言語・文学・日本語 [1]

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書評 / 本の水脈未来は霧の中トラウマ図書館恋の波夏目漱石井上靖
 

雑学の世界・補考   

21世紀の漢文 / 死語の将来

其の一
はじめに
パリ大学をはじめとして、のち国立高等研究院の宗教学部でフランス人の学生たちに漢文入門講座を担当しだしてから、早くも15年以上になる。1年間で終わるこの入門講座は、大学で「日本文学」という専門コースを選んだ学生にとって必須科目なので、パリ東洋語学校の学生を含めて、毎年10人位を相手に講義する。
担当者として、日本語の学生に漢文を教えることの主な困難は、まず漢文の勉強の必要性を理解させることである。ここで漢文というのは、いうまでもなく中国の古語(中国語では「文言」と呼ばれるもの)を指すだけでなく、歴史を経て日本語の発音と文法に順応させられた、「返り点」を使っての「訓読」を中心にした日本独特の言語現象を意味するので、この言語現象に対する一般学生の反動はもっとも当然であろう。つまり「日本語を専攻している僕等がいったいなぜ漢文のようなややこしいものに煩わされなければならないのか。つまり古典中国語を読みたいなら、中国語を直接に勉強した方がずっと分かりやすいのではないか」等の意見がしばしば聞かれる。長年の経験から、私は最近、まず講義を始める前に「漢文の弁護」とも名付けられる短い話をすることにした。
そこで、誰でも分かる簡単な譬喩で説明する。もし日本歴史の初期から明治時代まで文字で表記されたすべての文章を、漢文か仮名まじり文で書かれたものによって二つの部分に分けた上、それぞれを天秤に乗せるならば、漢文の塊の方が仮名書きの塊よりはるかに重いという事実に注目させる。ということは、広義の文学、すなわち詩や美文だけでなく、医学、数学、工芸などの技術と科学に関する文章や古文書と碑文の様な史料を含めた意味の日本文学を顧みると、漢文で書かれたものがその大部分を占めていることがわかる。それが故に日本人が作った漢詩、歴史、美文の漢文文章はともかく、一般の明治以前の社会の勉強を目指す学生にとっても、漢文の知識が不可欠だということで話を結ぶわけである。
今日でもフランスの中学校でラテン語の教育が行われている。17世紀までのヨーロッパに於ける学問の共通言語としてのラテン語と東亜に於ける漢文の位置を比較すると、学生たちは何となく漢文学習の重要性を納得するのであるが、なぜ「訓読」というとんでもない読み方に従ってそれを解読せねばならぬかという理屈を分からせるのはなかなか困難である。そこで、私は次の三つの理由を並べて、訓読の価値を説明する。

第一の理由は、日本語学の範囲を超えた一般的な学問上の論拠である。すなわち、寡聞ながら、返り点による日本式の漢文訓読に類した言語現象は東西にわたってどこにも存在しないものである。朝鮮半島とベトナムで漢文が存在していても、その読み方はむしろ日本でいう素読や棒読みに似たものであり、朝鮮漢文の場合、送り仮名に近いものがあるが、返り点は使わない。また返り点の起源について、確かに古代朝鮮説が有力であるが、それがかなり早い時期に放棄され、より簡単な仮名まじりの棒読みが広がったために、返り点付の訓読を現代まで生かしたのは日本だけだという事実は否定できない。したがって、その言語現象は唯一無二のものであるだけに学者の注意を引くに充分である。いわば、一つの文法に随う書面言語(古典中国語)が、もう一つの、文法的には完全に違う口頭言語(日本語)で表現されるという不思議な工夫が日本式の漢文である。類似した現象を全ユーラシアに探してもなかなか見つからない。敢えてそれに近いものを見出だそうとすれば、古代中近東のヒッタイト文字と、中世ペルシャのパフレビ文字の例が挙げられる。前者の場合、セム語族が表記するアッシリア・バビロニアの楔型文字を借りて、インド・ヨーロッパ語族に属しているヒッタイト語の言葉でそれを口頭で読んでいた。日本語でいえば、漢字で「山」と書き、読む時は「やま」と発音する習慣に非常に近いと思われる。後者の場合、やはりセム語族が普段表記するアラム文字をインド・ヨーロッパ語系の中世ペルシャ語に当てはめられたものであるが、先の楔型文字と違って、アラム文字がアルファベットであるにも関わらず、パフレビ語話者がそれを表意文字として利用することはなかなか興味深いものである。平たく日本語でいえば、ローマ字で「mountain」と書いて、それを「やま」と読ませる様な工夫と変わらないのである。その二つの場合も、日本語の漢字の音読と訓読の方法に酷似しているが、日本式の漢文訓読、すなわち漢文の「読み下し」とは本質的に違うことに留意しなければならない。
もう一面から見ると、蒙古の仏教寺院で行われていた僧侶の教育方法には、日本漢文の訓読に漠然と似た練習があったそうである。20世紀の蒙古の偉い学僧の回顧録を読むと、子供時代の仏教経典が読めるまでの勉強を描写する場面が出てくる。蒙古人にとって聖語だったチベット語を把握することが優先であったので、その目的に達するためにかなり有効な練習法を発展させた。初心者の小坊主が先生のもとで、まず経典の原文をチベット語で一句ずつ読み、次にその一句を蒙古語に翻訳させられる。また逆に蒙古語訳を読み、それをもとのチベット語に直させる。そういう集中的な訓練をして、蒙古の学僧たちが自分の母国語より、学問の聖語だったチベット語で驚くべき量の論文を数世紀かけてしたためた。奈良時代の大学寮で行われた漢文教育がその方法に近かったのではないかと、私は時々想像するのであるが、蒙古寺院の場合、漢文訓読との著しい相違は蒙古語(蒙古文字)とチベット語(チベット文字)がはっきりと区別されていることである。日本の漢文では、完全な二重的構造を有する一つの言語であることを強調しなければならない。奈良時代にはまだそうでなかったと思われる。古典中国語で書かれた文章をまず当時の中国の発音になるべく近い音で読み、次に当時の日本語に口頭で直す習わしであったそうであるから、蒙古の僧侶の練習に似たものだったかも知れないが、後期に行われた日本式の漢文訓読とは非常に違う。そういう理由だけでも、言語学、文字歴史、あるいは広く人間の精神史、文化史に興味のある人ならば、独創性の強い日本式漢文を一応勉強する甲斐があることが明白になる。

二つ目の理由として、より直接に日本文化史と関係している。日本の古典の文化を支えてきた古代中国人による古典中国語の「四書五經」などは中国語のままで読めば忠実な理解が得られると常識として考えがちであるが、そこでもヨーロッパ文化史と實相を比較すると、その常識だけでは足りないということが分かる。たとえば誰かがプラトン哲学を真面目に勉強しようとする。もしその人が古典ギリシア語を知っているならば、プラトンの作品を直接に熟読し、あらゆる資料を参考にすることによって、プラトン自身とその時代についてできるだけの知識が得られる。それはもっとも効果的な方法であろう。もしギリシア語の知識が皆無であれば、フランス語、ドイツ語、英語などで出版された翻訳を集めたり、それを比較しながら自分なりの解釈を立てるのも、現在の哲学の一段階としては、それだけの価値を有するもう一つの方法として可能性がある。それに対して、ルネサンス時代のヨーロッパにおけるプラトン哲学の受容と展開を研究しようとするものであれば、前の二つの方法はどちらも無駄になる。この場合、まず不可欠なのはフィレンツェのマルシリオ・フィチーノによって15世紀に行われたプラトン全集のラテン語訳を熟読する事である。現代的な方法に随う校訂者が出版したプラトンのギリシア語原文も、またその原文を基準にして行われた現在の翻訳もそういう勉強にはあまり役に立たない。ルネサンスの当時に流布した写本を使い、当時の理解に基づいたフィチーノのラテン語訳か、また当時その翻訳からヨーロッパの話し言葉(イタリア語、フランス語など)に直されたプラトンの重訳を参考にしなければ、目指している研究を有意義的に果たせないことは論を待たない結果である。
日本式漢文もまたしかりである。例えば江戸時代の儒教史を勉強しようとする学生にとって、春秋時代の古代中国語をなるべく忠実に訳述した英・仏語の現代訳や古代中国の歴史と言語を標準にする解釈だけを利用するだけでは、江戸時代の儒教者の解釈が分からなくなる。簡単な例を挙げると、論語の最初にある名文「孝弟也者其為仁之本與」の後半を「それ仁のもとたるか」または「それ仁をおこなうのもとか」のどちらかの訓読にしたがって読めば、意味が多少変わってくる。江戸の儒教者の注釈史を目指す人は、まず顧みなければならないのがその人の訓読の仕方である。論語の場合、前漢の時から出来た集成の原文が一方に存在する。それを早く言えば永久不変の文章であって、それをなるべく正しく理解しようとすれば、春秋時代の中国語から漢朝の思想史までの研究をもとにして勉強を進めなければならない。もう一方、日本の思想史に包摂された論語の受容に重点を置こうとすれば、ある程度まで(あくまでもある程度までであるが)原文中心主義的の「偏見」をさて置き、その代りに歴史を経て変遷した日本人的な訓読(読み下し)を重視しなければならないのも最も当然である。
普通子音だけで表記するアラブ語やヘブライ語では、母音を言葉の上下に小さな点と線で書き加える。アラブの文法学者はその母音の役割を、骨である子音に対して血か魂に例えるそうである。骨の間に血が流れるとようやく言葉が生きてくる、という象徴に富んだ譬喩である。日本式訓読の場合、日本人にとって漢文の原文を生かしている力は返り点と送り仮名である。まさに漢文の血または霊魂に喩えられる。中国人、少なくとも古典的な教育を受けた中国人にはもちろん白文で充分であるが、日本人にとって訓読という媒介がなければ、文章が死んでいるとも言えよう。それ故に、一定の時代の日本における中国文化の影響を理解しようとする人には、その時代の訓読をも顧みる必要がある。

第三の理由は日本人によって作られた漢文の作品に関するものである。いわば、第二の理由の対称と言っても良い。元来中国人の頭でしたためられた文章を日本人の語感に移す過程としての訓読に対する段階、日本人の頭でできた文章を今度は古典中国語に直す段階である。漢文から訓読への移行が逆に訓読から漢文への移行となる。この場合、日本式の漢文訓読を充分に勉強する必要はそれ以上論ずるに及ばないが、日本語の読み下しでなければ、その文章のリズムや余韻などを味わうことが不可能になり、また、和臭漢文、変体漢文になると、日本式訓読が第一の条件になってしまう。私のように、日本天台宗の論義に興味のある人ならば、数多い論義集を正しく理解するために、日本語で読まなければならない。私の講義に出席する中国語の学生にとって、古典中国語の知識だけで、日本の資料を読もうとすれば必ず誤解が生じる。例えば、室町時代の「柏原案立」という論義集の冒頭にある句を引用してみると、「二佛並出不可有云事」(二佛並出あるべからずということ)の前半には「不可有」まで中国語で解読しようとすれば、あまり問題はないが、後半の「云事」が前半にどういう風に連なるかと正しく判断するために、日本語の訓読「ということ」にしなければ、とんでもない意味になってしまう。無理に「二人の佛陀が同時に出てもいうことができない」というようなわかった様なわからない文になる。正しい漢文では、この文は「所謂二佛不可並出者」のようなものになると思う。弘法大師の美文「三教指歸」はもともと何語で読むべきだったかさだかでないが、かなり早い時期から日本の僧侶が漢文の原文に素晴しい読み下しをつけたので、その日本訓読をもって読まなければ、文学的にも、思想的にも誤解の生ずる恐れが大きい。

以上の三つの理由を並べて、漢文入門の講座を受ける日本語科の4年生に日本漢文の重要性を心得させる。ほかにもいくつかの理由が上げられる。特に平安時代からはやりだした和漢混淆文から、第2次世界大戦まで学問、歴史、法律などの専門分野に認められた「普通文」に至るまで、また場合によって幸田露伴のような大作家の文体を充分に鑑賞し分析するために漢文訓読の基本知識が非常に重要な道具であることを理解させ、講義中に文例(たとえば露伴の「運命」の初頭の部分)を見せる。
前にも書いた通り、学生たちに東亜に於ける漢文の地位と、欧州に於けるラテン語の地位とを比較してみせると、一見してごく不自然に見えた日本漢文の現象が初めてより広く、ユーラシア全体の枠に位置付けることができる。極東の漢文=欧州のラテン語という簡単な方式が成立した以上、やはり比較を他の文化圏に広げようとしてみるのは、おのずから合理的な方法と思われる。言語文化史の観点よりユーラシア大陸の文化の歴史的展開を一瞥すれば、興味深い事実が目につく。非常に古いスメル文明やエジプト文明の時代から、現代のアラブやイスラムの世界に至るまで、そのもろもろの文化圏はみな、普段の話し言葉と相当離れた形をもち、どんな民族にも属していない伝統的なまたは聖なる性格を有した言語を専ら使用してきた。ヨーロッパでは17世紀から、東亜では20世紀に入ってからようやくその情勢が変わったため、わずかにこの2、3世紀の新しい状況に慣れてきた多くの人々が、5000年間ユーラシアを支配していた文化情勢をあたりまえと思わなくなった。5000年の間、司祭、学者、文人、官吏は自分の民族の話し言葉とは直接関係のない言語を採用して、大事なことをつづるためにそれを使用してきた。その文化現象を、私は敢えてhieroglossiaと呼ぶことにして、日本語では「聖語制」と呼ぶことにした。必ずしも適する呼び方でないかも知れない。「聖」と言えば、宗教的な次元と密接につながりすぎる嫌いがあるが、ここでは「俗」の反対語と考えていただきたい。
このような「聖語制」という現象を出発点として、ユーラシア全体の文化をより総合的に考えられるのではないかと私は思う。特に俗語と聖語の関係、後者の前者における影響とその逆の影響を調べると、いろいろな共通点が現われてくる。言わば、仏語、英語、独語に於けるラテン語の影響と、日本語(韓国語、ベトナム語)に於ける漢文の影響が立派な比較研究の対象になりえると私は確信している。
残念なことに、その聖語制はいまだに総合的な研究の対象になっていない。なぜ無視されていたか、その理由は非常に簡単である。そのような研究を行うはずの言語学者が原則として、生きている言語のみを研究の対象としているという方法的前提なのである。「自然言語」、すなわち生まれながら両親とまわりの環境から身につけた言葉だけが科学的な研究の価値があるという妙な偏見が言語学の方法論に強く傾いているのは否定し難い事実である。古代から生存し、豊富な文化上の役割を果たしてきたもろもろの古典語(聖語)が「死語」という呼び方で侮られて、文献学者の専攻に任せられるようになった。最近の言語学において、確かにラテン語の研究が盛んになってきたように思われる。学会、論文集、単行本でもラテン語を扱う研究活動が少なくないが、そういう研究は飽くまでもラテン語がまだ生きていた時代の現状しか顧みないものであり、むしろ言語学の新しい学説を、そしてラテン語を実験台として試してみるのが目的である。中世、近世のラテン語を蔑ろにするものである。が、それと対照的に、インドのある言語学者が現代サンスクリット語を調査して、それについていくつかの研究報告を発表したが、まだまだ限界のある傾向を見せているのである。「死語」の中で、現代サンスクリット語だけが特別に言語学者の注意を引いた理由として、インドの人口調査に依ると、今でも数千人のインド人(主にバラモンのカースト出身)がサンスクリット語を母国語と申請した事実があるかも知れない。この様な統計はどこまで信頼できるか疑わしいが、現在に於いてもサンスクリット語を現代語の如く話す人がいることは正当な言語学研究にふさわしい対象と言えよう。
21世紀の漢文の可能性を述べる前に、東亜に於ける漢文というもの自身がいかにも独立した、いや変態な文化現象ではなく、ユーラシア全体に広がる「聖語制」の一角とみなさねばならないということを改めて強調したい。また面白いことに、数百年、場合によって数千年もの伝統を保ってきたその「聖語」の中には、最近驚くべき復活過程を経ているものもある。この復活過程を一番忠実に反映している情報手段は他でもない、インターネットである。たとえば、英語でOldTonguesRevived(復活された古代語)という単語で検索してみると、世界中の学者や愛好者が普通「死語」とされているいくつかの言語に新しい生命力を与えようとする努力が明らかに存在しているのである。インターネットという最も現代的な手段が古代言語の復活に利用されるという意外な展開であるが、無視することのできない事実である。
これからいくつかの「死語」の生存と復活の諸相を調べた上、その復活運動の中で漢文が国際的にどんな役割を果たしているのであろうか、そしてインターネットという革命的な新情報手段がどういう風にその復活を助けることができるかという問題に言及したいと思う。
「死語」の生存と復活
先ず蛇足かも知れないが、誤解を避ける為、「死語」の定義について一言述べておこう。今の日本語、特に新聞、雑誌、テレビでは、「死語」を「昔はよく使われて、現在は流行らなくなった単語または表現」という意味だけでとらえ勝ちである。たとえば、「文化包丁」、「モボ」、「モガ」、「アドバルーン」というような単語がこの定義に応じる狭義の死語である。その意味では「廃語」という単語を使った方がよろしいのではないかという気がするが、習慣に逆らうことは難しい。それに対して、広義の方が西洋語(仏languemorte,英deadlanguage)の直訳として、恐らく「死語」の本来の意味であろうが、「現代使われていない言語」である。もちろん、ここでは後者の意味で「死語」を使うことにする。
もう一つの区別を加える必要がある。「死語」の範囲には二種類の言語が入る。古代に開花した文明、文学の言葉として盛んに使われた言語が、その文明の滅びるとともに消えてしまった死語である。先に言及したスメル語、アッカド語、ヒッタイト語、エラム語等々が第一種類であり、文字通りの死語に違いない。現代人には、その諸文明の末裔と自称するものがおらず、だれもその言語を自分の伝統的な財産として生かしたり、復活させたりしない。たまたま風変わりな学者が遊びとしてその種類の言語を現代的に生かそうとしており、たとえばあるフィンランド人の言語学者がエルヴィス・プレスリーの歌をスメル語に翻訳して、CDまで出したという話があるが、それはあくまでも学問上の奇癖にすぎない。そのたぐいの死語にはここで触れないことにする。
第二種類は、もう普通の話し言葉ではなくなったと同時に、ある形では現代人によってまだ言語として使用されるものである。その使用にもいくつかの違う形があると注意しなければならないが、その点はあとに論じることにする。先にも述べた通り、この場合には死語という名前は適していない、ただ一般の人(言語学者を含めて)がその単語を使っているのでここで使うことにした。皮肉的な呼び方とみても差し支えがない。特にヨーロッパで死語と呼ばれているのは古代ギリシア語とラテン語であるが、あとで示す通り、ラテン語が「死語」の中で一番生命力を有している言語である。そういうことから見ると、この第二種類の死語が、むしろ「ほとんど文章だけに使用される古代言語」と呼んだ方がいいと思う。しばしば(特にサンスクリット語、ラテン語の場合)その書き言葉専用語が会話、講義、宗教論の為、口頭上の役割を果たしているが、この口頭の形が書面の言葉を標準にしているので、口頭言語の次元が完全に二流的である。現代に生きている「死語」がほとんど書き言葉であることに注意されたい。
また注意したい点がある。「死語の復活」という現象をそれぞれ特別な形で代表する二つの言葉にはここで言及しないことにするが、それはアラブ語とヘブライ語である。周知の通り、ヘブライ語は今世紀の一種の言語的奇蹟としばしば言われてきた。2000年以上前から言語学者の定義に従えば「死語」と呼ばれるべきこの言葉が、20世紀に入って、政治的、文化的にも多様多彩な過程を経て復活し、イスラエルという新国家の国語となった。国語になってから、世界の各国からイスラエルに移住してきた人々の話し言葉として使用され、2、3世代だけで、生まれてから両親と周りの環境の中で学んだ他の国の言葉並みにその人々の母国語になり得た。生語になったので、現代ヘブライ語がこの話しの枠外にあるが、これだけ注意しておきたい。一般人の話し言葉でなくなった(正確にその時代がいつだったのか定められないが、大体の学者は紀元前後を指している)ヘブライ語は口頭言語でなくなっただけで歴史から消えたという妙な(言語学的な)偏見のせいで、この2000年の間の発展が無視され、いかにも晴天霹靂のごとく死語の状態から蘇って、紀元前後に消えてしまった言葉が300万人の日常言語に変身したという錯覚に陥る人が少なくない。ありていにいえば全然違う。まず現代ヘブライ語は聖書に使われた古代ヘブライ語とずいぶん違うものである。その違いを浮き彫りにする為、ある人が現代言語を「ヘブライ語」でなく、「イヴリット語」と呼ぶ程である。ヘブライ語からイヴリット語への変化過程を理解しようとすれば、ヘブライ語がもっぱら書面言語であった2000年の歴史を無視することができない。中世時代のユダヤ人の宗教家、哲学者、詩人の功績を経て、19世紀になってヘブライ語を自分の作品に選んだ学者、小説家、新聞記者の業績に至るまで、普通の言語学の観点から「死語」と呼ばなければならないこの言葉が驚く程の生命力を顕わした。宗教儀式以外にほとんど口頭には使用されなかったこの言葉が普通の話し言葉並みの変化を示していたと認めざるを得ない。文法から見ると、動詞の活用(特に時制)も、所有代名詞の系統も、名詞の限定の系統も、聖書のヘブライ語と比べるとたいへん変わってきた上、語彙の面も、新語、外来語、意味展開のいろいろな発展が、「生きている言語」とまったく同様に、その長い歴史を経て示された。20世紀の話し言葉としてのヘブライ語の復活が奇蹟的に見えたのは、この2000年の書面言語としての歴史が無視されたからである。しかし、現代のヘブライ語が話し言葉のイヴリット語としてまた言語学者の研究の対象になったので、ここで触れないことにした。
アラブ語も立派に生きている「死語」だと言わなければならない。周知の通り、アラブ語の世界は二つの次元を含む。一方は日常会話の手段となっている、アラブ各国でそれぞれ互いに違っている諸方言である。大雑把に言うと、シリア、レバノン、アラビア半島、エジプトなどの東の方言群と、モロッコ、アルジェリア、チュニジア、すなわち北アフリカの方言群との二大部分に分けることが出来ると思う。アラブ人の本当の母国語であるもろもろの方言は比較的に少ない例外を除いて、文面に表わされていないものである。もう一方、日常の生活を超えた次元の話題について、例えば宗教的、学問的、哲学的な問題を口頭で扱う時には、同じアラブ語と言いながら、違う次元の言葉を使用しなければならない。それは古典アラブ語、または筆記アラブ語、書面アラブ語などと呼ばれ、コーランが出来た7世紀から数世代の間に文学言語として開花した古代アラブ語とさほど変らない言語である。いくつかの発音上の習慣が13世紀の間に変転したとはいえ、文法的にも多少簡単化されたが、数多い現代用の新語を除けば、今日刊行されているアラブ世界の新聞、雑誌、書物のすべての文体は古代のと大同小異である。またアラーの神の言葉そのものとされているアラブ語は、アラブ諸国を超えてイスラムの布教により、非アラブ語圏の国々にも波及し、そこで本当の意味の聖語制hieroglossiaが支配したと言える。アラブ語が聖語であり、その国の本来の言葉、すなわちペルシア語、トルコ語、ウルドゥー語等々はアラブ語を最終的指南にしている俗語である。
アラブ諸国で見られる言語状態は明白に英語でいうダイグロシー「二重言語制」という現象に当たるので、私のここで扱っている「死語」の生存とはかなり違う気もする。日本と比べると、20世紀初期まで使われていた書面言語としての文語と口語の違いと見た方が適当である。もう一面、加えて述べてみると非アラブ諸国で行われているアラブ語の使用が私の対象にしている「聖語制」に当たるとは言え、他の場合よりかなり複雑、かつ曖昧なので、アラブ語の専門家に正確な評価を任せた方がよろしい。
ヘブライ語の2000年の歴史を無視して、あたかも20世紀に話し言葉として突然復活したごとくが奇蹟と看做されたように、今日行われた数多い古代言語の復活の試みにしかるべき注意を払わなければ、将来起こりうる幾つかの「奇蹟」に驚かされるかも知れない。
次に、日本でもいろいろな角度から批判の的となっている漢文、特に日本式の漢文訓読はより広く、全ユーラシアに渡っている文化現象の一面に過ぎないという事実を明らかにしたいと思う。
現在観察されうる古代言語の復活運動は、その性格と原因によって区別して次のABC三組に分けることができるのではないかと思う。
A.昔、他の民族と言語の政治的、文化的な圧迫のため完全に消えた言葉が、その話者の子孫によって、主に自己意識を元に現在復活させる。そういう言語は完全に断絶されたために、滅びた時から再び使用される時までの間、筆記言語としても使われたことがなく、その場合全くの復活とみなしても良いと思う。その点では他の二種類と性格が多少違う。また、政治的な動機も無視してはならない。この種類の言語として、次の二つだけ挙げておこう。
1.コーンウォル語(コーニッシュ語)は、英国のコーンウォル地方に1800年頃まで話されたケルト系の言葉で、現在数万人の話者を有しているフランスのブルターニュ地方のブルトン語に非常に近い。中世時代に話されたようであるが、文学作品は非常に少ない。英国の他のケルト系の言語、すなわちスコットランドのゲール語とウェールズのウェールズ語が(後者の方がコーニッシュ語に比較的近い)古い文学(ゲール語の中世文学がアイルランドで黄金時代を迎えた)を誇り、現在でもそれぞれ違う形で生きているのに対して、コーンウォル語を母国語にしていた最後の女性が18世紀末になくなった時、この言葉が本当に死語になってしまったといってもいい。しかし、今日のインターネットを参考にすると、コーンウォル語の復活に関するサイトが数十箇所あるという驚くべき事実がわかる。その他にも、コーニッシュ語でしか書かれていない月刊誌が一つ、多数の教科書と書物が出版され、いくつかの会話クラブもできた。
コーニッシュという死語の復活運動がより広く、ケルト文化の復興という一般的な枠に位置付けなければならないと言っても、その復活運動に参加している人々の動機について決定的な原因を指定することは難しい。漠然ながらも、自分がケルト人の末裔の意識をもっている人であるならば、なぜ生きているケルト系の言葉を勉強して、それを復興することに全力を捧げないのであろうか。たとえば、消滅する寸前のスコットランドのゲール語をなるべく生かした方が文化上に役に立つのではないかという気がする。一種の流行の影響はコーンウォル語の場合には否定できない。また、合衆国の市民でありながら、コーンウォル出身者の子孫という自己意識のある人々が、インターネットのサイトから見ると、その復活に有意義な力を加えているようである。思うに、その復活活動の動因が文化的、知識的、精神的であり、またある意味の自己意識(アイデンティ)の象徴と言えるであろう。しかし政治的な要素が少ない。インターネットのお蔭か、昔の言語学の教科書で滅びた言葉の例としてよく挙げられるコーニッシュ語が、かなり限られた規模であるが、復活することのできた死語の例としてこれから挙げられるのであろう。
2.古代プロシア語。この言葉はリトアニア語、ラトビア語とともに16世紀から筆記されている所謂バルト系語の一つであるが、最近旧ソ連から独立したリトアニアとラトビアの言葉が数百万人の話者を誇っているのに対して、ゲルマン族、そしてスラブ族の侵略を受けたプロシアの言葉は18世紀からこの世から消えたので、それは古代プロシア語と呼ばれるものである。周知の通り、バルト系諸言語、特にリトアニア語は、スラブ語系に非常に近くありながら、古代インド・ヨーロッパ語と多くの共通点をもっている。ルーテル教の教理問答集やいくつかの語彙集でしか知られていない古代プロシア語がリトアニア語よりもたいへん古い単語と文法を伝えている。有名な例として、サンスクリット語のkrsna「黒」とほとんど同一の単語kirsnaを保ったヨーロッパ言語は古代プロシア語だけである。古いプロシアの地方に住んでいたバルト系の民族がゲルマン人やスラブ人と次々と混じってきたので、現在プロシア人であることがいったいどういう意味を有するのか分からないが、先のコーンウォルと同様に、その地方に住んでいる何人かの人々が古代プロシア語を復活させることに自分の使命感を抱いた。インターネットで調べると、PRUSAという会がそういう計画を実現するためにできたということが分かる。この会の会員の大部分の人々が言語学に従事しているらしくて、まずプロシア語の現代用語を作ろうとしている。プロシア語の現代語彙を成立させるために、一番近いリトアニア語をある程度まで見本にしているが、この二つの言語の間になるべく区別をしようとして、言語学の原則にしたがって「プロシア語らしさ」を忠実に伝えようと努力する。古くから数百単語しか伝わらなかった古代プロシア語に、他の言語並みに現在の世界に対応する数万語の語彙を作り上げることはいかにも風変わりな学者たちの遊びに過ぎないとかたづけられがちであろうが、この運動にも無視することのできない政治的な次元がある。インターネットのサイトを見ると、プロシア民族の国土として、ロシアの領土でありながらリトアニアを真ん中に挟んで地理的にロシアから切り離れているカリニングラード(カントの故郷として有名、戦前のケーニヒスベルク)の地方を要求していることが分かる。学問上の遊びと見なさず、ロシア、ドイツ、ポーランド、バルト諸国間の複雑な領土・文化紛争の一面として古代プロシア語の復活運動と看做した方がふさわしいかも知れない。今日カリニングラード地方をめぐって強まってきたドイツ人とロシア人の対立を突破するために、プロシア語復活運動ができたとも言えるが、所詮コーニッシュ語ほどに成功するかどうか疑わしい。
B.前の範囲が政治的、民族の自己意識を中心にしている現象であったのに対して、第二のはむしろ純粋な学問上の関心からできた「死語」の復活運動を含む。学者の遊びか、語学実験とそれを呼んでもいい気がするが、この方面の試みが飽くまでも書面またはインターネットの枠を出るはずはなく、政治的、民族的な動きに連なる見込みはまったくない。興味深いことに、インターネットができたからこそこのような実験ができたのである。インターネットがなければ、世界中に四散している当言語の専門家たちがおそらくそれほど簡単につながり、即席に自分の提案を実現させることもできないであろうし、また専門家以外の人にも彼等の業績に注目させることはできなかったであろう。非常に限られた範囲であるので、ここで短く2例だけを挙げよう。
1.一番驚くべき例がゴット語の復活運動である。この言葉がゲルマン系諸言語の中で歴史上最も古い跡を残したもので、はやくも4世紀にウルフィラという人物によってなされた新約聖書の翻訳が残された外、18世紀に東ゴット族の末裔がまだ生き残っていたクリミア半島でしたためた語彙集によってしか知られていない。最近、主に合衆国とスカンジナビアで活躍しているゲルマン語学専門の少人数の学者がインターネットでサイトを作り、それを通じてかなり面白い実用語学の実験が行われつつある。特に注目されるのは、この動きの裏には学問上の動機しかないということである。どう考えても、ゴット語を復活させて得られそうな政治的効果がないので、純粋な語学実験とみなすしかない。電子メールのことをsprautme、ljan、コンピューターをgarahnjaと訳して、現代生活を反映する多数の新語をつくる事は、その語学的遊びの楽しみの一つらしい。
2.1に酷似している古代英語(OldEnglish)の場合もある。インターネットに古代英語の日常会話(挨拶など)を教えるサイトが現われた。イギリスらしいユーモアをおびるもので、かなりアングロ・サクソン語の知識を必要とする言語遊びのようであるが、ある程度まで19世紀で始まった英語の本来の語彙から、11世紀のノルマン侵略とともに渡来したラテン・フランス語系の単語を淘汰する試みとつながっているのではないか。そういう意味で、世論調査に依る20世紀の最大英人作家J・R・R・トルキーンの言語思想とは切り離せない、いかにも文学的、いや時代小説的な娯楽とみなした方が適すると思う。
C.第三種類は前の二者と比べてはるかに広いものである。これをより正確に分析するのに、幾つかの下種類を区別する必要があるが、まず共通の定義を試みるなら、前両者との主な相違は、第三種類の言語が古代に遡る豊富な文学をもっているとともに、現代に至るまで絶えることのなかった伝統を特色としている。これらの言語は聖語として、文化集団の中心になっていると言ってもいい。聖語としては宗教礼拝の専用語の役割を果たしている限り、保存されてきたのに疑いない。たとえばソ連が滅びた後、古代スラブ語(教会スラブ語とも呼ばれる)が東欧のギリシア正教のスラブ言語圏で復興過程を歩んでいるように、また古代アルメニア語(グラバル)が20世紀初期までアルメニア文化の中心地であったウ[ンとベニスで書面言語として盛んに利用されて、アルメニア文化の現代化のため大いに活性化し、20世紀に地中海のほとりに離散されたアルメニア移民がいわゆる西アルメニア語と、本場のアルメニアに残った民族が東アルメニア語の両方言を使う様になり、古代語が今日ほとんど新作品と翻訳のために使用されなくなってしまったが、礼拝式用語としてアルメニア内外の教会に保存されてきたようである。それにもかかわらず私の知っている限りを述べると、次の二言語と違って、教会スラブ語と古代アルメニア語が復活の対象となっていないのである。
それに対して、シリア語とコプト語は生命力を取り戻しつつあると言える。両方とも非常に古い言葉である。紀元後2、3世紀に筆記される様になったシリア語が東アラム語の方言であり、その時から13世紀の蒙古侵略まで、キリスト教に染まり豊富な文学を生みだした。7世紀のイスラム台頭により徐々に中近東の話し言葉としてアラブ語が押しつけられたが、13世紀の博学作家バル・ヘブレウスがシリア語文学の最後を遂げたと一般に考えられていたが、旧東ドイツの学者マクッフ氏の研究によると、古典シリア語の文学が20世紀まで存続してきた事実が分かる。この半世紀にシリア語研究家として有名だった故アブロホム・ヌロ神父が古典シリア語で詩を即興的に作り西洋の学者を驚かせていた。それに加えて、最近の中近東における政治状態のため、レバノンのキリスト教信者による、古典シリア語が見直されるようになった。イスラム教徒とキリスト教徒との関係が悪化すると同時に、アラブ語がますますイスラムの専用言語とみなされるようになってきた。18世紀に始まったアラブ文学のルネサンスではレバノンのキリスト教の学者の果たした役割が非常に大きかったが、中近東のキリスト教信者の自己意識の象徴としては曖昧になってしまったと言える。また、レバノン人が好んでフランス語をつかっていたにも関わらず、植民時代が終わった後、ヨーロッパの言語としてのフランス語が中近東の民族に適しないという反感が強くなってきた。レバノンのキリスト教信者が非回教徒として自分が一応アラブ語の世界から排除されると感じるようになった(またイスラムの原理主義者がイスラム以外の人によるコーランの聖語であるアラブ語の使用禁止を主張することもある)。一方、非ヨーロッパ人としてもっぱらフランス語に頼ることも物足りないと思うのであろう。そういう両刀論法に挟まれるレバノンのあるキリスト教信者が古典シリア語に戻ることを主張しだした。特に80年代に戦争のためレバノンから亡命してアメリカなどに住み着いた集団の中に、アラブ語圏と縁が疎くなったので、シリア語を自分の言語にする傾向が目立つ。興味深いことにインターネットでは古典シリア語の会話講座が流されることがある。また、その運動における復興されたヘブライ語の成功の影響を無視することはできない。
シリア語はレバノンをはるかに超える広い地帯に渡る。カトリック(マロン教)、ヤコブ派、ネストリウス派などの色々なキリスト教の宗派の聖語となっている。非常に古い時期から南インドのケララ州に住んでいるキリスト教信者(昔は聖トマスのキリスト教徒という名で知られていた)の話し言葉がタミル語と同系であるマラヤラム語なのに、聖語は昔と変わらず古代シリア語に他ならない。最近までその地方の聖職者は、少なくとも礼拝式に参加する程度のシリア語の知識を身につけなければならなかった。学問を修めた僧侶たちがシリア語で自由に文章を書いたり、会話をすることもできた。そのため、19世紀になるとマラバル(ケララ州の別名)のキリスト教信者をわが宗派に改宗させようとして西洋からインドに派遣させた。そのカトリックやプロテスタントの宣教者たちには古代シリア語の知識が必修であった。しかし、ケララ州の本来のキリスト教集団の間では、礼拝と神学の用語としてその聖語を、州の公用語であるマラヤラム語に取り替えようとする運動が非常に強くなったため、限られた学僧と研究者の間だけにとどまり、シリア語の知識とその重要さの認識が徐々に減ってきたのは事実である。代々宗教を異にするゆえに、同じシリア語を聖語として使っていながら、相互関係がたいへん悪かったこの諸々の宗教集団が、かなりの親近感を抱く様になったことはこの時代の特徴と言えるかも知れない。特に欧米に亡命した人々の場合はそう言える。
コプト語は国際的な聖語とも称するシリア語とは対照的に、一つの民族と一つの宗派に限られていて、現代エジプト人の一割に達している。周知の通り、コプト語は聖刻文字で表記されていた古代エジプト語と根本的には違わない、聖刻文字からギリシア系のアルファベットに表記法を替えた言語である。紀元後2、3世紀ごろに流布されたこの言葉は、古代の多神宗教の象徴であった聖刻文字から完全に切り離され、そしてキリスト教徒の特別言語となった。文法上、古代エジプト語の最後段階を表記したデモチック文字の言葉に最も近い。3世紀から7世紀にかけて、ギリシア語のキリスト教文献の翻訳を中心として、豊富な文学が生まれた。また、コプト人自身が作った教会歴史、聖者伝に関する文献も多かった。7世紀のイスラムの侵略のため、シリア語の場合と同じく、アラブ語が政権の言語となった後、次第に日常の話し言葉の役割も奪われた。多くの言語学者に依ると、コプト語が息絶えたのは17世紀ごろであろうが、何人かの学者やコプト人の証言によると、コプト語をまだ話していた農村や家族が20世紀まで生存していたそうである。いずれにしても、古代エジプト語からのコプト語は、46世紀という世界一の長い生命をながらえた言語である。19世紀に、コプト教会はコプト語の知識を神父と僧侶の間に再び広げようとし、今世紀の70年代から積極的な復活運動が生まれた様である。勉強用の録音テープも作られたし、コプト学の国際会議に於いて、コプト語で発表するエジプト人も現われた。イスラム化が過激化したためエジプトから脱出するコプト人が増加し、欧米の国々に住み着くようになった為に、エジプトの国語であるアラブ語との縁が疎くなると同時に、コプト人の自己意識の柱石となるコプトのキリスト教とその聖語なるコプト語がおのずと重視されるようになってきた。コプト人の文化復興の大なる記念ともいうべき、アラブ語、仏語、英語の「コプト百科辞典」が出版された。
思うに、シリア語とコプト語の現状はイスラエルの国家成立以前のヘブライ語の状態にかなり似ている。母国の政治・経済的条件のために亡命し、西洋に四散した中近東のキリスト教徒にとって唯一の繋がりを象徴として残すのは聖語しかない。これからこれ等両言語がヘブライ語と変わらぬ素晴しい宗教的、哲学的、詩歌的な文学を生みだすか、あまりにも昔との条件が変わったとはいえ、インターネットで調べられたところでは、曾てなかった大規模の活躍が行われていることは否定できない。それにひきかえ、生存している古代言語の中でサンスクリット語は特別な地位を占めている。ここで挙げる言葉の中で国家によって正式に認められたのはサンスクリット語だけである。戦後、独立したばかりのインドがまず直面しなければならなかった問題の中で、言語問題が決して末梢的だったとは思われない。言語学者によって数百種類の言語を誇り(?)とするこの国に一つの公用語を決定させようと計画しいち早く断念せざるを得ないと見た政府は、ヒンディ語を一応国語と指名しながら、言語的に統一される国家ができるまで15ケ語を公用語にした。ヒンディ語、ベンガル語、タミル語、テルグ語など、インド・アーリャとドラヴィダの両系統に属している現代言語が主に代表される中で、驚くべきことにそれらと肩を並べて入っているのがサンスクリット語である。なぜ新しい国家がこんなに歴史の逆方向に向かう政策に乗ったかという疑問をインド内外にたちまち生じさせた。その決議の原因として、インドに於ける非常に複雑な言語状態が挙げられる。北方のインド・アーリャ系に属しているヒンディ語を国語にしようとする政策がドラヴィダ地方の南インドを中心に強い反対運動が起こり、その言語の対立を突破する言葉を探さなければならなかった。全国の具体的な用を足すため、止むを得ず植民主義の形見として残っていた英語をしばらく公用語として利用する他に統一する方法がなかったので、政治的にも文化的にも独立した新インドを統一するための要素を3000余年まえ印欧民族がもたらしたサンスクリット語に求めたのは実に珍しい発想であった。しかし實のところ、植民言語の英語と平衡をとる役割を果たす唯一な言葉がサンスクリット語だったことは確かであった。インド学者のピーエル・シルヴァン=フイリョザの言葉を借りると、「サンスクリット語はインドの統一された文化伝統を最もよく象徴するものである」。
サンスクリット語の現代的発展を遮るいくつかの困難がある。イスラムの侵略から比較的に守られた南インドのタミル地方には話し言葉としてサンスクリット語がバラモン族の間で最も流布されていたが、独立後に台頭してきたタミルの民族主義がまず批判の的に選んだのはタミル民族のサンスクリット化の前衛隊とみなされたバラモン人であった。また、タミル語に入っている数多いサンスクリット語を追い払おうとしている。その新しい過激主義によって、サンスクリット学問のとりでであったタミル州に於いて現在サンスクリット語の状態が危うくなっている。また、各州の学校教育に於いてインド政府は「三ヵ国語制」を実行しようとしている。その政策に随うと、インドの子供たちは学校で三つの言語を勉強しなければならない:すなわち、第一にその母国語(大体の場合、その州の言語にあたる)と、第二に臨時公用語の英語、第三に本当の国語にならんとするヒンディ語の 三ヵ国語を学ばなければならない。もしカルカッタの生徒の例をとれば、彼等は英語とヒンデ黷xンガル語を身につけなければならない。こういう「三ヵ国語制」の下では、サンスクリット語はどうしても第4位しか占められず、その立場が非常に弱くなり、充分な勉強の対象になり難い。
そういう困難にもかかわらず、サンスクリット語の復活は意外な方面で目に留る。以前から、インド国営放送局オール・インディア・ラジオが毎日サンスクリット語のニュースを流している上、一社の新聞と児童月刊誌を含めて数多くの定期刊行物も出版され、新しい演劇作品も上演され、流行歌も作られている。現代生活に応じる日常会話を中心とする教科書も編集されている。最近では、ヒンズー教系の過激派が発展するにつれて、宗教象徴としてもサンスクリット語が政治家に重視されてきた。
インターネットにも関連のサイトがいくつか作られたが、次に言及するラテン語と比べると、サンスクリット語の復興過程はまだまだ初段階にあるとしか言えない。
現在の段階で、「死語の生存」という現象を最も明らかにするには、敢えて言うならば、間違いなくラテン語である。インターネットでラテン語のサイトを調べると、他の「死語」とは比較できない程その言葉に捧げられたところが多い事実は否めない。数十箇所のサイトがラテン語で作られている上、独語、英語、仏語で古代ローマの歴史と文化を詳しく紹介するところも非常に多い。同様に出版物になると、ラテン語の定期刊行物は全ヨーロッパで五つぐらいしかないが、詩集は頻繁に出版され、諸国の文学からの翻訳も多い。「死語」の中では、ラテン語が「生きている」話し言葉に最も近い生命力を示していると言っても過言ではあるまい。いわば、話し言葉になる前の段階のヘブライ語の状態にあると言えよう。
次にラテン語の復活活躍を三種類にしたがって区別することにする。「復活」という言葉自身にもすこし反感がある。ありていに言えば、ヘブライ語と同様にラテン語の伝統がローマ帝国、いやローマの共和国の時期から絶えることなく一貫して続いてきた。昔から注意された通り、現在イタリアやフランスの中学校でラテン語を勉強する生徒たちは大学で学んだ教授にそれを教わる。その教授にラテン語を教えた教授自身もまた2世代前に学校と大学でラテン語を勉強した人である。また、そういう風に教授と学生の線を遡れば、ルネッサンスや中世を超えて一直線にローマ帝国の時代に至るものである。中国、韓国、ベトナム、日本に於ける漢文教育ももちろん同じく遠い昔に遡れる伝統を保っているが、フランスの場合、12歳から15歳までの生徒の1/4はラテン語を選択するので、まだまだ多かれ少なかれその長い伝統を汲むひとが多い。次ぎに三種類に分けてみる。
a宗教的な復興
60年代初期に行われた第二バチカン会議の名で知られるカトリック教会の宗教会議のおり、典礼の言語としてのラテン語の使用を廃止したとよく報告されるが、その言いかたは正確ではない。あの当時の決定は、ラテン語の使用と同時に、現在まで原則として望ましくないと見られていた「俗語」、即ち話し言葉の使用をも許すおもむきを示しただけである。ラテン語の使用を廃止する話はまったくなかったのだが、その決定に基づいて、諸国のカトリック教会がだんだん急進的な方向におもむき、俗語を優先的に使うことにした為に、60年代から70年代にかけてラテン語が教会の典礼からほとんど姿を消してしまった。私の経験から言うと、現在パリではラテン語で行われるミサを聞くことは不可能に近い。ただ第二バチカン会議の決定と現在ローマ法皇の権威を認めない旧派の唯一の教会だけが旧式の典礼を行っている。大衆の目に一番入りやすい儀式の面ではカトリック教会がラテン語を捨てた如くに見えるが、典礼ほど目立たない学問の面では教会におけるラテン語の立場が意外にまだ強いことがわかる。たとえばカトリックの根本的な教義を明確にするように、最近出版されたカテキズム(公教要理)の決定版がラテン語である。ローマ法皇の教書や勅書をしたためる神学者たちのため、現代社会を論じるのに不可欠なラテン語の新語を大幅に紹介するイタリア語・ラテン語辞典の上下巻もまた23年前にバチカンのラテン・アカデミーの保護下に出版された。
1999年6月に出たアメリカのタイム・マガジンの記事に依れば、合衆国のカトリックの世界では、驚くべきラテン語典礼の復興が行われつつある。90年代の始めごろ、全国のカトリックの司教区の中、六つだけがラテン語のミサを許可していたが、現在131の司教区がラテン語のミサを行っている、すなわちゼロに近いところから、全体の70%がラテン語にもどったことになる。
bラテン語教育者における復活
周知の通り、ルネッサンス時代が古典ラテン語に戻ろうとする言語純化主義の下では、なるべく文法的に正しいラテン語を会話にも使う努力がなされるという特徴を示している。その結果、学生を対象にラテン語の対話集が頻りに上梓された。中でも最も有名なのはエラスムスの著わした対話集「コッロクィア」であろう。その後もラテン語教育を中心に組織された耶蘇会の学校でもラテン語の戯曲が17世紀中に盛んに作られる様になったが、17世紀以後ラテン語を日常会話に使う習慣を少しずつ失っていった。その変化の一つの理由として、ラテン語教育の言語学化と文献学化を挙げることが出来る。黄金時代(紀元前1世紀)のローマ文学の文体を標準としたラテン語学者は話し言葉としてのラテン語の利用を益々いぶかしく思う様になった。毎日の会話では、言語学者が要求していた高い文法の標準が守られなく、かえって間違いの源泉になる危険性が強いと思われたからであった。故に、現在に至るまで、職業的なラテン語学者の世界では、教育方法としてのラテン語会話がほとんど皆無になってしまった。
20世紀の後期になると、数少ないラテン語の教授と学者がようやく教育の方法としての会話を見直してきた。一番組織的にそれを発展させたのが、疑いもなくドイツのザール大学の学者を兼ねカトリックの神父でもあるC・アイヒェンゼール(CaelestisEichenseer)先生であろう。先生は長期間かけて企画された「全ラテン語辞典」(ThesaurusTotiusLatinitatis)の編集を長年担当しながら、25年程前から毎年夏休みにヨーロッパの23ヵ国で「生きたラテン語ゼミナール」を組織して、集中講義の形で年齢を問わず全ヨーロッパから集まった20人ぐらいの出席者に朝から晩までラテン語会話を訓練させる。アイヒェンゼール神父の革命的な方法が少しずつラテン語の会話の復活に貢献しラテン語の専門家の注意を促して、今やヨーロッパの数ヵ所、たとえばドイツ、イタリア、スペイン、ベルギー、スイス、チェコ、ハンガリーなどでも類似したラテン語会話ゼミナールが催される。参加者の数は合わせて毎年200人を超えるであろう。
アイヒェンゼール神父の活動は欧州だけでなく、アメリカにも影響を及ぼして、4、5年前から合衆国のケンタッキー大学とミシガン大学で同じ様なゼミナールが組織されるようになった。特にケンタッキー大学のラテン語会話ゼミナールを担当しているT・タンバーグ(TerentiusTunberg)教授は最近の情報技術を巧みに生かして、独創的かつ画期的な雑誌を作った。それはレチアリウス(Retiarius)という題の世紀初めてのラテン語だけのインターネット・マガジンである。「レチアリウス」という題を選んだこと自体もまた非常に面白い。インターネットの「ネット」のほうが英語で「網」を意味するのは言を俟たないものであるが、ラテン語ではインターネットが「インテルレテ」とよく翻訳される。なおレテ(網)を語根にして、「網投げ闘士」という意味の「レチアリウス」をとったのは、インターネットでラテン語のために戦うという気持ちを含むのであろう。この電子雑誌が年に一度ネットに流されて、色々な分野にわたる内容の豊かな記事を流暢なラテン語で全世界に流すのである。ここでは渡部アキヒコ(ラテン語名はAccius)という若い日本人による芥川龍之介の短編「煙草と悪魔」のラテン語訳を記載するに止める。
cラテン語学者以外の活動
教会と大学の枠を超えて、目立つラテン語の復興活躍が多くの分野で行われることが「死語復活」の重要なる一面と見られる。特にヨーロッパ共同体が具体化されると同時に、早い段階から現われた共通言語の問題を解決するためのラテン語のもう一つの得点が浮き彫りにされてきた。共同体の参加国がまだ少なかった時代、スイスなどのような多言語国の組織の規模を拡大するだけで間に合うと思われたが、11ヵ国語が欧州議会で使用されている現在、唯一の通用語の必要性が痛感されてきた。ヨーロッパ以外の世界でも流通語になった英語の力が他の言葉を遥かにぬきんでている今日、欧州共同体も共通語としてそれを選ぼうとするのは当然な傾向と見えるものの、実際はそんなわけに行かない。欧州議会がもともとフランスとドイツの国境にあるストラスブールから、言語対立の激しいベルギーのブリュッセルに移された時、以前の通用語だったフランス語から概ね英語に取って変わってしまった。しかし多くの人には、英語をヨーロッパの公用語にすることがあまりにも合衆国の支配への降伏を象徴しているかのように見えるのを恐れて、最悪の政策として拒否される。それに対して本来のヨーロッパの共通語としてのラテン語に戻ろうとするかなり強い動きが注目される。その動きの源にはラテン語の教授以外の人が多い。たとえば、今ヨーロッパの首都とも言われるブリュッセルには、ギー・リコップ(GaiusLicoppe)という医者が非常に活動的にラテン語を活性化させようと文化センターを成立して、それを「ラテンの家」(DomusLatina)と名付けた(後FundatioMelissa)。このセンターはメリッサMelissa(蜜蜂)と題する季刊誌を出版している。その内容は多様多彩であり、投稿者はディルク・サクレのようなルネッサンス文学の専門家がいれば、ラテン語を愛好する神父、公務員などもいる。ページ数は少ないが、普通の現代語のマガジンを思わせる活発な雰囲気の読み物に違いない。通信購読でしか手に入らないが、全ヨーロッパに読者がいるだけでなく、インターネットのサイトも作った。
もう一つの独創的な復活活動として、フィンランド国営ラジオに毎週一回ラテン語のニュース番組がある。15分間だけの短い番組であるが、現在の世界を反映するのに必要な新語を広く伝える面から見ると、非常に重要な実験となっている。少し性格の違うアラブ語を除けば、ラジオ放送に通常使われる「死語」は恐らくサンスクリット語とラテン語だけであろう。その番組を作った人々の中に、ツオモ・ペッカネン(T.Pekkanen)教授がいる。彼は古代歴史の専門家である上、フィンランドの国家叙事詩カレヴァラを見事なラテン語に翻訳した人である。この翻訳は恐らく20世紀のラテン文学の傑作と呼んでも過言ではなかろう。1998年には、スペイン文学の象徴ともいえるドン・キホーテの全文もラテン語に翻訳した。また、パリのあるラテン語の教授がこれからマルセル・プルーストの長編小説「失われた時を求めて」をラテン語に直す意図を述べた。
ラテン語をより一般的に広げるため、読み易い読み物をなるべく多く翻訳するのがいい手段と見られた。中には年少者にも親しみやすいのが漫画である。ピーナツのスヌーピー(Snupius)、ミッキー・マウス(MichaelMus)、ドナルド・ダック(DonaldusAnas)の漫画がかなり面白く翻訳されただけでなく、タンタンの冒険が2冊とガリア人アステリックスの冒険が20冊ほど見事に翻訳されたことも注意されたい。後者の翻訳者は、なるべく楽しい方法で中学生がカエサルの「ガリア戦記」をたやすく原文で読める程度まで導くことが目的で、カエサルの文体を模倣してその漫画をラテン語に直したわけである。ヨーロッパ中の中高生がその翻訳を読んでいる。むしろ、先生や親が子供に無理にそれを読ませようとするといった方が正確かも知れないが、いずれにしても他のラテン語の書物よりはるかに読まれている。
最後にエルヴィス・プレスリーの名曲をスメル語だけでなく、ラテン語にも直して、CDに録音したフィンランド人のことを挙げるだけに止めよう。
其の二
東亜の諸言語と漢文
今までの話では、古典中国語(漢文)を含めて、いわゆる死語の生存と復活というものが一見珍しい文化現象に見えるが、かいつまんで言えばユーラシアの東西両端に渡る文化の一面に過ぎないという事実を明らかにしようとした。西から東へと順に、ラテン語、シリア語、サンスクリット語の諸言語が、規模において多少の相違があるにも関わらず、類似する復興の姿を現しつつある。これから、話の後半では、焦点をしぼり日本における漢文の地位と可能性を考えて行きたいと思う。
前文に挙げた諸々の例から見て、日本文化の中における漢文、そして韓国・ベトナム両文化における古典中国語(韓国ではハンムン、ベトナムではハンヴァンと発音する)を代表として、一般的に言えば極東における中国の「文言」の過去の普及と現在の生存は世界的に珍無類な現象でなく、ユーラシアの諸文化圏にて通常に現われた文化生活の不可欠の一面と認められていいものである。ユーラシア文化の一面として見られるようになれば、漢文の復興と教育が新しい意味を浴びると私は確信している。又、今までの長い歴史の延長で、未来のために漢文の果たせる役割を改めて文学、学問、国際関係の諸分野においてかつてなかった新しい活動範囲に進む方法を敢えて紹介したいと思う。
現代日本語のジレンマ
本題に入る前、現代日本語についての一考察を述べたい。
現代日本語、特に20世紀末の超現代日本語の現状を論じ出したら話が長くなる恐れがあるので、それを避けたくも、これからの漢文教育という問題とは無関係でないので触れざるを得ない。日本の評論家、作家、国文学者、場合によって言語学者にも国語の現状についての意見を聞いてみると、皆口を揃えて「日本語が乱れている」と忽ちにその言葉が返ってくる。言葉が乱れるという表現がいったい何を意味するのか私にはよくわからない。文法上の問題であろうか。よく挙げられる例を顧みると、「見られる」か「食べられる」の代りに「見れる」、「食べれる」というのは、果たして言葉が乱れている証拠と云うべきであろうか。どちらかというと、受動態と可能態を区別するのが、言葉が乱れるよりも正確になると言ったほうがいいのではなかろうか。また、「犬に餌を上げる」という言い方が誤りであり、「餌をやる」といった方が正しいとよく言われるが、会話上の調子の変化に過ぎないので、決して文法上の混乱とみなすことはできない。一番厳しく批判されている敬語の現代的使い方もどうしても文体上の問題だと思える。生きる言葉は当然なこととして常に変わりつつあるものである。ただその変わり方の規模と速度には多少の相違があるのみで、変化することだけは確かである。「死語」も変わるものである。8世紀、13世紀、16世紀、20世紀に書かれたラテン語の文章を比較してみれば、それぞれの特徴と相違が著しい。サンスクリット語、ヘブライ語、漢文でも同じである。「乱れる」という、強い非難の色を浴びた単語を口にする前に、どういう角度からこんな判断を下すかということを充分に意識する必要がある。
ここで現代日本語に関して、確かに「混乱」という単語を使ってもいい一面を少し念を入れて考えてみたいと思う。それは外来語の問題である。新語を作るため、また新しい技術品を名付けるため、ある言語が他の言語の語彙を借りるという現象は文字の歴史が始まって以来常に行われたものである。また先にも書いたように、「聖語」という現象と密接につながっているものである。ラテン語はギリシア語から、ペルシア語はアラブ語から哲学、宗教、科学に関する単語をたくさん受け入れた。現代の諸言語は新しい発明を名付けるために、最初はそれぞれの文化圏の「聖語」に当たる言葉に求めた。ウルヅ語はアラブ語やペルシア語にたよるのに対して、ヒンディ語はサンスクリット語を拠り所にしてきた。また東南アジアのもろもろの言葉、タイ語、カンボジア語、ラオス語、ビルマ語、ジャワ語などもサンスクリット語(パリ語とならんで)を指南にしたと同様に、日本語、韓国語、ベトナム語は古典中国語・漢文を新語造りの拠り所にした。
漢語を以ての新語造りが明治維新のころから始まったとよく言われるが、実際のところ早く江戸時代、蘭学、即ちヨーロッパ医学が輸入される時から始まった。さらに19世紀の終から、日本で作られた漢語の新語が中国を始めとして極東大陸の全部に普及したという事実はよく知られている。「電話、経済、癌」などの新語彙の大部分がまだ使われているということ自体はその単語造りの成功を物語るものである。そういう画期的な業績は、日本文化と漢文の長い共存をないがしろにすれば理解しがたい。
ここでR・A・ミラー氏の指摘した日本語と古典中国語の関係の特徴を挙げる必要がある。氏の意見によると、日本語彙における中国語の借用語の歴史的関係が「全面的な活用性」(totalavailability)という一言で総括される。中国語のどんな時代のどんな単語も日本語、特に日本語の書き言葉の中に取り入れられる可能性があるという意味である。極端に言えば、日本人にとって中国語からの借用語が本当の意味の外来語でなく、また中国語そのものも外国語と見られるというよりも、(中国語の話し言葉は別として、圧倒的に書き言葉に限られるが)むしろ中国語は日本人が自由に汲める無尽蔵であり、日本語の上層次元であるからである。古典中国語の作品に出る単語ならば、日本語で書く人がそれを自由に使えると自覚している。その単語が分からなければ、書いた人が難しい語彙を使いすぎて悪いということでなく、その難しい単語を知らない読者自身が悪くて、自分の勉強不足を恥じるべきなのだということであった。これは正に「聖語制」なのである。ある言語の上に、もう一つの言語があって、後者を熟知するのが本当の学問とされているような文化関係を特徴とする。
日本語と漢文の従属関係については、先にも見た通り、他にもよくある現象である。政治的な従属でなく、文化的な従属を反映するものである。ある程度までギリシア語とラテン語の関係によく似ている、すなわち政治的にローマに降伏したギリシアが文化的にローマを支配するようになった。ホラチウスという詩人が書いたように「征服されたギリシアが獰猛な勝者を征服してしまった」。ローマ帝国の時代、ヨーロッパの指導階級がみなラテン語の傍にギリシア語を身につけていた。もはや権力がまったくなかったギリシアの言葉の知識は高い知的、社会的身分の象徴であった。数世紀が経ってから、同じ古代ギリシア語の単語を使って、新しい科学上、技術上、思想上の観念を名付ける過程に大いに役に立った。Telephone,telegram,antibiotics,psychoanalysis(ここで日本人読者の便宜をはかるため英語の綴を使う)等々は皆ギリシア語の語根を基本にした新語であり、それは古代ギリシア人の科学と技術を遥かに超えた発明であった。ラテン語も同様に生かされた。たとえばvitamin,informatics,subconscious,computer等はその類である。こういう新語彙の大部分はギリシアとイタリア以外の国の学者が考え出したものであり、現代ギリシア語とイタリア語に再輸入されたものであるので、その国とその言葉がそれぞれ全く離れて独立したものになってしまった。新語造りの為ならば、ギリシア語とラテン語が西洋全体の共有財産になってしまったとも言える。最近は英語(米語)の話し言葉も科学的新語を生みだす様になった(BigBang,by-pass,software)が、ギリシア・ラテン語程他のヨーロッパ言語に簡単に移行しない。たとえばフランス語はビッグ・バンを受け入れたとは言え、バイパスをpontageにし、ソフトウェアをlogicielに直して、本来の英語単語がほとんど使われない。
日本語の場合、20世紀の後半には規模として珍しい現象が目立ってきた。中国語(漢文)に替って英語の語彙が全体的に利用される様になった。昔の漢語と同じく、現在英語のどんな単語もそのまま(片仮名を通じて)日本語として利用される可能性を得た。それを知らない人は憤慨するどころか、むしろ自分の知識不足を恥じる、という妙な状態になってしまった。1980年早稲田大学にいた頃、私はそこで日本語を勉強していた二人の中国人の通訳者と知り合ったが、二人とも口を揃えて、これから英語も身につけることを決心したと言った。何故なら、もっぱら中日通訳・翻訳の訓練に没頭していた彼等は、英語の知識なしでは普通の日本語の文章、演説も完全には理解できないという事実に悩んでいたからであった。日本語における英語語彙の全面的活用性(さきに言及したtotalavailability)のせいで、現在日本語を熟知するのに、英語も充分に知る必要があるという珍しい状態になってきた。恰も昔の漢文の代りに英語が移ってきたと言える。
こういう妙な状態は、植民時代の名残として英語を公用語に指摘したインドやフィリピンを除けば、東アジアには珍しい。現代中国語の新語の大部分がいまだに「文言」を拠り所とする。「リモコン」を「遥控機」、「コンピューター」を「電腦」、「ロボット」を「機械人」、「ヴァーチュアル・リアリティー」を「虚擬實景」等々と呼ぶのはなかなか想像ゆたかな工夫であり、中国語の常識だけで誰でも意味が分かる。また、明治時代の日本人が英語のclubの様な単語をそのまま借用した時でも、片仮名の代りに何となく意味のある漢字を当てて「倶樂部」(倶に楽しめる部屋)を造ったと同じ様に、現代中国語の舶来語もなるべく中国語なりの意味を伝える漢字を使おうとしている。有名な例には「ミニスカート」を「迷■裙」(君を迷わせるスカート)や、「ウイスキー」を「威士忌」(威厳のある紳士が忌むもの)が挙げられる。
世界的に恐怖を起こしたエイズの借用の仕方も中国語と日本語は対照的である。英語のAIDS(実は頭文字の組み合わせ)は日本語ではとても不充分な片仮名で表わされている。特に[dz]という子音連続を正しく表わすのが不可能なので、翻訳した方がよかったと思えるが、中国語でも同じくその英語の音を正確には写せないのに、その不便を漢字の巧みな使い方で補い、「愛滋病」という新語が使われた。最初の二字が音を表わすと倶に、「愛の繁盛から起きる病」というような意味を伝えることもできる。擬日本語の「エイズ」が前もって説明されないと一般の人には不透明で理解されない、それにひきかえ中国語の新語はそれを初めて見る人にとってもかなりの程度までその意味の範囲を直接に伝えることが出来る。
2000年のオリンピックの折に気がついたもう一つの例を挙げたい。「アーチェリー」という様な片仮名語が頻繁に使われることが気になって、周りの日本人に(確かに運動に疎い人が大多数を占めたが)意味が分かるかどうか聞いてみた。教育の程度を問わずに(むしろ年齢による差があるようであるが)まったく分からない人が意外に多かったことに驚いた。いったい何故「洋弓」という単語を利用しないのか分からない。「要求」と混同される嫌いがあるからであろうか。しかし、話の内容から(特にオリンピックの報告の場合ならば)また文法構造から見ても、両単語を間違える危険性が非常に少ない上、新聞や雑誌の書面報告なら、誤解の可能性が完全になくなってしまう。もし同音異義が本当に問題であり、音でも区別する必要を感じるならば、「洋弓術」か「西洋弓術」というだけで困難は解決するであろう。ついでに申し上げると、韓国のテレビや新聞ではやはり「洋弓」(ヤングン)を使う。
日本の漢語の代りに外来語を片仮名で使う傾向が同音語を避ける、という合理的な意図にもとづくものと反論する人もいるので、次の例を取り上げて考えてみる。
1.エアコン>airconditioner
2.ボディコン>bodyconscious
3.リモコン>remotecontrol
4.ロリコン>Lolitacomplex
5.パソコン>personalcomputer
6.クルコン>coolconservative
7.コンカジ>convenience-storecasual(clothes)
8.アイコン>PrivateEyeWriters'Convention(アメリカの推理小説作家大会、日本人の推理小説の好事家が使う言葉)
以上の8カ例のほかにまだまだたくさん並べられるが、今のところこれだけに止める。この8単語に現われる「コン」の一節はそれぞれ違う、「コン」という接頭辞を含む八つの言葉の略号であることは一目瞭然である。極端に言えば、立派な日本語になったこの諸単語は漢字の意味上の便利さを捨てて、アルファベットの便利さも捨てられた舶来語に過ぎない。それを半分以上冗談として作られた新語とみなした方が適当かも知れないが、もし同じ原則に従って新語を造ってゆけば、日本語の語彙がどれほど曖昧で二流的なものになってしまうか想像できる。  
話を少し広げてみよう。現代日本語に溢れている英語(片仮名語)の借用ぶりがほかの文化国と比べて異常と言ってもいいほどの現象が見られるという事実の裏には、一種の論理があるのではないかという問題を考えてみたい。代表的と思われる三つの例から話を進めたい。
aシビリアン・コントロール。正直に言えばこの言葉を初めて日本で聞いた時、私は意味を完全に誤解してしまった。何となくシビリアンの音がシベリアと関係があると思い込んだので、昔シベリアで醸された陰謀かなんかのことなのではないかと思った。映画かスパイ小説にはいかにもふさわしいタイトルのようにそれをとらえた。シビリアンが英語のcivilianを表記したものとわかった時、まず可笑しく思った。日本語に書き表せない三つの音(国際音標文字で書くと[si],[v][l])を含んでいる単語をなぜわざわざ片仮名に直す必要があるのであろうかと不思議に感じたからであった。「市民管理」が果たして何故いけないのであろうか。数少ない新聞記者、評論家、知識人などを除けば誰もわかるはずもない「シビリアン・コントロール」という抽象的な単語が使われる理由は非常に単純なのではなかろうか。「市民管理」と書けば、誰でもその観念の内容がわかる恐れがあるためそれを避けようとするのではなかろうか。すなわち、一般の市民たちが「市民管理」を真面目に実現しようとするのが望ましくないから、不透明な片仮名語を利用して、それを弄ぶのが安全だという潜在の意図があるように思えてならない。「市民管理」と書けば、具体的な提案をする必要になるので、面倒くさい、と思うのであるが考え過ぎであろうか。
bプライバシー。前に述べた例よりも「プライバシー」の場合が率直である。テレビなどでタレントか俳優のプライバシーが侵害されたとの記事を見るにつけ、常に浮かんでくる疑問がある。日本人の判事たち自身が本当に片仮名語の「プライバシー」そのままを使うかどうか。英語のままそれを使うならば、その法的内容はいったい誰が決めるのであろうか。アメリカ英語の意味をそのまま受け入れると理解してよいのであろうか。アメリカは州ごとに法律が多少違うので、日本法律のプライバシーの定義はどこの州に随うのであろうか。なお、日本語では「私生活」という非常にわかりやすい熟語があるのに、今流行しているその言葉はもっぱら不透明な「プライバシー」である。これも私の早合点かも知れないが、マスコミの観点から見れば、日本語の「私生活」は日本の一般人には分かり易過ぎるという嫌いがあるのではないかと思う。なぜならば、個人の私生活を守ることが絶対不変の権利であるとすれば、日本のテレビや週刊誌が毎日のように犯している私生活の侵害は直ぐさま中止しなければならないということになるであろう。そういう点から見ると、イタリアとフランスの対比を考えると面白い。イタリア語とフランス語が非常に近いにも関わらず、フランス語が日本語の「私生活」に文字通りに近いvieprive・を前から使い続けてきたのに対して、イタリア語にはフランス語の直訳としてのvitaprivataがあるのに、最近は英語のままprivacyが著しくはやってきた。なおフランスでは情報手段における私生活侵害の法律は他の国に比べて非常に厳しい。アメリカの大統領や日本の首相が嘗めたような、不倫関係に基づいた醜聞事件はとても起きそうもないのであり、またイタリアや日本のように俳優、女優、歌手などの離婚騒ぎのニュースは本人の許可なしでは報道されない。まさしくはっきりした「私生活」という単語が生きている国では、個人の生活の権利が一番厳格に守られていて、「私生活」の代わりに、漠然とした外来語の「プライバシー」が流行っている国では、私生活そのものが特別に尊敬されていないといっても過言ではない。誰でも理解できる「私生活」の権利を主張するならば、1999年の春から夏にかけてテレビや週刊誌でいやになるまで報道された「熟女合戦」を想像することができる。「プライバシー」と抽象的観念から「私生活」の次元にもどれば、マスコミだけでなく、それを味わう一般の大衆、すなわち市民たちがその権利の本当の意味を改めて考えるのではないかと思う。
ついでに、アメリカでもプライバシーの観念がさほど古い伝統に基づくものでなさそうである。1965年出版のWebster'sSeventhNewCollegiateDictionaryという辞典でprivacyを引くと、今日いちばん流行っている「私生活」の意味が全く載っていない。
cセクシュアル・ハラスメントという片仮名語も典型的な語彙上の悪用の見本の一つである。先の「プライバシー」と同様に、この単語の法律上の内容はどこで決められるかという問題がおのずから起きる。合衆国で発生したこの観念と言葉は果たしてそのまま他の国に移せるのであろうか。日本で流行った「セクハラ」という略語は確かに面白いが、一般的に冗談に用いられがちなので、「セクシュアル・ハラスメント」よりも曖昧であり、むしろ事実上のいやらしさを隠すためには逆効果になる。ここにも、日本語の「性的嫌がらせ」という熟語を利用する方が適当と思える。日本人なら誰でもわかるという利点を有する。「セクシュアル・ハラスメント」や「セクハラ」が日本人の語感から意味的には内容が乏しいからこそ、誰でも想像逞しく自分なりの意味と解釈を加えたりする傾向が自然に現われる。たとえば、ある日本人から聞いた話であるが、男が女性に対して「あんた」という言い方を使えばセクハラとされるそうである。その話が本当かどうか分からないが、もし正確な日本語を使って、人を「あんた」と呼ぶのが「性的嫌がらせ」という違法行為になると言えば、それほど簡単に納得できないと思える。
ここで片仮名語の妙な例を三つだけ挙げたが、他にもたくさんある(モラル・ハザードなど)。それで外来語の使用がより正確な表現を与えるためでなく、むしろ曖昧な、漠然たる、意味のない言葉を使うことによって、本来の観念をぼかすために選ばれる可能性が強いことを証明しようとした。
残念ながら、そういうような説明があまりにも合理的なので、日本語における外来語の氾濫を完全に理由づけるには足りないということを痛感せざるをえない。理性がなかなか届かない動機も潜んでいると思える。京都の市バスで、年寄りや身体の不自由な人のために、町の中を簡単に動き回ることの出来るよう新しい施設を紹介する宣伝に気がついた。その新施設の全体を「タウン・モビリティという名前で呼んでいるらしい。私は日本人でないからそれに当たる上手な日本語表現を考え出せないが、「動きやすい町」の様な意味だろうと思う。なお「タウン」はともかくも、「モビリティという単語をいったい誰が分かるのであろうか。そのキャンペーンのおもな対象であるはずの老人は中高年時代に英語を勉強した人が多いかも知れないが、日毎にそれを練習するわけにも行かないので、大部分の語彙を忘れて「モビリティの意味をすぐには理解できないかも知れない。片仮名で書いていることから見ると、まさか外国人の観光客のためでもなかろう。
そこで微妙な比較がふと頭に浮かんでくる。カンボジア文化史の専門家を久しく悩ませてきた謎がある。それはなぜ数多い古代カンボジアの史跡に刻み込まれた石碑がカンボジア語でなくて、サンスクリット語で認めてあるのか、という疑問である。極く限られた人数を除けば、カンボジア人は遠い国インドの聖語であったサンスクリット語に不案内であった。その石碑の文章を作ったのがカンボジア人でなくて、朝廷に招かれたインド人のバラモンであった可能性が強い。もし当時(紀元後6-8世紀)の東南アジアではサンスクリット語が国際語だったことが原因であると言えば、なぜインドの文字でなく、カンボジア人にしか通じないカンボジア文字で表記されたのかという疑問が生じる。カンボジア人のためでもなく、インド人のためでもなければ、その石碑文は誰を相手に刻まれたのであろうか。ある学者に依ると、誰もわからないその文章の目指している相手はほかでもなく、ヒンズー教の神々(デヴァ:諸天)、すなわちこの世を超えた存在者であった。こういう超自然的存在にふさわしい表現がサンスクリット語にしかないという考えから発生した現象である。おそらく、「タウン・モビリティという、日本人が分からなく、外国人が読めないスローガンが選ばれたのは、プロテスタントの神様「ゴッド」の注意を引くためであったのではないかと考えたくなる。
同じ発想から生まれた習慣かどうか決定し難いが、最近妙な傾向がはやってきた。日本文化風俗の非常に代表的と思われるもの、それも昔から日本語で名付けられたものをますます英語に基づく片仮名語で呼ぶ癖が頻繁になってきた。たとえばあるところでは武道が「マーシャル・アーツ」といわれ、華道が「フラワー・アレンジメント」といわれるようになった。なかにはたいへん逆説的としか思われないものもある。この20年にわたって欧米に普及した日本の漫画の流行りには驚く程の風雲の情勢を示している。英語とフランス語を始めとして、ローマ字のmangaを国際語にしたのである。同時に、漫画の本場、日本の書店を訪れてみると、不思議な発見をする。「推理小説」、「時代小説」云々の名札の内では、もう「漫画」という単語が見えなくなって、ほとんど全部「コミック」に変わったということである。全世界が漸く「漫画」という日本語を覚えて自由に使う時期に、日本人の方がその単語を捨てて、代りに英語にしてしまった論理はどうしてなのか分からない。国際化の独創的な理解に基くものであろうか。
時々、その不条理としか思えない言語政策を次の理屈を以て説明しようとする人がいる。日本人の大部分が英語に疎いので、なるべくたくさんの英単語を日本語に無理に入れれば、日本人が無意識にも少しずつ英語を身につけるのであろう、とのことらしい。その理屈が根本的にまちがっていることを証明するに及ばないと思うが、敢えて証明する必要があるならば、ここにそれについて一言をいっておこう。
まず音声学上の問題がある。日本語と英語の間では、完全に合致する音がほとんどないと言ってもいいすぎではないと思うのだが、母音の場合みなそれぞれ違う。英語音声の特長である二重母音化のせいで、日本語かイタリア語の純粋母音の様には、共通なるものはあまり存在しない。また、英語に溢れている子音連続(cl,pr,ct,blなどの類)は仮名を以て表記できない。もし片仮名語の「トラブル」を、日本語の分からない英米人に向かって言ってみれば、彼が本来英語のtroubleのことだと気がつく可能性は少ない。若し正確な英語を覚えようとすれば、偽りの共通感を与える片仮名語を避けることを第一条件にする。その錯誤を超えて、英語が日本語と関係のない外国語だと覚悟してから初めてその勉強に正式に着手することができると思う。
一方、外国語を覚えるのはただ単語を連ねることだけではない。語彙よりも、文法と構造を正しく理解する方がはるかに重大である。片仮名語をたくさん知っている日本人が、それを並べる(しかも日本語の順序にしたがって並べる)だけで何とか英語らしくなるだろうと思うらしくて、とんでもない文を組み合わせてしまう。テレビで、あるアメリカ人の教授が取り上げた例をそのままここで繰り返すが、車やトラックに張ってあるもので、「アイドリング・ストップ」というスローガンがよくある。その文を作った人の意図がはっきりしていて、「エンジンの空転を止めましょう」というつもりなのであろうが、実際の英語から言えば、まるで反対の意味になってしまう。"Let'sstopidling"のような言い方が適当だと思う。「アイドリング・ストップ」は変な英語だが、確かに「空転しながら止まっている」という意味にしかとらえられない。
以上の二つの理由だけでも、片仮名語の理不尽な舶来が英語の習得にも、日本語の表現力においても害しかもたらさない習慣であることが明白であると思う。日本語と比べて外来語の使用を自動的に制限している中国人と韓国人は平均的に英語が上手という話をよく聞くが、その理由はまさに自分の母国語と英語との差異を明晰に意識しているという事実にあるのではないかと思う。逆説的に言えば、英語の習得への鍵はほかならぬ自らの母国語の熟知である。その熟知に達するため、漢語と漢文が今でも不可欠である。  
日本式漢文に対する批判
日本漢文独特の訓読みが原文漢文を翻訳するどころか、むしろ本来の意味を曲げてしまうという嫌いがあるので、それをあっさりと捨てて、中国の古典文学を直接に現代中国語で読んだ方が正確に意味をとらえるという批判をしばしば耳にする。それに対して、二通りの注意をしたい。
まず、この批判は日本において日本人によってしたためられた漢文文学にはもちろん当たらない。この場合、日本式の訓読みで読まれた方がふさわしいと言わざるを得ない。それを現代中国式で読むと大きな誤解を招く恐れがある。ただし、先にも述べたように、明治時代まで日本でも漢文で書かれた文章が少なくとも仮名で書かれた文章と同じ量であるので、日本文学の一部分として漢文を扱わなければならない。日本文学を勉強しようとすれば、漢文訓読の知識が必要なので、自国の文学を正しく理解するだけでも、欠かすことのできない準備知識である。
日本の読み下しは非常に古い注釈に基づいているものとして、それなりの価値を有している、言わば即席解釈法とみなしてもいい。現代中国語と言われるものは概ね北京語に他ならない。北京語と古典中国語(文言)は互いに違う言葉である。北京語(普通話)に通じることは文言の理解を特別に助けるものではない。この事実を無視して、北京語を勉強している日本人の一部の人は一種の錯誤によく陥る。日本の訓読に正反対の読み方が北京語の読み方だという発想(訓読対北京語である)。それは間違っている。実際はどこの音読でもよい。日本語の語順による訓読、読み下しはある程度まで一種の翻訳とみなしても良かろう。音読になると、特別に北京語に依頼する必要がない。北京語に依る音読が他の音読と比べて優れた正確性を有するわけでもない。その他に広東語、上海語、台湾語、ベトナム語、韓国語に依る音読も皆同じく重要視しなければならない。また言うまでもなく、日本の呉音と漢音に依る音読も極東の他の音読と平等な地位を占める。古典中国語の文章を原文のまま、文法的な変化を加えないで直接に読む限り、どんな音読でも同じぐらいの価値がある。
また厳格に言えば、北京語に依る音読は他の発音に依る音読と比べると、古典中国語の正しい理解のためには特別な欠点をいくつか示す。その欠点は発音や文法に関するものである。
発音上の問題は皆北京語の音声磨滅に依るものである。現在生きている多数の漢字の発音の間では、いちばん極端な磨滅を被ったのは異論の余地なく北京語である。典型的と思える例には「易」という字をここで挙げるに止まろう。その発音(または音読)は意味を区別するにしたがって二通りある。日本語の場合、「容易」の熟語の様に、「やすい」という意味を示す「イ」と読ませる。また「貿易」の様に、「かえる」の意味を表わす「エキ」(それは漢音であり、呉音は「ヤク」になる)とも読む。なお日本語以外の漢字文化圏の言語と方言を調べると、皆がその音読の区別を厳密に守ってきたことがわかる。たとえば韓国語のiとyeok、ベトナム語のdeとdich(便宜上、ベトナム語の声点と韓国語の区別符号などをここでは省略する)は日本語の「イ」と「エキ」の発音をきちんと反映するものである。広東語、台湾語なども同様である。驚くことに、その区別を完全に失った漢字文化圏の唯一の言語はほかでもない北京語そのものである。
若し中国古典文学をできる限り元来の音に近い発音で読んで鑑賞しようとすれば、現代の北京語に頼るのは決して正しい方法ではない。むしろ、前の例で分かるように、北京語を除けば漢字文化圏のどんな音読を使ってもよいが、一番ふさわしくて忠実な方法は一つしかないと思う。それは中国語学者が数十年をかけて、細かい音声学的調査の結果復元した古代・中世の音声系統に従って読むことである。もはや欧米の専門家だけでなく、中国・日本の学者の間でもその学問的な習慣が広がってきた。若し文学的な趣味を持ち、学問的、歴史的な関心を元に、中国古典を読もうとする人であれば、それらの学者と同様に復元された発音に従い口述するのが大切である。さもなければ、北京語と異なり語尾の子音をしっかりと表記すればどんな発音でもよろしい。言うまでもなく、日本語の呉音と漢音も他の発音に劣らない一つの音声系統である。ただ肝心なのは旧仮名使いを拠り所にすることである。何故かといえば、旧仮名使いだけが昔の大陸で流行っていた発音を正確に反映するからである。たとえば「立」の字は音読が現代の発音では「リュウ」なのに、旧仮名使いは「リフ」である(「リツ」は慣音だからここでは言及しない)。語尾の「フ」が[p]を表すものとして、韓国語の[r]ip、ベトナム語のlapという発音ときちんと相応する。北京語のliはまた系統外である。「法」や「業」等々の場合もそうである。それらの例から見れば、古代中国音声学の専門家でない人には、日本の旧仮名使いに依る読み方が復元された発音にかなり近いものとして非常に貴重なヒントを与える。
中国人も好んで言うことであるが、漢詩の音を充分に味わうのに、北京語でなく、今でいう「方言」の発音に従って詩を読むべきである。更に進んで、唐詩ならば広東語、六朝詩ならば台湾語(閔南話、即ち福建語)で読む方が最適だと強調する人もいる。
こういう考えを元にして、今は亡き吉川幸次郎先生の玉書「漢文の話」で挙げられた例を改めて論じたいと思う。杜甫のかの有名な絶句を日本式の訓読と北京語の両読み方を対照させて、後者の方が詩のパトスを深く把握させることを述べる。ここでこの詩を日本式の漢音で読んでみよう。
江碧鳥逾白カウヘキテウユハク
山青花欲然サンセイクヮヨクネン(ゼン)
今春看又過キンシュンカンイウクヮ
何日是歸年カジツシキネン
もはや北京語に現われない微妙な響が目立ってくる。起句の「碧」と「白」(北京語のbiとbai)が実は近い音であり、冒頭音のb(即ち日本語のハ行)だけでなく、語尾音のk(日本語のキとク)の音でも相応していることが興味深い。両字を呉音で読めばなおさら近い。すなわち「ヒャク」と「ビャク」になるのである。また、「燃える」意味の「然」の字を元来の音読「ネン」(呉音でもある)で読むと、承句の「然」と結句の「年」は、北京語と違って、両字の音韻が完璧になる。ついで述べてみると、「鳥」の旧仮名使い「テウ」が(現代北京語のniaoに対して)古代発音teuをそのまま顕わしていることも注意に値するものである。
そういう数々の点から見ると日本式の漢音と呉音と、北京語の発音を比較してみれば、日本の音読がいろいろの細かいニュアンスを顕わすもので、古典文学を鑑賞するのに決して見逃すことが出来ない。
中国古典の「文言」を現代北京語で読むべしという、日本で定説になりつつある意見には、もう一つ、文法上の困難がある。北京語で読めば文言の文法構造が分かりやすくなるというものの、やはりもう一つの錯誤というしかない。北京語の音声系統と同様に、歴史的情勢を考えてみると、北京語の文法構造が他の中国系の「方言」と比べて、厳しい変化過程を経て非常に遠ざかっていたと認めざるを得ない。
この点についてはオカダ・ヒデオ氏(原文はローマ字)のような言語学者の意見が代表的と思われる。オカダ氏に依れば、北京語が徹底的なアルタイ語化を被ったために、中国語系統の中でも特殊な位置を占めるものとなった。アルタイ語化過程は17世紀から満州族が中国を侵略して、首都の北京を中心に全国土を支配するようになった時から始まった。200年以上を経て、アルタイ系統の中のツングース系に属している満州語が北京の話し言葉をはじめ北方中国の方言に非常に強い影響を及ぼした結果、北京語がもはや中国語系統に属せず、アルタイ語系統の一言語とみなさなければならないと強調する。オカダ氏の言葉を借りると、清朝の北京の話し言葉であった北京官話が「ほかならぬ強くアルタイ化された中国語の一形であり、北京官話にさかのぼる現代中国標準語がアルタイ諸民族のいちばん重要な遺産である」また、「今日の中国標準語は実のところアルタイ系満州人の言葉である」。言語学者でない私には、こういう風に表現されるオカダ氏の意見がやや強すぎて、言語上の事実をどこまで正確に反映するか疑わしいが、他の数人の専門家がそれに近い説を支持しているということから見ると、討論せずにそれを拒絶するのは全く許されないかも知れないが、所詮、現代北京語と文言が歴史的、言語的につながっている事実は否定し難い。また音声上満州語の影響があったかも知れないが、文法上のアルタイ的要素はあまりない。特にアルタイ語系の特徴がやはり文における動詞の位置にある限り、その観点からすれば、北京語がアルタイ系言語とされにくいのではないかと思える。
ただ、このような言語学者の意見が、文言(漢文)と現代中国の諸方言の間では非常に大きな溝があるという事実を意識させる役割を果たすだけでもよかったと思う。文言との差異から言えば、北京語、広東語、上海語、台湾語などさほど違わないかも知れないが、文言の勉強にはよい結果をもたらす方法が一つしかない、すなわち文言として、後期の諸方言から独立した文法系統としてそれを習得するという方法。先に言及した音声の問題と一緒に、文言は文言の枠内で研究されるべしという結論を繰り返した。
ここに上海で出版された非常に便利な「文言読本」の前書きの一、二行を引用したい。まず中国語の原文:「…我們認為、在名副其實的文言跟現代口語之間已有很大的距離。我們學習文言的時候應該多少採取一點學習外国語的態度和方法、一切從根本上做起、處處注意它踉現代口語的同異…」、敢えて日本語に翻訳すれば、次の意味になる:「本物の漢文と現代口語のあいだにはたいへん大きな距離があるとわれわれは思う。漢文を勉強する時、外国語を勉強するような態度と方法を取らねばならないものであって、すべて基礎より初め、ところどころ現代口語との相違に注意するべきである」。現代中国語と漢文(文言)を別々のものとして勉強するのは一番確かな方法である。
これまで、日本式漢文を排して、現代中国語を媒介にして古典中国語(文言)の勉強を進めることに反論したのである。
また、日本でよく耳にする、もう一つの観点から起きる批判がある。日本式の訓読、いわゆる読み下しの文体が聞き辛くて、現代日本人の趣味に向かない、という意見である。論語を読む時、「マタヨロコバシカラズヤ」、「ソレコレヒトノコレヲモトムニコトナルカト」、「シラザルベカラズナリ」のような台詞にぶつかって歯痒い感じがする現代読者も多かろう。逆に、懐かしく思う人も少なくないということも想像しやすい。客観的に判断しようとすれば、私としてはその独特の漢文調子に少なくとも一つの利点を認めざるを得ない。書面では漢字が仮名まじりなしで並べてあるのを見ると忽ちにそれが日本語でなく、漢文だということが分かると同じく、耳で聞く読み下し文調子の日本語がすぐ漢文の文章の引用であることを明白にし非常にありがたい。北京語で文言を引用すれば、違う語彙と文法がはっきりと文言の文言たらしめることを示すと同様に、日本語の口語と文語とはっきり区別される漢文調子のため、漢文の独創性が文字だけでなく音でも浮き彫りにされるものである。何と言っても、現代人にはくどく響く読み下し調子が漢文を日本人に親しませた貴重な道具であるから、気軽にそれを捨てるわけにいかない。一般人が慣れていないから変に聞こえるだけで、漢文文章を好んで読む人ならば、その文体を可笑しく思わないことは言うまでもない。
また、訓読というのは固定されたものでなく、日本語の文体の一面として歴史のなかで長い道程の後発展した結果、現代の形になったということを繰り返す必要がない。大ざっぱに言えば、訓読の歴史は二つの極端な困難を避ける過程とみなしてもいい。一つは逐語的な直訳である。その典型的な例はやはり「文選読み」という方法であろう。漢文を原文の二字ずつで読んで、二字の音読を挙げた直後、同じものを訓読で読むという習慣が平安時代では「文選」を始めとして、いくつかの古典で行われたので「文選読み」と呼ばれた。この読み方は後期の漢文学者の批判を浴びてからあまり使われなくなったが、時々「千字文」の様な、文法的に比較的簡単な文章を解読する場合、まだそれに頼る古風好きの人もある。たとえば「千字文」の冒頭の文「天地玄黄」を「テンチのあめつちはコウコウにしてくろきなり」云々と読むのはそれである。訓読として文選読みの価値が非常に低いのは論を待たない判断である。
文選読みの正反対の方法は意訳としての訓読である。一定した数個の語句を繰り返して使い、熟語を常に音読で読むという、普通の日本語から見てやや無理な句形としか感じられない読み方を避けて、なるべく自然な文語体に漢文の読み下しを選ぶことである。漢文の「意訳訓読」の一番有名な例はおそらく大江匡房の語る逸話であろう。菅原道真の漢詩の二句「東行西行雲眇眇、二月三月日遅遅」には満足のできる訓読が見つからないところ、誰かが北野天満宮で夢によって次の読み方を教える:「とさまにゆきこうさまにゆきくもはるばる、きさらぎやよいひうらうら」。その句があまりにも美しく思われたので、現代に到るまで決まって訓読とされてきた。この逸話はよく聞く一つの例であるが、しかし、それがいかに例外的な話であるかはあまり意識されていない。この二句を除いて菅公の他の詩句が後期の漢文訓読とさほど変わらない調子で読まれているのが面白い。その二句がいかに奇蹟的なものに見えたことかをよく物語るのである。当時の意訳がよく伝えられなかったので、それを徹底的に行うのは不可能に近い理想というものである。ただ限られた場合には真似しやすい規則を見いだせる。例えば「應」や「當」の訓読は多くの現代人にくどい「まさに…すべし」と読ませる代わりに、簡単に推量形を使った方がはるかに自然な日本語に聞こえる。「まさに読むべし」をやめて、「読まん」にするのが適当であろう。問題点は意訳そのものの定義である。多く機械的な決まり文句と句形に頼る普通の訓読よりは創造的な活動に等しく、文学的翻訳と見なしてもよい。その点からいえば、漢文の読み下しが完全に性質の異なる練習となってしまい、漢文教育の方法を根本的に変えなければ実現できない。
以上言及した現代日本語と漢文の問題点は非常に重大であるけれども、中国以外の漢字文化圏の諸国の中で日本における漢字と漢文の地位が一番しっかりしていると断わっておこう。書籍、雑誌、新聞などではまだまだ漢字の数を減らそうとしない上に、むしろ常用漢字の数を増やそうとする傾向がある。毎年行われる漢字検定試験は数万人が受ける。毎月出版される、子供、中高生、大人を対象とする漢字遊びの雑誌の数も実に印象的である。テレビのクイズなどにも四字熟語に関する問題が頻繁に出されるようになったので、その知識を若い人の間に広げるのに効果的である。
その上にまた、かつてなかった情報学の進歩が漢字の存在には思いがけない援助を齎したという事実に注目したい。コンピューター技術がまだ今日のように発達し普及されない時代、即ち60・70年代のころ、日本、韓国、中国における漢字の将来は非常に暗澹たるものに見えた。多くの欧米の東洋学者が漢字を捨てて、その代りにローマ字を使用することをあらわに進めていた。漢字の放棄を進める理由として、論拠がそれぞれ学者によって違っていたが、主に漢字がアルファベットに比べて言語の音を表わすのに不便だという、伝統的に漢字に向けられる批判を繰り返すだけでなく、また(当時の)現代の情報処理の技術に向いていないという新しい批判も付け加えられた。そういう批判を口にするのは欧米の東洋学者だけでなく、一般の日本人にとっても毎日の仕事の関係で漢字処理の難しいことを嘆いていた。むかし風のタイプライターが日本語、中国語のためにも作られていたが、どれほど不便であったか今の若い人には想像しにくい。英語やフランス語でタイプするより、漢字でタイプするのは十倍ぐらいの時間がかかったといっても過言ではない。日本人の作家たち、特に推理小説作家は、タイプライターをいとも簡単に、いとも早く打ちまくっていたアメリカの小説家を羨ましそうに見ていた。日本の新聞雑誌の在外記者たちもなかなか大変であった。欧米の新聞記者たちは記事などをテレックスで母国に送信していたところ、日本人だけがローマ字で書いた記事を日本に送り、本社ではそれを漢字まじりの仮名に書き直していた。70年代には確かに「漢テレ」と言って、漢字をテレックスで伝達する機械が発明されたが、それほど便利でなかったせいか、あまり使われなかったようである。中華人民共和国では毛沢東政権が漢字を簡略化することを、中国語の完全なローマ字化への一段階と呼んでいたころであった。まだ70年代なかば頃、中国では中国語を習う外国人のためでなく、中国人の読者を相手にローマ字の印刷物がたくさん出版された。益々漢字というものは過去の別名となり、歴史の進歩を阻止する障害物としての反感を生み出した存在に過ぎなかった。
そこで、80年代中、漢字文化圏の諸国にコンピューターとワープロの使用は予想以上の規模で発達して普及してきた。新しい電子技術のお蔭で、漢字という文字の処理がアルファベットと同じく簡単で便利になってきた。また19世紀に発明されたブラン式電送写真装置が同時代に新しい技術に改良され、ファックスという名前の下で蘇った。ファックスは特別に漢字を伝達する為に新しく開発されたようであるが、漢字文化圏以外にも便利な機械とされて欧米にも普及した。情報学の面では、漢字という複雑な文字を扱う必要を理由に、極東の研究が特別高度に達したのではないかとさえ思われる。数年前にフランスのラジオでフランス国立科学研究所の情報学の専門家がインタビューでその意見をはっきりと示したのを聞いて、私は驚いた。彼はさらに一層驚くべき忠告を与えた。欧米でもコンピューターと情報学関係の研究に携わる人ならば皆漢字を覚えたらよい、と断言した。結局、10年ほど前は西洋の知識人が口を揃え漢字放棄論を唱えていたところ、漢字優勢論に変化してしまった。今日の情報学者の考え方がどんな方向に進んだかわからないが、漢字と現代が互いに相容れない観念を失した好例としてこの逸話を述べたまでである。
中国でも旧字体を新字体に、新字体を旧字体にキーを一つ押すだけで変えられるようになってから、旧文字と新文字の対立が昔ほど激しくなくなった。漢字だけでなっている中国語をコンピューターで直接にローマ字(ピンイン)を打って漢字に転換できるので、漢字と仮名をまぜる日本語より中国語の方が簡単にコンピューター化させられるとさえ言える。
こういう思いがけない援助を新しい情報学から直接に受けたのは漢字であったが、漢字を通じて漢文の方もその新技術から恩恵を蒙ることは大いに想像できる。  
韓国とベトナムの現状
話はわき道に逸れるが、ここで漢字文化圏の二ヵ国、韓国とベトナムにおける漢字と漢文の現状に少し言及しなければならない。漢字両強国である中国(ここで「中国」の名称は政治的でなく文化的であるので、人民共和国、台湾、香港、シンガポール、そして全世界に散らばっている華僑の集団も総括する)と日本を比べて、韓国(情報がないため北朝鮮を論じることはできない)とベトナムでは漢字の地位ははるかに弱いと言わなければならない。この両国はもともと日本と、文化上の共通点が多い。古典中国文化を中心とした国として漢文を「聖語」にしているだけでなく、それぞれの国語にも中国語からきた語彙(漢語)が非常に豊富である。面白い現象に、三ヵ国語における漢語と土着語彙の比率が近い:三ヵ国語の場合、60-70%の語彙は漢語が占めている。その語彙(特に現代観念に関するもの)は主に抽象的である、文化、科学、政治、思想、社会に渡るもので、多く漢字で書いてあれば他の国の読者はたやすく読めるのである。技術、日常生活に関する語彙も少なくないが、漢語をつかっても皆それぞれ違う単語を選んだ場合が多い。たとえば日本語と韓国語が同じく「時計」を使うのに対して、現在中国語では「鐘表」、ベトナム語では「銅壷」が通用された。
漢語とは別に、成語と四字熟語というのも漢字文化圏諸国の宝物と呼ばなければならない。その多くも4ヵ国に共通している。多少の変更があっても(例えば日本で「不入虎穴、不得虎子」の第二句は中国では「焉得虎子」とされる)、根本的にそういう言い方が普及している地域が明白に独立している一つの文化圏とみなしてもよい。表現が変わっていても、考え方が同じ中国の成語から発したものはすぐ目立つ。例えば大陸では「不可同日而語」というのを、寺田寅彦の随筆には「日を同じゅうして語るべからず」と書き下されていて、普通は「同日の論(談)ではない」となっているが、もともと同じ発想による言い方に違いない。
漢字で表記されなくても、漢語、熟語、故事成語は東アジアの知識の統一に大きな役割を今日でも果たしている。たまたま私の学生でも自らその事実に気がつく人が現われると、非常に喜ばしく思う。例えば私の漢文入門の講義に出席していたある学生で日本語と同時に韓国語を勉強する人がいた。ある日、彼が同級生と立ち話ししていたのを耳にした。韓国語の教授を感心させたと自慢しながら語っていた。ある韓国の新聞記事を読ませられて、「人間万事塞翁が馬」という表現にぶつかった。みな翻訳に戸惑ったところで、彼は少し前に漢文の講義で覚えた説明を繰り返して、教授に褒められた。日本語の講座で習っていたものをそのまま韓国語に当てはめることが出来た事実を発見してたいへん喜んでいた。彼は日本と韓国の経済関係について修士号論文を準備していたので、実際には古典にはあまり興味がなく、専ら現代語の習得を目指していてこんな事を口にした:「今年は実に役にたてそうなものを漢文の講義からやっと見い出せた」と。
漢語と漢文の遺産を日本と同じ程度に受け継いだ韓国語とベトナム語は現代、その遺産をずいぶん異なった形で受継ついでいるようだ。以下は、たいへん大雑把であるが両国の現状を論じてみたいと思う。
韓国と漢文
1994年の夏、私はソウルの近くの韓国精神文化研究院に3ヵ月の短い滞在をした折に、一端であるが当地で韓国人と漢字の関係を観察する機会を得た。パリ大学の私の講義に韓国人の学生が出席する年もあるので、それぞれ若い人が漢文をどこまで解読できるかだいたい見当がつくと思う。
ソウルの町を歩く観光客が先ず気づくのは、中国や日本の大通りと違って看板などには漢字がほとんど見えないことである。どこを見ても韓国のお国自慢のハングルが目に入る。視覚の印象ではまるで日本語の片仮名だけが並べてあるかのようであろう。もし東京の下町で片仮名の看板や広告しか目に入らなければ、日本人はどう思うのだろうか。やや単調な幾何学的な形の連続に、多様性に富んでいる漢字を少しでも挿入してあればいいのではないかとしばしば考えたものである。テレビのニュースの大見出しにはハングルしか使用されていないが、新聞と雑誌には、やはり市民の実用的な関心を呼び起こすためか、漢字まじりのハングルを昔のまま生かしている。日本より常用漢字の数が少なく、1300字を超えないが、漢字に慣れていない人の解読を助けるため、同じ記事の中で一つの単語を漢字とハングルを交互に書く習慣らしい。たとえば一行に「運河地帯」と書けば、次の行にハングルで「ウンガチタイ」と表記する。自信のない読者が、その工夫のお陰で漢字の読み方を確かめられる。私の目で見た限り、韓国の大新聞の中で一紙だけが漢字を完全に廃止して、専らハングルを使用している。面白いことに、このハングル専用新聞は主に知識階級の読者を対象にしているらしく、漢字のたくさん読めそうな人は、漢字を拒否しているという意味なのであろうか。キリスト教の聖書も漢字交じり版とハングル版の二種類が広く書店に売りに出る。話に依ると、漢字交じり版は主に年寄りが読むということだったようであるが、これもこれから徐々に変わるかも知れない。
定期刊行物以外の出版物を見ると、現代の韓国は多彩な状態を見せている。大衆文学(例えば韓国人が愛読するアガサ・クリスティの推理小説、西洋文学の翻訳など)は一切漢字を使わないものが一番多い。韓国人作家の純粋文学ではハングル専用のものが圧倒的に多い気がする。なお、話の内容によって変化があるというのはいうまでもない。金聖東(1947年生まれ)の例を挙げると、「曼荼羅」という、仏教的背景の小説には(括弧入りの)漢字書きの仏教述語が非常に多いのと対照的に、「家」(チップ)という小説には漢字が非常に少ない。また大衆向きの東洋歴史、仏教、哲学などに関する本は止むを得ず漢字を使うが、日本式の様にルビを付けないので、小説と同様にハングルで書いてある漢語の後に漢字を括弧に入れて載せられている。ただ、学術書になると、日本の単行本とまったく変わらない様相を見せる。漢字が頻繁に使用されるが、括弧に入れない上に、ハングルの表記がないので、1300の常用漢字しか知らない人には読めないのではないかと思う。
大雑把な紹介であるが、ハングル専用の大衆文学から、難しい漢字だけを並べている専門書までの韓国の出版物を見ると、現代韓国語の状態が二重言語ではなく、二重文字的であるという印象が強い。言葉は統一されているけれども、ハングル専用と漢字交じり文の間の溝があまりにも広いので、この現象を描写するのに二重文字制度があると言っても過言ではないと思う。教育程度の高い人は一般文学が読めるが、漢字の受動知識しかない人には日本並みの漢字交じりの文が非常に読みにくい。同じ言葉が表記制度にしたがって一部の人には読めないという状態は二重文字制と呼べるのではないかと思う。
なぜ数十年の間に韓国人が漢字にこんなに疎くなったかという質問には私ももちろん答えようがないが、門外漢でも分かるような原因を一つ挙げられるのではないかと思う。韓国が独立して以来90年代半ばまで、一種の「脱亜時代」を過ごしたと言える。政治的な原因のため、韓国の二つの隣国である日本と中国とは文化交流が殆どなくなったと同時に、主な政治、文化に対する興味は、米国に向けられ、そして米国の後かなり遅れてドイツやフランスというヨーロッパの国になった。西洋が主な相手になったため、韓国の一般市民と知識人が東洋の文化を無視すると同時に、植民地時代の象徴となっていた漢字交じり文字に強い反感を抱くようになった。共産主義強国の中国とも縁が遠くなったので、日本語の代りに隣国の言葉として流行りそうだった中国語の勉強も殆ど行われなくなった。その両国に対する文化や政治の象徴であったハングルが当然韓国の貴重な文化財産となり、文化上の自給自足を意味するものであった。もっぱら英語(また、少し限られた程度であるがフランス語とドイツ語)の勉強を重視してきた韓国人の学生たちには漢字の知識はまったく無用の長物となってしまった。
80年代に、韓国の経済が発展するとともに、経済強国だった日本との関係がだんだん復興され、日本語の勉強も広がってきた。また90年代、中華人民共和国と外交関係が結ばれるようになって以来、中国語の勉強もたいへんな人気を博した。ソウルの書店では日本語と中国語の入門書と辞典が山となって店頭に並んでいた。しばらくの間、ローマ字で表記されていた言語にしか興味を示さなかった韓国人は突然漢字文化圏の言葉と再び出会う機会を得た。その子供達は中国と日本の小学生と異なり子供時代に漢字の勉強で煩わされなくてほっとしていたところ、学生や社会人になって已に身につけるはずだった漢字を慌てて実用のために習得する必要に迫られてきた。当然な反動として今までの漢字抜きの教育制度にあらたな批判の声が聞かれるようになった。脱漢字化の道に深く入っていた韓国が国際政治・経済関係のため心ならずも漢字文化圏に戻ったために、中国人や日本人よりも倍ぐらいの勉強をしなければならない苦境に陥った。
同じく80年代から90年代の初期にかけて、韓国にパソコンとワープロが普及した時、漢字文化の隣国との交流をあまり考えずに韓国語処理のために作られたソフトウエアは、アルファベットを中心にしていたために、用意された漢字の数が非常に少なくて、2・3000字しか処理できなかった故に、両隣国との文化交流の要求にはとても応えられない事実がだんだん明らかになった。電子情報学について全く不案内の私にはよく説明できないが、すでに決められた標準が容易に変えられないので、日本と中国の関係が盛んになればなる程、ソフトウエアの物足りなさが、益々使用者をいらいらさせていた。ちょうど私が韓国に滞在していたころ話題になっていたのである。その後まもなく問題は何とか解決されたと思うが、これももう一つの、現代情報学の影響で開発された漢字知識と漢字文化統一意識の好例となる。
この25年間、仏教は韓国で復興されたといっても過言ではない。歴史的な事情のため、地方の寺院に遁世していた僧侶たちは都市に戻って、修行生活だけでなく、仏教の学問的な研究も重んじるようになった。仏教学問が僧侶の集団に広がると同時に、経典の言語である漢文も自然と再重視されてきた。また最近になって東洋思想の代表とされる儒教に対する関心も高まってきた。それを通じて李朝に開花した諸思想家が再評価されてきた。彼等の膨大な作品はすべて漢文で書かれ、その大部分は現代語に翻訳されていないので、その研究には漢文の該博な知識が不可欠である。
今までの韓国の街道での道路標識はハングルと英語でしか記されていなかったが、先に言及した新政治情勢のため、中国と日本から来る観光客は益々多くなってきた。中国人であれ、日本人であれ、英語より漢字で書かれた標識の方が非常に分かりやすいので、韓国の観光当局は漢字の道路標識を設ける意図を発表した。漢字まじりの標語の場合と同様に、その提案を猛烈に拒否する国家主義者の分子もいるが、一般の対中・日の感情は変わりつつあるので近い将来に実現されるのではないかと思われる。
その反感を和らげ、また漢字文化圏に属する傾向を強めるため、中学高校で漢文の教育を一般化すれば、語彙の70%が漢語に占められ、韓国語自身の理解力も深くなり、両隣国との文化交流が豊富になるという二重の効果を得られる。
ベトナムと漢文
韓国において漢字がいまだに全く生命力を失っていない現状であるのに対して、ベトナムでは1世紀ほど前から、漢文を全くの死語に陥れた主な原因はフランス政府の植民政策であったことは言うに及ばない。数年前に「ル・フィガロ」という新聞に発表されたフランス外務省の19世紀末の報告書に依れば、植民政権が漢字・漢文を排し、クォック・ングー(ローマ字)を推薦したその原因は、中国を源泉とした文化圏からベトナムの民族を切り離してフランスの社会と文化に近づかせようという意図にあった。1870年代まで中国式の科挙制度を遵守してきたベトナム人は、20世紀まで漢文の四書五経を基礎にした理想的な教育に影響された。ローマ字教育も意外な効果をもたらしたのである。広い漢字の知識を基礎にしているベトナム文字(喃ノム)よりも早く習得ができたので、早くから中国古典文学だけでなく、「三国志演義」、「紅楼夢」を初め、無数の白話小説がベトナム語に翻訳され、大衆に広く読まれるようになった。ノム文字は非常に複雑であり、多くの漢字を覚えてから漸くして解読するのであるから、子供の初心教育には全然向いていない事実は否定できない。それをローマ字に代えたということはよかったと言えども、漢字・漢文教育を完全に廃止したことは決してベトナム語の知識そのものに有意義ではなかった。
私がまだ学生の頃漢字無知から起きる間違いに気がついて驚いた。日本語1年生の時、ベトナム人の友達と話していた際、彼はこういうことを説明してくれた:「植民主義というのは文字通り翻訳すると、人民を食う主義だ。「植民」の「植」は「食事」の「食」と一緒だから」。すでに漢字をいくつか知っていた私は反論せざるにはいられなかった:「いや、漢字は違う、植民の場合、「植」は植える、または殖える、養うという意味で、食べるということじゃない」。今度驚いたのは彼であった:「でもベトナムの学校ではそう教えられたのだよ」と。考えさせられた話であった。数年間中国語を独学で勉強してきた知識だけで、ローマ字教育で伝わった間違いを指摘することができるならば、ベトナムの国語の教員にもそのぐらいの漢字知識があった方がいいと思われる。フランスにおけるラテン語、又日本における漢文のように、中学高校で漢字・漢文を必須科目にすれば、自分の母国語に関する知識と理解が高まるはずである。
最近のベトナムでは、漢字を中心とする旧文化に対する態度が変わりつつある兆候が見えてきた。内外の学者が数世紀の間ベトナム人によって書かれた漢文文学を本格的に研究し始めた。フランスの極東学院では80年代に越南人著作漢文小説集8巻が刊行され、最近またベトナム地方別の漢文碑文集の出版も始まった。18・9世紀に開花した喃字文学に対するベトナム人の興味も高まってきた。パリでは個人の喃文学研究会が月に一回集まって在仏のベトナム人が趣味として、ローマ字に直されていない喃文の古書を解読する。ハノイでは学者たちがパリの国立図書館に多く所蔵されている稀覯本を対象にして研究する喃文研究会を正式に設立した。
また韓国と同様に、ベトナムにおける仏教の復興が漢字・漢文だけでなく、喃文をも推薦するのに大いなる役割を果たしている。私が最近見たベトナムの寺院で、法事の折に配られる小冊子などの文章はローマ字と喃字の両方で表記されている。普段では廃止物とされているノム字が仏教のためにわずかではあるが蘇ってきたと言える。
ベトナムでも、越僑(ベトナム系の移住民)の間でも漢文(ハン・ヴァン)の教科書、あるいは独学のための案内書がかなり出版されている。中国古典文学(論語、道徳経、荘子、漢詩集など)の対訳も数多く刊行され、対訳書にも二種類がある。一つは漢字の原文と、ローマ字の音読と現代ベトナム語訳の三段を並べるもので、漢字を知っている読者を想定している。もう一つはベトナム独特なものらしく、漢文を載せず、ローマ字の音読と現代語の翻訳だけを並べる。日本語で杜甫の「国破れて山河在り」という有名な詩句を「国破山河在」と書かずに、音読の「コクハサンガザイ」と現代語訳「国が敗北しても、山と川はちゃんと残る」とを並べている対訳に等しいものである。日本では漢字抜きの片仮名「コクハサンガザイ」を読むだけで直ぐ何の話だか分かる人は少ないと思うが、そこにはベトナム語の素晴しい特徴が現われている。中国語(普通話)、日本語、韓国語と異なり、ベトナム語は非常に豊富な音声系統の持ち主であるので、ほかの漢字文化圏の言語に比べて、漢字の本来の発音のニュアンスを明白に表わせるのである。語頭の子音、語尾の子音、母音、声調はみな他の言語と比べられないほどベトナム語はちゃんと区別している。それが故に古典中国語の文章をそのまま声を出して読めば、耳で聞くだけである程度まで内容が通じるのは恐らくベトナム語だけであろう。その特徴は19世紀末のフランス人のベトナム語学者デミシェルがすでに認めていたもので、彼のベトナム漢文文典の前書きに記してある。漢詩の場合、その特徴は非常に有利である。普通話(北京語)よりもベトナム語読みの漢詩が声だけで鑑賞できる。漢字文化圏の諸言語を音読の理解性に従って位置付けようとすれば、ベトナム語は異論の余地なく一位を占めるであろう。その次は広東語と台湾語であり、普通話が中ぐらいに当るであろう。韓国語は普通話と日本語の間にあり、日本語は音声が一番少ないものとして(特に旧仮名使いによらない場合)最後になるであろう。文法構造の違いを別にすれば、ベトナム語の音声が漢文の理解には一番便利な言語に見えるので、中高生が少しでも漢字を勉強すれば、ほかの国の生徒よりも早く漢文を身に付けることができるのではないかと思う。
現代中国語における漢文
先にも示した通り、異論はあるが、何といっても現代中国語が漢文(文言)と同系統の言語であることから見て、両言語は特別に近い関係を保ってきた。その上に、漢字文化圏では漢文と同じく漢字だけの表記法に頼っているのも中国語しかない。目で見たところ、文言と現代語はさほど違わない(旧字体と新字体の食い違いはパソコンのお陰であまり問題にならなくなった)様相を見せる。仮名混じりの日本語、ハングル専用の韓国語、クォック・ングー(ローマ字)のベトナム語とは一見で区別がつくが、言葉を知らずに中国語の文章を見るだけでは文言か現代語か判断しにくい。同じ表記法を使っているため、確かに他の漢字文化圏の言語より文言と白話(口語)間の連続感が強い。また、中国語の文法構造のため、文言体の文句はごく自然に口語体の文に挿入できる。中華人民共和国では80年代中に、久しく無視された文言と古典の教育が少しずつ復古されて、また社会の雰囲気が自由化されるとともに新文学作品の文体が再び文言的要素を自由に含むようになった。
例えば1983年に発表された陸文夫著の話題になった短編小説「美食家」を当時読んだ私は、著者の文語体の文法、表現の自由な使い方に気がついた。「饕餮之徒」(食いしん坊め)、「賓至如歸」(お客さんが気軽にくる)、「戛然而止」(かちっと止まる)等々の文言体の表現はページ毎に現われる。「與我有渉」、「鳴鼓而攻」、「化險爲夷」などの章名も多い。四字熟語は非常に頻繁に使われているだけでなく、文章のリズム自身も自然と古風の4文字の調子に戻るところが多い。純粋文学以外にも、文言と現代語の併用は新聞・雑誌で目立つ。日本で出版された中国人の「留学生新聞」から例文を採ると、「回國上学、柳暗花明」(ここでは日本語の「美しい景色」または「色里」の意味と違って、「窮しても将来が輝かしい」という意味)や「素質培養、不容輕視」などの4文字の見出しが深い文言の影響を顕わす。記事を読むと、「望子成龍的父母」(子が龍に成らんことを望む両親)、「毎天玩得不亦樂乎」(論語の冒頭の引用、「毎日の様にはげしく遊んでいた」)のような、整然とした文言と純粋な北京語を巧みに融合する文がいたるところ見つかったものである。
20世紀の中国語作家の中でおそらく大陸、台湾、香港、シンガポール、そして東南アジアと欧米の華僑集団において一番多くの人に愛読されている小説家は恐らく1925年浙江省生まれの、武侠小説で有名な金庸氏であろう。彼の作品は最近ようやく日本語に翻訳されたので、日本の読書界にも以前より親しい存在になってきた。金庸の文体は非常に面白く、確かに文言ではないけれども、「普通話」とも呼べないと私は思う。むしろ明・清朝の大小説の伝統を汲んでいるもので、現代的白話といった方がふさわしいと思える。彼の文体はまったく文・口混淆文と呼べるのではないかという気もする。例文として、人気のある作品「射鵬英雄傳」の冒頭の文を挙げて見よう:「錢塘江浩浩江水、日日夜夜無窮無休的從臨安牛家村邊繞過、東流入海」。この文の文体を何と名付ければよいか。普通話と呼ばれないことは誰にも自明であろうが、「的」のような虚詞を使う限り文言とも言えない。やはり「白話」と呼ぶしかないと思う。
金庸(また武侠小説作家として彼の第一の競争相手は古龍氏)は中国文化圏では誰にでも読まれている、まさしく大衆作家と形容することのできる人物であるから、文言に近い文体を使用していることは確かに読書力を妨げないのはわかる。金庸の文章を少しだけ変えれば、立派な文言体になるけれども、完全な口語体にするためには文章をかなり書き直さなければならない。その現象は金庸、古龍のような作家に限らず、陸文夫などにおいても著しい。また一般的に、中国人が文章を書く時、言文一致の現代語で書こうとして、複雑な文を作ろうとすると、文体は自ずから文言に近づいてくる。これについて私の個人体験を挙げてみると、10何年前、私が中国現代語の作文力を磨くため、中国人に個人教授を頼んだことがある。週に一回二人で会って、私が前もって中国語に翻訳した仏文中訳の文章を見せて、間違いを直して貰った。文章は主に新聞の記事や現代小説の抜粋であって、なるべく現代語の文法にしたがって翻訳するのが条件であった。個人教授はちゃんとした大学教育を受けた30代の台湾人であったが家族がもともと大陸北部出身であったため、完璧な「国語」(普通話)を話す人であった。練習は無事に進んだが、現代語優先という規則にも関わらず、彼は口語体に翻訳するのをあまりにもくどい文章になると言い、文言に訳するのは一番簡単で中国語らしい文になると強調した。そこでやはり4文字律の文になってしまう。数ヵ月の間、この様なレッスンはわずか4、5回で終わったが、私にはよい勉強になった。中国人にとって書き言葉になると、言葉がごく自然に文言を帯びるようになることは明らかになった。
この事実はある中国語学者には納得の行かない事と評価されていた。ロズナーというドイツ人の学者は1992年に「文言:中国語の二重言語制」という題の本を著した。豊かな文例集をともなうこの本の基礎的な説は現代の中国語(普通話)が一般に宣伝されているのと違って言文一致の原則を拠り所とした言葉でなく、二重の言語的次元を見せるものである。口語の傍らに文言がまだ昔とさほどかわらない地位を占めているのを証明するため、「人民日報」の新聞記事を始め、現代中国の刊行物から例を選び出している。彼はそういう現象を二重言語制(diglossia)と呼ぶが、その単語が果たしてふさわしいかどうか疑わしい。現代の世界では、本当の二重言語制の例はアラブ語ぐらいであると思う。書き言葉と話し言葉が文法・語彙・発音などで明白に分かれていて、話し言葉がいくつかの例外を除いて書き言葉として利用されていないという、はっきりした状態を指すものである。1970年ごろまでギリシアでも明らかな二重言語制を示していた。小説と詩では口語体しか使われなかったのに対して、科学と人文科学関係の刊行物は殆ど文語体で認められた。アラブ語の場合でも、ギリシア語の場合でもある文章が文語体かあるいは口語体で書かれていることは一目で分かる。ロズナー氏の引用する中国の新聞などはそういう意味の二重言語制ではない。一般口語体の枠の中に文語体の要素が挟まれるというのを特徴とする混淆文と呼んだ方が適当だと私は思う。また換言すれば、文語体と口語体の二面を持つ混淆文である。その両面の間には無数のニュアンスが示されて、完全な口語体と完全なる文語体が普通は見られない。文法と語彙が異なっても、作文の習慣として両文体が併用されるというのは普通話だけでなく、中国語の他の方言においても同様である。
語彙も文法も異なるにも関わらず、文言と中国のもろもろの口語が相即不離の関係にあるのはこれからも永遠に変わらない事実である。それが故に中国現代語の中で、口語に保護されている形で漢文は著しい生命力を保ってきたと認めなければならない。
其の三
これからの漢文のために
先の二章に渡って、漢文は独立した、異常な現象でなく、ユーラシア全体に普及されている「聖語制」の一面であることと、漢字文化圏の諸国語のためにも漢文の勉強はまだまだ無意味な勉強になっていないことを明らかにしようとした。
これから、東アジアの新しい社会条件と新技術がもたらした情報交換手段をどのように生かして、より有意義な漢文教育と漢文文化を発展させることができるかという問題を考えてみたい。
先ず漢文教育をより面白くして、文法分析を漸進し、国内・国際の学校間の交流を推進する。
21世紀の漢文の新しい生命力の秘訣を一言で括ろうとすれば、「国際交流」という言葉を使いたい。漢文というのは東亜諸国のそれぞれの文化遺産になっていることは繰り返すまでもない。国によって多少条件が異なるが、それぞれの国語の根本的な要素としてこれから消滅する心配はないと思われるが、これは消極的な勉強の態度と言わなければならない。既成の文化を守って伝えるだけの課題とする教育である。これを積極的、活動的な教育に変えて、一つの国の文化の枠を超えて、国と国の間の繋がりを重んずる文化活動にすることが重要である。
1999年の秋ごろ、テレビのニュースで次の報告を聞いたことがある。日本の文部省が日本の教育方法を三つの課題を中心にして改革する方向を示したいという報告であった。その課題が一つに教育水準の向上、二つ目に国際交流の発展、三つ目に現代情報手段の利用の三つであった。まったく偶然であったが、これから述べたいと思う漢文教育についての提案は文部省の一般教育に関する提案と全く一致するものである。
パリで日本漢文入門講座を担当して15年以上、フランス人だけでなく、韓国、ベトナム系の学生を相手にすることもしばしばある。漢字に疎いベトナム人の学生たちが、日本語とベトナム語の音読があまりにも違うので、説明しない限り、例えば日本語の「ジンミン」がベトナム語のnhandanと等しく「人民」という漢字の音読であることが分からないが、教えられると新世界を発見したように喜ぶ。日本で行われる漢文の授業でも、旧仮名使いを説明する時、生徒の年齢が許す場合、漢字文化圏の諸言語と比較して見れば旧仮名使いの価値が分かってくるのであろう。たとえば同じ「法」であっても、呉音の書き方「ホフ」が、現代韓国語の「ポップ」に相応するが、漢音の「ハフ」がベトナム語の「ファップ」と呼応しているものである。「業」も呉音の「ゴフ」の場合韓国の「オップ」と変わらない、漢音の「ゲフ」がベトナム語の「ンギエップ」(nghiep)に当ることを生徒に注意させると、東亜の国々に対する親近感が強くなると同時に、旧仮名使いの具体的な背景を学ぶのである。
最初の1、2年の間、普通の訓読と返点に依る教育を行えばよいが、漢文の原文に親しむのにもっと有効な方法があるのではなかろうか。前にも述べた様に、日本語そのもののために、漢文の訓読みは文語体(漢文調子文)の文学の鍵としてなかなか捨てられないものである。「平家物語」や「方丈記」を正しく理解するのに、伝統的な漢文訓読の習得は一番よい準備勉強に決まっている。また、ベトナム語と違って、漢文を声に出して読むと、音読だけに依れば理解性が非常に低いので(北京語の場合もそう言えるが、日本語の方がもっとわかりにくい)、やはり訓読が漢文を日本語化するのに不可欠の手段としてこれからも長く残るであろう。日本人にとって漢文=訓読という勉強法を変える必要はない。また平安時代に行われたような、意訳に近い訓読を発展させるのも難しい。意訳というのは個人的な創造活動なので一人の意訳を教科書を通じて全国の中高学生に押し付けるのも不可能であろう。漢文調子が完成された日本語の一文体として成り立った表現手段である限り、それを尊重しながら生かす方法を探さなければならない。
ここであいにく今は絶版となった安達忠夫氏の玉書「素読のすすめ」の説を少し取り上げたいと思う。氏は漢文教育、なかんずく子供向きの漢文教育における音読み訓読み並読法を、説得力のある言葉で唱える。もし漢文の習得を受動的な読書力に止まらず、活動的な作文力の程度にまで進めようとすれば、安達氏の強調するような並読法も第一条件だと強調したい。音読を唱えたり暗唱したりすることによって、訓読の段階以前の文言の構造を記憶に刻むという大事な役割を果たせるからである。音読、すなわち漢文の白文を頭に入れておけば、初めて訓読の方を文法的に分析することが可能になる。ただし私としては安達氏が勧めるように、素読という方法を他に生きている現代語の学習に普及させる必要性は非常に疑わしく思える。むしろこの話の主題である「聖語」の勉強に限るものとして活用させる方が効果的である。中国語、英語などのように、会話力を中心とする現代外国語を身につけるためならば、素読はさほど役に立たないと言わなければならない。3カ月の現地滞在が学校で行う3年間の勉強よりも効果的だといっても過言ではない。それに対して、読書と作文を中心とするはずの古代語(聖語)には音読が基礎的で重要な勉強法である。漢文には母国語の話手を見つけることが出来ないので、講師の代わりになりうるのは原文だけである。故に素読によってなるべく多くの基礎句形を覚えなければならない。
そこで訓読みに新しい意味が与えられる。それは原文の文法的理解を強める役割である。例えば、訓読みを口にする前に、音読した原文を文法的に説明すれば、主語、補語、副詞、動詞がどこにあるかと皆で探して、どんな字に「ヲ」をつけて、どんな字に「ス」か「スル」などがつくかと決めたりするのは教室全体の練習になるわけである。部分否定、使役形、受動なども細かく説明しなければならない。生徒の程度が比較的上級ならば、場合によって意訳の試みを普通の訓読みに並行して行うと授業が面白くなる。
音読み訓読み並読法によって、伝統的な訓読が保たれていながら、生徒の漢字知識の水準も高まり、文語体の理解力も強まり、現在ほとんどなくなった漢文作文力も復興されるという、国語教育にも多方面における効果が生まれる。
戦後の漢文教育で行われていたように、学校で読ませる文章は当然中国の古典を中心として、同時に必読文章の範囲を広げれば日本の漢文文学も見直せるだけでなく、中国以外の東亜文学にも新しい発展の窓が開ける。時々韓国かベトナムの漢文文学から漢詩一、2首を選んで読ませると、今、相互交流の不自由な現代語の境を超えて、共通な遺産の存在を意識できるのである。
また、中国における文学の表現手段としての漢文(文言)は20世紀初期までその生命を保ってきた。欧州文学がその晩期の漢文(文言)文学に影響を及ぼしている。19世紀の終から20世紀の初めにかけて、翻訳だけでなく創造的な新文学が開花したが、もっとも現在においても漢文(文言)文学専門家にほとんど無視されている。なかには恋愛小説、冒険小説、推理小説にも、漢文で書かれた「大衆文学」と呼べる作品等がある。高校3年または大学程度の授業ではまだ訓読されたことのない清朝末期、又は共和国初期の漢文の推理短編を選んで、一学期でも音読み、文法分析、訓読み、現代日本語訳の四つの段階を経て創造的な勉強が進められたら、既成古典文章とは違う、新しい味の漢文講座が生まれるのではないかと思う。またそれを共同の作品としてインターネットか大学雑誌で公開すれば、いまだ研究されていない中国文学の一分野が少しずつ再考されるようになる。
ここで、この練習の一例として、1915年の天白という筆名の作家(詳細不明)の推理短編小説の冒頭の数行を私の訓読と現代語訳を加えながら挙げておこう。非常に単純な書き下しであるが、漢文専門家の皆様の添削を待ちながら、臨時な提案としてここに載せることにする。
東方之亜森羅萍 (東洋のアルセヌ・ルパン)「清末民初小説書系・偵探巻」ヨリ
一夜、天陰如墨。
東長安街上、萬戸沈沈、悉入夢境。
街燈暗淡、亦似含倦意。燈柱下矗立一警士、森如石人。
忽聞機聲軋軋、一摩托車電掣風馳、穿横街而過。
警士略挙首、微作噫気、旋就燈光下出時計諦視之、長針已指一點四十五分。
倦瘁之容、立欣欣有愉色。
蓋知再閲一刻鍾、即可下直尋好夢也。
(できる限り、略字の原文を旧字に直した。原則として、文言の文章を新字で印刷するのはまったく不条理である。)
[訓読み](便宜の為、ここでも漢語を新仮名使いで書くことにした)
イチヤ、テンのくらきことすみのごときなり。
トウチョウアンガイジョウ、バンコチンチンにして、ごとごとくボウケイ(ムキョウ)にいれり。
ガイトウアンタンにして、またケンイをふくむににたり。
トウチュウのもとにイチケイシチクリツして、シンなるはセキジンのごとし。
たちまちにキセイのアツアツきこゆるに、イチモーターシャデンテツーフウチし、オウガイをセンしてすぎぬ。
ケイシほぼかうべをあげて、かすかにイキをなし、トウコウのもとにめぐりついて、とけい(シケイ)をいだしてこれをテイシするに、チョウシンすでにイッテンシジュウゴフンをさす。
ケンソツのヨウ、ただちにキンキンとしてユショクあり。
けだししる、ふたたびイッコクショウふれば、すなはちカチョクしてコウボウ(コウム)をたずぬべきことを。
[現代語訳]
空が墨の様に暗かったある夜のことであった。
東長安通りに、家々は皆静かであり、住む人もぐっすりと寝付いていた。
街灯の薄暗い光もいかにも倦怠そうに見えていた。
灯柱の下に、ひとりの警官がぽつんと立っていて、立像の様にしんとしていた。
突然、ガーガーの音で、一台の車が稲妻の様に横町を通り抜けて行った。
警官は少し頭を挙げて、軽くため息をついた。街灯の下にたどりついて、時計をだしてよくよく見たら、長い針がもう1時45分を指していた。
彼の疲労の様子は直ぐ様愉快の色を見せた。
思うに、あと十五分したら、当直が終わって、やっと楽しい夢が見られることを知ったからだった。  
音読みにはあらためて重点を置くことと、文章の範囲を広げること以外、今までの漢文教育法を変えない方がよいと思うが、実は新しい方法をインターネットの使用に求めなければならない。最近、関連のものをよく読むことがあるが、もし中国の現代化、特にインターネットの発達率が今日のリズムで続くならば、これから数年すれば、インターネットで一番使われる言葉は英語でなくなり、中国語になるそうである。数年先の事情を予想しようとすると、鬼は数倍ぐらい笑うであろうが、仮にそういう可能性さえあるとすれば、インターネットがアルファベットでなく、漢字に支配されることになるという意味である。多くの西洋人の言語学者と社会学者の観点からは、こういう発展が彼等の決め込んだ現代世界の方向に反するものとして憤慨されるかも知れないが、漢字文化圏のためには思わぬ好機会である。
余談になるが、これを因みに最近気になったことについて一言述べたい。フランスのテレビで、日本で行われた世界ドミノ大会の中継を少し見たことがある。中国人、韓国人、日本人が一組みとなって、オランダ人の作ったドミノ倒しの世界記録を破ろうとしていた。漢字文化圏の3大国が集まったところに、共通表記法は言うまでもなく漢字であろうと期待して見たが、漢字は一つも見当たらない。大見出し、応援、スローガンなどは皆英語であった、しかもそれは誰でもわかるような、幼稚な英語であった。その大会の目的がオランダ人の記録を破ることであったので、東亜以外のテレビ観客に対する思いやりから英語表記を設けたのは大変いいことだが、いったいなぜ東亜3国の特別な文化関係を象徴する漢字を一つも見せなかったのであろうか。英米人を笑わせるような幼稚園向けの英語の傍に、なぜ普通の漢字を並べなかったか分からない。「ドミノ」に当たる漢字がないと弁解する人もいようが、「骨牌」か「牙牌」を使えばいいと思う。3カ国の代表者が前もって集まって「ドミノ」の漢字訳を相談で決めたら、漢字文化圏の未来の推進力の兆しになっていたであろう。これほどの素晴しい機会を見逃したのは遺憾としか思えない。
余談はさておいて、インターネットと漢文教育の話にもどる。早くから、漢文を1年間ぐらい勉強した後で、ある学校の漢文教室が中国、台湾、韓国の同じ学年の学校の漢文の生徒とインターネットで連絡し合い、週に一回ぐらい3ヵ国間の漢文「会話」を行えば、漢文の生徒は想像もしなかった漢文を活躍させる手段を見つけて、漢文に対する興味が深まるのではないだろうか。昔中国に渡った日本人が漢文で筆談して普通の他国の旅行者よりその国の事情に関する深い理解を得られたように、インターネット(中国語で因特網というが)で「網談」(ネットでの対話)を学校時代から進めると、活動的な漢文の実力が普段の勉強より早く身につくであろう。
そこで、日本人は必ずこういう反論をする。日本人の漢文が中国人、韓国人の漢文より劣っていて、「和臭漢文」か「変体漢文」という程度の文しか作れない、と。その謙遜に満ちた態度も結構であるが、それを支えている理屈が成り立たない。では日本人の漢文が駄目なら英語で言ってみる。日本人の英語が完璧だということを意味するのであろうか。いな、ならば、どうして英語で許されていることを漢文でしないのであろうか。思うに、その意見の裏には漢文に対する深い尊敬と理想が潜在している。英語ならば情報交換が第一であるから、正確な文法や洗練された文体は二の次の問題になる。漢文ならば、書けること自体はその人の学問の深さの証拠になる。そういう文体では内容より形が重んじられることは、戦前の日本漢文教科書に載せられる美文の抜粋を一瞥してすぐ分かる。高等学校、大学程度で漢文の作文はまず簡単にして正確な文章を第一にしなければならない。句形、即ち構造をしっかりと習得して、簡単な語彙をもってその句形を生かすことを作文の目的にしなければならない。なるべく多くの難しい漢字をみだりに使うことを避けなければならない。吉川幸次郎先生が指摘なさるように、「論語」の使用字数が1512字しかないので、常用漢字より少ないということを顧みると、孔子の諸弟子と競争する必要は全くない。もう一つの例を挙げれば、平安時代の有名な漢文日記、藤原道長「御堂関白記」では、それをフランス語に翻訳したフランシーヌ・エラーユ先生に依ると、1400字しか使われていない。インターネットの「網談」でもその数ぐらいの漢字を使って、文法的構造さえしっかり把握しておけば充分である。
インターネットで東亜の学校を漢文の筆談で結ぼうという提案であるが、ここで断わって置きたいことがある。原則として、インターネットは教室の枠内ではなるべく使わない方がいいと思う。特に漢文教育の場合、文章と作文を中心とする伝統的な教え方が重要である。インターネットの使用はなるべくクラブ活動にした方が効果的ではないかと思う。そういう「網談」に参加する生徒が実際に興味がなければ、退屈な宿題になる恐れがあるから、自分から進んで学校と大学ごとに「漢文クラブ」を作った方が勉強よりも、娯楽に近い活動になりうる。漢文の指導教授がクラブに参加しても、その役割は言葉の指導に限るだけでいい。ただ、インターネットで行われた漢文の筆談をプリントして、漢文教室でほかの生徒と一緒に読んでも差し支えはない。
インターネットを上手に生かすことに依って、日本だけでなく一般の漢字文化圏諸国に久しく忘れられていた国際言語としての漢文の役割が再発見されることとなる。  
漢文文学賞の設立
「日本文学賞事典」数版を調べてみたが、日本で設けられた数多い文学賞の中には、特別に漢詩か漢文の作家に賞を与えるものが毫もないことが分かって驚愕した。文学賞大国である日本では漢文で書かれる文章が全く無視されることを明白に証明している。
今日では、漢文を用いる文学的表現として、ある程度の生命力を保ってきたのはおそらく漢詩だけである。日本の仏教月刊誌「大法輪」は長年を経て短歌と俳句の傍に読者の投書する漢詩に2ページを捧げる。主に日本人の作った詩であるが、時々台湾から送られる詩も載せられる。パリの華僑を相手 の中国・フランス語月刊誌「華報」(LeJournalPacifique)では、欧華詩人協会が編集する「世華詩苑」という漢詩欄が1996年に創刊されてから毎月全世界から送られる詩か詞数首を載せる。私の目の前に置いてある第47期(2001年1月22日)では、新加坂(シンガポール)、マレーシア、広東、成都、巴黎(パリ)からの投詩があり、中国人がいかに漢詩の伝統を大事に持ち続けているかを顕わしている。学友のフランソワ・マルタン氏が1980年ごろ韓国中に散在している漢詩会を調査して語ってくれたことに依ると、組織的な漢詩会が韓国では日本より古風の面影を守っているようであるが、最近の状態はわからない。日本では、「大法輪」が示すように、漢詩はまだまだ廃棄されない文学活動であるけれども、短歌や俳句よりはるかに無視されてきた。日本最後の漢詩人と言われていた阿藤伯海先生が1960年に亡くなられて以来、漢詩を作ることを専門とする日本人のことを久しく聞かない。全くいないというわけでもない。全国で自費で出版される漢詩集が明らかにするように、娯楽としての漢詩はまだ行われるが、現代詩か和歌のように本格的な文学活動として認められるかどうか疑わしい。
どうすれば漢詩文の創作がほかの文学的範疇並みに再重視される様になるのであろうか。漢詩文の作品に与えられる文学賞を設立するのは一番たやすく目立つ方法として進めて欲しい。
先ず市か県の段階で弁論大会のように高校生と大学生を相手にする漢詩、漢文大会を設けること。私の思うのに、漢詩より、漢文の作文に重点を置いた方が大事である。なぜかといえば、漢文の作文の方が独創性を必要とする活動であるだけでなく、文法構造の正しい把握がなければ成り立たないものである。そういう漢文大会の審査員には当市か当県の漢文の教授以外に漢文の国際性を強めるため、できるだけ中国か韓国からの賓客審査員の参加もいいと思う。
本格的な漢文作家に与えられる文学賞。言わば芥川賞か直木賞の漢文版である。毎年漢文で書かれた一冊の小説、エッセー、漢詩集の作家に与えられる賞である。作家は日本人、あるいは日本に住んでいる人であった方がよいが、まず漢文の創作を自分の主な文学活動の手段とする人でなければならない。前条と同じく、審査員は日本人の漢文教員、漢詩の名人、文学者と、漢字文化圏の漢詩文の名人が選者となればいい。
日本を超えて、国際的な漢文文学賞を設立するのもいいと思う。やや大袈裟に言えば、漢文のノーベル賞を設けなければならない。東亜の文化史から見て、象徴的な場所を選んで設立すればよい。例えば日本で設立するならば奈良か京都を選べばいいのではないかと思う。そのたびに場所を変えて、北京、漢城(ソウル)、河内(ハノイ)も交代に選んでもよい。最初は毎年これほどの賞が与えられそうな作家が現われるわけでもないので、まず3年おきか4年おきに授賞する方が有利であろうが、受賞者は国籍を問わず、漢文で重要な作品あるいは幾つかの作品を書くことだけを条件とする。審査員は国際の漢文文学の専門家と作家から選ばなければならない。
日本漢文文学賞と国際漢文文学賞は金銭面でも受賞者に有利なものでなければならない。それを受けた人があとしばらく漢文創作に専念することを許す位の金額であれば理想的であろう。また大学では、英米で流行っているcreativewritingの講座を見本にして、漢文創作講座を設け、指導教員として漢文作家を任命すれば、斯学に専念するもう一つの可能性になりえる。
学者同士の伝達手段として漢文を推薦する
先に引用した「文言読本」の「前言」からまたこの言葉を借りる:「寫作文言的能力決不會再是一般人所必須具備的了」(漢文で書く能力はけっして一般人の身につけるべきものでなくなってしまった)。確かに一般の人の場合、漢文で書けることが再び出世の不可欠な条件になる可能性は薄いが、現在でも漢文を普通の文体として使う人がいる。政治的、あるいは社会的な原因で現代中国標準語(普通話)の教育を受けられなかった世代の学者、また普通話圏外で生まれて育った華僑出身の学者たちが自分の研究を公開する段階で、普通話(台湾では国語というが)で書くのにあまり自信がなく、あるいは反感があるゆえに、専ら文言体を使う。仏教学、歴史学、文学史、民族学等々の学問の諸分野では術語が決まっていて、現代語と文言に共通しているので、文法だけが違うと言える。また先にも言及したように、文言の構造が簡潔であるので、そういう文言で書かれた専門文章が案外普通話よりよく読めるものが多い。特に他国の同じ分野の専門家には分かりやすい。その上、現代の観念に応じて文言の文体に口語の要素を進んで入れる学者が多い。一番目立つのは「政治的」などの「的」という虚詞の使用である。
東亜だけでなく、全世界の東亜歴史、文学、仏教学、儒教、道教、哲学、の何千人もの専門家が皆漢文を研究の日常道具にしているので、漢文の造詣が深いことはいうまでもない。けれども皆それぞれの母国語、現代中国語、韓国語、日本語などで論文を出版する。あるいは東亜出身の人でも今、国際学問語英語、あるいはフランス語で論文を著す学者が多い。同じ中国仏教を研究する学者間の共通な言語が英語しかないというのは遺憾に思う。20世紀の前半にはしばらく違う考え方が現われそうであったが、長続きしなかったのは残念である。日本では1918年(大正7年)大村西崖が「密教発達志」を漢文で著したが、この本が密教に関する基礎的な入門書として今でも示唆する。著者が前書きで説明するように、この研究論文を漢文でしたためた理由は日本語が日本以外の国ではあまり読まれないのに対して、密教に興味のある人ならば皆漢文が読めるはずである、ということであった。また奇遇にも、ちょうど同じ年、戦前の朝鮮では李能和という学者が「朝鮮仏教通史」上下二巻を著した。彼は序文で大村西崖と大体同じ理由を挙げて漢文を選んだ意図を説明している。もちろん当時の政治状態から見て、彼が日本語で書く気にならなかったのは自明である。同じ年に、日本人と朝鮮人の学者が仏教学論文を同じく漢文でしたためたことに大きな意味があると思う。新しい学問と伝統的な知識が睦まじく融合して、極東の学問の新時代の濫觴と思えたであろう。また馮友蘭という有名な中国の哲学者が「中国哲学史」上下編(1930、1934)を大変正確な、読みやすい文言体で出版した時、文言体でも新しい学問に応じた標準にしたがって研究を進めることができる、もう一つの輝かしい証拠を世に見せた。
残念ながら、その学者の漢文文化圏の発展は続かなかった。今日では、意義のある学問的な漢文の出版物が台湾と香港にしか殆ど見られない。けれども東亜の国々だけでなく、欧米を含めて、現代ほど漢文資料を専門に研究している学者が多くいるのは曾てなかった。職業的に漢文を専攻している人は国境を超えて、大勢の言語集団をなしている。なぜ彼等は自分の全ての研究を漢文で書かないまでも、その総合的な部分だけ時々漢文で著さないのであろうか。あるいは中国学などの学問誌の論文に簡単な漢文の要約をつけたら専門家には英語より読みやすいのではなかろうか。
またここでもインターネットをより有効に使用してほしい。インターネットは世界の東亜文化の学者たちのため、曾てなかった情報交換の広場とすでになっているが、漢文を使えばより深い交流ができるであろう。特に専門用語をそのまま使うことによって遠回りをせずに直接資料扱いが許される。
もし実際にインターネットで漢文の筆談を行おうとすれば、何よりも簡潔な文体が必要である。自分の博学を見せびらかす機会にするのでなく、有意義な交流を第一の条件にすべきである。漢文関係のフォーラムを設立して、それぞれの研究専門について簡潔な漢文で筆談(網談)をすれば、斯界の国際関係に今までと異なった側面を見せそれに光をあてるのではないかと思う。
将来の「網談」の可能性を具体的な例を以て明らかにするため、ここに江戸初期の儒者、藤原惺窩全集に収まっている「朝鮮役捕虜との筆談」の抜粋を紹介したい。豊臣秀吉の朝鮮役(慶長役)の時、日本に朱子学を伝えたことで有名な惺窩は朱子の教えを、捕虜になった朝鮮の知識人(姜■)から習った事実は広く知られている。二人の初対面の記録は幸いに現代に伝わっていて、筆談の素晴しい例文となっている。ここで最後の一部分を引用する。この文章の書き下しがないので、私の知っている限り、自分の下手な訓読みを加え、現代語の略訳も試みてみた。  
朝鮮役捕虜との筆談(「藤原惺窩集」)
(1)[粛(=惺窩)]汝婦生別乎。死別乎。
(2)[鮮人(=姜氏)]我被捉時、溺水死矣。
(3)[粛]實節義之婦人。勝丈夫。予聞之哽咽。哀涙不覚承■。況夫婦之至情乎。不覚隕涙罔知所喩。
(4)[鮮人]我欲同死。但両児女。一則十歳。又一則十三歳生存。所見可矜。時未如意。至今生存矣。
(5)[粛]両児女在何處哉。
(6)[鮮人]此両女皆入在大閤室内也。
(7)[粛]予惻怛之情非常。
(8)[鮮人]我言聞之者数多。一未聞惻怛之情。尊示書惻怛之情。不勝仰感。
(9)[粛]予賦性恤。非獨汝。待物毎々如斯。豈以聲音咲貌可為哉。
(10)[鮮人]我不死生存於此國。則無異此國之人也。我欲知尊之姓名官職。其意如何。
(11)[粛]予幼而喪父母。無妻子之系累。獨立亭々。天理唯以楽之。傍花随柳送日々。故以蒙荘中央柴立之義。自號柴立子。別無官職。人事泊如淡如。而自守自適。汝若有暇則遊京師至予居乎。汝去國離妻。想常幽憂。雖然皆是時勢。天理不可奈者也。得喪乖逢。一時排遣。唯自寛心。
(1)[鮮人]示書再三悉復。亦可得一寛心。深謝。
[訓読み](漢語のみ新仮名使い使用)
(1)なんぢがつまとセイベツなりや、シベツなりや。
(2)われとらはるるときみづにおぼれてシせり。
(3)ジツにセツギのフジンなり。ジョウブにもまさる。ヨもこれをきいてコウエツす。アイルイおぼえずまぶちにたまる。いはんやフウフのシジョウをや。おぼえずなみだおつること、たとゆらんところをしるはなし。
(4)われドウシせんとほっせり。しかしリョウジジョあり。ひとりすなはちジッサイにして、またひとりすなはちジュウサンサイのセイゾンするあり。みるところあはれむべし。ときいまだこころのごとくならざれども、いまにいたりてセイゾンす。
(5)リョウジジョいづこにあるか。
(6)このリョウジョみないりてタイコウのシツナイにあるなり。
(7)ヨがソクダツのジョウつねならず。
(8)わがゲン、これをきくものかずおおけれども、イツとしていまだソクダツのジョウをきかず。ソンのソクダツのジョウをシショすること、ギョウカンにたへず。
(9)ヨ、スセイシュッテキなり。ひとりなんぢにあらず。タイブツするにマイマイかくのごとし。あにセイインショウボウをもってなすべけんや。
(10)われシせずしてこのくににセイゾンするは、すなはちこのくにのひとにことなるはなきなり。われソンのセイメイカンショクをしらんとほっす。そのイいかんせん。
(11)ヨ、ヨウにしてフボをうしなへり。サイシのケイルイなし。ドクリツテイテイなり。テンリただもってこれをたのしむ。はなによりてやなぎにしたがひてひびをおくる。ゆゑにモウソウの「チュウオウにサイリツ」のギをもって、みづからサイリッシとゴウす。ベツにカンショクなし。ジンジはハクジョタンジョにしてみづからまもりてみづからかなふ。なんぢもしひまあればすなはちケイシにあそびてヨがキョにいたらんや。なんぢくにをさってつまとはなれり。おもひつねにユウユウならん。しかりといへどもみなジセイなり。テンリはいかんもせざらんものなり。トクシツカイホウ、イチジにハイケンす。ただみづからこころをゆるやかにせよ。
(12)シショサイサンことごとくフクせん。またイチカンシンをうべけん。ふかくシャす。
[現代語訳]
(1)奥様とは生き別れですか、亡くなられましたか。
(2)私が捕らわれた時、水に身をなげて溺死してしまいました。
(3)まことに貞操のある奥様でした。男よりも強いのですね。こんなことを聞き、胸打たれ、同情の涙は目に溢れる。夫婦の愛もこんなところに至るものでしょうか。感激の気持ち、何にも喩えようがありません。
(4)私も同時に死にたかったのですが、女の子が二人いまして、一人は10才で、もう一人は13才です。二人とも生き残ったのですが、見るにもかわいそうで、あまりこころにかなわない時期でしたが、とにかく生存しました。
(5)二人のお嬢さんはいまどこですか。
(6)ふたりとも大閤様の閨房に仕えています。
(7)非常に同情します。
(8)私の話を聞いてくれた方はたくさんいますが、まだ一度も同情の言葉を聞いたことがありません。貴方が同情して下さいまして、感激に耐えません。
(9)私は生まれながら情深いものです。貴方に対してだけではありません。誰に会っても同じなのです。決して見せかけだけではありません。
(10)私はここまで死なずにこの国に生きてきましたので、もうこの国の人と変わらないでしょう。お名前と職業を教えていただきたいのですが、いかがでしょうか。
(11)私は幼い時に両親にしなれまして、また妻子の絆もありません。まったく独立しています。宇宙と自然を観測するのを毎日の楽しみにしています。荘子に出ている「中央に立っている枯れ木」の譬喩を借りて、自分の号を柴立子にしました。人の諸事にあまり拘泥しないで、自分なりの人生を送ろうとしています。貴方のお暇の折にでも、京に来られたら内に寄って下さい。貴方はお国を去って、奥様と別れて、さぞ寂しいでしょう、すべては時勢ですから、世界の成り行きにはどうしようもありません。得ること、失うこと、会うこと、別れること、皆一時的に過ぎ去っていくものです。こころをゆるめるのが一番いいのです。貴方の忠告を充分に反復して、なんとかこころを和らげるでしょう。深く感謝します。
惨めな境遇でありながら、人情に溢れるこの筆語は現代のインターネットで「網談」の見本になりえるのではなかろうか。時代が変わっていても、東アジアでは漢文は理想的な情報交換と文化交流の手段となり続くのであろう。  
結論
いったい何故ひとりのフランス人が漢文の存続をこんなに熱心に奨励し弁護するのであろうか、という疑問を発する読者も多くいるのではないかと思う。おせっかいと思われるかも知れない。日本人、韓国人、中国人が快く漢文を棄てていく時期に、言葉の自然な成り行きに、なぜまかせず無理に反対するように復古を望み、さらに激励する必要があるのであろうか。私は学生時代から日本漢文に親しんできた、それが日本で軽視されているのを見るにつけていたたまれず、というだけでは説得力が乏しいが、むしろ漢文を復興する理由は二通りあるという事実を明らかにしようとした。漢文は数千年前からユーラシアに通じる「聖語」(hieroglossia)という全体的現象の一面として重視に値するものである。ほぼ4500年前から(メソポタミアにおけるスメル語の時代から)現代に至るまで(アラブ語とイスラム文化圏)続いているこの歴史を消滅させてしまう理由はない。かつてなかった新しい条件の下で古代言語の使用がどのように発展するか、という実験を試してみたいのである。漢字という文字を共有していながら漢字文化圏の国々には、いまそれぞれ文化的に大きな壁がある。英語を共通語にすれば、いわばその遺産を取り消すことを意味する。しかし、漢字だけではどうにもならない。漢字を生かす唯一な方法は漢文にある。漢字文化圏を漢文文化圏の次元まで進めなければならない。もちろん、東アジアの人口が皆漢文を習得しなければならないといっているのではない。話を日本にだけに狭めてみると、20年前に行われたように漢文教育の範囲を、高等学校の必須科目に戻すぐらいで充分だと思う。ただ、教育の内容をもっと積極的、活動的にすることだけをすすめたい。一億二千五百万人の日本人に皆漢文で書けということではない。十万人に一人が漢文で書く意志を抱くようになれば、全国で1200人ぐらいの人が活用できる。全東アジアを含めれば、大体15000人にはなる。15000人もいれば、21世紀に入ってからでも、長い漢文の歴史の新しい一章を書くことも出来るのではないかと思うのである。  
 
日本語の「カゲ(光・蔭)」 /日本文化のルーツ

 

筆者は東アジア大陸の主に漢文化圏の領域で、各々の独特の文化を築き上げた中国、韓国、日本に跨る三国の古代の文字・言語、及び文化等を研鑽してきたところ、日本語の「Ka-nge.カゲ(光・影・陰)」という言葉が表している意味が、一般的常識とは矛盾した表し方をしているのに気づき、これを解明するために長い時間を費やした。
それで、拙著「原始韓・日語の研究」に、それについて若干の考察を納めたのであるが、本論ではもう少し詳しい考察をしてみたい。
光と陰は、全く正反対の自然現象である。このような矛盾的な表し方は、おそらく、他の日本語にはないと思われる。
上代日本語を始め、歴代の日本語関係文献を探しても、全く見当たらない。如何なることか。
これは、日本の国語学を研究している学者の誰もが関心を寄せる問題であるが、これを究明している学者は、なかなか見当たらなかった。
ところで、最近、吉田比呂子「カゲの語史的研究」が、筆者の目を光らせた。「カゲ」に関する語史的文献を繙いた労作である。その他、木村紀子氏の「古代日本語の光の感覚―語根kagをめぐる意味の構造―」も最近、拝見した。
筆者は、「原始韓・日語の研究」にある論文のところどころで言及したことであるが、今までの日本の諸学者が、西洋の学問研究の方法論をいち早く導入し、東洋の諸文化を先行的に研鑽した功績は、高く評価すべき業績であろうが、しかしながら、今まで研鑽された諸分野において、それを省み、今後再考しなければいけないところが、あちこち目に入る。
中でも特に、語源解釈の分野は日本語だけでなく、諸外国の分野に至るまで、もう一度見直さなければいけないところがあまりにも多い。日本語の辞典に納めてある、単語の末尾の諸学者の語源解釈を始め、韓国語との比較における諸論文の内容等、このまま文献として残すことは、後学に多大な悪影響を与えると思う。
詳細はここでは省くが、一つの例を挙げると、村山七郎「風土と文化」「朝鮮語と日本語」での朝鮮語のアクセントを表してあるところで、〈( )内は、筆者の修正した内容で、村山氏の論考は便宜上省く〉、梨(最も高い―これは、梨、舟、倍の中で)、霜(中高下の三段階のアクセント)、客(最も高い)、手(中)孫(下)、種類(高下)、枝(中中)、小麦(中)、負う(高―ta)、父親(下高下)、幼い(高下)、蜘蛛(高下)、花(高)、串(中)、国(高下)、丘(高下)、鶴(下高下)等、その他、いろいろ問題点があるが、省略する。従って、このようなアクセントの研究は、少なくとも、朝鮮半島の東南に位置している慶尚道のアクセントを現地で調査することが最も大事な事であろうと思う。それは、この方言は遠い昔の新羅の地域であり、朝鮮半島での唯一のアクセントがある方言であるので、朝鮮語を研究するのに大事な言語である。ただ、半島の北東部に位置している、ham-kjeong-doの方言にもアクセントがあるが、この方言を材料にして考察するには、いろいろ問題があるので、扱わない方がよかろうと思う。
その他、日本語の諸辞典にある語源解釈は、全面的に直すべきであり、早急に改善しないと後学に多大な悪影響を与えると思う。
「kang-e〈カゲ(光・蔭)〉」について
吉田比呂子氏の著作を拝見した。著作名の如く「カゲの語史的研究」で、「カゲが表す光・陰」の矛盾を解明する内容ではない。
一方、木村紀子氏の考察も、その矛盾についての解明は見当たらず、ほぼ同様である。筆者の考察では、「カゲ」の基本的語義は「限界」であり、その語根は「kjang-」のように思われる。
日本語のこの「カゲ(光・陰)」は、非常に古い時代に、日本に渡来した(創られた)ことばと言えよう。卑見では、弥生時代か、遥かそれ以前に、日本列島に渡ってきた渡来人が身につけてきたことばであると思われる。
勿論、こればかりでなく、筆者の考察によれば、日本語の中には、このような大陸から争乱を避けて逃げ込んできた人たちによって、日本列島に渡ってきたことばが数多くあるようである。その中の一つが、この「kang-eカゲ」である。
とは言え、これらが漢語かとはそう簡単には言えない。それは、漢族は黄河中上流に位置して羊を遊牧し、今から3500年前頃、商を滅亡させ周王朝を開いた民族であるから、中国大陸の一方言と言えよう。ということで、大陸からの渡来語をまるっきり漢語とは言えないであろう。それで、筆者のこのような考察においては、漢語とは言わず、大陸の言語と言う。
カゲの基本語義は「限界」である。その限界を表す語を挙げると、次の如くである。「kjang-境鏡景彊競」等。その他「tjang章」がある。
境は「土」を、鏡は「金」をつけて、各々「境界」「かが―み鏡」を表す。境は土地のサカイを表し、鏡は陽と陰のサカイに存在して、光を受けて蔭の方に影(姿)を映す役割を果たす器物を表して、土へん、金へんを除いた字がサカイを表す字である。
次の「景」は、「京」と同じく、「大きい」と言う意味と、また、「日かげ」の意味を表す字である。「日かげ」を表す場合は、境と同じく「けじめ」、つまり、明暗の境界を生じることを表す。
「彊」は「田の間にくっきりと境界をつけること」を表し、「競」は「勝」と「負」のサカイを表す字である。ついでに、「章」も文と文のサカイを表す字で、第1章、第2章と文章の境界を表している。境の字の土を除いた字とは、下辺にある人と10の差である。
日本の上代の文献に表れているカゲの意味を大略に示すと、「(1)光(影)火・(2)姿(影)・(3)蔭・(4)限界」である。
「渡る日も 影に隠らひ 照る月の 光も見えず……。」ここでは、影が「太陽の光」を表している。太陽の光を表しているところは、万葉集を始め、古事記、霊異記等にも見える。勿論、月の光を表すにも、「淀める淀に 月の影見ゆ」「移ろふ 月の影を 惜しみ」等の如く使われているのが見られる。
次は、姿を表している。「蝦鳴く 甘奈備川に 影見えて 今か咲くらむ 山吹の花」の如く、影は、姿を表している。次は、暗い部分、つまり蔭(陰)である。「郭公鳥 此よ鳴き渡れ 灯火を 月夜に なそへ その可気も見む」の如く、蔭を表している。
最後の「kagiru,-ri」は、「光」と「限界」の両方を表しているのがわかる。
「玉 可支流 はろかに 見えて」これは、光を表している。
「きへゆく年の 可支里 知らずて」ここでは限界を表している。
以上であるが、如何にしてこのように、光と光に遮られた暗い部分という、相反する意味が同じ語形に共存されているのか。
前述の如く、この「カゲ景・境・鏡・彊」の意味は、「境界」を表す語であり、中でも、「景」は、「光」の意味をも表すことによって、その境界に立ち、光と蔭の両方を行き来したように思われる。それを裏付けるのが、「景」と同じ意味を表す「鏡」である。鏡は、光と蔭の境界に立って、光を受けて,それを蔭に送る器物である。「kanga-mi」は、かが(光)み(見)であるから、ここの「かが」は、光を表す。つまり、「さかい」を表す語が「ひかり」を表す語に変わっている。
影の「さんづくり(彡)」は、姿を表す字である。従って、光、姿に行き来したのであろう。この語根、「kang-」による単語をひとつだけ拾ってみると、かが―やく、かぎ―り、かぐ―やひめ、かげ等、様々である。しかし、大抵において、光(火・炎)を表す語が大部分であろう。
中でも蔭は稀で、後世に至っては、光よりもむしろ、蔭の方に傾いたようである。そして現代では姿を表す語として、「面影」以外は、見えない。
ここで、卑見として述べたいことは、かつて、斯界の論争の資料である、「鼻音ガ-nga」と「ガ-ga」の、サキ、アトである。
筆者は、これについての詳しい論考はないが、前者の方が先であろうと思う。
日本語の「がぎぐげご」は、「んが、んぎ、んぐ、んげ、んご」が、その基であったが、後世に至って、語頭の「n」が脱落したのではないかと思う。
原始日本語で、語頭の濁音の有無についての論争は、未だ決着がついていないが、ガ行は、漢字音の鼻濁音、例えば、「nga雅、ngi義、ngu愚、nge解、ngo呉」のような伝来音によって生まれた音節であろうと、筆者は信じる。今後の研究に期待したいと思う。
「kur-u回」について
日本語の中には、前述の「カゲ」の如く、大陸の昔のことばが渡来人と共に渡ってきて、そのまま使っていることばが、かなりあると思う。中でも、擬音、擬態語は数多く、大陸の言語が含まれていると思われる。
この「kur-u回」もそれである。回の上古音は、諸学者の再構成音が、「gwr」になっている。この音韻の二音節化が日本語の回転を意味するkur-u(gur-u)であることは間違いないであろう。擬態語の「くるくる」「ぐるぐる」が回転を表していて、それを確実に裏付けている。その他、「手繰る」「巡る」等。
韓国語にも、日本語と同様に回転を表す動詞として、kur--taがある。--は、接尾接続母音、-taは、動詞、形容詞の接尾辞である。
筆者が、ここで一言述べたいことは、韓国語と日本語が類似しているからと言って、それが皆、朝鮮半島を経由して日本列島に渡来したという言い方は、再考すべきだと思う。それは、大陸から朝鮮半島に、日本列島に各々直接渡って来る場合が、いくらでもあり得るからである。
昔の舟は筏が主で、これは早ければ二日ぐらいで、立派な舟が作られる。しかも、筏は大波にも沈没することがなく、いちばん安全な舟である。このような事情を考えると、大陸からの渡来人の多くは、遠い昔から、筏で日本列島に渡ってきたに違いないと思う。
「kur-u」に関する日本語の単語群は、割合多く見られる。先ず、「kur-u暮る」で、昔の人は、太陽が回転すると思ってこのように表し、「kur-i繰り」も回転を表す。「kur-e暮れ」は、その名詞形である。
ここで、日本語の「kur-a-si暗し」「kur-o黒」を考えて見たい。色彩語は、通常他のことばから派生して作られたという。例えば、赤は明りから、青は滄海のいろから、黄色は黄色い炎のいろから作られた色彩語であろう。
太陽が沈むと、世の中はまっくろになる。それで、日が暮れると言う言葉の派生的名称の「くら・くろ」等が作られたのであろうと思う。
また、「kur-u来る」ということばについて考えてみよう。「来る」ということばは、「行ったものが帰る」ことを表すのに作られたと思う。とすると、これは大陸の言語の「帰kjwr」から由来した言葉であろうと思う。すると、「帰る・来る」ことは、回転を表す単語群に入ることばであろう。「来る」の終止形は、「ku」でなく、「ki」という一説も参考になるかも知れない。
「fot-o女陰」について
日本語の女陰の名称には、「mang-(g)u(man-gu)萬久」と「fot-o女陰」二つがある。前者は、古事記に、イザナギとイザナミの両神が御柱を回りながら交接し、島々を次々と産む場面で、「mi御-to斗(男根)-no所有格-mangu萬久(女陰)-fafi波比(交接)」という記事があるが、この「mangu」が今日までも伝われている女陰の名称で、「fot-o女陰」は、現在では、死語になったようである。
この「mang-u」は、「円形」を表す語で、日本語では「mang-a-ruまが―る(曲る)」に残っているようである。日本語の女陰の名称を「mang-gu萬久」と表したのは、その模様が円形であることで、「mang-garu曲る」と同根である。
韓国語では、「mang-tae円形」「mong-u-ri円形打撲傷」「mung-ke-kurjm円形の雲(入道雲)」の如く、母音を交替しながら、あちこちに見える。「fot-o」は、韓国語の女陰の名称の「pot∨pot-i∨pots-i」に、ちょうど対応している。
古代のことばづくりの基本的方法は、「かたち」である、つまり、象形を基本にしてどんどん派生語が生まれるのである。
では、女陰の象形を見よう。両方に「ひらく」形であろう。「ひらく」を表す象形文字を見よう。
「癶pw■t」は、「止(あし)+止(あし)」つまり、両足を開いた象形文字である。従って、事物の「ひらく」を基本義とした文字である。「發」は、後世に作られた字であるが、その意味をよく表している。
大陸のこの人体の器官を表す象形文字と、韓国語、日本語がぴったりと合っていることは、注目に値する。
次に、「to男根」を見よう。この日本語に当たる韓国語は、「tjot>tsjot」である。比べてみると、日本語では古代語に、よく表れている、韻尾の切尾化がここにも見える。それと、拗音的要素も消滅させて、「to」と表しているのである。
大陸の突出を表す字を見よう。
凸tw■t・突dw■t・出tjw■t
等である。皆「突き出る」ことを表している。「凸」は形そのもの、「突」も犬が穴から突き出るを表し、「出」も足先を前に突き出すことを表す字である。
ここでも、大陸の言語と朝鮮半島語、日本列島語がぴったり合っているのが見られるであろう。それで、男根は人体の中で最も「突き出す」器官なので、このような名称が与えられたのであろう。
韓国語で、足を「pal」という。これは、前述の両足を開いた模様を表す象形文字、「癶pw■t」と関係があることばで、先ず韓国語の特徴のひとつとして、音節の語尾(韻尾)の、-t、は、遠い昔に作られて固定化された。例えば、韓国語の女陰の名称である「pot>poti>potsi」等々、いくつか以外は、固有語においても、伝来した漢字音においても「-t>流音化-r(-l)」されているのが見られる。
それと、「-w-」が省略されているのも、その頭音pが、―両唇音ということで説明ができる。結局「癶pw■t>pal」に変化したことがわかる。
この現象が、韓国語だけでなく日本語にも数多く表れているのが見られる。
韓国語の「原pl」は、日本語の「原far-a・墾far-i」等と同源であることは周知の通りである。これは「ひらく開」を表す「癶pw■t」に遡ることができる。
日本語の「fVrV(V=母音)」形のことばの大部分は、これと関連があることばであろう。
日本語の擬態語で、氷とかガラスの割れる模様を、「バリッ!」というが、これも前述のことば等と関連して考えてみよう。また、あちこちに分かれる模様を表す「パラパラ(バラバラ)」も考えてみよう。母音交替は、どの言語でもあり得る現象であるから、「fVrV」形の単語を集めてみよう。
ついでに、大陸の言語、「tsw■n寸」は、「手」を表す字である。韓国語で、手を「son」という。破擦音「ts」と摩擦音「s」は、古代日本語の「サ行」に混在されているという学説が固定化しつつあるが、韓国語の、手の名称は、身体語であることで、相当に古い言語と思う。それはともかく、この両語は、その根が同根であることは疑いないであろう。
「af-u合・逢・会」について
日本語のこの「af-u合・会・逢」ということばは、二つ以上の事物が接近することを表すことばである。また、日本語の「of-u負う」もそういう意味で、前の「逢う」等と関連されよう。この「負う」は、韓国語の「■p-ta負う」と、早くから比較されていることばである。
三国史記巻三十四、新羅の地名で、比屋県、本阿火屋県(一云併屋)……、とあって、比=阿火=併の対応が見られる。ここで、比は二人の人が或る方向に向けて並んでいる模様を表す字、併は二つの事物が合併することを表す字、それと、阿a 火xw■rは、固有語を表していて、併合の意味を表す韓国語、「ap■l」を連想させる。
火の上古音の声母、x-は、この韓国語を参考にして遡る場合、その源は、p-と言えよう。つまり、p>f>h(x)という過程で遡られる。
韓国語で、子を負うことを「■p-(ta接尾辞)」という。それと、併せてと言う意味を表すことばに、「a-u-r■-ta」があり、これを慶尚道方言では、「■pul-ta」と言われている。
これによって、日本語の「af-u合う・逢う・of-u負う」は、この韓国語と同源であることがわかるであろう。
大陸の言語で、「■■p合」がある。このことばの声母(頭子音)は、喉頭有声摩擦音で、韓国語と日本語にはない音で、例えて言うと、水を口の中に含んで、うがいをするときの音と似ている。大陸の昔の音韻は、たいへん複雑な音があって、漢字音が韓国、及び日本に伝わるときは切り捨てて、自国の音韻に合わせて使う。従って、この頭子音は、切り捨てているのが見える。それで、韓国語では、「■p負う」と言い、日本語では、「af-uあふ(合ふ・逢ふ・会ふ)」と言うのである。
「fug-u河豚魚・fuk-u-ru肥・fuk-u-ro袋」について
ふぐ(河豚)を韓国語で、「pok」と言う。母音が違うだけなのと、-g-は、二音節化になることによって母音間の-k-が有声音化されたのであろう。
それはともかく、この単語群は「ふくらむ」を表しているが、韓国語にも、これらに対応することばがある。先ず、畑の盛り上がっているところを「puk」と言い、太鼓を「puk」と言い、機織りの緯糸を入れる、膨らんでいる箱を「puk」と言う。ふくべを「pak」と言い、車輪を「pakui」という。
日本語の男性のふくらんだ性器を「fug-u-ri」というが、ここの-g-も、もとは、-k-で、有声音間という環境によって、変化された音であろう。また、「fuk-u-ro袋」「fuk-ufuk-u―si肺」がある。肺をこのように呼んだのは、空気を吸い込むと、それが膨らむということで呼んだのであろう。
大陸の言語で、「pujg子房」「pujg胚」「pug培」「pug缶」「pug富」「puk福」「pluk禄」等がある。
子房は花柱のしたに接して肥大した部分、胚は種の中にある膨らんだ部分、培はつちかうことで、土を盛り上げて植物を養うを言い、缶は膨らんだ模様、富は豊富そのものを表す字で、同じく膨らみを表し、福も富と同様。最後に、禄であるが、これも福と同様。それと、頭子音に、plという子音(声母)が二つある現象であるが、大陸の上古音では、pl、kl、sl、のように頭子音が二つあるのが見られる。例えば、風の頭子音の現代の音は、p-で、しかし、嵐は、l-である。また、各、格、閣等は、k-であるが、洛、絡、路、賂等は、l-である。数は、s-であるが、婁、楼等は、l-である。
ここでの大陸のことばで、その韻尾は、大体-gで、これが、朝鮮半島系、日本列島系の言語では、韻尾(語尾)の、-kか、二音節化した音節の頭子音、-kか、-gになっている。
韓国語で、腹が膨らむとか、ポケットがふくらむことを「pul-luk」と言う。これには、禄の音韻と酷似しているのが見られる。
大陸の言語、朝鮮半島の言語、日本列島の言語が、数千年間あまり変わっていないことが、はっきりと伺うことができる。
おわりに
筆者は、今回、日文研の諸研究会に参加して、先ず、学問の視野を広げたことは、今後の筆者の勉強に多大な影響を与えたことと、今後の東アジアの研究は、少なくとも、中国大陸と朝鮮半島、日本列島の諸文物を含めた考察をすべきであると信じ、その一端を、この「日文研フォーラム」に述べてみた。そして、今後の日本語及び他言語との比較研究は、是非とも、各々の言語の単語群を先ず集めて後、比較すべきことを本考察は強調しようとしている。
それと、ここ100年近くの日本語と他言語との比較を行ってきたが、なかなか、その源が見つからない。よって、日本列島系と朝鮮半島系の言語は迷子になっている。その原因は何か。いろいろあると思うが、卑見では、この両言語は、先ずはその歴史が、たいへん古いということと、この半島と日本列島に渡来する前に、大陸の様々な部族語との接触、混交によって出来上がった言語であることに、主な原因があるのではないかと思う。印欧諸語では、数詞、身体語をはじめ、人間を表すことばを比較してみると、すぐその親近関係を伺うことができる。
黄河下流地帯は、何十万年もの長いあいだ様々な部族が一進一退を繰り返して、民族、言語共に混交し、3500年前、やっと国の形として“大邑商”が建国されたが、その後も何千年という長い間の争いによって、民族も言語も融合されてしまったというのが、主な原因であると思う。
ということで、日本語、韓国語は、アルタイ諸語とも、漢語とも、パプア・ニューギニア語とも、南方諸島語とも、チベット語とも、タミール語とも、同源の単語が表れ、この現象をいち早く学界に報告し、日本語は、何々語と同系だの、ああだの、こうだのと論争を続けている。日本語の系統論が様々な理由は、大陸での何万年もの長い間、様々な部族語との混交と、それらの部族等がこの東アジア地域及び、南洋諸島等に移住していることによって、アジア諸国のどこの言語と比較しても、同系統のことばではないかと勘違いする同根の単語が出てくるのである。
これからの研究は、是非とも、各々の言語の単語群を先ず完璧に集めよう。その後の段階で比較してみよう。系統論の結論は、出さなくても自ずから出るはずである。今までの研究は、系統論に集中し、個々の言語の徹底的な考察ができていないうちに、すばやく系統論を提起したのが望ましくなかったと思う。
このような共同研究会を是非とも行って、斯界の学界は、迷子になっている日本語、韓国語の源を探すべき大事業を果たさなければならない状況に、今、攻められているのである。
 
石川淳著 「黄金傳説」

 

石川淳先生の名前と作品に初めて触れたのは32年前の事、初めて日本に4年間留学して大学を卒業する年でした。当時は、社会心理学専攻で、まだ世の中に広く知られていなかった土居健郎先生の「甘え理論」に興味を覚え、「「甘え」の構造」という文化論をテーマにした卒論をまとめようとしていましたが、しかし以前から私の関心は文学の方にあり、大学紛争の激しかったその頃、学校閉鎖を渡りに舟、よく喫茶店に籠ってクラシック音楽を聞きながら、島崎藤村の「新生」を初め、夏目漱石の「それから」「心」等の小説を読みふけり、多くの時間を20世紀日本文学の乱読に費やしました。その時からでもモダニズム作家の先駆者の一人である梶井基次郎の作品にも興味をいだき、寺町通りや京都の丸善さんを舞台にする「檸檬」という傑作が大好きで、「得体の知れない不吉な塊が始終私の心をおさえつけてきた、焦燥というか、嫌悪というか」と始まる、そして話の終わりに丸善で美術史の本を山に積み上げ、その頂きにレモンを載せるなんてその短い、奇怪な物語をとりあげて初めて日本文学作品の英訳をこころみました。一方、私の近代日本文学の乱読に実用面もあって、作品を読みながら文脈に表れる「甘え」の例文をあさり、卒業論文の趣旨を立証するため、わが読書三昧を生かし、役立てました。
今になって顧みますと、丁度、学問の上、心理分析的な方法論より架空の効用を基本とする物語理論の方へ考えが次第に移行しつつあった時で、そこで石川先生が書く、心理を排除した純粋散文的な要素をふんだんに使って盛り上げた作品に出会ったのは、大変象徴的でもあり、意義深い転換でした。無論、当時はそういった方法意識は私の頭に毛頭なかったし、高尚な文学論を以て文学三昧をした訳でもありません。ただただ小説を何冊も読み上げて行くうちに、なにかの欠如を感じ、気がついてみたら、それは笑いがかけている、あるいはアイロニーとしてしかユーモアが生じて来ないという事でした。これは漠然とした印象から始まり、しかし次第に強く感じるようになりました。
ある日その欠如感を訴え、近代・現代日本文学に通じている竹村淳さんという友人に、何か笑わしてくれる小説はないかとたずねてみたところ、即座に石川先生の「白頭吟」という小説を紹介してくれました。そうしてこの小説を介して、石川淳という人間と文学への私の出発が始まりますが、おそらく多くの読者と同じように、先ず文体の巧みさ、話の展開の素早さ、そして言葉の綾に驚きましたが、なによりも小説の第一行より約束された「ひとが笑をこらへてゐるやう」な、時には爆笑にも至るその笑いの精神の晴々しさが私を引き付けてくれました。石川淳の文学は楽しい発見でした。誰より早くという軽率な野心もありましたが、是非とも世界に紹介したいと思い立ったのです。大学院に
入学してそれを機会に専攻を文学に変え、石川淳を博士論文の研究対象にしました。1970年頃石川淳という名前と作品はアメリカの日本文学者に知られていなく、日本でさえ井澤義雄先生、それに野口武彦先生の石川淳論2冊ぐらいでした。論文のtopicとしてあまりにも"recherche"と一部に言われましたし、日本でも石川淳を一種の「西洋かぶれ」や文学史で彼を「例外扱い」とする意見は当時の実状でした。過去15年間モダニズムという便利な概念が日本文学、特に散文作品に対して適用されてきてからは事情がかなり変わりましたが、しかし今でも石川淳を特別視する考え方がある程度生きつづいているように思われます。実を言いますと、私も石川先生の作品を理解に至る、または先生が文学上なされた仕事を位置づけるにも相当苦労をしましたが、1981年大学院に提出した博士論文にも書きましたように、この作家に関しての基本知識としては次の4ポイントが肝心でありましょう。一、石川淳は重要なモダニズム作家であること、二、彼は初期の実存主義者であること、三、戦争や権力へのレジスタンス姿勢を一貫してとって来られ、芸術家のsocialcriticとしての役割を形創った近代小説家の一人であること、そうして、四、パロデイー、アレゴリー、それに風刺というモダニズム文学の特徴である重層構造を築き書く優れた文章家であることです。
しかも石川淳は日本文学の上にも世界文学の上にも十二分位置づけられる作家であることも確信しております。つまり、日本文学においては、江戸天明期にさかのぼり、そして森外や永井荷風によって近代文学に継がれてきた文人の伝統に彼はその現代の担い手の末端として立派に参加しています。それと同時に自然主義文学への厳しい批判や新興芸術派行動主義的姿勢においても石川は象徴主義や背徳を唱えてきた仏文学者アンドレ・ジイド等の20世紀ヨーロッパ・モダニズム文学の流れも深く汲み取って来ました。故に、生前よくメディアでは「日本最後の文人」として紹介されたりしていましたし、或いは1960年頃より1987年に亡くなる年まで書き続けられてきた「荒魂」「至福千年」や「狂風記」といった長編小説が近年世界文学の双璧NabokovとBorgesの作品に勝るとも劣らぬ事も指摘されたりしています。石川淳の翻訳者である私ですが、こういった評価は決して誇張ではありません。
しかし、いくら石川淳の業績を吹聴しても作品そのものが外国人に読まれない、または読んで貰わない限り、作品の紹介が成り立たず、話が空転するばかりです。論文に次いで、1936年に書かれ、翌年芥川賞を受賞した「普賢」をTheBodhisattva,orSamantabhadraという題で最初の石川淳英訳として試みて、これは1990年Columbia大学出版部より出版されました。しばしば難解と感じたこの小説をpalimpsestあるいは「二重写し」として理解に漕ぎ着けるまで、解釈と翻訳に苦しんでいる間、その作業を楽しく続けさせて支えとなってくれたのは、正に石川淳の小説の根底に流れる世の中に向かっての自由の笑いでした。おそらく若き日の石川淳がアンドレ・ジイドの小説「背徳者・L'immoraliste」と「法王庁の抜穴・LesCavesduVatican」を二冊和訳した時の経験でもあったように、文学作品における作家のほほえみ、特に言葉の綾や行間からしか読み取れない眉唾の皮肉とその韜晦ぶりは、最も断定しにくい、又翻訳上伝えがたい表現の一つであります。しかしそれをつかまえて、その上に別の言語に移し替えるのは痛快なチャレンジです。のちにこのポイントに戻り、更に言及したいと思います。石川先生ご自身に初めてお目にかかったのは1974年で、大学院論文取材のため、二度目の日本留学の時でした。慶応大学国文学の檜谷昭彦先生のお世話になり、音楽部竹田名誉教授を通じて連絡がとれたのです。いかにも石川先生らしく一切の面倒も媒介もなく、ただお宅へ電話するようにとの事で、その結果ホテル・オークラで二人で食事をとる事となりました。その日、約束の時間より早く行って見ましたらば、先生がもう既に早く、バーにて片手を水割のグラスに休ませながら、吸いかけた一本のタバコを持ち上げ、全集の写真によく見られる姿と同様、ゆったりと、そして気高くおられました。その後、数回にわたり誘いがあって飲みに連れていっていただいたり、文壇の方に紹介したりして下さいました。口数の少ない方で、その上「文学は話すもんじゃない」と常にお考えでした。時に会話が途切れがちになり、話の糸口を見出すのに一苦労だったりしましたが、しかし作品を作家の声で読むという意味で、しかも御本人の韜晦ぶりを理解する上、「生きている作家」への接触は大変参考になったのです。
さて、これから私の方の仕事、つまり石川淳の作品の翻訳へ話題を転じますと、その概論と実践について暫く考慮したいと思います。先に申しましたよう、1990年コロンビア大学出版部よりのTheBodhisattvaがその一冊ですが、もう一冊は昨年暮ハワイ大学より出版されたTheLegendofGoldandOtherStoriesという本です。この「黄金傳説」その他の翻訳集は短編四つ、それに中編一つからなるもので、先ずは日本軍の中国への侵略が激しくなる1937年暮れに書かれ1938年「文学界」1月号に載って発禁処分を受けた「マルスの歌」から始まり、それから1945年の「名月珠」、1946年の「黄金傳説」と「焼跡のイエス」、そして1953年に著作された「鷹」という中編でしめくくりをしています。この英訳2冊を合わせますと、石川先生が戦前、戦中、それに戦後初期にわたって書いたもっとも代表的作品を、海外、あるいは厳密に言えば、英語圏の読者に紹介できたと言えましょう。日本でよく知られているドナルド・キーン先生も石川先生が1959年にかいた「紫苑物語」をAstersというタイトルで早くも1961年に翻訳されていますが、残念なことに複雑な事情により本が絶版となり、入手困難です。またついでに付け加えますが、「黄金傳説」「焼跡のイエス」それに「鷹」の仏語訳もあり、「紫苑物語」はイタリア語及びロシア語の訳もあります。
文体の面では、「鷹」以前の作品はいずれも1930年代世界的に流行った長文で、句読点の少ないあるいは全くないわゆる「饒舌体」で書かれている小説がある一方、「鷹」以降の作品は文章が短く、読者にとって比較的読みやすい読物になっていますし、翻訳者の仕事もいくらか楽になるのですが、それでも石川文学特有の持ち味が一貫しており、おそらく同時代の作者―たとえば今年生誕百年を同じく迎える1899年生まれの川端康成―の文体と比べて、翻訳の上、石川先生の方が手間がかかると言っても言い過ぎではありますまい。現にアメリカの日本文学研究者TedFowler氏によれば、戦後もっと早い時点で若しも石川淳の作品が翻訳され外国に紹介されていたとすれば海外における近代日本文学の理解、またはそれに伴う東洋趣味的耽美を中心としがちの「聖典」づくりも今までと違った形を示したのではなかろうかという意見です。
近頃アメリカの学会では翻訳理論やその仕事そのものまで再検討・再評価されて来て、特にhermeneutics・解釈学が重視されて以来、翻訳作業についての関心は高まりつつあります。解釈学は翻訳が単なる置き換え作業と見ないで読解力の真剣な問題と考え、数年前までアメリカ学界を風靡した、翻訳は学問に付随する二流作業という考え方と正反対で、翻訳の営みは却って作品のもっとも徹底した、厳密な「読み」でもあると主張するところです。とりわけ解読困難な逆説、皮肉、冗談、意味合いの曖昧な或いは権力や検閲の前に屈してわざとぼかした表現に関する研究が重んじられて来ました。これは日本文学だけの問題ではなく、どこの国の文学にもありうる問題で、しかも文章のうまい、行間を書く作家がいれば、当然その理解と鑑賞のため目の肥えた読者もいなければなりません。翻訳はまさに謎の「手解き」のようなもので、高度な文芸作品こそそれだけのstrategyが要求され、作家が口先と心底、表と裏、建前と本音を異にして書く場合は、翻訳者もその行間に読み取れる二重性、三重性をつかまえ、たとえ眉唾のジェスチュアでもそれを文字通りの「手掛かり」として読者に伝える必要にせまられています。
「普賢」と「黄金傳説」を訳するに当たり主に二つのstrategyに頼ってみました。その一つは翻訳に解説をつける事、もう一つは翻訳の中で文章のtoneに特別注意を払う事。
先を急ぎ「普賢」に関する細かい話を省略しますが、しかし一つだけ許せば、やはりこの小説が私の石川文学への接近方法の決め手となり、その模範でもあったと言っても差し支えありません。それはなぜかと申しますと、タイトルは普賢菩薩の話ですが、この作品は決して仏教の小説ではなく、作者も小説の中でわざわざ人物を登場させ物語は決して仏教の利生記ではないとまで断っており、そのぐらい読者に注意をしています。そこで我々が気付く事は普賢菩薩は登場人物や仏の化身のどちらでもなく、一種の大なる比喩であり、おそらく1936年に日本のどこを見回しても救い主はないだろうとその無や不在を悟らせる石川淳の文学的「シカケ」です。大変複雑な構築で、戦火の燃え上がる13世紀のフランス王国と20世紀日本を平行させた上、普賢・文殊、寒山・拾得、さらにChristinedePizan・Jeanned'Arcといくつかの比喩的コンビが配置され、見立てられている設定ですので、予備知識がなければ、とうてい解読不可能に近いのではないでしょうか。外国の読者が面食らうのは当然のことで、解説は欠かせないものとなりました。従って、第一の翻訳strategyとして読後のため解説を加えることにしました。
今度の「マルスの歌」「黄金傳説」や「焼跡のイエス」という作品では、仏教のイメージではなく、ローマ神話の軍神マルス、中世ヨーロッパJacobusdeVoragineが著作した「黄金伝説・Lalegendedoree」キリスト教聖人、それに新約聖書イエス・キリストの話や暗示がそれぞれ導入され、作品の比喩となっていますので、各訳にそれを解明する読後解説文を足すことにしました。たとえば「黄金傳説」と「焼跡のイエス」の解説では、敗戦直後日本の奈落状態などを説明しておいてから、私は次の質問を読者に問い掛けています。作家は「赤ずくめの女」と「不良少年」を横浜桜木町と東京上野のヤミ市に「堕落」や「野生」の象徴として登場させているにもかかわらず、語り手の粉飾により、この一見芳しくない二人を焼跡の聖人・イエスに見立て、彼らを戦後の未来人間像・黄金伝説的な存在にまで昇格しているのです。一体なぜでしょうか。これはいうまでもなく石川淳と同時代無頼派作家として知られている坂口安吾の「生きよ、落ちよ」との主張、戦後まもなく展開された「堕落論」につながりますが、余りにも有名な話で、ここでこれ以上は披露いたしません。しかし、なぜ私がこの突飛な質問を読者に投げ掛けるかと言いますと、それはこの2編の小説はよく風俗小説と見間違えられ、程度の低い次元で読まれがちで勿体なく思うからです。解説文を通じて作品のアレゴリー性について読者の注意を引き、形而上学的読みをしていただくことが大切です。
さて、翻訳に当たって解説文と平行して大事な2番目のstrategyを申しますと、それはtextの語調に特別な注意を払う事。英語で言いますと、toneの問題です。先に触れました通り、本の題目と内容にはっきりとしたズレが見られる場合、たとえ「普賢」と題されながら仏教小説ではない事、「黄金傳説」と名乗りながら、どこにもJacobusdeVoragineの原典の話に言及せずとの事、そこに作者より我々読者への大きなwinkが示され、物語は決して額面通りに捉えるものではない、否、捉えてはいけないという手掛かりや示唆がちりばめられているように私は思うのです。勿論解説文で作品を分析し行間のいくつかのclueとその読みを立証する事は可能ですが、文体に漂う雰囲気を英文に再現するのは、我ながら一方ならぬ作業でした。それは先ず石川淳が好んで使う複合動詞−その例として「かきくどく」や「たたきだせる」が上げられるのですが−それに含蓄されている二重の意味を訳して、またその警句らしいところをほのめかすことが要求されます。「普賢」に出てくる「綿々とかきくどかう」にtowriteatlengthとtowooatlengthというシャレめいたくだりはありますが、あいにくこの重複された意味をぴったり持ち合わせている一つの英語複合動詞はありませんし、また「黄金傳説」中の「たたきだす」にも穀物をたたきだす(towinnow)という意味合いも人をたたきだす(tocastout,toostracize)という意味も含まれています。Toseparateは両方を兼ねて間に合いそうですが、やはり帯に短し、襷に長し中途半端で物足りないのです。丁度都合のよい言葉は運よくあたるものではなく、この場合はどうしても文章が幾分か長くなりますが、二通りの意味を表わす二つの語句で、両義を同文章で表現し、英文を太らせることにする他は仕方ありません。textへの介入を極力避けたいminimalist翻訳者はこの小太りや敷衍を好まないと思いますが、散文作品は詩歌よりもある程度自由を許すもので、しかも饒舌体で書かれた初期の石川淳作品を翻訳するに際して文を肥らせることは持って来いの解決策の一つです。一語一文をcasebycaseで原文を解読していく作業でdeconstruction論で言うようにtextをunpackして読む事ですが、すべては肥らすがよいととても言えませんし、圧縮やその他の方法もいくつもあり、役に立ちます。ご参考のため、上の二つの例文、それに駄洒落の取り扱いの文をここに記しておきます。例えば、第一例文に見る如く、ここでイタリック体で示す複合動詞の部分だけではなく、サンスクリット用語を入れるまで仏教における結縁灌頂儀式などの説明も文体に含まされ、英文全体が肥らされています。「嘘」や「痴情」というキー・ワードもtissueofliesとかfabricationといった重複になる「繰り返し文」で誇張されて、その上、この小説の基本構造を貫く肝心な「透き写し」概念を読者に明確にするため、"--apalimpsestofmyowndevising--"という言葉を敢えて加えている事にもご注意ください。賛否両論あると思いますが、このように密度の高い饒舌体を訳するにあたって、以下は私が試みた方法によるものです。この方法を英語でamplificationと私は言っていますが、敷衍か増幅か、つまりtextの意味とニュアンスを最大限に聞かすというステレオ音響効果と申しましょうか。
例文一
「そもそもわたしが心にもなく■史の反故の中からクリスティヌ・ド・ピザンのやうな皺深き老女の殘骸をペン先にからげてみたのはジャンヌ・ダルクに引懸りをつけよう魂膽であり、そのジャンヌ・ダルクとの結といふのがじつは嘘のかたまりで、10年以來夢うつつに心を惱ませるユカリの面影をこの遠き世の少女に透き寫して彩色おぼつかぬ繪姿を前に綿綿とかきくどかうとした痴情の沙汰にほかならず、それとても....」
Now, as never before, let me be totally candid and tell you why I stuck the tip of my pen into the trash heap of history and used it like a hook to pick through the rubble and unearth the carcass of Christine de Pizan, to truss it up and tied together the loose ends of the life of this wrinked old woman. It was because I was stirred by a secret plan, namely, that of finding a link, of detecting a trace of a connection, between the life of Christine's Joan of Arc and that of my Yukari. Alas, this karmic connection, this casting of a flower upon a mandala in an abhiseka ceremony designed to identify one's bodhisattva, has become a tissue of lies, a figment of my imagination, having neither truth nor fate to support its validity. This fabrication--a palimpsest of my own devising- was the product of a silly infatuation, of a heart haunted every minute, whether awake or asleep, for the last ten years by the vision of Yukari, of a tormented mind that sought through a process of superimposition to reshape her image into the likeness of the Maid of Orleans. Yet what I produced in my endless tracings, in the prolix and petulant limning of my troth, was but a pale imitation, a portrait of Yukari that bares little resemblance to Joan of Arc. What I have written in nothing more than the record of a lovesick idiot. The Bodhisattva.
例文二
「...初穗を■に供へ來つたところの日本の米は神がかりがたたき出されたあとでもなほ陰然として生活心理上の禁忌なのか、米でさへなければなにをあつかつても品物のよいのが大ゐばりだといふ女商人の良心の論理にちがひない。」
But for so long have the inhabitants of this island worshiped the god of rice and offered the firstfruits of every harvest at his altar that even now, when times have changed and his intermediary here on earth has been separated like chaff from the grain and driven out as an imposter, still nothing, but nothing, has been able to dislodge white rice from its time -honored position in the popular mind . . . . Indeed so dark and mysterious is its hold that to want something else is to violate an unspoken taboo . . . . Small wonder, then, that the heart and mind of this sensible businesswoman should be troubled at the thought of having stricken rice from the list of dishes she has to offer her customers. She knew she could brag all she wanted about white bread and black coffee but in the end, if she did not serve rice, her words sounded like just so much hot air. Such was her logic.
例文三
「...文藏が兩手をわたしの頸にかけて締めつけながら、「きさまこそくたばれ。」締める手先になほも力をこめるのであつたが、あたかもこちらの頸のまはりに綿でも巻いてあるかのごとくすこしも壓迫が感じられないのに、勢ひこんだ向うの手首をにぎつてみると、元來骨太の文藏の腕は拔けた齒のやうにりなく浮いてゐるばかり、これはいかに力を入れようとしても力の入れ場がなくなつてしまつた腕なのかとわたしは突然すべり落ちた興奮の隙間にぞつと冷え上つて、「どうした。おい、しつかりしろ。」と相手の肩をゆすると、文藏はこちらにのしかかつたままからだをぴんと張つて、もう何を見ようともしない瞳をあらぬ方へ走らせ、またもわけのわからぬ獨白に唇ををののかせてゐた......」
. . . putting his hands round my neck, [Bunzo-] tried to strangle me. "You drop dead," he shouted, applying more and more pressure.My neck seemed wrapped in cotton. I felt nothing. When I seized his wrists and pulled them away, his brawny arms flew back looking white and forlorn in the air as freshly pulled teeth.I realized that,no matter how much strength Bunzo might have once possessed, there no longer existed any task to which he might indenture his hands, and by putting them to work, get a grip on life again. I blanched, my being iced to the core. "What's happened, Bun? Hey, pull yourself together," I said, shaking his shoulders. His body,which had collapsed against mine, suddenly straightened upright, but his eyes stared vacantly ahead, seeing nothing. He continued to let his lips move, delivering their senseless monologue.
「力の入れ場/入れ歯」という洒落を訳文で完全に復元する事は無理でしょうが、teeth,dentures,つまり義歯を思わせるindenture(歯型捺印、奉公に入れる)、それにgripといった言葉で原文の綾を出そうとしました。ついでに言いますが、「紫苑物語」の書き出し「国の守は狩りを好んだ。日の吉凶を撰ばず」で始まり、ドナルド・キーン先生がこれを"The governent of the province loved hunting. He did not care whether the day promised fair or foul"と大変面白く翻訳なされています。foul(凶、険悪、悪天候)とfowl(猟鳥、狩り羽)をかけて訳されて原文に存在しないものの、吉凶の訳として正しく、それにkの音が繰り返されている「国」「守」「狩り」「好む」のalliterationは英語で再現ができない代り、fairorfoulを方便に原文の面白味を読者に伝える事に成功しているように私が評価したく、まさかここではどなたかが翻訳ルール違反として「ファウル」という事を言わないではないでしょうか。
三つの例文を上にあげて主として言葉一つずつに取り組んでいくミクロ段階の翻訳処理の話になってしまったのですが、これから今日の話題として残るのは、もう一つの問題で、それは要するに作品全体のマクロ処理という事です。そもそも石川淳の文学の何が私を魅惑して引き付けたのかは、その自由の笑い、言葉の綾に透き通って見える作家のほほえみで、それに文人作家が目指す反俗・反骨の高邁な知的な書き振りでした。この石川文学のエッセンスは評論家によって色々と定義されたり表現されたりしていますが、各作品に表れる、その洗練された雰囲気を一言で言い当てれば、それは「粋」という言葉で、また「粋」を石川淳に限定して英語に直して見たらば、それはEdo Coolという表現になるのではないでしょうか。エド・クール。いかがですか。ファションショー用語みたいではあるが、的確です。なるほどエド・クール。名訳と言ってもよさそうです。そしてなぜ私がこんなに遠慮なく手放しに褒めたたえるかと言いますと、それは私の訳ではなく、別の人が所有権を持つ発想です。羨ましい限りです。石川淳の文学にcoolな様子は多分にあります。何があっても慌てふためく気配もなく、常にcoolに澄ましている構えがあるように思われます。只今神経が高ぶって声が半分上擦っている私がとても真似できないものです。批評家がよく指摘する石川淳の韜晦ぶりや文人肌、または新戯作者たるところはこのクールに相当する部分でありましょう。
しかし、クールだけでは石川文学のすべてを掴めたと言えないのではないでしょうか。それと裏腹に存在する部分としてかなりhotな「生いき」もあるように思い、訳にもそれを出さなければなりません。九鬼周造の「粋の構造」という理論を突然ここへ持ち込んできて皆さんにどう思われるか判りませんが、九鬼先生が定義するよう、やはり甘味と渋味を往き来するイキという感情や耽美観には感情や自己表現が抑圧され洗練された面があれば、同時に露骨発情の面もなきにしもあらず。私に言わせると、この「生意気」のtoneや面付きを出すのは石川淳の翻訳の上、最も大事かつ困難なところで、作品をマクロ的に見て最も欠かせないものです。paragraphの分け方や言葉の選択であるdictionに殊更注意することも、技術的な段階での大きな秘訣ですが、何しろ翻訳者も一旦額面どおりに訳したくだりに戻って、自分までややナマイキな気分になりながら、相対性に満ちるそのtoneをひきだすことがコツだと思います。私が言わんとしている事は間違って「脚色」や「書き換え」という風に見受けられ叱りを受ける恐れも十分にある、甚だ誤解をまねきやすい発言と承知の上、それでも翻訳者はカンと解釈に頼ってtextを自由にほぐしていく冒険を犯さずには石川淳の翻訳操作は不可能ではないかと私が考えるのです。だからこそ石川淳は難しいと言えましょう。
カンというものはあるようでない、ないようであるところに働くものですが、たとえば「普賢」を訳するに当たって「透き写し」「上塗り」「見立て」「写し絵」や「合わせ書こうとする」その一連の類似した言葉に特別注意を払い、それをsuperimpositionやlayeringの文字通り訳をしたりした上、しかしそこに止まらず、敢えてpalimpsestという難しい言葉まで訳文に導入したことはもう既に申しましたとおりです。この導入は結局私のカンによって決めたものですけれども、ありがたい事に、のちにカンの働きを裏付ける面白い発見をしました。つまり、石川淳が関東大震災からまもなくして取り組んだアンドレ・ジイドの「背徳者」の原文と訳文に次の興味深い言葉が出ます。
仏文・ Et je comparais aux palimpsestes; je goûutais la joie du savant, qui, sous les ecritures plus recentes, decouvre sur un mê papier un texte très ancien infiniment plus precieux.
和文・「わたしは自らを二重写本に比した。わたしは、同じ紙の上において後代の文字の下に、さらに限無く尊い太古の原文を発見した学者の悦びを味った。」
これは松本眞一郎氏の論文「石川淳と翻訳」(「早稲田文学」1989年7月号)に紹介されている話ですが、「背徳者」主人公ミシェルにおいては違った意味でも、このパリンプセスト発見に私も悦びを覚えるのです。つまり、元々ギリシャ語に由来する、一般の読者が恐らく意味を知らないこの特殊、しかし至って便利な、「羊皮紙」は石川淳がちゃんと知っていて、この一旦書かれては消され、その上にまた書く「写本」や「写し本」とまで見事に和訳している事実もただ私のカンの働きではなく、証拠をもって立証できるものであります。例えばHDと名乗ったアメリカ作家HildaDoolittle(1886-1961)のPalimpsestesという小説に代表されるよう、20世紀初頭モダニズム文学者の間に流行した言葉で、近頃、仏文学の権威GerardGenetteのプルースト著「失われた時を求めて」に関する重層構造理論によって、少なくとも学者の間にも知られてきた言葉です。
最後になりましたが、暮れに出しましたTheLegendofGoldの序文の内容に少々触れて話を終わりにしたいと思い、そこで私のナマイキ論にもうちょっとはっきりした輪郭が具わるのではないかと考えます。序文で訴えているように石川先生の文学に高尚な芸術性があると同時に政治性もかなり高く、今回の翻訳・出版にあたりどちらかと言えば、政治性の方を浮き彫りにして読者の目をそれに引こうと努力しました。政治性を重視するのは何も私が初めてではないのですが、しかし従来の研究者は主としてこの五つの作品に読み取れる、煙にまく石川先生の韜晦ぶりを評価してきました。一方、私は作家のナマイキな声に読者の耳を傾けさせるために語り手の無遠慮なoutspokennessに注意するよう、序文や解説文で呼び掛けております。近頃婉曲的にいわれている「歴史の問題」の真ッ只中に生き、書き続けた石川淳の強靱な声がこの五つの小説を貫き、15年戦争、大陸侵略、敗戦、終戦直後一般に行なわれた戦争責任・罪の概念、占領期改革逆戻り方針、平和条約締結後のピースのあり方等などについて憚らずして、多岐に渡り当時もっとも真剣で生々しい政治や社会問題に関する発言が文脈に織りなされています。たとえば「マルスの歌」で戦争と権力にNO!と「やめろ。」と叫ぶ声があれば、「黄金傳説」と「焼跡のイエス」に廃墟の中より聖人や救い主として誰が生まれるのかが問われたり、また「鷹」には「万人の幸福」のための「ピース」への願望が描かれたりしています。ここでそれぞれの内容を列挙はしませんが、この作品は抵抗者として戦争とその後始末を直接経験した人間の記録として貴重であり、その時代を理解する上にも価値ある証言として、是非お薦め致します。海外の読者にも戦時中いわゆるフランスでいうようなレジスタンスは日本になくても、永井荷風、金子光晴、蔵原惟人、宮本百合子、桐生悠々、杉原千畝等といった著名な人々が居て、一億一心や一億総懺悔で代表される日本文化の同質・統一行動はすべてではなかった事を知るのも大切。そろそろ従来の歴史観を洗い直し、今まで「例外」や「日本人離れ」と片付けられがちであったこれらの人々を異端者どころか逸早く21世紀を見通した先見の明に満ちた存在として見るのも良いではないでしょうか。
 
五・七・五 日本と韓国

 

「五・七・五、日本と韓国」。ここで「五・七・五」というのは、ご存じのように俳句の音数律のことですが、どうしてこのようなテーマにしたのか、そのきっかけは二つあります。一つは、俵万智の「サラダ記念日」(1987)がベストセラーになった時の驚きからです。この本は200万部も売れたそうです。特に当時の日本の若者に非常にうけがよかった。この本はご承知のように短歌集ですね。分かりやすい話言葉で、この時代の若者の微妙な恋心のあらゆる面を端的に表わしている恋の短歌集。というのがベストセラーになった要因の一つだろうと言われています。が、それまで日本の若者は、五・七・五の俳句や、五・七・五・七・七の短歌の世界にうんざりしていたのではなかったのか。たとえば、それが恋の現代詩であってもベストセラーになっただろうか。日本の定型詩の力についてのおどろき。それが最初のきっかけです。
もう一つは、おととし(1998年)、わたしは「おくのほそ道」の韓国語訳を出版したのですが、当時、俳句が韓国の読者に享受される中で現われる様々な意外性、その驚きからです。というのは、「おくのほそ道」には全部で62句の俳句が入っているのですが、韓国語で五・七・五に訳せたのは、そのうちの10句だけでした。これには日本語と韓国語の音節の違いなど、いろいろな事情がありました。五・七・五でない俳句がどう受け止められるか。日本語の俳句に親しんでいて、それまで主に俳句についての研究をつづけてきた私としては、たとえそれが韓国語であるにしても、その音数律が五・七・五でないと、崩れた形の彫刻を見るときのような、とても俳句とは思えない、なにか俳句に、特に芭蕉に、非常に悪いことをしてしまったような気がしていたのでした。それで、わたしは自分のゼミの学生に、韓国語訳の「おくのほそ道」の中でいちばんいいと思う俳句を五つ選んで、その理由とともにその俳句についての鑑賞をレポートとして書かせました。そうしたら、その一位を占めたのが、なんと芭蕉の俳句ではなく、「おくのほそ道」の旅に同行した曾良の俳句、「行てたふれ伏すとも萩の原」という作品でした。この句がよまれた部分を「おくのほそ道」の中で見てみましょう。
曾良は腹を病て、伊勢の国、長島と云所にゆかりあれば、先立て行に、
行てたふれ伏とも萩の原   曾良
と書置たり。行ものゝ悲しみ、残ものゝうらみ、隻鳬のわかれて雲にまよふがごとし。
予も又、今日よりや書付消さん笠の露   「おくのほそ道」
この旅の最初から芭蕉に同伴して旅を続けていた曾良は、途中の山中でお腹をこわして、この句を残して芭蕉に別れて行きます。曾良は、「わたしは先生に別れて一足先に立っていきます。行きてたおれ死ぬかも知れません。だけどどうせ死ぬのでしたら、萩の花が咲き乱れる野原で死にたいものです」といっています。この句は表面的に解すればこのようになるでしょう。「たふれ伏」という「死」を思わせることばと「萩」の花の可憐なイメージが重なっていて、悲壮できれいな句ですね。これに対して、残された芭蕉は、「行ものゝ悲しみ、残ものゝうらみ、隻鳬のわかれて雲にまよふがごとし」と、この別れに際しての悲しみを述べてから、「今日よりや書付消さん笠の露」の句で答えています。別れにともなう寂しさと悲しみ。これは時代と国を超えて伝わるものなんだなと、わたしは、当時学生のレポートを読みながらしみじみと思ったものです。
次に人気のあった俳句は、「閑さや岩にしみ入蝉の声」。第三位は、「夏草や兵どもが夢の跡」。たまたま一位と三位の句は韓国語でも五・七・五でした。が、「閑さや」の句は、韓国語では五・七・六になっていました。しかし、韓国語に訳された俳句が、五・七・五の音数律にあわないことを気にする学生は一人もいなかった。このようなことは、実はわたしのゼミの学生だけでなく、わたしの本を読んで感想を話してくれたわたしの同僚、あるいはファン・レターを送ってくれた数人の読者も同じで、彼らの感想はこの短い詩への驚きと感動が主だったのです。
わたしは、「おくのほそ道」の韓国語訳にあたって、あらかじめ長い訳者序文の欄を設けて、俳句というのは、五・七・五の音数律による定型詩であることを詳しく説明しました。にもかかわらず、どうして韓国の読者は五・七・五の音数律を気にしないのか。俳句の一番の特徴である五・七・五の音数律がなくても、それが詩として成り立ち、読者にも伝わるというのはどういうことだろうか。という疑問がもう一つのきっかけだったのです。
芭蕉の時代やそれ以前にも字余りの俳句が作られていたし、近代になっては日本でも自由律の俳句などが試みられたりしましたが、どの時代でもその中心は、五・七・五の定型の俳句でした。この複雑な時代に、五・七・五・七・七の31文字で、恋する女の気持ちを表わした「サラダ記念日」や「チョコレート革命」(1997)がベストセラーになったり、五・七・五・七・七などの定型なんてお年寄りのものだと顧みなかった若者の間に、短歌を作るブームが起こったりすること。今や、日本では俳句500万人、短歌100万人といわれています。それに連歌や川柳まで合わせると、大変な数です。一千数百年も前に成立した定型詩に惹かれる人が、これほどまでに多いこと、その理由は何でしょう。
五・七・五、または五・七・五・七・七の定型にこだわる日本人。日本と同じく音数律による定型詩をもっていて、俳句は五・七・五と知っていながらも、五・七・五の定型になっていない韓国語訳の俳句に全然抵抗感を示さない韓国の読者。今日はこの相違に注目しながら話を進めていきたいと思います。
音数律のよみ方―日本の伝統詩歌と韓国の時調
(1)泣いている我に驚く我もいて恋は静かに終わろうとする   俵万智
(2)野ざらしを心に風のしむ身哉   芭蕉
まず、これらの作品を見てみましょうか。(1)の俵万智の短歌を普通に意味に沿って読めば、「泣いている我に驚く我もいて/恋は静かに終わろうとする」、あるいは、「泣いている我に/驚く我もいて//恋は静かに/終わろうとする」となるでしょう。恋に落ちて悩んだ末に、恋の終わりを前にしている女性が愚痴をこぼしているようで、あまり詩的だとは思えません。しかし、これが短歌だと言われると、五・七・五・七・七の音数律を適用して、「泣いている/我に驚く/我もいて//恋は静かに/終わろうとする」と読んでみます。すると、この「/」で表示しているところに休止が生じ、その休止の合間から、恋する若い娘の躊躇いとため息のようなものが感じられてきます。特にこの短歌の上の句、「泣いている我に驚く我もいて」は絶妙です。これを音数律にあわせて「泣いている/我に驚く/我もいて」とよんでみると、「泣いている」行動の前に、「泣いている我」とその「泣いている我」に「驚く我」が現われます。そして鏡を前にして涙しているある女性が、この短歌を読む者の目に浮んでくるわけです。このようなことばの合間からの訴えは、ことばで表現しているもの以上に読者の心に沁みてくるのではないでしょうか。五・七・五・七・七の音数律の適用、すなわち読者の律読によって、ことばで言い表してはいない、その奥の意味が生きてくるのです。
次に(2)の芭蕉の俳句「野ざらしを心に風のしむ身哉」を見てみましょうか。この句は、芭蕉の初めての紀行文の「野ざらし紀行」の旅立ちの句です。この句も散文的に読めば、「野ざらしを心に/風のしむ身哉」となるでしょう。すると、この句の意味は、「野ざらしになることを心に覚悟して旅立っていくが、初冬の風は身にしみてくるものだ」となるでしょうか。しかし、これを五・七・五にあわせて、「野ざらしを/心に風の/しむ身哉」とよんでみます。すると、今度は「しむ」ということばが「心」と「身」にまたがって、旅立っていくにあたっての芭蕉の心の壮絶さがより深く伝わってきます。
定型詩歌にかかわる際の形式についての意識を「定型意識」といいますが、右の短歌と俳句の場合、読者の側に定型意識がないと、この短歌や俳句を詩として読みあげることはできません。また、そのようによまれないと、これは詩として成り立ちません。つまり、この短歌や俳句は、詩人が伝えたい詩の内容の上に、五・七・五・七・七、または五・七・五という音数律が加わって、いわば読者の正しい律読によってはじめて詩として成り立つのです。現に、多くの日本人は、たとえ俳句とか短歌などにあまり詳しくない場合であっても、これは俳句、または短歌だと言われると、あらかじめ頭の中に五・七・五、あるいは五・七・五・七・七を準備するようです。いわば、読者側の方も定型意識が強いわけです。当たり前のように思われるかも知れませんが、このようなことが詩を鑑賞するにあたってほんとうに当たり前のことでしょうか。
韓国の例をみてみましょう。韓国には朝鮮時代の伝統詩歌である「時調」というのがありますが、これがまた日本の伝統詩歌とまったく同じく、音数律による定型詩です。これは、三・四・三・四/三・四・三・四/三・五・四・三の三行詩です。たとえば、韓国の人に、これは詩調だと提示しても、それを読むためにあらかじめ頭の中に三・四・三・四を準備する人は少ないでしょう。意味に沿って読んでいけばいいのです。休止とか言葉の「間」の作用は、それほど大きくありません。また、詩人がよんでいる詩の内容も、43文字の中に入っています。韓国では、俳句を、短いことや音数律による定型詩であるということで、漠然と「日本の時調」とよくいわれてきましたが、それはどうでしょうか。
では、ここで時調の世界についてもう少し詳しく見てみましょう。時調は、12世紀ごろからの韓国の伝統的な定型詩でありますが、三・四・三・四/三・四・三・四/三・五・四・三の音数律を基本としています。字数から見ると、43文字、俳句の2.5倍になります。初章・中章・終章、それぞれ三行に分かれます。内容は、儒教的道徳・虚無的な隠遁生活の他に、男女間の愛情など、いろいろであります。近代以前までの時調は、約5000首ほどが伝わっています。
五百年 都邑地■ 匹馬■ ■■■■(三・四・三・四)
山川■ 依旧■■ 人傑■ ■■■■(三・四・三・四)
■■■ 太平年月■ ■■■■ ■■■(三・五・四・三)
五百年の松都を 匹馬でかえりみれば
山川は変わらずも 傑士の姿なし
あわれ太平の年月は夢かとぞ思わるる   吉再
この時調は、400年近く続いた高麗王朝(918-1392)が滅びた後、この王朝の遺臣であった吉再(1353-1419)が、かつての都松都をたずねて詠んだものです。朝鮮時代の作品ですから古語で書かれていますが、ここでは読みやすくするために現代の韓国語になおしました。そして日本語訳はわたしが試みたものです。この時調は、音数律を正確に守っています。韓国語は、漢字の場合、一字一音節で読みますから、一音節に託される内容は、日本語の場合よりも更に多くなります。たとえば、「山川」は、日本語では4音節ですが、韓国語では二音節になるのです。
滅びた王朝の都を訪ねて、時代はすっかり変わってしまったのにもかかわらず、昔と変わらない山川を眺めながら悲哀感に浸っている詩人。さて、この時調の日本語訳を読んで、どこか芭蕉の俳句に思い当たるところはありませんか。そうです。「夏草や兵どもが夢の跡」ですね。これは、芭蕉が「おくのほそ道」の旅で平泉を訪ねて詠んだ俳句ですね。それを見てみましょう。
三代の栄えい耀えう一いつ睡すゐの中にして、大だい門もんの跡は一里こなたに有。秀ひで衡ひらが跡は田野に成て、金きんけい山ざんのみ形を殘す。先、高館にのぼれば、北上川南部より流るゝ大河也。衣川は、和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落入。泰衡等が舊跡は、衣が關を隔て、南部口をさし堅め、夷をふせぐとみえたり。偖も義臣すぐつて此城にこもり、功名一時の叢となる。國破れて山河あり、城春にして草青みたりと、笠打敷て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ。
夏草や兵どもが夢の跡   「おくのほそ道」
前にあげた時調と芭蕉のこの俳句は、ともに杜甫の詩、「春望」がその底辺にあります。杜甫は、反乱軍によって占領されている長安をみて、この詩をよみました。
国破山河在 国破れて山河は在り
城春草木深 城は春にして草木深し
感時花濺心 時に感じて花も涙を濺ぎ
恨別鳥驚心 別れを恨みて鳥も心を驚かす  (吉川幸次郎訳)
「国破れて山河あり、城春にして草木深し」(杜甫)、「山川は変わらずも傑士の姿なし」(吉再)、「國破れて山河あり、城春にして草みたり」(芭蕉)。これで、滅び去ったもの、あるいは滅び去っていくものへの悲哀感をテーマにした、中国・韓国・日本、という東アジアの詩の三角形ができました。これらの詩には、「懐旧」という同じタイトルがつけられそうな気がします。では、杜甫の「春望」を熟知していたはずの韓国と日本の詩人は、それをそれぞれ自分の詩の中でどのようによみこんでいるでしょうか。前に引用した時調をみると、韓国の詩人は、滅びた都を訪ねて、その悲哀感を淡々と述べながら、この世の中の人間の営みを、「夢」にたとえています。むなしい夢に。悲しい内容ですが、詩の流れは緩やかです。詩の中では、主に詩人が自分の考えを述べています。それでこれを読んだ読者は、あァ、この詩人は、そのように思ったんだな、やはり、そうだろうなと共感することでしょう。
一方、芭蕉は、同じ悲哀感を「夏草や兵どもが夢の跡」と、夏草の茫々としている、その風景を描くことで表現しています。特に、「夏草や」と、切れ字を使って詩の流れを切っていますね。この詩を、普通のことばでいえば、「兵どもが夢の跡の夏草よ」となるでしょう。しかし、芭蕉は「夏草」を前にもってきた上、「や」という切れ字を使って一句の流れを強く切っています。すると、この句は「夏草や」と「兵どもが夢の跡」に分かれ、その間に、休止ができます。その休止からは、言葉では表現していない、芭蕉の「懐旧」の思いが感じられてきます。詩人は、むなしいとか何も直接には言っていない。この句をよんだ読者が、詩人によって提示されている風景、この句に描き出されている風景を自分の中に思い描くことで、むなしさを感じる。詩の中に自分の考えをよみこむ時調の世界と、ただ風景を読者の前に提示する俳句の世界の違いが感じられませんか。
また、引用の時調と俳句には、同じく「夢」ということばが使われていますが、これは、その質は違いますね。時調における夢は、この世の中についての詩人の判断、すなわち、王朝も権力も人生も夢のごとくむなしいという、むなしさのたとえとして使われています。芭蕉の俳句においての夢は、あの兵どもが命をかけて切実に見ていた夢、願望としての夢が含まれています。芭蕉の辞世の句、「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」の夢と、似通っていますね。吉再の時調と芭蕉の「夏草や」の句の眼目は、ともに「無常」ですが、それの表現の仕方は、このように違うのです。
わたしは、先にお話しましたように、学生たちの中でこの句が3番目に人気があったのは、無意識のうちに、これらの詩に見られるこのような類似性への認識がどこかで働いていたためかなと、思いました。この時調は、韓国の中学の教科書にのっています。わたしの場合も、芭蕉のこの句を読んだ時、やはりこの時調を思い浮かべました。特に、「夢」などの同じ言葉が入っているせいもあったと思うのですが。では、時調がどのように詠まれたのかについてもう少し見てみましょうか。
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万寿山 ■■■■ ■■■■ ■■■■
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世の中はとてもかくても あるものぞ
万寿山の蔦葛の如く 絡み合えるも世の姿
われらもかくは手を取りて 百年までも楽しまん   李芳遠「何如歌」
この時調は、13世紀後半、高麗王朝を滅ぼし朝鮮王朝(1392-1910)を開いた李成桂(1335-1408)の息子、李芳遠(1367-1422)が詠んだものです。まだ年若く、父の一番の支えとして野心満々だった彼は、当時の王朝、高麗の忠臣の鄭夢周に向かってこの時調をよみました。李芳遠は、「何もそうかたくなになることはないでしょう。蔦葛が絡み合いながら繁っていくように、わたしたちもお互いに手をとり、助け合って末長く栄えようではありませんか」と、鄭夢周を自分たちの方に来ないかと、その心をさぐっています。韓国語では、この時調の題にもなった「何如」という意味の「オトハリ」ということばの繰り返しがよく効いています。また、この時調は、簡潔なことばの構築によって表現されていながら、激しい気迫と緊張感に充ちています。これに答えて歌ったのが、次の鄭夢周の時調です。
■■■ ■■■■ 一百番 ■■■■
白骨■ 塵土■■ ■■■■ ■■ ■■
■向■ 一片丹心■■ ■■■■ ■■■
この身死に死にて百たび繰り返し死ぬとても
骸骨は塵あくたとなり魂もまた消ぬともよし
君に捧げし一片丹心のいかでか移ろわん   鄭夢周「丹心歌」
鄭夢周(1337-1392)は、李芳遠の誘いをこの時調できっぱりと断っています。自分が正しいと思ったことへの一途な思いを貫いた鄭夢周の気高さは、以来、士の鏡として称えられてきました。この2首の時調は、同じ席で歌われたと伝えられています。最後まで高麗への忠節の志を保ちつづけていた鄭夢周は、間もなく李芳遠の指示によって暗殺されました。李芳遠は、鄭夢周をはじめとする反対派を次々と取り除いてから、父を助け、1392年に朝鮮王朝を開いた上、1400年には朝鮮王朝の第3代王位を継ぎました。鄭夢周が暗殺された松都(今の開城)の善竹橋は、彼の死後、雨が降ると赤くそまったと伝わっています。このことからも窺えるように、鄭夢周は、当時の国民だけでなく、今でも韓国で尊敬される人物の一人です。
もうすでに傾いている王朝を滅ぼすことで体制を取った李芳遠と、「忠臣は二君に仕えず」と権力に追従しないで命をかけて自分の志操を貫いた鄭夢周。このエピソードとこの問答の時調は、小学生の時から習うので、韓国人ならほとんどの人が知っています。1990年代、韓国のアイドル・グループ「ソ・テジとアイドル」が、これにちなんだ「何如歌」という歌謡曲を歌い、空前の大ヒットを記録しました。この2首の時調は、その有名度からいえば、韓国の「古池や」といえるかもしれません。
また、時調には次のようなものもあります。
頭流山 両端水■ ■■■ ■■■■
桃花■ ■■ ■■ 山影■■ ■■■■
■■■ 武陵■ ■■■■ ■■ ■■ ■■■
頭流山の両端水を 今しこの目で見れば  
桃花うかべる清流に 山影も沈めり  
童子よ、あの桃源郷とは ここに非ざるか   曹植
ここでいう「頭流山」とは、韓半島の南でもっとも高く、そして美しい山で有名な智異山の異名です。この詩人は朝鮮のユートピアをそこに見つけています。
■ ■■ ■■■■■ 水石■ 松竹■■
東山■ ■ ■■■ ■ ■■ ■■■■
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わが友の数きかれれば 水石に松竹
東山に月出づれば なおこころ楽しむ
この五つをおきて われ望むものなし   尹善道、「五友歌」の序曲
済州道に流配されていく途中、しばらく立ち寄った「ポギル島」に魅了されて、そのままこの島で隠遁生活に入った尹善道(1587-1671)が、美しい島の自然をよんだこの時調は、今でも多くの人に愛されています。
冬至■ ■■■ ■■ ■ ■■■ ■■■■
春風 ■■■■ ■■■■ ■■■■
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冬至の長き夜 ひとくぎり切りとって 
春風あたたかい布団の中に 幾重にも畳み入れては 
君の帰り来る夜 なみなみと広げ延ばさん   黄真伊
これは、恋愛詩調ですね。黄真伊(16世紀)は、才色兼備の伎女でした。いわば韓国の小野小町ともいえるでしょう。恋多き彼女は、恋する女の気持ち、特に一般的にはつらいはずの待つ女の気持ちを、「ソリソリ(幾重にも)」とか「クビクビ(なみなみと)」という擬態語をいかして、非常に緩やかに、明るく歌い上げています。
今まで見てきたように、時調は、世間と人生、そして自然など、実にいろいろなことについてよまれています。すでにお気づきになったかと思うのですが、時調の場合、三・四・三・四の音数律は、それほど正確に守られておりません。大体45文字程度になります。このように字数が一定していないのは、時調が旋律のある音楽のリズムに合わせて歌いながら創作されたということがその要因の一つです。黄真伊は、創作にも優れた作品を残していますが、時調の歌い手としても当代を風靡したと伝えられています。
以上見てきたように、時調の場合、詩人は、自分の考えを、詩の中にそれぞれ個性的に表わしています。45文字にもなる字数の関係もありますが、詩の内容も言葉で表現されていて、どちらかといえば詩的発想や言葉の響きが、その詩のよしあしを左右します。また、音数律の適用とは関係なく、読者の側に詩の内容が伝わります。言葉の省略とそこから生じる余韻、特に俳句の季語などからもわかるように、詩語の伝統性を重んじる日本の伝統詩歌とは、かなり違うといえるでしょう。
日本人における定型の意味
日本の詩の定型は、すでに記紀歌謡にその兆しが見え、「万葉集」には五・七の反復を基本とする音数律として定着しているとされています。和歌・連歌・俳句・川柳など、日本の伝統詩歌のほぼ全部がこの音数律に基づいています。なぜ、この音数律なのかについてはいろいろな説がありますが、今までの研究成果からみると、だいたい次の三つの説にまとめられるでしょう。
1.単語の組み合わせの音数に由来するというもの
2.大陸の詩歌の影響によるというもの―中国の五言詩など
3.唱える際の息の長さにもとづくというもの
そして、「五音・七音は、句に変化とまとまりをもたらし、リズムの歯切れをよくし、句を作りやすくし、そして打拍の破綻を防止する」(坂野伸彦「七五調の謎をとく」)特異的な音数といわれています。たしかにそのようなことがいえるかも知れません。しかし、ここでは、五・七の音数律の「魅力」はまずおいておいて、この音数律がいかに今の日本人に根強いかということについてみてみましょう。たとえば、昭和58年に応募された交通安全標語の77%が五・七・五だった(坂野伸彦)そうです。今現在、日本には俳句を作る人が500万人以上、短歌を作る人が100万人以上いるといわれるので、ひょっとしたらその多くはそういう人たちが応募したかも知れません。それにしても多いです。しかし、1000年も前に成立した詩の音数律がこれほどまでに続いているのは、世界的にも稀なことでしょう。中国の五言絶句や七言絶句がいまも流行っているとはあまり聞きません。また、西欧のソネットがこの時代の詩の中心だとも聞きません。韓国の時調も同じです。熱心な愛好家はいますが、やはり現代詩が中心をなしています。日本の定型詩の力と、それを支える定型意識というのは、どうしてこれほどまでに根強いのでしょうか。日本の詩人にとって定型とはどういうものなのでしょうか。現代短歌の代表的な歌人佐佐木幸綱氏は、現代詩人の鮎川信夫氏との対談の中で次のようにいっています。
形式は決して束縛ではない。「Tobeor not to be,that is aquestion.」なんていうのは、日常生活ではとてもキザで照れ臭くていえないが、舞台の上だといえる。僕は形式のおかげで、照れないで本当のことを自由にいえる。
佐佐木氏は、短歌の形式、すなわち五・七・五・七・七の定型を舞台にたとえています。舞台の上でないと照れてほんとうのことがいえないと。では、舞台というのはどういうものでしょう。舞台というのは、自分のことを淡々と語る場所というよりは、俳優の口を借りて、いわばフィクションを利用して真実を伝えるところだといえるでしょう。舞台の裏に自分の素顔を隠して、あるいは俳優になったつもりで他人のことのように、です。観客も、あるいは読者も、それが俳優のことそのものだとは思いません。佐佐木氏は形式がそういう役割をしてくれているのだといっています。考えてみると、この舞台説は、なにも定型詩という文芸の世界だけでなく、茶道や華道など、多くの日本伝統文化にあてはまるように思われます。わたしは、日本の五・七・五、また五・七・五・七・七の定型形式は、佐佐木氏のいう舞台説に加えてもう一つ、共通の場を作るもっとも大事な条件の一つとしての役割をはたしていると思います。俳句は「座の文芸」とよくいわれますが、まさに、五・七・五という形式を通じて、ある詩人と他の詩人、また読者との間に共感の場を作り上げている。詩をもって自分の思いを伝えるというよりは、詩をもって相手との場を作り、その場で作り上げる世界を共有することを非常に大事にする。いわばネットワーク、または社交の場ですね。そして、この社交の場のメンバーになり、そこで遊ぶためには、いくつかの基礎教養、いわばルールが必要なわけです。この中の多くの方々は、この基礎教養の項目にもうすでに思い当たるところがおありかと思いますが、いかがでしょうか。
日本における定型詩歌の営みの特徴
和歌の詩的営み方の一つに、歌合せがありました。また、俳句の場合は、句会があります。これは、二人あるいは多くの人が集まってやるものです。歌合せも句会も、それぞれ題が出されるのが普通です。出された題をもって詩を作る。問題は、この時、この席に参加した歌人なり俳人は、出された題がこれまでの詩の伝統の中でどのようによまれてきたかについて知り尽くしているべきだということです。ある詩人の優れた詩的想像力だけでは、いい和歌なりいい俳句だとは認めてもらえません。というのは、詩人は、あらかじめそれぞれのことばの詩的伝統とイメージについて知っていなければならないからです。季語はそれを象徴的に表わしています。日本でいちばん有名な俳句、「古池や蛙飛び込む水の音」の句の中の蛙は、春の蛙です。わたしは、大学時代、はじめてこの句を教科書で習ったとき、これは夏の句だと思いました。わたしには「蛙」は夏の印象がもっとも強かったのです。もう一つ不思議に思えたのは、季節を表わすすべての言葉が季語というわけではないということでした。季語は、詩人たちによまれて認められたものに限られます。だから季語は今もずっと増えつづけているわけです。わたしは京都にきてはじめて「月下美人」という花に出会いましたが、これも今や季語になっています。5月1日の「メーデー」は、大正時代になって季語となりました。俳句を正しく理解するためには、作者に限らず読者も季語についての理解が必要ですね。このようなことは、韓国で教鞭をとっているわたしが、講義室で俳句を教える時、いつも学生からいろいろとしつこく質問される部分でもあります。韓国における学生、または俳句に興味をもっている人々は、季語の約束がどうしても制約のように感じられてしまうらしいです。さて、季語は大体次の三つに分けることができます。
1.春の風・夏の山などのように、ことばそのものに季節が入っているもの
2.寒さ・暑さなどのように、ある季節と密接に結びつくもの
3.花は春・月は秋のように、ある季節といわば約束してつかうもの
蛙は、春から秋にかけていますが、蛙は春の季語として約束されているのです。季語は、またそれぞれその趣も定まっています。これらの言葉を集めたものが「歳時記」ですね。たとえば、俳句の初心者用の「歳時記」で「春雨」の項目を見てみますと、春雨は、「しっとりと暖かく降り包む春の雨である。古くから静かな情趣ある雨として詩歌に詠まれている」(「入門歳時記」角川書店)と解説されています。そして、その代表的な俳句に、
蕪村の次の句などがのっています。
春雨や小磯の小貝ぬるるほど   蕪村
春雨も時にはザーザー降ったりしますが、俳句で読むときはそういう風には読みません。長い詩の歴史の中で鑑賞されることによって文化として定着してきたのです。俳句を作るのには、この約束ごとを真面目に覚えなければなりません。この約束ごとがわからなければ、俳句を作ることは勿論のこと、鑑賞することすらできません。これが、いわば最小限の基礎教養です。歌合せにおいての題詠や俳句の句会に出される席題など、日本の詩的営みの中で特に注目したいのは、これらはともに与えられた素材をもって自分の想像力をはばたかせて、詩を作るということです。自分の自由にではなく、その題がこれまでどういう風に詠まれてきたかを気にしながら、そしてそこからあまりはみ出さないようにしながら、どこかで自分らしさをさらりと出す。最初から自分の個性を主張するのではありません。非常に控えめに、けれどもどこかでさりげなく自分らしさを出す。高浜虚子は、「俳人は詩人ではない」といいました。また、志賀直哉は、「俳人は言葉の職人」といいました。これは、言葉の伝統を受け継ぎつつ、それを刷新する人間という意味でしょう。そして、それがある詩人一人でやるのではなく、集団の中で行われるということです。そして、それを可能にするのは、俳句をはじめとして短歌や連歌が、作ることに非常に重点がおかれている文芸だということです。素材一つ一つ、ことば一つ一つ、非常に綿密な研究の上で行われることばのゲームのようなものです。また、このゲームが非常に楽しい。しかし、その楽しさはその集団の外の人までには伝わりにくい。さらに、その集団の中の人々は、自分たちの楽しさが他の人に伝わらないのを、一向に構わない。閉鎖的ですね。自分のグループの中だけを意識します。自分のグループの向うを意識しないのです。野球をするためにはまず野球場に入らなければならないように、日本の詩、短歌や俳句を作るには、五・七・五・七・七や五・七・五の形式の中に入る。そして、今までその五・七・五の中に読まれた言葉のイメージを十分気にしながら、そのイメージからあまり外れていない詩を作る。いわば、これまでに作られたテクストを思い起こさせ、それを捻っては、転換するのです。これらの理由が、同じ形式、五・七・五、あるいは五・七・五・七・七の形式を1000年以上も続けさせ、いまなお日本の代表的な詩の形式でありつづけることができるようにしているのではないでしょうか。
俳句の韓国語訳
つい最近、今年(2000年)3月、韓国で「(一行も長過ぎる)」(イレ出版社、ソウル)という俳句の韓国語訳が出版されましたが、これがこの2ヶ月で2万部も売れたそうです。これを訳した人は、韓国でもっとも人気のある現代詩人の一人、柳シファという人です。本がこれほどまでに売れたのは、もちろんこの詩人の人気のお蔭でもありますが、わたしは、このことは、詩を読む、すなわち詩を鑑賞する国と、詩を作る国との違いによると思います。詩を読む国と詩を詠む国。韓国での話ですが、ある時、わたしが日本の俳句人口は500万人以上もいるといったら、では俳句詩人はお金持ちですねといわれてびっくりしたことがあります。その人は500万人は俳句読者だと思ったんですね。だから、句集がたくさん売れて印税が入るだろうと。わたしが、いいえ、その500万人は俳句を作るひとですといったら、向うはなおのことびっくりしていました。日本で俵万智の「サラダ記念日」は例外中の例外ですが、韓国で現代詩集が数十万部売れることは、今でも度々あることです。
というのは、両国における詩のあり方が異なるわけです。韓国における詩は、詩人が詩をもって自分のメッセージを伝えるものといえるでしょう。特に、近代における詩は、それぞれの時期ごとに社会改革の先頭に立っていました。いわば、詩人は時代の先を読み、それを発信する役割をしていたのです。多くの民衆は、詩人の呼びかけに答え、集まったりしました。そのため、韓国で詩人は、非常に尊敬されてきたのです。
わたしは、俳句の翻訳の本が2万部も売れたと聞いて、いろいろなことを考えさせられました。まずは時代が変わったということ、そして多くの韓国の人が日本文化の本質に目をむけ始めたということです。それに、俳句の韓国語訳の多様化もあげられるでしょう。
この本のタイトル、「一行も長過ぎる」は、俳句が日本語で一行で書かれていることを指していますね。韓国でも、「俳句は世界で一番短い詩」として知られています。
1982年李御寧氏は、「縮み志向の日本人」(キリンウォン、ソウル)という本の中で、俳句についていろいろと書いていました。皆さんの中でも日本語版でお読みになった方もいらっしゃるかと思いますが、彼の俳句についての解説は非常に面白かった。解説に引かれつつ読み進んでいくと、いざ引用されている俳句の韓国語訳は、あの面白い解説とはあまりにもかけ離れたものでした。彼は、俳句を一行で訳していました。ほとんど直訳です。これを詩と言えるかどうか。当時、私は大学生になったばかりでしたが、いまでもその時の戸惑いを忘れていません。
以後、韓国の研究者の中では、俳句は翻訳不可能という方向に、ますます傾いていったのではないかと思われます。日本語に詳しくて俳句に詳しい人ほど、その確信は強かったのではないでしょうか。
そもそも俳句は17字の詩ですが、17の文字をもって表わすことばだけの世界ではありませんね。その17の文字の奥、そしてそのことばとことばの合間に、ことばでは表わされていない、どうしてもことばには還元させにくい世界が広がっているわけです。17文字だけを訳すか、文字の奥の、ことばの間から伝わってくるものまで訳すか。韓国では、いままで、俳句は韓国語でも五・七・五の音数律であるべきだということ、そしてこの五・七・五の文字だけにこだわりすぎたのではないかと思います。
現に、わたしもその一人です。「おくのほそ道」の韓国語訳をするにあたって、いちばん悩んだ部分でもあります。わたしは、俳句を三行に訳しました。多くの英訳が三行であることも参考にしましたが、俳句の言葉の詩的空間といえる「間」と切れ字を生かすためには、行を変えることが効果的であること、そして韓国の時調が三行詩であることを考えました。そして俳句の韓国語訳の詩が、韓国語の詩としても、その解説以上に詩的共感を与えることを、願ってのことでした。しかし、韓国語で美しい詩にしたいと思うと、どうしても自分の解釈が入っていくものです。どこかで歯止めをかけないと、芭蕉の俳句を素材にしたわたしの詩になりがちでした。
吉川幸次郎氏は、次のようにいっています。
翻訳とは、異なる二つの民族の言語という矛盾した存在の中に、統一した方向を見つけ出そうとする努力であります。〈中略〉原文よりも、より以上の明晰度を、またより以上の文学性を、注入しようとする意識は、文士の翻訳としてはともかく、学人の翻訳としては、殊に抑えらるべきでありましょう。それは真実の掩蔽であり、学人としては、莫大の罪だからであります。拙訳「尚書正義」第三冊の序に「私が最も腐心したのは、正義原文の曖昧なところを、むりに明晰にせぬことであった。私は明晰な国語を捜すよりも、むしろ不明晰な国語を捜すのに、苦労した」といっているのは、そこのところであります。大山定一・吉川幸次郎「洛中書問」
わたしは、芭蕉の俳句を訳しながら、時々この文章を思い浮かべて、自分が詩人ではなく研究者であることを、自分に言い聞かせていました。できれば、五・七・五を生かし、切れ字も生かしながら、訳したのです。なのに、「おくのほそ道」の韓国語訳を読んだ韓国の読者は、五・七・五なんて全然気にしていない。韓国風に読むわけです。多くの時調が、音数律に合わなくても、それが時調のよしあしにあまり影響しないのと同じく、音数律にはあまりこだわらないで韓国語訳の俳句を鑑賞するわけです。わたしは、この五・七・五の訳し方が気になって、「一行も長過ぎる」という本を、さっそく取り寄せて読んでみました。ここでも俳句は三行。しかし、五・七・五の音数律からは、完全に自由。「一行も長過ぎる」といいながら三行に訳しているのは、おもしろいですね。韓国の俳句は、これから三行詩に定着するでしょう。彼は、また詩人の感性を生かし、17文字の間と奥のものを十分補足し、韓国の三行の現代詩にしていました。五・七・五の俳句の面影は、「HAIKU」ということば以外は、どこにも残っていないような感じです。この本を読んだ多くの人は、五・七・五などよりは、俳句は短い三行詩で、発想の面白い詩だと思うことでしょう。では、ここで俳句の韓国語訳の実際をいくつか見てみることにしましょう。「古池や蛙飛び込む水の音」は、次のようにそれぞれ訳されています。
■■■ ■■■■ ■■■ ■■■■ ■■■■■(七・七・五)季御寧訳
(古池や蛙飛び込む水の音)
■■■ ■■■■(七) 古池や
■■■ ■■■■(七) 蛙飛び込む
■ ■■(三)     水の音    拙訳
■■■ ■■(五)   古池や
■■■(三)      蛙
■■!(三)      ポチャン!  柳シファ訳
この句の韓国語訳は三つとも五・七・五になっていないですね。この三つの訳の中で、韓国の読者にもっともわかりやすく、イメージとして思い浮かべられやすいのは、柳シファ訳の、「古池や/蛙/ポチャン!」かも知れません。これは三つの訳の中で、本来この句の眼目である「静寂」とはもっとも距離がありますが、読者にはおもしろく受け入れられるでしょう。最近、韓国では俳句についての興味が高まりつつあります。これからは、いろいろな人による俳句の韓国語訳や俳句についての研究がなされることになるでしょう。ちなみに、わたしの訳した「おくのほそ道」の韓国語訳は3000部ほど売れました。当時、この本に対する反響も多くの人を驚かせたのですが、このようなことは、詩を「読む」韓国の詩の享受の伝統と深くかかわりを持っていることでしょう。そして、今まで韓国にはあまり知られていない日本の精神文化への興味のあらわれだとも言えると思います。今、日本文化を正しく理解しようとする人々が、かつて大衆が時代の先をよんでいた詩人の発するメッセージに耳を傾けたように、波寄せてくる日本文化の深層、その流れの先の読みを、日本の詩を訳した現代詩人に、そして日本研究者に、またはそういった俳句そのものの中に求めているのかも知れません。しかし、韓国で一番大きい辞書に、残念ながら俳句の項目はありません。また、最近出た「広辞苑」 第4版に、時調の項目が見当たりません。おあいこ、ですね。このことは、韓国と日本の文化交流の現在と、これからの課題を何より鮮明に語っている部分だと思います。わたしは、これからこのようなことを念頭に置きながら、俳句をはじめとした日本伝統詩歌の研究と翻訳を続けることで、日本と韓国の文化交流に役立ちたいと思っています。
 
神代文字と日本キリスト教 (国学運動と国字改良)

 

神代文字ができたきっかけと母型
日本神代文字が作られたのは江戸時代末である。これを作ったのは、国学者平田篤胤である。彼は260年間続いてきた幕府政治を終わらせ日本の国民に古典の神秘性を伝えようとして僞作したのであった。この神代文字が作られた時期は1811-1819年にかけてで、「古史徴開題記」4卷本において論じられた。同書は春・夏・秋・冬の4卷にわけられるが、この神代文字自体は春巻の中で「神代文字の論」として書かれている。
平田が「古史徴開題記」を執筆した当時の日本は、長い間続いてきた幕府政治が搖らぎ始めてきた頃である。オランダの文化が日本に定着するときでもあった。オランダ文化である蘭学の日本への定着に対し、平田は国学を奨め発展させようとした。蘭学の西洋的なものに比べ、国学はより日本的なものを探し求めるところに目的を置いている。国学の興った時期を厳密に見てみると、江戸中期、歴史的仮名遣いの基礎を確立し、近代国学の祖と呼ばれた契沖が昔の書物や文献を発掘したのがきっかけになり、その後国学の名前と思想を展開させた人物が賀茂真淵・本居宣長である。本居は古典文献の「古事記」を研究し、「古事記伝」を書き上げて古典の復興主義的文化運動を起こした。彼の門下生であった平田篤胤は古典古道の道を探し求める神国思想を展開させ、それまでの学派とは違った平田自らの国学の不動の地位を確立した。偽作された「神代文字」の「古史徴開題記」は、1819年に彼の弟子たちが「神字日文伝」(以下「日文伝」という。)という題名で版本を発行し一般に普及させることになる。この日文伝という用語は一、二、三という意味であり、平田が「古史徴開題記」の中で、日(ひ)文(ふ)伝(み)、すなわち神代文字と表現した。彼は、古の日本人は神代文字を和字つまり大和文字だと考えており、神字つまり神代の文字というのは皇国の、すなわち天皇の文字であると主張した。そのような神代文字の母型は図のようである。
これを見て分かるように神代文字はハングル文字を少し変形させた字であり全部で47字である。その字一つ一つに全部カタカナ音がつけてある。ハングルに置き換えてみてみると、 ■、■、■ (中略) ■、■、■、
であり、「ひ」は日本語の「ひとつ」からとった略字であり、「ふ」は「ふたつ」から、「み」は「みっつ」からきている。「ひ」〜「け」まで日本の数字としての意味をもつ。平田のこの神代文字は五つの母音と九つの子音からできていて、母音を母字、子音を父字という。そして図を見ると分かるように母字と父字が合わさって一つの文字になる。韓国の訓民正音と少し違うのは、をとしをとしをと表記することである。
発音上では、ハングルの■を■と、■を■と発音する。字はハングルを変形させた神代文字を使っているが字の内容は日本語である。例を一つ挙げれば神代文字で■■■■■■と表記される内容は「大和の神」という意味である。ハングルを偽作した神代文字による表記は、日本語としていくらでも容易に使え、図の母字父字は行書で書かれている。これを縱書きに使えば図のようにハングルにいっそう酷似する。
平田篤胤は神代文字を二通り作っている。一つはここまでに説明した真書体であり、もう一つは草書体である。草書体は、図のように日本の古文字と酷似している。平田はこの草書は上流階級の男性が使った文字であり、真書は女筆であるとした。
この草書男筆が古文書によく入り混じっていることがある。筆者は日本の古文書を読むとき平田が偽作した神代文字草書であることがわかり、簡単に読めることもあった。同じ古文書研究家たちが解読できず、赤鉛筆で印をつけていることもたびたび見受けられた。
この神代文字の草書は地方によって少しずつ違った使われ方をしている。たとえば奈良県の三輪神社に保管されている草書と、神奈川県の鶴岡八幡宮に保管されている草書は字の形が少し違う。
平田篤胤は神代文字が神代から創られ伝えられたとしている。創られたとされる経緯を見ると日本の神話にまでさかのぼる。現れる神は、伊邪那岐(男神)と伊邪那美(女神)の二神である。二神は黄泉の国に住んでいたが、そこで伊邪那美が死んでしまう。伊邪那岐は黄泉の国を脱出し、九州地方の日向の国阿波岐原という海岸に降りてきて、そこで黄泉の国の悪鬼どもを洗う意味からきれいな水で左眼を洗うと天照大神(あまてらすおおかみ皇祖神)が生まれ、右目を洗うと月読命(つくよみのみこと)が生まれ、また鼻を洗うと建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)が生まれたと言われる。
そこで伊邪那岐の神が三神にそれぞれ住むところを与えた。天照大神には高天原を与え、月読命には食国(おすくに)すなわち天皇が治める国を与え、最後に建速須佐之男命には海原(うなはら)つまり海を治めよという命を与えた。しかし建速須佐之男命は父伊邪那岐の命令に従わず、死んだ母伊邪那美が住んでいた黄泉の国を恋しがった。これを知った父伊邪那岐は怒り、建速須佐之男命を追放した。建速須佐之男命は姉が住む高天原に別れの挨拶に行った。弟が兵士たちに囲まれてやってきた光景を見た天照大神は、自分の国を攻めに来たのではないかと勘違いして弟を攻撃した。しかし天照大神は劣勢になり「天の岩屋戸」というところに隠れこんでしまった。すると世界は闇となり、様々な鬼神、悪霊の世となってしまった。
この光景を見た八百万の神たちが話し合いをし、天照大神が出てくるように策を練った。知者の神である思金神(おもいかねのかみ)が思いをめぐらし、伊斯許理度売命(いしこりどめのみこと)が鏡を作り、玉祖命(たまのおやのみこと)が珠を作り、天牟力命(あめのちからのおのみこと)が剣を作り、自分たちが作った礼物をささげて祭壇を設け、声が自慢の神天兒屋根命(あめのこやねのみこと)が祝詞をうたうと、「天の岩屋戸」の門が開き天照大神が出てきて世界に光が戻り悪鬼のいない世界に戻ったという神話である。
この祝詞(神に申し請う文)は、天照大神が「天の岩屋戸」から出てくるようにと願う祈りである。祝詞を捧げる天兒屋根命が神代文字で初めて祝詞を作った。この天兒屋根命の子孫により対馬の国、ト部阿比留家門に伝えられていて阿比留文字(あひるもじ)という。ト部阿比留は神代文字を天日字(あひるもじ)とも言う。そして平田篤胤は天兒屋根命が神代文字を創作したのは、鹿の肩骨を火で燃やしたとき骨に入ったひびの形で創ったと主張するのである 。
平田篤胤はこれを鹿占法といい、裏のひびは神代文字の真書体で表のひびは草書体になると主張する。このようにして創られた神代の文字だが、大陸の文化圏の影響を受け、千字文や論語などの漢字が入って来ると、神代文字は寺と神社に葬り去られていた。長い武家政治の下にあっても日の目を見ることはなかったが、江戸後期の幕府の功臣であった佐藤信淵がこの文字を集め始め、朱子学の大家でもあった新井白石が研究を始めることにより、神代文字は再び日の目を見ることになった。そして国民もこの字を使えるようになった、と偽説を唱える 。
また平田は、この神代文字は朝鮮世宗大王が要求していつ持って行ったのか不明であるが、それを土台にして訓民正音ができたと主張し、最近、神代文字は朝鮮のハングルより変造されたといううわさを聞くが、朝鮮の古代に使われた「元祐通寶」を見れば、それは朝鮮世宗大王が訓民正音を創る前のお金で、それには、や字がすでに記録されているではないか。このような資料に基づけば神代文字が朝鮮の訓民正音に似ているなどとは到底言うことができない、と力説した。
神代文字の存在論と否定論
日本国内の論争
神代文字を偽作した平田篤胤は、前章で述べたように、師の本居宣長が国学の基礎を形成したのに対して、これを育て花咲かせた完成者といえる人物である。彼は師の学問とは別に、国学の道を再評価する作業に入った。この流れの中で「古史徴開題記」を著し、神代文字の「日文伝」を偽作した。彼が古典再評価の観点から古典研究を始めた時、すでに師の宣長は「古事記伝」に、「上代の人々には字がなく、人々は口で伝え耳で聞くという方法で、意思の疎通をなしてきたが、外国から書籍が入って来たため、字を読み書くようになった」と、漢字が入る前の日本には日本固有の文字がなかったと述べている。また同時代の同学の士である伴信友は、篤胤が神代の文字があったと「日文伝」に書いたとき、反論として「仮字の本末」により、「朝鮮の文字が早くから日本に入ってきて変形したものが「日文伝」であり朝鮮諺文との不可分な関係にあるといい、「今日本で神代文字がとり沙汰されているが、江戸時代以前には何の議論もなく、また神代文字があったという文献も存在しない」と否定している。それだけでなく、江戸時代末期つまり国学運動が活発に起こった時期、国学の師や同学者たちは皆、日本古代神代期に固有の字はなかったと反発さえしている。
その後、1868年明治維新により江戸時代が終わり、篤胤の意を継いだ弟子たちが大挙して新政府に参画していくのだが、中でも篤胤の子孫である落合直澄が日本神代文字の優位性を論じつづけた。彼は明治6年に「神宮教院」(神道学校)を設立し、神道学を国民に普及しつつ、神代文字は日本の神代の固有の字であるとし、この字を鎌倉時代にト部兼方が直し平田篤胤膝下に入って明治期には落合家紋の字となったと述べた。彼は明治21年に「日本古代文字考」という冊子を出し、神代文字の優位性と存在性を論じた。落合は「日本神代文字が万国の字の源となり、朝鮮に入り諺文となり、上流層は漢字を使ったが、中流層以下は神代文字を変形した朝鮮諺文をあまねく使っていた」と言及しており、平田の神代文字の継承者だと言われる。
そして直澄の弟子でありキリスト教界の指導者でもあり国文学者としても名高い宮崎小八郎が、日本が日中戦争で相次ぐ勝利を收め太平洋戦争に突入した翌昭和17年、「神代の文字」という書物を出し、グァム、フィリピン、マニラ、マレー半島、上海方面で勝利を重ねているのは他でもなく、日本軍人には大和魂の精神があり、そして神代文字があるからだと述べた。また神代文字の存在説で言われることは、現代の人たちは神代文字など無いというような無知蒙昧なことを言っているが、その存在は東西の学者たちが認めてきたことで、ドイツの学者シュタインも明治政府の招請を受けて来日、日本の固有文化として神代文字があること聞き知り非常に感嘆し、帰国してから神代文字がローマ字の字源になっているといったことや、またドイツの学者ピイ・ケムベルマンが日本神代文字の卓越性を主張する論文などを見ても神代文字の優越性は否定できない、という。
明治維新になるや、多くの学者達により国語学再論と同時に神代文字についても論じられた結果、国粋主義者の主張に再び従い始めたことは事実である。
また敗戦後の昭和24年、吾郷清彦は三重県に「古道体系研究所」を設立し日本神学連盟常任理事として神代文字を講じ、「日本神代文字、古代和字総観」を発行した。
歴史的にみても時代によって様々な論議がなされてきている。国学者として広く知られている山田孝雄は、807年(大同2)に斎部広成が詳述した「古語拾遺」には、「しかし聞くところに、上代時代にはまだ字がなく、老若男女、貧富の差に関係なくすべての人が口で伝え、耳で聞いていた」との記録だけしか残っていないと否定している。
また山田孝雄は、神道研究家としても知られていて、神代文字は後世の偽作であり、尊皇思想として台頭した、とも断言している。また平田篤胤が書いた「日文伝」すなわち神代文字は「寛政5年に京都の僧、教光が書いた「和字攻」、桐生人の中沢宏が書いた「神字の調査」という本にも神代文字は偽作」と記録されていると主張する。また国語学者の大野晋は「日本古代語入門」で「神代文字というが、時々神社で発見されるのを見ると、その字体は非常に珍しい。主に多く出る神社は茨城県の水戸地方だが、一字一音の文字で全部で47字からなっている。このような神代文字は後世に偽作されたことだ」(佐治芳彦「謎の神代文字」)と否定している。また日帝時代にハングルを研究した小倉進平と金沢庄三郎も国学者伴信友の否定説を認めており、神代に文字はなかったと主張している。この二人の言語学者は、日鮮同祖論を唱え、とくに金沢は言語面で同一性を主張し、平田の「日文伝」はハングルを変形したものだと断言した。
またハングル研究に多くの貢献をもたらした金允植は「日本では今から2、300年前に神道家と、愛国心を持った何人かが自国に古代の文字がなかったことを恥ずかしく思い、密かに朝鮮文字を真似た字体を石に刻みそれを山中に埋めておき、わざと他の人と一緒にそこへ行き思わぬ発見をしたかのように石を掘り出した。そしてその文字を見て神代文字だと主張した。またそれだけでなく、朝鮮の訓民正音はその神代文字が朝鮮に伝わったものだとまで主張した」と植民地時代にも唯一神代文字を否定してきた。
こんにち、日本人は神代文字は後世の偽作だと認めてはいる。しかし一方でもう一度神代文字を認めようとする研究家達が登場し、書店では神代文字というタイトルの本が現れ、これへの反論も出ている。
韓国内の論争
筆者は日本で古書や古跡を調査し、いわゆる神代文字の発見について研究し「白山學報」に発表したことがある。当時、神代文字の論争はすでに学会で行われており、この発表も報道された。その論争内容を紹介する。
世界平和教授協議会が出版した「広場」第125号を見ると、当時アメリカのベイロ―大学名誉教授で韓国思想史を専攻する宋ホシュ氏は「ハングルは世宗大王以前にもあった」というテーマで次のように話をしている。「ハングルに似た日本の昔の文字として、日本では神代文字を研究している学者が多く、著書も相当数ある(およそ97種)。また昔の文字もいろいろな形でかなり発掘されている。中でもいわゆる神代文字のうち、「阿比留文字」はハングルとよく一致する。それで彼らは阿比留文字が歴史的に古い文字でありこれを「親」格だとすれば、ハングルは「子」であり、阿比留文字とハングルは「親子」と言える」と紹介し、「檀君第三世カルック王の時に作られたカリムタ(加臨多)をハングルの起源として見なければ、日本での阿比留文字を真似して訓民正音ができたという説は無視できないことだ」と日本の神代文字を認める。
宋ホシュ氏の認定説は、「ハングルは、カリムタ文字38字から28字をとり、訓民正音28字が成った」という。この論文が発表されるや、ハングルを研究してきた李洙氏が、1カ月後の1984年2月「広場」126号に、世宗大王の訓民正音が作られる前にはハングルと同じ文字はなかったと反論し、宋ホシュ氏のカリムタ文字説を否定した。李氏は、「我々は世宗大王の時に訓民正音が作られたという説を定説として信じていて明白な証拠も持っている。従来の定説を否定するとすれば、その説の不当性を論証し、裏付けとなる根拠を提示しなければならない。檀君時代、原始ハングルがあったとする「檀君古記」や「神代文字」の資料は従来の定説を覆すほどの科学的根拠がない。この種の記事の中では、今まで調査された世宗実録巻102の世宗25年(1443)亥12月初めの記事が訓民正音創生に関する文献上で最初のものだ。檀君三世のとき、ハングルがあった、日本古代に神代文字があった、日本神代文字とハングルとは親子関係だ、など一連の主張は根本的に歴史観と言語観の差である。「神代」を肯定する社会から作られた神代文字観は、現代言語哲学としては受け入れられない言語観だ」と反論している。
神代文字と大内神社
筆者は日本学(日本文化史)の研究で数年間を神戸で過ごした。所属していた学科は年に数回古跡探索を行っていた。
一度備前(岡山県)の大内地方を踏査したことがある。この地方は備前焼で有名であるが、この焼き物は、おもに韓国から流れてきた文化のひとつであって、よく知られているように、韓国の新羅時代にこの地方に伝播した新羅土器である。調査チームが駅に降りて足を運んだのは大内神社である。境内に入ってまず目を引くのは日本の神代文字である。神社本殿の屋根の正面にハングルである神代文字が刻まれている。木の皮で屋根が作られていて、そのひさしの右側に「神寶記」と書いた木の板がかけられている。神代文字はこの神社の神宝という意味である。「神寶記」は本のように作られていて、昔の文字である神代文字を祭っていると説明されている。「神寶記」と共に掛けられている筆もある。この筆で神代文字を書いたという意味であろう。その横に神代文字が掛かっている。神代文字は二種類に分けてかけられている。ひとつは真書体である「肥人書」で、もうひとつは草書体の「薩人書」である。
大内神社を訪れる人々はまず神代文字がかけられている屋根を見て参拝する。筆者は参拝客に、屋根の下のところに書かれている文字は何の文字ですかと尋ねると、皆が次のように答えた。遠い昔の日本の文字ができる以前の、神代の時代の文字であるという。ではどうして神代文字を見て、柏手を三回打ちお辞儀をするのかと尋ねたところ、大内神社は神代文字を祀る社であり、昔から学問の成就を祈願する神社であるから訪ねてきたと語った。要するに、この神代文字を参拝して、受験生は知恵を授かり合格できることを願うのであろう。筆者が参拝客の話を聞いて思ったのは、日本の神社の祀る神はその種類が多様である。若い男女の縁を結ぶ縁結びの神があり、商売をする人が繁盛を祈願する商売の神があり、また勉強する人が試験に合格するようにと祈る学問の神もいる。
大内神社は参拝客の言葉どおり、神代文字を奉納する学問の神を祀る神社で、この神社に参拝すればどんな試験でも合格できる、と信じられている。それでは大内神社に掲げられている神代文字はどういう意味をもって表示されているのかを解いてみよう。
図の神代文字の原案となった文字を見てみると、■字は■字と表示されるべきものが■に表示されたものと推測され、■は神代文字47字に無い字である。これをハングルに直してみると「■■■ (中略) ■■■」となる。
「■■■■■■■■」はオホウチノヤシロ、すなわち「大内神社」という意味である。古代より近世まで神社は全て「やしろ」と言っていた。“氏神が定着したもの”という意味でつけられたものである。岡山にある大内神社は大内氏の先祖を祭る神社である。岡山地方を治める氏族が大内氏であった。
大内氏族の系譜では、611年推古天皇の時百済の聖明王の3番目の息子である琳聖が周防(山口県)吉敖(よしき)の大内村に土着して、山陽地方と山陰地方一帯に子孫を繁栄させた、と伝えられる。岡山大内村にも社を置き、勢力を繰り広げていたという。両地方には大内という地名を持つところが多い。
神代文字と「六合雑誌」
「六合雑誌」
「六合雑誌」は日本のキリスト教系の総合学術雑誌であり、1880年(明治13)10月に創刊された。「六合」とはコスモスの意で、東・西・南・北・上・下、すなわち世界または天下を指す。この誌名を付けたのは、日本近代社会で農学者、あるいは教育家・キリスト者として名を知られていた津田仙であった。津田は日本社会だけでなく、韓国のキリスト教受容史においても大きな役割を果たした人物である。
この雑誌の主筆は牧師・小崎弘道であり、彼は明治維新後、洋式教育の藩校として有名だった熊本洋学校に学び、京都の同志社英学校を経て上京、新肴町教会(後に霊南坂教会となる)で牧会活動をしながら同誌を創刊した。
「六合雑誌」が学術誌として学会に広く知られるにつれ、社会各層の人士たちが投稿するようになったが、中でも植村正久、海老名弾正、徳富蘇峰、大西祝などがとくに著名であった。
「六合雑誌」は、宗教・学術・教育・文学・社会・政治・言語など幅広い分野を扱っており、当時の日本の社会の近代化を先導する位置を占めていた。また当時の日本を知ろうとした外国人にも大きな架け橋のような役割をも果たしていたのである。小崎は1881年(明治14)4月20日、第7号に「近世社会党ノ原因ヲ論ス」という論文を寄稿して、初めてマルクス思想を紹介したこともある。「六合雑誌」が社会や学会で人気が高まった頃、海老名弾正や小崎弘道が活動していた場所は東京大学周辺の文教地区であり、多数の俊秀の集う場であった。その中で安部磯雄のような人は、小崎弘道のマルクス思想を聴いて感動を覚え、1898年(明治31)日本で最初に社会主義研究会を組織したのである。この社会主義研究会から幸徳秋水、石川三四郎らが輩出され、社会民主党が組織された。彼らは日露戦争が勃発すると、内村鑑三とともに非戦論を展開させたこともあった。「六合雑誌」の刊行は四〇年にわたったが、1921年(大正10)第478号をもって廃刊された。
その「六合雑誌」上で神代文字に関する論争が学界、政治界あるいは社会の指導者の間で展開されたことがある。
平岩愃保の神代文字論
「六合雑誌」に平岩愃保という人物が神代文字に関する論文を掲載した頃、日本が近代化に向けてどのように動いていたのかを見ておきたい。
中世社会から江戸幕府に至るまで数百年間続いた武家政治は、江戸幕府末期に興った国学思想の動きと、国外からの西欧文明の侵入により崩れ、明治維新が断行された。新政府が樹立されると、一部の人士たちは西洋文化の受容に積極的な姿勢を見せはじめ、伝統的な日本文化を西欧文化に変革しようとする動きが起こった。
その一例として、森有礼は「明六社」という西欧文化を研究する団体を作った。当時の「明六社」の構成メンバーを見ると福沢諭吉、西村茂樹、津田真道、西周、中村正直、加藤弘之、箕作秋坪、杉亭二、箕作麟祥、津田仙など30人の重鎮たちである。彼らは「明六雑誌」を創刊し、開化思想を広めようとした。森有礼は「明六雑誌」を通して、日本人を啓蒙するためには、日本の男子は外国の婦人を迎えて結婚すべきであるという「混血改正」を主張した。また、新時代に合わない難しく使いにくいカタカナとひらがなを捨てて、西欧の文字であるローマ字を使用することを主張した。「日本が国際的な独立を保つためには、英語の習得が必要不可欠であり、日本国民が西欧の科学、技術、宗教等を摂取する上にも、日本語のような貧弱で不確実な伝達手段に頼ることはできない」とし、「日本語廃止論」まで強力に主張した。また、西周は「明六雑誌」の創刊号で「洋字[英語]ヲ以テ國語ヲ書スルノ論」を、西村茂樹は「開化ノ度ニ因テ改文字ヲ発スヘキノ論」などを発表した。こうした影響によって、日本ではローマ字が初めて取り入れられて使われ始め、難しい日本語や古典語が影を潜め、外来語の影響を受けて使われている日本語が大きく変化するようになった。
森有礼を中心に「明六社」の会員たちが欧化運動を進めるにつれて、これに対決する国粋主義が台頭した。国粋主義者の中にはキリスト教界の指導者らが多数含まれていたが、その中に平岩愃保という牧師がいた。平岩は1856年(安政3)12月、江戸の小石川安房町で生まれ、1870年東京府立洋学校に入学して西洋の学問を学び、1873年には開成学校(東京大学の前身)理科に進んだ。1875年、カナダのメソジスト教会宣教師カクラン(G.Cochran)から洗礼を受け、同派の牧師に就任するに至った。
平岩は言う。日本の在来の思想を根絶やしにし、その上に外来の思想を植えるとは危険千万のことである。外来文化を受け入れることで、元来の日本文化を損ってはいけない。日本の精神を変えることはできない。日本の精神はあくまでも大和魂を志向すべきである。大和魂は外来文化を憎んだり、逆らったりすることではない、と。
平岩がこうした思想を固守する理由は、彼の育った家柄が代々幕臣であったことからきているかもしれない。祖先である平岩親吉は、1590年(天正18)小田原城攻めの際に功を立て、徳川家康の関東入国に伴いその幕臣となっていた。
平岩は、欧化主義者らが日本語を廃止し、ローマ字を使う運動を繰り広げた時、神代文字を取り上げ、図のような神代文字を使おうと主張した。
「六合雑誌」第50号(明治18年1月)に「日本文字ノ論」という題目で寄稿したが、彼は神代文字を知るようになったきっかけを、静岡にある自宅に、ある国学者が訪れた際、彼から神代文字とその仕組みについて聞き興味を覚えた、という。
平岩は西欧諸国家のほとんどが「アルファベット」を使っているように、日本においても意味は日本語であっても、文字の表記は朝鮮のハングルを偽作した神代文字を使うことを主張したのである。彼は神代文字で日本語を表記してみると、非常に簡単で使いやすく、日本語は縦書きが普通であったが、神代文字で横書きをすると文字の形もきれいであると述べた。
以下の図はカタカナと神代文字でローマ字を表記する際に、どちらが便利で正確であるかを比較したものである。
平岩は図のように、神代文字に日本語で使う濁音まで打って使用しており、ローマ字の「N」と「T」を表記するのにカタカナには適当な文字がないが、神代文字には正確に表記できる「■」と「■」があると喜んだ。また、日本の文字は文法的な面をはじめ、すべての面であまりにも難しいので、日本人だけでなく外国人も日本語を学ぶのに困難な点が多く、国の文化を発展させるためには何よりも言語がやさしくなければならないと指摘し、また、日本語はもともと仏教の経典から作られたため、思想的な流れについても気に入らないと思ったのである。また、ひらがなとカタカナは漢字からできたため、同じ文字であってもさまざまな形で表記され、非常に読みにくいと指摘した。たとえば、ひらがなの「ま」は、書く人によってその形が「■」や「■」と書かれる場合があり、さらに「■」と表記される場合もあると指摘、また「に」という字も「■」や「■」と書かれるので紛らわしい。さらに「の」の字を「■」と書くとか、「な」を「■」や「■」「す」を「■」や「■」や「■」と書いたり、「り」を「■」「た」を「■」「が」を「■」や「■」と書くこともあって、一般庶民が学ぶのに非常に難しいと述べる。漢字は様々な形で表記されていたため、そこから形づくられるひらがなもいろいろであった。また、漢字の発音は、ひらがなやカタカナでは正確に表記できないと指摘した。さらに漢字を使った単語にもさまざまな発音が存在した。一例をあげると、「提燈」という単語は、人によって「テヨウチン」「テヨフチン」「チオチン」など、さまざまな形で表わしており、どれが正確な表記なのかが分かりにくく、発音も正確でないと指摘し、すべての言語文化は正確に統一された言語によって形成されるべきであると主張して、「提燈」の発音表記には「■■■■」という神代文字がもっともふさわしいと述べた。日本語は「アルファベット」のように組み合わせて発音されないため、正確な発音を形成しにくく、「神」を「カミ」というように二文字で発音するから正確な発音が出てこない。すなわち平岩の考えは神代文字の表現をローマ字で表現すると正確な発音になり、例えば、「■■」、つまり+■=カ、■+=ミにすればローマ字のように K+A=KA M+I=MI となり、正確な発音が可能であると説いた。
要するに平岩愃保は日本語を神代文字で表記しようと主張したのである。彼は日本語で詩を作り、神代文字で表記してみることにした。
彼が書いた詩の題名は「国の歌」、つまり国風の歌である。国風は日本の国民が楽しんで歌っていた民謡である。韓国のアリランやトラジのような歌である。この歌が流行ったのは平安時代、流行らせたのは和歌の大家である紀貫之である。和歌の詩法は六つあるが、その中で第一は国風であると言った。では、平岩愃保が歌った国風は何かを韓国語に翻訳してみる。
「■■■ (中略) ■■■」
このように歌い、これを神代文字で表記してみて、非常に美しくきれいな文字体であると感嘆した。
また、古代社会から日本の国民がよく楽しんで歌ってきた古詩「いろは歌」を神代文字で表記して感心した。
日本語  色は匂へど散りぬるを
      我が世誰ぞ常ならむ
      有為の奥山今日越えて
      浅き夢見じ酔ひもせず
韓国語  (中略) 
このように神代文字で表記して、その存在価値・文学的な珍しさを語り、外来語であるローマ字に対して、神を採択することを主張したのである。
神代文字を偽作した国学者 平田篤胤
今まで考察した神代文字は偽作であり、偽作者が国学者平田篤胤であることはすでに紹介した。この章では日本国学とは何か、平田篤胤とはどんな人物で、なぜ神代文字を偽作してまで日本固有の文字だと言ったのかを明らかにする。
日本国学とは、儒教、仏教、洋学など外国から入ってきた思想・学問に対抗して日本の古典研究に立脚し、古代の純粋な精神を究明して古代社会に戻ろうとする自主的精神を元に始まった日本固有の学問思想である。このような思想が登場したのは江戸時代中期のことであり、18世紀後半から19世紀にかけて発展し、19世紀半ばの明治維新初期までつづいた。
この思想は形成・発展するにあたって、国学とはいわず古学、和学、皇学、本教学などと称した。国学と言われ出したのは明治新政府ができた頃からである。国学の形成初期には単なる古典学研究に過ぎなかったが、次第にその思想が多様化すると同時に国学内部に分派が生じ、学問の水準も高くなり国学の主流が明確になってきた。その中で契沖、荷田春満、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤らは、日本国学の父と言われているが、同時代、同じ国学ではなく、それぞれが独自の思想を展開してきた。
契沖は1640年、摂津(尼崎市)に生まれ、代々が僧侶の家柄により、彼も高野山に入り真言宗の道を歩みながら古典学研究を始めた。7世紀から10世紀にかけて編まれた日本の古典は、長く続いた武家政治の期間注目されることなく寺院、神社に古書として扱われていた。このような状態を認識した契沖は古書を一つ一つ集めて研究をした末「伊勢物語」「源氏物語」の注釈を初めて行い、「万葉集」を研究して字句の精密な考証によりこの時代の人々に読みやすい研究書「万葉代匠記」を著わして古典の研究にすぐれた成果をもたらした。契沖は古典を集め最初に研究した学者であり、彼の研究成果により後世における古典学研究への道が開かれ、彼は国学の開拓者と呼ばれるようになった。彼の影響で荷田春満や賀茂真淵など国学の巨星たちが登場した。
荷田春満は1669年、京都伏見の稲荷神社の神職の嫡子として生まれ、契沖の古典学の影響を受けて神道の教理と思想を初めて創り、神道の形成に貢献した。同時代人である賀茂真淵は、契沖の古典学と荷田春満の神道思想を一体化させ、「冠辞考」等を編集、日本の固有思想を賛美し、儒教・仏教・洋学等外来思想排斥運動を展開した。また最年少の同時代人本居宣長は、契沖の古典学と荷田春満の神道思想と賀茂真淵の外来思想排斥運動を総合検討した結果「古事記」を自分なりに研究し「古事記伝」を発刊し、これまでなかった復古思想を立てた。復古思想は、彼が生きた徳川時代の武家政治を批判し古代王朝国家に戻そうとする運動で、この思想が尊王運動の原型になった。
このようにして国学が形成された一世代後に、平田篤胤が登場した。彼の思想と生涯は後述するが、一言でいえば篤胤が国学を結実させ、国学の道を完成させたのである。彼の独自の国学思想は、契沖、荷田春満、賀茂真淵、本居宣長の古典学を批評しながら神代史を発掘し、神話の創造を重視しながらついに神代史という「古史徴開題記」を編集するまでに至る。この「古史徴開題記」の中に国学者達が否定してきた神代文字がある。彼の門下から多くの国学者を輩出、彼らが、幕末維新期になって国学の根本思想である王政復古をかかげ、尊皇攘夷運動に大きな影響を与えた。
篤胤は国学者の中の巨星と言われるが、なぜ神代文字を偽作し、それが神代からあった日本固有の文字と主張したのか。この章では篤胤の生涯と神代文字を偽作するに至った思想を論じる。
平田篤胤は出羽国(秋田県)の佐竹藩士の子として生まれた。20歳のとき、江戸に出て苦学しながら学問を習った。当時新学問とは国学をさすが、国学は、朱子学を「静」とすれば「動」の関係だったといえる。日本の朱子学は、中国宋の朱熹が五経(詩、書、禮、春秋、易)を中心とする儒学を批判した四書(大学、中庸、論語、孟子)を中心に、孔子、孟子の精神を把握しようとする学問である。朱子学は鎌倉幕府末期から室町幕府初期にかけ、禅僧たちによる五山文学によって受け入れられ、江戸幕府成立時の大義名分(君臣関係、身分差別)となり幕府の学問としての基礎を整えた。
幕藩体制の動揺期に、篤胤はこのような朱子学を大義名分だけを立てる時は正統教学として「静」と考え、大義名分から脱皮しようとする意図では「動」と考えた。この「動」が国学と言える。こうした観念で当時流行していた国学に手をつけはじめ、1800年(寛政12)25歳の時備中国松山藩の国学者平田篤穏の養子となり、以後平田姓を名乗る。平田家に蔵する国学者の書籍、特に本居宣長の国学書籍を多数読み感銘を受け宣長の弟子を志すが、宣長の死により果たせず、1805年(文化2)以降「新鬼神論」「古道大意」「霊能真柱」(たまのみはしら)等の書物を出版して国学者として頭角をあらわし、江戸末期にはひろくその名が知られる人物になった。当時神道系で正当性と慣例をよく守り一番の勢力を持っていた吉田神道家(ト部兼具唱導)に教授として招かれ、吉田神道の指導者になった。平田の学問が世に出て、京都で平田学派とよばれるようになった頃の天保年間(1833-1838)は凶作による飢饉が続き、社会不安のなかで平田の学説は反応がよく、農漁村では平田の思想を信じる者が多かった。1843年68歳で故郷の秋田で世を去った。
平田篤胤の思想と神代文字を偽作した動機
すでに説明したように、平田篤胤の国学思想は彼の師匠たちが主張する古典の文献学的考察と古典学の物事に対する感情思想を一転し、本居宣長の国学思想には見られない「新鬼神論」を主張して彼の思想は頂点に達し、平田学が形成された。「新鬼神論」で主張する学説は、人間は死んでも霊魂は永遠に存在するとする霊魂二元論的立場である。これは宣長の「鬼神論」が主張する人間が死んだ後、その霊魂はこの世を彷徨い、鬼を祀れば災いを受けないという一元論に反対する立場をとっている。
また篤胤は、天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神の三神を基督教の三位神とする創世神話を主張した。このような主張は彼の先人達が言及していない独特の学説の一つで、天之御中主神は天地創世の唯一神、基督教のエホバ主神であり、高御産巣日神は人類を支配する神で基督教の聖者の神、すなわちイエス・キリストであり、神産巣日神は人間の生死禍福の神という。篤胤は西学に興味を持ち、当時中国に滞在していた天主教の宣教師マテオ・リッチ(Matteo Ricci:1552-1610)の「畸人十篇」などの天主教書の影響をうけて「本教外篇」を著した。この書は、天主教の神学をそのまま適用して日本神話を解釈し、創世神話も天主教の神の摂理と同じようにみて彼の神学を作った。篤胤の神学は、従来の国学者達の主張を覆して、多神教から唯一神的思想を主張し、神を普遍的存在としたのである。霊魂の極楽世界、すなわち浄土観的思考方式を捨て、天主教でいう「煉獄」で審判をうけ来世にいくと述べている。このような平田神学、若しくは篤胤の国学思想を後継者たちが受け継ぎ、日本神話と密着させ基督教的な神話研究が登場し、虚説に過ぎないイエス・キリストが日本に来た、イエスの墓がある等の伝説が残るようになった。平田篤胤の国学思想の中で独特なのは、日本神話を基督教(天主教)的思考から解釈したことであり、これが彼の根本思想で彼の神学の原点である。
彼はこのような神学的思考から国粋思想と尊王思想を主張するとき、これに神秘性を与え、民衆に受けいれやすくするため神話を偽作し、神代文字を偽作した。彼が吉田神道の教授職として神道を講義中の頃、彼の門下生柴崎直古が駿河国(静岡県)府中に平田を招待し古神道の講義を聞き、篤胤に神代史の研究をさらに進め後世に伝えるようにと請願した。篤胤は普段から考えていた事でもあり、古書(「祝詞式」「日本書紀神代巻」「古事記」「古語拾遺」「新撰姓氏録」「出雲風土記」「古事記伝」など数十巻)を集め数カ月間をかけて研究し、文化2年(1805)に「古史徴」を刊行した。
「古史徴」の第一巻が「古史徴開題記」であり“春”“夏”“秋”“冬”の4冊がある。“春”巻に所謂「神代文字」について初めて触れた。“夏”巻では今まで見られなかった神代史、特に天皇の系譜を正確に証明し、“秋”巻は「祝詞」(神歌)等を記録したもの、最後の“冬”巻では「古事記伝」の批評等が収録されている。
「古史徴開題記」を彼の門人たち、越後国(新潟県)高橋国彦、筑前国(福岡県)相田饒穗、出羽国(秋田県)佐藤信淵が「神字日文伝」と命題して再版したのが1819年(文政2)春のことである。すなわち朝鮮国の世宗大王が「訓民正音」を編集した約400年後のことである。
「神字日文伝」の上巻は神代文字の抄書である肥人書を収録し、下巻は「疑字篇」と名づけ神代文字の抄書である薩人書である。
このように篤胤が偽作した神代文字は、彼の門人たちにより「神字日文伝」として世に出、国会図書館や各機関に保管され簡単に研究できるようになった。数百年間にわたる武家政治を王政に戻そうとする彼の思想は、明治維新という巨大な政治改革の断行により現実化したが、王政復古の基盤を整え天皇絶対思想をつくり「神仏分離」政策を断行した平田学派の後裔達は、神道の要職者として神代文字と関係した祭儀をおこなった。彼のいう「歴史は後ろを向き、前に前進する」のように古代国家にもどってしまった。戻ったのは、古代文明社会の律令国家ではなく、また大陸政治のモデルといわれた聖徳太子の摂政政治でもなく、さらに昔の神代の神武天皇王朝にまでさかのぼる。
神代文字を偽作した彼の思想は次のように説明できる。まず、神代文字は「祝詞」に使用されるから偽作しなければならなかったのである。「祝詞」は神事に欠かせない儀式であり、神に捧げる神願文、感謝文、祝頌文、獻供文、奉仕文、装飾文等に使う文章である。このような「祝詞」は神道に於いて日常行なわれるが、篤胤が神代文字を偽作する以前には漢字またはカタカナ、ひらがなが使われており、これに篤胤は不満を持った。なぜなら漢字は儒教からきた文字なので水と油の関係であり、カタカナ、ひらがなも仏教から出たものなので彼にとっては悪しき物であった。神事の時、このような文字を用いて「祝詞」を捧げることは容認できなかったのである。
次に、民衆に神国の思想を植え付ける方法として偽作した。先に述べたように、日本的精神を神代に遡って取り戻そうとする意図である。なぜなら日本の文化は外来文化に接触して得たもの、あるいは外来文化を受容して得たものなので、純粋な日本精神を求めるのは難しいとする。繰り返し言えば、神代文字は、日本の神から授けられた文字だと神秘性を与えるためなのである。ゆえに神字といい、また皇字、国字などといい、日本語(ひらがな、カタカナ)は異字と言った。
さらに、神代文字は神代から続いた神字であるとするのは、国外に日本の国威を高める為の方法であった。篤胤は日本神国のイデオロギーの優位性を世界万民に示そうとした。このような国粋主義思考が明治維新で表面化し、結局はアジア侵略にまでつながっていった。日本には神代から素晴らしい自国の文字があり、これが世界文字の母体になったという主張から、日本人は一等国民であり、日本は文化国家であるという優越感を生み出そうとした。吉田神道の主流は平田学問を根本として日本全国に広がったことにより、神代文字は生き残った。
戦後の学界での平田学問に対する批評は厳しく、虚説に過ぎないと評される。すなわち神代文字は偽作であって朝鮮の諺文からきたとされている。だが平田学派を研究している神道家や国粋主義者達は今でも神代文字を信じ、研究を続けている状況があり、このような事実を広く知らせるべきである。
ハングルの日本伝播と神代文字が偽作された経路
韓日関係史に於ける不幸な時代として豊臣秀吉の朝鮮征伐(壬辰・丁酉倭乱)があげられる。この戦争は韓国の歴史の中で忘れられない時代であり、韓日関係上初の侵略である。
従来の歴史家の中には、秀吉の朝鮮侵攻は中国大陸への侵略の一環として朝鮮を征伐したという見解があるが、今日の韓日関係史学から再検証すると秀吉の朝鮮侵略は韓国の文化を狙って起こされたものであると考えられる。朝鮮侵略によって多くの文化が日本にもたらされたことは、今日の日本国内にその証拠となる場所が多数あることからもわかる。
大正、昭和時代の日本の国文学者、山田孝雄は「豊臣秀吉の朝鮮征伐の際日本人であれば誰も朝鮮の文字を素晴らしく思い、それを欲しがる人が数多くて征伐の際たくさんの書籍や文化財を朝鮮から盜伐していった」という。山田の指摘通り、当時、印刷職人たちが様々な方法で日本に連行されてきた。この時初めて韓国の文字が日本に伝えられた。
壬辰倭乱がきっかけで日本に渡った韓国の文字の読み書きの指導は、主として朝鮮王朝から派遣された通信使によって行われた。ここで朝鮮通信使についてみてみよう。
徳川期最初の通信使は1607年(慶長12)正使・呂祐吉、副使・慶暹、從事官・丁好・など総勢500名余の人員が莫大な経費をかけて日本に招かれた。以後、派遣は11回に及ぶが、ついには幕府の財政を揺るがすほどの巨額をかけて諸行事が行われるまでになった。幕府は朝鮮通信使を招くのになぜ巨額の金をかけたのか。豊臣秀吉が朝鮮侵攻の際、甚大な被害を与えたこと、また徳川家康が自ら朝鮮の優れた文化を認め、李朝時代の儒学の受容を図ったことがあげられよう。李朝儒学というのは李退溪の朱子学であり、これにより従来の武家政治にはなかった君臣関係、身分差別を重視する封建支配の思想を堅固にしようとする徳川幕府の意図が潜んでいた。朱子学の中でも李退溪の学問がもっとも理想的な学問として受け取られ、幕府の正学になったのである。
このような思想のもとで徳川幕府は大事な行事があるたびに必ず朝鮮通信使を招聘したのであった。通信使が入国し江戸城に着く途次、街の人々は立ち止まって頭を下げ、幕府の家臣たちは歓迎に最善をつくしたのである。
図のように朝鮮通信使が漢城を出発して対馬→壱岐→下関→鞆の浦→大坂→名古屋→静岡→江戸に行く途中、旅宿する場所ごとに大勢の日本の儒学者らが朝鮮の朱子学を学ぶために集まったが、中でも京都に於いては幕府の最高位儒官木下順庵(1621-98)は、通信使が泊った本能寺をしばしば訪れて朝鮮の朱子学を習い日本初の朱子学者になり、またハングルを最初に読み書きできるまでに至った。
木下順庵は門人たちに朝鮮朱子学を教えたが、その中の一人新井白石は朝鮮語を修得、通信使が日本にくるたびに通訳官に任命され、1709年(宝永6)将軍家宣の時代には幕臣に登用、家宣の輔佐官として活躍する。
また、順庵のもう一人の弟子に雨森芳洲(1668-1755)があげられる。彼は対馬藩の儒学者として釜山、長崎に遊学して朝鮮語を修得、来日通信使にも二度にわたり随行した。彼の業績は、その生国近江高月で朝鮮語塾を開き、朝鮮外交通詞を養成したことである。彼の作成した教材「全一道人」が1729年(亨保14)に公刊されたのは、朝鮮通信使が9回来日後のことである。この教材の内容は、忠臣、孝子、節婦等の朝鮮説話であるが、日本語の表記の右側に朝鮮語でふりがなをつけ、朝鮮語の発音、文法、会話などを教えたのである。特に漢字の意味は、朝鮮語でふりがなをつけて教えたと考えられる。たとえば、
青い:プルダ 赤い:ブルダ 黄色い:ヌルダ
などの内容となっている。
彼は朝鮮語を上手に使って外交手腕を発揮し、老年期に書いた朝鮮語の教科書「交隣須知」は、明治期になっても京城で活躍する日本の資本家たちの必携会話教材として用いられた。この「交隣須知」の朝鮮語会話体を見ると、
「言」■■ (中略) ■■■ 言 多 妄發 出 / コトバヲ ヨケイニイエバ ホフバカレル
「辭」■■ ■■■ ■■■  / コトバヲ インキンニ イエ
「弄談」■■■ ■■■ ■■■■ / ヲドケカマコトニ ナリマスル
のように朝鮮のことわざを主な素材としてこれをハングルで表記し、その後に日本語でふりがなをつけた。この「交隣須知」は全部で60卷あまりであった。
こうして近世になって、朝鮮通信使の来日により江戸学問と称される朱子学が伝播されると同時に、朝鮮語を学ぶ高官や人々が増えたのである。
朝鮮通信使が9回目に来日したのは1719年(享保14)であったが、その招請目的は徳川吉宗の将軍職就任祝賀であった。このとき、幕府の儒者であった荻生徂徠は、弟子の木下実聞と朝比奈之淵に朝鮮語を学ばせる目的で通信使が宿泊する名古屋の旅館に赴かせた。彼らは、通信使の書記官である姜栢(号・耕牧子)に教わり、製述官の申維翰(号・青泉)がハングルで作った教材「客館崔桀集」で勉強した。朝鮮語を学ぶ教材としては上述の雨森芳洲の「全一道人」と「交隣須知」のほかに青木昆陽が作った「昆陽漫録」がある。
昆陽は1698年(元禄11)江戸日本橋に生まれ、朝鮮語・朝鮮朱子学を学び、幕府の御書物御用達に任ぜられ古書典籍收集に専念、朝鮮通信使によって伝えられた朱子学に関する書籍や諺文の文書も多数收集したと推測される。青木は朝鮮諺文を深く研究し、1763年(宝暦13)に「昆陽漫録」を刊行した。国語学者山田孝雄によると、
一般人に諺文というものを知らしめたのは青木敦書(あつのり)の昆陽漫録である。その卷一の末に近い所に「朝鮮諺文」と標して、その字母表を示し、それに一々片假名でよみ方を注してある。この書は宝暦13年に著したものだ。すなわち、前述の雨森芳洲などの著述は上流層に知られていたのに対して、朝鮮語は「昆陽漫録」によって初めて広く一般人に知らされたのであると考えられる。
さて、篤胤による日本神道を世界的、普遍的な宗教に作るための基礎作業が行われていた。篤胤と同時代の服部中庸(国学者で篤胤の親友。篤胤は服部の影響で「霊能真柱」という有名な作品を残した)は当時の状況についてこう語っている。
篤胤は「書見著述に掛り候ては二十日三十日にても夜昼寝ことなく、労し候時は三日五日も飲食せずして、臥て又覚候時は元のごとし」といわれているのであって、文化8年の終における行状は彼にとって特異なものとはいえないようである。しかし普通に考えれば、これは単に熱心な態度というにとどまらず、偏執的異常さを示すといってもいいであろう。いまこそ神道が興るべき時だと思い、日本の神道を世界的・普遍的なものとしようとしたことと、このような異常な性格・体質とが無縁なものとは考えられない。
「古史徴開題記」に展開される「神代文字の論」は、前述した「昆陽漫録」(諺文教材)を参考に「神代文字」として偽作したのではないかと推測される。篤胤はなぜ神代文字を偽作したのか。それは前述した通り日本神道を鼓吹して王政復古の政治を認識させるためであった。そして朝鮮の文字から偽作されたのは、創成当時から陰陽五行説に基づいた「訓民正音」が日本神道の教理に最も近く、文字の価値も何より優秀であったのである。当時の日本のカタカナとひらがなは、仏教の経典より作られたもので夢中妓字を避ける一方、漢字も儒教思想から伝搬されたので日常生活に砒霜と思われたためである。このように日本古来の文字がなかったので国学者平田篤胤は、駿河にある門人柴崎直古の家に閉じこもって飮食もせずに「昆陽漫録」を見本として偽作したのであった。
このようにして偽作した文字に神代文字と名付け、人々に神代からあったものであると強調して、神代文字の神秘性への思いをより深くさせて、神道思想を鼓吹したのである。
近代に神代文字を普及した落合直澄
前章で神代文字を偽作した国学の大成者である平田篤胤について述べた。この章では平田学を後世に伝播させ、神代文字を普及した落合直澄について調べてみることにする。
結論からいうと近世末に偽作された神代文字が近代国家に入って、その存在が明らかになり全国津津浦浦にまで伝播したのは落合直澄の努力による。彼は幕末1840年(天保1)武蔵国多摩郡驅本野村で生まれ、はやくから国学に興味をもち、本居宣長の一番弟子の富樫広蔭の指導を受けて国学者として頭角を現わしはじめた。広蔭は宣長の死後、平田篤胤と親交が厚く平田学に関心を持ち国学の後裔者たちを養成したが、このなかの一人が落合直澄であり、平田学から強い影響を受けた。
彼は尊王思想の強い意志を持って国事に立ち回る日々を過ごしたが、明治維新が成就したことによって一朝にして立身出世、新政府における神祇官に就任した。神祇官は神道の祭祀あるいは神社行政を所管、新しい行政機構のなかで国家最高機関とされ、その権力は強大であった。
日本の神道がどうして成立してきたか、少し言及したい。神道は2世紀ごろ縄文時代の原始社会における自然崇拜のアニミズムなどから発し、実体がはっきり現われてきたのは北方から入ってきたシャーマニズムと南方から入ってきた農耕儀礼からはじまる一つの民族信仰である。こんな実態を持った神道が6世紀ごろ大陸から入ってきた仏教、道教と融合・変質し始め、宗教としての体裁を整えて、神を祀る“ヤシロ”(神社)がおかれるようになった。9世紀ごろには平安貴族社会が形成されることによって、各所に数千の神社が置かれて、国家が神社を治め、国家の各種の行事もここで行われたので神社を司る神主は国司の力を持って神社のある周辺地を治めた。
中世に入って神道と仏教が密接な関係となり、神仏習合思想が台頭することによって神道思想と仏教思想の一致運動が展開されて、どれが神道宗教でどれが仏教なのかを分別しがたい状況になった。なぜこんな神仏習合思想が展開されたのか。仏教の側は土着宗教に呼びかけたいあまり自然に神道に近づいてしまい、神道の側は平安時代の貴族たちが強力な勢力を神社で張っていたが、中世国家が成立し武家政治が実現すると、その勢力が弱体化し自然に仏教思想に融合されていった。今日でも各寺刹を見学すると、神道の儀式、儀礼に似ている形式を見ることが多い。
神仏習合体制下で起こった国学は、政治的には尊王思想による王政復古を唱え、宗教面では神仏融合思想を排除し打破しようとする動きを始めた。この思想が雪だるま式に肥大した結果、明治維新が断行されるやいなや実行されたのが廃仏毀釈政策であった。
廃仏毀釈はそれまでの神仏習合体制下にあった全てを分離する作業で、仏壇、仏具などが神社から持ち出されて焼却され、あるいは仏教儀礼を選び捨てて純粹な神道としての整備を行い、神社を本来の建築構造、神器による儀礼に戻す運動であった。このような行政措置による仏教弾圧は神祇省で実施されたもので、この時の落合直澄の勢力は飛ぶ鳥も落とすほどであった。
彼の勢力が強力であった当時の1888年(明治21)7月に「日本古代文字考」が東京京橋区南伝馬町一丁目一二番地吉川半七により出版された。
それは平田篤胤の「神字日文伝」と同じ神代文字を取り上げた冊子で、彼はその序論で「古来字ノ説多シト難モ日文伝ノ上ニ出ルモノナシ。今日文伝ヲ根據トシ金石字等ヲ證トシ字源字父母ヨリ字子組織ノ理ニ至ルマデ我考ノ及ブ限リ心諸ヲ盡スト雖モ猶杜撰ノ罪ヲ免レザラムトス。庶幾ハ識者ノ證正アラム事ヲ」と述べている。
図で見るように落合直澄の「日本古代文字考」に現われた神代文字は母音5字と父音10字を組み合わせている。平田篤胤が神代文字を偽作した時は母音5字と父音9字にしたが、明治期に入ってから落合直澄がU(ウ)を一つを追加して10字としたのである。そして真字の肥人書を阿比留文字、草字の薩人書は出雲字として図に見るように草書に振り仮名と真字を付記した。
これまで神代文字が多く保存されていた場所は見るように下野国(栃木県)下都賀郡赤麻村の古塚で、これが発見されたのは1885年(明治18)4月といわれている。
落合直澄によれば、この古塚に行けば神代文字が碑文などに使われているという。落合は明治政府の神祇官の地位にあって「日本古代文字考」を各神社の神主(神官)たちに普及させ、その後1889年(明治22)退官後は、伊勢神宮の神宮教院で神道学を講義したがこの時、各地の神社に勤務する神主(神官)たちはこの神宮教院を卒業しなければ神社で働く資格を得られないようにした。
彼は自著「日本古代文字考」や平田篤胤の「神字日文伝」など神代文字についての研究の全てを目録に作成した。また、これらの書物は「神宮文庫」に保存されている。
このように神代文字は、国学者の平田篤胤が偽作し、明治政府成立後の政教一致期に、落合直澄が普及させ、国民の多くがその存在を教えこまれた。また、戦争期には落合直澄の後継である吾郷清彦が登場して、数多くの図書を出して神代文字を普及させ、また、今日では歴史学者として知られる佐治芳彦など多くの歴史家たちが神代文字は日本の固有の文字であって平仮名と片仮名の母体であると述べ、はなはだしきはハングルは日本の神代文字から作られた、と主張する。日本全国の書店には彼らが書いた本が多数並んでいる。このような光景をみると、日本の国家主義が再び復活する雰囲気の中で、神代文字を定説化して、その価値観を確立しようとする目的以外にはないように思える。
 
魯迅の悲劇と漱石の悲劇

 

魯迅は、広博な学識と真摯な態度をもって中国の近代社会を主体的に生きた中国の文学泰斗であり、漱石は広博な学識と真摯な態度をもって日本の近代社会を主体的に生きた日本の文学泰斗である。数十年来、彼らは各自の国でずっと文壇随一の敬愛を受けており、彼らの文学は世界各国の学者たちに研究されている。私はその中の一人である。もちろん、魯迅と漱石を敬愛し、魯迅文学と漱石文学を研究する理由は人によって違うが、私がそうしているのは、魯迅と漱石がそれぞれ彼らにとってア・プリオリに存在した文化的悲劇に全力をあげて悲劇的に挑戦しており、魯迅文学と漱石文学が彼らの悲劇的な挑戦過程を如実に記録しているからである。悲劇の用で悲劇的に奮闘している魯迅と漱石は徹底的に私を魅了し、私はすでに彼らに青春の熱情と思考を棒げた。
魯迅と漱石は上述の意味での二重悲劇を体現しながら一生を終えたわけであるが、彼らの二重悲劇を具体的に確認するのは、すなわち本論の目的である。この目的の達成は、魯迅と漱石の本然の姿や魯迅文学と漱石文学の本質の理解にだけではなく、中日両国の近現代文学全体の特質および両国の近代化過程の異同の究明にも大いに役立つだろうと思われる。私は微力ながら、このような意義重大な仕事を成し遂げる決意である。
魯迅の誕生年代と誕生国土の悲劇
魯迅は1881年中国に生まれたのであるが、その時、中国は苦難のどん底に陥っていった。そして、それは西洋列強との文化的較量中の失敗によるものであった。
1600年イギリスの東インド会社が成立し、カトリック教のヤソ教会の宣教師Matteo Ricciが中国の南方の辺域から上京した。イギリスの東インド会社は東洋での貿易・植民地経営を独占的に行い、イギリスの資本の原始蓄積に大きな役割を果たしたものであり、240年の後、アヘン戦争に参画し、強制的に中国と貿易関係を結んだ。中国には、孔子という土着の聖人がいるが、1600年中国の都には、もう一人の聖人、しかも外来の聖人Matteo Ricciが現れてきた。彼はカトリック教と儒教の融合という看板を高く掲げているが、その下では、儒教と根本的に異なったカトリック教を伝播していた。以上の二つの事件が象徴しているように、中国と西洋列強との文化的較量は、中国の門戸開放に始まり、中国文化の核心と西洋文化の核心との対抗に終ったものである。
1793年と1816年、イギリスの使者は2回中国に来て対等貿易を求めたが、いずれも中華思想または天朝意識に陶酔している中国の皇帝およびその大臣たちに断られた。1640年以後の160年間、西洋諸国では、相次いで市民革命と産業革命が起こり、資本主義制度が確立し、蒸気機関およびそれを原動力とする水力織機、蒸気機関車、単式エンジン・外輪式の蒸気船が発明された。このような天変地異の大変化を成し遂げた西洋諸国は、海外貿易や植民地経営にかつてない必要性を感じるようになった。前述のイギリス使者の中国訪問は、事実このような西洋近代社会の成立を背景としたことであった。
一般的には、西洋文化の基本原理は実力による自由競争・自然淘汰であるが、この意味では、18世紀末期、19世紀初頭のイギリス通商使者の目的の未達成は、当時のイギリス文化がまだ当時の中国文化に優越していなかったためであろう。しかし、19世紀中葉になると、対局が全く変わり、イギリス文化が優勢を示してきた。したがって、1840年、アヘン戦争が起こり、中国は「南京条約」を結ばせられ、戦争賠償金200万両の銀貨の支払とホンコンの割譲と上海、広州、寧波、福州、アモイの開港に踏み切らされた。その後、イギリス・フランス、アメリカ、ロシアはまた相次いで強制的に中国と「望夏条約」「黄浦条約」「天津条約」「北京条約」を締結したが、それらによって、中国は150万平方Kmの国土を失い、戦争賠償金1000万両の銀貨を支払い、牛庄、登州、台湾、潮州、掠州、漢口、九江、南京、鎮江を通商港として開設し、西洋列強の中国における最恵国待遇と領事裁判権と関税協定権を認め、カトリック教の中国における自由布教を認めざるを得なくなった。ここで注意しておきたいのは、中国における多くの通商港の開設とカトリック教の自由布教である。中国文化の基礎は中華思想である。中華とは中央の花(華)を意味しており、中華思想とは・中国が世界の中心で、「四方蛮夷」を教化(開化)する使命を持つといったような支配的、全体的な思想である。中国はかつて世界の中心に位置し、しかも中華思想に基づく「五服」ないし「九服」の方式で自分の周辺を自分の秩序体系に納め込んでいたが、19世紀中葉になると、西洋列強は世界中心の位置を勝ちとり、しかも自由競争・自然淘汰に基づく強制貿易、植民地化などの方式で中国を自分の秩序体系に納め込んだ。中国における多くの通商港の開設は、その証拠である。中国は世界中心の位置を失った、これは、中国文化が根本的な処で西洋文化に負けてしまったことを意味する。中国におけるカトリック教の自由布教は、その証拠である。中国と西洋列強との文化的較量は中国の一回また一回の敗北をもって終わったのであるが、西洋列強が中国に打ち勝った第一段階を示す「中国ロシアイリ条約」が締結された1881年に、魯迅は傷だらけの中国に生まれた。これは彼にとって、ア・プリオリな悲劇であった。
1840年以後、中国が西洋列強との較量の中で何回もの惨敗を喫したので、中華思想を持つ中国人はいくら威張っていても、反省せずにはいられなくなった。清の思想家・歴史学者魏源は西洋列強の「船堅砲利」という事実に鑑みて、「夷の長技を師とし、以て夷を制す」(「海国図誌・序」)と反省している。これは当時の中国人の反省の典型である。当時の中国人はただ中国における多くの通商港の不本意な開設という事の意味を部分的に汲み取り、技術とりわけ軍事工業の立ち後れを認めただけで、カトリック教の中国における自由布教という事の意味を少しも悟らなかった。中国の学者劉再復氏と林崗氏は共著「伝統と中国人」で、「技術・工芸レベルの自己反省の一番大きい弊害は、自分の伝統を切断しているし、西洋文化をも切断しているということである」「技術と文化母体の相関関係の立場に立つ」のではなく、「功利という立場に立って技術を認識」する限り、「技術・工芸の立ち後れを認めていても、技術自体への認識がやはり浅薄である」と指摘しているが、全くそのとおりである。魏源を代表とする当時の中国人は、西洋文化全体との有機的な関係を完全に切り離して西洋の技術を考えていた。それで、西洋の技術に関する認識がまだ浅薄であった。もちろん、これは、西洋列強が先生であると同時に敵でもあるという事実に一部の原因が求められる、しかし根本的に言えば、やはり中国人の身体全体に染み込んだ中華思想に起因しているのであろう。中国には、心の修養を重視し、技術の運用を蔑視する伝統がある。技術の運用は「小人」の所作であり、「君子」の所作ではない。「君子口は動かせど、手は動かさず」という言い方や「奇技淫巧」「彫虫小技」などの熟語からも、中国人の技術蔑視が明らかになる。この意味では、中国人は苦痛を感じながらも、中国が技術の面で西洋列強より劣っていることをなんとかして納得できる。そして、当時の中国人は技術が「彫虫小技」なので、少し倣えばすぐ追い付くだろうと確信していた。その後、張之洞はこのような反省をまとめて、「中学を内学とし、西学を外学とす。中学は身心を治め、西学は世事に応ずる」(「勧学篇」)と言って中体西用説を提出している。この中体西用的な反省の下では、「自強求富」をスローガンとする洋務運動が起こり、工場や学校を開設したり、西洋から軍艦を買ってきて北洋艦隊を組成したりした。しかし、1894年の日清戦争における中国の惨敗が暗示しているように、中体西用的な洋務運動は決して中国を悲惨な境地から救い出すことができない。中国が悲惨な境地に追い込まれた原因は、根本的に言えば、技術の立ち後れにあるのではなく、より深い処にあるのである。
張之洞が中体西用説を提出したのは、1898年であるが、その年に、魯迅は洋務運動の成果の一つである江南水師学堂に入学した。そしてその年に、康有為、梁啓超を主幹とする戊戌維新運動が起こった。康有為、梁啓超の考えでは、中国が悲惨な境地に追い込まれた根本的な原因は、中国の伝統的な「上下隔塞、民情不通」(「上清帝第二書」)の政治制度にある。それで、戊戌維新運動の中心は「官制を変える」(「変法通議」)であり、西洋列強に学び、中国の伝統的な政治制度を変えることである。洋務運動の主幹たちの考え方と比べれば、戊戌維新運動の主幹たちの考え方は大きな進歩を示していると言えよう。しかし残念なことには、西太后のクーデターによって、戊戌維新運動は103日間行われただけで失敗してしまった。その時、魯迅は江南水師学堂に在学中であった。洋務運動の西洋文化の摂取と失敗、戊戌維新運動の西洋文化の摂取と失敗--この二大悲劇を魯迅はちょうど彼の人間形成期に経験した。1900年魯迅はまた情熱的・盲目的な排外運動--義和団運動の惨敗を経験した。以後の魯迅文学の展開から明らかなように、彼の人生の門出に資する社会的・思想的な積累は、あまりにも悲劇的であった。
要するに、魯迅はこのような悲劇的な年代に、このような悲劇的な国土に生まれてしまったのであった。
漱石の誕生年代と誕生国土の悲劇
漱石は1867年、日本に生まれたのであるが、その時、日本は卑屈な境地に追い込まれてしまった。そして、それは中国と同じく、西洋列強との文化的較量中の失敗によるものであった。
16世紀中葉から西洋と接触した日本は、17世紀初頭まで日増しに盛んな海外貿易をやったが、17世紀中葉になると、鎖国状態に変わった。日本はなせ鎖国状態に変わったかについて、キリスト教に対する禁制の強化やオランダの窓通などの意見があるが、根本的な原因は、中華意識を核心とする儒教とりわけ朱子学が次第にオーソドックスな地位を得た処にあるのではないかと思われる。
1792年と1804年、ロシアの使者は2回日本に来て通商を求めたが、日本幕府はいずれも鎖国は「いにしへ」の「国法」と言って断わった。「いにしへ」の「国法」は絶対に正しい、それに違反してはいけない--このような考え方は全く儒教的である。ロシアの使者が帰った後、イギリスの船はまた頻繁に来て通商や薪水を求めたりするようになった。それで、日本幕府は1825年きびしい打払令を下し、異国船を「一図に打払」「無二念打払を心掛け」と諸大名に命じて鎖国を強めた。日本の鎖国状態はそれによって一時維持されたようであるが、実際、それは中国の場合と同じく、18世紀末期、19世紀初頭の西洋文化がまだ中華意識を核心とする儒教文化に優越していなかったためであろう。1840年中国文化と西洋文化との力による均衡が崩れ、アヘン戦争の中で、中国はさんざんに負けてしまった。それは事実中国文化の核心中華意識の破滅を意味するが、儒教に支配された日本幕府は当時の中国政府と同じくその意味を理解できなかった。それにもかかわらず、中国文化と西洋文化との力による均衡が崩れた以上、中国文化の支配下にある日本の開国は、必至のことになった。1853年アメリカ東インド洋艦隊の4隻の軍濫は司令官ペリーの指揮の下で三浦半島の浦賀港に入港し、大砲を背景にして幕府に開国を要求し、しかも効を奏した。1858年日本は「日米修好通商条約」を結ばせられ、神奈川、函館、新潟、兵庫、長椅との五港開港に踏み切らされ、アメリカの領事裁判権、最恵国待遇、外国人居留地を認めざるを得なくなった。同じ年に、オランダ、ロシア、イギリス、フランスは相次いで日本と内容がだいたい同様な条約を締結した。日本はついに西洋列強の秩序体系に納め込まれてしまい、鎖国を続けることができなくなった。
もちろん、日本の開国はそれほど順調でもなかった。「日米修好通商条約」が天皇の勅許なしに調印されたので、日本では、尊王攘夷運動が起こった。それを弾圧するために、「安政の大獄」と言われる大規模な検挙が行われたが、幕府の大老井伊直弼が尊王攘夷派に属する水戸・薩摩の脱藩浪士によって殺された「桜田門外の変」を転機にして、尊王攘夷運動が一層盛んになった。「薩英戦争」と「下関戦争」はつまりその必然的な発展であったろう。両戦争の中では、日本人は全力をあげて抵抗したが、西洋列強の猛烈な砲撃によって惨敗を喫した。そして、それによって鎖国の「昨非」を徹悟して、開国進取の伝統を回復しはじめた。日本人にとって、中華意識は何と言ってもやはり外から押し付けられたもので、しかもただ200年ぐらいの歴史がある。それで、比較的強烈な打撃が来ると、ただちに日本人の本体から剥げ落ちた。これに反して、中国人にとっては、中華意識は内から湧いてくるもので、しかも数千年の歴史がある。それで、外からどんなに強烈な打撃が来ても、完全に捨てることができないのである。中国が日本のように比較的順調に近代化を実現できなかった根本的な原因は、中国人の中華意識の内発性にあるのではないかと思われる。「薩英戦争」と「下関戦争」が起こった後、尊王攘夷運動ががらりと開国進取へと転向し、開国進取派は卑屈な姿勢で全面的に西洋列強に師事し、速やかに開国討幕運動を押し進めた。
1866年12月彼らは頑固な攘夷者で、しかも討幕にも反対する孝明天皇を毒殺して、精神上の最大の障害を排除した。1867年明治天皇が即位し、幕府将軍徳川慶喜が大政奉還の上奏文を提出した。このような殺伐で卑屈な年代に、漱石が生まれた。以後の漱石文学の展開から察せられるように、それは漱石にとって、ア・プリオリな悲劇であった。1868年1月戊辰戦争が起こり、幕府軍は速やかに敗走した。勝海舟と西郷隆盛の会談によって江戸城総攻撃が中止された1868年3月、明治天皇は京都御所内の紫宸殿で維新政権の 五か条基本精神を天地神明に哲った。特に注意に値するのは最後の二か条、つまり「旧来ノ陋習ヲ破リ、天地ノ公道ニ基クヘシ」と「知識ヲ世界ニ求メ、大ニ皇基ヲ振起スヘシ」である。日本政府は200年前上から西洋蔑視の鎖国令を下したのと同じように、今度はまた上から200年来の鎖国政策を「旧来ノ陋習」として放棄し、西洋文化を「天地ノ公道」として尊重し、そこに「知識ヲ」「求メ」なければならない国是を提出した。その後、日本は「文明開化」の時代に入り、どんどん変わってきた。断髪令の発布、洋式礼服、牛鍋屋の流行、レンガ作りの銀座通りの建設、太陽暦の採用、石油ランプ、ガラスの普及など、これらによって、世相は一変した。そしてそれに伴って、「江戸改めの東京では、かつてその壮大を誇った武家屋敷・藩邸が破壊されて、一面の原となったり、桑畑、茶畑になったり、世の変遷をさながらに示すかと思えば、古風な寄席の高座にのぼる芸人までがあやふやな英語を使ってみせるようになった」(「新講日本史」)といったほど、人々の価値観も急に転倒した。それで、社会全般のうわすべりの風潮が起こってきた。明六社の啓蒙家福沢諭吉氏はこう指摘している。
然るに近日世上の有様を見るに、苛も中人以上の改革者流、或は開化先生と称する輩は、口を開けば西洋文明の美を称し、一人これを唱えれば万人これに和し、凡そ知識道徳の教より冶国、経済、衣食住の細事に至るまでも、悉皆西洋の風を慕ふて之に倣はんとせざるものなし。或は未だ西洋の事情に就き其一斑をも知らざる者にても只管旧物を廃棄して唯新を是れ求めるものの如し。(中略)尚甚しきは未だ新の信ず可きものを探り得ずして早く既に旧物を放棄し、一身恰も空虚なるが如くにして安心立命の地位を失ひ、之が為に発狂する者あるに至れり。(「学問のすすめ」)
これはつまりうわすべりの風潮の「現場写真」である。当時の日本では、西洋崇拝が滔々たる大河となって西へ西へと奔流していたが、少年漱石はそれを感じる一方、島崎友輔との交友関係によって、1875年からその父親から漢文の蕪陶を受け、そして魯迅が生まれた1881年に、ついに西洋風の東京府立第一中学校を中退して漢学塾二松学舎に入って漢学を系統的に勉強しはじめた。卑屈な西洋かぶれを背景にした漢学選択は、漱石の門出であったが、以後の漱石文学の展開から察せられるように、それは漱石にとって、ア・プリオリな悲剌であった。彼の門出に資する社会的・思想的な積累は、あまりにも悲劇的であった。
要するに、漱石はこのような悲劇的な年代に、このような悲劇的な国土に生まれてしまったのであった。
西洋近代個人主義と魯迅の悲劇の発生
1902年魯迅は江南陸師学堂附設路鉱学堂を卒業して、日本に留学に来た。そして、1906年までの4年間に青春時代のはつらつとした感受性と思考をもって人生転回を成し遂げ、物質重視から人間重視に、また人間の肉体重視から人間の精神重視に変わってきた。もちろん、魯迅のこのような人生転回は、西洋文化の基本要素「個人」を把握したことによるものであったが、彼にそれを見出させたのはほかでもなく、第一節で述べた中国近代史の流れとりわけ洋務運動と戊戌維新運動の教訓であろう。もし洋務運動が技術更新による救国の試み、戊戌維新運動が制度更新による救国の試みだとすれば、魯迅の個性導入は思想更新による救国の試みであったろう。前者は失敗した、すると、後者は始まった。このような論理的な進展を考慮に入れてはじめて、魯迅がなぜそんなに強く「物質を排除して精神を発揚し、個人を尊重して多数を排斥すべきである。精神が高揚していれば、国家もまたそれによっておこせるものだ。何で枝葉末節にこだわり、いたずらに金鉄、国会、立憲ばかり叫ぶのか」(「文化偏至論」)といったような個性万能説を主張していたかが明らかになる。
魯迅はどうしても中国に西洋近代個人主義を導入しようと思っていた。しかし、彼が直面したのは、「個人ということばは、中国に輸入されてまだ、3、4年にもならない」うちに、「他人を害して己を利するという意味に」使われてしまった(「文化偏至論」)という現状であった。第一節の論述から明らかなように、中国文化は「中華」文化であり、別種の文化に対して排斥や同化しか与えない。それで、西洋近代個人主義は西洋近代の機械文明の力を借りて中国文化の中に突入すると、ただちに中国の伝統的な利己主義によって同化されてしまった。中国には、従来真の個人主義がない。歴代の聖人哲人たちはみな「克己奉公」、つまり個人放棄による集団優先を一生懸命主張している。しかし、いくら主張していても、個人の本能が徹底的に否定されることはない。それで、「克己奉公」が長年主張された結果、真に集団に通じる個人の尊厳と価値、個人の権利と義務が徹底的に否定されてしまい、ただ私利私欲だけが残るようになった。これは実は、「天理を存し、人欲を滅ぼす」(朱喜の語)という主張の下に真に「天理」に通じる愛が否定されてしまい、ただ人類の繁桁に通じる肉欲だけが残るようになったということと全く同じである。中国がこのような私欲・肉欲がのさばっている文化風土なので、西洋近代個人主義が中国に入るとただちに「他人を害して己を利する」という意味に同化されてしまったことは、むしろ当然なことであろう。魯迅はこの点をよく知っており、しかも、「偏見なしにこのことばの実質を考えてみると、決してそのようなことではない。」(文化偏至論」)と弁解している。これからも察せられるように、彼はまだ自分が立派な啓蒙者であることに充分な自信を持ち、中国民衆に最初から真の個人主義を説いたら、真の個人主義が必ず中国民衆の頭に根付くことを確信していた。そこで、彼は自分は「衆人の騒がしい議論に追随することなく、ひとりおのれ自身の見識を持して立つ人物」(「破悪声論」)と自認し、「非難にさらされても挫けず」「嘲笑悪罵に囲まれて孤立しようとも恐れない」(同前)と言って現在ないし将来の自分を当然なこととして孤軍奮闘の位置に設定するようになった。1907、8年当時の魯迅はこのような考え方を持っていた。この点では、「頭の中の世界」に安住していて、「自分に特有なる細致な思索力と、鋭敏な感応性に対して払う租税」(「それから」第一節)として孤独に耐えている代助にかなり似ている。しかし根本的に言えば、魯迅は社会にはニル・アドミラリの態度を取り、自分自身には非現実的な美的生活を期待している代助と異なり、社会には明るい希望を持ち、自分自身には「天日の光をもって暗黒を照らし、国民の内なる光を発揮させる」(「破悪声論」)という使命を見出している。この意味では、魯迅が犠牲として耐えている孤独は、代助のそれより一層強烈で悲壮な正義性を具えていると言えよう。この強烈で悲壮な正義性は魯迅を先覚者の立場に強く縛り付け、彼にニーチェの言う「超人」の道を歩かせた。
魯迅が日本留学時代に書いた諸論文を読むと、悲壮な雰囲気に心を強く打たれ、魯迅の西洋文化の基本要素「個人」による思想啓蒙に深く敬服する。しかし、以後の魯迅文学の展開から察せられるように、魯迅の悲劇はまさしくそのような雰囲気の中で、そのような思想啓蒙によって始まったのである。
本節の論述を第一節の論述と結び付けて考えると明らかなように、中華意識を核心とする中国文化は、事実外来文化を蔑視・排斥・同化する独尊文化であり、それを構成する基本要素は「集団」である。中国の文化伝統は排外伝統である。魯迅はこれらをよく知っていた。しかし、民族危機、国家危機という背景の下では、やはり技術更新と制度更新による救国の試みへの反省として思想更新による救国を試みて思想啓蒙に乗り出した。青春の客気も手伝ってか、彼は自信満々に排外伝統を持つ中国の独尊文化に西洋文化を注入しようとし、「個人」を徹底的に抹殺しようとする「集団」に「個人」を主張した。しかし、以後の論述で分かるように、彼のこのような思想的・文学的営為はすべて徒労に終わり、悲劇がついに現れてきた。この意味では、魯迅の悲劇は、外来文化を借りて排外伝統を持つ中国の独尊文化を改造しようとして改造できなかった悲劇だと言えよう。ここまで書くと、第一節で述べた洋務運動と戊戌維新運動が持つあいまいな意味がはっきりしてきたであろう。5000年の歴史を持つ中国の独尊文化の前では、いかなる外来文化による改造も徒労である--これは、私の耳に悲痛に響いている。
西洋文化からどんなにひどい打撃を受けても痩我慢しているという現実は、悲劇的である。このような悲劇的な現実に対する魯迅の挑戦も、悲劇的である。第一節と本節の論述によって、中国文化の悲劇性や魯迅の挑戦の悲劇性が明らかになった。以後の論述では、魯迅の悲劇的な挑戦過程を確認することにしよう。
漢学と漱石の悲劇の発生
1883年9月漢学塾二松学舎をやめ、英語専門の受験塾成立学舎に入った漱石は、翌年の9月大学予備門(1886年第一高等学校と改祢)に入学した。しかし、彼は真面目に勉強しようと思わなかったらしく、1886年ついに留級してしまった。もちろん、腹膜炎を患って進級試験を受けられなかったのが一原因であるが、平素の成績が悪かったのは主な原因であろう。もし更に深く彼の留級の原因を追究するとすれば、私は漢学への心からの傾倒を指摘したい。1885年--留級の前年、漱石は漢文散文「観菊花偶記」を書いた。「都下有養菊者、至秋造菊花偶、傍其門招客。余嘗往観焉。雲鬟翠黛、豊頬翠歯、宛然一美姫也、而衣帯皆以菊成焉」(句読点自注)--これはその冒頭であるが、漢文文法の正確さ、修辞の豊かさだけからも、漱石の漢文への傾倒ぶりが明らかになる。それほど漢学に傾倒したので、西洋風の学校の授業に興味を感ぜず、平素の成績が悪かったのは、むしろ必然的なことであろう。
「観菊花偶記」を読むと、漱石の漢学力に嘆服するが、それと同時に、中国明初の官僚文学者劉基の名文「売柑者言」と清末の官僚文学者■自珍の名文「病梅館記」が思い出される。「売柑者言」では、「坐高堂、騎大馬、酔醇■而飫肥鮮」といったような「欺きを為す者」は、「其の外を金玉にし、其の中を敗絮にす」と見られており、「観菊花偶記」では、「方利禄在前、爵位在後、輒改其所操、持不速之恐」といったような「其の性を曲げ、其の天を屈する者」は、「金冤にして繍服と雖も、其の神は則ち亡ぶ」と見られている。これから明らかなように、劉基と漱石は同質の言葉をもって同様な考え方を述べている。■自珍は「病梅館記」の中で「曲・欹・疏」を美とする「文人画士」を攻撃し、「縦之順之」「復之全之」を主張しており、漱石は「観菊花偶記」の中で■自珍と同じく、「其の性を曲げ、其の天を屈する」ことを美とする「輩」を攻撃し、「順性全天」を主張している。以上の共通点を見ると、漱石は「観菊花偶記」を書く前に、「売柑者言」と「病梅館記」を読み、しかも両篇の精神--時流抵抗に深く共鳴したように思われる。1885年当時の漱石は、まだ劉基と■自珍が持っているような啓蒙意識を持っておらず、ちょうど独立自尊という一般民衆を超える絶対的・啓蒙的な立場を築き上げている時期にいたのであった。
1889年9月9日に脱稿された「木屑録」は立派な漢詩で結んでいるが、その漢詩の頷聯は「時輩を譏らんが為に時勢に背き/古人を罵らんと欲して古書に対す」である。これを第二節に引用した福沢諭吉の描述と考え合わせると明らかなように、「時輩」は西洋心酔者を指し、「時勢」は「文明開化」の時代潮流を指す。漱石は西洋心酔者を批判するために故意に「文明開化」の時代潮流に背き、独立自尊の立場に立ったのであった。一般的には、漢学は中国の古典的学問を指す。しかし、江戸時代や明治初期の日本にとって、漢学は決して外国の学問ではなく、まさしく本邦の伝統的な学問であった。文辞的にも思想的にも漢学を自由に運用している漱石の頭の中では、漢学はまさしく本邦の伝統的な学問であった。そして、彼が「文明開化」の時代潮流に出逢うと、漢学はついに彼の精神的支柱となった。
1890年漱石は東京帝国大学文科大学英文科に入学した。それから先の10年間、彼は「左国史漢」の文学観で英文学を勉強したり、英語を教えたり、俳句を熱心に作ったりする一方、漢詩をも盛んに創作していた。「痴漢の悟道難事に非ず/吾れは是れ宛然不動尊」や「心は鉄牛に似て鞭うてども動かず/憂いは梅雨の如く去って還た来たる」といったような詩句を読むと察せられるように、漱石はずっと静本位の漢学的思考をもって「文明開化」時代の動的情勢に対抗していた。1900年漱石は文部省の派遣でイギリスヘ留学に行った。従来の漱石研究には、漱石のイギリス留学を重視し、漢学塾二松学舎入学を軽視する傾向があるようであるが、両者はいずれも重要で、イギリス留学は二松学舎に入った後立てた漢学的な独立自尊の立場を若干修正した上で更に強化した点でこそ重大な意義を持っている、と私は考えている。漱石はイギリス留学を通して、「私が独立した一個の日本人であって、決して英国人の奴婢ではない」(「私の個人主義」)ことに気が付き、「自己本位」の立場を捜し当てたが、「そう西洋人振らないで好いという動かすべからざる理由を立派に彼等の前に投げ出して見たら」や、「私は多年の間懊悩した結果漸く自分の鶴嘴をがらりと鉱脈に掘り当てたような気がしたのです」(同前)といったような言葉から察せられるように、今まで漢学によって築かれた静的な独立自尊の立場が、「自己本位」の立場の素地となっている。「自己本位」の立場が漢学的な独立自尊の立場の不足を補ってそれに個人に基づく現実抵抗の合理性を充分加味したので、漱石は「大変強くなったのであった。
その後、漱石は「自己本位」の立場に立って「文明開化」の激流に抵抗しつづけた。最初は著書で、その後は創作で抵抗したのであるが、社会的地位の変化によって、漢学の教養に潜んでいる啓蒙意識が甦ってきて、「維新の志士の如き烈しい精神で」日本民衆の思想啓蒙に乗り出し、「西洋の理想に圧倒せられて眼がくらむ日本人はある程度に於て皆奴隷である」(「野分」第11節)と指摘した。漱石は魯迅と同じく自国の民衆に奴隷性を見出している。それだけでなく、奴隷性根治の良薬として個性とも言い換えられる「自己」をも提供し、「文明開化」の発展過程を考慮に入れて、「現代の青年たる諸君は大に自己を発展して中期をかたちづくらねばならぬ」(同前)と主張している。漱石と魯迅はいずれも個性を主張している。しかし、二人の個性主張の背景には、大きな違いがある。魯迅の個性主張は中国の集団的中華文化に対抗するためであり、西洋との対抗過程の中でどんなにひどい打撃を受けてもじっと我慢して転向しようとしない「静」的な中国人に、個性の目覚めによる「動」を要求している。これに反して、漱石の個性主張は「文明開化」の激流に対抗するためであり、西洋人の「尻馬にばかり乗って空騒ぎをしている」「動」的な日本人に、個性に支えられて西洋文化の波に流されない「静」を要求している。とうに「不動尊」になった漱石は日本民衆に「不動尊」になろうと呼び掛けている。しかし、以後の漱石文学の展開から察せられるように、漱石の悲劇はまさしくこの「静」を主張することによって始まったのである。
第二節で述べたが、17世紀初頭まで、日本はずっと外来文化を積極的に導入し、融合させていたが、17世紀中葉になると、中華意識を核心とする漢学が官学の地位を得たため、外来文化を排斥するようになった。角度を変えて言えば、それまでずっと動いている日本が静かになった。この現象は明らかに日本文化の本質と全く異なった漢学の排他性や静本位を反映している。日本は中華意識に酔って260年間自己陶酔していたが、19世紀前半の西洋文化の衝撃によってついにわれに返った。つまりまた「静」から「動」にもどり、外来文化を積極的に導入し、融合させるようになった。こうして見れば、日本の文化伝統は中国の文化伝統と全く異なり、排外伝統ではなく、納外伝統である。明治初期の「文明開化」が日本全国でうわすべりの風潮を引き起こしたのは残念であるが、日本文化の納外伝統を全面的に回復させる点では意義が大きい。とはいえ、江戸260年間の漢学伝統に育ってきた当時の日本知識人にとって、日本文化の納外伝統はあたかも嘘のようであり、うわすべりの風潮を引き起こした「文明開化」は、「是を忍ぶ可くんば、敦をか忍ぶ可からざらん」といったような最悪の現象であった。言語表現から思考様式まで徹底的に漢学の薫陶を受けた漱石は、つまりそのような認識を持った一知識人であった。それで、西洋人の「尻馬にばかり乗って空騒ぎをし」ないでくれと言って民衆の思想啓蒙に乗り出した。その憂患意識も手伝ってか、彼は自信満々に自尊性を具えない納外的な日本文化伝統に自尊性を注入しようとし、「動」本位の日本現実に「静」を主張した。しかし、以後の論述で分かるように、彼のこのような思想的・文学的営為はすべて徒労に終わり、悲劇がついに現れてきた。この意味では、漱石の悲劇は、自尊性を具えない納外的な日本文化伝統に自尊性を注入し、「動」本位の日本現実を「静」本位にしようとしてできなかった悲劇だと言えよう。
目がくらむほど西洋文化の波に翻弄されているといったような現実は、悲劇的である。このような悲劇的な現実に対する漱石の挑戦も、悲劇的である。第二節と本節の論述によって、日本文化の悲劇性や漱石の挑戦の悲劇性が明らかになった。以後の論述では、漱石の悲劇的な挑戦過程を確認することにしよう。
魯迅文学の中の悲劇軌跡
1918年魯迅はついに創作のペンを握ってきて短編小説「狂人日記」を書いた。しかも、その後一瀉千里の勢いで小説や評論をどんどん書き出し、不朽の魯迅文学を創造した。ほかの拙稿では何回も述べたが、作品の発表時間や基本構造から、魯迅文学は次のような三期に大別されるように思われる。
初期‥「吶喊」集やその前後の評論など
中期‥「彷徨」集、「野草」集、「朝花夕拾」集やその前後の評論など
晩期‥「故事新編」集やその前後の評論など
中国の文化的悲劇に対する魯迅の悲劇的な挑戦過程は、魯迅文学のこのような三期によって段階的に明記されているが、次にこのような三期に従って魯迅の悲劇的な挑戦過程を確かめてみよう。
1922年12月魯迅は「吶喊・自序」を書き、それまでの自分の人生を顧みながら、「吶喊」の創作過程を語っている。その「自序」は回想の方式をとっているので、確かに先学や同学たちが指摘しているように、その中にはフィクションがかなり含まれている。しかし、フィクションを還元した上でそれを読めば、やはり書迅の文学原点を明らかにすることができる。「吶喊・自序」の中で、魯迅は金心異と鉄の部屋を壊す希望があるかどうかの話を交わした後、こう言い続けている。
そうだ、私にはわたしなりの確信があるが、しかし希望ということになれば、抹殺はできない。希望とは将来にかかわるものであり、ないにちがいないという私の証明で、あり得るという彼の意見をときふせることはできない。そこで、私もとうとう何か書くことを承知した。これが最初の一篇「狂人日記」である。
ここで注意すべきことは、「確信」という単語である。将来にかかわる希望を否定することができない、しかし、魯迅は将来にも希望がないと「確信」している。この「確信」を「吶喊」創作までの魯迅の寂寞な蟄伏生活と結び付けて見れば、確かに竹内好氏が著名な「魯迅論」(未来社)の中で指摘しているように、魯迅の文学原点は「無」だと考えられる。しかし、「吶喊」に収められている作品に当たってみれば、そうではないと痛感せざるを得なくなる。小説の結びはほとんど非希望的である。「薬」の結びは希望的であるが、魯迅自身も、それは「曲筆」だと告白している。小説の非希望的な結びから、魯迅は「吶喊」を創作する前すでに希望がないと「確信」していたと言えないことはない。しかしよく吟味すると察せられるように、それら非希望的な結びは無を意味しておらず、絶望を意味している。これは当時の魯迅が希望がないと「確信」していたと同時に「絶望」があると「確信」していたことを客観的に反映している。影があれば光がある。恨みがあれば愛がある。これと同じく、絶望があれば希望がある。したがってこの意味では、「吶喊」を創作する前、魯迅はかなり失望したにもかかわらず、希望をなお心の奥底に潜めていたと言えよう。中国語「寂寞」は日本語「寂しい」と違って、ほしいものが得られないために感じた哀しみではなく、もとよりあるものが無くなったために感じた哀しみである。この点からも察せられるように、「寂寞」を痛感している魯迅は、もとよりある希望が無くなったために哀しんでいる魯迅であり、無くなった希望に回帰の希望を持った魯迅でもある。魯迅は希望のために「吶喊」を創作した、しかしその結果、絶望を確認して希望がないと「確信」するようになった。このように見てくると、魯迅は無希望の「確信」を、「吶喊」創作前からずっと持っていたのではなく、「吶喊」創作後になってはじめて持つようになったのである。「吶喊・自序」には多くのフィクションがあるが、無希望の「確信」を語るその段階は、最大のフィクションだと私は考えている。以上の分析から明らかなように、初期魯迅文学は、動機的には希望を実現するための文学、民衆を啓蒙するための文学であり、結果的には絶望の「確信」を持つようになる文学である。
「吶喊」集の第一作は「狂人日記」である。その中の主人公「私」は先覚的知識人であるが、趙貴翁やその兄を代表とする支配者と彼らに抑圧されたり、搾取されたりした民衆--村人のいずれにも「気違い」と見なされた。主人公の目から見れば、支配者と民衆は、精神構造や行動では同じ輩である。これは民衆の本質とは何かという問題を深刻に提起している。「吶喊」集の中の代表作「阿Q正伝」はこの問題をまともに引き受けて典型的に追究している。未荘の支配者趙旦那などは革命党に反対していたが、彼らに抑圧され、搾取された主人公阿Qも「どこから得たものか、革命党とは謀反だ、謀反は自分には具合の悪いものだ、という意見を持ってい」た。似せ毛唐は革命党に入ろうとして申込に来た阿Qを木棒で追い払ったが、阿Qは辨髪を頭の上に巻き上げて革命党になろうとした小Dを見ると、「すぐにでも彼をとっつかまえて、竹の箸をねじ折り、辨髪を垂らさせ、さらにピンタの五つ六つもくれてやろうと思った」。趙旦那などは現実の未荘でのさばっていたが、阿Qは夢の未荘で、趙旦那や小Dを殺したり、?家の宝物を奪い取ったり、適当ななぐさめ対象を物色したりする夢を見ていた。阿Qは心の奥底では趙旦那などに対立を感じている。しかし精神構造や行動又は行動意志では、趙旦那などと全く同様である。にもかかわらず、彼の革命党に関する意見が「どこから得たものか」知らないという表現から察せられるように、この同様は決して彼が趙旦那などと同じ意見を持っていることを意味しない。阿Qは真の自己を持っておらず、その思想感情は全く趙旦那などの思想感情であり・その行動又は行動意志は全く趙旦那などの規範をそのまま規範としたものである。彼はすでに趙旦那文化--儒教文化によって傀儡化されてしまった。魯迅は「灯下漫筆」の中で、「中国人はこれまで「人」たるの値打ちをかちとったことがない、せいぜいで奴隷であった」と指摘しているが、阿Qはつまり奴隷的中国人の典型であろう。最後に、阿Qは「凶悪なくせにびくびくした」狼の目より「もっと恐ろしい」「鈍いくせに尖がった」民衆の目の前で殺された。彼はかつてそのような目で革命党が殺されたのを見たが、今度は、他の人はそのような目で彼が殺されたのを見た。一人の阿Qが消えたが、たくさんの阿Qは現れてきた。「阿Q正伝」のこのような結びは意味深い。もし1918年「狂人日記」を創作した時、魯迅はまだ狂人の認識としてしか中国の歴史と現実の「食人」本質を指摘できなかったとすれば、3年の後、彼はついにリアリスティックなイメージでそれを円満に表現できたと言えよう。中国の民衆はみな「人」又は個性を持っていない「奴隷」である。そして、互いに奴隷と奴隷主のダイナミックな転換関係に絡みあっており、少しも奴隷意識を持っていない。このような奴隷的民衆は啓蒙者から注入されようとした「人」又は個性を毒薬と見、啓蒙者に「謀反だ」と言って飛び掛かって啓蒙者を食ってしまう。魯迅はこの点を見抜くと、絶望に陥った。「狂人日記」を創作した時、まだ「子供を救え」と呼びかけられたが、3年後の現在になってすでにそんな呼びかけをすることができなくなった。「故郷」はその証拠である。
朦朧としたなかで、目の前に海岸一面の緑の砂地がひろがった。その上の深い藍色の空には金色の円い月がかかっている。私は思った。希望とは元来あるとも言えないし、ないとも言えぬものだ。それはちょうど地上の道のようなものだ。じつは地上にはもともと道はない、歩くひとが多くなれば、道もできるのだ。
これは「故郷」の最後の段落である。これを読むだけでは、魯迅は最後にはもう一度希望を持つようになったといったような結論を引き出せる。しかし、その前に描かれた現実中の故郷の希望拒否性質や、魯迅・閏土と宏児・水生の対比構図や、昔の故郷にまつわっている美しい情景の漸次消失などと考え合わせると明らかなように、事実、魯迅は諦念をもってこの段落を書いたのである。希望は朦朧中の美しい情景であり、「信じれば則ちあり、信じなければ則ちない」といったようなものである。中国の社会底辺はあたかも淀んだ淵のようで、変化を求める波がなかなか立ってこない。水生は閏土の奴隷的人生を繰り返すだろう。水生の子供はまた彼の奴隷的人生を繰り返すだろう。この点を見ても、中国人の静本位の人生が明らかになる。魯迅は大人である阿Qや閏土の現在に絶望しただけではなく、子供である宏児や水生の未来にも絶望した。
魯迅の絶望の「確信」が上述のように出来たのである。これは、中国の文化的悲劇に対する魯迅の挑戦悲劇の開始を意味する。奴隷的な国民性を改造しようという初志を抱いて文学啓蒙に乗り出した魯迅は、「狂人日記」をもって勇敢に吶喊し始めた、しかし吶喊しているうちに声の性質が次第に変わり、ついに絶望的に響くようになった。最後に、魯迅は「吶喊」をやめて、「野草」が遍く生えている荒野を「彷徨」せざるを得なくなった。魯迅は初志を捨て始めた。この意味では、その挑戦過程のスタートは、悲劇的であった。
「野草・行人」の中では、黒い中年男が遠くの方から歩いてきた。前方は老人には荒れ果てた基場であり、娘には百合が咲き誇っている花園である。その墓場のようにも花園のようにも見える処を通り抜けると、老人にも娘にも「わからない」処である。黒い中年男は「いつも先の方から声がして、わたしをせき立て、わたしに呼びかけ、わたしを休ませてくれないのです」と言って基場にも花園にも足をすくわれず、怪我をした足の痛みを忍びながら老人にも娘にも「わからない」処へ向かって「勢いよく」歩いていった。このようなイメージが、「野草」の中にはまだたくさんある。「秋夜」中の小さな薄紅色の花の明るい夢にも落ち葉の暗い夢にも気を奪われずに、「異様で高い空を声もなく鉄のようにつき刺し」ているなつめの木、「影の告別」中の「天国」「黄金世界」や「地獄」を同時に否定して、第三の地「無」へ行きたがっている影、「希望」中の「絶望が虚妄であるのは、希望とまったく同様だ」と悟った「わたし」、いずれもそうである。ずっと前から希望はないと思った。絶望はあると「確信」していたが、今となってみれば、やはり希望と同じくないものである。確実に残っているのは無だけである。前述したが、魯迅は「吶喊」を創作した後、希望を徹底的に否定し、絶望の「確信」を得た。しかし、中期魯迅文学の代表作の一つ「野草」に至ると、また絶望を徹底的に否定して、「無」へ近付いていった。言い換えれば、野草が遍く生えている荒野を彷徨しているうちに、野草さえも生えていない処--無を発見した。「去れ、野草よ、わたしの題辞と共に」と言っている魯迅は、何も残っていない無の立場に立とうとしているでなはいか。
無といえば、仏教の「色は則ち空、空は則ち色」といったような空無や荘子の「絶聖棄智」「万物斉同」といったような虚無や西洋の瞬間的、退廃的なニヒリズムなどが思い出されるが、魯迅の目指した無はそれらとかなり異なっている。1925年5月--「彷徨」「野草」の創作期、魯迅は愛弟子許広平に、「あなたの反抗は光明の到来を希うからでしょう。かならずそうだとおもいます。だが、わたしの反抗は暗黒を擾乱するにすぎません」と言っているが、これを「野草」に現れている無のイメージと考え合わせると明らかなように、魯迅の目指した無は仏教の空無や荘子の虚無のような静的な無ではなく、非常に行動的である、西洋のニヒリズムのような瞬間的、退廃的な無ではなく、非常に強靱で自粛的である。魯迅の目指した無は明るい希望にもつながっていないし、暗い絶望にもつながっていない。明るい希望と暗い絶望の境界線に位置している。そこは、影があれば光があるという連鎖関係を超越していないけれども、それに影饗されずに済んだぎりぎりの点である。
魯迅は独自な無の立場に近付いていったが、これは彼自身にはいったい何を意味しているのか。「野草・墓碑銘」を読むと、無の立場に近付いていくのはどんなにこわいことであるかがはっきりと分かる。無になりつつある死体は内蔵がすでになくなり、「顔には哀楽の表情がまったくなく」なった。無の立場にたつためには、心臓、肝臓、肺臓など、つまり希望、理想、失望、絶望、反省ないし良心まで何もかも捨てなければならない。暗黒な現実に対して、無表情をもって対処しなければならない。ここに辿り着くと、啓蒙者としての魯迅は死を選ばざるを得なくなり、悲痛きわまる小説「孤独者」を創作した。「孤独者」の主人公鋭連没は魯迅の分身である。それまで、魯迅は「しなければならぬことがあった」だけに、「すすんで乞食をし、飢えと寒さに耐え、寂寞に耐え、苦労に耐えてきた」「滅亡は欲しなかった」。しかし現在、無の立場に近付いていく魯迅は「しなければならぬこと」を全部放棄したので、他人に生存の意義を認めてもらえないし、自分自身も「生きつづける資格がないように思え」「滅亡」を欲しくなった。魯迅は「心臓を快りてみずから食ら」っているような苦痛を感じながら無の立場に近付いていく一方、「ふり向きも」できないほどの恐怖を抱きながら自分の未来像を凝視している。魏連殳は軍閥に身を委ねて捨て鉢に暮らした結果、ついに金ピカの肩章がついている軍服を着せられたまま死んでしまった。このような装束を見れば、死んだ人は生前非常に活躍していて大きな功績を立てたように思われる。しかし、魏連殳自身は生前何をしたかがよく分かる。
彼はぶざまな装束に包まれて、眼をつむり、口を閉じて、静かに横たわっていた。口もとには、この変てこな屍を冷笑しているかのように、氷のような微笑がたたえられていた。
ここには、魯迅は明らかに今後の自分の死を見出しているのではないかと思われる。死の覚悟をしてまで無の立場に近付いていく魯迅は、ついに人生の皮肉な終点を見届けるようになった。「孤独者」中の語り手「私」は魏連殳の家を出て、「冷たい光をそそいでいる」月の下で歩いていて、「手傷を負った狼が、深夜の荒野に吠えるように、痛苦のうちに憤りと悲しみのまじった声」が聞こえてきた。すると、「私の心がほっと軽くなった。私は濡れた石畳の上を、月光を浴びながら、心静かに歩いていた」。魯迅はついに文学的・思想的に自殺した。彼は20年来ずっと零落な祖国と奴隷的な民衆に熱い涙をそそいだ自分自身を「憤りと悲しみのまじった」痛苦の中で殺して、「心静かに」無の立場へ歩いていった。「乞食をし、飢えと寒さに耐え、寂寞に耐え、苦労に耐え」なくてもいいという点では、魯迅は確かに「よくなった」。それで、彼の心が本当に「ほっと軽くなった」であろう。しかし、彼は「すでにほんとうに敗北した」。
魯迅は初期魯迅文学と別れた時、絶望の「確信」を得たように、中期魯迅文学と別れた時、「無」を得た。そして、晩期魯迅文学の中では、「無」を武器として本格的に「暗黒を擾乱する」ようになった。1927年4月魯迅は「鋳剣」(原題は「眉間尺」)を創作したが、それは魯迅の無による暗黒擾乱を確かめる上で非常に重大な意義を持っている。黒い中年男は仇討ちに長けているが、救済意識を持っていない。眉間尺の剣と首を借りるという条件と「おれはもうおれ自身を憎んでいる」という告白から察せられるように、彼が望んだのは同時破滅つまり「無」であった。1927年9月魯迅は自分がまた「子供を救う」ために「出陣するのを切に望んでいる」有恒氏に、「とにかく、かりにいままたあの八方収まる「子供を救え」みたいな意見を出したところで、わたし自身でさえうつろに感じられてしまいます」(「有恒先生に答える」)と答えているが、これと結び付けて「鋳剣」を読むと、黒い中年男の仇討ちは暗黒一掃の明るい未来を志向しておらず、暗黒擾乱の現在を志向していることが一層明らかになる。眉間尺の首が入っている金鼎の前で、黒い中年男は「双手を天に伸ばし、目を無物に向けて、舞っていた、そして、にわかにかんだかい声で」意味不明の歌を歌い出した。「歌声につれて水が鼎の口に小山のように盛りあがった。尖った頂から鼎の底にかけてグルグル渦を巻きながら。」これは暗黒擾乱のプロローグである。その後、王は金鼎の中をのぞいているうちに、黒い中年男に首を切りおろされた。すると、眉間尺の首と王の首が金鼎の中で激しく戦った。そして、眉間尺の首が王の首に食い付かれ、動きがとれなくなった時、黒い中年男は自分で自分の首を金鼎の中へ切りおろして、眉間尺の首を援助した。二人の猛烈な攻撃の下で、王の首は「ついに目はゆがみ鼻はくずれ、顔じゅう鱗のように傷ついて、鼎の底をころげまわった」。金鼎は王によって支配された暗黒な世界だとすれば、以上の描写によって現れたのは、全く暗黒扱乱の世界だと言えよう。最後に、王の首は「出る息ばかりで入る息がなくなった」。黒い中年男と眉間尺の首は「四つの眼で互いに微笑み交わし、そのまま眼蓋を閉じて仰向けざまに底へ沈んでいった」。魯迅はついに独自な道の終点「無」に辿り着いた。
魯迅文学は精神的に死んだ中国人を甦らせようとした処に始まっており、具体的に死んだ中国人を甦らせた小説「起死」に終わっている。そして非常に皮肉なことには、魯迅はそれを通して、初志貫徹の不毛を表現している。主人公荘子は楚国へ行く途中、されこうべを一つ見つけた、そしてかわいそうに思って司命大神にされこうべを甦らせた。しかし、されこうべは甦ると、すぐ荘子は自分の身回り品を奪い取ったと思い込んで返せと要求した。荘子は慌てて「まあ聞いてくれ、そもそもお前はそれされこうべだったのだ。(中略)考えてみるがいい、こんなに長く死んでいて、着物などの残ってるわけがなかろうじゃないか」と解釈したが、甦ったされこうべは怒り出して「ちきしょう、ふざけくさって。返さねえなら、ぶちのめしてくれる」と言って、片手に拳骨をふりあげて、片手に荘子をつかんだ。荘子はもがきながら笛を吹いて巡査に救いを求めた。啓蒙者は本当に啓蒙対象を啓蒙することに成功すると、却って啓蒙対象によって窮地に追い込まれ、ひいては殺されてしまうことになる。敗残的啓蒙者のイメージがついに現れてきた。初期魯迅文学中の小説「薬」と比べると一層明らかなように、荘子という敗残的イメージには、啓蒙者魯迅自身の敗北感が滲み出ている。魯迅文学は啓蒙に始まって、啓蒙放棄に終わった。これは「無」に辿り着いた晩期の魯迅自身にとっては、別に悲哀ではなかったであろう。しかし、読者にとっては、まさしく悲哀そのものである。
魯迅はこの世を去る一年ほど前に小説「理水」を創作した。それを読むと、まず初期魯迅文学中の「阿Q正伝」が思い出される。中国人の奴隷的な国民性を改造するのは、魯迅文学を貰く主要テーマであるが、「理水」を「阿Q正伝」と比べて吟味すると、その主要テーマの貫徹過程中に魯迅の態度が根本的に変わったことが明らかになる。下層民の代表は「お前たちの食しておるものの見本を一式選んでくるがよかろう」という言い付けを拝領して、「恐れ入り、かつ上機嫌でひき退った」。そして、
さっそく旦那さまのいいつけを、岸や樹上や筏の上の住民に伝え、さらに大きな声で念を押した。「これはおかみに差し出すもんだでな、きれぇに、てえねぇに、体裁ようくこしらえにゃなんめ、!‥‥‥」住民たちはたちまち蜂の巣をつついたようになり、葉を洗うやら、樹皮を刻むやら青苔をすくうやら、いっせいにてんてこ舞を演じた。
下層民およびその代表は阿Qより一層リアリスティックな滑稽さと醜悪さを見せている。「阿Q正伝」を読むと、奴隷の典型阿Qに対する魯迅の抑え難い憤怒とその裏に隠されている愛情をつくづく感じられるが、「理水」を読んでは、下層民およびその代表に対する魯迅の冷酷な蔑視と嘲笑しか感じられない。晩期になると、魯迅の「その不幸を哀れみ、その不争に怒る」といったような姿が完全に消えてしまい、奴隷的な国民性を改造するという主要テーマは、ただ無力に延々として滑走しているだけであった。
もちろん、「理水」の中では、奴隷的な下層民、奴隷主である旦那様、旦那様の御用文化人が登場して滑稽なてんてこ舞いを演じているばかりでなく、彼らの対立像も登場している。つまり禹をはじめとする黒い人たちである。禹の言行を見ると、魯迅が日本留学時代に望んだニ―チェの「超人」に近い「英傑」はついに現れたかのように見えるが、よく吟味すると、異様な感じがする。魯迅がかつて望んだ「英傑」は、現体制を超越してそれを徹底的に否定した存在であるが、禹は現体制の中の水利大臣であり、現体制を徹底的に否定しようとはしない。魯迅がかつて望んだ「英傑」は、周囲の称賛嘲罵を度外視した孤高な個人であるが、禹は黒い集団のリーダーであり、彼の「衆人の騒がしい議論」と違った決定は、「ひとりおのれ自身の見識」ではなく、全く黒い「同僚諸君」の賛成によって支えられたものである。魯迅がかつて望んだ「英傑」は、民衆の精神的成長に関心を持ち、奴隷的な国民性の改造に全力を注がなければならないが、禹は民衆の日常生活にしか関心を持たず、実務的である。要するに、禹と魯迅がかつ望んだ「英傑」は表面的には似ているけれども、根本的には異なっている。もちろん、禹というイメージの創出は、初期魯迅文学と中期魯迅文学における無力な批判的立場への修正だと受け取れないでもない。しかし、禹をはじめとする黒い集団に関する描写「黒く痩せた、乞食のようなものどもがじっとして、ものもいわず、笑いもせず、鉄で鋳たように、並んでいた」をよく吟味すると、儒教的な君子が目の前に浮かんでくる。「論語・学而第一」には、「子曰く‥君子は食飽くことを求むること無く、居安きことを求むること無し。事に敏にして言に慎み、有道に就きて正す。学を好むと謂うべきのみ」と書いてある。魯迅の描いた肯定的な作中人物が個人主義的な反逆猛士から儒教的な正人君子に変容してきたのは、厳然たる事実であろう。
これには、まず商家が大恐慌を来たした。とはいえ、幸い禹さまも、帰京後は態度が少し変わって、飲食は質素でも、祭租や法事の際には、ぜいたくにやった。衣服には無頓着でも、朝廷に上ったり人を訪ねたりするときの身形りは、立派に心掛けた。だから市況にはさほどの影響もなく、やがて商人たちも、禹さまの行いはじっさい学ばにゃならぬ、泉さまの新法もなかなか悪かない、と考えなおした。そしてついに、百獣みな跳ねくるい、鳳凰さえ景気をつけに飛んでくるほど、太平になった。
これは「理水」の結末である。このように賑やかで伝統的なハッピーエンドを読むと、禹は一応伝統的な集団に復帰したことが明らかになる。魯迅は初期文学と中期文学の中で伝統的な集団を徹底的に否定し、太平を断固として拒絶していたが、晩期文学の中では、自ら伝統的な集団の価値を認め、太平の世界を描き出した。彼は「無」を武器として暗黒を擾乱しているうちに、いつの間にか「孤独者」中の魏連殳のように、「以前憎み、反対したすべてのことを実行し」「以前崇拝し、主張したすべてのことを拒否した」。しかも、魏連殳と同じく悲劇的な一生を終えた。
魯迅は全力をあげて中国民衆の奴隷性を改造しようと努力したが、希望段階、絶望段階、「無」の段階を経た後、自分の努力の不毛が分かり、諦めてしまった。文学による民衆啓蒙はついに文学による暗黒擾乱に変わった、文学による「いたずら」に変わった。魯迅は自信満々に西洋文化の基本要素「個人」をもって中国儒教文化の基本要素「集団一と対抗したが、さんざんに負けてしまい、最後に、彼自身も「集団」に呑み込まれてしまった。要するに、魯迅は外来文化を借りて排外伝統を持つ中国の独尊文化を一生懸命改造してみたが、悲しいことには、徒労に終わった。魯迅は不本意ながらこのような悲劇を体現してくれた。晩期魯迅文学は多くの作家の晩期文学、例えば、後で詳述する晩期漱石文学と違って、文字どおり晩期又は終焉の雰囲気を漂わせている。たとえ魯迅が1936年10月19日にこの世を去らなかったとしても、魯迅文学はやはり現在のままで、新しい展開が全く不可能だろうと思われる。
漱石文学の中の悲劇軌跡
1905年「自己本位」の立場を貰徹し、喧騒な「文明開化」の激流に抵抗した漱石は著述や講義だけでは満足することができなくなり、ついに「吾輩は猫である」や「倫敦塔」などの小説を創作しはじめた。しかも、その後一瀉千里の勢いで小説や評論をどんどん書き出し、不朽の漱石文学を創造した。ほかの拙稿で何回も述べたが、作品の発表時間や基本構造から、漱石文学は次のような三期に大別されるように思われる。
初期‥「吾輩は猫である」から「虞美人草」までの長篇・中篇・短篇小説やその前後の評論など
中期‥「抗夫」から「心」までの長篇小説やその前後の小品、評論など
晩期‥「道草」「明暗」やその間の評論など
日本の文化的悲劇に対する漱石の悲劇的な挑戦過程は、漱石文学のこのような三期によって段階的に明記されているが、次にこのような三期に従って漱石の悲劇的な挑戦過程を確かめてみよう。
「吾輩は猫である」は漱石の最初の長篇小説である。金力や権力の圧迫に抵抗し、20世紀文明--西洋近代文明を疑い、民衆の奴隷性を批判し、知識人の自己凝視や自己反省などを表現する面では、確かに漱石文学全体の始点と言える。しかし、目撃者「猫」に苦沙弥集団と金田集団を超越的に描写させ、苦沙弥夫人と雪江に苦沙弥を批判させ、「猫」を自然随順的に死なせる面では、また明らかに中晩期漱石文学に通じている。つまり、「吾輩は猫である」はいろいろな可能性を含んでいる原始的混沌である。
「坊っちゃん」は「吾輩は猫である」の次作である。それは漱石文学の原始的混沌状態を打破して、一定の方向性を示してきた。
いくら人間が卑怯だって、こんなに卑怯に出来るものじゃない。まるで豚だ。(中略)世の中に正直が勝たないで、外に勝つものがあるか、考えて見ろ。今夜中に勝てなければ、あした勝つ。あした勝てなければ、あさって勝つ。あさって勝てなければ、下宿から弁当をとり寄せて勝つ迄ここに居る。(第四節)
坊っちゃんは学生との戦いを正直対卑怯の戦いと見ており、しかも正直という道徳通念の絶対性又は必勝性を完全に信頼している。坊っちゃんの勤めている中学校では、赤シャツ党がのさばっているが、最後に、坊っちゃんは山嵐と一緒に正義の名義で赤シャツと野だいこに鉄拳制裁を加え、そして、彼らが勇気を出して報復に来られなかったほど徹底的な勝利を収めてその「不浄の地を離れた」。小説「坊っちゃん」は確かに正直や正義の旗を鮮明に打ち出している。しかし、主人公坊っちゃんの行動はまだ胸中にたまった鬱憤を晴らすといったような私的な素朴さを持っており、20世紀文明の毒が氾濫している現実社会を全面的に再構成するには、まだ程遠い。言うまでもなく、このような結果は漱石を満足させることができなかった。すると、その後の各作品は「坊っちゃん」の指し示した方向に沿って漸次的に前進した。
「草枕」の主人公画工は、「余は画工である。(中略)社会の一員として優に他を教育すべき地位に立って居る。(中略)人情世界にあって、美しき所作は正である、義である、直である。正と義と直を行為の上に於て示すものは天下の公民の模範である」と言っているが、これからも明らかなように、画工は自分の優越性や啓蒙的地位を明確に意識しており、自分の現実抵抗に身を以て模範を示すといったような意義を与えている。彼の言う「芸術」は単なる美ではなく、正・義・直との統一体であり、彼の言う「芸術の士」は芸術家であると同時に、啓蒙者でもある。
画工は善美合一の芸術観を持っている一方、「出世間的の詩味」を追求している。ここには、大きな矛盾がある。彼の芸術観から言えば、彼の芸術は倫理的な要素を具えなければならない。しかし、彼自身は長い間これを自覚せずに絵を創作していた。それで、彼の絵がなかなか成就できなかった。「草枕」のラストシーンは意味深い。一見すると、那美が茫然としているうちに、「燐れ」がその顔に現れてきて、画工はそれを見てやっと絵を完成したように見える。しかしより根本的に見ると察せられるように、那美の昔の夫君が「文明の長蛇」に呑食されたからこそ、彼女の顔に「憐れ」が現れてきたのであり、このような内容を持つ「燐れ」が現れてきたからこそ、画工の絵が成就したのである。「草枕」の世界はついに道徳通念正直・正義によって統括され、20世紀文明に抵抗する場合の正直・正義の必要性がついに浮き彫りにされるようになった。
「二百十日」は主として阿蘇山に登ろうとする圭さんと碌さんの対話から成っている。圭さんは啓蒙的・指導的な立場に立っているが、彼の後についてくる碌さんは正義感を持つ一般民衆の性格を持っている。阿蘇山の猛烈な煙塵を見、轟々たる爆音を聞きながら、圭さんは「頭」をもって「文明の革命」をやることを明言している。「坊っちゃん」と「草枕」はいずれも道徳通念正直・正義を重大視しているが、その延長線上にある「二百十日」はさらに一歩進めてそれらを「頭」という概念に要約している。革命の精神を涵養するために、圭さんは碌さんをつれて阿蘇山に登りに来たのであるが、この点からも察せられるように、「二百十日」はまさしく宣言的な作品であり、本格的な啓蒙運動、つまり20世紀文明支配下の現実社会を再構成する運動がそろそろ始まる。圭さんと碌さんは明確に「出直してくる」と約束している。そして、事実は全く彼らが約束したとおりである。「二百十日」の暴風雨が過ぎてしばらくすると、「野分」がまた吹いてきた。
「野分」は重いセンテンス「白井道也は文学者である」で始まっており、主人公白井道也は坊っちゃんのよに地方で金力と権力と戦った後、東京にもどり、「血を見ぬ修羅場」となった「文明の社会」に突入して、本格的に戦いはじめた。「あるものの方に一歩なりとも動かす」(第8節)という使命を持っている彼は、「道」に頼り文学啓蒙の方法をとって戦っているが、「道」は「公正なる人格」を維持し、創造するものだという考え方から察せられるように、「道」も実際正直・正義を基本内容としている。白井道也は「江湖雑誌」を編集し、啓蒙的な文章や長大な「人格論」を書いて「世間を警醒し」ていると同時に、また青年を相手に演説し、「西洋の理想に圧倒せられて眼がくらむ日本人はある程度に於て皆奴隷である」「諸君、理想は諸君の内部から湧き出さなければならぬ」「付焼刄は何にもならない一(第11節)と言って青年たちが「文明開化」の激流に溺れずに西洋文化を主体的に汲収し、独立した日本人となって奴隷的な現実を改造するよう期待している。本格的に文学啓蒙を始めた漱石は魯迅と同じく自国の民衆の本質に奴隷性を見出している。しかし、初期文学では、漱石は創作するごとに絶望を確認したのではなく、ずっと勝利の道を歩いていった。この意味では、初期漱石文学を創造している漱石は、初期魯迅文学を創造している魯迅より幸福であった。もっとも、漱石のこの幸福も長く続かなかった。
「虞美人草」は初期漱石文学の終篇である。そこで、甲野欽吾、宗近一をはじめとする20世紀文明の批判者と小野、藤尾をはじめとする20世紀文明の体現者が互いに対立しており、そして、「博士・法律・金・物質的」対「貧乏人・活物・人一人・徳義・好意」(平岡敏夫氏はすでにこの点を指摘)という言語上の対立から察せられるように、彼らの対立は事実「道義」と「虚栄」の対立である。「坊っちゃん」と「草枕」では、正直・正義がそのまま提示されているが、「二百十日」では、「頭」に要約され、「野分」では、「道」に要約され、「虞美人草」では、また「道義」に要約されるようになった。このような変化は、正直・正義を基準にして20世紀文明支配下のうわすべりの現実社会を再構成しようという作者漱石の恒久の願望を充分反映していると同時に、正直・正義のことをより根源的・原理的にとらえてみようという漱石の強烈な意欲をも明確に示している。
作品の中心部では、小野と藤尾の非「道義」的な恋愛関係が破滅し、小野と小夜子の「道義」的な婚約関係が婚姻関係に進展した。作品の周辺では、それと相前後して、宗近一と藤尾の非「道義」的な婚約関係が破滅し、甲野欽吾と糸子の「道義」的な婚姻関係が成立した。この点が明らかになると、「道義」はついに「虞美人草」世界を全面的に再構成し、徹底的な勝利を勝ち取ったと言えよう。「坊っちゃん」からずっとうねっていて、しかも一作ごとに大きくなってきている、道徳通念正直・正義あるいはそれらを基本内容とする概念による現実社会再構成の波が「虞美人草」に至ってついに最高蜂に盛り上がってきて、「文明の革命」は「虞美人草」に至って始めて全面的で偉大な成果を収めた。このような流れを跡づけてみると、漱石の少年時代からの夙望がついに実現したかのように見え、漱石自身はさぞ非常に愉快であったろう。しかし、作品の終わり近くに至ると、「俗界万斟の反吐皆動の一字より来る」(第一節)という考え方を捨てて、自ら行動してきた甲野欽吾の言葉「本来の無一物から出直すんだから是からさ」が、まだ深刻に響いていて忘れられない。
初期文学と別れた時、漱石はついにうわすべりの現実社会を全面的に再構成して徹底的な勝利を収めた。しかし、甲野欽吾はつまるところ静的な立場を捨てて、「本来の無一物から出直すんだから是からさ」と言っている。事実、これはすでに道徳通念正直・正義あるいはそれらを基本内容とする概念「頭」「道」「道義」によって構築された世界の脆弱さ又は無浬性を暗示している。甲野飲吾は本当に「出直」してみると、ただちにその世界に理想的欺瞞を見出した。中期漱石文学はついにこのような否定的な「出直す」行動によって幕を開けた。
中期漱石文学の第一篇は「坑夫」である。その主人公はこう言っている。
無暗に他人の不信とか不義とか変心とかを咎めて、万事万端向うがわるい様に噪ぎ立てるのは、みんな平面国に籍を置いて、活版に印刷した心を睨んで、旗を掲げる人達である。
言うまでもなく、この引用は直接「虞美人草」にかかわっている。「虞美人草」では、宗近一は「平面国」に通用する道徳通念「道義」をもって小野の変心を咎め、彼の不信や不義を批判しており、20世紀文明の批判者は「万事万端向うがわるい様に噪ぎ立て」て、20世紀文明の体現者を批判している。しかし「坑夫」に至ると、それまで批判側に立った人たちは却って批判されるようになった。実は、少し視野を広げてみると明らかなように、以上の引用はそのまま「坊っちゃん」「草枕」「二百十日」,「野分」への批判にもなる。「虞美人草」まで連戦連勝した道徳通念正直・正義あるいはそれらを基本内容とする概念が、「坑夫」ではついに「平面国」の論理、つまり立体的な事実から浮き上がった浅薄な理論として否定されてしまった。それで、「坑夫」を書き終えた漱石にとって、今後の課題はほかでもなく、現実抵抗ないし現実改造の新しい拠点の探求なのであった。
「三四郎」は「坑夫」の次作であり、その中の「大変な理論家」広田先生は、重視すべき人物である。彼を見ると、「虞美人草」中の甲野欽吾が思い出される。高踏的な立場に立って現実社会を冷静・鋭敏に批判している点では、彼らは全く同様であるが、同一陣営からの評価ではかなり異なっている。甲野欽吾が本質的な欠点がないように描かれているのに対して、広田先生は「万事頭の方が事実より発達して」いるという本質的な事実離脱性を指摘され、「愚だよ。だから始終矛盾ばかりしている」(第4節)とまで評されている。ここには、中期漱石文学の変化がはっきりと認められる。「二百十日」は「頭」をもって「文明の革命」をやろうと宣言しているが、「三四郎」に至ると、「頭」はすでに現実社会に働きかける武器でなくなり、現実社会から浮き上がった批評的・自足的な世界に変わった。武器の批判は批判の武器に変質してしまった。もちろん、「三四郎」では、広田先生の事実離脱問題は主に追究されておらず、主な問題はずっと三四郎の精神的成長にしぼられている。しかし、三四郎の精神的成長が広田先生の影響に密接にかかわっているので、広田先生の事実離脱問題は自然に次作「それから」に受け継がれた。
「それから」は主人公代助の人生転回過程を描いている。彼は明確に社会を「頭の中の世界」と「頭の外の世界」に分けた上で「頭の中の世界」に安住している。その時の理論的基礎は、「歩きたいから歩く。すると歩くのが目的になる」といったような「自己本来の活動を、自己本来の目的と」する「快楽哲学」であったが、これは初期漱石文学中の主人公たちの考え方の反動であろう。代助は特殊な「頭」に頼って「頭の外の世界」での実践の意義を否定し、「頭の中の世界」での生活に幸福の判断を下した。しかし、自分の昔の恋人でもあり、友人平岡の現在の妻でもある三千代に再会すると、次第に変わった。まずアンニュイを感じた。それから、「快楽哲学」を否定して「頭」と「心」の相克に気が付いた。彼の「頭」によれば、彼の三千代への愛は「現在的のものに過ぎな」かったが、彼の「心」--真情実感はそうではないと拒否していた。この点から、代助の現実社会と対抗する拠点「頭」の事実離脱性が明らかになる。代助は三千代への愛を自覚した。そしてこの自覚によって、「頭」と「心」の相克は「人の掟」と「天意」「意志」と「自然」という社会的・倫理的な対立として彼の意識に上った。最後に、彼は「心」に自分の存在基盤を築き上げて、平岡から三千代を奪い取った。そして、父親から経済的援助を断たれた後、真っ赤な火の海に飛び込んで、「自分の頭が焼け尽きる迄」戦おうと「決心した」。
代助は以上のように人生転回を成し遂げ、ある意味では、確かに「虞美人草」中の甲野欽吾の言っているように本当に「本来の無一物から出直」してきた。こうしてみると、まず彼の目に入ったのは、やはり20世紀文明支配下の現実社会の軽薄さと暗黒さであった。そこで、代助は静止的・傍観的な「頭の中の世界」を立てて住み込み、「頭」を拠点として静的に暗黒な現実社会と対抗するようになった。しかしそうしているうちに、次第に自分の拠点「頭」に事実離脱性を見出し、「頭の中の世界」に理想的欺腺を見出した。この点に気が付くと、彼はひきつづき「平面国に籍を置いて」「万事万端向うがわるい様に噪ぎ立てる」ことができなくなり、それまでの静的立場を捨てて動かざるを得なくなった。しかし、動くと、人妻を奪い取ってそれまでの生活基盤を崩してしまったといったような窮境に陥った。真の悲劇が起こった。「それから」の中で、漱石はついに現実社会の抵抗者自身に「胡麻化し」を認め、彼らさえ「不動尊」にすることができなくなり、西洋人の「尻馬にばかり乗って空騒ぎをしている」といったような動的な日本人に個性を注入して彼らを静かにし、「不動尊」にしようという初志を変えざるを得なくなった。その時、漱石は非常な苦痛を感じたであろう。この意味では、代助が自分の人生転回過程中に感じた苦痛は、漱石が自分の初志を変えざるを得なくなった時に感じた苦痛だと言えよう。漱石の悲劇がついに始まった。
それまでの抵抗拠点「頭」が「心」--真情実感から浮き上がった以上、それを捨てて新しい抵抗拠点を捜さなければならない。これは漱石の新しい課題である。代助は「頭」を捨てた後、新しい論理を立てようとせず、ただ「心」--真情実感に頼って現実社会に対抗した。彼の最後の「水を背にして一戦す」といったような決戦態度からも察せられるように、彼はまだ「心」--真情実感に頼って戦えば、一切の矛盾が解決できるのだと信じ込んでいた。それまでの論理に虚偽性を見出したので、論理そのものの価値を徹底的に否定して、論理の対極真情実感に完全に頼るようになる--これはよく理解できることである。しかし、現実は本当に代助の考えたとおりにうまく行っているのか。
「門」中の主人公宗助と妻お米の夫婦生活は、明らかに代助の考え方の甘さを立証している。宗助は友人安井からお米を奪い取り、真情実感による夫婦生活を始めたが、蒙古にさすらっていった安井はそのうちに大家を訪ねに来るということをきっかけに、また真情実感による夫婦生活に消極性を見出し、一層「太」い「心の実質」つまりぎしぎしと迫ってくる厳しい現実に充分抵抗できる新しい拠点を追求しようとするようになった。最後に、宗助は新しい拠点を禅寺に求め、他力的に願をかけて救い出されようとしたが、願がついにかなえられず、「彼は門の下に立ちすくんで、日の暮れるのを待つべき不幸な人」になってしまった。宗助の新しい抵抗拠点の追求は失敗に終わり、漱石は失望ないし絶望を味わわざるを得なくなった。にもかかわらず、漱石の初志貫徹意欲は、彼が現地で足踏みすることを許さなかった。
「彼岸過迄」中の主要人物須永は代助と宗助の敗北を見抜いたので、彼らのように真情実感に頼って行動することができなくなった。とはいえ、新しい抵抗拠点を捜し当てなかったので、しかたなく「頭」と「胸」の相克にじっと忍耐していた。しかし、彼の忍耐はついに厳しい現実に抵抗できず、彼は最後に旅に行き、旅先での一時的な自己陶酔を求めざるを得なくなった。「行人」の主人公一郎は死ぬか生きるかの激しい精神で新しい抵抗拠点として「絶対即ち相対」という禅的境地を自力的に追求していたが、ついにその境地に入れず、ただ気違いあつかいにされる位置に留まった。漱石は「門」「彼岸過迄」「行人」との3作でそれぞれ三つの新しい方向へ新しい抵抗拠点を探求に行ったが、いずれも失敗に終わった。そして、探求しているうちに初志貫徹の姿勢を加速度的に崩してきて、ついに悲劇のどん底に陥り、総決算をしなければならなくなった。この総決算はほかでもなく「心」である。
私がこの牢屋の中に凝としている事が何うしても出来なくなった時、又その牢屋を何うしても付き破る事が出来なくなった時、必竟私にとって一番楽な努力で遂行出来るものは自殺より外にないと私は感ずるようになったのです。(中略)動かずにいれば兎も角も、少しでも動く以上は、其道を歩いて進まなければ私には進みようがなくなったのです。
「策略」で友人Kをだましてお静をめとったことによって精神的な「牢屋」に陥った先生は、その「牢屋」を突き破って徹底的に厳しい現実に抵抗しようとした。しかし、そうしてみると、死ぬより外に仕方がなかった。数十年来孤絶と悪戦苦闘し、真撃な懺悔をもってきびしい現実に抵抗した先生は、明治天皇の崩御と乃木大将の殉死をきっかけについに自分の終末に気が付いて自殺した。言うまでもなく、先生の自殺はきびしい現実への抵抗を意味しているのではなく、抵抗者自身の自己消滅を意味しているのである。漱石文学が発展するにつれて、漱石の初志は次第に作中人物たちによって裏切られてしまった。最初は「不動尊」だった現実抵抗者は「不動尊」でなくなり、それから、現実社会を静かにしようとした現実抵抗者はどうすることもできない窮境に追い込まれてしまい、最後に、現実抵抗者自身も自殺しなければならない破局に陥った。漱石は少しずつ初志を捨てた結果、完全に捨てざるを得なくなった。この意味では、「心」の先生の自殺は漱石自身の文学的・思想的自殺だと言えよう。魯迅は中期魯迅文学と別れた時、自分の初志を完全に捨てて、「無」による暗黒擾乱の方へ歩いていった。漱石は中期漱石文学と別れた時、語り手「私」宛の先生の適書からも察せられるように無の世界へ歩いて行かなかったけれども、やはり自分の初志を完全に捨てた。この点では、魯迅と全く同じであった。従ってこの意味では、二人とも悲劇的であった。
先生は「私」宛の適書の中で「私の鼓動が停った時、あなたの胸に新しい命が宿る事が出来るなら満足です」と言っているが、これは旧い抵抗主体の死亡を宣言し、新しい抵抗主体の誕生を予言している。ここには、漱石のそれまでの抵抗過程への反省と未来への展望がはっきりと認められる。中期漱石文学を顧みて代助およびその後身たちの抵抗姿勢を確かめると察せられるように、事実離脱的な論理又は旧い抵抗拠点「頭」を捨てた後、彼らは新しい抵抗拠点を探求するためにそれぞれ違った方向へ行った。しかし、新しい論理を立てようとしなかったという点では全く共通している。代助は「頭」を捨てた後、論理そのものの価値を徹底的に否定して、「心」又は真情実感に完全に頼るようになった。彼の後身である宗助、須永、一郎、先生はいずれも彼を越えなかった。ここにこそ、彼らの失敗ないし自己消滅の根本的原因があるのではないかと思われる。もちろん、事実離脱的な論理では、現実社会に抵抗し、それを改造することができない。しかし、現実社会に抵抗し、それを改造するためには、やはり何かの論理を立てて、それを拠点としなければならない。実は、「心」が創作されて9か月過ぎた後、漱石自身もこの点に気が付いた。
1915年5月ごろ、漱石は「形式論理」「無論理」「自然の論理」に関する「断片」を書いたが、それと結び付けてそれまでの漱石文学を通観すると明らかなように、初期漱石文学はまさしく「形式論理」の文学であり、「人の口を塞ぐ事は出来」たけれども、「人の心を服する事は出来な」かった。中期漱石文学はまさしく「無論理」の文学であり、主人公たちはどんなに勇敢で強靱に戦ってきても、「人の心を服する事は出来な」かった。漱石は「形式論理しを否定した後、「無論理」に頼ってきびしい現実に抵抗しつづけた。そして、「心」の中で先生を死に導かざるを得なくなった後、ついに「自然の論理」のことを意識してきた。「自然の論理」は「実質から湧き出す」もので、「ころ柿が甘い白砂糖を内部から吹き出すようなもの」なので、「自然の論理」による行動は、つまり自然の順序に従う行動である。まず客体の中に溶け込んで主体的に客体の法則を把握しておき、それから、その上で客体の法則どおりに行動するということであろう。こうすれば、「名人が名刀を持った」ように非常に強くなり、きびしい現実に充分抵抗できるのであろう。漱石はこのような展望をして間もなく、晩期漱石文学を創作しはじめた。
「道草」は晩期漱石文学の第一作であり、その第98節には、「形式論理」「無論理」「自然の論理」に関する「断片」がほとんどそのまま繰り返されている。「口に丈」ある「論理」は「形式論理」を、「身体全体に」ある「論理」は「自然の論理」を意味しているが、これからも察せられるように、主人公健三は「形式論理」と「自然の論理」を竣別した上で「自然の論理」を選んだのである。
世の中に片付くなんてものは殆どありゃしない。一遍起った事は何時迄も続くのさ。ただ色々な形に変わるから他にも自分にも分からなくなる丈の事さ。
これは健三が最後に得た結論である。もちろん、「吐き出す様に苦々しかった」口調から察せられるように、健三はこのような結論を得た時、一種の苦しさを感じたに違いない。しかし、どんなに苦しくても、やはり「形式論理」を捨てた。したがって、「吐き出す様に苦々しかった」口調は、健三が「形式論理」を徹底的に捨てなかったことよりも、むしろ彼の心理状態がまだ「自然の論理」に適応していないことを物語っているのではないかと思われる。健三はついに代助およびその後身たちの足踏み状態を突破して、また一歩前進した。彼の前進は画期的な意義を持っており、漱石文学はこれによって一層高い段階に入った。しかしある意味では、この前進はまだ安易な所があり、「頭」と「心」の相克はこれによって徹底的に克服されたとは言い難い。実際、漱石自身も「道草」を脱塙して間もなくこの点に気が付いた。それで、また百尺竿頭さらに一歩を進めたのであった。
「明暗」は「道草」の続篇である。それが未完作なので、「頭」と「心」(「胸」)の相克に陥っている主人公津田は最後にどうなるかといったようなことを具体的には究明することができない。しかし、確かに日本の学者唐木順三氏が指摘しているように、「明暗」第一節にはヒントを見出せる。第一節における医者はつまり作者漱石である。彼の「此前」の津田への診断が足りなかった、修正すべきである。実際、「此前」の津田はほかでもなく前作「道草」の主人公健三である。「途中に搬痕があったので」、漱石は「つい其所が生き留まりだとばかり思って」健三に楽観すぎた描写をした。「頭」と「心」の相克は「結核性」の病気ではないけれども、そんなに簡単に克服されるものではない。「自然の論理」はそんなに簡単に立てられるものではない。「今日疎通を好くする為に、其奴をがりがり掻き落して見ると、まだ奥がある」ことが明らかになった。「明暗」はつまりこの「奥」を治療する小説である。「まだ奥がある」「頭」と「心」の相克を克服するには、「今日」の津田は「都合の好い時」に「根本的な手術」を受けなければならない。漱石はついに津田に「根本的な手術」を施し、彼を徹底的に救済しようと思うようになった。しかし残念なことには、その時、漱石は突然この世を去った。それで、「自然の論理」がついに確立せず、「頭」と「心」の相克がついに徹底的に克服されなかった。
晩期漱石文学はこのように不自然に終わった。そして、晩期魯迅文学と違って、終焉の雰囲気を漂わせているどころか、「これから」の姿勢を見せている。もし漱石が1916年12月9日にこの世を去らなかったら、漱石文学は必ずまたどんどん展開していくであろう。そして、「明暗」の主人公津田の未来像を分析してみれば、漱石文学がこれからどこへ展開していくかが明らかになる。
「明暗」が未完作なので、津田の未来像を円満に把握するのは、言うまでもなく不可能である。しかし、その根本的な特徴がはっきりしており、それを具体的に追究するのは、やはり可能である。「道草」を創作する直前に「形式論理」・「無論理」・「自然の論理」に関する「断片」を書いた漱石は、「道草」第98節でその断片」を小説的に表現して、「形式論理」を捨てた健三に「自然の論理」を追求させた。「自然の論理」と「道草」の主人公健三の動向という必然的関連を明らかにすると、「則天去私」と「明暗」の主人公津田の未来像が自然に関連される。漱石は「明暗」を創作する前から自分の理想を伝達できる四字熟語「則天去私」を口にしはじめ、しかも、「明暗」創作中の1916年11月の木曜会で二度ほど「則天去私」について語った。「自然の論理」と「道草」の主人公健三の動向という前例に鑑みて、漱石のこのような思考と意欲は、必ず「明暗」の主人公津田を「則天去私」の方向へ導くだろうと判断できる。それで、津田の未来像の根本的特徴はほかでもなく、「則天去私」だと思われる。
「形式論理」の初期に、「自己本位」が主張された。「無論理」の中期を経て、「自然の論理」の晩期になると、「則天去私」が「自己本位」の代わりに主張されるようになった。このような流れから察せられるように、「自己本位」と「則天去私」は対立的な連帯関係にある。「自己本位」は「静」をもって「動」を制すといったようなものであるが、「則天去私」は「動」をもって「動」を制すといったようなものである。「自己本位」の本質は道徳通念に基づく人為的な「静」であるが、「則天去私」の本質は自然法則に基づく主体的な「動」である。一言でいえば、「則天去私」は自然流動的な「自己本位」であろう。ここまで書くと、「論語」と「老子」の関係が思い出される。その第4篇、第6篇を読むと明らかなように、「論語」は山のような静的価値観を鼓吹しているが、それに対して、「老子」は「上善は水の若し」(第8章)と言って水のような動的価値観を鼓吹している。「老子」は人間の主体性を徹底的に否定した「荘子」と違って、静的で事実離脱的な論理--「知」を唾棄し、自然法則に基づく動的な論理--「明」を志向している。「老子」と「論語」はこのような対立的な連帯関係にあるが、ある意味では、「則天去私」と「自己本位」の関係はそれに似ているのではないだろうか。言葉遣いを見るだけでは、「則天去私」が儒教的な感じがする。例えば、「論語・泰伯」には、「大なるかな、僥の君たるや、巍々乎として唯天を大なりとす、唯僥之に則る」と書いてある。「後漢書・逸民列伝第73」には、「是を以て尭は則天を称し、穎陽の高に屈せず」と書いてある。「呂氏春秋・孟春紀」には、儒教的な大義公正を宣伝する篇があるが、その題名は「去私」である。「則天」と「去私」は確かにいずれも儒教的な経典に由来している。しかし、これだけを理由にして、「則天去私」は儒教的だと言っては、あまりにも表面的であろう。ここまで具体的に確かめてきた漱石文学の流れから明らかなように、「則天」と「去私」を組み合わせて「則天去私」という言葉を作る時、漱石は儒教の則天思想を念頭に置いているというよりも、むしろ自分自身の内的必然に従って「自然の論理」を念頭に置いているといった方がよほど自然であろう。
「自然の論理」は「無論理」を媒介にして徹底的に「形式論理」を否定し、「則天去私」はうまく「自己本位」を超克した。それで、漱石は明るい晩年を送ることができた。しかし、彼の明るい晩年は却って彼の初志放棄の悲劇を明確に浮き彫りにした。西洋人の「尻馬にばかり乗って空騒ぎをし」てはいけないと思っているのは至当ではあるが、自尊性を具えない納外的な文化伝統を持っている日本にとって、それはむしろ自然であろう。漱石はこの自然を自然と考えず、自尊性を具えない納外的な日本文化伝統に自尊性を注入し、「動」本位の日本社会に「静」を主張したが、その結果、自然に報復されて文学的・思想的な自殺をせざるを得なくなった。自然はやはり自然で、漱石の努力によって改造された痕跡は少しもなかった。漱石は不本意ながらこのような悲劇を体現してくれた。晩期漱石文学は前轍を改める意味で明るく見えてきたが、漱石自身の突然の死のために、ついにそれまでの暗さを一掃する光を発することができなかった。漱石はやはり納外的な日本文化伝統や「動」本位の日本社会を改造しようとして改造できなかった敗残者である
漱石の「静」本位の挑戦は失敗に終わったが、その代わりに、日本は納外的な文化伝統を充分生かして変わってきた。そして現在、ついにGNP世界第二位の経済大国になった。この意味では、漱石の悲劇は、今でも中国の各地で続いている魯迅の悲劇と違って、早く終わってよかった!
魯迅の悲劇よ、一体いつまで続いていこうとするのだろうか?
 
言語学からみた「平家物語」の成立過程

 

本日は、「平家物語」の二つの章段を分析して、テクスト言語学的な立場から作品の成立問題について話したいと思います。
平家物語の成立過程を解くために、研究目的に応じて様々な方法が考えられます。従来明らかにされているように、「平家物語」の成立過程は文学史では非常にユニークで、複雑でした。文学史の教科書に書くなら、著者の氏名と作品の成立年間などが、不明であるとして纏めることは少しもおかしくない、的確な表現でしょう。それなのに、研究ではなぜこの問題を何よりも徹底的に追求しなければならないのでしょうか。それは、この問題にはもう一つ、文学史とは全く別の次元があるからです。
平家物語の成立問題の不透明さは、作品の極端な変容性とその無制限の解釈の広さに依拠しているようです。作品のこの変容性こそ、特定の時代を越えて、愛読されてきた作品の長い寿命のもととなっています。「平家物語」には、分かりやすい面と並んで、大変難しい所もあります。物語は何度も語り直され、書き直されていました。そのうち、編者はわかりやすい面の裏にあるわかりにくい面にひかれ、物語の内容を自分なりに理解し、作品の解釈を深めよう、あるいは見直そうとしていたのです。
各々の異本、例えば「源平盛衰記」あるいは闘諍録・長門本・南都本など、皆それぞれの出来事にそれぞれの解説を加えていますが、挿入は逆に作品の元の内的整合性を損ない、作品を難解にしている所もあります。
複雑に変化してきた箇所は、成立当時の著者と受容者との直接の関係で形成されましたので、物語の本来の構想に戻らないかぎり、自然に解明できないと思います。そのため、まず従来の、作品の成立に関する諸説を簡単にまとめてみます。
一つ目に、百十数種類にも上る現存の写本や刊行本のうち、鎌倉期に成立したと確実に主張できるものは、一冊もありません。例えば屋代本の現存最古の写本は随分古いものと見られますが、成立の記録はありません。しかも屋代本は当道系の語り本のようなもので、当道系の異本は皆流動期より新しく、固定期になってから成立したと思われますから、この屋代本も長い生成、流動などの成立段階を経て変遷してきた語り本です。
また現存の応永書写の延慶本は、水原氏の研究からも明らかであるように、屋代本などより古態的な文章を残しています。ところが、奥書きの中で現在最古の明確な成立記録を付せられた、応永書写の祖本までも、延慶年間以前には明らかに遡るとはいえません。また渥美かをる氏がかつて平家の原態と思い、山下宏昭氏が随分古態的な文章を保存していると見なされた四部合戦状本と源平闘諍録本があります。しかし、四部合戦状の現存写本も、佐伯真一氏が指摘されたように、15世紀成立で、非常に新しいものです。
つまり、鎌倉期の本は確実に残っているとは限りませんので、異本そのものの古さは奥書あるいは、成立についての記録などからだけでは、文章の古態性は判定できません。
二つ目の点。現存の各異本の文章には重層構造の箇所が沢山あって、複数の伝承が合流したと思われます。個々の異なった伝承に依拠している層が重なってきて、全面的な、あるいは部分的な繰り返しが見られます。この意味では、現存する全ての異本の文章は、先学がかつて求めていた原態「平家物語」を幻の概念に変えてしまったことが明らかになってきました。しかし、原態よりはるかにゆとりのある、はるかに自由な概念も有ります―いわゆる相対的古態性です。原態の究明に対する諦めに次いで、古態の究明も諦めようとする傾向が強まっています。最近、諸本の形式上の分類への逆戻りも見られます。それで、従来行われた分類を纏めてみましょう。
諸本はまず、略本と広本(旧名増補本)へ大きく分けることができます。渥美かをる氏の主張によると、原態は四部合戦状、あるいは源平闘諍録のような略式文章のある記伝体的異本の中で探るべきでしょうが、水原氏はこの定説の成立順をひっくり返し、かえって延慶本系統の異本がいわゆる「当事者」による事件叙述に、説話、記録、噂を不整合な形でゆるく結合させているから、未編成の原態に近いということを考えておられます。
また山下氏は、四部本の編年性と延慶本の重層性に注目し、四部本の真字体表記に先立って、古態的仮名本が存在したことを想像しています。氏は水原説に疑問をかけ、四部本には、少なくとも部分的には、古態的なところがあると述べておられます。
考えると、略本と広本への分類法だけでは、古態性の問題は決して解明できません。「平家物語」の成立過程中に、作品が何度も略され、また何度も新しい要素を挿入されましたので、現存の四部本も、延慶本も、両類の要素を兼ねています。
他の分類法では、諸本を当道系と非当道系へ分けます。山下氏は当道系語り本の系統を詳細に吟味した結果、当道系の変動を、屋代本から八坂・一方両流を含め、竹白園本・平松家本・鎌倉本・百二十句本を経て、覚一本に到る過程として精密に捉えられたのです。一転だけにご注目いただきたいと思います。屋代本に先行していたと思われる語り本を、ただ現存していないという理由で、当道系から完全に外すことができません。当道系の概念と語り本の概念との間にはかなりの重なりがあるようです。
また非当道系の異本の中でも、語り的な要素を有するものが確かにあります。源平闘諍録の巻8で、平家の曲節を示す用語が書きこまれた箇所がありますが、山下氏は、四部本の中でも、唱道的な箇所を指摘されます。
それに対し、富倉氏の「平家物語」二元成立説によると、延慶本のような読み本は独自の成立系統に所属し、語り体を先行形態としていない、という説を提出しておられます。しかし、延慶本でも、唱道的性質の章段があって、その代表的なものは作品全体を統合させる、諸本共通の序章「祇園精舎」です。序章は流動性が極めて低く、全ての本では「語り」的であります。
序章は「平家物語」の諸本を「平家物語」らしくするものとして働き、その成立時点では、「平家物語」という名にふさわしい作品生成期の成立過程は一度達成にいたったと考えたいのです。
序章と同じく殆ど変動しない箇所が、ほかにも「平家物語」の諸本を通して見いだされます。これらの箇所は皆達成度の高い、諸本共通の唱道的な文体層に所属しているものと見たいと思います。
現存の諸本では、古態性を求めることにも限度があるようです。なぜなら、高橋貞一氏が早くから指摘されたように、現存の本は皆、例外なく、かなり進化した生成段階から生まれたもので、一定の一種類のみの「平家物語」にすぎないということは、充分考えられる訳です。つまり、これらの本は皆互いに違いながら、ある意味ではまたみな非常に似ています。
かつて、現存の全本とは異質の「平家物語」も存在したようです。例えば、一定の箇所が現存の諸本のうち一定の本(拙論では例えば四部合戦状本)の中では一番古態的であると判断しても、重層性が窺われますので、やはり二つか三つの伝承が合流して成立したことになります。
このような状況では、唯一の方法が、内的復元と、その結果を独立に裏付ける学際的な検証でしょう。
内的復元になると、三つの可能性があります。一つは文学構想上の考察で、もう一つは、流動する箇所を本文批判法で吟味することです。例えば山下氏は先の二つの方法を広く応用されます。三つめはテキスト言語学的分析であって、まだ応用されていないようです。私の試みは断片的で、初心的でありますが、簡単に説明させて頂きます。
現存諸本の各系統については、先ず、四部合戦状のこと。現存の四部本の中では大変古態的な層が残っています。私はこの層を仮に、「四部1」と名づけました。それとは別に、「四部1」にかなり「四部2」類の本が存在したことを、他の異本系統との比較から推定したいと思います。現存の「四部1」は非常に略本的な性質の本です。しかし、他の系統と共通箇所を含めていたと思われる「四部2」はより拡本的な性質のものであったようです。
元の四部本は、今のような真字本ではなく、仮名本だったといわれています。私は、「四部1」と「四部2」双方の原態がこのような仮名本だったと思います。現存の四部本の祖本は「四部1」系統で、現存しない「四部2」の系統は直接には現存しませんが、源平闘諍録にも、源平盛衰記にも影響を与えたようです。両方の中では、この影響の形跡が残っています。また延慶本の系統、特に「旧延慶本」あるいは「旧長門本」として知られる、延慶本と長門本との共通の祖本にも、「四部2」系統は影響を与えたのです。「旧延慶本」をここで仮に「延慶1」と名付けます。その系統の本は現存していませんが、系統が存在したことは定説でも認められています。
屋代本から覚一本までの過程についてはもうお話し致しました。変動性が小さく、当道系枠内の発達としてすでに分析されているもので、ここでは割愛致します。
特殊な興味深い本として、南都本を揚げたいと思います。南都本は屋代本と何らかの関係を持ちながらも、四部、延慶両系統とも何らかの関係を伺わせます。私は、南都本を分析した結果、この本が当道系にきわめて近く、屋代本の祖本の様なものを参考したように考えます。つまり、所謂読み本と当道系性格の語り本と、両方の伝承を踏まえたものであると思います。
次に、大変雑多な作品―「源平盛衰記J−に触れたいと思います。多数の異本の要素を吸収し、取り入れていますので、分析できないほど複雑である、との評価があります。しかし、最近水原氏はその活字本を編纂し、この、やはり、「平家物語」の一異本と認めるべき作品が深く研究されるようになりました。特に注目に値するのは、盛衰記の中では複数の段階の文章形態が平行して保存されている点です。そのため、この本は「平家物語」成立問題の関係では非常に貴重な資料です。例えば「四部本2」の文章のあり方を、私はまだ盛衰記を入手していない時点では推定してみたのですが、その推定の文章は「盛衰記」の中では残っています。
次に、成立の方向性について(スライド・図1を指す)。この図の中で、二つの系統の間に共通点があって、他の系統と共通点のない関係を連結線で示しました。「延慶1」と「長門本」だけが似ていて、他の本が違うところがそうです。しかし、この点を見ると、異本系統の間に密接な関係だけが表示されていて、成立の方向性は図からは読み取れません。例えば、略本系統「四部1」がより拡本的な系統「四部2」に先だっていたか、つまり生成過程中に省略への傾向より増補への傾向が優等であったかについて疑問が残っていますが、私見では、ここはおそらく増補でしょう。いずれにしろ、図の中ではこの箇所については、方向性を示す矢印を使わないことに致しました。
一方、「延慶1」系統の中では「四部2」系統と「闘諍録」系統とが合流し、方向性がはっきりしていますので、図の中では成立順を示す矢印をつけました。
この考察はもちろん、具体的な写本についてではなく、「平家物語」の文章の生成過程の様々な段階についてです。つまり、具体的な異本は保存されなくても、物語の文章が生成されていた各々の段階を区別して、それらの段階は、他の系統の一部の異本では、部分的に保存されているということを指摘することが出来ると思います。
方法については、私は「言語学から見た」という見出しを使ったのですが、より正確には、「テキスト言語学」にするべきでした。図では、覚一本章段「殿上闇討」の冒頭部分、特に(旧)「三十三間堂」建立の説話を分析し、また、章段「殿上の闇討」内容の分析を紹介しています。色々とエピソードがありますが、それぞれのエピソードに記号をつけて、順序を調べてみました。
テクスト言語学的な面は先ず機能分析法の応用に依拠しています。すなわち、文章の分析を機能言語学的方法で進めて、エピソード連鎖の背景を明らかにするために、複数の部類を言語的機能に基づいて分類してみました(図2を指す)。Aとは、事件叙述の部類で、その中では、何が起こっていたかということを、つまり事件だけの叙述を、まとめました。Bとは、発話行為の部類で、換言すれば、引用文などの部類で、つまり誰が何を言ったということを包括しているのです。次に、評価の部類ですが、著者あるいは主人公が評価を表しているところをC部類にまとめました。勿論、重なりもあります。一度A部類に含まれる内容は、B部類に含まれる内容と部分的に」重なることがあって、Cとかさなることもあります。これらは皆、同じ断片の同じ箇所が複数の機能を託されているケースで、重なりを図の中で表示してみました。D部類は、事件の背景に関する説明ですが、発話行為では、エピソードの自然な時間的連鎖から遠く離れた事件叙述を背景の説明として受けとめます。時間的に「ずらして」述べられる事件の表示の前に記号「d:」を付けております。
A部類所属の事件は、大体直線的に、記伝的に並んでいます。ところが、エピソードの中では、Ab1とAb2の例からでもわかるように、順列する事件の外に、事件が並列する事もあります。時間的に並列したエピソードを、Ab1・Ab2というような順序、あるいはAb2・Ab1のような順序で並べることができますので、諸本間でも、並列事件を述べる時の順序は流動的です。
実際、Ab1・Ab2は同時に起こった事件でしょう。つまり、忠盛は得寿院を造請しましたので、勧賞に但馬の国をもらったことと、同じ理由で昇殿を許されたこと、という二つの事実は、例えば全く同時ではなくても、先後を問わずということになります。並列エピソードの典型的な例です。
発話行為部類は、実際の事件を叙述する部類よりはるかに変動性が高いようです。物語の、史実離れへの文学的改作が進み続けても、事件の内容、事件の順列などがかなり固定的です。一方、史実から早く離れていくのはB部類で、つまり、誰が何を言ったかという形で、著者あるいは改作者が自分の意見と、自分の、主人公の心理的背景についての考え方を主人公の口にいれている訳です。急速に変動する発話行為部類の分析によって、作者、改作者などの作意を読み取ることができます。
Cは、事件の内容に対する評価をまとめた部類です。ここでは、著者による直接の評価表現は少なく、むしろ主人公の口による評価となっています。誰が何かを言った、例えば重盛が言ったか、清盛が言ったかという叙述の内容には虚構の分が大きく、著者が自分で言おうとしていること、あるいは重盛と清盛の性格を作品の構造に合わせる為に言わせていることの内容は、改作過程中に成長しています。
次に、因果関係部類Dについて一言。この部類のデータは異本間に極端に変動します。何が何のために起こったのかということについての考え方は、改作者によって完全に違います。
諸本を比べると、複雑な表が得られます。背景を解明するのに有用な異本として、盛衰記を挙げることができます。盛衰記の文章に仮に数字を当てて、諸本との比較を試みました。
盛衰記の文章にはセグメント3、4、5、6があり、長門本と南都本には3、4、5、延慶本には3、5があって、当道系の諸本には3だけがあります。セグメント6、貧僧による得寿院の供養は盛衰記だけにあり、その内容は盛衰記独自の虚構です。このセグメントが後から挿入されたことは、文章の不整合性からも窺い知れます。セグメント6に続く文章の中の指示代名詞は、セグメント2を直接に受け止め、2〜6は挿入される前の状態を残しています。
セグメント3、5は延慶本独自の挿入で、得寿院供養の説明です。セグメント6―この供養を貧僧が行ったことの叙述−は、作品の本筋から遠く離れています。長門本(そして、その文章を伝承する南都本)はさらにセグメント4を挿入しましたし、盛衰記は様々な異本の系統を「拾」った形で受けとめ、3、4、5、6になおしたのでしょう。
結果的には、挿入過程にも個々の段階があって、四部本と源平闘諍録では、0段階(挿入以前の段階)に次いで、l、2、3段階を区別することができます。
また、忠盛自身あるいは朗等家貞が、闇討の計略を察知したという経緯があります。家貞が噂を先に聞いたという文章の姿勢は、現存諸本の内、源平闘諍録にいたって初めて現れたのです。四部本の中ではこの箇所がありません。盛衰記・延慶本などでは、家貞が聞いたのではなく、聞いたのは忠盛であったという筋になっていますが、これも長い変遷を経て得られた、随分新しい生成段階でしょう。0段階から、1段階、2段階への転換をたどると、この分析に説得力があって、個々の段階はスムーズに復元できます。
次に、セグメント18(刀の詳しい説明)について。このセグメントは盛衰記だけに収載されました。セグメント17と28との結合について。「殿上闇討」の中に、五節舞の席で「薄様」の囃子の経緯です。。はやされける・というところでは、忠盛が舞をしていますが、殿上人は歌詞を変えて、「伊勢瓶子はすがめなりけり」と囃します。薄様についての詩句は、忠盛が舞をしている場面導入の前後の近辺にあります。しかし、当道系では先方に持ってこられるのは、季仲を中心とした、昔の五節舞の話題です。薄様のいきさつは、昔の五節の紹介に使われますが、当道系はこれで恐らく文章構成のバランスを図っていたのでしょう。そのため、五節の場面では、五節の歴史を説明しています。また五節の歴史を説明しているきっかけに、「薄様」の囃子にも触れ、季仲の沙汰を載せていたようです。これによって、元々互いに遠く離れていたセグメント17と28は結合されました。原形はおそらく四部本と盛衰記に保存されていた状態で、季仲のことは段階lの解説として、後から追加されたようです。しかし、源平闘諍録以降の本では、この話は先の方にもってこられ、五節舞の説明として生かされました。当道系はこの源平闘諍録の構造から示唆を受けたものであるといえます。
次に、入れ替えのこと。初期、家貞が用意をいたしたことの叙述は、忠盛が準備をしたという経緯に先だっていたようです。当道系が忠盛の話を先に出したことによって、独自の結果を得たわけです。
今、皆様にお配りした「殿下乗合」の文章をご覧ください。ここでは、被検文章をセンテンスに分けてから、センテンスよりさらに短い、語り直しの変異の単位―センテンス内セグメントと呼んでおります―へ分解しました。図の2ページでは、事件叙述の部類、発話行為の部類、評価の部類、解説の部類への分解を載せております。
次に、3ページをご覧ください。私は先ず、伝達機能による単位、つまり、事件叙述の部類、発話行為の部類などのような、大きな部類への分解を進め、また、それぞれの部類の中では順序変異の最小単位を求めました。次に、センテンス配列、センテンスより小さいセグメントの配列、これらのセグメントの内、センテンスにいちばん近く、構文的完結性の高いものー私が最短文と呼んでいるもの−の配列を検証し、諸本間の比較対照を試みました。「最短文(minimal text sen- tence)」とは、「節(clause)」に近い概念ですが、全ての節は最短文であるとはかぎりません。この研究では「最短文」を独自の単位分かち法で抽出し、諸本の最短文配列を対照させながら、究明してみました。
付録2の3ページでは、章段「殿下乗合」の一部を複製いたしました。この付録から、文章変換の過程が読み取れます。箇所19と20とが段々前の方に移っていることはよく分かります。これらの箇所を含むセンテンスをご覧下さい。
「小松殿の次男、新三位中将資盛卿、その時は未だ越前守とて、十三になられけるが、雪ははだれに降つたりけり。枯れ野の景色、誠に面白かりければ、若き侍ども三十騎ばかり召具して、蓮豪野・紫野…‘に打ち出でて、鷹どもあまたすゑさせ…」等ですが、セグメント19と20は、成立過程では、文章の始めの方向に向かって徐々に移動しているようです。これは恐らく、不自然な位置に挿入された成分がその自然な位置へ向かって移動している(lowering)過程でしょう。また、変換文法の規則で言えば、上昇変換(raising)と低下変換(lowering)の概念をもって表せる、一種の通時的変換(diachronic syntactic transformation)と見ることが出来るかも知れません。
「殿下乗合」文章の生成と成長については、次の4ページを御覧下さい。セグメント配列の比較対照はご覧の通りです。4ページで示される文章例の生成過程を、段階l、2、3、4・1、4・2に分けました。段階lは四部合戦状本の中で保存されてきた状況を示しています。段階1から段階2を得るために、セグメント3 4を左の方へ移動しましたが、これによって主語3 4は元の位置から離れてきて、その反復は必要となりました。また、この移動と平行して、新しいセグメント4 3も挿入されました。段階3では、セグメント4 3も左へ移動します。よく見ると、段階3は明らかに段階lと段階2の合流で出来たのです。
長門本、あるいは長門本成立後の延慶本系統の異本は、四部本と源平闘諍録本の文章より新しい層の文章を含んでいます。ただ、段階1の四部本の中では「暗きほど」という箇所があり、段階2の源平闘諍録ではこのあたりは「しかる間に」となっています。しかし、他の異本と比較して見ると、この差異はおそらく誤写でしょう。「暗(闇)間」を「然間」と読み間違えたせいで、この箇所の整合性を破る表現「しかる間に」が出来たのではないかと私は思います。次に、段階3に進みますと、「夜にてありきければ、殿下の御出とも知らず」となります。つまり、全く同じことを繰り返さないために、一回は「暗かったから」、一回は「夜だったから」と言って、また一回は「資盛以下の武士は殿下基房の御出だということを知らなかった」、一回は「殿下以下の奉行は入道相国の孫資盛だということを知らなかった」というふうに、文章の内容は少し変わります。しかし、これはただ、反復をさけるために意味をずらしたことでしょう。
次に、長門本の「これによりて」(「依之」など)、これは「しかる間に」という展開型(がた)接続表現の一換言にすぎないと思いますが、この接続語はここでは文脈外れです。この所にはやはり「暗い程に」「暗き間に」などのような古態だけがぴったり合うのですが、延慶本では、先に述べたように、異なった性質の伝承が合流したのです。
いままでの内容をまとめてみますと、テキスト言語学的な分析法を応用し、言語機能によって文章の内容を部類に分解してから、それぞれの部類の内容やそのパラフレーズによる変遷を調べてみました。また、異本の各系統を対照的に比較してみて、比較の中ではセンテンスの配列と、センテンスの中では、節に近い”最短文”の配列、またその他の、「文節」に近いセグ〆ントの配列を吟味しました。
以上、成立過程について考察して参りましたが、次に、章段「殿下乗合」の内容が具体的にどのようにして変わってきたかという仮説を立ててみたいと思います。
付録1をご覧下さい。センテンス内セグメントに通し番号をつけて、章段の全文を1枚にまとめて見ました。
巻一の章段間の時間的配列、構想展開などの観点から見れば、章段「殿下乗合」は明らかに「我身榮華」の中で述べられる清盛出家に続き、その内容を時間的配列で受けとめています。また一方、物語の続きを考えますと、この章段は「鹿谷」の反乱を正当化し、「平家悪行の始め」を設定するものとして、章段「鹿谷」に直接に繋がるのです。
ここまでの「平家物語」の部分は、平家とは直接関係する話題のほか、いわゆる「大政治圏」―つまり山門関係の主題―と、いわゆる「小政治圏」―つまり院と天皇との関係の主題−を展開しています。章段「殿下乗合」の諸本共通の冒頭部分の働きは、物語を「小政治圏(後白河院と高倉天皇の関係)」から平家のテーマに戻すことにあります。
物語の紀伝体的資料の中では、当然いろいろな歴史的事件が混ざりこんでいますが、「我身榮華」から「殿下乗合」を経て「鹿谷」に続く主題は、平家に直接関係する本筋です。物語の序章を除くと、「殿下乗合」以前の章段には、平家の悪口を言っているところは少なく、平家のめでたさを強調するものです。この文章はおそらく、平家が繁盛した頃の資料を使ったものでしょう。しかし、「殿下乗合」とそれ以降の章段は、平家の批判に満ちています。
確かに、忠盛先祖のところから、「殿下乗合」の始めまでの文章の中でも、たとえば「禿童」と「ギ王」は平家について批判的ですが、これらは皆後から挿入されたからだと見るべきでしょう。
「兵範記」を参考した原「平家物語」の3巻説の根拠はまだ不十分ですが、さきに触れた文体層の内容はやはり、古代文献からその存在が窺える「治承物語」という題名にふさわしいものではないでしょうか。延慶本12巻のうち、上の6巻は大体「治承物語」と呼べるような内容で、下の6巻はむしろ「合戦状」を基にした軍記物語です。両部を結合させたのは序章―「祇園精舎」―と、「殿下乗合」の冒頭部分のように、序章と同じ語り物的な性格をもった統合文体層ではないかと考えます。
序章は、御存知の通り、無常態を唱える、かぎりなく美しく、琵琶の語りに何よりも適した章段です。しかし、これを注意深く読みますと、作者は、生きる者―すなわちジョウシャ(生者)―は必ず滅びるという、涅槃経の発想から離れて、それを、栄える者―すなわちショウジャーは必ず弱まってきて、権力を失うという、朝家に対しては挑戦的な権力者への警告に変えてしまいました。すぐ後にこれが全部、清盛に対する偏った、残酷な批判のために利用されるのです。
この意味では序章は、「平家物語」の中に統合されている様々な話の内容をずいふん一方的な、単純な視角から解釈しています。ともかく、このような序章は、「平家物語」を決して、戦死者に対する鎮魂物語として興しているとはいえません。
また、合戦関係で指摘される「平家物語」独特の、人生肯定観を前提としたリアリズム−例えば有名な馬「生食(イケズキ)」の説話が実感させる雰囲気―これも序章にはありません。「平家物語」の文章ではかなり新しい層となっている法然教も、序章の中では見いだされません。実は、末法思想は、仏法・王法が共に滅びるという考え方でしょうが、この序章はいかにも仏教的でありながら、その焦点は、公家思想の重要なテーマ−「王法」−にあるのです。
「沙羅双樹の花の色」のこと、「祇園精舎」は、平安末期の作品では珍しくありませんが、「沙羅双樹の花の色」を盛者の必衰に例えるのは、違和感を誘う解釈です。作者は僧であるよりも、いわばプロの「琵琶法師」であり、低い身分の公家出身であったかも知れません。少なくとも、「徒然草」が「平家物語」作者として揚げている前司行長という人物がこの序を作ったとは考えにくいと思います。行長の父行高は清盛の恩人で、行長は清盛を単なる悪人として扱えたはずはありません。語り物的な統合文体層は明らかに、清盛を悪視した単純な民衆的な伝承を踏まえています。
作品を繰り返して読み続けますと、語物の性格をもった、共通の箇所は殆ど全本には多くあります。これらの箇所は独自の文体層をなしており、作品の様々なテーマを結合させるのです。ですから、何か記録的な、記伝的な作品が先に存在したのか、それとも異質の資料が同時にまとめられたのか分かりませんが、先に述べましたように、私達が現在「平家物語」と呼んでいる作品を「平家物語」として完成させたのは、語物の文体層にほかならないと思います。この文体層は序章を始めとして、それぞれの章段の中に割り込み、序章と共通の視点を持ち込んでいるのです。
セグメント122の中の、「これこそ平家の悪行の始なれ」、あるいは、より古い形では、「これぞ平家悪行の始とぞ聞こえし」、という表現は後期挿入であると言われていますが、これも序章の文体層に所属しているのではないかと考えます。
次に、章段「殿下乗合」の事件部類の構成について。まず一院の出家。屋代本以外の当道系はこれを「嘉応元年7月16日」(屋代本は20日)にしていますが、史実では、「嘉応元年6月17日」でした。語りでは、このような間違いが起こりやすいようです。これも語り系の古さを裏付けており、故意の改作ではないと思います。例えば、清盛が2月11日に出家したにも関わらず、11月11日に出家したと書かれたのは、数字「十一」の再選択(反復)の結果で、一種の心理的現象から起こったミスでしょう。
後醍醐天皇の即位関係の儀式は「東宮立」の中では紹介されていますが、その際、「平家物語」があげる日付は全く別の事件の日付です。これは、ある一定のエピソードが脱落された時点では、そのエピソードの日付が違ったエピソードに当てられたことの例と見るべきでしょう。屋代本は逆に類似した数字を対照させるため、「十七」をさらに「二十」に変えたのでしょう。
次に、一院はご出家なさったとなっていますが、一院の出家については、当道系の本だけにあり、延慶本の中では、挿入の跡がはっきりしています。また、盛衰記では院の御出家を、熊野権現説話との関係で述べています。この点から判断しますと、元の「平家物語」には無かった筋と見るべきではありませんか。
しかし、別つの可能性もあります。セグメント17をよくご覧下さい。
これによると、乗合の事件は「去んじ嘉応二年十月十六日」に起こったように設定されましたが、史実は7月3日です。章段「殿下乗合」の作者が「玉葉」の文章を参考したかどうかについて、諸説があります。この文章を分析すると、7月16日の事件の叙述から、「平家物語」は語彙を数多く採用しているということが判断できます。7月16日となっているのは、乗合事件の時間的設定が院出家の設定との相互影響の関係で成立し、また、「乗合事件」の叙述に「玉葉」の10月16日づけの記録が使用されたからでしょう。つまり、事件叙述の間に早くから相関性があり、当道系以外の多くの異本では院出家の沙汰が載っていないないという事は、日付の重なりのため早くから脱落された、そして当道系では逆に、現存しない異本を基に、そのまちがった形のままでは復元された可能性があります。
ともかく、院が出家をしたことと、「殿下乗合」の事件とは生成過程中に同じ日付になったようです。その後のすべての改作者には、二つの整理の可能性が残されました。一つの日付を脱落すること、あるいは二つの日付間の矛盾を自分なりに整理する事でした。(例えば、両方の日付が7月16日となっていて、前の日付が6月17日に訂正された可能性はあります。)最後に、乗合事件の日付を、それに対する報復事件(10月21日)に近づける為に、乗合の日付を7月16日から10月16日に直してきたようです。
つまり、今の当道系では、一院出家の項目は必ずしも新しく挿入したものではなく、どこか昔の層から、すでに誤っていた7月16日の日付を採ってきたのかも知れません。
続いて、「殿下乗合」事件の位置付けです。事件の内容は、資盛が一定の(異本によって異なる)場所で摂政基房と乗りあって、恥辱を与えられたということですが、このことは、直接の史料である玉葉からも、後、愚管抄、百錬抄からも知る事が出来ます。まず、この事件が起こった場所について調べてみましょう。「玉葉」ではこの点は不明で、その時、基房が法勝寺に向かっていたというような事だけが読み取れるのです。法勝寺に向かっていたのなら、東洞院の宿舎を発ってから、二条京極を通過したことになります。16日法性寺に向かっていたとなっていますが、事実ならば、基房は二条京極を通過したはずはありません。
この点について、村井康彦先生の御卓見を賜りましたが、先生は、この点も間違いで、基房が今度も、前と同じく法勝寺に向かっていたと見ておられます。すなわち、基房は、7月3日も16日も、法勝寺に向かう途中、二条京極を通過する時点で、なんらかの事件にまきこまれた、あるいは少なくとも巻き込まれる恐れがあったという可能性が十分考えられます。3日、乗合の日、資盛はどこから来ていたのでしょうか。四部本は、内野の遊びから帰っていたことにしていますが、これが果たして最古態でしょうか。この点について、源平闘諍録の文章が興味を引きます。本は、資盛が「女車」に乗っていたという箇所を馬乗りに変えているのですが、これは、渥美かをる氏が早くから指摘されたように、「女車」が平家の武将の姿を登場させるのに相応しくない記述であるからでしょう。一方、鷹狩りから帰っている資盛の騎馬の姿は、源平闘諍録の成立環境にふさわしく、男らしい場面でしょう。資盛の齢までも状況設定に合わせた形になっており、3年ほどつり上げてあります。
改作の文学的な価値は得られた訳ですが、この改作を撰んだ改作者は、改作の「代償を払」わなければなりませんでした。
まず源平闘諍録では、センテンスの自然な長さは文章の改作によって損なわれ、次の数段階に及んで、センテンス当たりの平均の最単文数(筆者推進の、文章構成上に効的な長さの指数)が崩れ、センテンスの長さは不安定に変動するようになりました。この改作の形跡は今も残っており、また、この改作が源平闘諍録で初めて起こったことも証明できます。
源平闘諍録は千葉氏の周辺で書かれたものとされています。京をよく知らない読者を対象にしていますから、寺の名称、二条京極のような場面設定が改作者の意識になかったようです。改作者は場所の設定を単純化して、最初の事件(乗合事件)の設定を報復の事件から借りる形にしています。また、基房参内のテーマも報復事件から「借り出され」、乗合背景の説明のために再度に利用されました。つまり、基房が元服の定めのために参内していたということになっていますが、これでは参内のいきさつは、二個の事件の設定となり、反復されます。同じ元服の定めのために、3ヶ月の期間を挟んで二回も参内する話しが不自然であることはいうまでもないことですが、源平闘諍録の改作者はこの点ではずいふん大ざっぱな構想を選択しました。さらに、事件を参内途中として位置づけながら、二条京極で起こったこととするのではまずくなります。蓮台野から帰ってきた資盛が大宮京極で摂政関白に会ったとして書いてありますが、実はこれも、京都に詳しい改作者には納得しにくい点です。これは後の異本ではここは当然、訂正されました。例えば、延慶本は四部本に従い、六角京極説を受けとめています。勿論、六角京極は二条京極には大変近く、また盛衰記の中の三条京極と殆ど変わりません。しかし、延慶本は資盛の騎馬の経緯では、源平闘諍録に依っています。つまり、資盛が馬に乗って帰っていた、馬から下りなかったから引きずり落とされたということです。事件が二条京極で起こった点は四部本に依拠していると思いますが、後期、源平闘諍録の文章との合流の形跡も窺えます。四部本が先行していたことの示唆は、重盛がこの事件を評価している発言の中に残っています。四部本では重盛は「降りざるこそ尾篭なれ」と言っています。しかし、源平闘諍録の文章では「馬より降りざるこそ尾篭なれ」となっており、延慶本は「車よりも馬よりも降りざるこそ尾篭なれ」となっています。二種類の文脈―「馬より降りざるこそ尾篭なれ」と「車より降りざるこそ尾篭なれ」―は延慶本系統の中では合流しました。今の四部本では、「車より降りざるこそ尾篭なれ」ではなく、ただ「降りざるこそ尾篭なれ」となっているのは、合流の直接の源となった所とだいぶ違います。
「車より降りざるこそ尾篭なれ」というのは、現四部本の源泉―四部本1系統を増補した四部2系統―の段階に出来たと思います。また、四部2系統段階のセンテンス「車より降りざるこそ尾篭なれ」は、盛衰記の重盛の発言の中に保存され、四部2系統がそうなっていたことを裏づけています。覚一本によると、乗合の後、「資盛朝臣法王六波羅に御して、祖父の相國禪門にこの由訴え申されければ、入道大いに怒(っ)」たそうです。
一方、盛衰記の「秘本日く」として導入された説明によると、この事件を起こしたのは清盛ではなく、重盛であり、また清盛はその時福原にいて、福原で寺の行事に参加していたということにしています。これは歴史的資料からも裏付けられる主張で、史実でありましょう。「玉葉」からも分かるように、事件の責任者は重盛であって、「愚管抄」も、重盛が一つだけ「不思議」な事を起こしたのは、この報復の事件だったと述べます。
すなわち、資盛は本当は清盛のところに走ったのではなく、どこへ行ったかというと、父重盛の小松殿に帰ったのでしょう。これによってやはり四部本を古態の異本系統と見ることになります。重盛の反応の方が清盛の反応に先だっています。興味深い点は、重盛が次男の体験いついて、「恥にあらず」としているところです。なぜなら、「玉葉」でも書いてあるように、―そして「平家物語」もその言葉を取っていますが−資盛は大変な恥辱を与えられたわけです。恥辱を与えられたということは、文脈から判断すれば、殴られたという意味でしょう。これは、後出の「恥にあらず」という表現と随分矛盾します。そこで、現存の四部合戦状本は、「頗る恥辱を与へけり」というような文章ではなく、ただ「散々に追い散らし」たという形に変えています。続いて、源平闘諍録の成立過程中に、このように変えた文章と、それ以前の、「玉葉」に基づいた文章は既に共存し、また現存の源平闘諍録は両方を合流させています。恐らく、「盛衰記」が部分的に残している四部2の文章はもう「散々に追い散ら」したような形になっていて、「盛衰記」の叙述ももこれに近いのです。一方、「すこぶる恥辱を与」えたというような、古態的文章は四部lの特徴で、源平闘諍録に直接に伝わったと思います。重盛と清盛の反応の順番について。
重盛の反応が清盛より先に出ているのは、これは、既に指摘いたしましたように、四部本の文章であって、古態的な要素でしょう。次に、清盛は報復を命令しました。盛衰記によると、特に悪い奴を選んで、彼らに命令したのです。例えば難波・経遠などに、命令したということになります。この文章を展開させるのは延慶本で、通定の伝説が挿入されます。こういうふうに、文章は少しずつ変わっていきます。
報復事件には三つの形があります。ひとつは、武士が基房を待っている場面から始まります。次に、基房の参内への御出が描かれ、最後に武士が基房を攻めます。これと異なる順序は、まず基房が帰っているという場面が紹介され、後で武士が待ち受けて攻めるのです。並べ方の相違は、各異本が焦点をどこに置いているかによるものであると思います。基房に焦点をおいた古態的な本は、乗合の事件でも、報復の事件でも、基房のいきさつを先に持ってきます。しかし、このような、歴史的紀録にかなった順序をひっくり返し、平家に焦点を当てると、平家の主題を先に持ってくることになります。つまり、先に資盛が帰っていて、続いて、基房が参内し、彼に出会った、それから清盛の命令で武士が待っていて、そこに基房の行進が出てきて、襲われるのです。
ところが、延慶本では、最初に武士が待っている、次に基房のお出ましが書かれる、その後、繰り返しになりますが、また武士が待っていて、やっと基房を襲う、というような反復性のある構造です。これもまた、延慶本の重層性の現れです。この重層性はそれ以降の諸本でも長く相伝されており、延慶一以降成立の一基準と見る事が出来ます。しかし、覚一本に近い本になると、反復は整理さたようです。覚一本ではこの箇所では繰り返しは見あたりません。
報復の事件では、「玉葉」にも書いてあるように、随身と前駆が襲われて、何人かが髪を切られたのです。「玉葉」によると、前駆は5人で、通定(道偵、ミチサダ)一人が助かって、残りの4人は髪を切られました。しかし、四部本では、私はこれを古態と見たいのですが、前駆6人が髪を切られ、随身10人が襲われた、あるいは髪を切られたということになっています。摂政の随身は普通7-10人、前駆は5-6人ですが、「玉葉」によると、当日は5人でした。平家物語の古態的異本の中の、前駆六(ゼンクロク)、随人十人(ズイジンジゥニン?)という表現は、覚え安い発音を記憶術としているのではないでしょうか。と同時に、「模型」化した数字を模範文型に入植しています。このような「モテクニック(記憶法)」は、「平家物語」がこの段階にいたって既に語り物であったことを示しています。
延慶本では、19人まで髪を切られたということになっています。この奇妙な数字は何を根拠にしているでしょうか。源平闘諍録を見れば、随身10人のところは「随身人」で、数字「十」が没落してあります。前駆六大の数字「六」も、特に語りの中では、脱落したことが十分考えられます。そこで前駆のことがだんだん分からなくなり、何回も語り直されるうちに、「ゼンクニン、ゼウクニン?」は「十九人」になったようです。語り、あるいは「読み本」の朗読が機械的に行われたことの例でしょう。その裏付けは、この時点から殆どの異本から「前駆」が消えてしまったことです。覚一本もこの箇所を整理しないで、前駆には触れていません。この箇所は延慶2の中では「ミチサダ」説話の挿入によって一度内的整合性を失い、センテンスの順序がひっくりかえされました。そのため、以降の殆どの異本では、「その中」という表現は、今度は前駆のことではなく、随身のことを示すことになりました。
次に、基房は恥辱にあって、「車から崩れ給けり」という所にご注目いただきたいと思います。このあたりは、本によっては、「小屋に入れられけり」など、いろいろと細かく書いてありますが、この主題も、源平盛衰記を見ると、元々は資盛の被害のことでありましょう。資盛が車から落とされた時、人が車を小屋に入れたという話があります。人が「車から落とされた」ということは、ある重要な事件に対するただの補助的エピソードですが、このように、重要な事件の内容が変わった時、補助的エピソードは全く違った事件の叙述に採用されました。
報復事件の記述は、資盛に対する攻撃事件の要素を取り入れています。そこではまた、ある段階から、主に当道系の方法ですが、基房が大変な目にあって、御供の奉行は皆「蜘蛛」のように散ったという話を途中で断って、基房の哀れな還御の前に先ず、こんなに乱暴していた武士達が六波羅に帰って清盛に報告した後、清盛は「感御あり」としているのです。
清盛のこの、報復に対する嬉々とした反応も、初期の「平家物語」には無かったでしょう。また、重盛が嘆いていたという話もなかった可能性について、「平家」の研究ではたびたび指摘されています。
しかし、私は、四部合戦状にもあるように、重盛がこの事件のために大変嘆いていたという話は、重盛が乗合の事件を最初に聴いたことと内的には照応すると思います。また、嘆きの指摘は「玉葉」における乗合事件に対する重盛の不和感の記録から直接に生まれたかも知れません。
この嘆きは、「平家悪行の始め」としての評価とともに、章段「殿下乗合」両事件の「枠付け」であると思います。すなわち、この枠付けを担うのは、章段冒頭部分の中の「院・・・安からず思し召されけるに・・・」のような表現、「平家悪行の始めなり」のような纏めと、重盛が嘆いていたという叫喚的な引用文でしょう。これらは皆明らかに、作品のかなり原始的な統合性文体層に所属しています。しかし、重盛の反応の経緯や「悪行の始め」という経緯は、章段の冒頭部分や物語の序章などに見られる、達成した語り的文体層とは異なって、流動期に成長しつづけた独自の、未達成の文体層であって、先にも述べましたように、統合性文体層の一定の編修の結果でしょう。この文体層はその後にも不安定でありつづけます。例えば、未完結揚題句「世のみだれける始め(「根本」「根元」とも)」、と、還御儀式への嫌がらせの先例なさを訴える表現が導入されたこともあり、また、屋代本、「盛衰記」のように、改作にともない、「悪行の始め」としての把握が脱落されたこともありますが、作品におけるこの事件の把握は根本的には変わりません。
清盛が喜んでいる場面は、延慶本・源平闘諍録にもありますが、次のようになっていました。まず重盛が嘆いていたこと。清盛が先に喜んでいたのか、重盛があとで嘆いていたのか、これも本によって違います。
また、お配りしたプリントの中の表示をご覧下さい。見ますと、源平闘諍録の時点から、当道系以外の本では、清盛親子の反応はセグメント122「平家悪行の始まり」の前にもってこられました。しかし、これが古態的な文章と違うことがすぐに分かります。なぜなら、この順序になると、重盛が嘆いていたことまでも「平家悪行」として解釈されてしまって、大変奇妙な構想になります。これは一種の文章整理中の不注意」で起こったことでしょう。これを当道系は再度整理して、平家悪行に含まれない事を、122の「悪行のの始め」の後に戻します。今度はセグメント122に次いで、かなりの増補があって、セグメント123〜129は細かく重盛の行動を美化し、誉めたたえています。悪人にふさわしい反応―清盛の喜び−はセグメント107に残され、セグメント122―「平家悪行の始めなり」―の先に載っているのです。
冒頭部分に付加された枠づけ的未完結揚題句「世の乱れそめける根本」の成立問題について。それを作ったのは恐らく延慶本1でしょう。古い諸本における、重盛の発言の中の表現「これ世の乱れと成らん」を踏まえていると思われますが、揚題句はセグメント17に先行しました。西田氏の詳細な研究がありますが、このような揚題句が、初期の平家物語にも沢山あったのでしょうか。
例えばこの場合、セグメント16―世の乱れそめける根本は−これは名詞句として「何々なり」という風に切れるはずなのに、セグメント17から18を経て、セグメント26まで一つの切れ目のない、長い、不整合なセンテンスとして続いており、助動詞「なり」では結ばれず、未完結のまま文末と成ります。しかし、この奇妙な形態も結局枠付けへの志向、つまり明白な枠付けのある語物へ改作の結果です。当道系は、揚題句の基礎となった表現を重盛の発言から取消して、文章内の反復を旨く処理しました。
「世の乱れそめける根本」と「平家悪行の始め」は両方とも同じ狙いの表現です。屋代本で見られるように、片一方の表現のなかで使われた語彙「始め」は、もう一つの表現の中でも採用されていた、意味的機能の照応と平行して、語彙選択の照応も観察されます。
見ますと、文章の語りなおしにもはっきりしたルールがあって、改作作業はこのルールを踏まえなければなりません。一方、これらのルールは、文章の古態、現態などへの手がかりにもなります。付録の中ではこれらのルールの例を揚げております。
以上、章段「殿下乗合」にテクスト言語学的分析を応用してみて、章段の構想・生成過程などを考え直してみました。ここで紹介した私の分析法は、複雑に変動してきた作品の構成の解明をめざしている方法として、各国語の素材、例えば旧約聖書と類似した内容をもった古文書の整理にも応用できると思われます。
以上はまことに大変初心的な考察ではありますが、御批評を仰ぎたくどうかよろしくお願い申し上げます。
最後に、作品成立に関する私の心の中の根本的な仮説を纏めて、もうー度述べさせていただきたいと思います。「平家物語」生成のかなり早い段階では、序章と同じ文体層に所属していた語り的な要素はこの物語を統合させ、平家が清盛の悪行のために滅亡したという解釈を加えたことによって、「平家物語」は作品として、現存の異本共通の主旨を得たのです。生成期成立の、かなり古態的な異本系統は四部1系統であって、その実態は現存の四部本では部分的に保存されました。流動期にいたって、四部1、四部2などのように、複数の異本系統が平行して存続し、個々の要素の合流の状態によって各系統の成立を解明することができます。適切な方法は、最単文配列の比較対照と、伝達機能を基に分けた、それぞれの部類におけるエピソード配列の比較対照であります。
 
中国詩歌における日本人のイメージ

 

「中国詩歌における日本人のイメージ」というタイトルでお話をするのですが、より正確にいえば「中国古典詩における日本人のイメージ」というべきです。ご存知のように中国の古典詩は日本では「漢詩」といいますが、中国文学の中でもとても人気があるジャンルであると言ってもよい。20世紀以来ヨーロッパ文学の影響をうけて現代話す言葉で作った自由体の新体詩が盛んになりましたが、古代書き言葉で作った古典詩はあいかわらず広くもてはやされています。一般にいえば中国の古典詩の伝統の束縛がとても強いので、外国のことや、外国人を表現しにくいといえますが、詩人たちは往々にして長い間に形づくられた芸術の経験を利用し、中国の歴史と文物を表現する手法を借用して異国の風景を歌っていました。全部の古典詩の中では日本と日本人にかかわりをもっているものは、おびただしいとはいえません。ですけれども、注目されるべき作品があるのみならず、文学史の中での有名な詩人、たとえば古代の李白とか王維とか近代の黄遵憲とか魯迅とかは日本についての詩をつくったことがありました。これらの詩は最近になって歴史と文学の専門家の興味をひきおこしてきました。しかし、結局のところ詩は歴史書、哲学書などとはひとしくはありません。中国では「詩無達詁」という言い方がありました。つまり中国の詩にはどんな場合、どんな時にでも同じように解釈するというようなきまりきった規則はありません。従って同じ詩に対してさまざまな考え方、捉え方がつぎつぎに出されたのは自然なことだと思います。批判の尺度が違うから結論も違います。深く味わえば味わうほど面白さが充分に感じられます。梅原猛先生がおっしゃったように、解釈というのは一つしかないなんていう考え方はおかしい。これが正しくてあとのは間違っているというようなものではなくて、いくつも意味が重なるように、すでに作者は作っているのではないかという感じがするのです。これこそ「詩無達詁」という言葉に対して真の意味の解釈であるのではないかと思います。今日これらの詩を読んで一番たのしいことはみなさんの解釈を聞きながら意見を交わし合い、自分の見解を修正することではないかと思います。そうした古典詩は私の知っているかぎりでも、千首や二千首を下回るような事は決してありませんが、大まかに分ければ三種類あると思います。第一種類は贈答詩であります。つまり日本人の友達に詩をつくっておくるものであります。例えば西暦753年第11次遣唐使が日本に帰る前に、唐の玄宗皇帝李隆基はわざわざ五言律詩をつくって贈りました。この詩は一番早い日本にかかわりがある詩であります。また、日本の五山の僧絶海中津が中国にいった時、1376年明の太祖皇帝は宮殿の英武樓に彼を招待して彼に日本のことを尋ね、それからふたりでそれぞれ詩をつくりました。これらの詩は当時の中国の皇帝が日本の事情に対して深い興味をもった事を物語っているのですが、直接日本人のイメージにあまり触れていなかったのではないかという感じがあります。これらに対して、もっと面白いのはやはり中国の詩人が日本の学者、僧侶のためにつくった詩であると思います。第二種類は風俗詩であります。中国古典詩の中では竹枝詞という民族風なスタイルがありました。これは男女の情事、または土地の風俗などを歌うのであります。竹枝詞は短くて、内容にしても形式にしても比較的に自由なのであります。ですから古代の中国詩人たちは日本の風土を歌っている時に大体絶句と竹枝詞というスタイルでつくりました。これは14世紀の明代にまでさかのぼれます。明代の有名な文学者である宋濂の「日東曲」10首はそれでありました。以後、18世紀後半、清代の詩人沙起雲には「日本雑詩」16首があります。明治維新以後、来日した中国詩人がますます増えてきました。彼らはそれぞれ日本の変化に対して賛成か反対か考え方はいろいろなのですが、多くは明治期の日本を詩人特有の筆で雄弁に描写していました。何如璋の「使東雑詩」、張斯桂の「使東詩録」、黄遵憲の「日本雑事詩」、四明浮槎客の「東洋神戸竹枝詞」、陳道華の「日京竹枝詞」、姚鵬図の「扶桑百八咏」などは風俗史の意味からしても面白いものがあります。たとえば黄遵憲の「櫻花歌」は櫻花を日本民族精神のシンボルとして明治維新を歌うのでありました。「都踊歌」は京都のお盆の風景を材料とするものでありました。明治35年江蘇省の姚鵬図という方は東京へ日本博覧会に見物に行きました。彼は途中、日本の船で髪の毛がばさばさしている女性労働者が休んでいる時に新聞を読んでいるところを見つけました。彼はびっくりしました。「この国の教育がかなり普及されましたね」と感嘆の声を放ち、たちまちつぎのような詩をつくりました。「普遍教育化東漸、五十音図衆妙兼、何必文章文章似金石、居然刻画到無塩」、普遍な教育に恵まれて日本はすっかり変わりました。五十音図はすべての音がまとまっており、文章もわかりやすくなり、ですから女中さんさえ新聞をよめましたね、と歌いました。第三種類は叙事詩であります。日本の人物や、物語を素材としてつくられた詩であります。明治11年王韜という文人が東京の新富座で市川団十郎が上演する歌舞伎を見て、深い感銘を受けました。そして、「阿伝曲」という長篇の七言古詩をつくって「阿伝曲」という日本女性の悲しい愛情ドラマを歌いました。黄遵憲の「赤穂四十七義士歌」は赤穂義士を主人公とした物語風の長篇の詩でありました。このような三種類、つまり贈答詩、風俗詩、叙事詩に表現された日本人はどのようなイメージがあるのでしょうか。詩の中では昔の中国人は日本人に対してどのような印象をもったのでしょうか。どのようにしてこれらの詩を読みとるべきなのでしょうか。こうした問題は中国の詩の特徴につながっているのではないかと思います。さっそく代表的な作品を読んでみましょう。
贈答詩における日本の学者
こうした詩の作者はほぼ学者であります。従来中国の文人には交友の道を尊んで、「詩をもって友と会う」という伝統があります。お互いに自分でつくった詩を交換することは、じつは詩を通じて自分の相手に対しての関心と友好の情感を伝えたいということばかりでなく、相手の学問とか性格とかを理解するためだったのです。ですから、これらの詩にはお互いの関係と了解の程度が明らかにみられます。唐詩を読むと日本の遣唐使の留学生や僧侶の学習ぶり、また生活ぶりを垣間見ることができます。これらの留学生や僧侶は勤勉で、一生懸命に学ぶことによって彼らの多くは優れた業績を示し、出世しました。唐の玄宗皇帝のころ、日本の阿倍仲麻呂(中国の名は朝衡、晁衡でした)は長安に渡り、その他に53年も滞在しました。仲麻呂は、李白、王維、儲光羲らの有名な詩人と親交がありました。儲光羲の「洛中貽朝校書衡」はふたりの友情をこのように歌いました。
万国朝天中  東隅道最長。吾生美無度  高駕仕春坊。出入蓬山里  逍遥伊水旁
伯鸞遊大学  中夜一相望。落日懸高殿  秋風入洞房。屡言相去遠  不覚生朝光。
この詩の大意は次のようであります。「唐まで来るのは万国の中で日本が一番遠い。私の若い友人朝衡は賢く、美男子であります。彼は学識があふれているので春坊の重要な官職につきました。朝衡は書室に働いており、暇があれば伊水という川の附近にぶらぶらと歩いています。」冒頭からここまで朝衡のすぐれた才能を賛美し、彼の仕事と生活ぶりを描写しています。つぎに朝衡との友情を述べました。伯鸞は漢代の有名な学者であります。「伯鸞のような優秀な生徒であった朝衡は大学に勉強した時から親友になりました。夕日は高い殿を照らし、秋風が奥深い屋に吹い込んできました。ふたりはいろいろなことを話し合って、時間も忘れました。朝衡はしきりに自国がとても遠いといい、話に熱中しているうちに、いつの間にか、朝のひかりがさしてきました。」ここでは詩がおわりましたが、朝衡には母国日本が恋しいという情感はあいかわらずしみじみと人々の心を打っているような感じがあります。日本の遠さを強調し、海の風景を描くことはこれらの贈答詩の共通な特徴の一つだと認めてもよいでしょう。どうしてそんなに日本の遠さを強調するのでしょうか。贈答詩に見られる日本人のイメージはなぜこのように海に固執するのでしょうか。総体的な観点からすればそれについておよそ三つの原因が考えられますが、その第一は遠方より来た友達の友情を褒めたたえるということでしょう。「論語」の第一篇「学而」にははじめて「子曰く学びて時にこれを習ふ、亦説ばしからずや、朋あり遠方より来る、亦楽しからずや」とあります。遠方からわざわざ友人が共に学ぼうと訪ねて来て、自分の学ぶ道に理解者があることは、なんとも楽しいことであります。友達は遠ければ遠いほど困難が大きくなりますが、また来るのは自分に対して友情の深さを示しているのではないでしょうか。次に第二の原因として考えられるものは日本の友人の寂しい気持を慰めたいということでしょうか。遠いところに行って環境に適応したら友達付き合いできるはずですが、昔なじみは少なくないでしょう。王維の「君に勧む更に盡す一杯の酒、西陽関を出づれば故人無からん」という詩句はこういう気持ちをよく表しているものといえます。唐の詩人は故郷を懐しむ気持に対して非常に敏感で、それに故人、昔なじみの友情をとても大切にしたらしい。とくに送別詩の場合はなおさらそうでした。彼らはいつも心をこめて海の様子を描写しています。日本の友人の望郷の心を慰めたいのではないでしょうか。第三にあげるべきは海を描くのがひとつの試みだったということでしょう。これらの中国の詩人には航海の体験がなかったのではないか。唐以前の詩にはこういう体験はあまり歌われなかったのではないかというように感じられます。中国の詩人が日本の留学生や僧侶から新しい知識をもらったに違いありません。例えば方干の「送僧帰日本」を見てみましょう。
四極雖云共二儀  晦明前後即難知。西方尚在星辰下  東域己過寅卯時。
大海浪中分国界  扶桑樹底是天涯。蒲帆若有帰風便  到岸犹須隔歳期。
この詩には、日本と中国の時差や季節風と航海の関係及び当時の航海の困難などが歌われています。海を渡ることがいかに危険なものだったかは中国の詩人にとって想像を絶するものでしょう。おそらく日本の僧侶はその様子を中国の詩人に教えていたのでしょう。唐の詩人たちはいつも新しい詩材を追い求めています。海の冒険はフレッシュな材料で、少なくとも彼らが日頃あまり歌わなかったものです。とにかく、贈答詩の作者は友情を褒めたたえたいし、友人の望郷の気持ちを慰めたいし、海の描冩を試みたい。ですから、その中の日本人のイメージはいつも大海と密接に結びついているのであり、それにその大海は神秘のかげりを帯びているのであると考えられます。唐詩に日本の僧侶を送るためにつくられた詩はざっと数えただけでも20首をこえます。作者の多くは有名な詩人であります。これらの詩は日本の僧侶の学力と人徳を賛美しました。劉禹錫は唐のなかごろの名詩人です。白居易に「詩豪」といわれました。劉禹錫の「贈日本僧智蔵」をご覧下さい。
浮盃万里過滄溟  遍礼名山適旧 。深夜降龍潭水黒  新秋放鶴野田青。
身無彼我那懐土  心会真如不読経。為問中華学道者  幾人雄猛得寧馨。
智蔵は浮かぶ杯のような舟を乗って万里の海を渡って中国に来ました。すべての名山に参拝し、名勝古跡に見物しました。「深夜で降龍して潭水が黒く、新秋で鶴を放って野田が青い」というのは象徴的な画面で智蔵の中国における生活を描写しているのであります。むかし周處には池に飛びこんで蛟を搏ち殺したという物語もあれば仏教に如来には禅室で毒龍を降伏させて鉢に入れたという話もあります。劉禹錫はこの二つ典故を合わせて智蔵の学問をほめました。秋のはじめは功徳を積むために智蔵は鶴を放ちます。中国の詩の中では鶴は高潔な鳥といわれており、ここで智蔵の心の高潔を象徴しています。智蔵は毎日中国で自分の故郷のように栄達を望まず清潔な生活を過ごしています。この詩の最後に「中国の仏教学者をお尋ねしたい、このような雄猛で立派なことができる人がどれだけいるかと聞きたいのですが、多分少ないのではないか」と、智蔵に対して自分の感服する気持ちを明らかにしました。智蔵については歴史の書に全くその記事を見せませんが、劉禹錫の思想に合致していますし、智蔵はきっとずばぬけてえらい学者だったことでしょう。
風俗詩における日本市民
昔、中国の知識人は幼い時から詩をつくる訓練をしなければなりませんでした。日本に行った中国の文人は目新しいこと、面白いことに会えば、詩の中に自分の観察や感触や評価を書き込んできました。これらの詩の材料は詩人たちの日本における見聞で、ちょっとした感想をもとに気が向くと一句をひねりました。その中では昔の中国人が日本人とふれあう時の独特の心理が反映されました。詩人たちは日本人と異なった分化背景をもっており、日本人の生活を観察するときにはいつも自国の事情を忘れない。ですから日本人にとっては何度も目にして珍しくないことも、中国の詩人の目を通して見ると一風変わった面白さが感じられるでしょう。1877年張斯桂という方が日本に来ました。彼は40首の「使東詩録」を書きました。当時の東京市民の日常生活について目に見えるように描写していました。そのなかでは「東京男子」というのはきわめてユーモラスであります。男は月代を剃ってちょんまげを結っていました。また下駄を履き、小さい煙管を持ち、手を叩いて子供や召使いを呼び、お客へのあいさつに腰を曲げておじきをすると歌いました。1871(明治4)年に「散髪令」が出されたはずでありますが、張斯桂が日本に来た1877(明治10)年になっても、東京に散髪しない男子の方が多かったらしいですけれども、この詩は張斯桂が日本の古い風俗に対して何かに強い関心を寄せたということを物語っているのではないかと思います。「東京男子」という詩は日本人が風雅を尊び、風流を好むということを描写しているのです。「男子が化粧して頭は蓬の草の如し」、男たちは自分が上品な人間であることを表すために、外観に気をつけ、身なりをきちんとし、紙油と香水で化粧しました。この様子は多分清国から来た張斯桂をおどろかせたでしょう。「男の客に下げる頭は弓の如く曲げ」という句からおじぎの時間の長さとか体をかがめる程度のていねいさとかがわかります。従来、中国の文人はうつむかず、腰をかがめずということを不撓不屈の精神のあらわれと見なしました。張斯桂も例外ではないでしょう。彼は日本人の初対面の挨拶の様子をはじめて見た時、まさに珍しい感じがあったかもしれません。とにかく、これらの時は日本人の礼儀正しさを好む気持ちを描きました。今、私はこれらの詩を読むと当時の日本人のイメージが非常に強烈な印象で浮かびあがってきます。明治初年は新髪旧髪大混戦時代であったと言ってもよいでしょう。東京ではわれこそ開化のバスにのりおくれまじと人々は争ってザンギリにしたので、チョンマゲ頭は急速に少なくなっていました。明治画家、五姓田芳柳が描いた「散髪屋の風景」のなかでは、ランプのもとで、チョンマゲにおさらばをつげました。大きなギヤマンの前で、かわりはてた己の頭をそっとさわってみます。張斯桂の「髪鋏處」は同じ画面をあらわしています。
照鏡鬚眉喜気添 到門休笑髪。
手持燕尾州剪 剪取鳥絲寸寸纖。
詩の冒頭はこのように言います。散髪屋に来るときはまだチョンマゲをしていますが、君はあざけらないでください。当時の俗諺に「半髪頭をたたいてみれば因循姑息の音がする」「総髪頭をたたいてみれば王政復古の音がする」「ザンギリ頭をたたいてみれば、文明開化の音がする」といわれました。散髪屋さんは手で燕の尾のような州の剪を持って(州で生産した剪は中国で一番鋭い剪であります、ここで剪のよさを形容しているのです)、黒い絲のような髪を剪み取ってしまいました。やっぱりチョンマゲに別れを惜しんでいるのです。やっと、おわった。ギヤマンの前でかわりはてた己の頭を見て本当によろこんでいるのです。よかった、これであざけられないようになったはずだ。張斯桂の詩は散髪屋の風景を書きとったばかりでなく、その時中国文人の目から見た吹きすさぶ文明開化の嵐のなかでの人々の独特な気持ちを書きだしました。張斯桂の詩と五姓田芳柳の絵とは同工異曲といえるようであります。中国の文人は西洋の生活文化に対しての反応がとても遅いのです。ここには彼らの好奇心もこめられていました。
叙事詩における日本の英雄
張斯桂などの筆によってふつうの東京市民の姿が歌われていたとすれば、黄遵憲の詩は日本の武士とか義士とか志士とかという英雄を中国人に紹介してくれました。明治10年の暮れから明治15年のはじめまで満4年間、黄遵憲は日本で生活を送りました。彼は当時の名士との交わりがかなり広範囲に及んだようであります。彼の「赤穂四十七義士歌」と「西郷星歌」と「近世愛国志士歌」の三つの叙事詩は中国の詩の歴史でははじめて外国の英雄を主人公とした優秀な作品であると思います。まず「赤穂四十七義士歌」を読んでみましょう。作品の前での序文は1300字の長文を用いて赤穂四十七義士の物語を紹介したのであります。日本には歌舞伎「忠臣庫」とか読本「忠臣水滸伝」などの多くの四十七義士をたたえる文芸がありましたが、黄遵憲の詩材は江戸時代の漢学者室鳩巣の書かれた「赤穂義士録」であるのではないかと思います。赤穂義士は1703年3月埋葬されましたが、その年の10月、つまり8ヵ月後、室鳩巣はすでに「赤穂義士録」を発表しました。原文は約15000字ぐらい、黄遵憲の序文はこれを粉本として改修したのではないかと思います。随分短縮され、原文の1/10になりました。「赤穂四十七義士歌」の構成も宝鳩巣の「赤穂義士録」の示唆を受けているようであります。宝鳩巣は有名な漢学者でありました。「赤穂義士録」には義士の復仇後の祭文を長く引用しました。これは中国の史伝の書き方の影響だと認められます。宝鳩巣は本当にその時の祭文をみたかどうかは知りませんが、このような書き方は直接に義士たちが士を前にする時の心持を表現するには素晴らしい手法であります。祭文では復仇の起因、決意と経過はつぶさに回顧されました。黄遵憲の「赤穂四十七義士歌」の序文はこの祭文の大部分がそのまま引用されました。それに詩の%は祭文の形式で書かれました。その冒頭は、
四十七士人同仇  四十七士心同謀。
一盤中供仇人頭  哀哀燕雀鳴 啾。
泥首泣訴囲松楸。
四十七義士は墓前に至って墓を囲んで跪坐して、故の内匠公の霊に告ぐのであります。「赤穂義士伝」の影響は明らかに存在しているといえます。ところが、「赤穂四十七義士歌」は「赤穂義士録」と対照すれば随分違うところもあるようです。まず集団英雄を強調すること。タイトルから四十七という数字を強調しました。この詩は全部516字だけでありますが、四十七という数字は8回現れました。四十七義士がみな心をあわせて、共同の敵に憤り立ち向いて妻子を棄て親戚を離れ、やっと敵を殺して、それから一緒に自殺しました。このことは黄遵憲の心をゆさぶっていたに違いありません。中国の歴史の中では英雄輩出だったといえますが、このような大勢の人々が集団的な復仇することはめったにありません。それに四十七士の死生観を強調すること。黄遵憲の「日本雑事詩」の中では武士の暴力沙汰に対して肩をすくめましたが、ここには四十七士の復仇のために一身をささげたことを高く買いました。
臣等事畢無所求、願従先君地下游。
国家明刑有皐、定知四十七士同作檻事、
不願四十七士戴頭如贅疣、唯願四十七士駢死同首丘。
宝鳩巣の原文の中で「他日いやしくも徒らに恥を抱きて死せば、また何の面目ありて、以てわが公に見えんや」という簡単な言葉の意味しかありませんが、この点は必ず黄遵憲に感動をさせていたポイントだったから義士の死に臨み泰然たることを表現しようとしました。なお、義士復仇の正義性を強調すること。「赤穂義士伝」の中で義士復仇の動機は武士の忠誠と絡み合っているといえます。すなわち祭文で「臣らすでに君の禄を食みたればよろしく君の事に死すべし」といわれます。黄遵憲の士の中では主人の士には幕府の官員が仇をえこひいきしていたという原因もありました。従って四十七義士の復仇は主従関係より正気を伸ばそうとするのだと考えられます。一般にいえば日本のそれより中国人の主従観念は薄いと認められます。「主従は三世」という意識はない。それに対して人民のために害を除く英雄に敬服する気持ちをもっているのではないかと思います。ですから黄遵憲は四十七義士が一般の大衆に愛されているということを鋪陳しました。宝鳩巣の「赤穂義士伝」は義士の死後のことをこのように書いていました。部下の人これを聞き、往きて弔祭する者、日ごとに群れを成し、以て数月に至るも己まずみな流涕歔欷し、これを久しうして及ち去る。ところが「赤穂四十七義士歌」はこの部分にあたるところをかなりふくらませたように感じられます。
四七士性命同日休
一時驚嘆争歌謳。觀者拝者弔者賀者万花繞塚毎日香烟浮。
一裙一屐一甲一胄一刀一矛一杖一歌一画手沢珍宝如天球。
自従天孫開国首重天瓊鉾、和魂一傳千千秋、況復五百年来武門尚武国多育
到今赤穂義士某某某四十七人一一名字留。内足光輝大八洲、外亦聲明五大洲。
最後「赤穂義士の名は内には光がきらきら大八洲に輝いており、外には五大洲に伝えわたっている」と締めくくります。つぎに黄遵憲の「西郷星歌」はいかなる作品であるかを考えてみましょう。明治10年の暮れ、すなわち1877年、黄遵憲が来日した時、西南戦争がおわったばかりでした。西郷隆盛についてのいろいろなうわさを聞いたのではないかと思うのです。民間に広く伝わった西郷星の伝説はその一つでしょう。その直前の新聞を読むとその伝説の内容は想像に難くない。明治八年八月八日の読売新聞に次のような記事が掲げられました。「大阪日報に、この節毎晩辰巳の方に赤赤色の星が顕れ、それを望遠鏡で見ると、西郷隆盛が陸軍大将の官服を着ている体に見えること、物干しで夜を明かす人もあると出てあります。」当時の伝説によると、「鹿児島で大敵を引受けた西郷様が、討死なすったから、その魂が天上へ昇って、一つのお星さまになりました。このお星さまを拝んだならばきっといいことがある」といわれました。西郷という人はどんな人物なのか、どうして西郷その人に対しての尊敬がそれほど深かったのか、この伝説は文学者である黄遵憲に強烈な印象をあたえたに違いありません。「西郷星歌」の著しい特色は西郷を神話的な人物として歌っている点であります。冒頭に西郷星のあらわれは天の意だと書かれています。つまり西郷の自殺は人間の迫害の結果でありますが、天は西郷のことをよく理解しているからその名を永遠に世界に輝かせているのであります。詩には次のような序文があります。
西郷隆盛が滅ぼされてからすぐ彗星があって日本の西南の方にあらわれた。国の人々はただちにこれを西郷星と呼んだ。
明治維新以前、西郷は幕府ににらまれて薩摩にのがれ、僧月照とともに入水しました。月照だけが死亡しました。このことに関して黄遵憲は西郷を神龍とたとえています。詩では次のようにいいます。
神龍はもともと西海からやってきた神龍本自西海来、海の中に飛びこんで死なずに魂は招き返されてきた踏海死招魂回。
どうして黄遵憲は西郷を神龍にたとえているのか。まず、中国の古代神話によれば神龍は天に登られます。西郷が入水しても無事に生きているのは彼には神龍のような不思議な力があるからでしょう。しかも中国の古代神話の中では神龍は皇帝の権力の象徴であります。西郷が尊皇攘夷と明治維新に大きな役割を果たしました。明治維新の中で西郷の活動について、黄遵憲は多くの賛辞をつらねて高く評価しました。ですから、西郷を神龍にたとえているわけです。
西郷は西南戦争を起こしましたが、敗れて自殺しました。「西郷星歌」が西郷の自殺を描冩したのは中国古代の英雄項羽のような悲しさであります。項羽という人は武装蜂起し、秦の王朝を滅ぼし、劉邦と覇権を争いましたが、垓下の戦いに敗れ、自ら首を刎ねて死んでしまいましたが、その時、敵はその死体を奪い合い、最後に5人はおのおの項羽の死体の一部を手にいれました。中国のある詩人は「将軍の身は五つに分けられた、将軍の頭は千里を走った。という詩句をつくりました。黄遵憲は西郷を日本の項羽とみなしていました。詩の中で直接に西郷を項羽にみたてて次のように描冩しています。
十二萬の軍は同日に死んだ十二萬軍同日死、ああ大きな星はすぐに地におちた嗚呼大星遂殞地。将軍の頭は千里を走った、将軍之頭走千里、将軍の身はいつつに分けられた、将軍之身分五体。骨は集まって山になり血は川になり、聚骨成山血成川、嘆きの息は風になり涙は雨のごとし ■■為風涙如泪。
詩の結末に黄遵憲は西郷隆盛を当代に並ぶものがない英雄としてほめたたえています。
永遠な星よ 君に酒一杯をすすめる 長星勧汝酒一杯、あなたは 世にも稀なる英雄である 一世之雄曠世才。
言うまでもなく、西郷は自殺したので項羽のようなことがなかったのですが、黄遵憲は項羽を描写する詩句を蹈襲しました。あきらかにこれは意図な引用であると思われます。作者は西郷を項羽になぞらえ、西郷の罪は許されるべきものであると主張しています。中西進先生の言葉を借りて言うならばこれは引喩としての典故であります。黄遵憲は明治維新以後の日本の進歩の早さが世界でも未曽有であったといい、中国が日本の明治維新に学ばなければならないと認めました。ですから、黄遵憲の考え方によると、西郷は悪事を働いたものですが、やはり明治維新の功臣です。人間は彼の罪を許さなくても天の神がそれを許します。彼は世間の罰を逃れることができなくても神様は彼に寛容です。本当に神様を信じていたはずはありませんでしたが、黄遵憲の本心は西郷の改革の精神が中国の社会には必要だといいたかったのではないかと思います。黄遵憲の評価が正しいかどうかは別として「西郷星歌」に作者の明治維新をほめたたえるという態度がふくみ込まれているのであります。「西郷星歌」の傾向からその真意を簡単にいえば西郷の物語を通じて明治維新の成功とか日本社会の進歩とか日本の改革をほめたたえることに重点がおかれ、中国の改革に導きたいという点にありました。

まとめていえば、中国の古典詩に早くあらわれた日本人のイメージは日本の僧侶と学者のイメージでありました。時代は8世紀の唐でした。勤勉で一才能にすぐれた日本の僧侶と学者は熱心に中国の学者とつきあって、中国の文人に喜ばれ、中国の学者と仲のよい友達になりました。贈答詩の特徴は友達に対するこころからの関心と理解を表現した点であります。風俗詩の内容は土地に特有な風景、風俗などであります。日本にかかわりがある風俗詩は、14世紀にもありましたが、その中で一部分は現実より資料のほうによって作られたのです。明治維新以後、日本に行く中国の文人と留学生がますますふえてきました。従って日本人の服装、習わし、物腰、きれい好きなこと、礼儀が正しいこと、風雅を好むこと、なまものをたべること、などが詩に歌われていました。中国詩人は日本人と異なる文化背景をもっています。詩は彼らの目から見た日本の文化を示してくれますので、中日比較文化研究には参考になる資料ではないかと思います。同時に日本の維新志士の姿も中国の詩にあらわれてきました。黄遵憲の「近世愛国志士歌」の中では江戸時代の13人のことが歌われています。
山県昌貞(柳荘、1725-1768)敬義学者
高山正之(彦九郎1747-1792)勤王家、寛政三奇人の一人
蒲生君平(秀実1768-1813)江戸時代の先覚者
林子平(1738-1793)幕末の海防論者、経世家
深川星岩(1789-1858)詩人
渡辺華山(1793-1841)南画家
佐久間象山(1811-1864)幕末の学者、開国論者
吉田松陰(1830-1859)幕末の志士、教育家
月 照(1813-1858)京都清水寺成就院の住職
浮田一恵(1795-1859)江戸中期の画家、志士
黒川登幾(1806-1890)江戸末期の女流歌人
佐倉宗五郎(1605-1653)江戸前期の百姓一揆の指導者
つまり、とりわけて幕末の勤王者、経世家、先覚者、開国論者がいるのみならず、僧侶、画家、漢詩人、歌人などもいました。黄遵憲は、このような多くの維新志士がいなければ日本の維新は不可能であっただろうと思いました。その詩をつくる目的は、ただ中国人の改革への志向と勇気を引き起こそうとするためでしょう。日本の古代文学は中国文学の影響を受けながら日本の独自の文学を形成しました。この分野の研究はいろいろと進んできました。一方、千年以上の歴史の中には中国人が日本人に学ぶところもありました。文化交流というものが両国の発展を促進することができるということは疑いのないことでしょう。とくに中国の近代文学と文化の発展を検討すれば、日本文学の影響が非常によくわかります。中国が日本に学ぶ〜これは近代の中日文化交流史における大きな特徴であり、また、中国の近代文化の発展の推進に見逃すことのできない役割を果たしました。最近、この問題は真面目に取り扱われてきました。これもさし当たっての課題になるでしょう。
 
日本語の起源 / 日本語・韓国語・甲骨文字

 

我々は、ここ一世紀、日本語が世界中のどの言語と同系なのか、その起源はどこにあるのかについて追究してきた。しかしながら、世界の多くの言語が、日本語の同系語を求めるために比較されてきたが、何の定説を見ぬまま漂流されているのが今日の日本語の状況である。
では、このような状況に至った原因は一体どこにあるのか、それについては、様々な原因があると思われるが、卑見では、何よりも日本語と比較される言語の深い研究が行われていないのが主な原因であろうと思われる。それに日本語自体の研究においても、単語の類型論的な観点から見る、単語族の研究が余り行っていないこともひとつの原因になるであろう。
ということで、これからの研究は、古い時代の日本語及び、比較される相手の言語の単語族についての徹底的な研究を行うべきであろうと筆者は信じる。
このような見解を念頭において、日本語の起源を辿るあらゆる方向から、先ず、日本語の数詞と一致されている高句麗語との関係、それに朔って、昔、高句麗語と関係があろうと思われる甲骨文(中国の東北部の渤海湾周辺に長らく生活しながら絵文字、象形文字、甲骨文等を創製した部族の言語)との脈絡を探るのが本論の主な課題である。
卑見では、この日本列島に初めて渡来されたのは南洋諸島の部族であろうと思われる。つまり、風等の影響でこの列島に漂着されたのであろう。いわゆる倭人という部族は、この部類であり、主に、魚類を主食とする部族である。
しかし、その後、日本の弥生時代以前から、この日本列島に多数の集団が絶え間なく渡来されてきたのは周知の通り、北方の大陸の部族である。この部族等は、紀元前遥か以前から天災、或いは人災によつて東南の朝鮮半島に移住し、又、朝鮮半島の内部にも同じことが起こって、終には、この日本列島にまで追い詰められたのであろう。
昔の移住の主な原因は、人災で、例えば、部族との争いで、負けると、必死的に逃亡しなければならない。捕えると、殺されるか、奴隷として一生を終えなければならないからである。例えば、民は、鋭い針のようなものに目玉を刺された盲の奴隷を表す象形文字である。従って、民の系列字である眠も目を閉じていることを表している。又、衆という字は、太陽が照っている農場で3人の奴隷が働いている模様を表している象形文字である。このような奴隷たちは、主に、政治を司っている側に反対した勢力で、捕らえて死ぬまで労働力に利用されたのである。
このような極限状況であるから争いに負けた集団は、必死的に逃亡せざるを得ない。黄河下流地帯、渤海湾周辺には様々な部族が割拠し、勢力争いが絶え間なく続けられたと思われるが、やがて、B・C1500年頃、この部族等を統一し、始めて近代国家的な国を築き上げたのは、周知の通り、‘商'である。商王朝は、約400年間続くのであるが、従来の絵文字を発達させ、王朝の占いを始め、様々な行事の記録に利用して、それを亀の甲や獣の骨に刻んで後世に残した。これが、かの有名な甲骨文である。
昔も今も人間集団の間では絶え間なく紛争がある。筆者の推定では、商王朝が誕生するとき、相当な部族間の紛争があったのではないかと思われる。それで、争いに負けて逃亡する人間は、主にその部族の上位階級の貴族たちであろう。
商王朝の独裁は歴史的にも有名であるが、特に、商王朝の末の王である王の横暴は、商王朝の滅亡を促すことになった。有名な酒池肉林という話は、この王の横暴に関する話である。国民に酒を醸させ、全国の美人を集め。真っ裸かにさせて、宴会を開く。この宴会では、商王朝に背いた民を次々と、火を焚いて真っ赤になっている釜の中に突っ込み、国民にその恐怖感を感じさせる。
このような商王朝の独裁の政治に耐えかねて、終には、朝鮮半島等に逃げこんできた商の国民も少なくないと思われる。以後、国民に背を向けられた商王朝は、商王朝の一地方藩に過ぎない周に滅亡されたのであるが、このときも相当な商王朝の王族、貴族らが、今の中国の東部、或いは朝鮮半島に逃げ込んできたと思われる。今日、商売をしている人を商人というが、その由来は、その昔、商王朝の滅亡によって、逃げてきた商の国の人たちがあちこち流浪生活をしながら、地方の特産物の物物交換の役割をしたことで、その名が今日に及んでいるのである。
以後、中国大陸では、数世紀間、戦乱が続くあいだにもどんどん逃げ込んできたことは、中国関係の史書にも記録されている。
以上のような人災、その他の天災らによって、紀元前何千年前から、黄河下流地帯及び、渤海湾周辺に長らく根拠し、生活してきた部族が朝鮮半島に流れ込み、その一部が又、日本列島に渡来されて、今日の日本文化の基礎を築き上げたと思われる。従って、この人類の移動に沿って、当然、その言語も日本語の中の一言語として残存されていることは疑いない事実であろう。
以上のような見解から、筆者の日本語の起源に関する研究は、先ず、古代の日本語の単語族を集め、それに、中国東北部、朝鮮半島に割拠した高句麗・百済・新羅の言語ら、これらに脈絡されると思われる黄河下流地帯、渤海湾周辺の部族の言語(甲骨文)らを合わせて総合的に考察してみようというのが筆者の研究方法である。そして、このような研究がどんどん積み重なっていくと、終には、日本語の起源が自然に浮き上がってくると思われる。
従来の日本語の系統論に関する研究は、このような研究が乏しいというのが、筆者の見解であり、今後の日本語の起源に関する研究は、その方向をどちらに向けるにしろ、徹底的な単語族の研究を行うべきであると信じ、次に、その一例を挙げてみることにする。
日本語のカヒ(峡・甲斐)について
三国史記、高句麗の地名に、
 海口郡、本高句麗穴口郡(穴口郡一云甲比古次)
と言う記事がある。
ここで、(穴口郡一云甲比古次)という記事が、たいへん示唆的で、つまり、高句麗語で、穴口を甲比古次と読まれたと言うことを、密かに表しているのであるが、これを、もう少し、詳しく解いて見ると、高句麗語で、穴を甲比と言い、口を古次と言われたことを表しているが、これについては、後述に譲ることにする。
一方、又、三国史記、高句麗の地名に、
 穴城、本甲忽・
と言う記事があるが、この地名の所在は、同じく、三国史記、巻三十七、高句麗の地名の、鴨緑水以北地名という記事によって、伺われるのであるが、ここは、高句麗が、半島に南下する前の地域で、今日の中国の東北部、所謂、満洲のどこかであろう。この記事によれば、南下する前の時期には、穴を、甲と読まれたことがわかる。
以上を、まとめて見ると、高句麗語で、穴を甲乃至甲比と言われたことが察知されるであろう。さて、この穴を高句麗語で、何と呼ばれたかを伺うに、この甲の字の再構音を調べて見よう。
甲:kap(Tung,T'ung−ho。Tと、称す。以下、同じ)・kp(Karlgren。Kと、称す。以下、同じ)1)
これを見ると、穴を、高句麗語で、‘kap'乃至‘k■p'と言われたことがわかる。‘a'と‘■'の差は、前者が、中舌母音、後者が、奥舌母音という差異だけで、あまり、その格差がないようである。
一方、比の再構音を調べて見よう。
 比:pied(T)・pier(K)
であるが、以上をまとめて見ると、甲は、‘kap'乃至‘k■p'、甲比は、‘kap―pied'乃至‘k■p'―pier'の如く読まれるようである。
一方、日本語では、ヤマガヒ(山峡)とか、マナガヒ(眼間)という言葉があって、このカヒという言葉の意味は、或る事物のアイダを表している。例えば、ヤマガヒ(山挟)は、山と山とのアイダ、即ち、谷間を指しており、マナガヒは、眼と眼とのアイダを意味している。つまり、中間半ばという意味を表す言葉であろう。すると、前述の、高句麗語の、‘kap'(kp)乃至‘kap―pied(kp―pier)'は、穴を意味しているが、この穴は、洞窟のような穴ばかりではなく、山と山とのアイダ(間)、つまり、山挟(谷間)を表しているのであろう。
さて、又、この、高句麗語の、‘k■p―pier'という言葉が中間という意味を表す言葉であることを裏づける、次のような記事がある。
三国史記、新羅儒理王、九年条に、王既定六部中 分為二 使王女二人 各部内女子分朋造党自秋七月既望(中略)…至八月十五日 考功之多少  負者置酒食 以謝勝者相与 歌舞百戯皆作 謂之嘉俳。
とある。この嘉俳という言葉は、陰暦の8月15日を指しているが、なぜ8月15日を‘嘉俳と称したかが、問題の焦点である。
中期韓国語で、陰暦の8月15日を‘kapai'(嘉俳)と呼ばれたことと、高句麗語で、穴(谷間)を‘kap― pier'と呼ばれたのを比較して見ると、何らかの関連があるようである。
結局、嘉俳という言葉は、8月15日を指す言葉ではなく、15日を指しているようである。それは、15日が、ちょうど、月の中間であることで、嘉俳と表したのである。
一方、中期韓国語で、中間を、‘kap―an―tai'というが、これを分祈して見ると、‘kap'は、中間を表しており、‘an'は、接尾詞、‘tai'は、場所を表す名詞である。即ち、中間の場所という意味を表している。慶尚道方言では、この中間を‘kap―un―tei'という。又、韓国の済州島方言に、筋・境界・分別(両方に分ける)を表す語、‘kap'という名詞があり、2)中期韓国語に、‘kap―ta'という動詞があって、この動詞は、穴のような地形に、水が溜まるという意味を表している。今日では、‘koi-ta'に変化されている。
以上をまとめて見ると、この、‘kap'乃至‘kap'という言葉は、15日、つまり、月の中間、筋・境界・分別という名詞と、穴のような地形に、水が溜まるという動詞として、使われているのが察知される。これらの中で、その基本義は、勿論、中間であり、この中間というのが、両物体の境界線・筋として、派生され、又、中間とか、境界は、両物体の分け目の位置にあることで、分別という意味に派生されたのであろう。又、水が溜まるという動詞は、高句麗語で、穴を表す名詞、‘kap(kap)'が動詞化されて、その穴に、水が溜まるという、新しい派生語を生み出したように見える。
以上を総合的にまとめて見ると、日本語では、中間を意味する名詞、カヒ(間・峡)があり、高句麗語には、穴・谷間を表す語があり、中期韓国語、その他の韓国語の諸方言では、穴・谷間・中間・筋・境界・分別という意味を表す名詞があり、穴に、水が溜まるという意味を表す動詞が使われているのが伺われる。
次は、以上のような、韓国語及び、日本語の単語群と、何らか、脈絡があろうと思われる甲骨文字の単語群を挙げてみよう。
間に挟むとか、はさまる(中間)という意味を表す単語群として、
 夾:kap(T)・kap(K)・kap(A)
 侠・挟:riap(T)・gip(K)・ap(A)
 峡・狭:ap(A)等がある。
先ず、夾は、ひとりの大人が、ふたりの子供にはさまれていることを表す会意文字である。従って、この文字は、あいだに挟むとか、中間にはさまるという基本義を表している。例えば、峡は、山間に挟まれている谷を表し、侠は、家釆にはさまれている親分を意味し、挟は、胴体と腕に挟まれている空間を意味している。又、狭は、物に挟まれている狭い空間を表し、鋏は、V型の模様の、両方の刃物に挟まれている空間がある器物を表している。又、は、二枚の外皮で、実を挟んでいる豆を表しているが、左右にある二枚の外皮は、V字形を成していて、両物体に挟まれている空間ということを表している。
一方、日本語のほおに当たる字、頬は、夾+頁の会意文字であるが、この文字の成り立ちから見る場合、この頬という文字は、ほおを表しているというよりも、顔を表しているのではないかと思われる。
というのは、この頬は、具体的には、鼻の下にある、溝のように窪んでいる正中線を指しているのであるが、顔という形態をよく見ると、顔は、この正中線を中にして、その両側に、顔の中に存在されているあらゆる物体が、左右対称的に並んでいるのが見られる。それで、この正中線の溝線は、両側に膨らんでいる頬に挟まれているのが見られる。
それに、又、日本語の‘kaf-o'(かほ)という名称を見よう。この‘kaf-o'を溯る場合、その原形は、例えば、日本語の‘f'を溯る場合、‘p'であろうというの定説になっていることで、‘kap-o'と仮定することができるであろう。もし、この‘kap-o'が容認されるならば、前述の、高句麗語の、穴を表す語、‘kap(甲)'、又、甲骨文字の、挟まることを表す語、‘kap'(夾)とは、音義両面において酷似しているように見える。このように考えて見ると、日本語の‘kaf-o'(かほ)という名称も、この単語群の一群ではないかと思われるが、もう少し考察を要するであろう。以上、日本語の‘kaf-i'(峡・中間)と、高句麗語の‘kap'(穴)・kap-pier(穴)、韓国語の15日を表す語、‘kap-ai'(嘉俳)、又、中期韓語の中間を表す語、‘kapan-tai'の‘kap-'、窪んでいるところに、水が溜まることを表す動詞、‘kap-ta'等、その脈絡が明確に見えるようである。
1)周法高(1976)、漢字古今音彙、中文大学出版社、香港、該当再構音参照。2)玄容駿(1980)、済州道巫俗事典、33,486頁等、玄平孝(1961)、済州島方言研究、精研社、114頁等、参照。その外、李南徳(1985)韓国語語源研究。梨花大出版部、220〜221頁にも触れている。
日本語の‘kuma'(熊)の名称について
日本語の、このクマという名称は、早くから、韓国語の‘kom'(熊)と比較されている単語であるが、一方、動物の名称としても、割合、古い時代の文献に記録されている名称である。例えば、「三国遺事」古朝鮮の記録にある、檀君神話の熊女の話とか、あるいは、「三国史記」地理志に出ている、今日の公州の古地名である、熊州らが、それである。
日本語の、この‘kuma'という名称は、一体、どこから来たのかと言うことを、これから、序序に、考えて見よう。
前述の、檀君神話の熊女の話は、この名称の起源を考えるに、かなり、参考になろうと思われ、その話を、ちょっと、登場させて見よう。
その話は、天孫である桓因の息子の桓雄が、太白山の檀木下に降臨した時、熊と虎が、その前に現れ、人間の女に化身されるよう訴えた。桓雄は、この訴えを受入れながら、その条件として、洞窟の中で、百日間、日光を見ないで過ごせよと言い、これを、是非、守ることを強調した。
しかし、結果的に、虎は、これを破り、熊は守って、女人になり、桓雄と結婚した。この二人の中から生まれたのが、古朝鮮の始祖、檀君である。
この神話に登場する、二人の対象は何かを象徴しているようである。「桓雄は、天孫、つまり、太陽の子孫であるから、光である。従って、それの配匹になるためには陰(暗黒)でなければならない。」ということを、秘かに暗示しているのである。言い換えれば、光明と暗黒の相対性と言えよう。
一方、「三国史記」巻36に、
 熊州、本百済旧都、神文王改為熊州。
とあり、又、近世朝鮮朝の初期に編纂された「龍飛御天歌」には、この熊州(熊津)を'koma-nara'と記録されており、「日本書紀」には、久麻奴(kuma-nuri)と書いてあるのが見られる。
この記録を見てもわかるように、熊を、近世朝鮮朝の記録では、‘koma'、日本では、‘kuma'と称している。
この川は、今日の忠清南道の公州の公山城の後方(北側)に流れている川で、公山城は百済の政治の地所である。結局、この川を‘koma-nara'と言うのは、この治所の後方(北方陰側)(koma)の川(nara)という意味を表していることがわかる。
一方、韓国語に、暗黒の意味を表す語、‘kam・kem・kom・kum・kmu'があり、又、晦日を‘kmm'と言うが、これは、暗黒の日(月光のない日)であることを物語っている。
又、鏡道と平安道の半ばを貫通している、赴戦嶺山脈の北側にある高原を蓋馬(kab-mwag)3)と言うが、これは、‘kama'即ち、陰地を表しているようである。
鳥類にも、黒色を表す、このような名称が反映されているようである。例えば、烏を‘kama―kwi'と言うが、‘kwi'は、よく、動物の名称の語尾につく、名詞の語尾であり、‘kama'は、黒色を表している。その他、‘kama―ori'(黒鴨)の‘kama'など。
日本語では、黒色を表す語に、‘kum―'系と、‘kur―'系があるようで、例えば、‘kum―'系は、‘kum―o(雲)・kum―u(雲一鯛部・隠)等、‘kur―'系は、‘kur―o(黒)・kur―a(暗)・kur―e(暮)等がそれである。Kur―'系は、後考に譲ることにして、結局、日本語の‘kum―a(熊)と言う名称は、正に、この黒色を表す、‘ku―'系のクループの一族として、名づけられた名称ではなかろうかと、思われるのである一方、韓国語の‘kom'(熊)とは、当然、同源であろうことは、以上の考察で、十分察知されるであろう。
最後に、この熊という上古漢語の上古音について調べて見よう。
B。karlgrenの上古音の再構音を見ると、gium4)と、再構されてある。これは、実に、注目に値する。日本語の‘kuma'と酷似されていることがわかる。この上古音が、中古音に至っては、‘jiung'に変化されるが、この韻尾の変化は、上古漢語の侵部が、魏晋南北朝時代に至って、侵部と冬(東)部に分離され、韻尾が、‘-m'である、熊・風等の字音は、東部に所属されて、‘―ng'に変わったことが、中国語音韻論の諸研究で確認されている。
ここで、この‘gium'(熊)という言葉は、どこの言語であるかが問題になる。上古漢語であろうか、或いは、中国の歴史書で言われている、所謂、東夷の言語であろか、或いは、その他の第三者の言語であろうか。今のところ、この問題の明解は、多少、無理ではないかと思われるが、しかし、この熊字が、象形文字であるから、少なくとも、周秦以前の、夏商(殷)時代の言語であろうことは、推して考えられると思われる。
日本語の‘kuma'(熊)、韓国語の‘koma'(熊)という言葉は、実に、古い言語と言えよう。筆者は、日本語の、この‘kuma'(熊)のような、このような古い言語が、数多く潜められていると信じ、考察を進めている。日本語の‘kuma'は、韓国語の‘koma'(熊)よりも、もっと古い言葉であることが、この考察でも伺われるが、このように、単語によっては、日本語の方が、古いのがあると言うことは、方言周圏説の如く、島と言う環境の影響であろう。
3)・4)周法高、編(1975)、漢字古今音彙、中文大出版社、香港。董同禾・B。karlgren等の該当の再構音参照。5)丁邦新(1975:247)魏普音韻研究、中央研、歴言研、台北。その他、厳学君(1984)、周泰古音結構体系(稿)、音韻学研究、中国音韻学研究会、北京。に、侵部唇音或圓唇舌根音声母可使*e変u同時又由異化作用使韻尾*−ngと述べている。
日本語の'kuru-'(回転・囲い)について
日本語において、‘kuru―ma'(車)とか、‘kuru―wa'(廓)と言う、‘kuru―'が表す基本的意味は、回転・囲いであろう。
日本語で、例えば、クルクルとか、グルグルと言う、回ることを表す擬声語も、この単語族であろうと思われるが、本考は、この回転・囲いを表す‘kuru―'と言う単語群が、どのような言語と関わりがあるのかと言うことを追究して見たいと思う。
先ず、韓国語では、回転することを表す語、‘kuri−ta'と言う動詞があって、上述の日本語の回転を表す語、'kuru―'或いは、クルクル(グルグル)とは、恐らく、同源であろうと思われるが、その他、蒙古語の、囲むことを表す語、‘kuriyen〜kurigen'の、‘kuri'、又、通古斯諸語における、囲いを表す語、例えば、Ev。'kure'、Orok。‘kurei〜kureyi'、Lam。‘kure'、Neg。‘kuri'Ma。‘kuran〜kuren'等の接頭語、‘kur'系とは、音義両面において、酷似している。
一方、中国の歴史書である、‘魏書東夷伝高句麗条に、“溝婁者句麗名城也”と記録されてある。つまり、溝婁(kuru)は、城なりであろう。それで、学者によっては、これを、満洲語の、‘gurun'(国)に比定されることもあり、日本語の、‘kofori(郡)に、或いは、韓国語の、‘keβer'(郡)にも比定している。
又、一方、上古漢語(或いは、東夷語か)においても、囲いを表す語を調べて見ると、次のような言葉がある。
上古漢語の分類法に従って分類すると、先ず、陰類に、
(1)。回:gwer(K・Ch)Ch:周法高。以下同じ。
(2)。囗iuer(A)A:藤堂明保。以下同じ。
陽類に、
(1)。郡:giwen(T・K)
(2)。圏:kiwen(T)
入類に、
(1)。国:kwek(T・K)kuek(A)
のような言葉がある。ここで、陰類の言葉を、ちょっと、考えて見よう。回は、小さい囲いの外側に、大きい囲いを描いた象形文字である。K。と、T。は、この回の上古音を、‘gwer'と再構している。これは、正に、日本語の‘kuru'とか、‘guru'、或いは、韓国語の‘kur'に酷似されているのが見られる一方、通古斯語諸語の‘kur'系の諸語とも相似ている。
又、囗は、囲いそのものを表す象形文字である。それと、A。の再構音が、■iuerになっているが、喉頭音である、頭子音、‘■'は、その響きが、軟口蓋音の‘g'或は、‘w'と似ている点らを考慮すると、この■iuerも、回の音、‘gwer'に近い音韻であろうことが伺われる。
次に、陽類の郡であるが、この文字は、君主(君)が、四方に巡って、民衆に号令すると言う意味を表していることで、一種の巡り(圓)を意味し、これに、おおざと(邑)が加わって、或る円形の区画を表している。
又、軍は、外側を取り巻く、(とりまく)+車の会意文字であるが、古代の戦争は、車で、圓陣を成すのが一般のやりかたで、軍は、圓陣を表していることがわかる。例えば、量が、薄曇った日の太陽と月のまわりの円線を表していることからも、その意味を伺うことができるであろう。
次に、入類の国と言う字であるが、国は、或る囲い(囗:区画)を、ほこ(戈)で守る領域と言うことを表しているので、これも、圓形(区画)を表している。
以上の、上古漢語(或いは、東夷語か)の、各類における、囲い(圓形)を表す語を調べて見たが、陰類の回:gwer、□uerが、前述の、諸言語が表す、‘kur'系と、その音義が、ほぼ、似ているように見える。結局、この‘囲い・回転'を表す、‘kur'を語幹とする、この言葉は、黄河下流地帯から満洲、朝鮮半島、日本列島に至るまで、幅広く、使われていることがわかるであろう。
では、一体、囲い・回転を表す、‘kur'系の、このような言葉の根元は、どちらの言語であろうか。今のところ、この問題の解答は、難しいことと思われるが、それはともかく、このような現象は、大まかに言うと、人類の移動と、それに伴う接触に因って拡がる、一般的な現象と言えよう。
筆者の推測では、特に、日本語の中には、この‘Kur'系のような単語が数多く潜められていると思う一方、このような単語を考察する文献資料としては、何よりも、甲骨文字、或いは、上古漢語の諸資料であろうと信じる。
この問題の発展については、今後の研究に任せるべきであるが、ここで、確認しておきたいことは、魏書東夷伝の‘高句麗条である。
溝婁者句麗名城也つまり、高句麗語で、溝婁は、城と名乗るなり。の城は、一体、何を指しているのであろうか。
歴史、考古学の考察によると、昔の大陸の城は、日本の城の如く、建築物ではなくて、主に、山城である。敵の来襲をよりよく防ぐための、天然的な地域を選んで、そこに地所を作り、政治を司りながら、国民を保護すると言う、このように、政治的、地域的中心地になっているのが、一般的な城の模様である。従って、高句麗語の、この溝婁と言う城は、かなり広範囲の地域を指していると思われ、つまるところ、‘kuru(溝婁)'は、一種の広範囲の囲いを表していると推測される。
このように解釈する場合、高句麗語の溝婁(kuru)と言う言葉は、日本語の囲いを表す‘kuru-wa(廓)'の‘kuru'と、何か、親近関係があるように推測されるのであるが、明解は、今後の考察に期待して見ることであろう。
 
和歌の起源

 

今回の私の発表のテーマは、大き過ぎるように聞こえるかも知れません。しかし、私は和歌の起源の問題がいかに大きく、無尽蔵なものである事かをよく認識しているつもりです。今、日本の方々の前で、このようなテーマで発表するのは僣越かとは存じますが、私にとりまして一番興味深い点、日本文化の研究と、自分の文化経験から来る印象を重ねて、私の考えた事を述べさせて頂く機会を得て、まことに嬉しく思っております。

和歌の起源は各国の詩(ポエトリ)と同じように、大昔の神話と儀礼の時代に逆るのは云う迄もない事です。アリストテレスの言葉を借りて云うと、神話の世界は「光のように意味のエネルギーによって照らされています」。どんな文化においても、その世界がそれからの歴史、文学、エチケット等の主な文化的意識と、文化活動の源と成って来ると考えても差し支えありません。神話の世界は、どこでも構成上の類似した要素で成り立っていますが、神話の世界に源を持つ各国の文化は、それぞれ独特の姿と性格を持ち、そして、それは時代と事情の変化に応じて、前代の遺産、詩的思想、詞の転義的な使い方、昔から続く意味のエネルギーを変貌させながら、成長して行くと思われます。そして、文学もこの一般的な傾向に従って、文化の一部であり、その文化に一番ふさわしい、又は望ましいパターンを選んで、各自の営みを行なうと考えたいと思います。
ロシアの文化に属している私にとって、日本の和歌の歴史の最も珍しい特徴と云うのは、一体、そのポエトリの様々な性質が世代から世代へ、連続して伝えられてきた事です。又、その上で、フォクロア的古代歌謡や儀礼に伴う歌と和歌との多様なつながりが存在しているのも疑い無い事であると考えられます。そう云う事は一般に知られているし、多分、日本人にとって当前のことなので、あまり不思議とは思われないかも知れません。しかし、ロシアの詩は随分違った歴史を持っています。なぜかと云いますと、ロシアの詩はフォクロアの世界から文学の段階へ移動する経過が連続的と云うどころか、反対に、その形式、語彙、リズムと韻律までも根本的に変化して来ました。例を上げますと、ロシアの民謡の韻律は音節に基づいたものです。文学時代の始まりと共にロシアのポエトリはアレクサンダー詩の形式を借りて、抑揚格を持つ六つのシラブルのグループや12、又は13音節の句格をとり入れました。その新しい文学に属する詩が音節だけでなく、言葉の強弱のアクセントとの、両方に基づくように成り、更に、フォクロアの歌の特徴である、音楽的な性格をも失って行きました。フォクロアのメロスから文学のデクラメーションへの移行もまた、連続的でなく、質的に急転換して、行きました。それに対して、和歌は20世紀に入っても、歌の性格を保っています。ロシアの場合、民間伝承の歌と、文学の形式で記された詩の歴史は、二つに分けられ、違った道を辿るようになりました。その違いは、多分、和歌と自由詩との違いに等しいと云ってもよろしいでしょう。そういう理由で、私にとって和歌の古代世界とのつながりが本当に興味深く思われます。
私のこの説に対して、反論があるかも知れません。和歌の形成の過程も漢詩の影響の下に行なわれましたし、日本以外にも東洋の国々の古典的な詩は、多少、古代から近世まで、その主な性質を保持して来ました。ロシアのような、はっきりした折返点のない文学史は、日本文学以外にもあると云っても間違いありません。それはそうですけれども、私の考えでは、和歌の歴史の特長は次のようです。
1、和歌が外国文化の影響を受けた時期と、長い間孤立して発達して行った時期とがあった。
2、和歌の音節とジャンルの種類は比較的少なかったので、和歌の発達は外へ広がるのでなく、逆に、内包的になり、又、和歌の短歌としての形式にその内包性がより強化されて来ました。
そのために、和歌の細かい変化も明瞭になって来て、その上で、和歌は伝統的な日本の庭園のように、細やかな心配りの技巧を凝らした術を沢山考案して来ました。和歌は、フォクロアの世界からの多くの遺伝的要素を持ち、フォームとジャンルだけではなく、詩的な考え方も、語彙も、題も、度々「万葉集」の時代、又はその前の時代から伝わって来たものであると思われます。一般的に云えば、本歌取りと云う原則は日本文化のパターン、特異な彩りとなって、文学だけでなく、広く普遍的に観察出来る一つのカテゴリーとなると思われます。又、幸いな事に、以上の点の実例として文学以前の形から文学そのものへの過渡期の作品も現存しています。
以上の事柄を纏めて検討すると、古代の和歌の歴史は、ある程度、典型的、代表的な性格を持っており、和歌の動きと変化は文学理論上、外国の文学史の理解にも大きな役割を果しています。

多くの場合、文学は最初の段階に、古代の神話的、儀礼的な機能と役割を相続し、その機能の大部分は文学的意識の枠の中で変わって行きます。神話的な意識の範囲で神話の世界と人間の世界は同じような本質を持つものとされています。最初の文学と人間の世界の関係は、質を変えて、同一性でなく、相似性と成って、認識論上、二重のメタフォアのように成って来ます。儀礼の際、唱える言葉は神とのコミユニケーションの方法の一つであり、自然と他界の力を動かす方法でありました。初期の和歌も度々他界に訴えかけます。
他方では、文字で記す文学の発成と共に、新しい、もう一つの世界が出来上がります。その第三の世界は文化の記憶の中に存在する全ての和歌を組み合わせたものです。全体としてこの世界も魔術的な力を持っていますので、単独の和歌はこの世界と人間の世界を連結する道具となってしまうと考えられます。
儀礼の際、歌も呪いの詞も、祝詞も人間を宇宙、他界と結びつけました。それと同じように、和歌はその第三の世界、即ち、総ての和歌の世界と連結する為に、様々な手段を作成します。例えば、すでに行われた事柄は前例として古代文、即ち、神話や、宣命、祝詞に度々出て来ます。神話的歴史の主人公は前例の言挙げなしにどんな事もする気がありませんでした。なぜかと云うと、そのような前例は形式的、法律的な根拠とされていたからです。本歌取りも純文学的な意義の外、文化論の意味で、そのような機能を持っていたと考えさせて頂きたいです。その外に、本歌取りと云うのは若干の和歌を一つのグループに組み合わせる手段の一つでした。もう一つの手段は一見では見えない方法です。これは「記紀」即ち、「古事記」や「日本書紀」とか「万葉集」には出て来ない分類ですが、文化、文学の記憶、想像の中に生きていて、聞き手の意識に自然に浮かぶ事柄と仮定させて頂きたいです。この方法は、つまり、同じ歌枕、枕詞等を使う和歌は想像的なグループとなって、和歌の、いわば、想像上の地図で一定の場所、地帯を形成すると思います。このような地帯は和歌の特殊な手段と歌詞、又、いわゆる和歌の心、題、歌詠みの名前等を軸として成り立っています。それでそう云う地帯はお互いに交叉し合って和歌の世界を組み立てています。
古代歌謡と和歌の機能の共通点は、この外にも様々です。今は文学論だけでなく、文化論上も重要な、一般的な点を選んで見たいと思います。その点を明らかにするために「古事記」「万葉集」、歌物語の文学を比較して見ましょう。
一体、「古事記」の中にどう云う場合に歌謡が書き込まれているかと云うと、求婚、結婚、男女紹介、旅行前、旅行中、死ぬ前、食事の前、秘密のメッセージを伝える際、本人たる事を証明する際、等です。これら全部が儀礼的である事は当然です。「万葉集」の編集者も和歌が詠まれた事情を十分に注意しており、歌物語の中にも散文の説明が歌をめぐって述べられています。「万葉集」と歌物語に和歌が詠まれている多くの場は「古事記」と同様である事に注目すべきでしょう。例が多いですが、ここに申し上げたいと思うのは次の通りです。
記紀歌謡にしても歌物語の和歌にしても古代韻文文学としての機能を持っています。つまり、和歌や古代歌謡は祝詞と同様に、直接話法の特別な形式です。コミュニケーションが不可能とか禁止されている状況にも使える情報の手段です。云い換えれば、特別な場合のメッセージのチャンネルです。例えば「大和物語」148段、蘆刈りの伝説詞章に、津の国の難波に住んでいた夫婦が貧乏になり、女は京に行って、貴族の妻となりました。ある日、前の夫に会いたいと思い、難波に祓えをしに行くと云って、旅に出ました。難波に残っていた前夫は前よりも貧乏に成って、蘆を背に負った姿で女の御輿の前に現われました。そう云う事情で、前の夫は、御輿に乗っている女に供の人の前で話しかける事が出来ませんでした。しかし、和歌を書き、供の人に頼んで、女に捧げました。又、「伊勢物語」では、襖の向う側にいる女に話しかける事は礼儀正しくないのですが、歌を詠む事は別で、許されています。
和歌と、散文の言葉の機能、力と可能性の違いは平安時代の文学自身も意識していました。その意識の現われはあらゆるテキストの中に発見出来ます。例えば、「大和物語」に韻文文学である歌と、散文=歌でないテキストとの違いは、はっきりと表現されています。第四段に「京のたよりあるに、近江の守、公忠の君の文をなむ、もてきたる。いとゆかしう、うれしうて、あけて見れば、よろづの事ども、かきもていきて、月日などかきておくの方にかくなん。たまくしげ二年会わぬ君が身をあけながらやはあらんと思ひし。これを見て、かぎりなくかなしくてなむ泣きける。四位にならぬよし、文のことばになくて、ただかくなんありけり」。また、第122段の終りに、「かへし、としこ、いかなれば、かつ■物を思ふらむ名残りもなくぞ我は悲しきとなむありけり。ことばもいと多くなむありけり」。歌と言葉との区別は「古事記」に遡って、崇神天皇記に、「是に大彦の命、異しと思ひて、馬を返して、童女に問ひて曰く、汝が言ひし事は、何の辞ぞと云ひき。対へて曰く、言はず。唯歌ひつるにこそ」と、あります。
有名なロシアの20世紀のフォマリスト派の一人、エイヘンバウム氏は詩と散文との関係を「間断なき丁寧な戦争」と名づけた事があります。その戦争は文学の始まりのころから行なわれていると云う事です。ちなみに申し上げますと、私の考えでは、その戦争の最も激しくて面白い戦いは「大和物語」において行なわれていました。文学の段階に入ってから初めて「大和物語」に歌物語におけるテキストが和歌だけでなく、筋道を物語る散文もテキストでありうる事を確認されています。そのため「大和物語」の作者はあらゆる手段を使っており、その歌物語は平安後期の偉大な文学作品の出現を準備した段階であったと思われます。今日は時間の関係で「大和物語」の事は省きます。古代歌謡と和歌の機能の比較に戻りますと、古代社会では歌そのものは一定の人間の印、標識、符号であって、人間の属している種族、社会における等級などを表わし、人の名前やその衣服の様に、取り除く事が出来ない性質を持っていました。例えば、「古事記」の神武天皇記の伊須氣余理比賣に求婚する場面で、仲人の大久目命が歌謡の形でその地位と権力の範囲を証言します。その場にふさわしい歌を歌ったからこそ、姫は結婚に承諾するわけです。歌物語においても和歌の力で、物語の筋道が方向を転換する場合が頻繁に起こります。又、人間のアイデンティティを確認する和歌も出ています。例えば、「「よをそむく苔の衣はただ一重かさねばつらしいざ二人ねむ」と云ひたるに、さらに少将なりけりと思ひて…」(「大和物語」)。
それで、神話的意識の名残りは色々な古典的和歌に生きていて、言葉(散文)と言霊の入っている歌の区別がその一つであり、和歌を人の独特な印として使う事も、その一つであると思われます。

文学の世界に入ると、文化は前の機能と意味を変貌させて行きますので、神話的社会から続いて来た意味の中に、この文化に一番重要なことが文学の特徴にも成っています。日本文化は花の文化、植物の文化なので、植物は普遍的な、そして文化的なコード、暗号となって、「万葉集」の時代に入ると植物界は文学的な手段として、世界の普遍的な指標と分類の道具となります。住之江の松や、三室の杉等の神聖的な意味を持つ植物の名は空間の道標となり、季節による植物の変化は時間を計算する文学的方法となって来ます。又、時期の長さを意味する植物の名もあります。例えば、「いつ藻の花」は「何時(いつも)」に掛けて、「いつも来ませわが背子」と云う意味に使われています(「万葉集」)。
植物は神秘的な力を持ち、植物の根は地下の世界、黄泉の国に通じ、隠れている、見えない物に近づく可能性を秘めています。例えば、「万葉集」の「わが下心木の葉知るらむ」。その他、社会的、心理的状態の指標として若草、古草、夏草、「万葉集」の「君に似たる草と見しより…」、又、名のり、名のりそ、思ひ草、忘れ草、笑草等の詞は人間界の分類の制度を組立てています。
面白い事に、有名な山上憶良の旋頭歌は「萩の花尾花くずばな撫子の花女郎花又藤袴朝顔の花」はその構成で呪文のようです。少くとも、ロシア語に訳するなら、本当に神秘的な呪文となります。訳する事の出来る詞は「又」しかありませんので。日本の文化における植物と云うテーマは全く広く、無尽蔵なので、ここで全部を申上げる事が出来ません。止むを得ず、これでこのテーマは止めておきます。

植物の問題に続いて、次に来る問題は視力です。視力と光、明るさは神話的世界では同意語であり、同じように、盲目と闇、又、不可視性(目に見えないこと)も同意語となります。視力は呪術的な力を持ち、伊邪那岐命・伊邪那美命は国生みの時に、「天の御柱と八尋殿を見立てたまひき」と云う事で、また、天皇たちが国見をする際に天皇は国土を視る事によって、混沌を防ぎ、国の安定と豊かさをもたらしています。「万葉集」の長歌に「わが大君…国見ればしも山見れば高く貴し川見ればさやけく清し…」とあります。視力は詞の呪術的な力と同様であります。また、祈年祭の祝詞にも「神魂、高御魂、生く魂、足魂……御名は白して、辭竟へまつらば、皇御孫の命の御世を手長の御世と、堅磐に常磐に齋ひまつり……四方の国を安国と平けく知らしめす…」とあります。視力と言霊はこの点でよく似ているものと思われます。
死んだ人、他界の人を見る事もタブーであり、伊邪那岐命と火遠理命は見てはいけないというタブーを犯して、妻を見たので不幸な事になったわけです。中世に見越し入道の伝説がありました。その伝説では、旅人がその入道を見ると、彼は背が大変高くなって、旅人に襲い掛かるおそろしい他界のものとなります。見越しと云う言葉の意味は深いです。伊邪那岐命と火遠理命と同じように、二つの世界の境界を越えて見る事を意味します。又、中世の屏風に描かれたその入道は一つ目で、それは元来の神話では盲目だった、と云うのは目に見えない存在だった折の痕跡で、他界に属する印です。視線の力で、ものを他界から人間の世界へ移動させ、変化させる可能性は文学の中にも名残りとして伝えられていると思います。視力でものを変貌させる事は文学では「見立て」となり、例えば、「万葉集」に、「照らす日を暗に見なして」「花と見らむ白雪」等があります。
和歌の世界における他界との関わりのもう一つは、私の考えでは、形見であると思います。形見は死んだ人や別れた人を思い出す手がかりであるようです。普通、形見は鏡、衣、衣の袖、櫛等で、そのすべては神話の世界で人の身代りとなるものであり、形見として使う事は当然と思われます。20世紀まで形見分けと云う習慣があり、死んだ人の服を親戚の中に配り、それは死んだ人の魂を配ると云う意味とされていました。形見を見ると、人の秘密を知る事が出来ます。形見を大事にし、時にはわざと将来のために形見を作る場合もありました。例えば、「会はむ日を形見にせよと手弱女の思ひみだれて縫へる衣ぞ」。そのような身に直接につける形見の他に、もっと珍しい、他界とつながっている形見の機能を果たす物があります。それはいなくなった人の視線が当たった場所であると思います。例えば、「わが宿の秋の萩咲く夕影に今の見てしか妹の姿を」(「万葉集」)。また、魔術的な力を持つ物も形見の役割を果す事が出来ます。そのような物は他界と人間の社会を結ぶ仲介物です。その中には植物(根によって下の世界と結ばれていますので)や、山(「万葉集」4367「筑波なをふりさけ見つつ妹はしぬはね」)、また、月や霞等があります。
文学において視力、視線の力は色々な風に表現されますが、ここではもう一つの場面について述べたいと思います。
旅行へ行く前に、無事で家へ帰るため、松の枝を結ぶ習慣がありました。私の考えでは、松の枝の外に、視力を使う場合もありました。例を上げますと、「万葉集」に「わが行く川の川隅の八十隅陥ちず万度かへりみしつつ」、あるいは、「この道の八十隅毎に万度かへりみすれど…」等です。八十隅に万度行なう顧みる動作の目的は、多分、無事で帰る事を祈る為であると思います。
帰ることのない旅なら、形見が正反対の機能で使われる場合もあります。例えば、斎宮が宮中から伊勢大神宮へ出発する日に、天皇は斎宮に「京の方ヘ赴きたまふな」と云って、いわゆる「別れの御櫛」を斎宮の額髪にで、請願となる天皇の言葉と共に、その櫛は永遠の別れのしるしとなりました。

和歌の一番古い手法も神話と儀礼に直接に結びついています。これはよく知られている事で、その手法の具体的な起源に関しては、多様な日本文学者の意見が沢山あります。時々、その意見や解説は対立していると云う気がしますが、普通、そうのような手法は長い歴史を持っていて、様々な場合に用いられ、機能的に多様化して行きましたので、解説は各々手法の一定のニュアンス、場面、ある時期に重要であった機能に適応しています。今申し上げたいのは枕詞であり、その神話的機能についての文献が豊富であることです。例えば、次田潤氏によると、枕詞の発生は祝詞と結びつき、他の学者は枕詞が元々諺のタイプの地方の措辞と考えています。小西甚一氏の意見では、もともと長い表現で、言霊を動かす目的で歌の始めに置く挿入文でしたが、雅と云う中国文学のカテゴリの影響で短くなって来たと云う事です。又、ある学者は、枕詞はある時期、タブーとして取り扱われていたと考えています。
私にとって、枕詞の研究の出発点となったのは平安時代初期の歌論、後にも引用する藤原喜撰の「大和歌作式」です。この作式に喜撰の書いているのは次のようです。「凡詠■物神世異名在■此。和歌之人何不■知■此。如■先可■云也」。それから喜撰はその神世の物の名の目録を記載しています。この有名な喜撰の神世の詞の目録はその後の歌論の手本となり、源俊頼も彼の「俊頼髄脳」にちょっとした変化を加えて喜撰の目録を載せています。俊頼によると、その目録は古代の万物の別名です。すなわち、10世紀頃から枕詞と名付けたその慣用句は特別の性格を持っている詞とされて、この詞は神代に使われて、神聖的な例となり、魔術的な言霊を自然に持つ詞です。大まかに云えば、文化には言語が二つあると云う事が一般の現象です。例えば、古代ロシアではロシア語の外にいわゆる教会スラブ語があって、その詞は、古い西スラブ族の方言に基づく宗教語、聖書の言語、聖者の伝記の言語等でした。中世ヨーロッパでは地元の言葉の他に特別な機能を果すラテン語があって、あるマレーシアの民族文化には喜撰の目録と同じように、神の詞と人間の詞の分別があります。その神代の詞はグループに分けられていて、その目録は次の通りです。
若詠天時 あまのはらと云
又なかとみのと云也 若詠地時 しまのねと云
又あらがねと云
若詠日時 あかねさすと云 若詠月時 ひさかたと云
若詠海時 おしてるやと云 若詠湖時 にほてるやと云
若詠嶋時 まつねひと云 若詠礒時 ちかなみのと云
若詠浪時 ちりくらしと云 若詠海底時 わたつうみと云
若詠河時 はやたづのと云 若詠山時 あしびきと云
若詠野時 いもきのやと云 若詠岩時 よこねしまと云
若詠高峯時 あまそぎと云 若詠峯時 さちつねと云
若詠谷時 いはたねと云 若詠瀧時 しらとゆきと云
若詠神時 ちはやぶると云
又ひさしきものと云 若詠潮時 うろしまと云
若詠倭時 しきしまと云 若詠平城京時 あをによしと云
若詠臣時 かけなびくと云 若詠人時  ものゝふと云
若詠民時 いちゞゆきと云 若詠父時 たらちねと云
若詠母時 たらちめと云 若詠夫時 たまくらと云
若詠婦時 わかくさのと云 若詠夫婦時 たひのねと云
若詠男時 いはなびくと云
又せなと云 若詠女時 はしけやしと云
又わぎもこと云
若詠人形時 はらへぐさと云 若詠下人時 やまがつと云
若詠海人時 なみしなと云
又からあかにと云 若詠鏡時 ますみのいろと云
若詠髪時 むばたまと云 若詠心時 てゝのなかにと云
若詠念時 わくなみのと云 若詠枕時  しきたへのと云
若詠衣時 しろたへのと云 若詠歳時 あらたまのと云
若詠月時 しまほしのと云 若詠日時  いろかけと云…‥
この喜撰の目録は、疑いもなく、宇宙論であって、宇宙の主な要素や、その神代の名は二つずつグループに組 み合わせて、そのグループが44となります。又、詠まれるものも上の詞と下の詞二つずつグループを組み立てています。それは、天−地、日−月、海−湖、嶋−磯、浪−海底、河−山、野−岩、高峯−峯、谷−滝、神− 潮、倭−平城京、臣−人、男−女、海人−鏡、夜−夢、橋−旅、別−常、鴬−蛙、實−木、暁−京、蜘蛛−猿、雲−霧、雪−浅、新−和琴、等です。天地、男女、倭−平城京のような組合せは当然の事として聞えますが、海 人と鏡の結びつきは何でしょうか。本当に鏡が海人族の文化に関係があるかどうかは謎のままです。又、この目録によりますと、鴬と蛙の結びつきは、和歌にとって本体的なものであり、貫之の序より先にここで出て来ます。又、もう一つの謎めいた一対は神と潮で、海に関わっている神と云う意味でしょうが、どうしてこの目録に神として海の神だけが入っているのでしょうか。その目録は沢山の謎を含んでいます。
今その神代の詞に当って申上げたいと思うのは、神代の詞そのものの部分です。その記述的で、比喩的な慣用句は、一応、斎宮等に使われる忌み詞によく似ていて、その形式ではタブーみたいな表現です。けれども、タブーだったら、和歌にタブー視された詞は、その許されている代理の詞と並んでいる事は変ではないかと思われます。むしろ、そう云う慣用句と名前は癒着したパズルの部分ではないかと推定させていただきたいです。
パズルと云うと、申し上げたいと思うのは、所謂宇宙的パズルで、イニシエーション儀式の際使われるテキストと考えたいのです。そう云う文章は普通問答形式であり、その一番典型的な例はインドのヴェーダ系の Brahmodjaタイプのパズルで、謎の答えの順番は喜撰の目録のと同様に、天、地、日、月を始めとして、混沌から宇宙の成り立ちを反映しています。そう云うタイプのパズルは論理とか自分の判断力を使って解くタイプでなく、儀式に参加する人は、最初から答えを知っているはずです。知っているか知っていないかと云う事実は、イニシエーションの時に調べる事の一つで、参加者は文化のコードについて堪能であるかどうかを確認しています。「出雲風土記」の国引きの神話に豊富に出る枕詞の使い方は、その詞の特別な宇宙的力を示すもので、この扱い方の根拠の一つに成りうると思いますが、この扱い方は、無論、枕詞の起源、機能、歴史の場面の一つに過ぎません。続いて、申し上げたいと思う事は、文学世界に入ると単独の和歌だけでなく、作品の構成のレベルも神話的、儀礼的な意味を文学的な手段で表すようになって来ます。「万葉集」の題は多くの場合、「古事記」において和歌を発表する場に似ていて、境界的な事情の場面が多いです。それは男女関係、旅行の前や途中、食事(宴会)等です。同時に、勿論「万葉集」の中に歌を詠む、個人的、純文学的なきっかけもたくさん現われて来ます。
又は、「万葉集」に一見で見えない、隠されたレベルにも、儀礼と神話の世界と同様の、宇宙の統一性が再現されています。「万葉集」の第11と第12の巻を読んで見ると、その中に「物に寄せて思を陳ぶる歌」150首があります。その歌には題がなく、全部の歌が二つの部分から成り立っています。一つはいわゆる宇宙的で、歌人の周辺を描き、もう一つは歌読みの個人の情けと訴えを表わす、いわゆる叙情的な部分です。第12巻の中の、寄物として用いられる物の名を順に追って挙げると、大体次の通りです。(1)衣(きぬ)、衣(ころも)、紐、帯、(2)鏡、剣、刀、弓、絡桀(たたり)、…(細かい偏差は略します)、(3)橋、小舟、田、(4)日、月、天、日、夕、(5)山、(6)川、池、沼、江、波、滝、海、(7)雲、霧、霞、雨、(8)岩、(9)色々な植物 (42首)、(10)朝影、(11)貝、(12)鳥の種類、(13)動物=馬、鹿、(14)御鳥などです。
その巻には、前に申し上げましたように、題がありません。けれども、巻の大体が明確に整えられており、勿論、これは意識的にされた事であり、文学のかなり進歩したレベルを示しています。おおざっぱに云えば、物事を目録にするのは文化の一定の段階の特徴であり、有名なホメロスの船の列挙がその例の一つです。現代の見地から見ると論理を欠いている目録しかない事で、連想として、ルイス・ボルヘスのある短篇小説が思い出されます。ボルヘスは世界に存在している犬の目録を古代風にして、その中に大きい犬、小さい犬、走っている犬等、又は中国の紙に細い筆で描かれた犬も入っています。しかし、その時の目録は世界観を表わす方法であり、世界に意味をつける手段の一つとして、哲学的な思想の道具でした。では、一体、12巻の構成で表わす世界観はどう云う事でしょう。すぐ眼につくのは神話の世界の主な点です。他の古典文学のテキストに比べると、(1)衣組と(2)鏡、弓、刀等は「延喜式」の祝詞に数え上げられる、神に捧げる物の目録です。それは、例えば、「御衣は、明るたへ・照るたへ・和たへ・荒たへ」「進る神財は、御弓、御大刀、御鏡…」「ひめ神に御服備へ、金の麻笥・金の端…」等です。それで、その意味ではこのサイクルの始まりは神への供物の影像を表わし、神に訴える様で、王朝の祭を反映しています。その次は世界の組み立てを描いています。最初に出て来るのは高天原の日と月、天、それから天の下の世界、と云いますと、まづは水のレベルで、文字通り、水準で、(6)海、川等、それからあらゆる降水は上と下を結び付ける垂直線です。そして、(8)岩から始めて、土に出ると、植物、鳥、動物の世界が見えるように成ります。同時に、最後の部分は祭の際、神々に奉る馬、神の使いとしている鹿と眞鳥(白サギ)を含んでいる事も意味のある事と思われます。サイクルの最後の和歌は「思わぬを思ふといわば眞鳥住む卯名手の社の神し知らさむ」であって、全部のサイクルの誠意を示す宣言書のようです。それに、その150首の和歌の中に、神と云う詞はその最後の歌に初めて使われると云ってもよいかと思います。前に一回その詞が出て来ますが、その前後の詞は「神さびて巖に生ふる松」で、神としての神は、その最後の歌に初めて現れて、いわば、この卯名手の社の神は総てのサイクルの捧げ物の対象とされているのではないかと思われます。
さて、構成のレベルも神話的意識を現わす事が出来ると考えられます。

次のテーマは和歌の起源の神話です。文学が自分の存在を自覚してから、自分の起源について考え始めます。それは当然で、早い段階の日本国家も自分の神話的起源を位置づけなければなりませんでした。そして、和歌の起源も神話風の説明を受け、神代に遡るように成ります。最初に和歌の起源の事情を記す文章は、多分、8-9世紀の歌学書、いわゆる和歌四式にあるはずです。和歌四式は漢文であり、中国の強い影響の下に書かれた作品です。然し、それにも関わらず、その中に地元、日本のメンタリティも、十分入っていると思います。中国文化なら文学の誕生が直接に、文と云う概念に結びつけられています。書かれた文字、占いの際、亀の甲羅に現われた文字、そのようなものが伝統的に文化の初めとされています。ある中国学研究者は仮定として云っているのですが、中国では言葉の成り立ちとプロト漢字、原始時代の漢字の成立が同時に行われていたそうです。ある学者は漢字の成立は言葉の発展を追い越していたと云う事まで云っていますが、それも、勿論、仮説に過ぎません。どうあろうとも、ともかく、日本文化の場合、文字でなく、聞こえる言葉が先であった事は明白であると思われます。中国で文は宇宙と共に発生します。和歌四式においての和歌の発生に対する観念はあくまでも神話的であり、具体的な神々と結び付けてあります。神話と云うものが一度限りに定められたものでなく、イデオロギーとともに変わって行きますので、その四式の中にも、そう云う変化を明瞭に見る事が出来ます。今知られている古代歌論の中で最初のものとされているのは藤原濱成の「歌経標式」で、772年頃の奈良時代後期の作品とされています。これは中国の影響が強く、和歌のスタイルや、歌病、押韻等の原則が設定されている歌論です。然し、影響と云うのはそっくりのコピーを意味するわけではなく、一見同じものでも、新しい文化に取り入れられて、その部分に成ってから、その文化においては、新しい要素と連結させるようになります。又はもっと発達した文化から何を選ぶかと云う選択そのものも、より若い文化の性格と姿によります。その姿の特徴こそ、選択を決める要因であると思われます。例えば、「歌経標式」の中に和歌の部分の区別と名前は中国風で、そのまゝ後世に伝わり、中世の歌学書にも現われます。1262年の「和歌伊呂波」にも和歌の句を頭、胸、腰、尾と表現しています。その詞は全体として、動物の像を組み立てるようです。そのような生物に近い姿は和歌と限らず、日本の古典文学に、それ以外にも出てくる考え方です。「出雲風土記」に「国之大體首震尾坤」があり、伝統的な読み下しは「くにのおおきかたちは、ひむがしをはじめとし、羊さるのかたををはりとす」とありますが、この読み下しは詳しい説明に似ています。ここに体、首と尾の意味は転義でなく、むしろ生き物の姿かたちを組み立てる言葉に近いと考えたいです。生物であるからこそ、ヤツカミヅオミツヌノ命は志羅紀の三崎に「国来--」と呼びかけて、国引きをしました。国の地方と島を生き物としている最初のテキストは「古事記」の国生みと思われます。「此の島は、身一つにして、面四つ有り。面毎に名有り。故、伊豫国は愛比賣と請ひ、讃岐国は飯依比古と請ひ、粟国は大宜都比賣と請ひ、土左国は建依別と請ふ」等です。御覧のように、この名前に男性と女性の区別がはっきりとされています。歌も生き物の一つとして、神々の創造です。したがって、中国から借りたものにも関わらず、文化の中に、いわば、重要な意味の彩り、あるいは、意味の連鎖となって来ます。
「歌経標式」と、次の三つの歌学書の権威は大きかったようです。式と云うタイトルの部分そのものも和歌四式の重要性を確認しています。これからの歌論は、大体、序、抄等と名づけますが、式なら法律全書みたいに聞こえるタイトルで、中世には「歌経標式」を濱成御言宣と云う事もありました。それで、和歌四式は最古の歌学書として、前例とされていて、その前例は神話的な性格を持っているのが当然であると思われます。
さて、その歌学書には最初に和歌を作った神の名前が上げられ、初めて、和歌の前例の事が設置されます。「歌経標式」は平安時代に、少なくとも二つの古写本として流布していました。一つは真本で、それから、平安後期にはこの真本を抄出した抄本とが共に用いられ、藤原清輔と俊成等が抄本を用いていて、定家と仙覚が真本を用いていました。
真本に、「臣濱成言。原夫歌者、所以感鬼神之幽情、慰夫人之戀心者也。……、韻者所以異於風俗之言語。長以遊之精神者也。故有龍女帰海天孫■於戀婦歌、味■昇天會者作稲威之詠。近代歌人雖長歌句、未知音韻」と書いてあり、抄本には「昔、自一橋之下男女定陰陽之義、八島之上山川分流岐の義。神明感猶寄詞於歌詠、精誡所應莫不資其謳吟。素盞烏尊之詠出編簡不朽。衣通比■之歌被管絃而猶存。」と書いてあります。さて、和歌の発生に関係がある神々の名は、纏めて云うと、伊邪那岐・伊邪那美、須佐之男、衣通姫、その他、龍女と天孫、云い換えれば、豊玉毘賣と火遠理命又は味■(味■高彦根の神)です。今迄に、その神々をめぐる神話の解釈がかなり多く、その解説と理論は時々矛盾しています。詳細は、省略したいと思いますが、珍しい事に、火遠理命を除いて、その神々の中で日向系と高天原系の神話の主な神は歌を詠んでいません。天照大御神、高御産日尊、邇邇藝尊は和歌を作りませんでした。多くの場合、前に申し上げた神の名と、その神の事を語る神話は、「記紀」の編集の前の時期にはあまり関係がなかったので、その神の所属は非常に曖昧です。仮定として、そういう分析の試みをしたいと思いますが、これは仮説に過ぎません。
大林太良氏の研究によると、伊邪那岐・伊邪那美はオセアニア系の神話の神々であり、須佐之男は出雲系、衣通姫は詠んだ和歌の内容から考えるすると、海人のような海と結びついている神と見てもよろしいようです。豊玉毘賣は海神の娘で、ワタツミは「新選姓氏録」によると、海人の先祖の神とされていました。海の王様の娘との結婚は、益田氏が書いているように、セレベスを源とする筋書きでありますのでアルタイ系の土着の神話ではないと思われます。その神話に天孫系の和歌が挿入されていますが、その理由は、多分、二つの違った神話のサイクルを結び付ける為かも知れません。それに、松前健氏の考えによると、火遠理命は元々隼人族の英雄でした。味■高彦根は大国主命の子で、出雲系の神ですが、記紀の編集の時に、大和系の神話の主人公となったと推測出来る可能性があります。
後世に和歌の神とされた住吉大明神は海神で、伊邪那岐の大祓いの時に産まれた三つの海神から成っていますので、三つの頭の竜神らしいと云う説もあります。竜神系の神話は、多分天皇族系ではないと思われます。そして、この一番最初に記された和歌の起源を物語る神話は天皇族の伝統でなく、稲作文化より、海運と、海産物に頼って生きる民族の伝統でありうるのではないかとの推測に達する事が出来ます。前に、神代の詞の目録にも神・潮と云う一対がありましたが、意味のない一対ではなさそうに思えます。
疑わしい推測から、また四式のテキストに戻りましょう。時代が変わると、初めの整えられた形式を持っている和歌の神話的作者も変わって行きます。
平安初期の藤原喜撰の「大和歌作式」へ移って見ましょう。喜撰も濱成と同じように、和歌の起源、と云うのは整理されていない古代歌謡から整えられた和歌の発生を一定の神に帰していますが、イデオロギーの変化と共にこの神は文殊師利菩薩となります。
文殊菩薩の選択は、疑いなく、偶然ではありえません。その菩薩の別名は梵語でManjughosaで、この言葉は「美しい声」と云う意味であって、もう一つの別名はVagisvara、と云うのは「言葉の主」であります。喜撰によると、「風聞、和歌自神御世傳而未定章句。隠人文殊現於聖徳御世撰字定三十一」です。その文章には濱成の取り上げた神の名は一つもありません。喜撰にとっては神代の和歌が未だ整えられていない、形式のないものであり、神代の歌は混沌の状態に近いと解釈してよいと思います。隠された菩薩が姿を現してからこそ、調和(ハーモニー)に達する可能性が出来たのです。
次の歌学書、孫姫の「和歌式」には衣通姫の名前しか出て来ません。和歌四式の最後の「石見女式」はきわめて興味深いテキストで、住吉大明神自身がその作者とされている事も珍しいですし、又、その歌学書に和歌の句、31の音節、各々、仏と神々に対応する制度が立てられていますが、今知られている「石見女式」のテキストは、多分、鎌倉時代末期の異文ですので、今はその歌論について申し上げない方が適当であると思われます。
尚、喜撰の「大和歌作式」から70年位経って、紀貫之の「古今和歌集」の序が現われました。この序文の中にも、御存知の様に、最初に歌を詠む神々の名前が出て来ますが、貫之の考え方は喜撰を無視して、和歌についての最初の歌学書と同じように、和歌の起源を菩薩でなく、神に帰しており、その神は下照姫と須佐之男の尊です。須佐之男は出雲系の神話に属していて、下照姫は大国主の娘でりて、出雲の女神と考えてよいでしょう。淑望の眞名序には下照姫の名前が出て来ませんが、須佐之男の後は「海童之女」と「天神之孫」が数え上げられています。注目すべき事に、貫之にとっては「みそもじあまりひともじ」が現われたのは「人のよとなりて、すさのをのみことよりぞ」と云うのです。「古事記」では神代が天之御中主から鵜葺草不合命までですが、10世紀のこの文人にとって神代は7代の神の時代に縮まっています。「古今集」では、初めて、和歌の起源が人間を連想させています。「古事記」に初めて人間が現われるのは出雲における須佐之男の神話の中です。そして、貫之が前の四式に出る神の中に須佐之男を選んだ理由は二つあると思います。第一には、神と並んで人間の役割を強調するためであり、第二には歌謡と和歌の一番強い伝統が天孫文化よりも、むしろ、大和国家の周辺文化の伝統から来るもので、須佐之男は「記紀」の中のあらゆる周辺文化の一番重要な神となっているわけです。歌は実際に出雲から由来しているか、海人族に遡るのかと云う問題はまだ確かに解決し難いと思います。しかし、四式によると、そのような可能性が全く無いとも云えないと思われます。
さて、今日、和歌と古代神話の世界のつながりを異なった場面を対象として検討する試みをして、和歌の起源に関して歴史的なアプローチと、神話的な考え方を少し取り上げてみました。
最後に申し上げたいと思うのは、古代の意識から、文学的、歴史的、個人的な意識に移り変わって来た日本文化は新しい性質を得て、中国の文化の影響を受けながらも、文学以前の時代からずっと神話の匂を持ち続けて来たと思われます。
 
しゃれことば

 

昔の人はしゃれ好きで、お互いにしゃれを言いあい、人間関係の潤滑油にしていた。今でもそれらの一部は使われているが、だんだん少なくなっている。
「空家の雪隠でコエがない」 空家の便所に肥がないは声がないにかけ、言う言葉がないこと。
「あんまの稼ぎでつかみ取り」 つかんで取るように元手なしにもうけること。
「アイスケーキ」 氷菓子―高利貸し・当世サラ金をさす。冷たい心にもかける。
「新しいきせるでつまらん」 新しいきせるはつまることがないをつまらんにかけて役に立たないこと。
「あてごととふんどしは向うからはずれる」 人をあてにしていると向うからことわって来ることが多い。
「犬のよそ行きでうっぷるい」 犬は外に出かける時は体をふるってごみを落す。着物を持たないことをいう。
「犬のチンチンぬけめがない」 何事にも注意深くてぬけめのない人をいう。
「ウマカッタ牛負けた」 おいしい物を食べた後にいう。
「馬んつの」 あるはずのないもの。「あの家に無いのは馬んつのだけ」と、何でも持っていることをいう。
「馬ん足を牛の足いする」 無理なやりくりをすること。
「馬ん小便でほれちょる」 馬の小便は勢いが強いので地面が掘れる。掘れるを惚れるにしゃれた。
「牛のくそだんだん」 牛のふんには段々がある。有難うを方言でだんだんという。「だんだん牛のくそ」
「うどん屋のかまでユばっかり」 うどん屋のかまの中は湯ばかりで言うばっかりにかけた。
「うんの悪さにへの臭さ」 うんこのウンを運命のウンにかけ、うんが悪ければへも臭いとしゃれた。
「柄のぬけたこえびしゃく」 下肥をくむ肥びしゃくの柄がぬけたら手のつけようがない。とりえがない。
「お宮のすずでふられっぱなし」 お宮の鈴はいつも振られている。相手からふられ続ける人をいう。
「おやじの着物で手が出らん」 子供が親の着物を着ると手が出せない。手出しのできないしゃれ。
「オジヤのさいで役立たず」 おじやにはおかずはいらない。あまり役に立たないことをいう。「モチのさい」
「小野の小町か穴なしか」 男ぎらいの女をひやかしていう。小野の小町にはあるべき所に穴が無かったという。
「女のふんどし」 商売で原価を割って損をすることを切れ込むという。女がふんどしをすれば切れ込む。
「鬼の死んだので行き場がない」 地極に住んでいる鬼は死んでも地極以外に行き場はない。
「柿の木のカボチャで目下り」 だんだん成績がおちること。柿の木に上ったカボチャは大きくなれば下るばかり。
「カラスの行水」 おふろに入る時間の短いこと。カラスの水あびはちょっと水をくぐるだけである。
「カマボコ」「ハンペン」 板についている。様になっている。結婚してすぐ妊娠したのをいう。行った月―板月。
「カッパの川流れ」 カッパは水泳が上手なはずなのに川流れになってしまった。上手の失敗をいう。
「カイコの小便」 カイコは桑の上で小便(幼児語でシイという)をする。桑にシイでくわしい。
「ぎんなん病」 ぎんなんはいちょう。で胃腸病。
「金魚」 金魚は煮ても焼いても食えない。「アイター金魚ンヨーナヤッチャ」という。
「クリのイガで総立ち」 クリのイガ(とげ)は全部立っている。会場の全員が立ちあがること。
「グリコのかんばん」 グリコのマークは両手を上げている。お手あげ。
「荒神のやけど水神の川流れ」 火の神である荒神がやけどをし、水の神の水神が水に流される。専門家の失敗。
「ゴミタメと金持ちは留るほどきたのうなる」 ゴミタメはごみ捨て場。
「こむそうがん」 あつかんの酒で吹いて冷やさないと飲めないような酒をいう。
「氷のてんぷら」 氷はてんぷらにはあげられない。さしあげられないのしゃれ。
「サルの祝言じ山い見えた」 山い見えた―見極めがついた。
「殿様ん墓」 殿様の墓は大きいので大バカ。庄屋どんの墨とも言う。
「小便た」 ご小便をするおけ。だれでもさせる。尻軽女の悪口。「共同便所」ともいう。
「かみしも付けたような」 かみしもは儀式の時つけるもの。形式ばった事をいう。
「死んだネコで何とも言えん」 死んだネコはニャンとも言わない。
「セミの小便」 木にかかる。気にかかる。
「雪隠(せっちん)の火事」 便所が焼ければクソも焼ける。ヤケクソ。
「竹の皮に小便」 バリバリ音がする。やたらといばる人。
「竹屋の火事」 ポンポンと竹がはじけるように言いたい事を言うこと。
「谷底の石」 これ以上落ちようがない。最低の状態。オテシコオテチョルと続く。
「ダルマさんのゴツ手も足も出らん」 またはお足(金)がない。
「つんぼに鉄砲」 おどろくことではない。少しも感じない。
「バクドの木登り」 バクドはかえる。出来ない事に努力するようす。「のび上がりのび上がり」
「びくにの小便」 びくには盲の女法師で色気も無い。お茶の色がうすいことの表現。
「ふろのへで五分五分」 ふろの中でへをひるとゴブゴブと上って来る。
「ふんどしの川流れ」 クイにかかれば離れない。食い始めたら止めない。食意地のはった人。
「ぼたもちのような」 外ずらが良い。
「屋根ふきのふんどし」 見上げたもんじゃ。
「やせ牛のしりげではづれがない」 しりげはくらからしっぽの根本をまわっているひも。やせ牛は骨が出ているのでしりげがはづれにくい。
「割木にぬれ紙」 やせた人の表現。
「両方良いのはほうかぶり」 ほうかぶりは両ほおが温かい。
 
仏教と和歌 「発心和歌集」

 

村上天皇の皇女に選子内親王という女性がいる。選子内親王は、賀茂神社の斎院という立場にありながら、長和元年(1012)八月「発心和歌集」を撰集する。賀茂斎院である内親王が編んだ「発心和歌集」とは、一体どのような和歌集なのだろうか。
2004年10月30日の19回古代言語蔵開の会では、一色知枝氏による「「発心和歌集」「普賢十願」歌の表現方法─第六番歌に注目して」の発表があった。ご発表では、「発心和歌集」「普賢十願」歌のうち第六番歌を取りあげて、題詞にあげられた経典の検討を通して、和歌の表現とその方法を考察された。
そもそも、「普賢十願」とは、ご発表レジュメによれば、普賢菩薩の十種の願「礼敬諸仏」「称賛如来」「広修供養」「懺悔罪障」「随喜功徳」「請転法輪」「請仏住世」「常随仏学」「恒順衆生」「普皆回向」を指し、「華厳経」の「入不思議解脱境界普賢行願品」に説かれているとのことである。また、この「普賢十願」は、当時、源信の「普賢講式」によって人々に浸透し、親しまれるようになったとする三角洋一氏の指摘も紹介された。
ただ、賀茂の斎院でもあった選子内親王と「普賢十願」とが、いつ、どのように結びつき、和歌集へと昇華されるに至ったのか、それは謎に包まれたままである。ご発表では、内親王を取り巻く人のつながりと源信の「普賢講作法」とのつながりから、内親王と仏教との結びつきが説明された。内親王の近親者には、内親王が「発心和歌集」撰集から十九年後の長元四年(1031)に斎院を辞して出家した際に戒を授けた叔父大僧正深覚がいる。また、「発心和歌集」「普賢十願」歌の題詞に引用された文句は、「大方広仏華厳経」巻第四十「入不思議解脱境界普賢行願品」の記述よりも、むしろ源信の著した「普賢講作法」の記述に近似することが指摘された。
以上のような手続きを踏まえた上で、ご発表では、特に第六番歌が考察の対象とされた。当該歌では題詞において「刹塵」であるものが「ちりのなか」と読み替えられ、まだ題にはない「たつとゐるとそ」という表現が用いられている。前者の「ちりのなか」は、他の和歌集における「ちり」の用例や白氏文集の「塵中」を検討からは、「場所としての世俗」としての意味合いを持つ傾向があること、後者の「たつとゐるとそ」は、他の和歌集の用例の検討からは、「物思いが心から離れない状況を示す」表現であり、同時に「立ち居」は「拝む動作」でもあることが指摘され、具体的に菩薩を敬う動作・心情の表現であるとされた。一色氏は、これらの考察を通して「発心和歌集」の第六番歌の表現は、菩薩の願をそのまま和歌の題材とするのではなく、経典や漢詩などから学んだ知識を盛り込むことによって、「菩薩の出現」および「それを敬う俗世の自分」という図式を創りだす方法が取られたと指摘して結ばれた。
「発心和歌集」の世界
「発心和歌集」とは、村上天皇の第十皇女・選子内親王が四十九歳の時、和歌による仏の結縁を願って編み上げた釈教歌集であり、漢文体の序文と仏典の一節を題とする和歌五十五首が収められている。一色知枝氏の発表は、その中の一首についての表現を問うものであったが、経典のことばが和歌に変換されるまでのあらゆる可能性が示唆されており、実に興味深い内容だった。
歌集の作者である「選子内親王」は、「大斎院」の名で知られ、円融・花山・一条・三条・後一条の五代、五十七年もの長きに渡り斎院をつとめたことと、彼女を中心とした文芸サロンの在り方が注目されてきた。「紫式部日記」には、その様子を伝える記述があるが、彰子や定子のサロンのように世俗の論理を気にすることのない「ただいとをかしう、よしよししうおはすべかめる所」あるいは「いと世はなれかんさびた」る世界と認識されていたようである。
三田村雅子氏は、この大斎院サロンについて、後の六条斎院媒子サロンのように、物語の批評や創作に寄与することがなかった理由として、現実の「性」に向き合うことのない自閉性や内にむけての批判・批評性のなさを指摘し、「創造するサロンではなく、消費するサロン」であると大斎院サロンを位置付ける。確かに大斎院サロンは、同時代のサロンのように華々しい文学作品(「源氏物語」や「枕草子」)を生み出すことはなかった。それは、サロンの中心である選子の心が「現世」よりも、強く「来世」に向いていたからではないかと思われる。選子は、母の死と引き換えに生まれ、父とは四歳で死に別れながら、父母の菩提を弔うことも許されない斎院の「宿命」を五十七年間身に受けた人物である。彼女が閉ざされた「現実」よりも、自由な「来世」に導いてくれる仏を希求し、禁忌を越えて日本で最初の釈教歌集となる「発心和歌集」を生み出したことは、やはりそのような大斎院サロンゆえに可能だった一つの「奇跡」のように思えるのである。しかし、仏教のことばと和歌のことば、漢語と和語の世界観が交錯するこの歌集の豊穣な世界は、いまだ正当に評価されていないのではないだろうか。
一色氏は、同じく「発心和歌集」の歌について考察した論文の注において、「「発心和歌集」について、選子内親王の信仰という面から論じた研究は多いが、全首に渡り解釈を示す先行研究は少ない。」と述べている。選子内親王の信仰の側面から論じた研究の中には、「発心和歌集」の序文を受けて、「女性としてのわが身に最も近い和歌(易行としての和歌)による仏道実践」と述べるものもあるが、経典の語句を和歌で歌うことは本当に「易行」だったのだろうか。経典の語句を理解し、自ら解釈した上で歌にする、という行為は、意味がわからずとも唱えればよい「念仏」よりも遥かに高度な「行」であるように思う。現在に至っても、釈教歌の解釈は、引かれた経典の語句理解に留まらず、他の説法や注釈書など、当時の受容形態も視野に入れる必要があり、困難を伴うものとされている。そのうえ、厳密に和歌表現や漢詩文表現と照らし合わせて考えるなら、なおさらである。しかし、一色氏は、このような困難に、果敢に立ち向かっているのである。
だいぶ遠回りしてしまったが、そろそろ本題に入りたいと思う。一色氏の発表は、「普賢十願」を題に持つ和歌の第六番歌(「礼敬諸仏」を題とする)「きみたにもちりのなかにもあらはれはたつとゐるとそゐやまはるへき」を考察の対象とする。この歌は、「普賢行願威神力 普現一切如来前 一身復現刹塵身 一々遍礼刹塵仏」をもとに詠まれたものだが、氏はまず「刹塵身」からどのように「ちりのなか」という言葉が引き出されてきたのかについて丁寧に検証する。「一身復現刹塵身 一々遍礼刹塵仏」の語句の意味は、「一身を仏刹極微塵数(塵のように無数)の身として現前させ、諸仏に対し一々謹んで礼拝する」というものだが、源信の「普賢講作法」では、「礼敬諸仏」を「法華経」方便品で説かれる「小善成仏」の一例で説明しており、そこでは「どんな状態にあっても念仏を唱え、頭を下げる行為を行うことで成仏の機縁とすることができる」と述べ、「刹塵身」は「散乱心」として説明されるという。さらに、氏は、和歌や漢詩文によまれる「ちり」の語や、仏教語としての「和光同塵」の検討を通し、「ちりのなか」という表現の実態に迫っていった。
以上のような氏の検討の中で、私は一つ気になることがあった。それは、当時の仏教では、「観想」が盛んに行われていたということである。源信は、「往生要集」の中で、定業・散業(純口承)・有相業(観想)・無相業(常行三昧)の四種の念仏をあげるが、特に有相業(観想)を中心に述べているという。「観想」とは、念仏とともに極楽浄土を想い浮かべ、阿弥陀仏の相好を心に観ずることだが、これが次第に阿弥陀堂の建築や聖衆来迎図の作成等、浄土教美術の発展に向かい、平安仏教を美的宗教に仕立てていった。
井上光貞氏は、このような美的陶酔的な「観想」を主体とする念仏の時代を、「藤原時代的浄土教」と名付けるが、選子も恐らくそのような時代の影響下にあったと思われる。
例えば、同じく「普賢十願」の第十一首歌「みな人のひかりをあふくそらの月のとかにてらせくもかくれせて」は、「請仏若欲示涅槃 我志至誠而勧請 唯願久佳刹塵却 利益一切諸衆生」を題とするが、直接経文の解釈とはなりえていない。しかし、歌に詠まれるような世界を、題から「観想」した、もしくは「絵」などから思い浮かべて歌にした、というような事は考えられないだろうか。「行」としての歌作を考えた時、文字テキストのみの検索では、捉えきれない「ことば」もあるように思えるのである。しかし、文学研究者である私たちは、まず文字テキストからしっかり検討していかねばならないことも確かだ。「発心和歌集」の研究は、まだ始まったばかりである。
一色知枝氏のご発表について
一色知枝氏のご発表は、選子内親王「発心和歌集」(長和元年(1012)撰集)の第六番歌についての考察であった。第六番歌は「普賢十願」歌の一首目で、「華厳経」「普賢行願品」の第一願「礼敬諸仏」を題としており、偈文の引用もみえる。しかし、内容を検討してみると、経典そのものを受容しているというよりも、説法や注釈書などの解釈に拠っていることがわかるという。一色氏は、具体例として、源信「普賢講作法」(永延二年《 988》撰述)の「普賢行願品」と当該歌を丹念に比較され、両者がその特徴的な部分で共通することや、当該歌が「普賢講作法」を踏襲しつつも、その上で新たな表現を生み出していることを証明された。この試みは、経典の文句から和歌が立ち上がる、その動態を、ほぼ同時代における他形式の受容とともに把握しようとするものであったといえよう。
今回、私が興味をもったのは、氏が当該歌を選ばれたことである。氏は、当該歌の表現に込められた、作者選子内親王の強固な信仰心にも注目されていた。選子は女性で、しかもかつて斎院として神に仕えていたという、仏教としては二重の罪障(成仏の障害)を抱えている。よって、「発心和歌集」は女性と仏教という観点から語られることが多く、選子が和歌を詠むことで自らの罪障と向き合い、信仰を形成していったさまが読み取られた。そして、その場合に素材となっていたのは、女人救済を主題とする作品であった。
第十六番歌「転女成仏経/消滅先罪業、当得大菩薩、果転女身、成無上道/とりわきてとかれし法にあひぬれば身もかへつべく聞くぞ嬉しき」は、無垢光女の成仏を説く「転女成仏経」(「転女身経」)、第三十六番歌「法華経/(中略)/提婆達多品/皆遥見彼、竜女成仏、普為時会、人天説法、心大歓喜/さはりにもさはらぬためし有りければ隔つる雲もあらじとぞ思ふ」は、竜女成仏を説く「法華経」「提婆達多品」に依拠する。両典は女性の供養や書写の際に用いられ、信仰の的になっていたという。近年の研究においては、両典にみえる変成男子による成仏、つまり女性は男性に身を変じないと成仏できない、という観念や、九世紀以降、両典が願文などにおいて受容されていく段階で、女人不成仏言説が生じたことについての指摘がある 。
このように、論点が仏教における女性差別観に偏りがちであるなかで、一色氏が「礼敬諸仏」を題とする当該歌を選ばれたことの意味は大きいのではないか。なぜなら、氏の解釈によると、一首の意は以下のようになるからである。普賢菩薩が無数の「塵」のなか、すなわち俗世のいたるところに身を現しているので、俗世にいる自分はそれを常に礼拝している、とは、救済を願う気持ちの強さが窺えるものの、特に女性の身を嘆いているわけでもない。女人救済に特化することなく、より広範な菩薩の慈悲がうたわれているのである。また、氏は、ここに描かれる祈りの所作が「「法華経」持経者の様子」であることを指摘されたが(一色氏レジュメ21頁)、それが選子自身のものであるとしたら興味深い。当時の女性については、尼寺が衰退したため、救済の対象にはなっても宗教者とはなりえなかったという見解や、あるいはそれに反して、女性の天皇や家内で夫の菩提を弔う女性たちの宗教活動を積極的に捉える立場がある。もし選子が、先に挙げた第十六・三十六番歌を詠むかたわら、当該歌において自身を専門的な宗教者としても認識していたとすれば、女性の信仰生活を考える上で、有効な提案ができるのではないか、と思う。
 
戦後の文学における敗戦の意味

 

一九四五年八月十五日、その日はいつもと変らずに明け、同じように暮れた。くりかえす自然の営みにおいて、それは決して特別の日ではなかった。人々にとっても、肉体的体験としてはすこしも特別の日ではなかったろう。けれどもそれは日本人にとって生涯忘れることの出来ない日となった。人々は自分の実感として、歴史のまっただ中にいることをまざまざと感じた。それはまさに歴史的な国民的な体験であった。もちろんその内容はさまざまであったが、むきだしにされた自分白身に直面し、国家について、歴史について、そしてまた人間について、それらすべて根本的な問を自らに問わなければならなかった。それは各人の生涯の転換点であり、新しい出発点であった。戦後の文学もこの日を出発点としたのであり、その日の意味をさまざまに追求している。
<戦争が終った。ー−それは不思議でも何でもない。戦争がいつ終るだろう?それは何百ぺん考え、何千べんつぶやいたことだろう。しかしまた、戦争が終ったーーそれは何と不思議な、とんでもないことだろう。>徳永直は「妻よねむれ」でそのような混乱した自分を表白するところから出発した。疎開先の農家の土間で、村人たちと天皇の放送を聞いた直は、その瞬間の村人たちの当惑と混乱と昂奮を伝えている。天皇や政府を信じ、すべてを失ってなお一生懸命な国民の激情のどこへ持って行きようもない噴出がそこにはあった。
徳氷直は転向作家であり、誇るべきなにものももっていなかった。戦時下の暗い日々の記憶も、語れば愚痴にしかならぬ。しかし直はそこから出発するしかなかった。戦争の意味を理解することも批判することもできず、ただそれが強いる犠牲ばかりを一身に負って生きなければならぬのが国民であった。直はわが身をそのような国民の場におき、そこから出発しようとした。戦争の末期に死んだ妻の生涯を、まぎれもなく戦争の犠牲であり戦死なのだとすることによって、そのように生き、そのように死んだ数知れぬ日本の女たち、数知れぬ国民の苦しみと痛みにふれていった。理屈で戦争に反対し、民主主義を主張するのではない。暗い時代に理屈はわからぬままに戦争にかりたてられ、その犠牲となった人間の痛苦の日々を追求することで、新しい時代のあるべき姿を見出そうとしたのである。
<お前はくらがりの中で生きてきた。死ななかったから生きているといったような生涯を生きてきた。おれをひくつで臆病な人間にしたような、人間と人間とのあいだをさえぎるくらがりの中で生きてきた。>直にとって敗戦はその<くらがり>をうち破り、新しい光をもたらすものであった。結婚早々から彼等を苦しめ続けた憲兵隊も特高も廃止された。巣鴨刑務所の古い友人から、外国人記者たちが共産党員を探し求めて訪ねてきたときの感動を伝えて来た。<海をこえて光がさしてきた。>そのことに直は感動し、直の過去にもかかわらず、戦後の運動への参加をよびかける<共産党員の愛情>に感動している。
直はアメリカ兵をはじめて見たときの感動を語り、アメリカ語をしやべれぬことをくやしがっている。<おれはかけていって、あのアメリカ兵たちと握手をしたい>というのである。<人間の世界は広いんだ。海のむこうにも数知れぬほどの人間がいる>と直は死んだ妻に語りかける。<信じあうことで、よき精神をたよりあうことで、命をかけた共産主義者、この世を住みよくしたい人々が何千万といるんだ。>直は戦後ひらけた明るい可能性、その光り輝く人間連帯の夢を、戦争下の暗い現実との極端な対照において語っている。
<いまはもうびっこひきひきだろうと何だろうと、たとえ弾丸はこびにでも、塹壕ほりにでもはせ参じなくてはならぬ。ざんげも決算も、いまはあとまわしだ。そんなもの死んでからだってかまわないようなもんだ。>直は転向の傷を負ったまま新しい運動に参加しようとする決意を語っている。しかしかつて卑屈で臆病で意気地なしであったものが、どうして今度はどんなことがあっても戦場を離れずにたたかい続けることが出来るのだろうか。直の決意はそれとして美しく、作者の主体的真実を疑うことはできないが、しかしそこには直ひとりの問題でない、戦後の日本文学にとっての重大な問題がある。
「播州平野」のひろ子は、天皇の声がたえるとすぐ「わかった?」「無条件降伏よ」と弟夫婦にいいきかせている。直に見られた混乱と当惑はここにはない。百合子はこの瞬間を歴史の大きな展望においてとらえ、その感動に<身内が顫へるやうになって来るのを制しかねた>のである。現実におし流され、自分自身を見失ってよろめきあるく愚かさのかわりに、常に歴史を見通し、あやまりなく生きたものの感動と自信がこの作品を支えている。ひろ子にとって敗戦は解放であった‥歴史的政治的な意味でだけでなく、十二年もの間、夫を待ち続け、眠れぬ夜々をすごした女として、妻としての実 感において、それはまさに解放なのであった。個人の個人としての感情が、そのまま歴史的であり得たところに、暗い時代を屈することなく生きぬいた人間の光栄がある。
ひろ子はただひたすら重吉において生きた。人間的社会的な自由が奪われ、<くらがりの中>で生きることを強いられた日々を、夫婦の結びつきを唯一の支えにして生きた点で、それは「妻よねむれ」と共通なものがある。しかしひろ子は重吉によって時代の荒波からわが身を守り、日本の未来と結びついた。その意味でこの二人の愛は、直の場合や、日本の幾百千万の妻たちの場合と区別される。彼等は時代に翻弄され、わずかに身を寄せあうことで辛うじて息をついた。「妻よねむれ」に直が書いているように、それは<くらやみの中を四つんばいするようなくらし>であり、<からだとからだをゆわえつけ、手足でしょびきあわねばおし倒されるようなくらし>だった。
百合子はしかし夫や恋人を軍隊にとられた幾百千万の日本の妻たち恋人たちの痛みと苦しみを、わが身の痛苦と重ねあわせてとらえている。軍隊と刑務所−同じ国家権力に夫を奪われたという点で、ひろ子は自分の苦しみを日本の女たちの心に結びっけた。同じように夫を奪われた女として、妻として、しかし現実におし流されることなく生きたひとりの人間として、その人間精神の高みにおいて、百合子は数知れぬ目本の女たちの苦しみと悲しみを思いやり、はげまし力づけようとしている。このような眼で百合子は混乱する日本の現実を見渡し、理解し、同情をもって描き出している。
山口県の夫の実家へ赴くひろ子の眼を通して、百合子は車中の混乱を描き、車窓に展開する廃墟と化した日本の姿を描いた。人々の心を結びっけるものが失われ、目前の小さな利害のために人々はばらばらになってしまっている。車中であった片脚の傷痍軍人はこれからの生活に不安を抱き、自分自身を見失ってしまっている。百合子は戦争が破壊したのは町々や家財などではなくて、実に人間の心であり生活なのだということを力をこめて書いている。一家の中心を失った重吉の実家の生活は干潟のように乾ききってしまい、いいようもなく<破産>してしまっていた。<剛毅を。剛毅を。ひろ子はそれが湧き出づる清水ならば、手に掬って、その人の口から注ぎこみたいやうに感じた。>片脚の傷痍軍人についていわれたこの言葉は、自信を失い、精神の支えを失い、感情を破産させて、右往左往する荒廃した日本人のすべてに向けていわれたのであったろう。
百合子は敗戦日本の混乱と破産の姿をのみ描いたのではない。たとえば燈火管制の遮光笠を明るくするための笠に作りかえた友人の工夫を、戦争の遺物を新しい戦後の出発のためにつくりかえる積極的な努力として、好感をもって描いている。また若いさわ子の生活に<廃墟の堆積物の間から咲き出てゐる一本のたんぽぽのやうな風情>を感じ、<伸びようとする一筋の抑へがたいもの>を見ている。作中くりかえして出て来る朝鮮人の姿には、独立の喜びと明日への希望があふれ出ている。そしてひろ子は敗戦の象徴のような洪水の山陽道を、鉄道が寸断されたために、一歩一歩あるいて行く。目の悪い男と足の弱い女が助けあって歩いて行く姿を百合子は、敗戦において、それはまさに解放なのであった。個人の個人としての感情が、そのまま歴史的であり得たところに、暗い時代を屈することなく生きぬいた人間の光栄がある。
ひろ子はただひたすら重吉において生きた。人間的社会的な自由が奪われ、<くらがりの中>で生きることを強いられた日々を、夫婦の結びつきを唯一の支えにして生きた点で、それは「妻よねむれ」と共通なものがある。しかしひろ子は重吉によって時代の荒波からわが身を守り、日本の未来と結びついた。その意味でこの二人の愛は、直の場合や、日本の幾百千万の妻たちの場合と区別される。彼等は時代に翻弄され、わずかに身を寄せあうことで辛うじて息をついた。「妻よねむれ」に直が書いているように、それは<くらやみの中を四つんばいするようなくらし>であり、<からだとからだをゆわえつけ、手足でしょびきあわねばおし倒されるようなくらし>だった。
百合子はしかし夫や恋人を軍隊にとられた幾百千万の日本の妻たち恋人たちの痛みと苦しみを、わが身の痛苦と重ねあわせてとらえている。軍隊と刑務所−同じ国家権力に夫を奪われたという点で、ひろ子は自分の苦しみを日本の女たちの心に結びっけた。同じように夫を奪われた女として、妻として、しかし現実におし流されることなく生きたひとりの人間として、その人間精神の高みにおいて、百合子は数知れぬ目本の女たちの苦しみと悲しみを思いやり、はげまし力づけようとしている。このような眼で百合子は混乱する日本の現実を見渡し、理解し、同情をもって描き出している。
山口県の夫の実家へ赴くひろ子の眼を通して、百合子は車中の混乱を描き、車窓に展開する廃墟と化した日本の姿を描いた。人々の心を結びっけるものが失われ、目前の小さな利害のために人々はばらばらになってしまっている。車中であった片脚の傷痍軍人はこれからの生活に不安を抱き、自分自身を見失ってしまっている。百合子は戦争が破壊したのは町々や家財などではなくて、実に人間の心であり生活なのだということを力をこめて書いている。一家の中心を失った重吉の実家の生活は干潟のように乾ききってしまい、いいようもなく<破産>してしまっていた。<剛毅を。剛毅を。ひろ子はそれが湧き出づる清水ならば、手に掬って、その人の口から注ぎこみたいやうに感じた。>片脚の傷痍軍人についていわれたこの言葉は、自信を失い、精神の支えを失い、感情を破産させて、右往左往する荒廃した日本人のすべてに向けていわれたのであったろう。
百合子は敗戦日本の混乱と破産の姿をのみ描いたのではない。たとえば燈火管制の遮光笠を明るくするための笠に作りかえた友人の工夫を、戦争の遺物を新しい戦後の出発のためにつくりかえる積極的な努力として、好感をもって描いている。また若いさわ子の生活に<廃墟の堆積物の間から咲き出てゐる一本のたんぽぽのやうな風情>を感じ、<伸びようとする一筋の抑へがたいもの>を見ている。作中くりかえして出て来る朝鮮人の姿には、独立の喜びと明日への希望があふれ出ている。そしてひろ子は敗戦の象徴のような洪水の山陽道を、鉄道が寸断されたために、一歩一歩あるいて行く。目の悪い男と足の弱い女が助けあって歩いて行く姿を百合子は、敗戦日本の廃墟と混乱の現実をくぐりぬけて、新しく出発する戦後の運動の端緒を象徴するものとして描いている。そこには苦しみと困難がある。しかしその中を一歩一歩あるいてゆくことによって、確実に解放の喜びに結びっくのである。  
たしかに敗戦は一面において解放であった。百合子は「風知草」に、出獄の同志たちを中心に新しい運動がはじまってゆく姿を、深い感動をもって描き出している。紙に書いてはり出された「赤旗編輯局」という五文字をひろ子はくりかえしくりかえし心に反覆する。それは<これまで日本ではただの一遍も通行人に読まれたことのない表札>なのである。真新しい感動を覚えるひとつひとつの経験は、暗い過去の記憶をよび起さずにはいない。そしてその過去の記憶が戦後の新しい現実に対する感動をいっそう深く新鮮なものにするのである。
しかしこの解放をもたらしたのは<海をこえてさしてきた光>であって、日本国民が自力で解放したのではない。それは敗戦であって、決して単純に解放であったわけではない。日本は完全に占領軍の支配下にあり、新聞・雑誌・放送等の言論や、映画・演劇にいたるまで、いっさいが占領軍の検閲統制を受けた。もちろんそれは政治犯を釈放し、治安維持法を撤廃した。そして天皇制国家権力を崩壊せしめた。しかし同時にそれは新しい占領行政のはじまりであった。たとえば原爆の被害について、都市爆撃の非人間性について、戦争裁判の偽善性について、そしてまた占領下に生きる国民の苦しみついて、書くことも表現することも出来なかった。占領政策の批判はおろか、占領軍将兵の個々の暴行をさえもあきらかにすることができなかった。
「妻よねむれ」は戦争末期の混乱を書き、八月九日のソ連参戦は日付までいれて記しているが、原爆投下についてはひとこともふれていない。「播州平野」でひろ子が夫の実家まで、あの敗戦直後の混乱の中をかけつけたのは、夫の弟直次が広島で原爆のために行方不明になったからである。しかし「播州平野」には<広島の未曾有の爆撃>という言葉が出て来るだけで、原子爆弾のことは言葉としてさえ出て来ない。ましてその被害のなまなましい描写など全然でてこない。夫をさがしてあちこち歩きまわるつや子は、まるで普通の行方不明人をさがして歩きまわっているような印象をしか与えないのである。
百合子はまたアメリカおよびアメリカ人にっいては、原子爆弾について書くのを避けたのと同様に、極力ふれることを避けている。当時は日本共産党も占領軍を解放軍として歓迎したのだし、「妻よねむれ」に見られるように、アメリカ人の明るさや、その民主主義を讃美するのが一般的風潮だったのだから、百合子の態度はこのような傾向に対する批判もしくは抵抗を示すものであったかも知れない。しかし諸都市を爆撃したのも原爆を落したのもアメリカだが、重吉たちを解放したのも占領軍である。占領軍や占領政策にふれずに「風知草」や「播州平野」の主題を展開することは不自然であった。またそれは敗戦日本の現実、敗戦と解放の矛盾を含んだ関係をリアリスティックに追及することを不可能にした。
すなわち戦争は終り、治安維持法は撤廃され、特高や検事局思想部は廃止され、そして刑務所の扉が聞かれて、共産主義者その他の政治犯は釈放された。このように何によってということがいっさい省略された結果、重吉たち共産主義者はその正しさのためにひとりでに解放されたかのような印象をあたえる。その結果、占領軍によって解放されたことから生ずる矛盾や、自力で解放を実現し得なかった日本国民の問題、重吉やひろ子たちを含めた共産主義者がどうして敗北せねばならなかったかについての自己検討等は、いっさい追及されないですんでしまっている。
占領軍の問題を消去することによって、重吉たち非転向の共産主義者は絶対化された。悪いのは戦争であり天皇制国家権力であった。それが崩壊した戦後の日本においては、そのもっとも激しい弾圧に屈することなく戦い続けた非転向の共産主義者は、唯一の正しい勢力として光り輝くのである。しかしその正しさは、日本の現実、民衆の生活からきり離され、牢獄にとじこめられて辛うじて守り得た正しさであった。思想として信念としての精神的な正しさであり、現実的な力としての正しさではなかった。それは現実にふれ、民衆の中に生き、そのことによって自らを豊富にすることができず、その反対に民衆にそむかれ、現実から疎外されて、孤立にたえて守りぬかれたのである。それは矛盾である。しかし避け得ぬ矛盾である。けれども百合子はこの矛盾を矛盾として追及するのでなく、それを絶対の正しさとして、自分自身をひたすらそれに結びつけようとした。
百合子はその正しさの高みにたち、日本の現実を遠く広く見渡し、その苦しみを大きな歴史の流れに位置づけて描き出している。そこに「播州平野」の大きな特微かあるが、しかしその反面、このような混乱の渦の中でもがき苦しむ日本人の生活の内部に深くはいり、敗戦の現実をその内部から描き出すことはできなかった。この作品の主人公であるひろ子は、日本の現実に生きるものとしては生きていない。ひたすら重吉において生き、重吉にむかって生きているのであって、他に対しては客人として、旅行者として接しているにすぎない。なるほど彼女は敏感に反応し、理解し、同情し、積極的なはげましの言葉をかける。しかしそこには具体的で現実的な生きた人間同士の関係はない。あらゆる具体的なできごとは常に全般的な考察と展望の中に解消されてしまう。人々は理解と同情と考察の対象であるにとどまり、ひろ子と同一の平面に対等の主体としてたち、全人間的存在として生きた関係をもつということは決してないのである。ひろ子から人々に働きかけることはあっても、人々からひろ子に働きかけることはなかった。ひろ子は戦後の現実に傷つき苦しみ、また傷つけあい苦しめあうその生活のひとつひとつの体験を通して自分の思想を形成し、真実の生活を探り求めようとしているのではない。真実の生活は重吉においてすでに保持されており、その重吉にたどりつくことこそ問題なのである。
徳永直は百合子と反対に転向者として泥にまみれて生きた。直は6 自分自身の暗い過去をほり返すところから出発しなければならなかった。しかし直の場合も戦後の解放が自力でなしとげられなかったことについての鋭い自己検討はされていない。自身の過去を語るのは、戦争の日々がいかに暗かったかを語るためであり、それによって自分を戦争の犠牲者として描き出しているのである。たしかにそれは一面において真実であったが、しかしそのようにして自分の過去を徹底して追及することを避け、自分を卑屈で、臆病で、意気地なしであったと全面的に否定し去るのは、責任を回避する擬態めいたものを感じさせる。それは戦争と天皇制国家権力を絶対化するものであり、そのことによって占領軍と非転向の共産主義者を絶対化するものである。転向した自分白身をも含めて、敗北した戦前の運動を徹底して追及するところから、日本の大地に根ざした運動のよみがえりを発見するのでなければ、一種の精算主義となって真実の再発足とはなり得ないであろう。それが転向という苦い体験をしたものが、新しくその体験を生かして運動に参加じてゆく道である筈だった。そうでなくて、自身の転向をひたすら時代のせいにし、また自分の臆病とか卑怯とかいうもののせいにするならば、結局かつてはひどい時代だったから駄目だったが、今度は天皇制国家権力がアメリカによって打倒されたから何とかやれるだろうということになってしまう。それは敗戦と被占領の現実を美化し、ひたすら占領軍に頼って解放を実現しようとする倒錯に陥ることをまぬがれない。
「妻よねむれ」においても、戦争の日々の暗黒と戦後の光明が対置されている。そして非転向の共産主義者を絶対化し、それと結びつくことによって、自分自身の過去から脱出しようとし、解放の夢と願いと決意を語ることによって、自分自身の現実と戦後に生きる民衆の現実をとびこえている。かつてプロレタリア文学の政治主義や観念的傾向を痛烈に批判して、民衆の生活の現実をその内部から描き出すリアリズムの徹底を主張した直であるのに、新しく開けた解放の可能性に目がくらみ、おのれの主体を深く検討するいとまもなしにかけだしたのである。もちろんこれは直だけの問題ではない。占領軍を解放軍として迎えた日本の解放運動全体の問題であり、敗戦日本の一般的光景だったのである。  
「妻よねむれ」や「播州平野」は、作者の暗い時代を生きた切実な体験と、敗戦を迎えてそこに新しい明日を思うあつい心に支えられて、それぞれにすぐれた文学的リアリティを獲得している。しかしそこに実現せられた文学的リアリティは私小説的なものであることをまぬがれなかった。敗戦日本が直面しなければならなかったいいようもない困難と不幸、その国民の現実は十分に追及され得たとはいいがたい。戦後の文学を検討しようとするときは、これらの作品が、個人的真実に支えられてはいるけれど、結局主観的であることをまぬがれなかった希望やよろこびのために素通りしてしまった問題の追及からはじめる必要がある。
敗戦が一面において解放であった事実を否定することはできないであろう。しかし国は敗れ、外国軍隊に占領され、数知れぬ戦死者、未帰還者があって、町々は廃墟と化し、国民は飢えに苦しんでいるとき、突如として日本には敗戦を讃美し、占領下の民主主義を謳歌する予言者や指導者が氾濫した。新聞や雑誌は昨日までとうってかわってこれらの人々の論説で埋められた。彼等はいずれも戦争に反対し、抵抗を続け、戦時下にあっても自己の真実を守りぬいたと主張した。しかしそれほどすぐれた戦士たちが数知れずいたのならば、何故日本はあのような戦争で破滅しなければならなかったのであろうか。必要なのは自己主張であるよりも、自己批判や自己検討であった。それを通してのみ日本の再生は可能であった。もしも自身の無力と敗北を自覚せず、徒らに自己の正当化に熱中し、あたかも勝利者のようにふるまうならば、その真理と光明にみちた議論は、ついに空語であることをまぬがれない。それは敗北を勝利にすりかえる阿Q的英雄の氾濫であったというべきである。
彼等は戦争と軍国主義を糾弾し、戦争責任を追及する。しかしそれは戦争がすでに終り、軍国主義が打倒されているからである。それは<冬の花火>のように<ばからしく間がぬけて>いはしないだろうか。しかし彼等は大真面目で<悲痛な決意>を示したりなどしているのである。太宰治は本当の自分自身というものを見つめることなく、いたずらに指導者ぶって、<肩をそびやかして、何やら演説してことさらに気勢を示している人たち>の偽善に反撥するところから戦後の文学的出発を行っている。<大戦中もへんな指導者ばかり多くて閉口だったけれど、こんどはまた日本再建とやらの指導者のインフレーションのようですね。>と「冬の花火」(昭21.6「展望」の女主人公はいうのである。
「パンドラの匝」の詩人は、時の政権に反対して山にかくれた中国の自由思想家について語っている。十年たって世の中が変り、彼は山から出て来て昔の思想を説くが、そのときはもうそれは<陳腐な便乗思想>になっていたのである。自由思想は時の権力に対するたたかいの中にその真実があり、それは決して固定した内容のものではあり得ない。<その主張は日々にあらたに、またあらたでなければならぬ。日本に於て今さら昨日の軍閥官僚を攻撃したって、それはもう自由思想ではない。便乗思想である。>と彼はいう。「冬の花火」は<……日本の国は隅から隅まで占領されて、あたしたちはひとり残らず捕虜なのに、それをまあ恥しいとも思はずに……>という女主人公の言葉からはじまっている。治は被占領の敗戦国という現実を直視することを求めたのである。<新現実。まったく新しい現実。ああこれをもっともっと高く強く言ひたい!>と治はいう。<そこから逃げ出しては駄目である。ごまかしてはいけない。容易ならぬ苦悩である。>(「十五年間」)十年前に覚えた定義を暗記しているだけで<新しい現実をその一つ覚えの定義に押し込めよう>としてはならぬ。それでこの<容易ならぬ苦悩>をすりぬけ、ごまかして指導者ぶってはならない。
<自分を駄目だと思ひ得る人はそれだけでも既に尊敬するに足る人物である。>と「十五年間」(昭21.4「文化展望」)に治は述べている。<もっと気弱くなれ!偉いのはお前ぢゃないんだ!学問なんて、そんなものは捨てちまえ。おのれを愛するが如く、汝の隣人を愛せよ。それからでなければどうにもこうにもなりやしない。>治が求めたのは自己革命であった。そこから出発するものでなければ、いかなる議論も言葉だけで生命のない<サロン思想>に終ってしまう。立派な言葉が横行すればするほど、日本の文化は堕落するのである。このごろの所謂「文化人」の叫ぶ何々主義も<発明された当初の真実を失ひ、まるでこの世界の新現実と、遊離して空転してゐるやうにしか思はれない>と治はいう。
治にとって八・一五はそのような自己革命の契機でなければならなかった。それはたんに敗北ではなくて、旧き日本と旧きおのれの滅亡であり、同時にその新生でなければならなかった。「パンドラの函」の主人公は世界が崩壊し、すべてが失われ、過去の一切がほろびてしまうのを感じ、そのことによって自分がすべてから解放され、新しく生まれかわるのを感じるのである。
「パンドラの函」は昭和二十年十月から十二月にかけて「河北新報」に連載された。それは戦争直後、多くの作家が未だ動揺と混乱に自分自身を見失っていた時期に書き続けられたのである。治はその動揺と混乱そのものの中に新しい生のはじまりを見出そうとしている。<古い気取りはよさうぢやないか。それはもうたいてい、ウソなのだから。>敗戦の日本に生きる肺結核の青年を描きながら、この作品は不思議な明るさと希望をたたえている。それは暗黒そのものを生きる人間の明るさであり、絶望の彼方に見出された希望である。治はこの作品において「かるみ」の世界を描き出している。それはすべての囚われからの解放である。<すべてを失ひ、すべてを得たものの平安こそ、その「かるみ」>なのだと治は書いている。<命を羽のやうに軽いものだ>と思い、そのようなものとして、刻々の命を愛するのである。
自分白身の無力と無意味を知り、虚無と暗黒を見つめるものだけが、そのような人間のささやかな生活を愛し得るであろう。そうしてはじめてその隣人を愛することができる。また自分の罪を自党するものにして、はじめて他をゆるすことができる。このような愛とゆるしの土台の上に立つのでなければ、いかなる主義も思想もニセモノであることをまぬがれない。治は敗戦がそのような自覚の契機となり、その自覚の上に新しい人間的な愛と連帯の世界が形成されるのを夢みたのである。
治は敗戦ののがれることのできない不幸や苦しみや悲しみや等々から出発しようとした。その絶望と暗黒は太宰文学の前提である。それは既成秩序や時の権力への反抗ではあるが、新しい未来の展望を拒否するものなのであった。崩壊そのもの、破滅そのものが美化され、憧憬され、そこにのみかすかにある生命のよみがえりが期待された。治のロマンチシズムは、敗戦日本の悲劇を一身に担う不幸と悲しみの象徴として、天皇を観念的に美化し、絶対化している。治はそこに十字架にかかったキリストを見たのである。
「十五年間」の末尾には「パンドラの函」の一節を若于訂正してかなり長く引用している。<真の勇気ある自由思想家なら、今こそ何を措いても叫ばねばならぬ事がある。天皇陛下万歳!この叫びだ。昨日までは古かった。古いどころか詐欺だった。しかし、今日に於いては最も新しい自由思想だ。十年前の自由と、今日の自由とその内容が違ふとはこの事だ。……>それは敗戦と被占領の日本の不幸と悲しみにふれることなく、敗戦によって復活し、占領下の民主主義を讃美し、何々主義だとか何々思想だとか、十年以上も昔の思想をそのままくりかえしているいわゆる「文化人」なるものに対する抗議であった。
治は「パンドラの函」において、あらゆる不幸と苦難と災厄の彼方、暗黒と絶望の彼方に、それらをくぐりぬけてはじめて得られるほのかな希望を探り求めたのであるが、戦後の日本の現実はそのような希望をうち砕く勢で進行した。あまりにも正人君子が多すぎたのである。自分の正しさを主張して、他人を責め、未来の光明を約束する「文化人」が横行した、誰ひとりとして自己の責任を追及するところから出発しようとはしなかった。もとよりそうした人々は沈黙を守り、自分の内部を見つめ続けるしかなかったのであろう。
治は「十五年間」に<「余はもともと戦争を欲せざりき。余は日本軍閥の敵なりき。余は自由主義者なり」などと、戦争がすんだら急に、東条の悪口を言ひ、戦争責任云々と騒ぎまはるやうな新型便乗主義>について書き、<いまではもう、社会主義思想さへ、サロン思想に堕落してゐる。私はこの時流にもついて行けない。>と述べている。
占領下の言論・思想・結社の自由を謳歌して、はなばなしい言葉が乱れ飛んだが、そこにはついに日本の真の現実、そのいいようもない不幸と悲しみ、その<容易ならぬ苦悩>にふれ、そこから生み出された新しい思想は見出し得なかった。それらは結局ふるい思想の復活であり、<この世界の新現実と遊離して空転してゐる>言葉だけの<サロン思想>の氾濫であった。<私たちのいま最も気がかりな事、最もうしろめたいもの、それをいまの日本の[新文化]は素通りして走りさうな気がしてならない。>と治はいう。古い時代は終ってはいない。未だほんとうの新しい時代ははじまってはいないのだ。<私はサロンの偽善と戦って来たと、せめてそれだけは言はせてくれ。>と「十五年間」におのれの過去をかえりみていう治は、戦後の日本に<サロン思想>の復活氾濫を見て<またもやヤケ酒を飲みたくなって来>るのをおさえることができなかった。
この十何年が<実に悪い時代だった>とするならば、そのことに<サロン思想>でしかあり得なかった思想の頽廃は責任がある。もちろんその責任を感じ得ぬところに<サロン思想>の<サロン思想>たる所以があるわけだが、そのような旧思想の復活は、戦前にもましていっそうひどい頽廃を日本にもたらすばかりであると思われた。<こんな具合ぢや仕様が無い。また十何年か前のフネノフネ時代にかへったんでは意味が無い。戦争時代がまだよかったなんて事になると、みじめなものだ。うっかりすると、さうなりますよ。どさくさまぎれに一まうけなんて事は、もうこれからは、よすんだね。なんにもならんぢやないか。>という「十五年間」のこの予言は、今日からかえりみて全く見当外れだったと言い得るだろうか。  
太宰治にとって、敗戦は古きもの一切の敗滅でなければならなかった。人はおのれの自負や気どりや欲望や、すべてを捨て去ることによって新しくよみがえらなければならなかった。<すべてを失い、すべてを得たものの平安>こそ、治の求めた新しい時代の新しい生き方であった。「ヴイヨンの妻」や「斜陽」の女人公たちは、そのような新しい人間の誕生として描かれたのである。しかしそれらは結局作者のロマンチックな夢の投影であるにとどまって、戦後の現実を力強く生きて行く逞しさと現実性をもたなかった。作者は生きる姿勢のようなもの、タッチのようなものは示しても、そのような生を具体的な内容と構造をもって示すことは出来なかった。それは治の思想的なたたかいが観念的な反逆にとどまり、現代に対する逆説的な問題提起ではあり得ても、現代そのものを領略する構造的な認識と思想をおのれの内部に形成することができなかったからである。所詮治は反逆から反逆へと、枕するところもなしに彷徨して、現実を破壊するかわりに、自分自身を破滅させるしかなかった。
「冬の花火」の女主人公は新芸術が<新現実を描かねばならぬ>とするならば、描かれるべきものは、上野駅の浮浪者の群であり、広島の焼跡であり、または<東京の私たちの頭上に降って来たあの美しい焔の雨>であるという。それらはすべてを失って新しく生きかえるよりほかに生きようのない敗戦日本の象徴であるが、それはまた戦後の被占領の日本において、徹底して追及することが避けられた主題なのであった。とりわけ<広島の焼跡>こそは、ただたんに敗戦日本の象徴であるだけでなく、現代そのものの矛盾の象徴であった。それは現代の十字架であり、そこからまさに人類の新しい時代がはじまったのである。人間は生まれ変らなければならなかった。もしそうでなければ人類の破滅はまぬがれることができない。しかしそのような生まれかわりは未だ実現せず、むしろ人類はさまざまな主義や思想を唱えつつ、その破滅への道をひたすらに、踊りつつ、笑いつつ、歩き続けているのではないか。そうであるならば戦争直後において治の提出した問題は、たとえそれが観念的であり、自己破壊を必至とするようなものであったとしても、今日なおいっそう切実な意味をもって迫って来ないではいない。
「播州平野」がまさに原爆をとりあげなければならぬところでそれを避けなければならなかったことの意味を追及する必要がある。それを避けたところで、またはそれを避けねばならぬことの問題性を深刻に追及することのないところで展開された民主主義文化は、やはりその土台の脆弱性のために崩壊せざるを得なかった。治はその問題を観念的にしか提出することができなかった。しかし大田洋子や原民喜など、直接それを体験しなければならなかった作家にとっては、そこから出発し、それと現実的に対決し、それをつきぬけるのでなければ、どのような生き方も、作家としてのあり方もあり得ないのであった。日本の敗戦のごまかしようのない現実を、彼等は生き、そこから出発することによって、戦後の文学が追及しなければならぬ避け得ぬ問題を、くらべようもなくなまなましい具体性と現実性をもって提起したのである。これらの作家にとって、戦後の日本の被占領の現実と、そこに実現された民主主義的解放の虚偽性は、まさに人間として死に、作家として死ぬことを強要する業苦の日々を意味していた。
「夏の花」の作者は、原爆にあって死をくぐりぬけたときの感動を、<今、ふと己が生きていることと、その意味が、はっと私を弾いた>と書いている。その時はまだこの空襲の真相を殆ど知っていなかったにもかかわらず、<このことを書きのこさねばならない>と心に呟いたのである。その激烈で異様な体験は、その意味もわからぬままに、作家の作家としての魂をよびおこさずにはいなかった。「屍の街」の作者は<涙をふり落しながら、その人々の形を心に書きとめ>ようと、この理解することのできぬ悲惨な現実をじっと見つめている。それを書くのは<これを見た作家の責任だ>と考えるのである。
しかしそれは決して単に<責任>などというものではなかった。それを書くことなしにはもはや作家であることができなかった。そこには文学上の困難があり、人間としての困難があり、被占領の現実という困難があった。それらはもはやその作品化を不可能とするばかりか、生きてゆくこと自身を不可能にするような困難であった。しかしそこから逃げだすこともごまかすことも出来なかった。ほかの作品を書こうとすると、<私の中に烙印となっている郷里広島の幻が、他の作品のイメージを払いのけてしまうのだった。>と、大田洋子は昭和二十五年冬芽書房刊の「屍の街」の序文に書いている。
洋子は<一九四五年の八月から十一月にかけて、生と死の紙一重のあいだにおり、いつ死の方に引き摺って行かれるかわからぬ瞬間を生きて「屍の街」を書いた>のである。寄寓先の家や村の知人に、障子からはがした茶色にすすけた障子紙や、ちり紙や、三本の鉛筆などをもらって、<背後に死の影を負ったまま、書いておくことの責任を果してから死にたい>と思いつめて書きつづったものだという。しかしこの「屍の街」は<個人的でない不幸な事情に戦後も出版することができなかった>と作者はその序文に記している。原子爆弾に関するものは科学的な記事以外発表できないというのであった。昭和二十三年十一月に発表されたときには、かなり多くの枚数が<自発的に>削除され、<影のうすい間のぬけたもの>にならざるを得なかった。<発表できないことも、敗戦国の作家の背負わなくてはならない運命的なものであった>と作者はいう。しかしそれがどのように残酷な、作家としてだけでなく、人間としても作者を破滅させるようなものであったかは、神経症で入院しなければならなかったときのことを書いた「半人間」その他で追求されている。
<私は人口四十万の都市が、戦火によって、しかも一瞬に滅亡する様をはじめて見た。その戦火が、原子爆弾という、驚くべき未知の謎をふくんだ物質によってなされた事実をも、そのときはじめて知った。原子爆弾症の凄惨さも、人間の肉体を、生きたまま壊し崩す強大で深いものとして、始めて見るものであった。>(傍点引用者)作者は原爆の体験を<何もかもが生れてはじめて見なくてはならなかったものであり、それを見なくてはならなかったこと自体、悲惨であった>という。未だかつて経験したこともなければ、想像することさえできなかった異様な事態に突如としてつきおとされた。もはやどんなことが起ろうとも不思議とは思われなかった。それはすでに人間の次元を超えた体験だったのである。
<気がついたとき、私は微塵に砕けた壁土の煙の中にぼんやり佇んでいた。ひどくぼんやりして、ばかのように立っていた。><なぜ生きているのだろう。ふしぎであり、どこかに死んだ私が倒れていないかと、ぼんやりした気持であたりを見たりした。>「屍の街」はその瞬間をこのように書いている。それはもう戦争ではなかった。「私」はもしかしたらこれは世界の終るときに起る地球の崩壊なのかも知れぬと、ぼんやり思ったりしたのである。
<あたりは静かにしんとしていた>と作者は書いている。新聞では<一瞬の間に阿鼻叫喚の巷と化した>などと書いたが、これは既成観念で書いたので、<じっさいは人も草木も一度に死んだのかと思うほど、気味悪い静寂さがおそったのだった>という。日頃は慾深な人たちも、持てるものも見捨てて出ていった。それは<心をうしなっている>状態だったからだと作者は書いている。<このしびれたようなうつろさは、その後もながく、三十日も四十日も経ってからも、ほとんど変りなかった>という。<私どもは壊滅した町を歩いても、なんの感じもまだ起らなかった。あたりまえのとき、あたりまえのことが起きたように、びっくりもせず、泣きもせず、だから別に急ぎもしないで、人々のうしろから近くの土手へあがった。> それは戦争を体験して、生と死の間をくぐりぬけた人に共通する一種の虚脱状態の極限的なものであったというべきであろうか。太宰治は「パンドラの函」に<程度の差はあるが、今の女のひとの顔には皆一様に、マア坊みたいな無欲な透明の美しさがあらわれているように思われた>と書き、<戦争の苦悩を通過した新しい「女らしさ」だ>といっている。<すべてを失い、すべてを得たものの平安>こそ彼等のものであった。ここではもう<悲痛な決意>などなんの役にもたたず、ウソにきまっていた。<へんに大袈裟な身振のものや、深刻めかしたものは、もう古くてわかりきって>いて、この未曾有の新現実に対してはナンセンスであった。広島の現実を直視するならば<主義なんて問題ぢやないんです。そんなものでごまかそうたって、駄目です>等々という「パンドラの函」の言葉がいかに重大な問題を提起しているかは明かである。
「屍の街」もまた廃墟からの出発、虚無と自己喪失からの新しい人間的よみがえりを追及している。三日の間、廃墟を彷徨し、河原や墓地に夜をすごしたあと、やっと仮りの宿りにおちついた作者たちは、<よく、でもまあ、生きていたわいのう。死んでしもうても、私は不思議とも思わんに>などと、まじめな顔をしていいあっている。その異常なこの世のものとも思えぬ体験から、しかし<私は深深とした人生の影を新しく汲みとった思いである>と作者は述べている。<河原で多くの死体と起き伏したその一つのことでさえも>作者にとって何にくらべることもできぬ大きな教えを永久に残すものと思われた。この経験のあとでは家の中の人間の生活が拘束の多い不自由なものと感じられるようになったのである。今まで当り前と思っていたものが何ひとつ当り前ではないのであった。<どのようにしてでも生きることは出来るという希望のような明るさが、私の胸を去来しはじめた>というとき、それは明かに決定的な人間革命のはじまりを語っているのである。それは生活についてのこれまでの固定的な観念を打ち破り、これまでの生活は、<持ちすぎてその圧力に押しつけられて、精神までも俗悪化されていたのだった>と反省するにいたっている。それはまさに新しい人間の誕生であった。
「屍の街」の作者は彼女が体験した現実が、いかに作品化しがたいものであるかを語っている。それは彼女にはじめての体験である だけでなく、人類にはじめての体験であった。それは<小説を書くものの文字の既成概念をもっては描くことの不可能ない体験であり、<先ず描写の言葉を創らなくては、到底真実は描き出せなかったのである。しかし作者はそれ故に書かねばならなかった。書か ずにはいられなかった。ここに新しい作家、新しい文学の誕生がある。作者はこの決定的な潰滅の体験をただ呪ってばかりいるのではない。<私のうちに作家魂の焔が燃えて来るのを感じはじめて幸福 である。長い冬傀りに虐げられて来たもののみが感得する、あの劇しい感動が私をゆり動かす。>と作者は書いている。作者はこの体験をくぐりぬけることによって、自分自身だけでなく日本全体が新しいよみがえりを実現することを期待している。<日本の土と人間は、日本のものであって誰のものともなり得ない>ことをこの絶滅の体験をくぐりぬけてあらためて深く切実に思い、<日本の土と人間の復活、というよりも旧い皮膚の剥奪によって新しい人間像を創り出す>ことを求めてやまないのである。作者における作家魂の燃焼はこの期待に結びついている。
大田洋子にかぎらず、原民喜にしても、その原爆の体験を、思い出すことの苦痛に耐えて、くりかえしくりかえし追求せずにはいられなかったのは、それが彼等の生存と認識の原点となり、それときりはなしては人間について、生存について、なにひとつ考えることができなかったからである。あらゆる現実の向う側に、彼等はそれを見ないではいられない。それはすでに爆発したのであり、彼等はそれを体験した。それはすでに現代における人間の生存の条件となっている。彼等の体験は〜本人全体の体験、人類全体の体験なのであった。彼等は自身の体験を全人類の体験たらしめ、そのことによって人類のよみがえりを実現しようとした。しかしその努力は空しかった。彼等はその体験の故に、かえって自分たちが異常な人間として、一般の生活から疎外されるのを感じなければならなかった。世界はあたかもその体験がなかったかのように、頽廃と殺戮と破滅の道を歩いた。朝鮮戦争が勃発したとき、原民喜は自殺し、大田洋子は神経症が悪化して入院しなければならなかったのである。
敗戦も原爆も遠くなった。その記憶は日に日にうすれ、太宰治が危惧したように、戦前のフネノフネ時代以上の空しい類廃の時代に逆もどりしてしまった。ヴェトナムでは空前の大殺戮が正義と人道の名において展開され、世界を何度も廃墟と化し得るだけの水爆が蓄積され、しかもその蓄積は刻々と増大しつつある。そして敗戦や原爆の真実の姿にふれ、そこに人間のよみがえりのモメントを求めた作家たちは、太宰治も原民喜も大田洋子も、絶望のうちに、人間不信と自己不信にさいなまれっつ死んでしまった。しかし彼等がその生命を賭けて書き綴った諸作品は生き残り、今日においてもすこしもふるくなることなく、いっそう切実なひびきで人々によびかけているのである。  
 
漱石 日露戦争と作家としての出発

 

夏目漱石が『吾輩は猫である』「倫敦塔」カーライル博物館」によって、作家としての道を歩きはじめたのは、日露戦争の最中であった。これらはそれぞれ、『ホトヽギス』『帝国文学』『学鎧』の明治三十八年一月号に発表されたが、この明治三十八年一月一日に、半年にわたる血なまぐさい攻防の末、やっと旅順のロシア軍が降伏したのである。最新式の近代要塞に対して、日本軍はひたすら肉弾による突撃をくりかえし、屍の山を築いた。この攻城戦による日本車の死傷者は五万九千人に達したという。旅順の城はおちたけれど、実にそれは悲惨な戦であった。国民は連戦連勝を伝える号外にわきたったが、漱石は勝利のよろこびにどよめく国民的熱狂の中で、ますます孤独を深めつつ、『猫』や「倫敦塔」を書き綴り続けていたのである。漱石は勝利のかげに流されたおびただしい血をその暗い眼でじっと見つめていたのであった。
戦後まもなく、明治三十九年一月の『帝国文学』に発表された「趣味の遺伝」に、私たちは日露戦争を漱石がどんな目で見ていたかを読むことができる。そしてそこから、戦争の最中に作家としての道を歩きはじめた漱石の心の秘密を探る手がかりを得ることができる。「陽気の所為で神も気違になる。『人を屠りて餓えたる犬を救へ』と雲の裡より叫ぶ声が、逆しまに日本海を憾かして満洲の果迄響き渡った時、日人と露人ははっと応へて百里に余る一大屠場を朔北の野に開いた」「趣味の遺伝」冒頭の言葉である。漱石は戦争を、「狂へる神」の声に応じて「餓えたる犬」が、人間の血をすすり肉をかみ、骨をしゃぶる残酷のきわみとして見た。ぼろぼろになって行進する凱旋の兵士たちを目撃した「余」は「戦争はまのあたりに見えぬけれど戦争の結果ー−慥かに結果の一片、然も活動する結果の一片が眸底を掠めて去った時は、此一片に誘はれて満洲の大野を蔽ふ大戦争の光景がありく@と脳裏に描出せられた」という。
漱石は去年の十一月、旅順で戦死した浩さんのことを書いている。「二十六日は風の強く吹く日であつたさうだ。遼東の大野を吹きめぐつて、黒い日を海に吹き落さうとする野分の中に、松樹山の突撃は予定の如く行はれた」この遼東の大野を吹きめぐり「黒い日」を海に吹き落とそうとする「野分」は、ちょうどそのころ『猫』を書き、「倫敦塔」を書いていた漱石の心をもはげしく吹いていたのである。
浩さんは日の丸の旗をふって突撃し、敵の塹壕にとびこんで、二度とそこから出て来なかった。
「石を置いた沢庵の如く積み重なって、人の眼に触れぬ坑内に横はる者」の姿を漱石はまざまざと思いうかべ、「いくら上がり度くても、手足が利かなくては上がれぬ。……血が通はなくつても、脳味噌が潰れても、肩が飛んでも身体が棒の様に鯱張っても上がる事は出来ん」と書いている。
「広場を包む万歳の声は此時四方から大濤の岸に崩れる様な勢で余の鼓膜に響き渡った」漱石は凱旋を祝う歓呼の大波の中で、ひたすら悲惨な死を死んだ死者たちの生きる暗黒の世界を見つめた。
「高々として御玉杓子の如く動いて居たものは突然と此底のない坑のうちに落ちて、浮世の表面から闇の裡に消えて仕舞った」のである。「余」は生まれてから一度も万歳を唱えたことがないという。万歳を唱えようとすると、「小石で気管を塞がれた様でどうしても万歳が咽喉笛へこびり付いたぎり動かない」のである。しかし今日は万歳を唱えてやろうと思っていたのに、戦塵にやつれはてた将軍の姿を見た瞬間、万歳の声はぴたりととまってしまった。ここには万歳に湧き立つ国民的熱狂の中で、戦争の痛み、その暗黒を見つめて、孤独を深める漱石がいる。漱石の心は歓呼の嵐の中でますます暗く寒かった。
「寒い日が旅順の海に落ちて、寒い霜が旅順の山に降っても上がる事は出来ん。ステッセルが開城して二十の砲砦が悉く日本の手に帰しても上る事は出来ん。日露の講和が成就して乃木将軍が目出度く凱旋しても上がる事は出来ん。百年三万六千日乾坤を提げて迎に来ても上がる事は遂に出来ぬ」漱石は同じ言葉をくり返す。「ステッセルは降った。講和は成立した。将軍は凱旋した。兵隊も歓迎された。然し浩さんはまだ坑から上って来ない」この「上がる事は出来ん」のくりかえしのうちに、漱石の無量の思いがこめられている。
そして漱石は、死んだ浩さんよりもさらに可哀そうなのは、「浮世の風にあたって居る御母さんだ」という。凱旋を歓迎する国旗は、彼女にとっては悲しみを新たにする以外のものではない。雨が降れば垂れこめて浩さんのことを思い、晴れて表に出ては浩さんの友達にあい、歓迎で国旗を出せば、あれが生きていたらと思う。年ごろの娘に親切にされるにつけても、あんな嫁がいたらと思うのである。光り輝く戦勝の日本にあって、漱石はその喜びの渦から自らを遠ざけ、暗い世界をのみ見つめていた。そして戦争とは何か、人間とは何かを改めて自らに問うていた。
戦争の悲惨な現実こそ、平時はおおいかくされている人間の本質をあばきだし、人間とは何かという問を深刻になげかけるものであった。しかしその問を自覚することもなく、国民は勝利に熱狂し、言論思想界は国民を戦争にかりたてる誇大な言辞、実質のない言辞に充満していた。戦争に人間の暗黒な呪われた宿命と罪業を見る漱石は、この浮薄な一般的状況に対して、はげしい怒りを噴出させないではいられなかった。そこに漱石が国をあげての戦争、曠古の戦争といわれる日露戦争の最中に、『猫』を書き、「倫敦塔」を書き、作家としての道を歩きはじめるに至った所以がある。
『猫』九(明三九こ二)で、苦沙弥が凱旋祝賀会のための義損金募集に、極めて冷淡な態度をとったのは偶然ではない。「猫」六(明三八・一〇)には「大和魂」についての苦沙弥の戯詩が披露されている。「大和魂! と新聞屋が云ふ。大和魂! と掏摸が云ふ」「東郷大将が大和魂を有って居る。肴屋の銀さんも大和魂を有って居る。詐欺師、山師、人殺しも大和魂を有って居る」誰もみな口をそろえて大和魂を讃美する時代の風潮に対する漱石の反撥がある。「大和魂はどんなものかと聞いたら、大和魂さと答へて行き過ぎた。五六間行ってからエヘンと云ふ声が聞こえた」漱石は実体のない言葉で国民をあおりたてること、また国民があおりたてられることに抗議したのである。
大和魂というような言葉や、「猫」九の義損金募集の手紙に見られる「日露の戦役は連戦連勝の勢に乗じて……」とか「曩に宣戦の大詔煥発せらるゝや義勇公に奉じたる将士は久しく万里の異郷に在りて克く寒暑の苦難を忍び一意戦闘に従事し命を国家に捧げたるの至誠は永く銘して忘るべかざる所なり」とかというような文句を、漱石は極力排斥した。これらは実質のない、言葉だけの言葉であり、むしろ真実を隠蔽し、自己を偽り他を欺く言葉である。戦争の熱狂が生み出すこのような空虚な言語の氾濫に対するたたかいとして、漱石はその作家としての道をふみ出したのである。  
これはかなり後のことであるが、漱石は、潜航艇の事故のために殉職した佐久間艇長が、事故の経過を書き綴った遺書に感動して、「艇長の遺書と中佐の詩」(明四三・七・二〇)という文章を書いている。中佐というのは旅順港閉塞の作業中戦死して、軍神と崇められた広瀬中佐である。まずいという点からいえばどちらもまずいけれど、佐久間大尉の遺書は刻々と死が迫り、一行書くすら容易でない状態で、どうしても書きのこしておかなければならないと思うことだけを「超凡の努力」をふりしぽって書き綴っている。「平安な時あらゆる人に絶えず附け纏はる自己広告の脚気」がそこにはない。艇長の声は「いくら苦しくても拙でも云はねば済まぬ声だから、最も娑婆気を離れた邪気のない」声であり、「殆んど自然と一致した私の少い声」である。漱石はそれが「人間としての極度の誠実心」から出たもので「其一言一句」は「真の影の如く」「今の世にわが欺かれざるを難有く思ふ」と書いた。
これに対して中佐は、詩を残す必要もないのに、誰にでも作れる個性のない詩を作った。「彼の様な詩を作るものに限って決して壮烈の挙動を敢てし得ない」と漱石はいう。その内容がいかにも偉そうであり、また偉がっているからである。こんな詩は「単なる自己広告のために作る人が多さうに思はれる」のである。「道義的情操に関する言辞」は、言葉だけではその真実性が保証されず、行為においてその言葉が実現されたときにのみ、その誠実が認められる。従って立派なことえらそうなこと、勇ましいことを並べた詩は、どこか空疎なものを感じさせないではいない。漱石はさらに進んで、自分の如きは「其言辞を実現し得たる時にすら、猶且其誠実を残りなく認むる能はざるを悲しむものである」と書いた。自己の壮烈と忠誠を誇示する詩の故に、中佐の壮烈な死に対しても、そこに虚偽の匂いを感じないではいなかったのである。
日露開戦とともにさかんに作られた征露の歌や、戦争を美化し、悲壮感をあおりたて、国民を戦争にかりたてる誇大な言辞の氾濫を漱石は憎んだ。宣戦の布告は明治三十七年二月十目であるが、「太陽」三月号には、はやくも「日露開戦軍歌」(大和田建樹)、「征露宣戦歌」(野口寧斎)、「征露の歌」(井上哲次郎)、「征露軍歌旅順の海戦」(巌谷小波)、「魯西亜征伐の歌」(佐々木信綱)などの広告が出ている。同四月号にはこれらに加えてさらに「征露新軍歌」(久保天随)、「露西亜征伐軍歌」(大町桂月)、「征露軍歌 決死隊」(巌谷小波)、「女子軍歌」(塩井雨江)、「日露戦争 国民唱歌」(佐々木、大和田他)、「軍詩 征露大捷歌」(佐藤六石)、「伐露楽府 大陸剣歌」(国府犀東)などの広告が出ている。
これらがどのようなものであったかは、たとえば「太陽」四月号「国民軍歌」(武田千代三郎)の「露西亜伐つべし」と題するものを見ることで知ることができるだろう。「悪むべき 彼れ 露西亜は/我意を募り 信義を棄て 剛慢不遜/蠢戻跳梁侵略掠奪 傍若無人/天人共に 憤り怒る/伐ちて懲らせ 伐ちて懲らせ」「知らざるかなんぢ 知らざるか/無智を啓き之を訓へ 文化を拡め/懲膺凶暴 扶持柔弱 任侠義勇/水火も辞せず 死も恐れざる/大和男子こゝに在り」というようなものである。
漱石もまた『帝国文学』五月号に「従軍行」を発表し、「太陽」六月号には大塚楠緒子の「進撃の歌」が掲載されている。楠緒子の詩の一節をとって見れば「進めや進め一斉に 一歩も退くな身の耻ぞ/硝煙天地に漲りて 弾丸雨と飛び来とも/大和魂きたへたる 大和男子の名も高く/世界の花と歌はれむ 嗚呼武者振の見せ処/何に恐るゝ事かある 何に臆する事かある/日本男子ぞ嗚呼我は」というのである。漱石はこの詩について、明治三十七年六月三日の野村伝四宛書簡に「大塚夫人の戦争の新体詩を見よ、無学の老卒が一杯機嫌で作れる阿呆陀羅経の如し女のくせによせばいゝのに、それを思ふと僕の従車行抔はうまいものだ」と書いている。これは勤務先の一高で聞かされた島田三郎の演説について、「僕も駄弁を弄する事は人に負けぬ積りだが斯程迄に駄弁は振り舞はせない」と述べたのに続く言葉である。戦争の時代に戦争を美化し、志気を鼓舞する言辞は、論説にしても、詩歌にしても、型にはまったものにならざるを得ない。漱石はそれを甚だしく嫌ったのである。
「猫」の原型ともいうべき断片に、漱石は「従軍行」という詩をとりあげている。「抑も敵は讐なれば……油断をするな士官下士官」というのだから、実際に漱石が発表したものとはちがう詩であるが、「先づ是等は進めや進めと敵は幾万の間に麻転んで居て此日や天気晴朗と来ると必ず一瓢を腰にして滝の川に遊ぶ類の句だね」という批評を下している。これは一面において漱石自身の「従軍行」に対する自己批評であるが、それ以上に当時の戦争詩一般に対する批評であった。
漱石は「いやに傲慢な人を馬鹿にする男」が「無闇矢鱈に剛慢とか無礼とか色々な形容詞を使って露西亜の悪口をついた」ことについて、「自分で自分の悪口をいって其悪口が当って居るので人に褒められて喜んで居る」のだという。当時の日本に充満していた、敵国ロシアを最大級の形容詞で罵り、日本を美化して悲壮がる言葉、むやみに勇ましいことをいう言葉は、すべて単なる自己の感情を発散する言葉にすぎず、無内容で真実性のないものであった。それは前記の武田千代三郎や大塚楠緒子の詩にあきらかであろう。特にロシアに対する悪罵の言葉は、そのままそのような詩を書くもの自身に帰ってくる。こういう漱石の批判は、単に戦争詩戦争文学のみならず、戦争に熱狂して自己を見うしない、現実を見うしなって、誇大で空虚な言葉に酔っている当時の言論思想界、国民一般の風潮に対する批判であった。  
漱石の「従軍行」は詩としてすぐれたものではなかった。類型的な表現からも自由ではない。しかしそこにはロシアに対する悪罵の言葉や、戦争を美化し、国民をあおりたてるような景気のいい、勇ましい言葉はない。むしろこの詩から感じられるのは重苦しい圧迫感であり、孤独感であり、暗い宿命、罪と呪いの匂いである。戦争詩一般の上昇的な気分に対して、ここにあるのは下降的な気分である。ここには漱石の暗い緊迫した心があり、孤独ではげしい戦の意志の表明はあるが、それはむしろ暗く寒く暗澹としていた。「吾に讎あり、艨艟吼ゆる」「吾に讎あり、貔貅群がる」「銕騎十万、莽として来る。」敵は強大であるのに、これに対抗するものは「男子の意気」や「勇士の胆」でしかない。ここには集団としての軍隊の姿はなく、単騎太刀をふりかざす孤独な戦士の姿だけがある。
「天子の命ぞ、吾讎撃つは、/臣子の分ぞ、遠く赴く」自らの意志であるよりは、「天子の命に故に「臣子の分」として遠く赴くのである。天子、国家、味方の軍隊、国民と、漱石は一体化しておらず、熱狂的な戦争の渦の中に我を忘れてとけこむことができないのである。「天に誓へば、岩をも透す、/聞くや三尺、鞘走る音。/寒光熱して、吹くは碧血、/骨を掠めて、憂として鳴る。/折れぬ此太刀、讎を斬る太刀、/のり飲む太刀か、血に渇く太刀」敵を屠り、その血を啜ろうとする激しい心を表現していながら、その心はどこまでも醒めており、それがいささか理に落ちた表現となってあらわれている。この詩の世界を支配するのは「鞘走る音」「骨を掠めて、憂として鳴る」太刀の音がきこえる静寂の世界である。
「粲たる七斗は、御空のあなた、/傲る吾讎、北方にあり。」「殷たる砲声、神代に響きて、/万古の雪を、今捲き落す。」ここにうたわれる戦争は、もはや現実の次元を超えて、はるかに違い無限の時間と空間を含む広大な自然のただ中で戦われる戦いである。「空を拍つ浪、浪消す烟、/腥さき世に、あるは幻影。/さと閃めくは、罪の稲妻、/暗く揺くは、呪ひの信旗。/深し死の影、我を包みて、/寒し血の雨、我に濺ぐ」あきらかにこれは現実の戦争であるよりは、漱石自身の内的世界の表象である。漱石は現実の戦争の彼方に、人間が父母未生以前の原初以来たたかい続けてきた戦い、人間が人間である限り永遠にまぬがれることのできぬ罪業としての戦いを見ている。
漱石が見ているのは人間の罪であり、呪いである。漱石をとりまくのは深い「死の影」である。茫々とはてもなく広がる暗く寒くなまぐさい「幻影」の世界に、「幻影」を求めてひとり行く漱石は、「さと閃めく」「罪の稲妻」に照らし出される。すべてが茫々たる中に、罪だけが稲妻のように閃いて漱石の眼を射る。そして漱石は「罪の稲妻」に一瞬てらしだされた暗がりに「呪ひの信旗」がゆれうごくのを見るのである。
漱石はおのれの罪業と呪われた宿命をまざまざと感じ、恐怖と寒さにふるえている。しかし漱石はおのれの罪と呪いと宿命をひきうけ、「神代に響」く「殷たる砲声」にふるい立って、宿命としての戦いをたかかおうとする。「鬼とも見えて、焔吐くべく、/剣に倚りて、眥裂けば、/胡山のふyき、黒き方より、/銕騎十万、莽として来る」この「黒き方」より「莽として来る」圧倒的軍勢の中に、「天上天下、敵あらばあれ、/敵ある方に、向ふ武士」と単騎きりこもうとするのが漱石である。
「従軍行」が日露戦争に触発されて書かれた詩であることはいうまでもない。しかしそれは単なる戦争詩ではなくて、暗い漱石の内部世界の表現であった。日露戦争が漱石の内部世界の表現の契機となり、作家としての道を歩かせるにいたった事実をそれは示している。戦争は漱石の心を揺り動かし、漱石の内部におしこめられていたはげしいものを噴出せしめた。戦争に揺り動かされることで、漱石は自分の内部世界の暗黒、その罪と呪いと宿命に目を向けさせられた。それは人間の罪と呪いと宿命であった。戦争はその集中的表現にほかならなかったのである。
明治三十七年二月の「英文学叢誌」に、漱石は「セルマの歌」と「カリツクスウラの詩」を発表した。「オシアン」からの翻訳であるが、この他には一篇の翻訳をもしていない漱石であって見れば、これは単なる紹介のためのものであるのではなく、漱石自身の心情を表現するものであったと見るべきであろう。
漱石は古い伝説の世界に、はげしい戦いと愛を生きた逞しい英雄たちを探り求めた。彼らは自然の中に自然そのものを呼吸して、自然さながらに生き、かつ戦って死んだ。そしてこの英雄たちを恋い慕う乙女たちは、彼らのあとを追い、彼らに殉じて死んだ。そのことによって彼等の愛は永遠の愛となった。セルマは歌う。「君とならば行かんものを、父を棄てても。心驕る兄を棄てても」セルマは家と家の争闘にへだてられる恋人のあとを求めて、暗闇の嵐の丘にさ迷い続け、「夢の如く去る吾命、生き残る甲斐もあらず」と死者の傍「岩咽ぶ河のほとり」に死ぬ。「山暮れて風高き宵、風の裡にわがまぼろし見えて、恋しき人の逝けるを泣かん」彼女は自分の泣く声が風の音となって聞く人の心をいたませるだろうというのである。
アルビンは「泣くも亡き人のため、うたふも逝くもののためぞ」と猛き人モラアを悼む歌をうたう。
「狭からんなが住居、暗がらんなが臥床。昔ありてふ偉丈夫の、三歩に足らぬ墓にすくみて、なれのかたみに残るものは、苔をいたヾく四つの石のみ」モラアを弔う女親もすでになく、恋い慕う乙女は彼を追って行き、そのまま二度と帰って来ない。ただ一人残った父の泣く声に、耳傾ける子は一人もいない。「亡者の眠りふかく、土塊の枕わびし。泣けど聞 かず。呼べども起たず。冥上に明くる朝なくして、眠れる者長へに覚めず」漱石は死者の世界を見つめ、死者の世界に生きる。逞しい英雄とその美しい恋は死において永遠であり、詩によって永遠である。「なれに子なし。なれを伝ふるは歌。其歌に後の世はなれを聞くべし、逝けるモラアを」死者たちの声は風の音となり、詩の言葉となって後の世によびかけるのであり、漱石はそれを聞いている。
古い伝説の英雄の世界は戦いと愛の世界であり、宿命と死の世界である。クライモラの父を殺した呪われた楯をもって、死を必至とする戦に出でたつコンナルは、「はかり難き此命。われ死なばわが為に墓(おくつき) つくれ。石ならべ土盛りて後の世に吾名弔へ」という。英雄は恋する乙女に心ひかれながら、しかもおのれの宿命に従って、死すべき戦いに赴く。「泣きはらしたる目、墳にあてて、深さ歎きに浮上がる胸打て。春日の如くあでやかに、春風よりも長閑なる汝を棄つとも、吾行かん。つくれ吾塚」クライモラは「去らば行かん我も」と、戟をとり、太刀を佩き、輝く武器をもって、「コンナルと共に行く我、戦ふ野辺にダアゴオと見えん」と歌うのである。
「吾等行きてまた還らず。吾等が墓は遥か彼方」それは「幻影の盾」(『ホトトギス』明三八・四)、  「薤露行」(『中央公論』明三八・一こと同じく「遠き世の物語」である。「人を屠り天に驕れる昔」、恋と戦いの時代の物語である。「セルマの歌」「カリツクスウラの詩」が発表された明治三十七年二月は、日露の戦雲急を告げ、国民はロシア討つべしの声に熱狂していた。激動の渦の中で漱石の「脳漿」は沸騰した。内部にとじこめられた暗い激情が噴出する場所を求めて沸き立ったのである。漱石にとって戦を思う心は死を思う心であった。戦と死と恋がひとつであるところに漱石の詩の世界がある。そしてそれは同時に人間の罪と呪いと宿命の世界なのである。  
ロシアに対する宣戦は二月十日であるが、二月四日には御前会議で開戦が決定され、二月六日にはロシアに対する国交断絶が通告されている。二月八日には陸軍先遣部隊が仁川上陸を開始し、連合艦隊は旅順港外のロシア艦隊を攻撃している。この激動の中で漱石は、寺田寅彦宛書簡(二月九日)に
「水の底、水の底。住まば水の底。深き契り、深く沈めて、永く住まん、君と我」にはじまる「水底の感 藤村操女子」という戯詩を書き送っている。「夢ならぬ夢の命か。暗からぬ暗きあたり」「うれし水底。清き吾等に、譏り遠く憂透らず」もしかしたらこれは漱石の寅彦に対する同性愛的な感情の表白であるかも知れない。それはともかく、漱石にとって昂揚は同時に下降であった。
民族の生死を賭けた戦争の切迫に、漱石の心ははげしく揺り動かされながら、しかも熱狂する国民の渦の中でますます孤独になり、ますますつよく死者の世界へとひきつけられて行った。この傾向は日本の「連戦連勝」に祝勝気分がかきたてられるとともにいっそう強まった。「従軍行」を作ったのは開戦後間もない時期のことであって、その後漱石は二度とこのような詩を作らなかった。征露の句の揮毫を求めた細見勝逸に対する書簡(明三七こ○こ○)に、「征露の句などは一句も無之候」とことわっている。
明治三十七年のはじめごろ漱石がノートに書き記した英文は、このころの漱石の憤怒と孤独と幻想の世界を赤裸々に表現している。In sorrow she ate her heartにはじまる英詩を冒頭におき、全集で七頁にわたって激越な言葉が書き連ねられているのである。漱石の心にはひとりの女性が住み続けていた。江藤淳はそれを嫂登世と断定する(『漱石とその時代』)が、その永遠の女性はただ漱石の心にのみ住み続けた女性である。この幻の女性は漱石の生涯にさまざまな形であらわれ、彼女に対する幻想の愛が、漱石をして作家としての道を歩かせた。漱石の作品世界には、いつでもこの女性が形を変えて生きている。現実から隔絶され、自分ひとりの世界に帰り、ただひとり自分の心の内部の暗黒を見つめるとき、いつでも漱石はそのうすくらがりの中にこの女性を見出した。
漱石は現実にこの女性に触れることは出来ない。この女性を漱石から隔てるものはこの世の掟であり、生と死のへだてである。この世の掟を恐れる故に、現実に彼女に触れることは死である故に、この世に生きる生をえらんだ漱石は、現実の彼女から遠ざけられる。漱石は彼女から遠ざかりつつ彼女を求める。彼女を求めつつ彼女から遠ざかる漱石は、ただ幻想においてのみ彼女と自由に往来することが出来るのであり、彼女への愛が、幻想の世界の現実化である作品世界に、ひたすら漱石を生きさせたのである。
彼女を愛することはこの世の掟とたたかうことであり、この世そのものとたたかうことであった。
彼女に対する愛は、この世に対するたたかいとひとつに結びついている。そしてまた、それは死と結びついている。死においてのみ、漱石は彼女と結びつき得るのであり、そこに永遠の愛は成就するのである。漱石において、愛と死とたたかいはひとつに結びついていた。そしてそれは罪であり、呪いであり、宿命であった。それは現実の掟に背くものである故に罪であった。また生をえらんで彼女を死なしめた故に罪であった。生きる限り、漱石は彼女を裏切り、この世の掟に従って生きる。
漱石はこの世の掟にも、彼女に対する愛にも、おのれを完全につかせることが出来なかった。またこの両者のいずれからも、完全に離れることができなかった。いずれにも徹底することが出来ず、ふたつのポールにはさまれて、居場所をうしない、宙づりになっているのが漱石であった。漱石は自らの不徹底、卑怯、臆病を恥じなければならなかった。それ故に漱石は二重、三重の罪に苦しみ、自分の愛に呪われた宿命を感じなければならなかった。
漱石は幻想=作品の世界においてのみ自由であった。そこでのみ彼は純一無雑の愛にひたることができた。はげしくこの世を呪い、おのれの宿命と罪を嘆き、血に飢える叫びをあげることが出来た。
漱石の英詩と英文は、そのような作品=幻想の世界の表現であった。それは他者ののぞきこむことを許さぬ密閉せられた世界における、ただ自分ひとりのための魂の奥所の秘密の開示であった。そこに私たちは、漱石の作家としてのあゆみの核となる秘密の世界をまざまざと見ることが出来る。
この英文の冒頭の、「彼女は悲しみの中で彼女の心臓を食べた」という言葉にはじまる英詩で、漱石は彼女は若く美しくして死んだという。彼女は彼女の愛のほかいかなる愛も知らず、彼女の死後、彼女をいたむものは誰もいなかったという。漱石は青白い月に照らされた彼女の淋しい墓をはっきりと見つめている。江藤はこの女性を登世と断定して、愛と禁忌の意識について語り、それ故、この詩からは彼女を愛した漱石自身が消去されているという。しかし彼女は、現実の女性の誰かれに必ずしも限定される必要はないであろう。むしろ彼女は漱石自身であるといってもいいのではないか。それは漱石における愛と真実の象徴である。現実の漱石は生きている故に真実の漱石は死んでしまった。彼女こそ真実の自分であり、自分は彼女=真実の自分を裏切って生きる偽りの自分であると考えることも出来る。本当の自分はすでに死んでおり、自分は死ぬことによって本当の自分に帰ることができる。漱石にとっては、あの世こそ真実の世界なのであった。ここで自分を若い女性に擬したあの「水底の感」を思いうかべてもいいであろう。ともかくも、この世の外なる幻影=真実の世界に生きる彼女を思うところから、この英文の作品世界が展開されていることに注目すればそれでいい。
この英詩に続いて〇h! Sollow。 ever failing yet ever present,−−。 the teeling of something lost.yet one dose not know what that something is.にはじまる激越な英文の世界が展開される。つねにうしなわれ、しかもつねに存在する悲しみ。それはなにものかを失ったという感じであるが、そのうしなわれたなにものかが何であるかは知ることが出来ない。このうしなわれたなにものかこそ、まさに彼女であったと考えることもできるが、ともかく漱石は喪失の感情に閉ざされ、自分が何を見ているか、どこにいるかもわからない薄暗がりの中にいるのである。それはあの漱石が「藤村操女子」として書いた、「水底の感」にうたわれた「暗からぬ暗きあたり」であり、そこに漱石は「夢ならぬ夢の命」を生きているのである。それは現実が非現実であり、非現実が現実であるような幻影の世界である。この幻影の世界こそ、漱石が作品を生み出す世界であり、漱石の文学=魂の故郷である。
漱石は自分が自分の運命をぼんやりと知りながら、しかも何もすることが出来ない故に、自分を待ち受ける一時間のちの運命をすら知らぬ地をはう虫よりも、さらに惨めな存在だという。このような悲しみに閉ざされ、自己の卑小さを思う漱石は、現代を讃美し、万物の霊長などとうぬぽれて、おご りたかぶる人々を激しく攻撃する。自分自身にも、自分の隣人たちにも、大学教授や政治家たちにも、野獣以外の何ものも見出すことができないというのである。彼らは二十世紀の社会に適応するように若干のつけ加えがほどこされたにすぎぬ人間の姿をした獣性なのだ。人間はよろこびだとか、快楽だとか、あるいは愛は神聖だとかなどという言葉を次々につくり出して、自分たちの許されざる欲情や好みを美化しているにすぎないと、漱石はいう。
しかし、彼等を非難し嘲笑することは、実は自分自身を非難し嘲笑することであった。漱石は自分の笑いに苦いひびきがあることを認めないわけにはいかなかった。自分自身の偽善的な虚飾を笑い、自分自身に傷つかざるを得ない。それ故いっそう、自分の本質に対して無自覚で、美しい言葉で自分を飾りたて、自分の優性を信じて疑わぬsuperior beingsに対して激しい怒りをなげつけないではいられない。彼らはたがいに美しい言葉でお互いを飾りたてあい、ほめあっているが、彼等は称讃の重荷にひそかに呻いているのではないか。漱石はgood people が多すぎるといい、彼等に対して自分の憎悪を注いで、一服の解毒剤たらしめるつもりだという。漱石は自分の内部深くとじこめておいた自分の憎悪、苦いものを彼等におしみなく注ぎかけてやることを誓うのである。
地震とか海嘯とかは、自然の人間に対する復讐なのだと漱石はいう。人々は火山の火口のまわりで死のダンスを踊りながら、太陽が明日もまた東から昇ると信じて、楽しい人生だなどといっているのである。紳士淑女なるもの、大学教授とか政治家とかいったものたちが、進歩だとか文明開化だとかの名において、虚偽に虚偽を重ね、自然を破壊し自然に背くことに対して、漱石は激しい呪咀の言葉をなげつけている。
・「自然は真空を嫌う。愛か憎悪! 自然は代償を好む。眼には眼を! 自然は戦を好む。死か独立か! 自然は復讐を奨励する」漱石は「復讐はつねに甘美である」と書いている。自然に背く害虫である人間を殺すのは、自分たちの女神である自然の法である。「復讐!」と復讐を求めて叫ぶのは自分たちの女神である。彼女は血にかわいている。彼女は彼女の顔を彼等の大の血で紫に汚すことを求めている。彼女は彼等の骨をかじり骨の髄をしやぶり、彼等の死体を燻製にして、その死骸の上で踊ることを求めている。
この激しい言葉は「趣味の遺伝」の冒頭の言葉と全く重なりあっている。漱石は戦争にこの神=自然の復讐を見たのである。漱石は戦争に人間のおしかくされた野獣性の爆発、近代の矛盾の集中的爆発を見た。どこまでもエゴを追及し、他者をおしのけて発展を求める近代は、ついにたがいに血を流し、無残な殺戮をともなう衝突を必至とする。  
漱石は戦争において近代なるものの本質を見た。もしくは人間の宿命を見た。もはや単に傲れるロシアを討てというだけではすまないのである。戦争中の作品「幻影の盾」には、「君の為め国の為めなる美しき名を藉りて」といい、「正義と云ひ人道と云ふは朝嵐に翻がへす旗にのみ染め出すべき文字で」と書いている。戦争はいつでも美しい言葉で飾られる。しかしその本質は人間の野獣性の爆発ではないか。そこに自然に背く人間に対する神=自然の復讐がある。
人間の野獣性を直視せず、それを美しい言葉で飾り立て、自己を美化し、他をおとしめてやまぬ近代の文明開化は、その虚偽故に復讐される。偽善におおいかくされ、おしこめられた人間の野獣性は、時として烈しく爆発し、その残虐さをほしいままに発揮して、人間をふみにじり、文化文明を破壊する。しかも人間は、野獣性そのものの発現である戦争をさえ、ますます美しい言葉で飾りたてるのである。敵に対しては最大級の侮蔑と悪罵を。そして味方には最大級の美化と賞讃を。この偽善性こそ人間を限りなく堕落させる。
漱石はこの近代における偽善の仮面をひきはがし、人間の暗黒、人間の自然、人間の野獣性、その暗黒な呪われた宿命をあばき出そうとした。それが人間の故郷なのであり、それを直視しそこに帰り、そこから近代を総体的に検討することによってのみ、偽善的な近代の堕落は救われるというのである。
漱石は自分の内部の奥深いところにとじこめられている近代に対する苦い思いと憎悪とを、近代の担い手であると自称し、うぬぼれている偽善的な紳士淑女たちに吐きかけてやろうという。それは文明開化の悪、近代の悪の解毒剤になるだろうというのである。漱石ははげしい言葉をほとんど狂気のように書き連ねる。
お前の希望、お前の研究、そしてお前に貴重なすべてのものを、彼等をふみにじるために犠牲にせよ。彼等がお前の足の下であえぎながら、最後の息とともに弱々しい後悔の叫びをあげるまで、決してやめてはならぬ。彼等は進歩の名において、彼等よりもよきものを、彼等の堕落せる水準にまでひきずりおろそうとしている。彼等のこのうぬぼれ、この傲慢や術策の価値を彼等に知らせねばならぬ。
英文ノートに見られるこの漱石のはげしい怒りと弾劾、憎悪と呪いの言葉、血にかわく復讐の誓いは、彼の作家活動の開始を告げる宣戦布告であった。漱石はその作家としての出発を、自分の周囲のものたちに対する、近代文明に対する、紳士淑女たち、大学教授や政治家たちに対するたたかいとして始めたのである。
このころの断片ノートには英文で書かれたもののほかにも、いたるところにはげしい怒りと呪いの言葉、復讐の誓い、たたかいの決意を示す言葉が記されている。「一指を切れば一指を切り一髪を抜けば一髪をぬく睚眦の恨に報ずるに睚眦の讐を以てするは古の法にして今の法なり今の法にして人の道なり尤も公明なる道なり」「正大なる道なり」。「水を誓はしめ火を誓はしめ」「銅汁を飲み鉄丸を嘸む胸裏一団の霊火ありて、/@@rの炉端を熔く吹く息は なり汝我前に出んか眉目悉く焼く」「凡ての男を呪ひ、凡ての女を呪ひ凡ての草凡ての木を呪ふ凡ての生けるものを呪ふ三世を坑中に封じ大千世界を微塵に擢き去る地球破滅の最終日我胸中にあり」という調子である。こうした激しい心の表現を求に浮上がる胸打て。春日の如くあでやかに、春風よりも長閑なる汝を棄つとも、吾行かん。つくれ吾塚」クライモラは「去らば行かん我も」と、戟をとり、太刀を佩き、輝く武器をもって、「コンナルと共に行く我、戦ふ野辺にダアゴオと見えん」と歌うのである。
「吾等行きてまた還らず。吾等が墓は遥か彼方」それは「幻影の盾」(『ホトトギス』明三八・四)、
『薤露行』(『中央公論』明三八・一)と同じく「遠き世の物語」である。「人を屠り天に驕れる昔」、恋と戦いの時代の物語である。「セルマの歌」「カリツクスウラの詩」が発表された明治三十七年二月は、日露の戦雲急を告げ、国民はロシア討つべしの声に熱狂していた。激動の渦の中で漱石の「脳漿」は沸騰した。内部にとじこめられた暗い激情が噴出する場所を求めて沸き立ったのである。漱石にとって戦を思う心は死を思う心であった。戦と死と恋がひとつであるところに漱石の詩の世界がある。そしてそれは同時に人間の罪と呪いと宿命の世界なのである。  
ロシアに対する宣戦は二月十日であるが、二月四日には御前会議で開戦が決定され、二月六日にはロシアに対する国交断絶が通告されている。二月八日には陸軍先遣部隊が仁川上陸を開始し、連合艦隊は旅順港外のロシア艦隊を攻撃している。この激動の中で漱石は、寺田寅彦宛書簡(二月九日)に「水の底、水の底。住まば水の底。深き契り、深く沈めて、永く住まん、君と我」にはじまる「水底の感 藤村操女子」という戯詩を書き送っている。「夢ならぬ夢の命か。暗からぬ暗きあたり」「うれし水底。清き吾等に、譏り遠く憂透らず」もしかしたらこれは漱石の寅彦に対する同性愛的な感情の表白であるかも知れない。それはともかく、漱石にとって昂揚は同時に下降であった。
民族の生死を賭けた戦争の切迫に、漱石の心ははげしく揺り動かされながら、しかも熱狂する国民の渦の中でますます孤独になり、ますますつよく死者の世界へとひきつけられて行った。この傾向は日本の「連戦連勝」に祝勝気分がかきたてられるとともにいっそう強まった。「従軍行」を作ったのは開戦後間もない時期のことであって、その後漱石は二度とこのような詩を作らなかった。征露の句の揮毫を求めた細見勝逸に対する書簡(明三七・一〇・一○)に、「征露の句などは一句も無之候」とことわっている。
明治三十七年のはじめごろ漱石がノートに書き記した英文は、このころの漱石の憤怒と孤独と幻想の世界を赤裸々に表現している。In sorrow she ate her heartにはじまる英詩を冒頭におき、全集で七頁にわたって激越な言葉が書き連ねられているのである。漱石の心にはひとりの女性が住み続けていた。江藤淳はそれを嫂登世と断定する(『漱石とその時代』)が、その永遠の女性はただ漱石の心にのみ住み続けた女性である。この幻の女性は漱石の生涯にさまざまな形であらわれ、彼女に対する幻想の愛が、漱石をして作家としての道を歩かせた。漱石の作品世界には、いつでもこの女性が形を変えて生きている。現実から隔絶され、自分ひとりの世界に帰り、ただひとり自分の心の内部の暗黒を見つめるとき、いつでも漱石はそのうすくらがりの中にこの女性を見出した。
漱石は現実にこの女性に触れることは出来ない。この女性を漱石から隔てるものはこの世の掟であり、生と死のへだてである。この世の掟を恐れる故に、現実に彼女に触れることは死である故に・・・  
 
漱石の明治三十九年

 

夏目漱石が「猫」を発表して、作家としての道を歩きはじめたのは、明治三十八年一月、日露戦争の最中であった。慶応三年生まれの漱石は数え年で三十九才、明治の文学者としては異例におそい作家としての出発である。しかもひとたび創作活動をはじめると、明治三十八年中に「猫」の続稿を、第二(二月)、第三(四月)、第四(六月)、第五(七月)、第六(九月)と発表し続け、十月には単行本『吾輩ハ猫デアル』を刊行した。またこれと並行して、「倫敦塔」(一月)、「カーライル博物館」(同)、「幻影の盾」(四月)、「琴のそら音」五月)、「一夜」五月)、「薇露行」(十一月)と書き続け、明治三十九年一月の「趣味の遺伝」とあわせて、作品集『漾虚集』を明治三十九年五月に刊行した。これらの創作活動は、一高、東大における教師としての生活の中で行われたのであり、漱石の内部にとじこめられた創作の子不ルギーがいかに巨大なものであり、それがいかに表現を求めて一時に噴出したかを示している。
東大における漱石は明治三十六年九月以来『文学論』の講義を続けていたが、明治三十八年六月を以て講了とし、同年九月からは「十八世紀英文学」(後に『文学評論』として刊行)を開講した。『文学論』はその序文によれば、十年がかりの計画でとりかかった研究を、それがまとまらぬうちに始めた講義であり、それ故難行を極めたのであった。それがいかに苦しい仕事であったかは、晩年の作品『道草』に如実に描かれている。ひたすら科学的抽象的に文学の法則を明かにしようとして悪戦苦闘した『文学論』を、未完成のままで講了とし、十八世紀英文学に対して比較的自由な論評を加える講義にかえたことは、漱石が英国留学中にたてた計画の放棄を意味するが、そこには後述の「戦後文界の趨勢」に述べられているような意識もはたらいていたと思われる。そしてそれは漱石が創作の世界に急速にふみこんでいったことと表裏の関係にあり、漱石の生涯における重大な転換を示すものである。
この後漱石は、さらに作家としての飛躍的な発展を続け、ついに大学教師の道を歩くことをやめ、創作に専念するにいたった。なんといっても初期の作品は、自己の内部の激情に芸術的表現の道をあたえ、そのことによって自己を救済しようとする排悶の文学であり、大学教師の余技であるという性格をまぬがれなかった。しかし日露戦後の現実において、にわかに開けた創作の世界は、ひたすら作品そのものによって現実とたたかう、作家の道に漱石をかりたててやまなかったのである。
四十歳になんなんとして、東京帝国大学の講師であり、やがては教授の位置も約束されている人物が、突如として創作の筆をとりはじめるということさえ異例のことであった。まして大学をやめ、一新聞社に入社して、職業作家としての道をふみ出すということは、当時の日本における帝国大学の権威の高さ、そして一方新聞社というものに対する社会的評価の低さを思うとき、今日からは想像しがたいほどの転換であり、ほとんど狂気の沙汰に近いものであった。あえてそのようにふみきらざるを得ないものが漱石自身の内部にあったことは確かなことである。その背後に日露戦争という巨大な現実があり、戦後日本の激動する社会があり、新思想、新文学を待望する日本の文学界、思想界の動向があったことは否定できない。
従来の漱石論は、ひたすら漱石の内面にくぐりいり、時代の潮流からきりはなして漱石を考察する傾向が目だっている。しかし漱石は、彼の生きた時代のまっただ中にあって、時代そのものと組みうちすることで、その作品世界を形成し、発展させたのである。
明治三十九年十月二十三日付狩野亨吉宛書簡は、京都大学就任をすすめる狩野に対することわりの手紙である。漱石は「自分の立脚地から云ふと感じのいゝ愉快の多い所へ行くよりも感じのわるい、愉快の少ない所に居ってあく迄喧嘩をして見たい」という。世の中を一大修羅場と心得、はなばなしく討死するか敵を降参させるかどっちかにして見たい。自分では自分がどの位の事が出来てどの位のことに耐え得るか見当がつかない。もっとも烈しい世の中に立ち、自分のため、家族のためは暫くおいて、「どの位人が自分の感化をうけて、どの位自分が社会的分子となって生存し得るかをためして見たい」と述べたのである。
同様な烈しい言葉を当時の漱石がしきりに書いていたことはよく知られている。この年七月三日付高浜虚子宛書簡には、「小生は生涯に文章がいくつかけるか夫が楽しみに候。又喧嘩が何年出来るか夫が楽に候。」「世界総体を相手にしてハリツケにでもなって、ハリツケの上から下を見て此馬鹿野郎と心のうちで軽蔑して死んで見たい」と書き、また十月二十六日の鈴木三重吉宛書簡には、「苟も文学を以て生命とするものならば単に美といふ丈では満足が出来ない。丁度維新の当士〔時〕勤王家が困苦をなめた様な了見にならなくては駄目だらうと思ふ。間違つたら神経衰弱でも気違でも入牢でも何でもする了見でなくては文学者になれまいと思ふ」というような言葉を書き記している。
大学教師の余技として、いわば排悶のための文学から、時代のただ中にたって、徒手空拳、ひたすら文筆の力にのみ頼って、時代と格闘する専門作家の道にふみ出そうとする漱石の心には、これだけの烈しい覚悟があった。もちろん漱石は時代の重さを十分に知っていた。前記狩野宛書簡には「世の中は僕一人の手でどうもなり様はない。ないからして僕は打死をする覚悟である。打死をしても自分が天分を尽くして死んだといふ慰藉があればそれで結構である」と書いている。
漱石はこの長い手紙をおいかけるように、さらに長い第二信を同じ日に書いて送り、東京を去って松山にいった十数年も昔のことにまで触れながら、自分はもう現実から逃げ出す失敗は決してくりかえさないという覚悟を披瀝し、「余は余一人で行く所迄行って、行き尽いた所で斃れるのである」と書いている。京都行きをことわった漱石は、自分の行くべき道をはっきり自覚し、異常な昂奮に襲われている。自分の生涯をふりかえりながら、敗北を必至とするかたかいに旅立つ自分を語り、その前途を思いやって、そのたたかいの中途において、道路に斃れる悲壮な決意を吐露している。
これらの手紙に書かれた「文学を以て生命とするもの」の覚悟は、ほぽ同じ時期に書かれ、明治四十一年一月の『ホトトギス』に発表された「白井道也は文学者である」という一句にはじまる「野分」に作品化された。それはあきらかに、大学の教師をやめ、一新聞社員として、直接に時代と相渉る専門作家として生きる道をふみ出す覚悟を、天下に公表するものであった。
漱石は前掲狩野宛第二信に、東京を逃れて田舎に行っても東京同様の不愉快な思いをしなければならなかった経験を語り、自分の逃避的な態度は、それだけ「社会の悪徳を増長せしむる者」であり、「自らを潔くせんが為めに他人の事を少しも顧みな」いものであったという反省を述べている。そうして「もし是からこんな場合に臨んだならば決して退くまい。否進んで当の敵を打ち斃してやらう」と決意するにいたったというのである。これと共通の基盤に立って、明治三十九年九月に発表した「草枕」冒頭の「住みにくさが高じると、安い所へ引越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る」という言葉は書かれている。
しかし、「草枕」の漱石は現実とたたかうのでなく、芸術の世界をうちたてることによって現実を超えようとしている。「草枕」には現実の暗黒を直視し、痛烈な現実批判を展開する漱石がいる。現実の外に逃れようとしても所詮逃れ得るものでなく、芸術の世界も現実の外にではなく、逃れ得ぬ現実のただ中にうち建てられなければならない。しかし「草枕」の漱石は心のもち方を変えることで、現実のただ中にありながら、その苦しみから自己を救出しようとしており、そこに芸術による人間救済の可能性を求めている。所詮それは芸術のあり方のひとつを提示したにとどまり、大学教師の余技としての排悶の文学、自己救済の文学であることをまぬがれなかった。前掲狩野宛、三重吉宛書簡は、この「草枕」の芸術観をのりこえ、専門作家の道にふみ出そうとする決意を示したものとして、重視されるべきであろう。
「草枕」に傾倒する三重吉に対して漱石は、「きれいにうつくしく暮らす即ち詩人的にくらすといふ事は生活の意義の何分一か知らぬが矢張り極めて僅小な部分かと思ふ。で草枕の様な主人公ではいけない。あれもいゝが矢張り今の世界に生存して自分のよい所を通さうとするにはどうしてもイプセン流に出なくてはならない」といわずにはいられなかった。単に「美的な文字」は「閑文字に帰着する」のであり、「俳句趣味は此閑文字の中に逍遥して喜んで居る」のである。「然し大なる世の中はかゝる小天地に寐ころんで居る様では到底動かせない。然も大に動かさゞるべからざる敵が前後左右にある。苟も文学を以て生命とするものならば単に美といふ丈では満足が出来ない」と述べる漱石は、「文学を以て生命とするもの」として、「進んで苦痛を求める」道をえらが、そのことによって、専門作家としての道をきりひらいた。  
明治三十九年の漱石は一月に、『猫』の第七、第八、三月に第九、四月に第十、そして八月に第十一最終回を発表している。また一月には「趣味の遺伝」、四月には「坊つちゃん」、九月には「草枕」、十月には「二百十日」を発表している。そして翌年一月「野分」を発表し、三月には大学をやめて、同四月に朝日新聞社に入社している。この間明治三十九年の秋以来、『文学論』の講義をまとめて刊行する努力を続け、明治四十年五月に刊行しているが、その序文は明治三十九年十一月に、読売新聞に発表されている。それは漱石にとって、彼自身も予想することのできなかったような激動の月日であった。この激動にかりたてたものとして、日露戦争の酷烈な現実、日露戦後の日本の激動を無視することは出来ない。
明治三十八年八月の『新小説』に漱石は「戦後文界の趨勢」という談話を発表した。これは『新小204 説』が「戦後之文壇」と題して、八月以降十一月まで連載特集したもので、漱石はその冒頭を飾ったのである。ポーツマスの講和会議は八月に開かれ、講和条約調印は九月であった。漱石の談話は講話成立以前のものである。
維新後、西洋を知って以来、日本は西洋と戦ったことはなかったが、「砲烟弾雨の間に力を角するの戦争」がなかったというだけで、「物質上、精神上には平和の戦争は常に為れつゝあった」と漱石は述べている。「西洋から輸入された文化の庇蔭」を蒙って来た日本は、「その報酬として幾分か彼に侵蝕される傾向」をまぬがれず、「西洋には及ばない、何でも西洋を真似なければならぬと、一も二もなく西洋を崇拝し、西洋に心酔して」きたのである。しかし西洋の強国ロシアに対する戦勝は精神界にも影響をあたえ、「向ふも人なら、吾も人だ」という「自信自覚」を生み、「日本はどこまでも日本である。日本には日本の歴史がある、日本人には日本人の特性がある」と考えるようになり、「自然 の勢ひが西洋を標準としないで、日本といひ、自身を標準とすることになるから人間が窮屈でなくなる。文学界の製作としても非常に闊達になる、のび@くした感じを以て対することになる。批評の上にも自由な行動が出来るやうにならうと思ふ」と述べた。
英国のエリザベス時代の文学が興ったのは、スペインの無敵艦隊を破って、天地が広くなり、「勃々たる生気」が湧いてきたことにひとっの理由があると漱石は述べたが、この例は、同じ号の『新小説』に発表された角田浩々歌客の談話にも、九月号の三宅雪嶺、十月号の島田三郎、十一月号の樋口龍峡等の談話にもとりあげられ、国民的自覚と活力の発揚が国民的な文学の発展を招くであろうと論じられた。このような上昇的な気分が日露戦後の文学界を支配していたのであり、漱石もまたその中にいたのである。
坪内逍遥、島村抱月らによる文芸協会の設立、『早稲田文学』の復刊も、このような気運の中で実現された。たとえば島村抱月は、明治三十九年一月『早稲田文学』復刊第一号巻頭の「早稲田文学再興の辞」に「吾人は我国勃興の真の歴史を開くべき第一年、明治三十九年の初頭において……」と挨拶し、その巻頭論文「囚はれたる文芸」にも「附記」として、「時は国興こり、国民的自覚生ずるの秋なり」といい、「日本の現代といふ特殊の事情に応ずべき文学観なかるべからず。其は正しく日本的若しくは東洋的文芸の発揮といふことならんか」というような言い方をしている。しかし抱月のこの言葉は時代の合言葉を口にしているという感じで、主体的な迫力を欠いていた。「囚はれたる文芸」そのものが西洋の芸術観の紹介にとどまり、その後の活動もその範囲を出るものではなかった。
当時国民的自覚とか、国民的文学の勃興とかいうことはしきりにいわれたが、声のみ高くして内容のない合言葉のようなものが大部分であった。その中で漱石が、それを生涯にわたって追究し続けたことが注目される。「戦後文界の趨勢」の主張は、「現代日本の開化」、「模倣と独立」、「私の個人主義」等、晩年にいたるまでくりかえされ、発展させられた。元来、英国留学以来漱石の心血を注いだ『文学論』そのものが、日本文学が西洋からの独立を実現するための理論的根拠をあたえようとする学術的労作であり、それを支えたものが痛切な日本人としての自覚であったことは、その序文や「私の個人主義」に明らかである。
漱石は西洋崇拝からの解放を求めたが、その反動としての排外的な国粋保存主義とも対立した。漱石が強調したのは自由と解放であり、一切の束縛をたちきり、ひたすら自己に忠実であることによって、新しい未来をきり開くことである。「凡て物を判断するの標準は世と時とを問はず現在が標準であ る。自己が標準となるのである」と「戦後文界の趨勢」は述べている。日露戦争が漱石にもたらしたのは自由と独立の感情であり、自己の解放、感情の解放であり「自己本位の立場」の確立であった。
『猫』や「倫敦塔」以下の諸作品は実にこのような自覚に支えられ、自己の自由な表現を求めて、新しい形式と内容を追及し続ける精神によってきり開かれた創造的な世界であった。
「作物の批評」(明40・―・1『読売』)において漱石は、批評の基準の多元的であるべきことを主張して、狭小な主観的尺度で作品世界をせばめることに反対し、「死したる自然は古今来を通じて同一である。活動せる人間精神の発現は版行で押した様には行かぬ」「過去を綜合して得たる法則は批評家の参考で、批評家の尺度ではない。尺度は伸縮自在にして常に彼の胸中に存在せねばならぬ。批評の法則が立つと文学が衰へるとはこの為めである」と述べた。この主張は「創作家の態度」(明41・4)「イズムの功過」(明43・6)等にくりかえされ、深められた。
「イズムの功過」の漱石は「人間精神上の生活に於て、吾人がもし一イズムに支配されんとするとき、吾人は直に与へられたる輪廓の為に生存するの苦痛を感ずるものである」「其時わが精神の発展が自個天然の法則に遵つて、自己に真実なる輪廓を、自らと自らに付与し得ざる屈辱を憤る事さへある」と述べた。西洋崇拝の奴隷的感情から国民を解放する日露戦争の勝利は、漱石にとって何よりも国民の自己を主とする自覚自信を生むものとしてとらえられ、文学の創造的発展の道をきり開くものと考えられた。
漱石が文学を固定的な型にとじこめることに反対したのは、おのれの人生、おのれの精神を固定したものとして考えることを拒否したからである。漱石は自己の内部に、たえず変化し、流動し、発展するものを見ていた。自己と自己の生きる現実を、たえず新しく発見しなおし続けたのであり、そのことによってたえず前作をのりこえ、新しい文学世界を創造しつつ前進したのである。
「野分」の白井道也は、「諸君のどれ程に剛健なるかは、わたしには分らん。諸君自身にも知れぬ。只天下後世が証拠だてるのみである。理想の大道を行き尽して、途上に斃るゝ刹那に、わが過去を一瞥のうちに縮め得て始めて合点が行くのである。諸君は諸君の事業そのものに由って伝へられねばならぬ。単に諸君の名に由って伝へられんとするは軽薄である」と演説した。自己の何であるかは、その行為、事業においてのみあらわれるのであり、その外に自己はない。ただひたすら自己の道を行くことによって、自分自身を発見するしかないのであって、自分が何であるかは自分自身にもわからないというのである。
明治三十八年二月七日付寺田寅彦宛書簡に漱石は、「漱石が熊本で死んだら熊本の漱石で。漱石が英国で死んだら英国の漱石である。……今日迄生き延びたから色々の漱石を諸君の御目にかける事が出来た。是から十年後には又十年後の漱石が出来る。俗人は知らず漱石は一箇の頑塊なり、変化せずと思ふ」と書き、Dynamic Law on Mr. K. Natsume.と記した。明治三十九年二月十五日付森田草平宛書簡には、「僕は死ぬ迄進歩する積りで居る」と書き、たとえば『猫』のこ即を書くと、この次にはもう書くことはあるまいと思うが、いざとなるとだんだん思想がうかんで来る、「すべてやり遂げて見ないと自分の頭のなかにはどれ位のものがあるか自分にも分らないのである」と述べた。
前記狩野宛書簡には、「今迄は己れの如何に偉大なるかを試す機会がなかった。己れを信頼した事 がI度もな」く、ひたすら、朋友や目上や近所近辺を頼りにして生活しようとしてきたが、「是からはそんなものは決してあてにしない。妻子や、親族すらもあてにしない。余は余一人で行く所迄行って、行き尽いた所で斃れるのである。それでなくては真に生活の意味は分らない」と、英国より帰国する 船中で決心したことを記している。
「戦後文界の趨勢」の漱石は、「決して吾々には所信があって今日の大成功を期して居たとはいはれない」と述べている。西洋の強国ロシアに対し、「最初から死力を尽し、生きるか、死ぬかといふ精神であつたが、斯う勝を制して見ると国民の真価が事実の上に現はれた心地がする」というのである。
漱石は「趣味の遺伝」に戦争の悲惨さを鮮烈に描き出したが、日露戦争を避け得るものだったとは考えていない。さらにその後に続く戦争をさえ避け得ぬものと考えていた。『虞美人草』の甲野さんは「君は日本の運命を考へた事があるのか」といい、「日本と露西亜の戦争ぢやない。人種と人種の戦争だよ」「亜米利加を見ろ、印度を見ろ、亜弗利加を見ろ」という。
「趣味の遺伝」は「陽気の所為で神も気違になる」という一句ではじまっている。たしかに戦争こそは最大の狂気であるだろう。しかし漱石はこの狂気に人間の不条理な活力の激発を見た。日露戦後、ポーツマス条約を不満とする激昂した民衆の日比谷の焼打ち事件にも、漱石は暴発する民衆の狂気を見た。激動する現実の中で、漱石は自己の内部にも奔騰する狂気、血に渇き復讐を求める狂暴な精神を感じた。
「趣味の遺伝」の漱石は、凱旋歓迎の万歳の歓呼の彼方に、「満洲の野に起った咄喊」を聞く。咄喊の声はあらゆる意味を絶している。「万歳の助けて呉れの殺すぞのとそんなけちな意味を有しては居らぬ。ワー其物が直ちに精神である。霊である。誠である。而して人間崇高の感は耳を傾けて此誠を聞き得たる時に始めて享受し得ると思ふ」(傍点原文)と漱石は書いている。「戦争の片破れ」であり、「髯茫々として、むさくるしき事乞食を去る遠からざる紀念物」である兵士たちについて、「彼等は日本の精神を代表するのみならず、広く人類一般の精神を代表して居る」と書いた。兵士たちは自分の意志で戦ったのではなかった。「自分の意志以上の意志」に従って、生死を賭して激しい戦いを戦った。
漱石は満州の野に展開された激烈な戦争にゆり動かされて、自分自身の戦いに出発した。それはひたすら自己の内部のやみがたい声に従い、自己をさえぎるものはあくまでもうちたおそうとする戦いである。日露戦争が「所信があって今日の大成功を期して居た」戦争ではなく、「最初から死力を尽し、生きるか、死ぬかといふ精神」で戦って勝利したという事実は、漱石のこの戦いを鼓舞し激励した。日露戦争の勝利が国民の自覚自信を生み、西洋崇拝の呪縛から解放されて、新しい文学がおこるだろうといったとき、漱石は日本の文学が、ただ自分自身に忠実であることによって、創造的な新しい世界をきり開いて行くことを求めたのであって、国家主義とか、国粋保存主義とかの狭小な主義の文学の勃興を期待したのではない。  
明治三十九年二月三日付野間真綱宛書簡に漱石は、「小生例の如く毎日を消光人間は皆姑息手段で毎日を送って居る。是を思ふと河上肇など上回ふ人は感心なものだ。……人はあれを精神病といふが精神病なら其病気の所が感心だ」と書いた。
河上肇は明治三十八年十一月一日から同年十二月十日にいたるまで、読売新聞に「社会主義評論」を連載し、翌三十九年一月三十日に同社より単行本として刊行した。この連載中に無我苑の伊藤証信を知り、「無我の愛」の教えに感動して、「社会主義評論」を中絶し、農科大学、学習院等の教職を辞して無我苑に入り、全力をあげて伝道の仕事に従事するにいたった。河上はその入信の経緯を「大山鳴動」として明治三十八年十二月十四日から同三十日にかけて読売に連載し、ひき続き「人生の帰趣」を明治三十九年一月四日から二月二十七日かけて連載している。漱石が前掲書簡を書いたのは、「社会主義評論」が単行本として刊行された直後、「人生の帰趨」連載中のことである。
「朝に道を聞けば夕に死すとも可なり」という孔子の言葉、「命もいらず、名もいらず、官位もまつたくいらぬ人は、始末に困るものなり、此始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業を成し得られぬなり」という西郷隆盛の言葉を河上は愛し、くり返してその著作中に用いている。河上は「無我の愛」に「絶対の非利己主義」を見出し、それを「絶対の真理」として、一切をなげうって「至善の一路」に進もうとしたのである。
「社会主義評論」第三十六信「欄筆の辞」に、河上は自己の半生を告白して、「無我の愛」によって現世の一切の苦しみから解放され、「絶対の幸福と自由」を得た喜びを語っている。「嗚呼余は久しく何物をか求めて已まざりき、故に常に多少の苦悶と不安とありき、然り何人か然らざらんや、財あるものは財の盗まれんことを憂ひ、名あるものは名の墜ちんことを憂ひ、学に志すものは学の進まざるを、恋に満足するものは恋の変らざらんを恐る。しかも人生限りあり、而して人欲限りなし、誰か絶対の満足を得て死して可なりと感ずるものあらんや」河上は「無我の愛」によって「絶対の真理」「絶対の幸福と自由」を得て「夕に死すとも可なるを」思うにいたったといい、「嗚呼既に生死を忘る。名誉何かあらん、一切の事々物々皆な悦んで迎よべし」「上、天に恥ぢず、下、人に恥ぢず、貧賎移す能はず、威武屈する能はず、亦だ快ならずや」と述べている。
河上は自分が自分の過去を赤裸々に告白したのは、「一に只だ夕に死すとも可なりの実感を証明せんが為め」であるといい、「人は見て狂となさん、しかも余之を為して恐れず、豈奇ならずや」と、その解脱の喜びを語っている。「此の絶対の幸福を他人に伝へんとするの念鬱勃として禁ずる能はず」
という河上は、「今日より後余は口に筆に此の真理の発現に身を致して死すべき時に死なんとぞ思ふ」と、大学をやめて読売の社員となり、文筆活動に従事する決意を語っている。
漱石が河上肇に言及したものとして現在に残っているのは、前掲野間真綱宛書簡一通のみである。漱石の言葉はさりげないもので、河上はこの書簡について、「自分は冷かされてゐるのかも知れないが……」(「自画像」)と記している。しかし漱石はこの河上に深く動かされる所があったと思われる。漱石はこの手紙に、「忙しい事は依然として忙がしい。生涯此有様であらう。而して生涯落ちつく事はない。僕のキュー/へして居るのも亦姑息手段に過ぎぬ。要するに大俗物になって益大俗物たらんとアセルのだね。是ではどこがえらいか分らない。人間は他が何といっても自分丈安心してエライといふ所を把握して行かなければ安心も宗教も哲学も文学もあったものではない」と述べている。
漱石が大学をやめたいという考えをもったのは、英国から帰国して、東大で講義をするようになった直後からのことである。明治三十六年四月に講義をはじめた漱石は、同年五月二十一日に菅虎雄に宛てて、はやくも「次第にては小生は辞任を中出る覚悟」といい、六月十四日には「大学ハやメル積212 ダ」と書いている。英国留学中及び帰国後の漱石が強度の神経衰弱に悩んだことは周知の事であり、『猫』や「倫敦塔」以下の諸作品はこの苦痛からの脱出であり、排悶であった。
作家としての活動が大きな反響をよび、読者の共感を得るに従って、漱石の前に新しい世界が急速に開けたのは事実である。「戦後文界の趨勢」の談話をした当時、明治三十八年七月十六日付中川芳太郎宛書簡は、学校の仕事、文筆の仕事、そして多数の来客に多忙を極める生活を伝え、「大学で一人前の事をして高等学校で一人前の事をして明治大学で三分一〔人〕前の事をして文士としても一人前の事を仕様といふ図太い量見だから到底三百六十五日を一万日位に御天と様に掛合って引きのばして貰はなくつちや追ひつかない話しさ」といっている。ここには新しく開けた世界に遮二無二とびこみ、存分に腕をふるって意気軒昂たる漱石がいる。「戦後文界の趨勢」が発表された八月の諸雑誌には、このほかに四篇の談話と、「一夜」が発表されている。
しかしやがてそうした生活の空しさが漱石を圧迫するようになり、同年九月十七日付高浜虚子宛書簡には「毎日来客無意味に打過候。考へると己はこんな事をして死ぬ筈ではないと思ひ出し候」と書いている。「生涯のうちに自分で満足の出来る作品が二三篇でも出来ればあとはどうでもよい」という漱石だが、そのためには牛肉も卵も必要だというわけで、「遂々心にもなき商買(原)に本性を忘れるという「顛末」に立ちいたったというのである。「とにかくやめたきは教師、やりたきは創作。創作さへ出来れば夫丈で天に対しても人に対しても義理は立つと存候。自己に対しては無論の事に候」と漱石はいっている。急速に開けていった創作の世界で自分の一切を賭した仕事をしたいと望むようになった漱石は、自分の中途半端な生活と、中途半端な作品に満足することができなくなったのである。
大学をやめて全力を創作に注ごうとする考えが強まるにつれて、漱石は大学をやめることの不安を現実的なものとして感じはじめている。同年九月二十四日付野間真綱宛書簡には「心ばかり狼狽して仕事は一向出来ず愛想がつき申候。学校をやめたら創作家になれるだらうなかと己惚るのも矢張り本来の愚見かと存候」と述べている。明治三十八年九月に「猫」第六を発表し、十月に「吾輩ハ猫デアル」上篇)を最初の著書として刊行してのち、十一月の「薤露行」一篇のほかに発表していないのは、漱石の内部で創作の意味が問われ、ひとつの転換が生じたことを示している。
この小休止を経て、明治三十九年一月には「趣味の遺伝」、「猫」第七・第八を同時に発表する大活躍をはじめた。この月には「昔の話」「予の愛読書」という二篇の談話も発表された。漱石は「趣味の遺伝」と「猫」第七・第八を十二月はじめの二週間で書きあげているが、その直前の十一月二十六日付高浜虚子宛書簡に「僕は当分のうち創作を本領として大にかく積りだが少々いやになった。然し外に自己を発揮する余地もないから矢張り雑誌の御厄介になる事に仕った」といっている。虚子宛の十二月十一日、十八日付の書簡によれば、漱石は二週間ばかり、大学も休んで創作に没頭したが、時間不足のため「趣味の遺伝」も「猫」も不満足なまま発表せねばならなかった。
十二月九日付野村伝四宛書簡には「小説家程いやな家業はあるまいと思ふ。僕なども道楽だから下らぬ事も書いて見たくなるんだね。職業となつたら教師位なものだらう」と書き、同十八日の虚子宛書簡には「此二週間帝文とホトヽギスでひまさへあればかきつゞけもう原稿紙を見るのもいやになりました是では小説抔で飯を食ふ事は思も寄らない」といっている。これらの言葉は、漱石がまじめに大学の教師をやめて小説で飯を食うことを考えていたことを示している。二週間という短時日にあれだけの作品を書こうとしたのも、一方で彼の内部に沸騰する創作欲があったからにはちがいないが、同時に職業作家として、創作で衣食の道を得る可能性を試みたということがいえるのではないか。
明治三十九年一月一日の鈴木三重吉宛書簡には「早稲田文学が出る。上田敏君抔が芸苑を出す。鴎外も何かするだらう。ゴチや@くメチや@く其間に猫が浮きっ沈みっして居る。中々面白い。猫が出なくなると僕は片腕もがれた様な気がする。書斎で一人で力味(原)んで居るより大に大天下に屁の様な気焔*をふき出す方が面白い」と述べている。新年早々、勃興する文壇の新気運の中で奮闘しようとする漱石の気持がはっきりとあらわれている手紙である。
一月十日付森田草平宛の手紙にも大学をやめたいといっているが、同十四日付菅虎雄宛書簡には「僕大学をやめて江湖の処士になりたい」と書いている。「創作を本領として大にかく積り」の漱石は、ますます大学をやめたいという思いを強めながら、中途半端な状態にとどまり続けていた。この漱石にとって衣食の問題を度外視し、ひたすら道を求めて、道のためにすべてをなげうって新生活にとびこんだ河上肇の生き方は衝撃的であった。河上の矯激ともいうべき行為は、改めて漱石に自分の生活の不徹底を思い知らせた。河上に言及した二月三日の前記野間宛書簡に「僕のキューくして居るのも亦姑息手段に過ぎぬ」といっているのはこのことを示している。たしかにそれは狂気の沙汰ともいえばいえたであろう。しかし漱石が「精神病なら其病気の所が感心だ」といったとき、それは決して皮肉の言ではなかった。
この野間宛書簡のほかに、漱石が河上に言及した言葉は今日のこっていない。しかしやがてこの年十一月には、河上が「社会主義評論」「大山鳴動」「人生の帰趣」等を発表した読売新聞に「文学論序」を発表し、河上が「社会主義評論」の「擱筆の辞」でおこなったのと同様に、[著者の心情を容赦なく学術上の作物に冠して其序中に詳叙するは妥当を欠くに似たり。去れど此学街上の作物が、如何に不愉快のうちに胚胎し、……如何に不愉快のうちに出版せられたるかを思へば……」と、こみあげる激情をおさえかねる文章で過去を語り、過去に対する訣別の辞を述べた。
「英国人は余を目して神経衰弱と云へり。ある日本人は書を本国に致して余を狂気なりと云へる由」「帰朝後の余も依然として神経衰弱にして兼狂人のよしなり」河上が「絶対の真理」を得て解脱の喜びを語っているのに対し、漱石はあくまでも自己に執し、群屈した心情を吐露している。「だゞ神経衰弱にして狂人なるが為め、『猫』を草し『濠虚集』を出し、又『鶉寵』を公けにするを得たりと思へば、余は此神経衰弱と狂気とに対して深く感謝の意を表するの至当なるを信ず」といい、「長しへに此神経衰弱と狂気の余を見棄てざるを祈念す」と述べた。
こうして漱石は、すべてをなげうって、ひたすら道を求め、道のために戦う白非道也を主人公とする「野分」を書いて、作家としての新しい出発の宣言とするのであるが、この白井道也には、多くの点で河上肇と通じあうものがある。  
日露戦争の最中に「倫敦塔」以下『漾虚集』の諸作品を書いて、人間の生存とその歴史の暗部にひそむ情熱と罪業に詩的表現をあたえ、『猫』においては自己批評から出発して、金力と権力に対する攻撃を諏刺と滑稽化によって展開するにいたった所に、明治三十八年の漱石の、作家としての出発があった。明治三十九年を迎える漱石は、「趣味の遺伝」によって『漾虚集』の世界に訣別した。
遠いロンドンの暗い空の下に、歴史そのものの化石のように凝然として立ち続け、二十世紀の文明をじっと見おろしている倫敦塔によって、はるかなる幻想と詩の世界にはいっていった漱石は、自分が現に生きている二十世紀の日本へ帰って来たのである。激烈な日露戦争に露出された人間の狂気、その暗い情熱と罪業を描き、自分の意志以上の意志に駆りたてられて、大風の吹く遠い満洲の野に不条理な死を死んだものの死を描き、その墓前に、非現実的な幻の愛の花束を捧げ、『漾虚集』の世界と訣別した。
「趣味の遺伝」と同じ月に発表された『猫』第七の苦沙弥先生は浴場の赤裸=化物の世界と、現実社会の衣服=文明の世界との中間にあって「逆上」の醜態を演じている。明治三十九年の漱石は現実のたゞ中におり、『猫』第八の苦沙弥先生は、落雲館の中学生とまことに大人げない、滑稽な「大戦争」を展開する。人間精神の激発はもはや「逆上」としてしかあらわれない。悲劇の時代は終り、現代はまさしく喜劇の時代なのであった。
『猫』第九の苦沙弥は、鏡をわざわざもち出して来て、一生懸命に自分の顔を点検している。「大戦争」の空しさに疲れはて、八木独仙の消極哲学の影響を受けて、あらためて自己の再検討をはじめたのである。天道公平なるものの奇妙な手紙に心を動かされた苦沙弥は、この天道公平が独仙の影響を受けて精神に異常をきたし、今は精神病院にいる正真正銘の狂人であると知って、気ちがいの言葉に感服する自分は気ちがいになりかけているのではないかという恐怖を感じ、さらに、自分のちかごろの中庸を失した言動を思っては、すでに立派な気ちがいになっているのではないかと思う。
しかし考えて見れば、自分をとりまく人たちはいずれも大なり小なり気ちがいのようであり、「ことによると社会はみんな気狂の寄り合かも知れない」と思われて来る。むしろ「瘋癲院に幽閉されて居るものは普通の人で、院外にあばれて居るものは却って気狂である」と思はれ、ついに「何が何だか分らなく」なってしまう。『猫』第七では銭湯の浴槽での支離滅裂な会話を描き、ここでは「気狂が集合して鎬を削ってつかみ合ひ、いがみ合ひ、罵り合ひ、奪ひ合って、其全体が団体として細胞の様に崩れたり、持ち上ったり、持ち上ったり、崩れたりして暮して行くのを社会と云ふのではないか知らん」と書いている。そして「何返考へ直しても、何条の径路をとって進まうとも、遂に『何が何だか分らなくなる』丈は慥かである」というのである。
この現実を人はどのように生きて行けばよいのか。森田草平宛明治三十九年二月十三日付書簡(第二便)の漱石は「天下に己れ以外のものを信頼するより果敢なきはあらず。而も己れ程頼みにならぬものはない。どうするのがよいか。森田君君此問題を考へた事がありますか」と書いている。この時期の漱石が苦しい自己検討を強いられていたことは確かである。
河上肇について書いた前掲野間真綱宛書簡は、この直前の二月三日に書かれたので、『猫』第九はこの直後に書かれている。漱石には河上の狂気に似た言動に共感を覚えるものがあり、「姑息手段」で生きている自分の生活に対する自己検討を強いられた。しかし、漱石には「姑息手段」で生きるしかないという苦い認識があった。漱石には現実社会に対する憤激があったが、その激情にわが身をまかせることはしなかった。生活問題に対する顧慮ということもあり、それが身の破滅をまねくものだということを知っていたということもある。しかしそればかりでなく、それが現代においてはついに 喜劇に終るしかないという認識があった。『漾虚集』の世界と訣別した漱石は、その激情を滑稽化して『猫』を書き続け、また「坊つちゃん」「草枕」「二百十日」の世界をきり開いていったのである。
「坊っちゃん」は『漾虚集』の世界と訣別した漱石が、日露戦後の日本社会の現実と格闘する精神によってきりひらいた新しい世界である。『猫』の世界は、もっぱら狭隘な 苦沙弥先生の家の中にのみ閉じこめられて展開し、その主人公は非行動的で、せいぜい落雲館中学生との「大戦争」位しかその行動は描かれなかった。その現実社会とのたたかいは、もっぱら辛辣な批評的言辞によってのみ展開されたのである。これに対して「坊つちゃん」の主人公は、現実社会のただ中に生き、複雑な人間関係の中で、現実社会そのものと格闘する。
しかし漱石はその主人公を、単純率直で、いささか思慮分別に欠ける坊っちゃんにすることで、それを滑稽な喜劇的世界として展開した。漱石は自分の内部に沸騰する激情に身をまかすことを許さぬばかりか、激情に駆りたてられようとする自分をわらおうとさえした。自己の内部の矛盾や弱点、強固なエゴイズムに盲目にはなり得なかったのである。漱石の認識はたえずその反面から光があてられ、その一面性が否定された。そこに漱石の文学がアイロニーとして展開されなければならなかった所以がある。
漱石にとって、赤裸々な自己告白など決して可能でなかった。漱石の自己認識はあまりに複雑すぎたのである。それ故、漱石の作品世界は一定の装置をほどこされることによってのみ成立し、作者は仮面をかぶってのみ作中に登場した。漱石の作品にはいたる所に漱石がいるが、同時にどの漱石も漱石の一面でしかなく、作者が全面的に自己を仮託した人物など、どこにもいないのである。
そもそも漱石自身が自分の本体はこれだという形では、自分自身をとらえることができなかった。漱石自身にとって、自己はたえず流動し変貌した。漱石の自己認識は、たえず否定されることによって発展した。このたえまなき流動と変貌のうちに、このたえまなく否定されることによって発展する自己認識のうちに漱石は存在し、その文学があった。
「文学論序」を書き、「野分」を書いて、ついに大学をやめ、朝日に入社して、専門作家の道を歩きはじめた漱石を駆りたてたものが、前記狩野亨吉宛書簡、鈴木三重吉宛書簡に吐露されたような、どこまでも現実こまでも現実と相渉り、これと戦い続けようとするはげしい精神であったことはたしかである。しこれと全く同じ時期の十月二十日付野間真鯛宛書簡には、「近来世の中に住んで居るのが小便壷の中に浮いて居る様な気がする。「昔し小便壷の中に居る事に気がつかなかったときはもっと熱心であった。天下の人が戯れて居るのに自分丈真面目で居るのは酔漢の中に窮屈にかしこまつてゐる様なものだ」といっている。
また同日付皆川正禧宛書簡には「青年は真面目がいゝ。僕の様になると真面目になりたくてもとてもなれない。真面目になりかける瞬間に世の中がぶち壊はしてくれる。難有くも、苦しくも、恐ろしくもない。世の中は泣くにはあまり滑稽である。笑ふにはあまり醜悪である」と書いた。一方にこの暗澹たる認識を抱きながら、しかも自己表現を求め、現実とたたかう道を求めて苦闘する所に、漱石の文学はたえず創造的に発展させられていった。
「維新の志士の如き烈しい精神で文学をやって見たい」と書いた前記鈴木三重吉宛書簡の直前に、同日付で漱石は三重吉に宛てて、「僕の行為の三分二は皆方便的な事で他人から見れば気違的である」と書き、現在状態が続けば気ちがいであるが、現在状態が変化すればどう変るかもわからないと書いている。「一人の人間がどうでもなる所が自分ながら愉快で人には分からないからいい。気違にも、君子にも、学者にも一口のうちに是より以上の変化もして見せる」というのである。状況次第、相手次第でどうにでも変って見せるという漱石には、自分が本当の自分を生きていないという自覚と同時に、「方便的」にさまざまに変化する自分には、人には理解されない本当の自分があるのだという強い自己主張が秘められている。
自分の生活を「方便的」であり、「姑息手段で生きてゐる」と自覚し、そう生きるしかないのだと考えれば考えるほど、「自己の本領」の自覚はますます強まり、すべてを捨てて「自己の本領」に生きたい願いは切実になる。この手紙を追いかけるようにして「維新の志士の如き烈しい精神で……」という手紙を書いた所以である。
しかし、本当の自分が何であるかは自分でも分からない。ただ自分の内部の声に従い、自分のすべてをなげうって、全力的に自己を現実に打ちつけるしかない。たとえそれがいかに喜劇的であり、狂気の沙汰であろうとも……。「わたしは名前なんて宛にならないものはどうでもいこ只自分の満足を得る為めに世の為めに働くのです。結果は悪名にならうと、臭名にならうと気狂にならうと仕方が ない。只かう働かなくつては満足が出来ないから働く迄の事です」と白井道也はいう。「かう働かなくって満足が出来ない所を以て見ると、これが、わたしの道に相違ない。人間は道に従ふより外にやり様のないものだ。」白井道也における道は自己の外部に規範としてあるものではない。ただ自己の内奥の声に従って生きる所に道があるというのである。自分自身を生きることによって道をきり開こうとする創造的な道である。
白井道也は英語の教師をしていたが、深い漢学の素養をもっている。人格といい、解脱という。しかし道也の精神はふるい精神ではない。実にそれは明治の新精神である。すでに外部にある規範としての既成の道は滅びた。人はただ自己に従って生きるしかない。「諸君は道を行かんが為めに、道を遮ぎるものを追はねばならん。彼等と戦ふときに始めて、わが生涯の内生命に、勤王の諸士が敢てしたる以上の煩悶と辛惨とを見出し得るのである」自己はこの戦いのうちに、この「煩悶と辛酸」のうちにある。自己の何であるかは自分にもわからぬ。「理想の大道を行き尽して、途上に発るゝ刹那に、わが過去を一瞥のうちに縮め得て始めて合点が行くのである」と白非道也は述べたのである。
漱石は道也を、西欧に学びながら、西欧の影響を脱して、自分自身の道を行くことによって新しい未来をきり開こうとする日本=東洋の知識人として描き出した。「英国風を鼓吹して憚からぬものがある。気の毒な事である。己れに理想のないのを明かに暴露して居る」と白井道也はいう。「凡ての理想は自己の魂である。うちより出ねばならぬ。奴隷の頭脳に雄大な理想の宿りやうがない。西洋の理想に圧倒せられて眼がくらむ日本人はある程度に於て皆奴隷である」
「趣味の遺伝」によって「倫敦塔」にはじまる『漾虚集』の世界に訣別した漱石は、日本の現実、日本の理想、日本の芸術を探り求めて、「坊つちゃん」を書き、「草枕」「二百十日」を書き、「文学論序」を書いて、「野分」に到達した。「坊つちゃん」の坊っちゃん、山嵐、そしてまた清は、赤シャツの代表する西欧かぶれに対して、明かに日本を代表している。そして、「草枕」は東洋の芸術への志向を示し、「二百十日」は維新の精神をよみがえらせようとするものであった。「文学論序」において公然と英国に対する訣別の辞を述べた漱石は、「野分」において新文学の精神を、東洋の伝統の上に宣言するにいたったのである。漱石が『猫』のみならず、「坊つちゃん」「野分」を『ホトトギス』に発表しているのは偶然ではない。『猫』はホフマンを真似たのだという意見が出たとき、漱石がこれに激しく反発したのは、漱石の精神の本質にかかわる問題だったからである。  
森田草平に宛てた明治三十九年二月十三日付書簡には、「僕も弱い男だが弱いなりに死ぬ迄やるのである。やりたくなくつたつてやらなければならん」と書き、同第二便には「天下に己れ以外のものを信頼するより果敢なきはあらず。而も己れ程頼みにならぬものはない」と書いた漱石が、明治三十九年十月二十二目付草平宛書簡には、「人若し向上の信を抱いで事をなす時貴キ事神人ヲ超越シテ蓋  天蓋地に自我ヲ観ズ。天子様ノ御威光デモ是許りハドウモ出来ン。漱石ハ喧嘩ヲスル度に此域に出入ス」と書いている。いつでも自己に対し、現実に対する批評的精神を保持し続けた漱石が、一方で小便壷云々といいながら、このような手紙を書き、また前記狩野宛書簡のようなことを書き、「維新の志士の如き烈しい精神で文学をやって見たい」といって、「文学論序」のような文章を書き、「野分」のような作品を書くにいたったことは、この時期の漱石の内部の激動がいかに大きかったかを示している。
注目すべきことは「維新の志士の如き烈しい精神で文学をやって見たい」という漱石が、島崎藤村の『破戒』を想起して、「破戒にとるべき所はないが只此点に於テ他をぬく事数等であると思ふ」といつていることである。
『破戒』の刊行は明治三十九年三月二十五日、実際には二十八日に店頭に出したという。漱石は発売とほとんど同時に買っている。四月一日付森田草平宛書簡に「破戒は二三日前買ひました。先口紅緑が来て破戒の著者は此著述をやる為めに裏店へ這入って二年とか三年とか苦心したと聞いて急に島崎先生に対し〔て〕も是非一部買はねばならぬ気になりすぐ買って来ました」と書き、四月三日には同じく草平に宛てて、「破戒読了。明治の小説として後世に伝ふべき名篇也」と絶讃している。「僕多く小説を読まず。然し明治の代に小説らしき小説が出たとすれば破戒ならんと思ふ」というのである。
同じ言葉は四月四日付虚子宛書簡にもくり返されているが、六月八日付野村儀作宛書簡にも、「破戒は小生も数日かゝりて通読致候あれは文章にてよませる小説では無之又局部々々の活動にて面白がらせる小説にも無之辛抱して仕舞迄よませて後感心させる作と存候」と書いている。そして草平や虚子に対していったのと同じ「明治の作物として後世に伝ふべきもの」という称讃の言葉をくり返し、「拙作中には破戒程の大作は無之」といっている。「破戒」と比較して『漾虚集』を褒めた手紙に対する返事としてこのように書いたことは、漱石の「破戒」から受けた感銘がいかに強かったかを示している。
なによりも先ず漱石は、藤村がこの一作のためにすべてをなげうち、生活を賭して書いていることに心を動かされている。それは河上肇に対する場合と同様であるが、このことは決して感傷にすぎぬものではなかった。生活のすべてをなげうっても書かねばならぬ強烈な主題を藤村がもっていたことを示すのであり、それは近代文学にとって基本的な条件であった。文章の技巧や局部の面白さによってではなく、作品をつらぬくその精神において、人生そのものに触れるその深さと真実さにおいて、それは評価されなければならない。
「明治の作物として後世に伝ふべきもの」という感じを待ったとき、漱石はそこに作家の本領というものをはっきりと感じたのであった。十月二十二日付の前記森田草平宛書簡には、「余は吾文を以て百代の後に伝へんと欲するの野心家なり」「只一年二年若しくは十年二十年の評判や狂名や悪評は毫も厭はざるなり」と書いた。それに続いて十月二十三日付の鈴木三重吉宛書簡に、前述のように「維新の志士の如き烈しい精神で文学をやって見たい」といい、『破戒』について言及しているのである。
藤村は『破戒』に、自己を隠蔽して生きる青年の苦悩を描いた。真実を表白すれば、たちまち社会を追われ、現実的幸福を失わなければならない。しかし自己を隠蔽し、虚偽のうちに生きる生活は、たえがたい孤立と不安の生活であり、いかなる愛も友情も、かえってその身を苦しめるものと化してしまうのである。やはりそこにはいささかの自由も幸福もなかった。
社会的生存と、人間的自由と真実との和解しがたい矛盾を藤村は追究し、その矛盾にひき裂かれ、右にも左にも進み得ぬ青年の苦悩を描いた。それは社会に目ざめ、自己に目ざめ、自由と真実に目ざめ、人間に目ざめた明治の人間が、ひとしく担わなければならぬ重い現実であった。明治の社会はもはや流動的であることをやめ、日露戦争における国民感情の爆発と国家主義の高揚は、やがて重苦しく国民の精神と生活を圧迫する空気に変っていった。それが動かすことの出来ぬ現実として、強く自覚されるようになっていったのが、日露戦後の日本である。
欝勃たる自由と解放の要求に目ざめた新時代の精神は、自己をとりまく現実の、どうすることも出来ぬ桂格に傷つき悩まなければならなかった。この近代日本の基本的な矛盾と真正面からとり組んだ作品である故に、『破戒』は当時の日本に強烈な衝撃をあたえた。丑松の苦悩は明治の目ざめた人間一般の苦悩であった。彼等は丑松に自分自身を見出し、丑松の苦悩を自ら苦悩したのである。藤村は丑松を未解放部落出身の青年とすることで、この矛盾と苦悩を何人の目にも明かなように、煮つめた形で表現した。末解放部落の問題は単に未解放部落だけの問題にとどまるものでなく、近代日本の矛盾そのものの集中的表現である。
もちろんそれを近代日本の矛盾そのものとして一般化することは、その固有の問題を捨象することになり、そこに『破戒』の弱点もあるわけだが、しかしそれにもかかわらず、やはりそのことによって『破戒』は近代日本の矛盾を深く抉り出す作品になったことは認められなければならない。漱石が前記森田草平宛四月一日付書簡で、「気に人つたのは事柄が真面目で、人生と云ふものに触れて居」ることだといい、まだ半分しか読んでいないにもかかわらず、恐らく傑作だろうと述べたのはこのためである。
丑松は右と左にゆれ動き、あらゆる煩悶と苦悩、逡巡と遅疑のうちに、ついに我が身の真実を打ちあけることのないまま、唯一人の尊敬する先輩猪子蓮太郎の横死にあい、絶対絶命の場所においつめられて、ようやく決意して自己を告白する。この限りない煩悶、逡巡と遅疑をくりかえす孤立した不安な生活に、近代日本の知識人の姿がまざまざと描かれている。その懺悔と告白は、不安と動揺のうちに限りなく我が身を責めさいなみ、身と心を傷つける空しい虚偽の生活に対する訣別であり、新しい真実の生涯のはじまりであった。それはいいようのない苦難の生涯であるが、丑松は進んで社会の鞭を受けようとする。そのような矛盾があり、同胞がその苦難にうちひしがれているのである以上、それを逃れては真実の生活はあり得ぬのであり、ひたすらな孤立と不安動揺があるばかりであった。自ら進んでその苦難をひきうけるとき、そこにはじめて真実の生活が開けるのであった。丑松はそこにはじめて精神の自由を得、同胞との連帯、真の愛と友情を得て、新しい人生の曙光を見た。
漱石もまた限りない不安と動揺のうちに、あらゆる逡巡と遅疑をくり返しながら、ひたすら自己の内部の声に従い、すべてをなげうって「自己の本領」に生きる、新しい生涯への旅立ちを願い続けたのであった。あらゆる艱難と辛酸を進んでわが身にひきうける、そのはげしい戦闘の生涯にこそ、真の人生、真の文学があることは、白井道也がくり返して強調し、漱石が狩野亨吉、鈴木三重吉、森田草平、高浜虚子らにあてた手紙に、くり返して表明した信念である。
それは決して感傷的観念的な精神主義であるのではない。金力と権力の支配がますます露骨になり、近代的国家体制が強固に確立されて、それが国民の自由と幸福を実現するものでなく、かえってそれを抑圧するものであることが明らかになり、それと戦うことなしにはどうしても人間的な自由と真実をまもりぬくことが出来ないのである以上は、この悲壮な覚悟は、文学者が文学者であることをつらぬくために、どうしても必要な覚悟であった。
たしかに明治三十九年は新時代、新思想、新文学の出発を告げる記念すべき年であった。これまでの自分の過去を虚偽として葬り、すべてをなげうって新しい真生活へ旅立とうとする所に、この新時代の思想と文学の出発があった。その背後に、日露戦争の勝利がもたらしたものが幻滅でしかなく、巨大な犠牲をはらってようやく実現された近代が、決して人間の幸福を保障するものではなくて、むしろ自然を破壊し、人間を破壊するものであることが次第に深刻に認識されるようになったという事実がある。
河上肇の無我苑入りは、このような時代の知識人の苦悩と新生の希求を端的に示すものであったが、木下尚江はこの年十月「旧友諸君に告ぐ」を発表して、社会主義者としての過去に訣別し、『懺悔』一篇を刊行した。この年聖地パレスチナを巡礼し、ヤスナヤーポリヤナにトルストイを訪ねた徳富蘆花は、十二月に一高で「勝利者の悲哀」と題する講演をおこなって、「黒潮」第一号に発表し、翌年東京府下千歳村に移って田園生活をはじめた。島崎藤村の『破戒』はこのような新時代の動向を代表するものであった。
明治三十九年の夏目漱石は、河上肇に共感をおぽえ、『破戒』に感動して、「文学を以て生命とするもの」として、あらゆる歎難と辛苦のうちにひたすら自己をつらぬいて生き、そこに自分自身の文学を確立する道を求めて旅立った。「文学論序」は過去に対する訣別の辞であり、「野分」は新しい出発の宣言であった。あらゆる自己の暗黒、矛盾、弱点をはっきり見つめながら、しかも、あえて一切をなげうち、はげしい戦闘の生涯にわが身を投じ、進んで時代の歎苦をI身にひきうけようとした漱石を、前記の人々に代表される時代の動向ときりはなして考えることはできない。漱石はみずからその道をえらぶことによって、藤村とともに、新時代を代表する作家となったのである。  
 
漱石の思想と文体

 

何故今日、「思想と文体」を問題にするかについてごく大ざっぱにいいますと、何よりも先ず、思想をある実体のようなものと考える考え方が私たちの間にあって、それが教条主義ともいうべき、非創造的なものに思想をしていると考えるからです。非創造的な思想は現実に対して有効であることが出来ず、これが明治以来幾度となくくりかえされて来た転向を生み出して来だのではないかと考えるのです。このような思想の非創造性が、一方で思想に対する不信を生み、明治の自然主義以来の日本文学を支配して来た無思想性、非政治性を生んだと考えるのです。そして、今日程この無思想性、非政治性が私たちを支配している時代はないのではないかと思われます。いわゆる大衆社会状況といわれる現象でありますが、このような状況を打ち破ってゆくためには、一方で非創造的な思考方法を打ち破ってゆくと同時に、一方で無思想の状態に浮遊して、ひたすら受動的に、若しくは衝動的に生きる状態を克服して行かなければならないと思うのです。そこに創造的な思想の確立ということが問題になるわけですが、それは決して何かすでにあるものとして明確な形でそれを示すことが出来るわけではないので、むしろ、一方で教条主義的な思想を打ち破って行くと同時に、一方で経験主義的な無思想の状態をうち破って行きながら、自己を確立して行く思考の運動のスタイルの獲得として、思想の問題を追求する必要があると考えたのであります。そして文体とはまさしくこのような思想の形成過程を示すものではないだろうかと考えたのであります。すくなくとも私は文体をこのような運動の姿として、自己の形成過程として考えて、今日の報告をすすめたいと考えます。
とはいっても、文体研究の必要は痛切に感じるようになったものの、その方面については全く無知な私のことですから、全く見当はずれの独断的なことを申しあげることになりましょうが、どういうわけで私か文体の問題に関心を寄せ、どういう方向に研究を進めて行こうとしているか、問題の所在だけでも理解して頂ければ幸であります。
思想と文体について考えようとするとき、私の心にうかぶのは北村透谷が自称愛国者について述べた文章(「時勢に感あり」)であります。透谷は、政談をするときには一個の愛国者でありながら、家庭においては一家の破壊者、一国の破壊者であるような民権運動家を鋭く批判しているのです。ここから私は、家庭においてもよき夫、よきパパたれ、そうでなければ本ものではないということを言いたいわけではありません。いわゆる愛国者、憂国の士なるものが、自分の矛盾を自覚せず、自分をひたすら愛国者と信じて疑わぬところに、根本的な問題があることを指摘したいのであります。そうした愛国者の本質が、たとえば当時の青年に熱狂的に読まれたという『佳人之奇遇』などの文体に読みとれはしないかと思うのであります。
一挙独立ノ檄文ヲ此間二草シ自由ノ大義ヲ天下二明表セシニ当テヤ辺郡ノ民耒ヲ捨テテ雲集シ兵ヲ荷テ蜂起シ織女ハ布ヲ絶テ旗トシ食父ハ糧ヲ齎シテ饗応シ慈母ハ子ヲ諭シ涙ヲ奮テ戦場二赴カシメ唯タ後レンコトヲ是レ恐レ白刃二触レ銃丸ヲ冒シ傷テタユマズ撓マス死シテ悔イス誓テ自由ノ為メニ斃レ百万虎狼ノ英軍二抗シ兵結テ解ケサル七年……此役ヤ将士貧クシテ履ノ足ヲ覆フナク衣ノ寒ヲ防クナク徒跳氷雪ヲ踏ミ脛足破レテ流血淋漓数里ノ積雪之カ為メニ赤ク軍中凍死セシモノ亦多シト云フ噫人情誰力死ヲ楽ミ生ヲ悪マンヤ気高ク志遠ク国家ノ難ヲ急ニシテ私身ヲ忘レ偏二報国ノ道ヲ尽サンコトヲ願ヘハナリ・・…・
これは自由の戦を讃美した文章であります。しかしながら、この自由の讃美はただちに「私身ヲ忘レ偏二報国ノ道ヲ尽」すのを讃美することと結合しています。ひとつの理念が強調されて、人間の生活が見失われています。自由は絶対化されて、自由の旗の下に人は死ぬべきものとされております。
そして作者は、そこに横わる矛盾に気づかないのであります。「人情誰力死ヲ楽ミ生ヲ悪マッヤ」とは書かれていますが、それは自由のために死んだ英雄を讃美するための措辞にすぎません。ここには作者の感動があります。その感動が文章の全体を支配し作者の眼、作者の思考を縛っています。この文体は封建イデオロギーの文体であります。士君子大夫の文体であります。絶対の大義を頭に掲げて進む文体であります。自分がその大義と同化して、民衆を叱咤鞭励し、悲憤糠慨する文体であります。自己を追求し、現実を追求する文体ではありません。従って『佳人之奇遇』に、たとえば次のような文章を見出しても怪しむに足りないのであります。
散士清国膺懲朝鮮扶植ヲ唱呼スルヤ年アリ是二於テ其風雲漸ク将二急ナラントスルヲ見テ孤剣鶏林ニ入ル……宣戦ノ鳳詔出テ牙纛(が‐とう【牙纛】「纛」は、からうしの尾で飾った大旗で、本営に立てる)さおの上に象牙の飾りをつけた、天子または大将軍の旗。)広陵二進ムヤ将士奮励スル所転瞬勢ヲ異ニシ王師ノ向フ所我皇ノ神武卜天祐トヲ得テ海陸戦テ克タサルナク攻メテ破ラサルナク暮気騎兵一瞬シテ振ハス鞭ヲ鴨緑二投シ馬ヲ遼河二飲シ旭日渤海二輝キ黄龍形ヲ潜メ箪食壷漿ノ民我 皇(傍点)ノ仁成ヲ謳歌ス
中村光夫氏、飛鳥井雅道氏等によって、政治小説の再評価ということがいわれております。自然主義文学が現実に対するたたかいを抛棄し、日常生活の中に解体した自我をひたすら描写することによって、一種の芸術主義におちいり、文学を支え発展させる根本的エネルギーを喪失して、想像力の枯渇を招き、かえって非芸術におちいっていったのに対して、政治小説が自由民権と一国の独立を目ざしてたたかうという強烈なモチーフをもつことによって、世界大にひろがり、二千年以上にも及ぶ東西の歴史をわがものにするという雄大な想像力をもち得たことの意味は強調されなければなりますまい。しかしその想像力は、自己に発して自己に帰り、その過程において自己を変革することがなかった点に問題があります。それはしばしば壮士風の大言壮語に堕する危険を内蔵しています。
透谷は自由民権運動の指導者たちに、「虚名を貪り俗情に雛はるゝ人」を見ており(「三日幻境」)、また共に悲憤慷慨した同志たちをも、「一時の狂勢を借りて、千載の大事を論構する」ものと批判し、「余は彼らの放縦にして共に計るに足らざるを知り、恍然として自ら其群を逃れたり」(石坂ミナ宛、明二一・一・二一書簡)と述べています。自由民権運動は壮大な運動であったとしても、その挫折は、このような思想のあり方=文体に関係がないとはいえません。またこのような文体が風靡したところに、民権運動の挫折せざるを得なかった根本的な弱点があったともいえると思います。しかもこのようなロマンティシズムは、単に自由民権運動の弱点であったばかりでなく、その後の社会主義運動、労働運動をも蝕んで来たのであり、一方では日本ファシズムの原動力となったのであります。
天下国家を論じ、憂国の志を述べるというような時には、どうも発想が漢文的になりがちで、ひとたび漢文的発想に身を任せると、言葉が言葉を呼んで、いささか陶酔的に大言壮語をしてしまうという傾向があり、又逆に酒に酔ったりしたときに限って、天下国家を論じて個々たる弁舌を振うというようなこともないわけではありません。陶酔と想像力の拡大は無関係ではないとおもいますし、又、一途に陶酔を否定するつもりはありませんが、しかし私たちがこうした陶酔から醒めて、現実を直視することの必要なこともたしかであります。ここに散文の生れる根拠があり、散文の必要な理由があります。
自然主義文学はこうした漢文的発想、滅私奉公的論理を否定するところに存在の理由をもち、成立の根拠を持っています。それはエゴを発見するとともに、エゴを主張しました。かつて美しいとされ、貴いとされたものの一切を否定しました。自然主義文学は反封建のエネルギー、旧道徳破壊の否定性において評価されます。即自的存在としてのエゴは、しかしそのまま肯定され主張されるべきものであるでしょうか。エゴはそれが抑圧され、圧殺されている状況において、何よりも先ず自己を回復しようとして、強力なエネルギーを発揮します。しかし、そこで回復しようとする自己とは一体如何なるものか。エゴの主張はエゴの検討を含みます。自然主義文学はこのエゴの検討を回避して、ひたすら実感という主観的なものに頼ってそれを実体化したために、その世界を極度にせま苦しいものにしました。
エゴの主張はエゴを抑圧する社会との対決を含まねばならないが、それはエゴを素朴に即自的に主張するにとどまることを許しません。エゴの社会化、実感の変革が求められ、新しい思想の形成が要求されるのです。社会と対決し、現実を変革するというモチーフを喪失することによって、自然主義は自己検討、自己変革の方向を見失い、現にあるがままの自己を実体化し固定化する方向に進みました。現にあるがままの自己とは、明治の現実によって疎外された自己であります。
明治社会を半封建的とよび絶対主義的とよびますが、そのことは明治日本において、資本主義が急激に発展した事実と矛盾するものではありません。明治の資本主義は封建遺制と結合し、封建イデオロギーを利用しつつ、そのことによって民衆の苦痛(=搾取)をいっそう堪えがたいものにしながら、独特の発展を遂げたのであり、その発展の速度は世界に類例を見ないものでありました。自然主義文学が発見し実体化し固定化しようとした自己とはこのような資本主義によって疎外された自己であります。
人間における動物的本能、物質的欲望を絶対化し、かかる自己を否定しようとする自己を否定する所に成立する自然主義は、ブルジョア的唯物思想の日本版であるという側面をもっています。それは資本主義によって生み出された思想であって、資本主義と対立し、それを批判する思想ではありません。もちろん、支配階級としてのブルジョアは、自らは唯物主義を奉じながら、民衆に対しては献身の美徳を説き、精神主義を強調します。自然主義がこうした虚偽を暴露し、封建モラルを否定したことの積極的な意味は認められなければなりませんが、それは明治の資本主義的現実を本質的に批判するものではなく、自己を変革し、現実を変革する思想を拒否することによって、自己と現実を固定的に捉え、事実に呪縛されて、想像力を失ったことは否定出来ません。
事実を事実として描くというだけでは、思想も文学もあり得ないでありましょう。しかしそのことが、政治小説その他に見られるロマンティシズムの復権を許すということでは、問題は一向に前進しないと思います。たしかに政治小説がもっていた思想性、社会性、そしてそこに根をもつ想像力は、自然主義によって失われました。しかしその質が問題であります。むしろ政治小説や、その他のロマンティシズムの持つ思想性、社会性、想像力が封建的、士君子大夫的、漢文的、絶対主義的であったことが、自然主義の無思想無解決を生んだので、この両者は見合っていると考えられます。単純に一方を肯定し、一方を否定するということは出来ないので、この両者を同時に批判し、克服するところに、今日の思想及び文学の課題があると考えるのであります。漱石はまさしくこうした課題を、自己の課題とした作家であります。私か今日の報告で漱石をとりあげるのはこのためであります。
『猫』を書き「草枕」を書き、「二百十日」を書いた漱石は、森田草平に宛てて、自分はサボテン党でもロシア党でもない。猫党にして滑稽的十豆腐屋主義だ。そしてこれから先は何になるかはっきりしない。周囲の状況で色々になるのが自然だろうと書いています。西洋人の名前などをかついでこの人のようなものを書こうなどというのは不自然の甚しいものである。オイランの写真を見てアタイもこんな顔になろうたってなれやしない。今の文学者は皆このアタイ連だ。自分のことを英国趣味だなどというものがいるけれども、糞でも喰らうがいいといっています。苟しくも天地の間に、一個の漱石が漱石として存在する間は、遂に漱石にして別人にはなれぬ。英国趣味があるなら、漱石が英人に似ているのではなくて、英人が漱石に似ているのだ。漱石はこんなようにいっているのであります。
漱石が漱石は漱石であるというとき、それは他の何者の奴隷でもない、創造的主体としての自覚を語っているのであって、それが自分自身を、何か固定したものとして考えていたことを示すのではないことはいうまでもありません。漱石は事物を徹底して、変化と発展においてとらえた作家であり、一切の固定的な見方や考え方を否定したのであります。現にあるもの、既にあったものを、そのあり
のままにおいてとらえるよりは、むしろその根底にあるものをその可能性においてとらえようとしたのであります。事実を事実として見るだけではなく、その事実を生みだしたものを見ようとするのであります。
こうした漱石の考え方が、一種の民族的自覚に媒介されて形成されている点に、注目する必要があると思います。漱石の基本的な考え方がはじめて理論的体系的に定着された『文学論』は、英国を世界の標準として絶対化する考え方を破壊することを目ざしておりますし、明治三十八年八月、『猫』執筆中の漱石は、「戦後文界の趨勢」において、日本がロシアに勝つことによって、精神界にも強い刺戟があたえられ、国民的自覚をよびおこして、新しい創造的文化の道が開かれるであろうと、日本人としての立場ということをしきりに強調しているのであります。
しかしながら、この漱石における民族的自覚は、自国の絶対化という方向に進まず、国粋保存主義と対立して、創造的に未来を指向している点が重要であります。英国に対して日本を主張し、西洋に対して東洋を主張するというのであれば、それは英国及び西洋の帝国主義に対して、日本及び東洋の帝国主義を主張するにとどまります。漱石の民族的自覚は、それぞれの民族がそれぞれの独自性を守
りつつ、相互に交流して創造的発展を遂げることを主張し、多様性の統一としての世界を指向しております。漱石は帝国主義的な英国中心主義、英国を絶対化し、英国を以て世界の標準とする英国人の独善的な考え方を批判し、自国の民族文化の独自性を追求することによって、かかる客観的にして発展的な考え方に到達したのであります。
漱石は英国にしろ日本にしろ、いずれかの民族を以て世界の標準とすることを否定し、文化の多様な民族的発展を主張したばかりではありません。多様性の主張には一種の相対主義が含まれておりますが、多様性に埋没し、相対主義に始まって相対主義に終る相対主義者では、漱石はなかったのであります。漱石が文化の多様性を主張し、相対的な考え方をしたのは、自己の外部にある既成のものに縛られることを欲せず、自由を求め、独白な創造的発展を求めたからであります。
漱石の心にはたえず人間とは何か、文学とは何かという問があり、またそれは如何にあるべきかという問があったので、その問が漱石をして、あのように尨大な仕事をさせたのであります。漱石は多様性の底に一つの原理を求めないわけにはゆきませんでした。如何にしてかかる多様な文化が生れてきたか。それを研究するのは歴史研究の仕事であります。歴史的研究は、この多様性が如何なる条件によって発生し発展したかを研究する。しかしそのような条件によって、その上うな多様性を生みだしたもとのものは一体何であるか。個々の作品、具体的な文学史は何れも結果である。このような結果を生む原因となるものはいったい何であるか。
西洋の文学は西洋の歴史が生みだしたのであって見れば、この西洋の歴史を背負っている西洋の文学を日本の文学の標準とすることは出来ません。過去の現実が生んだ過去の文学を、今日の状況にあって創作しようとする、現在の標準とすることも出来ないのであります。それでは、我々の前にはただ多様性のみがあって、我々の標準とすべきものは何もないのか。このように考えて漱石は、西洋の文学を西洋の文学たらしめ、日本の文学を日本の文学たらしめるもの、過去の文学を過去の文学たらしめ現代の文学を現代の文学たらしめるもの、すなわち文学を文学たらしめるものを、具体的な多様な文学現象の根底にとらえようとしたのであります。これを明らかにするとき、はじめて今日において有効であり、未来において有効であるところの、状況において自由に変化し、たえず創造的であり得るところの、「自分の標準」なるものをもち得るでありましょう。かかる要求から出発して、漱石は社会学、心理学、歴史学の研究に赴き、その土台の上に『文学論』を形成しようとしたのであります。単にスペンサーの影響であるとか、その他誰々の影響であるとかに帰すべきものではないのであります。
民族的な自覚が普遍的客観的原理的な文学の科学の確立に道を開いたということ、またこの民族的自覚が自由と創造への道をきり開くものであったことが、注目されなければならぬと思います。逆にいえば、自由と創造を求める人間的自覚は、英国及び西洋を世界の中心とし、あらゆる文化の標準としようとする、文化における帝国主義ともいうべきコスモポリタニズムを否定し、民族文化の独自性を主張し、普遍的な科学の確立によってこれを克服しなければ、具体的におし進めることができなかったのであります。
「凡そ文学的内容の形式は(F+f」なることを要す」というI句にはじまり、このFとfのあらゆる変化と結合を追求することによって、全文学現象を網羅的に原理的に明らかにしようとする『文学論』の文体は、このような漱石の思考方法によって生み出されたのであります。そしてこの思考方法は、
『猫』に始まる漱石の全創作活動を貫いて展開し、具体化され、発展させられて、漱石の独白の文体を形成したのであります。
「父母未生以前の本来の面目は如何」という問は,漱石の作品中に幾度となく出て来る言葉であります・漱石は事実としての現実を、それが事実であるからという理由で絶対化し、固定化して、事実に呪縛されることを拒否しました。事実を無視する論理は拒否したが、しかし同時に、事実がそのまま真実ではないことを自覚し、事実の底にある真実を求め、その事実の意味を追究したのであります。
何故、この事実はこういう事実として事実であるのか。漱石は事実のよって来る所を見きわめようとし、事実の呪縛から解放されようとします。自分自身に縛られることをさえも欲せず、自分自身を客観化し、相対化し、自分自身からの解放を求めたのであります。
もしも事実としての現実が絶対的であり、今ある自分、事実としての自分が絶対であるならば、もはや身動き一つ出来ぬことになります。行動を含まず、事実を事実として描く、事実に呪縛された自然主義文学が重苦しいのはこのためであります。自然主義文学においては、人間は事実としてすでに  そこにあるのであり、事はすでに事実として起ってしまっています。もはやどうする事も出来ないのであり、人間の可能性も未来の展望も、そこからは出て来ません。
たしかに私たちは事実に縛られています。私たちは自分自身に縛られ、過去の因縁に縛られて、ほとんど身動きできないように感ずることからまぬがれることはできにくいのであります。それ故、漱石もまた重苦しい厭世観に囚えられることをまぬがれはしませんでした。否むしろ、漱石の厭世思想はその生涯を貫き、その全作品を貫いています。しかし漱石は、このように自分を縛る事実を相対化し、自分自身を相対化して、厭世思想からの脱出を企てたのであり、そこに漱石の作品の世界が展開され、漱石の文体が形成されました。『猫』は漱石のこうした運動の端緒をなす作品であります。
『猫』執筆の当時、漱石がどのような生活を送っていたかは、たとえば『文学論』の序文に「著者の心情を容赦なく学術上の作物に冠して其序中に詳叙するは妥当を欠くに似たり」と断りながら、しかも、「倫敦に住み暮らしたる二年は尤も不愉快の二年なり」「帰朝後の三年有半も亦不愉快の三年有半なり」「英国人は余を目して神経衰弱と云へり。ある日本人は書を本国に致して余を狂気なりと云へる由」「帰朝後の余も依然として神経衰弱にして兼狂人のよしなり」等々と書き記さなければならなかった事によってあきらかであります。
漱石が精神異常であったか否かは知りません。しかし周囲の人々、とりわけて妻君にまで、精神異常であると信じられねばならなかった漱石の生活が如何なるものであったかは、想像に難くありません。そしてまた妻君にまで精神異常とみなされながら、大学の講義を進め、『猫』を書き、『漾虚集』『鶉籠』におさめられた諸作品を書いた漱石の心が、如何に孤独と苦痛にみちたものであったかも、容易に想像できます。漱石の心には深い悲しみがあり、社会に対する、人間に対するはげしい憤りと、憎悪と、呪咀がありました。『猫』執筆直前のノートに記された英詩及び英文を読むとき、漱石におけるこれらの感情のはげしさに、殆ど圧倒されるのを感じないわけにはゆきません。彼はほとんど狂気のように復讐を叫び、血なまぐさい感情が全文にわたってのだうち狂っているのであります。
たとえば、江藤淳氏のいうように、漱石の英詩が夢と現実のあい逢うところ、漱石の心の底なる夢と願望の表白であり、この夢と願望が漱石の全作品の基調低音となって、その独自の作品世界を展開させているという意見は正当であるとおもいます。その夢と願望はそれを失った悲しみとなり、それを疎外する社会や人間に対する怒りとなり、憎悪となり、呪咀となり、復讐を願う執念となって血なまぐさくだけり狂うのであります。漱石の文学がこれらの情念に支えられ、それを原動力としたことは疑うことが出来ません。「此神経衰弱と狂気とは否応なく余を駆って創作の方向に向はしむるが故に……」と漱石自身が述べているのであります。
しかし、かかる自己の情念に身を任せ、自己の主観的感情を吐露し、表白し、告白するのではなく、それからの解放を求め、脱出を図るところに、漱石の文学がありました。漱石の文学の基底にあって、漱石の文学を支え、縛っている漱石の情念をあきらかにすることは、漱石の文学を解明する上で重要な手がかりになると思いますが、漱石の文学をそれに還元し、それによって説明するのでは、漱石の文学の本質を見失うことになります。それからの解放を求める運動の中に漱石の文学があるのですから……。
情念の世界は事実に束縛され、閉じられた世界であって、偏りと暗さをまぬがれません。情念に身を任せることによっては、この暗い現実から脱出することは不可能であり、ますます泥沼の中にはまりこんでしまいます。漱石は現実的にこの現実から自己を解放する道を把握していたわけではありません。現実における現実の漱石は、脱出を願い解放を求めれば求める程、現実の泥沼に足をとられ、手をとられ、がんじがらめに縛りあげられて、孤立無援、ただ徒らにもの狂おしくなるばかりでありました。
かかる窮地に立った漱石は、自分及び現実を、現実から解放された非現実の眼、より自由な、より広い眼で見ることによって、客観化し、相対化しようとして、「猫」を創造しました。「猫」の眼は即ち「非人間」の眼であります。「草枕」の言葉を借りれば「非人情」の眼であります。この「猫」は名前さえもっていないのであって、いささかも現実に束縛されておりません。「猫」は漱石によって創造されたものであって見れば、「猫」の眼は漱石の眼であるにちがいないのですが、然しいうまでもなく、それは現実の漱石の眼ではありません。漱石の現実の眼は、より多くより広く見ているのであり、それ故に現実にとらえられて、身動き出来なくなっているのであります。「猫」は漱石の中に生きているが、それは漱石の一面であって、全面ではありません。漱石は自己の一面を「猫」に定着し、「猫」によって自分及び人間一般を一面的に批評させることによって、事物の必然的な連鎖の中にとじこめられている、現実の自分から解放されようとしたのであります。
現実は複雑で有機的な全体をなしておりますが、この全体を全体として、直接的にとらえることは出来ないのであります。全体を全体のまま直接的にとらえようとすると、私たちは自分自身が解体されて、逆に全体の中に吸収されてしまいます。むしろ私たちは現実に対する一面的な見方を導入し、これを固執することによって、現実の有機的な全体的な構造を破壊し、それを多面的な現実として再構成する必要があります。私たちは現実を破壊することなしには、現実を把握し支配することが出来ないのです。
漱石は「猫」の眼という非人間、非現実の眼を導入し、一面的に現実を裁断し、論評することによって、現実にとらえられた人間の固化した眼を破壊しようとします。それはあらゆる絶対化に対する挑戦であり、何よりも先ず、白身からの脱出でありました。現実及び現実にとらえられた自己からの脱出をはかる漱石は、それを一面化し、滑稽化しようとします。漱石にとって、滑稽化は現実に囚えられた自分自身から脱出するための方法であり、武器であったわけで、この際、俳諧の伝統、子規等の写生文の運動の成果、三馬、一九等の戯作文学をはじめ、落語その他の江戸庶民文化の遺産が、猫の饒舌という形式をとった自由な文体の形成に、自在に活用されている点が注目されます。『猫』の執筆と同時期に、漱石は一方で「倫敦塔」以下の美文調の文章を書いており、そこには中世の物語に托して暗い漱石の情念の世界が定着されております。
前はと問はれると困る、後はと尋ねられても返答し得ぬ。只前を忘れ後を失したる中間が会釈もなく明るい。恰も闇を裂く稲妻の眉に落ると見えて消えたる心地がする。倫敦塔は宿世の夢の焼点の様だ。
倫敦塔の歴史は英国の歴史を煎じ詰めたものである。過去と云ふ怪しき物を蔽へる戸帳が自づと裂けてガン中の幽光を二十世紀の上に反射するものは倫敦塔である。凡てを葬る時の流れが逆しまに戻って古代の一片が現代に漂ひ来れりとも見るべきは倫敦塔である。人の血、人の肉、人の罪が結晶して馬、車、汽車の中に取り残されたるは倫敦塔である。
此倫敦塔を塔橋の上からテームス河を隔てゝ眼の前に望んだとき、余は今の人か将た古への人かと思ふ迄我を忘れて余念もなく眺め入った。冬の初めとはいひながら物静かな目である。空は灰汁桶を掻き交ぜた様な色をして低く塔の土に垂れ懸って居る。壁土を溶し込んだ様に見ゆるテームスの流れは波も立てず音もせず無理矢理に動いて居るかと思はるゝ……見渡した処凡ての物が静かである、物憂げに見える、眠って居る、皆過去の感じである。さうして其中に冷然と二十世紀を軽蔑する様に立って居るのが倫敦塔である。汽車も走れ、電車も走れ、苟も歴史の有ん限りは我のみは斯くてあるべしと云はぬ許りに立って居る……余はまだ眺めて居る。セピヤ色の水分を以て飽和したる空気の中にぼんやり立って眺めて居る。二十世紀の倫敦がわが心の裏から次第に消え去ると同時に眼前の塔影が幻の如き過去の歴史を吾が脳裏に描き出して来る。……暫くすると向よ岸から長い手を出して余を引張るかと怪しまれて来た。今迄佇立して身動きもしなかった余は急に川を渡って塔に行き度なった。長い手は猶々強く余を引く。余は忽ち歩を移して塔橋を渡りかけた。長い手はぐいぐい牽く。塔橋を渡ってからは一目散に塔門迄馳せ着けた。見る間に三万坪に余る過去の一大磁石は現世に浮游する此小鉄屑を吸収し了った。
漱石は倫敦塔について語っているのか、自分の心を語っているのか、塔も景色も歴史も、すべてはその独立性を失い、作者の情念によって浸透されております。すべては幻と化して、作者の暗い心のゆらめきを語るのであります。罪と呪いと暗黒と、それは身うごき出来ぬ宿命が支配する世界であります。その中に生きる人間の懸命な姿がいたましい。それは閉じられた世界であり、作者の文章もまた閉じられていて、身動き出来ず重苦しい。この「倫敦塔」が「猫」第一回と同じ年同じ月に発表されていることは注目すべきでありましょう。
「倫敦塔」の系列に属する「カーライル博物館」「幻影の盾」「薤露行」は、『猫』が書き続けられる間に、時期を同じくして書き続けられました。遠い国の古い世の夢のような物語に托して、自分の心の深部に閉じ込められた暗い情念を、幻のような文章に托して表現し、表現することで自己のカタルシスを行った漱石は、その閉じられた世界、罪と呪いと宿命とに色どられた、身動き出来ぬ世界を破壊しようとするかのように、自在で闊達な、空とぼけた滑稽の戯文を書き綴りました。
吾輩は猫である。名前はまだ無い。
どこで生れたか頓と見当がつかぬ。何でも薄暗いじめ/\した所でニャーく泣いて居た事丈は記憶して居る。吾輩はこゝで始めて人間といよものを見た。然もあとで聞くとそれは書生といふ人間中で一番獰悪な種族であったさうだ。此書生といふのは時々我々を捕へて煮て食ふといふ話である。……此時妙なものだと思った感じが今でも残って居る。第一毛を以て装飾されべき筈の顔がっるくして丸で薬屋だ。其後猫にも大分逢ったがこんな片輪には一度も出会はした事がない。加之顔の真中が余りに突起して居る。そうして其穴の中から時々ぶうくと姻を吹く。どうも咽せぽくて実に弱った。是が人間の飲む烟草であることは漸く此頃知った。
いう迄もなく『猫』冒頭の言葉であります。ここからは、情念に訴える閉じられた言葉は一切追放されております。事実が示され、判断が述べられる。その事実と判断は、人間世界の複雑な因縁とからまりあいから解放されております。「猫」の観察は一面的であり、その判断は人間の標準を遠くはなれて突飛であり、終始人間ばなれがしております。しかしそれ故にかえって、人間をその根底から批評するものでありました。芥川の『河童』が人間から見た河童の世界であり、河童の世界はそのまま人間の世界に他ならなかったのと、これは著しく対蹠的であります。「倫敦塔」以下の文章が、漱石を内側から縛り、身動き出来ぬものとする文章であるならば、『猫』の文章は、自己を破壊し、解放する文章であります。洒落や地口も、文語的な発想、硬直しようとする精神を破壊し、自由をもたらす道具であります。
『猫』や『坊っちゃん』に江戸庶民の言葉や発想が用いられてぃるのは、単に漱石の出身から説明されるべきものではありません。漱石の文章は自然にまかせれば文語的になりがちであり、たとえば 『虞美人草』にみられるように、そして又、手紙やノートに見られるように、力んだり、緊張したりすると文語調が出て来るのであります。漱石はむしろ、その自分を内側から縛る文語的発想を破壊するために、士君子大夫の文章と対抗し、武士的発想を揶揄し嘲弄して来た江戸町人の言葉や発想を借り、庶民のエネルギーを借りたのでありましょう。
「猫」はどこから来てどこへ行くのかわからない。「猫」は何ものにも縛られず、位置と状況によって変幻自在であります。漱石は倫理的な作家、イデーを求めた作家であるといわれます。しかし漱石は、自分を外側から、また内側からしばる倫理やイデーを、たえず破壊し続けた作家であります。漱石は破壊することによって建設しました。『猫』は漱石のこうした運動の端緒をなす作品であります。漱石は先ず自分の世界を破壊することから、その作家としての活動をはじめました。しかし「猫」の目は猫の目のように変ります。猫のおしゃべりは自由自在ではあるが、とりとめがありません。猫の目と舌を借りて、自己及び現実の世界を破壊し、解体し、作品の世界を形成した漱石ではありますが、しかし作品が作品自体の論理によって発展し、拡大し、展開して、もはや猫の手にはおえなくなったとき、猫は死ななければならず、作家漱石は新しい作品を生まなければならなかったのであります。
文体が作家の精神の展開する姿であり、自分で自分を否定して、限りなく運動する姿であるとするならば、漱石の文体を明らかにするためには、作品から作品へと展開して行く姿を明らかにしなければならないのでしょうが、しかしその余裕がすでにないとすれば、せめて、かくして始まった漱石の運動が、どのような所へ展開していったかをごく大ざっぱに述べて、報告を終りたいと思います。
『道草』は、漱石の作品系列においては特異な位置を占める作品であって、しばしば自然主義的な作品であるといわれ、私小説の一種と目される場合さえあります。漱石の小説が常に実験的な意味をもち、テーマがはっきりしていて、現実及び人物が一面化され、そのことによって現実の本質に迫ろうとするものであっだのに対して、この作品はたしかに私生活の一時期をとり扱っており、実験的な意味よりは、自己の全面的検討の色彩を強くもっている点で、特異な位置を占めることは事実であります。しかし『道草』の方法は自然主義とは全く異質であり、その独自な方法は独自の文体を生んでいる。
「どうせ一生だ」
と彼は思った。夫は夫、妻は妻、夫が妻を奈何することも出来ないし、妻も夫を奈何することも出来ない。斯の考へは、絶望に近いやうなもので有った。
「アーー長い溜息を吐いて、それから三吉はサツサと家の方へ帰って行った。
島崎藤村の『家』の一節であります。
「今にお俊ちやん達も笑つてばかり居られなくなるよ。」
斯う言って三吉が笑つたので、二人の女も一緒になって笑った。
三吉は家の内部を見廻した。彼とお雪の間に起った激しい感動や忿怒は通り過ぎた。愛欲はそれほど彼の精神を動揺させなく成った。……二人は最早離れることも奈何することも出来ないものと成って居た。お雪は彼の奴隷で、彼はお雪の奴隷であった。
「家」は日本自然主義リアリズムの最高傑作の一つとされています。三吉夫婦を軸として、幾組もの夫婦と子供たちを含む旧い大きな家が、時代の流れにおしながされ、解体し崩壊して行きます。人々は血縁に結ばれて、相互に縛りあい干渉しあって、さまざまにもがきながら、しかし、どうしようもなく時の力におし流されて、老いて行き、死んで行くのです。幾多の結婚があり、出産があり、死があり、生長があり、事件があります。作者はあたかもこれが事実であり、人生であるというように筆を進めます。これが事実であり人生である以上、作者もついにどうすることも出来はしません。私たちはこれらの文章の行間から、幾度となく洩れ出る作者の嘆息を聞きます。ここには何故という問はありません。人間とは一体何であるかという問もないのです。
もしも、これが事実であり、人生であって、どうすることも出来ないのであるならば、何故という問は無意味であります。事実の必然の連続を断ちきって、新しい人生を創造しようとする精神、その可能性を追求する精神だけが、如何ともしがたく見える事実としての人生に、あえて何故と問い、人間とは一体何であるかと問うのです。事実としての人生を超えて、新たなる人生のおり方を求めるのです。『家』における幾多の事件は、すべてもう如何ともしがたいものとして、おこってしまったのであり、過ぎ去ってしまったのであります。またはおこってしまうのであり、過ぎ去ってしまうのであります。
『道草』における時間はこのようには流れません。常に何故という問が発せられ、すぎ去ってしまったとおもわれた過去は、たえずよみがえります。過去は過去のままによみがえるのではありません。それは現在との関係においてよみがえり、よみがえることによって、新しい意味を発見されるのであります。『家』の世界は、時間とともに流れ来り、流れ去って、それはもう如何ともしがたい世界であります。身動きひとつ出来ぬ必然の世界であり、絶対の世界であります。『道草』の世界を展開するのは時間の流れではありません。時間の流れを両断し、何故と問い、意味を追求する作者の精神の運動であります。事実としての人生は、作者によって分解され、連結しなおされ、要約され、批評されます。批評する作者は、しかしひとつの固定的な立場をはっきりもっていてその立場から批評するというのではありません。むしろ自分の過去をこのように分解し、連結しなおし、要約し、批評しなおすことによって自分自身を発見して行くのであります。
健三は実際其日々々の仕事に追はれてゐた。家へ帰ってからも気楽に使へる時間は少しもなかった。其上彼は自分の読みたいものを読んだり、書きたい事を書いたり、考へたい問題を考へたりしたかった。それで、彼の心は殆ど余裕といふものを知らなかった。彼は始終机の前にこびり着いてゐた。
娯楽の場所へも滅多に足を踏み込めない位忙がしがつてゐる彼が、ある時友達から謡の稽古を勧められて、体よくそれを断つたが、彼は心のうちで他人には何うしてそんな暇があるのだらうと驚ろいた。さうして自分の時間に対する態度が、恰も守銭奴のそれに似通つてゐる事には、丸で気がつかなかった。
自然の勢ひ彼は社交を避けなければならなかった。人間をも避けなければならなかった。彼の頭と活字との交渉が複雑になればなる程、人としての彼は孤独に陥らなければならなかった。彼は朧気にその淋しさを感ずる場合さへあった。けれども一方ではまた心の底に異様の熱塊があるといふ自信を持つてゐた。だから索寞たる荒野の方角へ向けて生活の路を歩いて行きながら、それが却って本来だとばかり心得てゐた。温かい人間の血を枯らしに行くのだとは決して思はなかった。
「それで」「自然の勢ひ」「だから」というような語に注意する必要があります。作者は健三の心の動きと行動を因果関係によって分解し、連結しなおそうとしているのです。「丸で気がつかなかった」「場合さへあった」「決して思はなかった」という語は、作者が健三の当時の生活を対象化し、それを超え出た地点から、あるべき姿を求めながら、当時の健三=自分の生活を批評しなおしながら追求していることを示しております。
「なんて捌けない人だらう」
陰で批評の口に上る斯うした言葉は、彼を反省させるよりも却って頑固にした。習俗を重んずるために学問をしたやうな悪い結果に陥って自ら知らなかった彼には、とかく自分の不見識を認めて見識と誇りたがる弊があった。彼は慚愧の眼をもって当時の自分を回顧した。
健三は健三の現在から、自分の過去をとらえなおし、それを批評します。その健三の現在が、作者によってさらに過去としてとらえなおされ、検討され、批評しなおされています。
健三は疳癪をおこして子供の植木鉢を無意味にこわしたりします。健三は半ば自分の行為を悔いますが、「然し其子供の前にわが非を自白することは敢てし得なかった」と作者は書きます。
「己の責任ぢやない。畢竟こんな気違じみた真似を己にさせるものは誰だ。其奴が悪いんだ。」
「己が悪いのぢやない。己の悪くない事は、仮令彼の男に解つてゐなくつても、己には能く解つてゐる。」
健三が常にくりかえすこのような弁解について作者は次のように書きます。
無信心な彼は何うしても、「神には能く解つてゐる」と云よ事が出来なかった。もし左右いひ得たならばどんなに仕合せだらうといよ気さへ起らなかった。彼の道徳はいつでも自己に始まつた。さうして自己に終るぎりであった。
このような自己検討は、健三をして自分と島田の間に本質的なちがいはないのではないかという認識にまでみちびきます。兄と自分、姉と自分、ひどくかけはなれたもののように思っていたこれらの人々と自分との間には本質的なちがいはないのではないか。
「姉はたゞ露骨な丈なんだ。教育の皮を剥けば己だって大した変りはないんだ」
平生の彼は教育の力を信じ過ぎてゐた。今の彼は其教育の力で何うする事も出来ない野生的な自分の存在を明かに認めた。斯く事実の上に於て突然人間を平等に視た彼は、不断から軽蔑してゐた姉に対して多少極りの悪い思ひをしなければならなかった。然し姉は何にも気が付かなかつた。  
漱石は又次のように書くのであります。
健三は事実を打消す気もなかった。同時に自分の考へを改めやうともしなかった。
「何と云つたって女には技巧があるんだから仕方がない」
彼は深く斯う信じてゐた。恰も自分自身は凡ての技巧から解放された自由の人であるかのやうに。
自分は正しくて、相手がまちかっているとのみ信じ得るとき、その現実批判は楽天的であり、表面的、一面的であることをまぬがれないでありましょう。もしも他に対する批判の刃が、直ちにわが胸をつきさすものであることを自覚するならば、その時彼はもはや決して一面的、表面的で、独善的な批判に終始することが出来ません。批判は批判を生み、自己は自己を否定して、そこに限りない運動が開始されなければならないのであります。そのときはじめて、彼の認識は深刻であり、立体的であり、全面的であることを志向するに到ります。『道草』において、漱石は始めて主人公の妻を独立の人格をもった人間として描き出し、その妻の眼によって主人公を批判させ、そのことによって主人公を相対化する方向を打ち出しています。もちろん、『彼岸過迄』以降の作品が幾つかの視点を設定して、短篇小説の連鎖という形をとったことは、作者が他人の目によって主人公を描き出そうとしたことを物語っていますが、しかし生涯にわたって対立し確執を続けなければならぬ相手、漱石自身の批判の対象であるような存在に独立性をあたえ、そのことによって、自分自身を再検討するに到ったことが注目されます。これは、健三とお住との意外な同質性を自覚したことによって可能となったのであります。
「単に夫といよ名前が付いてゐるからと云ふ丈の意味で、其人を尊敬しなくてはならないと強ひられても自分には出来ない。もし尊敬を受けたければ、受けられる丈の実質を有った人間になつて自分の前に出て来るが好い。夫といふ肩書などはなくつても構はないから」
不思議にも学問をした健三の方は此点に於て却って旧式でおっと。自分は自分の為に生きて行かなければならないといふ主義を実現したがりながら、夫の為にのみ存在する妻を最初から仮定して憚からなかつた。
「あらゆる意味から見て、妻は夫に従属すべきものだ」二人が衝突する大根は此処にあった。
「いくら女だって、さう踏み付にされて堪まるものか」という表情を細君の顔に読む健三は、「女だから馬鹿にするのではない。馬鹿だから馬鹿にするのだ、尊敬されたければ尊敬される丈の人格を拵へるがいゝ」と考えます。漱石はこうして次のように書くのです。
健三の論理(ロジック)は何時の間にか、細君が彼に向つて投げる論理と同じものになってしまった。
彼等は斯くして円い輪の上をぐるく廻って歩いた。さうしていくら疲れても気が付かなかつた。
ここには「道草」の文体、漱石の文体の特色がもっとも明瞭にあらわれています。漱石は事実を事実として細叙することを目ざさなかった。夫婦の衝突、いつはてるとも知らぬ業のような確執を描く漱石には、いつでも何故このようにあらそい続けねばならぬのかという問があり、その「衝突の大根」をつかむことを目ざしたのです。漱石は細君のエゴを認識するとともに、健三のエゴを再検討しなければなりませんでした。夫婦がそれぞれに自己を主張して譲らなければどうなるか。漱石はこの夫婦にエゴイズムを認めたばかりでなく、この夫婦をとりまくあらゆる人々にエゴイズムを認めなければなりませんでした。他人のエゴイズムを非難する人が、実は自分のエゴイズムに気がつかない。エゴイズムは到るところに渦をおこし、事件をおこして、人々は閉じられた円環をぐるぐるぶつかりあいながらまわっている。この事実を直視しなければならなかった漱石は、これが事実だ、これが人生だといって、そのありのままの姿をありのままに描くことに、安住し得る作家ではありませんでした。
彼はこの世界を破壊しなければならない。しかし如何にして破壊するか。『行人』でも問題にされていた「神」という言葉がこの作品にもしばしば出て来ることに注目する必要があります。
「彼は斯うして老いた」
島田の一生を煎じ詰めたやうな一句を眼の前に味はつた健三は、自分は果して何うして老ゆるのだらうかと考へた。彼は神といふ言葉が嫌であった。然し典時の彼の心にはたしかに神といふ言葉が出た。さうして、若し其神が神の眼で自分の一生を通して見たならば、此強慾な老人の一生と大した変りはないかも知れないといよ気が強くした。
先に引用したところにも次の言葉がありました。
無信心な彼は何うしても、「神には能く解つてゐる」と云ふことが出来なかった。もし左右いひ得たならばどんなに仕合せだらうといよ気さへ起らなかった。
「金の力で支配出来ない真に偉大なものが彼の眼に這入って来るにはまだ大分間があった」ということも漱石は書いています。そこから「則天去私」という宗教的な境地が問題にされるのですが、こうした言葉から漱石の文学を説明することは正当でないと思います。
『行人』において漱石はすでに、自殺か発狂か宗教かしか自分の行くべき道はないと、一郎に言わせています。漱石の中に、自然にあこがれ、宗教をおもい、則天去私をねがう心は、その最初の作品『猫』にもあらわれているし、『門』の宗助は実際禅寺の門を叩いております。漱石自身が青年の頃に参禅したことは周知の所であります。しかし、漱石は自分自身を宗教によって救うことが出来なかった。それ故に漱石は作家となったのであります。
『明暗』を書く漱石が、禅味の勝った漢詩を多数作っていることは知られていますが、そこに漱石の本質があったと考えることは出来ません。漢詩の世界から『明暗』を説明することは、正当でないと思います。漢詩の世界に還元し得ぬものが『明暗』を書かせたのであります。『道草』は一段高い立場に立った作者が、自分の過去を見渡して書いたようなものではない。『道草』を書き、『明暗』を書いたときと、『道草』に書かれたときと、現実の漱石がそれほど変ってしまったわけではありません。たしかに漱石は変っだろう。漱石は常に事物を変化と発展において見ました。しかし同時に、本質的にはすこしも変っていない自分を見出ださなければならなかったのです。
『道草』の問題はまた『道草』を書く漱石の問題でなければなりませんでした。若干のちがいがあるとすれば、漱石は『道草』を書き得る程度に自分白身を客観化し得たというにすぎません。一歩の差は千里の差であるかも知れません。しかし、一歩の差はやはり一歩の差であるにちがいないのです。同じ問題に依然として苦しみ続けているからこそ、漱石は作品として『道草』を書き、その作品において本当の生き方、本当の自分白身を求めて、全力的にたたかうことが出来たのであります。それは決して一段高い所に立って、自分の過去を絵ときのように示し、かく生きねばならぬという道を読者に示すというような、そんなものではあり得なかったのであります。
「何時斯んなに変つたんだらう」
人間の変って行く事にのみ気を取られてゐた健三は、それよりも一層劇しい自然の変り方に驚かされた。
彼は子供の時分比田と将棊を差した事を偶然思ひだした。比田は盤に向ふと、是でも所沢の藤吉さんの御弟子だからなと云ふのが癖であった。今の比田も将棊盤を前に置けば、吃度同じ事を云ひさうな男であった。
「己白身は畢竟何うなるのだらう」
衰へる丈で案外変らない人間のさまと、変るけれども日々栄えて行く郊外の様子とが、健三に思ひがけない対照の材料を与へた時、彼は考へない訳に行かなかった。
この感慨は『道草』を書く漱石自身の感慨でなければなりません。
「世の中に片付くなんてものは殆どありやしない。一遍起った事は何時迄も続くのさ。たゞ色々な形に変るから他にも自分にも解らなくなる丈の事さ」
『道草』末尾の健三の言葉が『道草』を書く漱石の言葉でないとしたら、『道草』一篇のリアリティなどいったいどこにあるというのでしょう。
「御前は必意何をしに世の中に生れて来たのだ」
彼の頭の何処かで斯ういふ質問を掛けるものがあった。彼はそれに答へたくなかった。成るべく返事を避けやうとした。すると其声が猶彼を追窮し始めた。何遍でも同じ事を繰返して已めなかった。彼は最後に叫んだ。
「分らない」
其声は忽ちせゝら笑った。
「分らないのぢやあるまい。分つてゐても其処へ行けないのだらう。途中で引懸つてゐるのだらう」
「己の所為ぢやない。己の所為ぢやない」
健三は逃げるやうにずんく歩いた。
『道草』によって、漱石は痛切に自己検討を行い、自己を含めた人間を発見したのであります。その自己は、エゴイスティックな自己であり、自分を偽って生きる自己でありました。健三は「己の所為ぢやない、己の所為ぢやない」と逃げて行くが、それならそれは誰のせいなのか。何のせいなのか。
漱石は自分が本当に自分を生きていないこと、自分が外部に支配される人間にすぎぬことを発見しなければならなかったが、そうした疎外された自己から如何に脱却して、本当の自分を発見し得るかについては、明瞭な答を見出だすことが出来なかったのであります。しかし、漱石がかかる自己検討を行ったのは、単に認識のための認識ではなく、自己克服のためであったとすれば、漱石はかかる自己検討、自己発見を媒介として、次の作品に進まなければなりませんでした。
このように見て来れば、『明暗』が則天去私の立場から、お延や津田のエゴイズムを罰しようとしたものなどであり得ないことはあきらかであります。お延や津田は漱石自身に外ならない。すくなくとも、漱石が『道草』を通じて発見した、自分をも含めての人間の根底にひそむ、根本的な矛盾を背負った人物であります。彼等は自分自身の本当の姿を未だ見出だしていません。外部に支配され、金や物質によって支配される人間であり、虚偽の中に生きる人であります。いわば現代資本主義社会によって疎外され、自己を見失った人間である。しかし彼等はこの自己疎外から如何にして脱出し得るか。健三の、おれのせいじやないおれのせいじやないという言葉を許容するとするならば、罪は単に、彼等自身にのみあるわけではありません。彼等の担う問題は、単に彼等を否定したり罰したりしてすむような問題ではありませんでした。則天去私は漱石の願いであったにしても、これは漱石の解決しなければならぬ現実でありました。
則天去私は一つの解決であるかも知れない。然し則天去私を願いはしても、自らそれを実現し得なかった漱石は、それを示すことによって問題の解決をはかろうとはしなかったのであります。漱石はむしろ、お延や津田やその他の諸人物を、現代日本の現実によって徹底的に疎外された人間として定着し、その疎外の状況を救いなきものとして描き出しました。彼等は何れも、漱石の観念によって仮構された人間であり、ひたすら現代における疎外された人間としての特質をあきらかにするために、一面化されています。すなわち、『道草』において自分の過去を検討する」とによって、現代の人間の根底に横わる根本的矛盾を発見した漱石は、この根本的矛盾を具体的に展開し追求するために、津田やお延のような人物を設定し、彼等をその内的論理に従って行動させ、必然的に悲劇に直面させようとしたのだと思います。悲劇に直面することによって、おそらく彼等は自分白身を見出ださなければならないでありましょう。そのとき彼等はどのような姿を示すか。しかし漱石はそこまで書かずに死んでしまいました。
『明暗』を具体的に論ずる余裕がなかったのは残念でありますが、『猫』においては、固定した現実認識のワクを破るために、人間を全体として相対化し、滑稽化し、そのことによって自由な思考を展開する道をきりひらいた漱石が、次第に自分の方法を深化させ、人間に対する認識を深め、『道草』における徹底的な自己検討によって『明暗』への道をきりひらいたことについては、ごく大ざっぱながら述べたつもりであります。この過程において、漱石が、自分に目ざめ、本当の生き方をしたいと願うインテリゲンチャの苦しいたたかいを描いた『それから』以下の作品から、未だ自覚せぬ人間、すなわち、現代の資本主義社会の現実によって徹底的に疎外された、現代に生きる普通の人間の問題を追求する作品へと進んで行くことによって、現代のより根本的な、より普遍的な問題、日本の現実そのものを自分の問題とするに至ったことに、注意を喚起したいのであります。その上うな展開を可能にするものとして、「自分の心の底に異様の熱塊がある」と信じていた健三、自分は正しく相手は間違っていると信じていた健三、自分は人間的であるうと努めていると信じていた健三、教育のあることを頼みにしていた健三の、それらの自信がいわれのないものであることをあきらかにし、彼が、彼の批判し軽蔑している人々と実は同質の人間なのだということをあきらかにした作品『道草』の意味を強調したいのであります。
「思想と文体」というテーマからはかなりずれた報告になりましたけれども、ことに最後の『明暗』の特徴ある文体を検討することが出来なかったために全く均衡を欠いたものになってしまいましたけれどもお許しを願いたいと思います。    
 
漱石『心』の問題

 

つい先日の朝日新聞に、「何と言っても、白楽天」という文章を書いております。この白楽天の詩集が、昔、私の家にありまして、小学校、戦時中でしたから、国民学校…へ、入るや入らずの頃の、いい退屈しのぎだったんです。ナニ、明治の出版物です、総ルビ…。それに訓みと、簡単な解説との付いた詩集でした。なんとなく分かるのもあり、分からない方がもちろん多かったけれども、とにかく、繰返し読んでいました。ま、大昔のことになりました…。
私は、秦さんの家に生まれた子供じぁなかった…。貰いッ子でした。事情は知りませんでした。知ろうという気も無かった。孤独でいいんだと、六つ七つの歳で、諦めていたんです。育ててくれました父は、根ッから、本を読むなんて、「極道」だと、嫌う人でした。ところが父の父、おじいちゃんは、やたらと漢字ばかりの本を買い集めていた人でした。ずいぶん在った。袖珍本の『白楽天詩集』も、その一冊でした。有名な「長恨歌」も入っていましたが、私の好みではなかった。つき動かされるほど感銘をうけ、繰返し読んだのは、「新豊折臂翁」という、少し長い詩でした。
米寿ほどのおじいさんの、片方の腕が無残に折れている。わけを問われて答えている。遠い昔むかしに、まだ青年だったおじいさんは、無道な兵役を強いられたんですね。万に一つの生還も望めない、しかも、時の権力が、ただ、身勝手に起こした戦争なのだと悟った青年は、敢然として、時分の腕を、石で砕いて、そうして兵役を拒否・拒絶した。今だに、寒い夜には腕が痛む…それでも、今も、生きて、日々安らかに過ごしていますよと、この「折臂翁」、腕の折れたおじいさん、は、悪しき政治の、勝手な戦争行為に対する、切実な批判を語る…というわけです。もとより、白楽天その人の思想であった…でしょう。 朝日に書いた新聞の文章は、この詩「新豊折臂翁」との出会いが、私を、将来の小説家へ、押し出した、という内容のものでした。事実…私は、その後十七年ほど経まして、あれは、昭和三十七年、一九六二年の、七月二十九日、もう二十六歳半、サラリーマンになって三年めでした、が…突如…、小説を書き始めました。そして、その年末、満二十七の誕生日に書き上げました処女作、が…『或る折臂翁』と題した、現代の、兵役忌避の小説でした。六十年安保闘争に、触発された、ま、あまり上手とは言い兼ねるものでしたが…、原稿用紙を、まッ黒々にしながら、書きました。
「何と言っても、白楽天」は、それでも、意外と受けとった方が多かった。秦さんなら、紫式部とか、谷崎潤一郎とか、泉鏡花とか書いてくるだろうと、担当の記者さんも思っていたようでした。でも…「何と言っても、夏目漱石」と、書いてみてもよかったんです…。
先刻…私が、貰われッ子だったと、お話ししました…。
お前は貰いッ子だと、もちろん、親は、言いません。けれど、近所の人が、容赦なく私を指さしました。…家の中で、親の前で、大人になるまで、私は、そんなことは露知らない顔の、演技を、し通しました。その一方で、呼び名のある人と人との関係、つまり親子とか、夫婦とか、兄弟とか、親類、師弟、上司と部下、そのほか、もろもろの人間関係の、「型」や「枠組み」というものを、信じ過ぎまい、いや、そんなものは、信じないようにしようと、幼い子供心に、思うようになって行きました。
あげく…、人間には、要するに自分と、他人と、世間…、この三種類しか、無いんだという、実感を持ってしまった…。他人とは、親や夫婦も含めまして、「知っている(だけの)人」のこと。世間とは、世界中の「知らない人=人類」のこと…と。…それが、幼い私の下した、人間の分類であり、定義でありました。まことに淋しい実感でした。夏目漱石という人は、淋しいを、「寒い」という字で「さむしい」とも表現した人ですが、私の心のうちは、ちょうどそんな感じでした。
そして…読書。…友達に、…近くの大人の人に、しきりと小説本を、借りて読みました。買っては貰えない…。本屋での立読みが、すっかり生活の一部になっていました。
あれは敗戦後の、小学校六年の頃でしたが、近所の古本屋で佐々木邦というユーモア作家の本を、題も筋も忘れましたが、立読みしていました。面白いことに作中の男主人公も立読みの常連で、彼の場合は、その本屋の帳場にきれいな娘さんが番をしていて、両方で恋をしていたんです。でも…青年は告白できない。家の奥に雷親父がいるんです…。そこで一計…青年は本棚の或る一冊を引っこ抜いて、娘さんの目の前へ黙って差出しました。そして、先ず自分の事を指差します。次に「本」を指差し、次には本の「題」を指差しました。本の題は「心」一字…。つまり自分の恋は「本」「心」からだと伝えたんです。
そこんとこだけ、はっきり覚えています。うまいことやりよるなぁ…と思いました。  
それはさておき…読書だけじゃ、けっして満たされないほど、…孤独の毒は、少年の私を、いつも呻かせていました。寒すぎた。とうとう、こういうことを、私は、思い始めるようになったんです。
この世界は、譬えていうなら、…みなさん、目に、想い浮かべてみて下さいませんか…、
人の世の中とは、広い広い、果てしない「海」なんだと。その海に、よく見ると、無数の島が、まるで、無数の豆をまいたように見えています。さらによく見ると、その島の一つ一つに、一人ずつ、たった一人ずつ、人の立っているのが見えます。島は、たった一人の人の足を乗せる広さしか、もたない。島一つに人一人しか立てないんです。そして…島から島へ、橋は、まったく架かっていない。島は…人は…完全に孤立の状態で、「海」という名の世間に、寒々と、佇んでいるのです。あぁ…これが「生まれる ウォズ・ボーン」という、受け身の意味なんだ。人は、こうして世界に投げ出され…生まれ…ているんだと、私は、ぼんやりと、しかし、身を焼くほど寒い気持ちで、思いました。堪らなかった…。先刻、人とは、「自分」と「他人」と「世間」だ、それしかないと思った…と、お話ししました。でも、それでは、あんまりだという思いが、だんだん芽生えました。なぜか。「恋」を、して、知ったのです。…恋をして、何を、どう知ったかを、お話ししましょう。
もう一度、さっきの「海」を、想い浮かべてみて欲しい。橋の架かっていない、島から島へ、人から人へ、呼び合っている、声が、聞こえてきます。淋しいから…、孤独で堪らないから、ああやって、懸命に、人は、人に、呼びかけるのでしょう、私も、新制中学に進んだ頃から、必死に、誰とも、まだ分からない誰かへ、呼びかけていました。
やがて、一人の女性に出逢いました。…と言っても、それは、転校して来たばかりの、一つ上級、中学三年生の女の子に過ぎませんでしたが、しかしその人は、たちまち、大きな大きな存在になりました。その人も、私を、愛してくれました。が、あっというまに卒業して、家庭の事情もあり、そのまま…まったく私の手の届かない、遠くへ、姿を消して行ってしまったんです。…運命…でした。
その人は、卒業式のあとで、私を呼び寄せまして、手紙と、記念の贈り物とを手渡してくれました。贈物は、一冊の文庫本でした。夏目漱石の、題が…『心』だったんです。
あれから、『心』を、何十度読んだことか。…大事に大事に読んで、読んで…そして…こう、考えるようになりました。
あの「島」には、たしかに、人は、一人しか、立つことが出来ない。それなのに、いつ知れず、人一人しか立てない筈の小さい島に、二人で立っている、三人、五人、とさえ、一緒に立っている・立てていると、信じられる…時が、在る……。
人一人しか立てない島に、一緒に立てている。そういう人や人たちのことも、「他人」だとか、「世間」だとか、呼ぶのか。呼んでいいのか…。それは、ちがう…と、私は思いました。そして、そういう人たちを、言葉の最も正しい意味で、「自分」と同然の「身内」…「真実の身内」と、名付けようと思ったのです。
この、私の申します「身内」とは、単に「(良く)知っている人」というだけでは、ありません。譬えて言うなら、「死んでからも、一緒に暮らしたい人」とでも、定義したい。それが真実の「身内」であり、世にいう「親子」「兄弟」「親類」また「夫婦」といった、ひょっとして、抜け殻でも在りかねないような…ただ呼び名だけでは、何ら「真実の身内」は、保証されてはいないのです。それじゃ、親子夫婦といえども、他人に過ぎない…。
むろん…、私は知っていました。一人しか立てない筈の「島」に、倶に立つ・立てる、などというのは、「錯覚」だと。しかし「高貴な錯覚」「愛ある錯覚」…というべきでしょう。人の「孤独」は動かせない。しかしそれを、「愛」という名の錯覚の深みへ、冷たい氷を溶かすように、温めることは、出来るのです。私はそれを、「恋」をして知りました。その恋が、あたかも化身したかのような、一冊の文庫本…『心』を、読みに読みこむことで、いつか、私の文学の、一つの芯になるもの、思想…を、創り上げて行ったのです。 大学院を、一年だけで中退しますと、すぐ、生まれ育った京都を離れ、東京で就職し、大学時代に知り合った一つ歳若い妻と、結婚生活に入りました。そして三年めの夏、突如小説を、『或る折臂翁』を、私は、書き始めたのでした…。
以来、七年ーー。私が、小説家として文壇に招き入れてもらったのは、昭和四十四年、一九六九年の六月、桜桃忌の当日でした。『清経入水』という小説が、第5回太宰治賞に選ばれたのです。
さて、受賞後の五年間は、二足のわらじを履いていました。昭和四十九年に文筆一本になりましたが、心配して下さる方があって、ご好意を無にするわけに行かず、一年間だけ、或る女子短大に、まるで「文学漫談」をしに通ったんです…。そしてその機会に、また、あの、『心』という小説について、考えて見ずに済まなくなったんです。大方の短大生の、この小説を読んでの感想に、どうもこうも…、引っ掛からざるをえなかったんです。
作中の、あの「先生」は、何という人でしょう。可哀相に…「奥さん」を放っぽり投げて、自殺してしまうなんて、というのが、一つ。
また…、作中の、あの「私」は、何という人でしょう。今日にも死んで行くお父さんを放っぽり投げて、臨終の枕元から、一散に東京へ出て行くなんて、というのが、もう一つ。 うーんと、唸りました。
では、私は、その短大の学生のそういう疑問に、どう答えたのか。じつは、ろくすっぽ、何も答えてあげませんでした。まったく申し訳のないことで、あの時の無責任さの悔いが、反省が、今度の東工大では、ひたすら親切に親切に接しようという覚悟になりました。その、東工大の四年間をかけまして、毎年の前半には、漱石の『心』を話題にして来ました。
話が、すこし前後致しましたが、先の短大の一年間と、今度の東工大の四年半とには、ほぼ十五年ほどの間隔があいています。その十五年ほどのちょうど真ん中辺で、たしか…昭和五十九年の秋九月でしたが、これまた突然に、劇団俳優座から、漱石の原作『心』を、『心ーわが愛』という題で、加藤剛…、永いこと、テレビで大岡越前なんかやっている人ですが、その彼の主演作品として、『心』を、脚色してくれないかと、依頼の電話が突然飛びこんで来たんです。たぶん加藤さんの発案だったのでしょう、私の『心』への愛着は、妻でさえよくは知りませんでした。むろん、引き受けました。  
そこで…もう一度、さっきの素朴な疑問から、問題点を、こう整理し、少し言い換えてみましょうか。
第一に、「先生」は、明治四十五年(大正元年)に自殺していますが、親友の「K」が自殺のあと、何故、明治四十五年まで、何年も何年もの間、自殺できなかったのでしょう。裏返せば、何故、明治四十五年になって、「先生」は自殺できるようになったのでしょう。何がそうさせた…させ得た、のでしょうか。
第二に、「私」は、「先生の遺書」を、臨終の父の枕べで受けとります。そして父も母も、故郷も、すべて見捨てまして、無二無三に停車場へ走ります。東京へ駆けつけます。しかし「先生」は、その時は、もう「とつくに、死んでゐる」のです。「私」はそれを知っているのです。なのに、何で、父親が、今にも息を引き取るのも待てずに、あんな行動に出たのでしょうか…。
次に第三に、『心』という作品は、小説内部の建前として、「私」が、自分の手記(上・中)を、「先生の遺書」(下)に添えまして、世間に、公表していることになっています。「先生」は遺書の最後に、遺書を公表するのは構わない。しかし「妻」の思いは純白に保ってやりたいと、つまり「見せるな」という重い禁忌を、「私」に科しております。それでもなお、ともあれ、大正三年の春から秋へかけ、遺書や手記の公表が、現に、作品『心』として、世間の目に触れているわけです。…これは、いったい…どういう状況なのでしょう。「先生の奥さん」も、大正元年の秋から、たったの一年半ぐらいな間に、「先生」のあとを追って、または病気でもして、もう死んでしまっていると言うのでしょうか。そういう脆弱な、脆い女性だったでしょうか、あの「奥さん」は。どう思いますか……。 で、バン…と、いきなり猛烈なことを申し上げますが、俳優座との最初の打ち合わせに入りました時に、今言った三つの点について、こう私は、自分の理解を話したのです。
第一の点。あの「先生」は、明治天皇が何人死のうが、乃木夫妻が幾組み殉死しようが、
それだけでは、とうてい自殺なんかできなかった、と。明治の終焉は、自殺の引金にはなったけれど、絶対に必要で十分な条件では、なかったんだと。それよりも、「奥さん」のことを安んじて託せる存在、やっとやっと、この世の中で「たった一人」信じられる存在となった、「私」…というものが在ればこそ、「先生」は、自殺に踏み切れたんだ、と。「K」に死なれたあと、何度も何度も死のうとしながら、そのつどそれを引き止めたのは、「奥さん」を、一人ぽっちで残してゆく、気の毒さだった、不安だったと、「先生」は、繰り返し遺書の中で言っているんです。
天皇や将軍ゆえに自決を考えるような、そんな外向きの「先生」でなかったのは、作品『心』の、何がテーマなのか、よく考えれば明白です。まさに人間の「心」が主題であり、明治の精神への殉死なんかではなかった。劇は、あくまで「お嬢さん」の家「先生」の家の中で起きていた。人間の心が、どこよりそこで乱れ、絡み、問題を起こしたんです。
次ぎに、第二の点です。「私」は遺書を見て、「先生」がとっくに死んでいるのを知ってしまいました。それでも、いままさに臨終の父親を見捨て、何故、汽車に飛び乗ったか。父や母以上に大切に感じている人が、東京で、現に悲しみに沈んでいて、或いはその命にも危険を感じていたからでなくて、他に、それ以上に自然な理由が、有り得たでしょうか。 そうです…。夫に死なれた「奥さん」のもとへ、「私」は飛んで行った。「先生」の死も重大事でしたけれど、「奥さん」の生、生命は、現実に、もっと重いものでした、若い愛に今はっきりと気付いた「私」には。…それならば、よく、分かる……。
思わず顔をしかめた人が、たくさん、おいででしょうね。分かっています、その気持ちも、理由も。順々に、いちいち、チャンと答えましょう。
さて、第三の点は…。たしかに『心』は、そして「先生の遺書」は、公表されています。
それが小説の建前です。「先生」が遺言で禁止したにもかかわらず、遺書が公表されて行くのは、一つ、「奥さん」がもう死んでいて、遠慮する必要が無くなっているか、二つ、それとも、元気な「奥さん」が、すべて遺書の内容なんぞ、ちゃんと察していて、ぜんぶ「奥さん」が承知のうえで公表されているか、…の、どっちかでしょう。
私の考えは、後者なんです。秘密もなにも、「奥さん」には、およそ「遺書」の内容が分かっている。承知のうえで、公表を、認めていると読んでいます。
それだけじゃ、ない。「奥さん」と「私」とには、たぶん結婚が、そして二人の間にはもはや「子供」の存在までも、目前の現実問題として、予期または既に実現していることが、「上・先生と私」の章を、その本文を、丁寧に読めば、はっきり示唆され、表現されてある…と、私は読んでいます。どうですか…。笑っちゃいますか…。
とにかく、俳優座は、加藤剛さんらは、これを聴いて、びっくりしました。
で…、ビューンと、話を、先へ進めちゃいますが、私の「読み」に、結果として、十分身を寄せてくれました俳優座公演の、『心ーわが愛』は、昭和六十一年十月八日、六本木の俳優座劇場で、初演の幕をあけました。補助席はおろか、通路にも客があふれるほどの大入りで、興行は、成功しました。 
やや遡りますが、私は、昭和六十年元旦の奥付で、満五十歳の記念にと、『四度の瀧』という限定本を出版しました。俳優座との最初の打ち合わせがあって、暫く後のことです。その本のあとがきに、『心』の、今も申しましたような「読み筋」を、実は書き入れておりました。そしてその本は、いろんな方々に贈ったのですが、その中に、別の或る小説の、すばらしい紹介文を書いてくれていました、若き日の、小森陽一君も居りました。
小森さんは、明けて新年早々、その、あとがきの「心の説」に対し、やや興奮気味の、共感ないし賛同の手紙をくれました。ちょうど今、自分も、同じ趣意の「心論」を書いていますと書いてありました。しばらく経ってから、小森氏は、その論文を載せた雑誌を、送ってきてくれました。この小森論文の辺から、学界で、「こころ論争」の火蓋が切られたんだと思います。さらに、私の、『心ーわが愛』の舞台が公開され、同時に、私の戯曲、『こころ』も出版されまして、火に油をそそぐことになった。そうした成り行きは、平成六年二月の朝日新聞が、「こころ論争」を大きく取り上げまして、知られています。その新聞記事には、加藤剛の「先生」と、香野百合子の「奥さん」とが、相合傘で歩いている舞台写真を載せていました。この傘が、さながら私の申しますあの小さな「島」の意味を帯びるように、巧みに演出され使われていたのを、懐かしく思い出します。
さ、そこで、問題点を、もう一つ出して、それを考えてみましょうか。それは「年齢」のことです。「先生」が自殺したあの時、彼は、いったい何歳ぐらいだったのでしょう。「奥さん」は、また「私」は、何歳ぐらいだったのでしょう。
と言いますのも、先刻の第二の点、…父親の臨終も見捨てて「私」が東京へ走ったのは、既に死んでいる「先生」ではなく、生きて今在る「奥さん」のことを思っての一挙であったろうと、私は、解釈しました。これで、だいぶん、私は笑われました。
一つは、かりにも年齢が違い過ぎるじゃないかと。
もう一つは、かりにも「先生の奥さん」と弟子たる者の間で、不道徳だというわけです。「先生はコキュか」などと、ばかばかしい難癖をつけた人までいました。論外です。
よろしい。二つとも、ちゃんと答えましょう。先ず、二つめの「不道徳」の方…。
もともと、通俗な道徳つまり「世の掟」に対して、一見背徳的な「人の誠」を重く見た作品が、漱石には、幾つも在るのです。『それから』や『門』を挙げるだけで、足りましょう。ともに、人妻を奪う恋であり、奪った後の結婚生活が書かれています。この恋も結婚も、作者は強く肯定しています。いわゆる不道徳なんてことを、恐れた作者じゃない。 第一に、「先生」を、「コキュ」つまり寝とられ夫にするような、慎みのない、乱暴な「奥さん」でも「私」でもない。逆に、若い「私」を、着々と「恋」の自覚へ誘導していたのは、終始「先生」自身であったことが、上の章の会話をていねいに読めば、歴然としています。「先生」生前の二人に不倫な関係など有るわけもなかったし、万一在ったにせよ、それが「人の誠」に適う愛であれば、それを肯定して書くのが、むしろ、漱石の信念でさえあるでしょう。
次ぎに「歳の差」という、問題です。大概が、ここへとびついて、私を笑いました、が、どっちが笑うことになったか…。
結論を先ず言えば、「私」と「奥さん」とは、「先生」の死んだ時点で、二人ともほぼ同い歳…二十七、八歳なんです。「先生」は三十七、八歳なんです。作品を、少し丁寧に読めば、証明できるんです。平成六年九月十二日、毎日新聞の夕刊に、私の、それを証明した文章が出ています。よほど目を引いたとみえ、文芸春秋から出た、その年度のベスト・エッセイ集にも、再録されています。
で、もうずいぶん以前になりますが、私の読者、それも高校の先生なんぞに、この「歳」の事を、「先生」が自殺した時の年齢をどう読んできたかを、質問してみたんです、試みに…。すると、五十代かと思っていましたが…と、ま、大方が漠然としていて、あんまり、気にもされていない。驚きました。
鎌倉の海で、若い「私」と一緒に、雑踏の海水浴客をよそめに、うんと沖の方へ出て、悠々と一人で泳ぎを楽しんでいた「先生」なんですよ。私も、じつはそういう水泳を楽しむ方でしたが、四十代になってからは、もう、ちょっと怖い。出来たって、しなかった。五十代じぁ、とんでもない話なんです。
東工大でも、同じアンケートをとりました。「先生」六十四歳「奥さん」「六十」歳というのが最高齢で、やはり夫婦とも五十、四十代が、断然多かった。一方「私」は大学を卒業したばかりなんだからと、二十二、三歳が多く、以下十八歳などと答えた人もありました。これじゃぁ確かに、「奥さん」と「私」に、男女の愛が生じたり子供が生まれたりしたら、オドロキです。でも、こんなアテずっぽうには何の根拠も無く、つまりデタラメな印象を言っているだけなんです。学校制度も今とはちがい、大学生の年齢も、今日只今のとは、違うんです。平均して、三歳余りは、今よりも年上なのが普通でした。 
さ、よく、聴いていて下さいよ。
「先生」は、明治天皇崩御の直後に自殺しました。「明治」四十五年(大正元年)で、これは動かぬ史実で、確実です。
『心』には、少なくももう一つ重要な、年代を示す史実が語られています。日清戦争です。明治二十七年八月に始まり、翌年、二十八年二月には勝敗が決しています。この戦争で、「お嬢さん」のお父さんが、戦死をしたと書かれています。かなり激戦でした。七年の冬、八年の春、ま、そう前後の差はなかったでしょう。「奥さん」と「お嬢さん」とは、文字通り、軍人遺族の母子家庭となり、その後、引越しまして、小石川の、源覚寺裏の方に住むことになります。母娘がここへ引越しましてから、また「一年」ほどして、「先生」が、下宿人として、この母子家庭に、同居することになります。「先生」はもう、帝国大学の帽子をかぶっていました。高等学校を卒業し、当時は九月が新学期の大学に、入学の直前、夏の内のことでした。
問題は、「先生」の下宿同居が、明治何年だったかです。但し日清戦争は動かぬ史実ですから、明治二十八年の夏以前、ということは在りえません。「お嬢さん」のお父さんは、職業軍人でした。屋敷内に馬を飼っている、厩舎などがある、
かなりの上級軍人です。そういう人の遺族が、戦死しましたのでハイと、即座に引越しの許される、そんな世間体でも、時代でもなかったでしょう。強行すれば、遺族は心無いと、無思慮を非難されたでしょう。世智にたけた「未亡人」です、そんなことはしなかった。一周忌、ないし満二年めに当たる三回忌までは動けない。主人亡き家屋敷を守りまして、それから引越したに相違ありません。引越しの理由には、家が広すぎるだけでなく、「お嬢さん」の、女学校進学やら通学の便宜なども、考慮されていたでしょう。 
さ、こうなると、小石川の家に引越したのは、一周忌過ぎた明治二十九年か、三回忌、満二年が経った明治三十年か、とみて宜しく、私は三回忌を重くみて、明治三十年の春に引っ越しと読み取っております。そして、その後「一年ほど」して下宿希望の「先生」が、初めてこの家を訪れて来ます。高等学校六月の卒業式が済んだ、明治三十一年の七月頃でしょう。そしてまた一年ほどして、運命の「K」が、「奥さん」「お嬢さん」らの懸念にかかわらず、「先生」の、自信満々の好意に導かれて、同じ下宿人として同居をします。あげく卒業もまたず、三年生、明治三十四年正月に、「K」は自殺してしまいます。
では明治三十一年に、「先生」は、何歳で、大学に入学していたのでしょうか。ご注意願っておきますが、当時の文科大学生は、三年間在学して、卒業、でした。「先生」は、明治三十四年六月に卒業しました。年齢さえ判れば、明治四十五年の自殺までを、足算するだけで、ほぼ正確なことが言えるわけです…、そうでしょう…。
注意深く『心』を読んでいる人なら、まだ「先生」が「十六七」の歳に、「女」の美しさに目が「開いた」体験を語っていたのを記憶している筈です。また、自分が「両親」を亡くしたのは、「まだ廿歳にならない時分」だったとも、明言しています。そのすぐあと、「先生」は、高等学校に入学すべく、満十九か、ないし数え歳の二十歳で、東京に出て来ているのです。高等学校卒業は、順当にみて三年後の、二十三歳頃でありまして、これは、あの、同じ漱石作の小川『三四郎』君が、熊本の高等学校を出て、東京の帝大へ入学すべく上京してきた際の、「二十三年」という、宿帳記入の年齢とも、きっちり、一致しています。「先生」が大学に入ったのは、ほぼ間違いなく、数え歳の二十三、ないし、早くに留年か何かの年遅れがあったにしても、二十四歳でしょう。しぜん、卒業は、二十六歳か七歳です。これも、夏目漱石その人が帝大を卒業したのと、ぴったり一致していますし、例えば、中退はしていますが、もし谷崎潤一郎が、明治四十四年に卒業していても、やはり同じ、数え歳二十六、七歳なんです。実は統計をとった人もありまして、この入学卒業の年齢は、その当時の平均的なものでした……。
さ、そうなれば、明治四十五年に自殺した「先生」は、明治三十四年から、十一年分を足算した、三十七、八歳であったことになる。これならば、それよりも数年前の鎌倉の海で、高等学校の学生だった「私」と一緒に、元気いっぱいの水泳をしてたって、まだまだ元気なもんです。それと同時に、明治四十五年に、帝大を卒業したばかりの「私」の歳も、これまた、「先生」らと同じく、数え歳の二十六ないし七歳だったと見まして、もはや、何の不自然もないわけです。「先生」と「私」との歳の差は、まずは十歳程、一世代の差、長兄と末弟程度の違いだったんですね。
それじゃ、「先生の奥さん」の歳は、どんなものであったか。これが何と言いましても微妙に大事になってくる。
思い出して欲しいんです。鎌倉の海で別れるまえ、「私」は「先生」に、東京のお宅を訪ねてもよろしいかと聞きます。そして秋になり、訪ねて行く。ところが「先生」は留守でした。二度めにもまた不在でした。じつは、毎月の「K」の墓参りに出ていたんですが、「私」の知ったことじゃ、ない。その日は「奥さん」が出てきて、気の毒がってくれた。 ここで、その時に実に注目すべきことが、二つ、書かれています。
一つは、「私」が、「奥さん」を、「美しい」「美しい」と繰り返していることです。 そもそも、東京という本舞台で、「私」の初対面の相手が、肝心の「先生」ではなく、「奥さん」の方だった。この計らいは、作家の私には判るのですが、意味深長な用意だと言い切れる。まして男が、女と会って、第一印象が「美しい」とあっては、これだけでも「奥さん」が、そう年寄りでないのは確かでしょう。事実「奥さん」と「私」とは、ほぼ同い歳だったんです。「先生」より十ほど若いんです。あとで、はっきりさせます。
皆さん方、考えてもごらんなさい。あの軍人遺族の母子家庭にですよ。未亡人とお嬢さんだけの女住まいにですよ。二十何歳にもなる「先生」が下宿できたのは、近所でイヤな噂もされず、後指もさされないほど、まだ「お嬢さん」が幼かったからです。「奥さん」「先生」「お嬢さん」に、それぞれ一世代ほどの年齢差があればこそ、ごく穏便に、素人下宿の共同生活も成り立ったんです。もし「お嬢さん」が既に年頃ででもあったりしたら、身元もよく知れない、男子学生とのいきなり同居なんて、ま、とんでもない話です。「お嬢さん」は女学校を、「先生」の大学卒業とほぼ同時に卒業していますが、この当時の制度では、ふつう、十七歳です。たぶんその年の内に、また引っ越して行った小日向台の家で、「先生」と、結婚しています。母子家庭という事情や、「先生」の裕福、「K」の変死の事情などからして、また明治の風からしましても、十七八での結婚に、何の問題もありません。また「お嬢さん」が、上級の学校へ進学していた形跡も、みられません。「先生」と出会ったのは、満で十三か四の少女時代だったんです。不自然はすこしも感じられません。結論として「先生」の自殺した年に、「奥さん」は、「私」よりも一歳年上か、或いは同い歳かも知れない、二十七、八歳です。それ以上は有り得ないんです。
確認しておきましょう。明治天皇の死と日清戦争という、動かし難い史実を軸に、本文をキチンとよく読めば、「先生」が自殺したのは「三十七、八歳」であり、「奥さん」は「二十七、八歳」です。「私」は「奥さん」と同い歳か、僅かに一つ歳下でしかなかったんです。この証明を引っくり返すのは、たぶん、容易なことではないでしょう。 
こうなって、初めて、よく分かってくる点が、幾つもあります。
私は去年の暮れに、還暦の六十歳になりました。だから、この三月末で東工大を退職したわけですが、家内も、この四月五日に、やはり還暦を迎えております。で、かりにですね、私のことを、いたく尊敬してくれます男子学生が、いると仮定しましょう。お宅へ訪ねていいですか、ええ、いらっしゃい…。で、せっせと訪ねて来てくれる。慣れるにしたがい、家内とも遠慮のない口を利きあうようになる。
しかしですね。かりに学生が二十四、五だとしましてもですよ、…まさかに六十の婆さんに惚れたりはしないでしょう。六十が五十、あるいは四十であったって、ま、学生と家内との仲に、めったな事は起きない、というのが順当なところです。でも先生への尊敬は尊敬ですから、学生がそれで良く、先生もそれで良いのなら、いい関係は続くでしょう。いわゆる良き師弟関係とは、そういうものでありましょう。安定して簡単には変化しない人間関係が出来上がっている…、そう言い切って済んでしまいます。
『心』の「先生」「奥さん」と「私」の場合でも、もし、これまで一般に漠然と読まれてきたように、「私」より二倍も、二倍以上も歳とった「先生」「奥さん」夫妻であったのなら、それじゃぁ、私の言うような愛情関係の展開は、当然ながら考えられません。
しかし事情は、まるで、違っていたじゃないですか。ご夫婦の「先生」「奥さん」対、学生の「私」とばかり眺めていたのが、こと年齢に関しては、年長の「先生」対、若い、同い歳ほどの「奥さん」と「私」となった。これは重大です。人間関係の心理が、年齢で動くのはあまりにも自然なことだから、です。
作中の「私」は、自分とほとんど歳の違わない、しかも初対面から「美しい」と真先に印象づけられたような、親切で、聡明で、まことに魅力ある「奥さん」のいる、そういう「先生」の家へ、通いつめていたんです。老人夫婦の家へ、じゃないんです。若者の心理として、「美しく」て若い「奥さん」のいる家にしげしげ通うのと、親ほど歳とった夫婦の家を訪ねて行くのと、同じ気分でなんか、ある、筈が、無いじゃありませんか。従来の『心』の読みで、こういう自然な生活的実感を、それぞれの年齢に則して、よく調べよく納得してこなかったなんて、まさに、怠慢も極まれり、です。日本中で、もっとも大勢に永く愛読されて来た『心』ほどの名作にして、こんなに根本の、基本のところで、大きな見当ちがいを平気でやって来たというのが、実は実情であった。
『心』は、本気で読み直されねばならない、誤解の渦に沈んでいた名作なんです。誤解へ導いたのは、多くの過去の知識人でした。例えば漱石全集の解説を一手に引き受けてきた、小宮豊隆という人は、ただただ「先生」と「K」とだけ、つまり「遺書」だけ重視して、上の「先生と私」中の「両親と私」つまり「私」の手記にあたる部分は、完全に見捨てていた。「私」はおろか、「奥さん」や「お嬢さん」の存在すら、まるで、デクの坊同然に、無視していました。積極的に無視していたんです。
その悪影響ででしょう、高校時代、課題で『心』の感想を書いたという体験談を聞いてみますと、「先生の遺書」しか読まなかった、それでいいと教室で言われたという学生が、山ほどいる。読まなくて済む部分が、一章も二章分もある小説なんて、名作なんて、在るものでしょうか。呆れて、ものが言えないとはこれです。
『心』の魅力は、上・中の手記の章にも、満載されているのです。私なんか、遺書よりもそこの方が、楽しくて、懐かしくて、夢中で読んだ。芝居の台本のために書き抜きを作った経験からも、特に「上」の章には、大事な、微妙な、伏線になっている会話や地の文が、いっぱい有るのが分かります。
さっき「私」と「奥さん」との初対面の場面で、大事なことが、二つ…と言いました。 一つは「美しい奥さん」という第一印象。このことは、今まで話しました。
もう一つは、「奥さん」が、事もあろうに、全く初対面の学生に対し、事もあろうに、「先生」のお墓参りの話をしてしまいます。更に事もあろうに、「K」のお墓のある場所まで、具体的に教えていた事です。教わっていたから、「私」は、雑司ヶ谷の墓地までも「先生」を探しあてて行くことが、出来た。
でも、それがどんなに「先生」にすればショックであったかは、墓地で呼びかけられた瞬間、「どうして」「どうして」と、二度も呻いて、呆れていることで分かります。突然だから驚いたんじゃない。「K」の墓参りという、あの夫婦にすれば、忌まわしいタブーであるほどの、天罰を償うほどの、いわば秘事とも恥部ともいえる行事を、「奥さん」が、いとも簡単に、初対面の「私」に教えたという事が、信じられなかったのです。いいえ、はっきり、心外で、不愉快でさえあったのです。「先生」が、「奥さん」を愛しながらも、信じられずにいたという、かくも歴然たる証拠が、最初ッから、もう作品には露出していた。それは、逆に言えば、無意識にも「奥さん」が、初対面から「私」のことを、受け入れていた事を示しています。また、夫である「先生」への、その墓参りへの、意識の深層での、「奥さん」の不快感を示していたのだとさえ、言えるでしょう。
この夫婦は愛し合っていました。それは疑いようのないことです。しかも幸福な夫婦ではありませんでした。「先生」自身が、「幸福であるべき一対の夫婦」という物言いをして、「私」から、「べき?」と不審を示されています。愛してはいたが、幸福であるべき筈ではあるが、どうしても幸福になれない夫婦だという、不幸な認識が「先生」にはあり、「奥さん」にも、それが見て取れます。しかし「先生」は、「奥さん」を、真実幸せにしてあげたい愛情を、しっかり、死ぬまで持っていました。でもどうしたら良いのか、気の毒な「先生」が、明治が終わる日まで自殺できなかった、それが、最大の理由でした。 
幸便に、触れておきたいことが一つあります、「先生」は、「十六七」のいわゆる色気づく年頃に、初めて「女」の「美しさ」に目が開いたと述懐しています。ことさらにしています。夏目漱石自身の体験が反映しているのかも知れませんし、軽く読み過ごしてよいこととは考えられません。
なに一つ注釈はないのですが、べつの箇所で、お互い「男」一人「女」一人だと、夫婦の緊密を語る夫「先生」で在りながら、その別枠に、「十六七」の頃の出会いを、ほんの行きずりなんでしょうが、たいへん重々しく、しかしさりげなく「先生」は告げています。「一人」「一人」とは、言うまでもなく夫婦の間柄での肉体の接触を示唆しているわけで
すが、肉体的な男女関係を取り払えば、「先生」には「お嬢さん=奥さん」以前に「美しい」「女」体験があったのです。「遺書」に明記せざるをえないほどそれは「先生」の記憶にやきついていた。そう、読めます。
ズバリ言ってこの「女」こそ、「先生・奥さん」夫妻を、「幸福であるべき(不幸な、或いは幸福になりきれない)一対」の夫婦に仕立てた根源だったのではないか。そう読み取らせる作意が秘められていないか、漱石という作者のなかに。
漱石夫妻の在りようについては、従来、種々語られていますから深くは触れませんが、彼にも結婚以前に「女」の原体験がないし前体験が在ったこと、それがなみなみならず重大な体験だったろうことは、今日、もはやだれも否定していない。
その反映が「先生の遺書」にももちこまれているのだとしたら、そこに、「先生」の妻に対するいわく言いがたい不充足も、また「奥さん」の夫に対するいわく言いがたい不満も、ともに垣間見うる隙間が在る。われわれ読者はその隙間を眼前にしている、ということになります。
もし自分という妻がいなければ「先生」はきっと死んでしまうでしょうと、「奥さん」は「私」に自負しています。だが、それすら実はかすかな無意識の強がりだとも、目に見えぬ或る存在への悲しい抵抗だとも、また自負の誇示だとすら見て取ることが可能になります。
「愛し合ってはいた、だが充全には幸福でありえなかった夫婦」を、根底から説明すべく「先生」は、また漱石は、この「十六七」の頃の「女」体験を、「遺書」に、作品に、さし挟んだと私は考えます。そう読んでいます。裏返していえば、「奥さん」が「私」を男として見て行く視線や心理にも、それが痛烈に影響していたことでしょう。
「先生」は、結局は、「私」に頼ったのです。「この世でたつた一人、信じられる人間」に成ってくれた「私」になら、無意識にも「美しい」人に恋をしているらしい「私」になら、妻を安心して委ね、また妻も、内心の隠れた愛にやがて気づくだろう…と、「先生」は信じたかった。信じられるようになっていた、のでしょう。
もう一つここで、これは笑われるでしょうが、言ってみたい。「先生」の選択は、或る実例に則して表現すれば「妻君譲渡」に近いものでした。或る実例とは言うまでもなく、あの谷崎潤一郎が、有名な「小田原事件」の絶交から歳月を経まして、ついに昭和五年、三者合意の上で妻千代と離婚し、千代は佐藤春夫と結婚した、あれです。谷崎が「先生」漱石に辛辣であったのは知られています…が、ま、何はさて…本題へ戻りましょう。
「奥さん」の思い描いた幸福の一つに、この家に、「子供でもあると好いんですがね」という、強い願望がありました。「奥さん」はその言葉を、「先生」を前にして、「私の方を向いて」口にしているのですが、何という微妙な場面でしょう。「一人貰って遣らうか」と「先生」は言い、「貰ッ子じや、ねえあなた」と、またも「奥さん」は「私の方」を向いて愬えるんです。すると「先生」は、自分たち夫婦の間に、「子供は何時まで経ったって出来ッこないよ」と言ってのける。「何故です」と、「私」は即座に反問します。それも、「奥さん」の「代りに聞いた」と、微妙に明記してあります。「先生」は、「天罰だからさ」と高く笑いました。ヒステリックに笑ったんです。「奥さん」は黙って顔を背けていた。何が、どうして「天罰」なのか、「奥さん」にも分っていたからでしょう。察していたからでしょう。当然、そう読むべきところです。
つまり「奥さん」を幸福にするには、「母」たる人生を与えてあげなければならない。しかし「先生」では、それが不可能なんだと、それを、実にきちんと表現していたのが、この場面です。
また「先生」には、「私」を「恋」に誘導して行く、無意識の意図が、もう徐々に働き始めていたようです。十分印象的だから、皆さんも気づいておられるでしょう、「先生」は、故意にというしかないほど、何度でも、執拗に、「私」に向かって「恋」の話題を出しています。「恋をしたくありませんか」「とつくに恋で動いているじゃありませんか」「異性に向かう階段として同性の私のところへ」「恋は罪悪ですよ」「たが神聖なものですよ」といった按配に。それにはそれの理由が、動機が、有ったはずです。慎重にそれを読み取るというのも、読み手として、当然、必要だったんじゃないでしょうか。 
けれど、もう一度、さっきの場面に、話を戻します。
もっと大事な問題点が、あそこには、ちゃんと書かれていたんです。子供が欲しいと、「奥さん」は言いました。「その時」の「私」はといえば、「同情」のない、鈍い男に過ぎませんでした。それでいて彼は、現在執筆中の手記に、あの当時を思い起こしながら、こう書いているのです。「子供を持つた事のないその時の私は、子供をただ蒼蠅いものの様に考へていた」と。
「子供を持つた事のない、その時の、私は、……考えていた」という、少々持って回った物言いを、自然に、素直に、しかし語感をよく働かせて、読み直してみて欲しいんです。普通なら、「子供を持つた事のないその時の」など、わざわざ言う必要のないことなんです。だからこそ、この事更な物言いは、「子供を現に持った(又は、やがて持とうとしている)現在の私ならば」、決してそうは「考えない」という気持ちを、表明したものと読んで、いいんじゃないか。そうとしか読めない文章なんじゃないか。普通なら「何の同情も起こらなかった。子供はただ蒼蠅いものの様に考えていた」だけで済む話なんです。
こういうことに、なります。「私」が、現に、手記ないし作品を書いている現時点で、彼は、自分の「子供」のことを、読者に対し示唆しているのだと。日本語の表現として、ごく自然に、そう受け取れます。子供の現実在ないし近未来の誕生を、「私」は、現に、愛情と分別を持って認知していると、確かに、十分に、読み取れるんです。子供は「蒼蠅い」といった強い表現が、かえって、実感豊かに、現在の気持ちを言い表しているのです。 注意しないといけないのは、『心』という、建前上「私」の公表している手記の部分は、「先生」の自殺から、最大限、一年半以内に書かれています。しかし書かれている中身は、明治四十五年の九月より以前の事柄に、厳しく限定されています。「書いている」現在と、「書かれている」内容の現在とには、登場する人物にも、書き手の心理にも、十分な抑制や整理が行き届いています。一つには、「先生」「奥さん」「私」の当時の人間関係を、冷静に、また礼儀にも孛ることなく、なるべく分かり良く言い表したい、また、そうすべきだという配慮ないし協議さえ、出来ていたからでしょう。なにしろ「奥さん」の承知や同意や協力が、大きくものを言う公表の筈です。承諾無しに強行するような「私」ではないし、「奥さん」が、夫の後追い自殺をしていたなんて推測を許す箇所は、作品のどこにも指摘できないんですから。
では「奥さん」が「遺書」の内容を察していた、「純白」に何も知らなかったわけはないんだ、だから「公表」に問題はなかったんだ、などと何で言い切れるのか、今度はその疑問に答えましょう。
まず、皆さんに尋ねます。もしも、あなたが「奥さん」「お嬢さん」の立場にあるとしてですね、「お嬢さん」は当然のこと一年一年成長し、思春期に入って行くわけですが、そんな家に、帝大の青年が二人も同居してきて、この、かなり賢い母親と娘とがですよ、男たちの噂話や評判を、していなかったなんて想像できますか。あなたがたは、しませんか。するでしょう。しなかったら不思議ですね。ものの分った母親は、もともと男二人は迷惑だ、宜しくないと、「先生」に忠告していたぐらいです。その懸念が的中して、「K」は自殺してしまった。あんなに仲のよかった「K」に、「先生」は「お嬢さん」に求婚したとも、承諾を得たとも、告げませんでしたね。「奥さん」はそれと知って、「先生」に剣突くを食らわしています。そしてその直後の「K」の自殺でした。「奥さん」はテキパキと処置して、「先生」を指導もしていた。
娘の結婚を現実問題と見きわめて、貧乏な「K」より、財産もあり人も良い「先生」の方が…なんてことは、かりにもあの母親は考えていますし、年頃になっていた「お嬢さん」だって、そりぁ、夢中で考えていたでしょう。あのよく笑う「お嬢さん」は、いくらか、男二人を手玉にさえ取っていた、けっこう、したたかな女性です。とてもとても夫のあとを追って死ぬ人ではない、生き抜くタイプです。
結婚のあと、かなり長期間「先生」は荒れています。妻も姑も、ほとほと胸を痛めたでしょうし、何故かと話し合うのも、当然です。黙りこんで眺めていたなんて、不自然です。と、なると、突き当たるのは「K」の「変死」事件です。「先生の奥さん」は、自分から口を切って、「私」に、「K」の変死を告げながら、夫の無残な変貌を、どうにか解釈して欲しいと愬えていたくらいです、何が「純白」なものですか、考えようによれば「先生」より、もっと辛辣に、事の本質を見抜いていたのが、この「奥さん」「お嬢さん」であったとさえ、読み取れるぐらいです。それなのに、女ふたりとも、まるで人形だなどと軽視し、無視してきた、従来の『心』読みたちは、いったい何を読んでいたのでしょうか。 
いやいや、そうじゃない。あの「先生の奥さん」の、「静」という名前は、明治天皇に殉じて自決した乃木将軍、その夫希典に殉じて自決した、妻「静子」の名前を用いたものだとして、「先生の奥さん」も、だから夫のあとを追って自殺したんだという説も、あったのです。もっともらしい説です、が、私の考えを、聴いてください。
この作品の中で、実名を与えられている主要人物は、奥さんの「静」だけです。ほかに、
「私」の母親が、「お光」と夫から呼ばれている。あの『三四郎』の故郷で、彼と許嫁のように言われていたのが「三輪田のお光さん」ですから、三四郎が美禰子に失恋したあと、もしこのお光さんと結婚して、『心』の「私」の父親になっていたかのように想像してみるのも、ちょっと面白い。と言いますのも、『心』の「私」という青年は、あの「三四郎」君を、いかにも柔らかに裏返したみたいな、臍の緒の同じい人物とも読めるからです。
しかしその一方、「私」は、あの「K」の再来のような存在だとも見える。「先生」もそのように感じていた気がしますし、「奥さん」も、最初ッから、そんなふうに感じていたんじゃないか。だから無意識に、あんなふうに墓参りの話もしてしまったんじゃないか。「K」を死なせました「先生」の胸の中には、「K」が愛した「お嬢さん」「奥さん」を、なんとなく「K」の再来かのような「私」の手に、安んじて委ねておいて、自分は「K」のところへ死んで行こうと、そういう深層の衝動が、働いていたんじゃないか。この私は、そう読みたいんです。だから俳優座の舞台でも、最初、熱心に加藤剛の「K」と「私」の二役を、私は希望したんです。
それは、ま、深入りをしませんが、要するに「先生」の悲劇は、彼がついに「静かな心」
というものを持てなかったところに有るのは、確かだと思う。「静か」という言葉が、この小説の要所要所に現れて、それらは、「先生」の騒ぐ思い、揺れる心を示しています。実に大事なキーワードです。言うまでもない、まさに、そこに、「先生」が深く深く愛しながらも、妻の「静」を、信じ切れずに終わった……、我が物=「我が、静かな心そのもの」として,遂に所有できなかった、という事実が表れている。象徴的に表れている。
ご存じの方も多いでしょう、『心』は、岩波書店開業の第一冊だったんです。彼は『心』
の出版を先生に懇願し、漱石は本の装丁を自分に任せる事を、条件の一つにして許可したのです。その結果、あの『漱石全集』の特色ある装丁が出来上がったというわけです。
ただ、ここに一つだけ、『心』のための、特別のこしらえが用意されていました。表紙の表に、四角い窓を明けまして、そこに中国の辞典の一つから、「心」なるものについて書かれた或る部分を引いてきて、その窓に嵌め込んだのです。第一番に「荀子解蔽篇」の説が挙がっていました。以下数行、別の本の説も載っているんですが、その、どれもが、或る示唆を持ち得ているんです。即ち、すべて「荀子解蔽篇」の根本の心の説に合致している。漱石は、よくよくそれを理解した上で、ここに挙げているらしいのです。
「解蔽篇」で、荀子が力強く説いていたのは、「心」には「虚」と「壱」と「静」という、三つの性質があるということです。分かり良くいうと、凡そこうです。
「心」は、無尽蔵になんでも容れることができる一方、いつでも「虚」つまり、からっぽにもなれる。また、あれへこれへと八方に働きながら、また、たった「壱」つの事に集中することも出来る。そして「心」は、いつもその中心のところに、実に「静」かな一点を、しっかり抱いているものだと。その、「静か」という一点の真価が、まさに「心」の命、「心そのもの」なんですね。漱石は、これを知っていた。だから第一番に、「荀子解蔽篇」の挙がった「心」の記事を、わざわざ、表紙に窓を明けて、嵌め込んだ。
「静かな心」が持てなくて、苦しみ抜いた「先生」でした。「先生」は、「静」さんとの静かに幸せな夫婦生活を、どんなに心から願っていたことか。だがそれは不可能でした。「奥さん」の名前が「静」であることの、辛辣で、切実な意義は、明らかです。
「虚」と「壱」と、そして「静」との荀子の説を知ってみれば、「静」の名が、乃木将軍の奥さんの名と同じだからといった説は、ニュース記事ふうの趣向としては少し面白いけれども、所詮はその程度のもので、比較にも何にもなりません。
そもそも、小説『心』は、人間の「心の研究」をうたって構想された作品です。何よりも、「先生」と「K」と「静さん」と「お母さん」と、そして「私」との、少なくともこの五人が、がっちりと、構造的に組み合って、一つの「心」を真剣に探り合った小説です。その中で、「お嬢さん=先生の奥さん」に限って、「静」という実名が与えられている。荀子の「心」の説を、あんなに重く見ていた漱石にすれば、「静さん」こそ「先生」の、また「K」の、さらには「私」の、心から愛し求めていた「心そのもの」であったんだと、まるで、作者の解説をハナから得ていたも同然ではありませんか。明治天皇が何人死のうが、乃木夫妻が幾組み殉死しようが、「先生」の目の前に「私」が登場していなかったら、信頼されていなかったなら、あの「先生」は、「奥さん」を一人ぽっちで残して、自殺は、結局出来ずじまいであったことでしょう。それほど「先生」は、「奥さん」の、幸福な、若々しい再生…最出発を、祈り、また愛していたのだと、私は、思っています。
「真実の身内」を切望した、愛の小説でこそあれ、死の小説ではないんです、『心』は。
それがたとえボンヤリとでも感じられていたから、こんなにも大勢に愛読されてきたのです。真の身内でありたいと望む「静」と「私」とに、今しも生まれくるあろう新しい若い命の誕生を、「先生」も「K」も、心から、安心して、祝福しているだろうというのが、私の「読み」でした。 
東工大のある学生がこんな指摘をしていました、『心』の「奥さん」は、『三四郎』の美禰子が、三四郎をひきつけることで実は野宮を刺激していたように、「私」を介して夫である「先生」の愛情表現を求め、モーションを掛けていたのではないでしょうかと。
「先生」存命中の「おくさん」の願望としては、それは有り得た心理だと思われます。しかし結果として「先生」は「奥さん」を「私」に託し、自殺しました。その限りでは悲劇的な夫婦でありました。
すこし、顧みておきたい。
「K」は、「お嬢さん」を聡明な人、可愛い人、笑う人というふうに評価し、評価は徐々に高まり、「惚れる」に至りました。死を賭した評価でした。けっして「お嬢さん」を軽くは見ていません。「先生」の方が、むしろ、「K」の告白があってから突発し、友を出し抜いているんですね。この優柔さは、漱石作品にはまま見られる特徴です。
『彼岸過ぎ迄』では、千代子の須永に対する猛烈な批判がある。「愛してもゐないのに嫉妬なさる。それを卑怯だと云ふんです」と。千代子が他の男に関心をよせて初めて須永は動くともなく動くから、やっつけられているんです。
『三四郎』の野宮もそうです。美禰子が他の男と結婚してから嫉妬しています。
『それから』の代助など、本心に背いて身をひき、愛する三千代を友人にむしろ押し付けた。そうなってから三千代への愛を自覚し、「世の掟」に背いて奪い返すのです。
『門』の宗助は、人妻のお米を愛して一瞬に泥に塗れ、そのことに殉じて「世の掟」に背を向け生きて行きますが、子は流れ、もう出来ないことを夫婦の受ける「天罰」と感じています。『心』の「先生」と同じ精神構造をしている。
『行人』の兄一郎は、弟二郎に現に嫉妬していながら、その弟に妻の「貞操」を確かめる役を強いています。
どうも漱石の精神にはこういうタイプの男が住み着いているとしか言い様がない。そしてさまざまに人生齟齬を来している。誠実も見えるけれど、卑怯も見える。すくなくも図太くは生きられない。「先生」と「奥さん」に愛は在っても齟齬もあるのも明らかです。「奥さん」の方がずっと図太く生きられる強さを持っていたに違いない、それがまた「先生」の心を「静か」にさせなかった。
繰り返しますが「奥さん」は、「先生」と「K」との一件を知らなかったか、知っていたかといえば、知らずにいられた道理は無かった。狭い家です。かしこい母子です。だからこそ「先生」は下宿の当座、こっけいなぐらい母子の言動に被害者意識の神経を立てていたではありませんか。
それじゃ「先生」抜け駆けの求婚、友を裏切った求婚を、「お嬢さん=奥さん」らは、「Kの変死」ゆえに許せなかったでしょうか。とんでもない。自殺は痛ましいが、難儀は失せたと、ほっとさえしていたでしょう。「先生」の抜け駆けも、若い恋のよぎない敢為ぐらいに受け入れて、いっそ「先生」のしつこい煩悶が情けなかったでしょう、合点できなかったでしょう。
そもそも「K」が婿がねとして欠格者だとは、母子の間だけでなく、市ヶ谷の叔母さんはじめ、親族中の、もう申し合わせになっていたとすら思われる。それで自然と読める態度や言葉を、「奥さん」らは繰りかえし『心』の中で漏らしています。
「奥さん」らが心から待っていたのは、「先生」の、ざっくばらんな「K」一件苦渋の告白と、それに対して「奥さん」らからの慰藉を待ちかつ求める姿勢であったでしょう。
しかし「先生」は、それを徹底的にしなかった。墓参にも同伴しなかった。話題にもしなかった。妻の「純白」を強いて願望し幻想した。独り妻をおいて死のうとし続けていた。幸福であるべき不幸な夫婦と思い決めていた。妻を信じ切れず、世の中でたった一人信じているのは「私」のことだけと、明言しています。「天罰」という過酷な表現で、子供の欲しい「奥さん」の根深い願いすら、むげに退け、協力を拒絶しているのです。
こういう夫婦の隙間へ(むしろ「先生」の意に誘われる体で)「私」が導かれて行きます。そしてついには「私」と「奥さん」との距離が、「心臓」の動きと「奥さんの涙」とで急接近します。
小説表現の微妙なあやのなかで、あの『門』の一瞬の泥まみれといった表現を背景に見入れますと、まことに危ない男女の接触すら想像されなくはないと論じてきた学生も、東工大にはいました。若い今日の学生のなかには、「先生はコキュであった」と読み込むほどの者もいたのです。私は、さすがにそうまで読みたくありませんが、「奥さん」と「私」とに、深い心理での接近は、愛は、あったものと当然信じています。『心』の「奥さん」は、三人の男に愛された「心」そのものだったのです。しかし「K」と「先生」とは「お嬢さん=奥さん」を幸せにできなかった。だからこそ二人の男の化身かのような、まさしく身内かのような「私」の登場が、小説『心』にとって必然の要請だったのです。おそらくは長い長い「遺書」を書いていた間かその前に、「先生」は「私」の「地位」をも周旋し、信頼に報いていた筈です、そう読むのが「遺書」の意図と信実を高めます。
もう一つ申しそえておきたい。「どこにそんなことが書かれているか」「想像(妄想)に過ぎない」と非難を浴びることがあります。それも文学研究者を自称する専門の読み手から聞く。本文に則して読み、加えて想像力や相応の創造的センスを働かせる。それの出来ない人を、作者は「いい読者」とは歓迎できない。私だけの思いではない、世界的なある作者の弁です。言わで思い、書かで言い、言いおおせて何かあるという、行間を読み紙背に徹するという、そうした日本語表現の今に久しい素質に対し、理解が無さ過ぎはしないか。そんなことでは、源氏物語「一部の大事」などまんまと読み落としてしまいます。古今、作者という人種は、存外に作品に仕掛けをしています。意図的でなくても本能的にそれを創ってしまっている。漱石も例外ではないごく「意識的」な作家であった。どこにそんなことが…。ばかを言っちゃいけない、それを読むのも読者の読書なのです……。
では、どうか思い出してください。『心』の「先生」は、いま、まさに死なんとして、こう「遺書」に書き、「私」に、祝福を与えています。
「私の鼓動が停つた時、あなたの胸に新しい命が宿る事が出来るなら満足です」と。
この「新しい命」というのがいかなる「命」であれ、「先生」が、「私」に、また「奥さん」に、「真実の身内」として生きよ、幸せになれよと願っていたのは、まず、間違いない。万に一つも、あとを追って死んで来いとは誘っていない。さもなければ、あの「遺書」は単なる無駄になってしまいます。されば「新しい命」とは、「静」に託された「静かな心」であり、また、その「静」によって、やがて「私」にもたらされる、「子供」という愛しい希望、ででもある筈です。そう 読みたいし、そう読める、放恣な妄想をせずとも、まさに本文の表現そのものからそう読み取れる、ということを、今日、心をこめて私は話しました。
『心』を読んで、ここまで来た、それも、「真の身内」を願う私の「人生」であり「文学」というものであったことを、ご理解いただけるなら、「満足」です。  
 
自由詩のリズムに就て / 萩原朔太郎

 

自由詩のリズム
歴史の近い頃まで、詩に關する一般の觀念はかうであつた。「詩とは言葉の拍節正しき調律即ち韻律を踏んだ文章である」と。この觀念から文學に於ける二大形式、「韻文」と「散文」とが相對的に考へられて來た。最近文學史上に於ける一つの不思議は、我我の中の或る者によつて、散文で書いた詩――それは「自由詩」「無韻詩」又は「散文詩」の名で呼ばれる――が發表されたことである。この大膽にして新奇な試みは、詩に關する從來の常識を根本からくつがへしてしまつた。詩に就いて、世界は新らしい概念を構成せねばならぬ。
勿論、そこでは多くの議論と宿題とが豫期される。我我の詩の新しき概念は、それが構成され得る前に、先づ以て十分に吟味せねばならぬ。果して自由詩は「詩」であるかどうか。今日一派の有力なる詩論は、毅然として「自由詩は詩に非ず」と主張してゐる。彼等の哲學は言ふ。「散文で書いたもの」は、それ自ら既に散文ではないか。散文であつて、同時にまたそれが詩であるといふのは矛盾である。散文詩又は無韻詩の名は、言語それ自身の中に矛盾を含んで居る。かやうな概念は成立し得ない。元來、詩の詩たる所以――よつて以てそれが散文から類別される所以――は、主として全く韻律の有無にある。韻律を離れて尚詩有りと考ふるは一つの妄想である。けだし韻律リズムと詩との關係は、詩の起原に於てさへ明白ではないか。世界の人文史上に於て、原始民族の詩はすべて明白に規則正しき拍節を踏んでゐる。言語發生以前、彼等は韻律によつて相互の意志を交換した。韻律は、その「規則正しき拍節の形式」によつて我等の美感を高翔させる。詩の母音は此所から生れた。見よ、詩の本然性はどこにあるか。原始の純樸なる自然的歌謠――牧歌や、俚謠や、情歌や――の中に、一つとして無韻詩や自由詩の類が有るか。
我我の子供は、我我の中での原始人である。彼等の生活はすベて本然と自然とにしたがつて居る。されば子供たちは如何に歌ふか。彼等の無邪氣な即興詩をみよ。子供等の詩的發想は、常に必ず一定の拍節正しき韻律の形式で歌はれる。自然の状態に於て、子供等の作る詩に自由詩はない。
そもそも如何にして韻律リズムがこの世に生れたか。何故に詩が、韻律リズムと密接不離の關係にあるか。何故に我等が――特に我等の子供たちが――韻律リズムの心像を離れて詩を考へ得ないか。すべて此等の理窟はどうでも好い。ただ我等の知る限り、此所に示されたる事實は前述の如き者である。詩の發想は、本然的に音樂の拍節と一致する。そして恐らく、そこに人間の美的本能の唯一な傾向が語られてあるだらう。宇宙の眞理はかうである。「原始はじめに韻律があり後に言葉がある。」この故に、韻律を離れて詩があり得ない。自由詩とは何ぞや、無韻詩とは何ぞや、不定形律の詩とは何ぞや。韻律の定まれる拍節を破却すれば、そは即ち無韻の散文である。何で此等を「詩」と呼ぶことができようぞ。
かくの如きものは、自由詩に對する最も手強てごはい拒絶である。けれどもその論旨の一部は、單なる言語上の空理を爭ふにすぎない。そもそも自由詩が「散文で書いたもの」である故に、同時にそれが詩であり得ないといふ如き理窟は、理窟それ自身の詭辯的興味を除いて、何の實際的根據も現在しない。なぜといつて我等の知る如く、實際「散文で書いたもの」が、しばしば十分に詩としての魅惑をあたへるから。そしていやしくも詩としての魅惑をあたへるものは、それ自ら詩と呼んで差支へないであらう。もし我等にして、尚この上この點に關して爭ふならば、そは全く「詩」といふ言葉の文字を論議するにすぎない。暫らく我等をして、かかる概念上の空論を避けしめよ。今、我等の正に反省すべき論旨は別にある。
しばしば淺薄な思想は言ふ。「自由詩は韻律の形式に拘束されない。故に自由であり、自然である。」と。この程度の稚氣は一笑に價する。反對に、自由詩に對する非難の根柢は、それが詩として不自然な表現であるといふ一事にある。この論旨のために、我我の反對者が提出した前述の引例は、すべて皆眞實である。實際、上古の純樸な自然詩や、人間情緒の純眞な發露である多くの民謠俗歌の類は、すべて皆一定の拍節正しき格調を以て歌はれて居る。人間本然の純樸な詩的發想は、歸せずして拍節の形式と一致して居る。不定形律の詩は決して本然の状態に見出せない。ばかりでなく、我我自身の場合を顧みてもさうである。我我の情緒が昂進して、何かの強い詩的感動に打たれる時、自然我我の言葉には抑揚がついてくる。そしてこの抑揚は、心理的必然の傾向として、常に音樂的拍節の快美な進行と一致する故に、知らず知らず一定の韻律がそこに形成されてくる。一方、詩興はまたこの韻律の快感によつて刺激され、リズムと情想とは、此所に互に相待ち相助けて、いよいよ益益詩的感興の高潮せる絶頂に我等を運んで行くのである。かくて我等の言葉はいよいよ滑らかに、いよいよ口調よく、そしていよいよ無意識に「韻律の周期的なる拍節」の形式を構成して行く。思ふにかくの如き事態は、すべての原始的な詩歌の發生の起因を説明する。詩と韻律の關係は、けだし心理的にも必然の因果である如く思はれる。
然るに我等の自由詩からは、かうした詩の本然の形式が見出せない。音樂的拍節の一定の進行は、自由詩に於て全く缺けてゐる者である。ばかりでなく、自由詩は却つてその「規則正しき拍節の進行」を忌み、俗語の所謂「調子づく」や「口調のよさ」やを淺薄幼稚なものとして擯斥する。それ故に我等は、自由詩の創作に際して、しばしば不自然の抑壓を自らの情緒に加へねばならぬ。でないならば、我等の詩興は感興に乘じて高翔し、ややもすれば「韻律の甘美な誘惑」に乘せられて、不知不覺の中に「口調の好い定律詩」に變化してしまふ恐れがある。
元來、詩の情操は、散文の情操と性質を別にする。詩を思ふ心は、一つの高翔せる浪のやうなものである。それは常に現實的實感の上位を跳躍して、高く天空に向つて押しあげる意志であり、一つの甘美にして醗酵せる情緒である。かかる種類の情操は、決して普通の散文的情操と同じでない。したがつて詩の情操は、自然また特種な詩的表現の形式を要求する。言ひ換へれば、詩の韻律形式は、詩の發想に於て最も必然自由なる自然の表現である。然り、詩は韻律の形式に於てこそ自由である。無韻律の不定形律――即ち散文形式――は、詩のために自由を許すものでなくして、却つて不自由を強ひるものである。然らば「自由詩」とは何の謂ぞ。所謂自由詩はその實「不自由詩」の謂ではないか。けだし、「散文で詩を書く」ことの不自然なのは、「韻文で小説を書く」ことの不自然なのと同じく、何人なんぴとにも明白な事實に屬する。
自由詩に對するかくの如き論難は、彼等が自由詩を「散文で書いたもの」と見る限りに於て正當である。そしてまた此所に彼等の誤謬の發端がある。なぜならば眞實なる事實として、自由詩は決して「散文で書いたもの」でないからである。しかしながらその辯明は後に讓らう。此所では彼等の言にしたがひ、また一般の常識的觀念にしたがひ、暫らくこの假説を許しておかう。然り、一般の觀念にしたがふ限り、自由詩は確かに散文で書いた「韻律のない詩」である。故にこの見識に立脚して、自由詩を不自然な表現だと罵るのは當を得て居る。我等はあへてそれに抗辯しない。よしたとへ彼等の見る如く、自由詩が眞に不自然な者であるとした所で、尚且つあへて反駁すべき理由を認めない、なぜならばこの「自然的でない」といふ事實は、この場合に於て「原始的でない」を意味する。しかして文明の意義はすべての「原始的なもの」を「人文的なもの」に向上させるにある。されば大人が子供よりも、文明人が野蠻人よりも、より價値の高い人間として買はれるやうに、そのやうにまた我等の成長した敍情詩も、それが自然的でない理由によつてすら、原始の素樸な民謠や俗歌よりも高價に買はるべきではないか。けだし自由詩は、近世紀の文明が生んだ世界の最も進歩した詩形である。そして此所に自由詩の唯一の價値がある。
世界の敍情詩の歴史は、最近佛蘭西に起つた象徴主義の運動を紀元として、明白に前後の二期に區分された。前派の敍情詩と後派の敍情詩とは、殆んど本質的に異つて居る。新時代の敍情詩は、單なる「純情の素朴な詠嘆」でなく、また「觀念の平面的なる敍述」でもなく、實に驚くべき複雜なる叡智的の内容と表現とを示すに至つた。(但し此所に注意すべきは、所謂「象徴詩」と「象徴主義」との別である。かつてボドレエルやマラルメによつて代表された一種の頽廢氣分の詩風、即ち所謂「象徴詩」なるものは、その特色ある名稱として用ゐられる限り、今日既に廢つてしまつた。しかしながら象徴主義そのものの根本哲學は今日尚依然として多くの詩派――表現派、印象派、感情派等――の主調となつて流れてゐる。自由詩形もまた此の哲學から胎出された。)
象徴主義が唱へた第一のモツトオは、「何よりも先づ音樂へ」であつた。しかしこの標語は、かつて昔から詩の常識として考へられて居た類似の觀念と別である。ずつと昔から、詩と音樂の密接な關係が認められて居た。「詩は言葉の音樂である」といふ思想は、早くから一般の常識となつて居た。しかしこの關係は、專ら詩と音樂との外面形式に就いて言はれたのである。即ち詩の表現が、それ自ら音樂の拍節と一致し、それ自ら音樂と同じ韻律形式の上に立脚する事實を指したのであつた。然るに今日の新しい意味はさうでない。今日言ふ意味での「詩と音樂の一致」は、何等形式上での接近や相似を意識して居ない。詩に於ける外形の音樂的要素――拍節の明晰や、格調の正しき形式や、音韻の節律ある反覆や――はむしろ象徴主義が正面から排斥した者であり、爾後の詩壇に於て一般に閑却されてしまつた。故にもしこの方面から觀察するならば、或る音樂家の論じた如く、今日の詩は確かに「非音樂的なもの」になつて來た。けれどもさうでなく、我我の詩に求めてゐるものは實に「内容としての音樂」である。
我我は外觀の類似から音樂に接近するのでなく、直接「音樂そのもの」の縹渺するいめえぢの世界へ、我我自身を飛び込ませようといふのである。かくの如き詩は、もはや「形の上での音樂」でなくして「感じの上での音樂」である。そこで奏される韻律リズムは、形體ある拍節でなくして、形體のない拍節である。詩の讀者等は、このふしぎなる言葉の樂器から流れてくる所の、一つの「耳に聽えない韻律」を聽き得るであらう。
「耳に聽えない韻律リズム」それは即ち言葉の氣韻の中に包まれた「感じとしての韻律リズム」である。そして實に、此所に自由詩の詩學が立脚する。過去の詩學で言はれる韻律とは、言葉の音韻の拍節正しき一定の配列を意味して居る。たとへば支那の詩の平仄律、西洋の詩の押韻律、日本の詩の語數律等、すべて皆韻律の原則によつた表現である。けれども我我の自由詩は、さういふ韻律の觀念から超越してゐる。我我の詩では、音韻が平仄や語格のために選定されない。さうでなく、我我は詩想それ自身の抑揚のために音韻を使用する。即ち詩の情想が高潮する所には、表現に於てもまた高潮した音韻を用ゐ、それが低迷する所には、言葉の韻もまた靜かにさびしく沈んでくる。故にこの類の詩には、形體に現はれたる韻律の節奏がない。しかしながら情想の抑揚する氣分の上で、明らかに感じ得られる所の拍節があるだらう。
定律詩と自由詩との特異なる相違を一言でいへば、實に「拍子本位」と「旋律本位」との音樂的異別である。我我が定律詩を捨てて自由詩へ走つた理由は、理論上では象徴主義の詩學に立脚してゐるが、趣味の上から言ふと、正直のところ、定律詩の韻律に退屈したのである。定律詩の音樂的效果は、主としてその明晰にして強固なる拍節にある。然るに我我の時代の趣味は、かかる強固なる拍節を悦ばない。我我の神經にまで、そはむしろ單調にして不快なる者の如く聽えてきた。我我の音樂的嗜好は、遙かに「より軟らかい拍節」と「より高調されたる旋律」とを欲してきた。即ち我我は「拍節本位」「拍子本位」の音樂を捨てて、新しく「感情本位」「旋律本位」の音樂を創造すべく要求したのである。かかる趣味の變化は、明らかに古典的ゴシツク派の藝術が近代に於て衰退せる原因と、一方に於て自由主義や浪漫主義の興隆せる原因を語つてゐる。しかして自由詩は、實にこの時代的の趣味から胚胎された。
それ故に自由詩には、定律詩に見る如き音韻の明晰なる拍節がない。或る人人は次の如き假説――詩の本質は韻律以外にない。自由詩がもし詩であるならば必然そこに何かの韻律がなければならない。――を證明する目的から、しばしば自由詩の詩語を分解して、そこから一定の拍節律を發見すべく骨を折つてゐる。しかしこの努力はいつも必ず失敗である。自由詩の拍節は常に不規則であつて且つ散漫してゐる。定韻律に見る如き、一定の形式ある周期的の強い拍節は、到底どの自由詩からも聽くことはできない。所詮、自由詩の拍節は、極めて不鮮明で薄弱なものにすぎないのである。けだし自由詩の高唱する所は拍節にない。我我は詩の拍節よりも、むしろ詩の感情それ自身――即ち旋律――を重視する。我我の詩語はそれ自ら情操の抑揚であり、それ自ら一つの美しい旋律である。されば我我の讀者は、我我の詩から「拍節的リズミカルな美」を味ふことができないだらうけれども「旋律的メロヂカルな美」を享樂することができる。「旋律的メロヂカルな美」それは言葉の美しい抑揚であり、且つそれ自らが内容の鼓動である所の、最も肉感的な、限りなく艶めかしい誘惑である。思ふにかくの如き美は獨り自由詩の境地である。かの軍隊の歩調の如く、確然明晰なる拍節を踏む定律詩は、到底この種の縹渺たる、音韻の艶めかしい黄昏曲を奏することができない。
されば此の限りに於て、自由詩は勿論また音樂的である。そは「拍子本位の音樂」でない。けれども「旋律本位の音樂」である。しかしながら注意すべきは、詩語に於ける韻律は、拍節の如く外部に「形」として現はれるものでないことである。詩の拍節は――平仄律であつても、語數律であつても――明白に形體に示されてゐる。我我は耳により、眼により、指を折つて數へることにより、詩のすべての拍節を一一指摘することができる。之れに反して旋律は形式をもたない。旋律は詩の情操の吐息であり、感情それ自身の美しき抑揚である故に、空間上の限られたる形體を持たない。尚この事實を具體的に説明しよう。
たとへば此所に一聯の美しい自由詩がある。その詩句の或る者は我等を限りなく魅惑する。そもそもこの魅惑はどこからくるか。指摘されたる拍節は、極めて不規則にして薄弱なものにすぎない。さらばこの美感の性質は、拍節的リズミカルの者であるよりは、むしろより多く旋律的メロヂカルの者であることが推測される。具體的に言へば、この詩句の異常なる魅力は、主として言葉の音韻の旋律的な抑揚――必しも拍節的な抑揚ではない――にある。勿論またそればかりでない。詩句の各各の言葉の傳へる氣分が、情操の肉感とぴつたり一致し、そこに一種の「氣分としての抑揚」が感じられることにある。(勿論この場合の考察では詩想の概念的觀念を除外する)此等の要素の集つて構成されたものが、我等の所謂「旋律」である。そは拍節の如く詩の形體の上で指摘することができない。どこにその美しい音樂があるか、我等は之れを分析的に明記することができない。ただ詩句の全體から、直覺として「感じられる」にすぎないのだ。
ここで再度「韻律」といふ語の意義を考へて見よう。韻律の觀念は、その最も一般的な場合に於て、常に音その他の現象の「周期的な運動」即ち「拍子」「拍節」を意味してゐる。思ふにこの觀念の本質的出所は音韻であり、したがつてまた詩の音韻であるが、その擴大されたる場合では、廣く時間と空間とに於ける一般の現象に適用されて居る。たとへば人間の呼吸、時計の振子運動、光のスペクトラム、野菜畠の整然たる畝の列、大洋に於ける浪の搖動、體操及び音樂遊戲の動作、舞踏、特に建築物の美的意匠に於ける一切の樣式、機關車のピストン、四季の順序正しき推移、衣裝の特種の縞柄、および定規の反覆律を示す一切の者。此等はすべて皆「周期的の運動」を示すものであり、畢竟「拍子の樣樣なる樣式」に於ける現象である所から、普通にリズミカルの者と呼ばれて居る。かの定律詩の詩學で定められた韻律の種種なる方則、即ち平仄律、語格律、語數律、反覆律、同韻重疊律、押韻頭脚律、押韻尾脚律、行數比聯律、重聯對比律等の煩瑣なる押韻方程式も、畢竟「拍子の樣樣なる樣式」即ち音韻や詩形の周期的な反覆運動を原則としたる者に外ならぬ。
かく以前の詩學に於ては、拍子が韻律のすべての内容であつた。「拍子即韻律」「韻律即拍子」として觀念されて居た。しかしながらこの觀念は未だ原始的である。より進歩した韻律の觀念には、一層もつと複雜にして本質的なものがあるだらう。勿論、拍子は韻律の本體である。けれども吾人にして、更にこの拍子の觀念を一層徹底的に押し進めて行くならば、遂には所謂「拍子」の形式を超越した所の別種の韻律――拍子でない拍子――を認識するであらう。たとへば水盤の中で遊泳して居る金魚、不規則に動搖する衣裝のヒダに見る陰影の類はリズムでないか。そは一つの拍節から一つの拍節へ、明白に、機械的に形式的に進行して居ない。部分的に、我等はその拍節の形式を明示することができない。けれども全體から、直覺として感じられるリズムがある。より複雜にして、より微妙なる、一つの旋律的なリズムがある、然り、水盤の中で遊泳して居る魚の美しい運動は、明らかに一つの音樂的樣式を語つてゐる。そは幾何學的の周期律を示さない。けれども旋律的な周期律を示して居る。外部からの形式でなく、内部からの樣式による自由な拍節を示してゐる。即ちそれは「形式律としてのリズム」でなく「自由律としてのリズム」である。かくの如きものは、よしたとへ「拍節的リズミカルのもの」でないとしても、確實に言つて「旋律的メロヂカルのもの」である。
ここに我等は、所謂「拍子」と「旋律」との關係を知らねばならぬ。先づ之れを音樂に問へ。音樂上で言はれる韻律の觀念は、狹義の場合には勿論拍子を指すのであるが、廣義の語意では拍子と旋律との兩屬性を包容する。即ちこの場合のリズムは「音樂それ自體」を指すのである。この事實は、勿論「言葉の音樂」である詩に於ても同樣である。元來、旋律は拍節の一層部分的にして複雜なものである。そは拍子の如く幾何學的圖式を構成しない。しかも一つの「自由なる周期律」を有するリズムである。しかしてそれ自らが音樂の情想であり内容である。それ故「韻律」の觀念を徹底すれば、詩の旋律もまた明白にリズムの一種である。即ち音樂と同じく「詩それ自體」が既に全景的にリズムである。然るに過去の詩人等は、リズムの觀念を拍子の一分景に限り、他に旋律といふリズムの在ることを忘れて居た。自由詩以後我等のリズムに關する概念は擴大された。今日我等の言ふリズムは、もはや單なる拍節の形式的周期を意味しない。我等の新しい觀念では、更により内容的なる言葉の旋律が重視されてゐる。言葉の旋律! それは一つの形相なき拍節であり、一つの「感じられるリズム」である。かの魚の遊泳に於ける音樂的樣式の如く、部分としては拍節のリズムを指示することができない。けれど全曲を通じて流れてゆく言葉の抑揚や氣分やは、直感的に明白なリズムの形式――形式なき形式――を感じさせる。しかしてかくの如きは、實に「旋律そのもの」の特質である。
かくて詩に於けるリズムの觀念は、形體的の者から内在的のものへ移つて行つた。拍節の觀念は、過去に於て必然的な形式を要求した。然るに今日の詩人等は、必しも外形の規約に拘束されない。なぜならば我等の求めるものは、形の拍節でなくして氣分の拍節、即ち「感じられるリズム」であるから。この新しき詩學からして、自由詩人の所謂「色調韻律ニユアンスリズム」「音のない韻律」の觀念が發育した。元來、我等のすべての言葉は――單語であると綴り語であるとを問はず――各個に皆特種な音調とアクセントとを持つて居る。この言葉の音響的特性が、即ち所謂「音韻」である。過去の詩のリズムは、すべて皆この音韻によつて構成された。勿論、今日の自由詩に於ても、音韻はリズムの最も重要なる一大要素であるが、しかも我等の言ふリズムは、必しも此の一面の要素にのみ制約されない。なぜならばそこには、音韻以外、尚他に言葉の「氣分としての韻」があるべきだ。たとへば日本語の「太陽」と言ふ言葉は、音韻上から言つて一聯四音格であるが、かうした語格の特種性を除いて考へても、尚他にこの言葉獨特の情趣がある。その證據は、これを他の同じ語義で同じ一聯四音格の言葉「日輪」や「てんたう」に比較する時、各の語の間に於ける著しい氣分の差を感ずることによつて明白である。實際日本語の詩歌に於て「太陽が空に輝やく」と「日輪が天に輝やく」では全然表現の效果が同じでない。されば我等の自由詩に於て、よし全然音韻上のリズムを發見し得ないとしても、尚そこにこの種の隱れたる氣分の韻律が内在し得ないといふ道理はない。しかしながら、かくの如き色調韻律は、決して最近自由詩の詩人が發見したのではない。勿論それは昔から、すべての定律詩人によつて普通に認められて居た色調、即ち語の縹渺する特種の心像が、詩の表現の最も重大なる要素であることは、むしろ詩人の常識的事項に屬して居る。ただしかし彼等は、かつて之れに色調韻律ニユアンスリズムの名をあたへなかつた。彼等はそれを韻律以外の別條件と見て居た。獨り最近自由詩が之れに韻律の名をあたへ、リズムの一要素として認定した。そして之れが肝心のことである。何となればこの兩者の態度こそ、實に兩者のリズムに對する觀念の根本的な相違を示すものであるから。すくなくとも自由詩のリズム觀は、前者に比してより徹底的であり、且つより本質的である。そこでは詩の表現に於ける一切の要素が、すべて皆リズムの觀念の中に包括されて居る。言ひ換へれば「詩それ自體」が既に全景的にリズムである。故に自由詩の批判に於て「この詩にはリズムがない」と言はれる時、それは、勿論「一定の格調や平仄律がない」を意味しない。また必しも拍節の樣式に於ける「形體上の音樂がない」を意味しない。この場合の意味は、詩全體から直覺的に感じられる所の「氣分としての音樂」が聽えない。即ち「感じられるリズムが無い」を言ふのである。之れによつて今日の文壇では、しばしばまた次の如きことが言はれて居る。「この詩には作者のリズムがよく現れてる」「彼のリズムには純眞性がある」「この藝術は私のリズムと共鳴する」此等の場合に於ける「作者のリズム」「彼のリズム」「私のリズム」は何を意味するか。從來の詩學の見地よりすれば、かかる用語に於けるリズムの意味は、全然奇怪にして不可解と言ふの外はない。けだしこの場合に言ふリズムは、全く別趣な觀念に屬してゐる。それは藝術の表現に現はれた樣式の節奏を指すのでない。さうでなく、よつて以てそれが表現の節奏を生むであらう所の、我我自身の心の中に内在する節奏リズム、即ち自由詩人の所謂「心内の節奏インナアリズム」「内部の韻律インナアリズム」を指すのである。さらばこの「心内の節奏」即ち内在韻律インナアリズムとは何であるか。之れ實に自由詩の哲學である。今や我等は、自由詩の根本問題に觸れねばならぬ。
原始はじめ、自然民族に於て、歌うたは同時に唄うたであり、詩と音樂とは同一の言葉で同一の觀念に表象された。彼等が詩を思ふとき、その言葉は自然に音樂の拍節と一致し、自然に音樂の旋律――勿論それは單調で抑揚のすくないものであつたことが想像される――を以て唱歌された。この時代に於て、詩人は同時に音樂家であり、音樂家は同時に詩人であつた。然るにその後、言葉の概念の發育により、次第に詩と音樂とは分離してきた。歌詞の作者と曲譜の作者とは、後世に於て全く同人でない。かくて詩は全然音樂の旋律から獨立してしまつた。ただしかし拍節だけが殘された。なぜならば拍節は、旋律に比して一層線の太いリズムであり、實に韻律の骨格とも言ふべきものであるから。そして詩が、本來音樂と同じ情想の上に表現されるものである限り、この一つの骨格だけは失ふことができないから。
かくして最近に至るまで、詩の表現はこの骨格――言葉の拍節――の上に形式づけられた。所謂「韻律」「韻文」の觀念が之によつて構成されたのである。然るに我我の進歩した詩壇は、更にこの骨格の上に肉づけすべく要求した。骨格だけでは未だ單調で生硬である。我我の文明的な神經は、更に之れを包む豐麗な肉體と、微妙で複雜な影をもつた柔らかい線とを欲求した。言ひ換へれば、我我は「肉づけのある拍節」をさがしたのである。「肉づけのある拍節」それは即ち「旋律」ではないか。かくして一旦失はれたる詩うたの旋律は、再度また此所に歸つて來た。しかしながらこの旋律は、かつて原始に在つたそれと全く性質を別にする。原始の旋律は、それ自ら歌詞の節づけとして唄はれたものである。思ふに我等の遠き先祖は、詩と音樂とを常に錯覺混同してゐた。彼等の心像に詩が浮んだことは、同時にいつも音樂のメロヂイが浮んだことである。故にこの場合の方程式は「歌詞+旋律=詩」であつて兩者を心像的に分離することができない。歌詞を切り離せばその旋律に意味がなく、旋律を抽象してしまへば殘りの歌詞に價値ない。(この事態は今日我等の中での原始人である子供に就いて實見することができる)。今や我我の自由詩は、それと全くちがつた別の新しい仕方に於て、それと同じ不思議なる心像――詩と音樂との錯覺――を表象しようといふのである。
明白なる事實として、詩を思ふ心は音樂を思ふ心である。我等の心像に浮んだ詩は、それ自ら一種のメロヂイをもつてゐる。もし我等にして原始人の如く、また子供等の如く單純素樸であつたならば、必ずや聲をあげて詠誦し、この同一心像に屬する詩と旋律とを同時に一時に發想するであらう。けれども不幸にして我我は近代の複雜した社會に住んでゐる。我我は一人にして詩人と音樂の作曲家とを兼ねることができない。我我は、我我の投影する旋律を知つてゐる、そは一種の氣分として、耳に聽えない音樂として感知される。けれども我我の音樂的無能は、之れを音の形式に再現することができない。そしてその故に、我我は詩人であつて音樂家でないのである。即ち我我の仕事は、この感知されたる旋律を詩の言葉それ自身のリズムに彫みつけることにある。如何にしてか? ここに我我の自由詩を見よ! 自由詩の表現は實に之れである。
自由詩にあつては、音樂が單なる拍節によつて語られない。拍節は音樂の骨格にすぎないだらう。さうでなく、我我は音樂のより部分的なるリズム全體、即ち旋律と和聲とをそつくりそのまま表現しようとする。そしてこの目的のためには、言葉のあらゆる特性が利用されねばならぬ。第一に先づ言葉の音韻的效果が使用される。しかもそれは定律詩の場合の如く、單に拍節上の目的から、平仄を合せたり、同韻を押したり、語數を調べたりするのでない。我我の目的は、それとはもつと遙かに複雜なリズムを彈奏するにある。しかし單に音韻ばかりでは、到底この奇蹟的な仕事を完全に果すべくもない。よつてまた音韻以外、およそ言葉のもつありとあらゆる屬性――調子トーンや、拍節テンポや、色調ニユアンスや、氣分ムードや、觀念イデア――を綜合的に利用する。即ちかくの如きものは、實に言葉の一大シムホニイである。それは單なる形體上の音樂でなくして、それ自らが内容であるところの「音樂それ自身」である。(故に今日の高級な自由詩は、音樂家への作曲を拒絶する。我我の詩は、それ自らの中に旋律と和聲を語つてゐる。この上別に外部からの音樂を要しないのである。「外部からの音樂」は却つて詩の「實際の音樂」を破壞してしまふ。)
「詩は言葉の音樂である」といふ詩壇の標語は、今や我我の自由詩によつて、その眞に徹底せる意味を貫通した。げに我我の表現は、詩を完全にまで音樂と同化させた。否、しかしこの「同化させた」といふ言葉は間ちがひである。なぜならば、始から詩と音樂とは本質的に同一である。詩の心像と音樂の心像とは、原始人に於ける如く、我我に於ても常にまた同一の心像である。たとへば次の如き詩想――「心は絶望に陷り、悲しみの深い沼の底をさまよつて居る。」――が心像として浮んだ時、それは常に一つの抑揚ある氣分として感じられる。そこには或る一つの情緒的な、耳に聽えないメロヂイが低迷してゐる。我我は明らかにそのメロヂイ――氣分の抑揚――を感じ得る。そして此所に詩のリズムが生れるのである。さればこの「音樂の心像」は、それ自ら「詩の心像」であつて、兩者は互に重なり合つた同一觀念に外ならぬ。この限りに於て、我我の言葉でも亦「歌」は「唄」である。言ひ換へれば「詩即リズム」である。リズムの心像を離れて詩の觀念はなく、詩の觀念を離れてリズムの心像はない。リズムと詩とは畢竟同一物の別な名稱にすぎないのだ。それ故我我の詩が、我我の音樂の直接な表現であるといふ上述の説明は、之れを一面から言へば、詩想それ自身の直接な表現を意味してゐる。自由詩の表現は、實にこの詩想の抑揚の高調されたる肉感性を捕捉する。情想の鼓動は、それ自ら表現の鼓動となつて現はれる。表現それ自體が作家の内的節奏となつて響いてくる。詩のリズムは即ち詩の VISION である。かくて心内の節奏と言葉の節奏とは一致する。内部の韻律と外部の韻律とが符節する。之れ實に自由詩の本領である。
かく自由詩は、表現としての最高級のものである。そのリズムは、より單純な拍子本位から、より複雜な旋律本位へ進歩した。之れ既に驚くべき發展である。(尤も之れに就いては一方の側からの非難がある。それに就いては後に自由詩の價値を論ずる場合に述べよう。とにかく自由詩が、そのすべての缺點を置いても、より進歩した詩形であるといふことだけは否定できない。)それにも關はらず、通俗の見解は自由詩を甚だ見くびつて居る。甚だしきは、自由詩にリズムがないといふ人さへある。然り、自由詩には形體上のリズムがない。七五調や平仄律や――即ち通俗に言ふ意味でのリズム――は自由詩にない。しかも自由詩にはより複雜な、よりデリケートのリズムがある。それ自らが詩人の「心内の節奏」を節づけする所の「旋律としてのリズム」がある。人人は自由詩を以て、安易な自然的なもの、原始的なものと誤解して居る。事實は反對である。自由詩こそは最も「文明的のもの」である。同時にまたそれは、容易に何人にも自由に作り得られる所の「民衆的のもの」でない。そはただ極めて希有の作家にだけ許されたる「天才的のもの」である。この如何に自由詩が特種な天才的のものであるかといふことは、今日外國の詩壇に於て、自由詩の大家が極めて少數であることによつて見ても明白である。この點に關して、世俗の臆見ほど誤謬の甚だしいものはない。俗見は言ふ。自由詩の如く容易に何人にも作り得られる藝術はない。そこには何等の韻律もなく形式もない。單に心に浮んだ觀念を、心に浮んだ「出來合ひの言葉」で綴ればそれが詩である。――何と造作もないことであるよ。――自由詩の詩人であるべく、何の詩學も必要がなく、何の特種な詩人的天分も必要がない。我等のだれもが、すべて皆容易に一かどの詩人で有ることができると。然り、それは或いはさうかも知れない。しかしながら彼等の中の幾人が、果して之れによつて成功し得るか。換言すれば、さういふ工合にして書かれた文章の中の幾篇が、讀者にまで、果して芳烈な詩的魅惑をあたへ得るか。恐らくは數百篇中の一が、僅かに辛うじて――しかも偶然の成功によつて――多少の詩的效果を贏ち得るだらう。その他の者は、すべて讀者にまで何の著しい詩的感興をもあたへない。なぜならばそこには何の高調されたるリズムも表白されて居ないから、即ち普通の退屈な散文として讀過されてしまふから。かく既に詩としての效果を缺いたものは、勿論本質的に言つて詩ではない。故にまたそれは自由詩でない。
けだし自由詩の創作は、特種の天才に非ずば不可能である。天才に非ずば、いかでその「心内の節奏」を「言葉の節奏」に作曲することができようぞ。天才は何物にも束縛されず、自由に大膽に彼の情緒を歌ひ、しかもそれが期せずして美しき音樂の調律となるであらう。ただかくの如きは希有である。通常の詩人の學び得る所でない。之れに反して普通の定律詩は、概して何人にも學び易く堂に入り易い。なぜならばそこでは、始から既に一定の調律がある。始から既に音樂の拍節がある。最初まづ我等は之れに慣れ、十分よくそのリズムの心像を把持するであらう。さらば我等の詩想は、それが意識されると同時に、常にこの音樂の心像と結びつけられ、互に融合して自然と外部に流出する。ここでは既に「韻律の軌道」が出來て居る。我等の爲すべき仕事は、單に情想をして軌道をすべらせるにすぎぬ。そは極めて安易であり自由である。然るに自由詩には、この便利なる「韻律の軌道」がない。我等の詩想の進行では、我等自ら軌道を作り、同時に我等自ら車を押して走らねばならぬ。之れ實に二重の困難である。言はば我等は、樂典の心像を持たずして音樂の作曲をせんとするが如し。眞に之れ「創造の創造」である。自由詩の「天才の詩形」と呼ばれる所以が此所にある。
定律詩の安易なる最大の理由は、たとへそれが失敗したものと雖も、尚相當に詩としての價値をもち得られることである。けだし定律詩には既成の必然的韻律がある故に、いかに内容の低劣な者と雖も、尚多少の韻律的美感を讀者にあたへることができる。しかして韻律的美感をあたへるものは、それ自ら既に詩である。實際、近世以前に於ては敍事詩といふ者があつた。敍事詩は、内容から言ふと明白に今日の散文であつて、歴史上の傳説や、小説的な戀物語やを、單に平面的に敍述した者にすぎないのであるが、その拍節の整然たる調律によつて、讀者をいつしか韻律の恍惚たる醉心地に導いてしまふ。したがつてその散文的な内容すらが、實體鏡で見る寫眞の如く空中に浮びあがり、一つの立體的な情調――即ち「詩」――として印象されるのである。之れに反して自由詩の低劣な者には、全然どこにも韻律的な魅惑がない、即ち純然たる散文として印象される。故に定律詩の失敗したものは、尚且つ最低價値に於ての「詩」であることができるが、自由詩の失敗したものは、本質的に全く「詩」でない。定律詩の困難は、最初に押韻の方則を覺え、その格調の心像を意識に把持する、即ち所謂「調子に慣れる」迄である。然るに自由詩の困難は無限である。我等は一篇毎に新しき韻律の軌道を設計せねばならぬ。永久に、最後まで、調子に慣れるといふことがない。
定律詩の形式に於ては、本質的の詩人でない人すら、尚よく技巧の學習によつて相應の階段に昇ることができる。人の知る如く、定律詩の中には教訓詩や警句詩や諷刺詩やの如き者すらある。此等の者は、情想の本質に於て詩と言ふべきでない。なぜならばそは一つの理智的な「概念」を敍したものである。そこには何等の「感情」がない。よつて以てそれが詩のリズムを生む所の内部節奏――心の中の音樂――がない。しかも彼等は、之れに外部からの音樂――詩の定まれる韻律形式――をあたへ、それの節づけによつて歌はうとする。かくて本來音樂でないものが、拍節の故に音樂として聽えてくる。本來詩でないものが、形式の故に詩として批判される。勿論こは極端の例にすぎない。けれどもこれに類した者が、一般の場合にも想像されるだらう。實際多くの定律詩人の中には、何等その心の中に詩情の醗酵せる音樂を感ずることなく、單にその手慣れたる格調上の技巧によつて、容易に低調な思想を詩に作りあげてしまふ。性來全く詩人的天質を缺いて居たと想像される所の、或る日本の老學者は、自ら「古今集を讀むこと一千遍」にして詩人に成り得たと言つて居る。かくの如く定韻詩に於ては、詩の格調を會得し、その「外部からの音樂の作曲法」に熟達することによつて、とにかくにも一通りの作家となることができる。その價値の優劣を論じない限り、必しも「内部の音樂」の實在を必要としないのである。
之れに反して自由詩には、何等練習すべき樂典がなく、規範づけられたるリズムがない。自由詩の作曲に於ては、心の中の音樂がそれ自ら形體の音樂であつて、心内のリズムが同時に表現されたるリズムである。故にその心に明白なる音樂を聽き、詩的情操の醗酵せる抑揚を感知するに非ずば、自由詩の創作は全く不可能である。もし我等の感情に節奏がなく、高翔せる詩的氣分の抑揚――即ち心内の音樂――を感知せずば、どうしてそこに再現さるべき音樂があらう。即ちかかる場合の表現は何の快美なるリズムもない平坦の言葉となつてしまふ。世には自由詩の本領を誤解して居る人がある。彼等は自由詩の標語たる「心内の節奏リズムと言葉の節奏リズムとの一致」を以て、單に「實感の如實的な再現」と解してゐる。これ實に驚くべき誤謬である。もしかくの如くば、すべての文學や小説は皆自由詩である。詩の詩たる特色は、リズムの高翔的美感を離れて他に存しない。「心内の節奏」とは、換言すれば「節奏のある心像」の謂である。節奏のない、即ち何等の音樂的抑揚なき普通の低調な實感を、いかに肉感的に再現した所でそれは詩ではない。なぜならばこの類の者は、既にその心像に快美なリズムがない。どうしてその再現にリズムがあり得よう。リズムとは單なる「感じ」を言ふのでなく、節奏のある「音樂的の感じ」を言ふのである。それ故に自由詩は、その心に眞の高翔せる詩的情熱をもつ所の、眞の「生れたる詩人」に非ずば作り得ない。心に眞の音樂を持たない人人にして、もしあへて自由詩の創作を試みるならば、そは單に「實感の如實的な表現」即ち普通の散文となつてしまふであらう。そこでは「感じ」が出てゐる。しかも「リズム」が出ない。そしてその故に、そは詩としての效果――韻律の誘惑する陶醉的魅惑――を持つことができない。けだし自由詩の如きは、全く「選ばれたる人」にのみ許された藝術である。
さて、今や我等は、文學史上に於ける一つの新しき概念を構成しよう。そもそも所謂「韻文」と「散文」との對照は何を意味するか。韻文とは、言ふ迄もなく韻律を踏んだ文章である。しかしながらこの「韻律」といふ言葉は、舊來の意味と今日大に面目を一新した。したがつてまた「韻文」なる語の觀念も、今日に於て新しく改造されねばならぬ。從來の意味で言はれる限り、韻文は既に時代遲れである。ゲーテのフアウストやミルトンの失樂園やは、今日に於て既に詩の範圍に屬さない。韻文といふ言葉は、それ自身の響に於て古雅なクラシツクな感じをあたへる。そは時代の背後に榮えた前世紀の文學である。今日我等の新しき地球上に於て、もし現に「韻文」なる觀念がありとすれば、そは從來と全く別の心像を取るであらう。したがつてまた之れが對照たる「散文」も、一つの別な新しい觀念に立脚せねばならぬ。
しばしば今日の文壇では、自由詩に對する小説の類が散文と呼ばれる。この意味での「散文」とは何を意味するか。自由詩は舊來の意味での韻文でない。在來の觀念よりすれば自由詩は散文である。さらば自由詩に對して言ふ散文とは何の謂か。かかる稱呼は全く笑止なる沒見識と言はねばならぬ。しかしながら今日、韻文對散文の觀念はもはや舊來の如き者でない。自由詩以後、我我の韻律に對する定義は一變した。かつて韻律は拍子(拍節の周期律)を意味した。然るに新しき認識は、拍子がリズムの一分景に過ぎないことを觀破した。拍子以外、尚一つの旋律といふリズムがあるではないか。旋律こそは廣義の意味でのリズムである。かくて我我の「韻律」の概念は擴大された。今日我我のいふ韻律の語意は實に「拍子テンポ」と「旋律メロヂイ」の兩屬性を包括する概念、即ち「言葉の音樂それ自體」を指すのである。しかも此等の拍子や旋律やが、單に言葉の音韻的配列によつてのみ構成されないことは前に述べた。この點に於ても、我我の韻律の觀念は昔と遙かに進歩した。昔の詩人は單に言葉の形體に現はれた數學的拍節のみを考へた。然るに我我は一層徹底的なる心理上の考察から、形體の拍節を捨てて實際の拍節を選んだ、そしてこの目的から、我等の自由詩の詩學に於ては、單に言葉の音韻ばかりでなく、他の色調や味覺の如き「耳に聽えない拍節」さへも、同樣にリズムの一屬性として認識されて居る。
かくの如く、今日「韻律」の觀念は變化した。したがつてまた「韻文」の觀念も變化すべきである。今日言ふ「韻文」とは、單に拍子の樣樣なる樣式に於て試みられる押韻律の文章を指すのでない。同樣にまた今日言ふ「散文」とは、その對照としての表現を言ふのでない。今日「韻文」と「散文」との相對的識別は、その外觀の形式になくして、主として全く内容の表現的實質に存するのである。たとへば今此所に二つの文學がある。その一方の表現に於ては、言葉が極めて有機的に使用され、その一つ一つの表象する心像、假名づかひや綴り語の美しい抑揚やが、あだかも影日向ある建築のリズムのやうに、不思議に生き生きとした魅惑を以て迫つてくる。一言にして言はば、作者の心内の節奏が、それ自ら言葉の節奏となつて音樂のやうに聽えてくる。之れに反して一方の文學では、しかく肉感性の高調された表現がない。ここでは全體に節奏の浪が低い。言葉はしかく音樂的でなくむしろ觀念の説明に使用されてゐる。即ち言語の字義が抽象する概念のみが重要であつて、言葉の人格とも言ふべき感情的の要素――音律や、拍節や、氣分や、色調や、――が閑却されて居る。今此等二種の文學の比較に於て、前者は即ち我等の言ふ「韻文」であり、後者は即ち眞の「散文」である。そしてまた此の文體の故に、前者は明らかに「詩」と呼ばれ、後者は「小説」もしくは「論文」もしくは「感想」と呼ばるべきである。
かく我等は、我等の新しき定義にしたがつて韻文と散文とを認別し、同時にまた詩と他の文學とを差別する。詩と他の文學との差別は、何等外觀に於ける形式上の文體に關係しない。(行を別けて横に書いた者必しも詩ではない、のべつに書き下したもの必しも散文ではない。)兩者の區別は、全く感じ得られる内在律の有無にある。一言にして定義すれば「詩とはリズム(内的音樂)を明白に感じさせるもの」であり、散文とはそれの感じられないもの、もしくは甚だ不鮮明の者である。(故に詩と他の文學との識域はぼかしである。既に表現に於ける形式上の區別がない。さらば何を以て内容上の本質的定規とすることができようぞ。詩の情想と散文の情想との間に、何かの本質的異別ある如く考ふるは妄想である。詩も小説も、本質は同一の「美」の心像にすぎない。要はただその浪の高翔と低迷である。詩は實感の上位に跳躍し、散文は實感の下位に沈滯する。畢竟、此等の語の意味を有する範圍は相對上の比較に止まる。絶對を言へばすべて空語である。我等の言葉は絶對を避けよう。)
さてそれ故に、今日自由詩に對して言はれる一般の通義は適當でない。一般の通義は、自由詩をさして「散文で書いた詩」と稱して居る。けだしこの意味で言ふ散文とは、過去の韻文に對して名稱した散文である。かかる意味での「散文」は、今日既に意味を持たない。自由詩以後、我等の新しき文壇で言はれる「散文」對「韻文」の觀念は上述の如くである。そしてこの改造されたる名稱にしたがへば、自由詩は決して「散文」で書いたものでなく、また「散文的」の態度で書いたものでもない。自由詩の表現は、明白に高調されたる「韻文」である。新しき意味での韻文である。この同じ理由によつて、自由詩の別名たる「散文詩」「無韻詩」の名稱は廢棄さるべきである。かかる言葉は本質的に矛盾してゐる。散文であつて無韻律であつて、しかも同時に詩であるといふことは不合理である。自由詩は決して「散文で書いた詩」でもなく、また「リズムの無い詩」でもない。(今日の詩壇で言ふ「散文詩」の別稱は、高調敍情詩に對する低調敍情詩を指すこともある。この場合はそれで好い。それが「より散文に近い」の語意を示すから)
およそ上述の如きものは、實に自由詩の具體的本質である。しかしながら次の章に説く如く、自由詩は必しも完全至美の詩形でない。自由詩の多くの特色と長所とは、同時にまたその缺陷と短所である。されば近き未來に於て、或は萬一自由詩の詩壇から廢棄される運命に會するなきやを保しがたい。しかも我等の確く信ずる所は、この場合に於てすら、自由詩の哲學そのもの――リズムに關する新しき解説――は、永遠に不滅の眞理として傳統され得ることである。けだし自由詩の詩壇にあたへた唯一の功績は、その韻律説の新奇にして徹底せる見識にある。  
自由詩の價値
自由詩のリズムとその本質に就いては、既に前章で大要を説きつくした。しかしながら「自由詩の價値」に就いては尚多くの疑問と宿題とが殘されて居る。最後の問題として、簡單に一言しよう。
本來、自由詩の動機は、文藝上に於ける自由主義の精神から流出してゐる。自由主義の精神! それは言ふ迄もなく形式主義に對する叛逆である。「形式よりも内容を」と、かく自由主義の標語は叫ぶ。しかしながら元來、藝術にあつては形式と内容とが不二である。形式と内容とは、しかく抽象的に離して考へらるべきものでない。形式は外殼であり、内容は生命であると考ふる如きは、肉體と靈魂を二元的に見た古代人の生命觀の如く、最も笑ふべき幼稚な妄想に屬する。文藝上に於ける形式主義と自由主義とは、もとよりその本質的價値に於て何等の優劣もない。なぜならば彼等の意識する美は――即ち彼等の趣味は――始から互にその特色を別にする。そしてこの趣味の相異が、各各の主義の分派となつて現はれた。事實はかうである。形式主義とは、空間的、繪畫的の美を愛する一派の趣味である。この趣味の表現にあつては、必然的に形式が重大な要素となる。否、形式の完美が即ち内容それ自身である、之れに對して自由主義とは、時間的、音樂的の美を愛溺する主觀派である。この趣味の表現では何等形式上の美を必要としない。彼等の求めるものは感情や氣分の肉感的發想である。そしてこの要求の故に、彼等は形式美を排斥して所謂内容(感情や氣分)の自由發想を主張する。
近代に於ける藝術の潮流は、實に形式主義――それは古代の希臘藝術やゴシツク建築やによつて高調された――の衰退から、次いで新興した自由主義の優勢を示してゐる。あらゆる藝術の傾向は、すべて「眼で見る美」よりは「心で聽く美」、「形式の完美」よりは「感情の充實」、即ち一言にして言へば「繪畫より音樂へ」の潮流に向つて流れて居る。かのあらゆる一切の形相を假象として排斥し、ひたすら時間上の實在性を捕捉しようとした象徴主義、藝術上に於ける音樂至上主義を主張した象徴主義の如きも、實にこの時流的自由主義の精神を極端に高調したものに外ならぬ。
自由詩は實にかくの如き精神によつて胎出された。したがつて自由詩は、本質的に主觀的、感情的、象徴的、音樂的である。自由詩の趣味は、根本的に古典派や高踏派と一致しない。此等の詩派が形式の美を尊重するのは、彼等の内容から見て必然である。彼等にとつて「形式の美」は即ち「内容の美」である。然るに自由詩は、何等空間的の形式美を必要としない。なぜならば自由主義の美は、空間的の繪畫美でなくして時間的の音樂美であり、その形式は「眼に映る形式」でなく「感じられる形式」を意味するから。
以上の如き精神は、實に自由詩の根本哲學である。この哲學によつて、自由詩は定律詩に戰を挑んだ。これによつて定律詩のあらゆる形式を破壞しようと試みた。確かに、この戰爭は――その優勢なる時代的潮流に乘じて居る限り――自由詩のために有利であつた。一時殆んど定形詩派は蟄伏されてしまつた。しかしながら最近、歐羅巴の詩壇に於てその猛烈な反動が現はれた。かの新古典派や新定律詩派の花花しい運動が之れである。最も致命的な逆襲は、象徴主義そのものに對する一派の著しい反感である。象徴主義にして否定されんか、自由詩の唯一の城塞は根柢から覆されてしまふ。
自由詩に對する定律派の非難は、それが不完全なる未成品の藝術にすぎないと言ふにある。實例としても、自由詩の多くは散文的惰氣に類して、その眞に成功し、詩としての十分な魅惑を贏ち得たものは、僅かに少數を數へるに過ぎない。しかもその少數の成功も多くは偶然の結果である。これによつて見ても、自由詩は藝術的未成品であると彼等は言ふ。特に新定律詩派の如きは、自由詩を目して明かに過渡期の者と稱して居る。彼等の説に依れば、詩の發育の歴史は、原始の單純素樸なる自然定律の時代から、未來の複雜にして高遠なる新定律の形式に移るべきで、自由詩はこの中間に於ける過渡期の不定形律にすぎない。それは過去の幼稚なる詩形の破壞を目的とする限りに於て啓蒙時代の産物である。それ自身に於ては獨立せる創造的價値を持たないと。もし自由詩にして、單に定律詩形の破壞を目的とし、その意味での自由を叫ぶ以外、それ自身の獨立した詩學を持たないならば確かに彼等の言ふ如き無價値のものであらう。けだし藝術に於ける「型」の破壞は、多くの場合、次いで現はるべき「型」への創造を豫備するからである。
しかしながら自由詩に對する、一つの最も恐るべき毒牙は、直接我我の急所に向つて噛みついてくる。既に述べた如く、自由詩の特色はその「旋律的な音樂」にある。心内の節奏と言葉の節奏との一致、情操に於ける肉感性の高調的表現、これが自由詩の本領である。故に自由詩のリズムは、自然に旋律的なものになつてくる。旋律本位になつてくる。したがつてまた非拍節的なものになつてくる。即ち格調の曖昧な、拍子の不規則な、タクトの散漫で響の弱いものとして現はれる。しかしてかくの如きは、一面自由詩の長所であると同時に、一面實にその著しい缺點である。およそ自由詩を好まない所の人――自由詩は音樂的でないといふやうな人――は、すべて皆この短所に向つて反感を抱くのである。
拍節の不規則からくる、このタクトの薄弱な結果は、詩をして甚だしく力のない弱弱しいものにしてしまふ。「自由詩は何となく散文的で薄寢ぼけてゐる」といふ一般の非難は正當である。自由詩にはこの「力」がない。したがつてそれは多く散文的な薄弱な感じをあたへる。之に反して定律詩の強味は、その拍節の明確な響からくる力強い躍動にある。多くの場合、定律詩の感情は、自由詩に比して強くはつきりと響いてくる。勿論そこには自由詩のやうな情感の複雜性がない。けれども單純に、衝動的に、一つの逞ましい筋肉の力を以て迫つてくる。この事實は、最も幼稚な定律詩である民謠や牧歌の類を取つて見ても明らかである。そのリズムは單純であるけれども「力」がある。強く、逞ましく、直接まつすぐにぶつかつてくる力がある。然るに自由詩にはそれがない。何と自由詩のリズムが薄弱であることよ、殆んどそれは散文的なかつたるい感じしかあたへない。これ皆自由詩が旋律本位であつて拍節本位でないためである。既に述べた如く、旋律は拍節の部分的なもの、言はば「より細かいリズム」である故に、しぜんその感じは纖細軟弱となり、スケールの豪壯雄大な情趣を缺いてくる。この點から見ても、自由詩は全然民衆的のものでない。民衆のもつ粗野で原始的なリズムは、牧歌や民謠の中に現はれた、あの拍節の明晰な、力の強い、筋肉の強健な、あの太くがつしりとしたリズムである。自由詩のリズムは、むしろ貴族者流の薄弱で元氣のない生活を思はせる。民衆は決して自由詩を悦ばず、また自由詩に親しまうともしないのである。
自由詩に對する、最も忌憚なき憎惡者は新古典派である。彼等の説によれば、象徴主義は「肉體のない靈魂の幽靈」であり、自由詩はその幽靈の落し兒である。古典派の尊ぶものは、莊重、典雅、明晰、均齊、端正等の美であるのに、すべて此等は自由詩の缺くところである。彼等の趣味にまで、自由詩の如く軟體動物の醜惡を感じさせるものはない。そこには何等の確乎たる骨格がない。何等の明晰なタクトがない。何等の力あるリズムがない。全體に漠然と水ぶくれがして居る。ふわふわしてしまりがなく、薄弱で、微温的で、ぬらぬらして、そして要するに全く散文的である。けだし自由詩のリズムは主として「心像としての音樂」である故に、いつも幽靈の如く意識の背後を彷徨し、定律詩の如き強壯にして確乎たる魅力を示すことがない。すべてに於て自由詩は不健康であり病弱である。そは世紀末の文明が生んだ一種の頽廢的詩形に屬すると。
およそ前述の如きものは、自由詩に對する最も根本的の非難である。そこには最も毒毒しい敵意と反感とが示されて居る。しかしこの類の議論は、結局言つて「趣味の爭ひ」にすぎぬ。定律詩と自由詩、古典主義と自由主義とは、本質的にその「美」の對象を別にする。自由詩の求める美は、始より既に「旋律本位の美」である。この趣味に同感する限り、自由詩のリズムは限りなく美しい。しかしてその同じことが、一方の定律詩に就いても言へるだらう。もし我等の趣味が「拍子本位の美」に共鳴しないならば、そは全然單調にして風情なき無價値のものと考へられる。かくの如き論議は、畢竟趣味の相違を爭ふ水かけ論にすぎないだらう。ただ上述のことは、自由詩の特色が一方から見て長所であると同時に、一方から見て短所であるといふ事實を示したにすぎぬ。しかしてこの限りに於ては、別に論議すべき何の問題もない。
そもそもまた自由詩が「過渡期のもの」であつて、未來詩形への假橋にすぎないと言ふ如き説に對しては、此所に全く論ずべき限りでない、新定律詩派の所謂「未來詩形」とは如何なるものか。今日我等の聞くところによれば、そは未だ一つの學説にすぎない。實證なき机上の理論にすぎない。しかして藝術の自由なる創作が、文典や詩形の後に生れると云ふ如き怪事は、未來に於ても容易に想像を許さないところである、よしそれが實現された所で、かかる種類の細工物は眞の藝術と言ひがたい。さらば今日に於て我等の選ぶべき唯一の詩形はどこにあるか。けだし我等の自由詩に對する興味は、むしろそれが一つの「宿題」であり「疑問」であり、且つまた「未成品」でさへある所にある。あへて我等は、自由詩の價値そのものを問はないのである。  
 
書評・本の水脈

 

ジョルジュ・ペレックから筒井康隆へ
コラムで、ぼくは本と本、作品と作品の密かな通底や脈絡を取り上げるつもりである。
先日三回忌を済ませた父親には、生前ことあるごとに「そんなに本ばかり読んで何になるんだ!」と叱られたものだが、ぼくはろくに言い返せなかった。いったい何になるのか、自分でもわからなかったのだ。今なら満足にではないまでも、口答えくらいできる。ぼくは、知識のネットワークを作ろうとしていたのである。習慣的に本を読んでいると、この本で読んだこのことと、あの本で読んだあのことの間にある、密かな関連に気づく。本──作品は、決して孤立した水たまりのようにあるのではなく、先行するさまざまな本からの流れが注ぎ込み、他のさまざまな本に水を分け与える、巨大な水系のほんの一部なのである。ここではそうした、いわば本の地下水脈のようなものを、少しずつ描いていきたい。
ジョルジュ・ペレックというフランスの作家は、知る人も少ない。『物の時代・小さなバイク』(白水社)などが日本語に翻訳されている。このヒト、何を思ったか、一九六九年に『消失(La Disparition)』なる小説を書いた。筋書きは今回の趣旨にまるで関係ないので触れない。この作品から「消失」しているのはなんと“e”の文字で、二百ページほどのフランス語の文章に一回も出てこない。フランス語を囓(かじ)った人なら、それがどれほど面倒くさい仕事か想像できよう。ごくろうさまと言うしかない。
ところが、さらに酔狂な作家が、ドーバー海峡を隔てたイギリスにいた。小説家兼評論家のギルバート・アデアは、一九九四年にこの小説を、やはり“e”の字を使わずにまるごと英訳してみせたのだ!題名は『消失(A Void)』。原題の定冠詞が不定冠詞に変わっているのは、“the”が使えないからである。英語における“e”の使用頻度は一三%近く、しかも他の文章の翻訳という制約までつくのだから、到底不可能と思えるが、彼はそれをやってのけた。
さすがに日本でそこまで酔狂なことをする作家はいまいと思っていたら、そう言えばあのお方がいた。筒井康隆が『残像に口紅を』(中公文庫)でやったことは、ペレックやアデアよりはるかに芸が細かい。「あ」から始まって文字を一つずつ消してゆき、しかも残った字で表現できない物や登場人物さえ、作中の世界から消滅するという前代未聞の制約の下で、この小説をすべての文字がなくなるまで書いたのだ。
いったい、これらの作業を支えたのがどういう種類の文学的情熱なのかはわからないが、作者が「やったあ」と思い、読者が「よくこんなことやるなあ」と思う、かなり単純な達成感と賞賛も、文学という広大な花壇に咲く花のうちにはあってよい。
紙幅がなくなったが、アデアの見事な英訳文は、つい最近出たサイモン・シンの傑作科学ノンフィクション『暗号解読』(新潮社)の巻末に載っているので、どうぞ。  
ドストエフスキーから野田秀樹へ
なにがつらいと言って、直木賞選考の待機宴会改め残念会で盛り上がり盛り下がった翌日の大二日酔いの身で、野田秀樹の芝居を見るのは、かなりハイレベルな苦行である。しかもミュージカルだ。夢の遊眠社の全舞台の振付をした宝塚歌劇団出身の謝珠栄(しゃたまえ)が、野田の戯曲『贋作・罪と罰』(『解散後全劇作』新潮社所収)をミュージカル化した『天翔ける風に』である。主演は宝塚歌劇団の次期星組トップスター・香寿(こうじゅ)たつき。つまらない舞台なら、暗いのをいいことにさっさと寝てしまい体力回復を図るのだが、例によって常にテンションが高いのと、笑わされるのと、単にうるさいのとで、とても眼を閉じてなんかいられない。ぼくは『時計じかけのオレンジ』のアレックス君さながら、こみあげる吐き気と闘いつつ、新宿シアターアプルの椅子に三時間も貼りついていたのだ。
『罪と罰』は、「百の善行のためなら、一つの悪行は許される」という理屈に取り憑かれた貧しい大学生ラスコーリニコフが、強欲な金貸しの老婆を殺して金を奪うが……というおなじみの物語。ドストエフスキーらしい、なんとも底意地の悪い設問を考えついたものだ。野田秀樹がこの話をどう《贋作化》したかと言えば、なんと舞台を維新前夜の江戸にそっくり移しかえたうえ、主人公を幕府開成所の女塾生・三条英(はなぶさ)という萌え萌えのキャラに性転換してしまったのだ。この脚本は大竹しのぶのために書かれたとのこと。親友の才谷梅太郎なる男が英の行動に最後までからんでくるのだが、歴史に詳しいヒトはここでニヤリとするだろう。これは、坂本竜馬が江戸に潜伏していたおりに使っていた変名なのだから。
さて、ぼくは舞台やミュージカルにつきものの、自動的に押し寄せてくる感動なるものを、かなり胡散臭(うさんくさ)く思っている。そりゃまあ坂本竜馬なんだから最後は暗殺されちゃうと相場が決まっていても(これはネタばらしにもなるまい)、そのシーンが来ればハンカチが手放せない自分が許せないのである。この舞台にもいたるところにそうした部分があって、ぼくは再三、吐き気をこらえつつ泣きながら怒り、周囲の観客にいぶかしい眼で見られた。大政奉還を巡る政治状況の把握も簡略化のしすぎと言おうか、いい加減なものである。
だけどそれでも、この物語の背後には野田の天稟(てんぴん)が輝いている。それは彼が、「百の善行のためなら、一つの悪行は許される」という学生ラスコーリニコフの理屈は、大義を振りかざして血闘をくりひろげた維新の志士たちの理屈と、まさに同じものと気づいたことにある。偶然かどうか、『罪と罰』はちょうど日本の幕末にあたるこの時期に発表されている。このなんとも突飛な、しかし真正な発見が、この物語の屋台骨で、見終えた後には、まるで明治以降の日本の歴史が、巨大な《罪と罰》の上に載っているように思えてくる。はたしてぼくたちは、もうその罪を償ったのだろうか?  
カフカから嗅覚ミステリへ
これも共時性(シンクロニシティ)の一例だろうか。少し前に、嗅覚を扱ったミステリがつぎつぎに登場した時期がある。
まずは浅暮三文『カニスの血を嗣ぐ』(講談社)。身体の不調から嗅覚が極度に発達してしまった阿川という男は、死んだ犬に付いていた匂いをバーで出会った女に嗅ぐが、その女は急死する。男は、犬(ラテン語でカニス)なみの鋭い嗅覚を武器に、自分を破綻させた過去にもつながるその犯罪の謎に迫るべく、街中を文字通り嗅ぎ回る。行間まで匂いに充ち満ちた、クサい小説である。匂いを言葉で表現するのに、匂いを視覚化するという創意もある。阿川の眼から見た街の光景は、さまざまな色と形の匂いが藻のように立ち上り、ゆらめく海底を思わせる。
つぎに井上夢人『オルファクトグラム』(毎日新聞社)が出た。姉の家で暴漢に襲われ、一ヶ月間意識不明になった主人公の片桐は、通常の嗅覚を失ったかわり、なんと匂いの微細なニュアンスまでをも目で見られるようになる。その能力を活かして姉を殺した連続殺人犯を追ってゆくが、「目で見える匂い」の色鮮やかな描写もさることながら、特殊な能力をもつ者が社会で味わう孤独感に筆がおよぶあたり、この著者らしい繊細さである。
さて、これらを読み、まっさきに思い浮かべたのは、南極犬やエスキモー犬の話である。彼ら極地犬たちは、人間が排泄した大便をすぐさま食べてしまう。食物が乏しいがゆえにいやいや食べるわけでもないらしい。人間が嗅いでさえたまらなく臭いモノに、嗅覚が何万倍も鋭い彼らが鼻面を突っ込むのであるから、思わず心配になるけれど、これはつまり、嗅覚の鋭さとは別に、それぞれの匂いに対して感じ取る≪質感(クオリア)≫が、人間と犬では大きく違うということなのだ。一口に「犬なみの嗅覚」と言っても、犬の嗅覚の世界は、実はわれわれの想像を超えているのである。つぎつぎに登場した嗅覚ミステリがどれも、感覚を扱う上で鍵となるこの問題に触れていないのは、ちょっと残念だった。
ところが──あのフランツ・カフカは、一九一五年に発表した『変身』の中で、嗅覚や味覚の感じ方の問題を扱っている。毒虫に変身し、自室に閉じこもっている主人公に、妹がさまざまな食物をドアから差し入れてくれる。空腹の彼はさっそく飛びつくが、すぐに自分の感覚の変化に気づく。人間だったときには大好きだった新鮮なミルクやパンの匂いも味もいまや耐えがたく、腐りかけの野菜やホワイトソースの匂いや味こそが逆にうまそうに感じられるのだ!《質感》などという術語が生まれるはるか以前に、こうした描写ができたのは、とかく特殊な作家と見られがちなカフカが、じつに目配りのよい──いや、じつに鼻の利く、健全な作家的才能に恵まれた作家であることを証しているではないか。  
森鴎外からスタンリー・キューブリックへ
それって何関係よ?みたいな題だが、もう一人別の作家が二人の関係を取り持っている。アルトゥール・シュニッツラーである。キューブリックの遺作となった映画『アイズワイドシャット』を見たとき、原作がシュニッツラーの『夢がたり』(ハヤカワ文庫)と知って驚いた。もう過去の作家と思っていたからだ。いったいシュニッツラーの何が、時代も国籍も、ものの捉え方も違うこの二人の表現者を惹きつけたのか?
それは世紀末の──十九世紀末から第一次世界大戦前夜までの、ウィーンそのものであろう。その爛熟した文化、そこから生ずる享楽・退廃・虚無にいろどられた都市生活者の心もようである。
シュニッツラーは、一八六二年にウィーンに生まれ、軍医や開業医をしながら多くの戯曲や小説を書き、「若きウィーン」と呼ばれるムーブメントの中心人物として、当時名声を博した。催眠術や深層心理学にも興味を持ち、精神分析学の創始者フロイトの親友でもあった。
シュニッツラーと同年生まれの森鴎外は、この作家の最初の、最大の紹介者である。『恋愛三昧』などの戯曲や、『みれん』(原題「死」)、『一人者の死』などの小説を、ほぼリアルタイムで翻訳し、発表している(『鴎外選集』岩波書店)。『みれん』は、結核で余命一年を宣告された男の心理と、その献身的な恋人との間の感情、その移り変わりを、男の死にいたるまで、入念に分析的に描写しきった、現代でも通用する傑作である。作中人物の心理を怜悧なメスで解剖していくような書きぶりには、寒気がするほどだ。
鴎外があこがれたのは、おそらくはウィーンの享楽的・退廃的な文化そのものではなく、それがはじめて可能にした、こうした先進的な文芸だった。当時、発展途上であった日本文学の状況を思えば、もっともなあこがれかたではある。晩年の傑作『夢がたり』を、もし鴎外が読んだなら、激賞し、さっそく翻訳・紹介したであろうが、残念ながら鴎外は、この作品が発表される四年前に亡くなっている。
ところが、七十年以上を経て、この作品の魂をみごとに映像化してみせたのが、スタンリー・キューブリック監督だった。これは、都市に暮らす若い夫婦の、一種の性的冒険譚であるが、彼はこの作中のウィーンに何を見たのか。つまりキューブリックは、現代の都市生活者のコンテキストに置き換えて読めるだけの普遍性が、この作品に内蔵されていることを、鋭い洞察力で看破したのだ。彼は作中のウィーンを、現代のニューヨークに、ていねいにていねいにマッピング(対応づけ)している。一つだけ残念なのは、現実のニューヨークの生活者心理の退廃と荒廃は、この隠遁者の想像を超えて進んでしまっており、その結果、映画の中のニューヨークが、逆に七十年前のウィーンのように見えることだろうか。東京だって、もちろんおなじだろう。  
イアン・マキューアンからカズオ・イシグロへ
二十一世紀を迎えたいまになって、またいくつかの大学で《創作コース》の設立構想が浮上しているらしい。若者が減っていく未来にむけて学生獲得に必死なのだろうが、ただの誘い文句でなく本気で小説家を育てるつもりなら(だいいち、未来の学生が小説家などという実入りの悪い職業に惹かれるのだろうか)、あの昔からの《創作は教えられるか》という問いを、当事者はもう一度問い直すべきだろう。ぼく自身はわりに肯定的である。もちろん、教えることで小説家を作れるとは思わないが、小説の書き方にも、目に見える形で取り出して教えられることはいくらでもあるし、独学者が何年もかかって気がつくことを回り道なしで吹き込んでやることもできる。社会人枠でも作ってもらって、ぼく自身もぐりこみたいくらいのものである。
UEA──イースト・アングリア大学は、これら創作コースの伝説的な成功例である。一九七〇年、設立間もない同校は、文学部教授である小説家マルカム・ブラッドベリの指揮の下、イギリス初の創作コースとして一年間の修士課程を立ち上げるべく学生を募った。応募者はゼロ──あわや企画倒れかというときに現れたのが、大学を終えて行き先を探していたイアン・マキューアンだった。修論として小説を出せばよいのが魅力だったとか。
学生数一名でスタートしたコースは、ブラッドベリとマキューアンとの個人指導というか、一年間続いた文学者同士の濃密なトーク・セッションのようだったらしい。このとき《課題》として書かれた短編のいくつかは、後に最初の短編集『最初の恋、最後の儀式』(早川書房)にまとめられてサマセット・モーム賞を受け、現代文学の一翼を担う作品として世界に紹介されているのだから、恐るべき早熟の才である。ただ、注目すべきはこの《才能》が、明らかに彼の天性である独特な感性と、このコースで叩き込まれた高度な方法意識の複合体であることで、これは最近の『アムステルダム』や『愛の続き』(ともに新潮社)にいたるまで、彼の強固な基盤となっている。
マキューアンの九年後に同じコースに入ったのが、大学卒業後ソーシャル・ワーカーとして会社勤めをしていたカズオ・イシグロだった。このころ講師としてアンジェラ・カーターもいたという。なんと贅沢な学習環境だろう。ひょっとして、後年『充たされざる者』(中央公論社)や『わたしたちが孤児だったころ』(早川書房)で縦横に展開する、夢とも現実ともつかないイシグロの世界には、イギリスのマジック・リアリズムの旗手であったカーターからの《水脈》が注ぎ込まれているのだろうか。
今は亡きブラッドベリとカーターの衣鉢(いはつ)は、確かに教育の場で次代に伝わったのである。これから創作コースを立ち上げる大学の当事者にとって、UEAの成功は励みになるのか、それとも単に「物事ははじめが肝腎」という実例にすぎないのだろうか。  
万葉集からウマル・ハイヤームへ
最近はもう違うのだろうが、ぼくら七〇年代の高校生は背伸びしたつもりでずいぶん妙な本を持ち歩いていたもので、ペルシャの詩人ウマル・ハイヤームの四行詩集『ルバイヤート』(小川亮作訳・岩波文庫)もその一冊だった。なかでもつぎの一節──、
尊い命の芽を摘みとられる日、
身体の各部がちりぢりに分れる日、
その土でもし壺を焼いたら、さっそく
酒をついでよ、息を吹きかえすに。
は、いまでも、詩と酒の好きなぼくのツボにはまる。しばらく後、『万葉集』で大伴旅人の名高い「酒を讃むる歌」の中に、
なかなかに人とあらずは酒壺に
なりにてしかも酒に染みなむ
の一首を見つけて、酒呑みはどこでも似たようなことを考えるもんだなあ、と感心してしまった。あるいは、同じ感想をもたれた人も多いかもしれない。
ところが近年、中央アジアのいわば回廊を通じた東西交流史の研究が進展めざましく、その成果をつまみ食いするにつけ、この二つの詩、ほんとうに偶然の一致だろうかと疑問になってきた。つまり、背後にひそかな水脈を探ってみたくなったのだ。
まず、当時の知識人の常で漢学通であった旅人は、どうも三国時代の中国に材を求めたらしい。『呉書』によれば、鄭泉という男が「必ず自分を陶芸家の庭に葬ってくれよ。土となって酒壺に焼かれれば、それほどうれしいことはない」と、酒呑みの最後のわがままを言ったとある。
さて、他方そこからペルシャのウマルには、どんな水脈がつながっているだろう。どうせ確証を得るべくもないながら、心の隅にとめておいたところ、陳舜臣『桃源郷』(上下・集英社)を読んで、頭の中の地図を塗り換えられる思いがした。
舞台は十二世紀の中央アジア、女真族の金から逃れて西進しカラ・キタイ(西遼<せいりょう>)の建国者となった耶律大石(やりつたいせき)に仕える探検使・陶羽を主人公に、マニ教の奥義・桃源郷を探し求める旅を描いた壮大な歴史ロマンである。ここに、なんとマニ教の長老(有力指導者)としてウマル・ハイヤームが登場し、同じくマニ教徒である耶律大石と陶羽とに、ある《夢》、ある《希望》を託す──。
歴史上の人物に新しい像を作って与えるのは、小説家の大切な仕事である。このウマル像は、これまでの詩人や数学者という枠を大きく踏み出す大胆きわまりない仮構ではあるが、最新のマニ教研究の成果を踏まえており、信憑性というより雄弁な説得力がある。作者自らが若いころにペルシャ語から訳したという四行詩(ルバーイー)も随所に鏤(ちりば)められ趣を添える。
冒頭の壺の詩は残念ながら含まれていないが、このあまりに魅力的なウマル像に敬意を表して、ぼくも、呉の酒呑みの遺言がこのペルシャ詩人の詩心を刺激し、一編の四行詩を生んだというもう一つの《仮構》を信ずることにしよう。  
文法理論から9・11へ
昔の仕事のつながりで、友人に自然言語処理や人工知能畑の研究者が多い。同時多発テロの後で緊急出版されたノーム・チョムスキーの『9・11』(文藝春秋)の話をもちだすと、「あの統率・束縛(GB)理論の?」とか「生成文法の?」というのが、ほぼ一様な彼らの反応だった。他方、出版社や放送局の友人は「ベトナム戦争のころからチョムスキーのアメリカ政策批判は有名ですよ。ところで生成文法って何?」と、ところ変われば品変わるで、やはり文理の垣根ってあるのかなと思う。彼らとこの本の話をしたかったのは、理論言語学という浮世離れした学問と現実の政治への強い関心とのつながりに興味があるからだ。
「人間はどうして母国語を使いこなせるのか。使いこなせるようになるのか」という問いからチョムスキーは出発した。生まれた子供は、四、五歳にもなれば、母国語をかなりのところまで使えるようになる。思えば不思議なことだ。彼は、日本語なり英語なりの個別文法を獲得するための言語獲得装置を、人間は生まれながらに持っていると確信し、それを普遍文法と呼んだ。これが正しいかどうかは、まだ実証されていないのだが、彼はこの大問題を中心に緻密な理論体系を作り上げ、賛否両論を巻き込んで、言語学の内容をがらりと変革してしまった。この理論自体は、みごとなまでに非社会的で非歴史的である。すべての人間の脳に備わっている仕組みが相手では、社会や歴史が関わる余地などどこにもない。きわだって普遍主義的な立場である。
そういう人は、どういう政治批判をするのかと思いつつ『9・11』を読み、その政治への特異な関わり方に驚いた。つまり、アメリカ政府の立場に対する彼自身の政治的立場などというものはないのである。また、事件のいかなる文化的側面をもはっきり否定している。普遍主義に立つのなら、個々の文化の違いなど問題になるはずもないからだ。
彼は、自らの理性の判断に基づき、テロに報復すると息巻くアメリカ自身が、過去に行ってきたテロのことは省みないのは、ダブルスタンダードだと言っているだけなのだ。そして、膨大な具体的資料によってそれを裏付ける。政治的な含みがないだけに論駁するのは容易ではない。
チョムスキーは同時に、その間違った論理を糺すどころか、それにやすやすと加担してしまう知識人──とくに行動主義的な社会科学者たちに矛先を向ける。そもそも、社会科学なんてものの存在さえ認めていないのだ。公開された情報に基づいて議論を深めていく理性さえあれば「誰にでもできること」なのだから。そう、この理性に対する楽観的な信頼は、彼の思想の全領域を貫くもう一つの軸だろう。人間は知の導くところに忠実に、自発的で自由な努力により自己の可能性を実現するべきだということこそ、チョムスキーの大胆極まる発言を支える、変わらぬ信念なのである。  
入江泰吉から藤田宜永へ
偶然はあるものだ。一月十六日、小説の取材で興福寺あたりを歩いていてにわか雨にみまわれ、雨宿りのつもりで奈良市写真美術館に飛び込んだ。そこでは入江泰吉(いりえたいきち)の特別展が開催中で、しかもその日はちょうど入江の十年目の命日なのだった。
入江泰吉は、戦後五十年近くにわたって奈良と大和路の風景を撮り続けた。彼の変わらぬ目標は、一口に言えば「気配を撮る」ことだった。「気配」とはこの場合、奈良時代を生きた人々の精神や、万葉人の情緒である。たとえば代表作の一つ「二上山暮色」を見てみる。二上山には、皇位をめぐる争いに敗れ二十四歳の若さで死罪に処せられた大津皇子が葬られている。とはいえ山は山にすぎない。歴史上の悲劇や人々の心象が、直接フィルムに写りはしない。ではそれを写すにはどうするか。
入江はまず、その歴史上の悲劇にふさわしい風景のイメージを自分の中に作る。そして、それにできるだけマッチするよう、ファインダーの中の風景の隅々にまで「気を配る」。思い通りにいかない太陽や雲や風などの気象条件については、イメージ通りになるまでひたすら待つ。そして、現実の風景がイメージと合致したその瞬間を逃さずフィルムに捕らえるのだと言う(『入江泰吉自伝「大和路」に魅せられて』佼成出版社)。
なんとも精神論的な写真観だが、歴史の気配や余情といった心象を写すという不可能事に肉迫するには、このやり方しかないのも事実だろう。明確なイメージをもって、画面の隅々にまで「気を配る」ことで、はじめて直接写らないものの「気配」が画面に漂ってくるのである。
このやり方は、小説にもそっくりあてはまりそうである。文章に書けないものなどなさそうだけど、作者が読者に伝えたいそのものは結局、恐怖にしろ、希望にしろ、たとえ情欲にしても、直接文章に書けないものばかりなのだ。書いてしまえば単なる説明で、狙った効果は上がらない。だから作家は、読者に伝えたい、読者の中に起こさせたい感情の形を、入江泰吉が暗雲立ちこめる二上山の夕景をイメージしたように、自分の中に抱く。気象と同様、思い通りにいかない外的条件だって、ありそうである。そして、書いた文章の隅々──一文一文にまで「気を配る」ことで、はじめて直接には書かなかった「気配」を、小説に漂わすことができるのではないだろうか。
そういえば最近、「気配」をキャッチフレーズにしている作家がいた。藤田宜永である。ここ数年集中して取り組んでいる恋愛小説で、氏は恋愛にまつわるくさぐさを、あえて一種過剰な文体で書くことで、書くことのできない恋愛の「気配」をその小説にまとわせることに成功している。これというのもきっと、氏が恋愛の隅々にまで「気を配れる」人間だからなのだろう。恋愛にも恋愛小説にも暗いぼくのような者には、まあ無理なことではある。  
エーヴェルスから河野多惠子へ
男女の愛の、究極あるいは最終の表現形としての《屍姦》が現実にあるのかどうか、ぼくは知らない。屍姦は普通、性倒錯の一種として片づけられてしまうから、それが愛情表現まで高まるには、現実にはほとんど語られることのない屍姦者自身の感情が詳細に描写されていなくてはならず、つまりは文学の仕事ということになる。
その難しい仕事に真っ向から挑んだのが河野多惠子『半所有者』(新潮社)だ。話は、病院から無言の帰宅をした妻に、夫が生者に対するように語りかけるシーンから始まる。ようやく自分の手に戻ってきた妻への独占欲、生前の面影を忘れてゆく苛立ち、よそよそしく取り澄ました妻への不服──長く連れ添った夫婦ならではのそうした思いが、横たわる妻の死体と向き合う夫の気持ちをしだいにその行為へと駆り立てる。そして「妻の死体は誰のものか」という意外な法的設問が、最後の一線の役割をしている。これがこのテーマへの正しい入り口なのかと、最初こそ違和感を覚えたが、何度も読むうち、夫の決意を際だたせ同時にその性格を端的に描写するなんとも鮮やかな手口であることが納得できた。誰もが経験していないその一線の向こう側は、肌が粟立つような身体感覚を伴って描かれている。〈彼は女体になり替わった気がした〉って、本当なんでしょうか?河野さん。
この話を読んだとき、突然、四半世紀も前に読んだきり忘れていたエーヴェルスの短編『スターニスラワ・ダスプの遺言』(『現代ドイツ幻想短篇集』国書刊行会・所収)がまざまざと蘇った。記憶は面白い。一九一〇年代、ドイツ怪奇幻想文学の中心的作家であるだけにやり口も手が込んでいる。結核で死の床にある伯爵夫人は夫に遺言して、伯爵家に代々伝わる首の細い骨壺に自分を葬ることを誓わせ、一方で怪しげな秘薬を駆使して、自分の死体を「古いセーヴル陶器の」人形のように変えてしまうのである。妻の死後、約束の期日に棺を開けた伯爵は、生前と全く変わらない美しい死体を見る。そして妻への誓いを果たすために斧を振るってそれを細かく切り刻む。それこそが、妻が夫の「愛を記念する」ためにしくんだ儀式だったのだ。だから正しくは《屍姦》ではないが、この行為は限りなくそれに近い感触をもっている。そして『半所有者』では、死者である妻に誘惑されているという感覚も夫の身勝手な思いこみの反映にすぎないが、この短編では逆に、生前の妻がすべての筋書きを作り、夫はいわばそれに嵌(は)められるのである。
場所と時代を隔てた二つの短編を読み、それらの行為を素直に受け入れる気持ちになったのには驚いている。死者への愛はもはや裏切られず、変わりもしない。生きた男女の愛よりも一歩、永遠の相に近づいたなにものかである。そして《屍姦》はそこへの通過儀礼として、文学が扱うべきさまざまな側面を手つかずのまま残しているようにも思うのだ。  
身体論から国語教育へ
齋藤孝氏の謦咳(けいがい)に接したのは『身体感覚を取り戻す腰・ハラ文化の再生』(NHKブックス)で新潮学芸賞を受賞された式の席上である。受賞者のスピーチでは自ら定式化した「集中力を高める呼吸法」を披露し、「三秒吸って、二秒保ち、十五秒で吐く。これを六回。さあみなさん、ご一緒に」と、まるで体操教室だった。その場の文学関係者があまり加わらなかったのが残念だが。この本で氏は「腰を据える」「ハラを決める」などの表現を生む「腰肚文化」を主として子供たちに伝承し、戦後すっかり希薄になった《中心感覚》などの身体感覚を取り戻す道を探っている。現代ではとかく敬遠されがちな「型」や「技」の意義、そして反復練習の重要性を説く。ユニークな問題提起に眼を開かれ、自ら提案したメソッドを私塾まで作って実践するところにたくましい教師魂を見た思いだったが、その時はまだ、その後の氏が身体論を武器に日本語教育や文学の領域に旋風を巻き起こすなどとは想像もしていなかった。言葉を読み、書くことが身体の仕事であることを忘れていた自分の身体感覚の鈍さに恥じ入るばかりである。
今年の氏の活躍ぶりには眼を瞠(みは)るものがある。ミリオンセラーとなった『声に出して読みたい日本語』(草思社)、『三色ボールペンで読む日本語』(角川書店)、『理想の国語教科書』(文藝春秋)の三部作は、一種の日本語ブーム(とはおかしな言葉だが)を巻き起こした。このブームの背景には、やさしさを標榜しつつ易きに流れてゆく国語教科書への批判や親世代の危機感がある。事実、これらの本の主な読者層は三十、四十代以上だそうだ。ぼく自身もその一人として、十、二十代の若者は失礼ながらもはや手遅れとしても、これから学校教育を受けるわが息子の世代には、できればまともな日本語を身につけてほしいものだと、半ば祈っている。それに失敗すれば、日本語の伝統は断絶したままになるだろう。なんのために小説を書いているかわからぬではないか。
「国語は体育」を持論とする齋藤氏は、日本語の魅力を体現するような「すごみ」のある文章、教える側が「あこがれ」を持てる名文を大量に読むこと、それも声に出して暗誦・朗誦することにより、日本語の言葉使いそのものを技として身体に覚えさせることが必須であると言う。実際、『理想の国語教科書』に収められた文章は、どれも自分の身体に埋め込んでもよいだけの価値を持っている。想定されている対象である小学校高学年の子どもには難しすぎるという批判もあるが、それは子どもの能力を見くびっている。少し背伸びをして歯ごたえのある文章に噛みつく快感を経験してこなかった人の意見だろう。
ああ、また心配になってきた。文部科学省よ、学校教育なんぞに多くは期待しないけれど、頼むからわが息子を読書ぎらいにだけはしないでほしい。  
梅棹エリオから川端裕人へ
昔、高校の文化祭で熱気球を飛ばそうとした。人間が乗れる巨大なものではなく、キャンプ用コンロで空気を暖める直径数メートルの無人気球である。当時参加していたサークルの仲間を集め、設計図を引き、材料を探して球皮を作り……だけど、奮闘三ヶ月、それはついに完成しなかった。第一、学校当局も消防署も計画を聞くなり「いかん」の一点張りだったのだ。コンロに火をつけて風任せに飛ばそうと言うのだから、今思えば不許可も無理ないが、わが青春の小さな挫折の一つである。
なんでそんなことを思いついたかと言えば、梅棹エリオ『熱気球イカロス5号』(中公文庫)を読んで大感激したからだ。著者は昭和四十四年(一九六九年)に日本で初めて熱気球を飛ばしたチームの主導者。父親は民族学者の梅棹忠夫氏だから、冒険心は遺伝するのかも。もちろん当時の熱気球は球皮からゴンドラまですべて手作り。飛行中に球皮が破裂したりゴンドラが分解すれば一巻の終わりというまさに命がけの冒険だ。その計画、資金集め、製作……そして感動の初飛行までが、いかにも七〇年代の自由人らしいのほほんとした口調で臨場感たっぷりに語られる。ぼくは無人気球の製作中に何度読み返したかわからない。
さて、三十年後の現在、世界一周ならともかく、熱気球で飛ぶこと自体はもう冒険ではない。熱気球だって製品として売られている。人跡未踏の地ももうほとんどない。そうなると、これから冒険心をもった大人が目指すのはやはり宇宙であろう。先日、川端裕人さんから文庫化された『夏のロケット』(文春文庫)を頂いた。ロケット愛好者の集まりである宇宙作家クラブでご一緒しているからである。この作品では、かつて高校の天文部で一緒だった宇宙少年たちが社会人になって再会し、なんと密かに「趣味の有人宇宙ロケット」をつくって飛ばしてしまうのだ!荒唐無稽と言うなかれ、著者は綿密な技術的取材をもとに製作過程のディテールを描き出し、読者に「これは実際に飛ぶかもしれない」と思わせるだけのリアリティを持たせている。
断言するが、国家主導でなく個人がロケットを作って宇宙に飛び出す時代は、すぐそこまで来ている。たとえば『夏のロケット』で理論的主導者となる日高(あだ名は「教授」)のモデルと思しき人物さえ宇宙作家クラブにはいる。だが今も昔も、冒険者にとって最大の障害は、技術的なものではなく、冒険に対する社会の無理解ではないだろうか。『熱気球イカロス5号』で「空をとぶ君たちは、それでよいかもしれないが、後にのこったぼくたちにとって、それは、なんの意味があるのか」と問われ、「社会的に意義のあることが重要で、社会的に意義のないことは重要でないなどと、どうしてきめられるのだ」と著者は言う。そう、やりたい奴にはまずやらしてみる懐の深さも、真に成熟した社会の必要条件ではないだろうか。  
チェスタトンから松原正へ
チェスタトンと聞いて、まっさきにブラウン神父物の推理小説を連想したとしても、まあしかたがない。昭和三十年代に、はじめて本格的に紹介した福田恆存にしてからが、まずはそんな具合だったのだから。でも、あのレトリックの妙と逆説の曲芸を堪能したあとには、ぜひとも本格的な評論、特に『正統とは何か』(春秋社)を手にとってほしいものだ。チェスタトンは小説家であるより先に、二十世紀初頭、エドワード朝の英国で名を馳せた論壇の寵児だった。彼が擁護する正統とは、この場合、カトリック神学の教義であり、対するに異端とは、論壇の大物たち──ショーやウェルズ、ハックスリーなど、当時の最新思想である進化論や科学技術の飛躍的発展を背景に従来のキリスト教神学を否定し、時流におもねるような議論を展開していた論客たちだった。
この本の後書きに福田恆存は書いている。「彼が語りかけたのは半世紀以上も前の英国の読者だが、その語る内容は現代の日本にとっていかにも切実である」。
この一文に、戦前の英国から戦後日本の乾ききった思想的耕地に引かれた一筋の水脈を見ることができる。福田恆存は、敗戦後の思想的混乱状況のなかで、左翼思想やいわゆる進歩的文化人たちを舌鋒鋭く批判したり、国語国字問題で改良論者たちを論難した保守系言論人だったが、数多い弟子のうち、現在、正確な意味で彼の衣鉢を継いでいるのは、評論家・松原正である。
「正統」とか「保守」とかは、すべての価値を相対化しつくす時流の荒波に揉まれながらも、なんらかの絶対的価値を堅持しようとする姿勢を言う。福田や松原にとっての「正統」、つまり「保守すべきもの」は、政治を云々する前に人間として持つべき道徳、道義心だった。だから松原は、政治的な次元での論敵である左翼だけでなく、道義心に欠ける破廉恥な言論と見るや、保守系言論人をも遠慮会釈なくぶったたいた。「人斬り以蔵」と自嘲する通りの所業だが、おかげで主要なオピニオン誌からすっかり干されてしまった。逆に、中野重治や向坂逸郎(さきさかいつろう)など、その文章が誠実さを証している左翼言論人は「敵ながらあっぱれ」という態度で迎えている。文学における政治主義を排し道徳の優位を説く『文学と政治主義』や、人間の本質に対する洞察に満ちた防衛論『戦争は無くならない』、現在も継続中のライフワークである評論『夏目漱石(上・中)(以上地球社)などで、その精密かつ高潔な文章を読むことができる。「文章が駄目ならすべて駄目」「知的怠惰は道徳的怠惰」が口癖であり、「非論理的な悪文駄文が跋扈して、詰りは言葉が軽んぜられているという嘆かわしい事実」(「月曜評論」誌連載・『保守とはなにか』より)が無くならない限り、その鋭すぎる舌鋒を収めることはあるまい。文章が経国的性格をもつという古代の通念にも匹敵する、堅固な信念のなせる業であると思う。  
今西錦司からS・J・グールドへ
五月にアメリカの進化生物学者スティーブン・J・グールドの訃報を聞いた。科学者の死をこんなに悲しんだのは、ちょうど十年前、九十歳で没した今西錦司のとき以来だ。享年六十──四十歳で発病した腹膜のガンが遠因だった。自らの進化論の集大成である大著『進化理論の構造』(邦訳未刊)と、『ダーウィン以来』『パンダの親指』(早川書房)をはじめ日本でも根強い人気をもつ三百編もの進化論エッセイをまとめ終わって、いわば学者としてけじめをつけた死であった。
最初の研究はバハマ諸島の陸貝の進化。個々の生物の形態的変化を、統計処理を駆使して進化の一般理論に結びつけるのが、彼一流の手法だった。その成果が、弱冠三十歳で盟友エルドリッジと連名で発表した、有名な「断続平衡説」である。進化は、ダーウィンらが考えていたように、停滞なく徐々に進む(漸進的進化)のではなく、長い停滞と急激な進行をくりかえす断続的なプロセスだとする説。古生物の化石データをあるがままに直視して得た結論だった。
だから、グールドはダーウィニストでありながら、こちこちの「ダーウィン原理主義者」たちとは一線を画する。生物という複雑なものを、自然淘汰ゲームの駒とか、遺伝子の乗物といった単純なものにむりやり還元する議論や論者をいちばん嫌った。たとえば、「利己的遺伝子」の提唱者であるドーキンスとは、生涯相容れることはなかった。こうした研究者たちの生物に向ける目が経済学者のように冷たいのに対し、グールド自身は、運不運に翻弄されながらも主体的に生きぬこうとする生物たち、その多様性のすばらしさに、つねに暖かい目を向けていた。
かたや今西錦司は、生涯「反ダーウィニスト」だった。彼の論文も著書もすべて日本語で書かれていることや、晩年には科学的な検証そのものさえ否定して自然思想家のようになってしまったことから、「生物は競争よりも協調・共存しつつ進化する」という主張──いわゆる今西進化論が、今日欧米で取り上げられることはない。彼がダーウィン説にもっとも反発したのは、生存競争と機械的な自然淘汰が万能の世界にあっては、生物の主体性や創造性は全否定されてしまうことだった。これはもはや学説上の対立というより、厳しい父性原理による自然観と、優しい母性原理による自然観の相違と言うべきだろう。今西には、自分が愛するチョウやトンボやカゲロウたちが、機械的な世界で汲々としている競争者とは、どうしても思えなかったのだ。
一見対立する立場にある二人の進化論学者に共通するのは、自然界の主役であるさまざまな生物たちへの限りない共感だった。案外、あの世ではダーウィンも交えて、根っからのナチュラリスト同士、「なんや、そないなことが言いたかったんか」などと、意気投合しているかもしれない。  
熊野洋から熊谷独へ
ややっ「熊から熊へ」だ。偶然だけど、もしかすると今回のお題が「現代ロシア」だからかもしれない。ロシアは、わが国や欧米で滅びてしまった「大きな文学」がいまでも効力を保っている国の一つである。ロシア革命後にはパステルナークの『ドクトル・ジバゴ』(新潮文庫・絶版)、スターリン時代にはソルジェニーツィンの『収容所群島』(新潮文庫・絶版)という大河小説を生んでいる。 となれば、「ペレストロイカ」からソ連邦崩壊にいたる激動の時代を背景に、新たな傑作を期待するのは人情だ。
その複雑で困難なテーマに挑んだのは、なんと異邦人である熊野洋(あきら)の『遙かなる大地──イリヤーの物語』(草思社)だった。作者は駐ソ・駐ロ経験の長い現役外交官で、あの外務省のお役人がこんなことを書いて大丈夫なのかと、他人(ひと)ごとながら心配になる。 というのも、この作品は現代ロシア社会への辛辣な風刺にみちているからだ。 中世ロシアの英雄イリヤー・ムーロメツと修道女オーロラとの悲恋伝説に、現代ロシアの激動の社会を生きるジャーナリスト、イリヤーと、不条理な体制に翻弄される謎の女、オーロラの恋が二重写しされる。 その背景には、ゴルバチョフやエリツィンら実名の政治家、インテリ、労働者、暴走族にいたるまで、さまざまな人々の生活が文様を織りなす。 日本語版に先んじて、モスクワの大手出版社からロシア語版が出版されたというが、この仮借ない小説が、ロシア文壇にも驚きと称賛をもって受け入れられたとすれば、この広大な国への作者の愛が感じられるからにちがいない。
この物語が荒削りな大技とすれば、もっと小技を利かせたのが熊谷独(ひとり)の『ロシア黙示録』(文藝春秋)だ。本筋は六〇年代のモスクワで、ソ連貿易専門商社の若い商社マンが涙の奮闘をする。こちらの作者も、旧共産圏貿易の実務が長い元商社マンだそうで、現代ロシアやソ連という題材、経験者でないと歯が立たないのかもしれない。 ソ連相手の商売では、役所は非効率、賄賂は日常茶飯、輸出規制を守れば何もできない社会であるのに、会社も役所もそのへんのことは知らんぷりなので、現場のビジネスマンがしばしば不条理な立場に追い込まれるらしい。 納入先の役人にリベートは毟(むし)られるわ、そのまたキックバックをソ連国内に持ち込んで空港の税関で捕まるわ……読んでいてじわじわわかってくるのは、これは作者が若いころいやというほど味わった社会主義国華やかなりしころのまったりした不条理感を、読者にもたっぷり味わってもらうための、「いやな空気の缶詰」だということ。 そんなカフカ的不条理世界をソロバン一つで押しわたる日本の商社マンって素敵!とロシア娘が身体を熱くするかどうかはわからない。主人公が延々と拘束されるホテル風監獄(監獄風ホテル?)で聞くビートルズは『バック・トゥ・ザ・USSR』だろうか、それとも『勝手にしやがれ(レット・イット・ビー)』かしら。  
アナイス・ニンから矢川澄子へ
五月二十九日の矢川澄子先生の訃報はあまりに悲しい衝撃だった。黒姫の自宅で自ら亡くなってしまわれたのだ。ある新人賞の審査員としてぼくの小説を最初に認めてくださった方であり、その後もさまざまな機会に暖かい励ましの言葉をいただいた。昨年、会社を辞めて専業になった旨をお報せしたら「当方なんとか専業で三十年やれてきました(ただし配偶者+子供はなし)」と、ユーモアと明るさに満ちた返信をいただいたが、いま読むと括弧書きにかすかな孤独のにおいが漂う。
半世紀近い作家活動の締め括りに大部の『矢川澄子作品集成』を遺していかれたことは、後進にとって悲しみの中の歓びである。矢川さんの本領は修辞に遊ぶ軽やかな詩文にあったと思う。たとえば『だるまさん千字文』はおなじみ「だるまさんがころんだ」にはじまる十字×百行に、だるまさんの一生を哀感こめて歌った傑作。「だるまさんがころんだ/だるまさんのこころに/だるまさんのしらない/だるまさんがめざめた」──これらの詩と数々の短編小説は、ぼくの大切なコレクションである。
だが『兎とよばれた女』『失われた庭』などの長編小説を読むとき、女性の身ならぬぼくはかすかなつらさを感じる。矢川さんは、澁澤龍彦との結婚生活や谷川雁との関係を含め、自らの体験を題材にしながらも、語り手は兎やかぐや姫に姿を変え、小説の構造は迷宮のように入り組み、作者自身が登場するなど、語りにおいて韜晦(とうかい)の限りをつくす。そのアンバランスさ。そして、想像力のかぎり異世界を遊行(ゆぎょう)しながら、なお女人としての苦悩を語りつづけるところに、ある種の女性性の呪縛を感じるからであろう。ここでの女性とはジェンダーなどではなく、生物的自然に根ざした性である。矢川さんは、苦悩や弱さをも肯定しながら、自らの女性性をのびやかに発露させることを志していたと思う。
そんな矢川さんの遺作になったのが『アナイス・ニンの少女時代』である。ヘンリー・ミラーとの赤裸々な生活を『日記』の形で発表することで名声を得た美貌の女流作家の評伝。おそらくは遺作と自覚してこのテーマを選んだのは、女性性を超克しようとするのではなく、あくまで女性性に基づいた人間としての自立をめざした生き方に、無限の共感を感じていたからにちがいない。アナイス・ニンが野人ヘンリー・ミラーに全存在をゆだねることで、いわば「超女性」として開花したことを思うとき、そこに矢川さんと澁澤龍彦の関係を連想するのは、ぼくだけであろうか。
ニンの告白小説『あるモデルの話』の訳者解説で、矢川さんはこう書いている。
「アナイス・ニンが女性であるかぎり、『性と愛とがともに脈打ってこそ、無上の官能の歓びが得られる』とする立場を維持しつづけるかぎり、わたしは最後まで彼女をわが大先達として敬愛しつづけることをやめないだろう」──  
大航海時代からタンパク質解析まで
時計、つまり時を計る技術は、文明の発展によって進みつつ、さらに文明を推し進める。まるで二人三脚のようだ。その裏には、開発に生涯を捧げた多くの技術者がいる。たとえば大航海時代から十八世紀にかけてのヨーロッパでは、船が経度を知るための時計(航海時計)の開発が、国を挙げての至上命令だった。緯度は天体観測でわかるけれど、経度を知るには出港地の時刻を正確に「保存」しておかなければならない。揺れ続け、ときに嵐にみまわれる外洋船の中で、正確に時を刻み続ける機械はつくれるのか。デーヴァ・ソベル『経度への挑戦一秒にかけた四百年』(翔泳社)は、不可能とも思えるその課題に挑んだイギリスの職人、ジョン・ハリソンの生涯を生き生きと描く。ハリソンはたった四つの時計をつくることに後半生をかけ、H-4と呼ばれる最後の一台は、三カ月近い大西洋横断の実験航海で、たった五秒しか遅れなかった。一時は永久機関のような夢物語と思われていた経度測定という難題は、精密機械技術で克服できることがわかったのである。偏屈と見られるほどの集中こそ、新しい技術の誕生には必要だということだろう。
現代では、高精度な時計が文明にとってますます欠かせなくなっている。織田一朗『「時」の国際バトル』(文春新書)は、先端技術における時計の役割や、「時」をめぐる国際的開発競争、国際標準の獲得合戦をエキサイティングに描き出す。航海時計の現代版ともいえるGPS(全地球測位システム)の精度が、衛星に積まれた原子時計の精度しだいで決まることくらいは知っていたが、国策としてGPSでの世界制覇をもくろむアメリカが、いざというときにはそれを利用して何ができるかを読むと、いささか背筋が寒くなる。さらに、世界標準時、宇宙標準時、インターネット標準時などのグローバル・スタンダードを獲得すべく、各国がくりひろげる熾烈なバトルが描かれており、日本はいつまでも「国際標準音痴」の「お気楽な二番手ランナー」でいいのかしらと思わずにはいられない。
もっともこの本には、そんな屋台骨がしっかり入っている一方で、時計をめぐる面白知識も詰め込まれていて、肩の力を抜いて読むこともできる。最近急に安価な電波修正時計が出回るようになった理由とか、時計の文字盤でだけ使われるローマ数字「IIII」が、実はある王様のわがままからできたものだとか、人にひけらかすにはうってつけの雑学ではなかろうか。なかでも興味を引かれたのは世界最高精度の原子時計。精度はなんと二千万年で誤差一秒という。極低温に冷やしたセシウム原子を真空中でぽんぽん投げ上げ、落ちてくるまでの間隔で時間を計る。それが噴水のように見えるから原子泉方式と呼ばれる。このからくり、ノーベル化学賞に輝いた田中耕一さんの発明に少し似ている。あの場合も、タンパク質分子が落下してくる時間を正確に計ることが、解析の鍵になっているからだ。  
寺山修司から中平卓馬へ
「写真は、記憶と記録のあいだに引き裂かれている自分を発見する機会を作りだす。私は、自分の少年時代の『写真』を、再撮影することに興味を覚えている。写真を写真に撮る、ということは記憶を編集したい、という願望がひそんでいる。そして、人間がほんとうに自由になれるのは、自らの記憶から解放されたときではないだろうか?」
寺山修司のアフォリズム集『両手いっぱいの言葉』(新潮文庫)にあるこの言葉がいつ書かれたかはわからないが、その背後には写真家・中平卓馬の姿がほの見える。
東京外国語大学のスペイン語学科を卒業した中平卓馬は、やがて新左翼系雑誌「現代の眼」の編集者となった。担当者として出会った寺山に傾倒して自ら詩を書いたり、一方で写真家・東松照明に導かれて写真を撮りはじめたかれは、言葉に強くこだわり、写真と言葉の関わりを追求してやまない異色の写真家であった。とはいえ、かれの写真は、言葉なんかに支えられなければ立っていけないほど脆弱なものではなかった。デビュー作である、荒れ地のような空間に白々と立つ新築まもない藤沢・辻堂団地の遠景や、夜の大都会をさまよう亡霊のような人物たち、車や建物の壁などの人工物さえ、不思議にエロチックな輝きを発して、いわば言葉によらないポエジーをまとっていた。それが見る者にとっての中平卓馬の写真の魅力だった。
だが、かれは自分の吐き出す言葉の糸にからめとられるように、しだいに写真が撮れなくなってしまった。当時の写真論「なぜ、植物図鑑か」(『中平卓馬の写真論』《リキエスタ》の会、所収)で、かれは自ら築きあげたポエジーやイメージの世界を全否定し、人間とは関わりのない「事物(もの)そのもの」のあり方を明確にする「植物図鑑」としての写真をめざすと宣言している。これらの写真論は、いま読むとあまりにも戦闘的で言葉仰山に響く。レトリックとしてはともかく、事物そのものはおろか物体の内部さえ認識できない人間にとって、レンズを通そうが通すまいが、それはないものねだりなのである。疑うべきは写真ではなく言葉のほうだったのだが、「政治の時代」の子であるかれは最後までそのことに思いいたらなかった。
ところが、思わぬ皮肉な災厄が中平をその言葉の呪縛から解き放った。自宅のパーティーで急性アルコール中毒にたおれ、九死に一生を得たが、記憶と言語能力とをほとんど失ってしまったのである。冒頭の寺山の言葉は、おそらくこの事件を念頭においたものだろう。死の淵から帰ってきた中平が撮りつづけた写真は、写真集『ADIEU A X(アデュウアエックス)』として実を結ぶ。そこには、言葉に汚される前の赤ん坊の視界のような、生(なま)の凝視の迫力にみちた映像の数々がある。それは中平にとって、自分がまだ生きていることを日々確認していく作業の記録であっただろう。  
アイヌ叙事詩から石川啄木へ
「アイヌ叙事詩」とは学問上の名ではない。アイヌの代表的な口承文芸である「ユーカラ」に対する、金田一京助のいささかロマンチックな命名である。ホメロスからの連想なのだが、文字をもたず原始的な言語とみなされていた自分の専門分野に、こんな文学の沃野が広がっていることを喧伝したい気持もあっただろう。京助という人物にはそうした憎めないずうずうしさがある。そのかれが生涯をかけたアイヌ語―日本語対訳版の『アイヌ叙事詩ユーカラ集』(全九巻、三省堂)や、金田一京助採集並ニ訳『アイヌ叙事詩ユーカラ』(岩波文庫)はぼくの二十年来の愛読書である。アイヌ文学の空想力は強靱かつ奔放、ときに残酷で猥雑でもある。生と死、現実と夢とが境なく混交した類まれなハイ・ファンタジーの世界だ。「毒の崖」や「天から綱で下げられた神籠」や「姿の見えない《もやの人》」や「金属製の怪人」が登場するあたり、SFと言ってもよいかもしれない。
たとえば、さまざまな動物神が登場する、「神々のユーカラ」は、どこか『マザーグース』めいた味の掌編たちである。その一つ「ハンチキキー」では、雀神である語り手が稗(ひえ)の酒を醸し、鳥神たちと酒宴を開く。「橿鳥(かしどり)青年」はじめさまざまな鳥神たちが(「青年」は逐語訳であろう)いろいろな実をついばんで酒槽に入れると、酒の味がよくなる。「烏青年」が真似をして糞の固まりを入れてしまったことから鳥神たちは腹を立て、いまにも烏青年を殺そうとする。雀神は驚いて「鶴青年」をはじめあちこちに仲介を頼みに出かけるが残らず断られ、その間に烏青年は惨殺されてしまう。
ここで仲介を頼まれる鳥神のなかに「啄木(きつつき)青年」が登場する。ぼくは昭和初年、苦しい生活のなかでこつこつと翻訳していた京助が、夜更けにここであの泣き笑いの表情を浮かべただろうと想像する。
北海道で新聞社の職を転々としてきた石川啄木が、母と妻子を函館に置いて上京し、郷里の先輩である金田一京助を訪ねたのは、明治四十一年四月末、京助が中学校の国語教師の職をようやく得た矢先のことである。小説の創作に没頭して生活力のない啄木を人のよい京助が支える関係がはじまった。翌年京助が結婚してからも、切り詰めることを知らない啄木は新婚家庭を訪れてはなけなしの生活費を借りて帰った。「憎めないずうずうしさ」では啄木の方が二枚も三枚もうわてだったのだ。明治四十五年に啄木が死ぬまでそれは続いた。「啄木を助けるために、文学書類をすっかり売って、語学一辺倒に、私はなった」と、はるか後年に京助は語っている。そして文学への未練を断った京助は結局アイヌ語の研究に生涯を捧げ、報われずに死んだ啄木の文学的名声は高まって不朽のものとなった。啄木が死んで二十年以上が経ち、「啄木青年」としか訳しようのないアイヌ語に出あったとき、京助の脳裏にはそれらすべてが瞬時に去来したに違いない。  
日露戦争からノモンハン事件へ
NHKが、二〇〇六年度の特別版大河ドラマとして、司馬遼太郎の『坂の上の雲』(文藝春秋)を製作すると発表した。繰り返し読んだファンの一人としては、壮大な陸戦や海戦シーンがはたして技術的に再現可能かとか、テレビ局や脚本家が無関係な歴史観をもちこんで原作の味わいをぶちこわさないかとか(NHKには数多〈あまた〉の前科がある)、いろいろと心配ではあるが、まずは素直に歓迎したい。つまらない横槍にめげずに、ぜひ初志貫徹してもらいたい。『坂の上の雲』は、わが国の歴史小説の到達点を示す作品と言える。「司馬史観」についての批判は数こそ多いが、特定のイデオロギーによるものか、歴史小説への理解を欠いたもので、傾聴すべきものは少ない。それに批判者の誰も日本語文学に対して司馬に比肩しうる貢献をなしていない。
この作品は明治期の日本人たちの群像として描かれるが、なかでも松山を故郷とする正岡子規、秋山好古・真之兄弟の三人は等しく主人公と呼べるウェイトを占める。それは少年期からの成長の、つまり青春の物語だが、この作品の最大の魅力は、かれら新しい世代の青春と呼応するように、明治の日本という集合体としての《青春》が描きつくされていることである。人と同じように国もまた歳をとる。だが時として生まれ変わり若返ることもある。明治維新で若返りを経験した日本は、日清・日露戦争を経て辛くも列強の属国化を免れ、近代国家への血路を開いた。国際社会の予想に反して二つの大国に勝ったのは、要するに清や帝政ロシアが老いて疲弊しきっていたのに対して、日本が若さと気概に溢れ、組織疲労や腐敗と無縁だったからである。日本史の中でもう一つ、奈良時代もそんな時期であったと、ぼくは秘かに思っている。
大東亜戦争末期の日本人――ことに軍人に接することで日本と日本人について深い懐疑をもったことが、司馬文学の出発点だった。かれは日本史を精査し、自分が現実に接した日本人とは違う、同じ日本人に生まれてよかったと思える魅力を持つ人物を探し抜き、これぞという人物を見つけると一流のデフォルメを施して「メイド・イン・司馬」の人物像を広く読者に紹介した。そのかれが、晩年のかなり長い期間にわたって準備して、書かなかった(正確には「書けなかった」)のがノモンハン事件である。そこでは日露戦争と正反対に、早くも官僚化して腐敗した日本と、スターリンの強い指導力のもと成長著しいソ連とが戦い、やはり若い方の国家が勝った。それをつぶさに書くことは、司馬にとってそれまでの営為を無にすることのように思われたのだろう。愚劣は細かく分けても愚劣だし、悲惨は詳しく書いても悲惨だからである。
ただぼく自身は、ノモンハン事件における日本人について、一つだけ書くに値することを知っており、二年越しの仕事としてそれを書いている。それは空で戦った人々の物語である。  
安部公房からプログレッシブ・ロックへ
自分の好きなAと、これも好きなBとが、意外にも結びついたときというのは、ただ興味が深まるばかりでなく、自分がそれらを好きな理由にはっと気づかされたりする。安部公房がインタビュー「内的亡命の文学」(『都市への回路』中央公論社・所収)の中でピンク・フロイドのことを話しているのを聞いたときが、それであった。
「ピンク・フロイドのような存在を考えた場合、これは明らかにボーカルの比重が音よりも軽い。彼らにはむしろ、シンセサイザーという新しい音の素材をこなして、新しいクラシックを作ろうという衝動がうかがえる」云々。長編小説『カンガルー・ノート』(新潮文庫)にも随所に登場する。ぼくは両方のファンだったけれど、まさか安部公房がピンク・フロイドにハマっていたとは思わなかった。
この発言の前後、言語によってわれわれの感覚がいかにデジタル化されてしまったかについて、安部は長々と語っている。外界の状況という、もともと境目もなければ分類もされていないものを認識するために、われわれ人間は言語の、つまりは意味のネットワークをそれに被せる。その網の目があまりに密になり、糸が強くなると、ついにはデジタルに認識されているものが実体として一人歩きをはじめ、その向うに生の世界があることは忘れ去られる。現代では文章よりも、映像や音楽が力を得て、アナログ主導になりつつあるのではないかという質問に、安部は、映像や音楽といっても、実はデジタル的な記号を代用し補強する擬似アナログとして氾濫しているだけで、真にアナログなものはごく少ないのだと言い、日本の流行歌を例にあげている。
どうやらピンク・フロイドは、そうしたデジタル化への傾斜に抗して真にアナログなイメージを生み出す、真の創作の戦友として意識されているらしい。安部公房は人一倍論理的な、つまり密でしなやかな言語の網を持った作家で、その網の目から逃れて、たとえ触手一本でもあちら側の生の世界に触れたいと、生涯苦しみ続けた。案外網の目がいい加減で、昼寝がてらにあちら側に行ってこられる創作者も少なくないのだが、そうした連中には安部のような緻密な文章は綴れないのだから、これは一種のディレンマだろう。ぼく自身がこの両者に惹かれるのも、おそらくこの辺に理由がある。
さて、ひとつ気になるのは、逆に安部公房からピンク・フロイドへ流れる水脈があるかどうか。確証はないけれど、可能性は十分にあると、ぼくは思っている。フロイドはライブのステージやCDでさまざまな映像を使うが、その中に、病院のベッドが男を乗せて外を走り回る、というのがあるそうだし、海岸に病院のベッドを並べた写真もあった。まさに『カンガルー・ノート』の一場面ではないか。おっとそう言えば、大作“The Wall"(『壁』だ!)ってのもあるじゃないか、などと妄想の井戸は汲めどもつきない。  
ハコの中のハコ
草野厚『癒しの楽器パイプオルガンと政治』(文春新書)――この本自体がクラシック音楽と政治の世界を結ぶ水脈だから、他の本をリンクする必要を感じない。担当編集者に、ぜひこれを、と言われ、小泉首相ではないが苦渋の決断をせまられた。ここで手厳しく批判されている何人かのオルガニスト、ことに東京芸大の廣野嗣雄教授や(バッハ・コレギウム・ジャパンの)鈴木雅明助教授には、以前オルガンについての小説を書いた縁で大変お世話になっているからである。それでもこの本を論じるのは、芸術や文化に関わる行政の、たとえば道路行政などとは異なる微妙な性格を、考えてみたいと思うからだ。
ヴァイオリンやピアノを「製作する」のに対し、オルガンは、それを「建造する」唯一の楽器である。「オルガンビルダー」は「オルガン建造家」であって、つまりオルガンとは建造物――政治の言葉でいう「ハコモノ」なのだ。バブル期には、全国の地方自治体に文化会館や多目的ホール(いまでは「無目的ホール」などと揶揄される)が我先に作られた。もちろん、住民が熱心に望んだわけではなく、建てる側の論理が先行したのである。そのうち三、四十の公共ホールでは、一台数千万円から数億円するオルガンが建造された。いわば二重のハコモノ行政だ。
われわれオルガン音楽のファンは、こんなに作って大丈夫かな、という一抹の危惧は覚えながらも、基本的にはその状況を歓迎していた。なんといっても、それまで日本のオルガン事情はお寒いかぎりだったからだ。十年間で、世界でも屈指のオルガン持ちの国になったとき、バブルがはじけ、自治体は一転して公共ホールとオルガンの維持費に頭を悩ませることになった。ここまではよくある話。楽器の機種選定にあたって一部の音楽家が影響力を行使し、利益誘導を行ったとする著者の批判も、根拠なしとはしない。
だがここに、音楽などの芸術と行政の関係の難しさがある。片田舎にやけに立派な道路が走っていたり、ドブ川が一級河川になっていたら、誰しもその無駄に気づくし、有力政治家の影響力を疑う。その場合は、いかに公共の福祉を強調しようと、たとえば交通量調査などの客観的手法でその無駄を立証できる。だが、芸術はそれ自体、本質的には「無駄」である。飢餓に陥っている国に芸術はなく、衣食足りた国だけが芸術に予算を割ける。そのとき「無駄」にどれだけの金を払ってもよいのか、判断は極めて難しい。そして、たとえば音楽家は、音楽という全体をよりよく発展させたい志を誰しも持っている。なにが「よりよい」かは、各自の音楽的信念しだいだ。影響力のある者は、自分がよいと思うオルガンを増やすことで、日本のオルガン音楽界を自分が考える「よりよい方向」に誘導できる。そこには常に独善やセクショナリズムへの陥穽が口を開ける。もちろん文学でも。  
『続日本紀』から黒岩重吾へ
日本初のスーパーヒーロー、つまり超人的な力を駆使して敵に立ち向かい、偉業をなしとげる伝説の主は、役(えんの)行者こと役小角(えんのおづぬ)だろう。もちろん実在の人物に限った話。小角に対する現代人の典型的イメージは、修験道の開祖――つまり天狗の親玉とか、霊峰富士に初登頂したアルピニストといったところではないか。
小角の評価、というより紹介のされかたは、それを伝える著者の立場によってずいぶん開きがある。『続日本紀』の冒頭近く、文武天皇三年(六九九)五月二十四日の条には「はじめ小角は葛木山(葛城山・かずらきやま)に住み、呪術をよく使うので有名であった。(中略)のちに小角の能力が悪いことに使われ、人々を惑わすものであると讒言(ざんげん)されたので、遠流の罪に処せられた」(宇治谷孟訳・講談社学術文庫)とある。讒言したのは昔から葛城山を根城にしている一言主神(ひとことぬしのかみ)。つまり両者の確執には神道対仏教という宗教戦争の性格があるのだけれど、後の聖武天皇による仏教興隆より前の時代のことで、『続日本紀』もどちらかといえば神道寄りの見方をしている。
これが約百年後の『日本霊異記』になるとがらりと変わる。奈良・薬師寺の僧・景戒(きょうかい)が、仏教的な因果応報を説くために記した書だから無理もないが。こちらは役小角と一言主神の確執を原因に遡って語っているのがおもしろい。小角は孔雀明王の咒法(じゅほう)を会得し、さまざまな奇跡をなし、葛城山の鬼どもを自在に使役するに至る。あるとき「金峰山と葛城山の間に石橋を架けよ。さあ働け」と無茶な号令を発し、このときには一言主神まで鬼と一緒くたにこきつかわれた。一言主神はこれを怨んで先の讒言をするのだが、小角の逆襲を受け、縛られた上、「今に至るまで解脱せず」というからひどい。地元の伝説によれば谷底に蹴落とされたとも。しかも景戒は一も二もなく小角の味方をしていて、一言主神の災難は聖に楯突いたがゆえの因果応報であると言いたげである。仏教原理主義というか、どこかの国の情報相みたいだな。
神道対仏教の争いなどない現代では、同じ人物を取り上げるにもさらに別の切り口が必要だろう。それをやって本来のスーパーヒーローとしての鮮やかな人物像を与えたのが、先日亡くなられた黒岩重吾先生の遺作長編『役小角仙道剣』(新潮社)だ。ここでの役小角は密教という仏教の代表選手ではなく、どちらかといえば道教の影響を色濃く受けた神仙思想の体現者――つまり道士とか仙人として描かれている。そして、当時の腐敗した権力、悪徳役人たちから民衆が被る生活苦を少しでも軽くするために修行に励み、その能力を使うのだ。だが、かれは取り澄ました聖人でも、鬼神を使役する超人でもない。弱い人間(の男)としての煩悩もふんだんに抱え込んでおり、ヤマメという女弟子に色欲を覚えて悩んだりもする。スーパーヒーローの姿も時代につれて変わるものである。  
宗教と科学と文学のトライアングル
芥川賞作家の玄侑宗久さんは、新刊のご著書が出るたびにお送りくださる。あるところでささやかな作家論を書いたのがお目に止まったか。ありがたいことである。ぼくはもちろん仏教の門外漢だが、毎朝仏壇に手を合わせたり、お経の本を読んだり、成田山新勝寺で二週間ほど断食参籠に勤(いそ)しんだこともあるから、人並み程度には信心もある。
ぼくにとって仏教の魅力は、何よりも思想家の人材が豊富で、経典その他、読むものがたくさんあることだ。そんな「仏教ファン」から見て、玄侑さんの小説を読むことは、お経を読むこととそう違わない。読むたびに何かしら発見がある。
最近あらためて感じたのは、意外にも科学技術への言及が多く、しかもますます多くなってきたことだ。『中陰の花』(文藝春秋)ではインターネット検索が出てくる程度だが、最新作『アミターバ』(新潮社)にはなんと最先端の量子物理学までが、メインテーマに絡んで登場する。そういえば、『ピュア・スキャット』(『御開帳綺譚』所収・文藝春秋)で、主人公が透析のベッドで眺めているさまざまな天体写真の描写に見覚えがあったから、探してみたらやはり本棚にあった。『見えてきた宇宙の神秘』(野本陽代<はるよ>著・草思社)。この本にはハッブル宇宙望遠鏡等から撮った見事な天体写真が多数収められていて、以来、『ピュア・スキャット』は画像つきで楽しんでいる。
それにしても、宗教的なテーマを媒介に、最先端の科学が小説の中にしっくり納まっているのは不思議な景色だ。宗教のテーマを小説の言葉で書き、宗教と文学との橋渡しをするのが玄侑文学の意義だとは誰しも認めるところだろうが、科学はいったいその両者とどう結びつくのか。
科学は文学にとって一種の迷路であり、簡単には足を踏み入れにくいが、その一方で人間の考え方や感じ方を大きく変えてきた。「時空」や「物質」といった科学の中の概念だけでなく、「人間」「私」「生死」「親子」「性別」といった、文学がよって立っている概念すら、二十世紀には大きく揺らぎ、別物になってしまった。そうである以上、科学技術によって影響を受けた人間心理を描くことは文学本来の仕事だが、一つには知識の不足から、一つにはジャンル間のセクショナリズムから、文学と科学の中間領域には見るべき仕事が少ない。瀬名秀明さんの作品は数少ない例外だろう。
玄侑作品を読むと、文学と科学との間のこの小さからぬギャップを、宗教がうまく橋渡しをしてくれる可能性に気づかされる。それは宗教が、常に人間存在の根底に立ち返って、極論と思えるほどに徹底して考える習慣を持つこととも関わる。もちろん玄侑作品そのものは、科学のためにではなく、科学によって従来の宗教から遠いところまで流れてきてしまった現代人のために、科学の言葉を借りて仏教をリニューアルしようとしているのだろうが。  
佐藤賢一からタカラヅカへ
「タカラヅカ門前の小僧」とはぼくのまたの名の一つ。筋金入りのヅカファンである妻に結婚前から始終つきあわされているうち、各組の主要スターの名前と顔が一致するようになってしまった。
五月の中旬、ひさびさの東京宝塚劇場で、宙(そら)組公演『傭兵ピエール〜ジャンヌ・ダルクの恋人〜』を観た。原作は佐藤賢一の『傭兵ピエール』(集英社)。ジャンヌ役の花總(はなふさ)まりが凄い。原作にもあるジャンヌ・ダルクの可愛らしい天然ボケを、あたかも地のように軽々と演じてしまうのも凄いけれど(褒めてます)、何よりそのキャリアが凄い。ぼくはこの人を十年位前から見ているが、この九年間に娘役トップとして五人もの男役トップスターの相手役を務めた。人は娘を十年やれないが、娘役なら十年やれるのである。
はじめて『傭兵ピエール』を読んだときには本当に驚いた。歴史小説にはもちろん「史実を変えない」という掟があるが、佐藤賢一は史実の空白に自由な空想を注ぎ入れることで、小説家には厳しすぎるその掟の裏をかき、ジャンヌ・ダルクを見事に恋愛の舞台に引きずり出した。とはいえ、これは史実の「空白でない部分」を調べつくし、知りつくした者にしかできない大業である。そのころ歴史を相手に泥沼のような戦いをくりかえしていたぼくにとって、小説というものの自由さを再認識させてくれた作品だった。
ところで、ヅカファン連中の噂だから真偽のほどは定かでないが、どうも佐藤賢一は、この舞台の出来ばえにそう満足してはいないらしい。一説では「はっきり言って、わたしはアンチ(タカラヅカ)です」と言ったとか――。本当とすれば、大の佐藤ファンにして門前のヅカファンであるぼくには、なんとも残念である。たしかに石田昌也の脚本は原作をそう尊重してはいないが、いわゆる「すみれコード」もあって、この作品は冒頭からそれに触れまくるのだ。そう堅いことを言わずともよいではありませぬか、佐藤うじ――それに、本当に不満ならば、最初から作品の使用を許可しなければよい。
門前ヅカファン的には、この舞台はまとまりよく仕上がっていたし、この原作もまさにタカラヅカの舞台にのせるのにぴったりだと思う。原作での、天真爛漫なジャンヌを相手に調子をはずされてうろたえる、ならず者の傭兵ピエールの台詞などそのまま脚本にのせてもおかしくないし、それをまたトップスター和央(わお)ようかが、観客の笑いを誘いながら生き生きと演(や)っていた。
この作品に限らず佐藤賢一の西洋歴史ロマンのテイストは、ちょっとマッチョな香りのする英雄主義(ヒロイズム)であり、女の園タカラヅカのそれはいわずと知れた恋愛至上主義なのだけど、この両者、正反対のように見えて実は一点で交わっている。理想の女性を思い描き、ストイックでプラトニックな愛を捧げ尽くす騎士道精神という一点で。  
さらにまた、もう一つの日本語
こればかりは翻訳に乗らない日本語小説の魅力の一つが方言だろう。外国語にも方言はあるし、作家が登場人物の書き分けに使うこともあるそうだが、邦訳ではやはり伝わってこないし、だいいち、日本語小説ほどには多用されていない。一説によれば、日本全国の方言のバラツキはヨーロッパ各国語に匹敵するほど大きいとか。英語が苦手なわれわれも、実は立派にマルチリンガルだったんですね。役には立たんけど。ところが、いざ書く段になると、この方言というもの、料理におけるスパイスのように使い方が難しい。上手に使えば人物の性格も際立ち、小説にほどよい風味を添えるが、下手をすればやらないほうがましという結果になる。作家が過去にある程度の期間親しんだ地方の言葉でなければ、まあ手を出さない方が無難だろう。かく言うぼくも、ある小説の主人公に柳川弁をしゃべらせようと、編集者の手も借りて半年ばかり呻吟したことがある。子供のころ柳川に近い久留米に住んだことがあるから何とかなると思っていたが、蓋を開けてみると柳川弁は久留米弁とは相当に違い、まして博多弁や熊本弁とは別物であった。動詞の活用までが標準語とは違い、たとえば「出る」は「でん・でた・づる・づっ時・づっと・づりゃー・でろ・ぢゅ・ぢゅう」とか、時によって「でん・でた・でる・でっ時・でると・でりゃー・でろ・でろい・でろうい」などと活用する。まるでイタリア語かラテン語ですな。それに方言の解説書というのは、方言の単語や言い回しを標準語で解説したものであって、英和辞書で和文英訳がやれないように、ある内容を柳川弁でどう表現するかは教えてくれない。柳川弁の全面的な使用はついに断念した。それ以後、自然とヒトサマの小説での方言の使い方が気になる。見事に決まっていると思ったのは、津本陽『龍馬』(全五巻、角川書店)。全編にわたって龍馬はじめ土佐の志士たちがディープな(大阪弁で「こてこての」)土佐弁を操り、新発掘の資料による裏打ちの厚さとあいまって、司馬遼太郎の名作『竜馬がゆく』とはまた違った、新たな龍馬像を重層的に描き切っている。和歌山出身の津本先生がなぜかくも見事な土佐弁を駆使できるのかは謎。ネイティブ話者に指導でも受けられたのであろうか。後半で龍馬の妻・おりょうが使う京言葉の迫力もすごい。冒頭で方言は翻訳不能と言ったが、とっておきの裏技に、外国人の台詞に方言をあてるというのがある。これも難度C。佐藤賢一の新作『オクシタニア』(集英社)は、《異端》のカタリ派が繁栄する十三世紀南フランスが舞台だが、なんと主要な登場人物たちがみな大阪弁で話す。物語の流れに乗れば違和感も霧消するから不思議。この場合、方言は、オクシタニア地方人の性格のある面――独立不羈で、中央の権威に屈しないなど――を、典型的な大阪人像から借り出してくる働きをするわけである。  
ジェラルド・カーシュからシオドア・スタージョンへ
作家だからと言って、そういつも白昼夢めいたおかしなことを考えているわけではない。むしろ現代ではおかしなことを考えない作家が主流派で、かれらは現代社会にきちんと向かい合い、みなが興味を持ちそうなテーマを取り上げる。文学は敗者復活戦であるにしても、かれらは普通の職業でも人並み以上にやっていけるに違いない。
だがその一方で、日常的におかしなことを考えているいわば幻視者の群れは、いつ、どこにでもいる。その性格はおそらく生まれつきか、少なくとも人生の早い時期に定着するのは確かで、かれらは夢見がちな子供時代と内向的で人交わりの苦手な青春時代を経て、おかしなことは考えない多数者の中で違和を感じながら暮らす大人になる。なんとか社会に適応しているうちはまだしも、不幸にしてその上、文章を書くなんてことに興味を持ってしまったら絶体絶命、「異色作家」などという、労多くして報いの少ない茨の道に分け入ることになるのだ――ああ、書いていてつらくなってきた。
そうした作家たちはたいてい寡作で、代表作も短編かせいぜい中編だから、その人のエッセンスを凝縮したベスト短編集を編むことができる。いやしくも小説読みなら、そうした一冊を、ナイトキャップとして毎日ちびちびと読む快楽をご存じであろう。
ジェラルド・カーシュ『壜の中の手記』(西崎憲他訳・晶文社)では、最近忘れがちだったその快楽を味わいつくした。表題作は、米文学史上の謎とされるアンブローズ・ビアス(この人自身も奇想の作家だった)の失踪と、ある忌まわしい風習(読者の楽しみを奪わぬよう伏せる)を結びつけて、類を見ない物語を作り上げている。かれの短編の多くは、かけ離れた要素同士のこうした組み合わせの妙によるもので、広島の原爆とタイムスリップなど、作者のしたり顔が時に透けて見えるが、奇想と逸脱、そして月並みでない物語を追い求める「奇譚作家」としての姿勢は終生変わらず、死の大商人を描いた「死こそわが同志」など、荒唐無稽な場面を際限なく並べながら、かえって人間の裡(うち)に潜む悪に深い寓意をもって迫り得た快作にして怪作だ。
物語よりも人間の内面描写に憑(つ)かれたあげく、かえって奇想や幻想に近づいていった作家もいる。シオドア・スタージョン『海を失った男』(若島正編・晶文社)に収められた中・短編群は、そうした人間性探求のための思考実験レポートのようだ。火星の砂に埋もれて死にかけている男の内面世界を圧倒的な細密さで描いた表題作や、葬られた死者の生涯を、墓地の細部やたたずまいからすべて「読み取る」術を通して、人生の不確かさと残された者の癒しを描く「墓読み」など……。これまではSF作家とされていたために一般読者にはもう一つなじみのなかったスタージョンだが、そんな食わず嫌いを吹き飛ばし、ジャンルを越えた幻想小説の広がりを十分に実感させてくれる中・短編集である。  
今昔物語集から夢枕獏へ
「陰陽師(おんみょうじ)もの」はいまや、伝奇ホラーやミステリのサブジャンルをなすほどの隆盛を誇っている。嚆矢(こうし)はもちろん夢枕獏の『陰陽師』(文藝春秋)である。最初の短編「玄象といふ琵琶鬼のために盗らるること」以来、十七年以上に亘って作者が大切に、楽しみながら書きついできた小説が、今もまだ新たな読者を獲得し続けているのは、どこかに日本人の心の琴線に触れるものがあるからだろう。ぼくはこの小説と出会うのが遅く、ようやく二年前に最初の短編集を手にしたが、たちまちその世界に引き込まれ、シリーズの全作品をはじめ、イラスト本に関連本、果ては岡野玲子の漫画『陰陽師』(白泉社)まで立て続けに読んでしまった。さすがに映画には二の足を踏んだが。夜の闇が底無しに深く、まだ人間が魑魅魍魎(ちみもうりょう)の類と共に暮らしていたころの平安京の空気が肌に感じられるし、陰陽師・安倍晴明(あべのせいめい)と狂言回しの源博雅(みなもとのひろまさ)との、とりとめない会話が紡ぎ出す緩やかな時間の流れが、えも言われず心地よい。これからの秋の夜長、鮎でも焼き、杯を手にすれば、物語世界に踏み出す準備は万全だ。
心を掴む物語の核心には、いつも一つの大きな嘘――と言って悪ければ非現実的な設定が隠れている。たとえば、どんな人間でも自分の舌にだけは正直(『美味しんぼ』)とか、曲がった性格の人もその原因を解消すればよい人に戻る(『ホテル』)とか、素で聞けば、エーッと眉に唾してしまうような前提が置かれているのだ。ところが、その上に作品が積み上げられるうち、読者はいつしかその前提を受け入れてしまう。そうなればもうしめたもので、虚の世界に開いた穴を源泉として、物語はこんこんと湧き出してくる。『陰陽師』または安倍晴明伝説の場合、「陰陽師とは、式神を使い、怨霊を鎮め、邪鬼を払う職業である」という根本設定そのものがその源泉にあたる。なんとも巧みで魅力的な嘘ではないか。なぜなら、元々の陰陽師は天文や自然現象を観察して吉凶を占ったり、地理を相して建物や京(みやこ)の建設地を決めたりする、当時としては純然たる技術者であって、怨霊を鎮め邪鬼を払うのはほぼ職掌外だったのだから――。日本で最初の陰陽道の大家とされた吉備真備など「鬼神の類を信ぜず」と明言している。技術者の心構えとしてはよいだろうが、物語を作る側は、それではちょっと困ってしまう。
そこで「嘘」の出番。吉備真備から安倍晴明まで二世紀――平安朝に入ると陰陽師自体の性格もやや変わるが、さらに二世紀後の『今昔物語集』で、前述のような「陰陽師」の虚像はほぼ確立する。以後、さまざまな説話集や歴史物語の作者、明治・大正の講釈師、そして現代の夢枕獏によって、この黄金の設定は大切に共有され、使われ続けてきたのだ。面白い物語を生み出すために――。まさに、つまらない史実より面白い嘘を尊ぶ人々の間を、時を超えて結ぶ地下水脈を見るようである。  
町田康からフランソワ・ヴィヨンへ
十月一日、ある出版社の創立記念パーティーで町田康さんとお話しする機会があった。ぼくは小説デビュー作の『くっすん大黒』から芥川賞を受賞した『きれぎれ』(以上文藝春秋)、『実録・外道の条件』(メディアファクトリー)あたりまで全作品を読んでいたし、はるか以前には「町田町蔵詩集」のサブタイトルがついていたころの詩集『供花』(思潮社)を読んで感激したほどの隠れファンの一人である。町田詩はテレビでやっている「節約の鉄人」みたいに、ありえない使い方を言葉に強要してケチケチと使いたおすところが新鮮で、紋切り型になりがちなわれわれの言語使用にパンク的なゆさぶりをかけてくれる。ぼくは小説家町田康も、パンク歌手町田町蔵も、子供のころから浪曲や河内音頭を好んだ天性の詩人という幹から分かれた大枝であると思っている。
町田さんは、予想していたとおりの、礼儀正しく人の話に耳を傾け、自分も慎重に言葉を選ぶ人であった。詩や小説の話をしていても、そのブロードバンドぶりが実感できるのだ。
さて、そういうわけで、ぼくは町田康作品を知っているが、悲しいかなむこうは山之口洋を知らない。しかたなく自作を紹介した。一昨年に出した『われはフランソワ』(新潮社)である。「中世フランスの詩人フランソワ・ヴィヨンの空想的伝記で……、詩人の人生のわかっている部分は忠実に史実に基づき、わかっていないとわかっている部分は空想で埋めて……」みたいな、いかにも不毛な説明をしながら、「あー、これは通じない話をしてるかもなー」という、せつない空振り感があった。ところが、である。かれはヴィヨンの詩をよくご存じどころか、つい二日前にねじめ正一さんと詩についての対談をし、その席で天沢退二郎訳の『ヴィヨン詩集成』(白水社)をベスト・ワンとして読者に推薦したばかりだと言うではないか。これはラッキーなエンタイトルド・ツーベースであった。読んでみたいと言われたから、件(くだん)の空想的伝記小説をお送りすることにした。「それだけ大変な作業をやったら、三十万部くらい売れないとやれませんねー」って、さすがに詩人の言葉は、寸鉄人を刺すところがある。それとも、これ笑うところかな。
後日、「小説現代」十一月号の「心にしみ入る『詩』の特集」を読むと、たしかにかれが天沢訳ヴィヨンを熱っぽくお奨めしていた。ヴィヨンの詩はほとんど全部、話としては、偉物(えらぶつ)をからかったり、金を無心したり、牢獄から助けてくれと懇願したりであって、なのに主人公の境遇に関りがない読者にも十分面白い。かれはそこにこそ詩的な面白さを感じたらしい。ぼくは自分のうかつさを恥じた。町田康とヴィヨンは、意外な組み合わせどころではない。「作者ヴィヨン―泥棒詩人ヴィヨン―ヴィヨン詩」の三角形と、「町田康―登場人物―町田小説」のそれとは、まさに寸分たがわぬ相似形だったのである。  
丸山健二から保坂和志へ
今回は「文章読本」の話。功成り名を遂げた作家が、経験を元に小説作法のあれこれを指南した書物たちのこと。その手のものは昔から好きで、谷崎潤一郎のその名も『文章読本』(中公文庫)からクーンツの『ベストセラー小説の書き方』(講談社)なんてものまで、目につくかぎり手に取ったが、自分で小説を書き始めるまえに読んだ本はただの読物として右から左に消費されて、役に立ったどころか、もはや記憶にもない。唯一、印象に残っているのは丸山健二の『まだ見ぬ書き手へ』(朝日文芸文庫)くらい。具体的なノウハウやテクニックなんかは残らず切り捨て、ただ小説家としての心構え、あるべき生活態度を熱く説いた一冊である。「最低でも七回は書き直しを」とか、「人とではなく、作品とだけ付き合えばそれでいいのです」とか、「あなたの生き方についてゆけないと言う奥さんとは離婚してください」とか、到底実行できそうもない精神論かつ極論が書き連ねられており、当時は大いに反感を抱いた。だからこそ印象に残ったのだろうが。
ところが、いくつか小説を書き、書くことの楽しみも苦しみもある程度味わってから読み返してみると、書くことの機微も、わが国の文学状況にしても、一つ一つ身にしみてわかるのである。最初に読んだときには、しょせん他人事だったということだろう。同時に、世にあふれる文章読本の類にもずいぶん目が利くようになった。志の低い作家が、それまで業界を泳ぎ渡ってきた経験だけを元に書いた本はすぐに見抜くことができ、質の高いものだけをじっくりと読めるようになった。
そのなかで最近もっとも共感がもてたのは、保坂和志の『書きあぐねている人のための小説入門』(草思社)だ。おそらく人柄の違いだろうが、著者は丸山ほど強圧的にではなく、年下の友人を集めて散歩でもするような気軽さで、しかし小説を書くということの核心近くまで歩みを進めている。表題のとおり、書くことで深く悩んだ経験のある読者にこそ「ああ、あのことか」と思い当たる箇所がいくつもある。
一つだけ挙げれば、小説では「風景を書く」べきだということを、わざわざ一章を割いて説いているところだろうか。ここで保坂は、風景を書く難しさの本質は、三次元である風景を一次元の文字の連なりに強引に押し込まなければならないところにある、と言っている。これは至言であり、風景に限らず、また小説に限らず、文章で表現することの難しさは、この「次元」の変換と、それが脳に強いる認知的負荷の大きさに由来する。ちょっと突飛な空想だけど、もし将来、機械が、書くことを本質的に支援してくれるようになるとすれば、それは三次元や四次元の世界を、二次元(絵やチャート)、一・五次元(アウトライン)を経て一次元(文章)に、次元を減らしながら軟着陸(ソフト・ランデイング)させる過程を手伝ってくれる仕組にちがいない。  
小説と辞書の間
昔あったビールのCMみたいに「スゴイ男がいたもんだ」と言いたくなる人にときどき出くわす。『日本語大シソーラス』(大修館書店)の編者・山口翼(たすく)さんもその一人。シソーラスと言われてもピンとこないかもしれないが、意味の同じ言葉や近い言葉を同じ分類項目に集めた辞書。分類項目はさらに上位の項目に集められ、全体としては「言葉」という「葉」を枝先に繁らせた大木を思い描けばよい。
英語圏のちゃんとした家庭には、たいてい『ロジェのシソーラス』が置いてあって、手紙を書くときなどにぴったりした表現や気の利いた言い回しを探すのに使われる。日本の家庭に国語辞典や漢和辞典、ほとんど家具化した百科事典はあっても、シソーラスが備わっていることは少ない。例外は常にぴったりした表現を探しているわれわれ文筆業者くらいだろう。ところが、日本語の文章を書くのにほんとうに役立つシソーラスが、実はなかった。ぼくも昔からある『類語新辞典』(角川書店)と、パソコンソフト『デジタル類語辞典』(言語工学研究所)を使ってきたけれど、そこそこ便利というくらい。最大の理由は、言語学者が考える日本語の体系と体系化のポリシーが、意味の近い言葉を探すというシソーラス本来の目的と整合しないことだろう。
山口さんは言語学者ではなく、小説家志望の青年だったそうだ。だが初めて書いた小説がかんばしい評価を得られず、かれは自分の語彙の乏しさがその原因だと考えた。スゴイのはそこから先。ボキャ貧を克服し、自分の日本語を豊かにするために、ロジェを参考に日本語版シソーラスを作ることを思い立ち、たった一人、なんと二十数年がかりで、二十数万語句を収録したシソーラスを作りあげた(言葉探しが目的なので、最大規模のものしか使い物にならない)。小説家がすっかり辞書屋になってしまった。
例えばカテゴリー0349(喜ぶ)の下の小語群01(喜ぶ)には、「悦に入る」「嬉しい」「欣喜」「飛び立つ許(ばか)り」、はては「るんるん」まで、二百近い語句が収められている。この例でも判るように、語句は品詞の種類によらず意味だけに着目して分類されており、このあたりの決断が言語学者にはなかなかつかない。あくまで豊かな日本語を使いたい表現者の視点で編んだところが、文筆業者にとって「るんるん」なのである。
ちなみに、こっちはぜんぜんスゴクないのだが、辞書屋から小説家になった男もいる。ほかでもないこの山之口である。ある電器メーカーの研究所にいたのだが、九〇年代のかなりの部分を、まさにこのシソーラスとか英和辞書を作るのに費やした。小説を書くのと辞書を書くのはおよそ対極的な言語行為だけど、ある語の語義文を考える習慣は、語の背後に結びついたイメージを豊かに、しかもクリアにする。小説を書く上でも肥やしになっていたことに、最近ようやく気づいた。  
理系本でふりかえる青春
「難しい本には赤難・黒難・白難の三種ある」と看破したのは、『金魂巻(きんこんかん)』の渡辺和博だったが、白難本舗のみすず書房からまた一つ白くて難しい本が出た。山本義隆『磁力と重力の発見』(全三巻)。この、九百余ページ、八千六百円もする本が昨年五月の刊行以来、結構売れているらしい。もちろん正確な数は知らないけれど、ぼくの友人の間では、あの人も、えっこの人もと思うくらい、続々とこの本の虜になっている。もっともほとんどが「いま読んでいる」と口を揃えるが。石にかじりつき、頭がいっそう薄くなってもいいから、ぜひ最後までがんばれ。その価値はある。
なぜ「磁力と重力」か。それはこれら離れた物体間に働く力の理論が、近代自然科学を成立させたキーコンセプトだからだ。ゆえにこの特定の理論の成立史を辿れば、近代自然科学がどのように生れたかという謎に迫れるはずだ――それが著者・山本義隆の目論見である。近代科学の誕生などというと、教会の迫害に耐え「それでも地球は動く」と言ったガリレオのように、迷信に凝り固まった守旧派と論理と実験を重んずる新時代の思想家の対立といった単純な構図を思い浮かべがちだが、そうであればこれほど大部の、知的刺激に満ちた論考が要るはずはなく、従来の科学史ではほんの一瞥で済まされてきた古代と中世、ルネサンスに、三分の二もの紙数を割くこともなかったにちがいない。
真相はむしろその逆で、ガリレオや「近代科学の祖」と崇(あが)められるデカルトたち機械論的還元論者は、遠隔力の理論に関するかぎり連戦連敗だった。遠隔力などという魔術的で神秘的な存在を否定し、それを近接作用で説明しようと悪あがきしたからである。むしろ、霊魂の存在を信じたケプラーや、錬金術に耽(ふけ)っていたニュートンら魔術陣営こそ、遠隔力という「魔術」を素直に認めて「それは何か」と問うのをやめ、「いかに作用するか」だけを定量的に解明することで、魔術(遠隔力)を解体・合理化し、近代経験科学に接続させたというのが著者の結論である。なんとスリリングな知的冒険だろう。
ところでこの本、内容もさることながら読まれ方が興味深い。「頭が薄く云々」と書いたけれど、これを読んでいる友人のほとんどが四十代後半から五十代という年齢層に集中しているのだ。大人になってから読む理系の本にある種のノスタルジーがつきまとうのは、おそらくほぼすべての大人が、程度の差こそあれどこかで理系の学問から脱落し挫折するからで、何食わぬ顔でその上に積み上げた社会人としての歳月を飛び越え、その挫折の日々が蘇るからではないだろうか。そしておそらく団塊の世代にとっては、東大全共闘代表だった山本義隆の名も神秘的な「磁力」を持っている。彼は同世代の精神的代表者の一人であり、その潔い生き方には「野に下った学者」という古風な呼び名がぴったりくる。  
内田百閨w阿房列車』のニヒリズム
昔は人一倍の「鉄ちゃん」つまり鉄道オタクだったのに、今では自動車の旅が多くなってしまった。鉄道から足が遠のいたのは旅先での利便やら財布の都合やらもあるけれど、なによりも今の「汽車ポッポ」がぼくにとってあまりにも速すぎるからである。こう一目散に、あっと言う間についてしまっては、せっかくの旅情を盛り上げる暇もない。JRでは今度、東京から青森へ時速四百キロの新幹線を走らすことにしたらしいが、正気の沙汰とも思えない。まるで線路や車輛をさっさと空けてもらって、つぎの客を乗せようとしているみたい(図星か)。ならば速い列車ほど安くすべきとも思うが、鉄ちゃんにとっては、鉄道会社の勘違いの裏をかき、安い鈍行列車で長旅を楽しめるのだから文句を言う筋合いではない。鈍行列車がなかなか目的地までは行ってくれないのが悩ましいが。
ここまで書いたとき、咳払いがするので行ってみると、書庫の暗がりに内田百【門+月】先生の霊が立っておられた。「貴君はまだまだ心構えがなっていない」と先生はおっしゃる。「汽車に乗るのに『目的地』などと言っているようでは、いけない」そう。鉄道を愛することにかけては文学界随一の先生にとって、目的とか用事などは汽車旅の愉しみを損なうもので、なんにも用事がないけれど乗るのが正しい汽車への乗り方なのである。用事がないのだから、汽車がついた所へ降りて名所旧跡を訪れるとか、旧知の人に会いに行くことはせず、ホームでぶらぶらしてそのまま帰りの汽車に乗ることさえあるそうな。
そうした奇妙で純粋な、「汽車のための汽車旅」の紀行文集が『阿房列車』シリーズ(正編・第二・第三、ちくま文庫他)だ。汽車旅の味わいや時の流れを読者にいきいきと細やかに追体験させる力において、この作品を世界最高の鉄道文学だと思うのだが、他と一線を画しているのは、おそらくこの無目的性ゆえである。目的や用事を忌避する先生の態度は原理主義的なまでに徹底していて、「今度は用事はないし、一等車はあるし、だから一等車で出かけようと思ふ。(中略)しかし用事がないと云ふ、そのいい境涯は片道しか味はへない。なぜと云ふに、行く時は用事はないけれど、向うへ著(つ)いたら、著きつ放しと云ふわけには行かないので、必ず帰つて来なければならないから、帰りの片道は冗談の旅行ではない。さう云ふ用事のある旅行なら、一等になんか乗らなくてもいいから三等で帰つて来ようと思ふ」(正編)。初読時、ぼくは浅はかにも先生が冗談をおっしゃっているのかと思った。もちろんそうではなく、これは汽車旅に、いや、人生に目的なんぞあってたまるかという先生一流の深いニヒリズムの表明なのである。そして、 そのニヒリズムにペシミスティックな表現を与えず、目的も目ぼしいネタもないところで文の芸人として読者を惹きつける先生のスタンスが、この短い文には端的に表れている。  
いちばん大きな物語
「いちばん大きな大学は?」「埼玉大学(サイダイ)」なんていう謎々があったけれど、では「いちばん大きな物語は?」と聞かれたら何と答えるか。旧約聖書?ダンテの『神曲』?いやいや、思うにオラフ・ステープルドンこそ人類最大の物語の作者であろう。この「最大」に「偉大」という含意はなく、もっぱら物語世界のスケールを言うのだが。
一八八六年に生まれて二つの世界大戦の時代を生き、一九五〇年に亡くなったステープルドンは、リヴァプール大学で哲学や文学を講ずる哲学者だった。後世からはもっぱら異色の小説家として知られたが、日本では、邦訳紹介された作品が、超人類として生まれた少年の生涯と思索を描いた『オッド・ジョン』(一九三五)と、同じく人間なみの知能をもった「超犬」と人間との交流を描いた『シリウス』(一九四四・以上ハヤカワ文庫)だけだったため、長いこと全体像がつかみにくかった。SF読みだったふた昔前にこれらを読んだぼくも、主流であるアメリカ風SFの機械的な騒々しさとは無縁の、高度な思弁性と詩的な想像力に感心したものの、他の邦訳がないものだから、そのままになっていた。
ところが今年になり、『スターメイカー』(一九三七復刊)、『最後にして最初の人類』(一九三〇・以上国書刊行会)が相次いで出版され、ステープルドンの代表作四冊がいきなり出そろった。立て続けに読みふけって冒頭の感想となったわけ。『最後にして最初の人類』は、哲学的幻想の作家ステープルドンの名を欧米の読書界に知らしめたデビュー作。当時は未来であった二十世紀後半から、はるか二十億年に及ぶ人類の未来史を描いた、壮大なタイムスケールの作品である。本物の人類のほうはおそらく二十億年も保つまい。『スターメイカー』はその続編で、われわれ人類を含め、さまざまな惑星の知的生命体と諸文明、さらには生命進化の果てにある「生命体としての星」まで、あらゆる精神と交流・共棲しながら、宇宙全体の創造主「スターメイカー」を探索するという、一千億年の全宇宙史を収めた作品。いやはや、でかい。でかいにもほどがある。
これだけ大きなことを荒唐無稽にならずに書ききるのは、作家的筆力よりもむしろ、広範な科学知識と、それらを一つに束ねる哲学的思索があってこそで、ステープルドンは、そうした強靱で粘り強い想像力と、冷たく美しいヴィジョンを紡ぎ出す幻視能力とを兼ね備えたまれな作家である。当然ここまでスケールが大きいと、普通の小説における登場人物とか、小さな物語とかは極微の世界に消え失せてしまうけれど(日本での紹介が遅れた原因もこの辺にあろう)、文字通りそんなことがどうでもよくなってしまう世界の物語なのだから、読者もせいぜい気宇を壮大にして読めばいい。ジャン・ミッシェル・ジャールのシンセサイザー音楽でも聴きながら。  
ホルヘ・ルイス・ボルヘスからアストル・ピアソラへ
ボルヘスといえば二十世紀最大の幻想作家。短編集『伝奇集』(福武書店)や『不死の人』(白水社)に収められた「バベルの図書館」「記憶の人フネス」「不死の人」「アレフ」などで虜になった読者も多いだろう。すさまじい密度に凝縮された文章と、合わせ鏡を覗いたときの気分にも似た、有限の中に無限の反復を詰め込んだような独特の幻想性には、なにかしら怖ろしい依存のメカニズムが隠されている気がする。ぼくもすっかり依存症患者の一人だ。
ボルヘスの代表作とされているこれら短編は、おおざっぱに言えば本の世界から生まれてきた。希代の読書家、評論家、図書館員――つまり骨の髄までブッキッシュな男の脳が、膨大な読書経験をもとに、純粋な知的操作によって構築した、人工的で閉じた作品世界である。ゆえに、生まれながらにして、アルゼンチンという風土も、書かれた時代も超越した――というより、そこから切り離された世界文学としての普遍性を備え、土着性はおろか作者の身体まで消え失せている。「脳と眼」だけの世界であり、ときに息がつまる。
だがその一方、ボルヘスには「ガウチョもの」と呼ぶべき一連の作品がある。ガウチョはアルゼンチンなどの草原パンパで放牧に従事するカウボーイだから、アメリカならば西部劇か。そこでは上記「代表作」における技巧の限りをつくしたバロックな文体は影を潜め、ナイフ一本で命をやりとりする荒くれ男たちの行動が、装飾の少ない平易な文体で語られるのみである。めくるめく幻想性に惹かれてボルヘスを読んできた読者は、この「変貌」ぶりにとまどい、少なからず失望するかもしれない。
どちらがボルヘスの本当の貌か、などという詮索は無用だが、実はガウチョを扱った詩や散文はデビュー当時から連綿としてあり、変わらぬ創作の源泉だったことがわかる。万巻の書に囲まれた書斎人ボルヘスと、草原を駆け回る屈強なガウチョたちとでは、地球の表と裏ほどにもかけ離れた人物像だが、それだけに、これらの作品には、風土への愛着よりは、自分には欠けている野性的な身体性への憧れのようなものが強く感じられる。
なかでも大のお気に入りらしいのが、ブエノスアイレスの場末の酒場で起きたロセンド・フアレスとフランシスコ・レアルの喧嘩の顛末である。散文デビュー作『悪党列伝』(晶文社)中の「街角の男」で書き、晩年の短編集『ブロディーの報告書』(白水社)の「ロセンド・フアレスの物語」でも、『藪の中』よろしく語り手を変えて書き直し、その間にはアストル・ピアソラに歌詞を提供して音楽作品「バラ色の街角の男」にまで仕立てているほど(『エル・タンゴ』ポリドールPOCP‐2623に収録)。聴いていると、中年以降、次第に両眼の視力を失って、ボルヘス本人にはもう架空のものとなってしまった彼の幻の《身体》が、薄明の中でタンゴを踊り、ナイフを操るさまが浮かんでくるようでもある。  
「プロジェクトX(バツ)」からの発想
かれこれ二十年も前の夏、卒論の実験に使う「力(ちから)センサ」の製作に悩みぬき、その原理を発明された「隣の研究室の先生」に相談しにいった。先生は快活にしゃべりながら一緒に考えてくださり、やがて一枚の白紙を取って日付と「Y.Hatamura」のサインを書き、タイトルを書き、その下にほんの数分で見事な図を描かれた。立派な書類ができたとき、半月近く悩んでいた問題はきれいに解決していた。
卒業後、ぼくは機械工学の重々しさを嫌ってソフトウェアの世界に移ってしまったが(いまや小説書きという最果てまで流れ着いた)、やがてその畑村洋太郎先生が「失敗」の工学的研究をライフワークとして「失敗学」を提唱したことは、噂に聞いていた。その集大成と言うべき『決定版失敗学の法則』(文藝春秋)を読んだとき、冒頭の一シーンが突然浮かんだのだ。本編の前にわざわざ一ページを割いて「失敗」を定義したのも、意味のはっきりしない言葉で議論するのを嫌う先生らしい。そして随所にちりばめられた図も。
巨大橋の崩落、H-IIAロケットの墜落といった設計上の失敗に限らず、JCOウラン加工施設の臨界事故やBSE、不良債権処理などの組織的失敗、果ては転職、離婚、浮気にまつわる個人の失敗にまで、同じ失敗の「からくり」や「脈絡」――つまり「法則」があてはまるというのが本書の主張であり、失敗学が成り立つ根拠だ。
どうやら日本人は国民性として、過去の失敗から学ぶのが苦手らしく、何度も同じ道筋をたどって同じ穴にはまり、官僚や企業経営者が頭を下げる画まで毎度同じである。とは言え、それら大失敗の責任者たちへの歯に衣(きぬ)着せぬ批判に快哉(かいさい)を叫んでいるうちに、いつの間にか読者自身にも矛先が向いてくるのが本書の怖ろしさだ。責任者をつるし上げることで気が済んでしまい、肝心の失敗の分析がおざなりになる日本の社会風潮に、失敗の「責任追及」と「原因究明」を分けろ、と釘も刺す。
失敗への学びも、将来の創造につながらなければ意味がない。今度はその「創造」について一般則を探ったのが最新刊『決定学の法則』(文藝春秋)。たいていの人は「創造」と聞くと無から有を生み出すといったイメージを抱きがちだが、実はそれは、膨大な選択肢や可能性の組み合わせの中から、目的に沿ったものを選択し、決定してゆくことなのだと言う。機械設計のベテランらしい創造観だ。
本書は例によって「決定」や「迷い」を定義し、決定の「過程」を記述する重要さを強調し、成功する決定のために、「人」「モノ」「カネ」「時間」「気」の一般則と、十七の経験則を説く。
自分で決断せずとも、先進国の後を追うことで利益を享受できた日本だが、その時代もすっかり終わった。自らリスクを取って未来を創造していくために、畑村流「失敗学」と「決定学」は、またとないスキームを提供してくれている。  
「ヨーロッパから眺めた昭和の東京」
NORIKOこと重光紀子は、ロワール河河口の街・ナントに住むフラメンコ舞踊家である。渡仏十数年、今はフラメンコ・ギタリストである夫とともに、フラメンコ教室を経営している。僕とは旧知の仲で、ある小説の取材でパリに行った際は、通訳やガイドを引き受けてくれるなど、一方ならぬお世話になった。
その彼女が、神田猿楽町(現・猿楽町)で過ごした幼少期の思い出を『神田のうち』(碧天舎)と題するエッセーにまとめたと聞き、やや意外に思った。パリで会った彼女は、いかにも世界の舞台で活躍する国際人と映ったし、下町に生まれ育ったことも知らなかったから。菓子包装材料の問屋を営む母方の祖父母の元で、両親とともに小学校低学年までを過ごしたという。
問屋の社屋と住居を兼ねた「神田のうち」は、昭和初年ころの典型的な東京の商家建築で、「猿楽町御殿」と呼ばれた。このエッセー集には、そこに出入りする大人たちの姿、日常の出来事、市井の片隅にある特定の場所のことなどがスケッチされていて、一九六〇年代ころの東京を知る者にとっては、本のページに思わず頷きかけてしまうほどの臨場感を持っている。
それを支えるのは、作者の驚くべき記憶力である。近所の店や場所、出入りする人々の姿や性質、食べ物や商売物、家にやってきた新しいキカイ、有機化学者である父親が見せてくれる不思議な物の数々、出来事やセリフ、そしてその時に自分が思ったことまで、四十年近い過去のことを、8ミリ映画のフィルムのように、じつに克明に思い起こし、書き留めている。日常のよしなしごとを心の隅に留めておける随筆的精神とか、家族や周囲の人に確かめられることもあろうが、なによりも、商家の一人娘として育った彼女が、周囲の皆から愛(いと)おしまれ、幸福感につつまれて幼年期を過ごした証だと言える。不幸な子供時代を送った者は、それを思い出すことを無意識のうちに避けるからだ。
本書の終わりに近く、印象的な挿話が記されている。隣地でビルの建設工事が始まり、彼女は毎日その様子を眺めていたが、ある日、店先に出した林檎箱の上に、蛤(はまぐり)や法螺貝(ほらがい)などの綺麗な貝が「売り物のように」並んでいるのに驚く。実は母親が、現場の人たちに、「工事現場の土から貝が出てきたら、うちに下さい」と、娘のために頼んでおいてくれたのだ!
いかにも昭和中期の東京らしい、のどかな一場面だが、思えば、娘のためにそうしたお願いをする母親の茶目っ気、掘り出した貝を洗って並べておいてくれる現場のおじさんたちの気さくさ、その貝を宝物にし、遠い昔の海を思って遊ぶ少女の純真さ、そのどれが欠けても成立しない。経済的には当時よりはるかに豊かなはずのわれわれの社会が、いつの間にか失ってしまったものの本質を考えさせられる。失われた風物はたしかに懐かしいが、時代を作るのは、あくまでそこに生きている人々なのである。  
「マタギという人生」
小説には「職業もの」というジャンルがあり、ある生業(なりわい)をもつ主人公の人間的成長を軸に、読者には耳新しいその生業の要諦や細部を鏤(ちりば)めつつ物語が進行する。とは言え、どんな職業でも小説にして様になるわけではなく、暮らしにメリハリがあって奥が深く、時に命の危険にさらされる仕事が好んで描かれる。マタギ(クマ、カモシカなど大型山獣の集団猟を業とする東北山村の狩人)など、さしずめ最右翼だろう。
その「マタギもの」に、山本周五郎賞と直木賞を同時受賞した熊谷達也『邂逅(かいこう)の森』(文藝春秋)という名作が加わった。軽い小説が多い最近ではめずらしく、ずっしりと重量感のある骨太な作品で、全身を物語に浸す快感をひさしぶりに味わえた。
時は大正から昭和初期。秋田県北部の小村に生まれた松橋富治が、マタギの頭領(スカリ)として狩猟組を率いるまでの成長を描く。地主の娘・文枝に夜這いをかけて恋仲になったのが元で村を追われたり、他郷で狩猟組を作らせてもらうために好きでもない女郎あがりのイクを嫁に娶(めと)ったり、貴重な熊の胆(い)を騙し取った薬売りを逆上して半殺しにしたりと、富治の行動は百パーセント読者の賛同を得られまいが、そこがまた、勇敢な人格者という紋切り型を脱し、実在感のある等身大の人物を生み出す鍵になっている。この男、頭で考えるよりはまず身体を動かして判断するところがあり、「下半身に人格はない」と言うけれど、時にイチモツのほうが理性的だったりするのが笑える。
ところで「マタギもの」による直木賞受賞と言えば、志茂田景樹『黄色い牙』(KIBA BOOK)を思い出す。『邂逅の森』と優劣つけがたい、「歩く色物」めいた最近の作者からは想像しにくいほど(失礼)、がっちりした古典的な小説だ。舞台はこちらも大正から昭和初期の秋田。近代化の波に洗われ、ゆるやかに崩壊してゆくマタギ社会の中で生きる佐藤継憲が主人公。さまざまな葛藤を乗り越えて頭領(スカリ)へと成長してゆく波乱の人生も、伝説の大グマとの死闘で終わるのも共通しているが、マタギという生業自体に型がある以上、類似は問題ではない。それでは四半世紀を隔てた二作の決定的な違いは何か?
殺生を業とする意義を考え、時に山の神の存在をも疑う富治の性格の現代性もあるが、それは何よりも、主人公を挟んで対峙する二人の女性・文枝とイクの描写にあるだろう。『黄色い牙』で主人公の妻・さとが、夫に付き従う良妻賢母型なのにくらべ、この二人は自分の人生を自ら切り開く、現代的で自立した女性である。特に終盤に再会して以降の文枝の変貌、富治を意のままにあやつる判断力と行動力には舌を巻く。鉄砲一つでクマに立ち向かい、妻子を守る「男の強さ」とは異なる、長年しぶとく耐え、最後には目的を成就させる「女の強さ」を思い知らされる展開だ。ひょっとすると、「俺は強い」と思っている男などは、マタギの勢子(せこ)に巧みに誘導され、尾根に登らされたクマみたいなものかもしれないのだ。  
「不条理の体現者たち」
この夏の東京の猛暑に驚き呆れ、ひそかに北軽井沢に脱出していたら浅間山噴火に遭遇するわで、目下、異常気象と天災がマイブームになっている。
その暑さがエスカレートしてついに熱帯と化した近未来の東京を舞台にしたのが、異色作家・佐藤哲也の『熱帯』(文藝春秋)。二年ぶりの長編であり、著者は短編でも持続力のある幻想性と論理の遊びがない交ぜになった独自の物語世界を作り上げているが、やはり長編と短編では仕掛けの大きさも、不条理性や閉塞感の深さも桁が違う。着地の見事さやまとまりで前作『妻の帝国』(早川書房)をしのぎ、ドライブ感と軽快さにおいてはデビュー作『イラハイ』(新潮文庫)をしのぐ、著者の新たな代表作が誕生した。
メイン・プロットはこの「熱帯と化した東京」を舞台に、不明省(国家の不明事象をつつがなく管理するための国家組織)の下級官吏である主人公夫妻、愛国的伝統を掲げてエアコンを破壊して回る大日本快適党なる過激派集団、CIAやKGB、さらには水棲人までもが入り乱れる錯綜ぶりだが、因果関係や道具立ての整理ができているから混乱無く読める。
やがて物語は、不明省が「最大の不明事象」として湾岸の倉庫で極秘に管理する「事象の地平」をめぐって登場人物たちの思惑が絡み合い、クライマックスにむけて収束していく。古典的な美しい構造で、勝手なことを言わせてもらえば舞台にも十分乗るのではなかろうか。湾岸倉庫の場面なんか不条理演劇の一幕を見るようだ。
一方「熱帯の東京」の閉塞感を盛り上げ、事態の不条理性を掘り下げる効果を担っているのが、作品のおよそ四分の一をしめるシステム・エンジニア(SE)たちの描写だろう。彼らが開発している不明省情報システムのプロジェクトは、過去のしがらみや仕様変更や組織改編のために当初の三年計画が十年越しという巨大な泥沼の様相を呈しているのだが、空調さえ不十分な熱帯のオフィスを汗くさいワイシャツ姿や作業服姿で日々はいずり回る彼らの群像には、この仕事の内容を知る者にとって胸に迫る臨場感がある。
実を言えば、佐藤哲也は僕と同様、二十年近いキャリアを持つSEであった。組織図上のニアミスみたいな近い場所で仕事をしていたのを知って驚いたこともある。日々不条理な状況に追い込まれるSEはいつのまにか不条理耐性が強くなっているもので、僕も、プロジェクト開発の描写は若干の誇張はあっても実際に即していると感じたし、それどころか、ギリシャ神話における神々の闘いを下敷きにしたらしい「仕様調整会議」の阿鼻叫喚も、担当者たちの心象風景としてはおおむねこの通りだと頷(うなず)いたくらいだ。彼らデジタル職人たちが不条理を呼吸して過ごす分だけ、一般の人々はむき出しの不条理を眼にすることなく快適に過ごせる仕組みになっている。まこと因果な商売をしてきたものである。  
「地獄の天どんと地上の迷宮」
「人生は地獄だというのに、天どんを食えばうまい」
種村季弘さんの訃報に接したとき、ふと浮かんできたのがこの言葉だった。さて何の一節だったかと書斎を小一時間ひっくり返してもわからない。ようやくキッチンの棚で料理本に紛れていたのを見つけ出した。『食物漫遊記』(ちくま文庫)中の「天どん物語」の一節だった。天どんと書いてあるのだからもっと早く気づきそうなものだけど、あの種村さんが食べもの本を書いていたことすら忘れていたのだ。
そこまで忘れながら、しかも『畸形の神』(青土社)、『詐欺師の楽園』『山師カリオストロの大冒険』(以上・岩波現代文庫)といった代表作を差し置いて、この言葉だけを彼の発言としてはっきり覚えていたのは、種村季弘という希代の人物のスタンスを端的に表しているからだろう。つまり「人生は地獄だ」という痛切で仮借ない現実認識と、天どんに舌鼓を打ち森羅万象を「漫遊」せんとする一見快楽主義的な好奇心との対比をである。
ドイツのマニエリスム研究者グスタフ・ルネ・ホッケの訳業やパラケルススの研究から出発した種村さんが、書物空間と昭和期の日本という文化表象の精力的な渉猟を経て、やがて独自の迷宮を築き始めるに至ったのは自然の成り行きである。声高に思想を語らず、深刻ぶった語り口を嫌い、文章には常にユーモアが漂っていた。マニエリストとして「思想」より「技法」を、「中心」より「周縁」を、「全体」より「細部」を重んじ、かつ愛した。
そうした精神的態度は戦中および戦後の思想的混乱を肌で感じてきたことと深く繋がっていよう。すべての日本人が巻き込まれた戦前・戦中の「思想」なり「中心」は根の腐った巨木のように倒れ、混乱と不安の時代が訪れた。そうした精神的危機にあって結局は別の「思想」やら「中心」(そちらもすでに倒れたが)に群がった者たちの列に彼は加わらなかった。「思想」や「中心」への懐疑が勝(まさ)ったからである。思えば芸術様式としてのマニエリスムを生んだ十六世紀のヨーロッパも、政治・宗教・科学など社会のあらゆる分野が激しく揺らいだ点で戦後の日本とよく似た時代だった。
種村さんが偏愛した事物や表象は、錬金術や詐欺・ぺてん、吸血鬼といったヨーロッパ史の裏面から、映画や食べもの、酒、温泉にいたるまで広大な領域に及ぶけれど、どれもがひそかな連関によって彼の壮大な迷宮の一部を成している。
迷宮に完成はなく、中心や周縁もない。そこでは一杯の天どんが大伽藍と同じだけの意味をもつ。いや、迷宮を外からあれこれ論じても仕方がない。われわれにはその中を彷徨(さまよ)い、そぞろ歩く至福が残されているだけだ。冒頭に挙げた「天どん物語」の末尾は「残る問題は、地獄にも天どんがあるかどうかだ」と結ばれる。  
「フェル博士の進化論」
ジョン・フェル博士は十七世紀イギリスの神学者兼聖職者で、オックスフォード大学出版局の生みの親ともいうから無名の人ではないが、彼の名が今日伝わっているのは主としてつぎの不幸な事情による。
オックスフォードのある学寮の生徒監だったとき、素行が悪かったのかある学生を退寮処分にしようとしたが、学生たちの取消要求の声が高く、ラテン語の詩一篇をすぐ訳して見せたら処分は取り消し、ということになった。課題は初級読本のマルティアリスだし、たった二行の詩だから、これは意地悪ではなくむしろ温情と言うべきだが、この学生――後に有名な風刺作家となったトーマス・ブラウンは即座にそれを訳したばかりか、相手の名を折り込んでしっぺ返しをした。嫌な奴である。
「あなたがきらい、フェル博士/どうしてなのか、言えないが/ぼくにはようく、わかってる/あなたがきらい、フェル博士」(拙訳)
これでブラウンは退寮処分を免れたばかりか、この歌は『マザー・グース』に収められるほど人々に愛され、おかげで「フェル博士」は「なんとなく嫌な人」の代名詞にされてしまった。文才のある者を敵に回すと後世までひどい目に遇うという見本だろう。以後、この名は文学作品でもしばしばお目にかかる。有名なのはディクスン・カーの創造した名探偵ギデオン・フェル博士だろう。二本のステッキで身体を支えるほどの肥満体で、豪快な馬鹿笑いと傍若無人な振る舞いは「嫌な人」の面目躍如だが、やや「変な人」の方向に進化しているかもしれない。山口雅也のブル博士や二階堂黎人の増加博士(ふえる博士、というわけ)は子孫にあたる。
直系の英文学でしばらく名前を聞かないと思ったら、思いもかけず大物が登場した。トマス・ハリスの『ハンニバル』(新潮文庫)で、連続殺人犯にして究極の美食家(つまり食人鬼)である主人公レクター博士がフィレンツェに潜伏中、ダンテ学者のフェル博士を名乗ってカッポーニ宮の司書の座につくのである。作者はもちろん『マザー・グース』の詩を踏まえているだろう。だが待てよ――「フェル博士」は「嫌な人」もしくは「変な人」ではあっても、猟奇的な殺人犯とかマッド・サイエンティストではないはずで、レクター博士が名乗る変名としてはどこか違和感がある。一体いつからそうした要素が加わったのか?これは僕にとって三年越しの疑問だった。
ところが先日出版された『チャールズ・アダムスのマザー・グース』(国書刊行会)を読んで疑問が氷解した。ミッシング・リンクが見つかったのだ。作者はあの「アダムス・ファミリー」を生んだ漫画家。挿絵には、手術台にくくりつけられた犠牲者の男を前に、薄気味悪い笑みを浮かべて人体実験の機械を操作する「フェル博士」の姿。男が怯えながら博士に向かって「わたしは嫌いだ、フェル博士……」(山口雅也訳)。そりゃまあ無理もない。  
「オーウェルのラジオ放送」
ジョージ・オーウェルの生涯は五十年に満たない。一九〇三年生まれの彼は二十世紀後半の世界を見ることなく去った。しかしその短い生涯の中で十指に余る職業に就いた。植民地ビルマの警官から家庭教師、皿洗い、ホームレス(は「職業」ではないか)、書店員、スペイン戦争の民兵、夫婦二人の小さな雑貨店主、新聞の文芸編集者に至るまで――。
それはもちろん生活のためでもあったけれど、組織や党派の原理に凝り固まらず、あくまで自分が体験の中で感じ取ったことに誠実だったからである。
中でも異色なのは、第二次大戦中の二年間、BBC(英国放送協会)でラジオ番組の制作に携わったことだ。
それは植民地インド向けの文芸番組で、当時の英国詩人たちの作品を、できるだけ書いた本人に朗読させ、数人の出演者たちが簡単に議論するといった構成だったが、もちろん英国の植民地向けプロパガンダの性格を帯びており、具体的にはナチスと結んだスバス・チャンドラ・ボースの自由インド放送やムッソリーニを支持した詩人エズラ・パウンドのローマ放送を相手取った「電波戦争」の一環なのだった。この無血の戦いのいきさつは樋口覚の長編評論『書物合戦』(集英社)に詳しい。
ところでこの番組、なかなか高踏的な企画でもある。オーウェル自身もエッセイ「詩とマイクロフォン」(『水晶の精神オーウェル評論集2』平凡社所収)で「肝心な点は、われわれの文芸放送が聴取者と想定した人々が、インドの大学生、つまりイギリスのプロパガンダの範疇に入るようなものでは相手にしてくれない、敵意をもった少数の聴取者だったということである」と書いている。彼は持ち前の誠実さでこの仕事に取り組み、詩という敬遠されがちな文学ジャンルに放送がもたらすかもしれない新たな可能性に期待したが、それも二年が限界だった。当のインドでBBCがほとんど聞かれていないばかりか、存在さえ知られていないことを痛感したからである。オーウェルは絶望してBBCを去る。
ところが、意外なところにちゃんと聴取者はいた。しかも最上の知識人が。
鶴見俊輔である。彼は日本占領下のジャワ島・バタビアに海軍武官として駐在していたが、半ば仕事として、半ば自分の興味から、オーウェルのこの番組を聴き続けていた。「鯨の腹のなかのオーウェル」(『鯨の腹のなかでオーウェル評論集3』平凡社の解説)と題する文の中で、T・S・エリオットの肉声を初めて聴いたことなどを書き、「文学としてだけ考えてみても、オーウェルの編成は壮大なプログラムだった」と述べている。オーウェルの誠実な態度が、敵方である鶴見の共感をも呼び起こしたのである。
骨の髄まで政治的な書き手でありながら、さまざまな政治的立場の読者に、時代を超えて支持されている彼の秘密の一端を明かすエピソードだ。  
「四畳半恥の上塗り」
四畳半は約二・二五坪、約七・四四平米。つまり単なる面積表示であるはずだが、この言葉には聞く者の想像をさまざまにかきたてる余韻がある。それはエロスであったり、ほろ苦いペーソスであったりする。四畳半の部屋(むろん和室)がエロスにつながる理由は、この狭さでは物理的に二人の人間、特に男女は、他人としての対人距離を保てないことではないか。それが夫婦なら、石川啄木が新妻との生活を描いた随筆『我が四畳半』になるし(「我が閑天地がむさくるしき四畳半の中にありと云ふも何の驚く所かあらむや」)、行きずりの仲ならば永井荷風『四畳半襖の下張』になるわけだ。団塊世代がこの作品の発禁と、後に続く裁判――小説としてはほぼ最後の「芸術か猥褻か」論争――を思い浮かべるとすれば、十年後の筆者の世代が「四畳半」と聞いてまず連想するのは、松本零士のまんが『男おいどん』(講談社)に違いない。
熊本から上京して学生下宿の四畳半を根城とする主人公「おいどん」が、恋に学業にバイトにさんざんな失敗を重ねつつ、恥多き青春をのたうち回る。同時代のまんがの中でも飛び抜けて複雑でリアルな人物像に若者の同情と共感が集まったけれど、思えば四畳半を心理学で言うパーソナルスペースと信じきった主人公の放埒な行動に、失敗と恥辱をもたらす誘因があったと思う。
親元を離れた学生が、小綺麗なワンルーム・マンションなんぞにお住まいになっている昨今、四畳半の青春もとうに過去の話と思っていたら、森見登美彦『四畳半神話大系』(太田出版)のように、この小さな物語の舞台を世代を超えて脈脈と、しぶとく受け継いでいる作品もあった。デビュー作『太陽の塔』と同じく、作者自身を戯画化した京大生を主人公に、前作の五回生より若い一回生から三回生春までの二年間という設定だが、作品の構造はSF風にねじれており、「私」が入学時に取り得た四つの選択肢――映画サークル、偽装宗教サークル、怪しげな万年留年生「師匠」の弟子、裏の学生支援組織――のどれを選ぶかにより、期間を同じくする四つの中編が、四通りの学生生活を展開しつつ並ぶ。
主人公は京大生だけあって、「おいどん」同様、恥多き青春をのたうち回るにしても、その表れ方は大分違う。身体ごとぶつかって恥をかくのではなく、高すぎるプライドから生じる信念が空転する。ここでは四畳半はパーソナルスペースではなく、よく働きよく妄想する脳の拡張としての機能を持つ。誇り高い主人公の信念と現実とのズレは笑いを生み、そして誤った信念系の末路としてどの道を選ぼうと大勢に影響はなく、悪友との腐れ縁は切れないし、薔薇色のキャンパスライフへの道は閉ざされ、身には数々の災厄が降り注ぐ。この感覚、誇り高い青春時代を送られた読者諸氏のトラウマを刺戟するかもしれない。「おい、俺ら、前にもこんなことしてなかったか」「してるわけないでしょう、こんな阿呆なこと。デジャヴですよデジャヴ」  
「地震シミュレーション小説」
毎年恒例の京都清水寺「今年の一文字」によれば、昨年の文字は「災」だそうで、みんな納得していたところに、インド洋地震で史上最大の津波災害まで発生した。そうでなくても関東大震災から八十年以上になり、地殻に歪みエネルギーが溜まると同様、人々の心にも「そろそろかも……」という不安がわだかまっているのは確かだ。
そんな世相を反映してか、去年は大震災を扱った小説が何冊も出た。代表的なのが高嶋哲夫の『M8』(集英社)と石黒耀(あきら)の『震災列島』(講談社)。どちらも新潟県中越地震を目前に控えての出版だから、「結果タイムリー」とでも言うのか。『M8』はタイトルの通りマグニチュード8クラスの東京直下型地震を、『震災列島』は東海地震とそれに連動した東南海地震を扱う。
自然災害を扱った小説というのは案外書きにくい。自然災害はもちろん人間などいなくても起こるから、《物語》とははなから無縁である。災害の結果、無数の小さな物語――悲劇、美談、ときに犯罪物語も――が生まれるが、それは現実世界でも同じで、現にTV局などはその落ち穂拾いに懸命だ。つまり、作家が創作した人物や《物語》と自然災害との絡み合いに必然性と説得力を持たせるのが、ことのほか難しく、この二作でも苦心の痕が生々しい。
『M8』では主人公の若手地震研究者・瀬戸口をはじめ、主要登場人物全員が十年前の阪神・淡路大震災で家族を失っており、遠山という元大学教授に至っては、過去に地震予知判定を躊躇したことから家族と学生を失い、学界も追われたというやや過剰な設定だが、それが反発力となってラストのカタルシスと希望を生み出すしかけになっている。
一方、『震災列島』では、地上げに絡み、暴力団によって一人娘を自殺に追い込まれた中年のボウリング(地質調査)屋と、八十がらみのその父親とが、大震災を利用して暴力団へのテロ的復讐を計画するという、「家族原理主義」というか、かなり過激な設定である。一見まっとうな作家だが、やはりメフィスト賞出身だけのことはある。
とは言え、この手のシミュレーション小説では、日本列島という大スケールの舞台に、苦労して引き回した物語の列車に身を預けながらも、実は作者が取材し散りばめた情報という「車窓の風景」にこそ楽しみがある。どちらも取材力に定評のある理系作家だけに、震災のディテールの確かさとスケール感では一歩も引けをとらない。
読み終えて痛感するのは、地震予知という国民の命に関わるオペレーションが、警戒宣言による経済損失(一日約三千億円!)とか、政治経済的事情からねじ曲げられてしまうわが国の現実だろう。そのしがらみを断ち切るには、人柱になるのも厭わない、ある種の蛮勇が要る。
『M8』では漆原というどっかで見たような都知事が、『震災列島』では早川という、これもどっかで見たような首相がその役を務めて、なかなかいい味を出している。  
「子供を本に『ハメる』には」
わが息子も五歳、そろそろ「教育」とやらも考えなきゃいけないかと思い出した。世間では子供の学力低下をめぐって議論がやかましいが、そもそも子供の教育に一般論など無用である。親が自分の子供の将来について個別に、真剣に考えていれば済むことだ。家庭と学校の役割は一部重なるが、躾(しつけ)については両親が、学力については教師が最終責任を持つ。単純な話ではないか。
ともあれ本を読む子にしたい。そこで物持ちのよい妻が長年保管していた『少年少女世界の名作文学』(全五十巻・小学館)をあてがってみた。私たちが子供のころには町の本屋でまだこの手の本が幅を利かせていた気がするが、昭和三十九年発刊のこのシリーズは、そんな文化の最後のきらめきだろう。ギリシャ・ローマの古典から始まり、英米、仏独、ソビエト、南北欧、東洋、日本と、当時の「世界文学」に広く目配りしてるし、監修にあたったのも川端康成、中野好夫、浜田廣介と錚々(そうそう)たるメンバー……とありがたがってはみたものの、五歳児には字だけの本はまだ無理で、読み聞かせるこちらが疲れ果てた。
ならば絵本はと、『新・講談社の絵本』(現在二十巻)を揃えた。戦前の一流日本画家の手になる、子供子供していない絵と、無用の配慮で改変されていない物語がよい。これにはかなり興味を示し、寝るときにも一冊読み聞かせる間は目をこすりながら起きている。中でもお気に入りが『曾我兄弟』――「わたしを亡き者にしようとするのは、工藤祐経にちがいない。むねんだ」って、ちょいと渋すぎないか、君?
結局、最後に行き着いたのは漫画。小説家にあるまじき意見だが、言葉を教え、読書の習慣をつける目的からいえば、小説や絵本は『ドラえもん』(全四十五巻・小学館)に遠く及ばない。理由は簡単で、小説や絵本には言葉を理解するための手がかりが乏しいのに比べ、漫画にはそれぞれの台詞の背後にある状況が詳しく描かれているから、自分で読み進められ、語彙(ごい)がどんどん増えるのだ。語彙さえ増えればあとはどんな本も自由自在。息子は全四十五巻を眼光紙背に徹するように読み、二十五本のドラえもん映画とその原作本を消化し、ドラえもんの学習参考書までずらりと揃え、いまやいっぱしの蔵書家。ちなみに『ドラえもん』で語学が学べるのをご存じか?この漫画は世界各国語版が同じ四十五巻構成で出ているから、内容が頭に入っていれば、どれを読んでも意味の見当がつくし、対訳でも読めるのだ。英語版と中国語版くらいはいずれ読ませてみようかとも思う。
漫画での経験が活きたか、最近はまた絵本への興味も復活し、この間、なにか読んでる息子の背に話しかけたら、「しゃべると、読んでいる気持ちが、わからなくなるから、やだ」とぬかした。しめしめ、これですっかり本にハメてやったぞ。いいことか悪いことかわからないが、本も読まない大人になったら、退屈でしかたないからなあ……。  
「奇譚作家の憂鬱」
私小説とか和風「自然主義」なんていう極東の奇習とは無縁でも、「純文学」と「エンタテインメント」の深淵は欧米の小説にもちゃんとあり、作家がその淵にはまり込んでもがくという悲喜劇(実は悲劇)がしばしば起こる。
ジェラルド・カーシュ、シオドア・スタージョン、キングスレイ・エイミスもそうだし、ここで紹介するレオ・ペルッツなんか、まさに彼らの領袖だろう。彼ら「狭間(はざま)の作家」たちに共通するのは、得体の知れない文学性とやらの不足などではなく、むしろ読者へのサービス精神の過剰である。あるいは、死んでもつまらない物語を書きたくないこだわりと言おうか。
新たに邦訳・紹介された『最後の審判の巨匠』(晶文社)は、そんなペルッツの「狭間の作家」ぶりを一身に体現し、しかもそれゆえに他の追随を許さない傑作になった希有な例だ。
舞台は二十世紀初頭のウィーン、有名俳優ビショーフが庭の四阿(あずまや、いわゆる「密室」)で拳銃自殺とおぼしき怪死を遂げるところから始まり、「私」こと騎兵大尉フォン・ヨッシュ男爵と医学者のゴルスキ博士が次々に起こる怪死事件の謎を追い、真犯人だという「怪物」の正体を追い詰める――。つまり既成のミステリ、それも典型的な探偵小説の規範(コード)に則って書かれていて、その枠内でも十分に楽しめる。
ただこれ、ミステリとしては壊れてしまっており、最後まで読んで怒りだす読者さえいるかもしれないが、それは偏狭なミステリ原理主義というものだろう。作者はそれを気にした様子もないし、この作品はそうした「破綻」にもかかわらず、ボルヘス、アドルノ、鮎川哲也など、そうそうたる読み巧者たちから愛されてきたのである。とくに、人間を自殺にいたらしめる「恐怖」の本質にここまで迫り得た文章を他に知らない。一時期嗜好していたハシッシュの影響もあるのか、作家など創作者の多くが知っているはずの「ある状態」について、経験した者でなければ書けず、完全には理解できないであろう記述を残している。自殺者が最後の審判の幻想とともに見るという色彩「トランペット赤」は、作家の一生で二つ三つしか得られない鮮烈で美しいイメージだろう。たとえばサリンジャーの「バナナフィッシュ」や村上龍の「ダチュラ」のように――。
それらの点でこの作品は「純文学」の資格十分、作者もカフカか、少なくともブルーノ・シュルツなみに扱われてもよいはずだが、ただ一つの欠点は物語としてあまりにも面白いことだろう。やはりハシッシュを嗜んだベンヤミンが新聞書評で「汽車旅行の伴侶に最適の推理小説」と「賛辞」(純文学側に立つ者の優越意識がほの見えるが)を贈ったところ、ペルッツは「おれは推理小説など書いた覚えはない」と激怒し、新聞社に厳重抗議したというが、これなど「狭間の作家」の悲哀をにじませたエピソードではないか。  
「刃の上の道化師」
宮下志朗による待望のフランソワ・ラブレー『ガルガンチュアとパンタグリュエル』(全四冊・ちくま文庫)が刊行されはじめた。名訳と謳われた渡辺一夫訳から数え方にもよるけれどほぼ半世紀ぶりの新訳。昔の訳でなじんだ外国語作品を今の訳で読み返すのは、昔親しんだ女性の娘に出くわしたときみたいな新鮮な驚きがある。再評価が著しいラブレーだが、実際の読者がさほどでもなかったのは、ルネサンス期フランスという時空との距りもあろうが、それ以上に訳文の日本語としての賞味期限が切れていたせいだ。韻文なら「かみなどできたなきしりをふくやつはいつもふぐりにかすのこすなり」の文語調にも味わいがあるけれど、散文ではつらい。この新訳でまた半世紀は賞味期限が延びた。翻訳文学のこうした復活業は、日本語の物書きにとってはうらやましい限りだ。
宮下訳からは、ラブレーの豪放磊落(らいらく)な語り口(なにしろ下品な話をするときにも一切ためや照れがない。剛毅な精神の表れである)、権力の横暴を憎み腐敗を笑うばかりか、同時代を端から喰らいつくし、果ては大糞にひりだして見せる健啖な批評精神がいきいきと伝わってくる。ロンサールたちプレイアード派によって官製の置物のように矮小化されてしまう以前の、土の匂いのする民衆のフランス語の響きも――。
物語そのものは、この力強い言葉の洪水に流され、笑いと風刺に溺れるようにして楽しめばそれでいいが、現代人としては、自然、ラブレー本人への興味が湧いてくるだろう。一体どんな精神の風景がこのように豊穣で入り組んだ物語を生んだのか?ところがラブレー本人については生年すら定かでなく、『パンタグリュエル物語第3之書』以前は偽名で発表したほど、この作品の背後に身を隠してしまっている。学者的良心に従うなら、肉声も人間像も知りようがない。だから、大胆な仮構を駆使して、カーテンの向こうのシルエットに説得力をもった魅力的な人物像を作って与えるのは、小説家の仕事になる。
一種の蛮勇を要するこの役に手を挙げたのが、同国人の小説家、ミシェル・ラゴンの『ロマン・ド・ラブレー』(人文書院)だ。ここにいるラブレーは決して豪放磊落な巨人などではない。気まぐれな国王や枢機卿のあてにならない庇護、ローマ教皇庁から伸びる長い手がもたらすかもしれない焚書や火刑台の恐怖、作者の身の危険などどこ吹く風の出版屋との確執の間で憐れにも翻弄される、知的で憂鬱質の司祭兼医学者である。はじめは意外に感じた読者も、逃亡修道士ジルとの対話篇を読み進めるうち、この「風変わりな爺さん」に惹きつけられるだろう。そう、『ガルガンチュアとパンタグリュエル』の豪放磊落と笑いの爆発には、実は現実生活の苦渋という元手がたっぷりと支払われていたのである。そして、死の恐怖と批評精神のせめぎ合いに鍛えられたからこそ、この物語の「言葉」たちはかくもしぶとい生命力を得たのだ。  
「『国境』を巡る長い争いが終わると自由の国であった」
川端康成『雪国』(新潮文庫他)冒頭の一文「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」の「国境」が「こっきょう」か「くにざかい」かについては昔から論争があり、「センセイ(作家)、ここは『くにざかい』でなければおかしいです」と生前の作者を説得しにいったセンセイ(学者)までいるらしい。してみると川端康成は「こっきょう」のつもりだったらしいが、明言は避けたのだろう。小説の読み方については言語論より作者の意向が優先するから、もし明言していれば後世までの論争にはならない。読者の自由に任せようとしたのではないだろうか。それが大人の態度だろう。
私自身は「こっきょう」と読みたいくちだが、「くにざかい」派の人に異論を唱える気はない。ならばなぜそんな古い問題を蒸し返すかと言えば、最近「『くにざかい』が正しく、『こっきょう』は間違いで、ものを考えていない証拠」と言わんばかりの主張が目につくからである。だからこの一文は私自身の「読者の自由」を確保するために書く。
「くにざかい」派の主張の土台は、「こっきょう」はヨーロッパなど主権国家同士の境界を指し、日本国内では「上野(こうずけ)の国(くに)」「越後(えちご)の国(くに)」「近江(おうみ)の国(くに)」なのだから、その境界は「くにざかい」が普通、というか自然だというところにある。高島俊男先生のエッセイ『芭蕉のガールフレンドお言葉ですが…9』(文藝春秋)もそうした立場。週刊文春連載のこのエッセイを愛読している私は、かねがね高島先生の言葉に対する探究心と造詣の深さに舌を巻いているのだが、この件ばかりはちょっとお待ちを、とつぶやかざるを得ない。
なぜなら、音読と訓読が混在する日本語で、両方を厳密に別の意味で使い分けることは無理だからである。どちらが好まれる、多く使われるということはある。「国府」「国分寺」「国民(こくみん:くにたみでも同じ)」など、日本国内の「くに」に関して「国(こく)」を使う単語は数多いし、問題の「国境(こっきょう)」にも、森鴎外の『渋江抽斎』(岩波文庫)に、「若し丹後、南部等の生(うまれ)のものが紛れ入ってゐるなら、厳重に取り糺(ただ)して国境(コクキャウ)の外に逐へと云ふのである」という用例がある。
また「上野(こうずけ)の国(くに)」「越後(えちご)の国(くに)」なら、和語である国名に合わせて「くに」になり、その流れで「くにざかい」が自然に聞こえるが、和語は漢語に比べて造語能力に劣るから、国境の両側の二国を明示しようとすればたちまち「上越国境」「信越国境」などの言葉が生まれる。日本の国境は多く山の尾根だから、山に登る人にはおなじみの言葉だろう。「嫌な草つき慎重に越せばやっと飛び出す国境稜線」(「一の倉ズンドコ節」作詩:富岡久也)。ちょうどその足元を、『雪国』の主人公を乗せた夜汽車が抜けて行ったのだ。  
「ノスタルジーとリアリティ」
白状すると、始めから恩田陸のよい読者ではなかった。同世代の作家としても、ジャンルの垣根を超えて書きたいテーマを追求する姿勢にも共感していながら、彼女の書く登場人物たちが周囲にいる普通の人々と隔たりすぎているような気がして、とまどっていたのである。その隔たりはそのまま、恩田陸の考える「リアル」と私の「リアル」との差異でもあった。そうであっても、恩田作品を楽しむことはできる。かつて「奇妙な味の小説」と呼ばれた一群の作品や作家をむさぼり読んだ身として、『不安な童話』や『象と耳鳴り』(以上祥伝社)や『三月は深き紅の淵を』(講談社)には、意匠だけでも強く惹かれる。
そんなもったいない読み方を繰りかえすうち、ようやく(私にとっての)ベスト作品『夜のピクニック』(新潮社)に出会い、この人が考えるリアリティの構造のようなものがふいに頭に入ってきた。我ながら鈍いことだ。つまり、恩田陸のリアリティは、それぞれのジャンル(本格・ハードボイルド・ノワール……)の空気に合った、いかにもありそうな登場人物の造形なり性格がトップダウンに示されるのではなく、物語のときどきの状況に応じて登場人物たちがさりげなく漏らす感想や生活実感の積み重ねから、ボトムアップに形成されてゆくのである。たとえば「今年残る光景の中に、このススキが原は含まれているに違いない。(中略)この一瞬は、恐らく永遠なのだ」とか「脇目もふらず、誰よりも速く走って大人になるつもりだった自分が、一番のガキだったことを思い知らされたのだ」という感想は、まったく平凡ではないけれど、口にされてみると誰にでも覚えがある「忘れていた実感」だろう。
なにを今さら、とプロパーな恩田ファンには叱られそうだ。恩田陸はデビュー作からずっと、そうしたやり方を貫いているではないかと。読み返して見たらその通りだった。だが、どの作品にも必ずいる、歪んだ造形や極端な性格の登場人物に阻まれ、私の目がそこまで届かなかったのだ。そうした人物が登場しないことも、この作品に深い愛着を覚える一因かもしれない。実は、ここで描かれたような「夜のピクニック」を、四半世紀前にやったことがある。男友達六人だけの殺風景な、疲れるだけのイベントだったが、その印象は今日まで鮮明に残っている。「みんなで、夜歩く。たったそれだけのことなのにね」
そして恩田作品では、登場人物の過去と現在が、本人のそうした感想や生活実感の変化を通じて、ちゃんと一人の人間という連続体を形作っている。それは、たとえばハードボイルドで、登場人物の過去の「出来事」が現在の極端な性格や歪んだ願望のエクスキューズとして書き込まれるのとはまったく違う(私はそうした性格描写に、ほとんど「リアル」を感じない)。だから、成長期の少年少女を書かせると抜群にうまい。「ノスタルジーの魔術師」と呼ばれるゆえんである。  
 
書評・未来は霧の中

 

アトム誕生
目に焼き付いているシーンがある。白黒アニメ「鉄腕アトム」の第一回で、アトムが誕生する瞬間だ。1963年に始まったシリーズだから64年生まれのぼくは、再放送でそれを見たのだろう。
電気コードからエネルギーを注入されて、アトムは半身を起こす。つぶらな瞳を開き、しゃっくりでもするみたいに、両耳から蒸気をシュッ、と吹き出した。
びっくりした。その瞬間、機械であるはずのロボットに魂が宿ったことを了解した。
不思議なシーンだ。原子力電池で動くアトムが、耳から蒸気を吹き出す理由なんて、どう考えてもない。つまり、100パーセント「演出」だ。無機質な存在であるロボットに、命を吹き込む創造の瞬間。
それが、なぜ蒸気なのか。高度経済成長期、電気製品は当たり前になり、自動車も普及した。動力源といえば電気モーターや内燃機関が主流であり、蒸気機関的な「シュッ」は、この時点ですでにアナクロだったはずだ。
近所の漫画喫茶で、復刻された原作を見つけた。手塚自身によって再編集されているのだが、さすがに「アトム誕生」は収録されている。アニメ版よりも12年前、1951年に発表されたものだ。
アトム誕生までのシナリオはこんな風。1974年、原子力による超小型電子計算機の発明。1978年、アパッチ族のC・ワークッチャア博士が「電子脳」を開発。それを1982年、日本の猿間根博士が人間型の金属製ロボットに初めて搭載し、1987年には人口皮膚をまとったロボットが登場した。2003年には、社会におけるロボットの位置づけを示した「ロボット法」が施行される。
鉄腕アトムが造られる直接のきっかけは、時の科学省長官の息子、飛雄が、交通事故で亡くなったことだ。悲嘆にくれた長官は、省をあげて世界最高水準のロボットを、息子の似姿として、開発させる。
そして、例の「魂が宿る」瞬間。
ふたたび驚く。実はここでは、「シュッ」ではないのである。かわりに「バチッ」。高圧電流がショートする音と共に、アトムは生をうける。「バチッ」と「シュッ」の間に横たわる12年間に、何が起こったのか。
勝手な推測だけど、原作の時点では、手塚の中で、アトムは未来の象徴だった。だから、誕生シーンは庶民の憧れである電気製品的な「バチッ」。ところがアニメの時には、家電や自動車はもはや「手の届く」ものになっている。夢だったものが夢でなくなり「技術との共存」というテーマも浮かび上がっていただろう。そんな時、アトムは、当時の最先端である電子工学(電気工学ではなく)的表象よりも、むしろ、人間的な暖かなイメージのある一昔前の技術に寄り添って「シュッ」と産声をあげたのではないか。
鉄腕アトムが造られるのは、漫画でもアニメでも2004年。ぼくたち現実世界のアトムは、どんな産声をあげるだろうか。  
ガリヴァーの言語研究所
スウィフトの「ガリヴァー旅行記」の中で、巨人国でも小人国でも馬人国でもなく、まったく通常の姿形をした人間が住む国への旅を描いた一編がある。空飛ぶ島ラピュタと、ラピュタに治められている王国、バルニバービだ。この中で登場する「ラガード研究所」の哲学者たちは、思索のはてに実に画期的な言語観に到達していた。
彼らは、言語とはつまるところ物を指し示す名詞であると看破する。そして、できるだけ誤解を廃した会話のために、要件を伝えるのに必要な「物」を必ず携えることにした。碩学たちは、行商人のように荷物を背負い、論争相手もとへと出向く……。
全編が風刺の塊のような「ガリヴァー旅行記」だ。ラガードにも実在のモデルがある。世界で最初の科学者の「学会」英国王立協会である。協会は17世紀の設立時、ラガードすれすれの徹底した言語改革を試みた。「哲学的言語」と名付けられたそれは、ゼロから構築された人工度の高い言語だった。
考案者は王立協会の初代議長で聖職者のジョン・ウィルキンズ。彼は、フック、ボイル、ニュートンなど初期会員に励まされつつ、真に合理的な言語を探求した。
アプローチは、百科全書的なものだった。この世の全ての物をまず分類しつくす。その後で、分類に従って、名前を割り振っていく。たとえば、鳥類をAという母音で表す。さらに子音を続けて、ABをハトとする。それに再び母音を続け、ABAはキジバト、ABEはドードー……というふうに、分類を直接言葉に置き換えていく。「言葉が世界の構造を反映する」ことを狙ったのが、哲学的言語の要点だった。
ウィルキンズの大著が、東大駒場の図書室に所蔵されていた。学生時代、ぼくはそれを1年ほど手元に置いて、おりに触れて読んでいた。今から見ると奇想というべきこの言葉が、当時の最良の知性によって構築され、実際に王立協会で論文用に使われていたという事実に魅了された。
簡単な文章をこの言葉で書いたこともある。それが、どうにもならないくらい使いにくい。常に今ある姿からズレていこうとする言葉のダイナミズムを捨象して出来上がった言語は、人間の使う生きた言語としては用をなさないのだと確信した。実際、この革命的な言語は、王立協会公認のもと華々しくデビューしてから半世紀後、スウィフトにコケにされつくし、その後はただ忘れ去られるのみだった。
もちろん、それでよかった。たった一つの「世界の構造」と強固に結びついて、それから逃れられないとしたら、それは窮屈きわまりない。ウィルキンズが夢に描いた合理的な言語を駆使する人々が住む未来は、たぶんディストピアだったに違いない。
もっとも、期せずして、彼のアイデアは、世界をむりやりコード化してかからないと始まらない、コンピュータプログラムの世界に受け継がれている、とも言えるのだが。  
チバ・シティ・ブルーズ
つい最近、インドネシア領ボルネオ島にオランウータンの棲息地を訪ねた時のこと。自然保護団体のヴォランティアで滞在しているオタク系カナダ人青年から、「A KIRA」「ゴースト・イン・ザ・シェル」など、世界に名だたるジャパニメーション について質問責めにあった。その後で、彼はぼくの「出身地」を知り、目を丸くした。
千葉市である。
8歳から19歳までの11年間、ぼくは千葉市に住んだ。生まれは兵庫県明石市だが、少年時代はすべて千葉市にあった、というのが実感だ。だから、出身地は千葉。
カナダ人青年にとって、千葉市とはチバ・シティであり、夜の仁清通りに蠢くハイ テク・ヤクザや、ミツビシの「さらりまん」や、得体の知れない改造を人体に施す非合法クリニックや、コンピュータ搭載のカプセルホテル「棺桶 (コフィン) 」や、電脳空間に没入(ジャック・イン)するカウボーイや、そして、人工知能「冬寂(ウィンター・ミュート)」など……絢爛たるイメージの故郷なのだ。
出典はもちろん、サイバーパンクのマニフェスト、『ニューロマンサー』(ウィリアム・ギブスン)だ。1986年、大学生でSF読みだったぼくは、出たばかりの翻訳をむさぼるように読んだ。頁ごとにちりばめられた新奇なアイデアに気を取られてストーリーを見失い(物語の中で、見当識を失った感覚)、読み返してやっとどんな話かわかる、という具 合。未発掘の多くのものがこの場所に眠っている感覚があった。ギブスンの同志、ブルース・スターリングが言った通り、まったく「新しい未来」がここにあった。
インドネシアから帰って、読み返した。
印象が全然ちがう。息がつまりそうだ。
なぜだろう……思い当たるのは、身近になったインターネット、映画「マトリックス」、ウルティマ・オンラインのようなネットRPG、数々のカルト的ジャパニメー ション、等々。おまけに、千葉駅の駅前広場は、先見の明のない都市計画のおかげ で、今ではゴミゴミした中にJRの高架とモノレールが交錯する、ハイテクと猥雑が 混合したチバ・シティ的状況となっている。
電脳的表象が、かくも生活体験の中に組み込まれた世の中で、かつて『ニューロマンサー』の第一章、「千葉市憂愁(チバ・シティ・ブルーズ) 」に感じた衝撃など、今さら体験しようもなくなっていたのだ。
SFの醍醐味のひとつが、未来を垣間見ることだとしたら、サイバーパンク・ブーム以降のSFが、どこか矮小化し、閉塞してしまったと感じているのはぼくだけだろうか。もっとも、そう感じ始めた90年代はじめから、あまり、SFを読まなくなっ たから、ひょっとしたら「すごい作品」を知らないだけかもしれないが。
オランウータンの森で、ジャパニメーションやサイバーパンクの話をしたのも、思えば変な体験だ。そのせいか、久しぶりに「新しい未来」が見たくなった。  
未来は蒸気の中?
先月、サイバーパンクのことを書いたので、今回はスチームパンク。サイバーパン クの盟友、ギブスンとスターリングの共作『ディファレンス・エンジン』が有名だ。舞台は、19世紀の蒸気機関技術が究極の形にまで進化したイングランド。蒸気タイプライターや蒸気映画をはじめ、チャールズ・バベッジの階差計算機(ディファ レンス・エンジン)(蒸気機関で駆動された、プログラム可能な計算機。実在した) も実用化されている。やがて、それが巨大化、複雑化し、自意識を持つに至る。つまり「もうひとつのサイバーパンク」というわけだ。
今やディープな一大ジャンルだ。アメリカではネット上で独自のスチームパンクを 公開するサイトがあるし、日本でもテーブルトークRPGの『蒸気爆発野郎!』を発見した。一見、単発の小説ネタでおしまい、 という気がするのだが、それでは済まない普遍的な魅力が「究極の蒸気機関」にはあ るのだろう。
今、日本の幼児たちの半分以上が、スチームパンクにかぶれていると言ったら信じてもらえるだろうか。でも、本当だ。
つまり、『機関車(エンジン)トーマス』である。
イギリス本島とマン島の間に浮かぶ架空の「ソドー島」には、トーマスやパーシーなど、お喋りをする素敵な機関車が住んでいる。彼らは、自意識があるどころか、嫉 妬もすれば喧嘩もする。高度な蒸気機関AIが実現した(たぶん)、スチームパンク な世界なのである。今、2歳半の息子やその「お友達」は、男の子でほぼ100%、 女の子でも若干名、トーマスに夢中になっている。つまり、幼児の「半分以上」。
たまたま子供が幼児期にあたる親でないと実感がわかないかもしれない。権利元のソニークリエイティヴに勤める知人によれば、「2歳から5歳の間に夢中になって、 その後、卒業してしまうキャラクター」だそうだ。日本への紹介は1970年代なかばなので、その時、すでに幼児期を脱していたぼくの世代は、子供を持ってはじめて トーマスと出会ったのである。
そして、ぼくは、息子と一緒にはまった。意外や意外、奥深い。ソドー島の設定はしっかりしていて、どの支線に行けば、誰(機関車)に出会えるか覚えるのに夢中に なった。お気に入りは山間にある狭軌(きょうき)支線のスカーロイやリーニアス。台頭してくる効率的な内燃機関の列車(ディーゼル)の影におびえつつ、誇りを持って「蒸気道」 に邁進する彼らの姿は、一種の文明批評にすらなっている。というと穿(うが)ちすぎか。
結局、スチームパンク、究極の蒸気機関の物語は、人の子供心(幼児心?)を刺激 してムズムズさせてやまない部分で、ジャンルとして花開いたのだろう。1991年、ロンドンの科学博物館によって、バベッジの「階差計算機」(重さ3トン!)が 再現された。息子にはまだ理解できない。でも、いつ彼に「蒸気のコンピュータ」の 話をしてあげられるか、今からムズムズしている。  
十五少年の島
小学生の頃、家の書架に古い「世界名作全集」が並んでいた。ある夜、何気なく手に取った『十五少年漂流記』に夢中になり、生まれて初めて徹夜で読み通した。
冷静沈着なゴードン、正義感の強いブリアン、高慢だけど根はいい奴のドノバン。冒頭の遭難シーンでは手に汗を握り、島内冒険にははらはらし、リーダー選挙ではお気に入りのゴードンが再選されるように祈った(結果は得票わずか一票)。ブリアンとドノバンの和解シーンには感極まって思わず泣いた。自分がもし十五少年の一員なら、どう行動しただろうと常に考えていた。夜が白み始め、最後の頁を閉じるまで、ぼくは彼らの二年間の体験を、まるで自分のもののように共有したのだった。
この体験は、ぼくだけのものではない。「『十五少年』が読書の原点」という人は身の回りに結構いる。日本では、翻訳の数も多いし(データベースにヒットするだけで二十以上!)、『十五少年』的な作品も数多く書かれてきた。ぼくのお気に入りは、『ぼくらの七日間戦争』(宗田理)や『冒険者たち』(斎藤惇夫:主人公はネズミだが)、さらに、国産ではないが『蠅の王』(ゴールディング)や、今度映画になる『バトル・ロワイアル』(高見広春)まで。
中学生の一クラスが互いに殺し合う『バトル・ロワイアル』と、『十五少年』は一見、全然違うけれど、少なくともぼくの感情移入の仕方は同じだった。登場人物に思い入れると同時に、「自分がその場に置かれたら」と考えてしまうという意味で。
このところニュージーランドを旅する機会が多い。ある時、『十五少年』のことを思い出した。作者はフランス人だが、『十五少年』たちはニュージーランド入植者として設定されている。きっとこの国でも親しまれているのではないか。
しかし、全然、なのである。多くの人に尋ねたが、一人としてこの誇り高き少年たちの物語を知らない。オークランドの大手書店マネジャーすら「聞いたことがない」とのこと。これには、驚かされた。
今も自然が残る南島を歩くうちに分かってきた。日本の三分の二の面積に四百万人しか住まないこの国、とりわけ人口希薄な南島では、隣家が二十キロ先などという場所がざらにある。わざわざ「漂流」しなくても、サバイバル的環境は身近だ。例えば、少年兵が実際に銃を持って殺し合っている紛争地帯で、『バトル・ロワイアル』が読まれる意義を失うのと同じ理由で、この国では『十五少年』は魅力を持たない。
そのことに気づいてから、ぼく自身を含め日本の同時代が共有する『十五少年』への思いは、ぼくらの生活上の「リアリティ」に関係すると思えてきた。子供も大人も人工の都市に住み、緻密な網のような制度に搦めとられたこの国で、自分の中に眠っているかもしれない野性を、無垢(であるはず)の子供に託し、書籍の中でシミュレートするのが、『十五少年』の系譜なのだと。  
銀河帝国興亡史のゆくえ
SFの傑作、アシモフの『銀河帝国興亡史』について、ずっと気になっていたことがある。シリーズ中最大のヒーロー、天才数学者ハリ・セルダンが創始した究極の歴史理論、心理歴史学に関してだ。
人間個々人の行動は予測しがたくても、多人数からなる社会の趨勢は法則に基づいて変化しており予測可能、というものだ。物語は、近未来に銀河帝国が崩壊することを知ったハリが、崩壊自体は避けられないにしても、その後一万年続くはずの暗黒時代を千年に短縮するため、ファウンデーションと呼ばれる機関を設けることから始まる。
壮大で、実にそそられる話だ。ただ、この心理歴史学がどうしても実現可能に思えない。気体分子がばらばらに動いていても全体としては法則に従うことが引き合いに出されているが、さすがに人間はそんなものではないだろう。
シリーズ第一作が世に出たのは、第二次大戦直後の1951年。ぼくが読んだのは1980年代半ば。古いSFを読む時、現代的センスでは疑問があっても目をつむって楽しむのがお約束だ。とりあえず気にせずに作品世界にどっぷり浸かるのが正しい。現にぼくはそうした。
十年ほど後になって「カオス理論」に関する本を読み、急に腑に落ちた。「違和感」は、「世界観の問題」だったのだ、と。
アシモフが依拠しているのは、「ラプラスの魔」的な世界観だ。「ある瞬間、宇宙の物質すべてに作用している力、位置、速度などを知ることができる知性(ラプラスの魔)が存在すれば、その知性にとって、その後のすべての出来事は予測できるものになる」という機械論的な宇宙のイメージ。
一方、カオス理論は、ある現象の法則を解き明かし数式で表現できても、予測ができるとは限らないと主張する。例えば、現象を記述する方程式をコンピュータで解こうとしても、最初に与える数値のわずかな違いが、後々、大きな違いとして跳ね返ってくる。初期値を小数点10桁で切り上げた場合と、11桁まで使った場合では、時間と共に誤差が広がって、最終的には全然結果が違う、といったふうに。「記述はできるが、長期予測はできない」という世界。ラプラスの魔は誤差に裏切られ、機械論的世界観は否定される。まあ、未来はやはり「霧の中」ということ。
92年に亡くなったアシモフの遺志を継いだ三人の作家が、『興亡史』の再構築を試みた(昨年、完結)。ぼくの興味は、新三部作がどのような「世界観」を紡ぐかにつきる。すでに翻訳がある『ファウンデーションの危機』では、やはりカオス理論が意識されており、逆に心理歴史学に活用する意図が見えた。やるな、という感じ。この文章が読者に届く頃、邦訳が書店に並ぶはずの第二作のタイトルは『ファウンデーションと混沌(カオス)』(新・銀河帝国興亡史早川書房)。どんな「世界観」が提示されるのか、興味津々で待っている。  
博物館の物語
メトロポリタン・ミュージアム(メット)で中世の甲冑(かつちゅう)を修復する仕事をしている知人が、平日の閉館直後、内緒でちょっとした便宜を図ってくれた。「マリー・アントワネットの長椅子」と、天蓋付きの超豪華「ロバート・ダドレイ卿の最初の妻、エミー・ロブサートが殺害されたとされるベッド」が置いてある一角にぼくを導き、「触るなり、座るなりしていいよ」と言ってくれたのである。ぼくは、「長椅子」に腰を浮かせながら恐る恐る腰掛け(なんてことはない普通の椅子だ)、「ベッド」は、掛け布団の表面を手で撫でた(さすがに横になってよいとは言われなかったので)。
ミュージアム(博物館も美術館もひっくるめて)には心惹かれる。大切なものがぎゅっと凝縮された特別な空間だと感じるのだ。そのせいでカニグズバーグの『クローディアの秘密』には思い入れがある。家出した姉弟、クローディアとジェイミーが、メットにこっそりと住んで、ミケランジェロ作の「天使の像」をめぐる謎を解き明かす物語。彼らの寝室となったのが、冒頭の「高級家具」が置かれた一角だった。クローディアは、アントワネット気分で長椅子に座り、「こんなりっぱなものこそ自分ににあう」と超豪華ベッドに体を沈めるのだった。
彼女の真似をしてみて、興奮はしたけれど、根本的なところで何か違う。考えてみれば、別にぼくは「アントワネット気分」にも「自分に似合う超豪華」にも興味はない。むしろ、ミュージアムに住むというアイデア自体に心惹かれていたのだ。丸一日費やしてもじっくりとは見ることができない凝縮された空間に終始身を浸すのはどんな気分だろう、と。
瀬名秀明の最新刊『八月の博物館』は、人工現実の中で「ミュージアムを展示するミュージアム」に入り浸る少年の話だ(本当は一言で言い切れない複雑な構造なのだが、ここでは無視)。そのミュージアムに住み込んでいるガイド(実はコンピュータ・プログラム)が、こんなことを言う。
「知りたいという欲求、確かめたいという欲求、表現したいという欲求。そのすべてがミュージアムにある。だからこそ、ミュージアムはきみの物語を求めているんだよ。切実にね。小さなコイン一枚にも、大きな大きな物語が潜んでいる──」
なるほど、そうだったのか。ミュージアムの「ぎゅっ」とした感覚は、展示や、展示の間の空間にまでみなぎる「物語」であったらしい。そして、そこには自分自身の「物語」さえ包含される。あの厳粛な空間からは、未来や過去、あらゆる方向にむかって無限の「どこでもドア」が開いているのだ。クローディアだって、天使の像をめぐる物語を通じて、知り、確かめ、自分自身の表現(物語)を取り戻したではないか。
というわけで、住んでみたいな、ミュージアム。でも、やっぱり夜になったら薄気味悪いかもしれない。まあ、どのみち実現性がない無意味な葛藤ではあるけれど。  
古時計とドリームタイム
三年半ほど前のこと、西オーストラリア、ダンピア半島の海洋アボリジニの村に居候させてもらったことがある。観光地ではないから、娯楽などない。昼も夜もふらふらして、なんとなく時間をやり過ごした。その時、飽きもせずに相手をしてくれたのが齢八十歳のケイティ婆さん。
彼女とぼくの最高の娯楽は、「歌」だった。ぼくは日本の童謡を、彼女は部族に伝わる歌を、交互に無伴奏で歌いあう。彼女の歌は部族語なので、歌詞は終わってから英語で解説してくれた。先祖がどこでなにをして、こっちにやってきて、子供ができて、共同体ができて……と歴史が延々歌われる。その中には自分の父親や祖父など身近な人も登場する。つまり、部族が辿ってきた過去が歌に込められている。
ケイティは、それを「過去」とは言わなかった。「ドリームタイム」なのだ。アボリジニの神話のことだが、ふつうにイメージする神話とも少し違う。
たぶん時間に対する感覚の問題だ。過去から未来へと突き進む時間の矢のイメージではなく、今も過去も未来も渾然となって夢うつつ……ケイティ婆さんの難解な発音に必死に耳を傾けて得た印象だ。
ちなみに、ぼくの側がよく歌ったのは、「大きな古時計」だった。まあ日本の歌ではないが、大のお気に入りだし、彼女もおぼえて「チクタク、チクタク」と口ずさんでくれた。考えてみれば、おじいさんの人生と一緒に動き続けたノッポの時計は、近代的な世界で育ったぼくの時間観のシンプルな表明でもあった。我らが日豪大歌合戦は、実のところ、時間の感覚をめぐる歌い合いだったのだな、と後になって思う。
以来、ずいぶん多くのアボリジニ関連本を読んだ。多くはノンフィクションだが、数少ない小説(のようなもの)として、また、ぼくが体験した「歌」にかかわるものとして、ブルース・チャトウィンの『ソングライン』(めるくまーる)が印象的だ。
チャトウィンは、アボリジニたちが歌い継ぎ、オーストラリア大陸を網の目のように網羅する「歌の道(ソングライン)」を辿る旅に出る。ドリームタイムの祖先たちが、大陸を放浪しながら、そこで出会ったものたちを歌った、歌のネットワーク。物事は歌われて初めて世界に存在するのであり、それ以外のものはいつか歌われるのを待って地下に眠っている。つまり、歌うことは創造することなのだ。読んでいて、ケイティの「先祖の歌」もそのネットワークの一部だったのだと納得した。
ケイティ婆さんはもういない。再び訪ねたら孫のゴニーとでも歌合戦することになるだろうか。その時には彼が好きなニルヴァーナに対して、aikoか椎名林檎で攻めるしかあるまい。そして、忘れずに、彼と一緒に「ケイティの歌」を歌おう。そんなものないと言われたら、その場で作ってしまえ。歌われ、再創造され、彼女がいた時間がそこに渾然と立ち上がるはずだから。  
魔法世界のかたち
今書いている小説との関連で、『指輪物語』三部作と『ホビットの冒険』(共にトールキン)、そして『ゲド戦記』四部作(ル・グウィン)を読み返した。
読むたびに魅了される。十代の初読時も、今も全く変わらない。ただ愛すべきこの二つの魔法世界が、全く違う土台を持つことに改めて気づかされた。
一言でいうなら、「異世界構築の意思」と「現実世界の影」だ。前者が『指輪物語』で、後者が『ゲド戦記』。
北米でブレイクした時、『指輪物語』は、第二次世界大戦の寓意的物語と理解された。ホビット族の「指輪所持者」フロドが、魔法使いガンダルフの導きのもと冥王サウロンから逃れ、世界に破滅をもたらす指輪を破壊する物語だ。指輪=原爆という解釈も可能であり、実際、多くの人がそう読んだ。
それに対してトールキンが「政治的意図はない」と表明し続けたことはよく知られている。ベトナム戦争時、ヒッピーたちが「ガンダルフを大統領に!」と叫びながらデモ行進しても、彼は苦笑するばかりだっただろう。
彼の紡いだ物語は、特定の社会現象に回収するより、そのものとして絡め取られた方がずっと豊かだ。ぼくたちが常に立ち返る、想像力の源に近しい物語。社会に対して直接、何かを示唆することはなくても、深いところで物語と繋がろうとする人間のありようを支持するものとして。それが古来から伝わるものでなく、近代的な小説の手法で編み出された「神話」であることに、格別の意味を見出すこともできる。
一方、『ゲド戦記』は、「今ここ」にある問題を、異世界を舞台にすることでより明確に指し示す。(魔法使いゲドの成長を描いた)『影との戦い』はいわば「自分探し」だし、(古の神に仕える腕環のテナーが主人公の)『こわれた腕環』は「女性の自立」、(若き王子アレンとゲドの冒険を追った)『さいはての島へ』は「世代交代」、そして(魔法を失ったゲドと腕環のテナーの物語)『帰還』は「老後」といったところか。二作目以降は、常にフェミニズムのモチーフが通底する。
つまり『ゲド戦記』は、いつも現実と表裏一体で、ゲドや腕環のテナーはぼくたち自身なのだ。これはこれで「魔法世界の物語」のひとつの効用。最後の作品『帰還』が翻訳された時、「格好悪いゲドなんて見たくない」という悲鳴がファンの間から漏れたそうだが、その読みは違うぞ!とぼくは言いたい。もともと「格好いい魔法使い」の話ではないのだから。
とすると『指輪物語』と並び称される『ナルニア国ものがたり』はどうかと聞かれそうだが、これには特定の宗教観を押し付けられるような印象があって、のめり込めない。正義を体現する金色のライオン、アスランがいつも見つめている世界なんて、冥王が自由世界を脅かす『指輪物語』よりもずっと怖い。  
心の中のオンナノコ
松本侑子訳『赤毛のアン』(集英社文庫)を読み始めたら、途中で止められなくなり、徹夜してしまった。最後の二章は目尻がじんわりと熱くなった。
まいったな。ぼくは生物学的にはどうみても男なのだが、心の中にはオンナノコ的なるものに強く感応する部分がある。少女漫画は大好きだったし、十代前半「腹心の友」と呼べるのは常に女の子だった。
で、女の子が主役の成長物語といえば「アン」のほかに、『若草物語』『大草原の小さな家』が思い浮かぶのだが、勝ち気なジョーも、フロンティア三昧のローラも、充分オトコノコとして感情移入可能だ。ぼくにとっては、乙女チックな想像力の権化、アン・シャーリーが、もっともオンナノコ的に惹きつけられるヒロインなのだった。
中学生の時、新潮文庫の村岡花子訳を全巻揃え、何度も読み返した。見えない未来に漠たる不安を抱きつつ、今よりずっと柔軟な感受性を持っていたらしいぼくは、アンの「想像力」に一時、完全にシンクロした。町内を散策しては「風の丘」「妖精の森」などと名付けて回ったり、思い出すだけで赤面ものだ。その割には二十数年ずっとご無沙汰で、松本訳で読み直し、当時のことが鮮やかに蘇ってきた次第。
そこで、昔懐かしい村岡訳を再び手に取った。これが実に名訳なのだ。全く古びていない。それどころか、時代を経た気品すら感じる。子供の頃にこの訳に出会えて本当に良かった。
ただ松本訳との比較で意外なことを知らされる。実は村岡訳は完訳ではなく、いくつものシーンが落とされている。それも、ぼくにはきわめて重要と思われるシーンが。
例えば、終章。マリラの眼病のため、アンが村に残ることを決める決定的な場面。松本訳では六ページにわたるが、村岡訳ではト書きのような二ページだけだ。奨学金を放棄してマリラと暮らすことに決めたアンの決意と新たな希望。そして、アンの大学進学の夢を壊したくないマリラの葛藤は、共にほとんど省かれた。また、その前の章で、マシューの死を嘆くアンがダイアナの慰めすら拒絶した後、マリラと「ふたりだけの悲しみ」を共有する美しいシーンもなくなっていた。あの厳格なマリラが、「私はあんたのことを、血と肉を分けた実の娘のように愛しているんだよ」と初めて心中を吐露する事実上のクライマックスだ。
なぜこういった省略がなされたのだろう。全然理由が分からない。村岡氏に直接聞いてみたいけれど、今ではそれも叶わない。
無論、このことで村岡訳の価値が減じるわけではない。ただ、中学時代のぼくはいくつかの美しいシーンを完全に逸していたわけで、ちょっと損した気分になる。
まあ、損した部分はこれから取り戻せばいいのか。今夏には松本訳のシリーズ二巻『アンの青春』が出るらしい。また、新旧両訳を続けて読んでみよう。心の中のオンナノコが今、もぞもぞと動いている。  
宇宙が消える?
つい最近、「宇宙がなくなるかもしれない」と、予言者やら物理学者に脅された。まず、予言者の名は、グレッグ・イーガン。難解になりがちなサイバーパンク以降のSF界で、古き良きSFの復権を感じさせる希望の星だ。彼の『宇宙消失』(創元SF文庫)は、量子論の「観測問題」を料理して見事な大風呂敷を広げる。
「シュレディンガーの猫」をご存じだろうか。放射性物質が崩壊すると毒ガスが出て、猫を殺す装置を作る。量子論によれば、放射性物質の崩壊のようなミクロな現象は確率論的にしか記述できない。だから装置内にいる時、猫はその確率に応じて生でも死でもない「拡散」した状態をとっている。もっとも、いざ蓋を開けた時、半分生きて半分死んだ猫がいるわけではない。その時には、生か死かどちらかの「固有状態」に「収縮」しているからだ。さて、猫はどの時点で「収縮」したのか。
イーガンの回答は、人間は量子論的な拡散状態を収縮させる能力を持っており、人間が観測したその瞬間、どちらかの状態に確定するというものだ。人間は収縮した世界に住んでいるが、それは実は人類だけの特殊事情で、本来の宇宙は様々な可能性がその確率に応じて重ね合わせられた(つまり拡散した)ものだというのだ。
だから昔、夜空はもっと明るかった。なぜなら望遠鏡で観測を開始した時、人類は、拡散したまま共存していた星々の様々な可能性を、単一の状態に収縮させたからだ。そして、今も観測の射程が長くなるに従って、宇宙の多様性が消失し続けている。
一方、収縮しない世界に住む異星人にとって、人類の特殊能力は脅威に違いない。作中では、何者かによって太陽系が暗黒の球体で覆われ、外側が観測できなくなっている。また、人類の「収縮能力」そのものを奪い、人類自身を拡散させることも試みられる。成功すると、我々が慣れ親しんできた単一なる宇宙は消失することになる。
上手に語られた法螺(ほら)話に、「もしホントだったら」と背筋が冷える。でもまあ、あくまで「お話」だ。しかしこれを読んだ直後、物理学者がぼくの耳元で囁いた。「我々はいつでも宇宙の消失を心配してる」と。
イェール大学が新しい加速器を建設するにあたって検討したリポートを示された。タイトルはずばり「破局のシナリオ」。
加速器によって「真空が相転移を起こす」可能性が検討されていた。そうなると空間の性質そのものが変わるので、人類はもちろん星々さえ存続できない。せめてもの救いは、ひとたび起こると光速で伝わるため、我々は破局に気づくことなく消失できることか。結論としては「この程度のエネルギーでは滅多に起こらない」と安心させてくれたのだが、こういったことが真剣に検討されていること自体、驚きだった。
結局、現実というのは結構SFなのであり、また、人類ってやつはつくづくSFな種族なのである。つくづく思った次第。  
金融小説のリアル
金融の現場の人たち、いわゆるディーラーやトレーダーたちと付き合いがある。シンプルな連中だ。人よりも正しく未来を読むことにしか興味がない。なにしろ、彼らの目的は一〇〇パーセント「金儲け」であって、そのことを最も直接的に、身をもって表現しえる仕事に従事しているのだから。
お金を儲ける!単純で強力な動機に導かれたその熱を、小説の世界に活写するのが金融小説の醍醐味だろう。でも、実際のところこの分野にはひとつ困難がある。
つまり、現実の方が凄いのである。たとえば、名門銀行ベアリングズ社をたったひとりで崩壊させたニック・リーソンの『マネートレーダー銀行崩壊』(新潮文庫)、大和銀行ニューヨーク支店での巨額損失事件の当事者、井口俊英の『告白』(文春文庫)などの獄中手記は驚くべき内容だ。いったいどうやったらひとりの人間が一三八〇億円(リーソン)やら九七〇億円(井口)といった巨額の「負け」をもたらし、それをぎりぎりまで隠しておけるだろうか。実際に起きたことだから信じざるを得なくなるわけで、最初から虚構として読まれる小説の場合、よほどの仕掛けを作らないとリアリティが削がれる。
だから、スケールの大きな金融小説を書こうと思った場合、しょせん嘘話と割り切って痛快な大風呂敷を広げるか、逆にゴリゴリのリアリズムを積み重ねて説得力を持たせるか、ふたつにひとつの選択を迫られる。後者には幸田真音の『日本国債』(講談社)という傑作があるが、ぼく個人の好みではむしろ前者の痛快嘘話が楽しい。
たとえば、ポール・アードマンの『ゼロクーポンを買い戻せ』(新潮文庫)。八〇年代バブルの絶頂期、株価操作の罪で投獄された主人公ウィリー・サクソンが、出所後に繰り広げる大騒動。定期的な利払いを行わず、期日が来た際すべての利子を含めて償還を行うタイプの長期債券(ゼロクーポン)をでっちあげて売りつける。利払いが償還時までないわけだから、嘘っぱちであることは最後の最後、償還の瞬間まで分からない。足がつく頃にはどうせ老人だ(あるいはもう死んでいる)。
古典的な金融詐欺だが、偽債券の起債手続きや、得た資金をもとに展開するハイテク金融情報システムの運用など、金融的ディテールが詳細かつ分かりやすく、高度に知的でスリリングなマネーゲームとして納得させられてしまう。なにより、シンプルな登場人物がシンプルな目的のために綱渡りを繰り返すのは痛快だ。悪役のくせに義理がたいウィリーの人物造形もよい。
そういえばアードマン自身、ココア投機の失敗で、勤務していた銀行に五〇億円の損害を与え、投獄された経験を持つ。デビュー作も服役中に書いたという。つまり、金融獄中作家なのだ。身をもって「事実は小説より……」を痛感しているせいだろうか、彼が描き出す世界は、あくまで壮大な「嘘話」なのだった。  
百万年の孤独
今、「恐竜文学」をまとめ読みしている。レイ・ブラッドベリの「霧笛」なんて懐かしい作品に、『恐竜物語』(新潮文庫)というアンソロジーの中で再会した。
一九五一年の作品のせいか、あるいはブラッドベリがそれほど科学的な考証には興味がない作家であるためか、「主役」の恐竜はもう滅茶苦茶な設定だ。
目撃者の灯台守によると、そいつは一千万年前に絶滅したはずの(本当は六千五百万年前)恐竜の最後の一頭で、年齢は百万歳(!)。普段は深海に潜み、年一度だけ浮上して、岬の先端の小島に立つ灯台まで泳いでくる。霧の中、鳴らされる霧笛が今は亡き同胞の声と似ているからだ。
恐竜と言われているが、前足には鰭(ひれ)もついており、どうも首長竜のことらしい。灯台守が試しに霧笛を切ると、そいつは狂おしく身を起こし灯台に襲いかかる。百万年間待って出会った同胞が、黙り込んだことでパニックに陥ったのか。灯台は破壊され、そいつは同胞を失った。明け方まで、灯台のかわりに深くもの悲しい霧笛を響かせ、やがて深海へと帰っていく。さらに百万年間、待ち続けるために……。
科学的な正確さが大切になる類の物語ではない。ただ地質学的な時間にわたる想像を絶した孤独が語られただけだ。人里はなれた濃霧の中の灯台という舞台や、そこで日々を過ごす灯台守という登場人物も、すべてその孤独を強調するように配置されている。なにより、百万年ただひとりきり深海に身を潜めてきた恐竜は、切ないくらい寂寥とした雰囲気を漂わせている。
恐竜とは、ここでは作家の思いを伝えるメディアだ。たぶん彼らには、そうなりやすい資質がある。ずっと前に絶滅して本当のことは分からないし、科学的な仮説も二、三年単位でめまぐるしく変わる。いや、「科学的」恐竜像ですら、その時の社会的ムードに影響されながら(無論、発掘された化石からの知見には規定されつつも)変遷する。「お話」の中の恐竜が、かなり高い自由度で、作家の意図を体現する存在になるのは当然なのだ。
「霧笛」は、一九五三年に“The Beast From 20000 Fathoms”として映画化された(邦題は『原子怪獣現わる』)。北極での水爆実験で恐竜レドサウルスが蘇り、マンハッタンに上陸するというパニック映画だ(『ゴジラ』を思わせるが、こっちは翌五四年公開)。恐竜が灯台を壊すシーンは残っているが、原作とまったく違ったものだと思った方がよい。ちょうど東西の緊張が高まっていた朝鮮戦争時に製作公開されたことを色濃く反映して、ブラッドベリの文学的「孤独」ではなく、「水爆による終末」「科学の暴走」のイメージが恐竜に張り付けられている。
じゃあ、『ジュラシック・パーク』は?ハリウッド版『ゴジラ』は?等々、いろいろ気になる。またそのうち「恐竜文学」について書くことになると思う。  
タバコをめぐる未来
つい最近、タバコ産業をめぐる小説『ニコチアナ』(文藝春秋)を上梓した。タバコ嫌いが高じていろいろ調べ始めたのがきっかけだ。その際、「タバコ文学」も大量に読んだので、今回はその報告。
まずは基本文献としてコールドウェルの『タバコ・ロード』(新潮文庫)とディーモフの『タバコ』(恒文社)を挙げたい。共に今世紀前半のタバコ産地(アメリカ南部とブルガリア)を舞台にした重厚な作品だ。当時、農作物としてのタバコやタバコ産業が、社会的にいかに敬意を払われ、重要な位置を占めていたか語って余りある。それが不思議と新鮮に感じられるのだ。
一方、我々の同時代の作品でお奨めなのは、タバコ病をめぐる異色の法廷劇『陪審評決』(グリシャム、新潮文庫)。夫を肺がんで亡くした未亡人がタバコ会社に対して訴訟を起こす。タバコ会社は自信満々で審理に臨むが、陪審員として裁判に潜り込んだ謎の青年ニコラス(ニック)によって事態は迷走する。審理の進行につれて変遷する陪審員たちの意見を丁寧に描き込んでおり、映画「十二人の怒れる男」を思い起こさせる。
タバコ産業スポークスマンを主人公に据えた風刺小説『ニコチン・ウォーズ』(バックリー、東京創元社)も良い。主人公のニック(この名は、ニコチンからの連想によりタバコ小説に頻出)は、様々なメディアで喫煙を擁護する職業愛煙家だ。そんな彼がある日、嫌煙派とおぼしき者に拉致され、体中にニコチンパッチを貼られて殺されそうになる(当たり前だがニコチンは毒薬)。ヘヴィスモーカー故にニコチン耐性があった彼はなんとか生還し、以後、喫煙擁護派のヒーローとなる……。
いずれも北米の作品だ。エンターテインメントとして良く出来ていることは勿論だが、今現在、かの禁煙先進国で、タバコをめぐる文学的想像力が必ず「喫煙問題」に収斂していくことが興味深い。
『陪審評決』では、これまで「1セントたりとも賠償に応じない」できたタバコ会社が、莫大な懲罰的賠償支払いを命じられる。このことは今の北米ではごく当たり前になった。一方、『ニコチン・ウォーズ』のラストで、愛煙家ニックは嫌煙派に鞍替えする。トークショーに出演し、「テレビの前のお子さま」たちに対して「タバコは吸っちゃだめだよ。吸うと死ぬよ」と言ってのける。本書の出版後、タバコ会社の元研究者が、タバコ会社の「陰謀」を暴露する事件が実際に起きた。いずれの作品も、現実とかなりシンクロしているのだ。
日本でも同じことが起きるかどうかは分からない。でも、そろそろ、ぼくたちの社会も喫煙について真剣に考えなければならない時期に来ているとも思う。もちろん、それを議論するのはこの場所ではない。ただ、『ニコチアナ』が読まれることで、吸うこと/吸わないことに関して自覚的な人が増えればいいなとも思っている。  
トムとジェニーの時間旅行
長年の疑問がある。「時間を超えた人間の交流」を描いたふたつの作品『ジェニーの肖像』(ネイサン、偕成社文庫)と『トムは真夜中の庭で』(ピアス、岩波少年文庫)について。前者はその後多くの作家の想像力を刺激し、同じモチーフを使った傑作が生まれた(梶尾真治の『時尼に関する覚え書』や恩田陸の『ライオンハート』など)、なぜ後者には目立った追従作がないのだろう(ぼくが知らないだけ?)。
『ジェニー』は、若き貧乏画家イーベンが、セントラルパークで出会った少女ジェニーと恋に落ちる話。最初は幼かった彼女が、会うたびに急激に成長し、一年も経たないうちに成熟した女性へと変貌を遂げる。やがて、28歳のイーベンの年齢に「追いつく」と同時に、小説としては不用意なご都合主義的海難事故で命を落とす。彼らの恋は悲恋に終わる。
一方、『トム』は、夏休み、おばさんの家に預けられた少年トムが主人公だ。彼は、真夜中に13回の鐘をならす古時計に導かれ裏庭への扉を開ける。そこには別の時間が流れる秘密の庭園が広がっており、彼は少女ハティと出会う。連夜、ハティと遊び、語り、クライマックスでは彼女と一緒に「湖水地方」の川をスケートで下る印象的なシーンが用意されている。ただ、ハティは訪れるたびに成長しており、トムが滞在を終えて自宅に戻る頃には、彼を置き去りにして大人になっているのだった。
最後には、このハティが数十年前に「実在した」少女であり、実は、気むずかしいアパートの家主、バーソロミューおばさんの若き日の姿だったことがわかる。トムは彼女が毎夜みていた夢を通じて、過去へと旅していたのだった。ラストで、トムがバーソロミューおばさんのことをまるで自分より小さな少女にするように肩に手をまわして抱擁するシーンは、ぼくが読んできた小説史上もっとも美しいものだ。
さて、傑作の名に値するふたつの作品の違いはなんだろう。たぶん『ジェニー』の方は男女間の恋愛を描いているせいで、よりエンターテインメントとして成立しやすいのだろうか。あるいは、ジェニーがどんな種類の「時間旅行者」なのかはっきり述べていないことや、安直な海難事故が描かれるラストシーンの瑕疵(かし)のせいで、後続の作家たちが「わたしならこう書く」というイメージが展開しやすかったせいだろうか。
正直、よく分からないのだが、ぼくにとっては『トム』の「子供と老人の時を超えた交流」の方に強く惹かれるのも事実だ。読者としても実作者としてもそうなのだ。だから、この系統の作品が繰り返し試みられないことが残念でもあるし、じゃ、ぼくがという気持ちもある。実は、これは「おれネタ」だなと、ずっと感じてきた。
というわけで、もしも誰もやらないなら、ぼくがやります。近い将来。でも、一体なぜこのモチーフは人気ないんだろう。理由が分かる人がいたら、教えてください。  
恐竜にたくすもの
絶滅した恐竜は作家が様々な想念を張り付けるのに格好の媒体だと以前書いた。
「ジュラシック・パーク3」の行列なんぞを横目で見ながら、恐竜文学を渉猟していたら、だんだん自信がなくなってきた。小説の中の恐竜像は意外なほど一様なのだ。例えば『恐竜文学大全』(河出文庫)に登場する恐竜は、ほとんどの場合「巨大さや力強さの象徴」「絶滅した失敗者」というふたつの要素を合成して造形されている。そして「巨大で力強い恐竜すら滅び去ったこと」に思いをはせ、それに人類や民族や文化の未来を重ね合わせるのが定番だ。
星新一の『午後の恐竜』は、町に突如現れた恐竜たちの幻が人類滅亡のカウントダウンでもあったという話。人間は死の直前、人生を短時間のうちに回想するというが、核ミサイルによる人類絶滅を目前にして、その「回想」が生命史レベルで起こる。
一方、豊田有恒の『過去の翳』は、白亜紀に時間旅行した古生物学者らが、知性を発達させた恐竜たちと出会う。かくも進化した恐竜がなぜ絶滅しなければならなかったのかという問いに発し、ラストは「人類にも絶滅するときがくるんだな」と落とす。
小林恭二の『大相撲の滅亡』は、絶滅国家である日本の国技、大相撲の歴史を、巨大化した力士たちの興亡史として描いた快作だ。巨大力士たちは何度も「恐竜のように」という比喩で語られる。
異端は、筒井康隆の『ここに恐竜あり』。恐竜が突如現れ「映画や、テレビや、SFマンガに出てくる、オモチャのようなカイジュウ」とは違うと叫びながら、殺戮の限りをつくす。定型化した恐竜像にノーを突きつける、筒井らしい反「恐竜小説」だ。
いずれの作品も「定番」の枠組をそのまま使うか、裏返したものとぼくには思える。恐竜という強烈な個性をめぐって、作家が取り得る自由度は思いのほか少なく、その創造力すら社会的に流布した恐竜像から逸脱できないということなのだろうか。
逸脱できないならいっそ「原点」に戻ろう、というのが清岡卓行の散文詩『恐竜展で』だ。父と恐竜展を訪れた子が「あれは恐竜のオチンチン?」と雷竜の恥骨を指さすところから作品は始まる。膨大な時の流れを感得し、会場を出た後、「父と子はしばらく/人間の短すぎる/生命をもてあましていたようだ。/手をつないで並木の陰を求めて歩き/昼めしに何をたべるか/どんな店に行くか/その相談が天から降ってくるまで/たがいに声を消していた」
なんか、じんわりしてしまう。
恐竜をめぐる科学的知見は日々、書き換えられている。それに応じて社会的な恐竜像も変わる。『恐竜展で』の素朴さから始まり、恐竜像の変化に棹(さお)さしつつ文学的創造力を駆使し……という方向に未開拓の恐竜文学があるはずだ。北米の作品では、ソウヤーの『さよならダイノサウルス』(ハヤカワ文庫)など思い当たるフシもあるのだけれど、さて日本ではどうだろう。  
アボリジニの憂鬱
オーストラリアを久しぶりに訪れた。アボリジニが活躍する小説の取材だ。出会ったアボリジニたちは『ミュータント・メッセージ』(マルロ・モーガン、角川書店)を引き合いに出し「あんな作品にはするな」と真顔で忠告した。
さて、どんな作品なのか。
主人公はアメリカ人女性。オーストラリアで働く彼女にある日、アボリジニの部族から集会に参加するよう招待状が届く。それに応じた彼女は街から車で四時間離れた砂漠に導かれ、身に付けていたものを全て焼かれた上で、大陸徒歩横断の旅に連れ出される。部族は自らを<真実の人>と呼ぶ。彼らの観点からは、白人は地球を破壊する突然変異(ミュータント)だ。彼らは白人に対して警鐘を鳴らすべきだと考え、メッセンジャーとして彼女を選んだ。そのために砂漠を共に旅し、部族の秘密を明かしていく……。
一見、ごく普通のニューエイジ小説だが、問題点は明確だ。描かれるアボリジニ像が不正確なのだ。例えば<真実の人>の個々人は固有名詞としての名を持たず、<道具の作り手><裁縫の名人>など役割で呼ばれる。しかし、実際のアボリジニは、役割を名とすることはない。それはむしろ北米原住民の習慣だ。<真実の人>はテレパシーで会話したり、怪我もせずにスピニフェクス(針のような葉を持った草)の上を歩く特技を持つが、本当のアボリジニはそんなことをしない……等々。
ぼく自身も、この作品を読んだ時、強烈な違和感を抱いた。あとがきで、著者は「部族に迷惑をかけないためにフィクションとして書いたが、事実に基づいている」という。しかし、情報源を守りたいなら、明かせない部分をぼかすだけで事足りるはずだ。この作品の場合、「フィクション(小説)である」という言明が、不正確さへの免罪符として使われているようで、不愉快だ。
こんなことを考えるのには、それなりの背景がある。最近、日本では、ぼく自身を含め、小説とノンフィクションを書き分ける書き手が増えている。そこに「境界問題」が生じる。小説とは何か、ノンフィクションとは何かという問題だ。小説は長い時間をかけて、「事実」との距離感を洗練させてきたけれど、それは今も妥当なのか。ノンフィクションの事実性というのは、何によって保証されるのか。ひとりの人間がふたつの既存ジャンルを往来する時、そういった問題を素通りできなくなる。しかし『ミュータント……』は、実に無批判にこの問題を無視してみせた。
おまけに「類書」とも言える『聖なる予言』(レッドフィールド、角川書店)と並んで、北米ではミリオンセラーらしい。日本でもそこそこ売れたようだ。「作品」の書き方、読まれ方が、変容しているということか。それも、悪い意味で素朴、無自覚な方向に。これじゃあ、さっきの「境界問題」を考えるだけアホってことじゃないか。なんか切ない。  
たんぽぽのお酒
ブラッドベリの『たんぽぽのお酒』(晶文社)を再読した。とはいっても、以前に読んだのが高校生の時だから、内容なんてほとんど忘れていた。印象的なシーンがいくつか頭に浮かぶのだが、それらをつなぐ物語の縦糸がすっかり抜け落ちている。
それもそのはずなのだ。ストーリーテリングなどあまり考慮されず、印象的なシーンの積み重ねでこの作品は出来ている。粗筋を説明しろと言われたら、こう答えるしかない。「イリノイ州グリーンタウンに住む十二歳の少年ダグラス・スポールディングが、一夏に体験し、感じたことのすべて」。
唯一、貫流する大テーマは「時間よ止まれ!」だ。押しとどめようのない時間をピンセットでつまみ上げ、ピン留めしておきたい。十二歳の輝かしくもほろ苦い夏を忘れずにいたい。その願いだけが横溢する。
胸が詰まるほど清冽なエピソードが次々と語られる。子供たちに自らの体験を生き生きと語り聞かせる、生ける「タイムマシン」フリーリー大佐とその死。自分に娘時代などなく、生まれてこの方七十二歳だったと認めることで過去から自由になるベントレー夫人。三十代の新聞記者と六十歳違いの切ない恋に落ちる老ヘレン。父の転勤で街を出る親友ジョージ・バフと、彼を引き留めるための「石像ごっこ」。遠い都パリや、華やかなダンスパーティなど、手の届かない体験を目の前に示して、逆に妻を悲しませるレオ・アウフマンの「幸福マシン」。タロット占い機の中に、蝋人形として閉じこめられ、ダグラスに助けを求めた(と彼が信じる)マダム・タロー。
過ぎ去った夏の日々は、実はダグラスの祖父が毎日たんぽぽの花を摘んで作る「たんぽぽのお酒」の中に保存されていた。この黄金色の夏のエキスは一日ごとにケチャップの瓶に詰められて地下室に並べられ、あとになってそれを少し口に含むだけで、その日をよみがえらせるのだ。ダグラスは夏の最後の日に地下室を訪れ叫ぶ。「まだほんとは終わっていないんだ」と……。
初読時と今との間には二十年の時間が横たわっている。読後に残された感覚は、似ているようで違うベクトルを持っている。あえて言葉にするなら、「去りゆくこの時間を逃したくないという焦燥」(初読時)と、「なんて多くのことをぼくは忘れながら生きてきたのだろうという呆れ、あきらめ」(今回)というところだろうか。
でも、ひとつ明瞭に思い出した。ぼくはかつてこの本を読んだあと、自分で「たんぽぽのお酒」を作った。アルコール分解する糖分など花には少なそうだから作中のように酵母を加えてもお酒にはならないだろうし、そもそも醸造の技術なんてぼくにはない。だから春先(そう、残念ながら夏ではないけれど)たんぽぽの花をちぎって、ホワイトリカーの中に漬け込んだ。
しばらくしてうっすらと黄褐色に色づいたそのお酒は、舌先にピリッとくるほど苦かった。それが十八歳の「春」の味だった。  
極地へ!
「冒険」や「探検」に憧れる気持ちは誰にだってあると思う。ぼくの場合それがある意味で強かった。小学校の高学年、休み時間にまで少年少女向けの冒険小説やSFを耽読していたっけ。とりわけ「宇宙」「南極」「四次元」「原始時代」には是非行ってみたいと願っていた。
このうち「四次元」と「原始時代」は、正直、どうしようもないから早々に諦めた。せめて「宇宙」か「南極」には是非、と思っていたところ、調査捕鯨船に乗って半年間、南極海を航海する仕事に巡り会った(一方、「宇宙」については、NASDAが公募した宇宙飛行士の試験に応募して、見事に落ちた。応募資格を満たしていないし)。
取材者として南極海に行き、その後で航海記を上梓して、ふと疑問に思った。この体験を小説として結実させてもよかったはずなのに、なんで自分はそれをしなかったのか。半年間の航海という非日常的な体験をもとにしたアイデアはいくつも出てくるが、それを小説としてまとめ上げる縦糸が見いだせない。構想力の問題なのかもしれないが、南極での冒険を嘘話(フィクション)として描くというのは、実は困難なのではないか。
南極関連の本は比較的読んでいる方なのだが、実際、「正統南極文学」とは、間違いなくノンフィクションなのだ。例えば、南極点からの帰路全滅したスコット隊の居残り隊隊員による手記『世界最悪の旅』(ガラード、小学館)や、南極海で船ごと氷漬けになった探検隊が17ヶ月間の苦闘ののち無事生還する『エンデュアランス号漂流』(ランシング、新潮文庫)など。こういった強烈な実話をぶつけられると、小説にできることはおのずと限られてしまう。そういえば、「最後の無頼派」檀一雄がわざわざ捕鯨船に同乗して書いた『ペンギン記』だって、小説ではなく「日記」文学だったし。
で、非常に前置きが長くなったけれど、ひとつ例外に思い当る。綱淵謙錠の『極──白瀬中尉南極探検記』(新潮文庫)だ。もちろん、題材は白瀬中尉の南極探検にとっている。史料にとことん忠実なタイプの歴史小説で、そのこだわりようは「小説」と知らずに読んだ読者の99パーセントがノンフィクションだと誤解するほどだ(たぶん)。しかし「小説」なのである。ぎりぎりまで事実に寄り添い、最後の最後でフィクションへとテイクオフする。史料からは直接は浮き上がってこない人物造形、ダイナミックな人間関係を小説的に構築しているのだ。
滅茶苦茶面白い。単なる評伝ではこうはならない。探検の途中で造反する探検隊の書記、多田恵一や、白瀬の前半生のハイライトである北千島での二度の越冬を「演出」した郡司大尉など、裏の主役が何人もいて、白瀬に結晶する極地を目指す純粋なベクトルを際だたせている。こうしてみると、小説の「方法」は頑強だ。その一方で「史実」から離れがたいジレンマはこの分野には確かにあるのだけれど。  
荒野の叫び声
生き物をめぐる「ネイチャーライティング」の仕事をしてきたのに、ジャック・ロンドンをまともに読んだことがなかった。せいぜい子供向けに編集された『荒野の呼び声』くらいだ。そこで、最近、岩波文庫の完訳版をコートのポケットに忍ばせておいたのだが、読み始めるとこれが興味深く、新潮文庫の『白い牙』へと一気に読みつなぐことになった。
『荒野の呼び声』は、南国の農場で飼われていた雑種犬が、ゴールドラッシュにわくカナダに売り飛ばされ、橇(そり)犬として使役されるうちに内なる野性に目覚める物語だ。主人が「インディアン」に殺されたことで人間界との絆を失い、やがてオオカミの群れのリーダーとして君臨するようになる。
一方『白い牙』は、それとは逆に、犬の血をひくオオカミが野性を捨てて飼い犬になるまでを描く。飢饉の森をなんとか生き延びる優秀な野生生物だった彼が、人間に囚われ、闘犬として見せ物にされるうち、良き飼い主と出会う。やがて、主人への「愛」の感情をみずから発見し、その後は「人間との絆」を再構築して「名犬」への道をまっしぐら、ということになる。
物語としてよく出来ている反面、著者はあまり生き物に詳しくないのではないか、とまず思った。例えば、犬は視覚よりも嗅覚の生き物だとされるが、ロンドンの描写は徹底的に視覚重視だ。『白い牙』の「主人公」は、乳飲み子だった頃、巣穴の外の世界を「光の壁」の向こう側と認識する。視覚によって世界を構成し、嗅覚はほとんど使わない。一方、『荒野……』では、ヘラジカが群れをつくらない時期に群れで登場したり、「主人公」が本来のイヌ科動物としての習性から離れて、単独でクマに立ち向かっていったり、彼らの「野性」はかなり「いい加減」に描かれている。
別にこれは良いことでも悪いことでもなくて、こういう作品の背後には、それを全然気にせずに楽しんだ読者がたくさんいた、という事実を示すだけだ。ロンドンの作品群が書かれた20世紀初頭のアメリカは、フロンティアが消滅して、荒野、あるいは原生自然には簡単には出会えなくなっていたのだろう。だからこそ、その「呼び声」に鋭敏に反応し、失われたものへの憧憬を抱く読者がいたのではないか。その時、荒野のイメージは科学的に正確であるよりも、むしろ「それらしい」ことが大切だった。
すると『荒野……』の成功の後、『白い牙』が書かれたのは「自然には憧れるが、結局は西洋文明が勝つんだよね」という読者の気分に寄り添うためだったとも思えてくる。なにしろこの作品中、犬の視点から、白人は「神」として描かれているほどだし。
「自然」を描くことは、実はその時代、その文化なりの自然観を描くことなのだ。ロンドンの作品を読むと、それが際だって見えてきた。椋鳩十や戸川幸夫を今、読み直したら、ぼくらの国の自然観についてきっと別の発見があるだろうな、と思う。  
ハリーと指輪
ハリー・ポッターについて、書評で「現代に則した魔法物語」と書いたことがある。ゲーム感覚でさくさく進むエピソードや、ウェブサイトを思わせる「日刊予言者新聞」など、「今風」の要素が作中に溢れていることが第一の理由。それに加えて、ハリーの世界で描かれる魔法が、とことん「世俗っぽい」ものだということが大きい。
『指輪物語』と比べてみればよい。「中つ国」では、魔法は限られた種族にだけ許された神聖な能力だ。古来より伝承される叡智であり、古文書などから発掘されることはあっても、新たに発明されはしない。一方、「ハリー」の世界では、近代の科学技術に似たテクノロジーとして魔法が描かれる。学校で学習でき、研究によって革新もできる。例えば、ホグワーツ校の校長ダンブルドアは、「ドラゴンの血液の十二種類の利用法の発見」で有名だし、錬金術の共同研究にも手を染めている。作中で大活躍する「ふくろう便」のネットワークは、ある魔法使いによって開発されたものだ。発見と開発。非常に「科学技術」的なのだ。
「ハリー以前」のファンタジー作家は、こういう世界観が「あり」だということをはっきりと意識していなかったのではないだろうか。それを意識的かつ徹底的にやったのが作者のローリングであり、その結果、魔法ファンタジーの敷居がぐっと低くなった。現実世界そのものが徹底的に世俗化した二十世紀末、「世俗の魔法」を描いた作品が、大いに受け入れられたというのは、とても納得がいくことなのだ。
その一方で、というか、だからこそ、「ハリー」は、世俗化を拒む人々、たとえば原理主義的なキリスト者には不評だ。アメリカや台湾などで、過激な福音派が焚書(ふんしょ)にしたという話も聞く。最近のニュースでオーストラリアのある地域の学校図書館から「ハリー」が追放され、「指輪」はそのまま残された、というものがあった。追放運動のスポークスマンは「指輪には絶対的な存在への畏敬があるが、ハリーにはない」ことを理由に挙げていた。さもありなん。
今、ぼくらは二十一世紀を生きている。同時多発テロのせいで、二十世紀の「世俗化」という現象が世界のほんの一部、つまり欧米やアジアの一部で起きたごく地域的な現象であることを徹底的に思い知らされたばかりだ。小説が多く読まれることによってその文化を代表する立場に立つのだとすれば、「ハリー」は期せずして「世俗化」が起きた「地域文化」を象徴する存在になってしまったのではないか。
今後「ハリー」が、世界的に読まれれば読まれるほど、その「世俗」の部分が強調され、作品として微妙な立場に立たされることになる気がする。例えば熱心なムスリムは「ハリー」をどう読むだろう……。穿(うが)ち過ぎかもしれないが「ハリー」が、かつての「指輪」とはかなり違った形で、単なる「娯楽」では済まされない問題作に化けつつあるように思えてならない。  
すばらしい新世界
ユートピアとアンチ・ユートピアは、コインの表裏の関係にある。オルダス・ハックスリーの『すばらしい新世界』(講談社文庫)を読むとつくづくそう思う。
時はフォード紀元六三二年。世界で初めて「大量生産」を成功させた自動車王ヘンリー・フォードを偉人として称えるこの社会では、大量生産/消費が徹底的に是(ぜ)とされる。なにしろ人間だって大量生産されるのだ。「人工孵化(ふか)・条件反射育成所」のシーンでは、「壜(ポツト)」と呼ばれる人工子宮で人間が一括生産され、規格通りに仕上げられる様がじっくりと描かれる。「完成」した人間たちは、自分が割り振られた社会階層が最良であると感じるよう条件付けられているため、不満もなく、まことに幸せな人生を送ることができる。
多くの読者はこんな社会には断固として住みたくないだろう。ぼくも絶対に嫌だ。にもかかわらず、ふと思うのだ。これって本当に唾棄すべき世界なのだろうか、と。
現実世界では、テロや地域紛争で、何千、何万もの人々が命を落としている。飢餓で死んでいく子供たちの数はそれをさらに凌ぐ。社会が豊かなら豊かで、今度は心を病む人々が増える……。その一方「新世界」には、少なくとも戦争も飢餓もないようだし、何よりほとんどの人々がハッピーなのだ。パブロフの犬のように条件付けられたとはいえ、自分に適した仕事があり、余暇にはスポーツや、フリーセックス、安全なドラッグなど、楽しみが目白押しだ。現実世界よりずっとましじゃないか。
結局、ぼくたちがこの「新世界」に反発するのは、ただ一点「自由」の問題に尽きる。作中の「パブロフ人間」たちは「自由」を剥奪されている。「自由な個」として「近代的自我」を発達させてきたぼくらには、到底、受け入れることができない。
いや、それは本当だろうか。現実のぼくらはどれほど自由なのだろうか。自由意志だとされるものが、何者かに操作されたり条件付けられたりすることはないだろうか……。例えば生まれ育った文化から自由になることは難しいし(これはまさに「条件付け」だ)、消費への欲望だってメディアを通じてかき立てられることが多い。ぼくらは自分で思うほど自由ではない。だから「新世界」を逆説ではなく本当の理想郷として読んでしまうことだって充分可能だ。「コインの裏表」の所以(ゆえん)。たぶん、これって近代小説の永遠のテーマのひとつだろう。
著者は、チャールズ・ダーウィンの盟友、トマス・ハックスリー卿の孫だ。進化論の影響を受けて登場した優生学、マルサス主義、共産主義などを踏まえた上で、執筆当時世界を席巻しつつあった「大量生産/消費文明」を押し進め、「新世界」を創造した。今日的な問題としてこの主題を変奏するなら、「情報文明」の果てにある「新・新世界」を考えることになるのだろうか。とすると、オーウェルの『1984』も再読しなければならないと気になっている。  
目指すは人外大魔境
大学一年生の時に古書店で、桃源社版の『人外魔境』(小栗虫太郎)を手に入れた。「太田螢一の人外大魔境」というアルバムを、高校時代に気に入って聴いていたので、その「ネタ本」としてチェックするつもりだったのだが、いやあ、自分でもびっくりするくらいはまった。
この作品が発表された昭和十年代には、まだ世界中に「未踏地帯(テラ・インコグニタ)」があったのだ。第一話「有尾人」の冒頭で、いきなり三つの秘境が示される。南米アマゾン奥地の「神々の狂人」と呼ばれる地域(巨大な食肉植物に護られたガス地帯)、グリーンランド中心部の「邪霊の棲所」(氷の奥から不思議な力を感ずる場所)、ヒマラヤ山中にある「蓮中の宝芯」(理想郷であるが、誰一人辿り着いた者がいない)だ。そしてこれら三大秘境でさえ及びもつかない場所が、中央アフリカ、コンゴ北東部にある「悪魔の尿溜」であるとして、物語が始まる。これだけで、ぼくはぞくぞくしてしまう。「有尾人ドド」に導かれてさまようジャングルの旅は、もう自分が命知らずの探検家になった気分だ。
剛腕系の作家で、これでもかというくらいのご都合主義で話が進む。でも、それが問題として感じられないほどの「熱」がある。地球が今よりずっと大きくて、冒険が本当に冒険だった最後の時代だろう。著者自身の筆に籠った熱はもちろん、それを読んで胸を熱くしたであろう少年少女たちの熱を勝手に想像して(作品群が成立した頃の「少年少女」はぼくの父親の世代である)切ないほどぐっとくるのだ。
ぼくは時々、「生き物」をめぐる取材で、いわゆる「奥地」や「秘境」の類いを訪ねることがある。時には単身で冒険めいたこともするのだが、これらの作品を読んだあとでは、自分はなんと情緒のない薄い冒険をしてきたのかとつくづく思う。
十三話あるうちで、お気に入りは「畸獣楽園」をめぐる第六話。辿り着いたものの、ミイラ化した畸獣たちの屍体が累々と連なるラストシーンは壮絶を通り過ぎて神々しさをたたえる。アマゾン最奥部の秘境を衝く第九話「第五類人猿」も、南米の新世界猿の中にも類人猿がいるという当時としても荒唐無稽な仮説から出発して大風呂敷を広げてくれて鮮やかだ。きっと少年少女たちは、ハラハラドキドキ、感涙にむせんだに違いない。
最終話「アメリカ鉄仮面」になると、ニューヨークの自然科学博物館と契約を結んでいた探検家、折竹孫七がアメリカ海軍少将を批判し、ほとんど喧嘩をするように職を辞すなど、太平洋戦争の開戦を間近に控え風雲急を告げる日米間の緊張をそのまま反映する展開となる。物語も成層圏を飛ぶ新型飛行機をめぐる国際謀略小説に傾斜し、未踏地帯がそのまま主題でありえた秘境小説の最後のしあわせな時代に、終わりを告げるのだった。  
1984年
一九八二年四月から約一年間、「身分不詳」だった時期がある。高校は卒業し、大学にはまだ入学せず、予備校にも通わなかった。学生証などIDになるものを持たないだけで、急に自分が「何者でもない」気がして、慌てて自動車免許を取りに走った。
一九八四年には、大学生になっていた。東京大学理科2類。いわゆる「トーダイセイ」である。学外で会う人に「エリート」と呼ばれた。卒業後、放送記者なんてヤクザな仕事に就いてからでさえ言われ続けた。さすがにフリーになった今は解放されたけれど、ホントおれってエリートだったのかよ、と今も思う。そのたび「トーダイセイ」であることの窮屈さがよみがえってくる。
ジョージ・オーウェルの『1984年』(ハヤカワ文庫)を、1984年に読んだ多くの読者のひとりだったぼくは、当時の自分に引き付けて作品を理解した。IDがないのも「エリート」であるのも、同じくらい面倒だ。社会から弾かれる寄る辺ない感覚と、その場に立つだけで自動的に管理され、自らも管理せざるをえないような立場に追い込まれていく閉塞感、いったいどちらが耐えやすいものだろう。ずいぶん後になって、外務官僚になった同窓生が人事交流先の農水省から身を投げた時も、ぼくはそのことを思った。
今、読み返す『1984年』はリアルだ。この世界には人々のプライバシーなどない。「テレスクリーン」と呼ばれる情報端末が、常に人々をモニタし、交わされた会話はもちろん、個々人の表情の変化すら逃さない。異端の考えを持った者は、素早く拘束される。そして、徹底的な思想教育で「偉大な兄弟」への愛に目覚めた上で、喜びのうちに処刑される。寄る辺ない者が存在し得ず、すべての者が、曖昧さの欠片(かけら)もないIDを持つ究極のアンチ・ユートピア。
ここでテレスクリーンを「インターネット」と読み替えるのはたぶん正しい。政府が成立を目指している「個人情報保護法案」は、権力の側に偏した情報管理の果てに、テレスクリーン相当の個人情報管理さえ射程に置いている。人々は「保護」されるべきプライバシーのために、プライバシーそのものを失うことになるかもしれないのだ。
じゃあ、管理者として想定される「偉大な兄弟」って誰だ。法を運用し情報を一元管理する政府や、警察の構成員ですらそうではない(仮に法の直接的行使者であったとしても)。作中でも示唆される通り、「偉大な兄弟」は一人の人間だったり組織だったりすることが不可能なのだ。ただ、そいつはテレスクリーン状監視システムが可能になった社会で、必ず仮構される想定上の存在として、「実在」するだけだ。
ぼくたちはこれから先、我らが内なる「偉大な兄弟」に対して、ゲリラ戦を戦っていくことになる。『1984年』を座右に置きながら、「IDを持たない」寄る辺ない時代と「実効なきエリート」だった自分のことを思いだし、その間隙に、この時代にも有効な「プライバシー」や「自由」を、ぼくは見出そうとするだろう。  
集中治療室のアン?
深夜の病院の集中治療室で書いている。進行した甲状腺がんの手術を受けた母の付き添いだ。声帯が半分麻痺した嗄(しわが)れ声で「暑い、暑い」と訴えるのが切なく、ようやく眠りについてほっとしたところ。
十時間の予定で始まった手術が終わるのを待ちながら、読んでいたのは、場違いかもしれないが松本侑子訳の『アンの青春』(モンゴメリ・集英社)だった。描かれるのは十六歳から十八歳にかけてのアンの成長。クィーン学院を卒業した彼女は、村に帰り二年間の教員生活を送る。自家製化粧品で鼻を赤く染めるドジを踏んだかと思えば、教壇では理想に燃える女教師でもある。
昔に比べてエキセントリックなところは減り、現実と折り合いをつける術を身に付けた。行動範囲が広がるにつれ、作品は彼女の内面の成長を追うだけでは収まらなくなり、周囲の人々をめぐる悲喜こもごもの物語を包み込む。親友ダイアナの婚約、口うるさいリンド夫人の夫の死、アンの「心の同類」ミス・ラヴェンダーの二十五年越しの恋の成就……等々。
これが手術終了待ちの読書として、妙にはまった。それは駆け付けてくれた母の二人の「心の同類」のせいだ。彼女達はぼくが知らない、母の顔を知っている。家族控え室で『アンの青春』と同時進行で語られる抱腹絶倒のエピソードの数々ときたら!
明石の進学校で学年一位の成績を取りながら進学をやめたのは「失恋したので気分を変えたかったから」とか、息子の名前を「裕人か隼人か」と思い悩んだ美しい星空の夜のこととか、頭を切って大出血した老婆を血みどろになりながら助け出した冒険譚とか。それぞれ夫と死別した「同類」達を支えてきた母の「思いやり」とか。彼女達の口から聞くと、不思議と心にしみ入るものがあり、常に前向きに進む生き方の中で、自分でも意図せぬまま「与える人」だった母が、アンと似た存在なのだとぼくは初めて気付いた。
などと書き連ねていると、ベッドの母が急に目を開けて「疲れてるんだから、早く寝なさい」と促す。「ごめんね迷惑をかけて」とも。こんな時くらい甘えてくれてもいいと思うのだが「人に迷惑をかけない」でやってきたという強烈な自負故それができない。「同類」の一人にも、麻酔のさめないベッドの上から「犬の散歩の時間じゃないの」と気遣っていた程だ。なるほど母をアンと重ね見たのは息子のひいき目だ。むしろ、変にリアリストで、強固な自己イメージのせいで不自由になりがちなマリラ・カスバートの方が似つかわしい。
「物書きはなんでもネタにするので、迷惑どころか大歓迎」とぼくは彼女の耳もとで言う。この原稿を読んできっと母は怒るだろうが、それは先の話。とりあえず、現実の世界は、アン的なものとマリラ的なものとの折衷でできており、アンの物語とマリラの物語は裏表でひとつなのだなと、母の寝顔を見ながら思う。  
やつらは鼻で歩く
『鼻行類──新しく発見された哺乳類の構造と生活』(シュテュンプケ・思索社)は、一九四一年太平洋で発見され、一九五七年、核実験によって消滅した「ハイアイアイ群島」の特異な哺乳類、「鼻行類」について報告した論文だ。鼻で歩き、鼻で獲物を捉え、時に鼻で飛行する彼らの体の仕組みや生態が、不幸にも核実験の犠牲になった研究者の論文によって明らかにされる。
報告される個々の種は目を瞠(みは)るものばかりだ。群島では他の哺乳類がおらず、鼻を様々な用途に使うことを覚えた彼らが、見事に適応放散し幅を利かせているのだった。
代表的な鼻行類、ナゾベーム類は、いくつにも分れた脚状の鼻を使って逆立ち歩きする。トビハナアルキの仲間は細長い鼻をバッタの脚のように折り曲げて跳躍するし、ダンボハナアルキはさらに耳をばたつかせてハチドリのように舞う。鼻汁状の粘液で昆虫を捕まえるハナススリハナアルキというのがいるかと思えば、鼻が変形した「花」で昆虫を引き寄せるキンポウゲハナアルキもいる。さらに鼻行類の進化の極致と思われるのが、ジェットハナアルキだ。体内で発生したメタンガスをノズル状の鼻から噴射して、ロケット飛行機のように飛行する。
S・J・グールドじゃないが、なんと素敵な生き物(ワンダフル・ライフ)たち!と喝采したくなる。彼らが人類の「過ち」のため姿を消してしまったのが残念でならない。まったく我々人類の業の深さは計り知れない……。
などと思った人が、一九六一年の原著の刊行当時、かなりいたようなのである。この本の中のどこを探しても、「ハイアイアイ群島」が架空のものだとは示されていない。論文もそれらしい専門的知見に満ちているし、図版も精密で美しい。徹頭徹尾「本物らしい」のだ。ここまでやってくれるなら、読者の間にも鼻行類を実在のものとして楽しもうという機運が生まれてきても不思議ではない。
その結果、動物学者でもある本物の著者(シュテュンプケは架空の著者)の元には、著書を読んだ同業の研究者たちから「真面目」なコメントが続々寄せられ、後には鼻行類をテーマにした講演会が開催されたり、進化論の教科書に掲載されたり、ちょっとした鼻行類ブームへと発展していく(『シュテュンプケ氏の鼻行類』ゲーステ)。今日でもこの本を予備知識なしで読む幸運に恵まれた人は、著者の仕掛けに「え?これホントなの?」と戸惑いつつ、最後にはニヤリと笑いながら、親しい友人に「ねえねえ、こんな動物がいたんだって」と紹介したい欲望に囚われること間違いなしだ。
ぼくが最初に読んだのは訳出の直後で、やはりひどく興奮して人に伝えたくなった。本書で紹介されているドイツの詩人の「ハナアルキの詩」に刺激されたりもして、「鼻行類」の歌を作り、自宅スタジオでバッチリ録音したものを人に聴かせて回ったのは言うまでもない(我ながら変な奴!)。  
ピッチ上の眼差し
もうずっと昔の出来事のような気がする。二〇〇二年六月のぼくは、我ながらおかしかった。寝ても覚めても頭の中はサッカーのことばかり。事前販売には全部ふられて、チケットは手元に一枚もなかったのに、結局は決勝も含めて三試合ほど足を運んだ(必殺!現地で譲ってもらう作戦)。熱気に包まれたスタジアムに身を浸す幸福に酔いながらも、あのピッチに立つってどんな気分だろうと考えていた。その時、『龍時(リュウジ)01-02』(野沢尚・文藝春秋)を手に取って、見事にはまった。
ストーリーはシンプルだ。ユース時代から組織重視の日本サッカーに身を合わせることができず、単身スペインに渡った無名の高校生、志野リュウジが、底辺に近いユースチームから這い上がりリーガ・エスパニョーラのトップチームにデビュー、バルサ相手に同点ゴールを決めるところまでが描かれる(続編も予定されているらしい)。スペイン行きに際しての家族との葛藤、異国での慣れない生活、チームメイトとの対立とやがて芽生える友情、サッカー選手についてまわる国籍問題……。おおよそ考えられる要素がうまくからめられて、程良い「お話」になっている。でも、なんといっても、本書のウリは、サッカー選手がピッチレベルで見たり、感じたりすることを、技術的な部分も含めて「逃げ」を打たずにしっかり表現しようとしているところだ。
最初のページで、主人公リュウジが、味方からのサイドチェンジを受けてボールを止めるシーンがある。スタジアムに縁取りされた空を飛んでくるボールが描く弧。右足インサイドでそれを迎える時に軽く足を引き、ぴたっと吸い付くような感触。中学生までサッカーをやっていたぼくにもこの感じくらいなら分かる。ただ、眠っていた感覚だった。それが呼び起こされて、一気にこの小説の描写の質への信頼が芽生えた。
あとは試合のシーンのたびに、ピッチを走り回る錯覚にとらわれた。ボールを受けた時に視界に入ってくる味方や敵の動き、ディフェンダーに対してつっかけていく時の高揚、ボールを持っていない時の敵との駆け引き、読んで楽しい華麗なフェイント(リュウジ君は実にテクニシャンなのです)、そして、ゴールを前にして「シュートコースが見える」というあの感覚……。中学生でやめずにもう少しサッカーを続けていれば、こういうプレイの感覚ってもっと理解できたのかなあと思ったり。
ぼく自身の分類では、この作品は「ベタな小説」に属する。強烈なギミックがあるわけではなく、ただサッカーというテーマがあって、そこで活躍する者から世界がどのように見えるのか的確に伝えてくれるのがウリだという点で。で、上質な「ベタな小説」は人を高揚させ、モティベートする。
ああっ、まずい、身の程をわきまえずにサッカーをまたやりたくなってきた。それに、いずれぼくもサッカー小説をなんて……大それたこと考えちゃったり(ちょっと)。  
ユビキタスは神?
IT用語で「ユビキタス」という言葉をよく聞くようになった。元々はラテン語で「神の遍在」を意味するらしい。目下、ユビキタス・ネットワークといえば「どこでもインターネット接続できる環境」、ユビキタス・コンピューティングといえば「身の周りのあらゆるものにマイクロプロセッサが搭載され(それこそ、ゴミのひとつひとつにまで)相互に通信しつつ人間の生活を支援するシステム」ということになる。
新語のくせ、どうも既視感があった。
理由はフィリップ・K・ディックの『ユービック』(ハヤカワ文庫)。『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』と同時期に書かれた(一九六九年)、中期ディックの代表作だ。
舞台は、超能力者たちが人々のプライバシーを侵害する未来社会。主人公グループは、超能力者の力を封じ込める力を持った「不活性者」たち。これってネットによる個人情報漏洩が問題になっている「今現在」と重なる。作中で不活性者は自分の仕事を「人類のプライバシーを守る警察官」と述べる。この構図を良心的ハッカー対覗き屋クラッカーというふうに読み替えることも、まあ無理ではない。
ただクラッカーたる超能力者たちは強力だ。物語の冒頭近くで、主人公グループは超能力者陣営の陰謀であっけなく殺害されてしまう。以降、残存意識を相互に接続されて出来上がった極めてネット的な「半死」の世界を彼らは彷徨(さまよ)うことになる。
ここで登場する「ユービック」は、単なるスプレー缶だ。ただ、この世界独特の「時間退行」現象のせいで、人々の心身が摩耗し、崩壊していくのを引き留める唯一の方法として提示される。ディックによれば、ユービックとは、ネットであり、演算能力そのものであり、つまりは神だというのだ。彼にとって、「神は遍在する」のではなく「遍在こそ神」であるらしい(だからこそスプレー缶などというありふれた形をとる)。とすると、現在言われるユビキタス環境も、すなわち神、ということになる。
最終章では、現実世界そのものが崩壊し始める。我々がリアルだと思ってきたものも、実は半死者の世界と変わらないというのがオチ。これもオンラインRPG体験などを通して、今多くの人たちが「現実って何?」と問い直しているところではないか。
現実崩壊はディックのほとんどすべての作品に顔を出す彼の十八番だし、遍在する神のモチーフは、むしろ最後期の『ヴァリス』や『聖なる侵入』で発展させられる。つくづくディックは今この時代にも新たに読み直されるべき作家なのだと再確認。まあ、そんなこと分かってるよという人も多かったらゴメン。確かに「電気羊」の映画版「ブレードランナー」(一九八二年公開)は、今も電脳系映画の最高峰であるわけだし。でも、ぼくには、まだ掘り尽くされていない鉱脈が、まさにこのタイミングで向き合うべきものとしてディックの作品群に眠っている気がしてならない。  
もうひとつの巨塔
「昭和のベストセラー再読キャンペーン」を始めた。第一弾は新潮文庫版の『白い巨塔』(山崎豊子)。一九六〇年代に発表された作品。こういったものを今読んでみれば二十世紀の最後の何十年かに、ぼくたちの社会が歩んだ道が所々で透けて見えてくるかもしれない、というのが目論見だ。
感想その1。自分のこれまでの人生もすでに「歴史」なのだと実感。
社会というのはその中に生き、同じリズムで呼吸をしていると分からないものだが、実は恐ろしくダイナミックに変化し続けている。自分自身が生きてきた時代の最初の方と最後の方を比較するだけで、え、こんなにも違ったの?と驚かされる……。
例えば、作品中の患者と医師の関係。圧倒的強者である医師は、患者に対して一方的に救済を与える神そのものだ。患者は自分で治療方針を決められないだけでなく、単に医療とはそういうものとして「全部おまかせ」とばかりに身を投げ出す。むろん癌の告知などもってのほかで、気がついたらベッドに横にされて手術されている感覚だ。消化器癌の専門家で本作のダークヒーロー財前五郎が胃癌に倒れた時ですら、二重カルテをつくったりX線写真をすり替えたりして、病名を隠しおおせるほど。
感想その2。これは、その1と正反対で、あまりにも変化しないことが、この世の中にはある、ということ。
ぼくにとって印象的なシーンがある。「正義」側のヒーロー里見脩二が、ある癌の判定法に対して、厳格な病理学者、大河原教授に意見を求める。その方法では「九割以上の患者に確実な癌反応を得ることができる」のだが、教授は「追試では八割程度だからまだ不確実」と切り捨てる。
たったそれだけなのだが、読む人が読めば分かる。実はこの会話は著者だけでなく、査読したであろう医師が、他国では基礎医学の分野で病理学と並んで重要な位置を占めている「疫学」を軽視しているか、あるいは気にもかけていないことを示している。紙幅がないので理屈は飛ばすが、我が国の医学界の病理学重視、疫学軽視の傾向は伝統的なもので(板倉聖宣の『模倣の時代』参照)、作中でも大河原教授が「医学は病理学に始まり病理学に終わる」という信念を幾度も述べ、それが大学病院の医の原点として捉えられている。
あの頃も、今も同じなんだなあ、という感じ。疫学不在の日本医学は、『白い巨塔』の時代には、水俣病をはじめとする公害病の被害者を救済できず数々の悲劇を呼んだ。一方、二十一世紀の現在、喫煙の害を、国やタバコ会社が「まだ未解明」と言い張ることができる世界的に希有な社会を維持し、環境ホルモンやダイオキシン、病原性大腸菌などの問題にも「役立たず」ぶりを発揮する。本当に何も変わっていないのだ。
著者が問題にした権勢欲にまみれた閉鎖的な医学界の構造について読みながら、もうひとつ別の「巨塔」が見えてくる、そんな読書体験であった。  
「新世界2」と「新世界3」
四月号の本コラムで紹介した『すばらしい新世界』(ハックスリー)を触媒にして、自作が意外な方向へ読み替えられる面白い体験をした。「読み替えた」のは国際大学GLOCOMの公文俊平所長。読書会の課題に一年ほど前に上梓した拙著『The S.O.U.P.』(角川書店)を選ばれて、お招きいただいた際、この作品が「『すばらしい新世界2』に至る暗い社会への入口を描いたものだ」との指摘を受けたのだ。
ユートピア/ディストピア論というものは、大抵、国家/企業/共同体のいずれかが権力の中心として描かれるが(例えば『1984』は国家によるディストピア小説)、ハックスリーのヴィジョンはもう少し洗練されていて、開明的君主と企業の連合体が支配する「新世界」を描いている。これが公文氏の言う「新世界1」。
その先にある「新世界2」はというと、「1」のネット社会版のようなもので、国家/企業の連合体が密やかに水面下で民衆を支配する。ネット社会では国家が企業を支援、あるいは規制することで、自分たちに都合のよい基幹的ネット・プログラムやインフラを普及させることが可能だ。ネットを「パノプティコン」として活用する社会が、国家と情報企業が手を結ぶことで十分想定できるのだ。『The S.O.U.P』には、企業を手懐(てなず)けた国家と、「非政府」共同体であるハッカーたちとの対決がクライマックスで描かれる。その意味で「新世界2」の入口でのせめぎ合いを示唆している、ということになる。
なるほどと納得したのもつかの間のこと。公文氏は矢継ぎ早に、「次は『新世界3』を描いてほしい」と続けた。
彼の考えでは、「新世界3」は、第三の主体、共同体が中心になって、時に企業や国家と手を結びつつ牽引する社会だ。その「中心」として、地域共同体を想定してもいいし、NGOでも同好の士でもよい。ネット社会では「上からの監視(サーヴェイランス)」だけでなく「下からの監視(スーベイランス)」も比較的容易だから、社会を駆動する三つの主体の中で最弱者になりがちな非国家非企業勢力が「中心」にのし上がる事態も想像し得る、ということだ。『The S.O.U.P』との関わりで言えば、ハッカー共同体が国にも企業にも属さない勢力として力を得れば、それが「新世界3」のひとつの具体例になる。拙著はこの世界が新世界「2」と「3」どちらに転ぶのか、決定の瞬間を描いたものとも読めることになる。
ドッグイヤーの昨今、「2」と「3」のせめぎ合いは一年前よりもはっきりと姿をあらわしている。ちょっと出来が悪い例だが、我が国の住基ネットは「2」を思わせるし、公文氏が注目する“remote-i”という会社は「3」の基本コンセプト「下からの監視」を支援する技術を普及させようとして話題になっている。遠い未来のSFではなく、現代社会の問題として小説が課題とすべきテーマが確かにここにある。
 
書評・トラウマ図書館

 

そしてみんな文学少女になった
さる有名な高級フレンチレストランで、食事中に恋人と痴話ゲンカになり、ムカついたのでテーブルごと派手にひっくり返してやったという女性がいた。美女ならではの特権的なエキセントリックさ。
普通できないよね。せいぜい石板で相手の頭をカチ割るくらいだよね。男友達に話すと「何、それ」。「何って、教室で赤毛をからかわれたアンがギルバートに怒りを爆発させた瞬間よ」「ギルバートって」「えっ、『赤毛のアン』読んだことないの!?」「ない」「じゃあ、『腹心の友』とか『空想の余地』とか言ってもわからない?」「全然」。
話が通じないのは淋しい。意を通ずる者同士として景気よく、気の利いた合いの手やお囃子なんぞを入れてほしかったのに、さびれた岸辺に流されてしまう。
どの世代まで有効かわからないが、『赤毛のアン』(L・M・モンゴメリー著/掛川恭子訳/講談社文庫)は、少なくとも私のような一九五〇年代生まれの子供にとっては少女時代のバイブルだった。孤児院からやってきた十一歳のアンが、持ち前の明るさと空想力に富んだお喋りで、モノトーンだった独身兄妹の暮らしに潤いと笑いを与えていく。「雪の女王」「恋人の小径」「スミレ谷」「輝く湖」など、アンが木や森の窪地に与えるロマンティックなネーミング。いちご水やショウガ入りビスケットやレモンパイなど、想像するしかない未知の食べ物も外国に憧れる少女達を刺激した。
日本の少女達は、アンによって人格形成の基になる、大事な三要素も学んだと思う。腹心の友=生涯にわたる親友を持つことの豊かさ。ありふれたものに想像力という魔法をかけることで、現実が数倍も素敵になること。想像力や理想の世界は誰にも奪われない自分だけの世界で、矜持をもっていいのだ、ということなどを。モデルになったカナダのプリンス・エドワード島は、私のような少女の干物、もとい、元少女という日本からの巡礼者が絶えないと聞く。
ああ、それほど影響力のある名作を読んでいない男がいるなんて。先の彼の無知をともに嗤おうと、共通の知人に告げ口してやった。「俺、知ってるよ。赤毛でニンジンと呼ばれていた女の子が(1)、裕福な家の養女にもらわれ(2)、途中で現れた金持ちの陰の支援を受けて勉学に励み(3)、医者になった幼馴染みの男と結婚(4)、大家族となって幸せにくらしましたとサ(5)って話だろう」。もっと、さびれた……。
本に関わる、私やあなたのトラウマをご紹介する「虎馬圖書館」。文学上の類型的人物像も含め、この連載がマヌケな虎やトンマな馬にならないための、お手軽手引きになれれば幸いです。
【男を磨く基礎知識】
(1)赤毛のニンジンはルナールの『にんじん』。しかも男の子。(2)つましい農家。(3)『足ながおじさん』。(4)それがギルバート。(5)大家族&幸せは正解だが、全十巻中八巻目、アンの娘が語り手になる『アンの娘リラ』などは、第一次大戦の暗い影が基調に。  
ジュリアン・ソレルの遥かなる遺伝子
「ジュリアン・ソレルとは何者ぞ?」というご所望をいただいた。とりあえず「上昇志向の強い田舎者です」とお答えしたが、「ジュリアン・ソレルは日本で、財前五郎として蘇った男です」というのは、どうだろう?そう考えると財前五郎が登場する『白い巨塔』(山崎豊子著)の題名も、『赤と黒』(スタンダール著)との縁戚関係をほのめかす色名シリーズに思えてくる。ちなみに白は医師の着る白衣、『赤と黒』の赤は軍服で、黒は僧衣を象徴している。
ジュリアン・ソレルと財前五郎の共通点は、貧しい生まれだということ、強烈な成り上がり精神とそれに見合う頭脳や才覚を持ち合わせていること(ジュリアンは神学生になる前から聖書を全部暗記している!)、階級が上の女性を手中に入れて権力内部への通行手形を手にすることなどだ。でも小説が向かう方向は大きく違う。生臭い権力闘争小説である『白い巨塔』に対し、『赤と黒』は屈辱と自尊心の間で揺れ動く美貌の青年の内面独白小説、ロマン派精神(1)全開の恋愛小説になっていく。
スタンダールは『恋愛論』でイタリア的なるものを「情熱恋愛」(2)と讃え、おフランスのそれを「趣味恋愛」や「虚栄恋愛」と分析した。虚栄恋愛に始まり情熱恋愛が勝利をおさめるこの『赤と黒』は、スタンダールの世直し型実作編だったのかも。
しかし美貌の青年の繊細な自意識ってやつは昔も今も苦手で……と、独りごちていたら、珍品エッセイを発掘した(3)。感動のあまり書き留めずにはいられない。
書き手は西洋美術史家の若桑みどり氏。『赤と黒』を何十回愛読したことかと筆をおこし、「生まれた身分の低さによって、ばかどもに馬鹿にされなければならない」ジュリアンの悔しさは、「女に生まれた故にばかものども(男)にばかにされつづけた」十代の自分の怒りでもあったと書く。
かくして憤怒は知的エネルギーへと変換されるが、致命的誤解だったのは自己同一化した相手が男だったこと。しかし、自分がヒーローでなければ人生、愉快じゃない。「いまでも私は誰の『相手役』にもなるつもりはない。かつてもなかったし、永久にないだろう」と、高らかにしめくくる。“そこのけ小者のフェミニスト(私のことだ)”といわんばかりの勢いに爆笑、のち「天晴れ!」とコウベを垂れた。
どっこい、ジュリアン・ソレルのDNAは現代の才女の中に生きていた。半世紀か一世紀後に『赤と黒』の真価は理解されるだろうと予言、「生きた、書いた、愛した」という墓碑銘を望んだスタンダール先生も、これにはびっくりかもしれない。
【もっと読みたい人のための芋掘り読書】
(1)『赤と黒』の副題は「一八三〇年年代記」。鹿島茂著『パリの王様たち』(文春文庫)には、この時代のロマン主義とはナポレオンの遺伝子だと看破した鋭い論考が。(2)有名なザルツブルグの塩坑=結晶作用はこの情熱恋愛の発展過程で生成。(3)集英社ギャラリー「フランス1」のリーフレット。  
増殖するホールデン少年の悪夢
昔は大人でも子供でも、男は概して言葉少ない存在だったように思う。だから、高校生で『ライ麦畑でつかまえて』(J.D.サリンジャー/野崎孝訳)を読んだときは驚いた。十六歳のホールデン少年の喋ること、喋ること。「僕」の一人称で、「君」に語りかけるという文体のせいもあって、都会の饒舌な男の子というものを見知った、あれが最初だった。
しかし、共振した。特にインチキな教師に対する嗅覚。田舎の進学校で鬱々としていた私は、ホールデン少年は自分だと思った。サブカルという隔壁でネバーランドを手に入れる世代の登場以前、大人を圧力集団と見做して育った者たちの中には、同じような気持ちで読んだ人も多いはず。
そして三十数年(野崎訳から約四十年)、それが『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(村上春樹訳)になって登場したときも、またまた驚いた。感受性豊か(センシティヴ)な少年だとばかり思っていたホールデン君が、神経症的(ナイーヴ)な男の子に変身していたのだ。村上訳にはホールデン少年の痛ましさを掬う眼差しがあって、遠眼鏡で覗いたかつての自画像は痛くもあり、かつ、しっくりもきて……。
時間がもたらした、この否応ない変化。同時代で読んだ人と話したいと思い、少し年上の男性(時代小説作家)に「村上ヴァージョン読んだ?」と聞くと――。
「読んでないっ。今も昔も読んでないっ。オレは麦関係の単語すら聞きたくない!」
“スイッチが入る”とはこのことか、いきなり激しく身悶えする。でも、この凶暴なまでの拒否の身振りはなんなんだ?
聞き出したことに、新宿のジャズ喫茶を徘徊していた時代、知り合う女の子たちがみんな『ライ麦畑でつかまえて』をバイブル視していたのだと言う。ホールデン少年とシンクロできないやつは速攻アウト。氷の視線のナイフで上皮を剥がれた。
そっか、ボーイ・ミーツ・ガールのトラウマなんだ。
「違う。アイビールックと変わらないアメリカかぶれがイヤだったんだ」
で、読まずじまい?
「もう読んでもいいかと、この二十年古本屋で見かけるたびに買いはした。探せば五、六冊はあると思う。でも、読めない。オレ、スーパーでPascoのパンも買う気がしないんだ。ほら麦のマークが付いてるだろ」
そりゃまた、なんて豪奢なトラウマ。そういえば、彼が麦酒を飲んでいる場面も見たことがない。推測するに、当時の彼に嫌悪感を抱かせたのは、ホールデン君の「イノセント」部分を言挙げする女性たちのハイトーンだったのではなかろうか。私も当時、あれは理解不能、薄気味悪かった。
彼の家でページも開かれないまま増殖する本は、闇夜にひっそり細胞分裂を繰り返す原生生物みたいだ。作家としてのサリンジャーが真空のブラックホールに吸い込まれていったように、少年少女たちのライ麦畑は、共振したにしろ反発したにしろ、最初から日暮れていたのかもしれないな。  
聖夜に甦る永遠の因業爺さま
小さい頃クリスマスといえば、ケーキが食べられる日だった。ピンクや薄荷色の花の上に、仁丹のような銀の粒々が散ったバタークリームのデコレーションケーキ。その日は紅茶が出てくるのも晴れがましく、キリスト教徒の子供でなくとも、やはりクリスマスは特別の日だった。
『クリスマス・キャロル』(ディケンズ著)のスクルージは“クリスマス?ふん、馬鹿馬鹿しい”と鼻でせせら笑う因業ジジイである。ケチで冷酷で貪欲の代表選手。現代の英米小説でも、かなりの頻度でこの人物に出くわす。負の記号になった人物としては、『ヴェニスの商人』のシャイロックと双璧か。
あるとき集まっていた友人の一人が、玉の輿に乗った姉の話を始めた。ノイローゼなのだと言う。「金持ちって、庶民には理解できないような金持ちになる理由があるのよ。姉のお舅さん、鼻をかんだあとのちり紙を乾かして、もう一回使えるからと引き出しにしまうんだって」。同情など吹き飛んで、みんな爆笑。以来そのお舅さんは、赤の他人の私たちにまで「スクルー爺(じい)」と親しまれるようになった。
その点、本場の守銭奴スクルージはスケールが大きい。イヴ当日、あの石も凍える冬の倫敦で暖房費をケチり、従業員をいびり、食事の招待に来てくれた親切な甥も追っ払い、陰気な独居の自宅に戻るが――。仕事の前パートナーが体に鎖を巻き付けた惨めな姿になって現れ、自分の生前の拝金主義や無慈悲を激しく後悔してみせる。そしていまから三人(体?)の幽霊が現れるが、それこそ自分のようにならないためのチャンスなのだと告げる。
こうしてスクルージは第一の幽霊に連れられて過去の自分に再会、第二の幽霊には楽しげな甥一家を目の当たりにし、第三の幽霊には自分の末路を見せられる。この走馬燈でスクルージは善行に目覚めましたとさ、というお話しだ。
結構ベタだが、大魔神めいた幽霊たちの賑やかしと、「幽霊さま」と震え上がるスクルージの動転ぶりがおかしく、闇が濃くて超自然的なものとの親和性も高かった当時(一八四三年)、さぞ教育的効果も高かったことと思われる。スクルージがマモン神に帰依したのも貧困への怨嗟からだったというトラウマ譚も、クリスマス・ブックスにふさわしい趣向だろう。
しかし回心後のスクルージは文学史上では見向きもされない。教訓。滑稽味に反転するいびつな個性こそ愛される!
卑近な例を得て「スクルー爺」に変換されていたスクルージだが、紅毛碧眼物に和名を与えていた翻訳曙期は「酢九郎次」でデビューしたらしい。「酢」に座布団三枚。ちなみに『ヴェニスの商人』は『人肉質入裁判』。これ、五枚。翻訳物が低調と聞く昨今、講談調の復活もありかも。  
罪作りな思春期の踏み絵『人間失格』
人のトラウマばかりほじくってないで、自分の脛の傷も公開せよ、とのお叱りをいただいた。私の場合、あまりにファンが多いのにビクついて、長い間言えなかったのが“太宰治嫌い”である。もっと言えば、『人間失格』の太宰治。十五で読んで以来、結構長い間、太宰が苦手だった。
『人間失格』は「私」という語り手による「はしがき」と「あとがき」で、葉蔵が「自分」という一人称で語る手記を挟むサンドイッチ構造になっている。つまり「私」だろうが「自分」だろうが、どこまでいっても太宰という自意識を読まされるマトリョーシカ人形のような変形私小説なのだが、冒頭「私」がまず葉蔵の写った写真を寸評する調子からして暗い。「醜い」だの「軽薄と言っても足りない」だの「奇怪」だのと、悪罵の連打。手記に入る前から、すでに自己処罰臭がプンプンにおう。
また、その手記の内容が螺旋状に破滅的。ここまで有名な小説の梗概を書くのもほんとマヌケ面だが、「第一の手記」では、お茶目を装って必死で演技してきた少年期が、「第二の手記」では、金にあかせた放蕩と心中未遂事件(女は完遂)を起こす青年期が、「第三の手記」では、アルコールとモルヒネで脳病院に入るまでが語られる。
田舎の高校一年生だった私は、これをちっとも好きになれなかった。それどころか、これでもかと言わんばかりの自虐性に気持ちが悪くなった。しかし周囲の人達はなんらかの感銘を受けている様子だった。大学生になって、将来小説家になりたいと言っていた女友達が『斜陽』を薦めてくれなかったら、私の太宰嫌いはそのままだったかもしれない。彼女は“お母さまのひらりスウプ”とネーミングしたスープの飲み方で、私をケラケラ笑わせてくれた。
その後、仕事で読まなければいけない機会などもあって、今では自画像の滲まない短編などは、とても好きだ。そしてその目で『人間失格』を読み直せば、これほど全身で読者サービスにあい努めた作家もいない気がする。破滅型の人とは、サービス過剰の人の謂いなのかもしれない。
ある時話の流れで、「『人間失格』を読むのに、主人公への共感だけが頼りの十代半ばって、サイテーサイアクの時じゃない?」と言ってみたら、おおいにウケた。ある男性は「死んだ母親が、早死にするから太宰は読んじゃいけませんと言ってたな」と懐かしそうに前置きして「無頼は辛いと思った」と言い、女子校育ちの女性は、「同級生が好きと言うから読んだけれど、その子の内面を見たようで、逆に彼女とどう付き合っていいかわからなくなった」と苦笑した。な〜んだ。みんなそう感じ入らなかったんじゃないのと、私は膝を打つ。
なぜあれが十代半ばで触れるべき青春の必読書みたいになったのかと言えば、太宰と同時代を生きた識者にとって、太宰が今の尾崎豊のような存在だったからかもしれないなと思ったりする。名作は時を超える。しかし、読み時はありだと思う。  
乱歩センセイは産道がお好き?
異様な犯罪に接すると、私たちは俄然お喋りになって、「あれは○○だよね」と、本の中に先祖を探し始める。犯罪が絡んだ物語には時代のカナリア的な側面があって、“理解できない事件”に輪郭を作る安定装置になるのかもしれない。
というような話を老若男女でしていたら、老人チームの♂が「そういえば江戸川乱歩の『屋根裏の散歩者』は、元祖“人を殺してみたかった”かもしれない」と言い出した。そのとたん「え、あれは“屋根の上の散歩者”じゃないんですか!?」。思いっきり関節をハズしてくれたのは若者チームの♂。美女の活き作り達からは「屋根の上ならヴァイオリン弾きだよ〜」とブーイングが起き、古漬けビジョの私は独りごつ。「あれは屋根裏じゃなきゃいけないし、ロの字型というのがミソなんだけどな」。
「多分それが一種の精神病ででもあったのでしょう」。病跡学者を小躍りさせるような一文で始まる『屋根裏の散歩者』の主人公は、何をやっても長続きしない無産者。でも親からの仕送りで生活には困らないという、ニートの元祖のような郷田三郎(二十五歳)である。もともと犯罪嗜好癖のあった郷田は、ある日、下宿の押入の天井が天井裏に繋がる開孔部になっていることを発見。他人の部屋を窃視するスリルに耽っているうちに、さらなる刺激で完全犯罪を思いつく。犠牲者は虫が好かないというだけの男。郷田の本音はまさに“人を殺してみたかった”。この犯罪を暴くのが日本初の私立探偵、明智小五郎である。
さて、なぜ屋根裏でなくてはいけないのか。実はこの『屋根裏の散歩者』のことは、なにか肝心なことをずっと味わい損ねている気がしてならなかった。「あ!」が降りてきたのは、つい五、六年前のことだ。いきなりドメスティックな場面に読者をお連れするようで恐縮だが、場面は我が家の風呂場に飛ぶ。
ある日、お風呂に湯を張っていて、これまで経験したことのないムラムラに襲われた。なんだろう、この突き上げてくる衝動は。衝動の命じるままに湯に身を沈め、頭上に蓋をした。自分の呼吸音しか聞こえない密閉空間。その時の、ああ、なんと安らかだったことか。羊水の中の胎児とはこのような状態なのかと、あるはずもない記憶を遡行した(棺桶にもちょっと似ていた)。
そして閃くようにわかったのだ。『屋根裏の散歩者』が、回遊する胎内回帰の物語だったことが。中庭を囲んでロの字型に建った下宿屋。その屋根裏は回廊で、行き止まりという拒絶にあうことがない。徘徊する者は全能。タイトルを取り違えていた若者よ、屋根の上にも夜の抒情はあるが、この胎内感覚はないんだなぁ。
ところでこの作の三年後、乱歩は生計(たつき)のための下宿屋「緑館」を早稲田に開業している。その手書き図面を見て驚いた。『屋根裏の散歩者』そっくりの造り。土蔵という穴蔵住まいでも有名だった乱歩先生、よくよく胎内フェチであらせられたようで。  
トラバターの香りは幸せのクオリア?
トラウマが忘れられない心の傷なら、無意識という水面下で、水草のように揺曳している幸福感のことは何と呼べばいいの?
そんなことを考えたのも、最近自分の脳の配線にまったく自信がもてなくなったからだ。なにかをやろうとして「あれ、何しようとしてたんだろう?」と立ちすくむのは日常。コワいのは、自分がそうしたいと思った感情の源泉が分からないことだ。脳の配線部分で、悪戯好きの小さい人たちが、七人くらい駆け回っている気がする。
そのことをひどく実感したのは、ある尊敬する女性作家に「夜中になると、何か磨きたくならない?」と聞かれたのがきっかけだった。おおいに心当たりがあったので、鍋の底やら換気扇カバーを磨きたくなると言うと、その方は地球の裏側で手に入れた想い出の銀器などを磨くとおっしゃる。
不思議なことが起こったのはその後である。私はなぜか鍋磨きに飽きて、急にバター作りにいそしみはじめたのだ。余談ながら、自分で作るバターはウマい。作る過程で乳臭い水分が出るのだが、ミルクのかわりにその液体と卵で粉をのばし、きつね色に焼き上がったホットケーキの上に出来たてのバターを載せて食べると、ものすごく幸せな気持ちになれる。
さて、そんな折り、遅い子育て中の友人と近況を報告しあうことがあった。私が「この頃夜中によくホットケーキを焼くの。粉と卵とバターの匂いは、憂いのなかった子供時代の幸福と結びついてるのかもしれない」と言うと、彼女が言った。「ああ、うちの子も、中学生になったいまもホットケーキが大好きよ。昔はトラバター、トラバターと騒いでたっけ」。そのとたん、腑に落ちた。そっか、トラバターだ!
トラバターは知らない人はいないくらいの超有名ブランド。『ちびくろさんぼ』の中で、四頭の虎が互いの尻尾をくわえて木の周囲をものすごい勢いで回っているうちに、“溶けてバターになりましたとさ”というシュールなバターだ。さんぼ少年はこのバター入りのホットケーキを、百六十九枚も平らげる。「とてもおなかがすいていたのでね」というのがこの絵本のオチ。どうやら私の脳は、女性作家の「地球の裏側」という言葉をトリガーにして、アルゼンチン→ボルヘスの国→ボルヘスは虎が大好きだった(1)→トラバターという風に連想をふくらませていったものと推測される。個々の好もしい感情が繋がって、食い気に着地点を見つけているのが特徴か。
トラウマとまったく対極にあるこの感情連想領域。最近、茂木健一郎さんという脳科学者によって「クオリア」(2)という言葉が提唱されているが、トラウマの対句はこのクオリアが最有力候補ではないかとニラんでいるところだ。
【補遺】
(1)理由がふるっている。「斑点が気に入らず縦縞が好きなのだ」(『アトラス』現代思潮新社刊)
(2)脳内で生まれる数値化や定量化ができない質感。詳しくは文藝評論『クオリア降臨』(文藝春秋刊)で。  
すきあらば、さらに落とせよ誤読犬
馬鹿なことを口走ると、人は一生忘れてくれない。水に落ちた犬は、さらに棒で押し込むべし。今月は「他人とは、トラウマを刷り込む存在である」というお話。
お受験の結果が出るこの時期。友人から、子供がはからずもA学院へ、という知らせをもらった。その後に、一言加える。「本当に人生、至るところ青山通りですね」。うぐ。やっぱ一生言われるんだ……。
念のため、「人間至るところ青山通り」という俚諺はこの世にない。しかし仲間内で「犬も歩けば棒に当たる」というような意味の、“地域内通貨”になっている。
ことの起こりは十数年前。けっこう日本通の中国からの社会人留学生からもらった葉書である。達筆すぎて、判読できない。原稿をお願いする立場だった会社員時代、作家の方からいただく手書き原稿の解読率、ほぼ九九%。“読まいでなるものか”ともりもりファイトが湧いてくる。
目を凝らした結果「人生至処通青山」という文字が浮き上がってきた。来日して日が浅かった留学生の彼→「日本に来てみたら、青山通りというお洒落な区画がある。行ってみたら、やたらと人が多く、みんなここを目指しているかのようだ。しかし繁栄しているこの日本、どこに行っても青山通りみたいなものではないか」というのが、当時の私の解釈であった。屁のような言い訳だが、時はバブル。飲むのも買うのも遊ぶのも、なんだか日本人全員が青山通りを目指していたかのような時期であったことを、どうかご理解いただきたい。
で、後日、友人達が集まった場で、我が解釈バージョンをしたり顔で披露したものだから、満座の嘲笑を浴びてしまった。間が悪かったのは、物知りの男がいたこと。彼曰く、「人生至処通青山」(×誤)→「人間到処有青山」(○正)である、と。もっとバツが悪いことに、その男、山口県出身。我が故郷の僧の作であると宣(のたも)う。「男児志を立て郷関を出ず/学もし成るなくんば死すとも還らず/いずくんぞ期せんや墳墓の地/人間到るところ青山あり」とスラスラ引用。田中角栄がこの漢詩を好きだったと、一口蘊蓄を加えるさまも、いと憎らしい。
青山がお墓の意味で使われるようになったのは、宋時代の詩人蘇東坡が「是処青山可埋骨」と詠ってから。昔は土葬。お墓と青葉繁れる山=青山は関係が深かった。でも最近は火葬。どこにでも墓は作れるから「是処青山可埋骨」もあまり使われませんね、とは留学生。
二十一世紀になって出番の多い「青山」は「留得青山在不愁没柴焼」の、前文のほうだと言う。中国で柴は、食事を作るときの最重要燃料。たとえ今は柴がなくとも、青山を取っておけば心配がないという昔の俚諺。転じて“たとえ今は素寒貧でも青山=元気な体があれば何とでもなるさ”というような意味になったとか。株の大損で自殺者急増中の中国。ホリエモンもどきを慰める言葉だそうだ。中国では水に落ちた犬でも、まだいたわってもらえるのである。  
無垢な少年?陽気な殺戮魔?ピーター・パンの罪作り
この図書館を開業して九カ月。三十代の女友達に、相談を持ちかけられた。子供の頃、母に贈られた活字版『ピーター・パン』。ファンタジーが嘘くさく思えて、読んだフリで済ませてしまったが、母の気持ちを無駄にしたという罪悪感に、ずっと苛まれていると言う。
言われてみれば、私も未読。では、代読しましょうと、彼女のトラウマ除去役を買って出たはいいが、読んで驚いた。
このピーター少年、ウェンディ達をネバーランドへ誘うシーンからして、人さらいじみている。島に向かう間も、自分の飛行術をみせびらかす鼻持ちならない自慢屋。しかもさっきあったことも覚えていられない“トリ頭”だから、口から出まかせを垂れ流す嘘つき小僧。ネバーランドでは、他の少年達に母親の思い出話を禁止する暴君であり、大人への敵意を募らせて、復讐を誓う激しい一面も持っている。
一方、野卑なイメージのフック船長は、実はパブリックスクールの出。紳士の死に方にこだわり、ピーター少年の振る舞いを「この礼儀知らずめ」と言い捨て、ささやかな矜持のうちに最期を迎える。海賊一味をジェノサイド、仕上げに船長を海に蹴り落とし、ワニにくれてやるピーター少年の暴れん坊将軍ぶりのほうが、ずっと強烈な印象を残すのだ。
ピュアな少年の代名詞とばかり思っていたピーター・パンが、こんな小悪党だったとは。イメージがひっくり返ってしまった。原因は、子供の健全さに光を当てる、おそらくディズニー映画あたりじゃないかと秘かにニラむ。でも本を読むかぎり、作者のジェイムズ・M・バリの興味は、むしろ大人が自分の記憶から抹殺してしまった子供時代の奇矯な面にあった気がする。
『ピーター・パン』誕生に関しては、次のようなエピソードがある。子供のいなかったバリは、大変な子供好き。ある夏彼は、可愛がっていた近所の四兄弟を湖のほとりにある自分の別荘に招待する。男の子たちは難破船や海賊一味など、自分たちで作った物語の中で思いっきり遊ぶ六週間を過ごす。そのときバリが撮った写真に付けた冒険ごっこのキャプションが、『ピーター・パン』の原案になったと言われている。バリおじさんは、レンズ越しに、幼い少年の残酷性や虚言癖、遊びの世界に没入する粘着性などを、たっぷり観察したのではないだろうか。
というようなことを、女友達に報告すると、彼女はあれから「母に読んでいないって告白したんです」と笑う。ついでに、なぜ自分に読ませようと思ったのかを聞いてみると、母上は「ディズニーのイメージで、子供らしい夢のある物語だろうと思っただけ。私も読んでないの」と言ったとか。
活字版に触れる人が少ない『ピーター・パン』。脱臭された映像とは、ずいぶん違う。一体どっちのイメージで文学史に残りたいか、本人に飛んできてもらって、聞いてみたいものだ。  
無非貞女の愉楽を日本に布教した火の女スカーレット
今年六十歳になる編集者が、あるとき言った。「僕のトラウマは『風と共に去りぬ』なんだ。女性作家達がよく口にするんだけどチンプンカンプンで」。映画も観たことがないとおっしゃる。『風と共に去りぬ』のヒロイン、スカーレット・オハラの名前は、女性の間では実在人物のように扱われる永遠のロールモデル。でも、男性はそんな現象、ご存じないのか。男子限定で作品の認知度アンケートを敢行すると――。
まず、M・ミッチェルの原作を読んだ人、堂々の0%。映画を観たことのある人は半数を超えたが、それでも粗筋になると怪しい。“間欠的昏睡派”、“女くさいシーンのみ記憶派”、中には「南北戦争で男と引き裂かれた女が、馬車で池だか湖だかに沈んでいく」という“タイタニック派”まで。わあ、本当に男女両用じゃなかったんだ。
『風と共に去りぬ』は、ジョージア州北部タラの大農場主オハラ家の長女として生まれたスカーレットが、天性の美貌と才覚で南北戦争の時期とその後を生き抜く一代記だ。物語の冒頭、界隈きっての美女として登場する彼女は芳紀十六歳。彼女にはアシュレという王子様がいる。スカーレットは、彼が貧弱な従妹のメラニーと結婚するのは、自分が彼を愛していることを知らないからだと自信満々で愛を告白するが、結婚は似た者同士ですべきだと苦しげに言うアシュレ。偶然それを盗み聞きするのが無頼のレット・バトラーで、物語は南北戦争を背景に、この四人の愛情関係を軸に進む。
映画『風と共に去りぬ』が日本で初公開されたのは、一九五二年。私は中学生の頃、近所のお姉さんに連れられて、制服姿でリバイバル上映を観に行っている。女性にとっては、女から女へと手渡したくなる映画だったのだろう。
この映画が戦後の女性達の心を捉えたのは、貞女であることにまったく価値をおかないスカーレットの不羈(ふき)奔放な生き方だったと思う。彼女は淑女の顔をして、童女のように自己中心的。悪女のように計算高く、農婦のように逞しい。今で言えば欲望全開系の女で、スカーレットは妹から婚約者を奪うが、これなど親友からでも男を奪う、現代の“隣の悪女達”の原型だろう。
にもかかわらず原作では、作者のヒロインに向ける視線はクール。たとえば冒頭で描写されるスカーレット像は「率直で単純だった。おそらく最後の日まで」「ついに複雑なるものを理解しえないだろう」。作者は新しき女性像を提示しながらも、けして礼讃しているわけではない。
脇役も含め登場人物達が長ゼリフなのも特徴で、それが郷土史とでも言うべき奥行きを生んでいるのも驚きだった。南北戦争での敗北によって、一つの文明の終焉を迎えた南部。原作はまさにそのトラウマを記録したオーラルヒストリーの傑作だった。
ちなみに私の初読は映画を観た直後。恋愛ドラマに胸ときめかせ、深夜放送でアメリカンポップスを聴いてる中学生には、この奥の魅力までは分からなかったなぁ。  
“飲みたいよ〜”と耳から産まれた呑み助界の巨人
スリランカを旅する友人から、葉書が届いた。Tシャツ一枚で馬鹿受け異文化交流をしている、と。彼が持っていったのは、ローマ字で「深川祭り」と白く染め抜かれた一枚。着用すると、どこへ行っても笑われる。不思議に思って聞くと、「FUKAGAWA」はシンハラ語で「尻子玉」のような意味とか。シモネタと酒は、最強の相性を誇る万国共通語。「“飲みたいよ〜飲みたいよ〜”と、耳の穴から産まれてきたガルガンチュアさながらに、ビール鯨飲中」と、葉書まで酒臭い。
ラブレーの描くガルガンチュアは、大食らいで大酒飲みで、シモネタが大好き。フランス語が読める人は、地口や語呂合わせなど言葉遊びがたまらなく快感らしい……と、生半可な知識しかなく、耳から産まれた耳太郎だったなんて、全然知らなかった。
という訳で、読んでみました、『ガルガンチュアとパンタグリュエル』(ちくま文庫)。第一巻が、ガルガンチュアの誕生と成長を綴った該当の書だ。
さて、なぜガルガンチュアが耳の穴から産まれ落ちるハメになったかといえば、臓物料理のせい。産み月間近のパルパイヨ(蝶々)国の妃が、王様に“食べ過ぎるんじゃないよ”と釘をさされたのに、“腐っちゃうからもったいないじゃない”と、妃にあるまじき主婦感覚でガッついた。でもって、脱肛に(この辺りの関係は不明)。お産婆さんが強力な収斂剤で下の出口を締めたものだから、胎児が耳の穴からぽーんと飛び出してきたという次第。
このとき遡上する胎児の旅路を、「静脈のなかにはいりこみ」「横隔膜のところから肩までよじのぼり」などと、映画『ミクロの決死圏』ばりに描写するのは、ラブレー先生が医者であったためと思われる。
話はこのあと、巨人族ガルガンチュアのミルクガブ飲み時代(乳牛を一万七九一三頭用意)、帝王教育(なんたって王子だ)、教養習得のためにパリへ(ノートルダム寺院に腰掛ける)、隣国との戦争勃発の報を受けて帰還、などと進む。ガルガンチュアはオシッコの量もハンパじゃない。放尿すれば、さながらノアの洪水と、まったくもってこの書、トールテールである。
読み終えて、思い出したのが映画『アマデウス』のモーツアルト像だった。ガルガンチュアがシモネタ好きと言うよりも、ラブレー先生があの天才作曲家同様、執筆の頃は口唇期と肛門期にあったと思われる。下痢便だの、おならのつもりでウンチをもらすだの、しょんべん運河だの「和屁(わへい)」だの、上の開孔部たる飲食関係、下の開孔部たる糞便関係にやたらとご執心。四十過ぎて医師になるまでは、神学を学ぶインテリ修道士だったというから、抑圧の弁がはじけ飛んじゃったのかも。
ところでこの固着炸裂の書は、匿名の『ガルガンチュア大年代記』という本のヒットに便乗して本家を乗っ取ったもの。ラブレー先生、そもそもが他人のフンドシでちゃっかり相撲を取っていたのであった。  
蠑螈(いもり)殺して名作生んだ“小説の神様”
刀田高さんの新作短編集『ストーリーの迷宮』は、主人公の中で眠っていた古今東西の名著や名作がひょんなきっかけで浮上するストーリーの二階建て構造など、いつもながらに読ませ上手。そのうち「修善寺にて」は、一階に岡本綺堂がいるとしたら、中二階で“小説の神様”が待ちかまえるという贅沢な造りだ。
話はこう。妻と修善寺の温泉に来た作家の主人公。読書中の妻をおいて散歩に出かけるが、途中、『修禅寺物語』のセリフが口をついて出る。
「いかなる名人上手でも細工の出来不出来は時の運。一生のうちに一度でも天晴れ名作ができようならば、それがすなわち名人ではござりませぬか」
岡本綺堂の名セリフは、作家となった今、我が身に降りかかる切実なテーマにもなっている。話はこのあと名作の成立過程の探求へと向かい、主人公は、とある実験を試みる。蛙に向かって、石を投げるのだ。
教養あふれる読者はここで、冒頭、妻が読んでいたのは志賀直哉の『城の崎にて』だったというエピソードを思い出して、「はは〜ん」と思われるかもしれない。
『城の崎にて』は、山手線にはねられて九死に一生を得た志賀直哉が、城崎温泉でメメントモリする短編である。蜂の死骸、死にかけた鼠、「自分」が戯れに投げた石が命中し、一瞬にして命を落とす蠑【虫+原】(いもり)と、動物の死が三題噺のように出てくる名作で――と、スカした顔で書いているが、昔、教科書で読んだだけ。昨日まではすっかり忘れてた。で、読み直した今日は、蠅だったなとぼんやり記憶にあった箇所が、蜂の描写だったのに馬鹿みたいに驚いている。
小説の神様に申し訳ないと、同世代や近似値世代に緊急アンケートを取る。すると、ほとんどが「教科書に出てた。憶えてない」のツーフレーズで終わり。「『小僧の神様』と混同しているかも」と前置きして、「温泉街を浴衣で歩いて、お鮨食べたいなあとか思う話」というのは含羞を知る人で、食い気方面に暴走すると、「小僧が鮨を食いながら、いつか城の崎ヒラメという高級魚を思いっきり食べたいものだと感慨に耽る話」になってしまう。それは城下ガレイでしょうと、茶々を入れているうちに、なぜ蜂が蠅になってしまったのかを思い出してきた。授業の要諦は確か「観察と写生」。それで思ったのだ。生物の写生なら「やれ打つな蠅が手を摺り足をする」のほうが傑作じゃん、と。小説の神様、すみません。小林一茶をチャンプルーしてました。
「修善寺にて」の夫婦は「おもしろかったわ」「名作だよな、〈城の崎にて〉は」などと会話を交わすが、私の世代は勝手に名作に賞味期限切れを出してしまった自己チュー世代かもしれない。都内超有名中高一貫校Aの出身者であるK君は、先生の余談をよく憶えていると言う。「私小説はもう社会を写さない」。念のため、「修善寺にて」は私小説の体裁を借りた非私小説。嘘つき小説家、面目躍如のオチが待ってます。  
田舎の磁力 vs.都市の光彩 / 迷い子三四郎の青春譜
三四郎萌えとでも言いたくなる現象が近頃気になる。たとえば茂木健一郎さんに好きな小説はと聞くと、「『三四郎』」とおっしゃる。瞬間、「え、どんなストーリーだっけ」と、頭の中を疑問符が駆けめぐる。
すっかり忘却の彼方に追いやってしまった“昔の男”。再会しようと取りかかってみれば、“ごめん。悪かった”。今も輝きを失わない、いや、洗練男の多い今だからこそ、いっそう輝いて見える男の青春譜だった。
二十三歳の小川三四郎は、熊本から東京へ向かうピカピカの東大生。その汽車の中に読者をいきなり引きずり込む漱石の筆致の闊達さ。弁当を食べながら女の後ろ姿に見とれる三四郎のキャラを、「鮎の煮浸しの頭を啣えたまま」「見送っていた」と、コミカルに紹介する描写の快活さ。
三四郎は名古屋でその女と同衾するはめに陥るが、その際、西洋手拭(タウエル)で布団に国境線を引くのだからウブい。あげくに翌朝「度胸のない方ね」と女にニヤつかれ、ドッとしょげる。しょげ隠しにベーコン論文集の二十三頁を開き(年齢繋がり)、知と文化の渦巻く東京に乗り出す自分が、行きずりの女に笑われているようでは「ベーコンの二十三頁に対しても甚だ申訳がない」とシュンとするに至っては、爆笑なのである。
未来に対する甘酸っぱい期待と、何者でもない自分。漫画にうってつけのキャラだと思い、コミックになっていないのかと漫画大好きおじさんに聞いてみる。すると、その男が突然「俺だって小説は読むんだ。十八で『三四郎』を読んで感動し、それから漱石だけは読破した」と言い出す。たまげた。ここにもいた、三四郎萌え。
この本を一言でまとめるなら“田舎の純朴男、都会のストレイシープ(迷える子)になって、めくるめく体験をす”で、先の紹介部分はほんのさわり。体験の部分は一種のサロン小説になっていて、文学、演劇、科学に絵画、日本人論や女性論、ほかにも漱石の落語好きを窺わせる芸談義もある。「Pity's akin to love」=「可哀想だとは惚れたと云う事よ」という名訳が出てくる翻訳談義の箇所でだけ、十代半ばでこの本を読んだ記憶が蘇ったのには我ながら呆れた。田舎の小娘にとって、三四郎は、「頼りない」に変換されていたように思う。
この小説には“意識のプリズム”とでも呼びたくなる波動がある。その照り返しは三四郎の中で絶えず揺らめき、発光するかと思えば萎み、消え入るかと思えば、芯に養分を蓄えている気配がある。大人になってみれば、これぞ大海に乗り出す若い男が辿る青春という航路ではなかったか。
「東大に入学するとき、上京する列車の中で読んだとか?」。先の男をベタな冗談でからかうと、「入学してすぐ」と恥ずかしそうに答える。そのあと「明治も昭和も田舎もんは変わらんばい」と、急に九州弁で胸を張る。コンプレックスを抱えて都市に紛れ込む者に幸あれ。三四郎が今も多くの人の共感を呼ぶのは、いままさに脱皮しようとする瞬間を、彼が体現したからに違いない。  
イケメン一等航海士は海の上で何を飲む?
喫茶店文化がなくなった。今やコーヒーは一人で飲むものになって。などという話をしていたら、先輩ライター(♂)が言う。「そういえばスターバックスができたとき、すぐピンときた。『白鯨』の一等航海士の名前だって」。え、それって常識?この会社の発展に関するビジネス書を読んだことがあるのに、全く記憶にない。
帰宅して確かめると(『スターバックス成功物語』)、当初エイハブ船長の船名「ピークォド」にちなもうとしたが、PEE(おしっこ)+QUOD(刑務所)なんて誰が飲むものか。というので(もう一案経て)一等航海士の名前になったとある。これはきっと敬遠してきた『白鯨』を、“いま読め”という時の声。本欄の女性担当者に、チャレンジャーになる決意表明をする。そうしたら「長いですよ〜」と、すでに声音に“難航海を覚悟せよ”との警報が滲む。
実際ものすごく長い旅だった。全百三十五章、読んでも読んでも終わらない。話はいたってシンプル。世界を見てやろうと捕鯨船に乗り込んだ若者イシュメールの目を通して、巨大な白子の鯨に片脚を食いちぎられたエイハブ船長が、その宿敵モービ・ディック(マッコウ鯨)を追いかけるという復讐譚にして海のモンスターもの。神になろうとした男の悲劇でもあるが、その話はブックエンドのように両ハジに。その間を捕鯨船、捕鯨業、燃料としての鯨油から鯨アートまで、思いつくままに(筆のノるままに?)自分の知見や知識を小冊子にして立てていった状態。
作者のメルヴィルは、現代の職業精神で言えば社説の書き手(コラムニスト)、経済アナリスト、海洋、生物、生態人類学や文化人類学の各学者にして冒険家、国連職員、CNNのレポーターのようでもある。博覧強記と言うべきか、小説の結構を些末な細工と笑い飛ばす豪胆無比のバインダー式小説と言うべきか。
さて、肝心のスターバックだが、贅肉のない体を二度焼きビスケットのような皮膚がぴったり包むイケメンである。船長の妄執に対して“畜生相手に復讐しようとは”と批判的で、勇気は感情ではなく職務に必要な装備品と言ってのけるのもカッコいい。しかしコーヒーを飲むシーンはない。映画にも捜索の手を伸ばしたが、やはりない。なぜ彼の名がコーヒー店の看板に?コーヒー豆は海路=潮風に吹かれてやって来る“異国”。そんなエキゾチズムをすぐに喚起させる国民文学ということだろうか。
鯨にかまけて、全員コーヒータイムどころではなかった『白鯨』。しかし、徒労だったかといえば、そうでもない。アメリカという誇大妄想っぽい気質の国柄や、開拓精神を無条件で称揚する国民性など、いまに連綿と続く“原風景”がある。
池澤夏樹さんは、この本は巨大なデータベース、データベースは読むものではなく、必要に応じて参照するものとおっしゃる。ただ、百五十年以上前のメルヴィルがA to Zという便利な本の作り方を知っていてくれたらなあ。飛行機の旅ができたのに。  
逃げろ! 美佐子。夫のこの嗜虐的罠から
赤提灯で、ビールの杯を重ねていたある夏の昼下がり。相手の男性がシメサバに添えられた赤い双葉のツマ(蓼科)をじっと見つめながら、いきなり「一度だけ女性に言い寄られたことがある」と言い出す。甘い思い出というよりも、自分を好きになるとは、なんとヘンな趣味の女だと言わんばかりの懐疑口調。
若い娘なら背中の一つでもはたき「自己評価低すぎぃ」とタメ口をきくところだが、私はしっとりとした熟女なので、そんなことは致しません。シメサバにワサビと蓼を乗っけてパクッ。そこに質問が飛んでくる。「で、どういう話ですか、『蓼喰う虫』は」。想いを寄せたのに「虫」にされちゃって……。昔日のその女性の純情が不憫で、同性として思わずワサビ目になる。
『蓼喰う虫』は、谷崎潤一郎、四十三歳の時の新聞小説だ。主人公は妻(美佐子)と密かに離婚の合意に達している夫の要。彼は、小学生の一人息子のこともあって、慎重に事を起こすタイミングを窺っている。と書くと、夫婦の機微を描く心理小説のように聞こえるが、この主筋はむしろ貧相。小説としての華は、若い妾と和風趣味の生活を送る美佐子の父の道楽ぶり、岳父の手ほどきで親しむ文楽や人形浄瑠璃、後に『陰翳礼讃』に結実する和の美への覚醒などの部分だろう。東京生まれの谷崎がこれを書いたのは、関東大震災で関西に移住して五年目のこと。関西文化にあるふくよかさが、この小説の空気を明るくしている。しかし、それが私にはいまいましい。
というのも、この夫婦別れの部分は私小説。佐藤春夫に千代夫人を譲るという文壇史に名高い事件に向かって事が進行している最中で、さっき主筋は貧相と書いたけれど、うすら寒いのだ。美佐子は妖婦好みの要(谷崎)がまったく興味を持てない母婦型の女。美佐子が恋人のもとに走るようにし向け、妻が娼婦型の女だったら別れやすいのにとボヤいてみたり、別れるなら物悲しい秋より新緑に向かう春がいいと言ってみたり、やくたいもない細部の仕上げにこだわる。まだこの結婚に執着のある妻が夜中に忍び泣いても放置プレイ。愛の反対語は憎悪ではなく無関心と言うが、谷崎にはなにか、女を本能的な所でゾッとさせる酷薄さがある。
ところで“蓼喰う虫も好きずき”とは、蓼のような辛い植物を好む虫がいることから、“人の好みは外からでは分からない。世の中には物好きがいる”という意味に使われる。妖婦好みの夫、あんな食えない夫にも未練のある妻、性欲が骨董に向かった岳父、要からの下賜品を待つ美佐子の恋人。確かにみんなちょっとヘン……。
虫好きの女友達に聞くと、蓼に付くのはハムシで、格別蓼が好物というわけではなく、食性が広いのだとか。女にも食にも我執を貫いた谷崎。裏表紙(新潮文庫)では“蓼喰う虫も好きずき”をある種の「諦念」と解説しているが、私は雑食のハムシに、女の許容範囲広きマドンナ(慈母)精神を見たい。  
目赤不動尊に青い薔薇。さて、どっちが実在?
読もうと思っていながら、読めていない本。というお題で友人達にアンケートを取ったら、『虚無への供物』が出てきた。二度ほど読んだはずなのに、私の記憶はハレーション。『虚無への供物』を挙げた女性も、「実は私も読んだことがあるのに、アンチ・ミステリーだということと、目赤不動や目黄不動など五色のお不動さんが出てきたことくらいしか覚えてなくて」。本欄の担当の方にそれを話すと、彼女もお不動さんが記憶に鮮かだ、と言う。ガクゼン。私はそれ、まったく記憶にない。
さて、改めて『虚無への供物』を読めば全体を串刺しにする話は簡単。密室殺人が四つ起こり、そのたびに生き残った登場人物たちがああでもないこうでもないと推理合戦をする。しかし、これを各章の主食とするなら、おかずが異常に絢爛豪華。
作者はまず、氷沼家四代に渡る因縁話を繰り広げる。曾祖父にアイヌの祟りがあってもおかしくないこと、二代目は函館の大火で焼死、その子供たちである長女は広島の原爆で、長男夫妻と三男夫妻は青函連絡船の洞爺丸転覆で命を落としたことなど、“呪われた一族”という禍々(まがまが)しさを強調するのだ。横溝正史風でかなりおどろおどろしい。かつ、物語の始まる一九五四年は、タイタニックに次ぐ惨事、洞爺丸転覆があるなど件数、内容ともに未曾有の殺人の時代だったと、社会世相史の視点も入るのだから、『飢餓海峡』のような社会派ミステリーの方向もあり?と、予断をゆるさない。
加えて事件が起きて謎解きが始まると、一転、トリビア・ネタの奔流となる。誕生石の色にちなんだきらびやかな名前を持つ氷沼家の四代目たち、ヴァレリィの詩から取った書名の妖しさ、シャンソンを使った見立て殺人、有名な探偵小説やトリックの引用など、名探偵のキャラや書名だけで虎馬圖書館が十回やれるほどのトラウマ・ネタの“温床”。事件が目白や目黒で起こるために、東京という地理に刻まれた陰陽五行説まで援用される。これが冒頭の五色のお不動さん。今で言う風水だ。
この物語の伽藍を一言で言うなら、中井英夫は日本ミステリー界のガウディだろう。細部がうねって蔓となるガウディの建築物のように、この小説も作者が身内に蓄えた知識、教養、時代の空気、何を美とするかという感性で特異な宇宙を持つに至った。「アンチ・ミステリー」という言い方は作者自身のもの(今ならメタフィクション)。執筆に八年、出版後も改訂が続けられた渾身作であることを考えると、活字界のサグラダファミリアと言いたくなる。
ところで私の記憶にあったのは、青い薔薇はありえないという植物学の話だった。バブルの頃だったか、花屋さんで青い薔薇を見かけた。どこぞの園芸家がついに成功したのかと思って訊くと、「青インク液に漬けて吸わせます」。現実は味気ない。『虚無への供物』で作者が目指したのも、“推理小説十戒”のような地上の重力の及ばない、新惑星での遊泳だったに違いない。  
新訳&SF刑事モノで今甦る / 十九世紀の「昼メロのヒロイン」
SF趣向の中で文学ネタが炸裂する『文学刑事サーズデイ・ネクスト1ジェイン・エアを探せ!』(ジャスパー・フォード著田村源二訳ヴィレッジ・ブックス)。
この中でサーズデイが立ち向かうのは、希代の悪党によるジェイン・エア誘拐事件。彼女はある装置を使って現実から物語世界に潜入、登場人物に悪さを働く因縁の悪党と死闘を繰り広げる。その際押さえておきたいのは、サーズデイの世界ではオルタナティブ『ジェイン・エア』とでも言うべき異本が流通していることだ。物語世界で“上演”されているのはそのバージョン。いわば、彼女は正伝に戻す活躍をする。
しかし日本で正伝を読んでいる人は意外に少ない。読書は素直に楽しめばいいというものの、この本に限っては物語の転換点になる出来事を知らないと笑いのツボが減ってソン。と、かねがね思っていたら、光文社の好企画、文庫の古典新訳シリーズに正伝が登場した(小尾芙佐訳)。
物語は五つのパートから成っている。(一)孤児のジェインが伯母の家で疎まれる子供時代。(二)体よく追い払われた孤児院での十八歳まで。(三)家庭教師の職を得て赴いたソーンフィールド館で、主のロチェスター氏と愛し合うようになる経緯。(四)氏が既婚者だったとわかって館を出奔、ムアハウスの住人たち(後にいとこ同士だと判明)に救われる。(五)奇妙な声に導かれて再びソーンフィールド館へ――。イジメ、親友の死、身分違いの恋、重婚の暴露による劇的な結婚式の中断、屋根裏の狂女、火事で財産ばかりか片腕も視力も失うロチェスター氏と、不幸のてんこ盛りの筋運びは、昼メロになってもおかしくないジェットコースターノベルだ。
しかしこれが十九世紀半ばに出版された小説だということを考えると、やはりジェインの独立自尊の声には感動せずにいられない。当時の常識だった功利的な結婚制度に反旗を翻し、愛なき経済合理性を選ぶくらいなら、未婚という汚名を一生背負うほうがましだとするこの反俗精神(これはジェインの一人称小説)!今回の新訳は会話における男女の機微が粒立つなど、女性ならではの感覚で全体を煤払いし、磨き上げた感じだ。
さて冒頭のサーズデイ本には、文学作品の中から現実に還ってくるとき、呪文のように使われる言葉がある。盲目のロチェスター氏がジェインの声を聞き、自分はついに幻覚に捕らわれてしまったのではないかと疑う感動の再会シーンに由来する文言だ。
これまで「美しい狂気」(吉田健一)、「甘い狂気」(大井浩二)、「嬉しい狂気」(田中西二郎)、「心楽しい狂気」(河野一郎)などの訳語があった。このラインナップからも、オリジナルを案出したいという各翻訳者の意気込みが感じられるというもの。つまり『ジェイン・エア』という文学のヘソだ。
さて、今回はどうなっているか。それも心待ちに、どうぞ新訳をお楽しみください。  
恋愛中毒「百人一首」の二十一世紀的活用法
知人で四十代初めのワーキングマザーによると、中二の娘さんの通う私立女子中学では、期末試験のたびに百人一首から十首ずつ覚えていくのが試験問題の範囲。大阪の水を多少飲んで育った彼女は、「ももしきや古き軒端のしのぶにもなほあまりある昔なりけり」を、「古いモモヒキが軒端に干されていて〜」などとお笑いで解題して、娘さんの歓心をかっているらしい。
それを聞いて私は“学校で百人一首のテストがあるんだ”とちょっとビックリ。というのも私の子供時代は、百人一首は単なるカードゲームだったからだ。始めたのは小学校四、五年生の頃で、恋愛の機微など分からないから、「君がため春の野に出でて若菜つむわが衣手に雪は降りつつ」など、風景が浮かぶような歌がみんなのお気に入り。お姫様の絵がある札も人気で、中でも「花の色は移りにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに」は、作者の小野小町の名前を知っていることもあって競争率が高かった。そのうち、自分だけの得意札ができていったが、小六で「しのぶれど色に出でにけりわが恋はものや思ふと人の問ふまで」を、担任の先生に好きな歌だと打ち明けたのは一生の痛恨事。マセた子だと、親にチクられたのだ。
なんてことを、今度は中二の男の子がいるシングルマザーと話していたら、公立でもこの時期百人一首の試験があると言う。「私の頃は高校で覚えさせられたけど、そのとき五歳上の姉に『逢い見ての〜』の“逢う”はエッチの後という意味だと聞いて驚愕したの。それを息子に話してやったら、いきなりこう言うんですよ。『母ちゃん、実はオレ、子供ができる仕組みがちゃんと分かってないと思う』」。
百人一首には間違った教育的効果があるのではないのか?平安時代は男も女も恋愛中毒だった歴史上の特異点。そう教える方が二十一世紀の子供にはふさわしい。
ところで十年ほど前、百人一首で魔方陣ができるという説があったのをご存じだろうか(太田明著『百人一首の魔方陣』)。これに関しては、藤原定家は天才数学者だったというくらいしか要約できないのだが、それで思い出すのは大野晋さんの日本語タミル語起源説と、タミル語圏の南インドに藤原正彦さんが天才数学者ラマヌジャンの足跡を訪ねたときの紀行文だ(『心は孤独な数学者』)。藤原さんはチャンティング(詠唱)という伝統を紹介している。「ミツバチの群れが遊んでおりました/その半分の平方根のハチ達は」というもので、現地の人は、インドでは数学と文学は混交していたと言う。
日本語がタミル語とともに数学的な態度も同時に輸入していたとしたら?百人一首の世界が「美しい国」への情緒的理解ではなく、もっとスリリングな興味になる気がする。和心というノスタルジックな過去礼讃で百人一首を覚えさせようなんて、自分の持ち場に子供を引き込んで優越を誇りたがる大人の詐欺臭いのである。  
快僧、妖僧、ついでに淫僧。ロシアのバケモノの素顔はいずこ?
もう十五年くらい前のこと。私が取材した某男性作家のインタビュー原稿のリードに、同年配の男性編集者が「容貌魁偉」と書いた。すると、若い女性の編集部員達の間から、いっせいに「ひど〜い!」と、ブーイングが出たという。「魁偉」と「怪異」。そりゃ、音は一緒だけれど……。
そんなことを思い出したのも、昨年「外務省のラスプーチン」なる異名を持つ佐藤優氏を某所でお見かけしたからだ。ラスプーチンと言えば、髭面がいかにも怪しげな凶相。でも佐藤氏は容貌魁偉の方で、先のネーミングもやはり、「怪異」と「魁偉」を取り違えているんじゃないかと思うのだ。
とはいえ、考えてみたらラスプーチンのことはよく知らないのである。“ロシア宮廷に取り入り、ロマノフ王朝を滅亡させた妖術遣い”とか、“青酸カリで死なず、銃弾をぶち込まれてもなお息をし、厳寒の河に放り込まれてもまだ生きていた”という化物チックなオカルト・レベル。
よって、今月はラスプーチン本から伝説のあれこれを検証しようと目論んだのだが、いかんせん、本人はろくに読み書きができなかったので自伝もなく、怪僧、妖僧、悪魔などのイメージ盛り上げに腐心する本が大半。生年すら各著者バラバラなのだ。
しかし、生年をついに突き止めた人がいる。『真説ラスプーチン』(日本放送出版協会)のエドワード・ラジンスキーだ。彼によれば一八六九年一月十日生まれ。この日は聖グレゴリーの日なので、グレゴリー・エフィモヴィッチ・ラスプーチン。諸説あったラスプーチンの意味も、「放蕩者」だと、ロシア人魂で断定する。
ニコライ二世が皇太子で、日本の大津で津田巡査に襲撃されていた頃、彼は信仰に目覚め、修行のような放浪を間欠的に始めている。皇帝の愛息の血友病を治療し、皇后の絶大な信頼を得たのは三十代半ば過ぎ。四十七歳で惨殺されるまでがラスプーチンの栄光の時代だ。何冊か読んでいるうちに、富裕層から毟(むし)り取り、貧者にバラまくところなど、宗教界のロビン・フッドにも思えてくる。コリン・ウィルソンが“ラスプーチンはアラビアのロレンスと同時期にパレスチナにいた”と書いていて、おどろおどろしいイメージの怪僧が、急に二十世紀人なのだなあと思えてくるのも不思議だ。
肝心のラスプーチンの宗教者としての基盤だが、各筆者が必ず触れているのは「鞭身派」という宗派。激しく旋回する踊りのうちに法悦に達し、信者同士で肉を解放し合う(あえて乱交とは書かない)。ネットを覗くと、ラスプーチンのペニスと称するグロいホルマリン漬けを見ることができるが、絶倫の性豪伝説は、このナマコ(と今は判明している)ではなく、俗世に秘儀を持ち込んだことにありそうだ。
最後に、銃弾にも負けなかった蘇り伝説だが、暗殺されたのはロシア十二月の厳寒の深夜。いま緊急医療で盛んに言われている脳低温療法の、一世紀早い実証例だった気がするが、この謎解きはいかが?  
どの姫君がお好き?源氏物語で占う現代の女力
三十代半ばから四十代にかけての女子は『源氏物語』に強い。ということに気づいたのは、取材中にある方が「ほら、源氏の中の飛んでいくあの人……」と言いよどんだ時に、三十路の女性編集者が間髪を入れずに「六条の御息所!」と答えたからだった。後日、同世代の女友達に「読んでる?源氏」と聞くと、「眺めた円地(文子訳)」と、往復四小節で会話が終わってしまうのも、いとみすぼらし。一世代下とのこの教養格差はなんなのだ?
原因は、彼女たちの時代に大和和紀の漫画『あさきゆめみし』があったことだと言う。ズルいぞ、そのショートカット。という訳で近所の老舗「町の図書室大竹文庫」から全十三巻を借りてきたのだが、いやあ、漫画って偉大だ。強姦、ロリコンは言うに及ばず、つまみ食い、老け専、オカメ好みと、現代語に移すといささか品下る源氏の所業が、詩的な翳りを帯びている。ややこしい平安時代の習俗が絵で処理されているので、源氏を巡る女たちの恋愛群像劇部分に集中できるのだ。
マザコンの源氏が生涯そのイメージに囚われ続ける生母と生き写しの「藤壺の宮」。プライドの高さゆえに嫉妬がうちにこもり、生霊になって恋敵のもとに飛んでいくあでやかな「六条の御息所」。まさにその六条の御息所の怨霊に殺される正妻「葵の上」etc.――。これらの女達の誰が好きか、周りの女性達に聞いてみるのも、いとおかし。セルフイメージの無意識の開陳なのか、なにかその人らしいと思わせる名前を挙げるのだ。源氏ヒギンズ教授が育てたマイフェアレディ「紫の上」や、耐える賢母「明石の上」などが人気高く、陰陽師で鍛えられて異界への接続能力に憧れるローティーン女子は「六条の御息所」。意外に物議をかもすのは光源氏と似たもの同士の「朧月夜」で、冒頭の女性編集者は、朧月夜と言うと、同級生達に嫌な顔をされていたとか。光源氏は快楽至上主義者の彼女と関係したために、須磨に隠遁することになる。男の運命を狂わせて動じない女に共感を示す人は、“女力(おんなぢから)”が高い気がする。
その点、私はなんたって議論の余地なくブスな「末摘花」が好きだ。“瀬戸内源氏”に当たると、末摘花のご面相がいかにひどいかに熱い筆が当てられていて、ひいては紫式部がいかにブスを化け物扱いしていたかがよく分かる。こういう男性視点の無自覚な取り込み方は、知的エリート女性が陥りがちな罠だと指弾したい。もっとも、恋愛格差社会を生き抜く力がゼロであることを露呈している私が、単なるヘナチョコなだけかもしれないが……。
などと思っていたら、心強い援軍が現れた。清水義範さんの『読み違え源氏物語』である。換骨奪胎の全八篇、どれも爆笑させるが、中でも「ローズバッド」は一九五〇年代のアメリカンポップスが流れてきそうな青春もの。ジョンとキャシーのハッピーエンドに、清水さんの末摘花に寄せる愛を感じるのは私だけ?  
紅茶を飲みながら、結婚市場を分析した女アナリスト
ジェーン・オースティンという作家の名前は聞いたことがあっても、ブロンテ姉妹より前の時代の人と聞けば、ちょっと驚く人もいるのでは?私がそうだった。
そう思いこむのには、映像のイメージも大きい。例えばL・オリビエ主演の『嵐が丘』はモノクロで、画面も寒々しい。その点、オースティンの映画はおしゃれ。透け感(女子のファッション用語です)のあるドレスに、余裕のティータイム。しかも『ジェーン・エア』や『嵐が丘』に、拳を振り上げるような気迫や熱気があったのに対し、オースティンの物語世界には飢えも寒さもない。暖炉のある居間や美しい田園風景の中で人々は結婚レースに狂奔し、彼女の長編全六作品が「かくして結婚しましたとさ」で終わるオメデタサなのだ。ここに、ブロンテ姉妹=貧しい時代、オースティン=豊かになった時代、という倒立したイギリス文学史観のできる素地がある。
実際は、オースティンは二歳違いであるブロンテ姉妹の生年の谷間で亡くなっている(一八一七年、享年四十二)。オースティンが切り拓いた女流文学のバトンを渡されるべく姉妹は生まれた、などとこじつけたくなるが、シャーロットはオースティンの作風を“ヌルい”と嫌っていた。そう思わせたのには、一冊読んだだけでは見えにくい、オースティンの「文学的態度」とでもいうべきものが関係していたように思う。
オースティンは「田舎の三、四軒の家族」を「小説の恰好の題材」にした。この創作態度を知ったとき、私は小さい頃アリの動きに魅せられ、飽きずに眺めていたときの気分を思い出した。このアリ達は、どうしてこう必死なの?使命感にも似たこの精勤ぶりはなんなの?生涯未婚を通したオースティンは、似たような好奇心で当時結婚に狂躁していた人々を眺め、面白がっていた気がする。だから読むべきは、俗世を博物誌的な視線で小説にしたその技法。玄人(批評家)好みなのである。
しかし、私のような普通の読者も楽しめる入り口がある。オースティンの作品は実は経済小説だった!その証拠に、ほとんどの登場人物のキャラが年収や遺産の額で説明されるのだ。例えば『高慢と偏見』の「相当の財産をもっている独身の男なら、きっと奥さんをほしがっているにちがいないということは、世界のどこに行っても通る真実である」(富田彬訳)という名書き出しのあと、年収は年四、五千ポンドと聞いて、うちの娘にぴったりと小躍りする漫画チックな母親。『分別と多感』も冒頭は数字づくし。義理の母娘に三千ポンド与えようと思う夫を、ケチな嫁が巧みな誘導で減額させる問答などはほとんど落語だ。
一見のどかな箱庭小説に見えるオースティン作品だが、どれも生涯の生活費をいかに確保するかというシビアなサバイバル話。恋愛とは、配当の多い結婚株を探す「市場」なのだ。そんな風に書いたから、オースティンの小説は、恋愛や結婚礼賛のロマンス小説にならなかった。  
無垢な少女性という神話。男達よ、永遠に騙されていなさい
今月は少女漫画ネタを。ある日漫画好きの女友達と話していたら、彼女が言う。「大島弓子の『バナナブレッドのプディング』って読んだことあります?私はあれが二十代からのトラウマで、四十代になってようやく克服できたんですよ〜」。
発端は、高名な心理学者の随筆だった。“クライエントに言われ『バナナブレッドのプディング』を読んだところ、思春期の女の子の内面が驚くほど理解できた”というくだりに触発され、読んでみた。が、さっぱりわからない。再び読む気になったのは、恋人が大島弓子選集をもっていた三十代初め。だが、この時も理解不能(彼氏とも別れた)。三回目は同世代の男性評論家が傑作だと褒める文章を読んだ三十代終わりで、またもや受け付けず……と、ここまで長期熟成型のトラウマだと、こちらの興味にも俄然火がつく。しかし、結論から書けば私も彼女と同類だった(念のため。大島氏の才能を貶めるものではありません)。
この漫画のヒロインは高校生の衣良。彼女は「きょうはあしたの前日だから、こわくてしかたがないんです」と言い、夜は自分を食べようとする“ひと”が出てくるからトイレにも行けないというような繊細な乙女。そんな衣良を両親は精神鑑定にかけようとしていて、ここで立ち上がるのが幼馴染みのさえ子。衣良に恋人でもできれば不安定な精神状態も治るのではないかと思い、衣良に好みのタイプを聞く。すると、これまた「うしろめたさを感じている男色家の男性」と、浮世離れした(自己投影型の)答えが返ってくるのだ。ここから物語は、さえ子のモテ兄や、さえ子がせつない恋をする同性愛の男の子、彼の恋人の大学教授などを加えて転がっていく。
読みながら、沸々とイヤ〜な気持ちになる。どうしてだろうと考え、ふいに思い出したのは十八の頃一緒にキャンプに行った女の子のことだった。河原で「私は目の付いたお魚がコワイの」と潤んだ目で言われ、“あなたがおののいているその態度のほうがよっぽど不気味”と言ってやりたかった時のあの感じ。自分の無垢を周囲に知らしめす頑丈な神経にたじろいだ。この漫画が私にもたらす辟易感は、あの時のサブさに似ている。先の友人に話すと、こう言う。「最近便利な言葉ができたでしょう。“生きづらい”って。この漫画って無垢な衣良の“生きづらさ自慢”に、みんなが喜んで奉仕する話。最近ようやくそれが分かったんです」(ただし、作者もそう思ったのか、衣良の姉の話で締める着地は見事)。
しかし、この漫画が軒並み男性に人気が高いのはなぜ?何の偶然か、私もこの原稿を書いている途中、別の仕事で読んだ男性評論家の本で「傑作」としている記述にぶち当たった。そういえば、お魚の目が怖い彼女もモテ女だった。積年の恨みを込めて書けば、男って幼さを隠そうともしない無垢のダダ漏れ女に安心するのよね。女ならみんな賛成してくれるはずだけど、これ、“鈍感力”全開の女だよ。  
陰鬱なマクベス、悪女の夫人。二人が現代の夫婦に変身した日
近年の朗読ブームで、暗唱できるものがいくつあるかと、体の中を探ってみた人も多かったのでは?私は惨敗だった。『方丈記』も『奥の細道』も、言えるのは冒頭から二フレーズまで。この記憶の容量の小ささは、いかがなものか。
そこで、“キョーフは暗唱の妙薬”という新説を提唱したい。今でも二フレーズ以上暗唱できる唯一のものが、まさにキョーフという感情によって獲得したものだからだ。話はこう。大学の必修語学の授業で暗唱を試験に替えるという先生がいた。語学はなぜか必ず朝一番。しくじると、また一年早起きしなければならない。キョーフとは大げさなと思われるかもしれないけれど、サボったために卒業できないでいる“老けた人達”が、当時学内にゴロゴロいたのだ。
試験の代わりの暗唱とはこれ。
To‐morrow,and to‐morrow,and to‐morrow,Creeps in this petty pace from day to day,……
シェイクスピアの四大悲劇の一つである『マクベス』の、「トゥモロー・スピーチ」として知られる一節だ。紙幅節約のため英文は後略で、初代訳者である坪内逍遥訳で全文をお届けしたい。「明日が来り、明日が去り、又来り、又去って、『時』は忍び足に、小刻みに、記録に残る最後の一分まで経過してしまふ。総て昨日といふ日は、阿呆共が死んで土になりに行く道を照らしたのだ。……消えろ消えろ、束の間の燭火(ともしび)!人生は歩いてゐる影たるに過ぎん、只一時、舞台の上で、ぎっくりばったりをやって、やがて最早(もう)噂もされなくなる惨めな俳優だ、白痴(ばか)が話す話だ、騒ぎも意気込みも甚(えら)いが、たわいもないものだ」
翻訳は「ぎっくりばったり」など講談調でも、簒奪者(さんだつしゃ)になったマクベスが妻の死を知り、暗い人生観を絶唱する芝居の見せ場である(第五幕第五場)。十代終わりの女子大生では、貫禄たっぷりの新劇役者のようには謳い上げられないから、ボソボソやって単位を頂戴したが、では、これがその後の人生にどう役立っているか。映画やドラマのセリフに残照を感じるくらいの功徳はあったが、英語力がついたわけでもなく、いまやボケ防止にもならず。
それでも『マクベス』の新訳を読む楽しみはもらった。近年では松岡和子氏の発見に興奮した(ちくま文庫)。夫を焚きつけ、王を惨殺させるマクベス夫人。冷酷な悪女の見本だが、途中からか弱きオバサン・オフェーリアになって、錯乱死するのも腑に落ちなかった。そうしたら松岡氏が従来訳出されてこなかった「We」に目を留め、マクベス夫人は夫の操縦者ではなく、共犯関係にある「一卵性夫婦」だと新解釈を施したのだ。マクベス夫人の印象が変わる。マクベスの絶唱も、愛妻に先立たれた依存型亭主のむせび泣きに聞こえてくる。
私がこの劇のキャスティングをするなら、某野球監督と、一時テレビでよくお見かけしたその夫人だな。シェイクスピアさんって、やっぱり古くて新しいのである。  
忘れられた名作 / 『アラバマ物語』の素顔
ハーパー・リーの『アラバマ物語』(菊池重三郎訳暮しの手帖社)を読もうと思いつつ二十年以上。映画『カポーティ』をきっかけに、やっと宿題と対面した。
リーの名前を知ったのは、二十代半ばで衝撃を受けた『冷血』だ。彼女はカポーティの幼馴染み。『冷血』の共同取材者を務め、その頃もう脱稿していたこの本でピュリツアー賞を受賞する(一九六一年)。読みたい気持が持続した理由は主に三つ。一つはピュリツアー賞作に対する興味。もう一つは、幼馴染みが揃ってアメリカ文学史に残る本を書くなんて、ちょっとした奇跡ではないかという好奇心。最後は映画化されたものを観て、グレゴリー・ペック演じるフィンチ弁護士が黒人の冤罪事件を弁護する内容だったことから、法廷小説好きとして原作も目を通したかったことなどだ。
でも、読んでみると、法廷小説というのは誤解だった。物語はもうすぐ七歳になるお転婆なスカウトという女の子の視線から、子供の四季を描く。貧しい同級生、姿を見たことのない隣人ブーに仕掛ける悪戯、ディル(カポーティ少年)の来るのが待ち遠しい夏休み。ディルはこっそりキスしたり、スカウトにプロポーズして、お金ができたら迎えに来ると言う。しかし、そんな子供の世界にも大人の価値観が侵入してくる。黒人好きと言われる父、そんな弟を快く思わず家柄を誇る伯母。父は兄妹にこう言う。“弁護士は一生に一度はやむにやまれぬ事件を手がける。何か言われてムカついても、拳は下げて頭はあげておくんだよ”。
読み心地は、日本では“クラシックな児童文学”だろうか。しかし本国では“ケネディ世代の文学”、大人の読み物として受容されたというのが私の推理だ。と言うのも『アラバマ物語』が出版された一九六〇年は、ケネディが大統領選を戦った年。彼によって、アラバマ州から広がった公民権運動は大きく進展した。物語は三〇年代半ばという設定でも、フィンチ弁護士や彼の背中を見て育つスカウト兄妹の姿に、六〇年代リベラル派の姿が重なるのだ。沸騰する論点に、文学の側から接近したというのがピュリツアー賞受賞の意味ではないか?
フィンチ弁護士は二〇〇三年、映画のヒーローを選ぶ投票で、インディ・ジョーンズなどを抑えて一位に。最近の日本では嘲笑の対象になりがちなリベラルの水脈も、アメリカでは今なお健在なのである。
ディルの虚言癖がやっぱり面白い。みじめな現実に魔法をかけるためのちっちゃなウソ、おっきなウソ。自分から笑いを取ったら何もないから、大きくなったらサーカスのピエロになると言うディルに、スカウトの兄は言う。笑うのは客で、ピエロは悲しいものだよ、と。だったら「新しい種類のピエロにならあ。リングのまんなかに立ってさ、客をみて笑うんだ」。この箇所にはゾッとした。『冷血』以降、セレブのスキャンダルを暴露して哄笑しながらも、返り血に染まっていたカポーティのことを考えると、黒い預言ではないか!?  
世界一お喋りな文豪による、お水な女の激しい恋愛劇
初めてドストエフスキーの『白痴』(新潮文庫)を読んだ。こんなにお喋りな本だったとは!
主人公の名前だけは知っていたが、漠然と山下清のような人を描いた話だと思っていた。ムイシュキン公爵=芦屋雁之助。しかし、この先入観は読み始めてすぐ覆る。公爵は二十六歳、背は中背より高く、髪は明るく豊かなブロンド。細面の気持ちのいい顔で、空色の大きな瞳をしている。どこが雁之助?こんなイケメンと新幹線とか飛行機で隣り合わせ、“僕には発作の持病があって、スイスで療養生活を送っていたんです”などと問わず語りに聞かされたら、たいていの女性はヨロメくと思う。
もっとも汽車の中でこの身の上話をきかされるのは遊び人のロゴージンで、公爵は彼の口から美女ナスターシャの存在を聞かされる。そして彼女の姿を実際目にしたときから、この分厚く濃いーい物語は、毎週見逃せない恋愛ドラマの様相を呈していくのだ。いえ、ドストエフスキーの意図はキリストのように完全に美しい人間を描くことにあったらしいんですが、みんなで事をわざとややこしくするような展開に、つい目が離せなくなってしまうんですねえ。
ナスターシャは二十五歳。『源氏物語』で言えば光源氏にとっての紫の上で、年が倍くらい上の金持ちの男にロリータ訓練を受け、教養ある女性に育った。紫の上と違うのは、そのパトロンが別の女性と結婚しようとしたとき悲嘆死しないで、陵辱された恨みと復讐心をきっちり表明することで、この激烈な性格が彼女の独得の翳(かげ)りになっている。公爵はその翳りに限りない同情を寄せ、結婚を申し込むが、彼女はいったん承諾しておきながら、公爵のようないい人を貶(おとし)めてはならないという畏敬の念から、すぐロゴージンと遊び歩く生活を選ぶ。
このナスターシャとムイシュキン公爵、ロゴージンの三角関係が上巻。下巻では良家の令嬢で、これまた絶世の美女のアグラーヤ(二十歳)が恋愛劇の真ん中に躍り出て、今度は女二人が公爵を取り合う三角関係になる。自尊心を賭けた女の戦争、いわば、お水な女と令嬢のガチンコ勝負で、相手の深層心理をナイフで刺し合うから凄まじい。黒澤明が映画化していて、翳りのナスターシャ役が原節子、お嬢様が久我美子。いやあ、美女二人の争いには凄絶美がある。公爵(森雅之)もロゴージン(三船敏郎)も木偶(でく)の坊。しかし男って実はこういうとき、怖いもの見たさという麻痺したような快楽を味わっている気もしますが……。
『白痴』を読もうと思ったきっかけは、加賀乙彦氏がユーモラスに、こう書かれていたからだ。秋山駿氏と飲んでいたら「とにかく世界のすべての小説のなかで『白痴』が一番の傑作だと息巻くので、嬉しくてどんどん飲ませたら秋山さんが滅茶苦茶に酔って、ひどい目に遭いました」(『小説家が読むドストエフスキー』)。小説読みの二人が深酒になるほど盛り上がる場面とは?そちらを知りたい気持ちでいっぱいである。  
ネズミに見破られた「読書はヒト科の永久トラウマ」
地獄の釜の底のようだった今夏の東京。熱帯夜に涼を求めたのが、松浦寿輝さんの新刊『川の光』(中央公論新社)だった。
主人公はネズミの一家。お父さんネズミ、兄のタータ、まだ甘えん坊のチッチ。お母さんネズミはチッチを生んですぐに死んでしまった。彼らの先祖が何世代にもわたって土手の斜面に作り上げた巣穴が、いかにも居心地がいい。安全で頑丈で、冬でもほっこり暖かい。が、ある日、作業員やらブルドーザーやらクレーン車やらが巣穴の近くに押し寄せる。川に蓋をするらしい。近所の老ネズミはお父さんに言う。“人間は地面が欲しいのさ。そうすれば家も建てられるし、道路ができて車も通れる”
この文明批評が登場した辺りから、私達の視点は彼らのそれにいっきに乗り移る。見上げれば、すべてがなんと巨大で暴力的なことか。耳をつんざくチェーンソーの金属音、人間の足という動く凶器。
お父さんは決心する。新天地を目指そう。ただし川からは離れない。人家の床下やビルの谷間などで豊富な餌に満足するだけの同族もいるが、自分たちは先祖が川に生きると決めた誇り高き一族。かくして上流へ。川の光を求める彼らの冒険の旅が始まる。
本の見返しに町の地図がある(前後で二枚続き)。町の東西を電車が走り、川は北北西から南南東へと流れる。縮尺からすると上流を目指す旅は、直線なら二十キロほどか。しかしこの距離は、小さきものたちにとっては“出エジプト記”にも匹敵する距離と受難のサイズだ。
ドブネズミ帝国、下水管の中で突然襲ってくる大洪水。カップ麺の容器が方舟になるのも愉快で、犬や雀、グルメな貴族猫、モグラの色っぽい母さん(ネズミの父さん、色目を使われてドギマギ)など、身近な動物たちもオールキャストで登場する。
読書中、不思議な体験をした。面白くてページをめくる手がつい速くなる。しかし体の中の名もなき虫が、“そのスピードではイヤだ”と駄々をこねる。どうしてだろうと考えるうちに、昔ベストセラーになった『ゾウの時間ネズミの時間』という本を思い出した。あの本は、百年近く生きるゾウでも数年しか生きないネズミでも、自分の一生を生きたという感覚は変わらないと言っていた。ネズミのチュー瞰になった時点で、人間界の二時間で生きる(読了する)のが嫌になったのかもしれない。
本書はまた、一日が長かった子供の頃の夏休みも思い出させた。お風呂上がりに天花粉をいっぱいはたいてもらってから読む『宝島』や『トム・ソーヤの冒険』。ワクワク感は何日も続いた。児童書じゃないのにあの時代に還るのは、著者もあの頃の生物時間で書いているからだという気がする。
中の一節が読み書きしてきた大人を落涙させる。タータは呟く。「人間たちは、なぜ『書く』とか『読む』とかするんだろう」。元反乱軍の英雄ネズミは「さあ」と一拍おいて答える。「死ぬのが、怖いんじゃないのかな」。松浦先生、これ、懺悔ですか?  
元祖よ、いずこ?サブカルに飛散した八犬伝
海外での社交用に、禅、茶道、ミシマなど聞かれそうなことは武装ずみと言う四十代後半の女友だち。しかし、こんな質問は想定外だったとか。「『南総里見八犬伝』のラストはドウナリマスカ?」。「八犬伝の結末を知りたいアメリカ人ってどーよ」と逆噴射気味の彼女だが、私も言えない。
早速カンニングした上で、「八犬伝の結末は?」というアンケートを敢行した。トップバッターは本欄担当の女性。「龍が出てきて願いを叶えてくれるんでしたっけ」と言ったそばから「ん!?これは『ドラゴンボール』ですね」とツッコミも自分で。「真田大助が……、アレ、俺っていま真田十勇士の話してる?」とは、四十代始めの天然さん。「薬師丸ひろ子(お姫様)と真田広之(犬江親兵衛)が白い馬に乗って遠くへ去っていく」は、お里が角川映画の敏腕サラリーマンで、「♪ジンギレイチチューシンコーテイ」と歌い出す三十代人妻も。NHKの人形劇で、テーマソングを刷り込まれた賜(たまもの)とか。
サブカルとして定着した様子がなかなか興味深いが、ここで粗筋をちょっとご紹介。八房という名の犬に嫁いだ里見家の伏姫。自害したとき姫の腹から白い煙が出て、数珠の八つの玉を包んで宙に散らばっていく。八つの徳を表す〈仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌〉。この玉を所持しているのが八犬士で、彼らは淫婦になった狸や化け猫と闘いながら、ヽ大法師(ちゅだいほうし)の導きで結集。管領勢に勝利し里見家の再興を果たす。いみじくも「そこで終わりじゃどうしていけないんだ?」と言った人がいたが、ごもっとも。
そこで今度は矛先を変え、八犬伝のふる里とも言える南房総出身の若い女友達に聞いてみた。「里見伏姫餅とかお土産物どっさりですよ〜。郷土の文学です。遠足で史跡にも行きます」と誇らしげ。じゃあ、土地のみなさん結末をご存じで……と水を向けると「未完でしょう?途中で瀧澤馬琴が死んじゃって」。お言葉ですが、視力を失いながらも、馬琴先生が二十八年かけて書いた完成品です。もう一人の二十代女子にいたっては、あせって家族に聞きまくり「里見家は現・堂本暁子知事の祖先です!」と、ワイドショー的ネタで点を稼ぎに出る。
嗚呼、元祖八犬伝はいずこ。もともと八犬伝は、伏魔殿の床下から百八の玉が国中に散らばって行ったという『水滸伝』から着想しているから、各自創案の八犬伝があっていいような気にもなってくるが、いやいや、それでは当館のお役目を果たせない。アメリカ人の奇襲にも備えねば。
では、結論に行きます。里見家再興の後、八犬士は、それぞれ里見家の八人の姫君と結ばれ一国一城の主に。子供達が引退した八犬士達の庵を訪ねると、目の前で消え失せたので、父上達は仙人になったのだなあと悟りました、とさ。
え、意気が上がらない?と言われても……。代わりと言ってはなんですが、馬琴先生のこの勧善懲悪巨編、実は船虫とか悪女達がかなりエッチで面白いですよ。  
二十一世紀のトラウマ源は科学方面がクサい
スカーレット・オハラ?ジュリアン・ソレル?「それってダレよ」と言って、赤っ恥をかかないために開設された当図書館。実はネタ集めにけっこう難儀していました。簡単に言うと、知らないと言い出せなかった古傷(トラウマ)持ちが意外に少なかったこと。PR誌の編集長をしている四十代の男性が「そういうことはなかったことにして生きてきたから、思い出せないなあ」と言ったときは、妙に腑に落ちた。親戚の子が、友達とうまくいかなくなったとき、関係を修復するよりも別の人間関係を求めたほうが早いと言っていたけれど、それと似ている。ヘタにかかずらって落ち込んだりするよりも、横っ飛びして“ない”ことにしちゃう陽気なリセット人生。
いつからこういう横っ飛びが可能になったのか、つらつら考えてみるに、下地ができたのは八〇年代始め、“なんクリ”(『なんとなく、クリスタル』)あたりだったかもしれない。ヴィトンも岩波文庫も等価値だという「平場(ひらば)」の萌芽。その結果、文学や文学談議、クラシック音楽で育ったハイ・カルチャー世代と、漫画やアニメ、ロックなどで育ったサブ・カルチャー世代が平場に共存。それぞれがタコツボ化し、巣穴によって記号があるから、多すぎちゃってもうお手上げ。つまり恥ずかしがっている暇がなくなった。ちなみに一九七二年に大学に入った私は、丁度この“ハイ”世代と“サブ”世代に挟まれ、難民化した。
今世紀に入って、ネットで簡単にトラウマ除去できるようになったのも、“トラウマ知らず”の層を育成するのに役立っていると思う。この間たまたま読んだ『私と20世紀のクロニクル』(ドナルド・キーン著)に、同時に体調が悪化した御母堂(米国)と心の師(英国)を行脚するのに、前者を「あまりにも『熊野』の筋書きと一致していた」、後者を「自分が日本文学のもう一つの作品――漱石の『こころ』の筋書きをなぞっていることに気づかなかった」という比喩があって、文学作品がこういう風に典雅にからめられている文章も久しぶりだなと懐かしかった。
では、トラウマ・ネタの未来は?人物像はブック・キャラより現実のお騒がせ事件キャラへ、キーワードは科学分野から出始めている気がする。たとえば「グーグル脳」なんて高齢者にはチンプンカンプンのはず(うちの両親に暴走老人になる体力が残っていなくてよかった)。一方私はというと、何かの本にあった“人間関係の相対性理論みたい”という表現にアタフタ。なんだ、そりゃ?しかし、魔法の呪文はある。「なんとなく分かる気がする」。そう、忙しい現代は、これで波に乗れる!
というわけで、今回が最終回です。拙文を読んで下さって、本当にありがとうございました。決めゼリフが思い浮かばなかったので、村上春樹さん訳から拝借します。「さよならを言うのは、少しだけ死ぬことだ」(レイモンド・チャンドラー著『ロング・グッドバイ』より)。  
 
書評・よせてはかえす恋の波

 

10代の恋 『青い麦』『狭き門』
「読書」と「恋愛」の両方の遍歴を書けとのおおせをいただいた。03年1月号から「恋愛小説を読む(仮)」という枠を担当することになり、編集の方いわく、“自分のDNAを読者のみなさんに前もって情報公開しなさい”というわけだ。しかも10代、20代、30代と3回にわたって!語るに足ることがあるとはとうてい思えないけれど、たしかに説明責任はあるような……。
親に庇護される安らかさを謳歌した子供時代を過ぎ、親がかりであることが、逆に足枷(あしかせ)にしか思えない思春期とは、なんと怒りに満ちたものだろう。
「ぼくはたまらないんだ、わかるかい、自分がまだ十六歳でしかないと思うと、たまらないんだ!」「ああ!ヴァンカ、ヴァンカ、ぼくは自分の一生のこの時が大嫌いなんだ!なぜ、いきなり二十五歳になれないのだろう?」(新庄嘉章訳)
自分の思春期を代弁してくれる本を1冊挙げなさいといわれたら、私はためらわずこのシーンを切り取って挙げると思う。若い恋人たちのひと夏を描いた『青い麦』(コレット作)の中で、16歳のフィルが、子供でも大人でもない宙吊りの年齢に、苛立たしさをつのらせるシーンだ。
フィルは、婚約しようとしている15歳の幼な馴染みヴァンカに向かってこうも嘆く。
「これからまだ幾年かの間、ぼくはやっと大人(おとな)、やっと自由、やっと恋人でしかないんだ!」(同)
『青い麦』を読んだのは高校に入ったばかりの頃だ。10代の3年間は永遠に思えそうなほど長い。未来の階段に乗せたその足で、地団太踏むフィルの苛立ちは、これから3年間も高校に縛り付けられるのかと、真っ暗な気持ちになっていた私自身のものでもあった。もっともコレットは、フィルのやり場のない癇癪を「ありきたりの絶望感」と、カポーティが使ったところの最上級の誉め言葉、「悪意にぬれた目」で描写しているのだけれど。
不機嫌な思春期だった。
家では「男並み」だった娘が「女」に傾きつつあるのを嫌悪した父との確執が始まっていて、学校でも挙校一致の受験体制に、たったひとりの反乱を起こして(精神的に)グレていた。
つかのま心の翼を広げられたのが深夜で、2階にあった勉強部屋の窓からはさえぎるものもなく、夜空がよく見えた。田舎の闇はいまよりずっと濃く、星座が指で辿れそうなほど間近にあって、樹木が夜の風にサワサワと揺れる葉擦れの音も、野性の音楽に聴こえるほど静寂も深かった。
両親が寝静まるのを待ってこっそり階下に降り、台所で作った冷たいカルピスや温かいココアを飲みながら自室で本を読むのがいちばん好きな時間で、『青い麦』では活き活きした「生」の感覚にも私の五感はくすぐられていたと思う。
焼きたてのブリオッシュの匂い、泡立つりんご酒、ショートパンツに青いセーターで行く海辺のランチピクニック、緑色の夕空や乳白色の月夜。異国の見知らぬ匂いや色彩、自然の情景は、私を強く“ここではないどこか”へといざなった。ページを繰りながら潮の香を胸に吸っては、ときどき目を上げて夜を呼吸し、また本に戻っては緑が夜陰に囁(ささや)きかける声に耳を傾けるのが、誰にも侵入されない私だけの「王国」だった。
書物の中では、同じ年頃の男の子や女の子がぎこちなかったり、かたくなな恋愛をしていたが、私の現実は、愛や恋に縁がないどころか、普通に話す男友達の一人もいない、貧しい荒野だった。年頃の男女がきっちり棲み分けしていた南九州の地域性のせいなのか、それとも時代や世代的なことなのか。先日お隣の鹿児島出身の30代女性編集者に聞いてみたら、やはり大学に入るまで、異性とちゃんと話したことがないと言っていたから、「風土病」なのだろう。
恋愛とはこんなに「困難」なものであるのかと驚いた最初は、ジッドの『狭き門』である。なぜこんな宗教的な命題を扱った本を読む気になったのか不思議だが、たしか若草色の箱入り文庫本シリーズの1冊で、いま思えば『青い麦』など内外の古典を取り揃えたラインナップだったから、自然に手が伸びたのだと思う。
『狭き門』は主人公アリサ、ジェローム、アリサの妹との三角関係の様相を孕(はら)みながら、危機が回避されたあとも、ふたりの恋愛は成就しない「むずかしい愛」の物語だ。
アリサの妹ジュリエットは姉の恋人ジェロームに熱い想いを寄せながらも、けして振り向いてもらえない恋だと諦め、自暴自棄にも近い気持から、周囲の反対を押し切っておよそ知的でない田舎紳士と結婚する。妹を傷つけまいと、自分が結婚するまで、姉がジェロームと婚約すらしないのを知っていたからだ。
この本はまず、打算的な結婚についてくる義務というものについて、私におぞけをふるわせた。結婚したジュリエットについて、アリサがジェロームに書き送った手紙にこうあったのだ。
「ジュリエットは、とても幸福らしく思われます。はじめ、ピアノと読書をやめているのを見てちょっと悲しく思いました。でも、それはエドゥワールさんが音楽を好きでなく、読書にも趣味をもっておいででないからのことなのでした。そして、夫のついていけないような楽しみを求めないジュリエットの態度は、おそらく賢いものと言えるでしょう」(山内義雄訳新潮文庫)
私から見れば、アリサとジェロームのように、読んだ本やそこに書かれてある思想を巡って互いを啓発しあう関係こそが、男女の高揚感であるように思えた。ジュリエットは好きな男性ばかりか、本を読む喜びすら捨てなければいけない不幸な女。そんな結婚をどうしてするのだろう?と同時に、その喜びを知っているはずのアリサが妹の陥った境遇を、「賢いものと言えるでしょう」と報告する態度にも、なにか世間ずれしたイヤらしい感じを受けた。それは、資産のない娘は結婚するしか生きていく道がなかったというヨーロッパの歴史に疎(うと)い、1950年代に生をうけた現代の小娘の非難ではあったのだけれど。
他人を思いやる態度や、清純な女とか聖女といったイメージは胡散臭(うさんくさ)い。そう思ったのも、アリサの死後明らかになる彼女の日記によってだ。アリサはこう書く。自分は妹が幸福になったことを素直に喜んでいる。しかしそれは理屈の上のことで、妹の幸福が「わたしの犠牲を必要としな」いで苦もなく得られたこと。そのことによって、「わたしの利己主義の気持が逆にひどく傷つけられたように思っていることがよくわかる」と。
自己犠牲という崇高に見える精神が、実は自己満足の擬態や媚態であることに気づくほど自分を冷静に観察できるのに、なぜ自己陶酔としか思えない神の狭き門をくぐろうとするのだろう。不可解だった。宗教的精神とは無縁の完全な誤読ではあるが、それでも禁欲的であることは、恋愛の隠れた燃料に思えた。「苦悩」と「快楽」がとても近い存在でありそうなことも、秘密の匂いとして残った。
のちに須賀敦子さんの『ユルスナールの靴』で、『狭き門』は少なくとも戦前のカソリックでは禁書であったこと、禁を犯して読んだものの息苦しくて好きになれず、でも、わからないのは自分に理解力が足りないせいではないかという「戒めのような感じ」が須賀さんにも残ったことを知った。その一方で、上の世代には純粋なアリサを「うやうやしい護符のように」あがめている男性がいて、それは「ちょっと困る」と書いているところに、私はクスッと笑った。そう困り者なのだ、女にとって、ロマンチック・ラブの権化であるようなアリサという女性は。
それでも当時の受け止め方を言えば、アリサが向き合う関係ではなく、ともに肩を並べ、同じ方向を向いて歩いていける関係を欲していたという事実が、なぜか忘れがたかった。
いまこうして書いていて突然ひらめいたのだが(ああ、いま頃!)、私は恋愛に憧れていたというより、「異性の友達」、もっと言えば「男の親友」が欲しかったのだと思う。
高3のとき、一瞬だけそんな関係になりかかった男の子がいた。交換日記というほどのものではなく、小さな紙片を授業中にこっそり何回か交わした。お互い書いたのは、相手に対する告白などではなく、これから待ち受けている人生への「ときめき」のようなものだったと思う。未知の書物のように、私は彼という人間を読んでいた。もっと読みたかったが、彼は体を壊して学校に出てこなくなり、あっという間にそんなつきあいもなくなった。逆さに振っても、そんな話くらいしか書けないのは、情けないことである。  
20代の恋 『暗い旅』『結婚』
「恋愛」と「読書」をテーマにした拙文の20代編である。それにしても敏腕編集者がつけた通しタイトルが「よせてはかえす恋の波」とは!?恋は一人でもできるが、恋愛には才覚が必要だ。その方面の、「関係性における情緒欠落」に悩んできた私に、よせたりかえしたりする魅力的な引力話はあるだろうか?看板倒れにならないかと不安である。
倉橋由美子の『暗い旅』である。倉橋作品は、読んだのか、読まされたのか。いずれにしてもはたち前後の時期に、ものすごく引っかかってしまった作家だった。
読書の効用の一つに本を媒介にした「会話」というものがあり、それは異性の内面を知る探索装置として働くこともあるが、倉橋作品を読んで当時の私が断絶を感じていたのは、同性から見ると「観念を玩ぶ女」にしか見えない女性に、どうして男性はヨワいのか?という命題だった。
『暗い旅』は、「あなた」という二人称を使った作品で、小説の冒頭、大学院生である24歳の主人公は鎌倉にいて、光明寺行きのバスを待っている。
「あなたがかれということばでその意味と重みをたえずかんじてきた存在、あなたの婚約者、あなたの愛であるかれを、あなたは探さなければならない……かれはすでに一週間以上もあなたのまえに不在だ」
こうして「かれ」を探すという、いかにもアンチロマンな現在進行形の「不在の物語」は、女ジプシーの紅茶占いよろしく、「あなた」がカップの底に沈んだ記憶の層をかき混ぜた回想の中にだけ「かれ」の姿を立ち上がらせて進んで行く。
この本を読まされたと言ったのは、所属していたあるクラブの課題図書だったからである。そのクラブは旅好きの人間が集まったところで、あまりに大所帯だったものだからいくつかの会派に分かれ、私が顔を出していたのは“本で旅をする”という一派だった。と言っても、ボーヴォワールだろうがサルトルvsカミュ論争だろうがお題目はなんでもよく、大学生らしいものをちょっと読み、最後はこれまた大学生らしく「なんでもいいから、とにかく呑もう」というのん気な集まりだった。
『暗い旅』が選ばれたのは、ある種の移動小説だったからだろう。ロードノヴェルのような乾いた風は吹いていないが、主人公は17歳の春に二人が出会った材木座海岸を訪ねたあと、翌朝「第一つばめ」に乗って東海道を下り、「かれ」と初めて一夜をともにした思い出の京都まで旅する。そして翌朝、奈良に向かおうとする新たな旅の手前で、この小説は終わるのだ。このほぼ48時間の物語の中に、「かれ」を巡る愛と性の7年分の記憶の断片が注ぎ込まれ、吉祥寺の喫茶店「ボア」、西荻窪の「こけしや」、渋谷の「大盛堂」、都内の各ジャズ喫茶など、読んだ時点で刊行後もう10年以上経っていたというのに、当時の大学生にも親しい空間がいくつも出てきた。
突飛な発想かもしれないが、具体的な地名や店名を頻出させ、読者をある了解の客車に乗せてしまうという意味では、田中康夫の『なんとなくクリスタル』(80年)に先駆ける作品だったかもしれない。なにしろ最後、叔母と離婚したフランス帰りの大学講師と一夜を過ごした主人公は、さらなる情事を期待する彼から、夕方「大市」で会おうと提案されるのだから。さすがに、“センチメンタルジャーニー”を倉橋語に翻訳して“暗い旅”とした小説の雰囲気にそぐわないと思ったのか、「大市」がスッポンの店であるという説明は省かれているのだけれど。
それはともかく、私を消化不良にさせたのは、「あなた」がとびっきり観念的な女性で、濃厚なナルシズムの繭(まゆ)にくるまり、しかも鼻持ちならないお嬢さまだったことである。
『聖少女』の未紀にしろ『夢の浮橋』の桂子にしろ、倉橋作品に出てくる女性はどれも一言で言えばお嬢さまエリートだ。高級なシニシズム=精神の貴族性を重んじている。それはサガンにも通じる、人間の傾きとしてたいへん面白いスノビズムだったが、本家本元と違って『暗い旅』の「あなた」には、閉ざされたナルシズムの臭気があった。
お尻がむず痒いような居心地の悪さは、いまなら、書かれた時代とこちらが読んだ時代の間に横たわる、十数年以上の時間の隔たりに帰すべきものだったのだろうと思う。たとえば、60年代という政治の季節に女子大生であった者の“選ばれし者感”と、大学生の大衆化が始まった70年代に女子大生になった“なんクリ予備軍”の違いとでもいうような。しかし当時は、時代の変数まで射程に入れて読書をするという習慣は、まだ身につけていなかった。だから、先輩の男性たちが、なにか性的対象でもあるかのように熱烈に入れ込んで称揚する『暗い旅』の「あなた」に、反撥を感じたのである。
母の胎内で一緒だったと夢想し、自分たちを「魂の双子」のようだと感じる若い男女がその密着性ゆえに兄妹化し、セックスという夾雑物を介在させないことで愛を純化(結晶化)させようとする「あなた」の心の動きは、当時の私にも分からなくはない……というよりも近しい感覚ではあったのだけれど、それでもそのとき感じていた違和感をいまの言葉にすれば、絶対的な父性(保護者)の庭なくしては、この女性の観念性(高慢さ)は成り立たないだろうという直感である。
これはのちに全集の「作品ノート」で作者自身が解題していることだが、『暗い旅』は「少女小説」であると言う。ただし作家本人が苦々しく付け加えるには、「少女小説とはfor girlsの意味である。by girlsではお話にならない。『暗い旅』の作者はまぎれもなく文学少女だったので」by girlであったと。
自分で獲得したものではない特権意識で、凡庸なるものを侮蔑し嗤(わら)う精神は、少女文学ではなく、少女性文学ではないかと思う。男性は少女文学には反応しないが、文学的な少女性には敏感に反応する。反撥を離れ、縁遠い地平であることよなと嘆息したのは、もう20代半ばになってからである。
勤めていた小さな雑誌社を25歳で辞め、潜在的失業者=なしくずしのフリーになってしばらくは、毎日仕事をするのに必死で、大学時代から付き合っていたボーイフレンドともいつのまにか別れてしまっていた。心もとなくて、何者でもなくて、そして何者にもなれそうもなくて、あのころの寄る辺なさを思いだすと、いまでも心が痛い。
手っ取り早く何者かになるためには、結婚がもっとも効率的な近道でありそうに思えた。高校の同級生たちの中でも短大にいった組の結婚ラッシュがきていて、大学の友人たちもポツポツ結婚し始めていた。
短大組の女性たちが、女は年頃になったらそうするものだと、なんの疑問もなく素直に結婚していくのに対し、大学の同級生たちには、それぞれ「理屈」がついていたのはおかしいことである。哲学科を出て、なぜかフラメンコダンサーになった女性は「5年も付き合ったら、もう結婚くらいしかすることないのよ」と、引き返せない人生すごろくのようなことを言っていたし、また専業主婦を選んだ女性は、「去年の夏、ものすごく暑かったじゃない。二人だけで会う簡便見合いをしたら、その人、クーラー持ってて、うちに涼みにおいでよって。あの年あんなに暑くなきゃ、結婚しなかったと思う」と述懐していた。
誰かの結婚式の帰りだったと思う。女友だちと連れ立って喫茶店に入ったとき、編集プロダクションに勤めていた彼女に「自分で食べていくのに疲れた。私も結婚というものをしたいよ」と弱音を吐くと、「馬鹿じゃないの。想像してごらん。もし自分が男だったらと仮定して、あんた、自分のような女房が欲しい?ぐったり疲れて帰ってきてるんだよ」と、鼻先で嗤われた。目から(ごっそり)ウロコが落ちるとは、あのことだったように思う。
誰かに食べさせてもらうことを目的にした結婚は等価交換であって、こちらにも提供できるものがなければならない、というのが彼女の理論だった。指摘されてみれば手持ちのカードは無に等しく、私はあっさり逃げ場を絶たれた。
タイトルもズバリ『結婚』という小説を読んだのは、そのころである。チャールズ・ウェッブという作者名にはまったく馴染みがなかったが、映画『卒業』の原作者で、『卒業』『体験』と続く青春3部作の完結編だと惹句にあった。
教会の窓ガラスを叩いて愛しいひとの名を絶叫したベンジャミンと、彼の声に応えて純白のウェディングドレス姿のまま、祭壇の前から逃げ出したエレイン。幼な子同士のように手を取りあって逃亡したふたりは、あの眩しくもとろけるような恋愛の絶頂期を経た後、どんな愛情生活を送ったのだろう。もうその頃は恋愛の至福に酔うより、ポスト恋愛期に想いを馳せる年齢になっていたから、結構切実な興味で読んだのだが、驚いたことにベンのその後であると思われる主人公は、ピーピングトムになっていた。妻にとっては幻滅と倦怠の結婚生活である。自己過信して無防備な男と、密閉容器の中であえぐ女のすれ違いぶりが荒廃のメロディを奏でる結婚生活の風景は、その後、私にとっても他人のものではなくなるのだけれど、これは、“良書必ずしも先験的(アプリオリ)な知恵書とはならず”という教訓だったようにも思われる。  
30代の恋 『秋のホテル』
36歳のとき、結婚した。
と、書いて、よくよく計算したら、35歳になってすぐだった。36は別れたときの年齢。1年半しかもたない結婚だった。結婚と言っても、あとで友人たちに「御祝儀ドロボー」と頭を小突かれた未入籍婚だったけれど。信念で未入籍だったのではなく、区役所への届出より、不動産屋で部屋を解約するリアリティのほうが先にきてしまった、というだけのことなのだけれど。
どうして結婚したのかと考えれば、“風が吹けば桶屋が儲かる”式の理屈で、バブルのせいだったような気がしてならない。あの時期は、私にすらフリーランスという潜在的失業者である自分の身分を勘違いさせる“風船力”があった。30代に入った頃から、結婚するなら相手を無条件で引き受ける覚悟がなければならない、というのが自分に課した「結婚の資格」で、ケガ、病気、失意、失業、親のこと、エトセトラ。辛い状況にある相手を、生活というインフラを含め、引き受けられるかという自問自答を繰り返していた。あの時期ようやく「引き受けられる」という確信が持てたから、としか言いようがない。
同居し始めた日、
「贅沢はさせてあげられないと思うけど、なにかあったら私が頑張るから」
と、心を込めて言ってみた。しかし相手が感動してくれたフシは微塵もなかった。ちょっとと言うか、正直に言えば、ものすごくがっかりした。
私が言われたら、小躍りするのになぁ。人間はしょせん、自分の想像力を超える翼は持てなくて、自分が巣作りに欲しいガラス玉を相手に与えようとするのだなぁと、肩を落としたのを憶えている。
昔の仕事仲間で、再会して数ヶ月の結婚だった。古い仲間ということに、お互い妙な安心感があったのだろう。しかも男も女も30代半ばともなると、相手に求める「愛情の質」に、生い立ちに関わるトラウマ療法まで入ってくるから話はややこしくなる。スウィートスポットがまったく違うことに、お互い気づかないまま突入してしまった同居生活だった。
「結婚するなんて、温水さん、子供産む気になったのね」
四つ年上の女友達に嬉しそうに言われたときは、ちょっと驚いた。子供なんて、結婚しようがしまいが産めるだろうに。
「ゆかりちゃんが子供なんて産んだら、絶対許さない!」
小学校から大学まで一緒だった幼馴染みは、酔った勢いでこう言った。彼女は子供のいない共働きで、未婚の私に対して抱いていた優越感を、ここにきて放棄せざるを得ないのは仕方がないにしても、子供を持つ身分にまでいっきにステータスを上げるのは許し難い、というわけである。
「いやぁよかったなぁ。これでヌクミズも少しはラクになるじゃないか」
と安心した顔で言ったのは、私を調子よくこき使っていた年上の編集者の男友達。結婚とは、男が生活に責任を持つことだと信じて疑わない、旧き佳き世代の一人である。
結婚して半年経ったころには、また別の女友達が電話してきて、不妊治療に通っているが、「すごく痛い」こと、そして私になにを聞くわけでもなく、「ねぇ、ゆかりさんも一緒に病院に通いましょうよ」と、心からの親切心で誘ってくれた。
みんな、面白いことを言うなぁ……。
その人が結婚に求めたものや、結婚から得たもの、まだ足りないと思っている欲望を盛るための白い皿が、いきなりこちらにもニュッと出てくるのが、短いあの結婚で一番興味深かったことである。その人の欲望の形に、こちらは折り曲げられたり、折り畳まれたり、成型されたりする。切なくも憂鬱なことに、カップルという最小の単位の中に、それが一番濃くあった。幸福とは、「餓鬼道」だと思った。
再びシングル生活に戻って手に取ったのが、アニータ・ブルックナーの『秋のホテル』である。
主人公イーディス・ホウプは、一度も結婚したことのない39歳だった。ヴァージニア・ウルフに似ていると始終言われるというから、鼻の長さのぶんだけ顔が長くなってしまった、独身家庭教師タイプの女性なのだろう。ところが職業は派手なペンネームでラブロマンス小説を書いている作家である。
物語の初めで、イーディスはなにか周囲の人に面目を失わせる不始末をしでかし、謹慎のため異国のスイスに追いやられたことが仄めかされる。
彼女はレマン湖畔のシーズンも終わりかけた格式高いホテルの一室で独り、
「こんどは反省しよう、かならず反省するのだ」
そう呟いてみたりするが、胸の底では、しでかしてしまったことは後悔のしようがないとも思っている。それより、彼女は妻子ある「最愛のデヴィッド」に手紙を書くことに熱心で、追放の原因について読者が知るのは、物語もうんと後半になってからである。
彼女の強い関心はこの、人もまばらなホテルに滞在している有閑の女たちに向けられている。足が悪いため、ブルドッグみたいによたよた歩く老伯爵夫人。人生の屈託とは無縁の、陽気な女の楽しみごとがいっぱい詰まった年齢不詳の母娘。食事はすべて犬にやる、針金のように痩せて背の高い女性。いくつぐらいなんだろう?どういった事情でここに滞在しているのだろう?
読む者は当初、イーディスは職業的関心から女たちの人生の採集をしているのだろうと感じるが、しだいにそうではなさそうだと思い始める。イーディスは彼女たちの中に「人生の似姿」を見つけ、女というものの人生を理解したいと願っているかのようなのだ。彼女も、なにか盛りつけたくてたまらない、空っぽの白い皿をかかえていた。
それが明らかになるのは、女ばかりのこの共同体に途中から加わった品のいい50代の滞在客、ネヴィル氏に誘われて山で昼食をとったときである。彼は言葉の機知やニュアンスの分かる人物で、イーディスが本屋さんのウィンドウに飾られている本の著者であることも見抜いていた。ペンネームで呼びましょうかとからかって、彼女を不意打ちの驚きの笑いで満たしたりする。不幸であることをいつも気に病んでいると告白する彼女に、ネヴィル氏は微笑を浮かべて言う。
「あなたはロマンチックだ」「愛がなくては生きていけないと思うのは、まちがいですよ」
イーディスは反論する。
「わたしは家庭的な女です。大恋愛に憧れているのではないのです。ささやかな繰り返しの生活が欲しいのです」「わたしの考える完全な幸福というのは、自分の愛している人が晩になれば帰ってくる、毎晩帰ってくることがわかっていて、あたたかな庭で一日中安心して読んだり書いたりしていられる、そういう生活なんです」
「イーディス、あなたに必要なのは愛じゃない」「むしろ愛がない方がいいんですよ」「必要なのは社会的地位ですよ。結婚することです」
ネヴィル氏はこう言って、後日イーディスに結婚を申し込む。いまのままだと、女権論者になって女の書いた小説以外は読まなくなり、自分の子宮を題材に、「不運な女たちに語り」かけるロマンス小説を書いて一生を終わることになると、皮膚に刺さるような箴言(しんげん)を吐いて。
イーディスの望みは平凡な結婚をすることだった。彼女は、デヴィッドとの未来のない秘密の愛人生活に疲れ、別の男性と結婚しようとしたのだけれど、式当日にすっぽかしてしまう。友人たちから遠ざけられたのは、それが原因だった。
ブッカー賞を受賞したこの小説の興趣のために、イーディスがどうしたかはここでは書かないけれど、私にとって結婚や離婚の一番いい点は、結婚というオブセッションから解放されたことだった。品も教養も感じさせながら、どこかに酷薄さを滲ませたネヴィル氏のプロポーズに、応じてはいけないとイーディスの肩を押し戻す気持ちの一方で、結婚してみなければ、自分はなにか欠けた人間であるという感情に苛(さいな)まれ、ささやかな幸福という安全な炉辺を夢見て、失意の荒野を漂泊し続けることになってしまうと、背中を押す気持ちもあった。
幸福とはなんだろう。イーディスが望むような「平凡な幸せ」が、もっとも抽象的ゆえに、手に入れにくいものだという気がする。私もそれを願ったが、現実は、そんな人間にはあまり優しくなかった。幸福とは日常の流れの中から一瞬姿を現す香りのいい苔のようなもので、川の流れの実態ではないからだろう。でも結婚してみなければ、それすら実感できない。森瑤子の小説だかエッセイに、不幸ではないからと言って、幸せだとはかぎらないというニュアンスのセリフがあったが、作家はその言葉に結婚の頽廃をこめながらも、「幸福でなくてはならない病」にかかっていたのだと思う。生の実感は幸福感と不可分だとはかぎらないと、いまは思っている。
さして年齢の変わらなかったイーディスは、いまごろどんな人生を歩んでいるだろう。ときどき想ったりする。私はかくして、今日も本を読む女になった。
さて、10代、20代、30代を恋愛小説で振り返る、この不始末回想記もようやく終わりを迎えた。イーディスの告解室が風光明媚なスイスのホテルだったのに比べ、私のそれは電子画面上である。毎月この原稿を書いている期間は、過去からの使者が登場し、ありもしなかったことで私を責め立てるイヤな夢をいっぱい見た。同居人がいれば、うなされていたと、優しく気遣ってくれ(るか、勢いよく蹴飛ばしてくれ)たと思う。
結婚したばかりの本欄の敏腕男性編集者は、幸福の絶頂でヨーデルを歌うあまり、幸福であることにさして関心がない様子の私を痛めつけたかったのだろうか?持たざる者の陰影が、お肌にもくっきり刻まれてしまった3回連載だった。
みなさま、どうぞよいお年を。ありがとうございました。来月からは2ページ企画で、お目にかかります。  
『チャタレイ夫人の恋人』
再読してしまう本とは、繰り返しその世界に戻って、そこにある時間を生きたくなる本のことを言うのだと思う。その点D・H・ロレンスの『チャタレイ夫人の恋人』は、すこしニュアンスが違う。性愛を描いて前世紀半ば過ぎまで発禁図書だったこの小説は、読むたびに異なった顔を見せ、何年か前は「あら、あなたはこんな本だったの?」と、思わず話しかけたくなるようなクスクス笑いを連れてきた。
最初に読んだのは、ジュスティーヌやジュリエット姉妹の行状に精通することが、なにか文学部の学生らしいと思えていた大学生の頃だ。澁澤龍彦をかじれば、60年代の「『悪徳の栄え』裁判」に遡り、さらに50年代の「『チャタレイ夫人の恋人』裁判」にも行きつく。読んだのは当然削除版だったが、猥褻と言うからには、ケモノ偏をもった字にふさわしい情欲をもよおすのだろうと、ほの昏い期待を持っていただけに、困惑した。
二度目は30代だ。田舎に帰った折り、自室の本棚で日に焼けていた文庫本に目がとまり、手持ちぶさたもあって読み始めた。そのとき、印象派の画家たちが戸外を好んだように、ロレンスもまた木漏れ日に感受性をもった色彩豊かな書き手であることに気づいて驚かされた。早春から初夏にかけての季節の推移に、チャタレイ夫人の官能の花開いていくさまが重ねられ、生命の歓喜の歌が光のプリズムのように弾んでいたのだ。
そして40代。ようやく出た完訳(新潮文庫)で、削除されていた部分があどけないほど愛らしい恋人同士の睦み合いだと知って、そのほほえましさに頬がゆるむと同時に、今度は作家が悲憤慷慨する文明批評ともいうべき部分を、おおいに楽しんでしまった。
コニー(チャタレイ夫人)の夫クリフォード・チャタレイは、“最後の人間的な戦争”と言われる第一次世界大戦で、これまたあまりに人間的な下半身不随の身の上になっている。彼はイングランド中部、ラグビーに領地を持つ炭鉱主で、ロレンスはコニーの目に映ったその土地を、黒煙と硫黄を含んだ臭気の漂う陰気な土地として早々に描写している。私はそれまでなにを読んでいたのだろう?のっけから文明(工業化)社会と、その下部構造にじわじわと侵されていく人間の精神という主題は明示されていた。コニーと森番メラーズの逢い引きの場所になる森が、野生の水仙が香り、咲き出たばかりの菫が小径を彩り、雉の雛が孵(かえ)る生気ほとばしる場所(サンクチュアリ)として描かれるのとは対照的に、その外側ではボタ山がくすぶり、溶鉱炉の赤い火が燃え、工場の騒音や三交替制の坑夫を坑内に入れる捲揚機、国道を走る車のエンジンの音が渦巻く、煤で汚れた醜悪なカンバスが広がっていた。
現代ではもうロレンスのような小説作法はシックでないとされるだろうが、作者自身が登場人物の分を超えて顔を出し、興奮ついでに文明論を垂れるところが実に可笑しい。冒頭で、コニーが初体験でさしてセックスに興味が持てなかったことを書いた筆のその先で、「女性の美しい純粋な自由というものは、どんな性的な恋愛よりも無限に驚嘆すべきものなのだ。唯一の不幸な点は、男性がこの問題でははるかに遅れてぐずぐずと歩いていることである。彼らは犬のようにセックスのことばかり考えている」と女性賛歌をするかと思えば、中盤でメラーズにこう言わせる。「おれは暖かい心というものを信じる。特に恋愛の暖かい心、暖かい心でする交わりを信じる。男が暖かい心でやるようになり、女がそれを暖かい心で受け入れるならば、あらゆることがよくなると信じるね」。オペラ劇場でコニーがズボンに隠れた男の脚について考察するくだりなどは、現代の女たちも行っている観察だろう。コニーは周りにいる誰も、メラーズのような「青春の真髄である鋭敏な感性と優しさ」のある男らしい脚はもっていない、と呟く。
一つ年上の女性の知人に、ガテン系の若い男との恋愛を楽しんでいる強者がいる。深夜のカフェバーで「なんか面白いことあった?」で始まる会話より、夏のまだ明るい夕暮れに、樹液を吸い上げる若木のように、体を使ったあとのビールで潤っていく喉の筋肉の震えを見ているほうが、たしかに何倍エロチックなことか。彼女は「ねえ、結婚しようよ。子供産もうよ」と言われたとき、いまさら自分の生物年齢を打ち明けるわけにもいかず、重婚という大罪が控えていたこともあってとっとと逃げ出したと言うが、肉体に漲(みなぎ)る力強さは、もう同年代からは享受できない生気の照り返しだ。
死の二年前に限定千部で発表されたこの小説は、ロレンス版・炭鉱のカナリア小説のようである。文明が進むほど、男女は自意識に凝り固まり、根元的な接触を避けるようになるとした彼の悲観論は、現代ではもう声を大にして言うほどのこともなくなった。
チャタレイ夫人の恋人を、森にさがしてももういない。日本では、都会の工事現場やその近くの居酒屋あたりに生息していると思われる。それでもなお文明に去勢されてしまった男女の桎梏(しっこく)を解決する方法が「人間、金を使わなくても生きられるように、美しく生きられるように、訓練すること」だというロレンスさんのお説教(プリーチング)は、なかなか示唆に富んでいると言わざるを得ない。  
『無知』
女性は、過去の亡霊が現在に侵入してくることに関し、概して手厳しい。夕飯を約束していた女性が会うなり、こう息巻いた。
「今日ね、大学時代にちょっとだけ付き合ったボーイフレンドから電話があったの。で、夕方喫茶店で会ったら、『きみのファーストキスの相手は、僕だったって憶えてる?』だって」
「憶えてたの?」
「そりゃあ初めてだもの。憶えてるわよ」
30年以上前の恋と革命(バリケードの中の青春)を、たっぷり懐古されたらしい。
「でも、それが何だっていうの!」
彼女の最後のセリフは、悲鳴に近かった。そのとき頭をよぎったのがミラン・クンデラである。彼の小説の中に、彼女の憤怒を鎮める箴言(しんげん)のスパイスがあったような気がしたのだが、思い出せない。帰宅してから繙(ひもと)くことになった。
「患者は郷愁の欠乏に苦しんでいる」
そう、これだ。
愛想のいい作曲家よろしく主旋律から顔を出し、乙な楽曲解説をするという芸風を持つクンデラ先生。その人が『無知』の中で、20年ぶりに祖国に「帰還」したというのに、なにを見てもノスタルジーを感じないで困惑する男を、天上からの優しい微笑で包むかのように書いたフレーズである。年上の女友だちの私にぶつけるしかなかった感情は、懐メロシンガーのデュエット相手に選ばれた怒りというより、小説の中の男同様、「力なく浮かんでくるその過去にどんな情愛も感じない」ことからくる苛立ちだった。
こういってよければ『無知』は、亡命作家クンデラが「郷愁」を主題に、祖国や愛という感情に裏切られる人間たちを描いた“偽りの再会”ものだろう。
パリの空港の待合室に、プラハ行きのフライトを待つ男女がいる。68年の「プラハの春」が、ソ連軍侵攻という長い冬をもたらしたチェコスロバキア。男も女も、「ビロード革命」という二度目にして本物の春を迎えた祖国に、亡命後20年を経て「帰還」の旅をしようとしていた。
懐かしい顔を認め、驚き、ためらったあと声をかけたのは女である。
「わたしたち、プラハで知り合いになったんでしたね?」「あなた、まだわたしのことを憶えていらっしゃる?」
「――もちろん」
一瞬間があったのは、男の記憶が空白であったことと、そのせいで女性にきまり悪い思いをさせたくないという紳士の作法、そして女が「優しく、おしゃれで、感じがよく、四十代にしてはきれいだった」という、まことに下心あふれる理由からだった。
男は賢い。プラハでの連絡先を渡そうとする女を押しとどめ、自分の滞在するホテルの電話番号を教える。あなたからかけてくれるほうがいい、と。そうでなければ、名前も知らない女性を、どうやって電話口に呼び出していいかわからなかったからだ。
彼らは確かに、20年以上前に会ったことがあった。驚くことに、女は想い出の品さえ持っていた。かくして情事のクライマックスで、とんでもない悲喜劇が起こる。滑稽なような、哀切きわまりないようなこのシーンで際だつのは、ノスタルジー型の人間と、非ノスタルジー型の人間が再会したことで起こる、愛のすれ違いの不幸だろう。
タイトルの『無知』は愚かしさを嗤(わら)う罵言ではなく、私たちの生が一回性であるかぎり、どの年代も初体験。我々は常に構造的な無知のなかにいる、といった意味あいだ。進行形の無知という現在は、未来に向かう列車の最後尾に位置する現在なのか。それとも過去の行軍の最前列にある現在なのか。仮に前者を忘却体質(非ノスタルジー体質)、後者を郷愁体質(ノスタルジー体質)と呼んでみよう。現在で出会って恋に落ちるしかない男と女が、相手の体質に頓着せず情事をスタートさせるのは、このクンデラの物語のように、なかなか危険なことのように思われる。それとも、その不用心こそ無知の子どもなのですよ、とでもクンデラ先生は言うだろうか……。
さて、時間と郷愁について大変興味深い考察を繰り広げるこの作品の中で、クンデラは「郷愁の数学的パラドクスともいうべきものを理解しなければならない」として、郷愁を老いのセンチメンタルな徴候と見る私たちの思いこみとは、まったく逆のことを言っている。「郷愁がもっとも強いのは、過去の人生の総量がまったく取るに足らない青春時代なのである」。
だとしたら、冒頭の私の女友だちを憤怒の淵に追いやった男性は、まだ青春期の尻尾を引きずっているということ?現在がどうなのかということにしか興味がないと言い切る彼女は、すでに老い始めているということ?
後日談――。彼女は、溜息混じりに私にこう語った。「あれから何度か会ってるけど、彼は現在の私に興味があるわけじゃない。社会的野心が一段落したいまごろ“自分探し”をしてるんだわね」。自分探しとは、青春期の特徴だ。ああ、なんとクンデラ先生は彼女の話を先取りしていたことだろう!
再会が双方にとっての蜜壺になることは、出来のいい小説の中でも、出来の悪い現実の中でも、めったにない。  
『ティファニーで朝食を』
せっかく美酒が友人とともにやってくるというとき、自分の住む建物の外観を正しく伝えられないでどうする?道順を説明し、「スラム風のマンションだから、すぐ分かると思うよ」と教えると、みんな迷わず一発で辿り着くのも愉快だが、実はスラム風集合住宅には、似たような所得階層ばかりが住む建物にはけしてない無頓着な猥雑さがあって、この住み心地、私は結構気に入っている。特に夏場はさまざまなニオイや音や映像が飛び込んできて、五感に面白い。
夏の日射しの匂いをいっぱいつけて帰宅してくるサッカー少女、夕飯の炒め物のにおい。通りに出て風呂上がりの体を夜気でさまそうとするお父さんや、深夜きれいな化粧のまま帰宅してくるお水の女性、カラスの鳴く明け方に、大きな楽器ケースをかかえて町に出て行くロックウーマンもいる。
この感じ、なにかに似てるなぁと思っていたのだが、あるとき『裏窓』を見直していて、そうそう、この一九五〇年代の集合住宅の感じ、と思い至った。杉並の町をニューヨークのダウンタウンに重ねるには、かなりの想像力が必要だけれど、六階の私のベランダから見下ろす向かいの建物は外科系の救急病院で、ときどき窓際に、ギプスに閉じこめられて退屈しているジェームズ・スチュワートもいたりする。
ドアを開け放つ夏になってから気付いたことだが、年齢不詳、謎めいて人なつっこい独身女性の隣人は、夕暮れになるとシャワーを使ったあと歌を歌う。シャワーを使ったと知れるのは、私の部屋まで石鹸だかボディーシャンプーだかのいい匂いが漂ってくるからだ。
「陽(ひ)のよく照る日には髪の毛を洗い、赤毛のトラ猫と一緒に非常階段の上にすわり、毛をかわかしながらギターを爪(つま)びきしていた」「甘さを含んだしわがれ声で歌うさすらいの調べ」「この歌がいちばん彼女のお気に入りだったらしい」
初夏の光を想わせる『ティファニーで朝食を』(トルーマン・カポーティ著、龍口直太郎訳、新潮文庫)を無性に再読したくなったのは、隣人の習慣によって、この一節が美しく思い出されたためだった。
歌といっても隣人のそれは喉のストレッチ。ソルフェージュなのだけれど、くぐもった艶のある中音域から高音域になると思いがけない透明感が現れて、作中の作家の卵である語り手のように、思わず耳を傾けてしまう。
『ティファニーで朝食を』は、アフリカの奥地で撮影された木彫りの人形の写真から、語り手がかつて同じアパートに住んでいたホリデイ・ゴライトリーを追想する“現代の古典”で、ホリーは夏に近いある夜、涼しそうな黒いドレスに黒いサンダル、首周りにそった短い真珠のネックレスというシックないでたちで、「私」の前に登場する。高級エスコートガールである彼女は郵便受けの名札にティファニーで作った名刺を使っていて、隅っこに小さく「旅行中(トラヴエリング)」と印刷させている。「結局のところ、あたしって、あしたはどこに住むかわかんないでしょ。だから旅行中ってつけてもらったの」
名刺に職業や肩書きではなく、心の状態を刷り込む彼女は、背中に翼をはやした自由人。「眠りたくもなし、/死にたくもない、/ただ旅して行きたいだけ、/大空の牧場(まきば)通って」。そう歌いながらスーツケース一個で自由に移動することを夢見る彼女は、カポーティが自作品の中で最も好きな主人公というだけあって、彼が愛情を傾けて魂を注入した異性の半身である。マリリン・モンローこそホリーだとカポーティが断言したにもかかわらず、実際はオードリー・ヘプバーンが演じた映画では、甘い恋愛ものにしてしまったためにその最も大事な部分が見事に粉砕されているけれど。
思えば隣人というのは、定住を選んだ者、あるいは覚悟した者の前に旅行者の顔で現れて、憧れと興味をかきたてるエアリー(風の精)のような存在ではないだろうか。家を所有して安心の喜びを感じるのは三十代までで、四十代になると、なにか大きな可能性を喪(な)くしたようで、もの哀しい気分になる。毎月落ちる口座の数字のせいではなく、それがノマドの精神だからだろう。
隣人がこの春引っ越してきたとき、夜中の音はまったく気にならない生活をしているので、遠慮なくどうぞと言った。それから数カ月後、夜中のコンビニでばったり会うと、彼女は頬を薄紅色に染めながらこう打ち明けた。「私のボーイフレンド、鼾(いびき)が凄いんだけど、気になりません?」。聞こえないけれど、以来聞きたいような気もして困っている。
月明かりがきれいな夜に共用廊下の鉄柵にもたれ、空を見上げていた以前の隣人。ミセスである彼女がぼんやり満月を眺めながら、金色の光の中に小さな溜息を放った瞬間に出くわしたときはどぎまぎしたものだけれど、あの月明かりの人妻はいまどこでどうしているだろう。
いずれいまの隣人も去っていく。いまのところ私が予期したいのは、アフリカの奥地に残像を遺していくほど空間的に広がりのある物語ではなく、小さなクラブで歌っている彼女を見かけるという掌編である。
声はかけるかもしれない。だが、いまお互いそうしているように、年齢も職業も尋ねない。そして別れる。誰かのことを憧れとともに美しく憶えていられる方法でこれ以上確かなやり方を、いまのところ私はまだ発見していない。  
 
夏目漱石

 

「こころ」
朝日がこの(2014年の)四月から九月にかけて、漱石の小説「こころ」を連載していたのを読んだ。「こころ」の連載が始まったのはちょうど百年前の四月だった。朝日はそれを連載した新聞社として、百年経った記念に、百年前とそっくり同じ体裁で再連載をしたということだったが、筆者はその連載を一日も欠かさずに読んだ、熱心な読者のひとりだった。
筆者が漱石の小説を読んだのは高校生の頃のことである。それ以来、読み返したことはなかった。そんなわけで、ほぼ半世紀ぶりの読み返しになったわけだが、それにしても再読の印象は強烈だった。まず、筆者はこれを、再読したというよりは、初めて読んだような印象を受けた。つまり、高校生時代に読んだ際の記憶がすっぽりと抜け落ちていたわけだ。筆者は漱石について、ひとかどの理解をしていたつもりだったので、これはショックだった。筆者は「こころ」に何が書かれていたか、正確な知識をまったく持ち合わせないままに、漱石を理解したつもりになっていたということだからだ。
そんなわけで、今後も漱石についていっぱしに語ろうとするなら、漱石を読み直さねばならないという気持ちになった。だからこの度は、「こころ」を初めて読んだというような気持ちで、読んだ感想を書いてみようと思う。「こころ」が終わったあとは、他の作品についても、順次読書と批評とを積み重ねていきたいものだ。
読後感を書くにあたっては、いくつか批評の基準あるいは視点のようなものを用意しておきたいと思う。ひとつは国際人としての視点だ。つまり、日本人ではなく、東アジアの人や欧米の人から見たら、漱石はどのように映るだろうか、という視点からこれを読み解くということである。もう一つは、現代人としての視点だ。これは最初の視点とも深くかかわるが、現代に生きる日本人の目から見たら、漱石はどのように映るだろうか、というような視点である。これは、漱石が時代を超えた普遍性を持つだろうかという問題意識とかかわる。言い換えれば漱石の今日性ということである。そのほか漱石のエクリチュールの特徴とか、小説の構成上の特徴とか、技術的な視点もいくつかあるが、それらは感想を記述していく中で、適宜交えていくこととしたい。
このような問題意識から「こころ」を読み解くと、いくつかの要素がおのずから浮かび上がってくる。まず、殉死の問題だ。この小説のなかの最大のテーマが「殉死」だということは、発表直後から言われてきたことだ。この小説は、明治天皇の死に対する乃木希典の殉死に触発されて書かれたと世間は思い、漱石もまたそれを否定しなかったようだから、そのような受け取り方が流布したのは不思議ではない。乃木の殉死は鴎外もこれを取り上げ、「興津弥五右衛門の遺書」はじめいくつかの短編小説を書いている。当時は乃木の死が引き金になって、殉死を論じることがひとつの社会現象になっていたほどであるから、漱石がこれを小説の中で取り上げたのは、ある意味自然なことだったともいえる。
しかし、現代の日本人あるいは現代の外国人の目からすれば、殉死というのは特異な問題領域の事柄だろう。日本人なら、殉死を特殊日本的なことながらも、一時代においては自然な事柄だったと解釈することができるかもしれないが、他のアジア人や、ましてや欧米文化圏の目から見れば、殉死はまったく異常なことである。とくにキリスト教を信じる人々にとっては、殉死は意味のない自殺行為くらいにしか映らないだろう。その殉死を漱石は正面から取り上げて、しかもそれを批判するのではなく、美化しようとするようなところがある。しかも、特定の人間への殉死と言うだけでなく、明治という過ぎ行く時代への殉死だなどというわかりづらいことまで漱石は書いている。時代に準じて死を選ぶなどという発想は、他の国民には絶対にありえないこととして映るだけだ。
こういうような姿勢は、鴎外と比較しても、理解を得がたい面を持っているといえる。鴎外も殉死を取り上げたが、鴎外は殉死を美化するつもりはまったくといってよいほど持ち合わせなかった。鴎外は殉死を、道徳の問題としてではなく、武士の意地(それもどちらかというとつまらない意地)の問題に属する事柄だと捉えていたのである。尤も鴎外は、意地を、人間を動かす動機の中でも最も強烈なものと捉えてはいたが。
次に目に付く要素は友情をめぐるものだろう。「こころ」の主人公である先生を死に至らしめた直接の動機は乃木将軍の殉死への共感であるが、その伏線として、友人を裏切ったことに対する罪悪感というものがあった。この罪悪感が強く働いて、先生は自分を責めるようになり、それがきっかけで世間からドロップアウトしてしまった。その挙句に、この世に自分のいる場所を確保できなくなり、ついには自殺を考えるようになる。乃木の殉死は、その覚悟を後押ししただけという面もある。そこで、先生とその友人との友情が問題になるわけだが、彼らの友情を引き裂いたのは一人の女性をめぐる葛藤なのであった。先生は友人のKがある女性を深く愛していることを知りながら、そしてそのことでKが自分に相談したり信頼感を持っていることを知りながら、その女性を自分のものにしてしまった。友人のKはそれが原因となって自殺してしまうのだが、そのことが先生に癒しがたい心の傷を残し、この世からドロップアウトする要因になった。
しかし、男というものは、女を他の男に取られたくらいで、果たして自殺できるようなものなのか。大いに疑問のわくところだ。そんな男のことに感心するような人間は、いまの日本にもいないだろう。もっともゲーテのウェルテルは恋の病から自殺したのであったが、その限りでは、失恋から自殺という流れは欧米圏の人々の目には不自然ではないのかもしれないが、少なくとも現代の日本人には、失恋から自殺するような男は、アホとしかいいようがないだろう。
その失恋をもたらした男女の恋愛について、この小説が書いているところは殆どないといってよい。ウェルテルの場合には、ウェルテルの恋愛感情が延々と語られるのだが、この小説では、男が女に言い寄るわけでもなく、また女が男の申し出にイエスと答えるわけでもない。友人のKの場合には、自分の気持ちを相手の女に伝えるでもなく、友達の先生に打ち明けるだけであるし、その先生も相手の女性を直接口説くわけでもない。女性の母親に向かって、娘さんを自分の嫁に欲しいというだけだ。これが果たして恋愛と呼べるだろうか。
こうして見ると、漱石が描いた人間関係というのは、極めてあっさりしたものだとの印象を与える。その割には、語り手である「私」の先生に対する思い入れは異常なほど強いものとして描かれている。それはあたかも、同性愛を思わせるような、精神の密着ぶりといえる。漱石には同性愛の趣味はなかったと思われるが、その漱石にしてこのような同性愛的な人間関係を描き分けたことの不思議さに打たれないではおれない。
同性愛的な関係を除けば、残余の人間関係はきわめてあっさりとしたものだ。家族間の関係でさえ、きわめてあっさりと描かれている。「私」にとっては、父の死に対する配慮よりも、先生の死に対する憂慮のほうが優先している、というように描かれている。その一方で、親類も含めて他人に対する警戒心というものが、何度も繰り返し語られる。人間は常に構えていなければ、簡単にだまされてしまう。だから他人に対しては絶対に気を許してはならない、といったような言葉が何度も語られる。それを読んだ者は人間不信を加速されるのを感ずるだろう。
こんなわけで、「こころ」の描いている世界は、かなり特異な世界だというような印象を持たされる。だからといって、筆者はこれを駄作とは思わない。やはり傑作だと思う。それはこの小説が、結構において堅固であり、エクリチュールに独自な艶があるからだと思う。その辺については、後日別途述べてみたい。  
「坑夫」
「坑夫」は「吾輩は猫である」に始まる漱石の遊戯的な作品の系列の最後に位置するものである。この作品の後に「三四郎」を書き、そこで試みた小説の手法を深化させていくことで、漱石独自の深みのある文学を確立していくわけであるが、この作品「坑夫」」には、三四郎以降の展開を予想させるようなものは殆ど感じられない。その意味で、前期の遊戯的な作品の系列の最後に位置するものだと言ったわけである。
遊戯的なと言うには、二重の意味合いがこもっている。ひとつは読者サービスということだ。これは新聞社の雇われ作家になった漱石にとっては、いかにして読者を喜ばせるかという問題意識から出ている。幸い漱石には、「猫」や「草枕」で、読者を大いに喜ばせたという自負があった。だから、その延長上で小説を書いていれば、失敗する恐れは少なかったわけだ。それは遊びの要素に富んだもので、その遊びの精神が読者を捉えたのだと言える。
もうひとつは、漱石のその遊びの精神が、日本伝統の俳諧の精神に裏打ちされているということだ。俳諧とは本来、諧謔を通じて人を喜ばせることを言う。諧謔であるから、批判の精神も当然含んでいるが、初期の漱石の場合には、批判精神を表に立てることはない。まじめなことがらを茶化すことで笑いを誘うというような要素が強い。これは、漱石が俳諧と並んで落語を好んでいたこととも関係があるだろう。
ともかく、この「坑夫」という小説にも、深刻なテーマを扱っている割合には、深刻なところは少しもない。それは主人公である語り手が19歳の少年だということにも理由があろう。19歳の少年を主人公にし、しかもそれが語る一人称の小説という体裁をとっていることからして、深刻になりようがない。なりようがあることといえば、それは恋愛をめぐる深刻な事情くらいしか考えられないが、この小説では恋愛を正面から取り上げているわけでもない。主人公が、若くして世をはかなみ、この世からドロップアウトしようと決心するに際して、女性との関わりがあったことが暗示されているのだが、かといって、その恋愛が重要な意義をもっているわけでもない。こんなわけで、この小説は深刻さとは最も縁遠い世界を描いたものなのである。
筋書きを簡単にいうと次のとおりである。19歳の少年が、生きているのが嫌になり、死ぬつもりで家出をする。その事情というのには二人の女性がからんでいるようだが、それがなぜ彼を死ぬ気にさせたのか、どうもよくわからない。わかるのは、この少年がどうやら短慮から家出をしたということだけだ。少年は、金持の御曹司のくせに、一文無しに近いような状態で家を出た。このことからも彼の短慮ぶりがわかろうというものだ。
少年は東京の家を出たあと、板橋街道というから、要するに中山道を北へ向かって歩いて行く。どうせ死ぬ気でいるから、何処を歩いて何処へ向かうのか、心積もりはない。どうでもよいのだ。死ぬきっかけさえあれば、そこで死ぬ気でいる。ところが、思いがけないことが起こって、少年は死ぬことを中断し、「坑夫」になることを決心する。なぜ坑夫なのか。そこに必然性などというものはない。偶然の行きがかりでそうなってしまっただけの話だ。この少年は、中山道を歩いているうちに中年の男と出会い、その男から坑夫の働き口を進められて、深い思慮もなく、坑夫になるように流されていくのだ。
その働き口のある鉱山というのは、どうやら足尾銅山らしい。少年は周旋屋の男に連れられて前橋まで歩いて行き、そこから電車に乗ってある駅で降り、さらにそこから徒歩で山越えをして鉱山にたどり着くということになっているが、その電車というのは、両毛線のようである。下りた駅と言うのは桐生か、そのひとつ手前の駅らしい。足尾銅山方面には、現在では桐生から私鉄が伸びているが、この小説の時代にはそんなものはまだできていない。だから彼らは山越えの道を歩いて銅山に向かったわけだ。
徒歩で銅山に向かう途中、周旋屋は別に二人の少年に声をかけて、一緒に連れて行くことにする。この二人の少年があまりにもあっさりと周旋屋の手に落ちてしまうのを、当の少年は複雑な目で見る。自分もあまり面倒をかけずに周旋屋の言うことを聞く羽目になったが、この二人はもっと簡単に周旋屋の言うままになった。というのは、彼らが乞食も同然で、住む家も食うものもなく、その日その日を生きていくのに精一杯だからだ。鉱山といえども、寝床と飯にありつけるところなら、どこでもよいのだ。そんな二人の様子を少年は軽蔑の眼差しで見ている。自分はこいつらとは違うんだ、というエリート意識が、この少年の眼差しを傲慢なものにするのだ。
少年の傲慢な眼差しは、鉱山の労働者たちにも向けられる。彼らを一目見た時から少年は、彼らを獰猛な獣のようなものだと軽蔑し、こんな連中と一緒にされるのはまっぴらだと思う。そのあたりの場面をちょっと引用しておくと、「この塊の部分が、申し合わせたように、こっちを向いた。その顔が〜実はその顔で全く萎縮してしまった。というのはその顔がただの顔じゃない。ただの人間の顔じゃない、純然たる坑夫の顔であった。そういうより別に形容しようがない・・・まあ一口でいうと獰猛だ」といった具合である。
だが、少年はそう思っただけで、無論口には出さない。もし口に出したとしたら、袋叩きの目にあっただろう。いくら無分別の少年でも、それくらいのことは心得ているわけである。
結局少年は、同行していた二人の少年と離れ離れになり、とある飯場に放り込まれる。ここへ来る前は、この二人と一緒なら幾分は心強いかもしれないと期待していたのだが、周旋屋はそんなことはお構いない。三人をそれぞれ別の飯場に紹介するつもりなのだ。飯場の親方は少年を見て、こんなところで働こうなどと馬鹿なことは考えずに家に帰れと忠告するが、意地になった少年は反発して是非ここで働かせてくれと言う。どうせ死ぬ気でいるのだから、どんなところにいて、どんなことをしていようが、大した意味はないのだ。
しかし、飯場の中はあまりにもひどい状態だった。まず、飯。これが飯と言うよりも泥と言った方がいいほどひどい代物だった。こんなものを、ここにいる連中は喰っているが、よくもそんなものが食えるものだ。それはこいつらが獣だからだろうと、少年はここでも同僚たちを軽蔑する。もっと我慢が出来ないのは、南京虫だった。布団の中にいるこの虫に体中を刺されて寝ることができない。そこで少年は布団から飛び出して、柱に凭れて転寝をするのだ。
少年は先輩に連れられて坑内の視察に出かける。この先輩と言うのが性悪な男で、少年をたびたび恐ろしい目に会わせた挙句、坑内に置き去りにして消えてしまう。少年は途方にくれるが、そこで思わぬ男と出会う。この男は安さんと言って、少年の身の上ばなしを聞いたうえで、いろいろアドバイスをしてくれる。ここにはまともなことも考えられない獣のような連中しかいないと思っていた少年にとって、安さんの登場は晴天の霹靂になった。彼と出会ったおかげで、少年はもう一度生き直そうとする決心をするのである。
こんな訳で、これは一人の少年が、いったんは自殺しようと決意したが、立派な先輩の導きによって、自殺するのをやめ、社会人として生きて行こうと決意するところを描いている。それはこの少年の自立の過程を描いたということでもあるから、その点は一種の教養小説の体裁をとっているともいえる。しかし、少年の成長ぶりを描くという意気込みよりも、少年の目を通して下層社会のえげつなさを面白おかしく描くことに比重が偏っており、その点ではやはり、遊戯文学の域を脱していないといえよう。
この小説における漱石の文体は、「草枕」同様かなり理屈がかっている。理屈っぽいというのは、小説にとっては致命的な欠陥になるから、本格的な小説を書こうとすれば、克服しなくてはならない。実際漱石は、「三四郎」以降、文体の徹底的な練り直しということに力を注いでいったわけである。
なおこの作品で漱石は、鉱山労働者の実態をかなりリアルに描き出している。相当な取材をおこなったはずだ。少年の目を通して描くという制約はあるが、日本社会の吹き溜まりとしての鉱山の実態が生々しく描かれてくる。そこで働いている人間は、並みの日本人から二等も三等も劣っている。それは彼らが、貧農や末端労働者の家に生まれ、ろくな教育も受けられないまま世間に放り出された結果だ。実際主人公の少年が知り合った二人の少年も、宿無しで食うものにも事欠く存在として描かれている。そんな人間にとっては、日々を生きることだけが関心の的であり、鉱山でもどこでも。生きてさえいられれば、のたれ死ぬよりはましなのである。
鉱山の労働は過酷で、一万人からいる労働者のうち、毎日何人もが事故や病気で死んでいる。この世の地獄と言ってよい。そんなテーマを描くわけだから、おのずから社会的な広がりを含んでいるはずなのだが、漱石には鉱山労働を社会問題として捉えようとする視点はない。  
「それから」
半世紀ぶりに漱石の「それから」を読んだ。半世紀前の筆者はまだ高校生だったわけだが、その高校生が「それから」を読んだ印象というのは、一途な恋愛を描いた単純な恋愛小説といったものだった。この小説の中で漱石が描いている恋愛感情を単純だと感じたのは、筆者が若すぎて、恋愛の何たるかについて、まだ十分な理解をもっていなかったからだろう。老年になって改めてこの小説を読んでみると、たしかに恋愛小説には違いないが、単純な恋愛を描いたものといえるほどに、単純なものではないということがわかった。
周知のようにこの小説は、ある種の不倫関係を描いたものである。一人の男が友人の細君に横恋慕し、挙句の果てにその女を横取りしようとする。これは、漱石がこの小説を書いた時代にあっては、公序良俗を破壊する反社会的行為とみなされていたから、当然のことながら、自分の家族を含めた社会というものから、猛烈なリアクションが来る。主人公の男とその思い人は、そのリアクションに敢然と立ち向かい、命を犠牲にしてでも自分たちの一途な思いを貫こうとする。こんなわけだから、これは大恋愛小説といってもよいような結構を備えているわけだが、その割には、恋愛一般が漂わせている、あの甘美な雰囲気が伝わってこない。伝わってくるのは、なにやらわけのわからぬ人間の情念だけだ、といった感もする。
筆者がわけがわからぬと感じた理由は、主人公代助の行動の不可解さにある。代助は友人平岡の妻美千代に対する恋愛感情が高まるのを感じ、それをどう扱ってよいか苦しむというのが、この小説の発端で、その苦しみをもたらす葛藤を、美千代を自分のものにすることで解消しようとする。彼が美千代を愛し始めたのは、昨日や今日のことではなく、代助がまだ学生の頃から彼女を愛しており、美千代のほうもまた、代助の自分に対する愛情を受け止めていたということになっている。それがどういうわけか、代助と美千代のいる空間に加わってきた平岡が、美千代を妻にしたいといったとき、代助は平岡の感情を尊重して、自分の美千代への感情を抑圧して、美千代を平岡に譲った。しかも、自分で平岡のために媒酌の労までとってやったのだ。
そんな経緯があったにもかかわらず、代助が再び美千代への思いを深めるのは、美千代が幸福でないと感じたからだということになっている。その挙句、美千代を幸福にできるのは自分だけだと考えるようになる。考えるだけならまだしも、自分の思いを美千代に打ち明けて、美千代も自分を愛していることを確かめた上で、美千代を自分の妻にすべく、平岡や自分の家族との戦いに入っていく。戦いというのは大げさな言い方ではない。当時の日本では、代助のしていることは姦通の片割れなのであり(姦通というのはもっぱら女の行為について言われた)、したがって社会の制裁を覚悟すべきものであった。その制裁に対して戦う覚悟ができていなければ、亭主持ちの女を自分のものにすることはできなかったのである。
姦通というのは世界中どこでもある話で、文学の分野でも姦通を題材にした小説はいくらでもある。フローベールの「ボヴァリー夫人」やロレンスの「チャタレイ夫人の恋人」などはその代表的なものだ。だが、この二つをはじめ、ヨーロッパの大方の小説にあっては、姦通というものは主として女の視点から書かれるのがふつうだ。姦通という概念が主に女を対象にしたものであることから、これはある意味自然なここともいえる。ところが漱石の場合には、その姦通を男の視点から描いている。そこがちょっと変わったところだ。
漱石がこの小説で描きたかったのは、男女の恋愛だったのだろうと思う。日本では、男女の恋愛をテーマにした文芸というものはなかなか根付かなかった。徳川時代に、近松が多くの心中物を描いたが、それはたしかに男女の恋愛を描いたものではあったけれど、主題は男女同士の愛というより、その愛を貫くために社会と戦わなければならなかったその理不尽さだったように思う。恋愛が恋愛として正面からまじめに取り上げられることはなかったのだ。西鶴の如きは、男女の性的関係は恋愛なしでも成り立ちうるものだというシニシズムに立っているくらいだ。
しかし何故漱石は、男女の恋愛を描くのに姦通という形を以てしたのか。これは漱石文学を読み解く上での大きな問いになるかもしれない。
代助という人物の造形も変わっている。漱石の小説に登場する人物の多くが、何も仕事をせずにぶらぶら暮らしているところから、高等遊民だなどという言葉がかぶされたことがあるが、代助はその名に相応しく何もしないで日々ぶらぶらしながら暮らしている。それが可能なのは、彼の実家が金持ちで、父親が息子の遊んで暮らすことを許しているからだ。代助の生活は父親の金で成り立っている。だから何らかの事情で父親の金がもらえなくなると、自分の生活に脅威を覚えなくてはならなくなる。そこのところが、ロシア文学に登場する遊民たちとは違うところだ。ロシア文学に登場する遊民たちは、地主や貴族の端くれで、自分自身生活の基盤を持っている。だから遊んでいられるわけだ。しかし代助には、そんな基盤はない。父親や兄の情けにすがって生きているだけだ。だから、代助が姦通の片割れを働き、社会の指弾を浴びるようなことになれば、親兄弟はあっさりと義絶することを選ぶだろう。実際代助が、社会のリアクションの中でもっとも困難なものと認識したのが、親兄弟からの義絶であったわけだ。この時代の社会の制裁は、最も身近な肉親を通してせまってきたというわけであろう。
代助は、毎日仕事もせずにぶらぶら暮らしていることについて、自分なりの理屈を持っている。ひとつは、食うために働くのは卑しいことだとする身勝手な理屈である。働かなくても食える人間は何も働かなくてもよい。仕事に費やす無駄なエネルギーを、もっと別の有意義なことに費やすほうが、よほど高等な人間である。自分は、幸いに働かなくても食っていけるのだから、無理して働かなくてもよいのだ、という理屈だ。しかしこの理屈では、理屈としてどこか薄弱なところがある。そこで、もう一つ別の理屈を設ける。それは、社会の堕落だ。いまの日本の社会は軽佻浮薄以外のものではない。欧化主義に毒されて日本古来の美徳を忘れ、人々は一様に拝金主義のような考えに毒されている。そんな社会と妥協するのは人間としての堕落だ、というような理屈である。
その堕落に陥っている人間の代表格が自分の父親だ、と代助は思う。この父親は、幕末から維新にかけて青少年時代を送った人物で、旧時代の古い道徳観念が染み付いているにもかかわらず、いまの世の中にうまく適応して、ひとかどの財産も形成した。そんな父親が、息子の自分に対して結婚を強要する。その結婚は父親一流の打算に裏打ちされてのものだ。相手の娘は自分の恩人の子孫で、この娘を嫁にすることはその恩人の恩に報いることなのだと古風な理屈を並べながら、実はその娘の財産にも強い関心を持っている。その娘の家は地方の大地主で、大地主と婚姻関係になればなにかと都合がよい、そんな思惑も持っているのだが、そうした打算的なところが代助には気に入らない。だがいまの世の中は、こうした打算でもしなければうまく渡っていけないのもまた事実だ。代助には、そんなところも世の中と妥協できない一つの理由になっている。
実家の人間たちの中で代助が一番気を許しているのは嫂だ。決して教養が高いわけでもなさそうだが、世の中を覚めた眼で見ることができ、なにかと代助の話し相手にもなる。嫂の存在は最後の小説「明暗」でも大きくとり扱われるようになるが、漱石は義理の弟と嫂という、ある種特別な関係に強い関心をもっていたのだろう。
代助は結局、嫂も含めた家族全員の期待に逆らって美千代と結ばれようと決心する。それは社会全体を敵にして戦うことを意味する。代助もそのことはよく理解している。だから彼の決意は悲壮な趣を呈する。漱石もそんな代助の悲壮な決意を、それこそ鬼気迫ったトーンで描いていく。
男女が結ばれることに、こんな悲壮感が伴うとは、他の国の文学では、ほとんどありえないことではないか。男女のこんな悲壮な間柄は、むしろ徳川時代の心中物と共通するところが大きい。  
「それから」から見る明治末の東京
漱石は東京で生まれ東京で育ち、かつ幾度となく東京市域内での転居を繰り返したこともあって、東京の地理には明るかった。そんなこともあって、漱石は東京についての自分の知識を、小説の中で遺憾なく披露した。東京を語った作家といえば、荷風散人があまりにも有名だが、漱石もそれに劣らず東京を語っている。ここでは、「それから」を題材にとって、漱石の眼で見た明治末の東京を俯瞰してみよう。
小説の主人公である代助は、牛込の一角に家を構えていることになっている。場所を特定するのは難しいが、神楽坂を登りきったあたりで、上り方向に向かって左手(西側)のようだ。市谷方面から外堀沿いを飯田橋方面へ歩く途中、砂土原町へ通ずる坂道を登るのが近道だという記述があることからも、それは伺える。だとすれば、現在地下鉄牛込神楽坂駅がある周辺だと考えられる。
東京へ出てきた平岡夫妻が、神田での仮住まいを経て一家を構えたのは、小石川の一角である。伝通院の西隣のようだ。安藤坂から上ってきて、伝通院の焼け跡前を左に曲がるという記述が出てくるので、こう特定できるわけだ。代助は美千代と会うのが目的で、幾度となくこの家に足を運んでいる。その道筋は、牛込の家から北の方角に向かって歩き、五軒町あたりで江戸川(神田川のこと)に出、白鳥橋を渡って安藤坂を登るというのが最短のものだったようだ。そのほかに代助は、飯田橋方面から江戸川に沿って遡上し、白鳥橋のたもとから安藤坂を上っていくこともあった。
代助の実家は青山にある。現在青山墓地がある辺りだろうと思われる。牛込の家から実家に行くには、神楽坂を下りて飯田橋で赤坂方面生きの市電(外堀線)に乗り、弁慶橋で青山方面行きの市電に乗り換えるというのが最短コースだったようだ。代助はこの他のルートもとっている。青山からの帰り道、わざわざ塩町行きの市電に乗って四谷三丁目の交差点で下車したあと、津守坂を下りて士官学校前(現在防衛庁のある辺り)に出、そこを右に曲がって堀端に出ている。その後代助は、砂土原町に折れる自宅への近道を通り過ぎて、飯田橋に向かって歩いて行くのである。
この三つの地点が代助の活動の拠点となるもので、代助はこの三箇所をぐるぐると回りながら、暇をつぶして生きているわけである。行動範囲が狭いこともあって、代助の移動の手段は市電が中心だが、時折人力車も使っている。麻布のさる邸の園遊会に、兄と一緒に招待されたあと、二人で金杉橋まで鰻を食いに行く場面が出てくるが、その際に二人は車で金杉橋まで移動したということになっている。この車とは人力車のことだと思われるのだ。
「それから」がカバーしている時代には、山手線はまだ開通していなかった。中央線の方はすでに開通していて、「三四郎」の中でも、三四郎が御茶ノ水から中野行きの電車に乗って大久保まで行く場面が出てくるが、「それから」の中では、代助も他の登場人物も、なぜかこの電車には乗らない。やはり、市電のほうが身近で便利だと思われていたのだろう。
市電の中でも外堀線というのは特別のものだったようだ。これは文字通り外堀沿いを一周するというもので、都市内環状線として、山手線の先祖みたいなものだ。代助は度々この電車に乗るが、それは移動が目的だ。だが、最後の場面では、移動することが目的ではなく、ただあてどもなく時間を潰すためにこの電車に乗る。今でも、時間潰しのために山手線に乗る人がいるように、当時の東京人にもそうした人がいてもおかしくはない。それに代助の場合には、進退窮まって頭が混乱している折でもあり、電車に乗ってぐるぐる東京を回転するというのにも、それなりの事情があったわけだ。
東京の街の表情を、漱石はどう描いているか。まず街並の様子だが、これが意外と描写に乏しい。代助が神楽坂を上って行くときに、地震に遭遇する場面があって、そのなかに神楽坂の街の佇まいのようなものが描写されているが、それによれば、当時の神楽坂は狭い坂道を挟んで木造の低い家並が立ち並んでいるということになっている。おそらく神楽坂に限らず、東京の町屋の殆どがそんな感じだったのではないか。
代助はよく散歩しているが、散歩の途中で見た風景にはあまり注意を払っていない。あるとき代助は、神楽坂を下りて堀端に出、堀沿いに市谷方向に向かって歩きながら、新見附の橋を渡って招魂社の傍らを過ぎ、番町方面へと足を向ける。ここで招魂社と言っているのは、今で言う靖国神社のことだ。この神社はもともと薩長藩閥の肝いりで作られたもので、江戸っ子にとっては縁のないものだったが、日清・日露両戦争の戦死者を祀るようになってからは、普通の庶民にも縁が深くなりつつあった。その招魂社(靖国神社)について、代助即ち漱石は全く敬意を払っていない。やはり、江戸っ子の意地が多少は働いているのかもしれない。
話題を元に(東京の街の表情に)戻して、街を歩いている人たちの表情はどうか。服装は相変わらず和服が主流だ。それは「何時の間にか、人が絽の羽織を着て歩くようになった」といった何気ない記述にも伺われる。人が和服姿で歩いていることは、当然の前提となっているのだ。代助も、普段着は和服だ。和服に帽子をかぶるといったいでたちをしている。洋服を着るのは、園遊会に招かれた時などの、ハレの場面に限られる。男でさえそうなのだから、女は晴れの場でも和服姿だったろう。
「それから」が描いている世界は、明治維新からわずか四十年しか経っていない。たった四十年では、人間というものはそんなに変われるものではない。代助の父親は、徳川時代の考え方のままに生きているし、嫂も天保時代との連続性を感じさせるような趣を漂わせている。衣装でさえ旧態依然なのだから、まして心の中がそんなに変われるものではない。漱石はそのように感じていたに違いないのだ。  
「こころ」と「それから」
漱石の二つの小説「こころ」と「それから」は、色々な面で深くつながったところがある。まずテーマが似ている。両者とも男女の三角関係のもつれを扱っている。二人の男が一人の女を巡って不幸な関係に陥るというものだ。ただ多少の違いはある。「それから」では、主人公の代助が友人の平岡に対していったん女を譲った後で、その女を奪い返すという風になっているのに対して、「こころ」では、女への愛を告白した友人を出し抜く形で女を自分の物にした男が、そのことで良心の呵責を感じ続けるということになっている。つまりベクトルが違う方向を向いているといえるわけだが、男女の三角関係という構図は共通しているわけだ。
「それから」の代助は、美千代という女を心から愛しており、美千代のほうもその愛に応えたいと思っていたにかかわらず、後から彼らに加わった平岡が美千代を自分の妻にした。そのときに代助は、平岡から美千代を守ろうとしなかったばかりか、自分が仲人の労をとって二人を結ばせてやった。そのことで、美千代は代助に捨てられたと思ったのである。しかし、代助には捨てたという意識はない、捨てたのではなく友人に譲ったという気持ちである。しかし、その気持ちが、美千代が必ずしも幸福でなさそうな様子を見るにつけ揺らいでくる。その揺らぎが美千代への強い愛となって高まっていく。挙句の果てに代助は、美千代に姦通を犯させるような形で、彼女を奪い返すのだ。
一方、「こころ」の若き「先生」は、友人のKとともにある未亡人の家に下宿している。その未亡人の美しい娘を先生は愛するようになる。ところがKのほうも彼女を愛していて、そのことを先生に告白する。そうすることで、先生に仲人の労をとってもらいたかったのもしれない。丁度、代助が平岡の為に仲人の労をとったように。だが先生はその労をとらなかった。とらなかったばかりか、自分が先回りをして、未亡人にお嬢さんを嫁に欲しいと申し入れ、母親の後ろ盾を得る形で娘を自分のものにする。そのことで、Kは自殺してしまうのである。
このストーリーは、見方によれば、「それから」で展開したストーリーを逆にしたものだといえる。代助の場合にも、平岡の愛を尻目にして美千代を自分のものにする選択があったわけだ。もしそうしたとして、その選択の結果がどうなったか、それのひとつの可能なあり方として、「こころ」を書いたと言えなくもない。
「こころ」の先生は、自分が友人を出し抜いたおかげで友人を死なせてしまったと思い込むようになり、世の中に対して負い目を感じるようになる。愛する女性との結婚生活が楽しくないわけではないが、それを素直に喜べない。自分がもし幸福だとして、自分はそれに値しない。そんな自責の念にしょっちゅう苛まれているわけである。
こうしてみると、「それから」と「こころ」の、二つの小説に描かれた、同じような色彩の男女の愛には、理想的な結末というものがありえたのか、という疑問も湧く。男と女が愛し合うのに、人間はこんなにも理不尽な事態に直面しなければならないのか、と現代人の多くは感じることだろう。いくら親しい友人だからといって、自分の心から愛する女をくれてやるというのは、我々現代人にはなかなか理解できないし、ましてや好きな女を他の男に取られたからといって、自殺するような柔な男は現代社会には存在しないだろう。漱石がこの二つの小説で描いた男女関係というのは、いかにも旧時代的で、感情移入できないところがある。
この二つの小説は、何も仕事をしないでブラブラしている人間を描いているところも似ている。動機には多少の違いはある。代助のほうは、世の中の愚劣さと付き合うのは馬鹿げているという高慢な理由をつけている。一方先生のほうは、自分は世の中に大きな顔向けはできない、自分にはその資格はない、自分は世の中の日陰者としてひっそり暮らしているのが似合っている、という言い訳をする。代助は世の中をなめてかかり、先生は世の中を前に恐れおののくのである。
こうした二人の姿勢は、時代認識に大いにかかわりをもつ。代助は、明治という時代に積極的な意味を認めることができない。人々の頭の中は天保時代と全く変わらないのに、欧化の波に押し流されて、齷齪として生きている。だから自分はそんな時代とはかかわりたくないのだということになる。ところが先生のほうは、自分は結局時代の生んだ子なのだというような意識をどこかで持っている。明治天皇が亡くなったときに、先生が一つの時代が終わったのを感じ、その時代への殉死を思いつくのは、先生が自分を時代と強く結びつけて考えていたからだ。
この二つの小説で一番違っているところは東京の地理への言及の仕方だろう。「それから」では、代助が歩き回る道筋が、今日でも地図で一々たどれるほどに詳しく描かれている。その内容は先稿で紹介したとおりだ。「こころ」での地理への言及は、これに対して至極あっさりとしている。先生が雑司が谷墓地からさほど遠くないところに住んでいるらしいことは、行間から伝わってくるが、そこがどこなのかはわからない。また主人公の語り手がどこに住んでいるのかもよくはわからない。先生の家を夜の十時に辞して自分の下宿先に帰るという記述があるところから、先生の家からさほど遠くないところに住んでいると推測されるが、それがどこなのか良くわからない。
先生と語り手の二人が二度ばかり連れ立って歩くところが出てくる。一つは上野の動物園の周囲を歩き回るところ、もうひとつは郊外へ一時間ほどかけて歩いていく場面だ。上野のほうはともかくとして、後者の郊外がどこをさすのか、具体的な記述がない。ただ、先生の家から徒歩で一時間ばかりで、植木屋があるところということになっている。この植木屋は一軒だけ孤立しているというより、何軒か並んでいるようにも思えるから、もしそうだとしたら、駒込あたりではないかと推測される。徳川時代後期から明治時代にかけて、駒込あたりには植木屋が集まっていた。二人はまだ田園地帯の面影を残す駒込まで足を運んだのではないか。  
「門」
夏目漱石は「それから」で、友人の妻を奪う話を書いた。「門」は、友人から妻を奪った男が、世間を憚りながら、妻と一緒にひっそりとした愛を育てる話である。「それから」の代助は、もととも愛していた女を一旦友人にゆずりながら、後でそのことを悔いて、女を奪い返す。女のほうも代助に奪われることを望む。「門」の宗助は、友人の恋人らしい女を奪ったように書かれているが、どのようにして奪ったのか、詳しいことは触れられていない。ただ、女を奪われた友人との間に深刻な事態を生じ、それがもとで宗助はその友人の影におびえながら暮らさなければならない羽目に陥った。しかしそのことが、宗助と妻の、二人の結びつきを一層深める。そんな具合に書かれている。
これと並んで、財産を巡る親族との葛藤が、もうひとつの大きなテーマになっている。親族によって財産を食い物にされたために人間不信に陥るというテーマは、「こころ」でも大きく取り上げられるわけだが、そのテーマがこの小説で始めて出て来た形だ。「こころ」の中では、先生の父親の財産を食いつぶした叔父は、悪意のある人物として描かれているが、この小説では、そういう悪意は感じさせない。財産の処分を任された叔父は、思慮の足りないためにそれを失ったことになっている。決して甥を騙そうと思ったわけではない。この叔父は、甥の一人で宗助の弟にあたる小六を引き取って、十年間も育て上げ、高等学校にも通わせている。その叔父が財産を失ったうえに死んでしまったので、宗助は小六を引き取ったうえ、彼の身の上のことまで背負い込まなければならなくなる。だが、宗助はそれを迷惑なことだと考えながらも、叔父とその家族を深く恨むわけでもない。
こんな調子で、小説の前半は、宗助が小六の身の上に頭を悩ませながら、妻の御米と睦まじく暮らす様子を描いている。彼らは山の手の一角にある小さな借家にひっそりと暮らしている。場所がどこかは、詳しく書かれていない。駿河台下から西方向の市電に乗って終点で下り、そこから歩いて二十分ほどの所にあるというのみである。その終点というのは、どうやら九段下のようだ。宗助の住む借家は、崖地の斜面の下に立っているということになっているから、九段下から歩いて二十分範囲のところで、しかも崖地のあるような起伏に富んだ場所ということになる。「それから」の舞台にもなった小石川界隈かもしれない。
宗助は、丸の内にある役所に勤めているということになっている。丸の内には中央官庁はなかったから、おそらく東京府庁あたりではないかと考えられる。この役所に通うのに、宗助は九段下から市電に乗り、神田須田町で乗り換えて銀座方面に向かい、京橋で下りて府庁に入ったのだと思われる。もっとも小説の中ではそんなことは書かれていない。あくまで筆者の想像だ。
宗助の給料は低額で、その日暮らしがやっとというふうに書かれている。なにしろ穴の開いた靴をいつまでも穿きつづけなければならないほどなのだ。だから、小六のために学資を用意するというのは論外だ。といいつつ、家の中に下女を置いている。御米が華奢な体で家事に耐えないということもあろうが、下女を雇うのはたいした出費ではなかったようだ。当時の下女の相場を調べたところ、三食付で一円ほどの小遣を渡せばよいという情報を見つけた。
宗助はひょんなことから大家の坂井と親しくなる。この男は大学出のインテリで、卒業後は職業につかず、毎日を遊んで暮らしている。先祖代々の財産で食っていけるのだ。沢山の子どもにも恵まれ、世の中に聊かの不満も持たない。その男が何故か、宗助に関心を示し、宗助の方も打ち解けて話すようになる。そのうちにこの男が、宗助にとって大きな意味を持つ存在となる。
一つには、この男を介して、自分が今まであれほど避けてきた友人と鉢合わせをしそうになったことだ。満州にいる坂井の弟が金策のために日本に戻ってきたが、安井という友人を一緒に連れてきた。近いうちに彼らがここにやって来るからあなたも会って見ないかと言われたのだ。その安井という男こそ、宗助が御米を奪った当の友人なのだ。
宗助はこの友人とのことを忘れるために今までとてつもない努力をしてきた。結局それを忘れるために役立ったのは時間の流れだけだった。いままでに費やしたこの時間の流れが、一瞬で逆戻りしかねないことに、宗助は大いに驚き、どうしたらよいか分別を失いそうになる。彼が禅寺にこもって座禅をする気になったのは、友人との不幸な過去が、それによって少しでも忘れることができるかもしれないと思ったからだ。
結局宗助は、この友人と鉢合わせする危機を逃れることができた。それのみならず、坂井から弟の小六を書生に置いて面倒を見ようと申し入れられた。そのことによって宗助は、弟の未来が開けるのを感じることができたばかりか、小六の存在によって乱されていた家内の平安と夫婦の絆を取り戻すこともできるのだ。
こんなわけで、この小説は、節目節目でちょっとした波乱を立てながらも、宗助と御米という一対の夫婦が、仲睦まじく暮らしていく様子をほのぼのと描いている。途中御米が狭心症の発作を起こし、あわやという事態に直面するが、それがまた夫婦の絆を更に深めることになる。そんな御米に宗助は、安井が近くに現れたということを一切語らない。一人でそれによる危機を乗り切っていく。それ故、この小説では、夫婦の深い絆は強調されているが、その絆は男である宗助の視点を介して伝わって来るだけで、女である御米の視点は考慮されていないともいえる。女はあくまでも、男の視線の先にある存在として描かれている。  
「門」に見る漱石と禅
小説「門」の後半は、宗助の参禅を中心に展開する。漱石自身参禅の経験があるので、この場面は自身の経験をもとに書いたのだと考えられる。漱石は、明治二十七年(二十七歳)の暮から正月にかけての十日ほどの間、鎌倉円覚寺の帰源院に滞在して参禅しているが、その動機は神経衰弱を鎮めたいということのようであった。参禅がどのような効果につながったのか、筆者にはよくわからないが、あるいはこの時の体験を書きたくて、漱石は「門」を書いたのかもしれない。そうだとすれば漱石は、この参禅によって直接的な効果を得ることはできなかったようだ。というのも、宗助の参禅も、彼に大した効果は及ぼさなかったように書かれているからである。
宗助が参禅する気になったのは、負い目のある人物である安井の影が身近に迫ってきて、忘れようとしていた過去に直面しそうになったからである。折角長い時間をかけて忘れかけて来たものが、一瞬にして逆流し、自分の精神を失調させようとしている。その危機を乗り切る方法として、あるいは参禅が有効に働くかもしれない。宗助はそう思って、知人の紹介状を持って、円覚寺の一窓庵を訪ねるのである。宗助の動機が精神の危機であるところが、漱石自身の参禅の動機と類似している。なお、小説の中で一窓庵とされているのは帰源院、そこをまかされている宜道という若僧は雲水の釈宗活、禅の指導をする老僧は円覚寺の管長釈宗演がモデルである。
円覚寺を始めて訪ねた時の様子は、次のように書かれている。「山門を入ると、左右には大きな杉があって、高く空を遮っているために、路が急に暗くなった。その陰気な空気に触れた時、宗助は世の中と寺の中との区別を急に覚った。静かな境内の入口に立った彼は、始めて風邪を意識する場合に似た一種の寒気を催した」
ここで山門と書かれているのは総門のことで、それを潜って右手の丘の上に帰源院がある。小説の中で蓮池と呼ばれているのは妙香池のことで、仏殿の左手をずっと奥に入ったところにある。そして池の先の小高い丘を上ったところに禅堂がある。漱石はこの帰源院と禅堂を往復しながら参禅の日々を過ごしたわけだが、小説のなかの宗助もほぼ同じような毎日を送ったのだと考えてよいだろう。
宗助は、宜道が若年に関わらず自己を厳しく律し、世間から超脱していることに強い印象を受ける。自分にはとてもそんな真似はできないと思う。実際、宗助はこの若い僧になにからなにまで任せきりで、自分自身は何もできないばかりなのに、宜道の方では、宗助の面倒を見ながら、自分の修行も怠らないのである。そんな宜道に対する驚きの感情は、漱石が実際雲水の釈宗活に対して抱いた感情と同じものだったのだろう。
宗助が老師から貰った公案は「父母未生以前本来の面目」というものだった。この公案への見解を寺に滞在する十日程の間に見つけなければならない。宜道は十日間でも見つけられるかもしれないので、あせらずに努力するように進める。かりに見解に達しなくても、努力した分だけいいことがあるから、あきらめるには及ばないと励ます。
禅の公案と言うのは、理屈で答えられるものではない、ということになっている。それは理屈で納得するのではなく、体得するのだとよく言われる。ところが宗助は理屈で以て考え、理屈で以て説明しようとする。そこを老師に厳しく批判される。宗助は結局理屈の限界を超えることができなかった。それ故、公案への見解に達することができなかった。それでも宜道は、座禅したことに意義があったとして慰めるが、宗助には自分にどんな意義があったのか、納得することができない。もやもやとした気分のまま、山を下りざるを得ない。
この時の宗助のやるせない感情は、次のように書かれている。「自分は門を開けてもらいに来た。けれども門番は扉の向こう側にいて、敲いてもついに顔さえ出してくれなかった。ただ、『敲いても駄目だ。一人で開けて入れ』と云う声が聞えただけであった」
「門」という題名は、この場面に淵源しているのだろう。つまり、この小説は、解脱を求める苦行者が自分を迎え入れてくれる世界の門を求める話だというわけなのだろう。門は他人に開けてもらうものではなく、自分で開けて入るものだと。
ところで、宗助の精神的苦境は、ひょんなことで解消される。自分を苦しめてきた友人の安井が、宗助の参禅している間に、大陸へ戻ることになり、彼と接近する危険性が遠のいたのだ。また、弟の小六の身の置き所も決まって、宗助はそっちの悩みからも解放されることになった。つまり、今まで自分を苦しめてきた煩悩のタネが一挙に消えてなくなったのだ。
これは参禅とはなんの係わりもなく、偶然になったことであるが、しかし宗助にとっては重大ななりゆきであった。いまや煩悩から解放された宗助は、愛する妻の御米と共に、ひっそりとした、しかし幸福な毎日を、送っていくことができるようになったのだ。  
「彼岸過迄」
新聞連載小説「彼岸過迄」を開始するにあたって漱石は、諸言というか前置きというか、読者への言訳のような文章を載せている。「門」連載終了後に大病をわずらい、しばらく仕事を中断したが、ようやく再開できる段取りとなった、ついては、久しぶりのことでもあり、なるべく面白いものを書かなければならないと思っている、というような趣旨のものだ。そんな思い入れがあるためだろうか、この小説は漱石の後期の作品群の中では、ちょっとした毛色の違いを感じさせる。「猫」以来の例の諧謔趣味が復活して、遊びの精神とも言うべきものが再び表面化しているのだ。これを「それから」や「門」と「行人」以降の作品群との間に挟んで比較してみれば、作風の相違は一目瞭然である。
「彼岸過迄」という題名の由来や小説の構成についても、漱石はわざわざ触れている。
「『彼岸過迄』というのは元日から始めて、彼岸過まで書くつもりだから単にそう名付けたまでに過ぎない実は空しい標題である。かねてから自分は個々の短編小説を重ねた末に、その個々の短編が相合して一長編を構成するように仕組んだら、新聞小説として存外面白く読まれはしまいだろうかという意見を持していた。が、ついそれを試みる機会もなくて今日まで過ぎたのであるから、もし自分の手際が許すならばこの『彼岸過迄』をかねての思わく通りに作り上げたいと考えている」
まず、「彼岸過迄」という題名が小説の内容とは無関係な、便宜的に名づけたものだというのが面白い。このあたりにもこの小説が遊びの精神から出ていることを感じさせる。実際には、この小説は明治四十五年の正月に連載を開始して、その年の春の彼岸を過ぎて、陽春の四月に終了したのであった。
漱石はまた、いくつかの短編小説を重ねて一つの長編小説を構成するように仕組みたいと言っている。その言葉どおりこの小説は、一応は独立性の高い、つまり短編としてそれなりに完結している六つの話からなっている。といってもそれらは互いに係わりを持たないわけではない。啓太郎という、大学を出たばかりで適当な就職先を探している青年を主人公にして、この青年と彼を取り囲む人物たちとの係わり合いを描いているという点で、それぞれの話は共通の接点を持っている。しかも、主人公と関わりを持つ人々と云うのが、主人公の親しい友人とその家族や親戚たちなのである。
六つの話の表題はそれぞれ、風呂の後、停留所、報告、雨の降る日、須永の話、松本の話、となっている。しょっぱなに出てくる「風呂の話」は、それだけで完結しており、他の話とは大きなつながりは持たないが、他の五つは、それぞれが相互に関わりあっている。これらはすべて、啓太郎の友人須永と彼の家族や親戚に関わる話だからである。
この須永という友人が、それ自体で変わった人物像として描かれているが、この小説群の中でもっとも変わった人物は須永の二人いる叔父のうちの松本という人物だ。この人物は大学を出たインテリとされている点、生業を持たず毎日遊んで暮らしている点で、例の高等遊民の一人である。松本は自分自身のことをさして高等遊民だといっているが、この言葉を漱石が小説の登場人物に吐かせたのはこれが最初だと思う。
六つの話の中で一番力のこもっているのは「須永の話」だろう。これは須永と彼の従妹千代子との一種独特の関係を、須永自身が語ったという形を取っているものだ。須永の母親は、自分の妹が生んだ千代子を息子の嫁に貰うつもりでいる。千代子のほうも須永に嫁いでもよいと考えているフシがある。ところが須永自身は千代子と結婚する気にならない。何故ならないのか、その理由は須永自身にもはっきりしない。だから、千代子や母親に向かって明確に拒絶の意思を示すこともない。この曖昧な態度が千代子と母親を苦しめる、というような一風変わった設定の話だ。
この話で現代人の興味を引くのは、従兄妹同士の結婚がテーマになっている点だ。かつての日本では、従兄妹同士の結婚は珍しいことではなかった。だがそれは世界的に見れば珍しい方なので、世界には従兄妹婚をタブー視する文化の方が多い。従兄妹婚を許容する文化でも、その範囲は交叉従兄妹に限るケースが多く、並行従兄妹婚は忌避されるのが普通である。ところがこの小説の中では、須永と千代子は並行従兄妹の関係にありながら、彼らの間で結婚話が進行している。実際には、須永と千代子とは血のつながった従兄妹ではなかったということが明らかにされるが、それは事後の話で、小説の進行過程の中では、彼らの結婚は道義的な問題とはされていない。
ともあれ、須永と千代子との間で繰り広げられる不思議な関係は、現代の読者の目には、かったるく映るのではないか。現代人は、男女の関係をこんなにもつれた感情では扱わないものだ。いくら日本人が恋愛に対して淡泊な民族だとはいえ、相手が好きなのか嫌いなのか、それもわからないような馬鹿でもあるまい。ところがこの小説の中の若い男女は、そんな馬鹿な人間たちとして描かれている、としか思いようがない。  
「彼岸過迄」に見る東京の地理
漱石は「三四郎」と「それから」の中で、主人公の行動にあわせて東京の地理をかなり詳しく描いた後、「門」では一変して暗示するにとどめ、詳しく書くことはなかった。それで筆者などは、宗助の住んでいる場所を、九段下から徒歩二十分ばかりの傾斜地だろうとばかり推測するほかはなかった。ところが、「彼岸過迄」では一変して漱石は、東京の地理を再び詳しく描いている。これも久しぶりの読者サービスだったのかもしれない。
まず主人公たる啓太郎の住んでいるところ。これは本郷の下宿だとなっているが、本郷通り近くの東大と通りを隔てた反対側の住宅街のようである。この辺りには学生相手の下宿が集まっていて、大学を卒業したばかりで未だ定職のない啓太郎が、学生時代の延長でずるずる住み続けているということになっている。
啓太郎の友人須永が住んでいるところは、小川町の一角である。須田町のほうから歩いて来て、右へ入った路地に面しているといっているから、今でいう小川町交差点の北東にあたる一角である。啓太郎の下宿とは、本郷通りでまっすぐつながっているから、啓太郎は本郷通りを走る市電に乗って行き来することができるわけである。
須永の母方の叔父田口は内幸町に住んでいる。これも本郷通りの先に伸びる日比谷通り沿いにある。須永のもう一人の母方の叔父松本は牛込の矢来町に住んでいる。啓太郎は、田口に命じられた仕事で松本を尾行しているうちに、市電で江戸川(今の地下鉄江戸川橋駅付近)に至り、そこから雨の中を、人力車を飛ばして矢来町まで来たのだった。
田口に命じられた仕事というのは、小川町の交差点に立って、三田方面から来た市電から下りたある男性を尾行して、その行動を報告せよというものだった。そこで啓太郎は、三田方面から来る市電の停留所を探すのだが、これが二か所あるということがわかった。ひとつは交差点の北東側にあって、これは本所亀沢町方面行きの停留所である。もう一つは交差点の南西側にあって、こちらは巣鴨方面行きの市電がとまる。つまり、市電の小川町停留所は、三田方面から来た電車が、そこで東西に枝分かれする分岐点になっているわけである。
「門」では、宗助が丸の内方面から市電に乗って神田で乗り換え、九段方面行きの終点で下りて自宅へ向かうというように書かれていた。それを筆者は、丸の内の役所(東京府庁)につとめる宗助が京橋辺りから市電に乗り、神田須田町で九段方面行きに乗り換えたというふうに解釈したわけだが、もしかしたら宗助は、馬場先門から市電に乗り、小川町で乗り換えた可能性もある。その場合には、宗助の乗った市電は江戸川まで行ったはずだから、宗助もやはり牛込矢来町あたりに住んでいた可能性が高い。宗助のみならず、「それから」の代助も矢来町に住んでいた可能性がきわめて高い。そのように設定したほうが、代助の行動がより合理的に説明がつく。
啓太郎はあまり行動的な方ではないが、ひとつ浅草方面へ遊びに出かける場面がある。その場面で啓太郎は、下谷車坂から浅草へ向かって伸びる大通りを歩いていく。この大通りは今でいう浅草通りのことで、車坂はその起点となったところ、今の上野駅の浅草口のあるあたりである。
浅草通りは、いまでも仏具屋が軒を並べているが、それは明治末でも変わらなかったようで、漱石はそんな通りの様子を次のように書いている。
「彼は久しぶりに下谷の車坂へ出て、あれから東へ真直に、寺の門だの、仏師屋だの、古臭い生薬屋だの、徳川時代のがらくたを埃といっしょに並べた道具屋だのを左右に見ながら、わざと門跡の中を抜けて、奴鰻の角へ出た」
ここで門跡といっているのは東本願寺のこと、奴鰻の角は、雷門通りが国際通りにぶつかるところである。
浅草を出た啓太郎は浅草橋に向かって歩きながら、占師を探す。蔵前のあたりまで来て占の看板をみつけた啓太郎は、そこへ入って自分の未来を占ってもらう。啓太郎は、占師といえば髭を生やした爺さんとばかり思いこんでいたのだが、その思いに反して小柄な婆さんが現れて占ってくれた。その占いというのが、文銭占といって、九枚の穴のあいた文銭を様々に並べ替えて、その並び具合から人の命運を占うというものだった。そんな占は、現代人はすっかり信用しなくなったが、明治末の日本人はいまだ信じていたわけで、それは啓太郎のような帝国大学を出たインテリでも変わらなかったということらしい。何はともかく、この占いは啓太郎のその後の命運をよく言い当てていたのである。
「雨の降る日」と題する一段では、松本の末娘宵子の死と送葬とが描かれるが、その中で須永を含めた一行が、矢来町の家から上落合の火葬場まで骨上げに行く場面がある。矢来町の家から火葬場のある上落合までは、今でいう早稲田通りで一直線につながっている。どういうわけか漱石は、火葬場は柏木のステーションから二丁ばかりのところにあると書いているが、実際には一キロ(十丁)近くあるはずだ。もっとも須永らの一行は柏木のステーションを利用せずに、矢来町の家から車(人力車)に乗って早稲田通りを走ったわけであるが。その早稲田通り沿いの風景を漱石は次のように書いている。
「火葬場の経験は千代子にとって生れて始めてであった。久しく見ずにいた郊外の景色も忘れ物を思い出したように嬉しかった。眼に入るものは青い麦畑と青い大根畑と常盤木の中に赤や黄や褐色を雑多に交ぜた森の色だった。前へ行く須永は時々後を振り返って、穴八幡だの諏訪の森だのを千代子に教えた」  
「彼岸過迄」
「彼岸過迄」の「雨の降る日」と題した章は、松本の末娘宵子の死と送葬が主なテーマだ。まだあどけない宵子は、千代子の目の前で、まるで変死のような変った死に方をした後、火葬に付される。その火葬を描いたところが現代人の我々には興味深く映る。
前稿で言及した通り、火葬場は上落合にある。その火葬場は、徳川時代の昔からそこにあり、21世紀の今でもその場所にある。その名称は落合斎場といって東京博善という民間会社が運営している。日本の火葬場は自治体が運営するのが普通だが、東京だけは、徳川時代から民間が運営してきた経緯があって、それが今日まで続いているわけである。博善が運営する火葬場は、この落合の外、町屋、四ツ木、堀の内、桐ケ谷、代々幡の合せて六ヶ所である。
宵子は、自宅での通夜や寺での読経を終えた後火葬場に運ばれて火葬炉に入れられ、一晩かけて焼かれる。今では、火葬に要する時間は一時間ほどで、送葬者は死者が骨になるまで待合室で待つというのが普通だが、明治時代の末頃には、まだ薪で焼いていたために、火葬には長い時間がかかったのだ。
面白いのは、火葬炉に等級があることだ。宵子は上等の炉で焼かれている。並等と上等とでどのような相違があるのか、漱石の文章からはわからない。ただ、宵子の炉には、扉の錠前をあける鍵や、錠前の封印といった記述があるから、あるいはこうした部分で差別化を図っているのかもしれない。今の東京では、瑞江葬儀所などの公営の火葬場ではこうした差別化はしていないが、博善の火葬場だけは、今でも炉に等級を設けているようだ。等級を設けたからといって、焼き方に相違があるわけではないのだが。
骨上の場面では火葬場の職員が三人出てくる。この職員のことを漱石は、伝統的用語を用いて御坊と呼んでいる。御坊は隠坊とも書く。徳川時代からあった職業だ。徳川時代にはこの人々が、野に積み上げた薪の上に棺を乗せ、一晩かけて焼いたものだ。野焼のことだから、煙が周辺まで漂い出た。したがって火葬場というものは、非常に嫌われたものだった。
今の火葬場は、火葬炉の中に棺を入れ、それをガスで焼く。ガスの温度は高温で七百度乃至九百度もある。だから大人でも一時間余りで焼けるのだし、宵子のような子供なら三十分もあれば十分なはずだ。それが、一晩を要したというのは、火葬炉の中で薪を燃やしたからだろう。それを燃やし続けたのは、ここで御坊と呼ばれる職員だったはずである。
今では、火葬後の骨はまっ白い綺麗な状態で焼きあがるが、宵子の場合には、あまりきれいな状態ではなく、しかも原形をかなりとどめている。たとえば、「例のお供えに似てふっくらと膨らんだ宵子の頭蓋骨が、生きていた時そのままの状態で残っているのを認めて・・・」というような記述があるし、歯もそのままの状態で残っている。歯などというものは、今では形を残さず焼け尽きてしまうものだ。
骨を拾うのに木箸と竹箸を一本ずつ用いるのは、この時代の東京の風習だろう。面白いのは、その箸をめいめいがそれぞれ持っていることで、これは一対の箸を皆で使い回しする今日の風習とは違っているところだ。
火葬炉の内部がどうなっているのかについては分からない。ただ、棺を乗せた台車を、レールを用いて引っ張り出すという記述があるから、おそらく腰の高い、金属製の棒で編んだ台車の上に棺を乗せて炉内に収容し、背後から人が炉の底のほうに薪を放り込んで焼いたのであろう。今では、バーナーは炉内の上部にあり、棺に向かって上から炎を浴びせる、というふうになっている。
この場面を書くために漱石は、火葬場に直に赴いて、その構造やら方法やらについて、綿密な調査をしたのだろうと思う。  
「行人」
「行人」はいろいろなエピソードが盛られているので賑やかな結構の小説のようにも読めるが、枝葉を落して根幹を取り出してみると、人間の狂気についての漱石なりの考えを述べたものだというように受け取れる。その狂気は、そんなに大袈裟なものではない。一種のノイローゼ(神経症)ともいえるようなものだ。そういうノイローゼなら、漱石自身が自ら体験したこともあったのだろうと思われる。これは憶測だが、「行人」とは漱石自身のノイローゼ体験を描いたものなのではないか。
ノイローゼになっているのは小説の語り手(「自分」と自称している)の兄ということになっている。この兄の言動が、弟の「自分」の眼には不可解に映る。兄は、精神病になったらさぞ生きるのが楽になるだろうというようなことを言って「自分」を混乱させたあと、妻が弟に不倫の感情を持っているのではないかと疑い、妻の貞操を確かめるよう弟に迫ったりする。また、妻を始め家人に対しても異常な行動をするようになり、次第に周囲から迷惑がられるようになる。
そこで弟である語り手は、第三者の目を通じて確かめたいとも思い、兄の友人を説得して兄を旅行に連れ出してもらい、旅行中の兄に異常な言動が見られないかどうか、よく観察して欲しいと依頼する。小説のかなり長い末尾は、この友人から語り手宛にしたためられた手紙と言う体裁をとっている。その手紙の中で、友人もまた、兄がノイローゼに罹っていることを確認するわけである。ただしこの友人は、兄のノイローゼを否定的には捉えていない。それを精神の高貴さから起こる病だというように捉えている。
こんなわけでこの小説は、語り手の兄の心の病を、いくつかの角度からあぶりだしたもの、という体裁を取っている。だが、そのいくつかの角度に、あまり強い関連はない。小説の前半では、兄によって嫂の貞操を確認するように命じられた語り手が、嫂と二人きりでハイキングに出かけ、ふとしたことから一夜を共にする場面が描かれるが、この場面では、兄の狂気よりも、語り手とその嫂とのもつれた関係の方が表面に出ている。兄は自分の妻が弟である語り手に惚れているのではないかと疑っているのだが、語り手の弟の方も、嫂と接しているうちに、嫂から濃厚な色気がただよってくるのを感じ、思わずセクシャルな気持ちを抱くようになるといった、別の物語に摺れ変っている。この部分だけを読めば、漱石一流の、姦通のバリエーションと思えるほどだ。
友人からの手紙の中で描かれた兄の姿は、心を病んでいるということを彷彿させるのみで、語り手や嫂がこの兄に対して日頃抱いていたものと、あまり深い関連がない。兄は弟に対して、自分の妻がお前に惚れているに違いないから、それを確認しろと無理に迫ったにかかわらず、手紙のなかではそうしたことは一切話題に上らない。手紙の中での兄は、妻を殴ったというように書かれているが、どのような理由で殴ったのかは触れられていないし、ましてや、妻の不倫を疑っているなどということは一切言及がない。つまり、兄と言う人物を取り巻いて、その弟やら妻やら友人やらが、さまざまな観察をするわけだが、それぞれが勝手な見方をしているだけで、その間に共通するところがないのだ。
狂気と言うことでは、この小説にはもう一人の、これは本物の狂人が登場する。これは語り手の友人三沢という男に関わりのある女で、嫁入り後まもなく、気が狂ったことを理由に追い出された女性なのだが、それが三沢と言う男に向かって、夫婦めいた態度を示した、というものだ。この女がそんなことをできたのは、気が狂っているからであって、正気ではとてもできなかっただろう。だから、その女が三沢と言う男に惚れていたということが本当なら、狂っていることは、その女にとっては幸いなことだったのだ、というような見方も示される。つまり、この挿話の中でも、狂うということは、一概に悪い事ばかりともいえない、と言われているわけである。
こんな次第で、この小説にはやたらに狂気の話が出てくる、といった印象を与える。といっても、小説全体が狂気を中心に展開していく、というわけでもない。語り手と嫂との危うい関係や、語り手の兄弟とその父親とのすれ違いの間柄など、小説の本筋とは関係のないところで、読ませる工夫がなされている。しかしその工夫が微に入り過ぎて、小説全体としてまとまりのない印象がある。これはおそらく小説の構成術にかかわるところだ。漱石はこの小説を当初、「彼岸過迄」と同じように、いくつかのエピソードをつなげていくつもりで書きだしたのではないか。それ故、それぞれのエピソードにかなりな自立性があって、エピソード同士が互いに緩やかにつながっている、といった印象を与えるのではないか。
登場人物の中でもっとも存在感のあるのは、嫂だろう。この小説の前半は、この嫂と語り手との関係が中心になっている。その関係はあやうく不倫の域にはみ出しそうにもなるが、そこは語り手の自重が働いて、逸脱せずに済む。だが、そのことを、嫂の方では不服そうに捉えているフシがある。彼女には、語り手と不倫をしてもかまわないというような意気込みが感じられる。その意気ごみが、彼女を強い女に見せ、彼女の存在感を強めているわけだ。だが漱石は、彼女の意気込みをあまり深く追求することはなかった。小説の前半で強い存在感を示していた彼女が、小説の後半では全く影をひそめてしまうのだ。  
「行人」と「こころ」
「行人」と「こころ」は、どちらも長い手紙で終っているところが共通している。「行人」の場合には、語り手からその兄の言動を観察して欲しいと依頼された人物が、自分の観察したところを、依頼主である語り手に手紙と言う形でつぶさに報告するということになっており、一方「こころ」の場合では、自殺を決意した「先生」が、自分の半生について語り手たる「わたし」に語って聞かせるということになっている。
「行人」の手紙を書いている者は、小説のなかではいきなり登場してきた人物で、それも友人の弟から友人の言動について観察して欲しいと頼まれたことになっている。この友人は、その観察の結果を手紙の中で披露しているわけだが、親しい友人とはいえ他人の言動にかかわる観察であるから、その手紙の内容は勢い外面的なものになりがちである。一方「こころ」の手紙を書いている者は、自殺を決意した人物であり、その人物がいわば遺書のような形で己の半生を語るのであるから、その内容はある意味鬼気迫ったものがある。この鬼気迫った趣が、「こころ」という小説を更に引締める効果を発揮している。ところが「行人」の手紙は、何故ここに置かれなければならなかったか、必ずしも必然性があるとはいえず、また一篇を引き締めるような効果にも乏しい。むしろ、小説の構成としては、このような形で終っていることは、中途半端な印象を与えるともいえる。
こうした訳で、漱石本人も「行人」における手紙の位置づけに不如意なものを感じたのだろうと思われる。それ故にこそ、「こころ」の中でもう一度手紙を使うことにしながら、その使い方に工夫を加えたのではないか。そうした意味合いでは、「行人」と「こころ」とは、手紙を通じて緊密に結びつきあった姉妹小説だといえなくもない。もっともそれは、あくまでも形式面でのことであり、小説で描かれている内容はかなり異なった趣のものではあるが。
「行人」と「こころ」が似ているのは、「手紙」を有効に使うという構成上の工夫に置いてであるが、それ以外に構成上の共通性には乏しい。「こころ」の方は、かなり厳密な構成に基づいて、計画的に書き進められたというような印象を与えるのに対して、「行人」の方は、そのような印象が弱い。これは一つの骨太のプランに基づいて計画的に書き進められたというよりは、相互にあまり緊密な関連を持たないいくつかのプロットを羅列し、それらプロット相互の間に最小限の関連性を持たせようと、あとから思いついたような形になっている。つまり、「こころ」が厳密なプランに基づく統合性の高い小説なのに対して、「行人」の方は、かなり遊びの要素の強い作品だと言える。漱石はこの小説を、恐らく書きながら考えるというような態度で書き進めたのだと思われるほどだ。
ところで、「行人」が友人の長い手紙で終っていることについて、違和感のようなものを感じるのは筆者のみではあるまい。この手紙は、語り手の依頼に答えるという形で書かれたものなのだが、語り手が何故そのような依頼をなすに至ったか、については必ずしも説得的に書かれてはいない。むしろ、片手間でもよいから、できたら知らせて欲しいというような書き方になっている。それに対して依頼に応えた手紙は、いわば必要以上の詳細さで以て書かれている。いくら友人でも、この詳細さへの動機はどこから来たのか、というような不思議な念を催させる。しかもその詳細な報告に、依頼主たる語り手がどのような気持ちを抱いたか、それが全く触れられないまま、いきなり小説が終ってしまう。そこのところは、読者にとっては聊かフラストレーションのタネになるところだろう。
これに対して「こころ」における先生の手紙には、小説の進行上の必然性というようなものがある。先生は小説の進行する中で、語り手に対して自分の半生をいつか語って聞かせると約束していた。この手紙はその約束を果たしたものなのである。また、その内容には、死を決意した人物の書いたものとして、鬼気迫るものがある。自分は明治と言う時代の終りに殉じたのだというような言い分に対しては、違和感が残らないではないが、先生がこのような手紙を書かずにいられなくなった気持ちは十分に伝わってくる。それがあるからこそ、この手紙が小説の結末をなすのが不自然に感じられない。
しかし、「行人」における友人の手紙には、進行上の必然性も希薄ならば、内容に鬼気迫るものもない。そこには、語り手の兄の心の惑いが触れられてはいるのだが、その心の惑いは第三者の目から見られたものなので、その説明には、精神科医師のそっけない診断のような冷たさがある。文学的な表現と言うよりも、科学的な文章だといった具合である。
こんなわけで、「行人」と「こころ」における手紙の扱い方には、小説構成上に置いても、内容の面においても、大きな隔たりがあると言わねばならない。  
「行人」に見る漱石の権威的人間観
「こうして岡田夫人として改まって会って見ると、そう馴れ馴れしい応対も出来なかった。それで自分は自分と同階級に属する未知の女に対する如く、畏まった言語をぽつぽつ使った」
これは「行人」の冒頭に近い部分で、主人公の「自分」が大阪の知人の家を訪ね、その知人の妻と向かい合った時の場面である。知人と言うのは、昔自分の家に書生として居候していた男で、その妻というのは、やはり自分の家で仲働きとして仕えていた女性である。その女性と久しぶりに会った自分は、どういう風に接してよいかわからないまま、その女性をとりあえず自分と同等の階級に属する女として取り扱った、というのである。ここには、人間関係を巡る漱石の権威的な見方が示されているといえよう。
明治時代の日本の作家で、漱石ほど権威的な人間観にこだわった者はいないのではないか。漱石の小説に出てくる主人公たちは、ほぼ例外なく、相手を階級の上下を基準にして自分と比較し、それに見合った接し方をしている。「坑夫」に出てくる未成年の主人公ですら、相手の階級を自分と比較し、相手が上だと思えば卑屈になるし、相手が下だと思えば尊大になっている。
「行人」には、そうした権威的な部分はあまり露骨には表れていないが、それでも注意深く読んでいると、主人公がいかに権威的な人間観に囚われているか、それがよく伝わってくる。
たとえば、上述の知人岡田との関係。岡田は母の甥と言うことになっており、自分にとっては年上の従兄にあたるわけだが、岡田は自分の家の書生であったことの手前、自分に対して目下として振る舞ってきた。そして自分もまたそれを当然のことのように受け止めていた。だから、岡田が第三者の前で、自分と同等の身分か、場合によっては自分より目上の者のように振る舞うのに接すると、それを意外に感じ、また多少の不服も感じる。その感じ方が、権威的な人間観に裏打ちされているのはいうまでもあるまい。
漱石の小説には、書生と並んで下女が必ず出てくる。「門」の主人公宗助の家のように、その日暮らしの貧しい世帯ですら下女を置いている。これは、明治時代には家事が大変であったことに理由があるのだと思われるが、それ以上に、権威的な社会のあり方と言うものに根差していたことなのだろう。つまり、一定以上の階級に属する人間は、下女を置くのが当たり前なのであり、それを置けないのは、自分が下層階級の人間だということを公言しているに等しい。それ故、多少の無理をしても下女を置く、と言うことなのではないか。最も、当時の下女は、費用的には大した負担にはならなかったようだ。三食付で、幾分かの小遣い銭を与えればそれですむ。下女の方も、主人の家で働いて賃金を貰っているというような意識より、主人の家で面倒を見てもらっているといった意識でいたようである。
だから、主人と下女との関係は、ドライな契約関係というよりは、家族の延長のような関係であった。この小説の中には、お貞さんという下女の結婚をめぐって、自分の両親たちがあれこれ骨を折る話が出てくる。これは、主人と下女との関係が、契約関係ではなく身分的な結びつきの関係であったことを物語るのであろう。
結婚と言えば、それは男女の自由な結びつきというよりは、家同士の結びつきであった。それ故、「それから」では、代助の父親は息子を地方の名士の娘と結婚させることで、自分の社会的な地位の向上を図ろうと企んだりもする。「行人」の中では、自分がある女と見合いしたと両親に話した途端、両親の方では、肝心の女性本人よりも、彼女が属する階級や、その家の財産のことばかりを気に掛ける。これなども、彼らがいかに権威的な人間観に囚われているかということの表れと言えよう。
漱石が小説を書いていた時代は、明治の御一新から幾許も経っていない時代であったから、人々の意識には、徳川時代の封建的な考え方がまだ色濃く残っていた。そしてその封建的な考え方の最たるものとしての権威的人間観を、漱石自身も共有していたということなのだろう。
だが、同時代の作家と比較して、漱石の権威的人間観は行き過ぎたものがあるのではないか。たとえば、数年年長の森鷗外と比較しても、そんな感じを受ける。鴎外の小説には、権威的な人間観が露骨に現れているところは殆どないと言ってよい。  
「三四郎」
朝日が「こころ」に続いて再連載していた「三四郎」を、筆者は「こころ」の時と同様毎日欠かさずに読み続けた。連載で読むというのは、単行本で読むのとはまた違った趣がある。普通は連載で読んだ後に、その余韻を再び味わいたくて、単行本になったものを読み返すという段取りをとるもので、一度単行本で読んだことのあるものを、再連載されたもので読み返すのはおかしなことだと思われないでもないが、やはりそこにはそれなりの趣がある。実際筆者は、毎日、初めて読む文章のように、再連載された文章を味読したものである。
筆者が「三四郎」を読んだのは高校生のときで、もう半世紀も前のことだ。それ以来一度も読んでいない。そこで半世紀ぶりに読んでの印象だが、筆者はこれが失恋小説だということに初めて気づいた。これは田舎から出て来たうぶな青年が、都会の洗練された令嬢に恋心を抱いたものの、田舎者のこととてスマートに振る舞うこともできず、ぐずぐずしている間に、相手に捨てられてしまうという物語だった。そのことを今回再読して、改めて思い知ったのであった。
このことに気づく前には、筆者はこの小説をどのように受け取っていたのか。なにしろ読んだのが半世紀も前のことで、しかもまだ成人になる前のことであったから、読書の感想は大方忘れてしまっていたが、少なくともこれを、失恋小説だとは受け取っていなかった。田舎から出て来た青年が、様々な人間関係に揉まれながら、次第に成長していく過程を描いた、一種の教養小説のように受け取っていたのである。
しかし、これを失恋小説と受け取り直したことで、この小説が何故、「それから」及び「門」と並んで三部作と言われているのか、その事情が判ったような気がした。この三部作は、男女の恋愛の不幸な流れを、継時的に取り上げて問題にしているのだ。つまり、「三四郎」は男が女を失う話、「それから」は、一度失った女を、女に姦通の罪を犯させても、取り返す話、「門」は、友人から取りかえした女と、生きるのをやり直す話、と言う具合に、この三作は縦につながっているわけである。
そこで、この「三四郎」を、男が女を失う話だと受け取れば、三四郎は何故女を失う羽目になったのか、三四郎に愛された女は、果して三四郎を愛していたのか、などということが大きなテーマとなって前面に出てくる。まず、女を失うためには、少なくとも一度はその女を所有していなければならない。自分の所有でもない者を失ういわれはないからだ。で、三四郎は美弥子を所有したことがあったのだろうか、ということが問題になる。小説を読んだ限りでは、それは明確には伝わってこない。男が女を所有するというのは、文字通りフィジカルに所有する場合と、メンタル(=精神的)に所有する場合とがある。精神的に所有するというのは、女の心を自分の虜にすることだ。そこで、美弥子は果して三四郎の虜になっていたのかが改めて問題になるが、テクストからはどうもそのようには読み取れない。美弥子は三四郎を相手に意味深長な言動を繰り返すが、どうもそれは三四郎の虜になった女の言動とは受け取れぬ。
虜になっているのはむしろ三四郎の方なのだ。なにしろ三四郎は、例の大学の池のほとりで美弥子の姿をちらりと見て以来、彼女の虜になってしまったと言ってもよい。この場面以降の三四郎は、のべつまくなしに美弥子のことばかり考えている。それは、女の虜になった気の毒な男の姿そのものと言ってよい。こういうわけで、三四郎が美弥子を失った、というのは適当な表現ではない。美弥子はもともと三四郎の所有ではなかったわけだし、無論三四郎を愛していたわけでもない。つまり、美弥子に対する三四郎の思いは、一方的な片思いであったわけだ。だから、美弥子が三四郎の前からとりあえずいなくなるのは、失われたというよりも、消えていなくなったというのが相応しい言い方だろう。
それにもかかわらず、である。三四郎には美弥子を失ったという感情がまといついて離れない。この感情が有効であるがために、失った女を取り戻す話である「そらから」や、取り戻した女と新たな生活を始める「門」へとつながっていくわけである。男女の間柄と言うのは、理屈で割り切れるものではない。客観的に見れば男が女を所有しているわけでもないのに、男の方では女を所有している気持ちになる、ということは十分にあり得ることだ。そういう事情のもとでなら、男が女を失ったという気持になるのには、それなりの理由がある。
それにしても、美弥子の結婚話は変わっている。美弥子の夫になる人は、兄の友人と言うことになっているが、どういう人物なのか、小説の中ではほとんど言及がない。この男は、始め野々宮さんの妹のよし子と結婚するつもりでいたのを、美弥子に乗り換えたということになっている。美弥子の方では、親友であるよし子の許嫁を横取りする形になるわけだが、それについては余り罪の意識を持っていない。というよりか、そもそもその男とどういうわけで結婚する気になったのか、テスクトからは全く伝わってこない。だから、三四郎にとってみれば、何故美弥子が自分から遠ざかってしまったのか、訳がわからないということになる。この小説が、半世紀前の筆者のように、まだ若くて経験の乏しい者には、一種の恋愛小説だと見えないのも、三四郎と美弥子の間柄が、すっきりと伝わってこないからだろう。
ところで、小説の始めのほうで、三四郎が汽車の中で出会った女と一夜を共に過ごす場面があるが、漱石はあれをどういうつもりで入れたのだろうか。この女は、夫を戦場に送り出している間、子どもを育てながら家庭を守っているということになっている。その女が所要で実家へ帰る道筋、車内で偶然出会った三四郎と名古屋で途中下車し、一緒に旅館に泊まるのである。旅館側では二人を夫婦と勘違いして、それなりの待遇をし、布団も一組しか敷かない。迷惑に思った三四郎は、女を一人で布団に入らせ、自分は敷布かなんかを被って畳の上で寝てしまう。それを翌日女から冷やかされ、あなたは度胸のない人だ、などと揶揄される。全くいいところなしであるが、それにしても、こんな女が、漱石の時代には珍しくなかったということなのか。
この二人が知り合ったきっかけと言うのがまた面白い。三四郎が食い終わった弁当箱を列車の窓から投げ捨てたところ、その弁当ガラが風に乗って女の顔を直撃したというのだ。なんとも色気のない話である。
なお、朝日はこの再連載シリーズの人気の高さに気をよくしたらしく、次は「それから」を連載するそうである。こちらは先日単行本で読んだばかりだが、再連載のほうも是非読んでみようと思う。  
「道草」
「道草」は、漱石の自伝的色彩の強い小説だという評が定着している。それにしても暗い、というのが読者一般の印象ではなかろうか。漱石自身の半生が暗かったからこんな暗い話になったのか、それとも意識的にこんな暗い話を書こうとしたのであって、自分自身の自伝的要素はそれに色を添えたに過ぎないのか、どちらにしても暗い話である。
漱石の半生は、たしかに余り明るいとは言えない。生まれてすぐに里子に出されたりして、親から愛されたという形跡はないようだし、一歳の時に養子に出された先とは、不幸な関係に陥った。養父母が離婚した後、漱石は養母とともに実家に戻ったが、その後養子縁組を正式に解消しないままに、成人になった。成人になった後も、養父母との腐れ縁は続いていたようで、漱石は養父に金を無心され続けたという。道草に描かれた世界は、そんな自分と養父母との不幸な関係を、そのまま描き出したと思われるのである。
漱石の化身と思しき小説の主人公健三は、世の中と角を突き合わせるようにして生きている。彼は自分の妻子とさえ尋常な関係を結べない。小説の中で、三女が生まれるシーンが出て来るが、健三はその我が子に対しても、父親らしい感情を持つことがない。妻との間では年がら年中感情の齟齬が生じている。その原因を健三は自分自身に求めることをせず、ただひたすら妻の強情のせいにしている。ひとりよがりで、自分勝手な性分なのだ。
そんな性分になってしまったわけは、彼が生まれ育ってきた過去にある、というのが、この小説のテーマのように見える。その過去は、健三にとっては両義的な感情に満ちたものであった。健三を養子として引き取った男女は、将来養子に面倒を見てもらうという打算があった一方、彼らなりの仕方で健三を愛しもした。産みの親から愛されたことのない健三にとってみれば、彼らの愛が親の愛そのものであったわけだ。だが、その愛にはねじくれたところがあった。だから、額面通りに受け取るわけにはいかないが、かといって、全面的に否定できるわけのものでもない。それを全面的に否定するというのは、自分の存在そのものを否定することに他ならないわけだから。
だから、健三が成人した後で、まず養父だった男が、ついで養母だった女が金の無心にやってくる、そうした事態に直面して、健三は両義的な感情に苛まれるのだ。理屈や形式の上では、健三にはもはや養父母だった男女を養わねばならない理由はない。だが健三の感情が、彼らを放り出すことを許さない。なんとかかんとか工夫をつけて、彼らに金を与え続けるのだ。
この小説には、養父母だった男女の外にも健三に金をせびる人々が出てくる。まず、姉だ。この姉は夫からろくすっぽ金を貰っていないと見えて、自分の小遣銭くらいは弟の健三に依存している。姉が弟に小遣をせびるというのは、今の感覚からすれば奇異にうつるが、明治の頃までは当たり前だったのだろう。家族の中で、羽振りの良い者が困った者の面倒を見るのは当然のこととされていたようなのだ。
また、妻の父までが、婿の健三に金をせびりに来る。この父親は、高級官僚だったということになっており、官僚時代には羽振りのよい生活をしていたのだが、退職後急速に落ちぶれて、毎日の暮しにもさしつかえるようになった。そこで、恥を忍んで婿に金を借りに来る。この父親の無心は、小説の中では一度きりになっているが、その金で父親の窮状が抜本的に解決するわけではないので、いつまた借りに来られないとも限らない。
この父親は、漱石の妻鏡子の父をモデルにしたのであろうというのが、大方の見方である。鏡子の父中根重一は貴族院書記官長を勤めた人間で、官僚としては出世したほうだが、世間知には疎かったのかもしれない。彼を描く漱石の筆致には無残なところがある。
こんなわけで、健三の周辺には、彼の懐をあてにしている人間が大勢いる。健三はそれを迷惑なことと思いながらも、ドライに切り捨てるわけでもない。小説の終り近くで、これが最後だといって養父だった男の無心を容れる場面があるが、健三本人はそれが本当の最後になるだろうとは思っていない。彼らが生きている限り、全く縁を切るなどと言うことはできない相談だ、と割り切っている。この割り切りがどこから来るのか、それを考えれば、昔の日本人の生き方の一端が深く理解できるかもしれない。
ともあれこの小説は、健三の懐をあてにする人たちと健三との腐れ縁ともいえる関係を延々と書きつづっていく。小説らしい筋立は無いに等しい。しかも、書かれていることがあまりにも特殊な人間関係なので、現代の読者にはピンとこないところが多いに違いない。ましてや、外国人の読者に訴えかけるところは乏しいのではないか。  
漱石夫妻と「道草」
「道草」は漱石の自伝的小説とされていることもあって、そこに描かれた主人公の健三とその細君との関係は、実際の漱石夫妻の姿をかなり反映したものと思われてきた。たしかに、小説の中の「細君」の履歴は、現実の漱石夫人鏡子のそれと殆ど同じである。高級官僚の家に生まれたこと、公教育は小学校だけであとは家庭の中で教育されたこと、その結果世間知らずで我儘な女になったらしいことなどだ。また健三が田舎に赴任している間にこの女性と見合い結婚したとなっていることは、漱石が五高の教師として熊本にいる時に鏡子と見合い結婚したことと重なるし、健三が海外留学するについて実家に妻子を預かってもらったというのも、漱石夫妻の間に実際にあったことだ。
こういうわけだから、この小説の中の細君の姿が、実際の鏡子夫人と重ねられて、鏡子夫人はこのような女性だったのだろうという臆見が独り歩きしたのだろう。漱石の死後、鏡子夫人は悪妻だったという評判が立ったのには、ひとつは彼女が亡夫について語った不用意な発言にも理由があるが、大部分はこの小説に描かれた健三の細君像に根差していると言える。それほどこの小説の中の細君は、悪妻と呼ばれてもおかしくないようなところがある。
とにかく、小説を読んでの印象は、この夫婦は心が通じ合っていないのではないか、ということだ。すでに小説の冒頭の部分で、「機嫌のよくない時は、いくら話したい事があっても、細君に話さないのが彼の癖であった。細君も黙っている夫に対しては、用事のほかけっして口を利かない女であった」というような文章が出てくる。夫の健三には、機嫌の良い時など殆どないわけだし、細君は細君でそんな夫に口を利いても無駄だと悟りきっているようなのである。
互いに口を利かないくらいなら、まだそんなにひどいとは言えない。この二人が口を利く時は、ほとんどが罵りあいと言っていいような殺伐とした会話に終始するのである。
二人は、自分たちの仲がよくないのは、相手の所為だと互いに思っている。健三は同情に乏しい細君を冷淡な女だと思い、「細君の方ではまた夫がなぜ自分に何もかも隔意なく話して、能動的に細君らしくふるまわせないのかと、その方をかえって不愉快に思った・・・そのくせ夫を打ち解けさせる天分も技量も自分に十分具えていないという事実には全く無頓着であった」といった具合なのである。
そこで二人とも相手が悪い理由を、自分なりに解釈する。健三にとっては、細君が悪いのは教育が足りないからだということになる。細君は無教育で頭が馬鹿だから何を言っても甲斐がない、というわけだ。一方細君の方では、夫が悪いのは、夫が世の中と調和することができない偏屈な人間だからだと解釈する。どうも、細君には、男の理想は自分の父親の姿にあるので、夫をそれと比較して評価しているフシがある。父親は高級官僚をつとめた人間で、世の中の事情にはそれなりに通じており、人付き合いも如才ない。それに対して夫の健三は、世の中と調和できずに自分の殻に閉じこもっている、というわけである。
細君にとって、夫の最も気に入らないところは、その権威的な態度のようである。夫の健三には、我々読者の目にも権柄づくなところがある。彼は、女というものは男に従属した存在なので、男を喜ばせるのが当たり前だ、それを、妻として夫を喜ばせないばかりか、ふてくされて夫をいらいらさせるようではけしからぬ、というようなところを常に漂わせている。それが細君には鼻持ちならない。
細君は比較的自由な雰囲気の中で育ったというようなことになっている。だから因習的な物の見方に毒されていない。女が男の付属物だとか、男の言うなりになるべきだとかは考えない。だから健三が、「あらゆる意味から見て、妻は夫に従属するものだ」と構えるのに対して、「いくら女だって、そう踏みつけにされてたまるか」と反発する。それを見た健三は、「女だから馬鹿にするのではない。馬鹿だから馬鹿にするのだ。尊敬されたければ尊敬されるだけの人格を拵えるがよい」と言って、いっそうイライラを募らせるのである。それに対して細君も、「あなたに気にいる人はどうせどこにもいないでしょうよ。世の中はみんな馬鹿ばかりですから」と憎まれ口を叩くわけである。
だが二人の反発は決定的な事態にまでは発展しない。「幸いにして自然は緩和剤としてのヒステリーを細君に与えた。発作は都合よく二人の関係が緊張した間際に起った」からである。妻がヒステリーで倒れれば、健三でなくとも、世の中の夫なら大概が心配してやさしくするように努めるだろう。
夫の健三が、昔の養父母と再会して、いろいろ面倒に巻き込まれていく過程を、細君は脇で冷やかに見ている。健三にとって養父母は、嫌な思いばかりまとわりついたような存在だが、それでも育ててもらったことに伴う、ある種のノスタルジーのようなものを感じることも禁じ得ない。両義的な感情に襲われているのだ。ところが細君のほうでは、そういう微妙な事情に同情する気配はない。この養父母は、法的にも世間的にも全く縁の切れた人々で、今さら相手にする必要はない。だから自分としては、この二人に全く関心を示す言われもないわけだ。そしてそういうような思いを、行為にも出す。彼女にとって今更に現れた夫のかつての養父母は疫病神以外のものではない。だが、健三の方ではそんなに簡単に割り切れるものではないと言う感情がある。この二人の感情のすれ違いが、小説の最後の所でクローズアップされる。
夫が養父に金を渡して、一応因縁に決着がついたところで、細君が「安心よ、すっかり片付いちゃったんですもの」と言うのに対して、健三が「片付いたのは上部だけじゃないか。だからお前は形式ばった女だというんだ」とたしなめる。これに対して細君の顔には不審と反抗の色が見えたが、すぐに気を取り直して生まれたばかりの子どもをあやしにかかる。これ以上夫に何を言っても、唇が寒くなるばかりだといわんばかりに。
こんなわけでこの小説における健三と細君との関係は、最初から最後まで擦れ違いのままである。もしこの関係が漱石と鏡子夫人との関係においてもその通りだったとすれば、あるいは鏡子夫人は悪妻のそしりを免れないかもしれない。  
「明暗」
漱石が男女の間をテーマに小説を書く時には、一人の女と二人の男の物語という体裁をとるのが常道だった。その関係は、「それから」や「門」にあっては姦通と言う形をとり、「こころ」においては友人を出し抜いての女の略奪という形をとったわけだが、いずれにしても、三角関係をテーマとしたものには違いなかった。漱石の遺作となった「明暗」も、男と女の関係を主なテーマとしているが、それ以前とは多少異なった結構になっている。この小説では、一人の男と二人の女との関係がテーマになっているのである。
だからこれもある種の三角関係を描いたものに違いはないのだが、普通の三角関係とは多少趣を異にする。三角関係というのは、通常当事者の全員が互いに他の二人を意識しているものだが、この小説に出てくる二人の女は、互いに相手を見たこともない。二人の女は、主人公の津田と言う男を通じて、間接的につながっているだけなのだ。だから、彼女らの間には嫉妬の感情も介在しなければ、そもそも相手の存在そのものを気にすることもない。彼女らはただ、津田という男の頭の中で、空想的な関係を取り結ぶだけなのである。
それ故この小説は、現実を描いたものではなく、空想という非現実を描いたものだと言えなくもない。無論、小説に出てくる人物たちの言動は現実のものなのだが、その行動の意味ということになると、ほとんどナンセンスと言うに近い。彼らには、自分の行動の意味が十分にはわかっていないし、また訳も分からぬままに行動している節もある。それはとりもなおさず、非現実的な関係を巡ってなされることから来る効果なのだと思う。
津田という主人公の設定からして非現実的である。彼は「それから」の代助の延長上にある高等遊民の一人だ。代助とは違って職業を持っているということになっているが、それはまともな職業というよりは道楽のようなものとされている。第一、津田夫婦の生活費用を賄うに値しない。それ故津田は、いい年をしていまだに親の仕送りに頼っている始末なのだ。
そんな中途半端な人間が、一人前の面をして、世の中を渡って行こうとする。だが、もともと中途半端な人間に、本当に一人前なことはできない。その証拠に、息子たる津田の無能ぶりに愛想をつかした父親が、仕送りを停止すると宣言した瞬間に、彼の日常には狂いが出てくる。この小説は、男女の(非現実的・非顕示的な)三角関係を主なテーマにしながらも、高等遊民たる主人公の、無意味でふしだらな生き方を描くことにもなっている。
津田のふしだらな生き方を象徴するのは、妻お延との関係だ。津田はこの女を心から愛していない。何故そんな女と結婚したのか、小説は一切語らない。小説が語っているのは、余り愛のない夫婦が、互いに相手を苦しめる、不毛な戦いに夢中になっているということだ。この戦いを凄惨なものにしているのは、妻お延の姿勢だ。彼女は夫に愛されるだけでなく、夫を自分の意思のもとに屈服させることを願っている。そんな妻の表立った挑戦に、夫の方はぎごちなく応える。彼には、妻をおおらかに抱擁することで、妻を自然と自分の意に従わせるというような芸当ができないのだ。つまり、世の中の事情に疎いボンボンなのである。彼のボンボンぶりは、小林という男との関係においてもっとも典型的に示される。この小林という男は、ある種のアナーキストで、世の中を斜めに見ているのだが、そんな小林が自分に向って発する批判的な言動に対しても、津田は有効に対処することができない。ただ相手から投げられた侮辱の言葉に腹をたてているばかりなのだ。
津田は自立しそこなった人間だから、甘えん坊的なところを残している。彼がその甘えん坊ぶりを最も遺憾なく発揮するのは、吉川夫人が相手の時だ。吉川夫人は、津田に対しては後見的な立場にあり、その立場を足掛かりにして、津田に対しては母性丸出しで接して来るのだが、津田の方もそれを、都合のいいこととして受け取っている。挙句の果ては、この夫人のおせっかいに乗せられる形で、三角関係のもう一方の女である清子との再会を画策するのである。
この清子という女は、小説のだいぶ後の部分で登場し、登場したと思ったら、小説が突然中断してしまうので、十分には描かれ切っていない。だから、読者としては、何とも評価のしようもないのだが、一応は三角関係の当事者ということになっているわけだから、それなりに中身のある女に違いないのだろう。この女は、自分の方から津田を捨てたということになっている。この女に捨てられた津田は、その直後にお延と結婚し、かろうじて体面を保った形にはなったが、女に捨てられたという心の中のわだかまりはなかなか収まらない。彼が吉川夫人をダシにして清子との再会を画策するのは、そのわだかまりに或る程度の始末をつけることが目的だったと思われるのであるが、如何せん小説は、津田が伊豆の温泉で清子と顔を合わせる場面で終ってしまうので、深い事情が展開され説明されることはなかった。
こんな訳でこの小説は、一人の男と二人の女を巡る三角関係を描くことを目的としながらも、三角関係のキーパーソンである清子という女が、そのさわりしか言及されていないために、中途半端なものに終わっている。筋の展開と言う点ではそうなのだが、小説として読ませるところが多いのは、漱石の小説家としての技量のなせるところだろう。じっさい、この小説の中には、いくつかの独立性の高いプロットが嵌め込まれていて、それなりにまとまった話として読ませるのである。
独立性の高いプロットということでいえば、この小説の視点の扱い方にも注目すべきところがある。漱石のそれまでの小説は、基本的には主人公の視点に立った単眼的な視線を通じて描かれていたのだが、この小説の場合には、プロットごとに主人公が交代し、そのたびに視線の変更が行なわれるので、厳密な意味では複眼的とは言えないまでも、視線の多様化と言う効果は発揮されている。視線の多様化は、小説の展開に幅と深みをもたらすと言えるので、これは漱石にとって、かなり重要な意義があったものと考えてよい。
もしも漱石が、いましばらく生きながらえて小説を書き続けたなら、彼はこの視線の多様化ということをもっと追究したのではないか。そんなふうにも思われ、漱石のためにも、日本文学のためにも、遺憾の念を禁じ得ないところだ。  
「明暗」のお延
漱石の小説に出てくる女性たちは、どちらかというと個性のない陽炎のような存在と言うイメージが強い。「虞美人草」の藤尾や「三四郎」の美弥子のような、多少の個性を感じさせる女性もいないではないが、彼女らの個性も、彼女ら自らの強い意思に従って、彼女らの内部から発せられるというよりは、男の視線を通じて浮かび上がってきたような在り方としてである。どちらにしても漱石の描いた女性たちは、男にとっての従属的な存在だというイメージを拭えない。そんな中で、「明暗」のお延だけは独特の光を放っている。彼女は、男との関係で初めて女性であるのではなく、それ自身で自立した女性として描かれている。この女性は、色々な面で複雑な性格を感じさせるのだが、その複雑性は、彼女が自立している事の反映というような具合に描かれているのである。
お延の自立性は、彼女の容貌にも反映している。漱石の女性たちは、明示的に言及されていない場合でも、二重瞼の涼しげな眼を持ち、我を抑えた控えめな表情をしている。一方、お延のほうは、一重まぶたの細い目を持ち、その眼で時折夫をじろりと見るような、意思の強さを感じさせる。彼女が津田と結婚したのも、彼女自身が津田を選んだ結果だった。「津田を見出した彼女はすぐ彼を愛した。彼を愛した彼女はすぐ彼のもとに嫁ぎたい希望を保護者に打ち明けた。そうしてその許諾と共にすぐ彼に嫁いだ。冒頭から結末に至るまで、彼女は何時までも彼女の主人公であった。又責任者であった。自分の料簡を余所にして、他人の考えなどを頼りたがった覚えはいまだ嘗てなかった」のである。
自分の意思で津田と結婚したお延は、世間一般の細君の地位に安住しては居られなかった。彼女は、自分が夫を愛しているのと同じような強さを以て、夫が自分を愛することを求めた。だが、夫は時折自分をぞんざいに扱うことがあるし、また、自分が彼を愛しているほど、自分のことを愛していないようにも感じられる。そこのところが彼女には耐えられない。夫は全身全霊を以て自分を愛するべきなのだ、と信じて疑わない。だから、夫の愛を独占できない自分が、「世間には津田よりも何層倍か気むづかしい男を、すぐ手のうちに丸め込む若い女さえあるのに、二十三にもなって、自分の思うように良人を綾なしていけないのは、畢竟知恵がないからだ」と世間から思われるのが癪に障るのである。
女のこういう心構えは、当時の日本にあっては、噴飯ものというべきものであった。女というものは、嫁いだからには、夫の愛を受動的に受け入れて、自分の境遇に満足していなければならないものと考えられた。男というものは、多少の浮気をするくらいは当たり前で、女房が独占して置けるはずのものではない。女房というものは、夫の愛の一部分を振り向けてもらえば、それに満足するべきであって、夫の愛を独占したいなどとは、たわごとと言うべきである、という風に考えられていた。だからこそ、津田の妹のお秀の目にも、お延は、「津田の愛に満足することを知らない横着者か、さもなければ、自分が十分津田を手の内へ丸め込んで置きながら、わざと其処に気の付かないような振りをする、空々しい女」という風に映るのである。
こんな訳だから、お延と津田との間にはいつも緊張感が漂っている。お延のほうでは、常に夫を自分の意のままに操りたいという意思が働く。その意思は時に征服欲を思わせるような大袈裟な様相を呈することもある。何がお延をそれほどまでにさせたのか。こうしたお延の性向は、世間では「女上位」と称されるもので、とかく女が強い家に生まれた女に見られやすいものだ。女が強い家とは、女が男を婿に取った家で、そういう家では、男はとかく女の尻に敷かれやすく、女は亦亭主に対して居丈高になりやすい。そういう家に育って、いつも母親が威張っている姿を見ながら育った娘は、自然亭主を尻に引くのが当たり前と思うようになるものだ。
ところが、お延はそういう家に育ったわけでもないらしい。彼女の生家のことは小説ではほとんど触れられておらず、その代わりに彼女を引き取って面倒を見た保護者の家のことが書かれている。それによれば、保護者である岡本の家は、夫のほうがリード役で、決して女上位の家柄ではない。その岡本はなかなか如才ない男で、その如才のなさをお延も受け継いだということになっているが、それがどうお延の性格形成に関わりがあったか、については言及がない。
夫に対しては要求が高いお延だが、自分自身に対しては大変甘いところがある。夫が手術のために入院しているというのに、見舞いをさぼって保護者の吉本家族と、芝居見物に現をぬかしている有様だ。そして吉本から自分あてに貰った小遣を、夫のために貰ったと嘘をついて恩に着せようとする。なかなかしたたかな女なのだ。
お延のしたたかさは、彼女自身の言葉によって語られることで、余計に迫力を以て読者に迫る。「明暗」という小説の一つの大きな特徴は、複数の視線から描かれているということにあるが、その視線の一つとしてお延のそれがある。お延は、他の小説に出てくる女性たちのように、男の視線の先にある受動的な存在ではなく、視線の発し手として、自分の目から世の中を見るような形になっているのである。
津田のほうにしても、お延の視線の対象として、受け身であるばかりではない。津田もまた、自分自身の視線を以てお延を観察している。彼の視線の先にあるお延は、結婚したての可愛い女であるには違いないが、したがって自分の保護すべき弱い存在のはずなのだが、時には、自分の領域の中にずけずけと入り込んできて、自分をまごつかせることもある、なかなか手ごわい存在としても映っている。だからこそ津田は、お延に対して多くの隠し事をするようにもなる。その最たるものは、捨てられた女と縒りを戻そうとすることなのである。
この、津田を捨てた清子という女が、この未完の小説の最終部分で突然出てくるのであるが、その女の影を、お延も何時かしら意識するようになる。はじめの方では比較的気持に余裕があるように書かれていたお延が、途中からいやに勘繰りたがるようになるのは、夫に愛人がいたらしいことを感づくようになってからのことだ。お延はそのことを、小林から吹き込まれたらしいのだが、小説はその辺をわざとぼやかしている。ただ、お延が急に嫉妬深くなったというように書いてあるだけである。
こんな具合で、この小説の醍醐味の一つは、津田とお延という一対の新婚夫婦の、これから先の人生の主導権をめぐる駆け引きにあるということができよう。  
「明暗」の書かれなかった部分
漱石の最後の小説「明暗」は、病み上がりの津田が伊豆の温泉に湯治名目で出かけて行って、そこでかつての恋人清子と再会する場面で終っている。この小説は、先稿でも言及したように、主人公の二人の女性との関係を軸に展開していくもので、清子はその二人の女性の一人として、重要な位置づけのキャラクターだ。その重要な人物との関係がどのように展開していくか、読者としては大いに関心をそそられるところだが、その関心が盛り上がったところで、小説はいきなり中断してしまうのだ。いうまでもなく、執筆者の漱石自身が、大病に襲われて死んでしまったからだ。
漱石が、この小説に対して特別な思い入れを抱いていたことは、多くの研究者が指摘しているところだ。漱石は、自分の健康状態からいって、或はこれが最後の作品になるかも知れないと予感していたともいう。それ故、死の直前に病気が悪化した際に、かかりつけの医師に向って、「真鍋君どうかしてくれ、死ぬと困るから」と言ったのであろう。死んでしまえば、別に困ることもないわけだが、それでは小説に結末を与えることが出来なくなる。それでは、自分はともかく、読者が残念だろう、と漱石は慮ったのであろう。
こんなにも漱石の思い入れの詰まったこの小説が、もし漱石があと少し生きられたなら、どんな結末を与えられたか。これまでに、多くの漱石ファンたちが、その謎にこだわってきた。そこで様々な推測がなされてきたわけだが、漱石自身が大した手がかりを残さなかったものだから、どれも説得力のある説明にはなりえていない。そんな中で筆者が感心したのは、最近読んだ大岡昇平の見解だ。大岡は、津田と清子との新たな関係を、姦通と言う形での、恋愛のやり直しだ(あるいはそうなるべきはずのものだった)と見ているのだ(大岡昇平「『明暗』の結末について」)。
大岡は、そう考える根拠を二つ挙げている。一つは吉川夫人の津田へのけしかけだ。吉川夫人は、津田と清子との関係をずっと知り尽している一方、津田とお延との結びつきにも一役買っている。そんな夫人が津田に対して、清子との姦通を勧めるというところに、大岡は着目する。大岡は、吉川夫人については、不道徳で浅墓な人間として、あまり重きを置いていないのだが、彼女の津田に対する支配力については評価していて、その支配力を行使して、津田を清子との姦通に駆り立てたというのである。彼女をそうさせた理由は、お延への反感と言うことらしい。
もう一つは、ほかならぬ清子が、津田に向って姦通をけしかけているとする見方だ。伊豆の旅館で思いがけず津田と再会した清子は、最初は驚いて取り乱したりするが、やがて意を決して津田と会うこととする。ひとつには、津田が吉川夫人の差し金でわざわざ自分を目当てにやって来たということを了解したからだし、また、病み上がりの無聊を、かつての恋人に慰めてもらいたいという思惑があったからかもしれない。そんな彼女が、津田に再開して早々、思わせぶりなことを言う。この旅館にはいつごろまで滞在するつもりかとの津田の問いかけに、夫から電報が来ればすぐ帰らなければならないと答えるのだが、彼女は一方では、旅館の女中に、夫が近いうちに見舞に来ると告げているので、この言葉は不自然だ、と大岡は言う。つまり、早く私にアタックしなさいと、津田に向ってけしかけているのではないかと言うのである。
清子が津田を捨てて他の男に嫁入りした理由は、小説の中では触れられていない。しかし、その結婚はあまり幸福なものとは描かれていない。清子がこの温泉に来たのは流産の後の療養のためということになっているが、夫との退屈な生活に耐えられないで、避難して来たのだというようにも伝わって来る。つまり、清子の方では、かつての恋人とヤケボックイになる条件が熟しているというのだ。
漱石は、男女の恋愛をもっぱら姦通と言う形で描いてきた非常に珍しい作家だ。その姦通による恋愛と言うテーマが、最後の小説でもある「明暗」においても繰り返されている、というのが大岡の見立てなのだが、その見立ては筆者も賛成できる。ただ、「明暗」はただの姦通小説ではない。姦通小説といえば、一対の男女の間の関係を描くということになるが、「明暗」と言う小説は、もっと複雑な世界を描いている。少なくとも、津田と清子との関係に並行して、あるいはそれ以上に重要なテーマとしての位置づけにおいて、津田とお延との関係も描かれている。その点では、冒頭で指摘したとおり、男女の不思議な三角関係を描いた小説だともいえる。
さて、津田と清子との新たな関係が姦通であるということになれば、それはどのような展開になっただろうか。その辺についても、大岡は想像力を逞しくしている。姦通であるから無論、あまり格好のいい結末にはならない。お延は当然傷つく、そこで漱石はお延を自殺させようと考えていたかもしれない。その自殺の方法にもいろいろある。例えば、小説の中で暗示されているように、津田と清子が不動の滝の見物に出かけたところに、突然お延が現れる。彼女は彼女なりに、様々な糸を手繰りながら夫の不倫現場にたどり着くと言うわけだ。
いや、そうではなく、自殺するのは清子だとする方向も成り立つ。大岡は、この方が自然だと言っている。というのも、そんなに簡単にお延を自殺させてしまっては、それまでに延々と描かれてきた彼女の小説の中での存在感が、あまり根拠のないものとなってしまうだろうというのだ。というより、漱石は、このお延という女性にかなり感情移入しているところがあり、どちらかといえば彼女の味方である、その味方である漱石が、愛する女性を簡単に死なすわけがない、と大岡は作家魂を発揮させながら、想像を逞しくするというわけなのだ。
ところで、この最後の場面の舞台となる伊豆の温泉のことだが、筆者はそこがどこかわからなかった。小説では、軽便で行くということになっているので、中伊豆の修善寺周辺かとも思ったのだが、それにしては辻褄の合わないところが多い。そう思っていたところへ、これもやはり大岡昇平が教えてくれた。この温泉は湯河原温泉だというのだ。湯河原はいまでこそ東海道線が通っている便利な場所にあるが、漱石がこの小説を書いた頃には、まだ東海道線は通っておらず、そこへ行くには、国府津で電車に乗り換えて小田原まで行き、小田原から軽便に乗って行かなければならなかったので、一日がかりの旅だったというのだ。その情報をもとにして読み直せば、なるほどと納得できる。なお、漱石は湯河原温泉の天乃屋という旅館をモデルにしているそうだが、その旅館は廃業して、今は存在しないという。  
ロンドン滞在日記
夏目漱石は33歳の年(明治33年)にイギリス留学を命じられ、その年の10月から明治35年の12月まで、2年あまりの間ロンドンに滞在した。その時の事情を漱石は日記のようなメモに残しているが、あまり組織立ったものではなく、ほんの備忘録程度のものなので、読んで面白いものではない。しかもその記録は明治34年の11月で途切れており、その後の事情については何の記録もない。漱石はロンドン留学の後半はひどいノイローゼに悩まされていたので、日記をつける気にもならなかったのだろう。
これを森鴎外のドイツ留学記と比較すると、両者の間には歴然たる差がある。鴎外は始めからこの留学の記録を発表する意思を持っていたらしく、毎日の見聞を漢文を以て整然と記録した。そしてその一部については、帰国後直ちに発表している。本体ともいうべき「独逸日記」については、そのままの形で発表するのをためらい、漢文で記した原文を和文に直して発表に備えたが、生前にはついに発表することがなかった。
しかし鴎外の日記は文学者が発表を前提に書いたものだけに、読んで実に面白いのである。鴎外はドイツ到着後いち早く現地の人々に溶け込み、毎日を楽しく過ごしている。その様子が日記からはひしひしと伝わってくる。
これに対して漱石の日記は、自分自身のためにだけ書いたメモのようなもので、無味乾燥に近いといってよく、読んでもほとんど感興を起こさせない代物である。時たま、面白いと感じさせるところがあれば、それは外国人に対して漱石が感じた人種的なコンプレックスとか、漱石の苛立ちとかが伝わってくる部分であって、溌剌とした気分とは縁遠い。
鴎外と漱石、この両者の日記を支配しているムードの相違は、両者がそれぞれ留学したときの事情の相違にももとづいているであろう。鴎外がドイツに留学したのは23歳のときであり、自分の人生に対して明るい未来を感じていた、しかもその時期は明治の10年代であり、日本がまだ国家として若々しさに満ちていた時代であった。こうした公私にわたる環境条件が鴎外の日記にも反映していると思えるのだ。
それに対して漱石が留学したのは33歳という中年前期のことであり、漱石はすでに妻帯して一家を構えていた。また日本の国も日清戦争を経て国威が高揚し、なんでもかんでも外国から学ぼうという草創期の若々しさからは脱却しかけていた。
これに鴎外の人見知りしない積極的な性格に対して、引っ込み思案な漱石の性格を重ね合わせれば、彼の日記が鴎外のように面白くならなかった理由の一端が納得できるのかもしれない。
漱石はおそらくこの留学旅行のために用意したのであろう手帳に、イギリスに向けて横浜の港から旅立った日のことを書き入れることで、ロンドン滞在記を開始した。時に明治33年9月8日のことである。その日の記事は、次のとおりである。
「八日 横浜発遠州灘にて船少しく揺ぐ晩餐を喫する能はず」
たったこれだけである。とてもこれから大航海をするのだという意気込みは伝わってこない。
漱石を乗せた船は途中、上海、香港、シンガポール、コロンボに立ち寄り、スエズ運河を通過して、10月18日にナポリに到着する。この船の中で漱石は、周りが西洋人ばかりなのに辟易する一方、アジアの港で出合ったアジア人たちには変な優越感を示している。この優越感は成島柳北が感じたものと根を同じくしている。鴎外には、少なくとも表向きは見られなかったものだ。
漱石はさらにジェノヴァから列車に乗ってパリに至り、そこで万国博覧会を何回か見物している。しかしこの展覧会で、文明の華を目にした印象については殆ど語るところがない。
ロンドンに到着したときの記事は次のようである。
「10月28日 巴里を発し倫敦に至る船中風多して苦し晩に倫敦に着す」
これも実にあっけない記述である。
ロンドンに落ち着いた漱石は、下宿を探し、英語の家庭教師としてクレイグという人物を雇った。だが日常の生活について語るところが少ないのは依然である。途中英語でしたためた断片を数編さしはさんでいるが、そこにはおせっかいなイギリス女性にうんざりしたような様子が描かれている。
ロンドンの街が漱石に最も強く印象付けたことといえば、それは空気の汚さであった。到着翌年の正月に漱石はそのことを三日続けて次のように書いている。
「1月3日 倫敦の街にて霧ある日太陽を見よ黒赤くして血の如し、鳶色の地に血を以て染め抜きたる太陽は此地にあらずば見る能はざらん
1月4日 倫敦の街を散歩して試みに痰を吐きて見よ真黒なる塊りの出るに驚くべし何百万の市民は此煤煙と此塵埃を吸収して毎日彼等の肺臓を染めつつあるなり我ながら鼻をかみ痰するときは気の引けるほど気味悪きなり
1月5日 此煤煙中に住む人間が何故美しきかや解し難し思ふに全く気候の為ならん太陽の光薄き為ならん」
これはかつてのロンドン名物であったスモッグに、漱石も悩まされたことの貴重な証言だ。19世紀末のロンドンは、街中から排出される煤煙のために空は常に黒く覆われ、そこに霧が出ると膨大なスモッグが発生し、咫尺を弁じないほど視界をさえぎった。
こんな街にすむイギリスの女性が何故美しいのか漱石は驚いている。そしてそれは太陽の光線が弱いために、彼らの肌が薄いからなのだろうと納得している。
これに対比して、日本人の肌が黄色いことに、漱石は改めて気づかされる。1月5日の日記には続いて、あの有名な箇所が出てくる。
「往来に向ふから背の低き妙なきたない奴が来たと思へば我姿の鏡にうつりしなり、我々の黄なるは当地に来て始めて成程と合点するなり」
気位が高く心のうちではイギリス人に負けないと自負していた漱石も、己の姿ばかりは、イギリス人に比較しようもないと思ったのだろうか、この文章には彼のやりきれない気持ちが、自嘲のベールをまとって述べられている。  
日欧文明比較
漱石は二年余りに及ぶイギリス滞在中、ついにイギリス人とその社会に溶け込むことができなかった。あまつさえその後半の一年ほどは、ひどいノイローゼも作用して、下宿に閉じこもって日本人との交際もしなくなった。このため漱石はついに狂ったのだという風評が立ち、それが本国にも聞こえて、学業半ばにして、帰国を命じられるのである。
だがこの帰国は漱石にとっては、救いの藁であったかもしれない。帰国の直前には親友の正岡子規が死に、だいぶショックを受けたらしい。これ以上イギリスにとどまり続けたら、あるいは本格的な精神異常に陥ったかもしれない。
そんな漱石が、イギリス滞在中にしたためた日記風のメモには、時折交際したイギリス人たちの印象やら、イギリス文化に対する感想が盛られている。決して多い量ではなく、また断片的で前後の脈絡もないが、それらをぽつぽつと読むことで、漱石の日欧の文明の相違に対する本音の見方が伝わってくる。
漱石のイギリス人に対する観察は、まず彼らのエチケットやら人間関係のあり方に向けられる。もっとも早い言及があるのは、明治34年の正月である。
「彼等は人に席を譲る本邦人の如く我儘ならず 彼等は己の権利を主張す本邦人の如く面倒くさがらず 彼等は英国を自慢す本邦人の日本を自慢するが如し 何れが自慢する価値ありや試みに思へ」
漱石はここで、英国人のエチケットと彼らの権利意識の高さに着目している、それに対して日本人はエチケットを軽視し、また権利を主張して我を張ることがないといっている。しかしてどちらが優れているか、よく考えよといっているが、彼自身はどちらともいえないような気持でいたようだ
彼我のエチケットの相違については、同年4月15日の記事にも出てくる。
「西洋の etiquette はいやに六つかしきなり 日本はこれに反して丸で礼儀なきなり 窮屈にするは我儘を防ぐなり 但し artificiality を免れず 日本は礼儀なし 而も artificiality あり 且無作法に伴ふ vulgarity あり 礼なくして spontaneity あればまだしもなり 其利なく其害あるのみならず礼の害をも兼有せり馬鹿馬鹿敷」
漱石はイギリス人が礼儀にうるさいのは、我儘を抑えて人間関係を円滑にするためだと受け止めた、これに対して日本人は礼儀を知らず、たまたま礼儀を行なうときには、そこには自然さがなく、いやみばかりが目に付くという
あれだけ気位の高く、かつ日本の文化に愛着を持っていた漱石が、礼儀の面では同胞人をこき下ろしているわけである。
一方イギリス人の人間関係については、そのしつこいまでの濃厚さに、漱石は着目している。同年3月12日の日記には次のような記述がある。
「西洋人は執濃いことがすきだ 華麗なることが好きだ 芝居を見ても分る 食物を見ても分る 建築及び飾装を見ても分る 夫婦間の接吻や抱き合ふのを見ても分る 是が皆文学に返照して居る故に洒落超脱の趣に乏しい 出頭天外し観よといふ様な様に乏しい 又笑而不答心自閑と云ふ趣に乏しい」
人間関係については漱石自身淡白なほうであったから、イギリス人のように濃厚な人間関係のあり方は、窮屈だと感じたのである。
それでも漱石は、西欧の文明が優れていることは認めざるを得なかったようだ。なにしろイギリス文学を飯の種に選んだのであるし、その文学に流れているものが、人間関係を始めとした文化のあり方そのものの返照だと、認めざるを得ないからだ。
そこで漱石は西欧の文明と日本の文明の、過去今日未来について比較しつつ語る。
「3月21日 英人は天下一の強国と思へり 仏人も天下一の強国と思へり 独乙人もしか思へり 彼等は過去に歴史あることを忘れつつあるなり 羅馬は滅びたり 希臘も滅びたり 今の英国仏国独乙は滅ぶるの期なきか、日本は過去に於て比較的に満足なる歴史を有したり 比較的に満足なる現在を有しつつあり、 未来は如何あるべきか、自ら得意になる勿れ、自ら棄る勿れ、黙々として牛の如くせよ 汲々として鶏の如くせよ、内を虚にして大呼する勿れ、真面目に考へよ 誠実に語れ 真摯に行へ 汝の現今に播く種はやがて汝の収むべき未来となって現なるべし」
漱石は西欧文明といえども永遠のものではあるまいというかたわら、日本についても西欧と同じ轍を踏むこととなりかねない、そうならぬためには、日本人が謙虚になって、地味な努力を続けなければならぬと反省している、恐らく日清戦争に勝って国威大いに発揚し、一流民族としての誇りに酔っていた当時の同胞たちを戒めたかったのだろう。
実際当時の日本人は、中国人をはじめアジアの人々を見下しているところがあったようだ。こんな風潮に対しては、漱石は次のようなことを言って、戒めている。
「3月15日 日本人を見て支那人と云はれると嫌がるは如何、支那人は日本人よりも名誉ある国民なり、只不幸にして目下不振の有様に沈倫せるなり、心ある人は日本人と呼ばるるよりも支那人と云はるるを名誉とすべきなり、仮令然らざるにせよ日本は今迄どれ程支那の厄介になりしか、少しは考へて見るがよからう、西洋人はややもすると御世辞に支那人は嫌だが日本人は好だと云ふ、これを聞き嬉しがるは 世話になった隣の悪口を面白いと思って 自分が景気がよいと云ふ御世辞を有難がる軽薄な根性なり。」
漱石は若い頃から漢学に親しんできた。ところが明治になって漢学は省みられなくなり、また日本が中国との戦争に勝ったこともあって、中国の文化に対する日本人の尊敬が著しく弱くなっていた。漱石はそんな風潮に釘を刺したかったのだろう。
ともあれ、勢いのよかった当時の日本のあり方に対して、漱石はもっと謙虚になることを求めたかった。そんな思いが3月16日の日記に覗いている。
「3月16日 日本は三十年前に覚めたりと云ふ 然れども半鐘の声で飛び起きたるなり 其覚めたるは本当の覚めたるにあらず 狼狽しつつあるなり 只西洋から吸収するに急にして消化するに暇なきなり、文学も政治も商業も皆然らん 日本は真に目が覚めねばだめだ」
最後の断定的な言葉に、漱石の強い思いが込められているようである。  
大岡昇平の行人論
筆者は前稿「『行人』と『心』:漱石を読む」の中で、この二つの小説がともに長い手紙で終っていることに触れ、「心」の場合にはその位置付けに必然性のようなものが見られるのに対して、「行人」の場合には、「なぜここに置かれなければならなかったか、必ずしも必然性があるとはいえず、また一篇を引き締めるような効果にも乏しい。むしろ、小説の構成としては、このような形で終っていることは、中途半端な印象を与えるともいえる」と、とまどいの気持を表明したところだが、その謎の一端を、大岡昇平が解明してくれた。
大岡昇平は、「文学と思想」という小論(「小説家夏目漱石」所収)の中で「行人」を論じ、二郎と嫂の関係を中心に進んできた前段の部分と、「塵労」と題する手紙の部分との間には、大きな断絶があるとしたうえで、その断絶は漱石の病気(胃潰瘍)と関係があるという。前段では、二郎と嫂との関係が次第に進行し、不倫と言う結末に向って進んでいたに違いないのが、胃潰瘍の悪化によって中断し、それを再開した時には、当初抱いていたに違いない構想を変更して、現存のような形にした。そうすることによって、「小説として立てつけが悪くなる」のを漱石は知っていたに違いない。それでもこうした訳は、つまりこの二人に不倫をさせなかったのは、「やはりそれを書くのがいやだった」からだというのである。このいやだという気持と、やはり書かねばならぬという気持が大きな葛藤をもたらし、それが漱石の持病である胃潰瘍を悪化させたというわけである。
筆者は、なるほどそんな推理も成り立つのかと思って、改めてこの小説の執筆経過にあたってみたところ、たしかに前段と後段との間に五か月の中断期間がある。大岡は、この五か月の間に、漱石の気持に大きな変化が生じ、その構想を改めたと推測するわけだが、そう言われればそうかもしれぬ、と迂闊ながら思った次第だ。
大岡は、この推理を、伊豆俊彦の「行人」と題する論文をヒントにして思いついたと言っている。伊豆に寄れば、当初の構想は、あくまでも二郎と嫂の関係を軸に進むことになっており、この二人は姦通の成立まで突き進む。つまり、この小説も、「門」以前の三部作同様、姦通のテーマの延長線上にあった作品として出発したというのである。伊豆は、二人の不倫を知った一郎が発狂したうえ、妻のお直を殺し、自分も死ぬというような段取りを想定したが、大岡は、それでは通俗的過ぎると言って、一郎は一人で自殺してしまうのではないかなどと、あらぬ空想を働かせている。
ともあれ、どういう結論になろうとも、この小説が姦通をテーマに書き始められたことはたしかであり、それが長い中断を挟んで、現存のような形に変更されたことは間違いない、と大岡は推論する。その結果、小説にカタストロフィが生じず、中途半端な始末に終わってしまったわけだが、そうすると、何故漱石は、そのような選択を取らざるをえなかったのかという疑問が湧いてくる。
大岡はそれを次のように推論している。漱石にはもうひとつの持病として神経衰弱というものがあった。漱石には、この病気に対する自覚があったようで、小説の中でその苦しみを描くことで、自分自身の精神的な苦しみを軽減しようと試みる傾向があった。その漱石が、「行人」執筆の直前、かなり深刻な神経衰弱に陥った。そこで、ここでも一郎を介して自分の神経衰弱の症状を描きながら、小説としては従前の姦通のテーマを描こうとした。ところが、小説の進行に伴い、神経衰弱の症状が緩和されるどころか却って悪化し、又それに伴って胃潰瘍の症状も深刻化した。そうした状況に直面して、漱石はこの小説を、当初の構想通り書き継ぐことができなくなり、現存のような形で妥協せざるを得なくなった。大岡は、こんな風に推論するのである。
こう整理されると、この小説が漱石自身の精神疾患を反映したものだと考える筆者の見方とつながるところが出てくる。筆者も、これは漱石が自分の精神的な体験を材料にしていると推測したわけだが、しかしそれが、自分の精神症状を緩和させるための自家療法の試みだったとまでは思い至らなかった。もし漱石が本気でそう考えていたとしたら、漱石には精神分析の知識があったということになるが、果してどうなのだろうか。
ともあれ、この小説が、二郎と嫂の関係を中心にした前段の部分と、一郎の友人Hの手紙の形をとった後段の部分との間で、深い断絶があることは、大方の研究者が指摘するところらしい。彼らの抱いた疑問を、筆者もまた抱いたというわけなのだろう。
なお、この小説の中での、一郎の妄想には鬼気迫るものがある。上述の推論に理由があるとすれば、その妄想は、漱石自身の妄想であった可能性が強いということになる。漱石は深刻な被害妄想の症状に何度か見舞われているが、「行人」執筆中にもその症状があらわれ、日常生活のうちでも、妻や女中に対して、自分に対して何か企んでいる、といったような被害妄想を抱いたようだ。そんな妄想が、小説の中の一郎の異常な行動につながっている可能性は十分考えられる。
ところで、大岡のこの小論は、題名にもあるとおり、漱石における「思想」の意義についての考察である。その「思想」を大岡は、「思想の担い手自身を幸福にするにも役立たず、むしろその人間を食い尽くすものとして提示されています」と総括しているが、この言葉の意味を解説するためには、もう一つ別の論稿が必要となろう。  
 
井上靖

 

「しろばんば」
井上靖は自伝的な小説をいくつか書いているが、「しろばんば」は彼の幼年時代を書いたものだ。井上が特異な幼年時代を過ごしたことは、彼の母親とのかかわりを描いた映画「わが母の記」で知ったところだったが、映画ではちらりとだけ言及されていた「おぬい婆さん」との共同生活が、「しろばんば」では実に情緒豊かに描かれていて、筆者は読みながら大きな感動に包まれた。
感動の湧いて来る源泉は、一つには、小さな少年が暖かい人間関係に守られながら、ゆっくりと成長していく過程で漂ってくる詩情のようなもの、もう一つは、少年が生きた時代の日本という国のあり方が、現在の日本に生きる我々に呼びかけてくる、何とも言えないノスタルジックな気分のようなものだったと思う。
井上靖の幼年時代だから、この小説がカバーしている時代は大正初期、舞台は伊豆の山奥にある小さな村湯ヶ島だ。湯ヶ島といえば、今日では温泉街として知られているが、大正の初期には、全くの寒村だったことがこの小説からわかる。その寒村の中で、少年は濃厚でかつ暖かい人間関係に包まれながら、少しづつ、急がずに、ゆっくりと、成長していくのだ。その成長の過程が、読者にとっては、思わず自分のことのように、いとおしく感じられるというわけなのだろう。
少年をとりまく人間関係の中で、中核となるのはおぬい婆さんとの共同生活だ。おぬい婆さんは、少年の曽祖父の妾だった女で、その曽祖父が、少年の母親である自分の孫娘の養母というかたちにしてやって、家屋敷を与え、晩年の生活を保障してやったという経緯があった。曽祖父は、自分に一生を捧げてくれた妾に報いてやったわけなのだ。
だからおぬい婆さんは、少年にとっては養い上の祖母と言うことになるが、実際には、少年はそんな風には思っていないし、周囲もまたそんな風には認めていない。あくまでも、曽祖父の妾として、曽祖父の家はもとより、様々な人々に厄介を掛けてきた一人のよそ者の老婆に過ぎない。
そんな老婆と、少年が二人だけの共同生活をするようになったいきさつは、ちらりと言及されているだけで、そんなに深くは説明されていない。ただ、少年にとって、おぬい婆さんとの共同生活は、自然でごく当たり前のこととして受け止められている。
この小説は三人称の語り口をとってはいるが、あくまでも少年の目線に従って展開している。したがって、少年の意識を超えたような、客観性の記述を持ち込むことはない。少年の目に見え、感じたところが陳述されるばかりなのだ。
おぬい婆さんとの関係に次いで深い人間関係は、親戚たちとの関係だ。すぐ近くには、母親の実家があり、そこには曾祖母、祖父母、母親の妹弟たちが住んでいる。また学校の校長石森は少年の父親の実兄で、父親の実家は隣り部落にあるということになっている。
これに対して、少年の両親は豊橋に住んでいる。父親が軍医として豊橋にある師団に勤務しているからだ。この両親に、少年は普通の子どものような親愛感を感じていないように書かれている。少年の思慕の対象は、両親よりもまずおぬい婆さんなのだ。
少年にとって、肉親や親戚との関係以上に重大な意味を持っているのは、同じ小学校に通う近所の子どもたちとの関係だ。少年の生活は、半分は大人たちとの関係、半分は子どもたちとの遊びからなっている。この小説の大部分は、少年と子どもたちとの遊びの世界からなっているといってもよい。
そんな少年たちの遊びの世界を読んでいると、かつての日本社会がいかに濃密な人間関係を内包していたか、あらためて感じさせる。その人間関係は、プラスなものばかりではない。マイナスのものもあるし、ときには暴力的でもある。しかしどちらに傾いても、実に人間的なのだ。
そんなふうに感じさせるところをいくつかあげてみよう。子どもたちはいつも、部落ごとに群を作って遊んでいる。子どもたちの中には、年齢によって一定の序列のようなものがあるが、みな遊び仲間と言う点では平等だ。子どもたちは男の子も女の子も区別なく、みんなで真っ裸になって、温泉に浸かったり、川で泳いだりする。裸でないときには、着物を着て、帯で前を抑えている。
違う部落の子どもたちとは、基本的には仲良くしない。違う部落の子どもたちは、互いに石を投げつけ合ったりして、敵意をぶつけ合う。だから少年は用事があって他の部落を通過せざるを得ないようなときには、絶えずその部落の子どもたちの敵意を感じなければならない。とにかく子どもというものは、敵に対しては残酷になれる生き物なのだ。その残酷さは、弱い動物に対しても発散される。子どもたちは動物を見かけると、石を投げたり、痛い目に会わせてやろうとするのだ。
子どもたちにとって学校は、学ぶためのところではなく、遊ぶためのところであったようだ。そんな子どもたちにとって、学校の先生とは怖い存在であった。というのも、先生たちはわけのわからないことで子どもたちを怒鳴り散らし、耳を引っ張ったり、横っ面にビンタをはったり、とにかく体罰を加えることが好きな存在なのだ。
小説は、そんな子どもたちや大人たちと主人公とのかかわりを延々と描いていくのだが、読者にはその延々としたところが退屈にはうつらない。そこは井上靖という作家の筆の力がしからしめるところなのだと思う。
小説がカバーしているのは、少年の小学2年生の時から、6年生がおわる直前までだから、4年半ほどのスパンである。その4年半に少年が部落から外へ出ていくのは、そんなに多くはない。小説の中で最初に少年が部落を出るのは、おぬい婆さんと一緒に豊橋にいる両親に会いに行くシーンである。その時に少年は、生まれて初めて外部世界の空気に触れたような気がするのである。
しかし、成長していくにしたがって、単調な少年の生活にも、節目となるような、様々な出来事が起こる。母親の妹で少年をかわいがってくれた咲子が、同僚の教員と恋をして子供を産み、やがて肺結核で死んでいく。
曾祖母が枯れるようにして死んでいき、その遺体を収めた柩を部落全員で墓地のある丘まで運んでいく。
ある日、部落の中でのろま扱いをされていた一人の少年が神隠しに会う。その少年を探している間に、主人公の少年もまた、狐につかれたような状態に陥る。このころの時代に生きていた人々は本気で、神隠しやキツネツキの存在を信じていたのだ。
少年は小学校を卒業したら、おぬい婆さんの手を離れ、親元から中学校に行く段取りになっている。そこで、卒業を半年ほど後に控えたある時期、母親が少年の妹弟をつれて湯ヶ島にやってくる。少年はいよいよ、おぬい婆さんの手を離れ、思春期を迎えた一人の人間として、自立を探らねばならない時期に近づいているのだ。
小説のキリの部分は、少年とおぬい婆さんとの別れを描くことに集中する。おぬい婆さんは少しづつ耄碌していく。しかしジフテリアにかかってしまった少年は、ついにおぬい婆さんの死に顔を見ることがなかった。それは少年につらい思いをさせたくないとの神様の御配慮なのだ、と祖母はいう。
そんなおぬい婆さんの死を少年は次のように受け止めるのだ。「おぬい婆さんは仏様になって、まだ大勢の人から拝まれるものとしてそこらに居るというような、そんな死に方ではなかった。突然息を引き取り、長方形の木の箱に入れられ、山へ運ばれて土の中に埋められてしまったのである。地上からすっぽりと、跡形もなく消えてしまったのである」
おぬい婆さんとの死に別れは、ある意味で主人公の少年時代との決別を象徴している、と読者は感じさせられる。そう感じさせられたところで、この小説は結末を迎える。
結末の部分では、少年が母親たちと浜松に向かう途上、大仁の駅前でちんどん屋を見るシーンが描かれる。ちんどん屋を見て、少年は面白いと感じるのではなく、侘しいと感じる。
「侘しい、侘しい・・・そんな気持ちを、耕作は胸に抱きしめていた。郷里を離れる日の感傷的な気持でもあったが、また一方で、耕作は侘しい音楽を、やはり侘しい音楽として受け取るだけの年齢になっていたのであった」
一人の少年を材料にして、人間の成長する過程を淡々と描いているこの作品は、それまでの日本文学の枠を大きくはみ出したものだといえる。筆者はこの小説を読んで、そんな感想を抱いた。  
「しろばんば」に見る子どもの風景
井上靖の自伝的小説「しろばんば」には、古き良き時代の日本の子どもたちが生き生きと描かれている。それを読んでいると、非常に複雑な気持ちにさせられる。かつては、日本のどんな片隅でも見られたこうした子どもたちの風景は、今では殆ど見られなくなってしまった。そんな半分哀惜の感情と懐かしさの感情とが入り混じる不思議な気持ちにさせられるのだ。
ここでいう「子どもたちの風景」とは、子どもたちが群というかたちで自分たちの独自の世界を作り、その世界で生きることによって、子どもたち同志のかかわり方を身に着け、それを通じて大人たちとのかかわり方を、また広く社会とのかかわり方を学習していく、そんな過程を包み込んだ、非常に懐の広い世界の風景のことである。
この小説で描かれているのは、大正初期の日本の、それも山村でのことだから、他の地方に比べれば、古い時代の日本社会のあり方を濃厚に保存していたのだと思われる。そうした古い時代の日本社会にあって、子どもたちは非常に高い自主文化をもっており、それに対して子どもたち同志疑いの念をさしはさまず、また大人たちにその自立性をある程度尊重させるような文化を持っていたのではないか。
そのことは、日本の伝統文化にあっては、子どもが子どもとしてのアイデンティティと、されに支えられた自律的世界をもち、それを大人が尊重していることを意味している。西洋の社会が、子どもと言うものを特別視せず、したがって子供の風景というものがなかなか展開しなかったらしいことと比較すると、これは日本文化の特性の一つだと言える。
こんな問題意識に立って、「しろばんば」の中で展開している「子どもの風景」について、一瞥を加えてみたい。
舞台は大正初期の伊豆の山村湯ヶ島、そこに主人公の耕作少年がおぬい婆さんと二人で土蔵の中で暮らしている。耕作の周囲には村の子どもたちの遊び仲間がいる。耕作は常に彼らと行動を共にしている。彼が属している集団は、一年坊主から六年生まで、同じ部落に暮らすすべての子どもたちからなっているのだ。
子どもたちは、学校が始まる一時間以上も前に、村の一か所に集合し、そこから集団で学校に向かう。ただ歩くのではない。遊びながら行くのだ。子どもたちは部落ごとに集団を作って登校する。途中であったりすると、互いにねめつけあい、時には石をぶつけあったりする。子どもたちにとっては、集団内部は自分が帰属する家族のような世界であり、他の集団は敵なのである。まず、こんなところから、日本人特有の「おらが村」意識が、子どもの頃から育まれていく過程がよくわかる。
子どもたちの集団には当然、年齢に応じて支配服従関係ができる。こどもたちは日常のそうした関係を通じて、大人の社会にもある支配服従関係の原型を学ぶわけである。しかしその支配服従関係は力によるものではない。力は反抗を呼び覚ますが、彼らの間には力と反抗の関係はない。年齢を含めた互いの間の日頃のあり方から自然発生的に出来上がる支配関係だ。だから上級生から仕事を言いつけられた下級生は、それが嫌なことであっても、結局は受け入れるのである。
学校の中では、部落間の敵対意識はとりあえず解消される。そのかわり子どもたちには、怖い存在としての教師が表面に出てくる。子どもたちにとって教師は、わけもなく頭をなぐったり、小突いたりするので、教室の中へ入ると、まるで刑務所の中にでも入れられたような気持になるのだた。耕作自身も、一年坊主の時に、先生から耳をひっぱられて、廊下に立たされたことがあった。耕作にはそうしてそうbなったのか、原因が最後までわからなかった。
そんなわけだから、子どもたちが悪さをしたときに、大人たちが学校の先生に言いつけるぞと言われると、みんな震え上がったのだった。
先生から蒙った故のない暴力を、子どもたちは自分たちよりも弱い者、たとえば小さな生き物に向かって爆発させた。子どもたちは昆虫を見ると訳もなく石をぶつけるのだし、罠をしかけて小鳥を殺しては喜ぶのである。まるで自分たちのやっていることは、先生たちのやっている事とおなじく、どんな言い訳をも超えた、絶対的な行為なのだといわんばかりに。
男の子と女の子は基本的には行動を別にし、一緒に遊ぶということはなかった。女の子たちが川で遊んでいるところに男の子が近づいていくと、女の子たちはたいてい、キャーキャー叫びながら大急ぎで逃げていくのだった。
子どもたちの遊ぶところはだいたい決まっていた。川で泳いだり、広場でメンコをしたりといったことだ。子どもたちは、学校での行動も含めて一日中、一緒に行動しているのである。
子どもたちの集団の中では、上級生が指導者の役割を果たし、集団に一定の秩序のようなものをもたらすかたわら、大人の世界との接点の役割を果たしていた。彼らは、自分の親たちから聞きつけたことを子供の世界で披露する。それ故子どもたちは、村で暮らす人たちにどんな事態が起きているか、また村全体にどんな変化が表れつつあるか、子供なりによく知っているのである。
たとえば、耕作の叔母であるさき子が、同僚の教師基と恋仲になる。すると子どもたちは、「さき子と基はあやしいぞ、さき子と基はあやしいぞ」と歌でも歌うように囃しながら遊ぶのだが、この言葉が大人たちから出ていることは言うまでもないのである。
また、さき子が妊娠した時に、「上の家でも困ったこっちゃ」と幸男がいえば、「やれやれ、困ったことになりおった。あまっ子は孕むで困る」と亀男が言うのだが、二人とも親の言いぐさをそっくりおうむ返ししているにすぎないのだ。それを聞かされた耕作が気に入らないのはいうまでもない。
そんな子どもたちでも、さき子が死んだときは素直に同情してくれた。耕作が幸男に「さき姉ちゃ、死んだぞ」というと、幸男は「知っていらあ」と言って、「なむまいだ、なむまいだ」と念仏を唱える真似をする。するとほかの子どもたちも、それぞれ異様な風体をしながら、「なむまいだ、なむまいだ」と合唱する。そんな子どもたちに、耕作は怒りを感じなかったのである。
台風の季節がやってきて、横殴りの雨が降りだし、空一面を覆っている黒い雲が走り出すと、学校は早引けになって、子どもたちは部落ごとに集団を作って帰っていく。「遠い部落からきている子どもたちは着物の裾をめくり、裸足になって部落単位で一団になって街道を走っていった。傘をさしている子供もあれば、濡れ鼠のこどももあった」
言及が遅くなったが、この時代の子どもたちは、着物を着て細い帯を巻いていたのである。遊ぶときにはその着物を脱ぎすて、真っ裸になることが多かった。雨にあたったからといって、別段気にする程のことでもないのである。
一年中一緒にいるわけであるから、子どもたちは強い友情で結ばれるようになる。
耕作が両親と一緒に暮らすことになって、いよいよ部落を出て行くという日の前日、仲間たちは耕作の求めに応じて、おぬい婆さんの墓参りに付き合ってくれた。「今日は最後だから、大勢連れて行こうや」と幸男が言って、部落の子どもたちがみんな集められた。6年生になってすっかり大人びたせいか、子どもたちとは遊ばなくなっていた子も、耕作との最後の付き合いと思って姿をあらわした。
「耕作は幸男、亀男、芳衛たち上級の友達とひと固まりになって、急な細い坂道を上っていった。下級生たちはわあわあ騒ぎながら、飛んだり跳ねたりして上っていった。何事につけても良く気の回る亀男が、どこから手に入れてきたのか、水を入れた一升瓶と、線香の束を持って来ていて、それを交代で下級生に持たせた。その役を受け持たされた下級生だけが、神妙な顔をして、上級生の背後からついてきた」
その夜、耕作は同級生の三人と、温泉に浸かりに行った。その途中、「今度来るときは、中学生になって来るんずら。おらっちをみても、口をきかんかもしれんな」と亀男が言った。すると耕作は、「そんなことあるもんか」と打ち消した。亀男には、大人の社会のことがだんだんわかっきて、こんな口のきき方をしたのだろう。それに対して耕作は、自分の中で芽生えている強い友情から、そんなことはないと答えたのだ。
こうしてみると、「しろばんば」のなかで展開される「子どもたちの風景」は、筆者の心の中に焼き付いている子どもの頃の思い出と大してかわらないのを覚えるのである。筆者が耕作と同じ年代を過ごしたのは戦後間もない頃のことだが、その頃でも、「しろばんば」で描かれているのと同じような風景が、子どもの世界の中では展開されていたように記憶する。
我々は、近所のちびがきどもと一緒に群をなして飛び回っていた。それも朝から晩まで一日中。群をなしながら、下級生は上級生の顔色をうかがい、上級生は下級生の喧嘩を仲裁したりしたものだった。我々小さながきどもは、そうやって子どもながらに、社会の中で生きていくためのしなやかさを身に着けて行ったように、思われるのである。  
「あすなろ物語」
井上靖の小説「あすなろ物語」を読んだ。先日読んだ「しろばんば」がなかなか面白かったので、やはり井上の自伝的小説として名高いこの作品も読んで見ようという気になったのである。だが読後感は、期待していたほどのものではない、と言うのが正直なところだ。「しろばんば」に比べて非常に粗削りだし、自伝的小説と言うより、自伝そのものを読まされているような気がした。「しろばんば」にくらべると、文学的な香気というものが足りない、そんな印象を持った。
「しろばんば」は500ページ以上の紙幅を費やして、井上の幼年期のみを描いているのに対し、この「あすなろ」物語は、200ページ余りで幼年時代から壮年時代までをカバーしている。しかも舞台は、戦前の片田舎ののんびりとした光景から、戦争を経て戦後の焼け野原の光景に至るまで、実に多彩だ。これを短い紙幅でカバーしようというのだから、記述が年代記のようになるのは、致し方のない面もある。
幼年時代の部分は勢い「しろばんば」との比較を強いる。「しろばんば」のおぬい婆さんは、ここでは主人公鮎太の祖母りょうということになっている。その親戚にあたる冴子という女性が彼らの住む土蔵にやって来て一緒に暮らし始めるが、そのうち冴子は温泉宿に泊っている大学生と恋をするようになり、それがどういうわけか、最後には天城の雪の中で心中をしてしまう。
この部分は「しろばんば」では、大分異なったものに着色しなおされている。冴子の女性像は、主人公耕作の叔母さき子という形に変形され、その咲子は小学校の同僚教師と恋仲になるものの、心中はしない。そのかわり、子どもを産んでまもなく、肺病で死んでいくということになっている。また、冴子の相手の大学生は、耕作の勉強の面倒をみてくれた教師という形で造形しなおされている。
こんな具合で、「しろばんば」と「あすなろ物語」は、井上やすしの幼年時代を、多少違った切り口で仕分けたともいえようが、「しろばんば」の方が各段すぐれているのは、それが「あすなろ物語」より数年後に書かれ、しかも子供の視点にたって、子どもをとりまく世界を抒情的に描き出していることに由来するのは、いうまでもないことだろう。
「あすなろ物語」には、成就されなかった恋愛が描かれる一方、結婚した女性(妻のこと)と主人公との愛は語られることがない。そのかわり語られるのは、焼跡で知り合った不良少女との淡い恋愛遊びであり、新聞記者の同僚の妹から寄せられた仄かな恋情についてである。
この小説を読んでいると、井上靖と言う作家は、恋愛を描くのはあまり得意ではないのだなと感じる。断定的できびきびとした文体が、男女の間の曖昧な関係を優艶に描くには適していないからだろう。その文体は「しろばんば」では成功していたが、それは子どもの視界にあるものを淡々と描くことによって、かえってその視界を、読むものにくっきりと浮かび上がらせる効果を持ったからではないかと思う。
井上のこうした文体は、男同士の関係を描くのには向いている。この小説には、新聞記者としてライバル関係にある他社の左山という男が登場するが、その男との友情でもなく、かといって敵対でもない、複雑な関係をよく描き出し得ている。たとえば、左山が、或る女をものにした後で、その女との別れ話を、鮎太に依頼するという場面がある。鮎太は左山には反感を覚えているので、その依頼を断る。そのあたりを井上は、実に心憎く描いている。
「君に仲に立って貰って、うまく収めないと、この問題は厄介だな」
「そういう役は辞退する」
「どうしても嫌か?」
「嫌だな」
左山町介は冷たい視線を鮎太に投げると、意味不明な笑いを残して、ついと席を立って行ってしまった。
左山町介が、佐伯英子と結婚式を挙げたのはその年の秋である。
この短い文章から読み取れるように、文体そのものは乾いていて、しかも論理的である。つまりリアリズムの文体そのものだ。その乾いた文体で男女のことを描くとどういうことになるか。それを井上は実験的に見せてくれるのである。
この小説の最大の見どころは、戦後の焼跡でくっつきあった一対の男女、闇屋の熊さんとその内儀のなんともいえない関係だろう。熊さんは闇屋の商売を、他人の土蔵を無断借用して成功させるくらいだから、生きるバイタリティに溢れている。内儀の方は、がさつな熊さんとはかなり違った世界で育ってきたらしいが、戦後の焼跡で途方に暮れ、一人息子と共に生きていくために、熊さんの情になびいた。しかし、もともと育ちの違う二人のこと、生きていくあてが出てくるとともに、内儀にはガサツな熊さんが堪えられなくなる。その結果は別れ以外しかない。熊さんは一人娘を連れて、伊那谷にある係累を頼って去っていくのである。それを駅で見送っていた内儀が
「おっさん、とうとう往ってしもうた」
そう、ぽつんという。
ここでこの小説は実質的な幕となる。こういう場面を印象的に描き出すのにも、井上の乾いた文体は独特の効果を発揮するようなのである。  
 

 

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