き溜めた。その数は2万句近くに上る。手帳の1冊目から5冊目までは「寒山落木」と題し、6冊目と7冊目には「俳句稿」と題した。今日子規全集に納められているのは、これらの句が中心になっている。岩波文庫から出ている高浜虚子編「子規句集」もそれから抜粋したものである。
寒山落木の第一句が明治18年のものであるように、子規が俳句を作り始めたのはこの年であると断定してよい。子規はまだ18歳の若者であった。
子規はなぜ俳句に興味を持つようになったか。背景のひとつとしては、彼の郷里松山の事情が働いたものと思われる。松山藩は俳句の盛んな土地柄で、徳川時代を通じて多くの俳人を出した。歴代の殿様にも俳句を好むものが多かったという。子規はだから、少年時代からそうした俳句作りの空気に囲まれ、それが彼に俳句への関心を掻き立てる遠因になったことは考えられる。
徳川時代末期から明治の初年にかけては、俳句や和歌といった短詩形の文芸はいまひとつふるわなくなっていた。徳川時代末期には、武士を中心にした知識人の間ではた漢学が全盛を迎え、庶民の間では小説の類が人気を集めていた。維新を契機に近代化の波がやってくると、今度は西洋の文学が入ってきて、人々は西洋流の小説や新体詩に飛びつくようになる。こうした時代の流れから見ると、俳句や和歌などの短詩形の文芸は、川柳や狂歌も含めて時代遅れに見られていた。
子規もそうした様子について、次のように書いている。
「和歌も俳句も正にその死期に近づきつつある者なり・・・換言すれば、俳句は既に尽きたりと思ふなり。よし未だ尽きずとするも明治年間に尽きんこと期して待つべきなり・・・(和歌も)用ふるところの言語は雅言のみにしてその数甚だ少なき故にその区域も俳句に比して更に狭隘なり。故に和歌は明治以前においてほぼ尽きたらんかと思惟するなり。」(俳句の前途)
子規にこのような認識があったということは、彼が俳句や和歌の再興に危機感をもって臨んだことを意味する。子規は俳句や和歌を、旧来の手法の延長では救い得ないと考えた。それには時代の流れに乗るような、新しい要素を盛り込まねばならない。
子規がたどり着いた結論は、技巧を排して、自然をあるがままに表現することであった。つまり写実である。この写実は俳句と和歌を通じて、子規の創作態度の原点となっている。子規はこれを「月並み」という言葉でも表現した。
子規はこの月並みの立場から芭蕉の句を解釈しなおした。たとえば有名な「古池や蛙飛び込む水の音」について、次のように評している。
「初学の人俳句を解するに作者の理想を探らんとする者多し。しかれども俳句は理想的のもの究めて稀に、事物をありのまま詠みたるもの最も多し。しかして趣味はかへって後者に多く存す。たとへば
古池や蛙飛びこむ水の音
といふ句を見て、作者の理想は閑寂を現すにあらんか、禅学上悟道の句ならんか、あるいはその他何処にかあらんかなどと詮索する人あれども、それはただそのままの理想も何もなき句と見るべし。古池に蛙が飛び込んでキャプンと音のしたのを聞いて芭蕉がしかく詠みしものなるべし。」(俳諧大要)
子規はこのように、ありのままの事物をありのままに表現することが、平易で誰にでもわかる句であり、またそれが句に命を吹き込むこととなるのだという立場を貫いた。それは子規の弟子たちにも伝えられて、近代俳句の大きな流れとなっていく。
こうした立場から、子規が伝統的な俳句に加えた修正が二つある。そのひとつは季語に必ずしもとらわれぬことである。子規はいう。
「俳句の題は普通に四季の景物を用ふ。しかれども題は季の景物に限るべからず。季以外の雑題を取り結んでものすべし。両者並び試みざれば終に狭隘を免れざらん。」(俳諧大要)
季語は俳句にとっては、俳句が俳句として成り立つか否かの分かれ目をなすほど重要な約束事だった。それを取り払おうというのであるから、俳句にとっては大きな挑戦であったわけだ。この挑戦は余りにも大胆すぎたのか、子規以後退けられ、俳句は今も季語を中心にして歌われ続けている。
二つ目は伝統的な俳句作りの原動力となってきた連句を軽視することだった。連句は複数の人が、題をやり取りして句をつないでいくものである。だが子規はそこに技巧がはびこりやすいのを見て、これを退けたのだと思われる。子規の催した句会には、連句の形式が採用されたことはない。
連句は俳句の原点となったものだ。俳句はそもそも徘徊の発句として始まったのであり、芭蕉一門の句会には、この徘徊の連句の伝統がまだ息づいていた。
このように俳句は、出生の事情からして俳諧を趣味としていた。そこに遊びの精神が働いていたのは、俳句という名称そのものにも反映している。それを否定した子規は、俳句から遊びの精神を追放してしまったといわれても仕方がないところがある。
子規の創作態度は、ありのままの自然をありのままに歌うというものであった。それは技巧や約束事を排し、自然と向き合った個人の素朴な感情を重んじる。それは一方では俳句や和歌から遊びの精神を排除する姿勢を強めたが、他方では短詩型文芸にみずみずしい感覚を持ち込んだ。そのことが俳句や和歌に新しい息吹をもたらすことにつながったのだといえる。  
「俳人蕪村」
「俳人蕪村」は子規が蕪村の俳句を取り上げ、その句風を詳細に分析したものである。蕪村の俳句史における位置づけは、子規のこの著作によってゆるぎないものになったといえるほど、蕪村研究の上で画期的な業績であった。
俳句は元禄時代に芭蕉一派の活躍による興隆をみたあと、しばらく月並みな時期が続き、天明期にいたって次の隆盛期を迎えた。蕪村は天明3年に死んでいるから、時代的にはそれ以前の人であるが、句風からして天明期の俳句に大きな影響を及ぼしており、その隆盛を用意した人物と目されてよい。
ところが子規の時代まで、蕪村といえば画家としてのほうが有名であり、彼の俳句は漢語を多用した風変わりな作品だとして、必ずしも高く評価されていなかった。子規はそんな蕪村の句風を新しい観点からとりあげることによって、芭蕉と並び立つべき偉大な俳人として位置づけなおしたのである。
この著作はボリュームの上ではそう大部ではないが、子規の蕪村評価の視点は多岐にわたっている。前半では芭蕉と対比させながらその工夫を大局的にとらえ、後半では俳句作りのテクニックの特徴を細かく論じている。
子規が蕪村の句風を特徴付けるものとして採用した言葉は、積極的美、客観的美、人事的美、理想的美、複雑的美、精細的美といったものである。子規はこれらの概念のひとつひとつについて取り上げながら、芭蕉との対比において、蕪村の句の長所をあぶりだしている。
まず積極的美とは何か。子規はそれを、意匠の壮大、雄渾、艶麗、活発なるものをいうとする。それに対して消極的美とは、古雅、幽玄、沈静、平易なものをいう。芭蕉がいうところの寂とかわびといものは消極的美の典型である。これに対して蕪村の句は積極的美を表している。
四季の風物を詠むについても、春夏は積極的美につながり、秋冬は消極的美につながる。芭蕉が秋冬を多く詠んだに対し、蕪村は春夏を多く詠んだ。この点でも蕪村が積極的であったことが伺われる。
子規はまずこういって、蕪村の句風の芭蕉との違いを巨視的に捉えるのである。
客観的美とは、風物をありのままに描き出すことから生まれる。これに対して主観的美とは、作者の主観が前面に出たもので、読者は作者の主観を通じて対象の美を味わう。
蕪村の句には、対象を客観的に歌ったものが多い。それは蕪村が画家であったことと無縁ではない。蕪村の句にはそのまま絵画を連想させるような視覚的イメージに富んだものが多いのである。それに対して芭蕉も客観的な美を感じさせるものを作ったが、蕪村ほどは客観的ではなかった。
人事的美とは花鳥風月を詠むのとは異なり、人の営みを詠むものである。したがって句はおのずから複雑なものになる。蕪村は複雑な人事を語ってしかも冗長に陥らず、しまりのある俳句を作った。これに対して芭蕉の句は天然の美を詠んだものが多い。
子規はついで蕪村の理想を重んじる点やその結果短い文字のなかに複雑な事象を歌いこむ点について分析する。芭蕉の句はどれをとってもわかりやすく、したがって簡単なものが多いのに対して、蕪村の句は全体的に複雑だというのである。
複雑はまた精細に通じる。精細の妙は印象を明瞭ならしむる点にあるが、蕪村の句にはこのようなものが多い。これも彼が画家だったことと無縁ではないだろう。たとえば次のような句を読むと、微細な情景が如実に伝わってくるという。
鶯の鳴くや小さき口あけて
痩せ脛の毛に微風あり衣がへ
子規はついで、蕪村の採用した用語、句法、句調、文法、材料について考察を進める。
用語については、蕪村が漢語を多用したことはよく知られている。有名な句としては
五月雨や大河を前に家二軒
絶頂の城たのもしき若葉かな
これらは和語でも表現できないわけではないが、蕪村が敢て漢語を使うのは、句の勢いを強めるためである。ただに単語にとどまらず、漢語的表現をも意図的に取り入れている。たとえば次のような句である。
行き行きてここに行き行く夏野かな
句法や句調についても蕪村は意識的に斬新な用法をとりいれた。字余りにもあまりこだわらず、句の勢いを大事にしたのである。
子規はそれぞれの項目について、蕪村の句を多く引用して、自分のいっていることを読者がよく理解できるよう工夫している。単なる評釈にとどまらず、書物全体が蕪村の俳句を鑑賞する場にもなっていて、楽しい読み物ともなっている。
ところで子規自身は、自分の俳句作りに蕪村をどのように生かしたか。これについては、なかなか難しい部分がある。子規の俳句が蕪村の特徴を咀嚼、それを生かして取り入れているとは、必ずしもいえないからだ。
あえていえば、子規の心掛けた写生の態度が、蕪村の客観的美や精細の美にどこかでつながっているといえることだろうか。  
柿食へば鐘がなるなり法隆寺
正岡子規は生涯に夥しい数の俳句を作った。だがその割に名句と呼ばれるようなものは少ない。筆者が全集で読んだ限りでも、はっとさせられるようなものはそう多くはなかった。むしろ退屈な句が延々と並んでいるといった印象を受けたものである。
まあ、筆者は俳句作りには熱心なほうではないので、鑑賞の仕方も邪道なのかも知れぬ。それにしても、明治の俳句の刷新者といわれる人物が、これでは寂しい限りといわねばなるまい。芭蕉と比較するのは気の毒かもしれないが、蕪村や一茶と比較しても、名句の数ははるかに少ないのではないか。
おそらくその理由は、子規が俳句においても写生にこだわったことだろう。その結果、季題や連句など俳諧のよき伝統をも軽視し、俳句から遊びの部分や優雅さを追い出してしまったのではないか。
写生というのは、印象のまとまりからなっているものだ。だからある程度の言葉数を必要とする。子規が和歌のほうでは非常な成功を収め、よい歌が多いのは、和歌の字数が写生に耐えるほど多かったせいだろう。
俳句というのは、表向きの言葉に表れていないものまでも、読者に想起させることによって成り立っている。それを容易にする工夫として、季語を始めとする約束事がある。子規はそれらを軽視して字づらだけで勝負しようとしたために、人に訴える俳句を多くは作れなかったのだ。
そんな中で、子規のもっとも有名な句は
柿食へば鐘がなるなり法隆寺
であろう。国語の教科書にも必ず採用されているから、日本人であれば知らぬものがないほど、人口に膾炙している。その内実に関しては、それこそ何万という人が注釈を加えてきたので、ここで拙論を展開するつもりはない。ただ、この句が成り立った前後の事情について、紹介しておきたい。
柿は子規が最も好んだ食物だった。それを旅先で食っていると、法隆寺の鐘が聞こえてきた。季節は秋、恐らく鐘の音は、澄んだ空気を伝わって聞こえてきたのだろう。なんともほのかな旅情を感じさせる句である。
ところがこの句は始め、法隆寺ではなく東大寺近くの宿屋で着想されたのではないかとの説がある。日下徳一の「子規」という本によれば、次のようないきさつを経てこの区が作られたというのだ。
子規が奈良を訪れたのは、松山での漱石との共同生活を打ち切って東京へ戻る途中である。大病の後であるし、また脊椎カリエスのために腰が痛み始めた頃だったので、子規の健康状態は悪かったのだが、奈良を訪れることは年来の念願だった。
子規は奈良へ着くと東大寺南大門近くの角貞という旅館に宿をとった。そこでは
大仏の足もとに寝る夜寒かな
という句を残している。子規が部屋で寛いでいると、旅館の女中が現れて、子規の好きな柿を剥いてくれた。そのときの様子を子規は、後に「くだもの」と題する随筆の中で回想している。
「此女は年は十六七位で、色は雪の如く白くて、目鼻立ちまで申分のない様にできてをる。生れは何処かと聞くと、月ヶ瀬の者だといふので余は梅の精霊でもあるまいかと思ふた。やがて柿はむけた。余は其を食ふてゐると彼は更に他の柿をむいてゐる。柿も旨い、場所もいい。余はうっとりとしてゐるとボーンといふ釣鐘の音がひとつ聞こえた。彼女は初夜が鳴るといふて尚柿をむき続けてゐる。余には此初夜といふのが非常に珍しく面白かったのである。あれはどこの鐘かと聞くと、東大寺の大釣鐘が初夜を打つのであるといふ。」
子規はこのときの東大寺の鐘の音が余程頭に残ったのであろう。だから後に法隆寺で実際に鐘の音を聞いたとしても、その音が東大寺の鐘の音と重なった可能性がある。いやむしろ、東大寺の鐘を無理に法隆寺につなぎ合わせた可能性さえある。
子規が法隆寺にやってきたのは奈良に到着して四日目、その日の天候は上記の本によれば雨模様であったらしい。子規には法隆寺を詠んだ句がほかにいくつかあるが、それらは
いく秋をしぐれかけたり法隆寺
のように、雨を読み込んでいる。柿食えばの句は、やはり冴え渡った空を連想させるので、雨の中で詠んだというのでは格好がつかぬ。
こんなわけで、子規のこの有名な句は、東大寺の鐘と法隆寺の鐘との合作だというのが、上記の本の推論の内容である。
この話はあれほど写生を重んじた子規には、あるいは相応しくないといえるかもしれない。しかしもし本当だったとしたら、子規にも食えない側面があったということを伺わせるに足る話である。  

正岡子規が明治22年5月、まだ21歳という若さで大喀血に見舞われ、それを契機にして病気と闘う運命に陥ったことについては、前稿で述べた。またこの病気つまり肺結核が、己自身に子規と名付けさせるきっかけになったことも、前稿で述べたとおりである。
だが子規が喀血に見舞われたのは、これが最初ではなかった。前年の明治21年夏、子規は向島にしばらく滞在したが、その折に鎌倉に遊んだことがあった。
しらぬ海や山見ることのうれしければいづくともなく旅立ちにけり
と詠んで鎌倉まで来てみたはいいが、着いた二日目に大雨となり、子規はその雨の中を頼朝の墓から鎌倉宮に向かう途中、二度にわたって血を吐いた。それでもたいしたことには思わずに、そのまま風雨をついて歩き続けたと、「筆まかせ」に書いている。だからこのときには結核との認識もなく、まして治療しようとの考えも浮かばなかった。
明治22年の喀血にはさすがの子規も驚いただろう。五月二日の夜に二度にわたって大量の血を吐いたほか、翌日にも喀血しているのである。しかしこのときにも、喀血そのものには驚きながら、真剣になって治療しようとした形跡は見受けられない。
子規はその年の夏休みに郷里の松山に戻るが、そこでもまた喀血した。この時も気管支が炎症を起こしているのだろうくらいに、たかをくくったらしい。もしこの時に、きちんと治療をしていたら、あるいは子規の命はもっと永らえたかもしれない。
結核の本格的な兆候が現れるのは、明治28年、満州へ従軍した帰りに、日本へと向かう船の中でだった。
5月14日大連を出向した佐渡国丸という船に乗っていた子規は、甲板の上で突然血を吐いた。船中には医師らしきものはいたが、結核の薬など持ち合わせていなかったので、子規の喀血は止まらない。狭い船倉の中でじっと耐えて過ごさねばならなかった。船はやがて、5月18日の午後に馬関についたが、戦中でコレラ患者が発生したことを理由にすぐに下ろしてもらえない。
21日の夕方、和田岬の検疫所に行くことが決まり、翌日の午後には到着したが、それでもなかなか下ろしてもらえない。ようやく23日の午後になって赦免されたときには、子規の体力はほとほと弱っていた。
子規は歩くこともできない有様なので、釣り台に乗せられて神戸病院に担ぎ込まれたのであった。
神戸病院での療養は2ヶ月にわたった。入院後も喀血はとまらず、一週間後には危篤の状態に陥った。この時子規の病を気遣った陸羯南が京都にあった高浜虚子に連絡し、病状を見舞いに行かせている。
しかし子規は何とか死期を脱出できた。6月4日には河東碧梧桐が子規の母を伴って見舞いに駆けつけた。そして6月10日頃には血痰を見ないようになった。
2ヶ月におよぶ神戸病院での療養後、子規は須磨保養院に移って療養した。このときにも、本格的な療養をしておれば、もしかしたら寿命を延ばせたかもしれなかった。しかし子規は、病院の中でいつまでも閉塞していることには耐えられなかった。8月の半ばにはさっさと退院してしまうのである。
退院した子規が向かった先は故郷の松山だった。そこには一校時代以来の親友漱石が、松山中学の教員として赴任していた。子規はその漱石の下宿に居候し、ほぼ50日間を一緒に過ごす。それは子規にとって生涯でもっとも幸せな時期だったかもしれない。
10月半ばに子規は東京へ戻ることにしたが、その途中に奈良に立ち寄った。奈良は子規が以前から是非訪れてみたいと思っていた所だった。だがその頃になって、今度は腰痛に悩むようになった。子規はその痛い腰をなだめながら奈良の社寺を見物して回った。
行く秋の腰骨痛む旅寝かな
子規自身はこの腰痛をリュウマチのせいだと思っていたが、実は結核がもとで脊椎カリエスを起こしていたのだった。子規の晩年を壮絶なものとした病気である。
こうして子規は既に20代にして、肺結核と脊椎カリエスという恐ろしい病に取り付かれることになった。死ぬ年の35歳まで、途中小康の時期を挟んだとはいえ、ずっと苦しい思いをしながら生き続けるのである。  
子規と漱石
漱石は子規の死後数年たった明治四十一年に、雑誌ホトトギスの求めに応じて子規の思い出を口述筆記させた。その中に次のようなくだりがある。
「なんでも僕が松山に居た時分、子規は支那から帰って来て僕のところに遣って来た。自分のうちへ行くのかと思ったら、自分のうちへも行かず親類のうちへも行かず、此処に居るのだといふ。僕が承知もしないうちに、当人一人で極めて居る。」(漱石談話 正岡子規)
この話は、お山の大将でないと気がすまない子規の性格を面白おかしく述べたもので、大分誇張が混じっている。話の中では子規のほうから勝手にやってきて、漱石の承諾もないままに居座ったようになっているが、事実としては、子規の病を知った漱石が、自分のところで静養するようにとの配慮から、わざわざ招いたのである。
当時子規の故郷松山の中学教師に赴任していた漱石は、年来の親友子規と一緒に暮らせることを喜んだにちがいないのだ。漱石は子規が大喀血した明治22年のこともよく覚えており、それが支那に居る間に悪化して、一時は生死の境をさまよったと聞いて、老婆心から静養を勧めたのだと思われる。しかも松山は子規の故郷だ。ここで自分と一緒に暮らしながら静養すれば、病気も少しはよくなるかもしれない、こう考えただろうと思えるのだ。
子規が漱石の下宿愚陀仏庵に滞在したのは50日ばかりに過ぎなかったが、この間松山の俳句愛好家松風会の人々に囲まれ、大いに俳諧を作り論じた。漱石もその輪に加わり、俳句をひねるようになった。その様子を、先の談話は続けて次のように述べている。
「僕は二階に居る、大将は下に居る。其のうち松山中の俳句を遣る門下生が集まって来る。僕が学校から帰って見ると、毎日のやうに多勢来て居る。僕は本を読むこともどうすることも出来ん。尤も当時はあまり本を読む方でもなかったが、兎に角自分の時間といふものが無いのだから止むをえず俳句を作った。」
これもまた漱石一流の諧謔が現れている部分といえるだろう。
子規と漱石が知り合ったのは、一高時代の明治21年頃だとされる。その時二人を結びつけたのは俳句ではなく落語であったらしい。漱石の落語好きは有名だが、子規も若い頃には落語を喜んで聞いたのだろう。
そして運命の明治22年、子規は大喀血をした。そのときの二人のやり取りは、先稿で述べたとおりである。
一校卒業後、二人はともに帝国大学に進み、漱石は英文学、子規は哲学ついで国文学の道を歩んだ。しかし子規は途中で学業を放擲し、大学を中退する。その時漱石は子規の為に随分と心配してやったが、子規のほうはさばさばしたもので、陸羯南の発行する新聞「日本」の記者になって、そこを舞台に精力的に俳句を発表するようになる。
その年(明治25年)の夏、漱石と子規は連れ立って関西旅行をしている。子規が郷里の松山に帰るのに便乗して、漱石も亡くなった次兄の妻小勝の実家を訪ねて岡山に行くことにしたのだった。このときには、二人で京都や大阪に遊び、互いに友情を深めたと思われる。
さて松山での共同生活の後、東京へ帰った子規は脊椎カリエスのために床に伏しがちになり、漱石のほうは松山中学から熊本の高校へ転じたりして、二人が顔を合わせることは難しくなった。その代わり往復書簡を通じて、互いに励ましあうようにある。その内容は、漱石が作った俳句を子規に送り、それに子規が添削を加えるというものが多かった。
二人が最後に会うのは明治33年、漱石がイギリス留学に出発するに際して、子規に別れをいいに行った時だった。その時子規は餞別として次の句を漱石に贈った。
萩すすき来年あはむさりながら
子規も漱石も、これが最後の別れとなることを、覚悟していたに違いない、それが句から伝わってくる。
漱石のロンドン滞在中、子規は漱石にあてて2度しか手紙を出していない。死が差し迫っていた子規には、余裕がなかったのだろう。一方漱石のほうも、ロンドンでの暮らしが性にあわず、重いメランコリーにかかったりしていた。
その中で、子規が漱石にあてた生涯最後の手紙は、読むものの胸を打つものがある。
「僕はもーだめになってしまった、毎日訳もなく号泣して居るやうな次第だ。・・・僕が昔から西洋を見たがって居たのは君も知ってるだろー。それが病人になってしまったのだから残念でたまらないのだが、君の手紙を見て西洋へ往たやうな気になって愉快でたまらぬ。若し書けるなら僕の目の開いているうちに今一度一便よこしてくれぬか(無理な注文だが)・・・僕はとても君に再会することは出来ぬと思ふ。万一出来たとしても其時は話も出来なくなってるだろー。実は僕は生きているのが苦しいのだ。・・・書きたいことは多いが苦しいから許してくれ玉へ。」
この手紙に接した漱石は、子規にあてて返事の手紙を書かなければならないと思いながら、自分自身の不調も理由して、ついにその機会をえないまま、子規が死んだという知らせを聞いた。
このことは漱石の心に、深い後悔の念として残ったであろう。だが漱石は、生きている子規に対しては返事を書いてやることができなかったが、別な形で、子規に別れの言葉を贈ることにした。子規没後の明治39年「我輩は猫である」中篇を出版するに際して序文を付し、その中で子規に対して哀悼の気持ちを述べたのである。
「余は此手紙を見る度に何だか故人に対して済まぬことをしたやうな気がする。・・・哀れなる子規は余が通信を待ち暮らしつつ、待ち暮らした甲斐もなく呼吸を引き取ったのである。・・・書きたいことは多いが、苦しいから許してくれ玉へなどと云はれると気の毒でたまらない。余は子規に対して此気の毒を晴らさないうちに、とうとう彼を殺してしまった。」  
子規と鴎外
近代国家日本の最初の対外戦争である日清戦争が始まると、元来が武家意識の塊であり、しかも新聞記者でもある子規は、自分も従軍したくてたまらなかった。しかし結核をわずらい、体力には自身がなかったため、周囲の反対もあってなかなか実現しなかった。
だが記者仲間の五百木瓢亭が従軍して、戦場からのレポートを「日本」に発表したりするのを目にするにつけ、従軍志望はいよいよ高まった。そしてついにその願いがかなう日が来る。明治28年4月28日、子規は第二軍近衛師団にしたがって、戦場へと赴くことになる。その際景気付けに詠んだのが次の句である。
行かば我れ筆の花散る所まで
子規は意気揚々として遼東半島の金城に上陸したが、その時戦争は既に終わっていた。子規が上陸した2日後には、日清講和条約が締結される。
だから子規が現地で見たものは、戦争の光景ではなく、戦後の荒れ果てた眺めであった。それでも子規は、従軍の様子を記録に収め、「陣中日記」と題して「日本」に送った。俳句入りの雑報といった体裁のものだが、もとより生々しい戦争の記録といったものではなく、文学味豊かな紀行文ともいうべきものだった。その折に添付された句のうちのいくつかを次に示そう。
一村は杏と柳ばかりかな
古寺や戦のあとの朧月
戦のあとにすくなき燕かな
この従軍は子規の健康に災いして、日本へ帰る船の中で大喀血を引き起こすにいたり、やがて彼を寝たきりの状態まで追い詰めることとなる。
だが一方で収穫がないわけでもなかった。そのひとつが鴎外との親交を深めたことである。鴎外は子規と時期を同じくして、近衛師団軍医部長として金城に駐留していたのだった。
子規は鴎外とは始めて会うわけではなかった。「日本」の記者として、既に文名の高かった鴎外とは仕事を通じて接する機会があった。だが異国のしかも戦場で再会した二人は、それこそ胸襟を開いて語り合ったことだろう。鴎外の日記には子規と俳諧のことを談じたという記録が残っているし、また戦場で子規と懇意になったことは非常に幸せだったと、後年柳田国男との談話の中で語っている。
子規と鴎外との交友は日本へ帰ったあとでも続いた。翌明治29年の正月には、子規庵での発句初めに鴎外も招かれて参加し、それ以後何度か運座に加わっている。漱石や虚子も加わったある運座の席では、鴎外が最高点をとった。そのときの主なメンバーの句は、次のとおりである。
おもひきって出で立つ門の霰かな 鴎外
雨に雪霰となって空念仏     漱石
面白う霰ふるなり鉢叩      虚子
子規のほうでも、鴎外が創刊した雑誌「めさまし草」に、一門を挙げて俳句や評論を寄稿して、花を添えてやった。
こうした二人の交友は鴎外が小倉に転勤する明治32年まで続いた。その間柄は、親しき中にも礼儀ありといったものだったようだ。漱石や虚子に対しては、お山の大将振りを発揮した子規も、5歳年長の鴎外に対しては、礼儀をもって接していたのだろう。  
和歌
子規は若い頃から和歌にも親しんでいた。「筆まかせ」のなかの一節で、「余が和歌を始めしは明治十八年井出真棹先生の許を尋ねし時より始まり」と書いているが、実際に作り始めたのは明治15年の頃であり、歌集「竹の里歌」もその年の歌を冒頭に置いている。
その後も和歌作りは着実に続けたが、明治25年を境にあまり作らなくなった。俳句の刷新運動にのめりこんだからである。ところが明治30年の末頃から再び和歌を作り始め、こんどは本業の俳句を上回るほどの情熱を和歌のほうにかけるようになった。そのきっかけとなった面白い出来事がある。
その年の10月なかば、京都に住む年長の友人天田愚庵が使者にことづけて子規に柿を送ってきた。柿好きの子規は喜んで
つりがねの蔕のところが渋かりき
御仏の供へあまりの柿十五
などと俳句をひねったが、すぐには返事の礼状を出さなかった。愚庵は子規から一向に音信がないので、
正岡はまさきくてあるか柿の実のあまきともいはずしぶきともいはず
と詠んだ和歌を添えて、見舞いの葉書を送った。この和歌を詠んだ子規はすっかり恐縮して、侘びの手紙を出し、その中に六首の和歌を添えた。
みほとけにそなへし柿のあまりつらん我にそたへし十あまりいつつ
柿の実のあまきもありぬかきのみの渋きもありぬふきそうまき
籠にもりて柿おくり来ぬふるさとの高尾の山は紅葉そめけん
世の人はさかしらをすと酒のみぬあれは柿くひて猿にかも似る
おろかちふ庵のあるしかあれにたひし柿のうまさをわすれえなくに
あまりうまさに文書くことこそわすれつる心あるごとな思ひ吾師
この年の子規は、脊椎カリエスの症状が一段と悪化し、二度にわたる手術の甲斐もなく、いよいよ寝たきりの状態に陥るようになった。だから普通の人間では、創作の余裕など沸かないところだが、子規はたまたま作ったこの6首の歌がきっかけになって、若い頃から親しんできた和歌を、もう一度本格的にやろうと思ったのである。
そして翌明治31年の2月下旬から3月始めにかけ10回にわたって、「歌よみに与ふる書」を「日本」紙上に発表し、俳句に続いて和歌の革新運動に乗り出す。なにしろ死を意識しだした人間の行いであるから、それには気迫がこもっていた。
「歌よみに与ふる書」は、当世の和歌を否定する次のような激越な言葉で始まっている。
「仰せの如く近来和歌は一向に振ひ不申候。正直に申し候へば「万葉」以来実朝以来一向に振ひ不申候。」
ここで子規が総論的に述べているのは、実朝以来和歌がすっかり退廃してしまったということである。子規はこの文章に続いて実朝礼拝を繰り広げる。そして実朝以前の和歌としては、万葉集をすぐれたものとなす。これに比べれば、「貫之は下手な歌よみにて「古今集」はくだらぬ集にて有之候」と喝破する。
子規のこの評価以来、明治以降万葉振りが和歌の規範として重んじられるようになり、それに反比例して古今和歌集は軽視されるようになる。子規以前には和歌といえば古今集が最大の規範であったから、これは革命的な転換といえるものだった。
なぜ和歌がかくもくだらぬものに成り果てたか、その原因を子規は、歌よみの視野の狭さと、その結果としての陳腐さに帰する。古今集の歌よみなどは、狭い了見で小手先の技を弄するばかり、すこしも颯爽としたところがない、というわけである。
また和歌の腐敗は趣向の変化しないことが原因であり、趣向の変化しないのは用語の少ないのが原因であるとして、従来の慣習的な用語にとらわれず、漢語でも欧米語でも、何でも取り入れるのがよいといっている、要するに伝統にとらわれない態度が重要なのだといいたいようだ。
しかし趣向を広げるといっても、そこにはおのずから境界のようなものがある。「如何に区域を広くするとも非文学的思想は容れ申さず、非文学的思想とは理屈のことに有之候」といっているように、理屈を歌の中に盛り込むのはよくない。歌に盛り込むべきはあくまでも、美の意を運ぶに足るものであり、それがつまり文学的な価値である。
逆に言えば文学的な価値さえ伴っておれば、形式や用語にとらわれる必要はないという立場だった。
こうした子規の説は世間の大きな反響を呼んだ。それらはほとんど批判的なものではあったが、子規はそうした批判を意に介することなく、死ぬまでの数年間、独自の歌の世界を展開していくのである。  
「足たたば」と「われは」
「歌よみに与ふる書」を発表した子規は、その後も批判に答える形で、「ひとびとに答ふ」などを執筆しながら、自らも和歌作りの実践をしていく。それらは漢語の多用が目立ったり、俳句趣味を和歌に持ち込んだと思われるものがあったり、人の意表をつくような内容のものも多かったが、子規は次第に和歌のなかに自分の世界を作り上げていく。
そんな子規の和歌作りの成果の中で、もっとも見るべきものは連作ものだろう。
連作については、子規はすでに俳句において「一題十首」のような形で実践していた。それを和歌にも取り入れて、ある主題について複数の歌を読むようなことを行ったわけである。たとえば「我が庭」とか「日暮里諏訪神社の茶店に遊びて」とかいった題のもとに、連想するものを並べたのである。しかし、俳句の場合にせよ和歌の場合にせよ、連想の変化を喜ぶことはあっても、一つ一つの作品には必ずしも脈絡があるわけではなく、全体として統一したイメージを喚起するようなものではなかった。
ところがそのうちに、脈絡なく和歌を並べるだけではなく、連作を構成する個々の歌が、それぞれ主題に呼応し、しかも互いに響きあうような世界が現れ始めた。子規晩年を彩る和歌の世界は、連作がかもし出す独特のハーモニーからなるといってよいが、それが和歌作りを実践する過程の比較的早い時期に確立されたのである。
明治31年に作った連作のうち最も優れた作品は、「足たたば」と「われは」である。
「足たたば」は、徒然坊こと坂井久良伎が箱根から数葉の写真を送ってきたことに答える形で作り始めたものである。子規はそれらの写真を見て、風景の美しさに感心し、また自分が若い頃に旅をした思い出にふけり、いまは足がたたなくなって、それらの風景を見ることもかなわぬ自分の境遇に思い至る。そこでもし再び足がたったならばと、かなわぬ空想を盛り込んだ一連の歌を作ったのである。
足たたば不尽の高嶺のいただきをいかづちなして踏み鳴らさましを
足たたば二荒のおくの水海にひとり隠れて月を見ましを
足たたば北インヂアのヒマラヤのエヴェレストなる雪くはましを
足たたば蝦夷の栗原くぬぎ原アイノが友と熊殺さましを
足たたば新高山の山もとにいほり結びてバナナ植ゑましを
足たたば大和山城うちめぐり須磨の浦わに昼寝せましを
足たたば黄河の水をかち渉り崋山の蓮の花剪らましを
かなわぬ願いをくりかえし歌うことによって、その願いの切なさが浮かび上がってくるような、独特の効果が読み取れるだろう。
一方「われは」の連作のほうは、足が立たなくなって寝たきりの状態ですごさざるをえない自分の境遇について、それを受け入れつつ健気に生きていこうとする、自分の気持ちを読み込んだものである。
世の人は四国猿とぞ笑ふなる四国の猿の子孫ぞわれは
ひんがしの京の丑寅杉茂る上野の陰に昼寝すわれは
いにしへの故里人のゑがきにし墨絵の竹に向ひ座すわれは
人皆の箱根伊香保と遊ぶ日を庵に籠もりて蝿殺すわれは
富士を踏みて帰りし人の物語聞きつつ細き足さするわれは  
原の太鼓聞えて更くる夜にひとり俳句を分類すわれは
昔せし童遊びをなつかしみこより花火に余念なしわれは
果物の核を小庭に撒き置きて花咲き実る年を待つわれは
これらの歌には、子規一流の生き様が、何のてらいもなく盛られている。それは風流や優雅とは無縁のものかもしれないが、人間の優しさ、やるせなさがこもっている。こんな日常的でしかも人間的な感情を、ごく普通の言葉で歌い上げたものは、子規以前の和歌にはなかったことである。
なお、第一句あるいは第五句に同じ言葉を何首も連続して置くのは、古人の例にもあり、子規の独創ではない。しかしそこからにじみ出てくる効果は、子規を待たなければ知られなかったものだ。
子規はこの後連作を続けるうちに、「藤の花」や「山吹の花」の連作のような、美しさに満ち溢れた作品を生み出していった。  
墓碑銘
子規は明治31年7月に碧梧桐の兄河東可全にあてて書いた手紙に添えて、自分の墓碑銘を送った。
正岡常規又ノ名ハ処之助又ノ名は升又ノ名ハ子規又ノ名ハ獺齋書屋主人又ノ名ハ竹の里人伊予松山ニ生レ東京根岸ニ住ス父隼太松山藩御馬廻り加番タリ卒ス母大原氏ニ養ハル日本新聞社員タリ明治三十□年□月□日没ス享年三十□月給四十円
この文はそのまま墓に彫られてよいように、ほぼ墓と同じ大きさの紙に墨書するという念の入れ方だった。文中さまざまな名が列挙されているが、それらは子規が折節に用いたところの名であって、これらを読むとおのずから子規生涯の足跡がわかるようになっている。
常規は子規の本名、処之助は子規の幼名で四五歳ころまで用いられた。子規は後に越智処之助というペンネームで「日本人」誌上に文芸評論を発表するが、越智とは正岡氏の系図上の姓である。升は子規の通称で、高浜虚子ら松山出身の俳人たちはみな、この名を以て子規を呼んでいた。獺齋書屋主人は俳論を書く際の号で、竹の里人は和歌の号である。子規が住んだ根岸を竹の里にたとえたのだろう。
父母のことに簡単に触れた後、日本新聞社員たりと記し、丁寧に月給まで打ち明けている。実はこの文を書く直前子規は月給が上がって四十円もらえるようになっていた。その額なら母と妹と三人での生活を、何とかやりくりできるようもなった。それで子規は、日本新聞社に対して感謝の念を抱いていたのだった。
この墓碑銘を書くきっかけとなった手紙というのがまたふるっている。手紙を書く数日前に可全が扇子とシャンパンを土産に子規を見舞ったのだが、初めて飲んだシャンパンの味にすっかり感激した子規は、次のような文面の礼状をしたためたのだった。
「シャンパント扇アリガトーシャンパンハアノ日柳原ガ来テ飲マシタノニエオ飲ミイデナアシャ自分ガ死ンデモ石碑ナドハイラン主義デ石碑立テテモ字ナンカ彫ラン主義デ字ハ彫ッテモ長タラシイコトナド書クノハ大嫌ヒデ寧ロコンナ石コロヲコロガシテ置キタイノジャケレド万一已ムヲ得ンコツデ字ヲ彫ルナラ別紙ノ如キ者デ尽シトルト思フテ書イテ見タ コレヨリ上一字増シテモ余計ジャ 但シコレハ人ニ見セラレン」
シャンパンへの謝辞もそこそこに、自分が死んだ後の始末について語っているところが面白い。
子規がなぜこの時期にこんなものを書いたのかについては、さまざまな臆説がたてられてきた。自分の死期を悟って遺言を書く気になったのだろうとか、いやこの時期にはまだ体力が残っており創作欲も旺盛だったのだから、子規一流の諧謔趣味なのだろうとかいったものが、主なものだ。
可全は子規より三歳年下で、常磐会時代には一緒に俳句を作ったりベースボールに興じた仲だ。しかしその後俳句からは遠ざかり、従軍記者として満州の戦地に赴いたりして、帰還後は旧松山藩主久松家に仕えていた。それでも子規とは気の会う間柄で、生涯親しくした。だから自分の死後のことを託するに相応しい人物だと、子規が考えてもおかしくはない。墓碑銘には享年三十□とあり、子規はやはり自分がそう長く生きられないと思っていたことが伺われるのである。
子規はこの墓碑銘を書いた四年後に死んだが、そのさいこの墓碑銘が使われることはなかった。土葬後三年の間は「正岡常規墓」の五文字を記した墓標が立てられ、その後には陸羯南筆になる「子規居士之墓」なる墓標が立てられた。
この墓碑銘が日の目を見るのは子規の三十三回忌にあたる昭和九年のことである。そのときに子規の手筆のままに銅板に刻まれたものが、「子規居士墓碑銘碑」として墓のそばに立てられた。だがこれは後に盗難に会い、いまある墓碑銘は昭和十一年に再建されたものである。こちらは銅板ではなく石に刻まれている。  
「墨汁一滴」
子規は死の前年、明治34年の1月16日から7月2日まで「日本」紙上に「墨汁一滴」を連載した。子規の壮絶な晩年を飾る珠玉の随筆群である。
子規はすでに病状が進み、死を覚悟しながら毎日を生きるようになっていた。この年の正月に当たって子規がしたためた文章には、そんな子規の心境が飾らずに述べられている。
「明治34年は来りぬ。去年は明治33年なりき。明年は明治35年ならん。昨年は病床にありて屠蘇を飲み、雑煮を祝ひ、蜜柑を食ひ、而して新年の原稿を草せり。今年もまた病床にありて屠蘇を飲み、雑煮を祝ひ、蜜柑を食ひ、而して新年の原稿を草せんとす。知らず、明年はなほ病床にあり得るや否や。屠蘇を飲み得るや否や。雑煮を祝ひ得るや否や。蜜柑を食ひ得るや否や。而して新年の原稿を草し得るや否や。発熱を犯して筆を執り、病苦に耐へて原稿を草す。人はまさに余の自ら好んで苦むを笑はんとす。余は切にこの苦の永く続かんことを望むなり。明年一月余はなほこの苦を受け得るや否やを知らず。今年今月今日依然筆を執りてまた諸君に紙上に見ゆることを得るは実に幸なり。昨年一月一日の余は豈能く今日あるを期せんや。」
子規にはもはや生きることとは苦しみを舐めることに他ならなかった。それでも子規は苦しみが長く続くことを願う。苦しみが長く続くことは生き続けることの証に他ならなかったからだ。
この随筆群はだから、子規にとっては白鳥の歌ともいうべきものだった。子規はそれまでいろいろな形で発表していたものをすべてとりやめ、執筆活動を墨汁一滴に集中した。それゆえこの随筆集には実に幅広い内容が盛られている。歌論、俳論に始まり、絵画の鑑賞やうまい食い物の話など、毎日脳裏にうかんだことは何でも材料にした。
中でも注目すべきは、平賀元義の歌を発見して、これを源実朝、徳川宗武、井出曙覧と並ぶ大歌人として紹介したことである。また与謝野鉄幹をこき下ろし、「鉄幹是ならば子規非なり、子規是ならば鉄幹非なり。」と喝破した。
だがそれ以上に、この中で子規が達成した和歌の水準の高さは、日本の文学史上特筆されるべきものである。子規はそれを連作の形で実現した。
まず四月二十八日の記事には「藤の花」の連作を載せている。
瓶にさす藤の花ぶさ短かければたたみの上にとどかざりけり
瓶にさす藤の花ぶさ一ふさはかさねし書の上にたれたり
藤なみの花をし見れば奈良のみかど京のみかどの昔こひしも
藤なみの花をし見れば紫の絵の具取り出で写さんと思ふ
藤なみの花の紫絵にかかばこき紫にかくべかりけり
瓶にさす藤の花ぶさ花垂れて病の床に春暮れんとす
去年の春亀戸に藤を見しことを今藤を見て思ひいでつも
くれなゐの牡丹の花にさきだちて藤の紫咲きいでにけり
この藤は早く咲きたり亀井戸の藤咲かまくは十日まり後
八入折の酒にひたせばしをれたる藤なみの花よみがへり咲く
この連作には次のような序文がつけられている。
「夕餉したため了りて仰向けに寝ながら左のほうを見れば机の上に藤を活けたるいとよく水を上げて花は今を盛りの有様なり。艶にもうつくしきかなとひとりごちつつそぞろに物語の昔などしのばるるにつけてもあやしくも歌心なん催されける。其道には日ごろうとくなりまされたればおぼつかなくも筆をとりて」
この文にあるとおり、子規は病床に寝て仰向けになった姿勢で藤の花を見たのだったろう。だから歌の視点は低いところにある。藤の花は子規のまなざしと同じかあるいはそれより高いところにあって、あたかも畳の上にもつれかかろうとして届かない。子規はそんな藤を見ながら昔のことを思い出すのだ。
二日後の四月三十日には、次のような序文を添えて、山吹の花の連作を載せた。
「病室のガラスより見ゆる処に裏口の木戸あり。木戸の傍、竹垣のうちに一むらの山吹あり。此の山吹もとは隣なる女の童の、四五年前に一寸ばかりの苗を持ち来て、戯れに植ゑ置きしものなるが、今ははや縄もてつがぬる程になりぬ。今年も咲き咲きて、既になかば散りたるけしきを眺めて、うたた歌心起こりければ、原稿紙を手に持ちて
裏口の木戸のかたへの竹垣にたばねられたる山吹の花
小縄もてたばねあげられ諸枝の垂れがてにする山吹の花
水汲みに往来の袖の打ち触れて散り始めたる山吹の花
まをとめの猶わらはにて植ゑしよりいく年へたる山吹の花
歌の会開かんと思ふ日も過ぎて散りがたになる山吹の花
我が庵をめぐらす垣根隈もおちず咲かせ見まくの山吹の花
あき人も文くばり人に往きちがふ裏戸のわきの山吹の花
春の日の雨しき降ればガラス戸の曇りて見えぬ山吹の花
ガラス戸の曇り払へばあきらかに寝ながら見ゆる山吹の花
春雨のけならべ降れば葉がくれに黄色乏しき山吹の花
そして五月四日には、「しひて筆をとりて」と詞書して次の十首が載せられた。
佐保神の別れかなしも来ん春にふたたび逢はんわれならなくに
いちはつの花咲き出でて我が目には今年ばかりの春暮れんとす
病む我をなぐさめがほに開きたる牡丹の花の見れば悲しも
世の中は常なきものと我が愛づる山吹の花散りにけるかも
別れゆく春のかたみと藤波の花の長ふさ絵にかけるかも 
夕顔の棚つくらんと思へども秋待ちがてぬ我がいのちかも
くれなゐの薔薇ふふみ我が病いやまさるべき時のしるしに
薩摩下駄足にとりはき杖つきて萩の芽つみし昔思はゆ
若松の芽だちの緑長き日を夕かたまけて熱いでにけり
いたつきの癒ゆる日知らにさ庭べに秋草花の種を撒かしむ
この連作には、前の二つと違って、共通の言葉はないが、テーマは一貫している。それは子規自身の命を見つめる視点だ。だからこの連作は「いのちの絶唱」とも名づけてしかるべきものだ。
子規はこの一連の歌の中で、自分の命が来年までといわず、秋までもつかおぼつかぬ不安を歌っているが、実際には年を越して、最後の随筆集「病床六尺」を書き続ける幸運に恵まれた。  
「仰臥漫録」
子規は明治34年の7月2日を以て「墨汁一滴」の連載を終了した後、同年の9月2日から「仰臥漫録」を書き始めた。だがこちらは発表することを意図したものではなく、あくまでも子規の私的な手記であった。それだけにいよいよ死を間近に控えた人間の内面が飾ることなく現れている。
仰臥漫録の記事は書き始めてから10月29日までのほぼ2ヶ月の間は毎日記されているが、その後中断し、翌年の6月以降は麻痺剤服用日記という風になっている。5月5日からは「病床六尺」を連載し始めているので、私的な日記とはいえ、実質的には「墨汁一滴」と「病床六尺」の中間に位置する随筆集として捉えることも可能である。
この日記を読んでまず目につくのは、毎日の食事の献立が事細かに記録されていることだ。たとえば9月8日の記事には次のようにある。
九月八日 晴 午後三時頃曇 暫くして又晴
朝 粥三椀 佃煮 梅干 牛乳五勺ココア入り 菓子パン数個
昼 粥三椀 松魚のさしみ ふじ豆 ツクダニ 梅干 梨一つ
間食 牛乳五勺ココア入り 菓子パン数個
夕飯 粥二椀 焼鰯十八尾 鰯の酢のもの キャベツ 梨一
ほとんど毎日がこんな調子である。それにしても子規の食欲は大変なものだ。体力が弱っているとはいえ、胃腸は丈夫だったのだろう。他に楽しみの少ない子規にとっては、食事は最大の楽しみであり、また生きていることの証だった。
ついで絵の記事が目立つ。子規は子供の頃から絵が好きだったというが、自分で描き出したのは明治32年の秋だった。親友の画家中村不折の影響などもあったらしい。そしてこの日記の中にも、不自由な体で描いたらしい絵を書き入れている。
時折書き加えている俳句にも、子規らしいさえを見せているものがある。だがこの日記の中で、もっとも読者の心を打つのは、子規の病苦に耐える姿と迫り来る死を予感するところだろう。
その頃中江兆民が「一年有半」という文章を発表し、その中で余命一年半と宣告されたことのショックを連綿とつづっていることに対して、子規はそれを女々しい理屈だといって批判した。
「兆民居士の「一年有半」といふ書物世に出候よし新聞の評にて材料も大方分り申候。居士は咽喉に穴一つあき候由、われらは腹、背中、臀ともいはず蜂の巣の如く穴あき申候。一年有半の期限も大概は似より候ことと可申候。しかしながら居士はまだ美といふ事少しも分らず、それだけわれらに劣り可申候。理が分ればあきらめつき可申、美が楽み出来分れば可申候。杏を買ふて来て細君と共に食ふは楽みに相違なけれどもどこかに一点の理がひそみ居候。焼くが如き昼の暑さ去りて夕顔の花の白きに夕風そよぐ処何の理屈か候べき。」
子規は、兆民のように死ぬことに理屈をつけるのは馬鹿げており、今与えられている命を生きることが肝心だといいたかったのだろう。そしてこの文に続けて、自分がもし死んだ場合のことについて、遺言のようなものを書いている。
「われらなくなり候とも葬式の広告など無用に候。家も町も狭き故二、三十人もつめかけ候はば柩の動きもとれまじく候。何派の葬式をなすとも柩の前にて弔辞伝記の類読み上候事無用に候。戒名といふもの用ゐ候事無用に候。かつて古人の年表など作り候時狭き紙面にいろいろ書き並べ候にあたり戒名といふもの長たらしくて書込に困り申候。戒名などはなくもがなと存候。自然石の石碑はいやな事に候。柩の前にて通夜すること無用に候。通夜するとも代りあひて可致候。柩の前にて空涙は無用に候。談笑平生の如くあるべく候。」
子規はこれより三年ほど前にも、河東可全にあてて自分の死後彫るべき石碑のサンプルを示しているが、それとこの遺言とをあわせて、友人たちは子規の意思を尊重した葬儀を行った。
なお子規は、この年の自分の誕生日に限って岡野から料理をとりよせ、母と妹と三人でこれを食った。家族の平生の看護の努力に報いたいと思ったのである。そして「けだしまた余の誕生日の祝ひおさめなるべし」と日記にしたためたのであった。  
「病床六尺」
明治35年は子規が死んだ年である。その前年「墨汁一滴」の連載をなし終えた子規は、自分の死がいよいよ押し迫ってきたことを痛感し、その気持ちを私的な日記「仰臥漫録」の中でも吐露していたが、幸いにして年を越して生きながらえ、毎年恒例のように訪れてくる厄月の5月も何とか乗り切れそうな気がしていた。そんな子規に新たな連載の機会が与えられた。日本新聞社友小島一雄の計らいだった。
連載は5月5日に始まった。子規はその連載に「病床六尺」と命名し、冒頭に次のような記事を書いた。
「病床六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病床が余には広過ぎるのである。僅に手を延ばして畳に触れることはあるが、布団の外へ足を延ばして体をくつろぐ事も出来ない。甚だしい時は極端の苦痛に苦しめられて五分も一寸も体の動けない事がある。苦痛、煩悶、号泣、麻痺剤、僅に一条の活路を死路の内に求めて少しの安楽を貪る果敢なさ、其でも生きて居ればいひたい事はいひたいもので、毎日見るものは新聞雑誌に限って居れど、其さへ読めないで苦しんで居る時も多いが、読めば腹の立つ事、癪にさはる事、たまには何となく嬉しくて病苦を忘るる様な事がないでもない。年が年中、しかも六年の間世間も知らずに寝て居た病人の感じは先ずこんなものですと前置きして」
子規はこんな風に書いて、おそらくあまり残されていないだろう自分の命を、何とか燃焼させたいと思ったのだろう。だが連載二日後の七日から様態がおかしくなり、15日には体温が低下してなかなか上がらなかった。子規もついに観念して、死ぬる準備をしたほどであったが、幸いに危篤に陥ることはなかった。
小島はそんな子規の病状を見て、子規を休ませるために連載を一時中断させたが、それを知った子規は次のような手紙を児島に送って、連載を認めてくれるように懇願したのである。
「僕の今日の生命は「病床六尺」にあるのです 毎朝寝起には死ぬる程苦しいのです 其中で新聞をあけて病床六尺を見ると僅に甦るのです 今朝新聞を見た時の苦しさ 病床六尺が無いので泣き出しました どーもたまりません」
驚いた小島は子規のもとに飛んでいき、「実は君がそれ程とは知らなかった。よろしい、死ぬまで書け、毎日載せるから」(小島一雄の子規談)といって慰めた。こうして病床六尺は子規の死の二日前まで、ほとんど休むことなく書きつがれたのである。
8月20日には連載が100回目に達した。子規はこのことを喜んだ。そして次のようなことを書いた。連載記事を新聞社に送る状袋の上書きを自分で書くのが面倒なので、新聞社に頼んで活字で印刷してもらった。それでも病人の身で余り多く頼むのは笑われかねないので、100枚注文した。すると新聞社は300枚送ってくれた。300枚といえば300日分、それを全部使うまでには10月の先までかかる。そこまで生きられるかどうかおぼつかなかったが、とうとう100回分まで使うことが出来た。このようにいって子規は次のように述懐を述べる。
「この百日といふ長い月日を経過した嬉しさは人にはわからんことであろう。しかしあとにはまだ二百枚の状袋がある。二百枚は二百日である。二百日は半年以上である。半年以上もすれば梅の花が咲いて来る。果たして病人の眼中に梅の花が咲くであらうか。」
病床六尺の題材は、墨汁一滴同様かなり広い範囲にわたっている。あえて相違をあげるとすれば、墨汁一滴では和歌の連作が目を引くのに対し、病床六尺では絵画に関する記事が多いことだ。
その絵画を巡って、ほほえましいエピソードが記されている。8月20日の午後子規の弟子孫生と快生が渡辺のお嬢さんを連れて訪ねてきた。このお嬢さんのことは前から知らぬでもなかったが、あってみると「想像して居ったよりは遥に品の善い、其で何となく気の利いて居る、いはば余の理想に近いところの趣」を備えたお嬢さんだった。
「暫くして三人は暇乞して帰りかけたので余は病床に寝てゐながら何となく気がいらって来て、どうとも仕方の無い様になったので、今帰りかけて居る孫生を呼び戻して私に余の意中を明かしてしまった」
意中とはお嬢さんに一晩泊まっていって欲しいというものであった。文面からは何とも艶めかしい光景が浮かんでくるが、渡辺のお嬢さんとは人間の女性ではなく、渡辺何岳が描いた絵のことなのだ。
子規の様態は墨汁一滴を書いたときよりもいっそう進んでいた。身動きもできなくなった体を、過酷な苦痛が襲う。子規はどうやって毎日を過ごすべきか、煩悶する。6月20日の記事には次のような子規の叫びが記されている。
「絶叫。号泣。益々絶叫する。益々号泣する。その苦その痛何とも形容することは出来ない。寧ろ真の狂人になってしまへば楽であらうと思ふけれどもそれも出来ぬ。若し死ぬることが出来ればそれは何よりも望むところである。併し死ぬることも出来ねば殺して呉れるものもない。一日の苦しみは夜に入ってやうやう減じ僅に眠気さした時には其日の苦痛が終わるとともにはや翌朝寝起の苦痛が思ひやられる。寝起程苦しい時はないのである。誰かこの苦を助けて呉れるものはあるまいか、誰かこの苦を助けて呉れるものはあるまいか。」
子規はこのような苦痛にさいなまれながら病床六尺を書く手を休めることなく、死の直前まで書き続けるのである。  
痰一斗糸瓜の水も間にあはず
六年余りの病床生活を経て子規の病態はいよいよ抜き差しならなくなってきた。耐え難い苦痛が彼を苦しめたのである。それにともなって、「病床六尺」の記事も短くなり、また苦痛を吐くものが目立ってきた。死の直前明治35年9月12日から14日にかけての「病床六尺」には、そんな痛みが述べられている。
「百二十三 支那や朝鮮では今でも拷問をするそうだが、自分はきのう以来昼夜の別なく、五体なしといふ拷問を受けた。誠に話にならぬ苦しさである。」(9月12日)
「百二十四 人間の苦痛はよほど極度へまで想像せられるが、しかしそんなに極度にまで想像したやうな苦痛が自分のこの身に来るとはちょっと想像せられぬ事である。」(9月13日)
「百二十五 足あり、仁王の足の如し。足あり、他人の足の如し。足あり、大般若の如し。僅に指頭を以てこの脚頭に触るれば天地震動、草木号叫、女?氏いまだこの足を断じ去って、五色の石を作らず。」(9月14日)
子規はしかし、この苦痛のさなかにあっても、頭脳の明晰と感情の抑制を失わなかった。9月14日には高浜虚子に「9月14日の朝」と題する小文を口述筆記させた。それには「病気になって以来今朝ほど安らかな頭を持ってこの庭を眺めたことはない」といい、またその庭を眺めて、「たまに露でも落ちたかと思ふやうに、糸瓜の葉が一枚二枚だけひらひらと動く」と感想をもらした。そして納豆売りがきたのを聞くと、「納豆売りでさえこの裏路へ来ることは極めて少ないのである。・・・余は奨励のためにそれを買ふてやりたくなる」といった。
9月18日には庭先の糸瓜を写生するつもりになったのだろう、傍らの画板を取り寄せると、それに句を三つ書きつけた。
糸瓜咲て痰のつまりし仏かな
をととひの糸瓜の水も取らざりき
痰一斗糸瓜の水も間にあはず
これが子規の絶筆になった。その夜子規は誰にも気取られぬうちに、病床の中で静かに生きを引き取ったのである。時に明治35年9月19日の未明であった。その晩子規の家に泊まっていた高浜虚子が急を告げるために外へ出ると、十七夜の月が明るく照っていたそうである。
子規の遺骸は、友人や弟子たちによって田端の大竜寺に葬られた。葬儀の仕方が子規の意思を踏まえたものであったのは、先稿で触れたとおりである。  
 
音楽・北杜夫「幽霊」を中心に / 森本穫

1
はじめに
わが国の近代文学における音楽、という主題を考えるばあい、アプローチの方法が二つあるように思われる。一つは、近代の作家・詩人たちがどのように音楽(特に西洋音楽)を受容してきたかという歴史と、その内実をさぐる観点であり、いま一つは、近代文学の作品中に音楽がどのように取り込まれて、どのような働きをなしているかを考える方法である。
前者についての研究には、安川定男氏の労作『作家の中の音楽』(昭51・5 桜楓社)がある。鴎外・漱石から河上徹太郎・小林秀雄にいたるまで、西洋音楽との関わりの深浅が丁寧に調査され、その意味が考察されている。それによれば、わが国で西洋音楽が自己形成の重要な領域として浸透し定着するのは、河上・小林らが青年期を迎えた大正期なかば以降であったようだ。文学や美術に比べて、わが国に定着するのに時間を要した西欧の音楽だが、やがてわが国でも飛躍的な発展を遂げて、明治維新から百二十年余を経た平成の今日、クラシックばかりでなくジャズ、ポピュラー、ロック、さらにはフュージョンなど、日本の伝統的な音楽も含めて、その多様な展開と隆盛ぶりは、多言を要しない。
近年の若者の文化において、もはや文学はがってのような中心的な役割を失ったかに見える。代わりに圧倒的な各種の音楽が、映像文化とともに、若者たちにとって不可欠の日常的な領域にまでなっているのである。しかしこうした状況を詳しくとらえるには、限られた紙幅ではとうてい不可能である。そこでここでは、もう一つのアプローチの方法、すなわち文学作品における音楽の姿を、具体的な作品を通じて検証し、そこから近代文学における音楽のあり方を考えることとしたい。本稿でとりあげるのは、北杜夫「幽霊」である。この作品の中では、ドビュッシイの「牧神の午後」が作品の主題と深くかかわっている。そのあり方を探ることによって、音楽と文学の関係を検討してみたいのである。
「幽霊」は、北杜夫の作品の中では最もよく論じられてきた作品である。作家自身にとっても、この作品がきわめて根源的なものであることは、みずからしばしば語っているところだが、この作家に惹かれる読者にとっても、「幽霊」は、やはり根本の問題を含んだ重要作なのである。「幽霊」は、昭和二十五年に書き出され、翌々年に完成したのち、昭和二十八、九年の『文芸首都』に分載され、また自費出版された。書き出されたのは、何と作者わずかに二十三歳のときである。
「或る幼年と青春の物語」と副題に示されているように、この作品は青春期にある〈ぼく〉が、みずからの幼年期の意味をたずねる物馴である。全体は四章から成り立っている。各章が互いに響きあい、やがて一つの壮大な全体を構築する、といったまことに堅固な構成となっている。交響曲と同じ形式をとっていることに注意しておさない。さて、まずわれわれは、作者に従って、素直に第一章から、その物語ってゆくところに耳を傾けよう。第一章の冒頭には、すでにあまりにも有名になった十行ばかりのフラグメットがある。
人はなぜ追憶を語るのだろうか。
どの民族にも神話があるように、どの個人にも心の神話があるものだ。その神話は次第にうすれ、やがて時間の深みのなかに姿を失うように見える。――だが、あのおぼろな昔に人の心にしのびこみ、そっと爪跡を残していった事柄を、人は知らず知らず、くる年もくる年も反芻しつづけているものらしい。そうした所作は死ぬまで続いてゆくことだろう。それにしても、人はそんな反芻をまったく無意識につづけながら、なぜかふっと目ざめることがある。わけもなく桑の葉に穴をあけている蚕が、自分の咀嚼するかすかな音に気づいて、不安げに首をもたげてみるようなものだ。そんなとき、蚕はどんな気持がするのだろうか。
これは第一章の、というよりも、この作品全体の目的を語るライトーモチーフである。「追憶」を語ることによって、「時間の深みのなかに姿を失」つた「心の神話」の意味をさぐること。すなわちこの作品は、〈ぼく〉における「心の神話」の意味するところをさぐってゆく物語なのである。
さて、第一章では、〈ぼく〉の幼年期の「追憶」が語られる。
初めに、三つの部屋。その最初は、少女のころ外国で生活したという母の部屋である。〈ぼく〉がその部屋に惹かれたのは、「お伽話めいた華麗さ」「なにか異質的なものへのあこがれ」のせいであった。次に、学者というものらしかった父の部屋。「一種の謐かさ」を身近にただよわせていた父、そして膨大な本たちの跋扈する世界。さらに三つめは、玄関わきの応接間。母の招くおおぜいの客たちの世界。そこにいるとき、母はいっそう優雅に見え、また〈ぼく〉の二つ違いの姉も、母の子供に似つかわしく、その雰囲気にすっぽりとはまりこむことができる。〈ぼく〉だけが「のけものの存在」であることを承知しながら、隅っこの椅子に坐ったまま抜け出すことができないのである。なぜなら客たちの談笑を聴いているのが「快かった」からだ。
この三つめの部屋の記憶は、のちに〈ぼく〉にとって、いっそう重要なものとなる。母はそこで箱形のいかめしい蓄音機をかけて「けだるい、甘美な旋律」の音楽を聴かせてくれたし、さらに〈ぼく〉は、二つ違いの姉のことを「彼女はあきらかにぽくには手のとどかぬ世界に属していた」「身体も魂もぼくとは別の材料でできているようだった」「ぼくは常に観客だった」と感じつづけるのである。またこの応接間は、別のときには漆黒の闇をもつ魔法宮となり、官能的なわななきを幼い〈ぼく〉に覚えさせもする。
幼年期に〈ぼく〉が経験したのは、もちろん家の中の世界だけではない。外界――。その第一は、原っぱである。家から一町ほど離れたその原っぱには、木や草の精がいるかと思われる。さらに、原っぱのはずれから無限にひろがる寂寞とした墓地。それは「妖怪の跋扈する世界」であり、〈ぼく〉の見知らぬ兄と姉の眠る、〈夜〉と〈死〉のにおいのする世界でもある。それから、一家が滞在する山中の温泉で、滝つぽのほとりに見た銀白色の蠱惑にみちた鱗粉の光彩。のちの昆虫、とりわけ蝶や娥に対する異常なほどの執着につながる経験……。こうした記憶を所有する〈ぼく〉に、やがて幼年期からの訣別を強いるときがくる。父の死と、母の出奔である。
父の死ののち、父の残した書物のひとつを手にして「ぽくがいま、父と同じものであるという確信」をくぼく〉は抱く。また母は出奔の前、偶然にも上半身裸体の白い姿をくぽく〉の目に残してくれる。
出奔ののち、一度だけ母は夜中に姿を見せた。階段の上に、音もなく、ふっとあらわれたのである。だが、あくる朝目ざめたとき、母はもういない。それから永久に、母は帰ってはこなかりたのだ。やがて〈ぼく〉と姉伯父の家にひきとられる。そしてまもなく、可憐な姉は〈死〉の手にゆだねらわるのである。
2
第二章では、少年期の終りが語られる。末期の様相をおびた戦争から離れて、〈ぼく〉は信州に行き、そこで周囲にあふれている〈自然〉の新鮮さに圧倒される。昭和二十年六月。〈ぼく〉は十八歳になっている。五月末の空襲で動員先の工場が灰になっだので、ようやく東京を離れ、信州の高等学校に来ることができたのである。王ヶ鼻の頂上で〈ぼく〉は、無限にひろがる〈自然〉にとりかこまれながら、「突きぬけた孤独」を覚え、自分自身に尋ねようとする。「このぼくは一体どこから生れてきたのだろう?」と。
しかし彼は、幼年期が「消えてしまってい」ることに気づく。そこで、そのときまでの彼の少年期について記してゆくのである。ちなみに、〈ぼく〉にとって、少年期とはどのようなものなのか――。「少年時代というものはむしろ一種の睡眠、精神的には休息の時期であるというのもあやまりで、幼年期に吸いとった貴重な収穫をそっと発酵させるためにこそ、外見、退屈な類型の眠りを必要とするらしい。」――これが〈ぼく〉の少年期に関する定義である。一見、眠たげに見える少年期だが、実は幼年期の大切な収穫を発酵させる時期だ、というのである。
では、その少年期に、彼はどのように、みずからの幼年期の経験を静かに発酵させたのか。まず、姉のあっけない〈死〉。それから〈死〉への親炙。やがておとずれる、急性糸球体腎炎による病臥と、その間に決定的になった、昆虫への好奇心と愛着。従姉の部屋でみつけた、少女歌劇の雑誌に載っていた、グラビアの少女の顔。つまりこの章で語られる少年時代には、幼年期に芽生えたものたちの、いくらかの延長と発展があるばかりで、そこに驚くほどの劇的な発見はない。
第三章は、「終戦から食糧難の秋冬にかけて」の時期である。〈ぼく〉は、数え年では二十歳に手のとどこうとしている高等学校の学生であり、「ようやく青年期にはいろうとする」時期である。松本平特有の木枯しの吹き荒れる凍りついた夜半ごとに、〈ぼく〉は〈夜〉と〈死〉の想念に悩まされる。「精神の病い」である。
そんなある日、〈ぼく〉は印象深い夢を見た。ルドンの初期の絵を想わせるような色彩があたりを満たしている中に、「白い朦朧とした影」がうかびあがるのである。それは「薄い銀白色の衣をきた白い裸身」である。やがて陰欝な風景が見えはじめる。墓石や卒塔婆が立っているから、墓地らしい。その中央の高い石柱に、誰かが寄りかかっている。「完璧な、これほど心底から惹きつけられる顔立ちを見たことがなかった」というような美しさである。女らしいところと少年らしいところのまざりあった姿……。〈ぼく〉は「忘れかけていたわななき」を思い出す。そしてその見知らぬ顔を「まったく未知のものでもなく、どこか馴染みある面影を宿してはいなかっだろうか?」と、いぶかる。
そこから「ぼくの内奥に眠りうずもれていた過去の層」がまざりあいながら立ちのぼってくるのを感じる。そして、それぞれに別個の映像が「すべてある共通なもの、類似なものにつらぬかれており、お互いに溶けあっている」ことに気づく。かつて心を惹かれた少女と少年が、彼の意識によみがえってくる。動員先で出会った女学校の少女。やがてある日、〈ぼく〉はその少女が、かつて少女歌劇のグラビアから切りとっだ少女とそっくりであることに気づく。
「無意識の深みへ埋もれさった過去」につながる何か、を感じる。それは「遙かなとおい昔、ひょっとするとまだ生れてこない以前のこと」につながるようにも思われる。そして〈ぼく〉はこう考える。
すべての記憶はけっして無くならないものなのかもしれない。さっきそうであったように、夢のなかであれ、古い過去がひょっと浮んでくるのだとしたら、それも小学校以前のあの暗黒の昔、ぼくの知りたがって知ることのできぬあの秘密、あの覗ことのできぬ深淵がひょっと浮んでくるのだとしたら?
こうして〈ぼく〉の探索の旅がようやく一つのかたちをとり始めたころ、春のおとずれも間近なある日の午さがり、〈ぼく〉は決定的な出会いをする。
とある町角でぼくは足をとめた。背すじを、ほとんど痛みにちかい慄えが走りすぎたのである。ぼくは耳を傾けて、ごく微かながらも一軒の家のなかから流れてくる旋律を聴いた。柔らかなものういフルートの独奏が反復され、やがてそれにハープ、オーボエらしい響きがゆらゆらと加わった。はじめて聴く曲のようではあったが、そのくせどこかで馴染みのものであるという確信からぽくは抜けることができなかった。ぽくはその板塀に寄りかかって耳をすました。
ここで〈ぼく〉は「得体の知れない痺れ」「心の眩暈」を覚えるのである。「それの感じを、ぼくはいつかどこかで経験したように思った」という一行が、この出会いの決定的な意味を暗示している。同時にくぼく〉は、一匹の綺麗なタテハチョウが頭上を飛びまわるのを見る。その蝶はずっと以前、はじめて〈ぼく〉が捕虫網を買ってもらった時分に見つけた魔法の蝶である。あのときに感じた魅惑を長いあいだ忘れていたのだが、今その「魔法の美」がよみがえったのである。
これがはたして現実の体験であったのか、それとも一瞬の夢想にすぎなかったのか、よくわからない。しかし音楽を聴いたのは確かである。そしてこの音楽を聴いたことで〈ぼく〉の内面世界は大きく変化してゆくのである。
この曲のレコードを持っている年上の医学生との出会い。彼によって〈ぼく〉は、この曲がドビュッシイの「牧神の午後」であることを知る。そして彼の手引きによって、リューベック生れの作家、すなわちトーマスーマンを知るのである。
〈夢〉〈神話〉〈美〉など、意識の根源にふれる多くの思索が、奇妙な医学生との交流のなかでくぼく〉におとずれる。やがてそのように、自分自身との出会いに近づいた〈ぼく〉は、少年時代の「もっと本質的なもの、根源的なものを含」んだ体験を憶いだすのだ。それは昔、何度かその麓に滞在した山の頂上の記憶である。巨大な山塊のひろがりとふりそそぐ盛夏の光の下、むせるような〈自然〉のなかで、〈ぼく〉は初めて「自らを汚した」のである。そんな〈ぼく〉は次のように考える。
「ぽくはこの世の誰よりも〈自然〉と関係のふかい人間だ。ぼくは自然から生れてきた人間だ。ぼくはけっして自然を忘れてはならない人間なのだ。」
――こうして〈ぽく〉は、まさに自分自身に出会う一歩手前まで来たのである。そして劇的に高まり、なだれ落ちるように終息する第四章が始まる。
3
第四章に入ると、「内奥からたちのぼってくる何者かの力」「その捉えがたい影」が次々と〈ぼく〉に切迫してくる。第三章で予感され、近づいた幼年期の記憶の断片が、一つ一つ、明らかなかたちをとって〈ぼく〉の前に姿を現わすのである。
まず、渓間の道でみかけた銀白色の蝶からよみがえる、「かるやかな母や姉の寝息と、父が本をめくる音」に象徴される「はるかな幼年期」。
次に、「過去という泉は深い……」と、その冒頭が引用されている「ヨセフとその兄弟」の作者、トーマスーマン。「精神と生命の嘲弄的な関係」といった問題と重なって、これまで〈ぼく〉の心をとらえてきた少女たちの面影が浮んできたりする。そうしてついに、〈ぼく〉は一人の夫人――外国で両親と親しい間柄にあったひと――とめぐりあい、彼女の家で、彼女とその娘である少女に、「母と共通した種族」を感じ、少女に、死んだ姉の成長した姿を見るような思いをする。
すると、くすぐるような剌すような痛みが胸をついた。殊にそれは、やがて少女があやうい手つきで一枚のレコードを古びた蓄音機にかけたとき、ぼくの首をうつむけさせるほど強まった。わざと選んだかのように、あの聞きなれたフルートの音がひびいてきたのである。(中略)「憶えていらっしやるのかしら?」ぼんやりと夫人がいった。しばらく間をおいて、独り言のようにいうのが聞きとられた。「あなたのお母さまはこれがほんとにお好きでした」
酔心地のうちに〈ぼく〉は憶いだし了解する。あの華やかな洋間の光景を。一座の中心であった母が蓄音機の把手をまわしているありさまを。「ではあれが、この音楽だったのか。そのゆえにこそ、こうまでぼくを惹きつけるのだろうか。」
このとき〈ぼく〉の中では、いまはない母と姉が生きている。さらに夫人の見せてくれたアルバムで、マンを生んだリューベックが父と母の出会いの場所であったことを知る。すなわち自分をこの世に生ぜしめた根源を、ドイツのハンザ同盟の都市に発見したのである。まだ見えないのは、母の白い顔だけなのだが、〈ぼく〉はついに北アルプスの槍ヶ岳のほとり、槍沢の岩だらけの斜面で、満天の星空の下、一種の啓示を受ける。さまざまな意味を含んだ〈神話〉の世界が、〈ぼく〉の内部ですべてつながりあったのである。ここで〈ぼく〉は、自分自身を成り立たせているものの根源を確認したのである。
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このように見てきたとき、「幽霊」が、まさしく幼時に失われた魂の彷徨の物語であり、その彷徨のはてに自分自身の魂を発見する物語であることが明らかとなる。幼年期の母、いやそれ以前の、根源的な自己の生の発祥の地点へと、〈ぼく〉は回帰していったわけである。そしてこのように〈ぼく〉が自己発見したとき、次になされなければならないのは、新しい旅立ちでなければならない。事実、みずからの在り方を認識した〈ぼく〉は、これから一人の芸術家として生きてゆくことになるのだ。いま筆者は先走って、うっかり「一人の芸術家として」と書いてしまった。これはどういうことなのか。しばらく考察を加えたい。
第三章で医学生から初めてその名を聴いて以来、〈ぼく〉の中心的な課題となったトーマスーマンから〈ぼく〉が学んだものは何だろう。彼は「トニオークレーゲル」をしばしば引用している。そこからどのような問題を、北杜夫は引き出しているのだろうか。
よく知られているように、「トニオークレーゲル」は、マン自身の自己認識の過程を描いた作品である。トニオは少年時代、美しい少年ハンスと、少しのちに、これまた美しい少女インゲボルクを愛する。が、いずれの愛も、自分自身の一方的な愛であること、彼らが自分とは決定的に異なることを、トニオはよく知っている。そして物語の最後、デンマークの海岸ホテルでトニオは、かつて自分の愛した当の二人が手をつないでいるのを目撃する。
トニオは痛感する、彼等は「幸福な凡庸性のうちに生き愛しほめる」人々なのである。「詩と憂欝とを見つめてその明るい瞳を曇らせ」てはならない人だちなのである。〈市民〉と〈共術家〉というマン固有の主題が、この作品では明確に断定されている。そして北杜夫は、この主題を意識的に「幽霊」に取りこんでいるのだ。
この世の事物が複雑に悲しくなりはじめるところまでは決して見ることを知らぬであろうその少女(以下略)。すらりとした母や姉や同種のひとびとを、ごくわずかな侮蔑をまじえて讃美する気持と同時に、ぽく自身が貧弱な自分の身体を悲しみつつもなにか誇らしく思うという気持が起ったのである。額の極印を信ずるほど、まだぼくは充分に若かった。なんとかして近づく方法はないものだろうか。(中略)いいや、それは不可能だ。なぜなら彼女らの言葉はぼくらの言葉とはちがうし、彼女らは凡庸にかがやかしく生きているのだから……。
これらはいずれも、「トニオ・クレーゲル」の意識的な転用である。美しくて、こちらの憧れを誘うが、決してこちらと交わることのないもの。そのような〈市民〉と、憧れつづけ悲しみながらも、額の極印を誇りに思っている〈芸術家〉の対比。すなわち「幽霊」は、自分が〈芸術家〉にほかならないことを確認すると同時に、〈芸術家〉として旅立つことを決意した物語でもあるわけである。作者である北杜夫のこの作品に対する確信と愛着は、この作品がそのような作家自身の出発を告げる書であるからなのだ。
5
では最後に、この作品におけるドビュツシイ「牧神の午後」の役割について、まとめてみよう。読了ののち、この作品で「牧神の午後」が登場する場面を振り返ると、驚くばかり巧妙に配置されていることがわかる。最初に登場したのは、幼年期の思い出のなか、玄関わきの洋間であった。母はそこで蓄音機をかける。その「けだるい、甘美な旋律」を「異質の世界の呼び声」のようにも感じながら〈ぼく〉はうっとりと耳を傾けたのである。つまりそれは、母の思い出の核心となる場面、のちの〈ぼく〉の彷徨の回帰するべき地点だったのだ。
第三章、〈ぼく〉が高等学校の学生として魂の探索を本格的に始めた早春に、〈ぼく〉はこの音楽に遭遇する。とある街角で、一軒の家から流れてきた旋律。〈ぼく〉は「背すじを、ほとんど痛みにちかい慄え」が走るのを覚える。再会であった。しかしこのとき、〈ぼく〉がなぜそれほどの戦慄に襲われたのか、作者は明らかにしない。ただ、この音楽を聴いたことをきっかけに、〈ぼく〉の精神の探索の旅が始まるのである。
そして第四章、あの父母と知り合いであった夫人の家で〈ぼく〉はこの曲を聴き、しかもこのとき「あなたのお母さまはこれがほんとにお好きでした」という夫人の言葉を聞き、幼い日の母の姿を思い出すのである。
「ではあれが、この音楽だったのか。そのゆえにこそ、こうまでぽくを惹きつけるのだろうか」――つまりドビュツシイの「牧神の午後」は、この作品において、〈ぼく〉の魂の原点を示すとともに、その回帰してゆくよすがとして作用しているのだ。
耳で聴くばあい、言葉や絵画のように具体的な輪郭が鮮明でないだけ、音楽はより感覚的であり、それだけに心の深い部分に沁みてゆき、奥深いところで人を支配するという性格がある。その性格を巧みに利用して構成されたのが「幽霊」という作品なのである。
音楽は本来、たいへんに論理的なものである。が、反面、感覚に訴えるという意味において、そのような論理性を忘れさせるような側面もある。小説で音楽が用いられるばあい、そのように直接感覚に訴えるもの、として扱かわれることが多いようだ。
たとえば近年、大ベストセラーになって評判を呼んだ村上春樹「ノルウェイの森」(昭63・8 諤談杜)も回じような手法を用いている。主人公の〈僕〉は飛行機がハンブルグ空港に着陸する際のBGMでビートルズの「ノルウェイの森」を聴き、その途端、十八年前の原風景ともいうべき「あの草原」を思い出し、そこから物語は果てしない過去へと遡行してゆくのだ。もっとも、この作品では、ビートルズばかりでなく、むしろ作者の血肉と化したジャズのナンバーが無数に登場し、場面場面を構成してゆく。むしろジャズ小説と呼んでもよい一面さえもっているのだが。
ともあれ明治維新後百二十年にして、わが国は、学ぶべき教養として西欧のクラシック音楽を輸入導入した時代から、国境の枠を越えて、完全にコンテンポラリイに、多種多様な音楽を楽しみ、生活の一部とする時代へと移行したのである。
(付記)
西欧音楽の様式性を規範とし、小説の構成や主題の設定に利用しようと腐心した人々に、堀辰雄や、その影響の濃い福永武彦、中村真一郎をはじめ、多くの作家がいるが、本稿では、これらの試みにふれる余裕がなかった。
 
日本人と言葉

第一章 大和魂  
大和魂とは、外国の事例と比べたとき、日本の特徴だと日本人が考える精神性や素質のことです。平安時代に「漢才」に対するものとして使われ始めました。江戸時代には「漢意(からごころ)」に対するものとして使われています。明治以降は、欧米に対するものとして使われていきます。  
第一節 大和魂の系譜
大和魂は、まずは『後拾遺和歌集』の歌の応答で、大和心として表れます。大江匡衡(おおえのまさひら)(952〜1012)が、〈果(はか)なくも 思ひけるかな 乳(ち)もなくて 博士の家の 乳母せむとは〉と述べて、乳があまり出ない女を乳母にしようとする赤染衛門(956〜1041以後)をからかっています。それに対して、〈さもあらばあれ 大和心し賢くば 細乳(ほそぢ)に附けて あらすばかりぞ〉とあるように、大和心さえ賢いなら、乳が出るとか出ないとかは何の困ることもないのだと赤染衛門は答えています。
紫式部(973頃〜1014頃)の『源氏物語』[乙女]には、〈なほ才をもととしてこそ、やまとだましひの世に用ゐらるゝ方も強う侍らめ〉とあります。学問を基礎にしてこそ、大和魂が世間にしっかりと認められるというのです。
『大鏡』では藤原時平(871〜909)に対して、〈かくあさましき悪事を申し行ひ給へりし罪により、この大臣の御すゑはおはせぬなり。さるはやまとたましいなどはいみじくおはしたるものを〉とあります。藤原時平が、大和魂を持つ人物として評価されています。
『今昔物語集』[本朝世俗部]には、〈善澄、才はいみじかりけれども、つゆ和魂(やまとだましい)無かりける者にて、かゝる心幼き事を云ひて死ぬるなりとぞ、聞きと聞く人々に云ひ謗られけるとなむ語り傅へたるとや〉とあります。学才はあっても大和魂がない善澄という男が、幼稚なことを言って殺されたという話です。
藤原忠実(1078〜1162)の言葉を中原師元(1109〜1175)が記した『中外抄』には、〈摂政関白、必ずしも漢才候はざらねども、やまとだましひだにかしこくおはしまさば、天下はまつりごたせ給なん〉とあります。摂政関白には、漢才よりも大和魂が重視されているのが分かります。
慈円(1155〜1225)の『愚管抄』[巻第四]には、〈和漢ノ才ニトミテ、北野天神ノ御アトヲミフミ、又知足院殿ニ人ガラヤマトダマシイノマサリテ、識者モ實資ナドヤウニ思ハレタラバヤアランズル〉とあります。和漢の学才に豊かで、菅原道真(845〜903)公の後に続き、また知足院に人柄や世間的な才能が勝って、見識ある人からも小野宮実資などのように思われる事があったであろうか、と語られています。
賀茂真淵(1697〜1769)の『歌意考』には、〈万よこしまにもならへば、心となるものにて、もとのやまと魂をうしなへりければ、たまたまよき筋の事はきけども、なほく清き千代の古道には、行立がてになむある〉とあります。ここでのやまと魂は、日本の古来のもののよさを正しく評価しうる心性、唐土の思考や文化に歪められていない心性のことを指しています。
本居宣長(1730〜1801)は、〈敷島の 大和心を人問はば 朝日に匂ふ 山桜花〉という有名な歌をのこしています。
平田篤胤(1776〜1843)の『古道大意』には、〈御國ノ人ハ、ソノ神國ナルヲ以テノ故ニ、自然ニシテ、正シキ眞ノ心ヲ具ヘテ居ル。其ヲ古ヨリ大和心トモ、大和魂トモ申シテアル〉とあります。日本は神の国ゆえに正しい心をそなえていて、それを大和心や大和魂と呼ぶというのです。
長野義言(1815〜1862)の『沢能根世利』には、〈皇神の正道(ノリ)をおきて、他に幸ひもとむべからぬ和魂(ヤマトダマシヒ)だに定まれば、ものにまぎるる心もあらじ〉とあります。正道を「のり」と読ませているのは、規範としての意味をもたせるためです。ここでの和魂は、公共につかえるという意味合いが強いです。
吉田松陰(1830〜1859)は、〈かくすれば かくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂〉と、〈身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂〉という二つの大和魂の歌をのこしています。
島崎藤村(1872〜1943)の『夜明け前』では、〈自分らごときは他人の異見を持たずに、不羈独立して大和魂を堅め、善悪邪正と是非得失とをおのが狭い胸中に弁別し、根本の衰えないのを護念して、なお枝葉の隆盛に懸念する。もとより神仏を敬する法は、みな報恩と報徳とを以てする。これを信心と言う〉とあります。神仏分離や廃仏毀釈という世の状勢を踏まえ、主人公である青山半蔵と、万福寺の松雲和尚の心情が示されています。
明治天皇(1852〜1912)は、〈しきしまの 大和心のをゝしさは ことある時ぞ あらはれにける〉という歌をのこしています。
日本の剣道家である高野佐三郎(1862〜1950)は、〈剣道は 神の教への道なれば 大和心をみがくこの技〉という歌をのこしています。  
第二節 日本人の大和魂
大和魂とは、日本人の魂のことです。日本という国において、他国との関わりにおいて、何かを決めるためのあり方として、大和魂があらわれます。
国家は、様々な異なる状況において、それぞれに適切な対応を行う必要があります。あるときはこの対応、別のあるときはその対応というように、状況によって行われる対応は違ってきます。しかし、その対応を決めている基準は、一つだと想定されなくてはなりません。平時には平時の対応が、戦時には戦時の対応があり、それらを統合して判断する何かが想定され、それが日本では、例えば大和魂と呼ばれているのです。平時や戦時の片方だけを見て、片方の大和魂のあり方は違うというのは、大和魂のあり方を分かっていない人の言い分なのです。
大和魂は、平時には雅を愛でることもあり、わびやさびを好むこともあります。戦時には、勇ましい気概を発揮し、生命を燃やします。智仁勇の三徳で言えば、平時には仁の傾向が強くなり、戦時には勇の傾向が強くなります。これらを統一するあり方をあらわす言葉として、日本の大和魂はあらわれるのです。  
 
第二章 もののあはれ  

日本人は、もののあはれを感じます。もののあはれとは、人生や花鳥風月などに対する、味わい深い情緒や情感を表す言葉です。  
第一節 もののあはれの系譜
「あはれ」という言葉は、古くは『古事記』や『日本書紀』、『万葉集』の時代に見つけることができます。つまり、「あはれ」の伝統は、古代日本から現在に至るまで続いているのです。
「もののあはれ」という言葉は、主に平安文学に多くの例を見つけることができます。
紀貫之(870頃〜945頃)の『土佐日記』には、〈かぢとり、もののあはれも知らで、おのれ酒をくらひつれば、はやくいなむとて、しほみちぬ、風もふきぬべしと、さわげば〉とあります。もののあはれを解さぬ人の下品な振る舞いが記されています。同じく『後撰集』では、紀貫之の[歌の詞書]に、〈ある所にて、すのまへに、かれこれ物がたりし侍りけるを聞きて、うちより女の声にて、あやしく物のあはれ知り顔なるおきなかな、と言ふを聞きて〉とあります。
『大和物語(947〜957頃)』の[四一段]には、〈また、このおとどのもとに、よぶこといふ人ありけり。それももののあはれ知りて、いと心をかしき人なりけり〉とあります。おとどは源大納言清蔭を指しており、もののあはれを知る人として記されています。
藤原道綱母(936〜995)の『蜻蛉日記(975頃)』には、〈千鳥うち翔りつつ飛びちがふ。もののあはれに悲しきこと、さらに数なし〉と記されています。
『拾遺和歌集(1005〜1007頃)』の[雑下・五一一]には、〈春はただ花のひとへに咲くばかり もののあはれは秋ぞまされる〉とあります。春より秋の方に、もののあはれを感じるというのです。
紫式部(973頃〜1014頃)の『源氏物語』の[松風]には、〈ほのぼのと明けゆく朝ぼらけ、霞のまより見えたる花のいろいろ、なほ春に心とまりぬべく、にほひわたりて、百千鳥のさへづりも、笛のねに劣らぬ心地して、もののあはれも、おもしろさも残らぬほどに(御法)秋のころほひなれば、物のあはれ取りかさねたる心地して、その日とある暁、秋風涼しくて虫の音もとりあへぬに〉とあります。美しい景色における、もののあはれが示されています。
吉田兼好(1283頃〜1352頃)の『徒然草』[第十九段]には、〈「もののあはれは秋こそまされ」と、人ごとに言ふめれど、それもさるものにて、いま一きは心も浮きたつものは、春のけしきにこそあめれ〉とあります。吉田兼好は、もののあはれを秋よりも春の風情に感じると述べています。  
第二節 本居宣長の物語論
もののあはれは、本居宣長(1730〜1801)によって詳細に語られています。源氏物語論である『紫文要領』を参考に、もののあはれについて見ていきます。
『紫文要領』では、歴史の縦軸(時間意識)と横軸(空間意識)において、もののあはれを知ることが語られています。歴史の縦軸については、〈むかしの事を今の事にひきあてなぞらへて、昔の事の物の哀れをも思ひしり、又おのが身のうへをも、昔にくらべみて、今の物の哀れをもしり、うさをもなぐさめ心をもはらす也〉とあります。昔のもののあはれの知り方と、今のもののあはれの知り方がそれぞれ示されています。
歴史の横軸については、〈物の哀れをしる事は、物の心をしるよりいで、物の心をしるは、世の有りさまをしり、人の情に通ずるよりいづる也〉とあります。もののあはれを知ることが、世の中の有様を知ることと関連付けて示されています。
宣長は、〈其の見る物聞く物につきて、哀れ也ともかなしとも思ふが、心のうごくなり。その心のうごくが、すなはち物の哀れをしるといふ物なり〉と述べています。見聞きしてあわれと動く心が、もののあはれを知るものだというのです。
知ることや知るものを示した後、知らせることが示されます。〈たゞ人情の有りのまゝを書きしるして、見る人に人の情はかくのごとき物ぞといふ事をしらする也。是れ物の哀れをしらする也〉とあります。人情によって、もののあはれを知らせる方法は、人情を書き記すことだと語られています。
もののあはれを知るということは、人情と密接に関係することが説明されています。〈その人の情のやうをみて、それにしたがふをよしとす。是れ物の哀れをしるといふ物也。人の哀れなる事を見ては哀れと思ひ、人のよろこぶを聞きては共によろこぶ、是れすなはち人情にかなふ也。物の哀れをしる也。人情にかなはず物の哀れをしらぬ人は、人のかなしみを見ても何とも思はず、人のうれへを聞きても何とも思はぬもの也。かやうの人をあしゝとし、かの物の哀れを見しる人をよしとする也〉とあります。
つまり、〈その感じて哀れがる人が人情にかなひて物の哀れをしる人也〉というわけです。
物語については、〈すなはち物語は、物の哀れを書きしるしてよむ人に物の哀れをしらするといふ物也〉とあり、その役割が説明されています。
物語が書き手の心に及ぼす影響については、〈すべて世にありとある事どもをしるしてみるなかにて、おのづからよしあし、物の心をわきまへしる也。物の心をわきまへしるが則ち物の哀れをしる也〉とあります。自ずからなる、もののあはれが示されています。
さらに、もののあはれに関して、品が必要であることが語られています。〈世の中にありとしある事のさまざまを、目に見るにつけ耳に聞くにつけ、身にふるゝにつけて、其のよろづの事を心にあぢはへて、そのよろづの事の心をわが心にわきまへ知る、是れ事の心を知る也、物の心を知る也、物の哀れを知るなり。其の中にも猶くはしくわけていはゞ、わきまへ知る所は物の心・事の心を知るといふもの也。わきまへ知りて、其の品にしたがひて感ずる所が物の哀れなり〉とあります。もののあはれを知るには、物の心や事の心を知った上で、品が必要だというのです。
もののあはれの具体例として、桜を見る場合が説明されています。〈たとへばいみじくめでたき桜の盛りにさきたるを見て、めでたき花と見るは物の心を知る也。めでたき花といふ事をわきまへ知りて、さてさてめでたき花かなと思ふが感ずる也。是れ即ち物の哀れ也。然るにいかほどめでたき花を見ても、めでたき花と思はぬは物の心知らぬ也。さやうの人は、ましてめでたき花かなと感ずる事はなき也。是れ物の哀れしらぬ也〉とあります。
続いて、もののあはれと、善悪や邪正との関係が示されています。〈世にあらゆる事にみなそれぞれの物の哀れはある事也。その感ずるところの事に善悪邪正のかはりはあれども、感ずる心は自然と、しのびぬところより出づる物なれば、わが心ながらわが心にもまかせぬ物にて、悪しく邪(よこしま)なる事にても感ずる事ある也。是れは悪しき事なれば感ずまじとは思ひても、自然としのびぬ所より感ずる也。故に尋常の儒仏の道は、そのあしき事には感ずるをいましめて、あしき方に感ぜぬやうに教ふる也。歌物語は、その事にあたりて、物の心・事の心を知りて感ずるをよき事として、其の事の善悪邪正はすてゝかゝはらず。とにかくにその感ずるところを物の哀れ知るといひて、いみじき事にはする也。物の哀れしるといふ味右のごとし〉とあります。
歌の道では、善や正しさのみならず、悪や邪さをも感じるのです。歌の道は、悪や邪さを感じないようにする儒仏の道とは異なるのです。ですから、〈されば物の哀れをしる人が即ち心ある人也。物の哀れしらぬは心なき人也〉と語られているのです。〈人の上には、心のよしあし、しわざのよしあし、形のよしあし、品・位のよしあしある也。其の外すべての事にみなよしあしあり〉と述べた上で、〈物語にても心しわざのよきをよき人とする也。その心としわざのよきといふは物のあはれをしる事也。しわざも物のあはれをしりたるしわざをよしとする也〉と語られています。宣長は、〈歌物語は、其の善悪・邪正・賢愚をば選らばず、たゞ自然と思ふ所の実(まこと)の情(こころ)をこまかに書きあらはして、人の情はかくの如き物ぞといふ事を見せたる物也。それを見て人の実の情を知るを物の哀れを知るといふなり〉と考えているのです。  
第三節 本居宣長の歌論
本居宣長の歌論に『石上(いそのかみ)私淑(ささめ)言(ごと)』があり、この著作でも、もののあはれが詳しく語られています。
まず、〈詞の程よくとゝのひ文ありてうたはるゝ物はみな歌也〉とあり、歌の定義が示されています。その上で、〈歌は物のあはれをしるよりいでくるもの也〉とあり、歌ともののあはれの関係が示されています。
『古今和歌集』に対して言及されていて、〈古今序に、やまと歌はひとつ心をたねとして、万の言のはとぞなれりけるとある、此心といふが則ち物のあはれをしる心也〉とあります。歌ともののあはれの関係は、〈物のあはれしる也といふいはれは、すべて世の中にいきとしいける物はみな情(こころ)あり。情あれば物にふれて必ず思ひ事あり。このゆゑにいきとしいけるもの、みな歌ある也〉と説明されています。
もののあはれの詳しい内実については、〈思う事のしげく深きは何ゆゑぞといへば、物のあはれをしる故也。事わざしげき物なれば、其事にふるゝごとに、情はうごきてしづかならず。うごくとは、ある時は喜(うれ)しく、ある時は悲しく、又ははらだゞしく、又はよろこばしく、或は楽しくおもしろく、或はおそろしくうれはしく、或はうつくしく、或はにくましく、或は恋しく、或はいとはしく、さまざまにおもふ事のある、是即ち物のあはれをしる故にうごく也〉とあります。
情の動く故が示された上で、〈歌は、其物のあはれをしる事の深き中よりいでくる也〉と考えられています。
もののあはれについて、先鋭化して論じられた箇所には、〈物に感ずるが、則ち物のあはれをしる也〉とあります。〈何事にも、心のうごきてうれしともかなしとも深く思ふは、みな感ずるなれば、是が即ち物のあはれをしる也〉というわけです。
ここまで述べた時点で、宣長はもののあはれの「哀れ」について考察しています。〈さて阿波(あは)礼(れ)といふは、深く心に感ずる辞(ことば)也。是も後世には、たゞかなしき事をのみいひて、哀の字をかけども、哀はたゞ阿波礼の中の一つにて、阿波礼は哀の心にはかぎらぬ也〉とあります。哀れは、悲しいという意味だけではないというのです。〈阿波礼はもと歎息の辞にて、何事にても心に深く思ふ事をいひて、上にても下にても歎ずる詞也〉とあり、哀れは、深く感動することを表す言葉だというのです。つまり、〈心に感じてあはれあはれと歎ずるをあはれといふといへる也。たとへば人をあはれといふは、其人に感じて歎ずる也〉というわけです。宣長は、〈さてかくの如く阿波礼といふ言葉は、さまざまいひかたはかはりたれども、其意はみな同じ事にて、見る物、聞く事、なすわざにふれて、情(こころ)の深く感ずる事をいふ也。俗にはたゞ悲哀をのみあはれと心得たれ共、情に感ずる事はみな阿波礼也〉と考えているのです。あはれという言葉に、悲哀の感情が深く刻まれているといっても、心に感じることはすべてあはれだというのです。
そのため、〈其本をいへば、すべて人の情の事にふれて感くはみな阿波礼なり。故に人の情の深く感ずべき事を、すべて物のあはれとはいふ也〉と説明されています。ここから、〈それぞれに情の感くが物のあはれをしる也。それを何とも思はず、情の感かぬが物のあはれをしらぬ也〉ということにもなります。
このもののあはれによる歌の道について、宣長は、〈たゞ物のあはれをむねとして、心に思ひあまる事はいかにもいかにもよみ出づる道也〉と述べています。この歌の道においては、〈人の情(こころ)のやうを深く思ひしるときは、をのづから世のため人のためにあしきわざはせぬ物也。これ又物のあはれをしらする功徳也。かく人の心をくみてあはれと思ふにつきては、をのづから身のいましめになる事もおほかるべし〉となります。『紫文要領』において、歌の道では善悪邪正の全てを感じることが、もののあはれとして示されていました。これと合わせて考えると、歌の道では、次のようになります。  
第四節 日本のもののあはれ
もののあはれは、心が物事に触れて、感じ動くことを言います。
日本人は、昔と今を比べ、世の有様を知りて人情に通じ心動き、物の心・事の心を知り、品によってもののあはれを感じるのです。
ですから、もののあはれは通常の意味での善悪では捉えきれません。善悪の次元では、ものにふれて心が動かないようにすることが善いことであったり、心が動くことが悪いことであったりします。それとは異なり、もののあはれは、そのままの物事に対して心が感じて動くことを「よし」とし、心が感じず動かないことを「あし」とします。その上で、善悪邪正を思い知るのです。思い知るが故に、世のため人のため、悪や邪なことはせず、善や正しいことをするのです。  
 
第三章 言霊  

 

「ことだま」とは、言葉が事柄に及ぼす霊力のことです。日本人は古来より、言葉が事柄化することを重視してきました。山上憶良(660頃〜733頃)は「ことだま」を「言霊」と記し、柿本人麻呂(660頃〜720頃)は、「ことだま」を「事霊」と記しています。八百万の神々の世界では、言葉は事柄と関係すると考えられてきたのです。  
第一節 古代の言霊
『万葉集』[八九四]では、山上憶良が〈神代より 言ひ伝て来らく そらみつ 倭の国は 皇神の 厳しき国 言霊の 幸はふ国と 語り継ぎ 言ひ継がひけり 今の世の 人も悉目の前に 見たり知りたり〉と詠っています。大和の国は言霊の幸いのある国と語り継がれており、今の世の人も皆見知っているというのです。
[二五0六]では柿本人麿が、〈事霊の八十の衢に夕占問ひ占正に告る妹はあひ寄らむ〉と詠っています。事霊に満ちたたくさんの辻に夕占を尋ね、占は正にあの子が私になびくと言ったというのです。
[三二五四]では同じく柿本人麿が、〈磯城島の日本の国は事霊のたすくる国ぞま幸くありこそ〉と詠っています。日本国は、言葉の魂が人を助ける国であるから無事であってほしいというのです。
『続日本後紀(869)』巻十九の[興福寺の法師等の歌]には、〈日本の 倭の国は 言玉の 富ふ国とぞ 古語に 流れ来れる 神語に 伝へ来れる 伝へ来し〉とあります。日本は言霊にあふれた国であり、古い言葉や神の言葉から伝えられているというのです。
嘉祥3年(850)から万寿2年(1025)までの歴史を示した『大鏡』巻一の[醍醐天皇]には、〈いはひつることだまならばもの年ののちもつきせぬ月をこそみめ〉とあります。祝いの言霊なら、いつまでも尽きることはないというのです。
『賀茂保憲女集』の序文には、〈よろづよ照らす日のもとの国、ことだまを保つにこと叶へり〉とあります。数多を照らす日本の国では、言霊を保つことも叶うというのです。
平安後期の歌人源俊頼(1055〜1129)の自撰家集『散木奇歌集』の[除夜歌]には、〈ことだまのおぼつかなさに岡見すと梢ながらも年を越すかな〉とあります。言霊が覚束ない状態での年越しが語られています。
藤原清輔(1104〜1177)の『清輔朝臣集』[祝部]には、〈たらちねの神の玉ひしことだまは千代まで守れ年も限らず〉とあります。神の言霊は限りなく続くというのです。  
第二節 古代の言挙げ
言霊思想では、言葉が事柄に影響を及ぼすため、言葉を発することに多くの注意を払う必要があります。そのため、思いを言葉に出して言い立てる言挙げが制限されます。不埒な言葉を戒めるため、言挙げせぬという習俗があらわれます。それは、言葉を軽視しているのではまったくなく、言葉を尊重し、その働きに期待すると同時に、その結果に畏れを抱いているからなのです。
『万葉集』[九七二]には、〈千万の軍なりとも言挙げせず取りて来ぬべき男とそ思ふ〉とあります。敵軍が大勢であろうとも、いたずらな言挙げせずに、倒して来る男子だと思うというのです。
[一一一三]には、〈この小川霧そ結べる激ちたる走井の上に言挙せねども〉とあります。小川に霧が立ちこめており、激しく水の湧き流れる泉の上で言挙げしたわけではないというのです。
[三二五○]には、〈蜻蛉島 日本の国は 神からと 言挙せぬ国 然れども われは言挙す 天地の 神もいたくは わが思ふ 心知らずや〉とあります。蜻蛉島の日本国は、神意によって言挙げしない国だというのです。ただし、私はあえて言挙げをするというのです。なぜなら天地の神も、それほど我が心の内を知らないだろうからです。
[三二五三]には、〈葦原の 瑞穂の国は 神ながら 言挙せぬ国 然れども 言挙ぞわがする 言幸く 真幸く坐せと 恙なく 幸く坐さば 荒磯波 ありても見むと 百重波 千重波しきに 言挙すわれは 言挙すわれは〉とあります。日本は神の意のままに言挙げしない国ですが、私は言挙げするというのです。荒波のように激しく言挙げするというのです。  
第三節 国学の言霊
日本における国学の系譜においても、言霊について語られています。
契沖(1640〜1701)の『倭字正濫抄』には、〈事有れば必ず言有り、言有れば必ず事有り〉と記され、事柄と言葉の関わりが示されています。『万葉代匠記』には、〈ことたまは、目に見えぬ神霊なり〉とあり、〈ことたまは、ことのしるしなり。いはへばいはふかひのあるなり〉とあります。言霊は目に見えずとも、確かなものとして働くことが示されています。
賀茂真淵(1697〜1769)の『祝詞考』には、〈事と言とは古へ相通はし書事万葉に多し。字に泥む事なかれ〉とあります。事と言は、古代ではほとんど同一視されていたという説が示されています。『万葉考』には、〈我皇国は字を用ゐず、言の国なりしかば、たふとみてそのことばに魂の有といふ〉とあります。言葉に魂が宿るため、〈言霊は、いふ言に即神の御霊まして助くるよし也〉ということになります。そして、〈言挙する時は、其言に神の御霊坐て幸をなし玉へり〉とあり、言挙げするときには神の助けがいるというのです。
谷川士清(1709〜1776)の『倭訓栞』には、〈事と言と訓同じ。相須つて用をなせばなり〉とあります。事と言が、ともに働くことで用をなすことが語られています。『古事記燈』には、〈言霊とは、言にたましひのあるといふがごとし。いはへばよろこび来たり、のろへばうれへいたるが如し〉とあります。言霊においては、言葉に魂が宿るというのです。『真言弁』には、〈感通感動まつたく言霊の妙用なれば、感通をねがはむとならば、ひとへに言霊あらむことをねがふべし〉とあります。心通じ心動かされるということは、言葉の言い尽くし難い働きだからこそ、そのために言霊を願うというのです。
本居宣長(1730〜1801)の『古事記伝』には、〈意と事と言とはみな相称へる物〉とあり、〈すべて意も事も、言を以て伝フるものなれば、書はその記せる言辞ぞ主には有ける〉とあります。意と事と言は似通っており、意思や事柄を伝えるために言葉があり、書物があるというのです。
鈴木重胤(1812〜1863)の『祝詞講義』には、〈事の極みは言語より外無し。然れば、言語は人の霊を導くの使命なる事云も更なり。言語は霊を導き、霊を養ふの器たる事明なり〉とあります。事柄は言語に極まり、事柄は言葉の外には無いというのです。言葉の限界が、事柄の極みの限界だというのです。  
第四節 日本の言霊
言葉が事柄に及ぼす霊力のことを、日本人は言霊と呼びました。
言葉が事柄に及ぼす影響を考慮し、日本人は思いを言葉に出して言い立てる言挙げを制限しました。そのため、状況が言挙げを必要とするときは、あえて言挙げすることを言い立てることもあるのです。言挙げを予め制限しておき、言挙げが必要なときは、言挙げすることを宣言してから言挙げを行うのです。それが、言挙げの作法なのです。
日本語の言霊において、「事」と「言」が密接に関係し合います。そこに「意」が関わり、「用」をなすのです。言葉は、事柄や意思を伝えます。伝えられた事柄や意思は、用を導きます。言葉が用へと至ることは、言い表し難い妙の働きなのです。「意」と「事」と「言」と「用」の重なりにおいて、日本の言霊は思想を紡いで行くのです。
以上のように、日本国は言霊の幸いのある国であると言えます。日本人は、このことを語り継ぎ、言い伝えて行くのです。  
 
第四章 幽玄  

 

幽玄は、不思議な言葉です。「幽」は、かすかで奥深いことであり、「玄」は暗く奥深いことです。もともとは中国の言葉であり、死後の世界や、老荘思想の境地を意味していました。老荘思想の境地における幽玄は、『老子』の〈玄之又玄〉を表す言葉だと言われています。また、中国仏教の『金剛般若経疏』に〈般若幽玄、微妙難測〉とあり、仏法が深遠奥妙にして窮知し難いものであると語られています。日本においては、最澄(767〜822)の『一心金剛戒体秘決』に〈諸法幽玄之妙〉とあり、仏典から幽玄という言葉が使用されるようになりました。後に日本語として、和歌・連歌・能楽用語として独自の意味を獲得していきます。日本の幽玄は、日本美の情趣として、柔和さや上品さを伴う表現として確立しました。  
第一節 和歌の幽玄
日本にける幽玄は、和歌・連歌・能楽において独自の意味を持つに至っています。
『古今和歌集』の[真名序]には、〈或いは事神異に関り、或いは興幽玄に入る(或事関神異、或興入幽玄)〉とあります。この時点では原義に近い意味で使用されていますが、これより後の和歌論では、日本美として独自の意味を備えて行きます。
壬生忠岑(860〜920)の歌論『和歌体十種』では、優れた歌体である高情体について、〈詞は凡そ流たりと雖も、義は幽玄に入る、諸歌の上科と為す也(詞雖凡流義入幽玄、諸歌之為上科也)〉とあります。優れた歌が幽玄に入ることが示されています。
藤原基俊(1060〜1142)の歌合の判詞には、〈言凡流をへだてて幽玄に入れり。まことに上科とすべし〉や、〈詞は古質の体に擬すと雖も、義は幽玄の境に通うに似たり〉とあります。やはり優れた歌は、幽玄に入るというのです。
藤原俊成(1114〜1204)の歌合の判詞にも幽玄が評されています。西行の〈心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮〉に対して、〈こころ幽玄に姿および難し〉とあり、慈鎮和尚の〈冬がれの梢にあたる山風の又吹くたびは雪のあまぎる〉に対し、〈心、詞、幽玄の風体なり〉とあります。
藤原定家(1162〜1241)の『毎月抄』には、和歌の十体として、「幽玄躰」や「有心躰」が示されています。定家は、〈いづれも有心躰に過ぎて歌の本意と存ずる姿は侍らず〉と述べ、有心体を和歌の本質と捉えています。そのため、〈宜しき歌と申し候は、歌毎に心の深きのみぞ申しためる〉と言い、〈常に心有る躰の歌を御心にかけてあそばし候べく候〉と語っています。幽玄についても、〈いづれの躰にても、ただ有心の体を存ずべきにて候〉とあるように、本質は有心体であるのです。〈幽玄の詞に鬼拉の詞などを列ねたらむは、いと見苦しからむにこそ〉とあり、強い鬼拉の詞を幽玄の詞につらねると見苦しいと語られています。
鴨長明(1155〜1216)の歌論書『無名抄』には、〈いはむや、幽玄の体、まづ名を聞くより惑ひぬべし。みづからもいと心得ぬことなれば、定かにいかに申すべしとも覚え侍らねど、よく境に入れる人々の申されし趣は、詮はただ言葉に現れぬ余情、姿に見えぬ景色なるべし〉とあります。幽玄が、言葉に現れず姿に見えないものとして捉えられています。
吉田兼好(1283〜1352以後)の『徒然草』[第百二十二段]には、〈詩歌に巧みに、糸竹に妙なるは、幽玄の道、君臣これを重くすといへども、今の世には、これをもちて世を治むる事、やうやくおろかなるに似たり〉とあります。詩歌や音楽において能力があることは、幽玄なる道であり君臣ともに重んじるところですが、今の世ではこれらで政治を行なうことが不可能だというのです。
臨済宗の歌僧である正徹(1381〜1459)の『正徹物語』においても、幽玄が語られています。正徹は『新古今和歌集』[恋四・一三○○]の〈あはれなる心長さのゆくゑともみしよの夢をたれかさだめん〉という歌に対し、〈極まれる幽玄の歌なり〉と評しています。〈幽玄体の事、まさしくその位に乗り居て納得すべき事にや〉とあるように、幽玄体は、幽玄の和歌を詠める段階に達して初めて理解できるというのです。
また、〈さけば散る夜のまの花の夢のうちにやがてまぎれぬ峯の白雲〉という歌に対しても、〈幽玄体の歌なり〉と評しています。その上で、〈幽玄といふ物は、心にありて詞にいはれぬ物なり〉と語られています。もう少し詳細に見ると、〈月に薄雲のおほひたるや、山の紅葉に秋の霧のかかれる風情を、幽玄の姿とするなり〉とあり、〈幽玄といふは、更にいづくが面白しとも、妙なりともいはれぬところなり〉と語られています。
幽玄の根拠は、結局は心に求められているのです。〈これもいづくが幽玄なるぞといふ事、面々の心の内にあるべきなり。更に詞にいひ出だし、心に明らかに思ひわくべき事にはあらぬにや〉とあるように、幽玄は各人の心の中にあるというのです。ですから、ことさら言語で表したり、心中で明確に分別するようなことではないというのです。  
第二節 連歌の幽玄
連歌においても、幽玄が示されています。
二条良基(1320〜1388)の『筑波問答』には、〈春の花のあたりに霞のたなびき、垣根の梅に鶯の鳴きなどしたる景気・風情の添ひたるをぞ、歌にも褒められたれば、連歌の道もまたかくこそ侍らめ。かまへてかまへて、数奇の人々は、まづ幽玄の境に入りて後、ともかくもし給ふべきなり〉とあります。美しい景色の描写が和歌では褒められているので、連歌でもそのようにあるべきだというのです。詩歌の道においては、幽玄の境地を体得してから、あれこれの工夫をなすべきだとされています。
連心敬(1406〜1475)の『心敬僧都庭訓』には、〈幽玄というものは心にありて詞にいはれぬものなり〉とあります。やはり幽玄は心の中にはありますが、言葉では言えないものだというのです。また『さゞめこと』には、〈此道は感情・面影・余情を旨として、いかにもいひ残しことはりなき所に幽玄・哀はあるべしと也〉とあります。幽玄とは、言葉で言い尽くしたときに、言葉では言い尽くせぬところにあるものだとされています。また、〈いかにも道を高く思ひ、幽玄をむねとして執心の人此みちの最用なるべしと也〉と語られています。幽玄を抱く人は、連歌の道において大事な人だというのです。
宗祇(1421〜1502)の『長六文』には、〈ただ連歌は幽玄に長高く有心なるを本意とは心にかけらるべきなり〉とあります。幽玄においては、心有ることを心掛けるべきだと語られています。  
第三節 能楽(猿楽)の幽玄
能楽(猿楽)においても、幽玄は示されています。
世阿弥(1363〜1443)の『花鏡』には、〈幽玄の風体の事。諸道・諸事において、幽玄なるを以て上果とせり〉とあります。諸々の芸道において幽玄を第一としています。幽玄の定義については、〈ただ美しく、柔和なる躰、幽玄の本躰なり〉とあります。具体的には、〈人に於いては女御、更衣、又は優女、好色、美男、草木には花の類、か様の數々は、その形、幽玄のものなり〉とあります。
『至花道』には、〈幽玄雅びたるよしかかりは、女体の用風より出で〉とあります。幽玄で美しい風姿は、女体の応用から生れるとされています。
『風姿花伝』には、〈ただ、言葉卑しからずして、姿幽玄ならんを、享けたる達人とは申すべきや〉とあり、〈よき能と申すは、本説正しく、めづらしき風体にて、詰め所ありて、かかり幽玄ならんを、第一とすべし〉とあります。達人と呼ばれるのも、よき能だと評されるのも、幽玄という要素が重要視されています。  
第四節 日本の幽玄
日本の幽玄は、姿に見えない余情や景色、言葉で言い表せない柔和さや上品さを示す、心有る日本美の言葉です。
各務支考(1665〜1731)の『俳諧十論』には、〈幽玄にあそぶを風雅といふ〉とあります。高尚な美の趣を表す風雅とは、幽玄の境に遊ぶことだというのです。
美は、真や善とは異なる様式を持つ価値基準です。美は、真のように実験で確かめることはできません。また美は、善に比べて言葉で追求することが困難です。美は、特にその美が高い位にある程、言葉で言い表すことができなくなります。そのため、言葉で表すことができない美についての、言葉による表現形式が生まれます。日本の幽玄は、心有るが故に、言葉では言い表しきれない境地を察し、その境地において言葉で発せられるのです。
 
第五章 わび  

 

わび(侘び)とは、貧相や不足において心の充足を見出す日本人の美意識の一つです。名詞では「侘び」であり、動詞では「侘ぶ」であり、形容詞では「侘しい」となります。元来は、心細い・寂しい・貧しいなどを意味する言葉でしたが、徐々に肯定的な価値を持つようになります。茶道や俳諧では、閑寂な趣や、簡素に宿る落ち着いた感じを意味します。  
第一節 和歌のわび
和歌には、わびが詠われています。和歌においては、わびが否定的な意味で用いられている用例を数多く見ることができます。
『万葉集』[巻第四]には、〈さ夜中に友呼ぶ千鳥もの思ふとわびをる時に鳴きつつもとな〉という歌があります。夜更けに千鳥が、物思いに沈んだように寂しい時に鳴き続けるのが空しいというのです。同じく [巻第四]には、〈今は吾は侘びそしにける気の緒に思ひし君をゆるさく思へば〉という歌もあります。辛く気持ちが沈むのは、大切なあなたを遠ざかるにまかせると思うからだというのです。[巻第十五]には、〈塵泥の数にもあらぬわれ故に思ひわぶらむ妹が悲しさ〉という歌があります。塵や泥のように数える価値もない私のために、辛い思いをしているあなたが悲しいというのです。
『古今和歌集(905頃)』[巻第十八]には、〈わくらばに 問ふ人あらば 須磨の浦に 藻塩たれつつ わぶと答へよ〉とあります。 私を尋ねてくる人がいたら、わびしく暮らしていると答えてくださいと詠われています。
『拾遺和歌集(1006頃)』[物名]には、〈古へは奢(おご)れりしかど侘びぬれば舎人(とねり)が衣も今は着つべし〉とあります。昔は奢っていたけれど、寂しく暮らす今は相応の服を着ているというのです。
『詞花和歌集(1151)』には、〈わびぬれば強ひて忘れんと思へども心弱くも落つる涙か〉とあります。想いわずらえば、忘れようとしても心が弱いので涙が落ちるというのです。  
第二節 物語のわび
物語において、わびが否定的な言葉から肯定的な言葉に移り変わっているのが分かります。
平安初期に成立した『伊勢物語』[第五十九段]には、〈住みわびぬ今はかぎりと山里に 身を隠すべき宿求めてむ〉とあります。この世に住むのがすっかり嫌になったので、山里に身を隠せる家を探すというのです。ここでのわびは、否定的な意味です。
ですが、平安中期に成立した『宇津保物語』には、〈わび人は月日の數ぞ知られける明暮ひとり空をながめて〉とあります。侘びを知る人は、風流を解することが示されています。わびが肯定的な言葉として用いられています。  
第三節 能楽(猿楽)のわび
能楽(猿楽)にも、わびが語られています。
観阿弥(1333〜1384)の作を世阿弥(1363,64〜1443,44)が改修したと考えられている能楽作品に、『松風』があります。作中に、〈ことさらこの須磨(すま)の浦に心あらん人は、わざとも佗びてこそ住むべけれ〉と語られています。心ある人は、意図してでも侘びた場所に住むべきだというのです。  
第四節 徒然草のわび
吉田兼好(1283頃〜1352頃)の『徒然草』においても、わびが語られています。
[第七十五段]には、〈徒然わぶる人は、如何なる心ならむ。紛るる方なく、唯獨り在るのみこそよけれ〉とあります。徒然の境遇を苦にする人の気持ちに思いをはせ、心が紛れることのないように孤独でいることが語られています。  
第五節 茶道のわび
茶道においては、侘び茶の文化が成熟しました。
『紹鴎侘の文』には、〈侘びといふ言葉は故人も色々に歌にも詠じけれ共、ちかくは、正直に愼しみ深くおごらぬさまを侘といふ〉とあります。侘びが明確に定義されています。また、〈天下の侘の根本は天照御神にて、日國の大主にて、金銀球玉をちりばめ、殿作り候へばとて、誰あつて叱るもの無之候に、かやぶき?米の御供、其外何から何までも、つつしみ深くおこたり給はぬ御事、世に勝れたる茶人にて御入候〉ともあります。侘びが、日本独自の慎み深さから来ていることが語られています。
『紹鴎門弟への法度』には、〈淋敷は可然候、此道に叶へり、きれいにせんとすれば結構に弱く、侘敷せんとすればきたなくなり、二つともさばすあたれり、可慎事〉とあります。さびしい境地に立つことは、侘数奇の道に叶うことだというのです。侘びをきれいに表現しようとすると結構に傾いてひ弱さとなり、強いて侘びようとすれば汚くなると語られています。両方とも自然にさびたのではなく、人為的にさばしたからだというのです。
真松斎春渓の『分類草人木(1564)』には、〈大名富貴ノ人、数奇ハ侘タルガ面白シト云テ、座敷モ膳部モ貧賤ノマネ専トス。不可然。可有様コソ面目ナレ〉とあります。大名や富貴の人が、貧賤のまねをしても侘びの域には達しないというのです。富貴の人は、金持ちらしくふるまうのがよいというのです。侘びは、貧賤そのものの中にあるというのです。
久保利世(1571〜1640)の『長闇堂記(1640)』には、〈佗びは佗びの心を持たでは茶湯はならぬものなり〉とあります。また、〈宗易(千利久)華美をひくまれしゆへか、わびのいましめのための狂歌よみひろめ畢〉とあり、侘びは華美とは反対ということが示されています。
山上宗二(1544年〜1590)の『山上宗二記』には、〈侘び数寄というは一物も持たざる者、胸の覚悟一つ、作分一つ、手柄一つ、この三ヶ条調うる者をいうなり〉とあります。侘び数奇の極意が示されています。また、〈古人のいわく、茶湯名人に成りての果ては、道具一種さえ楽しむは、弥(いよいよ)、侘び数寄が専らなり。心敬法師、連歌の語にいわく、連歌の仕様は、枯れかしけ寒かれという。この語を紹鴎、茶の湯の果てはかくの如くありたき物を、など常に申さるのよし、辻玄哉、語り伝え候〉とあります。侘び数奇においては、枯れるということや、寒いということが問題になるというのです。
『南方録(17C後)』は、千利休の茶の湯論を伝える茶書です。[覚書]では、〈紹鴎、わび茶の湯の心は、新古今集の中、定家朝臣の歌に 見わたせば花も紅葉もなかりけり 浦のとまやの秋の夕暮れ この歌の心にてこそあれと申されしとなり〉とあります。 [滅後]では、〈さてまた侘の本意は、清浄無垢の仏世界を表して、この露地草庵に至ては、塵芥を払却し、主客ともに直心の交なれば、規矩寸尺、式法等あながちに云ふべからず〉とあります。侘びは、仏の世界を表しているというのです。そのため、〈わびの心を何とぞ思ひ入れて、修行するやうにさへ仕立たらば、その中、十人廿人に一人も、道にさとき人は道に入べきか〉とあり、侘びの心を思って修行すべきことが語られています。また、〈老人などは、うるはしくうつくしき道具よし。わび過ては、さわやかになきものなり〉とあり、老人が使う道具がわび過ぎていることが戒められています。
寂庵宗沢の『禅茶録(1828)』には、〈佗の一字は、茶道において重じ用ひて、持戒となせり〉とあります。具体的には、〈それ佗とは、物足らずして一切我が意に任ぜず、蹉跎する意なり〉とあります。蹉跎するとは、衰えるという意味です。侘びに対する心得として、〈其不自由なるも、不自由なりとおもふ念を不生、不足も不足の念を起さず、不調も不調の念を抱かぬを、佗なりと心得べきなり〉と語られています。  
第六節 俳句のわび
俳句においても、わびが語られています。
松尾芭蕉(1644〜1694)の『奥の細道』[紙衾ノ記]には、〈なをも心のわびをつぎて、貧者の情をやぶる事なかれと、我をしとふ者にうちくれぬ〉とあります。心の侘びが貧者の情と関連付けられて語られています。『武蔵曲』には、〈月をわび身をわび 拙きをわびて、わぶと答へむとすれど、問ふ人もなし。なおわびわびて、侘てすめ月侘斎が奈良茶歌〉と詠われています。『冬の日』には、〈笠は長途の雨にほころび、紙衣はとまりとまりのあらしにもめたり。侘つくしたるわび人、我さへあはれにおぼえける〉とあります。侘しい身の上にあはれを感じています。
服部土芳(1657〜1730)の『三冊子』には、〈侘ぶといふは、至極なり。理に尽きたるものなり、といへり〉とあります。侘ぶは、ぎりぎりの限界を示すものであり、理屈もなにもない境地だというのです。  
第七節 日本のわび
侘びとは、神道における正直さや清浄さの上に、時間の経過を示す「枯れ」や「衰え」や「寒さ」などが重なり、「貧困」や「不足」や「簡素」の型における、奢っていない閑寂な趣や、慎み深い落ち着いた感じを意味しています。
『北条重時家訓』には、〈たのしきを見ても、わびしきを見ても、無常の心を観ずべし。それについて、因果の理を思ふべし。生死無常を観ずべし〉とあります。侘びには、仏教の無常観も影響していると考えてよいと思われます。
一般的には、侘びは茶の湯の理念として、寂びは芭蕉俳諧の理念として語られることが多いです。しかし、茶の湯にも芭蕉俳諧にも、侘びと寂びは両方言及されています。
あえて侘びと寂びの差異を述べるならば、侘びは寂びに比べ、心の外にある造型に関わります。侘びとは、世界における侘しいものから感じる心の動きだからです。  
 
第六章 さび  

 

さび(寂び)とは、閑寂や枯淡の味わい深い情趣を見出す日本人の美意識の一つです。名詞では「寂び」であり、動詞では「寂ぶ」であり、形容詞では「寂しい」となります。動詞「さぶ」は、ものの生気や活力が衰えて元の力がなくなることをいいます。元来は、否定的な意味で用いられていましたが、徐々に肯定的な価値を持つようになります。芭蕉俳諧の用語では、閑寂の色あいにおける美的情趣をいいます。  
第一節 和歌のさび
和歌には、さびが詠われています。初期の和歌では、さびが否定的な意味で用いられていましたが、藤原俊成(1114〜1204)から肯定的な意味にも用いられるようになります。
『万葉集』[巻第四]には、〈まそ鏡見飽かぬ君に後れてや朝夕にさびつつをらむ〉とあります。澄んだ鏡のように見飽きぬ君に後に残され、朝も夕もさびしく暮らしているというのです。
藤原俊成(1114〜1204)は、歌合(うたあわせ)の判詞のなかでさびを美的なものとして評しています。
『広田社歌合』では、〈武庫(むこ)の海をなぎたる朝に見わたせば眉もみだれぬ阿波の島山〉という歌に対し、〈詞をいたはらずしてまたさびたる姿、一つの体に侍るめり〉と評されています。また、〈蘆の葉も霜枯れにけり難波潟玉藻刈り船ゆきかよふ見ゆ〉という歌に対しては、〈さびても侍れば〉と評されています。
『住吉社歌合』では、〈住吉の松吹く風の音たえてうらさびしくもすめる月かな〉という歌に対し、〈すがた、言葉いひしりて、さびてこそ見え侍れ〉と評されています。また、〈うちしぐれ物さびしかる蘆のやのこやの寝覚に都こひしも〉という歌に対しては、〈ものさびしかるとおき、みやここひしもなどいへるすがた、既幽玄之境に入る〉と評されています。
『御裳濯河歌合』は、西行(1118〜1190)が詠み置いた歌を自ら三十六番につがえて、俊成に判を求めたものです。〈なが月の月のひかりの影ふけて裾野の原に牡鹿鳴くなり〉という歌に対し、〈裾野の原にといへる、心深くして姿さびたり〉と評されています。また、〈きりぎりす夜寒に秋のなるままに弱るか声の遠ざからいゆく〉と〈松の延ふまさきのかづら散りにけり外山の秋は風荒ぶらん〉という歌に対し、〈左右ともに姿さび、詞をかしく聞え侍り〉と評されています。
西行(1118〜1190)の『聞書残集』には、〈この里は人すだきけんむかしもや さびたることはかはらざりけり〉とあります。『西行法師家集』には、〈さびしさは秋見し空にかはりけり 枯野を照らす有明の月〉とあります。
慈円(1155〜1225)の『拾玉集』にも、さびしさを詠った歌があります。〈やどさびて人めも草もかれぬれば 袖にぞのこる秋のしらつゆ〉、〈やどさびて夏も人めはかれにけり なにしげるらむ庭のむらくさ〉、〈あさみどり春のながめも宿さびて ひとり暮れぬる山の端の空〉とあります。いずれも慈円の孤独な寂しさを、自然の景趣に託しています。その場となる宿が「さびて」と把握されているのです。
『新続古今和歌集(1438)』には、〈寂しさは色も光も更(ふ)け果てゝ枯野の霜にありあけの月〉という歌があります。  
第二節 物語のさび
紫式部(973頃〜1014頃)の『源氏物語』においても、さびという言葉が用いられています。
[若紫]には、〈文やり給ふに書くべき言葉も例ならねば、筆うちおきつゝすさび居給へり〉とあります。文章を作るも書くべき言葉が例にならないので、筆を置いてぐずついているというのです。
[葵]には、〈心のすさびにまかせて、かくすきわざするは、いと世のもどき負ひぬべき事なり〉とあります。遊び半分で浮気するなら、世間から非難を受けなければならないというのです。
[蓬生]には、〈はかなきふるうた物語などやうのすさびごとにてこそ、つれづれをも紛らはし、かかる住居をも思ひなぐさむるわざなめれ、さやうのことにも心おそくものし給ふ〉とあります。昔の歌や物語などの慰みごとこそ、もてあます時間を紛らわせ、生活を慰めるものですが、そんなことには心が鈍いというのです。  
第三節 能楽(猿楽)のさび
能楽(猿楽)にも、さびが語られています。
世阿弥(1363,64〜1443,44)の『花鏡』には、〈さびさびとしたる内に、何とやらん感心のある所あり。これを、冷えたる曲とも申すなり〉とあります。物さびた趣の中に、人の心を感動させるところがあるとされています。これを「冷えたる曲」とも呼ぶというのです。
室町時代末期に編纂された能楽伝書『花伝書(八帖花伝書)』には、〈心より出来る能とは、無上の上手の、申楽に物數の後、二曲も物眞似も切もさして無き能の、寂々としたる中に、何とやらん感心のある所あり〉とあります。寂々とした中に、感心するところがあるというのです。  
第四節 徒然草のさび
吉田兼好(1283頃〜1352頃)の『徒然草』においても、さびが語られています。
[十九段]には〈おぼしき事言はぬは腹ふくるゝわざなれば、筆にまかせつゝ、あぢきなきすさびにて、かつ破り捨つべきものなれば、人の見るべきにもあらず〉とあります。思っていることを言わないのは腹の立つことですから、筆にまかせていますが、つまらない慰めのためのものに過ぎず、破り捨てるべきものなので、誰も見る人はいないというのです。
[二十九段]には〈亡き人の手習ひ、絵かきすさびたる見出でたるこそ、ただその折のここちすれ〉とあります。故人が戯れに書いた文字や絵を見ると、そのときに戻ったような気がするというのです。
[百七段]には〈もし賢女あらば、それもものうとく、すさまじかりなん〉とあります。もし賢い女性がいるなら、親しみにくいので興ざめだというのです。  
第五節 茶道のさび
茶道においても、さびが語られています。
『南方録(17C後)』[覚書]には、〈とまやのさびすましたる所は見立たれ。これ茶の本心なりといはれしなり〉とあります。さびすましたる所が、茶の本心として示されています。[滅後]には、〈名物の花入、さなくても賞玩の花入には、花はいかにも少(すこし)、さびてあしらいてよし。花入に相応する花、心得べし〉とあります。花は少しならさびても良いというのです。
近世初期の茶人片桐石州(1605〜1673)の『宗閑公自筆案詞』には、〈茶の湯さびたるは吉(よし)、さばしたるは悪敷と申す〉とあります。同じく五世藪内紹智(1678〜1745)の『源流茶話』にも、〈利休の云ク、さびたるはよし。さばしたるは悪し〉とあります。自然のさびが「さびたる」であり、人為的にさびめかしたものが「さばしたる」です。  
第六節 連歌のさび
連歌(れんが)は、複数の人間によって上の句(五・七・五)と下の句(七・七)を詠み連ねる詩歌の一種です。連歌においても、さびが語られています。
心敬(1406〜1475)の『さゞめこと』には、〈いはぬ所に心をかけ、ひえさびたるかたをさとりしれ〉とあります。言わぬところを心に思い、さびを知るべきことが語られています。
『心敬僧都庭訓』には、〈哀なることを哀といひ。さびしきことをさびしきといひ。閑なることをしづかといふ。曲なき事なり。心にふくむべきにて候〉とあります。寂しきを寂しいと感じるように、ありのままの感情を思うべきことが語られています。
『所々返答』には、〈古賢云、常にけだかく寒き名歌、おなじく秀逸の詩聯句をならべて詠吟修行して、心をさび高くもてと也〉とあります。気高い寒さの歌を習い覚え、心にさびを持つことが語られています。
『百首和歌』では、〈江月 ふけにけりをとせぬ月に水さび江のたなゝし小舟ひとりながれて〉という歌に対し、〈ひとへに、さびふけたる風躰也。音せぬとは、人のさしすてたる也。ふけたる月に、船の心とたゞよひ侍る也〉と評されています。寂び老けたる歌だというのです。
宗祇(1421〜1502)の『白髪集』には、〈初学の時、ひえさびたる姿抔(など)こひねがひ給はゞ、あかる事をそかるべし。此姿なども境に入至極の人の心がくべき道也〉とあります。冷え寂びの姿は、年を取った人が至る境地だというのです。  
第七節 俳句のさび
芭蕉俳諧において、さびの精神が成熟しました。
元禄二年(一六八九)、松尾芭蕉(1644〜1694)が四十六歳のときの作に、〈月さびよ明智が妻の咄しせむ〉があります。月の「さび」とは、有明月のことを指しています。夜明け過ぎに残っている月が、その光を弱めている状態を詠んでいるのです。弱い月の光の下で、問わず語りに明智の妻の咄しをしたいというのです。
向井去来(1651〜1704)の『去来抄』では、〈夕ぐれは鐘をちからや寺の秋〉という歌に対し、去来が〈さびしき事の頂上なり〉と評しています。さびの定義については、〈さびは句の色なり。閑寂なる句をいふにあらず〉とあります。さびは句全体の色合い(美的情趣)についての言葉であり、必ずしも閑寂な句をいうわけではないというのです。〈たとへば老人の甲冑を帯し戦場に働き、錦繍をかがり御宴に侍りても、老の姿有るが如し。賑かなる句にも、静かなる句にも有るものなり〉と語られています。閑寂な句とは、全てが閑寂で統一された句のことです。しかし、俳諧のさびは、色としてそこはかとなく漂うため、必ずしも全てを閑寂一色にする必要はないのです。
また、去来が詠んだ〈花守や白きかしらをつき合はせ〉という歌に対し、芭蕉が〈さび色よくあらはれ、悦び候ふ〉と述べ、さびの句だと評しています。
森川許六(1656〜1715)の『俳諧雅楽抄』には、〈当流発句案ジ方ノ大事ト云ハ、第一サビ・ホソミ。是ハ正風体幽玄ノ所也〉とあります。さびやほそみは、幽玄の場所にある言葉だというのです。
去来と許六との論争書『俳諧問答(1697)』には、〈老の来るにしたがひ、さびしほりたる句、おのづからもとめずしていづべし〉とあります。年を重ねるにつれ、自分から求めなくても自然とさびやしほりの句が詠めるようになるというのです。
与謝蕪村(1716〜1783) の『雪の薄(すすき)』には、〈他門の句は彩色のごとし。我門の句は墨絵のごとくにすべし。折にふれては、彩色なきにしもあらず。心、他門にかわりて、さびしほりを第一とす〉とあります。墨絵のような句によって、さびやしほりを表すというのです。  
第八節 俳句の位・しほり・ほそみ
芭門の俳句では、「さび」とともに「位」・「しをり」・「細み」も重視されていることが『去来抄』に示されています。
「位」については、〈卯の花のたえまたたかん闇の門〉という句に対し、芭蕉が〈句の位、尋常ならず〉と評しています。ただし去来は、〈この句、位ただ尋常ならざるのみなり。高位の句とはいひがたし。畢竟、句位は格の高きにあり〉と述べています。句の位というものは品格の高さにあるというのです。
「しをり」と「細み」については、〈しをりは憐れなる句にあらず。細みは便りなき句にあらず。しをりは句の姿にあり。細みは句意にあり〉とあります。しおりは憐れさのある句のことではなく、句の姿に表れるものだというのです。細みは頼りない感じの句のことではなく、句の心にくみとれるものだというのです。芭蕉は、〈鳥共も寝入つて居るか余吾の海〉という句に対し、〈この句、細みあり〉と評しています。一方、〈十団子も小粒になりぬ秋の風〉という句に対しては、〈この句、しをりあり〉と評しています。
それぞれの言葉に対し、〈惣じて、さび・位・細み・しをりの事は、言語筆頭にいひおほせがたし〉とあります。言葉や文章では十分に説明しがたいというのです。
同じく去来の『俳諧問答』[答許子問難弁]にも、〈しほり・さびは、趣向・言葉・器の閑寂なるを云にあらず。さびとさびしき句は異也。しほりは、趣向・詞・器の哀憐なるを云べからず。しほりと憐なる句は別也。たゞ内に根ざして、外にあらはるゝもの也。言語筆頭を以てわかちがたからん。強て此をいはば、さびは句のいろに有、しほりは句の余勢に有〉とあります。さびは句の色、しほりは句の余勢であり、ともに心の内に根ざして、外へ表れ出てくるものだというのです。  
第九節 日本のさび
寂びとは、人生の経過を示す「老い」や「冷え」などを重ね、孤独や閑寂の色を自然に情景へと託して醸し出すことを意味しています。
芭門においては、さび、しをり、細みのいずれもが、一句における余情としての美を表現しています。芭門におけるさびとは、句における孤独さや閑寂さを浮かび上がらせる色合い(美的情趣)のことです。しをりとは、憐れさや余勢を句における姿として表すことです。細みとは、繊細さを句において意図することです。
一般的には、侘びは茶の湯の理念として、寂びは芭蕉俳諧の理念として語られることが多いです。しかし、茶の湯にも芭蕉俳諧にも、侘びと寂びは両方言及されています。
あえて侘びと寂びの差異を述べるならば、寂びは侘びに比べ、心に根ざした感情に関わります。寂びとは、心における寂しさを、自然な情景の趣へ託する心の動きだからです。  
 
第七章 妙  

 

妙とは、極めて優れていることです。単に優れているだけではなく、その優れている度合いが、人知では計り知れないとき、あるいは言語で言い表せられないときに妙という言葉が使われます。また、不思議なことや奇妙なこと、奇跡などに対しても用いられます。  
第一節 芸の妙
芸に妙あり。
空海(774〜835)の『性霊集』には、〈又詩ヲ作ル者、古ノ体ヲ学ブヲ以テ妙トシ、古ノ詩ヲ写スヲ以テ能シトセズ。書モ古ノ意ニ擬スルヲ以テ善シトス、古ノ跡ニ似タルヲ以テ巧ナリトセズ〉とあります。作者は、過去に学ぶことで妙を得るというのです。
正徹(1381〜1459)の『正徹物語』[落花]には、〈幽玄といふ物は、心にありて詞にいはれぬ物なり。月に薄雲のおほひたるや、山の紅葉に秋の霧のかかれる風情を、幽玄の姿とするなり〉とあり、幽玄が定義されています。その後に、〈幽玄といふは、更にいづくが面白しとも、妙なりともいはれぬところなり〉と語られ、幽玄が妙とは異なることが示されています。
世阿弥(1363,64〜1443,44)の『花鏡』[妙所之事]には、〈妙(めう)とは「たへなり」となり。「たへなり」といつぱ、形なき姿なり。形なき所、妙体(めうたい)なり〉とあります。妙とは、具体的に把握できない、形が無いものだというのです。〈知らぬを以て妙所といふ。少しも言はるる所あらば、妙にてはあるまじきなり〉とあるように、知りえないから妙所と言うのであり、少しでも言えてしまえるなら、それは妙ではないというのです。
能においては、〈この妙所は、能を極め、堪能その物になりて、闌けたる位の安き所に入りふして、なす所の態に少しもかかはらで、無心無風の位に至る見風、妙所に近き所にてやあるべき〉とあります。能を究めた境地である妙は、堪能の達人となり、やすやすと演じながら無心となりその芸を意識せず、無風の位になっているというのです。妙と幽玄との関係は、〈幽玄の風体の闌けたらんは、この妙所に少し近き風にてやあるべき。よくよく心にて見るべし〉と語られています。幽玄の技能は、妙の境地に近いというのです。  
第二節 心の妙
心に妙あり。
林羅山(1583〜1657)の『神道伝授』には、〈神ハ心ノ霊也。心ハ形ナケレドモ、生テ有物ヲ霊トモ妙トモ云也〉とあります。神は心の霊であり、その心は形なく、生命に宿るものであり、霊や妙と呼ぶというのです。
心の妙を述べた作品に、『莫妄想(マクモウゾウ)』があります。石田梅岩(1685〜1744)の著作であり、妄想するなかれの意味で、心の迷いの元となる妄想を断つべしという禅語です。
自分であることの不思議が語られていて、〈先此身自在ナル事ヲ思フベシ〉と説かれています。〈言語ヲ以テ自由ヲナシ、手ニ持、足行テ自在スル〉とあり、〈眼耳鼻ヨリ手足ニ至迄斯ノ如ク自由スル事ハ、目ニ見ト謂モ目ニ見ル所以ナシ。口ニ言ト謂モ口ニ言所以ナシ。又足ニ行ドモ足ノ歩行スル所以モナシ〉とあります。見たり言ったり歩いたりできるといっても、そうできる理由が見つからないというのです。〈眼耳鼻ヨリ手足ノ自由スルハ唯自由スル事ニ候哉。亦自由サスル所以ノ者有リヤ如何〉とあるように、自由の根拠が問われていて、その問いに対し、〈有〉と答えられています。〈如何ナル者ニ候哉〉と問われ、〈言難シ〉と答え、再度〈言難シトハ如何〉と問われ、〈夫ヲ知テモ是ト指テ形容スル物ナキ故ナリ〉と答えられています。つまり、〈自性ト謂モ是ガ自性ト云ベキ物ナシ。亦心ト名ヲ謂モ形ナシ〉ということです。自分が自分であること、つまり手足を動かしたり見聞きしたりできるのは理由あってのことですが、その理由には形がなく言うことができないというのです。
考察は続き、〈自性ハ無心無念ナリ。其無心ナル者ガ何トテ物ヲ云物ヲ思ヒ候哉〉と語られ、〈夫ヲ妙ト云〉と述べられています。妙についての考察は続き、〈然バ其処ヲ妙ニ預タルニ候哉〉と語られ、〈否、妙ニ妙ナシ。妙破テヤハリ妙ナリ〉と述べられています。さらに、〈妙ト云ヨリ外ハ無キヤ、如何〉と語られ、〈黙スル而已(ノミ)ナリ〉と述べられています。自分の心には形がなく、この心だという根拠は心には無く、その根拠は妙と言うしかないということです。その妙の根拠を尋ねても底が割れていて、妙を突き破ったところ、すなわち妙の根拠も妙というしかないのです。それでも、さらに妙の外、すなわちより上位の根拠を尋ねたところで、ただ黙するしかないのです。
谷川士清(1709〜1776)の『真言弁』には、〈感通感動まつたく言霊の妙用なれば、感通をねがはむとならば、ひとへに言霊あらむことをねがふべし〉とあります。心通じ心動かされるということは、言葉の言い尽くし難い妙の働きだからこそ、そのために言霊を願うというのです。この心は、その心でもあの心でもありません。それにも関わらず、この心が発する言葉によって、その心やあの心にこの心の思いが通じ(たように思え)ます。この心とその心とあの心が、共に感じ動く(ように思える)のです。この不自然極まりない不可思議な現象が、妙の用として示されているのです。そして、その妙の用を引き起こしている、言葉が事柄に及ぼす霊力が、言霊として願われているのです。  
第三節 日本の妙
日本に妙あり。ゆえに、ただ、「妙」。
日本史において、芸の妙と心の妙が示されています。これらは一見して別物のように思えますが、結局のところ、同じことを指しています。というよりも、同じところに行き着くといった方が適切かもしれません。
この心は、この心であり、その心でもなく、あの心でもありません。それゆえ、「この心の感じや思い」は、言葉でその心やあの心に伝えるしかありません。それゆえ、自性についても、言葉で伝えるしかありません。栄西(1141〜1215)の『興禅護国論』には、唐訳の『華厳経』からの引用で、〈一切の法はすなはち心の自性なりと知つて〉とあります。自性とは、ものの同一性と固有性が、それ自身で存在していることを意味しています。そのため心の自性は、自分が自分であること、つまり「心がこの心このものであること」を意味しています。
自性を言葉で伝えようとしたとき、言葉の意味を言葉によって説明するという言葉の構造上、意味の根拠を問う行為の果てに、いつかは意味の底にぶち当たります。その根拠を言葉によって語り尽くすことはできませんが、確かに「有」と言える何かがあります。それが「妙」と呼ばれているのです。名付けえぬものの名前、言い得ぬものの言い方、知りえぬものの知り方、それが「妙」という言葉なのです。
語りえぬものについては、語ることで示さねばなりません。つまり妙とは、語り得なさを示すために語られるものなのです。つまり妙とは、語りえぬものであり、語ることで示されることなのです。
例えば、「自性」。つまり、「心がこの心このものであること」を、「心がこの心そのものであること」として言葉で伝えたときに、伝わった何かと、伝わらなかった何かが、ともに妙として示されます。
現に言い得ぬために黙されているものを、「黙するのみ」と黙さないことによって示すこと、それが妙なのです。 そして、現に言い得ぬために黙されているものを、「黙するのみ」と黙さないことによって、現に黙していること、それもまた妙なのです。
以降、繰り返しが続きます。
<補足説明>
「この心の思い」は「有」のです。
しかし、「その心において、「この心の思い」」が「有」ことは、原理的にありえません。
しかししかし、「この心において、「その心において、「この心の思い」」を想えること」は「有」のです。
そうして、この構造の気付きにおいて、実際は「それ」でしかなかったものが、本当は「その心」であったことに気付くのです。
<補足説明の補足説明>
すでにこの構造を乗り越えている者、つまりは普通の常識人にとって、初めから、その心は「その心」なのです。  
 
第八章 遊び  

 

遊びは、衣食住とは異なる場所にあります。異なる場所にあり、ときに交わります。世俗的な日常から離れて、聖性を帯びた非日常において、心を生活とは異なる原理で働かせたときに遊びが生まれます。そこで生まれたものは、意識的・無意識的を問わず、日常へと還元されて循環します。そこに、遊びの精神が表れ、心が調えられるのです。
ここで一句。
神遊び 仏遊んで 人遊ぶ  
第一節 神遊び
日本の神話において、八百万の神々が遊びまします。
『古事記』天若日子(アメノワカヒコ)の場面には、〈日八日夜八夜を遊びき〉とあります。太陽の死と蘇りの儀式について示されているといわれています。同じく『古事記』天石屋戸の場面では、〈天宇受売は楽(あそび)を為(し)〉や、〈歓喜(よろこ)び咲(わら)ひ楽(あそ)ぶぞ〉とあります。「楽」の文字が二度ほど登場し、天若日子のときの遊びと同じく「あそび」の訓で読まれています。天宇受売(アメノウズメ)と八百万の神々によって、歌や踊りが行われているのです。「遊び」と「楽」が同じ意味を持っていたことが分かります。古代日本では、祭りの際には神遊びによって神を招きました。神々と人の境において、遊びが生まれたのです。
『日本書紀』[一書第六]には、〈其の遊行す時に及りて〉とあります。天孫降臨の後の行動が、遊行として語られています。
『古今和歌集』[巻第二十]には、神を祭るときに奏する歌曲として[神あそびのうた]が詠われています。その内容は、採物(とりもの)のうた、日女(ひるめ)のうた、かへしもののうたなどです。かへしものとは、催馬楽などで調子を変えて歌うもののことです。
『菅家遺誡(かんけいかい)』は、菅原道真(845〜903)に仮託して後世に記された書です。〈凡そ神事の枢機は、正直の道心をもて事ふるときは、神ここに照し降り、玄ここに至り遊ぶ〉と記されています。ここでの道心は、事の善悪正邪を判断し正道を行おうとする心であり、人心に対して使われています。その道心を持って神に仕えるとき、神は降り立ち遊びに興じるというのです。
『おもろさうし』は、首里王府が嘉靖10年(1531年)から天啓3年(1623年)にかけて編纂された歌集です。「おもろ」とは沖縄の祝詞のことで、「さうし」とは大和言葉の草紙から来ていると考えられています。神の遊びが詠われていて、例えば、〈聞得大君ぎや 降れて 遊びよわれば 天がした 平らげて ちよわれ〉とあります。王国時代の最高級神女が天上から地上に降り立ち、神遊びとしておもろを謡い舞うことで、天下を治め給えと詠われています。
神を招く『神楽歌』には、遊びが盛大に詠われています。まず[本]に、〈君も神ぞや 遊べ遊べ 遊べ遊べ 遊べ遊べ〉とあり、 [末]で〈遊べ 遊べ ましも神ぞ 遊べ遊べ 遊べ遊べ 遊べ遊べ〉と続きます。君も神であられるよ。遊べ遊べ、猿よ、おまえも神であるよ。遊べ遊べと詠われています。ここでの神遊びは、神事における鎮魂呪法としての歌舞音楽を意味しています。
『梁塵秘抄口伝集』には、〈神楽は、天照大神の、天の岩戸を押し開かせたまひける代にはじまり〉と説明されています。  
第二節 仏遊び
仏の道においても、遊びが行われます。
最澄(767〜822)の『顕戒論』には、〈その破戒の者は、自在に遊行して、而も国王・大臣・官長と共に親厚をなす〉とあります。ここでいう遊行は遍歴修行、または遍歴し説法教化することを意味しています。
空海(774〜835)の『秘蔵宝鑰』には、〈仏法存するが故に、人皆眼を開く。眼明らかにして正道を行じ、正路に遊ぶが故に、涅槃に至る〉とあります。正しい道に遊ぶことで、悟りを開くというのです。
鴨長明(1155〜1216)の『発心集』には、〈念仏、読経をもととして、はかなき遊び、戯れまでも、みな、人により廻向に随ひて、ことごとく引摂し給ふ〉とあります。わずかな遊び戯れまでも廻向(仏事供養)によって、全て浄土に導いて下さるというのです。
親鸞(1173〜1262)の『教行信証』には、〈遊戯に二つの義あり〉とあり、遊び戯れることには二つの意味があると語られています。まず、〈一つには自在の義。菩薩衆生を度す、たとへば獅子の鹿を博つに、所為はばからざるがごときは、遊戯するがごとし〉とあります。一つ目は自在という意味です。それは菩薩が世の人を救うことであり、例えば獅子が造作もなく鹿を捕らえるのは遊び戯れているようだというのです。次に、〈二つには度無所度の義なり。菩薩、衆生を観ずるに、畢竟じてあらゆるところなし。無量の衆生を度すといへども、実に一衆生として滅度を得る者なし。衆生を度すと示すこと遊戯するがごとし〉とあります。二つ目は、衆生を救いながら救ったとの執着をもたないことです。つまり、菩薩が衆生を観察し、ついに衆生という実体があるとは見ないという意味です。そのため、多くの衆生を救っても、実に一人の衆生も悟りを得させたという想いがないというのです。このように人を救う姿を示すことは、遊び戯れているようだというのです。
道元(1200〜1253)の『正法眼蔵』[仏性]には、〈予、雲遊のそのかみ、大宋国にいたる〉とあります。かつての私は、遊学して大宋国に居たというのです。[神通]には、〈諸仏はこの神通のみに遊戯するなり〉とあります。諸々の仏は、この神通のなかに悠々自適しているというのです。[弁道話]には、〈この三昧に遊化するに、端坐参禅を正門とせり〉とあります。この三昧に遊ぶにあたって、端坐して参禅するのが正しき門だというのです。
一遍(1239〜1289)の言動をまとめた『一遍聖絵』には、〈文の意は、身を穢国にすてゝ心を浄域にすまし、偏に本願をあふぎ、専(もっぱら)名号をとなふれば、心王の如来自然に正覚の台に坐し、己身の聖衆踊躍して法界にあそぶ〉とあります。わが身をこの穢土に捨て、心をかの浄土におき、ひたすら阿弥陀の本願を仰ぎ、もっぱら南無阿弥陀仏と唱えれば、心は自ずから正覚の台に坐ることになり、わが身は聖衆に等しく踊り躍って阿弥陀の世界に遊ぶというのです。ここでの遊びは、この世の穢土に居ながら、彼岸の浄土に成仏することです。その手段は念仏と踊りだとされています。
東大寺の学僧である凝然(1240〜1321)の『華厳法界義鏡』には、〈菩薩これを得て、遐(はる)かに誓願を発し、広く業行を修し、無住の道に遊歴し、有涯の門に通入す〉とあります。菩薩は、心の束縛を断ち切った囚われのない状態で遊ぶというのです。  
第三節 人遊び
神や仏に続き、人も当然遊びます。日本人は、大いに遊びます。
『十訓抄(1252)』には、〈人々寄り合ひて、さるえべき遊びなどせむには、たとひ身にとりて、やすからず、くちをしきことにあひたりとも、かまへて、その日のさはりあらせじとはからふべきなり〉とあります。人々が集まって遊ぶときは、自分が穏やかになれず無念なことに出会ったとしても、決してその日の邪魔にはならないと心がけるべきだと語られています。
第三節一項 歌に遊ぶ
日本人は、歌に遊びます。
『新古今和歌集』には、〈言葉の園に遊び〉とあります。『続古今和歌集』には、〈雲居より馴れ来たりていまも八雲の道に遊び〉とあります。和歌の道は、八雲の道とも呼ばれています。日本人が八雲の道に遊ぶということは、歌を詠うことを意味しているのです。
『梁塵秘抄』には、いくつか遊びの歌が詠われています。一つに、〈平等大慧の地の上に 童子の戯れ遊びをも やうやく仏の種として 菩提大樹ぞ生ひにける〉とあります。童子の遊戯のごとく小さな功徳が、成仏の種としてやがて大樹が生い茂るような悟りにいたるというのです。二つに、〈戯れ遊びの中にしも さきらに学びん人をして 未来の罪を尽くすまで 法華に縁をば結ばせん〉とあります。遊びの中にも才気鋭く学ぼうとする人を、来世の罪までも無くなるように『法華経』の縁に結ばせるというのです。三つ目に、〈遊びをせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけん 遊ぶ子どもの声聞けば わが身さへこそ揺るがるれ〉とあります。遊び戯れようとこの世に生まれてきたのか、遊ぶ子供の声を聞くと自分の体までが自然と動き出すように思われるというのです。
井原西鶴(1642〜1693)の『日本道にの巻(西鶴独吟百韻自註絵巻)』には、〈和歌は和国の風俗にして、八雲立御国の神代のむかしより今に長く伝て、世のもてあそびとぞなれり〉とあります。日本の和歌は日本人の風習であり、神代の昔から今にいたるまで続く遊びだというのです。
第三節二項 芸に遊ぶ
日本人は、芸に遊びます。
熊沢蕃山(1619〜1691)の『集義和書』[巻第十三 議論之六]には、〈遊ぶ心を知てなす時は、其術を尽してきはむるといへ共、道徳の助けと成て末芸にながれず。遊ぶ心を知らずして上手となる者は、道徳の大なるを以て芸術のすこしきなるをなすもの也〉とあります。ここでの遊ぶ心とは、六芸に優遊涵泳する心のことを意味しています。六芸とは、礼・楽・射(弓術)・御(馬術)・書・数の六つのことです。
佐藤一斎(1772〜1859)の『言志四録』[言志録]には、〈人君当に士人をして常に射騎刀矟の枝に遊ばしむべし。蓋し其の進退、駆逐、坐作、撃刺、人の心身をして大いに発揚する所有らしむ。是れ但だ治に乱を忘れざるのみならずして、又、政理に於いて補有り〉とあります。人君たる者は、武士をして弓術や馬術や剣道をやらせなければならないというのです。なぜなら、進んだり退いたりすること、駆逐すること、坐ったり立ったり、撃ったり刺したりすることは、人の心身を大いに鼓舞し元気づけるからだというのです。これらは泰平の世において、乱世における覚悟を忘れないということだけでなく、また政治を行なうのにも大いに助けになると考えられています。[言志後録]には、〈聖人の遊観は学に非ざる無きなり〉とあります。聖人が遊び歩いて見物することは、どれも学問でないものはないというのです。
第三節三項 俳句に遊ぶ
日本人は、俳句に遊びます。
談林の西山宗因(1605〜1682)は、〈すいた事して遊ぶにしかじ、夢幻の戲言也〉と述べています。
向井去来(1651〜1704)の『旅寝論』には、先師芭蕉の言葉として、〈我、俳諧において、或は法式を増減する事は、おほむね踏まゆる所ありといへども、今日の罪人たる事をまぬがれず、ただ以後の諸生をしてこの道にやすく遊ばしめんためなり〉とあります。弟子が俳句の道で簡単に遊ぶことができるように、法式を変更する罪をあえて犯すのだというのです。
各務支考(1665〜1731)の『俳諧十論』には、〈そも俳諧の道といふは、第一に虚実の自在より、世間の理屈をよくはなれて、風雅の道理にあそぶをいふ也〉とあります。俳句では、世間の理屈から離れ、空想を働かせて、風雅の道理に遊ぶというのです。
横井也有(1702〜1783)の『鶉衣』には、〈俳諧の世に行はる事や、今は縉紳の品高きより、あやしの柴ふる人迄も、此道に遊ぶ事むべなる哉〉とあります。俳諧が世に盛んに行われ、身分ある人から卑しい者まで、この俳諧の道に遊ぶのはまことにもっともだというのです。
小林一茶(1763〜1827)の『おらが春』には、〈我と来て遊べや親のない雀〉という一句が詠まれています。
第三節四項 境に遊ぶ
日本における境目には、遊びが生まれます。
西川如見(1648〜1724)の『町人嚢』には、〈庶人に四つの品あり。是を四民と号せり。士農工商これなり〉とあり、〈此四民の外の人倫をば遊民といひて、國土のために用なき人間なりと知べし〉とあります。身分制度において、生活に直結しない職業分野を遊民と呼んでいます。
本多利明(1744〜1821)の『経世秘策』には、〈万民は農民より養育して、士農工商・遊民と次第階級立て釣合程よく、世の中静謐にありしを〉とあります。遊民は、士農工商の階級に属さない民を指しています。例えば、遊女や河原者、あるいは人別帳から除外された浮浪人や犯罪者などの無宿をいいます。
政治を行う武士、食料生産に携わる農民、生活必需品を作る工芸職人、商いを行う商売人など、日常に必須な分野から外れた民に遊びの呼称が冠されていることが分かります。  
第四節 日本の遊び
遊びは、日常の生活とは異なる場所で生まれます。
そのため、日常の生活とは異なるもの・ことに「遊」の文字が使われ、日常の生活から外れるもの・ことにも「遊」の文字が使用されるのです。
それゆえ遊びは、表側からは日常の生活から独立しているように見えます。しかし、裏側から見ると、遊びと日常の生活は相互に協力し合う関係で繋がっているのです。
表側からは、日常の生活と遊びが独立しているように見えます。
日常生活を営んでいる場合、日常生活は真面目に、遊びは真面目に反するものとして、つまり巫山戯(ふざけ)ているように見えます。
遊びに興じている場合、真剣な遊びが行われ、日常生活のことは蚊帳の外に置かれ意識されていません。
裏側からは、日常の生活と遊びが相互に協力し合っています。
日常生活に立つと、日常生活は秩序に、遊びは準秩序の関係になっています。遊びに立つと、日常生活は秩序であり、遊びは超秩序の関係になっています。
準秩序と超秩序は容易には峻別できません。しかし、敢えて言うなら、準秩序は練習の遊び、規則の遊び、模倣の遊び、競争の遊び、表現の遊びなどが挙げられます。準秩序の遊びとは、日常生活のための準備段階の役割を担う遊びのことなのです。
超秩序は未確定の遊び、試行錯誤の遊び、象徴の遊び、再現の遊び、闘争の遊びなどを挙げることができます。超秩序の遊びとは、改善のためや危機に対処するために、日常生活の構造を変化させる可能性を秘めた遊びのことなのです。
日常生活と遊びは、両義的に作用し合います。独立しているところと協力し合うところが、適切に場合分けされて互いに両立しているとき、人生に調和がもたらされます。
沢庵(1573〜1645)の『玲瓏集』には、[節度ある遊び]が示されています。〈あそぶに節あらん、節にあたらんは、あそぶもにくからす。節にあたらすは狂人なり。あそぶ人あやまたす、節を過くべからす。節といへるは、よろづに大かたさだまりたる程ある物なり〉とあります。遊びにも節度が必要だということが諭されています。
例えば、気晴らしを考えてみると分かりやすいと思います。気晴らしは日常生活から独立していますが、日常生活の緊張をほぐして、日常生活に活力をもたらしてくれます。この関係を理解できれば、弛みや緩みが遊びと呼ばれていることにも納得がいきます。さまざまな機関には、適度な弛みや緩みが必要なのです。それが大きすぎても小さすぎても、不具合が起こります。適切な遊び(弛みや緩み)によって、さまざまな機関は正常な動作を行うことができるのです。
日常生活と遊びの適切な場合分けが崩れ、日常生活と遊びが孤絶するとき、遊びの堕落が始まります。それに伴い、日常生活も軋み始めます。日常生活に傾いて気晴らしが少なくなれば、日常生活の緊張が膨らみ暴発します。遊びに傾いて気晴らしが多くなれば、怠惰に陥って日常生活がおろそかになります。
日常生活と遊びの適切な場合分けが崩れ、日常生活と遊びが融解するときも、遊びの堕落が始まります。それに伴い、日常生活も歪み始めます。日常生活と遊びの境目が曖昧になり、巫山戯た真面目さが横行し出します。権力誇示のためのマスゲームや、金のために手段を選ばないスポーツ行為、賭博や酩酊などが挙げられます。
日常生活と遊びが、孤絶することなく融解することなく、調和を保つためには、遊びに聖なる感覚が必要になります。神や仏などの聖性が想定されることで、遊びは日常生活と調和を保つに至るのです。聖性を帯びた遊びとして、冠婚葬祭が挙げられます。日常生活とは異なり、聖性を帯びた遊びである冠婚葬祭が行われることで、人生は充実し、世の中はうまく廻るのです。
つまり、聖性を帯びた遊びは、俗の次元にある日常生活に恵みをもたらすのです。遊びから聖なる感覚が失われるとき、真剣な遊びは、堕落した遊びとなってしまいます。では遊びが聖性を得るには、どうしたらよいのでしょうか。
その答えに近づくには、音楽を考えてみるのが良いように思えます。日本では、八雲の道に遊ぶことが歌を詠うことを意味するように、遊びと音楽は密接に関連し合っているからです。
二条良基(1320?1388)の『筑波問答』には、〈おほかた、過去現在の諸仏も、歌を唱へ給はずといふことなし。あらゆる神仏、いにしへの聖たちも、歌にて多く群類をみちびき給へば、今さら申すに及ばず〉とあります。神仏も聖も、歌にて生命あるものを導くというのです。
音楽や歌も遊びと同様に、日常生活と独立した場所で奏でられることもあり、日常生活に入り込んで協力関係を築くこともあります。それらが適切に行われると、人生や世の中に彩りを添えてくれます。音楽がそうであるように、遊びにも調子と調和が重要です。音楽がそうであるように、遊びにも美しさが必要です。遊びにおいても音楽と同様に、調子や調和や美しさを求めることで、聖性に近づくことができるように思えるのです。
そして、聖なる遊びと俗なる日常生活が巡ることで、調和に至り、誠が生まれるのです。
誠の例として、俳諧における風雅の誠を挙げることができます。
服部土芳(1657?1730)の『三冊子』には、〈「高く心を悟りて、俗に帰るべし」との教なり。「つねに風雅の誠を責め悟りて、今なす所、俳諧にかへるべし」といへるなり〉とあります。心を高く持って俗世間へ帰るべきだという松尾芭蕉(1644?1694)の教えがあり、今なすべきこととして、風雅の誠において俳諧に帰るべきことが示されています。俗世間と俳諧への循環が、高き心による風雅の誠に至り、繰り返されているのです。
聖なる遊びと俗なる日常生活が、表側では独立し、裏側では関連し、その循環において秩序を保ち調和に至り、誠が生まれるのです。その結果として、日本人の心には誠が刻まれているのです。
最後に短歌を二つ。
神遊び、仏遊んで、人遊び 遊び遊んで 遊べや遊べ
神遊び、仏遊んで、人遊び 真事に遊び 真言に遊べ  
 
第九章 恥と罪  

 

恥は何々すべしに関係が深く、罪は何々することなかれに深く関わります。日本人は、あるべき様から外れたと思うとき恥を感じます。禁じられたことを犯してしまったと思うとき罪の意識が芽生えます。  
第一節 日本の恥
恥とは、あるべき様から外れていることや、名誉から離れていることです。そのような状態に陥ったとき、人は恥ずかしいと感じるのです。そのため、恥を知る人は、義や名誉を重んじます。大和言葉の「はづ」の「は」は、葉・歯・端などの本体から外れてはみ出した端のことです。「はづ」とは、そのはみ出すという動詞です。つまり、「恥づ」とは、何らかの本体から外れてはみ出していること、本来あるべき姿から外れていることを意味するのです。そのため、恥を感じているとき、人は負い目や疚しさの意識を持つのです。
第一節一項 世俗の恥
日本人は、恥について大いに考え語っています。
紫式部(973頃〜1014頃)の『源氏物語』[若紫]には、〈いと恥づかしげに、気高ううつくしげなる御かたちなり〉とあります。こちらが負けて目をそらしてしまいそうなほど、上品で美しい器量だというのです。
『十訓抄(1252)』には、〈わが身はたくはへ持ちながら、銭をほしがり〉という人に対し、〈かくのごとくの人、形は人間にありといへども、心さきだて、餓鬼の因を結びおくものなり。かへすがへすも恥づべし、恥づべし〉と評されています。金に意地汚い人のことが、人間の形をしているが餓鬼道に堕ちているくらい恥知らずだというのです。
吉田兼好(1283頃〜1352頃)の『徒然草』[第百七段]には、〈山階左大臣殿は、「あやしの下女の見奉るも、いと恥づかしく、心づかひせらるる」とこそ、仰せられけれ。女のなき世なりせば、衣文も冠も、いかにもあれ、ひきつくろふ人も侍らじ〉とあります。卑しい女の視線でも気恥ずかしく感じるというのです。女のいない世なら、服装の作法がどうであれ、身なりを気にする人はいないだろうと語られています。[第百七十二段]には、〈若き時は〉という条件付きで、〈美麗を好みて宝をつひやし、これを捨てて苔の袂にやつれ、勇める心盛りにして、物と争ひ、心に恥ぢうらやみ、好む所日々に定まらず〉とあります。若いときは綺麗なものに金を注ぎ込んだり、それを捨てて貧乏になったり、衝動的に人と争ったり、内心で恥じたり羨んだりして、心の赴くところが日々変化すると語られています。
『閑吟集(1518)』には、〈忍ぶれど色に出でにけりわが恋は 色に出でにけりわが恋は ものや思ふと人の問ふまで 恥づかしの漏りける袖の涙かな げにや恋すてふ わが名はまだき立ちけりと 人知れざりし心まで 思ひ知られて恥づかしや 思ひ知られて恥づかしや〉とあります。じっと堪えた自身の恋が顔色に出てしまい、人に知られて恥ずかしいというのです。
茶人である千宗旦(1578〜1658)の『宗旦伝授聞書』には、〈愚者千人に讃られんより、数寄者一人に笑はれん事を恥づべし〉とあります。たくさんの人に褒め称えられることよりも、たった一人でも数寄を解する人に笑われないように恥を知っておくべきだというのです。
中江藤樹(1608〜1648)の『孝経啓蒙』には、〈「治」は、民、恥ぢ格つてしかうして乱れざるを謂ふ。「厳ならずしてしかうして治る」とは、上令し、下従ひて、威猛を用ひずしてしかうして治るを言ふ〉とあります。民が恥を知れば、治世は乱れないというのです。『論語』[為政篇]の、〈これを道びくに政をもってし、これを斉うるに刑をもってすれば、民免れて恥なし。これを道びくに徳をもってし、これを斉うるに礼をもってすれば、恥あり、かつ格し〉という文章からの影響が見られます。
熊沢蕃山(1619〜1691)の『集義和書』には、〈人々悪を恥善を好むの良心あればなり〉とあります。その上で、〈己が心に恥てひとりしるところを慎みなば、いづれの時にか、不善をなし不義をなさんや〉とあります。自分の心に恥じて自分しか知らないことについてでも自重するようになるなら、いつ何時も義や善でいられるというのです。
井原西鶴(1642〜1693)の『好色一代女』には、〈世に長生きの、恥なれや、浅ましやと〉あります。長生きに執着することが恥だと考えられています。
西川如見(1648〜1724)の『町人嚢』には、〈道徳の人といへるを見るに、おのが身躰の穢はしきをもうちあらはして全恥る心なきを殊勝の儀なりとす。凡俗の人はいまだ情欲を離るゝ事なきゆへ、耻るこゝろを脱がれずと称す〉とあります。道徳ある人というのは、自身の身体上の欠点を公言して恥ない人だというのです。
近松門左衛門(1653〜1724)の『国性爺合戦』には、〈日本生れは愛に溺れ義を知らぬと、他国に悪名とどめんは日本の恥ならずや〉とあります。日本人は、義を知らないと言われると恥を感じるというのです。つまり、義を気にかけて生きているのが日本人だということです。
室鳩巣(1658〜1734)の『書簡』には、〈然れどもまさに人、天地の間に生れ、この義理の心あるを以て、禽獣に異なるを思ふべし。今ただ一身の利害を知るのみにして、義理あるを知らざるは、これ禽獣なり。他人、禽獣を以て己を辱かしむれば、必ず怒る。安んぞ禽獣を以て自ら居りて、恬として恥ぢざるものあらんや〉とあります。義理の心があるから、人間は獣と違うというのです。獣と同じと言われ、恥を感じぬ人などいないと語られています。
林子平(1738?1793)の『学則』には、〈恥は辱を知りて手前勝手を致さざる事なり〉とあります。恥は、自身の勝手を抑えることに関わるのです。
佐藤一斎(1772〜1859)の『言志四録』[言志録]には、〈是に於いて我が為したる所を以て、諸を古人に校(くら)ぶれば、比数するに足る者無し。是れ則ち愧ず可し。故に志有る者は、要は当に古今第一等の人物を以て自ら期すべし〉とあります。自身を昔の人と比べると、自分は古人とは比べものにならないと恥じるばかりだというのです。そのため、志のある者は、古今を通じて一人前の人物になるべく自ら前もって決心すべきだと語られています。
[言志晩録]には、〈我が言語は、吾が耳自ら聴く可し。我が挙動は、吾が目自ら視る可し。視聴既に心に愧じざれば、則ち人も亦必ず服せん〉とあります。自分の言葉は自身の耳で聴き、自分の行動は自身の目で視るのがよいとされています。そうして心に恥じるところがなければ、他人も自分に心服するようになると語られています。また、〈人は恥無かる可からず。又悔無かる可からず。悔を知れば則ち悔無く、恥を知れば則ち恥無し〉ともあります。『孟子』[尽心章]の、〈人は以って恥なかるべからず。恥なきことをこれ恥ずれば、恥なからん〉という文章の影響が見られます。人間は恥を知り、悔い改めるということがなければならないというのです。悔い改めることを知っておけば、悔い改めることが無くなり、恥を知っておけば、恥じ入ることは無くなるというのです。
[言志耋録]には、〈立志の工夫は須らく羞悪念頭より跟脚を起すべし。恥ず可からざるを恥ずること勿れ。恥ず可きを恥じざること勿れ〉とあります。志を立てるには、まず悪を羞じるところからだというのです。恥じなくてよいことを恥じる必要はありませんが、恥じなければならないことを恥じないようではいけないと語られています。
『百姓分量記』には、〈人に具る理は、恥をしり悪を憎を形とす〉とあります。人間に備わっている理性は、恥を知ることと悪を憎むことだというのです。〈小義理をさへ届ぬは恥とおもへり〉とあり、〈考へて重き恥を思ふべきにや〉とあり、〈人の善を見ては我あしきを恥〉とあります。他人や自分の義や善を省みて、恥をおもうべきことが語られています。
第一節二項 仏教の恥
仏教においても、恥が示されています。
鴨長明(1155〜1216)の『発心集』には、〈仏天の知見こそ、いと恥づかしく侍れ〉とあります。仏や神に姿を見られていると思うと、とても恥ずかしくなるというのです。
明恵(1173〜1232)の『梅尾明恵上人遺訓』には、〈人は常に、浄頗離の鏡に日夜の振舞ひのうつる事を思ふべし。是は陰れたる所なれば、是は心中に窃に思へば、人知らじと思ふべからず。曇り陰れなく彼の鏡にうつる、恥がましき事なり〉とあります。浄頗離の鏡とは、閻魔丁の法廷にある死者の生前の罪業を映し出す鏡のことです。その鏡を意識し、人に隠れたところでも自身の心に照らして、人に見られていなければ良いなどと思ってはならないというのです。そのような恥知らずな振るまいは、鏡に映りこみ恥となると考えられています。
道元(1200〜1253)の『正法眼蔵』[行持(下)]には、〈正法にあふ今日のわれらをねがふべし、正法にあうて身命をすてざるわれらを慚愧せん。はづべくば、この道理をはづべきなり〉とあります。正法に出会えた我々のことを、じっと考えてみようというのです。正法に遇いながら、身命を捨てないなら恥ずかしいことだと考えられています。恥を知る者なら、この道理を恥じなければならないと語られています。
『正法眼蔵随聞記』には、〈ひとしく人の見る時と同く、蔵すべき処をも隠し、慚ずべき処をも、はづる也。仏法の中にも、又、戒律是の如し〉とあります。他人が見ているときと同じように、隠すべきところは隠し、恥ずべきところは恥じるべきだというのです。それは仏法の戒律でも同じだと考えられています。
鈴木正三(1579〜1655)の『盲安杖』には、〈心に心を恥じる〉とあり、〈心を敵にしてひとりつゝしめ。心中のあやまり、人はしらねども、我慥に是をしる。心をすまして是をおもへ。余所の人は我にしられん事をはづ。去ば我なんぞ我に恥ざらんや〉とあります。人に知られて恥ずかしく思うように、自分自身に恥じるべきことが語られています。
第一節三項 武士の恥
日本人の中でも、とりわけ武士は名を重んじ、恥を知りすぎるほどに知っています。
『将門記(940)』では、〈現在に生きて恥有らば、死後に誉れなし〉とあり、名が恥と関連付けられて捉えられています。
『陸奥話記(1062)』には、〈故をもて免るることを得たり。武き士猶しもて恥と為せり〉とあります。理屈をつけて責任から逃れることを、武士は恥としたというのです。
『平治物語(1159)』には、〈弓矢取る身は、敵に恥を与へじと互ひに思ふこそ、本意なれ〉とあります。武士は、お互いに相手に恥をかかせないようにするというのです。
『平家物語』には、〈恥ある者は打死し、つれなき者はおちぞゆく〉とあります。恥を知る者は戦って死に、恥をかくことに何も感じない者は落ち延びたと語られています。
『太平記』[巻第九]には、〈弓矢取りの死ぬべき所にて死なねば恥をみる、と申し習はしたるは、理にて候ひけり〉とあります。武士が死ぬべき所で死なないのは恥ずかしいことだというのです。[巻第三十]には、〈弓矢の道は二心あるを以て恥とするところなり〉とあります。武士道では、二心を抱くことが恥だとされています。[巻第三十四]には、〈軍の習ひ、負くるは常の事なり。ただ戦ふべきところを戦はずして、身を慎むを以て恥とす〉とあります。合戦において負けるのは常ですが、戦うべきところで戦わず、命を優先することは恥だと語られています。
『甲陽軍艦』には、〈とてもの儀に、慢気なくして、年増をばうやまい、年おとりを引きたて、同年をば、たがひにうちとけ、其中によく近づく人のたらぬ事ある共、よく異見を仕り、惣別人も我もよきやうにと存知、少しもへつらふたる儀いでば、心に心を恥る人は、何に付けても、大きにほめたる事なりといふて云々〉とあります。周りに気を使い、誰とでも仲良くなるような人なら、心に心を恥じる人は大いに誉めるだろうと語られています。
大久保彦左衛門(1560〜1639)の『三河物語(1622)』には、〈瀬名殿御情を忘れ申て落行く物ならバ、我が身の恥ハさておきぬ、国の恥をかき申間敷〉とあります。ここでの国は三河を指し、国の恥は徳川家の恥を指しています。
大道寺友山(1639〜1730)の『武道初心集』には、〈義を行ふと申に付て三段の様子〉として、〈誠によく義を行ふ人〉、〈心に恥て義を行ふ人〉、〈人を恥て義を行ふ人〉の順で述べられています。誠に義を行う人を最上にし、その次に恥じることができる人が続いています。恥じることができる人に対しても、二つに分類されており、上位の恥を己の心に恥じることとし、下位の恥を他人に恥じることとしています。
近松門左衛門(1653〜1724)の『丹波与作待夜の小室節』には、〈主君の恩を報ぜぬは侍たる身の大恥と知らざるか〉とあります。また、〈犬畜生といはれふが我が身の恥を振捨て。厚恩の主君に忠節を励むこそ。恥を知つたる侍大丈夫の武士の。生粋と云ふ物ぞ〉ともあります。恩に報えないことは、武士の恥だというのです。
山本常朝(1659〜1719)の『葉隠』には、〈図に迦れて死たらば、気違にて恥には成らず〉とあります。立派な振舞い方からはずれて死んでも、恥にはならないというのです。そのため、〈命を捨るが衆道の至極也。さなければ恥に成也〉とも語られています。死ぬべきときに死ねねば、恥になるというのです。
広瀬淡窓(1782〜1856)の『迂言』には、〈「恥ヲ知」ハ聖人ノ教ニシテ、武門ニテハ尤モ重ズル所ナリ〉とあり、恥か否かの具体例がいくつも語られています。その基準は、〈凡ソ人ニ笑ルルハ、恥辱ト立ルハ俗人ノ見ナリ。唯智者ニ笑ハレヌ様ニ心ガクベシ。愚者ニ笑レタチトテ少モ恥ベキ事ニアラズ〉と示されています。人に笑われるのを恥とするのは俗に過ぎることで、知者に笑われないように心がけることが肝心だと説かれています。愚か者に笑われたところで少しも恥ではないというのです。
藤田東湖(1805〜1855)の『壬辰封事』には、〈畢竟変難ノ場ニ踏カカリ、忠節ヲ尽シ、死生ヲ事トモセザルノ士ハ、太平ノ世ニ在テハ、道義ヲ重ンジ、利禄ヲ軽ンジ、心ニ恥ルコトヲ行ハザルノ人ナリ〉とあります。結局のところ、緊急事態に忠節を重んじて命を顧みずに働く武士は、太平の世でも義を重く利を軽く見ることができ、心に恥じることのできる人だというのです。
吉田松陰(1830〜1859)の『講孟余話』には、〈大丈夫自立の処なかるべからず。人に倚つて貴く、人に倚つて賤きは大丈夫の深く恥るところ〉とあります。人によって態度を変えるのは、一人前の男として恥ずべきことだというのです。
橋本左内(1834〜1859)の『啓発録』には、〈道徳ハ初ノ心ニ慚(はず)ル様ニ成行モノニテ候〉とあります。道徳は、心に恥を覚えるようになってからだというのです。  
第二節 日本の罪
罪とは、規範や法律に背くなど、禁止事項を犯すことです。罪に対しては、罰が与えられます。罰は、懲らしめ、仕置き、咎めなどのことです。日本での罰は、人間間においては「ばつ」として、神仏の次元では「ばち」として捉えられています。中国の古典を参照すると、『墨子』には〈罪とは禁を犯すなり〉とあり、『説文解字』には〈罪とは法を犯すなり〉とあります。
第二節一項 神話の罪
日本神話においては、特殊な罪が示されています。
『万葉集』[巻第四]には、〈味酒を三輪の祝がいはふ杉手触れし罪か君に逢ひがたき〉とあります。神聖な杉に手を触れたため、その罪によって愛しい人に逢いがたくなったというのです。神による罰(ばち)が暗示されています。
『延喜式(成立927、施行967)』には罪の記述として、〈安國と平らけく知ろしめさむ國中に、成り出でむ天の?人等が過ち犯しけむ雜雜の罪事は、天つ罪と、畔放・溝埋・樋放・頻蒔・串刺・生剥・逆剥・屎戸・許多の罪を天つ罪と法り別けて、國つ罪と、生膚断・死膚断・白人・こくみ・おのが母犯せる罪・おのが子犯せる罪・母と子と犯せる罪・子と母と犯せる罪・畜犯せる罪・昆虫の災・高つ?の炎・畜仆し蠱物する罪、許多の罪出でむ〉とあります。天つ罪は、他人の耕作地を犯す罪や、まつりの行事などを妨害する罪を指しています。国つ罪は、性的なタブー(禁忌)を犯す罪や膚を傷つけたり・皮膚病あるいは虫・雷・鳥などによる災禍を指しています。解釈は諸説ありますが、天津罪は共同体に関わる犯罪であり、国津罪は個人に関わる犯罪だとされています。
本居宣長(1730〜1801)の『古事記伝』には、〈罪とは必ずしも悪行(あしきわざ)に非ず、穢(けがれ)又禍(わざわい)など心とするには非で自然(おのずから)にある事にても凡て厭い悪(にく)むべき凶事(あしきこと)をば、皆都美(つみ)と云うなり〉とあります。神話の時代においては、禍々しい出来事に罪という言葉が用いられた事例が見られます。
第二節二項 法令の罪
日本の法制度における法令において、何々することなかれという禁止が示されています。禁止を犯すと罪になり罰せられます。罪について、直接言及されている場合もあります。
例えば『十七条憲法』[第四条]には、〈礼をもって本(もと)とせよ〉という規範が示された上で、〈上、礼なきときは、下(しも)、斉(ととのお)らず、下、礼なきときは、かならず罪あり〉と規定されています。礼が無いことは罪だとされているのです。[第十一条]には、〈功過(こうか)を明らかに察(み)て、賞罰かならず当てよ〉とあります。功績には賞賛を、罪過には罰を適切に行うべきことが語られています。
古代国家の基本法である『律令』では、唐律・日本律ともに、犯罪と刑罰の区別は明確ではありませんでした。犯した罪の軽重を、加えるべき計の軽重によって表現することがしばしば行われています。日本の五罪は、苔(ち)・杖(じょう)・徒(ず)・流(る)・死(し)の五つです。苔(ち)は苔(むち)で臀を打ち、杖は杖で臀を打つ体罰刑でした。徒は懲役刑で、流は流罪、死は死刑です。
『御成敗式目(貞永式目)』は、貞永元年(1232)に制定された鎌倉幕府の基本法典です。[第四条]には、〈守護人、事の由を申さず、罪科の跡を没収する事〉について定められています。〈恣(ほしいまゝ)に罪科の跡と称して私に没収せしむるの条、理不尽の沙汰甚だ自由の奸謀なり〉とあり、〈なほ以て違犯する者は罪科に処せらるべし〉とあります。罪人の所有物を勝手に没収することが戒められ、それが過ぎると罪となることが示されています。[第十条]には、〈殺害刃傷罪科事〉について定められています。例えば、〈不慮の外にもし殺害を犯す者は、その身死罪に行はれ、ならびに流刑に処せられ〉とあります。過失でなく殺害の罪を犯した者は、死罪もしくは流刑に処せられるというのです。
『武家諸法度』は、元和元年(1615)徳川家康の命により2代将軍秀忠のときに発布された、江戸幕府が諸大名を統制するために制定した法令です。その後、必要に応じて改訂されています。禁止事項が定められていて、例えば〈新規ノ城郭構営ハ堅クコレヲ禁止ス〉とあり、新たに築城することが禁止されています。また、〈新儀ヲ企テ徒党ヲ結ビ誓約ヲ成スノ儀、制禁ノ事〉とあり、謀反を企て、徒党を組んで誓約を交わすことを禁止しています。他には、〈諸国主ナラビニ領主等私ノ諍論致スベカラズ〉とあり、諸国の藩主や領主の私闘が禁じられています。〈私ノ関所・新法ノ津留メ制禁ノ事〉という事項もあり、私的な関所を作ったり、新法を制定して港の流通を止めてはならないことが定められています。
第二節三項 世俗の罪
日本人は、恥ほど多くはありませんが、罪についても大いに考え語っています。
鴨長明(1155〜1216)の『発心集』には、〈この罪の深しといふ、何ぞ。みな、我が身を思ひし故なり〉とあります。我が身をいとおしく思うために、罪深いというのです。
『十訓抄(1252)』には、〈また人に一度の咎あればとて、重き罪を行ふこと、よく思慮あるべし〉とあります。一度の過失で重罰を科すことは、よく考えなければならないというのです。他にも、〈よろづの罪を失ふ法とせり。一切の罪をおかすこと、ものにしのびえぬが、いたすところなり〉とあります。罪を犯すことは、すべて何事かを耐え忍べなかったことから始まるというのです。
大久保彦左衛門(1560〜1639)の『三河物語(1622)』では、〈二罪〉という言葉が出てきます。二罪とは、二重の罪であり、一揆加担の罪と和議を破った罪のことです。経典では性罪(しょうざい)と遮罪(しゃざい)を二罪と言います。性罪は盗殺等の仏制を持たない本来の罪悪をいい、遮罪は五逆罪・七逆罪等の仏制による罪悪を言います。五逆罪は、父を殺し、母を殺し、阿羅漢を殺し、仏身より血を出し、和合僧を破る罪を言います。それに、和尚を殺し、阿闍梨を殺す二罪を加えて七逆罪となります。
熊沢蕃山(1619〜1691)の『集義和書』では、法と罰の関係について、〈法度出来て後は、これをいむなり。法をおかすは不義なれば、これを罰するものなり。いはんや、日本の水土によりて立られたる神道の法なれば、をかしては神罰有べく候。神道の本は義理なれば、義理有てはくるしからじ。ただに欲するにまかせてやぶるべからず〉とあります。法度は禁制のことで、義理は人間として当然なすべき務めのことです。法を犯すことは、当然なすべき務めに背いているため、罰せられるというのです。神道の法に背くなら、神罰が下ると考えられています。
石田梅岩(1685〜1744)の『都鄙問答』には、〈?(タノ)ム人ハ下ナリ。?(タノマ)ルヽ者ハ上ナリ。?ム者モ?ルヽ者モ罪アリ。然レドモ七分ノ罪ハ上ニアリ、三分ノ罪ハ下ニアリ〉とあり、〈上ノ?潔ヲ法トスルハ古ヨリノ道ナリ〉とあります。罪がある場合、頼む下の人が三割で、頼まれる上の人が七割であるため、上の人には精神の清潔さが必要だというのです。
徳川宗春(1696〜1764)の『温知政要』には、〈万の法度号令年々に多くなるに随ひ、おのづから背く者も多く出来て、弥(いよいよ)法令繁煩はしき事に成たり〉とあります。法が多くなるにつれ、法に背く者も多くなるため、法が煩雑なのはよくないとされています。
佐藤一斎(1772〜1859)の『言志四録』[言志後録]には、〈一罪科を処するにも、亦智・仁・勇有り。公以て愛憎を忘れ、識以て情偽を尽くし、断以て軽重を決す。識は智なり。公は仁なり。断は勇なり〉とあります。罪を裁くには、智仁勇の三徳が必要だというのです。  
第三節 日本の恥と罪
日本の恥と罪は、相互に関係し合っています。
日本では、あるべき様へと向かいながらも、そこから外れたときに恥が生まれます。禁じられたことを犯してしまったときに罪が生まれます。また、恥のあるべき様が何であるかによって、恥は多彩に変化します。あるべき様が善や正しさについてであれば、恥は「きまりが悪い」や「ばつが悪い」、あるいは「間が悪い」としてあらわれます。あるべき様が美についてであれば、「みっともない」や「かっこう悪い」、「はしたない」としてあらわれてきます。
第三節一項 恥と罪の内面と外面
日本人の恥と罪には、内面におけるものと外面におけるものがあります。
自分には、自分がこうありたいと思うあり様があります。また、世の中が自分に要求してくるあるべき様があります。同様に、自分が自身に課した禁則があり、世の中が個人に課している禁止があります。ですから、恥も罪も、自己の内面と外面の両方に作用するのです。
恥の二面については、法相宗の良遍(1194〜1252)や、石門心学の柴田鳩翁(1783〜1839)の見解が参考になります。
良遍の『法相二巻抄』には、〈慚ノ心所ハ、身ニモ恥ヂ法ニモ恥ヂ、モロモロノ罪ヲ作ラザル心也。愧ノ心所ハ、世間ニ恥テ諸罪ヲ作ラザル心也〉とあります。慚は、梵語「hri.」であり、自己の行為を反省し恥じる心であり、その恥によって罪を作らないようにする心です。愧は、梵語「apatrapya.」であり、世間に対して恥じる心であり、その恥によって罪を作らないようにする心です。
柴田鳩翁の『鳩翁道話』には、〈なるほどよう人は恥を知ったものじゃ。そのはずでござります、「羞悪ノ心ハ義ノ端」と申して恥を知るが人の生れつき、然しながらその恥を知るに二様ござりまして、姿の恥を知って心の恥をしらぬ人がござります。これはきついご了簡ちがいじゃ、心ほど大切なものはござりませぬ〉とあります。「羞悪ノ心ハ義ノ端」は、『孟子』[公孫丑章]にある言葉です。人に姿を見られることによって沸き起こる恥と、自身の心に照らして起こる恥を区別しています。もちろん、心の恥の方が重要視されています。
罪の二面については、貝原益軒(1630〜1714)の見解が参考になります。
貝原益軒の『五常訓』では、〈法ヲタテ、罪アルヲ刑シテイマシムルハ、義也〉と語られています。法律に則り、罪に応じた刑罰を科すのが正しいというのです。同じく益軒の『大和俗訓』では、〈偽としりて、わが心をあざむくは罪ふかし〉とあり、自己の内面の罪について語られています。
江戸の刑法では、この外面の罪に内面の罪が考慮されていました。そのため、罪が故意であるか否かで罰則に差がつけられていたのです。故意の犯罪の場合では、功を以て犯した罪(計画的犯罪)と、そうではない当座の罪(出来心の犯罪)が区別され、前者が後者より重く罰せられていました。
第三節二項 恥と罪の内外差
恥も罪も、その内面と外面が一致している箇所もあれば、異なっている箇所もあります。そのズレによって、恥や罪は多彩な色合いを帯びます。
例えば、恥において自己の評価と世の中の評価にズレが生じる場合があります。自己の評価が低く、世の中の評価が高い場合は、その恥は「照れくさい」や「面映い」としてあらわれてきます。逆の場合、その向きはともかく、その恥は「悔しい」など、世の中へ働きかけるための起爆剤となります。
罪においても、自己の意識と世の中の意識にズレが生じる場合があります。法律を犯しても罪の意識を感じないことがあります。逆に、法律に違反していなくても罪の意識を感じることもあります。
第三節三項 恥と罪の交差
緊急事態には、恥と罪が交差することがありえます。
『平家物語』[紅葉]には、〈今の代の民は、朕が心をも(ッ)て心とするがゆゑにかだましき者朝にあ(ッ)て、罪ををかす。是わが恥にあらずや〉とあります。今の世の民は、私の心をもって自分たちの心としているので、心の曲がった者が居て罪を犯すのは、私自身の恥だというのです。罪を少なくすべしという世の中のあり方から外れているため、為政者として恥を感じていることが分かります。
[瀬尾最期]では、妹尾兼康(1123〜1183)の自害が語られています。兼康は、〈同隷ども、『兼康いまは六十にあまりたる者の、幾程の命を惜しうでただひとりある子を捨てておちけるやらん』といはれむ事こそ恥づかしけれ〉と述べています。同輩に、六十を越えてまで命を惜しみ、一人息子を見捨てて落ち延びたと言われるのは恥ずかしいというのです。そこで、息子の小太郎のところへ引き返します。父の姿を見た小太郎は、〈我ゆゑに御命をうしなひ参らせむ事、五逆罪にや候はんずらむ。ただとうとうのびさせ給へ〉と述べています。私のために命を失わせることは、五逆罪となるため、速やかに落ち延びてくださいと頼んでいます。それでも兼康は、〈思ひき(ッ)たるうへは〉と述べ、覚悟を決めた上は決意は変わらないことを諭しています。五逆罪とは、仏教における最も重い五つの罪悪のことです。父を殺すこと、母を殺すこと、阿羅漢を殺すこと、仏身を傷つけること、僧の集団をそこなうことを指しています。兼康が、罪よりも恥によって行動していることが分かります。緊急事態においては、平時には禁止されていたことを、敢えて為さなければならないことがあるのです。その為すべきことを為さないのは恥です。それ故、為すべきことを為し、結果として平時に形成された罪に触れてしまうのです。
吉田松陰(1830〜1859)の『書簡(嘉永四年)』にも、〈自余尋常の問聞は、寧ろ罪を獲とも断じて為さじ。知らず道の権に於て何如〉とあります。道の権とは、文通の道における臨機適宜の態度のことです。只ならぬ事態においては、臨機応変に対処し、たとえ罪となろうと、為すべきことを為すことが示されています。
平時と戦時(緊急事態)では、恥と罪の関係が変化することがありえるのです。
平時では、規範は禁止の枠内にあります。平時では、恥の意識によって行動しても罪になることはありません。しかし戦時では、規範が禁止の外に出てしまうことがあるのです。そのとき恥の意識によって行動すると、罪を犯すことになります。気高い者は、緊急事態には、あえて罪を犯して為すべきことを為すのです。
第三節四項 「恥と罪の体系」対「義務と権利の体系」
恥と罪の相互作用において、「恥と罪の体系」が想定されます。また、「恥と罪の体系」とは別に、西洋由来の「義務と権利の体系」があります。
「恥と罪の体系」とは、かなり簡単に言ってしまえば、「何々すべし」と「何々することなかれ」を軸として組み合わせた体系のことです。「何々することなかれ」は、裏返せば「何々せよ」という強制になり、これは「義務と権利の体系」では義務と呼ばれています。強制(義務)は、禁止と表裏の関係にあります。禁止の枠内は、「何々してもよい」であり、許容された範囲となります。「何々してもよい」という考え方は、「何々することなかれ」や「何々せよ」を融解させていきます。具体的には、江戸時代末期の「ええじゃないか」などが挙げられます。しかし、「何々すべし」があることによって、「何々することなかれ」や「何々せよ」を築くことができます。それらの相互作用によって、「恥と罪の体系」はうまく廻っていくのです。
例えば、平時においては、「何々することなかれ」の枠内の内実が「何々すべし」で試行錯誤されます。戦時においては、「何々すべし」が「何々することなかれ」を必要に応じて破ります。様々な状況において、「何々すべし」、「何々することなかれ」、「何々せよ」、「何々してもよい」のそれぞれが相互に関係し合って、「恥と罪の体系」は調和を保つのです。
「義務と権利の体系」は、「何々することなかれ」を軸にした体系です。「何々することなかれ」の枠内の内実は問われずに、権利や自由として掲げられます。権利や自由は、「何々してもよい」として賞賛されます。「何々することなかれ」を裏返した「何々せよ」は義務として機能します。最低限と思われることが義務として課され、それ以外は「何々してもよい」とされるのが、「義務と権利の体系」なのです。
そこでは、権利意識が義務や禁止を溶解させます。そのため、義務は権利より勝るということを徹底させるか、強い宗教意識などの隠れた規範が内在していなければなりません。それらが崩れると、「義務と権利の体系」は混乱に陥ります。
「何々してもよい」という権利意識は、法に違反しなければ何をしても良いと考え出します。このように考える人たちが一定数を超えれば、もうほとんど手遅れです。しかも、さらに悪いことに、法に違反してもバレなければ良いという考えに行き着くのも時間の問題です。さらに、法自体を公正の観点ではなく、欲望の観点から一部に都合よく変えてゆくことすら平然と起こります。「義務と権利の体系」において、この堕落に陥らないことは非常に困難です。
第三節五項 恥と罪の体系へ
日本は本来「義務と権利の体系」ではなく、「恥と罪の体系」によって治められていた国でした。
例えば『十七条憲法』[第一条]では、〈和をもって貴(とうと)し〉の規範があり、〈忤(さから)うことなきを宗(むね)とせよ〉という禁止があります。和を乱したり、逆らったりしたら罪となるのです。和を尊重しながらも、うまく場の和を治められなければ、恥を覚えます。
『武家諸法度』には、〈文武弓馬ノ道、専ラ相嗜ムベキ事〉とあるように、何々すべきことが示されています。強制(義務)に当たるものとしては、〈大名・小名在江戸交替相定ムル所ナリ。毎歳夏四月中、参勤致スベシ〉とあり、参勤交代が挙げられます。その条件として、〈国郡ノ費、且ハ人民ノ労ナリ。向後ソノ相応ヲ以テコレヲ減少スベシ〉とあり、人民の負担軽減すべきことが記されています。禁止については、〈新規ノ城郭構営ハ堅クコレヲ禁止ス〉などがあり、禁止事項もきちんと定められていることが分かります。
『御成敗式目(貞永式目)』にも、〈神社を修理し、祭祀を専らにすべき事〉や〈寺塔を修造し、仏事等を勤行すべき事〉のように、何々すべきことが示されています。同時に、〈謀叛人の事〉や〈殺害刃傷の事〉のように、罪と罰に関わることも示されています。
『五箇条の御誓文』は、慶応4年(1868)に明治天皇が宣布した明治新政府の基本政策です。〈広く会議を興し、万機公論に決すべし〉、〈上下(しゃうか)心を一にして、盛に経綸(けいりん)を行ふべし〉、〈官武一途庶民に至る迄、各其志を遂げ、人心をして倦(う)まざらしめん事を要す〉、〈旧来の陋習(ろうしふ)を破り、天地の公道に基くべし〉、〈智識を世界に求め、大に皇基を振起すべし〉の五箇条で構成されています。基本的に、何々すべしという規範が掲げられています。
しかし、西洋の「義務と権利の体系」の影響を受けた『大日本帝国憲法』には、「何々すべし」という規範が消えかけています。『大日本帝国憲法』は、明治22年(1889)に明治天皇によって公布され、翌年施行された欽定憲法です。規範は『五箇条の御誓文』で示されているので、相関関係にあるという見方も成り立つかもしれません。
[第一章 天皇]では、〈第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス〉とあります。実際の行為については、〈第4条 天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総覧シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ〉と規定されています。
[第二章 臣民権利義務]では、義務が示される一方で、権利は自由として示されています。まず、〈第18条 日本臣民タルノ要件ハ法律ノ定ムル所ニ依ル〉と定められています。その上で、義務については、〈第20条 日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ従ヒ兵役ノ義務ヲ有ス〉や、〈第21条 日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ従ヒ納税ノ義務ヲ有ス〉などが記されています。権利については、〈第22条 日本臣民は法律ノ範囲内ニオイテ居住及移転ノ自由ヲ有ス〉や、〈第29条 日本臣民ハ法律ノ範囲内ニオイテ言論著作印行集会及結社ノ自由ヲ有ス〉などが、自由として記されています。
「恥と罪の体系」では、平時においては禁止の枠内において何をすべきかが問われています。そこに名誉や恥が複雑に絡み合い、重荷を背負う人が讃えられます。日本では、禁止条項が人の世の情理に適っているため、罪に対する意識は恥に比べて希薄になっています。戦時では、恥の感覚により、禁止を破ってでも為すべきことを為し、緊急事態に対処できる可能性があります。
「義務と権利の体系」では、禁止の枠内において、堕落が始まります。重荷を誰もが嫌がり、自分以外に背負わせようとします。重荷を背負おうとしないことが称えられることすらあります。その堕落を防ぐための防波堤(強い義務意識や宗教感覚)が社会に残存している内はまだマシですが、それが崩れると、社会は混乱に陥ります。
「義務と権利の体系」に非常事態条項がある場合、戦時が想定されていて、緊急時に対処できる可能性があります。非常事態条項がない場合、戦時が想定されておらず、緊急時に対処できません。ちなみに現在の『日本国憲法』には、非常事態条項はありません。
日本は現在「義務と権利の体系」になってしまっていますが、「恥と罪の体系」の方が優れているのですから、「恥と罪の体系」へと戻るべきだと思うのです。
<備考>
西洋においては、アリストテレス(BC384〜BC322)の『ニコマコス倫理学』に、〈羞恥は「不面目に対する一種の恐怖」と定義〉されています。この定義は妥当であり、肯けます。しかし、西洋ではキリスト教の影響により、恥の感覚が罪の意識によって侵食され、不気味な様相を呈しています。キリスト教の罪は、人の世の罪ではなく、(人の誰かが定めた)神による罪であり、人の情から懸け離れたものだからです。人の世の情理を無視した禁止条項を設けた場合、罪の意識が不気味に肥大化していくのです。  
 
第十章 心  

 

心とは、世界そのものであり、世界において作用することです。世界の認識は、心によって可能となります。それゆえ、心そのものは一つの世界です。心は、身体を通じて世界と触れ合うため、心は身体との対比で捉えられるようになります。その心が、言葉を通じて他の心と交流することにより、心は世界の中の一つの作用であることを認めます。そこにおいて心は、自分の心と他人の心との対比において捉えられるようになります。心が思うことを通して、心を想えるようになるのです。  
第一節 心のあるべき様
日本人は、心のあるべき様を想います。その様には時代ごとに変遷が見られますが、一貫しているものも感じられます。
第一節一項 清明心
日本古代においては、神道による清明心が称えられています。
『日本書紀』には〈子々孫々、清明心を用(も)て天闕(みかど)に事(つかえ)奉(まつ)らむ〉とあり、『続日本紀』には〈明き浄き直き誠の心〉が示されています。日本人はそれぞれの時代において、心の曇りなく時代ごとの天皇と接し、清明心をもった臣民として天皇とつながるのです。このことは、日本では時代を通じて続いているのです。
吉田兼倶(1435〜1511)の『神道大意』には、〈天地に有ては神と云ひ、万物に有ては霊と云ひ、人倫に有ては心と云ふ、心は則神明の舎、混沌の宮也〉とあります。神と霊と心が一つのものとして捉えられているのです。
第一節二項 他力
仏教では、他力の心が説かれています。
法然(1133〜1212)の『浄土宗略抄』には、〈他力によらずば往生をとげがたきがゆえに、弥陀の本願の力をかりて、一向に名号をとなえよと、善導はすすめ給えるなり。自力というは、わが力をはげみて往生を求むるなり。他力というは、仏の力をたのみたてまつるなり〉とあります。自力と他力は、心構えの問題です。自力は我が力であり、他力は仏の力のことです。他力の「他」は阿弥陀如来を指し、「力」は本願力のことですから、他力は他人の助力という意味ではありません。
親鸞(1173〜1262)の『高僧和讃』には、〈信心すなはち一心なり 一心すなはち金剛心 金剛心は菩提心 この心すなはち他力なり〉とあります。信心は即ち天親のいう一心であり、一心は即ち善導の説く金剛心であり、金剛心は曇鸞の説く菩提心であり、この心は即ち他力の回向にほかならないというのです。『教行信証』には、〈他力と言ふは、如来の本願力なり〉とあります。
一遍(1239〜1289)の『一遍上人語録』には、〈本より真実といふは弥陀の名なり。されば至誠心を真実心といふは、他力の真実に帰する心なり〉とあります。誠に至る心や真実の心とは、他力の心のことだとされています。
日本の浄土信仰において、自身の力ではなく仏の力を頼む他力の思想が示されています。
第一節三項 正直
中世以降には、正直の心が称えられています。元は「正しく直(なお)き」と読まれていましたが、仏教の影響で「しょうじき」と読まれるようになりました。
北畠親房(1293〜1354)の『神皇正統記』には、〈鏡ハ一物ヲタクハヘズ。私ノ心ナクシテ、萬象ヲテラスニ是非善悪ノスガタアラハレズト云コトナシ。其スガタニシタガヒテ感應スルヲ徳トス。コレ正直ノ本源ナリ〉とあります。三種の神器のうちの鏡が、無私の心に対応するものとして語られています。その上で、〈オヨソ政道ト云コトハ所々ニシルシハベレド、正直慈悲ヲ本トシテ決断ノ力アルベキ也〉とあるように、正直慈悲が重要視されています。
天台宗の僧である慈遍(?〜?)の『豊葦原神風和記』には、〈宗廟ノ御本誓、正直清浄ヲ先トス〉とあります。
石田梅岩(1685〜1744)の『都鄙問答』には、〈商人ハ正直ニ思ハレ打解タルハ互ニ善者ト知ルベシ〉とあり、〈自然ノ正直ナクシテハ、人ト竝(ナラ)び立テ通用ナリ難シ〉とあります。商人は、正直によって他人と共に生きられるというのです。その上で、〈直ニ利ヲ取ハ商人ノ正直ナリ。利ヲ取ラザルハ商人ノ道ニアラズ〉とあります。利益を得ることは、商人の正直だというのです。梅岩は、〈我教ユル所ハ、商人ニ商人ノ道アルコトヲ教ユルナリ〉と、商人の利益を職分とする道を示し、〈上ノ?潔ヲ法トスルハ古ヨリノ道ナリ〉と、上に立つ人間の道も示します。その後に、〈何事モ?潔ノ鏡ニハ士(サムラヒ)ヲ法トスベシ〉と述べ、〈商人ノ道ト云トモ、何ゾ士農工ノ道ニ替ルコト有ランヤ〉と語っています。商人の利益を求める道も、他者に対する正直さにおいて、他の道と変わるところはないというのです。
沢庵(1573〜1645)の『不動智神妙録』には、〈一念発る所に善と悪との二つあり、其善悪二つの本を考へて、善をなし悪をせざれば、心自(おのずか)ら正直なり〉とあります。善悪において、善をなし悪をなさないのは正直だからだとされています。
日本の正直は、それぞれの立場における必要なものを通じて、それを無私で行うことで生まれます。例えば上の立場なら「清」であり、下の立場なら「利」などが挙げられます。
第一節四項 誠
近世以降には、誠の心が称えられています。
熊沢蕃山(1619〜1691)の『集義和書』には、〈誠を思ふは人の道なり。誠を思ふ心真実なれば、誠すなはち主となりて、思念をからずして存せり〉とあります。誠を思う心が本物ならば、意図せずとも自然と誠が出来るようになるというのです。
山鹿素行(1622〜1685)の『聖教要録』には、〈已むことを得ざる、これを誠と謂ふ。純一にして雑はらず、古今上下易ふべからざるなり〉とあります。自己の已むを得ざる自然に生きることが誠であり、純粋であり雑念がなく、そのあり方は歴史的立場的に変わりないというのです。
伊藤仁斎(1627〜1705)の『語孟字義』には、〈誠は、実なり〉とあり、〈誠の字、偽の字と対す〉とあります。〈いわゆる仁義礼智、いわゆる孝弟忠信、みな誠をもってこれが本とす〉と語られています。
貝原益軒(1630〜1714)の『大和俗訓』には、〈公にして私なければ、道理にかなひ、天意にかなひ人心にかなふ。故に、その心の誠おのづからあらはれて、人のほまれもよろこびもあつく、人のうたがひにくむことなく、もとめずして天道のめぐみも人の愛敬もこれあり〉と語られています。
荻生徂徠(1666〜1728)の『弁名』には、〈誠なる者は、中心より発して、思慮勉強を待たざる者を謂ふなり〉とあります。誠であれば、考えあぐねることなく、すっと正しいことができるというのです。
中沢道二(1725〜1803)の『道二翁道話』には、〈誠は人の心なり〉とあります。
二宮尊徳(1787〜1856)の言葉を集めた『二宮翁夜話』には、〈世の中に誠の大道は只一筋なり、神といひ儒と云仏といふ、皆同じく大道に入るべき入口の名なり、或は天台といひ真言といひ法華といひ禅と云も、同じく入口の小路の名なり〉とあります。世にある様々な思想も、それぞれのやり方で誠につながるというのです。
勝海舟(1823〜1899)の『氷川清話』には、〈男児世に処する、たゞ誠意正心をもつて現在に応ずるだけの事さ。あてにもならない後世の歴史が、狂といはうが、賊といはうが、そんな事は構ふものか。要するに、処世の秘訣は誠の一字だ〉と語られています。
西郷隆盛(1828〜1877)の『南洲翁遺訓』には、〈事大小となく、正道を踏み至誠を推し、一事の詐謀を用うべからず〉と語られています。
吉田松陰が死の間際にしたためた書簡には、〈吾れの将に去らんとするや、子遠吾れに贈るに死の字を以てす。吾れ之れに復するに誠の字を以てす〉とあります。入江杉蔵(子遠)が師である松陰に死の字を贈ったときに、松陰はそれに誠の字をもって応えたのです。日本人は、死を覚悟することで、誠に向き合うのです。
第一節五項 真心
国学では、真心が説かれています。
賀茂真淵(1697〜1769)の『国意考』には、〈唐国の学びは、其始人の心もて、作れるものなれば、けたにたばかり有て、心得安し。我すべら御国の、古への道は、天地のまにまに丸く平らかにして、人の心詞に、いひつくしがたければ、後の人、知えがたし〉とあります。唐国の心は理屈っぽくて理解しやすいのに対し、日本の古の心は穏やかで言葉で説明し尽くせずに捉えにくいというのです。
この古の日本の心に対し、本居宣長(1730〜1801)は明瞭に答えています。『玉勝間』には、〈そもそも道は、もと学問をして知ることにはあらず、生れながらの真心なるぞ、道には有ける、真心とは、よくもあしくも、うまれつきたるままの心をいふ〉とあります。生まれついたままの真心が、日本の神の道にはあるというのです。この心は、もののあはれを知る心であり、歌の道へとつながります。
人が育つに従い、様々な教育を受けることで真心から離れていきます。そのため、生まれたままの心を顧みることで、真心に帰ることが必要になるのです。  
第二節 心と歌
日本人は和歌に親しみ、歌の心を奏でます。
第二節一項 歌の心
日本人は、歌の心について語っています。
『古今和歌集』[仮名序]には、〈やまとうたは、人のこころをたねとして、よろづのことのはとぞなれりける。世の中にある人、ことわざしげきものなれば、心におもふことを見るものきくものにつけていひいだせるなり〉とあります。日本の歌は、人の心を種とし、言葉を咲かせるのです。
『新古今和歌集』[仮名序]には、〈大和歌は、昔天地開けはじめて、人のしわざいまだ定まらざりし時、葦原中国の言の葉として、稲田姫素鵝の里よりぞ伝はれりける。しかありしよりこの方、その道盛りに興り、その流れ今に絶ゆることなくして、色に耽り心を述ぶるなかだちとし、世を治め民を和らぐる道とせり〉とあります。日本の歌は古くから伝わり、その歌の道は今に至るまで絶えることなく続いているのです。その歌の道は、和を尊び世を治める道なのです。
『近代秀歌』によると、藤原俊成(1114〜1204)がわが子である藤原定家(1162〜1241)に対し、〈歌は広く見遠く聞く道にあらず。心より出でて自らさとるものなり〉と述べたことが記されています。和歌は高遠な知識を求めるようなものではなく、自分の心から出てきたものを自分で悟るようなものだというのです。
その心を受け継いだ藤原定家は、『毎月抄』で和歌の「有心躰」について語っています。〈いづれも有心躰に過ぎて歌の本意と存ずる姿は侍らず〉とあり、有心体を和歌の本質と考えています。そのため定家は、〈宜しき歌と申し候は、歌毎に心の深きのみぞ申しためる〉と述べ、〈常に心有る躰の歌を御心にかけてあそばし候べく候〉と語っています。心敬(1406〜1475)の『さゞめこと』にも、〈有心體を高貴至極と也〉という記述があります。
鴨長明(1155〜1216)の『発心集』には、〈心の師とはなるとも、心を師とすることなかれ〉と語られています。
賀茂真淵(1697〜1769)の『歌意考』には、〈皇神の道の、一の筋を崇むにつけて、千五百代も、やすらにをさまれる、いにしへの心をも、こころにふかく得つべし〉とあります。日本の道は、古の心を得ることで安らかに治まるというのです。
本居宣長(1730〜1801)の『石上私淑言(いそのかみささめごと)』には、〈古今序に、やまと歌はひとつ心をたねとして、万の言のはとぞなれりけるとある、此心といふが則ち物のあはれをしる心也〉とあります。歌の心が、もののあはれと結びついていることが分かります。
第二節二項 心の歌
日本史上において、数多くの心の歌が詠われています。
【『万葉集』】
[巻第七]
明日香川七瀬の淀に住む鳥も心あれこそ波立てざらめ
[巻第十一]
神名火に神籬立てて斎へども人の心は守り敢へぬもの
[巻第二十]
移り行く時見るごとに心いたく昔の人し思ほゆるかも
【『古今和歌集』】
[春歌下]
久方のひかりのどけき春の日にしづ心なく花のちるらむ
[恋歌二]
夏虫をなにかいひけむ心から我も思ひにもえぬべらなり
[恋歌五]
世の中の人の心は花ぞめのうつろひやすき色にぞありける
色見えでうつろふものは世の中の人の心の花にぞ有りける
[雑歌下]
身をすててゆきやしにけむ思ふより外なる物は心なりけり
【『新古今和歌集』の藤原俊成(1114〜1204)】
[夏歌]
わが心いかにせよとてほととぎす 雲間の月の影に鳴くらむ
[秋歌下]
心とやもみぢはすらむ立田山松はしぐれに濡れぬものかは
[恋歌二]
憂き身をばわれだにいとふいとへただ そをだにおなじ心と思はむ
[雑歌上]
忘れじよ忘るなとだにいひてまし雲居の月の心ありせば
【『山家集』の西行(1118〜1190)】
もろともにわれをも具して散りね花憂き世をいとふ心ある身ぞ
心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮
こりもせず憂き世の闇に迷ふかな身を思はぬは心なりけり
いかでわれ清く曇らぬ身になりて心の月の影をみがゝん
心から心に物を思はせて身を苦しむる我身成けり
今の我も昔の人も花見てん心の色はかはらじ物を
【『一遍上人語録』の一遍(1239〜1289)】
こゝろよりこゝろをえんと心得て心にまよふこゝろ成けり
こゝろからながるゝ水をせきとめておのれと淵に身をしづめけり
心をばこゝろの怨とこゝろえてこゝろのなきをこゝろとはせよ
仏こそ命と身とのあるじなれわが我ならむこゝろ振舞
夢の世とおもひなしなば仮のよにとまる心のとまるべきやは
いにしへはこゝろのまゝにしたがひぬ今はこゝろよ我にしたがへ
とにかくにまよふ心をしるべにて南無阿弥陀仏と申ばかりぞ
【『不動智神妙録』の沢庵(1573〜1645)】
心こそ心迷はす心なれ 心に心心ゆるすな  
第三節 心のあり方
日本人は、心のあり方を問うて来ました。
第三節一項 心と世界
かつて心は、本当の意味で世界でした。
心が世界そのものであると分かるということは、もう、その地点には居ないということです。その地点に立って、心がかつて本当に世界だったことを思うのです。あるいは、心が世界そのものであると思うのです。
神道五部書の一つ『倭姫命世記』には、〈心神ハ則ち天地の本基、身躰ハ則ち五行の化生なり〉とあります。精神は天地の本当の基本であり、身体は木・火・土・金・水の五行から生まれるものだというのです。心は天地を認識するものとして世界の基本であり、その心を超えた視点からの世界把握により神が想定されます。心と神がそろい、精神となります。
明菴栄西(1141〜1215)の『興禅護国論』には、〈大なるか哉、心や。天の高きは極むべからず、しかるに心は天の上に出づ。地の厚きは測るべからず、しかるに心は地の下に出づ。それ太虚か、それ元気か、心はすなはち太虚を包んで、元気を孕むものなり〉とあります。太虚とは宇宙空間であり、元気とは万物を生出す根本エネルギーのことです。天の高かさや地の厚さは測り知れませんが、心はそれよりも大きいというのです。なぜなら、それらを捉えるのは心そのものだからです。すなわち、心は宇宙空間の全てを含み、万物の全てを生み出すものなのです。
『百姓分量記』には、〈天に心なし明徳を以て心とす。地に心なし万物を生じて心とす〉とあります。天にも地にも心はなく、徳や物体などの全てを生じさせるものとして心があるというのです。
心は、かつて世界そのものでした。それゆえ、そこでは、心が世界そのものだと思うこともできないのです。心が世界そのものの場所から、世界における心という場所に移ったとき、その場所で、かつて心が世界そのものだったことを思えて、心が世界そのものであると思うのです。
第三節二項 心の思い
心は思います。
思う。ここで、日本語の「もの・こと」を用い、「思うこと・思うもの」を生み出すことができます。それゆえ、思うものが思うこと、つまり「思い」が起こります。一方、思うことを思うもの、つまり「心」が生まれるのです。この起こりと生まれにより、「心の思い」となるのです。
『古事記』には、「こころ」を表す文字として「心」と「情」があります。両方とも、物事に向かって働きかけて行く動きを意味していますが、特に「情」の場合は意志的な働きを表すときに用いられています。
吉田兼倶(1435〜1511)の『唯一神道名法要集』には、〈意を以て理を成し、意を以て言を成し、意を以て手足ヲ成す。皆是れ心神の所為也。一切の含霊は神に非ずといふこと莫き者也〉とあります。含霊とは、霊魂をもつものであり、有情に同じです。つまり、人間や人類を指しています。人間は心の意の作用によって、理を構築し、言葉を発し、手足を動かすというのです。
熊沢蕃山(1619〜1691)の『集義和書』には、〈志といふは道に志す也。初学の人、道に志ざして、いまだ道をしらずといへども、心思のむかふ所正也〉とあります。志が、心の思いが向かうところが正しいこととして語られています。
山鹿素行(1622〜1685)の『聖教要録』[心]には、〈心は火に属す。生々息むことなく、少くも住らず、流行運動するの謂なり。古人性情を指して心と曰ふ。凡そ心と謂ふときは、乃ち性情相挙ぐるなり〉とあります。性質と情感が休む間もなく、絶えず動いているのが心だというのです。心の動きは、火のように止まったり留まったりせずに流れ行くと考えられています。
伊藤仁斎(1627〜1705)の『語孟字義』[情]には、〈心とは、人の思慮運用するところ、もと貴きにあらず、亦賤しきにあらず〉とあります。心は思い慮ることを運用するところであり、そのままでは貴賎はないというのです。では、違いはどうできるかというと、〈心は是れ心、性は是れ性、おのおの功夫を用うる処有り。情はただ是れ性の動いて欲に属する者、わずかに思慮に渉るときは、すなわちこれを心と謂う〉とあります。思慮の運用が欲に傾けば情であり、思慮に傾けば心だというのです。[志]には、〈心の之くところ、これを志と謂う〉とあります。心の向かいが志だというのです。[意]には、〈意とは、心の往来計較する者を指して言う〉とあります。往来計較とは、あれこれくらべあわせて考慮することです。選択肢を比較検討して決断することが意だというのです。
荻生徂徠(1666〜1728)の『弁名』には、〈性なる者は、生の質なり〉と定義されています。心については、〈心なる者は、人身の主宰なり〉と定義されています。他には、〈志なる者は心の之(ゆ)く所、これ説文の訓なり〉とあり、『説文解字』より心の向かうところが志と説明されています。〈意なる者は念を起すを謂ふなり。人のなかるべからざる者なり〉とあり、念(おも)いを起こすことが、人が欠かすことのできない意の働きとして語られています。思いについては、〈思なる者は思惟なり〉とあります。思うことが、考えることと結びつけられています。
佐藤一斎(1772〜1859)の『言志四録』[言志後録]には、〈心の官は則ち思なり。思の字は只だ是れ工夫の字のみ。思えば則ち愈いよ精明に、愈いよ篤実なり。其の篤実なるよりして之を行と謂い、其の精明なるよりして之を知と謂う。知行は一の思の字に帰す〉とあります。心の役割は思うということであり、思うということはただ工夫することだというのです。思えば考えが詳しく明らかとなり、真面目に取り組むようになると語られています。その真面目に対処する点を「行」といい、詳しく明らか点を「知」といい、知も行も「思」に帰着するというのです。
以上のように、心の思いに関して先人が語っています。
心は思います。その思いは、何かに向けての思いであり、その思いの向かいが志と呼ばれます。思いが、いくつもの思いから一つの思いへ至ることが、意として示されています。
第三節三項 心と身
心は世界への向かいを通じ、世界への向かいのために身体を意識し、身体を必要とします。そこで、心と身体の関係が問われます。
道元(1200〜1253)の『正法眼蔵』[身心学道]には、〈仏道を学習するに、しばらくふたつあり。いはゆる心もて学し、身をもて学するなり〉とあります。仏道を学ぶには、心で学ぶことと身をもって学ぶことの二つがあるというのです。続けて、〈心をもて学するとは、あらゆる諸心をもて学するなり。その諸心といふは、質多心・汗栗駄心・矣栗駄心等也。また、感応道交して、菩提心をおこしてのち、仏祖の大道に帰依し、発菩提心の行李を習学するなり〉と語られています。心をもって学ぶとは、あらゆる心で学ぶことであり、その心には、慮る心や心臓の心、要を集めた心などがあるというのです。また、仏と人の気持ちが通じ、悟りを求める心をおこし、仏祖の大道に帰依して、求道のことを学習するというのです。一方、〈身学道といふは身にて学道するなり、赤肉団の学道なり。身を学道よりきたり、学道よりきたれるはともに身なり〉ともあります。身学道は、身をもって仏道を学ぶのであり、肉体をもってする学道だというのです。身は学道によって得られ、学道によって獲得されるものもまた身であるとされています。
世阿弥(1363〜1443)の『花鏡』には、〈舞・はたらきは態(わざ)なり。主になるものは心なり〉とあります。舞や働きは身体的な技であり、態を支配し、芸の主体となるのは演者の心だというのです。
林羅山(1583〜1657)の『神道伝授』には、〈心ハ神明之舎也。舎ハ家也。タトヘバ此身ハ家ノゴトク、心ハ主人ノ如ク、神ハ主人ノタマシヰ也〉とあります。主人と家の関係が、神と心の関係、および心と身の関係として語られています。その上で羅山は、〈神ハ心ノ霊也。心ハ形ナケレドモ、生テ有物ヲ霊トモ妙トモ云也〉と述べています。
沢庵(1573〜1645)の『不動智神妙録』には、〈世の中に、仏道も儒道も心を説き候得共、其説く如く、其人の身持なく候心は、明に知らぬ物にて候〉とあります。心を知るには、身体がなければならないことが説かれています。
盤珪永琢(1622〜1693)の『盤珪禅師語録』には、〈只生じたる體を一心が家といたして、住まするによつて、其内はものを聞、香をかぎ知り、物いふ事の自由なれども、かりあつめ生じたる此體が滅しますれば、一心の住家がなく成ますゆへに、見聞物いふ事ならぬまでの事でござる〉とあります。心は体を家として住むのですが、その家を通して聞いたり嗅いだり喋ったりするため、体がなくなればそれができなくなるというのです。
貝原益軒(1630〜1714)の『大和俗訓』には、〈心は天君といふ。身の主なり。思ふを以て職分とす〉とあります。心は身体の主人であり、思うという役割を果たすというのです。
浅見絅斎(1652〜1712)の『絅斉先生敬斉箴講義』には、〈耳デ聞ト云モ、是ガキカス。手ガ動ト謂テモ、手計ガ自由ニ動ク物デナシ。足デ歩ムモ、足ガヒトリ自由ニアルク物デナシ〉とあり、〈見タリ聞タリノ、日用万事全体、心ノ為業、心ノ動クナリ〉とあります。体によって見たり聞いたりすることなど、日常の全ては心の為す業によって心が動くことによるというのです。
大塩中斉(1793〜1837)の『洗心洞?記』には、〈道よりして観れば、則ち心は身を裹み、身は心の内に在り〉とあります。これは、〈心太虚に帰すれば、則ち非常の事も皆亦た道なるを知る〉という前提の上のことです。そのため道という大きな視点から判断すると、心は太虚に帰っているため、心が身を包むことになり、身体は心の中にあることになります。
日本では心と身の関係において、心が身に優越することが語られています。精神は肉体に勝るという想定がなされているのです。
第三節四項 心と心
心は世界への向かいにおいて、心と出会います。
心が心と出会うのです。そして、心と心が出会うのです。
『十七条憲法』の第十条には、〈人みな心あり。心おのおの執(と)るところあり。かれ是(ぜ)とすれば、われは非とす。われ是とすれば、かれは非とす。われかならずしも聖にあらず。かれかならずしも愚にあらず。ともにこれ凡夫(ぼんぷ)のみ〉とあります。人には皆心があり、それぞれに是々非々があり、それぞれが賢くもあり愚かでもあるというのです。
親鸞(1173〜1262)の『教行信証』には、〈衆生の心のごときは、これ色にあらず、長にあらず短にあらず、麁にあらず細にあらず、縛にあらず解にあらず、見にあらずといへども、法としてまたこれ有なり〉とあります。すなわち、人の心のようなものは、物質ではなく、長くも短くもなく、粗くも細かくもなく、縛れるものでも解けるものでもないし、見えるものでもないけれども、もの(法)としてあるものだというのです。
道元(1200〜1253)の『正法眼蔵』[仏性]には、〈いま仏道にいふ一切衆生は、有心者みな衆生なり、心是衆生なるがゆゑに。無心者おなじく衆生なるべし、衆生是心なるがゆゑに、しかあれば、心みなこれ衆生なり、衆生みなこれ有仏性なり。草木国土これ心なり。心なるがゆゑに衆生なり、衆生なるがゆゑに有仏性なり〉とあります。仏教の一切衆生では、心ある者はみな衆生だというのです。心がすなわち衆生ですから、心ない人も同じく衆生だとされています。心はみな衆生であり、衆生はみな仏性を有していると語られています。草木国土は心であり、心であるから衆生であり、衆生であるから有仏性と考えられています。
伊藤仁斎(1627〜1705)の『童子問』には、〈学問は須く活道理を看んことを要すべし。死道理を守著せんことを要せず〉とあり、〈蓋し道や、性や、心や、皆生物にして死物に非ず〉とあります。道や性や心は、生き物だというのです。〈何となれば、流水は源もと有って流行す。活物なり。止水は源と無うして停蓄す。死物なり〉とあるように、心は動態的な「活」、つまり生き物なのであり、静態的な「死」ではないとされています。
契沖(1640?1701)の『倭字正濫抄』には、〈事有れば必ず言有り、言有れば必ず事有り。故に古事記等常に多く通用す。――言は即ち心なり〉とあります。言葉がすなわち心だというのです。心が心の中で言葉を自在に用いることができる段階において、その言葉の土台において、心は、いくつもの心を理解し、心は心と通じることができるのです。
心が体を通じて世界へ向かうとき、心は心に出会います。心が心ありと想うものは、衆生や生き物と呼ばれます。心は、心との交流を通じて、様々な心があることを学び知り、心を想うことができるのです。
第三節五項 心の自性
心と心が出会うとき、心はたくさんの心を知ります。心は、心がたくさんであることを知るのです。そのため心は、たくさんの心の中の一つが、この心であることに想い至るのです。つまり、何故かこの心は、たくさんある心の中で、この心なのです。
栄西(1141〜1215)の『興禅護国論』には、唐訳の『華厳経』からの引用で、〈一切の法はすなはち心の自性なりと知つて〉とあります。自性とは、ものの同一性と固有性が、それ自身で存在していることを意味しています。そのため心の自性は、自分が自分であること、つまり「心がこの心このものであること」を意味します。
石田梅岩(1685〜1744)の『莫妄想(マクモウゾウ)』には、〈自性ト謂モ是ガ自性ト云ベキ物ナシ〉とあります。これ自身であることの理由はないというのです。〈自性ハ無心無念ナリ。其無心ナル者ガ何トテ物ヲ云物ヲ思ヒ候哉〉という言葉に対し、〈夫ヲ妙ト云〉とあります。これ自身であることそのものには、心も念(おも)いも関係ありません。なぜなら、心や念(おも)いは、世界にたくさんあることは分かっているからです。それなのに何故か、心は根拠では無いにもかかわらず、自分が自分として言葉を話したり何かを思ったりしているのです。自分が自分であることは妙だというのです。〈然バ其処ヲ妙ニ預タルニ候哉〉に対し、〈否、妙ニ妙ナシ。妙破テヤハリ妙ナリ〉とあります。そして、〈妙ト云ヨリ外ハ無キヤ、如何〉に対し、〈黙スル而已(ノミ)ナリ〉となります。
まずもって心とは、この心のことです。この心とは、自分の心のことです。自分が自分であること、つまり、心がこの心このものであること、心の自性は、黙されたまま、この心に課せられています。それ故に、もしくは、それにも関わらず、心はさまざまな責任を背負うことになるのです。
第三節六項 心の自由自在
世界にはたくさん心があり、それぞれの心はそれぞれの理由で動きます。心は、互いに影響を与え合っています。そこで、この心のこの動きは、この心によって動いているのか、他の心によって動かされているのかが気になります。この心が、この心に基づいて動くことは、自由や自在として日本史上で語られています。
『大日本国法華経験記』には、〈仏を見法を聞くこと、心に自在を得たり〉とあります。心が煩悩の束縛を離れて、通達無礙なることが示されています。
貞慶(1155〜1213)の『興福寺奏状』には、〈まさに知るべし、余行によらず、念仏によらず、出離の道、ただ心に在り〉とあります。迷いを離れて解脱の境地に達することは、心によるというのです。
道元(1200〜1253)の『正法眼蔵』[阿羅漢]には、〈心得自在の形段、これを高処自高平、低処自低平と参究す。このゆゑに、墻壁瓦礫あり。自在といふは、心也全機現なり〉とあります。心が自在を得たという有り様は、高処なら高処で平らに、低処なら低処で平らなことと知られる故に、墻壁や瓦礫があるというのです。自在とは、心の全ての働きが現れることだというのです。
鈴木正三(1579〜1655)の『驢鞍橋』には〈自由に舞べき心有〉とあり、〈無我の心に到て、私なく物に任て自由也〉と語られています。
中沢道二(1725〜1803)の『道二翁道話』には、〈世界中が心じやによつて、自由が出来たものじや〉と語られています。
自由や自在について、日本人がどう考えてきたかは、『日本式 自由論』に詳しく書いています。興味のある方は、そちらを参照してください。
第三節七項 心の階層
世界にはたくさん心があり、心は心と交流します。そのとき、この心は、その心やあの心との相違に気がつきます。心は、同じではなく異なっているのです。そこで、その異なり方によって、心に階層があることが仄見えてきます。
空海(774〜835)の『秘密曼陀羅十住心論』では、人間の心を十段階に分けて論じています。煩悩にまみれた〈異生羝羊住心〉から始まり、儒教や老荘思想の境地を経て、小乗仏教の各宗派から大乗仏教の各宗派へと続き、真言密教の境地である〈秘密荘厳住心〉に至っています。
沢庵(1573〜1645)の『不動智神妙録』には、〈心を溶かして総身へ水の延びるやうに用ゐ、其所に遣りたきまゝに遣りて使ひ候。是を本心と申し候〉とあり、本心が語られています。その上で、〈有心之心、無心之心と申す事の候〉が示されています。まず、〈有心の心と申すは、妄心と同事にて、有心とはあるこゝろと読む文字にて、何事にても一方へ思ひ詰る所なり。心に思ふ事ありて分別思案が生ずる程に、有心の心と申し候〉とあります。次に、〈無心の心と申すは、右の本心と同事にて、固り定りたる事なく、分別も思案も何も無き時の心、総身にのびひろごりて、全体に行き渡る心を無心と申す也〉とあります。有心の心が意識として、無心の心が無意識として、それぞれの特性が適切に示されていることが分かります。
熊沢蕃山(1619〜1691)の『集義和書』には、〈知・仁・勇は心の一徳也。故に君子は恐るるところなき也〉とあります。知仁勇の三つは表現としては三ですが、実は心の一つの徳であると語られています。心に徳があることを、心の良い状態としていることが分かります。
貝原益軒(1630〜1714)の『大和俗訓』には、〈人たるものは仁を以て心とすべし。不仁の人は本心を失ひ、人道をほろぼし天道にそむく。この故に、人の尤もいましむべきこと不仁より先なるはなし〉とあります。仁を持つ心が、人の心だというのです。
室鳩巣(1658〜1734)の『書簡』には、〈まさに人、天地の間に生れ、この義理の心あるを以て、禽獣に異なるを思ふべし。今ただ一身の利害を知るのみにして、義理あるを知らざるは、これ禽獣なり〉とあります。義理の心が、人間と獣の心を分けるというのです。
本居宣長(1730〜1801)『紫文要領』には、〈尋常の儒仏の道は、そのあしき事には感ずるをいましめて、あしき方に感ぜぬやうに教ふる也。歌物語は、その事にあたりて、物の心・事の心を知りて感ずるをよき事として、其の事の善悪邪正はすてゝかゝはらず〉とあります。悪しきことを感じないようにする心と、悪しきことを悪しきこととして感じる心を分けて考えています。
心の階層により、心の格付けがなされます。その区別には、様々な基準があることが示されています。それらの基準の上で、世界におけるたくさんの心は、互いに影響を与えあって交流を行うのです。
第三節八項 心と道
世界におけるたくさんの心の区別を付け、心は、この心のあるべき様を求めます。日本においては、心は道と結びついて論じられて来ました。
最澄(767〜822)の『山家学生式(天台法華宗年分学生式)』には、〈国宝とは何者ぞ。宝とは道心なり。道心あるの人を名づけて国宝となす〉とあります。真実の道を求める菩提心のある人は、国家の宝として崇敬すべき人だというのです。
証定証定(1194〜1255?)の『禅宗綱目』には、〈道即ち心なり〉と語られています。
道元(1200〜1253)の『正法眼蔵』[道心]には、〈仏道をもとむるには、まづ道心をさきとすべし〉と語られています。
柳生宗矩(1571〜1646)の『兵法家伝書』には、〈すぐなる心をば、本心と申也。又は道心とも云也〉とあります。すぐなる心とは、不偏不倒の心であり、本心・道心とは、本然の心であり私欲に覆われない心のことです。
林羅山(1583〜1657)の『三徳抄』には、〈心ハ一ナレドモ、其ウゴキ働ク所ヲバ人ノ心ト云フ。其義理ニヲコル処ヲバ道ノ心ト云フ〉とあります。心が義理と結びつくと、道の心となるというのです。
熊沢蕃山(1619〜1691)の『集義和書』には、〈欲と云は此形の心の生楽なり。欲の、義にしたがつてうごくを道と云〉とあります。此形の心の生楽とは、肉体的な気質の心の持つ生の楽しみのことです。心の欲するところが義であるなら、それは道だと言えるというのです。
荻生徂徠(1666〜1728)の『弁道』には、〈善悪はみな心を以てこれを言ふ者なり〉とあり、〈先王の道は、礼を以て心を制す〉と語られています。
大原幽学(1797〜1858)の『微味幽玄考』には、〈道心とは、人を道(ミチビ)く為めに己が身を思ふいとま無く、暑き時は人も暑からむと思ひ、寒き時は人も寒からむことを思ひ、身を慎み人を憐むの志故、自然と家も斉ひ慶も来る〉とあります。慶とは、幸いや喜びのことです。道の心とは、己の身を顧みずに人のことを思い、自身の身を慎みて人を憐れむ志のことだというのです。
手島堵庵(1718〜1786)の『会友大旨』には、〈道は則本心なり〉とあります。
中沢道二(1725〜1803)の『道二翁道話』には、〈道とは何んぞ。心の事じゃ〉とあります。
柴田鳩翁(1783〜1839)の『続々鳩翁道話』には、〈心は道なり〉とあります。
頼山陽(1780〜1832)の『日本政記』には、〈道失へば、則ち人心背く〉とあります。
心と道の関係について、日本人がどう考えてきたかは、『日本式 正道論』に詳しく書いています。興味のある方は、そちらを参照してください。
第三節九項 心と死
日本の武士道においては、心は死と向き合います。
山鹿素行(1622〜1685)の『山鹿語録』には、〈能く勤めて命を安んずるは大丈夫の心也。されば疋夫は死を常に心にあてて物をつとめ、つとめて命を安んずるにあり〉とあります。武士は死を常に心の中に置いておき、己の命を軽いものにしておくというのです。さらに、〈死を心にあてば、能く事物の間をつとめ守るべし。事物の間をつとめ守りては、唯今死にのぞみても快くして、あきたらぬ処有るべからず〉と語られています。死を心の中に置いておけば、死に際してジタバタすることもなくなるというのです。
大道寺友山(1639〜1730)の『武道初心集』にも、〈死を常に心にあつる〉とあります。
山本常朝(1659〜1719)の『葉隠』には、〈只殿を大切にと存、何事にてもあれ、死狂ひは我一人と内心に覚悟仕(つかまつり)たる迄にて候〉とあります。死狂いを心に秘める、武士というあり方が示されています。
つまり、日本の武士は、心の中に死を置いているのです。
藤田東湖(1806〜1855)の『壬辰封事』には、〈畢竟変難ノ場ニ踏カカリ、忠節ヲ尽シ、死生ヲ事トモセザルノ士ハ、太平ノ世ニ在テハ、道義ヲ重ンジ、利禄ヲ軽ンジ、心ニ恥ルコトヲ行ハザルノ人ナリ〉とあります。結局のところ、緊急事態において忠節を尽くして死を恐れないような人は、平時にも道義を重んじ、利益を軽くみて、心に恥じることのできる人だというのです。
以上のように、武士の心は、死を見据える心なのです。  
 
終章 言之葉  

 

日本人が大切にしてきた日本語の言葉を見てきました。
『古今和歌集』[仮名序]に、〈やまとうたは、人のこころをたねとして、よろづのことのはとぞなれりける〉とあるように、日本人の心は言之葉を紡ぎます。言之葉において、つまり日本語において、日本人は日本を想います。
『新古今和歌集』[仮名序]には、〈大和歌は、昔天地開けはじめて、人のしわざいまだ定まらざりし時、葦原中国の言の葉として、稲田姫素鵝の里よりぞ伝はれりける。しかありしよりこの方、その道盛りに興り、その流れ今に絶ゆることなくして、色に耽り心を述ぶるなかだちとし、世を治め民を和らぐる道とせり〉とあります。日本の歌は、神代より伝わる日本の言葉だとされています。この歌の道は盛んに興り、今に至るまで絶えることなく続く、世を治めて民を安心させる道だというのです。言之葉において、つまり日本の歌において、日本人は日本を想うのです。
後は、その上で、日本人として如何に生き、そして如何に死ぬかです。  
 
竹山道雄

 

戦前、ナチズムと軍国主義を嫌悪した竹山道雄は、戦後の左翼的風潮をも嫌悪した。その両者に同質性を嗅ぎ取ったからである。それは自由主義者竹山が最も嫌悪した専制と狂信の臭いであった。それと戦うために東大教授の約束された職を投げ捨て、文筆業に専念する道を選ぶのである。
自由主義者
竹山道雄は一高(現在の東大教養部)のドイツ語教師であったが、それ以上に『ビルマの竪琴』の著者として知られている。この作品は、戦争で多くの教え子を失った竹山が鎮魂を願って書かれたものであり、国民各層に深い共感を呼び起こしたのである。
さらに特筆すべきは、戦前、戦中、戦後に一貫して自由主義者としての自分の立ち位置を守り通したことである。まさに自由主義論壇の雄として活躍した。戦後、左翼的進歩主義がはびこる中、その時流に反して戦う姿をある評論家は「豪傑」と称するほどであった。
竹山道雄が生まれたのは、1903年7月17日の大阪。第一銀行に勤務する父純平と母逸の間の二男であった。道雄は詩的感受性に富み、芸術家肌の青年に育っていった。
1920年に一高文科に入学したことは父を大いに失望させた。官吏か実業志向を当然とする竹山家の家風にあって、文科に入ることは全く異例のことだった。父は「息子を一人失った」と嘆いた。しかし、この一高での生活が、後の自由主義者竹山道雄を育てたことは間違いない。一高は戦時下にあっても、自由主義の牙城と言われた学校であった。
豊富な海外経験
竹山は実に豊富な海外体験を持っている。東大文学部独文科に入学後、ドイツ語学習のためにドイツ人の家に寄寓し、そこから大学に通っていた。日本にいながらにして、ドイツ留学をしているようなものだった。東大卒業後は、1927年から3年ほどドイツに留学した。ナチスが台頭し始めた時期のドイツの雰囲気を肌身で感じていたのである。
帰国後、在日のドイツ人神父にドイツの印象を聞かれたとき、「精力的だが浅薄だ」と答えた。外国の文化研究者は、ややもすると盲目的崇拝者に陥りやすい中で、竹山はナチズムを胚胎するドイツを実に醒めた目で眺めていたのである。
戦後も外貨持ち出し制限が厳しい中、竹山は1955年以降ほぼ毎年のように海外に長く出かけた。当時の日本人としては貴重な体験であった。それゆえ巨視的な視野をもって世界の動向を見つめることができた稀有な知識人だったと言えるだろう。戦前の反軍部、反ナチス、戦後の反スターリン、反全体主義をぶれずに貫くことができたのは、こうした豊富な海外体験の故であることは間違いない。
一高教授として
1930年、ドイツ留学から帰国後、竹山は一高の教授に就任。一高生の間で竹山の名声は非常に高かった。とにかく授業が魅力的だった。文学論はもとより、文明論、哲学、歴史など幅広い教養に満ちあふれ、見識がずば抜けて優れていたのである。
竹山は一高、及び一高生をこよなく愛していた。選ばれた最優秀の10代後半の青年たちと最も親しく付き合った教授と言われている。一高の思い出を終生大切にし、最晩年に至るまで、一高のクラス会には喜んで出席したという。戦時中は、一高の寮の幹事となり、一高生と寝食を共にした。夜更けまで、寮で学生たちと一緒にゲーテを読んだことは忘れられない思い出となった。そんな竹山に感謝して、寮生だった今道友信(後の東大教授)は、父の吸わないタバコを匿名で、竹山のメールボックスに「祝クリスマス」と書いて入れた。竹山はタバコを取り出し、「戦争で物がない時期に、こういうことをしてくれる人がいる。一高はいいところだね」と言って、目に涙を浮かべて喜んだという。
そんな竹山が、教え子の出征を見送らざるを得ないことは、心をかきむしられるほど辛いことだった。常日頃、竹山はドイツが勝てば思考の自由が奪われると警鐘を鳴らしていた。ナチスの正体を知り抜いていたのである。大義と思えないこの戦争に、前途有為な青年を送り出す竹山の胸中はいかばかりであったことか。出征する生徒を校庭で見送るたびに『都の空』(一高寮歌の一つ)が合唱された。竹山の胸の奥底には、悲しく、そして心を揺るがすリズムとして記憶されたのである。
『ビルマの竪琴』
敗戦後、竹山はおびただしい数の帰還兵を駅頭で見た。山のような重い荷物を背負って、元気に列車を降りてくる者、憔悴しきった者、中には担架で運ばれる者、みな苦しい戦いを生き抜いて帰還した者たちであった。彼らの姿を見るにつけ、竹山に一つの思いが湧き上がってきた。義務を尽くして戦ってきた彼らのために、何か書き残さなければならない。できるだけ実も花もある姿として描いてあげたい。
こうして竹山は、『ビルマの竪琴』の執筆に取りかかるのである。書き終えた竹山は、自己の天職を自覚した。同時に、有為な若者を死に追いやった専制や狂信に対する戦いの覚悟を固めていく。それは筆を取る者としての使命感でもあった。
竹山はこの作品で、次のような情景を描いている。舞台はビルマ奥地の山深い村。イギリス兵に追われた日本兵一隊は、久しぶりに村人の歓迎を受け食事にありついた。そのお礼に次々と歌を披露した。この部隊の隊長は音楽学校出身で、兵士に合唱を教え、苦しいときに歌を歌いながら、耐え忍んできた部隊であった。ふと気付くと、村人は一人もいない。イギリス兵にすっかり包囲されていたのである。
隊長は「歌い続けろ」と小声で命令した。戦闘態勢が整うまでは敵に気付かないふりをしなければならない。弾薬の準備が整ったとき、兵士は、『埴生の宿』を歌っていた。兵士が銃を構えたその時である。森の中から、歌声が鳴り響いてきた。よく見ると、イギリス兵が歌いながら、広場に走り出てくるではないか。彼らは一塊になって、『ホーム・スイート・ホーム(埴生の宿)』を歌っているのである。
イギリス人は、この歌を聞くと、故郷のこと、父母のことを思い出さずにはいられない。敵である日本兵の口から、思いもかけず、懐かしい祖国の歌を聞き、異様な感動を覚えたのである。イギリス兵が歌いながら広場に走り出る。日本兵もまた、歌いながら広場に出る。こうなるともう敵も味方もない。彼らはみな一緒になって合唱した。この夜、日本兵たちは3日前に停戦になっていたことを知り、武器を捨てた。恐怖と憎悪のただ中にあって、人間として通じ合えるものがあることを竹山は描き出そうとしたのであろう。
水島上等兵に託した思い
竹山は反軍国主義者である。しかし、戦後の「戦った人は誰も彼も一律に悪人である」かのようなマスコミの風潮には批判的であった。義務を果たして命を落とした人たちの鎮魂を願うことは、戦争自体の原因の解明と責任追及とは、全く別次元の話しなのである。
竹山は『ビルマの竪琴』の主人公水島上等兵に彼自身の鎮魂の思いを託している。水島は、終戦後も三角山で徹底抗戦する別の部隊に停戦勧告のため派遣される。しかし、彼はそのまま行方不明になってしまった。説得に失敗し元の部隊に戻る途次、彼が見たものは、日本兵の腐乱した屍の山。さらに、ある病院の裏手で埋葬が厳かに行われている場に出くわすことになる。埋葬が終わり、イギリス人看護婦たちは賛美歌を合唱し、歌い終えると胸に十字を切り、首を垂れて黙祷した後、静かにそこを離れていった。
水島が近づいて見ると、きれいな花輪が供えてあり、石には「日本兵無名戦士の墓」と彫られているではないか。衝撃を受けた水島は、その場に茫然と立ちつくしてしまった。異国人が敵である日本兵の屍を葬り、祈ってくれている。彼は自分自身を恥じた。道すがら、日本兵の屍をそのままにしてきた自分を。そして、この国に残る決心をする。仏に仕える僧となって、ビルマの山野に晒された日本兵の屍を弔うためである。竹山は水島にこう語らせている。「ここに、どうしてもしなければならないことが起こりました。これを果たさないで去ることは、もうできなくなりました」と。
戦後の日本人は、みな日々の生活に追われ、物質至上主義がはびこっていた。そんな時期に、竹山は日本人に忘れてはならない大切な何かに気付かせようとしたのではないだろうか。日本人が本来、大切にしてきた鎮魂を願う気持ちに他ならない。同時に、異国で死んだ教え子に対する竹山自身の鎮魂の思いでもあったろう。だからこそ、この小説は、多くの人々の心を打ったのである。
竹山は『ビルマの竪琴』を世に問うた3年後、一高が新制東大に移行する際に、教職を去った。文筆に専念するためである。竹山が抱き続けてきた疑問、「あの戦争は何だったのか」。この疑問に答えを出すべき戦いが、本格的に始まったのである。
竹山は、『精神のあとをたずねて』『昭和の精神史』『妄想とその犠牲』などを次々と発表した。その中で彼は戦前の軍国主義者やナチズムと、戦後の左派インテリの同質性を指摘したため、左派陣営からしばしば「危険な思想家」とレッテルを貼られた。しかし、左翼が支配的だった論壇に媚を売るような「安全な思想家」に甘んずることは、彼の良心が許さなかった。戦前の専制や狂信のゆえに犠牲になって死んだ教え子たちの鎮魂のためにも、彼は戦わなければならなかったのである。
論敵の主張を逐一検討し、その論拠となる矛盾点を明らかにする態度は「現代のソクラテス」とまで言われた。1984年6月15日に、80歳で息を引き取るまで、竹山の戦いは続いた。時流を恐れるな、時流を見つめよ、しかし時流に惑わされるな。このことを我々に教えてくれた竹山道雄の人生だった。  
 
「死の日本文学史」 村松剛

 

本書は村松剛氏が、1975年三島由紀夫の防衛庁占拠と腹きり自殺事件をうけてトロント大学の招きで「日本人の死生観」について行った講義が基になっている。西欧人にとって「切腹」という行為は「特攻隊」の行為とともに理解できないもので異様な受け止め方をされた。はたして村松氏の講義が理解されたかどうかは知らないが、日本人の死生観は異常だと見られた。現在ではイスラム教徒の聖戦(ジハード)思想による自爆テロが華々しい英雄行為としてイスラム教徒には理解され称賛されている。日本人も同じことを第二次世界大戦でやってきた。人間魚雷、特攻隊もその部類に入るので理解は簡単であるはずなのだが、現代の日本人はそのことも忘れて西欧人と同じように「自爆テロ」といって恐怖している。おかしな話だ。天皇を頂点とする擬制宗教国家体制で「天皇万歳」といって「喜んで」爆弾を抱えて敵艦に飛び込んだ。圧倒的に兵力不足・火器不足の日本が出来ることといえば爆弾を抱えて飛び込むことしかなかった。竹やりで敵機を落とすなんてお笑いごとだった。天皇制宗教で武装した日本兵と、イスラム教で武装したアラブ人と何処が異なるところがあろうか。
本書は「死の日本文学史」となっているが、私は「歌で綴る日本の死生観」という題名と理解する。やはり日本人は一番自分の気持ちを表現しやすいのは歌である。漢詩では細やかななよなよとした気持ちは表現できない。漢詩はアジ演説である。あのリズムとスピード感では日本人の優美な気持ちは表現できない。といいながら私は漢詩にはまって今も毎日下手な漢詩を作り続けているのであるが。本書は奈良時代の「万葉集」に記された人麻呂の「玉の再生」から始まり、「古今集」の大伴家持の「花の概念」、平安時代の「源氏物語」における「夢と魂」、「怨霊信仰」、平安末期の後拾遺和歌集の藤原俊成女の「夢の架け橋」、平家物語における「運命観」、鎌倉時代の「とわずがたり」にみる浄土信仰と現世の享楽、室町時代の「太平記」に見る「義」の概念と切腹の流行、室町後期の混沌と「浮世」、近世戦国時代のキリシタンと浄土信仰、江戸時代の近松門左衛門の「心中」と「男色」の文学、浄土信仰の世俗化、幕末の「水戸学」における尊皇攘夷と武士道、明治時代の神聖国家の成立と死生観といった年代順に十二の話題から構成されている。なかなか複雑な問題を含んでいる総合的な日本文化論でもあるので、ざっくり纏めることも出来ない。そこでひとつひとつ著者の言い分を追尾してゆくことにする。
万葉集:人麻呂の死と玉の再生
死という想念が、一般に文化とりわけ文学には色濃く引き継がれている。アンドレマルローは「それは、死から何ものかを奪い取ろうとする人間の行為である」と言っている。日本人は死について独特の想念を培ってきた。その想念のあとを辿ってみるというのが著者村松剛氏の本書のテーマである。最初の死生観の大きな変化は7世紀の後半から8世紀の天皇集権律令制の確立期である。丁度柿本人麻呂の生きた時代である。数多くの鎮魂歌を人麻呂は作っている。なかでもシェークピアーのハムレットのオフェリア的水死のイメージの歌が多い。人麻呂の死は708年前後と言われるのだが、火葬が最初に行われたのは続日本紀によれば700年である。7世後半より葬儀の簡略化が始まった。646年には薄葬令で、殯(もがり)を営むことは禁止され、陵墓の大きさも厳しく規定された。これは天皇制中央集権の確立が諸豪族の葬儀の規模を制限したのであるが、もがりの復活信仰の衰微を前提とした。人麻呂が仕えた持統天皇は最初に火葬された天皇であり、人麻呂は火葬を目撃した最初の世代になる。つまり人麻呂は火葬が仏教とともに流行する前の死生観で育てられた最後の世代である。人麻呂にはオフェリア的水死のイメージの歌が多い。これらの歌が暗示するのは海辺に死ぬ詩人の姿だろう。梅原猛氏はその「柿本人麻呂論」で人麻呂が流罪にあい水死したと言う説を提起した。梅原氏の説は文学的想念では正しいかの知れないが、事実問題ではありえない妄想である。自分の死にかたを生前に予測できるわけはない。水と玉とに再生のシンボルを見るのは古代日本にも一つの流れとして存在した。古代人には「みまかる」「ゆく」に代表されていたが、万葉集にも「しぬ」という言葉はないのである。しかし「もがり」が廃止され火葬が一般化されるにつれ、「みまかる」「ゆく」に替わって「死」が現実化する。死という漢字は人の残骨の形である。大伴家持の死のイメージは火葬の煙となって戻らない花になるのである。そして長歌という歌のスタイルも柿本人麻呂とともに生命を終える。
古今和歌集:大伴家持の花の理念の成立と無常観
ここにいう花とは桜とかなでしこと言う具体的な花ではなく、いわば無限定の花である。「花」が自立して行くのはやはり漢詩の影響が(懐風藻)大きい。9世紀以降奈良時代にには詩人にとって「花」は「うつり」「ちる」花としての色合いを強めてゆく。散る花のイメージは、日本では死の理念と強く結びついた。古来無数の辞世が死を散る花にたとえてきた。その花を鮮明に浮かび上がらせた最初の詩人が大伴家持であった。奈良朝の「古今集和歌集」から鎌倉時代の「新古今和歌集」までの八代勅撰和歌集の歴史はそのまま花の理念の展開過程であった。又「花」には「もろく、あだな、いつわり」と言った貶下的な意味合いも含まれる。脆さと美しさとの、この花の観念の二元性が時代とともに比率を異に変遷するのである。「古今集和歌集」は花を最大の主題とした歌集である。また春夏秋冬と言う四季に沿って卷を定め、そのことが勅撰二十一代集の構成の基本となった。古代人は多くの神とともに四季の移り変わりと五穀豊穣を歌い、古今和歌集は汎神論的世界を四季を軸として定着した。季語のような定型化も進んで花のイメージについて約束事が成立した。古今和歌集が指摘するもうひとつの問題は、仏教を媒体とする無常観の浸透であろう。無常観の深化は地獄のイメージの鮮明化と共にしている。奈良仏教は唯識論、華厳教などを中心とする形而上学で、一般の人には無縁の学問であった。平安時代には仏教は空海以来人間化した。人に仏性がなければ、生き身のままの成仏は不可能であり、その解脱の道を説くには難解な哲学よりは地獄や餓鬼道のイメージの助けが有効であった。
源氏物語:夢と怨霊、浄土信仰
無常を前提としてなお現世への愛着が強調されるのが平安朝文学の特徴である。「源氏物語」や「浜松中納言物語」に説かれる夢の世と夢路とが11世紀以降の物語、歌、日記に錯綜して現れる。はかなさを夢にたとえる定式は9世紀嵯峨天皇の「文華秀麗集」に始めて見える。人生が夢という考えは仏教では当たり前の認識であるが、これが一般化したのは浄土信仰によってである。源信の「往生要集」では現世は「穢土」で浄土のみが実在である。「厭離穢土、欣求浄土」がスローガンになった。源氏物語は浄土信仰の初期に書かれ、平安宮廷の文学は浄土信仰が地を蔽うまで、中空に咲いた幻花である。浄土信仰が確立すれば死の問題は全て仏教に帰することになる。源氏物語では藤壺の死、夕顔の死などは夢によって説明される。「源氏物語」「浜松中納言物語」「更級日記」「狭衣物語」など一時代の文学がこれほどまでに夢に依存したことは古今東西を問わず例がない。夢魂の文学や陰陽道の魂の浮遊は、古代信仰に陰陽5行理論が補強して怨霊信仰を生み出した。正に平安時代は貴族は夢に遊び、怨霊に恐れおののいた時代であった。今も京都では「御霊会」が修せられる。怨霊信仰の定着が仏教の深化と平衡関係にある。平安時代の天皇家は壬申の乱の天智系と天武系の皇胤の争いであった。その争い毎に敗れた怨霊亡霊に現天皇家と貴族が振り回されるのである。10世紀の宮廷は邪霊鬼霊と物忌とによって支配されていた。こういった穢れをはらうのが主として仏法の役目で、この頃の仏教はお払い宗教といってもよい。
後拾遺、千載和歌集:藤原俊成女 夢の浮橋
平安中世時代では政治だけでなく宗教、文学までもが小さな家族集団(藤原家)によってなされてきた。藤原俊成卿女は1241年藤原定家の没後越部庄に隠棲した。夢に浮かぶ浮き橋をめぐってイメージは変わってゆく。イメージの変遷のなかに王朝末期の精神史の軌跡が見える。藤原通俊撰「後拾遺和歌集」は1086年の編纂になる。人生無常なる世は致し方のないこととして「しかし」と繋いでゆく逆説の論理の和歌集は古今和歌集には見られない。「後拾遺和歌集」は釈教歌を勅撰和歌集としては初めて巻末の雑に置いた。日本の中世とは鎌倉時代からということになっているが、それは貴族即ち宮廷の没落と京都の衰微を特徴とする。9世紀には京都の人口は50万人以上だったが、13世紀始めには10万人まで衰頽した。戦乱と大飢饉によって都は荒廃した。藤原俊成の「古来風体抄」1201年、「千載和歌集」1188年、藤原通俊撰「後拾遺和歌集」1086年の期の歌は「歌が人の心を作る、はじめに歌ありきと言う逆様の発想となった。」歌はこしらえるものでと言う明確な古典主義意識が確立された。現世を夢としてしかし夢は捨てがたい「後拾遺和歌集」では夢とうつつがしばしば分ちがたいまでに錯綜した。「後拾遺和歌集」が「しかし」であるならば「千載和歌集」はいわば夢の自立性というところまで強化された。夢だからこそ夢の花を咲かせたいというところまでいってしまうのである。定家の秋の夕暮れのイメージは「後拾遺和歌集」からはじまり「千載和歌集」で定着する。「新古今和歌集」の幽玄は、あわれ、妖艶とともに藤原俊成・定家の歌論の中心的位置を占める。和歌の美学(歌論)が完成を見た。定家は歌う。王朝が育てた花と夢とを上句で述べ、しかしそれを否定することによってこの中世の入り口に立つ詩人は静寂のイメージを導き出すのである。しかし姪の俊成女はなお夢の浮き橋をたどってゆくのである。
平家物語:運命観
「人生勝ち負けは運命」という理念は武士階級の勃興とともに、「将門記」「純友追討記」「陸奥話記」「欧州三年記」「保元物語」「平治物語」「平家物語」で頂点を迎える。平安宮廷に咲いた無常観の中での束の間の花の美学、夢の世に夢を見る世界であった。それに対して武士が作り出したのは運命の認識である。運命という言葉は占星術・易の運勢観から来るのだが、平安宮廷では陰陽五行の思想と結びついて怨霊や物忌み、方向となったが、軍記では同じ根から運命の観念を引き出した。「平家物語」では運命そのものを物語の中心に置いている。物語の緒に「祇園精舎の鐘の音 諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす。奢れる者久しからず ただ春の世の夢の如し・・・・」まるで仏教のお経のようだが、物語は線香には関係なくダイナミックに人の浮き沈みを描き出す。奈良・平安時代の300年間は死刑は原則としてなかったが、保元・平治の乱から殺戮が日常化した。「愚管抄」の説く運命は仏法の因果の理とかたく絡みあっている。自殺の方法として切腹が登場するのは「保元物語」からである。鎌倉期に定着したが、室町時代「太平記」では切腹が一般化した。軍記では死に際の美学として称賛された。「平家物語」は全体として雅な平家一族への鎮魂歌としての性格を持っている。運命の劇として終わるのである。鎌倉三代将軍実朝の生きた鎌倉政権内部は北条家の覇権把握過程で凄まじい陰謀と殺略の府であった。源氏の頼朝系統は悉く抹殺され、御家人衆も次々討伐された。
とわずがたり:浄土信仰と現世享楽
14世紀初頭に書かれた「とわずがたり」の作者は久我大納言雅忠の娘である。日本最初いや世界最初の近代的なエロチシズム小説である。14歳で後深草上皇の側室になって以来の男性遍歴を赤裸々に記した小説である。この頃の男性にとっては「男女のことは全盛の宿縁だから罪にはならない」と割り切って、多重婚(性関係)を繰り返したようだ。小説の筋など聞いても仕方ないから紹介はしない。「とわずがたり」の面白さは現世否定の浄土信仰と男女の欲望肯定とが奇妙な形で同居しているところだ。
太平記:楠正成の「義」、切腹の流行
義の理念が大きな意味を持つようになったのは「太平記」の時代からである。南宋から流入した新しい儒学「朱子学」が、鎌倉後期以降の武家に道徳的支柱を与えることになった。鎌倉時代中国から招かれた蘭渓和尚が建長寺を開山し、仏光禅師が円覚寺を開山した。そのほかにも12名の禅師が来日し、元による圧迫から日本へ逃れてきた南宋の知識人も多く、当時の中国情勢は鎌倉幕府は精通していたことだろう。又日本からの留学僧には栄西、道元、覚心、中厳などかなりの数にのぼる。南朝後醍醐朝では儒学は隆盛を極めた。「道理」と言う概念は鎌倉幕府の「御成敗式条」で中心的な判断基準をなし、その道理にかかわってさらに行動的な理念としての「義」が「太平記」の時代から現れるのである。仏教においても儒教を取り入れている。法然、親鸞、とくに日蓮は現世を常寂光土として肯定し、仏教の文脈のなかに現世哲学として儒教を組み込んだ。日蓮においては主従関係が来世まで継続すると説く。鎌倉幕府討伐から南北朝時代の室町時代を描く「太平記」には切腹の記述がことさら多い。切腹が武士の作法として定着するのは明らかに「太平記」の時代からである。能、茶、華道、俳諧など日本的なものが発生するのは正に室町時代であり、切腹の作法も同時代かと思うと面白い。無常の幻に似た人生になお花を夢見ようとしたのが平安朝の文人歌人達だった。行動する武家の手に渡って実践哲学に転化した。空しい世の中だからこそ、いさぎよい死花を咲かせたいというのであろうか。義とは美しい振る舞いと読むことが出来る。「太平記」は南朝側の立場に立っているから、後醍醐帝に尽した楠木一族の勲功を義として称賛するのである。
中世の秋:混沌と浮世
応仁の乱以降の室町後期の時代は、日本の史上空前ともいえる混沌と文化の輝きが異様に交錯する稀有な時代であった。社会面から見ると下克上と飢饉の世情であった。浮世と言う世俗的な理念の登場はこの時期にあたる。浮世の言葉は漂泊の歌人の作に点滅するのである。東山文化が終焉した15世紀中頃より連歌の宋祇が編んだ「新選つくば集」、「千載集」「金葉集」が現れる。「憂き」と「浮き」の両義的使用である。このように定めなき世として概念化された浮世に生活上の実感を託しているのが東山時代の漂泊の歌人であった。和歌は新古今、新勅撰あたりからマニュアル化(定型化)して連歌の成立自体が語法の定式化を前提とした。宋祇の連歌は、乱世に宮廷文化の伝統を守ることが関心事である所謂有心連歌(滑稽味を重んじるのが俳諧)である。宗長の編集と言われる「閑吟集」(1518年)には「一期は夢よ ただ狂へ」という、一休の作かとまがう歌がある。人生は夢という言葉は9世紀に見られる。夢幻の世と言う人生認識は浄土信仰とともに深化する。「厭離穢土、欣求浄土」というように西方浄土へ離脱する願いと、夢幻の世への執着とが矛盾するけれど同居するのが平安王朝文学の神髄であった。憂き世が浮世に変わった変極点が「閑吟集」あたりであろうとされる。もう絶対的な常なる浄土も考えない、世俗的な浮世が十五世紀を通じて拡散する。価値観が世俗化したことが中世の秋または近代の始まりだったのである。近代化への転換は不安定な世相とあいまって仏教側の腐敗堕落という世俗化を見逃すわけには行かない。一休禅師の「狂雲集」という平仄も定かならぬ漢詩文に当時の禅寺の腐敗が描かれている。蓮如が山科に本願寺をどう衛下のは1479年であった。浄土真宗の現世否定からその究極において煩悩を全的に肯定するという世俗化の傾斜となった。世俗勢力として一向宗は武装集団化し、戦国時代には自治も獲得したが、織田信長の武力の前に壊滅した。十六世紀の戦国時代に世俗的武装集団としての諸社寺にたいする対抗勢力としてキリスト教が利用された。
心中の美学:近松 心中と男色の流行 姦通と幽霊
男女の心中の始まりは1683年の「生玉心中」だったという。近松門左衛門が心中を浄瑠璃に劇化したのは1704年「曽根崎心中」である。1723年幕府は「心中禁止令」を出して、死亡者の葬儀を禁じ、未遂者は非人に落とすいう苛酷な令だった。江戸仮名草紙で心中賛美の風が江戸と上方で爆発的に起こったが、その背景には平安時代以来の恋愛小説の伝統が存在していた。おまけに男色心中も流行した。来世は同じ蓮の台に座りたいという願いは世俗化した浄土信仰である。西方浄土への信仰だけを残しての世俗化、脱宗教化は室町時代からの流れにあった。心中はもはや宗教心から来てはいない。流行の俗なる願いである。心中が流行する前に武家の間では殉死(切腹)が盛んに行われていた。これは戦国時代の名残である。そこで幕府は殉死禁止令を出し武家諸法度の別書として追加された。武士道の書「葉隠れ」では「忠も孝もいらず死に狂いのみが武士道だ」という秩序への反抗も出る始末で何が何だかよく分らない論理である。宮廷以来かな草紙へ続いてきた恋愛の文学は遂に元禄時代でおわる。心中、姦通などうるさいことばかりが多く、恋の自由は遊里のみになって遊里の世界へ沈着していった。江戸後期にはグロテスク演劇{東海道四谷怪談」ものが流行した。これは寛政・天保の改革への反動として幽霊や怪談など刺激的なもの、上田秋成「雨月物語」、「里美八犬伝」など魑魅魍魎・ナンセンスものも流行した。幽霊ものは決して仏教に関係するのではなく世俗的恐怖娯楽にすぎない。そして江戸末期には頽廃文化・文学へ傾斜したのである。
武士道と幕末のナショナリズム
豊臣秀吉がキリシタン禁令を出したが、貿易実益を求めて実質無効な令であったが、徳川時代になるとキリシタン禁止令は国の存続にかかわる重要問題として徹底された。最後の宗教戦争である「島原の乱」以後、1639年鎖国令と宗門改役の設置が出された。追加的に1718年には「類族追放令」も出され外来文化への激しい拒否反応となった。外国に国を脅かされると言う幕府の恐怖感がそうさせたのである。これが正しいか間違っていたか今も分らない。しかし1970年以降外国の船舶が通商を求めて日本沿岸に現れるようになった。この外威に対して朱子学の水戸学派は尊王攘夷運動を展開した。藤田幽谷は国体という言葉を始めて主張した。会澤正斎は「新論」で国体ナショナリズム思想を展開した。大前提は国としてのアイデンティティの確立であり会澤は「国の体」と呼んだ。山崎闇斎、熊沢蕃山、藤田東湖などの尊王攘夷論は神儒混交である。そしてこの水戸学派は日米和親条約に調印した大老井伊直弼の殺害(桜田門外の変)につながるのである。武士道のイデオログーには山鹿素行、吉田松陰、真木和泉守、高山彦九郎などがいる。ストイックな道徳を唱えた吉田松陰は長州藩士の精神的指導者で多くの志士を育てた。彼らの憂国の心情は南朝の「新葉和歌集」にみるように天皇を君として恋歌のスタイルに模擬された。来世を信ぜず従容として死を受け入れ、そして留魂を願う。そういう死の形が幕末において完成を見たのである。これも古い魂信仰である。
死と現代
賽の河原は出雲のみならず全国にある。彼岸会と並んで日本の生死観を現す日本独自の伝統的考えである。ところで柳田国男は日本の地蔵と道祖神はよく似ており、賽の河原信仰と道祖神は血縁関係にあるという。賽の河原が日本文学に現れるのは室町後期の「おとぎ草紙」である。地蔵信仰は文字通り地の神で仏教以前のインドの地方神だったようだ。全国津々浦々まで地蔵が立つようになったのは元禄の頃からで、参勤交代制に伴う道路網の整備が道祖神としての地蔵になったようだ。賽の河原信仰は仏教信仰とは違い、死者の霊がさ迷う「みたま」観につながる。江戸時代はどうみても仏教の世俗化が著しく進行した時代で、寺院は檀家制度に支えられ行政の末端の位置を占め、浄土真宗などの教団組織は巨大化した。仏教の世俗化、教義の衰退は、古来の土俗の生死観を呼び起こしたといえる。幽霊や天狗、狐狸などが跋扈した。ここで明治の死生観を語るまえに、日本人の倫理・文化思想史を再度振り返ろう。
・ 七世紀の飛鳥時代は巨大な古墳群に託された古代人の死後への思いは法隆寺などの寺院仏教へ変貌する時代であった。薄葬令と700年より火葬が始まった。
・ 奈良時代は大仏と国分寺と、文学的には大伴家持の花の理念の成立と無常観に代表される。無限定の花の概念が成立し、美しく咲いた花は平安時代へと流れゆくのである。
・ 平安時代は空海と最澄に始まって密教が怪しく花咲いた時代である。地獄のイメージが普及し浄土信仰と無常観と夢が貴族階級を捉えた。仏教の壮大な形而上学は大仏に象徴され、浄土は宇治平等院の夢の輝きに彩られるのである。無常の流れになお一輪の花を藤原平安貴族は夢に見て、宮廷美学が文学に結実するのであるが、背後から武士階級が実践哲学の中に運命観を創って活躍する時代へ移行する。
・ 鎌倉時代には浄土信仰は定着するのであるが、夢よりも輪郭の明瞭な人間像を求めた。朱子学と禅宗が武士の心を捉え、行動的な時代の要求に応じるのである。運命観は更に変化して倫理的な「義」が行動の原理として、美しい身の処し方として切腹のしきたりが流行する。
・ 室町時代の足利幕府の後期より、打ち続く戦乱の世相はもう絶対的な常なる浄土も考えない、世俗的な浮世が十五世紀を通じて拡散する。価値観が世俗化したことが中世の秋または近代の始まりだったのである。
・ 江戸時代に流行した草紙は平安時代の恋物語の流れにあるが、心中と言うファッションが流行した。西方浄土への信仰だけを残しての世俗化、脱宗教化は室町時代からの流れにあった。心中はもはや宗教心から来てはいない。流行の俗なる願いである。幕末には国体ナショナリズム思想である尊王攘夷運動でストイックな道徳を唱えた吉田松陰は長州藩士の精神的指導者で多くの志士を育てた。来世を信ぜず従容として死を受け入れ、そして留魂を願う。そういう死の形が幕末において完成を見たのである。これも古い魂信仰である。
そして明治維新は廃仏毀釈とキリシタン弾圧から始まった。キリシタン政策は明治6年に撤廃され、神祇省は廃止されて尊皇攘夷運動は終結する。富国強兵政策に転換して以来、洪水のような西欧文明の輸入が開始される。学校制度と徴兵制が発足した。民権運動や思想的混乱のあとに、1989年欽定憲法発布によって日本は擬似宗教的国家体制(神聖国家)という国体が形成されるのである。富国強兵政策は日清・日露戦争に勝利し不平等条約の改正に成功して一応の成功を見る。しかしここから日本の国体は正念場を迎え、特攻隊と言う神聖国家の死花を咲かせるのである。戦争において日本の再生を信じて潔く死に赴いた人の意志は疑わないが、これは宗教的殉教者を生んだ。「天皇陛下万歳」はアラブ戦争における自爆テロに相似する。神聖国家は敗戦とともに米軍によって破壊された。戦後は「民主化」「平和」「人道」「近代化」が世のスローガンになった。マルクス主義が流行したのもこの時期の特徴である。しかし変らないものが有る。日本人の死生観は死と生の間に明確な区別を設けないことに特徴があり、死ねば魂は近くの山に帰るのである。  
 
「死者の書」 折口信夫

 

著者折口信夫氏はいうまでもなく古代の民俗学的探求の泰斗である。本書は1939年(昭和14年)に刊行された古典といっていい書物である。「死者の書」というと、いかにもエジプト的な霊魂の神秘書かと思われそうな題名である。しかし折口氏の研究手法は「過去には過去の法則がある」ということである。大化の改新でなくなった天智天皇系近江朝貴族の皇子(大津皇子)が古墳の闇から復活して、百年後の奈良時代の藤原家の藤原郎女と交感するという幻想的な書き出しで始まり、藤原郎女は藕(ハス)糸布に山越え来迎図(阿弥陀図)の作成で答えるという筋書きである。小説の背景というか起因は日を拝む信仰に始まる「日想観往生」と「山越え阿弥陀来迎図」にある。 逆にいえば、小説はこれを謂わんが為の筋立てと解釈できないことはない。
折口信夫が本書に「山越しの阿弥陀像の画因」と題した小論を掲載している。そこに日本古来の思想というべきものの通奏低音を「渡来文化が、渡来当時の姿をさながら持ち伝えていると思われながら、何時しか内容は、我が国生得のものといり替わっている。そうした例の一つとして日本人の考えた山越し阿弥陀像の由来がある」という。この考え方は日本政治思想史学者の丸山真男氏の論点と同じである。丸山は入れ替わるとまでいっていないが、輸入外国文化の基調にいつしか古い日本的な思想が通奏低音のように流れ込むと表現している。基本的には同じような表現である。この小説の舞台は律令制中央集権国家の奈良時代であるが、飛鳥以前の日本古来の信仰が底流に流れているさまを小説仕立てにしてある。昔から日本人は死者の霊魂はいつまでも近くの山に漂っていると信じているそうだ。村松剛氏の「死の日本文学史」では「最初の死生観の大きな変化は7世紀の後半から8世紀の天皇集権律令制の確立期である。丁度柿本人麻呂の生きた時代である。数多くの鎮魂歌を人麻呂は作っている。人麻呂の死は708年前後と言われるのだが、火葬が最初に行われたのは続日本紀によれば700年である。7世後半より葬儀の簡略化が始まった。646年には薄葬令で、殯(もがり)を営むことは禁止され、陵墓の大きさも厳しく規定された。これは天皇制中央集権の確立が諸豪族の葬儀の規模を制限したのであるが、もがりの復活信仰の衰微を前提とした。古代人には「みまかる」「ゆく」に代表されていたが、万葉集にも「死ぬ」という言葉はないのである。しかし「もがり」が廃止され火葬が一般化されるにつれ、「みまかる」「ゆく」に替わって「死」が現実化する。死という漢字は人の残骨の形である。大伴家持の死のイメージは火葬の煙となって戻らない花になるのである。そして長歌という歌のスタイルも柿本人麻呂とともに生命を終える。」という。つまり古代人は復活信仰をもっていた。仏教の伝来とともに律令制の儒教合理主義により死者は行き場を失い、焼かれてしまうのである。これでは復活は出来ない。大伴家持の奈良時代には仏教を媒体とする無常観が浸透した。無常観の深化は地獄のイメージの鮮明化と共にしている。奈良仏教は唯識論、華厳教などを中心とする形而上学が流行し天皇家や藤原貴族は深く仏教に帰依した。浄土への願いが浸透するのは平安時代である。源信の「往生要集」では現世は「穢土」で浄土のみが実在である。「厭離穢土、欣求浄土」がスローガンになった。源氏物語は浄土信仰の初期に書かれ、平安宮廷の文学は浄土信仰が地を蔽うまで、中空に咲いた幻花である。浄土信仰が確立すれば死の問題は全て仏教に帰することになる。この「死者の書」に書かれた奈良時代に藤原南家の郎女が大津皇子の面影を「山越し来迎図」に固定したというのは、多少時代考証的にはおかしな話となっている。阿弥陀来迎図は浄土信仰が定着する平安時代のことで、大伴家持の奈良時代のことではない。といったさかしらなことは言わないでおこう。著者は言う「歴史に若干関係あるようにみえようが、いわば近代小説である。しかし、舞台を歴史にとっただけの近代小説というのでもない。近代観に映じたある時期の古代生活といってもいいものだろう」。この小説で論じられている古代人の信仰テーマには、「死者のもがり復活信仰」と女の「やまごもり」「野遊び」「女の旅」とか「日祀り」「社日参り」「日の伴」といった太陽信仰が基調となり、それらが小説で綾なされて「日想観」「彼岸中日の日祀り」「四天王寺の極楽東門信仰」「西の海への入水死」が「山越え阿弥陀像」に結実していったのだろう。阿弥陀三尊図の下部を西方の山の図で覆っただけの話である。これは日本人でなければできない阿弥陀像の改変だそうだ。
以上が本小説の思想的(日本人の深層心理)背景である。最初から舞台裏をばらしたのでは小説を読む人の楽しみを奪う行為となる。多少は小説の筋を追ってみることで勘弁してください。第一節では壬申の乱で謀反の罪で殺害され二上山の墓に埋められた天智天皇の大津皇子が復活するという恐ろしく幻想的な出だしである。第二節ではめざめた死者が魂呼ばいの修験者の声に和する超現実的な力を我々は体験する。第三節では藤原郎女が万法蔵院(古山田寺)にはいり結界を侵す。第四・五節では大津皇子がいわれの池で殺害されるときにチラッと見た耳面刀自の数代あとの娘が藤原郎女にあたるという因縁がのべられる。復活した皇子が郎女に交感するのである。第六節には藤原南家の主仲麻呂(郎女の父)が政変で大宰府に追いやられ、今は難波に戻っていることのいきさつが述べられる。第七節では藤原郎女の失踪事件(万法蔵院へ)が発生し「春の野遊び」か神隠しかと都では大騒ぎ。第八・九節で大伴家持と藤原家の実権を掌握した恵美押勝がのどかな奈良の都の時代風景を語る。第十節では藤原郎女の貴族としての教育と妻どいの風習について語られる。第十一・十二・十三節では藤原郎女の称讃浄土佛摂受経千部写j経の願が成就し家を出る話である。第十四節では恵美押勝の栄華が語られる。第十五・十六節では藤原郎女の万法蔵院での忌期間の滞在は長引き、季節は春から初夏へそして彼岸へ移ってゆく。第十七・十八・十九・二十節では大津皇子が藤原郎女に現れ、その俤を慕って藤原郎女は藕(ハス)糸布を織って彩色して山越え阿弥陀像を描くという筋立てになっている。  
 

 

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