河童・狐・妖怪

河童禰々子と九千坊河童むらさき川のカッパ河童の誕生変遷河童の怪異 
狐の田舎わたらひ葛の葉狐の怪異妖怪怪異異界妖怪もののけ魑魅魍魎「妖」 
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雑学の世界・補考   

 
河童の話

私はふた夏、壱岐の国へ渡つた。さうして此島が、凡北九州一円の河童伝説の吹きだまりになつてゐた事を知つた。尚考へて見ると、仄かながら水の神信仰の古い姿が、生きてこの島びとの上にはたらいて居るのを覚つた。其と今一つ、私はなるべく、認識不十分な他人の記録の奇事異聞を利用する前に、当時の実感を印象する自分の採訪帳を資料とする事が、民俗の学問の上に最大切な態度であると思ふ故に、壱岐及びその近島の伝承を中心として、この研究の概要を書く、一つの試みをもくろんだのである。この話は、河童が、海の彼岸から来る尊い水の神の信仰に、土地々々の水の精霊の要素を交へて来たことを基礎として、綴つたのである。たゞ、茲には、その方面の証明の、甚しく興味のないのを虞れて、単に既に決定した前提のやうにして、書き進めたのである。
 
河童の女 
河郎の恋する宿や夏の月 
蕪村の句には、その絵に封ぜられたものが、極端に出てゐる。自由にふるまうた様でも、流派の伝襲には勝てなかつたのである。彼の心の土佐絵や浮世絵は誹諧の形を仮りて現れた。此句だつて、唯の墨書きではない。又単に所謂俳画なるものでもない。男に化けて、娘の宿を訪ふ河童。水郷の夜更けの夏の月。ある種の合巻を思はせる図どりである。かうした趣向は或は、蕪村自身の創作の様に見えるかも知れぬ。尤、近代の河童には、此点の欠けて居る伝説は多いが、以前はやつぱりあつたのである。 
私は、二度も壱岐の島を調べた。其結果、河を名とする処から、河童の本拠を河その他淡水のありかと思うて来た考へが、壊れて了うた。長者原(バル)と言ふ海を受けた高台は、があたろを使うて長者になつた人の屋敷趾だと言ふ。其は小さな、髪ふり乱した子どもの姿だつた。其が来初めてから、俄かに長者になり、家蔵は段々建て増した。があたろが歩いた処は、びしよびしよと濡れてゐる。畳の上までも、それで上つて来る。果ては、長者の女房が嫌ひ出して、来させない様にした。すると忽、家蔵も消えてなくなり、長者の後に立つて居た屏風は、岩になつて残つた。此は男の子らしい。 
平戸には、女のがあたろの話をしてゐる。ある分限者の家に仕へた女、毎日来ては、毎晩帰る。何処から来るか、家処をあかさない。ある時、後を尾(ツ)けて行くと、海の波が二つに開けた。通ひ女はどんどん、其中へ這入つて見えなくなつた。女は其を悟つたかして、其後ふつつり出て来なくなつたと言ふ。 
此二つの話で見ると、毎日海から出て来る事、家の富みに関係ある事、ある家主に使はれる事、主の失策を怨んで来なくなること、女姿の、子どもでないのもある事などが知れる。だが外に、通ひでなく、居なりの者もあつたらしい。殿川(トノカハ)屋敷と言ふのは、壱州での豪家のあつた処である。或代の主、外出の途中に逢うた美しい女を連れ戻つて、女房とした。子までも生んだが、ある時、屋敷内の井(カハ)へ飛びこんで、海へ還つて了うた。其時、椀を持つたまゝ駈け出したので、井の底を覗くと、椀の沈んでゐるのが見えると言ふ。この「信田妻(シノダヅマ)」に似た日本の海の夫人の話を、あの島でも、もう知つた人が、少くなつて居た。此伝へで訣るのは、井の如き湧き水も、地下を通つて、海に続いて居るとした、考への見える事である。 
かうした物語を伴はぬ、信仰そのまゝの形は、日本国中に残つてゐる。「若狭井」型の他界観である。二月堂の「水とり」は、若狭の池の水を呼び出すのだと言ふ。諏訪の湖(ウミ)・琵琶湖・霧島山の大汝(オホナメ)の池など、懸け離れた遠方の井や湧き水に通じてゐると言ふ。不思議なのは又龍宮へ通うてゐると言ふ、井戸・清水の多い事である。規模の大きなのは、龍宮は、瀬田の唐橋の下から行けるなど言ふ。だが、龍宮に通ずる水が、なぜ塩水でないのか、説いたものはない。1年の中ある時の外、使はなかつた神秘の水のあつた事を、別の機会に書きたいと思うてゐる。神聖な淡水(まみづ)が、海から地下を抜けて、信仰行事の日の為に、湧き出るのだと思うてゐたらしいのである。海からなぜ塩気のない水が来るか、此問題は、茲には説いて居られぬ程、長い説明がいる。神聖な地域の湖・池に通じるとする信仰も、実は、此海から来る地下水の考への変形である。 
此話には、河童とは言うて居ぬ。が、井・泉から、海に行き来したものゝあることは知れる。河童が、とんでもない山野・都邑の清水や井戸から、顔や姿を表した話は、どなたも、一つや二つ聞いた気がせられるはずだと信じる。 
男であれ女であれ、人の姿を仮りて、人間と通婚する伝説にも亦、其本体を水界の物としたのが多い。前の殿川屋敷のも、此側の型を河童の中へ織りこんだものらしい。 
馬の足がたゞけの溜り水があれば、河童が住んでゐると言ふ分布の広い諺も、地下水の信仰から、水の精霊は、何処へでも通ふものと考へたのである。厠の下から手を出して、いたづらをしたものは、大抵、狸になつて了うてゐるが、猿や猫とする例も少くない。だが、厠の様式にも、歴史があつた。其変化に伴うて、適当な動物が、入り替つて来た。だが、考へると、やはり水溜りだつたので、河童の通ひ路は通(トホ)つてゐたのである。毛だらけの手が出て、臀べたを撫でたゞけでは、よく考へると、何の為にしたのか知れない。示威運動と見るのが、普通であらうが、人を嫌ふ廃屋の妖怪には、少しとてつもない動作である。何も仰山に、厠が語義どほりの川屋で、股の間から、川水の見えた古代に遡らずとも、説くことが出来よう。だが若し、さう言ふ事が許されるなら、丹塗りの矢に化成して、処女の川屋の下に流れ寄つて、其恥ぢ処に射当つたと言ふ、第一代の国母誕生の由来も、考へ直さねばならぬ。厠の下から人をかまふ目的が、単にしりこを抜くばかりでなかつたのかも知れない。 
雪隠の下の河童の覘(ねら)ふものは、しりこだまであつた。何月何日、水で死ぬと予言せられた人が、厳重に水を忌んだが、思ひも設けぬ水に縁ある物の為に、命を失ふ話の型の中に、其日雪隠に入つて、河童にしりこを抜かれた話もある。厠の中を不似合として、手水鉢の中から出たことにしてゐる例は、筑前三井郡出身の本山三男さんから報告せられた。 
殿川屋敷の井(カハ)に沈んでゐる椀も、河童と因縁の浅からぬものなのである。他界の妻の残して行つたものゝ伝へも、段々ある。残す物にも色々あらうに、椀を残して去つたのは、水の精霊の旧信仰の破片が、こびりついて居るのである。此は河童の椀貸しの話に寄せて説きたい。 
ある家の祖先の代に、河童が来て仕へた話は、大抵簡単になつてゐる。毎夜忍んで来て、きまつた魚を残して戻る。なぜ、今では来なくなつたとの問ひを予期した様に、皆結局がついてゐる。河童の大嫌ひなものを、故意に何時もの処に置いた。其を見て、恐れて魚を搬ばなくなつたと言ふのだ。河童が離れて、ある家の富みが失はれた形を、一部分失うた事に止めてゐるのが、魚の贄(ニヘ)の来なくなつた話である。家の中に懸けられる物は、魚も一つの宝(タカラ)である。異郷の者が来て、贄なり裹物(ツト)なりを献げて還る古代生活の印象が結びついて、水界から献つた富みの喪失を、単に魚の贄(ニヘ)を失うた最低限度に止めさせたのである。農村の富みは、水の精霊の助力によるものと信じて居た為である。家の栄えの原因は、どうしても、河童から出たものとせねばならぬ。だから、河童を盛んに使うた時代のあることを説いてゐる。河童駆使の結果は、常に悲劇に終るべきを、軽く解決したのである。昔から伝へた富み人の物語が、今ある村の大家の古事にひき直して考へられたのである。
 
河童使ひ 
河童が、なぜ人に駆役せられる様になつたか。此には、日本国中大抵、其悪行の結果だとしてゐる。人畜を水に曳きこんだ、又、ひきこまうとしたのが、捉まつた為とするのである。 
最初に結論から言はう。呪術者に役(エキ)せられる精霊は、常に隙を覗うてゐる。遂に役者(エキシヤ)の油断を見て、自由な野・山・川・海に還るのである。河童の贄を持つて来なくなつたのも、長者の富みを亡くしたのも、皆此考へに基いて居る。 
役者(エキシヤ)は、役霊を駆使して、呪禁(ジユゴン)・医療の不思議を示した。ある家の主に伝はる秘法に、河童から教へられたものとするのが多い訣である。河童の場合は、接骨の法を授けたと言ふ形が、多様に岐れたらしい。金創の妙薬に、河童の伝法を説くものが多いが、古くはやはり、手脚の骨つぎを説いたものらしい。馬術の家には、落馬したものゝ為の秘法の手術が行はれた。その本縁を説明する唱言も、共に伝つた。恐らく、相撲の家にあつたものを移して、馬との関係を深めたものと思はれる。河童に結びついた因縁は、後廻しにする。 
人に捉へられた河童は、其村の人をとらぬと言ふ誓文を立てる。或は其誓文は、ひき抜かれた腕を返して貰ふ為にする様になつてゐる。腕の脱け易い事も、河童からひき放されぬ、重要な条件となつてゐた時代があつたに違ひない。其が後には、妖怪の腕を切り落す形になつて行く。柳田先生は、此を河童考の力点として居られる。羅城門(ラシヤウモン)で切つた鬼の腕も、其変形で、河童から鬼に移つたのだと説かれた。此鬼と同様、高い処から、地上の人をとり去らうとする火車(クワシヤ)なる飛行する妖怪と、古猫の化けたのとの関係をも説かれた。 
其後、南方熊楠翁は、紀州日高で、河童をかしやんぼと言ふ理由を、火車の聯想だ、と決定せられた。思ふに、生人・死人をとり喰はうとする者を、すべてくわしやと称へた事があつたらしい。火車の姿を、猫の様に描いた本もある訣である。人を殺し、墓を掘り起す狼の如きも、火車一類として、猫化け同様の話を伝へてゐる。老女に化けて、留守を家に籠る子どもをおびき出して喰ふ話は、日本にもある。又、今昔物語以来、幾変形を経た弥三郎といふ猟師の母が、狼の心になつて、息子を出先の山で待ち伏せて喰はうとして、却て切られた越後の話などが其である。さう言ふ人喰ひの妖怪の災ひを除く必要は、特に、葬式・墓掘りの際にあつた。坊さんの知識から、火車なる語の出た順序は考へられる。江戸中期までの色町に行はれたくわしやなる語は、用法がいろいろある。よび茶屋の女房を言ふ事もあり、おき屋の廻しの女を斥(サ)しても居る。くわしやを遣り手とも言うてゐるが、後にはくわしやよりも、やりてが行はれた。さうして、中年女を聯想したくわしやも、やりてと替ると、婆と合点する程になつた。くわしやの字は、花車を宛てゝゐるが、実は火車であらう。人を捉へて、引きこむ様からの名であらう。おき屋から出て、よび屋を構へたのをも、やはりくわしやと呼んだのであらう。芝居に入つて「花車形」といはれたのは、唯の女形のふけ役の総名であつた。 
手の抜ける水妖は、あいぬの間にもあつた。みんつちと言ふ。形は違ふが、河童に当るものである。金田一京助先生は、手の抜け易い事を、草人形(クサヒトガタ)の変化(ヘンゲ)であるからだ、と説明して居られた。藁人形などの手は、皆心(シン)は、竹や木である。草を絡んだ一本の棒を両手としてゐる。其で引けば、両方一時に抜けて来るとも言はれた。みんつちの語自身が和人(シヤモ)のものである様に、恐らくは此信仰にも、和人の民俗を含んで居ると思ふ。 
草人形が、河童になつた話は、壱岐にもある。あまんしやぐめは、人の村の幸福を呪うて、善神と争うて居た。土木に関しての伝への多い、此島の善神の名は、忘れられたのであらう。九州本土の左甚五郎とも言ふべき、竹田の番匠の名を誤用してゐる。ばんじようとあまんしやぐめが約束した。入り江を横ぎつて、対岸へ橋を架けるのに、若し一番鶏の鳴くまでに出来たら、島人を皆喰うてもよい、と言ふのである。三千体の藁人形を作つて、此に呪法をかけて、人として、工事にかゝつた。鶏も鳴かぬ中に、出来あがりさうになつたのを見たばんじようは、鶏のときをつくる真似を、陰に居てした。あまんしやぐめは、工事を止めて「掻曲放擲(ケイマゲウツチヨ)け」と叫んだ。其跡が「げいまぎ崎」と言はれてゐる。又三千の人形に、千体は海へ、千体は川へ、千体は山へ行け、と言うて放した。此が皆、があたろになつた。だから、海・川・山に行き亘つて、馬の足形ほどの水があれば、其処にがあたろが居る。若し人の方の力が強ければ、相撲とりながら、其手を引き抜く事も出来る。藁人形の変化だからと言ふのである。 
両手が一時に抜けたとは言はぬが、あいぬのみんつちに似過ぎる程似てゐる。夏祓へに、人間の邪悪を負はせて流した人形(ヒトガタ)が、水界に生(シヤウ)を受けて居るとの考へである。中にも、田の祓へには、草人形を送つて、海・川へ流す。夏の祓へ祭りと、河童と草人形との間に、通じるものゝあるのは、尤である。而も、河童に関係浅からぬ相撲に、骨を脱(ハヅ)して負ける者の多い処から、愈河童と草人形との聯想が深まつて来た、と思はれる。 
古代の相撲は、腕を挫き、肋骨や腰骨を蹶折る、と言つた方法さへあつた様である。中古以後、秋の相撲節(スマフノセチ)に、左方の力士は葵花、右方は瓠(ヒサゴ)花を頭へ挿して出た。瓠は水に縁ある物だから、水の神所属の標らしく、さうして見ると、葵は其に対立する神の一類を示すものであらう。必しも加茂とも考へられぬが、威力ある神なのであらう。瓠花も、瓢も、他の瓜で代用が出来た。 
だが、なぜ後世渡来の胡瓜をば、水の精霊の好むものと考へたのだらう。恰好は、稍瓠の小形なものに似て、横に割つた截り口が、丸紋らしい形を顕してゐる。祇園守りの紋所だと言ふ地方が広い。瓜の中に神紋らしいものゝ現れて居り、ひねるとなかごが脱けて了ふ。「祇園祭り過ぎて胡瓜を喰ふな。中に蛇がゐる」との言ひ習しも、いまだに、各地に残つてゐる。祇園は異風を好んだ神である。此神の為にはかうした新渡の瓜を択ぶ風が起つた為とも考へられる。瓜に顔を書いて流す風もあつた。胡瓜に目鼻を書くと、いぼいぼの出た恐しい顔になる。この怖い顔した異国の瓜を、他界から邪悪を携へて来た神の形代として流し送る。かうした考へから、夏祓への川祭りに、胡瓜が交渉を持つ様になつたのであらう。其が次第に、水の神への供養と言ふ様に、思はれて行つたのではないか。其で、河童の好物を胡瓜とする考へが、導かれて来たと思はれる。
 
河童の馬曳き 
馬も牛も、人と同じ屋根の下に起き臥しゝてゐた。田舎では、今も牛部屋、厩を分けないで居るのが多い。かうした人間の感情を稍理解する畜類に対しては、やはり一種の祓への必要を感じ出したのである。2月頃に、多くは午の日だが、縁日の日どりに従うて、外の日にする事もある。牛馬を曳いて、山詣りをする。此は御事始めの日から初まる田の行事の為に、田に使ふ畜類に、山籠りをさせる風の変化したものである。牛の方にまづ行はれた事が、馬にも及んだらしい。後には馬の用途が広まつて、馬の山詣りが殖えて来、午の日を、春祭りの縁日とする社寺を択ぶ様にもなつた。 
田植ゑが過ぎると、牛には休養の時が来る。馬には、其がない。牛の※が生れると、其足形を濡れ紙にとつて、入り口の上に貼る。既に祓へのすんだ、牛ばかりゐる標である。悪霊の入り来て、※を犯す事を避けたのである。牛は、水に縁の濃やかな獣である。土用丑の日を以て、形式にでも、水に浸らねばならなかつた。淵や滝壺の主(ヌシ)に、牛の説かれてゐる処もかなりにある。 
馬にも、やはり川入りの日があつた。其為に、馬も亦、水神と交渉を持つ様になつた。尾張津島祭りも、一部分は、馬の禊ぎを含んで居る。この社の神人が、厩の護符を配り歩いたのは、多くの馬に代つた、神馬の禊ぎの利益に与らせようとするのである。馬は、津島の神馬である。馬の口綱をとつて居るのは、猿である。神人であることもある。猿を描いたのは、津島以外の形式が、這入つて居るのである。此は、大津東町に処を移した穴太(アナホ)の猿部屋の信仰である。日吉山王の神猿が、神馬の口添ひとなつて、神の伴をすると考へた為である。神馬に禊ぎをさせるのも、此猿である。この猿の居る処には、神馬に障りがない。其にあやからせようと言ふのが、馬曳き猿の護符であつた。今も、途上で逢ふ事である。馬の腹掛けに、大津東町と染め出したのをつけて居る。其馬の、猿部屋の守護を受け、日吉の神馬の禊ぎに与つたものとの標である。 
昔は、日本の国中、陸地に於いては、馬ほどの強さを思はせるものはなかつた。其が一歩、河に踏み入ると、水に没して居る小さな水妖の為に、引きこまれる事があると考へた。水を頂くが為に強い河童の力を、以前からある頭の皿に結びつけた。其処にある水をふりこぼされると、河童の力はなくなると言ふ様にも、合理化して考へられる様になつたのである。 
日吉の使はしめの猿は、水の良否をよく見分ける。湖水近くおりて居て、水を見て居る。そして、最浄い水の到るのを待つて、神に告げて、神の禊ぎをとり行ふ。かうした信仰から、悪い水や、水の中に邪悪の潜んで居る事をも、よく悟るとせられた。此考へから、屋敷の水を讃めるのを中心にした、庭のことほぎには、猿が出て来る様になつた。其から拡つて、屋敷・建て物の祝福や、屋敷に入り来る邪悪・疫癘退散の為にも、猿を舞はせる風を生じた。 
馬の脊に跨つた神を観じたのは、何時頃からか、細かな事は知れぬが、古代日本では、神の畜類に乗る事は考へなかつた。馬が尊貴の乗り物とせられて後も、さう馬に乗る事を許された神はなかつた。人乗りはじめて、此を神に及す様になつたのである。宮廷から、馬を進められる様になると、其神の資格は、高くなつたのである。祝詞にも、白き馬を寄せられる文句の見えて居り、絵馬を捧げる風の、わりに早くから行はれたのは、外に理由はあるが、此方面からも、説かねばならぬ。平安朝以後、低い神々は、心から馬を羨望して居た。馬に乗つた人が通ると、脚を止めたり、乗りてをふり落したりさせた。唯後世風に考へると、乗りうちしたのを咎める様に見えるのである。おなじ下座の神と考へられる様になつた水の神なども、馬を欲しがつて居た。其で、水に近よる馬を取らうとすると言ふ風に、推し当てに、神・精霊の心を考へた。此が、河童の馬を引きこまうとして、失敗した話の種である。さうして、人間に駆使せられる河伯と結びつけて、命乞ひに誓文し、贄を献り、秘法を知らせると言つた説明をつけたのである。 
えんこ・えんこうは、猿猴から出たと言ふ考へは、誰しも信じ易い考へなるが為に、当分動す事は出来さうもない。だが、何の為にわざわざさるを避けて、耳遠い音を択んだのか、私には判断がつかない。或は井子(カハゴ)・かごなど言ふ類例から推すと、「井(ヰ)の子(コ)」から出たものが、聯想で、猿猴其まゝ「ゑんこう」とも発音したのかも知れない。 
若し又、ゑんこうを猿猴に違ひないとすれば、水を守る神猿を、やがて水の精霊と見て、猿即河童として、水界に多くゐる方をゑんこうと言ひ別けたともとれる。 
馬曳き猿を、河童の変形とする事は、猿とゑんこうと、関係の説明はついても、まだまだ出来ない。唯、此護符を貼つて、馬の災厄を除くことの出来るものとした原因だけは、わかつたと思ふ。馬術の家の伝へとても、やはり猿曳きや、馬曳き猿の信仰を述べた神人等のものと岐れる元は、一つであつたであらう。
 
椀貸し淵 
大和の水木直箭さんの作つた柳田先生の著作目録の中にも、一つの重要な項目になつてゐるものに「椀貸し塚」がある。私一己にとつては、非常な衝動を受けた研究である。今は、先生の論理の他の一面に、かうした考へ方もなり立ちさうだ、と言ふ点だけを述べて、重複を避けたいと思ふ。 
椀貸し伝説の中には、河童を言はないものも多い。だが此は、塚の内部に、湧き水のある様な場処に移した話が、後には、唯の塚にまで、推し及したものと思ふ。私は、やはり水辺の洞穴や、淵などの地下水の通ひ路と考へられる処を言ふ方が、元の形に近いのではないかと思ふ。 
膳椀何人前と書いた紙を、塚なり、洞なり、淵なりへ投げこんで置くと、其翌日は、必註文どほりの木具の数を揃へて、穴の口や、岩の上などに出してあつた。或時、借りた数だけ返さなかつた事があつて以来、貸してくれなくなつた、と言ふ結末が必、ついてゐる。此椀の貸し主は、誰とも言はぬ伝へが多い。中にはつきりしてゐるのは、龍宮といひ、河童・狐を言ふものである。狐でゞもなければ、そんな不思議は顕されないと考へたのは、水に縁のない山野の塚には、時々狐の出入りするのを見かけることのある為である。 
今もあることだが、昔ほど激しかつた。一年に一度、数年に一度の客ぶるまひの為に、何十人前かの木具を揃へて蔵して居る家が多かつた。中には、一代一度など言ふのさへ、上流社会にはあつたものである。此話の、さう近代出来でない様子から見ても、小まへ百姓などが、木具の膳椀で、客をする夢も見なかつた頃にも既にあつたらしいことは、鑑定がつく。其では、その前の漆塗りの木具のなかつた時代には、此話はなかつたかと言ふと、其頃相応な客席の食器を考へてゐた事も考へられる。だが、其から溯ると、此が伝説でなく、生活そのものであつた時代に行き当る。 
平安朝以後の公家生活には、時々行はれる大饗などが大事件であつた。高官が昇進すると、一階上の上官を正客(尊者といふ)として、大規模な饗宴を催したものである。其夕方、尊者来臨の方式がやかましかつた。宴席の様子が又、不思議なものであつた。まるで、神祭りの夜に、神を迎へる家の心持ちが充ちてゐた。私は、日本の宴会は、都が農村であつた時代から、大した変化もなくひき続いたもので、すべては、神の来る夜の儀式を、くり返してゐたものと信じてゐる。 
饗宴用の食器に違ひない朱器(盃)・台盤(膳)を、何よりも大切な重宝としたのは、藤原家であつた。大きな藤原一族の族長たる氏(ウヂ)の上(カミ)の資格は、此食器の所在によつて定まつたのである。宮廷における三神器の意義に近い宝だつたのである。此は、藤原良房の代に作られたものだと言ふ。私は、其時を食器の歴史に革命があつて、古い物を改修した時だと考へて居る。何にしても、食器にさうした意義の生じたのは、氏の上の条件として必行ふべき饗宴があつたことを暗示してゐるからである。 
あるじと言ふ語は、饗応の義から出て、饗応の当事者に及んだのである。家長の資格は、客ぶるまひを催す責任の負担から出てゐる。饗宴は、家族生活の第一義だつた。神聖な食器の保存に注意を払ふ風は、時代が遷つても、変らなかつた。唯食器にも、推移があつた。どうしても、伝来の物の代りに、近代のを用ゐねばならぬ様になつて行つた。其誘因としては、壊れたり、紛失したりする事と、伝統的な器具を持たぬ新しい家が、後から後から興つて来た事である。 
客の数は、信仰の上から固定したものが多かつた。だから時代が変つても、多くは常に一定してゐた。一椀一皿が不足しても、完全な客ぶるまひは出来ない。食器の数を完備する事に苦労した印象は、新しい器を採用する様になつても残つてゐた。椀貸し穴の、椀を貸さなくなつた原因を、木具の紛失で説いたのも、此印象が去り難かつた為であらう。宴席に並んだ膳椀の数を見ても、一目に其家の富みが思はれる。此栄えは、農村経済の支配者なる水の神の加護によつて得たものである。木具の古びを見ても、此家の長い歴史が思はれる。何処に蔵つてあるとも、家族さへ知らぬ木具類が、時あつて忽然として、とり出されて来る。さうした事実をくり返し見て居る中に、椀貸しの考へは起つて来る。水の神から与へられた家の富み、其一部としては、数多い膳椀。水の神から乞ひ受けた物と言ふ風に考へる外はない。此が、稀に出現する様を見た迄は、事実であり、古代式の生活をくり返した農村全体の経験の堆積であり、疑問の歴史でもあつた。 
かういふ経験が、記憶の底に沁み入つて、幾代かを経る。すると、さうした農村の大家の、富みの標となる財貨(タカラ)を、挿話にして、逆に、其家の富みの原因を物語る話に纏つてゐた。廉々(カドカド)は旧い伝説の型に嵌つた説明で、現実を空想化してゐる。膳椀の忽然と出て来る理由を、時をきめて、水の精霊から借り出すと考へた事実に即した想像と、逆に精霊の助力を受けた者に考へ易い最後の破綻の聯想とが、同時に動いて来る。さうして其中間に、器具紛失・損傷の古い記憶が蘇つて来て、伝説らしい形が整ふ。すると又、紛失とするよりも、神・精霊を欺く人間の猾智の型で説明する合理欲が、此話を、一層平凡な伝説の形に、整頓して了つたのである。 
金の網かゝれとてしも波の月(信章) 
河童の生けどり秋を悲しむ(同) 
うそ噺聞けばそなたは荻の声(桃青) 
地獄のゆふべさうもあらうか(章) 
飛ぶ蛍水は却つて燃え上り(青) 
熊手鳶宮勢多の長橋(章) 
釣瓶とり龍宮までも探すらむ(青) 
亀は忽下女と現れ(章) (江戸両吟集) 
河童の聯想が尚きれないで、四句隔てた勢多の長橋に刺戟せられて復活してゐる。釣瓶とりの句も其だ。亀の下女も其だ。たゞ河童の下女を逃げたゞけである。私どもから言はせればやつぱり打ち越しである。
 
頭の皿 
水の神が、膳椀ばかり貸してくれた理由は、わかつたとしても、どこかやはり落ちつかぬ処がある。客ぶるまひの木具を貸す事になつた隠れた原因は、二つあげて置きたい。饗応を受けに来る正客は、水の神自身だつたらしいこと、河童の皿の、なぜ問題になるのかといふ事の説明である。農村の饗宴に臨む者は、色々な形に変化はしてゐても、正しい姿に直して見れば、常に、水の神及び、其一類であつた。尠くとも、ある時代まで、さう考へて迎へもし、招かれても来たのである。勿論水の精霊等は、人の仮りに扮装したものである。其が何時か、唯の人の姿で出て来る様になる。一方、又近代では、苗を束ねた人形や、役のすんだ案山子(カヽシ)を正客とする程神を空想化してゐる処もある。水の神の為のふるまひと言ふ事を忘れて後も、何だか、水の神に関聯した行事の様に思ふ心は残つてゐる。其が、膳椀の貸してに、水の神を定めた理由である。話は逆に聞えるであらうが、此が伝説上には、正しい推理なのである。 
頭の皿を言ふ前に、まづ椀貸しとの関係の結論を述べて置く。河童とまで落ちぶれない神の昔から、皿を頂いてゐると言ふ伝へがあつて、其で、水の神がさう言ふ器具を持つて居る、との考へが導かれたのだらう。膳椀は、水中に何処にあるか、其とも河童の皿の中の、無尽蔵の宝と共に這入つてゐるのか、此は後に説く。ともかく、河童の皿は、昔からあゝした小型の物と考へてゐたか。此も亦、問題である。河童は、水の神であり、又其眷属とも考へられる。其ほど、或時は霊威を発揮し、ある時はふえありいの様な、群衆して悪戯をする。或は、海の神の分霊が、水のある処に居るものとして、無数の河童を考へたのかも知れない。近代の河童から見れば、さう説かねばならぬ様である。でも私は、別の考へを持つてゐる。 
河童を通して見ると、わが国の水の神の概念は、古くから乱れてゐた。遠い海から来る善神であるのか、土地の精霊なのか、区劃が甚朧げである。神と、其に反抗する精霊とは、明らかに分れてゐる。にも拘らず、神の所作を精霊の上に移し、精霊であつたものを、何時の間にか、神として扱うてゐる。河童なども、元、神であつたのに、精霊として村々の民を苦しめるだけの者になつた。精霊ながら神の要素を落しきらず、農民の媚び仕へる者には、幸福を与へる力を持つてゐると言つた、過渡期の姿をも残してゐる地方もある。 
河童の皿は、富みの貯蔵所であると言ふ考への上に、生命力の匿し場の信仰を加へてゐる様である。水を盛る為の皿ではなく、皿の信仰のあつた処へ、水を司る力の源としての水を盛る様になつて来たのである。だから、生命力の匿し場の信仰は、二重になる。だから私は、皿の水は後に加つたもので、皿の方を古いものと見てゐる。 
皿が小さくてもよい様に思ふのは、水の方を考へるからである。土地によつては、頭の皿は、芥子坊主の頂の剃つた痕と一つにしてゐる様である。又其処の骨が、自ら凹んでゐるとするものもある。或は、皿は髪の毛の中に隠れてゐるとも言ふ。大体は、此位の漠然とした考へ方である。 
北九州の西海に面した地方は、河童の信仰の、今も最明らかな処である。皿がちやんと載つてゐると言ふ処が多い。唯、其皿について、仰向いてゐるとするのと、頭の頂に伏せられてゐると言ふのと、上下二枚の皿が合さつて蓋物の様になつてゐる、と説くものとがある。第三のは、水のこぼれを防ぐつもりの物らしく、おもしろいが、一番新しい形だと思ふ。頭の皿と言へば、仰向けか、うつ向きかは、誰にも問題にならない程、わかりきつた時代の説明省略のまゝの形を、ひき継いだ後の代には、早く皿の据ゑ様を、思ひ浮べる事が出来なくなつたのであらう。其でかう、色々に説く様になつたのである。私は恐らく、皿は伏せられて居たのであらうと思ふ。其も、今まで考へて来た様な、小さな物に限るまいと思ふ。もつと大きな物であつたかも知れぬ、と思ふ。 
かうした皿を、子どもの時から嫁入る迄、被き通した姫の物語がある。「鉢かづき姫」の草子である。此には、鉢とあるのは、深々と顔まで、掩うて居たからである。おなじ荒唐無稽でも、多少合理的にと言ふので、皿より鉢の方を択んだ伝へを、書き留めたのであらう。其程大きくなくとも、不思議の力が、其皿の下に、物を容れさせたのである。鉢と言ひ、皿と言うても、大した違ひはないのである。鉢かづき姫が、御湯殿に勤めて、貴い男に逢ひ初めるくだりは、禊ぎの役を勤めた、古代の水の神女の俤がある。が、湯殿に仕へるだけでは、此以外の物語にもある様だ。唯湯殿で男にあふ点が特殊である。慶応義塾生高瀬源一さんが、鉢かづきの入水して流されて行く処が、殊に水の縁の深い事を示してゐるのではないかと問うた。鉢かづきの鉢がこはれると、財宝が堆(うづたか)く出て、めでたく解決がつく。かうして見ると、此姫の物語も、やはり、水の神の姿を持つてゐる。 
水の神は、頭に皿を伏せて頂いてゐる。其下には、数々の宝が匿されてゐる、と考へたのである。皿が拡張すれば、笠になる。水の精霊なる田の神の神像の、多く笠を着てゐるのも、かうした理由を、多少含んでゐるかも知れぬ。大阪で育つた私どもの幼時は、まだこんな遊戯唄が残つてゐた。 
頭の皿は、いつさら、むさら。 
なゝさら、やさら。こゝのさら、とさら。 
とさらの上へ灸(ヤイト)を据ゑて、 
熱や 悲しや 金仏(カナボトケ)けい。けいや。 
……… 
何の意味をも失うてはゐるが、皿を数へるらしい文句である。皿数への文句としては、「嬉遊笑覧」に引いた、土佐の「ぜゞがこう」の文句が、暗示に富んでゐる。 
向河原(ムカヒカハラ)で、土器(カハラケ)焼(ヤケ)ば(ヤキハ?) 
いつさら、むさら、なゝさら、やさら。 
やさら目に遅れて、づでんどつさり。 
其こそ 鬼よ。 
簑着て 笠着て来るものが鬼よ。 
此唄を謡ひながら、順番に手の甲を打つ。唄の最後に、手の甲を打たれた者が、鬼になる。かういふ風に書いて、此が世間の皿数への化け物の諺の出処だらう、とおもしろい着眼を示してゐる。 
皿数への唄に似たものは、古くは、今昔物語にもある。女房が夫を捨てゝ、白鳥となつて去る時、書き残した歌、 
あさもよひ 紀の川ゆすり行く水の いつさや むさや。いるさや むさや 
下の句は、何とも訣らぬだけに、童謡か、民謡らしく思はれる。だが「いつさや むさや」は、「いつさら むさら」と関係がありさうに思ふ。皿数へ唄が、五皿六皿から始まるらしいのを考へ合せると、殊にさう思はれる。時代の新古によつて、類似民俗の前後をきめるのは、とりわけ民謡の場合、危険である。だがこの唄では、今昔に俤を残したものゝ方が古くて、皿数への方が、其系統から変化したもの、と思うてよい様である。皿数への唄一個が因で、果して皿数への妖怪を考へ出したであらうか。少々もの足らぬ感じがする。尊敬する喜多村氏の為に、其仮説を育てゝ見たい。 
「いつさや むさや」時代には、大体皿の聯想のなかつたもの、と見てよからう。さうすれば、皿数への妖怪にも、交渉のあるはずがない。さやがさらとなり、いつが五(イツ)、むが六(ム)の義だ、と解せられると、「なゝさら やさら」と、形の展開して行くのは、直(スグ)であらう。皿数への形が整ふと、物数への妖怪の聯想が起る。壱岐本居(モトヰ)の河童の話に、門に出して干してあつた網の目を、勘定してゐるものがあるので、網に伏せて見ると、があたろであつたと言ふ。何の為に目をよんだかは、説明する人はなかつたが、妖怪には、目の多いものを恐れる習性があるといふ事は、全国的に考へてゐるから、此をよみ尽せば、もう何でもなく、其家に入ることが出来る、と考へたものと見たのだらう。物よみの妖怪に入れてよいものとしては、歌・経文をくり返し読んだ、髑髏の話などもある。 
物数への怪が、こゝ迄進んで来ると、皿数への唄と、相互作用で変化して行く。皿数へに最適したものは、河童である。此に結びつけて、井戸の中から、皿を数へる声が聞えるなどゝ言ひ出したのであると思ふ。いづれ、田舎に起つた怪談であらうが、段々河童離れして、若い女の切りこまれた古井の話が、到る処に拡つた。河童が、若い女に替る理由はある。水の神の贄として、早処女(サヲトメ)が田の中へ生き埋めになつた物語、及び其が形式化して「一(イチ)の早処女」を、泥田の中に深く転ばす行事がある。又、水に関聯した土木事業には、女の生贄を献つた、といふ伝へが多い。此は実は、生贄ではなかつた。水の神の嫁と言うた形で、択ばれた処女が仕へに行つた民俗を、拗れさせたのである。田や海河の生贄となつた、処女の伝説が這入りこんで来ると、切りこまれたのは、若い女。皿を数へる原因は、一枚を破るか、紛失したからだと説く。皿を破つたからして、必しも、くり返しくり返し皿数へをするわけもない。数とりをせねばならぬ理由は、元の河童にあつたのを、唯引きついだに留つてゐる。 
平戸には又、こんな伝へもあつた。ある大きな士屋敷に、下女が居た。皿を始末させたら、一枚とり落して破つた。主人が刀を抜いて切りつけると、女は走つて海へ飛びこんだ。其姿を見れば、河童であつたといふ。此話は、皿を落すのが、女河童であつて、其から直に、若い女に転化した、ときめて了ふ事の出来ない乏しい例だが、形は単純である。子供の頭の頂を丸く剃り、芥子坊主にするのは、水の神の氏子なる事を示して、とられぬ様にするのである。同様にがつそ或はおかつぱと言ふ垂髪も、河童の形である。此方は、頂を剃らない。皿の隠れて居る類の形と見たのであらう。 
鬼事遊びの中には、子供専門の鬼を、中心にしてゐる事が多い。かくれんぼうなども、隠れん坊ではないかも知れぬ。薩・隅・日の三国に共通したかごと似た形に、かぐれと言ふ河童の方言がある。其以前、もつと広く行はれた時分、「かくれん坊」の語根となつたのではないか。 
目隠しを言ふめなしちご・めなしどちなども、目なし子鬼の義であらう。どちはみづちの系統の語であり、ちごも、河童或は河童の好物しりこだまを意味する、福岡辺の方言である。河童の外にも、もゝんぐわ・がごじ・子とろ・めかこうなど言ふのがゐる。
 
河童の正体 
世間に言ふとほり、一口に河童として、混雑を避けて来たが、所謂河童(カハワロ)と謂うた姿の河太郎・河童の姿を、標準と見做しておいた。だが其外に、河童と言ふに不適当な姿をしたものがあるのである。 
あんなに、馬の護符を出す津島神社の四方、かなり広い範囲に亘つて、河童は居ない。みづち一類の語が、用ゐられてゐる。大抵、鼈を言ふやうである。飛び離れた処々にも、この語を使ふ地方で著しい事は、みづし・みんつち・めどち・どちなど言ふが、大抵水の主(ヌシ)の積りで、村人は畏がつてゐる。殆、人間の祈願など聞き分ける能力のあるものではない。近づく人をとり殺すと言ふ、河童の一性情を備へて居るばかりで、大抵その正体は、空想してゐる場合が多い。だからみづちは、必しも、一定した動物を言はない様である。みづち信仰の最高位にある、山城久世の水主(ミヅシ)神社の事を考へて見たい。元来地方々々に、自然に生じたと見るよりも、此社の信仰の、宣布せられた事を考へる方が、正しいらしい。だが今では、みづちには、祠のある物すら尠い。みづちの中にも含まれてゐる鼈の類は、又、どんがめ・どんがす・がめなど謂ふ別の語で、はつきり区別して示されてゐる。 
みづてんぐ・みづてんなどは、土佐に盛んに用ゐられ、又今も盛んに活躍してゐるとせられてゐる。正体は、河童と天狗との間を行く様なもので、嘴の尖つてゐる為に、かう言ふ名がある。相撲を人に強ひ、負ければ水に引きこむと言ふ。みづちよりは、稍人間に近いものである。此語、河童の多い北九州にも、曾つて行はれて水天狗の字を音読する様にもなつた。ある大家では、封国の水の神を、江戸屋敷の屋敷神としてゐたのを公開した。其後、久しくはやり神となつた。昔の誓文を固く守つて、水に由る災ひは勿論、其以外にも、信仰者には利益を下す、と言はれてゐる。 
ひようすべは、九州南部にまだ行はれてゐる。此も形は、甚、漠としてゐる。河童の様でもあり、鳥の様でもある。此も、水主神と同じく、其信仰を、宣伝々播した時代があつたのである。私の観察するところでは、奈良の都よりも古く、穴師神人が、幾群ともなく流離宣教した。その大和穴師兵主神の末である。播州・江州に大きな足だまりを持つて居た。北は奥州から、西は九国の果てまで、殆、日本全国に亘つたらしい布教の痕は、後世ひどく退転して、わけもわからぬ物になつて了うたのである。
 
 
禰々子(ねねこ)河童

 

利根川に住んでいたとされる雌の河童。祢々子河童、弥々子河童(ねねこがっぱ)とも呼ばれる。 
雌ではあるが暴れ者として知られており、関東中の河童の親分でもあった。利根川の流域を転々としており、禰々子の住み着いた流域には決まって災いが起きたという。 
最終的に住処となったのは利根川の加納という地域であった。禰々子はここで、生け簀の魚を盗んだり、人間の子供や馬を川へ引き込んだり、畑のキュウリを荒らしたりと悪戯を繰り返していた。 
あるとき、馬を引いた侍が加納を通りかかった。禰々子はいつものように馬を川に引き込みにかかるが、馬が驚いて暴れ回った。禰々子に気づいた侍は、逆に禰々子の首を捕まえにかかった。その力強さに驚いた禰々子が、もう二度と悪さをしないと言って許しを乞うたので、侍も禰々子を許してやった。禰々子はお礼に傷に効くという妙薬の秘法を侍に伝え、川へと姿を消した。以来、禰々子が悪戯をすることは二度となかった。 
この名残で現在でも茨城県北相馬郡利根町加納新田では禰々子の像が祀った家があり、縁結びや安産の神とされている。 
また、利根町内のとある民家には禰々子の手とされるものが近年まで祀られていたが、現在は既に処分されている。 
女傑河童 
「祢々子河童」(ねねこかっぱ)は、関東平野を流れる利根川を根城に、関八州の全ての河童を統括していた女河童である。  
女だてらに天下無双の荒くれ者だったと伝えられ、関東の外から利根川の豊かな流れを狙って集まる日本各地の荒くれ河童どもを相手に少しも退かず、一歩も関東の土を踏ませなかったと言う女傑である。九州最強の河童と謳われる「九千坊」(くせんぼう)でさえも、彼女の前には一敗地にまみえるしか無かったと言うから、その強さが伺えよう。  
暴れ者の「祢々子河童」だが、その一方で仁義に溢れた一面もあったと言われ、千葉県の銚子にはこんな話が伝わっている。  
利根川河口の近隣に貧しい百姓の親子があった。ある時、その家の親父さんが畑仕事の最中に足を挫き、歩けなくなってしまった。医者に診せる金など無い貧しい百姓家の事、息子が困り果てていると、ある時その息子の前に「祢々子河童」が現われ、手にした水草を差し出して言った。  
「これは打ち身や挫きに効く薬草だ。これをすり潰して膏と混ぜ、湿布に塗って患部に貼り付けてやれ。そうだね、12〜13枚も貼り代える内には、お前の親父さんの足の挫きもきっと治ってるだろうさ」  
息子がその通りにすると、果たして親父さんの足の挫きは嘘のように完治したと言う。以来、この家では「祢々子河童」に教わった挫きの妙薬を商うようになり、大層栄えたと伝えられている。この家のあった場所は、湿布13枚で足の挫きが治った事に因み、「十三枚」と言う地名がつけられているそうだ。  
九千坊河童 
東に関八州・利根川の「祢々子河童」があるならば、西の河童の横綱は九州有数の大河・筑後川に居を構える「九千坊河童」(くせんぼうかっぱ)こそが相応しかろう。  
「九千坊河童」は元は中国の生まれだと言われ、仁徳天皇の治世の頃に一族郎党を引き連れて海を大遠泳の末に熊本・八代の浜辺に辿り着き、其処から九州一帯に勢力を広げて行ったと伝説では語られている(それ故、熊本では八代の地を“河童渡来の地”と定め、記念の碑が建てられている)。「九千坊」の名は、彼の一族が九千匹も存在した事に因む命名である。  
海を大遠泳した末の繁栄振りからも彼等の膂力の強さが伺えようモノだが、日本に腰を据えてからの彼等の傍若無人振りもなかなかのモノだった。向かう所敵無し、常勝不敗の「九千坊」だったが、そんな彼も生涯に2度だけ大敗を喫した事が有る。一度目は、前述の「祢々子河童」の一族と、利根川の所有権を巡って争いになった時。この時の事は河童同士の事とて、記録には詳しく記されていないが、兎に角「祢々子河童」が「九千坊」を打ち負かした事だけは明らかになっている。そしてもうひとつの黒星が、猛将・加藤清正(かとう きよまさ)との争いだった。  
各地に散らばった「九千坊」の手下の狼藉に業を煮やした清正は、あるとき、自分の小姓が河童に殺された事を理由に全軍を挙げて河童を攻め立て、遂には河童が最も苦手とする猿の大群を用いて「九千坊」を捕らえようとした。度重なる清正の猛攻に為す術も無く敗走を続け、「九千坊」が逃げ込んだ先は、有馬公が統治する福岡の筑後川であった。  
有馬公は寛大にも「今後人畜に悪さをせぬと誓うなら、以後、我が領土にて暮らす事を許してつかわす」と「九千坊」に申し渡した。「九千坊」は有馬公に感謝し、以後、水天宮(水の神様)の眷属として領民を水害から守る事を誓ったと言う。  
「九千坊」にまつわる伝説の背景には、戦国時代に九州各地で猛威を振るっていた、渡来民を先祖に持つ海賊の存在があったと伝えられ、有馬公が「九千坊」を調服したと言うエピソードには、そうした海賊を自身の配下に加え、戦力の強化を狙ったと言う真実が隠されていると言う説がある。「九千坊」を始め、九州の河童に多分に任侠じみたイメージが付き纏うのも、恐らくその所為だろう。  
 
 
むらさき川のカッパ

 

北九州はむかしからカッパの話がたくさんあるんじゃ。むらさき川にもカッパのいたずら話や失敗談があるんだぞい。 
カッパの証文石(しょうもんせき) 
小倉木町の西安寺に、「カッパの証文石」というひとつの碑があります。むかし西安寺は広い田畑をもって、作男(さくおとこ:雇われて畑をたがやす男)をおき、馬を飼い、農業をしていました。ある時、馬を寺の下の川原につないで、つれて帰ることを忘れて夜になりました。そのばん、馬がくるったように寺へかけ込んできました。見るとその手綱に一匹のカッパがからまっていました。このカッパは馬を川の中に引っ張り込もうして失敗したらしいのです。和尚さんは、カッパにいたずらしないように言い聞かせて許してやりました。それから後は、上貴船社から下貴船の間では、決して人や動物に危害を与えないという約束をしたということです。これがカッパの証文石として伝えられています。 
お園カッパ 
旦過橋のあたりは、川の下流の方が旦過渕、水門渕と言われ、そこもカッパが住んでいました。カッパは主に男ですが、旦過渕にいたものは「お園カッパ」という女性で、非常にめずらしいことでした。 
安国寺の小僧 
むかしこの辺りは気味の悪い所でした。淵のまわりはうっそうとしたやぶで、ある夜、安国寺の小僧が水門橋を通り、橋の上から小便をすると、夜釣りの姿をした武士があらわれて、「なぜ、おれの頭の上に小便をするのか!」とどなりつけました。小僧はびっくりして、あやまりましたが聞き入れられず、武士は「お前の頭に毛を植えてやる。」と言って頭をつかまえました。武士は「今度だけは命は助けてやるが、二度とは来てはならぬ。」と言って放してくれたので、小僧は命からがら寺に帰って、頭を見ると、青く剃ったきれいなはずの頭の上にマテ貝が一面にさされていたということです。これもカッパのしわざなのでしょう。 
佐太郎カッパ 
室町1丁目付近の川沿いは、四丁が浜と言われて、むかし「佐太郎」というカッパがすんでいました。とてもすもう好きで力が強く、漁師の若者だれひとりとして勝つ者がいませんでした。そこで若者たちが集まってどうにかならないかと相談していたら、村の老人が通りかかり、カッパに勝つ知恵をさずけてくれました。それはカッパの住んでいる川底の青のりを全部刈り取ってしまうことでした。さて翌日、さっそく佐太郎カッパとすもうを争ったところ、これはふしぎ、さしも強いカッパは投げ出され、さんざん負けてしまいました。それは佐太郎カッパがいつも食べていた青のりが食べられなかったからだということです。 
「むらさき川」 
ずっと遠いむかしから、むらさき川は小倉の土地で流れておった。小倉の街を育てた「母なる川」と言ってもよいじゃろう。 では、なぜ「むらさき川」という名前がついたのか知っておるかな? そのわけにはいろんな説があるんじゃ。 
むらさき川の美しい風景 
今から何百年も前に、むらさき川の川岸には藤の花がたくさんさき、そのむらさき色の美しさが川の水にうつり、とてもよい眺めだったそうです。それでむらさき川と人々から呼ばれるようになったと伝えられています。また、徳力に小嵐山というところがあります。川にうつる山の景色が美しく京都の嵐山そっくりだ、というところからこの名がつけられたということですが、むらさき川はむかしから大変美しい眺めが多かったということです。このような美しい山や川をあらわす言葉に「山紫水明(さんしすいめい)」という言葉があります。この言葉からむらさき川という名がついたという意見もあります。 
 また、小倉の紺屋町は、むかし染物屋がたくさんありました。その染物をした排水が流れ、川の水がむらさき色に染まりそれでむらさき川と呼ぶようになったとも言われています。 
むらさき川とむらさき草 
日本の政治のもとをきずいた聖徳太子(しょうとくたいし)は、冠位十二階(かんいじゅうにかい)を定め、かんむりや衣服を色で分けて、色によって朝廷の役人の位をあらわすようにしました。なかでも、むらさきは最も位の高い色とされました。その衣服を染める染料はほとんど植物のもので、「むらさき草」をはじめ「あかね」、「おうれん」、「きはだ」、「すおう」などが使われました。この「むらさき草」が小倉のむらさき川周辺にたくさんあって、人々が採集して利用したということです。このことからむらさき川という名がつけられたと言われています。 
「むらさき草」はむらさき色、濃いひ色、えび色の染料として使われた材料で、花、茎、根の全部が利用されていました。実がならず、根で増えていくこの草は、どんどんとってしまえば、しだいに無くなってしまうことになります。今では、もうむらさき川周辺には見つかりません。 
 
 
河童の誕生と変遷

 

河童は、用水や運河から生れた 
先生は河童の研究されていて最近「河童の日本史」という本もお出しになりましたが、まず河童とはなんなのか、どう誕生したのか、うかがいたいと思います。 
中村 河童は、ご存じの通り、日本各地の民話の中に出てくる想像上の生き物、架空の動物ですが、日本の民族学の創始者ともいえる人たちから言わせると、河童とは「水の神様が零落した姿」だということです。確かに、もともと本にはワニとか竜とかヘビといった動物が、水の神様として登場してくるような神話も多く、河童の場合も基本的にはそういったとらえ方ができるのかもしれませんが、ただもうちょっと具体的に言うと、河童というのは江戸時代、人々の生活との関わり合いの中からできた動物のイメージで、私は「小妖」というような感じでとらえています。少なくとも、竜の姿をした水の神様といったような凄味はありません。 
なぜ江戸時代に河童が生れてきたんでしょうか。 
中村 ちょうどそのころから、農村では用水ができて農地が開拓されるようになり、また都会では、水運のための運河ができたということがあります。人家に接して用水や運河、お堀ができてきますと、子供が落ちて死ぬことも多くなる。そういうことが、小さい水の妖怪の誕生につながっていったのではないかと思っています。 
女性のお尻も触ったりするいたずら好きな妖怪 
なるほど。それでその用水や運河から生れた小妖は、いったいどんなことをしたんですか。 
中村 妖怪は、本格的に凶暴な妖怪「凶怪」と、いずらっぽい妖怪「戯怪」の大きく二つに分かれるんですが、河童は明らかに戯怪の仲間に入ると思います。江戸時代の河童がどんなことをしたかというと、例えば、川に泳ぎに来た子供の足を引っ張る、馬を水中に引き込む、トイレで女性のお尻を触る、といった具合です。だけど、馬を引く場合は必ず失敗して逆に厩に引き摺り込まれ、最後は人に捕らえられることになっています(笑)。 
いずれにしても、そんなに大きな悪さはしなくて、いつも最後は人間に叱られたり、命を助けてもらってお礼をすることになるわけで、庶民にとっては痛快な相手だったんですね。 
中村 そういう意味では、哀れむべきかわいそうなところもあるんです。子供を水中に引き込むのは本当に悪いことだと思うんですが、それ以外はほとんどうまくやった試しがない(笑)。 
全国的にだいたいキャラクターは同じですか。 
中村 ちょっと違うのは九州です。九州の河童は相当悪い。女性に大してお尻を触るなんてことじゃなく、もっと酷いことをするんです。江戸時代の中ごろに、女性が河童の子を産んだという話があるほどです。 
しかし、時代とともに、文明の進歩とともに、河童の性格とか行動は少しずつ弱まっていき、だんだんわざわざしなくてもいいようなばかなことをするようになっていくんです。柳田国男さんは「文明の進歩とともに妖怪の力が衰えた」と言っています。たしかにそれはあると思います。 
最近では、日本酒「黄桜」のコマーシャルに家族で登場するほどに大衆化しマスコット化されたイメージになった…。河童には本来、雌はいないはずなのにね(笑)。 
猿とスッポンが合体したのが河童の原形 
私がイメージする河童の姿はそれこそ「黄桜」なんです。でも先生の本を拝見すると、河童を描いた絵も実にさまざまなパターンがあって、最初のうちは猿みたいな顔の河童が多い。これにも時代とともに流れがあるんですか。 
中村 河童の具体的な形に関する最初の情報は、1600年代にイエズス会の宣教師が編纂した「日本・ポルトガル辞書」です。それには、河童とは「水の中に棲む猿のようなもので、人のような手足がある」と書いてあります。この当時の宣教師は九州を拠点として京都あたりまでは行っていましたから、少なくとも西日本一帯の河童のイメージというのは猿に近かったと思います。 
甲羅や頭の皿なんかはあったんですか。 
中村 たぶん、西日本の河童にはもともと甲羅はなかったと思われます。甲羅はどこから来たかというと東日本からでしょう。東日本の河童というのはスッポンのイメージですから、西の猿イメージと東のスッポンイメージが合体したのが原形だろうと思うんです。 
一方、唯一ほぼ両者に共通しているのが、皿です。でもどこから来た発想なのかは分からない。これには諸説があるんですが、非常に単純に考えれば、昔は男の子というのはみんなおかっぱ頭だったわけで、真ん中は剃っていないこともあるけれど、なにかその辺にヒントがあるんじゃないか、と考えられるわけです。そういう頭だと水も溜めやすいですしね。 
色っぽい雌の河童も出てきて、妖怪というイメージからはどんどん遠のいていますが、これからの河童のイメージについてはいかがでしょう。 
中村 いずれにせよ、河童は人の心の産物であり、実在しているわけではないのだから、その時代、時代で人々のイメージ文化の膨らみに何らかの貢献をすればいいのであって、「黄桜」の河童も大いに結構だと思います。 
要は、日本人の広い意味での文化イメージの中で、過去の伝統あるものがどうやって受け継がれ、また、そのイメージを豊かにしていくか、ということなのであって、昔の人間から言えば、「黄桜」の河童なんていい加減だと怒る人もいるかも知れないけれど、そういうものではないんです。昔のことにこだわる必要はない。 
それに、人間というのは、過去のいろんな経験の組合せの中から、もののイメージというものをつくり上げていくのだと考えています。 
日本人独自の想像力がつくり出したユニークな生き物ということになりますね。今度オリンピックを日本で開催するときには、是非ともマスコットに…(笑)。 
科学者の功績より、その時代の人々に興味が・・・ 
ところで、先生のプロフィルを拝見すると、研究対象分野が非常に多岐にわたっておられますね。もともとは生物学をやっておられて、そこから科学史、そして民族学ということで、ちょっと珍しいご経歴なのかなと思うんですが。 
中村 それには、それを可能にした背景と、私自身の理由でそうなってしまった二つの要因があるんです。 
まず、それを可能にした背景は、最初に大学の教養部に勤めたことです。今は教養部という学部はほとんどの大学からなくなってしまいましたが、当時は国立、私立を問わず多くの大学に教養部というのが設けられていました。 
私はもともと理学部育ちですが、教養部には文系、社会科学系、理系と、いろんな分野がなんとなく混沌としている。だから、いろんなタイプの人間がいて、大変面白い経験もしまし、何より意義があったのは、教養部には専門の学生がいませんから、研究テーマがわりと自由だったんです。授業さえきちんとやっていれば、極端にいうと何を研究してもいい。一つのテーマにこだわらず、自分の興味でどんどん変えていくことができたわけです。 
学際的な研究が可能だったんですね。研究者にとっては、ある意味ではいい環境と言えますね。 
中村 それが一つの要因です。 
一方、私自身の理由というのは、もともと最初は素粒子論をやりたいと思っていたんですが、学生運動をやって一回退学処分になりまして、しばらくしてから入り直そうと思った時には年齢的なことや自分自身の興味も変化しており、生物学に行ったんです。特に生物学の歴史をやっていたんですが、やっているうちに思うようになったのは、いわゆる科学史に残ってきた科学者というのは、その時代その時代の最高の知能です。そういう人の考え方の歴史を知ることはそれはそれで重要だけれども、私はむしろその時代の人々が自然や生物をどうとらえていたかのほうが興味があった。また一方、日本に近代科学と言えるものが入ってきたのは杉田玄白あたりからですが、本格的になったのは明治維新以後です。しかし、それ以前でも日本人は自然に関する何らかの認識・知識をかなり持っていたことも事実です。これは面白いなと思いまして、だんだん科学史から現在の分野の方に移ってきたというわけです。 
 
 
河童の怪異

 

河童の元服 
豊前中津の官医大江文明氏は、近国に並ぶ者のない名医である。筆者もこの医師のおかげで命を助かったことがあり、以来懇意にしている。 その大江氏が、河童についてこんな話をした。 この世に河童ほど憎いものはない。 中津城下を流れる中津川では、おりおり河童の難がある。川の中で毒風に当たって死んだとか川底の石で胸を打って死んだとかいうが、実のところ水中での死の十中八九は河童の害である。 私は、河童に悩まされて病気になった人をたびたび治療した。 その中の一人は河童が乗り移って、さまざまなことを言い狂っていたので、これを縛めて問い質した。 「おまえたち河童が人を害するのは、いったい何故なのか」「人の腹内の大腸・小腸を抜いて食うためさ」「それはかねてより聞いて知っている。しかし、何故に腸を食うのか」「腸を食えば、十四になるからだ」「十四というのは、齢のことか」「そのとおり」「生まれてから十四年に至った河童は普通にいるだろう。同じように十四歳になるのを待てばいいではないか。待つのがさほど辛いとは思えぬが……」 「それは人間世界の話さ。我々にとって十四とは、ただ十四年を経ることではない。いろんな修行を積んで、それが終わるとやっと十四になれるのだが、その修行というのがおそろしく難しく、十のうち七つ八つは修得できないのだ。ところが人間の腸を抜いて食えば、たちまちにして十四になる。だから常に心がけていて、機会あれば抜いて食うのだ。おまけに人間の腸の美味はえも言われず、我々の食の中で最上というべきものだ」 「それなら、人はしょっちゅう川で水浴びなどしているのに、その腸をかたっぱしから抜いて食わないのは何故か」 「わはは……。貴殿は学問にすぐれ、とりわけ医道の名人で、人命を一手に預かるほどの人なのに、そんなことも分からんのだな」 「うむ、分からぬ。教えてくれ」 「我々は畜類だ。かたや人間は人間で、すべて生き物の中で人間ほど恐ろしいものはない。その人間を、我々が手にかけて命を取るのはたやすいことではない。我々の方がよっぽど時の運に恵まれ、人間の方も取られる運命に巡り当たったときでなければ、命は取れない。いつもは人間を眼の前に見ながら、取れないでいるのさ」 河童が腸を抜くとはかねて聞いていたが、これほど委しく理由を聞いたことはなかった。 近年のこと。近くの川で十三四歳の少年が河童に殺されたとの知らせで、すぐに駆けつけて死体をあらためた。 たしかに肛門から腸を抜き取ったらしく、引き出されて千切れた腸が三四寸ほど残っていた。腹の中は空虚で、押さえてみるに何もなかった。
狐と河童が夜ごと来る

 

筆者の家業の支店が、玖珠郡の小田村にある。先年の冬十一月に用事があってそこに滞在していたとき、同郡松木村の文右衛門という者が狐の妖にあって迷惑しているという風説を聞いた。 ある日、たまたま店先を通った文右衛門を番頭の嘉兵衛が呼び入れたので会ってみたら、その男はかつて縁戚の濱田屋に下男奉公していた者で、筆者とは互いに顔見知りであった。 そこで、さっそく狐の妖について尋ねると、次のようないきさつを語った。 このところ米の輸送で人や牛馬の行き来が多いので、文右衛門は道沿いの某所に小屋を建て、草鞋(わらじ)・塩・肴・酒などを売ったが、そうするようになってから夜な夜な狐が来て、寝ることができない。 狐が何しに来るのかというと、事の起こりは三年ばかり前にさかのぼる。 文右衛門が用事を果たしに夜道をたどり、隣村の恵良村から川を越え大隈村へ向かったとき、両村の中途の石田河原という野っ原に芝居がかかって、見物で大いに賑わっているのに出くわした。「今日まで何の噂もなかったのに、この夜になってにわかにこれほどの芝居興行があるはずはない。きっと狐の仕業だろう」と思って、かまわず行き過ぎようとすると、一人が近寄って、「芝居を見ないかね」と声をかけた。 「狐芝居など見るものか」と言い捨てて歩み行き、用事を済ませての帰り道では、何事もないいつもの野っ原だったわけだが……。 その時のことだといって、老人と娘が訪ねてくるのだった。 老人は齢七十くらい、浪人とみえて人品よろしく、空色の単物に黒縮緬の羽織で大小をたばさんでいる。娘は二十四五の色白の美人で、地白形の帷子(かたびら)に黒繻子の帯を結び、小さな狐の子を抱いている。 最初に来た夜、老人は言った。 「貴殿は三年前、石田河原にてこの娘と一度交わり、後に一子をもうけた。今その子を抱いてきたから、娘を妻にせよ」 文右衛門が、「そんな覚えはない」と応えると、「いや、あの夜「芝居を見ないか」と言われたのを覚えているはず」「なるほど覚えている。「狐芝居は見ない」と言い捨てて去ったが、それがどうした」「狐芝居と見抜いた貴殿の賢い心を見込んだゆえ、こちらで術を用いて交わったのだ」「それはおかしい。あの夜おれが交わったのは四日市村の某女で、前々からの深い仲だ」「さにあらず。この娘が某女に化けて交わった」 老人は、三年前の夜に文右衛門と女の語った内容を証拠として示した。それらはすべて当たっていたが、四日市の某女とはその後もたびたび会い、あの夜のことも互いに語り合ったから、交わったのが某女でないはずはない。狐は盗み聞きしたことを言うだけだと気づいて、ためらわず言い返した。 押し問答の末、夜明け近くなると帰ったが、それからというもの毎夜来て、果てしない言い合いを繰り返している。 奇妙なことに、この問答の間、河童が二十匹ばかりでまわりを取り囲む。河童どもは何か言っているが、よく分からない。わずかに聞き分けられるのは、老人の狐が、「なんとしても女房にさせずにはおかぬ」と迫るとき、河童一同が手を叩き、「そのとおり、そのとおり」と言うところだけだ。ほかは意味不明だし、そもそも狐は化けているのに、河童は河童の姿のままである。 文右衛門が店先を通ったのは、そんな寝られない夜が二十日ばかりも続いた時で、「今から、瀧の社の山城殿をお迎えに行くところです」と言っていた。山城殿とは、瀧明神という小田村・戸畑村・山浦村の三村にかかる大社の神主で、穴井山城という人のことである。まもなく筆者は小田村の用事を済ませて我が家に戻ったが、番頭の嘉兵衛には、成り行きを委しく聞きおくように言いつけておいた。 その後の嘉兵衛の知らせによれば、穴井山城が来た晩から三夜のあいだ狐たちは現れなかったが、山城が帰るとその晩からまた来るようになったそうだ。 文右衛門が今度は、一夜を庄屋の下男部屋に隠れて寝たところ、二夜まで来ず、しかし三夜めにはまた元どおり来るようになった。 狐老人はいよいよ強硬になって、「わが娘を女房に持ては富貴になる」ということをしきりに言い張るので、「狐の金銀は木の葉か土くれか。おれはそんなものに迷わない。その子が本当におれの子だというなら、たとえ腹は狐でも人間の子を産むべきだ。まるきり狐じゃないか。どういうわけだ」 理屈で責めると、老人は黙り込んだ。娘はただ涙を流してものを言わない。そこで文右衛門が声高に叱りつけた。 「畜生のくせに無礼なやつ。とっとと帰れ」 これには老人も憤激し、「なんだとっ!」と刀の柄に手をかけてにじり寄るのを、「出て失せろ」と拳で殴りつけたとき、老人の刀の柄頭に触れたが、小竹の切り口に触ったような感じがしたそうだ。 そんなこんなで時が経ち、文右衛門はひとり夜は寝られず、昼は昼で仕事に疲れ、鬱症のように病み衰えた。 そのあげく、「文右衛門の姿が二三日見えない」と村じゅうで探したところ、谷川の岸の竹林の中で死んでいた。 死骸は、肩から腕にかけて歯の痕が多数あり、眼玉をくり抜かれ、陰茎が引き伸ばされて二尺ほどにもなっていた。 村の者は、「文右衛門が小屋を建てた橋の際のところは、河童が毎晩集まって遊ぶ場所だったに違いない。それで恨みを持った河童が狐に手助けを頼み、文右衛門を計略にはめたのだろう。河童と狐が手を組むのは、よくあることだ」などと話しているらしい。 その説はもっともだと思う。筆者の住む地でも、河童と狐が一緒に妖をなした例が二つ三つある。
河童の執念

 

ことわざに「東国の火車、北国のかまいたち、西国のかわっぱ」という。上方より北・東には河童の難が少なく、西国にばかり多いというのは本当である。 この難にさまざまある中から、確かな話でありながら一風変わった出来事を語ろう。 わが豊後日田郡隈町の内河原町に、白糸嘉右衛門という相撲取りがいた。男子が二人あって、兄を正市、弟を四蔵といった。 正市は十六歳で、父が親方と頼む同町内の吉武屋伊助の家で召し使われていたが、その年は六月十日と十一日両日の祇園祭の山鉾出し役に当たった。 祭りが無事済むと祝いの宴会があり、それが終わった日暮れ前、正市は、親方の一子磯松(七八歳)と弟四蔵(六七歳)を連れて町裏の大川へ水浴びに行った。 ひとしきり遊んで、もう帰ろうと水際の石に後ろ向きに立って足を濯いでいると、何ものかが足の踵を引っ掻いた。「どこの子供の悪戯だ」と煩く思って、また川に飛び込むと、そのあたりの水を滅茶苦茶にかき回してから、あとも見ずに吉武屋へ帰った。 その晩、町の通りから、「正市、正市」と頻りに呼ぶ声がした。なんだろうと出てみると、大勢の子供が口々に詰め寄ってきた。 「来い、正市。相撲をとろう」気の強い正市は、相手が誰の子とも見定めないまま、「よし、とってやろう」と受けて、家々の裏手の道を通って川端まで行った。 そこは暮れ方に足を洗った場所で、石垣の下に砂場がある。裸体になり、ふんどしを締めて型のごとく立ち合おうとすると、相手はまともに向かってこず、ただ大勢で取り囲んで前後左右に飛びまわり、後ろから肩・背・尻を突き、時には前から額なども突く。触れてくる手は水のごとく冷ややかだった。 「そうか、俺は河童に嬲られているのか。ならば、河童の正体をあばいて、なんとしても捕らえてやる。」正市は心に決めて、砂にひれ伏すばかりに低く身構えたが、いかんせん相手の動きが速すぎる。しばらく狙った姿勢のままじっとしていた。 正市が手も足も出ないのを見て、河童どもは嬉しそうに手を叩き、笑うような、また何か呟くような声をたてたが、言うことは聞き分けられなかった。 そうするうち、川の中から一匹、目立って背の高い河童が上がってきた。 大河童は、他を押しのけて正市の前に来ると、やにわに額を突こうとした。すかさず左に身をかわすと、突き損ねてのめり、のばした腕が正市の脇にはまり込む。さっとその腕をとって引き回し、体ごと振り上げて石垣に強く打ちつけると、ギャッと一声叫んで即死した。 思いがけない出来事に他の河童どもは周章狼狽、死骸の手足をとってあわただしく水中へと退散した。たちまち、あたりはしんと静まり返った。 正市は脱いだ着物を抱えて親方宅へ戻ったが、まもなく四五十匹の河童が押しかけてきた。 河童どもは正市に激しく迫り、あの大河童の報復をせんとする様子なので、刃物で立ち向かおうと台所へ取りに行くと、早くもそこに河童がひしめいていた。 仕方がないので裏へ逃れると、そこにも集まっている。井戸のそばへ行くと、井戸の中からぞろぞろ出てくる。 そうして右往左往する正市の姿を親方が見とがめ、「あいつ、どうしたんだ。気でも違ったのか」と言ううちに、正市は通りへ飛び出し、我が家をさしていっさんに走った。それを追いかけて下男らも走った。 他の者の目には何も見えないが、正市は数十数百の河童に責め立てられて走っている。河童に膝の後ろを突かれて倒れそうになること、わずか二町足らずの間に三度、やっと親の家に走り着き、「包丁だ。出刃をくれ」と大慌てで喚いた。 これを見て親も乱心と思い、来合わせていた相撲仲間の難波・響山などとともに取り押さえようとした。 正市の力はあくまで強く、これだけの人数でも手にあまるばかり。ようやく座敷に上げて押し伏せ、布団を着せたけれども、「おまえらが何百来ようと、一匹残らず退治してやるぞ。さあ来い。勝負しろ」と罵り騒ぐことは止まなかった。 人々は河童の仕業と気づいて、近くに住む人が所蔵する郷義弘の名刀を借りてきて枕上に置いた。 すると正市は静まり、おとなしく布団をかぶって寝ていたが、刀の持ち主は道理の分からない人で、長くは貸してくれず、仕方なく返すと、また元のように騒いだ。 親の嘉右衛門は、河童が使いをつとめるという隣国筑後久留米の水天宮に参詣し、神主に事情を話して祈祷を頼んだ。 神主は、「そのことは、昨日こちらに河童どもから訴えがあって、詳しく聞いた。死んだのは某川の名高い河童で、手下の河童が七八十匹。その者どもがみな甚だ憤って、なんとしても仇をとると息巻いている。容易に聞きそうにないが、我が祈って慰めたら、納得もするだろう」と言って加持祈祷し、幣(ぬさ)一本と神前の御供の飯少しに守り札を添えて嘉右衛門につかわすと、「この幣は、相撲をとった川岸に差しておくように。御供は正市に戴かせなさい」などと詳しく指示してくれた。 嘉右衛門はさらに尋ねた。 「それにしても、この国の河童が、どうしてわが日田に来ていたのでしょうか」 すると神主は、「不審はもっともだ。河童は慣例として毎年四五月、肥後ノ国阿蘇郡阿蘇神社の社僧那羅圓坊のもとへ伺候する。その行き帰りは、この筑後の上妻郡矢部川から向かって帰路を日田川にとる年と、日田川から行って矢部川を帰る年と、一年交代で、今年は日田川を帰る年だった。河童どもがそちら辺に着いたのが六月八日で、日田川の河童が「四五日泊まって、祇園祭を見物していくとよい」と勧めるのにまかせて逗留していたらしい」などと話した。 嘉右衛門が帰って教えられたとおりにしたところ、正市は無事本復した。 それから九年。 天明五年十一月某日の夜更け、正市が町外れの堀端を通ったとき、水中から何か夥しい音がした。ぞっと身の毛がよだち、たちまち寒気に襲われて家に帰ると、傷寒の病となってついに死んだ。「これはまったく、河童どもの恨みの執念が、ここに至って災いをなしたものだ」と嘉右衛門は語ったという。 正市が最初に騒いだ夜、当時六七歳だった筆者は母とともに母方の祖父の家に行っていて、そこからほど近い嘉右衛門の家の門口まで、下男に負われて見に行ったことをよく覚えている。 また、那羅圓坊というのは、昔から俗に「河童の司」と呼ばれ、代々河童を鎮める祈祷を行ってきた。今でも諸人に頼まれ、わが町へも時々やって来る。
河童女に通ず

 

河童は陰獣で、よく人間の女に通じて子を産ませる。 「子は母体を出るやいなや、たちまち床下などに飛び込んで姿をくらますので、どんなものなのか見定めることが出来ない。一度の妊娠で三四匹、あるいは五六匹を産む」などと昔から言われているが、確かな話かどうか分からないでいた。 先年岡に赴いた際、古田家老の閑居を訪ね、二三日泊まって語り合った。 話が河童のことに及んで、女に通じることについて不分明に思う点を述べると、古田家老は次のように語った。 「わが杣谷の屋敷で、河童が下女に通じて妊娠させたことがあった。その女にことの次第をくわしく質したところ、最初は夜に猫が来て、寝ている女の懐に入ったのだそうだ。猫のことだからと追いたてもせずに二夜、三夜と過ごすうち、夢うつつの寝床の中に美男子がいて、それに犯された。それから毎夜同じことが続いて、妊娠が知れたときには半年ばかりを経ていた。そのとき女は鬱症のような乱心のようなありさまで煩っていたから、とにかく里へ帰したのだが、やがて子を産むと平生に恢復したので、また屋敷に戻って勤めている。 子が産まれるときの様子も話してくれた。そのほうがかねて聞き及んでいる通りのことを言っていたよ」
河童を殺した老婆

 

駿河国、安倍郡浅畑東村には、こんな言い伝えがある。 この村の彦左衛門という者の祖先にあたる老婆は、小吉という孫娘が河童に取られて溺死したのを悲しみ嘆き、ついに浅畑池に入水した。 水神と化した老婆は、河童を捕らえて孫の仇を報じると、大谷村の瑞現山大正寺の開山僧行之のもとに出向いて菩薩戒を受けた。 今の諏訪明神は、この老婆の霊を祀ったところだそうだ。 別に、「浅畑池由来」には次のようにある。 建武年間に脇屋義助が守護として在国のおり、瀬名村の村長某の娘を寵愛して、小葭という名の女子をもうけた。 観応二年七月、祖母が病にたおれたため、小葭は浅間神社に詣でて祈ろうとしたが、途中、巴川まで行ったところで河童に取られて水底に引き込まれた。 祖母は悲嘆のあまり巴川に身を投げ、魂魄を水にとどめて河童を殺した。 その後、浅畑池に蓮を生やして、人々の助けとしたという。
河童

 

水の中に棲む河童という妖怪がいる。馬や人をとって喰う。よく人語をあやつって、人をたぶらかすものである。 豊前の国に、川幅は百メートルばかりもありながら、歩いて渡れる川がある。そこを夜渡れば、必ず河童が出て、「相撲をとろう」と言って引き止める。てっきり子供だと思って相手になったらさいご、水中に引き入れられ、喰われてしまうのだそうだ。 小笠原信濃守の家臣に大塚庄右衛門という人がいた。この人が従兄弟の瀬川藤助と連れ立って、その川を渡ったときのこと。 「相撲をとろうよ」 こう言って藤介の袖を引きとどめたものを、返事もせずに抜き打ちにした。手ごたえがあったが、水の中にさっと入って姿を消した。 翌朝、二人でまた行ってみると、三百メートルあまり川下の柳の根に死骸が引っかかっていた。十歳に届かないくらいの子供の姿をしていて、髪の毛は十五センチばかり。顔つきは猿に似ていたが色白で、爪が猫のそれのように鋭かった。 また、庄右衛門の屋敷の下男で力自慢の者が、やはり川を渡るときに引き止められて、相撲をとった。 河童は、力は強くなかったが、蝶の飛ぶように素早くて捕らえられず、やっとのことでつかまえても、皮膚が鰻みたいにぬめって擦り抜けてしまう。難渋するうち、顔も腹も腕も針の先で引っかいたように裂かれて、そのあと七日ほど病みついた。 たいそう生臭かったという。
河童

 

武蔵の川越のあたりに、荒川の支流で「ひくまた」という小さな川がある。この川にも河童がいて、馬や人をとった。 近くに「ほうとう院」という寺がある。十五六の少年が寺の馬を洗おうと、裸馬に自分も裸体で打ち乗って川に走り込んだとたん、馬がのっと立ち暴れて、そのまま水から躍り出た。少年は落馬して気絶した。 馬は厩に駆け戻った。寺の下男たちが、「馬だけ帰ってきたぞ。なんであんなに喘ぐのか」などと見ていると、十歳ばかりの子供の形をしたものが手綱に絡んでいて、馬はそれを隅のほうへ蹴飛ばした。 捕らえてみれば河童であった。すでにさんざん踏まれて苦しんでいるのを引き出して、「いつも川で害をなすのは、こいつだ。焼き殺せ」と薪を積み上げ、皆が集まって火をつけた。 河童は涙を流し、手を合わせて拝んでいた。和尚がそれを見て、あんまり可哀想だから助けてやろうと、人々に命乞いした。そして、「わが弟子にしよう」と衣を一度うち着せ、また引きのけてから、「今後はけっして人をとるな。馬を傷つけるなよ」と言うと、河童はひれ伏して泣いた。 人々もさすがに哀れに思って、川ばたまで連れて行って放してやると、泣く泣く水に帰っていった。 翌朝、礼のつもりなのだろう、和尚の寝床の枕辺に、鮒がふたつ置かれていた。この後、川で人馬が襲われることはなくなった。
河童に喰われる

 

護国寺の前の町を音羽という。東側の山は木立が生い茂って、安藤対馬守の屋敷となっている。屋敷を囲む垣根に沿って細い溝川があるが、流れはやっと足の甲が隠れるくらいの浅さだ。 溝川の小さな石の下には、鰍(かじか)という魚がいる。その魚を釘で刺して獲るのが、界隈の子供らの日ごろの遊びであった。 ある日、六七人が連れ立って川へ行った。中に十四歳と十二歳の兄弟がいて、同じ場所で鰍を刺していたが、突然姿が見えなくなった。 驚いた仲間の子供らが、走り帰って兄弟の親に知らせたので、親たちは現場に飛んでいった。周辺の人たちもおいおい駆けつけて、それぞれにあたりを見回した。 だが、二人の姿はどこにもない。彼らの脱ぎ捨てた二足の藁ぐつがあるばかりだった。 よく調べると、垣根の下に一箇所、十五センチばかりの大きさの穴があいていた。「もしやここに陥ったのでは……」と思って、竿で中を突いてみると、思いのほか深く、竿はどこまでも入っていく。 「それならば……」と、川水をせき止めたうえで穴の水をかき出し、さらに穴の入口を掘り崩しなどしたが、水は中からさかんに湧き出て尽きそうになかった。 それでもなお、しきりに汲み出していると、二人の亡骸が浮かび上がってきた。二人とも肛門のあたりをひどく破られて、内臓が丸ごとなくなっていた。 穴は、石を詰め込んで埋めたそうだ。 これも例によって、河童の仕業であろう。  
河童は龍蛇

 

毎年、水中で河童に引かれて死ぬ者があるが、河童とは何かについては諸説あって、はっきりとしない。亀の妖怪だとか蛇の化けたのだとか言われている。 その昔、信濃川のほとり真越村にある一向宗孝源寺に、某という十八歳の僧がいた。 夏のある日、彼は近辺の農家の子供らを連れて信濃川に水浴びに行き、突然、水中に引きずりこまれるようにして姿を没した。子供たちは驚き騒いで村に駆け戻り、人に告げ知らせた。 村じゅうの者が川岸に集まり、網を引いたり鉤を使って探ったりしたが、その辺りには何もなく、川下に二キロばかり下って鐘が淵という所にいたった。ここで、腰に縄をつけ手に鎌を握った勇敢な若者五六人が水底にもぐって、かの僧が沈んでいるのを発見した。 遺骸を引き上げて調べると、皮膚に傷はないものの、肛門が開き、腹がひどく膨れあがっている。その腹を押すと、ぐうぐう鳴って蠢動した。 「さては仇(かたき)は腹中にあるのだな」と皆々色めきだち、「叩き殺そう」「いや切り殺すのだ」と口々に喚いた。 その時、僧の叔父にあたる老人が言った。 「毒蛇はたしかに腹中にいる。だが、うかつに叩けば口から飛び出して逃げてしまうぞ。あらかじめ肛門と口とに小刀を刺し、その上でこの腹ごと突き殺そう」 一同そうすることに決したが、ひとり僧の母親はいたく悲しんで、「こういう死に方をしたとはいえ、さらに体に刃を受けるのは、僧侶の身でいかにも業障が深く見えます。どうかこのまま葬ってください」と頼むのだった。 「では火葬にして、仇ともども焼き殺せ」ということになって、死骸を大きな瓶(かめ)に入れ、板石で蓋をして周りを大石で覆った。そして炭数十俵をもって焼きたてた。 たちまち火炎さかんに立ちのぼり、激しい火勢に近づくことも出来ない。「今はもう、蛇身も焼け失せたにちがいない」と思われた。 その時、火の中で何かが爆発し、轟音とともに一尺ばかりのものが炎から跳ね上がったと見えた。次の瞬間あたり一面黒雲に覆われ、暴風と豪雨に立っていることすら出来ない。 しばらくして我に返れば、山のごとく燃え上がっていた火は消えていた。瓶は砕け、大石もこなごなになっていた。 まことに龍蛇の神力は人智の及ぶところではないと、これを目のあたりに見た人々は、ただ震え怖れたのである。
水戸浦の河童

 

享和元年六月一日、水戸浦にて河童を漁獲いたしました。 河童の身長一メートルあまり、体重四十五キログラム。体格に比べ、ことのほか重いものでありました。 当日、海にておびただしく赤子の泣き声がするので、漁師たちがあちらこちらと船を乗りまわすに、声は海の底から聞こえるようでした。 網を下ろしたところ、さらにいろいろの声で鳴いております。そこで刺し網を引き回すと、鰯網の内に河童が十四五匹入っていて、たちまち躍り出て逃げようとしました。船頭たちは棒や櫂で打ち叩きましたが、ぬるぬるした体に滑って、なかなか手応えがありません。 そのうち一匹が船の中に飛び込んだので、苫(とま)を押しかぶせて上から叩き、打ち殺しました。その時も赤子が泣くように鳴いておりました。河童の鳴き声は、赤子の泣き声と同じなのでございます。 打ち殺される時に、河童は屁をこきました。まことに耐え難い臭気で、嗅いだ船頭たちは後日寝込んでしまいました。叩いた棒などにも青臭いにおいがつき、いまだに消えません。 河童の尻の穴は三つありまして、体には骨格がないように見えました。屁の音はせず、スッスッとこいておりました。打ち叩くと首が胴の中に八割がた引っ込み、胸や肩が張り出してせむしのようになります。死んだら首は引っ込みません。 当地で河童を獲ることは度々ございますが、このたびのように大きくて重いものを捕らえたことはなく、珍しいことゆえご報告申し上げます。   
 
狐1 狐の田舎わたらひ

 

藤の森が男で、稲荷が女であると言ふ事は、よく聞いた話である。後の社の鑰(カギ)取りとも、奏者とも言ふべき狐を、命婦と言うたことも、神にあやかつての性的称呼と見るべきで、後三条の延久3年、雌雄両狐に命婦の名を授けられたなど言ふ話は、こじつけとは言へ、あまりに不細工な出来である。 
今日の稲荷社では、なぜか、命婦を一社と考へたがる傾きが見える様だが、色葉字類抄に中ノ宮ノ命婦とあるのは、上下の社にも、命婦のあつたことを、暗示してゐると見るのが、順当な解釈らしく思はれる。又、事実に於ても、今も上社に命婦社があり、奥ノ命婦と言ふ名目まで、同社に伝はる「天正の記」と言ふ物には、見えてゐるさうである。明月記・後鳥羽院御記・業資王記などの、稲荷詣での記事の抜き書きで見ても、必しも一社とは、見られぬ命婦社の名が、散らばつてゐる。 
身柄はさのみよくもなくて、世馴れた顔にさかしらだつて後宮に立ち交る古女房みやうぶのおもとの名は、此滑稽味を持つた眷属殿には、事実、うつてつけのあざ名である。 
此奏者の筈の命婦社の勢力が侮られぬものとなり、一山荼吉尼(ダキニ)化の傾向を示したのは、後期王朝中葉からの流行と見える。かの天部の呪法の影響であらう。冒涜の嫌ひはあるが、稲荷、東寺のくされ縁は、此処にも見えるのである。狐媚盛んに世に行はれ、福利の神と迄なり上つたのは、荼吉尼法の功徳を説いた、東寺真言の手が見える様に思はれる。 
軒端を貸した秦の氏神が、母屋までもとられて、山を降つたものとすれば、客人神(マラウド)は、蓋(けだし)、其後、命婦の斡旋によつて、愈(いよいよ)、動かぬ家あるじとなられた事であらう。 
武家の世になつては、命婦・専女(タウメ)の古御達(フルゴタチ)が、公家程には顧みられずなつても、尚様々の霊異を現した事であらう。 
此山の眷属の為に、呪はしかつたことは、応仁2年の兵火である。一山を焼き尽して、御達(ゴタチ)の住みかの古穴も、安んじ難い火宅となつた。 
倖にも、其前年6月に、山籠りした世阿弥の弟子の禅竹は、ゆくりなくも命婦ら一部の、漂浪の痕を辿るべき書き物(禅竹文正応仁記)を残して置いてくれた。文章は神韻渺たるものであるが、当方に入り用な処だけをとると、上社・中社とも、命婦社があり、上の命婦は尾薄(ヲサキ)明神、中のは黒尾と言うて、二つながら、石をば神体とした。尾薄社の本地は聖天で「是則伊勢にてまします」とある。石を神体と言ふ事、狂言の「石神」などを見ても知れる如く、石其物を拝むと言ふより、石に仮托した動物の霊魂を崇めてゐる、と考へる方がよさゝうである。其に又、石其物が命婦であるといふのは、如何に望夫石論者の中山氏でも、忌避せられるところであらう。夢覚めて狐の尾が手に止つたのを、験(ゲン)あるしるしとしたと言ふ民譚は、王朝末に尠からず見える。狐とし言へば、直に、尾を聯想した時代に生れたのが、此尾薄・黒尾の命婦たちなのであらう。尾が裂けてゐたからなのなら、他動にをさきとは言はぬ訣で、屡(しばしば)、人の手に尾を裂いて残すなど言ふ考へを、含めてゐるのではあるまいか。 
応仁の焼亡の後、尾薄命婦の社も、或は黒尾も此まで同様、祠は建てられなくなつて、神体の石ばかりが残つて居り、再、稲荷の社が興隆した頃には、名も存在も、人から忘れ去られて、さしもの命婦たちも、荼吉尼を呪(ジユ)する験者に誘はれて、旅の空にさすらひ出で、鄙のすまひに衰へては、験者の末流を汲む輩の手さきに使はれて、官奪(メ)された野狐となり、いづなの輩に伍して、思はぬ迷惑を人々にかけたことであらう。今日尚、をさきもち・をさき筋など言ふ家々の祖先には、或は、是非なく「山出で」をした命婦たちと、合体してゐた験者のひこのやしやごの、其又ひこなど言ふてあひが、あるのかも知れぬ。 
 
狐2 葛の葉(くずのは)

 

伝説上のキツネの名前。葛の葉狐(くずのはぎつね)、信太妻、信田妻(しのだづま)とも。また、葛の葉を主人公とする人形浄瑠璃「蘆屋道満大内鑑(あしやどうまんおおうちかがみ)」、および翻案による同題の歌舞伎も通称「葛の葉」と呼ばれる。 
村上天皇の時代、河内国のひと石川悪右衛門は妻の病気をなおすため、兄の蘆屋道満の占いによって、和泉国和泉郡の信太の森(現在の大阪府和泉市)に行き、野狐の生き肝を得ようとする。摂津国東生郡の安倍野(現在の大阪府大阪市阿倍野区)に住んでいた安倍保名(伝説上の人物)が信太の森を訪れた際、狩人に追われていた白狐を助けてやるが、その際にけがをしてしまう。そこに葛の葉という女性がやってきて、保名を介抱して家まで送りとどける。葛の葉が保名を見舞っているうち、いつしか二人は恋仲となり、結婚して童子丸という子供をもうける(保名の父郡司は悪右衛門と争って討たれたが、保名は悪右衛門を討った)。童子丸が5歳のとき、葛の葉の正体が保名に助けられた白狐であることが知れてしまう。次の一首を残して、葛の葉は信太の森へと帰ってゆく。 
「恋しくば尋ね来て見よ 和泉なる信太の森のうらみ葛の葉」 
この童子丸が、陰陽師として知られるのちの安倍晴明である。 
保名は書き置きから、恩返しのために葛の葉が人間世界に来たことを知り、童子丸とともに信田の森に行き、姿をあらわした葛の葉から水晶の玉と黄金の箱を受け取り、別れる。数年後、童子丸は晴明と改名し、天文道を修め、母親の遺宝の力で天皇の病気を治し、陰陽頭に任ぜられる。しかし、蘆屋道満に讒奏され、占いの力くらべをすることになり、結局これを負かして、道満に殺された父の保名を生き返らせ、朝廷に訴えたので、道満は首をはねられ、晴明は天文博士となった。 
 
狐3 狐の怪異

 

人が狐の媒酌を  
天保元年春のこと、豆田町の西の近郷で、百姓の娘に狐が憑いた。 狐を落とそうとあれこれ責め問うに、狐が言うことには、 「わたしはもとは上方の女狐ですが、故郷に居辛いわけがあって夫婦で放浪して、この地の鬼塚に棲もうとしました。でも、縄張りを持っている狐が置いてくれません。豆田の城山へも行ってみましたが、ここも駄目でした。ほかを探そうと夫婦連れだって祇園社の後ろの板橋を渡っていくとき、夫は橋板の壊れに足を突っ込んで抜けなくなり、苦しむところを子供衆に見つかって、終に殺されました。わたしはなんとか逃げて助かったとはいえ、棲み処がなく食うものにも事欠き、しかたなくこの娘さんに憑いたのです」 人々が、「この日田にも、男やもめの狐がいるだろう。そいつの女房になったらよいではないか」と言うと、「わたしみたいなみっともない女は、みんな嫌うんです」と返事した。 「おまえたちにも、器量の良し悪しがあるのか」「ありますとも」「どんなのが不器量なんだ」「顔に白い毛が混じっていると、ブサイクだといってイヤがられますね」 人々は相談して、大超寺の和尚に頼んで寺の狐と娶わせたらどうかという話になり、寺へ出かけた。 大超寺の藪に穴があって、そこに狐が棲んでいるが、毎日和尚が握り飯を作って与えており、親狐と子狐の二匹が出てそれを咥えていく。出てこないときは手をたたくと必ず出てくるという。この親狐には女房がいたが先ごろ死んで、今は男親と子の二匹だから、その女房にしてくれと和尚に依頼したのである。 「なあ女狐。おまえのことはよくよく頼んでおいたから、行ってみろ」 「きっと相手が承知しませんから」 「あれほど頼んだんだ。たとえ女房にはしなくても、一緒に棲むくらいはするだろう。行け」 強いられて狐はしぶしぶ離れたが、翌晩にはまた娘に憑いた。怒ってわけを問うと、 「やっぱり嫌われましたよ。女房にしてくれないのに、一緒に棲むわけないじゃありませんか」 今にも泣きそうな様子なので、また大超寺へ行って、和尚に事情を述べた。 和尚は男狐を呼び出して叱責した。 「なんて聞き分けのないやつだ。女房にしないならそれも仕方ないが、一緒に棲むのばかりは許してやれ」 狐は恐れ入ったふうで、すごすごと帰った。 娘に憑いた女狐は、「今度こそ大丈夫だから、とにかく行け」と追われて行ったまま、再び戻らなかった。 寺では翌朝より、狐が三匹連れ立って出てくるようになった。 よく見ると、なるほど新しく加わった狐は、口の左右上下と眼の上下などに白い毛があった。 これは、人が狐の媒酌をした話である。
きつねの火玉

 

江戸、本所亀戸の名主の地所に住む大工某が、ある夏の宵に戸外で涼んでいると、どこからともなく一匹の狐があらわれた。 狐が何かを手で転がすと、ぱっと火が燃え出た。様子をよく見るに、その転がる火で地面を照らし、虫を拾って食っているらしい。 不思議に思ってそっと近づいていったが、狐は虫を拾うことに夢中で、大工の存在に気がつかない。何度も転がすうち、火が手元近くにやって来たので、大工はそれを素早くつかんだ。 狐は驚いて、そのまま逃げ失せた。 手にとって見ると、白い玉である。珍しく思って持ち帰り、秘蔵することにした。 夜の集まりなどで、人々が帰るときに草履のありかを捜すことがある。そんな時この玉を取り出して転がすと、例のごとく火が燃え出て明かりの用を足した。 何かと重宝して、三年ばかり玉を所持していたが、その間、狐が一匹、とかくに付きまとって昼夜離れず、大工はなんとなく痩せ衰えていった。周囲の者がそれを玉の祟りだと言うので、大工もやっと「仕方ない。玉を返そう」という気になった。 ある晩、物を捜すのに思いのほか遠くに玉を投げたところ、たちまち狐が躍り出て玉を奪い、走り去った。 その後、大工の身には何ごともないそうだ。
狐が踊る、天狗も踊る

 

この頃の不吉な流言に、王子の稲荷で狐が歌をうたって踊ったという。 その歌は、「天に星なし地に人なし。四月二十日の夜を見やれ」と。 また、愛宕山で天狗が踊ったという。 歌はほぼ同じ文句だが、ただし「四月八日の夜を見やれ」と。  
堀田屋敷の狐狩り

 

下総の国印旛郡佐倉の城主、堀田備中守の渋谷の下屋敷は、笄橋の辺りから広尾の辺りまで続いて、ずいぶん広壮だという。 先代の奥方だとかいう婦人の隠居が、そこに住んでおられる。 五月十四日、隠居のお付きの医師の三輪玄春(三十二歳)が夜中に部屋から浮かれ出て、そのまま行方知れずになった。 五六日過ぎて、屋敷内の中山深く、人の行かない草むらの中から死骸が見つかった。その様子は、まさに狐狸にたぶらかされ、精気などを吸われて殺されたかのようであった。 隠居はたいそうなお怒りで、当主に狐狩りを行うよう申された。 堀田備中守は、領国の佐倉から、魚の運搬を生業としながら狐を獲る名人だという藤兵衛という者を呼び寄せ、悪狐を一網打尽にするよう命じた。 藤兵衛はさっそく仕事にかかり、六月十二日の夜以来、狐十一匹、狸一匹、尋常の大きさではない猫一匹を捕らえた。 そのやり方というのは、こうだ。 かの医師が化かされた辺りに、魚の内臓などをまき散らし、罠を仕掛ける。さらに自分自身は酒を飲み,ほどよく酩酊する。そして、ゴマメを手にその辺りに行き、泥酔をよそおって気持ちよさげに踊り歩く。 狐どもが魚の内臓を食おうとして集まってくるころ、酔いつぶれて草の中で眠ったみたいにしていると、悪狐がこれを試みようと、しだいしだいに近づいてきて、しまいには手足や頭を舐めまわる。 そのとき、たわごとを言いながらそろそろと起き上がって、またさっきのように踊ると、狐らは化かしたものと心得て、いっしょになって踊る。そこで、持ってきたゴマメをまきこぼしつつ、罠のほうへ狐をおびき寄せて、ついに捕らえるのである。 実に不思議な方法を覚えたものだと、もっぱら世間の噂である。 捕らえた狐や狸は,その都度お屋敷に出して、当主のご覧に入れているということだ。
悪狐

 

備中の鳴輪というところの木こりが、かつて山に入り、傍らに狐がいるのを知らずに木を切ろうとして、狐を傷つけたことがあった。 その後三十年を経て、木こりの元気が衰えたのに乗じて狐がとり憑いた。 木こりは、「いついつの年、よくもわしを傷つけたな」と、毎日毎日そのことばかりを口走って狂乱した。 あるとき鎌を手にすると、自分の腹をかき切って大腸を引っ張りだした。 それをものに掛けてさらに引き出し、切り取ろうとしているとき、外出していた妻が帰った。仰天して隣人を呼び、腸を腹におさめて、医者の療治でなんとか命は取りとめた。 その後、木こりは乞食になった。 近辺を食を乞うてさまよい歩くが、飲食するとただちに腹の傷口から洩れてしまう。大きなヒョウタンを傷口に付け、その中に大小便とも出る。食べたものがそのまま下るのだった。 このようにして、両手で杖をつき、腹にまったく力がなくて歩くのもつらいと言って、あちらこちらで食を乞う。そうして三年後、ついに死んだ。 「五臓に障害があって食物を全然消化しないのに三年生きたというのは、まことに疑わしい話だ」 と私が言うと、人は皆、「命があったのは、悪狐が死なせなかったのだよ」と言うのだった。 また、同じ鳴輪の向谷というところの木こりは、斧でもって、自分の腹を木を切るように打ち、臓腑が飛び出した。 傍にいた人が、何をしているんだろうと寄って見て、狂気の沙汰と知り、急いで医者を呼んで治療させた。 この木こりの傷はやがて癒えて、命に別状なかった。これもまた悪狐のなせるところだという。 思うに、このあたりの狐は、ずいぶん悪どいことをするものである。
鳥を埋める狐

 

私が十七歳の春のことだ。 早朝、菜園に出てみると、白い羽が散っていた。不審に思ってそこを掘ると、雌鶏が埋まっていた。前日は初午(はつうま)で、稲荷社で初午祭りがあったが、その夜、狐が鶏を埋めたにちがいなかった。 私が、 「さっそく煮て食おう」 と言ったところ、母は、 「狐の埋めた物をとってはいけないよ。きっと仕返しされるから」 と反対した。それで、また埋め戻しておいたら、二の午の夜に狐が来て、掘り出して持ち去った。 さては、二月の初午・二の午を、狐も知っているということか。 肥前の島原では、こんなことがあったらしい。 ある人が野原で、狐が埋めた鶏を掘り出した。その晩、友人たちを呼び、まさに煮て食おうとしたとき、村長の下男が現れて、 「その鶏は主人に進上したい。代わりにこの鳥でどうか」 と、一羽の鷺を取り出した。 「村長に差し上げるというのなら、取り換えよう」 というわけで、結局その鷺を貰って煮て食ったところ、ひどく酸っぱい味がして、まずかった。 翌朝になって気をつけて見ると、鷺ではなかった。村に先だって疱瘡で死んだ赤児があったが、その死骸を墓から掘り出して持ってきたらしかった。 村長の家に行って尋ねると、そんなことは全然知らない、とのことだった。 このように、狐の知恵は人にまさることがある。村長の名を出せば村中の人が応じることを知っていて、この策略を用い、鶏を奪われた怨みを報いたのである。 それにしても、狐が鳥を埋める話は、しばしば耳にする。何のためにそんなことをするのかは知らない。
狐憑き下女

 

加賀の備後守殿の留守居役に、出淵忠左衛門という人がいる。 文化六年の冬のある夜、夢に一匹の狐が来て、忠左衛門の前にひざまずいてこう言った。 「私は本郷四丁目糀屋の裏にある稲荷の倅ですが、いささか親の心に背く行いがあって、親のもとに帰れません。居場所がなくてたいへん難儀しておりますので、まことに申しにくいことなれど、召し使っておられる下女をお貸し願いたい。少しの間、ぜひお願いしたい。友達の狐が詫び言して取りなしてくれます。それが済めば家に帰りますので、それまでの間、ひとえにお願いいたします。けっして病ませたり苦しめたりいたしません。もちろん奉公も欠かしませんので、どうかお許しください」 夢のうちにも不憫に思い、 「下女を悩ますのでなければ許そう」 と言うと狐はたいそう喜んだ、と見たところで目が覚めた。 忠左衛門は、なんとも不思議な夢を見たものだと思いながら起き出して、下女の様子を見たけれども、いつもとなんの変わりもなかった。 ところが昼ごろから、下女は猛然と働きだした。水を汲み、まきを割り、米をとぎ、飯を炊き、できなかったはずの針仕事までこなす。以来毎日この調子で、一人で五人前の仕事をやってのけた。 また、晴天のときに「今日は何時から雨が降り出しますので」と、外出する主人に雨具を用意させる。「後ほど、どこそこから客人があります」などと告げる。その言うことに寸分の間違いもない。 そのほか万事、この下女の言うとおりで、家にとって大いに益あることなので、 「なにとぞいつまでも、狐が立ち退かないようにしたいものだ」 と、最近、忠左衛門がみずから語ったという。 忠左衛門と懇意な五祐という者の話である。
野良狐の返礼

 

今田善作という人が、村里で野生の狐を馴らして毎日食物を与え、ついには縁先で昼寝をするほどになった。 三年ほど飼い馴らしたある日、善作が机に向かうと、傍らの縁に狐がいて、細目をあけてこちらを見守り、何か物言いたげな様子だったので、言葉をかけた。 「これ、狐。おまえを食わせてもう三年になるのだから、少しは礼をしてもよかろうものを。いかに野良狐だからといって、あまりに養い甲斐のないことだ。鳥の一羽くらい、なんとかならんのか」 いい終わるやいなや、狐は縁から跳び下りて、どこへともなく駆け去った。 「あやつ、聞き分けたと見える。どうするつもりかな」 善作はそんなことを妻と話して、その日が暮れた。 翌朝、目覚めてみると、雁が一羽、忽然と枕もとに置かれてあった。 「さては狐が返礼に持ってきたな」と思って、さっそく料理したのだが、まるで身のない痩せ鳥だった。 後に聞けば、近所の猟師が飼っていたおとりの雁だった。食っては旨くなし、盗られたほうは大迷惑である。 これは、野良狐の心意気というものだろう。
鬼一管

 

陸奥国宮城郡の本川内に、勝又弥左衛門という狐獲りの天才がいた。若いころから多くの狐を獲るうち、いよいよ腕を上げて、弥左衛門のために命を失った狐は数百をくだらない。 獲られることを憂い嘆いたある狐が、老僧に化けて弥左衛門の前に現れ、 「生き物の命をとることなかれ」 と諌めたが、まるで耳を貸さずに、その狐を獲った。 また、何とかの明神と崇められていた白狐も獲ったという。弥左衛門のもとに浄衣を着けた者が来て、 「明神のお告げなり。狐を獲ることをやめよ」 と諭したが、それも聞かず罠を仕掛けたところ、白狐がかかったそうだ。 このように並外れた名人だったので、世の人は「狐獲り弥左衛門」と呼びならわしていた。その狐の獲り方は、次のようなものである。 まず鼠を油で揚げて味付けする。同じ油鍋で粉に挽いた小豆を炒る。これらを袋に入れて持ち、狐の棲む野原へ行くと、揚げ鼠の匂いをひとしきり振りまく。戻りの道々では炒り小豆粉を一つまみずつ撒き、細流のあるところではちょっとした橋のようなものをかけたりする。家に帰ると、屋敷内に罠を仕掛ける。これで必ず、狐が来て罠にかかってくれる。 ある人が、 「目に見えない狐の居所を、どのようにして知るのか」 と問うと、弥左衛門いわく、 「狐というものは、目に見えなくても、そのあたりに近寄れば必ず身の毛がよだつ。野を分けめぐって何となく身の毛がよだてば、狐がいると知れるのだ」 なにしろ名人なので、狐除けには「勝又弥左衛門」と本人自筆の札を貼ればよいとも言われていた。 同じころ同国に、鯰江六大夫という笛の名手がいた。 国主の宝物に「鬼一管」という名笛があって、これはむかし鬼一という人が吹いた笛だが、余人には吹くことができなかったのを、六大夫は見事に吹きこなした。 以来、「鬼一管」は六大夫が、我が笛のごとく預かっていた。 ところが六大夫は、故あって罪に問われ、「網地二わたし」という遠島に流されることになった。ただし預かりの笛については特に沙汰がなかったので、流罪の島まで携えて行った。 島での無聊の日々、笛だけを慰めとして吹いていた。するといつの頃からか、夕方になると、十四五歳くらいの少年が垣根の外に立って聴くようになった。 風が吹き、雨の降る折にもそうしていたので、 「入って聴くがよい」 と呼んでやると、それからはいつも家に入って聴いた。 何日かが経った夜、少年は笛を聴き終わってから、悲しげに言った。 「すばらしい笛を聴くのも、今宵が最後となりました」 六大夫が不審に思って問うた。 「何があったのだ。わけを話してごらん」 「はい。じつは私は人間ではなく、千年を経た狐なのです。勝又弥左衛門が、この島に年を経た狐がいると知って、獲りに来ます。もはや命は助かりません」 六大夫は思案した。 「危難が迫るのを知らずに命を失うのは、世の常のことで是非もない。しかしおまえは、勝又弥左衛門が来ると知っているではないか。知りながらなぜ命を諦めるのか。この島に弥左衛門がいる間、わしがおまえをかくまおう。この家にじっと隠れて、危難を逃れるがよい」 「いや、それがだめなのです。家に籠もって助かるようなら、自分の穴に籠もってでも凌ぐことができますが、弥左衛門の術の前では狐の神通を失うので、行けば命がないと承知しながら、自分で罠に近寄ってしまいます。どうにもなりません。さあ、今まで心を慰めてもらったお礼に、何でもお望みの珍しいものをお見せしましょう。なんなりとおっしゃってください」 「では、一の谷の逆落としから始めて、源平の合戦の様子を見たいものだな」 「たやすいことです」 少年が答えるやいなや、座敷の中はたちまち険しい山谷と変じ、いかめしくもきらびやかに装った将と兵馬が打ち合い駆け巡り、無数の矢が飛びちがい、大海に軍船が走り、追いついた船から次々乗り移るさまなど、面白さは言いようもないほどだった。 やがて座敷は何事もなかったように元に戻り、少年はこんなことを言い残して去った。 「きたる某月某日、松が浜に国主がおいでになります。その折に「鬼一管」をお吹きなさい。きっと吉事があるでしょう。私の死後のことになりますが、今日までのお情けの礼に、お教えします」 弥左衛門が島に来て罠をかけると、くだんの狐は七度まで外して逃げたが、八度めにかかって獲られた。 六大夫は、それを聞いて哀れさに涙しつつ、教えられたとおりの日に笛を吹いた。 松が浜では、空晴れてのどかな海を眺めながら国主が昼の休みをとっていた。そこへ何処からともなく笛の音が、浦風に乗って聴こえてきた。 「誰だろう。今日、あのように笛を吹くのは」 傍近くの者に尋ねても、誰も知らないので、浜の住人を呼んで問うと、 「あれは「網地二わたし」の流人、鯰江六大夫が吹くのです。いつも風のまにまに聴こえてまいりますよ」 と言う。 国主は、「ああ、見事なものだ。島からここまで、およそ三百里の海路を吹きとおす。六大夫こそ、まことの笛の名手というものだ」としきりに感動し、それゆえか、ほどなく六大夫は召し返された。
女の髪を喰う狐

 

世間の噂では、女の髪を根元から切る事件が続発しているらしい。「髪切り」といって、怪談の一つとして語られている。 その中には、恋人のある娘が両親・親類のすすめる縁談を嫌って、怪談にことよせて自分の髻(もとどり)などを切るという、贋物も多い。 しかし、狐狸の仕業にちがいないものもあるという。 松平京兆の知行所では、髪を切られた女が三人いた。 その後、野狐を捕殺して腹を割いたところ、腸内に女の髻が二つまであった、と。 ただの噂とも真実とも、一概に言い切ってしまえないということか。
奥女中の良縁

 

寛政七年の冬のこと、小笠原家で、器量は奥女中のうちでも一二という女が、ふと失踪してしまった。実家に問い合わせても、行方はまったくつかめない。 そもそも、町屋とは違って厳重に壁で囲まれた大名屋敷である。人知れず抜け出すのも容易ではないのだがと、皆あれこれ不審がった。 二十日ほど過ぎたある日、同僚の奥女中が手洗いをしていると、すうっと白い手が出てきて、貝殻で水を汲もうとする。女は悲鳴をあげて気絶した。 その声に人々が駆けつけて見ると、女の風体の怪しいものが縁下に這い込もうとしていたので、大勢で押さえつけて捕らえた。それがなんと、かの失踪した女であった。 なにはともあれ湯水などを与え、わけを尋ねるけれども、なかなか答えようとしない。執拗に尋ねてやっと、 「わたくしは良縁にめぐまれて嫁ぎ、今は夫を持つ身なのです」 などと応えた。 嫁ぎ先を聞いても、はっきりしたことを言わない。なおも、いろいろ宥めすかしつつ問いただすと、 「それでは、わたくしの住むところにお連れしましょう」 と、縁の下に入っていく。三人の者があとについて行ったところ、縁下のずっと奥まった所に、ござ筵を敷き、古い茶碗などが並べてあった。 夫の名を尋ねても、 「かねてお話ししているとおりでございますよ」 と繰り返すばかりで要領を得ず、まさに狂人の有様であったから、その次第を役人に届け出のうえ、実家に帰してやった。 実家の両親は娘が見つかったことを喜び、さっそく医者に見せ、薬を与えて療養させた。しかし、そのかいなく、まもなく死んでしまったという話だ。
きつねの恩返し

 

長府の城下に某という寺がある。山際にある寺で、土蔵も山に接するように建っている。 その土蔵の二階で、狐が子を産んだ。 寺には恵浄という僧がいて、少々馬鹿者であったが、二階の狐の子を見て、「狐は幸運を与えてくれるものだと聞く。この際、いろいろ恵んでおこう」と思い、折りにふれ小豆飯を炊いて与えたり、油揚げを食わせるなどした。 寺のことだから精進物がある。それも必ず持って行って、心をこめて養ってやること二ヵ月、子狐が成長したので、親は山へ連れて帰った。 しかし、それっきり何の福も来ない。ある夜、恵浄は寝言にこんな独りごとを言った。 「なんとも憎たらしいやつだ。わしは六十日の間ずいぶん心をこめて、種々の狐の好物を、自分は食べずに恵んだのに、一言の礼もない。まして、何の幸運もよこさないではないか。恩知らずめが」 その翌朝だ。 誰かがじつに見事な長芋を十五本持参して、「恵浄様に差し上げてください」と飯炊きの者に伝えて帰ったという。 恵浄は昨夜言った寝言を覚えていなかったから、狐のしたこととは気がつかず、これはいいものが手に入ったと思って、すぐに調理し、自分で食べ、人にも振る舞った。 それから何事もなくて、七月十日ごろになった。 八百屋が請求書を持って、長芋十五本の代金を取りに来た。 恵浄はたいそう驚いて、いろいろ調べてみると、どうやら狐が召使いの男に化けて、長芋をツケで買ったらしい。恵浄は腹を立てたけれども、今さらしかたがなかった。
猫狐

 

目黒大崎というところに、徳蔵寺という禅宗の寺院がある。 この寺に数十年を経たぶち猫がいて、いつも近辺の山に行って遊んでいた。 明和元年の春、猫は珍妙な子を産んだ。 毛色は普通の猫のような白黒まだらだが、形は猫でなく狐である。 「この猫は、山で遊ぶうちに狐と交合したのだろう」 人々はそう言い合った。
狐の嫁入り

 

宝暦三年八月末、八丁堀の本多家の屋敷で、狐の嫁入りがあった。 近隣の屋敷ではみな、誰言うとなく「今夜本多の家中に婚礼がある」との風説が流れて、じっさい日暮れから諸道具を持ち運ぶ人や車が夥しく、正装した人が幾人となく行き違って賑わった。 その夜がふけて十二時近く、提灯数十張り、鋲打の女乗物を前後に数十人が守護して、いかにも厳粛に本多家の門に入った。 隣家から見たところ、行列は五六千石の婚礼の様子だった。「本多家中でこのような婚礼を取り結ぶのは、いったい誰か」と不審がったが、後々聞けば、これこそ世に言う狐の嫁入りとか。 本多の屋敷では、これを知る者が一人としてなかったのも、不思議なことである。 (八丁堀 )
狐亭主

 

京都烏丸の上に、江戸に店を出していて、毎年一度ずつ江戸に下る人がいた。 ある年、江戸での業務がいつもより手間取る由、便りがあったが、九月の初めごろ、思いがけず亭主が江戸から戻ってきた。 家内の者、とりわけ母親や女房は大いに喜び、風呂を沸かし料理をこさえてもてなした。 ところが、どうも様子が変だった。亭主も挟箱を持った家来も、ひと言もものを言わない。ただ座敷にいて食い物ばかりを食い、台所に出てくることもない。そのほか、所作すべてに不審な点がある。 そこで家内じゅうが当分の入用な品を携え、近所の親類方に引き移った。亭主と家来の二人だけが残った家には、外から厳重に錠を下ろした。 翌日から毎日様子をのぞきに行ったが、二人ともずっと同じ場所に座ったきりで、飯を炊いて食うような様子はまるでない。 そんなある日、江戸から書状が届いた。「来月上旬には京へ戻る」との亭主からの知らせである。 「これではっきりした。あの二人は狐狸のたぐいにちがいない。打ち殺せ」 近所の者が大勢、手に手に棒を握って家に入ってみると、二人は行方知れず。あとに挟箱に見せたと思われる、破れた菰を竹に結わえつけた物が残っていた。 まったくこれは、狐の仕業だったのである。 近所の噂では、この家の裏手には昔から蓋をして使わない古井戸があって、もし蓋を開けると祟りがあると言い伝えられていたが、今年来た奉公人が知らずにちょっと蓋を開けてしまったのだという。 その祟りだろうと、人々は言っている。
狐の失敗

 

因幡の国、鳥取の坂川彦左衛門という侍が、雉を撃とうと、鉄砲を持って野辺に出かけた。 すると、松原の中から出てきたものが、 「お狩りでございますか」 と声をかけた。 身なりを見ればどこぞの下僕のようだが、顔は狐だった。 「今日はご主人に休みをいただきました。狩りのお供をいたしましょう」 と言うので、 「よいところに来てくれた。これを持ってくれ」 と鉄砲を渡した。 狐は鉄砲を担いで、後ろからついてきた。とある家の角まで来たところで、 「おまえはここで、雉がいるかいないか、よく見張ってくれ」 と命じて、彦左衛門は家に入った。 「今、面白いものが来ますからね。笑わないでくださいよ。からかい甲斐がありますから」 家人にこう言って待っていると、やがて狐も入ってきた。 「あちらこちらと見ておりましたが、鳥はおりません」 「そうか。ご苦労だった」 ねぎらうと狐は、台所の隅に腰をかけて休んだ。 家人は笑いをこらえて、茶を汲んで渡したが、断って水を乞うたので、椀に水を満たして与えた。 狐は飲もうとして、椀の水面に映るおのれの顔を見た。わっと驚いて椀を振り捨て、まさに周章狼狽の態で逃げ去った。 翌朝も彦左衛門は、雉を撃ちに出かけた。 小松を押し分けながら行くと、草むらの中から、 「よう、彦左衛門」 と呼ぶ。 「誰だい」 と問うても姿は見せずに、 「昨日は可笑しかったなァ」 とくすくす笑った。
狐の失敗

 

関東の諸国では、野狐の精を「稲荷」として祀り、供え物までして敬う。そうすると狐もまた、善い利益(りやく)を与えてくれる。 だが陸奥(みちのく)では、狐を敬わない。狐のほうも大したことはしない。たまに祟ったりすると、たちまち人に殺されてしまう。 千年を経た老狐として、信夫に「お山のごんぼう」「一盃もりの長七」、米沢の「右近」「左近」らが知られるが、彼らを恐れる者などいない。 「右近」「左近」が人をたぶらかそうと思ったのだろうか、上杉家の家来の男が江戸へ使いしての帰り、ただ一人で山あいを行くとき、ふと道に現れて、 「どうしてこんなに手間取ったのだ。殿がたいそうお腹立ちだぞ。このまま家に戻ってみろ。重い罰は必定だ。今すぐ、ここから他国へ立ち退け」 と言うのを見れば、まぎれもなく狐だった。 「馬鹿にするな。憎い狐め」 と、刀を抜いて斬り殺した。 名高い狐なのに、化けそこなったらしい。
狐の嫁入り

 

上州の神田村に、高田彦右衛門という煙草商人がいた。 あるとき彦右衛門は、同じ村の商人仲間二人と連れ立って某所へ出かけ、日が暮れてからの帰り道、はるか向こうから三百張ばかりの提灯が来るのを見た。 「怪しいな。ここは街道ではないから、大名衆がお通りになるはずもないが……」 三人は様子を見ようと、小高いところまで上がって待ちうけた。 彦右衛門らが通ってきた道の少し下が田圃で、提灯をともした行列はその中を通った。 徒歩の者、駕籠わき、中間、おさえ、陸尺と、武家の行列として何一つ欠けたところはなかった。しかし、提灯に紋所がなく、灯りも通常の提灯とは違って、ただ赤く見えるばかりだった。 行列は田圃の中を真一文字に過ぎて、その先の林に入った。 「ああ、これが狐の嫁入りというものか」 三人は口々に言い合ったという。 この村の近辺には、「狐の嫁入り」というものをたびたび見た人がいるらしい。 (上州)
報恩狐

 

元文年間のこととかいう。 薩摩の鹿児島に、八右衛門という貧乏暮らしの百姓がいた。 あるとき、八右衛門が野道を行くと、子供たちが小さい狐を捕まえて、なぶりものにしているのに出遭った。 「叩け、叩け。」 「ぶち殺してしまえ。」 などと騒いでいるのを見て、可哀想でたまらず、 「その狐を、おれにくれないか。」 と声をかけたが、耳を貸そうともしない。仕方がないから、昼飯にしようと懐に持っていた餅を子供たちに与えて頼んだところ、やっとくれた。 「ああ、よかった」、八右衛門はそう思って、すぐに狐を放してやった。 その夜のこと、どこからともなく、助けた狐が家に入ってきた。 「八右衛門さん、ありがとう。おいらはまだ通力のない若狐だから、うっかり捕まって酷い目に遭ってしまったんだ。八右衛門さんのおかげで命拾いしたよ。そのお礼に来たんだけど、なんでも望みがあったら言っておくれ。おいらにできることなら、きっと叶えてあげるよ。」 嬉しそうに言うので、感心なやつだと思い、 「よくぞ恩を知って来てくれた。うーん、望みといったら、見て分かるとおり、おれはものすごく貧乏で、一日の蓄えもないんだ。もし金銀が手に入れば、綿入でも拵えて冬の寒さをしのぎたい。おまえの力の及ぶことなら、工面してくれないか。」 と言うと、 「ああ、それぐらい簡単だ。」 狐はすぐに走って出て行った。 翌日、八右衛門はいつものように田んぼへ出かけた。 いっぽう狐は、八右衛門に頼まれた金銀を調えたいとは思うものの、これといってあてもないので、町へ行って、駿河屋という銭屋の傍らに潜んで、隙を見てさっと店に入ると、粒銀を掴んで走り出た。 手代どもが見つけて、 「あっ、狐のぬすっとだ。つかまえろ。」 と、棒など持って追いかける。狐は逃げまどったあげく、八右衛門の家へ駆け込んだ。 「ここは、狐を飼って盗みをさせている家に違いない。どこかに隠れているぞ。それ捜せ。」 駿河屋の男どもは家に押し入ったが、八右衛門は留守である。ほかに人は誰もいないのをいいことに存分に捜したけれども、狐は見つからない。しまいには家をぼこぼこに打ち壊して、くまなく捜した。それでも見つからない。ついに諦めて帰っていった。 八右衛門がわが家へ戻ってみると、さんざん破壊されて見るかげもない。 これはどうしたことだと驚いて、茫然と立ち尽くしているところへ、狐が隠れ場所から這い出てきて、泣きながら顛末を語った。 「いやはや、大変な災難だな。どうしたものか。ところで、おまえが掴んできた銀はどうした。」 「それならこのとおり、しっかり持ってるよ。」 そう言って差し出すのを見れば、狐の小さい手だから、わずか小玉三つ、三匁五分の銀を握りしめていたのだった。そのかわりに家を潰されてしまったわけだが、狐が恩返しのつもりでしたことだから叱るわけにもいかず、わずかの銀を命がけで取ってきたのかと思うと、むしろほほ笑ましくもあった。 その夜は、八右衛門は知り合いのところへ行って泊めてもらった。 明くる日帰ってきたら、家は壊される前と同じ姿で建っていた。不思議に思って中に入ってみるに、何もかも以前と変わりがなかった。 それからというもの八右衛門には幸運が続いて、暮らし向きも豊かになったという。 後に聞けば、その夜のうちに狐の仲間が大勢来て、家を元どおりに修繕したのだそうだ。
塩間の稲荷

 

伊勢の国、二見浦の近くの塩間という浦に、塩や海草を商って常に京都へ行き来している男がいた。 あるとき、京都の稲荷の前で休憩していると、年取った狐が一匹現れて、大鳥居をあっちからこっち、こっちからあっちと飛び越えてみせる。 おもしろく思って熱心に見ていると、 「あんたも越えてみろよ」 と狐が言った。 「いや、わしにはとてもできない」 と応えると、 「それでは教えてやろう」 と、男の着ている羽織を脱がせ、縄を長くつけて鳥居のうえに投げかけて、あっちへこっちへと引っぱる。すると男は、自分が飛び越えているようで、すっかりいい気持ちになった。 さて、伊勢に帰り、 「今帰ったよ」 とわが家の戸を叩いたところ、顔を見るなり妻子は戸をかたく閉ざした。 「さても恐ろしい古狐じゃ。けっして中に入れるな」 と、おびえ騒いでいるので、 「違う違う、わしは亭主だ。親だ」 と言うのだが、聞き入れてくれる様子はなかった。 そのときふと思い出したのは、京都の稲荷の前でのこと。男はさめざめと泣いて、 「ああ、わしは生きながら畜生道に堕ちたのか」 しかたなくわが家の前を立ち去り、海辺で藻草や小魚などを拾い食って命をつないだ。 その後、人に憑いてその口を借り、 「わしは子も大勢いる身なのに、この姿になって棲み処もなく、つらい思いをしている。相応のすまいを定めてくれよ」 と頼んだ。 土地の者たちは、長年なじみの男のことだから、ひとしお憐れに思って、小さい祠をたて、塩間の稲荷として祭った。
源五郎狐、小女郎狐

 

延宝のころ、大和の国の宇多に源五郎狐という狐がいた。 百姓の家に雇われて農作業をすると、二人分か三人分の働きをする。それで重宝に思われて、いろいろな家に手助けに呼ばれた。 どこからやって来て、どこへ帰っていくのか、だれも知らなかった。 あるとき、関東のほうに飛脚に頼まれ、片道十日以上かかるところを、往復七八日で帰ってきた。以来たびたび飛脚として往来しているうち、小夜中山で犬に襲われて死んだ。 首にかけた文箱の宛先から、大和に知らせが行って、この源五郎狐の遭難がわかったのだという。 また同じころ、伊賀の国、上野の広禅寺という曹洞宗の寺に、小女郎狐というものがいた。源五郎狐の妻だと、だれ言うとなく噂した。 十二三歳くらいの少女の姿をしていて、寺の庫裏で雑用を手伝い、時には野菜を求めに門前に現れた。 町の者は、少女が小女郎狐であることを以前から知っていた。日中、豆腐などを買って帰るところに子供らが集まって、 「こじょろ、こじょろ」 とはやしたてても、振り返ってにこっと笑い、あえて取りあわなかった。 このようにして四五年を過ごし、その後行方知れずになった。
狐赤子を喰う

 

金沢城下折違町の養雲山放生寺三世、卓藝和尚は、世に聞こえた修行者である。 あるとき寺の門前に捨子があったが、見つけたときは既に、狐に喰われて死んでいた。 和尚は立腹して、墓地脇の築山の穴で狐の子が育っていたのを、 「おのれ、思い知れ」 と、穴に水をくみ入れて、ことごとく殺してしまった。 その夜、狐の子の死体が三つ、庫裏の土間に並べて置かれていた。 「この子たちをご覧なされ。酷いことをなされたな」 そう言わんばかりだったよと、後に和尚は語った。 有磯拾貝いわく。 「赤子は狐の大好物である。流産した胎児を餌に罠を仕掛ければ、狐が獲れないということは絶対にない。これは猟師の秘術だそうだ。 産屋には必ず狐が目をつけているので、蟇目(ひきめ)などを用いて除けるのである。産まれてすぐ子が死ぬと、狐はそれを埋めるところまで付いてくる。また、狐つきというのは、産まれたときに、産屋で狐が思い入れた人だ」
頭を剃られる

 

諸国の女の髪を切り、家々の土鍋を割ってまわるなど、人々を大いに困らせたことで知られるのは、大和の源九郎狐である。 その源九郎狐の姉にあたる狐が、長年、播磨の姫路に棲んでいた。見たところ人間そのものの姿をしていて、八百八匹の一族郎党を従え、世の人の心を読み取って化かしなぶることなど自由自在であった。 姫路の本町通りに、米屋を営んでいる門兵衛という人がいた。 ある日、門兵衛が里外れの山かげを行くとき、白い子狐が集まっているのを見かけた。何気なく小石を投げつけたら、偶然一匹に当たり、しかも当たりどころが悪く、あっけなく死んでしまった。 可哀想なことをしたとは思ったが、今更どうしようもないので、そのまま家に帰った。 その夜、門兵衛の屋敷の屋根で何百人もの女の声がして、 「野遊びなさっていた姫様の命を、わけもなく奪った憎いやつ。そのままにはして置かぬ」 と罵るとともに、雨あられと石を投げつけてきた。 白壁や窓蓋まで打ち毀されたが、あとに石は一つも残っていなかった。家の者たちは、ただ驚くばかりである。 翌日の昼前、旅の僧が門兵衛の店に来て、 「お茶を一杯いただきたい」 と言うので、下女に言いつけて出してやった。 そこへまもなく、取り締まりの同心とおぼしい大男が二三十人も、どっと乱入した。 「お尋ね者の坊主を、なにゆえ匿ったのか」 大変な剣幕で、弁明も何も聞き入れず、亭主と内儀を取り押さえ、むりやり頭を剃り上げた。 その後、同心も旅の僧も、尾のある狐の姿を現して逃げ去った。まったく為すすべなく化かされたものである。 このとき、門兵衛の子息門右衛門の嫁は、夫が北国に行って留守だったので、里帰りしていた。 ところが嫁の実家に、突然、門右衛門が四人の男を伴って現れた。やにわに女房を引き据えて、 「わしが旅に出たのをよいことに、密夫をこしらえたな。何もかも知れているぞ。命だけは許してやるが……」 言いも終わらぬうちに、嫁は頭を剃られてしまった。 「まったく身に覚えがありません」 嫁はわが身の潔白を訴え、長年の夫婦の仲をかきくどいて泣いた。 「おのれ、ならば証拠を見せてやる。来い」 門右衛門らは女を引き立て、はるか山中まで連れて行った。そこで五人が立ち並び、 「われこそは二階堂の煤助」 「鳥居越の中三郎」 「かくれ笠の金丸」 「にわとり喰いの闇太郎」 「野荒らしの鼻長」 一人ひとりが名乗りを上げた後、 「姫路城の主おさかべ殿の四天王、ひとり武者とは、われらのことだ」 こう言って狐の正体を現し、逃げ失せた。 嫁は門兵衛方に行くと、頭を剃られたいきさつを語って嘆いたが、もはや仕方のないことだった。 その翌日の正午ごろ、大きな葬礼があった。 導師の長老が葬列の先頭に立ち、幡・天蓋をさしかけ、棺を載せた輿は豪華に光り輝いた。孫に位牌を持たせ、白無垢を着た親類一門が涙で袖を濡らし、町の衆は袴・肩衣姿で野辺送りする様子であった。 門兵衛の親里は五六里離れたところにあったが、急ぎ人を遣って、 「門兵衛殿は昨夜、頓死なさいました。さぞやお嘆きになると思い、少しでも遅くお知らせする次第です。すぐに墓へお越しください」 父親が駆けつけると、亡骸は火葬された。 門兵衛があわれ煙となったあとには、親類ばかりが残って、父親に向かい、 「いやはや、浮世は夢のごとく儚いものですな。若い者に先立たれ、もう先の望みもないでしょう。いっそここで法体になられてはどうですか」 と勧め、有無を言わさず頭を剃っってしまった。 父親が姫路の店に行ってみると、門兵衛は生きていて、内儀ともども丸坊主だ。 事情を聞いて悔しがったが、髪は急に生えるものではなく、互いに奇妙な顔を見合わせるばかりだった。
狐をつかう術

 

唐の王義方という者が、魏州に赴いて、その地の郭無為という人に、狐をつかう術を学んだ。 王義方が試しに術をつかうと、狐が大勢やってきたが、まったく彼に従わなかった。 それどころか、皆で王義方を嬲りものにした。 瓦を投げ、甕を飛ばして、王義方にぶつけた。彼が本を開くと、すぐにやって来て引き裂いた。 ある時は空中に声を発して、 「おまえの術で、俺たちがつかわれると思うのか。たわけめ」 と嘲笑した。 ほどなく王義方は、狐の迫害にめげて死んだ。 郭無為がでたらめを教えたのだろうか。それとも、王義方の術が未熟だったのか。
馬に乗る狐

 

仁和寺の東に高陽川という川がある。夕暮れになると、その川のほとりに年若いきれいな娘が立って、馬に乗って京都に向かう人がいると、 「その馬の尻に乗せてよ。わたしも京の方に行きたいから」 と頼む。 馬に乗った人が、 「いいとも」 と乗せてやると、五百メートルばかりも乗っていくのだが、急に飛び降りて逃げていく。追いかけると狐の姿になって、コンコンと鳴きながら逃げ去ってしまう。 こうしたことが幾度もあったと評判になり、ある時、御所の滝口の武士たちもその噂話をしていた。 一人の若い武士で、勇敢で思慮も備えた者が言うことには、 「おれだったら、きっとその小娘を搦め捕ってみせる。今まで騙されたやつが間抜けなんだ」 これを聞いたほかの血気盛んな武士が口々に、 「いやいや、おまえにも無理だよ」 と否定すると、 「では明日の夜に捕まえて、ここに連れてきてみせよう」 と断言し、「捕まえられはしない」と言う者たちと激しい口論になった。 翌日の夜、若い武士はただ独り駿馬にまたがって高陽川に行き、川を渡ったが、小娘の姿はなかった。 それで京都の方へ引き返していくと、そこに娘が立っていた。武士が通り過ぎるのを見て、 「お馬のうしろに乗せてちょうだい」 と、人なつこく微笑んで言う様子が、なんとも可愛らしい。 「早く乗るがよい。おまえは、どこへ行くのかね」 「京まで行くんだけど、日も暮れてきたし、お馬に乗せてもらって行きたいと思うの」 娘が乗るやいなや、武士は用意してきた縄で娘の腰を縛り、馬の鞍にしっかりと結びつけた。 「ひどい。どうしてこんなことするの」 「今宵はおまえを抱いて寝るつもりだ。逃げられたら元も子もないからな」 こうして娘を乗せていくうち、すっかり暗くなった。 一条大路を東に進み、西の大宮を過ぎたところで、向こうからたくさんの火をともし車を何台も連ねた行列が、大声で先払いをしながらやって来るのが見えた。「誰か高貴な方の行列だろう」と思ったので、そこから引き返して大きく回り道をして土御門(つちみかど)まで行った。従者に「土御門で待て」と命じてあったのである。 「従者ども、いるか」 と声をかけると、 「皆、そろっております」 と、十人ばかりが出てきた。 そこで娘の縄を解いて馬から引き下ろし、腕を掴んで門から入ると、滝口の詰所まで連れて行った。 詰所では皆が居並んで待っていた。 「おう、首尾はどうだった」 「このとおり。捕らえてきたぞ」 小娘が、 「もう許してください。ああ、怖い人が大勢いるわ」 と泣いてわびるのを許さず連れ込むと、皆出てきて周りを取り囲み、火を明々とともした。 「この中に放せ」 「逃げるかもしれぬ。放すわけにはいかない」 しかし皆は弓に矢をつがえ、 「いいから放してみろ。おもしろいぞ。逃げようとしたら腰を射てやろう。これだけの人数だから、射外すことはない」 「それでは」と掴んだ腕を放したところ、娘はたちまち狐になって、コンコンと鳴きながら逃げだした。居並んでいた者たちはかき消え、火も消えて真っ暗闇になった。 武士は慌てふためいて従者を呼んだが、一人もいない。闇をすかして見渡すと、どことも知れぬ野中であった。肝も心も震えあがって恐ろしさ限りなく、まさに生きた心地もない。 しかしながら強いて心を落ち着けて、しばらく見回しているうちに、山の形やあたりの様子から、死者を葬る鳥辺野の中にいるとわかった。 「土御門で馬から下りたはず……」と思い出した。むろんその馬もいない。「西の大宮から回り道したつもりが、こんなところに来ている。そうか、一条大路で火をともした行列に行き会ったのも、狐に化かされていたのだな」 いつまでもそうしてはいられない。とぼとぼ歩いて夜半にようやく家に帰り着いたが、次の日はことさら気分が悪く、死んだようになって寝込んでしまった。 仲間の滝口の武士たちは前夜ずっと待っていたが、とうとう若い武士がやって来なかったので、 「あいつ、「高陽川の狐を捕まえる」と大口叩いたのに、どうしたのかねえ」 などと笑い合い、使いを遣って呼び出した。 三日目の夕方、大病を患った者のようにやつれ果てて、若い武士が滝口の詰所に姿を現した。 「あの晩は、狐を捕らえるんじゃなかったのか。どうなった」 「いや、耐え難い病気が急に起こって、行くことができなかった。今夜こそ行ってみようと思う」 「そうか、そうか。じゃあ今夜は二匹捕らえてくるんだな」 仲間に冷やかされながら、若い武士は言葉少なだった。 「この前のことがあるから、またあの狐が出てくることはないだろうなあ。もし出てきたら一晩中でも縛りつけて、今度こそ逃がしはしないんだが……。やっぱり出てこなかったら、……そのときはもう詰所に顔を出さず、永久に家に籠もるしかあるまい」などと思いながら、出かけていった。 この夜は、屈強な従者を多数引き連れて馬に乗っている。「益もない意地を張って、身を滅ぼそうとしているのかも」と思いつつ、自ら言い出したことゆえに、こうして高陽川まで行ったのだった。 川を渡ったが、小娘の姿はなかった。で、引き返すと、川の畔に娘が立っていた。この前の娘とは顔がちがっていた。しかし前と同様、 「馬のうしろに乗せてよ」 と言うので、乗せてやった。 縄で娘をきつく縛り、一条大路を帰っていった。すっかり暗くなったので、多数いる従者のある者には火を持って前を行かせ、ある者は馬の横につかせて、高らかに先払しつつ粛々と進んでいったところ、このたびは途中で誰にも行き会わなかった。 土御門で馬を下り、泣いて嫌がる小娘の髪を掴んで滝口の詰所まで引きずっていった。滝口の者どもが、 「どうした、どうした」 と言うのに対し、 「そら、こいつだ」 と娘を示しながらも、強く縛ったまま押さえつけておいた。 それでもしばらくは人の姿でいたが、ひどく責めつけると、ついに狐の正体を現した。 そこでたいまつの火を何度も押しつけて毛もなくなるほど焼き、矢で何度も射たりしてから、 「おのれ、二度と人を化かすようなまねはするな」 と言って、殺さずに放してやった。狐は歩くこともできないほどであったが、やっとのことで這う這う逃げていった。 そのあと若い武士は皆に、先の夜に狐に化かされて鳥辺野まで行ったことを語ったのであった。 その後十日ほどたって、若い武士は「もう一度やってみよう」と思い、馬に乗って高陽川に行った。 そこには前の小娘が、重病人のような様子で立っていた。 「馬のうしろに乗らないか」 と声をかけると、 「乗りたいけど、乗らない。焼かれるのがつらいの」 と応えて消え失せた。 人を化かそうとしたために随分ひどい目にあった狐の話で、最近の出来事らしい。 思うに、狐が人に化けるのは昔からよくあることだが、この狐は化かし方がいかにも巧みで、武士を鳥辺野まで連れて行ったのだ。それがどうして、二度目のときには車の行列も出さず、道を変えさせることもしなかったのだろう。 狐の化かしようは、人の気構え次第で違ってくるのではないか。そう人々は思ったと語り伝えている。
青山狐

 

新潟の砂丘地帯の青山というところに、人に妖をなすことで知られる老狐がいた。 赤沙日村の村長で藤次右衛門という者が、ある年の夏の末、公用で新潟へ出かけた帰り、砂丘の道をたどって、その青山あたりに至った。 昼過ぎの暑さが堪えがたく、ちょっとした木陰で休息し、草むらに向かって用を足したが、間の悪いことに、そこには狐が臥していた。 驚いて走り出た狐が、すっくと二本足で立って振り向いたから、藤次右衛門は大いに驚いた。「しまった。悪名高い青山狐に、とんでもないことをしてしまった」とうろたえて、狐に懸命に謝った。 「のう、狐どの、おまえさまが昼寝なされているのも知らず、うっかり小便をかけて驚かせもうした。さぞやお腹立ちであろうが、こちらも少しも気づかずにしてしまったことで、どうか恨まないでくだされ。どうか決して我を化かしたりなさらぬよう願います。」 狐はすたすた歩いていく。その背に向かって繰り返し繰り返し詫びながらついて行くと、狐はふと振り返り、それから道の傍らの石地蔵の陰に隠れた。 やがて地蔵を背負い、草の葉を掴んで立ち上がったと見えたが、たちどころに、子供を負ぶった女が風呂敷包みを下げている姿に化けていたから、藤次右衛門はいちだんと狼狽した。 「これはまた狐どの、お手並みのほどは驚き入りましたが、先刻よりお詫びもうしますように、重々反省しておりますので、どうか我を迷わすことは、お許し願います。」 すると女は後ろを見返って、 「このお人は、なにをおっしゃるやら。わたしはこの先の村から新潟へ嫁に行った者で、いま親里へ参るところですよ。あんまり変なことを言わないでくださいな。」 などと笑い、子供の泣くのを揺すってあやしながら、先に立って歩いていく。 藤次右衛門はいよいよ気味悪く思い、なおもいろいろ詫び言したが、もはや女は返事もせず、足早に道を行くうちに、いつの間にか日が暮れかかり、とある村の入り口に至った。 女は一軒の家の前に立ち止まると、 「ここがわたしの実家です。これにてお別れいたしましょう。日も暮れますから、早くお帰りなさいまし。」 と言い捨てて、さっさと中へ入ってしまった。 家の内から、人声が賑やかに聞こえてきた。 「おお娘よ、今帰ったか。待ちかねたぞ。」 「このあいだから、今日帰るか、今もどるかと、首を長くしておった。」 「さて、孫は大きくなったか。」 口々に笑い語る様子は、間違いなく里帰りした娘を迎える親兄弟のものだ。 藤次右衛門が思うに、「不思議だなあ。あの狐は我をこそ迷わすべきなのに、何の関係もない人たちを化かすなんて。しかしいずれにせよ、この家の主人に知らせねばなるまい」。そこで門口にたたずみ、中の様子をうかがっていると、年のころ五十ばかりの主人らしき男が、何かの用事をしに出てきた。 そこで主人を手招きして傍らに誘い、 「さっき家へ入った女は、人間ではありませんぞ。じつは今日、しかじかのことがあって、青山狐が石地蔵を背負って女に化けたのです。きっと油断なさいますな。」 と告げると、相手ははなはだ心外そうに、 「どこのどなたか知らないが、けしからんことをおっしゃる。あの女は当家の娘で、去年新潟へ縁付き、この春孫もできたので、「一度連れてきて、顔を見せておくれ」と折々言伝して、ようやく今日やって来たのです。どうして狐なものですか。」 それでも藤次右衛門は、 「いえ、そうではありません。あの狐が化けたのをまのあたりに見て、ずっと後をついてきたのだから、間違いない。娘御のためのせっかくのご馳走を、狐に食われてしまいますぞ。」 と熱心に言いつのったところ、ついに主人も、 「なるほど、そうまでおっしゃるなら疑いない。」 と納得した。 主人は息子たちを呼んで、ひそかに申し合わせ、中に入って火をさかんに焚きたててから、ものも言わず女の両手両足を捕らえると、猛火の上で尻をあぶった。 女は大声で泣き叫び、母親と祖母とは、 「何をする。何ごとじゃ。」 と嘆き騒いだが、男どもはまったく聞き入れず、 「今に尻尾を出させてみせよう。」 などとしきりにあぶるうち、とうとう女は悶死した。 ところが女は、死骸になっても、いっこうに尻尾を出さなかった。 「これはどうしたことだ。あの曲者め、騙したな。許さぬ。」 一同は門口で見ていた藤次右衛門を捕らえ、高手小手に縛り上げた。 村役人へ届け、そこから領主へ訴え出て、諸役人が吟味したところ、罪状明白であったため、川原へ引き出されて首をスパッと刎ねられた。 「とほほ、あっけなく死んだものだなあ」。藤次右衛門は、夢ともなくうつつともなく、果てしない砂原が暗く広がるところをさまよった。「ここはどこだろう。ああそうだ、冥土の旅路というやつだな。とすると、なんとかして極楽へ行く道を探しあてなくては」。 足にまかせてむやみに歩いていくと、次第に薄明るくなって、遠くから鐘の音が聞こえてくる。「おお、極楽は近いぞ。急げ急げ」。 鐘を頼りにたどり着いたところは、細い川に橋がかかって、その向こうに大寺院。堂上から流れくる読経の声に、門前に群集した参詣の老若男女が涙して、その感動的なことは言葉にならない。 傍らに池があって、紅白の蓮の花が咲き誇っていた。「わが乗るべき蓮の台(うてな)はどれかな。どれでもいいや、乗ってみよう」。池へざぶざぶと踏み入り、ひとつの蓮に足をかけたが、茎がぽきっと折れてしまった。それではと、別の花に足をかけた。やっぱり折れて、池水へざんぶと倒れ込んだ。 これを見た参詣の人々が、それ狂人だ、狂気の沙汰だと騒ぐので、寺から大勢駆けて来て、藤次右衛門を池から引き上げた。 「さて、そのほうは何者か。」 と問われ、 「はい、私、娑婆にあっては、赤沙日村の庄屋で、藤次右衛門ともうす者で……」 と震えながら答えたところ、人々はみな大笑いした。 「さては狐に化かされたね。」 と言われて、やっと正気に戻って見れば、そこは新潟の寺町だった。
狐龍三年

 

中国、唐の都長安にほど近い驪山(りざん)のふもとに、かつて一匹の白狐が棲み、たびたび妖術を用いて周辺の村を悩ましたが、長年、人々はどうするすべもなかった。 唐の世の末、乾符年間のあるとき、狐は山の温泉につかってのんびりしていた。 すると、にわかに雲がおこり、霧がたちこめ、風が吹き荒れるなか、狐はたちまち白龍と化して、天に昇った。 その後は、白龍が時おり、驪山の辺りへ飛来することがあった。 龍が昇天して三年たとうとするころ、一人の老人が毎晩来て、山を仰いで泣き悲しんだ。 人々が不思議がって、わけを問うと、 「狐龍の運命を泣いているのです」と言う。 「あの龍になった狐のことか。どうしてあいつのことを泣くのか」とさらに問うと、 「狐が化した龍は、三年で死ぬのです。わたしは狐龍の子です。だから泣いています」と。 「そうなのか。だが、そもそもどうして狐が龍になったのかね」 「わが父は、西方より来る活力を源として生まれた特別な狐でした。全身あくまで白く、他の狐を遠ざけて驪山のふもとに千年棲みましたが、たまたま出逢った女の龍に惹かれて雌雄の交わりをなしたのを、天帝が知って、狐から龍に化さしめたのです。これは、人が道術を鍛錬した末に仙人となるのと同じです」 老人はこう言うと、あとかたなく消え失せた。 
 
妖怪・怪異・異界

 

日本人は昔から多くの妖怪(ようかい)や怪異現象に関する伝承を伝えてきた。人々はキツネやタヌキといった動物に神秘的な力を見出し、身辺に起こる「不思議」を理解しようとしたり、想像力を駆使し、鬼や天狗(てんぐ)、河童(かっぱ)のような存在の仕業として説明しようとしてきた。民衆に伝えられていた怪異・妖怪についての報告・記述を、民俗学系の雑誌や江戸の随筆から拾い出しました。 
ツチノコ 
蛇にしては胴が太く、柄の無い槌(つち)のような姿だというツチノコ(槌の子)。地域によってはノヅチ(野槌)、尺八蛇などと言い、横になって斜面を転がるという話から、タンコロ、ドデンコとも称されている。生け捕りに賞金がかけられるなど、近年でもメディアで話題になるが、民俗学では、昭和40年代に、坂井久光が雑誌「あしなか」で4度の報告をしている。坂井は、生態学者の今西錦司らと、目撃情報のあった各地へ足を運んだが、お目にかかることは出来なかったようだ。今西は蛇が獲物を飲み込んで膨れた状態と理解したが、岐阜県金山町では交尾期の蛇が絡まり合ったものだという。また全く架空の生物とする向きもある。 
豆が降る 
空から降ってくるのは雨や雪だけでなく、時には雹(ひょう)や花粉も降ってくるが、御札や豆までとなると、気象庁も困ってしまう。ところが江戸時代に、これらが実際に降ったらしい。伊勢神宮の御札が舞い、民衆が熱狂的に「ええじゃないか」と叫び踊ったという話は有名である。御札は有り難いが、豆だと困ったことになる。菅茶山の「筆のすさび」によれば、豆が降った翌年は必ず飢饉(ききん)になるという。「天地の気」が異物を孕(はら)んでおかしくなったからで、それが凶作をもたらすという訳だ。いわば天からの警告である。炒(い)り豆のような石が合戦の時に降ったという伝説もある。炒り豆は節分などで鬼を打つものだが、天から見れば、地上で戦争を行っている人間たちこそ、追い払うべき鬼なのかもしれない。 
幻影電車 
線路わきを歩いていると、不幸な事故の犠牲になった動物をみかけることがある。人間と動物の生活領域が重なったとき、譲歩を迫られるのは動物の側だ。動物たちは、自分勝手な人間たちをどう思っているのだろうか。明治43年、開通して間もない鉄道で、運転手たちは奇妙な出来事に遭遇するようになった。雨の夜、同じ線路上を猛スピードで向かってくる電車があり、あわててブレーキをかけるが、降りてみると影も形も無い。あるとき、一人の運転手がかまわず突進したところ、電車は消え去ったが、翌朝、線路沿いに一匹の大きな狸(たぬき)が死んでいるのが発見された。幻の電車を生んだのは鉄道の開通で住処(すみか)を奪われた狸の恨みなのだろうか。それとも当時の人々が動物たちに対して抱いていた罪の意識なのだろうか。 
ハユタラス 
砂浜を歩いていると色々な漂着物に出会う。特にそれが意外なモノほど私達の想像は大いに膨れあがる。一体どこから流れ着いたのだろうか、と。江戸時代の有名な政治家・新井白石の「采覧異言」によれば、東北地方南部の海岸には、しばしば大変長い人骨が漂着したらしい。白石はその骨を、日本の東にある国・巴太温(ハユタラス)人のものだという。骨の長さからみて彼等は身長が高く、日本神話に登場する長髄彦(ナガスネヒコ)はこの地の出身だとか。他の書物にも「大身」という国が登場し、どうやら日本の東の海上には、巨人が住むと考えられていたようだ。日本は常に西側の海へと関心を向けてきた。逆に東側も間近に陸地があるはずと考えたのか。近世の知識人にとって、太平洋は見知らぬ異界だったのかもしれない。 
ヒルマボウズ 
大相撲夏場所がまもなく始まるが、相撲が大好きなのは人間だけではない。スモトリ坊主やヒルマボウズなど、相撲好きで知られる妖怪もいる。ヒルマボウズは、小坊主の姿をしており、人間を相手に、相撲をとろうと誘う。「昼間」坊主という名前にも拘(かか)わらず、出現するのは月夜の晩だけである。道を通る人に声をかけ、相撲の相手を申し込むのだ。スモトリ坊主もヒルマボウズと同じように道行く人を相手に相撲をとる。しかしこちらは格好が違う。「相撲取り」坊主という名前でありながら子供の姿となって現れる。子供だからといって気を抜くと、大変な目にあうという。相撲が好きだからこそ、相手を求めて出没する妖怪(ようかい)たち。妖怪と人間の一番は、どちらに軍配が上がるのだろうか。 
運命の神様 
運命とは全く不思議なものだ。それは神様が決めるものとも言われるが、人間が変えることはできないのだろうか。新潟県長岡市にこんな話が伝わる。昔、ある男が川辺で朝寝をしていると「今日生まれた娘は18歳の嫁入り道中、大雨が降ってきて崩れた岩の下敷きになって死ぬ」という声が聞こえてきた。そっと覗(のぞ)くと神様たちが話し合いをしている。自分の娘のことだと直感した男は嫁入りの際に蓑(みの)と笠(かさ)を持たせ、雨が降っても岩の下で雨宿りさせなかったので娘の命は助かった。一方で、神様が定めた運の大きさどおりの人生になる話(秋田県角館地方)や、用心しても運命を変えられない話(新潟県吉田町)もある。ある日、神様たちの話し声が聞こえてきたとしたら、あなたはどうしますか? 
子豚の怪 
豚は私たちにとって最も親しみのある動物の一つだが、実際は食卓でしかお目にかからないという人も多い。生きた豚に出会うのは意外に難しいのだ。養豚が盛んな奄美大島や沖縄には、豚にまつわる怪異が豊富にある。例えば、夜中に外を歩いていると、突然森から子豚が飛び出してくる話がある。その子豚に股の間をくぐられたら命が奪われてしまうというのだ。また、川でエビをとっていると、子豚が流れてきた話もある。つかまえようと網をかけると、子豚は幾千もの小さな子豚に分かれ、網目から飛び出して追いかけてきた。あわてて豚小屋に逃げ込み、大きな豚のかげに隠れて難を逃れたという。最近、ペットとして豚を飼う人が増えている。そのうち日本各地で、こうした不思議な話が聞かれるようになるかもしれない。 
キジムナー 
沖縄地方で有名な妖怪の一つにキジムナーがいる。顔は赤く、髪は縮れ、背丈は子供くらいで、ガジュマルなどの古木を棲家(すみか)にする、と一般に言われている。仲良くなると、魚を取ってきてくれるなど、いろいろ助けてくれるが、怒らせたために体を引き裂かれて死んだ人がいたという恐ろしい話もある。面白いのが、キジムナーの足跡を見るという子供たちの遊びである。薄暗くて静かなところに円を描いて小麦粉をまき、線香に火をつけて中心に立てる。呪文を唱えて一斉に隠れ、20数えて戻ると、キジムナーの姿はもうないが、小麦粉には足跡が残されているのだという(「豊高郷土史」)。豊見城市では腐れ縁の友達を「キジムナードウシ」という。キジムナーはそれだけ身近にいる妖怪だということだろう。 
貧乏神 
神々の中でも特別に有名なのだが、人気がないのが貧乏神だ。貧乏神が憑(つ)くと、何事もうまくいかないので、昔から人々は貧乏神を寄せ付けない方法を考えてきた。「食事中に膝(ひざ)をゆすらない」「大晦日(おおみそか)に酢の物を食べる」等がある。江戸時代の著名な国学者・橘守部の「待問雑記」によると、たとえ人の出入りが少ない日でも、部屋に一度は風を通して掃除をし、使わない部屋は閉め切っておく。そうすると貧乏神は、家の中に入って来ることが出来ないという。この話を意識して部屋を掃除したら、隅々までクッキリ見える気がした。掃除をしない心の隅に貧乏神は棲(す)んでいる。病は気から、とはよく言うが「不幸も気から」なのだろう。そう気付かせてくれた貧乏神はやはり神様だ。 
足下の異界 
町を歩くと、空地だった所にビルが建っていて驚くことがある。そんな土地の下に亡霊が眠っていて、自己主張を始めたとしたらどうなるだろうか。城戸千楯の「紙魚室雑記」によると、ある庄屋が荒神(こうじん)松という塚を畑にしようとした。すると息子の夢に「私の住みかがなくなってしまう」という恨めしげな声が聞こえた。また隣家から金銀を持った人を殺して塚に埋めたと責められた。濡れ衣を晴らそうとして塚を掘り返したが、古い棺(ひつぎ)や骸骨(がいこつ)が出てきてしまったという。その骸骨は石川年足という高貴の人だと分かったため、石碑が建てられた。結局、塚は畑にはされず、亡霊の主張が通った訳だ。土地がみだりに開発される今日にも、誰かの夢に地底からの恨みの声が聞こえているのかもしれない。 
ろくろ首 
ろくろ首といえば怪談話でもおなじみの妖怪であるが、元来は東南アジアの妖怪であったらしい。江戸時代に書かれたろくろ首の考証をみると、ルーツの一つとして、飛頭蛮(ひとうばん)という妖怪が紹介されている。飛頭蛮は、うなじに赤い筋があることをのぞくと普通の人間と変わらないが、夜寝ていると首だけが体から離れ、耳を翼のように使って飛ぶ妖怪だという。飛頭蛮がどのような経緯で首が伸びるとされたのかは明らかでないが、両者とも本人は寝ているために自覚が無いという点で共通しており、これを「魂が抜けているため」であるとし、離魂病と説明する向きもある。いずれにせよ、ろくろ首は人気のあった妖怪で小咄(こばなし)にも登場。曰(いわ)く、ろくろ首はおからを食べるのが大変だ。 
船幽霊・幽霊船 
語順を変えただけだが、怪異現象は全く異なる。船幽霊は海の上で出会うと「柄杓(ひしゃく)を貸せ」といってくる。柄杓を貸すと水を注がれて船が沈んでしまうので底の抜けた柄杓を渡さなければならない。それに対して幽霊船は、汽笛を鳴らさなかったり、風向きと逆に進んだりする船である。また赤と青の左右の船灯が逆だったり、向かって来て衝突するかと思うと消えたりしたため幽霊船とわかった、といったものもある。船幽霊は古風な妖怪だが、幽霊船は近代的な船(おそらく沈没船)の姿で現れる。船幽霊は怖さの中にも愛嬌(あいきょう)がある。一方幽霊船にはどこか現実的な怖さを感じる。海上交通の近代化につれ「船幽霊」は「幽霊船」に取って代わられたのだろう。怪異のリアリティも時代と共にある。 
トイレの花子さん 
現代の不思議な話といえばトイレの花子さんが有名だ。しかしその話には実は様々なバリエーションがあることは、あまり知られていない。学校の3階の3番目のトイレのドアを3回ノックして「花子さん遊びましょ」と呼びかけると返事があるという話(栃木)は典型的だが、山形では体長3bのトカゲ姿で頭が3つあり人を食べるという。3回水を流すと便器から手が出るという話もある(神奈川)。こうした様々なうわさ話の創出や派生はいったい何を意味するのだろうか?科学の進歩で怪異は無くなると言われたが、今なお報告は減らない。そこに小松和彦や常光徹は日本文化の特質を見る。 
鳴動 
鳴動とは様々な場所や物体が、自然に鳴り動く現象をいう。日本の古代・中世社会では、国家に関わる非常に不吉な出来事とされていた。ただし近世に下ると鳴動は国家との関連性を薄める。聖地を汚した人間に対して山の神や鬼または天狗(てんぐ)などが、懲罰の意味で山川や家屋等に鳴動を起している事例がある。また、捨てられた老婆が石になり、度々夜泣きして鳴動したという伝承もある。高僧がお経をあげると割れて血を吹いたという。鳴動は日本社会に営々と語り継がれた、代表的な怪異現象といえよう。ある携帯電話の説明書を見たら「着信時に鳴動させる」という記述があった。指一本であらゆる情報を入手できるケイタイは、ある種怪異的だ。そこに鳴動という言葉が使われたのは偶然だろうか。 
雷獣 
「地震・雷・火事・親父(おやじ)」とは日本人が恐怖した代表であった。とりわけ雷はその音や稲妻のせん光で恐れられてきた。岐阜県のとある学校に若くて可愛らしい女の先生がいたが、先生の片ほおには大きな傷跡があった。それは先生が幼いころ、家に落雷があったときに天から雷獣が落ちて来て大暴れして、たまたま近くにいた先生が顔を引っかかれてしまったのだという。雷獣は天の在であるが、雷鳴に驚いて空から落ちることもあるらしい。パニックに陥った雷獣は、天に帰ろうと慌てて木を登る時に暴れるのだ。名前は勇ましいけれど、実は怖がりで小心者である。雷獣を見たという報告は各地にあるが、姿は水かきのある狼(おおかみ)、狸(たぬき)、あるいは猫に似ているという。風ぼうもなかなかユニークではないか。 
鬼子母神 
いつの世も突然愛する我が子を奪われた母の嘆きと悲しみははかり知れない。子供の守り神として愛知の乙方村では十羅刹女様(おじゅらつさま)をまつっていた。村で子供が続いて亡くなった時、一戸で団子千粒ずつを供えて祈願したところたくさんの子供が生まれて元気に育ったという。当地ではこの神の前身は鬼子母神と言われている。鬼子母神は人の子をさらって食べるので、釈尊に自らの子を隠され「己の悲しみを以(も)って人の悲しみを知るがよい」といさめられ、子供守護の神となった。釈尊なき現代でも、子育てで悩んでいたところ、鬼子母神が毎夜夢に現れて教えを授けてくれたので救われたという不思議な体験談がある(秋田県能代市)。世界中の受難の子たちにも加護のあらんことを祈りたい。 
蛍 
青白く淡い光を放ちながら夜空を乱舞する蛍。一時は数が減少し、その姿を目にする機会も少なくなっていた。しかし水質改善の意識の高まりとともに、その生息場所や数もずいぶん増えてきたのではないだろうか。この可憐(かれん)な夏の風物詩はまた、死者の魂であるともいう。三方ケ原の合戦で討ち死にした徳川と武田の軍勢の武士たち、滅亡した明智光秀の一族、宇治川で敗れ平等院に果てた源頼政。その最期の地では、蛍を無念のうちに死んだ彼らの魂であるとして恐れていた。夢なかばにして死んでいったものたちと、あの儚(はかな)い光。たしかに通じ合うものがあるようにも思える。その光がたとえ無念の光であったとしても、清流を取り戻せたことは彼らとともに喜ばなければならない。 
山犬 
辞書ではまず「日本産のオオカミである」とあるが、それ以下の説明を読むとただのオオカミではなさそうなものが多い。事例の多くは、山道で山犬がついてくるというものである。静岡県水窪町では、山犬は神様から地面に落ちているものすべてを食べることが許されている。ゆえに転んだときは「ワラジが解けた」といわないと食べられてしまうという。しかし山犬は人を守って送るものだともいう。高知県幡多郡では、山犬が化物から守ってくれた御礼に小豆飯の団子をあげたという話が残されている。ところで、ニホンオオカミは明治時代に絶滅したとされているが、目撃談は後をたたない。山犬の話と同様、それは人びとのオオカミに対するある種の畏怖のあらわれに違いない。 
魂の帰還 
毎年8月になるとあの戦争の記憶がよみがえってくる。遠い異国の地で亡くなった兵士たちの死は通知という形で遺族に届けられたが、中には兵士たち本人が最後の別れを告げに帰ってくることもあった。例えば次のような話がある。ある兵士の母親が真夜中に目覚めると、戦地にいるはずの息子が枕元にいた。息子の帰還を喜んだ母親が話し掛けると、彼は空腹を訴えた。そこで食事の用意をしようとしたが、息子はそれを制し「さようなら」と言った途端に消えてしまった。役場から戦死の知らせが届いたのは翌朝のことだった。兵士が最後に家族の姿を見ることを望んだのだろうか、あるいは故郷で待つ家族が兵士の魂を呼び戻したのだろうか。今年もまた様々に思いを巡らせながら、8月15日を迎える。 
お地蔵さま 
8月下旬になると、町内の子供がソワソワし始める。山と積みあげられた菓子やジュースが彼らのお目当て。関西ではよく見かける地蔵盆の風景だ。お地蔵さまの話、特に「○○地蔵」と名前がつく話は多い。例えば周囲を3度回ると笑い出す「笑い地蔵」(鳥取)、酒屋や遊郭の前に現れる「遊び地蔵」(岩手)といった面白い話がある。一方、その前で転んだら着物の袖を納めないと悪い事が起こる「袖もぎ地蔵」(兵庫)や、毎夜強盗や乱暴を働き、最後は地中に埋められた「夜ばい地蔵」(埼玉)といった怖い話もある。人間の生活に一番近い存在だからこそ、こうした表情豊かな話が生まれるのだろう。その優しいまなざしは、お菓子の箱の後ろから、子供たちの姿を見つめている。 
鯰と災害 
9月1日は防災の日。大正12(1923)年に起きた関東大震災を忘れないためこの日が選ばれたという。災害は忘れたころにやってくる。日々の備えが肝心というわけである。鯰(なまず)が災害と関わっているという話は多い。鹿島神宮の要石は、地震を起こす大鯰を押さえ込んでいるといわれている。また林笠翁の「仙台間語」によれば、鯰のない土地に鯰が生じると、水災が起こるそうだ。古来鯰がいなかった関東に鯰が現れた途端、洪水が起こったという。戊辰戦争のころに仙台湾で鯰が捕れたといううわさがあり、何か事変が起こるに違いないと騒がれたという話もある。鯰自体が災害を起こすのか、それとも人間に災害を知らせているのか。「乱肴(乱れを呼ぶ魚)」と恐れられた鯰の警告に、耳を傾ける日も必要なのかもしれない。 
ダイダラボッチ 
映画「もののけ姫」で有名になったが(作中ではデイダラボッチ)、いわゆる巨人である。その伝説はほぼ全国的に分布する。東京都北多摩郡ではダイダラボッチの荷物が落ちてできたという山があり、千葉県松戸市や埼玉県豊野村(現、大利根町)には足跡があるという。また長野県松本市ではダイダラボッチの歩いた跡から生じた窪地や沼があるという。もちろん私たちは、そのような山や沼がどのようにできるのか、知識としては知っている。しかし時に雄大な自然の造形は、偶然とは思えないほど私たちに確かな「何か」を連想させる。そんなときに巨人の姿を思い浮かべることは、現代的なエコロジー志向とは違った形で、自然とのつながりを確認し、取り戻すことにつながっているのではないだろうか。 
名月姫 
大阪府能勢町にある名月峠には「名月姫墓碑」と呼ばれる宝篋印塔(ほうきょういんとう)があり、嫁入り道中がここを通るとよくないことが起こると信じられている。無念にも嫁入りを果たせなかった姫が、行列をうらやましがるからなのだという。時の権力者、平清盛が絶世の美女といわれた名月姫を見初めたとき、姫にはすでに許婚者(いいなずけ)がいた。それでも姫を我が物にしたい清盛は、姫の家と許婚者の家を滅ぼしてまでも姫を手に入れようとした。しかし、物語は悲劇のうちに幕を閉じる。清盛を拒む姫が、許婚者と共に自害したのである。月にまつわる物語には、なぜか悲しいものが多いように思う。淡くはかなげな月の光が人に悲劇を予感させるのだろうか。 
顔が付く 
自分の顔とは長い付き合いである。しかしここに思ってもみない顔になり、困ってしまったおじいさんの話がある。おばあさんの葬式が出せないおじいさんは、何を思ったかその骸(むくろ)を家の前にぶら下げた。その骸に触れた瞬間、顔が離れ、おじいさんの顔に張り付いてしまった。村に居づらくなったおじいさんは旅に出ることにした。ある日、おばあさんの顔がぼた餅を食べたいと催促するので、勝手に食べろ、と言うと、おばあさんは我慢できなかったのだろう、おじいさんを離れ、ぼた餅を探すために去っていった。「今だ!」と思ったおじいさんは逃げ出し、おばあさんの顔から解放された。おばあさんの顔は、ぼた餅を食した後、自分の体に帰ることができただろうか。また別の人の顔に付かなければよいが……。 
桔梗 
「萩の花 尾花葛花 なでしこの花 女郎花(おみなえし) また藤袴(ふじばかま) 朝顔の花」(山上憶良)。万葉集で秋の七草の一つ「朝顔の花」と詠まれているのは、一般的には、桔梗(ききょう)のこととされている。秋の花と思われがちだが、実際には6月の下旬から咲き始める。この美しい花と同じ名前を持つ女性がいた。平将門の弱点を俵藤太に告げ、その死の原因になったと伝えられている「桔梗」である。そのため、将門滅亡の言い伝えが残っている地にはいまだに桔梗が生えず、また災いを呼ぶため、桔梗を意匠とするものも忌避するのだと伝えられている。絶滅の危険がある今では、言い伝えが残っていない地域でも桔梗が自生している様を見ることができなくなってしまった。 
柘榴 
ひとつの果実にまつわる聖と邪の魅力が今も私をとらえる。幼いころ黄土色の果実からのぞく深紅で透明なかけらを、母にせがんでやっと口に入れた私は、なぜか神聖な禁断の実を汚す後ろめたさに襲われた。昔、人の子を食らった鬼子母神の祭られる所には必ず柘榴(ざくろ)の木があり、味が人肉に似ているその実が供えられた(愛知県)。柘榴の木がある家には病人が絶えず、果実は若仏(亡くなってすぐの人)が好み死人の香りがする(鳥取県)と不吉なものと考えられた。しかし他方で柘榴の汁は鏡を磨く貴重品とされ(同県)、子孫繁栄を表す縁起良い果物ともみられている。少女のころ柘榴に感じた甘い不可思議な動揺は、母神が世の毒から保護するために身を削って与えてくれた聖薬が、体中に魔力の効果を浸透させたかのようだった。 
付喪神 
すべての物は年数を経れば霊魂が宿り、付喪神(つくもがみ)になるという信仰がある。鎌倉時代ごろから発達した思想らしく、木像や人形などが最も化けやすいとも言われている。だが付喪神と聞いて連想されるのは、むしろ古くて使われなくなった道具たちだ。あらゆる道具に手足が生え練り歩く様を描いた「百鬼夜行絵巻」の影響だろう。そんな付喪神の目撃談がある。乞食(こじき)が古寺の庭で寝ていたら、にぎやかな酒盛りの音がした。障子の穴からのぞくと、壊れた茶碗や草履、げたなどのがらくたが歌い踊っていた。夜が明けると皆逃げ出し、翌朝縁の下に積まれているのが見つかったという。古くなった道具たちの、一夜のうたげ。物が大量に使い捨てられ、徹底的にリサイクルされる現代には、失われた光景かもしれない。 
鏡の力 
昼間は何気なく見る鏡も、夜になると独特の怖さを持つようになる。怪談によく登場するのはトイレの鏡と三面鏡で、これらはあの世とこの世を結ぶ扉の役割を果たしている。また、鏡の持つ力には「真実を映し出す力」といったものもある。愛媛県に伝わる美女に恋をした若者の物語がその例である。ふたりは恋を語る仲になっていたが、ある日若者が鏡岩に映った女の姿を見ると、そこには蛇体があった。それでも若者は女の正体が蛇であるとは信じきれず、女への思いを込めて笛を吹いた。女は曲にあわせて舞いながら蛇体へと変わり、やがて若者を抱いてふちの底に沈んでいったという。真の姿が見えたからといって、それが幸福につながるとは限らない。世の中には見えないほうが幸せなことがあるのも事実である。 
絵馬 
落語「ぬけ雀」は、ある絵師の描いた雀が、朝日を浴びると絵から飛び出たことで話が展開する。描いた物が動きだすというのは、絵師の優れた力量を示す逸話としてよく用いられる。江戸期の随筆「江戸砂子」によると、浅草観音堂にかかる絵馬は、狩野元信の手による非常に霊妙な作品ゆえに、夜な夜な絵から馬が出てきて草を食べた。困った人が左甚五郎に頼んで、画中の馬を鎖でつなぐように描いてもらうと馬は出てこなくなったという。二大芸術家の競演といえようか。他にも平安時代に活躍した巨勢金岡の絵馬(鳥取)や水墨画で有名な雪舟の絵馬(山口)も、絵を抜け出して悪さをしたため、手綱(たづな)が書き加えられている。現在の絵馬は機械生産されたものがほとんど。印刷された絵馬の馬は、もう悪さすらできない。 
風邪の妙薬 
「男心(女心)と秋の空」と、移ろいやすいものの代表として挙げられるように、秋の天候は秋雨前線や台風の影響を受けてさまざまに変化する。天候の変化に伴って気温が上下するのに体温調節が追いつかず、風邪を引きやすいこともまた秋の特徴の一つといえるだろう。風邪の対策としては、手洗いやうがいなどさまざまな方法があるが、「スルメを焼く」という一風変わったものもある。大阪府岸和田市には、火鉢でスルメを焼いていると風邪の神が現れ、そのにおいを嫌がって逃げて行ったという話が伝わっている。これから冬に向かって、気温は下がる一方である。風邪を引いたら暖かくして睡眠を取るのが一番だが、そういうわけにもいかない時は先人の知恵に頼ってみるのも悪くはないかもしれない。 
口裂け女 
マスクを着けた髪の長い若い女性が「私、きれい?」と声をかけてくる。その答えいかんによっては、マスクをはずし、耳まで裂けた口をあらわにしながらカマで斬(き)りつけてくるという。70年代末に発生したこのうわさは、さまざまなバリエーションを生み出しながら全国に広まり、子どもたちを震かんさせた。当時小学生だった私にとって、口裂け女は殺人鬼的ではあるが生身の人間そのものであり、それに抱いた恐怖心もまた非常にリアルなものだった。それが、大人たちから現代の妖怪伝承として位置づけられ、それを信じる自分たち「現代の子ども」ともども民俗学の分析の対象となっていたことを知ったのは、かなり後のことである。その時、私はかつての自分が今よりもずっと異界の杜の近くに住んでいたことを知った。 
火の玉 
墓のそばで2匹の蝶(ちょう)がもつれ飛んでいた。遠い昔不運に消えた男女の魂の化身が、あえたよろこびを確かめている様で、帰途私は悲恋のほのおにしばし気持ちをはせてみた。須佐の入江(愛知県南知多町)に住む静谷太郎とおしかは人もうらやむ仲だが、彼女は器量がよく側女(そばめ)の話が持ち上がる。嘆く太郎は相手の殿様に花立てを投げ付け手打ちされ、おしかも思慕のあまり狂死し寺に埋められる。雨夜ごと太郎の火の玉がさまようが、紅葉の下に美しいおしかの霊をみつけると、見られなくなった。暗闇でゆれる火の玉は主に死人の魂とされ,蒸し暑い雨夜に多くは墓で出現する。鬼火、人魂、陰火、霊火とも呼ばれる。火の玉にはさまざまな思いがまとわりつく。蝶は許されない恋人たちが安らぎの地へ向かう暁の姿であろうか。 
証文と妖怪 
江戸時代は庶民へも文字が浸透した時代であった。そのため、調査に出かけると数多くの江戸時代の古文書に出合うことができる。そのなかでも特に多いものが、証文の類である。証文のやり取りとそこに記された文言の履行義務は、人間界だけのものではなかった。当時の人々はそれを妖怪たちにも求めた。ある河童(かっぱ)は、川を渡っていた馬のしっぽをつかんだだけで、腕を切り落とされ、もう二度と人や馬に近づかない旨の証文を取られた。また寺で怪異を起こした狐(きつね)は、懲らしめられたうえに二度と境内に立ち入らない事を誓約させられた。彼らは神仏の力に屈服したのではなく、証文の実効力に屈服したのである。江戸時代とは、妖怪までもが人間の論理に組みこまれた時代でもあった。 
天女の口づけ 
天女と言えば、空から降りて水浴びをしていた天女が、男に羽衣を奪われ夫婦になるという羽衣伝説が有名だ。しかし中には、気まぐれに降りてきて、ロマンチックないたずらをする天女もいる。ある武士が自宅の座席で昼寝をしていたところ、天女が降りてきてキスをした。武士は、思いもよらない夢をみたと恥ずかしくなり誰にも言わなかったが、その後、彼の口中から、においの玉を含んだような、とても良い香りがするようになった。その香りは、彼が死ぬまで消えなかったという。その武士は美男でもなく、さえた男ぶりでもなかったのに、なぜ天女はこんな情をかけたのか。人々は不思議がったという。だがそこに、天女の奔放な可愛らしさが感じられる気がする。 
2人の女房 
人ごみの中で知人を見つけて声をかけたが別人だったという気恥ずかしい経験は、誰にでもあるだろう。よく「世の中には自分に似た人が3人いる」と言うが、何から何まで自分そっくりの人物が目の前に現れたらどうなるだろうか。ある日突然妻が2人になった武士の話が、徳島県に残っている。2人は容姿も着物も同じで、全く区別がつかない。武士は偽者の妻を切ろうとしたが、2人とも自分が本物で相手が偽者だと言うので、どうすることもできない。そこで神仏に祈とうしたところ、1カ月ほど後にようやく偽者が消えたという。2人は外見だけでなく、会話に対する反応も全く同じだったのだろうか。会話不足でその判断ができなかったのだとしたら、それはそれで情けない話ではある。 
茨木童子 
酒呑童子の子分で、源頼光の四天王の一人、渡辺綱に羅城門で片腕を切り落とされる話は有名である。その出自に関しては現在の大阪府茨木市、新潟県栃尾市など諸説ある。茨木での伝説は以下の通りである。生まれた後、人間離れした容ぼうのため捨てられ、茨木の髪結いの主人に拾われ家業を手伝うようになる。よく働いたが人の血の味を覚え、わざと人を傷つけて血をなめるようになったという。ある日、水面に映った鬼の面が自分の姿であることを知り、家を出る。さて、今日茨木童子は茨木市のマスコットとなっている。市役所前の「高橋」という橋の欄干には後ろ手に金棒を持った、愛らしい童子の石像がたたずんでいる。人として過ごし、そして後に離れざるを得なかった地をどのような思いで見つめているのだろうか。 
猫の忠臣蔵 
飼い猫の持ってくる「贈り物」には、虫や小動物など少々迷惑なものが多いが、山梨県には実にユニークな恩返しをした猫の話が残されている。昔、老夫婦がかわいがっていた猫が13歳になったとき、暇を出してくれるよう申し出た。世話になったお礼に何でもするという猫に、芝居好きのおじいさんは「忠臣蔵」をリクエストした。約束の日、草っ原に幕が張られ、役者に化けた猫はきれいな衣装で見事な芝居を演じた。それが終わると猫は三声鳴いて、それきり戻ることはなかったという。昔、猫は体重が800匁(約3`)になると時々化け、1貫(約4`)で化け猫になり家を出るといわれた。飽食の現代、日本猫の平均体重は約3`。今日すれ違った人のおしりでは、シッポがゆれていたかもしれない。 
清姫 
暗闇で今にも動きそうに空(くう)へ視線を漂わせている娘の横顔。彼女はどこを見ているのだろう。私は和歌山・道成寺に飾られた清姫伝説の絵から、底知れない煩悶(はんもん)が伝わってくるような気がした。紀伊国真砂(和歌山県中辺路町)で育った清姫は諸国行脚の僧安珍を慕い、夫婦約束を交わした。だが仏道とのはざまで苦しんだ安珍は道成寺へ逃げ込む。清姫は裏切られた苦しみにもだえながらそのあとを追い、執念から蛇となって日高川をわたり寺に入る。やっと隠れた釣り鐘をみつけると、7回半巻きついて鐘もろとも燃え上がり、安珍を焼き殺した。寒い寺の庭には赤い椿(つばき)が点々と落ちて、清姫の情と血のなごりが、時を経て私をも熱く包むような錯覚に陥った。 
門松 
最近は実物を目にする機会がめっきり減ってしまったが、門松は正月の縁起物の一つである。歳末から1月7日、あるいは15日にかけて立てておくことが多い。ところが、それ以降になっても、門前に松のある家があった。小正月が終ったので門松をしまおうとしたが、どうしても松だけが抜けない。根元を調べると、松がしっかりと地面に根を下ろしている。不思議に思いながらそのままにしておくと、ぐんぐん見事な松に成長した。この後、家も松と同様大きく栄えたという。正月の象徴である門松を、新しい年を迎えて年齢を重ねる証しだとして「めでたくもあり めでたくもなし」と歌った狂歌もある。しかし、このような思いがけない大きな幸運を呼び込んでくれることもあるのだろう。 
悪大師考 
弘法大師といえば日本に密教を伝え真言宗を開いた空海のことであり、信者にとってはありがたいお大師さまだ。しかし民間にはささいなことから悪人も驚くむごい仏罰を与える大師の姿も語り継がれている。甲府市の話では、芋の接待を要求して断られた大師が、その地域の芋を全て食べられなくしてしまったし、秋田県雄物川町では飲み水を断られたので地域の水源を全て枯れさせている。「伊予二名集」の話はさらに残酷だ。長者の衛門三郎に布施を断られた大師は彼の子ども8人全員を1日ずつ死に至らしめた。悔い改めた三郎は日本初の遍路となり、領主へ生まれ変わっている。懲罰が予定されていなければ人を律することはできない、というきれい事ではない真実を、民間伝承は教えているような気がする。 
夕暮れ、子供にせまる影 
神隠しする妖怪の代表は天狗(てんぐ)やキツネ。だが子供への身近な脅威はそれにとどまらない。子取りばばあや油取り、赤マントの怪人が夕暮れ時に子供を連れ去るのだ。多くは遊びから帰らない子供を脅す文句に使われた存在だが、連れ去りの理由は売りとばす、血を抜く、肝を取るなど、具体的な脅威に満ちている。江戸時代には子供に毒饅頭(まんじゅう)を食わせて歩く「饅頭食わせ」という者が来る、という尋常でないうわさが流れた。この子供を狙った無差別テロに、大人たちは右往左往した。世が乱れると、脅威への不安が増幅され、うわさとなる。現代日本をかけめぐったいくつかのデマも例外ではないだろう。妖怪伝承の裏側には陰画としての私たちの社会が透けて見えてくる。 
河童(かっぱ) 
河童はもっとも有名な妖怪の一種。エンコ、ガワッパなど呼称も多様で、それを含めれば件数はさらに増える。河童は枕返しなどたわいのないいたずらをする。また川や沼で人をおぼれさせ、尻子玉を抜くなどの害を及ぼしもするし、逆に返り討ちにあい、詫(わ)び証文を書かされたり、傷によく効く軟こうをもたらしたりもする。つまり単に不思議なことだけでなく、人知を超えた災いと恩恵双方の自然現象が、河童という異界の住人とのかかわりのなかで理解され、契約や交換をすることで考えを整理しているのだ。そのような異界の住人へのリアリティーを失いつつある現在、私達は災厄も恩恵ももたらす自然とうまくつきあえているだろうか。 
お化け見物 
幽霊の正体見たり枯れ尾花、とは使い古された言い回しだが、それを地でいく事件があった。昭和8年、大阪の病院のガラスに白昼、老人の幽霊が映ると評判になり、奈良や神戸からも見物人が訪れたという。56年後の平成元年にも、栃木県小山市で「橋げたに幽霊の姿が染み出た」とテレビで放映され、関東近県から見物人が集まる騒ぎがあった。染みや汚れ、陰影の加減が「幽霊!」となり、口コミなどで広がって因縁話ができあがるという構図はまったく同一だ。怪異・妖怪の出現は日常を忘れる一時の異界であり、ときによりそれは娯楽の側面ももっているということなのだろう。しかし明治時代、大阪・天神橋に出ると評判になったお多福のお化けなど、見物客をあてこんだ狂言だったというから、ご用心! 
六部の旅 
楽しい旅行も宿が取れなければ途方に暮れる。電話で予約ともいかない昔の旅人はどうしていたのだろうか。江戸時代の旅人に六部(ろくぶ)という勧進の巡礼者がいた。全国66州へ経巻を納め歩いた「六十六部回国聖」のことで、彼らは行く先々で民家や寺堂に宿した。こうした旅の六部が殺されて金品を奪われる、いわゆる六部殺しの伝承は全国に分布している。徳島県阿南市には、泊めてもらった民家の主人に秘蔵の宝物を見せてしまったために、欲を起こした主人に殺され、宝物を奪われた六部の話が伝わる。六部の遺体が打ち捨てられた淵(ふち)は今もなお黄赤く濁っているという。旅先で不遇な死を迎える六部は多かったであろう。「ふるさとへ廻(まわ)る六部は気の弱り」(古川柳)。旅も日常化するとつらい。 
祠(ほこら)に宿るもの 
街中を歩いていると、ビルの谷間に祠を見つけることがある。どんな神がまつられているのか不明だが、近代的な建物の中で、そこだけが異空間のようでもある。そんな祠にまつわる話を紹介しよう。ある繁盛した小料理屋の調理場に祠があり、店の人はお供え物を欠かさなかった。だが増築の際、祠を壊すことが決まる。すると天井で誰かが歩く足音がし、大工が確かめると白いものがスッと消えた。それが何か正体不明のまま祠を捨てると、その夕方大工は右腕を折り、助手はねん挫した。人々は祠のたたりだとうわさした。店を繁盛させたのも、たたったのも祠の神だろうか。今日も名もない祠が目の前にある。そこに何が宿っているのか知らぬまま、私たちは通り過ぎていく。 
猫と河童とカワウソと 
「河童(かっぱ)は猫に似た化け物だ」と言ったら、たいがいの人は驚くのではないか。しかし少なくとも山口県と青森県の一部地域では語り伝えられていることなのだ。一体どういうことなのだろう。河童と猫、かけ離れた両者をつなぐヒントはカワウソである。ニホンカワウソは79年を最後に生きた姿の目撃例はないが、その昔は日本全国の水辺に生息する、ありふれた獣だったのだ。そして、カワウソは化かす、女に化ける、人間を水に引き込む、などと伝承されていた。猫のようになめらかな体の、河童と同じ水辺の妖怪、カワウソ。カワウソは水辺から消え、水辺の妖怪は猫に似ている、という伝承が残った。水嫌いの猫にしてみたら、水の妖怪の正体にされてしまうのは複雑な気分だろう。 
植物の精霊 
アイヌに伝わる昔話。2人の女が村々を訪ねてえたいの知れないものを食べよ、という。あやしんで断るとひどく怒り、次の村へ行く。ある村長のところにもやって来た。村長夫妻が思いきって食べると、とてもおいしかった。実は2人はオオウバユリとギョウジャニンニクの精霊であった。自分たちが食物であると人間が知らないのを残念に思い、食べられると教えるために来たのだと語った。植物が食べてもらえないのを残念がるという、ユーモラスな話であるが、アイヌの人々の自然観がかいまみられて興味深い。飽食の時代といわれて久しいが、はたして今日、人間にかえりみられずに、ゴミとして捨てられていく食べ物は、我々人間をどう思っているだろうか。きっとこの精霊たちをうらやんでいるに違いない。 
件(くだん) 
ノストラダムスの「1999年7月に恐怖の大王が降って来る」という予言は有名である。幸いなことに私の目には恐怖の大王らしきものは見えなかったので、この予言は大筋で外れたと思ってよいのだろう。このように、人間の予言者の予言が外れることなど珍しいことではないが、中国地方から九州にかけて多くの話が伝わっている件という化け物は絶対に外れることのない予言をするといわれている。「件」の字にあらわされるごとく人面牛身で、まれに牛から生まれることがあるのだそうだ。その命はわずか数日で尽きるが、死ぬ間際に戦争やききんといった重大な予言を残すのである。何かと先行き不透明なことが多い昨今の世の中。件にはぜひとも明るい未来を予言してもらいたいものだ。 
亡霊のプライド 
瀬戸内海には、甲羅の突起が人の怒った顔に見えるカニがいる。源平合戦の舞台だけに昔から平家蟹(へいけがに)と呼ばれ、敗れた平家の亡霊の化身(けしん)とされた。江戸期の随筆「酔迷余録」によれば、旅の歌人が源平古戦場の屋島で見たカニを「なまじひに海鼠(なまこ)にもならで平家蟹」と詠んだ。なまじっかナマコになるのは嫌だったのかな、と平家の亡霊を笑いものにした歌意だった。するとその夜、歌人の寝ている所に亡霊が現れて、彼を心からおびえさせ、一睡もさせなかった。そこで彼は「海鼠ともならでさすがに平家なり」と詠み直し、亡霊を大いに褒めあげたという。源氏に敗れて滅亡したが、元は繁栄を極めた我々が、ナマコになんぞなるものか。亡霊のプライドここにあり、というところか。 
キツネとタヌキ 
キツネとタヌキの怪異は、全国的に多いが、全国分布をみると、はっきりとした特徴がある。キツネは東日本、タヌキは西日本に多いのだ。分析すると、四国・九州でのキツネの怪異報告は平均より際だって少ない。反対にタヌキの怪異は、近畿の一部と四国に大変多い。特に四国では、キツネが少なく、タヌキが多い傾向が顕著だ。環境省の調査によると、四国では野生動物のほうのキツネも少なく、タヌキが多いらしい。全国的に野生動物の生息数と、その動物にまつわる怪異の数は、比例することがわかってきた。昔、弘法大師が四国からキツネを追い出し、タヌキを大変可愛がったという伝承がある。 
亡父の秘密 
幕末期に活躍した漢詩人、広瀬旭荘の「九桂草堂随筆」によると、友人の父が没した直後、友人の夢に亡父が現れた。そして自分が常に使っていたが誰にも教えていない小箱を、一緒に墓へ入れてくれるよう頼んだという。そこで友人は家中を捜したが小箱は見つからず、それから数十年経ってようやく見つかった。その中に入っていたのは、なんと亡父の入れ歯だった。これが人前に出るのを恥と思い、死んでも気にしていた、亡父の秘密だった。墓場まで持って行く秘密とはよく言うが、もしも持って行けなかったら……。そうした念が時として、異界である「あの世」の扉を開く。夢という形を借りて。 
恐ろしい石 
鳥がその石の上に止まると必ず死ぬ。江戸期の随筆「閑度雑談」に記されたこの石は「那須野の殺生石(せっしょうせき)」と呼ばれる。こうした恐ろしい石の話は多い。例えば「中陵漫録」には、宮中に忍び込んだキツネが正体を見破られて化け、触る者を死なせる石。「諸国里人談」には、触れた動物たちが死ぬという磐梯山(福島県)の毒石。また大坂の雑事を書いた「浪華百事談」には、虫や鳥が載ると二つに割れ、カエルのように飲み込む石、などなど。冒頭に挙げた殺生石は元々那須野(栃木県)にあった石塊の片割れで、いつしか京の都に流れ着いたものだったという。近ごろ、街では小石を見つけにくくなったが、私達はアスファルトの上から、殺生石の片割れを踏んでいるかもしれない。 
江戸時代のUFO 
幕府が開かれてちょうど200年経(た)った享和3(1803)年。長崎にアメリカ船が来港するなど、世界貿易の波が日本に押し寄せてきたこの年、常陸国(茨城県)の海浜にも驚くべき船が漂着した。その船の形は釜のごとく、上半分は黒塗りで四方に窓があり、下半分は非常に硬い鉄を筋状に組んでいた。そして船内からは黒髪を後ろになびかせた、20歳ほどの色白美人が出てきた、とある。しかし彼女とはまったく言葉が通じず、また日本のものではない織物を身につけていたらしい。この話が収録された「梅の塵」の本文には、この船の図も載せられているが、それはまさに「空飛ぶ円盤」を思わせる形状。そうなると彼女はさしずめ「宇宙人」か。このころの日本は、海も空も騒がしかったのかもしれない。 
桜の精(1) 
桜に何かしらの特別な感情を抱く日本人は少なくない。花の命の短さや散り際が、「もののあわれ」や「はかなさ」に美しさを感じる日本人の感性に訴えるのかもしれない。しかし桜に宿る精霊については、少々異なる印象を受ける話も伝わっている。長野県の安曇野で、九兵衛という猟師の男が山で道に迷い、そこで出会った桜の精に魅入られるという物語だ。そこに登場する桜の精は17、8歳の美女で、蝋(ろう)のように滑らかで透けるような肌、ふさふさと肩を覆う黒髪、ひとなつこい輝きを持つ目が特徴であると述べられている。そこからは「もののあわれ」や「はかなさ」はあまり感じられない。むしろ、桜の生き生きとした若い生命力を感じさせる。まさに春の精霊のイメージだ。 
桜の精(2) 
「桜の樹の下には屍体(したい)が埋まっている……」。梶井基次郎の小説「桜の樹の下には」の有名な一節だ。その屍体を養分にして、桜は美しい花を咲かせるのだという。桜の精(上)の物語には続きがある。九兵衛は一度は里に戻ったものの、桜の精の美しさや、彼女を両腕に抱いたときの幸福感が忘れらないあまり、仕事も手につかなくなり、再び山へ入ったのである。そしてその結末は聞き手の想像を裏切らない。しばらくして村人によって発見された九兵衛は、幸せそうな表情を浮かべながら、桜の樹の下で花びらに埋もれて冷たくなっていたのだ。桜は屍体から養分を吸い上げるだけではない。その人の心まで吸い上げるからこそ、美しく花を咲かせることができるのである。 
食わず女房 
浪費をせずによく働く女房は現代においても理想だろうが、昔は飯を食わせることすら惜しむ男もいたようだ。食わず女房はその名の通り飯を食わない。ただしそれも夫が見ているときだけのこと。実は頭の後ろに大きな口があり、そこから大量に物を食べるのである。正体は山姥(やまんば)という説(「旅と伝説」通巻40号)や蜘蛛(くも)の化け物であるという説(「伝承文学研究」通巻25号)がある。この妖怪を女房にするのは欲深な男である。最後には自分が食われそうになり、九死に一生を得る、というのが物語の定番だ。農村での過酷な労働生活において、食事は数少ない楽しみのひとつだったに違いない。この物語には、それさえも惜しむような身勝手な男たちへの戒めが込められているように思える。 
行きて還りし物語(1) 
天狗(てんぐ)が人をさらう、という話は誰しも聞いたことがあるのではないだろうか。聖域たる山で不敬をしでかした者を、突然つかみ去る天狗。そうしてさらわれた者の大抵は、絶壁から投げ落とされたり、股(また)から裂かれて木の上につるされたりといった無残な姿で発見されることとなる。ところがそのような不敬のやからだけでなく、特に天狗のお気に召した者もまた、深山幽谷にいざなわれてしまう。それは主に純粋無垢(むく)な幼児か、特別の資質を備えた男性である。ある者はそのまま行方知れずとなる嗅ぎが、ある者は現実世界に帰還を果たす。しかし異界の風に触れてしまった彼は、もはや以前と同じ日常には戻れない。そんな彼らの「行きて還りし物語」を見てみよう。 
行きて還りし物語(2) 
「天狗(てんぐ)のお使い」と称される、天狗と親しく交際する人たちがいる。彼らは飛行する天狗を見たり、声を聞いたり、たびたび遠方に連れていかれたりする。彼らはまた、天狗に秘法を授けられている。怪力や早足、剣術や医術などのほか、予知や飛行、不眠不休で働ける能力など、人間を超えた力を身につけるのだ。彼ら天狗の弟子は、明治末から昭和初期に評判となった。三重の「天狗の初さん」は天狗に戦争見物に連れて行かれた後、占いで有名になった。富山の「中田行者」は天狗に帰依して株相場で当て、満州事変を予告した。戦争や不況で世の先行きが不透明になると、人は人智を超えたものに頼りたくなる。天狗は金もうけなど、俗世間の欲望をかなえてくれる存在でもあったのだ。 
行きて還りし物語(3) 
天狗(てんぐ)の弟子となった者たち。その中の幾人かは、最後には心身ともに天狗へと変わり果て、異界へ飛び立ってしまうのだ。天狗と親交のあった先祖がついには天狗の仲間となった、と言い伝える旧家や、住職がいまわの際に天狗に変じて飛び去った、と伝える寺が、各地にある。「鞍馬天狗」のように、現代、天狗のイメージはとてもよい。超能力を得た彼らをうらやむ人もいるだろう。だが、天狗はただカッコイイだけの存在ではない。「天狗になる」ということばのとおり、彼らを人間以外の存在に変えたのは、抑えきれない慢心や激しいうらみの心なのだ。力の代償は、あまりにも大きい。妖怪は、人の心の鏡像である。異界の杜の奥底には、よどんだ闇もまた、広がっている。 
袈裟(けさ)の力 
僧侶が身につけている袈裟は、不思議な力を持っているとされている。「三河吉田領風俗問状答」によると、竜枯寺(愛知県)の僧侶は、雨乞いの際、海上の竜江という所に行き、法門相承の系図「血脈」と袈裟を投げ入れる。すると必ず雨が降るという。「摺(す)り袈裟」というお守りもある。版木で袈裟の図を刷り、折りたたんで所持する。伊豆の修禅寺には、敵討ちで有名な曽我十郎が愛欲地獄に堕(お)ちて苦しんでいたので、墓に摺り袈裟をかけたところ、成仏したという話がある。摺り袈裟は今でも徳島県の恩山寺などで入手できる。曹洞宗の一部の寺では袈裟を縫い、身にまとう「福田会(ふくでんかい)」が行われている。縫うことで在家の人々が仏の道に結びつくのも袈裟の力といえようか。 
白い着物 
暗闇や柳の下で白い着物の人を見て幽霊を連想しドキリとしたことはないだろうか。交通事故死があった場所で、白い着物の女性をタクシーに乗せたところ、途中で姿が消えたという話がある。白い着物の人が実は亡霊であったという話は多い。そのため、白い着物の人が現れると不幸の前兆であるともいわれる。岩手県宮守村のお鍋が淵(ふち)は、昔、領主の鱒沢忠右衛門が南部家に滅ぼされた際、忠右衛門の側室・お鍋が入水した場所といわれる。かつてこの淵の傍らに白い大石があり、洪水のある時は、白い着物の女がその石の上に現れたと伝えられている。白い衣服は、遍路の衣服や死に装束など、非日常の衣服として用いられることが多い。白い着物は、異界の人であることを示す象徴なのであろう。 
布の呪力 
布は、衣服や袋として用いるだけではなく、旅立つ人に手ぬぐいなどの布を持たせると道中無事に過ごせるというような呪力を持つともいわれる。青森県八戸市には、次のような昔話が伝えられている。昔、ある家の飯炊き女は、流しの口に袋を下げ、飯粒を集めて鳥に施していた。ある時旅僧に布施をしたところ、その僧は弘法大師であった。大師は袋に関心し「なんじはみにくい顔をしているからこれで磨くように」と法衣の袖の布を切って賜った。女が布で顔をこすると美しい顔になった。ところが家の主の強欲な女房が、その布を借りて毎日こすったところ、馬のような顔になったという。布は、用いる人の考え方によりさまざま形を変える。呪力も心構え次第で変わるのかもしれない。 
夕立 
先ほどまで青々としていた空が一瞬にして黒く染まり、やがて激しい雨が降る。昼の情景をつかの間夜に変えてしまう夕立は、夏の熱気を取り去る天然の冷房装置であり、重要な水確保の機会でもある。奈良県月ヶ瀬村にある龍王の滝で、夏の干ばつの時に女性の腰巻を洗濯すると夕立になるという言い伝えがある。この滝には次の話も残っている。ある貴人が女官を連れて滝にやって来た。夏の暑い日だったので女官に水浴びをさせて自分も水に入ったところ、雷鳴がして大雨になった。2人はあわてて逃げ帰ったが、それ以来、女性が滝に行くと荒れるという。突然の雨降りのせいで洗濯物が濡れるというような迷惑も時にはあるが、夕立は夏の空にささやかな彩りを添えてくれることもある。次回は、その彩り・虹の話。 
虹 
夕立でざぁっと一雨来た後、条件が重なれば空にかかるのが虹である。歌のモチーフとしてもよく用いられる美しい自然現象は不思議な印象も与えるとみえて、虹の「根元」に黄金が埋まっている、という言い伝えも残る。また、こんな話もある。夕立があった日、ある公家の屋敷の庭に虹が二つ立ったが、空に映ったそれは一つになっていた。不吉なことが起こるのではないかと思っていたところ、その年の冬に武家伝奏の役職を仰せ付けられて、家は繁栄した。後に中国の書を読んだところ、虹は天の使いであり、悪行の家に虹が立つのは凶だが、善行を多く積み重ねた家に立つのは吉だと書かれていたという。虹は運命の先触れの役目も果たしてくれる。ただし、その吉凶を左右するのはあくまで自らの行いの結果、ということらしい。 
日常にひそむ異界 
いつも見慣れた、おなじみの風景。しかし日常の場所が、時として非日常である異界への入り口に変わってしまうことがある。どちらも徳島市、明治の初めの話。早朝、ある少年が寒げいこに向かう途中、通り道である「助任橋」という橋が二つに増えていた。石を投げると右からは石が水中に落ちる音が、左からは石が木に当たる音がした。左の橋を渡ると右は消えたという。また、「福島橋」という橋にはお福石という大石があり、通行人が深夜これに笑われると必ず異変があると言われていた。ある士族が石に笑われたので自分も石に笑い返して引き返すと、何事もなかったという。どんな事態が起きても、あわてず冷静に対処すること。これが、異界から伸びてくる手をすり抜ける秘けつのようだ。 
ひだる神 
安部公房「飢餓同盟」の中には、「ひもじい様」という神様が描かれている。信者の営む茶屋で売られている、キノコの干物で作った護符の名前は「満腹」。町民の心身の飢餓感を象徴するこの神様は、山の妖怪「ひだる神」がモデルと考えられている。峠道などで旅人にとりつき、足腰の立たないほどの飢餓感を与えるのがひだる神だ。安永4(1775)年、東海道の亀山宿(三重県亀山市)で、京都の旅商人が突然顔色を変えて倒れ込んだ。商人に飯を与えると、急に起き上って飯に食らいつき、正気にもどったという。餓死者のさまよえる魂が固まったこの妖怪から逃れる方法は、常に満腹であることらしい。飽食の現代、飢餓と背中合わせだった昔の人の恐怖感は現実味を失っている。しかし心の飢えはむしろ深まっているようだ。 
人魚雑記(1) 
海をすみかとする人魚が人里に紛れ込む話は数多い。小川未明は新潟の民話をモチーフに「赤い蝋燭(ろうそく)と人魚」で悲劇を描いたが、ひとと通い合う話も各地に伝わる。佐渡島の話。美しい人魚のイオが夜、ある民家に現れた。その家の婆さんが驚き、他に人間に見つからないように海へ帰るように促すと、イオはすうっと波間に消えて行った。南海の宮古島には人魚と結婚する話も伝わる。サアネという少年が魚釣りをしていると、海から人魚が現れて「私は竜宮からの使者、最初に出会った男の妻になるように命じられている」と告げた。ウマニャーズという名の人魚は五穀が永遠に出てくる「無尽蔵の袋」を持っており、子にも恵まれ、夫婦は幸せに暮らしたという。 
人魚雑記(2) 
「山椒魚」で岩屋に閉じこめられた愚鈍な生き物の叫びを描いた井伏鱒二。彼が「旅と伝説11」に採集した武蔵国落合村(東京都多摩市の一部)に伝わる人魚に恋した河童の話も、道化ぶりに相通ずるものがある。元亀2(1571)年、春から夏に雨が降り続き、洪水が続いた。修験者の佐貫坊がそれを鎮めるために渚で捕獲した河童を利用することを思いついた。酒宴で河童が「人魚はつややかで麗しく、肌は玉のようでどきどきします」と恋心を語ると、佐貫坊が「その顔では人魚を口説けん。洪水を引かせてくれれば、円満にまとめてやるぞ」ともちかける。河童を放すと、2、3日で水が引いたという。河童が思いを遂げたかは記録されていないが、その可能性は薄いだろう。ずるがしこい人間に利用される妖怪の姿はあわれだ。 
異界・紀伊山地(1) 
今年7月、世界遺産に「紀伊山地の霊場と参詣道(さんけいみち)」が登録された。そこで今週から4回にわたり、この地域の異界話を紹介しよう。初回は「熊野」である。紀伊山地の南東部にあたる熊野地域は、熊野三所権現の霊場として古くから信仰され、今も多くの参詣者を集めている。こうした聖なる地には怪しい話もつきものだが、この熊野の山中には「一本ダタラ」なる妖怪がすんでいるらしい。この妖怪は片目片足で、幅30aもある足跡が一足ずつ雪の上に残っていたという。実は江戸時代に編まれた「紀伊続風土記」にも登場する、とても歴史のある妖怪のようだ。いにしえの道が残る熊野路を歩く時、少々疲れてつえが欲しくなる。2本の足と1本のつえで3本足。これで我々も立派な妖怪だ。 
異界・紀伊山地(2) 
「紀伊山地の霊場と参詣道(さんけいみち)」の世界遺産登録にちなみ、この地域の異界話を紹介している。今回は「参詣道」を取り上げよう。紀伊山地に点在する霊場をつなぐ参詣道は、深い常緑樹に包まれて、昼間でもひんやりと暗い場所が多い。そこに異界が生まれる。参詣者が熊野古道を歩いていると、突然激しい空腹におそわれて動けなくなる時があるという。これは「ヒダル神」なる妖怪のしわざらしい。また「ヒトタタラ」という片目片足の鬼も参詣者を苦しめた。さらに「ナンジ」という魔性が現れて、信心の足りない者はナンジの出した火で焼かれるという話も伝わる。参詣者の信心が試されているわけだ。参詣道に出没する妖怪によって人々は霊場への信心をあつくする。これも「共存共栄」と言えよう。 
異界・紀伊山地(3) 
紀伊山地の世界遺産登録にちなみ、この地域の異界話を紹介している。今回は「高野山」を取り上げよう。弘法大師空海が開いた聖地・高野山には、毎年観光客など多くの人々が訪れている。しかしさすがに霊場らしく、高野山には怪しげなモノもかなり伝わっている。例えば、撞(つ)けば必ず願い事がかなう「無間の鐘」。ただし成就後は不幸が続き、最後は没落するという。また業(ごう)の深い人は渡ることができない「御廟の橋」。身に覚えのある豊臣秀吉はここを恐る恐る渡ったらしい。奥の院の「汗かき地蔵」は毎日午前10時ごろに必ず汗をかいたと伝わる。また高野山は天狗(てんぐ)のすむ場所としても有名だ。こうしたガイドブックに載らない異界が、逆に聖地・高野山のアヤシイ魅力を引き出している。 
異界・紀伊山地(4) 
紀伊山地の世界遺産登録にちなみ、この地域の異界話を紹介している。最後は「吉野・大峯」である。古くから山岳修験の霊場として有名な地域だが、動物にまつわる怪異譚(かいいたん)が豊富である。例えば医者がキツネのお産に立ち会った話や、毎夜玄関を叩きにくるタヌキ。人の後ろをつけ、転んだらかみつく「送りオオカミ」もいれば、頭や背中にササが生えている馬やイノシシたちも。人が大蛇に遭遇した話は多く、なかには見ただけで病気になった人もいた。河童(かっぱ)や天狗(てんぐ)や鬼も登場し、ろくろ首の村もあったというから実に面白い。世界遺産登録の基準には「人間の創造的才能を表す傑作であること」がある。ならば紀伊山地の「異界」も、その基準を満たしうる人類の傑作ではないだろうか。 
三猿「見ざる」 
三猿にちなみ、今年のえとの猿に関する話を3週にわたって紹介しよう。筆者が高知県を訪れた折に、古老からうかがった話。山に出る妖怪で恐ろしいのが、六面王(むつらおう)、八面王、九面王という怪物。それらは顔色が名の通りの数だけ変わる、あるいは、頭がその数に分かれている蛇のような化け物ともいわれる。これらの妖怪は、たいへん年を取った猿が化けるのだ、ということだった。猿の妖怪といえば、長生きした猿が巨大な姿となり、神にまつりあげられ、いけにえを要求するが、武士に退治される話が「今昔物語集」に伝わる。これと違い高知の妖怪は、それ自身が猿の姿をとらないという特徴がある。老猿の本性を見られたら、魔力を失うからか?「見ざる」。姿を見られることを忌む怪物なのだろう。 
三猿「聞かざる」 
全国に伝わる話で「怪異・妖怪伝承データベース」にも、さまざまなパターンが収録されている話に「猿の祟(たた)り」がある。ある時、猟師が、妊娠している(あるいは子連れの猿)を見つける。猿は猟師に対し、必死に手を合わせて命ごいをするが、訴えを無視して仕留めてしまう。ちょうど猟師の妻も妊娠していて、生まれた子どもは猿の霊に祟られてしまう。仏教の殺生禁止や因果応報の教えも含まれるが、そもそも猟師は、猿と同様に親になる身でありながら、猿に共感せず、残酷な行いをしたのがいけないのである。殺生が生業の猟師とはいえ、人間とよく似た姿である、猿の命ごいの姿はより哀れに感じられるだろう。内なる良心の声に耳を傾けず、欲望のみに執着し、「聞かざる」をしてはならない。 
三猿「言わざる」 
猿と人が約束する話。これも「怪異・妖怪伝承データベース」に散見され、各地に伝わることが分かる。典型としては、水害に困った男が、堰(せき)を築く手伝いをしてもらう代わり、娘を猿に嫁にやると約束する。娘は仕方ないと猿について行くが、一計を案じ、途中の川に猿を突き落としてしまう。猿は計略にはめられたにも関わらず、死ぬ間際に娘に向かい、「(死ぬこと自体よりも)嫁のお前を残して死ぬのが心残りだ。お前の今後だけが心配だ」と叫ぶ。実にけなげな猿婿(むこ)だ。猿は男の言うままに手伝い、交換条件を果たすのを求めただけである。しかし、人間の方は、ひきょうかつ残酷にこれに応じる。守れない約束なら安易に口にするな。「言わざる」。これは今どきの政治家にも聞かせたい話だ。 
流れ星 
「釣瓶(つるべ)落とし」に例えられる秋の夕暮れの後に、藍(あい)色の夜空が訪れる。その夜空を切り裂くように流れていく星は、秋の季語の一つである。願い事を3回唱えるとかなえてくれるといわれる流れ星は、凶事の前触れなど恐ろしいものとしても多く記録されている。天から落ちる火を「テンビ」「テンピ」「デンビ」などと呼び、火事などの厄災を起こす怪異として恐れたが、その実態はいん石や落雷などのほか、流れ星をそう呼んだとみられる例も多い。流れ星は、落雷と同じ忌むべき現象だったのだ。現代、明るい都会の夜空で流れ星が見られることはまれ。ありがたみが増した分、人々の心に不安を与える不吉な印象が薄れ、ロマンチックな天体ショーとして、ただただ歓迎される存在になったのだろうか。 
髪切り 
テレビをつけているとさまざまなヘアケア用品のコマーシャルが流れている。手間をかけて美しく保っている髪を、何の断りもなく切られたら、どうするだろうか。元禄のころ、人の髪が切られるという事件が多発した。男女に関わらず元結際から髪を切られており、本人はいつ切られたのかも分からない。切られた髪は結ったそのままの形で落ちているという。江戸の金物屋の下女は夜中に買い物に出かけて帰ってくると、すでに髪を切られていた。人に指摘されて初めて気づき、下女は気絶した。大けがをするわけではないが、「髪は女の命」。髪が伸びるまで怪異の痕跡をまざまざと見せつけられる者からすれば、「髪切り」は十分に恐ろしくまた忌まわしい怪異であっただろう。 
月にうさぎ 
月にはうさぎが住んでいる。子どものころ、誰もが聞いたことのある話だ。月の影を「餅をつくうさぎ」に見立てたのだが、うさぎと月にはこんな不思議な関係がある。ある川のそばに住んでいた人は、うさぎをかごに入れて飼っていた。秋、月の明るい晩にかごを木にかけておいたら、うさぎはかごの目を抜けて川面を走って逃げてしまった。うさぎは月に向かうと身体が自由に変化し、かごの目も抜けられるのだという。また月を慕ううさぎは、夜になると臼を伏せておいても居なくなってしまうともいう。うさぎは月のせいでさまざまな行動を取るのだろうか。あるいはうさぎに力を与えるのは、月にいる同族かもしれない。もうすぐ美しい月とうさぎを見ることができる、十三夜(10月26日)である。 
刀に宿る力 
職人が丹精をこめて鋼(はがね)を鍛え、生み出される刀。所持者を死に追いやる「呪いの刀」の話は有名だが、一方でこんな話もある。背負った袋から落ちた大豆が、腰の刀の切っ先ですぱっと真っ二つ。越後(新潟県)の男が持つ霊剣はそれほどの切れ味だった。ある日、男が山を歩いていると雷鳴がとどろきだした。そこで男は刀を頭上にかざし目を閉じた。やがて空が晴れ、目を見開いてみると、刀も頭や衣服も血まみれ。落雷したが、頭上にかざした刀の威徳で助かったらしい。刀は後に、上杉謙信の秘蔵品の1つになったという。刀は雷を切り、所持者を守ったのだろうか。人の手を経て生まれながら、時に人の想像をはるかに超える刀は、それを扱う者より異界に近い存在かもしれない。 
生き返る針 
針供養にみられるように針は何らかの力が宿る道具と考えられてきたのであろうか。不思議な話が秋田県に残る。大鯨がある男に話しかけた。「昨晩の夢を語ってくれるのなら、特別な針をあげよう」。針は2本あり、1本はどんなに強いものも死ぬ針、もう1本は死人が生き返る針という。針をもらった男は試しに、なんと死ぬ針をその鯨に刺した。鯨はあっけなく死んだ。さて男が城下を訪れると、殿様のお姫様が死んだといって皆が泣いていた。男がお姫様の身体に生き返る針を刺すと、姫はぱっちりと目を開いた。殿様は大変喜び、男にほうびを与えたという。針は、裁縫や治療のために用いて役立つ道具である一方、誤った使い方をすれば人の命を縮める場合もある。やはり道具は使い手次第なのだろう。 
いさめる観音 
観音は慈悲深い仏として信仰を集めるが、時に人々をいさめることもある。牛と交換でニワトリを手に入れた男がいた。オスにもかかわらず金の卵を産む。すると嫁が欲を出した。金の卵で再び牛を買い、同じようなニワトリと交換してこいという。1羽が産む卵は1日1個。2羽、3羽となれば、それだけ豊かな暮らしが手にはいるのだ。いよいよ交換する前日の晩、観音が男の夢枕に立った。「正直者で人のために働いていたから功徳を授けたが、欲が深くなったので功徳はお預けだ」という。翌朝、金の卵は瀬戸物に代わり、男は貧しい暮らしに戻ってしまった。人をいさめるのは難しいが、本当に相手の幸福を願うなら鬼になることも必要だ。しかし普段は、観音像のように穏やかなほほえみを絶やさぬようにしたい。 
恋の石、恋の火 
恋愛の自由が許されなかった昔、恋人たちは「せめて来世で」と願った。武士の好丸は将軍に従って京へ行くことになり、夫婦になる約束をした長者の娘お糸と別れることに。恋心をおさえられない2人は寄り添って泣き続け、そのまま石になったという。各地にある「夫婦石(岩)」の二つ並ぶ石は男女の深い絆を連想させる。また、異なる島の者との恋愛であったため人目をしのんで海岸で会う恋人たちがいた。それを島の若者達に見つかり、はやし立てられた娘は、恥ずかしさで崖から身投げしてしまった。相手の男も後を追った。その後、海岸に怪しい火がでるようになったという。石となって添い遂げる恋、火となって燃え続ける無念の恋。真実の恋は形を変えても永遠に生き続けるものなのだろう。 
カマイタチ存疑(1) 
冷たい北風の季節となった。冬特有の怪異に「カマイタチ」がある。手足などに、知らぬうちにぱっくりと裂き傷ができているのに痛みもなく、出血もない。この現象はカマイタチという妖怪の仕業とされてきた。カマイタチはイタチのようなすばしこく、小さなつむじ風となって人に斬(き)りかかる。まさに「身を斬るような風」というやつだ。3匹1組で行動するともいわれている。しかし現代に生きるわれわれの多くは、この現象を妖怪の仕業と考えていないだろう。どこかで「カマイタチ現象は、つむじ風などで大気中に生じた真空が人間の皮膚を裂く自然現象である」という「科学的説明」を耳にしたことがあるのではないか。ここで、この「科学的な」説明を少し疑ってかかってみよう。 
カマイタチ存疑(2) 
「科学的」解説が出る以前、カマイタチは山の神や天狗(てんぐ)が禁忌を犯した者に当てる罰と考えられていた。カマイタチの語源は天狗らの構え太刀という。「カマイタチの正体は真空」という説は昭和の初め、気象学の学術雑誌に発表されて、一般に浸透したらしい。しかしすぐに疑義がでた。文人科学者・寺田寅彦が随筆「化け物の進化」の中で「自然界に真空が簡単に出現するはずはないし、たとえ真空ができたとしても人間の皮膚が風船か何かのように簡単に破裂するとは考えがたい」と異議を唱えている。なるほど冷静に考えてみると、寺田の疑義に理があるようだ。あんなに「科学的」と思われた真空説が、がぜん怪しくなってきた。それではカマイタチの正体は一体何なのだろう。 
カマイタチ存疑(3) 
カマイタチの正体は何なのか。答えは意外な方面から提出された。1970年、気象学者の高橋喜彦氏は学術誌上に「かまいたちーー気象書から消したまえ」を発表し、カマイタチは生理学的な現象であると結論を出した。同論文によるとカマイタチは、乾燥し突っ張った皮膚が急な衝撃を受けて裂ける現象で、皮膚が開いただけなので痛みも少なく、出血も微量ということらしい。そういわれると「転んだ際」「人とぶつかったとき」カマイタチにあった、という事例がほとんどだ。ところが現在、真空が人体を切り裂くという知識は小説やマンガなどでとりあげられ、常識的な「科学知識」となっている。非科学が科学と信じられ、大手を振って流布されていることこそ、妖怪的な状況といえるかも知れない。 
ネズミの超能力 
夜、寝ていると体が急に重くなり、目も覚めているのに口がきけず、身動きもとれない。こうした経験のある人もいるだろう。今でいう「金縛り」現象を昔は「ネズミにおされた」と言い習わしていた。それはネズミを足で追ったり、悪口を言ったりした仕返しとも言われていた。ネズミは人語を解するのだ。民家がカヤぶきだったころ、ネズミは夜な夜なわが物顔で走り回る身近な小動物であった。その一方でネズミは大黒様のお使いとされるなど、家の中と外、人間界と異界とを横断する、神秘的な存在でもあった。お正月には「ネズミ」と言わず、「ヨメゴ」「おフクさん」などと呼び代える習俗が各地にある。それは霊力あるネズミに今年の福を運んで来てもらいたいという、人の心の表れなのだろう。 
餅なし正月 
日本中が祝賀ムードに包まれる正月だが、新年を晴れやかに迎えられなかった者のために、餅を食べることすらやめてしまった村の話が山口県に伝わっている。大みそかの晩、敵に追われた武士が自害する場所を求め、ある民家に入った。家人が言い残すことはないかと聞くと「正月を迎えずに死んでゆく自分の心をくみ、正月を祝ってくれるな」といった。その後、村で正月に餅をついて雑煮を作ったものがいたが、餅をかむと血がたらたらと流れ落ちてきた。それ以来、村で餅を食べるものがいなくなったという。偶然に村で死んだ武士のために、年に一度の楽しみさえ放棄するのは不条理だ。しかし、たとえ餅がなくとも、無事に新年を迎えられるということはそれだけで幸せなことなのかもしれない。 
雪女のいたずら 
低くたれこめた雲と降り積もる雪。景色がモノトーンに染まる季節は、人恋しさを感じさせる。雪山の住人である雪女も例外ではないようだ。雪の夜、夜番の侍がたまたま出会った女に頼まれて、しばらくの間赤ん坊を預かることになった。ところが女は雪の中に消え、抱いている赤ん坊はどんどん重くなっていく。侍は赤ん坊を降ろそうとしたが腕から離れず、助けを求める声も出せない。その後、侍は太い氷柱(つらら)を抱いて、気絶した状態で仲間に発見された。女は雪女に違いない、とうわさになったという。目が覚めてきょとんとする侍を、遠くから見る雪女の笑い声が聞こえてきそうだ。人とのふれあいを求めて、いたずらをするあたり、冷酷な雪女もどこか温かみを感じさせる妖怪にみえてくる。 
銭のなる梅 
大抵の親は子どものためなら多少の苦労はいとわないだろう。その子が障害を持っていれば、なおさらだ。以下は明治末に実際にあったと記録されている話である。ある神官には、知的障害をもつ娘があり、常にその身の上を案じていた。そして、その神官が死んだ後、不思議なことが起こるようになった。娘が予言すると、庭のほこらの横に立つ梅の木から銭が落ちてくるのだ。新聞社や警察までもが調査したが、理由は分からず、神官であった父親の霊的作用だという意見も出されたという。ハンディキャップを持った愛娘に、経済的に恵まれた暮らしをさせたいと願う父の念が、あの世とこの世の境界を突き破ったのか。いつの世もありがたいのは親の愛情である。 
便所の神様 
今は少ないが、昔はくみ取り式の便所がほとんどだった。便器にぽっかり開いた暗い穴に、いい知れない恐怖を感じた人も少なくはないだろう。そんな場所にも神様はいる。「便所の神様」は盲目の女性といわれており、便所につばを吐くと目を病むといった俗信がある。また出産と結びついた伝承も多く、妊婦がきちんと便所掃除をしていると美しい子が産まれ、汚くしていると難産になるという。一見、便所掃除をさせるための説話に見えるが、妊婦はある程度体を動かしたほうがよいという先人の知恵も含まれているのだろう。それにしても気になるのは公衆便所の汚さだ。下品な落書きも見るに耐えない。人目につかない空間であふれ出る人の心の闇は、たとえ神様でも浄化しきれないほどに深いのかもしれない。 
間(あわい)に遊ぶ子ども 
ツツジに導かれ魔所に迷い込んだ少年「千里」は、美女に抱かれて眠ってしまう。泉鏡花の名作「竜潭譚」をほうふつさせる神隠しの言い伝えが各地に残る。行方不明になり、翌日山中で発見された山形の子どもは、なぜか「前夜は母と一緒に寝た」と言った。同じく山で保護された兵庫の男の子は「ひげの生えた人に花畑に連れていかれ、うまいものを食わせてもらった」と話した。また高知の娘は不明になって7日目、なんと自宅の押し入れで見つかった。ボロをまとい傷だらけの姿だったが、シキミの葉を食べ、僧侶のような人とおもしろく過ごしていた、と語ったという。異界話を楽しげに話す子どもに大人はとまどう。子どもらが現実と非現実の間で遊ぶことができるのは、むくな魂ゆえだろうか。 
天狗 
前回は神隠しから無事戻った子の話を取り上げたが、残念ながら二度と帰らない例も多い。人々はそんな時、「天狗にさらわれた」と言った。鳥取のある武士の息子が何者かにさらわれた。10年後、息子は妻の夢に現れ、頼んだ。「自分は天狗の弟子になった。行法の披露式に野菜と強飯(ごうはん)が必要なので屋根に置いてくれ」。また何十年かのち、木こりが「山で老人に託された」と羽団扇(はうちわ)を武士の家に届けに来た。わが子の形見と大事にしていると、大火事の時、なぜか武士の家だけ焼けなかったという。わが子を突然失う悲劇は現代の親にも襲いかかるが、捜索願もない時代の親は理不尽さを異形の者の仕業に例え、あきらめるしかなかった。各地に残る天狗の造形はそんな人間の無力感を語る。 
水の冥土 
夢の舞台で交感し合った人妻の不義の恋は海底で成就する。泉鏡花「春昼」「春昼後刻」の様な悲話が長崎に残る。その村は用水に澄んだ淵(ふち)を利用していたが、夏の土用の入りに急に水が止まった。田が枯れ、餓死の危機にさらされた村人は毎夜村の神社に祈願に行く。すると「淵の水神様のたたりだ。はらみ女を犠牲に奉納せよ」と村人の一人に夢のお告げがあった。早速身重の女が探しだされ、村人の説得に女は淵に身を投げた。ところが女には僧の恋人がおり、僧も絶望の余り後を追った。今も淵では嘆きの鐘が響くという。女犯の戒を破った僧の子を宿したゆえに女が選ばれたかどうかは記録されていない。いずれにせよ、欲念も犠牲になった憎しみも水に清められ、彼らが水の冥土で至極の抱擁を交わしたと願いたい。 
鴛鴦(えんおう=オシドリ) 
ボタン雪の散るヒスイ色の水面を仲むつまじく2羽の鴛鴦が寄り添う。彼らはつがいのどちらかが死ぬと片方も死ぬという。鎌倉時代の痛ましい説話が残る。下野国の安蘇沼(栃木県佐野市)に猟師がおり、ある日つがいの鴛鴦の雄を撃ち殺した。その夜、男の夢になまめかしい女が現れ、夫を亡くした嘆きの詩を吟じた。「安蘇沼で菰(こも)に隠れて独り寝するのはつらい」。消え去る姿は鴛鴦の雌ではないか。驚きのあまり翌朝見れば、雄の傍らでくちばしで自分の腹を貫いて死んでいる雌をみつけた。ふびんに思った男は出家した。ともすればはかない幻想になりがちな情愛に殉じるきん獣の姿。数百年の時を経ても、混沌とした現代の男女の関係にも示唆を与えてくれるかもしれない。 
おひなさま(1) 
3日は桃の節句。今週から2回にわたって、おひなさまにまつわる不思議な話を紹介したい。東京・八王子の昔話。ある家で、きれいな着物を着た2人組が現れ、階段を上り下りする。家人が2階を調べたところ、片隅に置かれた古い箱の中から内裏びなが見つかった。人形たちが外に出たがって歩き回っていたのであった。人形をお宮に納めたところ、怪異はおさまったという。人の魂が宿るとされる人形。その怪異といえば恐ろしげな話も多いが、衣冠束帯(いかんそくたい)と十二単(じゅうにひとえ)の2人が民家の階段をしずしず上っている姿を想像すると、恐いというより、ほほえましい。古箱から念願の外の世界に出ることができた2人は、今も気ままに散歩を楽しんでいるかもしれない。 
おひなさま(2) 
飛騨(岐阜県北部)には、「棟上雛(びな)」といって、飾って眺めるのではなく、家を建てるとき、箱に入れ、その建物に納めるためのひな人形がある。これには悲しい由来が伝わっている。ある大工事がうまくいかず、飛騨の工匠が大変頭を悩ませていた。それを見かねた彼の娘が知恵を出した結果、工事は無事終了する。ところが工匠は感謝するどころか、素人に教えられたことを恥だと思い、娘を殺してしまう。その因果か、彼の建てた建物には必ず変事が起こるようになった。そこで棟上げの時、建物に娘の人形を納めると怪異はやんだ。孝行娘が報われないとは、何とも哀れな話である。娘を似せて作ったおひなさまは、無念のうちに亡くなった娘の魂を供養する役割を果たしたのであった。 
春の花・梅 
今回から2回、春の花にまつわる悲劇をお伝えする。戦国時代、信濃(長野県)の武将が梅の名所で知られる寺を訪れた。梅に見とれていると、女の子を連れた見慣れぬ女が現れた。やがて2人は白梅を歌に詠みかわしながら、心を通わせる。だが知らぬ間に眠った武将が翌日目を覚ますと、女の姿は消えていた。女を慕いつつも武将は次の日、戦場で命を落としてしまう。そしてその想いに応えるように、寺の梅は花を咲かせなくなった。女は梅の精霊だったのだろう。人と精霊のあわい恋は悲劇に終わったが、ほんのりと暖かい印象も残る話だ。平安時代以前は花といえば梅、それも白梅を指すほど愛されたという。その高貴なイメージが、和歌をたしなむ淑女に仮託されたのか。恋人を失うと、春も忘れてしまう一途な梅の精に。 
春の花・桃 
昨今の幽霊話には、うらめしさ、まがまがしさを感じさせる話ばかりが多いが、これは現代のみの感覚であろう。宮城県に伝わる話。ある領主の姫君が、足軽と相思相愛の仲になる。身分違いの恋の成就のため、姫は3年の間、こもりきりで曼荼羅(まんだら)を織り上げる。しかし父は激怒、姫は現世で叶わぬ恋ならば来世に望みをかけると、沼にその身を投じてしまう。それから姫が自殺した桃の節句になると、機織りする姫の姿が沼の上に浮かび上がり、通る者に、にこりとほほえむのだという。3年がかりでも恋が実らなかったのだから、無念な気持ちであったろう。幽霊になってもほほえみを絶やさない姫は、けなげでもあり、しんの強ささえ感じさせる。桃の花言葉に「気立てがいい」があるのも、偶然の符合である。 
百物語 
「百物語」といえば、今は怪談を集めたものといった程度の意味しか持っていない。だが、近世初期には夜分に気心が知れた者たちが集り、灯心を百ともし、恐ろしい話を一話語るごとに灯心を一つ消し、語り終わると、真っ暗になった部屋に怪異が生じる、という俗説にのっとってなされた「怪談会」のことであった。つまり百話語って怪異の出現を待つところに意味があった。近世にはたくさんの「百物語集」が編さんされたが、その中には百物語をした末に生じた怪異の話も載っている。意外に思われるだろうが、その怪異は幽霊などの示唆で幸福・金品を得ることになったというめでたい怪異が多い。 
 
妖怪もののけ

 

日本で伝承される民間信仰において、人間の理解を超える奇怪で異常な現象や、あるいはそれらを起こす、不可思議な力を持つ非日常的な存在のこと。妖(あやかし)または物の怪(もののけ)とも呼ばれる。 
日本の集落や家屋にみられる、自然との境界の曖昧さによる畏怖や、里山や鎮守の森のように自然と共にある生活が畏敬や感謝になり、妖怪は、これらの怖れや禍福をもたらす存在として具現化されたものである。「神さび」という言葉に代表されるように、古いものや老いたものは、それだけで神聖であり神々しいとされてきた価値観も、妖怪(九十九神)が古い物や長く生きた物の憑き物という解釈と重なる。そして、現在では妖怪の存在の実証はされておらず、科学が未発達だった時代の呪術的思考の産物や迷信とされるが、日本人の心や思考のあり方を表す一つの事柄でもある。
古神道 
現在の神道の源流である古神道は、原始宗教とも呼ばれ、森羅万象に神や命や魂が宿るという自然崇拝・精霊崇拝(アニミズム)を内包し、現在の神社神道にもその名残は多くあり、古神道としての民間信仰と共に息づいている。 
神道においての世界観は、現世(うつしよ)と常世(とこよ)からなり、常世は神の国や神域であるが、常夜と常世という表記に別れ、それぞれ「2つの様相」を持ち、常世は理想郷や天国とされ、富や知恵や不老長寿を齎す夜のない世界であり、常夜は黄泉の国や地獄とされ、禍や厄災を齎す夜だけの世界とされた。このような世界観は近年まであり、逢魔時(おうまがとき)や丑三つ時(うしみつどき)には常夜との端境で「怪異のもの」に出合う時という意味も含まれ日常にとけ込んでいた。 
同じように神も「2つの様相」を持ち、荒ぶる神(あらぶるかみ)と和ぎる神(なぎるかみ)という禍福をそれぞれもたらす時があり、荒御魂(あらみたま)と和御魂(にぎみたま)ともそれぞれ表現される。これら、常世から来た神や、荒ぶる神やその仮の姿や、またはその依り代が、いわゆる妖怪とも表現された。その中で、神社神道の体系に組み込まれなかった各地に残る天狗神社・河童神社・白蛇神社や貧乏神・宝船(七福神)などは、古神道(日本の民間信仰)の神々が起源であるともいえる。また、食べ物や道具に対する感謝から、鯨塚や道具塚・包丁塚や、無念をもって亡くなった者に対する慰霊として、蒙古塚や刀塚などがあり、それらも「そこに宿る魂が、荒ぶる神にならぬように」と塚を建立し祀っているが、現在の神社神道とは切り離されたものであり、その根底にある行為や思いは妖怪に対するものと同じである。
九十九神 
九十九神(つくもがみ)とは、長く生きたもの(動植物)や古くなるまで使われた道具(器物)に神が宿り、人が大事に思ったり慈しみを持って接すれば幸(さち)をもたらし、そうでなければ荒ぶる神となって禍をもたらすといわれる神である。ほとんどが、現在に伝わる妖怪とも重複し、荒ぶれば九尾の狐であり、和ぎればお狐様となると解釈される。 
動物では九尾の狐・猫又・犬神などがある。道具では朧車・唐傘小僧・鳴釜・硯の魂などがある。 
古代の日本は多民族国家といわれ、古くから様々な地域から民族の流入があり、それらの文化を内包した経緯もあり、また蝦夷や夷といった民族とも比較的新しい時代に交わった。そして、大陸からの文化の吸収もあり、現代に至るまで、時代と共に様々な妖怪が人々の生活の中から生み出されてきたと考えられる。 
日本神話の人格神以外の神や神霊 
日本神話の人格神とは主に尊をさし、その他、日本においては時の実力者や権威者が神として祀られたが、荒ぶる神とされても妖怪とされることはなかった神を、ここでは除く。 
民間信仰(九十九神以外) > 民間信仰の内、九十九神ではない、若しくは依り代となるものがよく解らない。または、荒ぶる神としての元となる神が解らないもの。天狗や河童や座敷童子やダイダラボッチなど。 
寄り神(よりかみ) > 漂着神ともいい、海外から流れ着いたものや海上の蜃気楼を信仰した。これらは寄り神信仰とよばれ、海座頭や不知火などは寄り神信仰が発祥とされる。 
客神(まれびとかみ) > 由来のはっきりしない神で、時として妖怪とも例えられる。蝦夷の神であったとする説もある。みしゃぐじ様や荒覇吐神(あらはばきのかみ)などがあげられる。 
日本神話に登場するもの > 八岐大蛇(やまたのおろち) - おろちの「チ」は霊の古語としての読みでもあり、幸(さち)も古くは箭霊とも表記し、雷(いかづち)・蛟(みずち)・命(いのち)の「チ」は全て、魂(たましい)や霊威を表すといわれている。 
式神(しきがみ) > 式神とは陰陽師といわれる神職が、人の悪行や善行を監視するために、神域から呼び出し使役した妖怪(鬼神)である。丑の刻参りも古くは神域の結界を破り、妖怪を呼び出し使役し、恨む相手に禍をもたらす呪術であった。 
人の命や人型 > 霊魂 - 人魂・幽霊・悪霊・怨霊などの死者の魂が、肉体を離れ形を成すというものや、生霊や夜叉など強い思いに自身が取り込まれた人や「狐憑き」などといわれる妖怪が憑依した人などがある。人型 - 鬼・夜叉(夜叉鬼)・酒呑童子 
外国由来の神 
インド / 烏天狗(からすてんぐ)はガルーダが起源といわれる。中国 / 件(クダン)は中国の妖怪であるが、江戸時代にはすでに書物に登場している。疫鬼は、平安時代につたわり、日本の妖怪である疫病神(やくびょうがみ)になったといわれる。
歴史 
古代・中世 
1世紀初頭 - 今の中国の書物「循史伝」に「久之 宮中数有妖恠(妖怪) 王以問遂 遂以為有大憂 宮室将空」という記述があり、「人知を超えた奇怪な現象」という意味で、妖怪という言葉が使われている。 
「百鬼夜行絵巻」 作者不詳(室町時代)宝亀8年(772) - 「続日本紀」に「大祓、宮中にしきりに、妖怪あるためなり」という記述があり、同様になにかの物を指すのではなく、怪奇現象を表す言葉として妖怪を用いている。 
平安時代(794-1185/1192頃)の中期 - 清少納言は「枕草子」のなかで「いと執念き御もののけに侍るめり」と記し、紫式部も「御もののけのいみじうこはきなりけり」という記述を残しており、「もののけ」という言葉がこの頃に登場する。 
洪武3年(1370)頃 - 「太平記」の第5巻には「相模入道かかる妖怪にも驚かず」という記述がある。 
天明8年(1788) - 「夭怪着到牒」著者:北尾政美が出版される。これは黄表紙本の妖怪図鑑であるが、その序文には「世にいふようくわいはおくびょうよりおこるわが心をむかふへあらわしてみるといえども…」とあり、これはこの時代からすでに、妖怪を研究しながらも、その妖怪の実在性を疑問視していた人がいたことを示している。 
江戸時代 
この時代の印刷・出版技術の発展とともに、出版文化が発達していき、黄表紙などによって盛んに題材として妖怪が用いられた。 
そしてそれらの書籍を扱う「貸本屋」の普及や利用により、庶民の中で各々の妖怪の様相が固定し、それが日本全国に広がっていった。たとえば河童に類する妖怪は江戸時代以前には、日本全国に多くの様相や解釈があったが、書籍の出版によって、それが現在のいわゆる河童に固定されていった。またその他の刊行物を含め、民間で伝承されたものとは別に、駄洒落や言葉遊びなどによって、この時代に創作された妖怪も数多く存在し、現在でいえば妖怪辞典のような位置づけであろう鳥山石燕の「画図百鬼夜行」はその一例である。また、江戸時代に百物語のような怪談会が流行する中、怪談の語り手がまだ世間に知られていない未知の怪談・妖怪を求めた末、個人によって妖怪を創作してしまうといったケースも創作を増長した要因の一つと考えられており、そうして創作された妖怪の中には傘化けや豆腐小僧が知られている。 
また「浮世絵」などの画題としてもよく描かれ、有名な妖怪を描いた絵師に歌川国芳、月岡芳年、河鍋暁斎、葛飾北斎などがおり、また、狩野派の絵手本としても「百鬼夜行図」が描かれた。 
明治時代以降 
明治維新の西洋化思想は、海外の出版物の翻訳にも影響し、特に西洋の物語が持て囃された。貧乏神と疫病神と死神は並んで語られ、死神は古典落語でも描かれ、日本の妖怪や神と誤解されるが、三遊亭円朝が明治時代にグリム童話の「死神」か、イタリアのオペラ(歌劇)の「靴直クリピスノ」の翻訳本を参考にした創作落語の「死神 (落語)」で、巷に広まったことが知られている。このように西洋の物語に描かれる怪物も庶民に認知され、誤解からの日本の妖怪としてや、また近代史における「西洋の妖怪」として、日本でも相応の歴史がある。 
その一方で日本の古典文化は排斥され、唄や踊りの伝承書が焚書された例もあり、そして科学的考察が至上とされ、妖怪もその他の迷信の類ともに、排斥される傾向にあったが、江戸末期から昭和や平成に至るまで、その時代時代の民俗学者の著書の発行と民俗学による権威付けが、妖怪という日本の民族文化の衰退の歯止めとして、一役買ったことは否めないであろう。 
現代 
近年から現在に至るまで、妖怪は様々な媒体(マスメディア)で紹介されてきたため、老若男女が知るものとなっている。戦前の紙芝居や戦後の漫画産業の振興や昭和40年代(1970年前後)まで続いた貸本屋、テレビ放送の普及などもその認知やある意味での親近感につながっている。そして現在では、遠野物語にえがかれた岩手県の遠野や、水木しげるの出身地でもある鳥取県などに代表されるように、妖怪は観光資源としてや地域活性にも役立てられていて、京都には町家を改装した妖怪堂という店があり、店主が京都の妖怪案内をするというようなものまである。 
このように様々な形で妖怪が伝承されてはいるが、昔ながらの年長者や年配者による口伝えが少なく、口碑伝承によるその地域ならではの事情や背景も伝わりにくいことや、九十九神に代表される古典的な妖怪は、自然が身近にあって始めて現実的なものとして捉えることのできる狸(たぬき)や狐(きつね)や鼬(いたち)であったり、郊外や地方のその地域おいて、1次産業に携わるような社会環境であっても、もう見ることのできないような、いわゆる古民具などに代表される硯(すずり)や釜(かま)や釣瓶(つるべ)であったり、昔懐かしい生活としての「小豆洗い」や「泥田坊(田作りの土起し)」であるため、昭和一桁の世代でさえ疎開を経験していなければ、その妖怪のもととなる「物」が、「身近でない・良くわからない」こともある。古典落語と同じようにその言葉の意味や、言葉は解っていても現実的に形として想像できないといった、社会そのものが近代化してしまったことが、妖怪という日本の古典文化の継承に影を落としている。 
また一方では、媒体で紹介される妖怪は民間伝承の古典的なものだけでなく、江戸時代にもあったように現代でも盛んに創作妖怪は作られ、学校の怪談や都市伝説などから、口裂け女、トイレの花子さんなど新たな妖怪が誕生している。1975年以降に生じた口裂け女のブームの頃から、これらの都市伝説上の妖怪がマスコミで「現代妖怪」という総称で表現されるようになった。この総称は近年にも都市伝説を扱った書籍で用いられ、特に妖怪研究家・山口敏太郎が自著書の中で多用している。 
1970年代には怪奇系児童書の一環として児童向けに、百科、図鑑、事典などの体裁をとって妖怪たちを紹介する書籍が多く刊行されたが、それら書籍中の妖怪には、古典の民間伝承、怪談、随筆などのものに混じり、古典上に存在しない創作物と思われる妖怪が多いことが現代の研究により指摘されている。特にがしゃどくろ、樹木子などがその種の創作物として知られる。近年の妖怪の創作者としては佐藤有文らが知られ、妖怪漫画家として活躍する水木しげるの妖怪研究関連の著書の中にも創作妖怪があると指摘されている。このように古典上の妖怪たちの中に現代の創作物を混ぜてしまうことは、伝承をないがしろにしているとして非難や中傷の槍玉に挙げられることも多い。しかし前述のように、江戸時代にはすでに鳥山石燕らによる妖怪の創作が多く行なわれていたため、古典上の創作が許されて現代の創作が非難されることを理不尽とする意見もあり、また、こうした書籍類でさまざまな妖怪を紹介することが、当時の年少の読者たちの情緒や想像性を育んだとする好意的な見方もある。
語彙と語義 
英語圏 
fairy:妖精ヨーロッパの民間伝承上の存在「fairy」にはもっぱら妖精の訳を当てるが、文化人類学のアニミズムにおいては、妖怪も妖精も包括される。また現在の日本文化として妖怪が、英語圏で紹介されるときの訳は「monster」:怪物とされることも多い。ただし、これらの語義の違いは、背景となる自然に対する姿勢や歴史性はもちろんだが、たんに翻訳とニュアンスに留まるところが多いため同義とはいえない。 
中国語圏 
妖恠とも表記し、妖鬼・妖精・妖魔・妖魅・妖霊といった表現がある。日本では妖怪と同意では使われないが、妖精や精霊も妖怪を表す言葉として用いられ、精怪ともいう。幽霊については、死者の霊魂という意味は日本と同じであるが、鬼や鬼神といった意味合いが強く、日本で謂えば夜叉といったような印象がある。このように文化が近く中華文明が起源である漢字を使用する両国でも、妖怪のその意味合いが異なる。 
日本 
monster:フランケンシュタイン夭怪とも表記し、妖(夭)・鬼・お化け・怪異・怪物・化生・魑魅魍魎(ちみもうりょう)・憑き物・化け・化け物・百鬼・変化(へんげ)・魔・魔物・物の怪(勿の怪)・物の気・妖異・妖怪変化なども同様な意味で使われる。ただし、「怪物」については、日本の民間信仰で伝承されていないもの、また創作の妖怪で歴史の浅いものや、海外の民間伝承されてきたもの。または、正体の解らない不気味な生き物として、フィクションの上での、不気味な宇宙から来た外来の生物や未確認生物をいう傾向にある。 
1世紀初頭の漢や奈良時代の日本では、妖怪とは「怪しい奇妙な現象」を表す言葉であっが、様々な神や伝承や怪談や宗教や価値観と結びつき、派生し生まれた結果、詳細の解らない現象を、具体的な形を持ったものの仕業としたため「怪異を起こす存在」を妖怪と呼ぶようになったと考えられる。 
日本においては、欧州や西方大陸で伝承される魔物の類も、妖怪として扱われることがあり、西洋の吸血鬼や狼男だけでなく、中国の奇書「山海経」など、中国由来のものを含め「大陸妖怪」や各々「西洋妖怪」・「中国妖怪」と呼ぶ例もある。日本の風俗から外れた、海外の魔物を「妖怪」と呼び習わすのは、こうした日本以外の文化が様々な時代に流入し、ある程度の歴史を持っているからである。
勿怪の幸い 
勿怪の幸い(もっけのさいわい)とは、「図らずして齎された幸福のこと」である。もともとは、物の怪(勿の怪)の幸いといい、物の怪(妖怪)がもたらす幸福を意味した。山姥や鬼や座敷童子が禍や福をもたらすという、各々違う物語が伝承されていて、妖怪は祟りや恐怖だけの存在ではなく、時として幸福を授けてくれる存在であり、前述にもあるように、古神道や神道の神々や、九十九神も同様に禍福をもたらす存在である。これらは、自然崇拝に見られる特徴であり、自然の一部である天気や気候においても、適度な晴れや雨は実りや慈雨であるが、過ぎれば日照りや水害になることと共通する。 
期待しなかった事柄やものが、幸(予想に反して成長や効果や利益)をもたらす表現として、「化け」や「大化け」があり、「オバケ」の語彙や語句の一つであり、「期待していなかった新人歌手が、トップスターなった」ときなどに「この新人歌手は化けた」または、「大化けした」というように使われる。大きく成長した動植物にも使用され、「お化けダイコンやお化けヤゴ(オニヤンマの幼生の俗称)」などと使われる。古神道において、「神さび」とともに古いことだけでなく、大きなことも尊ばれてきた歴史や価値観があり、神体山としての霊峰富士や、巨木・巨石信仰の御神木や夫婦岩などがあり、この大きい「お化け」ということと根底で繋がっているともいえる。 
また、幸をもたらす効果として、より美しくする装いを「化粧」というが、妖怪やお化けをあらわす「化生」が語源ともいわれる。 
端境 
古神道においては、神奈備(かんなび)という「神が鎮座する」山や森があり、この神奈備が磐座(いわくら)・磐境(いわさか)や神籬(ひもろぎ)に繋がっていった。これら鎮守の森や神木や霊峰や夫婦岩は神域や神体であると共に、「現世」と「常夜・常世」の端境と考えられ、魔や禍が簡単に往来できない、若しくは人が神隠しに遭わないよう結界として、注連縄(しめなわ)や祠が設けられている。逢魔刻(大禍刻)や丑三つ刻だけでなく、丑の刻参りという呪術があり、古くは神木(神体)に釘を打ち付け、自身が鬼となって恨む相手に復讐するというものである。丑の刻(深夜)に神木に釘を打って結界を破り、常夜(夜だけの神の国)から、禍をもたらす神(魔や妖怪)を呼び出し、神懸りとなって恨む相手を祟ると考えられていた。 
これらに共通するのは「場の様相」(環境や状況)が転移する(変わる)空間や時間を表していて、夕方や明け方は、昼と夜という様相が移り変わる端境の時刻であり、昼間はどんな賑やかな場所や開けた場所であっても、深夜には「草木も眠る丑三つ時」といわれるように、一切の活動がなくなり、漆黒の闇とともに、「時間が止まり、空間が閉ざされた」ように感じるからである。また神奈備などの自然環境の変化する端境の場所だけでなく、坂、峠、辻、橋、集落の境など人の手の加わった土地である「道」の状態が変化する場所も、異界(神域)との端境と考えられ、魔や禍に見舞われないように、地蔵や道祖神を設けて結界とした。社会基盤がもっと整備されると、市街の神社や寺や門などから、伝統的な日本家屋の道と敷地の間の垣根や、屋外にあった便所や納戸や蔵、住居と外部を仕切る雨戸や障子なども、常世と現世の端境と考えられ、妖怪と出会う時間や場所と考えられた。 
 
魑魅魍魎

 

魑魅魍魎(チミモウリョウ)、異形のもの、もののけ、あやかし…いろいろな呼び方をされてきた<妖怪>たち。つかみどころがない、あいまいな存在である妖怪とは、いったいどのような存在なのでしょうか? 
辞書には「妖怪」とは、「人知では解明できない奇怪な現象または異様な物体。ばけもの。」とあります。どうやら日本人は人間とは違う姿や形のもの、不思議な現象を起こす存在、時には人であっても「あの人は<化け物>のような力持ちだ」という表現があるように、常人にはない能力を持っている人間をもひっくるめて<妖怪>と称してきたようです。 
日本各地でいまだに語り継がれる妖怪の<姿>に着目してみると、まず多いのが怪異な現象から想像した妖怪。例えば「鎌鼬(カマイタチ)」や「海坊主」「人魚」「幽谷響(ヤマビコ)」「野襖」「小豆洗(アズキアライ)」「ぬらりひょん」「牛鬼」「家鳴り」「ヒダル神」など、きりがないほどたくさんの仲間が伝承に残っています。 
その次に目立つのは狐、狸、蛇、猫などの動物が変化した「管狐(クダギツネ)」「古狸」「化け猫」「龍」などの妖怪。さらに「座敷わらし」や「キジムナー」「河童」や「山姥」「山爺」「雪女」「天狗」といった人の姿に近い妖怪もいれば、「日本書紀」にも登場してくるほど古くから伝承が残る「鬼」のように、怖いものの象徴、強い力を持つ存在の象徴として、人でもない、動物の姿でもない姿かたちを与えられた妖怪もいます。 
興味深いことに、彼ら妖怪たちの中には、例えば人をだます狐は、反面お稲荷さんのお使いとして、また河童や大蛇も、民間信仰では神様として祀られている場合があること。「鬼」もまた「鬼神(キシン)」という強い力を持った神として信仰の対象となる場合がみうけられます。 
また「陰陽雑記」という古い書には、平安時代に古くなり捨てられた道具が人への恨みから変化する妖怪「付喪神(つくもがみ)」が、妖怪になった後に改心して仏教に帰依し、一連上人によって如来になったという伝承さえ残っていますし、これとは逆に「夜刀神(やとのかみ)」は、本来水の神であったにもかかわらず、信仰してくれる人がいなくなったために打ち捨てられ、祀ってもらえずに妖怪となった、という伝承や、「ミコ神さん」という元来は子供の「おできを治す神様」であるはずの存在が、妖怪として伝承に残っているという場合もみうけられます。 
つまり日本の「妖怪」には、 
人々が動物の姿や怪異な現象、いい伝えなどから想像した妖怪 
妖怪でありながら信仰の対象になった、また神様のお使い役になった妖怪 
人々に忘れられ、祀られない神様がなった妖怪 
といったバリエーションが見られるのです。 
こうしてみると、妖怪は人の魂が変化した幽霊と違い、忌み嫌われるだけの「闇の存在」ではなく、人を惑わす存在でありながら畏敬の対象として、時には神様ともなるというなんとも不可思議な存在ということができるでしょう。人々の生活の中から生まれ、畏敬の対象として伝えられてきたという意味では、「千と千尋の神隠し」に登場する「八百万(やおよろず)の神々」もまた、神々といえども「妖怪」といえるのかもしれません。 
 
その昔、妖怪やもののけの伝承は人々の生活の中で、しかもごく自然な形で語り継がれてきたお話でした。現代のように、まるで魔法のごとく、海外の情報がいながらにしてテレビやインターネットなどで見られるような時代ではありません。ですから、ある地方で語られ始めた妖怪のお話は時間をかけて日本各地に広まっていった、もしくは同時発生的に同じような妖怪伝承が誕生した、と考えられます。 
例えば「河童(かっぱ)」。このよく知られた妖怪の伝承は、いうまでもなく日本全国にあります。呼び名はいろいろで、岩手県では「淵猿」と呼ばれ、「座敷わらし」という妖怪にも姿を変えるといわれるほか、「枕返し」という妖怪にもなるといわれています。 
利根川流域では「カワ神さま」と呼ばれ民間信仰の対象となっていたり、琵琶湖周辺ではガタロ、ガワタ、京都ではドンバ、島根や広島ではエンコ、川子、鹿児島周辺ではガァーッパなど、日本全国でその地方独自の名前が付いています。しかし、名前は違っても伝承から想像できる姿は頭に皿を載せた、みんなが知っているあの河童のひょうきんな姿なのです。 
反面、「ダル」ともよばれる「ヒダル神」という妖怪の伝承は西日本に多くみられ、「座敷わらし」は東北地方に伝承が集中している、といった地域性もあります。 
では今ほど情報伝達の速度が速くない時代にもかかわらず、妖怪の伝承は、そしてその姿かたちはどのようにして広範囲に拡がっていったのでしょうか?また、なぜ同時発生的に同じような妖怪伝承が誕生したのでしょうか? 
その答えを探るカギのひとつに「共同幻想・共同幻覚・共同幻聴」があると指摘されています。 
例えば、誰かが山で説明のつかない現象に遭遇したとします。それは何かいるという気配であったり、ひどく道に迷ったり、妙に腹が減ったり、妖怪「小豆洗い」が発する「シャカシャカ」というような不思議な音が聞こえたり、時には生臭い臭いがしてきたりとか、見たことのない姿の存在を目にしたように思うとか、実にさまざまです。 
こうした現象に遭遇した人々は、なにか得体の知れない存在がいるのではないか、奇怪な出来事はその存在が起こしたのでは?と思うことでしょう。これが妖怪伝承の始まりともいえる「心の揺らぎ」なのです。 
これに近隣の村で聞いた妖怪のうわさや、他の村人の知識、経験が加わると、その得体の知れない存在は「山婆」という妖怪であるとか、狐にだまされたのだとかの「妖怪遭遇話」に発展し、村中に、また村の外にも伝わって妖怪談が一人歩きしていくことになります。 
この時点で、一人の村人が経験した心の揺らぎが村全体の、さらにより広い地域の「共同幻想・共同幻覚・共同幻聴」になり、広まっていったと考えることができます。 
また、自然の恵みを生きる糧として暮らし、今よりずっと自然の出来事や動物とも近しい関係にあった昔の人々は、今よりはるかに不思議な自然現象に遭遇する機会が多かったことでしょう。ですから同じような妖怪伝承が同時発生的に生まれる機会も多かったはずです。 
その過程で地域の特性、例えば「雪女」のような、雪深いところでしか成立しない話は姿を消し、全国的に共通する要素を持った妖怪伝承と地域的に限定された妖怪伝承が生まれたと考えることもできるのではないでしょうか。 
実は、こうした「共同幻想・共同幻覚・共同幻聴」は何も過ぎ去った大昔のことではありません。「都市伝説」という現代の妖怪伝承を生む要因として、今を生きる私たちにも関係してくることなのです。 
 
日本では歴史上の出来事の記録が多く残る奈良時代以降、妖怪のお話はさまざまな文献に記録されています。前述したように、「鬼」や「天狗」は奈良時代(720)に編纂された「日本書紀」にも登場してくるほど古くから伝承が残っていますが、奈良時代はもののけ、魑魅魍魎といった、あまり姿かたちがはっきりしていない存在として妖怪が記されていたようです。 
では、いま私たちが知っている<妖怪>の姿かたちがはっきりし始めたのはいつごろかといえば、日本史上最初に妖怪が跋扈(ばっこ)した時代、平安時代末期ごろからと考えられます。 
平安時代、といえば藤原氏全盛期で「源氏物語」「更級日記」などの女流文学も登場し、王朝文化華やかなりし時というイメージがありますが、末期になると貴族が実権を握っていた世の中から、平氏や源氏といった武士階級が覇権を争う時代へと移り、社会的にも経済的にも不安定で末期的な症状を示す時代へと変わっていきます。 
有名な「源氏物語」にも妖怪やもののけが登場しますが、摂関政治全盛の安定した時代から、不安定な先行きの見えない時代へと移る中で、それまであまり姿かたちがはっきりしないあいまいな存在としての妖怪が急激に具体的な姿かたち、例えば天狗や鬼といった姿になって跋扈し始めたというのです。その結果、平安時代末期に登場する「日本霊異記」や「今昔物語集」などには、それまでにも増して妖怪に関する記述が多く見られるようになっていきます。 
なぜ平安時代末期に妖怪に関する記述が多くなるのかについては、いろいろな面で苦しい状況のなかで、どこかおおらかで、不条理な出来事を説明してくれる存在として、また時には自分たちの願望を叶えてくれるであろう存在としての妖怪をつくりだし、心のよりどころとして苦しい時代を乗り切ろうとしたからだったようです。 
この平安時代には、今に伝わる「願望を叶えてくれるであろう」別の存在が登場してきます。それが「絵馬」であり「福神信仰」です。妖怪・絵馬・福神は、当時の人々が苦しい時代を乗り切る三点セットだったと言えます。 
平安時代末期は、それまであいまいであった妖怪たちの姿が見えはじめ、人々が見えない明日を占いたいと願う時代だったといえるでしょう。 
「百鬼夜行絵巻」という絵巻をご存知でしょうか?闇の中を人知れずさまざまな妖怪変化たちが跳梁(ちょうりょう)していく様子が描かれているこうした絵巻は、室町時代に登場し、数多く描かれたといわれています。 
その中でも、室町時代の画家・土佐光信によって描かれたものとされる、京都の大徳寺・真珠庵蔵の「百鬼夜行絵巻」は有名で、ここに描かれているたくさんの妖怪は主に「付喪神(つくもがみ)」という古い道具が化けた妖怪なのですが、戦乱の鎌倉時代から室町時代にかけて、妖怪たちは静かにその仲間を増やし、妖怪の伝承もまた全国に広がっていったことは確かなようです。 
時代が下り、いよいよ江戸時代へ入ると、妖怪たちがその黄金期を迎えます。特に江戸時代中期、元禄時代の華やかな時期を経て、文化・文政・天保といった時代になると、庶民文化の爛熟ともあいまって、鳥山石燕(せきえん)により描かれた「百鬼夜行」「続百鬼」などの妖怪絵本が人気を集め、葛飾北斎・歌川国芳らの浮世絵画家たちもまた、人気のあった妖怪画にその才能を発揮していきます。 
絵の世界だけではなく、怪談話をして楽しむ「百物語」などの怪談話が流行し、怪談話や妖怪伝承を基にした歌舞伎や芝居も庶民の人気を呼んでいきました。 
ではなぜ江戸時代後期、文化・文政期にこうした「妖怪ブーム」ともいうべき時期が到来したのでしょうか? 
その要因は、元禄時代は好景気で華やかな時代なのですが、文化・文政期になると経済的に不景気な時期に入り、人々の間に不安感や不透明感が広がったのです。そこで、庶民たちは平安時代末期と同じように、妖怪という姿のないものを想像するという楽しみに心のよりどころを見つけたり、神社などに願掛けに行って絵馬を奉納したりして、何とか苦しい時代を乗り切ろうとした。並木五瓶という狂言作家が書いた「願掛重宝記」という本は、こんな悩みや病気にはどこそこの神社へ願を掛けに行けばいい、という「願掛けガイドブック」なのですが、これがベストセラーになっている。それだけ悩みの多い時代であったでは? 
元禄期という好景気の後に訪れた、悩み多き不況の時代。どこか私たちが暮らす今の時代に似ていませんか?そう、次に妖怪たちが表舞台に登場する時代こそ、昭和50年代後半から今に至る時代なのです。 
しかしこの開国=明治維新によって一挙に日本に流入した近代化の波、いわゆる「西洋的合理主義」や「近代科学思想」は、妖怪というおよそ「合理的・科学的」な思想からは程遠い妖怪たちの存在を否定する時代でもありました。明治時代は人々の自然観が大きく変化し、考え方の枠組み=パラダイムが劇的に変わっていった日本史の大きな転換点であり、人々が「もの」に豊かさを求め始めた時代の始まりでもあったのです。 
もちろん、すべての妖怪伝承がここで途絶えたわけではありません。一歩都会を離れれば、地方ではまだまだ妖怪たちが生き残っていたはずです。しかし、海にも山にも、野にも、科学で解明できない現象はないという唯物論的な考え方は、妖怪という存在を少しずつ人々の間から消し去っていったかのように思えました。 
その後、二度の大戦を経てまた「戦後」という新たな時代のパラダイムシフトが起こり、昭和30年ごろから始まった「経済の成長」と「ものの豊かさ」を第一に追求していった「高度成長期」には、山林の宅地化、木材の乱伐、近海や里山の汚染が広がり、身近な自然は急速に失われてゆきました。 
野や山、水辺の闇に住んでいた妖怪たちはその住処を追われるように人々の心の中から姿を消し、古来の人々が体験したであろう、山や海での「説明のつかない現象」に遭遇する機会もずっと少なくなったのです。 
皆さんもよくご存知の宮崎アニメ「となりのトトロ」の舞台は昭和30年代、東京近郊の多摩丘陵だといわれていますが、里山の妖怪トトロに出会えるような、牧歌的環境が東京などの近郊に残っていたのは昭和30年代前半が最後だったのかもしれません。 
昭和30年ごろから始まった「神武景気」を皮切りに、昭和48年の第一次オイルショックまで、長きに渡って続いた高度成長期においては、「お金」や「もの」が人々の精神的なゆとり、豊かさの象徴となり、そこには昔のように妖怪に「心のよりどころ」を求めたり、共同体の「願いを託す」といった必要はなくなっていました。 
また核家族化が進み、地域内の人の交流が薄れ、共同体としての意識がなくなりつつある中では、昔のように誰かの奇妙な体験談が地域の「共同幻想・共同幻覚・共同幻聴」になり、広まっていくこともまた少なくなって、妖怪はここに来ていよいよ絶滅したかにみえました。 
しかし、昭和50年代に入って第二次オイルショックの影響から経済成長がさらに落ち込み、人々の間に不景気感が広がり始めると、新たな時代の妖怪伝承が表舞台へ登場します。その象徴が昭和54年ごろから急速に広まり、全国を駆け抜けた「口裂け女」のお話といえるでしょう。 
「私きれい…?」と呼びかけて、マスクを取るとそこには耳まで裂けた口が…という都市伝説の典型として誰でもが知る「口裂け女」は、古典的妖怪の山姥をモデルにしたものともいわれていますが、帝塚山大学・岩井宏實名誉教授によれば「受験戦争が激しい中で、画一化した教育と競争についていけない、個性的な子供たちが心のよりどころを求めて向かったのが妖怪であり、小学生の塾ができるほど加熱した当時の教育戦争に対する、子供たちのアンチテーゼの意識が生んだ「共同幻想」が口裂け女だった」と分析しています。 
子供たちにとっては、得体の知れない「口裂け女」がでるから、塾へ行かなくてもよいという理由付けができ、それが同時代の子供たちの心に潜んでいた願望と共鳴して、たちまち都市伝説となって全国を駆け巡りました。そこには「塾へいきたくない」という願望と「心のよりどころ」を妖怪に求めるという、子供たちの「共同幻想」があったのです。 
面白いことに、この時期には学問向上の神様を祀る社寺の絵巻の中にも、合格祈願に混じって「お母さん、勉強しろといわないで」と書かれた絵馬が多く見られたといいます。子供たちは絵馬と妖怪、二つの異なる対象に心のよりどころを求め、願いを託し、新しい時代の怪異・妖怪伝承=「トイレの花子さん」や「妖怪テケテケ」「さとるくん」といった都市伝説の作り手となっていきました。 
 
昭和59年「中流意識」の調査が総理府によっておこなわれました。その結果はご承知の方も多いことと思いますが、90%近くの人たちが「自分は中流である」という意識を持っているという結果となり、新聞などでもずいぶん話題となりました。しかし、同時期にある新聞社が独自に収入基準などの調査項目を設け、同様の調査をしたところ、「自分は中流である」という意識を「持てた」人はわずか23%程度に過ぎませんでした。 
この結果は「表面的安定・内面的深刻」と分析しています。「意識としては中流のつもりではあるが、具体的な将来展望や経済的な先行きをみると不安であるという状態ともいえるでしょう。こうした潜在的な不安感を抱えた時代に、子供たちに人気を博していたのがリメイクされた「ゲゲゲの鬼太郎」などの妖怪や、超能力者を主人公にしたアニメ、都市伝説を題材にした映画であり、大人たちの占いブームでした。 
昭和59年といえばいわゆる「バブル期」の始まるころでもあります。異常なほどの好景気に沸いたこの時期には、高度成長期以上に「お金」や「もの」が人々の豊かさの象徴であったのですが、その裏には人々の「表面的安定・内面的深刻」という「心の揺らぎ」が潜在的にあったといえるでしょう。 
好景気に沸いたバブル期は、平成3年ごろ急速に終焉を迎えます。呼応するように、エンターティメントとしても優れた「となりのトトロ」や「もののけ姫」「千と千尋の神隠し」といった、妖怪・もののけ・八百万の神々が登場するアニメが、大人たちも巻き込んで国民的な人気を博し、これにあたかも生き物のように増殖を続ける都市伝説や風水、陰陽師人気が加わって、今に生きる私たちの心を引きつけ、ちょうど文化・文政期に訪れた妖怪たちの黄金期のような、「平成妖怪全盛期」ともいうべき時代が訪れようとする気配をみせています。 
もちろん、昔のように身近で妖怪談が聞かれることはなくなり、妖怪たちも、町おこしや自然保護運動のシンボルとなるなどキャラクター化し、存在意義が少しずつ変化しつつあります。しかし、人々が今の「先行きの見えない、苦しい状況の中」で、再び妖怪や都市伝説に、占いや絵馬に、心のよりどころや指針を求め、苦しい時代を乗り切ろうと願っているという点では、「妖怪」の果たしてきた役割は昔も今も、さらにこれからも同じなのかも知れません。 
 
「妖」

 

無情について  
釈迦の説く「無情」も「空」も本来は湿めついたものではなく、この世で眼に見える現象は総て変化し移り更るものだという、人間のいのちの在り方を本質的に示した存在論で、むしろドライなものだ。仏教的無常観を象徴しているのは、「生者必滅会者定離」、つまり、生あるものは必ず滅びる、出合う者は別れなければならないという、いわば当たり前の話。ヨーロッパにも「メメント・モリ」という表現があり、汝ら、死を覚悟せよ、と訳される。  
ヘラクレイトスの自然科学的世界観にも、「万物は流転す」とあるから、陽気で湿り気のない欧米人にも「無常」は存在するはずだ。が、日本人は無常やはかなさに傾斜する感性や情念が格別強い国民性らしく、本来の「無常」それ自体の意味の上に、過度とも云えるセンチメンタリズムが加わり、この国独自の「詠嘆的無常観」を作り上げた。  
日本人特有の美的理念には、もののあわれ、わび、さび、いとをかし、一期一会の情念があり、それらを土台に他国に見られない日本文化を築き上げてきた。以呂波歌、御詠歌に始まり、「平家物語」「方丈記」「源氏物語」等の日本が誇る古典のすべて詠嘆調の美文で、悲哀感にみちている。演歌に寄せる日本人の憧憬の深さは時代が進んでも一向に衰えを見せない。演歌の文句とメロディは一様にもの哀しく切なく、人生のままならぬ無常を情緒たっぷりにうたい上げて、多くの庶民の共感を呼ぶ。百年後も日本人は演歌をうたい続けるだろう。  
平安中期の僧源信が、「往生要集」を発表し当時の画人によって「六道絵」が描かれて以来、地獄極楽思想が日本に根付いた。それが、霊魂存在説の起因になって、ひとは「来世」の存在を信じるようになった。霊魂とは果たしてあるのか無いのか、神が在るのか無いのかと同じく、むつかしい永遠の課題である。  
幽霊の発想  
欧米に比べて日本には山や川が多い。太古からのその大自然の風景の中に日本人は霊的ななにかが存在するのを敏感にキャッチしたのだろう。人間の手を加えない自然のままの山や沼、森林は国中の至る処にある。そのおどろおどろしい樹木や河川の神秘的な眺めが、非存在の存在、つまり、幽霊の幻想を産んできたのではないか。一本一草にも魂魄が宿るとするアニミズム、霊魂不滅、輪廻転生説が科学の発達しない時代に発生したといっても無理からぬことだ。こうして、妖しげなもの、幽霊はさまざまなかたちで日本人の心や風土、文学の中に棲みついた。  
日本の古典に顕われた幽霊  
「今昔物語」「日本霊異記」にも怪異は登場するが、何といっても日本が世界に誇る「源氏物語」の「六条御息所」のくだりに描かれた「生霊と死霊」はインパクトが強い。光源氏のつれなくされた六条の方が生霊となって夕顔や葵の上をとり殺し、更に死後も紫の上と女三の宮にたたるという、凄まじい女の怨念を紫式部は細緻な筆で描き尽くす。その心理描写の巧みさは「源氏物語」を単なる美男と美女の恋の物語にとどめず、奥行きの深い心理小説に昇華させている。上村松園の描く「花がたみ」は六条の妄執の顔を見事に活写した大作だ。  
能の幽霊たち  
能は徳川幕府の式楽となり、庶民とは縁遠い芸術だが、一期一会の精神を重視して、一回限りの上演が普通だ。「橋懸り」を渡って死者があの世からこの世に立ち帰ってくる「夢幻能」の中の「野宮」にも、六条御息所が登場する。源氏と最後の別れをした嵯峨野の野宮に、毎年長月七日のその日、六条の死霊が現れ怨みと思慕の複雑な思いを述べ、演じる。その他、義経主従が西海の海で平知盛一行の亡霊に悩まされる「船弁慶」も著名だ。  
「雨月物語」の怪  
近世の代表的な怪異文学といえば、まづ、上田秋成の「雨月物語」が挙げられる。秋成は大坂の人。享保十九年に遊女の子として生れ、遊女屋で育てられながら国学を学び、立派に成長する。「白峰」「菊花の契り」「仏法僧」「浅茅ヶ宿」など九つの短編に分れているが、物語が次のテーマにつながるサークル的構成になっており、流麗で美しい描写が妖異を目前に見るごとく凄惨さをいや増す。  
歌舞伎の幽霊  
四世鶴屋南北作の「四ツ谷怪談」は女の怨霊の凄まじさで江戸庶民の度肝をぬいた。その後、三遊亭円朝によってはじめて、足のある美しい幽霊「牡丹灯篭」が上演された。幽霊の出現の理由は二通りあり、恨みを晴らしにこの世に立ち返るお岩と、生者恋しさに現世に舞い戻ってくるお露の姿は、醜の局地と対比させた美の極致と言えよう。  
小泉八雲の再話文学  
ラフカディオ ハーンが日本に足を踏み入れたのは明治23年40歳のときであった。出雲の松江中学の英語教師に職を得て、小泉節子と結婚、長男が生れたのを機に、小泉八雲と改め、日本に帰化する。「何もかも誰もが小さくて神秘的で、まるで御とぎ話の妖精の国だ」と喜んだ隻眼の詩人は、節子夫人から聴いた日本の怪談話に異常な興味を示し始める。以後、日本の怪談を読み漁り、抹香臭い原話を字自分流にアレンジして新しい創作として世に送り出し、世界に紹介した。つまり、八雲の「再話文学」の誕生である。「十六日ざくら」「うばざくら」は伊予を舞台とし、「耳無し芳一」「茶碗の中」等、傑作が多い。霊魂不滅を説き、一本一草にも「心」があるとする彼のアニミズム論は再話のいずれにも色濃く顕われている。単に怪奇趣味を満たすためでなく、西洋文化に汚染されていない当時の日本人の素朴さ、人間としての誠実さをチーフにヒューマンで美しい怪奇談を紡ぎ上げた功績は大きい。  
「遠野物語」  
岩手県南東部の盆地、遠野市に伝わる民間伝説を民俗学者の柳田国男が収集したもの。「ザシキワラシ」等の幻想の中の実在を描き、その独特のリアリズムが総毛立つような恐怖を与える。  
明治期の幽霊  
明治に入り、泉鏡花の一連の名作にも必ず幽霊が登場する。「高野聖」「白鷺」「歌行燈」などが代表作。その他森鴎外に「蛇」という一篇がある。仲の悪い姑が初七日に蛇となって現れ嫁を発狂させる短編だが、現実主義の主人公(鴎外)はそれを科学的な根拠から解明していく。医学者の鴎外には所詮、幽霊の幻想は通じなかった。霊に感応する人としない人が居るのを証明した異色短編。  
新田次郎「八甲田山死の彷徨」  
青森歩兵隊第五連隊が八甲田山中を行軍、殆どが凍死する。軍首脳部が、日露戦争にそなえて真冬の高冷地における人体実験を行った最も悲惨な訓練として歴史に悪名を留める。取材に訪れた新田次郎は十和田湖に近いその夜の宿で兵たちの亡霊に出会う。その他、自分の乗った馬の先を行く幽鬼に導かれて、眠っている間に本能寺に着く「その夜」の明智光秀を描く井上靖の「幽鬼」など、数多くの名作に、この世にあらぬ「妖」が登場する。  
水木しげるの「妖怪」 
幽霊とは人間が化けたものだが、妖怪は動植物が変じたもの。彼らは田舎の片隅の一定の場所で暮らし、時に人おびやかすが、元来、人間好きで、仲良く暮らしたい願望を持つ。自然と人間が信じ合うとトーテミズムをテーマに奇抜な妖怪を描いて人気が高い。「小豆洗い」「袖引き小僧」「天井なめ」など。   
 
民話

 

椿の淵のうなぎ 
昔、城東郡西方村というところに大きな椿の木があり、椿が谷と呼ばれていました。 
村人たちは、畑をするのに日陰になってしまうほどに椿の木が枝を広げるものですから、切り倒してしまいました。その椿の跡に自然と淵ができましたので、村の人たちはその淵を「椿の淵」と呼んでおりました。 
ある夏の日の夕方、ひとりの男が野良仕事をした帰り道に椿の淵を通り、ふと見るとウナギがたくさん泳いでいました。 
「こりゃあ旨そうだ。明日のごちそうにしよう。」 
男は夢中になってウナギを捕まえ、近所の人に配るほどたくさんのウナギを捕りました。 
「きっとおかぁも喜ぶぞ。」 
男はにこにこしながら持ち帰り、家に着くとウナギを桶に入れて冷たい水をはって涼しいところに置きました。その晩はひとしきりおかぁとウナギを捕まえたときのことを語り合い、明日のごちそうを楽しみにして床につきました。 
翌朝、男はおかぁの「ヒャーッ!」という叫び声で目がさめました。 
「どうしたんだい、そんな声をあげて…」 
男が縁側の方へ行ってみると、ウナギを入れた桶の傍でおかぁが桶を指差してひっくりかえっています。桶をのぞき込んで男もびっくり。きのう捕まえたウナギが、全部蛇になってしまっていたのです。 
「こりゃぁ、どうしたわけだ。」落ち着いてから男は考えましたが、どうも合点がいきません。きつねにつままれたのかと思いましたが、おかぁも昨日見たときはウナギだったと言います。 
近所の爺さんに聞いてみても、そんな話は聞いたことがないと言って気味悪がりました。 
この話は村中で知られる話となり、椿が谷の衆はウナギを捕って食べることはなくなったそうです。  
牛石のアゴ付御朱印

 

東海道から倉真の方へ向かう山道を奥へ奥へと歩いて行くと、郡境近くの山を眺められる場所に出ます。その峠にちょうど牛が寝そべっているようなかっこうをしている石があって、村の衆はみな、「牛石」と呼んでいます。 
江戸は慶長の頃のこと。牛石の下の部落「牛の下」という所に、たいそう働き者の百姓がいて、名前は治右衛門といいました。 
あるとき、いつものように、牛石の峠の畑で仕事に精を出していると、何の用事で来られたか知らんが、権現様(徳川家康)が数人のお供を連れてやって来て、そのあたりで休息されたそうです。治郎右衛門の婆に目を止めた供の者が、 
「これこれ、まことに相すまぬが、上様がお疲れになり、お茶を所望しておられる。茶を一煎用意してくれぬか。」 
とことばをかけられました。治右衛門は、 
「これは恐れ多いことでございます。今しばらくお待ちくださいませ。急いで持参いたしましょう。」 
と言って早速家に帰り、お茶の支度をして上様に差しあげました。上様はことのほかご機嫌で、 
「これはうまい。生き返った心地がする。褒美にこの牛石のあたりの土地をお前に与えよう。」 
と言われ、「アゴ付け御朱印」と呼ばれた、アゴをノドに付けてその場所から見える限りの田畑山を与えるというご褒美を治郎右衛門に書付として下さいました。それであの牛石あたりの土地は治郎右衛門さんのものになったということです。  
大蛇退治

 

むかしむかし、榛原の湯日村養勝寺の宗鑑禅師というお坊さまが旅の途中、東海道小夜の中山の途中にある「沓掛」というあたりに差しさしかかり、なにやら大勢の村人たちが泣いている姿に出くわしました。 
「こんなところでなにを泣いておられる。」 
禅師は村人たちに事の次第をたずねました。すると村人たちは、 
「この下の谷、水井の地に龍が棲んでおり、夜な夜な街道へ出て鶏や童子をとって喰います。昨夜も子どもが一人とって喰われました。」 
と、恐れて泣きながら話しました。これを聞いた禅師はあわれに思い、法力によって龍を退治することにしました。 
沓掛の松の一番高い枝にけさと衣をかけ、一番低い枝に履物をかけて、はだか・はだしになると谷川へ行って三日三晩呪文を唱えながら身を清めました。そして禅師は大井の池の面を見つめて、一心に経を唱え続けました。 
すると、苦しそうに身をよじりながら大蛇が水面に体を出しました。和尚さまはさらに高い声でお経を唱え続けます。大蛇は苦しそうにのたうちまわり、そのうち体が縮まってきました。経は七日七晩続けられ、とどめの経を唱えた時、わずか二十厘ほどの小さな蛇の姿となり、池のほとりの穴に落ちてしまいました。 
大蛇退治を終えた和尚は衣服をまとうと村人たちを呼びました。 
「もう大丈夫じゃ。安心して暮らしなさい。」 
そう言うと、帰り支度を始めました。村人たちは、和尚さまに感謝し、村にとどまって住んでくれるよう頼みました。皆で池のほとりを整地し、寺を建てて常現寺と名付けました。和尚さまもこの水井の地にとどまり、寺の始祖となって仏の道を人々に説いてくださいました。  
常現寺と水井と逆川 / 大蛇退治解説 
常現寺 
龍谷山常現寺は、旧国道1号線バイパスを日坂宿から東へ500mほど上った南側にあり、延命地蔵を本尊に奉る曹洞宗のお寺です。この寺がある地は、近年まで水井と呼ばれていました。「掛川誌稿」(文化2年・1805)巻四、日坂宿の項に、龍谷山常現寺の記述があります。曹洞宗、奥野村、長松院の末と記されるのに続いて、 
「日坂宿水井ト云所ニ在リ、御朱印ノ寺田七石アリ、開山覺雄鑑和尚(*)、大永六年六月十一日死ス、二世盛庵宗梁和尚、某翌年閏八月廿四日死セリ、其創建ノ年紀推シテ知ルヘシ」 
大永六年は西暦1526年、戦国時代(室町後期)にあたり、「掛川誌稿」に著されていることからも、江戸時代にはすでに古刹として名高い寺であったように思われます。寺は安政九年に焼失しましたが、文化三年に再建され、今も美しい寺が残されています。 
* 常現寺の縁起には覺雄宗鑑(カクオウソウカン)禅師とある。 
逆川と龍退治 
掛川には多くの沼池が点在しており、それらの沼池には「鞍骨の池」、「椀貸池」など、さまざまな伝承が残されています。常現寺の現住職の話では、寺の裏手付近に昔は池があり、その池は安政の大地震(安政元・1854)のときに山が崩れて埋まってしまいました。それまでは蛇塚のような、この話にまつわる碑があったようですが、残念ながら現在では龍退治の伝承に所縁のあるものは残されていません。このあたりは安政の大地震で地形が変わったうえに、新バイパスの工事で高架が架けられ、今では寺の周辺は明るく開けた印象になりましたが、沓掛・水井の地は、箱根と並ぶ東海道の難所といわれた小夜の中山をひかえた日坂宿という小さな宿場のはずれにあたります。当時は草木が茂った薄暗いところだったのでしょうから、旅人や近隣の人からこのようなお話が伝えられたのかもしれません。 
昔話に出てくる龍(大蛇)は、ヤマタノオロチ退治に代表されるように、川を現わしている場合が多い。この大蛇退治で大蛇が川を現わしているとすれば、「逆川(さかいがわ)」という川が日坂から掛川の宿場近くを流れていますから、この川のことと思われます。逆川の水難に関する記録は見当たりませんが、川に関わる何らかのメッセージが込められた伝承なのでしょうか。今では使われなくなりましたが、水井という地名と龍退治の伝承が関係しているように思われます。 
沓掛のおまじない 
この昔話の中で、鑑和尚は日坂の宿へ着くと、沓掛の松に袈裟衣と履物をかけて裸になります。この和尚の行動は、東海道を旅した人々の間で流行したおまじないに通じるもので、江戸時代の人々は、沓掛(地名)で新しい履物に履きかえ、古くなった履物を木に投げて旅の安全を祈願したといいます。  
雨ふり坊主

 

昔、本郷の名主に小沢八太夫という情深い立派な人がおりました。八太夫の屋敷には一本の大きな樫の木があり、この樫の木がたいへん気に入っていて八太夫は大事に育てましたので、樫の木はぐんぐん枝葉を伸ばし、遠くの村の方からもよく見えたということです。木がこのように大きくなりすぎたので、屋敷は昼間でも半分しか陽がささず、人々は「日陰の館」と呼んでおりました。 
さて、この八太夫の屋敷に一人の下働きの男がおりました。毎日水を汲んだり、まきを割ったり、庭を掃除したりする他に、この男にはもっと大事な仕事がありました。それは、夜になると、広い屋敷内を火の元は大丈夫か、戸締まりを忘れた所はないか、と見てまわる仕事でした。 
ある雨の降る夜のことでした。男は、 
「こんな夜は何となくいやなものだ。今夜は早いとこ切りあげよう。」 
と、ひとりごとを言いながら、みの笠を着て見回りに出掛けました。 
「火の用心、火の用心」 
男は、いつものように屋敷を見回りました。そして灯籠(とうろう)のところまで来ると、何となく灯りがボーッと明るくなっていました。おかしいな、と思いながら近づいてみると、いつ誰が灯したのか、もう先に火が灯っているのです。不思議に思いながらも、見回りを続けてその夜はいつもより少し早めに切り上げました。 
さて、男は日々の忙しさに追われて、その夜のことは忘れていました。それから一ヶ月ほどたったある日、朝のうち晴れていた空から日暮れ近くポツポツと雨が降り出しました。男はいつものように、みの笠を着て屋敷を見回り、灯籠に火を灯そうとして見ると、また誰が灯したとも知れない火が灯っていました。 
次の朝、男は早速みんなに聞いてみました。ところが誰一人雨の夜わざわざ火を灯しに出掛けた者はありません。ますます不思議に思った男は、今度こそ誰が火を灯すのか見つけてやろうと、雨の降る日を待ちかまえていました。 
二週間ほどして、シトシト雨の降る夜、男はいつもより少し早めに見回ることにして、誰が火を灯しているのか確かめようとしました。そして例の灯籠の所まで来ると、何やらボーッと人影らしいものが見えました。その影は灯籠に火を灯して歩き出そうとしています。雨をすかしてよく見ると、なんと坊さまの姿をしたかわいらしい子どもです。 
「この辺では見かけない子どもだが、はて誰だろう。」 
男はそっとあとをつけてみることにしました。つけられているとも知らぬ小坊主は、それから家の隅々を見て回り、大きな樫の木のところまで来ると、ふっと姿が見えなくなってしまいました。木の陰にかくれたのだろうか、と思って男は木に近づいてみましたが、あたりには猫の子一匹おりません。男は背筋がゾーッとなりました。 
翌朝、男はこの話をみんなにしました。この話はたちまち屋敷中に伝わり、まもなく近郷近在に知れわたりました。それはきっと大事に育てられた樫の木が、小坊主に姿を変えて屋敷を守ってくれたのだろうということになりました。人々は誰言うともなく、これを「雨降り坊主」と呼んで、今まで以上に樫の木をだいじにしました。 
それから後、八太夫の屋敷では、雨の夜の見回りはしないようになったということです。  
せせらぎ長者

 

昔、遠州地方をまたにかけて、荒らしまわっていた日本左衛門という大盗賊がいました。金谷の宿の生まれで名を友五郎といい、大変利口ですばしっこい子供でしたので、「友五郎は、将来大物になるに違いない。」と、父親は末を楽しみにしておりました。 
ところが、両親があまりにも甘やかし過ぎたので、大きくなるにつれ乱暴者になり、十五、六才の頃には、手下を連れて、あちらこちらの金持ちの家に押し入る盗賊の頭になっていました。あるとき、手下が日本左衛門に言いました。 
「お頭、掛川の在の鳥居町という所に、せせらぎ長者という、金持の家を見つけたぜ、ケチで相当に貯めこんでいるという話だぜ。」 
「そうか、そりゃあいい、嫌われ者の金持が俺らの狙うところだ。」 
月の終わりの闇夜を選び、せせらぎ長者の屋敷に押し入ったのです。千両箱や着物を奪い、美しい嫁さんまでさらって行こうとしたので、せせらぎ長者は大声でどなりました。「やい、泥棒、嫁まで盗むな。」と、しがみついたので、さすがの友五郎も手をゆるめたその隙に嫁はするりと逃げました。 
翌日、長者は掛川城主に、昨夜のことを話し、盗賊退治を願い出ました。次の日も次の日も願い出ました。「藩への用達をしぶっている程だ、千両箱がある筈がない。」と、なかなかお取りあげになりませんでした。 
長者は仕方なく妻の在所に相談に行き、こうこうしかじかと今迄の話をしました。妻の在所は浜北の庄屋様でした。「掛川のお殿様に不義理があったのでは、お取りあげ下さらないのも当然じゃ、仕方ない、奥の手を使わなければ。」と、庄屋は江戸表の南町奉行所へ訴え出ました。ようやく願いは聞き入れられて、大勢の捕方が江戸からやって来ました。「何だろう。御用ちょうちんで金谷、掛川、袋井は、いっぱいだ。」「大泥棒の日本左衛門を捕らえにきたそうだに。」「すごい捕方だねえ、これじゃあ、猫の子一匹逃げられないよねえ。」そして日本左衛門の一味はとうとう捕まりましたが、日本左衛門だけは、いち早く姿をくらませてしまいました。「日本左衛門の居場所を教えよ。」と、責められている手下の様子を知った日本左衛門は、見るに見かねて、京都奉行所に名乗り出ました。後、町内引き廻しの上、打ち首になりました。 
せせらぎの長者は日本左衛門の捕えられた事を聞き、ほっとしました。しかし義賊に入られたという事で、大変肩身の狭い思いをしたので、以後は人助けに励んだという事です。 
掛川城主も盗賊取締が出来なかったという事で、奥州の小さな城主に国替えになったという事です。  
福天天狗さま

 

掛川宿から一里ほど先、菊川の里の西よりに龍雲寺というお寺があります。 
今からちょうど400年ほど前のこと。龍雲寺の和尚さんの弟子に、龍仙という小僧さんがおりました。ある日、和尚さんがいつものとおり部屋で書き物をしていると、兄弟子が血相を変えて 
「和尚さま!たいへんです!龍仙が気がふれてしまいました!」 
と飛び込んできました。 
「何を言っておる…」和尚さんは、小僧さんたちが集まっている本堂の広間にゆっくりと歩いていきました。龍仙の姿を見た和尚さんはびっくり。龍仙は、ふだんの優しい顔とは似ても似つかない狂気走った目で、寺の板縁を踏みならしながら、狐付きにあったように妙なことを口走っているのです。それでも気を取り直して、龍仙の言っていることをよく聞いてみると、 
「我は福天という天狗なり。神代のころより天狗の首領なり。寺の向かいの山に住んで8万96年になる。この龍仙に取り付いて我が存念を語らんがためなり!」 
「どうも龍仙には偉い天狗さまが取り付いているらしいの」と和尚さんはいい、熱心に語る福天という天狗のことばに耳を傾けました。 
「諸国高山を遊歴し、秋葉山にしばらく留まり、三尺坊とも心易い仲である。今またこの山に帰らんと思う。この山上に宮を建立し、福天大権現と崇めなば、この村に災いが起こるであろう。」 
福天天狗はたいへんなことを言いはじめました。 
和尚さんは一大事と思い、福天天狗に聞いてみました。「もしかしたら狐か狸かもしれない。あなたが天狗さまだという証拠はあるのですか?」龍仙に取り付いた福天天狗は、 
「証拠はある。我が往古に住んだ8万96年前、大きな鈴をひとつ山の頂上に埋めておいた。山のてっぺんを掘ってみるがよい。五尺下からその鈴が出てくるはずだ。」 
和尚さんは、さっそく人夫に山の頂上を掘らせました。すると蹴鞠(けまり)ほどの金の鈴が出てきました。和尚さまの疑いは晴れましたが、 
「どうやら、ほんとうに天狗らしいな。しかし、わしは未だかつて天狗の姿を拝んだことがない。まことの天狗ならば、その姿をわしに見せよ。」 
と申しました。天狗は今度は忍明という小僧に乗り移り、 
「我のまことの姿を見れば、たちまち悶絶するであろう。それほどに疑いあれば、今夜燈の影に写して見せてやろう。」 
やがて夜になり、小僧さんたちは神妙な面もちで本堂の広間の障子に灯の蝋燭を立てました。すると、目には小僧の姿である忍明の影が、鼻の高さは三尺あまり、絵に描いたような天狗の姿となって障子に写りました。 
「これは天狗さまにまちがいない」和尚さまは天狗のことばどおり、秋南山の頂上に福天天狗の宮をつくって供養しました。村の人々も「福天さま」と呼んで大切に奉ったそうです。  
金こい銀こい

 

昔むかし、六部さまが掛川の原泉というところにやってきました。六部さまは今夜の宿をさがしておりましたので、 
「もし、ちとお頼みしたいのだが、今宵はこの村に泊めていただきたい。どこぞ夜露をしのげるところはありませぬか。」 
と村人にたずねました。村人たちは、 
「そうだなあ。この村の中ほどに、昔長者さまが住んどった空き屋敷があるが、あそこはどうじゃろう。」 
といい、庄屋さまに相談して六部さまを泊めてあげることにしました。 
六部さまが屋敷へ行ってみると、それは大きな空き屋敷で中は荒れ放題、庭は草ぼうぼうでしたが、夜露をしのげることに感謝しながら静かに床につきました。 
さて、真夜中のこと。夢うつつの中で、なにやら人のがやがやという声に目が覚めました。「はて、何事であろう。」暗闇の中でじっとしていると、不思議なことに、数えきれないほどの金の玉、銀の玉が、座敷中をコロコロ、コロコロと転げまわっていました。その金の玉、銀の玉は、お互いに「金こい、銀こい」「金こい、銀こい」と呼び合いながら楽しそうにたわむれていました。六部さまは、あまりの不思議なことにじっとみつめていました。やがて一番鶏が鳴くと、座敷中を転がっていた玉たちは、大きな玉を先頭にして「金こい、銀こい」「金こい、銀こい」と呼び合いながら外へ出ていきます。そして、不思議なことに裏の戸口から数間離れたところまでいくと、ぽかっ、ぽかっとあれほどたくさんあった玉が、みんな消えてしまいました。 
翌朝、なんとも不思議に思った六部さまが、玉の消えたあたりの草むらを調べてみたところ、古井戸をみつけました。「何やらこの井戸の中に訳があるやもしれぬ。」六部さまは、庄屋さまにこの話しをして、もう一晩泊めてもらいました。真夜中になると、六部さまが思ったとおり金の玉、銀の玉は、昼間みつけたあの古井戸から出てきました。 
三日目の朝になって、六部さまは庄屋さまに昨夜のできごとを話し、村人たちとともに、その古井戸を調べてみることにしました。覗いて見ると、井戸の底になにやら茶色いものが見えます。村人たちが見守る中、六部さまが古井戸の中に降りていきました。中にあったのは、三つの瓶(かめ)でした。みんなで引き上げて、庄屋さまが恐るおそるふたを取ると、びっくり仰天、中には金貨、銀貨がぎっしりと詰まっていたのです。庄屋さまは、「この屋敷は代々指折りの長者さまだったから、その当時に蓄えたものがそのまま埋もれていたのだろう。」とおっしゃいました。六部さまが来られたので、主の無念からこの宝が古井戸にあることを伝えたのだと。庄屋さまはじめ村人たちは、この宝で没落した当家の菩提を弔うことにし、六部さまは小さな庵を建てて菩提を弔いながら村で暮らしたそうです。  
おじいときつね

 

むかし、金谷に「かいさくじいさん」というとうふ屋がいました。 
おじいは毎日とうふや油揚げをかついで、牧之原のほうぼうへ売り歩いていました。 
一日売り歩いて弘法坂から大杉のあたりまでくると、真っ暗な道になります。そんなとき、かついでいる荷が急に重くなって、そのうちまた軽くなり、帰ってオケをあけると、残っているはずの油揚げがなくなっているのでした。 
おじいは「キツネのしわざにちがいない」と思い、くやしがりました。それで、大杉のあたりで荷が重くなると、てんびん棒で、めくらめっぽうあたりをたたきつけるようになりました。しかし、やっぱり帰って見ると、油揚げはなくなっているのです。 
こんなことが続いているうちに、おじいはキツネのことをまるで知り合いのように思うようになってきていました。 
ある日のこと、かいさくじいが、ぽっくり死んでしまいました。そのお通夜の晩、いつ来たのか身なりの立派なおかみさんが、枕もとでお線香をあげて帰りました。居合わせた人々は、このおかみさんのことを誰ひとり知りませんでした。そのうち一人が、「さっきの女の人は、おじいがよく言ってた油揚げの...」と言いました。みんなも「そうに違いない。お礼を言いに来ただ。」と、口ぐちに言い合いました。  
十九首の首塚さま

 

今からおよそ千年も昔のおはなし。 
相馬大太郎将門は、下総の国(今の千葉県)に本拠を構えて、勢力を増していました。その力は関東八州におよぶ勢いです。将門は、朝廷に逆らって、屋敷を御殿のように造り、周りの人にも「平親王」と呼ばせて、日本中を自分のものにしようとしていました。そのことは朝廷にも伝わり、朝廷は諸国の強い武士を集め、将門討伐軍を結成しました。 
大将は藤原秀郷と平貞盛です。討伐軍は、すぐさま将門のもとに向かいました。都では、実朝大僧正という方にお願いして、高尾山の弘法大師手彫りの不動明王に、21日の間討伐軍の勝利をお祈りをしました。ついに満願かなって天慶3年2月14日、将門は滅ぼされました。天慶の乱です。 
大将の秀郷は、将門の首級と念持仏の薬師如来、相馬家代々の家宝をそろえて京に上ることになり、歩を重ねて、掛川の里まで来ました。一方、朝廷から命を受けた検視役が西から下っており、掛川の里で出会いました。 
秀郷は、ここを流れる清流で将門たちの首を洗って橋にかけ、検視を受けました。朝廷の使者は、検視が済むと首を捨てるよう命じましたが、秀郷は、 
「たとえ朝廷にそむいた者といえども、名門の武将の屍にむち打つことはしのびない」 
と言い、将門一門の十九の首を別々に埋葬して、ていねいに供養したということです。天慶3年8月15日のことでした。 
この首実験のあと、検視役の使者は、将門のつるぎ、黒白二双の犬の掛軸、念仏仏の薬師如来他の宝物を、東光寺の草庵に収めて帰りましたが、のちに神社に移し、この神社を十九首権現、十九首八幡と改めました。 
この八幡様や宝物には、数々の言い伝えや不思議話が残されていて、今でも命日である8月15日にはお祭りがあります。  
若宮大明神数馬の幽霊

 

「で、でたぁ-」 
外から帰ったきこりの甚兵衛は、家へつくとヘタヘタと尻もちをつきました。 
「なんだねぇ、何がでたんだね。」 
おかみさんが亭主のあわてようにたずねると、 
「大入道よ。わしが谷の六さまの前を通って松の木の横を通ったらな、ものすげえ大入道が出て、わしをにらみつけたのさ。」 
それから3日たった夜、甚兵衛と同じところを通った茂七も青くなってとんで帰ってきました。 
村中で次々に大入道の幽霊を見たというものが出て大騒ぎです。 
その幽霊は、身のたけ1丈あまりもある大男の武士の亡霊でした。 
刀を差し、片手に草履をもち、目は片方を斜めに切られ無念の形相すさまじく、口をカッと開いて、 
「やれ恨めしやなあ、汝をとり殺すぞ!」 
といって追いかけてくる。 
幽霊に出会った村人はたいそう驚き、寝こんでしまう者まで出て、村人はこの殿谷(とんのや)あたりを通らなくなりました。 
あるとき、ひとりの気情な村の男が、亡霊の出る道を夜更けに通りました。 
やはり亡霊は男の前に出て、その姿は片目で草履を片方しか履いていません。 
村の男が怖い気持ちをおしころして逃げずにいると、亡霊が話しはじめました。 
「われは宗忠の子、河合数馬将忠(かわいかずままさただ)という者である。隣村の城主荒重のもとへ行った帰りに酒に酔って城主の草履を取り違えて履いたことをとがめられ、荒重に手討ちにされた。身内が弔ったが墓石は幾百年の時を経て忘れ去られ、草むらに埋もれているが、大名の子と生まれ土民の足下となることは口惜しい。何卒懇ろに弔ってほしい。」 
これを聞いた男は、さっそく石碑を建てて亡霊を弔いました。 
さて年月は経て、ある年の9月8日の夜のこと。 
村の庄屋の太郎左ェ門の枕もとに数馬の亡霊が現われました。 
その夢の中で亡霊は、「石碑を建ててもらったが、霊を神として祭ってくれれば、永くこの村の氏神となるべし。」 
と頼んで消えました。 
太郎左ェ門は村人たちにこのことを話して、小さなお宮を建て数馬を氏神として祭り、若い殿様の霊なので「若宮大明神」と名付けました。 
今でもこの村では、毎年旧暦9月8日(10月7日)のお祭りが続けられています。  
長福寺の鐘

 

むかし、掛川の長福寺に旅の僧が立ち寄り言いました。 
「大和の国まで行くのだが、少しお金を恵んでくだされ」。 
丁度そのとき大好きな碁を打っていた和尚は、自慢の大鐘を指差して、 
「金ならあそこに吊してある。あれでよければ持っていけ」と、からかいました。 
旅の僧は、つり鐘堂にあがると鐘を軽々と下におろし、ふわりと肩にかつぎあげて、 
「和尚、もらっていくぞ!」 
と叫び、西の空に飛んでいってしまいました。 
和尚も、うわさを聞いて集まった村人も、おろおろするばかりでどうしようもありません。 
その夜、「役の行者尊(えんのぎょうじゃそん)」をまつった大和の国の大峰山では、ひどい嵐が吹き荒れました。翌朝、村人が外に出てみると、険しい岩山の松に大きなつり鐘がかかっています。不思議がりながら、やっとの思いで近づいてみると、その鐘には「遠江国佐野郡原田郷(とうとうみのくにさのごおりはらだごう)長福寺鐘天慶七年六月二日」と彫ってありました。 
旅の僧が役の行者尊の化身だったと気づいた村人たちは、長福寺の裏山にお堂を建立して、行者尊をまつりました。けれどそれ以来、何度つり鐘をつくっても、その音が寺の外には聞こえなかったそうです。  
洞善院の馬頭観音

 

昔、金谷に清八という者がおりました。 
ある日、一人の六部が清八のところへやってきて一晩泊めてくれとたのみました。 
気のよい清八はお安いご用だと、その六部を泊めてやりました。 
ところが、これが悪いやつで、夜中にふとんを盗みだして忍び足で逃げ出しました。 
ちょうど馬小屋の前までくると、そこにいた馬がふとんの端をくわえて引き留めました。 
驚いた六部が振り返ってみると、その馬が 
「おれは長らくこの家に飼われている馬だ。今お前が主人のものを盗みだすのを見て見ぬふりすることは出来ん。しかし、ひとつ頼みがある。ほかでもないが、おれには今、死期が来て、間もなく死ぬるが、お前はおれが畜生道から免れて、来世は人に生まれ変われるように弔ってくれないか。頼みというのはこの事だ。」 
と、人のことばでしゃべったので、六部は縮みあがって寝間へ戻り、夜が明けるのを待ちました。 
夜が明けるとさっそく清八のところへやってきて、昨夜の話を告げて罪をわびました。 
清八も驚き、その馬のところへ行ってみようと、二人で馬小屋へ来てみると、馬はすでに倒れて死んでいました。 
清八は洞善院の住職に起こったことを話し、ねんごろに供養し葬ってやりました。そんなことがあったので住職は洞善院に馬頭観音を建てたそうです。  
八柄の鉦

 

むかしむかし、小夜の峠で八柄鉦をたたく男の子がいました。八柄鉦は腰につけた八つの鉦を、ぐるぐる回って浮かしながらたたくという、たいそうつらい芸でした。ある日、峠を通りがかった旅人が、芸が終わって草むらで休む男の子に声をかけました。 
「小ちゃい体で、つらかぁないかね」 
「つらいけど、家にゃもっと小ちゃな弟や妹がおるから。それに、じぃちゃんが、鉦にゃ八人の仏さまがついとる、いい音鳴らしてりゃ、いいことあるって言っとるし」そう男の子は、いじらしく笑いました。 
用を済ませた帰り道、旅人はまた峠にさしかかりました。その日はちょうど雨。男の子は雨の中で鉦をうち鳴らしつづけ、旅人の目の前で倒れて、あっけなく死んでしまいました。ふびんに思った旅人は、村人と一緒に小さなお堂を建てました。 
それからというもの、雨の日、峠ではお堂から鉦の音がひびくことがあったとか。そんなとき、人々は「仏さまが男の子のために鉦を鳴らしてる」と言ったそうです。  
遠江塚(とおとうみづか)

 

昔、遠江の国掛川の里に、松平隠岐守(おきのかみ)定勝という殿様がいました。 
この方には、遠江守定吉という若殿がいて、幼いころから武芸に励み、 
弓矢をとったら天下一と自慢するほどで、 
伯父の徳川家康からは、 
「のちのちは、関東の旗頭ともなるべし。」 
といわれ、たいへん可愛がられていました。 
ある日のこと、家康が京に上る行列が、掛川にやってきました。 
定勝はこれを迎え、定吉に 
「遠江の国を出るまで、お送り申せ。」 
と、言い付けました。定吉は言い付けどおり将軍を守って荒居の渡しにやってきました。 
何隻もの船を連ねて海へ出、定吉も家康の船に乗って、しばらく行くと、空の彼方に一羽の鷺(サギ)が飛んでいるのが見えました。 
将軍も供の侍達も、何気なしに眺めていると、定吉はそばにあった弓を取り、矢をつがえて、はるか彼方の鷺を狙って弓を射たのです。 
居並ぶ人々は拍手を送り、その見事な腕前をほめたたえました。 
得意になった定吉が、家康の御前に出ると、おほめにあずかるどころか、 
「つまらぬ殺生をするな。飛ぶ鳥も景色のうちじゃ。 
たとえ弓矢をとるにしても、万が一射損じたらどうする。 
そちは皆の笑い物だ。いたずらに腕をほこるものではないぞ。」 
と、お叱りを受けてしまいました。 
わずか十九歳の定吉は、掛川のお城に帰ると、あまりのはずかしさに、その夜のうちに切腹して果ててしまいました。突然の出来事に城中は大騒ぎとなり、定吉の従者二十数人も、その後を追い切腹して果てました。 
父定勝は、家康に内密で場外の西南郷下俣になきがらを移し、定吉の手習い師匠であった真如寺の和尚さんによって自害した若侍たちと供に葬られました。 
その後、ここに五輪の塔が建てられ、遠江塚と呼ばれるようになり、定吉が武勇に優れたすばらしい若武者だったことから、この墓に願をかければかなうと言われて、弓矢、刀、鎧などを供え、強い男の子に育つようお参りする人が多かったということです。  
鞍骨の池(鞍橋の池)

 

享徳五年如月(1456年2月)のこと。 
今川氏一族である堀越入道陸奥守貞延は、多くの戦で功をたてた人物であったが、長い戦に兵糧が乏しくなり、追われる身となっていました。 
馬を駈って広場の池近くまで来たとき、入道は疲れ果てて、馬の背に覆いかぶさるようにしてうとうとしていると、池で子どもたちが鮒やどじょうを夢中でとるはしゃぎ声が聞こえてきました。そこへ入道の追手らしき数人のさむらいがどやどやと駈けてきて、子どもたちに聞きました。 
「おい、わらべども。ここらあたりに馬に乗ったさむらいが来なんだか。」 
子どもたちは恐がって、蜘蛛の子を散らすように逃げ去りました。 
「そう遠くへは行っていないぞ。さがせ。」 
と、なおも入道を追って動き出す敵兵たちの話声が聞こえてきます。入道は耳をそば立てて聞き、馬の足音を隠しながら、逆川に沿って西の方へ走りました。 
しばらく行って、牛頭(ごうず)へ入った道脇に大きな池をみつけました。 
「なんと美しい池だろう。」 
透き通った水面をのぞくと、色あせた鎧、髭が伸びた自らの姿が写りました。 
「もはやこの体では逃げおおせまい。ふるさとの景色に似たこの池のほとりに骨を埋めよう。」 
意を決した入道は、自分の愛馬陸風は生かしてやりたいと思い、鞍をはずして里人に拾われることを願いました。池の水で身を清め、馬の鞍を堤に埋めると、入道は潔く自刃しました。 
池の近くに住む神戸の家の者が陸風を保護し、馬の行くままついていくと、入道の自刃した場所へ来ました。村人たちは池の少し東に入道を葬り、その池を「鞍橋の池」と呼ぶようになりました。  
だいだらぼっち

 

むかしむかし、たけ山の池代(いけしろ)のほとりに、おじいさんとおばあさんと一緒にひとりの娘が住んでいました。それはそれは美しい娘で、気だてが優しく、おまけに働き者だったので、大勢の若者から嫁に来てほしいとのぞまれていました。 
その中でいちばん熱心に申し込んでいたのが、だいだらぼっちでした。この男の大きいのなんの、なにしろ大井川をひとまたぎにすることなど簡単なことでした。娘は、こんな並はずれた大男が好きになれるはずもなく、また、ほかのどこへもお嫁に行く気もありませんでした。しかし、だいだらぼっちがあきらめもなく何度もかよってくるので、娘は姿を隠すことにしました。鯉に姿を変え、池代の水と一緒に山を越え、野守の池に移り住みました。 
だいだらぼっちは、突然消えてしまった娘の姿をもとめて、あちらこちらをさまよいましたが、ついに見つけることができませんでした。 
娘が水とともに野守へ移ったために、池代に水はなくてくぼ地だけになってしまいました。だいだらぼっちが娘を捜して歩いた足あとが、「安田の足窪」というところです。また着物をひきずって歩きまわり、でこぼこの土地が平らになったのが「布引きが原」だということです。  
おへそ山

 

今から四百年ぐらい前のこと。 
遠江の国佐野郡の薗ケ谷村に、印徳寺という小さなお寺がありました。 
その寺の向かい側にお薬師様のお堂があって、門前の石段のそばに、大きな杉の木がありました。 
ある夏の午後、たいへんひどい夕立ちがあり、その大きな杉の木に雷が落ちました。 
それはそれはものすごい音でした。 
印徳寺のおしょうさんが、驚いて見に行くと、大杉はまっ二つにさけ、根元に雷獣が大けがをして苦しんでいました。 
やさしいおしょうさんは、あわれに思い、傷の手あてをしてやりました。 
雷獣は、たいへん喜んで、 
「ありがとう。ありがとう。」 
と、何べんもお礼をいい、自分のおへそをとると、おしょうさんに、 
「このおへそは、お百姓が日照りで困ったときに出しておがむと、きっと雨がふってきます。」 
と、いったかと思うと、かきけすようにどこかへ行ってしまいました。 
おしょうさんは、信じられない気持ちでしたが、それを、たいせつに錫の茶筒に入れ、お寺にしまっておきました。 
ある年、日照りがつゞき、これではお米がとれないだろうと、村の衆はたいへん心配をしました。 
おしょうさんも気が気ではなく、毎日空をあおいでいましたが、ふっとおへそのことを思い出しました。 
おしょうさんは、おへそをとり出し、ちょんだらい(三本足のついた、たらい)に水を入れ、その中に、雷獣のおへそを浮かせました。 
それを持ったおしょうさんは、この辺で一ばん高い二本松のあるお山へ登っていきました。 
おしょうさんのあとから、村の衆もおおぜいついて登っていきました。 
二本松につくと、おしょうさんは雨乞いのお祈りをし、村の衆もそれにあわせました。 
鐘やたいこをうち鳴らし、 
「まかさった竜王大明神、雨をふらせたまえ。」 
と、となえました。 
一日たち、二日たち、三日目になったとき、前の山に黒い雲がわき出て、みるみるうちに空いっぱいにひろがり出し、それといっしょにはげしい雨が降って来ました。 
村の衆はおどりあがって喜んだのなんのって。 
それから後、日照りで困った時にはきっと、おへそを二本松に持っていっておねがいをしたそうです。 
いつの時にも三日もすると雨が降り、村の衆を喜ばせました。 
村人たちは「おへそを出して見てはいけない」というおきてをつくり、雨乞いがすむと、お寺の厨子の中に大切にしまいました。 
雨乞いのとき、おへそを見た人の話しでは、それはさざえのふたのようなもので、金色の毛が生えていたそうです。  
桜木の椀貸池

 

昔むかしのお話です。桜木の里の深い山と山との囲まれた池は静かで物音ひとつ聞こえず、まるで眠っているようでした。 
ある日、吾作という百姓の若者がしょんぼりと池にたたずんでいました。吾作は三日後に「おちよ」という器量のよい娘を嫁に迎えることになっていました。吾作は、この婚礼をたいへん幸せに思い、山をへだてた隣の婆様に話したところ、たちまち村中の評判となり、村人たちも働き者で気のいい吾作の婚礼を心から喜んでくれていました。 
ところが、吾作は幼いころ両親と死に別れ、小作の身分で耕作する田畑もよい場所ではなく、貧しい暮らしをしておりましたので、村人に祝いの膳を振る舞うことができないのです。でも、喜んで祝いに来てくれる村の衆の気持ちにこたえたいと思い、困っていました。吾作は池の堤に立ち、 
「一生一度の祝いごとです。どうか一日だけでええ、お椀を貸してくだされ、十個でええ、神様貸してくだされ。」 
と、池に向かって手を合わせて一身に祈りました。 
すると、どこからともなく 
「吾作や、おまえの願いをかなえてやる。明日の朝早く人目につかぬうちにここに来るがよい。」 
という声が聞こえてきました。おどろいた吾作はあたりを見回しましたが、人影はありません。このあたりは山深く、狐にだまされたとか、大蛇が住んでいるとか、恐ろしい噂がある淋しいところですが、吾作はお椀が欲しい一心で朝が来るのを待ちました。 
東の空が白んでくると、吾作は一目散に池に走りました。薄暗い池の端に、それは立派なお椀が十個並んでいました。吾作は、 
「ありがたい。神様が授けてくださったのなら、必ずお返しします。狐がだましたのなら、どうか婚礼がすむまで木の葉にならずにいてください。」 
と、祈りながら持ち帰りました。 
いよいよ婚礼の日です。村の人たちは手土産を持って集まって来ました。ささやかな祝いがはじまると、村の人たちは、貧乏なはずの吾作に出されたお椀を不思議に思い、とうとう問いただしました。吾作は迷いましたが、今までのいきさつを語りました。皆は驚き、この出来事は遠くの村まで知れ渡りました。それからこの池を椀貸池と呼ぶようになったのです。  
嫁っ田

 

百姓の作蔵さの田んぼはたいへん広く、一丁余りありました。働き者でがんこなおかみさんと、息子の千代蔵との三人暮しでありました。千代蔵は両親とちがい心のやさしいよい息子でした。 
作蔵夫婦は、毎朝陽の昇らないうちに畑に出て働く大そう働き者でした。 
或る時、鴨方の親類から法事に来てほしいと言伝がありましたが、田植えで忙しいため母がことわろうとしましたが、千代蔵が母をいさめ、自分が行くことにしました。 
千代蔵は父の紋付の羽織を着て鴨方の法事に出かけ、塩井川原をすぎ、一里山で一服し鴨方に来ました。 
はじめて来たところなので、ちょうど畑で麦刈りをやっている親子に叔父の家をたずねました。 
「あゝそれならいの一本杉の下の家だんね。」 
と教えてくれた娘の顔を見ておどろきました。何ときりょうがいい娘なんだろう。千代蔵は一目ぼれしてしまいました。 
それから毎日千代蔵は鴨方にいくと言っては出かけていきました。そわそわして毎日楽しそうなことに母が気付いて、 
「いい娘でもみつけたのかえ。」 
ときくと、 
「嫁にしたいと思ってる。鴨方の丈助さんとこのおみっちゃんだ。」 
そういって千代蔵は、母に嫁をもらう許しを請いましたが、母はそれに条件をつけました。 
「一日で家の前の一丁田を植えたら、嫁にしてやる。」 
と言うのです。 
千代蔵は悩んだ末、おみつにそのことを話すと、おみつは笑顔でやってみるとこたえました。 
おみつは、そんなむりな話はきいたこともなく、途方にくれましたが、神に仏に祈りながら次の日、宮村にやって来ました。 
まだ夜があけきらないうちから田植えを始め、後もふりむかず、汗もふかず、たゞ黙々として植えつゞけました。 
やっと植えあがった時には、おみつは疲れはてていました。田の畦にある大きないしにしがみついて、しばらく息をととのえました。 
後に、このこしかけた石を縁定め石というようになりました。 
それから十日後、美しい嫁が千代蔵の家に来ました。もちろんおみつです。 
やさしい嫁と息子はよく働き、嫁の美しい心が姑につたわり、がんこな姑も心を入れ替えましたので、しあわせに暮らしたということです。 
鴨方とは伊達方と原子の隣りです。畦の石は二子石とも言い、浄水井(井戸)の近くに今でもぽつんとおかれています。  
雄鯨山雌鯨山

 

三十七代孝徳天皇の御代(西暦649年ごろ)のお話。 
昔、宮村には嫁石権現(ヨメイシゴンゲン)という神様がいました。この嫁石権現には、美しい姫がおりました。あるとき、権現は日坂の八幡様を囲碁に誘いました。そのとき、竜宮の使者として雄雌二頭の大鯨がやってきて、権現様の姫を嫁に欲しいと言いました。権現はこれを断り、姫を大沢というところに隠してしまいました。すると、このあたりは七日七夜の間、真っ暗になり、このあたりを倉見(クラミ)と呼ぶようになりました。 
雄鯨と雌鯨は、使者としての役目を果たすため、必死になって請願しましたが、権現様は聞いてくれません。そのとき、日坂の八幡様が碁石で二頭の鯨を撃ち殺してしまいました。鯨は五百間余りの長さでありましたが、一念凝りかたまって巌となり、八幡宮の向かい側の山となったのでした。 
さて、雄鯨と雌鯨を失った竜宮王は、大層ご立腹になりました。八幡宮の氏子たちが、汐ごりにやって来ると一人も帰さないように邪魔をしたので、人々は大層苦労しました。これを聞いた八幡宮は、氏子のために此の地から十二、三町ほど西に行った川べりに、一日に昼三度、夜三度汐が湧き出るようにさせました。そこの守り神が汐井の宮で、氏子たちはこの地を「汐こり」と呼んでいます。  
無間の鐘

 

聖武天皇の天平の頃(729-748年)のこと。 
小夜の中山の東、菊川村に一人の仙人が住んでいました。 
あるとき、不動明王を信仰して毎日お祈りをしていたこの仙人は、村の人々からお布施をあつめて、淡ヶ嶽(粟ヶ岳)の頂上に大きな釣鐘をつるしました。 
この淡ヶ嶽の釣鐘の音は、広く遠州に響きわたり、評判になりました。誰が言いだしたのか、 
一つつけば、事故や災難をまぬがれ、 
二つつけば、病気にならず、 
三つつけば、家内安全、 
四つつけば、運が開けて出世する、 
五つつけば、子宝に恵まれ、 
六つつけば、幸運がつづき、 
七つつけば、大金持ちになる、 
などというご利益が伝えられました。 
このうわさを聞いた村人たちは、われさきにとこの寺へおしよせました。 
ところが、この山の道は険しく、みなが争って先を急ぐために、途中で谷底へ落ちてケガをしたり、死ぬ人まで、たくさん出てきました。 
この姿を見た寺の住職は、人々の欲の深さにあきれ、「この鐘をつくった仙人の願からはずれる―」と、鐘を井戸の底深く投げ込んでしまいます。 
それから後、この井戸を「無間の井戸」といい、今も粟ヶ岳の頂上に残っています。  
蛇身鳥物語

 

遠州菊川の里に、愛宕(あたご)の庄司平内という狩の好きな男がいました。 
平内は、美しい妻と、娘の月小夜と、息子の八太郎と四人で平穏な暮らしをしていました。 
しかし、息子と娘は、平内が鳥や獣を捕ってくるたびに、心をいためていました。 
「おとうさん、どうか、もう鳥や動物たちを殺すのはやめてください」 
八太郎は、何度も平内に頼みましたが、平内はいっこうにやめようとはしませんでした。 
ある日、平内はいつものように山へと入っていきました。 
前の日に降った大雪で、あたり一面真っ白でした。 
歩いて行くと、行く手にがさがさと黒い影が動きました。 
「しめた、大きな熊だ!」 
平内が矢を放つと、びゅーんと音をたて、その先でどさりと倒れる音がしました。 
白い雪の上には真っ赤な血が飛び散っています。 
平内が獲物に顔を寄せたときです。 
「おとうさん…」 
今にも消えいりそうな声がするではありませんか。 
息子の八太郎が平内の狩りをやめさせようと、熊の皮をかぶっていたのです。 
平内は涙を流し、わが子を抱きかかえました。 
平内が亡骸を抱いて里に帰ると、妻は変わり果てたわが子八太郎の姿を見て、狂ったように泣き叫び、そのまま家を飛び出し、菊川の淵に身を沈めてしまいました。 
それからというもの、菊川中山、海老名(あびな)のあたりに夜な夜な奇妙な声でなく怪鳥があらわれて、里の人や旅人を襲うようになりました。 
人々は「亡くなった子どもを思う女の化身では」とうわさしました。 
それは、頭は鳥で、体は蛇、広げた翼は鋭い刀を編んだようになっている、世にも恐ろしい怪鳥でした。 
里人が困っていると、上杉三位良政(さんみよしまさ)公と屈強な家来橘主計助(たちばなかずえのすけ)が、帝の命令で都から怪鳥退治の武将がやってきました。 
ふたりは苦闘の末、見事に怪鳥を討ち取りました。  
夜泣き石

 

むかしむかし、暗い夜道を大きなおなかをした若い女の人が小夜の中道の峠を越えようとしていました。 
そのとき、暗がりから盗賊があらわれました。 
「金を出せ!」 
「どうぞ、命ばかりはお助けください。私のおなかには、赤ちゃんがいるのです。」 
女の人は命ごいをしたのですが、盗賊は言うことも聞かず、ばっさりと切り殺し、持ち物を奪うと、どこかへ姿をくらませてしまいました。 
女の人の息はもう止まっていましたが、その傷口から、赤ちゃんが生まれました。 
しかし、赤ちゃんは元気がなく、自分の力では泣くことができませんでした。 
このままでは誰にも気づかれることなく、赤ちゃんも死んでしまいます。 
そのとき、不思議なことに、近くにあった石が大きな声で泣きはじめたのです。 
聞きつけた村人がかけつけ、赤ちゃんを助けだしました。 
死んだ女の人は手厚く葬られました。 
それから、しばらくして夜になると時折、この石は声をあげて泣くようになりました。 
こうして誰となくこの石を「夜泣き石」と呼ぶようになったのです。  
鍵島の水

 

むかしむかしのこと。 
金谷の宿から少しはなれた田舎の村に、弘法大師さまが旅の途中で立ち寄られました。 
そのときの弘法さまは、長い旅に疲れ、衣も古びておりましたので、みすぼらしいお坊さまにしか見えません。そんな姿で、鍵島という村に来たとき、坂の多い村々を歩いて疲れた弘法さまは、一軒の民家の入り口に立ち、 
「もうし、喉がかわいております。水を一杯いただきたいが…」 
と、家の者に声をかけました。あいにくその家にいたのは横着者の次郎で、いつもゴロゴロと寝てばかり。声が聞こえても、 
「なんだよぉ、めんどくせぇな。ウチは貧乏だから水もねえよ!」とウソを言い、顔も向けずに追い払ってしまいました。 
しかたがないので弘法さまは、何も言わずに立ち去りました。 
しばらく歩いて別の民家をたずねて、同じように声をかけました。 
その家の者彦三は、くたびれた弘法さまの姿を見ると「あれ、お坊さまでねえか。うちにはさしあげるものがねえけど、お水ならどうぞ、ここのかめからいくらでも飲んでくだせえ。」 
と、水屋にある大きなかめを案内し、ていねいにひしゃくを差し出しました。 
それから何日かすると、鍵島の村人たちが川のことで騒ぎだしました。 
「下の方じゃあ、たくさん水があるのに、なんでこっちじゃあこんなに涸れちまうんだ。」 
上流の鍵島の村では、せき止めるものもないのに川の流れが細くなり、その下流ではどこからともなく水がわき、満々と水をたたえているのです。 
村人たちは、この不思議な水の流れのことを村の長老にたずねたところ、 
「弘法さまの法の力で変えられたのだ。きっとこの前あらわれたお坊さまが、弘法さまだったのだ。」 
とおしえられました。 
「そういえば…」お坊さまを追い返したことを思い出した次郎は、みんなにそのことを話しました。 
「申しわけねえことをしただ…。」次郎は自分のしたことを悔やみました。 
これを聞いて村のみんなは合点し、どこへ向かわれたとも知れない弘法さまに手を合わせました。  
 
経立(ふったち)

 

日本の青森県、岩手県に存在すると言われる妖怪あるいは魔物。生物学的な常識の範囲をはるかに越える年齢を重ねたサルやニワトリといった動物が変化したものとされる。 
民俗学者・柳田國男の著書「遠野物語」の中にも、岩手県上閉伊郡栗橋村(現・釜石市)などでのサルの経立についての記述がみられる。サルの経立は体毛を松脂と砂で鎧のように固めているために銃弾も通じず、人間の女性を好んで人里から盗み去るとされている。この伝承のある地方では、「サルの経立が来る」という言い回しが子供を脅すために用いられたという。 
また國學院大學説話研究会の調査による岩手県の説話では、下閉伊郡安家村(現・岩泉町)で昔、雌のニワトリが経立となり、自分の卵を人間たちに食べられることを怨んで、自分を飼っていた家で生まれた子供を次々に取り殺したという。 
同じく安家村では、魚が経立となった話もある。昔ある家の娘のもとに、毎晩のように男が通って来ていたが、あまりに美男子なので周りの人々は怪しみ、化物ではないかと疑った。人々は娘に、小豆を煮た湯で男の足を洗うように言い、娘がそのようにしたところ、急に男は気分が悪くなって帰ってしまった。翌朝に娘が海辺へ行くと、大きなタラが死んでおり、あの男はタラの経立といわれたという。  
猿の経立考 
神とは「申(さる)」を「示(しめす)」もの。 
遠野物語 / 猿の経立はよく人に似て、女色を好み里の婦人を盗み去ること多し。松脂を毛に塗り砂を其上に附けてをる故、毛皮は鎧の如く鉄砲の弾も通らず。/ 栃内村の林崎に住む何某と云ふ男、今は五十に近し。十年あまり前の事なり。六角牛山に鹿を撃ちに行き、オキを吹きたりしに、猿の経立あり、之を真の鹿なりと思ひしか、地竹を手にて分けながら、大なる口をあけ嶺の方より下り来れり。肝潰れて笛を吹止めたれば、やがて反れて谷の方へ走り行きたり。 
経立には猿と犬がいる。しかし、ここで思う…。 
なんで、犬と猿だけなのだろう?と。遠野では熊もいて人を化かす狐もいる。他に狸や狢もいて、蛇もいるが、経立と呼ばれるものには、犬と猿だけの限定だ。 
ここで思い出すのは「犬猿の仲」という言葉。この言葉の由来も含めて、経立を考えてみようと思う。 
取り敢えず、猿の経立には長く生きたモノが物の怪に変化するという事。例えば猫ならば長生きした猫の尻尾が二股に分かれて”猫又”という怪猫になってしまう。 
この猿の経立もまた、長生きした事による変化なのだが、松脂を毛に塗りたくりその上に砂を付けるというのは、まるで人間の知恵に近づいたものと考える。 
「遠野物語」にも紹介されているように、猿が娘を盗み去ると記されているが、日本には有名な狒々退治の話が伝わっている。狒々が神として祀られ、生贄を捧げる…。 
実は”神”という漢字は、「申(さる)」を「示」して「神」と書く。これは、古来”カミ”として伝わったものに、後に漢字があてられたものだけど、どうもこの漢字は13世紀頃のようである。 
つまり、天台宗の比叡山から日吉大社が発信されてからだろうと、推測する。 
「桃太郎」では、犬・猿・雉が桃太郎の仲間となって鬼を退治する話であったけど、実はこの「桃太郎」の原型は、鬼が猿に変わり、鬼退治ならぬ猿退治の話であったようだ。 
陰陽五行で紐解くと、一般的な「桃太郎」は、金気に属する申・酉・戌三匹が仲間となるというのは、桃太郎に財を与えるという意味らしい。これは、後でこじつけて作られた話のようだ。猿を倒す話を、丑寅の方向に棲む絶大的な悪である鬼を倒す事に変更とした理由があったのかもしれない。 
ところで「花咲か爺さん」の話がある…。 
良いお爺さんが、白い犬に「ここ掘れワンワン」と告げられて掘ると、金銀財宝が出てきたが、それを見ていた悪い爺さんが「その犬を貸せぃ!」と同じ事をしたら、糞尿などが出てきた。それに腹をたてた悪い爺さんは、その犬を殺してしまう…。 
実は弥生遺跡からは、犬を食べた骨が多数出てきたと。要は渡来系の人間は、今でもそうだけど犬を食べる文化がある。だから「花咲か爺さん」では、犬と仲の良い爺さんは縄文系で、平気で犬を殺す悪い爺さんは弥生系という意味を含んでいるのでは?という説もある。 
ところが縄文系の遺跡からは、猿を食べた跡があるという。山を生活圏とする猿と縄文系の人間は、ことあるごとに争いがあったのではないか?という事らしい。ところが弥生系文化が広がって、山から里へと生活圏が移り、弥生系の人間と猿とは衝突する事が無かったのだという。 
狩猟文化にとって必要な犬は、逆に畑などに穴を掘って荒らす存在でもあったようだ。ここで縄文系と弥生系の対立図式が成り立ってしまう。 
ただし、遠野には川の辺に棲んでいる猿を淵猿という呼び方をしたらしい。それが河童になったという説もあるが…つまり、里にも猿は出没したという事だ。当然、猿特有の悪戯もしただろうし、当然の事ながら作物も荒らしたのだと思う…。 
日本に文明開化は、2度行われた。有名なのは明治維新での文明開化。そしてもう一つは、大化の改新による文明開化。 
古き神々を祀っていた日本国に仏教が伝来され、また中国の良い文化も導入されて、国としての形が整ってきた時に中国へと行った…。しかし、中国側には国と否定され、その後聖徳太子は憲法を定めるなどし、更に国として認めて貰う為、山々へと侵攻し木々を伐採し、一挙に寺院建設を行ってしまった。 
明治は江戸の町が一気に西欧の町並みに変わったように、大化の改新後の日本では、古来の神々を祀る町から、一気に仏教の町に変貌してしまった。それだけ極端な町作りが、文明開化だった。 
ただしその弊害があり、山を侵攻し木々を切った為に、水害が多発したらしい。 
森は大あらきの森。しのびの森。ここひの森。木枯しの森。信太の森。生田の森。小幡の森。うつきの森。きく田の森。岩瀬の森。立ち聞きの森。常磐の森。くつろぎの森。神南備の森。うたたねの森。うきたの森。うへつきの森。いはたの森。たれその森。かそたての森。 
かうたての森というが耳にとまるこそ、まずあやしけれ。森などいふべくもあらず、ただ一木あるを、何ごとにつけたるぞ。清少納言の「枕草子」 
鎮守の杜というように、木々が沢山生い茂っている森であったのが、平安当時に、木は一本しかない鎮守の杜もあったようだ。それを憂いて、清少納言は書き綴ったのかもしれない。 
それから平安の後期には、山の木の伐採禁止令が出たそうである。その伐採禁止令が解かれるのが、明治時代の天皇が詠んだ歌に起因する。 
狼のすむてふ山の奥までもひらけるかぎりひらきてしがな 
この歌により、平安後期に発布された山の木々の伐採禁止令が解かれ、日本人は再び山へと侵攻し始めた…。 
現代、山の木々が伐採されて熊が里に下りてきている。山々は、伐採された禿山と植林された杉の木が多い為、ブナの実を食べる熊などの餌が無くなった為だ。 
つまり、弥生と呼ばれる時代に人間と猿の対立という図式は無かったのだが、この文明開化により人々が山へと侵攻し、猿の餌場を荒らした為に、猿はどうやら里へと降りてきたらしい。 
陰陽五行で紐解くと、申ってのは複雑で「水の三合」に属して、水を発生させるものでもある。元々は金気に属し、木を切り倒す者でもあるけど、水気にも属するので木々に栄養分を与える役目も担っているのが、申。ただ金は水を発生させるので、理解は容易い。 
土生金と考えれば、山は猿を生み出した…。 
土剋水と考えれば、猿は山に負けてしまうので棲めなくなるが、猿の生活圏はあくまで樹上。木は山の栄養分を吸い取る存在で、木剋土となり、山の支配者。その木を支配する猿は山の最もたる支配者の位置になってしまう。 
その山を支配する猿が里に降りてくるというのは、神の降臨を意識したのかもしれない。 
山そのものは異界であり、死者の行き着くところという山岳信仰にも通じる。その山と里を行き来する猿に対して、人々は畏怖したのかもしれない。それに加え、前述した日吉大社の信仰が広がり、庚申信仰の普及と共に”猿神”という意識が確立されたのかも…。 
ロシアでは「熊のミーシャ」と、熊に対しての愛着の表現がある。ロシアで熊というのは、人間が魔法によって姿を変えられたものだという意識があるという。 
だからロシア人は「小熊のミーシャ」正式には「ミハイロ・イワーヌイチ・トプトゥイギン」という長い名前が付いている。 
これはキリスト教の影響を受けた民族の場合、人間と他の生物の間には交流が無く、人間以外の動物は格が下でという事らしい。だから、ロシアでは特別な目で見られている熊に対しては、元々人間が何等かの魔法にかかり、熊になってしまったものだとしている。 
だから「美女と野獣」という物語が生まれてしまう。魔法が解けると、どんな獣でも人間に変わってしまう。逆に言えば、元々動物などは言葉などは話さず、単なる獲物及び人の生活を脅かす厄介な存在として意識されているだけだ。 
ところが仏教圏では、人と獣は等しく生命を持ち、輪廻転生があり得るのだと説かれている。つまり、前世は獣だった、もしくは来世は獣になってしまうという意識が仏教圏には存在し、当然人間と獣の間には交流もあるのだという意識は根強く残っていたみたいだ。 
それ故に「異類婚」と呼ばれる、人間と動物との婚姻の話は日本で多くの話を残している。要は妊娠のシステムが解明されていない時代、人間以外の獣と交わっても子供は生まれるものだという意識から「異類婚」が生まれたものだろう。 
これは古代人の恐怖によるもので、女性が異界である山に棲む何者かに犯されてしまうのでは?という事から、どうも姿形が人間に似通っている”猿”が、その代表だったようだ。 
これは中国でも、美しい女性をさらい交わってしまう妖猿の話がある事から、もしかしてやはりこの意識も中国から渡ってきたものかもしれない。 
日本の古来から女人禁制の山は、かなり数を示してきた。これはこういう女性の妊娠を不可解なものから防ぐという意味からどうも女人禁制とした山々が増えたらしい。 
猿は申。神という漢字は申を示すというのは前述したのだけど、やはり猿田彦に通じるようだ。 
猿は、戯るが語源だとも聞いた事があるけれど、これは人間の動作を模倣し、人をからかう存在としての戯る(猿)。 
猿田彦は道案内の神でもあるが、これは山という異界へと導く存在が猿だと考えると、天宇受売神の色気に負けてしまい、その後、婚姻を果たしてしまうというののはやはり、猿に対する人身御供としての若い女というのは単なる生贄ではなく、猿を押さえるという呪法ではなかったのか? 
ところで、女性と交わるというと古来から蛇がいる。蛇の姿が男根の象徴となっており、昔話でも厠に潜んでいて、女陰に侵入するという話や、倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)と交わった大物主神…実は蛇との話などなど…。 
妊娠のシステムがわからない時代の女性というものは、魔性と交わる存在。だからこそ、女性はシャーマンなどの交信するという、神秘性を伴う立場に祭り上げられたのかもしれない。   
 
案山子

 

案山子のことは記紀の神話の中にも出てくるから、日本人にとっては悠久の昔から田んぼの中に立って、外敵から田んぼを守る役目を果たしていたと見える。しかもその形が今日と同じく一本足であったことは、スクナヒコナの神話のくだりから伺えるのである。そこには次のように記されている。 
スクナヒコナがかがみ船に乗って波の彼方からやってきたとき、誰もその正体を知らなかったが、久延毘古(くえびこ)なら知っているだろうといって呼んでみたところが、果たしてそれが神産巣日神の御子スクナヒコナであることを言い当てた。この久延毘古のことを古事記は、「今に山田のそふどといふ者なり。此の神は足は行かねども、尽に天下の事を知れる神なり」と紹介している。 
「山田のそふど」にいう「そふど」とは案山子という意味である。その案山子は「足は行かねども」、つまり一本足でうまく歩くことはできないけれども、長い間田んぼの中に立って世の中の動きを観察しているので、天下のことは何でも知っているのだといっている。 
案山子を立てたからといって、それがカラスを追うのに大した効果もないことは、古代人もわかっていたに違いない。それでも、日本人は悠久の時間を越えて案山子を立て続けてきた。それにはそれなりの事情と背景がある。 
昔話には一つ目一つ足の怪物が出てきて、人を食うという話がある。これがさらに一つ目小僧などに転化したりもするのだが、もともとは山の神の化身とされたものであった。山の民に伝わった風習に、山中に一本の棒を立て、これに目玉を一つ描いて、供え物を置くというものがある。これは山の神を静めるためのものであった。また比叡山には傘を山の神の化身とする伝承があるそうだが、その傘もやはり一本足の山の神の化身が本来の姿であったと思われる。 
目一つの鬼の話は、出雲風土記にもあり、田んぼを耕していた男を一口で食ってしまったと書かれている。これは山の神が恐れられて、鬼と化したのである。それは他の鬼についても同様で、みなもともとは山の神であったものが、その恐ろしい部分が強調されて鬼と化したのである。 
案山子はこの山の神が田に下りてきて、田を守る神に転じたと思われる。古事記には「そふど」とあるが、後に「案山子」とかかれるようになるのは、案山子が山中にあって、一本足あるいは一つ目の鬼であったときの、本来の姿に基づいた命名だったろう。 
山の神は、恐ろしさにつけ、ご利益をもたらすものとしての保護者としての側面につけ、日本人にとっては信仰の原点をなすものだった。 
だからその仮の姿としての案山子を田んぼに祭ることには、単にカラスを追うという意味を超えて、より根の深い感情が込められていると思われるのである。   
 
おむすびころりんとオオクニヌシ

 

お爺さん或はお婆さんが転がり落したおむすびを追いかけて穴の中或は他界へと導かれ、そこで地蔵や鬼と出合って試練を潜り、最後には宝物を持ち帰るという「おむすびころりん」の昔話は、さまざまなバリエーションを伴って日本中に分布している。古来子供向けのお伽話として最もポピュラーなものである。 
話の筋を整理すると、おおよそ次のような要素から成り立っている。 
お爺さんまたはお婆さんが山へおにぎり或は団子を持っていき、これを手から落すと、ころころと転がって穴の中に入っていく。 
お爺さん或はお婆さんはおにぎりを追いかけて穴の中に入っていくと、お地蔵さんと出会う。お地蔵さんにおにぎりのゆくへを尋ねると、お地蔵さんは自分が食べたという。そしてここは鬼のいる地獄であるから、お礼に鬼から逃れる方法を教えてやろうという。そして鬼が来たら鶏の声を出しなさいといって、自分の袖の中にお爺さんをかくまってやる。 
鬼がやってきて博打をして遊び始めたので、お爺さんが鶏の鳴き声を出すと、鬼たちは宝物を置いて逃げていってしまう。おじいさんはその宝物を持参して地上へと戻り、幸福な暮らしを続ける。 
これを聞いた隣のお爺さんが同じことを真似するが、うまくいかずに鬼に食われてしまう。 
先ほど述べたように、この話にはさまざまなバリエーションがある。お爺さんは鼠の穴に鼠に導かれて入っていき、見知らぬ土地にさまよい出る、鬼に見つかったお婆さんが鬼の飯炊きとして仕えるうち、金の杓子を用いて一粒の米からたくさんの飯を炊く技を覚え、それを地上に持ち帰る、といったものもある。 
隣の爺さんが出てこない話もあるが、これはむしろ教訓譚として後から付け加わったと見るべきで、もともとの話にはなかったのであろう。 
この話は西日本では無尽蔵の米のモチーフが多く、東日本では鶏の鳴きまねのモチーフが多いという具合に、地域差があるようである。 
さて枝葉を取り除いて、話の骨格をとらえてみると、この話が一種の冥界(異界)往来譚であることに気づく。 
お爺さんやお婆さんが転げ込む穴の底の世界には、お地蔵様や鬼たちが出てくる。中には鼠が出てくる話もあるが、それは子供向けに話の内容が弱められた結果できたバリエーションであろう。ところでお地蔵様といい、鬼といい、昔の日本人にとっては地獄に結びつくものである。だからお爺さんたちはこの世と地獄との間を往来したと見ることができる。 
地獄の観念は仏教の影響を受けておどろおどろしいイメージを持つようになったが、もともと古代の日本人にとっては祖霊の住む異界という観念があって、それが地獄のイメージと習合した歴史的な経緯がある。異界は恐ろしい世界であるとともに、一方では祖霊たちがこの世の子孫を見守っているというように、両義的な性格を持ったものであった。 
こうした異界との間を往復する異界往来譚或は冥界訪問譚は、記紀神話の中にも出てくる。イザナキの黄泉国訪問やオオクニヌシの根の国訪問の話である。中でもオオクニヌシの話は、おむすびころりんの話に多大な影響を及ぼしているのではないかと考えられるふしがある。 
オオクニヌシは大萱原の中で火に囲まれ万事窮すと言うときに、鼠に助けられて穴の中に入り火を逃れる。 
「是に出でむ所を知らざる間に、鼠来て云はく、「内はほらほら、外はすぶすぶ」といひき。如此言ふ故に其処を蹈みしかば、落ち隠り入りましし間に、火は焼け過ぎき。爾に其の鼠、其の鳴鏑を咋ひ持ちて、出で来て奉りき。其の矢の羽は、其の鼠の子等皆喫ひたりき。」 
穴の中でオオクニヌシが見たのはスサノオが支配する根の国である。ここでオオクニヌシはスサノオによってさまざまな試練を課されるが、スゼリヒメの助けによって試練を潜り、無事この世に生還することができた。このスサノオがおむすびころりんでは鬼となり、スゼリヒメはお地蔵さまとなったのではないか。 
ねずみ浄土型の話では、お爺さんは鼠に導かれて穴に入っていくが、これはオオクニヌシ神話に出てくる鼠がそのまま取り入れられたとも考えられる。ともあれ、オオクニヌシは鼠の導きによってスゼリヒメと結ばれているのである。 
おむすびころりんと記紀神話を結びつける要素はほかにもある。 
雨の岩戸の部分で、世界が暗黒に陥ったとき、神々が天照大神を慰めるために祭を行い、その際に「常世の長鳴鳥を集へて鳴かしめた」とある。この常世の長鳴鳥とは鶏のことだろうといわれている。鶏というものは夜に鳴くことから、夜を象徴する「常夜の」鳥であると表象されていたようだ。同時にそれはまた、朝が近いことを告げる鳥でもある。そんなところから、暗黒を吹き払い日の光を復活させるための祭りに呼ばれたと考えられるのである。ところで鬼は日の光が苦手とされる。そこでおむすびころりんの話の中でも、鶏の声を聞かせることによって朝の訪れを告げ、鬼を追っ払おうとする観念に転化したのではないか。 
おむすびころりんでは、お爺さんは鬼の宝物を持ち帰る。同じようにオオクニヌシもスサノオの持っていた宝物を盗んで地上に持ち帰る。 
このようにおむすびころりんの昔話には、日本神話の要素があちこちに残存している。それが仏教的な観念と集合して、このような形になったのではないか。 
 
一寸法師

 

一寸法師の物語は、お伽草紙においては住吉明神の縁起譚として語られている。主人公を背丈一寸の小人としているのは、スクナヒコナ以来の小さ子伝説が反映しているのであろう。 
スクナヒコナははるか海の彼方から小さな舟に乗ってやってきた。一寸法師もやはり舟に乗って冒険の旅に出る。こんなところに両者の共通点を見ることもできる。 
この物語はしかし、昔話を彩る鬼の話の一つの変形としてとらえたほうが面白い。鬼の話では、鬼の恐ろしさがクローズアップされ、したがって実質的には鬼が話の主人公になっているものが多い。一寸法師においては鬼は脇役に甘んじ、一寸法師の懲らしめをうけて、打出の小槌を置いたまま逃げ去っていく。 
昔話に描かれた鬼の恐ろしさは、古代中世の日本人が生活の中で実感していた感情であったと思われる。だからその鬼を退治するというテーマは、鬼を恐れる感情の裏返しであったと思われる。時代が進み、鬼に対するかかわり方が微妙な変化を起こしていたのかもしれない。 
鬼が宝物を残すというのは、原始的な鬼にはありえなかったであろうが、それがここでは話の大きな糸口になっている。鬼の宝物というテーマは桃太郎の場合にもあるし、おむすびころりんを始め鬼の浄土ものといわれる一連の話にも共通する。 
一寸法師が語られた時代には、鬼はただに災厄をもたらす妖怪であるばかりではなく、時には人間に福をもたらすものとしてのイメージも持つようになっていた、そうも考えられるのである。 
ここで「お伽草紙」の原典に当たってみよう。 
「中頃の事なるに、津の國難波の里に、おうぢとうばと侍り。うば四十に及ぶまで、子のなきことを悲しみ、住吉に參り、なき子を祈り申すに、大明神あはれと思召して、四十一と申すに、たゞならずなりぬれば、おうぢ喜びかぎりなし。やがて十月と申すに、いつくしき男子をのこをまうけけり。さりながら生れおちてより後、せい一寸ありぬれば、やがて其の名を一寸ぼうしと名づけられたり。年月をふる程に、はや十二三になるまで育てぬれども、せいも人ならず。つくづくと思ひけるは、「たゞ者にてはあらざれ、只化物風情〕にてこそ候へ、われらいかなる罪の報いにて、斯樣の者をば住吉より賜はりたるぞや、淺ましさよ。」と、見るめも不便なり。夫婦思ひけるやうは、「あの一寸法師めをいづ方へもやらばやと思ひける。」と申せば、やがて一寸法師、此の由承り、親にもかやうに思はるゝも、くちをしき次第かな、いづ方へも行かばやとおもひ、刀なくてはいかゞと思ひ、針を一つうばに乞ひ給へば、取出したびにける。すなはち麥稈むぎわらにて柄鞘つかさやをこしらへ、都へ上らばやと思ひしが、自然舟なくてはいかゞあるべきとて、又うばに「御器ごきと箸とたべ。」と申しうけ、名殘をしくとむれども、たち出でにけり。住吉の浦より御器を舟としてうち乘りて、都へぞ上りける。 
すみなれし難波の浦をたちいでて都へいそぐわが心かな」 
神仏に祈念して子宝を授かるというのは、説経はじめ中世に流行した語り物の世界に共通するテーマである。ところが生まれてきた子は十二三になっても背丈一寸ばかりの小人であった。そこで夫婦は一寸法師を追い出してしまう。 
物語の主人公が家を出て冒険の旅に出るのは、桃太郎を始め他の説話にも多く見られるが、親によって追い出されるというのは珍しい。これは一寸法師という主人公の特性が、話をそのように着色させたものと思われる。 
家を出る際に、一寸法師が刀の変わりに針を、船の変わりにお椀を貰うのは、後に鬼が島に鬼退治にいくことの伏線となっている。 
「かくて鳥羽の津にもつきしかば、そこもとに乘り捨てて都に上り、こゝやかしこと見る程に、四條五條の有樣、心も詞に及ばれず。さて三條の宰相殿と申す人の許に立寄りて、「物申さむ。」といひければ、宰相殿は聞召し、面白き聲と聞き、縁のはなへたち出でて御覽ずれども人もなし。一寸法師かくて人にも蹈み殺されんとて、ありつる足駄の下にて、「物申さむ。」と申せば、宰相殿、不思議のことかな、人は見えずして、おもしろき聲にてよばはる、出でて見ばやと思召し、そこなる足駄をはかむと召されければ、足駄の下より、「人な蹈ませ給ひそ。」と申す。不思議に思ひてみれば、いつきやうなるものにて有りけり。宰相殿御覽じて、げにも面白き者なりとて、御笑ひなされけり。」 
三條の宰相殿と出会うこの場面は、一寸法師のイメージを際立たせる効果をもっている。一寸法師は宰相の下駄の下から「物申そう」と、雄々しい男子として振舞うのである。また船に乗ってやってきた一寸法師は、宰相にとっては異界からの客と映ったかもしれない。 
「かくて年月をおくる程に、一寸法師十六になり、せいは元のまゝなり。さる程に宰相殿に十三にならせ給ふ姫君おはします。御かたちすぐれ候へば、一寸法師姫君を見たてまつりしより思ひとなり、いかにもして案をめぐらし、わが女房にせばやと思ひ、ある時みつもののうちまき取り茶袋に入れ、姫君のふしておはしけるに、謀事はかりごとをめぐらし、姫君の御口にぬり、さて茶袋ばかりもちて泣きゐたり。宰相殿御覽じて、御尋ねありければ、「姫君の、わらはが此の程とり集めておき候うちまきを、取らせ給ひ御參り候」と申せば、宰相殿大きに怒らせ給ひければ、案の如く姫君の御口につきてあり、まことに僞ならず、「かかる者を都におきて何かせむ、いかにも失ふべし。」とて、一寸法師に仰せつけらる。一寸法師申しけるは、「わらはが物を取らせ給ひて候程に、とにかくにもはからひ候へ。」とありけるとて、心のうちに嬉しく思ふ事かぎりなし。姫君はたゞ夢の心地して、呆れはててぞおはしける。一寸法師とく とくとすゝめ申せば、闇へ遠く行くふぜいにて、都を出でて足にまかせて歩み給ふ、御心のうちおしはかられてこそ候へ。」 
十六になった一寸法師は、背丈は以前のまま小さいが、心持は一人前の男子になり、宰相の姫に懸想する。ここに恋愛物語を忍び込ませることで、物が立ちは重層的な効果を持つようにもなっている。しかして一寸法師は知略を用いて、姫と二人で旅へ出ることに成功する。 
「あら痛はしや、一寸法師は姫君をさきに立ててぞ出でにけり。宰相殿はあはれ此の事をとゞめ給ひかしと思しけれども、繼母の事なれば、さしてとゞめ給はず、女房たちもつき添ひ給はず。姫君あさましき事に思しめして、かくていづかたへも行くべきならねど、難波の浦へ行かばやとて、鳥羽の津より舟にのり給ふ。折ふし風あらくして、きようがる島へぞつけにける。舟よりあがり見れば、人住むとも見えざりけり。かやうに風わろく吹きて、かの島へぞ吹きあげける。とやせむかくやせむと思ひ煩ひけれども、かひなく舟よりあがり、一寸法師はこゝかしこと見めぐれば、いづくともなく鬼二人來りて、一人は打出の小槌を持ち、今一人が申すやうは、「呑みてあの女房とり候はむ。」と申す。口より呑み候へば、目のうちより出でにけり。鬼申すやうは、「是こは曲者かな。」口をふさげば目より出づる。一寸法師は鬼に呑まれては、目よりいでて飛びありきければ、鬼もおぢをののきて、「是はたゞ者ならず、たゞ地獄に亂こそいできたれ、只逃げよ。」と言ふまゝに、打出の小槌、杖しもつ、何に至るまで打捨てて、極樂淨土のいぬゐの、いかにも暗き所へ、やう やう逃げにけり。さて一寸法師は是れを見て、まづ打出の小槌をらんばうし、「われわれがせいを大きになれ。」とぞ、どうと打ち候へば、程なくせいおほきになり、さて此の程つかれにのぞみたる事なれば、まづ まづ飯を打ちいだし、いかにもうまさうなる飯、いづくともなく出でにけり。不思議なる仕合せとなりにけり。其の後金銀こがねしろがねうちいだし、姫君ともに都へ上り、五條あたりに宿をとり、十日許りありけるが、此の事隱れなければ、内裏に聞召されて、急ぎ一寸法師をぞ召されけり。即ち參内つかまつり、大王御覽じて、「まことにいつくしきわらはにて侍る、いか樣さまこれは賤しからず。先祖を尋ね給ふ。おうぢは堀河の中納言と申す人の子なり、人の讒言により、流され人となりたまふ。田舍にてまうけし子なり、うばは伏見の少將と申す人の子なり、幼き時より父母に後れ給ひ、かやうに心もいやしからざれば、殿上へ召され、堀河の少將になし給ふこそめでたけれ。父母をも呼びまゐらせ、もてなしかしづき給ふ事、世の常にてはなかりけり。」 
一寸法師は姫を伴って舟に乗り、とある島にたどり着く。桃太郎の場合には、始めから鬼が島へ向けて旅立つという設定になっているが、ここではたまたまたどり着いたということになっている。また姫が家を出るのは自発的にではなく、とくに継母の意向によって追い出されたのだと書かれているが、これは継子いじめのテーマが持ち込まれたのであろう。 
そこへ二人の鬼が出てくる。一人は打出の小槌を持ち、もう一人は一寸法師を食って姫を取ろうという。鬼が一寸法師を飲み込むと、一寸法師は鬼の目から飛び出てきて、鬼を恐れさせる。バージョンによっては、異の中に入った一寸法師が針で鬼の胃の壁を突き刺すなどというものもある。 
魔物の体内に飲み込まれた英雄が、その腹を突き破って魔物を殺すという話は、世界中に分布している。お伽草紙ではそうしたイメージには描かれていないが、鬼が一口で人を飲み込むというのは、日本の鬼の説話に共通したイメージなのである。 
「さる程に少將殿中納言になり給ふ。心かたちは初めよりよろづ人にすぐれ給へば、御一門のおぼえいみじく思しける。宰相殿きこしめし喜び給ひける。その後若君三人いできけり。めでたく榮え給ひけり。住吉の御誓ひに末繁昌に榮えたまふ。よのめでたきためし、これに過ぎたる事はあらじとぞ申し侍りける。」 
物語の最後は、打出の小槌の威力で大きくなった一寸法師がめでたく出世し、姫とも結ばれて子どもにも恵まれ、住吉明神に感謝するところで終っている。縁起譚としても、鬼の話としても、また小人の出世物語としても、なかなか結構にとんだ話といえよう。 
 
桃太郎と鬼が島

 

桃太郎の話は日本の昔話の中でも最もポピュラーなものである。いまでも子供向けのキャラクターとして人気を集めているし、絵本の世界や母親のお伽話にとっては欠かせないものだ。小さな子どもが親元を離れて冒険の旅に出るというのは、世界中共通した児童文学のパターンであることからも、桃太郎の話には国や時代を超えた普遍性があるといえる。 
川上の山の奥から桃に包まれてやってきた子どもが、大きくなってから鬼が島へ鬼退治に出かけ、鬼の宝物を持ち帰るという話である。中にはお姫様を連れて帰るというパターンもある。 
ごく単純な話であるが、そこには日本の昔話にとって大事なモチーフがいくつか含まれている。 
まず主人公の桃太郎は山の奥、つまり異界と目されるところから桃にくるまれてやってきた。古代の日本人にとって、山はこの世とあの世を結ぶ接点であり、そこには先祖の霊が漂っているとされた。その先祖の霊のうち、浮かばれぬ霊が怨霊となり、それが鬼という形をとって人間にさまざまな災厄をもたらす。だから山の奥からやってきたというのは、桃太郎が鬼の子であるとまではいえぬまでも、異種異形の人、つまり「まれびと」であることを意味する。 
桃太郎は後に、お婆さんに黍団子をつくってもらい、それを持って鬼が島へ出かけるのであるが、子どもがそのような冒険をするという話の展開にとって、その子が「まれびと」としての強さを備えていることが必要だったのであろう。 
次に、桃太郎が鬼退治に出かける先は鬼が島、つまり海の彼方にあるところである。日本の昔話には、浦島太郎のように海底を舞台にするものもあれば、その背景として記紀神話の山の幸の物語もある。だが普通の昔話で語られる鬼は山の中に住んでおり、山の神の化身であることをうかがわせる。その点で、桃太郎の出かける鬼が島の鬼は、通常の昔話に出てくる鬼とは聊か毛色が変わっているといえる。 
しかも桃太郎の話に出てくる鬼は、ほかの物語に出てくる鬼のような荒々しい印象を与えない。桃太郎を一口で食ってやろうというような残忍さはなく、むしろ簡単に降伏して自ら進んで宝物を差し出す。 
桃太郎の鬼が島遠征は、荒ぶる鬼の退治が目的なのではなく、祖霊の住むなつかしい国を訪問するというのが、そもそもの形だったのではないか。桃太郎が持ち帰る宝物は、先祖からの尊い贈り物だったのではないか。 
柳田国男の説を始め、日本人の祖先を海洋民族に求める有力な説がある。記紀の神話にも、日本人の祖先の少なくとも一部が海洋民族であったと考えられる要素がある。山の幸の話もそうだし、オオクニヌシやスクナヒコナの話にも、南方起源と思われる要素が伺われる。 
スサノオ神話には、母の住む根の国を訪ねる話が出てくるが、その根の国とは海の彼方にある国であった。またスクナヒコナは海の彼方から小さな舟に乗ってやってくる。沖縄では今でも海の彼方の国をニライカナイといって信仰することが行なわれているらしいが、この「ニライカナイ」とはとりもなおさず、根(ニ)の国の転化した形なのである。 
こうしてみると、桃太郎の伝説には、日本人の間にある海洋民族としての想像力が紛れ込んでいるのではないか、そのように考えられるのである。 
桃太郎の話には殆どの場合、猿、キジ、犬が従者として出てくる。何故これらの動物でなければならないのか、十分明らかにすることはむつかしいが、この話を鬼の話としてとらえると糸口が見えてくるかもしれない。鬼は方角からいうと、丑寅の方角に住むと、古来伝えられている。北東を鬼門というのはここから出ている。これに対して申、酉、戌はその対極に位置する。このあたりがヒントになるかもしれない。 
桃太郎は黍団子を持参する。話によっては、団子を持って訪ねてくれと、鬼に呼びかけられるというパターンもある。団子には古来祖先の霊を供養する効用があると信じられていた。今日においても、お盆や節々の行事に団子を捧げて、祖先の霊を供養する風習が廃れずに続いている。だから、これは鬼を退治するのが目的なのではなく、祖先の霊に会いに行くことを物語っているのではないかとも思える。 
最後に、桃太郎は何故桃から生まれたのかという疑問が残る。陶淵明が桃源郷を詩に歌ったように、中国では桃に霊力を見る見方があった。西王母の桃は長寿の霊力があると信じられていた。 
あるいは中国の信仰が日本の説話の中に紛れ込んだのかもしれない。だが記紀の神話の中でも、イザナキが桃を投げつけて黄泉醜女を追っ払った話が出てくるから、日本でも古来桃に特別な霊力を見ていたのかもしれない。そんな霊力を持ったものから生まれたことを強調することで、「まれびと」としての桃太郎の力を際立たせたかったのだろう。 
普通の物語では、お婆さんが川で拾った桃を持ち帰って二つに割ると、中から桃太郎が生まれてきたということになっているが、筆者が聞いた伯耆地方の話では、お婆さんは桃を食って若返ったことになっている。お爺さんにも残りの桃を食わせるとやはり若返って立派な若者になったので、二人は喜んで抱き合い、その結果子どもが生まれたというのである。 
桃の形が人の尻を連想させることから思いついた、一つのエロチックなバリエーションなのであろう。 
 
食わず女房

 

食わず女房の昔話は、物を食わないと偽って嫁にしてもらった女が実は人食い鬼だったという話で、亭主はあやうく食われそうになるが、菖蒲の林に逃げ込んで助かったという内容のものである。菖蒲の季節を舞台にしているので、かつて全国各地でみられた菖蒲を吊るして厄除けをする民俗や、その背景にある女のふきごもり(女の家)の行事との関連が指摘されている。 
典型的な話の筋は次のようなものである。 
欲の深い男が飯を食わない女を女房にしたいと思っていると、一人の女が現れて「飯を食わないから女房にしてくれ」という。男は喜んで女房にするが、女は男のいないすきに一升飯を炊いて、頭髪を掻き分けて頭の中から大きな口を出すと、次々に握り飯を作っては、頭の上の口へも顔の中の口へも放り込む。話によっては、頭ではなく股の間の口へ放り込むというものもある。 
怪しんだ男が「もうお前に用はないから出て行け」というと、女は手切れに何かくれという。男はそこにある桶をやるから持っていけという。すると鬼の正体を現した女は男を桶に入れて担いでいく。 
女が山の中に入っていくと、男は桶から身を乗り出し、木の枝に手をかけて逃れ出る。そうとは知らず、女鬼は山奥にたどり着くと鬼の子を集めて男を食おうとする。しかし男の姿は跡形もない。 
女鬼が男を追いかけて戻ってくると、男は菖蒲の陰に隠れて難を逃れようとする。女鬼はそこに男が隠れていることに気づくが、「菖蒲は鬼には毒で、触ると体がとける」といって帰ってしまう。 
この話の眼目は二つある。人を食う恐ろしい鬼というイメージと、菖蒲が魔よけになるという観念である。 
人を食う恐ろしい鬼は、安達が原の鬼婆を始め陰惨なイメージで描かれることが多いが、この話では「食わず女房」という反語的な表現がなされているとおり、ややひねった内容となっている。鬼としての恐ろしさは、頭の中から大きな口を出し、そこに飲み込むというイメージで表されているが、この話では男は機転を利かせて逃げ延びることになっている。 
女鬼が桶を担いで山の中へ入っていくというイメージは、死者を棺桶に入れて、山中の墓場に葬りにゆくという、古代の葬送の儀式を反映しているのかもしれない。鬼は山にひそむ死霊としてイメージされていたものだから、そこに連れ込まれることは、死の隠喩でもあっただろう。 
菖蒲は端午の節句が別名を菖蒲の節句ともいうように、昔から五月の節句に縁が深いものであった。菖蒲湯はいまでは夏至の日に入るものだが、陰暦では端午の節句は六月の半ば頃にあたっていたので、おそらく新暦に移り変わるに際して、端午の節句から夏至の行事へと変わったのかもしれない。いづれにしても、菖蒲には厄除けの意味が持たされていたのだろう。それが「食わず女房」の話の中では、鬼を追っ払う効用へとつながっている。 
菖蒲はまた、それでもって屋根を葺いた小屋をつくり、端午の節句の前夜に女たちがその小屋に集まってこもるという風習が、かつての日本にはあちこちで見られた。女の家と呼ばれるものである。 
宗教民俗学者の五来重は、この女の家を厄除けと関連させて考察している。旧暦の五月は陰湿で厄病が流行りやすい時期であるとともに、また田植えの時期でもあった。そこでこれから田植えをしようとするときに、大事な働き手である女たちを厄払いして、清浄な体にしよう、そういった思惑がこの行事には秘められているのではないかと考えたのである。 
五月は「さつき」というが、それは「さ」つまり田の神を祭る月を意味する。そして女は「さおとめ」として田の神に仕える身でもある。女の家に集まって女たちがイミゴモリをするのは、田植えに先立って身を清浄にするための儀式だった。そのイミゴモリのための小屋に、菖蒲が用いられたのには、中国からの影響があったのかもしれない。 
こうしてみると、「食わず女房」のような他愛ない昔話のうちにも、日本人の民族的な想像力が潜んでいることが察せられるのである。 
 
山姥

 

山に漂うと考えられた死霊あるいは祖霊のうちでも、その荒ぶる霊としての恐ろしい姿が鬼としてイメージされた。その中でも、山姥は女の鬼として、通常の男の姿の鬼とは一風異なった雰囲気を醸し出している。安達が原に出没したとされる山姥は、通りがかる旅人をことごとく食らいつくす恐ろしい鬼であるが、その山姥の口が裂けたイメージは、あらゆるものを飲み込んで抱擁する母性のイメージをも感じさせる。 
たとえば「食わず女房」に出てくる山姥は、上の口からも下の口からも、食えるものを次々とかき入れて食い尽くす。下の口が性的なものをイメージしていることはいうまでもない。それはあらゆるものを飲み込み、生み出す母性のイメージであっただろう。 
山姥をテーマにした昔話には、さまざまなバリエーションがある。その一つに、牛方山姥という一群の物語がある。牛方が馬方になったり、鯖売りになったりと微細な差異はあるが、同じような構成の話が全国さまざまなところに伝わっている。大方次のような筋書きである。 
牛方が牛に荷を積んで峠にさしかかると、山姥が現れてそれをよこせという。よこさなければ牛もお前も食ってしまうぞというので、牛方は積んでいた食い物の一部を投げる。山姥がそれを食う間に牛方は逃げようとするが、山姥はすぐに追いついてくる。牛方はひとつづつ投げては逃げ続けるが、ついに投げるものがなくなり、牛を置いて一人で逃げると、山姥はその牛を食ってなおも追いかけてくる。 
この話のパターンを、宗教民俗学者の五来重はイザナキの冥界訪問神話と関連付けて解釈している。イザナキは黄泉国を訪ねた帰りにイザナミの遣わした黄泉醜女たちに追いかけられるが、黒鬘を投げつけるとそれが海老に変わり、醜女たちが食っている間に逃げ延びたという話である。 
イザナキはその後、さまざまに智恵を働かして、イザナミの死霊に食われることを免れるのであるが、牛方山姥の話においても、牛方はさまざまに智恵を働かせて逃げ延び、最後には山姥を欺いて殺してしまう。 
五来重はさらに、この話を峠の辺りにさまよう山の神に、供物を捧げて無事を祈ったという古来の風習を結びつけて解釈している。山姥の伝説とは別に鯖大師の伝説というものが流布しているが、それは峠を越えようとするものに、山の神が通行料として鯖を要求するという内容のものである。鯖は仏教の行事の中では、施餓鬼のために施されるものであった。なぜ鯖なのかはわからぬが、鯖を与えることによって、餓鬼の祟りを逃れようとする心理が働いていたのであろう。 
鯖大師とは、峠のあたりに大師の像を立て、それに鯖を供えることを内容としている。そうすることで、餓鬼ならぬ山の神の祟りを免れようとしたのであろう。 
このように、牛方山姥の話は、人を食う恐ろしい鬼と、鯖を供えてその祟りを逃れようとした考えがどこかで結びついて成立したのではないか、五来重はそう推測する。 
山姥をテーマにした昔話には、「山姥問答」という一群の説話もある。例えば次のような内容のものである。 
猟師が山の中で焚き火をしていると山姥が現れる。猟師が「山姥は恐ろしい」と心の中で思うと、山姥は「お前は山姥が恐ろしいと思っているな」と言い当てる。「山姥に食われるのではないか」と思うと、「お前は山姥に食われるのではないかと恐れているな」と言い当てる。「どうしたら逃げられるだろうか」と思うと、「お前はどうしたら逃げられるかと考えているな」と言い当てる。 
ここですっかり絶望した猟師がそのまま食われてしまうこともあるが、焚き火のそばにあったワッカをはじかせて火の粉を山姥に浴びせ、山姥が「人間というものは何を考えるかわからぬ」といって退散する話もある。 
この山姥が童子の形に転化すると、「さとりのわっぱ」の話になる。 
牛方山姥といい、山姥問答といい、山姥をテーマにしながら話の内容は次第に趣向を変えて、鯖大師に見られる施餓鬼の行事と結びついて交通安全の祈願を盛り込んだり、頓智話のような体裁にも発展している。その辺は、もともと民族の深層意識の中にあった祖霊への信仰が、昔話という形の中で、想像力という翼をともなって自由に飛翔していった証だととれないこともない。  
 
瓜子姫と天邪鬼

 

昔話の瓜子姫は残酷な話である。天邪鬼という鬼が瓜子姫をだまして食ってしまい、その皮をかぶって姫になりすますが、最後には正体を見破られるというのが大方の荒筋である。中には、柳田国男が紹介している出雲の話のように、瓜子姫は殺されずに裏庭の柿の木に裸で吊るされるというパターンもあるが、鬼に食われてしまうというものが圧倒的に多く、聴耳草紙の話もそのようになっている。 
話の内容は大方次のようなものである。 
婆さんが川で洗濯をしていると川上から瓜が流れてきた。それを拾ってきて割ってみると中から可愛い女の子が生まれてきた。瓜から生まれたので瓜子姫と名付け大事に育てているうちに大きくなり、機織をしてお爺さんお婆さんを助けるようになった。 
或る時、お爺さんとお婆さんが出かけて留守の間に、瓜子姫はいつもどおりに機を織っていたところ、天邪鬼が現れ、瓜子姫をだまして家の中に入ってきた。そして包丁と俎板を持ってこさせると、瓜子姫の皮をはいで、肉を切り刻んで食ってしまった。痕には指と血だけを残し、自分は皮をかぶって瓜子姫になりすまし、お爺さんたちが帰ってくると、指は芋、血は酒だと偽って食わせてしまうのである。 
そのうち瓜子姫を嫁にしたいという長者が現れる。瓜子姫に化けた天邪鬼が馬に乗ってゆくと、烏が「瓜子姫の乗り物に天邪鬼が乗った」と鳴く。長者の家に着いた天邪鬼が顔を洗うと化けの皮がはがれ、もとの天邪鬼になる。そして山の中に逃げていく、というものである。 
指と血を残すという部分は、人を食うのがあまりにも残酷なので、話の信憑性を持たせるためあえて添えられたのであろう。それにしても、外にあまり例を見ない残酷さである。このような話が子ども相手に語られたとは、俄かに信じられないほどだ。 
この話に出てくる天邪鬼は鬼の一種であるが、古来意地悪であるとか、人の真似をして困らせるといったイメージをもたれてきた。もしかしたら山彦の擬人化だったのかもしれない。山彦も時に山の神に擬せられることがあるし、そこから山の神の化身たる鬼に転化するのもありえたことだ。 
天邪鬼が瓜子姫の皮をはいで瓜子姫に化けるというテーマも、山彦と同じく人の真似をするということを表しているのではないか。 
天邪鬼のルーツについては、外にさまざまな説がある。その一つに天孫降臨神話に出てくる話がある。天孫降臨に先立って高天原から遣わされた天若日子は、芦原中国に懐柔されていつまでも復命しなかった。そこで建御雷神が派遣されることとなるのであるが、天若日子のほうは、雉に向かって放った矢が舞い戻ってきて、それにあたって死んでしまうのである。そこで、任務を怠って寝返りをした報いから、後に天邪鬼となって四天王に踏まれる運命を甘受するようになったとの伝説が生まれた。 
天若日子ではなく、天探女が天邪鬼になったのだとする説もある。天探女はその名のとおり高天原から使わされたスパイであるが、これが天若日子側に寝返って二重スパイになり、その情報によって、天の死者である雉が殺される。こんなところから天探女は邪悪な女スパイとされ、やがて天邪鬼になったとする説である。 
いずれにしても、天邪鬼は古代の鬼のイメージが仏教と混交して生まれたものであるようだ。それはほとんどの場合女形をとっているが、そこには山の神たる鬼が老女の形をとるという点で、山姥と同じような事情が働いたのであろう。  
 
安達が原の鬼婆

 

能「安達が原」は人食いの鬼婆を題材にした作品である。那智の東光坊の阿闍梨裕慶一行が山伏姿になって東国行脚に出かけ、陸奥の安達が原に差し掛かったとき、老婆の小屋に立寄って一夜の宿を借りる。老婆はもてなしのためにと裏山に薪を採りに出かけるが、そのさい奥の部屋を決してのぞいてはぬらぬと言い残す。裕慶らが好奇心からその部屋をのぞいたところ、そこには食われてしまった人々の残骸が累々と重なっていたというストーリーである。 
その陰惨な場面を謡曲は次のように謡っている。 
「ふしぎや主の閨の内を、物の隙よりよく見れば、膿血忽ち融滌し、臭穢は満ちて膨脹し、膚膩ことごとく爛壊せり、人の死骸は数しらず、軒とひとしく積み置きたり、いかさまこれは音に聞<、安達が原の黒塚に、籠れる鬼の住所なり。恐ろしやかゝる憂き目をみちのくの、安達が原の黒塚に、鬼こもれりと詠じけん、歌の心もかくやらん」 
ここで歌の心と言及されているのは「みちのくの安達が原の黒塚に鬼こもれりと聞くはまことか」という、古歌のことである。この歌の影響はあまりにも強かったとみえ、安達が原は陸奥にあって、そこには人を捕らえて食う女鬼が住むという伝説が広まったようだ。能はそれを取り上げて、鬼に食われた人々の残骸と、それを食った鬼婆のすさまじさを、おどろおどろしく描いているのである。 
だが、安達が原はかならずしも陸奥のみにあったのではない。それは鬼が住み着いて人を食い、食われた人の残骸が累々と重なっているイメージで表されているが、それはとりもなおさず、死者たちを葬った墓場をイメージしているのであり、したがって日本中どこにもあったものだという趣旨のことを、宗教民俗学者の五来重が唱えている。 
五来重によれば、古代の日本人は山のふもとに死者の遺骸を捨て去る風習をもっていた。いわゆる風葬である。そのような場所には腐乱した死骸が累々と重なり、その死骸からは妖気が漂っていると観念されただろう。また死体が腐乱していく過程は、鬼がそれを食っているからだという観念も生まれたことだろう。安達が原の鬼婆の伝説は、そうした古代の日本人がもっていた墓場に対するイメージを引き継いでいるのではないか、そういうのである。 
安達が原という地名に含まれている「あだ」という言葉は、もともと「むなしい」という意味をもっている。今でも「あだになる」などという表現に、意味の一端が残されている。これは死者の葬られた墓場のイメージに重なるといえる。京都には「あだし野」という地名があるが、それは死者を弔う石塔を集めたとされる場所である。また、「あたご山」は東山の山麓をさすが、そこはもと鳥辺野といって、死者を葬る場所であった。 
だから安達が原とは、日本人が墓場というものに対して抱いていた感情を、伝説の上に投影したものといえるのである。 
この安達が原に鬼婆が住むというのは、墓場に漂う死者の霊が、生きているものに取り付くという恐怖を表しているものと考えられる。日本人は古来、人の霊魂というものに非常に敏感な民族であった。とりわけ怨霊は強烈な力をもって人びとにさまざまな影響を及ぼすと考えられた。菅原道真の怨霊などはその最たるもので、京都の祇園祭は道真の怨霊を鎮めることを主たる目的として始まったくらいである。 
この怨霊が、安達が原の鬼婆のイメージへと発展したのであろう。 
謡曲のほうに戻ると、秘密を見られた鬼婆は本性を表し、僧侶たちに襲い掛かる。「鳴神稲妻天地に満ちて、室かき曇る雨の夜の、鬼一口に食はんとて、歩みよる足音、ふりあぐる鉄杖のいきほひ、あたりを払って恐ろしや」 
「鬼一口に食はんとて」の部分に、人を食う鬼の本性がよく描かれている。謡曲ではこの後、僧侶たちの唱える仏法の威力によって、鬼婆は成仏することになっている。 
日本古来の死生観が仏教の思想と混交したところから、この伝説は生まれたのだろうと、推測される。 
安達が原は日本人にとっての墓場の原風景であり、そこに漂う死者の霊が鬼婆の姿に投影されたのだともいえよう。  
 
大江山の酒呑童子

 

鬼の話の中でも、古来もっとも人口に膾炙したのは大江山の酒呑童子の話だろう。能の曲目にも取り上げられ、お伽草紙をはじめ民話の中にも類似の話は多い。それらの話のテーマになっているのは人を食う鬼であり、その鬼を源頼光のような英雄が退治するというのが大方に共通する筋書きである。 
能の「大江山」では、丹後の大江山に住み着き、人を攫っては食うという鬼神を、源頼光とその従者50人が山伏姿となって山に踏み入り、退治するという筋書きになっている。そのクライマックスの部分を、謡曲は次のように描いている。 
「頼光保昌もとよりも、鬼神なりともさすが頼光が手なみにいかで洩すべきと、走りかゝつてはつたと打つ手にむずと組んで、えいやえいやと組むとぞ見えしが、頼光下に組み伏せられ、鬼一口に食はんとするを、頼光下より刀を抜いて、二刀三刀刺し通し刺し通し、刀を力にえいやとかへし、さも勢へる鬼神を推しつけ怒れる首を出ち落し、大江の山を又踏み分けで、都へとこそ帰りけれ。」 
「鬼一口に食はんとするを」の部分は、人を食う鬼の恐ろしさを表現したものであり、日本の民話に出てくる多くの鬼に共通する原イメージというべきものである。 
このように山中ひそかに住み着き、人を襲ったり食ったりする鬼のイメージは、日本人にとってはなじみの深いものである。お伽草紙などの民話にも類似の話が多く出てくるし、現代においてさえ、鬼を主題にした漫画が好んで読まれているほどだ。時によって鬼は眷属を伴い、集団で鬼の踊りをしたりもする。また百鬼夜行といわれるような、妖怪集団のイメージを伴うこともある。 
この鬼が果たしてどういう起源のものであるかについては、五来重などは宗教民俗学の視点から、山神の転化した形であろうと推測している。山の神は、鬼のほかにも天狗や山姥、場合によっては河童などの形をとることもあるが、いづれも日本人の山岳信仰と、その背後にある祖霊信仰に根を持っている。山は古来先祖の魂が去っていくところと思念されていたし、また先祖の霊がこの世に現れるときに、そこを通ってやってくるところであった。 
その祖霊としての山神が、何故鬼の形をとって人を食うようにならなければならないのか。なかなか難しい問題だが、そこには古来悠然と流れてきた日本人の山に対する複雑な心性が作用している。 
山は死者が葬られるところであったし、また場合によってはその中に踏み込んだ人間たちが忽然と姿を消していなくなることもあった。そんなところから、山は神聖なものであると同時に恐ろしいものでもあった。こんな両義的な感情が山の神に鬼のイメージを重ね合わせさせたのかもしれない。 
ところで能ではその恐ろしい鬼が童子の形をとっている。説話の世界でも伊吹童子や茨木童子など、童形の鬼の話はほかにもある。大江山の鬼は酒呑童子という名だが、源頼光がその名の由来を尋ねると、鬼は「我が名を酒呑童子と云ふ事は、明暮酒をすきたるにより、眷属どもに酒呑童子と呼ばれ候」と答えている。 
民話研究家の佐竹昭広はこの「しゅてんどうじ」とは「すてご(捨て子)童子」が転化したものだろうと推測しているが、いまその真偽を明らかにすることはできない。一方五来重は、童子を鬼の形に重ね合わせるのは、シャーマニズムの憑霊の儀式において、子どもが霊のヨリシロとなったことを反映しているのではないかと推測している。 
酒呑童子は、今は大江山に住んでいるが、そもそもは比叡山にいたということを、能の中の鬼は語っている。 
「われ比叡の山を重代の住家とし年月を送りしに、大師坊と云ふえせ人、嶺には根本中堂を建て、麓に七社の霊神を斎し無念さに、一夜に三十余丈の楠となつて奇瑞を見せし処に、大師坊一首の歌に、阿縟多羅三貘三菩提の仏たち、我が立つ冥加あらせ給へとありしかば、仏たちも大師坊にかたらはされ、出でよ 出でよと責め給へば、力なくして重代の比叡のお山を出でしなり。」 
ここには、仏教伝来以前より比叡山には山の神がいて、それが伝教大使によって追い出されたということが語られている。比叡山の山の神は比叡山を追い出された後、筑紫の彦山、伯耆の大山、白山、立山、富士とさすらい歩いて、最後に大江山に住み着いたのだと語っている。 
これは天狗ものにおいて、天狗たちがこもる山の名と共通するところがある。こうした山々は古来、日本人にとって山岳信仰の拠点とされてきたところである。そこには日本民族にとって悠久の昔から山の神が住み着いていた。だがそれらは仏教の伝来によって、山の主人としての地位を追われた。追われた山の神の中には、仏の眷属となって生き延びるものもいたであろうが、大江山の酒呑童子のように叛旗を翻すものもあったのだろう。 
こうしてみると、大江山の酒呑童子の伝説は、比叡山の山の神の記憶と遠く結びついていることがわかる。 
西洋の伝説に出てくる魔女や魔法使いは、もともとヨーロッパ土着の土地の神が、キリスト教の伝来によって異教の魔物とされたことにそのルーツを有しているとされる。文化の衝突によって、古いものが新しいものの視点から位置づけなおされた例である。酒呑童子の伝説においては、それと同じようなことが、日本固有の山の神と、仏教の教えとの間に生じたのであろう。  
 

 

鬼と聞いて現代人が思い浮かべるのは、まず節分の鬼であろう。二本の角を生やし、髪は赤茶けた巻き毛で、口には牙が生え、トラの皮の褌を締めている。これが春の訪れとともにやってきて、人間たちに悪さをするというので、人びとは「鬼は外」と叫びながら、厄除けの豆を投げつけて鬼を退散させ、自分たちの無事を祈るのである。 
秋田のなまはげは節分ではなく、大晦日の夜に現れるが、やはり上に述べたような鬼の特徴を有している。ただし褌を締める変わりに蓑をかぶっているが。 
このように、鬼は現代人にとっては、年中行事の一齣で出会うメルヘンチックな産物に過ぎなくなってしまったが、かつての我々の祖先たちにとっては、日常生活の中で大きな意味合いを持ったものであった。 
日本人は古来、朝廷が編集した書かれた神話としての記紀のほかに、地方ごとに独自の口誦伝承を伝えてきた。それらは「昔話」あるいは「昔語り」として、世代から世代へと語り継がれ、その一部は「日本霊異記」や「宇治拾遺物語」を始めとした説話集に収録された。 
こうした昔話を読むと、鬼をテーマにした「鬼むかし」とよばれるジャンルのものがもっとも多いことに気づかされる。昔話は、記紀とは別の次元で日本人の神話的なイメージを凝縮しているものと思われるので、そこに鬼が頻繁にでてくるというのは、日本人と鬼とが古来深い因縁で結びついていることを感じさせるのである。 
そもそもその鬼というものが、日本人にとって何をさしていたかについては、柳田国男や折口信夫らの研究を通じて、死者の霊魂、それも祖霊を意味していたとする見解が有力になっている。 
日本人の霊魂観については、筆者は別のところで論を展開したことがある。その論旨を改めていうと、人間の霊魂というものは、人が死んでも滅びることはなく、死者の遺骸の周りを漂いつつ、しばらくは死者に縁あるものの近くにある。そして機会があればほかの生き物に生き移って、違う形で甦ることもあれば、場合によっては、生前の怨念がたたって生者に災厄をもたらすこともある。鬼は、死者の霊魂のうちで、この祟りをもたらす荒ぶる霊魂を形象化したものだといえるのである。 
古代の日本人は「おに」という言葉に、「鬼」という漢字を当てたが、漢語の「鬼」はそもそも「霊魂」を意味する言葉である。「おに」は漢語の「穏―おん」が転化したとする俗説があるが、それは順序が逆な説といえる。もともと日本の「おに」が意味の近接性から漢語の「鬼」と表記されたのであって、漢語の音が日本語の「おに」という言葉に転化したのではない。 
古来日本人の文化的伝統において、祖霊との関わりほど重要なものはなかった。日本人が一年の節々に催すさまざまな行事には、この祖霊が決定的な役割を果たしている。上述した節分の行事やなまはげ、また各地の伝統的な祭事は殆どが、この祖霊を迎える行事に端を発している。神道などはこの祖霊とのかかわりを体系化したものともいえるのである。 
祖霊の中でも、日本人をもっとも悩ましたのは、荒ぶる魂であった。この荒ぶる魂が、日本人の生業たる農耕に災いをもたらすとき、それは疫病神となった。日本人は世界の中に農耕民族として登場して以来、この疫病神に悩まされ続けてきたのであり、疫病神の怒りを静めるために、さまざまな努力を重ねてきた。京都の祇園祭をはじめ、今日でも日本各地に残っている伝統行事の多くは、その起源を厄払いにもっている。 
こうした荒ぶる死霊、あるいは疫病神としての鬼については、日本書紀にも言及がある。斉明天皇七年の条に、天皇の葬儀にあたって、蘇我入鹿の霊が出てくる。 
朝倉山の上において、鬼ありて、大いなる笠を着て、喪の儀を臨み観る 
入鹿は斉明天皇が重詐する以前の皇極天皇であった時に、大化の改新に際して殺されたために、しばしば天皇に祟りをした。また、少し下った時代の菅原道真は、死後怨霊となって都に出没し、自分を陥れた者たちに祟りをもたらし続けた。 
こうした死者の荒ぶる霊が、鬼という形をとって、人々の畏怖の対象となっていったのである。 
この荒ぶる霊が今日のような鬼の形をとるに至るのには、仏教の影響が働いているものと思われる。その詳細については、今後の論及の中で明らかにしていきたい。  
 
天狗

 

天狗といえば、鬼や山姥とならんで日本の妖怪変化の代表格といえる。天狗を主題にした物語や絵ときものが古来夥しく作られてきたことからも、それが我が民族の想像力にいかに深く根ざしてきたかがわかる。中でも能には、天狗を主人公にしたものがいくつもあり、いずれも勇壮な立ち居振る舞いや痛快な筋運びが人びとの人気を博してきた。 
能の天狗ものの代表格は「鞍馬天狗」であろう。これは鞍馬山に年経て住める大天狗が、義経に剣の手ほどきを行い、平家打倒に備えるという筋書きになっている。その大天狗が名乗りを上げる部分を、謡曲は次のように描いている。 
後シテ「そもそもこれは。鞍馬の奥僧正が谷に。年経て住める。大天狗なり。 
地「まづ御供の天狗は。誰々ぞ筑紫には。 
シテ「彦山の豊前坊。 
地「四州には。 
シテ「白峯の。相模坊。大山の伯耆坊。 
地「飯綱の三郎富士太郎。大峯の前鬼が一党葛城高間。よそまでもあるまじ。邊土においては。 
シテ「比良。 
地「横川。 
シテ「如意が嶽。 
地「我慢高雄の峯に住んで。人の為には愛宕山。霞とたなびき雲となつて。月は鞍馬の僧正が。 
地「谷に満ち満ち峯をうごかし。嵐こがらし滝の音。天狗だふしはおびたたしや 
名乗りから伺われるとおり、日本の主だった山々にはそれぞれ天狗が住みつき、中でも鞍馬の天狗は大天狗として、首領格であると主張されている。 
この天狗とはいったいどういうものなのか。まずその面相を見ると、今日鞍馬山に存置されている天狗の像は赤ら顔に大きく飛び出た鼻を持っていることが特徴的だ。これはいうまでもなく記紀神話に出てくる猿田彦の面相を髣髴とさせる。これが関東では鎌倉の建長寺や高尾山の天狗のようにカラスの嘴がついていたりする。 
だがいずれの天狗も山伏のいでたちをしていることでは共通している。 
天狗が山伏の印象と結びついたのは鎌倉時代だろうといわれている。平安時代には天狗は明確な像としては意識されておらず、中国の言い伝えを採用して流星であるとされたり、地上に災いをもたらす天の妖怪として観念されていた。 
日本人にはもともと、祖霊信仰としての山岳信仰があった。祖霊のうちでも人に取り付いて害をなすものは怨霊として痛く恐れられていた。平安時代最大の怨霊に菅原道真のものがあるが、それが国を挙げて恐怖の対象になり、道真の怨霊を静めるための祭が今日の祇園祭に発展したほどなのは、日本人に古来伝わる霊魂観が底にあったからである。 
怨霊のうちでも多くのものは山に住むと観念され、それは鬼という形をとって人々を恐れさせた。天狗もいつしかこの鬼の一種として、妖怪変化の中に取り込まれていったと思われるのである。 
天狗が山伏という人間の姿と結びついたのには、さまざまな事情があったのだろう。山伏は修験道といって、厳しい山岳修行で知られ、山中を自由自在に駆け巡るというイメージが強かった。それが天を駆け巡るようにも受け取られたので、天狗の観念と結びついたのではないか。 
それ以上に、山伏自体の出自にかかわる事情もある。山伏は大峰や比叡山を拠点に、大きな寺院に従属して、大衆として寺院の雑役に従事していた。それ以前には、山伏の先祖たちは山岳の神をつかさどる立場にあったものと考えられる。これらの山岳に伝教大師や弘法大師が仏教の拠点を開くようになると、山伏の祖先たちは寺院に降伏してその下役になるか、寺院に反逆して放浪の旅に出る事を選んだ。 
こうした事情を物語るものに「鞍馬寺縁起」がある。それによれば藤原伊勢人がこの地で観音の像を見出し、それを本尊として鞍馬寺を建てるのであるが、この地には既に鞍馬山に年経て住める神がいた。その神は観音の威力に降伏し、そのかわりに魔王尊として祭られる。それがいまいう鬼の姿になったのである。 
山伏はこの魔王尊にかかわりあるものとして観念された。つまり鬼の子孫であるという性格付けを持たされたのである。 
このほか、大江山の昔話では、酒呑童子はもと比叡山の山の神であったのが、伝教大師に追われて全国を放浪した挙句、大江山に落ち着いたのだということになっている。 
こうしてみると、日本の山にはもともと山の神が住んでいたのが、仏に追われて放浪の鬼になったとする信仰が古来あったことがわかる。その鬼が山々を駆け巡る山伏の姿と結びついて、山伏姿の鬼、つまり天狗の形になったのではないか。 
なお、天狗にカラスを結びつけるのは、天狗の話が芸能化したためだという説が強い。これにもいわくがありそうである。カラスはやた烏に見られるように、古来霊的な鳥だとも受け取られてきた。古墳の周りに住み着いて、高貴な人の霊を守るのだとする言い伝えもある。こうしたカラスの霊性が、天狗のイメージとどこかで結びついたのかもしれない。  
 
魔法修行者 / 幸田露伴

 

魔法。 
魔法とは、まあ何という笑(わら)わしい言葉であろう。 
しかし如何(いか)なる国の何時(いつ)の代にも、魔法というようなことは人の心の中に存在した。そしてあるいは今でも存在しているかも知れない。 
埃及(エジプト)、印度(いんど)、支那、阿剌比亜(アラビア)、波斯(ペルシャ)、皆魔法の問屋(といや)たる国々だ。 
真面目に魔法を取扱って見たらば如何(いかが)であろう。それは人類学で取扱うべき箇条が多かろう。また宗教の一部分として取扱うべき廉(かど)も多いであろう。伝説研究の中(うち)に入れて取扱うべきものも多いだろう。文芸製作として、心理現象として、その他種々の意味からして取扱うべきことも多いだろう。化学、天文学、医学、数学なども、その歴史の初頭においては魔法と関係を有しているといって宜しかろう。 
従って魔法を分類したならば、哲学くさい幽玄高遠なものから、手づまのような卑小浅陋(せんろう)なものまで、何程(なにほど)の種類と段階とがあるか知れない。 
で、世界の魔法について語ったら、一(ひと)月や二(ふた)月で尽きるわけのものではない。例えば魔法の中で最も小さな一部の厭勝(まじない)の術の中の、そのまた小さな一部のマジックスクェアーの如きは、まことに言うに足らぬものである。それでさえ支那でも他の邦(くに)でも、それに病災を禳(はら)い除く力があると信じたり、あるいはまたこれを演繹して未来を知ることを得るとしたりしている。洛書(らくしょ)というものは最も簡単なマジックスクェアーである。それが聖典たる易(えき)に関している。九宮方位(きゅうきゅうほうい)の談(だん)、八門遁甲(はちもんとんこう)の説、三命(さんめい)の占(うらない)、九星(きゅうせい)の卜、皆それに続いている。それだけの談さえもなかなか尽きるものではない。一より九に至るの数を九格正方内(きゅうかくせいほうない)に一つずつ置いて、縦線(じゅうせん)、横線(おうせん)、対角線、どう数えても十五になる。一より十六を正方格内に置いて縦線、横線、対角線、各隅(かくぐう)、随処四方角、皆三十四になる。二十五格内に同様に一より二十五までを置いて、六十五になる。三十六格内に三十六までの数を置いて、百十一になる。それ以上いくらでも出来ることである。が、その法を知らないで列(なら)べたのでは、一日かかっても少し多い根数(こんすう)になれば出来ない。古代の人が驚異したのに無理はないが、今日はバッチェット方法、ポイグナード方法、その他の方法を知れば、随分大きな魔方陣でも列べ得ること容易である。しかし魔方陣のことを談(かた)るだけでも、支那印度の古(いにしえ)より、その歴史その影響、今日の数学的解釈及び方法までを談れば、一巻の書を成しても足らぬであろう。極々(ごくごく)小さな部分の中の小部分でもその通りだ。そういう訳だから、魔法の談などといっても際限のないことである。 
我邦(わがくに)での魔法の歴史を一瞥して見よう。先ず上古において厭勝(まじない)の術があった。この「まじなう」という「まじ」という語は、世界において分布区域の甚(はなは)だ広い語で、我国においてもラテンやゼンドと連なっているのがおもしろい。禁厭(きんえん)をまじないやむると訓(よ)んでいるのは古いことだ。神代(じんだい)から存したのである。しかし神代のは、悪いこと兇なることを圧し禁(と)むるのであった。奈良朝になると、髪の毛を穢(きたな)い佐保川(さほがわ)の髑髏(どくろ)に入れて、「まじもの」せる不逞(ふてい)の者などあった。これは咒詛調伏(じゅそちょうぶく)で、厭魅(えんみ)である、悪い意味のものだ。当時既にそういう方術があったらしく、そういうことをする者もあったらしい。 
神おろし、神がかりの類は、これもけだし上古からあったろう。人皇(にんのう)十五、六代の頃に明らかに見える。が、紀記ともに其処(そこ)は仮託が多いと思われる。かみなびの神より板(いた)にする杉のおもひも過(すぎ)ず恋のしげきに、という万葉巻九の歌によっても知られるが、後にも「琴の板」というものが杉で造られてあって、神教(しんきょう)をこれによりて受けるべくしたものである。これらは魔法というべきではなく、神教を精誠(せいせい)によって仰ぐのであるから、魔法としては論ぜざるべきことである。仏教巫徒(ふと)の「よりまし」「よりき」の事と少し似てはいるであろう。 
仏教が渡来するに及んで咒詛(じゅそ)の事など起ったろうが、仏教ぎらいの守屋(もりや)も「さまざまのまじわざものをしき」と水鏡(みずかがみ)にはあるから、相手が外国流で己(おのれ)を衛(まも)り人を攻むれば、こちらも自国流の咒詛をしたのかも知れぬ。しかし水鏡は信憑すべき書ではない。 
役(えん)の小角(しょうかく)が出るに及んで、大分魔法使いらしい魔法使いが出て来たわけになる。葛城(かつらぎ)の神を駆使したり、前鬼(ぜんき)後鬼(ごき)を従えたり、伊豆の大島から富士へ飛んだり、末には母を銕鉢(てつばち)へ入れて外国へ行ったなどということであるが、余りあてになろう訳もない。小角は孔雀明王咒(くじゃくみょうおうじゅ)を持してそういうようになったというが、なるほど孔雀明王などのような豪気なものを祈って修法成就したら神変奇特も出来る訳か知らぬけれど、小角の時はまだ孔雀明王についての何もが唐(とう)で出ていなかったように思われる。ちょっと調べてもらいたい。 
白山(はくさん)の泰澄(たいちょう)や臥行者(がぎょうしゃ)も立派な魔法使らしい。海上の船から山中の庵(いおり)へ米苞(こめづと)が連続して空中を飛んで行ってしまったり、紫宸殿(ししいでん)を御手製(おてせい)地震でゆらゆらとさせて月卿雲客(げっけいうんかく)を驚かしたりなんどしたというのは活動写真映画として実に面白いが、元亨釈書(げんこうしゃくしょ)などに出て来る景気の好い訳(わけ)は、大衆文芸ではない大衆宗教で、ハハア、面白いと聞いて置くに適している。 
久米(くめ)の仙人に至って、映画もニコニコものを出すに至った。仙人は建築が上手で、弘法大師(こうぼうたいし)なども初(はじめ)は久米様のいた寺で勉強した位である、なかなかの魔法使いだったから、雲ぐらいには乗ったろうが、洗濯女の方が魔法が一段上だったので、負けて落第生となったなどは、愛嬌と涎(よだれ)と一緒に滴(したた)るばかりで実に好人物だ。 
奈良朝から平安朝、平安朝と来ては実に外美内醜の世であったから、魔法くさいことの行われるには最も適した時代であった。源氏物語は如何にまじないが一般的であったかを語っており、法力(ほうりき)が尊いものであるかを語っている。この時代の人々は大概現世祈祷を事とする堕落僧の言を無批判に頂戴し、将門(まさかど)が乱を起しても護摩(ごま)を焚(た)いて祈り伏せるつもりでいた位であるし、感情の絃(いと)は蜘蛛(くも)の糸ほどに細くなっていたので、あらゆる妄信にへばりついて、そして虚礼と文飾と淫乱とに辛(から)くも活きていたのである。生霊(いきりょう)、死霊(しりょう)、のろい、陰陽師(おんようし)の術、巫覡(ふげき)の言、方位、祈祷、物の怪(け)、転生、邪魅(じゃみ)、因果、怪異、動物の超常力、何でも彼(か)でも低頭(ていとう)してこれを信じ、これを畏れ、あるいはこれに頼り、あるいはこれを利用していたのである。源氏以外の文学及びまた更に下っての今昔(こんじゃく)、宇治(うじ)、著聞集(ちょもんじゅう)等の雑書に就いて窺(うかが)ったら、如何にこの時代が、魔法ではなくとも少くとも魔法くさいことを信受していたかが知られる。今一々(いちいち)例を挙げていることも出来ないが、大概日本人の妄信はこの時代にうん醸し出されて近時にまで及んでいるのである。 
大体の談は先ずこれまでにして置く。 
我国で魔法の類の称(しょう)を挙げて見よう。先ず魔法、それから妖術、幻術、げほう、狐つかい、飯綱(いづな)の法、荼吉尼(だきに)の法、忍術、合気(あいき)の術、キリシタンバテレンの法、口寄せ、識神(しきじん)をつかう。大概はこれらである。 
これらの中(うち)、キリシタンの法は、少しは奇異を見せたものかも知らぬが、今からいえば理解の及ばぬことに対する怖畏(ふい)よりの誇張であったろう。識神を使ったというのは阿倍晴明(あべせいめい)きりの談になっている。口寄せ、梓神子(あずさみこ)は古い我邦の神おろしの術が仏教の輪廻(りんね)説と混じて変形したものらしい。これは明治まで存し、今でも辺鄙(へんぴ)には密(ひそか)に存するかも知れぬが、営業的なものである。但しこれには「げほう」が連絡している。忍術というのは明治になっては魔法妖術という意味に用いられたが、これは戦乱の世に敵状を知るべく潜入密偵するの術で、少しは印(いん)を結び咒(じゅ)を持する真言宗様(しんごんしゅうよう)の事をも用いたにもせよ、兵家(へいか)の事であるのがその本来である。合気の術は剣客武芸者等の我が神威を以て敵の意気を摧(くじ)くので、鍛錬した我が気の冴(さえ)を微妙の機によって敵に徹するのである。正木(まさき)の気合(きあい)の談を考えて、それが如何なるものかを猜(さい)することが出来る。魔法の類ではない。妖術幻術というはただ字面(じめん)の通りである。しかし支那流の妖術幻術、印度流の幻師の法を伝えた痕跡はむしろ少い。小角(しょうかく)や浄蔵(じょうぞう)などの奇蹟は妖術幻術の中には算(さん)していないで、神通道力というように取扱い来っている。小角は道士羽客(どうしうかく)の流にも大日本史などでは扱われているが、小角の事はすべて小角死して二百年ばかりになって聖宝(しょうぼう)が出た頃からいろいろ取囃(とりはや)されたもので、その間に二百年の空隙があるから、聖宝の偉大なことやその道としたところはおよそ認められるが、小角が如何なるものであったかは伝説化したるその人において認めるほかはないのである。聖宝は密教の人である。小角は道家ではない。勿論道家と仏家は互に相奪っているから、支那において既に混淆しており、従って日本においても修験道の所為(しょい)など道家くさいこともあり、仏家が「九字」をきるなど、道家の咒(じゅ)を用いたり、符(ふろく)の類を用いたりしている。神仏混淆は日本で起り、道仏混淆は支那で起り、仏法婆羅門(ばらもん)混淆は印度で起っている。何も不思議はない。ただここでは我邦でいう所の妖術幻術は別に支那印度などから伝えた一系統があるのではなくて、字面だけの事だというのである。 
さて「げほう」というのになる。これは眩法(げんほう)か、幻法か、外法(げほう)か、不明であるが、何にせよ「げほう」という語は中古以来行われて、今に存している。増鏡(ますかがみ)巻五に、太政大臣藤原公相(ふじわらきみすけ)の頭が大きくて大でこで、げほう好みだったので、「げはふとかやまつるにかゝる生頭(なまこうべ)のいることにて、某(それがし)のひじりとかや、東山のほとりなりける人取りてけるとて、後(のち)に沙汰がましく聞えき」という事があって、まだしゃれ頭にならない生頭を取られたというのである。して見ればこの人の薨去(こうきょ)は文永四年で北条時宗(ときむね)執権の頃であるから、その時分「げほう」と称する者があって、げほうといえば直(ただち)に世人がどういうものだと解することが出来るほど一般に知られていたのである。内典(ないてん)外典(げてん)というが如く、げほうは外法(げほう)で、外道(げどう)というが如く仏法でない法の義であろうか。何にせよ大変なことで、外法は魔法たること分明だ。その後になっても外法頭(げほうあたま)という語はあって、福禄寿(ふくろくじゅ)のような頭を、今でも多分京阪地方では外法頭というだろう、東京にも明治頃までは、下駄の形の称に外法というのがあった。竹斎(ちくさい)だか何だったか徳川初期の草子(そうし)にも外法あたまというはあり、「外法の下り坂」という奇抜な諺(ことわざ)もあるが、福禄寿のような頭では下り坂は妙に早かろう。 
流布本太平記巻三十六、細川相模守清氏(さがみのかみきようじ)叛逆の事を記した段に、「外法成就の志一上人(しいつしょうにん)鎌倉より上(のぼ)つて」云々とある。神田本同書には、「此(この)志一上人はもとより邪天道法成就の人なる上、近頃鎌倉にて諸人奇特(きとく)の思(おもい)をなし、帰依(きえ)浅からざる上、畠山入道(はたけやまにゅうどう)諸事深く信仰頼入(たのみい)りて、関東にても不思議ども現じける人なり」とある。清氏はこの志一を頼んで、 託祇尼天(だぎにてん)に足利義詮(あしかがよしあきら)を祈殺(いのりころ)そうとの願状(がんじょう)を奉ったのである。さすれば「邪天道法成就」というのは、 託祇尼天を祈る道法成就ということで、志一という僧はその法で「ふしぎども現じける」ものである。これで当時外法と呼んだものは託祇尼天法であることが知れる。けだし外法は平安朝頃から出て来たらしい。 
狐つかいは同じくだ祇尼法であるか知れぬ。しかし狐を霊物とするのは支那にもあったことで、禹(う)が九尾(きゅうび)の狐を娶(めと)ったなどという馬鹿気たことも随分古くから語られたことであろうし、周易(しゅうえき)にも狐はまんざら凡獣でもないように扱われており、後には狐王廟(こおうびょう)なども所々(ところどころ)にあり、狐媚狐惑(こびこわく)の談(だん)は雑書小説に煩らわしいほど見える。印度でも狐は仏典に多く見え、野干(ヤッカル)(狐とは少し異(ちが)おう)は何時(いつ)も狡智あるものとなっている。 託祇尼天も狐に乗っているので、孔雀明王が孔雀の明王化、金翅鳥(きんしちょう)明王が金翅鳥の明王化である如く、託祇尼天も狐の天化であろう。我邦では狐は何でもなかったが、それでも景戒(けいかい)の霊異記(れいいき)などには、もはや霊異のものとされていたことが跡づけられる。狐は稲荷(いなり)の使わしめとなっているが、「使わしめ」というものはすべて初(はじめ)は「聯想(れんそう)」から生じた優美な感情の寓奇(ぐうき)であって、鳩は八幡(はちまん)の「はた」から、鹿は春日(かすが)の第一殿鹿島(かしま)の神の神幸(みゆき)の時乗り玉(たま)いし「鹿」から、烏(からす)は熊野(くまの)に八咫烏(やたがらす)の縁で、猿は日吉山王(ひよしさんのう)の月行事の社(やしろ)猿田彦大神(さるだひこおおかみ)の「猿」の縁であるが如しと前人も説いているが、稲荷に狐は何の縁もない。ただ稲荷は保食神(うけもちのかみ)の腹中に稲生(いねな)りしよりの「いなり」で、御饌津神(みけつかみ)であるその御饌津より「けつね」即ち狐が持出されたまでで、大黒(だいこく)様(太名牟遅神(おおなむちのかみ))に鼠よりも縁は遠い話である。けれども早くから稲荷に狐は神使(かみつかい)となっている。といってお稲荷様が狐つかいに関係のあろうようはないから、やはりこれは狐に乗っている 託祇尼天の方から出たことで、だ祇尼の法をつかう者即ち狐つかいである。 
だ祇尼は保食神どころではない、本来餓鬼(がき)のようなもので、死人の心をかん食したがっている者なのであるが、他の大鬼神に敵(かな)わないので、六ヶ月前に人の死を知り、先取権を確立するものであり、なかなか御稲荷様のような福々(ふくふく)しいものではないのである。だ祇尼はまた阿修羅波子(アシュラバス)とも呼ばれて、その義は「飲血者」である。狐つかいの狐は人に禍(わざわい)や死を与える者とされている。して見ればだ祇尼の狐で、お稲荷様の狐ではないはずである。大江匡房(おおえのまさふさ)が記している狐の大饗(だいきょう)の事は堀河天皇の康和三年である。牛骨などを饗(きょう)するのであったから、その頃からだ祇尼の狐ということが人の思想にあったのではないかと思われるが、これは真の想像である。明らかに狐を使った者は、応永二十七年九月足利将軍義持(よしもち)の医師の高天(こうてん)という者父子三人、将軍に狐を付けたこと露顕して、同十月讃岐国(さぬきのくに)に流されたのが、年代記にまで出ている。やはりだ祇尼法であったろうことは思遣(おもいや)られるが、他の者に祈られて狐が二匹室町御所から飛出(とびだ)したなどというところを見ると、将軍長病で治らなかった余りに、人に狐を憑(つ)けるなどという事が一般に信ぜられていたに乗じて、他の者から仕組まれて被(き)せられた冤罪(えんざい)だったかも知れない。が、何にしろ足利時代には一般にそういう魔法外法邪道の存することが認められていたに疑(うたがい)ない。世が余りに狐を大したものに思うところから、釣狐(つりぎつね)のような面白い狂言が出るに至った、とこういうように観察すると、釣狐も甚だ面白い。 
飯綱(いづな)の法というといよいよ魔法の本統大系(ほんとうだいけい)のように人に思われている。飯綱は元来山の名で、信州の北部、長野の北方、戸隠山(とがくしやま)につづいている相当の高山である。この山には古代の微生物の残骸が土のようになって、戸隠山へ寄った方に存する処(ところ)がある。天狗の麦飯(むぎめし)だの、餓鬼の麦飯だのといって、この山のみではない諸処にある。浅間山観測所附近にもある。北海道にもある、支那にもあるから太平広記(たいへいこうき)に出ている。これは元来が動物質だから食えるものである。で、飯綱は仮名ちがいの擬字(ぎじ)で、これがあるからの飯沙山(いいすなやま)である。そういうちょっと異なものがあったから、古く保食神即ち稲荷なども勧請(かんじょう)してあったかも知れぬ。ところが荼吉尼法は著聞集に、知定院殿(ちていいんでん)が大権坊(だいごんぼう)という奇験の僧によりて修したところ、夢中に狐の生尾(せいび)を得たり、なんどとある通り、古くから行われていたし、稲荷と荼吉尼は狐によって混雑してしまっていた。文徳実録(もんとくじつろく)に見える席田郡(むしろだごおり)の妖巫(ようふ)の、その霊転行(てんこう)して心を噉(くら)い、一種滋蔓(じまん)して、民(たみ)毒害を被る、というのも噉心の二字がだ祇尼法の如く思えるところから考えると、なかなか古いもので、今昔物語に外術(げじゅつ)とあるものもやはり外法と同じくだ祇尼法らしいから、随分と索隠行怪(さくいんこうかい)の徒には輾転(てんてん)伝受されていたのだろうと思われる。伝説に依ると、水内郡(みのちごおり)荻原(おぎわら)に、伊藤豊前守忠縄(ぶぜんのかみただつな)というものがあって、後堀河天皇の天福元年(四条天皇の元年で、北条泰時(やすとき)執権の時)にこの山へ上って穀食を絶ち、何の神か不明だがその神意を受けて祈願を凝(こ)らしたとある。穀食を絶っても食える土があったから辛防(しんぼう)出来たろう。それから遂に大自在力を得て、凡(およ)そ二百年余も生きた後、応永七年足利義持の時に死したということだ。これが飯綱の法のはじまりで、それからその子盛縄(もりつな)も同じく法を得て奇験を現わし、飯綱の千日家(せんにちけ)というものは、この父子より成立ち、飯綱権現の別当ともいうべきものになったのであり、徳川初期には百石の御朱印を受けていたものである。 
今は飯綱(いいづな)神社で、式内(しきない)の水内郡(みのちぐん)の皇足穂命(すめたりほのみこと)神社である。昔は飯綱(いづな)大明神、または飯綱権現と称し、先ず密教修験的の霊区であった。他からは多くは 託祇尼天を祭るとせられたが、山では勝軍地蔵(しょうぐんじぞう)を本宮とするとしていた。勝軍地蔵は日本製の地蔵で、身に甲冑を着け、軍馬に跨(またが)って、そして錫杖(しゃくじょう)と宝珠(ほうじゅ)とを持ち、後光輪(ごこうりん)を戴いているものである。如何にも日本武士的、鎌倉もしくは足利期的の仏であるが、地蔵十輪経(じぞうじゅうりんきょう)に、この菩薩はあるいは阿索洛(アシュラ)身を現わすとあるから、甲(かぶと)を被(こうむ)り馬に乗って、甘くない顔をしていられても不思議はないのである。山城(やましろ)の愛宕(あたご)権現も勝軍地蔵を奉じたところで、それにつづいて太郎坊大天狗などという恐ろしい者で名高い。勝軍地蔵はいつでも武運を守り、福徳を授けて下さるという信仰の対的(たいてき)である。明智光秀も信長を殺す前には愛宕へ詣(まい)って、そして「時は今天(あめ)が下知る五月(さつき)かな」というを発句に連歌を奉っている位だ。飯綱山も愛宕山に負けはしない。武田信玄は飯綱山に祈願をさせている。上杉謙信がそれを見て嘲笑(あざわら)って、信玄、弓箭(ゆみや)では意をば得ぬより権現の力を藉(か)ろうとや、謙信が武勇優れるに似たり、と笑ったというが、どうして信玄は飯綱どころか、禅宗でも、天台宗でも、一向宗までも呑吐(どんと)して、諸国への使(つかい)は一向坊主にさせているところなど、また信玄一流の大きさで、飯綱の法を行(おこな)ったかどうか知らぬが、甲州八代(やつしろ)郡末木(すえき)村慈眼寺(じげんじ)に、同寺から高野(こうや)へ送った武田家品物の目録書の稿の中に、飯縄本尊并(ならび)に法次第一冊信玄公御随身(みずいしん)とあることが甲斐国志(かいこくし)巻七十六に見えているから、飯綱の法も行ったか知れぬ。 
勝軍地蔵か託祇尼天か、飯綱の本体はいずれでも宜(よ)いが、だ祇尼は古くからいい伝えていること、勝軍地蔵は新らしく出来たもの、だきには胎蔵界曼陀羅(たいぞうかいまんだら)の外金剛部院(げこんごうぶいん)の一尊であり、勝軍地蔵はただこれ地蔵の一変身である。大日経(だいにちきょう)巻第二に荼枳尼(だきに)は見えており、儀軌真言(ぎきしんごん)なども伝来の古いものである。もし密教の大道理からいえば、荼枳尼も大日、他の諸天も大日、玄奥(げんおう)秘密の意義理趣を談ずる上からは、甲乙の分け隔てはなくなる故にとかくを言うのも愚なことであるが、先ず荼枳尼として置こう。荼枳尼天の形相、真言等をここに記するも益無きことであるし、かつまた自分が飯綱二十法を心得ているわけでもないから、飯綱修法に関することは書かぬが、やはり他の天部(てんぶ)夜叉部(やしゃぶ)等の修法の如くに、相伝を得て、次第により如法(にょほう)に修するものであろう。東京近くでは武州高雄山(たかおさん)からも、今は知らぬが以前は荼枳尼の影像を与えたものである。諸国に荼枳尼天を祭ったところは少からずあるが、今その法を修する者はあるまい。まして魔法の邪法のといわれるものであるから、真に修法(じゅほう)する者は全くあるまいが、修法の事は、その利益功能のある状態や理合(りごう)を語ろうとしても、全然そういうことを知らぬ人に理解せしむることは先ず不可能であるから、まして批評を交えてなど語れるものではない。管狐(くだぎつね)という鼠ほどの小さな狐を山より受取って来て、これを使うなどということは世俗のややもすれば伝えることであるが、自分は知らぬ。天狗も荼枳尼には連なることで、愛宕にも太郎坊があれば、飯綱にも天狗嶽という魔所があり、餓鬼曼陀羅(がきまんだら)のような荼枳尼曼陀羅には天狗もあり、また荼吉尼天その物を狐に乗っている天狗だと心得ている人もある。むかし僧正遍照(へんじょう)は天狗を金網の中へ籠めて焼いて灰にしたというが、我らにはなかなかそのような道力はないから、平生いろいろな天狗に脅(おびやか)されて弱っている、俳句天狗や歌天狗、書天狗画天狗浄瑠璃(じょうるり)天狗、その上に本物の天狗に出られて叱られでもしたら堪(たま)らないから筆を擱(お)く。 
我邦で魔法といえば先ず飯綱の法、荼吉尼の法ということになるが、それならどんな人が上に説いた人のほかに魔法を修したか。志一や高天は言うに足らない、山伏や坊さんは職分的であるから興味もない。誰かないか。魔法修行のアマチュアは。 
ある。先ず第一標本には細川政元(まさもと)を出そう。 
彼(か)の応仁の大乱は人も知る通り細川勝元(かつもと)と山名宗全(やまなそうぜん)とが天下を半分ずつに分けて取って争ったから起ったのだが、その勝元の子が即ち政元だ。家柄ではあり、親父の余威はあり、二度も京都管領(かんりょう)になったその政元が魔法修行者だった。政元は生れない前から魔法に縁があったのだから仕方がない。はじめ勝元は彼(あれ)だけの地位に立っていても、不幸にして子がなかった。そこでその頃の人だから、神仏に祈願を籠めたのであるが、観音(かんのん)か何かに祈るというなら普門品(ふもんぼん)の誓(ちかい)によって好い子を授けられそうなところを、勝元は妙なところへ願を掛けた。何に掛けたか。武将だから毘沙門(びしゃもん)とか、八幡(はちまん)とかへ願えばまだしも宜(い)いものを、愛宕山大権現へ願った。勝元は宗全とは異って、人あたりの柔らかな、分別も道理はずれをせぬ、感情も細かに、智慧も行届く人であったが、さすがに大乱の片棒をかついだ人だけに、やはり※(きぶ)[酉+嚴]いところがあったと見えて、愛宕山権現に願掛けした。愛宕山は七高山の一として修験の大修行場で、本尊は雷神(らいじん)にせよ素盞嗚尊(すさのおのみこと)にせよ破旡神(はむじん)にせよ、いずれも暴(あら)い神で、この頃は既に勝軍地蔵を本宮とし、奥の院は太郎坊、天狗様の拠所(よりどころ)であった。武家の尊崇によって愛宕は最も盛大な時であったろうが、こういう訳で生れた政元は、生れぬさきより恐ろしいものと因縁があったのである。 
政元は幼時からこの訳で愛宕を尊崇した。最も愛宕尊崇は一体の世の風であったろうが、自分の特別因縁で特別尊崇をした。数々(しばしば)社参する中(うち)に、修験者らから神怪幻詭(げんき)の偉い談(だん)などを聞かされて、身に浸みたのであろう、長ずるに及んで何不自由なき大名の身でありながら、葷腥(くんせい)を遠ざけて滋味(じみ)を食(くら)わず、身を持する謹厳で、超人間の境界を得たい望(のぞみ)に現世の欲楽を取ることを敢(あえ)てしなかった。ここは政元も偉かった。憾(うら)むらくは良い師を得なかったようである。婦人に接しない。これも差支(さしつかえ)ないことであった。自由の利く者は誰しも享楽主義になりたがるこの不穏な世に大自由の出来る身を以て、淫欲までを禁遏(きんあつ)したのは恐ろしい信仰心の凝固(こりかたま)りであった。そして畏るべき鉄のような厳冷な態度で修法をはじめた。勿論生やさしい料簡方(がた)で出来る事ではない。 
政元は堅固に厳粛に月日を過した。二十歳、三十歳、四十近くなった。舟岡記(ふなおかき)にその有様を記してある。曰く、「京管領細川右京太夫政元は四十歳の比(ころ)まで女人禁制にて、魔法飯綱の法愛宕の法を行ひ、さながら出家の如く、山伏の如し、或時は経を読み、陀羅尼(だらに)をへんしければ、見る人身の毛もよだちける。されば御家(おいえ)相続の子無くして、御内(みうち)、外様(とざま)の面々、色々諫(いさ)め申しける。」なるほどこういう状態では、当人は宜(よ)いが、周囲の者は畏れたろう。その冷い、しゃちこばった顔付が見えるようだ。 
で、諸大名ら人々の執成(とりな)しで、将軍義澄(よしずみ)の叔母の縁づいている太政大臣九条政基(まさもと)の子を養子に貰って元服させ、将軍が烏帽子親(えぼしおや)になって、その名の一字を受けさせ、源九郎澄之(すみゆき)とならせた。 
澄之は出た家も好し、上品の若者だったから、人々も好い若君と喜び、丹波(たんば)の国をこの人に進ずることにしたので、澄之はそこで入都した。 
ところが政元は病気を時々したので、この前の病気の時、政元一家の内々(うちうち)の人々だけで相談して、阿波(あわ)の守護細川慈雲院(じうんいん)の孫、細川讃岐守之勝(さぬきのかみゆきかつ)の子息が器量骨柄も宜しいというので、摂州(せっしゅう)の守護代薬師寺与一(やくしじよいち)を使者にして養子にする契約をしたのであった。 
この養子に契約した者も将軍より一字を貰って、細川六郎澄元(すみもと)と名乗った。つまり澄元の方は内々の者が約束した養子で、澄之の方は立派な人々の口入(くちいれ)で出来た養子であったのである。これには種々の説があって、前後が上記と反対しているのもある。 
澄元契約に使者に行った細川の被官の薬師寺与一というのは、一文不通(いちもんふつう)の者であったが、天性正直で、弟の与二(よじ)とともに無双の勇者で、淀(よど)の城に住し、今までも度々(たびたび)手柄を立てた者なので、細川一家では賞美していた男であった。澄元のあるところへ、澄之という者が太政大臣家から養子に来られたので、契約の使者になった薬師寺与一は阿波の細川家へ対して、また澄元に対して困った立場になった。そこで根が律義勇猛のみで、心は狭く分別は足らなかった与一は赫(かっ)としたのである。この頃主人政元はというと、段魔法に凝(こ)り募(つの)って、種々の不思議を現わし、空中へ飛上ったり空中へ立ったりし、喜怒も常人とは異り、分らぬことなど言う折もあった。空中へ上(のぼ)るのは西洋の魔法使もする事で、それだけ永い間修業したのだから、その位の事は出来たことと見て置こう。感情が測られず、超常的言語など発するというのは、もともと普通凡庸の世界を出たいというので修業したのだから、修業を積めばそうなるのは当然の道理で、ここが慥(たしか)に魔法の有難いところである。政元からいえば、どうも変だ、少し怪しい、などといっている奴は、何時(いつ)までも雪を白い、烏を黒いと、退屈もせずに同じことを言っている扨々(さてさて)下らない者どもだ、と見えたに疑(うたがい)ない。が、細川の被官どもは弱っている。そこで与一は赤沢宗益(あかざわそうえき)というものと相談して、この分では仕方がないから、高圧的強請的(きょうせいてき)に、阿波の六郎澄元殿を取立てて家督にして終(しま)い、政元公を隠居にして魔法三昧でも何でもしてもらおう、と同盟し、与一はその主張を示して淀の城へ籠り、赤沢宗益は兵を率いて伏見(ふしみ)竹田口(たけだぐち)へ強請的に上って来た。 
与一の議に多数が同意するではなかった。澄之に意を寄せている者も多かった。何にしろ与一の仕方が少し突飛(とっぴ)だったから、それ下(しも)として上を剋(こく)する与一を撃てということになった。与一の弟の与二は大将として淀の城を攻めさせられた。剛勇ではあり、多勢ではあり、案内は熟(よ)く知っていたので、忽(たちまち)に淀の城を攻落(せめおと)し、与二は兄を一元寺(いちげんじ)で詰腹(つめばら)切らせてしまった。その功で与二は兄の跡に代って守護代となった。 
阿波の六郎澄元は与一の方から何らかの使者を受取ったのであろう、悠然として上洛した。無人(ぶにん)では叶わぬところだから、六郎の父の讃岐守は、六郎に三好筑前守之長(みよしちくぜんのかみゆきなが)と高畠与三(たかばたけよぞう)の二人を付随(つけしたが)わせた。二人はいずれも武勇の士であった。 
与二は政元の下で先度の功に因りて大(おおい)に威を振(ふる)ったが、兄を討ったので世の用いも悪く、三好筑前守はまた六郎の補佐の臣として六郎の権威と利益とのためには与二の思うがままにもさせず振舞うので、与二は面白くなくなった。 
そこで与二は竹田源七(たけだげんしち)、香西又六(こうさいまたろく)などというものと相談して、兄と同じような路をあるこうとした。異なっているところは兄は六郎澄元を立てんとし、自分は源九郎澄之を立てんとするだけであった。とても彼のように魔法修行に凝って、ただ人ならず振舞いたまうようでは、長くこの世にはおわし果つまじきである、六郎殿に御世(みよ)を取られては三好に権を張り威を立てらるるばかりである、是非ないことであるから、政元公に生害(しょうがい)をすすめ、丹波の源九郎殿を以て管領家を相続させ、我が天下の権を取ろう、と一決した。 
永正(えいしょう)四年六月二十三日だ。政元はそのような事を被官どもが企てているとも知ろうようはない。今日も例の通り厳冷な顔をして魔法修行の日課を如法に果そうとするほかに何の念もない。しかし戦乱の世である。河内(かわち)の高屋(たかや)に叛(そむ)いているものがあるので、それに対して摂州衆、大和衆、それから前に与一に徒党したが降参したので免(ゆる)してやった赤沢宗益の弟福王寺喜島(ふくおうじきじま)源左衛門和田源四郎を差向けてある。また丹波の謀叛対治のために赤沢宗益を指向(さしむ)けてある。それらの者はこの六月の末という暑気に重い甲冑を着て、矢叫(やさけび)、太刀音(たちおと)、陣鐘(じんがね)、太鼓の修羅(しゅら)の衢(ちまた)に汗を流し血を流して、追いつ返しつしているのであった。政元はそれらの上に念を馳せるでもない、ただもう行法が楽しいのである。碁を打つ者は五目(もく)勝った十目勝ったというその時の心持を楽んで勝とうと思って打つには相違ないが、彼一石我一石を下(くだ)すその一石一石の間を楽む、イヤそのただ一石を下すその一石を下すのが楽しいのである。鷹を放つ者は鶴を獲たり鴻(こう)を獲たりして喜ぼうと思って郊外に出るのであるが、実は沼沢林藪(しょうたくりんそう)の間を徐(おもむ)ろに行くその一歩一歩が何ともいえず楽しく喜ばしくて、歩々に喜びを味わっているのである。 
何事でも目的を達し意を遂げるのばかりを楽しいと思う中(うち)は、まだまだ里(さと)の料簡である、その道の山深く入った人の事ではない。当下(とうげ)に即ち了(りょう)するという境界に至って、一石を下す裏に一局の興はあり、一歩を移すところに一日の喜(よろこび)は溢れていると思うようになれば、勝って本(もと)より楽しく、負けてまた楽しく、禽(とり)を獲て本より楽しく、獲ずしてまた楽しいのである。そこで事相(じそう)の成不成、機縁の熟不熟は別として一切が成熟するのである。政元の魔法は成就したか否か知らず、永い月日を倦(う)まず怠らずに、今日も如法に本尊を安置し、法壇を厳飾し、先ず一身の垢(あか)を去り穢(けがれ)を除かんとして浴室に入った。三業純浄(さんごうじゅんじょう)は何の修法にも通有の事である。今は言葉をも発せず、言わんともせず、意を動かしもせず、動かそうともせず、安詳(あんしょう)に身を清くしていた。この間に日影の移る一寸一寸、一分一分、一厘一厘が、政元に取っては皆好ましい魔境の現前であったろう歟(か)、業通自在(ぎょうつうじざい)の世界であったろうか、それは傍(はた)からは解らぬが、何にせよ長い長い月日を倦まずに行じていた人だ、倦まぬだけのものを得ていなくては続かぬ訳だった。 
吉尼天は魔だ、仏(ぶつ)だ、魔でない、仏(ほとけ)でない。吉尼天だ。人心を尽(かんじん)するものだ。心垢(しんく)を尽するものだ。政元はどういう修法をしたか、どういう境地にいたか、更に分らぬ。人はただその魔法を修したるを知るのみであった。 
政元は行水(ぎょうずい)を使った。あるべきはずの浴衣(よくい)はなかった。小姓の波伯部(ははかべ)は浴衣を取りに行った。月もない二十三日の夕風は颯(さっ)と起った。右筆(ゆうひつ)の戸倉二郎というものは突(つっ)と跳り込んだ。波々伯部が帰って来た時、戸倉は血刀(ちがたな)を揮(ふる)って切付けた。身をかわして薄手だけで遁(のが)れた。 
翌日は戦(たたかい)だった。波々伯部は戸倉を打って四十二歳で殺された主(しゅ)の仇を復(ふく)したが、管領の細川家はそれからは両派が打ちつ打たれつして、滅茶苦茶になった。 
政元は魔法を修していた長い間に何もしなかったのではない。ただ足利将軍の廃立をしたり、諸方の戦をしたりしていた。今は政元の伝を筆にしたのではない。 
政元より後に飯綱の法を修した人には面白い人がある。それは政元よりも遥(はるか)に立派な人である。 
関白、内大臣、藤原氏の氏(うじ)の長者、従(じゅ)一位、こういう人が飯綱の法を修したのである。太政大臣公相(きみすけ)は外法のために生首(なまくび)を取られたが、この人は天文から文禄へかけての恐ろしい世に何の不幸にも遭わないで、無事に九十歳の長寿を得て、めでたく終ったのである。それは名高い関白兼実(かねざね)の後の九条植通(たねみち)、玖山公(きゅうざんこう)といわれた人である。 
植通公の若い時は天下乱麻の如くであった。知行も絶え絶えで、如何に高貴の身分家柄でも生活さえ困難であった。織田信長より前は、禁庭(きんてい)御所得はどの位であったと思う。或(ある)記によればおよそ三千石ほどだったというのである。如何に簡素清冷に御暮しになったとて、三千石ではどうなるものでもない。ましてお公卿(くげ)様などは、それはそれは甚だ窘乏(きんぼう)に陥っておられたものだろう。それでその頃は立派な家柄の人々が、四方へ漂泊して、豪富の武家たちに身を寄せておられたことが、雑史野乗(ざっしやじょう)にややもすれば散見する。植通も泉州の堺、――これは富商のいた処である、あるいはまた西方諸国に流浪し、聟(むこ)の十川(そごう)(十川一存(かずまさ)の一系だろうか)を見放つまいとして、しん紳(しんしん)の身ながらに笏(しゃく)や筆を擱(お)いて弓箭(ゆみや)鎗(やり)太刀(たち)を取って武勇の沙汰にも及んだということである。 
この人が弟子の長頭丸(ちょうずまる)に語った。自分は何事でも思立ったほどならば半途で止まずに、その極処まで究めようと心掛けた。自分は飯綱の法を修行したが、遂に成就したと思ったのは、何処(どこ)に身を置いて寝ても、寝たところの屋(や)の上に夜半頃になればきっと鴟(ふくろう)が来て鳴いたし、また路を行けば行く前には必ず旋風(つじかぜ)が起った。とこういうことを語ったという。鴟は天狗の化するものであるとされていたのである。前に挙げた僧正遍照も天狗の化した鴟を鉄網に籠めて焼いたのである。屋の上で鴟の鳴くのは飯綱の法成就の人に天狗が随身伺候(しこう)するのである意味だ。旋風の起るのも、目に見えぬ眷属(けんぞく)が擁護して前駆(ぜんく)するからの意味である。飯綱の神は飛狐(ひこ)に騎(の)っている天狗である。 
こういう恐ろしい飯綱成就の人であった植通は、実際の世界においてもそれだけの事はあった人である。 
織田信長が今川を亡ぼし、佐々木、浅井、朝倉をやりつけて、三好、松永の輩(はい)を料理し、上洛して、将軍を扶(たす)け、禁闕(きんけつ)に参った際は、天下皆鬼神の如くにこれを畏敬した。特(こと)に癇癖(かんぺき)荒気(あらき)の大将というので、月卿雲客も怖れかつ諂諛(てんゆ)して、あたかも古(いにしえ)の木曾義仲(よしなか)の都入りに出逢ったようなさまであった。それだのに植通はその信長に対して、立ったままに面とむかって、「上総(かずさ)殿か、入洛(じゅらく)めでたし」といったきりで帰ってしまった。上総殿とは信長がただこれ上総介(かずさのすけ)であったからである。上総介では強かろうが偉かろうが、位官の高い九条植通の前では、そのくらいに扱われたとて仕方のない談だ。植通は位官をはずかしめず、かつは名門の威を立てたのである。信長の事だから、是(かく)の如き挨拶で扱われては大むくれにむくれて、「九条殿はおれに礼をいわせに来られた」と腹を立って、ぶつついたということである。信長の方では、天下を掃清(そうせい)したのである、九条殿に礼をいわせる位の気でいたろう。が、これはさすがに飯綱の法の成就している人だけに、植通の方が天狗様のように鼻が高かった。公卿にも一人くらいはこういう毅然たる人があって宜(よ)かったのである。 
木下秀吉が明智を亡ぼし、信長の後を襲(つ)いで天下を処理した時の勢(いきおい)も万人の耳目を聳動(しょうどう)したものであった。秀吉は当時こういうことをいい出した。自分は天の冥加(みょうが)に叶って今かく貴(とうと)い身にはなったが、氏も素性もないものである、草刈りが成上ったものであるから、古(いにしえ)の鎌子(かまこ)の大臣(おとど)の御名(おんな)を縁(よすが)にして藤原氏になりたいものだ。というのは関白になろうの下ごころだった。すると秀吉のその時の素ばらしい威勢だったから、宜しゅうござろう、いと易(やす)い事だというので、近衛竜山公(このえりゅうざんこう)がその取計(とりはから)いをしようとした。その時にこの植通公が、「いや、いや、五摂家(せっけ)に甲乙はないようなれど、氏の長者はわが家である、近衛殿の御儘(おんまま)にはなるべきでない」と咎(とが)めた。異論のあるのに無理を通すようなことは秀吉は敢(あえ)てせぬところである。しかも当時の博識で、人の尊む植通の言であったから、秀吉は徳善院玄以(とくぜんいんげんい)に命じて、九条近衛両家の議を大徳寺に聞かせた。両家は各々固くその議を執ったが、植通の言の方が根拠があって強かった。そうするとさすがに秀吉だ、「さようにむずかしい藤原氏の蔓(つる)となり葉となろうよりも、ただ新しく今までになき氏(うじ)になろうまでじゃ」といった。そこで菊亭(きくてい)殿が姓氏録を検(あらた)めて、はじめて豊臣秀吉となった。 
これも植通は宜(よ)かった。信長秀吉の鼻の頭をちょっと弾いたところ、お公卿様にもこういう人の一人ぐらいあった方が慥(たしか)に好かった。秀吉が藤原氏にならなかったのも勿論好かった。このところ両天狗大出来大出来。 
秀吉は遂に関白になった。ついで秀次(ひでつぐ)も関白になった。飯綱成就の植通は毎々言った。「関白になって、神罰を受けように」と言った。果して秀次関白が罪を得るに及んで、それに坐して近衛殿は九州の坊(ぼう)の津(つ)へ流され、菊亭殿は信濃へ流され、その女(むすめ)の一台(いちだい)殿は車にて渡された。恐ろしいことだ、飯綱成就の人の言葉には目に見えぬ権威があった。 
和歌は勿論堪能の人であった。連歌はさまで心を入れたでもなかろうが、それでも緒余(しょよ)としてその道を得ていた。法橋紹巴(ほっきょうしょうは)は当時の連歌の大宗匠であった。しかし長頭丸が植通公を訪(と)うた時、この頃何かの世間話があったかと尋ねられたのに答えて、「聚落(じゅらく)の安芸(あき)の毛利(もうり)殿の亭(ちん)にて連歌の折、庭の紅梅につけて、梅の花神代(かみよ)もきかぬ色香かな、と紹巴法橋がいたされたのを人々褒め申す」と答えたのにつけて、神代もきかぬとの業平(なりひら)の歌は、竜田川(たつたがわ)に水の紅(くれない)にくくることは奇特不思議の多い神代にも聞かずと精を入れたのであるのに、珍らしからぬ梅を取出して神代も聞かぬというべきいわれはない。昔伊勢の国で冬咲の桜を見て夢庵(むあん)が、冬咲くは神代も聞かぬ桜かな、と作ったのは、伊勢であったればこそで、かように本歌を取るが本意である、毛利大膳(だいぜん)が神主(かんぬし)ではあるまいし、と笑ったということである。紹巴もこの人には敵(かな)わない。光秀は紹巴に「天(あめ)が下しる五月(さつき)哉(かな)」の「し」の字は「な」の字歟(か)といわれたが、紹巴はまたこの公には敵わない。毛利が神主にもあらばこその一句は恐ろしい。 
紹巴は時々この公を訪(と)うた。或時参って、紹巴が「近頃何を御覧なされまする」と問うた。すると、公は他に言葉もなくて徐(おもむ)ろに「源氏」とただ一言。紹巴がまた「めでたき歌書は何でござりましょうか」と問うた。答えは簡単だった。「源氏」。それきりだった。また紹巴が「誰か参りて御閑居を御慰め申しまするぞ」と問うた。公の返事は実に好かった。「源氏」。 
三度が三度同じ返答で、紹巴は「ウヘー」と引退(ひきさが)った。なるほどこの公の歩くさきには旋風(つじかぜ)が立っているばかりではなく、言葉の前にも旋風が立っていた。 
源氏物語にも言辞事物(げんじじぶつ)の注のほかに深き観念あるを説いて止観(しかん)の説という。この公の源語の注の孟津抄(もうしんしょう)は、法華経の釈に玄義、文句(もんぐ)とありて扨(さて)、止観十巻のあるが如く、源氏についての止観の意にて説かれたということである。非常な源氏の愛読者で、「これを見れば延喜(えんぎ)の御代(みよ)に住む心地する」といって、明暮(あけくれ)に源氏を見ていたというが、きまりきった源氏を六十年もそのように見ていて倦(う)まなかったところは、政元が二十年も飯綱修法を行じていたところと同じようでおもしろい。 
長頭丸が時々教(おしえ)を請うた頃は、公は京の東福寺(とうふくじ)の門前の乾亭院(かんていいん)という藪の中の朽ちかけた坊に物寂(ものさ)びた朝夕を送っていて、毎朝々輪袈裟(わげさ)を掛け、印を結び、行法怠らず、朝廷長久、天下太平、家門隆昌を祈って、それから食事の後には、ただもう机に(よ)って源氏を読んでいたというが、如何にも寂びた、細々とした、すっきりとした、塵雑(じんざつ)の気のない、平らな、落(おち)ついた、空室に日の光が白く射したような生活のさまが思われて、飯綱も成就したろうが、自己も成就した人と見える。天文から文禄の間の世に生きていて、しかも延喜の世に住んでいたところは、実に面白い。 
或時長頭丸即ち貞徳(ていとく)が公を訪(と)うた時、公は閑栖(かんせい)の韵事(いんじ)であるが、和(やわ)らかな日のさす庭に出て、唐松(からまつ)の実生(みばえ)を釣瓶(つるべ)に手ずから植えていた。五葉(ごよう)の松でもあればこそ、落葉松(からまつ)の実生など、余り佳いものでもないが、それを釣瓶なんどに植えて、しかもその小さな実生のどうなるのを何時(いつ)賞美しようというのであろう。しかしここが面白いのである、出来た人でなければ出来ない真の楽みを取っているところである。貞徳は公より遥(はるか)に年下である。我身の若さ、公の清らに老い痩枯(やせが)れたるさまの頼りなさ、それに実生の松の緑りもかすけき小ささ、わびきったる釣瓶なんどを用いていらるるはかなさ、それを思い、これを感じて、貞徳はおのずから優しい心を動かしたろう、どうぞこの松のせめて一、二尺になるまでも芽出度(めでたく)おわしませ、と「植ゑておく今日から松のみどりをも猶(なお)ながらへて君ぞ見るべき」と祝いて申上げると、「日のもとに住みわびつゝも有(あ)りふれば今日から松を植ゑてこそ見れ」と、ただ物をいうように公は答えた。 
その器(き)その徳その才があるのでなければどうすることも出来ない乱世に生れ合せた人の、八十ごろの齢(とし)で唐松の実生を植えているところ、日のもとの歌には堕涙(だるい)の音が聞える。飯綱修法成就の人もまた好いではないか。(昭和三年四月)
注 / 荼枳尼天(だぎにてん) 託枳尼天、拏吉尼天、託祇尼天とも書きます。森に住む神霊の仲間で大黒天の従者とも言われます。死を半年前に察知する能力を持つと言われ、インドでは鬼女ないしは女修行者という設定です。性質は、肉食、飲酒、乱舞、性的な放縦など、荒っぽい性格ですが、手段を講じてなだめれば、大きな恩恵をもたらす、とされています。曼荼羅の中では荼吉尼天の神体が白狐なので、日本ではお稲荷さんのお使いの狐と結びつき、荼枳尼天=狐=稲荷から、荼枳尼天=稲荷となり、鬼女より福の神の性格が強くなりました。 
託はフォントに無いので代用、偏は「言」ではなく「口」。 
 
狐信仰

 

日本における数多の動物崇拝のなかでも、狐信仰はその代表的なものである。それは決して過去のものではなく、現代の都会のインテリジェントビルの内部や屋上に、福神として祀られるのも稀なことではない。東京・羽田空港の旧ターミナルビル解体工事現場に、取り残されたように立っている穴守稲荷神社の大鳥居。かつて何度も取り壊されそうになったが、そのたびに「祟(たた)り」を恐れて中止になったという。大新聞の一面に、そんな記事が載る(朝日新聞)。古代からの狐信仰が、日本人の精神生活のみならず経済社会の深層に根差して、今なお脈々として生きつづけているのである。 
私はこの稿で、狐信仰の梗概を述べながら、図像としてどのように表現されたかを見てゆく。なぜ狐が信仰の対象となったのか、その源流を明確にすることは困難である。それでもなお、古代人がいかに狐の生態観察に優れていたかを知り、また、その生態を豊かなイメージで人間の営為に重ねあわせ、その後の流れのなかで、錦繍(きんしゅう)を織りあげるように精緻な体系を築いてきたことを知るであろう。一方、悪意とまでは言わないにしろ、その信仰から派生した弊害も述べなければなるまい。  
狐の女房説話 
日本における狐信仰の濫觴(らんしょう)を文献に尋ねれば、「日本書紀」巻第十九、天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにわのみこと;欽明天皇)の冒頭、天皇幼年の霊夢の記事まで遡ることができる。天皇は幼いころ霊夢に、秦大津父(はたのおつち)という者を探し召し出して寵嬖(ちょうへい)するなら、必ず将来、天皇の御位に即くことができるだろうと告げられた。秦大津父は山背国深草の里で尋ね出され、やがて夢の御告げが実現したという話である。この記事に狐の影は見当たらない。しかし後に述べるように、稲荷社の奉祭者は秦氏であること(「山城国風土記」逸文)を考えあわせると、諸願成就の霊験あらたかな福神としての稲荷の姿がほのかに揺曳(ようえい)するのである。 
狐がはっきり姿を現わすのは、「日本国現報善悪霊異記」(日本霊異記)巻上第二の「狐を妻(め)として子を生ましめし縁」においてである。 
〈欽明天皇の御世に、美濃国大野郡の男が妻とすべき女性をもとめて旅に出た。すると広い野原で美しい女性に出会った。女が媚びたなまめかしい素振りをするので、男は目くばせして、どこへ行くのかと尋ねた。「良縁を探して歩いているのよ」と女は言う。自分の妻にならないかと男が言うと、女は承知した。男は早速家に連れ帰って交接し、一緒に住んだ。しばらくして女は懐妊し、男児を出産した。たまたまこの家の飼犬も、12月15日に子犬を生んだ。子犬はこの主婦に向かうと必ずいきりたって襲いかかり、歯をむき出しにして吠えるのである。怯えた主婦は、犬を殺してくれと夫に言うが、夫はかわいそうに思って殺す気になれない。2,3月頃、前から準備してあった年米を舂(つ)くために雇った女たちに間食を与えるため、主婦は臼小屋に入った。 
即ち彼の犬、家室(いえのとじ;主婦)を咋(く)はむとして追ひて吠ゆ。即ち驚きおぢ恐り、野干(狐)と成りて籠の上に登りて居り。家長(いえぎみ;夫)見て言はく、汝と我との中に子を相生めるが故に、吾は忘れじ。毎(つね)に来りて相寐(ね)よといひて、故(かれ)、夫の語(こと)を誦(おぼ)えて来り寐(ね)き。 
それ以後、(来つ寝るので)支都禰(きつね)という名ができた。この妻は、ある時、裾を桃色に染めた裳を着てやって来て、たおやかに裾をひるがえしてどこかへ去って行った。男はその姿が忘れられず、恋しさのあまり歌を詠んだ。(歌、略)二人の間にできた子供に岐都禰(きつね)と名づけた。また、姓を狐の直(あたえ)とした。この子は力が強く、走ることも非常に早くてまるで鳥が飛ぶようだった。これが美濃国の狐の直という名族の先祖である。〉 
要約ながらあえて全文を通覧した。異類婚狐女房型として最古の説話が、俗な和名語源説と名族始祖譚だけではない何か象徴的意味をもっているなら、そこに語られている話は、その隠れた意味を知るに必要十分な要件に満たされていると考えられるからである。奈良・薬師寺の僧景戒(きょうかい)は、因果応報の原理にもとづく教導的目的をもって「日本霊異記」を著わした。景戒はその序文で、欽明朝に仏教が渡来したと書いている。しかし狐の話に仏教臭は乏しい。狐信仰もかすかにうかがえるだけである。同じ話は「扶桑略記」と、直接的には同書を引用した「水鏡」の欽明記にも出ている。 
私が注目するのは、三書ともに、子犬が12月15日に生まれたと記述していることである。2,3月頃に女房が狐の正体を現わすまでの間、この子犬はしきりに女房に吠えつく。子犬は少なくとも生後1ヶ月はたっていなければならないだろう。ここで私が思い出すのは、近畿・京阪・中国地方で旧暦1月15日に行なわれた「狐狩り」である。子犬が狐の女房を襲って追いたてる時節と「狐狩り」の時節は、大方のところで一致していると言えるのではあるまいか。「狐狩り」のおよそ1ヶ月前、同じ地方で、旧暦12月中旬に行なわれる「狐施行」、あるいは「野施行」「寒施行」ともいわれる行事がある。厳寒に妊った狐の飢えを救うため、巣穴などに供饌するもので、稲荷信仰にその起源があると言われる。この二つの相反する民俗行事について、吉野裕子氏は陰陽五行説の実践と見ている。 
古代中国の哲学思想である陰陽五行説では、森羅万象は陰陽二気の和合によって生成し、そこに木火土金水の五気が生じて、「相生(そうじょう)」と「相剋」の関係で各々五行の循環をしている。相生の理は、木生火(木は火を生ずと誦む。以下同様に)、火生土、土生金、金生水、水生木という無限循環。相剋の理は、木剋土(木は土に勝つ。以下同様に)、土剋水、水剋火、火剋金、金剋木という無限循環である。 
陰陽五行と狐の関係について吉野氏は、農耕文化における土気の重要性を指摘したうえで、「狐の黄色」、「黄色によって象徴される土徳」、「この土徳即年穀の恵みへの期待」、すなわち狐は土気の象徴にほかならないと言う。そこで、五行の「土」はすべて「狐」に置き替えることができる。「狐施行」が行なわれる旧暦12月は土用、土気。その土徳の化身である狐を供養するのである。そして正月は木気であるから、相剋の理による「木剋土」で、正月(木)に狐(土)を狩る。言うならば、神送りの機会なのである。この二つの行事はまことに時宜にかなったものなのであった。 
さて、12月15日をキー・ワードとすることによって、この話にようやく狐と稲作農耕との関係が透けて見えてきた。野原で良縁を探していた狐と男との性交と出産の時期を、播種・収穫の時期と一致させることも可能ではあるまいか。狐が正体を現わすのは、臼小屋であった。まさに穀物神の顕現である。そこでは、前から準備してあった年貢米を精米していたのである。年貢米をきちんと準備できるほど、この家は十分余裕があるのである。穀物神あるいは福神のお恵み以外の何であろう。ここには、狐=穀物神・福神という、後に表面化する民俗信仰の萌芽があるのである。 
ところでこの狐の直の話が、同じ「日本霊異記」のなかで、およそ200年後の二つの話に結びついていることに私は注目する。中巻第四「力ある女の、力くらべを試みし縁」と、第二十七「力ある女の強力を示しし縁」である。二つの話を合わせて大意を述べれば、聖武朝のこと、狐の直の四代目の孫娘は、人並以上に体が大きく百人力であった。その力の強いのをよいことに悪事を働いていた。その噂を聞いた尾張・元興寺の道場法師の孫娘が、美濃の狐の力を試してみようと思う。そしてついに美濃の狐の肉がちぎれるほど葛のむちで打ち据えてしまう。狐の直の子孫は、道場法師の孫娘に服従を誓うのだった。道場法師の孫娘は自身が強力だったのだが、じつは前世において経典にあるごとく餅を作って三宝に供養したので、この強力を得たのであった。 
私はこの話から、仏教伝来初期にすでに民衆にきざしつつあった狐信仰が、聖武朝には仏教に従属するというかたちで、習合が確実なものになっていたのではないかと考えている。近藤喜博氏は、稲荷の古代巫女は力が強かったのではないかという説を提出しているが、「日本霊異記」の話はその裏づけの一つとなるかもしれない。また、折口信夫は「狐の田舎わたらひ」において、稲荷社の奏者とも言うべき狐(命婦)が、東寺と縁を結び、平安中期以後には、荼吉尼(だきに)を咒する験者の末流を汲む輩の手先に使われて、野狐になってしまったと言っている。狐の直が稲荷社と直接的関係があったという証拠はまったくないのだが、いわば狐信仰の淡き影ということでは、「日本霊異記」の話は折口の言う事情の前哨戦と見ることができるかもしれない。  
陰陽道と狐 
狐と陰陽五行の関係を見たので、次に「信太妻(しのだのつま)」説話を素材似して、陰陽道の周辺で狐が憑依(ひょうい)するものとなって行く過程を考察する。 
〈安倍保名に危難をすくわれた信太の森の白狐は、保名の恋人葛(くず)の葉に化けて負傷した保名を介抱し、妻となって一子童子丸をもうける。6年後、葛の葉姫とその父の来訪に、これまでと正体を現わした狐は、「恋しくばたづねきてみよ和泉なる信太の森のうらみ葛の葉」の一首を残して姿を消した。童子丸は成長して、安倍晴明という高名な陰陽師になった。〉 
「狐の直」説話と同工異曲のこの物語は、中世には説教節、近世には義太夫節などで語り継がれた。享保9年(1724)10月に竹田出雲が人形浄瑠璃「蘆屋道満大内鑑(あしやどうまんおおうちかがみ)」に脚色、翌年2月には歌舞伎として上演された。狐葛の葉が、母を慕ってまとわりつく幼子を抱きながら、保名に残す歌を、右手の筆を時に左手(鏡文字になる)、時に口にくわえて(下から上へ筆を走らす)、障子に書きつけるという見せ場があり、今日の上演でも客をわかせる。 
安倍晴明(921-1005)は、古代の名族安倍氏の流れをくむが、その家系は陰陽道に関係があったわけではない。身分もさほど高くはない家柄であった。村山修一氏の「日本陰陽道史総説」によれば、晴明はむしろ陰陽道を学ぶことによって立身出世をしようと考えた。天武朝に陰陽寮が設置され、「大宝律令」で、陰陽師は中務省の被官となった。安倍晴明は、みずからの才学で従四位下まで進んだのであった。 
晴明の出生がなぜ狐と結びつけられたか、それについては次のことが考えられる。 
一つは、「狐の直」説話で見たように、狐女房・立身致富型の文化意識は、おそらく10世紀までに民衆に定着していたということ。晴明が母なし子であったかどうかは分らないが、家柄のない晴明が得た権勢、そしてその恐るべき能力に対する民衆の喝采と羨望、またある種の畏怖感を狐に託したのである。 
二つは、晴明の陰陽道は、式神(識神)を使役して「呪い調伏」や「呪詛返し」を行なう、神秘的な性格の強いものであった。陰陽道が中国から伝来した当初は、天体観測から得た法則性を人間の営為に重ねるという、いわば科学的性格をもっていた。呪術的側面が強調されるようになったのは、日本に定着してからである。 
呪術・巫術のなかには、狐を人に憑(つ)けたり落したりする術があったと思われる。「大宝名例律裏書」に「蠱毒事(こどくじ)」として、〈賊盗律註釈によると、蠱には多種あり、つぶさに知り得ないが、諸蠱を集めて一つの器の内に置き、とも食いさせて諸蠱悉く尽きて、もし蛇があれば、それが蛇蠱である。畜とは、いわば猫鬼の類を伝えやしなうことである。(以下略)〉とある。蠱(こ)というのは、人を惑わす呪いのこと、あるいは悪気のことである。人間に憑く強い霊力をもった動物がいて、その蠱毒を使うこと(巫蠱)は大罪であると定めている。中国では犬蠱、蛇蠱、陰蠱(ひきがえる、がま)、猫蠱、そのほか多種あり、狐蠱も挙げられている。 
安倍晴明が人を呪殺するときに使役した「式神」が、狐蠱であると断定はできないが、「宇治拾遺物語」巻二の晴明が蔵人の少将に糞をしかけた鳥を「式神」と見破る話は、当時の陰陽道のなかに巫蠱が入っていたことを裏づけるものである。 
「今昔物語」等に収められている話であるが、三井寺の僧智興が死病に陥り、末弟子の証空が身代りとなって命を捨てる覚悟をし、安倍晴明が病引き移しの祈祷をした。京都・清浄華院に伝わる「泣不動縁起」絵巻に、この場面が描かれている。中央に祭文を誦む晴明。祭壇の後ろに妖怪めく厄病神がいる。晴明の左方に証空が坐す。これを憑坐という。晴明の右後方に、幣(ぬさ)を腰に差した二人の式神がひかえている。 
小松和彦氏は、この二人の式神は、これから厄病神を智興の肉体から駆りたて、証空に憑かせるために働くのだろうと推測している。 
安倍晴明と同時代人、藤原実資の「小右記」には、藤原道長が怨霊に苦悩し、邪気憑、山王憑などさまざまの病に罹ったことが記録されている。そして平癒のための対策として、参詣や読経はもちろん、修法、加持、陰陽師祈祷、厭術、呪詛、解縛文と、これまたさまざまなことが行なわれた。同書には、京洛の巫覡(ふげき)が狐を祭っているという記事もある。 
悪霊や病を憑ける人と、それを落す人が同じであるということが、きわめて長い間、日本の医療現場のみならず政治のなかに実体化していたのだった。 
応永27年(1420)、4代将軍足利義持に狐が憑いた。医師高天(たかま;高間)と陰陽助定棟朝臣ならびに権太夫俊経朝臣が、狐使いの主謀者として捕えられた。三人は讃岐に流され、高天は途中で斬首された(「看聞御記」他)。 
この事件は、桑田忠親・島田成矩両氏によると、当時の医療情況に鑑みて悪逆無道とばかり断ずることはできないと言う。高天はまともな医療の効果があがらなかったので、義持に狐憑きを信じさせ、修法料を取った上で、狐を放って逃した。そして憑いていた狐が落ちたと宣言した。義持の心理的効果を狙ったのである、と。 
狐憑きの現象とは、おおむねこのようなものである。後に江戸時代になると、いまならさしずめ精神分裂病(統合失調症)と診断される症状を呈する者を、狐憑きと認知することによって、村落共同体の枠組に押え込むという事態が見られるようになる。「寛容な差別」とでも言えばよいだろうか。彼等の周囲に狐落しとしての巫術師が徘徊するとはいえ、実体は巫蠱からは遠いというべきであろう。それはむしろ精神病理史と医療社会制度史の問題になってこよう。 
ともあれ狐憑きの現象から現代の私たちが学ぶことは、臆説や陰謀が渦巻き、人心が不安と恐怖と憎悪で惑乱し、社会全体がヒステリー状態におちいると、それを利用する者たちが必ず出現するということである。「憑霊・憑依」は制度として機能しはじめる。知性は無化され、社会全体がいわば催眠状態になる。重大なことは、そのような社会に生きる人々は、みずからの社会の有様をカタストロフィを迎えるまで認識できないことである。  
稲荷信仰 
前述したように、稲荷社の奉祭者は渡来人秦氏とされている。「山城国風土記」逸文の稲荷社創建に関わる記述は、論争はあるけれども、私解すれば次のとおりである。 
〈秦伊呂具(はたのいろぐ)は稲粱(いねあわ)によって富み栄えているのをよいことに、驕慢にも餅の的をつくって射た。するとその的が白鳥と化して、山の峯に止った。そこに稲が生えたので、社を祀ってその名を伊奈利とした。子孫は先祖の非を悔い、社の木を根ごと抜いて家に植えた。その木が根づけば吉、枯れれば凶ということである。〉 
「山の峯」とは、伏見稲荷大社の祭神「宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)」が鎮座する稲荷山のことであろう。この出来事がいつ頃のことか、「山城国風土記」逸文からは推測できない。しかし今日の定説は、「和銅四年辛亥(かのとい)、2月11日戊午(つちのえうま)」が、伏見稲荷大社創建の暦日である。この創祀日の意義について、私は前出の吉野氏が提出した陰陽五行に基づく説を引用させていただく。それは次のようだ。 
元明天皇即位(707年)の翌年、即位を祝賀するかのように、武蔵国秩父から和銅が献上された。天皇はこれを国家の慶事とし、「和銅」改元の詔を発した。しかしこの慶びとは裏腹に、その年7月の隠岐国の長雨台風を皮切りに、つづく2年間の天候不順で大凶作となり、疫病も発生した。そして暦学によれば和銅4年辛亥(かのとい)は、「金は水を生ずる」の年。翌5年壬子(みずのえね)は、60年に一度の水気旺盛の年に当たっていた。この予想される大水禍対策として、穀物神であり土徳の狐神が勧請されねばならなかったのである。周到に計算されたあげくに選定された日が、卯月(うのつき)11日戊午(つちのえうま)であった。卯月は木気旺盛にして植物萌芽の春。戊午は「火は土を生ずる」の理。火気の馬(午)にたすけられ、土気(狐)が強化されるのである。 
この吉野説を図像上に検証してみよう。 
吉野氏も例示しているが、郷土玩具として昔から親しまれている伏見人形の「馬乗り狐」は、戊午をそのまま造形化したものと言える。江戸時代の明和年間には、この伏見人形をもとにして作られたものが住吉大社の社頭でも売られるようになり、現在も伝承されている。また、名古屋にも紙張子のものがある。狐が裃姿なので、「狐の嫁入」と言われているが、火生土の理が陰にかくれてしまったのだろう。 
図は大津絵。〈乗るましきものにのるは皆狐落ちてこんくわひ後悔をすな〉と書かれている。信用してはいけないことを信用して、あとで気づいて悔むなという意味。図像本来の理はすっかり忘れ去られ、狐は人を誑かすものという観念が民衆に浸透していたのである。 
一方、御所人形に「面被り」という仕掛人形がある。背後の把手を回すと面を被る。種々あるなかに「狐の面被り」があって、童子の額には水引手と称する文様が描かれている。堂上貴族が祝儀の贈物に用いた。明らかに福神である狐神化現の咒術的な願いが付与されているのである。 
さて、ここでもう一度、稲荷山にもどろう。 
稲荷山をめぐっては、検証しなければならないことがあまりにも多い。端的に言えば、稲荷山とその山容をのぞむ深草の里は、神々の抗争、あるいは習合の場であったと考えられる。 
稲荷山の神は原初において蛇神であった。これを祖神として奉祭していたのが荷田氏である。荷田氏の遠祖は竜頭太といい、稲作と林木伐採を生業としていたらしい。「稲荷大明神流記」には、竜頭太の面貌は竜のようで、光りかがやき、夜も昼のように照らしたとある。 
これは何を意味しているのか。 
明治6年のことであるが、稲荷山三ノ峰遺跡から、4世紀後半のものと推定される2面の鏡が出土した。1面は二神二獣漢式鏡、もう1面は変形四獣倣製鏡残片である。この鏡が祭祀に用いられたのは間違いないとしても、一般に祭祀鏡の咒術的意義に関する研究は遅れている。そのなかで近藤喜博氏は、これを宮目(みやのめ)と解釈している。私は鏡を稲荷山の神蛇の巨眼に擬することにおいて、近藤説にひかれる。竜頭太の面貌は、まさに鏡の目をもった大蛇を想像できるではないか。 
ところで渡来族秦氏が深草の地にやって来たとき、稲荷山一帯にはすでに荷田氏が先住していた。秦氏は荷田氏と同じように稲作農耕を生業としていたが、狐の徳を信仰する一族であった。秦氏の稲作技術は、荷田氏のそれよりも進んでいたかもしれない。秦氏は「富み栄え」、やがてその勢力は荷田氏を凌ぐ。そしてついに稲荷山の蛇神を追い出して、その跡地に狐の社を創祀したのであろう。 
もっとも、伏見稲荷の祭神である宇迦之御魂神は宇賀神と同一神、すなわち白蛇神で、狐はその使者ということになっている。これはどういうことであるか。私は蛇神が水に縁ある神であることに注目している。蛇神は稲作の神であるけれども、陰陽五行「水は木を生ずる」の理によって、林業を生業とする荷田氏が奉祭するのは当然だった。和銅4年辛亥卯月11日戊午の狐神勧請は、水禍対策だったのだから、水に縁ある蛇神の霊力をそぐ必要があったのである。しかし卯月の木気のたすけも借りなければならなかったので、蛇神を無下に追い出すことはせず、狐は表面上は使者の立場に身をおくことで、前の主祭神の面目は保持せられたのではないだろうか。 
図は伏見稲荷の御神符である。ここには稲荷山祭神をめぐる歴史的経過が物語られていると解釈できる。 
御内陣に御簾を掛け、中央の大杯に三つの宝珠が供えられている。ついで、右に火炎宝珠に重ねて農耕の象徴である枷(からざお;打穀の道具)を描く。左の火炎宝珠には林業の象徴である杉の枝葉。杉は「験(しるし)の杉」といい、伏見稲荷大社の御神符である。次の段は穀俵に蛇神の御姿。右の蛇は鍵をくわえているが、「鍵取り」と称して、社の鍵を預かる祭祀者を表わしている。私見では、林業にたずさわる人たちが行なう鈎掛け神事と関係があるかもしれない。「鍵取り」は、各地に勧請されている稲荷社頭の白狐像にも見ることがある。さて下段は黒白の狐神像。和銅4年の狐神鎮祭の御利益があって、その年は無事に過ぎた。翌5年、大水害の予測におびえる7月、伊賀国から黒狐が献上された。天皇はこれを祥瑞として嘉した。はたせるかな長雨もなく、穀物は豊かに稔ったのである。そして和銅は7年で改元され、正月元旦、このたびは遠江国から白狐が献上されたのだった。御神符はその事実を物語っているのである。 
ところで、この稲荷山の神々の抗争において、弘法大師空海が仲介役をはたしたという伝承がある。稲荷明神の図像はほぼこの伝承に基づくものなので、その大意を述べてみよう。 
〈弘仁年間、稲荷山で苦行していた弘法大師の前に竜頭太が現われ、自分はこの山の山神であるが真言に帰依し、この山を大師に譲ると宣言した。大師は深く敬い、竜頭太の面を作り、御神体とした。それは竈殿に祭られた。いまの荷田社である。大師は竜頭太より譲られた山に稲荷明神を勧請しようと思った。しかし山の麓には藤尾大明神(竜頭太の別の化現である樹木神)がおられた。大師は嵯峨天皇に奏上して、この神を深草に移し、その旧跡にかつて大師が紀州で出会った稲を背負った老翁とその眷族である二婦二子を据え奉った。老翁はすなわち稲荷明神である。〉 
ここには稲荷山における蛇神と狐神の交代が語られているのであり、それはまた、荷田氏と秦氏との勢力地図が塗りかえられたことを意味するだろう。そしてその仲介役を東寺(教王護国寺)が果たしたことは、大いに考えられる。つまり真言密教としての足場を固めたものの、さらに民衆の信仰心のなかに降りてゆく必要があっただろう。そのため早くから在来諸神の勢力関係に注意をはらっていたに違いない。稲荷明神と空海の接触を、「弘法大師行状絵詞」はこう語っている。 
〈弘仁7年(816)4月、大師は紀州田辺で異相の老翁に出会った。身のたけ八尺、筋骨逞しく、内に大権の気を含んでいるが、外見は凡夫。老翁は大師を見て、「自分は神道に在るが、御聖人、あなたは威徳をそなえておられ、まさに菩薩の顕現です。あなたの弟子は幸せですな」と言った。大師は答える。「あなたとはかつて天竺でおめにかかり、その時の約束は忘れていません。生きる道は異なり姿も違いますが、心は同じです。どうぞ東寺においでください。お待ちしております」と。〉 
古来の狐信仰は、真言密教との出会いにより、少なからず変質していく。それは真言密教にとっても同じであった。両者はやがて修験道のなかで良くも悪くも混淆するのである。 
東寺本「弘法大師行状絵詞」には、稲束を負った老翁とその眷族(けんぞく)が東寺南大門に訪ねて来た場面と、門前で歓迎の饌を供される場面、そして大師が老翁を稲荷山へと先導して行くところが描かれている。 
この絵詞のなかには「狐」という文字は見当たらない。それらしき影さえ揺曳していない。老翁に伴われた二人の女と子供は、「稲荷大明神縁起」によれば、大師が稲荷明神を鎮祭したとき、女人は下宮と中宮へ、二子は田中・四大社に祀られたとある。 
この二人の女人が、狐命婦とどんな関係にあるのか。 
前述のように折口信夫が唾棄するように書いた事態が、やがてはもとあがる命婦については、あまり煩雑になるのでここでは述べない。ただ、農耕の神には、必ず性神信仰の側面があることは指摘しておく。 
図像を見てゆこう。 
私がスケッチした、奈良・蓮長寺に伝わる稲荷明神立像。この立像の興味深いところは、二様の見方ができることではなかろうか。一つは、この翁が狐神の化現であり、じつは同一体であるという見方。あるいは、宇迦之御魂神が使者である狐の上に立っているとも考えられる。 
神奈川県川崎市岡上の東光院宝積寺は、「新編武蔵風土記稿」によれば、新義真言宗に属していたが、現在は単立寺院になっている。この境内の岡の上に瘡守社(かさもりしゃ)があり、高さ30cmほどの稲荷騎狐神像が祀られている。銘文がないので時代は確定できないが、石の丸彫りで、右肩に稲束を負い、左手に鎌を持って、狐にまたがっている。じつに愛らしい像である。この社は稲荷社としてはめずらしいことに鳥居がない。祭神像は明瞭な穀物神の形姿であるが、社名からすると、疱瘡や性病治癒を祈願する信仰があったようだ。現在でも2月の初午には、近在の信者が幟を立て、目刺と油揚と小豆飯を供える。 
疱瘡の流行は、天平7年(735)に初見する。以来、もっとも恐ろしい疫病として神仏を祀って平癒祈願をしてきた。近世期には民間信仰として疱瘡神を祀る習俗は広く行なわれ、「叢柱偶記」に、〈本邦患痘家、必祭疱瘡神夫妻二位於堂、俗謂之裳神(我が国においては疱瘡を患う家は、必ず疱瘡神夫妻おふたりを御堂に祭り、民間ではこれを裳神という)〉とある。しかし、稲荷明神がなぜ疱瘡治癒の御利益があると信仰されるようになったのか。その源は明らかでないが、宝永4年(1707)に刊行された「懺悔男」に、津の国芥川のほとりにある稲荷の宮は、人の病苦をすくい、出物腫物に験あり、そのため人々は瘡神様(かさかみさま)と称したとある。現在の高槻市真上の笠森稲荷がこれである。この社名は、芥川の森が笠の形に似ているためだという。笠森から瘡守を導き出しているあたりに、民間信仰の心が窺える。 
図は鈴木春信(1725-70)の錦絵《おせんの茶屋》。明和年間の江戸で美人のほまれ高かった、笠森稲荷社の水茶屋鍵屋の娘お仙を描いている。この社は津の国芥川の笠森稲荷を勧請したものである。やはり疱瘡や性病治癒で信仰されていた。吉原遊廓が近いこともあったからだろう。最初の参詣祈願に黒い土団子を供え、平癒の御礼参りには白い糯米の団子を供える風習があったらしい。春信の錦絵にも、左下の三方の上に、売物のお供え団子が描かれている。 
図はお仙の人気のほどがしのばれる瓦版。大鳥居に宝珠、右上に「験(しるし)の杉」が祭られていて、祭神は稲荷明神であると分かるのである。  
荼吉尼天と狐信仰 
荼吉尼(だきに/荼枳尼、陀祇尼)は梵語のDakiniの音訳で、ヒンドゥーのシバの妃である黒い破壊女神カーリの侍女である。人肉を食い、飲血鬼(アスラバマ)という。後に仏教に帰依して、仏法守護の諸天に加わった。「大日経疏」によれば、胎蔵界曼荼羅において、外金剛部院南方閻魔天の左下に位置する三天鬼と一臥鬼の総称である。荼吉尼天の印は左の掌で口をおおって、掌に舌でふれ、人血をすするさまをする。図像的には、全身赤色、赤髪髻(みずら)。一天は右手に人間の脚を持って食い、左手には人臂(じんひ)を持つ。二天は杯を、三天は剣と杯を持ち、四天は臥す。いずれも忿怒の形姿をとる。 
日本では、荼吉尼の修法は東密と台密の一部に、諸願成就の秘法として伝わったとみられている。しかし鎌倉時代から南北朝時代にかけて、野心成就を願い、人を調伏し呪殺するための外法(げほう)として知られるようになった。後醍醐天皇にあつく信頼された醍醐寺の文観(もんかん)弘真は、高野山僧徒の上奏文で、卜筮・呪術を行ない、荼吉尼を祭っていると批難されている。「太平記絵巻」には、後醍醐天皇が中宮喜子の安産祈願に仮託して、関東の北条氏調伏の祈祷をしているところが描かれている。後醍醐天皇は、文観から阿闍梨の位につく伝法潅頂(でんほうかんじょう)を受け、みずから護摩を焚き、幕府調伏をした。神奈川県清浄光寺(遊行寺)所蔵の後醍醐天皇画像は、密教の冠と袈裟を着け、右手に五鈷杵、左手に五鈷鈴を持ち、密教潅頂を受ける姿で描かれている。文観から杲尊(こうそん)法親王を経て同寺に伝えられたといわれる、極めて異形の天皇像である。 
さて、荼吉尼の法は、正統密教の立場からは外道として批難されながらも、一方で、在来の狐信仰と習合し、福神として民間にひろまったようだ。建長6年(1254)に成立した「古今著聞集」巻六には、すでに次のような話が記されている。 
〈知足院殿(藤原忠実)が、願うことあって大権坊に荼吉尼の法を修させた。7日目に狐が現われて供物を食った。さらに7日ののち、忠実の夢に美女が現われた。その女の髪を掴むと、髪は切れ、目覚めてみれば狐の尾であった。忠実の願いはほどなく成就し、この狐の尾は福天神として祀られた〉と。 
本来の荼吉尼天は狐とは何の関係もないが、知足院殿の夢の中ではいとも容易に結びついている。しかもその結びつきが、当時の民衆に深く根づいて信仰されていたらしいことが窺われるのである。 
「荼枳尼栴陀利王経(だきにせんだりおうきょう)」は偽経であるが、荼吉尼天と狐が習合して、白辰狐王菩薩(はくしんこおうぼさつ;あるいは白晨称王菩薩)と称されるにいたる。荼吉尼天曼荼羅では狐に乗った天女の形姿をとる。 
さらに、狐に乗った荼吉尼天は、別な福神である弁才天や宇賀神と同一視されてもいる。宇賀神が蛇神ないし竜神であることは先に記し田た。一方、弁才天はもともと古代インド神話において、大地に豊穣をもたらす大河の神サラスバティである。蛇神と水神、また穀物神と豊穣神という密接な関係が、宇賀弁才天という姿をとる。 
奈良市伝香寺の弁才天坐像は、いかにも福神らしい豊穣な八臂(左方手に鉾・輪・弓・宝珠。右方手に剣・棒・鑰・箭)像で、腹部が妊娠しているようにふっくらしている。宝冠を戴いているが、その宝冠に鳥居が付いていて、老翁の顔をのせている。宇賀神は老人の容貌をした人頭蛇身。そして伏見稲荷大社祭神の宇迦之御魂神と同一神。そのため宇賀神と同一化された弁才天が、稲荷の使いめとしての狐に乗った姿で現われてくるのである。ここにおいて荼吉尼天騎狐と宇賀弁才天騎狐とが、図像的に同一視されただけでなく、信仰として同神と考えられたのであった。 
ちなみに、荼吉尼が仕えたカーリは、死や破壊の神であるばかりでなく、じつは収穫後の年老いた大地に新たな力と豊饒性を与える大地母神の一人なのである。エリッヒ・ノイマンは、カーリについて次のように言っている。 
「彼女は血の色の衣をまとい、血の海にただよう舟の中に立っている。生命の水、すなわち犠牲の血液は、彼女が世界の母として恵み深く現われるときにも、止むことのない創造の過程で生まれるものに存在を与えるときにも、彼女が必要とするものである」と。 
飲血鬼と言われる荼吉尼にも、豊饒神的な特性がそなわっていたのである。 
真言宗豊山派総本山長谷寺の能満院に伝来する《天川曼荼羅図》は、吉野天川社の弁才天を写したものといわれるが、上述の神仏の複雑な習合をうかがわせる特異な図像である。 
画面は上方に祥雲たなびく円錐形の三山を置く。これは三つの峰をもつ神奈備山の形態であり、大和の三輪山、ないし山城の稲荷山であろう。両山ともに源初の神は蛇神である。中尊は獣頭(一狐二蛇)人身十臂像。両脇侍として、飯饌を捧げる二飛天像。周囲に十六童子と三体の蛇頭人身像・穀俵・臼・杵・篝(こう)・財宝を描く。十六童子のうち、ある者は馬・牛・玄鶴・白鹿・蛇に乗っている。また、二人が白狐に乗っている。他の一人は頭に小さな白狐をのせていて、まるで狐使いのようである。画面下部には水波を描いているが、蛇神と水神との結びつきを示していると言える。 
荼吉尼天と狐信仰との関係は、まだ豊川稲荷社や飯綱(いづな)についても検証しなければならないが、それは他日を期すとする。 
最後に安藤広重(1797-1858)の「名所江戸百景」より《王子装束ゑの木大晦日の狐火》を掲げる。 
関八州の狐たちは、正月元旦、豊川稲荷大社に初詣するのが例年のならいだった。狐たちは大晦日の夜、王子の大榎のもとに集合し、そこで晴着に装束改したのである。江戸の人々は、この狐火を見物するために、厳冬の夜中に、わざわざ王子まで出かけたという。  
 
怪化百物語

 

高畠藍泉(たかばたけらんせん)作、明治8年(1875)刊の中本もの(滑稽本)である。跋文に拠れば、明治7年の冬に執筆したものを、友人井上氏が清書して挿絵を入れて出板せよと乞うので止むなく出板を承知したとある。大袈裟な卑下は近世的な戯作の伝統に負ったものである。開化物流行の最中に作られた仮名垣魯文「安愚楽鍋」の影響作。藍泉が出した本の初作かと思われる。高畠藍泉は天保9年(1838)生、明治18年(1875)没。明治5年3月の東京日日新聞創刊時に記者となり、この頃から転々堂主人と号す。のち、明治15年に二(三)世柳亭種彦を嗣ぐ。仮名垣魯文に嗣ぐ明治初期文壇の重鎮。  
怪化百物語序(くわゐくわひやくものがたりのじよ) 
僧(そう)覺猷(かくいう)が畫(ゑが)ける百鬼夜行も。旭章(ひのまる)の國旗(ふらく)に畏れて退散(にげさ)り。火輪船(じようきせん)の迅速(はやき)には。船冤鬼(ふなゆうれい)の脚も追付(おつつく)まじく。銀行(ばんく)の家屋(はうす)の高きには。見越(みこし)入道(にふだう)の頭も達(とゞか)ざるべし。堕胎(こおろし)の禁令(ごはつと)に。産婆も幼童(こども)の怪(くわゐ)を見ず。北国の雪娼妓(ゆきぢよらう)も。解放以来(このかた)減(すくな)く。轄(くさび)のぬけた片輪車(かたわぐるま)も。官許(ごめん)人力の繕所(つくろひじよ)あり。究理(きうり)の説が行はるれば。南瓜(かぼちや)に眼鼻(めはな)の現(つく)ことも。潛隱(ないしよ)で棲(すみ)し舊邸(ふるごしよ)は毀(こはし)て新地へ長屋を建築(たて)。古蘭若(ふるてら)も葬礼(とむらひ)が来(こ)ねば。一向(ゐつかう)凄くもなんともなく。妖怪(ばけもの)巣窟(やしき)の戸藉調(しらべ)が嚴(やかま)しひ故(ゆゑ)宿直(とのゐ)する。武者修行の佩刀(だいせう)も。無用に属する開化(かいくわ)の聖代(せいだい)。静(しづ)けき春の雨夜(あめのよ)に。品定(しなさだめ)する景物(けいぶつ)の怪事(くわゐじ)も非(なけ)れば小説者流(けさくしやりう)の。手稿(しゆかう)の種に都合も悪し。眞(まこと)の變化(おばけ)は無(ない)にもせよ。人間中(にんけんぢう)の化物の。穴を探索(さぐる)も稗官(さくしや)の得意と。按文几(つくえ)に肱(ひぢ)をかけ焔硝(えんせう)大どろ どろの取次(しどろ)筋斗(もどろ)と。本末(あとさき)もなき怪談に。筆を採(とり)しも夜十二時(まよなか)過なり。  
發端(ほつたん)  
皇國(すべらみくに)の大古(おほむかし)開闢(ひらけ)初(そめ)たる其(その)時代(ころ)は。妖魔(ばけもの)だらけなりけるを諸神(しよじん)の爲に退治(たいぢ)られ。尚(なほ)人皇(ひとのよ)にいたりても。其(その)残餘(ゐのこり)の在(あり)けるを。日本武尊(やまとだけのみこと)といふ大立物(おほだてもの)の下り役者。東夷(とうい)を征討(せいたう)せられしより。二千餘年(よねん)の星霜(せいそう)を歴(へ)て。函嶺(はこね)の以東(こちら)に化物(ばけもの)と。野暮(やぼ)は住(すま)ぬと云しも方今(いま)は。開明(かいめい)日々(ひに ひに)進むにつけ。西洋(せいやう)萬里(ばんり)の外(はて)までも。變化(ばけもの)といふもの非(なく)なりし。昭代(みよ)の繁昌(はんじよう)愈(いや)増(まさ)る。中に輩下(れんか)の煉化(れんくわ)石屋(づくり)。豪(おほ)商家(あきふど)の居(ゐ)ならぶ街頭(まち)に。拾間(じつけん)間口(まぐち)の無産舗(しもたや)あり。主人(あるじ)は士族か。平民か。家號(いへな)はどうやら商賈(ちやうにん)らしく。名(な)は侍(ぶし)めきて聞へたる開化屋(かいくわや)進(すゝむ)といふ者あり。家業は所謂(いはゆる)周旋屋(あれこれや)にて。上は高貴(たつとい)旦那方より。農工商(のうこうしよう)はいふも更なり。下(しも)は幇閑(ほうかん)芸娼(げいしよう)妓(ぎ)。人力車夫等に至るまで。這(この)家(や)に立入(たちい)せざる者なく。午前(どんまへ)。午後(どんご)の嫌(きら)ひなく。百(どん)どん賑(にぎは)ふ店頭(みせさき)に来賓(きやく)の絶間(たへま)ぞなかりけり。一日(あるひ)春雨(はるさめ)そぼふりて。甚(いと)蕭然(しめやか)なる宵間(よいのま)より。風さへ暴(あら)く吹出(ふきいで)たれば。平生(つね)に五月蝿(うるさく)おもふたる。客もなければ寂莫(さびし)さに。主(あるじ)は疾(はや)く閨房(ねや)に入(いり)ぬ。店頭(みせ)の火鉢を取囲む。主管(ばんとう)小厮(こもの)が四表八表(よもやま)の。噺に闌(ふけ)る鐘声(かね)凄(すご)し。愕(こは)がる丁稚(でつち)を驚(おど)さんと。無根(あとなき)虚説の怪力乱神。世に妖魔(ばけもの)といふ者が有か無(なき)かは白絞(しらしぼり)。油にひたせし灯芯を。一個(ひとり)宛(一個宛)に掻消(かきけし)て。真黒暗(まつくらやみ)とするときは。妖怪(ばけもの)集り現(いづ)るとぞ。是(これ)を百物語りといふ。遊戯(あそび)は古く伝へ聞けり。咄(いで)。怪物(ばけもの)の有無(ありなし)を試験(ためし)て見(み)ばやと奥(おく)まりし。庫(くら)の二階へ行燈(あんどう)を据(すへ)て数本(すほん)の灯(ともし)をつけ。管主(ばんとう)はじめ。雇夫(こもの)ども一個(ひとり)々々(一個々々)に立替(たちかは)り。怖(こは)ごは行て掻消(かきけす)にぞ。遂(つひ)には闇となりければ。すは誂(あつらい)の妖魔(ばけもの)が。現(いで)もやすると俟(まつ)たるに。世の怪談も誣(しい)がたし。庫(くら)の二階に何やらんものゝ声の聞えければ。偖(さて)こそ変化(へんげ)ござんなれと。将門山(まさかどやま)のふる御所ならねど。我他(がた)彼此(ぴし)と響(な)る階子(はしご)にすがり。怖(こは)いものは見(み)たいの譬(たと)ひ。如何(いか)なる怪のあらはれて。如何(いか)なる説(こと)を吐(いふ)やらんと。皆(みな)息篭(いきごみ)して聞(きゝ)ゐたり。  
殿様の化物(ばけもの)  
〔年の頃は三十五六のざん切(ぎり)あたま。おめし縮緬(ちりめん)の小袖に黒なゝこの三所紋(みところもん)の長羽織(ながばをり)へ。白の太ひもをつけ浅黄(あさぎ)はかたへ白く独鈷(とつこ)の出たる巾広帯(はゞびろおび)をぐちや ぐちやに結び。下着三枚襦(じ)ばんとも。薄鼠(うすねづみ)羽二重(はぶたへ)の半えりをそろへ。仙台平(せんだいひら)の萌黄縞(もえぎじま)の襠高袴(まちだかはかま)。銀ごしらへの極みじかい合口(あいくち)をきめこみ。金がはの龍(りう)つまきの時計に。金のくさりをつけて。ぶら ぶらと提(さげ)しは。三百円以上のものなるべし。中のへこんだ〓鼠(ねづみ)らしやのしやつぷに。白ちりめんのえり巻。白なめしの鼻緒(はなを)のごめん下駄の五分(ごぶ)高(だか)をつゝかけ。紫檀(したん)の柄の付た茶がいきの蝙蝠(かふもり)傘をつき。ほろ酔ひきげんと見へて小ごえで謡(うた)ひをうたひながら出て来る。此人(このひと)疳症(かんしやう)にて物の嗅(にほ)ひを忌(い)むやら。鼻息をつめてクン クンといふ癖あり。相応に金もありながら。貧生(ひんせい)貧生と自らとなへ。ついには酔(えい)が廻(まは)ると。おひおひに大きなことをいゝ出すくせある化物也。〕  
謡ひ「あゝらむかし恋しや引「イヤ今晩(こんや)は存(ぞんじ)よらぬ御招(おまねき)ゆへ早く来(まい)ろうと存(ぞんじ)た所が柳橋(りうけう)を渡(わた)らうとすると例の絃妓(げんぎ)の。おしやけに面会したところが。自宅が直(すぐ)に横丁だから。強(しい)て立寄(たちよ)れと申(もふす)から。止事(やむこと)を得 ず参(まい)ッて見ましたが。中々手せまにいたしては好風(いき)に住て居(を)ります。幸(さいは)ひ肴(さかな)の至来物(とうらいもの)があるとか。なんとかいふことて。一酌(いつぱい)けんじたいなどゝ。殿さまごかしにされる処が。貧生(ひんせい)実に大(おゝ)辟易(へきえき)さ。しかし其手(そのて)はくわんですて。方今(はうこん)は窮(きう)しぬくわけさハヽヽヽ「実(じつ)に大酔(だいすい)。それゆゑ大(おゝ)遅刻恐入(おそれいつ)たハヽヽヽ。馬車にでも乗て走れば早くも出られたがそこが貧生(ひんせい)閉口(へいこう)閉口。又(また)金満家(きんまんか)は別段の事 で 一昨日ナ。私宅の樓(にかい)から見て居(をる)と。旧(もと)同席の某(なにがし)が。美人(べつぴん)同行で。船中(せんちう)大(だい)愉快(ゆくわい)の様子であつたが浦山(うらやま)しいことさ。貧生などは及ばぬこと。併(しか)しあんな人物があるから。新聞などに悪く記(かゝ)れるも尤(もつとも)なれども。堅固(けんご)な貧生などまで同一(おせうばん)はなんぢうさ。新聞の口の悪ひにも困る。旧藩の某(なにがし)と申奴(もふすやつ)が。近日或(ある)新聞局の編輯人(へんしふにん)になつて。生利(なまぎゝ)に開化々々と唱(とな)へて吾輩をわるく云(いひ)ますが。元来(もと)渠(かれ)などは先代の妾(せふ)の名跡(みやうせき)を立させるために取立(とりたつ)た。至(いた)ッて軽卒(かるいもの)の厄介(やつかい)で読書なども出来ることではなし。至ッて愚人(ぐぶつ)でござる。彼奴(かれら)などの筆頭に詈(のゝし)られるやうな所業は苟(いやしく)もいたさぬつもりさ。〓〓(りかう)ぶつて商法をして損毛(そん)をする者などもありますが。貧生は商法などはいたさぬかはりに。近辺の学校へ少々(せう せう)宛(づゝ)の資金を出してやるつもりなれど。一ッの学校へ多分に出さずに。数軒(はうばう)へ少々(すこし)づゝ出した方が。貧民の小童(こども)などの為にはならふかとそんずるて。吾輩が四五百(しこひやく)金(きん)を費(つひや)して。三千万余の人民中に聊(いさゝか)でも文盲(もんもう)が寡(すくな)くなれば。学資を出すなどは容易なことではないかハヽヽヽ「イヤ各君(みなさん)もちと宅へお出必(かなら)ず馳走(ちさう)はいたさんよ。馳走はせんが川向(かはむか)ふが花盛(はなざか)りゆゑ。朝夕(てうせき)などの景色はよふござるかならずお出なさいハヽヽヽ「いさゝかな金(きん)を出して学校が盛んになれば容易な事(こと)さハヽヽヽ「モウ御暇(おいとま)を致(いた)さう。斯(かふ)酩酊(めいてい)して車に乗と心持(こゝろもち)がよくないから。ぶら ぶら歩行(あるく)方がよろしい。歩行(あるく)も可(よい)が。若(もし)途中で鼻緒が切たらばどふ致(いた)さふかとそればつかりが大(おゝ)心配さハヽヽヽ「学校の資金位はいと易(やす)いわけさハヽヽヽ「必ず宅(たく)へ来(きた)るべしハヽヽヽイヤおやかましうござつた  
絃妓(げいしや)の化物 
〔年の頃は三十あまり。中高(ちうだか)の嶋田(しまだ)に七ッ揃(ぞろへ)の珊瑚珠(さんごじゆ)の根(ね)がけ。金平戸(きんひらと)の銀(ぎん)かんをはすにさしこみ二くづしみぢんの南部(なんぶ)ちりめんの小紬(こそで)を重(かさ)ね。紺(こん)ちりめんの長襦袢(ながじゆばん)へ。白茶(しらちや)とぶどう鼠(ねづみ)と染(そめ)わけの半えりをかけ。黒(くろ)襦子(じゆす)と茶(ちや)はかたへ一本筋(いつぽんすぢ)の腹(はら)あはせの帯(おび)をお太鼓(たいこ)にしめ。焦茶(こけちや)の平(ひら)うち紐(ひも)の帯(おび)どめ。銀(ぎん)のいぶしの定紋(じやうもん)のかなもので。ちよきんと留(とめ)。金(きん)ぎれの袋(ふくろ)へ入た成田山(なりたさん)の御札(おふだ)をやつ口の所(ところ)へぶらさげ。奇功紙(きかうし)をちいさく切(きつ)てこめかみへ張(はつ)たるは二日酔(ふつかえい)の頭痛(づつう)と見へたり。ばらつく前髪(まへがみ)を鼈甲(べつかう)の櫛(くし)でおさへながら。左の手でかんざしをさしこみ〕 
「アヽ草臥(くたびれ)ました草臥ました。やつとの思(おも)ひでけふといふ今日(けふ)川崎の大師さまえお参りをして来ましたが。真実(ほんとう)に汽車(おかじやうき)は速(はや)いねへ。午砲(どん)が響(なつ)てから余程(よつぽど)たつて。老母(おつかさん)がぐず ぐずしてゐて昼飯(おまんま)にして夫(それ)から出(で)かけて。神籤(おみくじ)を頂(いたゞ)いたりなにかして。ゆつくり帰(かへ)ッて来(き)て。未(ま)だ日没(くれ)ないのですものを。ヲヤ誰(だれ)と往(いつ)たつてよふござゐまさァね。老母(おつかさん)と往ましたのさ。そんな御詮議(ごせんぎ)の御布告(ごふこく)は出(で)ませんよ。「誰(たれ)といつても私なんぞのやうな。姥(ばゞあ)歌妓(げいしや)はどうでもいゝがサ。まァお聞なはいよ。お酌の少女(たちあがり)がおぼこだ おぼこだとおもつてゐるうちに。大鰡(おゝぼら)になつて肝の潰(つぶ)れた咄ですよ。マア或(ある)旦(だん)那が舟(ふね)で梅荘(うめ)へおいでなすつた処が。つい寒(さむ)いもんですからね。私が大ぎまりに酔(きまつ)てしまつて前後忘却(へべれけ)になつたのをサ。なんぼなんでも。人(ひと)の前もありますのにサ。ぢやらつきだして。づゝともふ膝(ひざ)に寄(より)かゝりか何かで。しやり しやりしてゐることゝいふものは恐入(おそれいつ)た嬢(こ)ですよ。夫(それ)から舟(ふね)のあがり際(きは)にまぜつ゜かへして遣(やつ)た処が。猫(ねこ)をかぶッて姉(ねへ)さんいやですよとか何(なん)とか。人(ひと)を白痴(ばか)にしたあんな達者(たつしや)なのが若(わか)いのにたんとありますから。応来(おうらい)芸者(けいしや)だ 芸者だと。地獄(ぢご)同様(どうやう)におもはれるのは。一統(いつたい)の面穢(つらよご)しではァねハヽヽヽ。欲(よく)の世(よ)の中だからしかたがありませんねへ。戯(かまい)てもないからしかたもないが。わたし達(たち)の堅固(かたい)のも掾(えん)の下(した)の力持(ちからもち)で損(そん)ですねへ「ようございますよ。どうせ貴君(あなた)方(がた)の御口(おくち)には勝(かな)ひませんよ。なんとでも仰しやいましよ。モウいゝかげんにして堪忍(かんにん)しておやんなさいよ。「誰(だれ)にそんなことをお聞(きゝ)なさいましたへ。孕而後(おみやげ)で。嫁(かたづき)ましたとへ。ヲヤどうしたらよからふ。お土産(みやげ)ならとんだ化(ばけ)の皮包(かはつゞみ)だねへハヽヽヽ  
半過通(なまぎゝ)人の化物 
〔年頃は廾七八真中から左右へわけたざん切(ぎり)頭。着つけは藍(あい)みぢんのだつそうちりめんの地のわるいゆゑ。一面に綿をすひだし雪の簑(みの)の様な上まへの膝のぬけかゝつた小袖(こそで)からは花色ちゝぶの白へりを取たかと思ふやうに裾の切(きれ)てゐる下へ金巾(かなきん)の白しやつを着込み。仕立て売る綿入の縞羅紗(しまらしや)の羽織に八王子(はちわうし)機(はた)のぐにや ぐにや博多の一の字つなぎの帯これも耳は一たいにすれてゐるを尻こけにしめ。金ぷらの小豆(あづき)鎖を時計のあるべきところへかけ。金糸入のかます莨入(たばこいれ)の垢染(あかじみ)たるに洋白(やうはく)のなた豆烟管(ぎせる)をもち。襟(えり)にさしてある小揚子で。ヂヤ ヂヤ音のするやうにたまつたきせるの〓(やに)をほじくりながら。〕  
「どうも大(おゝ)御無沙汰をしやした。遊ぶつもりでもないが。據(よんどころ)なく遊ばされるに。閑(ひま)のないにはよはりやすよ。今日も友人が根岸の別荘で。煎茶(せんちや)を出すといふのが。去臘(きよねん)からの約束で。断ることが出きねへから。往(いつ)て見た処が骨董類のみいかめしく陳列(ならべたて)て不馳(ふち)走(そう)には驚(おどろい)たねへ。かんじんの主とすべき茗(ちや)が二三円にしか飲ないから恐(おそ)れるのサ。私などは勿体ないことだが。口が奢(おご)つて茶(ちや)斗(ばかり)は免道(うぢ)の山上(やまがみ)の蓮の白でなくてはのみやせん。扨(さて)困るやつは菓子さね。どうも有(あり)ふれた品ばかりで。藤村や野村といへども。凡庸(ぼんよう)の甘みでつまらねへ実に喰物(くひもの)といふやつはむづかしいのさ。昨日も或(あ)る奴に途中で会て。何所(どこ)でか夜喰(やしよく)といふ処が。扨(さて)日本橋もよりにもないねへ。中安(なかやす)。隅屋(すみや)。万林(まんりん)などが小酌(ちよつと)手軽でいゝなどゝいふが。却(かへつ)てそんな所は損だから八百善迄(まで)行こととしやうといつて。二人(にゝん)曳(びき)の車に急ぎましをはづんで浅草迄行と。向(むか)ふから熟(しつた)弦妓(げいしや)が三名来たのが今(いま)明(あい)た処だと言に付(つき)之(これ)をも卒引(いんぞつ)して。金竜山(ぢない)を抜(ぬけ)席(ついで)に。六三郎へ預た盆栽の梅が咲かと立寄たが。どうも培養方(やしないかた)は向島の梅吉の方が上手だね此(この)梅荘(ばいさう)て久く会なかつた。枕山(ちんざん)翁(おう)はじめ。柳圃(りうほ)。波山(はざん)。雪江(せつかう)などの諸先生が居合(ゐあは)して。幸ひ此席(このせき)でちよつとした合作(がつさく)をやつてくれと乞(こは)れた処が。文人者(ぶんじんもの)の中へ発句(ほつく)はうつらねへものだが其(そこ)を位置よくみせるには骨折(ほね)さ。どうか斯(かう)が筆(ふで)を揮(ふる)ッたが。書にくい絹でよはつたよ。是(これ)から。ヘヾライ子(し)〔写真師北庭兎久波(つくば)〕の処へ寄て諸先生と妓(ぎ)を硝版(おゝいた)へとらせやしたが。近日紙へ焦付(やきつけ)たのが出来たら献(けん)じやしよう。 
時(そこ)で時計を見ると五時過と来てゐるから。諸先生に別れて。又車夫に祝儀を与への大急ぎで。八百善迄(まで)はいつたが。もう何(なんに)もなしの御馴染(おなじみ)でないと御断(おことはり)と来る景况(けしき)さ。当日(そのひ)は午(ひる)前或(あ)る官員(くわんいん)五六(ごろく)名と。築地の精養軒へいつて滋味(こつてりもの)で倦(うん)だところだから。淡薄(あつさり)した物でなければ食(いけ)ねへ処(ところ)さ。聊(ちつと)気がおけるが官員(くわんいん)方(がた)とも懇意(つきあつ)て置(おか)ねへと周旋筋などを毎度依頼(たのまれ)るが。そんな時に妙な都合がありやす。「間話休題(それはさておき)八百善の割烹もあつさりした物の限(かぎ)りを何かと考へた処が。鯛の眼斗(ばか)りの。潮汁(うしほ)はどうだ。大びねりだらうといふので。是(これ)から善孝(ぜんかう)と喜美(きみ)太夫(たいふ)をよびに遣(やつ)て大宴(おゝのみ)となつた処が。眼斗(めばかり)のおかはり おかはりで。鯛が廿尾(にじうまい)あまりいつたそふだ。廿尾(にじうまい)以上の鯛が皆(みな)。真肉(しやうみ)は不用なうちが。愛敬(あいけう)があつたじやァねへか。時(よる)と隣席(となりざしき)に河竹(かはたけ)がゐて小便所で逢(あつ)て立ながらの話に。新富座の替(かは)り目に。何か新浄(しんじよう)璃理の所作を出したいが。何か新しい条(すぢ)はあるめへかとの相談さ。直(すぐ)に考た処が或る翻訳書(ほんやくもの)の中に可笑(おかしい)説(こと)があるのを。新浄璃理にしたらよからふと。おもふから近日に又訳し直して。唄(うた)ひ物にして清元でやらせるつもりさ。「清元の節付(ふしづけ)は家元のお葉(えふ)が妙を得たものさね。実に才女さ晴湖(せいこ)先生に比較する女丈夫だ「お葉(えふ)にもいゝ唐棧(とうさん)を一重(いちまい)送るつもりで久しい約束で丸忠(まるちう)などへも出たら 見せろといつて置くが。 
いゝ縞柄(しまがら)の古いものが。扨(さて)ないものでげす。着服(きもの)ぜいたくも凝(こり)だすと。際限がなくなるし。口は日増に奢(おこつ)て来るので食ふ物はなし。此節はなんだか世間が狭(せま)く見へて来(き)やした「然(それ)にぶら ぶら途(そと)を歩行(あるい)てゐると。友(いう)人や幇閑(とりまき)に会つて遊せられるので。用が足らねへから。遂(つひ)まァ世間を狭くして隠て歩行(あるい)たり。馬車か人力車て飛せてあるくのさ。其故(せへ)か車(くるま)〓破(ずれ)で腰が痛(いたく)つてならねへから。近日佐藤先生か。松本先生にでも見て貰(もら)はにやァなるめへかと思ひやす「アヽ大そふ長話(ながばなし)をしやしたどれ帰宅に及びやしやうか〔とあとさきもわからぬことをべちや べちやしやべりながら立あがるひやうしに襟(えり)にかけてゐた鎖がゆるんで懐からばつたりと落るは時計にはあらずして天保銭なり なみの人なればよほど赤面もするところをぐつと平気なかほで〕「ヲヤ是(これ)は妙だ。之(これ)はけしからぬ。怪有(けう)なことがあるものだ。横浜の商館から直買(すぐ)に引とつた。金革(きんがは)龍頭巻(りうづまき)で二百円ぢかく費(だし)た物が。天保銭に化(ばけ)るとは妙だ。どうも理くつが解らない。ハテ奇(き)といふべしだ〔とひつくりかへしてよく見て考へ〕「ハヽアよめた漸(やつ)と解(わか)りやした。先刻(さつき)根岸の友人が。前(とう)から此(この)時計を譲(ゆづ)れ譲れといつて責(せめ)る処が。是(これ)は妙に合(あつ)てゐるから愛玩(あいくわん)して手放さねへものだから。いつの間にか強奪(がうだつ)して百銭とすりかへの。跡から代金(あたひ)をよこす積と見へる。わるい戯談(じやうだん)をするには困るよ。ほしければほしいとほんとうに話せばいゝに。是(これ)たから掘出し物などをしても。皆(みな)奪(うば)はれるので恐(おそ)れるよ。到底(つまり)他(ひと)の為に物を買やうなものさ。時計ばかりもこれで丁度(てうど)十八とられやした  
侠客(いさみ)の化物 
〔頭髪(あたま)はざんぎりがへりの。ひつゝめちよんまげ野郎(やらう)。二子織(ふたこをり)のらんたつの布子(ぬのこ)を二枚かさね。一ぺん水へはいつた薩广(さつま)の紺がすりの浴衣(ゆかた)と共に一所(いつしよ)前にあわせ。十六盤(そろばん)染(ぞめ)の三尺の上へ花主(おたな)拝領(はいりよう)の大紋付の半天(はんてん)を三枚重(かさ)ねてひつかけ。目くら縞(じま)の腹掛(はらがけ)股引(もゝひき)。大(おゝ)自慢の鎖付(くさりつき)とも提(さげ)の莨入(たばこいれ)をいぢくりまはし。花会(はなぐわい)の義理に五十銭とられし水浅黄(みづあさぎ)の手ぬぐひを左の手に鷲(わし)つかみにして。究屈(きうくつ)そうに両股(りようもゝ)をあはせて。ほつたて尻(じり)にかしこまり〕 
「ヱヽ吾輩(わつちら)は如此(こんな)御座舗(おざしき)へ出かけると。気がつまつてネヘ困りきりまさァ。併(しかし)この節はまァ旦那方(がた)のめへだが。殿様方も吾輩(こちとら)も。官民(ぐいち)同権(さぶろく)といふんだそうだから。ざつくばれんな御話が。旦那のめへだけれども。一月(いちげつ)出初(でぞめ)の階子(はしご)乗(のり)は御らん奉(たてまつ)りましたかもしらねへが。わつちらが組(くみ)が第一(でへいち)だつたねへ。旦那方のめへだが。組でのつた跡てへもなァ見られたざまはねへんでがさァね。階子乗(はしごのり)にやァ実に感心だといつて。警視官員(おやくにんがた)から戸長(とちやう)へお賞(ほめ)があつたそうだ「今日は早天(あさつぱら)からの雨で休だから。軍談(ひるせき)を聞(きゝ)やしたが。丸橋忠弥のやうな豪傑(えらい)やつでせへ。梯(はしご)ぶせにやァ勝(かな)はねへから何(なん)でも。梯(はしご)せへよくつかへりやァ。大盗賊(おゝどろほう)でもなんでも捕傅(ぶつたほ)されるから。階子(はしご)はかんじんさねへ「アノ忠弥なんぞもくだらねへことをしたのさねへ。兼(かね)て言合(いひあは)してある正雪(せうせつ)は。駿府にゐて江戸のさはぎが今か 今かと福禄寿(ほころこじん)のやうに首をながくして竢(まつ)てゐるに。かんじんの大将(てへしやう)が半狂気(はんきちげへ)となつたもんだから。当着(とうちやく)があはねへでかたでくだらねへネヘ「旦那のめへだが。吾輩(わつちら)は元(もと)から旧弊(きうへい)根性はねへから。徳川様がひゐきだの。太閤(てへかう)様が贔屓(ひゐき)だのといふ。差別(かべつ)はねへ。天下は其(その)時々の廻(まは)り持(もち)さ。王政(わうせい)御(ご)一新(いつしん)だつて西洋だつて。一連托性だァ。所へもつて来て旧弊(きうへい)なやつらは種痘(うゑぼうさう)が嫌(きれ)へだの。牛肉(うし)は喰(くわ)ねへのといつて。西洋の唐人(とうじん)を忌(いや)がる奴もあるが。おつゝかねへ話だァ。旦那のめへだが吾輩(わつちら)は疾(はやつ)から文明開化さねへ。御嶽山(おんたけさん)の伺(うかゞ)ひに散髪(ざんぎり)は逆上(のぼせ)てよくねへといふから。又(また)野郎になりやしたが。了簡(れうけん)はどこ迄も文明開化さ「此(この)文明開化の難有(ありがてへ)理(わけ)が一通(ひとゝほ)りでわかる奴はねへやァ町内(ちやうねへ)にも軍談(こうしやく)でも聞(きい)て。為になることをする奴等(やつら)は。皆無(かいもく)ねへのさ。旦那の前(めへ)だが。吾輩は定連(ぢやうれん)同様に往(いく)んで。伯円(はくえん)先生でも。燕林(えんりん)先生でも。心易(こゝろやす)くするからねへ。其上(それに)たまにやァ。説教なんぞも聞(きい)ておくから。ちつとは為にならァねへ。安寿(あんじゆ)の姫や対王丸(つちわうまる)が。同胞(けうでへ)を憐(あはれ)み合(や)ふ。憫然(かゑゝそう)なわけや。三荘(さんしよう)太夫(だいふ)が非道(むごい)事をしやァがる所をきくと。自然(しぜん)天然(てんねん)と為にもならあねへ「何(なん)だとへ。説教とは寺の僧(ぼうづ)がするんだとへ。なるほどそんなこともあるだらうよ。文明開化でだん だんと和尚(ぼうさん)の頭も。被廃(おはやし)になるそうだから。席(よせ)へでも出(で)ずは。喰殿(くうでん)建立(こんりう)に窮(こま)るのだらう  
書生(しよせい)の化物 
〔年の頃は十七八。九州辺(へん)の出生(しゆつしやう)と見へて。西国訛(なま)りのふとき声。香水をつけて横にかいたる散髪(ざんぎり)。真赤なフランネルのチヤツへ紙の襟(えり)を懸(かけ)白のめりやすの下ばき。藍(あい)弁慶の二子織(ふたこをり)の布子(ぬのこ)。白もめんのヘコ帯へ醤油で煮染(にしめ)たやうな手ぬぐひをはさみ。八丈もめんの書生羽織(ばをり)へ。銀ぷらの鎖の紐をつけ。爪先(つまさき)の摺(すれ)かゝりたるゴム靴を履(はき)。揚弓場(やうきうば)のむすめから取上たと見ゆる。銀の指輪をはめ。袂(たもと)の中で銭の音をがちやがちやとさせながらおほまたにづかづかと出て来て〕 
「(ツデー。フアイン。ウヱザー。)〔今日はよい天気といふことなり。生聞(なまぎゝ)につかふ英語ゆへ大雨の夜(よ)にてもおなじやうなあいさつをする〕「唯今(たゞいま)迄沈黙して。諸彦(しよげん)のお説を聴(うかゞつ)たがどうも日本の開化に進まざること。欧米諸洲(しよしう)に比すれば及ばざること遠(とほ)がすなァ。如何(いかん)となれば皆ことごとく無用の弁ばかりで。実地有益な議論などはちつともないなァ。左様にむだな遊び事や。何やかや。考る間(ひま)には善(よい)ことがいくらも考られるわィ。譬(たとひ)ば此(この)土瓶や。茶碗やが其(その)元(もと)は土をどうすれば。こんなに堅(かた)うなつて。画(ゑ)の模様やなんどが焼付(やきつく)といふことに注目すれば。皆(みな)人智(じんち)を増(まし)て。事物(じぶつ)を発明するの理(り)じやわイ。実に日本人の愚鈍(おろか)なるには絶(たへ)んなァ。日本魂(やまとだましゐ)なんどといふことを殉(とな)ふるが。その日本魂といふことが。僕などには気に入ませんがなァ。士(し)は己(おのれ)を知ものゝ為に死すなどゝいふ。毛唐人の悪弊を墨守(ぼくしゆ)してゐるが。文明の妨(さまた)げじや。動(やゝ)もすると君の為に死(し)を軽(かろ)んずるなどといふて。貴重(きぢう)の生命を麁略(そりやく)に捨(すつ)るといふは楠氏(なんし)が湊川の一戦に利(り)なきを以(もつ)て討死しおつたも。下男の権助が。僅(わづか)に一円金(いちえんきん)を失ふて。弁金(べんきん)するの目途(もくと)がなふて。首を縊(くゝ)りおるも同一の論じや。瑣々(さゝ)たることの成(なら)ざるを憤(いきどほ)ッて死ぬとは。至(いた)つて狭ひ愚かな所存じやなァ彼(か)の拿陂崙(なぼれおん)が数度の苦戦に及んだなんどは大(おゝ)い成(なる)ことじやあらう「イヤ僕も昨日(きのふ)は(ツンデー)〔日(にち)やう日を云〕ゆへ。早朝から同熟(どうぢゆく)の者と遊び歩行(あるい)て午後から洗湯(せんたう)にいつて楼上(にかい)で膝八拳(とうはちけん)をうつて大(おゝ)いに戦かふた所は恰(あたか)も(セバストボール)〔魯西亜(おろしや)の属国の地名也〕を陥(おとしい)れたる勢で大勝利を得て。時刻のうつるを知らんでゐたもんじやから。殆(ほと)んど八時頃になつて大(おゝい)に空腹に及(およ)んで来たによつて。湯屋(ゆや)の二階の(ドートル)〔むすめをいふ〕を二名同行して近所の牛店(ぎうてん)に出かけて。酒肴(しゆかう)を命じた処が。其(その)娘(むすめ)共(ども)が不開化(ふかいくは)な奴で(ミート)〔牛肉を云〕を喰(くは)んといゝおるによつて。止むを得ずまた楼(ろう)を下つて天麸羅屋に入(いつ)て。大(だい)愉快に及んだもんぢやから。今朝(こんてう)は忽(たちま)ち空嚢(くうのう)となつて。最(も)ふはや落城に及ばんとする勢(いきほ)ひじやハヽヽヽ「昼飯(ひるめし)を反毛鶏(しやも)で喰ふた会計が。両人で一分(はうさん)三朱(せうへん)〔と云(いゝ)ながら。火鉢の灰へ横文字の数字(かずじ)をかいて勘定をしながら〕浴湯(にかい)の茶代(ちやだい)が弐(へん)朱と。それから牛店(ぎうてん)が方片(はうへん)ト。跡(あと)の酒食が四人で。一円二分未満(たらず)と。彼店(あそこ)は不廉(ふれん)じやなァ。彼是(かれこれ)で一円一分余(よ)の割前を費(つゐや)した。金談の策略(さくはやく)も尽はてたなァ「イヤヨイ ヨイ。小本(こほん)の元明史略(げんみんしりやく)と。英和辞書を買ふ者が有たら。周旋(しうせん)してくれ給(たま)へ。実に究(きう)したよ。漢籍の歴史はなくもよいが。字引は借てつかふては。実に不自由ぢやが。勢ひ止(やむ)を得(え)ん。売ざることを不得(えざる)のじや。しかし又。浩然(こうぜん)の気をも折々(をりをり)養(やしな)はんと愚(ぐ)になつて困る人智(じんち)は磨かねばならんさ。「ナニサ浴楼(よくろう)の婦(ふ)などに恋着(れんちやく)するわけではない。之(これ)も所謂(いはゆる)つき合(あひ)じや。僕が生涯の宿願は。海外留学の帰後(きご)は。君も知りたまふ。隣町(りんてう)の女学校(によがくかう)の助教(じよけう)になつた。お固(かた)なるものナ。如何(いか)なる造化(ざうくは)の神の賜ものにしてあんな美人が出来たなァ途中などでアノ先生にゆき逢(あ)ふと。実に春心(しゆんしん)発動して自から制すること不能(あたはず)(スプリンアツプ)さハヽヽヽ「笑ひ給ふな。彼の先生の美なるを賞(しよう)すのは。独り僕のみならず。十目(しうもく)の視(みる)ところさ。先生の美貌を。昨夜同行した賎婦(せんぷ)などに比すれば。豈(あに)〓(たゞ)霄壌(しようぢやう)のみならんや。「イヤ大(おゝ)いにむだ話(ばな)しをして。寸陰(すんいん)を惜(おし)むの時間を費(つゐや)した。勉強せぬと放遂(はうちく)じや。勉強せねば。独(ひとり)僕一身の損耗のみならず。吾(わが)邦(はう)三千(さんせん)万(まん)有余(いうよ)の人民中(ちう)に於(おゐ)て。一人(いちにん)の尸位(しい)素粲(そざん)なるは。則(すなは)ち一国中(ちう)の損耗じや。ドレ ドレ読書の勉強にかゝらうアヽ引〔と欠(あくひ)伸(のび)をしながら立て調子のはづれた大きなこゑを出(だ)して〕「他年風雨苔石面(たいせきのめん)。誰(たれか)題(たいす)日本古狂生(こきやうせい)  
麥湯(むぎゆ)女(をんな)の化物 
〔年頃は十九なれども。小(こ)つくりゆゑ十五年何ヶ月といふ程(ほど)に見へ。奇麗(きれい)といふ程にはあらねども。ちよつと愛敬があつて片靨(かたえくぼ)の入る。ぽつちやりした面(かほ)へ目鼻のわからないほど。こてこてと白粉(おしろい)をぬりつけ。いてうがえしへ緋(ひ)のなまこしぼりの裁(きれ)をかけ。縁日で売る珊瑚珠(さんごじゆ)の五分玉のかんさしへ。煎餅(せんべい)から出た辻占(つじうら)を結(ゆ)ひつけ。役者の紋の花かんざしを前へさし。金巾(かなきん)の地染(ぢぞめ)の鳴海(なるみ)の大形のしぼりの浴衣(ゆかた)。ちりめん呉郎(ごらう)の鼡地(ねづみぢ)へ友褝の中形(ちうがた)の。色のさめた帯をやの字にむすび。吹〓(ふきがら)の穴だらけな紺がすりの麻の前垂(まへだれ)へ。緋(ひ)ぢりめんの午後五時位な紐をつけ。茜(あかね)木綿の二布(ゆもじ)を長くひらつかせ。自分の名を彫(ほつ)た銀の指輪と。書生の客からもらふた。舶来の石の付(つい)たる指輪とを。左の指にならべてはめ。形(なり)不相応(ふそうおう)によいものは。藤畳(とだゝみ)鋲(べう)なしの五分高へ焦茶(こげちや)天鵞(びらうど)の鼻緒(はなを)の駒下駄慥(たしか)に七十五銭以上と見へ。是(これ)はお客に買て貰(もら)ふたる也。近所の茶屋の店びらきの景物(けいぶつ)に出したる。うちわを手にさげ。小楊枝(こやうじ)を口から出したり又入れたりして噛つぶしながら。ベチヤ チヤクチヤクチヤ引切(ひつきり)なしにしやべる。其(その)詞(ことば)の野鄙(やひ)にして世間をしらぬさま実に賎(いや)しむべくまた憐(あはれ)むべきなり。この麥湯(むぎゆ)連中のむすめをさして。麥連(ばくれん)といふも尤(もつとも)ならん〕 
「今ばんはチヨイとさ一ぷくお上(あが)んなはいよ。御(お)寄(よん)なはいつたら。おかけなはいよう引「暑いじやァありませんかねへ此二三日は甚(ひど)いんですねへ〔といゝながら朱(しゆ)らうの長(なが)ぎせるへ悪臭(わるくさ)い番(ばん)烟草(たばこ)を吸付(すひつけ)て出(だ)し〕「私(わちき)のやうに肥(ふと)つてゐるのは。猶(なほ)のこと暑いんですよ何(どう)ヶ様(か)して疲(やせ)たいもんですねへ。「ナニ素(しろ)いことがあり升(ます)もんか毎夜(まいばん)月に焦(やけ)て真黒ですよ。過刻(さつき)も左団次さんと家橘(かきつ)さんが通(とほ)りましたが。徘優衆(し)は素面(すがほ)でも奇麗ですねへ。よく見てゐると恥かしくなりますは。アノチヨイト芝居(しばや)へ御出(おいで)なはいましたか。彦三郎(ひこだんな)が大そふ能(よう)ございますとさ。私(わちき)なんぞは見物どこぢやァありません。モウ内(うち)の芝居(しばや)でたくさんですよ。仰願(どうぞ)御(ご)一所(いつしよ)に往(いき)たいもんですよ。ぜひねへ。きつと連(つれ)て往(いつ)て下(くだ)はいよ。アノ安上(やすあが)りで喜昇座(きしようざ)か中島座(なかじまざ)がいゝぢやァありませんか「手掛(てのごひ)をお絞(しぼ)んなはるなら。お出しなはいよ。汲立の冷たい水がありますからさ。ヲヤ此(この)手掛(てのごひ)の好風(いき)でいゝこと。〔有(あり)ふれたるめづらしくもなんともなき形(かた)を見てぎよう ぎようしくほめる〕「チヨットサ枝豆を少しお買なはいよ。アノ茹(うで)鶏卵(たまご)もお買なはいな。焼酎(しようちう)を上(あが)るんですかへ直(なほ)しの方が甘くつていゝぢやァありませんか。モツ卜何(なん)か上(あが)るんですか。そんならお鮨にしましようか。お鮨なら此所(こゝいら)のはおよしなはいよ。ぢきに向ふの入舟町においしいのがありますはそして安いんですは。此所(こゝ)のは一(ひと)ッ六厘(ろくじう)ヅヽで。入船町のは五厘(ごじう)ヅヽでゐて。大きいんですは。お鮨では朧(おぼろ)と鋸鯣(かんなずるめ)が第一(いつち)うまいと思(おも)ひますは。イツソお鮨はよして冷麦でもいつてお上(あが)んなはいな。天麸羅も旨いねへ。ソシテ帰路(かへり)に席(よせ)へ行たいねへ。横町(よこちやう)へ円朝(えんてう)が出ますは。仲の町へは此頃(こないだ)迄(まで)和国(わこく)太夫が出ましたが。換(かは)つてから何が出ますかしりません「なんですとへ帯が汚れて穢(きたな)くつてもしかたがありません。人を馬鹿にした。きたなくッてわるきやァ買ておくんなはい。私(わちき)は何がいゝは。アノウ引小倉(こくら)と紺呉郎(こんぐらう)の縫合(はちあは)せがほしいは。夜はとんと博多のやうに見へますは「なんですへ。ソリヤアどふせ左様(さう)ですのさ。芸妓(げいしや)だつてひとつは形(なり)でおどすんてすよ。ヘヱ芸妓(げいしや)だつて此辺(こゝら)には不醜(ろくな)のはゐませんは〔といゝながら小声にて角力(すまふ)ぢんくをうたふ〕「安い芸者と素人角力(すまふ)。はやく転(ころ)ぶに落(おち)が来(くウ)るカネ「ヲヤおづるさん何処(どこ)へ。昨日(きのふ)は恵手吉(ゑてきち)さんといつしよに。鯲屋(どぜうや)にお出(いで)だね。御愉快だねへ。チヨツトお聞(きゝ)よ。昨宵(ゆふべ)の私(わちき)のお客といふものは無類(なかつた)よ。づぶろく酔て来て。しつゝこくッて しつゝこくッて。人が鳥渡(ちよつと)睡眠(いねむり)でもすると。鼻をつまんだり耳をひつぱつたりして。ホンニ気障(きざ)だつちやァなかつたよ。そのくせ皃(かほ)だちも小ぎれいで。小好風(こいき)な形(なり)をしてゐやァがるくせに。生聞(なまぎゝ)だつちやァならねへよ。一寸見た処は。アノ浜へゐつてる姉(ねへ)さんの。先(せん)の夫(てつし)にどこか似てゐるやうさ。姉(ねへ)さんも此(この)暮あたりには帰京(けへり)ますは。いつがいつ迄も洋客妾(らしやめん)をしてゐたつて。此頃(このごろ)の洋人(とうじん)は人がわるくなつてゐるから。貨幣(おかね)をたんとくれるといふわけでもなし。もふいゝかげんに切上て帰るといつてゐますは。アノ姉(ねへ)さんも苦労して大そふ疲(やせ)ましたは。嗟(あゝ)夫(それ)も是(これ)も情郎(いゝひと)の為にでもするんだといゝけれども。おつかはんが継母(べつ)だもんだから。私(わちき)でも姉(ねへ)さんでも。皆(みんな)親(おや)のために。こんな容体(ざま)ァしてゐるんではァねしみ じみいやになるねへ。〔と溜息(ためいき)をついて又ぎやうぎやうしく〕「オヤ左の耳が痒(かい)いは吉事(いゝこと)でもきくと見へる。今夜らは彼(いつ)賓(けん)が。来るかも知れないよ。「オヤいやですよ。情夫(いゝひと)なんぞがあるくらいなら。如此(こんな)苦労はしませんよう引。〔と膝こぞうを出して立ながら足をぼりぼり掻(かい)ておほごゑに〕「なんですとへヲヤそんなことは知りませんよう引  
若商(わかだんな)の化物 
〔年頃は二十六七まつ青(さを)な野郎あたま。色白でひんなりしたいゝ男なれども。俗にわるくいへばお平(ひら)の長芋などゝいふ。うまみのなきかほだちにて古渡(こわた)りの唐桟(とうざん)の麥藁(むきわら)出の小袖に。対(つひ)の羽織の胴裏(どううら)へ時代の萌黄(もへぎ)どんすをつけ。是(これ)は能衣裳(いしよう)の古裂(ふるきれ)と見へたり。下着も古渡(こわた)りの更羅紗(さらさ)へ。中形(ちうがた)ちりめんの胴抜(どうぬき)二枚を重(かさ)ね。いづれも長めに仕立て。立(たて)ばかゝとを隠(かく)し茶の献上はかたの巾のせまい帯。ぴか ぴか光るきれの薄(うす)つぺらな紙入を。四色染(よいろぞめ)の麻岡(まをか)の手ぬぐいで巻て懐中し金無垢(むく)の目貫(めぬき)のかな物の付た。印伝(いんでん)の莨入(たばこいれ)へ五分玉の珊瑚の緒(を)じめ。極(ごく)細(こま)かい一楽(いちらく)の下を半分塗(ぬつ)て。泰真(たいしん)の蒔画(まきゑ)をした腰(ごし)ざしの筒(つゝ)へ付(つけ)。銀と鉄と張分(はりわけ)へ象眼(ぞうがん)で古代形のあるきせるで薄舞(うすまい)のたばこを呑(のみ)ながら。色身(いろみ)で首をふりながら咄す是(これ)をきどりやと唱(とな)へて売婦(くろうと)にはとんと好(すか)れぬ風(ふう)也〕 
「マアお聞なさい。商法といふもの斗(ばか)りは眼先(めさき)が見へねへぢやァいけませんねへ。マア御(お)心易(こゝろやす)い貴君(あなた)方(がた)だから御咄し申ますが。マア私がこうして遊んで斗(ばかり)歩行(あるい)てゐるやうですが。此間(このうち)に贏(まふか)る金が方今(けふび)じやァ一日に三十円位は輸入(はいり)ますのさ。人さまはよく商法で損をした 損をしたとおつしやるが。到底(つまり)眼先(めさき)の見へないのでござります。譬(たと)へ士族(しぞく)方がどんなに不馴で商法が下手だといつたつて。なんだつて元直(もとね)壱銭(ひやく)で受て来たしろ物を八厘や九厘で売る筈はございませんは。夫(それ)だからどうしても贏(まふ)かるに違ひないのだけれども。失礼ながら資本の不足のかたなんどが。見込の悪い売口(はけくち)の遠いものを仕入たり何かなさるもんだから。売物(しろもの)は動かず屓債(しやくきん)には逼(おは)れると来てゐるから。そこで贏(まふけ)も資金(もとで)もみんな喰込でおしまいなさるから。終(つひ)には大(おゝ)瓦解(がかい)となつたり。甚(ひど)いのは身代限りなんどとなるといふものが。商法に無理があるからさ。其無理といふのが。何だといふと資金のつゞかないのと眼先の見へないのばかりさ。商(あきなひ)といふやつは。盛(さかん)に売(うれ)る時も。また無皆(がつくり)閑(ひま)なこともありますが。該時(そこ)を自若(じつと)して落着てさへゐれば。又(また)景况(けいき)が立直るもんでございますのさ。なんでも気を揉じやァいけませんよ又(また)金があつた処が強欲(わるよく)をかはいて。高利なぞに廻して流行の俄(にわか)豪富(かねもち)にならうとした所が。やつぱり目的(めあて)が悪いと損(そん)斗(ばか)りしますのさ。私なんども金といふ程もありませんが。用達(ようだつ)てやる時にやァ。きつとした抵当(ひきあて)物を取(とつ)て置ます。不動産なら猶(なほ)慥(たしか)さ。夫だからマア損耗(はづし)つこはありませんのさ。北廓や。柳橋。金春(こんぱる)あたりでチツト評判をされる程の游(こと)なんぞをしても。元(もと)が贏余金(あぶく)だから。商業(みせ)へさはるやうなことはマアありませんのさ。夫に他客(ひとさま)の如(やう)に是非(ぜひ)。アノ妓(こ)を。どうかしなければならない。なんのといつて無理な御散財なんぞを被成(なすつ)たり何かする旦那遊びをしませんから慥(たしか)さねへ。私なんぞに応来(おうらい)をいふのは。妓方(あつち)でもチツト道楽の方だから。いつでも散財はいたつて軽少(けいせう)でございますのさ。雖然(それだ)といつて。果敢(はか)ない家業の婦に。身上(みあが)りをさせて情夫(いろをとこ)がつた所が。はきともしない伎(げい)だから。それ相応の散財はしてやりますが。さていつでも出来るものとなつてゐて見ると。気ももめないかはりに。面白みもありませんのさ「御(ご)戯談(じようだん)を仰しやいますな何もおごるどこではござりません。ナニ奇麗なことがありますものか〔などといゝながら男自慢ゆへ実は極うれしいの也〕此節(このせつ)は毎日商用で。走(かけ)あるいて斗(ばか)り居(おり)ますから。大そう日に焦(やけ)ました。男で色が出来(でき)るやうに美麗(きれい)だとよふございますが。今時(いまどき)の色情は九分九厘。金の力でございますのさ。「ダカラなんでも商業(かげう)を身に入て。金をこしらへなくてはいけません。今暁(けさ)も横港(はま)から帰(かへ)つて来た斗(ばかり)で。又(また)晩に八時の発車(くるま)で出かけなければなりません。実に家業は苦しまなければなりませんよ「ヲヤ ヲヤ。是(これ)は意外(とんだ)所て御目(おめ)にかゝりました。ヱヽ何は何(なん)でございました。疾(とう)に何(なん)しなければならないのでしたが遂(つい)何(なん)だつたもんでございますから。どうぞまァ。イヱ イヱどう致(いた)して。御無沙汰をするわけではごさいませんが実は店の者がちと一口に大(おゝ)きな買入物(ひきとりもの)をいたしましたゆへ。大手(おゝで)を広げ過たとこからツイ延引(ゑんにん)になりましたのさ。明日(あした)は是非お宅へ上ります。何サ差支(さしつかへ)はございませんが。些(ちと)手都合(てぐり)がありましたもんだから。兎(と)も角(かく)も明日(あした)は急度(きつと)イヱイヱお出(いで)がなくとも此方(こちら)から私が出ます。ナニサ別段店の者へお咄しがなくつてもようございます。何サ何サわたくしがどうこうといふ訳ではない。全(まつた)く店の者が不行届(ふゆきとゞき)でございます。数回(たびたび)御(ご)ぶ約束をするといふわけではございません必(かならず)ともあしからず「ヲヤヲヤヲヤ是(これ)は又(また)。とんだ所で姥(ばゞあ)絃妓(げいしや)につかまつた。ナンダへ。此間(このあひだ)八百松(やほまつ)へ泊(とま)つた時。夜中にお助(すけ)ぼうに声を立られたとへ。イヱイヱそんな外聞の悪いことがあるものか。夫(それ)は必(かならず)。人違ひ人違ひ大間違(まちがへ)な話だ「尊君(あなた)の方へは間違は致しません。明日(あした)こそは無相違(さういなく)上ります「憚(はゞかり)ながら強淫(がういん)どうやうなことなんぞを。仕損(しそこ)なふものか。私じやァなからう嘘(うそ)嘘「イヱ此度(こんと)は決(けつし)て虚言(うそ)は申上ません「向島へいつたといふのが嘘だ間違だともふしたのさ「イヱ出(で)ますといつたら必(かならず)上りますのさ。そんなにしつゝこく。念を押ないでもいゝじやァありませんか〔と面(かほ)は真赤になりちつとむつとして〕「モウいゝ加減になさいましな。お返金(かへし)申(もふし)さへしたら。ようございませう。何虚(なにうそ)をつきますもんか。高(たか)が拾五両ばかりだァ。 
人を白痴(ばか)にした「この婆(ばゞ)ァも無言(だま)りやァがれ。外聞(げへぶん)が悪い。今(いま)夫(それ)どこじやァねへやァ。屎(くそ)を喰(くら)へ面白くもねへッ「返(けへ)金(し)せへすりやァ言分(いゝぶん)はなからう〔と右左(みぎひだり)より敵をうけ。今までしやべつた。大言(おゝたば)の顕(あらは)るゝに腹をたち。筋だらけになり。大(おゝ)きな声をして〕「ヱヽ不解(わから)ねへ畜生めらだ〔と堪忍ぶくろの緒を切て。握りつめたる襷(こぶし)をふり上れば此(この)座(ざ)に居合(ゐあは)す。化物たち。みな一同におしへだてて〕「コレハしたりマア マア静に「あぶないあぶない「マア下にお出(いで)なさいましと。立(たち)騒動(さは)ぐ時。座中(ざちう)に釣(つゝ)たる。ランプに八打撞(ばつたりつき)あたれば。硝子(がらす)は砕(くだけ)て散乱し。灯(あかり)は消(きへ)て又(また)旧(もと)の。黒暗(まつくら)がりとなるかと思へば。是(これ)宵寝(よひね)せし此家(このや)の主人(あるじ)。開化屋進(すゝむ)が夢にして身は冷汗に浸(ひた)されツヽ臥房(ふしど)の内に在(あり)ながら。四壁(あたり)を顧(みれ)ば床の間の小架襖(ぢぶくろ)の棚の上に。午前(ひる)来し客の遺失(わすれ)たる。手掛(てぬくひ)。烟管(きせる)。莨入(たばこいれ)。其(その)他(ほか)種々の品々を載(のせ)置たりし其(その)物に。該(その)持主の霊(みたま)を停(とゞめ)て。斯(かゝ)る奇怪(きくわゐ)を顕(げん)ぜしか。将(は)た商業(なりわひ)に精神(しんき)を労(らう)す。妄想(もうぞう)より見し虚夢なる歟(か)。眼(め)は覚(さめ)たれど猶(なほ)暁(さめ)ず。正(まざ)まざ見たる夢裡(ゆめのうち)の。妖魔(おばけ)は枕辺(そこ)に在(ある)が如く。審(いぶか)しきこと限りもあらねば。忙然(ぼうぜん)として起出(おきいづ)るに。鐘声(しようせい)響(ひゞ)き。鶏(けい)鴉(あ)鳴(な)き天(よ)は朗晴(ほがらか)に明(あけ)にけり。  
総評(さうひやう)  
開化屋の主人(あるじ)進(すゝむ)。熟々(つらつら)顧慮(おもへ)らく。言行一致ならざるは。俗間(ぞくかん)の通情(つうじやう)なるべし。譬(たとひ)ば。殿様の化物が学校に資金を納(いれ)て。幼童(えうどう)婦女子を教(おし)へ導き。人智を開(ひら)かしむることを殉(となへ)ながら。単身(ひとりみ)にして絃妓(けいしや)の自宅(うち)に到るは。需(もとめ)て狐窟(こくつ)に陥(をちいる)が如く芸妓(げいしや)の化物が。品行の賢貞(けんてい)なるに誇るも。土産(おみやげ)の化(ばけ)の皮に猫尾(しつぽ)を露(だ)し。半過(はんくは)先生の化物が万能(まんのう)に達して。百般(ひやくぱん)の事(こと)に流通(るつう)せしも。辰器(とけい)の天保銭に。語(ご)塞(ふさ)がらんとす市虎(いさみ)の職人の化物が急進(きうしん)も。神慮(しんりよ)に托(たく)す験者(げんじや)の虚言を信じて結髪(けつぱつ)したるに興(きよう)醒(さめ)たり。書生の化物が。西洋各国の文明に比して吾那(わがくに)の俗客(ぞくかく)の未開なるを嘲笑(あさけ)り。専(もつぱ)ら学事に勉励(べんれい)する旨を主張しツヽ。裸躰(はだか)で拇(けん)の輸贏(まけかち)を競(あら)そひ賎婦(せんぷ)を誘引(いざなふ)て酒食に耽(ふけ)り。女黌(によかう)の教師(けうし)に懸恋(けんれん)する等の。行ひ正しからざれば。学業も亦(また)進み難(かた)かるべし。麥湯(むぎゆ)舗(みせ)の少女(むすめ)の化物は。孝(かう)の為に媚(こび)を呈(てい)す苦身(くしん)を歎(たん)じて。却(かへつ)て浮薄(ふはく)多情。恥を知らざるを悟らず。商賈(あきんど)の若息(むすこ)の化物の豪富(かねもち)と美貌(いろおとこ)も。忽地(たちまち)に説破(ときやぶ)られて覆(おゝ)ひ隠(かく)すこと能(あた)はず。如斯(かくのごと)き大言(たいげん)を吐ものを東京の通語(つうご)に過(くわ)を云(いふ)とす。蓋(けだ)し其(その)分限(ぶんげん)に過たる謂(いゝ)歟(か)。出過(ですぎ)の過(すぎ)の字(じ)は則(すなはち)。過(あやまつ)と読む。之(これ)事を誤ち。身を錯(あやまつ)の基(もと)ひ。聖人も過たるは猶(なほ)不及(およばざる)がごとしと云(いへ)り。之を慎(つゝし)めや。行(こう)と。言(こと)とは。同じからずんばあるべからざるなり。   
 
妖怪から見る日本人の心

 

妖怪は人間や文化を考えるための「装置」 
先生は妖怪学の第一人者としてご活躍されていらっしゃいます。本日は妖怪の魅力や妖怪をめぐるお話をいろいろとお伺いしたいと思っていますが、そもそも妖怪学とはどういうことを研究する学問なのでしょうか? 
文化人類学の切り口の一つです。文化人類学とは、その地域の生活習慣や家族のあり方、農具、お祭りなどから民俗の特性を研究するものですが、私は妖怪を切り口として、日本人の民俗性を見出そうと思ったのです。 
他にテーマはいくらでもあるのに、なぜ妖怪を選ばれたのですか? 
おそらく多くの方がそうだったと思いますが、子どもの頃から日本の妖怪話や、西洋のフランケンシュタイン、ドラキュラといったものが好きだったんです。それに、妖怪を切り口にした研究はまだ誰もやっていなかったので、これは面白いと。 
最初は「妖怪なんか学問の対象にはならない」といわれたりもしましたが、お陰さまで今では「学」として立派に認知されるようになりました。 
宮崎駿監督の映画もそうですが、今、妖怪を描いた漫画や小説がとてもヒットしています。そういう方達は、先生のご著書に刺激を受けてヒット作品を生み出しているようですね。 
そういう方達を知的に刺激することも、ある意味、私の仕事かもしれません。こうした相乗効果もあって、妖怪や妖怪学への関心が高まっているんだと思います。 
妖怪ブームはまだまだ続きそうですね。 
それにしても、どうして私達はこんなに妖怪に心惹かれるのでしょうか?子どもの頃はもちろんですが、大人になった今でも、妖怪話と聞くとなんとなく耳をそばだててしまいます。妖怪とは一体何者なんでしょうか? 
妖怪は、人間の心の闇、恐怖心から生れたものです。 
例えば暗闇や背後など実際に目に見えないところ、社会に対する不安などが妖怪を生みます。過去の歴史をみても、戦国時代や幕末など、社会情勢が不安定になると必ず妖怪ブームが起こっています。今のブームの背景にも、同じことがいえるのではないでしょうか。 
人間は、身近にある目に見えないもの、未知なるものへの恐怖心をそのままにしておくのは不安なので、それをコントロールするために名前を付けたり、形を与えたり、拝んだりすることで、自分を安心させるのです。 
見えないものに対する不安は、いつの時代も変らないもの。妖怪は文化を探る上でとても大きな「装置」なんです。 
こうして作り出される妖怪は、当然時代や地域、民俗、文化によって違ってきます。 
妖怪は世界中にいるのですか? 
いないところはまずないでしょうね。 
しかし、やはりそれぞれの文化で特徴があって、例えばヨーロッパの妖怪はデビルやサタンをベースにした悪者です。ヨーロッパでは善と悪、神と悪がはっきり区別されているので、神ではない未知なるものは悪となってしまうのです。 
それに対して日本の妖怪は、ご存知のとおり八百万(やおよろず)の神です。菅原道真のように怨霊も祀(まつ)ると神になって、私達を守ってくれる。必ずしも善悪で分けられない、両面性を持た、むしろ人間的な存在といえます。 
時代とともに変る妖怪の姿 
妖怪は時代によっても違うとのことですが、日本ではどのように変遷してきたのですか? 
古くは自然や動物などに対しての畏敬の念から、そういうものをベースにした妖怪が誕生しました。例えば、鬼や天狗、河童がそうです。 
鬼といえば、源頼光が退治した「酒呑童子(しゅてんどうじ)」の話が有名ですよね。 
京都の大江山に住む酒呑童子を頭とする鬼の一党を、毒酒で退治する話ですね。酒呑童子は、病気や災厄をもたらすものを「鬼」として祓(はら)い落とすという陰陽道信仰をベースに生み出されたと考えられますが、もともとは土地神だったという説もあります。 
いずれにしろ、人間が制御できないものに対する畏敬の現れですね。 
それから時代が下がると、人工物(道具)から生れる妖怪が登場します。これは、人々が自然から離れ、文化(人工物)に囲まれた生活を送るようになり、人工物にも魂が宿ると考えられるようになったからです。 
「付喪神絵巻(つくもがみえまき)」や「百鬼夜行絵巻(ひゃっきやぎょうえまき)」などのように、使い捨てにされることに怒った古道具たちが妖怪になってパレードをするという絵巻がたくさん描かれています。 
それまでの鬼や天狗といった恐ろしい姿から、ちょっと愉快な姿になりましたね。 
この頃から、妖怪には物語性やスケールの大きさよりも、種類の多様性が求められるようになってくるんです。ある意味、妖怪の「キャラクター化」といえますね。 
そして、社会がさらに成熟してくると、今度は人間関係が生活の重要な要素となり、四谷怪談のように人間の幽霊、妖怪が主流になります。 
妖怪の姿から、その時代の社会や文化、人々の心が見えてくるのですね。 
1万6,000件の妖怪が集結!データベースを大公開—— 昨年、各地に散らばっている妖怪や怪異を集めたデータベースをインターネット上で公開されましたが、大変な人気のようですね。私も拝見させていただきましたが、ものすごいボリュームで驚きました。 
約1万6,000件収録しています。ジャンル別に多いものから順番にいうと、キツネ、天狗、タヌキ、河童、大蛇、蛇、鬼…と続きますが、キツネだけでも1,546件、天狗が831件、タヌキが575件もあります。「怪異・妖怪伝承データベース」。約1万6,000件の妖怪が収録されており、名前や地域から検索できる。本年度末には、さらに2000件追加する予定です。 
それだけ集めるのはご苦労されたのでは? 
伝承を中心に拾い集めたのですが、地域によって偏りがでないように気を遣いました。どの地域にどんな妖怪がどれだけいるか、数量から何が見えてくるかというのは民俗性を探る上で重要な要素ですから。 
妖怪一つひとつについての説明が簡潔にまとまっていて、何時間でも飽きずに見ていられるくらいでした(笑)。ただ、欲をいえば、それぞれの妖怪の姿形が分る絵画があるともっと面白いなあと…。 
私もそう思っていて、実はすでに準備を進めているところです。今は視覚がものすごく求められる時代ですからね。絵巻物などの絵画をデータベースに組み込んでいって、妖怪の持つあの雰囲気をより伝えられるものにしていきたいと思います。多くの人に見てもらって、妖怪の面白さを再発見してもらえるとうれしいです。   
 
猫の怪異

 

眼を舐める猫  
神田久右衛門町に住まいする大工某は、妻に先立たれ独り暮らしだった。 雄猫を飼って、ことのほか可愛がっていた。稼ぎに出るときはその日一日の食物をあてがい、夕刻には人に土産を持ち帰るように猫の食うものを買って戻る毎日だった。 そうするうち、大工は眼病を患った。 痛みが堪えがたく、医者に診てもらうと、たいそう難病で治しがたいとのこと。日を追って生活が窮迫し、猫に与える魚も求めかねるようになった。 ある夜、猫に向かって、 「これまで久しくおまえを飼って、自分の食い物だって与えてきたけれど、今はこのように眼病に苦しみ、とても治る見込みがない。かわいそうだが、もうおまえを養う手立てもなくなった。なあ、どうしたらいいんだろう」 と、人に物言うように語りかけた。 大工が嘆きながら眠ってしまうと、猫はその病んだ両眼を舌でしきりに舐めた。大工ははっと目覚めて驚いたが、それからは夜となく昼となく猫が両眼を舐めて、すると不思議なことに、眼病は次第に快方へ向かい、ついに片方の眼は治癒した。 猫はその頃から一眼が潰れ、やがてふと家を出て、何処へ行ったのかもう戻らなかった。 大工は猫が出奔した日をその命日として、経を唱え香華を手向けなどしたそうだ。 近辺に住む者が語った話である。
人面猫

 

江戸神田紺屋町二丁目の塩物屋の飼い猫が、子を産んだ。 家人は子猫を見て、ぞっと背筋が震え上がった。子猫の顔が、まったく人の顔だったのだ。 谷中天王寺へ捨てようと、一人の者が出かけたが、その道すがら、どのようにしたのか、子猫はその人を噛み殺した。 安政四年四月二十二日の事件として、公儀に訴えがあったと聞く。
猫の力で生き返れ

 

本所に達磨横町というところがある。そこでの、寛政末年ごろの出来事である。 日雇い稼ぎで暮らす裏長屋住まいの独身男がいたが、秋のころから風邪気味で寝込んで、働くことができないから薬代はもちろんのこと、毎日の食事にもこと欠くようになった。 男はだんだんに重篤となり、家主をはじめ長屋じゅうで手厚く世話した甲斐もなく、ついに十月の初めに身まかった。 そこで長屋の者が集まり、葬式の用具を買いに行く者、菩提寺へ知らせに走る者、台所を受け持つ者などと手分けして、葬送の手はずを進めた。 冬の日はとりわけ短い。いつのまにか暮れ果てて、やがて夜も十時を過ぎるころとなったので、三四人が残って通夜をした。 たまたま近所で飼っている三毛猫がやって来て、通夜の者の膝に乗って気持ちよさげに目を閉じた。それを見た一人が、 「人の話によると、亡者のふところに猫を入れておくと生き返るそうだ。ちょうどいい機会だから、今夜試そうではないか」 と言うと、他の者は、 「それは死人をけがすことだ。よくないぞ」 「迷信だ。つまらん」 などと口々に反対した。 それでも、 「亡者はまだ若い。万が一つにも生き返ったら、もっけの幸いというものだ。やってみよう」 と重ねて言うので、皆しぶしぶ同意して、三毛猫を死人のふところに入れた。 死体が冷たいから、猫はすぐに抜け出てくる。再三押し込んでもその都度逃げ出すので、押し込んだ上を帯でぐるぐる巻きにしたところ大人しくなり、そのまましばらく何事もなかった。 「きっと猫も眠ったのさ」 「そうだな。亡者が生き返るなんて、でたらめに決まってる」 などと語り合っているとき、死者の枕元に何か物音がした。見れば、死人がすっくと立ち上がっている。 一同、あっ!と声をあげ、目を回して気絶した。 そんなところへ、家主が葬送の道具を準備してやって来た。 どうしたわけか、行灯も消えて真っ暗闇だ。提灯の火をかざしてあたりを見れば、通夜の者がことごとく気を失って倒れ、死体はなくなっている。 わけのわからないまま近所の者を呼び集め、気絶した者らに気付け薬を与えて呼び覚ました。 事の次第を訊くに、あまりに馬鹿げた沙汰で、家主も呆れ果てつつ大いに怒ったが、とにもかくにも死骸を元に戻そうと此処かしこ探して、少し先のごみ捨て場の前に倒れているのを見つけた。 この事件の始末はこじれて、裁判にもなろうかという雲行きだった。しかし仲裁に入った人があり、ひたすら家主に詫びて、やっと示談になったという。 「悪い冗談はしないものだ」とある人が語ったのを、ここに書き留めた。
猫みかん

 

駿河国の有渡郡鴨村の言い伝えである。 昔、この村に久太夫という百姓がいて、裏庭にみかんの樹を植え、大切にしていた。 よく実をつけるようにと、毎年たくさんの猫を殺し、死骸を木の根方に埋めて肥やしとした。 文化九年、ことのほか多くみかんが実ったので、喜んだ久太夫は、親族に配ったり村役に贈ったりして、自分の世話が行き届いていたことを自慢した。 ところが、そのみかんの皮を剥いてみると、なんとなく果肉に猫の面影があった。 深く怪しみ恐れて、ただちにその樹を伐らせたが、そのとき樹は、真っ向から久太夫の頭上に倒れこんだ。 打撲の痛みが堪えがたく、数日後に久太夫は死んだ。 その後も家内に凶事がうち続き、ついに一家ことごとく死に絶えた。 家の跡は空地となって、住もうという者は誰もいない。 猫の遺恨が祟りをなしたのか、あるいは、天が非道の殺生を咎めたものか。 これを「猫みかん」と呼んで、今も語り草になっているのだ。
山猫

 

山猫と呼ばれる獣は、今も随分いるようだ。 先年、日向の高千穂から持ってきたという山猫の皮を見た。頭から尻まで一メートル半、尾先までだと二メートル以上、毛色は地が白くて薄墨の斑があり、大鹿の皮のような印象だった。 その後、玖珠郡の万年山の東の谷で猟師が見た山猫の話を聞いたが、その大きさといい斑紋といい、この皮と同じだったそうだ。「恐ろしくて撃てなかった」と猟師は言っていた。 また、わが郡の中嶋村でのこと。 村の背後の「あぜくら」というさして高くも深くもない山の麓で、ある晩、激しく闘う声がした。よく聞くと猫の喧嘩のようだが、その声の大きさが尋常でない。 翌朝行ってみると、あたり一面の草が踏み潰されて、闘いの物凄さを物語っていた。もっとも、こんな出来事はそれ以前にも以後にもなく、ただ一度だけのことだという。 肥後の阿蘇山の東端の「猫嶽」は、もともとは「阿蘇の根の子岳」で、それを「祢の小嶽」と呼んでいたのが、誤って「猫嶽」と言うようになったものらしい。 この山は、三四百年前までは阿蘇のほかの山と同様に峰が丸みを帯びていたが、あるとき山頂から山津波が起こって土石が流れ落ち、山骨が露出して、東国の妙義山にも似たキザギザの山容となった。 阿蘇大宮司家には、阿蘇山麓の狩の儀式の様子を三幅の掛物にした古図がある。そこにはかつての猫嶽の峰が、他の阿蘇の山の峰と同じように描かれている。 さて、猫嶽には今、山猫が棲むという。 熊本の某武士が狩をしてこの山に深く分け入ったとき、巌の上に白の地毛に黒い斑紋のある猫がいるのを見たが、その睨み返す眼光の恐ろしさに、鉄砲を持ちながら撃つことができず、空しく帰った。この猫は大きくはなく、通常の猫とさほど変わらなかったらしい。 筆者の里では昔から、「年を経て大きくなった猫は猫嶽へ行く」と言い伝えている。じっさい、大きくなった古猫は大抵ゆえなく失せる。病気で死ぬ猫も中にはいるが、失踪するものが多い。 体長一メートル半にも達した山猫には、猪も、山犬や狼もかなわないだろう。 どんな古猫も、猪の肉を二三度食えば、たちまち巨大化して力も強くなる。山で猪の屍などを取って食っていれば、極めて大きくなるにちがいない。
土岐山城守の大猫

 

文政元年八月中旬、浦賀奉行の内藤外記の屋敷の台所に、何の獣とも知れないものが出て、飯を喰い、魚などを盗んだ。 また、門番たちを化かし、あるときなど、奥方が納戸にいたところ、奥方の名を呼ぶので、障子を開けて見たけれど何もいない。で、障子を閉めるとまた呼ぶ。気味が悪くなって人を呼んで調べたが、何もなかった。 こういうことが幾度にも及んだので、外記が命じて落としの罠を作った。 ある夜、罠に何か掛かったと近習の者が知らせてきた。罠ごと持ってこさせて、おそらく狸か何かだろうと思って見るが、落としの中が暗くてよくわからない。そこで門番に命じて引き出させると、よく絵に描かれている虎のような大猫で、黄色に黒の縞模様も虎そのものである。 これはまた珍しい猫だというので、つないでおいた。 このことを噂に伝え聞いたのか、土岐山城守よりの使いだという者が来て、 「先年、山城守が領地に旅したおりに道中で貰って、以来、秘蔵していた飼い猫が、世話係の不注意で逃げてしまいました。こちらさまで捕らえておいでとのこと、何とぞお返しくださいますようお願いいたします。山城守は大坂在番中でもあり、係の者も困り果てております。なんとかよろしくお願いいたします」 と、口頭で申し入れた。 外記は、もしや猫を騙しとろうとする者かもしれないと思って、断った。 すると、また使者が来て、 「先ごろ取り逃がした際、親類衆にも捜索の協力をお願いしました。このことに間違いはありません。もし不審に思われるのなら、この親類衆にお問い合わせくださいますように」 と述べて、五人の名前を書付にして持ってきたが、中には阿部備中守などの名前もあったという。 まったく珍事である。 ちなみに、猫の名前は「まみ」という。 その後、返されたのかどうかは知らない。しかし、この話自体は、内藤氏から直接聞いたものである。
赤子をあやす猫

 

湯島六丁目で煎餅屋を営む夫婦があった。 ふだん亭主は屋敷町へ菓子の荷を担いで売り行き、店のほうも客で賑わって、何不自由ない暮らしだった。 十年ほど前から雄猫を飼っており、女房はそれをことのほか可愛がって、夜は寝間に入れて一緒に休むなど小児同様に取り扱い、毎日魚を食べさせ、夏は行水させ、冬は暖めてやり……と心を配ったので、ほかの家の猫にくらべたいそう綺麗に成長した。 亭主もまた、女房の猫への愛情にほだされて、一緒になって可愛がっていた。 しかし去年、夫婦の間に子が生まれた。元気に育って、このごろ少しずつ知恵もついてくると、猫よりわが子を大事にするのは無理からぬことだった。 六月十三日の夜、夫婦と小児と猫が一つ蚊帳に入り、みな熟睡しているかに見えたが、ふと小児が目を覚まして笑みを浮かべ、微かに声をたてた。 すると猫がその枕もとへ寄り、口を開き両の前足を上げて小児をあやす仕草をした。しだいに身ぶりが大きくなって、ついには後足で立ち上がって踊りはじめた。 その音に亭主も目を覚ました。猫の姿に驚き恐れ、手近にあった火吹竹を掴んで滅多打ちにした。 猫は死んでしまったので、死骸を裏の空き地へ捨てに行った。 そのわずかの留守に、女房がにわかに高熱を発して猫の真似……、 「なんでじゃぁ。なんで殺したぁ」 とおめきながら、両手を上げ、かっと口を開き、帰ってきた亭主の喉ぶえに何度も喰いついて、その場は目も当てられぬ惨状となった。
忠臣猫

 

安永から天明にかけてのころの話である。 大阪の農人橋に河内屋惣兵衛という町人の家があった。美人の一人娘がいて、両親はこれを溺愛していた。 惣兵衛のところでは永年一匹のぶち猫を飼ってきたが、その猫が娘に付きまとって片時も離れないようになった。まさに常住坐臥、便所に行くのにも付きまとったから、やがて「あの娘は猫に魅入られている」との噂が立ち、縁談も断られる始末だった。 憂慮した両親は、ぶち猫を随分な遠方に連れて行って捨てたが、猫は間もなく立ち帰ってきた。 「猫は怖いもんやな。親の代からおる猫とはいえ、こうなったら打ち殺すしかないで」 こんな相談をしていたところ、いち早く感づいたのか、猫は行方知れずになった。 そこで「やっぱりただの猫ではなかった」と、家じゅうで祈祷を受け、魔除け札などを貰って貼ると、油断おこたりのないようにして暮らした。 ある夜、惣兵衛は夢を見た。 かのぶち猫が枕元に来て蹲っているので、 「おまえ、逃げたんやなかったんか。なんでまた来たんや」 と尋ねると、猫はこんなことを言った。 「わいが嬢さんに魅入っとるとかで、殺そうとするから、とりあえず隠れたんやがな。そやけど考えてもみ、わいはこの家に先代から飼われて四十年、その大恩があって、なんで主人に仇せなならんのや。嬢さんのそばを離れんかったのは、ほかでもない。この家には年経た妖鼠がおる。そいつが嬢さんに魅入ろうとするんで、近づかんように守っとったんや。 まあ勿論、鼠をやっつけるのは猫の当たり前の仕事なんやが、あの鼠はわけがちがう。そこらの猫が束になってかかってもかなう相手やない。わいにしても、一匹の力では勝てそうにないんや。で、どうしたもんかと考えるに、島の内の河内屋市兵衛方に一匹の虎猫がおる。強い猫や。あいつと組んだら何とかなると思う」 言い終わると、猫の姿はかき消えた。 翌朝妻と話すと、妻も同じ夢を見たという。不思議なことだとは思いながら、「夢なんかを真に受けるべきではない」として、その日は暮れた。 しかし、その夜また猫が来て、 「信用してんか。あの猫さえ借りてきてくれたら、きっとあの鼠を退治したるよって」 と言う夢を見た。 そこでついに島の内まで出かけて、料理屋風の市兵衛の店に立ち寄ってみると、なるほど庭に沿った縁側に見事な虎猫が寝そべっていた。 主人に会って委細を語ると、市兵衛は、 「あの猫は長いこと飼っていますが、おっしゃるような逸物かどうか、……」 と首を傾げたが、そこを頼み込んで貸してもらうことにした。 翌日受け取りにいくと、すでに猫仲間を通じてぶち猫から頼まれていたらしく、虎猫は素直についてきた。 惣兵衛方で虎猫にご馳走していると、ぶち猫もどこからか帰ってきて、身を寄せて何やら相談する様子は、人間の友達同士が話しているかのようだった。 さて、その夜また主人夫婦は夢を見た。 「あさっての晩、決着つけたる。日が暮れたら、わいらを二階に上げてんか」 とぶち猫は言った。 翌々日、二匹の猫に十分ご馳走した後、夜になって二階に上げておいた。 夜十時ごろであろうか、二階で凄まじい物音が起こった。しばらくは家ごと震動する騒ぎが続いたが、十二時ごろにやっとおさまった。 「おまえ行け」「いや、あんたこそ」と言い合ったあげく、主人を先頭に二階へ上がってみると、猫よりでかい大鼠の喉ぶえにぶち猫が食いつき、しかし鼠に頭蓋を噛み砕かれて、ともに死んでいた。 島の内の虎猫は鼠の背に取りついたまま、精根尽き果て瀕死の状態だったが、いろいろ療治して助かった。そこで、厚く礼を述べて市兵衛方に返した。 ぶち猫は、主人一家がその忠義の心に感じて一基の墓を築き、手厚く葬ったという。
猫はしゃべるな

 

寛政七年の春のことだ。 牛込山伏町の何とかいう寺では、猫を飼っていた。 その猫が庭におりた鳩を狙っているのを和尚が見つけて、声をあげて鳩を逃がしてやった。 そのとき、猫が、 「やっ、ザンネン!」 と呟いたのである。 聞いた和尚は驚いた。裏口の方に走っていく猫を取り押さえると、手に小柄(こづか)をかざし、 「おまえ、……」 「………」 「今、しゃべったな!」 「にゃあ?」 「ごまかすな。猫のくせにものを言うとは、恐ろしいやつ。さだめし、化けて人をたぶらかすのであろう。さあ、人語を話すなら正直に申せ。さもないと、坊主ながら、殺生戒を破ってでも殺してしまうぞ」 猫は観念したとみえて、こう応えた。 「ものを言う猫なんて、珍しくもない。十年以上生きた猫なら、みんなものを言うぞ。それから十四五年も過ぎたら神変も会得できる。もっとも、そこまで生きる猫は、まずいない」 「そうなのか……。ならば、おまえがものを言うのは無理もない。しかし、おまえはまだ十歳になっていないではないか」 「狐と交わって生まれた猫は、十年に満たなくてもものを言うのだよ」 和尚はしばらく考えた。それから、 「今日まで飼ってきたおまえを殺すのは、やはり忍びない。おまえがものを言ったのを、ほかに聞いた者はいないから、わしが黙っていればすむことだ。これまでどおり、この寺にいるがよい」 と言って、放してやった。 猫は三拝してその場を去った。 そのまま何処へ行ったか、行方知れずになったそうだ。
猫が憑いた

 

母親に化けた猫を殺した話を聞いて、ある人がこんなことを言った。 重大な物事を取り計らうときには、心を静め、あらゆる角度から考えた上で行わなければならない。というのが、猫が人に憑くということもあるようなのだ。 駒込あたりに、ある同心と母親が住んでいた。 息子の同心が昼寝をしていると、イワシ売りが表を通りかかった。母親が聞きつけて呼び込み、片手に銭を持って掛け合った。 「このイワシ残らず買うから、値段をまけなされ」 しかし、イワシ売りは銭の高を見て、 「そればかりで残らず売るなんて、とんでもない。とてもじゃないが、まけるわけにいきませんぜ」 と嘲笑した。 にわかに母親は激怒した。 「いいや、残らず買うのじゃ!」 とわめきざま顔面は猫となり、口は耳まで裂けて、振り上げた手の恐ろしさは言いようもなかった。 イワシ売りはキャッ!と叫んで荷物を投げ捨て、一目散に逃げ去った。 その物音に息子が目を覚まして振り向くと、母の姿はまったくもって猫である。 「さてはわが母、この畜生めに殺されたか。無念」と、枕もとの刀を取ってバッサリ斬り殺した。 騒ぎを聞いて、近所の者が駆けつけた。 見るに、斬られている死骸は猫ではなく、同心の母親に相違ない。 そこへイワシ売りが荷物を取りに戻ってきた。この者も、 「あれは間違いなく猫だった」 と言うが、なにしろ死骸は顔面も四肢も母親に違いないので、やむをえず息子は自害したという。 これは猫が憑いたという例らしい。軽率なことをしてはならないということだ。
猫が化けた

 

古くより民間には、年経て妖怪となった猫が老婆などを喰い殺し、自分が老婆に化けていた、といったことが言い伝えられている。これもそういう話だ。 年老いた母親をもつ男がいた。老婆の振舞いは狂暴で、むごく人を痛めつけたりするのがしょっちゅうだったが、男にとっては母親、どうにも処置なく日を送っていた。 それがあるとき、ふと猫の姿をあらわした。 まぎれもない化け物である。「さては妖猫、わが母を喰い殺したな!」と、男は一刀のもとに斬り殺した。 ところが、殺した猫の死骸が、母親の姿に戻ってしまった。 男は驚愕し、 「たしかに猫だった。だから殺したのだが、このように母の姿に戻ってしまった。いまさら仕方がない。しなくてもいいことをして、天にも地にも許されない大罪を犯してしまった」 と、親しい人を呼んで話した。 「このうえは切腹するので、見届けていただきたい」 友人はおしとどめた。 「死ぬのは簡単だが、まあしばらく待ちたまえ。猫や狐が人に化けて年月を経ると、たとえ死んでもすぐには本当の形をあらわさないものだ」 そこで思いとどまって夜まで待つと、だんだんと正体があらわれ、母と見えたのは恐ろしい古猫の死骸であった。 あわてて切腹したら、犬死となるところだったのである。
猫多羅天女

 

越後の弥彦神社の末社に、「猫多羅天女の毛髪」と呼ばれるものがある。その由来は次のようなことだ。 佐渡の雑太郡小沢というところに、ひとりの老婆がいた。 ある夏の日の夕刻、老婆が近くの山に上って涼んでいると、どこからともなく一匹の老猫が来た。 老婆と猫はともに遊んだが、そのとき猫は砂上に寝転がって、さまざまな妖しい仕草をした。老婆も浮かれて砂上に寝転び、猫の動作を真似て戯れた。そうするうち、何となく全身がすっきりし、不思議な快感が湧いてきた。 翌晩も山に行って涼み、するとまた猫が来て、ともに狂い戯れた。そのようにして数日たつと、自然に体が軽く、飛行自在になった。 老婆は通力を得て、天を飛び廻り地を走った。かっと見開いた眼が鋭く光り、禿頭となって身に獣毛を生じた。その姿と威勢の凄まじさに、見る人はみな肝を潰して卒倒した。 やがて老婆は、山河も崩れんばかりの雷鳴を轟かせて虚空に去ると、今度は対岸の越後弥彦山に留まり、何日も霊威をふるって大雨を降らせた。 困り果てた里人は、「猫多羅天女」と崇めて、これを鎮めたのである。 以来、猫多羅天女は弥彦山にあって、年に一度佐渡に渡る。その日は激しく雷鳴し、国中が驚愕するのだという。
芝居に猫また

 

寛政八年春、中村座が上演した「京鹿子娘道成寺」が大評判で、芝居好きもそうでない者も、皆こぞって見物に押しかけた。 そんななか、本所割下水に住まいする服部市郎左衛門という人が五六人連れで、以前に贔屓にしていた芝居茶屋に現れた。 「時節柄、ずっと芝居見物を遠慮していたが、このたびの大評判を聞くに、どうしても見たくなったので、久しぶりにやって参った。いつものように料理の用意を頼む」 このように申しつけて芝居を見物し、そのあと茶屋でゆっくり酒宴をもよおした。 料理のうち、ヒラメのあんかけがことのほか気に入ったと、結局ヒラメを三枚たいらげた市郎左衛門は、 「代金は、いつもどおり屋敷に取りに来てくれ」 と言い置いて帰った。 後日、茶屋の者が屋敷へ行って驚いた。市郎左衛門は七年前に死んでいた。 そういえば、大ヒラメを三枚とも頭も骨も少しも残さず食べていたが、あれからして尋常ではない。服部の屋敷には以前から猫またの噂がある。今度のことも、そいつの仕業ではないか。 あれこれ考えても後のまつりで、茶屋は三両あまりを食いたおされ、丸損をこうむったのだった。
猫を気の済むように

 

ある日のこと、大阪の町の裏長屋に、魚売りが魚を担ってやって来た。 あの家この家と魚を持っていく隙に、荷を下ろしておいた家の猫が、干魚を一枚盗んだ。 半分ほど食ったところで魚売りが戻って見つけ、そこの女房に苦情を言った。 「こいつ、おたくの飼猫やろ。商売もん食われたんやから、なんとかしてんか。値は負けるよって、この魚を買うて、猫にやったらどうや」 ところが、女房は図々しい女で、 「猫が勝手に魚を食ったんやろ。うちは知りまへんで。猫を気の済むようにしたらええでっしゃろ」 と応えるや、家に入って障子をぴしゃりと閉めてしまった。 魚売りはかっとなった。「そんなら猫を気の済むようにしたるわい」と、ただちに猫を捕らえ、長屋の共同便所の糞壺に放り込んだ。 猫は糞壺から躍り出て走り帰ると、障子の破れから中に飛び込んだので、家の内はいたるところ糞にまみれ、家人は大慌てした。 やくたいもない腹いせとは、まあ、こんなことを言うのだろう。
猫の屍骸を喰う獣

 

安永年間のこと、山城の国の八幡あたりの野に、猫の死んだのを喰う獣がいた。 大きな獣ではなく、だいたい猫くらいの大きさだが、猫とはちがう。犬でもない。 土地の者が近づいても、人を恐れる様子はなかった。 猫を喰い終わると淀の方角に向かい、途中、たくさんの犬の群れと行き会った。犬どもは獣に襲いかかったが、逆に獣のひと咬みで皆即死した。 人の言うには、「シイ」という獣ではないかということである。 わが家の下僕の貞助が八幡の生まれで、このことを見たそうだ。
告げ猫

 

諸国を巡る修行の僧が語った。 上野ノ国に、源頼朝の時代から生きている猫だという、大きさ馬ぐらいの怪しい獣がいて、十重二十重に囲って、布団を敷きつめた上に座している。 土地の者は、これを産神(うぶすな)のごとく崇めて朝夕に膳を供え、年中のことを問うて吉凶を知る。例えば、米の相場がいつごろ上がるか、いつごろ下がるかなどと委しく聞いて、それに従い物事をなすのだ。
猫怪

 

宝井其角の「京町の猫通ひけり揚屋町」という句は世に広く知られているが、猫と吉原といえば、ある友人からこんな話を聞いた。 正保の頃、尾張屋とかいう遊郭へ一人の客人が来て、女郎を三日にわたり揚げづめにして遊んだ。 三日目、さすがにくたびれた客がうたた寝していたところに、部屋をあけていた女郎が戻ってくると、客の様子がなんだか変で、昨日までと違って頬いちめんが毛深い。驚きながらよく見るに、猫の化けたのに間違いなかった。 襟の内側に、赤い絹布の首輪をしているのも見えた。「お局おあやの猫」と書かれた札も付けてある。 女郎はそっと部屋を出て、皆に知らせた。店じゅうで大騒ぎして行ってみると、早くも危険を察したか、化け猫の姿はなかった。 このことは世間で評判となったが、聞くところによれば、実際に江戸城のおあやという御女中の飼い猫が、そのころ行方知れずになっていたという。 わが藩が秋田に転封となって間もないころ、藩境に近い院内のあたりで猫が怪しい術をなしたと、横堀村の岡山某の記録にある。 藩家老梅津正景の日記にも、大和田近江の話として、御小人衆の家の化け猫のことを記している。 また、小貫某の先祖においては、飼い猫が奥方を喰い殺し、その衣装を着て奥方になりすました。 あるとき、うたた寝している奥方が寝返りうって仰向きになると、気持ちよさそうな寝顔はまぎれもない猫だった。 近ごろ猫の姿が見えないので不審に思っていた主人は、とっさに事態を悟って抜き打ちに切りつけた。 猫は障子を破って逃げたものの、刀に血糊が付いていたので辺りをさがすと、裏庭で死骸が見つかった。奥方の衣装は、障子をくぐるときにそのまま脱げていた。 以来、小貫家では猫を飼わないそうだ。
鳩寺・猫寺

 

駿河ノ国の横内というところにある慈元寺の僧は、誦経のときを除いて、一日じゅう木彫りの鳩を作っていた。 「鳩ばかり彫って、ほかの鳥を作らないのは、どういうわけですか」 と人が問うと、 「いい加減な気持ちでやるのではない。鳩の形を千あまりも作れば、その中の一つが飛行することがあると聞いたから、それを願っているのだ」 と答えて、わずかな暇も惜しんで彫り続けた。 最初に作ったのが鳩の杖で、以来おびただしく作って軒先に並べたので、人はそこをもっぱら「鳩寺」と呼んだ。 この僧は逸物の猫を七八匹も飼って、朝に夕に芸を仕込んでいた。 いろいろな着物を着させ、紅の布を頭にかぶらせて、「踊れ踊れ」と囃したて、猫どもに踊らせて楽しんでいたので、人はまたそこを「猫寺」とも呼んだ。
猫が踊って馬に乗る

 

奥州の信夫文知摺(しのぶもじずり)の石のことは、人々のよく知るところだが、そのあたりに玉笹立左衛門という、武勇をもって知られる郷士がいた。 立左衛門は一頭の名馬を持っていて、これをはなはだ愛育していた。 ある日、馬飼の男が朝早く起きて見ると、その馬が首を飼い葉桶に垂れて、大汗を流し喘いでいた。まるで遠路を走った直後のようだった。馬飼は驚き、誰かが馬を盗んで夜に遠出したのではないかと疑った。 翌朝も馬は、前日と同じように汗をかいて喘いでいた。いよいよ怪しんだ馬飼は、その夜、厩の内に身を伏せて様子をうかがった。 するとそこへ、玉笹家で飼っている黒猫が来た。猫はニャーゴと吠えてひと踊りすると、たちまち黒い衣冠を身につけた若い男に変じた。 男は馬に鞍を置いて乗って出た。屋敷の門はたいそう高い。しかし鞭を当てると馬は躍り上がり、門を跳ね越えて出ていった。 馬は暁になって帰った。男は馬を下り、鞍を解き、またニャーゴと吠え踊って元の黒猫に戻った。 馬飼の驚きはひととおりでなかったが、人には語らず、またその夜も厩に隠れて、今度は馬が出ると後をつけた。 少し降った雪に馬の足跡が続く。それを辿っていくと、一つの古い墓の前に至った。足跡はそこで途絶えていた。どこへ行ったのか姿も見えない。仕方なくその夜は帰った。 次の夜は、宵の口から例の墓所に行って待ち伏せた。 辻堂の天井に隠れて様子を窺っていると、夜半となるころ、黒衣の男が馬に乗って来た。辻堂の柱に馬を繋ぎ、墓の石塔をのけて穴の中に入っていく。穴の中からは、数人の笑い語る声が聞こえてきた。 しばらくすると男は穴から現れ、帰ろうとするらしかった。数人が送りに出てきて、その中の年とった者が、 「立左衛門一家の名を記した帳面は、どこに置いた」 と言うと、男が応えた。 「すでに漬物桶の下に納めてある。心配ご無用」 「きっと用心して、露見しないようにしろ。あれが洩れたら、我らは皆殺しだ。ところで、最近出生した幼子がいたな。名前がついたら、いちはやく帳面に記すのだ。くれぐれも忘れるな」 暁におよんで馬飼は屋敷に帰り、見聞きしたことを主人に告げた。 驚いた立左衛門は、黒猫が油断している隙に捕らえて、しっかりと柱に縛りつけた。 漬物桶の周辺を探すと、はたして、そこの穴の中に書面が隠されていた。家内の男女の名をつぶさに記してある。幼子は生まれてひと月、まだ名を付けてないので載っていなかった。 そこでまず猫を引き出し、棒で殴り殺した。次に家中の侍数十人をつれて例の墓所に赴いた。墓を壊しあばくと、数十の猫が群がり出てきたので、それをことごとく殺し尽くして帰った。 その後は、なんの怪異もなくなったということだ。
猫婆

 

 本所割下水に住まいする諏訪源太夫の母は、齢七十にして気性あくまで激しく、片意地な婆であった。 つねに猫を深く愛し、数十匹を飼っていて、猫が死んでも死骸を棄てず、大事に長持に入れ置いた。 月々の猫の命日には魚を買って料理し、その長持に入れる。翌日に見ると、すべて喰い尽くしているのだった。 「本所の猫婆」と呼ばれ、本所回向院前で繁盛する遊女屋の金猫・銀猫を凌ぐほどの評判だったが、宝暦十二年八月の大嵐の夜、婆も飼猫も、何処へともなく消え失せた。 家の者が長持を開けてみたら、中に猫の死骸は一つとしてなく、まるで空っぽだった。
津山城の猫魔

 

美作国の津山の城には、猫魔が多く集まってくる。 それが夜、宿直(とのい)の者の刀の柄をひどく喰い散らす。 また、矢倉から黒煙が立つので驚いて駆けつけてみると、まるで火の気がない。これも猫魔の仕業である。 城では年に二度、猫魔狩りをする。 体長1メートル半に近い猫魔が、四五十匹ほども獲れるそうだ。
猫踊りの夜

 

淀の城下にある清養院という寺の住職が、下痢を患い、便所通いをしていたときのことだ。 晩になって便所に行こうとすると、縁側のくぐり戸を叩いて、 「これ、これ」 と呼ぶ声が聞こえる。 すると、火燵(こたつ)の上にいた、もう七八年も寺で飼っている猫が走ってきて、戸の掛け金を外した。そして、外から大猫を一匹入れると、また掛け金をかけ、火燵の上に伴った。 「今夜、納屋町で猫踊りの会がある。一緒に行こう思て、誘いにきたんや」 「それがな、ここんとこ和尚さんの腹具合が悪い。おれ、看病せなあかんから……」 「しゃあないなあ。ほなら、手拭い貸してんか」 「手拭いは和尚さんのやがな。使いはるから、勝手に貸されへんよ」 「あかんか」 「うん。すまんけどなぁ」 話が終わると大猫を送り帰し、元どおり掛け金をかけた。 住職は、一部始終を見たうえで、近寄って猫を撫でてやり、 「わしの心配なら、せんでもかまわん。早くおまえも踊りに行くがよい。手拭いもやるぞ」 と言いきかせた。 猫はその場を走り去り、再び戻らなかったという。
病床に猫来たる

 

江戸中橋牧町、中島五兵衛という者のところでの出来事である。 召し使っていた五十歳あまりの下女が重病になったとき、どこからともなく老いぼれた猫がやってきて、枕元に寄り添ってすわった。 人々が不吉に思って、叩いて追い払おうとしても、どうしてもその場を離れなかったが、病人が死ぬとともに姿を消してしまった。
よもぎ猫

 

宝永のころの話。 金沢の三社町に住まいする某大名の家来の下女が懐妊した。だれの子かと訊ねたところ、 「御嫡子弥兵衛様の御子でございます」 と言う。 そこで弥兵衛を問いただしたが、全く身に覚えがないとのことだった。しかし下女は、 「誓って弥兵衛様の御子にまちがいありません」 と言い張った。 下女の親は野町の住人だったので、ひとまずは親元に帰すことにした。 すると、屋敷で飼っていたよもぎ猫が、どういうわけかいっしょに野町に行って棲みついた。 やがて臨月にいたり安産したが、生まれたのは猫三匹であった。これはもう、よもぎ猫が弥兵衛に化けて下女に通じたにちがいなかった。 主人は、生まれた猫を籠に入れて取り寄せ見物した。また、出入りの人々にも見せたので自分も見たと、これは桶屋弥兵衛が語ったことである。
猫の食い残し

 

肥前の長崎は外国船が寄港する町で、目もあやな織物、糸類、薬種、そのほか種々の珍しい品々が渡来する様子は、年々とどまることを知らない。京都・大阪・堺の商人がここに集まって交易をなし、それによって町の繁華は大阪をもしのぎ、京都に負けないほどだ。 そして、この地の丸山というところは、昔の江口・神崎などに等しい賑わいの遊女の町となっている。 ある夕暮れ、歳のころ十六七の若衆が丸山に現れた。上品な身なりで腰刀にも金銀をちりばめ、編笠を深々とかぶりながらも、垣間見える容色はたとえようもなく美しい。下僕は連れず、ただ独り見物する様子で通りを行く。 行き会う人はみな目を奪われ、「こんなにも優美な人が、ほんとにこの世にいるものなのか」と訝しむまでに賛嘆した。 そんななか、左馬の介とかいう遊女が、この若衆に一目惚れした。 さっそく一筆書いて、お付きの童女に持たせて渡すと、そこは相手も遊郭に来た者だから、拒む理由もない。店に上がって情を交わす次第となった。 錦のしとねの上に芳しい香をくゆらせ、桜の花と海棠の花を並べたような二人のさまは、この世に比類ない美しさに見えた。 むろんのこと、店の主人も種々の饗応につとめたが、この若衆は、精進物には目もくれず、なまの魚や鳥の料理ばかりをがつがつと平らげた。 「あれほどの美少年が、意外なふるまいをするものだ」 と、物陰から見た人は呟いたものだった。 翌朝になって帰ろうとするとき、若衆は金子五両を当座の金として支払ったので、主人は喜んで丁重に見送りした。 遊女左馬の介はまたの日を約束しつつ、別れの心残りを嘆いたが、男が帰っていく先を知らなかった。 その後、かの若衆が通ってくること二十度ばかり、文字を書かせればみごとな手跡、歌にも優れ、何かにつけて風雅な人柄であった。 折にふれて居所を問うと、 「きわめて人目を避けねばならぬ身なので、明かせないのだ」 などと言って顔を赤らめるので、 「問われるのを煩わしいとお思いのようだ。どんな高貴な方の御子なんだろうか。それとも、もしかしたら御城主などの児小姓をおつとめなのか」 などと言い合った。 あるとき店の者に命じて、ひそかに跡をつけさせたところ、若衆は長崎のとある町家に入っていった。 その家の亭主に会って、若衆のことを話し、 「こちらに、このような御子息がいらっしゃるか。または上方の客人で、そうした方がいらっしゃるか」 と尋ねると、思いもよらない様子で、 「なんでまた、そんなことをお尋ねか」 と聞き返す。そこで、これまでのいきさつを詳しく述べたところ、亭主は黙然として頷いた。 「それならば、思い当たることがあります。この家に、飼って久しい猫がおりまして、世間の人はその猫が化けると申しますが、私はまだこの目で見たことがありませんでした。きっと、あいつの仕業でしょう。このままにしてはおけません」 亭主は、わざと優しい声で猫を呼んだ。しかし早くも感づいたものか、どこかへ姿をくらましていた。 近所・町内を狩り立てて捜し、三町ばかり離れた家の板敷きの下に隠れているのを見つけて、すさまじく猛って暴れるのを、大勢で突き殺した。 この噂は、たちまち国中に知れ渡った。 左馬の介は「猫の食い残し」と綽名され、遊女の面目を大いに失った。
猫・修行中

 

高橋司が物語ったことである。 天保七年七月十四日の夜のこと、便所に行って窓から外の荒畑を何気なく見ていると、猫が一匹、ゆっくり歩いて現れた。やがてそこへ、狐が一匹来た。 しばらく猫と狐は並んでいたが、ふと狐が両前足を上げて乳のあたりとおぼしきところに折ると、背を少し伸ばし、後足だけでちょこちょこと歩いた。 猫はその様子をまねて、狐の後をついて歩いた。 十数メートルある畑を、二匹はまっすぐに歩いていった。端まで行くと、帰りは普通に四つ足でのそのそと戻ってきた。これを五六十度も繰り返しただろうか。 月の明かりで垣根の影が、畑に糸のようにのびている。その筋をたどって歩くのだった。 そのうち高橋が咳をしてしまったので、二匹は驚いて飛ぶように逃げ去った。 まったくこれは、猫が狐に教えられて、立って歩く稽古をしていたのである。 ほかにもいろいろな術を伝授されるのに違いない。 
 
狸・狢(むじな)の怪異  

 

宙返り  
上総の田舎で、秋のころ、縄やむしろなどに使う藁を取った後の屑藁が、百姓家の庭先に敷いてあった。 この藁が柔らかで気持ちがいいものだから、そこらの子供が毎日集まって、でんぐり返りや宙返りを競って遊んでいた。 その日も、長太郎という子供が数人の友達と、いつものようにとんぼ返りをして夢中で遊んでいたのだが、中にひとり、着物を頭から被って顔を隠し、くるりくるりと、ひたすら宙返りを続ける子がいた。 初め、仲間うちの者だと思って気にも留めなかった子供たちも、いつまでも物を言わず、顔も見えないままなので、 「誰じゃ」「誰じゃ」 と口々にとがめた。 それでも何も言わない。ふざけてわざとしていると思って、被った袷(あわせ)の着物を剥ぎ取ろうとすると、 「キキッ!」 と叫んで離さない。袖から手を入れて腕を掴もうとしたら、毛がむくむくと生えていた。 「化けものだぁ」 子供の驚き騒ぐ声に、大人どもが棒など持って駆けつけた。 これを見て、袷を被ったまま近くの林の中に這い込むのを、 「それっ、逃がすな」 と追いかけると、ついには袷を打ち棄て、大きな狢(むじな)の姿を現して、まっしぐらに逃げていった。 後に長太郎は堀込あたりに奉公に出て、そのとき直接語った話である。実直で偽りを言うような者ではないから、事実に違いない。
形見

 

豊後の岡藩、中川家の家臣に、苗字は忘れたのだが、なんとか頼母という、武勇の誉れ高い武士がいた。 岡の城下には化物屋敷があって、かれこれ十四五年も住む人がなかったのを、この人が『拝領して住居いたしたい』と願い出て、ただちに許された。 山を背にし、南面に川が流れる風情ある住まいである。人夫を入れて好みの趣に修理して、まずは頼母と家来数人だけが引き移り、様子をうかがうことにした。 いまだ障子襖はそろわず、家具調度もなかったから、座敷すべてが一目で見渡される。日が落ちてから、台所の大囲炉裏で木を多く焚き、小豆粥を煮て家来に食わせ、頼母自身も食っていたら、がらりと雨戸を開けて、背の高さ二メートル半ばかりの大坊主が入ってきた。 どうするつもりかと、家来たちともども声を立てず、何気ないふうで見ていると、そいつは囲炉裏の傍らへ来てどっかり坐りこんだ。 頼母は、『これが噂の化物だな。いったい何ものが人に化けて来たのだろう』と思ったから、 「坊主は何処の者か。当屋敷は、この頼母が拝領して移り住むことになった。藩主の命であるから、もはやそれがしの屋敷に相違ない。そのほうに異存がなければ、われらはまったく構わないから、退屈なときはいつでも話に来るがよい。相手になってやる。」 と言うと、意外にも坊主は居ずまいを正し、手をついて言った。 「恐れ入ったでござる。」 大いに敬う様子なので、頼母は気をよくして、さらに言った。 「近々、女房どもも連れてくる。けっして害をなしてはならんぞ。」 「わっしは、誓って不始末をいたさぬでござる。なにとぞ御慈悲にあずかって、この地で生涯を送りたく……」 「ようわかった。心配はいらぬ。」 坊主がいかにも嬉しそうに笑ったので、 「毎晩、話に来いよ。」 と言ってやると、 「ありがたく存じましてござる。」 こう応えて、その夜は帰っていった。 翌日、朋輩に化物屋敷の住み心地を尋ねられても、 「何も変わったことはなかった。」 と返答し、家来にも口止めしておいた。 そして、もう化物とは話がついたから問題ないと、妻子を呼び迎えることとした。こんな人の妻となるぐらいだから、妻女も心は豪の者であった。 その夜、坊主はまた来て、さまざまな古事を語ってくれたが、古戦場の物語などは、本当にその場にいて目のあたりに見聞するようで、飽きることがなかった。 親しく語る夜が度重なり、しだいに座頭などが夜伽するかのような習慣になった。来ない夜には呼びにやりたい気持ちにさえなったが、どこから来るとも知れず、またそのことは互いに問わず語らずで済ましていた。 こんな得体の知れない者を出入りさせて平気な夫妻の心こそ、不敵そのものであった。後には、夏冬の衣服をみな妻女が贈るほど懇意になっていった。 そうして三年ばかり過ぎたが、ある夜、坊主はいつもより暗い表情で、ときおり涙ぐむ様子だったので、頼母は心配した。 「なぜに今宵は、そんなに沈んでいるのだ。」 「はい。不意にこちらへお邪魔した夜から今日まで、お世話になったありがたさは、なかなか言葉になりませんが、じつは、わっしはもはや命数尽きて、一両日うちに死ぬのでござる。わっしには子孫が多く、裏の山で暮らしておりまする。わっしが死んだあとも、あの者たちを変わらすよろしくお願い申し上げまする。まことに、こんな怪しい姿にも怖じず、ご夫妻でお恵みいただいた御心は、報じても報じがたい。お名残惜しく存じましてござる。」 突然の話に、夫婦ともども驚き、涙にくれているとき、坊主が立ち上がって、 「子孫の者どもをお目見えいたさせたく、庭まで呼び寄せたでござる。」 さらりと障子を開くと、月影のもとに数十匹の狸が、頭を垂れてかしこまっていた。坊主が、 「彼らのこと、ひとえに頼み上げまする。」 と言い、頼母が声高に、 「気遣いは無用だ。我らが目をかけてやるとも。」 と応えると、みな嬉しげに山の方へ帰っていった。 坊主も帰ろうとして、ふと振り返り、 「大事なことを忘れておりました。わっしが大事に持ち伝えてきた刀を、是非ともあなたさまに差し上げたく存じましてござる。」 と言うと、とぼとぼと去っていった。 二日が過ぎて、頼母が裏の山へ行ってみると、幾星霜を経たとも知れぬ狸が、毛などはみな抜けた老いさらばえた姿で死んでいた。 死骸の傍らに竹の皮に包んだ長いものがあった。坊主が『是非贈りたい』と言っていた刀である。抜いてみるに、刃の光さんさんとして今新たに砥ぎだしたかのようで、まことに無類の宝剣ではないか。 頼母がそれを、つぶさに経緯を書き記した上で藩主に献上したところ、御感は並々でなかった。今その刀は、中川家の重宝となっている。  
腹鼓

 

「狸の腹鼓」ということは、慈鎮和尚の歌にも見える。昔からあることだ。だが、狸はなぜ腹鼓を打つのだろうか。人を惑わすためなのか、あるいは、ただ自分の楽しみで鼓を打っているのか。 こんな議論をしていたところ、ある人が言った。 「いやいや、そのどちらでもありません。私は以前、箱根の最乗寺に泊まったときに、狸の鼓打ちというのをこの目で見たので知っています。あれは狸が一匹でするのではなく、二匹でやります。寺の者が『滑稽この上ないものですから、声を立てないよう息を忍んでご覧なさい』と言うので、月の明るい夜に戸の隙間からそっと窺っていました。 やがて庭に狸が二匹おどり出て、あちらにこちらにと戯れ遊びます。これは雌雄の狸で、交合しようとして付いたり離れたり戯れているわけです。二匹は飛びちがうとき腹と腹を打ち合わせます。それがポンと鼓のように聞こえまして、何度も何度も打ち合わせるのを離れたところで聞けば、まさに鼓打ちというべき音の具合なのです。ですから、皆さんがおっしゃるようなことではありません」  
桜の馬場

 

最近のことだという。 本郷、桜の馬場界隈のある店に、長く雇われている丁稚あがりの若い男がいた。 同じ店に、田舎から出てきて働いている小女がいて、この二人、いつのころからか仲よくなって、夫婦として一生添い遂げようとかたく約束していた。 ところが、女の実家から突然、こちらで婿をとるからと、店に暇を願い出てきた。 二人は驚いて、『これでは、われわれの結婚の約束もとうてい果たせない』と、心中の決心をし、来世のことも契るなど、毎晩桜の馬場で忍びあって相談した。 やがて、主人からも暇を出す期日などを言ってきた。もはや、日延べはできない。『明日の夜、桜の馬場で首を縊ろう』と決めた。 翌日、男は店の用事で外出することになったので、 「何時ごろ、桜の馬場で待ち合わせよう」 と女に告げて出かけた。 用事をすませた男が、暮れ過ぎに馬場へ来てみると、女はもう来ている。 いよいよと覚悟を定め、用意の紐を桜に結びつけ、おのおの首に巻いて、一緒に木から飛び降りると、女はあっけなく縊れ死んだが、男のほうは、首が締まったけれど、地面に足がとどいたので、死ねなかった。 そこへまた、同じ女がやってきた。見ると、男が死にきれずにもがいているし、隣で自分そっくりの女が縊死している。驚いて、ぎゃあ!と叫んだ。 近隣の人が集まってきて、何はともあれ男をおろして介抱すると、息を吹き返した。そこで男女に委細を尋ねたところ、今はもうつつみ隠すことなく話したので、事情はすべて知られた。 『それでは、縊死している女は何者?』ということになったが、そのうち、死体の総身に毛が生え出てきて、まぎれもない狸の姿になったのである。 人々が、二人の主人にことのしだいを知らせると、主人は、 「二人とも、何年間もまじめに勤めてくれた者だ。死を覚悟するとは、よくよく思いつめたのだろう。どうして死んだりすることがあろうか」 と言って、親元に話して、二人を夫婦にしてやった。 それにしても、かの狸は、なぜ縊死したのだろう。 そのわけはわからないけれども、二人がたびたび桜の馬場で逢い引きし、心中の約束をしたのを聞いて、騙してからかおうという気になったのではないか。ただ、自分が死ぬことになるとまでは、思い及ばなかったのだ。  
書画

 

寛政十年、小高助久が甲州に公用で出張したとき、黒沢村の庄屋珍蔵のもとで、狸がかいたという書画を見た。 いわれを尋ねたところ、それらはある僧がかいたもので、その僧は狸だったのだという。 彼が狸だということは、みんなが知っていたし、みずからも隠そうとはしていなかった。 僧として寄付をつのり、鎌倉の建長寺の畳替えを実現したが、その建長寺でも、「彼は人類にあらず」と言っていた。 人に災いを及ぼすことなく長年あったが、ある年、大磯宿の近辺で、犬に喰い殺されてしまったそうだ。  
風の狸

 

ある人が語った。 中国の『捜神記』に「風狸」の記事があるが、じつは日本にも風狸がいる。その名のとおり狸の類らしい。 まことに妖しい異獣である。野に出て、どのようにして見つけるのか知らないが、ある種の不思議な草を採り、樹の枝にとまっている鳥を狙ってそれをかざすと、鳥はたちまち枝から落ちる。その鳥を捕って餌にしている。 その草が何なのか、だれも知らない。 風狸が鳥を捕っているところを見つけて追い散らし、持っていた草を奪って樹上にいるものに向けると、鳥であろうが獣であろうが人であろうが、皆ころころと転落するのだという。  

 

文化五年のこと、駿河国安倍郡府中研屋町に、二人の供を連れた旅の僧が一夜の宿をとった。 翌日には弥勒町に行き、そこに二日逗留して、多くの人に「夢想の灸」と称する灸治を施した。謝金は銭十二文を限りとした。 僧はその後、さらに西に向かうと言って安倍川を越した。 丸子の佐渡というところに至ったとき、突然横合いから猛犬が走り出て、駕籠かきの足元に跳びついた。 僧はひどく恐れ慌て、駕籠から転げ落ちた。 あっ!と叫んで狸になると、向敷地村の大窪山徳願寺の山中に逃げ込んだ。二人の供も、いつの間に逃げたか、見えなくなっていた。 灸治を受けた人は、あるいは聾者となり、あるいは吃りになるなどして、病気が治った者は一人としてなかったという。  
狸の腹

 

中国の南北朝時代、宋の元嘉十九年に、長山の留元寂という者が、一匹の狸を捕獲した。 この狸の腹を割くと、腹の中にまた一匹の狸がいた。 その狸の腹を破ると、またまた一匹の狸がいた。 三匹の狸の体を比べてみると、大きさがみな同じだった。 元寂は少しも怪異と思わず、皮を剥いで展ばし、家の裏庭に張っておいた。肉は煮て食った。 その夜、大勢の狸がやって来て、干された皮を囲んで、夜どおし声高く吠え叫んだ。 朝になって、裏庭へ行ってみると、皮は狸どもに持ち去られていた。 こんなことがあったにもかかわらず、元寂の身には何の災いも起こらなかった。  
坊主

 

東近江の酒人(さこうど)村での出来事だ。 この村の仏堂は山の奥にあって、堂の坊主が里に出ると、留守に狸が来て坊主の食い物を盗み食いするのが常だった。 あるとき坊主は、比叡山の横川で餅の形をした石を一つ拾い、持ち帰って囲炉裏で焼いて、日の暮れるのを待った。 思ったとおり狸が来た。 いつも食い物の置いてある場所を探るところに、坊主が声をかけて、「これよりのち盗みをしないなら、土産をやるぞ」と、焼け石を火箸で挟んで投げやると、狸は取って食おうとしてしたたかに火傷し、逃げ帰った。 それから何日かたつうち、堂の本尊がときどき光り輝いて見えるようになった。 坊主はありがたく思い、いよいよ信心が深まったが、そうしたある夜、とうとう如来が夢枕に立ってこう言った。 「汝は早くこの娑婆を立ち去って、火定に入るがよい。汝の身が火に包まれるとき、我は来迎して西方浄土に救いとるであろう」 坊主は感激した。 さっそく村じゅうに触れ書を回し、「何月何日、私は火定に入って往生いたします。どうぞお参りくだされ」と告げたので、村人たちも、「おお、なんと尊いことではないか」と涙を流した。 当日ともなれば、近郷近在から人々が集まった。大群衆がみな仏の来迎を拝もうと待ちかまえたのだった。 坊主は白衣に新しい袈裟を着け、帽子(もうす)をかぶって出てきた。 堂の前に一間四方の石垣を組み、中に炭・薪を積んである。その上にのぼると、観念の面持ちで黙居した。 正午にいたると期待どおり、西の方に三尊そのほか二十五の菩薩が立ち現れた。 笙(しょう)・篳篥(ひちりき)・管絃が鳴り渡り、光を放っての御来迎に、人々はありがたがってひたすら拝んでいた。 「では、火をかけよ」 一度に薪に火をつけたので、坊主は無惨に焼け死んだ。 このとき菩薩はおのおの正体を現して、いっせいにどっと笑った。人々が驚いて見ると、二三千匹もの古狸が山に逃げ入るところだった。 かの焼け石に欺かれた狸の報復だったのである。 
 
おものめ様

 

昔、加美町四日市場元宿に一人の美しい娘が住んでいました。 いつの頃からか、この娘のところに一人の若い男が通うようになりました。 
その若者はこの世のものとは思われないほど美しい面立ちでした。 
そして二人の仲は、日増しに深くなるばかりでした。 
娘の家には年老いた一匹のガマが住みついていました。 
そのガマは娘のところに通ってくる若者は、実は大蛇の化身であることを知っていました。 そこで、ある時娘にそのことを知らせ、 若者とつきあうのをやめるよう忠告しました。 
けれども、恋におぼれて夢中になっていた娘は、忠告を聞かなかったばかりか、ついには若者の子を身ごもってしまいました。 
ガマは娘のことを気の毒に思い、「私の言うことを信じないのなら、今度若者が来たら着物のすそに糸を長くつけた針を通しておきなさい」と娘に言い聞かせました。 
娘は半信半疑でしたが、忠告に従うことにしました。 
そのことがあってから、若者は娘のところへ通って来なくなりました。 
驚いた娘は、何日も夢中になって若者を探しました。 
そして、とある山道にさしかかった時、目の前に若者の着物につけた糸を見つけました。 
その糸をたぐって行くと、ある老木の根元のほら穴の中に入っていきました。 
ほら穴の中を探ると、そこに大蛇の死骸が横たわっていました。 
それは、あの若者に化けた大蛇だったのです。 
娘は嘆き悲しみました。 
そして家族や世間にわびて、せめて多くの若い人々のために良い縁が結ばれるよう縁結びの神として奉仕したいと言い残し、近くの沼に身を投げました。 
村人はこれを哀れんで供養し、縁結びの神としてまつりました。 
これが、鹿島神社(宮城県加美町)にまつられる「おものめ様」だということです。 
 
「夜窗鬼談」と「聊齋誌異」にみる幽霊と冥界

 

日本明治期の漢文小説「夜窗鬼談」は漢学者石川鴻齋の作品で、その内容は怪奇話を中心としており、この小説を通して石川は勧善懲悪の考えを人々に広めようとした。この作品では中国清朝時代の「聊齋誌異」から題材などをとっている。本稿では、「夜窗鬼談」の幽霊や冥界に関する物語の世界を論じる他に、創作方法、作品の受容、文学思想等の点で「聊齋誌異」の幽霊や冥界に関する作品と比較し、その作業を通じて日本の漢文小説における中国古典小説「聊齋誌異」の影響の状況や両者の創作の特質を明らかにすることである。 
1 はじめに 
「夜窗鬼談」は日本の明治期に出版された漢学者石川鴻齋の漢文小説である。この小説は上下二冊であり、上は「夜窗鬼談」として1889年、下は「東齊諧」として1894 年、ともに東陽堂より刊行された。この二冊は姉妹編であり、下を出すときに書名を変え、「夜窗鬼談」と総称した。その中身は、怪異譚が中心で、「聊齋誌異」等の類似した中国小説と日本の怪異話から題材をとっており、結果、独特の作風と思想を生み出している。一篇一篇の語りは比較的に淡々としたものであるが、機知にとみ、時に浪漫的な点もあり、その展開も巧みで一読の価値がある。「夜窗鬼談」と「聊齋誌異」の関係については、藤田佑賢、王三慶、K島千代、黃錦珠等がすでに論じている。黒島は主に両作品の背景や手法、題材探し、「聊齋誌異」の「夜窗鬼談」への影響を論じている。黃錦珠の論文では、「夜窗鬼談」の描写の特色、創作の基となるなるものや、「聊齋誌異」との関係の他に、「閱微草堂筆記」や「子不語」と「夜窗鬼談」の関わりについても論じている。
2 「夜窗鬼談」にみる幽霊と冥界 
日本の怪異を扱った作品に、古くは「日本霊異記」、「今昔物語」、「平家物語」、「太平記」、さらに江戸時代の「伽婢子」(中国の「剪燈新話」の影響を強く受けている)、「雨月物語」、民間故事の「四谷怪談(後に歌舞伎の題材にもなった)」等があり、いずれも幽霊の話がある。だが、本稿では「夜窗鬼談」に焦点を絞り論じ、これらの作品については取り上げないものとする。「夜窗鬼談」には狐や狸、妖怪の他、幽霊と冥界を扱った作品群がある。筆者の整理によれば、それらの作品は以下のとおりである。@哭鬼、A笑鬼、B瞰鬼、C奇縁、D鬼兒、E客舍見鬼、F冥府、G怨魂借體、H牡丹燈、I鬼神論上・下、J縊鬼、K累女、L飛鼎、M霊魂再来、N千葉某、O飛鶻菴、P阿菊、Q阿岩で、この中で幽霊について扱ったものが16 篇、冥界を扱ったものが2篇である。これらの話は登場人物(幽霊)像や内容から以下のように分類することができる。@因果報應型、A人間と幽霊の恋愛型、B表明教化型(作者の思想や感慨を表明するものも含む)、Bその他(奇癖、怨念を持つ幽霊、悪鬼等)である。
2-1 因果応報型 
因果応報は「夜窗鬼談」の幽霊や冥界の物語において重要な部分を占める。 
「鬼兒」は齢50 歳過ぎの借金を抱えた甚兵の話である。借金の返済のために娘を吉原に売って50両の金を得るが、その夜、行きつけの酒屋に寄り、財布を無くしてしまう。酒屋の妻は甚兵の財布を見つけるものの拾っていないことにして隠してしまう。甚兵は嘆き悲しみ、ついには入水自殺する。その後この酒屋夫婦は豊かになるが、子どもを授かることなく、神仏に祈っていたところ、40 歳を過ぎて漸く子どもを授かる。だが、その子は甚兵にそっくりで、一週間で歩くことができるようになった。ある日、妻が縫い物をしていると、子どもはその破れた服から甚兵の財布を見つけ出し、ここに50両あると、母親に告げた。母は驚き、夫にその話をした。夫は子どもを怒りつけたが、子どもは逆に大声で叫び、夜叉のような顔になり、母親の胸に噛みついた。父は使用人を呼んで秤で打ちつけさせ、終にはその子は死んでしまった。密かに埋葬したが、その後、酒屋の妻は狂死し、泥棒にも入られ、家は他人の手に渡ってしまった。 
元来、酒屋の主人と客であった甚兵は良く知る仲であり、甚兵を騙してお金を得るべきではなく、騙したお金は不義の財である。石川は、この話の最後に「不義のお金はすぐになくなる」と警句を書いており、この話は林屋某から聞いたと記している。「悪いことをすれば悪い報いがある」という他にこの話には、不義を働いてお金を得るようなどん欲さを持たないよう、人々に教え諭す意味を持っている。「客舎見鬼」は石川と友人である渡辺が東海道の吉原の宿で一緒に泊まった時に出会った幽霊の話である。渡辺が深夜になっても寝付けないでいると、一人の若い女性が蚊帳の外から中を窺っている。泥棒と思った渡辺は石川を起こしたが、石川は遊女が客を引きに来たという。翌日、店の女に遊女のことを聞いてみると笑って何も答えなかった。二人は宿から四里ほど離れた茶屋で、店の老婆から次のような話を聞いた。昔、泊まった宿にはひとり遊女がいたが、梅毒を患いお客をとることができなくなった。店の主人はその遊女を幾度となく責めたて、ついに遊女は舌をかんで自殺した。その後恨んで幽霊になり、夜な夜な主人にところに出るようになった。一年後、作者がその店の前を通ってみると、すでに潰れていた。この話は遊女が祟って幽霊になり主人に報復を果たした話である。 
「冥府」は、あの世の話である。田直生の父親は病死するが、家の財産はなく、貧しかった。ただ、近くの村に雑穀を売って暮らすしかなかった。よく知っている人の紹介で賭博をするようになるが、取り締まりに遇い、乱闘の末、田直生は殴られて気を失ってしまう。そして、冥府まで連れられていくが、そこで偶然亡き父に出会い、亡父に救いを求める。冥府の閻王(閻魔大王)は田直生の学校時代の師であり、田直生の生前の孝行を思い、再度過ちを犯さないよう教え諭し、田直生を蘇らせた。蘇る前に亡き父は田直生に家の梁の上に隠した箱があり、それを開け、家を建て直すよう告げた。田直生が箱を探して見てみると、中には小判百両があり、それで失った田畑を買い、その後一族は繁栄した。 
石川はこの物語のなかであの世の恐ろしい惨状と、田直生の親孝行の応報として生き返ったこと、その後豊かな暮らしをしたことを描き、因果応報を説いている。そして世の中の教化を行っている。さらに石川はこの作品末で地獄絵図について詳しく説明し、地獄絵図の歴史は長いとしている。中国古典の「子不語」、「聊齋誌異」などでは徳のある人間が死後、一定期間閻魔大王になっていることが記されているが、石川もこの作品を書くときに、それらの中国の作品を参考にした。 
「累女」は、藩士與右と結婚した累女を描いた作品である。妻累女は腹を蛇に咬まれ、醜い容貌となってしまい、與右はそこで新たにお若と結婚し、お若と一緒に累女を川に落とし溺死させる。その後、累女はお若について恨みを晴らそうとし、毎日お若と與右を苦しめ、二人は安らぐことはなかった。僧祐天の力でお若についた累女を払ったものの、お若は病死してしまう。與右はいたく後悔し祐天に弟子入りし、祐海と名を改め仏門に入った。 
この作品も因果応報の話であり、内容は江戸時代の幽霊話「累の淵」のお累の物語を改編したものである。心変わりした男の話は中国古典にも多く、例えば、宋の時代の陳世美の話がある。貧しい書生であった陳は妻と出会い、結婚し、その後妻の助けのもと成功するものの、その後、権貴女と結婚し、人を雇って前妻を殺させたが、最後はその報いを受ける。多くの話が大体同じ展開であり、中国も日本もひどい男が妻を捨て、殺すというもので、似ている。 
「飛鼎」の因果応報の話も先の「累女」と似ている。山城の国(京都)の茶商宮本某は、老いて娘お清を授かる。大きくなって、甥の仁右を入り婿にし、結婚させた。だが、お清は天然痘の病にかかり、治癒するものの顔が醜くなった。仁右は醜くなったお清を嫌がり、ある女を金で買い妾とし子どもひとりを授かった。そこで仁右は謀ってお清を宇治川に落とし溺死させた。その後、子どもが天然痘にかかり、顔がお清そっくりとなった。お清は仁右の前に現れ苦しめ、ついに仁右は死んでしまう。その子も病に倒れ父のように叫ぶようになった。 
幸いにも村人が僧侶珂碩を紹介し、珂碩はお清の霊を鎮め、子どもの病気もよくなった。そこで仁右の子と伯父は珂碩に感謝し、お茶をたてるために大きな鼎を作り、この鼎を江戸の珂碩僧呂にお礼に贈りたいと思っていると、忽然として鼎が消えてしまった。そこで、伯父と甥が一緒に江戸に行って珂碩に会ってみると、なんとその鼎は彼の庵にあった。それからこの鼎は「飛鼎」と呼ばれるようになった。この話の前半は心卑しい夫が妻を殺しその報いを受けるもので、後半は大きな鼎が京都から江戸まで飛んでいくという不思議な出来事の物語である。石川はその篇の最後で「数十斤もある鼎が遠く飛ぶことができるだろうか。ある者は仏の叡智故にできた所行だという」と書く。さらに仏の智はいまだ分からず、その理を書くことはできない。 
ただ珂碩僧侶の伝記を持って記すのみだと記す。ここからは石川がこの話に疑いを持っていることを看取できる。 
「阿岩」は次のような話である。民屋氏に婿養子に入った伊右は放蕩もので、ついに義父から追われるところとなる。そこで伊右は義父を恨み殺してしまう。家に戻った伊右はお岩と一緒に暮らすようになる。だが。後に西隣に住む伊藤某の娘お梅と通じるようになり、伊右は酒飲み友達の澤スとお岩を殺してしまうと考えた。だが、澤スはこのことをお岩に密かに話し、お岩は怒って刀でお梅を殺そうと考えた。だが、澤スが止めようと刀を奪おうとして誤ってお岩を殺してしまう。終にお岩は幽霊となり敵を討とうとする。伊右は刀で霊を殺そうとして誤ってお梅を殺してしまい、そのまま逃げるものの、お岩の妹婿に殺されてしまう。 
この話は「四谷怪談」を改編したもので、歌舞伎の話と内容が類似している。石川はこの話の最後に、「これは後々の舞台で取り上げられ広く後世に広まるものの、複雑であった話が省略され、ただの戯れの文となった」と記している。実際は、やや裕福な家の醜い娘が夫に騙されて捨てられ、祟る霊となって敵を討つという因果応報の話に過ぎない。
2-2 人間と幽霊の恋愛型 
「奇縁」は、貧しい書生林某が、富裕な商人某と将棋が縁で知り合い、その娘の珠と駆け落ちの約束を交わすようになる話である。ところが商人がそれを知り、林との交際を禁じる。やがて林も居を他所へ移す。ある日林は川べりで釣りをしていて珠と再会を遂げるが、いざ珠を夜家へ連れて帰ろうとしたら、突然彼女は姿を消した。そして翌日人から珠がとっくに病死していたことを聞かされる。やがて林は在家の修行僧として各地を巡るようになる。ある時、盗賊の家に泊まり、あやうく災難に遭うところを盗賊の娘に救われる。この娘は盗賊の実の娘でなく、よそから盗んできた娘であった。娘は林を連れて故郷へ帰るが、そこで実は彼女の母親が珠の下女であったことがわかる。後にこの娘、玉が生まれたのだが、言葉遣い、外見、全てが珠に似ている。玉の生まれた日を尋ねると、何とそれはちょうど15年前林が川べりで珠に再会した日であった。奇縁である。後に林は玉と結ばれ子を作り、豊かな暮らしを送る。そして毎年珠の命日には経を上げ、珠の冥福を祈った。 
「夜窗鬼談」中の怪異譚には、因果関係や教化を題材にしたものが多く、このような人間と幽霊が恋愛するロマンティックで幻想的な内容はあまり多くない。この作品は「聊斎誌異」の中の恋愛ものに決してひけをとっておらず、「聊斎誌異」の影を見ることができる。「怨魂借体」は、新潟の長尾杏生という医術を家業とする男の話である。ある日、父の代わりに往診に行った先で青楼の妓女貞と出会う。二人は互いに惹かれ合うが、杏生の父に反対され、二人の仲を引き裂くために杏生は東京に医学を学びに行かされる。貞は杏生が故郷を離れたと聞き、左目を失明しやがて病死する。杏生は東京で開業し、妻を娶るのだが、四十になった時左耳が聞こえなくなる。どんな治療も効果がなかった。そして占い師により、杏生が昔女を裏切り、左耳が聞こえなくなった原因は嘆き死んだこの女の怨念によるものだとわかる。占い師は祭壇を設け女の霊を慰め、もし縁があればこの女に容貌の似た者を娶るよう、勧めた。こうして杏生は偶然通りがかった伊香保温泉の旅館で貞によく似た若い下女と出会う。女幽霊となった貞はこの女に自分の魂を託し、杏生がこの女を娶ることを望む。杏生もこの女を連れ帰ることを受け入、妾とし、男の子を一人生ませる。子のいなかった妻はこの子をかわいがり、後にこの世を去る時、貞以外の者を後妻としないよう夫に言い残した。 
これは幻想的で複雑な人間と幽霊の恋愛物語である。想像の世界を広げさせるストーリー展開の他、主人公の男と女の奇妙で不思議な遭遇と出会いが生死の境を超え、冥婚にまで発展する様子を描いている。「牡丹燈」の原典は中国明代の瞿佑による「剪燈新話」である。「剪燈新話」は後に日本に伝わり、江戸六年に浅井了意が「伽俾子」の中で、原作中の「牡丹燈記」を「牡丹燈籠」として書き換え、あらすじを原作により近づけて創作した。とはいえ、時代設定を室町幕府の天文年間とし、事件の発生は日本の盆、場所は京都で、主人公を五条通りに住む荻原新之丞とした。江戸時代後期、三遊亭円朝がこの物語を更に複雑に「怪談牡丹燈籠」と題し改編し、後に歌舞伎でも上演されるようになった。 
石川があとがきにも書き記しているが、「牡丹燈」は円朝の「落語」をもとに肉付けした物語である。飯塚氏の下僕孝助の忠義心と隣人半蔵の邪悪な心、妻の横死といった怪異事件、荻原の死後の物語については省略されているが、この話は円朝の「牡丹燈籠」の縮小版と言える。 
「牡丹燈」は、江戸時代の飯島某の娘阿露の物語である。阿露はか弱くよく病に倒れるため、柳島の別荘で養生をすることになった。そこに阿露の主治医志丈の紹介で、浪人荻原と出会い、二人は恋に落ちる。なかなか荻原に会えない辛さから、阿露は萩原を恋しがって遂には死んでしまった。荻原もまた阿露が怒った父親に斬られる夢を見る程であった。 
ある日偶然、荻原は志丈からこのような話を聞いた。阿露は萩原を思慕し、そのことを父親に話すが、厳しい父親は二人の関係を許さなかったため、阿露は食を絶ち死んでしまったという。その年の中元節、荻原が家の窓を開けるとそこに阿露が下女と一緒に提燈を持って現れ、自分の死のわけを話し部屋の中に入っていった。荻原に仕える伴蔵が部屋から笑い声が聞こえるので中を覗くと、女性の姿ははっきり見えないのに、楽しそうな様子が窺えた。その奇妙な様子を近所の老人に話すと、老人は名僧良石を訪ね、荻原の部屋に貼る幽霊除けのお札を授かる。しかし幽霊たちは伴蔵にお札を解くよう懇願する。幽霊におののく伴蔵はその願いをうっかり聞き入れてしまう。そしてお札を解くやいなや幽霊たちは部屋に入っていった。翌日、伴蔵と老人が荻原の部屋に入ると、そこにあったのは命を落とした荻原の変わり果てた姿だった。
2-3 表明教化型 
「哭鬼」は石川の感情が吐露された作品で、自分を嘲笑するような文章が綴られている。石川は「哭鬼」で明治維新期の社会が西洋の知識を追求する時代に直面したため、自分はこの世の中で必要とされなくなったと自嘲し、儒学の後継者がいない感慨にふけった。しかし全てをあきらめたわけではなく、後継する人物が現れることを願った。「笑鬼」では、仙人と呼ばれる老人たちが数人、夜桜の花見酒に興じる様子を描かれている。そこには、老人たちの各地を旅したいという願望が叙述されている。突然そこに現れた笑鬼は人生など泡のようで、来年や数年先のことなどどうしてわかろうか、人は病を避けられず、それを予期することもできない、と老人たちを嘲笑する。仙人と呼ばれること自体可笑しいと言われても、老人たちは笑鬼に言い返す言葉が見つからなかった。 
「瞰鬼」は、東京に住む富豪の物語である。彼は三階建ての洋館を建て贅沢に暮らしていたが、ある日新築祝いに招いた友人たちと盛大に酒盛りをしている時、突然形なきある物が酒に酔った主人に息を吹きかけた。そのとたん、主人と客はけんかを始めてしまった。けんかは次第に派手になり、結局その場の全員が警察に拘留される。その後この家はだんだんと没落していき、豪宅も人の手に渡ってしまう。老僕がたまりかねて占い師の元へ行き、何とか主人の暮らしが元に戻らないかと尋ねる。しかしそこで初めて、宴会の日、主人があまりにその富をひけらかしたために、瞰鬼(家の中をうかがう鬼)が侵入してきて、没落させられたのだと知る。これを聞いて主人は占い師の勧告を聞き入れ、粗末な家に住み、節約に励み、名利を貪らず、正直に暮らしたことから、暮らし向きはまた前のようによくなった。物語の最後に石川は「そもそも徳には吉と凶とがある。吉の人は吉の徳を為し、凶の人は凶の徳を為す。鬼もまたその通りで、吉の鬼は吉の人を護り、凶の鬼は凶の人を助ける。凶が吉に勝つことはない。吉の鬼が護るところを凶の鬼が瞰うことはできない」と、自らの主観を記している。 
作者は「瞰鬼」の話を通じて、世の中の人々に派手な暮らしをせず節約を心がけ、よい行ないをすることこそ正しい道である、という教訓を伝えている。 
「鬼神論」(上・下)では、石川は鬼神のことは知るべきでないし、知る必要もなく、迷信を盲目的に信じてはいけないと述べ、「ああ、神と人との間にはなんと大きな隔たりが生じてしまったことか。強いて神のことを知ろうとすれば、思い惑うばかりである。朱子はこういっている。「鬼神ですら知ることができないことに思い惑わない。これこそ智者の取るべき道である」。先賢の説かぬところをどうして後世の愚昧が論ずることができようか。……鬼神の原理については知ることができないと認識することこそ、まことに知ることなのだ。君子は道を行なって、人の見ていないところでも恥じることがないという。どうして鬼神に媚びる必要があろう。もし、あえて、その原理を知りたいというのなら、自ら鬼になるしかない。まだ、鬼になることもできずに、いたずらに鬼について説くなどということは、分別なき惑いに他ならない」と、書いている。 
「縊鬼」もまた、作者が幽霊の話を通して教化警告を世の中に発した作品である。下野蒲生君平が夜中に綾瀬川のほとりの草むらで用を足そうとした時、一本の木綿紐を拾う。川に投げ捨てようとしたその時、突然、髪がばらばらにほどけた女が紐を返せ、と言って現れた。この女は首をくくって自決した女幽霊で、生まれ変わるためにはどうしても紐が必要で、次の首吊り自決者を代わりにみつけなくてはならない。ちょうどしゅうとめに憎まれた嫁がいる。が、君平は女幽霊によいことをせよ、人の寿命は天が定めるもので、むやみに殺生してはいけない、さもないと冥土の役人の厳罰が下るぞ、と戒める。女は君平の建言に感謝する。やがて空が白み始めた時、君平は紐を切り刻み川の中へと投げ込んだ。 
「縊鬼」の結末において、幽霊というものは本来形がなく、この世には存在しないものだと強調している。そして、幽霊が見えるという人はきっと「見る幻は心や目の病気、つまり神経のせいだという人もある」と書いている。 
石川はこの物語の中で、この世に幽霊などというものはもともと存在せず、幽霊が見える人は神経末梢が特別に発達し、過度に敏感なだけであると強調し述べている。 
「霊魂再来」は、人はこの世で徳や陰徳を積むべきで、子孫にその果報がもたらされると述べた、教化警告が込められた作品である。内容は左内氏の孫が祖父の魂が戻ってくる夢を見るというもの。そしてあの世では差別待遇があること、全てがこの世での善悪行為をもとにしており、この世で善行を積んだものはあの世でよい報いを受ける。左内氏は冥府の状況を「しかし、貴賎貧富の区別というものはある。生前に学を修め、人を導き、恵み、善行を積んでいた者は豊かになって立派な家に住み、まわりの者からも尊敬を受ける。じゃが、生前の行ないがずる賢く貪欲であった者は長者に使われて労役に苦しんでおる。生前に盗みを働いたり人を殺したりして世の中に害を及ぼした者は別の決められた場所にいて、いまなお鬥爭しておる。特に、生きている間に悪事を為し、それが露見しないままに死んでしまった者は、もっとも重い刑罰を受けている」と述べる。石川は結末の部分で、あの世でのさまざまな伝説や記載について、特に強調している。こういったことは、中国の古典小説の中にも時折見られる。「随園の「新齊諧」や「聊齋志異」、それに紀曉嵐の「雑誌」などに載っている幽明界の記事もだいたいはこの話と似たようなものである」。この記述からも、彼が中国の古典の怪異小説に相当詳しかったことがわかる。 
2-4 その他 
「千葉某」は悪い幽霊が人を脅かす話である。摂津の千葉某は普段人に怪談をするのが好きである。ある朦朧とした月夜、一人の美女が千葉某に怪談話をしてくれ、と訪ねてきた。ところがこの女は千葉の怪談がちっとも怖くないと文句を言い、自らが豊臣家が滅亡した時の怪談を始め、視Sに変身する。それを見た千葉某は驚きのあまり気を失ってしまう。そしてその後二度と怪談を口にすることはなくなった。中国に「夜道をよく歩くと、幽霊に出会いやすい」という俗語がある。千葉某は正にそれで、自分が怪談好きなあまり、本当の幽霊に会い肝をつぶしてしまった。この作品は、「夜窗鬼談」の中でもどこかユーモラスで面白い短編である。 
「飛鶻庵」は幽霊払いをする物語で、奇行怪異な士、飛鶻庵がある計らいをして幽霊の一群をひょうたんの中に閉じ込め、海に投げ込む話である。 
「阿菊」は、将軍の寵臣青山鉄仙が下女の阿菊を妾に欲するものの、阿菊に断られ、怒りのあまり阿菊を殺そうと思う。阿菊がお家珍蔵の皿を十枚数えるよう仕向け、そのうちの一枚をわざと隠し、その罪で阿菊を死に追い込む。阿菊は怨鬼と化し、青山の家は荒れ果ててしまう。雨風が吹くと必ず阿菊がこの荒れ家で皿を数える声を聞く者が出た。ある時、侠客と友人が家を探索すると、その日も阿菊が皿を数えたが、数えた皿の数は十三枚にまで達した。不思議に思った者がわけを尋ねたところ、明日は晴れるからここに来れない、だから明日の分まで今日数えるのだ、と阿菊は答えた。「千葉某」「飛鶻庵」「阿菊」の三篇は、厳格且つ実質的に道徳思想を表明する「夜窗鬼談」において、ややユーモラスで怪奇的な作品と言えよう。 
3 「聊斎誌異」の幽霊と冥界 
魯迅は「中国小説史略」の中で「中国では本来巫を信じていた。秦漢以来、神仙の説は横行し、漢末には大いに巫がはやり、鬼道もそれに乗じて盛んになった。小乗仏教もまた中原に入り、伝播していった。鬼、神、道、霊、異といったものが盛んになり、晋から隋に至り特に鬼神の怪異を記すものが増えた」と書いている。この世を去った人間の怪談は魏晋の怪異小説の中に大量に記載されている。決して「聊斎誌異」に始まったわけではない。例えば「捜神記」の中の「河間女子」、「列異伝」の中の「談生」、「離魂記」の中の「倩娘」や、「太平広記」にも怪談が多く取り上げられている。また蒲松齢による幽冥譚は、魏晋以来の怪奇小説の様式を受け継いでおり、そこから更に複雑な内容の変化を遂げ、その創作の技法は怪異譚を一種の芸術の域にまで高めた。 
本論文は「聊斎誌異」中の幽冥世界を論ずることが主要目的なので、魏晋及び宋時代の幽冥物語と「聊斎誌異」中の幽冥世界を比較することは、ここでは省く。 
汪玢玲の調査によると、「聊斎誌異」中、怪談を取り上げたものはとても多く、合計170あまりあり、全体の三分の一を占める。 
蒲松齢が描く幽冥譚について、筆者はそのイメージと内容から四つの類型に分けてみた。 
1. 因果応報型(恩返し、善鬼等を含む)、 
2. 人間と幽霊の恋愛型(幽霊同士の恋愛も含む)、 
3. 表明教化型(冥界の統治の仕方等を含む)、 
4. その他(悪鬼、奇癖等を含む) 
3-1 因果応報型(恩返し、善鬼等を含む) 
「聊斎誌異」には、よい幽霊(善鬼)が人を助けたり恩返しをするというものがある。例えば「褚生」「葉生」等である。「褚生」は幽霊の魂が知己を助け、来世でよい報いを受ける話である。「葉生」は非常に才能があるのに試験の運に恵まれない葉生が試験に落ちて病死するが、後に恩人の丁公に恩返しをするため丁公の息子に勉強をさせる。やがて息子は進士に受かり、零落していた葉生はこの息子のおかげで挙人として葬儀を挙げられるまでになる。 
この二作品は、「聊斎誌異」の主なテーマの一つである「科挙制度の弊害、試験の不平等さ」が、士子が鬱に陥り死んでしまうことを通して描かれている。 
「聊斎誌異」には輪廻果報に関するものもある。例えば「三生」は、前世のことを覚えている劉孝廉の話である。この男は生前悪行を重ねたせいで、死後冥王から馬として鞭打ちなどの苦しみを受け、犬や蛇として生まれ変わった後、三世を経てやっと前世の罪を償いきり、四世目でやっと劉孝廉として生まれるに至った。作者はこの一人の人間による三回の生まれ変わりを通じて、因果応報や善行の勧めを説いている。物語の中では、主人公の劉孝廉が閻魔大王に裁かれるシーンが事細かに描写されている。 
前述した、善をなせばよい報いがあるという物語のタイプの他、「聊斎誌異」にはよい幽霊が神になる話がある。例えば「王六郎」は水鬼の王六郎が一時的な慈悲で、自分の身代わりになる死んだ人を逃してやったため、自分が転生できなくなり、最後は天帝からその善行を認められ土地神に任じられる話である。この物語には、水鬼王六郎と許という名の漁夫の真摯な友情と、恩返しという内容が織り込まれている。主人公の善良な性格を目立たせることで、読者を物語の中にぐいぐいと引き込む効果を出している。 
この題材に相似したもので「水莽草」がある。湖南桃花江一帯に生息する毒草、水莽を人間が誤って食べると死んでしまうのだが、もし死鬼が身代わりをみつければその死鬼は転生できる。物語では主人公の祝生が友人を訪ねる道中で、既に死んでしまって幽霊になった寇三娘が作った水莽茶を飲んでしまい、即座に死んで幽霊になってしまう。しかし彼は幽霊になってもきれいな心を失わず身代わりを探そうとしない。反対に、さまざまな手を打って誤ってこの草を食べてしまった他の者のために幽霊払いをし、天帝を感動させる。天帝は彼を天界の「四瀆牧龍君」に命じる。この物語には、男女の幽霊が夫婦になるエピソードなども盛り込まれている。しかしその題材と、「聊斎誌異」中のその他の婚姻や愛情を題材にしたものとは異なりを見せる。つまり、この作品では男女の愛情を描くのでなく、祝生の敬老や人に対するいたわりの心、正義を追求する高尚な人格などへの賛美が強調されているのである。 
その他「聊斎誌異」における「呉生」や「王蘭」も、人が死後に神になった話であるが、ここでは紹介を省く。 
3-2 人間と幽霊の恋愛型(幽霊同士の恋愛も含む) 
人間と幽霊の恋愛ものは、魏晋の怪奇小説の中にもある。例えば「捜神記」の中の「河間女子」や「列異伝」の中の「談生」、「法苑珠林」の中の「離魂記」等で、蒲松齢の描く幽婚物語は魏晋以来の怪奇小説の様式を引き継いでいるが、男女が自由な愛情を求める進歩的で発展的な様子が描かれており、物語をより豊かに演出し、男女が生死の境を乗り越え、愛を貫き、幽婚を遂げる。有名な作品としては「魯公女」「連瑣」「小謝」「聶小倩」「伍秋月」「連城」等がある。「魯公女」は不幸にも夭折した一人の猟の得意な女が、男主人公張生の愛慕と心からの焼香に感激したため、「幽霊」の姿で現れて張生と愛を交わし、その後生まれ変わって張生と夫婦になる話である。 
「連城」は連城と喬生の愛が邪魔され、やがて死によって「幽霊」の姿であの世で結ばれる、という話である。最後には二人とも元に戻り、生死を越えた恋を全うする。「連瑣」は人と幽霊の恋愛話で、冥界を舞台にしながら、蒲松齢は夢を見ているという設定で、男の主人公楊于にあの世へ入らせ、英雄が美女を救うといったストーリー展開をし、最後は女主人公がこの世に戻り結ばれるという話である。 
「魯公女」「連城」「連瑣」等ではどれも、恋人は皆愛の為に志を貫き、生死を超えて愛を全うするという世界が描かれている。 
その他、幽霊同士の恋愛話も、「聊斎誌異」には幾篇かある。前述した「水莽草」は誤って水莽草を食べてしまった祝生と寇三娘という幽霊夫婦のめぐり合いの物語である。ただこの作品の主題は男女の愛情ではなく、あくまで祝生の善行の部分である。「晩霞」は溺れ死んだ少女が龍宮にたどり着き、そこで龍舟で雑技をしている間に溺れ死んだ男阿端と宮廷舞隊に入れられ、そこから二人は恋に落ちる。さまざまな苦難を乗り越え、二人は幽霊となってから夫婦となる。この話には、封建社会における青年男女が道徳観や礼儀といった束縛から解放され、自由や幸福を獲得しても、結局最後には大きな代価を払わないといけない、という作者のメッセージが込められている。 
以上のように、人間と幽霊の恋愛ものや、幽霊同士の恋愛ものは多くあるのだが、ここではこれ以上触れず、次に進みたい。 
3-3 表明教化型(冥界の統治の仕方等を含む) 
「聊斎誌異」におけるこのタイプの物語は、大部分が冥府の世界で起きたできごとを描いている。「聊斎誌異」には、地獄の情景をリアルに描いたものがとても多い。例えば「李伯言」はあの世での報いを事細かく描写している。「耿十八」「僧孽」等では冥府で行なわれる残酷な事が、力を込めて描かれている。他にも冥界の世界を描写した作品として「閻羅」「鄷都」「李司鑑」等がある。 
更に、冥府の上層統治者が民を痛めつける物語も大胆に描かれている。「席方平」「考弊司」等がそれで、民と閻魔大王悪鬼の闘いを描いているが、これは現実の社会の中で封建的統治者らが私腹を貪る様子を暗示し、作者のそれに対する不満や、清廉な政治を望む気持ちを表明している。 
3-4 その他(悪鬼、奇癖等を含む) 
悪い幽霊(悪鬼)が人に悪さをする物語は、民間に多く流布しているが、「聊斎誌異」の早期の作品の中にもこのタイプの短篇ものがいくつかある。最も有名なものは「畫皮」で、これは美女に化けた幽霊が男を誘惑し、その腹を割り心臓を取り出す話である。後に道士が登場し、幽霊を本来の姿形に戻させる。現実生活の中で、人もまたさまざまな偽装や詐欺を働く。「畫皮」は幽霊が人に害を与える話だが、そこには社会教育の意味合いが含まれており、色にたぶらかされることのないように、という勧告がなされている。「屍變」は、一人の女の屍が夜中に人を襲う話で、鬼気迫り、この書の中で最も怖い一篇と言えよう。女屍は人殺ししか興味がなく、そのためには手段を選ばない、生きている人間に深い恨みを抱く殺し屋である。短篇ではあるが、作者が描く恐怖の場面は実に真に迫り、主人公の生に対する強烈な思いがシンプル且つ生き生きと描写されている。 
その他幽霊が人を襲うものとして「噴水」「山魈」「咬鬼」等があるが、「聊斎誌異」の中に登場する悪い幽霊のイメージは、醜悪な人間の本質を映し出しているとも言える。 
「聊斎誌異」の中にはよい幽霊、悪い幽霊の物語以外に、奇癖を持つ幽霊についてのものもある。 
「棋鬼」がその一つである。これには、将棋好きが高じて破産してしまう幽霊が出てくる。将棋好きは父親を怒らせても改められず、やがて閻魔大王に寿命を縮められ、あの世まで連れてこられ、悪鬼獄で七年の刑に処される。しかし出獄してもなお将棋を打とうとし、閻魔大王に命じられた碑文を作ることをすっかり忘れる。とうとう冥府の監獄に戻され、人間に生まれ変わる機会を永遠に奪われてしまう。作品中の棋鬼はただの将棋好きでなく、将棋で賭け事をする博徒で、だからこそ破産にまで追い込まれる。物語からはユーモア感だけでなく、作者の風刺や嘲りも感じ取れる。 
他にも奇癖のものとして「王大」がある。これは賭鬼が死後もあの世で負債してまで賭け事をする話である。「鬼令」は酒飲みが出てくる。自分が既に死んだことを知らず、幽霊の仲間たちと酒席でのどんちゃん騒ぎに興じる。生命の危険を顧みず狂ったように酒を浴びる様子の生々しい描写は、読む人の笑いを誘う。 
ここまで、「聊斎誌異」のいくつかの型を見てきた。これら全て、表面的には幽霊が登場するが、実は幽霊を通して人の世に警告を発するという作者の意図がある。人間と幽霊の恋愛ものは、男女の恋愛や婚姻の自由を追求し、冥府のしきたりものは、法や政治が公正であるべきだと提唱しており、社会や政府の暗い面を明るみにし、人心思想の教化という作用を具えている。その他の類型についても、仏教の因果や輪廻応報の思想が盛り込まれている。 
4 「夜窗鬼談」と「聊斎誌異」にみる幽霊と冥界の比較 
4-1 題材と創作方法 
前述した「聊斎誌異」における幽冥物語の題材は、六朝志怪と唐代伝奇の系統を引き継ぐ他、里巷談話や民間伝説、友人から聞いた話や作者自らが経験したこと等に豊富な想像を加えて生まれている。創作の意図は「雅愛捜神、喜人説鬼(神を捜ることを愛好し、また、人に鬼を談らせて喜んだ)」の精神にあり、霊異世界の表象を通して作者の胸中にある憤懣を吐き出し、また理想の世界を映し出しもする。そして妖鬼たちを貶めることで、辛辣な嘲笑や風刺をし、現実社会を批判、また勧善懲悪を説き、社会教化にも一役買った。 
創作方法に関しては、「聊斎誌異」の人間と幽霊の恋愛物語において登場する女性の幽霊の大多数は性格がはっきりしており、大胆に愛を追い求めるよう描かれている。また男主人公の方も非常に一途で、例えば「連瑣」「魯公女」は当時の封建社会の中では抜きん出たもので、進歩的と言わざるを得ない。また作者の結婚感や社会への理想もはっきりと表している。物語は確かに虚構であるが、そこには生活における浪漫主義を反映する創作方法が取り入れられている。 
それから、物語の内容は非常にリアルに描かれている。例えば「畫皮」の悪鬼が人に化ける描写は「そっと窓からのぞいてみた。と、青い顔をして、鋸のように鋭い歯をむき出した一匹の恐ろしい鬼が、人間の皮を寝台の上にひろげて、絵筆をとってこれに絵をかいていた。書き終わると筆を投げ出して、その皮を取りあげ、着物をふるような様子をして、すっぽりからだに着けた。すると、忽ち女になり変わった」と言う風に女幽霊が女性に変わる動作を詳しく書いている。その描写は細かで真に迫り、読者をその世界に引き込み、身の毛がよだつ感覚を与える。 
もう一点、プロット設定に関して「聊斎誌異」は、民間の宗教観念や智慧をうまく運用し、物語に幅を出している。怪談の中にある多くの幽霊の闘いの場面で、例えば「畫皮」では道士が鬼払いをし、「聶小倩」では剣客が剣法を使って退治する。「魯公女」では男主人公が魯公女の死後、何度も彼女の霊を拝み、経を読むことで魯公女の霊魂を感動させ、とうとう生まれ変わりこの男と結ばれる。もし輪廻といった宗教観がここに入れ込まれなかったら、この話は物足りないものになっていただろう。 
石川鴻斎の「夜窗鬼談」の序文には、「聊斎誌異」の影響を深く受けたことが述べられている。そして石川の「夜窗鬼談」における創作意図は蒲松齢と同様、「雅愛捜神」であり、序文でも引用している蒲松齢の「自誌」でもある。明らかに「聊斎誌異」を模倣の対象としているとはいえ、石川の創作目的は他にもある。それは「夜窗鬼談」中の怪談を通して作者個人の理想や抱負、それに当時の社会に対する不満を表明し、更に世間を貶め、教訓と警告を与え、勧善懲悪を説くという点である。この勧善懲悪に対する思い入れに関しては、蒲松齢と同様である。題材の採集は日本の民間伝説や友人の話、作者自身の体験に基づくが、これ以外にも「聊斎誌異」を模倣している点がある。 
石川の「夜窗鬼談」における創作手法もまた、蒲松齢によく似ている。豊かな文学的想像力を駆使し、怪奇イメージを通して作者の社会に対する理想や風刺嘲笑を表現している。作品の結末にも「聊斎誌異」の「異史氏曰」(実は作者である蒲松齢の自己評価)を模倣し、「寵仙子曰」として自己評価が加えられているものがある。全体の創作叙事の風格において、「聊斎誌異」よりやや複雑さや屈折に欠け、またストーリーの展開においても「聊斎誌異」ほど変化に富まない。「夜窗鬼談」の作品の風格はあくまで平淡で素朴、厳粛で厚みがある。これこそが「夜窗鬼談」が表現する創作世界なのである。 
4-2 「夜窗鬼談」にみる「聊斎志異」の受容 
既述してきたように「夜窗鬼談」の物語は題材の点で「聊斎志異」の影響を受けている。いくつか例を挙げると、たとえば、因果応報の「鬼兒」である。この物語は酒屋の夫婦が客甚平の財布のお金を盗んで、盗られた甚平が自殺し、夫婦の子供になって復讐するという話である。これは「聊斎志異」の「柳氏子」の構図を模倣しているものである。「柳氏子」は膠州人の柳西川なる者が仲間が苦労してためたお金を自分のものにし、その仲間が柳西川の子どもに生まれ変わり、その財を使い果たすという話である。「鬼兒」も「柳氏子」も悪い行いには悪い報いがあることを主題としており、ただ、その表現に違いがあるだけである。石川が平板な形で飽きさせることなく書き、最後に教えを書くことで終わるのに対して、原作である蒲松齢は細部にわたって書き、対話も用いて復讐する理由を示し、生き生きと登場人物を描いている。 
「縊鬼」にでる首をくくって自殺した女性の幽霊は身代わりを捜し転生しようとするが、その幽霊に主人公蒲生君は善行を勧め、「その人生を全うし、命を救いなさい」と述べ、この先転生する機会を待てと教え諭す。この話は、既述の「聊齋誌異」の「王六郎」や「水莽草」の話と展開が非常に似ている。ただ、蒲松齢の書く「王六郎」と「水莽草」は因果応報と民間に伝わっている話という観点から書かれているのに対し、石川の「縊鬼」は勧善懲悪の教化が出発点であり、民間で知られている自殺した霊が身代わりを捜し、転生するという話を記すものとなっている。さらに末尾で「幽霊というものは本来形がなく、その言葉をどうやって聞くことができようか」と強調する。幽霊が見えるという人はきっと「見る幻は心や目の病気、つまり神経のせいだという人もある」と書き、霊異に対して疑いを持っていることが明確に示される。 
「客舎見鬼」は石川と友人渡辺がある夜に宿で若い女性と会うが、後にそれが宿主から厳しく責められて舌をかんでしんだ遊女だったという話である。毎晩、恐ろしい形相で出てくるところは、「聊齋誌異」の「縊鬼」の話のなかにある。范生が店の宿の嫁が首つり自殺をすることを見るが、そのようなストーリー展開である。 
「冥府」は閻魔様とあの世の話である。石川は文末に「地獄変相図」で各種の地獄の恐ろしい情景を書いているが、それは「聊齋誌異」の「李伯言」、「僧孽」、「閻羅」、「耿十八」などで描かれる冥府の情景であり、「冥府」は「聊齋誌異」の影響を受けていると容易に判断できる。また、「冥府」の文末に「「子不語」や「聊齋誌異」などによれば。有徳の人が死後閻羅となった場合、勤務には自ずと期限がある」と書いている。 
「夜窗鬼談」の「霊魂再来」の文末には、冥界について中国には古来があると説明している。「随園の「新齋諧」や「聊齋誌異」、それに紀曉嵐の「雜誌」等に載っている幽明界の記事も、だいたいはこの話と似たようなものである」というものである。また、「霊魂再来」では「生前に善行を積んでいた者は豊かになって……じゃが生前の行いがずる賢く貪欲であった者は、長者に使われて、労役に苦しんでおる」と書かれ、様々なあの世の様子と因果応報の関係が描かれている。これらも「聊齋誌異」の「庫将軍」、「死僧」、「陳錫九」などに似た描写がある。したがって、「霊魂再来」も「聊齋誌異」の影響を受けているということは疑いようがない事実である。 
4-3 文学思想に関して 
既述したように石川鴻齋の手による幽霊、冥界の話は蒲松齢の「聊齋誌異」の影響を受けており、いくつかのすじは「聊齋誌異」の模倣である。だが、文学思想に関しては蒲松齢とは異なっている。蒲松齢は清朝時代自らがいた環境のなかで輪廻転生や人々の間に広がっていた因果応報の観念などを通じて創作し、勧善懲悪を目的としていた。ただ、蒲松齢は存命の間に名をあげることはできず、悲憤の思いが表にでることはなかった。幽霊や冥界の怪異譚を借りて彼の考えを表して、人間性を風刺し、社会に対する種々の不満を書いた。 
他方、石川鴻齋は明治末期の儒者であり、当時は科学技術が新たな学問としてその立場を築いた時であった。石川は新たな学問についても知識を得ており、それ故に「夜窗鬼談」には理性なるものが比較的存在し、無神論に傾く点があった。前述した「縊鬼」は幽霊を疑うことを説き、「神経のせいだ」と幽霊を見る理由を解釈する。「鬼神論」上・下篇のなかでは、石川は鬼神のことは知るべきでないし、知る必要もなく、迷信を盲目的に信じてはいけないと述べる。石川は物語の中の怪異譚を借りて、迷信を打破し、道徳や教訓を伝えようとしたのである。ここにも儒学者としての道徳思想で人々を啓蒙しようという使命感を見ることができる。
5 おわりに 
最後に本稿をまとめておこう。「夜窗鬼談」の幽霊や冥界の話は、題材、プロット、創作意図、背景など「聊齋誌異」の影響を色々と受けているが、だが、その作品の雰囲気は異なる。「夜窗鬼談」の場合、物語を叙述するものの、幻想的なストーリー展開には重きを置いておらず、魑魅魍魎とした感じを出す意図もない。その物語の展開を通じて、または幽霊の話を通じて、世間の人々に人間として正しい道を示すものとなっている。 
創作意図の点で言えば、幽霊や冥界に対する姿勢にも違いがある。「聊齋誌異」も「夜窗鬼談」も勧善懲悪を基本的な考えとしているものの、石川は鬼神などの存在を信じておらず、その点は「鬼神論」や「哭鬼」などの作品からも伺える。儒教思想を用いて、鬼神について道徳的に捉え、合理的に理解し、最後は現実について考え、人間が追求すべき道を説く。それは修身を重ね愧じない生き方をすることであり、鬼神の理を強いて説く必要はなく、鬼神に媚びる必要はないというものである。それ故に「夜窗鬼談」の論じられている幽霊や冥界の話には道徳意識が出ており、その理性に基づいた表現は「聊齋誌異」よりも、とても強いものである。 
 
石童丸

 

昔々ある山奥のあ城にな、若くて、男ぶりのええ殿様えだけど。 
秋のある日、天気もええし、狩りに行ごうかと思って家来を、四、五人連れで、馬さのって山奥さ入って行ったけど。二里ぐらい歩い亡あたりの木の葉っこ落ぢで明るいどごさ、椿のやぶっこあったけど。 
殿様だちの気配を聞いで、椿のやぶっこががサがサど動いだので、殿様ぁすばやぐ弓矢を番えで、やぶを目がげて、ピューンと矢を放ったけど。 
したば、椿のやぶこがら、何がゴロンと飛びだしたけど。家来ぁ、早速その獲物を拾って殿様の前さ持って来たけど。その獲物はキツネだけど。まだ子ギツネだもんだがら、殿様はかわいそうだど思って、左のももさ刺さった矢を抜えで、家来がら手ぬぐえもらって、ケガしたキツネのももさまえで、「人のえだどごさ、出てくるもんでねえ、早ぐ逃げろ」って、やぶこさ放してやったけど。「何と優しい殿様だごど」と思いながらキツネは、見えねえどごさ逃げで行ったけど。んだども、年頃になった雌キツネは、優しい殿様どごさ恋してしまったど。そして、なんとがして、あの殿様のそばで暮らしでえど思うようになったけど。 
あれか一月も過ぎで、雪こチラホラ降って、寒い晩方だけど。殿様の家の裏木戸、トントントントンとただぐ人えだけど。「こんただ暗ぐなってがら、だれだべ一」と、女中頭そ〜っと覗いて見たば・…。 
 
年の頃、十七、八で身なりも悪ぐねぇ、顔もわりとえ顔した娘っこ寒そうにして立てだけど。 
「何か用だが」って女中頭聞いたば、「旅の者だども、今夜泊まるどごねぇ、一晩泊めでもらえねぇべが」って言ったけど。 
見たどころ、みすぼらしぐもねぇし、ええ顔してるし女中頭も「一晩くらいなばええべ、寒かべ、早く中さ入れ」って言って、その娘っこどご中さ入れで、まま食わせで、その晩ゆっくり休ませてやったど。 
そうして次の朝早く起ぎで、娘っこぁ、庭はぐんだが、台所そうじするんだが、女中だ起ぎできて、びっくりしたけど。 
「ゆうべは、どうもありがとうございました。旅籠賃(宿賃)もってないので、ここで働かせでけろ」って言ったもんだがら、女中頭も、この寒いのに朝早ぐ起ぎて掃除してもらえば助かる。と思ったので、 
「ええよ、ええよ、一日二日な」と言ったもんだがら、娘っこも、さっぱり出て行こうとしねぇんだど。 
働き者だべし、気がきぐべし、ぶりこもえべし、みんなにほめられ、一日二日が一年二年になってしまったけど。 
そうしてるうぢに、よく働くものだから、殿様の身の回りの世話をするようになったけど。殿様のそばでくらしたいと思っていたのが、本当に殿様の世話ができるようになったけど。娘っこしあわせで、しあわせでたまらなくなったど。 
 
毎朝殿様の髪結ってけだり、着がえの手伝いをしたり何んとよく気のつく娘っこなんもんで殿様もちょこっといたずらっこしてしまったど。 
そしたば、そのいたずらっこ本物になって、娘っこの腹っこプクッとはれて大きくなってたけど。 
さあお城が大さわぎになった。 
でも殿様、自分の不始末だがら、娘っこどご嫁にする事にしたど。 
殿様の奥方になったキツネは大喜び、これで一生殿様のそばでくらせると思ったど。 
そして間もな<、大きな男の子が生れだけど。殿様喜んで石童丸と名前つけだけど。 
石童丸も三歳になったけど。そんなある晩の事、殿様仕事から帰って、自分の部屋に入ろうとして、ギグッと立ちどまった。耳が二本生えた高島田がいねむりをして、ぐらぐらと動いている。 
そこから逃げるように、隣の部屋に入ってひと休みすると、そこには、かわいい石童丸がねでだけど。 
しばらくして、さっきの部屋にもどったら、目をさましたいつもの気のきく奥方になっていたそうな。 
次の朝、殿様は髪を結ってもらう時、手鏡をもって後ろの奥方を見たば、やっばりキツネが殿様の髪結いを一生懸命だったけど。 
今まで髪を結う時、絶対に手鏡をもたせねえがったので、殿様も不安な思いになってきた。 
奥方も殿様鏡っこもって後ろの方見だら、と不安之なった。 
今まで幸せだった、大すきな殿様どご騙してきたごどを悩むようになってきたけど。 
石童丸も手もかがらなぐなったし、山さ帰ろうが一、殿様ど石童丸と別れるのもつらいし、キツネの奥方悩んで、悩んで、苫しんで、気ちがいのようになってきたけど。 
 
ある晩の事、石童丸の母上は、殿様が仕事がら帰って来ないうちに、石童丸どご寝がせで、殿様のヌズリ箱もって来て、障子さ詩書えだけど。 
半分けものになりかげだから、あたまさ耳出できて、髪を振りみだして、手さ筆もでなぐなって、口さ筆きくわえて、すばらしい字で詩を書きあげだけど。 
そして、殿様帰って来ねえうじ、はだしで帯ひきずって、髪振りみだして、山さ帰って行ったけど。 
殿様帰って来て、障子の詩読んで、がっくりしたけど。来る時が来たな、と思ったので、かわいい石童丸どごば、まま母もらわねえで、大事に、大事に殿様そだでだけど。石童丸4、5歳之なったば、「友達の家にあ母様いるのも石童丸の母上どごさ行った」って聞かれで、殿様返事に困ったけど。 
武士の子に成長した時、殿様、今までの事みんな語って聞かせで、母上に会いに行ったけど。 
若い時殿様が狩りら行った山さ、石童丸をつれて行っよて母上!母上!って呼ばせて、殿様は遠くで待ってたど。 
石童丸が呼ぶと、椿のやぶの中から、きれいな母上が出てきて、石童丸をだいて泣えだけど。5、6年も見ないうちにりっぱな武士の子に成長した石童丸を見で、キツネの母上も安心して石童丸さ、「お前は、人間の子だがら、カエルを食ったり、ヘビを食ったり、殺生な事はするなよ」と言い聞かせ、泣きながら、椿のかげに消えで行ったそうだ。トッピンパラリのプ― (秋田県東成瀬村)  
 
ろくろ首

 

五百年ほど前に、九州菊池の侍臣に磯貝平太左衞門武連たけつらと云う人がいた。この人は代々武勇にすぐれた祖先からの遺伝で、生れながら弓馬の道に精しく非凡の力量をもっていた。未だ子供の時から劒道、弓術、槍術では先生よりもすぐれて、大胆で熟練な勇士の腕前を充分にあらわしていた。その後、永享年間(西暦一四二九―一四四一)の乱に武功をあらわして、ほまれを授かった事たびたびであった。しかし菊池家が滅亡に陥った時、磯貝は主家を失った。外の大名に使われる事も容易にできたのであったが、自分一身のために立身出世を求めようとは思わず、また以前の主人に心が残っていたので、彼は浮世を捨てる事にした。そして剃髪して僧となり――囘龍と名のって――諸国行脚に出かけた。  
しかし僧衣の下には、いつでも囘龍の武士の魂が生きていた。昔、危険をものともしなかったと同じく、今はまた難苦を顧みなかった。それで天気や季節に頓着なく、外の僧侶達のあえて行こうとしない処へ、聖い仏の道を説くために出かけた。その時代は暴戻乱雑の時代であった。それでたとえ僧侶の身でも、一人旅は安全ではなかった。  
始めての長い旅のうちに、囘龍は折があって、甲斐の国を訪れた。ある夕方の事、その国の山間を旅しているうちに、村から数理を離れた、はなはだ淋しい処で暗くなってしまった。そこで星の下で夜をあかす覚悟をして、路傍の適当な草地を見つけて、そこに臥して眠りにつこうとした。彼はいつも喜んで不自由を忍んだ。それで何も得られない時には、裸の岩は彼にとってはよい寝床になり、松の根はこの上もない枕となった。彼の肉体は鉄であった。露、雨、霜、雪になやんだ事は決してなかった。  
横になるや否や、斧と大きな薪の束を脊負うて道をたどって来る人があった。この木こりは横になっている囘龍を見て立ち止まって、しばらく眺めていたあとで、驚きの調子で云った。  
「こんなところで独りでねておられる方はそもそもどんな方でしょうか。……このあたりには変化へんげのものが出ます――たくさんに出ます。あなたは魔物を恐れませんか」  
囘龍は快活に答えた、「わが友、わしはただの雲水じゃ。それゆえ少しも魔物を恐れない、――たとえ化け狐であれ、化け狸であれ、その外何の化けであれ。淋しい処は、かえって好む処、そん処は黙想をするのによい。わしは大空のうちに眠る事に慣れておる、それから、わしのいのちについて心配しないように修業を積んで来た」  
「こんな処に、お休みになる貴僧は、全く大胆な方に相違ない。ここは評判のよくない――はなはだよくない処です。「君子危うきに近よらず」と申します。実際こんな処でお休みになる事ははなはだ危険です。私の家はひどいあばらやですが、御願です、一緒に来て下さい。喰べるものと云っては、さし上げるようなものはありません。が、とにかく屋根がありますから安心してねられます」  
熱心に云うので、囘龍はこの男の親切な調子が気に入って、この謙遜な申出を受けた。きこりは往来から分れて、山の森の間の狭い道を案内して上って行った。凸凹の危険な道で、――時々断崖の縁を通ったり、――時々足の踏み場処としては、滑りやすい木の根のからんだものだけであったり、――時々尖った大きな岩の上、または間をうねりくねったりして行った。しかし、ようやく囘龍はある山の頂きの平らな場所へ来た。満月が頭上を照らしていた。見ると自分の前に小さな草ふき屋根の小屋があって、中からは陽気な光がもれていた。きこりは裏口から案内したが、そこへは近処の流れから、竹の筧で水を取ってあった。それから二人は足を洗った。小屋の向うは野菜畠につづいて、竹藪と杉の森になっていた。それからその森の向うに、どこか遥かに高い処から落ちている滝が微かに光って、長い白い着物のように、月光のうちに動いているのが見えた。  
囘龍が案内者と共に小屋に入った時、四人の男女が炉にもやした小さな火で手を暖めているのを見た。僧に向って丁寧にお辞儀をして、最も恭しき態度で挨拶を云った。囘龍はこんな淋しい処に住んでいるこんな貧しい人々が、上品な挨拶の言葉を知っている事を不思議に思った。「これはよい人々だ」彼は考えた「誰かよく礼儀を知っている人から習ったに相違ない」それから外のものが「あるじ」と云っているその主人に向って云った。  
「その親切な言葉や、皆さんから受けたはなはだ丁寧なもてなしから、私はあなたを初めからのきこりとは思われない。たぶん以前は身分のある方でしたろう」  
きこりは微笑しながら答えた。  
「はい、その通りでございます。ただ今は御覧の通りのくらしをしていますが、昔は相当の身分でした。私の一代記は、自業自得で零落したものの一代記です。私はある大名に仕えて、重もい役を務めていました。しかし余りに酒色に耽って、心が狂ったために悪い行をいたしました。自分の我儘から家の破滅を招いて、たくさんの生命を亡ぼす原因をつくりました。その罸があたって、私は長い間この土地に亡命者となっていました。今では何か私の罪ほろぼしができて、祖先の家名を再興する事のできるようにと、祈っています。しかしそう云う事もできそうにありません。ただ、真面目な懺悔をして、できるだけ不幸な人々を助けて、私の悪業の償いをしたいと思っております」  
囘龍はこのよい決心の告白をきいて喜んで主人に云った、  
「若い時につまらぬ事をした人が、後になって非常に熱心に正しい行をするようになる事を、これまでわしは見ています。悪に強い人は、決心の力で、また、善にも強くなる事は御経にも書いてあります。御身は善い心の方である事は疑わない。それでどうかよい運を御身の方へ向わせたい。今夜は御身のために読経をして、これまでの悪業に打ち勝つ力を得られる事を祈りましょう」  
こう云ってから囘龍は主人に「お休みなさい」を云った。主人は極めて小さな部屋へ案内した。そこには寝床がのべてあった。それから一同眠りについたが、囘龍だけは行燈のあかりのわきで読経を始めた。おそくまで読経勤行に余念はなかった。それからこの小さな寝室の窓をあけて、床につく前に、最後に風景を眺めようとした。夜は美しかった。空には雲もなく、風もなかった。強い月光は樹木のはっきりした黒影を投げて、庭の露の上に輝いていた。きりぎりすや鈴虫の鳴き声は、騒がしい音楽となっていた。近所の滝の音は夜のふけるに随って深くなった。囘龍は水の音を聴いていると、渇きを覚えた。それで家の裏の筧を想い出して、眠っている家人の邪魔をしないで、そこへ出て水を飲もうとした。襖をそっとあけた。そうして、行燈のあかりで、五人の横臥したからだを見たが、それにはいずれも頭がなかった。  
直ちに――何か犯罪を想像しながら――彼はびっくりして立った。しかし、つぎに彼はそこに血の流れていない事と、頭は斬られたようには見えない事に気がついた。それから彼は考えた。「これは妖怪に魅ばかされたか、あるいは自分はろくろ首の家におびきよせられたのだ。……「捜神記」に、もし首のない胴だけのろくろ首を見つけて、その胴を別の処にうつしておけば、首は決して再びもとの胴へは帰らないと書いてある。それから更にその書物に、首が帰って来て、胴が移してある事をさとれば、その首は毬のようにはねかえりながら三度地を打って、――非常に恐れて喘ぎながら、やがて死ぬと書いてある。ところで、もしこれがろくろ首なら、禍をなすものゆえ、――その書物の教え通りにしても差支はなかろう」……  
彼は主人の足をつかんで、窓まで引いて来て、からだを押し出した。それから裏口に来てみると戸が締っていた。それで彼は首は開いていた屋根の煙出しから出て行った事を察した。静かに戸を開けて庭に出て、向うの森の方へできるだけ用心して進んだ。森の中で話し声が聞えた、それでよい隠れ場所を見つけるまで影から影へと忍びながら――声の方向へ行った。そこで、一本の樹の幹のうしろから首が――五つとも――飛びって、そして飛びりながら談笑しているのを見た。首は地の上や樹の間で見つけた虫類を喰べていた。やがて主人の首が喰べる事を止めて云った、  
「ああ、今夜来たあの旅の僧、――全身よく肥えているじゃないか、あれを皆で喰べたら、さぞ満腹する事であろう。……あんな事を云って、つまらない事をした、――だからおれの魂のために、読経をさせる事になってしまった。経をよんでいるうちは近よる事がむつかしい。称名を唱えている間は手を下す事はできない。しかしもう今は朝に近いから、たぶん眠ったろう。……誰かうちへ行って、あれが何をしているか見届けて来てくれないか」  
一つの首――若い女の首――が直ちに立ち上って蝙蝠のように軽く、家の方へ飛んで行った。数分の後、帰って来て、大驚愕の調子で、しゃがれ声で叫んだ、  
「あの旅僧はうちにいません、――行ってしまいました。それだけではありません。もっとひどい事には、主人の体を取って行きました。どこへ置いて行ったか分りません」  
この報告を聞いて、主人の首が恐ろしい様子になった事は月の光で判然と分った。眼は大きく開いた、髪は逆立った、歯は軋きしった。それから一つの叫びが唇から破裂した、忿怒の涙を流しながらどなった、  
「からだを動かされた以上、再びもと通りになる事はできない。死なねばならない。……皆これがあの僧の仕業だ。死ぬ前にあの僧に飛びついてやろう、――引き裂いてやろう、――喰いつくしてやろう。……ああ、あすこに居る――あの樹のうしろ――あの樹のうしろに隠れている。あれ、――あの肥ふとた臆病者」……  
同時に主人の首は他の四つの首を随えて、囘龍に飛びかかった。しかし強い僧は手ごろの若木を引きぬいて武器とし、それを打ちふって首をなぐりつけ、恐ろしい力でなぎたててよせつけなかった。四つの首は逃げ去った。しかし、主人の首だけは、いかに乱打されても、必死となって僧に飛びついて、最後に衣の左の袖に喰いついた。しかし囘龍の方でも素早くまげをつかんでその首を散々になぐった。どうしても袖からは離れなかったが、しかし長い呻きをあげて、それからもがくことを止めた。死んだのであった。しかしその歯はやはり袖に喰いついていた。そして囘龍のありたけの力をもってしても、その顎を開かせる事はできなかった。  
彼はその袖に首をつけたままで、家へ戻った。そこには、傷だらけ、血だらけの頭が胴に帰って、四人のろくろ首が坐っているのを見た。裏の戸口に僧を認めて一同は「僧が来た、僧が」と叫んで反対の戸口から森の方へ逃げ出した。  
東の方が白んで来て夜は明けかかった。囘龍は化物の力も暗い時だけに限られている事を知っていた。袖についている首を見た――顔は血と泡と泥とで汚れていた。そこで「化物の首とは――何と云うみやげだろう」と考えて大声に笑った。それからわずかの所持品をまとめて、行脚をつづけるために、徐ろに山を下った。  
直ちに旅をつづけて、やがて信州諏訪へ来た。諏訪の大通りを、肘に首をぶら下げたまま、堂々と濶歩していた。女は気絶し、子供は叫んで逃げ出した。余りに人だかりがして騒ぎになったので、捕吏とりてが来て、僧を捕えて牢へ連れて行った。その首は殺された人の首で、殺される時、相手の袖に喰いついたものと考えたからであった。囘龍の方では問われた時に微笑ばかりして何にも云わなかった。それから一夜を牢屋ですごしてから、その土地の役人の前に引き出された。それから、どうして僧侶の身分として袖に人の首をつけているか、なぜ衆人の前で厚顔にも自分の罪悪の見せびらかしをあえてするか、説明するように命ぜられた。  
囘龍はこの問に対して長く大声で笑った、それから云った、  
「皆様、愚僧が袖に首をつけたのではなく、首の方から来てそこへついたので――愚僧迷惑至極に存じております。それから愚僧は何の罪をも犯しません。これは人間の首でなく、化物の首でございます、――それから化物が死んだのは、愚僧が自分の安全を計るために必要な用心をしただけのことからで、血を流して殺したのではございません」……それから彼は更に、全部の冒険談を物語って、五つの首との会戦の話に及んだ時、また一つ大笑いをした。  
しかし、役人達は笑わなかった。これは剛腹頑固な罪人で、この話は人を侮辱したものと考えた。それでそれ以上詮索しないで、一同は直ちに死刑の処分をする事にきめたが、一人の老人だけは反対した。この老いた役人は審問の間には何も云わなかったが、同僚の意見を聞いてから、立ち上って云った、「まず首をよく調べましょう、これが未だすんでいないようだから。もしこの僧の云う事が本当なら、首を見れば分る。……首をここへ持って来い」  
囘龍の背中からぬき取った衣にかみついている首は、裁判官達の前に置かれた。老人はそれを幾度もして、注意深くそれを調べた。そして頸の項うなじにいくつかの妙な赤い記号らしいものを発見した。その点へ同僚の注意を促した。それから頸の一端がどこにも武器で斬られたらしい跡のない事を見せた。かえって落葉が軸から自然に離れたように、その頸の断面は滑らかであった。……そこで老人は云った、  
「僧の云った事は全く本当としか思われない。これはろくろ首だ。「南方異物志」に、本当のろくろ首の項うなじの上には、いつでも一種の赤い文字が見られると書いてある。そこに文字がある。それはあとで書いたのではない事が分る。その上甲斐の国の山中にはよほど昔から、こんな怪物が住んでおる事はよく知られておる。……しかし」囘龍の方へ向いて、老人は叫んだ――「あなたは何と強勇なお坊さんでしょう。たしかにあなたは坊さんには珍らしい勇気を示しました。あなたは坊さんよりは、武士の風がありますな。たぶんあなたの前身は武士でしょう」  
「いかにもお察しの通り」と囘龍は答えた。「剃髪の前は、久しく弓矢取る身分であったが、その頃は人間も悪魔も恐れませんでした。当時は九州磯貝平太左衞門武連と名のっていましたが、その名を御記憶の方もあるいはございましょう」  
その名前を名のられて、感嘆のささやきが、その法廷に満ちた。その名を覚えている人が多数居合せたからであった。それからこれまでの裁判官達は、たちまち友人となって、兄弟のような親切をつくして感嘆を表わそうとした。恭しく国守の屋敷まで護衛して行った。そこでさまざまの歓待饗応をうけ、褒賞を賜わった後、ようやく退出を許された。面目身に余った囘龍が諏訪を出た時は、このはかない娑婆世界でこの僧ほど、幸福な僧はないと思われた。首はやはり携えて行った――みやげにすると戯れながら。  
さて、首はその後どうなったか、その話だけ残っている。  
諏訪を出て一両日のあと、囘龍は淋しい処で一人の盗賊に止められて、衣類を脱ぐ事を命ぜられた。囘龍は直ちに衣ころもを脱して盗賊に渡した。盗賊はその時、始めて袖にかかっているものに気がついた。さすがの追剥ぎも驚いて、衣ころもを取り落して、飛び退いた。それから叫んだ、「やあ、こりゃとんでもない坊さんだ。おれよりもっと悪党だね。おれも実際これまで人を殺した事はある、しかし袖に人の首をつけて歩いた事はない。……よし、お坊さん、こりゃおれ達は同じ商売仲間だぜ、どうしてもおれは感心せずには居られない。ところで、その首はおれの役に立ちそうだ。おれはそれで人をおどかすんだね。売ってくれないか。おれのきものと、この衣ころもと取り替えよう、それから首の方は五両出す」  
囘龍は答えた、  
「お前が是非と云うなら、首も衣も上げるが、実はこれは人間の首じゃない。化物の首だ。それで、これを買って、そのために困っても、わしのために欺かれたと思ってはいけない」  
「面白い坊さんだね」追剥ぎが叫んだ。「人を殺してそれを冗談にしているのだから、……しかし、おれは全く本気なんだ。さあ、きものはここ、それからお金はここにある。――それから首を下さい。……何もふざけなくってもよかろう」  
「さあ、受け取るがよい」囘龍は云った。「わしは少しもふざけていない。何かおかしい事でももしあれば、それはお前がお化けの首を、大金で買うのが馬鹿げていてはおかしいと云う事だけさ」それから囘龍は大笑をして去った。  
こんなにして盗賊は首と、衣を手に入れてしばらく、お化の僧となって追剥ぎをして歩るいた。しかし諏訪の近傍へ来て、彼は首の本当の話を聞いた。それからろくろ首の亡霊の祟りが恐ろしくなって来た。そこでもとの場所へ、その首をかえして、体と一緒に葬ろうと決心した。彼は甲斐の山中の淋しい小屋へ行く道を見つけたが、そこには誰もいなかった。体も見つからなかった。そこで首だけを小屋のうしろの森に埋めた。それからこのろくろ首の亡霊のために施餓鬼を行った。そしてろくろ首の塚として知られている塚は今日もなお見られる。(とにかく、日本の作者はそう公言する)  
   ROKURO-KUBI 小泉八雲 
 
雪女

 

武蔵の国のある村に茂作、巳之吉と云う二人の木こりがいた。この話のあった時分には、茂作は老人であった。そして、彼の年季奉公人であった巳之吉は、十八の少年であった。毎日、彼等は村から約二里離れた森へ一緒に出かけた。その森へ行く道に、越さねばならない大きな河がある。そして、渡し船がある。渡しのある処にたびたび、橋が架けられたが、その橋は洪水のあるたびごとに流された。河の溢れる時には、普通の橋では、その急流を防ぐ事はできない。  
茂作と巳之吉はある大層寒い晩、帰り途で大吹雪に遇った。渡し場に着いた、渡し守は船を河の向う側に残したままで、帰った事が分った。泳がれるような日ではなかった。それで木こりは渡し守の小屋に避難した――避難処の見つかった事を僥倖に思いながら。小屋には火鉢はなかった。火をたくべき場処もなかった。窓のない一方口の、二畳敷の小屋であった。茂作と巳之吉は戸をしめて、蓑をきて、休息するために横になった。初めのうちはさほど寒いとも感じなかった。そして、嵐はじきに止むと思った。  
老人はじきに眠りについた。しかし、少年巳之吉は長い間、目をさましていて、恐ろしい風や戸にあたる雪のたえない音を聴いていた。河はゴウゴウと鳴っていた。小屋は海上の和船のようにゆれて、ミシミシ音がした。恐ろしい大吹雪であった。空気は一刻一刻、寒くなって来た、そして、巳之吉は蓑の下でふるえていた。しかし、とうとう寒さにも拘らず、彼もまた寝込んだ。  
彼は顔に夕立のように雪がかかるので眼がさめた。小屋の戸は無理押しに開かれていた。そして雪明かりで、部屋のうちに女、――全く白装束の女、――を見た。その女は茂作の上に屈んで、彼に彼女の息をふきかけていた、――そして彼女の息はあかるい白い煙のようであった。ほとんど同時に巳之吉の方へ振り向いて、彼の上に屈んだ。彼は叫ぼうとしたが何の音も発する事ができなかった。白衣の女は、彼の上に段々低く屈んで、しまいに彼女の顔はほとんど彼にふれるようになった、そして彼は――彼女の眼は恐ろしかったが――彼女が大層綺麗である事を見た。しばらく彼女は彼を見続けていた、――それから彼女は微笑した、そしてささやいた、――『私は今ひとりの人のように、あなたをしようかと思った。しかし、あなたを気の毒だと思わずにはいられない、――あなたは若いのだから。……あなたは美少年ね、巳之吉さん、もう私はあなたを害しはしません。しかし、もしあなたが今夜見た事を誰かに――あなたの母さんにでも――云ったら、私に分ります、そして私、あなたを殺します。……覚えていらっしゃい、私の云う事を』  
そう云って、向き直って、彼女は戸口から出て行った。その時、彼は自分の動ける事を知って、飛び起きて、外を見た。しかし、女はどこにも見えなかった。そして、雪は小屋の中へ烈しく吹きつけていた。巳之吉は戸をしめて、それに木の棒をいくつか立てかけてそれを支えた。彼は風が戸を吹きとばしたのかと思ってみた、――彼はただ夢を見ていたかもしれないと思った。それで入口の雪あかりの閃きを、白い女の形と思い違いしたのかもしれないと思った。しかもそれもたしかではなかった。彼は茂作を呼んでみた。そして、老人が返事をしなかったので驚いた。彼は暗がりへ手をやって茂作の顔にさわってみた。そして、それが氷である事が分った。茂作は固くなって死んでいた。……  
あけ方になって吹雪は止んだ。そして日の出の後少ししてから、渡し守がその小屋に戻って来た時、茂作の凍えた死体の側に、巳之吉が知覚を失うて倒れているのを発見した。巳之吉は直ちに介抱された、そして、すぐに正気に帰った、しかし、彼はその恐ろしい夜の寒さの結果、長い間病んでいた。彼はまた老人の死によってひどく驚かされた。しかし、彼は白衣の女の現れた事については何も云わなかった。再び、達者になるとすぐに、彼の職業に帰った、――毎朝、独りで森へ行き、夕方、木の束をもって帰った。彼の母は彼を助けてそれを売った。  
翌年の冬のある晩、家に帰る途中、偶然同じ途を旅している一人の若い女に追いついた。彼女は背の高い、ほっそりした少女で、大層綺麗であった。そして巳之吉の挨拶に答えた彼女の声は歌う鳥の声のように、彼の耳に愉快であった。それから、彼は彼女と並んで歩いた、そして話をし出した。少女は名は「お雪」であると云った。それからこの頃両親共なくなった事、それから江戸へ行くつもりである事、そこに何軒か貧しい親類のある事、その人達は女中としての地位を見つけてくれるだろうと云う事など。巳之吉はすぐにこの知らない少女になつかしさを感じて来た、そして見れば見るほど彼女が一層綺麗に見えた。彼は彼女に約束の夫があるかと聞いた、彼女は笑いながら何の約束もないと答えた。それから、今度は、彼女の方で巳之吉は結婚しているか、あるいは約束があるかと尋ねた、彼は彼女に、養うべき母が一人あるが、お嫁の問題は、まだ自分が若いから、考えに上った事はないと答えた。……こんな打明け話のあとで、彼等は長い間ものを云わないで歩いた、しかし諺にある通り『気があれば眼も口ほどにものを云い』であった。村に着く頃までに、彼等はお互に大層気に入っていた。そして、その時巳之吉はしばらく自分の家で休むようにとお雪に云った。彼女はしばらくはにかんでためらっていたが、彼と共にそこへ行った。そして彼の母は彼女を歓迎して、彼女のために暖かい食事を用意した。お雪の立居振舞は、そんなによかったので、巳之吉の母は急に好きになって、彼女に江戸への旅を延ばすように勧めた。そして自然の成行きとして、お雪は江戸へは遂に行かなかった。彼女は「お嫁」としてその家にとどまった。  
お雪は大層よい嫁である事が分った。巳之吉の母が死ぬようになった時――五年ばかりの後――彼女の最後の言葉は、彼女の嫁に対する愛情と賞賛の言葉であった、――そしてお雪は巳之吉に男女十人の子供を生んだ、――皆綺麗な子供で色が非常に白かった。  
田舎の人々はお雪を、生れつき自分等と違った不思議な人と考えた。大概の農夫の女は早く年を取る、しかしお雪は十人の子供の母となったあとでも、始めて村へ来た日と同じように若くて、みずみずしく見えた。  
ある晩子供等が寝たあとで、お雪は行燈の光で針仕事をしていた。そして巳之吉は彼女を見つめながら云った、――  
『お前がそうして顔にあかりを受けて、針仕事をしているのを見ると、わしが十八の少年の時遇った不思議な事が思い出される。わしはその時、今のお前のように綺麗なそして色白な人を見た。全く、その女はお前にそっくりだったよ』……  
仕事から眼を上げないで、お雪は答えた、――  
『その人の話をしてちょうだい。……どこでおあいになったの』  
そこで巳之吉は渡し守の小屋で過ごした恐ろしい夜の事を彼女に話した、――そして、にこにこしてささやきながら、自分の上に屈んだ白い女の事、――それから、茂作老人の物も云わずに死んだ事。そして彼は云った、――  
『眠っている時にでも起きている時にでも、お前のように綺麗な人を見たのはその時だけだ。もちろんそれは人間じゃなかった。そしてわしはその女が恐ろしかった、――大変恐ろしかった、――がその女は大変白かった。……実際わしが見たのは夢であったかそれとも雪女であったか、分らないでいる』……  
お雪は縫物を投げ捨てて立ち上って巳之吉の坐っている処で、彼の上に屈んで、彼の顔に向って叫んだ、――  
『それは私、私、私でした。……それは雪でした。そしてその時あなたが、その事を一言でも云ったら、私はあなたを殺すと云いました。……そこに眠っている子供等がいなかったら、今すぐあなたを殺すのでした。でも今あなたは子供等を大事に大事になさる方がいい、もし子供等があなたに不平を云うべき理由でもあったら、私はそれ相当にあなたを扱うつもりだから』……  
彼女が叫んでいる最中、彼女の声は細くなって行った、風の叫びのように、――それから彼女は輝いた白い霞となって屋根の棟木の方へ上って、それから煙出しの穴を通ってふるえながら出て行った。……もう再び彼女は見られなかった。  
   YUKI-ONNA 小泉八雲  
 
貉 (むじな)

 

東京の、赤坂への道に紀国坂という坂道がある――これは紀伊の国の坂という意である。何故それが紀伊の国の坂と呼ばれているのか、それは私の知らない事である。この坂の一方の側には昔からの深い極わめて広い濠ほりがあって、それに添って高い緑の堤が高く立ち、その上が庭地になっている、――道の他の側には皇居の長い宏大な塀が長くつづいている。街灯、人力車の時代以前にあっては、その辺は夜暗くなると非常に寂しかった。ためにおそく通る徒歩者は、日没後に、ひとりでこの紀国坂を登るよりは、むしろ幾哩もり道をしたものである。  
これは皆、その辺をよく歩いた貉のためである。  
貉を見た最後の人は、約三十年前に死んだ京橋方面の年とった商人であった。当人の語った話というのはこうである、――  
この商人がある晩おそく紀国坂を急いで登って行くと、ただひとり濠ほりの縁ふちに踞かがんで、ひどく泣いている女を見た。身を投げるのではないかと心配して、商人は足をとどめ、自分の力に及ぶだけの助力、もしくは慰藉を与えようとした。女は華奢な上品な人らしく、服装みなりも綺麗であったし、それから髪は良家の若い娘のそれのように結ばれていた。――『お女中』と商人は女に近寄って声をかけた――『お女中、そんなにお泣きなさるな!……何がお困りなのか、私に仰しゃい。その上でお助けをする道があれば、喜んでお助け申しましょう』(実際、男は自分の云った通りの事をする積りであった。何となれば、この人は非常に深切な人であったから。)しかし女は泣き続けていた――その長い一方の袖を以て商人に顔を隠して。『お女中』と出来る限りやさしく商人は再び云った――『どうぞ、どうぞ、私の言葉を聴いて下さい!……ここは夜若い御婦人などの居るべき場処ではありません! 御頼み申すから、お泣きなさるな!――どうしたら少しでも、お助けをする事が出来るのか、それを云って下さい!』徐ろに女は起ち上ったが、商人には背中を向けていた。そしてその袖のうしろで呻き咽びつづけていた。商人はその手を軽く女の肩の上に置いて説き立てた――『お女中!――お女中!――お女中! 私の言葉をお聴きなさい。ただちょっとでいいから!……お女中!――お女中!』……するとそのお女中なるものは向きかえった。そしてその袖を下に落し、手で自分の顔を撫でた――見ると目も鼻も口もない――きゃッと声をあげて商人は逃げ出した。  
一目散に紀国坂をかけ登った。自分の前はすべて真暗で何もない空虚であった。振り返ってみる勇気もなくて、ただひた走りに走りつづけた挙句、ようよう遥か遠くに、蛍火の光っているように見える提灯を見つけて、その方に向って行った。それは道側みちばたに屋台を下していた売り歩く蕎麦屋の提灯に過ぎない事が解った。しかしどんな明かりでも、どんな人間の仲間でも、以上のような事に遇った後には、結構であった。商人は蕎麦売りの足下に身を投げ倒して声をあげた『ああ!――ああ――ああ!!!』……  
『これ! これ!』と蕎麦屋はあらあらしく叫んだ『これ、どうしたんだ? 誰れかにやられたのか?』  
『否いや、――誰れにもやられたのではない』と相手は息を切らしながら云った――『ただ……ああ!――ああ!』……  
『――ただおどかされたのか?』と蕎麦売りはすげなく問うた『盗賊どろぼうにか?』  
『盗賊どろぼうではない――盗賊どろぼうではない』とおじけた男は喘ぎながら云った『私は見たのだ……女を見たのだ――濠の縁ふちで――その女が私に見せたのだ……ああ! 何を見せたって、そりゃ云えない』……  
『へえ! その見せたものはこんなものだったか?』と蕎麦屋は自分の顔を撫でながら云った――それと共に、蕎麦売りの顔は卵のようになった……そして同時に灯火は消えてしまった。  
   MUJINA 小泉八雲 
 
耳無芳一

 

七百年以上も昔の事、下ノ関海峡の壇ノ浦で、平家すなわち平族と、源氏すなわち源族との間の、永い争いの最後の戦闘が戦われた。この壇ノ浦で平家は、その一族の婦人子供ならびにその幼帝――今日安徳天皇として記憶されている――と共に、まったく滅亡した。そうしてその海と浜辺とは七百年間その怨霊に祟られていた……他の個処で私はそこに居る平家蟹という不思議な蟹の事を読者諸君に語った事があるが、それはその背中が人間の顔になっており、平家の武者の魂であると云われているのである。しかしその海岸一帯には、たくさん不思議な事が見聞きされる。闇夜には幾千となき幽霊火が、水うち際にふわふわさすらうか、もしくは波の上にちらちら飛ぶ――すなわち漁夫の呼んで鬼火すなわち魔の火と称する青白い光りである。そして風の立つ時には大きな叫び声が、戦の叫喚のように、海から聞えて来る。  
平家の人達は以前は今よりも遥かに焦慮もがいていた。夜、漕ぎ行く船のほとりに立ち顕れ、それを沈めようとし、また水泳する人をたえず待ち受けていては、それを引きずり込もうとするのである。これ等の死者を慰めるために建立されたのが、すなわち赤間ヶ関の仏教の御寺なる阿彌陀寺であったが、その墓地もまた、それに接して海岸に設けられた。そしてその墓地の内には入水された皇帝と、その歴歴の臣下との名を刻みつけた幾箇かの石碑が立てられ、かつそれ等の人々の霊のために、仏教の法会がそこで整然ちゃんと行われていたのである。この寺が建立され、その墓が出来てから以後、平家の人達は以前よりも禍いをする事が少くなった。しかしそれでもなお引き続いておりおり、怪しい事をするのではあった――彼等が完き平和を得ていなかった事の証拠として。  
幾百年か以前の事、この赤間ヶ関に芳一という盲人が住んでいたが、この男は吟誦して、琵琶を奏するに妙を得ているので世に聞えていた。子供の時から吟誦し、かつ弾奏する訓練を受けていたのであるが、まだ少年の頃から、師匠達を凌駕していた。本職の琵琶法師としてこの男は重もに、平家及び源氏の物語を吟誦するので有名になった、そして壇ノ浦の戦の歌を謡うと鬼神すらも涙をとどめ得なかったという事である。  
芳一には出世の首途かどでの際、はなはだ貧しかったが、しかし助けてくれる深切な友があった。すなわち阿彌陀寺の住職というのが、詩歌や音楽が好きであったので、たびたび芳一を寺へ招じて弾奏させまた、吟誦さしたのであった。後になり住職はこの少年の驚くべき技倆にひどく感心して、芳一に寺をば自分の家とするようにと云い出したのであるが、芳一は感謝してこの申し出を受納した。それで芳一は寺院の一室を与えられ、食事と宿泊とに対する返礼として、別に用のない晩には、琵琶を奏して、住職を悦ばすという事だけが注文されていた。  
ある夏の夜の事、住職は死んだ檀家の家で、仏教の法会を営むように呼ばれたので、芳一だけを寺に残して納所を連れて出て行った。それは暑い晩であったので、盲人芳一は涼もうと思って、寝間の前の縁側に出ていた。この縁側は阿彌陀寺の裏手の小さな庭を見下しているのであった。芳一は住職の帰来を待ち、琵琶を練習しながら自分の孤独を慰めていた。夜半も過ぎたが、住職は帰って来なかった。しかし空気はまだなかなか暑くて、戸の内ではくつろぐわけにはいかない、それで芳一は外に居た。やがて、裏門から近よって来る跫音が聞えた。誰れかが庭を横断して、縁側の処へ進みより、芳一のすぐ前に立ち止った――が、それは住職ではなかった。底力のある声が盲人の名を呼んだ――出し抜けに、無作法に、ちょうど、侍が下下したじたを呼びつけるような風に――  
『芳一!』  
芳一はあまりに吃驚びっくりしてしばらくは返事も出なかった、すると、その声は厳しい命令を下すような調子で呼ばわった――  
『芳一!』  
『はい!』と威嚇する声に縮み上って盲人は返事をした――『私は盲目で御座います!――どなたがお呼びになるのか解りません!』  
見知らぬ人は言葉をやわらげて言い出した、『何も恐わがる事はない、拙者はこの寺の近処に居るもので、お前の許とこへ用を伝えるように言いつかって来たものだ。拙者の今の殿様と云うのは、大した高い身分の方で、今、たくさん立派な供をつれてこの赤間ヶ関に御滞在なされているが、壇ノ浦の戦場を御覧になりたいというので、今日、そこを御見物になったのだ。ところで、お前がその戦争いくさの話を語るのが、上手だという事をお聞きになり、お前のその演奏をお聞きになりたいとの御所望である、であるから、琵琶をもち即刻拙者と一緒に尊い方方の待ち受けておられる家へ来るが宜い』  
当時、侍の命令と云えば容易に、反くわけにはいかなかった。で、芳一は草履をはき琵琶をもち、知らぬ人と一緒に出て行ったが、その人は巧者に芳一を案内して行ったけれども、芳一はよほど急ぎ足で歩かなければならなかった。また手引きをしたその手は鉄のようであった。武者の足どりのカタカタいう音はやがて、その人がすっかり甲冑を著けている事を示した――定めし何か殿居とのいの衛士ででもあろうか、芳一の最初の驚きは去って、今や自分の幸運を考え始めた――何故かというに、この家来の人の「大した高い身分の人」と云った事を思い出し、自分の吟誦を聞きたいと所望された殿様は、第一流の大名に外ならぬと考えたからである。やがて侍は立ち止った。芳一は大きな門口に達したのだと覚った――ところで、自分は町のその辺には、阿彌陀寺の大門を外にしては、別に大きな門があったとは思わなかったので不思議に思った。「開門!」と侍は呼ばわった――すると閂を抜く音がして、二人は這入って行った。二人は広い庭を過ぎ再びある入口の前で止った。そこでこの武士は大きな声で「これ誰れか内のもの! 芳一を連れて来た」と叫んだ。すると急いで歩く跫音、襖のあく音、雨戸の開く音、女達の話し声などが聞えて来た。女達の言葉から察して、芳一はそれが高貴な家の召使である事を知った。しかしどういう処へ自分は連れられて来たのか見当が付かなかった。が、それをとにかく考えている間もなかった。手を引かれて幾箇かの石段を登ると、その一番最後しまいの段の上で、草履をぬげと云われ、それから女の手に導かれて、拭ふき込んだ板鋪のはてしのない区域を過ぎ、覚え切れないほどたくさんな柱の角をり、驚くべきほど広い畳を敷いた床を通り――大きな部屋の真中に案内された。そこに大勢の人が集っていたと芳一は思った。絹のすれる音は森の木の葉の音のようであった。それからまた何んだかガヤガヤ云っている大勢の声も聞えた――低音で話している。そしてその言葉は宮中の言葉であった。  
芳一は気楽にしているようにと云われ、座蒲団が自分のために備えられているのを知った。それでその上に座を取って、琵琶の調子を合わせると、女の声が――その女を芳一は老女すなわち女のする用向きを取り締る女中頭だと判じた――芳一に向ってこう言いかけた――  
『ただ今、琵琶に合わせて、平家の物語を語っていただきたいという御所望に御座います』  
さてそれをすっかり語るのには幾晩もかかる、それ故芳一は進んでこう訊ねた――  
『物語の全部は、ちょっとは語られませぬが、どの条下くさりを語れという殿様の御所望で御座いますか?』  
女の声は答えた――  
『壇ノ浦の戦いくさの話をお語りなされ――その一条下ひとくさりが一番哀れの深い処で御座いますから』  
芳一は声を張り上げ、烈しい海戦の歌をうたった――琵琶を以て、あるいは橈を引き、船を進める音を出さしたり、はッしと飛ぶ矢の音、人々の叫ぶ声、足踏みの音、兜にあたる刃の響き、海に陥る打たれたもの音等を、驚くばかりに出さしたりして。その演奏の途切れ途切れに、芳一は自分の左右に、賞讃の囁く声を聞いた、――「何という巧うまい琵琶師だろう!」――「自分達の田舎ではこんな琵琶を聴いた事がない!」――「国中に芳一のような謡い手はまたとあるまい!」するといっそう勇気が出て来て、芳一はますますうまく弾きかつ謡った。そして驚きのため周囲は森としてしまった。しかし終りに美人弱者の運命――婦人と子供との哀れな最期――双腕に幼帝を抱き奉った二位の尼の入水を語った時には――聴者はことごとく皆一様に、長い長い戦おののき慄える苦悶の声をあげ、それから後というもの一同は声をあげ、取り乱して哭き悲しんだので、芳一は自分の起こさした悲痛の強烈なのに驚かされたくらいであった。しばらくの間はむせび悲しむ声が続いた。しかし、おもむろに哀哭の声は消えて、またそれに続いた非常な静かさの内に、芳一は老女であると考えた女の声を聞いた。  
その女はこう云った――  
『私共は貴方が琵琶の名人であって、また謡う方でも肩を並べるもののない事は聞き及んでいた事では御座いますが、貴方が今晩御聴かせ下すったようなあんなお腕前をお有ちになろうとは思いも致しませんでした。殿様には大層御気に召し、貴方に十分な御礼を下さる御考えである由を御伝え申すようにとの事に御座います。が、これから後六日の間毎晩一度ずつ殿様の御前ごぜんで演奏わざをお聞きに入れるようとの御意に御座います――その上で殿様にはたぶん御帰りの旅に上られる事と存じます。それ故明晩も同じ時刻に、ここへ御出向きなされませ。今夜、貴方を御案内いたしたあの家来が、また、御迎えに参るで御座いましょう……それからも一つ貴方に御伝えするように申しつけられた事が御座います。それは殿様がこの赤間ヶ関に御滞在中、貴方がこの御殿に御上りになる事を誰れにも御話しにならぬようとの御所望に御座います。殿様には御忍びの御旅行ゆえ、かような事はいっさい口外致さぬようにとの御上意によりますので。……ただ今、御自由に御坊に御帰りあそばせ』  
芳一は感謝の意を十分に述べると、女に手を取られてこの家の入口まで来、そこには前に自分を案内してくれた同じ家来が待っていて、家につれられて行った。家来は寺の裏の縁側の処まで芳一を連れて来て、そこで別れを告げて行った。  
芳一の戻ったのはやがて夜明けであったが、その寺をあけた事には、誰れも気が付かなかった――住職はよほど遅く帰って来たので、芳一は寝ているものと思ったのであった。昼の中芳一は少し休息する事が出来た。そしてその不思議な事件については一言もしなかった。翌日の夜中に侍がまた芳一を迎えに来て、かの高貴の集りに連れて行ったが、そこで芳一はまた吟誦し、前囘の演奏が贏ち得たその同じ成功を博した。しかるにこの二度目の伺候中、芳一の寺をあけている事が偶然に見つけられた。それで朝戻ってから芳一は住職の前に呼びつけられた。住職は言葉やわらかに叱るような調子でこう言った、――  
『芳一、私共はお前の身の上を大変心配していたのだ。目が見えないのに、一人で、あんなに遅く出かけては険難だ。何故、私共にことわらずに行ったのだ。そうすれば下男に供をさしたものに、それからまたどこへ行っていたのかな』  
芳一は言いれるように返事をした――  
『和尚様、御免下さいまし! 少々私用が御座いまして、他の時刻にその事を処置する事が出来ませんでしたので』  
住職は芳一が黙っているので、心配したというよりむしろ驚いた。それが不自然な事であり、何かよくない事でもあるのではなかろうかと感じたのであった。住職はこの盲人の少年があるいは悪魔につかれたか、あるいは騙されたのであろうと心配した。で、それ以上何も訊ねなかったが、ひそかに寺の下男に旨をふくめて、芳一の行動に気をつけており、暗くなってから、また寺を出て行くような事があったなら、その後を跟けるようにと云いつけた。  
すぐその翌晩、芳一の寺を脱け出して行くのを見たので、下男達は直ちに提灯をともし、その後を跟けた。しかるにそれが雨の晩で非常に暗かったため、寺男が道路へ出ない内に、芳一の姿は消え失せてしまった。まさしく芳一は非常に早足で歩いたのだ――その盲目な事を考えてみるとそれは不思議な事だ、何故かと云うに道は悪るかったのであるから。男達は急いで町を通って行き、芳一がいつも行きつけている家へ行き、訊ねてみたが、誰れも芳一の事を知っているものはなかった。しまいに、男達は浜辺の方の道から寺へ帰って来ると、阿彌陀寺の墓地の中に、盛んに琵琶の弾じられている音が聞えるので、一同は吃驚した。二つ三つの鬼火――暗い晩に通例そこにちらちら見えるような――の外、そちらの方は真暗であった。しかし、男達はすぐに墓地へと急いで行った、そして提灯の明かりで、一同はそこに芳一を見つけた――雨の中に、安徳天皇の記念の墓の前に独り坐って、琵琶をならし、壇ノ浦の合戦の曲を高く誦して。その背後うしろと周囲まわりと、それから到る処たくさんの墓の上に死者の霊火が蝋燭のように燃えていた。いまだかつて人の目にこれほどの鬼火が見えた事はなかった……  
『芳一さん!――芳一さん!』下男達は声をかけた『貴方は何かに魅ばかされているのだ!……芳一さん!』  
しかし盲人には聞えないらしい。力を籠めて芳一は琵琶を錚錚と鳴らしていた――ますます烈しく壇ノ浦の合戦の曲を誦した。男達は芳一をつかまえ――耳に口をつけて声をかけた――  
『芳一さん!――芳一さん!――すぐ私達と一緒に家にお帰んなさい!』  
叱るように芳一は男達に向って云った――  
『この高貴の方方の前で、そんな風に私の邪魔をするとは容赦はならんぞ』  
事柄の無気味なに拘らず、これには下男達も笑わずにはいられなかった。芳一が何かに魅ばかされていたのは確かなので、一同は芳一を捕つかまえ、その身体からだをもち上げて起たせ、力まかせに急いで寺へつれ帰った――そこで住職の命令で、芳一は濡れた著物を脱ぎ、新しい著物を著せられ、食べものや、飲みものを与えられた。その上で住職は芳一のこの驚くべき行為をぜひ十分に説き明かす事を迫った。  
芳一は長い間それを語るに躊躇していた。しかし、遂に自分の行為が実際、深切な住職を脅かしかつ怒らした事を知って、自分の緘黙を破ろうと決心し、最初、侍の来た時以来、あった事をいっさい物語った。  
すると住職は云った……  
『可哀そうな男だ。芳一、お前の身は今大変に危ういぞ! もっと前にお前がこの事をすっかり私に話さなかったのはいかにも不幸な事であった! お前の音楽の妙技がまったく不思議な難儀にお前を引き込んだのだ。お前は決して人の家を訪れているのではなくて、墓地の中に平家の墓の間で、夜を過していたのだという事に、今はもう心付かなくてはいけない――今夜、下男達はお前の雨の中に坐っているのを見たが、それは安徳天皇の記念の墓の前であった。お前が想像していた事はみな幻影まぼろしだ――死んだ人の訪れて来た事の外は。で、一度死んだ人の云う事を聴いた上は、身をその為するがままに任したというものだ。もしこれまであった事の上に、またも、その云う事を聴いたなら、お前はその人達に八つ裂きにされる事だろう。しかし、いずれにしても早晩、お前は殺される……ところで、今夜私はお前と一緒にいるわけにいかぬ。私はまた一つ法会をするように呼ばれている。が、行く前にお前の身体を護るために、その身体に経文を書いて行かなければなるまい』  
日没前住職と納所とで芳一を裸にし、筆を以て二人して芳一の、胸、背、頭、顔、頸、手足――身体中どこと云わず、足の裏にさえも――般若心経というお経の文句を書きつけた。それが済むと、住職は芳一にこう言いつけた。――  
『今夜、私が出て行ったらすぐに、お前は縁側に坐って、待っていなさい。すると迎えが来る。が、どんな事があっても、返事をしたり、動いてはならぬ。口を利かず静かに坐っていなさい――禅定に入っているようにして。もし動いたり、少しでも声を立てたりすると、お前は切りさいなまれてしまう。恐こわがらず、助けを呼んだりしようと思ってはいかぬ。――助けを呼んだところで助かるわけのものではないから。私が云う通りに間違いなくしておれば、危険は通り過ぎて、もう恐わい事はなくなる』  
日が暮れてから、住職と納所とは出て行った、芳一は言いつけられた通り縁側に座を占めた。自分の傍の板鋪の上に琵琶を置き、入禅の姿勢をとり、じっと静かにしていた――注意して咳もせかず、聞えるようには息もせずに。幾時間もこうして待っていた。  
すると道路の方から跫音のやって来るのが聞えた。跫音は門を通り過ぎ、庭を横断り、縁側に近寄って止った――すぐ芳一の正面に。  
『芳一!』と底力のある声が呼んだ。が盲人は息を凝らして、動かずに坐っていた。  
『芳一!』と再び恐ろしい声が呼ばわった。ついで三度――兇猛な声で――  
『芳一』  
芳一は石のように静かにしていた――すると苦情を云うような声で――  
『返事がない!――これはいかん!……奴、どこに居るのか見てやらなけれやア』……  
縁側に上る重もくるしい跫音がした。足はしずしずと近寄って――芳一の傍に止った。それからしばらくの間――その間、芳一は全身が胸の鼓動するにつれて震えるのを感じた――まったく森閑としてしまった。  
遂に自分のすぐ傍そばであらあらしい声がこう云い出した――『ここに琵琶がある、だが、琵琶師と云っては――ただその耳が二つあるばかりだ!……道理で返事をしないはずだ、返事をする口がないのだ――両耳の外、琵琶師の身体は何も残っていない……よし殿様へこの耳を持って行こう――出来る限り殿様の仰せられた通りにした証拠に……』  
その瞬時に芳一は鉄のような指で両耳を掴まれ、引きちぎられたのを感じた! 痛さは非常であったが、それでも声はあげなかった。重もくるしい足踏みは縁側を通って退いて行き――庭に下り――道路の方へ通って行き――消えてしまった。芳一は頭の両側から濃い温いものの滴って来るのを感じた。が、あえて両手を上げる事もしなかった……  
日の出前に住職は帰って来た。急いですぐに裏の縁側の処へ行くと、何んだかねばねばしたものを踏みつけて滑り、そして慄然ぞっとして声をあげた――それは提灯の光りで、そのねばねばしたものの血であった事を見たからである。しかし、芳一は入禅の姿勢でそこに坐っているのを住職は認めた――傷からはなお血をだらだら流して。  
『可哀そうに芳一!』と驚いた住職は声を立てた――『これはどうした事か……お前、怪我をしたのか』……  
住職の声を聞いて盲人は安心した。芳一は急に泣き出した。そして、涙ながらにその夜の事件を物語った。『可哀そうに、可哀そうに芳一!』と住職は叫んだ――『みな私の手落ちだ!――酷い私の手落ちだ!……お前の身体中くまなく経文を書いたに――耳だけが残っていた! そこへ経文を書く事は納所に任したのだ。ところで納所が相違なくそれを書いたか、それを確かめておかなかったのは、じゅうじゅう私が悪るかった!……いや、どうもそれはもう致し方のない事だ――出来るだけ早く、その傷を治なおすより仕方がない……芳一、まア喜べ!――危険は今まったく済んだ。もう二度とあんな来客に煩わされる事はない』  
深切な医者の助けで、芳一の怪我はほどなく治った。この不思議な事件の話は諸方に広がり、たちまち芳一は有名になった。貴い人々が大勢赤間ヶ関に行って、芳一の吟誦を聞いた。そして芳一は多額の金員を贈り物に貰った――それで芳一は金持ちになった……しかしこの事件のあった時から、この男は耳無芳一という呼び名ばかりで知られていた。  
   THE STORY OF MIMI-NASHI-HOICHI 小泉八雲 
 
葬られたる秘密 

 

むかし丹波の国に稻村屋源助という金持ちの商人が住んでいた。この人にお園という一人の娘があった。お園は非常に怜悧で、また美人であったので、源助は田舎の先生の教育だけで育てる事を遺憾に思い、信用のある従者をつけて娘を京都にやり、都の婦人達の受ける上品な芸事を修業させるようにした。こうして教育を受けて後、お園は父の一族の知人――ながらやと云う商人に嫁かたづけられ、ほとんど四年の間その男と楽しく暮した。二人の仲には一人の子――男の子があった。しかるにお園は結婚後四年目に病気になり死んでしまった。  
その葬式のあった晩にお園の小さい息子は、お母さんが帰って来て、二階のお部屋に居たよと云った。お園は子供を見て微笑んだが、口を利きはしなかった。それで子供は恐わくなって逃げて来たと云うのであった。そこで、一家の内の誰れ彼れが、お園のであった二階の部屋に行ってみると、驚いたことには、その部屋にある位牌の前に点ともされた小さい灯明の光りで、死んだ母なる人の姿が見えたのである。お園は箪笥すなわち抽斗になっている箱の前に立っているらしく、その箪笥にはまだお園の飾り道具や衣類が入っていたのである。お園の頭と肩とはごく瞭然はっきり見えたが、腰から下は姿がだんだん薄くなって見えなくなっている――あたかもそれが本人の、はっきりしない反影のように、また、水面における影の如く透き通っていた。  
それで人々は、恐れを抱き部屋を出てしまい、下で一同集って相談をしたところ、お園の夫の母の云うには『女というものは、自分の小間物が好きなものだが、お園も自分のものに執著していた。たぶん、それを見に戻ったのであろう。死人でそんな事をするものもずいぶんあります――その品物が檀寺にやられずにいると。お園の著物や帯もお寺へ納めれば、たぶん魂も安心するであろう』  
で、出来る限り早く、この事を果すという事に極められ、翌朝、抽斗を空からにし、お園の飾り道具や衣裳はみな寺に運ばれた。しかしお園はつぎの夜も帰って来て、前の通り箪笥を見ていた。それからそのつぎの晩も、つぎのつぎの晩も、毎晩帰って来た――ためにこの家は恐怖の家となった。  
お園の夫の母はそこで檀寺に行き、住職に事の一伍一什を話し、幽霊の件について相談を求めた。その寺は禅寺であって、住職は学識のある老人で、大玄和尚として知られていた人であった。和尚の言うに『それはその箪笥の内か、またはその近くに、何か女の気にかかるものがあるに相違ない』老婦人は答えた――『それでも私共は抽斗を空からにいたしましたので、箪笥にはもう何も御座いませんのです』――大玄和尚は言った『宜しい、では、今夜拙僧わたしが御宅へ上り、その部屋で番をいたし、どうしたらいいか考えてみるで御座ろう。どうか、拙僧が呼ばる時の外は、誰れも番を致しておる部屋に、入らぬよう命じておいていただきたい』  
日没後、大玄和尚はその家へ行くと、部屋は自分のために用意が出来ていた。和尚は御経を読みながら、そこにただ独り坐っていた。が、子の刻過ぎまでは、何も顕れては来なかった。しかし、その刻限が過ぎると、お園の姿が不意に箪笥の前に、いつとなく輪廓を顕した。その顔は何か気になると云った様子で、両眼をじっと箪笥に据えていた。  
和尚はかかる場合に誦するように定められてある経文を口にして、さてその姿に向って、お園の戒名を呼んで話しかけた『拙僧わたしは貴女あなたのお助けをするために、ここに来たもので御座る。定めしその箪笥の中には、貴女の心配になるのも無理のない何かがあるのであろう。貴女のために私がそれを探し出して差し上げようか』影は少し頭を動かして、承諾したらしい様子をした。そこで和尚は起ち上り、一番上の抽斗を開けてみた。が、それは空であった。つづいて和尚は、第二、第三、第四の抽斗を開けた――抽斗の背後うしろや下を気をつけて探した――箱の内部を気をつけて調べてみた。が何もない。しかしお園の姿は前と同じように、気にかかると云ったようにじっと見つめていた。『どうしてもらいたいと云うのかしら?』と和尚は考えた。が、突然こういう事に気がついた。抽斗の中を張ってある紙の下に何か隠してあるのかもしれない。と、そこで一番目の抽斗の貼り紙をはがしたが――何もない! 第二、第三の抽斗の貼り紙をはがしたが――それでもまだ何もない。しかるに一番下の抽斗の貼り紙の下に何か見つかった――一通の手紙である。『貴女の心を悩ましていたものはこれかな?』と和尚は訊ねた。女の影は和尚の方に向った――その力のない凝視は手紙の上に据えられていた。『拙僧がそれを焼き棄てて進ぜようか?』と和尚は訊ねた。お園の姿は和尚の前に頭を下げた。『今朝すぐに寺で焼き棄て、私の外、誰れにもそれを読ませまい』と和尚は約束した。姿は微笑して消えてしまった。  
和尚が梯子段を降りて来た時、夜は明けかけており、一家の人々は心配して下で待っていた。『御心配なさるな、もう二度と影は顕れぬから』と和尚は一同に向って云った。果してお園の影は遂に顕れなかった。  
手紙は焼き棄てられた。それはお園が京都で修業していた時に貰った艶書であった。しかしその内に書いてあった事を知っているものは和尚ばかりであって、秘密は和尚と共に葬られてしまった。   
   A DEAD SECRET 小泉八雲 
 
「疝気の虫」落語の舞台

 

「疝気の虫」(せんきのむし)  
見たことのない虫だなァ〜、変てこな虫だから殺してしまえ。「助けてください」虫が口を利いたのでビックリした。「お前は何だ!」、「疝気の虫です」、「疝気と言えば、あの・・・男の下の病気のか?」、「そうです」。  
「腹の中に虫がいるのか?」、「います。頭痛の虫、癪の虫、歯痛の虫(虫歯)、弱虫、泣き虫、浮気の虫、水虫。それぞれが静かにしていれば良いのですが、動き始めると大変です。浮気の虫が動くと、なんとなくソワソワします。虫の居所が悪いのは虫のせいで、虫を起こすのは子供だけでなく、大人も虫のせいでイライラしたり、癇癪を起こしたりします」。「どのような時に動くんだ」、「夏の暑い晩に動きます。ムシムシしますから」。  
「お前、疝気の虫はいつ動くんだ」、「私たちは蕎麦が来ると嬉しくなって、腹一杯食べて元気になって、そこら中の筋を引っ張るから、人間は痛がるのです」、「では嫌いなものは」、「唐辛子です。ワサビはその時はいやですが、溶けて流れるので大丈夫です。唐辛子はいけません、溶けないので体に着くとそこから腐ってしまいます。だから、その時は逃げて別荘に避難します」。「別荘ってなんだ」、「下の金の袋です」、「それで腫れているか」、「あそこに居る限りどんなことが起こっても大丈夫なんです。じきに唐辛子が無くなると出ていって蕎麦をたらふく食べて、暴れます」。「『ガン』なんてのもあるだろう」、「よくご存じで。でもその嫌いなものは言えません。仲間内のことは言えないんです」。  
「おい、疝気の虫。どこ行ったんだ。・・・あ〜ぁ〜、夢か。疝気を治したいと思っていたから、こんな夢を見たのか」。  
大先生が居ないので、書生が代脈で金杉橋まで往診に出かけた。着くとご主人は苦しんでいたので状況を聞くと昼にお蕎麦を食べたという。  
「私が治します。治療法を少し変えますから、蕎麦を多めに唐辛子をどんぶり一杯用意してください。蕎麦が来ましたら、奥さんが食べてその匂いをご主人に嗅がしてください」。  
「お蕎麦が来ましたので、食べて良いんですね。私大好きですから、いただきます」。「分かりました。アナタは食べてはいけないので、匂いだけ。はぁ〜〜」。食べては、はぁ〜〜を繰り返していた。別荘の疝気の虫は匂いにつられて上がってきたが、どこにも蕎麦はなかった。よく見ると隣の口に蕎麦が流れ込んでいた。虫たちは一・二の三で奥様の口の中に飛び込んで、喜んで蕎麦を食べ始めた。踊りながら満腹になるまで食べ、力を付けて、そこら中の筋を引っ張った。  
奥様は腹を抱えて苦しみだし、反対にご主人はケロリと治ってしまった。苦しむ奥様に嫌がる唐辛子を飲ませると、騒いでいた疝気の虫たちはビックリして逃げ出した。  
「別荘に逃げろ!」、「別荘に逃げろ!」・・・。(別荘はどこにも無かった)。  
疝気稲荷神社(仙気稲荷神社。江東区南砂3−4)  
この付近には以前砂村稲荷神社があり、文化・文政(1804−29)の頃から疝気の病に霊験がある「砂村の疝気稲荷」として栄えた。昭和42年(1967)千葉県習志野市へ移転し、当地に稲荷小祠が建てられた。南砂7丁目の富賀岡八幡宮の境内裏手にある力石はこの時移されたもので、この中には、力持ちの名人扇橋三次郎の名前も見られます。  
疝気で困っていた頃の稲荷、疝気稲荷があります。江戸時代から、「砂村の疝気稲荷」として参詣者が多く繁栄していましたが、東京大空襲ですべて焼失してしまいました。貴重な石造物の一部は、近くの富賀岡(とみがおか=元八幡)八幡宮に移されています。東京都江東区南砂町から昭和四十二年に習志野市谷津に移転したが、地元の有志で再建され、現在は小祠が建っています。  
(移転先;「砂村稲荷神社」  習志野市谷津5丁目1番20号)  
富賀岡八幡宮(元八幡。江東区南砂7−14);江戸時代のはじめ頃から砂村の鎮守として存在し、深川富岡八幡宮別当永代寺が管理をしていた。一時、深川の八幡宮の神像が置かれていたことから元八幡と呼ばれるようになったものといわれ、別説には深川の八幡宮の元宮と云う説もあります。安藤広重の「名所江戸百景・砂むら元八まん」(右図)にも描かれており、境内には、松尾芭蕉の句碑をはじめ石灯籠、力石などが残っています。社殿背後には、人造の小山・富士山があり浅間神社が祀られています。  
疝気(せんき)  
漢方で腰腹部の疼痛の総称。特に大小腸・生殖器などの下腹部内臓の病気で、発作的に劇痛を来し反復する状態。あたはら。しらたみ。疝病。  
悋気は女の苦しむ病気、疝気は男の病気と言われるように、特に男性が掛かる病気だと言われます。  
金杉橋の漢文の先生  
夢(?)の中で疝気の虫に会った書生は、新しい治療法で疝気を治してしまう(?)。その患者の住んでいる所が「金杉橋」です。  
金杉橋(かなすぎばし);港区芝1−1、古川に架かる橋で、第一京浜国道を渡す。古川の上部には首都高速道路を通す。JR浜松町駅の南西に有る橋です。落語「小言幸兵衛」で歩いた麻布十番。そこに流れていた川が古川で、その最下流がここ金杉橋です。   
蕎麦(そば)  
蕎麦切り(略して蕎麦という)の作り方は寛永20年(1643)に版本で「料理物語」が出され、蕎麦切りもその中で紹介されている。「飯の取り湯、ぬるま湯、豆腐のすり水などでこねて玉を作る。のして切る。大量の湯で煮る。煮えたら竹篭で掬い取る。ぬる湯に入れてさらりと洗い、せいろに入れ、煮え湯をかけ、蓋をして冷めぬように、水気無きようにしてだす。」というものであった。「蒸し蕎麦」である。  
蒸すとなれば菓子舗の得意技で、お手の物の蒸篭(せいろ)で本格的に蒸した。今でも蕎麦を小型の蒸篭で出すのはその名残である。  
寛文(1661)から元禄の大体中頃(1695ころ)間でのほぼ30年間は蒸蕎麦が大いに脚光を浴びた。元禄の初めになると、江戸の盛り場では通行客相手に蒸蕎麦のにぎやかな呼び込みが繰り広げられるような、庶民食としての性格を強めていく。  
庶民のソバは晴れの食物であって、婚礼、誕生のほか、雛の節句には五色ソバで祝った。晦日、引越、正月の帖綴じ、大入り、廓での布団の敷初め、舞台の失敗は楽屋でのとちりソバと、祝儀、不祝儀に広く利用された。  
「二八ソバ」は元来売値から出たもので、配合率を表すようになったのは慶応以後のことです。  
腹の虫  
「腹の虫が治まらない」「腹の虫の居所が悪い」「虫の知らせで駆けつけると」等々使われる腹の虫って、どんな虫なのでしょう。  
道教が説く教えの中の「三尸(さんし)」の事です。生まれながらに人の腹中に棲んでいるといわれる3匹の虫(蟲)。隠している悪事をも知り、庚申の夜、人の睡眠中に天に昇り、その罪悪を告げるという。三尸虫は大きさはどれも2寸(中国の単位で約4cm)で、結構大きい。  
2ヶ月に一度回ってくる庚申待ちの夜は、告げ口をされるのを恐れて、寝ずの一夜をあかします。また、合体なんてとんでもない事です。三年、十八回連続して行なうと満願になって、三尸を退治出来ると言われます。  
天に昇って悪事をばらしている最中に、目覚めてしまったら三尸虫達はどうするのでしょうね。そのドタバタぶりは落語「疝気の虫」以上でしょうね。考え始めたら、夜も眠れません。  
では、どんな形の虫なのでしょうか。人体には三つの霊的中枢が存在していて、頭部に住む上尸、腹部に住む中尸、 下腹部に住んでいるのが下尸という。この中枢に住み老衰や疾病、霊障等をもたらす虫が三尸虫。上尸は青古(導師)といって、聾唖や鼻詰まり、禿頭等の災いをもたらす。中尸は白姑(獣、狛犬のような形)という虫がいて神経衰弱や胃腸障害や心肺の障害等を引き起こす。下尸は血尸(牛の頭が着いた足)という虫で精力減退や足の病等をもたらすと言う。 
 
尾才女稲荷

 

(伊勢から江戸を目ざしてやってきた夫婦白狐のお話)  
昔々、保土ヶ谷宿のある旅籠(はたご)に一人の女がやってきました。  
私は伊勢からまいりました。名は「さい」と申します。  
先年は江戸から大勢の人達が御蔭参り(おかげまいり)に訪れ、伊勢の地がたいそう繁昌して、それは有り難いことでございました。その上、華やかな江戸の話を伺うことができて、私たち伊勢の住民も心弾む毎日でした。そうこうする内に皆さんが帰って、いつもの静かな日々がやってきた時、今度は私たちが江戸へ行ってみたいと願うようになりました。  
そこで夫と二人で相談の上、一大決心をして江戸へ向かうことにいたしました。伊勢を出てからは、見るものすべてが珍しく、道行く人達も親切で、たいへん楽しい旅を続けてまいりました。ところが三島の宿を過ぎ箱根の山にさしかかった時、夫は急な病に倒れ、十分な手当もできぬまま帰らぬ人となってしまいました。私一人伊勢に引き返そうかとも思ったのですが、それでは夫の意志に背くことになります。形ばかりの弔いを済ませて、どうにか保土ヶ谷までやってまいりましたが、江戸までもう一息というところで路銀(ろぎん)を使い果たしてしまいました。頼るところもありません。どうかこちらの旅籠でしばらく女中に使っていただけないでしょうか。どんなことでもいたします。  
その旅籠ではちょうど女中が一人辞めたばかりでしたので、主人はさいの申し出を聞き入れ、早速その日から女中として雇うことにしました。一日目の仕事が終わった時、主人はさいに「女中部屋に泊まるように」と勧めましたが、さいは「泊まるところは自分で探します」といって暗い夜道に消えて行きました。  
それから毎日、さいは朝早くから夜遅くまで、それは真面目な仕事ぶりでした。どんな仕事も器用にこなすばかりか、読み書きそろばんも達者なことから、旅籠ではたいそう重宝がられました。  
ところが主人には二つばかり腑に落ちない点がありました。  
「色白で細面の美しい女なのに、宿場の男共は噂をするばかりで誰も言い寄らないのはなぜか。それに毎夜どこへ帰って行くのか」と。  
ある時、旅籠の番頭が夜道を帰るさいの後を付けて行くことになりました。かすかな月明かりを頼りに追うこと四半時(30分)、街道からそれて山道を進み、やがてさいは朽ちかけた炭焼き小屋に入って行きました。番頭は物陰から小屋を見張ることにしました。それから一時(2時間)ほど経った頃、突然小屋から光輝くばかりの白狐が飛び出して行きました。番頭は我が目を疑いました。  
小屋に入ったのはさい 出て行ったのは白狐  
さいと白狐が一緒にいるはずはない  
とすると・・・  いやいやそんなことはない  
番頭はそのままじっと待つことにしました。  
東の空が明るくなり始めた頃、意を決して炭焼き小屋を覗くと・・・  
誰もいない! さいはどこへ・・・ やっぱりあの白狐が・・・  
番頭は一目散に駆け戻り、主人に事の次第を報告しました。ところが主人は、「待ちくたびれて夢でも見たのだろう、時間になればやってくるさ」と、番頭の話を全く信じませんでした。案の定、番頭の心配通り、さいはいつもの時間になってもやってきませんでした。翌日も翌々日も。結局、さいは二度と旅籠には現れませんでした。  
普通、旅籠の女中が一人いなくなっても、それほど話題にはなりませんが、飛切りの美人女中となれば話しは別です。思いを寄せていた男共が黙ってはいません。「○○屋の女中が神隠しにあった」との噂が保土ヶ谷中に拡がったのです。  
噂が拡がるにつれ、その旅籠に次々と災いが降りかかってきました。丁稚が牛車に轢かれて大怪我をする、風呂場がボヤになる、番頭が病に倒れる、宿泊人の荷物が紛れる、帳簿が合わない、宿役人からお咎めを受ける、客が減る・・・  旅籠が急激に寂れ始めたのです。  
さすがに気丈な旅籠の主人も、「番頭の言う通りだった。江戸へも行けず伊勢へも帰れぬ夫を失ったひとりぼっちの女狐が、住処を暴かれたために行き場を失って嘆き悲しんでいるのだろう。ならば立派なお社を造ってやろう。名前がさいで尾っぽのある利発な女中だった・・・、そうだ 尾才女(おさいじょ)稲荷と名付けよう」   
 
妖怪・怪異伝承

 

はじめに  
日本人は昔から多くの妖怪(ようかい)や怪異現象に関する伝承を伝えてきた。人々はキツネやタヌキといった動物に神秘的な力を見出し、身辺に起こる「不思議」を理解しようとしたり、想像力を駆使し、鬼や天狗(てんぐ)、河童(かっぱ)のような存在の仕業として説明しようとしてきた。  
国際日本文化研究センター(京都市)の「怪異・妖怪データベース」は、民衆に伝えられていた怪異・妖怪についての報告・記述を、民俗学系の雑誌や江戸の随筆から拾い出した地味なデータベース(DB)だが、02年の公開以来、予想を超えるアクセス件数を数えている。  
そこで、しばらくこのDBを手がかりに、妖怪たちの多様な姿を紹介してみたいと思う。(記事はDB未入力分も含みます)  
ツチノコ  
蛇にしては胴が太く、柄の無い槌(つち)のような姿だというツチノコ(槌の子)。地域によってはノヅチ(野槌)、尺八蛇などと言い、横になって斜面を転がるという話から、タンコロ、ドデンコとも称されている。  
生け捕りに賞金がかけられるなど、近年でもメディアで話題になるが、民俗学では、昭和40年代に、坂井久光が雑誌『あしなか』で4度の報告をしている。坂井は、生態学者の今西錦司らと、目撃情報のあった各地へ足を運んだが、お目にかかることは出来なかったようだ。今西は蛇が獲物を飲み込んで膨れた状態と理解したが、岐阜県金山町では交尾期の蛇が絡まり合ったものだという。また全く架空の生物とする向きもある。  
呼び方といい解釈といい、単一の現象に還元できないところが興味深い。  
豆が降る  
空から降ってくるのは雨や雪だけでなく、時には雹(ひょう)や花粉も降ってくるが、御札や豆までとなると、気象庁も困ってしまう。ところが江戸時代に、これらが実際に降ったらしい。伊勢神宮の御札が舞い、民衆が熱狂的に「ええじゃないか」と叫び踊ったという話は有名である。  
御札は有り難いが、豆だと困ったことになる。菅茶山の『筆のすさび』によれば、豆が降った翌年は必ず飢饉(ききん)になるという。「天地の気」が異物を孕(はら)んでおかしくなったからで、それが凶作をもたらすという訳だ。いわば天からの警告である。  
炒(い)り豆のような石が合戦の時に降ったという伝説もある。炒り豆は節分などで鬼を打つものだが、天から見れば、地上で戦争を行っている人間たちこそ、追い払うべき鬼なのかもしれない。  
幻影電車  
線路わきを歩いていると、不幸な事故の犠牲になった動物をみかけることがある。人間と動物の生活領域が重なったとき、譲歩を迫られるのは動物の側だ。動物たちは、自分勝手な人間たちをどう思っているのだろうか。  
明治43年、開通して間もない鉄道で、運転手たちは奇妙な出来事に遭遇するようになった。雨の夜、同じ線路上を猛スピードで向かってくる電車があり、あわててブレーキをかけるが、降りてみると影も形も無い。あるとき、一人の運転手がかまわず突進したところ、電車は消え去ったが、翌朝、線路沿いに一匹の大きな狸(たぬき)が死んでいるのが発見された。  
幻の電車を生んだのは鉄道の開通で住処(すみか)を奪われた狸の恨みなのだろうか。それとも当時の人々が動物たちに対して抱いていた罪の意識なのだろうか。  
ハユタラス  
砂浜を歩いていると色々な漂着物に出会う。特にそれが意外なモノほど私達の想像は大いに膨れあがる。一体どこから流れ着いたのだろうか、と。  
江戸時代の有名な政治家・新井白石の『采覧異言』によれば、東北地方南部の海岸には、しばしば大変長い人骨が漂着したらしい。白石はその骨を、日本の東にある国・巴太温(ハユタラス)人のものだという。骨の長さからみて彼等は身長が高く、日本神話に登場する長髄彦(ナガスネヒコ)はこの地の出身だとか。他の書物にも「大身」という国が登場し、どうやら日本の東の海上には、巨人が住むと考えられていたようだ。  
日本は常に西側の海へと関心を向けてきた。逆に東側も間近に陸地があるはずと考えたのか。近世の知識人にとって、太平洋は見知らぬ異界だったのかもしれない。  
ヒルマボウズ  
大相撲夏場所がまもなく始まるが、相撲が大好きなのは人間だけではない。スモトリ坊主やヒルマボウズなど、相撲好きで知られる妖怪もいる。  
ヒルマボウズは、小坊主の姿をしており、人間を相手に、相撲をとろうと誘う。「昼間」坊主という名前にも拘(かか)わらず、出現するのは月夜の晩だけである。道を通る人に声をかけ、相撲の相手を申し込むのだ。  
スモトリ坊主もヒルマボウズと同じように道行く人を相手に相撲をとる。しかしこちらは格好が違う。「相撲取り」坊主という名前でありながら子供の姿となって現れる。子供だからといって気を抜くと、大変な目にあうという。  
相撲が好きだからこそ、相手を求めて出没する妖怪(ようかい)たち。妖怪と人間の一番は、どちらに軍配が上がるのだろうか。  
運命の神様  
運命とは全く不思議なものだ。それは神様が決めるものとも言われるが、人間が変えることはできないのだろうか。  
新潟県長岡市にこんな話が伝わる。昔、ある男が川辺で朝寝をしていると「今日生まれた娘は十八歳の嫁入り道中、大雨が降ってきて崩れた岩の下敷きになって死ぬ」という声が聞こえてきた。そっと覗(のぞ)くと神様たちが話し合いをしている。自分の娘のことだと直感した男は嫁入りの際に蓑(みの)と笠(かさ)を持たせ、雨が降っても岩の下で雨宿りさせなかったので娘の命は助かった。  
一方で、神様が定めた運の大きさどおりの人生になる話(秋田県角館地方)や、用心しても運命を変えられない話(新潟県吉田町)もある。ある日、神様たちの話し声が聞こえてきたとしたら、あなたはどうしますか?  
子豚の怪  
豚は私たちにとって最も親しみのある動物の一つだが、実際は食卓でしかお目にかからないという人も多い。生きた豚に出会うのは意外に難しいのだ。  
養豚が盛んな奄美大島や沖縄には、豚にまつわる怪異が豊富にある。例えば、夜中に外を歩いていると、突然森から子豚が飛び出してくる話がある。その子豚に股の間をくぐられたら命が奪われてしまうというのだ。また、川でエビをとっていると、子豚が流れてきた話もある。つかまえようと網をかけると、子豚は幾千もの小さな子豚に分かれ、網目から飛び出して追いかけてきた。あわてて豚小屋に逃げ込み、大きな豚のかげに隠れて難を逃れたという。  
最近、ペットとして豚を飼う人が増えている。そのうち日本各地で、こうした不思議な話が聞かれるようになるかもしれない。  
キジムナー  
沖縄地方で有名な妖怪の一つにキジムナーがいる。顔は赤く、髪は縮れ、背丈は子供くらいで、ガジュマルなどの古木を棲家(すみか)にする、と一般に言われている。仲良くなると、魚を取ってきてくれるなど、いろいろ助けてくれるが、怒らせたために体を引き裂かれて死んだ人がいたという恐ろしい話もある。  
面白いのが、キジムナーの足跡を見るという子供たちの遊びである。薄暗くて静かなところに円を描いて小麦粉をまき、線香に火をつけて中心に立てる。呪文を唱えて一斉に隠れ、20数えて戻ると、キジムナーの姿はもうないが、小麦粉には足跡が残されているのだという(『豊高郷土史』)。  
豊見城市では腐れ縁の友達を「キジムナードウシ」という。キジムナーはそれだけ身近にいる妖怪だということだろう。  
貧乏神  
神々の中でも特別に有名なのだが、人気がないのが貧乏神だ。貧乏神が憑(つ)くと、何事もうまくいかないので、昔から人々は貧乏神を寄せ付けない方法を考えてきた。妖怪DBを検索すると「食事中に膝(ひざ)をゆすらない」「大晦日(おおみそか)に酢の物を食べる」等がある。  
江戸時代の著名な国学者・橘守部の『待問雑記』によると、たとえ人の出入りが少ない日でも、部屋に一度は風を通して掃除をし、使わない部屋は閉め切っておく。そうすると貧乏神は、家の中に入って来ることが出来ないという。  
この話を意識して部屋を掃除したら、隅々までクッキリ見える気がした。掃除をしない心の隅に貧乏神は棲(す)んでいる。病は気から、とはよく言うが「不幸も気から」なのだろう。そう気付かせてくれた貧乏神はやはり神様だ。 
 

 

足下の異界  
町を歩くと、空地だった所にビルが建っていて驚くことがある。そんな土地の下に亡霊が眠っていて、自己主張を始めたとしたらどうなるだろうか。  
城戸千楯の『紙魚室雑記』によると、ある庄屋が荒神(こうじん)松という塚を畑にしようとした。すると息子の夢に「私の住みかがなくなってしまう」という恨めしげな声が聞こえた。また隣家から金銀を持った人を殺して塚に埋めたと責められた。濡れ衣を晴らそうとして塚を掘り返したが、古い棺(ひつぎ)や骸骨(がいこつ)が出てきてしまったという。  
その骸骨は石川年足という高貴の人だと分かったため、石碑が建てられた。結局、塚は畑にはされず、亡霊の主張が通った訳だ。土地がみだりに開発される今日にも、誰かの夢に地底からの恨みの声が聞こえているのかもしれない。  
ろくろ首  
ろくろ首といえば怪談話でもおなじみの妖怪であるが、元来は東南アジアの妖怪であったらしい。江戸時代に書かれたろくろ首の考証をみると、ルーツの一つとして、飛頭蛮(ひとうばん)という妖怪が紹介されている。  
飛頭蛮は、うなじに赤い筋があることをのぞくと普通の人間と変わらないが、夜寝ていると首だけが体から離れ、耳を翼のように使って飛ぶ妖怪だという。  
飛頭蛮がどのような経緯で首が伸びるとされたのかは明らかでないが、両者とも本人は寝ているために自覚が無いという点で共通しており、これを「魂が抜けているため」であるとし、離魂病と説明する向きもある。  
いずれにせよ、ろくろ首は人気のあった妖怪で小咄(こばなし)にも登場。曰(いわ)く、ろくろ首はおからを食べるのが大変だ。  
船幽霊・幽霊船  
語順を変えただけだが、怪異現象は全く異なる。船幽霊は海の上で出会うと「柄杓(ひしゃく)を貸せ」といってくる。柄杓を貸すと水を注がれて船が沈んでしまうので底の抜けた柄杓を渡さなければならない。  
それに対して幽霊船は、汽笛を鳴らさなかったり、風向きと逆に進んだりする船である。また赤と青の左右の船灯が逆だったり、向かって来て衝突するかと思うと消えたりしたため幽霊船とわかった、といったものもある。  
船幽霊は古風な妖怪だが、幽霊船は近代的な船(おそらく沈没船)の姿で現れる。船幽霊は怖さの中にも愛嬌(あいきょう)がある。一方幽霊船にはどこか現実的な怖さを感じる。海上交通の近代化につれ「船幽霊」は「幽霊船」に取って代わられたのだろう。怪異のリアリティも時代と共にある。  
トイレの花子さん  
現代の不思議な話といえばトイレの花子さんが有名だ。しかしその話には実は様々なバリエーションがあることは、あまり知られていない。  
学校の3階の3番目のトイレのドアを3回ノックして「花子さん遊びましょ」と呼びかけると返事があるという話(栃木)は典型的だが、山形では体長3bのトカゲ姿で頭が3つあり人を食べるという。3回水を流すと便器から手が出るという話もある(神奈川)。  
こうした様々なうわさ話の創出や派生はいったい何を意味するのだろうか?  
科学の進歩で怪異は無くなると言われたが、今なお報告は減らない。そこに小松和彦や常光徹は日本文化の特質を見る。  
鳴動  
鳴動とは様々な場所や物体が、自然に鳴り動く現象をいう。日本の古代・中世社会では、国家に関わる非常に不吉な出来事とされていた。  
ただし近世に下ると鳴動は国家との関連性を薄める。妖怪DBには聖地を汚した人間に対して山の神や鬼または天狗(てんぐ)などが、懲罰の意味で山川や家屋等に鳴動を起している事例がある。また、捨てられた老婆が石になり、度々夜泣きして鳴動したという伝承もある。高僧がお経をあげると割れて血を吹いたという。鳴動は日本社会に営々と語り継がれた、代表的な怪異現象といえよう。  
ある携帯電話の説明書を見たら「着信時に鳴動させる」という記述があった。指一本であらゆる情報を入手できるケイタイは、ある種怪異的だ。そこに鳴動という言葉が使われたのは偶然だろうか。  
雷獣  
「地震・雷・火事・親父(おやじ)」とは日本人が恐怖した代表であった。とりわけ雷はその音や稲妻のせん光で恐れられてきた。岐阜県のとある学校に若くて可愛らしい女の先生がいたが、先生の片ほおには大きな傷跡があった。それは先生が幼いころ、家に落雷があったときに天から雷獣が落ちて来て大暴れして、たまたま近くにいた先生が顔を引っかかれてしまったのだという。  
雷獣は天の在であるが、雷鳴に驚いて空から落ちることもあるらしい。パニックに陥った雷獣は、天に帰ろうと慌てて木を登る時に暴れるのだ。名前は勇ましいけれど、実は怖がりで小心者である。  
雷獣を見たという報告は各地にあるが、姿は水かきのある狼(おおかみ)、狸(たぬき)、あるいは猫に似ているという。風ぼうもなかなかユニークではないか。  
鬼子母神  
いつの世も突然愛する我が子を奪われた母の嘆きと悲しみははかり知れない。  
子供の守り神として愛知の乙方村では十羅刹女様(おじゅらつさま)をまつっていた。村で子供が続いて亡くなった時、一戸で団子千粒ずつを供えて祈願したところたくさんの子供が生まれて元気に育ったという。当地ではこの神の前身は鬼子母神と言われている。  
鬼子母神は人の子をさらって食べるので、釈尊に自らの子を隠され「己の悲しみを以(も)って人の悲しみを知るがよい」といさめられ、子供守護の神となった。  
釈尊なき現代でも、子育てで悩んでいたところ、鬼子母神が毎夜夢に現れて教えを授けてくれたので救われたという不思議な体験談がある(秋田県能代市)。世界中の受難の子たちにも加護のあらんことを祈りたい。  
蛍  
青白く淡い光を放ちながら夜空を乱舞する蛍。一時は数が減少し、その姿を目にする機会も少なくなっていた。しかし水質改善の意識の高まりとともに、その生息場所や数もずいぶん増えてきたのではないだろうか。この可憐(かれん)な夏の風物詩はまた、死者の魂であるともいう。  
三方ケ原の合戦で討ち死にした徳川と武田の軍勢の武士たち、滅亡した明智光秀の一族、宇治川で敗れ平等院に果てた源頼政。その最期の地では、蛍を無念のうちに死んだ彼らの魂であるとして恐れていた。  
夢なかばにして死んでいったものたちと、あの儚(はかな)い光。たしかに通じ合うものがあるようにも思える。その光がたとえ無念の光であったとしても、清流を取り戻せたことは彼らとともに喜ばなければならない。  
山犬  
辞書ではまず「日本産のオオカミである」とあるが、それ以下の説明を読むとただのオオカミではなさそうなものが多い。  
妖怪DBに収録されている事例の多くは、山道で山犬がついてくるというものである。静岡県水窪町では、山犬は神様から地面に落ちているものすべてを食べることが許されている。ゆえに転んだときは「ワラジが解けた」といわないと食べられてしまうという。しかし山犬は人を守って送るものだともいう。高知県幡多郡では、山犬が化物から守ってくれた御礼に小豆飯の団子をあげたという話が残されている。  
ところで、ニホンオオカミは明治時代に絶滅したとされているが、目撃談は後をたたない。山犬の話と同様、それは人びとのオオカミに対するある種の畏怖のあらわれに違いない。  
魂の帰還  
毎年8月になるとあの戦争の記憶がよみがえってくる。遠い異国の地で亡くなった兵士たちの死は通知という形で遺族に届けられたが、中には兵士たち本人が最後の別れを告げに帰ってくることもあった。  
例えば次のような話がある。ある兵士の母親が真夜中に目覚めると、戦地にいるはずの息子が枕元にいた。息子の帰還を喜んだ母親が話し掛けると、彼は空腹を訴えた。そこで食事の用意をしようとしたが、息子はそれを制し「さようなら」と言った途端に消えてしまった。役場から戦死の知らせが届いたのは翌朝のことだった。  
兵士が最後に家族の姿を見ることを望んだのだろうか、あるいは故郷で待つ家族が兵士の魂を呼び戻したのだろうか。今年もまた様々に思いを巡らせながら、8月15日を迎える。  
 

 

お地蔵さま  
8月下旬になると、町内の子供がソワソワし始める。山と積みあげられた菓子やジュースが彼らのお目当て。関西ではよく見かける地蔵盆の風景だ。  
お地蔵さまの話、特に「○○地蔵」と名前がつく話は多く、怪異DBにも数例収められている。例えば周囲を3度回ると笑い出す「笑い地蔵」(鳥取)、酒屋や遊郭の前に現れる「遊び地蔵」(岩手)といった面白い話がある。一方、その前で転んだら着物の袖を納めないと悪い事が起こる「袖もぎ地蔵」(兵庫)や、毎夜強盗や乱暴を働き、最後は地中に埋められた「夜ばい地蔵」(埼玉)といった怖い話もある。  
人間の生活に一番近い存在だからこそ、こうした表情豊かな話が生まれるのだろう。その優しいまなざしは、お菓子の箱の後ろから、子供たちの姿を見つめている。  
鯰と災害  
9月1日は防災の日。大正12(1923)年に起きた関東大震災を忘れないためこの日が選ばれたという。災害は忘れたころにやってくる。日々の備えが肝心というわけである。  
鯰(なまず)が災害と関わっているという話は多い。鹿島神宮の要石は、地震を起こす大鯰を押さえ込んでいるといわれている。また林笠翁の『仙台間語』によれば、鯰のない土地に鯰が生じると、水災が起こるそうだ。古来鯰がいなかった関東に鯰が現れた途端、洪水が起こったという。戊辰戦争のころに仙台湾で鯰が捕れたといううわさがあり、何か事変が起こるに違いないと騒がれたという話もある。  
鯰自体が災害を起こすのか、それとも人間に災害を知らせているのか。「乱肴(乱れを呼ぶ魚)」と恐れられた鯰の警告に、耳を傾ける日も必要なのかもしれない。  
ダイダラボッチ  
映画「もののけ姫」で有名になったが(作中ではデイダラボッチ)、いわゆる巨人である。その伝説はほぼ全国的に分布する。  
東京都北多摩郡ではダイダラボッチの荷物が落ちてできたという山があり、千葉県松戸市や埼玉県豊野村(現、大利根町)には足跡があるという。また長野県松本市ではダイダラボッチの歩いた跡から生じた窪地や沼があるという。  
もちろん私たちは、そのような山や沼がどのようにできるのか、知識としては知っている。しかし時に雄大な自然の造形は、偶然とは思えないほど私たちに確かな「何か」を連想させる。そんなときに巨人の姿を思い浮かべることは、現代的なエコロジー志向とは違った形で、自然とのつながりを確認し、取り戻すことにつながっているのではないだろうか。  
名月姫  
大阪府能勢町にある名月峠には「名月姫墓碑」と呼ばれる宝篋印塔(ほうきょういんとう)があり、嫁入り道中がここを通るとよくないことが起こると信じられている。無念にも嫁入りを果たせなかった姫が、行列をうらやましがるからなのだという。  
時の権力者、平清盛が絶世の美女といわれた名月姫を見初めたとき、姫にはすでに許婚者(いいなずけ)がいた。それでも姫を我が物にしたい清盛は、姫の家と許婚者の家を滅ぼしてまでも姫を手に入れようとした。  
しかし、物語は悲劇のうちに幕を閉じる。清盛を拒む姫が、許婚者と共に自害したのである。(「旅と伝説」通巻102号)  
月にまつわる物語には、なぜか悲しいものが多いように思う。淡くはかなげな月の光が人に悲劇を予感させるのだろうか。  
顔が付く  
自分の顔とは長い付き合いである。しかしここに思ってもみない顔になり、困ってしまったおじいさんの話がある。  
おばあさんの葬式が出せないおじいさんは、何を思ったかその骸(むくろ)を家の前にぶら下げた。その骸に触れた瞬間、顔が離れ、おじいさんの顔に張り付いてしまった。村に居づらくなったおじいさんは旅に出ることにした。  
ある日、おばあさんの顔がぼた餅を食べたいと催促するので、勝手に食べろ、と言うと、おばあさんは我慢できなかったのだろう、おじいさんを離れ、ぼた餅を探すために去っていった。「今だ!」と思ったおじいさんは逃げ出し、おばあさんの顔から解放された。  
おばあさんの顔は、ぼた餅を食した後、自分の体に帰ることができただろうか。また別の人の顔に付かなければよいが……。  
桔梗  
「萩の花 尾花葛花 なでしこの花 女郎花(おみなえし) また藤袴(ふじばかま) 朝顔の花」(山上憶良)。万葉集で秋の七草の一つ「朝顔の花」と詠まれているのは、一般的には、桔梗(ききょう)のこととされている。秋の花と思われがちだが、実際には6月の下旬から咲き始める。  
この美しい花と同じ名前を持つ女性がいた。平将門の弱点を俵藤太に告げ、その死の原因になったと伝えられている「桔梗」である。そのため、将門滅亡の言い伝えが残っている地にはいまだに桔梗が生えず、また災いを呼ぶため、桔梗を意匠とするものも忌避するのだと伝えられている。  
絶滅の危険がある今では、言い伝えが残っていない地域でも桔梗が自生している様を見ることができなくなってしまった。  
柘榴  
ひとつの果実にまつわる聖と邪の魅力が今も私をとらえる。幼いころ黄土色の果実からのぞく深紅で透明なかけらを、母にせがんでやっと口に入れた私は、なぜか神聖な禁断の実を汚す後ろめたさに襲われた。  
昔、人の子を食らった鬼子母神の祭られる所には必ず柘榴(ざくろ)の木があり、味が人肉に似ているその実が供えられた(愛知県)。柘榴の木がある家には病人が絶えず、果実は若仏(亡くなってすぐの人)が好み死人の香りがする(鳥取県)と不吉なものと考えられた。しかし他方で柘榴の汁は鏡を磨く貴重品とされ(同県)、子孫繁栄を表す縁起良い果物ともみられている。  
少女のころ柘榴に感じた甘い不可思議な動揺は、母神が世の毒から保護するために身を削って与えてくれた聖薬が、体中に魔力の効果を浸透させたかのようだった。  
付喪神  
すべての物は年数を経れば霊魂が宿り、付喪神(つくもがみ)になるという信仰がある。鎌倉時代ごろから発達した思想らしく、木像や人形などが最も化けやすいとも言われている。  
だが付喪神と聞いて連想されるのは、むしろ古くて使われなくなった道具たちだ。あらゆる道具に手足が生え練り歩く様を描いた「百鬼夜行絵巻」の影響だろう。  
そんな付喪神の目撃談がある。乞食(こじき)が古寺の庭で寝ていたら、にぎやかな酒盛りの音がした。障子の穴からのぞくと、壊れた茶碗や草履、げたなどのがらくたが歌い踊っていた。夜が明けると皆逃げ出し、翌朝縁の下に積まれているのが見つかったという。  
古くなった道具たちの、一夜のうたげ。物が大量に使い捨てられ、徹底的にリサイクルされる現代には、失われた光景かもしれない。  
鏡の力  
昼間は何気なく見る鏡も、夜になると独特の怖さを持つようになる。怪談によく登場するのはトイレの鏡と三面鏡で、これらはあの世とこの世を結ぶ扉の役割を果たしている。  
また、鏡の持つ力には「真実を映し出す力」といったものもある。愛媛県に伝わる美女に恋をした若者の物語がその例である。  
ふたりは恋を語る仲になっていたが、ある日若者が鏡岩に映った女の姿を見ると、そこには蛇体があった。それでも若者は女の正体が蛇であるとは信じきれず、女への思いを込めて笛を吹いた。女は曲にあわせて舞いながら蛇体へと変わり、やがて若者を抱いてふちの底に沈んでいったという。  
真の姿が見えたからといって、それが幸福につながるとは限らない。世の中には見えないほうが幸せなことがあるのも事実である。  
絵馬  
落語「ぬけ雀」は、ある絵師の描いた雀が、朝日を浴びると絵から飛び出たことで話が展開する。描いた物が動きだすというのは、絵師の優れた力量を示す逸話としてよく用いられる。  
江戸期の随筆『江戸砂子』によると、浅草観音堂にかかる絵馬は、狩野元信の手による非常に霊妙な作品ゆえに、夜な夜な絵から馬が出てきて草を食べた。困った人が左甚五郎に頼んで、画中の馬を鎖でつなぐように描いてもらうと馬は出てこなくなったという。二大芸術家の競演といえようか。  
他にも平安時代に活躍した巨勢金岡の絵馬(鳥取)や水墨画で有名な雪舟の絵馬(山口)も、絵を抜け出して悪さをしたため、手綱(たづな)が書き加えられている。  
現在の絵馬は機械生産されたものがほとんど。印刷された絵馬の馬は、もう悪さすらできない。 
 

 

風邪の妙薬  
「男心(女心)と秋の空」と、移ろいやすいものの代表として挙げられるように、秋の天候は秋雨前線や台風の影響を受けてさまざまに変化する。天候の変化に伴って気温が上下するのに体温調節が追いつかず、風邪を引きやすいこともまた秋の特徴の一つといえるだろう。  
風邪の対策としては、手洗いやうがいなどさまざまな方法があるが、「スルメを焼く」という一風変わったものもある。大阪府岸和田市には、火鉢でスルメを焼いていると風邪の神が現れ、そのにおいを嫌がって逃げて行ったという話が伝わっている。  
これから冬に向かって、気温は下がる一方である。風邪を引いたら暖かくして睡眠を取るのが一番だが、そういうわけにもいかない時は先人の知恵に頼ってみるのも悪くはないかもしれない。  
口裂け女  
マスクを着けた髪の長い若い女性が「私、きれい?」と声をかけてくる。その答えいかんによっては、マスクをはずし、耳まで裂けた口をあらわにしながらカマで斬(き)りつけてくるという。70年代末に発生したこのうわさは、さまざまなバリエーションを生み出しながら全国に広まり、子どもたちを震かんさせた。  
当時小学生だった私にとって、口裂け女は殺人鬼的ではあるが生身の人間そのものであり、それに抱いた恐怖心もまた非常にリアルなものだった。それが、大人たちから現代の妖怪伝承として位置づけられ、それを信じる自分たち「現代の子ども」ともども民俗学の分析の対象となっていたことを知ったのは、かなり後のことである。  
その時、私はかつての自分が今よりもずっと異界の杜の近くに住んでいたことを知った。  
火の玉  
墓のそばで2匹の蝶(ちょう)がもつれ飛んでいた。遠い昔不運に消えた男女の魂の化身が、あえたよろこびを確かめている様で、帰途私は悲恋のほのおにしばし気持ちをはせてみた。  
須佐の入江(愛知県南知多町)に住む静谷太郎とおしかは人もうらやむ仲だが、彼女は器量がよく側女(そばめ)の話が持ち上がる。嘆く太郎は相手の殿様に花立てを投げ付け手打ちされ、おしかも思慕のあまり狂死し寺に埋められる。雨夜ごと太郎の火の玉がさまようが、紅葉の下に美しいおしかの霊をみつけると、見られなくなった。  
暗闇でゆれる火の玉は主に死人の魂とされ,蒸し暑い雨夜に多くは墓で出現する。鬼火、人魂、陰火、霊火とも呼ばれる。火の玉にはさまざまな思いがまとわりつく。  
蝶は許されない恋人たちが安らぎの地へ向かう暁の姿であろうか。  
証文と妖怪  
江戸時代は庶民へも文字が浸透した時代であった。そのため、調査に出かけると数多くの江戸時代の古文書に出合うことができる。そのなかでも特に多いものが、証文の類である。  
証文のやり取りとそこに記された文言の履行義務は、人間界だけのものではなかった。当時の人々はそれを妖怪たちにも求めた。  
ある河童(かっぱ)は、川を渡っていた馬のしっぽをつかんだだけで、腕を切り落とされ、もう二度と人や馬に近づかない旨の証文を取られた。また寺で怪異を起こした狐(きつね)は、懲らしめられたうえに二度と境内に立ち入らない事を誓約させられた。彼らは神仏の力に屈服したのではなく、証文の実効力に屈服したのである。  
江戸時代とは、妖怪までもが人間の論理に組みこまれた時代でもあった。  
天女の口づけ  
天女と言えば、空から降りて水浴びをしていた天女が、男に羽衣を奪われ夫婦になるという羽衣伝説が有名だ。しかし中には、気まぐれに降りてきて、ロマンチックないたずらをする天女もいる。  
ある武士が自宅の座席で昼寝をしていたところ、天女が降りてきてキスをした。武士は、思いもよらない夢をみたと恥ずかしくなり誰にも言わなかったが、その後、彼の口中から、においの玉を含んだような、とても良い香りがするようになった。その香りは、彼が死ぬまで消えなかったという(大田南畝『半日閑話』より)。  
その武士は美男でもなく、さえた男ぶりでもなかったのに、なぜ天女はこんな情をかけたのか。人々は不思議がったという。だがそこに、天女の奔放な可愛らしさが感じられる気がする。  
2人の女房  
人ごみの中で知人を見つけて声をかけたが別人だったという気恥ずかしい経験は、誰にでもあるだろう。よく「世の中には自分に似た人が3人いる」と言うが、何から何まで自分そっくりの人物が目の前に現れたらどうなるだろうか。  
ある日突然妻が2人になった武士の話が、徳島県に残っている。2人は容姿も着物も同じで、全く区別がつかない。武士は偽者の妻を切ろうとしたが、2人とも自分が本物で相手が偽者だと言うので、どうすることもできない。そこで神仏に祈とうしたところ、1カ月ほど後にようやく偽者が消えたという。  
2人は外見だけでなく、会話に対する反応も全く同じだったのだろうか。会話不足でその判断ができなかったのだとしたら、それはそれで情けない話ではある。  
茨木童子  
酒呑童子の子分で、源頼光の四天王の一人、渡辺綱に羅城門で片腕を切り落とされる話は有名である。その出自に関しては現在の大阪府茨木市、新潟県栃尾市など諸説ある。  
茨木での伝説は以下の通りである。生まれた後、人間離れした容ぼうのため捨てられ、茨木の髪結いの主人に拾われ家業を手伝うようになる。よく働いたが人の血の味を覚え、わざと人を傷つけて血をなめるようになったという。ある日、水面に映った鬼の面が自分の姿であることを知り、家を出る。  
さて、今日茨木童子は茨木市のマスコットとなっている。市役所前の「高橋」という橋の欄干には後ろ手に金棒を持った、愛らしい童子の石像がたたずんでいる。人として過ごし、そして後に離れざるを得なかった地をどのような思いで見つめているのだろうか。  
猫の忠臣蔵  
飼い猫の持ってくる「贈り物」には、虫や小動物など少々迷惑なものが多いが、山梨県には実にユニークな恩返しをした猫の話が残されている。  
昔、老夫婦がかわいがっていた猫が13歳になったとき、暇を出してくれるよう申し出た。世話になったお礼に何でもするという猫に、芝居好きのおじいさんは「忠臣蔵」をリクエストした。  
約束の日、草っ原に幕が張られ、役者に化けた猫はきれいな衣装で見事な芝居を演じた。それが終わると猫は三声鳴いて、それきり戻ることはなかったという。  
昔、猫は体重が800匁(約3`)になると時々化け、1貫(約4`)で化け猫になり家を出るといわれた。飽食の現代、日本猫の平均体重は約3`。今日すれ違った人のおしりでは、シッポがゆれていたかもしれない。  
清姫  
暗闇で今にも動きそうに空(くう)へ視線を漂わせている娘の横顔。彼女はどこを見ているのだろう。私は和歌山・道成寺に飾られた清姫伝説の絵から、底知れない煩悶(はんもん)が伝わってくるような気がした。  
紀伊国真砂(和歌山県中辺路町)で育った清姫は諸国行脚の僧安珍を慕い、夫婦約束を交わした。だが仏道とのはざまで苦しんだ安珍は道成寺へ逃げ込む。清姫は裏切られた苦しみにもだえながらそのあとを追い、執念から蛇となって日高川をわたり寺に入る。やっと隠れた釣り鐘をみつけると、7回半巻きついて鐘もろとも燃え上がり、安珍を焼き殺した。(「郷土趣味」通巻7号)  
寒い寺の庭には赤い椿(つばき)が点々と落ちて、清姫の情と血のなごりが、時を経て私をも熱く包むような錯覚に陥った。  
門松  
最近は実物を目にする機会がめっきり減ってしまったが、門松は正月の縁起物の一つである。歳末から1月7日、あるいは15日にかけて立てておくことが多い。ところが、それ以降になっても、門前に松のある家があった。  
小正月が終ったので門松をしまおうとしたが、どうしても松だけが抜けない。根元を調べると、松がしっかりと地面に根を下ろしている。不思議に思いながらそのままにしておくと、ぐんぐん見事な松に成長した。この後、家も松と同様大きく栄えたという。  
正月の象徴である門松を、新しい年を迎えて年齢を重ねる証しだとして「めでたくもあり めでたくもなし」と歌った狂歌もある。しかし、このような思いがけない大きな幸運を呼び込んでくれることもあるのだろう。 
 

 

悪大師考  
弘法大師といえば日本に密教を伝え真言宗を開いた空海のことであり、信者にとってはありがたいお大師さまだ。 しかし民間にはささいなことから悪人も驚くむごい仏罰を与える大師の姿も語り継がれている。  
甲府市の話では、芋の接待を要求して断られた大師が、その地域の芋を全て食べられなくしてしまったし、秋田県雄物川町では飲み水を断られたので地域の水源を全て枯れさせている。  
『伊予二名集』の話はさらに残酷だ。長者の衛門三郎に布施を断られた大師は彼の子ども8人全員を1日ずつ死に至らしめた。悔い改めた三郎は日本初の遍路となり、領主へ生まれ変わっている。  
懲罰が予定されていなければ人を律することはできない、というきれい事ではない真実を、民間伝承は教えているような気がする。  
夕暮れ、子供にせまる影  
神隠しする妖怪の代表は天狗(てんぐ)やキツネ。だが子供への身近な脅威はそれにとどまらない。  
子取りばばあや油取り、赤マントの怪人が夕暮れ時に子供を連れ去るのだ。多くは遊びから帰らない子供を脅す文句に使われた存在だが、連れ去りの理由は売りとばす、血を抜く、肝を取るなど、具体的な脅威に満ちている。  
江戸時代には子供に毒饅頭(まんじゅう)を食わせて歩く「饅頭食わせ」という者が来る、という尋常でないうわさが流れた。この子供を狙った無差別テロに、大人たちは右往左往した。  
世が乱れると、脅威への不安が増幅され、うわさとなる。現代日本をかけめぐったいくつかのデマも例外ではないだろう。妖怪伝承の裏側には陰画としての私たちの社会が透けて見えてくる。  
河童(かっぱ)  
河童はもっとも有名な妖怪の一種。日文研妖怪DBでも500件を超える事例が登録されている。エンコ、ガワッパなど呼称も多様で、それを含めれば件数はさらに増える。  
河童は枕返しなどたわいのないいたずらをする。また川や沼で人をおぼれさせ、尻子玉を抜くなどの害を及ぼしもするし、逆に返り討ちにあい、詫(わ)び証文を書かされたり、傷によく効く軟こうをもたらしたりもする。  
つまり単に不思議なことだけでなく、人知を超えた災いと恩恵双方の自然現象が、河童という異界の住人とのかかわりのなかで理解され、契約や交換をすることで考えを整理しているのだ。  
そのような異界の住人へのリアリティーを失いつつある現在、私達は災厄も恩恵ももたらす自然とうまくつきあえているだろうか。  
お化け見物  
幽霊の正体見たり枯れ尾花、とは使い古された言い回しだが、それを地でいく事件があった。昭和8年、大阪の病院のガラスに白昼、老人の幽霊が映ると評判になり、奈良や神戸からも見物人が訪れたという。  
56年後の平成元年にも、栃木県小山市で「橋げたに幽霊の姿が染み出た」とテレビで放映され、関東近県から見物人が集まる騒ぎがあった。染みや汚れ、陰影の加減が「幽霊!」となり、口コミなどで広がって因縁話ができあがるという構図はまったく同一だ。  
怪異・妖怪の出現は日常を忘れる一時の異界であり、ときによりそれは娯楽の側面ももっているということなのだろう。  
しかし明治時代、大阪・天神橋に出ると評判になったお多福のお化けなど、見物客をあてこんだ狂言だったというから、ご用心!  
六部の旅  
楽しい旅行も宿が取れなければ途方に暮れる。電話で予約ともいかない昔の旅人はどうしていたのだろうか。  
江戸時代の旅人に六部(ろくぶ)という勧進の巡礼者がいた。全国66州へ経巻を納め歩いた「六十六部回国聖」のことで、彼らは行く先々で民家や寺堂に宿した。  
こうした旅の六部が殺されて金品を奪われる、いわゆる六部殺しの伝承は全国に分布している。徳島県阿南市には、泊めてもらった民家の主人に秘蔵の宝物を見せてしまったために、欲を起こした主人に殺され、宝物を奪われた六部の話が伝わる。六部の遺体が打ち捨てられた淵(ふち)は今もなお黄赤く濁っているという。  
旅先で不遇な死を迎える六部は多かったであろう。「ふるさとへ廻(まわ)る六部は気の弱り」(古川柳)。旅も日常化するとつらい。  
祠(ほこら)に宿るもの  
街中を歩いていると、ビルの谷間に祠を見つけることがある。どんな神がまつられているのか不明だが、近代的な建物の中で、そこだけが異空間のようでもある。  
そんな祠にまつわる話を紹介しよう。ある繁盛した小料理屋の調理場に祠があり、店の人はお供え物を欠かさなかった。だが増築の際、祠を壊すことが決まる。すると天井で誰かが歩く足音がし、大工が確かめると白いものがスッと消えた。それが何か正体不明のまま祠を捨てると、その夕方大工は右腕を折り、助手はねん挫した。人々は祠のたたりだとうわさした(『伊予の民俗』通巻16号)。  
店を繁盛させたのも、たたったのも祠の神だろうか。今日も名もない祠が目の前にある。そこに何が宿っているのか知らぬまま、私たちは通り過ぎていく。  
猫と河童とカワウソと  
「河童(かっぱ)は猫に似た化け物だ」と言ったら、たいがいの人は驚くのではないか。しかし少なくとも山口県と青森県の一部地域では語り伝えられていることなのだ。一体どういうことなのだろう。  
河童と猫、かけ離れた両者をつなぐヒントはカワウソである。  
ニホンカワウソは79年を最後に生きた姿の目撃例はないが、その昔は日本全国の水辺に生息する、ありふれた獣だったのだ。そして、カワウソは化かす、女に化ける、人間を水に引き込む、などと伝承されていた。猫のようになめらかな体の、河童と同じ水辺の妖怪、カワウソ。  
カワウソは水辺から消え、水辺の妖怪は猫に似ている、という伝承が残った。水嫌いの猫にしてみたら、水の妖怪の正体にされてしまうのは複雑な気分だろう。  
植物の精霊  
アイヌに伝わる昔話。2人の女が村々を訪ねてえたいの知れないものを食べよ、という。あやしんで断るとひどく怒り、次の村へ行く。  
ある村長のところにもやって来た。村長夫妻が思いきって食べると、とてもおいしかった。実は2人はオオウバユリとギョウジャニンニクの精霊であった。自分たちが食物であると人間が知らないのを残念に思い、食べられると教えるために来たのだと語った。  
植物が食べてもらえないのを残念がるという、ユーモラスな話であるが、アイヌの人々の自然観がかいまみられて興味深い。飽食の時代といわれて久しいが、はたして今日、人間にかえりみられずに、ゴミとして捨てられていく食べ物は、我々人間をどう思っているだろうか。きっとこの精霊たちをうらやんでいるに違いない。  
件(くだん)  
ノストラダムスの「1999年7月に恐怖の大王が降って来る」という予言は有名である。幸いなことに私の目には恐怖の大王らしきものは見えなかったので、この予言は大筋で外れたと思ってよいのだろう。  
このように、人間の予言者の予言が外れることなど珍しいことではないが、中国地方から九州にかけて多くの話が伝わっている件という化け物は絶対に外れることのない予言をするといわれている。  
「件」の字にあらわされるごとく人面牛身で、まれに牛から生まれることがあるのだそうだ。その命はわずか数日で尽きるが、死ぬ間際に戦争やききんといった重大な予言を残すのである。  
何かと先行き不透明なことが多い昨今の世の中。件にはぜひとも明るい未来を予言してもらいたいものだ。  
亡霊のプライド  
瀬戸内海には、甲羅の突起が人の怒った顔に見えるカニがいる。源平合戦の舞台だけに昔から平家蟹(へいけがに)と呼ばれ、敗れた平家の亡霊の化身(けしん)とされた。  
江戸期の随筆『酔迷余録』によれば、旅の歌人が源平古戦場の屋島で見たカニを「なまじひに海鼠(なまこ)にもならで平家蟹」と詠んだ。なまじっかナマコになるのは嫌だったのかな、と平家の亡霊を笑いものにした歌意だった。  
するとその夜、歌人の寝ている所に亡霊が現れて、彼を心からおびえさせ、一睡もさせなかった。そこで彼は「海鼠ともならでさすがに平家なり」と詠み直し、亡霊を大いに褒めあげたという。  
源氏に敗れて滅亡したが、元は繁栄を極めた我々が、ナマコになんぞなるものか。亡霊のプライドここにあり、というところか。 
 

 

キツネとタヌキ  
キツネとタヌキの怪異は、全国的に多い。でも、妖怪DBで怪異の報告の全国分布をみると、はっきりとした特徴がある。キツネは東日本、タヌキは西日本に多いのだ。  
分析すると、四国・九州でのキツネの怪異報告は平均より際だって少ない。反対にタヌキの怪異は、近畿の一部と四国に大変多い。特に四国では、キツネが少なく、タヌキが多い傾向が顕著だ。  
環境省の調査によると、四国では野生動物のほうのキツネも少なく、タヌキが多いらしい。全国的に野生動物の生息数と、その動物にまつわる怪異の数は、比例することがわかってきた。  
昔、弘法大師が四国からキツネを追い出し、タヌキを大変可愛がったという伝承がある。現代の妖怪DBは、そんな伝承を数のうえで裏付けている。  
亡父の秘密  
今春から2年目に入った「異界の杜」。今週から3回、江戸時代の随筆に記された異界を紹介していこう。  
幕末期に活躍した漢詩人、広瀬旭荘の『九桂草堂随筆』によると、友人の父が没した直後、友人の夢に亡父が現れた。そして自分が常に使っていたが誰にも教えていない小箱を、一緒に墓へ入れてくれるよう頼んだという。  
そこで友人は家中を捜したが小箱は見つからず、それから数十年経ってようやく見つかった。その中に入っていたのは、なんと亡父の入れ歯だった。これが人前に出るのを恥と思い、死んでも気にしていた、亡父の秘密だった。  
墓場まで持って行く秘密とはよく言うが、もしも持って行けなかったら……。そうした念が時として、異界である「あの世」の扉を開く。夢という形を借りて。  
恐ろしい石  
鳥がその石の上に止まると必ず死ぬ。江戸期の随筆『閑度雑談』に記されたこの石は「那須野の殺生石(せっしょうせき)」と呼ばれる。こうした恐ろしい石の話は多い。  
例えば『中陵漫録』には、宮中に忍び込んだキツネが正体を見破られて化け、触る者を死なせる石。『諸国里人談』には、触れた動物たちが死ぬという磐梯山(福島県)の毒石。また大坂の雑事を書いた『浪華百事談』には、虫や鳥が載ると二つに割れ、カエルのように飲み込む石、などなど。  
冒頭に挙げた殺生石は元々那須野(栃木県)にあった石塊の片割れで、いつしか京の都に流れ着いたものだったという。  
近ごろ、街では小石を見つけにくくなったが、私達はアスファルトの上から、殺生石の片割れを踏んでいるかもしれない。  
江戸時代のUFO  
幕府が開かれてちょうど200年経(た)った享和3(1803)年。長崎にアメリカ船が来港するなど、世界貿易の波が日本に押し寄せてきたこの年、常陸国(茨城県)の海浜にも驚くべき船が漂着した。  
その船の形は釜のごとく、上半分は黒塗りで四方に窓があり、下半分は非常に硬い鉄を筋状に組んでいた。そして船内からは黒髪を後ろになびかせた、20歳ほどの色白美人が出てきた、とある。しかし彼女とはまったく言葉が通じず、また日本のものではない織物を身につけていたらしい。  
この話が収録された『梅の塵』の本文には、この船の図も載せられているが、それはまさに「空飛ぶ円盤」を思わせる形状。そうなると彼女はさしずめ「宇宙人」か。このころの日本は、海も空も騒がしかったのかもしれない。  
桜の精(上)  
桜に何かしらの特別な感情を抱く日本人は少なくない。花の命の短さや散り際が、「もののあわれ」や「はかなさ」に美しさを感じる日本人の感性に訴えるのかもしれない。  
しかし桜に宿る精霊については、少々異なる印象を受ける話も伝わっている。  
長野県の安曇野で、九兵衛という猟師の男が山で道に迷い、そこで出会った桜の精に魅入られるという物語だ。そこに登場する桜の精は17、8歳の美女で、蝋(ろう)のように滑らかで透けるような肌、ふさふさと肩を覆う黒髪、ひとなつこい輝きを持つ目が特徴であると述べられている。  
そこからは「もののあわれ」や「はかなさ」はあまり感じられない。むしろ、桜の生き生きとした若い生命力を感じさせる。まさに春の精霊のイメージだ。  
桜の精(下)  
「桜の樹の下には屍体(したい)が埋まっている……」。梶井基次郎の小説『桜の樹の下には』の有名な一節だ。その屍体を養分にして、桜は美しい花を咲かせるのだという。  
前回の九兵衛と桜の精の物語には続きがある。九兵衛は一度は里に戻ったものの、桜の精の美しさや、彼女を両腕に抱いたときの幸福感が忘れらないあまり、仕事も手につかなくなり、再び山へ入ったのである。  
そしてその結末は聞き手の想像を裏切らない。しばらくして村人によって発見された九兵衛は、幸せそうな表情を浮かべながら、桜の樹の下で花びらに埋もれて冷たくなっていたのだ。  
桜は屍体から養分を吸い上げるだけではない。その人の心まで吸い上げるからこそ、美しく花を咲かせることができるのである。  
食わず女房  
浪費をせずによく働く女房は現代においても理想だろうが、昔は飯を食わせることすら惜しむ男もいたようだ。  
食わず女房はその名の通り飯を食わない。ただしそれも夫が見ているときだけのこと。実は頭の後ろに大きな口があり、そこから大量に物を食べるのである。正体は山姥(やまんば)という説(『旅と伝説』通巻40号)や蜘蛛(くも)の化け物であるという説(『伝承文学研究』通巻25号)がある。  
この妖怪を女房にするのは欲深な男である。最後には自分が食われそうになり、九死に一生を得る、というのが物語の定番だ。  
農村での過酷な労働生活において、食事は数少ない楽しみのひとつだったに違いない。この物語には、それさえも惜しむような身勝手な男たちへの戒めが込められているように思える。  
行きて還りし物語(上)  
天狗(てんぐ)が人をさらう、という話は誰しも聞いたことがあるのではないだろうか。聖域たる山で不敬をしでかした者を、突然つかみ去る天狗。そうしてさらわれた者の大抵は、絶壁から投げ落とされたり、股(また)から裂かれて木の上につるされたりといった無残な姿で発見されることとなる。  
ところがそのような不敬のやからだけでなく、特に天狗のお気に召した者もまた、深山幽谷にいざなわれてしまう。それは主に純粋無垢(むく)な幼児か、特別の資質を備えた男性である。  
ある者はそのまま行方知れずとなるが、ある者は現実世界に帰還を果たす。しかし異界の風に触れてしまった彼は、もはや以前と同じ日常には戻れない。  
そんな彼らの「行きて還りし物語」を見てみよう。  
行きて還りし物語(中)  
「天狗(てんぐ)のお使い」と称される、天狗と親しく交際する人たちがいる。彼らは飛行する天狗を見たり、声を聞いたり、たびたび遠方に連れていかれたりする。  
彼らはまた、天狗に秘法を授けられている。怪力や早足、剣術や医術などのほか、予知や飛行、不眠不休で働ける能力など、人間を超えた力を身につけるのだ。  
彼ら天狗の弟子は、明治末から昭和初期に評判となった。三重の「天狗の初さん」は天狗に戦争見物に連れて行かれた後、占いで有名になった。富山の「中田行者」は天狗に帰依して株相場で当て、満州事変を予告した。  
戦争や不況で世の先行きが不透明になると、人は人智を超えたものに頼りたくなる。天狗は金もうけなど、俗世間の欲望をかなえてくれる存在でもあったのだ。  
行きて還りし物語(下)  
天狗(てんぐ)の弟子となった者たち。その中の幾人かは、最後には心身ともに天狗へと変わり果て、異界へ飛び立ってしまうのだ。  
天狗と親交のあった先祖がついには天狗の仲間となった、と言い伝える旧家や、住職がいまわの際に天狗に変じて飛び去った、と伝える寺が、各地にある。  
「鞍馬天狗」のように、現代、天狗のイメージはとてもよい。超能力を得た彼らをうらやむ人もいるだろう。だが、天狗はただカッコイイだけの存在ではない。「天狗になる」ということばのとおり、彼らを人間以外の存在に変えたのは、抑えきれない慢心や激しいうらみの心なのだ。力の代償は、あまりにも大きい。  
妖怪は、人の心の鏡像である。異界の杜の奥底には、よどんだ闇もまた、広がっている。 
 

 

袈裟(けさ)の力  
僧侶が身につけている袈裟は、不思議な力を持っているとされている。  
『三河吉田領風俗問状答』によると、竜枯寺(愛知県)の僧侶は、雨乞いの際、海上の竜江という所に行き、法門相承の系図「血脈」と袈裟を投げ入れる。すると必ず雨が降るという。  
「摺 
(す)り袈裟」というお守りもある。版木で袈裟の図を刷り、折りたたんで所持する。伊豆の修禅寺には、敵討ちで有名な曽我十郎が愛欲地獄に堕(お)ちて苦しんでいたので、墓に摺り袈裟をかけたところ、成仏したという話がある。摺り袈裟は今でも徳島県の恩山寺などで入手できる。  
曹洞宗の一部の寺では袈裟を縫い、身にまとう「福田会(ふくでんかい)」が行われている。縫うことで在家の人々が仏の道に結びつくのも袈裟の力といえようか。  
白い着物  
暗闇や柳の下で白い着物の人を見て幽霊を連想しドキリとしたことはないだろうか。  
交通事故死があった場所で、白い着物の女性をタクシーに乗せたところ、途中で姿が消えたという話がある。白い着物の人が実は亡霊であったという話は多い。そのため、白い着物の人が現れると不幸の前兆であるともいわれる。  
岩手県宮守村のお鍋が淵(ふち)は、昔、領主の鱒沢忠右衛門が南部家に滅ぼされた際、忠右衛門の側室・お鍋が入水した場所といわれる。かつてこの淵の傍らに白い大石があり、洪水のある時は、白い着物の女がその石の上に現れたと伝えられている。  
白い衣服は、遍路の衣服や死に装束など、非日常の衣服として用いられることが多い。白い着物は、異界の人であることを示す象徴なのであろう。  
布の呪力  
布は、衣服や袋として用いるだけではなく、旅立つ人に手ぬぐいなどの布を持たせると道中無事に過ごせるというような呪力を持つともいわれる。  
青森県八戸市には、次のような昔話が伝えられている。  
昔、ある家の飯炊き女は、流しの口に袋を下げ、飯粒を集めて鳥に施していた。ある時旅僧に布施をしたところ、その僧は弘法大師であった。大師は袋に関心し「なんじはみにくい顔をしているからこれで磨くように」と法衣の袖の布を切って賜った。女が布で顔をこすると美しい顔になった。ところが家の主の強欲な女房が、その布を借りて毎日こすったところ、馬のような顔になったという。  
布は、用いる人の考え方によりさまざま形を変える。呪力も心構え次第で変わるのかもしれない。  
夕立  
先ほどまで青々としていた空が一瞬にして黒く染まり、やがて激しい雨が降る。昼の情景をつかの間夜に変えてしまう夕立は、夏の熱気を取り去る天然の冷房装置であり、重要な水確保の機会でもある。  
奈良県月ヶ瀬村にある龍王の滝で、夏の干ばつの時に女性の腰巻を洗濯すると夕立になるという言い伝えがある。この滝には次の話も残っている。ある貴人が女官を連れて滝にやって来た。夏の暑い日だったので女官に水浴びをさせて自分も水に入ったところ、雷鳴がして大雨になった。2人はあわてて逃げ帰ったが、それ以来、女性が滝に行くと荒れるという。  
突然の雨降りのせいで洗濯物が濡れるというような迷惑も時にはあるが、夕立は夏の空にささやかな彩りを添えてくれることもある。次回は、その彩り・虹の話。  
虹  
夕立でざぁっと一雨来た後、条件が重なれば空にかかるのが虹である。歌のモチーフとしてもよく用いられる美しい自然現象は不思議な印象も与えるとみえて、虹の「根元」に黄金が埋まっている、という言い伝えも残る。  
また、こんな話もある。夕立があった日、ある公家の屋敷の庭に虹が二つ立ったが、空に映ったそれは一つになっていた。不吉なことが起こるのではないかと思っていたところ、その年の冬に武家伝奏の役職を仰せ付けられて、家は繁栄した。後に中国の書を読んだところ、虹は天の使いであり、悪行の家に虹が立つのは凶だが、善行を多く積み重ねた家に立つのは吉だと書かれていたという。  
虹は運命の先触れの役目も果たしてくれる。ただし、その吉凶を左右するのはあくまで自らの行いの結果、ということらしい。  
日常にひそむ異界  
いつも見慣れた、おなじみの風景。しかし日常の場所が、時として非日常である異界への入り口に変わってしまうことがある。  
どちらも徳島市、明治の初めの話。早朝、ある少年が寒げいこに向かう途中、通り道である「助任橋」という橋が二つに増えていた。石を投げると右からは石が水中に落ちる音が、左からは石が木に当たる音がした。左の橋を渡ると右は消えたという。また、「福島橋」という橋にはお福石という大石があり、通行人が深夜これに笑われると必ず異変があると言われていた。ある士族が石に笑われたので自分も石に笑い返して引き返すと、何事もなかったという。  
どんな事態が起きても、あわてず冷静に対処すること。これが、異界から伸びてくる手をすり抜ける秘けつのようだ。  
ひだる神  
安部公房「飢餓同盟」の中には、「ひもじい様」という神様が描かれている。信者の営む茶屋で売られている、キノコの干物で作った護符の名前は「満腹」。町民の心身の飢餓感を象徴するこの神様は、山の妖怪「ひだる神」がモデルと考えられている。  
峠道などで旅人にとりつき、足腰の立たないほどの飢餓感を与えるのがひだる神だ。安永4(1775)年、東海道の亀山宿(三重県亀山市)で、京都の旅商人が突然顔色を変えて倒れ込んだ。商人に飯を与えると、急に起き上って飯に食らいつき、正気にもどったという。餓死者のさまよえる魂が固まったこの妖怪から逃れる方法は、常に満腹であることらしい。  
飽食の現代、飢餓と背中合わせだった昔の人の恐怖感は現実味を失っている。しかし心の飢えはむしろ深まっているようだ。  
刀に宿る力  
職人が丹精をこめて鋼(はがね)を鍛え、生み出される刀。所持者を死に追いやる「呪いの刀」の話は有名だが、一方でこんな話もある。  
背負った袋から落ちた大豆が、腰の刀の切っ先ですぱっと真っ二つ。越後(新潟県)の男が持つ霊剣はそれほどの切れ味だった。  
ある日、男が山を歩いていると雷鳴がとどろきだした。そこで男は刀を頭上にかざし目を閉じた。やがて空が晴れ、目を見開いてみると、刀も頭や衣服も血まみれ。落雷したが、頭上にかざした刀の威徳で助かったらしい。刀は後に、上杉謙信の秘蔵品の1つになったという。  
刀は雷を切り、所持者を守ったのだろうか。人の手を経て生まれながら、時に人の想像をはるかに超える刀は、それを扱う者より異界に近い存在かもしれない。  
人魚雑記(上)  
海をすみかとする人魚が人里に紛れ込む話は数多い。小川未明は新潟の民話をモチーフに「赤い蝋燭(ろうそく)と人魚」で悲劇を描いたが、ひとと通い合う話も各地に伝わる。  
佐渡島の話。美しい人魚のイオが夜、ある民家に現れた。その家の婆さんが驚き、他に人間に見つからないように海へ帰るように促すと、イオはすうっと波間に消えて行った。  
南海の宮古島には人魚と結婚する話も伝わる。サアネという少年が魚釣りをしていると、海から人魚が現れて「私は竜宮からの使者、最初に出会った男の妻になるように命じられている」と告げた。ウマニャーズという名の人魚は五穀が永遠に出てくる「無尽蔵の袋」を持っており、子にも恵まれ、夫婦は幸せに暮らしたという。  
次回は人魚への切ない恋話。  
人魚雑記(下)  
「山椒魚」で岩屋に閉じこめられた愚鈍な生き物の叫びを描いた井伏鱒二。彼が「旅と伝説11」に採集した武蔵国落合村(東京都多摩市の一部)に伝わる人魚に恋した河童の話も、道化ぶりに相通ずるものがある。  
元亀2(1571)年、春から夏に雨が降り続き、洪水が続いた。修験者の佐貫坊がそれを鎮めるために渚で捕獲した河童を利用することを思いついた。酒宴で河童が「人魚はつややかで麗しく、肌は玉のようでどきどきします」と恋心を語ると、佐貫坊が「その顔では人魚を口説けん。洪水を引かせてくれれば、円満にまとめてやるぞ」ともちかける。河童を放すと、2、3日で水が引いたという。  
河童が思いを遂げたかは記録されていないが、その可能性は薄いだろう。ずるがしこい人間に利用される妖怪の姿はあわれだ。 
 

 

異界・紀伊山地 1  
今年7月、世界遺産に「紀伊山地の霊場と参詣道(さんけいみち)」が登録された。そこで今週から4回にわたり、この地域の異界話を紹介しよう。初回は「熊野」である。  
紀伊山地の南東部にあたる熊野地域は、熊野三所権現の霊場として古くから信仰され、今も多くの参詣者を集めている。  
こうした聖なる地には怪しい話もつきものだが、この熊野の山中には「一本ダタラ」なる妖怪がすんでいるらしい。この妖怪は片目片足で、幅30aもある足跡が一足ずつ雪の上に残っていたという。実は江戸時代に編まれた『紀伊続風土記』にも登場する、とても歴史のある妖怪のようだ。 いにしえの道が残る熊野路を歩く時、少々疲れてつえが欲しくなる。2本の足と1本のつえで3本足。これで我々も立派な妖怪だ。  
異界・紀伊山地 2  
「紀伊山地の霊場と参詣道(さんけいみち)」の世界遺産登録にちなみ、この地域の異界話を紹介している。今回は「参詣道」を取り上げよう。  
紀伊山地に点在する霊場をつなぐ参詣道は、深い常緑樹に包まれて、昼間でもひんやりと暗い場所が多い。そこに異界が生まれる。  
参詣者が熊野古道を歩いていると、突然激しい空腹におそわれて動けなくなる時があるという。これは「ヒダル神」なる妖怪のしわざらしい。また「ヒトタタラ」という片目片足の鬼も参詣者を苦しめた。さらに「ナンジ」という魔性が現れて、信心の足りない者はナンジの出した火で焼かれるという話も伝わる。参詣者の信心が試されているわけだ。  
参詣道に出没する妖怪によって人々は霊場への信心をあつくする。これも「共存共栄」と言えよう。  
異界・紀伊山地 3  
紀伊山地の世界遺産登録にちなみ、この地域の異界話を紹介している。今回は「高野山」を取り上げよう。  
弘法大師空海が開いた聖地・高野山には、毎年観光客など多くの人々が訪れている。しかしさすがに霊場らしく、高野山には怪しげなモノもかなり伝わっている。  
例えば、撞(つ)けば必ず願い事がかなう「無間の鐘」。ただし成就後は不幸が続き、最後は没落するという。また業(ごう)の深い人は渡ることができない「御廟の橋」。身に覚えのある豊臣秀吉はここを恐る恐る渡ったらしい。奥の院の「汗かき地蔵」は毎日午前10時ごろに必ず汗をかいたと伝わる。また高野山は天狗(てんぐ)のすむ場所としても有名だ。  
こうしたガイドブックに載らない異界が、逆に聖地・高野山のアヤシイ魅力を引き出している。  
異界・紀伊山地 4  
紀伊山地の世界遺産登録にちなみ、この地域の異界話を紹介している。最後は「吉野・大峯」である。古くから山岳修験の霊場として有名な地域だが、動物にまつわる怪異譚(かいいたん)が豊富である。  
例えば医者がキツネのお産に立ち会った話や、毎夜玄関を叩きにくるタヌキ。人の後ろをつけ、転んだらかみつく「送りオオカミ」もいれば、頭や背中にササが生えている馬やイノシシたちも。人が大蛇に遭遇した話は多く、なかには見ただけで病気になった人もいた。河童(かっぱ)や天狗(てんぐ)や鬼も登場し、ろくろ首の村もあったというから実に面白い。  
世界遺産登録の基準には「人間の創造的才能を表す傑作であること」がある。ならば紀伊山地の「異界」も、その基準を満たしうる人類の傑作ではないだろうか。  
三猿「見ざる」  
三猿にちなみ、今年のえとの猿に関する話を3週にわたって紹介しよう。  
筆者が高知県を訪れた折に、古老からうかがった話。山に出る妖怪で恐ろしいのが、六面王(むつらおう)、八面王、九面王という怪物。それらは顔色が名の通りの数だけ変わる、あるいは、頭がその数に分かれている蛇のような化け物ともいわれる。これらの妖怪は、たいへん年を取った猿が化けるのだ、ということだった。  
猿の妖怪といえば、長生きした猿が巨大な姿となり、神にまつりあげられ、いけにえを要求するが、武士に退治される話が『今昔物語集』に伝わる。これと違い高知の妖怪は、それ自身が猿の姿をとらないという特徴がある。老猿の本性を見られたら、魔力を失うからか? 「見ざる」。姿を見られることを忌む怪物なのだろう。  
三猿「聞かざる」  
全国に伝わる話で「怪異・妖怪伝承データベース」にも、さまざまなパターンが収録されている話に「猿の祟(たた)り」がある。ある時、猟師が、妊娠している(あるいは子連れの猿)を見つける。猿は猟師に対し、必死に手を合わせて命ごいをするが、訴えを無視して仕留めてしまう。ちょうど猟師の妻も妊娠していて、生まれた子どもは猿の霊に祟られてしまう。  
仏教の殺生禁止や因果応報の教えも含まれるが、そもそも猟師は、猿と同様に親になる身でありながら、猿に共感せず、残酷な行いをしたのがいけないのである。  
殺生が生業の猟師とはいえ、人間とよく似た姿である、猿の命ごいの姿はより哀れに感じられるだろう。内なる良心の声に耳を傾けず、欲望のみに執着し、「聞かざる」をしてはならない。  
三猿「言わざる」  
猿と人が約束する話。これも「怪異・妖怪伝承データベース」に散見され、各地に伝わることが分かる。典型としては、水害に困った男が、堰(せき)を築く手伝いをしてもらう代わり、娘を猿に嫁にやると約束する。娘は仕方ないと猿について行くが、一計を案じ、途中の川に猿を突き落としてしまう。  
猿は計略にはめられたにも関わらず、死ぬ間際に娘に向かい、「(死ぬこと自体よりも)嫁のお前を残して死ぬのが心残りだ。お前の今後だけが心配だ」と叫ぶ。実にけなげな猿婿(むこ)だ。  
猿は男の言うままに手伝い、交換条件を果たすのを求めただけである。しかし、人間の方は、ひきょうかつ残酷にこれに応じる。守れない約束なら安易に口にするな。「言わざる」。これは今どきの政治家にも聞かせたい話だ。  
流れ星  
「釣瓶(つるべ)落とし」に例えられる秋の夕暮れの後に、藍(あい)色の夜空が訪れる。その夜空を切り裂くように流れていく星は、秋の季語の一つである。  
願い事を3回唱えるとかなえてくれるといわれる流れ星は、凶事の前触れなど恐ろしいものとしても多く記録されている。天から落ちる火を「テンビ」「テンピ」「デンビ」などと呼び、火事などの厄災を起こす怪異として恐れたが、その実態はいん石や落雷などのほか、流れ星をそう呼んだとみられる例も多い。流れ星は、落雷と同じ忌むべき現象だったのだ。  
現代、明るい都会の夜空で流れ星が見られることはまれ。ありがたみが増した分、人々の心に不安を与える不吉な印象が薄れ、ロマンチックな天体ショーとして、ただただ歓迎される存在になったのだろうか。  
髪切り  
テレビをつけているとさまざまなヘアケア用品のコマーシャルが流れている。手間をかけて美しく保っている髪を、何の断りもなく切られたら、どうするだろうか。  
元禄のころ、人の髪が切られるという事件が多発した。男女に関わらず元結際から髪を切られており、本人はいつ切られたのかも分からない。切られた髪は結ったそのままの形で落ちているという。江戸の金物屋の下女は夜中に買い物に出かけて帰ってくると、すでに髪を切られていた。人に指摘されて初めて気づき、下女は気絶した。  
大けがをするわけではないが、「髪は女の命」。髪が伸びるまで怪異の痕跡をまざまざと見せつけられる者からすれば、「髪切り」は十分に恐ろしくまた忌まわしい怪異であっただろう。  
月にうさぎ  
月にはうさぎが住んでいる。子どものころ、誰もが聞いたことのある話だ。月の影を「餅をつくうさぎ」に見立てたのだが、うさぎと月にはこんな不思議な関係がある。  
ある川のそばに住んでいた人は、うさぎをかごに入れて飼っていた。秋、月の明るい晩にかごを木にかけておいたら、うさぎはかごの目を抜けて川面を走って逃げてしまった。うさぎは月に向かうと身体が自由に変化し、かごの目も抜けられるのだという。  
また月を慕ううさぎは、夜になると臼を伏せておいても居なくなってしまうともいう。  
うさぎは月のせいでさまざまな行動を取るのだろうか。あるいはうさぎに力を与えるのは、月にいる同族かもしれない。もうすぐ美しい月とうさぎを見ることができる、十三夜(10月26日)である。 
 

 

生き返る針  
針供養にみられるように針は何らかの力が宿る道具と考えられてきたのであろうか。不思議な話が秋田県に残る。  
大鯨がある男に話しかけた。「昨晩の夢を語ってくれるのなら、特別な針をあげよう」。針は2本あり、1本はどんなに強いものも死ぬ針、もう1本は死人が生き返る針という。針をもらった男は試しに、なんと死ぬ針をその鯨に刺した。鯨はあっけなく死んだ。  
さて男が城下を訪れると、殿様のお姫様が死んだといって皆が泣いていた。男がお姫様の身体に生き返る針を刺すと、姫はぱっちりと目を開いた。殿様は大変喜び、男にほうびを与えたという。  
針は、裁縫や治療のために用いて役立つ道具である一方、誤った使い方をすれば人の命を縮める場合もある。やはり道具は使い手次第なのだろう。  
いさめる観音  
観音は慈悲深い仏として信仰を集めるが、時に人々をいさめることもある。  
牛と交換でニワトリを手に入れた男がいた。オスにもかかわらず金の卵を産む。すると嫁が欲を出した。金の卵で再び牛を買い、同じようなニワトリと交換してこいという。1羽が産む卵は1日1個。2羽、3羽となれば、それだけ豊かな暮らしが手にはいるのだ。  
いよいよ交換する前日の晩、観音が男の夢枕に立った。「正直者で人のために働いていたから功徳を授けたが、欲が深くなったので功徳はお預けだ」という。翌朝、金の卵は瀬戸物に代わり、男は貧しい暮らしに戻ってしまった。  
人をいさめるのは難しいが、本当に相手の幸福を願うなら鬼になることも必要だ。しかし普段は、観音像のように穏やかなほほえみを絶やさぬようにしたい。  
恋の石、恋の火  
恋愛の自由が許されなかった昔、恋人たちは「せめて来世で」と願った。  
武士の好丸は将軍に従って京へ行くことになり、夫婦になる約束をした長者の娘お糸と別れることに。恋心をおさえられない2人は寄り添って泣き続け、そのまま石になったという。各地にある「夫婦石(岩)」の二つ並ぶ石は男女の深い絆を連想させる。  
また、異なる島の者との恋愛であったため人目をしのんで海岸で会う恋人たちがいた。それを島の若者達に見つかり、はやし立てられた娘は、恥ずかしさで崖から身投げしてしまった。相手の男も後を追った。その後、海岸に怪しい火がでるようになったという。  
石となって添い遂げる恋、火となって燃え続ける無念の恋。真実の恋は形を変えても永遠に生き続けるものなのだろう。  
カマイタチ存疑(上)  
冷たい北風の季節となった。冬特有の怪異に「カマイタチ」がある。  
手足などに、知らぬうちにぱっくりと裂き傷ができているのに痛みもなく、出血もない。この現象はカマイタチという妖怪の仕業とされてきた。カマイタチはイタチのようなすばしこく、小さなつむじ風となって人に斬(き)りかかる。まさに「身を斬るような風」というやつだ。3匹1組で行動するともいわれている。  
しかし現代に生きるわれわれの多くは、この現象を妖怪の仕業と考えていないだろう。どこかで「カマイタチ現象は、つむじ風などで大気中に生じた真空が人間の皮膚を裂く自然現象である」という「科学的説明」を耳にしたことがあるのではないか。  
ここで、この「科学的な」説明を少し疑ってかかってみよう。  
カマイタチ存疑(中)  
「科学的」解説が出る以前、カマイタチは山の神や天狗(てんぐ)が禁忌を犯した者に当てる罰と考えられていた。カマイタチの語源は天狗らの構え太刀という。  
「カマイタチの正体は真空」という説は昭和の初め、気象学の学術雑誌に発表されて、一般に浸透したらしい。しかしすぐに疑義がでた。文人科学者・寺田寅彦が随筆「化け物の進化」の中で「自然界に真空が簡単に出現するはずはないし、たとえ真空ができたとしても人間の皮膚が風船か何かのように簡単に破裂するとは考えがたい」と異議を唱えている。なるほど冷静に考えてみると、寺田の疑義に理があるようだ。  
あんなに「科学的」と思われた真空説が、がぜん怪しくなってきた。それではカマイタチの正体は一体何なのだろう。  
カマイタチ存疑(下)  
カマイタチの正体は何なのか。答えは意外な方面から提出された。1970年、気象学者の高橋喜彦氏は学術誌上に「かまいたちーー気象書から消したまえ」を発表し、カマイタチは生理学的な現象であると結論を出した。  
同論文によるとカマイタチは、乾燥し突っ張った皮膚が急な衝撃を受けて裂ける現象で、皮膚が開いただけなので痛みも少なく、出血も微量ということらしい。そういわれると「転んだ際」「人とぶつかったとき」カマイタチにあった、という事例がほとんどだ。  
ところが現在、真空が人体を切り裂くという知識は小説やマンガなどでとりあげられ、常識的な「科学知識」となっている。非科学が科学と信じられ、大手を振って流布されていることこそ、妖怪的な状況といえるかも知れない。  
ネズミの超能力  
夜、寝ていると体が急に重くなり、目も覚めているのに口がきけず、身動きもとれない。こうした経験のある人もいるだろう。今でいう「金縛り」現象を昔は「ネズミにおされた」と言い習わしていた。それはネズミを足で追ったり、悪口を言ったりした仕返しとも言われていた。ネズミは人語を解するのだ。  
民家がカヤぶきだったころ、ネズミは夜な夜なわが物顔で走り回る身近な小動物であった。  
その一方でネズミは大黒様のお使いとされるなど、家の中と外、人間界と異界とを横断する、神秘的な存在でもあった。  
お正月には「ネズミ」と言わず、「ヨメゴ」「おフクさん」などと呼び代える習俗が各地にある。それは霊力あるネズミに今年の福を運んで来てもらいたいという、人の心の表れなのだろう。  
餅なし正月  
日本中が祝賀ムードに包まれる正月だが、新年を晴れやかに迎えられなかった者のために、餅を食べることすらやめてしまった村の話が山口県に伝わっている。  
大みそかの晩、敵に追われた武士が自害する場所を求め、ある民家に入った。家人が言い残すことはないかと聞くと「正月を迎えずに死んでゆく自分の心をくみ、正月を祝ってくれるな」といった。その後、村で正月に餅をついて雑煮を作ったものがいたが、餅をかむと血がたらたらと流れ落ちてきた。それ以来、村で餅を食べるものがいなくなったという。  
偶然に村で死んだ武士のために、年に一度の楽しみさえ放棄するのは不条理だ。しかし、たとえ餅がなくとも、無事に新年を迎えられるということはそれだけで幸せなことなのかもしれない。  
雪女のいたずら  
低くたれこめた雲と降り積もる雪。景色がモノトーンに染まる季節は、人恋しさを感じさせる。雪山の住人である雪女も例外ではないようだ。  
雪の夜、夜番の侍がたまたま出会った女に頼まれて、しばらくの間赤ん坊を預かることになった。ところが女は雪の中に消え、抱いている赤ん坊はどんどん重くなっていく。侍は赤ん坊を降ろそうとしたが腕から離れず、助けを求める声も出せない。その後、侍は太い氷柱(つらら)を抱いて、気絶した状態で仲間に発見された。女は雪女に違いない、とうわさになったという。  
目が覚めてきょとんとする侍を、遠くから見る雪女の笑い声が聞こえてきそうだ。人とのふれあいを求めて、いたずらをするあたり、冷酷な雪女もどこか温かみを感じさせる妖怪にみえてくる。  
銭のなる梅  
大抵の親は子どものためなら多少の苦労はいとわないだろう。その子が障害を持っていれば、なおさらだ。以下は明治末に実際にあったと記録されている話である。  
ある神官には、知的障害をもつ娘があり、常にその身の上を案じていた。そして、その神官が死んだ後、不思議なことが起こるようになった。娘が予言すると、庭のほこらの横に立つ梅の木から銭が落ちてくるのだ。  
新聞社や警察までもが調査したが、理由は分からず、神官であった父親の霊的作用だという意見も出されたという。  
ハンディキャップを持った愛娘に、経済的に恵まれた暮らしをさせたいと願う父の念が、あの世とこの世の境界を突き破ったのか。いつの世もありがたいのは親の愛情である。 
 

 

便所の神様  
今は少ないが、昔はくみ取り式の便所がほとんどだった。便器にぽっかり開いた暗い穴に、いい知れない恐怖を感じた人も少なくはないだろう。  
そんな場所にも神様はいる。「便所の神様」は盲目の女性といわれており、便所につばを吐くと目を病むといった俗信がある。  
また出産と結びついた伝承も多く、妊婦がきちんと便所掃除をしていると美しい子が産まれ、汚くしていると難産になるという。一見、便所掃除をさせるための説話に見えるが、妊婦はある程度体を動かしたほうがよいという先人の知恵も含まれているのだろう。  
それにしても気になるのは公衆便所の汚さだ。下品な落書きも見るに耐えない。人目につかない空間であふれ出る人の心の闇は、たとえ神様でも浄化しきれないほどに深いのかもしれない。  
間(あわい)に遊ぶ子ども  
ツツジに導かれ魔所に迷い込んだ少年「千里」は、美女に抱かれて眠ってしまう――。泉鏡花の名作『竜潭譚』をほうふつさせる神隠しの言い伝えが各地に残る。  
行方不明になり、翌日山中で発見された山形の子どもは、なぜか「前夜は母と一緒に寝た」と言った。同じく山で保護された兵庫の男の子は「ひげの生えた人に花畑に連れていかれ、うまいものを食わせてもらった」と話した。  
また高知の娘は不明になって7日目、なんと自宅の押し入れで見つかった。ボロをまとい傷だらけの姿だったが、シキミの葉を食べ、僧侶のような人とおもしろく過ごしていた、と語ったという。  
異界話を楽しげに話す子どもに大人はとまどう。子どもらが現実と非現実の間で遊ぶことができるのは、むくな魂ゆえだろうか。  
天狗  
前回は神隠しから無事戻った子の話を取り上げたが、残念ながら二度と帰らない例も多い。人々はそんな時、「天狗にさらわれた」と言った。  
鳥取のある武士の息子が何者かにさらわれた。10年後、息子は妻の夢に現れ、頼んだ。「自分は天狗の弟子になった。行法の披露式に野菜と強飯(ごうはん)が必要なので屋根に置いてくれ」。  
また何十年かのち、木こりが「山で老人に託された」と羽団扇(はうちわ)を武士の家に届けに来た。わが子の形見と大事にしていると、大火事の時、なぜか武士の家だけ焼けなかったという。  
わが子を突然失う悲劇は現代の親にも襲いかかるが、捜索願もない時代の親は理不尽さを異形の者の仕業に例え、あきらめるしかなかった。各地に残る天狗の造形はそんな人間の無力感を語る。  
水の冥土  
夢の舞台で交感し合った人妻の不義の恋は海底で成就する。泉鏡花「春昼」「春昼後刻」の様な悲話が長崎に残る。  
その村は用水に澄んだ淵(ふち)を利用していたが、夏の土用の入りに急に水が止まった。田が枯れ、餓死の危機にさらされた村人は毎夜村の神社に祈願に行く。すると「淵の水神様のたたりだ。はらみ女を犠牲に奉納せよ」と村人の一人に夢のお告げがあった。  
早速身重の女が探しだされ、村人の説得に女は淵に身を投げた。ところが女には僧の恋人がおり、僧も絶望の余り後を追った。今も淵では嘆きの鐘が響くという。  
女犯の戒を破った僧の子を宿したゆえに女が選ばれたかどうかは記録されていない。いずれにせよ、欲念も犠牲になった憎しみも水に清められ、彼らが水の冥土で至極の抱擁を交わしたと願いたい。  
鴛鴦(えんおう=オシドリ)  
ボタン雪の散るヒスイ色の水面を仲むつまじく2羽の鴛鴦が寄り添う。彼らはつがいのどちらかが死ぬと片方も死ぬという。鎌倉時代の痛ましい説話が残る。  
下野国の安蘇沼(栃木県佐野市)に猟師がおり、ある日つがいの鴛鴦の雄を撃ち殺した。その夜、男の夢になまめかしい女が現れ、夫を亡くした嘆きの詩を吟じた。「安蘇沼で菰(こも)に隠れて独り寝するのはつらい」。消え去る姿は鴛鴦の雌ではないか。驚きのあまり翌朝見れば、雄の傍らでくちばしで自分の腹を貫いて死んでいる雌をみつけた。ふびんに思った男は出家した。(「沙石集」)  
ともすればはかない幻想になりがちな情愛に殉じるきん獣の姿。数百年の時を経ても、混沌とした現代の男女の関係にも示唆を与えてくれるかもしれない。  
おひなさま(上)  
3日は桃の節句。今週から2回にわたって、おひなさまにまつわる不思議な話を紹介したい。  
東京・八王子の昔話。ある家で、きれいな着物を着た2人組が現れ、階段を上り下りする。家人が2階を調べたところ、片隅に置かれた古い箱の中から内裏びなが見つかった。人形たちが外に出たがって歩き回っていたのであった。人形をお宮に納めたところ、怪異はおさまったという。  
人の魂が宿るとされる人形。その怪異といえば恐ろしげな話も多いが、衣冠束帯(いかんそくたい)と十二単(じゅうにひとえ)の2人が民家の階段をしずしず上っている姿を想像すると、恐いというより、ほほえましい。古箱から念願の外の世界に出ることができた2人は、今も気ままに散歩を楽しんでいるかもしれない。  
おひなさま(下)  
飛騨(岐阜県北部)には、「棟上雛(びな)」といって、飾って眺めるのではなく、家を建てるとき、箱に入れ、その建物に納めるためのひな人形がある。これには悲しい由来が伝わっている。  
ある大工事がうまくいかず、飛騨の工匠が大変頭を悩ませていた。それを見かねた彼の娘が知恵を出した結果、工事は無事終了する。ところが工匠は感謝するどころか、素人に教えられたことを恥だと思い、娘を殺してしまう。  
その因果か、彼の建てた建物には必ず変事が起こるようになった。そこで棟上げの時、建物に娘の人形を納めると怪異はやんだ。  
孝行娘が報われないとは、何とも哀れな話である。娘を似せて作ったおひなさまは、無念のうちに亡くなった娘の魂を供養する役割を果たしたのであった。  
春の花・梅  
今回から2回、春の花にまつわる悲劇をお伝えする。戦国時代、信濃(長野県)の武将が梅の名所で知られる寺を訪れた。梅に見とれていると、女の子を連れた見慣れぬ女が現れた。やがて2人は白梅を歌に詠みかわしながら、心を通わせる。だが知らぬ間に眠った武将が翌日目を覚ますと、女の姿は消えていた。  
女を慕いつつも武将は次の日、戦場で命を落としてしまう。そしてその想いに応えるように、寺の梅は花を咲かせなくなった。  
女は梅の精霊だったのだろう。人と精霊のあわい恋は悲劇に終わったが、ほんのりと暖かい印象も残る話だ。平安時代以前は花といえば梅、それも白梅を指すほど愛されたという。その高貴なイメージが、和歌をたしなむ淑女に仮託されたのか。恋人を失うと、春も忘れてしまう一途な梅の精に。  
春の花・桃  
昨今の幽霊話には、うらめしさ、まがまがしさを感じさせる話ばかりが多いが、これは現代のみの感覚であろう。  
宮城県に伝わる話。ある領主の姫君が、足軽と相思相愛の仲になる。身分違いの恋の成就のため、姫は3年の間、こもりきりで曼荼羅(まんだら)を織り上げる。しかし父は激怒、姫は現世で叶わぬ恋ならば来世に望みをかけると、沼にその身を投じてしまう。  
それから姫が自殺した桃の節句になると、機織りする姫の姿が沼の上に浮かび上がり、通る者に、にこりとほほえむのだという。  
3年がかりでも恋が実らなかったのだから、無念な気持ちであったろう。幽霊になってもほほえみを絶やさない姫は、けなげでもあり、しんの強ささえ感じさせる。桃の花言葉に「気立てがいい」があるのも、偶然の符合である。  
百物語  
「百物語」といえば、今は怪談を集めたものといった程度の意味しか持っていない。  
だが、近世初期には夜分に気心が知れた者たちが集り、灯心を百ともし、恐ろしい話を一話語るごとに灯心を一つ消し、語り終わると、真っ暗になった部屋に怪異が生じる、という俗説にのっとってなされた「怪談会」のことであった。つまり百話語って怪異の出現を待つところに意味があった。  
近世にはたくさんの「百物語集」が編さんされたが、その中には百物語をした末に生じた怪異の話も載っている。意外に思われるだろうが、その怪異は幽霊などの示唆で幸福・金品を得ることになったというめでたい怪異が多い。  
この「異界の杜」も今回でちょうど百話目の最終回、さてどんな「怪異」が訪れるのだろうか。   
 
妖怪社会心理学

 

序  
「幽霊の正体見たり枯れ尾花」という川柳があります。これは怖い怖いと思っていると、枯れたススキの穂さえオバケに見える、と解釈されることが多いのですが、理屈っぽく考えると、まずは尾花を見る人が「怖いことが起きそうだ」という心理状態になっていることが前提となります。でなければ、枯れた尾花は秋の深まりを感じさせる、お月見をしたくなるような風情のある景色に見えることでしょう。  
この「怖いことが起きそうだ」という心の有り様=「不安な気持ち」が、人に幽霊という幻影を見させる要因となっているといえるのです。  
そもそも妖怪伝承の誕生にしても、日本妖怪探訪ページで記しているように、その昔、誰かが説明のつかない現象に遭遇し、何か得体の知れない存在がいるのではないか、奇怪な出来事はその存在が起こしたのではと思った、そのたった一人の人間の心の揺らぎ=不安感が、村という共同体の中での「共同幻想・共同幻覚・共同幻聴」となり、よりリアルな妖怪遭遇話に醸成され、さらにより広い地域における「共同幻想・共同幻覚・共同幻聴」=妖怪伝承に成長していったと考えられます。  
このプロセスの根底には、万人が共通して持つ心理学的な要因があるはずです。その「心理学的な要因」とは何なのか?を知る、これが妖怪社会心理学という仮想心理学とお考えください。  
古き時代の妖怪伝承から現代の都市伝説まで、摩訶不思議な伝承が生まれる「心の有り様」をみていくことで、今を生きる私たちにも共通した人の心の本質が、思いがけなく顔を見せてくれるかもしれません。 
1 不思議・不安・不幸の説明装置としての存在:妖怪
いま私たちが普段の生活の中で不安に思うことは?と問われた場合、多くの方は病気などの健康問題、さらには交通事故や何かの事件に遭遇する、経済の先行きが見えない、といった答えを挙げられることでしょう。  
例えば社会の状況が不安定であったりすると、連鎖反応的にこうした不安感を反映した事件や事故のニュースが、いつも以上に多くなってくるともいわれています。  
社会心理学の立場から、妖怪についての見解を示していただいた帝塚山大学・心理福祉学部の中谷内一也教授は、「人間という存在は、心理学的にみると人の生死、暴力や大規模災害などの恐怖や経済的困窮など、不安を喚起するネガティブなものになぜか特別に関心を持つという傾向があり」また、「さまざまなできごとに説明を求める存在」であると述べています。  
人が特に興味を示すこうしたさまざまな不安や恐怖といった、ネガティブな事柄に起因する「人の心の揺らぎ」が、妖怪という存在を生み、育てていく要因であることは、すでに妖怪社会心理学の「序」や日本妖怪探訪ページでも記されていますが、実はこうした不安を喚起するネガティブな出来事の質もまた、時代と共に少しずつ変化してきたのです。  
 
その昔、妖怪という存在がさまざまな文献に登場し始めた時代にあっては、大半の人々は今とは比較にならないくらい、自然と密接な関係を持って生活していました。  
しかし、自然は豊かな恵みを与えてくれる反面、海や山での遭難といった事故、大雨や台風による洪水や土砂崩れといった災害や、旱魃による飢饉など、逆に人々にこの上もない厄災をもたらす最も大きな「不安の源」でもあったのです。  
生活の糧を与えてくれる命の源である自然が、同時に事故や災厄をもたらす不安の源でもあった、という矛盾した状況の中で、当時の人々は、根源的な人の生死について、海や山での遭難といった厄災について、また自分たちに大きな苦難を与える自然災害といった出来事への、不安や恐怖を少しでも緩和したいと思い、なぜそれが起こるのかという説明を求めていたと考えられます。  
しかし、例えば今予測できる大雨や台風も、当時では予測することすら困難であり、ましてその原因を「説明」することは人知を超えていたはずです。  
そこで、登場してきたのが妖怪という存在でした。例えば、人がいないはずの川で物音がするのは「小豆洗い」という妖怪がいるから、山で何故か何度も道に迷ってしまうのは狐にだまされたから、川で溺れそうになったのは「かっぱ」のいたずら、といったちょっとした出来事から、嬰児が妖怪になって現れた「祟りもっけ」や「こなき爺」、家族の失踪は「山姥」、海での遭難は「海坊主」「牛鬼」「船幽霊」、山での遭難は「祟り山」に入ったとか「ひだる」や「山爺」のせい、旱魃は竜神の怒り、といった悲惨な出来事までを「説明」する存在としての妖怪が誕生し、人々の共同幻想として育まれ、語り伝えられてきたのです。  
日本の「海坊主」のような妖怪の登場する伝承が、古来の日本と文化的交流が考えられない外国にもいくつか見受けられるという例をみると、突然の不幸(この場合は海難事故)に「説明」をつけたがるという点では人の心理は世の東西を問わず共通しており、人間の本質的な欲求であるといえるでしょう。  
 
しかし、ただ人知の及ばない出来事や災厄を妖怪に説明させる時、一人だけが勝手に想定している妖怪では、他人はその説明に納得することは難しいはずです。  
そこに必要なのは「昔から伝えられていた話」であり「村の人みんなが知っている」という要素なのです。こうした共同幻想というべき設定があって初めて、人々はその「説明」と妖怪の存在に「納得」し、不思議な出来事や災厄をひき起こす存在としての妖怪が誕生するのです。いいかえれば、妖怪とは共同体が育んできた不思議な現象や不安・不幸の説明装置ということができます。  
心理学では「実際には存在しないが、存在させておくことでいろいろな現象を説明しやすくするので、仮に存在させておくもののことを「仮説的構成概念」といいますが、妖怪はまさにこの仮説的構成概念ともいえる存在だったのです。  
また、中谷内一也教授は「妖怪は不思議や災難を説明できるというだけでなく、それを抑えたいという人間の欲求を満たすことにもつながる存在といえます。妖怪が誕生してきたプロセスをみていると、人という存在は単に何にでも説明を求め、納得しようとするだけでなく、何でもコントロールしたいと思う存在であることがわかってきます」と分析しています。  
つまり、人知の及ばない出来事や人の力ではコントロールできるはずのない自然現象について、それを妖怪のしわざとすれば、祠を作って神として祀り、敬意を表することで、不思議な出来事や災厄をある程度コントロールできると「思い込む」ことができるようになっていく、というわけです。  
古来、人々は妖怪という存在に畏敬の念を持ち、不思議な出来事や災厄をある程度コントロールできると思い込むことによっても、恐怖や不安といった心の揺らぎを、少しでも緩和しようとしてきたのです。 
2 リアルな妖怪からお話としての妖怪へ 

 

変わってきた「心の揺らぎ」  
平安時代に書かれた「源氏物語」は、ご存知のように多くの妖怪やもののけが登場することでも知られていますが、この時代にあっては、妖怪変化やもののけは実在するものと信じられ、切実な畏怖の対象となっていました。  
説明し切れない人間の死や不思議な出来事、自然災害などは、この時代の人々にとっては切実な出来事であり、それらをもたらす存在としての妖怪はまさに現実に存在していたのです。  
あの有名な陰陽師・安倍清明は、平安時代「天文陰陽博士」として宮中に起こるであろう出来事の吉凶を見通し、時には都に出没する妖怪を征伐するなどの働きをなし、朱雀帝から一条帝までの六代の帝に仕えたといわれています。  
こうした天文陰陽博士などの官位は正七位下と決まっていたため、本来であれば帝に会うことなどはできないような低い地位なのですが、それでも歴代の帝たちが安倍清明を重んじ、天文陰陽博士に登用し続けたのには、やはり妖怪やもののけの祟りを現実のものとして感じ、リアリティのある不安・恐怖として恐れてきたからと考えられます。  
しかしいま、私たちが暮らす21世紀においては、昔の日本のように、自然災害や飢饉で死を迎えるという不安や恐怖を、日常生活の中で感じることも、妖怪やもののけの祟りをリアリティのある不安・恐怖として恐れることもなくなりました。  
昔の人が最も不安や恐怖を感じたであろう自然災害も、そのほとんどが科学の力で予測可能となり、山の遭難や海難事故もはるかに少なくなっています。科学が自然現象を説明し、不思議な現象を解明し、自然の変化さえも予測できるようになった今となっては、自然界がもたらした不思議な出来事や不安・恐怖を説明する説明装置としての妖怪はその役割を終えようとしています。  
 
いまや古典的妖怪たちは、「となりのトトロ」や「もののけ姫」「千と千尋の神隠し」といった、仮想妖怪世界ともいうべき不思議世界の主人公として、時には町おこしの主人公となる…といったようにお話の中の存在として、時には「トトロ」のように癒し系キャラクターとしての存在へと変わってしまいました。  
では、妖怪たちは私たちの時代からは生まれないのか?というとそうではありません。いくら科学が発達して自然災害が減り、説明のつかない現象がなくなってきたとはいえ、相変わらず人の生死は時代を超えた不安なものであり、エイズなどの新たな病気、価値観の多様化と劇的な変化、経済や時代の不透明感・閉塞感、人と人との関係の希薄化がもたらした孤独という不安などなど…現代の不安要因が次々と登場してきたのです。  
古来の「人知では説明のつかない不思議な出来事、自然災害」といった不安や恐怖から、こうした現代の不安要因へと、人の心の揺らぎの「質」が大きく変化した、ということもできるでしょう。  
そしてこの現代の不安要因がもたらした新しい心の揺らぎは、「都市伝説」や「○○○のうわさ」といった、古典的妖怪にイメージを求めながらも、新しいかたちの妖怪=都市文明型の妖怪たちを生み出していくことになります。 
3 都市を駆け抜けるうわさの妖怪 

 

「うわさ」誕生のメカニズム  
まだ記憶に新しい阪神淡路大震災の時、こんなうわさが流れていたのをご存知でしょうか?その「うわさ」とは神戸に住む外国人たちの間でささやかれていたもので、アメリカ軍の艦艇が救援のために神戸へ来る、というものでした。実際、震災直後で混乱が続く神戸の港で船を待っていた外国の方がいたといわれています。  
こうした「うわさ」という非常にあいまいな情報だけで、具体的にアクションを起こすということは、私たちの普段の生活ではあまり考えにくいことです。  
しかし、昭和48年秋、第4次中東戦争の勃発によって起こったオイルショックの時、主婦の間に物価が高騰する、商品が不足するという「うわさ」が流れ、必要以上に生活物資(トイレットペーパなど)を買いだめした、といったような出来事は、しばしば起きているのも事実であり、こうした出来事にはある共通の要因があるのです。  
それは(1)関心の高い事柄であり、(2)状況があいまいで情報が不足している、(3)不安をあおる要素の強い出来事があった、という3つの要因です。  
例えば「阪神淡路大震災のうわさ」の例では(1)災害救助という生死にかかわる関心の高い事柄であり、(2)震災後の混乱で情報が不足し状況がわからず、(3)大地震直後で不安感が強かったため、とりあえず救助が来るかもしれない港まで行ってみようというアクションを「うわさ」が喚起したのです。  
中谷内一也教授は上記のような例を示した上で、「漠然とした不安に何とか説明をつけたい。が、確実な情報がないので、別のもので情報不足を補おうとすると、しばしば『うわさ』が不足している情報を補うものとして生まれ、流布するという現象が起こる」と分析しています。  
ではなぜ、普段なら信頼しないこうした「うわさ」を真に受けるのでしょうか。それは「阪神淡路大震災のうわさ」の場合、これから生活や救援がどうなるのかわからないという、「漠然とした不安」を解消するものとして「アメリカ軍の艦艇が来て救援がおこなわれる」という「うわさ」(説明)が流される。しかもそれは「周囲のみんなが知っていること」という理由で一応の「納得」をし、具体的なアクションにつながっていったと考えられます。  
こうした人の心の動きをみていくと、妖怪もうわさも、「不安を感じることに説明をつけたいが情報がないので、別のもので情報不足を補おうとする」という役割を担っているという点で、社会における機能としては似たものといえるでしょう。  
情報化社会などと呼ばれて久しい時代にあってもなお、「うわさ」という不思議な存在は、人の心の揺らぎを誘う情報の妖怪というべき存在なのかもしれません。  
都市伝説=現代の怪異・妖怪伝承の登場  
日本妖怪探訪ページでもふれたように、「オイルショック」が要因となり、経済の成長が急激に落ち込み、人々の間に不況感が広がり始めた昭和54年ごろから、異常な速さで全国に広がったひとつの怪異なうわさがありました。  
皆さんもご存知の口裂け女の「うわさ」がそれ。後に社会問題にまでなるこのお話のベースには、激しさを増していた受験戦争に対する子供たちの切実な願望=「塾へいきたくない」という願望と、味気ない受験戦争の中で「心のよりどころ」を妖怪に求めるという、当時の子供たちに共通する共同幻想があったと日本妖怪探訪ページでは記しています。  
こうした怪異な「うわさ」には都市伝説というネーミングが付けられ、以後、新しい時代の怪異・妖怪伝承として驚くほどの都市伝説が誕生してきました。  
もはや都市伝説の古典?ともなった学校の怪談=「トイレの花子さん」や「放課後の音楽室」「動く骨格標本」、占いものの「こっくりさん」をはじめ「ジェット婆」「かしまさん」「隙間の女」「口裂け女」の変形バージョンで「足売り女」、「さとる君」という携帯電話がなければ成り立たない、いかにも今風のお話や、ピアスを題材にした「ピアスの白い糸」「耳かじり女」などなど、枚挙にいとまがないほどの都市伝説がいまも生まれています。また同時に、「○○○のハンバーガーは何々の肉を使ってる」といった、みんなが知っている特定の商品や店舗を対象にした「うわさ」もまた盛んに登場し、全国に広がっていきました。  
こうした「都市伝説」や「うわさ」が広まっていった根底には、人の生死やエイズなどの新たな病気、価値観の多様化と劇的な変化、経済や時代の不透明感・閉塞感、人と人との関係の希薄化がもたらした孤独という不安などなど…現代の不安要因があると考えられます。  
その上に、例えば学校を舞台にした都市伝説の場合(1)「怖いこと不思議なこと」という関心の高い事柄で、(2)「本当にいるのか?」というあいまいで情報が不足している状況があり、(3)「学校のトイレに行くのが怖い」という不安感を誘った、という三条件が揃った時、「漠然とした不安に何とか説明をつけたい。が、確実な情報がないので、別のもので情報不足を補おうとする」心理が、学校の生徒という集団の中で働き始めるのです。  
そして、学校の不思議な現象の説明として、トイレで「誰々が怪奇な体験をし」、そこには「花子さん」がいるといううわさが流れ、「納得するためのお話」として「花子さんは病気で死んだ○○さんのオバケだ」という「うわさ」が誕生し、さまざまなバリエーションを作り出しながら全国を駆け巡ったのです。  
ここにもやはり「説明を求める存在」として、また「納得したい存在」としての人の心の動きを見ることができます。  
都市伝説=現代の怪異・妖怪伝承の登場  
ここで注目しておくべきなのが心理学的にみて「人はどのような説明で納得するのか」という点です。中谷内一也教授によると「人間はどのような説明で納得するか?という点に関しては、ひとつはみんなが知っている、そう言っているからという場合と、権威を持った人が説明した場合が考えられる」といいます。  
古典的な妖怪伝承の場合、地域の人たちみんなが知っているという理由で、人は妖怪の存在を「納得」してきました。都市伝説でもやはり「みんながそういっている」からという理由で、花子さんのお話が「納得」できたのです。  
ではもうひとつの権威による説明とはというと、例えば「不可思議な人影が写真に写った」という現象に対して、それは光の乱反射であるという専門家が分析した「科学的に証明されている」理由で人に「納得」させる、という例です。  
しかしほとんどの場合、その科学的理由について、私たち自身が本当かどうかを検証・確認するすべがない場合が多いはずです。そういう意味では、「みんながそう言っているから」というのと「科学的に証明されているから」というのとは、実は本質的にはあまり変わらないともいえるのです。  
人は「説明を求める存在」として、「みんなが言っているからそれで納得する存在」であるともいえます。だからこそ、その昔、共同体の不思議・不安・不幸の説明装置として「みんなが知っている」という理由で妖怪が誕生し、今また「みんなが知っている場所で、誰かに起きた」不思議・不安・不幸の説明装置として都市伝説やうわさが誕生し続けているのです。  
古典的な妖怪は時に神として祀られ、貢物を捧げることで共同体の不安を治める、といった社会的な役割を担っていました。しかし、「都市伝説」や「うわさ」には、不安をあおる要素はあっても、こうした共同体内での社会的な役割をあまり期待することができなくなっています。  
唯一、「都市伝説」や「うわさ」に何らかの役割を見いだすとすれば、「希薄になりがちな人間関係を一時でも繋ぐ役割」といえるでしょう。例えば学校の怪談は、受験中心の学校生活の中で、共通の話題がないと感じている時、「うちの学校のトイレでも不思議な音が聞こえる」といううわさを耳にしたとします。  
自分では体験したことがなくとも、頭では存在を否定していても、その話でクラスが一時でも「みんなで盛り上がる」ことでクラスとしての共通感を感じる、自分と友人たちだけしか知らない「うわさ」を持つことで共有感を得るといった役割を、「都市伝説」や「うわさ」が担っている場合があるからです。  
いつの時代でも、人の心を不安にさせる不安要因がなくなることはないものなのですが、古典的な妖怪が持っていた「共同体の不安を収める役割」を「都市伝説」という新しい妖怪には期待できない今、人の心の問題は人によって解決しなければならない、生き難い時代になってきているのかもしれません。心理療法やカウンセリングといった心のケアを必要とする事件も増えてくるといわれている現代社会にあっては、人と人の関係を考えるときに、社会心理学的な立場からのアプローチもまた重要となってくることでしょう。 
4 自分を探す手段としての占い 

 

共同体の占いから個人の占いへ  
日本妖怪探訪ページでも記してきたように、いまに伝わる古い時代の妖怪の姿が書物に記録され、世に広まり始めたのは平安時代末期でした。この時代になぜ妖怪たちが跳梁し始めたのかの詳細は日本妖怪探訪ページをお読みいただくとして、平安時代にはもうひとつ、「人々の願望を叶えてくれるであろう」存在が登場してきた時代でもありました。  
それが物事の吉凶を占う風水や四柱推命といった占いです。あの陰陽師・安倍清明が宮廷に仕えながら物事の吉凶を占ったのも平安時代。日本の占いのルーツはここにあるといっても過言ではありません。  
安倍清明は、中国伝来の陰陽五行説(いんようごぎょうせつ)によって天体の運行を観測、暦を作成し、式盤という道具を使って宮中の変事を予知し、時には遠国の吉凶まで占ったといわれています。また中国からもたらされた風水の思想が、平安京の造営にも大きく影響したというのもよく知られたお話です。  
つまり、本来占いは個人のことを占うのではなく、共同体全体の吉凶といった「大きな規模の吉凶」を占うために始まったといっていいでしょう。しかし貴族の支配する時代が終わり、武士の時代へと時代が下ると共に、庶民の間にも広まっていった占いは、個人の運勢を占うという方向へ変化していったとされています。  
説明と納得のプロセス=占い  
これまで何度も記してきたように、妖怪という存在は「共同体が育んできた不思議な現象や不安・不幸の説明装置」ということができます。そして「不思議な現象や不安・不幸」を、みんなが知っている妖怪の仕業とすることで「納得」し、心のバランスを保ってきたわけです。そしてまた占いも、「説明を求め、納得したい存在」としての人にとって、とても魅力的なものということができるのではないでしょうか。  
科学が発達した現代にあっても「明日のこと」は予測ができません。しかし、平安時代の安倍清明が多くの帝に仕えたということからもわかるように、人には(特に権力を持つと)将来の事の吉凶を知りたいという心理が働く傾向にあります。こうした心理は、人類に普遍的なもののようで、中国や古代エジプトなど、世界各国の大規模な古代文明でも、神官たちが独自の占いでその国やさまざまな出来事の吉凶を占っていました。  
不思議な出来事や不安、突然の不幸を「妖怪」という説明装置で説明したように、見えない明日への不安をどうかして読み取り説明しようとしたのが占いであり、「易の大家」といわれる権威が説明する占いの結果を知ることで人は納得する、というプロセスが占いにはあるように思われるのです。  
古くから伝承されてきた占いは、今を生きる私たちにも広く受け入れられています。著名な占いの大家の本は常にベストセラーになり、女性週刊誌ではなくてはならないページとなっている占いですが、私たちがよく目にする星座占いや血液型占いをみてみると、興味深いことに気がつくはずです。  
本来ひとりひとりは違う個性を持っているはずなのに、例えば血液型占い、星座占いにしても、占いの結果はいつもいくつかの大雑把な「パターン」や「グループ」に分類されてしまいます。通俗的な血液型占いにいたってはわずか4グループしかありません。  
しかも、「A型のあなたは短気で、でも気が弱いところもあって、今日は北東の方角が吉であり、B型の人とは相性が良くないから仕事上のトラブルに注意。金運は凶」といわれると、たいていの人は多少なりとも思いあたるところがあるものです。  
しかし、これだけ大雑把な、極端にいえば、誰にでもあてはまる占いでも、多くの人が占いを気にするのは、自分を知るための方法として占いに「説明」を求め、さらに、相性というくくりで「B型の○○さんと仲が悪いのは血液型が違うからだ!」という「説明」を求めることによって「納得」したいという心の揺らぎがあるから、と考えることができます。  
血液型がAだという人は、自分が「A型人間」だと思い、「あいまいな存在」ではなく、同じ血液型の人との共通性を感じたい、さらに自分自身と○○さんは星座が違うので仲が悪いといった、判断しにくい他人との関係性を、とりあえず確認し納得しておきたいという心理が働くからなのです。  
端的にいえば占いは自分を探す手段であり、「分類」されることで自らを知っておきたい(例えばA型のさそり座人間はのんびりした性格で…)という欲求があるのではないでしょうか。  
妖怪、都市伝説、占い。いずれもがどこか不安な世紀末的状況の中から誕生してきたものです。こうした時代には図らずも「人」の心の本質的な部分がみえてくることが多いといわれています。今の日本を支配する時代の閉塞感や不透明感のなか、これからどんな「都市伝説的妖怪」が生まれてくるか、どんな「占い」が流行るか、あなたもぜひ社会心理学的視点から注目してみてください。きっとおもしろい発見がありますよ。  
 
日本妖怪探訪

 

序  
妖怪、もののけ、あやかし…昔、私たちの祖先が自然の恵みを生活の糧として暮らしていたころ、こうした不思議な存在が人のすぐそばにいました。  
山では狐や狸にだまされ、水辺では河童と相撲を取り、時には「座敷わらし」が家を繁栄させる…妖怪がいる、不思議な現象がおきることがごくあたりまえで、まるで「自然現象の一部」とさえ思われていたのでは?と考えられるほど、人々の暮らしの中で妖怪やもののけのお話が語られ、受け継がれてきました。  
今でも大都会を離れ、緑濃い土地へ行けば「野づち(つちのこ)」を見たという話があり、時には河童の目撃さえ新聞に載ることがあります。東北では座敷わらしの出る旅館やお屋敷も存在します。しかし、こうした妖怪たちは多くの日本人から忘れ去られる運命にありました。  
明治維新以降、急速に近代化を急いだ日本にもたらされた「合理主義」「近代科学思想」は、客観的な事実を重んじ、人々に畏敬の念さえ持たれていた妖怪たちの存在を消し去っていったかに思えた時期がありました。  
また、高度成長期には山が切り開かれ、森は痩せ、海は汚染されていきました。人々が恐れ敬ってきた豊かな自然が急速に消耗すると共に、自然という住処に住んでいた不可思議な存在としての妖怪たちも、いつの間にかその姿を消したかのように思われました。  
しかし今、里山に住む妖怪「トトロ」に老若男女が心ひかれ、「祟り神」が登場するアニメに喝采し、「八百万の神々」の不可思議な世界に心躍らせ、キャラクター化した水木しげるの妖怪たちが町おこしの主人公となる…という、平成妖怪全盛期ともいうべき時代が訪れる気配をみせています。  
なぜいま、妖怪たちが私たち現代人の心を引きつけるのでしょう?また、妖怪が私たちの国の歴史や社会の中でどのように誕生し、どう変化していったのでしょうか? 今に伝わる妖怪たちのお話と共にみていくこととしましょう。 
1 妖怪伝承の誕生 
妖怪は神仏にもなった  
魑魅魍魎(チミモウリョウ)、異形のもの、もののけ、あやかし…いろいろな呼び方をされてきた<妖怪>たち。つかみどころがない、あいまいな存在である妖怪とは、いったいどのような存在なのでしょうか?  
辞書には「妖怪」とは、「人知では解明できない奇怪な現象または異様な物体。ばけもの。」とあります。どうやら日本人は人間とは違う姿や形のもの、不思議な現象を起こす存在、時には人であっても「あの人は<化け物>のような力持ちだ」という表現があるように、常人にはない能力を持っている人間をもひっくるめて<妖怪>と称してきたようです。  
日本各地でいまだに語り継がれる妖怪の<姿>に着目してみると、まず多いのが怪異な現象から想像した妖怪。例えば「鎌鼬(カマイタチ)」や「海坊主」「人魚」「幽谷響(ヤマビコ)」「野襖」「小豆洗(アズキアライ)」「ぬらりひょん」「牛鬼」「家鳴り」「ヒダル神」など、きりがないほどたくさんの仲間が伝承に残っています。  
その次に目立つのは狐、狸、蛇、猫などの動物が変化した「管狐(クダギツネ)」「古狸」「化け猫」「龍」などの妖怪。さらに「座敷わらし」や「キジムナー」「河童」や「山姥」「山爺」「雪女」「天狗」といった人の姿に近い妖怪もいれば、『日本書紀』にも登場してくるほど古くから伝承が残る「鬼」のように、怖いものの象徴、強い力を持つ存在の象徴として、人でもない、動物の姿でもない姿かたちを与えられた妖怪もいます。  
興味深いことに、彼ら妖怪たちの中には、例えば人をだます狐は、反面お稲荷さんのお使いとして、また河童や大蛇も、民間信仰では神様として祀られている場合があること。「鬼」もまた「鬼神(キシン)」という強い力を持った神として信仰の対象となる場合がみうけられます。  
また『陰陽雑記』という古い書には、平安時代に古くなり捨てられた道具が人への恨みから変化する妖怪「付喪神(つくもがみ)」が、妖怪になった後に改心して仏教に帰依し、一連上人によって如来になったという伝承さえ残っていますし、これとは逆に「夜刀神(やとのかみ)」は、本来水の神であったにもかかわらず、信仰してくれる人がいなくなったために打ち捨てられ、祀ってもらえずに妖怪となった、という伝承や、「ミコ神さん」という元来は子供の「おできを治す神様」であるはずの存在が、妖怪として伝承に残っているという場合もみうけられます。  
つまり日本の「妖怪」には、  
・人々が動物の姿や怪異な現象、いい伝えなどから想像した妖怪  
・妖怪でありながら信仰の対象になった、また神様のお使い役になった妖怪  
・人々に忘れられ、祀られない神様がなった妖怪  
といったバリエーションが見られるのです。  
こうしてみると、妖怪は人の魂が変化した幽霊と違い、忌み嫌われるだけの「闇の存在」ではなく、人を惑わす存在でありながら畏敬の対象として、時には神様ともなるというなんとも不可思議な存在ということができるでしょう。  
人々の生活の中から生まれ、畏敬の対象として伝えられてきたという意味では、「千と千尋の神隠し」に登場する「八百万(やおよろず)の神々」もまた、神々といえども「妖怪」といえるのかもしれません。  
妖怪を生む心の揺らぎ  
「序」で記したように、その昔、妖怪やもののけの伝承は人々の生活の中で、しかもごく自然な形で語り継がれてきたお話でした。現代のように、まるで魔法のごとく、海外の情報がいながらにしてテレビやインターネットなどで見られるような時代ではありません。ですから、ある地方で語られ始めた妖怪のお話は時間をかけて日本各地に広まっていった、もしくは同時発生的に同じような妖怪伝承が誕生した、と考えられます。  
例えば「河童(かっぱ)」。このよく知られた妖怪の伝承は、いうまでもなく日本全国にあります。呼び名はいろいろで、岩手県では「淵猿」と呼ばれ、「座敷わらし」という妖怪にも姿を変えるといわれるほか、「枕返し」という妖怪にもなるといわれています。  
利根川流域では「カワ神さま」と呼ばれ民間信仰の対象となっていたり、琵琶湖周辺ではガタロ、ガワタ、京都ではドンバ、島根や広島ではエンコ、川子、鹿児島周辺ではガァーッパなど、日本全国でその地方独自の名前が付いています。しかし、名前は違っても伝承から想像できる姿は頭に皿を載せた、みんなが知っているあの河童のひょうきんな姿なのです。  
反面、「ダル」ともよばれる「ヒダル神」という妖怪の伝承は西日本に多くみられ、「座敷わらし」は東北地方に伝承が集中している、といった地域性もあります。  
では今ほど情報伝達の速度が速くない時代にもかかわらず、妖怪の伝承は、そしてその姿かたちはどのようにして広範囲に拡がっていったのでしょうか?また、なぜ同時発生的に同じような妖怪伝承が誕生したのでしょうか?  
その答えを探るカギのひとつに「共同幻想・共同幻覚・共同幻聴」があると、民俗学の立場から妖怪を研究してきた帝塚山大学・岩井宏實名誉教授は指摘します。  
例えば、誰かが山で説明のつかない現象に遭遇したとします。それは何かいるという気配であったり、ひどく道に迷ったり、妙に腹が減ったり、妖怪「小豆洗い」が発する「シャカシャカ」というような不思議な音が聞こえたり、時には生臭い臭いがしてきたりとか、見たことのない姿の存在を目にしたように思うとか、実にさまざまです。  
こうした現象に遭遇した人々は、なにか得体の知れない存在がいるのではないか、奇怪な出来事はその存在が起こしたのでは?と思うことでしょう。これが妖怪伝承の始まりともいえる「心の揺らぎ」なのです。  
これに近隣の村で聞いた妖怪のうわさや、他の村人の知識、経験が加わると、その得体の知れない存在は「山婆」という妖怪であるとか、狐にだまされたのだとかの「妖怪遭遇話」に発展し、村中に、また村の外にも伝わって妖怪談が一人歩きしていくことになります。  
この時点で、一人の村人が経験した心の揺らぎが村全体の、さらにより広い地域の「共同幻想・共同幻覚・共同幻聴」になり、広まっていったと考えることができます。  
また、自然の恵みを生きる糧として暮らし、今よりずっと自然の出来事や動物とも近しい関係にあった昔の人々は、今よりはるかに不思議な自然現象に遭遇する機会が多かったことでしょう。ですから同じような妖怪伝承が同時発生的に生まれる機会も多かったはずです。  
その過程で地域の特性、例えば「雪女」のような、雪深いところでしか成立しない話は姿を消し、全国的に共通する要素を持った妖怪伝承と地域的に限定された妖怪伝承が生まれたと考えることもできるのではないでしょうか。  
実は、こうした「共同幻想・共同幻覚・共同幻聴」は何も過ぎ去った大昔のことではありません。「都市伝説」という現代の妖怪伝承を生む要因として、今を生きる私たちにも関係してくることなのです。 
2 妖怪の歴史 

 

妖怪は世紀末に跋扈(ばっこ)する  
平安時代:姿を表した妖怪たち  
次に妖怪の出現を「歴史の流れ」という視点で追いかけてみましょう。  
日本では歴史上の出来事の記録が多く残る奈良時代以降、妖怪のお話はさまざまな文献に記録されています。前述したように、「鬼」や「天狗」は奈良時代(720年)に編纂された『日本書紀』にも登場してくるほど古くから伝承が残っていますが、帝塚山大学・岩井宏實名誉教授によれば「奈良時代はもののけ、魑魅魍魎といった、あまり姿かたちがはっきりしていない存在として妖怪が記されていた」ようです。  
では、いま私たちが知っている<妖怪>の姿かたちがはっきりし始めたのはいつごろかといえば、「日本史上最初に妖怪が跋扈(ばっこ)した時代、平安時代末期ごろから」と岩井名誉教授は考えています。  
平安時代、といえば藤原氏全盛期で『源氏物語』『更級日記』などの女流文学も登場し、王朝文化華やかなりし時というイメージがありますが、末期になると貴族が実権を握っていた世の中から、平氏や源氏といった武士階級が覇権を争う時代へと移り、社会的にも経済的にも不安定で末期的な症状を示す時代へと変わっていきます。  
有名な『源氏物語』にも妖怪やもののけが登場しますが、摂関政治全盛の安定した時代から、不安定な先行きの見えない時代へと移る中で、それまであまり姿かたちがはっきりしないあいまいな存在としての妖怪が急激に具体的な姿かたち、例えば天狗や鬼といった姿になって跋扈し始めたというのです。その結果、平安時代末期に登場する『日本霊異記』や『今昔物語集』などには、それまでにも増して妖怪に関する記述が多く見られるようになっていきます。  
なぜ平安時代末期に妖怪に関する記述が多くなるのかについて、岩井名誉教授は「いろいろな面で苦しい状況のなかで、どこかおおらかで、不条理な出来事を説明してくれる存在として、また時には自分たちの願望を叶えてくれるであろう存在としての妖怪をつくりだし、心のよりどころとして苦しい時代を乗り切ろうとした」からだったと考えています。  
この平安時代には、今に伝わる「願望を叶えてくれるであろう」別の存在が登場してきます。それが「絵馬」であり「福神信仰」です。この「絵馬」や「福神」は別のページで詳しいお話を記していますが、岩井名誉教授は「妖怪・絵馬・福神は、当時の人々が苦しい時代を乗り切る三点セット」だったといいます。  
平安時代末期は、それまであいまいであった妖怪たちの姿が見えはじめ、人々が見えない明日を占いたいと願う時代だったといえるでしょう。  
江戸時代:黄金期を迎えた妖怪たち  
『百鬼夜行絵巻』という絵巻をご存知でしょうか? 闇の中を人知れずさまざまな妖怪変化たちが跳梁(ちょうりょう)していく様子が描かれているこうした絵巻は、室町時代に登場し、数多く描かれたといわれています。  
その中でも、室町時代の画家・土佐光信によって描かれたものとされる、京都の大徳寺・真珠庵蔵の『百鬼夜行絵巻』は有名で、ここに描かれているたくさんの妖怪は主に「付喪神(つくもがみ)」という古い道具が化けた妖怪なのですが、戦乱の鎌倉時代から室町時代にかけて、妖怪たちは静かにその仲間を増やし、妖怪の伝承もまた全国に広がっていったことは確かなようです。  
時代が下り、いよいよ江戸時代へ入ると、妖怪たちがその黄金期を迎えます。特に江戸時代中期、元禄時代の華やかな時期を経て、文化・文政・天保といった時代になると、庶民文化の爛熟ともあいまって、鳥山石燕(せきえん)により描かれた『百鬼夜行』・『続百鬼』などの妖怪絵本が人気を集め、葛飾北斎・歌川国芳らの浮世絵画家たちもまた、人気のあった妖怪画にその才能を発揮していきます。  
絵の世界だけではなく、怪談話をして楽しむ「百物語」などの怪談話が流行し、怪談話や妖怪伝承を基にした歌舞伎や芝居も庶民の人気を呼んでいきました。  
ではなぜ江戸時代後期、文化・文政期にこうした「妖怪ブーム」ともいうべき時期が到来したのでしょうか?  
その要因を、帝塚山大学・岩井宏實名誉教授は「元禄時代は好景気で華やかな時代なのですが、文化・文政期になると経済的に不景気な時期に入り、人々の間に不安感や不透明感が広がったのです。そこで、庶民たちは平安時代末期と同じように、妖怪という姿のないものを想像するという楽しみに心のよりどころを見つけたり、神社などに願掛けに行って絵馬を奉納したりして、何とか苦しい時代を乗り切ろうとした。並木五瓶という狂言作家が書いた『願掛重宝記』という本は、こんな悩みや病気にはどこそこの神社へ願を掛けに行けばいい、という「願掛けガイドブック」なのですが、これがベストセラーになっている。それだけ悩みの多い時代であったことがわかります」と分析しています。  
元禄期という好景気の後に訪れた、悩み多き不況の時代。どこか私たちが暮らす今の時代に似ていませんか? そう、次に妖怪たちが表舞台に登場する時代こそ、昭和50年代後半から今に至る時代なのです。 
3 現代の妖怪

 

住処を追われた妖怪たち  
江戸時代後期、文化・文政期に訪れた妖怪たちの黄金期を経て、日本は開国という時代の大きな変革期を迎えることになります。  
しかしこの開国=明治維新によって一挙に日本に流入した近代化の波、いわゆる「西洋的合理主義」や「近代科学思想」は、妖怪というおよそ「合理的・科学的」な思想からは程遠い妖怪たちの存在を否定する時代でもありました。明治時代は人々の自然観が大きく変化し、考え方の枠組み=パラダイムが劇的に変わっていった日本史の大きな転換点であり、人々が「もの」に豊かさを求め始めた時代の始まりでもあったのです。  
もちろん、すべての妖怪伝承がここで途絶えたわけではありません。一歩都会を離れれば、地方ではまだまだ妖怪たちが生き残っていたはずです。しかし、海にも山にも、野にも、科学で解明できない現象はないという唯物論的な考え方は、妖怪という存在を少しずつ人々の間から消し去っていったかのように思えました。  
その後、二度の大戦を経てまた「戦後」という新たな時代のパラダイムシフトが起こり、昭和30年ごろから始まった「経済の成長」と「ものの豊かさ」を第一に追求していった「高度成長期」には、山林の宅地化、木材の乱伐、近海や里山の汚染が広がり、身近な自然は急速に失われてゆきました。  
野や山、水辺の闇に住んでいた妖怪たちはその住処を追われるように人々の心の中から姿を消し、古来の人々が体験したであろう、山や海での「説明のつかない現象」に遭遇する機会もずっと少なくなったのです。  
皆さんもよくご存知の宮崎アニメ「となりのトトロ」の舞台は昭和30年代、東京近郊の多摩丘陵だといわれていますが、里山の妖怪トトロに出会えるような、牧歌的環境が東京などの近郊に残っていたのは昭和30年代前半が最後だったのかもしれません。  
都市伝説の登場  
昭和30年ごろから始まった「神武景気」を皮切りに、昭和48年の第一次オイルショックまで、長きに渡って続いた高度成長期においては、「お金」や「もの」が人々の精神的なゆとり、豊かさの象徴となり、そこには昔のように妖怪に「心のよりどころ」を求めたり、共同体の「願いを託す」といった必要はなくなっていました。  
また核家族化が進み、地域内の人の交流が薄れ、共同体としての意識がなくなりつつある中では、昔のように誰かの奇妙な体験談が地域の「共同幻想・共同幻覚・共同幻聴」になり、広まっていくこともまた少なくなって、妖怪はここに来ていよいよ絶滅したかにみえました。  
しかし、昭和50年代に入って第二次オイルショックの影響から経済成長がさらに落ち込み、人々の間に不景気感が広がり始めると、新たな時代の妖怪伝承が表舞台へ登場します。その象徴が昭和54年ごろから急速に広まり、全国を駆け抜けた「口裂け女」のお話といえるでしょう。  
「私きれい…?」と呼びかけて、マスクを取るとそこには耳まで裂けた口が…という都市伝説の典型として誰でもが知る「口裂け女」は、古典的妖怪の山姥をモデルにしたものともいわれていますが、帝塚山大学・岩井宏實名誉教授によれば「受験戦争が激しい中で、画一化した教育と競争についていけない、個性的な子供たちが心のよりどころを求めて向かったのが妖怪であり、小学生の塾ができるほど加熱した当時の教育戦争に対する、子供たちのアンチテーゼの意識が生んだ「共同幻想」が口裂け女だった」と分析しています。  
子供たちにとっては、得体の知れない「口裂け女」がでるから、塾へ行かなくてもよいという理由付けができ、それが同時代の子供たちの心に潜んでいた願望と共鳴して、たちまち都市伝説となって全国を駆け巡りました。そこには「塾へいきたくない」という願望と「心のよりどころ」を妖怪に求めるという、子供たちの「共同幻想」があったのです。  
面白いことに、この時期には学問向上の神様を祀る社寺の絵巻の中にも、合格祈願に混じって「お母さん、勉強しろといわないで」と書かれた絵馬が多く見られたといいます。子供たちは絵馬と妖怪、二つの異なる対象に心のよりどころを求め、願いを託し、新しい時代の怪異・妖怪伝承=「トイレの花子さん」や「妖怪テケテケ」「さとるくん」といった都市伝説の作り手となっていきました。  
「内面的深刻」時代に跋扈する妖怪たち  
昭和59年、「中流意識」の調査が総理府によっておこなわれました。その結果はご承知の方も多いことと思いますが、90%近くの人たちが「自分は中流である」という意識を持っているという結果となり、新聞などでもずいぶん話題となりました。しかし、同時期にある新聞社が独自に収入基準などの調査項目を設け、同様の調査をしたところ、「自分は中流である」という意識を「持てた」人はわずか23%程度に過ぎませんでした。  
この結果を帝塚山大学・岩井宏實名誉教授は「表面的安定・内面的深刻」と分析しています。「意識としては中流のつもりではあるが、具体的な将来展望や経済的な先行きをみると不安である」という状態ともいえるでしょう。こうした潜在的な不安感を抱えた時代に、子供たちに人気を博していたのがリメイクされた「ゲゲゲの鬼太郎」などの妖怪や、超能力者を主人公にしたアニメ、都市伝説を題材にした映画であり、大人たちの占いブームでした。  
昭和59年といえばいわゆる「バブル期」の始まるころでもあります。異常なほどの好景気に沸いたこの時期には、高度成長期以上に「お金」や「もの」が人々の豊かさの象徴であったのですが、その裏には人々の「表面的安定・内面的深刻」という「心の揺らぎ」が潜在的にあったといえるでしょう。  
好景気に沸いたバブル期は、平成3年ごろ急速に終焉を迎えます。それと呼応するように、エンターティメントとしても優れた「となりのトトロ」や「もののけ姫」「千と千尋の神隠し」といった、妖怪・もののけ・八百万の神々が登場するアニメが、大人たちも巻き込んで国民的な人気を博し、これにあたかも生き物のように増殖を続ける都市伝説や風水、陰陽師人気が加わって、今に生きる私たちの心を引きつけ、ちょうど文化・文政期に訪れた妖怪たちの黄金期のような、「平成妖怪全盛期」ともいうべき時代が訪れようとする気配をみせています(ちなみに、岩井名誉教授は「千と千尋の神隠し」を「平成の百鬼夜行絵図」と評しています)。  
もちろん、昔のように身近で妖怪談が聞かれることはなくなり、妖怪たちも、町おこしや自然保護運動のシンボルとなるなどキャラクター化し、存在意義が少しずつ変化しつつあります。しかし、人々が今の「先行きの見えない、苦しい状況の中」で、再び妖怪や都市伝説に、占いや絵馬に、心のよりどころや指針を求め、苦しい時代を乗り切ろうと願っているという点では、「妖怪」の果たしてきた役割は昔も今も、さらにこれからも同じなのかも知れません。  
 
妖怪と怪談 昔話

 

死神様 (山形県)  
昔、あるところに運の悪い男がおったと。  
ある年(とし)の瀬(せ)に、男は隣り村へ用足しに行って帰りが夜中になったと。  
林の中の道を、木がざわざわするたんびに立ち止まり立ち止まりして歩いて来たら、向こうの木の株に黒い着物の年寄りが腰掛けておったと。  
「こりゃちょうどええ道連れがでけた。おおい、そこのおひとよぉ」  
男が近寄ると、年寄りはやせこけた真っ青な顔でにたり笑いしたと。  
「わしを呼んでくれたかや」  
「こんな夜更(よふけ)に年寄りの一人歩きは危ねえ、何が出るか知れたもんじゃぁねぇ。俺らがついてってやる」  
「それは手間がはぶけた」  
男は、ン?と思ったが二人連れだって歩いたと。  
「ときに父(と)っつぁん、お前(めえ)さん、どこのおひとでどこへ行きなさる」  
「ヒヒヒ、わしか、わしは死神で、お前を待っていたところだ」  
「死、死神だと。俺ら、俺らに何の用だ」  
「ヒヒヒ、わしの用と言ったらきまっちょる。おうおう、そんなに目をまんまるにして」  
「お、俺ら、お前に用ねえ。お前なんぞ知らん」  
「そんなに嫌うな。今日は予告編だから、今すぐどうこうしょうというんじゃない。お前のことをよおく調べたら、お前は今まであまりにも運がなさすぎる。このままでは連れて行き甲斐(がい)がない。そこで、ちいっとはいいめにあわせてやろうと思ってな」  
「いいめって何だ」  
「金儲(かねもう)けをさせてやろう。お前は明日から医者になれ。わしはお前にだけ見えるように姿を現わすから。病人の頭の方にわしが現れたらその病人は助かるが、尻の方に現れたら、こりゃ駄目(だめ)だ。助かるようだったら呪文(じゅもん)を唱(とな)えたらいい」  
「アヤラカモクレンカンキョウチョウテケレッツノパア」と呪文を覚(おぼ)えた男が、次の日医者をふれこむと早速長者の家から頼まれたと。  
男が病人の横に座っていると、死神が病人の尻の方にポーと現れた。  
『ありゃ、初仕事というに尻の方じゃ金にならん』  
男は病人をかかえると頭と尻とをくるりと取り替えた。そして、「アヤラカモクレンカンキョウチョウテケレッツノパア」呪文を唱えると病人は「あ〜、よく眠った」と起きあがったと。  
男が長者の家からたくさんの金をもらい、ごちそうにもなって出てくると、死神が物かげに隠れて待っていたと。  
「わしをあざむくなんてひどい奴だ。お前の寿命は、これでまた縮んだじゃないか」  
「あとどれくらいだ」  
「見せてやる」  
男が死神について土の中に入っていくと、ローソクがいっぱいともっていたと。  
「このロ―ソクは人の寿命というもんだ。このローソクが燃(も)え尽(つ)きたときにゃ、死ぬんだ」  
「俺らのローソクはどれだ」  
「ほらこれだ。お前がわしをあざむいたので、ローソクが短かくなってしまった」  
「こりゃ困った。何とかならんか」  
「わしのが長いから、少し分けてやる」  
男は喜んでローソクを継ぎたそうと息をとめようとしたら、思わず、ふうっと吹いてしまった。  
「ありゃ、消えた」どんびんからりんすっからりん。 
踊る骸骨 (新潟県)  
昔、あったてんがな。  
ある山方(やまかた)の村に、六ベェ(ろくべぇ)と七ベェ(しちべぇ)いう仲の好(よ)い二人の男があった。  
二人は村に居ても、いい仕事もないし、遠い里方(さとかた)へ旅かせぎに出かけたと。  
二人は三年働いて、村へ帰ることになった。  
六ベェはまじめに、よく働いて、金をいっぱい貯(た)めたが、七ベェは、怠(なま)けて遊んでばかりいたもので、金も貯まらず、帰りの土産(みやげ)も買えないようなありさまだったと。  
六ベェが、「七ベェ、案じることはねぇ。お前の土産は俺(お)らが買(こ)うてやる」と言うて、土産を買うてやったと。  
二人は連れ立って、山方の村へ帰って行った。村の近くに来て、山の谷にかかっている一本橋(いっぽんばし)のところへ差しかかると、七ベェが、「六ベェ、お前さきにこの橋渡れや。お前の荷物(にもつ)も金も、俺らが持ってあとから渡ってやるから」と、言うた。正直な六ベェが、  
「七ベェ、すまねぇ。俺ら、どうもこの橋は苦手でなぁ。目がくらむし、足もすくんで」  
「なあに、いいってことよ。どれ荷物、金も……よしあずかった」  
六ベェは身ひとつでその橋を渡りはじめた。そろり、そろりと、橋の中程(なかほど)まで進んだら、七ベェが後ろから背中をドンと突(つ)いた。  
六ベェは、深い谷底(たにそこ)へ落ちて死んでしもうた。  
七ベェは、なにくわぬ顔をして村に帰り、「六ベェは、一本橋から落ちて死んでしもうた」と村長(むらおさ)に報告したと。  
七ベェは村に一年いるうちに、六ベェから奪(うば)った金を使い果たし、また里方へ働きに出かけることにしたと。山を越(こ)えて、あの一本橋のところへ来たら、後ろから、ガッタ、ガッタ、ガッタ、ガッタと音がついて来るふうだ。  
「はて、なんだいや」と言うて、ヒョイと後ろを振り向いたら、真っ白い骸骨(がいこつ)が、ガッタ、ガッタと歩いてきて、「おい七ベェ、七ベェ」と呼んだ。  
「はて、気味悪(きみわる)いな。骸骨が俺らの名をどうして知ってるや」  
「俺らは六ベェだ。お前はまた、稼ぎに行くか。俺も一緒に連れてってくれ。そうしたら、お前にいっぱい金もうけさせてやるが、どうだ」  
「どうやってだ」  
「俺らがこの姿で踊(おど)るから、それを人に観せて金をとれ。それ、俺らの骨をたたんで、持って行けや」  
「そりゃ、いい案梅(あんばい)だ」  
七ベェは、六ベェの骨をたたんで、風呂敷(ふろしき)に包(つつ)んで背負(せお)い、里方に行った。  
「世にも珍(めず)しい骸骨の踊りィ」と、口上(こうじょう)をいうて見物人(けんぶつにん)を集め、風呂敷を広げる。するとバラバラの骨が、勝手に組み合わさって、骸骨となり、ガッタ、ガッタ、ガッタ、ガッタと、手振(てふ)り足振(あしふ)りして踊った。  
どこへ行っても珍しがられ、面白(おもしろ)いように金がもうかったと。  
七ベェは、自分の村の人たちにも観せたくなった。骸骨の六ベェに相談(そうだん)したら、「俺らも村へ帰りたかったところだ」と言う。  
七ベェ、骸骨をたたんで風呂敷に包み、大いばりで村に帰ったと。  
「骸骨の踊りィ」と、呼び口上を言うて歩いたら、村の衆(しゅう)がいっぱい集まった。村長も来たと。七ベェが、  
「さあ、懐(なつ)かしい故郷(ふるさと)の皆々様(みなみなさま)にごひろういたします。この骸骨の踊りは種も仕掛(しか)けもありません。何を隠(かく)そう、この骸骨は、私の最も親しかった者のなれの果ての姿でございます。生前(せいぜん)よくめんどうを見てやった私への、まさに骨がらみの報恩(ほうおん)踊り。とくと、ご覧(ろう)じろ」と言うて、風呂敷を広げると、骨が勝手に組み立て上がって、人形(ひとがた)の骸骨になった。そして、ガッタ、ガッタ、ガッタ、ガッタと手振り足振りで踊りだした。  
村の衆は、七ベェの、前口上にも、骸骨踊りにも感心して、盛大(せいだい)な拍手(はくしゅ)をした。七ベェは鼻、高々だ。  
そしたら、骸骨が手振りで皆を静めて、物言うた。  
「俺らは、七ベェに殺された六ベェだ。七ベェに一本橋から谷底へ突き落されてしもうた。故郷を目の先にして死んだのは、どれ程、口惜(くちお)しかったか。七ベェは怠け者で、土産を買う金も無く、俺らが買うてやったのに、俺らを殺して金と荷物を盗(と)ってしもうた」と言うて、事の真実(しんじつ)を村の衆に聴(き)かせてやったと。  
村の衆は、皆して七ベェを袋叩(ふくろだた)きにした。  
青息吐息(あおいきといき)になった七ベェを、役人に引き渡したと。  
いきがポーンとさけた。 
船幽霊 (千葉県)  
むかし、ある年のお盆の夜のこと。ある浜辺から、一隻(いっせき)の船が漁(りょう)に出掛けて行った。  
その晩は、風も静かで、空にも海にも星が輝き、まるで、池みたいな凪(なぎ)じゃったそうな。  
沖へ出て手繰(たぐ)り網(あみ)を流すとな、沢山(たくさん)の魚が掛かってくるんだと。  
「『盆暮に船を出しちゃあいけねえ』なんて、誰が言い出したんだ!そんなこたぁねぇ、見ろ、この大漁(たいりょう)をよお」  
「そうじゃあ、そうじゃあ」  
はじめは恐(おそ)る恐るだった漁師達も、いつにない大漁に気が大きくなって、夢中で網を手繰っていた。  
だから、いつの間にか星が消え、あたりにどんよりした空気が漂(ただよ)ってきたのを、誰も気付かなかった。  
突然、強い風が吹いた。海はまたたくまに大荒れになった。  
山のような三角波(さんかくなみ)がおそって来て、船は、まるで木(こ)っ葉(ぱ)のように揺(ゆ)れた。  
漁師達は、流していた網を切り、死にもの狂いで船を操作(そうさ)した。それは、漁師達と海との戦いじゃった。  
どれくらい経ったろうか。先程(さきほど)まで荒れ狂った海が嘘(うそ)のように治(おさ)まり、漁師達が疲れきった身体(からだ)を横たえている時だった。  
朽(く)ちかけた大きな船が、音もなく近寄って来た。  
そしてその船から、人影(ひとかげ)もないのに、「お―い、あかとりを貸してくれぇ。あかとりを貸せぇ」と、何とも言えない不気味な声が聞こえてくるんだと。  
”あかとり”と言うのは、船底の水を汲(く)み取るひ杓(しゃく)のことだが、あまりの怖(おそ)ろしさに、唯(ただ)もう逃げたい一心(いっしん)で投げてやった。  
すると、その”あかとり”で、漁師達の船の中に水をどんどん汲み入れてくる。  
「しまった。これぁ船幽霊(ふなゆうれい)だ。見るんじゃねぇ、早く逃げろ」  
漁師達の船は水浸(みずびた)しになりながら、それでもかろうじて浜へ帰って来た時には、魂(たましい)の抜け殻(がら)みたいじゃったそうな。  
このことは、漁師仲間に一遍(いっぺん)に伝わった。  
それからと言うもの、お盆の日には、決して漁に出るものが無くなったそうな。  
こんでちょっきり、ひとむかし。 
座敷わらし (秋田県)  
昔、あったけど。  
昔、ある村に親方衆(おやかたしゅう)の婆(ばば)がおったけど。  
ある日、婆は、間もなく昼になるので畑で働いている家の者へ昼飯届けるかな、とて、大きな茶釜に湯を入れたのと、昼飯の入ったコダシを持って出掛けたど。  
コダシというのは、縄であんだ袋のことだ。  
途中まで行くど、「ばば、ばば」と、呼ぶ声したど。婆は、「はて、誰だべが」と、キョロ、キョロぐるりを見たども、誰も居ねっけど。  
また歩き出すと、「ばば、ばば、腰コ曲がってせつねぇでろ」と、いう。  
婆、また足止(あしと)めてぐるりを見たども、やっぱり誰も見えねぇ。婆は、「何のこれしきのこと。なんともねえ」と、強がり言って歩き出したど。  
すると、十二、三の童子(わらし)が、ピョコンと出て、「婆、せつねぇがろ。おれ持って行ってやるか」と言って、童子ぁ昼飯の入ったコダシと湯の入った茶釜を持って、デンデン先へ行ってしまったけど。  
「はて、どこの童子だべえ。見たこともねぇ童子だようだな。だども、あの童子、おれの家の畑覚えたべが」とて、急に心配になって、腰コ曲げて大急ぎで登って行ったら、婆の家の畑はすぐ向うに見えたど。よく見ると、畑に茶釜、ドンと置かれてピカピカ光って見えたど。脇に昼飯の入ったコダシも置いてあったど。  
「ああ良(え)がった」 と安心したけど。  
婆が家さ戻って、足伸ばして休んでいたところへ嫁が肩で息して飛んで来た。  
「婆、婆、今日の昼飯は竹の皮ばかりだ。茶釜は空っぽだし、どうした」と言ったど。婆、ホウッと息して、  
「やっぱりあの童子は、座敷童子だもんだったな」と思ったど。  
その晩のこと、婆が寝ると、ドシンドシンて音するけど。目えさまして見たら、いっつの間にか枕はずして寝てたど。  
婆は、寝相の悪い誰かに枕とられたのだと思って、枕なおして、また寝たと。  
少ししたらまた、ドシンと音がして、「婆、枕やめて、手枕にせえ」と、誰かが言うけど。  
婆、眠ったふりして眼(まなぐ)小さく開けて見たど。したら、七つ、八つくらいの童子が五、六人枕を投げ合って遊んでいたんだど。  
「これは座敷童子だな」と思って、頭から布団をかぶって寝てたけど。  
次の朝ま、嫁は牛(べこ)を引いて草刈りに出掛けたど。  
牛はヨダレをダラダラたらして、のったくり、のったくり、嫁の後について歩いてたど。  
そしたら、「嫁コや、お前草刈りに行くのか。んだら川さ行って牛を洗ってやれ」と、誰かが言うけど。  
嫁は「ハイ」と返事をしたまま、山の方へ登って行ったけど。  
するとまた、どこかで、「嫁、嫁、お前草刈りに行くのか。んだら川で牛洗ってやれ」と言うけど。  
嫁はまた「ハイ」と返事して、山の方さ登って行くと、目の前に突然、八つくらいの童子出て来て、「お前、返事ばりだな。お前の家は牛が稼(かせ)ぐはんて、物持ちなんでえ。その牛洗わねぇこつだば、お前の身上潰(しんしょうつぶ)れてなくなるではあ」と言ったど。  
嫁は気持ち悪ぐなって、山を下りて川へ行って、牛をゴシゴシ洗ってやったけど。  
座敷童子は普段は人に姿を見せねで、村の中でも金持の親方衆みてぇな家の奥座敷や、土蔵などに居るのだど。  
座敷童子が出るようになると、その家の身上は、くだり坂だというけど。  
とっぴんぱらり、さんしょの実。 
人消し草 (大分県)  
むかし、むかし。  
あるところに、爺さまと婆さまが住んでおった。爺さまが隣村へ用たしに行った帰り、山道を歩いていると、むこうから一人の旅人がやってきた。  
そうしたら、突然道のわきから、ザザザッ―と大きな蛇(へび)が現われて、あっという間にその旅人を飲み込んでしもうた。  
爺さまは驚(おどろ)いた。  
『これが噂(うわさ)の人喰(ひとく)い蛇か。おとろしい、おとろしい』と思うて、木陰に隠れると、じっと様子を見ていた。  
人喰い蛇は、人を飲み込んだもんだから、腹をでっこうして、ウンウンうなって、もがいている。  
そのうちに、ノタリノタリと動き出して、道のそばにはえている草をムシャムシャ食べ始めた。すると、蛇の腹がだんだんちいそうなっていく。やがて、元の通りの腹になると、気持ちよさそうに、スルスルとやまの奥へ入って行った。  
しばらくして、爺さまは、もう蛇はおらんだろうと、さっき蛇が食べていた草を見に行った。それは、今までに見たこともない、青々とした草だった。  
『これを食えば、腹の中のものはみんなとけて、元の通りになるのか』と思うて、その草を根っこごと抜いて、家へ持って帰った。  
その晩、爺さまは人喰い蛇と不思議な草のことを、婆さまに話して、大好物のソバを沢山作らせた。爺さまは、ソバができ上ると、どんどんどんどんすすりこんだ。  
あんまり沢山食べるので、婆さまが心配をして、「爺さま、いいかげんにせいよ」というても、  
「心配いらん。いくら食べても、この草があるから大丈夫だ」というて、いうことをきかん。とうとう、十人分のソバを一人で食べてしもうた。  
腹でっこうした爺さまは、青い草を取り出して、蛇と同じようにムシャムシャ食べ始めた。そうしたら、急に寝むくなってきたので、爺さまは、そのまま布団(ふとん)にもぐり込むと、ぐっすり寝こんでしもうた。  
次の日、日が高くなっても、爺さまは起きてこない。それで婆さまが、「爺さま、もう起きろや」というて、布団をめくると、爺さまの着物だけがあった。  
『おかしいなぁー』と、着物をとってみたら、なんと、寝床の上には、ソバが山盛りになっていた。  
蛇が食べていた草は、”人消し草”というて、ひとの体をとかす草だったそうな。だから、人が食べれば、体がとけてしまうので、爺さまもとけてしまったというわけさ。  
もうし、もうし、米ん団子。 
川姫 (和歌山県)  
昔、紀伊の国、今の和歌山県の※1北富田(きたとんだ)に、与平(よへい)という釣(つ)りの好きな男がおった。  
ある日のこと、与平はいつものように富田川(とんだがわ)に釣り糸をたれておったが、その日にかぎって、一匹の小魚も釣れんのだと。  
「いったいどうしたんだろう。昨日はあんなによく釣れたのに……」  
与平は退屈(たいくつ)しきって、煙管(キセル)で煙草(たばこ)をふかしていると、水面に銀色の鱗(うろこ)をした鯉(こい)が一匹浮かんできた。  
「これは珍(めず)しい鯉だ。よし、捕(つか)まえてやろう」  
与平は急いで着物を脱ぐと、川へ飛び込んだ。  
鯉は銀色の鱗をきらきら輝かせながら、ゆっくりゆっくり泳いでいる。しかし、手をのばすとヒラリと身をかわすのでどうしても捕まえることができん。  
そのうちに、不思議なところへきてしまった。目の前に立派な御殿(ごてん)がたっている。  
「これは妙だぞ。川の中に御殿があるとは」  
与平は夢を見ているような気がした。  
いつの間にか鯉の姿は見えなくなっておった。  
「鯉のやつ、この中へ逃げ込んだな」  
与平は、少し開いた御殿の門をくぐった。とたんに、頭がクラクラして気が遠くなった。  
どれくらい時間がたったものか、ふと気がつくと、立派な部屋の中に寝(ね)かされておった。  
「いったいどうしたというんだ。こんな部屋にいるなんて……。そうだ、銀色の鯉だ。その鯉を追っていると、川の底に御殿があって、そこで……」  
こう考えていると、戸が音もなく開いて、一人の女が近づいて来た。今まで見たこともない、それは美しい顔をした女だったと。  
女は、与平のそばに来ると、こう言った。  
「ここは、人間の来るところではありません。今日は知らずに来たのですから許してあげますが、二度と近づくのではありませんよ。このことを人に話しても命を無くしますよ。」  
与平はだまってうなずくと、また気が遠くなって、次に気がついたら、元の川っ淵(かわっぷち)だったと。  
与平はあわてて着物を着ると、気を落ち着かせるために煙草を吸い始めた。ところが段々恐(おそ)ろしくなって手足が震(ふる)えて止まらない。つい、煙管を川の中に落としてしまった。  
「しまった。借り物の煙管なのに」  
すぐに川へ入ろうとした与平の耳に、川底にいた女の言葉が響(ひび)いた。  
「二度と近づくのではありませんよ。命を無くしますよ。」  
次の日、与平は新しい煙管を買って返しに行った。  
「わしが貸したあの煙管でないとだめだ。落とした所が分かっているのなら、すぐ拾ってこい。拾えないわけがあるなら、それを話せ」  
与平は、仕方なく、もう一度川の中に入ることにした。  
川底をあちこち探し回っているうちに、あの御殿の前に出た。門のすき間からのぞくと、庭先に煙管が転がっている。  
そっと入って、煙管を拾い上げ、あわてて帰ろうとすると、目の前に、あの女が立っておった。  
「あれだけ言っておいたのに、また来ましたね」  
女はこう言うと、あのお姫様のようだった美しい顔が、段々に老婆(ろうば)のような醜(みにく)い顔になっていった。  
そして、細いしわだらけの手を首にのばした。  
与平は身動き出来んのだと。  
与平の死体が上がってから、この淵(ふち)のことを、村人たちは「与平あな」と呼ぶようになったそうな。 
首なし行列 (福井県)  
むかし、越前(えちぜん)の国、今の福井県の福井のご城下(じょうか)を、ひとりの婆(ばあ)やが提灯(ちょうちん)を下(さ)げて、とぼとぼと歩いておったと。  
婆やはむかし奉公(ほうこう)していたお侍(さむらい)の家に、久し振りにご機嫌(きげん)うかがいに出た帰りであった。  
月のない晩で、人っ子ひとり通っていない。  
婆やが九十九橋(つくもばし)のあたりにさしかかったとき、橋の上にぼおっとひとつ、青白い松明(たいまつ)のようなものが灯(とも)った。と思う間なしに、その火は二つ、三つ、四つ、五つと数を増して、とうとう橋いっぱいの青白い火となった。  
動かない火もあり、あわただしく駆(か)けまわる火もある。  
婆やはびっくりして、たちどまったまま、その様(さま)をじいっとくいいるように見ておったと。  
すると突然、その火が消えて、周囲(あたり)は元の闇(やみ)になった。その暗闇の中を、音もなく行列が進んで来た。  
白い鎧(よろい)をつけ、白い弓(ゆみ)を持ち、丈高(たけだか)いのは馬上(ばじょう)の武者(むしゃ)だと。皆々白装束(しろしょうぞく)をつけ、白いのぼりをなびかせて、しゅくしゅくと進んでくる。  
ただ、その人たちには首がない。乗っている馬にも首がない。  
首なし行列が、婆やの方へ音も無く進んで来るのだと。  
それを見て、やっと婆やは気がついた。気がついてから、水を浴びせられたように、ぞうっとした。今夜は四月二十四日、 天正(てんしょう)十一年(一五八三年)のこの日、柴田勝家が守る北(きた)の庄(しょう)の城を羽柴秀吉軍が攻めた。城は炎につつまれ、家来たちは次々と敵に討たれ、残った者は腹を割(か)っ切って死んでいった。もはやこれまでと、勝家も切腹(せっぷく)して果てた。  
勝家と秀吉は織田信長門下の仲間であった。よほど口惜(くちお)しかったのか、それ以来、毎年(まいとし)四月二十四日の夜更けになると、亡霊(ぼうれい)たちが墓から立ちあがって、首のない行列を組んで動き出すようになった。  
この行列を見ても決して他人に見たと言ってはならない。もし見たといったら血を吐いて死ぬといわれていた。  
また、むかしのこよみの四月二十四日というたら月は出ない。それなのにこの夜、福井のお城の鳩(はと)のご門の枡形(ますがた)に月が映るという。ご門からご門までの石垣に囲(かこ)まれた四角い広場を枡形というのだが、そこの土の上に月が映るのだそうだな。見たものは死ぬという。  
四月二十四日のこの晩は、そういう日であった。  
この地で生まれ育った婆やは、この日の恐ろしさをよく知っていたのに、とくやんだがもう遅い。どの家もはやばやと戸を閉めきって息を殺している。  
婆やは、がたがたと震(ふる)えながら、提灯の火を吹き消した。このまま、うしろを向いて逃げだせば首なし行列に追われる。脇へ逃げたくとも横道はない。だとしたら、この行列を見んように、見られんようにやり過すしか仕方ない。  
婆やは、道に背を向け、よその家の軒下(のきした)にかがみこんで、しっかり目をつぶったと。  
音がしないはずなのに、婆やの耳にはヒタヒタという足音、カッポカッポという馬の足音、鎧(よろい)のすれあう音がはっきりと聞こえた。  
足音はしだいに近づいて、やがて、うしろを通り過ぎて行く。息の詰(つ)まる長い時間であったと。  
ようやく、気配(けはい)がなくなった。  
婆やは暗闇を這うようにして家に帰ったと。帰ると何も言わずに布団(ふとん)をかぶって寝たと。  
次の朝、あまりに母親の顔色が悪いので、息子が、どうしたのかとたずねた。  
はじめは婆やは黙(だま)っていた。  
しかし、息子があまりに心配するので、とうとう言ってしまったと。  
言ってしまってから、もう死ぬ、と覚悟(かくご)をしたが、婆やは死ななかった。  
家じゅうが胸をなでおろし、神様仏様に手を合わせたと。しかし、次の年の四月二十四日、婆やはふらりと家を出たまま、二度と帰って来なかったと。  
こんでそろけん。 
夜の蜘蛛 (愛知県)  
昔、あるところに若い男が住んでいたに。  
そろそろ嫁をもらう年頃になっても、いっこうあわてない。村の年寄りたちが若者に聞くとな、「わしゃぁのん、嫁には注文があるじゃに」と言う。  
「注文いうて、どげな注文ぞん」  
「まず、器量(きりょう)がようて、なんにも食べず、よく働く女房がええ」  
「馬鹿(ばか)こけや」  
年寄りたちはあきれて、もうその話はせんようになったぞん。  
ところが、ようしたもんで、二、三日まえから、若者の家に、美しい女がいるようだん。  
ある夜に、道に迷ったとか言うて、若者の家に来たまんま居ついてしまったものらしか。  
器量はよし、働き者で、物も食べぬちゅう望み通りの女で、若者は有頂天(うちょうてん)の真っ最中であるらしか。  
「わけのわからん者もらいくさって、今にろくなこたあねえぞん。ええからほっとけ」と、年寄りたちはブツクサ言っとったが、若者の方は、知ったこっちゃねぇに。  
今日は、女房の里へ顔を出すのだ言うて、女房のあとついて、山道を登って行った。  
ずいぶん来たところで、若者は急に腹が痛み出したと。  
「もうひと息じゃ、わしの背中におぶさったらええに」と言うなり、若者を抱き起こし、ヒョイと背中へ乗せてしもうたとな。  
腹の痛みも、少しゃ良うなり、女房の背のぬくもりが気持よくて、若者はウトウトしだしたと。どこやら、暗い山の中を、女房はスタスタ歩いているらしいがのん。  
そのうちハッと気がつくと、女房は、若者を草の上に降ろし、自分も一服(いっぷく)しとる様子じゃ。若者が女房をねぎらおうと声を掛けようとしたとき、女房が突然大きな声出して、「お―い、捕(と)ってきたぞお、みんなこいやぁ」  
これを聞いて、若者は驚ろいたもんな。  
「さてはこの女、魔性(ましょう)のもんだったかん、えれえことになったぞん」  
そこで女房のすきを見て、そばにある菖蒲(しょうぶ)と蓬(よもぎ)の生い茂る草ぼらへ飛び込んで、身を伏せたと。  
こわごわのぞいてみると、大きな蛇の姿に変わった女房のまわりへ、大小の蛇が目を輝かせ、ウヨウヨ集まってきたじゃ。  
「どうした獲物(えもの)が見えんぞ」  
「しまった、うっかりしとって、逃がした」  
「どうする」  
「今夜、みんなで捕りに行こうや」  
これを聞いて若者は、ころげるように山道走って、やっと村へ戻ったと。  
若者からわけ聞いた村人たちは、若者の家の前でたき火たきながら、手に手に光物構えて、蛇の襲撃(しゅうげき)を待っとったと。  
すると突然、空から大きな蜘蛛(くも)が、若者の前へスルスルと降りてきた。  
脚(あし)をひろげ、若者に飛びかかろうとする前に、若者は、そばにあった箒(ほうき)で、蜘蛛をたき火の中へたたき落としたに。  
なんとこの大蜘蛛は、数十匹の蛇に変わり、たき火の煙と炎に巻かれて、みんな死んでしまったぞん。  
蛇が蜘蛛に化けて、やってきただに。  
このことがあってから、「夜の蜘蛛は親に似ていても、きっと殺せ」と、言うようになったぞん。  
また、この日が五月五日だったので、それ以来、五月五日には、魔性のものを近づけない菖蒲と蓬の葉を、必ず屋根の上に乗せておくと。 
ホー爺さん (長野県上伊那郡)  
ここは信州上伊那(しんしゅうかみいな)の川島村(かわしまむら)というがな、あれは儂(わし)のまだまだ子供の頃だった。村に一人暮らしの爺様がいてな、村の人はこの爺様のことを、「ホー爺(じい)」と呼んでいた。  
ホー爺が春早く粟(あわ)をまく畑をさくりに行った。水上(みながみ)神社へ手を合わせてから近くの畑へ行くのだが、「もうそろそろ昼だ、むすびでも食べるとするか」と独り言を言いながら、腰に着けていたおむすびの包をとって土手の芝原(しばっぱら)に腰をおろし、風呂敷包みを開いた。  
が、まずは一ぷく吸ってからと思って、きせるを取り出して煙草に火をつけ、ふーっと一息吐いてから、どれ、むすびを食べようと手に取って見て驚いた。  
むすびは、石になっていたと。ホー爺は、「こりゃやられた」と言って、家に帰ってからお昼を食べたそうな。  
ホ―爺は、次の日もその畑へ行って仕事をした。腰が痛くなるほど鍬(くわ)を振り下ろしていたら、いつの間にか夕方になっていた。  
「ほう、もうこんな時分か、帰らにゃぁ」と言って、鍬をつかんで畑を出ようとすると、そこは土手で、どうにも出られねえ。  
どろも変だと思ったとき、ホー爺は、やられたな、と気がついた。で、肩にかついだ鍬を「どっこいしょ」と、大きな声で足元の土に振りおろした。  
すると、でっかい狐が足元から飛び出してもんどり打って畑の向うの藪(やぶ)の中へ逃げたと。  
そのとたんに、あたりの夕景色(ゆうげしき)が昼間の明るさに変って、ホー爺は畑の真中に立っていたそうな。  
ホー爺は、その次の日もまた同じ畑で仕事をしていた。  
すると旅の人が来て、「今日は」と言って道端の土手の石に腰をかけて休んだので、ホー爺も土手に腰をおろして一ぷく吸うことにした。  
煙草入れを出しながら、「どこまで行くだね」と聞くと、「この村の奥まで」と言う。  
「そうかえ、そりゃまだ遠いなぁ」と話をしながら、ホー爺が火打石でカチカチと煙草に火をつけていると、旅人は、袂(たもと)から紙に包んだものを取り出して、「こんなものだがおあがり」といって、ホー爺の膝の上に置いて、「それじゃあ」と言って行ってしまったそうな。  
ホー爺は、何をくれたのかなぁと思って手に取ってみると、それは枯れた木の葉に包んだ小さい石ころだったそうな。  
家に帰ってから、近所の人に、この三日間のことを話したら、「三度も同じ所で化かされたなんて、ホー爺もしっかりしなけりゃ駄目だぜ」と笑われたと。  
ある日、誰かがホー爺に、「狐の嫁様でも世話をしてやるか」と言うと、ホ―爺は、「馬鹿にしんな、狐の嫁とるくれえなら、独りでなんかいるものか。今に見てろ、良いばあさんに来てもらうでな」と言って笑っていたが、いつの頃からか、ホー爺の家に婆さんがいるようになった。  
近所の人は不思議に思ったが、ホー爺はいつものように働いている。その内、近所の人も、あまり気にしなくなっていた。  
ある日の夕方、隣りの子供が、「今、ホー爺の家へ、でっかい犬のようなものが入って行った」と言うので、隣りの人はホー爺の家をのぞきに行った。が、家の中には何もいねえ。  
「どうも、なにかおかしい」と思って、家のまわりを回ってみると、土台の下に穴が掘られていた。  
隣りの人は、早速わなを作ってその穴の所に仕掛けておいた。  
すると、でっかい古狐がかかったと。  
ホー爺は、うまい物はみんな狐に食われて自分はすっかり痩せほろけてしまったそうな。  
昔はな、水上(みなかみ)竹ノ沢(タケンザワ)あたりには狐がいてな、よく人を化かしたもんだ。今はたんといなくなったがな。  
それっきり。 
百物語 (新潟県)  
昔、あったてんがな。  
若(わか)い者(もん)がお寺に集まって、百物語(ひゃくものがたり)をしたと。  
ローソク百本つけて、昔話を百話語り合う。一話(いちわ)語(かた)りおえると一本ローソクの火を消して行き、百話語りおえると、まっ暗になるという寸法(すんぽう)だ。  
語って、語って、ちょうど百話おわったと。ローソクの火、フッと消したら、突然、ガタンと天井板がはずれ、ドタンと落ちてきたものがある。  
ギャーッと叫んで皆々逃げた。逃げたけれども、誰(だれ)も何(なに)されたわけでもない。怖(こ)わ怖(ご)わ何が落ちてきたのか、のぞいてみた。本堂のまんなかに、でっかい櫃(ひつ)が落ちてきていて、その中にボタモチがいっぱい入っていた。  
若い者たちは、これはありがたいと言うて、そのボタモチを皆ですっかり食べたと。  
次の晩、若い者たちは、またボタモチ食(く)いたいとて、お寺に集まって、百物語したと。  
昔話を語り、九十九話になり、百話おわったと。ローソクの火がフッと消されたそのとき、天井板がガタンとはずれて、ドタンと落ちてきたものがある。  
今度は若い者たちは逃げなかった。誰かが、ボタモチと一緒にお茶もくればいいな、というた。  
が、どうも昨日と様子がちがう。ローソクに火を点(とも)した。そしたら、落ちてきたのは、櫃に入ったボタモチではなく、真白(まっしろ)いヒゲの爺(じ)さまが、片手にそろばん、片手に大福帳(だいふくちょう)を持って立っておったと。  
ほうして、帳面を見て、そろばんをパチパチしてから、「お前たちは、ゆんべ櫃に入ったボタモチを食うた。今日はその勘定(かんじょう)をしてくれえ」というたと。  
百物語をすると、化物が出る。  
いきがぽおんとさけた。鍋(なべ)の下ガリガリ。 
きのこの化け物 (新潟県)  
むかし、あるところに、お宮があったんだと。  
お宮の裏で、毎晩、化け物がいっぱい出て唄ったり、踊ったりしていたんだと。  
この村に、踊りの大好きな爺さまがいて、ある時、「その化け物、わしが行って見とどけてくる」と言うての、夜更けに出かけていった。  
ほしたら、お宮の裏で小人がいっぱい集まって、唄ったり踊ったりしている。  
踊りの好きな爺さまは、初めは隠れて見ていたが、その内たまらなくなっての。  
一緒に踊り始めたと。  
踊りながら、「お前ら、何の化け物だ」「俺ら、きのこの化け物だ、おめえ何の化け物だ?」「わしは、人間の化け物だ」「ほうか人間の化け物か、おめえは、何がいっち嫌いだ?」「わしは大判小判だ、おめえらは何がいっち嫌いだ?」「俺ら、ナスの塩水だ」二言、三言、言葉を交してまた踊っていた、と、ほうしている内に小人達が、大判小判を持って来て、「そら怖がれ、怖がれ」と、爺さまにぶっつけはじめた。  
爺さまは、「おっかね、おっかね」と、逃げて来たと。  
ほしてナスの塩水を桶にいっぱい作って、ひき返し、「ほらナスの塩水だ」と言いながら小人の頭からジャ―ジャ―かけたんだと。  
ほしたら小人はいつの間にかみんな、どっかへ行って終ったんだと。  
次の朝、爺さまが、お宮の裏へ行ってみたら、きのこがいっぱい、しおれてグダッとしていたと。  
周りには大判小判がいっぱい落ちている。  
爺さまは、それを拾って来て一生安楽に暮らしたと。  
いまがさけたどっぴん。 
お菊ののろい (群馬県)  
むかし、上州(じょうしゅう)、今の群馬県沼田(ぐんまけんぬまた)というところに、小幡上総介(おばたかずさのすけ)という侍(さむらい)がおったそうな。  
疑い深く、短気な男だったが、お菊(きく)という美しい女中だけは気に入っておった。  
ある朝、上総介(かざさのすけ)が、お菊の給仕(きゅうじ)で朝ご飯を食べようとしたとき、ご飯の中に、何やら、キラリと光るものがあった。箸でつまみ出してみると、何と、それは一本の縫(ぬ)い針だった。  
上総介は、怒(いか)りでからだをふるわせ、お菊につかみかかって問(と)いただした。  
「この恩知(おんし)らずめ!よくもわしを殺そうとしたな。どうしてこんなことをしたのじゃ」  
まるで身に覚えのないお菊は、主人のものすごい剣幕におびえて、ただひれふすばかり。めちゃくちゃに殴(なぐ)りつける上総介を、奥方がおもしろそうに見ておった。そればかりか、「この女は、もともと根性の曲った強情者。そんな仕置(しお)き位では、白状しますまい。どうです、蛇責(へびぜ)めになさっては」と、けしかけた。  
お菊は裸にされて、風呂の中に、たくさんの蛇と一緒に投げこまれたそうな。  
風呂に水が入れられ、かまどに火がつけられた。水はどんどん熱くなり、蛇は苦しまぎれにお菊にかみついた。地獄の苦しみの中で、お菊は、「このうらみ、死んでもはらしてくれようぞ」と、言い残して、ついに死んでしまったと。  
それから何日か経(た)って、奥方は、体中(からだじゅう)針で刺される様な痛みをおぼえ、寝こんでしまった。  
医者にもまるで原因がわからず、手のほどこし様がなかった。  
くる日も、くる日も苦しんだすえに、「お菊、許しておくれ、針を入れたのはこの私じゃ。上総介に可愛がられるお前が憎くかったのじゃ」と言うと、そのまま息絶えたそうな。  
上総介は真実を知り、後悔したがあとのまつり。  
その夜から、上総介の屋敷にお菊の幽霊が出るようになった。  
毎夜、毎夜のこととて、家来や女中達は怖がって、皆逃げてしまった。一人きりになった上総介のところへ、お菊の幽霊は昼となく、夜となく現われて、「うらめしや―」と、本当にうらめしそうに言うのだそうな。  
上総介は、とうとう気が狂って死んでしまったと。  
その後、小幡家の人々によって、お菊のためにお宮が建てられ、それからは、お菊の幽霊は現われなくなったそうな。 
雪女産女型(ゆきおんなうぶめがた) (宮城県)  
むがすむがす、白河様(しらかわさま)という殿様(とのさま)の頃の話だど。  
ある雪の降る夜、お城の夜の見廻(みまわ)り番の侍だちが四方山話(よもやまばなし)に花を咲かせてたど。  
「今晩のように雪の降る夜は、お城に雪女が出るといううわさだが、聞いたごどあるが」  
「まさか、雪女なんぞでるはず無(ね)べ」  
ひとりの侍がこういって、小便をしに出たど。  
用事をすませて、ひょいっと頭をあげたら、降りしきる雪の中に、赤ん坊を抱いた女の姿が、ボーッと見えたど。  
「今時分(いまじぶん)、誰だべ」と思ってだら、スーッと寄っできで、「もし、お侍さん、雪の中に大事な物を落どして捜(さが)していたげんども、この児(こ)が重いんで、いっとき抱いてて呉(け)らえん」て言うた。  
侍は、女が気の毒に思えて、赤ん坊を受け取ると、赤ん坊は氷のように冷たかったど。  
女は何かを捜しているふうだったげんども、雪の中さ、スーッと消えてしまったど。  
ほうしたら、抱いていた赤ん坊がだんだん重くなってきて、抱えきれなくなった。下さおろすべとしたら、ぴったり腕さひっついて離(はな)れねぇんだど。  
侍は気味悪くなって、助けを呼ぼうとしたげんども、声が出ねぇんだど。  
赤ん坊はますます重くなってくる。  
侍はこらえてこらえて、息もつけなくなって、とうとう気を失ってしまったど。  
見廻り番の詰所(つめしょ)では、小便に出かけた仲間がなかなか戻らねぇんで、皆して捜したら、侍はぶっといツララを抱えて気絶していたど。  
それから幾日(いくにち)か経った雪の降る夜、夜廻(よまわ)りのお爺(じ)んつぁんが、拍子木(ひょうしぎ)をカチカチ叩(たた)きながら、「火の用心、火の用心」って歩ってたら、、松の木の根元で、女が長い髪の毛をとかしていたど。  
こんな夜更(よふ)けに、しかも雪の降る晩におかしな女もあるもんだ、と思うて、「誰だぁ」って、とがめたど。  
「はい、わだしですかぁ」って、振り向いた女の顔を見だら、なんと三尺(さんじゃく)もある、目も鼻も口も無え、のっぺらぼうだったど。  
お爺んつぁんは「アワワワー」って、腰を抜かしてしまったど。  
それからというもの、雪女のうわさがいよいよ本当だということになって、大騒ぎになったど。  
そこで、腕に覚えのあるお城の家老(かろう)が、自ら見廻りを買って出たど。  
珍しく雪の降らない、月夜のことだった。  
「こんなに晴れあがった明るい晩に、よもや雪女なんぞ出ねべ」といいながら家老が見回っていだら、すぐ目の前を一尺ばかりの小坊主(こぼうず)が、テクテク小走りで行くんだと。  
<これはあやしいぞ>と思って、家老が右さ寄れば小坊主は左さ寄り、左さ寄れば右へ寄る。  
<いよいよあやしい>と思って、踏(ふ)んづけっぺとしたら、小坊主はコロコロと前さ転げて逃げんだど。  
<こいつは化け物だ>と思って、やっとつかまえて、両肩(りょうかた)をぐっと押さえつけ、  
「うん、うん」って力をいれたら、力をいれるほどに小坊主は大きくなって、家老と同じ背丈(せたけ)になったど。  
これより大きくなられでは何されるか分からんから、ぱっと手を離すや刀を抜いて斬りつけた。そいつは、「ギャーッ」って叫び声あげて、屋根の高さほども背が伸びてから、どうっと砕(くだ)けて、粉雪になって四方に散ってしまったど。  
そのとたんに、雪が降りはじめ、風も出て激しい吹雪(ふぶき)になったど。  
雪女は、そのあとは姿を現さなくなったど。  
こんでよっこもっこさげた。 
小正月に来るオボメ (山形県)  
お前(め)、オボメ(産女)って知っでらっだか。  
小正月十五日の晩にナ、オボメどいっで、お産のとき難産で死んだオナゴが赤ン坊ば抱(かか)えで幽霊になって化げで来んならドォ。  
苦(くる)すんで苦すんで難産で、浮がばんねくて、恨(うら)めすくて、十五日の晩、便所さ出でくんならド。  
ほんで、小正月十五日は便所ば、すかっと掃除して、その晩は誰も行がねもんだった。朝までよォ。  
昔、山形(やまがた)の新庄(しんじょう)の戸沢藩(とざわはん)の家中(かちゅう)さ、馬場五郎右衛門(ばばごろうえもん)って、体格(なり)ァ人並みはずれて小(ちん)こえ人ァあっだド。  
この人が、ある年の小正月、オボメ来るどて嫌って、誰も行がね便所さ、「オラ、オボメづう者ば、見でくる」どて、便所さ行ったド。肝(きも)の太ってえ人らったんだナ。  
便所さ行って屈(かが)んでいるっつうど、話の如(ごと)く、ざんばら髪の白装束のオナゴが、赤ん坊ば抱えて現(あらわ)ったけド。ほして、「あのォ、ちょっとの間、この赤ん坊ば抱いでで呉んねがァ」どて、赤ん坊ば突出したけド。五郎右衛門ァ、「ほい、きたり」どて、持ったらば、なんと、冷たえ赤ん坊らけド。  
ほぉして、奇態な事にゃ、ほの赤ん坊、ツツッ、ツツッて少しずつ大きくなってくんならドォ。  
五郎右衛門、ほれ見で、「これァうまぐない。うかうかしてっと、そのうちにゲロッで呑まれてしまうぞ」どて、刀抜いで、口さくわえで、赤ん坊ば抱えでいたけド。  
ほしたら、今度ァ、赤ん坊がツツッっと大きくなってきても、刀の刃さぶつかりそうになるっつうど、チャッと引っこみ、また、大きくなっては引っこみして、大っけぐならんねけド。  
そうこうしてるうち、赤ん坊ば頼んだ白装束のオナゴァ、ちゃァんと髪ば高く結い上げで、「大変えがったやァ、お侍さま。おかげさまで、今夜ァずいぶんと楽々と髪ば結う事出来だ。ありがでがった。  
ほの赤ん坊ば返してけろ。どうも、どうも。  
あのォ、何かお礼をしたいげんども、何か望みのものあったら聞かへでけろ。オレ、出げる事なら何とかするさえ。この御恩返すすねでァ気がすまねぇ」どて言うけド。五郎右衛門、「オレァ、何も望みごどァ無いげんの、できれば、力欲すえもんだな。オレさ力ば授げでけろ」どて、言ったってョ。オナゴァ、  
「ほだら、望み通りにしてあげます」どて言っで、姿ば消したけド。  
言われでみだもんの、五郎右衛門の身体には、何の変化もおぎね。  
「これァつまらねもんだな。何だが、狐(きつね)に化かさったみでら。金でも呉(け)ろって言った方が良(え)がったなァ。ほんでもオボメっづう者ば見だ、良がった。さァ寝ろわァ」どて、ほの晩は寝だって。  
次の朝、起ぎて、まず顔洗って、ほして、布巾(ふきん)ば、こう、捻(ね)じってみだれば、別に力入れたわけでァないげんの、布巾、ポロッともげ切れだけド。  
「おぉお、これァ、あのオボメの呉らった力だべな。ありがでえ、ありがでえ」どで、庭さ出て、重たい石ば持ってみだれば、クンクンッど軽々たながれっけド。  
それがもとで、「大力(たいりき)の馬場五郎右衛門」って言やァ江戸まで名ァ売れた侍らったてョ。  
五郎右衛門の話ァ、まだまだ続ぎがあんなラ。  
こういう話、オラ、父親から聞いだもんだ。  
どんべからっこねっけど。 
雪女郎 (山形県)  
むかし、むかし、とんと昔。  
山形県の小国郷(おぐにごう)の雪野っ原(ゆきのっぱら)に、東の家と西の家の二軒の家があったと。  
吹雪(ふぶき)がヒュウヒュウ吹く夜のこと、どこからか白い衣(ころも)を着た女が一人やってきて、東の家の戸を叩(たた)いた。  
ホトホト、ホトホト。  
「いったい誰じゃ。こんな寒い晩に」  
東の家の親父(おやじ)は根性悪(こんじょうわる)だったと。  
たいぎそうに戸を開けると、「何の用じゃ」と聞いた。女は、  
「旅の者でござります。吹雪で道に迷ってしまいました。難儀(なんぎ)しています。どうか一晩のお宿、かしてもらえませんでしょうか」  
「見ず知らずの女にか」  
「土間の隅(すみ)っこでも良いですから、どうかお願いいたします」  
「俺(お)ら家(え)では、病人おるで泊めらんねえ。隣(となり)さ行って頼めや」  
東の家の親父は嘘(うそ)こいて、寒そうにこごえている女の鼻先で、戸をピシャンと閉めた。  
女は氷のような眼をスーッと細めて、閉められた戸をじいっと見つめた。それから西の家を訪ねた。  
ホトホト、ホトホト。  
「はやぁ、こんな吹雪の晩に出歩くお人がいるとは。爺(じい)、ちょっと出て下さいな」  
婆(ばあ)に言われて、爺が戸を開けたら、戸口に白い衣で今にも凍(こご)えそうな女が一人立っておった。  
「あれゃ、おどろいた。ささっ、そんなところにいないで、とりあえず家(うち)の内(なか)に入って。ほれ」って、西の家の爺、女の手を引いて土間に入れ、箒(ほうき)で雪を払ってやったと。  
「婆、見ての通りだ。温(ぬく)い茶を一杯たのむ」  
「はえはえ」って、婆が茶碗(ちゃわん)を差し出すと、女はためらいながら飲んだ。そして、  
「こんな夜にすみません。私は旅の者でござります。吹雪で道に迷ってしまい困っていました。一晩お宿をお借りしたいと思い、戸を叩きました」というた。爺は、「そうか。こげなときはお互いさまだで、そうとわかれば、さぁさぁ、貧乏所帯(びんぼうじょたい)の爺と婆の二人だけの家だ。何も無いけども、ごゆるりとしてござっしぇ。なあ婆」  
「はえ、はえ。どうぞ何ぼでも泊まってけ」って、やさしく泊めてやったと。吹雪は一晩中吹き荒れた。女は爺と婆をやわらかな眼ぇで見、あらためてお礼を述(の)べて寝たと。  
次の日の朝、吹雪が嘘(うそ)みたいにおさまって、おだやかな晴れの朝だったと。  
西の爺と婆は、囲炉裏(いろり)の火をゴンゴン燃やして、女が起きてくるのを楽しみに待っていた。が、女はなかなか起きてこなかった。  
「どうしたや、なんぼか疲れていたのだべか」  
「ちょっくら、見てきようか」って、婆、女が寝ている部屋のふすまを開けたら、女の寝息(ねいき)が聞こえないのだと。  
「どうしたべ」って、掛け布団をそおっとはいでみたら、寝床(ねどこ)には女の姿はなくて、その変わり、ビシャビシャに濡(ぬ)れた白い衣に包まった、黄金(こがね)の一塊(ひとかたまり)が転がっているばかりだったと。  
女は雪女郎(ゆきじょろう)であったと。西の家の爺と婆の温かい心で、雪の体が解けてしまったと。  
西の家は、その晩から福づいて、一生安楽に暮らしたと。逆に、東の家では性悪親父(しょうわるおやじ)が本当に病気になって、ひどい貧乏になったと。  
雪がヒューヒュー吹雪く夜に、訪ねてきた旅のお人を泊めてやると、必ず福を授(さず)けて行くのだそうな。  
どんぺすかんこねっけど。 
猫絵十兵衛 (山形県)  
むかし、あるところに猫絵十兵衛(ねこえじゅうべえ)という飴(あめ)売りがおったそうな。  
十兵衛は猫の絵を書くのが大層うまくて、画かれた絵の猫は、どれもこれもが今にもニャーゴと鳴いて動き出しそうなほどだったと。  
あるとき十兵衛は、飴を売りながら村々を歩いているうちに、ふいに、妙な屋敷街(やしきまち)に入り込んだと。  
道の両側には鱗塀の立派な家々がずらーっと建ち並んではいるが、あたりはシーンとして、物音ひとつしない。  
「何だか、気味(きみ)悪いな」  
十兵衛は今来た道を少し戻ってみた。すると、道端(みちばた)の木の枝が道にかぶさるようにのびているのがあって、それに、何やら看板ふうなのがぶらさがってあった。よく見ると、  
「これより猫の国」と、書かれてあった。  
「猫の国だと!?はて、妙な国へ迷い込んだもんだ」  
十兵衛は、街の中をキョロ、キョロしながら歩いて行ったと。  
しかし、どっちへ行っても人っ子一人にも出会わない。  
「どうも、妙(みょう)じゃあ」  
なおも、そこいらここいらを歩いていると、 向こうから、黒い着物を着た猫の姉さまがひとり、カンコ、カンコ、カンコと下駄を鳴らしてやって来た。  
「やれ、やっと一人見つかった。あの、もし」と声をかけると、猫の姉さまはびっくりして目をまんまるにしとる。  
「俺れは別にあやしい者(もん)でねえ。見た通りの旅の飴売りだ。ちょいと物を尋ねますがのう、ここは人が住んでいるんですかいのう。ちいっともそんな気配がありませんが」と聞くと、猫の姉さまは急にオイオイ泣き出して、「少し前まではここにもいっぱい人は住んでいたのですが、大っきなネズミが出て来て一人喰(く)い、二人喰い、皆喰って、とうとう私ひとりになってしまいました。残った私も、今日喰われるか、明日喰われるか、と、おびえて暮らしていました。けど、耐えきれずに、いっそ早よ喰われてしまおうと、わざと下駄をならして歩いていたのです。旅のおひと、どうか助けて下さい」と、拝(おが)むようにして頼むんだと。  
「そうかぁ、それは災難じゃったのう。よおっくわかった。ちょっと俺に紙と筆を貸してくれ」  
十兵衛は筆と紙を借りると、強そうな猫の絵をたくさん描いたと。  
やがて夜(よる)の子(ね)の刻(こく)になったころ、大っきなネズミがやって来た。仔馬ほどもある大っきなネズミだと。  
そいつが、「猫はおるかー」って、おっそろしいのだと。  
二人が隠れている家にやって来て、「ここにおったかー」って目をジャガリ光らせて迫った。  
十兵衛は、自分の描いた絵に、「出れ、出れ、出れ、皆出れ」というと、みんな絵から抜け出て、みるみるいっぱいになって、大っきなネズミに襲いかかっていった。  
チューやら、ニャーやらの騒きでねえ。  
「ガオー。フギャー」って、大騒ぎだと。  
いっくらネズミが強いったって、猫が喰われるそばから十兵衛がさっと絵を描いて、「出ろ、出ろ」とやるもんだから、さしもの大ネズミも疲れて、とうとう噛(か)み殺されてしまったと。  
猫の姉さまは喜んで、「どうか、私の婿殿になって下さい」と頼んだと。十兵衛は、「いや、俺には、妻も子もあるし、ないのは金だけだ」というと、それならばと金をいっぱいくれたと。  
それを背負(せお)って、「やれ重い、やれ重い」といっていたら、そこで目が覚めたと。  
木陰(こかげ)で眠っているうちに、背中の重い飴箱が十兵衛にのしかかっておったと。  
とんぴんからりんねっけど。 
坊さまに化けた魚 (岩手県)  
むかし、ある村のはずれに大きな渕(ふち)があって、たくさんの魚が棲(す)んでおったと。  
あるとき、村の若者たちが集まって毒流しをしようと相談した。  
“毒流し”というのは、流れに毒を投げ入れ、一度にたくさんの魚を獲(と)る方法のことだが、その毒は、山椒(さんしょう)の皮を細かく切り、シキミやタデなどの実を一緒にすりつぶして灰(あく)を混ぜ合わせると出来上がる。  
次の朝、若者たちは淵のそばで車座(くるまざ)になって毒作りをはじめた。  
そろそろ昼になろうとする頃、そこへ一人の藍色(あいいろ)の衣を着た坊さまがあらわれ、「それは魚を獲る毒じゃな。魚を釣ってもよいが、毒はいかん。毒を使ったら親魚だけでなく小魚も一匹残らずしんでしまう。小魚など獲っても小さくて食えはしまい。そんな罪深いことはしなさるな」と言うた。若者の一人が、  
「坊さま、心配いらん。魚を全部獲るわけではないわ。それより、もう昼どきだからこれでも食べて行きなされ」と、ダンゴを差し出した。  
坊さまはダンゴを受け取ると、パクッと飲み下した。すすめられるままに、またひとつ、またひとつと呑みこむうちにダンゴは無くなった。  
「馳走(ちそう)になった。しかし、それは止めなされよ」  
坊さまは、青光りする目で若者たちを見つめると「よいな」と念押しをして、どこかへ立ち去って行った。  
若者たちが出鼻(でばな)をくじかれてためらっていたら、誰かが、「何を言うだ。暗いうちから準備してきたっちゅうに、今更(いまさら)止められっか」といい、「そうだ」「そうだ」という者がいて、皆で毒を淵に投げ入れたと。  
ほどなく、淵のあちこちで魚が浮いてきた。大きいのもいれば小さいのもいる。若者たちは夢中になって魚を網(あみ)で拾いあげた。面白(おもしろ)いほど獲れた。さあ、もういいだろうと帰り支度(じたく)をはじめたら、若者のひとりが、「もう一遍(いっぺん)、これが最後」と言って、残りの毒を淵に投げ入れてしまった。仕方なく、皆は魚の浮いてくるのを待ったと。  
しばらく淵の水がざわめいて波が立ったりしていたが、それがおさまると、大きな魚が浮き上がった。  
「やあ、これは大きいな」  
「まるで、魚の大将だ」  
引き上げてみると、大人の背丈(せたけ)ほどもある、藍色の魚だった。  
「この色、見覚えあるような……」  
「魚の色なんか、どうだっていいさ」  
あまりに大きくて珍しいから、皆で分けようということになり、魚の腹をさいた。  
すると、腹の中から、ダンゴがこぼれ出た。  
「こ、これは、昼間、旅の坊さまにあげたダンゴだぞ」  
「すると、なにかぁ、この魚は、あの坊さまだってことか」  
「すると、なにかぁ、あの坊さまは、この魚だったてことか」  
若者たちはあまりの不気味さに一目散(いちもくさん)に村へ逃げ帰ったと。  
それからというもの、毒流しで漁(りょう)をする者はいなくなったそうな。  
どんとはらい。 
もんじゃの吉 (岩手県紫波郡)  
昔、あったと。  
もんじゃ(茂沢)の吉は長者どのの家で嫁こを探しているということを聞いた。  
野っ原の方に歩いて行くと、狐が化けくらべをしているのに出会った。  
「やぁ、狐どの、狐どの。お前たちは何をしている」と声をかけた。狐はびっくりして、「誰れかと思ったら、吉さんか」というた。もんじゃの吉は、「ときに、長者どのでは嫁コをさがしているっちゅうから、お前(め)たちの仲間で化けてくれんか」と頼んだ。狐たちは、「油揚(あぶらあ)げと小豆飯(あずきめし)を持ってくればぞうさもねえこった」というた。  
そこで、もんじゃの吉は、長者どのさ行って嫁コを世話する話をまとめたと。口きき料にたんまりお礼をもらったと。  
そして、油揚げと小豆飯を買(こ)うて、狐のところへ行った。  
「いついっかに、人数は三十人ばかりと馬ひと手綱(たずな)七頭の嫁取りに化けてけろ」  
「あい、わかった」と約束が出来たと。  
いよいよ嫁取りの日。  
長者どのではすっかり用意をととのえて待っていたが、時刻になってもなかなか嫁こが見えないので待ちあぐんでいたと。  
夜まになって、ようやく野っ原の方に提灯(ちょうちん)が三十ばかりちらちら見えたと。  
ほどなくして、仲人の吉が先に立って、化粧馬(けしょううま)だの、箪笥(たんす)長持(ながもち)からいろいろな道具(どうぐ)担(かつ)ぎだの従(したが)えて、ざんぐぶんぐと嫁取りの行列が長者どのの屋敷さやってきた。  
屋敷門(やしきもん)の前で、送りの言葉やら迎えの言葉がかわされ、もんじゃの吉は提灯を一人一人から受け取って、縁側の天井にずらりと釣るした。  
祝言がはじまり、大座敷(おおざしき)では、ご馳走酒盛りだと。  
呑め歌え踊れと盛り上がって、やがて祝儀事(しゅうぎごと)も終りになり、仲人の吉は帰り、お客人(きゃくじん)たちも帰る者は帰り、泊まる者は泊まったと。  
次の朝になって、長者どのが縁側の戸を開けると、天井から頭にぶつかるものがあった。  
「痛て」というて見あげたら、馬の骨が三十もぶら下がっていた。  
はてな、と思ってその辺(あた)りを見ると、縁側の板の上に狐の足跡がついている。いよいよけげんに思って家内(いえうち)の者(もの)を起こして調べさせたと。  
そしたらなんと、家の中(なか)じゅう狐の足形(あしがた)だらけだ。あわてて座敷に行ってみたら、泊まったはずのお客人も一人も居なくなっていたと。  
もしかしたら、と思って、嫁コの床(とこ)を見ると、これまた様子が変だ。夜着(よぎ)をはぐって見たら、なんと、なんと、嫁ではなくて、古狐が床のなかで丸くなって眠っていた。  
「こんちくしょう」というて、若い衆が取り押さえようとしたら、びっくりした古狐がはね起きて、障子をけ破って逃げて行ったと。  
長者どのは、ようやく、もんじゃの吉にだまされたと気付いたと。長者は怒りに怒って、「吉をひっとらえて来い」というた。若い衆が吉の家へ行くと、お袋(ふくろ)が一人いて、「おら方(ほ)の吉は、他所(よそ)さ馬喰(ばくろう)に行って、今日で何日にもなるが、まだ帰って来(き)もさん」というた。若い衆は、気勢(きせい)をそがれて、もそらもそら帰ったと。  
それから四、五日経った頃、長者どのの座敷の前を、やせ馬を曳いたもんじゃの吉が通った。  
唄なんぞ唄って、いい気なもんだ。  
長者どのが呼び止めて、嫁とりのことを糺(ただ)すと、もんじゃの吉は、「このところ俺は、奥(おく)の方(ほう)さ馬喰に行っていた。今帰ってきたばかりだもの、嫁取りだの、狐だの、俺が何で知るや。おおかた、その吉とやらも狐の仕業(しわざ)だろうさ」と、すぽーんとした顔をして言うたと。  
それっきり。どっとはらい。 
娘の骸骨 (岩手県)  
むかし、あるところに、手間賃(てまちん)を取ってその日暮(ひぐ)らしをしている爺(じい)があったと。  
今日は四月八日お釈迦(しゃか)さまの誕生日(たんじょうび)だから、家でゆっくり休もうと思っていると、急に用を頼まれた。ここが手間取(てまと)りのつらいところ、断わると次の仕事がもらえなくなる。爺は、ゆっくり呑もうと思って買った一升ビンを下げて、用先に出かけたと。  
その途中で、広い野っ原にさしかかった。  
天気もよし、疲れもしたので、この辺で一杯やろうと思って、いい塩梅(あんばい)の石を見つけて腰をかけたと。  
さて呑もうと思ったら、すぐ足もとに一つの骸骨(がいこつ)が倒れてあった。爺は、「これはこれは、いかなる人の骸骨だか知らぬが、ちょうどええ。お前も一杯やりなされ」と言って、その骸骨にも酒をそそぎかけ、自分も呑み、唄など歌ってから、「これでよい、これでよい、ああ面白い」といって、そこを立ち去ったと。  
用を終えて帰り路にその野っ原を通ったのは、すでに暮れ方であったと。少しでも薄明(うすあか)りのあるうちに家に帰り着きたいものだと思って急いでいると、後ろから、「もし、爺さま、ちょっと待って下され」と呼ぶ声がした。  
振り返って見たら、十七、八の美しい娘が立っていたと。その娘は、「あの、今日は爺さまのおかげで、本当に楽しかった。お礼をしたいのでここで待っていました」という。爺は、「はて、こんな美しい娘に知り合いは無いし、おかげさまでなんぞ、言われるような事もしとらんし、さては、これは狐だな。狐にばかされる時とは、こんな時分だ。こりゃ油断ならん」と思って、「姉様、お前は何だ」と言うと、娘は、「爺さま、よく聞いてください。私は三年前のちょうど今頃、ここで急病になって死んでしまった者です。この月の二十八日は、私の三年忌に当り、法事がありますから、その日は、何用あってもここへ来ておくれ」と言う。爺は、「はは―ん。さては、あの骸骨であったか」と思い至って、「あいわかった」と約束したと。  
さて、その二十八日が来た。  
爺は半信半疑(はんしんはんぎ)で、野っ原に行った。  
すると、娘は約束たがえず待っていたと。  
娘に連れられて行くと、ほどなく隣り村に出て、大きな構えの家に着いた。  
その家には村人が多勢寄り集まっていたと。  
爺は、「俺れは、とても入れぬ」というと、娘は、「私の着物の裾(すそ)を持って下さい」  
という。  
爺が娘の着物の裾をつかむと、誰にも見つけられずに家の中に入れたと。  
仏壇の間に座らされると、酒が供えられた。娘はそれを爺に呑めとすすめた。本膳が置かれると、それも食べた。  
屋敷の人々は、仏の前の供物がいつの間にか無くなるので不思議でたまらないのだと。  
やがて、お膳を下げる段になって、一人の女中が皿を落として割ったと。  
そしたら主人(あるじ)は、ひどく小言を言った。  
それを聞いた娘は、「こんな騒ぎを見るのはいやだから行きます」といって、出て行った。  
娘が立ち去ると同時に、爺の姿が皆に見えて来たと。みんなはびっくりして、爺に屋敷に居る訳を聞かれたと。  
爺は、これまでの一部始終を語ったと。  
主人をはじめ、一同が驚ろいて、「それは、間違いなく家の娘だ。ぜひ、その野っ原へ案内してくだされ」と頼まれ、みんなをつれて野っ原へ行き、娘の骨を見つけて、また戻ったと。  
そして法事をやりなおして娘の魂を慰めたと。  
爺は、その家からたくさんのお礼をもらって、一生安楽に暮らしたと。  
そればかり。 
雪ばば (秋田県)  
昔、あったずもな。  
冬なってナ、雪コうんと降るどき、わらしコ達(だ)泣けば、雪ばばおりてくるど。  
してナ、「小豆(あずき)コ煮(に)えだが、煮えだかよ。庖丁(ほうぢよ)コ研(と)げだが、研げたかよ。」ってナ、まわって歩(あ)りって、泣いでるわらしコ達居(え)れば、連れで行がれるど。  
ンだがら、おみや達泣かれねっや。  
とっぴんぱらりのぷう。  
まだ語れってか。  
ンだら、もひとつだけだゾ。  
あんまし語っと、天井からネズミに小便(しょんべん)ひっかけられっからナ。 
子とろ (秋田県)  
昔、あったずもな。  
夜なってナ、雪コの降る音が聞こえるようなどき、いつまでも寝ねェでるわらしコ達いたら、山がら、子盗(こと)ろ、おりてくるど。  
してナ、「子とろ子とろ寝ね子はいねがあ子とろ子とろ寝ね子はいねがあ」ってナ、まわって歩りって、寝ねェわらしコ達居れば、窓がら毛むくじゃらの腕ェ延びできで、つかめェられで、連れで行かれるど。  
ンだがら、おみや達、早よ寝ろじゃ。  
とっぴんぱらりのぷう。 
ちょうふく山の山姥 (秋田県仙北郡)  
むがし、あったずもな。  
ある所(どころ)に、ちょうふく山ていう大(お)っき山あって、夏のなんぼ晴れた時(じき)でも雲あって、てっぺん見ねがったど。その麓(ふもど)に“もうみき村”てあったど。  
八月十五夜みてぇんた(みたいな)ある月のいい晩で、みな外(そと)さ出て月見してたきゃ、空、にわかに曇って、風吹いてきたど思ったば、今度(こんだ)ぁ雨降るして、しみぁに(しまいに)雹(ひょう)が降ってきたわけだ。それでセエ、あまりおっかねもんで、童(わらし)がたなば(達なんか)、あば(母)の布団の中で小便しにも行がねぇで、寝でだふだ(ようだ)。  
したきゃ、屋根(やね)の上(うえ)さ大(たい)したあばれるもの来て、「ちょうふく山の山姥(やまんば)、赤児産(ややこう)みしたんで、餅ついであげねば、馬、人、ともに食い殺してしもうぞぉ」ど叫(さか)びながら、村中の家の屋根の上、何回も飛んで歩(あ)りたど。  
一時(いっとき)ばかりしたば、カリッと晴れて、またカアカアした月夜になったわけだ。  
夜が明けだば、村中の家、戸開けてこの話でもちきりだ。  
「なんとした」  
「叫んだのはなんだべ」  
「餅つかねでも良(い)かべか」ど、あっちこっちで話していだど。  
朝の仕事がおわった時分(じぶん)なったば、肝煎(きもいり)がら「村の人みな集まれ」ど、ふれが来たわけだ。  
「昨夜はどうだ。ひでがったネシ(ひどかったねえ)」  
「肝煎さん、餅ついであげねぇたって、良(え)がんすか」ど、相談しだと。して、とうど一軒あたり餅米四合ずつ持ち寄って、餅ついであげるこどにしたども、山姥おっかねぐて、誰れも持って行ぐていう人居ねがったふだ。  
そこで、上(かみ)のだだ八、下のねぎそべの二人いつも威張(えば)ってばかりいるがら、あれ方(がた)さ持って行かせれ、どいうこどになったど。  
肝煎、二人呼んで、「手柄して貰うどこだ」ど、いったきゃ、「持って行くども、誰れか道案内つけでけれ」ど、いったど。また、相談した末(すえ)に、七十いくつの、あかざばんば、良かべどて、ばんば呼んで話したば、「こりゃあ、ありがたいことだ。なんぼのこった命でもねえがら、村のためになるのだばいい」どて、相談まとまったど。  
して、村の人達餅米ふかし、ペタンコペタンコ餅ついで、二つの半切(はんぎ)りさ入れ、だだ八、ねぎそべが、それかづいで、あかざばんばも側(そば)さついで、いよいよ山さ登って行(え)ったわけだ。  
まんず、心の中ではおっかねえ様子で、山姥さ殺さえるがも知れねぇど思ったども、心配な顔(つら)しねぇで一時ばり山さ登ったど。  
足の下さみんなの村見えで、心細くなって来たども、まんずまんず我慢して登って行ったど。したば、急にゴオッど血生臭(ちなまぐ)せえ風吹いで来たわけだ。だだ八、ねぎそべ、「これぁ、駄目だぁ」「気味悪りでぇ」ど、いうもんで、あかざばんば、「なんの、なんの。心でそう思えばそうなるもんだ。さぁさぁ、元気出して歩くべ、歩くべ」ど云っで、先に立って行ったど。  
一時ばりしだば、今度(こんだ)ぁまた、前(さき)の何倍(なんびゃ)ぁも強い血生臭せぇ風、木の葉、草の上鳴らして吹いできたど。  
あかさばんば、今度ぁ大変だど思ったど。  
しばらくして後(うしろ)見たきゃ、二人ども居ねぇぐて、半切り、重ねてジャンど置いてあったど。  
あかざばんば、がっかりして、『おれまで戻っだば、馬、人、ともに食われるがも知らねぇ。したば、村の人さ申し訳ねえし、おればり殺さえでも良え』ど決心して、上の方さ登って行ったど。  
だいぶん登ったきゃ、山のてっぺんに、入り口さ薦(こも)下げた粗末な蒲(かま)小屋見えできだど。  
あれぁ山姥の家だべ、ど行って、薦手繰(たぐ)って、「ごめんしてたもれ。もうみき村がら、餅持って来たんす」どいったきゃ、中さ、四つ五つくらいの童、大きな石持ってお手玉 して遊んでらっけ。山姥、奥から気付いで、「大儀(たいぎ)かけだ。大儀かけだ。がら(子供の名前)、がら、ばんばどこさ、足洗う水やれ」ど、いったば、「はぁい」ど、いって、水屋(みんじゃ)の水持って来て、「ばんば、足洗って、中さはいれ」ど、いったど。  
ばんば、足洗って中さ入ったど。したば、山姥ぁ産じょくで寝てあっだど。がらがそのそばにちょこんと座ったら、山姥、寝床からがらの頭コなでて、「昨夜(ゆんべ)この児(こ)産んでハァ、餅コ食いたぁぐなって、この児を使いにやったども、村の人さ難儀かげねがったべが。何(なん)た塩梅(あんべ)だったべか、と思ってたどごだ」ど、いったど。あかざばんば、「餅持って来たども、半切り、あまり重たぁぐて、持って来れなくて、山の途中さ置いて来た」ど、いったば、山姥、「がら、まんず、ン(お前)が行って餅持って呉(け)」ど、いった。  
がら、スウッと出はって行ったと思ったば、なんとその速(はや)いごど、すぐ、半切り持って来たど。  
「がら、がら、熊獲(と)ってきて、熊のボンノクボの油とって、すまし餅こしゃえで、ばんばにも食(か)せれ」と、いったば、がら、また、スウッと出はって行って、熊獲って来たど。  
ばんば、腹一杯御馳走になったわけだ。  
晩げになって、あかざばんば、「もう暗くなるで、おら、家さ帰る」と、いったば、山姥、「なに、そんたに急いで帰えるごどねぇべ。おらどごには産じょく扱いの婆もいねぇがら、ニ十一日だけいでけれ」ど、いったど。あきらめで居るごどにしだど。  
次の朝、あかざばんばは、明日(あした)こそ殺さえるべど思ったども、次の朝も、その次の朝もなんともねぐて、どうも食われるふでもね。  
山姥の産じょくで汚れだ寝ワラを取り替えでやっだり、洗濯をしてやっだりしで、ニ十一日が過ぎだど。  
「家でも心配してるべがら、戻りてぇども」ど、いったば、山姥、「なんと厄介になった。家の都合もあるべがら、家さ戻って呉れ。なんも礼コねぇども、錦一疋呉(け)でやる。これだば何ぼ使ってもセエ、次の日は、また、元の通り一疋になってるなだ。村の人達さ、なんもねぇども、誰れも鼻風邪ひとつひかねぇように、まめで暮らすように、おれの方(ほ)で気ィ付けてやるでぇ」ど、いったど。して、「がら、がら、ばんばどごお負(ぶ)って行(え)げ」ど、大(たい)した気のつかいようだ。あかざばんば、「なに、おらだば戻るの大したごどぁねえがら、お負(ば)れねぇたって良(え)え」ど、いったども、がら、背中出して、「眼(まなぐ)、ふさいでれ」ど、いう。  
お負(ぶ)われたきゃ、スウスウと耳のあたり風吹く様だと思ったきゃ、もう、家の前(めえ)さ来てしまったど。  
「がら、がら、休んで行げ」ど、いってみだば、もう、がら、いねがっだと。  
家の中さ入っだば、人、ずっぱり(たくさん)いて、葬式でごったがえしているふだ。寺がら和尚さんも来てる。肝煎も来てだど。  
「誰れの葬式だあ」ど、聞いだば、「あかざばんば、ちょうふく山に行ったきゃ、戻らねぇがら、今日、葬式するどごだあ」「おら、戻って来たねえが」どで、云ったば、みな、魂(たましい)来たどで驚いだども、そんでねぇごとわかっで、大した喜(よろご)んだ。して、錦見せだきゃ、「おれさも呉れ」「袋コこしゃるから、呉れ」ど、あらかた無(ね)ぐなったども、次の日、また、元の通り一疋になってあったと。  
それがら、村に風邪もはやらねぇふだし、山姥の声も聞がねぇし、みなみな安楽に暮らしだど。  
これきって、とっぴんぱらりのぷう。 
あぐばんば (秋田県)  
土炉(じろ)の灰(あぐ)を悪戯(えたずら)して掘るど、その穴がら灰ばんば出てくるぞ。  
昔(むがし)、あったけど。  
隣の隣の村さ、灰ばんば居(え)たけど。え(い)つも灰の下さ入(へ)ぇっていで、穴あげるどすぐ出て来るなだど。  
その灰ばんばでば、眼無(まなぐね)ぐで鼻と口ばかり。  
その口と云(ゆ)っでも、頭(あだま)のてっぺんさあって上の方さ向いでいるなだど。  
して、毎年(まえどし)、若(わげ)ぇ娘をさらって、自分の家さ連れで行って食ってしまうなだけど。  
して、その村さ今年十八なるめんけ娘いたけどナ。とうとう、灰ばんばに見(め)つけらぇでしまたど。  
父(とど)と母(あば)、ド心配(しんぺ)して、娘を土炉のあるどころがら、ずっと離れだどごろさ隠(かぐ)すどてしたなだど。したば娘、「ンだでも、何時(えず)か誰れかが灰ばんばを退治(てえじ)さねば駄目だけ、俺行って退治して来(く)がら一枚石ど餅、用意してくれ」どて、云(ゆ)ったなだど。  
父も母も仕方無ぇどて、一枚石と餅ば娘の背中さ背負(しょわ)せで、灰ばんばを待っていたなだど。  
灰ばんば、ようろと来だ。  
めんけ娘、連れらえで灰ばんばの家さ行(え)ったど。  
行ったば、灰ばんば、「まんず風呂たけ」どて、云ったなだど。めんけ娘、風呂わかしておいたど。したば今度(こんだ)、「土炉さ、火ィたげ」どて、云うけど。そえでめんけ娘、そっと一枚石を土炉の中さ入(え)れでおいだど。そのうぢ今度、「餅焼け」どて、云うけど。そごで、背中がら餅を下ろしていたば、「餅、食しぇれ」どて、頭の上の口、アングリ開げだど。  
今だ、ど思で、土炉の中さ入れでおいだ一枚石を、その口さ、ドスーンど入れでやっだど。したば、灰ばんば、  
熱ちじゃアンアン 熱ちじゃアンアン 熱ちじゃ熱ちじゃ アンアンアン  
どて、泣ぎながら風呂の方さ行くどこだっけが、熱くしておいた風呂の湯を、灰ばんばさぶっかけだど。灰ばんば、熱ちじゃ熱ちじゃ。  
アンアンアンどて、叫びながら、死んでしまたけど。  
とっぴんぱらりのぷう。 
雪娘 (青森県)  
むかしむかし。  
北国の村に、子供のいない爺さまと婆さまが住んでおった。  
冬のひどい吹雪(ふぶき)の夜のこと、「ごめんなされ、ごめんなされ」と、外で声がする。  
爺さまと婆さまは、こんな夜にだれだろうと思いながら戸をあけてみた。  
すると、このあたりでは見たことのない女が小さな女の子を連れて立っていた。ふたりとも真っ白に雪をかぶっている。  
「おーお、かわいそうに。道にでも迷(まよ)ったか」  
「さぁさ、つめたかろう。入ってあったまれや」  
爺さまと婆さまが思わず口ぐちに言うと、女は消えいるような声でたのんだと。  
「お願いです。どうかこの娘(こ)をしばらくの間(あいだ)あずかってくだされ」  
「あずかってもよいが、おまえさんはいったいどうなさる?」  
爺さまは問いかえしながら女の子をだきあげた。  
そうしたら、とつぜん、目もあけられんほどビューと吹雪いて、女の姿がかき消えてしまったと。  
そんなことがあってから一月(ひとつき)、二月(ふたつき)とすぎたが、女は娘(むすめ)をむかえにこなかった。そのうちに娘も爺さまと婆さまにたいそうなついてしもうた。  
子供のない二人は、その娘を我が子のように大切に大切に育てたんだと。  
その娘は、大きくなるにつれ、色の白い美しい娘になっていった。けれども、この娘はどういうわけか風呂(ふろ)に入るのが大嫌い(だいきらい)であった。いくらすすめても風呂に入ろうとしない。  
あるとき、爺さまと婆さまは、こんな美しい娘は風呂に入れてみがけばもっともっと美しくなるにちがいないと、いやがる娘をむりやり風呂に入れた。  
ところが、いつまでたっても娘は風呂からあがってこない。お湯の音もさっぱり聞こえん。  
「どうした、あんまり長湯(ながゆ)をするとのぼせるぞ」  
爺さまが声をかけたが何の返事もない。  
だんだん心配(しんぱい)になって、爺さまと婆さまが風呂をのぞいたと。  
風呂の中にはだぁれもいなかった。  
「おーい、おーい」と娘をよびながら、二人がお湯の中を見ると、そこには、娘がいつも髪(かみ)にさしていた赤いくしが、あぶくといっしょに浮いていたんだと。  
どんとはらい。 
こんな晩 (青森県)  
むかし、一人の六部(ろくぶ)が旅をしておった。  
六部というのは、全国六十六ヶ所の有名なお寺を廻っておまいりをする人のことだ。六部たちは、夜になると親切な家で一晩泊めてもらっては旅を続けていた。  
その六部がある村に着いたとき、日も暮れてきたので、村はずれの一軒の家に泊めてもらうことになった。夕食を食べ終えた六部は、「大分歩いてつかれましたから、今夜はこれで休ませていただきます」と言うと、奥の寝部屋(ねべや)へ入った。  
ところが、夜遅くなっても、六部の部屋のあかりがついている。何をしているのだろうと、家の主人が戸のすき間からこっそりのぞくと、部屋の中では六部が金を数えていた。  
『ほほう、たんまり持っているな、あれだけあれば一生楽に暮らせる。ようし、あの六部を殺して金を奪(と)ってやろう』そう思った主人は、大きな声で、「六部さん、起きてるかい。いい月だから外へ出てみなされ」と言って、うまく六部を外へ連れ出した。  
六部が、「月はどこにも見えないが」と、振り向いたところ、主人はいきなり隠していたナタを振り上げ、六部を殺してしもうた。  
主人は、六部から奪った金で商(あきな)いをして、またたく間に金持ちになった。  
やがて、この家に子供も生まれた。  
長い間子供が出来なかっただけに、主人は喜んで喜んで、たいへんな可愛いがりようだった。  
ところが、その子は泣き声もたてないし、二つになっても、三つになっても一言もしゃべらなかった。  
子供が五つになったある晩のこと、寝床(ねどこ)の中でむずかった。主人は、きっと小便だろうと思って、子供を抱いて外へ出た。  
月の出ていない晩だった。  
「早く小便をせいや」と、主人がいうと、今まで一言もしゃべらなかった子供が、突然、「こんな晩だなあ」と言った。  
主人はびっくりして、とっさに、「何が」と聞くと、「六部を殺した晩よ」と、子供が言った。  
いつの間にか、子供の顔は殺した六部の顔になって、主人をにらみつけていた。  
主人はおそろしさのあまり、気を失い、そのまま死んでしまったという。 
 
中日狐文化の比較

 

要旨
狐は、文学作品の主要な構成要素である。神様と人間と鬼とも違って、特殊な存在だと思われる。古来、中日の人々は狐に対して特異な感覚や信仰をもち、いろいろの俗信や説話が伝承されてきた。狐文化は、古くから伝えてきて、いまでも民族により地方により盛んでいる。たとえ近代科学、近代医学の発達によって、急速に消滅の道に歩んでも、伝説やドラマなどのように、民俗としてたまにとりあげられることがある。
本文の序論は狐文化、そして、狐文化の定義を説明する。狐の発展と内包意義を総括し、中日におけるけ狐文化を研究するという目的を指摘する。第一部分の中心は、中日狐文化の歴史と言える。両国の狐文化の起源そして繁栄期、各時期の特徴は違って、その原因を求める。
第二部分は中日狐文化の共通点である。日本における文化、学問は、中国から移入によるものが多くを占めるといわれる。だから、両者は文学、信仰上は、似っているポイントはたくさんある。
第三部分は中日狐文化の相違点である、日本の文化ほどんと中国から伝われたが、狐に関する観念や態度はどうであろうか、そして、民俗性はどう違うのか、この部分で探索してみる。
結論では、中日狐文化の異同点を総括する。狐文化の始祖は中国であるが日本文化は外来文化を吸収すると同時に、本国の特色は失わないと説明する。
1 はじめに
1.1 研究の背景と意義
日本は我が国と一衣帯水して、中国の文化と深いつながりを持っているが、政治や、民俗、信仰、風土などの要素で、大きな違いが存在している。
中日を問わず、動物の中で、狐のごとき、十分に文化的な意味を深く与えられたのは、多くないといえる。いまの中国で、狐、特に九尾の狐は、私たち中国人にとってはイメージはあまり良くない。神話にはよく狐の姿が見える。九尾の狐と言うと、妖怪的、奸姣的、「狐狸精」というような悪いイメージが浮かび出した。しかし、日本では、狐は神様として人々に尊敬されている、狐に関する神社もいっぱいある。たとえば、お稲荷様に人々は今年の豊作をお祈りする。
本文は両国での狐についての言葉や、信仰、物語などの方面から、中日両国における狐文化を比較するによって、異同点を探し出して、どのようにそういう現象が出るのを探究して、中国文化は日本文化にどんな影響をされたかと中日それぞれの進展することを了解する。
1.2 狐文化の定義と特徴
狐は、自然界に生きている実在の動物だけれども、文化上に現実を超える存在である。その文化的意義は、信仰と美意識創造という二つの部分に現されている。多くの文学作品では、狐が狡猾的で、魅惑的で、人間に害を及ぼすぞんざいだと定義されている。俗信上であろうと、文学上であろううと、狐は、特別な文化的、芸術的な役割を発揮している。
1.3 国内外の現状
本文の資料を収集するとき、中日両国の学者は馬、蛇女などを研究することがあった。文学作品における狐の姿も、研究のホットポイントである。その中に最も代表的な作品は吉田裕子の『神秘的な狐−阴阳五行と狐崇拜』。作者はキツネと中国の阴阳五行と繋がって、中日の狐と稲荷、蛇、火のつながりを描いた。坂井田ひとみの『日中狐文化の探索』は日中古来の文学作品を書いて、狐の文化的の意味を詳しく説明する。学者松村洁の『なぜ日本人はキツネを信仰するのか』の中に、歴史だけではなく、自身の体験によって、日本人はどうやって狐を信仰するその理由を説明した。山民の『狐信仰の謎』は古くからの文学作品と民俗物語を研究する。なぜ中国人はキツネを信仰するをせつめいした。『日本昔话事典』と『新著闻集』の中には日本の民俗の物語の集合、狐は民族文学の地位は言うまでもなく重要である。广西大学の教授乔莹洁は、大江匡房の『狐媚记』を研究した、主に中日狐文化の共通点と日本は中国文化を吸収力を研究する。そのほか、古典文学の学者も中国の狐イメージを探索して、狐変形の発展と规律を探究する。範正生の『狐狸妖化描写と宗教阐釈』と朱迪光の『狐精ものがたりの演变与仏教文化の影响』はキツネと宗教文化の関係、そして宗教文化はキツネの伝説の変わりにはどんな影響を与えるを分析する.李剑国の『中国狐文化』の中には清朝からの狐を全部分析研究する、狐文化は中国文化に大きいな影響がある。『論中国古代文学中の狐イメージ』, 『明清文言小说狐意象解釈』,『論「聊斋志异」中の狐イメージの文化意味』などの論文も中国の文学作品の狐イメージを分析する、狐は中国文化と文学の地位は重いを説明する。本文も、これらの作品を参考した。
1.4 研究方法、予期目的
1.4.1 研究方法
本論文の研究は主に調査法、文献法、比較法、帰納法などを使う。
1.4.2 予期目的
本文は両国での狐についての観念や、信仰、物語などの方面から、中日両国における狐文化を比較するによって、異同点を探し出して、どのようにそういう現象が出るのを探究して、中国文化は日本文化にどんな影響をされたかと中日それぞれの進展することを了解する。
2 狐文化の歴史
歴史を遡ると、中日狐文化の発生は違って、それぞれの繁栄期も違う。中国の狐文化は、大きく変わって、時期によって、イメージも変わりつつある。日本では、最初の狐文化は、中国から伝わった。
2.1 中国
狐文化は主に狐を対象として、中国の伝統信仰の一つである。その歴史は原始社会のトーテム崇拝を遡ることができる.龍、鳳、龜、麟もトーテム崇拝の産物である。『史记·五帝本纪』に黄帝“教熊、K、辘、琳、泌、虎,以与炎帝战于阪泉之野。”ここの辘は『尔雅』の分析より、“白狐”のトーテムである。
中国では、狐文化は二度の繁栄期がある。唐の時代は狐文化の一度目の繁栄期とされている。この時期の狐は神に昇格するはなしが登場してくる。『太平広記』に、83篇の文章は、狐に関する物語である。その時、こんな諺がある、「无狐魅.不成村。」(狐はなければ、村になれません)。また、唐の人々には天狐の崇拝が盛んであった。天狐というのは千歳になって、天に昇られてる何でもできる巨大な力を持っている神狐である。
二度目の繁栄期は明清の時代である。明時代になると、唐時代伝奇の流れの上に立って、ロマンチックで幻想的なものが見られる。民俗に影響する、李昌祺の『狐媚娘传』と王同轨的『耳談』、全部15巻546篇,狐の伝説は15篇である。清時代は狐文学の一番繁栄な時期である。統計により、56種類の小説は約600篇の狐物語記入された。
明清時代以前の狐文化は宗教的な特徴が持っていたが、そのあと、審美の創作に変って、とくに蒲松龄の『御斋志异』はたくさん美しい狐仙を書き込みました。
2.2 日本
日本での狐文化は、空海と一緒に中国から渡ってきたという記述がある。しかしそれは黄狐、玄狐ではなく、白狐だという。
一方、弥生時代、日本に本格的な稲作がもたらされるにつれネズミが繁殖し、同時にそれを捕食してくれるキツネやオオカミが豊作をもたらす益獣となった。 柳田国男は、稲の生育周期とキツネの出没周期の合致から、キツネを神聖視したという民間信仰が独自に芽生えたと言う説を述べている。必然起因説はその発展系と見られる。『日本霊異記』は狐についての話を記載している最初の本とされているので、日本の狐文化は遅くとも紀元7、8世紀ごろから始まったと思われる。 
12世紀に、密教の布教者たちによって、狐がダキニ天と習合された。そのうちに、稲荷の大明神の眷属という立場を得た。ダキニ天と結び付いた狐は辰狐の尊称を得て、人の願いを聞き届けて、大明神の指示を伝える霊獣として各階層に信仰された。また、そのごろの北関東、主に、常陸の霊狐の信仰がもっと激しかった。というのは、当時、北関東に、陰陽師の代表的な人物である安部晴明は葛の葉という狐の生まれた子供であるとの伝説が流行していたのであるから。
こういう次第で、発展してきた狐信仰は江戸時代になって、ブームとなってきた。もともとは稲荷の神様の眷属とした狐はだんだん稲荷の神様と混同して、農業神、商業神、並びに屋敷神として崇拝して、各地の稲荷神社に祀られてきた。こういう流行に拍車をかけたのが寺社内稲荷社である。つまり、お寺の中に稲荷を祀ることである。当時、真宗と日蓮宗を除く、ほとんどの宗派は稲荷に頼って、縁日などのイベントで、町人を集めたという。また、江戸に、参勤交代で集まった大名たちが屋敷に自分の領地の稲荷を勧進したことが盛んであった。更に、石高俸禄制度下の武士たちにとっては、米は即ちお金であるから、農業神である狐は武士たちにも崇拝されていたわけである。したがって、江戸時代は日本の狐文化の繁栄期だと考えられる。
3 中日狐文化の共通点
日本における文化、学問は、中国から移入によるものが多くを占めるといわれる。だから、両者は文学、信仰上は、似っているポイントはたくさんある。
3.1 予言の共通点
3.1.1 凶を兆し
中国人でも、日本人でも、事の成敗を予兆と繋がる。狐の現れるは「吉兆」の言い方もあるが、ほとんどは「凶兆」である。狐の「凶兆」は、中日の歴史で記載されている。たとえば日本の『续日本後記』巻二に、仁明天皇は天长卜年(833年)八月十三日は、こう書いた「有狐鼠入内襄、至清凉殿下、近衡等毂之。」、嘉祥二年(849年)二月十三日は「狐入内襄,犬逐之。桎月革朗而逃。至南殿上,遂被犬噬。」と書いた。『日本文コ天皇实录』で齐衡二年(855年)闰四月十四日は「害狐、命近仗逐之。楹御前,帝射,攫之。」と書いた。具体的で狐は災難をもたらすのを明示しないが、人の態度から見て、狐はいい感じをさせるではなく、人々に恐ろしいイメージを伝わった。
中国の歴史記載で、狐の「凶兆」日本より直接である。たとえば『谈薮·化齐后主』の中で「北齐后主武平中朔州府门无辜有小儿脚迹及拥土为城雉之状察之乃狐媚是岁安南正起兵于北朔。」、「太平御览」卷909の中で「晋订日王浚据幽卅、有狐踞府门跃入厅事后浚果败。又日凉武昭王子因歆为凉州牧时有狐上南门主簿范称日野兽人家主人将去。」まだ「宋史-五行誌」で「宣和七年秋,有狐由艮岳直人禁中,据御榻而座。谓毁孤王庙。」という記載がある。一年後,「靖康之变」は起こった,徽钦二帝は金人にかだわかされ.北宋は滅亡した。これは、狐の不吉と関して、「凶兆」である。
ここで比較すると、中日の狐観は、非常に似っている。とくに宣宗と堀河二人死ぬ前の記録は基本的に同じである。
3.1.2 吉を兆し
狐は凶兆を予言するだけでなく、吉を予言するの話は、中日の民話でもある。日本での場合は、ある日、源隆康の車は少年雲客に化けた狐を襲撃されたあと、源隆康は神に教えられ、役人になった。この結果は、狐の正面を表す。この伝説は、中国の『太平广记·李揆』に似っている。例えば、唐時代の丞相牵揆乾はある日、仕事の後、ある白狐は庭中の石の上に立っていた。しもべを命令して、この狐を駆らせた。そして、ある友達は訪ねた、狐を見たことを友達に言って、友達は「この狐は吉兆だ」と言った。次の日、牵揆乾は本当に「礼部侍郎」になった。これらの伝説は狐は「瑞祥」の意味を表す。でも、両者「瑞祥」を代表する狐の色は違う。中日は赤いと白いの動物は、吉を予兆する精霊である。
中日は、昔から赤い色と白い色の動物は人類に吉をもたらす予兆である。中国の『瑞应篇』は「九尾狐者,神兽也,其状赤色,四足九尾」と書いた。『潜潭巴』では「白狐至,国民利,不至,下骄粢」という諺があった。日本の『延喜式』には、「冠以红白之物按其稀有程度分为大、上、中、下瑞记之」の記載がある、この記載を見れば、白狐は、一番吉な動物で、そして赤い狐である。『续日本纪』の中でも、こういう記録もある。たとえば霊亀元年(715年)正月元日は「是日,东方见祥云。远江国献白狐一只.」、养老五年(721年)正月元日は「武藏、上野两国各献赤乌一只,甲斐国献白狐一只。」と書いた。
資料から見れば、中日両国は赤い、白い狐の観念は同じで、吉を予兆するのは特徴である。「孤媚记」第二話でも、大江匡房は赤い色を吉兆とする。
3.2 文学作品の共通点
狐に関する怪異の話が、かなり多く伝えられている。その民話,伝承など、連綿として語り続けて、書き記されてきている。中日の社会にこの狐の浸透は驚くほど広く深く、あまねくこくないにいきわたっている。中日の各地に、大量の狐にまつわる昔話伝承され、極めて豊富である。この種類の妖怪、伝説は、各国の文学作品にも上演されている。だから、文学こそ、両者の共通点は多いである。
3.2.1 狐の変形
中日では、言うまでもなく、狐の最大な能力は「変形」することである。人に化けられるだけではなく、世間の万物に化けることもできる。
昔の中国人は「狐五十歳能变化为婦人,百歳变為美女,为神巫,或为丈夫与女人交接。能知千里外事,善盅魅,使人迷惑失智、千歳即与天通为天狐。」(狐は五十歳になると婦人に変身でき、百歳になると美人やいちこに、あるいわ男に変身して女と交接し、千里以外のことを知ることができる上、人間を誑かしたり、毒害したりする。そして千歳になれば、天に通じ「天狐」になる)と信じていた。美人に変わるは中国の狐文化最大な特技である。その中で、妲己と言う妃は一番有名な妖精で、『封神演義』には「亡纣者是女也」(纣を滅亡するのはこの女だ)といた。それから、狐は才知に長けたひとを化ける話もある。『太平広記』での「何譲之」、「孫甑生」、「張简栖」は博学の狐妖精である。そして『搜神記』と『集异記』での張華は学識は豊富な狐代表である。
日本人はお稲荷様を崇拝することも、狐の賢いと博学の伝説に関わる。
初めて狐を人間に化けるを書かれた小説は『日本灵异記』である。そして『源氏物语』、『大日本法华经验記』、『今昔物语集』などの作品や物語は次々と現われていた。特に『今昔物语集』は狐物語の大集合である。それに、中国と比べて、狐変形の種類は中国に負けることはない。
『狐媚記』では、狐は、少年に化けるとか、馬を乗る人とか、老人などに変わる物語がある。第四話の中には、狐は食べ物を糞に変わる、第五話は金銀や絹織物を破れた靴、瓦礫、骨に変わる。その恐ろしい能力は人を驚かせた。もともと普通的な狐はこういう能力に通じて、神秘的になる。人の好奇心を満足させて、狐文化は伝われた。大江匡房は漢学学者である、八歳から中国の『史記』と『漢書』を詳しく読んだから,中国の文学にも詳しい。『狐媚記』中の「狐媚变异,多载史籍,殷之妲已,为九尾狐,任氏为人妻,到於马嵬,为犬被获。或破郑生业,或读古书,或为紫衣,公到县」も中国で、誰でも知っていて特有な狐文化である。
3.2.2 人と狐の恋愛
人と狐の恋愛をテーマとしての小説は狐文化の特色である。
清朝の『聊斋志异』二「嬰寧」の話がある。王子服は、散歩中美しい娘に出会い、じっと見つめたら逆に「泥棒ような目」と言われ、がっかりして病気になってしまった。ある日、王はまた散歩に出かけてその娘に再会することができ、娘を家に連れて帰った。娘は嬰寧といい、嬰寧の父が狐に憑かれ、その狐は産んだのが嬰寧であった。王と嬰寧は結婚した。その後、夫婦に子が生まれたが、その子母はにそっくりだったという。そのほか、「青鳳」「蓮香」「紅玉」、「青梅」、「小翆」などの狐は人間に化け、恋愛に関する話もたくさんある。
平安初期にできた『日本霊異記』上巻に「狐を妻として子を生ましめし縁第二」に、ある美濃の男が野原で出会った女と結婚したが、ある冬の日に、犬に吼えられた女は狐の正体を現してしまったから、山野に逃げた。男は「お前と私の間に子まである。私は決してお前のことは忘れない。いつも来て私と寝なさい。」といった。だから野干のことをキツネ(狐ー来つ寝)という。
これらの作品に描かれた世界は、世俗の門弟財勢の観念がなく、封建礼教の束縛を受けず、人間の幸福に憧れ、大胆に愛情をすいきゅう追求し、また強暴な迫害に反抗し、恋人と生死を共にしているのもある。
3.3 宗教信仰の共通点
狐のイメージはほかの動植物と同じ、原始のトーテム崇拝に遡ることができる。崇拝意識は人類の子供時代知能は最も低くて、周りの物事を好奇心を持つ、世間の万物は精霊として存在している、自分の行為はこれらの超自然的な力に控えられる。
3.3.1 トーテム崇拜
中国では、上古時代、漢•趙曄『期越春秋』巻四に、禹は三十歳で独身、結婚を考えていた。塗山で九尾狐をみて、“綏綏白狐,九尾龐龐,我家家宜,來賓為王。成家立室,造我彼昌。天人之際於茲則行”(九尾の白狐を見た人は国王になり、塗山の娘を娶った人は家が栄える。)という民謡を思い出す。実は、ここの塗山の娘は、白狐をトーテムとしての集落である。塗山氏は夏集落以外の原始集落で、その宗教信仰は原始トーテム信仰の階段にある。
日本の狩猟時代の考古学的資料によると、キツネの犬歯に穴を開けて首にかけた、約5500年前の装飾品やキツネの下顎骨に穴を開け、彩色された護符のような、縄文前期の(網走市大洞穴遺跡)ペンダントが発掘されている。またキツネの生息域にあり、貝塚の中に様々な獣骨が見つかりながら、キツネだけが全く出てこないような地域(福井県)も存在する。
動物崇拝は動物や空想する動物を崇拝の対象としての伝統習慣である。呂振羽は「氏族原始のトーテムはだんだん人の名前と地名に代えた。」と言った。だから、両国初期の狐のイメージはトーテム崇拝の姿として文化の中で現す。
3.3.2 神の信仰
中国で、狐は伝統的な民間信仰の一つとして、古くから伝え続けていた。たくさんの資料には狐が吉凶を知らせる話がある。唐代•張鷟の『朝野険載』の中に「唐初以來,百姓多事狐神,房中祭祀以乞恩,食飲與人同。)(唐初以来、民間ではほとんど狐神を祭る。部屋の中に祭って、恩恵を乞う。飲食は人間と共にする。)途中で狐を見かけたら、必ず両手を合わせて、狐にひれ伏す、平安を祈りする。日常用語でも、直接狐を言ってはいけない、常に「大仙」、「胡三爺」、「胡仙」に変って呼んていた。伝統的の農業社会では、狐は皆で信じられ、村々には狐のお寺を作り上げる。もし、ある人は狐に祈って、願望は当たったら、必ず狐寺で赤い旗を掛って、狐仙に感謝の気持ちを表す。さもないと、狐は復讐するかもしれない。これは「狐祟」や「狐邪」と言う、もし人は狐を尊敬しないと、狐は騒ぎを起こして、人を傷つける。このようの恐ろしい心理から、昔の人は狐を崇拝するの原因である。『史記』の「陳涉世家第十八」には、狐を神として祠に鎮座させたという、その神の狐を利用して王者になろうとした話がみられる。また、宋代には民間に「狐王廟」があったという。
日本における数多くの動物崇拝の中でも、狐はその代表的なものである。それは決して過去のものではなく、現代の都会に福神としてまつられるのも珍しくない。特に秋や冬の頃に、山から里近くに現れるので,田の神の前駆のように考えられ、稲荷の使者とも信じられたという。狐火やキツネの作立などのように、さまざまな野外の幻覚も、やはり狐の霊力と結ぶつけられて、その年の豊凶をさらせるものと認められた。日本全国かくちに、きつねを狐を下して託宣を伺うことが、かなりよく知られている。いわゆる狐憑の現象も、そのような狐神の信仰の零落したものといえよう。日本の狐は、人に憑くだけではなく、狸と並んで、しばしば人に化けて、しきりに人をだますものと考えられている。  
 
河童狛犬考

 

遠野市土淵町の常堅寺境内にある、頭の窪んでいる狛犬、俗称河童狛犬というものがある。取り敢えず、遠野の観光の名所にもなっていが、しかし茨城の浅間神社にも、やはり頭の窪んでいる狛犬があるのを知り、この頭の窪みは何の為?と思った。調べてみると、下記の神社に頭が窪んだ狛犬がある事がわかったが、探せばもった沢山あるに違いないだろうと思う。
   「鎮西大社諏訪神社」(長崎県)
   「若宮神社」(愛媛県)
   「穴師座兵主神社」(奈良県)
   「川越氷川神社」(埼玉県)
   「一瓶塚稲荷神社」(栃木県)
   「八幡神社」(埼玉県)
   「浅間神社」(茨城県)
上記の神社の大半は、水神系を祀っているのが特徴だ。浅間神社であっても、木花開耶姫を祀っているので、やはり水神だ。
ところで、埼玉県の八幡神社狛犬の頭の窪みは、頭の窪みにロウソクをたて、夜の参道を照らしたという説もあるようだ。考えてみると、お百参りなどの深夜の参拝が盛んだった時代、もしかして?とも思ってしまう。狛犬の窪みにロウソクを立てたという説から、ロウソクに関して少し考えてみよう。ロウソクの基本的機能は、闇を照らす火としてのものだ。闇を照らす事によって、そこに蠢く悪霊を払ったり、その空間を浄化するものだとも云う。宗教的な儀式で考えれば、祭儀場を浄化し神仏や祖霊と交信する媒介としてロウソクがある。
またロウソクは命の象徴でもあり、人が死んだ時にロウソクを灯すのは、その人の霊魂を留めておくものだという。これは生きている人間にもいえるもので、ロウソクを灯すというのは、自分の全身全霊を賭して神に祈願するものなのだと。丑の刻参りなどで人を呪う場合に頭にロウソクを灯すのも、全身全霊を賭けて相手を呪うという意思の現われだ。現代となれば、ロウソクは非常用の灯りという意識しかもてないような気がする。では、狛犬が普及した江戸時代には、ロウソクに対する意識はどうだったのだろう?
現代と違って、丑の刻参りもかなり盛んな時代、ロウソクを灯す意識はかなり違ったものがあったのだと思う。実は、埼玉県の八幡神社の狛犬は文政6年作なのだという。遠野の狛犬の制作年代はわからないが、この八幡神社の文政6年という制作年代が、一つのキーワードになるかもしれない。
丑の刻参りが流行ったのも、江戸時代だ。元々陰陽道から伝わるものが、江戸時代に、その作法が完成されたのだという。考えてみると、国定忠治ヤクザ?な男が普及?したのも江戸時代だ。太平の世となり、国定忠治の育った群馬県は養蚕が盛んで、働くのは女で男は遊んでいた為、国定忠治みたいな男が増えたのだと云われる。色事を好む男が女を騙し、食い物にするという時代が江戸時代から発生したのだろう。なので怨みを持って死んだ女が祟るという怪談話の発生も、殆どが江戸時代だ。ところで水神系で思い出すのは、水子というものがある。
胎児も含めた小さな子どもに関係する死者儀礼は、江戸時代から昭和初期までは、女性が参加する地蔵講で密かに行われていたのだと云う。ただしこれは集団での死者儀礼で、実は個人として密かに供養していた事もあったのだと。
狛犬に雌雄はあるか?という話がある。しかし神獣の為、雌雄を超えた存在なので雌雄は無いという説もある。しかし、阿・吽と左右非対称でもあるのは事実だ。ただし阿・吽の狛犬をもしも雌雄とした場合は、もの(場所?)によって左右逆転する場合もあるそうだ。ただ大抵の場合、阿は向かって右側に位置し、吽は向かって左側だ。この向かっての左右の向きは、左の方が格上というのが常識だ。
中国の皇帝の玉座は必ず南に位置し、向かって左側を左大臣、向かって右側を右大臣としたのだという。これは左である東から太陽が昇り、右側の西へと太陽が沈むという太陽の運行から、左尊右卑の意識が日本にも伝わった為だと云う。これを陰陽に当てはめると、左は男性で右は女性なのだという。実は、埼玉県加須市睦町の八幡神社にある頭の窪みがある狛犬は、向かって右側の阿を現す狛犬だけで、左側の吽の狛犬には窪みが無い。これは、どう意図があるのだろう?と考えてみる。それとはまた別に、俗に云う「末期の水」の由来となる話を紹介しようと思う。
末期を悟られた仏陀は弟子の阿難に命じて、口が乾いたので水を持ってきて欲しいと頼んだ。しかし阿難は、河の上流で多くの車が通過して、水が濁って汚れているので我慢して下さいと言ったという。
しかし仏陀は口の乾きが我慢できず、三度阿難にお願いをした。そして『拘孫河はここから遠くない、清く冷たいので飲みたい。またそこの水を浴びたい』とも言ったのだと。
その時、雪山に住む鬼神で仏道に篤い者が、鉢に浄水を酌み、これを仏陀に捧げられた」と云う。
これが「末期の水」の由来なのだが、死に行く、もしくは死者の喉の渇きを潤す為に、常に雨水などの水を溜める事が出来るように…という考えから、狛犬の頭の窪みが出来たと考えれば…。遠野の常堅寺の境内にあるカッパ狛犬は、十王堂の前に立っている。この十王堂の中を見ると、子供の遺品などが置かれているのがわかる。つまり、死んだ子供達を供養する為のお堂…もしくは、生前の罪を裁く十王堂である。つまり、親より早く死ぬ子は罪深いという事から、子供の罪を裁く十王堂だとなれば、その死んだ子供達の喉の乾きを癒す為に「末期の水」として永遠に”水を供える”為として、頭の窪んだ狛犬を置いたという可能性も否定できないのかも。ただし、全国にある頭の窪んだ狛犬が全てそうなのだとは、まだ言い切れない。
ところで、埼玉県の八幡神社の狛犬が文政時代作なのだという。この年は、天明の飢饉の後であり、天保の飢饉の前の年だ。まあ天保の飢饉は置いといて、まだ天明の飢饉の名残がある時代だったろう。その飢饉で死んでいった人々を供養する為、いろいろな石塔・石碑が作られたとも聞いている。そんな飢饉の名残のある文政という年代には、もしかして飢饉に関する供養するという意識が汲み込まれて、狛犬を作ったとも考えられる。
…狛犬の阿吽の阿が陰である女性を現し、また飢饉の供養の為にと末期の水という意識から、常に雨水を溜めるという考えから狛犬の窪みが出来たのだと考えれば、遠野の河童狛犬は、子供の供養の為とも取れるが、まだまだ全国の狛犬を考えてみない事には…取り敢えず、結論は先送りである。
狛犬には、雌雄があるか?という考えには定まった答えは無いようだ。ただ、左右まとめて一つがいと考えれば、雌雄があるのでは?という事だが、阿・吽の両方が雄であり雌である場合があるので、その答えは未だなんとも…。ただ山門に仁王像が左右にあるように、狛犬も門番と考えれば、その
性は雄であっても、雌であってもいいのだろうと思う。
例えば、お稲荷さんの狐は雄ですか?雌ですか?という質問が愚問のように狛犬に対しても雌雄を定めるのもまた愚問なのかもしれない。何故なら神獣と考えるならば、性差は関係無くなるからだ。外国人が日本人に対して感じている事に、よく人の年齢を聞くというものがある。外国人にとっては歳を聞くなんて余計なお節介ととられる向きがある。しかし日本人の場合、相手の年齢を知って接する態度を決める向きがあるので、どうしても他人の年齢には興味があるという。
ところが外国人の感覚には、日本人みたいな極端な年齢尊重は無い。ところが性差と年齢を気にし過ぎるのが日本人気質なので、必死に狛犬の雌雄を考えるのかもしれない。西欧にはアンドロギュヌス(男女両性具有)という神話の存在があり、性差を超えたところに神を超越するものがあると意識されていた。実は、日本にもアンドロギュヌス的なものはあり、親鸞の夢の中に観音が現れ女身に変化し、親鸞と交わった後、親鸞は悟りを開いたのだという。
観音にも実は性別は無い。その為、女身に変化する観音は、男であり女でもあったのだと思う。観音もまた、性差を超え、人間を超越した存在なので、アンドロギュヌスと同じ存在だと考えてもいいのだろう。
狛犬は、もともとペルシア文化から流れてきたものだという。その原点はライオンからの発生なのたと。しかし日本に流れ着き定着し、そこで神獣と生まれ変わったのだとしたら、その時すでに性差を超越したのかもしれない。なのでやはり、雌雄を判断するというのは愚問なのかも…。頭の窪んだ狛犬のある神社の殆どが、水神系の神社ではあるが、埼玉県加須市睦町の八幡神社だけは応神天皇を祀っていて、この神社だけは水に関係無いのか?と調べてみた。
八幡神社は、全国で稲荷神社に続いて2番目に多い神社でもある。しかし元々は違う神社であったのが、後で八幡神社と合祀させられ、いつの間にか以前の神々が外され、八幡神社だけになったという神社がいくつかあったみたいだ。例えば、下田若宮八幡神社という神社があるが、元々は水神である国津神を祀っていた筈が、いつの間にか応神天皇を祀る八幡神社にとって変わったという。
埼玉県といえば、利根川が流れ、暴れ川と呼ばれた綾瀬川などがあり、野菜の産地として有名な平野部の為か、水害の歴史もまた多かった。例えば春日部市には以前、雷電神社という、やはり水神を祀った神社が3つもあったが、新興住宅地化し、いつの間にか神社も追いやられてしまったいる。近代の護岸工事か盛んとなり、いつしか人々を飲み込んでいった暴れ川は押さえられ洪水の心配が無くなった為に、水神の社は廃れ、別の神社に合祀され、見る影も無くなったのだと云う。
埼玉県加須市睦町には利根川が流れている。その睦町の八幡神社の祭祀には形代流しが行われているという。当然、その形代を流すのは利根川だ。形代流しは、簡単に言うと川を使っての穢れ払いの行事だ。当然、水神との関わりが出てくる筈なので、この八幡神社も、他に水神系の神を祀っていた公算が強いと思われる。こうなれば、頭の窪んだ狛犬は水神の神を祀った神社に設置されていたものと考えるしかないのかもしれない。
ただし頭の窪みを、単純に河童の頭と捉えるのではなく、やはり水を溜める為だったのか、それともロウソクを灯す台としての役割だったのかという事になるのだと思う。または、その両方か?ただ気になるのは、埼玉県加須市睦町の八幡神社には、阿の狛犬にだけ窪みがあるという事。また左の狛犬吽は、頭に宝珠(ギボシ)を乗せている。一角とギボシの対の狛犬は多いが、窪みとギボシの対の狛犬とは?
狛犬を作る時、頭の上に角や宝珠を載せて彫ると小さくなるので角や宝珠を後付けにする為に窪みをつけておくという技法があるという。窪みを付けておくので、修繕などもしやすいとの事。狛犬の製作過程に、上記の技法があるという事は、俗に云う河童狛犬は、まさに宝珠(ギボシ)や角が取れたものと想像させられる。ただこれに伴い確認したいのは、宝珠や角の付いた狛犬から外せば、全て窪みがあるのかどうか?この製作技法が流行った年代と、それがいつまで続けられたのかがわかり、また遠野の河童狛犬とされるものの制作年代を照らし合わせれば、ある程度答えは出るものとは思うが…。
つまり遠野の河童狛犬とされるものは、阿・吽のどちらの狛犬も本来はどちらにも宝珠、もしくは角があって、いつの間にか外れてしまい、両狛犬共に現在は窪みだけの状態となっているのだろうか?  
 
河童と瀬織津比

 

瀬織津姫 (せおりつひめ)
神道の大祓詞に登場する神である。瀬織津比刀E瀬織津比売・瀬織津媛とも表記される。古事記・日本書紀には記されていない神名である。
祓戸四神の一柱で災厄抜除の女神である。神名の名義は、人のけがをれ川の早でを清めるとある。祓神や水神として知られるが、瀧の神・河の神でもある。その証として、瀬織津姫を祭る神社は川や滝の近くにあることが多い。九州以南では海の神ともされる。これは、治水神としての特性であり、日本神話や外来神に登場する多くの水神の特徴にも一致する。日本神話では龗神や闇罔象神等が、外来神では吉祥天・辯才天がこの特徴を持ち合わせている。『倭姫命世記』『天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記』『伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記』『中臣祓訓解』においては、伊勢神宮内宮別宮荒祭宮の祭神の別名が瀬織津姫であると記述される。『ホツマツタエ』(学者により「偽書」とされている)では日本書紀神功皇后の段に登場する撞賢木厳之御魂天疎向津媛命と同名の向津姫を瀬織津姫と同一神とし、天照大神の皇后とし、ある時は天照大神の名代として活躍されたことが記されている。
関連する神
初代天皇とも言われる饒速日命(にぎはやひのみこと)との関連もあると言われる。また、瀬織津姫は天照大神と浅からぬ別名の一つに入るが、関係がある。天照大神の荒御魂(撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ))とされることもある。兵庫県西宮市、西宮の地名由来の大社であ、る廣田神社は天照大神荒御魂を主祭神としているが、戦前の由緒書きには、瀬織津姫を主祭神とすることが明確に記されていた。その他では宇治の橋姫神社では橋姫と習合(同一視)されている。祇園祭鈴鹿山の御神体は鈴鹿権現として、能面をつけ、金の烏帽子をかぶり長刀と中啓を持つ瀬織津姫を祀る。伊勢の鈴鹿山で人々を苦しめる悪鬼を退治した鈴鹿権現の説話に基づく。 

俗に云わる、日本三大河童地帯というものがある。福岡・茨城・遠野と、どうもなっているようだ。まあそれ以上に、河童の話の多い地域はあると思うし、また岩手県内でもあちこちに河童の話はある。
ただ三大河童地帯と呼ばれる地域のの共通性が、なんとなく見えてきたような気がする。
実は河童の話の中で、河童が腕を斬られ、その腕を取り返したい為に詫び証文を書くという話は、簡単に切り取れる腕を持つ存在の河童は、傀儡人形と結び付いてのもの、という説がある。その傀儡人形を広めたのが、海人族である安曇族のようだ。
海人族の信仰の普及の一つに、九州福岡の安曇磯良を祭神として祀っている志賀海神社を根拠地とし、安曇や厚美などの名を頂いて、全国の海辺伝い、もしくは山奥まで広まっているようだ。これには傀儡舞などの芸能が核となり八幡信仰と結び付いて、西日本に広がり、摂津西宮神社に隷属して、第二の拠点となったと。つまり仮説だが、河童伝承の残る地域には、海人族である安曇族の流れが
定着したものではないか?
茨城は古代、常陸の国であり、蝦夷の国の入り口でもあった。三大河童地帯が、九州の福岡から西日本を飛んで、蝦夷の国である常陸と遠野に定着したと考えると、かなり面白い流れとなると思う。
肥前の国の武田番匠の使いとも、名匠左甚五郎の使いとも伝えられる大工が、人手が足りないので藁人形や、おが屑の人形を作って命を与えて手伝わせ、無事に仕事を完成させる事ができた。仕事を終えた後、不必要となった人形は河原に棄てたのだが、いつしかその人形達は人を襲い、人の尻こ玉を抜いて食べるようになったなどの伝承が伝わる。
ここで"尻こ玉"の話が出てくるが、未だに"尻こ玉"とはわかっていないようだ。ただ、水死体を見ると、尻から腸が脱肛している事からの連想ではないか?とされているようだ。。。。
上記の似たような人形の話には、安倍清明の話もある。
清明が人形を作って占術を施し、用済みとなった人形を、一条大橋の河原に棄てたところ、その人形が人間と交わって子供を産んだと。また一説には、飛騨の大工と武田の番匠が内裏を造営した時に人形を作って働かせていたというが、その人形が官女と交わり子を産んだ。内裏の造営が終って、河原にその人形を棄てたところ、牛馬の皮を剥ぎ、それを専業とするようになった。彼ら人形のあばら骨は一枚であり、膝の骨は無い。非人というのはこれである…という話もまたある。
「えた」「ひにん」という階級が以前はあった。ここでの人形の話も「えた」「ひにん」の発生の話となりそうではあるが、その前に「人の代りに…。」という傀儡人形の存在、もしくは概念があったのかもしれない。ところで「えた・ひにん」の話が出てしまったが、この「えた・ひにん」もまた、一つの河童の流れでもあると思う。
例えば、利根川の治水工事には、河原に住み着く乞食達が強制労働させられ、それがそのまま河童と呼ばれたのだという話がある。それより遡る事天平年間、一気の仏教文化の導入が日本国に施された。その為、全国から多くの人々が寺院建設などの都市造りに強制的に参加させられた歴史がある。
その多くの強制労働者たちは、工事が終ると共に、何の恩恵も受けずに故郷へ追い返されたのだという。そして故郷への帰路、行き倒れや餓死者も多く出たのだという。生き残ったものも、故郷へ帰るのを断念し、浮浪者として、そのまま都市に残ったり、途中の村々に住み着くようになったのだと。
その浮浪者達が、当時の朝廷には厄介となり、陸奥の伊治村に、捕らえられた浮浪者2500人を送ったという記録が残っている。しかし保守的な村では、余所者は禍をもたらす存在として扱われた。その浮浪者達は、生きる為に水辺の近辺に住み付いたのも、また河童の原像だとも云われる。陸奥の伊治村は、現在の宮城県にあり、奈良時代は朝廷と蝦夷の丁度中間点だった。その伊治村の近隣には、806年に坂上田村麻呂の勧請したという、河童を祀ってある磯良神社がある。
ところで、話を傀儡師に戻す。傀儡子は、定まった所も家も無い流浪の民である。
「傀儡子記」
「男はみな弓矢を使い、猟銃をもって仕事とし、或いは両刃の剣を7・ 9本同時に弄ぶ。また、桃の木で作った人形を舞わせ、相撲をとらせ るが、まるで生きた人を動かすようである。殆ど魚が竜になったり、 竜蛇や熊、虎になったりする変幻の戯術である。更に、砂や石を金銭 に変え、草や木を鳥獣に化し、よく人の目を誑かす幻術も行う。」
「女は愁い顔で泣く真似をし、腰を振って歩き、虫歯が痛いような 笑いを装い、歌をうたい、淫らな音楽をもって、妖媚を求める。 父母や夫や聟は、彼女らがしばしば行きずりの旅人と、一夜の契 りを結んでも、それを構わない。身を売って富んでいるので、金 繍の服・錦の衣・金の簪・鈿の箱を持っているから、これらのものを贈られても、異にせず収める。」
傀儡子ではあるが、女は傀儡女とも呼ばれ、どちらかというと遊女という扱いを受けているが、遊女と傀儡女の違いは歌にあるようだ。遊女の条件は美声で美女であるのだが、傀儡女の場合は、歌が上手で美声である事のようだ。「更級日記」では傀儡女の歌を称して…。
「声すべる似るものなく、空に澄み昇りて、めでたく歌をうたふ。」
また…。
「声さへ似るものなく歌ひて、さばかり怖ろしげなる山中に立ちゆくを、人々あかず思ひて皆泣くを、幼きここちには、まして此のやどりを立たむ事さへ飽かずおぼゆ。」とある。
この「更級日記」の記述から読み取ればつまり、本来の傀儡女とは、歌女なのだろう。それも、西洋の船人を惑わすセイレーン、もしくはローレライのような歌の力を持った存在に等しかったのかと想像する。
熊野は、朝廷からの支援を受けられぬ時、財政難に陥ったのだという。その時の熊野を支えたのは、歩き巫女であったという。熊野の信仰を広めると共に、お札を含めて売り歩き、信仰の普及と財政難の一挙両得としたと。この歩き巫女が、遠野にも赴いてオシラサマなどの信仰を伝えたともいう。
巫女には、神社に属していた定住の巫女と、歩き巫女という漂白の巫女がいた。その歩き巫女の代表格は、熊野三山の巫女であったのは有名な話だ。ただ遊女と同じく、歩き巫女もまた体を売ったと伝えられる。しかし、日常の夫婦間の性行為と違って、不特定の人との性行為は、非日常の「ハレ」だという概念があるようだ。つまり、歩き巫女との性行為とは「神婚」であり「聖婚」であったのだと。
笑い話に、女性の女陰に向って手を合わせ「菩薩様」と拝むのと、同じ感覚である。実際、浄土宗の親鸞は、夢の中で救世観音(救世菩薩)の化身と交わる内容を許す夢を見たとされる。つまりこの「聖婚」「神婚」の具現化は、神に仕える巫女との交わりであったのだと思われる。
確かに「性」は「生」であり「聖」なるものであり「せい」という音には、全てが含まれているのだろう。その現世ご利益である「聖婚」を体験できる巫女との交わりは、男どもが殺到したものと推測される。  

傀儡の発生は、人間の人型・雛形であり、それは人間の罪や穢れを移して、川や海に流したり、焼かれた呪物だった。穢れの憑いたものだったから、人々はそれを恐れ、故にそれを祀り、信仰の対象ともしてきた歴史がある。
人形を回すとは、人間に憑いた穢れを人形に祓い取って貰うもので、昔は常に人形とか形代を使用する民俗が全国各地に存在した。そしてこうした穢れ祓いの仕事というものは、もっぱら、大和朝廷に服従した部族の仕事でもあった。なので安曇族の傀儡舞もまた、大和朝廷に服属した証では無かったのか?
伊勢神宮の境外摂社には、久具都比命神社があり、大和朝廷にとっても傀儡というものが必要だというのが理解できる。「皇太神宮儀式帳」には、この久具都比命を別に、大水上神ノ御子というのだと。つまり傀儡の本来は、水神でもあった可能性がある。
「くぐ」といえば菊理姫の語源は、水を潜るの「くぐ」から来ていると折口信夫は説いた。
玉藻刈る海処女ども見にゆかむ船舵もがも浪高くとも
「万葉集」にみられるこの歌から、海女は海に潜って藻を刈り取り、神に供える神事があったのだろう。その藻を入れる器もまた”くぐつ”と呼ばれた。つまり海女はまた、神との繋がりを持つ存在で、巫女に近かったのだと思う。いつしか”くぐつ”を操る存在が、人間の神との間に立ち、人間の穢れを取る存在に変わって、蔑まれたのかもしれない。
葬式という概念が無かった時代、人の死とは黒不浄であり、穢れの元だった。それ故に、誰も死体に触れるものは居なかった。それは、自らが汚れるのを恐れたせいでもあった。その為なのだろう。朝廷にとっても、その穢れを取る存在である傀儡(くぐつ)を必要とし、崇め、伊勢新宮の境外に祀ったのだろう。
つまり、これから考えると、傀儡子とは水神系を操る存在であり、傀儡人形とは、陰陽師における式神と同じたであったのだと思う。その為しばしば、傀儡子の呪力を受けた傀儡人形は一人歩きして、女と交わったりする物語が伝えらている。
遠野だけでは無いだろうが「水は三尺流れると清いもの」という意識がある。上流で、牛や馬が小便を流そうとも、三尺の間があれば、問題なく飲み水として飲めるのが、流れのある川である。ところが、河童と呼ばれる存在の生息する川とは”淵”と呼ばれる場所である。淵とは淀みであり、水の流れが止まり、穢れが溜まる場所でもある。
遠野の常堅寺の裏手には、観光名所で有名な河童淵と呼ばれる場所がある。以前は、飢饉で間引きされて川に流された赤ん坊などが溜まった場所でもあったという。それを昔の住職は、ねんごろに供養し祀ったと伝えられている。それは流され、淵という淀みに流れ着いた赤ん坊でさえも、穢れが生じていた為だ。その穢れが生じる淵に棲む河童とは、やはり穢れの象徴なのかもしれない。ここで考えると、人間の穢れを移した存在の傀儡人形と、河童との奇妙な接点が見受けられる。
ところで遠野の早池峰神社に祀られている瀬織津姫という女神がいる。瀬織津姫は、宗像などの海人族が信仰する女神であったのは確実だろう。しかし、全ては大和朝廷に服属してしまった為に、悲劇が訪れた。先に述べた安曇族もまた大和朝廷に服属し、穢れ祓いとしての傀儡に従事されられたというのは、瀬織津姫に対応するのだと考える。
「古事記」において、瀬織津姫という名は出てこない。ただしイザナギが黄泉の国から還り、中津瀬で禊ぎをした時に誕生したのが、瀬織津姫の別名八十禍津日神であった。つまり、海人族が大和朝廷に服属した為、安曇族なども含め、その信仰する女神もまた海人族らと共に貶められた姿が、八十禍津日神という傀儡と同じ穢れ祓いに従事する女神に降格されて、瀬織津姫という名前も伏せられたのだろう。
賤民に落ちたものが河童となった説には当然、全国に広がる伝説の一つに落ち武者というのがある。要は、戦に敗退し、追われる者達になった存在だ。この落ち武者のイメージの一般的に広がるものは、髷は落ち、ザンバラとなった姿は、やはり河童の姿のイメージに近い。
確かに遠野でも、落ち武者伝説。もしくは、逃げ延びた平家一門の隠れ里伝説が存在し、やはりそこには河童伝説も付随している。これは遠野だけではなく、全国に広がっているものでもある。要は、落ちて蔑まされた者達が河童となった。しかし、この河童なきにして人々の生活も、また成り立たなかったのも事実。死体処理に、河川工事に…所謂国作りに貢献したのが、まさしく河童?
ここで一つ、気になる神がいる。それはスクナビコナ。実は、このスクナビコナに対応する神が、一人。それは、ヒルコではないか?と考えている。ヒルコは、イザナミとイザナギから生まれた子ではあったが、足が立たず海に流された存在の神。ある意味、棄てられ蔑まされた、存在の神。 このイザナギとイザナミは兄弟である近親婚による穢れの罪によって生まれたのがヒルコであり、海に流されてしまった。
ところがスクナビコナは、海から渡ってきてオオクニヌシと国づくりをする立派な神?四股を踏んだ話もあり、ヒルコと逆に足が強い存在という対比がある神。赤ん坊は、生まれてすぐには立てない存在というのは、誰でも知っている事。つまりヒルコが生まれてすぐに立てなかったのは、当然の話であった。
「鬼子」という存在が居る。昔は、生まれて1年経過して後、すぐに歩く子は鬼子と呼ばれて忌み嫌われた。その鬼子を見分ける方法は、生後一年経った時に1升餅を背負わせて、歩くかどうか調べる事。もしも人間の子であったならば、歩ける筈は無いと信じられていた。
神話の中で生まれた神々の大抵は、生まれて直ぐに自らの足で歩いている。しかしヒルコは歩けなかったというのは、ヒルコそのものが限りなく人間に近い存在であったという事。つまり言い換えれば、人間も生まれてすぐに歩けない存在であるから、人間そのものもヒルコと同じ、穢れた存在であったという事になるのだろう。それはつまり、神々にはなれない存在でもあるという意味であったのかもしれない。
ところで、ある沿岸地域では、ヒメオコゼを「イザナギ」と呼ぶのは、イザナギが海の神の証である事。実際、イザナギの「ナギ」は、海の凪。イザナミの「ナミ」は、やはり海の波。イザナギもイザナミは、海の神。そのイザナギとイザナミの子供であるヒルコが棄てられ、海に流されたのは意味深である。これはもしかして、海人族を切り捨てた話にも繋がるのかもしれない。
「古事記」において、イザナミとイザナギには、何故か海の意識が薄らいでいる。とにかく海へ流され棄てられ、蔑まされた存在のヒルコは、ある意味賤民と同じであった。その賤民に落ちてしまったヒルコが成長して、足が立つようになり、スクナビコナとして、この世に戻り、オオクニヌシと一緒に国作りをしたのかと考えてしまう。そしてその後、スクナビコナは、何故か再び海に戻ってしまう。これを用無しになって棄てられた存在…もしくは殺された存在として解釈するならば、スクナビコナもまた、賤民が零落して河童と同じ存在であると考えてしまう。スクナビコナは一寸法師のモデルとも云われ、とにかく普通の人間より小さな存在だ。河童の大きさは、せいぜい3尺であると云われるのは、スクナビコナに近いイメージがある…。
遠野の六角牛山には以前、神社が存在していなかった。その後に祀られたのは、住吉三神であり、海の神を祀っていた。その六角牛山の伝説にミソサザイという鳥が登場し、それをスクナビコナの化身として扱い、スクナビコナをまた六角牛山に祀ったのだと。
現在の六角牛山の麓には六神石神社があり、様々な神が祀られているのだが、その中に白蛇を祀る石碑があり、それがどうもスクナビコナであったようだ。スクナビコナは、海蛇だという説もあるので、確かに蛇なのだろう。しかしヒルコもまた、蛇であった。足の立たない存在の暗喩は蛇であり、ヒルコは蛭子(恵比寿)でもある。
ご存知、恵比寿の被っている帽子は烏帽子であり、吉野裕子はその烏帽子を蛇の象徴であると紐解いた。だから映画「もののけ姫」に登場するタタラの女首領はエボシ様で、最後に狼に片腕を食いちぎられたのは、クシナダヒメの両親であるアシナヅチ・テナヅチが、オオヤマツミの子であり、実は蛇である存在に対応する。とにかく「ヒルコ」と「スクナビコナ」を同一神と考えれば、棄てられ蔑まされた存在が、賤民であり河童とされた存在と重なると思ってしまう。
また河童が腕を斬られ、これを取り返す為に詫び証文を書いた物語と別に、秘伝の薬を渡した話もあるのは、なんとなくだが、スクナビコナが医療と禁厭の法の制定者でもあるのは、河童とスクナビコナがまた繋がるのでは?と思ってしまう。  

遠野には、オシラサマという民間の神様がいる。このオシラサマは、毎年衣を上から被せていくので、着せ替えではなく着重ねとなる。
黄泉の国から帰還したイザナギが投げ棄てた御衣から生まれたのが和豆良比能宇斯能神(ワズラヒノウシノ)だった。つまり人間の体もそうなのだが、衣服もまた穢れが付きやすいものだと考えてもいいのだろう。つまりオシラサマとは、傀儡人形と同じ穢れを吸い取る呪具であり人形だと思って良いのだと思う。リカちゃん人形など、子供達が遊ぶ人形ならば、着せ替えをして遊ぶものなのだが、古い衣服にそのまま重ねていくというのは、その古い衣服には既に穢れが付いているからなのだと考える。
罪とは”着るもの”である。罪と穢れの古代の概念から考えると、罪を重ねるとは、つまり”罪の重ね着”に他ならないのだろう。よってオシラサマの衣服は、罪や穢れで汚れているものだと考える。
ただし、雛人形とオシラサマの違いは、オシラアソベという所謂動かす事による傀儡舞に近いものがある。
「蚕祭文」を読むと、白山信仰と仏教の須弥山信仰の融合があり神仏習合となっている。また白水をイズミと訳している事や、龍馬がその眷属となるという事から、オシラサマで有名な白馬と娘の結び付きを感じる。水辺にいる馬と龍が結び付いて龍馬となるのは、古来中国から伝わっている。その媒介となるのが聖なる水だ。それが白水であり、白山信仰の根源では無いのか。
水神としても現される龍は、天候を司る。五穀豊穣の祈願において、水神信仰が盛んとなるのは当然の成り行き。山伏系は山の頂に立ち千駄木を焚く。それが雨乞いの儀礼となるのだが、山はいつしか修験者であり男である山伏の場所となり、女人禁制の山に立ち入れない女はいつしか家に篭り、オシラサマ媒介として天と交信する。それがオシラアソベであり、古来傀儡使いとしての歩き巫女の名残が伝わり、交信としての手段となったのだと考える。
つまりお告げを受けるものであるから、千里眼という感覚に等しいものであるので、これは巫女にとっての一つの眼。だからいつしかオシラサマは眼の神とも信仰されたのかもしれない。また自分自身のの生活の吉凶を占うものでもあった為、狩猟に従事する者にとっては狩猟の神と信仰されたのだろう。
また水神と結び付くものであるから、オシラサマに使われる木は桑の木であり、天神のもう一つの神威を現す雷除けにも通じ「クワバラクワバラ…。」という呪文が現すように、桑の木で出来ているオシラサマは魔除けとしての効果も信じられたのかもしれない。
信仰とは人の観念に通じるものであるから、一つの信仰から人々の想いを通し、信じるという通念が様々な形で広まるもの。オシラサマの様々な信仰は、人の想いの反映を示しているものと思う。だからオシラサマは養蚕の神であり、眼の神であり、女の病を祈る神であり、子供の神であり、狩の神、祟り神ともなっているのだろう。 しかしそのオシラサマの本義は、あらゆるものの穢れを吸い取る存在であったのだろう。
「オシラサマ」として伝わる話には、娘と馬の恋物語?があるが、これは異類婚であり、獣婚である。つまり、罪と穢れの話となる。また怒った父親は、その娘が恋した馬を殺し、その皮を剥ぎ取る。これもまた賤民と同じ、穢れた仕業となる。
つまり「オシラサマ」の物語には、罪と穢れが付き纏う話となっている。しかし、この物語に登場する馬は白馬となる。馬の最高位は龍であり、つまり馬とは現世に現れた龍の具現化でもある。よって白馬の本義は白龍なのだろう。だからこそ、死して尚、娘を乗せて空へと舞っていった。
これは穢れのところで述べた、穢れの神の神業を望む人々の想いが、伝わる物語なのだろう。だから、白馬は殺された。 しかし神は、殺されても尚甦る。白馬=白龍という神に対する残虐なまでの行為が、罪と穢れを祓う方法であったのだろう。
太陽は東から毎日生まれて、西に死ぬ。太陽は神でもあるから、死んでも必ず甦ると信じてきた人々は、その神の神業にすがったのが、オシラサマであり傀儡人形であり、雛祭りのなどの雛人形なのだろう。そして、遠野に伝わるオシラサマの話には、ご利益が無いと言って川に棄てて流したら、流れに逆らって戻ってきた話がある。また、やはりご利益が無いからと、棄てたらいつの間にか、家に戻っていたという話も伝わる。
つまりこれらの話から、先に述べた安倍清明の話と同じように、オシラサマとは一人歩きする存在でもあるという事だ。穢れを纏った存在であるから、女を犯したり、悪事を働いたりもする。それゆえ祟り神とも呼ばれたオシラサマの所以なのだろう。
河童もしばしば、悪事?悪戯を働く。穢れを纏った存在が、川に棄てられれば河童となって悪戯をする。これはオシラサマも傀儡人形もまた同じなのである。
先ほど、馬は龍であると説いたが、龍は水神でもある。しかし河童もまた水神として祀られている。その水神である河童が、同じ同族である水神である馬を川に引き込もうとするが、逆に馬に川から引きずり出されてしまうという「河童駒引」というのがあるが、これは結局、同じ水神であっても、龍とは格が違うのだよという、河童の生い立ちに含まれる悲しさを現した話なのかもしれない。
柳田國男曰く「妖怪とは神の零落した姿」と述べているが、河童とは「神に昇華できない存在」なのだと「河童駒引」の話は伝えているのだろう。  

福岡県に若宮神社というものがあるという。若宮神社は、俗に「有富のカッパさん」とも言われているらしく、若宮神社のある有冨地区は昔から開けた土地で、今から二千年も前に海人族が渡来し、原住民と交流同化して、新しい渡来文化、技術を教えながら、部族の勢力を拡大してきた土地であったそうな。
この宮には干珠、満珠の玉を棒持した女神を囲んで19体の河童像が安置されているらしく、普段は一般公開されていないとの事。そして、写真撮影も禁止されていると。ただ、例祭時には公開されるよう。九州在住の方は、直接その河童像を見たらしく、その河童像は腰に布を巻き、各自が色々な品を持ち、各像とも変った表情をした珍しい神像群であったという。
女神とは、安曇族の祖である綿津見神の娘、豊玉姫と玉依姫で、河童像が一門の部族男子を表現したものだと、されているそうな。写真の像は社殿の梁を支える寄神の彫刻で、力神とも河童とも言われるそう。つまりここでの河童とは、安曇族の信仰する女神の元に集まった者達。、もしくは、それを守る者達の事を河童とも言い表したのだと思う。これから察すれば、この信仰と概念が普及した地域には、やはり似たような河童というものが伝わった可能性があるだと考える。
初めに紹介した、傀儡と安曇族。そして河童と安曇族。川には河童というものが棲むと信じられる以前、その河童の概念を運んだ存在は、安曇族とも考えてしまう。そして更に、この若宮神社には瀬織津姫が、かって祀られていたそうである。海人族に信仰されていた瀬織津姫の普及に伴い、水神である瀬織津姫の元、同時に河童が普及されたとしても、何等おかしくはない。
河童という名称か後付だとしても、瀬織津姫の普及に合わせて、河童の根本概念が伝わった可能性はあるかもしれない。
平家が祀っていた有名な神社に、厳島神社というのがある。その厳島神社の平家納経の金銅製経箱には、銀製の雲を吐き出す金製の龍の姿が刻まれているのだが、その龍は牝龍である。その形象は、厳島神社のオナリ信仰である緞子の厳島切れに、海の青を示す藍色に黄色の蛟竜紋として示されている。龍には、牡牝の性別があり、牝龍はミヅチで現されるのは、牝龍が水神の証でもあるからだ。
以前「荒ぶる女神」で展開した、各風土記などで伝わっている伝説の「荒ぶる女神」の根源は、宗像三女神であると確信した。その「荒ぶる女神」は、男神が去ってしまった為に、怒りを人間に向け、関係無い人々が死んでしまう話となる。つまり、荒ぶる神の大抵は女であり、女神となる。そしてその女神の大抵は、山に鎮座し水神としても扱われるのは、その正体が龍であり、それも水を自在に操るミヅチという牝龍となる。
そのミヅチを示す紋が厳島神社にあるというのは、厳島で祀られ畏怖される存在であるのが、荒ぶる女神であるという証にもなるだろう。
宗像三女神=出雲大神=早池峰大神=瀬織津姫という図式から考えれば、当然厳島神社にも瀬織津姫が祀られていた事になるのかと考える。つまり、瀬織津姫に付随する河童と云われる正体もまた、安曇族などの海人族が信仰してきた瀬織津姫の元に集う者達であり、それが平家の施行した禿髪制度の根源でもあった可能性はある。何故なら、人を密告し貶めるというものは、国津罪であり、穢れの行為であるから、その穢れをまた纏う者達とは、傀儡人形と同じと考えるからだ。 

菊池照雄著「山深き遠野の里の物語せよ」に岩手県の花巻市で伝わる「傀儡坂物語」が紹介されている。これを簡単に紹介してみよう…。
大昔、亀ヶ森の蓮花田村の長が、川に登ってくる鮭が思いのほか大漁で、その鮭を運ぶ人手が足りなくて困っていた。その時、一人の傀儡女が長い旅を続けたのかボロボロの格好をして足取りも重く、村長の方に歩いてきたのだと。その道は、早池峰に続く道であったが、村長はこの鮭を運ぶのを手伝わないと、この道は通さないと言った。
そして無理やり、その傀儡女に鮭を背負わせ、何度も手荒く運ばせたところ、無理がたたり傀儡女は倒れてしまったという。
「罪の無い私を、こんな目にあわせたからには山河の形が変わり、 この川の流れが別の場所に変わるまで、この川上には決して鮭を登らせないから。」
と言い残し、傀儡女は息絶えたのだと。それからこの川には鮭が登る事無く、そして傀儡女が倒れた場所を傀儡坂と呼ぶようになった。
現在は、傀儡坂とは呼ばずに、葛坂となっている。また村長のいる亀ヶ森蓮花田村というのは、やはり三女神が宿った場所が亀ヶ森で、蓮花田というのは三山に分かれる占いをした蓮池のある地の事をいう。この「傀儡坂物語」を菊池照雄は、こう解説している…。
「たぶん、早池峰山麓は、早池峰大権現の聖域の境界までが、彼女らの支配の及ぶ地で、この傀儡坂が両者の境であったと思われる。傀儡坂の悲劇は、この早池峰大権現との誓約を破り、この境の坂を通り抜けたためにおきたのだろう。」
この菊池照雄の考えは、間違っていると断言できる。傀儡女が誓約を破って息絶えたという話よりも、何故に鮭が遡上してこなくなったのかという方向を見据えて考えなければならなかったのだろう。
現代では、あちこちにダムが建設されて、鮭は遡上してこなくなったのだが、昔は鮭が遡上し、山間部の貴重な蛋白源となっていた。それでは何故、鮭は遡上してこなくなったのだろう?これは単純に言い換えれば、傀儡女の祟りとなる。しかし、単なる祟りではなく、早池峰の神が絡んでいる祟りと考えなければなかった。
傀儡女が東北にまで足を伸ばし、またオシラサマの起源に関わっているものと一般的には認識されている。また傀儡女は河原に住む事が多かったと云われるが、これは水辺での祭祀を行っていたと、やはり認識されているが、その祭祀は果たしてどういうものだったのか?までは謎となっている。
ただ「傀儡坂物語」で言えるのは、傀儡女は早池峰を目指して来たという事だろう。菊池照雄は傀儡女が境界侵犯をしたものだと考えていたのだが、実は体をボロボロまでにして早池峰を目指した傀儡女には、早池峰に対しての想いからの旅であったと推察される。
そこには確かに、傀儡女と早池峰の神との誓約があったのだろう。ただそれは、菊池照雄の言うところの誓約ではなく、早池峰の神と取り交わした傀儡女との純粋な誓約であったものと考える。何故なら、早池峰の神とは水神である瀬織津姫だからだ。
川辺て寝泊りしながら祭祀を行ってきた傀儡女とは、早池峰の神である瀬織津姫との誓約を守り、水辺での祭祀を繰り返しながら、旅をしてきたものだと考える。それは先に記した、傀儡女の発生が海人族である安曇からのものであるからだろう。その想いがあるからこそ、体がボロボロになってまで早池峰の麓まで旅をしてきたのだろう。
だから、早池峰の神である瀬織津姫と祭祀を通して繋がっていた傀儡女を村長が殺した為に、早池峰の神が怒って、鮭を遡上させなくなってしまったと考える方が、普通であると思う。菊池照雄の考察は、傀儡女の発生と瀬織津姫との繋がりを理解していなかった為からの考察となっている。
鮭を祀る神社で一番古いのが、福岡県の鮭神社となる。祭神は、彦火々出見尊鸕鷀草葺不合尊 豊玉姫尊。
古文書によれば、祭礼の日に社殿まで鮭が遡上してくるのだが、これは豊玉姫尊が御子である鸕鷀草葺不合尊の元へ遣わされるものであり、これを途中で殺すと”災い” があるとされる。ある時代、鮭はエビス信仰とも結び付いたのだが、鮭を含む魚類全般は”鱗族”として龍蛇神とも重ねられたようだ。
また、この福岡の鮭神社では、この地域で牛の病気が流行った時に、万年願として傀儡人形が奉納されたという。そこには穢祓の意識が働いてのものだったらしい。これを「傀儡坂物語」に当て嵌めて考えてみると、海神との繋がりを持つ傀儡女と、早池峰山へと遡上する鮭を途中で殺した為に、海神の怒りに触れて鮭は遡上しなくなった。つまりここでいう傀儡女とは鮭の掛詞でもあり、共通するのは、海神の使いという事であり、早池峰大神である瀬織津姫は海神との繋がりが深いのであるという裏付けにもなる。 

人形が河童になった話は、「河童と傀儡と瀬織津比(其の一)」で簡単に書いたが、その流れを続けよう。菊池氏の流れに、橘氏を祖とする渋江氏がいる。その渋江氏は、河童を使役する水霊祭祀の家柄で、菊池郡にある多くの神社の宮司も務める家柄である。そして肥前国杵島郡橘村(現在は佐賀県)に鎮座する、潮見神社社家の一族になる。この潮見神社の笠懸(流鏑馬)に、菊池第五代城主菊池経直が参加し落馬して死亡しているが、わざわざこの潮見神社に来ている事から、菊池氏と渋江氏との関係と信仰の深さを結び付けるものだろう。
「北肥戦志」には、渋江氏の祖である橘氏に関する河童譚が、潮見神社の縁起譚として紹介されている。聖武天皇の頃、橘諸兄が政道を補佐してからの後、孫に当たる兵部大輔島田丸が朝廷に仕えた神護景雲の頃、春日社を常陸国鹿島から奈良の三笠山へ遷宮する時に、この島田丸が匠工奉行を勤めたという。その時、内匠頭の菅原氏が九十九体(百体とも)の人形を作り、匠道の秘密をもって加持祈祷したところ童と化したのだと。その童達の力を借りて、遷宮という大事業が早く成就したのだという。さてその後に、その人形を川に捨てたところ、人や馬などを害するようになり、世の禍根となったそうな。それを知った称徳天皇が、兵部島田丸に対して、化人(河童)の災禍を鎮めよとの詔を下し、島田丸が早速その趣旨を河中水辺に触れ廻った以降、災禍が無くなったと云われる。それより河童を兵主部(ひょうすべ)と名付け、橘氏の眷属となったという事である。つまり以前に紹介した人形が河童になった話で一番古いものが、潮見神社の縁起譚でもある河童譚である。
画像は以前に紹介した、若宮神社の社殿の梁を支える河童の彫刻である。春日大社の建築に携わった河童であるが、他の河童譚でも、城の造営や館の建造などにも携わっている事から、建築と河童が結び付いている。また、加藤清正の河童成敗の話もまた、清正の土木事業に携わった河童だと云われ、利根川の土木事業にも河童が携わっている。そこでフト思うのだが、例えば河川工事や橋の建築には、人柱があったとされるのは、水神に対する贄でもあった。それとは別に、家屋の建築においても大黒柱に人形を置いたりして、家屋の守護とする民俗が多々ある。民俗的に家屋や船の神霊は女性とも云われるのは、その神霊が女神であり、その眷属によって護るという意味があるのではなかろうか。つまり、若宮神社の場合は、女神とその社を支え護る為に、眷属である河童の彫刻を彫ったものと考えれば納得する。
遠野に伝えられる話に、川から河童が這い出して来て家に上り、座敷ワラシとなると伝えられる。座敷ワラシは家の守護でもあるのだが、その前身は河童だと云われるものを考慮すれば、若宮神社の梁を支える河童の彫り物は、その民俗を具現化したものとも考えられるのだ。ここで再度問われるのは、誰が遠野に河童伝承を運んで来たかという事になる。 

川の童で、河童。座敷の童で、座敷ワラシ。この物の怪の様な"童達"は、微妙にイメージを変えてあらゆるところに出没する。例えば「遠野物語拾遺63」では、華厳院に火事が起こった時、二人の童子が火消ししていたのは、二寸ばかりの小さな大日如来と不動明王像であったのかもしれないとされている。それかもしかして、不動明王の眷属である、矜羯羅童子と制多迦童子であったか、とも。
「聖徳太子伝記」に、ある晩の事、歌の上手い土師連八島の元にある童子が来て歌を競い合ったが、その声が普通の人の声とは違うので不思議に思ったが、その童子は空が開ける頃に、海に入って行った話を聞いて、聖徳太子はこう答えた。
「是は螢惑星と申す星なり。人間に軍兵・飢渇・不熟等の災難あらんと欲するの時は、彼星童子に形を現し、人間の者に相交りて、未来善悪の事を歌に作りて披露す。天に口無し、人の囀を以て事とす。」
この時代、神は童子の姿で世に化現し、童子に交じって遊ぶ中で、その意志を伝えるとされていたようだ。例えば座敷ワラシはよく、子供達の中に交じって遊ぶとされるのは、子供故と思われていたが、柳田國男曰く「神が零落し妖怪となった。」という説に則れば、まさしく子供達の中にこそ、神は交じって遊ぶのであり、それは地蔵や仏像が子供達と遊ぶのが好きという話に近似する。つまり、子供達に交じって遊ぶ神仏は、人間に対して意志を伝える前ふりでもあるという事。それを止めさせる事は、罪でもあるからこそ、それを止めさせた大人が祟りを受けたのだろう。例えで言えば、天皇様の詔を無視した罪という事になるのだろうか。
とにかく遠野には、川には川の童がいる。そしてそれが家に入れば、家の童となるとされ、もしかしてそれは本来、神であったものとして伝わったものが、物の怪に零落したのだろうか。しかし座敷ワラシは物の怪でありながら、神としての存在を示している。そして河童もまた、悪戯のお詫びとして薬などの秘伝を人間に授ける神に近い存在になっている。
また遠野には、人形に魂が吹き込まれ神になったオシラサマというものがある。ただオシラサマは、初めから神として作られた人形であるから、人形から物の怪に変化した河童とは違う立場にあるが、人形が神に昇格できる要素を示す事は出来るのだろう。「河童と傀儡と瀬織津比(其の六)」に書き記したように、人形を大黒柱など家屋のいづれかに組み込む事で、家屋を支える神にもなれるのである。つまり当初は人形であった河童が家屋に入って、家の支えとなる事によって、神、もしくは神の眷属となれる。それは結局、座敷ワラシになったという事になるのだろうか。
若宮神社の例を確認すると、あくまでも河童は女神の眷属として存在し、その女神を祀る社の梁を護る存在にもなっている。若宮神社と同じ福岡県に瀬成神社という、やはり瀬織津比唐祀り、河童を眷属とする神社がある。水神系に属する河童は、やはり水神の女神に仕えるのが通常なのだろう。「遠野物語拾遺33」は、まるで「肥前国風土記」に記される與止日女に関する話に近い。「肥前国風土記」の記述には「此の川上に石神あり、名を世田姫といふ。海の神鰐魚を謂ふ年常に、流れに逆ひて潜り上り、此の神の所に到るに、海の底の小魚多に相従ふ。」とある。とにかく水性の生物は、水神の女神に従うようである。
ところでこの肥前国一宮である川上神社(與止日女神社)に祀られる與止日女は、肥後国の日下部吉見氏が奉祭する母神"蒲池比"と習合していた。そして筑前糸島の桜井神社(與止日女宮)」で川上の與止日女は、瀬織津比唐ニ同神とされている。ここで早池峯の女神である瀬織津比唐ェ、九州における水神の大元である可能性が出て来た。そして福岡の河童の総本山というべき神社に、久留米の水天宮がある。そこには前回紹介した、渋江氏が関係しているのだが、その水天宮を紹介してみようと思う。 

水天宮の本社を紹介する前に、遠野の土淵を紹介しようと思う。何故に土渕かというと、現在遠野に住んでいる方々は実感できるかどうかわからないが、朝廷の都が藤原京だの平城京、そして平安京と遷都し続けた歴史があるように、遠野もまた遷都されてきた歴史がある。現在の遠野の街は、17世紀末以前までは、誰も住んでいなかった。現在の遠野は城下町であり宿場町であったと知られるのは、鍋倉山に横田城があったからだ。だがそれ以前は、高清水山の麓、光興寺に横田城があったのが、鍋倉山に遷都されたからだった。その間に為政者も、阿曽沼から南部氏に移り変わっている。阿曽沼氏は、奥州藤原氏が源頼朝により滅ぼされた後、その恩賞として遠野郷を授かったからだった。ただし細かな支配領地は、未だ定かでは無いが、光興寺に横田城を築いた事から、遠野の中心地は光興寺を含む松崎町であったのが事実である。そして、更なる以前はというと、それは恐らく土淵を拠点として北に続く松崎、附馬牛のラインであったろう。それは、早池峯への道筋でもあった。
「土渕教育百年の流れ」によれば「土渕の地名は、大字土渕小字土渕を通称土渕といって、土淵はここから出たという。ここには淵があって、常にその水が濁っており、その渕の底を見る事が出来なかったそうだが、アイヌ語で「河の穴」という意である。」と記されている。これを裏付ける様に「まつざき歴史がたり」には、猿ヶ石川に関する昔話が紹介されている。その話は、早池峯の麓にある又一の滝から始まる。
猿ヶ石川の始まりは、猿石からだとも云われるが、その猿石は又一の滝がある沢から発生しているのか、もっと西寄りの沢からだという説があるようだが、物語は又一の滝から発生している。その猿石が砕けて八つの石に別れ、その一つ一つが様々な淵に収まる様子が語られている物語である。一つ目の石は、地蔵岩が(次郎岩とも)あるという地蔵沢から始まっている。その地蔵沢は、遠野三山の三女神が最後の晩を過ごしたとも云われる沢だと伝えられる。土淵へ入ったのは五つ目の沢で、こう記されている。
「五つ目の石は、流れて来て広い場所を見付けて、俺はここに入りたいと言ったと。すると恩徳の不動様が何故だと訊いたら、俺はここの広い村にいて、この村を繁栄させたいと言ったので、お不動様がよしよしと言って許した。それまで、お不動様がこの村を見守っていた…。」
恐らくこの話は、修験の歩いた道筋を物語として語ったのではなかろうか。聖武天皇時代に、奥州で金が発見され、今まで輸入に頼っていた金を探しに、多くの修験者が奥州へ来たと云う。登山という文かが日本に入ったのは明治になってからだった。それ以前は、山とは遠くから眺め拝むものであった。ほぼ未踏の地であった山を修験者が登るには、砂金探しも含め沢を溯上するのが理にかなっていたようである。
画像は、小烏瀬の滝と呼ばれるものだが、この水源は荒川高原に聳える一ッ石山の麓を源流とする沢の名前を"不動沢"という。不動という名称には、不動の滝や不動岩などがあるが、大抵は修験者が山を開拓した道筋に名付けられる場合が殆どである。つまり、この小烏瀬の滝から上流へ、修験者が歩き進んだ道であり、この小烏瀬川の滝が始点でもあり終点てせもあるのだろう。だからこそ、不動明王を祀る社が建てられている。
そして、その不動堂の背後に、小さな社が三つ並んでいる。一つは、稲荷社。一つは、薬師大神を祀る社。そしてもう一つが、水天宮である。気付かれる方もいるとは思うが、不動明王と薬師如来が並ぶ姿とは、早池峯山と薬師岳を思い浮かべるだろう。ここでの注意点は、薬師如来ではなく、薬師大神となっている事だ。神仏混合となり、本地垂迹という概念が発達し、神は仏の同体とされたが、実際は仏の下の階級に零落した。しかし、ここでの薬師大神という名前は、まさに神と仏が同体であるかのよう。早池峯の麓、荒川から流れ落ちる不動沢とは、そのまま早池峯山麓の息吹を伝えるかのよう。恐らく、それを意図して、この小烏瀬の滝に祀ったのだろうと思う。そしてこの不動堂に古い時代、女人が住みついたとも伝えられる。それはもしかして、大迫の傀儡坂と同じ様に傀儡女であったのだろうか。傀儡女は水辺に住むと云い、その傀儡女に夢中になった男の話もある事から、身体をも売っていた傀儡女の可能性は高いであろうか。 

遠野で水天宮を祀る場所は、殆ど見かけない。もしかして、この小烏瀬川の滝だけに祀られているのかもしれない。この水天宮の総本社は、福岡県久留米市の水天宮となるが、そこに河童伝承が伝わる。石田純一郎「河童の世界」では簡単に、この水天宮の河童伝承を紹介しているが、それを更に略して紹介する事にしよう。
昔、河童は唐天竺の黄河の上流に大族をなしていたが、その中の一族が郎党を引き連れて黄河を下り、海を渡って九州一の大河である球磨川に棲み付いたと云う。九千坊という河童の族長は乱暴者で、田畑を荒らし、女子供をかどわかしたりするので、加藤清正が怒って、九州の猿を集めて河童を攻め立てた。河童にとっての猿とは、大変仲が悪く、手強い敵であった為、降参して肥後を立ち去る約束をして詫びを入れ、土地の者には害をしないと誓約したそうな。その後、筑後は久留米の有馬公の許しを得て、河童達は筑後川に棲み付く様になり、水天宮の使いになったそうな。河童は、お宮の堀にも住んでいて、神主が手を叩くと水底から浮き上がって来るのだと伝わる。
どうやら九州の河童は、中国の黄河から来たようだ。しかし日本の秩序を乱すので懲らしめられ、権力者に服従する事になったという事であろうか。その中でも橘氏の流れを汲む、菊池氏と繋がりの深い渋江氏の眷属となっているのは事実というより、信仰の繋がりを感じる。
ところで河童は、よく相撲を取りたがる。河童に相撲で負けた人間は、尻子玉を抜かれたなどと云う話があるが、負ければ諂うのが河童だ。黄河から来たという事で面白いと思ったのは、一般的に知れ渡る中国人との接し方だ。中国人に対して弱気に接すれば、どこまでもつけ上がるが、強気に接すると大人しくなるというもの。まあこれは中国人に限った事では無いだろうが、相手を平伏せる為には、相手の上に立つしかないのだろう。それは相撲で勝つという事もあるだろうが、信仰にのっとれば、同じ水系の神には、頭があがらないものと思える。そういう意味では、渋江氏の下に付いた河童とは、渋江氏の奉斎する神の下に付いたと考えてもおかしくはないだろう。
久留米の水天宮の由来は、壇ノ浦で平家の最後を見届けた後に、筑後川に辿り着いた尼御前と呼ばれる按察使局伊勢から始まる。寿永4年の夏という事である。筑後川の畔に住み付き、小さな祠を祀るようになったが、尼御前の人徳に触れ地域の人々も又、尼御前の祀る祠を拝むようになったという。その祠に祀られていたのは、幼く死んだ安徳天皇と、その母である建礼門院に、祖母の二位の尼の三柱の御霊であったというが、それとは別に天御中主命を祀ったとされる。実際に現在の水天宮の祭神は、この四柱の御霊となっているようだ。しかし「明治神社誌料(下)」によれば、当初は水天龍王を祀っていたものを、後に天御中主命に改めたようだ。また、この尼御前である按察使局伊勢は、大和國布留の神社の神官某の女であるとしている。按察使局伊勢は、安徳天皇の内侍でもあるのだが、内侍とは天皇の身辺に奉仕する者であり、ここでは厳島神社の女性神職で、神事のほかに、同神社に参籠する貴人の旅情を慰めるために今様を朗詠したり舞楽などを行った存在でもあるのだろう。同じ福岡県の榊姫神社に祀られる御霊の中に榊内侍と呼ばれた、やはり平家の内侍が祀られている。恐らく按察使局伊勢は、平家の信仰にも詳しいのであると思われる。
壇ノ浦の合戦で最後、水の都に向った安徳天皇だったが、按察使局伊勢はその水の繋がりから、安徳天皇の霊を慰めようとする為の筑後川の畔に祀った祠であったろうか。しかし按察使局伊勢が物部の女であるとわかり頭を過ったのは、死人さえ生き返るほどの呪力を発揮すと云う「布瑠の言」である。
「ひと ふた み よ いつ む なな や ここの たり、ふるべ ゆらゆらと ふるべ」
もしかしてだが、水天宮とは当初、安徳天皇の復活を期してのものではなかったか?何故なら、布留を調べると月神へ辿り着く。月には、不老不死にも繋がる変若水があるからだ。「佐陀大社縁起」には、こう記されている。「月神とは大和國に在りては春日大明神と号し、尾張國に在りては熱田大明神と号す。安芸國に在りては厳島大明神と号す。」
月神に向かう前に、まず布留の神社について書かねばならない。布留の神社とは、つまり物部氏が奉斎する石上神宮の事。この石神神宮に祀られる神とは、布都御魂大神と布留御魂大神となる。布都御魂は武甕雷男神と共に国譲りの神話に登場する、剣の化身のような武神でもある。それと共に祀られる布留御魂とは、石上神宮の神域を流れる布留川に関係する。「円空と瀬織津姫(下)」によれば、布留川の源流には布留滝があり、それを「桃尾の滝」または「布留の滝」と呼ばれている。「布留神宮縁起」によれば、その布留の滝は「布留御前」として、石上神宮の元社である布留神宮に祀られているのだと。そしてこの布留川の川上は「日の谷」と呼ばれ、"八岐大蛇伝説の異伝"が伝わっていた。
むかし、出雲国の肥の川に棲んでいた八岐大蛇は一つ身に八つの頭と尾をもっていた。素戔男尊命がこれを八つに切り落とした。大蛇は八つの身に八つの頭がとりつき、八つの小蛇となって天に昇り、水雷神と化した。そして天叢雲剣に従って大和国の布留川の川上にある日の谷に臨幸し、八大竜王となった。今そこを八ツ岩と云う。天武天皇の時、布留に物部邑智という神主があった。ある夜夢を見た。八つの竜が八つの頭を出して、一つの神剣を守って出雲の国から八重雲に乗って光を放ちつつ布留山の奥へ飛んできて山の中に落ちた。邑智は夢に教えられた場所に来ると、一つの岩を中心にして神剣が刺してあり、八つの岩は、はじけていた。
物部氏の祀る経津御魂は神剣の神だが、この伝説に登場する神剣は布留御魂の事を意味しているのだと思われる。となれば、物部氏の祀る剣は、二振りという事になるか。三種の神器の一つとなる、天叢雲剣を祀る熱田神宮の別宮である、やはり熱田大神を祀る八剣宮縁起にも、祀る剣は布都であり、布留でもあり石上布留の神社とも祝ひ奉るとされるのは、熱田神宮と布留神宮の剣は同じという事。これらから、久留米の水天宮に尼御前が祀った水天龍王の正体が見えて来た。  

水天宮を初めに祀った尼御前は、物部の女であり、平家に仕えていた。それはつまり、平家の信仰にも携わっていたという事だろう。平家の信仰の拠点といえば厳島神社だが、平清盛を筆頭とする平家は伊勢平氏と呼ばれ、伊勢の地が発祥となる。伊勢の地で地盤を固め、頭角を現したのが伊勢平氏だ。当然、その信仰の拠点も伊勢にあったものを、厳島に移したと考えて問題は無いと思う。しかし、伊勢平氏の伊勢での信仰の拠点は多度大社であり、現在その祭神を確認すると、天津彦根命を主祭神としている。そして境内には、天津彦根命の子である天目一箇命を祀る別宮・一目連神社があり、本宮とともに多度両宮と称される。しかしこれでは、厳島神社との共通点が見出せない。わずかに摂社として美御前社には、厳島神社と同じ市杵島姫命が祀られているに過ぎない。
「お伊勢参らばお多度もかけよ、お多度かけねば片参り」
上記の歌が詠われたように、多度大社と伊勢神宮との関係は深そうだが、それは、天照大神の御子である天津彦根命を祀っているからだとされている。だが上記の歌以外に「梁塵秘抄」に、下記の様な歌が詠われている。
「関より東の軍神、鹿島香取諏訪の宮、又比良の明神、安房の州龍の口や小野、熱田に八剱伊勢には多度の宮」
多度大社は軍神と呼ばれているのだが、天津彦根にそれを感じないのはどういう事だろう。高橋昌明「清盛以前」を読むと、多度の地には、多度神社と多度神宮寺があり、伊勢平氏にとっての氏寺が多度神宮寺であったと。ただしそれは多度神宮寺と多度神社が一体不可分のものであるから、多度神社に祀られる祭神は当然、多度神宮寺と本地垂迹の関係になるのだろう。高橋昌明氏は「多度の地の多度山は、まさしく伊勢平氏の氏の祖霊の鎮まる霊山であり、多度神社及び多度神宮寺は、その神聖な祭壇と見做す事が出来る。要するにこの多度山は、伊勢平氏一門同族の結集の場であり、何よりも伊勢平氏の精神の故郷にほかならなかった。」と説明している。
八巻照雄「伊勢平氏盛衰史」には簡単な年表と共に、平氏と厳島神社との関わりを紹介している。例えば「長寛二年(1164年)九月、平家一門三十二人が法華経(三十三巻)を書写し、安芸にある平家の守護神・厳島神社に奉納した。」とある。この法華経の三十三巻は"十一面観音の三十三応現身"になぞらえたという。つまり、"平家の守護神"とは、十一面観音と関係の深いものであるという事。
伊勢平氏の精神の故郷であり軍神である多度大社であったが、主祭神の違う厳島神社もまた軍神を思わせる"平家の守護神"であるとしている。精神の故郷を捨て去って、新たに厳島神社を信仰する程、平家の信仰は移ろいやすいのだろうか?伊勢平氏は、軍事的貴族とも呼ばれた。それは、伊勢平氏が超人的武運に恵まれる事を願った為に、多度大神を信仰したのだと。その軍事的貴族を永続するのであるなら、多度大神と厳島明神は戦神という神威を共通する同神でなくてはならない。何故なら、神は祟るからだ。伊勢平氏の地盤を築いた多度大神を簡単に捨て去る事は、その時代の信仰の深さからみて有り得ない話だ。
木野戸勝隆「百日参籠」によれば、多度大社の主祭神である天津彦根を否定し、本来の祭神は不明であるという。その神は、"近江国より来た神なり"とのみ言い伝えられ、神名はわからないとしている。そしてもう一つわかったのが、この多度の地は"元伊勢"と呼ばれているという事だ。元伊勢とはどういう事かと云うと、伊勢大神が一時坐した地であるという事である。近江国、琵琶湖の辺に、やはり元伊勢の地がある。それは、崇神天皇時代に祟った天照大神荒魂が流離った過程の一つが、近江の地であり、この多度の地であった。
近江雅和「記紀解体」によれば、崇神天皇から離れ遷座の地を求め彷徨ったとされる旅の面々を見る限り、それは武力平定の移動であったろうと述べている。ここで思い出して欲しいのは、神功皇后の武力平定の先鋒でも、荒魂が務めたと云う事。鎮座後に留まるのは和魂であり、行動するのは荒魂であるという事から、滝宮に至る四十年間に、各地を荒魂を先鋒として武力平定し続けた旅であったのだろう。それ故だろう、多度の地にも訪れた天照大神荒魂であったからこそ、軍神として「梁塵秘抄」にも詠われた。また、天武天皇が壬申の乱の前に、伊勢大神に向って祈ったのは、今の伊勢神宮の方向ではなく天照大神荒魂が彷徨い最後に落ち着いた滝宮に向ってのものであった。物部氏に伝わる伊勢大神とは、三韓征伐にも関係した天照大神荒魂である撞賢木厳之御魂天疎向津媛命である事から、天武天皇は戦神に勝利を願ったのだと思う。そしてその撞賢木厳之御魂天疎向津媛命は、剣に斎く神でもあった。
多度の地を武力平定して一時坐した天照大神荒魂は、多度の地にはもういない。しかしその神威は衰えずに伊勢平氏の"祖霊"として残っているからこそ、信仰されたのだろう。仁安三年(1168年)、平清盛は厳島神社を修築している。平清盛が厳島神社を重視したのは、在来の神社・仏閣が皇室、貴族の深い信仰を受け、それに増長して横暴を極め、更に僧兵まで養って、強訴を繰り返して朝廷を圧迫していた事が大きかったという。つまりその当時の厳島神社は、朝廷や貴族の息がかかっていなかった神社であり、平清盛にとっては聖地に思えたのではないか。奇しくも、平清盛が厳島神社を修築した同じ年に、伊勢神宮が燃え落ちている。もしかして、伊勢で祀られている天照大神荒魂を厳島神社に移す為に、平清盛が伊勢神宮に火を放ったのかとも思えてしまう。そしてその六年後の承安四年(1174年)に、後白河法皇の厳島神社の参詣に、伊勢平氏一門が同行した。これが平清盛が準備してきた伊勢平氏の守護神である厳島神社信仰の始まりであり、そしてこれまで信仰していた多度大神信仰の終焉となった。 
十一
風琳堂氏が北海道の滝廼神社で撮影した、恐らく唯一存在する瀬織津姫の神像ではないかとの事。前回「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命は、剣に斎く神」と書いたのは、剣は荒魂の証でもあるからだ。右手に剣を持つのは、相手を薙ぎ払うなどの武力としてのものであるが、穢れを祓う霊威をも意味する。この前は、天叢雲剣を祀る熱田神宮に関して簡単に書いたが、「円空と瀬織津姫(下)」に展開される熱田神宮祭祀は、まさに天照大神荒魂についてであった。実際に、熱田神宮の禁足地である本殿西北背後に鎮座する一之御前神社に天照大神荒魂は祀られているのだが、「「円空と瀬織津姫(下)」では熱田大神そのものが天照大神荒魂であり、天叢雲剣に斎く神であったと展開している。
八岐大蛇の尻尾から取り出された天叢雲剣、別名草薙剣を「日本書紀」では「大蛇のいる上に常に雲があったのでかく名づけた。」と説明している。その天叢雲剣は、朱鳥元年(686年)に天武天皇を祟ったとしている。これはつまり、天叢雲剣に斎く神の祟りとなるのだが、同じように天皇を祟った神がいる。それは崇神天皇を祟った、天照大神荒魂である。
長元四年(1031年)、「大神宮諸雑事記」によれば、外宮の月次祭の時、急に大雨となり雷光が走り天地が振動したかと思うと斎宮が叫び声をあげて「我は皇大神宮の第一の別宮、荒祭宮也。」として託宣を述べ始めたと云う。その託宣の内容は「最近の天皇には敬神の念が無く、次々に出る天皇もまた神事を勤めない。」などと批判している。実際は斎宮が天照大神荒魂を名乗っての仕組みであろうが、だがこれは伊勢神宮の歴史から、天皇を祟ってきたのは天照大神荒魂であったとの証でもあろう。
剣に斎く神は、佐賀県は神埼郡の櫛田宮にも祀られている。櫛田宮の由緒は「往昔此の地に荒ぶる神あり。往来の諸人多く害されたり。此の時に景行天皇の筑紫御巡狩ありて、此の地御通軍の際、櫛田大神を御勧請ありしかは、更に殺害に遇ふ者なく蒼生皆幸福を蒙りたり、故に郡名を神埼と謂ひ、鎮座の地も、神埼と云ふ。」
櫛田大神とは世間一般に"お櫛田様は女神"と信じられ、その御神徳は「諸々の禍を払い除き、逃れさせたもう」と伝わっている。これは「佐賀県神社誌要」によると、弘安年中蒙古襲来の時、櫛田の神の御宣託に「我れ異国征討の為に博多の津に向ふ。我が剣を末社博多の櫛田に送り奉る可し。」蒙古襲来の戦地に赴いたと云う。蒙古との合戦の最中、海上には数千匹の蛇が浮かび出たとし、その三か月後、櫛田宮の末社である櫛田神社に疵を受けた数多くの蛇が現れ、再び櫛田神の御宣託があり「各蛇疵をこうむるといえど、蒙古は既に全滅した。」と宣ったと。これから察するに櫛田神とは、剣に斎き蛇を眷属する神だと理解できる。
現在の祭神は、櫛名田比売を主祭神として素戔男尊と日本武尊の三柱となっているのだが、その祭神についての論争が諸説ある為、取り敢えず現在の祭神で収まっている事情の様だ。ただ櫛田神は剣に斎き、蛇を眷属する神であるが、それがどうも櫛名田比売に結び付かない。櫛名田比売は八岐大蛇に怯え、素戔男尊に退治して貰ったか弱き姫というイメージであるからだ。
それでは、その祭神の諸説を見ると、櫛名田比売説と大若子命説と豊次姫命説の三つがある。確かに櫛田宮という社名から櫛名田比売を想像する場合が多いのだろう。しかし、長い間信じられた祭神は、豊次姫命だとされている。これは「櫛田宮由緒記」に、「櫛田大明神をもって総社とす。伊勢大神宮の大娘豊次姫命これなり。」と記されている為だが、この神名の正しくは"豊鍬入姫命"であり、崇神天皇を祟った天照大神荒魂を倭の笠縫村に祀った初代の斎宮であった。また大若子命説だが、白井宗因「神社啓蒙」に「櫛田神社在肥前国神埼郡 祭神一座 大若子命」とあり、また「佐賀繁昌記」にも「櫛田社祭神大若子命也。」と記されているとの事。この大若子命とはなんぞや?と思ったが、別名"大幡主命"とされる。だが"大幡主命"といってもピンとはこない。しかし調べてみると実は、崇神天皇を祟った天照大神荒魂が流離った時に帯同した人物であった。正しくは、伊勢国の櫛田郷辺りの国造で、倭姫命に奉仕する大神主であった。「神社啓蒙」によれば、いつの間にか斎祀る側が櫛田宮に神として祀られてしまったとの事である。櫛名田比売はさて置いて、豊鍬入姫命も大若子命も、天照大神荒魂を奉斎した者達であった。また「禰宜補任」によれば、櫛田宮の由緒に登場する景行天皇のくだりだが、実は景行天皇にも仕えこの神埼に来た大若子命が、此処にも来て荒ぶる神を和ませたという事の様である。それはつまり、この神埼の地の荒ぶる神とは、櫛田大神であり、それは天照大神荒魂であったという事実があった。
この櫛田宮の目と鼻の先に、與止日女神社がある。「肥前国風土記」にも登場する女神だが、「佐賀郡誌」によれば、「神功皇后を助けて三韓征伐に軍功ある女神」という事であるが、その正体は神功皇后の妹であるともされている。しかしだ、阿蘇の菊池氏の主流である日下部氏が奉祭する母神に蒲池比唐ェいる。この蒲池比唐ヘ、この肥前国一宮である與止日女神社(川上神社)に祀られる與止日女と習合している。そして筑前糸島の桜井神社(與止日女宮)」で川上の與止日女は瀬織津比唐ニ同神とされている。瀬織津比唐ヘ天照大神荒魂とされる事から、櫛田宮と同神という事になる。そもそも「肥前国風土記」に登場する"荒ぶる神"そのものが天照大神荒魂であると伏せられていた事からの混乱でもあるのだろう。
更に、この櫛田宮の目と鼻の先、筑後川を間に挟んだすぐ傍に水天宮が鎮座している。平安時代の神埼御荘の長官は、平忠盛であった。平氏一門は、この神埼に宋の商船を迎え入れ、密貿易によって利益を蓄えたとされている。恐らく按察使局伊勢は、この平氏一門の力が根付いている筑後川界隈を頼って訪れたものと察する。更に加えれば、平家一門の信仰の共通もあったからではなかろうか。 
十二
福岡の水天宮における平家の関わりと信仰を書いてきて、河童から少々脱線したきらいもあるが、ここで少し戻そうと思う。画像は"礫石経(れきせききょう)"と呼ばれるもので、平清盛が始めたようである。平清盛は人柱をやめる代わりに、この礫石経を海や淵に沈める事にした進歩的な人物だった。つまりこれは、水神の怒りを鎮める為のものである。その水神の使いとして河童がいるという認識だが、九州では河童の祟り除けに、この礫石経365個を川に沈める事により1年間、河童の祟りを抑える事が出来ると信じられる風習がある。
人柱は無かったとの見解を述べる学者もいるが、遠野では例えばメガネ橋の下から、お歯黒をした女性の頭蓋骨が発見されたり、松崎には人柱で死んだ巫女の墓などがある。また陸前高田には、菖蒲姫と呼ばれた遠野の上郷村から来た女性を人柱にしたという伝承が残っている。そして事実として平清盛がこの礫石経を人柱の代わりにしたという事であるなら、やはり人柱はあったとみるべきではないか。
「耳なし芳一」という小泉八雲の有名な怪談話があるが、平家の亡者から身を守る為、全身に経文を書いたつもりが、耳だけ書き残した為に、平家の亡者に耳を持って行かれる怪談話だ。これを九州の礫石経の河童除けの風習に照らし合わせれば、礫石経を365日に満たない数を川に沈めれば、その足りない日数分だけ、河童の祟りに遭うという事になる。「耳なし芳一」に登場する平家の亡者は、壇ノ浦の戦いに水没した亡者であるようだ。つまり水界から現れた、水の亡者という事であろう。その水の亡者の王は安徳天皇となるのだが、それはつまり水天宮に祀られる神でもある。小泉八雲が「耳なし芳一」の典拠としたのは、一夕散人「臥遊奇談」第二巻「琵琶秘曲泣幽霊」(1782年)であると指摘されているが、全てひっくるめて、平家の信仰を秘めた水天宮から想起されたものではなかったか。
実は、この発想は漫画である星野之宣「宗像教授伝奇考」に影響されている。学者では無い漫画家である星野氏は、漫画家であるがゆえ学者が書けない自由な発想から漫画を描いているのだと。しかしその発想には、かなりハッとさせられている。独自に、遠野の河童を調べ、遠野の北に聳える早池峯信仰と祭神の結び付きには、どこか九州の息吹を感じさせるものがある。それを感じた時に、たまたま星野氏の漫画に接し、もしかしてという気持ちが湧き上がったのを覚えている。
「川には河童多く住めり。猿ヶ石川殊に多し。」という「遠野物語55」の冒頭だが、何故遠野の河童は、猿ヶ石川に多いのだろうか?を純粋に考えた場合、どうしても九州に行き着いてしまう。ところで猿ヶ石川の語源に、猿と石を間違い「猿か?石か?」として、猿ヶ石川と名付けられたという、とってつけたような語源伝説がある。
「遠野物語」において猿の話は、四話しかない。そのうちの三話は、猿の経立という化物猿に関するもので、六角牛の山が舞台となるのが二話。もう一話は、猿の経立の名前に触れている程度である。そしてもう一話は「遠野物語48」で、仙人峠の猿ヶ石川の話が書かれている。「遠野物語47」では「六角牛の猿の経立が来るぞ」という内容から、猿の経立の棲家は六角牛だという事で理解できる。猿がいるという六角牛と仙人峠は、遠野盆地の東側の山に面している。「猿か?石か?」の語源説は、猿ヶ石川の源流に伝わる話だが「遠野物語」では、まったく触れてはいない。その前に、猿そのものの話が遠野には少ないのがわかる。せいぜい、淵の傍に棲んでいる猿を淵猿と言って、河童の正体の一つとされる伝承が唯一、遠野の里に出没する猿の話となる。実際、今の遠野で猿を見るならば、やはり仙人峠か、六角牛山の脇を通る笛吹峠か、それを過ぎた場所にある橋野町で猿を見かける事が出来る。つまり、昔も今も猿を目撃できる場所は変って無いという事。たまに遠野の街に"はぐれ猿"が目撃される事があるが、それも一時だけである。
大正時代の記録に「遠野の獣と鳥」と題されたものが記されているのが、【鳥類】には当然、猿の名は無い。では【獣類】はどうかというと、下記の通りに猿が記されていない。
【獣類】「きつね、ねこ、ねつみ、いたち、からたち、犬、むくいぬ、ちんけん、おふくかめ、むささび、うさき(鎌せをい、白兎共)、くさい、こはみ、山ねつみ、まみ、てん、しいね、とりう、きねつみ、くま、馬、牛、鹿(あをしし、かのしし、うしゐ)、かはもり」
だが大正時代に認識されていなくとも、吉田政吉「新・遠野物語」には、猿の話が記されていた。猿の悪戯はそれなりにあったようで、鉄砲を駆使して猿を撃とうとしても事前に察知され、なかなか撃てなかったらしい。猿の被害はそこそこあったようだが、吉田氏によれば、狼に比べれば大した事は無かったそうな。だからなのか、遠野での猿の話が少ないのは。ただ、遠野の里に下りて来て悪戯を成した猿も、大正時代には見られなかったという事になる。明治の半ばで姿を消した獣は、狼が狂犬病の蔓延と、多額の懸賞金がかけられた事による率先した駆除によって滅び、猪は豚コレラの蔓延によって、やはり滅びた。しかし猿が、遠野の里から消えた理由がわからない。まるで河童の目撃数と比例するかのように、猿が里から姿を消したようにも思える。 
十三
画像は、早池峯神社から馬産の護符として配っていた「猿曳駒」。この版木は現在、遠野市指定民俗文化財になっている。何故に猿が馬を曳いているかといえば、猿が病気から馬を護るとされた伝承からの、猿が馬を曳く護符になっているのだろう。石田英一郎「河童駒引考」では「捜神記」を引用して、猿が死馬を蘇生させた話を紹介している。しかし、それは猿の様であり、猿の様では無かった。「一物猴に似て非なるもの」という「捜神記」での記述は、この似て非なるものを結局猿とし、猿が馬を護る存在であると広くと認識されたようだ。
実は宮崎県に、こういう河童の逸話がある。宮崎市には昔、薬湯屋があって、毎晩遅くなると、沢山の河童が集まって来て、湯に浸かったのだと。"河童の使った後の湯は、毛が一面に浮いていて、大変臭くなる"としている。一般的に河童のイメージは両生類に近いイメージで、様々な河童の絵を見ても、毛があるとしたら頭の毛程度しか思いつかない。そして、湯に入るイメージは河童というより、猿のイメージの方が強い。それ故、この薬湯に浸かった河童とは、もしかして猿ではないかと思えてしまう。これは「捜神記」の逆で、まるでで「河童に似て非なるもの」ではないか。「捜神記」の「猿に似て非なるもの」を河童とは断言できないが、実はどこかで猿を河童として面白おかしく話した流れがあったのではなかろうか。
平安時代末期に編纂された「梁塵秘抄」にも「御厩の隅なる飼猿は絆放れてさぞ遊ぶ」と詠われ、厩に猿が飼われていた事がわかるが、馬を護るという俗信を信じた人間の手によって、強引に厩に紐で繋がれていたのだろう。だが河童譚にも、厩に忍び込んでいる河童の話が多い。猿と河童、その縄張りの共通性と姿態の共通性が、河童=猿であるとする説に気持ちが傾いてしまう。
ところが河童と猿とは、かなり仲が悪いらしい。石川純一郎「河童の世界」には、その河童と猿の仲の悪い事例が、いくつも紹介されている。その中で、気になった箇所がある。それは「猿は馬を疾病から護り、河童の害からも守る。猿には河童除けの呪力があるのであろう。肥後芦北郡では、申年の申の日の刻生まれの者は、河童のいる淵に入って泳いでも何ともないと云われている。」これで気付いたのだが、猿は申であった。
遠野を流れる猿ヶ石川沿いに庚申塔が、いくつも建っている。まあ猿ヶ石川だけでは無いのだが、古代から川沿いに道が開かれた歴史の合間に、石碑が建てられたのだろう。ただ「遠野物語55」の冒頭「川には河童多く住めり。猿ヶ石川殊に多し。」を、もう一度考え直してみたい。
遠野各地の川に、河童淵と呼ばれるものがある。それは人里離れた川の淵ではなく、人里に近いところである為、各集落ごとに河童淵があると言っても過言ではない。猿ヶ石川に河童が多いというのは、猿ヶ石川自体が遠野で一番長大で、広大な河川であるから様々な集落を経由している為というのは、河童が多いという一つの理由だろう。だがここで、猿ヶ石川という名の語源に素朴な疑問が湧き上がる。何故、猿という名前の付いた河川名になったのかだ。
「猿か?石か?」という猿ヶ石川の語源説話である清瀧姫伝説は、全国に似た様な伝説が点在するのだが、遠野に伝わるものは恐らく群馬県の桐生発祥だと思われるので、元々遠野に伝わるものではなかった。また猿ヶ石川の語源となった猿石があるとは伝わるが、どうやらこれも後世の付会であったようだ。石で気になるのは、前回紹介した河童の祟り除けに、礫石経を1年分である365個を川に沈める事により河童の祟りを抑えるという呪術だが、遠野では聞いた事が無い。また別に河童除けは、猿であった事を照らし合わせても、猿と石とは、河童に深く関係しそうではある。
ところが、気になる伝承が熊本県の八代市に伝わっていた。「球磨川に露出している大きい岩の上に、女神が毎晩現れるのを猿と河童とが取り合いをした。」というものだ。猿と河童は仲が悪いという伝承があるのだが、何故に仲が悪いのかはわからなかった。筑後川の河童も、元々は球磨川から来たものであったから、この伝承の持つ意味は大きい。
八代市は、どこか出雲を想起させる地でもある。それは市内に流れる河川名のいくつかが、出雲に流れる河川名と同じであるからだ。その中の河童と猿が女神を奪い合ったという球磨川の畔には、妙見宮がある。この妙見宮の祭神は、亀に乗って来た女神であるとされる。こういう地であるから、球磨川の大石の上に現れる女神とは、妙見神であるのだろう。妙見は庚申、つまり猿と縁が深い。また九州における妙見神とは水神を意味する。それはつまり、猿と河童が互いに信仰する共通の女神を奪い合うという事ではないか。さる高千穂在住のお方によれば、高千穂十社大明神大宮司田尻物部系図に「四十九体妙見即ち瀬織津比盗_是也」と記されているそうで、その高千穂の妙見社は"御塩井大明神"とも呼ばれるそうだ。この御塩井だが、阿蘇に塩井神社があるが、そこに流れる川は塩井川であり、そこでの禊を"シオイカカセ"と呼ぶ。この塩井川は白川に合流するのだが、その白川の水源に鎮座するのは、白川吉見神社。考えて見れば阿蘇山を中心とする水神の根源は、日下部吉見神社が発祥となっている。それが地域によって名を変えているに過ぎない。また竹田旦「水神信仰と河童」を読むと、全国に拡がる水神信仰の祭りが六月と十二月という二度に渡る祭が行われているという調査結果に竹田氏は「年に二度の水の神祭りを行うということは、つまり水神が特定の季節と関連していることを指している。いわば、六月と十二月とはその季節の両端をなしているのだろう。」と述べている。しかし竹田氏が見逃しているのは、六月と十二月の神事として、何が行われる月であるかという事。それは、大祓であろう。日本における穢祓の根源は、水によるものであった。互いのわだかまりを「水に流そう」とする日本の風習は古代から延々と、水の穢祓による力に依存してきた。その穢祓の神として知られる瀬織津比唐アそが、猿であり河童が奪い合う女神であるのだろう。
奇しくも猿ヶ石川の源流は、妙見信仰も重なる北に聳える早池峯山系から始まる。その早池峯の女神は、九州の水神でもある瀬織津比唐ナある。日下部吉見神でもある瀬織津比唐ノは、菊池氏も大きく関与する。遠野に一番多い苗字である菊池氏の流れは、人だけでなく信仰の流れもあったであろう。しばしば学者の指摘するところでは、東北地方と九州地方の習俗の近似・類似は、人の流れが大きく関与している。河童という水難除けに猿が存在するのだが、然程猿が多くなかった遠野においての水難除けは、恐らく庚申がその役割を担ったのではないだろうか。庚申塔は、まさに"猿の石"でもある。遠野の北から流れる猿ヶ石川の源流を又一の滝とする伝説は、「又一(またいち)の滝」が妙見の"太一(たいいつ)"からきているだろうとされるのは、滝神である早池峯の女神を妙見神とする事からであった。河童という水難除けの信仰の発端、もしくはそれに付随する河童伝承も、全ては九州から遠野に辿り着いた、物部氏であり菊池氏などが、その信仰を早池峯な重ね合せた事から始まったのだと思えるのである。
 
狐と瀬織津比

 

瀬織津姫 (せおりつひめ)
神道の大祓詞に登場する神である。瀬織津比刀E瀬織津比売・瀬織津媛とも表記される。古事記・日本書紀には記されていない神名である。
祓戸四神の一柱で災厄抜除の女神である。神名の名義は、人のけがをれ川の早でを清めるとある。祓神や水神として知られるが、瀧の神・河の神でもある。その証として、瀬織津姫を祭る神社は川や滝の近くにあることが多い。九州以南では海の神ともされる。これは、治水神としての特性であり、日本神話や外来神に登場する多くの水神の特徴にも一致する。日本神話では龗神や闇罔象神等が、外来神では吉祥天・辯才天がこの特徴を持ち合わせている。『倭姫命世記』『天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記』『伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記』『中臣祓訓解』においては、伊勢神宮内宮別宮荒祭宮の祭神の別名が瀬織津姫であると記述される。『ホツマツタエ』(学者により「偽書」とされている)では日本書紀神功皇后の段に登場する撞賢木厳之御魂天疎向津媛命と同名の向津姫を瀬織津姫と同一神とし、天照大神の皇后とし、ある時は天照大神の名代として活躍されたことが記されている。
関連する神
初代天皇とも言われる饒速日命(にぎはやひのみこと)との関連もあると言われる。また、瀬織津姫は天照大神と浅からぬ別名の一つに入るが、関係がある。天照大神の荒御魂(撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ))とされることもある。兵庫県西宮市、西宮の地名由来の大社であ、る廣田神社は天照大神荒御魂を主祭神としているが、戦前の由緒書きには、瀬織津姫を主祭神とすることが明確に記されていた。その他では宇治の橋姫神社では橋姫と習合(同一視)されている。祇園祭鈴鹿山の御神体は鈴鹿権現として、能面をつけ、金の烏帽子をかぶり長刀と中啓を持つ瀬織津姫を祀る。伊勢の鈴鹿山で人々を苦しめる悪鬼を退治した鈴鹿権現の説話に基づく。 

陸奥のちかのうらはもしらぬひのつくしの海に名をぞよせける
【返歌】
ちかの浦ちかきになれてしらぬひの筑紫の海に名をやながさん
京都の歌人、大淀友翰の「日本行脚文集」の中の九州行脚の中に、上記の歌が詠まれた。歌い手は福岡は大橋の歌人が詠み、それに対して返歌をするというもの。この友翰の行脚は1684年の6月から翌年4月までの行脚紀行である。この歌は、友翰が6月25日に大橋に到着した後、6月の晦に詠まれたとは意味深ではある。
歌の中に「しらぬひ」とあるが、これは「不知火」。つまり、筑紫に対する枕詞だ。しかしその大本は「日本書紀」「肥前風土記」「肥後風土記」に記されている景行天皇の熊襲征伐に行きつく。
不知火は、不確かなものとされ、果ては妖怪の姿であると様々な憶測を呼ぶ存在だ。しかし、一般的な見解は海上に浮かぶ怪しい炎とされるのだが、景行天皇の目撃したものは、どうも海上に浮かぶ不知火ではなく、陸に上がった炎であったようだ。いつしかそれが混同され、不知火が独り歩きして妖怪化したのだろう。
不知火は筑紫の枕詞であるが、不知火で有名な海は有明海となる。景行天皇の目撃した怪しい炎もまた、有明の海での出来事だった。この有明の海に始まった不知火の伝承が全国に伝わり、景行天皇の目撃した、本当の不知火とかけ離れた可能性はある。それでは、本当の景行天皇の目撃した炎とは何だったのだろうか?
五月壬辰朔、従葦北発船至火国、於是日没也、夜冥不知著岸、遥視火光、天皇詔狭柂者曰、直指火処、因指火往之、即得著岸、天皇間其火光処曰、何謂邑也、国人対曰、是八代県豊村、亦尋其火、是誰人之火也、然不得主、茲知非人火、故名其国曰火国也   「日本書紀」
五月壬辰一日に、葦北から船を出し火の国に向かった、ここで日が暮れて夜が暗くて岸に着くところが知れない、はるかに火光が見えた、天皇が船頭に命じていわれるには、直ぐ火のある方に向けよ、
よって火を目当てに往って、岸に着くことができた、天皇は火光の処を尋ねて、何という邑かといわれた、国人が答え、これは八代県の豊村といった、またその火を尋ねて、これは誰の火かといわれた、しかしその主がわからない、それで人間の火ではないと知れたから、その国を火の国という

これと似たような話は「肥前国風土記」「肥後国風土記」にも載っているが、火のある場所を国人曰「日本書紀」では「豊村」とあるのに対し「風土記」では「火邑」とあるようだ。いずれにせよ、不知火の出自の話というよりも、火の国の云われの話になっている。
ところが、「肥前国風土記」「肥後国風土記」には別に景行天皇の祖父にあたる崇神天皇が、土蜘蛛征伐に来た時に、八代郡白髪山に火が出たとあり、この話が火の国の起源だとされるようだ。ただし、景行天皇、崇神天皇のいずれにも摩訶不思議な火は現れ、火の国であるというのには変わりないのだろう。
ところで「不知火」という言葉は、いつしか筑紫の枕詞となっているが「万葉集」には「しらぬい」という言葉が出る歌が三つあるが、あてられる漢字は「不知火」ではなく「白縫」「之良奴日」「斯良農比」とある。
白縫、筑紫乃綿者、身著而、未者舞伎禰杼、暖所見 「万葉集」
この「万葉集」の記載されている歌にある「白縫(しらぬい)」は、元々筑紫は綿の多い国であった事から詠われたようだ。「続日本記」では筑紫の白綿に関する記述がある「神護景雲の三年(769)三月より始めて、毎年大宰綿二十万噸輸京庫」とあるように、本来の「しらぬい」とは火では無く、綿に関するものであったのかもしれない。それがいつしか「不知火」との音の混同により「不知火」が筑紫の枕詞として成り立ったのかもしれない。
まあ「不知火」はさて置いて、崇神天皇および景行天皇が及んだこの地は「火の国」であった事は、間違いの無いものであったのだろう。問題にしたいのは、その火であるから。 

「筑紫国謂白日別」
不知火をさて置いてと書き記したが、調べてみると「古事記」に上記の文があった。つまり古代の筑紫は「白日別」と呼ばれていたようである。「白」とは「しら」であり白山信仰にもなるが「白日」となれば「白日の下に晒す」であり、要はここでの「白」は太陽を表す。つまり「白日別」とは、ここでは「しらひわけ」と読むが「白日」は「しらのひ」であり、それが転訛して「しらぬひ」となったという説がある。
簡単に読んでしまえば俗っぽい説ではあるが、「白」は「太陽」を表し「日」は「火」でもあるから、「白日」とは「太陽の火」でもあるのだ。ならば「白日(しらのひ)」は、火の国と云われた地にも適応する言葉であると思う。
ところで「火の国」であり「肥の国」とも書き記した阿蘇山を中心とした周辺で、現在の熊本県の「熊」という漢字は「諸橋漢和大辞典」には…。
1.くま(獣の名前)もと熋に作る。
2.あざやかに光るさま。
3.能に同じ。
【説文】
熋、熋獣、侶豕、山居、冬蟄、从能、炎省声。
これ↑を読み解くと、「熊」とは猛々しい獣であり、豚と同じであり、山に居る存在。能に従うものであり、火に帰結するものであるという事が「熊」となるようだ。「熊」の旧字体は「熋」であり、「火」と「能」の組み合わせからできている漢字である。
「能う」は「あたう」と読み、否定形は「あたわず」となる。例えば「伊曾保物語」には「人はただわが身にあたはぬ事を願ふ事なかれ…。」とあり「相応しい」という意味としても使われる。つまり「熊」とは「火を司るに相応しい」という意味となる。
奇しくも、この火の国と呼ばれる地域には「火祭り」が多く存在し、同じ「熊」という漢字を使う熊野でもまた、火の神事は盛んであるのは、文化の繋がりがあるものだと考えても良いと思う。これは熊野と九州が密接な関係が深い事を示すのではないだろうか?
ところで「肥後風土記」によると、健緒組は崇神天皇の命により益城郡の朝来名峰に住んでいるニ人の土蜘蛛征伐した帰り、八代 白髪山で大空から火が山に下降して来た事を話した所、火の国と名づけるがよいと申されとあるが、現在の八代郡には白髪山というのは存在せず、球磨郡には白髪岳という山はある。
この「白髪山で大空から火が下降して来た…。」をどう捉えるかだが、火としての記述であれば「日本書紀」において皇祖の高皇産霊尊が高天原から皇孫であるニニギを葦原中国へ天降りさせた時の記述の一節がある。
彼の地に、多に蛍火の光く神、及び蠅声す邪しき神あり。
邪神の中に、蛍火というのが含まれている。「和名抄」では鬼火を燐火と書くが「漢和辞典」には「燐」を「鬼火。蛍火。」と書き記している。
もの思へば 沢の蛍も 我が身より あくがれ出づる 魂かとぞ見る
上記の歌は「後拾遺集」での和泉式部が夫の保昌に冷たくされて、貴船神社に参詣した時に、蛍の光を放ち飛ぶ様を見た歌だ。これから察すれば、怪しい光を放つもの、もしくは炎などは天孫族や朝廷に仕える者たちにとって、恐怖を呼び起こすものなのかもしれない。
初めに戻るが、崇神天皇が白髪山の上に降りたった火とは、何かを象徴していたのかもしれない。それは、修験の炎だったのか、それとも星の輝きであろうか。。。
山の上の火といえば思い出すのが千駄木だ。修験系の雨乞いの儀式に、霊山などの山頂で千駄木焚くというのがある。ここで考えて欲しいのは、何故雨を呼ぶのに火なのかという事。九州には火祭りと呼ばれるものが、数多く存在する。これは九州だけでは無く、全国に広がりをみせるものだが、その大抵は修験の世界ではある。有名な熊野、東北では出羽など、修験の根付くところに火の神事は存在する。
遠野でも雨乞い儀礼においては、山の頂で千駄木を焚いた歴史は存在する。ところが国家での雨乞い儀礼に火を扱ったものは何故か見つからない。
旱魃が酷かったのは、天武年間だ。天武天皇以前の皇極天皇は、自ら雨乞い儀礼をして結果を出している天皇なのだが、天武天皇以降は、可哀想なくらい旱魃が押し寄せている。その都度国家をあげての雨乞い儀礼が行われているのだが、やはりそこには修験者などの行う火を扱った雨乞い儀礼は行われていないように見える。しかし考えてみると、天武の時代には修験の祖と呼ばれる役小角が登場しており、伊豆に流されるのは文武天皇の時代であるから、役小角が天武天皇の力添えとなった可能性はあるのかもしれない。
是の夏に、大きく旱す。使いを四方に遣わして、幣帛を捧げて、諸の神祇に祈らしむ。亦諸の僧尼を請せて、三宝に祈らしむ。   「日本書紀(天武天皇五年)」
この記述にある「諸の神祇」であるが、つまり天武天皇時代には天皇家が祀る神々だけでは治まらず、なりふり構わず他の神々に対しても祈りを捧げたのだろう。これは調べると763年に登場する丹生川上神社に黒馬を捧げる雨乞い祈祷が確立されるまで、天武5年から約1世紀も続いている。 

とにかく、国家的規模の雨乞い儀礼には何故か、千駄木を焚くという火を使用するものは無い。あるとすれば、修験の世界だけであったのだろうが、これはつまり王権祭祀では無く、民間祭祀となっていたようだ。
原初的な信仰とは、火と水の融合であるのに、何故か王権の祭祀に火が使われていないのは、もしかして火に対する恐れがあったのだろうか?考えてみると修験の火は、東北では出羽。また熊野であり、九州にその多くがある。崇神天皇が見た火とはもしかして、まつろわぬ民の怪しい火であったのかもしれない。
ところで、怪し火といえば、鬼火や狐火などがある。その中で狐火を取り上げてみる事とする。狐伝承の中に、必ずといって良い程、火が狐に付き纏う。例えば、稲荷神社。稲荷の鳥居は赤色となっている。赤は朱色で、血を表すとも云われる。朱という漢字は、人間が血を流して倒れている様子を表したものだと。しかし、それ以外では火の赤色を示す。
伏見稲荷では年間の祭祀の中に、秋の収穫の後に、五穀の豊饒をはじめ万物を育てたもう稲荷大神のご神恩に感謝する祭典があり、それを「火焚祭」という。これは古来から、伏見稲荷の伝統ある行事として知られている。そう、あくまでも五穀豊穣を願うには火が必要となるからだ。陰陽五行では、
豊かな土を生ずる為には、火が必要となる。それを陰陽五行で表せば「火生土」という。全国の火祭りの全般も、五穀豊穣を願ってのものが殆どである。
稲荷神社は、全国一の数を誇るのだが、その殆どに狐が付き纏う。本来の稲荷に、後から狐が付随したようなのだが、それは多分狐の属性もあったのだろう。伏見稲荷の創始については「山城国風土記」に下記のように書かれている。
伊奈利と称ふは、秦中家忌寸等が遠つ祖、伊侶具秦公、稲梁を積みて富み裕ひき、及ち、餅を用ちて的と為ししかば、白き鳥と化成りて飛び翔りて山の峯に居り、伊禰奈利生ひき。遂に社の名と為しき。
この伏見稲荷の成立年代は和銅年間と云われている。ただし、この創始はあくまで秦氏が社を建立し祀った時期であって、稲荷はそれ以前から信仰されてきた古い山の神であった。伏見稲荷の由緒で気になるのは「白」であると思う。餅の白色、白鳥の白色。また後世、稲荷神の化身は白狐に表わされるように、白色が重要な鍵を握るのだろう。ところで秦氏には、狐では無く、何故か狼の伝承がある。「日本書紀」の欽明天皇測位前期に下記のような記述がある。
天皇幼くましましし時に、夢に人有りて云さく。「天皇、秦大津父といふ者を寵愛みまはば、壮大に及りて、必ず天下を有らさむ」とまうす。寐驚めて使を遣して普く求むれば、山背国の紀郡の深草里より得つ。姓字、果して所夢ししが如し。是に、忻喜びたまふこと身に遍ちて、未曾しき夢なりと歎めたまふ。及ち告げて曰はく、「汝、何事か有りし」とのたまふ。答えて云さく、「無し。但し臣、伊勢に向りて、商價して来還るとき、山に二つの狼の相闘ひて血に汗れたるに逢へき。乃ち馬より下りて口手を洗ひ漱ぎて、祈請みて曰はく、『汝は是貴き神にして、麁き行を楽む。もし猟士に逢はば、禽られむこと尤く速けむ』といふ。乃ち相闘ふことを抑止めて、血にぬれたる毛を拭ひ洗ひて、遂に遺放して、倶に命全けてき」とまうす。天皇曰はく、「必ず此の報ならむ」とのたまふ。乃ち近く侍へしめて、優く寵みたまふこと日に新なり。大きに饒富を致す。
狼は「日本書紀」において、大口の真神と呼んでいるのは、大口は姿を形容したもので、真神とは、その威力をたたえた言葉であるという。それが縮まって大神、オオカミになったという説がある。ならば山に鎮座する大神…例えば、早池峰に鎮座する早池峰大神とは、別に狼でもあったのかもしれない…。
白は古来より「銀」を「シロ」と読んだ。九州は銀鏡神社もまた「シロミ神社」と呼ぶ事から「銀」は「白」であり「シロ」と呼ばれたという事なのだろう。つまり本来、秦氏が信仰していたのは「銀の狼」であったのかもしれない。それがいつしか、中国から福の神(白狐)としての狐が輸入され、狼と結びついた可能性はある。何故なら古代の概念では、狐と狼とは同類と思われていたから、狼でも狐でもどちらでも良かったのだろう。
古来から、自然に発火すると云われる”怪火”というものは様々ある。先に記した不知火もそうだが、他には狐火・鬼火・龍燈・天燈・山燈などと、数多くある。しかしだが、この区分けが非常に怪しい。区別を付けるほど、簡単ではなく、定義も曖昧ではある。
「本草網目」では、火を分類して、天火四、人火三、地火五、共に十二とす。天火四とは、太陽の真火、星精の飛火、この二つが天の陽火で、竜火と雷火、この二つが天の陰火とある。
陰火である竜火は、しばしば龍燈と同じものとされている。その龍燈とは、主に龍神の住処といわれる海や河川の淵から現れる怪火であり、龍神の灯す火の意で龍燈と呼ばれ神聖視されているが、これが不知火とも混同されて知られているようだ。
橘南谿「東遊記」には「大徹禅師、越中の眼目山を開いた時、山神、竜神、助力していろいろ奇特有り。今も毎七月十三夜、その庭の松の梢に燈火二つ留まる。一つは立山の頂より、一つは海中より飛び来る。これを山燈、龍燈と言って、この辺の人例年見る。」とあり、永平寺の開祖である道元は、宋で学んだ人であるから、この山燈、龍燈の意識は宋の時代からの伝えでは無いかという事である。ただ、これから理解できるのは、山神の力によるものが山燈であり、竜神の力によるものが龍燈であるという概念が定着していたのだろう。
明の陸応場「広興記」では「山燈、蓬州に現わるる事全て五ヶ処也。初めは三、四点に過ぎず。次第に数十に至る。」とあり、また慈覚大師「入唐求法巡礼行記」でも、老俗等曰く、古来相伝う。この山に竜宮あり…とあり、山燈を龍燈とも呼ぶのだという。この龍燈・山燈の概念は古代中国より続いており、龍燈・山燈とも竜神、もしくは山神によるものとして日本に広まったようである。
つまり、日本の景行天皇や崇神天皇の見た山の火とは、これらに照らし合わせれば山神であり、竜神の起こした火であるのだと考えてもよいかもしれない。しかし山中の怪火となれば別に、日本では狐火や鬼火というものが登場するが、やはりこの狐火も鬼火も、元は同じものであるようだ。また時代的にも、鬼火や狐火は、山燈や龍燈よりも時代が新しく、後に山燈や龍燈が、狐火にとって代わり広まったものだろう。狐火の一番古いものでも「宇治拾遺物語」であり、狐火が広まったのは、その時代以降であった。
つまり龍燈、山燈という怪火の概念が狐火に飲み込まれてしまったのは、古来からの稲荷信仰と狐が融合し、その身近な神秘が市民権を得た為なのだろう。何故なら狐とは、山と里とを行き来する存在で、山に鎮座する龍蛇神や山神の使いであると認識された為からだろう。しかしそこには、もう一つ別の要素が組み合わさっているようだ。 

それでは、山燈・龍燈をも飲み込んだ狐と火の結び付きはいつからなのか?それはやはり、イナリと狐の結び付き。要は、秦氏の起こした伏見稲荷が、その根源であり、白狐信仰を持ち込んだ弘法大師にまつわる「稲荷契約」「稲荷来影」という伝承から、古来から信仰されてきた「イナリ」と「稲荷」、そして狐が結びついたようだ。
イナリ信仰の根源は、現在伏見稲荷が鎮座している後方に聳える稲荷山と呼ばれる、標高320メートルばかりの低い山である。しかしこの山から出土した「二神二獣鏡」「変形四獣鏡」は、少なくとも奈良時代よりも古い4世紀の遺物である事から、秦氏が建立した伏見稲荷以前から信仰されたきたものというのがわかっている。
「山城国風土記」に「伊禰奈利生ひき」という表現があるが「播磨国風土記」では「鋳成り」とされているのは、本来鉄霊降臨の聖地としてイナリ祭儀が行われていた場所であったのでは?という事だ。実は、イナリ信仰のある山の頂の殆どには磐があり、火の神、太陽の神が降臨したのだろうという事だ。何もない場合でも、石を置いてイナリの信仰をしたという事から、イナリ信仰の原初は火の神信仰であり、そこに降り立つものは太陽神であったのかもしれない。
六国史である「文徳実録」には、こう書き記されている。
嘉祥三年(850年)五月十九日、詔して武蔵国奈良の神を以て官社に列す。是より先、彼の国湊請す、古記を検するに、慶雲二年(705年)此の神、光を放つこと火の如く熾んなり、然るに、其の後、陸奥の夷虜反乱、国控弦を発し、赴いて陸奥を救う、軍仕此の神霊を戴き、奉じて以て之を撃つ、向かう所、前なし、老弱行に在るもの死傷を免る、和銅四年(711年)神社の中に忽ち湧泉あり、自然に奔出、田六百余町を漑す、民疫癘有らば、禱って癒す、人命繋る所、崇わずばあるべからず。
ここに登場する”奈良神”とは、藤原氏全盛の時代であった為、本来の名前を伏せられて書き記された神であったのだと。その後この神は、熊野三社に合祀されて、ますますその姿が見えなくなった神ではある。
現在この地には奈良之神社として存続し、付近には伊奈利という地名があり、本来はイナリが祀られていた地であったとの事だ。この「文徳実録」にイナリの本質を表す記述がある。「光を放つこと火の如く熾んなり」これはイナリが火の神でもあり太陽の神でもむあるという事なのだと考える。
また「湧泉」との記述があり、この神を祀り神社の中に泉が湧いて「民疫癘有らば、禱って癒す」という原義は時代的に考えれば「物部文書」などで紹介されている「布留之言」からのものではないだろうか?つまり「ふるへふるへ、ゆらゆらとふるへ、そうすれば死者も生き返る。」との物部氏の教義に通じるものだろう。ならば、このイナリ信仰、そして頂にある巌に降臨する火の神、太陽神は、物部氏の祖であるニギハヤヒに繋がるのではないか?そしてそこには「聖なる泉」の信仰も重なる事から、物部氏も信仰した水神もいたというのが理解できる。
前に書き記した、山燈・龍燈は山神や竜神の発する火であった。それは山に鎮座し、火を放つものと共に、当然竜神も鎮座している事から水をも発生させる。つまり山とは、水神が鎮座する地であり、そしてそこには巌に降臨する太陽神が依り憑く地でもあったのだろう。
話は飛ぶが、景教における「イナリ」という言葉には「光を与えるもの」という意がある。おそらく、景教に通じてあろう秦氏が物部氏の教義と結びついての「イナリ信仰」ではなかったのか?
「キツネ」という語の初登場は「日本書紀」である。
大きなる星、東より西に流る。便ち音有りて雷に似たり。時の人の曰はく、「流星の音なり」といふ。亦曰はく、「地雷なり」といふ。是に、僧旻儈が曰く、「流星に非ず。是天狗なり。其の吠ゆる聲雷に似たらくのみ」   「日本書紀(舒明天皇9年)」
「日本書紀」では「天狗」に「アマツキツネ」という訓みを与えている。この「天狗」が後世になり「テング」と訓まれるようになり、いつしか一人歩きをし、修験と結び付いた。ところが中国の「史記」には「天狗」という語に対し、下記のように書かれている。
天狗の状は大奔星の如く声あり、下りて地に止まれば、狗に類す。堕つる所を望めば火光の如く、炎々として天を衝く。西北に三大星あり、日の状の如し、名付けて天狗という。   「史記」
この「史記」は中国側からの記述である事を意識したい。例えば邪馬台国であり卑弥呼であり、蔑称で表しているのは異民族であるからだ。現代でも言われる「犬畜生」という言葉もまた蔑称であるのは、元は中国の影響を受けたものであると感じる。また例えば、蝦夷にしても、熊襲にしても、隼人にしても、大和朝廷側からの蔑称となっている。狗という名称が付く国としては狗奴国という邪馬台国と敵対した国もまた、中国側からは蔑称で表されている。つまり「天狗」とは、中国側にとっては異民族文化であり、日本国を征服した大和朝廷とは中国文化を持ち込んだ民族で固まっているというのが理解できる。
日本において修験が民間に広まりつつも、それを国で保護する事なく忌み嫌ったのは、本来の修験とは異民族信仰であったという事実ではなかったのか?熊野でもそうだが、出羽修験もまた火の信仰である。つまり本来、日本国に流れ着いた火の信仰と文化は、元々大和朝廷に相反する異民族文化であったのだろう。 

伊勢神宮に伝わる内宮所伝本「倭姫世紀」において「調御倉神」について、こう記されている。
「宇賀能美多麻神。三狐神。形尊形也。保食神是也。」
京から熊野に詣でる場合、伏見稲荷に参詣し「護法迎え」をし、再び熊野から京に帰る場合も伏見稲荷に参って「護法送り」をするならわしになっていた。護法とは、験者のミサキとなって奉仕し、そして駆使されるモノである。つまり、熊野と伏見稲荷は密接な関係にあり、「三狐神」は本来「三光(太陽・月・星)神」と重なって伝えられ、那智浜の宮社前に「三狐神」が祀られ「三光神」は、熊野地蓬莱山に飛鳥之宮、河面宮と共に祀られていた。
「三光」には「太陽・月・星」の意味以外に「キラキラ光り輝く例」の意があり本来、採鉱・鍛冶の神であったのが後に伏見の稲荷と結びついて「三狐神」とされ、古い信仰であった「三光神信仰」が故意に隠されたようである。ここで狐と、輝く意の結び付きが見られる。つまり「護法迎え・送り」とは、光であり火を持ち運ぶ意を持って、熊野に参詣したのかもしれない。それは伏見稲荷で発生する狐の火であり光を、熊野の龍神に運ぶという意からなのかもだ。
また宇賀、もしくは宇迦は梵語で「白蛇」を意味する言葉だ。江戸時代の国学者である天野信景は『塩尻』(元禄10年(1697年)で、こう書き記している。
按に宇加耶は梵語にして白蛇と訳す。さればもと密家の修法にして神人伝へて此の法を修せしと見ゆ。されとも其の像、密宗に製する所は、彼の人首蛇身の像には侍らず。亦俵の上に蛇を作り、これをも宇賀神といふ。山城国稲荷の社(伏見稲荷)に此の形あり。熱田の宝蔵にも磁器の此の像侍る。いとふるき物也。此等、中世我国の人作為せし事と見え侍る。亦蛇身の像も有て修験者などまつる。弁才天を弁財天の字を書き、頭上に蟠蛇を作り、宇賀弁才なんどいふ。密宗の本伝にかかるすがたなし。竹生島の影像も此のすがた也。神人僧侶のあやまり来りて然も夫を秘として伝ふるわざ一、二にあらず。
伏見稲荷の神符に表されている白狐と黒狐の他に、俵に乗った蛇もまた宇賀神であると書き記している。豊受大神宮(伊勢神宮外宮)に奉祀される豊受大神は他の食物神の大宜都比売・保食神と同様で、稲荷神(宇迦之御魂神)と習合し、同一視されるようになった。伏見稲荷の神符の俵に乗った蛇が宇賀神であり、それが中心にあるという事は、本来の伏見稲荷の信仰が龍蛇神であったのがわかる。
また『塩尻』では宇賀神を別に、こう語る…。
宇賀神とて頭は老人の顔にし、体は蛇体に作り、蛙をおさへたるさまにして神社に安置し、祭る時には一器に水を盛り彼の像を入れ、天の真名井の水なんいふ文を唱へて其の像を浴する。像、或は金銅、または磁器也。
この記述から察したのは、天照大神と素戔男尊との誓約である。この誓約では、十拳剣を三つに折って、ゆらゆらと天の真名井に振りすすいで口の中に入れ、バリバリと噛み砕いて吹き出した狭霧と共に生まれたのが、宗像三女神である。
蛇は男根、もしくは剣に通じる。蛙は中国において、月に棲むものと信じられた。月は変若水の不老不死信仰に繋がり、熊野のゴドビキ岩がある神倉山に鎮座する神倉神社の御燈祭の火の神事もまた、ゴトビキ岩を介した火と水の融合であるのだろう。
また5世紀初めに輸入されたであろう「金光明経」に繋がる「仏説最勝護国宇賀耶頓得如意宝珠陀羅尼経」での記述での宇賀神の変貌する正体には、こうある。
正き正身の体は日輪の中に居して、四州の闇を照らす。吒枳尼天の形を現じ福寿を衆生に施し、大聖天の身を現じて二世の障難を払は令む。
これらの事から、伏見稲荷の神符に示されている図は、龍蛇神から受け継がれた火であり光を狐が受け継ぎ、また吒枳尼天へも結び付くものを示す図であるのだろう。伏見稲荷の神符をもう一度見直せば、水性の黒に土性の狐の結び付きで、水を制する「土剋水」。金性の白に土性の狐が結び付き金属を生み出す「土生金」となっている。また左側の蛇は験の杉の枝?を咥え、右側の蛇は雷を現している鍵を咥えている。ここに、土と水と火(光)と金属を抑えている神符となっているのがわかり、
多分であるが、これらの事から山の怪し火から狐火の発生へと繋がったものと考える。
聖なる山であった稲荷山に、伏見稲荷を合わせ祀ったのは秦氏であったが、その秦氏と共に祝だった荷田氏に関わる「竜頭太」伝承というのがある。
【稲荷鎮座由来(竜頭太の事)】
或記伝、古来伝伝、竜頭太は、和同年中より以来、既に百年に及ぶまで、当山麓にいほりを結て、昼は田を耕し、夜は薪をこるを業とす。其の面竜の如し。顔の上に光ありて、夜を照らす事昼に似り、人是を竜頭太と名く。其の姓を荷田氏と云ふ。稲を荷ける故なり。而に弘仁の比に哉、弘法大師此山をとして難業苦業し給けるに、彼翁来て申し曰く。我は是当所の山神也。仏法を護持すべき誓願あり。
白狐を持ち込んだ空海と「顔の上に光ありて、夜を照す事昼に似り」という竜頭太というのは、山に鎮座する山神であり竜神である意であると考える。つまり、当初に書き記してある龍燈及び山燈は竜神の為せるものであり、竜頭太もまた光を放つ存在であったのは、同じ原義から来ているものだろう。
また別に、天台宗の大師円珍の伝承が興味深い。「諸社根元記」円珍が熊野参詣の帰り、紀伊国石田川の傍らの稲羽の里を過ぎようとした時、刈った稲束を担っている老翁と、稲束を戴いた二人の女に逢うが、突如として参人は姿を消した。
その夜、夢の中に参人が現れ、老翁は上の宮(伏見)の、女性二人は中と下の社の神であると告げた。空海、最澄亡きあと、熊野修験に一番影響力があったのは、円珍系統の園城寺であった。園城寺では、近江国の地主神である白鬚明神を勧請したのだが、祭神猿田比古とされるこの白鬚明神は、元々が安曇系古代採鉄部族の奉祀する神であった。
これらの事から山をも照らす竜燈に書き記した「山に竜宮在り」の伝承は、古代海人族との繋がりを示すものである。そして当然の事ながら、この竜神が灯す竜燈の輝きは狐に受け継がれ、いつしか怪火の中心は、稲荷と結び付いた狐となったのだろう。 

狐といえば、有名なものに玉藻前がいる。天竺では千人の王の首を取ったという斑足太子の塚の神、唐土では殷の紂王の后・妲妃となって国を滅ぼした妖狐・金毛九尾の狐の伝説がある。
これが日本に渡来し、鳥羽院のとき、玉藻の前という名の美女となって院にあがり、院を悩ました。陰陽師安倍泰成が、これを調伏したので妖狐は正体を現し、下野国那須野の原に飛び去った。勅命を受けた三浦介、上総介は試みに犬を射て見せ、これが犬追物の始まりとなったとされる。
妖狐は二人に射殺されたが、その執念は殺生石として残り、人々を悩ませた。後に曹洞宗の玄翁和尚の供養によって成仏し、祟りを止めた。この時玄翁は、杖をもって殺生石を破砕したので、以後、両端を切り落とした形の金槌を玄能と呼ぶようになった。
とにかくこの玉藻前の正体は九尾の狐とされ「玉藻前物語」で語られ、その後謡曲である「殺生石(1503年)」で更に有名になった。この玉藻前のモデルと云われるのは保元の乱の元凶と云われる藤原得子(美福門院)であるという。
この「玉藻前」という名が何故に使われたのか?それか「万葉集」による「玉藻」が登場する歌の影響があったものだと考える。下記は柿本人麻呂の歌ニ首。
嗚呼見の浦に船乗りすらむ感嬬らが珠裳の裾に潮満つらむか
くしろ着く手節の崎に今日もかも大宮人の玉藻苅るらむ
伊勢に行幸する持統天皇に従わなかった柿本人麻呂の「玉藻」を詠んだ歌は、体制批判の歌であるという。その他にも、いくつか体制批判の歌はあった。この柿本人麻呂の時代、持統天皇と結びついた藤原不比等によって、多くの人々が流罪され暗殺されたという。梅原猛は大胆にも柿本人麻呂は、水死刑にされたという説を唱えたが、それもあながち否定できない時代ではあった。
ところで「玉藻」という言葉には「流罪」という意があるという。では何故、玉藻が流罪を表すのだろうか?「日本書紀(巻第五)」崇神天皇六十年に、こう記されている…。
「己が子、小兒有り。而して自然に言さく、玉藻鎭石(たまものしずし)。出雲人の祭る、眞種の甘美鏡。押し羽振る、甘美御神、底寶御寶主。山河の水泳る御霊。靜挂かる甘美御神、底寶御寶主。?、此をば毛と云ふ。是は小兒の言に似らず。若しくは託きて言ふもの有らむ。」とまうす。是に、皇太子、天皇に奏したまふ。即ち勅して祭らしめたまふ。
つまり本来の「玉藻」とは、実は物部氏の宝であったようだ…。
六十年の秋七月の丙申の朔巳酉に、群臣に詔して曰はく、「武日照命(一に云はく、武夷鳥といふ。又云はく、天夷鳥といふ。)の、天より将ち來れる神寶を、出雲大神の宮に蔵む。是を見欲し」とのたまふ。即ち矢田部造遠祖武諸隅(一書に云はく、一名は大母隅といふ。)を遣わして獻らしむ。
是の時に當りて、出雲臣の遠祖出雲振根、神寶を主れり。是に筑紫國に往りて、遇はず。其の弟入根、則ち皇命を被りて、神寶を以て、弟甘美韓日狭と子鸕濡渟とに付けて貢り上ぐ。既にして出雲振根、筑紫より還り來きて、神寶を朝廷に獻りつといふことを聞きて、其の弟入根を責めて曰はく、「藪日待たむ。何を恐みか、たやすく神寶を許しし」といふ。是を以て、既に年月を經れども、猶恨忿を懐きて、弟を殺さむといふ志有り。仍りて弟を欺きて曰はく、「頃者、止屋の淵に多に藻生ひたり。願はくは共に行きて見欲し」といふ。則ち兄に随ひて往く。是より先に、兄竊に木刀を作れり。形眞刀に似る。   「崇神紀六十年」

ここでの話は、出雲の神寶を朝廷が取り上げる=献上?という話の流れである。要は出雲の朝廷に対する服従の物語でもある。ここに登場する武日照命とは出雲の祖神であり、矢田部造とは物部氏の同族であり武諸隅もまた物部氏の関係。つまりこれもまた、出雲に物部を二人遣わし国譲りと同じの暴挙が行われたという事だ。
また神武天皇が熊野においても、高倉下の夢枕にタケミカヅチが立ち「布都御魂を天孫に献上せよ。」と告げて、高倉下は神武に布都御魂を献上した。この高倉下もまた物部の一族である。神武の東征もまた古代物部王国の侵略であり、その都度に恭順者を取り込んでいったのがわかる。物部氏に内物部と外物部と呼ばれるものがあるのだが、大和朝廷に協力したのが軍事力を持った内物部であり、祭祀を司った物部を外物部と大雑把にわけても良いのかもしれない。「鬼をもって鬼を制す」という言葉があるが、本来はこの鬼とも呼ばれた物部の内紛の事でもあったようだ。当然、出雲においても物部は深くかかわっていたのだが、その出雲の神寶を奪い去った者達も大和朝廷と与した物部。
要は、内物部と呼ばれる者達であった。こうして大和朝廷の軌跡を辿ると、物部の宝を奪っていくのがわかる。つまり軍事力と共に、神の力をも全て我が物にしようとの行程が大和朝廷の歩みでもあり「古事記」や「日本書紀」での記述でもあったのかもしれない。
ここで大和朝廷に奪われた「玉藻鎮石」は、物部の宝であり、出雲の宝であった。つまりここから「玉藻」という言葉には「出雲」と「物部」を意味する隠語となったようである。何故に玉藻前が国家転覆を図る極悪な女狐であったのか?それは、抹殺された物部の因縁を玉藻という言葉を駆使して作られた物語であった為だろう。
出雲は勾玉の王国でもあった。越の国とも交流があり、また宗像との繋がりも深かった。つまりこの「玉藻鎮石」とは勾玉の事であったのだと思う。勾玉を紐解くと月であり、月の変若水まで行き着き、天の天の真名井に辿り着く。そして、そこには女神が鎮座する。陰陽五行でいうところり陽は太陽であり男。陰は月であり、女を表す。だから「玉藻前」は物部の意味を含み、更に女であらねばならなかったのだろう。 

【後醍醐天皇肖像画】
むかし大唐国に大汝、小汝が政を執り、辰狐を使として日本に遣わし難波に来た。そこで大鯰に呑まれ命が危うかったが、秦乙足がその鯰を釣り上げて八柱の御子もろとも救われた。そこでその恩に報いる為、乙足の子々孫々に至るまで所願あれば成就させる事にした云々と由来を開陳し、祈願する檀那は乙足の子孫である…。
この祭文は、平安朝東寺の護法神的信仰に始まり、醍醐寺の当山派山伏の手によって庶民化されついでに祇園系修験者によって陰陽道的色彩の濃いものに変化していった。この中に、ダキニは組み込まれていったようだ。
ダキニを組み込んだ真言宗の生んだ両部神道とは、神祇信仰を金剛界と胎蔵界の両部の密教教義によって説き明かした神道説であるが、それによると山岳仏教で知られる大峯山は金剛界、熊野三山は胎蔵界を模っており、伊勢神宮の内宮は胎蔵界、外宮は金剛界と考えられていた。そしてダキニ天と天照大神は結び付きをみせる。辰狐の祭文は紹介したが、山本ひろ子著「変成譜」には…。
辰狐法は宮中で伝授される時には、本尊の辰狐を金と銀で二つ作り、壇の左右に立て、天皇は四海の水を浴して位に即くとある。「天照太神口決」にも「王ハ南ニ向キ、摂政ハ北ニ向キテ、左右ニ金銀ヲ以テ吒天ヲ造テ置キタリ」
ここに登場する金と銀は金剛界と胎蔵界を示すものであり、陰陽でもあり、太陽と月である。そしてそれが伊勢神宮の内宮と外宮の二つに被せられている。天台宗の百科事典とも呼ばれる「渓嵐拾葉集」には、こう記されている。
「およそ天照大神とは日神に坐す上に日輪の形、天の岩戸へ籠りたまうもの也。天照大神、天くだりたまひて後、天の岩戸へ籠りたまふと云ふは、辰狐の形にて籠りたまふ也。諸々の畜獣の中に辰狐は身より光明を放つ神ゆえに、その形を現じたまえる也。」
仏教世界において、大日如来こそ天照大神の垂迹とされてきたのだが、実は大日如来は深淵の理のような存在で形を成さないもの。その形として、神と化身して働くという「和光同塵」という考えが登場した。つまり大日如来の代わりとして着目されたのがダキニ天であり、それが天照大神と習合されたのだという。
ダキニ天と天照大神を決定的に結び付けた人物がいる…後醍醐天皇だ。画像は後醍醐天皇の肖像画なのだが、両手に五鈷杵と五鈷鈴があるのだが、五鈷杵は男根を現し、また金剛界を現す。また五鈷鈴は女陰を現し、胎蔵界を現す。この二つが一つになった時に、願望が成就されるという意図を含んでの肖像画だ。
【金剛薩埵】
ところで、この後醍醐天皇の肖像画に見受けられる五鈷杵と五鈷鈴を持った仏像が一つだけある。それは金剛薩埵といい、愛染明王の連れ合いであった。この中世という時代は厄介で、いろいろなものが習合されている。とにかく金剛薩埵となった後醍醐天皇は、実はその上にある、やはり天照大神と一体になる事を願った。何故か?それは愛染明王もまた大日如来に通じるものであり、当然天照大神であり十一面観音にも通じるからだ。女神との和合を求めた後醍醐天皇であるから、真言宗での愛染明王の扱いから、自らを金剛薩埵という男神となる事で、様々な女神との和合を図ろうとしたわけだ。
ところが、ここで誤解があった。後醍醐天皇の師である文観は、天照大神の本地を十一面観音と明記している事だ。ここで「記・紀神話」以前に立ち還れば、本来の天照大神とは男神であり、更にそれ以前は伊勢神宮に存在しない事となっていた。男神である日(火)の神がおり、それと対になる水の女神、つまり瀬織津姫の影響を受けて、天照大神の存在意識が成り立っていたからだ。
秦氏の祀る伏見稲荷の御神体ともいえる霊山である稲荷山は、五つの峰が連なって形成されている。まず東の峰には「ダキニ天と天照大神」。西の峰は「愛染明王と弁財天」。南の峰が「丹生都姫、鬼子母神」北の峰が「不動明王と三大神」この三大神はどうやら熊野三山があてられると聞いたが、定かではない。そして真ん中の峰が「稲荷・弥陀・辰狐王」であり、全体的に女神が多いのは、ウカ魂やウケ魂…穀霊との結びつきを意識してのもので、地母神を意識してのものから発せられている。
【日本においてのダキニ天図】
中世時代に新たに様々な神仏が日本に上陸したわけだが、日本古来の根源となる地母神となる天照大神と結びつくという意識にかられたのが、後醍醐天皇であった。だから日本に伝わったダキニ天の姿が狐に乗り、右手に剣、左手に宝珠を持つというのは、あくまでも天照大神の伝承を基にしたのが理解できる。しかし本来の地母神であり女神であった瀬織津姫の姿を後醍醐天皇は見る事ができなかったのだろう。複雑怪奇な中世という時代には、ダキニ天も含め、弁財天も習合されて、やはり似たような姿になったのは、あくまでもその根底が天照大神にあったからだというが、それがすべて瀬織津姫に繋がるとは誰も信じる事のできない時代であったのだろう。 

【三面大黒】
狩人の話では早池峯の主は、三面大黒といって、三面一本脚の怪物だという。現在の早池峯山のご本尊は黄金の十一面観音であって、大黒様のお腹仏だと言い伝えている。その大黒様の像というのは、五、六寸程度の小さな荒削りの像である。
早池峯の別当寺を大黒山妙泉寺と称えるのも、この大黒様と由緒があるからであろうとは、妙泉寺の別当の跡取りである宮本君の言であった。
この人の母が若かった時代のことというが、寺男に酒の好きな爺がいて、毎朝大黒様に御神酒を献げる役目であった。いつもその御神酒を飲みたいものだと思っては供えに行くのであったが、ある朝大黒様が口を利かれ、俺はええからお前達が持って行って飲めと言われた。爺は驚いて、仲間の者のいる処へ逃げ帰ってこのことを告げたが、皆はボガ(虚言)だべと言っ本当にしなかった。
試に別の男が御神酒を持って行って供えることになったが、再びその時も大黒様は口を利かれて、俺が飲んだも二つないから、其方へ持って行って飲めと言われたという。物言い大黒といって、大変な評判だったそうな。   「遠野物語拾遺126」

「遠野物語拾遺126話」に伝えられるのは、早池峯の主は三面大黒だという事。これはどこから来ているのか?また瀬織津姫の本地垂迹は十一面観音であるが、この十一面観音は大黒様のお腹仏と伝えられているという。ところで「大日経疏」には、大日如来が大黒天に化身し曠野に赴き、ダキニ天を召集し叱りつける話がある。ここでいう曠野とはインドでいう尸林、つまり墓場の事だ。この大黒天という神は、墓場をうろつく恐ろしい神として存在した。「大黒天神法」には、こう記されている。
大黒天神は、諸鬼神と無量の眷属と共に夜間、常にこの尸林の中を遊行する。大神力があり、もろもろの珍宝、隠形薬、長年薬を持っている。遊行飛空して諸幻薬を人間と貿易し、大黒天神は、ただ生きた人間の血肉を取る…。
日本の大国主と結び付いた為に、大黒様と親しまれているが、本来は恐ろしい存在の神であったのが大黒天となる。そしてダキニ天との結び付きは、墓場である。ダキニ天は天照大神を通して、瀬織津姫の影響を受けているのは、以前に記した。しかし、早池峯に伝わる話によれば、大黒天のお腹仏として十一面観音がいるならば、十一面観音とは早池峰神社における瀬織津姫の本地垂迹である為、直接瀬織津姫は大黒天に取り込まれた存在であるという事となってしまう。
インドの尸林という墓場には、必ずと女神のお堂が祀られていたという。その女神のお堂は巫女によって祀られていた。巫女達は、お堂に祀られていた女神の供養を主たる任務としていたのだが、ここで考えられるのは尸林という墓場とは死体が集まるという黒不浄の地でもある。ここに穢祓いの女神である瀬織津姫があてられた可能性はあると考える。あくまでも早池峯が密教と繋がっての事だとは思うのだが、虐げられ抹殺された女神の行きつく先は、えた・ひにんが行う死体処理であり、傀儡師の行う穢祓いに貶められてのものだった可能性があるかもしれない。尸林を遊行する大黒天と同じく、墓場である尸林に棲むダキニ天と、死体という穢れの共通点から、闇の部分で結びつけられたのではないだろうか?
【如意輪観音】
後醍醐天皇のところで、師である文観は天照大神の本地垂迹を十一面観音と信じていたと書き記した。ここで三種の神器の話になるのだが、通常は神鏡が伊勢神宮であり、宝剣が熱田神宮、神璽が御所という事になっていたが実際には宝剣も神璽も神鏡も全て御所の中に置かれていた。その中で宝剣と神璽だが、中世の頃には御所内の天皇の御寝所である”夜御殿”に置かれていた。そして神鏡は、温明殿という建物の中の”賢所”に安置されていた。
ところで夜御殿の南北に二つの部屋があり、この部屋では天皇の御祈祷をする真言宗や天台宗から選ばれた阿闍梨がいて、如意輪観音に向かって祈祷していたという。ここは「渓嵐拾葉集」に記されているが、つまり天照大神の本地が如意輪観音で、それを御厨子に納めて天皇の一代守護本尊として、この阿闍梨がいる二間に祀られていたという。この中世の時代、これを秘密として書き記されていたのだという。
「本尊は如意輪観音なり。最極秘事なり。口外すべからずなり。」
つまり天照大神の本地は如意輪観音であり、十一面観音ではなかった。
図は伊勢朝熊岳の御札であるが上の中央に如意輪観音が鎮座し、その両脇にダキニ天と弁財天ば配されている。ところで、こういう言葉がある…。
「お伊勢参らば朝熊をかけよ。朝熊かけねば片参り」
この言葉には、天照大神の本地である如意輪観音がいた為であろう。しかし何故如意輪観音なのか?それは、如意宝珠を手にしているからだ。
辰狐の尾に三鈷あり。三鈷の上に如意宝珠あり。三鈷はすなわちこれ三角の火の形也。宝珠また摩尼の燈火なり。故にこの神、威光を現じて法界を明する也。   「渓嵐拾葉集」
宝珠は光り、燈火となる。密教で使われる三鈷などは火を模っているというのが、これによりわかる。それが狐の尾に宝珠と三鈷が付いている為に、狐は火を放つのだと理解されている。ところで「太平記」に醍醐天皇が吉野に逃げるくだりが書き記されている。
八月二十八日の夜のことで道は暗くてとても進めそうになもなかったのだが、このときにわかに春日山から金峯山の峰まで光るものが飛びわたるように見え、松明のような光が夜もすがら天地を照らしたので、行く道もはっきりと見えてまもな夜明け方に大和国賀名生といところへたどりつかれた。
これとは別に「吉野拾遺」には、この時の事が書き記されている。
ぬば玉の くらきやみ路にまようなり われにかさなん三つのともし火
と、御製をお詠みになり、稲荷社を伏し拝まれた。すると、社の上から非常に明るい光の一むらが立ち現れ、臨幸の道を照らして帝の一行を送った。そこで帝は大和の内山にお着きになったが、そこで光は御岳の上で消え失せた。
ここで「狐と瀬織津姫」の最初に立ち還れば、景行天皇を導いた火は、時代を経て、後醍醐天皇を導いた事になる。その火とは、景行天皇時代は龍燈であり、山の竜宮からの火であった。それが時代が変わり、後醍醐天皇時代では狐火と変化する。しかし根源はすべて同じものであった。「大弁財天功徳法」には、こう記されている。
瞑想せよ。行者の前に金峯大山があり、その山脈の中に一の宝山がある。宝山の頂には七宝荘厳の宮殿があり、宮殿の中には大檀が、大壇の上には宝華がある…変容して三弁の如意宝珠になると観ぜよ。
吉野の金峯山とは、役行者が金剛蔵王大権現を感得し、修験道の基礎を築いた地でもある。その金峯山の頂には、天の真名井があるのだ。また続ける…。
かく観ずれば、海中や諸山河の白龍・青龍等は宝珠の働きを助けてその威光を増し、雲を起こして天に善風雨を雨せ、天下万物を成長せしめる。これはすなわち海中の宝珠が冥会不二で一体のものであるがゆえである。
つまり、狐の持ちたる宝珠とはすべて、役行者の開山した金峯山の頂にある天の真名井に結び付くものと考えていいだろう。つまり宝珠とは本来は勾玉であり、稲荷が何故ダキニ天やら弁財天やら愛染明王ら女神を集めるかというと、全て勾玉の女神の影響の元にあったのだろう。 

陸前高田横田村に鎮座する四十八神社では、滝を御神体とし瀬織津比唐祀っていたが、現在は宇迦御魂命を祀る社に変わっている。ここで思い起こされるのは、神道での考え方だ。
「水ハ汚穢濁ヲ洗ヒ清メ流シ去テ清明ヲ致ス徳天日ノ如シ」
つまり、日(火)は水でもあるという事だ。この「狐と瀬織津比刀vの当初に、龍燈の話をしたが、龍は海神でもあり、水神でもある。また風雨や雷・稲妻を発生させる雷神であり、天神でもあって、農神にもなりえる。更に突き詰めれば祖霊神でもある。祖霊神は聖なる「火」で象徴される為、山頂の古木などに上がった龍燈は霊場に集まった祖霊神とも捉えられる。
白狐に乗るダキニ天によって広まったであろう稲荷神はの究極の存在は、やはり伝説の玉藻前であろう。この玉藻前は白狐が変化した姿となる。大森恵子「稲荷信仰と宗教民族」を読むと、福島県の常在院蔵「玉藻前草子」には二つの尾の先端部分が真っ赤に照り輝く白狐が描かれていると紹介している。そして「玉藻前は身体全体から光線を発すると語られたことは、狐神(仏教的稲荷神=ダキニ天)と太陽神を同一する信仰があったことを物語っている。」と述べている。
後世ダキニ天を普及させた人物の一人に、愛染寺の初代である天阿上人がいる。天阿上人は伊勢と江戸と京都と伊勢を度々往来し、稲荷信仰を広めた人物だ。その天阿上人曰く「ダキニ天は北斗七星をあらわす。」と述べている。これは三光(太陽・月・星)狐と結びついてのものであった。その為、京都の妙見宮や大阪の能勢妙見堂には狐が祀られるようになったというが、この概念がいつしか東北に伝わってきたのかもしれない。それだけ稲荷神は、様々な形に変化する。
東北での様々な信仰の普及には山伏が一役かっていた。その山伏の元締めとも云われるのは、東北であるならば羽黒修験の者達となる。羽黒修験の力の増大は、後醍醐天皇が即位してからであったよう。ダキニ法と結びつく真言宗を後醍醐天皇が信仰していたのも大きかったのかもしれない。
湯殿山が出羽三山となる以前は、鳥海山が出羽三山に属していた。その鳥海山信仰に携わる小滝修験に関連する【遠藤光胤家文書】によれば、鳥之海神社に祀られる和加宇加売命は、倉稲魂命であり、荒魂ノ御神なりとある。そして荒魂ノ御神とは、天照太神の荒魂であると。
瀬織津比唐ノついて知られる内容には以前からわかっていた事に、天照大神の荒魂が瀬織津比唐ナあるという事実が伊勢に伝えられている。恐らく、それを更に稲荷信仰に結びつけて普及したのは、伊勢が神宮運営に苦しんでの事では無かったのかと察するが、しかしそれは古くからの信仰があっての事であったと理解する。それは、鳥海山の信仰に結びついてくるのではなかったのか。
そして「古事記」では宇迦之御魂神と表すが「日本書紀」では倉稲魂尊と表す。宇迦之御魂も倉稲魂も「うかのみたま」である為、何故に陸前高田の横田村に鎮座する瀬織津比唐祀っていた四十八神社が稲荷神である宇迦之御魂神と結びついていたのか漠然と見えてきた。
ところで「鳥海山信仰史」の中の「吹浦村両所山神位願に付御用牒」というものに、面白い記述があった。
「…右の序文に大物忌神社の命の義、大物忌神は大和国廣瀬大明神と同体…。」
これを廣瀬神が大忌神と呼ばれるのと、大物忌神が混同された為と捉えられてもいるが、大物忌神が何故に恐れられたのかは、その根底の概念にある信仰と結びついてくるようだ。
また【遠藤光胤家文書】において、小滝修験は鳥海山に祀られている大物忌神社に違和感を感じ、そこで別に霊峰神社を建立し、祀ったという。その霊峰神社は仏者として観世音菩薩を祀り、神者として祀ったのが八十過津日神であった。以下に、その文書の文を記す。
「此神ハ天照太神荒魂ノ御神ナリ、神慮に恐アレハスコシク侍ルナリ、荒魂トハ伊弉諾尊至明ノ極リヲ儘シテ末生ノ本源至至ラセ給フル心化ノ神号ナリ、有リ猶口伝、不学神朝ノ遵君子難明呼心ノ霊直ナル者ヲ以テ其狂曲ル者ヲ矯直シメ、天日一体禾直日ニ致ント力ヲ用ヒ、功ヲ励シメ心化ノ神号也、「八十狂津日神」者心化ノ神号呼八十八数ノ多キ義ナリ、「狂津日」ハ哀慕ニ流レ、不浄に穢ルゝ罪ヲ覚知シ給ヘル御心ヲ指メ伝フ心と伝 ハスメ、日ト伝ルハ神道心法ノ相伝也…以下略」
八十過津日神は、伊弉諾尊が中津瀬で禊をした時に真っ先に生まれた神となっている。その八十過津日神を文書内では「八十狂津日神」とし「狂」という字をあてている事に関して、次は展開すると共に、新たな神名を紹介しようと思う。 

「稲荷大明神流記」において「稲荷の本地は上社大明神は十一面、中社正妃は千手、下社正妃は如意輪…。」とある。つまり、観音と稲荷が結びついているという事。また「中社正妃は千手、下社正妃は如意輪…。」とある事から"明神"の殆どが女、つまり女神であるという事がわかる。
また稲荷の起源の秦伊侶具の標的の餅に奇端を起した宇迦御魂命は別に「専女御饌津神」とも呼ばれ、後に専女三狐神と書かれるようになっている。
「専女(とうめ)」とは、老女を意味すると共に女神の尊称でもある。しかしダキニ天が結びついたのは、もう少し後の話となるよう。つまり、それ以前に稲荷の本地として「十一面観音・千手観音・如意輪観音」が結びついていたという事。
十一面観音の別名は「大光普照観世音」とも云い、密号を変異金剛、茲愍金剛とも云われ、六道を救済する六観音に配する時は修羅道の救済者として女身を現ずるものとされている。「東大寺のお水取り」で執り行われる法要「十一面悔過法要」というのがありる。悔過とは生きる上で過去に犯してきた様々な過ちを、本尊とする観音の前で懺悔するという事。要は、天下国家の罪と穢れを滅ぼし浄化する観音が十一面観音という変化観音であり、その当時の浄化とは水による作用を言ったものであるからそれは、水の霊力を発揮する観音でもあるという事だ。
また千手観音は蜜号を大悲金剛と名付けられ、六道に配する時は餓鬼道の苦を救うとされているのは、我が子に乳を与え食事を与える母性の徳を有している存在であると。
そして如意輪観音は、密号を持宝金剛、与願金剛と云われの全ては如意宝珠から来ているよう。そしてこれらを含んで受け入れられたのが、後のダキニ天であるようだ。
「観音経」に「観世音菩薩の慈意の妙なる事は大いなる雲の如。甘露の法雨をそそいで煩悩の炎を滅却し給う。」という功徳があるが、この甘露とはつまり、大きく訳すれば生命の水であり、不浄を洗い流す水でもあるよう。これは古来から伝わる天の眞名井の信仰と結びつくものであるようだ。
つまり観音そのものに水という功徳が備わっているのだが、日本にはまず八百万の神がいて、後に仏教が伝わってきた歴史を踏まえると、本来は女神の後に観音が上から被せられ信仰されたが正しいのだろう。つまり水の功徳の観音以前に、水の女神がおり、それに秦伊侶具時代に稲荷と結びつけられ、後に観音と重なっていったと見るのが正しいのだろう。 
十一
こうして瀬織津比唐ニ狐、そして宇迦御魂命の繋がりが見えてきた。ただ「狐と瀬織津比刀vの冒頭で始まった怪火であり狐火だが、その火が何故に狐の嫁入りと結び付くのか。また何故、狐の嫁入りには雨が降るのか。
遠野の昔、婚姻とは親同士の取り決めで決定していた。「あの家へ嫁げ。」と言われれば、その家の娘は、ただ了承するだけだった。その嫁入りは馬に乗ってゆっくりとした行列が組まれ夕方に到着するという算段であったようだ。当然、暗くなれば松明を灯して灯りを作る。そう、これが狐の嫁入りと似た様な情景を作り出している。いや本来「狐の嫁入り」とは、人間様の嫁入りから発生し、それが神憑り的なものとして伝わったものであると考える。その松明を灯しての嫁入りが神事として伝わっている最古の神社が、神武天皇の孫である健磐龍命が祀られている肥後一宮である阿蘇神社である。阿蘇神社建立は、孝霊天皇9年(60年)6月という紀元1世紀の事であるから本当の事実はよくわからない。
阿蘇神社の神事は、村崎真智子「阿蘇神社祭祀の研究」に詳細に書かれている。その神事のメインはやはり火祭りであり、嫁入りの神事である。あれだけの火が乱舞する情景を古代の日本人がみたらどう思うのだろう。ただ現在は、火を振り回して派手になっているようだが、それは江戸時代に発生したものらしく、本来はもっと厳かであったらしい。しかしそれでも多くの人々が火を掲げての嫁入り神事は、あまりにも神秘的で神憑り的であったろうと想像する。その幻想的な神事を垣間見た古代の日本人は様々なイメージを膨らませ、それが伝説・伝承となり、全国に広がったのであろう。
祭神の健磐龍命は、火龍であったようだ。それ故に、火山でもある阿蘇山と結び付いている。そしてその火龍である龍神の健磐龍命に嫁いだのが、草部吉見神社の水神であり、やはり龍神の瀬織津比唐ナあった。
その阿蘇神社が鎮座する肥後の国だが、狐の嫁入りに関する俗信がある。それは「虹が出た時、狐の嫁入りが起きる。」というものだ。虹に関しては「虹と瀬織津比刀vで書いたが、虹は竜蛇であり、二重の虹は、その竜蛇の交わりでもある。そしてもう一つ、注目する俗信は「虹は女神の渡る橋である。」というもの。狐の嫁入りと虹の俗信が結びついているのは肥後国においての原初、火龍である龍神に嫁いだのは、水龍である龍神である事実。虹は雨の後に大気中の水滴に光が屈折・反射して発生するもの。つまり、晴れている状態である。全国に広がる俗信の中に「どんなに晴れていても最低三粒は雨が降る。」というものは、殆ど水神・龍神と結び付くものだ。ところがそれとは別に狐の嫁入りにおいても、その俗信は伝えられるのは、やはりどこかで龍神と狐が結びついての事だろう。恐らく草部吉見神社から嫁いだ阿蘇津比唐ナあり瀬織津比唐ヘ虹を渡って嫁いだもの。つまり、それは水神である龍神としての証が虹であったものが、火を使う狐の嫁入りと結び付いたのだと考える。
左手の「火(ひ)」と右手の「水(み)」を合わせて祈願するのは、五穀豊穣などが多い。豊かな土から作物が生れるのには、「火・陽」と「水」が不可欠となる。太陽は当然だが、火もまた陰陽五行において「火を以て土を生ず」とあるように、野焼きの様に豊かな大地に成る為には火も必要となる。阿蘇神社の神事も最終的には五穀豊穣を願ってのもの。狐の色は稲穂の実った色と同じ認識を持たれるのも、元を辿れば、その狐の嫁入りが阿蘇神社の神事に結び付いたのであろう。その阿蘇神社に嫁いだ瀬織津比唐ヘ、根源的な五穀豊穣に必要とされる存在として狐と結び付いたのは、当然の結果であったのだろう。 
 

 

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