小栗判官・照手姫・餓鬼阿弥

説経「小栗判官」小栗1小栗2小栗3小栗4小栗5小栗6
歌舞伎と障害者小栗伝説餓鬼阿弥蘇生譚小栗判官講読小栗判官口説き・・・
説経物語小栗判官説経節小栗判官1説経節小栗判官2小栗判官伝説
 

雑学の世界・補考   

説経「小栗判官」

小栗判官・深泥ケ池の大蛇
人の多く集まる社寺の前など街頭で、庶民相手に仏の教えを広めるために語られた物語、説経。そもそも説経とは読んで字のごとく経を説くこと。仏典を読み説くこと。 仏の教えをいかに一般の人々に伝えるか。教養のない庶民にお経を読んで聞かせても、それほど面白いものではありません。そこで庶民に対しては仏の教えを物語に仮託して伝えるという方法を取りました。「今昔物語集」などに収められている説話のなかには、おそらく平安時代に僧侶が説経したものが多く含まれているものと思われます。
室町時代に入ると、「小栗判官(おぐりはんがん)」「刈萱(かるかや)」「山椒太夫(さんしょうだゆう)」「しんとく丸」「愛護若(あたごわか)」のいわゆる五説経があらわれます。そのなかでも他を寄せつけないスケールの大きさを持つのが「小栗判官」です。
説経「小栗判官」の成立には、物語上に藤沢の上人(神奈川県藤沢市に時宗の総本山・清浄光寺(しょうじょうこうじ)があります。清浄光寺は別名 遊行寺(ゆぎょうじ))が登場することから、時宗(時衆)の念仏聖の関与があることは確実と思われます。鎌倉時代に興り、日本全土に熱狂の渦を巻き起こした浄土教系の新仏教「時衆(じしゅう。のちに時宗)」。その開祖・一遍上人(1239-89)は「わが法門は熊野権現夢想の口伝なり」と自ら述べています。
南北朝から室町時代にかけて、時衆の念仏聖たちは、それまで皇族や貴族などの上流階級のものであった熊野信仰を庶民にまで広め、老若男女庶民による「蟻の熊野詣」状態を生み出しました。
念仏聖たちは、「小栗判官」などの説経を通して、当時、業病とされていたライ病をも本復させる浄化力をもつ熊野の聖性を人々に伝えていったのでした。小栗判官の死と再生の物語は、中世の日本人の心に熊野の聖なるイメージを浸透させていきました。

この物語の由来を、詳しく尋ねると、国を申せば美濃の国(岐阜県南部)、安八(あんぱち)郡墨俣(すのまた)の、「垂井おなこと(たるいおなこと、未詳)」の神体は正八幡である。この荒人神(あらひとがみ)の御本地(元のお姿)を、詳しく説きたてて広め申すと、これもかつては人間でいらっしゃった。
ただの人間としての御本地を、詳しく説きたてて広め申すと、当時都に、一の大臣、二の大臣、三に相模の左大臣、四位に少将、五位の蔵人、七なむ滝口、八条殿、それから、一条殿、二条殿、近衛関白、花山の院、36人の公家・殿上人がいらっしゃる。公家・殿上人のそのなかの、二条の大納言とは私である。
名は兼家(かねいえ)という。小栗の母(兼家の妻)は常陸(茨城県)の源氏の流れ。家柄と地位は高いけれど、男子でも女子でも跡継ぎがなかったので、鞍馬の毘沙門天にお参りして、申し子の祈願をなさった。最後の夜の御夢想に三つ一緒になった有りの実(梨の実のこと)を賜ったという。ああおめでたいことだなあと、山海の珍物に土地の果物を調えて、たいそうお喜びになる。
御台所(兼家の妻)は、不動明王が教えた慈救喝(じくげ、呪文)の霊験あらたかに、七月の煩い、九月の苦しみ、当たる十月と申すように順調に、御産のひもをお解きになる。女房たちが参り、介抱申し、抱きとり、「男子か女子か」とお問いになる。玉を磨き瑠璃を延ばしたかのような美しい御若君でいらっしゃる。女房たちは「ああおめでたいことですねえ。須達のように富にも運にも恵まれた人物におなりなさい」と、産湯を取って差し上げる。肩の上に鳳凰、手の内の愛子(あいし 、愛児)の玉(子の誕生を祝う呪文か)。桑の木の弓と、蓬の矢で、「天地和合」とかけ声をかけ、四方を射払い申し上げる(男子が生まれたときの立身出世を予祝するまじない)。
屋敷に長く仕えている翁の太夫が参って、「この若君に御名を付けてさしあげましょう。なるほど本当に毘沙門天の御夢想に三つ成りの有りの実を賜ったというので、有りの実にこと寄せて、御名を有若(ありわか)殿」と、御名を奉る。この有若には、お乳(ち)が6人、乳母が6人、12人のお乳や乳母が預かり申し上げ、抱きとり、大事にしてお世話申し上げる。
かつての日本には、お祭りのときや社寺に参籠したときなどには誰とでも性交渉をしていいという風習がありました。 神前や仏前は神仏の力の及ぶ場所であり、人間の世界と神仏の世界、世俗の世界と聖なる世界との境界であると考えられていました。 そのため、人は神仏の前に立ったとき、世俗の世界から離れ、聖なる世界に入ることができたのです。 聖なる世界に入ったとき、人は世俗の縁から切れてしまいます。夫であるとか妻であるとか、そんな世俗の人間関係も切れます。 そのため、神仏の前では、人はただひとりの男として、ただひとりの女として、自由に誰とでもすることができたのです。
小栗判官は鞍馬の毘沙門天の申し子ですが、長いこと子供ができなかった夫婦が社寺に参籠して子供を授けられたということは実際にあることだったのでしょう。
神仏の前で夫以外の男性として子供をつくる。現代の常識で考えたら奇妙なことかもしれませんが、そうしてできた子供は神仏の霊力を身に付けていると考えられ、神仏の申し子として、神仏の世界につながっている人間として尊ばれたのだと思います。
年日が経つのは程もない。2、3歳はとうに過ぎて、7歳におなりになる。7歳の御時、父の兼家殿は有若に師の恩恵を付けてとらせようと、東山へ学問させに上らせるが、なんといっても鞍馬の申し子であるので、知恵の賢さはざっとこうだった。1字を聞けば2字、2字は4字、100字は1000字とお悟りになさるので、御山一番の学者だと噂されなさる。
昨日今日のこととは思うけれども、御年積もって18歳におなりになる。父 兼家殿は、有若を東山より申し下ろし、位を授けてとらせたくはございますけれども、父の家柄も地位も高いので、烏帽子親(元服の時、烏帽子をかぶらせ、烏帽子名をつける人)に頼める人がいないといって、八幡正八幡の御前にて、瓶子(へいじ 、とっくり)を一具取り出し、蝶花形(ちょうはながた、紙を蝶の形に折って瓶子の口を飾る。蝶は酒の毒を消すという俗信によるということです)で瓶子の口を包み、御名を常陸小栗殿と付け申し上げる。
御台所(小栗の母)は非常に喜ばれ、ならば、小栗に御台所(妻)を迎えてとらせようと、御台所をお迎えになるが、小栗は常軌に外れた人なので、いろいろ妻嫌いをなさった。背の高いのを迎えれば、深山の木のようだといって返される。背の低いのを迎えると、人の身の丈に足らぬとといって返される。髪の長いのを迎えると、蛇身のようだといって返される。顔の赤いのを迎えると、鬼神のようだといって、返される。色の白いのを迎えると、雪女を見ると興醒めもするといって返される。色の黒いのを迎えると、卑しい下種女のようだといって返される。返しては迎え、迎えては返し、小栗18歳の2月より21の秋までに、御台の数は合わせて、72人と聞こえなさる。 72人も妻をとっかえひっかえした小栗ですが、それでも小栗は満足しません。
小栗殿には、ついに定まった御台所がございませんので、ある日の雨中の退屈に、「さて私は鞍馬の申し子と承る。鞍馬へ参り決まった妻が現われることを祈願したい」と思い、二条の御所を出発して、市原野辺をの辺りで、漢竹の横笛を取り出し、8つの歌口(笛の穴 、吹口と指孔)をわずかに湿らし、翁が娘を恋うる楽、とうひらてんに、まいひらてん、ししひらてんという楽を、1時間ほど奏でた。
深泥池(みぞろがいけ)の大蛇は、この笛の音を聞き申し、「ああ素晴らしい笛の音ねえ。この笛の男の子を、一目拝みたいものだ」と思い、16丈(48m余)の大蛇は、20丈に伸び上がり、小栗殿を拝み申し、ああ素晴らしく美しい男の子だねえ。あの男の子と一夜の契りをこめたいものだと思い、大蛇は、年の頃を数えると16、7の美人の姫と身を変じ、鞍馬の初めの階段に、わけありげな顔つきで立っていた。
小栗はこの様子をご覧になって、これこそ鞍馬の利生といって、玉の輿に取って乗せ、二条の屋敷にお下向なされ、山海の珍物に土地の果物を調えて、たいそうお喜びになる。しかしながら「好事門を出ず、悪事千里を走る」「錐は袋を通す」といって、都の子供達が漏れ聞いて、二条の屋敷の小栗と、深泥池の大蛇とが、夜な夜な通い、契りをこめているとの風聞である。
父兼家殿はこれをお聞きになって、「いかに我が子の小栗だからといって、心の淫らな者は、都に安住は許されまい。壱岐・対馬へでも流そう」との仰せである。御台はこの由をお聞きになって、「壱岐・対馬へお流しなられたならば、また会うことは難しいこと。私の領地は常陸です。常陸の国にお流しください 。」
兼家はなるほどとお思いになり、母の領地に引き連れて、常陸の東条・玉造を支配する御所の流人とおなりになる。 72人も妻を代え、挙げ旬の果てに大蛇と契る、というとんでもないはみだし者、小栗。荒振る魂の持ち主が小栗でした。  
小栗判官・照手姫

 

常陸の国に流された小栗。
常陸三かの荘の諸侍たちは、あれこれと評議し、「あの小栗と申すのは、天より降ってきた人の子孫なので、京都と変わらず、奥の都でも」と大切にお守り申し、やがて御職務を差し上げる。小栗の判官ありとせはんと、大将におなし申し上げる。夜番・当番を厳しくて、毎日の御番は、83騎と聞こえなさる。
めでたかった折節、どこからとも知れぬ商人が一人参り、「何か紙か、板の物のご用は。紅や白粉、畳紙、ご香料としては、沈・麝香・三種、蝋茶とありますが、沈香のご用は」などと売っていた。 小栗はこれをお聞きになって、「商人が背負っているものは何だ?」とお問いになる。 後藤左衛門(商人の名)は承り、「さようでございます。唐の薬が1008品、日本の薬が1008品、2016品とは申しますが、まずこの中へは1000品ほど入れて、背負って歩くことにより、総称は千駄櫃(せんだびつ)と申すのです。」
小栗、これをお聞きになって、「これほどの薬の品々を売るのならば、国を巡らないことは絶対にあるまい。国をどれだけ巡った?」とお問いになる。
後藤左衛門は承り、「さようでございます。きらい・高麗・唐へは2度渡る。日本は3度巡った」と申すのである。
小栗このことをお聞きになって、まず名をお問いになる。 「高麗ではかめかへの後藤、都では三条室町の後藤、相模の後藤とは私である。後藤姓の付いた者は、3人しかございません」と、ありのままに申すのである。
小栗はこのことをお聞きになって、「姿形は卑しいけれども、心は春の花だな。小殿原(若い殿原。殿原は武士など男子の尊称)、酒をひとつ」との仰せである。
お酌に立った小殿原は、小声で申すには「のう、どうだ、後藤左衛門。これにある君にはいまだ決まった御台所がございませんので、どこかに器量のよい、すぐれた人があるならば、仲人いたせ。よい引き出物をくださるだろう」との仰せである。
後藤左衛門は、「存ぜぬと申したら、国を巡った甲斐もない。ここに、武蔵、相模、両国の郡代(統轄者)に、横山と申す者がいるが、男子の子は、5人までいらっしゃるが、姫君がいらっしゃらなくて、下野(しもつけ)の国の日光山に詣り、照る日月に申し子をなされたところ、6番目に姫君が生まれなさった。そのため、御名を照手(てるて)の姫と申すのである。 この照手の姫の、さて、姿形の立派さよ。姿を申せば春の花、形を見れば秋の月、両手10本の指までも、瑠璃を並べたごとくである。 赤い果実のような唇、鮮やかに笑んだときの歯茎の立派さよ。カワセミの羽のように艶やかな髪、黒くて、長いので、青黛(せいたい)の立板に香炉木の墨をすり、さっと書いたごとくである。
太液に比べたら、なおも柳は固いほどである。池の蓮の朝露に、梅雨がうち傾くのも、とうてい及ばない。あっぱれ、この姫こそ、この御所中の定まるお御台です」と、言葉に花を咲かせながら、弁説達者に申すのである。
小栗は、はや見ぬ恋に憧れて、「仲人申せや。商人」と、黄金十両取り出し、「これは当座の引き出物である。このことが叶ったならば、勲功は、望みにより褒美を与える」と仰せになった。
後藤左衛門は承り、「位の高いお人の仲人をいたそうなどとは恐れ多いとは存ずれど、へんへん申すくらいで、お手紙をお書きください」料紙と硯をさしあげる。
小栗は、格別にお思いになり、紅梅檀紙の、雪の薄様を一重ね、ひき和らげ、逢坂山の鹿の蒔絵の筆というものにこんるいの墨をたぶたぶと含ませ、書観の窓の明かりを受け、思う言の葉をさも立派にお書きになって、山形様ではないけれども、まだ待つ恋のことであるので、まつかいにひき結び、「さあ、後藤左衛門、手紙を頼むぞ」との仰せである。
後藤左衛門は「承ります」と、つづらの懸け籠にとくっと入れ、連尺(れんじゃく)をつかんで、肩に掛け、天を走る、地をくぐると、急いだので、ほどもなく、横山の館に駈け着いた。
下落ち(落縁か)に腰を掛け、つづらの懸け籠に薬の品々、乾(北西)の局にさしかかり、「何か紙か、板の物のご用は。紅や白粉、畳紙、ご香料としては、沈・麝香・三種、蝋茶とありますが、沈香のご用は」などと売っていた。
冷泉殿に、侍従殿、丹後の局に、あこうの前、7、8人いらっしゃって、「あら、珍しい商人だ。どこからやって来なさったのですか。何か珍しい商い物はないか」と、お問いになる。
後藤左衛門は承り、「珍しい商い物はございますが、それよりも、常陸の国の小栗殿の屋敷の裏の辻にて、さも立派にしたためた落とし文を、一通拾って持ってございますが、たくさんの手紙を見申し上げてございますが、このような上書の立派な手紙は、今までで初めてです。お受け取りいただけば、上臈様、古今、万葉、朗詠の歌の心でばしございますか。よければお手本にもなされ、悪ければ引き破り、お庭の笑い草にでもなされよ」と、たばかり、手紙を差し上げた。
女房たちは、たばかる手紙とは御存じなくて、さっと広げて、拝見する。
「ああおもしろいと、書かれている。上にあるは月か、星か、中は花、下には雨、霰と書かれたのは、これはただ、心の、狂気、狂乱の者か。筋道にない事を書いてあるよ」と、一度にどっとお笑いになる。
落とし文とは、誰かに拾われ、読まれることを期待して、道に落としておく手紙のことです。直接会って言えないことを手紙に書いて、伝えたい人が通る道の上に落としておきました。平安時代から鎌倉時代には行われていたようです。
七重八重、九重の 幔幕の内にいらっしゃる、照手の姫はお聞きになり、中の間までお忍び出ていらっしゃり、「のう、どうしたのです。女房たち、何をお笑いになったのですか。おかしいことがあるのならば、私にも知らせなさい」との仰せである。
女房たちはお聞きになり、「何もおかしいことはないけれども、ここにいる商人が、常陸の国の小栗殿の裏の辻にて、さも立派にしたためた落とし文を、一通拾って持っていると申すので、拾い所、奥ゆかしさに広げて拝見申せども、何とも読みがチンプンカンプンです。これをご覧くださいませ」と、元のようにおし畳み、御扇に据え申し、照手の姫にと、差し上げる。
照手はこれをご覧になって、まず上書をお褒めになる。
「天竺にては大聖文殊、唐土にては善導和尚、我が朝にては弘法大師の御筆跡をお習いになったのか。筆の立て所の立派さよ。墨つきなどの厳かであること。気品は、心も言葉も及ばない。文主は誰とも知らないけれども、文で人を死なすことよ」と、まず上書をお褒めになる。
「のういかに、女房たち、百様を知ったとしても一様を知らなければ、知って知らないということよ。争うことのありぞとよ。わからなければそこで聴聞せよ。さて、この文の訓読みをして聞かせましょう」
文の紐をお解きになり、さっと広げて拝見する。
「まず一番の書き出しに「細川谷の丸木橋」とも書かれているのは、この文を途中で止めないで最後まで読み通して返事を申せと、読もうかの。「軒の忍」と書かれたのは、たうちうのうれほどに少しも待つことができないと、読もうかの。 「野中の清水」と書かれたのは、このこと、人に知らせるな、心の内でひとり済ませよと、読もうかの。「沖漕ぐ舟」とも書かれたのは恋いこがれているぞ、急いで着けいと、読もうかの。 「岸うつ波」とも書かれたのは、乱れてもの思いをしていると、読もうかの。「塩屋の煙」と書かれたのは、さて浦風が吹くならば一夜はなびけと、読もうかの。 「尺ない帯」と書かれたのは、いつかこの恋成就して結びあおうと、読もうかの。「根笹に霰」と書かれたのは、触れたら落ちよと、読もうかの。 「二本すすき」と書かれたのは、いつかこの恋が穂に出て(表に現われて)乱れあおうと、読もうかの。「三つの御山」と書かれたのは、申したならば願い叶えよと、読もうかの(三つの御山とは熊野三山のこと)。 「羽ない鳥に、弦ない弓」と書かれたのは、さてこの恋を思うようになって、立つも立たれず、射るも射られないと、読もうかの。
さて最後までも、読むこともあるまい。が、ここに一首の奥書がある。恋する人は、常陸の国の小栗である。恋される者は、照手であることよ。ああ、こんな文は見たくもない」と、二つ三つに引き破り、御簾から外へふわっと捨て、簾中深くお忍びになる。
これまで多くの男から恋文を届けらても、一切読まずに破り捨ててきた照手姫。 それが、後藤左衛門の謀により、どこの馬の骨とも知らぬ男からの自分宛の恋文を読ませられてしまいます。照手姫は、腹立たしさに手紙を引き破り、御簾の奥に隠れてしまいました。
女房たちはご覧になって、「それ言わないことじゃないか。ここにいる商人が大事な人(照手姫)に、文の使いを頼まれていたすとは。番人はいないか。あの男を処罰しなさい」との仰せである。
後藤左衛門はそれを聞き、さあとんでもないことになったとは思ったけれども、「男の心と内裏の柱は大きくて太くあれ」と申す喩えのありますように、上手くいかないまでも脅かしてみようと思い、連尺をつかんで、白州(白い砂の敷いてある所)に投げ、自身は広縁に躍り上がり、板を踏み鳴らし、かんきょ(「観経」か 、観経は「観無量寿経」の略称)を引用して脅かしなさった。
「のうのう照手の姫、どうして今の文をお破りなさったのか。天竺にては大聖文殊、唐土にては善導和尚、我が朝にては弘法大師の御筆跡は、しめの筆の手なので、1字破れば仏1体、2字破れば仏2体。今の文をお破りなさって、弘法大師の20の指を食い裂き、引き破ったのにさも似ている。あら恐ろしい、照手の姫の後の業はどうなるでしょう」と、板を踏み鳴らし、かんきょを引いて脅かしたのは、檀特山(だんとくせん 、北インドにある山。釈迦がここで修行した)の釈迦仏のご説法とは申すとも、これにはどうして勝るでしょう。
照手の姫は、これをお聞きになって、もうしおしおと、おなりになり、 「武蔵・相模両国の殿原たちの方からの、たくさんの手紙が来たのも、これも食い裂き、引き破ったが、それも照手の姫の後の業となるのだろうか、悲しいことだ。ちはやぶるちはやぶる神も、鑑みてご覧になってください。知らぬ間のことはお許しくださいませ。。明日は父横山殿、兄殿原たちに漏れ聞こえ、罰を受けるとしても、どうしようもありません。今の文にお返事申そうの。侍従殿」
侍従はこれを承って、「その儀でございましたら、手紙をお書きなさいまし」と、料紙、硯を差し上げた。
照手は、格別にお思いになり、紅梅檀紙の、雪の薄様を一重ね、ひき和らげ、逢坂山の鹿の蒔絵の筆というものにこんるいの墨をたぶたぶと含ませ、書観の窓の明かりを受け、思う言の葉をさも立派にお書きになって、山形様ではないけれども、まだ待つ恋のことであるので、まつかわ様(よう)に引き結び、侍従殿にとお渡しになる。
侍従はこの文を受け取って、「やあ、後藤左衛門、これは先の手紙のお返事よ」と、後藤左衛門にお与えになったのである。
後藤左衛門は「承ります」と、つづらの懸け籠にとくっと入れ、連尺をつかんで、肩に掛け、天を走る、地をくぐると、急いだので、ほどもなく、常陸小栗殿の館に駈け着いた。
小栗はこれをご覧になって、「やあ、どうだ、後藤左衛門。手紙のお返事は」との仰せである。後藤左衛門は、「承けたまわっております」と、御扇に据え申し、小栗殿にと、奉る。
小栗はこれをご覧になって、さっと広げて、拝見する。 「ああ面白いことが書かれている。「細谷川に、丸木橋の、その下でふみ、落ち合うのがよい」と書かれたのは、これはただ一家一門は知らずして、姫ひとりが了承したと見える。一家一門は知ろうと知るまいと、姫の了承こそ肝要である。早く婿入りしよう」との詮議である。
御一門は、お聞きになり、 「のう、小栗殿。上方と違って、この東国では、一門が知らぬでは、そのなかへ、婿入りすることはできません。今一度、一門の御中へ、使者ををお立てください」
小栗はこれをお聞きになり、「なに、大剛の者が使者など必要あろうか」と、究竟の侍を1000人選り、1000人のその中を500人に選り、500人のその中を100人に選り、100人のその中を10人に選り、我に劣らぬ、異国の魔王のような殿原たちを10人召し連れて、「やあ、後藤左衛門。いずれにせよ道中の案内いたせ」と、おっしゃった。
後藤左衛門は、「承ってございます」と、つづらを我が宿に預け置き、網笠を目深にかぶって、道中の案内をつかまつる。
小高いところへさし上がり、「ご覧ください。小栗殿。あれにある棟門の高い御屋形は父横山殿の御屋形。これに見えている棟門の低いのは5人の御子息の御屋形。乾(北西)の方の主殿造りこそ、照手の姫の局です。門内にお入りになるそのときに、番衆が誰かと咎めたならば、いつも参る御来客を存ぜぬかとお申しすれば、さして咎める人はございますまい。もうこれにてお暇申します」というので、小栗はこれをお聞きになり、かねてからの御用意のことなので、砂金百両に、巻絹百疋、奥州の馬を添えて、後藤左衛門に引き出物をお与えになる。後藤左衛は引き出物を給わって、大いに喜んだ。
11人の殿原たちは門内にお入りになる。番衆は「誰か」と咎める。小栗はこれをお聞きになり、大の眼に門を立て、「いつも参る御来客を存ぜぬか」とお申しになると、咎める人はいない。11人の殿原たちは乾の局にお移りになる。
小栗殿と姫君を、ものによくよく譬えれば、神ならば、結ぶの神、仏ならば、愛染明王、釈迦大悲、天にあれば、比翼の鳥(雄雌それぞれ目と翼がひとつずつで、常に一体となって飛ぶという、中国の想像上の鳥)、偕老同穴(夫婦が仲良く長生きし、死んでも、一緒に葬られること)の語らいも縁浅くあるまい。鞠、ひようとう、笛太鼓、七日七夜の吹き囃しでお祝いになった。心、言葉も及ない。  
小栗判官・人喰い馬

 

照手の元に強引に婿入りした小栗でしたが・・・
このこと、父横山殿に漏れ聞こえ、5人の御子息を御前にお呼びになり、「やあ、いかに、嫡子のいえつぐ、乾の方の主殿造りへは、初めてのお客人が来たとのことだが、汝は存ぜぬか」との仰せである。
いえつぐは、これをお聞きし、「父上さえ御存じないことを、それがしが存じているはずがありません」と申し上げる。
横山はたいそう腹を立て、「一門が知らぬ、そのなかへ押し入って婿入りした大剛の者、小栗を、武蔵・相模の七千余騎を集めて、討とう」との評定である。
いえつぐは、これをお聞きし、烏帽子の招(まねき。烏帽子の前方上部)を地に着けて、涙をこぼして申される。 「のういかに、父の横山殿、これは譬えではございませんが、鴨は寒じて水に入る、鶏は寒うて木へ登る、人は滅びようというとき、まえない心が猛くなる、油火は消えそうなとき、なおも光が増すとか申します。 あの小栗と申す者は、天より降りてきた人の子孫であるので、力は八十五人力、荒馬乗りの名人とか。十人の家来たちもそれの劣らず、異国の魔王のようであるとか。武蔵・相模の七千余騎を集めて、小栗を討とうとなされても、たやすく討つことはできますまい。 父横山殿様は御存じない振りをして、婿にもお取りなされ。それはなぜかと申しますと、父横山殿様がどこへなりとも御陣立ちなさるその折は、よい弓矢の味方になるではございませんか。父横山殿」との教訓である。
横山はこれをお聞きになって、「今まではいえつぐは小栗を存ぜぬとと申していたが、すっかり許しているように見える。見るとなかなか腹も立つ。失せろ」との仰せである。
三男の三郎は父御の目の色を見申し上げ、 「もっともでございます。父御様。それがしが考え出した計画がございます。まず明日になってから、婿と舅の対面といって、乾の局へ使者をお立てください。大剛の者ならば、怖れず、臆せず、はばからず、御出仕申しましょう。
その折に、一献過ぎ、二献過ぎ、五献過ぎて、その後に、横山殿が「なにか、都のお客人、芸をひとつ」とお申しあるものならば、それ、小栗は「なにがしの芸には、弓か、鞠か、包丁さばきか、力業か、早業か、盤の上の遊び(碁や将棋、すごろくなど)か、どれでも御注文あれ」と申しましょう。
そのときに、横山殿が「いや、それがしはそのようなものは好かず、奥州より捕まえたばかりの馬を一匹もっております。ただ一馬場、乗りこなしてみせていただきたい」と御所望あるものならば、普通の馬と心得て、引き寄せ乗りましょう、その折にかの鬼鹿毛(おにかげ)がいつもの人秣(ひとまぐさ。餌になる人。鬼鹿毛は人を喰う)が入れられたと心得、人秣を食むものならば、太刀も刀もいらないでしょう。父横山殿」と申すのである。
横山はこれをお聞きになり、「よくも謀をめぐらした。三男よ」と、乾の局へ使者が立つ。
小栗は、舅との対面の話をお聞きになり、上よりお使いを承けたまわらずとも、御出仕申そうと思っていたが、お使いをいただいて、めでたいと、肌には青地の錦をお付けになり、かうまきの直垂(ひたたれ 、室町時代以降は武士の礼服)に、刈安様(かりやすよう、黄色の染)の水干(すいかん、衣服名)に玉の冠をお付けになり、十人の家来たちも都様に、さも立派に身支度をして、幕をつかんで投げ上げ、座敷の様子を見てみると、小栗を重んじていると見える。一段高く左座敷にお座りになる。横山八十三騎の人々も千鳥掛けに(左右互い違いに)並ばれている。
一献過ぎ、二献過ぎ、五献過ぎて、その後に、横山殿が「なにか、都のお客人、芸をひとつ」との所望である。小栗はこれをお聞きになり、「なにがしの芸には、弓か、鞠か、包丁さばきか、力業か、早業か、盤の上の遊び(碁や将棋、すごろくなど)か、どれでも御注文あれ」との仰せである。
横山はこれをお聞きになり、「いや、それがしはそのようなものは好かず、奥州より捕まえたばかりの馬を一匹もっております。ただ一馬場、乗りこなしてみせていただきたい」と所望する。
小栗はこれをお聞きになり、ずんと立ち、座敷の中から厩にお移りになる。このたびは異国の魔王が蛇に綱を付けたものでも、馬だというならば、一馬場は乗りこなさねばなるまいとお思いになり、厩の馬丁、左近の尉を御前にお呼びになり、四十二間の名馬のその中を、あれかこれかとお問いになる。
「いや、あれでもなし、これでもなし」。そこではなくて堰から八町(一町は約109m)隔てた萱野を目指して御供する。
左手と右手の萱原を見てみると、かの鬼鹿毛がいつも食み置いている死骨白骨、黒髪は算木を乱したようである。十人の殿原たちはご覧になって、「のういかに、小栗殿。これは厩ではなくて、人を送る野辺(葬送場)か」と申される。
小栗はこれをお聞きになって、「いや、これは人を送る野辺ではない。上方と違い、奥方には鬼鹿毛があると聞く。それがしが押し入って婿入りしたのを怒って、馬の秣にして食わせようとするのだ、けなげなことよ」と、遠くをきっとご覧になる。
かの鬼鹿毛がいつもの人秣が入ってきたと心得、前足で土を掻き、激しい鼻息は雷鳴のようである。小栗はこれをお聞きになって、厩の様子をご覧になる。 四町かいこめ、掘りを掘らせ、山出し、八十五人ばかりで持ちそうな楠の柱を左右に八本、どうどうとより込ませ、真柱と見えたのには三人で抱きかかえるほどの太さほどありそうな栗の木の柱をどうどうとより込ませ、根引きにさせて、かなわじと、たくさんの貫、枷を入れられていた。 鉄の格子を張って、貫をさし、四方八つの鎖で馬を繋いだこの厩、冥土の道で評判の無間地獄の構えとやらも、これにはどうしてまさろうか。
小栗はこの様子をご覧になって、愚か者と夏の虫は飛んで火に入る(自ら、危険に身をさらす)。笛の音を妻と思って寄ってきた秋の鹿は、妻のためにその身を果てるが、今こそ、この小栗にもその思いが知られる。小栗は奥方で妻のために馬の餌として喰われたなどとなったら、都への人聞きも恥ずかしい。是非をもさらにわきまえず。
十人の殿原たちはご覧になって、「のういかに、小栗殿。あの馬にお乗りなさい。あの馬が御主の小栗殿を少しでも喰おうと見えたら、畜生とて許すまい。鬼鹿毛の首を一刀ずつ仕返しをして、さてその後は横山の遠侍へ駈け入り、目釘のつづくかぎり防ぎ戦いして、三途の大河を、敵も味方も入り乱れて、にぎやかに御供申すものならば、何の面倒があろうか」
われ引き出そう、人引き出そうと、ただ一筋に思いきった矢先にはいかなる天魔鬼神も留まりようはない。
小栗はこれをお聞きになり、「あのような大剛の馬にはただ力業では乗られぬ」と、十人の殿原たちを厩の外へ押し出し、馬に宣命をよく言い含めた。
「やあいかに鬼鹿毛よ。汝も生あるものならば、耳を振り立てよく聞け。他の馬と申すものは、普通の厩に繋がれて、人が食わせる餌を食って、人に従い、尊い思案をし、門外に繋がれては、経念仏を聴聞し、後生大事と心がけるのに、鬼鹿毛といえば人を秣として食うと聞く。それは畜生の中での鬼ではないか。人も生あるものなれば、汝も生あるものぞ。生あるものが生あるものを喰っては、さて後の世をどう思うのか、鬼鹿毛よ。 それはともかくも、この度はひとつ面目を施すために一馬場乗せてくれ。一馬場乗せてくれるものならば、鬼鹿毛が死してその後に、黄金御堂と寺を立て、鬼鹿毛の姿を真の漆で固めて、馬頭観音として祀ってやろう。馬は馬頭観音の化身であり、牛は大日如来の化身である。鬼鹿毛、どうだ?」とお問いになる。
人間は見知り申し上げないが、鬼鹿毛は、小栗の額に「よね」という字が三行坐り、両目に瞳が四体あるのを確かに拝み申し上げ、前膝をかっぱと折り、両目から黄色い涙をこぼしたのは、人間ならば、乗れと言わんばかりである。
「米(よね)」は菩薩の異称で、「米」の字は「八十八」と読める形をしているのでめでたい文字だとされるそうです。これが額に3つ並んだり、1つの眼に瞳が2つあったりするのは、その人物がただ者ではないことの証なのでしょう。ただし、その証は普通の人には見えません。 同じ説経の「山椒太夫(さんしょうだゆう)」の主人公、厨子王(ずしおう)もまた「米」の字が額に3つ並び、1つの眼に2つの瞳をもっています。
小栗はこの様子をご覧になって、さては乗れとの志か、乗ろうとお思いになり、厩の別当、左近の尉を御前にお呼びになり、「鍵をくれ」との仰せである。 左近はこれをお聞きし、「のういかに、小栗殿。この馬は昔繋いで、その後、出すことがないので、鍵は預かっていません」と申し上げた。
小栗はこれをお聞きになって、ならば、馬に力のほどを見せてやろうとお思いになり、鉄の格子にすがりつき、「えいやっ」とお引きになると、錠、肘金はもげてしまった。閂(かんぬき)をとってそこらに置き、呪文をお唱えになると、馬に癖はなかった。
左近の尉を御前にお呼びになり、「鞍、鐙(あぶみ、鞍の両脇に垂れて人が左右の足をかけるもの)」とお乞いになる。左近の尉は「承ってございます」と、他の馬の金覆輪に手綱二筋縒り合わせ、とうりょうの鞭を添えて差し上げた。
小栗はこれをご覧になって、「このような大剛の馬には金覆輪は合わぬ」と言って、当座の曲乗りには、肌背に乗ってみせようとお思いになり、とうりょうの鞭だけお取りになって、四方八つの鎖をも一所に押し寄せて、「えっやっ」とお引きになると、鎖もはらりともげてしまった。
この鎖を手綱に縒り合わせ、真ん中を駒にかんしと噛ませ、駒を引っ立てて、褒められた。
「脇腹は三寸肉が余って、左右の面顔には肉もなく、耳は小さく分け入って、八軸のお経を二巻取って、きりきりと巻き据えたがごとくである。 両目は照る日月の、灯火の輝くごとくである。鼻の穴は千年を経た法螺貝を二つ合わせたごとくである。須弥の髪(しめのかみ。馬のたてがみで、首より肩に続く毛)のみごとさよ、日本一の山菅を、もとを揃えて、一鎌刈って、谷嵐に一揉み揉ませ、ふわっとなびいたごとくである。 胴の骨のありさまは、筑紫弓のじょうばりが弦を恨み、一反り反ったがごとくである。尾は山上の滝の水がたぎりにたぎって、どうどうと落ちるがごとくである。後ろの股は、たうのしんとほんとはらりと落とし、盤の上に二面並べたごとくである。 前脚のありさまは、日本一の鉄に、有所に節をすらせつつ、作りつけたごとくである。この馬は、昔繋いで、その後に、外に出ることがなかったので、爪は厚くて、筒が高い。他の馬が千里を駈けるとも、この馬にはついていきようもない」
このようにお褒めになって、厩から馬を出すのに鞭をしっとと打ち、 堀の船橋をとくりとくりと乗り渡し、この馬が進みに進んで出る様子をものによくよく譬えると、竜が雲を引き連れ、猿が梢を伝い、荒鷹が鳥小屋を破って雉に会うがごとくである。 八町の萱原をさっくと出てはしっとと止め、しっとと出てはさっくと止め、馬の性はよかった。十人の殿原たちはあまりのことのうれしさに五人ずつ立ち別れ、声をあげてお褒めになった。
横山八十三騎の人々は、今こそ小栗の最期を見ようと、我先にと進めたけれども、「これはこれは」とだけで、もの言う人もまったくない。
三男の三郎はあまりのことのおもしろさに十二段のはしごを取り出し、主殿の屋端(やはな)へ差し掛けて、腰の御扇で、これへこれへと賞翫する。
小栗はこの様子をご覧になって、いずれにしてもかくなる上は乗ってみせたいものだとお思いになり、四足を揃え、十二段のはしごをとっくりとっくりと乗り上げて、主殿の屋端を駈けつ返しつお乗りになって、まっ逆さまに乗り降ろす。岩石降ろしの鞭の秘伝。
いえつぐはこの様子を見て、「四本がかり」と所望された。四本がかりの松の木へとっくりとっくりと乗り上げて、まっ逆さまに乗り降ろす。岨(そば、山道で崖が切り立った所)づたいの鞭の秘伝。障子の上に乗り上げて、骨をも折らさず、紙をも破らないのは、沼渡しの鞭の秘伝。碁盤の上の四つ立て(碁盤の上に馬の四つの足を揃えて乗せること)などもとっくりとっくりとお乗りになって、鞭の秘伝と申すは、立鼓そうこう、蹴上げの鞭、あくりう、こくりう、せんたん、ちくるい、めのうの鞭。
手綱の秘伝と申すは、さしあい、浮舟、浦の波、とんぼう返り、水車、鷸(しぎ)の羽返し、衣被(きねかずえ)、ここと思った鞭の秘伝、手綱の秘伝をお尽くしになるので、さすがの鬼影と申せども、勝る判官殿に胴の骨をはさまれて、白泡を噛んで、立っていた。
小栗殿は、汚れてはないけれども、裾の塵をうち払い、三かいばかりありそうな桜の古木に馬を引き繋ぎ、もとの座敷にお直りになる。
「のう、いかに、横山殿。あのような乗り心地のよい馬があるならば、五匹も十匹も婿引き出物にくださいな。朝夕、乗り馴らしてさしあげましょう」と、お申しになると、横山八十三騎の人々は何もおかしいことはないけれども、苦笑いというもので一度のどっとお笑いになった。
馬の法命(不思議な力)が起こったのだろうか、小栗殿の御威勢であろうか、三かいばかりありそうな桜の古木を根引きに、くっと引き抜いて、掘三丈(1丈はおよそ3m)を飛び越え、武蔵野に駈け出ると、小山の動くがごとくである。
横山はこの様子をご覧になって、今は都からの御客人に手を揉んで懇願しなくてはどうにもならぬとお思いになって、「のう、いかに都の御客人。あの馬を止めてください。あの馬が、武蔵・相模両国に駈け入るものならば、人はみな喰われて絶えてしまうでしょう」と仰せである。
小栗はこれをお聞きになって、そのような人の手に余る馬など飼わねばよいのにとは申し上げたくはございましたが、それを申せば、なにがしの恥辱であるとお思いになり、小高い所へさし上がり、芝繋ぎという呪文(立木のない芝地に馬をつなぎ止める呪文)をお唱えになると、雲を霞に駆けるこの馬が、小栗殿の御前に参り、諸膝を折って、敬った。
小栗はこれをご覧になって、「なんじは豪儀なことをいたすことよ」と、もとの御厩へ乗り入れて、錠肘金をとっくと下ろして、さてその後、照手の姫を御供になされて、常陸の国へお戻りなさるものならば、末はめでたかろうものを、また、乾の局にお移りになったのは、小栗の命運尽きた次第である。
小栗判官・小栗の最期

 

横山八十三騎の人々は一ケ所へお集まりなって、あの小栗と申する者を馬で殺そうとしたけれど、殺すことができず、ああしようかこうしようかとお思いなされるが、三男の三郎は後の功罪は知らないで、 「のういかに、父の横山殿。それがしがいま、ひとつ考え出した計画がございます。まず明日になってから、昨日の馬の御辛労分とお思いになり、蓬莱の山を組み立て(祝い事のとき、松竹梅や鶴亀などを飾って、神仙の住むという想像上の島、蓬莱山をかたどったものを組み立てる)、いろいろの毒を集め、毒の酒をつくりあげ、横山八十三騎の飲む酒は、初めの酒の酔いが醒める不老不死の薬の酒、小栗十一人に盛る酒は、なにか七ふつの毒の酒をお盛りになるものならば、いかに大剛の小栗であるといっても、毒の酒にはよもや勝つまいの、父の横山殿」と、教訓した。
横山はこれをお聞きになって、「いしう計画した、三男であるよ」と、乾の局に使者が立つ。小栗殿は、一度めのお使いには了承しなかった。二度めのお使いには御返事しなかった。以上お使いは六度立つ。七度めのお使いには、三男の三郎殿のお使いである。
小栗はこれをご覧になって、「御出仕申すまいとは思うけれども三男の三郎殿のお使い、何よりも喜ばしい。御出仕、申そう」と、申し上げなさったのは、小栗の運命が尽きた次第である。人は、運命尽きそうになると、智慧の鏡もかき曇り、才覚の花も散り失せて、昔から今に至るまで、親より、子より、兄弟より、妹背夫婦の、そのなかに諸事の哀れを留めている。
ああ、いたわしい照手の姫は夫の小栗のところへいらっしゃって、
「のういかに、小栗殿。今当代の世の中は、親が子をたばかれば、子はまた親に楯を突く。さても、昨日の鬼鹿毛にお乗りあれとあるからは、御覚悟ないかの、小栗殿。さて、明日の蓬莱の山の御見物、お止めになってくださいませ。さて、私がお止めになってくださいと申し上げるのに、それに御承諾してくださらないのならば、夢物語を申しましょう。
さて、私共には七代伝わった唐の鏡がございますが、私の身の上にめでたいことがある折は表が常体に拝まれて、裏には鶴と亀とが舞い遊ぶ。中で千鳥が酌を取る。また、私の身の上に悪いことがある折は表も裏もかき曇り、裏では汗をおかきになる。このような鏡でございますが、さて、過ぎた夜のその夢に、天より鷲が舞い降りて、宙にて三つに蹴り割って、半分は奈落をさして沈み行く。中は微塵と砕け行く。さて、半分の残ったのを天に鷲がつかんでいると、夢に見た。
二度めの夢には、小栗殿様の常陸の国より常に御重宝なされた九寸五分の鎧通しが鍔元からずんと折れ、御用に立たぬと夢に見た。三度めの夢に小栗殿様の常に御重宝なされた村重籐の御弓も、これも鷲が舞い降り、宙にて三つに蹴り折って、本弭(もとはず)は奈落をさして沈み行く。中は微塵と折れて行く。さて、末弭(うらはず)の残ったのを、小栗殿の御ためにと上野が原(うわのがはら。不詳。神奈川県藤沢市今田町上原をいうか)に卒塔婆に立つと、夢に見た。
さて、過ぎた夜のその夢に、小栗殿原十一人はいつもの衣装を召し替えて、白い浄衣に様を変え、小栗殿様は葦毛の駒に逆鞍を置かせ、逆鐙をかけさせ、後と先とには御僧たちを千人ばかり供養して、小栗殿のしるしに、幡、天蓋をなびかせて北へ北へとお進みなさるのを、照手はあまりの悲しさに跡を慕って追い申し上げようとすると、横障の雲に隔てられて見失ったと、夢に見た。
さて、夢でさえ、夢でさえ、心乱れて悲しいのに、万一この夢が当たるならば、照手はなにとなろうぞよ。さて、明日の蓬莱の山の門出に悪い夢ではございませんか。お止めになってくださいませ」

かつての日本人は、夢をとても大切なものだと考えていました。 夢は、うつつの人間に対して神仏がなんらかのメッセージを伝える場である。そのように、かつての日本人は考えていました。これは日本だけの話ではなく、おそらく世界中のあらゆる地域の人々が夢をそのようなものとして捉えていたものと思われます。
夢は神仏のメッセージをいただく場であり、神仏は夢を通じて人の前に現われました。 夢は神仏のお告げであり、ある種の宗教体験だったのです。 後白河上皇は、「梁塵秘抄」の口伝集に、熊野に参籠して、夢うつつのなか、神秘的な体験をしたときのことを記しています。
時衆の開祖・一遍上人は熊野本宮に参籠し、熊野権現から夢告を受けます。この夢告が一遍の信仰の実践における基礎となりました。一遍上人自らが「わが法門は熊野権現夢想の口伝なり」と述べています。 また、神仏のお告げである夢は、未来を予告することもありました。
「平家物語」にも、未来を予告する夢がたびたび出て来ます。
鹿の谷事件で鬼界ケ島に流罪となった平康頼は、熊野権現に帰洛のことを祈り続け、夢のなかで、二、三十人の女房が「よろづの仏の願よりも 千手の誓ぞたのもしき 枯れたる草木も忽ちに 花さき実なるとこそ聞け」と歌うのを聞く。目が覚めた康頼は、願いが聞き入れられたのを確信する(卒塔婆流しの事)。 その夢告通り、康頼は赦免され、都に帰ることができました。
平清盛が安芸守であったときのこと、厳島に参詣して通夜したとき、夢のなかで天童に「私は大明神の御使いである。汝はこの剣をもって、朝家の御堅めとなれ」と小長刀を賜った。目覚めてみると、本当に枕元に刀が置いてあった(大塔建立の事)。 この夢告通り、清盛は、後白河上皇のお気に入りとなり、武家出身でありながら、全官職中最高位で「天皇の師範」と規定される太政大臣にまで登りつめました。
平重盛が亡くなる数カ月前に見た夢のこと。重盛は浜辺の道を歩いていると、大きな鳥居を見つけた。「あれはどんな鳥居か」と問うと、「春日大明神の鳥居である」との答え。その鳥居に人々が群れ集まっていた。そのなかから太刀に貫かれた大きな法師の首が高々と差し上げられているのを見て、「何者の首か」と問うと、「平家の太政大臣入道殿があまりの悪行をなさったために、当社大明神が召し取ったのである」との答えを聞いた。目が覚めた重盛は平家一門の運命はすでに尽きたと思い、涙を流した(無文の沙汰)。
この後、重盛は熊野を詣で、病にかかり、亡くなりました。清盛も病没、平家一門も滅びてしまいます。 このように夢が未来を予告するものであるとして、しかし、夢にはわかりにくいものも多いですよね。単純な夢はそのまま受け取ればいいとして、わかりにくいものはどうすればいいのか。
夢を解釈することが必要になります。もちろん、ただ適当に解釈すればいいというものではない。夢と同じくらい夢判断も大切なもので、夢判断により未来の運命が左右されると考えられました。
「宇治拾遺物語」には、いい加減な夢判断により、吉兆であった夢がその過った夢判断に引きずられ、災わいを呼び寄せてしまった話が載せられています。
伴大納言善男が佐渡の国の郡司の従者であったときのこと、西大寺と東大寺をまたいで立つ夢を見た。それを妻に語ると、妻は「あなたの股が割かれてしまうのでしょう」と夢合わせ(夢判断)した。一方、優れた占い師であった主の郡司は、「汝はやんごとなき高相の夢を見た。しかし、しようもない人に語ってしまったことよ。必ず大位には至るが、事が起きて、罪を被るだろう」と述べた。その郡司の言葉通り、伴善男は大納言にまで至ったが、罪を被った。
夢から未来を知るには専門的な知識を持った人物による正しい夢判断が必要なのです。
「今昔物語集」には、悪夢を夢判断の専門家的知識を有する陰陽師に占わせて、危難を予知、難を避けることに成功した男の話が載せられています。
ある男が悪夢を見た。同宿していた陰陽師・弓削是雄(ゆげのこれお)に吉凶を占わせたところ、弓削是雄は「家には汝を殺害しようとする者がいる」と占った。弓削是雄は男に難を避けるための知恵を授け、男はその指示に従い、殺害しようとする者を捕らえ、難を避けることができた。

さて、話は「小栗判官」に戻って、夢はこのように未来を暗示するものだと考えられましたから、幾度も不吉な夢を見た照手姫が不安に駆られるのも当然なことでした。
小栗はこれをお聞きになって、女が夢を見たといって、招かれた場所へ参らないわけにはいかないとお思いになり、そうではあるけれども気には懸かると、直垂(ひたたれ)の裾を結び上げ、夢違え(ゆめたがえ)の呪文に、
唐国や、園の矢先に、鳴く鹿も、ちが夢あれば、許されぞする
このように詠じ、小栗殿は肌に青地の錦を召して、かうまきの直垂に、刈安色の水干に、わざと冠は召さないで、十人の殿原たちも、都風にご立派に身支度して、幕をつかんで投げ上げ、もとの座敷にきちんとお坐りになる。横山八十三騎の人々も千鳥掛けに並ばれた。 さしもの小栗も、照手の不吉な夢には不安を覚えたのでしょう、「夢違え」の呪文を詠じてから、横山の招きに応じました。夢違えとは、不吉な夢が現実にならないようにするためのまじないです。
一献勧め、二献勧め、五献勧められるが、小栗殿は、「さて、私は、今日は来宮(きのみや)信仰、酒断酒(さかだんしゅ)」と申して、まったく盃に口をつけない。
来宮(きのみや)は、木宮・季宮・黄宮などとも書かれ、西相模から伊豆全体に広く行われた信仰です。この信仰にともなう習俗として特徴的なのは、飲酒と捕鳥を禁じること。これを「酒小鳥精進」あるいは「来宮精進」といいます。
横山は、これを御覧になって、坐っていた座敷をずんと立ち、あの小栗と申する者は、馬で殺そうとすれど殺されず、また酒で殺そうとすれば酒を飲まないので、仕様がない。ああしようか、こうしようかとお思いなさるが、「ここに思い出したことがあります」と、実もない法螺貝を一対取り出し、碁盤の上にどうと置き、「御覧あれ、小栗殿。武蔵と相模は両輪のごとく、武蔵でも相模でも、この貝飲みに入れて、半分、分けてさしあげ申そう。これを肴となされ、ひとつ召し上がりくださいな。今日の来の宮信仰、酒断酒は私が負い申す」と、立って、舞を舞われた。
小栗はこれを御覧になって、横山殿が私に所領を添えてお与えになるというからには何のさしつかえがあろうかとひとつだんぶと盃を手にお取りになると、下座まで盃が行き渡った。
武蔵でも相模でも半分与えるからとの誘いに乗る小栗。そこまで言われたら飲むしかないのでしょう。
横山はこれを御覧になって、よい隙間よと心得て、二口銚子(ふたくちちょうし。両側にひとつずつ口がついている銚子。中に隔てを作って、酒と毒酒を分けて入れることができる)を出した。中を隔てて酒を入れてあるので、横山八十三騎の飲む酒は初めの酒の酔いが醒める不老不死の薬の酒、小栗十一人に盛る酒はなにか七ぶすの毒の酒であるので、「さて、この酒を飲むと、身にしみじみと沁むよ、さて、九万九千の毛筋穴、四十二双の折骨や、八十双の関節の骨までも離れて行けと、沁むよ、さて、はや、天井も大床もひらりくるりと、舞うよ、さて、これは毒ではあるまいか、お覚悟あれや、小栗殿。君の奉公は、これまで」と、これを最期の言葉にして、後ろの屏風を頼って後ろへどうと転ぶ者もあり、前へかっぱと伏す者もある。
小栗殿は左手と右手とはただ将棋を倒したごとくである。小栗殿はさすが大将だけのことはある。刀の柄に手を掛けて、「のういかに、横山殿。それ、憎い弓取りを太刀や刀は使わずに、詰め寄って腹も切らせずに、毒で殺すか、横山よ女のようなやり方をなさるな。出てこられよ。刺し違えて果たそうぞ」と、刀を抜こう、斬ろう、立とう、組もうとはなさるけれど、心ばかりは高砂の松の緑と勇めども、次第に毒が身に沁みると、五輪五体が離れ果て、さて今生へと行く息は、屋棟を伝う蜘蛛の糸を引き棄てるかのごとくである。さて冥土へと引く息は三つ羽の征矢を射るよりもはるかに速く思われた。
冥土の息が強いので、惜しむべきは年のほど、惜しまれるべきは身の盛り。御年積もり満二十一を、一期となさり、朝の露とおなりになる。
横山はこれを御覧になって、今こそ気が晴れた。これも名のある弓取りなので、博士(占い師)を用いて、お問いになる。博士が参り、占うには、「十人の殿原たちは、御主のための非業の死であるので、殿原たちの体は火葬になされ。小栗一人は、名大将であることなので、小栗の体は土葬になされ」と、占ったのは、また、小栗殿の末の繁盛となる占いであった。
横山はこれをお聞きになり、「それこそたやすいことだ」といって、土葬と火葬と野辺送りを早めて、鬼王、鬼次の兄弟を御前にお呼びになって、「やあいかに、兄弟よ。人の子を殺して、我が子を殺さねば、都の聞こえもあることなので、不憫には思うけれども、あの照手姫の命をも相模川のおりからが淵に石とともに沈めてまいれ。兄弟」との仰せである。
こうして小栗と十人の家来たちは毒の入った酒を飲んで死んでしまいましたが、小栗の体が土葬となったのは、小栗にとって幸運なことでした。
小栗判官・水の女

 

人の子を殺しておいて我が子を殺さねば都の聞こえも悪い、ということで・・・
ああ、いたわしや。兄弟は、何事もものは言わずに、申すまいよの宮仕い、我ら兄弟は義理の前には、身を分けた親でさえ背かねばならぬ世の中で、そうであるならば沈めにかけようと思いながら、簡単に了承なされて照手の局へいらっしゃって、 「のういかに、照手さま。さて、夫の小栗殿と十人の殿原たちは、蓬莱の山の御座敷でご殺害されました。お覚悟ください、照手さま」
照手、これをお聞きになって、 「何と申すのか、兄弟は。時も時、折も折、近くに寄ってもの申せ。さて、夫の小栗殿はと十人の殿原たちは、蓬莱の山の御座敷でご殺害された、と申すかよ。さても悲しき次第であるこよ。自らがいろいろと申し上げたのに、ついにご承諾されなくて、今の憂き目の悲しさよ。自ら夢ほど知っていたなら、蓬莱の山の御座敷へ参って、夫の小栗殿の最期にお抜きになった刀を胸元へ突き立てて、死出三途の大川を手と手と組んでお供申すものならば、今の憂き目はまさかあるまい」
泣いたり、愚痴をこぼしたりなされるが、嘆いても甲斐がない。ちきり村濃(むらご)の御小袖を一重ね取り出し、 「やあいかに、兄弟よ。これは兄弟に取らすぞ。おんないしう(恩無い主か)の形見と見、思い出した折々は、念仏してたまわれの。唐の鏡や十二の手具足をうえの寺へあげ申し、姫の亡き跡を弔ってたまわれの。憂き世にあれば思いが増す。私の末期を早めよう」
手ずから牢輿(ろうごし)にお乗りになると、御乳や乳母や下の水仕に至るまで、われもお供申すべし、われもお供申そうと、輿の轅(ながえ)にすがりつき、みなさめざめとお泣きになる。 照手はこれをお聞きになって、 「もっともなことです、女房たち。隣国他国の者にまで、慣れれば、名残りの惜しいもの。まして御乳や乳母のことであるので、名残惜しいのももっともなことです。千万の命をくれるより、沖がかっぱと鳴ったら、今こそ照手の最期だと鉦鼓を打ち鳴らして、念仏申してたまわれの。憂き世にあれば思いが増す。私の末期を早めてくれ」と、お急ぎになるので、間もなく相模川にお着きになる。
相模川にも着いたので、小船一艘をおし下ろし、この牢輿を乗せ申し、押すや舟、漕ぐや舟、唐櫓(からろ)の音に驚いて、沖のカモメはハッと立つ。渚の千鳥は友を呼ぶ。
照手はこれをお聞きになって、「千鳥さえ、千鳥さよ、恋しき友を呼ぶものを、さて、私は誰を頼りにおりからが淵へ急ぐのか」と、泣いたり愚痴をこぼしたりなされるが、お急ぎなので、間もなく、おりからが淵にお着きになる。おりからが淵に着いたので、ああ、いたわしい、ここに沈めようか、あそこで沈めようかと、沈めかねている有り様よ。
兄の鬼王が弟の鬼次を近付けて、「やあ、いかに、鬼次よ。あの牢輿のなかにいる照手の姫の姿を見申し上げると、日の出の花のつぼみのごとくである。また、われら二人の姿を見ると、入り日に散る花のごとくである。いざ、命を助け申し上げよう。命を助けた罪に罰せられるとしても仕方のないことである」「そのつもりでおられるのならば、命を助け申し上げよう」と、後と先との沈めの石を切って放し、牢輿だけを突き流した。
陸にいらっしゃる人々は、今こそ照手の最期よと鉦鼓を打ち鳴らして、念仏申し上げ、わっと叫ぶ声は、六月の半ばのことであるが、蚊の鳴く声もこれにはどうして勝ろうか。
ああ、いたわしや。照手の姫は、牢獄の中からも西に向かって手を合わせ、観音の要文にある経文から「五逆生滅、しゅしゅしょうさい、一切衆生、即身成仏、よい島にお上げになってください」とお唱えになると、観音もこれをあわれとお思いになって、風にまかせて吹くと、ゆきとせが浦に吹き着いた。
ゆきとせが浦の漁師たちはご覧になって、「どこからか祭りものして流したのだろう。見てまいれ」と申すのである。若い船頭たちは「承ってございます」と、見申し上げたところ、「牢輿に口がない」と申すのである。
太夫たちはお聞きになって、「口がなければ、打ち破って見よ」と申した。「承ってございます」と、櫓櫂でもって打ち破って見たところ、中には楊柳(ようりゅう)の風にふけたるような(意味がわかりません)姫がひとり涙ぐんでいらっしゃる。
太夫たちは、これを見て、「さあ、申さぬか。このごろ、漁がなかったのは、その女のせいよ。魔者、化物か、または龍神に関わりの者か、申せ申せ」と櫓櫂でもって打った。
なかにも、村君(むらぎみ、漁夫の長)の太夫殿と申す者は、慈悲第一の人であるので、あの姫の泣く声をじっとお聞きになって、「のう、どうだろう。船頭たち。あの姫の泣く声をじっと聞くと、魔者、化物でもなし、または龍神の者でもなし。どこからか継母の讒言により流された姫のように見える。御存じのごとく、それがしは子もない者であるので、養子にしようと思う。それがしにくだされ」と、太夫は姫を自分の家のお連れなさって、内の姥(うば)を近づけて、「やあいかに、姥。浜路より養子を連れてきたので、よく面倒を見てやってくれ」と申した。
姥はこれを聞くよりも、「のういかに、太夫殿。それ。養子などと申するは、山へ行っては木を伐り、浜へ行っては太夫殿の相櫓も押すような十七、八の童こそよい養子であると申せ。あのような楊柳(ようりゅう)の風にふけたるような姫ならば、六浦が浦(もつらがうら。横浜市金沢区六浦町付近)の商人に料足、一貫文か、二貫文でやすやすと売るのが、銭を儲け、よいのではあるまいか。太夫、いかに」と申すのである。
太夫はこれを承って、あの姥と申するは、子があればあると申し、なければないと申す。
「御身のような邪険な姥と連れ合いになって、ともに魔道へ堕ちるよりは、家・財宝は姥の暇に差し上げよう」と、太夫は姫と諸国修行を志す。
姥はこれを聞いて、太夫に出て行かれては大変だと思い、「のういかに、太夫殿。今のは冗談です。あなたも子もなく、私も子もない者なので、養子にしましょうか。お戻りくだされ、太夫殿」
太夫は、正直人なので、お戻りになって、自分の生業である釣りに沖にお出になった後に、姥が企む謀叛は恐ろしや。 「それ、男と申すは、色の黒い女がいやになると聞く。あの姫の色を黒くして、太夫が嫌うようにしよう」とお思いになり、浜路へお連れしつつ、塩を焼く小屋の棚へ追い上げて、生松葉を取り寄せて、その日は一日、いぶしなさる。
ああ、いあたわしや、照手さま。煙が目口に入る様は譬えようもない。 しかし、照る日月の申し子なので、千手観音が影身に添ってお立ちあるので、ちっとも煙いことはなかった。 日も暮れるころになったので、姥は「姫、降りよ」と、見てみると、色の白い花に薄墨をさしたような、なおも美人の姫とおなりになる。
姥はこの様子を見て、「さて、今日は無駄骨を折った。腹立たしいことよ。ただもう売ってしまおう」と思い、六浦が浦の商人に料足二貫文でやすやすと売りはらって、「銭を儲け、胸の炎は消えたのではあるが、太夫の前でどう説明したらよいか。まったくまことに、昔を伝えて聞くからに、七尋の島に八尋の舟を繋ぐ(他に頼るものがないと頼りにならないものにでも頼ってしまうという意味の諺。尋(ひろ)は両腕を広げた長さ)のも、これも女人の智慧。賢い物語を申そう」と、待っていた。
太夫は釣りからお戻りになって、「姫は姫は」とお問いになる。
姥はこれを聞いて、「のういかに、太夫殿。今朝、姫はあなたの跡を慕って、参ったが、若い者のことなので、海上へ身を入れたやら、六浦が浦の商人が舟にでも乗せて行ったのやら、思いも恋もせぬ姥に思いをかける太夫や」と、まず、姥はうそ泣きを始めた。
太夫は、これを承って、「のういかに、姥。心から悲しくてこぼれる涙は、九万九千の身の毛穴が潤いわたって、首より空の憂いの涙と見えるが、太夫の目は眇(すがめ)か。御身のような邪険な人と連れ合いになって、ともに魔道へ堕ちるよりは、家・財宝は姥の暇に差し上げよう」と、太夫は元結を切り、西に投げ、濃い墨染めに様を変え、鉦鼓を取って、首に掛け、山里へ閉じこもり、後生大事とお願いしているが、人は、これをご覧になって、皆が皆、村君の太夫殿を誉めた。
これは太夫殿の物語。これはさておき申して、ことに哀れをとどめたのは、六浦が浦にいらっしゃる照手の姫で、諸事の哀れをとどめた。
ああ、いたわしや。照手の姫を、六浦が浦でも買い止めず、釣竿の島にと買って行く。釣竿の島の商人が価が増せば売れよといって、鬼が塩谷(新潟県岩船郡神林村塩谷)に買って行く。鬼が塩谷の商人が価が増せば売れよといって、岩瀬(富山市岩瀬付近)水橋(みずはせ 、富山市水橋町水橋付近)、六渡寺(ろくどうじ、富山県新湊市六渡寺)。氷見(ひび、富山県氷見市内)の町家へ買って行く。氷見の町家の商人が、能がない、手に職がないといって、能登の国とかの珠州(すず 、石川県珠州市内)の岬へ買って行く。
ああ、おもしろい、里の名は。よしはら、さまたけ、りんかうし、宮の腰(石川県金沢市金石の旧名)にも買って行く。宮の腰の商人が価が増せば売れよといって、加賀の国とかのもとをりこまつ(石川県小松市本折町か)へ買って行く。もとをりこまつの商人が価が増せば売れよといって、越前の国とかの三国の湊(福井県坂井郡三国町三国付近)へ買って行く。三国湊の商人が価が増せば売れよといって、敦賀の津(福井県敦賀市内)へも買って行く。敦賀の津の商人が、能がない、手に職がないといって、海津の浦(かいづのうら 、滋賀県高島郡マキノ町海津)へ買って行く。海津の浦の商人が価が増せば売れよといって、上り大津(のぼりおおつ)へ買って行く。上り大津の商人が価が増すといって売ると、商いもののおもしろさ、後よ先よと売るほどに、美濃の国、青墓(おうはか。岐阜県大垣市青墓付近)の宿の万屋の君の長殿が代を積もって十三貫で買い取ったのは、哀れなことでございます。
君の長は、ご覧になって、ああ、嬉しいことだ、百人の流れの姫(遊女)を持たずとも、あの姫ひとり持てば、君の長夫婦は、楽々と暮らせることのうれしさよと、一日二日はよいように寵愛なさるが、ある日、雨中のことであるが、姫を御前にお呼びになって、「のういかに、姫。ここでは生まれた国の名を使って名を呼ぶので、御身の国を申せ」と申すのである。
照手は、これをお聞きになって、常陸の国と申したものか、相模の国と申したものか。ただ夫の古里なりとも、名につけて、朝夕に呼ばれて、夫に添う心がけでいようとお思いになって、こぼれる涙のひまよりも(「ただ涙をこぼしているより、名に常陸と名づけ、夫に添う心がけでいるほうがよいと思って」ということでしょうか)、常陸の者との仰せである。
君の長はお聞きになって、「その儀であるならば、今日より御身の名を、常陸小萩とつけるから、明日になったら、鎌倉関東の下り上りの商人の袖をも控え、お茶の代金をもお取りになって、君の長夫婦もよいように養ってくだされ」と、十二単(ひとえ)を差し上げた。
照手は、これをお聞きになって、「さては、流れを立てよ(遊女の勤めをせよ)ということか。いま、流れを立てるものならば、草葉の陰にいらっしゃる夫の小栗殿がさぞや無念に思われるだろう。
何なりと申して、流れを立てないようにしよう」とお思いになり、 「のういかに、長殿様。さて、私は幼少のときに、両親と死に別れ、善光寺参りの途中に、人がかどわかし、あちらこちらと売られるも、内に悪い病いがございますので、男の肌を触れれば、悲しいことに必ず病いが起こります。病いが重くなるものならば、値は必ず下がります。値の下がらぬその前に、どこへなりともお売りになってください」
君の長はお聞きになって、「両親に死に別れたのではなく、ひとりの夫に死に別れ、賢人ぶる女と見える。なに、賢人ぶるとも、手痛いことをあてがえば、流れを立てるだろう」と、お思いになって、「のういかに、常陸小萩殿。さて明日になったら、蝦夷、佐渡、松前に売られて、足の筋を断ち切られ、日に一合の食を服し、昼は粟畑の鳥を追い払い、夜は魚や鮫の餌になるか。それとも、十二単を身に飾り、流れを立てるか。好きに選べ。常陸小萩殿」との仰せである。
照手は、「愚かな長殿の仰せです。たとえ、明日、蝦夷、佐渡、松前に売られて、足の筋を断ち切られ、日に一合の食を服し、昼は粟畑の鳥を追い払い、夜は魚や鮫の餌になるとも、決して流れは立てますまいよ。長殿」
君の長は、「憎いことを申すやな。やあいかに、常陸小萩よ。さて、ここには、百人の流れの姫がいるが、その下働きの水仕事は十六人でしている。その十六人分の下働きの水仕事を、御身ひとりでいたすか、十二単を身に飾り、流れを立てるか。好きに選べ。小萩殿」
照手は、「愚かな長殿の仰せです。たとえ私に千手観音の御手ほどあるとしても、その十六人分の下働きの水仕事が自分ひとりでできるはずがありません。しかし、承れば、それも女人の仕事とか。たとえ十六人分の下働きの水仕事をいたすとも、決して流れは立てまいよ。長殿様」
君の長は、「憎いことを申すやな。そのつもりでいるならば、下働きの水仕事をさせい」といって、十六人の下働きを一度にはらりと辞めさせて、水仕事は照手の姫ひとりに任された。
「下りの駄馬が五十匹、上りの駄馬が五十匹、百匹、着いたわ。糠を与えい」
「百人の馬子たちの足の湯・手水、飯の用意をいたせ」
「十八町(一町は約109m)向こうの野中にあるお茶用の清水を汲んで来い」
「百人の流れの姫の足の湯・手水、髪を結ってあげなさい。小萩殿」
こちらへ常陸小萩、あちらへ常陸小萩と、召し使っても、照る日月の申し子のことなので、千手観音が影身に添って、お立ちなので、以前の十六人の下働きよりも仕事を早く終えることができた。
ああ、いたわしや。照手の姫は、それをも辛苦とお思いにならずに、立ち居に念仏をお唱えになるので、流れの姫はお聞きになって、「まだ年若い女房が後生大事と念仏をたしなんでいるから、あだ名をつけて呼ぼう」といって、常陸小萩に代えて念仏小萩とおつけになる。
あちらへ常陸小萩よ、こちらへ念仏小萩と、召し使うので、人にその身を任すので、たすきのゆるまる暇もない。御髪の黒髪に櫛の歯を入れることもできない。
このような辛い奉公を三年の間、なされるのは、哀れなことでございます。
これは照手の姫の御物語。
零落した女主人公が水や湯に関わる仕事をするというのは、中世の物語に多いらしいですが、水は汚れを浄める浄化力をもつ神聖なものであり、その水の浄化力によって女主人公は浄められると考えられたようです。
のちに小栗は荒人神となり、美濃の国墨俣の正八幡として祀られます。つまり、照手は神の嫁となるわけですが、照手が神の嫁となるには、水仕女として神仏に奉仕し、水の聖性により身を浄めるという体験を経なければならないと考えられたのでしょう。
小栗判官・餓鬼阿弥

 

照手の姫の御物語はさておき申して、ことに哀れをとどめたのは、冥土黄泉にいらっしゃいます小栗十一人の殿原たちであって、諸事の哀れをとどめた。
閻魔大王はご覧になって、「さてこそ申さぬか。悪人が参ったわ。あの小栗と申するは、娑婆にあったそのときは、善と申せば遠くなり、悪と申せば近くなる、大悪人の者であるので、あれを悪修羅道へ堕とそう。十人の殿原たちは御主にかかわって非法の死のことであるので、殿原たちは今一度、娑婆へ戻してとらそう」との仰せである。
十人の殿原たちは承って閻魔大王へ、「のういかに、大王様。われら十人の者どもが娑婆へ戻っても、本望を遂げるのは難しいこと。あの御主の小栗殿を一人、お戻しになってくださるものならば、われらの本望まで必ずお遂げになることでしょう。われら十人の者どもは、浄土へならば浄土へ、悪修羅道へならば修羅道へ、咎に任せて、遣ってくだされ。大王様」と申すのである。
大王は、「さても汝らは主に功ある輩よ。それならば、後世の模範に、十一人ながら戻してとらせよう」と思われて、視る目とうせんを御前にお呼びになって、「日本に体があるか、見てまいれ」との仰せである。
承りましたと、八葉の峯に上がり、にんは杖という杖で虚空をはったと打てば、日本は一目で見える。
閻魔大王の御前に参って、「のういかに、大王様。十人の殿原たちは御主にかかわって非法の死のことであるので、これを火葬に仕り、体がございません。小栗一人は名大将のことであるので、体を土葬に仕り、体がございます。大王様」と申すのである。
大王はこれをお聞きになって、「さても後世の模範に十一人ながら戻してとらせようと思うけれども、体がなければ仕方がない。が、どうして十人の殿原たちを悪修羅道へ堕とそうか。われらの脇立ちにしよう」と、五体ずつ、両脇に十王(冥土の十王)、十体と、お祭りになって、今でも、末世の衆生をお守りになっていらっしゃいます。
そうであるならば、小栗一人を戻せと、閻魔大王様の自筆の御判をお据えになる。
「この者を藤沢(神奈川県藤沢市)の御上人のめいたうひじりの一の御弟子に渡し申す。熊野本宮、湯の峯にお入れになってくださるものならば、浄土より薬の湯を差し上げよう」と、大王様の自筆の御判をお据えになる。
にんは杖という杖で虚空をはったと打てば、ああ、ありがたや、築いて三年になる小栗の塚が四方へ割れのき、卒塔婆は前へかっぱと転び、群らがったカラスが笑った。
藤沢の御上人は南の方にいらっしゃるが、上野が原に無縁の者があるのだろうか、トビやカラスが笑っていると、立ち寄ってご覧になると、ああ、いたわしや、小栗殿は髪はぼうぼうで、足手は糸より細く、腹はただ鞠を括ったようなもの、あちらこちらを這い回る。両の手を押し上げて、ものを書く真似をしていた。かさにかよと書かれたのは、六根かたわ、などと読むべきか。さてはかつての小栗である。
このことを横山一門に知らせては一大事とお思いになり、おさえて、髪を剃り、形が餓鬼に似ているぞといって、餓鬼阿弥とお名付けになる。
小栗が塚から這い出てきました。口もきけず、耳も聞こえず、目も見えない。餓鬼のような異様な姿で這い回る小栗。そんな小栗を藤沢の上人が見つけました。

藤沢市には時宗の総本山、遊行寺(ゆぎょうじ、正式名は清浄光寺・しょうじょうこうじ)があります。時宗とは、かつては時衆と書かれ、鎌倉時代に一遍上人(1239-89)が起こし、一遍上人のカリスマ性と「踊り念仏」により、上は大名から下は非人・乞食まで日本全土に熱狂の渦を巻き起こした浄土教系の新興仏教の一派です。藤沢の上人が物語の上で重要な役割を果たすことから、この物語の成立に時衆の念仏聖が関与したことが確実と思われます。 藤沢の上人がつけた小栗につけた「餓鬼阿弥」という阿弥号(あみごう)のついた名前も時衆らしい名前です。
室町時代の文化を語る上で外すことのできないのが同朋衆(どうぼうしゅう、童坊衆とも)の存在ですが、同朋衆は、能阿弥・芸阿弥・相阿弥など、すべて阿弥号をもつために阿弥衆とも呼ばれました。 もともと同朋衆とは時衆の信徒を中心にした同行集団で、鎌倉時代末期から南北朝にかけては、武将に同行し、従軍僧として働きました。負傷者が出れば治療し、死者が出れば菩提を弔い、また合戦のないときには、和歌や連歌、茶の湯をはじめ様々な雑務に仕えていました。 同朋衆は、室町時代に幕府の職制に組み込まれ、やがて将軍に近侍して、芸事や様々な雑務を担当するようになります。
足利将軍に仕えた同朋衆は、芸術顧問役を勤め、文化芸能の世界に多大な影響力を行使しました。いわば室町時代の文化の中心にいたのが同朋衆だったのです。
父子三代の画家で三阿弥と称された能阿弥・芸阿弥・相阿弥、猿楽の音阿弥、作庭の善阿弥や立花(たてはな)の文阿弥・宣阿弥・正阿弥、香・茶の千阿弥など、同朋衆や時衆の信徒で後世に名を残した芸能者は大勢います。
また、これから小栗が目指す熊野本宮は、時衆にとって根本霊場といってもよいようなとても大切な場所です。
時衆の開祖・一遍上人は、熊野本宮において熊野権現の夢告を受け、ある種の宗教的な覚醒に到ったのです。一遍上人自らが「わが法門は熊野権現夢想の口伝なり」と述べており、時衆の念仏聖たちは熊野を特別な聖なる場所と認識していました。
南北朝から室町時代にかけて熊野信仰を盛り上げていったのが、じつは、修験道でもなく、ましてや神道でもなく、時衆の念仏聖たちでした。熊野の勧進権を独占した時衆の念仏聖たちは、それまで皇族や貴族などの上流階級のものであった熊野信仰を庶民にまで広め、老若男女庶民による「蟻の熊野詣」状態を生み出したのでした。

上人が、胸札をご覧になると、閻魔大王様の自筆の御判が据えられなさっている。
「この者を藤沢の御上人のめいたうひじりの一の御弟子に渡し申す。熊野本宮、湯の峯にお入れになってくだされや。熊野本宮湯の峯にお入れになってくださるものならば、浄土より薬の湯を差し上げよう」と、閻魔大王様の自筆の御判が据えられなさっている。
ああ、ありがたいことだと、御上人も胸札に書き添えなさった。 「この者を、一引き引いたは、千僧供養、二引き引いたは、万僧供養」と書き添えをなされ、土車(土を乗せて運ぶ木製の台車)を作り、この餓鬼阿弥を乗せ申し、女綱男綱を打ってつけ、御上人も車の手縄にすがりつき、えいさらえいと、お引きになる。
上野が原を引き出す。相模のあぜ道を引く折は、横山家中の殿原は敵小栗とわからずに、照手のために引こうといって、因果の車にすがりつき、五町(一町は約109m)だけは引かれた。
末をいずくと問うたところ、九日峠はこれかとよ。坂はないけれど、酒匂(さかわ、神奈川県小田原市酒匂)の宿よ。おいその森(おそらく大磯の森。神奈川県中郡大磯町)を、えいさらえいと、引き過ぎて、早くも小田原に入ったところ、狭い小路に、けはの橋、湯本の地蔵(神奈川県足柄下郡箱根町湯本堂ノ前の地蔵堂)と、伏し拝み、足柄、箱根はこれかとよ。
山中(静岡県三島市内)三里、四つの辻、伊豆の三島や浦島や三枚橋(静岡県沼津市三枚橋)を、えいさらえいと、引き渡し、流れもやらぬ浮島が原、小鳥さえずる吉原の富士の裾野をまっすぐ上り、早くも富士川で、垢離(こり 、冷水を浴びて身と心を清めること)を取り、大宮浅間、富士浅間(静岡県富士市の浅間神社、富士浅間宮、大宮浅間社などといわれた)、心静かに伏し拝み、ものをも言わぬ餓鬼阿弥に、「さらば、さらば」と暇乞い、御上人は藤沢に向けて下られた。
檀那がついて、引くほどに、吹上六本松(静岡県庵原郡蒲原町内)はこれとかよ。清見が関(静岡県清水市清見寺の海岸)に上がっては、南をはるかに望むと、三保の松原、田子の入海、袖師が浦(しでしがうら 、清水市興津から江尻までの海岸)の一つ松、あれも名所か、おもしろい。噂に聞いた清見寺、江尻の細道、引き過ぎて、駿河の府内(静岡市)に入ったので、昔はないが今浅間、君の御出でに、みようがなや。
蹴り上げて通る鞠子の宿(静岡市丸子)。雉がほろろを撃つのやの宇津の谷峠を引き過ぎて、岡部のあぜ道をまっすぐ上り、松に絡まる藤枝(静岡県藤枝市内)の四方に海はないけれども、島田の宿を、えいさらえいと、引き過ぎて、七瀬、流れて、八瀬落ちて、夜の間に変わる大井川。
鐘を麓に菊川(静岡県榛原郡金谷町菊川)の月さしのぼる小夜の中山、日坂峠(静岡県掛川市日阪)を引き過ぎて、雨が降り流したので、路の状態は悪い。車に情けを、掛川の、今日は掛けずの掛川を、えいさらえいと、引き過ぎて、袋井(静岡県袋井市袋井)のあぜ道を引き過ぎて、花は、見付の郷(静岡県磐田市見付)に着く。あの餓鬼阿弥が明日の命は知らねども、今日は池田の宿(静岡県磐田郡豊田村池田)に着く。
昔はないが、今切の両浦を眺める潮見坂、吉田(愛知県豊橋市)の今橋、引き過ぎて、五井(豊橋市下五井付近あるいは御油)のこた橋、これとかや。夜はほのぼのと赤坂(愛知県宝飯郡音羽町赤坂)の糸繰りかけて、矢作(やはぎ 、岡崎市矢作町)の宿。三河に掛けた八橋(知立市八ツ橋、蜘蛛手の枕詞)の蜘蛛手にものを思うだろうか。沢辺に匂うカキツバタ。花は咲かぬが、実は鳴海(愛知県名古屋市緑区内)。
とうこの地蔵と、伏し拝み、一夜の宿をとりかねて、まだ夜は深い、星が崎(名古屋市南区内)、熱田の宮に車が着く。車の檀那がご覧になって、これほど涼しい(澄んで清い)宮を誰が熱田とつけたのか。熱田大明神を引き過ぎて、坂はないけれど、うたう坂、新しいけれど、古渡(名古屋市中区古渡町)、緑の苗を引き植えて、黒田(愛知県葉栗郡木曾川町黒田)と聞くと、いつも頼もしいこの宿だ。
杭瀬川(ぐんぜがわ)の川風が身に冷ややかに沁みる。小熊(おおくま、岐阜県羽島市熊野付近)河原を引き過ぎて、お急ぎなので、ほどもなく、ただの土の車を誰も引くとは思わないけれど、行を施す車のことであるので、美濃の国、青墓の宿(大津市青墓町)、万屋の君の長殿の門に、何という因果の御縁やら、車が三日、うち捨てられていた。
鎌倉から室町時代にわたって鎌倉と京都を結ぶ幹線道路であった鎌倉街道という道がありました。その当時の幹線道路を、物語上のことですが、小栗は餓鬼阿弥として土車の乗せられて引かれていきました。そのため、鎌倉街道は地域によっては「小栗街道」とも呼ばれ、街道筋には現在でも小栗や照手にちなむ地名も所々見受けられます。
物語上の人物である小栗の名が幹線道路や場所の名前に付けられるとは、ものすごいことだと思いますが、それほどに小栗判官の物語は大勢の人々の共感を呼んだということなのでしょう。
ああ、いたわしや。照手の姫は、お茶のための清水を汲んでいらっしゃるが、この餓鬼阿弥をご覧になって、こぼした愚痴こそ、哀れである。
「夫の小栗殿様があのような姿をなされていようとも、浮き世にいらっしゃるものならば、これほど自分が辛苦を味わうとも、辛苦とは思うまいに」と、立ち寄り、胸札をご覧になる。
「 [ この者を、一引き引いたは、千僧供養、二引き引いたは、万僧供養 ] と、書いてある。さて、一日の車道は、夫の小栗の御ためにも引きたいものよ。さてもう一日の車道を十人の殿原たちの御ためにも引きたいものよ。二日引いた車道を必ず一日で戻るとして、三日の暇が欲しいものよ。御機嫌のよいときを見定めた上で、暇を乞いたいものだ」とお思いになり、君の長のもとへお向かいになったが、「自分は昔、御奉公申したときに、夫のないことを申したのに、いま、夫の御ためと申すものならば、暇をくださるまい」と、お思いになり、「両親はまだ生きていらっしゃるけれど、両親のことにして、暇を乞おう」と、お思いになり、また、長殿のもとへいらっしゃって、「のういかに、長殿様。門にいらっしゃる餓鬼阿弥を胸札を見てみると、「この者を、一引き引いたは、千僧供養、二引き引いたは、万僧供養」と、書いてある。さて、一日の車道は、父の御ためにも引きたく、さてもう一日の車道は母の御ためにも引きたいのです。二日引いた車道を必ず一日で戻るので、情けに三日の暇をくださいませ」
君の長は、「さても汝は憎いことを申すものよ。昔、遊女になれと申したその折に、遊女になっていたものならば、三日はもちろんのこと、十日なりとも暇を取らせようが、カラスの頭が白くなって、馬に角が生えるとも、暇は取らすまいぞ、常陸小萩」と申すのである。
照手はこれをお聞きになって、「のういかに、長殿様。これは譬えではございませんが、費長房や丁令威は、鶴の翼に宿られ、達磨尊者のいにしえは芦の葉に宿られ、張博望のいにしえは浮き木に宿られたとか。旅は心、世は情け、さて、回船は浦に停泊し、捨て子は村で育みます。木があるから鳥も棲み、港があるから船も入る。一時雨、一村雨の雨宿り、これも百生の縁ではないでしょうか。三日の暇をくださるものならば、もしも将来、君の長夫婦の御身の上に大事のあるその折は、ひき替わり、私が身替わりになって立ち申し上げますので、情けに三日の暇をくださいませ」
君の長は、「さても汝は優しいことを申すものよ。暇を取らすまいとは思うけれども、もしも将来、君の長夫婦の御身の上に大事のあるその折は、ひき替わり、身替わりになって立とうと申した、一言の言葉により、慈悲に情けをあい添えて、五日の暇を取らすぞ。五日が六日になるものならば、両親をも阿鼻無間劫に堕とすぞ。車を引けい」と申された。
照手はこれをお聞きになって、あまりの嬉しさに、裸足で走り出て、車の手縄にすがりつき、一引き引いたは、千僧供養、夫の小栗の御ためである、二引き引いたは、万僧供養、これは十人の殿原たちの御ためといって、心をこめて回向をなされていたが、「聞くところによると、私はなりと形がよいと聞くので、町や宿や関々で浮き名を立てられてはかなわない」と、また、長殿の宿屋に駈け戻り、古い烏帽子を申し受け、さんての髪に結びつけ、身長と等しい黒髪をさっと乱して、顔には油煙の炭をお塗りになり、お召しになっている小袖を裾を肩へと召しないて、笹の葉に幣をつけ、心は狂ってはいないけれど、姿を狂気に装って、引けよ、引けよ、子供ども、ものに狂ってみせようぞと、姫が涙は、垂井の宿。美濃と近江の境にある長競(たけくらべ 、滋賀県坂田郡山東町長久寺)、二本杉、寝物語(長競を美濃ではこう呼んだという)を引き過ぎて、高宮河原(彦根市高宮町)に鳴くヒバリ、姫を問うかよ、やさしいな。
御代は治まる武佐(むさ、近江八幡市武佐町)の宿、鏡(滋賀県蒲生郡竜王町鏡付近)の宿に車が着く。照手はこれをお聞きになって、人は鏡と言うならば言え、姫の心は、このほどは、あれと申し、これと言い、あの餓鬼阿弥に心の闇がかき曇り、鏡の宿をも見ることはできない。姫の裾に露は浮かないけれど、草津の宿、野路(草津市野路町)、篠原を引き過ぎて、三国一の瀬田の唐橋を、えいさらえいと、引き渡し、石山寺の夜の鐘が耳のそびえて、格別よい。馬場、松本(ともに滋賀県大津市内)を引き過ぎて、お急ぎになると、ほどもなく、西近江に隠れなき上り大津、関寺、玉屋の門に車が着く。
照手はこれをご覧になって、あの餓鬼阿弥に添い馴れ申すのも今夜ばかりとお思いになり、宿屋に宿も取らず、この餓鬼阿弥の車のわだちを枕となされ、八声の鳥(夜明け方にしばしば鳴く鶏)はないけれども、夜通し泣いて夜を明かす。 午前四時ころ、空が明けると、玉屋殿へいらっしゃって、料紙と硯をお借りになり、この餓鬼阿弥の胸札に書き添えなされた。
「海道七か国に、車を引いた人は多くとも、美濃の国、青墓の宿、万屋の君の下働きの水仕女、常陸小萩という姫、青墓の宿から上り大津や関寺まで引いてさしあげた。熊野本宮、湯の峯にお入りになって、病い本復したならば、必ずお帰りの際には、一夜の宿を万屋にお取りくだされ。かえすがえす」とお書きになる。
何という因果の御縁やら、蓬莱の山の御座敷で夫の小栗に死に別れたのも、この餓鬼阿弥と別れるのも、どちらも思いは同じもの。ああ、身が二つあったあったならば。一つは君の長殿に戻したい。もう一つの身はこの餓鬼阿弥の車を引いてとらせたい。心は二つ、身は一つ。見送り、たたずんでいらっしゃるが、お急ぎになれば、ほどもなく君の長殿の宿屋にお戻りになったのは、哀れなことでございます。
小栗を乗せた土車は、照手の手を離れ、一般の人々の手により「えいさらえい、えいさらえい」と、熊野本宮、湯の峯の霊泉を目指して引かれていきます。

餓鬼阿弥はハンセン病患者がモデルだと考えられています。 熊野はハンセン病者をも回復させることができる強力な浄化力をもつ場所だと考えられ、熊野本宮の湯の峰温泉には、大勢のハンセン病者が治癒の奇跡を求めてやってきました。 熊野信仰が盛んであった中世においても、ハンセン病は業病とされ、ハンセン病者は最も穢れた存在とみなされていました。 しかし、ただ忌み嫌われて排除されたというのではなく、中世においては、最も穢れた存在であるがゆえに、ハンセン病者に施しを与えることは、神仏の御心にかない、御利益を得ることができる善行であると考えられ、一般の人々がハンセン病者に救いの手を差し伸べるということもありました。
藤沢の上人は、餓鬼阿弥の胸札に「この者を、一引き引いたは、千僧供養、二引き引いたは、万僧供養」という言葉を書きました。 ハンセン病者に救いの手を差し伸べることは、千人、万人の僧に供養してもらうのに等しいのだ、と時衆の信徒たちは考えていたのでしょう。 実際に鎌倉街道を通り、熊野を目指したハンセン病者は大勢いたものと思われます。そんなハンセン病者を、街道筋の人々や熊野を詣でる人々、熊野詣から帰ってきた人々が救いの手を差し伸べたのでしょう。小栗判官の物語にあるような一般の人々の手助けによって、体の不自由なハンセン病者も、熊野への過酷な旅を続けることができたのだと思います。熊野にはハンセン病者たちだけでなく、盲人たちも開眼の奇跡を求めてやってきました。しかし、目の見えない人たちがどうやって熊野までたどり着くことができたのか。熊野詣の道中で出会う人々の手助けなしにはたどり着くことは不可能だったのではないでしょうか。一般の人々の手助けがあったからこそ、ハンセン病者や盲人たちも熊野を詣でることができたのだと思います。
小栗判官・湯の峰温泉の霊験

 

車の檀那が出て来たので、上り大津を引き出した。関山科に着く。もの憂き旅に粟田口、都の城に車が着く。東寺、さんしや、四つの塚(京都市南区四ツ塚町)、鳥羽に恋塚、秋の山、月の宿りはなさないけれども、桂の川を、えいさらえいと、引き渡し、山崎、千軒を引き過ぎて、これほど狭いこの宿を誰が広瀬とつけたやら。塵をかき流す芥川、太田の宿を、えいさらえいと、引き過ぎて、なかしまや、三ほうしの渡りを引き渡し、お急ぎになると、ほどもなく天王寺に車がを着く。
七不思議のありさまを拝ませたくはございますが、耳も聞こえず、目も見えず、ましてや、ものを申すこともないので、帰りに静かに拝めよと、阿倍野五十町を引き過ぎて、住吉四社の大明神、堺の浜に車が着く。松は植えないけれど小松原(和歌山県御坊市湯川町小松原)、わたなべ、南部(みなべ 、和歌山県日高郡南部町)を引き過ぎて、四十八坂、なか井坂、いとか峠、蕪坂(かぶらさか、和歌山県海草郡下津町沓掛)、鹿背(ししがせ、和歌山県有田郡広川町と日高郡由良町の境)を引き過ぎて、心を尽くすのは仏坂、こんか坂で、こんか坂に車が着く。こんか坂にまで着いたので、これから湯の峯へは車道が険しいので、ここで餓鬼阿弥をお捨てになる。
大峰入りの山伏たちが百人ばかりさんざめいてお通りになる。この餓鬼阿弥をご覧になって、「さあ、この者を熊野本宮湯の峯に入れてとらせよう」と、車を捨てて、籠を組み、この餓鬼阿弥を入れ申して、若先達の背にむんずと負いなさって、上野原を出発して、日にち積もって四百四十四日めには、熊野本宮湯の峯にお入れになる。
何しろ合図の湯のことなので、七日お入りになると、両目が開き、十四日お入りになると、耳が聞こえ、二十一日お入りになると、早くもものをお申しになり、その後、四十九日めには六尺二分の豊かな元の小栗殿とおなりになる。

この小栗判官の死と再生の物語は、あらゆる病いを治癒するとされた湯の峰の湯の聖性を全国の人々に知らしめました。 この物語により、熊野本宮の信仰は湯の峰の温泉と結びつけられ、熊野本宮の「癒しの地」としての聖なるイメージが全国の人々の心に深く浸透していったのです。 小栗判官の物語は、難病に苦しむ人々に希望を与えたことでしょう。熊野本宮に詣で、湯の峰の霊泉につかれば、治癒の奇跡が訪れることもあり得るのだと。
湯の峰は本宮の湯垢離場として栄え、ハンセン病など難病の患者たちが治癒の奇跡を求めて熊野本宮に集まり、病いで傷ついた心身を湯の峰の霊湯で癒したのでした。 時代はずっと降りますが、湯の峰温泉には、大正の初めころまで、ハンセン病患者ばかりを泊める宿があったそうです。

小栗殿は夢から覚めた心地になって、熊野三山、三つの御山を御にゅうとう(入湯か)なさるが、熊野権現がこれをご覧になって、「あのような大剛の者に、金剛杖を買わせなければ、末世の衆生に買う者はあるまい」と、山人に身を変化して、金剛杖を二本お持ちになり、「のういかに、修行者。熊野へ詣った印に何をしようぞ、この金剛杖をお買いなされ」との仰せである。
小栗殿は、かつての威光を失せずに、「さて、それがしは、海道七か国を、餓鬼阿弥と呼ばれて、車に乗って引かれたのさえ、無念に思っているのに、金剛杖を買えとは、それがしを調伏する気か」との仰せである。
権現はこれをお聞きになって、「いや、そうではございませぬ。この金剛杖と申する物は、天下に在りしその折に、弓とも楯ともなって、天下の運を開く杖であるので、金がなければただでとらせる」と、おっしゃって、権現は二本の杖をあそこに捨て、かき消すように見えなくなった。
小栗はこれをご覧になって、「今のは、権現様を手に取り拝み申したということか。ありがたや」と、三度の礼拝をなされ、一本はついて都にお帰りになる。 2本の金剛杖のうち、1本をついて都に帰る。それでは、もう1本はというと、音無川に流されたのでしょうか。

かつて熊野本宮大社は、音無川、岩田川、熊野川の3つの川の合流点の「大斎原」と呼ばれる中洲にありました。 さながら大河に浮かぶ小島のようであったといわれます。熊野川は別名、尼連禅河といい、音無川は別名、密河といい、2つの川の間の中洲は新島ともいったそうです。 江戸時代まで音無川には橋が架けられず、参詣者は音無川を草鞋を濡らして徒渉しなければなりませんでした。これを「濡藁沓(ぬれわらうつ)の入堂」といい、参詣者は音無川の流れに足を踏み入れ、冷たい水に身と心を清めてからでなければ、本宮の神域に入ることはできませんでした。
精進潔斎を眼目としていた熊野詣の道中において、音無川は本宮に臨む最後の垢離場(こりば。垢離とは冷水で身を浄めること)にあたります。参詣者は、音無川を徒渉し、足下を濡らして宝前に額づき、夜になってあらためて参拝奉幣するのが作法でした。 そのため、かつては、音無川は、熊野詣といえばその名が連想されるほどに知られた川でした。
その音無川に杖を流す。 そのような風習がかつてあったようなのです。
中世、熊野詣の参詣者は出発に際し、先達(せんだつ。熊野詣の案内人。修験者が務めました)から1本の杖を与えられました。この杖をついて、道者は熊野への道を歩きました。 そして、この本宮の聖域の入り口・発心門をくぐり、発心門王子に着くと、道者はこれまで使ってきた杖を発心門王子に献納しました。 本宮にたどり着く前に杖を献納してしまうのです。
不思議なしきたりです。本宮まであと少しというところまで来て杖を献納してしまうなんて。
ここから本宮までは杖なしで行けということかというと、そうではありません。
杖の献納、奉幣などを終えると、献納された杖に代わり、先達から新たに「金剛杖」が渡されます。発心門王子において、杖の交換が行われたのです。
新しい金剛杖をついて道者は、本宮まで行き、熊野三山を巡り、国に帰っていきました。 では、古い杖はどうしたのか、というと、どうやら先達たちの手によって音無川に流されたらしいのです。杖を流して死後の安楽を祈る風習があったらしく、先達たちによって菩提を弔われたようです。
中世の熊野詣にはこのような風習があったので、小栗のもう1本の金剛杖は、おそらくは死後の安楽を祈って音無川に流されたものと思われます。
奈良絵本の「をくり」では、この2本の杖は金剛杖ではなく、杉杖とあり、熊野権現が杖を渡すときに、「1本は音無川に流せば舟となり、もう1本は帆柱となり行きたい所へ行くことができる」と言って、消え失せられたと語られているそうです。 そして、小栗は2本の杖をいただき、1本の杖を音無川に流してみると、権現の言葉通りに舟になり、もう1本を帆柱に立てて国に帰られた、ということだそうです。

それとなく父兼家殿の館を見て通ろうとお思いになり、御門の内にお入りになり、「斎料(ときりょう。施し)を」とお乞いになる。
その時の番は左近の尉が仕っていた。左近はこれを見るがいなや、「のういかに、修行者。御身のような修行者は、この御門の内へは禁制である。早くお出になれ。早くお出にならないものならば、この左近の尉が追い出すぞ」と、持っていたほうきで打って追い出した。
小栗はこれをご覧になって、「左近が打つとは憎らしい。しかし、打つのも道理、知らぬも道理」と、お思いになり、八町の原を目指して、お出になった。
折しも東山の伯父御坊は、花縁行道(おそらく、庭の花を眺めながら縁を巡り歩くこと)をなされていらっしゃるが、今の修行者をご覧になって、兼家殿の御台所を近くに寄せて、「いかに、御台所。われら一門にだけ、額には「よね」という字が三行座り、両眼に瞳が四体あるかと思えば、今の修行者にもございました。ことに今日は小栗の命日ではございませんか。呼び戻し、斎料を取らせよう」との仰せである。
左近はこれを聞いて、「承りました」と、ちりぢりと走り出して、「のういかに、修行者。お戻りくだされ。斎料を取らせよう」と申された。
小栗は殿は、かつての威光を失せずに、「さて、それがしは一度追い出された所へは参らぬことにしている」との仰せである。
左近はこれを承って、「のういかに、修行者。御身がそうして諸国修行をなさるのも、ひとつは人をも助けよう、また御身も助かりたいとお申しあることではございませんか。いま、御身がお戻りでなければ、この左近は死ぬよりない。お戻りになって、斎料もお取りになり、この左近の命も助けてくだされ。修行者」と申すのである。
小栗はこれをお聞きになって、名乗りたいものだとお思いになり、大広間にさしかかり、間の障子をさらっと開け、八分の頭を地につけて、「のういかに、母上様。小栗でございます。三年間の勘当をお許しください」。
御台所は十分に考えることなく、このことを兼家殿にかくかくしかじかとお語りになる。
兼家はこれをお聞きになり、「軽率なことをお申しある御台だな。我が子の小栗と申すは、これよりも、相模の国、横山の館にて毒の酒で責め殺されたと申するが、そうではあるが、修行者。わが子の小栗と申する者には、幼い折から教えて来た調法(処理の仕方)がある。失礼ながら、受けてごらんぜよ」と、五人張りの強い弓に十三束の矢をもって、間の障子の向こうからよっ引いて、ひょうと放す矢を、一の矢を右手で取り、二の矢を左手で取り、三の矢はあまりに間近く来るので、向か歯でがちっと噛み止めて、三筋の矢をおし握り、間の障子をさっと開け、八分の頭を地につけて、「のういかに、父の兼家殿。小栗でございます。三年間の勘当、お許しください」
兼家殿も母上も一度死んだわが子に会うなどとは、優曇華(うどんげ、インドのあるといわれれる木。三千年に一度、花が咲き、その花が咲くときに仏が世に出ると信じられた)の花を見るようにまれなことと、喜び、車を五両、花で飾り立てて、親子連れで帝の御番にお参りになる。
帝はこれをご覧になって、「誰と申すとも、小栗ほどの大剛の者はよもやあるまい。ならば、領地を与えてとらせよう」と、五畿内五か国の永代の薄墨の御綸旨、御判をお与えになるのである。
小栗はこれをご覧になって、「五畿内五か国は欲しくもありません。美濃の国に替えてくださいませ」と申された。
帝は、「大国を小国に替えろとの望み、思う子細があるのだろう。それなら、美濃の国(今の岐阜県南部)を馬の飼料に取らせよう」と、重ねての御判をお与えになるのである。
小栗はこれをご覧になって、ありがたいことだと、山海の珍物、国土の菓子を調えて、たいそう喜びなさった。
高札を書いて、お立てになる。 「小栗に奉公申す者がいるならば、領地を与える」と、高札に書いて、お立てになれば、われも小栗殿の奉公を申そう、判官殿の手の者にと、なか三日のその間に、三千余騎の家来を集めたという。
三千余騎の家来をともなって美濃の国へ領地入りとのお触れが出る。
三日先の宿は君の長殿に決めてある。
君の長殿はご覧になって、百人の流れの姫(遊女)をひとつ所へ押し集め申し、「流れの姫たちに申すことがある。ここへ都から新しく領地入りする国司様がいらっしゃるので、そのもとへ参り、おなぐさめ申して、どんな領地でも賜って、君の長夫婦もよきに養っておくれ」
十二単(ひとえ)で身を飾り、今か、今か、とお待ちになる。
三日の後、犬の鈴、鷹の鈴、くつわの音がさざめいて、上下華やかに悠々と、君の長殿にお着きになる。
百人の流れの姫は、我れ先に、我れ先に、と小栗のもとへ参り、おなぐさめ申せども、小栗殿は少しもお勇みしない。
君の長殿を御前にお呼びになり、「やあ、いかに、夫婦の者どもよ。ここの内の下働きの水仕女に、常陸小萩という者があるか。酌をさせい」との仰せである。
君の長は、「承りました」と、常陸小萩のもとへ参って、「のういかに、常陸小萩。御身の見目形が美しいのが都の国司様へ漏れ聞こえたらしい。お酌に立ていとの仰せがあったので、お酌に参れ」との仰せである。
照手はこれをお聞きになって、「愚かなことを長殿はおっしゃいます。いま、お酌に参るくらいなら、とうの昔に流れを立てています。お酌には参りません」と申した。
君の長は、「のういかに、常陸小萩。さても御身は、嬉しいことと悲しいことは、早く忘れるものよな。以前、餓鬼阿弥と申して、車を引く折、暇は取らすまいと申していると、将来、君の長夫婦の身の上に大事があろう、その折は、身替わりに立とうと申した、その一言の言葉により、慈悲に情けをあい添えて、五日の暇を取らせたが、いま、御身がお酌に参らねば、君の長夫婦の者どもは死ぬより他ない。何はともあれ、取りはからい申せ。常陸小萩」と申した。
照手はこれをお聞きになり、一句の道理に詰められて、何ともものはおっしゃらないで、「本当に、私が以前、車を引いたのも、夫の小栗の御ためである。また、いま、お酌に参るのも夫の小栗の御ためである。深き恨みを召されるな。変わる心のあるにこそ、変わる心はないほどに(うまく訳せませんが、心変わりをしたのではないという意味だと思います)」と、心の中でお思いになり、「のういかに、長殿様。そういうことでございますならば、お酌に参りましょう」との仰せである。
君の長は、「さても嬉しいことだ。そういうことであるならば、十二単で身を飾れ」と申すのである。
照手は、「愚かなことを長殿はおっしゃいます。流れの姫とあれば十二単で身を飾りましょうが、下働きの水仕女とあるからには、そのままの姿で参りましょう」と、たすきがけで、前垂れをした格好で、銚子を持って、お酌にお立ちになる。
小栗はこれをご覧になって、「常陸小萩とは御身のことであられるか。常陸の国の誰の御子か。お名乗りあれ、小萩殿」。
照手は、「さて、私は主人の命令でお酌に参っただけです。はじめてお会いしたあなた様と懺悔物語に参ったのではありません。酌がいやなら、待ちましょうか」と、銚子を捨てて、お酌をお止めになる。
小栗は、「まことに道理だ。小萩殿。人の先祖を聞く折は、わが先祖を語るものよ。さて、こう申すそれがしを、いかなる者と思われておられるか。さて、こう申すそれがしは、常陸の国の小栗と申す者であるが、相模の国(今の神奈川県)の横山殿の一人姫、照手の姫に恋をして、押し入って婿入りしたのが罪となり、毒の酒にて責め殺さたが、十人の殿原たちの情けにより甦りつかまつり、さて、餓鬼阿弥と呼ばれて海道七か国を車に乗って引かれる、その折に、「海道七か国に、車を引いた人は多くとも、美濃の国、青墓の宿、万屋の君の下働きの水仕女、常陸小萩という姫、青墓の宿から上り大津や関寺まで引いてさしあげた。熊野本宮、湯の峯にお入りになって、病い本復したならば、必ずお帰りの際には、一夜の宿を万屋にお取りくだされ。かえすがえす」と、お書きになった胸の木札はこれであると、照手の姫に差し上げて、この御恩賞の御ためにここまでお礼に参っているのです。常陸の国の誰の子か。お名乗りあれ、小萩殿」
照手はこれをお聞きになり、何ともものもおっしゃらないで、涙にむせていらっしゃいます。
「いつまでものを隠しましょう。さて、こう申す私も、常陸の国とは申しましたが、常陸の者ではございません。相模の国の横山殿の一人姫、照手の姫でございますが、人の子を殺しておいて、我が子を殺さねば、都の聞こえもあることなのでとお思いになり、鬼王・鬼次の兄弟の者どもに沈めてまいれとお申し上げておりましたが、兄弟の情けによって、あちらこちらと売られて、あまりのことの悲しさに静かに数えてみると、四十五の店に売られて、この長殿に買い取られ、以前、流れを立てぬ(遊女にならぬ)その咎に、十六人で仕る下働きの水仕事を私一人で仕っております。御身に会えて嬉しい」
小栗はこれをお聞きになり、君の長夫婦を御前にお呼びになり、「やあいかに、夫婦の者どもよ。人を使うにもやり方があるぞ。十六人の下働きの水仕事が一人でできるものか。汝らのような邪険な者は死刑だ」との仰せである。
照手は、「のういかに、小栗殿。あのような慈悲第一の長殿にどんな領地でも与えてくださいませ。それをなぜかと申し上げると、御身が以前、餓鬼阿弥と申していたときに、私が車を引いたその折、三日の暇を乞うたところ、慈悲に情けをあい添えて、五日の暇をお与えになった、慈悲第一の長殿にどんな領地でも与えてくださいませ。夫の小栗殿」との仰せである。
小栗は、「そういうことであるならば、御恩の妻に免じて許そう」と、美濃の国、十八郡を、一色しんたい、総政所を君の長殿にお与えになるのである。 君の長は承って、ありがたいことだと、山海の珍物、国土の菓子を調えて、たいそう喜んだ。 君の長は、百人の流れの姫の、その内を三十二人選りすぐり、玉の輿にとって乗せ、これは照手の姫の女房として差し上げる。それ、女人と申すものは、氏なくて玉の輿に乗るとは、ここの譬えを申すのである。
常陸の国へ領地入りをなされ、七千余騎をともなって、横山攻めとお触れが出る。
横山はあっと肝を潰し、「小栗が甦りつかまつり、横山攻めだと。ならば、城郭を構えよ」と、空堀に水を入れ、逆茂木を引かせて、用心きびしく待っていた。
照手はこれをお聞きになり、夫の小栗のもとにいらっしゃって、「のういかに、小栗殿。昔から伝えて聞くことに、父の御恩は七逆罪、母の御恩は五逆罪、十二逆恩を得ただけでも悲しいと思うのに、いま、私が世に出たといっても、父に弓を引くことはできません。小栗殿。明日の横山攻めをお止めくださいませ。それがいやならば、横山攻めの門出に私を殺して、その後に横山攻めはなさってくださいませ」
小栗は、「そういうことであるのならば、御恩の妻の免じて横山攻めは取り止めよう」との仰せである。 照手は不十分にお思いになり、そういうことであるならば、夫婦の仲でありながら、御腹いせを申そうと、秘密の書状を書いて、横山殿にお送りになる。 横山は、これをご覧になって、さっと広げて、拝見する。
「昔から今に至るまで七珍万宝の数の宝よりわが子に勝る宝はないと、今こそ思い知らされた。今は何を惜しもうか」と、十駄の黄金に鬼鹿毛(おにかげ)を添えて小栗殿に差し上げる。こうなったのも、そもそも三男のしわざであるといって、三郎には七筋の縄をつけ、小栗殿のもとにお引かせになる。
小栗はこれをご覧になって、恩は恩、仇は仇で報いるべし。十駄の黄金で、黄金御堂と寺を建て、鬼鹿毛の姿を真の漆で固めて、鬼鹿毛を馬頭観音としてお祀りになる。牛は大日如来の化身としてお祀りする。こうなったのも、そもそも三男のしわざであるといって、三郎には七筋の縄をつけ、小栗殿にお引かせになる。
こうなったのも、そもそも三男の三郎のしわざであるといって、三郎を荒簀(あらす)に巻いて、西の海にお沈めになされた。舌先三寸の操りで五尺の命を失うことを悟らなかった、はかなさよ。
それから、ゆきとせが浦にお渡りになり、売りはじめた姥を、肩から下を地に埋め、竹のこぎりで首をお引かせになる。太夫殿には領地をお与えになった。
それから、小栗殿は常陸の国にお戻りになり、棟に棟、門に門を建て、富貴万福、二代にわたる長者としてお栄えなさる。その後、生者、必滅の習いで、八十三の御ときに大往生をお遂げなさる。神や仏が一所にお集まりなさって、これほどまでに真実に大剛の弓取りを、さあ、神としてお祭りし、末世の衆生に拝ませようと、そのために、小栗殿を美濃の国、安八の郡(あんぱちのこおり)墨俣(すのまた)の「垂井(たるい)おなこと」の神体、正八幡、荒人神としてお祭りになる。
同じく、照手の姫をも、十八町下(しも)に「契り結ぶの神」としてお祭りになる。
これにて、墨俣「垂井(たるい)おなこと」の正八幡の御本地とともに「契り結ぶの神」の御本地も語り納めでございます。
土地も繁盛し、御代もめでたく、国も豊かに、めでたいことでございます。
と、これにて、墨俣の正八幡(現八幡神社、岐阜県安八郡墨俣町墨俣)と契り結ぶの神(現結神社、安八郡安八町西結)、二柱の神の縁起を語る「小栗判官」の物語はお仕舞いです。

最後に残酷な復讐シーンがありますが、説経では、恩は恩で返し、仇は仇で返すという倫理観が徹底されています。
「小栗判官」だけでなく「山椒太夫」「俊徳丸」などの主人公たちも、最後の場面で、救いの手を差し伸べてくれた者たちには手厚く報い、苦難を与えた者たちには律儀なまでに復讐を遂げます。
横山の三男の三郎は小栗殺害のはかりごとをめぐらした人物。この人物のために小栗は殺され、10人の家来も殺されました。姥は人身売買をしているわけですよね。 そのような人物は殺されて当然というか、殺されてほしい。殺されなければ気がおさまらない。それが普通の人々の一般的な感情だったのでしょう。
人の多く集まる社寺の前など街頭で、庶民相手に仏の教えを広めるために語られた物語が説経です。その物語には聞き手である普通の人々の願望が反映されているのだと思います。 現実の世界では悪人たちが罰も受けずに羽振りをきかせているかもしれないけれど、そんな世界はおかしい。 善人は報われ、悪人たちが罰されて殺される。そのような世の中であってほしいという聞き手たちの願望を受けて、結末に復讐シーンが語られるのだと思います。
小栗は、横山の三男をす巻きにして海に沈め、照手の身を売った姥の首を竹のこぎりで切りました。 この復讐場面を聞くまでは、小栗が復活し、照手と再開できて、めでたいわけなのだけれども、聞き手たちの心のどこかにもやもやするものがあったんでしょうね。復讐場面を聞いて、初めて聞き手たちはすっきりと「めでたし、めでたし」という気分になったのだと思います。
 
小栗判官(おぐりはんがん)1

 

伝説上の人物であり、またこれを主人公として日本の中世以降に伝承されてきた物語。モデルとなった人物は、常陸国小栗御厨(茨城県筑西市)にあった小栗城の城主である小栗助重。
「小栗の判官」「おぐり判官」「をくりの判官」「をくり」「おくり」などの名でも伝えられる。伝承は多く残っており、後に創作されたものもあり、それぞれにかなりの相違が見られる。説経節や浄瑠璃、歌舞伎など多くに脚色されている。また縁のある土地にもそれぞれの伝承が残っており、小栗の通った熊野街道は小栗街道とも呼ばれる。 人物としての小栗判官は、藤原正清、名は助重、常陸の小栗城主。京の貴族藤原兼家と常陸国の源氏の母の間に生まれ、83歳で死んだとされるが、15、16世紀頃の人物として扱われることもある。乗馬と和歌を得意とした。子宝に恵まれない兼家夫妻が鞍馬の毘沙門天に祈願し生まれたことから、毘沙門天の申し子とされる。
長生院(藤沢市)に残る小栗判官・照手姫の伝説
藤沢市遊行寺(清浄光寺)長生院(小栗堂)1415年、上杉禅秀が関東において乱を起こした際、満重(他の資料では小栗判官の父の名であるが、この伝承においては判官自身を指す)は管領足利持氏に攻め落とされ、落ち延びる。その途上、相模の国に10人の家来とともに潜伏中に、相模横山家(横山大膳・横浜市戸塚区俣野に伝説が残る)の娘照手姫を見初め、結婚の約束を交わす。横山は、旅人を殺し金品を奪う盗賊であった。照手姫は本来上皇や法皇の御所をまもる武士である北面の武士の子であったが、早くに父母に死に別れ、理由あって横山大膳に仕えていた。
小栗の行為に怒った横山庄司親子は、小栗を人食い馬と言われる荒馬「鬼鹿毛(おにかげ)」に乗せ噛み殺さようと企てるなど、さまざまな計略を練るものの失敗。しかしついには権現堂にて酒に毒を盛り、家来もろとも殺してしまう。横山は小栗の財宝を奪い、手下に命じて小栗と家来11人の屍を上野原に捨てさせる。この事実を知った照手姫は密かに横山の屋敷を抜け出すが、不義の罪により相模川に沈められかける。危ういところを金沢六浦の漁師によって助けられるも、漁師の女房に美しさを妬まれてさまざまな虐待を受け、最後には六浦浜で人買いの手に売り飛ばされてしまう。姫は売られては移り、移っては売られて各地を転々とするが、最後まで小栗への貞節を守り通す。
一方、小栗は地獄に堕ち、閻魔大王の前に引きずり出されるが、裁定により地上界に戻されることができた。しかし異形の餓鬼阿弥の姿で、皮膚病にかかっており、歩くこともままならない。幸いに藤沢の遊行寺(清浄光寺)の大空上人の助けを蒙り、地車に乗せられて東海道を西進する。小栗が殺された夜、遊行寺では大空上人の夢枕に閻魔大王が立ち、「上野原に11人の屍が捨てられており、小栗のみ蘇生させられるので、熊野の湯に入れてもとの体に戻すために力を貸せ」と告げていた。上人はそのお告げに従って上野原に行き、死んだ家来達を葬るとともにまだ息のあった小栗を寺に連れ帰ったのであった。
小栗を乗せた車は大垣青墓の宿で偶然照手姫に行き会うが、2人はお互いの素性に気づかない。小栗は照手姫の手によって大津まで引かれて行く。病はさらに重くなるが、遊行上人の導きと照手姫や多くの善意の人々の情を受けて熊野に詣で、熊野詣の湯垢離場である湯の峰温泉の「つぼ湯」の薬効によりついに全快する。
小栗は新たに常陸の領地を与えられ、判官の地位を授けられる。常陸に帰った小栗は兵をひきいて横山大膳を討ち、家来の菩提を弔う。さらに小栗は美濃の青墓で下女として働いていた照手姫を見つけ出す。こうして2人はようやく夫婦になることができた。小栗の亡くなった後、弟の助重が領地を継ぎ、遊行寺に小栗と家来の墓を建てた。照手姫は仏門にはいり、1429年に遊行寺内に草庵を結んだという。
説経節にみる小栗判官伝説
正本として、延宝3年(1675)「おぐり判官」(作者未詳)、年未詳「をくりの判官」(佐渡七太夫豊孝)その他がある。
鞍馬の毘沙門天の申し子として生を受けた二条大納言兼家の嫡子小栗判官が、ある日鞍馬から家に戻る帰路、菩薩池の美女に化けた大蛇の美しさに抗し切れず、交わり妻としてしまう。大蛇は懐妊するが、子の生まれることを恐れ隠れようとした神泉苑に棲む龍女と格闘になる。このために7日間も暴風雨が続いたため、小栗は罪を着せられ常陸の国に流された。この場所にて小栗は武蔵・相模の郡代横山のもとにいる美貌の娘である照手姫のことを行商人から聞かされ、文を商人に頼み渡す。照手姫から返事を受け取るや、小栗は10人の家来とともに、照手姫のもとに強引に婿入りする。これを怒った横山によって、小栗と家来達は毒殺され、小栗は上野原で土葬に家来は火葬にされる。照手姫は相模川に流され、村君太夫に救われるが、姥の虐待を受けるが千手観音の加護で難を逃れたものの人買いに売り飛ばされ、美濃国青墓の万屋にもらわれ、こき使われる。
小栗判官が49日間湯治した伝説の残る湯の峰温泉 つぼ湯一方、死んだ小栗と家来は閻魔大王の裁きにより「熊野の湯に入れば元の姿に戻ることができる」との藤沢の遊行上人宛の手紙とともに現世に送り返される。餓鬼阿弥が小栗の墓から現われたのを見た上人は手紙を読み、小栗を車に乗せると、「この車を引くものは供養になるべし」と胸に木の札に書きしたため多くの人に引かれ美濃の青墓に到着する。常陸小萩の名で働いていた、照手姫は小栗と知らずに5日間に渡って大津まで車を引き、ついに熊野に到着する。熊野・湯の峰温泉の薬効にて49日の湯治の末、完治し元の体に戻ることができる。その後、小栗は京に戻り天皇から死からの帰還は珍事であると称えられ、常陸・駿河・美濃の国を賜ることになる。また、車を引いてくれた小萩を訪ね彼女が照手姫であることを知り、姫とともに都に上った。やがて小栗は横山を滅ぼし、死後は一度死んで蘇生する英雄として美濃墨俣の正八幡(八幡神社)に祀られ、照手姫も結びの神として祀られた。
 
小栗判官・照手姫2

 

遊行寺境内の北東にあり、もと遊行寺の塔頭(たっちゅう)〔本寺の境内にある小寺〕だった長生院(ちょうしょういん)は、古くは閻魔堂(えんまどう)と呼ばれていたが、照手姫により中興され長生院と改称したと伝えられ、今日まで続いている。江戸時代には、小栗判官伝説の流布により有名となり、当時の東海道道中案内記の藤沢宿には、必ずと言って良い程長生院の「小栗判官・照手姫」伝説が紹介されている。藤沢を通る人々にとって小栗判官・照手姫の史跡は、見過ごすことの出来ないものであった。
長生院に伝わる伝説「小栗判官・照手姫」
昔、常陸(ひたち)国真壁郡の小栗(現茨城県真壁郡協和町)に、小栗満重という大名が住んでいた。応永(1394から1427)の頃、当時関東管領として関東を治めていた足利持氏に謀反の疑いをかけられ、鎌倉より討手を向けられついに攻め落とされてしまった。
満重は、わずかに10人の家来を連れて三河国(現愛知県)をさして落ちのびていった。その途中で相模国の郷士横山大膳の家人に誘われ、しばらく大膳の館にとどまった。とどまるうちに、満重は妓女の照手姫と親しくなり、夫婦になる約束をした。
照手姫の父は、北面の武士(上皇や法皇の御所をまもる武士)であったが姫は早くから父母に死に別れ、訳あって大膳に仕えていた。
横山は、実は旅人を殺し金品を奪う盗賊であった。満重たちが何も知らずに立ち寄ったので、いい獲物がかかったと喜んだが、10人の強そうな家来が一緒では手が出せなかった。その頃、横山の家には人から盗んだ人食い馬と言われる荒馬の「鬼鹿毛」が飼われていた。横山は満重をこの馬に乗せ噛み殺させようとたくらんだ。しかし、満重は馬術の達人であったので、この荒馬をなんなく乗りこなし碁盤乗りなどの難しい馬術をやってのけた。
この計画が失敗したので、横山は酒盛りを開き、毒入りの酒を勧めた。これを知らずに酒を飲んだ満重主従は悪だくみにかかり、命を落とした。横山は、満重の財宝を奪い取り、手下に言いつけて11人の屍(しかばね)を上野原に捨てさせた。
その夜、藤沢の遊行寺では、大空(たいくう)上人の夢枕に閻魔大王が現われ、「上野原に11人の屍が捨てられていて、満重のみ蘇生させられるので、熊野の湯に入れてもとの体に治すように力を貸せ」というふしぎな夢を見た。夢のお告げにしたがって上人が上野原に行ってみると、11人の屍があった。お告げのとおり10人の家来は息たえていたが、満重だけはかすかに息があつた。上人は、家来達をほうむり、満重を寺に連れ帰った。
上人は、夢のお告げにしたがい満重を熊野に送り温泉で体を治させることにした。上人に満重を車に乗せると胸に「この者は、熊野の湯に送る病人である。一歩でも車を引いてやるものは、千僧供養に勝る功徳を得よう」と書いた札を下げた。藤沢から紀州の熊野まで、大勢の人々が車を引いて送ってくれたおかげ満重は熊野に着き、熊野権現の霊験と温泉の効き目で元の体にもどった。
照手姫は、満重が毒を盛られた後、世をはかなんで密かに横山の屋敷を抜け出したが、追手につかまり川に投げ込まれたが、日頃信心している観音菩薩のご利益で、おぼれることなく金沢六浦の漁師に救われた。漁師の女房は照手姫が美しいのねたみ、松の木にしばりつけられて松葉でいぶされたりしていじめられ、最後には人買いに売りとばされた。
体が元に戻った満重は、一族の住む三河に行き、力を借りて京都の幕府に訴えた。満重が生死の境からよみがえったのは稀有の仏徳であるとして、常陸の領地を与えられ判官の位をさずけられた。常陸に帰った満重は、兵をひきいて横山大膳を討つと、遊行寺に詣り、上人にお礼するとともに、亡くなった家来達の菩提をとむらった。
照手姫は、美濃の青墓(現岐阜県大垣市)で下女として働いている時、満重に救い出され、二人はようやく夫婦になれた。満重が亡くなると弟の助重が領地を継ぎ、鎌倉に着た折に、遊行寺に参り、満重と家来の墓を建てた。
照手姫も仏門にはいり、遊行寺内に草庵を営んだが、永享元年(1429)長生院を建てた。」
小栗氏の史実
平安時代の末頃から常陸国真壁郡小栗邑(むら)に桓武平氏大掾の流れをくむ小栗氏という一族が城を構えていた。小栗城主の満重は、応永23年(1416)に起こった関東管領足利持氏と上杉禅秀との戦いの折り禅秀方に味方し敗北したので足利持氏に多くの領地を削られた。満重は持氏に恨みをもち、応永25年鎌倉で謀反を図ったが、計画が事前に発覚し小栗城に逃れた。城は鎌倉勢の攻撃を受け落城したが満重は再び領地を割いて死をまぬがれた。こうしたことから満重の持氏に対する反抗心はますます高まり、応永28年兵を挙げた。この乱は常陸・下野にまたがる大争乱になった。応永30年には、足利持氏が自ら将として結城城に入り、攻め立てたので、小栗城は遂に陥落し、満重は自殺し、その子助重はひそかに一族の領地のある三河国に逃れた。
その後、助重は結城合戦で戦功をあげ領地を復したが、康正元年(1455)再び落城し助重の消息は不明となり、城と領地はそれ以後小栗氏の手にもどることはなかった。
室町時代の歴史上の出来事を書いた「鎌倉大草紙」と言う書物には、小栗氏について
「応永30年の頃、常陸の国の小栗城が、足利持氏に攻め滅ぼされた時、城主満重は三河へ落ち延びた.その子の小次郎は、相模に潜伏していたが権現堂と言うところに泊まった時、盗賊に毒を盛られた。しかし、照姫と言う遊女に救われ、荒馬にのって藤沢の道場へ逃げ上人に助けられ三河へ逃れた。後に小次郎は照姫を尋ねだし種々の宝を授け、盗賊を探し出して退治した。」と言う筋書きで書かれている。
この本が書かれた室町時代の半ば頃には、小栗氏に関する史実としてこのようなことが伝えられていたのであろう。
ここでは史実に盗賊の邸に泊まって毒酒を飲まされそうになり、照姫に救われたこと。遊行上人に助けられたこと等、史実以外のものが加わっているこれは小栗氏と関係の深い常陸の国の社寺の巫女が、小栗氏の霊を慰めるために英雄譚として作り出した話と言われている。
藤沢で発展した小栗伝説
その後、時宗関係の僧侶や巫女の手で藤沢に持ち込まれ、布教の手段として取り上げられて、発展しはじめた。
僧侶が仏の教えや仏典を説明することを“説教”と呼ぶが、一般庶民への布教のため、室町時代以降には譬え話や因縁話が取り入れられ、芸能化しつつ発展し「説経節」となった。これは説経浄瑠璃とも呼ばれ、近世には語り物芸能として独立し発展した。
時宗系の念仏聖は、念仏とともに小栗判官の物語を語るのを得意とし、各地に物語を広めていった。常陸からの小栗伝説を受け継いだ藤沢の遊行寺は、語り物の情報センター的な役割も持っていたと思われる。
各地に広まった小栗伝説に様々な説話・因縁話などが付け加わり、多様な伝説が生まれたが、小栗伝説の中心をなす鬼鹿毛の生息地、横山大膳の屋敷跡、照手姫の住居跡、など、藤沢の俣野周辺の地域が伝承地に当てられているものが多い。これは、俣野一帯の地を治める地頭で遊行寺の開基「俣野五郎景平」が、遊行寺を開いた呑海上人の兄であること。遊行寺が建立される前の道場が俣野の地にあったこと。等と関連が深いものと思われる。
芸能に取り上げられた小栗伝説・説経節
中世以来の芸能である「説経節」は、初め説教師と呼ばれる人たちが、道端で民衆に語ったり門付けで語る大道芸・放浪芸であつたが、近世に入ると伴奏に三味線を使い、人形を使ったり舞台の上で演じられるようになった。江戸時代になると大変盛んになり、説経も書き留められて本として刊行されるようになった。
御物絵巻「をくり」や奈良絵本「おくり」等が作られると、芝居の題材として取り上げられるようになり、近松門左衛門の「当流小栗判官」や、これに影響を受けた「小栗判官車街道」等数多くのものが書かれた。
小栗判官の物語は、伝承により異同があるが、一般によく知られているものは、説教節「小栗の判官」で、その概略の内容は、次のようなものである。
「鞍馬の毘沙門天の申し子として生まれた二条大納言兼家の嫡子小栗判官は、人に優れた強者であった。或る日鞍馬からの帰途、横笛を吹きながら菩薩池にさしかかると、池の大蛇が美女に化けて現われた。小栗はその美しさに迷い、これと契って妻とした。
やがて美女は懐胎したが、子の産まれるのを恐れ神泉苑に身を隠そうとして、そこに棲む龍女と闘いになった。その為、七日の間暴風雨が続き不穏な日々が続いた。時の帝は不思議に思い、博士を招いて占ったところ、このことがわかり、小栗は罪によって常陸に流された。
常陸でさびしい日々を送っていた小栗は、旅の商人から、武蔵・相模の郡代横山氏に照手姫と言う日光山の申し子で美貌の娘がいることを聞かされた。小栗は早速文をしたため商人に頼んで照手姫にわたしてもらった。
照手姫からの返事をもらった小栗は、よりすぐった十人の家来とともに、照手のもとに強引に婿入りした。姫の館へ忍び込み同然で入り込んだ小栗に、怒った横山は、三男三郎の企みで小栗を人食い馬「鬼鹿毛」に食わせようとする。しかし、小栗は鬼鹿毛を難なくのりこなしてしまう。この企みに失敗した横山は、家来もろとも小栗を毒殺してしまう。小栗は上の原へ土葬に家来は火葬にされてしまう。
照手姫も同罪として相模川に流されるが、ゆきとせが浦にたどり着き村君太夫に救われる。しかし、心悪い姥の虐待を受け、松葉でいぶされたりしたが、信仰する千手観音の加護で難を逃れた。やがて人買いに売り飛ばされ、美濃国青墓の万屋の主人に買われた照手は、「常陸小萩」の名を与えられて下女づとめのきつい労働をさせられる。
一方、死んだ小栗と家来は閻魔大王の裁判を受け、小栗は閻魔大王自筆の「熊野の湯に入れば元の姿に戻れる」と書いた藤沢の遊行上人宛の手紙を持って娑婆に戻される。小栗の墓から、餓鬼阿弥が現われたのを見つけた上人は、手紙を読んで、これを車に乗せ、“この車を引くものは供養になるべし”と書いた木札を胸につけ引き出した。
やがて車は、沢山の人々に曳かれ美濃の青墓に着いた。小萩は,小栗とは知らず胸の木札を読んで哀れに思い,、五日の暇をとって車を引く。熊野に着いた小栗は49日間熊野の湯につかり、無事もとの体に戻った。
小栗は京に戻り,父から許しをもらい、帝からは常陸-駿河・美濃の国を賜った。早速、美濃にくだり餓鬼阿弥姿の自分の車を引いてくれた小萩を訪ね、厚く礼をのべ素性を明らかにしたことから,小萩は以前の照手姫であることを知り、二人は不思議な再会を喜び、姫を都に伴った。やがて小栗判官は、横山に復讐し亡ぼした。死後、小栗は美濃墨俣の正八幡に、照手姫も結びの神として祀られた。」
説教浄瑠璃として語られるだけでなく、歌舞伎・人形芝居として盛んであった「小栗もの」も明治維新以降衰退の一歩をたどり人々から忘れ去られた様だったが、現代に至って見直され、1991年初演のスーパー歌舞伎「オグリ」で一躍有名になった。藤沢でも遊行フォーラムの中で毎年遊行かぶき「小栗判官と照手姫―愛の奇跡」が遊行寺で上演されるようになった。今後新しい形の小栗伝説が生まれてくるであろう。
各地に広がる小栗伝説
説経節や演劇として小栗伝説が広まるにつれ、関係各地を主として話が作られ、その土地に定着した伝説が生まれた。神奈川県下にも次の各地に小栗判官・照手姫の伝説が残されている。
相模湖町「美女谷」 
ここには美女谷温泉があり,照手姫が生まれた所で、照手姫が顔を洗った沢や現在でも姫の子孫と伝える家があり、美女谷の地名も照手姫にちなむと言う。
「相模風土記稿」には、「旧説に、往昔是處より美女出ければ、遂に地名となると云ふ。今其事実を探るに詳なることを知らず。」 とある。美女=照手姫となったらしい。
城山町
川尻八幡宮の西、若葉台住宅地の中に小栗公園があり、ここは小栗判官屋敷跡と伝えられている。
相模原市「上溝」
JR相模線に沿って上溝付近をながれる「姥川」の源流付近には、照手姫が産湯をつかったと言われる湧き水があり、「照手姫遺跡の碑」が建てられている。また、横山台二丁目には、照手姫を祭神とする榎神社もある。ここに伝わる伝説は、説経節で語られるものと少し異なり,小栗判官は父横山将監の敵方であり、美男で評判の小栗と恋仲になった照手姫は、父を捨てて小栗の元にはしり、やがて横山一族は小栗判官のために亡ぼされると言う、姫の悲劇物語として伝えられている。この付近は、相模原段丘の段丘崖が長く続き、昔から相模の横山と呼ばれ、現在も横山丘陵の名で親しまれている。地形だけでなくここには平安末期から八王子に根拠を持つ「横山党」の一族が進出して来ていたので、横山一族との関係で小栗伝説が形を変えて残ったものと思われる。
横浜市金沢区「六浦」
小栗物語の中で、相模川に流された照手姫がたどり着いた「ゆきとせが浦」は六浦であったと言う伝承が残り、この付近には、照手姫に関した伝承が多く遺されている。六浦の專光寺には、照手姫の守り本尊がまつられ、瀬戸橋付近には照手姫が松葉でいぶされた松の木の跡、姫の跡を追った照手の侍従が身を投げた「侍従川」などの史跡がある。これらは貞享2年(1685)に編集された「新編鎌倉誌」にも見えている。
横浜市戸塚区「俣野町」
原宿の交差点近く聖母の園裏山に「鬼鹿毛山」と呼ばれる山があり、横山大膳が鬼鹿毛を飼っていた所と言われ、この馬に関係のある伝承が付近に多く残されている。また、近くには大膳の屋敷跡といわれる「殿久保」の地名もある。
茅ヶ崎市「室田」
相模風土記稿 室田村の項に「二本松 里人小栗判官馬繋松と呼ぶ、二樹各高十丈許(ばかり)、頗(すこぶる)著名なるによりて自然此辺の小名に呼り、」とある。ここは田村通り大山道沿いなので、二本の松の銘木に謂われをつけるために小栗判官の伝説にあやかったものであろう。
 
小栗判官3

 

熊野の逸話「小栗判官と照手姫」は、説教説という中世の口承芸能によって広まったとされている。これは人々の多く集まる街頭などで、仏の教えを広める為に語られた物語である。説教とはもともとは仏典を読み解くことで、その教えを一般の人々に広く広めることが目的であった。しかし難しいお経よりもその教えを物語にのせて話すほうが、民衆の心を動かす力は大きい。しかもこの物語はラブストーリーでもある。そして死から生へと蘇る物語でもある。誰もが、蘇りを求めていた。信不信を問わず、浄不浄を嫌わず。身分や男女の違いも関係なく。熊野の詣でることにより、人々は救われると信じられてきたのである。
「小栗判官と照手姫」の物語
この物語は熊野をメインの舞台として、浄瑠璃、歌舞伎など、さまざまなジャンルを通して何百年もの間伝承され続けている為、諸説様々であって内容もそれぞれである。ここでは江戸時代初期の画家、岩佐又兵衛(いわさ またべえ)による「小栗判官絵巻」を参考にしている内容を紹介しよう。
二人の出会いと死
京の公卿二一条兼家は、名門の家ながら跡継ぎに恵まれなかった。そこで妻を鞍馬寺に参詣させ、男児を授かった。子供は長じて「小栗」と名付けられた。成人した小栗に、母は妻を要らせようとした。しかし小栗は、一向に気に入った女と出会えない。さすがに小栗白身も困り果て、定まった妻が授かるようにと鞍馬寺に祈願に出かけた。その道中、深泥ケ池にすむ大蛇が小栗を見初め、若く美しい姫に変身して誘惑した。小栗はこの大蛇と関係を持ってしまう。それは都中の噂になり、父・兼家は小栗を勘当し、常陸の国へ追いやった。
常陸の国で小栗はある日、世にも稀な美女・照手姫のことを聞かされる。小栗はまだ見ぬ照手に恋い焦がれ、恋文を送る。照手はこれに戸惑いながらも応じ、返事を書いた。小栗は嬉しさに矢も楯もたまらず、屈強な家来を従えて、照手の館に押し掛けた。そして二人は、運命の実りを結んだ。
しかし照手の父・横山は、自分に無断で結婚したことに腹を立てた。横山は、小栗を人喰い馬に喰い殺させようとしたが、小栗は馬を思い通りに操り、難なく乗りこなしてしまった。次に横山は酒に毒を盛ることを計画し、小栗を宴に招待する。宴に参加した小栗と家来たちは、あえなく毒酒を飲まされて次々に絶命してしまった。
横山は家来たちを火葬にし、小栗だけは土葬にして葬った。そして「我が娘だけをそのまま生かしておいては、都の聞こえが悪い」と、実の娘の照手を淵に沈めてしまうよう息子たちに命じる。息子らは気が告め、照手を乗せた牢輿の沈め石を切り離し、そのまま川に流し去った。
照手の牢輿は相模国に流れ着き、漁お古夫の長に助けられた。しかし長の妻がこれに嫉妬し、照手を人買い商人に売り飛ばす。照手はその美しさから、次々に値を上げて転売され、辿り着いた先は美濃国青墓の遊女宿だった。辛苦に耐える照手は念仏小萩とよばれ、貞操を守るため、遊女になることを拒んだ照手は「常陸小萩」ともよばれながら、水仕女として苛酷な労働に耐える日々を過していた。
一方小栗と家来たちは、閻魔大王から判決を受けていた。大王は家来たちの懇願を受け、「この者を藤沢の上人に渡すので、熊野本宮の湯の峰に入れて本復させよ」と記した札を小栗にかけ裟婆へ戻した。この藤沢の上人とは、一遍が開いた時宗の僧のことである。
熊野への旅
目も見えず口もきけない餓鬼の姿で塚から這い出た小栗を、藤沢の上人が見つけた。閻魔大王からの依頼を読んだ上人は、小栗の髪を剃り「餓鬼阿弥」と名付けた。そして「この者を一引きすれば干僧供養、二引きすれば万僧供養」と胸札に書き加えて土車に乗せ、東海道を熊野へ向かわせた。餓鬼阿弥(がきあみ)は、箱根、富士、掛川、名古屋へと人々に引かれ、照手のいる美濃国にやってきた。引き手がつかず捨てられていた土車を発見した照手は「こんな姿でも夫の小栗が生きていてくれたなら」と思い、照手は小栗の供養に土車を引きたいと、わずかな休暇をもらう。それが小栗だとは気づかないまま、大津まで引いた照手は「本復されたら美濃国青墓の宿の常陸小萩を訪ねて下さい」と餓鬼阿弥の胸札に書き添えて帰っていった。
餓鬼阿弥はさらに、京、堺、紀州と引かれて大峰山へ進み、修験に背負われて山を嘩え、四百四十四日日「熊野本宮の湯の峰に辿り着いた。湯治すること四十九日、餓鬼阿弥は元の雄々しい小栗の姿に蘇ったのである。夢から覚めた思いで、小栗は熊野三山に詣で、山中で熊野権現から杖を授かる。
都に戻った小栗は、帝から美濃国を拝領し国守となった。そして照手の働く遊女宿に上がる。小栗は「常陸小萩」の酌を希望する。国守を小栗とは知らない照手はが酌にでると、小栗が照手を見つめ自分の身の上を語りだした。すると照手は黙ってむせぴ泣き出した。
こうして二人は再会し、幸せになったという。
熊野古道と小栗の物語
湯峰には、小栗が蘇生したとされているつぼ湯、餓鬼阿弥を乗せた土車を埋めた「車塚」、小栗が復活後、力を試したという「力石」などが残っている。小栗が髪を結わえていたわらを捨てた場所には、籾を蒔かなくても稲穂が実るという「蒔かずの稲」など、物語がいかに深く熊野詣での人々に親しまれており、熊野ではどんなに傷ついた肉体も魂も再生しうることを語っている。
 
小栗判官と照手姫4  

 

代表的な説教節
瀬戸橋近くの姫小島跡など、金沢には照手姫伝説にゆかりの旧跡がいくつか伝えられている。「小栗判官・照手姫」の説話は、山椒太夫などと共に代表的な説経節であった。説経節は、もともと仏教の経典や教義を説くことだが、庶民に分かり易くするため譬え噺<たとえばなし>や神仏の霊験噺などで説明したことから多くの「語り物」が生れた。それに音曲を加えて浄瑠璃として語られたり、歌舞伎に上演されるようになった。大正期まではラブ・ロマンス説話として生き続けていたという。小栗判官や照手姫に関連した絵草紙や講談本は数多いが、ストーリーは次々と尾ひれが付いて千変万化している。ここでは、藤沢市の時宗総本山・遊行寺に伝わる「小栗略縁起」を中心に物語をたどることにする。
小栗主従、盗賊に毒殺さる
常陸・小栗城主の満重は、世に小栗判官として知られる智勇兼備の武将であった。応永30年(1423)、満重は謀反の企てがあると同士に讒言<ざんげん>され、鎌倉公方の足利持氏に攻められて小栗城は落城。主従11人は、一族のいる三河国をめざして落ちて行く。
途中、藤沢の山中で一夜の宿をたのんだ家が、こともあろうに横山大膳という盗賊の家であった。いい獲物が来たとばかり迎えた大膳は、酒宴をひらき毒殺して金品の略奪を企む。これを、故あって横山の家に身を寄せていた照手姫が知り満重にそっと耳打ちした。が、強引なすすめを断り切れず一口呑んだ酒で体中がしびれ息絶えてしまった。毒入りの酒と知らなかった家臣10人は全員即死。盗賊どもは衣服財宝を奪ったあげく死体を上野ケ原に投げ捨てる。
その夜、遊行寺大空上人のご慈悲で蘇生した満重は、療養のため熊野の湯ノ峯温泉まで送り届けてもらった。
姫小島のいぶし松
一方、照手姫は大膳の家を逃れて六浦まで来たが、ついに追っ手に捕まり衣服をはがされ川に投げ込まれる。しかし千光寺の観音さまの功徳によって一命を取り止め、野島の漁師の家にかくまわれていた。ところが、漁師の妻は姫の美しさに嫉妬し松にしばりつけ、松の青葉でいぶし殺そうとする。姫が一心に観音さまに祈ると、たちまち風が吹いて煙は横になびき、またも仏の加護で救われた。
性悪な妻は、ついに姫を人買いに売り飛ばし、次々売られて美濃の青墓宿の遊女に売られてしまった。瀬戸橋近くの"姫小島跡"が、その松葉いぶしの場所といわれる。
乳母の「侍従<じじゅう>」は、六浦まで姫の後を追ってきたが行方が分からず、悲嘆のあまり姫の化粧具を残して川に身を投げる。のち、この川を「侍従川」と呼ぶようになった。
また、千光寺(現在は東朝比奈に移転)前の土堤を化粧具に因んで「油堤」と云うが、「油包」からきたとの伝えもある。
さて、満重は熊野・湯ノ峯温泉の薬効で本復し、京都に訴え出て謀反の疑いも晴れた。早速、遊行寺閻魔堂で大空上人の慈恩に感謝し家臣たちを弔う大法会を営んだ。こうして満重は再び小栗城主に戻り、まもなく横山一族を討ち、照手姫を妻に迎えて幸福な日々を過したのだった。
満重の死後、照手姫は剃髪して尼となり、閻魔堂近くに住んで夫満重と従者の菩提を手厚く弔ったという。その跡が、遊行寺長生院といわれ、小栗判官、照手姫、十勇士の墓などが伝えられている。
 
小栗判官伝説5

 

小栗は二条大納言兼家が鞍馬の毘沙門(びしゃもん)から授かった申し子である。知勇兼備の秀れた武者で、十八歳のとき、兼家夫妻が妻を娶わせようとしたのを、いろいろ難癖をつけて妻嫌いをし、七十二人も撥ねつけた剛のものである。その小栗があるとき鞍馬に参詣の途次、みぞろが池の大蛇に見染められてこれと契り、都中の風聞の種となる。父兼家はわが子なれども心不浄のものは都に置くことはでいないと、常陸国玉造に小栗を流す。小栗は常陸に住んでも大剛ぶりを発揮し、多くの武士を配下に従えて威勢を振う。
ある日玉造の御所に、後藤左衛門という三状体の行商人が現れ、商いのかたわら、武蔵、相模の郡代横山のひとり姫照手の美しさをいいふらす。小栗はこれを聞き、見ぬ恋に憧れ、後藤に仲介を頼んで恋文を書く。後藤はその文を持って、横山の館に着く。照手は下野国(しもつけのくに)日光山の申し子で、観音が常に影身に添うように守護する女性である。
父横山や兄たちに厳しく監視されて育ったこともあって、後藤から手渡された恋文が自分あてのものだと知って狼狽しこれを破り棄てる。後藤は観音経をひいて文を破った照手の罪を攻め、返書を強要する。照手はやむなく小栗に返書を書く。照手の承引は一家一門の関知しないことであり、そこに一抹の不安はあったが、小栗は強引に、十人の臣人を従え横山の館に入り、乾の局で照手と契る。
父横山は理不尽な小栗の婿入りに腹を立て、七十騎の軍勢を向けて殺そうとするが嫡子家継に止められる。しかし怒りは静まることなく、三男の三郎の意見を入れて、稀代(きたい)の荒馬(人食い馬)、鬼鹿毛(おにかげ)に小栗を乗せ、人まぐさにすることに決める。
小栗はまえもって鬼鹿毛に宣命を含めて柔順にし、ついにこれを乗りこなし、曲乗りなども披露する。あまりの見事さに横山一門は唖然とするが殺意は衰えず、第二の手段として蓬 山の宴に小栗を招き、毒殺の計画をねる。
この企みを察知した照手は自らが夢みた悪夢の数々をあげて、小栗の出仕を制止する。しかし小栗は、大剛の者の習いとして招きを断るわけにはいかないといて十人の家臣ともども宴に出、ついに横山の手にかかって毒殺されてしまう。そして臣下十人は火葬に、小栗一人は土葬として葬られる。
横山は、「人の子を殺して、わが子を殺さねば、都のきけい(聞こえ)もあるから」という理由で照手を殺すことにし、鬼王鬼次に命じて、相模国のおりからが淵に沈めることにする。しかし鬼王鬼次は照手を救い、牢輿(ろうこし)に入れて流す。
照手は相模国(さがみのくに)のゆきとせが浦に漂着し、そこの村君(むらぎみ)の太夫(たゆう)に拾われて養われる。しかし村君の太夫の姥(うば)(妻)は照手に嫉妬し、生松でいぶすなどの折檻をするが、観音の加護のある照手には何事もない。
姥はついに照手を六浦(むうら)が浦の人商人に売る。これ以降照手は転々と諸国を売られ歩き、北陸道から近江の大津へ、さらに美濃国青墓(みのくにあおはか)の遊女宿よろず屋の君の長のところへ売られてくる。
よろず屋の長は照手に遊女となって客を引くことを命じるが、照手は頑固に拒み水仕(みずし)として働くことになる。そして常陸小萩、念仏小萩とよばれて苦しい労働に明け暮れする生活を送る。
一方、話かわって、冥土に堕ちた小栗主従は閻魔大王の前でその罪を裁かれる。そのとき住人の臣下は、たっての願いといって、土葬にしてある小栗の身体を今一度娑婆(しゃば)に戻してくれと頼む。 閻魔大王は臣下の忠節に感じて願いを聞き入れ、藤沢の上人(しょうにん)(遊行寺)(ゆぎょうじ)のめいたう聖のもとに返すことにする。
やがて小栗は物いえぬ餓鬼阿弥(がきあみ)という醜い姿のままで、閻魔直筆の「この者を熊野本宮、湯の峯の湯に入れて本復させよ」という胸札をつけ、うわのが原(遊行寺の近く)にある小栗塚を破って出てくる。
藤沢の上人は小栗に餓鬼阿弥仏と名をつけ、土車に乗せて自ら先頭に立ち、熊野本宮湯の峯目指して引いていく。途中上人と別れた土車は、なおも街道の人々の援けによって東海道を上り、やがて青墓のよろず屋の長のところへ着く。
照手は小栗のなれの果てとは知らず、餓鬼阿弥と対面し、夫の供養のために車を引くことを思い立ち、長から三日の暇をもらう。そして手に笹を持ち狂女の風躰となって、先に立って土車を引き、青墓より近江に入り、大津、関寺とたどり、玉屋の門前のまできて止まる。そこで餓鬼阿弥と一夜を明かし、後ろ髪をひかれる思いで土車を捨てて、約束の三日の期限を守るため、照手は長のところへ帰る。
しかし土車の道行きはなおも続き、新しい車引きの旦那を得て、住吉明神、堺の浜とコースをとって引いていく。そして本宮湯の峯の近くで車道が絶えたので、やむなく餓鬼阿弥一人、大峯入りの山状にかつがれて、目的地の峯の湯に着く。小栗はそこで七七四十九日の間湯治に専念し、ついにもとの小栗に本復する。
小栗は、熊野権現の加護を受け、金剛杖(こんごうづえ)を授かって三状姿に身を変え、まず京の二条にある父兼家の館を訪れる。そこでいったんは館を追放されるが後、実子小栗とわかり、親子は久々の対面で涙を流す。小栗は次に帝と対面し、五畿内五箇国を与えられ、また美濃国も馬の飼料としてもらい受ける。小栗は昔の奉公人三千人を従え、青墓の宿の長の君のところへ赴く。
そこで水仕となって働く照手と対面し、すべてが明らかになり、二人は喜びの涙にひたる。小栗は長者夫婦を罰しようとしたが、照手の取りなしで恩賞を与え、また横山に対する報復も同じく照手の言を入れて思い止まる。横山は子に勝る宝はないと、十駄の黄金と鬼鹿毛を馬頭観音と祀る。それにひきかえゆきとせが浦の姥や、横山の三男三郎の対しては極刑を下し、小栗の厳しさの一面をのぞかせる。
小栗照手夫婦はやがて常陸に戻り末長く長者として栄え、八十三で小栗は往生をとげる。神仏は大剛の者小栗をたたえ、末世の衆生(しゅうじょう)に拝ませんと、美濃国安八郡墨俣(すのまた)に正八幡荒人神として祀り込め、また照手はそれより十八丁下に契り結ぶの神として祝い祀られる。
小栗判官伝説
その昔。浄瑠璃や歌舞伎など、江戸を中心に俄然有名になった小栗判官と照手姫とはどのような人物で、協和町とのかかわりはどのようなものだったでしょうか。 最近の歴史ブームと共に郷里の史的人物の評価と顕彰が盛んに行われるようになってきました。
これらが、ふるさとの活性化へのステップになっているようです。小栗判官と聞いても非常にあいまいな答えしか返ってきません。大まかには分かっているつもりでも、本当は良くわからないのが実状のようです。
どこまでが史実で、どこからが伝説なのか、もちろん明確な基準はなく、あってもその根拠は希薄なものでしかないようです。
その一説をたどると、中世の小栗(協和町)は伊勢皇太神宮の神領で御厨と呼ばれ、その管理を代々世襲したのが常陸平氏一族の小栗氏でした。応永三十年。今からおよそ五百六十余年前の頃、常陸小栗の第十四代城主、判官小栗満重(判官は当時の官位)は関東公方・足利持氏に攻められ、小栗方は苦戦の末ついに落城してしまいました。その満重の子、小栗助重は涙を流し城を捨てて、主だった家臣十名と共に一族に当たる三河国(愛媛県)に逃げのびる事になってしまったのです。この時の家臣十名が小栗十勇士であり、幾多の合戦で武勇をとどろかせた強者たちでした。三河めざして落ちて行く途中、相模国藤沢宿(神奈川県藤沢市)で横山大膳という豪族の家に泊まりました。この横山は実は盗賊で判官は、毒殺されかかったが、遊女照手姫は宴席で舞をまいながら同じ歌を繰り返し歌って毒酒であることを助重に伝えたのでした。
 
小栗判官6

 

「説経節」という中世の口承芸能がある。ある図では、長柄の大傘を立てて手にささらをすりながら物語を語っている。説経節には悲しい物語が多く、悲しげな節で述べられるのを聞いて聴衆は涙を流す。あまり資料が残っていないため詳細は不明だが、発生は室町時代初期と推測されている。そして江戸時代に歌舞伎や浄瑠璃に押されて次第に廃れ、今は途絶えてしまった芸能だ。
「説経節」と聞いて「お説教」を連想してしまう人は多いだろう。実際、関係がある。「説教」の本来の意味は、仏の教えを人々に説き教えることだ。娯楽の少なかった中世では、寺で説教語りのうまい僧がいると人気が集まった。これが大衆芸能として転化して「説経節」となる。説経節を語る者は僧ではなく、賤民だった。各地を放浪しながら民衆に説経節を聞かせることで、生計をたてていた。そうして各地に伝わる民間伝承や説話を取り入れ、民衆にわかりやすく親しみのあるものに変えていく。そうして、説経節の物語ができあがっていった。
「安寿と厨子王」の話なら知っているだろう。明治に森鴎外が書いた「山椒太夫」が有名ではあるが、元をただすと説経節「さんせう太夫」に行き着く。他にもいろいろな物語があるが、その中で最大のものがここに紹介する「をぐり」である。

都の高貴な家に生まれた常陸小栗(ひたちおぐり)だが、常陸の国に流される。そこで相模の国の守護代、横山殿に照手の姫という美しい姫がいるのを知り、強引に婿入りする。これを知った横山殿は、一計を案じて小栗を呼び酒の場で毒を盛る。
こうして家来ともども毒を盛られて地獄行きとなった小栗だが、家来たちは自分たちの代わりに小栗を娑婆に戻すよう、閻魔大王に願い出る。これに感じた閻魔大王は小栗を現世に戻すのだが、目も見えず耳も聞こえず、ものも言うことのできない変わり果てた姿となる。姿が餓鬼に似ているので「餓鬼阿弥」と呼ばれる。
閻魔大王からのことづてで、この餓鬼阿弥を熊野本宮湯の峰の湯に入れれば元に戻るという。餓鬼阿弥を見つけた藤沢のお上人は、車に乗せて「この者を一引き引いたは千僧供養、二引き引いたは万僧供養」とお引きある。お上人は富士浅間神社まで引いて行き、この後次々と多くの人が代わり代わりに「えいさらえい」と餓鬼阿弥を引いて東海道を上がっていく。
一方、横山殿は照手の姫を相模川の「おりからが淵」に沈めるよう命じる。姫に同情した下僕は、殺さずに海に流す。こうして姫は「ゆきとせが浦」に流れ着き、ここから人買いに次から次へと売られて各国を流れ流れて、美濃の国青墓の宿の「よろづ屋」という遊女屋に買い取られる。
亡き小栗を想う照手の姫は「常陸小萩」と名のり、遊女になれという主人の話を断り、代わりに十六人分の水仕事を一人でさせられることになる。こうしてつらい奉公を三年間なされる。
かくして、東海道を上がってきた餓鬼阿弥を見た常陸小萩は、それが自分の夫であることを知らずに、夫の供養のために主人に五日間の暇を得て餓鬼阿弥を引くことになる。
が、自分の美貌のために人々の好奇の対象となってしまうことに気づいた小萩は、古烏帽子をかむり笹に幣をつけて狂人に装う。
かくして近江の大津関寺まで引いた小萩だが、
ああっ この身が二つあったなら
一つはよろづ屋へ戻したい
一つはこの餓鬼阿弥の車を引いてやりたい
心は二つ 身は一つ
と、餓鬼阿弥に名残を惜しむ常陸小萩。
こうしてようやく湯の峰の湯にたどり着いた餓鬼阿弥は、次第に元の姿を取り戻す。
七日入れば両眼が開き
十四日入れば耳が聞こえ
二十一日入れば早くも物を申されます
その後四十九日には六尺二分豊かなる元の小栗殿におなりになります
復活した小栗は、常陸小萩(照手の姫)を迎えに行ってめでたしめでたしとなる。
中世の賤民の姿を映す説経節
身分差別制度は江戸時代に作られたものと、一般には思われている。「士農工商穢多非人」である。が、被差別部落の歴史を調べた近年の研究では、確かに大部分の部落は江戸時代に作られてはいるが、その中核となる部落は室町時代にまでさかのぼることがわかった。つまり、室町時代にすでに、賤民階級が存在していたのだ。
説経節は、こうした中世の被差別民が作り上げた芸能である。歌舞伎も元は賤民が作り出した芸能ではあるが、支配者階級にも受け入れられ広まっていった。それに対して説経節は、ついに支配者階級に受け入れられなかった。これを知れば、説経節の物語がなぜに悲しみに満ちているのかがわかってこよう。差別されて苦しめられてきた賤民の怨嗟の反映が、説経節に現れているのだ。みずからの悲しみを謡い、涙を流すことによってささやかなカタルシスを得ていたのである。
実際、説経節の物語には障害者がよく出てくる。中世では、障害者は非人とされていた。「をぐり」でも、足の筋を切られて歩けなくされた女に、鳴子(なるこ)を鳴らして鳥を追い払う仕事をさせる話がある。「さんせう太夫」でも、盲目となった母が鳥追いしながら「つし王恋しや、ほうやれ。安寿の姫恋しやな。」と言うシーンがあるのは有名だろう。
さて、小栗が目も見えず耳も聞こえず、口もきけない餓鬼阿弥となる。三重苦の障害者だ。これについては、癩(らい)病者の姿に重ねる説がある。また、車に乗せて運んでいく姿に、肢体障害で自分では歩かれぬ乞食の姿と見る説もある。どちらにしても、一般民衆からはじき出されて賤民に身を落とした姿であることに変わりはない。各国を放浪しさまざまな賤民を見てきた説経者にとっては、おなじみの姿であった。
「をぐり」の話の中では、餓鬼阿弥は湯の峰の湯に入ることで復活する。神仏の霊験により救われる、当時の物語のパターンである。これにより、苦しめられている人々の救われることを夢みて信心を改めたことだろう。説経者は、救われぬ悲しみの物語を述べながらも、神仏の霊験を語ることでわずかな救いを残していた。
少ない障害者の歴史研究
中世の障害者の姿を見るには、説経節が資料となりうる。こうした賤民に関する資料は少ないのだ。支配者階級にとっては賤民は関心の対象外なので、正式な文献にはあまり出てこない。説経節の発生についてあまり詳しいことがわかっていないのも、こうした事情がある。中世の賤民の研究が進んできたのは、かなり近年になってからだ。正式な文献だけによらず、各地の部落への地道な調査を進めてきた成果だ。これまでの教科書にあるような史観では、中世の姿を説明できないことが明らかになっている。
従来の史観が信用できない例を示そう。例の「座敷牢史観」である。昔の障害者の話になるとよく「障害者は座敷牢に閉じこめられていた」という話がでてくる。が、この話はどこまで確認されたものなのだろうか? たまたまそういう記述がある文献が残っていると言うだけで、どこまで本当なのか確認もしないままに文章の子引き・孫引きを繰り返していないか?
よく考えてみよう。そうすれば、次の疑問が出てくるはずだ。
そもそも座敷牢に閉じこめること自体、一般的な行為だったのか?そうではない、ということはすぐわかると思う。 座敷牢があるような屋敷を持つこと自体、一般庶民にはできないことで、富裕階級に限られた話だと容易に想像できる。
話を富裕階級に限定しても、桟敷牢に閉じこめるのが一般的だったのか?
 ごく一部の例外的な例がたまたま記録に残っただけではないのか?
座敷牢がない一般庶民はどうしたのか?
わざわざ自分で新しく座敷牢を作って閉じこめていたのか?
それとも桟敷牢を持っている人にお願いして閉じこめてもらっていたのか?
桟敷牢が用意できるほどの富裕なら、付き人をつけて世話をさせることもできたはず。 桟敷牢に閉じこめたのと、付き人をつけるのと、どちらが多かっただろうか?
もし桟敷牢に閉じこめる方が普通だったのだとしたら、当時であっても人の情に反する行為だったわけで、そこに特別の理由があったはず。どういう事情だったのだろうか?
残念ながら、この疑問に答えた文献は見たことがない。
 
小栗判官7 歌舞伎と障害者

 

小栗判官の物語は、恋の物語、そして障害者の旅の物語としてよく知られている。現存する小栗物歌舞伎としては19世紀初頭に登場した「姫競双葉絵草子」が集大成だが、この芝居は初春歌舞伎の定番として見なされ、明治前半まで頻繁に上演されてきた記録があることからも、新春号で紹介するのにふさわしいおめでたい演目かと思う。
平成12年に国立劇場で上演された時には、鴈治郎と時蔵の錦絵から浮き出たような艶姿が評判になったが、筋書きの背景にあるのはお定まりの「お家騒動」。まず、「お家の重宝」が無くなり、馬芸に秀でた小栗判官は将軍の命により関東へ探査の旅に出る。判官が訪ねたのは謀反を企む横山大善の屋敷。そこには判官の許婚「照手姫」が身を寄せている。大善は都からの上使として現れた小栗に毒を飲ませ殺そうとするが、命がけで親を諌める嫡男太郎が防ぐ。小栗は宝を奪い返すために先を急ぎ、その身を案じる照手は決死の覚悟で一人小栗の跡を追う。美濃青墓の万長屋に宝の一つがあると聞いた小栗はそこに婿入りして宝を得ることにし、首尾よく一人娘のお駒と祝言をあげ、そこで下女として働いていた照手と再会する。かつての照手の乳母であったお駒の母は、判官と照手の素性を知って、2人を添わせる手助けをするが、おさまらないのは娘のお駒。嫉妬に狂い、母親の制止も聞かず2人を殺そうとした挙句、弾みで母親の手にかかってしまう。死んでも小栗の裏切りを許すことができないお駒の恨みで小栗は突然癩病となり、五体の自由が利かなくなる。仏の加護を信じ小栗の本復を願う照手は、土車(本来は人間が乗らない土を運ぶための車)に乗せた小栗を引いて熊野までたどりつく。そこで悪者に襲われ小栗は殺され川に流されるが、熊野三所権現の霊気を得て蘇生。もとの姿に戻ったうえに、奪われた宝も無事戻り、互いの無事を喜ぶ2人がお家の再興を誓うところで舞台は大円団となる。
限られた空間で繰り広げられる歌舞伎の舞台の荒唐無稽な話の裏には的確な人間観察があり、様式化された所作や台詞の決まりごと、そしてそれを操る役者の技によって、観客は楽しみながらも複雑な世の中の事情を理解する。「姫競」もその例に漏れず、息苦しい封建時代に生きる人々の共感を誘う「忠義の道が人の道」という主題とは別に、小栗を恋する「照手」と「お駒」という2人の姫が物語を動かすことから「姫競」という外題がついたのだろう。
「障害者の旅」ということにはあまり比重が置かれていないが、当時の歌舞伎が数少ない情報提供の手段となっていたことを考えたとき、熊野詣の「霊験騨」がどれだけ多くの病で苦しむ人々、差別され虐げられた人々に夢を与え、熊野に足を向けさせるきっかけになったことか、推量するに難くない。
次に市川猿之助丈が生み出した現代の小栗物「オグリ」を取り上げてみたい。猿之助は予てより「姫競」に澤潟屋らしい演出を加えた「当世流小栗判官」を上演していたが、スーパー歌舞伎「オグリ」では、小栗の物語の原型である「説経節」を元に「姫競」では扱いきれなかった「障害者の旅」をこと細やかに描き込んでいる。
「説経節」とは中世の仏教の説教が歌謡化し、喜捨を得るための大道芸となったもので、その後、人形浄瑠璃に発展し歌舞伎に移入されたものである。「姫競」との違いがわかるように「オグリ」の概要を追ってみよう。
京都の公家の息子である小栗判官は文武両道に長じた不調人(常軌に外れた行動をする人)で、3年間に712人の妻嫌いをしたあげく、女に化けた大蛇と契る。噂が広がり帝の不興をかった小栗は常陸の国に流罪となったが、侍の国常陸では毘沙門天の申し子としてもてはやされ、大将となって活躍する。
ある日、照手姫の美しさを伝え聞いた小栗はまだ見ぬ照手に恋焦がれ、10人の強者を連れて相模に行き、強引に関係を結んでしまう。小栗の道を外れた行いに怒った照手の父は小栗を殺すことに決め、人を餌とする凶暴な馬「鬼鹿毛」をあてがうが、小栗はあざやかに乗りこなす。しかし、結局は毒を盛られ殺されて家来ともども地獄に落ち、その後一人だけ餓鬼病(癩病)姿で蘇る。異形の小栗は「一引いたは千僧供養、二引いたは万僧供養」という遊行上人の記した文言のお陰で、人々に土車を引いてもらい熊野をめざす。
美濃国の青墓宿は「姫競」では小栗が偽の祝言をあげた場所であるが、ここに小栗の乗った土車が3日間放置されていた。それに気が付いたのは照手。小栗と出会った土地にちなみ「常陸の小萩」と名乗り、夫に添う心を持ち続けていた照手は、異形の病人を哀れに思い、また、小栗と10人の家来の供養のために土車を引く。互いに相手がわからぬまま、照手は餓鬼病の男に小栗に通じる愛しさを覚え、小栗は小萩に照手の姿を重ね合わせる。照手が小栗を大津まで送り届けたことから仏のご加護に弾みがつき、熊野の湯の峰までたどり着いた小栗は本復。小栗は照手を迎えに行き、晴れて夫婦となった2人は常陸で末永く幸せに暮らす。
「オグリ」で蘇った「説経節小栗判官」の発端は「鎌倉大草紙」(室町時代の軍記物)に見られる「足利氏にたおされた小栗氏(城)」を巡る史実にあると言われ、茨城県真壁郡協和町(現 茨城県筑西市)の遊行巫女が小栗氏鎮魂のために語った物語が、それぞれの地域の人々の口承文学として語り継がれたのち、神奈川県藤沢の遊行寺で一つの物語としてまとめられたと考えられている。
この「説経節」の正本である宮内庁所蔵の御物絵巻「をくり」の中には、小栗が数人の男たちに土車を引かれ熊野をめざす姿が描かれている。自分で動くことのできない小栗が、障害者や病人を救済することで極楽往生を願う人々の力を借りながら、熊野をめざして旅したことを表した場面である。「オグリ」の舞台の圧巻もこの旅の部分にある。
宗教の力を借りた当時の救済システムに助けられたとはいえ、忌み嫌われる癩病の旅人にどれだけの困難が降りかかっていたことか。時には、運良く引かれて進み、時にはひどい迫害を受け、時には情をかけられて食べ物にもありつき、時には餓え、また、打ち捨てられたまま野垂死をすることもあっただろう。そのような当時の障害者の置かれた状況の一部を猿之助小栗が血の通ったかきくどきの台詞まわしで演じ抜く。
「説経節」の前半は英雄の物語だ。並外れた武勇を誇り英雄的な気質を兼ね備えた小栗という人物は、法と秩序の下に生活を営む定住社会からはみだしてしまう定めを持っていた、と言えるかもしれない。病に苛まれた障害者と同様に、異なる文化や力を持つ者もまた社会から差別を受けることを考えたとき、「姫競」と「オグリ」にみられる小栗の死は、歴史的背景を含んだ社会的な死、と受け取ることもできるように思う。
「歌舞伎」から「説経節」に話が傾きすぎたきらいがあるが、古今を通じて小栗の物語は人の心をとらえ、物語の中の小栗のように消えても新たな命を持って蘇る力を持っているようである。
熊野古道には今でもさまざまな「小栗」の足跡が残っているという。困難が大きい人であればあるほど、多くの人に助けられながら熊野詣をしたことだろう。実際には旅をしない歌舞伎席の観客も、その抱える問題が大きければ大きいほど、その分しばし夢物語の中に身を置くことでこのうえなく幸せな観客となることができたのかもしれない、などと昔の人々のことを考えながら、ふと、自分もいつの日か熊野詣をしたいと願う者の一人であり、常に幸せな歌舞伎の観客の一人であることに気がついた次第。  
 
小栗判官8 小栗伝説

 

小栗判官伝説には、諸説がある。「鎌倉大草紙」では、応永三十年(一四二三)、茨城県は常陸の国の小栗邑(茨城県真壁郡協和町)の小栗満重・助重親子が関東官領の足利持氏と戦い小栗城は落城。その後、助重は小栗家を再興するが、康正元年(一四五五)、足利成氏に攻められ再び城を明け渡す。これらの歴史叙実をもとに、小栗判官伝説は構築されている。
小栗と照天(照手)の出会い
「小栗実記」では、小栗満重が足利持氏との戦いに敗れ落城。その子、助重(小栗判官)は、愛知県は三河の国を目出して小栗家臣十人衆、池野荘司助長、後藤兵助助高、後藤大八郎高次、片岡加太郎春秋、片岡加太郎春房、田辺平六郎長秀、三戸小太郎為久、風弓次郎正国、池野平太長足と共に落ち延びる途中、神奈川県は相模の国の郡司・横山平安正の嫡男、横山前生安秀の謀略にかかり鴆毒ちんどくの入った毒酒を飲まされ、殺害されようとするが、これを察知した遊女「照天」の機転により、一命を取り留めた。そして、小栗判官は神奈川県は時宗の本山のある藤沢で、遊行上人に庇護されるが、横山大膳に飲まされた毒酒の影響で、「目も見えず、耳も聞こえず、口も利けず」と言った三重苦の病人「餓鬼病み」・「餓鬼阿弥」姿になった。 小栗判官を助けたといわれる照天は、元は常陸の守、佐竹武光の娘といわれ、生まれてまもないころ、応永十四年(一四〇七)、父武光は鎌倉管領足利満家と戦い、敗れて戦死、領地も失い、母子ともに常陸の国の小萩村に住んでいたが、七歳の時に横山一族におそわれて母は殺されて、照天は相模の相模権現堂の間吉次の家に売られた。その後、成長して照天は白拍子しらびょうしになった。さらに、小栗判官に出合い母の敵討ちをしようと思っていることを打ち明けたのであった。それで、小栗判官と照天姫は横山一族を成敗しようと試みるが、その計画が逆に発覚して命を狙われた。
藤沢から照天と為国の脱出
小栗判官は、その危機を脱し藤沢山遊行寺で、小栗家臣十人衆と共に第十四代大空上人に、助けられた。照天姫は、小栗判官の行方を探し求めて相州の六浦まできたが、蛾(かほよ)という、小栗判官の一子万千代をもうけた娘の生みの母にであう。蛾は、照天姫がいる限り、小栗判官から娘は寵愛されないと思い、照天姫は殺されそうになる。照天は、瀬戸橋の汀まで行き小舟に乗って難を逃れた。その照天が乗った船に、小栗判官を探して彷徨していた近侍の水戸小四郎為国が、敵に追われて海に飛び込んだところ、その照天の乗った船に飛び乗り、鎌倉の濱にその船は着けられた。そして、考えあぐんだ末、小栗家と縁のある丹波へ赴いた。 丹波路の国境に霊験あらたかな竹野神社があり、照天姫と為国は、そこで再会を果たした。そして、三人は、照天姫の結の尼と乳母の侍従の叔父がいる美濃の国でかくまってもらおうと思い美濃路へ正長元年、旅だった。
美濃にて神のお告げ
美濃に赴いてから、照天姫は小栗判官の子、大六助正を生み幸せに暮らしていけるかのように見えたが、亨永六年の春、小栗判官は、病魔に襲われ高熱が出て、やせ衰え、耳は遠くなり、手足の自由もなくし、声もでなくなり、悪瘡が出来て業病に陥った。小栗判官には、投薬の効果は望めない、死を待つばかりであった。照天姫は人伝えに聞けば、、紀州熊野本宮湯峯の霊泉は、どんな難病でも、本復するという話しを聞き、湯峯の霊湯より他にはないと思った。 湯峯に出立する前日、照天姫の枕元に一人の白い顎鬚を生やした老人が立ち、おもむろに口を開いて、 「吾は、紀州熊野本宮に鎮座する十二社大権現の使者なり。今、汝に大神の信示を伝えん。夢々疑うことなかるべし。よく心して聞かれよ。汝の夫は先に、鎌倉の権現堂にて大難に会いしを、藤沢山の大空上人に頼り救われしなれど、月日を重ねるうちに、その時、口に含みたる鴆毒ちんどくがもとにて、現在の餓鬼阿弥の業病となり苦しみているのであろう。なれど、案ずるなかれ、そなたが夫判官を連れて行かんとするところは、熊野大権現なるは存知おろう。それなる本殿に坐するは、スサノオミコトなる大神なり。昔より修験道の神仏習合盛んなるや。本地の阿弥陀如来と併せて拝される。判官殿を救われし遊行上人の初代一遍上人が神勅の啓示を受け、時宗を聞き、上人は後に東国相州に下り、藤沢山清浄光院清浄寺、通称、遊行寺を時宗の総本山と定めて、第一世上人となる。今、上人、熊野権現の神事をそなたに告ぐ。小栗判官の病、如何なる業病たる共、紀州熊野湯峯の薬王山東光寺の薬師如来が待ちかねておられる。御仏の胸より出流薬湯が壺の湯の岩間に注がれている。入浴すれば百ヶ日を出ずして全快疑いなし。それにしても、幼子を連れて女手一人では山道を土車を引くは大変なことである。明朝、出発の折りには土車の中をよく見られよ。」と、告げられその姿は消えた。 翌朝、車の中を見ると、一枚の紙切れに「この土車を一曳きすれば、千僧供養。二曳きすれば万僧供養 一遍。」(一回曳くと、千人の僧侶を招いて追善供養をしたこと同じである。二回曳くと、万人の僧侶を招いて追善供養をしたこと同じである。)と書いてこれを木札に貼り付けてあり、「これを小栗判官の胸につるさせよ。」とのことであった。 「えいさらえい えいさらえい 湯峯めだして えいさらえい。」街道の道行く人々や、里々の人々に助けられ、紀州熊野本宮にたどり着くことができた。
本宮にて高僧の御教示
熊野本宮に鎮座する熊野証誠殿十二社大権現は、本地阿弥陀如来の神霊といわれ、上下の信仰を極めてあつく、霊験あらたかなる御社である。また、熊野比丘尼によって広く全国に伝承せられ、その末社は数多く祀られている。小栗判官一行は遂に、その神域に到着した。しかし、湯峯へ登る道がわからなかった。 その時、小栗判官一行の前に、たくさんのお供を連れた高僧が現れた。「御病人が入浴なさるのじゃな。この道、大日山を登っていけばよろしい。在所に入れば、薬王山東光寺というお寺があるから、その御本尊薬師如来に祈願の上、壺湯に入浴なさるがよろしい。」と、ねんごろに教えてくれた。
湯峯にて小栗の甦り
湯峯は、日本最古の霊泉で成務天皇の時代に発見された霊験あらたかなる湯だった。その湯峯の中程を流れる小川の中に、一日に七回湯の色が変わるといわれている壺湯と呼ばれた岩風呂があり、照天姫は、小栗判官をその壺湯の中に浸し、熊野権現と薬師如来に回復を念じた。 たゆみなく流れる温泉は、惜しみなく小栗判官の全身を洗った。不思議にも身体中の発疹は日を重ねずして、瘡蓋となって、十日余りたつと、それが見る見る綺麗に流し落とされ、判官の元の姿の面影が見え始めた。百ヶ日の祈願もかなえられ、三ヶ月を半ばにして全快したとき、壺湯の川上を見た。目に映ったのは、大空上人の御姿であった。そして、上人は、「やがて、判官の武運も開け、きっと小栗家も再興されるに違いない。この上共に努力なされよ。」と論された。 上人は、藤沢へ帰山されることになった。判官親子は、上人に伴われて、本宮、新宮、那智山と各末社にお参りして、京都にて上人一行との別れを惜しみつつ、丹波の峯山に道を急いだ。
峯山にて竜女のお告げ
峯山に滞在中、水戸為国が帰ってきた。為国は、照天姫の命令で、判官の家臣十人衆を探し求めて、諸国を遍歴していた。が、判官の病気全快の噂を聞き、丹波峯山にはせ参じたのであった。全快の主君は、前にもまして、元気に回復されていた。為国は再び判官に仕えれることを喜んだ。幾日か過ぎた、ある夜のことである。判官の夢枕に竜女が立った。 「私は、洛北の深泥池の竜女である。この池のほとりで、そなたを捜し求めている十人の家臣に巡り会うことが出来る。すぐに出発されよ。」とのお告げがあった。 翌朝、判官は取るもの取りあえず京の深泥池へ、愛馬の鬼鹿毛を疾駆させた。夢は正夢だった。池野庄司以下十人と再会できて、主従夢かとばかり喜んだ。思いえば幾度死線をこえたことか、幾年の難行苦行であったか。言語を絶する苦悩の日々を経て、今、お家再興の黎明が来たのだ。主従の胸の中には、お家再興を告げる暁の鐘が、段々と響き渡った。
鎌倉にて一色を討つ
小栗十勇士の首領でもある池野庄司助長は、お家再興の為に、奇策を練った。主君小栗孫五郎平満重の敵討ちのために、宿敵一色小輔詮秀を深泥池におびき出し捕獲した翌朝、縄付きの一人を護送して藤沢へ急ぐ一団があった。先頭に立っているのは、まぎれもなく小栗判官助重であった。一行は将軍足利義教の本陣に着いた。広庭に平伏していた小栗主従の前に、悠然と姿を現した将軍は、判官から事の一部始終を聞いた。亡父満重一族が、一色等のざん言で謀反者の汚名を着せられ、罪なくして討たれたこと。以来苦難流難の日々を送ってきたことを言上した。 亡父満重の汚名は晴れた。一色詮秀は、鎌倉の由比ヶ浜で斬罪に処せられた。そして、永享六年(一四三四)、小栗判官を毒殺しようとした横山前生安秀が、夜襲をかけた池野庄司の手によって捕らえられた。
藤沢にて横山を討つ
水戸為国は判官の命を受けて照天姫、子息の大六の守護をして峯山にいた所、使者が届いた。「小栗十人衆の働きで一色詮秀を捕えることができ、将軍に差し出して、なお横山討伐の御紋書を頂いた。よってこれより三河の一族百余人を率いて相模の国へ急行する。ついては、奥と若を伴い急いで我が後を追い来るように」と、言う知らせであった。 照天姫達は、支度もそこそこに判官の後を追い藤沢に着いた。照天姫は、為国に将軍への願書を持たせた。「私は小栗判官の妻、照天と申します。この度、夫判官へ追討の御下知を賜りました横山前生安秀は、照天儀の実母の仇で御座います。今日まで苦難を重ね尋ね求めて参りました。その心情をお汲み取り賜り不倶戴天の仇討ちをお許しくださりますよう懇願致します。」と訴えた。 仇討免許を得た照天姫主従は、懸命に小栗判官の後を追った。判官は、横山を討ち取り、鹿ヶ原まで西下して一息入れた。東路を急いだ照天姫一行も到着した。哨兵の案内で判官の前に照天姫、大六、為国の三人が姿を見せた。照天姫は、早速、「仇討免許」の報告をした。横山前生安秀は、厳重に縄をうたれ、監視されていた。 照天姫には、幼い日々の悲しい思い出が次々と浮かんでくる。横山一門に襲われ、母は殺され、自分はかどわかされ当時のこと。心中息苦しくなる思いである。判官が床机からすくっと立ちあがった。 「将軍の仇討ち免許があるからには、この場で仇討ちをさせよう。皆の者、直ちに用意をいたせ。」と家臣に命じた。 「母の仇、横山安秀。思い知れ!」と照天姫は言って、仇をとった。照天姫は、この日をどれだけ待たれたことであったか。
小栗家の再興
目的を達成した判官には、もはや、立身出世など毛頭望むところではない。人生とは何か。何が人の生きる道なのか。物思いにふけった。そして、穏やかに余生を生きよう。敵味方なく死霊を弔い供養しようと思った。それで、判官は隠遁出家した。将軍足利義教は、武芸に秀でた出家を惜しまれ、将軍は、判官に対して、宗丹と号しお抱えの絵師として仕えるように、命じた。 以後、判官は、絵筆に生命を託して生きることになった。判官の一子、大六助正は、特旨をもって丹波峯山を拝領し、照天姫は、助正に従って丹波に下った。その後、助正は、重ねて常陸守に補任されて、祖先の遺跡、小栗城に入った。判官は、我が子助正によって小栗家再興を成し遂げることができた。また、照天姫は、常陸の国小栗村を仮荘田として賜った。 小栗判官は応永三十三年三月十六日(一四二六)照天姫を残して、逝去した。夫小栗判官に死別された、照天姫は、その年に髪を切り、遊行上人の戒をうけ長正比丘尼となり遊行寺にて念仏三昧の信仰生活を送られたが、永享十二年十月十四日(一四四〇)入滅された。 一方、説経「をぐり」では、宗教的意味合いを持つこの物語が説法として説かれ、僧や説教師、または、熊野比丘尼によって語りひろめられ、時を経て説教浄瑠璃や歌舞伎など芸能化し、民衆に愛される物語として定着、江戸期にはずいぶんと盛んに演じられたようである。その筋立ては、小栗判官助重の一代をモデルとして創作された宗教説話「説教をぐり」が一般的である。
熊野と小栗街道
説経「をぐり」
「阿倍野五十町引き過ぎて、住吉四社の大明神を過ぎ、堺の浜に車着く。松は植えねど小松原、わたなへ・南部引きすぎて、四十八坂・長井坂・糸我峠や蕪坂、鹿が瀬を引き過ぎて、心を尽くすは仏坂、こんか坂にて車着く。 こんか坂にも着きしかば、これから湯の峰へは、車道の険しきにより、これにて餓鬼阿弥をお捨てある。大峰入りの山伏たちは、百人ばかりざんざめいてお通りある。この餓鬼阿弥を御覧じて、「いざこの者を、熊野本宮湯の峰に入れてとらせん」と、車を捨てて、かごを組み、この餓鬼阿弥を入れ申し、若先達の背中にむすぶと負ひたまひ、上野が原を打つ立ちて、日々積もりてみてあらば、四百四十四か日と申すには、熊野本宮湯の峰にお入りある。」と書かれているが、その注釈には、蕪坂(和歌山県海草郡下津町沓掛の南、有田市に至る坂)・糸我峠・(有田市糸我町)鹿が瀬(有田郡広川町河瀬より猪谷に至る間)・小松原(御坊市、道成寺に近い)・南部(日高郡南部町)・わたなへ(田辺の誤りか)・仏坂(旧西牟婁郡日置川町安居よりすさみ町周参見入谷に至る間の坂)・長井坂(すさみ町和深川と見老津の間)。海岸を通る大辺路の経路をとっている。(田辺から東上して本宮に至る中辺路の経路もある)「新潮日本古典集成・説教集 をぐり」より とあり、中辺路ルートの小栗街道があったことも述べられている。その中辺路ルート、紀南における小栗街道については、「上富田の小栗街道と伝説」(紀南の小栗伝承・第十一回小栗サミット二〇〇二「口熊野のつどい」記念誌)を引用して考えて見たい。 新庄と朝来の境界の峠は、新庄峠・朝来峠とも呼ばれ、高さ四〇センチほどの、「道分け地蔵」が祀られている。この地蔵は、道しるべもかね「右ハ大へち道」、「左ハ熊野道」とある。左に行けば飛曽川樫ノ木を経て「三郎坂」を越えて朝来上村に入り富田川を遡る中辺路の脇道になる。 朝来尋常高等小学校編「児童融和教育の理論と実際」(昭和十一年刊)という本がある。この本は朝来教育に象徴される、全国的にも有名な、融和教育の実践の本である。その本の中で「村の交通」の項に、「旧熊野街道は新庄村より、集落の中央部を通り馬の谷を貫いて岩田村に通ず、その路幅一・五米、旧態のままにして今尚里人の唯一の勝手道となっている。昔小栗判官湯の峯におもむかんとして此の地に至り馬の谷にさしかかるや通路急峻なるを以て此所に憩ふ事しばし、「一脚引いては馬の谷、二脚引いては馬の谷」といった。」と伝えられている。 「紀伊続風土記」では、「生馬村」には、小名救馬谷があり、観音堂、境内周二百八十間、小名救馬谷の山ノ上巌窟の中にあり、と記されている。 「生馬村郷土誌」には、救馬谷観音の沿革は、「当堂ハ寿永年間ノ創立ニシテ瀧尾山、岩間寺ト号シ阿々彌門流ノ作ナル馬頭観世音菩薩ヲ安置ス 応永十四年 小栗判官報恩ノ為堂宇ヲ再建ス」。また、栗栖家代々記には、小栗判官小次郎助重の妻照姫(照手姫)が報恩のため観音堂を修理したという記述もある。 生馬地区の里唄として、「咲いた花より 咲く花よりも 咲いて乱れた花がよい 咲いて乱れて また咲く花は小栗判官照手の姫よ 小栗判官照手の姫は殿のためにと車を引けど ためになるやらならぬやら」とうたわれている。 くまの文庫「古道と王子社」には、天仁二年(一一〇九)の藤原宗忠の日記によると、現在の下鮎川の地名を、加茂里とよばれていたと記しているが、いまも上富田町下鮎川に加茂の地名が残っている。 山手の「かも山」は室町時代に関所があったところで、その跡は明らかではないが、現成道寺のある台地に至るまでのオザケノサカ付近と思われる。熊野古道といわれ、小栗道は、ここを登り、関所畑を経て成道寺の裏を通り、上富田町と大塔村の境界近くの、花折地蔵を通り、昔成道寺があったと言われている寺平の庚申塔、遍路施宿千人供養塔、地主社を経て、いやの谷の王子社あたりまでで、これが小栗道といわれている。
病む人々の歩む道
小栗街道にて、土車に乗せられた小栗に命名された「餓飢阿弥」という名は、「餓飢病」ともいわれていたライ患者に時宗風の「阿弥」号を付したものとされている(折口信夫「古代研究」民俗学編)。説教小栗はライ者救済がテーマであることは五来重「熊野詣」も説くところである。 さて五来重は「熊野詣―三山信仰と文化ー」(一九六七)の中で、近年においてもライ患者が中辺路を歩いていたこと、さらに、大雲取の険路躄のライ者が越えていったことを、おどろきを交えつつ報告しているが、昭和初年までの中辺路には時折りそうした光景がみられたのである。 衰えゆく肉体に大いに勝る、おどろくばかりの強固な精神力がそこにはあった。 天賦の生命力を力の限り生き抜こうとする精神力、行動力は、健常者よりも数段に優っていたということであろう。彼らの眼には何が映り、彼らの心には何が浮かんだのか。と、九州大学の服部英雄氏の研究論文「いまひとすじの熊野道 熊野街道聞書」に載っている。 その多くの病める「餓鬼阿弥・小栗達」を受け入れてきたのが、口熊野は、上富田である。熊野街道の大辺路・中辺路街道の分岐点とし重要な所である。熊野の異界の地への入り口として上富田は位置する。 異界とは、辺境の地である。海を渡って来た天津神(海女津神)は内界内裏、洛中洛内に鎮座するのに対して、異界の地、熊野は、日本太古から、この「日の本」の国土に土着していた神々、国津神が鎮座する地である。 小栗判官は説経「をぐり」では、洛外異界の鞍馬山の申し子として生まれ、深泥池の大蛇と契ったという風評で、洛外異界の地、常陸の国に流されてしまう。そして、再び小栗は甦り、都に洛中に戻る。まさに、国津神が鎮座する熊野は、人間が復活する聖地である。 その聖地の入り口として、町内各所点在する救馬観音をはじめとするたくさんの「小栗の伝承遺跡」は、その病める小栗達を受け入れてきた証である。 小栗伝説の出典は「鎌倉大草紙」や「小栗実記」。「新訂小栗伝」や「説教をぐり」など豊富である。それは、日本人の心のふるさととして、この物語が親しまれてきたからにほかならない。安井高次著「奥熊野秘話・小栗判官照天姫物語」では、小栗判官は、茨城県は常陸の国の小栗孫五郎満重の子、小栗小次助重で、相模の国に郡代・横山氏に毒殺されかかったのを「照手姫」なる遊女の機転によって助けられ、神奈川県は藤沢の時宗の本山・清浄光寺の上人に救われた史実をもとに、説経節や浄瑠璃や歌舞伎芝居の芸能に組み立てられた。
つぼ湯 湯の峰
時宗は、中世において、多くのハンセン病の人々を救済するために熱心に活動していました。ハンセン病は、そのころ「餓鬼病み」と言われ、それらの病にかかった人々に時宗の称号、「阿弥」をつけて「餓鬼阿弥」と称した。猛毒に侵された小栗判官の姿とハンセン病にかかった人の姿の類似性から、時宗でハンセン病にかかった人を、餓鬼阿弥を説経節の「をぐり」とだぶらせ、小栗判官が熊野本宮湯峯の壺湯につかり蘇生する話しを熊野権現の霊験あらたかな話しと結びつけて全国に流布していった。 小栗伝説は病める小栗判官が照手姫に曳かれて湯峯に苦難を乗り越えて向かう道行きの話であるが、小栗伝説について調べているときに大きな矛盾にぶつかった。それは、小栗が通ったと呼ばれている道、小栗の道が中辺路にも大辺路にも、その伝承地が各地にあるということであった。田辺市内をとってみても、山側と海側に二つの小栗の道の伝承地がある。その多くの伝承地の意味するところは、一人の固有名詞の小栗ではなく、多くの病める普通名詞の小栗(オグリ)達が熊野を目指した軌跡として伝承されているからである。 多くの病めるオグリ達を受け入れてきた口熊野、上富田。絶望の淵に立たされた者を、「浄不浄、信不信、貴賎を問わず」あるがままに人々を受け入れてきたオグリ伝説の地、口熊野、上富田は、やさしい郷土なのである。
  
餓鬼阿弥蘇生譚

 

餓鬼
世の中は推し移つて、小栗とも、照手とも、耳にすることがなくなつた。子どもの頃は、道頓堀の芝居で、年に二三度は必見かけたのが、小栗物の絵看板であつた。ところの若い衆の祭文と言へば、きまつて「照手車引き近江八景」の段がかたられたものである。芝居では、幾種類とある小栗物のどれにも「餓鬼阿弥」の出る舞台面は逃げて居た。祭文筋にも、餓鬼阿弥の姿は描写して居なかつた。私どもゝ、私より古い人たちも、餓鬼阿弥の姿を想ひ浮べる標準をば持たなかつたのである。合巻類には、二三、餓鬼阿弥の姿を描いたのもあるけれど、此も時々の、作者々々の創意のまじつてゐた事と思はれる。
だから私どもは、餓鬼阿弥と言ふ称へすら、久しく知らずに居た。現に祭文語りの持つ稽古本や、大阪板の寄せ本などを見ても、大抵はがきやみと書いて居る。「阿弥」から「病み」に、民間語原の移つて来た事が見える。私の根問ひに弱らされた家の母などは「かつたいや。疳やみやろ」など言うて居た。勿論、母たちにわかる筈はなかつたのである。熊野本宮に湯治に行く病人と言ふ点、おなじく毒酒から出た病ひの俊徳丸に聯想せられる点から、癩病と考へもし、餓鬼と言ふ名から、疳に思ひ寄せた事と思はれる。
其程「がきやみ」で通つて居たのであつた。此は一つは、此不思議な阿弥号の由来を説く「うわのが原」の段のかたられる事が稀になつた為と思はれる。陰惨な奇蹟劇の気分の陳い纏はりから、朗らかで闊達な新浄瑠璃や芝居に移つて行つたのが、元禄の「人寄せ芸」の特徴であつた。主題としては、本地物からいぶせい因縁物を展開して行つても、態度として段々明るさを増して行つた。此が餓鬼阿弥の具体的な表現を避けた原因である。
小栗判官主従十一人、横山父子に毒を飼はれて、小栗一人は土葬、家来はすべて屍を焚かれた。この小栗の浄瑠璃の定本とも言ふべきものは、説経正本「をぐり判官」〔享保七年正月板行〕であらうと思ふが、此方は、水谷氏の浄瑠璃の筋書以外に、まだ見て居ない。国書刊行会本の「をぐりの判官」はやゝ遅れて居るらしいが、説経本と筋立ての変りのないものである。或は一つ本の再板か、別な説経座或は其他の浄瑠璃座で刊行した正本なのかも知れない。
とにかく、国書刊行会本に従うて筋をつぐ。「さても其後、閻魔の庁では」家来十人は娑婆へ戻つてもよいが、小栗は修羅道へ堕さうと言ふ事になる。家来の愁訴で、小栗も十人のものどもと共に、蘇生を許される。魂魄を寓(ヤド)すべき前の世の骸を求めさせると、十一人とも荼毘して屍は残らぬと言ふ。それではと言ふので、十人に懇望して脇立の十王と定めて、小栗一人を蘇生させる事になる。そして其手の平に
この者を熊野本宮の湯につけてたべ。こなたより薬の湯を出すべし。藤沢の上人へ参る。王宮判。
と書いて、人間界に戻した。藤沢の上人「うわのが原」の塚を過ぎると、塚が二つに割れて、中から餓鬼が一体現れた。物を問うても答へない。手のひらを見ると、閻魔の消息が記してある。それで藤沢寺へ連れ戻つて、餓鬼阿弥陀仏と時衆名をつけて、此を札に書きつけ、土車にうち乗せて「此車を牽く者は、一ひき輓けば千僧供養万僧供養になるべし」と書いた木札を首にかけさせて、擁護人(ダンナ)の出来るまでと言ふので、小法師に引かせて、海道を上らせた。此続きがすぐに、照手姫車引きになるのである。
国書刊行会本の「をぐりの判官」は、此段が著しくもつれてゐるやうである。古い語り物の正本としては、此位の粗漏矛盾はありがちの事ではあるが、肝腎の屍の顛末の前後不揃なのはをかしい。これは、小栗土葬、家来火葬ときめてよい。十王の本縁も其でよくわかるのである。唯、骸がどうなつて居たのか、判然せぬ点がある。
正本によると
此は扨措き、藤沢の上人は、うわのが原に、鳶鴉か(マヽ)わらふ比立ちよつて見給ふに、古のをぐりの塚二つに割れ……
とあるのだから、小栗の屍が残つて居たと見えるが、鳶鴉に目をつけて見ると「鳶鴉が騒ぐ故」位の意味で、元の屍は収拾する事の出来ぬ程に、四散して居たものとも見られる理由がある。古の小栗の塚と言ふよりも、古の塚の他人の骸を仮りて、魂魄を入れた話を合理化したものと見てもよい。
其は、小栗の蘇生が尋常の形でなく、魂魄とからだとが融合するまでに回復するのに手間どつてゐる点、おなじ説経正本の「愛護若(アイゴノワカ)」でも、愛護若の亡き母が娑婆へ来るのに、骸が残つて居ないので、鼬のむくろを仮りて来る段がある。此他人の骸を仮る点の脱落したらしいのが、小栗の蘇生を複雑に考へさせる。私は小栗説経の古い形は、此であつたのであらうとは思ふが、姑らく正本に従うて説明して行かう。
四五年前にも一度、小栗判官伝説の解説を書かうとして、柳田先生に餓鬼つきの材料を頂いた事があつて、企ては其まゝになつて居た。前号に先生のお書きになつた「ひだる神の話」を見て、今一度稿を起して見る気になつた。
私自身も実は、たに(た清音)に憑かれたのではないかと思ふ経験がある。大台个原の東南、宮川の上流加茂助谷での事である。米の字を手の平へ書けば、何でもなかつたのにと、後で木樵りから教へられた。
「ひだる神の話」に先生は、名義に就て二つの暗示を含めて置かれた様に思ふ。一つはだるがひだるから出てゐると言ふ考へ、今一つは、だにを本義として、虫のだにと一つものとする考へ方とである。此後とも此種の報告が集つて来て、先生の結論を、どう言ふ方面にお誘ひ申すかわからないが、私も此物語に絡んでゐる点だけの小口をほぐさせて頂く。あの室生山の入り口、赤埴仏隆寺のひだる神の事は知らないで居たが、あれを読んで、自分一人思ひ合せる事がある。中学生で居た頃、十八の春の夕、とつぷり暮れてから一人、あの山路を上つて室生へ下りた事がある。腹がすいて居たけれども、あるけなかつた程ではない。室生の村の灯を見かける様になつてから、棚田の脇にかけた水車の落し水を呑んだ。其水の光りはいまだに目に残つてゐる。あの報告を読んでぞつとした。其感銘を辿りながら書いて行く。私は餓鬼についての想像を、前提せなければならぬ。餓鬼は、我が国在来の精霊の一種類が、仏説に習合せられて、特別な姿を民間伝承の上にとる事になつたのである。北野縁起・餓鬼草子などに見えた餓鬼の観念は、尠くとも鎌倉・室町の過渡の頃ほひには、纏まつて居たものと思はれる。二つの中では、北野縁起の方が、多少古い形を伝へて居る様である。山野に充ちて人間を窺ふ精霊の姿が残されて居るのだ。
餓鬼の本所は地下五百由旬のところにあるが、人界に住んで、餓鬼としての苦悩を受け、人間の影身に添うて、糞穢膿血を窺ひ喰むものがある。おなじく人の目には見えぬにしても、在来種の精霊が、姿は餓鬼の草子の型に近よつて来、田野山林から、三昧や人間に紛れこんで来ることになつたのは、仏説が乗りかゝつて来たからであらうと思ふ。私はこの餓鬼の型から、近世の幽霊の形が出て来たものと考へてゐる。其程形似を持つた姿である。而も幽霊の腰から下は、一本足を原形とした事を示して居るのではなからうかと思はれる。さうすればやはり、山林を本拠とする精霊なるが故に、おなじ山の妖怪なる一本だゝら或は、片方だけにきまつて草鞋を供へて居る山の神などゝ共通する処があるのではあるまいか。
餓鬼と言ふと、先入主に囚はれ勝ちになるから、だるの名に沿うて話を進めて行く。私は山野に居る精霊類似のものに、山に入つて還らなくなつた人々の、死霊の畏れが含まれて居るのを認める。だるが憑くと立てなくなるのは、友引きであり、たとひ一粒の食物乃至は米の名を聞かせるだけでも、怨念退散するのは、一種のぬさに当つて居るからである。
ぬさと米と
聖徳太子が、傍丘に飢人を見て、着物を脱ぎかけて通られたといふ話は、奈良朝以前既に、実際の民俗と、その伝説化した説話とが並び行はれてゐた事を見せてゐる。而も其信仰は、今尚山村には持ち続けられてゐる。此太子伝の一部は明らかに、後世の袖もぎ神の信仰と一筋のものであると言ふことは知れる。行路死人の屍は、衢・橋つめ、或は家の竈近く埋めた時代もあつた、と思うてよい根拠がある。山野に死んだ屍は、その儘うち棄てゝ置くのであらうが、万葉びとの時代にも、此等の屍に行き触れると、祓へをして通つた痕が、幾多の長歌の上に残つて居る。歌を謡うて慰めた事だけは訣るが、其外の形は知れない。唯太子と同じ方法で着物を蔽うて通り、形式化しては、袖を与へるだけに止めて置いた事もあらうと思ふ。
みてぐらとぬさとの違ひは此点にある。絵巻物の時代になると、みてぐら・ぬさを混同して、道の神にまでたむけて居る。ぬさは着物を供へる形の固定したものであらう。着物が袖だけになり、更に布になり、布のきれはしになると言ふ風に替つて、段々ぬさ袋の内容は簡単になつて行つたものと思はれる。山の神の手向けとして袖を截つた事もあつたのは「たむけには、つゞりの袖も截るべきに」と言ふ素性法師の歌(古今集)からでも知られる。而も、かうした精霊が自分から衣や袖を欲して請求するものと考へられる様になつて来る。此が袖もぎ神である。道行く人の俄かに躓き、仆れることに由つて、其処に神のあつて、袖を求めて居るものと言ふ風に判ぜられる様になる。壱岐の島などでは、袖とり神の外に草履とり神と言うて、草履を欲する神さへある。袖もぎ神は、形もなく祠もない。目に見えぬものと考へられて来た様である。
ぬさが布帛の方にばかり傾いて来たのは、恐らく古人の布帛を珍重する心が、みてぐらを供へる対象とぬさを献るべき神とを混同させる様にしたからであらう。ぬさの系統には布でないものもあつたのである。植物の枝や、食物までも使はれた。
植物の枝は着物同様、屍を蔽ふ為に投げかけられたのである。其が花の枝に替つた地方もある。此が柴立て場・花折り阪などの起りである。沖縄の国頭郡にある二个処の恥蔽阪(ハヂオソヒビラ)の伝説は、明らかに其を説明して居る。恥処(ハヂ)を蔽(オソ)ふ為ばかりでなく、屍を完全に掩ふために、柴を与へて通つたのが、後世特定の場処に、柴や花をたむける風に固定したのである。
食物としては、米が多く用ゐられて居るけれども、菓物を投げ与へる事もあつたらしい。桃の実や、櫛・縵の化成した筍・野葡萄の類が悪霊を逐うた神話などは、或種の植物に呪力があると見る以外に、精霊を満悦せしめる食物としての意味を、考へに入れて見ねばならぬ。散飯(サバ)を呪力あるものとしてばかり考へてゐるが、やはり食物としてゞある。大殿祭にもぬさと米とがうち撒かれるのは、宮殿の精霊に与へるのが本意で、呪力を考へるのは、後の事であらう。すべての精霊のたむけにはぬさと米とを与へる様になつた。其も亦、我々の想像を超越した昔の事であらう。
野山の精霊が米を悦ぶと言ふ信仰と、現にとり斂められずに在る行路死人とを一続きに考へると、其死因が専ら飢渇の為であり、此原因に迫つて行くのが、其魂魄を和める最上の手段とする事になる訣である。天龍の中流と藁科の上流とに挟まれた駿遠の山地を歩いて知つた事は、山中に柴捨て場の多い事で、其が大抵道に沿うた谷の隈と言つた場所にあり、其処で曾て行き斃れるか、すべり落ちて死ぬかした人の供養の為にして通るのだ。さもないと、其怨念が友引きをするからとの説明を聞いたのであつた。
馬頭観音や、三界万霊塔の類は、皆友引きを防ぐ為に、浮ばれぬ人馬の霊を鎮めたのである。彼等の友引きする理由はどこに在るか。自身陥つた悪い状態に他の者をもひき込んで、心ゆかしにすると見るのは、後世の事であるらしい。さうした畏怖を起す原の姿は、精霊の憑くと言ふ点にある様である。野山の精霊の憑き易い事実を、拠るべき肉体を求める浮ばれぬ魂魄の在るもの、と考へて来るのが順道であらう。一方、非業に斃れた行路の死人を、其骸を欲して入り替つたものと見た。其が更に転じて、友引きと言ふ考へを導いたのであらう。総じてかゝる・つくなど言ふ信仰は、必、其根柢に肉体のない霊魂の観念を横(よこた)へて居る。此考へ方が熟した結果、永久或は一時游離した霊魂の他の肉体にかゝると言ふ考へを導く。
小栗の場合は、他人の屍を仮りたとも、自分の不完全になつた骸に拠つて蘇つたとも、どちらにもとれる事は、前に言うたとほりである。
餓鬼つき
正本自体、火葬土葬を問題にしてゐるから、此事も言ひ添へて置きたい。所謂蚩尤伝説は、巨人の遺骸を分割して、復活を防ぐ型のものである。日本では古く、捕鳥部(トトリベ)ノ万(ヨロヅ)が屍を分割して梟せられてゐる。平将門は、此までから既に、此型に入るものと見られて来てゐる。此と樹精伝説と謂はれてゐるものとは、一つの原因から出たとは言はれないまでも、考への基礎になつたものは同じである。霊魂或は精霊の拠つて復活すべき身がらを、一つは分けて揃はない様にし、一つは焼いて根だやしにして了ふのである。日本の風葬も奈良以前のものは、必しも火葬の後、灰を撒いたともきまらぬ様である。「まく」と言ふ語(ことば)は、灰を撒く事に聯想が傾くが、恐らく葬送して罷(マカ)らせる意であつたものが(任(マ)くの一分化)骨を散葬した事実と結びついて、撒くの義をも含む事になつたのであらう。
秋津野を人のかくれば、朝蒔君(アサマキシキミ)が思ほえて、歎きはやまず(万葉巻七)
たまづさの妹は珠かも。あしびきの清き山辺に蒔散染(マケバチリヌル)(?)
などは、風葬とも限られない。
鏡なすわが見し君を。あばの野の花橘の珠に、拾ひつ(万葉巻七)
なども、火葬の骨あげとはきまらない。「ひろふ」と言ふ語に、解体して更に其骨を集める事を含んで居るのかと思ふ。勿論火葬は、既に一部では行はれて居たであらう。が、私はわが国の殯(モガリ)の風を洗骨に由来するものと考へて居る。今も佐賀県鹿島町の辺に、洗骨を行ふ村がある位である。南島と筋を引く古代人の間に、此風がなかつたものとも思はれない。併し、洗骨の事実を「珠に拾ひつ」と言うたと考へられないであらう。洗骨はやはり、復活を防ぐ手段なのであつた。何にしても日本の蚩尤伝説は、其が固定して後までも、実際民俗は解体散葬の方法を伝へて居たものと考へるのが、ほんとうであらう。
家来は火葬で蘇生の途を失ひ、小栗は土葬の為に、復活して来た。が、此物語の中には、肝腎の部分なる屍の不揃であつた、と言ふ点を落して居るらしい。斂葬に当つて、必体のある一部を抜きとつて置いたのが、散葬によらぬ場合の秘法であつて、其が Life-index の伝説形式を形づくる一部の原因になつたものらしい。小栗の、耳も聞かず、口も働かず、現し心もない間の「餓鬼阿弥」の生活は、此側から見ねば訣らないと思ふ。
鬼に、姿見えぬ人にせられた男が、不動火界呪によつて、再、形を顕したと言ふ六角堂霊験を伝へた今昔物語の話は、我が国には珍らしい型であるが、飜訳種とばかりはきまらない。よしさうであつたにしても、小栗の場合の今一つ残つた部分の説明には、役に立ち相である。
蘇生の条件の不備であつた屍の説明から、もう一歩踏み込んで見なければならぬのは、元来屍を持たない精霊の、肉身を獲る場合である。
私は長々と、だるが行路死人の魂魄から精霊化して、遂にはひだる神とまで称せられる様になつた道筋を暗示して来た。其が更に仏説に習合して、餓鬼と呼ばれる様になつた事も解説した積りである。かうした精霊の肉身を獲ようとする焦慮は、ぬさや、食物の散供を以てなだめられなければ、人に憑く事になつたのである。其が、食物を要求する手段として、人につく、と考へられる様になつたと見る事が出来る。
さうした精霊が、法力によつて肉身を獲て、人間に転生したと言ふ伝説の原型があつて、うわのが原の餓鬼阿弥の蘇生物語は出来たものであらう。曾て失はれた肉身をとり戻した魂魄の悦びを、単独に餓鬼阿弥の上に偶発したものと見るに及ばぬ。六角堂霊験譚も、やはり同じ筋のものであつて、仏説臭味の濃厚になつたものであつた。
それと比べると、餓鬼阿弥の方は、時衆の合理化を唯片端に受けて居るだけである。併しながら同時に、念仏衆の唱導によつて、此古い信仰が保存せられた事も否まれない。
餓鬼身を解脱すること
餓鬼阿弥蘇生を説くには、前章「餓鬼阿弥蘇生譚」に述べたゞけでは、尚手順が濃やかでない。今一応、三つの点から見て置きたいと考へる。第一、蛇子型の民譚としての見方。第二、魂と肉身との交渉、並びにかげのわづらひの件。第三に、乞丐と病気との聯絡。此だけは是非して置かねば、通らぬ議論になる。
べありんぐるどの「印度欧洲種族民譚様式」の第九番目の「蛇子型」では「子どもがないから、どんな物でもよい。一人欲しい」と言うた母のことあげの過ちから、蛇(又は野獣)の子が授かる。其蛇子が妻なり、亭主なりを、めあはされて後、常に蛇身を愧ぢて、人間身を獲たがる。母が皮を焚いて了ふと、立派な人間になると言ふ件々を、此型の要素として挙げて居る。
私は、久しく此類話を、日本の物語の中に見あてることが出来なかつた。小栗照手の事を書き出しても、此点が思案にあまつて居た。叶はぬ時の憑み人として、南方翁に智慧を拝借しようと思ひついた際、窮して通じたと申さうか、佐々木喜善さんの採訪せられた「紫波郡昔話」が出て、其第七十五話に名まで「蛇息子」として出て居た。此には、子が欲しいと言はなかつたが、笠の中に居た小蛇を子どもと思うて育てた。授かりものと言ふ点では一つで、此方が、日本の神子養育譚には普通の姿で、申し子の原型である。人間と霊物とで、言語内容の感じ方の喰ひ違ふ話は、民譚の上では、諷諭・教訓・懲罰・笑話と言ふ側へ傾いて行つて居る。言あげの過を怖れ、言あげを戒める様になつてからは、普通の形でなくなり申し子型に転じて行つたのであらう。
霊物と人間との結婚は、近世では童話に近づいて「猿の臼背負ひ」と言つた形になつて来て居るが、わが国でも古くは、蛇壻の形が多い。近代では、淵の主・山人に拐されて行つた女は、男の国の姿や生活条件を採るものと見られてゐる。此が古代の型になると、生活法の中心だけは、夫の家風に従はなかつた痕が見える。だが此話は、一面神子が人間となり、教主・君主の二方面の力を、邑落の上に持つ様になつた事実の退化した上に、合理化が行はれたものと見ることが出来よう。到る処にある蛇の子孫・狐の子孫などの豪家で、からだの上の特徴を言ふ伝説を伝へながら、獣身解脱を説くことの少いのは、故意に伝承を捨てたとばかりは言へない。
巫女の腹に寓つた神子が神であり、現神―神主―であると言ふ信仰が、日本に段々発達して来てから、人間身の完全不完全を問題とせなくなつたものか。とにかく生れて後、父の国に去つて神の仲間に入つたのもあり、其まゝ人間の母の村に止つたのもあつて、一様にはなつてゐない。が、神子と家系の神との交渉を第一の起点としてゐる家々では、神なる獣身のなごりが永く記念せられて居た。獣身を捐てゝ後も、尚且、家長の資格を示すものとして、特定の人にしるしの現れることを、おし拡げて、血族通有の特徴なる鱗や、乳房や、八重歯が考へられたのであらう。
もつと残つて居なければならぬ筈で、而も「蛇息子」の話の纔かに、然し、最完全に近く、俤を止めて居る古代生活が、わが国にも実在したのであつた。此考へから、私は蛇子型が我が国の民譚になからうはずはない、と思ふのである。
紫波郡の方では、嫁が蛇身を破ることになつてゐるが、此は、べありんぐるど氏の型の方が、正しい格を示してゐる。母が、子の姿を易へてやる例は、古事記の春山霞壮夫の御母(ミオヤ)がさうである。常陸風土記の、時臥山の話の御子神に瓮を投げて、上天の資格を失はした母も、其にあたる。生みの男の子を、身体の上に加工して村の男にする責任を、母が持つて居た俤らしい者を見せて居るのであらう。此は蛇子型の父方の異形身が、母の手で、此国の姿に替へられる事の説明には役に立つ。竹取物語のかぐや姫の天の羽衣も、舶来種でなく、天子をはじめ巫女たちも著用した物忌みの衣である。此衣をかけると神となり、脱げば人となる。此刹那の巫覡の感情が久しく重ねられて、竹取の原型なる叙事詩などにも織りこまれてゐたのであらうか。白鳥処女型の物語の、此側から見るべき訣は、柳田先生が、古く釈き明されてゐる。此物忌みの衣と、村の男となる前―恐らくは、第一次の元服なる袴着の際―に行うた母の手わざの印象とが相俟つて、衣服と皮膚との間に、蛇子の本身・化身の関係を絡めて居るのではないか。
小栗の物語と、要点比べの上に於て、もつと古く、純粋だと見える甲賀三郎も、蛇身を受けたのは、ゆゐまん国の著る物の所為だとせられて居る。此獣身は、法力で解脱する事になつて居る。
やがて柳田先生のお書きになる「諏訪本地詞章」の前ぐりに、もどき役を勤めるやうで、心やましいのであるが、諏訪の社にも蛇子型の物語のあつたのが、微かながら創作衝動の動き出した古代の布教者や、鎌倉室町のふり替る頃から固定して、台本を持ち始めた浄土衆の唱導などから、段々、あんなにまで変形したのかも知れないのである。
地下のゆゐまん国と言ふだけに、よもつへぐひを思ひ起す。異類同火を忌んだゞけでなく、同牲共食で、完全に地下の国の人となつた事を言ふのであらうが、本の国の人に還られぬ理由は、さうした方面からも説く事が出来るのであつた。前章にもあげた六角堂の霊験譚、鬼に著せられた著物の為に隠された身が、法力で其隠形衣の焼けると共に、人間身を表した男の話も、仏典の飜訳とばかりは見られない。
隠れ簑・隠れ笠が舶来種と見られるのも、無理はないが、簑笠は、神に扮する物忌みの衣であることは、日本紀一書のすさのをの命追放の条を以ても知れる。在来種の上に、ぐあひよく外来の肥土を培ふのが、昔の日本人の精神文明輸入の方針であつた。無意識の心の動きは、此に一貫して居る。隠形の衣裳が簑笠になるには、かうした手順を潜つて来て居る。
御伽草子には、多少「蛇子型」の姿を留めたのがあり、微かに、小栗物語の我が国産なるを示してゐる。一寸法師の草子は、異形の申し子を捨てたのが、嫁を得て後、鬼の打出の小槌の力で、並みの人の姿になる様に変形してゐる。「鉢かづき姫の草子」では、鉢―他の側からも説明を試みねばならぬが―をかづかせられた後天性の異形が、結婚に関聯して壊れる機会が来る。さうして美しい貌を顕すと言ふのも、よく見れば、蛇子型の加工せられたものであつた。
此等の話が、結婚と悪身解脱を一続きにしてゐるのも「蛇子型」のあつたことを見せてゐる。兼ねて此型は、母と成年式と嫁とりの資格とに関聯したものなることを物語る。
小栗判官の本宮入湯は、膚肉の恢復の為と言ふ様に見えるのは、餓鬼身解脱の為の参詣と言ふ形が、合理化せられて、歪んで来たものと見ることが出来る。
江戸期より前の幽霊は、段々餓鬼と近づいて行つて居ることは述べた。さうした幽鬼の中、時を経て甦る者の、魂の寓りは、鳥けものゝ為に荒されて枯骨となつて居る。火で焚かぬ限りは、幾度でも原形に復した巨樹民譚は、もはや印象薄くなつてゐたのである。さうした餓鬼身を空想するだけでも、いぶせい教誨である。異民族―他界の生類―餓鬼と、衣類・肉身を中心にして、異郷観は変化しながら、尚、霊物としての取り扱ひは忘れなかつた。餓鬼身を脱しようとした幽鬼の苦しみは、小栗浄瑠璃には、朧ろに重る二重の陰の様に見え透かされて居る。
魂の行きふり
小栗の二重陰の上に、まだ見える夢の様な輪廓がある。其を分解して行つて、前とはすつかり反対に、寄るべを失うた魂の話がしたい。小栗の物語には、肉身焼かれずにあつた事になつてゐるが、かうした場合の説経の類型から言へば、魂をやどすべき肉身を探して、其に仮托して来ることになつて居ることは既に述べた。だから、此浄瑠璃もすぐ一つ前の形は、遊行上人の慈悲で、他人の屍に移して此世の者とせられた上、開祖以来関係深い熊野権現の霊験に浴して、肉身までも其人になり変ると言ふ筋であつたものと見る方が、手の裏反す様に小栗土葬・家来火葬と、前段に主従火葬とした叙述を顧みないでゐた点の納得もつく。家来たちの亡霊が小栗の娑婆還りを歎願する点も、効果の乏しい上に、近代の改作を見せる武道義理観である。此部分は、角太夫の居た頃の町人にとり容れ易い武士観であつたらう。おなじく荒唐無稽でも、少しは辻褄を合せる方が、見物の心を繋ぐ道であつた。
併し今一つ、魂のよるべについて、考へ直すべき部分がある。それは離魂病である。江戸期の人々は、かげのわづらひと称へて居た。此とても、漢土伝来の迷信と言ふ風に思ふ人もあるが、日本ひとりでにも起るはずのものであつた。かげのわづらひの怖ぢられた点は、唯の游離魂を考へるだけではなく、魂自身が亦、人の姿を持つことがあつた為である。本人の身と寸分違はぬ形を表すものとする。実体のない魂の影である。
大国主の奇魂・幸魂は、大物主神と言ふ名によつて、屡(しばしば)白地に姿を示現した。巫女であつたことすら忘られた、伝誦上の多くの近畿地方の処女には、暗いつま屋の触覚を与へ、時としては辱しめを怒つて、神としての形を露したこともあつた。三輪の神を、大国主とし、事代主として定めかねて来た先輩は、神の魂の一つ一つが持つ、違うた姿に思ひ及ばないで居た為であつた。誠に大国主ときめてかゝつても、本地身たる大国主の概念に囚はれぬ大物主独自の変化・活動の自在さに、眩らはされた為もある。併し、固定に伴ふ忘却が、神の垂迹を以て、生得独立の神と見易く、又さう言つた自由な分裂・自立をさせて来た。其から来る古代人の解釈が順調に印象せられ、其を忠実に分解すると、さうした眩惑も正に起るはずだと思ふ。けれども、出発点に踏み違へがある。尾を頭に、頭を腹に、腹を尾にするだうだう廻りを避けるには、第一義を蓋然の基礎に据ゑて、全然異なる出発点を作つてかゝらなければならぬのを忘れた為であつた。即、荒魂・和魂二種の魂魄を、すべての生命・活動の本と考へる様になつた時期より前に、更に幾種かの魂の寄り来ることを考へて居た古代の、続いて居たのを思はねばならぬ。本居一流の和魂の作用の二方面を幸魂・奇魂と説く見方は、従つて第二義に低回して、愈究めれば、益循環することを悟るであらう。
幸魂・奇魂の信仰が、段々統一せられて、合理的な二元観に傾きかけた機運に声援し、又其契機の一部をも作つたと見られるのは、有史前後の長い時代に亘つて、輸入元としての、とだえない影響を与へた原住・新渡の漢人であつた。伝承から、又情調からした行き触れの感染が、書物の知識から這入つたと見て来た学者の想像以上に、時としては古く、力としては強く、反響は広く滲み入つて居たことが考へられる。
物の素質を表す場合、古代人の常に対立させた範疇、あら・にごを以て限定せられて表された荒魂・和魂は、舶来の魂魄観とも違つて居たが、考へるにも組織立つた感じを持たせ、先進民族の考へ方に近い誇りを抱かせたに違ひない。出雲国造神賀詞に、大物主を大国主の和魂として居るのは、外来魂を忘れ、内在魂の游離分割の考へ方を、おし拡げる様になつた時代の飜案である。
又、纔かに人間出の魂魄をおにとする外、霊物をすべて神と見る様になつた時代に、寄り来る魂は、威力ある天つ社・国つ社の神の荒魂・和魂と見なされる様になつた。荒魂を祀ることは、祟りをのがれる為ばかりではない。ある時威力の加護を受けた感謝、又狭くは、戦争・病気・刑罰・呪咀の力の源として頼まうと言ふ心からゝしい。和魂の方も、健康を第一として、言語・動作の過誤を転換させ、生活を順調に改更する力の、常住与へられる様にとの考へから祀られる様になつた。此二魂斎祀の風と、御子神信仰とが、社の神に分霊を考へる習慣を作る主力となつたものと思ふ。
ある神の一魂を祀る社もあり、同所に二魂を別けて祀る風も出来た。従うて、常態即、本体と見るべき和魂に、一時的の発動を条件とした荒魂を、常に対立させて考へる様になつて行つた。
奇魂・幸魂なる語(ことば)は、元来対句として出来た、一つ物の修辞表現かも知れない。
とにかく、大物主は外来魂の考へを含んでゐたことは、一つ事の二様の現れと見える少彦名漂着譚と此二魂に関する記の伝誦とを見れば知れる。大国主の外来魂の名が、少彦名の形を以て示されてもゐたことは明らかである。
我が国の文献に俤を止めた古代生活の断片は、伝承の性質上、神に近い聖者・巫祝の上を談つたもので、凡下の上の現実として、其生活の痕と見ることは出来ないのである。而も其等の伝承が、記述当時の理会に基いて、普遍的な事の様に、矯めて書かれて居るものが多い。だから、魂の問題も、神に限つた事であることもあり、又、最高の神人として「神の生活」に居ることの多い天子及び国造の原形なる、邑君及び、高位の巫女の上にもおし拡げることの出来る場合も多い。だが、奇魂・幸魂の事は、天子の御代には見えて来ない。唯、荒魂を意味するらしい「天皇霊」なる語が、敏達十年紀に見えて居るのが、異例と思はれる位である。天子には「日の御子」なる信仰上の別称があつた。外的条件としては、近卑親継承と言ふ形は厳かに履みながら、信仰的には、先天子との血族関係を超えて考へられた。先天子の昇天と共に、新しく日の神の魂を受けて、誕生せられるものとした。さうして常に、新な日の神の御子が、此国に臨むものとの考へなのである。日の御子として、生れ変る期間の名が、天つ日高・虚つ日高の対句で表されて居たらしく、所謂真床覆衾(マドコオフスマ)(神代紀)を被つて、外気に触れない物忌みを経て、血統以外の継承条件をも獲られたものであらう。
第一代の日の御子降臨の時に、祖母(オホミオヤ)神の寄与せられた物は、鏡と稲穂(紀)とで、古事記では其外に二神器及び、智恵の魂・力の魂・門神の魂をば添へられてゐる。同じ本には、鏡を御霊として居るが「わが前を拝む如斎きまつれ」と告げられたと言ふ合理的な語部の解釈を、其儘採用してゐる。鏡を和魂又は奇魂に、劒を荒魂に、玉を奇魂或は和魂と解せられぬでもないが、姑らく紀に拠つて、鏡だけを説く。此は、御代毎に新しく御母神から日の御子が受けるもの、と解した外来魂の象徴と見るのが、古義に叶ふらしい。
稲穂は、祝詞・寿詞を通じて、神孫の為の食物に分け与へられたものと考へて来てゐるが、稲穂を魂代とする豊受姫神が、保食神・豊うかのめなどの名で、色々な神に配せられ、生死を超越した物語を止めて居るのは、必、意味がある。「食国(ヲスクニ)の政」を預る者は、天上の食料を地上にも作り出して、天神に献る事務を執らしめられるのである。其為事に失敗したのが、すさのをの命であつた。
此農作物の魂を所置する法を知られなかつたのだ。其で黄泉を治める事になつたものと、古伝誦の順序を換へて見るべきだらう。天つ罪が此神の犯した神の供物荒しの罪を数へ立てゝ居るのにも、理由あつての聯絡であつたのである。
穀物の魂を、御母神(ミオヤガミ)の魂に添へた理由は、同時に、内宮に外宮を配した所以でもある。外宮は皇太神宮の※(カムダチ)[广+寺]の神として出発した信仰と見ることも出来る。又さうした理会の上に、古文献も、此農神の事を叙述してゐる。而も此神は、田畠の神であると共に、酒の神であり、家の神でもある。大殿祭祝詞註の所謂、室清めの産飯(サバ)説も、葺草壁代の霊とする説も、尚合理臭い。此神の子として、若室葛根(ツナネ)ノ神(記)の名を伝へて居るのは、寧、御饌神(ミケツカミ)即厨の神とする説の方がよい。併し、外宮の場合の旧説と一つになる。私はやはり、鏡の象徴する魂・穀物の象徴する魂が、外来魂として代々の日の御子に寄り来るものと見てゐる。うかのみたまを表すのに稲魂の字を以てするのも、此消息を示して居る。生命の祝福と建て物の讃へ詞が並行叙述の形で表現せられてゐるのは、もつと根本的に、此とようかのめの神の魂が、家あるじの生活力に纏綿して居るものとせられてゐたからであらうと考へる。
食国の政を完くする為に、穀神を斎くと考へるよりも、食物の魂の寄つて居る為に、家長の生活力が更に拡充せられると言ふ信仰から出たのであらう。二神器及び三神の魂を与へられたのも、此意義から、無限に外来魂を殖して考へることの出来た古代人の思想を見る事が出来よう。殊に考へ方は新しくても、智力の魂の伝への方は、外来魂の権力の上に、助勢する力として、附着して来るものと考へられた痕を、はつきり残して居る。玉・劒は、呪力の源と見る方が適当であるらしい。
外来魂の考へが荒魂・和魂に融合して、魂魄の游離観を恣ならしめた。荒魂・和魂の対立は、天子及び、賀正事(ヨゴト)を奏する資格を持つ邑君の後身なる氏々の長上者にも見られる。而も二魂、各其姿を持つものとの考へから、荒魂の為の身、和魂の為の身に、二様の魂のよるべとしての御服(ミソ)を作つた。其二様の形体を荒世(アラヨ)・和世(ニゴヨ)――荒魂の身(ヨ)・和魂の身(ヨ)――と言ひ、御服を荒世の御服(ミソ)・和世の御服と称へた。而も荒世・和世の形体の寸尺を計つて、二魂の持つ穢れ・罪を移す竹をも、亦荒世・和世と言うた。二魂の形体の形代としての御服に対して、主上の寸尺を計る竹も、二魂の形体其物の殻と考へられてゐるので、ある時代に、後者が陰陽道の側から、とり込まれた方式なることを示して居るのではないか。此が、夏冬の大祓に続いて行はれる主上の御贖(アガナ)ひなる節折(ヨヲリ)の式である。東西の文部(フビトベ)が参与することから見ても、固有の法式に、舶来の呪術の入り雑つて居ることは察せられる。
鎮魂祭の儀を見ると、単に主上の魂の游離を防ぐ為、とばかり考へられないことがわかる。年に一度、冬季に寄り来る魂があるのである。御巫(ミカムコ)の「宇気(ウケ)」を桙で衝くのは、魂を呼び出す手段である。いづれ平安朝に入つての替へ唱歌であらうが、鎮魂祭の歌の「……みたまかり、たまかりましゝ神は、今ぞ来ませる」と言ふ文句を見ると、外来魂を信じた時代からのなごりを残したのが訣る。而も、主上の形身なる御衣の匣を其間揺り動すのは、此に迎へ移さうとするのである。魂の緒を十度結ぶことは、魂を固着させる為である。魂の来り触れて一つになる時だから、たまふりと言ふので、鎮魂の字面とは、意義は似てゐて、内容が違ふのだ。「ふるへふるへ。ゆらゝにふるへ」と言ふ呪言は「触れよ。不可思議霊妙なる宜しき状態に、相触れよ。寄り来る御魂よ」の意であらう。触るは、ふらふ・ふらはふなど再活用を重ねる。ふるふもふらふと一つ形である。
荒魂・和魂を以て、外来魂と内在魂との対立を示す様になつてからも、其以前に固定した形の、合理化の及ばない姿を存して居た事は、鎮魂祭の儀礼からも窺はれた。更に、旅行者の為に、留守の人々がする物忌みも、此側からでなくては釈けない。牀・畳などを動かさず、斎み守るのを、旅行者の魂の還り場処を失はぬ様にするのだ、と説くのはよいであらうか。旅行者の魂の一部が、家に残つてゐるために、還つて来ても、留つた魂と触りて、其処に安住することが出来るのであつた。留守の妻其他の女性も、自身の魂の一部を自由に、旅行者につけてやる事が出来た。これが万葉に数知れずある、旅行者の「妹が結びし紐」と言ふ慣用句の元である。下の紐を結んだ別れの朝の記憶を言ふのでなく、行路の為の魂結びの紐の緒の事を言うたのであつた。着物の下交(ガヒ)を結ぶ平安朝以後の歌枕と、筋道は一つだ。下交を結ぶのは、他人の魂を自分に留めて置くのである。其が、呪術に変つて行つたものであらう。皆、生御魂(イキミタマ)の分割を信じて居たから起つた民間伝承であつた。恰も、沖縄の女兄弟が妹神(ウナイガミ)即巫女の資格に於て、自らの生御魂を髪の毛に托して、男兄弟に分け与へ、旅の守りとさせたのと同じである。
旅行者の生御魂を、牀なり畳なり、其常用の座席に祀つたのである。それが一転して、伊勢参宮した家の表に高く祭壇を設けた、近世の東国風の門祭になつたのだ。此亦、生御魂の祀りと言ふ意味から、旅行者の魂の還りのめどにすると言ふ方へ傾いて来て居る。死者の為にも、ある期間魂牀を据ゑ、枕も其儘にして置くのも、遠旅にある人の生御魂の家に残つて居る考へと一つである。
神今食・新嘗祭などに先立つて、坂枕や御衾を具へて、神座の上に寝処を設ける式を、皇祖が主上と相共に贄をおあがりになるのだと言ふ風に見る人が多い。けれどもやはり、一つの御魂ふりの様式で、天子のみ魂ふりであつた。かう言ふ風に、魂の離合は極めて自由なものと考へられて居り、一部の魂は肉身に従はないで、去留するものとし、又更に、分離した魂が、めいめいある姿を持つこともあると考へて居た。此が荒魂が更に荒魂を持つ所以である。だから、游離魂の信仰は言ふまでもなく、離魂病のため同じ人の二つの姿を現ずる様な事も、必しも輸入とばかりはきめられなくなるのである。七人将門の伝説などは、此系統に入るべきものである。単に、肉身の復活を悲願に繋けて説く飜訳種、とはかたづけて了はれぬ。
思へば、餓鬼は幽霊の前身なのである。だから、実体のないはずの者だのに、古来の魂魄観が、幽霊の末に到るまで、見えもし見えずもあると言つた、中途半端な姿にして了うた。
さて餓鬼阿弥の場合、第一章では、肉身を欲する魂魄を以て説いたが、其上にたましひの放散した後、本身の魂への魂ふりに、頗長い期間を要した蘇生者に対する経験が加はり、又謂はうなら、かげの身が本身と合体する径路も、根柢に含まれて居ると見られよう。此と蛇子型の民譚とが絡みあへば、小栗の物語の蘇生譚の部分は形づくられる訣である。
たましひの語原は訣らないとする方が正直なのだが、魂魄の総名が、たまであるのだから、何処までも一つものとは言はれない。厳重な用語例は尠いが、比較に立てゝ言ふと、たまは内在のもの、たましひはあくがれ出るもの、其外界を見聞することから智慧・才能の根元となるもの、と考へて居たらうと言ふ事だけは、仮説が持ち出せる。さうして其、不随意或は長い逸出などの、本人の為の凶事を意味する游離の場合に限つて、光りを放つものと見た様だ。
古代人は光りをかげと言ひ、光りの伴ふ姿としての陰影の上にも、其語を移してかげと言うた。即、物の実体の形貌をかげと言うたのである。人の形貌をかげと言ふのは、魂のかげなる仮貌の義である。だから、人間の死ぬる場合には、人間の実体なる魂が、かげなる肉身から根こそぎに脱出するから、其又かげなる光を発して去るもの、と見るより、魂の光り物を伴ふ場合にあつたりなかつたりする説明は出来ない。だから、たましひのひを火光を意味すると説く事は、第二義に堕ちて居る事が知れる。
姑獲鳥(ウブメ)は、飛行する方面から鳥の様に考へられて来たのであらうが、此をさし物にした三河武士の解釈は、極めて近世風の幽霊に似たものであつた。さう言へば、今昔物語の昔から、乳子を抱かせる産女(ウブメ)は鳥ではなかつた様だ。幽霊の形を餓鬼から独立させた橋渡しは、餓鬼の一種であつた此怪物がしたのであるが、これは、姿を獲たがつて居る子供の魂を預つて居た村境の精霊で、女身と考へられてゐた。
沖縄本島では、同様の怪物を乳之母(チイオヤ)又は乳之母(チイアンマア)と呼んでゐる。幽霊になると、男までも必、女性的な姿になるのは、産女の影響を残してゐるのだ。壱岐の島人の信じてゐるうぶめは飛ぶから鳥で、難産で死んだ故、此名があるとは言ふが、形は伝へて居ない。唯浮動する怪し火の事になつて居る。近世の幽霊が、提灯や面明りのやうに、鬼火を先き立てゝ居るのも、実は、魂のかげを二重に表して居るのだ。光り物が消えて後、妖怪の姿が現れる様に言ふ話の方が、古いのである。骸を覓めて居る魂は、唯の餓鬼ばかりではなかつた。不完全な魂、村の男ともならぬ中に死んだ、条件つきでなければ生を享けられぬ魂も、預り親に無数に保たれながら、迷うて居たのである。  
土車
謡曲以後の書き物に見える土車が、乞丐の徒の旅行具である事には、謂はれがあらう。乗り物に制約のやかましかつた時代に、無蓋の、地を這ふ程な丈低い車体を乞食の為に免してあつたのである。土搬ぶ車を用ゐさせたのかとも思ふ、が恐らく、土を大部分の材料につかうたからの名であらう。
土車に乗るのは、乞食が土着せず、旅行した為である。而も、歩行自在でない難病者が、乞食に多くなつて来た時代の事である。片居(カタヰ)・物吉(モノヨシ)など言ふ乞食を表す語が、癩病人を言ふ事になつたのは、とりわけ其仲間に、此患者が多かつたのを示してゐることは、言ふまでもない。其他の悪疾・不具に到るまで、道に棄てられたのが、後代になる程、罪障消滅など言ふ口実を整へて来た。過去の罪業を思はしめる様な身を、人目に曝しながら、霊地を巡拝する事を、懺悔の一方便と考へる様になつた。かうして、無数の俊徳丸が、行路に死を遂げたのである。俊徳丸も、謡曲弱法師には盲目としてゐるけれど、古浄瑠璃の「しんとく丸」には癩病になつてゐる。俊徳丸の譚が、弱法師をば、必しも原型と見ることの出来ぬ理由は別の時に言ふ。唯小栗浄瑠璃が、部分的に「しんとく丸」の影響を見せてゐる事は事実だ。土車に乗る様な乞食は、癩病人が主な者であつた。だから、後々餓鬼阿弥を餓鬼やみと考へて、癩病の事と考へたのも無理はない。
小栗は餓鬼阿弥として土車で送られた。勿論業病の乞食としてゞある。私には餓鬼阿弥の名が、当意即妙の愛敬ある呼び名としての感じも伴ふけれども、同時に、固有名詞らしい気持ちをも誘ふ。即実際、時衆の一人に、さうした阿弥号を持つた者があつたか、遊行派が盛りに達したある時代に、念仏衆の中でも下級の一団に、餓鬼衆・餓鬼阿弥など総称せられる連衆があつたかして、小栗浄瑠璃の根柢をなす譚を、おのが身の上の事実譚らしく語つて歩いた。懺悔念仏から出発して居るのではあるまいか。
室町時代の小説に、一つの型を見せて居る「さんげ物語」は、既に、後代の色懺悔・好色物の形を具へて来てゐるが、ある応報を受けた人の告白を以て、人を訓すといふ処に本意がある。而も、自己の経歴の如く物語る、袖乞ひ唱導者の一派が出来て来た。其所に、唱導者と説経の題名との一つになる理由がある。餓鬼阿弥の懺悔唱導が、餓鬼阿弥自身を主人公とするものとなるのである。説経類に多く、唱導者の名が、主要人物の名となつて居ることの理由がこゝにある。
 
小栗判官講読

 

蛇淫
あらすじ主人公は都の大納言の父に鞍馬の毘沙門天の申し子として生まれた。ある日、彼は美女と恋におちいる。愛欲の果て懐妊した妻は、実は深泥が池の大蛇であった。大蛇は子を産むところを求め神泉苑の池に行くが、池に住む竜王と争いになり、天地が振動する。天地擾乱の罪が小栗にとわれ、小栗は東国へと流される。
読 解主人公は、「申し子」(=神仏に祈って得られた子)である。仏法を守る武神、毘沙門に守られ、武士の信仰を集める八幡神を烏帽子親(=元服式の祭祀長的役割をし、以後、その子をバックアップする存在となる)とする小栗は武勇に秀でた若者である。その属性は武=破壊者であり、また愛する人であった。
最初の破壊は妖魔(=異類)との通婚である。その正体が蛇であるという点で太古の蛇神=水神という次元にさかのぼり、共同体の奉ずる神(農耕社会によって形成された共同体にとって水神は重要な存在だ)への侵犯と読み取る(岩崎武夫「小栗判官―侵犯・懺悔・蘇生」)ことができるが、異類との通婚自体、非日常的な破壊行為だ。さらに二人の婚姻は懐妊という結果を生み、生み場を求めた深泥ヶ池の大蛇は神泉苑の竜王(=水神)と対立する。帝の庭園に住む竜王が王権(日常世界の秩序の中核)を意味するとすれば、小栗と大蛇との愛欲は王権と対立する。
この対立の結果は、七日が間は雨風しきりに振動して、御殿も崩るるばかりなり。と、雨風の「振動」という言葉を用いて表現される。要するに天変地異である。秩序への破壊が天変地異をもたらし、それは主人公の追放という決着によって回復される。
婿入り
あらすじ東国で彼は妻を求める。選んだ妻は地元の豪族、横山氏の末の娘、日光山の観音の申し子である照手姫であった。小栗は東国武士の掟を無視して照手姫と結婚する。
追放された小栗は、そこで美女と結ばれる。小栗の婚姻は、商人後藤が文(ふみ=「玉章たまずさ」とも)をとりもち、成立させる。その文は「大和言葉」と呼ばれるナゾナゾのようなことばで書かれている。奇妙な語を読み解く面白さが、ここでの眼目なのだ。だから、「照手、文の段」と、別に章立てされている。ナゾナゾのような文を読み解き、照手が恋の世界に引きずり込まれてゆく場面は、語り物としてひとつの聞かせどころだったと思われる。
ひとたび小栗からの文を破り捨てた照手は後藤によって脅しをかけられ、小栗との恋を納得する。ここには文字を破れば、文字(かな)を発明した弘法大師を傷めることになり、その罪で死後、苦しむと脅されるである。そこで照手は小栗を受け入れることを受け入れるのである。状況に従順な照手の姿を気に止めておきたい。しかし、この結婚もまた、東国武士の掟を無視するという点で強引であり、彼の属性=秩序の破壊者としての性格は温存されているのである。
鬼鹿毛
あらすじ掟破りの婿入りに父横山は息子の三男の三郎と語らって小栗殺害を計画する。まずは人食い馬の鬼鹿毛をけしかけるが、小栗は鬼鹿毛を手なずけて、その背に乗って曲乗りを披露する。
毒殺
あらすじ殺害に失敗した横山親子は、次に毒殺を計画し、酒宴に小栗を招待する。照手姫は夢見が悪いと小栗をひきとめるが、夢違いの呪いをして小栗は酒宴に臨む。だが、小栗と十人の家来たちは毒殺されてしまうのである。小栗は土葬、十人の殿原たちは火葬にされる。
横山殿が小栗を殺したのは娘を奪われたからではない。掟を破った罪を問うたのだ。だから自分の娘も同罪として、照手姫を相模川に沈めることを鬼王鬼次の兄弟に命令する。しかし、兄弟は照手姫を沈めることができない。照手姫を乗せた牢輿は相模川を下ってゆく。
京を追放された小栗は、東国で美女を得る。しかし、相手の女性の親権者から危害をl加えられる。このような話の展開は記憶にないだろうか? そう。授業の前半で読んだ出雲神話と類似した構成になっている。表にしてみよう。
訪 問 者 : ス サ ノ ヲ・オホアナムチ ・小栗
結婚相手: クシナダヒメ ・ス セ リ ビ メ ・照手
親 権 者 :(オホヤマツミ) ・ス サ ノ ヲ ・横山殿
試練 :ヤ マ タ ヲ ロ チ ・毒 虫の部屋・鬼鹿毛
スサノヲの場合、やや異なった点もあるが、オホアナムチの場合は、その後の展開も含めてほぼ同じ構造をみせる。すなわち、オホナムチは火の試練をうけ、スセリビメはオホアナムチが死んだと思い、嘆く。小栗も死んで照手が嘆く。オホアナムチは地中に逃れて死を避けた。一方小栗は土葬にされる。こまかなデティールまで似るのである(だから逆にオホアナムチの地中に落ちたことを「死」と認定することもできるのだ)。
流離
あらすじ照手を乗せた牢輿はゆきとせ浦に流れ着き、村君の太夫に助けられ養子となるが、太夫の妻は夫と照手姫の関係を邪推して人買いに売ってしまう。照手姫は転々と売られ美濃国青墓宿の君の長のもとで常陸小萩と呼ばれ、下女働きをすることになる。
照手の流離がはじまる。関東地方の海岸には、漂着したものを神として祀る信仰が広がっている。照手の姫君が漂着するのもその延長上にあるだろうが、縁起物のように単純にすまないのは、姫君は村の漁師たちに不漁の原因として=魔物として殺害されそうになることである。その危機を救うのが慈悲第一の村君の大夫である。大夫は姫君の保護者として位置づけられる。対する姥は姫君を燻したり人買いに売ったりする加害者として、設定されている。この場面は実に明確に登場人物の性格づけがなされた場面だ。
売られた先の君の長は、もう少し複雑で、姫君に「流れをたてさせ」(=売春させ)ようとするところは、加害者的だ。しかもいうことをきかないとなれば脅し、無理難題をひっかけるなど執拗に照手を追い詰める。だが、姫君が難題をこなすと加害者ではなく保護者的な性格をみせはじめる。
道行
あらすじ殺されて土葬にされた小栗は、閻魔大王のはからいで地上に戻ることになった。また十人の家来たちは火葬にされていたので、そのまま十王として閻魔大王の配下となった。小栗の塚が割れ、異形の姿となって地上に現れた小栗は藤沢の上人によって餓鬼阿弥と名づけられ、土車に乗せられて復活の約束された地、熊野湯の峰へ運ばれてゆく。東海道を登り、美濃国青墓宿に至り、照手姫の働く君の長の門前に放置される。それを見て常陸小萩(照手姫)は亡き夫の追善に餓鬼阿弥を夫とは知らずに五日の間、大津まで曳いてゆくのだった。
小栗は餓鬼阿弥となって蘇生する。だが、これは復活ではない。復活は相模からは遠くはなれた熊野で約束されている。餓鬼阿弥は車に乗せられて東海道を上ってゆく。このとき、街道沿いの地名や名所を列挙してゆく、韻律に富む詞章が印象的だ。このような詞章を「道行(みちゆき)」といい、日本文芸の一つの類型として特徴を示す。古くは「万葉集」や「古事記」の歌の中にも見られるこの表現技法が、どうして文芸の類型となり得たのか(つまり人気=ポピュラリティを得ることができたのか)。折口信夫は、そこに古代の神群行(ぐんぎょう)からの流れを見る(神の群行は、祭りにおける神輿の渡御と関係する)。すなわち、神が生まれ、渡り歩いて祀られる地に定着するまでの物語を、神の独り言として想定する(出雲神話の八千矛神の神謡を想起せよ。一人称が用いられていたであろう)。定着までの神の独り言は、叙事詩として道中の景色を詠みこむ。その形式が道行に発展すると説くのである。
餓鬼阿弥の道行は美濃国青墓で常陸小萩とめぐり合う。常陸小萩は、異形の餓鬼阿弥と恋に近いほどの愛情を注ぐ(照手はそれが小栗だとは思っていない。ともに名前が異なっていることに注意せよ)。小萩も姿を狂女の姿に=異形の者へと変身する。「狂=くるふ」というのは、ある物に執着する、いいかえれば物に心身を奪われることだ。それはモノ(精霊、神など)に憑依されることに等しい。むしろ逆で、本来神を憑依させる巫女の、トランス状態がその聖性の衰退とともに精神錯乱の意味に変化してきたのだ。小萩はここでは餓鬼阿弥という、「神のようなもの」を引き寄せる巫女としての性格が見られるのである(天の岩戸神話のウズメノミコトを想起せよ)。
復活・再会・復讐
あらすじ大津から熊野へ運ばれた小栗は21日の間、熊野の湯につかり、熊野権現の助力を得て、もとの小栗に復活する。都に戻り両親と対面、帝にも拝謁すると死からの帰還は珍事であるからと小栗に常陸・駿河・美濃国が与えられる。美濃国の君の長のもとに国主として着いた小栗は、常陸小萩を酌にさし出さないと君の長の命を奪うと脅迫する。下女働きの身ゆえ酌には出ぬというが、餓鬼阿弥を曳くときの約束(彼女は君の長の命が危ないときは身代わりになるという条件で五日の暇を得ていた。)をもちだされ、やむなく酒を注ぎにでる。素性を問う新しい国主に、「身上を話す筋あいはない」と突っぱねるが、国主がかつて車を曳いた餓鬼阿弥だと知ると、自らの素性を明かす。それが照手と知った小栗も自らの正体をあかし、二人はぎゅっと抱き合うのだった。
照手への苛酷な労働を強いた君の長への小栗の怒り。しかし、それは照手によってなだめられる。照手に死を命じた横山殿へも小栗は復讐を企てる。だがそれも照手によってなだめられる。しかし唯一横山の三郎だけは罰するのであった。
小栗と照手姫とは都に帰り、栄華にすごしましたとさ。めでたしめでたし。
小栗が復活する。単なる蘇生ではない。京に戻り、帝によって復権される。小栗は、秩序の破壊者であった。罪人であった。しかし、流離と死、蘇生を経て、王権と和解する。三カ国の国主として、彼には王権さえ与えられる。つまり、この物語は小栗の王権樹立の物語なのだ。大穴牟遅命が死と蘇生、流離と試練を経て大国主神になるのと同じ図式がここにはある。
死と再生の物語は通過儀礼にかかわる神話に淵源する話型である。この型の物語は、遠くフィンランドの伝承文学「カレワラ」のレンミンカイネンの話にも見られるし、エジプトの神話にも見られる。「小栗判官」の王権誕生の神話としての側面は、〈死〉を〈異界への流離〉と拡大解釈すれば、小栗の場合、〈都→東国(異界)→都〉という大枠があり、次に〈小栗(人間)→餓鬼阿弥(異形の者)→小栗(人間)〉という核心があり、二重構造を見せている。核心部分に照手の〈照手姫→常陸小萩(異形の者)→照手姫〉というパラレルな関係が現れる。再生する彼と彼女は、そのままもとの人間に戻るのではない。小栗は貴族の御曹司から東国の領主へと身分を変え、また照手も東国の豪族の娘から都びとの妻へと変わる。その変化を庇護される者から庇護する者へ、「こども」から「おとな」へと見ることができる。ヒーローとヒロインの〈死〉はこどもからおとなへの通過儀礼でもあるのだ。
常陸小萩
小栗判官の物語のヒロイン、照手はいつだって現実を受け止める女性である。後藤によって小栗との結婚を強いられたときも、父から死を命ぜられたときも、与えられた情況に従順だ。彼女が唯一抵抗したのは、君の長に遊女働きを求められたときだが、それでも替わりに与えられた十六人分の「下の水仕」を働けという要求を受け入れるのである。
照手の魅力は常陸小萩と呼ばれていたときに発揮される。この名前の変化は重要だ。父から流され、ゆきとせ浦の姥に売られて青墓にたどりついた照手の様子に注意しよう。
「定まる名とては候はず。良き名を付けて使はされ候らへ」
と答えるばかりである。そして君の長が
「今日よりして汝が名をば、常陸小萩と付くるなり」
と「常陸小萩」という名を与えられ、遊女働きを要求したとき、初めて彼女は拒否という姿勢をみせ、抵抗する。さらに餓鬼阿弥を引くときの君の長との積極的なかけひき。一歩も引かない力強さがここにある。「照手」というキャラクターは戦うヒロイン「常陸小萩」というキャラクターに変身する。それは名前だけではない。餓鬼阿弥を引くときには彼女は「姿を狂女に」なすのである。描写は具体的だ。「長に烏帽子を申しうけ、肩を結んで下にさげ、裾を結んで肩に掛け、笹の葉に、幣切りかけて振りかたげ」という異形は、小栗が餓鬼阿弥という異形になったのとパラレルである。
それでも語り(地の文)は彼女に対してテルテの名を押し通す(豊孝本では地の文に「小萩」とある例も見られるが、絵巻本はテルテで統一している。「小萩」は会話文の中のみで使用されるのだ。)。照手は千手観音を本尊とする日光山の申し子である。ゆきとせ浦で姥に燻べられたときに千手観音に守られるのはそのためだ。「てるて(照天)」の名前も「日光」を背後に持つ名前であり、それは照手自身を千手観音に通じさせる。地の文のテルテへのこだわりはここにあり、それは照手の苦難が菩薩行であることまで包み込む。菩薩行とは仏に至る階梯の一つで、衆生救済が求められる。千の手は多くの衆生に手を差し伸べるためのものだ。照手のキャラクターは、こうして衆生の苦の中にわが身を導いて救済する姿として浮かび上がりその救済の手は君の長にも、横山殿にも向けられる。だがもっとも深く広く向けられる相手は餓鬼阿弥である。
餓鬼阿弥とは何者か。本性の小栗は、荒ぶる魂の保有者であり、秩序の破壊者であった。荒ぶる魂は女性を求め、蛇との通婚、照手への婿入りに集約される。そこにあるのは愛欲(エロス)である。「心ふでう(不調)」なる小栗は、愛欲ゆえに追放され、殺害され、漂泊する。目も見えず、耳も聞こえず、歩くことすらできない餓鬼阿弥は、原罪ゆえの姿である。その原罪は照手によって救済される。照手に与えられた16人分の「下の水仕」は動けぬ小栗に変わっての贖罪の行為であり、それは「一ひき曳いては千僧供養、万僧供養」という宗教的行為で頂点に達する。照手が常陸小萩に変身するのは、滅罪をもとめての戦いなのだ。
 
小栗判官(照手姫口説き)

 

騒動サー話や 心中くどき
世上世界の 数ある中に
都九條(みやこくじょう)に 其の名も高き
小栗判官 まさ清さまは
日々に勤める 大内御所の
あまたつめたる 公卿衆の中で
   花をあざむく 美男で御座る
   頃は卯月(うづき)の 卯の花ざかり
   ある日小栗は 花見に出て
   花見帰りの 其の道すがら
   酒の気嫌で みぞろが池の
   をばの木の根に 腰うちかけて
笛を取り出し 吹き込む音(ね)いろ
天に通じて 地にしみ渡る
池の大蛇も 其の音にうかれ
娘姿と 形(かたち)をかえて
そろそろ小栗 判官のそばへ
よれば互に顔 見合せて
   これも因果 ずくでもあろが
   ついに其の場で 契りをかわす
   これが後々 小栗が為に
   あだとなるとは 夢にも知らず
   さてもサー小栗は 大蛇と契る
   其のやとがにて 常陸(ひたち)の国へ
親の情で とのばら連れて
名残惜しくも 都をでて
是もなくなく 常陸の配所
玉の御殿に ほうでうつくり
ここに隠居の 身分とならる
それはさて置き 相模(さがみ)の国に
   強窃(ごうせつ)切(きり) 横山殿の
   親子四人は 悪心ものよ
   京に名高き 照手の姫を
   ぬすみうばうて 我家に連れて
   之を倅に め合す所存
   今は照手も 十九となりて
一人いちいち 思案(しあん)をいたし
たとえ命が なければとても
此の家非道の 悪徒(あくと)の倅
何(なん)の枕が 交さりよものと
思いつめたる 心の中は
流石(さすが)まれなる 女で御座る
   ある日小栗の 御殿へ来る
   相模まわりの 小間物売りが
   相模横山 照手のはなし
   聞いて小栗は 文したためて
   いろの取持(とりもち) 五藤(ごとう)に頼む
   すぐに五藤は 其の場をたちて
相模照手に 文差出せば
封しひらいて 照手の姫は
逢(あい)も見もせぬ 恋路の文を
さすが五藤の 理につまされて
返事に一首の 歌を書き
そのやたんざく 五藤に渡す
   道を急いで 小栗へ渡す
   歌の心の 曇らぬ照手
   十人余りの とのばら連れて
   照手方へと おし入り込むに
   国は相模の 鎌倉通り
   音に聞こえし 横山殿の
それと聞くより 悪人親子
たくみおいたる 鬼かげ馬の
手並み見てから 婿にもしようと
聞いて小栗は 仕度さ致し
直ちにうまやに 案内なさる
其のや馬屋は 岩かげ造り
   さてもおそろし 岩屋の内は
   虎を欺く 鬼かげなれど
   流石小栗は 公卿衆の流れ
   それに武術も 達人なれば
   馬をなだめて ひらりと乗りて
   馬の上にて 武芸のあそび
月も照手と 言われて夫婦
親の横山 たくらみもはづれ
さらば祝言 さようものと
酒や肴(さかな)を ととのえならべ
小栗殿ばら 毒酒と知らで
飲めば血をはく 其の苦しみは
   見るもいたまし 憐れなことよ
   小栗一人は 藤澤寺へ
   馬を早めて 駆けつけなさる
   寺の和尚(おしょう)が 死人を貰い
   医者や薬と かいほうなさる
   ここに哀れや 照手の姫は
親の悪事で うつろの舟で
しかも其の日は 四月二十日
ゆられ流れて 行く先知らず
安房やつらさの 上総の国の
濱へ着いたが 五月二日
此れをみつけてた 砂どり船頭
   むつの濱にて 照手の姫を
   船の中から 手を引き連れて
   すぐに我が家に 案内いたし
   家のものには いろいろ話し
   医者や薬で 介抱致し
   月日送れば 宿なる女房
いつか悋気(りんき)の 心がおこる
さてもさ女房は 夫に向い
睦(むつ)の濱から 連れ来たなどと
わたしをだまして あの女衆を
内へ入れたが わしや口惜しい
そんな事とは 夢にも知らず
   是非におくなら 妾を出さんせ
   それが出来ずば あの女衆を
   どうじゃどうじゃ 腹立ち涙
   今日は照手も 理につめられて
   一人すごすご 中仙道へ
   何所をあてどに うろうろ歩き
之も前世の 約束ごとか
国で別れた わが夫様(おっとさま)に
夢でなりとも 逢いたいものと
肌身はなさずぬ 観音様を
朝な夕なに 心でおがみ
露のふとんが 草葉(くさば)の陰で
   さぞや御無念 恨みもあろう
   わしがためにも 敵の親子
   私しや此の家へ 八つの時に
   盗み取られて 横山どのに
   育てられたは 十一年よ
   たどりたどりて 今(いま)此のさとの
知らぬ他国で 月日を送る
話変わりて 皆様方よ
京に名高き 大社(たいしゃ)がござる
北野大神 天満宮へ
日々に小栗は 日参(にっさん)致し
敵(かたき)横山 親子のものを
   どうぞ御利益 力を添えて
   本望(ほんもう)とげさせ 給へと祈る
   それと知れねど 照手の姫は
   諸国神仏 巡拝いたし
   果たして我が夫 とのばら達の
   心ばかりの 菩提(ぼだい)のために
ある日北野へ 参詣いたし
両の手合わせて さしうつむいて
神のあかしで お宮を見れば
額に書いたる 松竹梅の
さてもきれいと 眺める額に
小栗判官 まさ清(きよし)とあり
   ハッと驚く 照手の姫よ
   今日は小栗も 大願致し
   参り来るなら 照手の姫と
   バッタリ逢うたか いもせの縁か
   夢かうつろか あの幻か
   嬉し涙に ものをも言えず
貞女たてたる 女の操
死んで別れし いもせの中も
神のめぐみで また逢う事は
かたく結びし あの神様の
お引き合わせ 喜ぶ二人
やがて十人 とのばら達も
   つどい合わせて 相模の国の
   敵(かたき)横山 親子の奴等(やつら)
   さらば打ち取る 仕度を致す
   固勢(こぜい)引き連れ 相模の国に
   今に残りし 藤澤寺よ
   是にしばらく とうりゅう致し
住持和尚に 金子(きんす)を出して
死んだ死骸の 石碑を頼む
言えば和尚は 石碑を建てて
あまたお弟子を 残らず集め
袈裟や衣や 水晶数珠で
南無(なむ)やたんのう たらやああと
   お経さ終りて まさ清(きよし)様は
   残しおりたる 馬頭の二字に
   祭り給うは 鎌倉寺(かまくらでら)よ
   寺の中にて 仇討ち支度
   鎖かたびら 小手膝あてに
   支度ととのえ 横山親子
たった一打(ひとうち) 討ち取る可(よ)しと
裏と表を 取り囲まれて
我も我もと 恨みの刀
中で小栗は 親子の首を
右と左の 両手に捧げ(ささげ)
敵打つのも お神の利益
   何も首尾よく 本望とげし
   小栗照手の 誉を残す
 
説経物語・小栗判官

 

一 御菩薩池
京都の中心街から北の方向を展望すると、送り火の「妙」の字が目にとまる。この山の向こうに「みぞろがいけ」と呼ばれる池が太古の昔からひっそりと佇んでいる。「深泥」とも書くように、何万年もの妖気が堆積しているこの池には今でも水の神、八大龍王が棲んでいると感じられる。この池の畔を通ってさらに山深く修験の山、鞍馬がある。
三条高倉大納言の嫡子、小栗判官政清は鞍馬山の大悲多聞天の申し子であるという。というのも、父親である高倉には子種が無かったからだ。氏と位は高かったが子宝には恵まれなかった。嫡子がなければお家の断絶になる。断絶をさせないためにお世継ぎを確保する方法は幾つかあるが、高倉が選んだ方法は、霊験のある神仏に「申し子」をすることだった。母方の源氏の血筋が優先されたのかもしれないが、「申し子」は富賤を問わず一般的にごく普通の方法でもあった。それは、祈願する社殿に通夜をして、参詣しに来た不特定多数の男性と交わることである。神域に参詣した者を神の化身と見なすのが当時の一般的な風習だったからである。かくして、御台所は神の子を授かった。
小栗判官政清が御歳十八にして、馬術・武術に留まらず、歌道に至るまで文武両道を極めたのは、多聞天の社殿で身籠もった子であったからであろう。それだけではない、二十一の歳までに、迎えた姫は七十二人。どの女を抱いても満足はできなかった。貴族の女は、色よく飾り立ててくるが、脱がしてみると貧相な身体でげっそりするとか、町の女は泥臭いなどとうそぶいたが、女の方にすれば、皆、判官の激しさに恐れをなして一晩ともたずに逃げ出すというのが真相であった。判官を包めるような精神を持った女性はいなかったのである。
あらゆる面で優等生であった判官にも幾つかの欠点があったが、そのひとつは、いまだ恋を知らぬことであった。しかし、そのことをまだ判官自身は気づいていなかった。闇雲に女を抱き、有り余る性欲を放出してもなお、行方の知れぬ苛立ちは納まらなかった。
判官が供十人を召し連れで、御菩薩池の畔を通って鞍馬山に登ったのは、暑かった夏も一段落した初秋の黄昏であった。既に、朦朧と目を閉じていた御菩薩池の龍は、ただならぬ気配にハッとして、思わず身を縮めた。
「うむ、なんだ?この強い情念は・・・。」
むっくりと首を水面にもたげた龍は、薄明の中を進む松明とその水面の反射が鞍馬山の方に去るのをじっと見送った。
「さて、どうやらこの気配は、多聞天様のご降臨か・・・。」
と、さしも気にもかけずに、また、うつらうつらと水底へと沈んでいったのは、この池の番を仰せつかっている眷属(けんぞく)の雌の龍であった。
判官が何を急に思い立って、鞍馬山多聞天への参籠を思い立ったのかは誰も知らなかった。
「鞍馬山にて武運長久を祈るため、一夜の暇をいただきたい。」
と、父高倉に願い出たとき、高倉は、内心で、
「また、女遊びか。」
と、苦々しくも思ったが、今更、姫替えについてくどくどしく説教でもあるまいと、好きにさせることにした。
風折烏帽子に黄金作りの太刀を帯びた判官は、鞍馬山の山門まで至ると、水戸浮船ら供十人に、
「今宵は、もうよい、館に戻り、武運長久の祈祷に入ったと報告いたせ。」
と、帰還を命ずると、一人で多聞天の社殿に入っていった。
「母は、ここで、神と交わり、自分を身ごもったと聞く。ここで祈願すれば、わしも神との交わりができるはず。」
さすがに大胆にも、人間の女に飽いた判官は、神との性行ならば無類の満足が得られるだろうと参内したのだった。どうせ女遊びだろうと感づいた父高倉ではあったが、その目する相手が最早人間ではないとまでは、思いもしなかった。
護摩焚き祈祷を一通り終えて、社殿の入り口を開け放つと、すだく虫の音が満ち、月もない漆黒の森の梢の先に、このところ常になく明るい熒惑(火星)が光るのを見た。
「なつひぼしがやけに明るいのは、我に吉兆か、凶兆か。」
早、時は丑三をまわろうとしているが、一向に「神」は現れない。
「むう、通り一遍の加持祈祷では叶わぬか・・・。」
判官は、一休みと、懐よりおもむろに篠笛を取り出し、獅子團乱旋を吹き出した。判官はまた、歌舞音曲にも優れ、その妙音は、すだく虫を黙らせ、さっきまで盛んに鳴いていた仏法僧も、首を縮めて聞き入った。
半時あまり吹き続けたその間の、鞍馬山の全てが身動きもできなかった時空の中に、正しく神との交わりがあったが、判官の悟りは未熟であった。
東の山の端に月が昇り、月の光が美しく甍を照らした。判官は音と時間と光の中に埋没したかのように吹き続けた。時間は進行しているようで止まっており、音と光は自由自在に戯れているのに宇宙の調和が実現していた。
この笛は麓の御菩薩池の龍の耳にも届いていた。この龍は齢およそ千年ほどの眷属で、八大竜王の配下ではあるが、まだまだ端(はした)の、池番を勤めている若輩者に過ぎない。水の神である龍ではあるが、良いことばかりではないらしい。龍特有の三熱の苦しみというのがあり、日に三度、夜に三度、というから、一日六回も高熱を発してもだえ苦しむのだという。
笛の音を聞いた途端に龍は、夕刻登山したのが小栗判官であると合点した。
「あの、笛の音は紛れもなく小栗判官。神をも恐れぬ剛胆の者と、このところ都で喧(かまびす)しい。それにしても、この妙なる調べは、神技。」と、聞き惚れている。俄に心付いた龍は、
「浅ましきは蛇道なり。日に三度、夜に三度、三熱の苦しみあり。さりながら、一度尊き人間と契りを込めてあるならば、たちまち三熱の苦しみから逃れると聞く。小栗判官とあるならば相応しい。まさに好機到来。ひとつ、謀り近づいて、この蛇道の苦しみから逃れん。」
と、御菩薩池からはい出た龍女は、ひと飛びに鞍馬山の山門に至り、たちまちに歳の頃十八前後の美しい女に変化した。
女は月明かりの中にいきなり現れた。音と光の調和が乱れ、それまで止まっていたように感じていた時間が慌てて動いたように感じた。判官は歌口を外して、にやっと笑って独りごちに、
「祈祷より笛か。」
と、つぶやいた。龍女はあたかも息せき切って駆け登って来たかのように、息を乱して、いきなり判官にすがりついた。
「申し、申し、お殿様。」
「はて、かく深更に更け渡り、人家離れしこの御堂に、女の身としてただ一人、面妖な。」
「いえ、いえ、怪しい者ではござりません。私は、麓の村に住まいいたす者。常々継母の不興を一身に受けて、今宵は家屋(いえや)を追い出されました。血縁も縁(ゆかり)もあらざれば、頼る所もござりません。多聞天様には、愛縁、機縁をお守りくださるありがたいご霊験がござりますので、今宵一夜の通夜をなして、我が身の行く末をお祈り申そうと夜陰を押して参詣いたしました。どうか、この身の上を哀れ、不憫と思し召して、お情けをおかけ下さいますように、お願い申し上げます。」
判官はそのようなごたくに耳を貸したわけではない。ただ黙って、月の光に浮かび上がったその目鼻立ちの影と、瞳の奥に怪しく反射を繰り返す蒼い光に見入っていた。
『これはまさしく人間ではないぞ・・・』
龍女はまた、判官の額に米の字が三つがあり、両眼には瞳が四つあるのに気がついて、
『やはり、ただ者ではない・・・』
と、思った。
判官がむんずと女の腕を取った途端に、二人の霊体に電撃が走った。既に判官はこれまで味わったことのない同調感に包まれていた。
龍女の肉体の滑らかさは爬虫類のそれであろうか、撫でるほどに指先が身体の奥深くに潜り込んでいくのかと感じた。抱きしめても抱きしめても、抱き留めていられないような不思議な無重力感があった。それでいて、嵐のような快感がとめどもなく、駆けめぐった。東雲に気が付かず、曙の光が社殿に差し込んだ時、その行為は終わった。
「神と交わった。」と確信した判官は夢中であった。女が何者であるかは問題ではなかった。その肉体が化身であることは判っていた。ただ、神への合一のために必要だと感じた。判官は、龍女を館に連れ帰ると、離れの一間に幽閉した。凄まじい交合は毎夜、飽きることなく繰り返された。
龍女は、既に三熱の苦しみを脱していた。判官との生活も悪くはなかった、山海の珍味は言うに及ばず、贅沢という贅沢の全てを味わうことが出来た。とはいえ、龍女は、龍であることをやめて人間である判官の女房になりたかったわけではない。何百年ぶりかの快感には未練はあったが、長居をして人間の子を宿す訳にはいかなかった。人間の子を産めば、たちまちに寿命が尽きることを龍女は知っていた。
晩秋の夜半、判官が昏睡に落ちた時、忽ちに化身を解いた龍女は、一散に御菩薩池に飛び帰った。しかし、龍女は再び池に戻ることはできなかった。
水の神である八大龍王は、淡水の全ての水域を管理している。御菩薩池の番人である眷属が、秋口から無断で任務を離れていることは把握していたが、水の異常や変事がない限り、大目に見るのが通例であり、特に気にも止めていなかった。しかし、龍女が化身を解いた途端、八大龍王は龍女が何をしたのかが分かった。
「おのれ、とんでもないことをしおって。」
八大龍王はどこの水面にも瞬時に現れることができる。龍女が御菩薩池の上空に近づくと、既に八大龍王の怒りが池全体に満ち溢れていた。
「人間と契りをこめてその身を汚せし上からは、二度と水の中へは叶わじ。」
浅はかな龍女は、
「しかし、腹んではおりません。」
などと、野暮蛇な言い訳を言って、どうにか池に潜り込もうとする。入れろ、入れぬともみ合ううちに、あたりは俄にかき曇り、もう、台風も来ないだろうと高をくくっていた都人を慌てさせた。もみあって、あっちの山こっちの山にぶつかっては、ひっきりなしに強烈な稲妻が飛び散り、その轟音と振動は、鞍馬山どころか、京の都全体を揺らした。龍女の涙かどうかは知れぬが、車軸を流す雨はたちまちに都を水没させ、尾びれで叩き合う度、ものすごい突風が家屋を吹き飛ばした。かくて、三日三晩の争いの末、判官と交わった龍女は、八大龍王によって追放された。
三日三晩の嵐の被害は甚大であった。家屋の浸水、倒壊は言うに及ばず、水が引いた都は泥田同様であった。唯一の救いは、不思議にもこの嵐での死者はひとりもいなかったことだ。さすがは神のなす技である。
この天変地異を予見できなかった陰陽寮の博士達は、嵐の最中から必死にその原因について占った。嵐が去った翌日、内裏に招集された陰陽師の奏聞は帝の怒りを買った。
「恐れながら、申し上げます。今回の嵐の原因を占いましたところ、三条高倉大納言兼家卿の嫡子小栗判官政清が、御菩薩池の大蛇を館に連れ込み、これと契りを籠めたること、八大龍王の逆鱗に触れ、かかる大蛇を追放せんとする八大龍王と大蛇との争いとなり、かくも激しき嵐となった次第にござりまする。」
「にっくきは、判官政清、蛇を抱き寝にしたとはゆゆしき振る舞い。常々、無法の行状の数々あれど、犬畜生にも劣る卑しさ。直ちに、判官政清を都より追放いたせ。」
小栗判官政清は、貴族に必要とされる武道、学問、芸能のすべてに秀でたが、そのことよりも常識はずれな奇行で有名であった。常々都の人々は、また判官殿がやらかしたと羨望を嘲笑に変えて噂し合い、おもしろがったが、今回の事件は違っていた。御菩薩池の龍と交わった判官は人間ではなく鬼だと、祟りを恐れた都人はぱったりと判官の話をしなくなった。
かくして小栗判官政清は、勅命により母方の知行地である常陸の国へと流罪となり、十人の殿原を召しつれてひっそりと改易(かいえき)された。
出世ということであれば、何をせずとも約束されていた判官だが、そんな器には乗りきれなかった。殊更に常識外れな行動をしようと意図しているわけでも、常識を打破しようなどと思い込んでいるわけでもないが、結果的には常軌を外れる。鬼と恐れられた偉大な魂を包めるところはなかったが、だからといって意気消沈して常陸に落ちたわけではなかった。鼻歌交じりの判官一行十一名は紅葉の東路をのんびりと下っていった。  
二 黒木館
茨城県筑西市にある小栗町の地名は、かつてここに小栗城があったことに由来する。城主小栗助重は歴史上の人物であるが、この物語とは直接には関係はない。物語では、小栗判官政清の改易先を、「常陸の国北条玉造鳥羽田村」また「東条」と言っていて、この小栗城からは少し離れている。万葉の昔から有名な双耳峰を持つ筑波山の南麓が「北条」であり、霞ヶ浦の北部東岸に面するのが「玉造」、玉造から茨城空港をはさんで北側に「鳥(とっ)羽田(ぱた)」がある。また「東条」は稲敷を指すので、広く茨城県南部が国司判官の領地であった。判官は石岡の小高い岡が龍神山と言うのを聞き、山城風に館を建て「黒木館」と呼んだ。痛い思いをしたのに、まだ龍に未練があったようだ。黒木というのは、皮付きの原木材のことであり、荒削りに建てた館を揶揄したものとも取れるが、化粧っけもない男所帯とも読める。
筑波山から続く赤松の森と、果ても分からぬ厖大な原野と沼地が広がるだけの未開の土地を判官は気に入った。都の碁盤の目に入り切らなかった判官は、大自然の中で生き生きと野生化していた。朝な夕なに判官と十人の殿原は、この原野狭しと狩りに走り回った。元々弓馬の達人であるところ、縦横無尽に山野を駆け巡り、さらにその技に磨きをかけた。狩りに飽けば、連歌、俳諧を楽しみ、少しは都暮らしも忍ばせたが、あとは酒宴を催し騒ぎまくるだけの毎日だった。そうして、判官主従は新しい土地で新しい年を迎えた。
香具屋後藤介国は、日本全国を巡る行商人である。香具屋というように、主に裕福な女性を相手に化粧品や薬、高価な装飾品を売って歩くのを生業としていた。介国は、しばらく磐城の国で様々な宝石の調達にあたっていたが、ようやく目当ての物を手に入れて西国する途中、常陸の国にさしかかった。
「はて、これはまた、合点の行かぬ。さても新しい御殿が龍神様の丘の上に現れたぞい。」
下向したときには、まだ無かった黒木館を目にした介国は、
「新年早々新しい御国司様が参ったか、さてさて、良き伝手になるよう、ご挨拶申し上げねばなるまいぞ。」
と、早速に館の門前で、高らかに香具の品を呼び立てた。
「召せや、召しませ、伽羅(きゃら)を召せ、香箱(こうばこ)、香(こう)箸(ばし)、香(こう)包(つつみ)、東白粉(あずまおしろい)、京(きょう)楊枝(ようじ)・・・・。」
と、ささら片手に調子よく物呼びをすると、その声は、酒宴に呆(ほう)けていた判官の耳に届いた。受けた杯を止めた判官は、
「あれを聞かれよ殿原達、都を離れしより久々に商人の物呼ぶ声がする。さても珍しきこと。あの商人をこれへ招き、酒の相手をさせ、四方山の話をさせれば、時の一興。はやはや、これへ召しつれて参れ。」
千葉民部が案内をして、介国は御前に通され平伏した。判官はぎょろっと商人を一瞥(いちべつ)すると、ぐいっと盃を干して、いきなり、
「まずは、一献きこしめせ。」
と、盃を下された。
「これは、これは、初春から思いがけなき御盃、誠に最早、冥加(みょうが)に叶いし、有り難き幸せに存じ奉りまする。」
と、頭上高くに盃を受けた手は震えていた。館に入ってから、女っ気のない風情に奇異を感じていたが、屈強な殿原を従えた判官は、山賊の頭領にしか見えなかった。なみなみ受けた盃をようようにひとつ乾したが、既に生きた心地もなく、酒の味も分からなかった。
「最前これにて承れば、なにやら其の方、おもしろそうな物呼ぶ声。いかなる品を売買なし、また、其の方が名ななんと申す。」
判官が口を開くとどことなく高貴な風情も感じられ、少し安心した介国は、
「恐れながら申し上げます。大阪にては、醒ヶ(さめがい)井の後藤。京都にては呉服屋後藤。関東にては香具屋後藤介国と申しまするは、拙者がことにてござります。」
いつもの口上がすらすらと出てくると、途端に調子づいて、商人らしく風呂敷を広げ始めた。
「およそ、日の本に、後藤を名乗るはこの三人より外はございません。六十余州を隅々巡ること三度、高麗、唐土には二度渡り、下拙が回らぬ所はございません。香具の品にご用あらば、仰せ付け下さりますようお願い申し上げ奉りまする。」
と、一気にやった。執権池野庄司利門は、
「是はしたり、介国とやら、我が君様と申するは、都は三条高倉大納言兼家卿の御嫡子小栗判官政清様にて御座あるぞ。子細あってこの度、かかる常陸へ蟄居(ちっきょ)の身の上。そちが見らるる通り、女人とては一人も無きこの館。香具の品には用事はないわ。」
と、言えば、水戸の浮船初利は、
「そなた、六十余州国々広しといえども、回らぬところは無いとある。さだめし何処にか、色よき姫の話を知ってであろう。我が君様には、未だ定まる御台所も御ざなければ、酒の肴、時の一興に、諸国の姫の話を語り聞かせ申し上げよ。」
と、問われて介国、そのような姫のおいそれと居るものでは無いと答えるのも無念と、あれやこれやと思いめぐらした。
「へい、へい、只今申し上げましたように、六十余州国々広しといえども、下拙が回らぬ所はありませぬが、見目もよく、希人(まれびと)の姫となりますとおいそれとは参りません。」
と、もったいつけ、小野小町の話などを引き合いに出して、場つなぎをしていたが、はたと思い当たった。
「去りながら、お国司様に申し上げます。武蔵、相模、両国の郡代、横山将監照元様の乙の姫は、下野の国、日光山に詣(まい)り、照る日月に申し子なされたる。御名を照手の姫と申します。照手姫の粧(よそ)いを物によくよく例えなば、春の花なら初桜、秋の月なら十三夜、十の指は瑠璃(るり)をのべたるごとくにて、丹果(たんか)の唇鮮やかに、翡翠(ひすい)の髪は黒々と、香炉木(ころぎ)の墨をさっと流した如くなり。太液(たいえき)の蓮の朝露に、露うち傾くも及ばぬほど、冴えに冴えたる御風情でござります。三十二相と申しますが、八十種好をも備わる相好にて、類まれなる姫君でございます。是より外には、思い当たる姫はござりません。」
と、弁舌巧みに申し上げた。
時代によって、民族によって美女のとらえ方は様々であるようだ。介国が述べた通りに照手姫を解釈するとこんなふうになる。「初桜」に「十三夜」はまだ熟れきっていない若さを表現する常套句だ。指が「瑠璃」をのべたとなると、真っ青な指かと、ちょっとギョッとするが、ガラス細工のように繊細で細長い指のことである。「丹果」は真っ赤な果実のことで、髪は黒くて香しく長いのを良しとする。中国王朝の宮殿にあった「太液」という池の蓮は、美人の顔の代名詞である。ここまでは、人間の話で、古(いにしえ)の方々の感覚も十分に理解できるが、「相好(そうごう)」が備わっているとなると神仏の領域の話だ。三十二相の中には、扁平足がいいとか、指の間に金色の水かきがあるとか、歯は四十本あるとか、舌が長くて髪の毛の生え際まで届くなどとあり、八十種好に至っては、耳たぶが肩まで垂れ、しかも穴が開いていて、喉には三本の皺があることになり、これではまったくの仏像である。しかし、この介国の話が神の子判官の琴線に触れたというから不思議な話である。
判官はドキッと、胸の奥でうごめくものを感じた。判官がころりとはまったのは、やはり「相好」の部分だったのだろうか。判官の神を犯したいという願望は消えてはいなかったようだ。ただ、見目美しいだけの女に用はなかった。飲みかけの杯がピクッと止まった。
「何と介国とやら、横山将監照元が息女、照手の姫と申したな。」
「はっ、はあ。」
判官は、胸のざわめきを押さえるように、飲みかけの盃をグッと一気に干した。何に憑かれたか、判官はまだ見もせぬ姫に憧れた。
『おかしい、何だ。この心地は。たかだか商人の土産話に。』
判官は、今までに感じたことのない胸騒ぎの正体が分からなかった。そのまま黙りこくった判官の前で、介国は、
『・・・・なんぞ、まずいことでも言ったかの?』
と、平伏したまま、額から冷や汗がぽたりと落ちた。
コトリと盃を置いた判官は、
「苦しゅうない、介国、面(おもて)をあげい。」
ほっと、顔を上げたのもつかの間、次の判官の言葉に介国は動転した。
「さまでに美しき照手姫。介国、それがしへ仲人申せよ。」
「と、とんでもございません。愚かな御意にござります。承ればお殿様は、都は三条大納言兼家卿の御嫡子とある。先方も小身とは言えども、相模の国の郡代横山将監照元様、仲人、仲立ち等というものは、ご同輩御同格の義、下拙はご覧の通り、その日暮らしの小間物売り、仲人などとは思いもよらざること。何卒ご容赦の程、御願い奉りまする。」
とんでもない館に迷い込んだ、長居は無用とばかりに千駄櫃(せんだびつ)を引きずって逃げ出したが、十人殿原に取り囲まれては、為す術もない。再び、引きずり戻され、引き据えられて介国は、息絶え絶えに、
「は、はあ、さまでに、御執心とあるならば、致し方もありませぬ。仲人いたさぬでもありませぬが、ひとつお願いの義がござりまする。」
「むう、観念いたせ、介国。して、願いの義とは?」
「は、はあ、艶書を認め下さいませ。商いついでに、これより相模の国の乾の殿に持ち行き、姫君様にお渡し申し、色よき返事、取って戻り差し上げん。この義如何かっ。」
と、絶叫した。
判官は奥の間に下がると、料紙(りょうし)硯(すずり)を引き寄せて、まだ見ぬ姫を思った。それは、ちょっと苦しかった。愛おしかった。かつて感じたことのない胸の感情に戸惑いながらも、筆は勝手に走った。張り裂けようとする心の丈が、筆を通して流れ出ていった。
松皮模様に封じられた文と黄金十両が乗った三方が、介国の前に運ばれた。池野庄司は、
「介国殿、我が君様が心を込めて認(したた)め遊ばされたるこの玉章、よろしくお願い申す。色よきご返事取って戻れば、ひとかどの褒美を取らせる。これは、当座の路銀じゃ。」
「は、はあ。この度は過ぎたる役目なれど、恋の仲立ち、色事の取り持ちは、小間物屋の半商売。お殿様の御為に一肌脱いで、やがて吉相お知らせ申し上げます。」
「介国、頼んだぞ。」
と判官はさらに盃を介国に給わり、数(す)献(こん)を重ねて、介国に諸国の話をねだった。介国はすっかり調子者となり、様々面白おかしく物語りするので、十人殿原共々に久しぶりに腹からに笑って楽しんだ。
「さてさて、長々とご馳走に預かり、恐悦至極にござります。さりながら、心待ちの返書を一刻も早くお届け申し上げるために、最早お暇申し上げましょう。」
と、一礼すると、介国は一路、相模の国は乾の殿を指して旅立った。  
三 乾(いぬい)の殿
香具屋後藤介国は、判官の艶書(えんしょ)を入れた千駄櫃を背負って、相模・武蔵の国の郡代、横山将監照元の屋敷へと急いだ。茨城県石岡から約二百三十キロ、神奈川県相模原市中央区横山としてその名前が残っている。介国は頑張って歩いたつもりだったが、照手の住まいなす「乾の殿」の門前にようよう着いたのは、九日目の昼過ぎだった。相模の国の梅は、ちらほらとほころびはじめていた。
介国は、顔なじみの門番の侍衆に年玉を配ると、年始を述べて勝手知ったる門内に入った。ささらをかき鳴らすと、いつもの口上を調子よく囃しながら、長局(ながつぼね)の方に向かった。
「召せや、召しませ、伽羅を召せ、沈(じん)を召しませ、伽羅を召せ、香箱、香箸、香包み、東白粉、京楊枝、さて、お局様方の嗜(たしな)み道具、大小お好み次第にて、さあさあ、召せや、召しませ。」
さすがは商売人である。良く通る声は、すぐに、兵庫の局の耳に入った。
「あれ、あれ、皆の衆、あれは確かに、後藤介国。久々に参りしに、御用の品もある。たれかある、はやはや、介国を、疾く、御殿へ案内申せ。」
にわかに館は活気づき、ばたばたと呼び入れられて、兵庫の局の部屋に通されると、介国は千駄櫃より、錦絵なんぞを取り出して、年玉代わりにと、両手をついた。
「お局様には、誠に、明けましては結構な春にござりまする。」
「これは、これは、介国殿、有り難く年玉に預かりまする。そなた、絶えて久しゅう来やらぬ故に、御用の品も数々ある。ささ、早う、香具の品々出してみせてたも。」
と、兵庫の局は色めき立ってせっついた。当時のブランド物が詰まった介国の千駄櫃の中身は、女性にとっては垂涎(すいえん)であった。館の女達は、介国が来るのを今や遅しと待ちこがれていたのだった。介国はすっかり、判官の艶書のことも忘れてしまい、商売、商売と、小間物を並べ始めた。局の座敷には、館の女全員が集まって、やれ鼈甲(べっこう)の櫛がいいだの、黄楊(つげ)の櫛がいいだのと着けては外し、匂い油や白粉、紅を試してははしゃいだ。これはわらわが、いや、わしがと、奪い合うように買い求める有様は、昔も今も変わりない。介国は思いのままの商いである。大方、見尽くした兵庫の局は、自分のお目当てはとっくに確保しておいて、
「これ、これ、介国、外になんぞ、珍しき品はあらざるや?何か珍しき品あらば、初春のお慰(なぐさ)みに、姫君に差し上げん。」
と介国を呼んだ。介国は、忘れていた大事な用事を思い出した。
「は、はあ、お局様に申し上げます。これと申しまして、お姫様のお慰みになるような物も御座りませぬが、先日、常陸の国を回りし折り、さるお大名の御殿の物見窓下にて、玉章(たまずさ)を一通拾い取りましてございます。ご覧通り心せわしき小間物売りとて、読み取る暇もなく、忘れておりましたこの玉章。座興(ざきょう)にこれを姫様に差し上げましょう。良き文言の候わば、御手の本となされ、悪しき時はお笑いぐさにご覧遊ばせ。」
と、介国は千駄櫃の底から判官の艶書を取り出して、差し出した。介国に策があったわけではない。照手姫の手にさえ届けば、あとはなんとかなるだろうぐらいにしか考えていなかった。
局は、手にとって上書きを眺めて吹き出した。
「なんと、月に星?雨に霰?これこれ、皆の衆、この玉章の上書き、世にもおかしき玉章もあればあるもの。」
と、女中達に回して見せた。
「おおかた、これは、心、狂乱のお人の書かれし文か。」
「なんであれ落とし文とあれば、恋いの文、わらわも拾いたいものじゃのう。」
「ちんぷんかんで、意味がわかりませぬ。」
「これは介国が書いたのじゃないのかえ。」
と、とっかえひっかえ手にしては、散々に馬鹿にして、ドッと笑いこけた。そのうち、話はどこの殿御が素敵などと、男の品定めになってさらに話は盛り上がった。
さて、艶書の文面も知らぬ介国は、思わぬ展開に狼狽(ろうばい)した。『判官殿はいったいどんな艶書をお書きになったのだ。』とおろおろするばかり、照手姫の手に渡る前に開けられしまっては元も子もない。
女達の大騒ぎは、さらに御殿の奥にある照手が居所にも漏れ聞こえた。『なにか楽しいことでも始まったのかしら。』とさすがの照手も気になって、局の部屋におなりになった。
その姿を物に例えるならば、「垂(しだ)れ柳のその枝に八重の桜を咲かせて、その香りが辺りを包む」というのが照手姫である。これまでの大騒ぎは水を打ったように静まって、しづしづお出でになる照手姫に、一同、うっとりと見とれた。
照手の姫には五人の兄があった。横山一族の世継ぎは十分に安泰であったが、横山将監照元はどうしても娘が欲しかった。日光山と一口に言っても、権現様は三所ある。照元が申し子をさせたのは、二荒山権現であり、守り本尊は千手観音菩薩であった。照元の「照」と千手観音の「手」を取って「照手」と名付けられた。照手もまた判官と同じように神の子であった。
「これこれ、皆の者。そもじ達は何をそのように面白そうに笑わせ給うや。面白きことあるならば、姫にも聞かせて、心の憂さを晴らさせてたべ。」
照手の声音(こわね)もまた鈴を鳴らしたように華麗である。仰せに局は、はっと両手をついた。
「これに控えますは、香具屋後藤介国。久々に御殿に上がりし故、様々東西の珍しき品々で盛り上がっておりましたところでござります。」
「ほほう、介国殿、おなご共のお相手、ご苦労でござります。それで、何か珍しきものとやら、姫にも見せて給われや。」
と、宣(のたま)えば、兵庫の局は、
「今、騒いでおりましたのは、これ、この玉章でござります。介国殿が、さる御大名の御殿物見の窓下にて拾い取りまして、持ち来る落とし文、その上書きを見ますれば、『月に星、雨に霰』と書いてござります。それで、世にもおかしき玉章と、皆打ち寄りまして、御上もはばからず、ただただ、笑い転げてござりました。どうぞ姫様、この玉章の上書きをご覧下さりませ。」
と、差し出した。玉章を手に取った姫君はハッとした。
『なんと気高き能筆・・・』
ざわざわと鳥肌が立つのを覚えた。照手は我を忘れて、つくづくとその墨筆に見入った。というか、既にその筆勢の支配に屈している自分をどうすることもできなかった。照手が上書きを見て恍惚としているのを、下々はポカンとして眺めていた。兵庫の局が、
「姫様。」
と声を掛けると、はっと我に帰って、
「いやなに皆の者、情けない。この上書きを見て、狂乱の人と打ち笑うとは何事ぞ。あなた方の知識の底が知れまする。この上書きの筆勢の見事さは、笑うどころではありませぬ、手習いの手本にするのももったいない程の能筆。さぞや、高貴な方の筆に違いありません。」
と、言われて、一同はふざけ心も一遍に吹き飛んで、うなだれた。照手は続けて、
「よく聴かっしゃれや、月に星、雨に霰と書かれたこの殿御の心は、世界におなごは多けれど焦がるる人は君一人と、月になぞらえて、その先を期待させるこの上書き、定めし、中はよき文体のありつらん・・・。」
と、照手は封じ目を切って、上紙をはね開けた。これを見た介国は取りあえず、ほっとしながら、さて返書を書かせるにはどうしたものかとあれこれ考えていた。照手は、気ぜわに文を広げると、
「なになに・・・う−ん、これは、面白、謎の文言、恥ずかしながら自らが、大和言葉に和らげて読んで聴かせましょう。まず筆立てに『峰に立つ鹿』とある、秋の鹿にはあらねども、峰にて牝鹿の声がすれば、麓で牡鹿がこれを聞き、妻恋しと読みまする。『弦なき弓に羽抜け鳥』、この恋謎は、思い初めたその日から、弦の無い弓のように、居る(射る)にも居れず、羽無き鳥のように(飛び)立つにも立たれぬ心なり、『塩屋の煙、長(た)けの帯、二本薄』とはまあ・・・。」
と、調子よく講釈していた照手は、言葉が詰まって赤面した。兵庫の局が、怪訝に促すと、
「そ、それは、まず、『塩屋の煙』とは、浦風吹くなら一夜はなびけと、そして・・・この恋成就したなら結び合って、乱れ合いましょう・・・と」
照手はぽっと、目を伏せ、女房達は、あたかも自分に言われているかのように、きゃっと騒ぎ立てた。
「はあ、これ以上は恥ずかしくて読めませぬ。恋を七つに分けて言うのなら、逢う恋見る恋語る恋、襖(ふすま)隔てて想う恋、逢うて後の別れの恋、及ばぬ恋も恋の内、されど、筆先にておなごの心迷わす文の恋とは、まさにこのこと・・・。」
と、照手が絶句していると、兵庫の局が、
「して、姫様、いづくの殿御より、いずれの姫の御元へ送りし文でござりまするや?奥書はどのような?」
と問えば、照手が巻き返して見てみると、
「何々、恋ゆる人は常陸北条玉造小栗判官政清、恋いられし人は・・・」
他人事の恋文として講釈しつつも、既にこの文に心を奪われていた照手は、突然に自分の名前を発見してうろたえた。自分宛の恋文を講釈する者などいない。恥ずかしさに顔から火が出る思いで、玉章をその場で引きちぎって、奥の間へと逃げ戻った。この事態に、御殿は騒然となった、照手への玉章と知った兵庫の局はいきり立ち、
「商人後藤介国は、姫君様へ恋の仲立ち仕る、出合え、出合え。」
女(じょろう)局(つぼね)は一同に白綾取って玉襷(たすき)、長押(なげし)に懸けた長刀(なぎなた)をはっしとかいこんで、介国を七重八重に取り巻いた。京洛中のことはさておいて、ここ坂東では自由恋愛は許されていない。女の園である乾の殿に入れる男は、太鼓持ちか介国だけである。色事を持ち込ませないためである。その禁制を介国が破った。
「憎っくきは後藤介国、番の侍を呼んで、はからいいたせよ(罰を与えよ)。」
と、介国は窮地に立たされた。
『ちょ、やばいと仕事は思っていたが、判官殿よ、常陸で高見の見物ですかい・・・』
介国は、女どもに引き据えられて、どう切り抜けるかと思案しつつも、既に腹は据わっていた。
『むー、総体、おなごと申するは、利発に見えても、内心浅はかなる者、館の侍の来る前になんとか脅し付けて、返事を取り付けるしかあるまいて。』
商人のにこやかな顔とは打って変わって、キッと目を吊り上げると、むっくりと起きあがり、腕まくりをして座り直した。
「やれ、早まるな、女中方。恐れながら、この介国が照手の姫様に尋ねたきことのござ候。やあれ、姫様、お聞きあれ、姫様には、玉章を、何故引き裂き給いしぞ。文字の尊き因縁をご存じあってのお破りか、ただしは知らいで破らせ給いしか。」
と、有りたっけの大音を振り絞った。女房達が怯んで一歩後ずさると、介国はすっくと立ち上がり、
「やあ、やあ、姫様、ご返事なくば介国が、文字物語を語って聞かさん、よっく聞かっしゃれ。そもそも天竺(てんじく)にては文殊菩薩が梵(ぼん)字(じ)を創られ、孔子、老子の学者達が真・草・行と書き分ける。我が朝にては弘法大師、いろは四十七文字創らるる。まった、京の一字と申するは、忝(かたじけな)なくも、伝教大師の書き添えて、四十八文字と定めける。さまでに尊き仮名の文字、一字破らば、弘法様の左の御手を食い破り、二字破らば右の御手をもぐがごとし、三字も四字も破るなら、弘法様の一命奪うも同じこと、あら、恐ろしの冥罰(めいばつ)ぞ。御身の罪や恐ろしや、この世にあっては阿鼻(あび)焦熱(しょうねつ)の病を受け、冥土へ行くときは血の池地獄に落ちるなり。なれども、その罪逃れたくば、一字なりとも、二字なりとも、返書を書いて送らせて、殿御の心喜ばせば、たちまちその罪滅(めっ)しまし、末は極楽浄土へ参るなり。ささ、如何に、如何に。」
息もつかずに一気にまくし立てた。立て板に水と言うのは、このことである。それにしても、苦し紛れの方便とはいえ、介国のその気迫に、女房達は総毛が立って、泣き出す者さえいた。さすがの照手もこの話にはころりとだまされて困惑した。
『そんな恐ろしい事になるとは、夢にも知らなんだ。これまで、あまたの殿御よりの玉章を、みなことごとくに引き裂いて捨ててきたが、大変な罪を重ねて来たことになる。我が身の罪の恐ろしさ、いかがはせん。』
と、罪業の深さに怯えた照手も、とうとう泣き出してしまった。
照手姫が、父親や兄達の了解を得ずに、男性に手紙を出すようなことは、許されてはいなかった。家内の女は、政略上の重要な道具であり、その意思など尊重されてはいなかった。もし、無断で返書を出すとなると、父や兄達からの折檻(せっかん)は必至であった。折檻で済めばまだいいいが、女子が返書をすれば、それは承諾であり、自分の行く末も含めて重大な決断をすることになる。うまく輿入れできればいいが、自分が追放される危険もあれば、それを発端に戦になるかも知れなかった。しかし、介国に仏罰を突きつけられて、照手はどうしていいのか判らなかった。これまで家のきまりに盲従してきたのに、仏罰を受けることになるとは。
学も信心も無ければ、介国のはったりなど、通用しなかったかも知れないが、インテリはこの手の脅しには弱い。照手はあれこれさんざん迷った挙げ句、仏罰の方が重いと思い定めたのは、南無阿弥陀仏と日々念仏し、極楽浄土への往生を願っていたからである。しかし、涙は止まらなかった。仏の罪科を償っても父を裏切ることには変わりはなかったし、この返書ひとつで、人生ががらりと変わってしまうことを覚悟しなければならなかった。その間も、介国は、やれ、血の池地獄では、上の人間は乳より上が浮き上がるが、下の人間は髪の毛しか浮かないとか、針の山だの釜ゆでだのと、ありったけの地獄めぐりを絵解きでもするようにしゃべりまくっていた。
襖(ふすま)が開いて、照手が再び現れた時、その手には、松皮様に封じられた返書が握られていた。
「介国殿、小栗判官政清様とは、いかなる殿御が知らねども、誘う嵐も有るならば、供に散るらん我が身ぞと、二世の殿御と定めました。」
と、照手は、返書を介国に手渡した。介国は、内心ほっとしながも、顔色にも出さず、
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、尊きご返書お預かり申し上げます。幸いこれより、常陸へ下る道すがら、小栗様とやらに、お届け申し上げましょう。仏罰はこれにて滅します故、必ずご案じなさいますな。」
などと、恩着せがましく言うと、さっさと代金を集めると、早々に乾の殿を立ち去った。門を出ると、横山の館から追ってが来ては一大事と、背中の空櫃を揺らして、半時ばかり必死に走って逃げた。
「ああ、やれやれ、虎の尾を踏み、毒蛇の口を逃れしとは、まったくこのこと・・・はあ、はあ、しかしまあ、口から出放題の文字語りで、よくまあ、乗り切れたわい。」
と、とある小川のほとりで、ようやく息をついて、うまそうに水を飲んだ。一息ついて介国は、
「さて、急ぎ、常陸に戻り、たんまりと褒美に預かるとするか。」
と、足取りも軽く、常陸へと急いだ。  
四 押し入り婿
強い北風に風花が舞っていた。しかし、朝から小走りに駆けてきた介国は、常陸の国黒木館の門前で、汗ばんで、湯気を立てていた。相変わらず暇を持て余していた判官は、早速に介国を招き入れた。挨拶も早々に、乾の殿での始終の様子を申し上げた介国は、千駄櫃の奥底より、恭しく返書を取り出すと、扇に返書を載せて頭上高くに差し出した。待ち望んだ返書をしっかと受け取った判官は、取る手も遅しと、封を押し切ると、ばさっと上紙を撥ね飛ばし、横様にさっと文を投げ開いた。
「なになに、ふむふむ、介国、『細谷川に懸けし丸木橋、その下でふみ落ち合うべき』とあるぞ、ぬしは、これをなんと読む。」
「ははあ、恐れながら、この介国にはなんとも、謎の文体(ぶんてい)にて・・・応とも否とも・・・。」
「よいか、介国、細谷川の丸木橋を踏み返しては会えぬのじゃ、踏み返せばいつまでも落ちぬというのが元歌だが、でかしたぞ介国、おぬしの働きで、文は落ちたのだ。恋は成就したぞ。しかし、橋の下ということは、即ち、一家一門は知らずして、姫ひとりの領承と見える。」
「へへえ、そうでございますか、誠におめでとうございます。」
「皆の者、介国が手柄ぞ、酒を持て、褒美をとらせい。」
判官は上機嫌で、介国に杯を与え、めでたい、めでたいと十人殿原諸共に、賑やかな酒宴となった。無事に大役を勤めた介国はすっかり安心して、乾の殿の女房達を震え上がらせた文字物語と地獄語りを面白おかしく話すものだから、一同腹を抱えて笑いこけた。その間にも、介国はちゃっかりと褒美の品々を千駄櫃にしまい込むと、
「恐れながら、お殿様に申し上げます。介国、これより京に上がらなくてなりません。最早お暇申し上げます。」
と、腰を上げた。すると判官は、
「やれ、待て、介国。仕事はまだ終わっておらんぞ。」
「はて?お約束の返書は確かに・・・」
「これより、直ちに出立し、相模の国乾の殿へ押し入り婿をいたす。介国、案内仕れ。」
「いや、そりゃまた、お殿様、上方はいざしらず、ここ坂東にあっては、ご一門が知らぬうちに婿入りなど思いもよらず。姫君のご了解はさておき、今一度、ご一門に使者をお立ていただくのがよろしいかと存じます。」
「黙れ介国、そちが申す通り、一門の了解なくして色恋もなしというのであれば、返書をよこした姫は、橋の下の覚悟。返書の件が一門に洩れ聞こえれば、いかなる咎(とが)めを受けるとも知れぬ。決死の覚悟で返書をしたためた姫を一刻も早く守らねばならぬ。よいか者ども、いざ出陣ぞ、はやはや、出立の用意をいたせ。」
二の句もつげずに介国は、十人殿原が慌ただしく走り回る中で、頭を掻きながら、諦めの溜息をついた。それを判官はにやにや笑って見ていたが、やがて出立の準備が整うと、
「介国、我が馬に共に乗って案内いたせ。」
と、立ち上がった。判官と十人殿原の騎馬軍団が、相模に向けて疾走する有様は、さながら異国の鬼が駆け抜けるが如くであった。街道の人々は戦が始まったかと驚いて、土煙を見送った。四日目の昼過ぎに、判官一行は、相模の国の小高い丘の上にいた。介国は馬を降りると、
「ご覧候え判官殿、あれなる棟門の高きお屋敷が父横山殿の御館にて、こちらに見えまする棟門の低いお屋敷は、五人のご子息の御館にございます。そして、乾の方の主殿造りの御館こそ照手の姫の局にて、乾の殿にござります。下(げ)拙(せつ)は最早、相模の国ではお尋ね者、乾の殿へは入れませぬ。お殿様方は、これより乾の殿に上がられて『常陸の国よりの来客』と仰せられてあるならば、姫様にもお待ちかねにてましまさん。では、介国はこれにて退散いたしまする。」
と、言いながら、馬から千駄櫃を下ろすと、よっこらしょと背負って、乾とは反対の南の方へ、とことこと消えた。実入りは十分だったが、人使いの荒い小栗殿はもう懲り懲りだという背中だった。
判官が、はっしと、ひと鞭入れると、十人殿原諸共に一直線に乾の殿に駆け下った。地響きを立てて乾の殿の門前に至ると、突然のことに慌てふためく門番に目もくれず、どっとばかりに門内に押し入った。乾の殿の玄関下で判官が、
「常陸の国より、只今、小栗判官政清、参上仕る。」
と、大声で呼ばわれば、御殿は俄に騒ぎ立ち、やれ恋婿様のご到着と、数多の女中が、判官一行を迎え入れた。旅の埃(ほこり)を落としたところで、酒宴の席が整った。判官と十人殿原がどっかと居並ぶ様に、女房達は恐れもし、極度に緊張もしていたが、いまだかつてこれほどに男くさい席の経験もなく、わくわくと胸がときめいて居ても居られないというのが本当のところだった。襖ごしに中をのぞいては、何か用はないかとそわそわしているところへ、ようやく、兵庫の局に誘われて、照手の姫が判官の隣に着座した。
判官は、照手を一目みるなり、直感が正しかったことを確信した。姫のその美しさは単に容姿のそれでは無かった。照手が客間に入るなり、柔らかく後光が射すのを判官は見た。照手が御前で手をついた時、判官の鬱積(うっせき)した心は霧散し、一筋の光明の神々しさに心の中で手を合わせた。照手は、客間に入った途端に判官の額に「米」の字が三つあるのに気が付いて驚いて目を伏せた。『このお方はただのお殿様ではない。』と、どきどきしながら、御前に進み、手をつき、面を上げた瞬間に判官と目が合った。低い耳鳴りのような振動が頭から足の先に向けて走ったがそれは官能的しびれに近かった。姫には判官の眼に瞳が四つあるのがはっきりと見えた。その印は、神のそれとも、鬼のそれとも見えた。しかし、照手は、墨筆の清冽さを信じた。判官の隣に着座して『このお方に間違いはない。』と感じていた。
兵庫の局の取り舵で、恙(つつが)なく三々九度の盃をし、祝言を終えるとそこそこに、判官は、酒宴の役を十人殿原と女房達に任せた。局を仲立ちさせて、二人はいそいそと寝所へと向かった。錦のしとね、綾の床。二人の神の愛の交合は、結ぶの神であり、仏であれば愛染明王、天にあれば比翼の鳥、地にあれば連理の枝、偕老同穴(かいろうどうけつ)の語らいも及ばぬ程の深い契りであった。夜も昼も、七日七晩のその間、二人は飽かず、抱き合った。七日七晩を数えたのは、閨(ねや)の外の人間であり、中の二人の時間は止まっていた。迸るエネルギーを交換する遊技に二人の神は夢中だった。宇宙の中心がここにあり、全宇宙のエネルギーが渦を巻いて流れ込んで来た。一瞬が永遠であり、其方も此方もなく、光も闇も無い原初のエネルギーの塊がそこにあった。しかし、絶対的な一体化を味わうためには、再び相対的な自他に別れなければならない。判官と照手は、互いに互いを通して自分が何者であるのかを知る過程を辿りながら、より高次元の結合を試みていた。判官はこれまで自分一人で完璧だと思っていたが、それは大きな間違いであった。確かに神はそれ自身で完璧であるが、神自身が完璧であることを味わうためには、必ず不完全をつくり出す必要であった。そうして、判官は恋焦がれる気持ちを初めて実感し、合一を求めながらも、彼岸においておかなければならないという現世の矛盾を悟った。
二人は至福の時を過ごしていたが、横山の館は大騒ぎであった。照手姫の父横山将監照元は、五人の息子を招集して評議を開いた。
「聞けば、都の三条高倉大納言兼家卿の嫡子小栗判官政清とやら、帝の勘気を蒙り、常陸の国に流罪の身。この小栗とやら、謹慎(きんしん)蟄居(ちっきょ)の身の上にもかかわらず、この度、我が娘照手に執心なし、十人の家来を引き連れて乾の殿へ押し入り婿とある。我々、親子になんの挨拶もなく、軽ろしめたる振る舞い、誠に許し難き奴原。武蔵、相模七千余騎を駆り、一気に小栗を討ち取らん。」
と、父照元の怒りは尋常ではない。申し子をして授かり、蝶よ花よと可愛がって育て、目に入れても痛くない末娘を、盗み取られたのだ。照元は判官を八つ裂きにしなければ気が済まなかった。しかし、長男家嗣(いえつぐ)は、
「父上様のお腹立ちはごもっともなれど、あの小栗と申する者、毘沙門天の申し子にて天地四相を悟り、力は八十五人力、それに劣らぬ十人殿原は異国の魔王の如く、例え武蔵、相模七千余騎を催せども、味方の勝利はおぼつかなし、哀れとは思し召せど、父上様には、どうぞ、ご存じなきよしをもって、婿にお取りあれ、いざという時の良き弓取りとなるでござりましょう。」
と、進言したが、照元はなお激高した。
「ふざけるな、家嗣、小栗を許せとは何事ぞ。馬鹿も休み休み言え。そのような、腰抜けに用はない、下がれ、下がれ。」
長男家嗣は、生来、沈着冷静で物事を理性的に判断できる賢さを持ち備えていたが、直情型の父照元はこの長男家嗣の性格をこころよく思っていなかった。照元は、懐柔策など聞きたくもなかった。評議の目的は小栗征伐の作戦であり、横山一門の傷つけられた体面をどう回復するかにあった。その点、三郎照次はずる賢かった。いつものように兄が叱責を受けて追い出されるのを、にやにやしながら見送って、おもむろに切り出した。
「父上様に申し上げます。確かに、兄じゃ人の申す通り、小栗判官とやらは、一筋縄では参りそうにはありませぬ。が、この三郎に策がございます。父上におかれましては、まず、気をお鎮めいただき、婿と舅の見参とて使者をお使わしください。大剛の者であればこそ、臆せずにご出仕なされるでありましょう。御酒宴を催し、酒肴の一興に、なにがしか芸を所望あれば、きっと、弓でも刀でもまたは、囲碁でも将棋でもと余裕の有るところを見せるに違いありませぬ。そこで、父上、馬をご所望くだされ。かの、鬼鹿毛一曲所望いたしてあるならば、十人殿原諸共に、皆、鬼鹿毛の人(ひと)秣(まぐさ)になることは必定。弓も刀もいりませぬ。」
三郎の事を良く言えば、機転が効くと言うのだが、父の顔色を読むことにかけては、兄弟の誰も三郎には敵わなかったので、照元も三郎を可愛がった。
「むう、でかした三郎。よう仕組んだ。しからば、使者を立てん。そうじゃ、鬼王、鬼次をこれへ。」
鬼王、鬼次は譜代の家臣であり、照元の信頼も厚い。
「鬼王、鬼次、その方ら、これより、乾の殿に参り、『遙々常陸の国より婿入りの小栗判官政清殿、よき婿取って、横山将監照元、この上もなき仕合わせ。明日は最上吉日に候えば、婿、舅の見参いたさん。粗酒一献仕らん。』と伝えよ。」
と、言えば、兄弟はかしこまり、早速に乾の殿に使者に立った。
鬼王・鬼次兄弟は照手が小さいときの遊び相手であり、兄弟は幼い照手の面倒を良く見た。実直な二人は、素直に照手の婿取りを喜んでいた。鬼王・鬼次は判官を一目見て、このお方ならば姫様のお殿様に相応しいとさらに喜んだ。使いの口上を聞いた判官は、いよいよきたなと思ったが、
「こちらから、ご挨拶仕るべきところ、誠に大儀である。しかと承ったと申し伝えよ。」
と、答えた。判官は十人殿原を集めると、いよいよ、横山一門が動き出したので、警戒を怠るなと下知した。照手は、来るべき事が来たと現実に戻って悲しんだが、覚悟を決めてこう言った。
「お殿様、父照元は気性荒く、一度怒り出しますと手が付けられませぬ。また、兄弟のうち、兄三郎は、最も狡智で残虐。どうぞお気をつけてくださりませ。」
翌日、判官と十人の殿原は、見送る照手を乾の殿に残して、鬼王、鬼次の先導で、横山殿へと向かった。判官は、綾染めの直垂(ひたたれ)に浅黄色の水干(すいかん)を召して、玉の冠をかぶった。殿原も都様に身支度して、貢ぎ物の輿も鮮やかな行列となった。こんな田舎では見ることも稀なきらびやかな行列に街道は人だかりとなり、姫様の婿殿を一目見ようと近在近郷の人々が横山殿に押しかけた。誰もがその神々しい判官の姿と、十人殿原の威風に畏敬の念を抱き、手を合わせる者さえいた。判官押し入り婿の噂はたちまちに広がり、横山一門にとっては、始まって以来の恥辱となった。  
五 鬼鹿毛
平安時代から、多摩地区の丘陵全体を「横山」と呼んだ。歴史的には武蔵七党の一族として八王子を拠点とする横山党の名が見え、それなりの由緒があるが、説経節における横山一門は、豪族というより山賊、山賊というより盗賊に近い。領民は横山一門を恐れこそすれ、こころよくは思っていなかった。それどころか、鬼鹿毛という食人馬の秣(まぐさ)に、人身御供(ひとみごくう)をしなければならなかった。相模の国の人々には、小栗判官も得体が知れなかったが、横山一門よりは好印象に写った。巷では誰もが小栗の押し入り婿を歓迎し、その話題でいくばくかの鬱積を晴らした。当然、戦にもなろうと噂した。口にこそしなかったが、人々は横山一門の没落を願っていた。
鬼王、鬼次の先導で、判官一行は粛々と駒を進めた。横山殿の門前には、横山八十三騎がずらりと待ち受けていたが、判官にはなんの脅しにもならなかった。むしろ、判官と十人殿原の気迫が既に勝っていた。黒山の群衆はこれを見取ってどよめいた。人々は胸が空くような快感に歓声を挙げそうになって、思わず口をおさえて、噛みつぶすようにうずくまった。
かくして判官一行は、一段高い左座敷に着座し、やがて、三郎照次を従えて、横山将監照元が現れ、下座に着き、八十三騎が百畳敷にずらりと座った。都よりの客人として、癪(しゃく)ではあったが、一応の敬礼を取るように進言したのは、三郎であった。
婿と舅の挨拶事は平穏に行われ、和やかに酒宴が始まった。判官と十人殿原、照元と五人の兄弟の間を一つの盃がめぐり一献差しては、固めの盃とし、自己紹介を兼ねて挨拶を一巡した。判官から始まった盃は、最後に将監照元の前に着いた。なみなみと盃を受けた照元は、ぐいっと盃を干し、三郎に目配せしてから、じろっと判官に向き直った。
「いやなに、判官殿、いや、婿殿、めでたい宴の一興に、なんぞ都の芸でもひとつ。」
と、言えば、判官は二献を受けて、
「ほほう、横山殿、いや、父上、芸と言えば、弓か毬(まり)、力業に早業、盤の遊び、歌舞、説経、なんでもご所望くだされ。」
と、答えた。予想通りの返答に、照元はしめしめと切り出した。
「いやいや、ここ相模において、芸といえば、馬のこと。聞けばそこもとは馬の達人とも聞く。我々一門も大の馬好き。数多(あまた)の駿馬を揃えておる。酒の肴に一馬場を所望いたす。」
と、言って、口元でにやりと笑った。酒の肴に馬一曲などとは聞いたこともない。判官は、なんの難癖かと、二献を止めて、一瞬照元を睨み返したが、どうせ埒(らち)もなかろうと、グッと干して立ち上がった。
「承知、父上の所望とあれば是非もなし、一曲乗ってお目にかけん。いざ、厩(うまや)へ。殿原来たれ。」
応とばかりに十人が一斉に立ち上がれば、座敷がぐらっと揺れた。座敷を蹴るが如くに判官一行が厩に向かうと、照元と三郎は開け放した縁側に席を移して、旨そうに酒を交わし、高見の見物を決め込んだ。
「皆の衆、これより、面白の見せ物が始まるぞよ。」
と三郎が囃すと、八十三騎はどっと笑った。
兼ねての手はず通りに、別当左近が厩への案内に立っていた。厩といっても、館の中にあるようなちゃちなものではない。館の南表の原野はすべて馬場であり、四十二間の細長い馬屋は類を見ない、連銭葦毛(れんせんあしげ)、鴨(かも)糟(かす)毛(げ)、雲雀(ひばり)毛(げ)、栃(とち)毛(げ)、黒駒、いずれも劣らぬ名馬ばかりが、数多嘶(いなな)く有様は、馬好きでなくとも、感嘆を禁じ得ない程である。さすがの判官もこれには驚いた。かたっぱしから乗りこなして見せるかと思う折、池野(いけの)庄司(しょうじ)利門(としかど)が、別当左近に、
「いかに、別当殿、我が君様の召料(めしりょう)はいずれの駒にて候や。」
問えば、
「はは、本日のお客様の召料は、この厩にては候らわず。」
と、四十二間厩を通り越して、さらに八丁ばかり進むと、茫々なる萱野の彼方に獄舎と見紛う異様な建物が目に入った。そこから聞こえる嘶きも尋常ではない。別当左近は立ち止まって、
「かの厩に繋ぎ止めたるは、さいつの頃か、富士の裾野、足高山の麓、箱根が崎、荒柴村より狩出しました「麒麟(きりん)鳳(ほう)鹿毛(かげ)」と申する逸物なれど、心たくましき故、誰言うともなく、その名を「鬼(おに)鹿毛(かげ)」と申しまする。これ即ち、お客様の召料にて候。」
と、言う声が震えていた。言うが早いが、別当左近は、判官一行を残して、脱兎(だっと)の如く四十二間厩に逃げ帰った。その先には道も無かった。
「はて、案内が逃げてどうする。お殿様には、しばらく。まずは様子を。」
と、利門が萱原を分け入り、獄屋とおぼしき建物に近づいてみて驚いた。辺りの草むらには、死骨白骨、骨の山。去年捨てたか今年捨てたか、生々しい髑髏(どくろ)がごろごろと転がって、骨という骨があばらとも足とも腕とも知れぬが、算木を乱すが如くに散乱しているあり様は、この世のものとも思えぬ惨状である。さすがの利門も、袴の股立を高らげて、慌てて駆け戻った。
「お殿様に申し上げます。この先、馬手(めて)も弓手(ゆんで)も死骨白骨の山、かねて聞き及びし、人を食らう鬼の馬とは、このことと存じまする。ご油断あるな、我が君様。」
と、申しあげると、判官は、
「やれ、仰々しい。よいか利門よっく聞け、この判官、横山親子が鉄(くろがね)の鎖に繋ぎ止めたる龍をもって、例え馬と呼んだとしても、一曲乗りこなして見せようぞ。なんの、人食い馬とて、馬は馬、鬼鹿毛恐るるに足らん。」
と、人骨を踏み散らかして獄屋に近づいて見ると、回りには幅三間ほどの堀が繞らしてあり、丸木の橋が一本渡してあった。鬼鹿毛が獄屋を破っても、丸木橋を落として難を逃れる手立てであった。
それにしても、異様な構えの獄屋であった。百人がかりでも容易く動かぬような三人抱えの楠(くすのき)を八本突き立て、四方に隙間もなく、蜘蛛手(くもで)格子(こうし)を何重にも繞(めぐ)らしてあった。正面に回ると、三尺四方の切戸口に、生血が垂れて人肉とおぼしき肉片が引っかかっていた。人の気配に気が付いた鬼鹿毛は、人間(にんげん)秣(まぐさ)が来たかと、八方八筋にがんじがらめの鎖をガシャガシャいわせて立てて立ち上がり、前足を掻き蹴ると、耳をつん裂く嘶きが三里四方の空気震わせた。そんな嘶きに驚く程の判官達ではなかったが、獄屋の外まではき出された生臭い鼻息に、一同顔をしかめた。
旨そうな人間が一度に十一人も現れたのだから、鬼鹿毛はもうたまらなかった。涎(よだれ)の垂れ流れる鼻先をありったけに伸ばして、三尺四方の切戸口の縁にがしがしと噛みついた。八方八筋の鎖がきりきりを音たて、今にも引き千切れそうだった。鬼鹿毛は興奮して泡を吹き、びっしょりの汗をかいていた。あまりの凄まじさにさすがの殿原も足が止まったが、負けてならじと鯉口を切って獄屋に詰め寄った。
「いかに、鬼鹿毛。よっく聞け。我が君様と申するは、今日、おのれに鞍を置いて一曲攻めるによって、常の秣と心得て、我が君様に食らいつかば、我々十人の切っ先揃(そろ)え、おのれが平首打ち落とし、返す血刀ひっさげて、横山殿に乱れ入り、おのれが主君を討ち取らん。」
と、環貫(かんぬき)を抜き払い、十人殿原が我も我もと鬼鹿毛を引きだそうとするところ、判官は、
「やれ待て、殿原達、それは、心ある人間に向かっての物言い。また、畜生とはいえ、かような名馬に力業は敵わぬ。」
と、殿原達を獄屋の外に出すと、ただ一人、獄屋に入り、『鞍馬大悲多聞天、木の宮八幡大菩薩、神力添えさせたび給え。』と念じると、鬼鹿毛と対峙(たいじ)した。
ごうごうと荒い鼻息に、ぶるるると泡を飛ばし、いざ食いつかんとしていた鬼鹿毛だが、目の前に来た判官の額に米の字が三つあるのを見た途端、思わず小便を垂らして、腰が抜けたようにひざまついてしまった。判官が、鬼鹿毛の鼻面に手を置いたとき、殿原達は再び鯉口を切って身構えたが、判官は、鬼鹿毛に自分と同じ匂いをかいでいた。
「よしよし、鬼鹿毛。ようく聞け。世にある牛馬と申するは、寺門前に繋がれて、常の諸経を耳に触れ、心に仏名は唱えずとも、自ずと仏果を得るという。さるによって、牛は賢門大日如来、馬は馬頭の観世音、虎を薬師如来と祭るなり、そも、馬頭観世音は、衆生の無智・煩悩を食らいつくし、諸悪を駆逐する菩薩であるぞ。人秣を食らっていては、畜生の中の鬼。恥ずかしいとは思わぬか。なんじも、相模の国の鬼鹿毛ぞ、我は都の小栗なり、一鞍置かすものならば、よも乗り捨てにはいたすまじ。富士の裾野の足高山に八間四面の堂を建て、汝の姿を鬼鹿毛馬頭観世音と祭るべし。鬼鹿毛なんと。」
と施妙を含めた。鬼鹿毛が、判官の施妙をしかと理解したかどうかは判らぬが、鬼鹿毛は、判官の眼に瞳が四つあるの見て取って、黄色い涙を流して泣いた。いきり立っていた全身の力が抜けて、思わず脱糞すると、四足をついて、首をうなだれてしまった。物こそ言わぬ鬼鹿毛であるが、それは、どうぞお乗り下さいとの意思表示に見えた。
「見られよ、殿原達、さすがは名馬鬼鹿毛、施妙を含めてあれば、この通り。」
と、慈しみの目を細めると、殿原達はさすがは我が君様と、どっと、獄屋に駆け込んで、八方八筋の鎖を断ち切って、鬼鹿毛を獄屋の外へと引きだした。獄屋から引き出された鬼鹿毛は、何年越しかの日の光を受けて眩しく目を瞬いた。喜びのあまり、ひーんと嘶くと、その声は横山殿にも届いた。照元親子は、先ほどの嘶きと、今の嘶きから、判官主従はこれにて食い尽くされたと思い込み、祝杯を挙げて喜んだ。
日の光を浴びた鬼鹿毛の姿は勇壮であった。判官は思わず感嘆の声を上げた。
「むう、類い希なる名馬の出で立ち。あっぱれの吉相。胸、尻、腿の張り、顔は長く頬が高く逞しい。両眼は照る日月の如く、げに紅の舌を巻き、鼻は二つの法螺貝の如し、・・・。」
判官は、頭、首、背骨、胴骨、腹、脚の先から尻尾まで、丹念に撫でながら、その素晴らしい毛並みと逞しい筋肉を誉めた。その間、鬼鹿毛はなんとも気持ちよさそうに、ぐるるると鼻を鳴らして、最早、主君は判官と決めたようであった。
「千里を駆けてもビクともするものではない。鬼鹿毛よ、気に入ったぞ。やれ、殿原達、鞍を用意いたせ。」
と、判官が命じたがどこにも馬具がない。千葉民部が、四十二間厩に駆けて、別当左近を引きずってきたが、未だかつて人を乗せたことのない鬼鹿毛には定まった馬具など無いという。鬼鹿毛が引き出されているのを見た別当左近は腰を抜かして驚いた。仕方なく、判官は、
「定まる馬具がないとあれば是非に及ばぬ、是幸いの手綱。」
と、引きちぎれた二本の鎖をねじ合わせると、鬼鹿毛にがんじとはませ、たてがみをむんずと掴んで、裸馬のままひらりと飛び乗った。判官が胴をぎゅっと締めると、さすがの鬼鹿毛も息が留まって、悲鳴のような声を上げて後ろ立ちになった。そこで、判官がぐいっと鎖の手綱を引くと、鬼鹿毛は、心得ましたとばかりに、獄屋の回りを並足でぽくぽくと歩いた。殿原一同が喝采の声を上げると、別当左近もつられて感嘆の声を上げた。どうどうと鬼鹿毛を止めた判官は、
「水戸の浮き船、そこな柳の枝をもて。」
と命じた。水戸の浮き船は、はらりと柳の枝を払うと、鞭がわりに枝を手渡した。
「さて、鬼鹿毛、足定めじゃ。」
と、判官ははっと鞭を入れると、堀の丸木橋に導き、橋の中程でどうと止めた。見事なバランスである。よしよし合格とばかりに今度は、はっしと鞭をくれ、一気に萱野に乗り出した。怒濤の如くに突進し、勇み嘶く勢いは、まさに麒麟そのものであった。横山殿の南表の牧場(まきば)を判官は、凄まじい勢いでぐるぐると輪乗りにした。久方ぶりの爆走と、判官の強烈な乗り締めに、さすがの鬼鹿毛も白泡をふいて息を切らせた。後に従う十人殿原も大汗かいて息を切らせたが、ぽかんと眺める横山親子に向かって、
「やあやあ、横山殿の皆々様方。近くばよって目にも見よ。我が君様と申するは、都に在りしその時は、御菩薩の大蛇を乗り取って、常陸に国に流れては、照手の姫を乗っ取った。今また乗りも乗ったり鬼鹿毛に、あっぱれ名人、我が君様。」.
と、囃し立て、やんややんやの喝采を送った。
横山親子八十三騎は、彼方の萱原を走り回る判官と鬼鹿毛を目の当たりにして、言葉も無かった。旨かったはずの祝杯が、苦い酒となった。判官が、庭に鬼鹿毛を乗り入れると、鬼鹿毛はこれまでの恨みとばかりに、目を真っ赤にして横山親子を睨みつけた。横山殿の人々は、やれ恐ろしや、鬼鹿毛に食い殺されると騒ぎ立て、縁側の銚子、盃を蹴散らかして逃げまどい、あっちに蹴躓(けつまず)き、こっちによろけて、誠にみっともない次第であった。しかし、さすがは横山将監照元、憮然として盃を投げると、
「にっくき判官、この上は、曲馬を所望なし、出来ざる時は恥辱を与えてくれん。三郎、曲馬の用意をいたせえ。」
と、声を荒らげた。自分の策がうまくゆかずに、父の顔色をびくびくと窺っていた三郎は、はっとばかりに駆けだして、碁盤を持ち出すと、怖々(こわごわ)鬼鹿毛の前に置いて、足早に逃げ戻ってから、
「盤上へ所望。」と言えば、判官は、
「心得まして候。」
と庭一回りすると、助走を付けてはっしとばかりに跳び上がり、碁盤の上にぴたりと四足を止めて留まった。判官は、
「やあれ、横山の衆、ごらんあれ、『四ツ目殺し』の秘技とはこのことぞ。」
と、呼ばわれば、逃げまどっていた郎党も今度は、やんややんやの大歓声を上げて、縁側にかぶりつくていたらくである。こんな見物(みもの)はそうはないと、三郎も一緒になって面白がる始末である。業を煮やして照元は、自ら御殿の建具をはずしてきて、襖、障子を庭に並べて、
「襖、障子の桟木を乗り分けて、骨でも痛むか、紙でも破れなば、恥辱を与えてくれんずぞ。」
と、歯ぎしりすれば、判官は涼しげに、
「心得て候。」
と、振るう鞭は、『沼渡し』の秘技であった。照元が改めて見ると、骨も痛まず、紙の破れもない。誠に神変不思議の次第と、またまた大喝采と拍手の渦である。今度は、三郎が面白がって梯子を持ち出して、館の屋根に立てかけた。
「梯子乗りや如何に。」
と、誘いかければ、判官は、にやりと笑うと、はっしとばかりに鞭を入れた。十二段の梯子をどうっと乗り上げて屋根の上に駆け上がると、横山殿の屋根の上を所狭しと走り回ったからたまらない、館は地震の如くに揺れ、今にも潰れそうである。横山主従は驚いて庭に飛び出ると、照元は、屋根に向かって、
「これ、婿殿、もうよい、もうよい、曲馬はもうご無用で御座る。」
と、おろおろと懇願した。
「やあ、父上、それでは最後に、『岩石落とし』の秘技をご覧下さい。」
と、言うと、これ見よがしに、梯子を真っ逆さまに乗り降ろした。
判官は、鬼鹿毛を桜の古木に繋ぐと、改めて座敷に上がった。照元は、どうにも仕方なく、
「婿殿、見事な曲馬、お勤めご苦労であった。まずは、一献。」
と、苦々しげに酌をした。盃を受けた判官が、
「あいや、父上様、あのような乗り心地のよい馬があるならば、五匹も十匹も婿引き出物に給われや。調教して進ぜましょう。」
と言うと、横山親子八十三騎の人々は、苦笑いをするしかなかった。
判官は鬼鹿毛に乗り、意気揚々と乾の殿に凱旋(がいせん)した。事の次第を窺っていた門外の人々は、鬼鹿毛に乗った判官を見て熱狂した。悪しき人(ひと)秣(まぐさ)の風習がなくなったのである。人食い馬を手なずけたことは忽ち評判となり、人々は判官に感謝をし、既に神と崇める者までいた。判官と照手姫の人気は鰻登りだったが、横山一門の面子は丸つぶれであった。照元は歯がみをして悔しがった。
判官はやり過ぎたのである。若さ故とは言え、概して判官は程度というものを知らない。それが判官の行動力の源泉とも言うべきものなのかも知れないが、もっといけないことは、敗者や弱者の心理に疎いことである。できる者はできない者のコンプレックスをなかなか理解できない。圧倒的に優勢な立場にある場合、相手を完膚無きまでに打ちのめしてはならないのである。そのことを、判官はまだよく分かっていなかった。判官は確かに勝ったが、禍根を残した。  
六 毒酒
判官が鬼鹿毛に乗って凱旋(がいせん)すべき先は、乾の殿ではなく、常陸の国黒木館であったのかもしれない。判官はこれで、婿入りは上首尾に終わったと思っていたのだろうか。もしそうであるとすれば、思慮が足りないと責められても仕方ないかも知れない。判官は思い上がっていた。何かが、少しずつ狂ってきていたが、判官は気が付かなかった。
悉(ことごと)く判官に愚弄(ぐろう)された照元は、その怒りをぶつける先も無かった。再び兄弟を集めると、歯がみをして扇子の骨をばちばち鳴らせていたが、力余って、ぼっきりと折った。
「この無念、いかがわせん。照手ばかりか、あの鬼鹿毛まで思いのままに乗り取られしぞ。」
と、声を荒らげた。一同、黙りこくって俯いていると、
「ええい、能なし共、もう我慢出来ぬ、急ぎ国中にふれを出し、横山七千余騎を集めて乾の殿へ攻め入り、詰め腹切らせてくれん。」
と、照元はさらにいきり立った。三郎以外にこの場を納める事の出来る兄弟は居なかった。
「これはしたり父上様、そのご立腹はごもっともには候えど、鬼鹿毛をも乗りこなすとは人間業とも思えませぬ、毘沙門天の生まれ変わりの小栗判官に、敵う軍勢など有ろうはずもござりませぬ。これがほんとのごまめの歯ぎしり。しばしご猶予。」
と、三郎はそれなりに忠義者なのである。父のために何とか横山一門の体面を保ちたかったが、長男家嗣は、冷淡だった。その外の兄弟は、ただ迎合しているだけであった。
翌日、三郎は、照元に次のような策を言上した。
一、鬼鹿毛の曲馬があまりにも見事であったので褒美を取らせると使いを出す。
二、庭に蓬莱(ほうらい)山を飾り付け、褒美として世にも稀なる不老不死の薬酒を振る舞うとする。
三、頃良き折、相模の国のしきたりと言って、連れ飲みを競わせる。
四、連れ飲みには特別のあしらえた中仕切りのある特大の銚子を用い、蝶花形を付けたる側には七物毒酒を、反対側には不老長寿の薬酒を入れる。
五、間違い無きよう、三郎自身が、横山親子には薬酒を、判官殿原には毒酒を差す。
「いっせえのせで、連れ飲みをさせれば、一巻の終わりでございます。」
悪知恵というのは大概、自分たちを守るために使うものだから、よく働くのである。三郎も又こうした巧(たくみ)に関しては人一倍に知恵が回った。がしかし、得てして悪知恵はその場の切り抜けるための場当たりであり、その先々の後の結果までは計算できないものである。因みに連れ飲みとは、今で言えば一気飲みのことで、飲み干す速さを競い合うことである。照元は、よしよしと喜んで、さっそくに鬼王・鬼次を使いに出した。能なしと子ども達を叱責した照元が一番能なしであった。
しかし、判官は出仕を断った。門内に鬼王も鬼次も入れなかった。二度、三度と照元は使いを立てたが、判官は受け付けなかった。それには理由があった。判官が鬼鹿毛に乗って凱旋した日、照手は判官の無事の帰還を心から喜んで抱かれて寝たが、未明までに悪夢を三度見た。照手は三度目にはっと起きあがると、判官にしがみついて涙ながらに夢物語をしたからである。
「まず宵の枕の夢とは、お殿様が常々御秘蔵なしたる村(むら)重藤(しげとう)の御弓を、天より舞い降りた悪鳥がさらって飛び立ちましたところ、空中にて三つに砕けました。中程は火炎を放って燃え上がり、末筈(うらはず)は奈落へ沈み、本筈(もとはず)は北へと飛んで上野が原に落っこちてそのまま卒塔婆(そとば)となりました。次に夜中のその夢は、自らが代々譲り受けたるこの鏡、これも悪鳥にさらわれて、天空にて二つに割れ飛び、片割れは乾の殿に落ちましたが、もう片方は、上野が原の卒塔婆の元に落ちました。暁の夢と申しまするは、藤沢寺無量院清浄光寺遊行上人様があまたの弟子を召し連れて読経なし、北へ北へと向かわれるので、付いて参りますと、上野が原の卒塔婆と鏡の前に着きました。誰の墓かとのぞき込みますと、半分に割れた鏡に我が夫上の姿が映り、あまりの悲しさに泣いて目を覚ましました。のう、いかに夫上様、自らの父兄弟とは言え、油断のならぬ横山一門、鬼鹿毛だけでは済みませぬ、必ずご油断遊ばすな。」
照手の話を聞いた判官は、
「女の夢見は正夢とか。なるほど、呉々も用心致そう。」
と、笑って答えると姫を抱きしめた。姫の忠告に従って、その日の使いを判官は断り続けた。
業を煮やした照元は、端の者では役に立たぬと、七度目の使者に三郎を立たせた。いかに判官でも、さすがに兄弟自らの使いを門前払いすることははばかられた。客間に通された三郎は、
「先日は、鬼鹿毛を乗りこなし、誠にあっぱれの御神技。ただただ、恐れ入ってござります。さぞや御心労にて候らわん。そのお疲れを癒さんと、庭に蓬莱山を飾りました。蓬莱山を愛でながら不老不死の薬酒をお召し上がりいただきたく、ご出仕お願い申し上げます。」
と、口上を述べると、判官は、
「三郎殿直々の御使いとはまた恐れ入る、また、心遣いをいただき恐悦(きょうえつ)至極(しごく)。されど、今日よりはそれがしの大切なる守り神、木(き)の宮(みや)八幡の縁日にて、七日の物忌み、禁酒にて身を清めねばなりませぬ。出仕いたさぬでもありませぬが、酒の儀は御免くだされ。」
と、暗に断った。これを聞いた三郎は、内心驚いて、
『小栗判官は四相を悟ると聞いたが、さては毒酒の巧を既に悟られしか・・・』
と、焦ったが、出仕さえさせれば、後はなんとかなるだろうと、重ねて平伏して面(おもて)を上げなかった。判官の領承がなければ、三郎も帰るに帰れない。出仕なく腹をば切るとまで迫られては、判官も辟易(へきえき)して、とうとう明日の出仕を許した。
翌朝、照手は再度、父のお召しとて、ご出仕はおやめ下さいと袖にすがったが、判官は、照手の手を取って、夢違い(たが)の要文を三遍詠じた。
『唐国や、園の御嶽に、鳴く鹿も、ちがいすれば、許されぞする』、鹿が前足を交差させてやり違える動作「ちがえす」を詠んで呪文としたのである。判官は顔だけ出して、すぐ帰って来れば父の顔も立つだろうと軽く考えていた。
「必ず、心に懸けるな。」
と言い残して、判官は十人殿原を召し連れて、再び横山殿へと向かった。夢違えの呪文も照手の胸騒ぎを鎮めはしなかった。門前で照手は、判官一行の姿が見えなくなっても無事の帰還を祈り続けていた。
仙人が住み不老不死の神薬があるとされる蓬莱山を飾り立てて、横山将監照元は、満を持して判官を待った。酒は飲まぬという判官に飲ませる手管も考えていた。広間も狭しと山海の珍味を並べて、照元は判官を上座に付かせると、
「これは、これは、さっそくの御来駕(らいが)、大慶(たいけい)至極(しごく)、殿原達もご苦労千万。ささ、先日は鬼鹿毛の曲乗り、誠にあっぱれであった。いざまず、ひとつ将監が」
と、そのまま、盃を取り上げると、目は判官を外さず、なみなみ受けてぐいっと干し、黙って判官に差し出した。
「あ、いや、父上様、予(かね)て聞き及びの通り、三郎殿の使い故、参上仕りましたが、我が大切なる守り神、木の宮八幡の御縁日にて酒(さか)断酒(だんしゅ)にて候えば、酒の儀は御免くだされ。」
と、判官が言えば、
「やれ、三郎、かねて申しおく宝物これへ。」
と、三郎に命じた。三郎は一間より、一対の法螺貝を台に乗せ、うやうやしく照元の前に直した。照元は、ここが肝心と腹を据えた。
「これなるは、横山代々伝わるる宝物にて三千年の齢を経たる女貝に男貝、この法螺貝に身とては無けれども、この貝に武蔵と相模を押し分けて、所領あい添えて参らせん。まった、本日振る舞うは、酒にはあらず、蓬莱山をしつらえたるは、不老不死の薬を振る舞いその長寿を祈るため、それでも木の宮八幡の仏罰を受けるというのであれば、我々親子が仏罰蒙らん。ささ、一献汲まれよ。」
と、再び盃を差し出した。ここまで言われては、判官にも返す言葉がなかった。
判官は、庄司利門を呼び寄せると、
「いかにとよ、利門。」
と、小声で問うと、利門は、
「領地まで、あい添えるとの仰せを辞退申し上げるはかえって無礼かと。」
と耳打ちした。これまで判官が物事を判断するときに、人の意見など聞いたことは無かった。自分の直観が正しいと知っていたからである。なのに、どうしてこの瞬間に利門に諮問しなければならなかったのだろうか。満ち足りてしまった判官の直観は曇っていた。
とうよりも、満ち足りた者には直観は訪れないと言うべきであろうか。判官には明確な判断が出来なかった。判官は、鬼鹿毛の梯子乗りを見事に勤めながら、運命の梯子は踏み違えた。
「さまでに仰せらるるなら。」
と、盃を受け取ると、なみなみと受けてひとつ干し、返盃した。例によって、盃は十人殿原と横山兄弟の間を一巡し、鬼鹿毛曲馬の賞賛の辞を述べては判官の功績を讃え、又横山一門の馬誉めをした。盃が照元に戻ると、二献を干した照元は、
「いかに、殿原達、見ればいずれも屈強の武士(もののふ)にてある。相模の国では、男の子たるものは、連れ飲みにて男を競うのが座興の楽しみ。連れ飲みとは、一斉に盃を取り上げ、一気に飲み干し、先に盃を置いた者が勝ちという勝負にて候。ささ、三郎、いつもの長柄の銚子を持て。」
と、判官主従に有無も言う間を与えずに命ずると、三郎ははっとばかりに、予て仕込んでおいた特大の長柄の銚子を一間より運んで来た。下座から向かい合って右側に判官主従、左側に横山親子が膳を並べていた。三郎は一間から出て下座中央に立つと、
「男の遊びは、男の酌。この三郎がお酌いたさん。ささ、皆の衆、お盃のご用意、ご用意。」
と、呼ばわった。少し早口だった。事は手筈通り進んでいたが、口が渇いた。あまりにもすらすらと進むので三郎は、慌てるな、慌てるなと、手の震えを懸命に押さえた。特大の長柄の銚子に仕込まれた中仕切りは、判官殿原十一人分と横山親子七人分に計算されていた。蝶花形を付けた側が七物毒酒であり、反対側が不老不死の薬酒であった。そのまま下座から酌を始めた。左右を注ぎ分けるには、その都度銚子を置いて持ち直さなくてはならない。注ぎ間違えれば一大事である。三郎は練習した作法を注意深く繰り返した。それもこれも、一心に父上の御為であった。判官に注ぎ、父に注ぎ終わった。注ぎ終わって、父照元と目を合わせた三郎の口元が少し歪んだように見えた。ニヤッとしたつもりだったのかもしれない。しかし、緊張のあまり顔が強(こわ)ばっていた。三郎は最後に自分の盃を満たすと、座にもどった。照元はいよいよと意気込んで、
「いざいざ、各々方、準備は整った。手は膝の上でござるぞ。では、参る。それ。」
と、号令した。勝負と言われると、なんであれ、受けて立たなければ男が廃ると反応してしまうのは、古今東西男子の一大特徴である。男とは誠に単純である。遅れを取っては叶わじと一斉に、我も我もと盃を取り上げると、息も付かずに一気にぐいっと飲み干したのは、無惨であった。
横山親子はさっと席を立つと、次ぎの間に下がった。後に残された判官主従は、忽(たちま)ちに全身の色が変わり、五臓(ごぞう)六腑(ろっぷ)が悩(のう)乱(らん)して、血反吐(ちへど)を吐き、呻(うめ)きながらそのまま前へかっぱと伏し、後ろへ倒れて白目をむいた。気丈にも判官は、床柱に身をもたれると、刀を杖に立ち上がり、最後の力を振り絞って両の膝を立て直し、しっかと足を踏みしめたつもりだったが、そのままずるずるとへたって座り込んだ。刀を抜くことも出来なかった。既に、口も満足に効かなかったが、ろれつの回らぬその口で、判官は、
「やあ、やあ、いかに、横山親子・・・、さまでに憎き婿ならば、何故に、弓矢をもって武士らしゅう、詰腹切らせぬか・・・、毒酒をもって殺すとは、卑怯、未練な、横山め・・・武門の名折れ、恥を知れ、・・・例え、毒酒で死するとも、魂魄(こんぱく)この地に留まって、生き代わり死に代わり、おのれ等親子の奴原に、恨みなさいでおくべきか・・・」
と、懸命に恨み言を振り絞ったが、言い終わる前に視界が狭窄していった。耳は最早聞こえず静寂だった。最後の光の中で、判官は照手を呼んだが声にはならなかった。暗闇が訪れたが意識ははっきりしていた。判官は姫を助ける事が出来なかったことを悔いた。肩でしていた息もやがて間歇し、大きくひっくと息をしたかと思うとばったりと倒れ込んだ。小栗判官政清、二十一歳の最期であった。
次の間で様子を窺っていた横山親子は、判官がばったりと倒れ、十人殿原がぴくりとも動かないのを見て取ると、座敷へ戻った。三郎が判官の亡骸(なきがら)に近づいて、口元に手を当てて息を確かめた。
「申し、父上様、最早残らず、息絶えました。亡骸いかかがいたしましょうぞ。」
と三郎が言えば照元は、
「きゃつらが亡骸を野辺送りするに及ばぬわい。裏の谷底へ打ち捨てて、山犬の餌食にしてしまえ。」
と言い捨てたが、思い直した。
「化けて出られてはかなわぬ。」
祟りを恐れた照元は、陰陽師に弔い方を占わせた。陰陽師の占いは次のようなものだった。
「十人の殿原は御主に恭順せし非業の最期と見える故に火葬。御大将は、偉大な名将と見える故に土葬。」
照元にも、多少の良心の呵責はあったのだろう。小栗主従十一人の亡骸をその日のうちに藤沢山清浄光寺に送ると、遊行上人の引導で、小栗判官は土葬に、十人殿原は荼毘(だび)にふされた。  
七 照手姫
判官主従が父によって毒殺された。しかし照手は涙を流さなかった。いや、涙はでなかった。夢も予感も当たってしまった。自分にはもっとできることがあったはずだ。判官を守ることができたはずだ。少なくとも、判官に供して横山殿に行っていれば、共々手を取って三途の川を渡れたものをとそれだけが悔しかった。
判官主従が果てた日の夕刻、鬼王・鬼次兄弟は、涙を必死にこらえながら、乾の殿、照手姫の御前で平身低頭していた。判官殿原の最期をどうにか伝えた後で、言葉が詰まって、それ以上の言上が出来ないで居た。主命とはいえ、幼少より面倒をみてきた照手姫を牢輿(ろうごし)に入れ、川に流さなくてはならないとは。すまじきものは宮仕えと兄弟は泣いた。横山将監照元は、鬼王・鬼次兄弟にこう言い渡していた。
「いかにとよ兄弟、小栗主従十一人は、刀もいらず毒酒をもって皆殺しにした。さりながら、元とは言えば、我が子照手より起こりしこと、人の子を殺して、我が姫を助け置くならば、都への聞こえも悪い。殊に不義同罪は逃れられぬこと。今宵、夜半の鐘を合図に、相模川の「おりがらが淵」に引き出して、姫を沈めにかけよ。主人の娘などと、少しでも情けがましきことあれば、姫と同罪たるべし、きっと、申しつけたぞ。」
兄弟は、泣く泣く、照手の処分を申し上げた。
「自らとても武士の妻、夫の最期を聞くならば、自害するものを・・・。」
と血がにじむほど唇をかんだ。判官無きこの世に微塵の未練もなかった照手は、兵庫の局以下女房達を呼び集めると、泣き崩れる全員に形見分けをした。ただし、夢で割れ、判官を映した鏡は、藤沢寺に納めるように兵庫の局に手渡した。別れを惜む女房達が見送る中、いざさらばと照手は自ら牢輿に乗った。鬼王・鬼次兄弟が担いだ牢輿は静かに「おりからが淵」に向かった。照手は自分の運命について後悔してはいなかった。判官と出会えて幸せだった。短くはあったが、長く生きても得られないものを得たのだと。牢輿の中で照手は、これから、御許に参りますと手を合わせ、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と静かに唱えた。その声は輿の外に漏れ聞こえ、付き従う局、女房達も唱和した。鬼王・鬼次の目から涙がぽろぽろ落ちたが、歯を食いしばって嗚咽を耐えた。やがて、相模川の河原に着くと、牢輿は、予(かね)て用意の舟に乗せられた。これが今生の別れと、読経の声はさらに大きくなった。水面(みなも)を松明(たいまつ)が遠ざかって行く。やがて、どぼん、どぼんと沈め石が投じられた音が岸まで響き、しばらくして松明が左右に大きく振られた。読経が悲鳴と号泣に変わった。
鬼王・鬼次兄弟は、十分に岸から離れると、牢輿を開けて照手にこう言った。
「姫君様、これに用意いたしましたは、小舟二艘を上下に合わしましたる洞(うつろ)の舟。どうぞ、これにお乗りあり、いずくかの浦に逃れ給え。」
兄弟には自分達の手で姫様を沈めにかけることなどできようもなかった。切腹はもとより覚悟の上で、照手を逃がす算段をしていた。それは、小舟の上にさらに小振りの舟を逆さまにかぶせ、姿が見えぬようにして、相模の海まで流し出してしまおうというものだった。しかし、照手は、
「命に替えての志しを忘れおかぬが、二世と交わせし夫上(つまうえ)が非業の最期を遂げられし上からは、生き長らえてなんとしょう。我が夫上と自らが、最期の場所は変わるとも、未来は一つの蓮葉(はちすば)の上。情けをかけると言うのなら、早や疾(と)く、沈めにかけてたも。」
と、懇願した。その心根に兄弟は、またも泣かされたが、鬼王はそれこそ心を鬼にして姫の言葉を遮った。
「いえ、なりませぬ。死は一旦にして遂げ易し。生は万代にして受けがたし。姫君様はこれよりご運にまかせて、いずくかの浦に上がりあり、小栗様十人殿原のご回向ましますべき。ささ、時刻がせまる。いざいざ。」
と、牢輿から無理矢理照手を引き出し小舟に乗せると、さらに小さい舟を被せて、沈め石を投げ入れる音に隠れて手早く釘を打った。さらばと船縁を足で蹴ると、兄弟は手を合わせた。照手を乗せた洞舟(ほらぶね)は下流に遠ざかり、やがて闇の中に消えた。兄弟は松明を振って、姫の沈めが終わったことを岸に知らせた。照手を乗せた洞舟は、たっぷんたっぷんと揺れながら河口に流されていった。照手は小栗の回向以外に何も想っていなかった。
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・」
一心に唱え続けていたが、揺れに身をまかせているうちに照手はやがて眠りに落ちた。人生で一番悲しい日が終わった。
夜が明けると、洞舟は河口から相模湾に流れ出ていた。照手は、かもめの鳴き声で目を覚ました。外は見えなかったが、舟の揺れ方が変わっていたので、海に出たことが判った。照手は、手を合わせてこう祈った。
「五逆生滅種々衆済一切衆生即身成仏、よき島にお上げあれ。」
照手は、判官主従を供養するために生き抜く決心をした。その祈りは三崎の観音様に届いたのだろうか、潮の流れに乗って、洞舟は、三浦半島の沖を東進した後、浦賀、横須賀と東京湾に回り込み、三日目の朝に、横浜市金沢区の六浦、六浦(むつら)が浜に打ち上げられた。
朝の早い漁師達が既に黒山となって、この奇妙な舟を取り巻いていた。
「舟と舟を被せてなんとする?」
「いんや、こりゃ、舟饅頭とかいうもんじゃなかろうか?」
よってたかって、相談ぶったがなんとも埒があかない。
「中に宝が入っておるやも知れぬ。」
と、誰かが言うと、叩き壊してみることになった。皆それぞれに、櫂や水棹を持って来て、やたらに叩き割ってみて驚いた。
「やめやめ、人がおる、おなごがおる。」
舟から引き出された照手は、髪も乱れ化粧も落ち、やつれてはいたが、その容姿の美しさは損なわれてはいなかった。白無垢に緋の袴の鮮やかさが朝日に眩しかった。漁師達はその美しさにごくりと生唾を飲み込んで、弁天様か化け物か、竜宮の乙姫かと騒いだ。
「いいや、この頃の不漁続きは、みんなこやつのさせる業。かかわれば、どんな祟りが降りかかるかしれぬ。」
「舟に乗せてもう一度流してしまえ。」
「いやいや、叩き殺した方が後々のため。」
と、てんでに騒ぎ立てたが、その見たこともない美しさ故に、恐ろしくて近づけない。そうこうしているところに、網元の浦君太夫が変事を聞きつけて駆けて来た。
「まてまて、まてえい。皆の衆。下がれ下がれ、何を馬鹿馬鹿しい。どこから見てもこりゃあただの人間じゃ。さりとて、不審の者には変わりなし、自らが問いただすべきこと有る故、館へ同道いたす。」
というと、浦君太夫は照手をさらうように連れ去った。浦君太夫は既に横山の姫が不義密通の咎(とが)により流しにかけられたらしいという話を耳にしていた。朝方流れ着いた奇妙な舟はその牢舟に違いないと踏んでいた。浦君太夫は、姫をどうこうしようと思った分けではなかった。どうこうする歳でもなかった。七十になる浦君太夫には子がなかったので、もし、流された姫が漂着したら、養子にでもして良き婿を迎えたいものだと考えていたのだった。漂着した舟の様子と姫の美しさから、噂の姫であると確信していた浦君は、姫には何も聞かなかった。姫もまた何も言わなかった。最早、照手姫ではなかった。
浦君太夫は、照手を座敷に上げると、こう言った。
「頼みがある。この浦君太夫の養子となって、婿を取り、我が家を盛り立ててくれ。今日より、浦君太夫が娘じゃ。どうじゃ婆、喜べ、喜べ」
照手は深々と頭を下げ、
「よろしくお願いいたします。」
と、言って少し微笑んだ。突然のことに、あっけにとられていたのは婆である。婆は照手の顔を、目を吊り上げて穴のあくほど打ち眺めていたが、
「これはこれは、旦那様が浜へ出る度に帰りの遅いは今知れた。このような代物を浜の方に囲い妻、この頃お触れが厳しゅうなって、囲い者ならぬ故、養子と名付けて引きずり込み、娘ごかしに置いておいて、抱き寝をしょうとは恐ろしや。十三や二の小僧を養子とあるならば、漁の手伝いもさせようものの、このような生いやらしいアマがどうして養子になるものか。」
と、きりきりとまくし立てた。おまけに関係もない日頃の不満も爆発させた。これには、日頃穏和な浦君も呆れ果て、こんな悋気者とはもう暮らしてはおられぬと、
「いい年こいて、何をぬかすか。おのれが、日頃世継ぎがない、頼りないと申す故、このような良き娘をもろうてきたのじゃ。そのような埒もないことばかり申すなら。わしゃ、もう出て行くわい。この家はおまえにくれてやる。」
と、何を考えたか、ごとごとと探し物すると、「ざる」に「錠前」を入れて、婆の前へどすんと投げ捨てた。
「これで、『去る状』だ。」
婆はきょとんとしていたが、浦君は字が書けなかったので、判じ文字にしたのだと気が付いた。ほんとに出て行かれてはかなわぬと婆は折れた。急に猫なで声になると、
「なんとまた、胴欲な。六十年も連れ添って、今更そなたに捨てられてはかなわぬ。大事な養子を可愛がらいでなんとしましょう。」
などと、作り笑いをしたが、照手へ送った一瞥は、ぞっとするほど浅ましかった。
「そんなら、よろしく頼むぞよ。」
と、浦君は漁に出かけたが、婆の気が済むわけがない。その美しい照手の顔(かんばせ)を少しでも損なえば、浦君殿の考えも変わるじゃろうと、浅知恵を働かせると、照手を外に引きずり出した。婆は照手の髪を引っ掴(つか)んで浜の塩屋まで連れてくると、釜小屋の二階に追い上げて、これでもかこれでもかと、松葉を釜に詰め込んだ。たちまちに燃え上がった松葉の黒煙がモクモクと巻き上がった。煤(すす)と脂(やに)で燻(いぶ)して、真っ黒にしてやるわいと、うそぶいたが、ただの人間であればそれどころではない。一酸化中毒で死んでいるところである。半時あまり経って、引き出した照手を見て、婆は悔しさのあまり悲鳴を上げた。
照手は釜小屋の二階でひたすら祈っていた。
「南無観世音菩薩、南無観世音菩薩。」
照手には失うものは何も無かった。ただ、助けられた命だけは粗末にはできないと決めていた。まだ、夫判官の菩提を回向してもいない。煙はもうもうと照手を取り巻いたが、よく見ると、照手の回り五、六寸の所で煙りは遮られていた。さらによく見ると穏やかなるかすかな光が天空から照手の頭上に差し込んでいた。照手は観音菩薩の光に包まれて守られていたのだ。引き出された照手は、ほんのり桜色に上気して、なお一層艶(あで)やかに見えた。
「きいー、いけしゃあしゃあと、気味の悪いアマめ、松葉の五六百も損したわい。この上はいっそのこと叩き殺してくれん。」
と、松葉の幹を振り上げて、死ね死ねと打ちかかった。すると、婆の腕をむんずと掴んだ者がいた。見慣れぬ派手な着物を着流した男だった。
「やれやれ、お婆殿、可愛い娘っ子に、何をまあ、そう邪険にしなさる。さっきから見てりゃ、目え吊り上げて死ね死ねとは尋常じゃねえ。」
と、言った。婆は、
「ほっておかっしゃれ。」
と喚(わめ)くと、また叩こうともがいて暴れた。男はにやにやしながら、婆を引きずって照手から引き離すと、
「まあまあ婆殿、聞かっしゃれ。殺したいほどこの娘が憎いのなら、打ち殺したと思って、わしに売らぬか。」
と、言った。人買いの男だったのだ。婆は躊躇もせずに、しめしめと料足二貫文で安々と照手を引き渡した。婆は、帰った浦君に見え透いた言い訳をしたが、浦君がそんな誤魔化しに騙される訳もなかった。落胆した浦君は「ざる」と「錠前」を残して出家をした。
照手は六浦で買われて後、その値を上げながら、転々と売られていった。照手の足跡を辿ってみるとこうなる。まず、売られた先は、新潟県村上市塩谷の港。そこから、富山県富山市岩瀬、岩瀬からほど近い水橋(みずはせ)。同じく富山県射水市庄西町(六渡寺)や氷見市。さらに能登半島の突端にある石川県珠洲市。半島を回って、金沢市、小松市、福井県坂井市三国、同敦賀市と日本海沿いの港町を転々としていった。そして、滋賀県高島市マキノ町海津から大津へと琵琶湖畔に売られて、辿り着いたのは、美濃の国は青墓の宿(岐阜県大垣市青墓町)の万屋であった。その身代は四十二貫文になっていたが、美貌の照手がこんなにも転々と売られたのには理由があった。照手は決して遊女をしなかったのである。皆、看板娘を当て込んで照手を買うのだが、残念ながら稼いではくれなかった。勿論、照手に手を出そうとする男も山のようにいたが、常に観世音菩薩の光に包まれている照手には手も足も出なかった。
万屋長右衛門もまた、照手を流れ(遊女)にさせるために買い取った。照手が、常陸の国の生まれだが、名前も無いと言うので、長衛門が、
「では、常陸の小萩と名付ける。今日より、上り下りの旅の者を『泊まらんせ、泊まらんせ』と客引きして、一夜の流れを立てべきぞ。一夜を二夜、三夜と重ねさせ、我ら夫婦を楽にしてもらおうかの。」
と言った。元より照手は、二世と交わした夫判官以外の男に抱かれるつもりは毛頭なかった。照手はいつもこう言って流れを拒んできた。
「私には内に病がございまして、男の肌に触れますと、必ずその病が起こり、高熱を発して体中が腫れ上がりまする。病が重くなれば値も下がる。いかなる奉公とても仕りますが、流れの道は立てません。」
長衛門は少しすごんで、
「さては、無き夫への忠義立てか。おい、小萩、流れを立てぬとあるならば、蝦夷、佐渡、松前に売り飛ばし、足の筋を断ち切られて、一日一合の飯で、昼は粟の鳥を追い、年寄り果てれば鮫の餌にされるが、それでよいか。」
と、脅したが、照手には聞き飽きた脅し文句であった。
「売って、値が増すものならば、どうぞ、お売りなされてくださいませ。」
この上玉なら一稼ぎ出来そうだと大金掛けたものを、ここで売っては元も取れぬと、長右衛門はぎりぎりと歯がみをしていたが、
「こいつ、よっぽどの旅ずれ。ええい、とんだ買いもんだったわい。よいか、小萩、ようく聞け。それほど流れを嫌うなら、これより『下の水仕』を申しつける。よいか、上る雑駄(ぞうだ)が五十匹、下る雑駄が五十匹、あわせて百匹の飼い葉をいたし、百人の馬子の膳立て給仕、これより十八丁あなたなる清水より水を汲み、大釜の火を絶やさずに湯を沸かし、百人の流しの姫の湯手水(ゆちょうず)、髪結い、掃除に洗濯。十六人の水仕の仕事を一人でせい。もし、一つでもできざるものあれば、流れを立てよ。きっと申しつける。」
と言い捨てると、長右衛門は席を立った。
さすがの照手も、少し困った顔で一間に取り残された。しかし長右衛門の言うように、照手はもう、なにが起こっても動じない強い女になっていた。美しい顔(かんばせ)は、照手姫の愛くるしい美しさではなく、意思の強い凛とした美しさになっていた。照手はしばらく考えていたようだったが、「南無観世音菩薩」と一言唱えると立ち上がり、目をきらっと輝かせ、鼻の穴を広げて大きく息をすると、手早く襷(たすき)をかけて四股を踏んだ。その姿の後ろに千手観音の姿が見えた。今まで十六人の水仕が仕事をしてきたと長右衛門は言っていたが、千手は五百人分の手である。のろのろしている外の水仕が邪魔になるほどの手際、早業で駆けずり回り、かたっぱしから片付けた。なにひとつやり残した仕事はなかった。それどころか、夕べには、くつろぐ時間すらあった。これには長右衛門も文句の付けようもなく、不思議な女だと半ばあきれ、半ば感心していた。小萩は十分に役立っていたが、それでも、これだけの美女を買い取っておいて流れの看板にしないのはどう考えてももったいないと、次ぎの策を考えた。数日後、今日もさっさと一日の仕事を終えた照手を、長右衛門が呼んだ。
「これ、小萩、よく勤めておるようじゃの。ところで、明日は使いを頼みたい。ここに、七品の買い物が書いてあるので、市場に行って買って参れ。もし七色が、ひとつでも違うておれば、流れを立てると心得よ。よいな、きっと申しつける。」
渡された品書きを見て、無論顔色には出さなかったが、照手は笑った。部屋に帰って、今度は声を立てて笑った。照手が笑ったのはいつ以来だろうか。念仏ばかり唱えているので、念仏小萩とあだ名している他の水仕達が、怪訝そうに顔をのぞかせた。
長右衛門が書き付けた七品とは、「東南」「西南」「うごもり」「かごもり」「一字」「海老」「波の上の釣り男」であった。唐名(からな)は、照手のもっとも得意とするところだった。久しぶりに目にした唐名を見てうれしかったが、照手は判官からの艶書を思い出して笑ったのだった。今となっては楽しかった時の大切な思い出である。翌日の仕事は買い物だけだった。照手はのんびり気分で市場に出かけていった。容易(たやす)い買い物に時間はかからなかったが、ぶらぶらと物見遊山をしながら入念に品定めをした。
万屋に戻った照手は、長右衛門の前に七品を入れた籠を置くと、
「御主(おしゅうさま)様(さま)に申し上げます。仰せの通り七品を求めて参りました。まず、『東南』とは東南より出る春の『土筆(つくし)』、『西南』とは、南の日本と西の唐で互いに競(せ)り合って取り合ったという草、即ち『芹(せり)』、『うごもり』とは『山芋』、『かごもり』は『野(と)老(ころ)』(とろろ芋)、『一字』をあるは、書いて字の通り縦一本の『長ネギ』のこと、『海老』は『エビ』と知れたこと、最後の『波の上の釣り男』は、大和言葉には『田作り』、東にては『ごまめ』のことでございます。さりながら、所変われば品変わる、草木の名前も変わりまする。私の在所では左様に存じましたが、いかがでしょうか。」
と、説明をしながら並べていった。
長右衛門はその教養に舌を巻いた。この女は下賤の出ではない。きっと由緒ある家の娘であったに違いない。と思った長右衛門は、あまり邪険な扱いもできぬと流しに立てるのは諦めて、
「美事な買い物、ご苦労であった。さて、水仕の仕事も不思議なほど完璧である。じゃによって、小萩。今日よりぬしを、百人の女郎の世話頭に任ずるぞよ。十六人の水仕をまとめてよきに勤めよ。」
と、照手に目を懸け、情けを懸けて使うようになった。こうして、照手はようやく落ち着いた生活を始めた。  
八 餓鬼(がき)阿弥(あみ)
毒殺された小栗判官と十人の殿原は、藤沢の遊行寺に葬られた。十人殿原は荼毘(だび)にふされたが、判官だけは土葬にされた。横山親子は、陰陽師の占いに従ったのである。照手が流転を繰り返していた頃、判官一行は、死出の山路も遙々と冥途への道を辿っていた。
判官一行は、ようやく閻魔大王の前に辿り着いた。さすがの判官も閻魔様の前では神妙にしていた。閻魔大王は、側に控える鬼達に「浄玻(じょうは)璃(り)の鏡」を命じると、次々と十人殿原の生前の姿を調べたが、最後に判官を調べると、鏡をぐるりと判官に向けて、じろりと判官を睨んだ。
「十人殿原は、忠義のために非業の最期。なんの子細は無けれども、判官政清よ。己の姿をよっく見よ。」
と、笏(しゃく)を振り上げはったと怒った。そこに映っていたのは、全身に鱗、頭には二本の角が生えたる蛇体の姿だった。閻魔大王は即決して、
「凡夫の身にして御菩薩池の大蛇と契りを籠めたる咎により、判官政清は蛇道の地獄へ送り。十人殿原はその忠義により、今一度、娑婆(しゃば)へ帰さん。」
と言った。これを聞いた十人殿原は、閻魔大王に詰め寄ると、十人口々に、
「我々十人が娑婆に戻っても本望は遂げ難し、我が君様一人お戻し有るならば本望遂げるは必定。我が君様の咎は十人で受けまする。どうか我が君様を娑婆へお戻し下りますようお願い申し上げます。」
と、懇願した。いまだかつて、冥途に来てまで忠義を忘れない者など居なかったので、閻魔大王は心底、殿原の志に感心をしてこう言った。
「では、殿原達の忠義に免じて十一人共に娑婆帰りを許す。」
と言うと、鬼に命じて、亡骸(なきがら)を所在を調べさせた。鬼が殿原は火葬、判官は土葬と報告すると、閻魔大王は、
「亡骸なくば、是非に及ばぬ。殿原達は娑婆へは戻れぬ。冥途の十大守護神として我に仕えよ。さて、判官政清。殿原達に感謝いたせよ。」
と言うと、なにやら一通を認(したた)めて御判をつくと、判官の弓手(左手)に握らせた。閻魔大王は笏を振り上げて、善哉(ぜんざい)善哉(ぜんざい)と唱えると、はったと虚空を打った。
藤沢山清浄光寺に雷鳴が轟いて、築いて三年になる小栗塚に稲光が落ちた。地響きとともに塚は四裂五裂して、卒塔婆が吹っ飛んだ。もうもうたる土煙の中に何やら蠢(うごめく)く物があった。茫々と乱れたざんばら髪に手足は針金のようにやせ細り、目は見えず耳も聞こえず、ただ腹ばかりが膨らんだ餓鬼阿弥であった。これを餌食と見た数万の烏が、不気味な声を上げてあたりが真っ暗になるほど集まって来た。この夥(おびただ)しい烏を不審に思った遊行上人は、行き倒れでもあったかと、弟子を伴に連れて墓所の方へと出かけた。目にしたものは、見るも無惨な由々しき光景であった。上人は、横山の郎党が判官の墓を荒らしにでも来たかと思ったが、餓鬼阿弥の蠢くのを見て、判官が修羅道に踏み迷って、化けて出たのだと思った。弟子達は、化け物が出たと一散に寺に逃げ帰った。一人残った上人は、どうにかして成仏させねばなるまいと、餓鬼阿弥に近付いた。すると、餓鬼阿弥は這い蹲り(はいつくばり)、転げ回りながら、弓手に握りしめた物を、やたらに差し出そうとしているらしいことが見てとれた。上人が手を押し開いてみると、それは一通の書き付けであった。その書き付けにはこう記してあった。
『この小栗判官政清を餓鬼阿弥として娑婆へ返すなり。紀伊の国熊野本宮湯の峰へ送るならば、冥途黄泉より薬湯沸き出(いだ)し、四十九日がそのうちに、元の小栗に本復いたすこと疑いなし。何卒お頼み申し上げる。相模の国藤沢山清浄光寺遊行上人様へ、冥途黄泉大王。印。』
「や、や、なんと、こりゃこれ閻魔大王様よりの書簡。こは、ありがたや、かたじけなや。」
と、書き付けを押し頂いて戦慄(わなな)いた。
上人は、このことが横山親子に知られては一大事と、餓鬼阿弥を寺まで運ばせると、餓鬼阿弥を乗せる「土車」を用意させた。さらに木札を拵(こしら)えると、こう書き記した。
『この餓鬼阿弥、紀伊の国熊野本宮湯の峰へ送るものなり、一引き引けば千僧(せんぞ)供養(くよう)、二引き引けば万(まん)僧(ぞ)供養、三引き四引き引く者は、久離(きゅうり)兄弟菩提の為。相模の国藤沢山清浄光寺遊行』
遊行上人は、餓鬼阿弥の判官を土車に乗せると首に木札を懸けた。そして、土車に女綱男綱を取り付けると、自ら手綱に取り付いて、
「えいさらえい、えいさらえい。」
と引き出した。小坊師達も我も我もと取り付いて、
「えいさらえい、えいさらえい。」
と清浄光寺の境内を引き下ろした。
餓鬼阿弥となった判官は、これより、多くの善意の手によって、ある時は引かれ、またある時は捨て置かれして、熊野への道を辿ることになる。この餓鬼阿弥が引かれていった道を小栗街道という。藤沢遊行寺から判官がごとごとと引かれて行ったのは国道1号線、即ち東海道である。説経節では、詳細な地名でその軌跡を辿っている。説経節のこの部分の記述は、判官がというよりは、説経師自身が歩いた道の風景が、美しくまた事細かに描かれている。なるほど、引かれた餓鬼阿弥は何も見えなかったし、聞こえもしなかった。それを引いた人の記憶だけが街道に残った。
上人は、『とにかく相模の国の外まで、餓鬼阿弥を運び出さなくてはならない。横山一党がいつ嗅ぎつけて来るか分からない。』と、考えて急いだ。上人と小坊師達はすぐに引地川を渡り、さらに馬入の渡しで相模川を渡り平塚、大磯、酒匂(さかわ)、小田原と走るようにして西に向かった。そこから天下の険と言われる箱根を越えて、相模の国を抜けた。ようよう、三島大社まで餓鬼阿弥を運んで来ると、新しい施主を見つけて、やっとほっとした。上人にそんな体力があったのかと驚くが、閻魔大王から名指しで来た仕事をしくじるわけにはいかないと、上人としても大分気合いが入っていたのである。遊行上人は、餓鬼阿弥の判官に別れを告げると、とぼとぼと藤沢に帰っていった。
それからは、入れ替わり立ち替わり、旅ゆく人に引かれていったが、ある時は一日無事に次の宿場まで辿り着くこともあれば、何歩も歩まぬ内に打ち捨てられてなかなか進まない日もあった。沼津、原、吉原、蒲原(かんばら)、由比と進んだが、雨の薩埵(さつた)峠の途中で打ち捨てられた餓鬼阿弥は、ただ黙って土車に乗っているだけだった。雨はやがて上がり視界が開けたが、冨士の高嶺も田子の浦も餓鬼阿弥には関係の無いことだった。餓鬼阿弥は時折、かすかに口をむにゃむにゃと動かしたが、うめき声も聞こえなかった。遠い間隔で息はしているようだが、飲みも食べもしなかった。餓鬼阿弥は何をしようとも、どうしようとも考えていなかった。首をうなだれた餓鬼阿弥の中で判官は寝ていたわけではなかったが、さりとて瞑想していたわけでもなかった。石に意識があるとすれば、それが判官の意識であった。
それでも、餓鬼阿弥は順調に熊野を目指した。東海道を旅行く人々は、それぞれが、それぞれの供養のために、自分のできる範囲で、土車を引いた。やがて、浜名湖も過ぎ、三河路へと進んだ。しかし、熱田神宮まで来ると土車は動かなくなってしまった。何人がかりで引こうとしても、ぴくりとも動かないのである。みんな不思議がったが、あきらめて、東海道を上っていった。何日も餓鬼阿弥を乗せた土車は熱田神宮の鳥居の下で停まっていた。ある朝、いつものように掃除をしていた神官の箒が、ぽんとぶつかった途端に、西を向いていた土車が、くるっと向きを変えて北を向き、ごろりと音を立てて動いた。驚いた神官が、伏見通りを北に向かって引いてみると、土車はまるで喜んでいるかのように軽々と進んだ。面白くなってどんどん北へ進み、清洲の辺りまで一気に引いた。
東海道をそのまま進めば、亀山から大津に抜けるのが普通である。土車はこの道を選ばなかった。熱田神宮から北へ向かった土車は、木曽川を渡ると羽島小熊から安八郡を通り、美濃の国大垣まで引かれ、中山道に合流した。土車は望む方向にしか進まなかったのだ。それは餓鬼阿弥の意思だったのか、閻魔大王の仕組んだことだったのか、毘沙門天の導きだったのかは分からない。そして垂井の宿青墓、万屋長右衛門の旅籠の前に来ると、またぴたりと停まって、どうとも動かなくなった。
数多の駄馬が行き交い、呼び込みの女郎が鼻声を立てる街道の真ん中で、餓鬼阿弥は黙って土車に乗っていた。暖簾越しに照手が忙しそうに走り回っているのがちらちらと見えたが、もちろん餓鬼阿弥には見えなかった。
餓鬼阿弥の土車が、万屋の前で動かなくなってから三日がたった。最初は物珍しい餓鬼阿弥に人だかりがしていたが、押せども引けども動かない土車は、やがてただ打ち捨てられ、誰も興味を示さなくなった。道ばたに行き倒れの死体が当たり前のように転がっていた時代のことである。
照手が襷がけで水桶を持って来た。馬子の足を洗い終わってふと顔を上げると、風で揺れた暖簾の外に餓鬼阿弥が見えた。照手はすっと立ち上がると、引き付けられるように餓鬼阿弥に近づいた。何故か知らないが、忘れていた懐かしさがこみ上げてきて、涙があふれた。照手は餓鬼阿弥の前にひざまついて手を合わせると、首から下がっている木札に気が付いた。涙でぼやけた目をこすって木札を読んだ。『この餓鬼阿弥、紀伊の国熊野本宮湯の峰へ送るものなり、一引き引けば千僧(せんぞ)供養(くよう)、二引き引けば万(まん)僧(ぞ)供養、三引き四引き引く者は、久離(きゅうり)兄弟菩提の為。・・・』あとは、かすれてよく読めなかった。
『冥途に餓鬼阿弥のあるとは聞けども、目に見るは今が初めて、さまでに功徳があるならば、我が夫(つま)上様の菩提のために一引きなりとも引きたいものじゃ。』
と、思い立ち、すぐにそのまま、長右衛門の所に行った。照手は、襷をはずすと、長右衛門の前に手をついて暇(いとま)願いをした。
「お主様、お願いの儀がございます。只今門前に、いづくよりか餓鬼阿弥車が参りしが、その胸の懸けたる木札には、『一引き引けば千僧供養、二引き引けば万僧供養』とあります。どうぞ、父母様の菩提の為に車を引きとう存じます。何卒、三日の暇を下さりませ。」
照手は、父母の為と偽った。これを聞いた長右衛門は、照手が奉公して三年の間、自ら望みを言うようなことは無かったので少し驚きもしたが、これまでよく働いたことでもあり、二つ返事をしそうになったが、外の水仕の手前もあり、こう言った。
「やれ、小萩、流れを立てると言うのなら、幾日でも暇をつかわす。」
きっと、口を曲げた照手は、常に無く強い調子で、
「何を愚かなことを仰られます。流れを立てて引くならば、引かぬも同じ事。お主様ご夫婦の身の上にもしも大事のある時は、自らが身代わりに立ちまする故、何卒三日の暇を下さりませ。」
と、迫ると、長右衛門は、
「むう、命がけでも引きたいか・・・。我ら夫婦の身代わりになるとは殊勝千万。」
と、思案気な素振りを見せておいて、三日の暇を与えた。照手が喜んで、お礼を言って下がると、長右衛門の女房が呼び止めた。
「小萩や、小萩、只今一間にて聞きつるが、功徳を積むという餓鬼阿弥車を、自らも引きたやと思えども、そうもいかぬ故、我に代わりて引いてたも。長殿の三日の暇に自らが、二日の暇をつかわす故、上り三日下る二日の施主に立ちやいのう。」
照手は、さらに喜んで、さっそくに出かけようとすると、女房は更に引き留めて一間に招き入れると、若いおなごが施主では人目に立つと言って、髪を乱して古い烏帽子を被せ、片掛けに狩衣を着せると、胸に深紅の結びをさげた。さらに顔を油煙で汚しておいて、笹の小枝に四手を付けて手に持たせた。
「これでよい、狂女の姿で引くならば、常陸の小萩が餓鬼阿弥を引いたとの悪い噂も立たぬであろ。」
照手は、手を付いて重ねて礼を述べると、狂女の振りをして一回りしてみせ、にこっと笑った。女房は、こんな娘が欲しかった。無事に戻れと優しい眼差しで見送った。
照手は土車の女綱男綱を取り分けて、肩掛けに背負うと、笹の小枝をさっさっと振った。『南無観世音菩薩、夫上の菩提のその為に、常陸の小萩が上下五日の施主に付く。』と心の中で念ずると、餓鬼阿弥を乗せた土車は、まるで喜びに飛び上がったようにころころと進んだ。関ヶ原、不破、今津。近江の国に入り、柏原、醒ヶ井、愛知川、武佐と琵琶湖畔を進みながら、照手は、判官と過ごした日々をひとつひとつ思い起こしていった。ある時は思わず微笑み、ある時は涙が頬を濡らした。志賀の浦に番(つが)いの鴎(かもめ)が飛び立つのを見た時、照手は、こう独りごちした。
「鳥さえも、番い離れぬ夫婦だに、夫に離れて自らは、ねぐら定めぬ寡婦(やもめ)鳥。」
涙に暮れる三日目に、照手と餓鬼阿弥は大津関寺の旅籠、玉屋の門前に辿りついた。
「のう、餓鬼阿弥殿、自らが施主に付き添うも今宵限り。今宵は宿を取らず、車の傍(そば)にて一夜の伽(とぎ)をいたしましょう。」
と、餓鬼阿弥に寄り添いながら最後の夜を迎えた。月明かりに照らし出された餓鬼阿弥を愛しげに見つめていた照手は、餓鬼阿弥にぽつり、ぽつりと物語りをして話しかけた。
「これ、のう、餓鬼阿弥様、女だてらに、お主様に上下五日の暇をもらい、そなたをこれまで遙々引いてきたのは、恥ずかしながら、自らが二世と交わせし夫、小栗判官政清様の菩提を弔うため。・・・」
照手は、餓鬼阿弥が判官とは夢にも思わず、判官が我が父に毒殺されたことを物語って聞かせた。
「のう、餓鬼阿弥様、冥途で判官様に、お会いなされはせなんだか。」
月明かりの中ではよくは見えなかったが、餓鬼阿弥の口が、何か言いたげにわずかに動いたように見えた。やがて、照手は旅の疲れから、車の轍(わだち)を枕に眠りに落ちて行った。餓鬼阿弥はわずかな意識の中で照手の気配を感じていた。
照手がふと目を覚ますともう既に、東雲(しののめ)の明け烏が飛んでいた。
「やれ、夜が明ける。心残りには候えど、最早、お別れ・・・そうじゃ。」
と、照手は思い立つと、玉屋に頼んで筆を借りると、餓鬼阿弥の胸札を外して裏書きをした。
『この餓鬼阿弥車の施主は多けれど、中山道は美濃の国垂井の宿万屋長右衛門が召し使い下の水仕常陸の小萩、上下五日の施主となる。病本復するならば、必ず一夜の宿を参らすべし。』
照手は、いざさらばと何回も繰り返したが、歩み出せないでいた。どうしてかくも立ち去り難いのか、分からなかったが、乾の殿で判官を見送ったあの時の苦しさと重なった。我が身がふたつあるならば、ひとつを帰して、熊野まで引いて行きたいと胸が詰まった。一足歩んでは振り返り、二足歩んでは立ち止まり、餓鬼阿弥の丸まった背中を何度も何度も目に留めて、照手は泣く泣く来た道を戻って行った。照手は、餓鬼阿弥に恋したのかと自分を疑ったり、この餓鬼阿弥はひょっとしたら判官なのかもしれないと思ったりもしたが、そんなことがあるはずがないと打ち消した。照手は万屋に戻ると、よい回向ができたと晴れ晴れした気持ちで、また忙しい毎日を過ごしたが、餓鬼阿弥の本復を祈ることは忘れなかった。
その日、玉屋には道者に率いられた西国巡礼の一行が到着した。道者達は餓鬼阿弥車を見つけると、これが街道で噂の餓鬼阿弥車じゃと取り巻いた。我らもこれより熊野詣、ついでのことに施主につこうと評議した。翌日、熊野詣の一行は、「えいさらえい」と元気よく餓鬼阿弥車を引いていった。熊野の山中では土車は捨てられ、籠に背負われた餓鬼阿弥であったが、賑やかで陽気な一行と伴に無事に熊野本宮湯の峰に到着した。道者達は籠から餓鬼阿弥を降ろすと、胸札をかたえの松に懸けて、そろそろと壺湯の中に餓鬼阿弥を入れた。すると、餓鬼阿弥はぷかぷかと浮いて、くるくると回った。あまり座りが悪いので、一同は吹き出したが、腹に石を抱かせるとようやく収まりがついた。巡礼の一行も一緒に壺湯につかり、旅の疲れを癒したり、餓鬼阿弥の頭にお湯を掛けたりして本復を祈った。これでお役御免なされと、一行が立ち去ると、餓鬼阿弥は一人ぽつねんと壺湯に残された。
熊野本宮湯の峰の壺湯にわき出す冥途黄泉の薬湯の力によって、餓鬼阿弥の体は日に日に回復をしていった。七日目に膨らんでいた腹が元に戻り内蔵が動き出し、十四日目には骨と関節が、二十一日目には全身の皮膚や筋肉が戻り、二十八日目には髪の毛も生えそろった。三十五日が経つとようやく意識が戻り始め音を聞いた。鳥のさえずりであった。判官はようやく娑婆に戻ったのだなとまだ朦朧とした意識の中で思った。四十二日目には、五感もはっきりしてきて空腹を感じて思わずうめくと、「ああ」と声を発した。七七四十九日の明け方に、判官の目がぱっと開いた。
判官はざばっと立ち上がると、石を抱いていることに気が付いた。石を放り投げると松に懸かる木札に気が付いた。
「むう、なるほど、閻魔大王の前まで行ったのは覚えておる。その後、街道を数多の人の手によって引かれしか・・・ともあれ、この木札の通り再び娑婆に戻り本復なしたるは、いまだ我の武運の尽きざる所。有り難や。」
と、まずは都に戻り父母に体面せずばなるまいと思ったが、いかんせん素っ裸であった。とその時、後ろより声を掛ける者があった。
「あいや、しばし待たれい。」
と、しずしずと歩みくる老人の姿の尊さに、判官は思わず平伏した。
「善哉善哉、小栗判官政清、無事の本復見届けしぞ。さりながら、このまま下山し都に向かえば、帝の勘気も解けず、餓鬼の病も再発し、父母との体面もわじ。さすれば、是を与える。」
と、差し出したのは頭巾、鈴掛、法螺貝、日笠に草鞋、それに金剛杖だった。続けて老人は、
「日笠で天の恐れを防ぎ、草鞋で地の息を避けよ。さすれば餓鬼阿弥の再発は防げよう。また、熊野詣の行者の姿となれば咎めも及ぶまい。我こそは当山熊野権現なり、善哉善哉。」
と言うなり、消え去った。
「は、はあ。有り難きお告げ、誠に恐悦至極。」
と恐れ入った判官は、しばらく伏し拝み続けていたが、やがて、熊野権現の教えの通りに修験の道者の姿を整えると、金剛杖をついて熊野を下山し、都を目指した。判官が木札の裏書きに気が付いたのは、日高川を渡る時だった。渡しの舟に乗り腰を下ろした時に、胸元に入れておいた木札がぽとり落ちた。裏書きに気づいて見てみると、『常陸の小萩』が餓鬼阿弥車を引いたという。『常陸の小萩』・・・『常陸の』。舟に揺られながら、判官はある確信を持った。餓鬼阿弥だった時のわずかな記憶、いや記憶とは言えないようなかすかな感情があったことを思い出した。  
九 二度対面
都三条高倉大納言兼家卿の屋敷の門前には、施行を受けようとする乞食(こつじき)、非人達が山のように集まっていた。折しも、小栗判官政清の命日。追善の施行であった。判官は、何事かと近づいてみたが、自分の法事をやっているのだと気が付いた。驚いたが、委細かまわず門内にずいっと入るなり、熊野権現の教えの通りに、法螺貝を吹き鳴らすと、
「熊野詣での行者なり、斎料(ときりょう)斎望。」
と、声を張り上げた。すると、門番が駆けて来て、
「こりゃ、こりゃ、今日は当館(やかた)では大切なる法事があるによって、門前において施行を致す。熊野詣での行者と有るならば、なぜ故、施行を受けて通らぬか。」
と、咎めた。追い立てられるままに判官は、仕方なく一度門外に出たが、懐かしき父、母の姿を一目でも仰ぎたいものだと、門前の列の後ろについた。
御台所(みだいどころ)は、法螺貝の音に驚いて、物見台に上がり事の次第を眺めていたが、修験の行者が追い出されるの見ると門番を呼んだ。
「これ、熊野詣の行者が斎料所望とあるものを、何故邪険に追い払う。我が子判官政清の追善のため、行者に一飯なりとも参らせん。」と、行者を連れ戻させた。
ようやく判官は、客間に通された。久しぶりの我が家にどきどきしながら座るとあちこちときょろきょろしながら、据えられた膳にあずかった。懐かしい味がした。さすがの判官も、涙ぐんだように見えた。ひと箸口にする毎に、今日我が家に帰るまでにどれだけの多くの人に世話になり、またどれだけ神仏の御加護を受けてきたかと、感謝の気持ちでいっぱいになった。自分の力で生きてきたわけでは無い。いや、生かされていることに感謝せねばならないと心から感じていた。小栗判官は甦ったが、元の小栗に戻った訳ではなかった。
御台所は、通りすがりに修験の行者の姿をちらっと見て驚いた。我が子判官にそっくりである。我が子の命日に我が子にそっくりの行者が現れるとは不思議なことである。近づいてよく確かめようと御台所は思わず客間に入ると、行者に話しかけた。
「熊野詣の行者様は、いづ方よりいづ国へ通らせ給うや。」
判官は、いきなり母が目の前に現れたので、思わず「母上。」と叫びそうになったが、頭を下げて、
「ははあ、それがしは常陸の者にて候が、紀伊の国熊野山より大和葛城、金峰山へ駆け越しを仕りし行者にて候。」
と答えた。御台所は、その声を聞いて益々驚いた。どうみても、我が子判官としか思えない。しかし、よっぽど似た人もあるものだと思い直して、今日が我が子小栗判官の命日で、法事を営んでいることや、我が子も常陸に居たので様子を知らないか等と判官に尋ねたが、我が子が相模の国で殺害された話になると嗚咽をもらして泣き崩れた。親不孝をしたと悔やんだ判官は、とうとう、堪えかねて、母の手を取ると、
「母上様、かく言う行者こそ小栗判官政清にて候。」
と、明かした。そうと言われても、御台所はなおも半信半疑に迷って、行者の顔をまじまじと見つめた。さもあらんと、判官は座り直すと、照手姫との出会いから、毒殺の経緯、冥途から娑婆帰りして餓鬼阿弥となり、熊野湯の峰で本復したことを話した。母は涙ながらに聞いていたが、最早疑いの余地もなかった。御台所が、
「誠に我が子、判官なり。」
と、行者姿の判官に抱きつくと、突然一間の襖(ふすま)ががらりと開き、大音が呼ばわった、
「やあれ、待て。狼狽(うろた)えたるか御台。我が子判官がこの世を過ぎて早や三年、いかなる子細のあればとて、再び戻ろうはずもなし。明け暮れ悲しむ我々の、その性根を奪わんがため、追善法要を幸いに行者の姿に化けたるは、この辺りに住まいなす、狐狸野(こりや)干(かん)の仕業ならん。誠に我が子にあるならば、幼少より許しおいたる矢取りの手練。この高倉が放つ矢をみんごと受け止めあるならば、例え我が子にあらずとも、親子の対面してくれん。」
そこには、父、高倉大納言の元気が姿があった。判官は、父の姿に感激したが、即答に詰まった。一度は死んだ身を惜しんだのでは無かった。多くのお陰で本復したことを無駄にするわけには行かないと思ったのだ。かつての自分であればなんなくこなした業も、今の自分にできるかどうか自信は無かった。しかし判官は『生きるも死ぬも、神の思し召し、ここに生かされてる小栗にご加護を。鞍馬大悲多聞天、木の宮八幡大菩薩。神力添えさせ賜え。』と祈ると、思い切ってすっくと立ち上がった。立ち上がった判官は胸板を広げると、父に向かって打ち叩いた。それを見た高倉はひとつ頷くと、一の矢をつがえた。ぎりぎりと引き絞ると躊躇もなく放った。次ぎの瞬間一の矢は判官の弓手(左手)に握られていたが、判官はひやりとした。僅かに反応が遅かったのだ。判官の左手は箆(の)中(なか)をつかめずに、ぎりぎり矢羽を握り潰していた。それでも高倉は驚いて、誰にでもまぐれはあるものと、矢継ぎ早に二の矢を構えると、ふうと息を吐いて二の矢を放った。二の矢は判官の馬手(右手)がしっかりと掴(つか)んでいた。高倉は、何をこしゃくなと三の矢を構えると、この矢はやらじと引き絞った。放たれた三の矢は、横様に少し身を沈めた判官の口で、がきっと音を立てて止まったが、あまり強く噛んだので、次の瞬間砕けて落ちた。判官は、ほっとして矢の根を揃えて手をつくと、
「疑い晴しか、父上様、我こそ誠に小栗判官政清なり。」
と改めて、名乗った。
奇跡の再会に、法事はたちまち、祝宴となり、判官は久しぶりの酒に酔い、都を追放されてからの子細を語った。親子対面の喜びはいかばかりか、例えるものすらないが、父高倉には心配があった。判官は勅命で都を追放されているのであり、ここに居ることが知れてはまずかった。帝の勘気を解く手立てが必要だった。高倉は判官を館の奥の間に潜ませていたが、いつまでもこのままにして置くわけにも行かないと、思い切って事実を帝に奏聞することにした。
この話を聞いた帝は大層驚き、怒るどころか判官の謁見を許した。帝はいわば、怖い物見たさであった。御簾を半ば巻き上げて間近に判官を叡覧すると、
「冥途よりの参内、誠に稀代。」
慶事であると喜んで、判官への勘気をお許しになった。さらに、元の常陸を本領安堵されると、判官は有り難しとこれを受けるかと思われたが、あに図らんや、こう奏上した。
「恐れながら、判官政清謹んで言上奉る。何卒、常陸一カ国に替えて、相模の国横山一門追討の院宣を下しおかれますよう、御高恩偏(ひとえ)に願い奉りまする。」
綸言(りんげん)は汗の如しとある。一度発せられた君子の言葉が取り消されることはない。帝は、常陸一カ国に加えて、横山一門追討の綸旨も併せて給わった。破格の待遇であるが、閻魔大王が今上に戻しおき、熊野権現の守護を得た小栗を帝も畏れたのかもしれない。判官親子は喜び勇んで館に戻ると、早速に横山征伐の準備を始めた。横山追討の綸旨を高札に掲げると、三日のうちに三千の軍勢を集めた。新たな旅立ちに判官は、平の判官光重と改名すると、三千余騎を従えて出陣した。但し、判官はその道を中山道に取るよう命じたのだった。判官は『常陸の小萩』を忘れてはいなかった。餓鬼阿弥の木札は今も胸元に入れてあった。
先触れはすでに美濃国垂井の万屋に到着していた。本陣を申しつけられた万屋では、これは一大事と上を下への大騒ぎとなっていた。万屋始まって以来の本陣とあって、長右衛門は緊張していたが、なんでうちが選ばれたのか不思議にも思っていた。隅から隅まで入念に掃除をさせると、陣幕を打ち廻し、玄関先に盛り砂をして、「平の判官様泊」と関札を立てた。平らの判官光重が三千余騎を引き連れて垂井に到着すると、宿場全体が騒然となった。
万屋の奥の一間に通された判官は、早々に主人長右衛門を呼びつけた。いきなり呼ばれた長右衛門が戦々恐々として末座に額をすりつけると、判官は藪から棒に、
「長右衛門、この家に『常陸の小萩』を名乗る者あらん。只今、これに召し連れよ。」
と、命じた。それを聞いて吃驚(びっくり)仰天(ぎょうてん)した長右衛門は、
「へい、へい、恐れながらお殿様に申し上げます。『常陸の小萩』と申しまするは下の水仕でござります。当万屋には、百人の女郎がおりますので、これより御前で綺麗どころをお選びいただき、ご酒のお相手と・・・」
と、言いかけた長右衛門を遮って、判官は怒鳴りつけた。
「黙れ長右衛門、百人の女子に用はない。『常陸の小萩』を召し連れなば、その方がためになるまいぞ。早疾く小萩を召し連れよ。」
「はっはあ、畏まりまして候。」
語気も荒く命じられて、長右衛門は震え上がって飛び出した。が、流れを立てない小萩を酌に立てるのは容易なことではないぞと、長右衛門は困惑した。
「何故に、小萩じゃ・・・よりによって・・・小萩、小萩。」
と、台所に駆け込むと、膳の準備に忙しい小萩をつかまえた。
「これ、小萩、一大事ぞ。平の判官光重殿が、そなたをお名指しじゃぞ。ささ、お殿様の御前に出でてひとつ酌をしてたもれ。」
と、一気にまくし立てると、小萩は、
「なにを愚かなお主様、例え偉い御国主様であろうとも、流れを立てる小萩でないことはご存じの通り。」
と、手を休めもせずに重ね膳に手をかけると、そこ退けとばかりに持ち上げた。お膳を運ぶ小萩をおどおどと追いかけながら、長右衛門は、
「ええ、それはそうだが、百人の女郎から、お好きに選んでいただこうとしたが、『常陸の小萩』を出せと、いきなりご立腹。小萩や、小萩、これ待たぬか。そなたが応と得心してくれれば良し、そなたが、嫌じゃと言うならば、この長右衛門の首が飛ぶ。そなたは、いつか餓鬼阿弥の車を引く時になんと申した。わしら夫婦に大事のある時には、身代わりになると言うたではないか。小萩、今が、その大事の時ぞ。」
というと、小萩の着物の裾をつかんですがり、頭を床につけて頼んだ。小萩は長右衛門の言うのももっともだと思った。『夫上の菩提のために引いた車が仇となり、今は否が言えぬは残念。』小萩は、
「では、お主様、お酌だけには参りまする。」
と言うと、お膳を他の水主に任せた。台所に戻っていきなり長柄の銚子を掴むと、取って返してそのまま判官の待つ奥の一間に向かおうとした。やれやれと安心していた長右衛門はまたも慌てて、小萩の前に立ちふさがると、
「こりゃ、こりゃ、応と言うたはうれしいが、それ、その様なみすぼらしい形格好で、どうまあ、お殿様の御前に出られようか。これから、湯殿に行ってどこもかしこもくっきり洗い上げ、髪取り上げて、化粧もし、色よき衣服に改めるのじゃ。」
と、力ずくで押し戻した。この騒ぎを聞きつけた女房も飛んできて、「頼む頼む。」と小萩を身支度部屋に無理矢理連れていった。
長右衛門の女房は、小萩の体を磨き上げると、自分の娘の嫁入りかと見間違える程に飾り立てたので、その変身ぶりに長右衛門は肝をつぶした。
「なるほど、化粧して着飾れば、常になくぐっと色っぽいのう。お殿様が、百人の女郎に目もくれぬのも無理はない。わしが、先にお毒味としたいところじゃ。」
と、にやにや見とれていたが、それどころでは無いと真顔になると、小萩を連れて足早に奥の間へと向かった。
奥の一間に入った瞬間、小萩は前にもこんな瞬間があったと思ったが、次の瞬間には動揺と混乱が一気に押し寄せた。平の判官光重は夫小栗と瓜二つであった。心臓の鼓動がどこまでも聞こえるかと思った。長右衛門がなにやら口上を述べていたが、呆然としていてよく分からなかった。気がつくと、照手は末座に一人残されていた。
『たとえ、瓜二つといえども、夫小栗であるはずはない。例え膚は汚さずとも、夫以外の男に心が乱るるなら、これまで立てる貞女も水の泡。』小萩は、崩れそうになる心を必死に励まして震えながら堪えていた。
判官は、長右衛門に誘われてきた小萩を見るなり、自分の推察が正しかったと天にも昇るほど嬉しかったが、表情を乱すまいと逆にきっと口を結んだ。長右衛門には判官が憤怒の毘沙門天のように見えた。長右衛門は、また怒鳴られてはたまらぬと、へらへら笑いながら、すぐに下がった。
沈黙がしばらく続いた。判官も何から切り出したものかと迷っていたが、小萩が長柄の銚子を持ってきたのに気が付いて、
「小萩とやら、近こう寄って、ひとつ酌をいたせ。」
と言った。言われて、小萩もはっと我に返った。しずしずと判官の間近に寄ると酌をした。手が震えていた。判官はぐいっと盃を干すと、優しくこう尋ねた。
「小萩とやら、その方いかなる子細あって、常陸を名乗るのか。」
その声までも小栗とそっくりであった。照手の張りつめてきた心が折れそうだった。居たたまれなくなって、跳ね返すようにこう答えた。
「これはしたりお殿様、私は、主命に任せ、御酒のお酌には出でましたが、我が身の上話に来たわけでは御座いませぬ。最早お暇いたします。」
そう言って立とうとする小萩の裳裾を押さえて、判官はちょっと笑った。『気丈になったな。』
「まて、まて小萩殿、『人の先祖を問う時は我が古(いにしえ)を語れ』とある。いや、自ら名乗らずに、そちが名を聞きしこと、この光重が一つの誤り。去りながら、その方に見する品あり。今一度お座りあれ。」
と言うと、判官は胸元から餓鬼阿弥の木札を取り出して、小萩に持たせた。小萩は受け取るなりそれがなんであるか分かった。裏を返して自分の裏書きを確認してから、小萩は怪訝そうに判官を見返すと、
「こりゃこれ、餓鬼阿弥様の胸札。自らの裏書きもありまする。どうしてこの木札をお殿様が。」
と、尋ねた。予想もしない展開の連続に小萩の動悸は期待に変わりつつあった。『まさか、まさか』
「ご不審なごもっとも。先頃、この街道においてそなたに引かれたる餓鬼阿弥は、かく言う判官光重なるぞ。」
「え、え、あなた様が・・・まあお早いご本復で・・・それは、お目出度う御座います。」
と、言いながら、小萩にはもう、目の前に居るのが、光重なのか餓鬼阿弥なのかひょっとして小栗なのか、分からなくなっていた。
『まさか、まさか』と胸が詰まると、小栗を見送った時の恋しさと、餓鬼阿弥との別れの時に抱いた愛しさが重なるようにして一気に吹き出してきた。もう堪えきれなかった。泣き崩れた小萩の中で、心を無理矢理に突っ張らせていたつっかえ棒が、弾けて飛んだ。にじり寄った判官が小萩の背中に手を回すと、小萩の全身を懐かしい温もりが包んだ。それは小栗判官の体温に間違いなかった。無言のうちに心と心が呼び合い、互いの姿がはっきりと見えた。
「夫上様・・・」
照手が、面(おもて)を上げると、小栗の優しい眼差しがあった。
「照手・・・」
二人は抱き合って泣いた。夢ではない、夢ではないと、確かめあった。その夜二人は、神々のご加護に深く感謝して、3年ぶりの幸福な眠りについた。
翌朝、判官は、長右衛門夫婦を呼んで、よくも照手をこき使ったなと死罪申しつけると詰め寄ったが、照手が長右衛門夫婦から慈悲を受けたと取りなしたので、判官は逆に褒美を与えた。長右衛門は恐れ入って、百人の流れの中から三十二人の選りすぐると、照手の女房として差し出した。ぽかんと見送る長右衛門夫婦を残して、嵐が去るように照手と判官はまず、相模の国に向けて出発した。
死んだはずの判官と照手が再び常陸の国に戻って来るという話題で、関東は沸騰していた。この知らせに、藤沢寺の遊行上人は喜んで、今や遅しと判官照手一行を待ち受けていたが、横山一党は怯えていた。以前の小栗でも敵うはずがなかったのに、今や地獄から蘇った鬼神である。人間が敵うはずがないと判官に抗戦する気力はどこにもなかった。この情勢を見た照手は、父照元に降伏を勧める書簡を送った。判官は照手の願いを聞き入れたが、卑怯な三郎照次だけは許さなかった。父照元には出家を許し、十人殿原の菩提を弔うように命じ、三郎には切腹を申しつけた。戦を免れた領民は、熱狂的に判官と照手を迎えた。判官と照手は民衆の英雄になった。判官は久しぶりに鬼鹿毛を引き出すと、照手を乗せて、晴れ晴れと常陸に戻っていった。
小栗判官は八十三歳まで生きた。現人神(あらひとがみ)として小栗判官政清は美濃の国安八郡墨俣(岐阜県安八郡墨俣町墨俣1、現在大垣市)八幡正八幡に、照手姫はそのすぐ近く、結神社(岐阜県安八郡安八町西結584、現在大垣市)に祀られている。
 
説経節「小栗判官」1

 

第一
そもそも、この物語の由来を、くはしく尋ぬるに、国を申さば、美濃の国、安八(あんぱち)の郡(こおり)、墨俣(すのまた)、垂井、おなことの神体は、正八幡なり。荒人神(あらひとがみ)の御本地(ほんぢ)を、くはしく説きたてひろめ申すに、これも一とせは、人間にてや、わたらせたまふ。
凡夫(ぼんぷ)にての御本地を、くはしく、説きたてひろめ申すに、それ都に、一の大臣、二の大臣、三に相模の左大臣、四位(しい)に少将、五位の蔵人(くらんど)、七なん滝口、八条殿、一条殿や、二条殿、近衛関白、花山(かさん)の院、三十六人の公家、殿上人(てんじょうびと)のおはします。公家殿上人の、その中に、二条の大納言とは、それがしなり。仮名(けみょう)は兼家の仮名、母は常陸の源氏の流れ、氏(うじ)と位は高けれど、男子(なんし)にても、女子(にょし)にても、末の世継が、御ざなうて、鞍馬の毘沙門(びしゃもん)にお詣りあつて、申子(もうしご)をなされける。満ずる夜(よ)の御夢想に、三つなりのありの実を、給はるなり。あらめでたの御ことやと、山海の珍物(ちんぶつ)に、国土の菓子を調(ととの)へて、御喜びかぎりなし。
御台所(みだいどころ)は、をしへけむちくあらたかに、七(なな)月のわづらひ、九(ここの)月の苦しみ、当たる十月と申すには、御産の紐を、お解きある。女房たちは参り、介錯申し、抱(いだ)き取り、男子(なんし)か、女子(にょし)かと、お問ひある。玉を磨き、瑠璃をのべたるごとくなる、御若君にておはします。あらめでたの御ことや、須達(しゅだつ)、福分(ふくぶん)におなり候へと、産湯を取りて参らする。肩の上の鳳凰に、手の中(うち)のあいしの玉、桑の木の弓に、蓬(えもぎ)の矢、天地和合と、射払ひ申す。屋形(やかた)に、齢(よわい)久しき翁(おきな)の太夫(たゆう)は、参りて、この若君に、御名をつけてまゐらせん、げにまこと、毘沙門の御夢想に、三つなりのありの実を、給はるなれば、ありの実にことよせて、すなはち御名をば、有若(ありわか)殿と、奉る。この有若殿には、御乳(おち)が六人、乳母(めのと)が六人、十二人の御乳や乳母が、預かり申し、抱(いだ)き取り、いつきかしづき奉る。年日(としひ)のたつは、ほどもなし。二三歳、はや過ぎて、七歳におなりある。七歳の御とき、父の兼家殿は、有若に、しのおんをつけてとらせんと、東山へ、学問に、お上(のぼ)せあるが、
第二
なにか、鞍馬の申子のことなれば、智恵の賢さ、かくばかり、一字は二字、二字は四字、百字は千字と、悟らせたまへば、御山(おやま)一番の、学匠とぞ、聞こえたまふ。昨日今日とは思へども、御年積もりて、十八歳におなりある。
父兼家殿は、有若を、東山より申し下ろし、位を授けて、とらせたうは候へども、氏も位も、高ければ、烏帽子親には、頼むべき人がなきぞとて、ここに、八幡(やわた)正八幡の御前(おんまえ)にて、瓶子(へいじ)一具、取り出だし、蝶花形(ちょうはながた)に、口つつみ、すなはち御名をば、常陸小栗殿と、参らする。御台(みだい)、なのめに思(おぼ)しめし、さあらば、小栗に、御台を迎へてとらせんと、御台所をお迎へあるが、小栗、不調(ふじょう)な人なれば、いろいろ妻嫌ひをなされける。せいの高いを、迎ゆれば、深山木(みやまぎ)の相とて、送らるる。せいの低いを迎ゆれば、人尺(にんじゃく)に足らぬとて、送らるる。髪の長いを迎ゆれば、蛇身の相とて、送らるる。面(おもて)の赤いを迎ゆれば、鬼神(きじん)の相とて、送らるる。色の白いを迎ゆれば、雪女、見れば見醒めもするとて、送らるる。色の黒いを迎ゆれば、げす女、卑しき相とて、送らるる。送りてはまた迎へ、迎へてはまた送り、小栗十八歳の如月(きさらぎ)より、二十一の秋までに、以上御台の数は、七十二人とこそは聞こえたまふ。
小栗殿には、つひに定まる、御台所の御ざなければ、ある日の雨中のつれづれに、「さてそれがしは、鞍馬の申子と承る。鞍馬へ詣り、定まる妻を、申さばや」と思ひ、二条の御所を立ち出(い)でて、市原野辺(いちはらのべ)の、あたりにて、漢竹(かんちく)の、横笛(ようじょう)を、取り出だし、八つの歌口、露しめし、翁(おきな)が、ぢやうを恋ふる楽、とうひらでんに、まいひらでん、獅子ひらでん、といふ楽を、半時(はんじ)がほどぞ、あそばしける。深泥(みぞろ)が池の大蛇は、この笛の音(ね)を聞き申し、「あらおもしろの笛の音や、この笛の男(おのこ)を、一目拝まばや」と思ひつつ、十六丈の大蛇は、二十丈に伸び上がり、小栗殿を拝み申し、「あらいつくしの男(おのこ)や。あの男と、一夜(いちや)の契りを、こめばや」と、思ひつつ、  
第三
年の齢(よわい)、数ふれば、十六七の美人の姫と、身を変じ、鞍馬の、一の階(きざはし)に、よしあり顔にて、立ちゐたる。小栗、このよし御覧じて、これこそ、鞍馬の利生(りしょう)とて、玉の輿(こし)に、とつて乗せ、二条の屋形に、御下向(おげこう)なされ、山海の珍物に、国土の菓子を、調(ととの)へて、御喜びは、かぎりなし。
しかれども、好事(こうじ)、門を出でず、悪事、千里を走る。錐(きり)は、袋を通すとて、都童(みやこわらんべ)、もれ聞いて、二条の屋形(やかた)の小栗と、深泥(みぞろ)が池の大蛇と、夜な夜な通ひ、契りをこむるとの、風聞なり。父兼家殿は、聞こしめし、「いかにわが子の小栗なればとて、心不調(ふじょう)な者は、都の安堵にかなふまじ。壱岐、対馬へも、流さう」との、御諚(ごじょう)なり。御台(みだい)、このよし聞こしめし、「壱岐、対馬へお流しあるものならば、また会ふことは難(かた)いこと。みづからが、知行は、常陸なり。常陸の国へ、お流しあつてたまはれの」。兼家、げにもと思しめし、母の知行に、あひ添へて、常陸東条、玉造(たまつくり)の御所の流人(るにん)と、ならせたまふなり。
常陸三かの庄の、諸侍(しょさぶらい)、とりどりに評定(ひょうじょう)、あの小栗と申すは、天よりも降(ふ)り人の子孫なれば、上(かみ)の都に、あひ変らず、奥の都とかしづき申し、やがて御司(つかさ)を参らする。小栗の判官(はんがん)ありとせはんと、大将ならせ奉る。夜番(やばん)、当番、きびしうて、毎日の御番は、八十三騎とぞ、聞こえたまふ。めでたかりける折ふし、いづくとも知らぬ、商人(あきびと)一人参り、「なに紙か板の御用、紅(べに)や、白粉(うしろい)、畳紙(たとうがみ)、御匂(におい)の道具にとりては、沈(じん)、麝香(じゃこう)、三種(みくさ)、蝋茶(らつちや)と、沈香(じんこう)の、御用」なんどと、売つたりけり。小栗、このよし聞こしめし、「商人が、負うたは、なんぞ」とお問ひある。後藤左衛門、承り、「さん候(ぞうろう)、唐(とう)の薬が千八品(しな)、日本の薬が千八品、二千十六品とは申せども、まづ中へは、千色(いろ)ほど入れて、負うて歩くにより、総名(そうみやう)は、千駄櫃(せんだびつ)と申すなり」。小栗このよし聞こしめし、「かほどの薬の品々を、売るならば、国を巡らで、よもあらじ。国をば、なんぼう巡つた」と、お問ひある。後藤左衛門は、承り、「さん候。きらひ高麗(こうらい)、唐(とう)へは二度渡る。日本は、旅三度巡つた」と申すなり。小栗、このよし聞こしめし、まづ実名(じつみょう)をお問ひある。「高麗では、かめがへの後藤、都では、三条室町の後藤、相模の後藤とは、それがしなり。後藤名字(みょうじ)の、ついたる者、三人ならでは、御ざない」と、ありのままにぞ申すなり。小栗、このよし聞こしめし、「姿かたちは、卑しけれども、心は、春の花ぞかし。小殿原(ことのばら)、酒一つ」との、御諚(ごじょう)なり。御酌(おしゃく)に立つたる、小殿原、小声立つて申すやう、「なう、いかに、後藤左衛門、これなる君には、いまだ定まる御台所(みだいどころ)の御ざなければ、いづくにも、みめよき、稀人(まれびと)のあるならば、仲人(なこうど)申せ。よき御引(おひ)き」との、御諚なり。  
第四
後藤左衛門、「存ぜぬと申せば、国を巡つたかひもなし。ここに、武蔵、相模、両国の郡代(ぐんだい)に、横山殿と申すは、男子(なんし)の子は、五人まで御ざあるが、乙(おと)の姫君御ざなうて、下野(しもつけ)の国、日光山に詣り、照る日月に、申子をなされたる、なにか六番目の、乙の姫のことなれば、御名をば、照手(てるて)の姫と申すなり。この照手の姫の、さて姿かたち、尋常さよ。姿を申さば春の花、かたちを見れば秋の月、じつぱら十(とう)の指までも、瑠璃をのべたるごとくなり。丹果(たんか)のくちびる、あざやかに、笑(え)める歯茎の尋常さよ。翡翠の髪(かん)ざし、黒うして、長ければ、青黛(せいたい)の立板(たていた)に、香炉木(こうろぎ)の墨を磨(す)り、さつと書けたるごとくなり。太液(たいえき)に比ぶれば、なほも、柳は強(こは)かりけり。池の蓮(はちす)の朝露に、露うち傾(かたぶ)くも、及ぶも及ばざりけりや。あつぱれ、この姫こそ、この御所中の定まるお御台(みだい)ぞ」と、言葉に花を咲かせつつ、弁説たつしてぞ申すなり。
小栗こそ小栗こそ、はや見ぬ恋にあこがれて、「仲人申せや、商人(あきびと)」と、黄金(こがね)十両取り出だし、「これは当座のお引きなり。このこと、叶うてめでたくば、勲功は、望みにより、御ほうび」とこそは、仰せける。後藤左衛門は、承り、「位の高き御人の、仲人、申さうなんどとは、心多いとは、存ずれど、へんへん申すくらゐにて、言の葉召され候へ」と、料紙、硯を参らする。小栗、なのめに思しめし、紅梅檀紙(こうばいだんし)の、雪の薄様(うすよう)、一重(ひとかさね)、ひき和らげ、逢坂(おうさか)山の、鹿の蒔絵の筆なるに、紺瑠璃(こんるい)の墨、たぶたぶと含ませ、書観(しょかん)の窓の明かりを受け、思ふ言(こと)の葉を、さも尋常(じんじょう)やかに、あそばいて、山形様(やまがたよう)ではなけれども、まだ待つ恋のことなれば、まつかはに、ひき結び、「やあいかに、後藤左衛門、玉章(たまずさ)頼む」との御諚なり。後藤左衛門、「承つて御ざある」と、つづらの懸子(かけご)に、とつくと入れ、連尺(れんじゃく)、つかんで、肩に掛け、天や走る、地やくぐると、おいそぎあれば、ほどもなく、横山の館(たち)に駈け着くる。その身は、下(しも)落ちに腰を掛け、つづらの懸子に、薬の品々、すつぱと積み、乾(いぬい)の局(つぼね)に、さしかかり、「なに紙か板の御用、紅(べに)や、白粉(うしろい)、畳紙(たとうがみ)、御匂(におい)の、道具にとりては、沈(じん)、麝香(じゃこう)、三種(みくさ)、蝋茶(らつちや)と、沈香(じんこう)の御用」なんどと、売つたりける。
冷泉(れいぜん)殿に、侍従殿、丹後の局(つぼね)に、あかうの前(まい)、七八人御ざありて、「あらめづらしの商人(あきびと)や。いづかたから、渡らせたまふぞ。なにもめづらしき、商ひ物はないか」と、お問ひある。後藤左衛門、承り、「なにもめづらしき、商ひ物も御ざあるが、これよりも、常陸の国、小栗殿の、裏辻にて、さも尋常やかにしたためたる、落とし文(ぶみ)、一通拾ひ持つて、御ざあるが、いくらの文(ふみ)を、見まゐらせて候へども、かやうな、上書(うわがき)の、尋常やかな文(ふみ)は、いまだ初めなり。承れば、上臈(じょうろう)様、古今(こきん)、万葉、朗詠の、歌の心でばし御ざあるか。よくば御手本にもなされ、悪しくば引き破り、御庭の笑ひ草にも、なされよ」と、謀(たばか)り、文を参らする。女房たちは、謀(たばか)る文とは御存じなうて、さつと広げて、拝見ある。「あらおもしろと、書かれたり。上(かみ)なるは月か、星か、中は花、下には雨、霰と書かれたは、これはただ、心、狂気、狂乱の者か。筋道に、ないことを、書いたよ」と、一度にどつと、お笑ひある。七重八重、九(ここの)のま(へカ)の、幔(まん)の内に御ざある、照手の姫は、聞こしめし、中(なか)の間(ま)まで、忍び出でさせたまひ、「なういかに、によはう(にようばうカ)たち、なにを、笑はせたまふぞや。をかしいことのあるならば、みづからにも、知らせい」との御諚なり。女房たちは聞こしめし、「なにも、をかしいことはなけれども、これなる商人が、常陸の国、小栗殿の、裏辻にて、さも尋常やかにしたためたる、落とし文一通、拾ひ持つたと申すほどに、拾ひ所、心にくさに、広げて、拝見申せども、なにとも、読みが、下(くだ)らず。これこれ御覧候へ」と、もとのごとくに、おし畳み、御扇(みおうぎ)に据ゑ申し、照手の姫にと、奉る。  
第五
照手このよし、御覧じて、まづ上書きを、お褒めある。「天竺にては、大聖文殊(だいしょうもんじゅ)、唐土(とうど)にては、善導和尚、わが朝(ちょう)にては、弘法大師の御手ばし、習はせたまふたか。筆の立て所(ど)の、尋常さよ。墨つきなんどの、いつくしや。にほひ、心ことばの、及ぶも、及ばざりけりや。文主(ふみぬし)、たれと知らねども、文にて人を、死なすよ」と、まづ上書きを、お褒めある。「なういかに、女房たち、百様(ひゃくよう)を知りたりとも、一様を知らずばの、知つて知らざれよ。争ふことのありそとよ。知らずば、そこで聴聞(ちょうもん)せよ。さてこの文(ふみ)の、訓の読みして聞かすべし」。文の紐をお解きあり、さつと広げて、拝見ある。「まづ一番の筆立てには、細谷川(ほそたにがわ)の、丸木橋とも書かれたは、この文、中(ちゅう)にて、止めなさで、奥へ通(とお)いてに、返事申せと、読まうかの。軒の忍(しのぶ)と、書かれたは、たうちうのくれほどに、つゆ待ちかぬると、読まうかの。野中の清水と、書かれたは、このこと、人に知らするな、心の中(うち)で、ひとりすませと、読まうかの。沖漕ぐ舟とも、書かれたは、恋ひ焦がるるぞ、いそいで着けいと、読まうかの。岸うつ波とも、書かれたは、くづれて、ものや思ふらん。塩屋の煙(けぶり)と、書かれたは、さて浦か(かぜカ)吹くならば、一夜(いちや)はなびけと、読まうかの。尺ない帯と、書かれたは、いつか、この恋成就して、結び合はうと、読まうかの。根笹に霰と、書かれたは、触(さわ)らば、落ちよと、読まうかの。二本(ふたもと)すすきと、書かれたは、いつかこの恋、穂に出でて、乱れ合はうと、読まうかの。三(み)つの御山と、書かれたは、申さば、叶へと、読まうかの。羽ない鳥に、弦(つる)ない弓と、書かれたは、さてこの恋を、思ひそめ、立つも立たれず、射るも射られぬと、読まうかの。さて奥までも、読むまいの、ここに一首の、奥書あり。恋ゆる人は、常陸の国の、小栗なり。恋ひられ者は、照手なりけり。あら、見たからずの、この文や」と、二つ三つに引き破り、御簾(みす)より外(そと)へ、ふはと捨て、簾中(れんちゅう)深く、お忍びある。
女房たちは、御覧じて、「さてこそ申さぬか、これなる商人が、大事の人に、頼まれて、文の使ひを申すは。番衆(ばんしゅ)はないか。あれはからへ」との、御諚なり。後藤左衛門は、承り、すはしだいたとは、思へども、夫(おっと)の心と、内裏の柱は、大きても太かれと、申す譬への御ざあるに、ならぬまでも、威(おど)いてみばやと、思ひつつ、連尺つかんで、白州に投げ、その身は、広縁に踊り上がり、板踏み鳴らし、観経(かんぎょ)を引いて威されたり。「なうなういかに、照手の姫、今の文をば、なにとお破りあつて御ざあるぞ。天竺にては、大聖(だいしょう)文珠、唐土(とうど)にては、善導和尚(かしょう)、わが朝(ちょう)にては、弘法大師の御筆(ふで)は、しめの筆の手なれば、一字破れば、仏一体、二字破れば、仏二体、今の文をば、お破りなうて、弘法大師の二十(はたち)の指を、食ひさき、引き破つたにさも似たり。あら恐ろしの、照手の姫の、後(のち)の業(ごう)は、なにとなるべき」と、板踏み鳴らし、観経(かんぎょ)を引いて、威(おど)いたは、これやこの、檀特山(だんどくせん)の、釈迦仏(ほとけ)の御説法とは申すとも、これには、いかでまさるべし。
照手、このよし聞こしめし、はやしをしをと、おなりあり、「武蔵、相模、両国の、殿原たちの方(かた)からの、いくらの玉章(たまずさ)の、通(かよ)ひたも、これも食ひさき、引き破りたが、照手の姫が、後(のち)の業(ごう)となろか、悲しやな。ちはやぶるちはやぶる神も、鏡で御覧ぜよ。知らぬ間(あいだ)をば、お許しあつて、たまはれの。さてこのことが、明日(あす)は、父横山殿、兄殿原たちにもれ聞こえ、罪科に、行はるると申しても、力及ばぬ次第なり。今の文の、返事申さうよの、侍従殿」。侍従、このよし承り、「その儀にて御ざあらば、玉章召され候へ」と、料紙、硯を参らする。照手、なのめに思しめし、紅梅檀紙、雪の薄様、一重(ひとかさね)、ひき和らげ、逢坂山の鹿の蒔絵の筆なるに、紺瑠璃(こんるい)の墨、たぶたぶと含ませて、書観の窓の明かりを受け、わが思ふ言の葉を、さも尋常やかに、あそばいて、山形様(よう)ではなけれども、まだ待つ恋のことなれば、まつかは様(よう)に引き結び、侍従殿にとお渡しある。侍従、この文受け取つて、「やあ、いかに後藤左衛門、これは先の玉章の御返事よ」と、後藤左衛門に給はるなり。後藤左衛門は、「承つて御ざある」と、つづらの懸子に、とつくと入れ、連尺つかんで、肩に掛け、天や走る、地やくぐると、いそがれければ、ほどもなく、常陸小栗殿にと、駈け着くる。
小栗、このよし御覧じて、「やあ、いかに後藤左衛門、玉章の御返事は」との、御諚なり。後藤左衛門は、「承つて御ざある」と、御扇(みおうぎ)に据ゑ申し、小栗殿にと、奉る。小栗、このよし御覧じて、さつと広げて、拝見ある。「あらおもしろと書かれたり。細谷川に、丸木(まろき)橋の、その下で、ふみ、落ち合ふべきと、書かれたは、これはただ、一家一門は知らずして、姫一人の領承(りょうじょう)と見えてあり。一家一門は、知らうと知るまいと、姫の領承こそ、肝要なれ。はや、聟入りせん」との、詮議なり。御一門は、聞こしめし、「なう、いかに小栗殿、上方(かみがた)に変り、奥方には、一門知らぬ、その中へ、聟には取らぬと申するに、今一度、一門の御中(おんなか)へ、使者をお立て候へや」。小栗、このよし聞こしめし、「なに大剛の者が、使者まであるべき」と、究竟の、侍を、千人すぐり、千人のその中を、五百人すぐり、五百人のその中を、百人すぐり、百人のその中を、十人すぐり、われに劣らぬ、異国の魔王のやうなる、殿原たちを、十人召し連れて、「やあいかに、後藤左衛門、とてものことに、路次(ろし)の案内」と、仰せける。後藤左衛門は、「承つて御ざある」と、つづらをば、わが宿に預け置き、編笠、目深(まぶか)に、ひつ被(こ)うで、路次の案内をつかまつる。
小高いところへ、さし上がり、「御覧候へ、小栗殿。あれなる、棟門(むねかど)の高い御屋形は、父横山殿の御屋形、これに見えたる、棟門の低いは、五人の公達の御屋形、乾(いぬい)の方(ほう)の、主殿造(しゅでんづく)りこそ、照手の姫の局(つぼね)なり。門内にお入りあらう、そのときに、番衆(ばんしゅう)、誰(た)そと、咎むるものならば、いつも参る、御客来(きゃくらい)を、存ぜぬかと、お申しあるものならば、さして咎むる人は御ざあるまじ。はや、これにて御暇(いとま)申す」とありければ、小栗このよし聞こしめし、かねての御用意のことなれば、砂金(しゃきん)百両に、巻絹(まきぎぬ)百疋(ひゃっぴき)、奥駒(おくごま)をあひ添へて、後藤左衛門に、引き出物(いでもの)給はるなり。後藤左衛門は、引き出物(でもの)を給はりて、喜ぶことはかぎりなし。
十一人の殿原たちは、門内にお入(い)りある。番衆(ばんしゅ)、「誰(た)そ」と咎むるなり。小栗、このよし聞こしめし、大の眼(まなこ)に、角(かど)を立て、「いつも参る、御客来を、存ぜぬか」と、お申しあれば、咎むる人はなし。十一人の殿原たちは、乾の局に、移らせたまふ。小栗殿と姫君を、ものによくよく譬ふれば、神ならば、結ぶの神、仏ならば、愛染明王、釈迦大悲、天にあらば、比翼の鳥、偕老同穴(かいろうどうけつ)の語らひも、縁浅からじ。鞠(まり)、ひようとう、笛太鼓、七日七夜の吹き囃(はや)し、心、ことばも及ばれず。  
第六
このこと、父横山殿にもれ聞こえ、五人の公達(きんだち)を、御前(まえ)に召され、「やあ、いかに、嫡子のいへつぐ、乾の方(かた)の主殿造りへは、初めての御客来のよしを申するが、なんぢは存ぜぬか」との御諚(ごじょう)なり。いへつぐ、このよし承り、「父御さへ、御存じなきことを、それがし、存ぜぬ」とぞ申すなり。横山、大きに、腹を立て、「一門知らぬ、その中へ、おし入りて、聟入りしたる、大剛(ごう)の者を、武蔵、相模、七千余騎を催して、小栗討たん」との詮議なり。いへつぐ、このよし承り、烏帽子の招(まねき)を、地につけて、涙をこぼいて申さるる。「なういかに、父の横山殿、これは譬へで御ざないが、鴨は寒(かん)じて、水に入(い)る、鶏、寒うて、木へ上(のぼ)る、人は滅びようとて、まへなひ心が、猛(たけ)うなる、油火(あぶらび)は、消えんとて、なほも光が増すとかの。あの小栗と申するは、天よりも降(ふ)り人の、子孫なれば、力は八十五人の力、荒馬乗つて、名人なれば、それに劣らぬ十人の殿原たちは、さて異国の魔王のごとくなり。武蔵、相模、七千余騎を催して、小栗討たうとなさるると、たやすう討つべきやうもなし。あはれ、父横山殿様は、御存じないよしで、婿にもお取りあれがなの。それをいかにと申するに、父横山殿様の、いづくへなりとも、御陣立ちとあらん、その折は、よき弓矢の方人(かたうど)で御ざないか。父横山殿」との教訓ある。横山、このよし聞こしめし、「今までは、いへつぐが、存ぜぬよしを申したが、悉皆許容(しっかいきょよう)と見えてある。見れば、なかなか腹も立つ。御前(おまえ)を立て」との、御諚なん(なりカ)。三男の三郎は、父御の、目の色を見申し、「道理かなや、父御様。それがしが、たくみ出だしたことの候。まづ、明日(あす)になるならば、婿と、しゆと(しうとカ)の、見参(げんぞう)とて、乾の局へ、使者をお立て候へや。大剛の者ならば、怖(お)めず、臆せず、憚らず、御出仕申さう、その折に、一献(いっこん)過ぎ、二献過ぎ、五献通りて、その後に、横山殿の、御諚には、「なにか、都の御客来、芸一つ」と、お申しあるものならば、それ、小栗が申さうやうは、「なにがしが芸には、弓か、鞠(まり)か、包丁か、力業(ちからわざ)か、早業か、盤の上の遊びか、とつくお好みあれ」と、申さう。そのときに、横山殿のお申しあらうは、「いやそれがしは、さやうのものには好かずして、奥よりも乗りにもいらぬ、牧出(まきい)での駒を、一匹持つて候(ぞう)。ただ一馬場(ひとばば)」と、御所望あるものならば、常の馬よと心得て、引き寄せ乗らう、その折に、かの鬼鹿毛(おにかげ)が、いつもの人秣(ひとまぐさ)を入るると心得、人秣、さ(衍カ)に食(は)むものならば、太刀も刀もいるまいの。父の横山殿」と申すなり。横山、このよし聞こしめし、「いしう、たくんだ、三男かな」と、乾の局へ、使者が立つ。
小栗、このよし聞こしめし、上(かみ)よりお使ひを承らずとも、御出仕申さうと思うたに、お使ひを給はりて、めでたやと、膚には、青地の錦をなされ、かうまき(からまきカ)の直垂に、刈安様(かりやすよう)の水干に、玉の冠(かぶり)をなされ、十人の殿原たちも、都様(みやこよう)に、さも尋常やかに、出で立ちて、幕つかんで投げ上げ、座敷の体(てい)を、見てあれば、小栗、賞翫(しょうかん)と見えてあり。一段高う、左座敷にお直りある。横山八十三騎の人々も、千鳥掛けにぞ、並ばれたり。一献過ぎ、二献過ぎ、五献通りて、その後に、横山殿の御諚には、「なにか、都の御客来、芸を一つ」との、御所望なり。小栗、このよし聞こしめし、「なにがしが芸には、弓か、鞠か、包丁か、力業か、早業か、盤の上の遊びか、とつく、お好みあれ」との御諚なり。横山、このよし聞こしめし、「いやそれがしは、さやうのものには、好かずして、奥よりも、乗りにもいらぬ、牧出での駒、一匹持つて候。ただ一馬場」と、所望ある。小栗、このよし聞こしめし、ゐたる座敷を、ずんと立ち、厩(むまや)にこそは、お移りある。このたびは、異国の魔王、蛇(じゃ)に綱をつけたりとも、馬とだにいふならば、一馬場は、乗らうものをと思しめし、厩の別当、左近の尉(じょう)を、御前(まえ)に召され、四十二間(けん)の名馬の、その中(うち)を、あれかこれかと、お問ひある。「いやあれでもなし、これでもなし」。さはなくして、堰(いせき)隔(へだ)つて、八町の、萱野(かやの)を期して御供ある。
左手(ゆんで)と右手(めて)の、萱原を、見てあれば、かの鬼鹿毛が、いつも食(は)み置いたる、死骨白骨、黒髪は、ただ算の乱(みだ)いたごとくなり。十人の殿原たちは御覧じて、「なういかに、小栗殿、これは、厩でなうて、人を送る野辺か」とぞ申さるる。小栗、このよし聞こしめし、「いやこれは、人を送る野辺にてもなし。上方(かみがた)に変り、奥方には、鬼鹿毛が、あると聞く。それがしが、おし入りて、聟入りしたが、科(とが)ぞとて、馬の秣(まぐさ)に、飼はうとする、やさしや」と、沖を、きつと御覧ある。かの鬼鹿毛が、いつもの人秣を、入るると心得、前掻きし、鼻嵐など、吹いたるは、鳴る雷(いかずち)のごとくなり。小栗、このよし聞こしめし、厩の体(てい)を、御覧ある。四町かひこめ、堀掘らせ、山出(だ)し、八十五人ばかりして、持ちさうなる、楠柱(くすのきばしら)を、左右(そう)に八本、たうたうと、より込ませ、真柱と見えしには、三抱(みかい)ばかりありさうなる、栗の木柱を、たうたうと、より込ませ、根引きにさせて、かなはじと、千貫(ちぬき)、枷(かせ)を、入れられたり。鉄(くろがね)の格子を張つて、貫(ぬ)きをさし、四方八つの鎖で、駒繋いだは、これやこの、冥土の道に聞こえたる、無間地獄の、構へとやらんも、これにはいかでまさるべし。
小栗、このよし、御覧じて、愚人(ぐにん)、夏の虫、飛んで火に入る。笛に寄る、秋の鹿は、妻ゆゑに、さてその身を、果たすとは、今こそ、思ひは知られたれ。小栗こそ、奥方へ、妻ゆゑ、馬の秣にの、飼はれたなんどと、あるならば、都の聞(き)けいも、恥づかしや。是非をも、さらにわきまへず。十人の殿原たちは御覧じて、「なういかに、小栗殿。あの馬に召され候へや。あの馬が、御主(おしゅう)の小栗殿を、少しも服(ぶく)すると見るならば、畜生とは申すまい。鬼鹿毛が、平首(ひらくび)のあたりを、一刀(ひとかたな)づつ、恨み申し、さてその後は、横山の遠侍(とおさぶらい)へ駈け入りて、目釘を境に、防ぎ戦ひして、三途(さんず)の大河を、敵も味方も、ざんざめいて、手と手と組んで、御供申すものならば、なんの子細の、あるべきぞ」。われ引き出ださん、人引き出ださんと、ただ一筋に、思ひきつたる矢先には、いかなる天魔鬼神も、たまるべきやうは、さらになし。小栗、このよし聞こしめし、「あのやうな、大剛な馬は、ただ力業では、乗られぬ」と、十人の殿原たちを、厩の外へおし出だし、馬に宣命(せみょう)を、含めたまふ。「やあいかに、鬼鹿毛よ。なんぢも、生(しょう)ある、ものならば、耳を振り立て、よきに聞け。余(よ)なる馬と申するは、常の厩に、繋がれて、人の食(は)まする餌を食(は)うで、さて人に従へば、尊(たっと)い思案してらよ、さて門外に繋がれて、経念仏を、聴聞し、後生大事とたしなむに、さてもなんぞや、鬼鹿毛は、人秣を食むと、聞くからは、それは畜生の中での、鬼ぞかし。人も、生(しょう)あるものなれば、なんぢも、生あるものぞかし、生あるものが、生あるものを、服しては、さて後の世を、なにと思ふぞ、鬼鹿毛よ。それはともあれ、かくもあれ、よしこのたびは、一面目(ひとめんぼく)に、一馬場乗せてくれよかし。一馬場、乗するものならば、鬼鹿毛、死してのその後に、黄金御堂(こがねみどう)と、寺を立て、さて鬼鹿毛が、姿をば、真の漆で固めてに、馬をば、馬頭観音と、斎(いお)ふべし。牛は、大日如来の化身(けしん)なり。鬼鹿毛、いかに」と、お問ひある。人間は、見知り申さねど、鬼鹿毛は、小栗殿の額に、よねといふ字が、三行(みくだり)坐り、両眼に、瞳の四体御ざあるを、たしかに拝み申し、前膝をかつぱと折り、両眼より、黄なる涙をこぼいたは、人間ならば、乗れと言はぬばかりなり。小栗、このよし御覧じて、さては乗れとの志、乗らうものをと思しめし、厩の別当、左近の尉を御前に召され、「鍵くれい」との御諚なり。左近はこのよし承り、「なういかに小栗殿、この馬と申するは、昔繋いで、その後に、出づることがなければ、鍵とては、預からぬ」とこそは申しけれ。小栗、このよし聞こしめし、さあらば、馬に力のほどを、見せばやと思しめし、鉄(くろがね)の格子に、すがりつき、「えいやつ」とお引きあれば、錠、肘金(ひじがね)はもげにけり。閂(かんぬき)取つて、かしこに置き、文(もん)をばお唱へあれば、馬に、癖はなかりけり。左近の尉を御前に召され、「鞍、鐙(あぶみ)」と、お乞ひある。左近の尉は、「承つて、御ざある」と、余なる馬の金覆輪(きんぶくりん)に、手綱(たづな)二筋縒り合はせ、たうりやうの鞭を、相添へて、参らする。小栗、このよし御覧じて、「かやうなる、大剛の馬には、金覆輪は合はぬ」とて、当座の曲乗りに、肌背(はだせ)に乗りて、みせばやと、思しめし、たうりやうの鞭ばかり、お取りあつて、四方八つの鎖をも、一所(ひとところ)へおし寄せて、「えつやつ」と、お引きあれば、鎖も、はらりと、もげにけり。  
第七
これを、手綱に縒り合はせ、まん中、駒にかんしと噛ませ、駒引つ立てて、褒められたり。「脾腹(ひばら)三寸に肉(しし)余つて、左右(そう)の面顔(おもか)に、肉(しし)もなく、耳小(ちい)さう分け入つて、八軸の御経を、二巻取つて、きりきりと、巻き据ゑたがごとくなり。両眼は、照る日月の燈明の、輝くがごとくなり。吹嵐(ふきあらし)は、千年経たる法螺の貝を、二つ合はせたごとくなり。須弥(しめ)の髪のみごとさよ、日本一の山菅(すげ)を、もとを揃へて、一鎌(ひとかま)刈つて、谷嵐に一揉(ひとも)み揉ませ、ふはとなびいたごとくなり。胴の骨の様態(ようだい)は、筑紫弓(つくしゆみ)のじやうはりが弦(つる)を恨み、ひと反(そ)り、反つたがごとくなり。尾は、山上の滝の水が、たぎりにたぎつて、たうたうと落つるがごとくなり。後ろの別足(べっそく)は、たうのしんとほんとはらりと落とし、盤の上に、二面並べたごとくなり。前脚の様態は、日本一の鉄(くろがね)に、有所(ありど)に、節(ふし)をすらせつつ、作りつけたるごとくなり。この馬と申すは、昔繋ぎて、その後に、出づることのなければ、爪は厚うて、筒高し。余なる馬が、千里を駈くるとも、この馬においては、つくべきやうはさらになし」。かやうに、お褒めあつて、厩の出(だ)し鞭(ぶち)、しつとと打ち、堀の船橋、とくりとくりと、乗り渡し、この馬が、進みに進みて、出づるやうを、ものによくよく譬ふるに、竜(りょう)が、雲を引き連れ、猿猴(えんこう)が、梢を伝ひ、荒鷲が、鳥屋(とや)を破つて、雉(きじ)に会ふがごとくなり。八町の、萱原(かやはら)を、さつくと出(だ)いては、しつとと止め、しつとと出(だ)いては、さつくと止め、馬の性(しょう)はよかりけり。十人の殿原たちは、あまりのことのうれしさに、五人づつ立ち分かれ、や声(ごえ)をあげてぞ、褒められたり。横山八十三騎の人々は、今こそ、小栗が、最期を見んと、われ先せんとは、進めども、「これはこれは」とばかりにて、もの言ふ人も、さらになし。
三男の三郎は、あまりのことの、おもしろさに、十二格(こ)の、登梯(のぼりばし)を取り出だし、主殿の屋端(やはな)へさし掛けて、腰の御扇にて、これへこれへと、賞翫(しょうかん)ある。小栗、このよし御覧じて、とても乗る上、乗つてみせばやと、思しめし、四足を揃へ、十二格(こ)の登梯を、とつくりとつくりと、乗り上げて、主殿の屋端を、駈けつ、かへひつ(かへしつカ)、お乗りあつて、真逆様に、乗り降ろす。岩石(がんせき)降ろしの、鞭(ぶち)の秘所。いへつぐ、このよし見るよりも、四本がかりと、好まれたり。四本がかりの松の木へ、とつくりとくりと、乗り上げて、真逆様に、乗り降ろす。岨(そば)づたひの、鞭の秘所。障子の上に、乗り上げて、骨をも折らさず、紙をも破らぬは、沼渡しの、鞭の秘所。碁盤の上の、四つ立(だ)てなんども、とつくりとくりと、お乗りあつて、鞭の秘所、と申するは、立鼓(りゅうご)そうかう、蹴上げの鞭、あくりう、こくりう、せんたん、ちくるい、めのふの鞭。手綱の秘所と申するは、さしあひ、浮舟、浦の波、とんぼう返り、水車、鴫(しぎ)の羽(は)返し、衣被(きぬかずき)、ここと思ひし、鞭の秘所、手綱の秘所を、お尽くしあれば、名は、鬼鹿毛とは、申せども、勝(まさ)る、判官殿に、胴の骨をはさまれて、白泡(しらあわ)、噛(こ)うでぞ、立つたりけり。
小栗殿はなけれど、裾の塵、うち払ひ、三抱(みかい)ばかりありさうなる、桜の古木(こぼく)に、馬引き繋ぎ、もとの座敷に、お直りある。「なう、いかに、横山殿。あのやうな、乗り下のよき馬が、あるならば、五匹も、十匹も、婿引出物に、給はれや。朝夕、口乗り和らげて、まゐらせう」と、お申しあれば、横山八十三騎の人々、なにもをかしいことはなけれども、苦(にが)り笑□といふものに、一度にどつと、お笑ひある。馬の法命(ほうみょう)や起るらん、小栗殿の御威勢やらん、三抱(みかい)ばかり、ありう(ママ)さうなる、桜の古木を根引きに、ぐつと引き抜いて、堀三丈を跳び越え、武蔵野に駈け出づれば、小山の動くがごとくなり。横山、このよし御覧じて、今は、都の御客来に、手擦(す)らいでは、かなはぬところと思しめし、「なういかに、都の御客来、あの馬、止めてたまはれや。あの馬が、武蔵、相模、両国に、駈け入るものならば、人種(ひとだね)とては、御ざあるまい」と、御諚なり。小栗、このよし聞こしめし、そのやうな、手に余つた馬をば、飼はぬが法とは申したうは候へども、それを申せば、なにがしの、恥辱なりと思しめし、小高い所へさし上がり、芝繋ぎといふ文(もん)を、お唱へあれば、雲を霞に、駈くるこの馬が、小栗殿の御前(まえ)に参り、諸膝(もろひざ)折つてぞ、敬うたり。小栗、このよし御覧じて、「なんぢは、豪儀(ごうぎ)をいたすよ」と、もとの御厩(みまや)へ、乗り入れて、錠肘金(じょうひじがね)を、とつくと下ろいてに、さてその後、照手の姫を、御供なされてに、常陸の国へ、お戻りあるものならば、末はめでたからうもの、また、乾の局に、移らせたまうたは、小栗、運命尽きたる、次第なり。
横山八十三騎の人々は、一つ所へ、さし集まらせたまうてに、あの小栗と申するを、馬で殺さうとすれど、殺されず、とやせん、かくやせんと、思しなさるるが、三男の三郎は、後の功罪は、知らずして、「なういかに、父の横山殿。それがしが、今一つたくみ出だしたことの候。まづ明日になるならば、昨日の馬の、御辛労分(ごしんろうぶん)と、思しめし、蓬莱の山を、からくみ、いろいろの毒を集め、毒の酒を造り立て、横山八十三騎の、飲む酒は、初めの酒の酔ひが醒め、不老不死の薬の酒、小栗十一人に盛る酒は、なにか七ふつの、毒の酒を、お盛りあるものならば、いかに大剛の、小栗なればとて、毒の酒には、よも勝つまいの、父の横山殿」と、教訓ある。  
第八
横山、このよし聞こしめし、「いしう、たくんだ、三男かな」と、乾の局に、使者が立つ。小栗殿は、一度の御使ひに、領承(りょうじょう)なし。二度の使ひに、御返事なし。以上御使ひは、六度立つ。七度の使ひには、三男の三郎殿の御使ひなり。小栗、このよし御覧じて、「御出仕申すまいとは、思へども、三郎殿の御使ひ、なによりもつて、祝着(しゅうちゃく)なり。御出仕申さう」と、お申しあつたは、小栗、運命尽きたる、次第なり。人は、運命、尽(つ)けうとて、智恵の鏡も、かき曇り、才覚の花も、散り失せて、昔が今に至るまで、親より、子より、兄弟より、妹背夫婦の、その中に、諸事のあはれをとどめたり。
あらいたはしやな、照手の姫は、夫(つま)の小栗へ御ざありて、「なういかに、小栗殿。今当代(いまとうだい)の、世の中は、親が子を、謀(たばか)れば、子はまた親に、たてをつく。さても、昨日(きのう)の鬼鹿毛(おにかげ)に、お乗りあれとあるからは、御覚悟ないかの、小栗殿。さて明日の、蓬莱の山の、御見物、お止まりあつて、たまはれの。さて、みづからが、お止まりあれと、申するに、それに、御承引の、なきならば、夢物語を申すべし。さて、みづからどもに、さて、七代伝はつたる、唐(から)の鏡が御ざあるが、さてみづからが、身の上に、めでたきことのある折は、表が、正体(しょうだい)に、拝まれて、裏にはの、鶴と亀とが、舞ひ遊ぶ。中で、千鳥が、酌を取る。また、みづからが、身の上に、悪(あ)しいことのある折は、表も裏も、かき曇り、裏にて、汗をおかきある。かやうな、鏡で御ざあるが、さて過ぎし夜の、その夢に、天より鷲が舞ひ下がり、宙(ちゅう)にて、三(み)つに蹴割りてに、半分は、奈落をさして、沈み行く。中(なか)は微塵と、砕け行く。さて、半分の、残りたを、天に、鷲が掴(つか)うであると、夢に見た。第二度の、その夢に、小栗殿様の、常陸の国よりも、常に御重宝なされたる、九寸五分(ふん)の鎧通(よろいどおし)がの、はばきもとより、ずんと折れ、御用に立たぬと、夢に見た。第三度のその夢に、小栗殿様の、常に御重宝なされたる、村重藤(むらしげどう)の御弓も、これも、鷲が、舞ひ下がり、宙(ちゅう)にて、三つに蹴折りてに、本弭(もとはず)は、奈落をさして、沈み行く。中(なか)は微塵と、折れて行く。さて末弭(うらはず)の残りたを、小栗殿の、御ためにと、上野(うわの)が原に、卒塔婆に立つと、夢に見た。さて過ぎし夜(よ)の、その夢に、小栗十一人の殿原たちは、常の衣裳を召し替へて、白き浄衣(じょうえ)に様を変へ、小栗殿様は、葦毛(あしげ)の駒に、逆鞍(さかぐら)置かせ、逆鐙(さかあぶみ)を掛けさせ、後(あと)と先(さき)とには、御僧たちを、千人ばかり、供養して、小栗殿の、しるしには、幡(はた)、天蓋を、なびかせて、北へ北へと御ざあるを、照手あまりの悲しさに、跡を慕うてまゐるとて、横障(おうしょう)の、雲に隔てられ、見失うたと、夢に見た。さて、夢にだに、夢にさよ、心乱れて、悲しいに、自然この夢合ふならば、照手はなにとならうぞの。さて明日の、蓬莱の山の門出でに、悪しき夢では、御ざなきか。お止まりあつてたまはれの」。
小栗、このよし聞こしめし、女が夢を見たるとて、なにがしの、出で申せとある所へ参らでは、かなはぬところと思しめし、されども気にはかかると、直垂の裾を結び上げ、夢違(ゆめちが)への文(もん)に、かくばかり、
唐国(からくに)や、園(その)の矢先に、鳴く鹿も、ちが夢あれば、許されぞする
かやうに詠じ、小栗殿は、膚には青地の錦をなされ、かうまき(からまきカ)の直垂に、刈安色の水干(すいかん)に、わざと冠(かぶり)は召さずして、十人の殿原たちも、都様(みやこよう)に尋常やかに、出で立ちて、幕つかんで投げ上げ、もとの座敷にお直りある。横山八十三騎の人々も、千鳥掛けにぞ、並ばれたり。
一献(こん)過ぎ、二献過ぎ、五献通れど、小栗殿は、「さて、それがしは、今日は来(き)の宮信仰、酒断酒(さかだんじゅ)」と申してに、盃のきようたいは、さらになし。横山、このよし御覧じて、ゐたる座敷を、ずんと立ち、あの小栗と申するは、馬で殺さうとすれど、殺されず、また酒で、殺さうとすれば、酒を飲まねば、詮もなし。とやせん、かくやせんと、思しなさるるが、「ここに、思ひ出だしたることの候」と、実(み)もない、法螺の貝を一対、取り出だし、碁盤の上に、だうと置き、「御覧候へ、小栗殿。武蔵と、相模は、両輪(りょうわ)のごとく、武蔵なりとも、相模なりとも、この貝飲(かいの)みに入れて、半分、おし分けて、参らすべし。これを肴となされ、ひとつ、聞こしめされ候へや。今日の来の宮信仰、酒断酒は、なにがしが、負ひ申す」と、立つて、舞をぞ舞はれける。小栗、このよし御覧じて、なにがしがなにがしに、所領を添へて、給はる上、なんの子細のあるべきと、ひとつたんぶと、控へたまへば、下(しも)も次第に通るなり。横山、このよし御覧じて、よき隙間よと、心得てに、二口、銚子ぞ、出でたりけり。中に隔ての酒を入れ、横山八十三騎の飲む酒は、初めの酒の、酔(え)ひが醒め、不老不死の薬の酒、小栗十一人に盛る酒は、なにか七ぶすの、毒の酒のことなれば、「さて、この酒飲むよりも、身にしみじみと沁むよさて、九万九千の毛筋穴、四十二双(そう)の折骨(おりぼね)や、八十双の番(つがい)の骨までも、離れて行けと、沁むよさて、はや、天井も、大床(おおゆか)も、ひらりくるりと、舞ふよさて、これは毒ではあるまいか、御覚悟あれや、小栗殿。君の奉公は、これまで」と、これを最期の言葉にし、後ろの屏風を、便りとし、後ろへどうと、転ぶもあり、前へかつぱと伏すもあり。小栗殿、左手(ゆんで)と、右手(めて)とは、ただ将棋を、倒いたごとくなり。まだも小栗殿様は、さて大将と見えてある。刀の柄に手を掛けて、「なういかに、横山殿。それ憎い弓取りを、太刀や刀は、いらずして、寄せ詰め、腹を切らせいで、毒で殺すか、横山よ。女業(おんなわざ)な、な召されそ。出でさせたまへ。刺し違へて、果たさん」と、抜かん、斬らん、立たん、組まん、とは、なさるれど、心ばかりは、高砂の松の緑と、勇めども、次第に毒が、身に沁めば、五輪五体が、離れ果て、さて今生(こんじょう)へと行く息は、屋棟(やむね)を伝ふささぐもの、糸引き棄つるがごとくなり。さて冥途へと、引く息は、三つ羽(ば)の征矢(そや)を射るよりも、なほも速うぞ覚えたり。冥途の息が、強ければ、惜しむべきは、年のほど、惜しまるべきは、身の盛り、御年積もり、小栗、明け二十一を、一期(いちご)となされ、朝(あした)の露とおなりある。横山、このよし、御覧じて、今こそ、気は散じたれ。これも名ある、弓取りなれば、博士(はかせ)をもつて、お問ひある。博士、参り、占ふやうは、「十人の殿原たちは、御主(おしゅう)にかかり、非法の死にの、ことなれば、これをば体を、火葬に召され候へや。小栗一人は、名大将のことなれば、これをば体を、土葬に召され候へ」と、占うたは、また小栗殿の、末繁盛とぞ、占うたり。横山、このよし聞こしめし、「それこそ、易(やす)き間(あいだ)ぞ」とて、土葬と火葬と、野辺の送りを早めてに、鬼王、鬼次、兄弟、御前(まえ)に召されて、「やあいかに、兄弟よ。人の子を殺いてに、わが子を殺さねば、都の聞(きけ)いもあるほどに、不便(ふびん)には思へども、あの照手の姫が、命をも、相模川や、おりからが淵に、石の沈めにかけてまゐれ、兄弟」との、御諚なり。
あらいたはしや、兄弟は、なにとも、ものは言はずして、申すまいよの宮仕ひ、われ兄弟は、義理の前、身かき分けたる親だにも、背きなさるる世の中に、さあらば、沈めにかけばやと、思ひつつ、やすく諒承(りょうじょう)なされてに、照手の局へ御ざありて、「なういかに、照手様。さて夫(つま)の小栗殿、十人の殿原たちは、蓬莱の山の御座敷で、御生害(しょうがい)で御ざあるぞ。御覚悟あれや、照手様」。照手、このよし聞こしめし、「なにと申すぞ、兄弟は。時も時、折も折、間近う寄つて、もの申せ。さて夫(つま)の小栗殿、十人の殿原たちは、蓬莱の山の御座敷で、御生害と申すかよ。さても悲しの次第やな。さてみづからが、いくせのことを申したに、つひに御承引、御ざなうて、今の憂き目の悲しやな。みづから夢ほど、知るならば、蓬莱の山の、座敷へ参りてに、夫(つま)の小栗殿様の、最期に、お抜きありたる刀をば、心(こころ)もとへつき立てて、死出三途(しでさんず)の大川を、手と手と組んで、御供申すものならば、今の憂い目の、よもあらじ」。泣いつ、くどいつ、なさるるが、嘆くに、かひがあらばこそ。ちきり村濃(むらご)の御小袖、さて一重(ひとかさ)ね取り出だし、「やあいかに、兄弟よ。これは兄弟に、取らするぞ。おんないしうの、形見と見、思ひ出(だ)したる折々は、念仏申してたまはれの。唐(から)の鏡やの、十二の手具足(てぐそく)をば、うへの寺へ上げ申し、姫が亡き跡、問うてたまはれの。憂き世にあれば、思ひ増す。姫が末期を、早めん」と、  
第九
手づから、牢輿(ろうごし)にな(めカ)さるれば、御乳(おち)や、乳母(めのと)やの、下(しも)の水仕(みずし)に至るまで、われも御供申すべし、われも御供申さんと、輿(こし)の轅(ながえ)に、すがりつき、みなさめざめとお泣きある。照手、このよし、聞こしめし、「道理かなや、女房たち。隣国他国の者にまで、馴るれば、名残(なごり)の惜しいもの。ましてや、御乳や乳母のことなれば、名残の惜しいも、道理かな。千万の命を、くれうより、沖がかつぱと、鳴るならば、今こそ、照手が最期よと、鉦鼓(しょうご)音づれ、念仏申してたまはれの。憂き世にあれば思ひ増す。姫が末期を、早めい」と、おいそぎあれば、ほどもなく、相模川にと、お着きある。
相模川にも、着きしかば、小船一艘、おし下ろし、この牢輿を乗せ申し、押すや舟、漕ぐや舟、唐櫓(からろ)の音に驚いて、沖の鴎は、はつと立つ。渚(なぎさ)の千鳥は、友を呼ぶ。照手、このよし聞こしめし、「さて千鳥さへ、千鳥さよ、恋しき友をば、呼ぶものを、さてみづからは、たれを便りにと、をりからが淵へ、いそぐよ」と、泣いつくどいつなさるるが、おいそぎあれば、ほどもなく、おりからが淵にと、お着きある。をりからが淵にも、着きしかば、あらいたはしや、兄弟は、ここにや、沈めにかけん、かしこにてや、沈めにかけんと、沈めかねたるありさまかな。兄の鬼王が、弟の、鬼次を近づけて、「やあいかに、鬼次よ。あの牢輿の中(うち)なる、照手の姫の姿を、見まらひ(ひらカ)すれば、出づる日に、蕾(つぼ)む花のごとくなり。またわれら、両人が、姿を見てあれば、入る日に散る花の、ごとくなり。いざや、命を助けまゐらせん。命を助けたる、科(とが)ぞとて、罪科に行はるると申しても、力及ばぬ次第なり」。「その儀にて御ざあらば、命を助けてまゐらせん」と、後(あと)と先との、沈めの石を、切つて放し、牢輿ばかり、突き流す。陸(くが)にまします人々は、今こそ照手の最期よと、鉦鼓音づれ、念仏申し、一度に、わつと叫ぶ声、六月半ばのことなるに、蚊の鳴く声も、これにはいかでまさるべし。
あらいたはしやな、照手の姫は、さて牢輿の中(うち)よりも、西に向かつて、手を合はせ、観音の要文(ようもん)に、かくばかり、「五逆生滅、しゆしゆしやうさい、一切衆生、即身成仏、よき島にお上げあつて、たまはれ」と、この文(もん)を、お唱へあれば、観音も、これをあはれと思しめし、風にまかせて、吹くほどに、ゆきとせが浦にぞ、吹き着くる。ゆきとせが浦の、漁師たちは、御覧じて、「いづかたよりも、祭りものして、流いたわ。見て、まゐれ」とぞ、申すなり。若き船頭たちは、「承つて御ざある」と、見まゐらすれば、「牢輿に、口がない」とぞ申すなり。太夫たちは、聞こしめし、「口がなくば、打ち破つて、見よ」とぞ申しける。「承つて御ざある」と、櫓櫂(ろかい)をもつて、打ち破つて見てあれば、中(なか)には、楊柳(ようりゅう)の、風にふけたるやうな、姫の一人、涙ぐみておはします。太夫たちは、これを見て、「さてこそ申さぬか、このほど、この浦に、漁のなかつたは、その女ゆゑよ。魔縁(まえん)、化生(けしょう)の者か、または竜神の者か、申せ申せ」と、櫓櫂をもつて打ちける。
中(なか)にも、村君(むらぎみ)の太夫殿と申すは、慈悲第一の人なれば、あの姫、泣く声を、つくづくと聞き申し、「なういかに、船頭たち、あの姫の泣く声を、つくづくと聞くに、魔縁、化生の者でもなし、または竜神の者でもなし。いづくよりも、継母の仲の讒(ざん)により、流され姫と見えてあり。御存じのごとく、それがしは、子もない者のことなれば、末の養子と頼むべし。それがしに、給はれ」と、太夫は、姫を、わが宿に、御供をなされ、内の姥(うば)を近づけて、「やあいかに、姥。浜路(はまじ)よりも、養子の子を、求めてあるほどに、よく育(はごく)んでたまはれ」とぞ申しける。姥、このよしを聞くよりも、「なういかに、太夫殿。それ、養子子(ようしご)なんどと申するは、山へ行きては、木を樵(こ)り、浜へ行きては、太夫殿の、相櫓(あいろ)も押すやうなる、十七八な、童(わっぱ)こそ、よき末の養子なれと申せ。あのやうな、楊柳の、さて風にふけたるやうな姫をば、六浦(もつら)が浦の商人(あきびと)に、料足(りょうそく)、一貫文か、二貫文、やすやすとうち売るものならば、銭(せん)をば儲け、よき末の、養子にてあるまいか。太夫、いかに」と申すなり。太夫このよし承り、あの姥と申するは、子があればあると申し、なければないと申す。「御身のやうな、邪慳な姥と連れ合ひをなし、ともに魔道へ、堕(お)ちやうより、家、財宝は、姥の暇(いとま)に参らする」と、太夫と姫は、諸国修業と、志す。姥、このよしを聞くよりも、太夫を取り放いては、大事と思ひ、「なういかに、太夫殿。今のは、座興(じゃきょう)言葉で御ざある。御身も子もなし、みづからも子もない者の、ことなれば、末の養子と、頼むまいか。お戻りあれや、太夫殿」。太夫、正直人(しょうじきびと)なれば、お戻りあつて、わが身の能作(のうさ)とて、沖へ釣りにお出でありたる、後(あと)の間(ま)に、姥がたくむ謀叛ぞ、恐ろしや。「それ夫(おっと)と申すは、色の黒いに飽くと聞く。あの姫の色黒うして、太夫に、飽かせう」と思しめし、浜路へ御供申しつつ、塩焼く蜑(あま)へ追ひ上げて、生松葉(なままつば)を、取り寄せて、その日は一日、ふすべたまふ。あらいたはしやな、照手様、煙(けぶり)の目口へ入るやうは、なにに譬へんかたもなし。なにか、照る日月の申子のことなれば、千手観音の、影身(かげみ)に添うて、お立ちあれば、そつとも、煙うはなかりけり。日も暮方になりぬれば、姥は、「姫降りよ」と見てあれば、色の白き花に、薄墨(うすずみ)さいたるやうな、なほも美人の姫と、おなりある。姥、このよしを見るよりも、「さてみづからは、今日は、実なしぼね折つたることの、腹立ちや。ただ売らばや」と思ひつつ、六浦(もつら)が浦の商人(あきびと)に、料足二貫文に、やすやすとうち売つて、「銭(ぜに)をば儲け、胸の炎(ほむら)は止(よ)うであるが、太夫の前の言葉に、はつたと、ことを欠いたよ。げにまこと、昔を伝へて聞くからに、七尋(なないろ)の島に、八尋(やいろ)の舟を繋ぐも、これも女人の智恵、賢い物語申さばや」と、待ちゐたり。太夫は、釣りからお戻りあつて、「姫は姫は」とお問ひある。姥、このよしを聞くよりも、「なういかに、太夫殿、今朝、姫は御身の跡を慕うて、参りたが、若き者のことなれば、海上へ、身を入れたやら、六浦(もつら)が浦の商人が、舟にも乗せて行きたやら、思ひも恋もせぬ姥に、思ひをかくる、太夫や」と、まづ姥は、そら泣きこそは、始めける。太夫、このよし承り、「なういかに、姥。心(しん)から悲しうて、こぼるる涙は、九万九千の、身の毛の穴が、潤ひわたりてこぼるる。御身の涙のこぼれやうは、六浦が浦の商人に、料足、一貫文か、二貫文に、やすやすとうち売つて、銭をば、儲け、首より空(そら)の、憂ひの涙と見てあるが、やはか、太夫が目が、眇(すがめ)か。御身のやうな、邪慳な人と、連れ合ひをなし、ともに、魔道へ、堕ちようより、家、財宝は、姥の暇(いとま)に、参らする」と、太夫は、元結(もとい)切り、西へ投げ、濃き墨染に様(さま)を変え、鉦鼓(しょうご)を取りて、首に掛け、山里へ閉ぢこもり、後生大事と、お願ひあるが、みな人これを御覧じて、村君の太夫殿を、褒めぬ人とて、さらになし。
これは太夫殿御物語。さておき申し、ことにあはれをとどめたは、六浦が浦に御ざある、照手の姫にて、諸事のあはれを、とどめけり。あらいたはしやな、照手の姫を、六浦が浦にも買ひ止めず、釣竿の島にと、買うて行く。釣竿の島の商人が、価(あたい)が増さば、売れやとて、鬼が塩谷(しおや)に、買うて行く。鬼の塩谷の商人が、価が増さば売れやとて、岩瀬、水橋(みずはせ)、六渡寺(ろくどうじ)、氷見(ひび)の町家(まちや)へ、買うて行く。氷見の町家の商人が、能がない、職がないとてに、能登の国とかや、珠洲(すず)の岬へ、買うて行く。  
第十
あらおもしろの、里の名や、よしはら、さまたけ、りんかうし、宮の腰にも、買うて行く。宮の腰の商人(あきびと)が、価が増さば、売れよとて、加賀の国とかや、もとをりこまつへ、買うて行く。もとをりこまつの商人が、価が増さば、売れやとて、越前の国とかや、三国(みくに)の湊(みなと)へ、買うて行く。三国湊の商人が、価が増さば売れやとて、敦賀の津へも、買うて行く。敦賀の津の商人が、能がない、職がないとてに、海津(かいづ)の浦へ、買うて行く。海津の浦の商人が、価が増さば売れやとて、上り大津へ、買うて行く。上り大津の商人が、価が増すとて、売るほどに、商ひ物の、おもしろや、後(あと)よ、先よ、と売るほどに、美濃の国、青墓(おうはか)の宿(しゅく)、万屋(よろずや)の君の長(ちょう)殿の、代(しろ)を積もつて十三貫に、買ひ取つたはの、諸事のあはれと、聞こえたまふ。君の長は御覧じて、あらうれしの御(おん)ことや、百人の流れの姫を、持たずとも、あの姫一人、持つならば、君の長夫婦は、楽々と、過ぎやうことのうれしやと、一日二日(ひとひふつか)は、よきに、寵愛をなさるるが、ある日の、雨中のことなるに、姫を、御前(おまえ)に召され、「なういかに、姫、これの内には、国名(くにな)を呼うで、使ふほどに、御身の国を申せ」とぞ申すなり。照手、このよし聞こしめし、常陸の者とも申したや、相模の者とも申したや。ただ夫(つま)の古里(ふるさと)なりとも、名につけて、朝夕さ、呼ばれてに、夫(つま)に添ふ、心をせうと、思しめし、こぼるる涙のひまよりも、常陸の者との御諚(ごじょう)なり。君の長は聞こしめし、「その儀にてあるならば、今日より御身の名をば、常陸小萩とつくるほどに、明日にもなるならば、これよりも、鎌倉関東の、下(お)り上(のぼ)りの商人(あきびと)の、袖をも控へ、御茶の代はりをもお取りありて、君の長夫婦も、よきに育(はごく)んでたまはれ」と、十二単(ひとえ)を参らする。照手、このよし聞こしめし、「さては、流れを立ていとよ。今、流れを立つるものならば、草葉の陰に御ざあるの、夫(つま)の小栗殿様の、さぞや無念に思すらん。なにとなりとも申してに、流れをば立てまい」と思しめし、「なういかに、長殿様。さてみづからは、幼少で、二親(にしん)の親に過ぎ後れ、善光寺詣りを申すとて、路次(ろし)にて人が、かどはかし、あなたこなたと、売らるるも、内に悪い病(やもう)が御ざあれば、夫(おっと)の膚を触るればの、かならず、病が起こりて、悲しやな。病の重るものならば、値の下がらうは、一定(いちじょう)なり。値の下がらぬその先に、いづくへなりとも、お売りあつてたまはれの」。君の長は、聞こしめし、「二親の親に後れいで、一人の夫(おっと)に後れ、けいしん(けんしんカ)立つる女と見えてある。なにと、賢人立つるとも、手痛いことを、あてがふものならば、流れを立てさせう」と、思しめし、「なういかに常陸小萩殿、さて明日になるならば、これよりも、蝦夷(えぞ)、佐渡、松前(まつまい)に売られてに、足の筋を断ち切られ、日にて、一合の食を服(ぶく)し、昼は、粟の鳥を追ひ、夜は、魚・鮫(うおざめ)の餌(え)にならうか、十二単を、身に飾り、流れを立てうか、あけすけ好め、常陸小萩殿」との御諚なり。照手、このよし聞こしめし、「おろかなる長殿の御諚(ごじょう)やな。たとはば明日は、蝦夷、佐渡、松前に売られてに、足の筋を断ち切られ、日にて、一合の食を服し、昼は粟の鳥を追ひ、夜は魚・鮫の、餌になるともの、流れにおいては、え立てまいよの、長殿様」。君の長は聞こしめし、「憎いことを申すやな。やあいかに、常陸小萩よ、さてこれの内にはの、さて百人の流れの姫がありけるが、その下(しも)の水仕(みずし)はの、十六人して仕(つかまつ)る。十六人の下の水仕をば、御身一人して申さうか、十二単で、身を飾り、流れを立てうかの、あけすけ好まい、小萩殿」。照手、このよし聞こしめし、「おろかな長殿の御諚やな。たとはば、それがしに、千手観音の御手ほどあればとて、その十六人の下の水仕がの、みづから一人してなるものか。承れば、それも女人の諸職と、承る。たとはば、十六人の下の水仕は申すとも、流れにおいてはの、え立てまいよの、長殿様」。君の長は聞こしめし、「憎いことを申すやの。その儀にてもあるならば、下の水仕をさせい」とて、十六人の下の水仕をば、一度に、はらりと追ひ上げて、照手の姫に渡るなり。「下(くだ)る雑駄(ぞうだ)が五十匹、上る雑駄が五十匹、百匹の、馬が着いたは。糠(ぬか)を飼へ」。「百人の馬子どもの、足の湯、手水(ちょうず)、飯(はん)の用意、仕れ」。「十八町の野中なる、御茶の清水を上げさいの」。「百人の流れの姫の、足の湯、手水、御鬢(おびん)に参らい、小萩殿」。こなたへは、常陸小萩、あなたへは、常陸小萩と、召し使へども、なにか、照る日月の申子のことなれば、千手観音の、影身に添うてお立ちあれば、いにしへの十六人の、下の水仕より、仕舞(しまい)は、早う置いてある。あらいたはしや、照手の姫は、それをも、辛苦に思しなされいで、立ち居に、念仏を、お申しあれば、流れの姫は、聞こしめし、「年にも足らぬ女房の、後生大事と、たしなむに、いざや、醜名(しこな)をつけて、呼ばん」とて、常陸小萩を、ひきかへて、念仏小萩と、おつけある。あなたへは、常陸小萩よ、こなたへは、念仏小萩と、召し使ふほどに、賤(しず)が仕業(しわざ)の縄襷(なわだすき)、人に、その身をまかすれば、襷のゆるまる暇(ひま)もなし。御髪(おぐし)の黒髪に、櫛の歯の入(い)るべきやうも、さらになし。かかるもの憂き奉公を、三年(みとせ)が間、なさるるは、諸事のあはれと聞こえたまふ。
これは、照手の姫の、御物語。さておき申し、ことに、あはれをとどめたは、冥途黄泉(めいどこうせん)に、おはします、小栗十一人の、殿原たちにて、諸事のあはれをとどめたり。閻魔大王様は御覧じて、「さてこそ申さぬか。悪人が参りたは。あの小栗と申するは、娑婆(しゃば)にありしそのときは、善と申せば遠うなり、悪と申せば近うなる、大悪人の者なれば、あれをば、悪修羅道(あくしゅらどう)へ、堕(おと)すべし。十人の殿原たちは、御主(おしゅう)にかかり、非法の死にの、ことなれば、あれをば、いま一度、娑婆へ戻いてとらせう」との御諚なり。十人の殿原たちは、承り、閻魔大王様へ御ざありて、「なういかに、大王様。われら十人の者どもが、娑婆へ戻りて、本望、遂(と)げうことは、難(かた)いこと。あの御主の、小栗殿を、一人、お戻しあつて、たまはるものならば、われらが本望まで、お遂げあらうは、一定(いちじょう)なり。われら十人の者どもは、浄土へならば、浄土へ、悪修羅道へならば、修羅道へ、科(とが)にまかせて、遣(や)りてたまはれの。大王様」とぞ申すなり。大王、このよし聞こしめし、「さてもなんぢらは、主(しゅう)に孝あるともがらや。その儀にてあるならば、さても末代の後記(こうき)に、十一人ながら、戻いてとらせう」と、思しめし、視る目とうせん、御前に召され、「日本(にっぽん)に体があるか、見てまゐれ」との御諚なり。承つて御ざあると、八葉(はちよう)の峯に上がり、にんは杖(じょう)といふ杖(つえ)で、虚空(こくう)を、はつたと打てば、日本は、一目に見ゆる。閻魔大王様へ参りつつ、「なういかに、大王様。十人の殿原たちは、御主にかかり、非法の死にのことなれば、これをば、体を火葬に仕り、体が御ざなし。小栗一人は、名大将のことなれば、これをば、体を土葬に仕り、体が御ざある。大王様」とぞ申すなり。大王、このよし聞こしめし、「さても、末代の後記に、十一人ながら、戻いてとらせうとは思へども、体がなければ、詮(せん)もなし。なにしに、十人の殿原たち、悪修羅道へは、堕すべし。われらが脇立ちに、頼まん」と、五体づつ、両の脇に、十王、十体と、お斎(いわ)ひあつて、今で、末世の衆生を、お守りあつておはします。  
第十一
さあらば、小栗、一人を戻せと、閻魔大王様の自筆の御判(ごはん)を、お据ゑある。「この者を、藤沢の御上人の、明堂聖(めいどうひじり)の、一の御弟子(みでし)に渡し申す。熊野本宮、湯の峯に、お入れあつて、たまはれや。熊野本宮、湯の峯に、お入れあつて、たまはるものならば、浄土よりも、薬の湯を上げべき」と、大王様の、自筆の御判を、お据ゑある。にんは杖(じょう)といふ杖で、虚空を、はつたと、お打ちあれば、あらありがたの御ことや、築(つ)いて、三年(ねん)になる、小栗塚が、四方へ、割れてのき、卒塔婆は前へ、かつぱと転び、群烏(むらがらす)、笑ひける。藤沢の御上人(おしょうにん)は、なんとかたへ御ざあるが、上野(うわの)が原に、無縁の者があるやらん、鳶(とび)烏(からす)が笑ふやと、立ち寄り御覧あれば、あらいたはしや、小栗殿、髪は、ははとして、足手は、糸より細うして、腹は、ただ鞠を、括(くく)たやうなもの、あなたこなたを、這ひ回る。両の手を、おし上げて、もの書くまねぞしたりける。かせにやよひと書かれたは、六根かたは、など読むべきか。さてはいにしへの小栗なり。このことを、横山一門に、知らせては、大事と思しめし、おさへて、髪を剃り、形(なり)が、餓鬼に似たぞとて、餓鬼阿弥陀仏(がきあみだぶ)とおつけある。上人、胸札(むなふだ)を御覧ずれば、閻魔大王様の、自筆の御判をお据ゑある。「この者を、藤沢の御上人の、明堂聖の、一の御(み)弟子に渡し申す。熊野本宮、湯の峯にお入れありてたまはれや。熊野本宮湯の峯に、お入れありてたまはるものならば、浄土よりも、薬の湯を上げべき」と、閻魔大王様の、自筆の御判据わりたまふ。あらありがたやの御ことやと、御上人も、胸札に、書き添へこそはなされける。「この者を、一引(ひとひ)き引いたは、千僧供養、二(ふた)引き引いたは、万僧供養」と、書き添へをなされ、土車(つちぐるま)を作り、この餓鬼阿弥を乗せ申し、女綱男綱(めづなおづな)を打つてつけ、御上人も、車の手縄にすがりつき、えいさらえいと、お引きある。上野が原を、引き出だす。相模畷(なわて)を、引く折は、横山家中の、殿原は、敵(かたき)小栗を、え知らいで、照手のために、引けやとて、因果の車に、すがりつき、五町ぎりこそ、引かれける。末をいづくと問ひければ、九日峠は、これかとよ。坂はなけれど、酒匂(さかわ)の宿(しゅく)よ、をひその森を、えいさらえいと、引き過ぎて、はや、小田原に、入りぬれば、狭(せば)い小路に、けはの橋、湯本の地蔵と、伏し拝み、足柄、箱根は、これかとよ。山中(やまなか)三里、四つの辻、伊豆の三島や、浦島や、三枚橋を、えいさらえいと、引き渡し、流れもやらぬ、浮島が原、小鳥囀(さえず)る、吉原の、富士の裾野を、まんのぼり、はや富士川で、垢離(こり)を取り、大宮浅間(せんげん)、富士浅間(せんげん)、心しづかに、伏し拝み、ものをも言はぬ、餓鬼阿弥に、「さらばさらば」と、暇乞ひ、藤沢さいて、下らるる。檀那がついて、引くほどに、吹上(ふきあげ)六本松は、これとかよ。清見が関に、上がりては、南を、はるかに眺むれば、三保の松原、田子の入海(いりうみ)、  
第十二
袖師(しでし)が浦の、一つ松、あれも、名所か、おもしろや。音にも聞いた、清見寺(せいけんじ)、江尻の細道、引き過ぎて、駿河の府内(ふない)に、入りぬれば、昔はないが、今浅間(せんげん)、君の御出でに、冥加(みようが)なや。蹴上げて通る、鞠子(まりこ)の宿(しゅく)。雉(きじ)がほろろを、撃つのやの、宇津の谷(や)峠を、引き過ぎて、岡部畷(なわて)を、まんのぼり、松にからまる、藤枝の、四方に海はなけれども、島田の宿を、えいさらえいと、引き過ぎて、七瀬(ななせ)、流れて、八瀬(やせ)落ちて、夜(よ)の間(ま)に、変る、大井川。鐘を、麓に、菊川の、月さしのぼす、小夜の中山、日坂(にっさか)峠を、引き過ぎて、雨降り流せば、路次悪(ろしわる)や、車に情けを、掛川の、今日はかけずの、掛川を、えいさらえいと、引き過ぎて、袋井畷(なわて)を、引き過ぎて、花は、見付(みつけ)の郷(ごう)に着く。あの餓鬼阿弥が、明日の命は知らねども、今日は池田の宿に着く。昔はないが、今切(いまきれ)の、両浦(りょううら)眺むる、潮見坂、吉田の今橋、引き過ぎて、五井(ごい)のこた橋、これとかや。夜(よ)はほのぼのと、赤坂の、糸繰りかけて、矢作(やはぎ)の宿(しゅく)。三河に掛けし、八橋の、蜘蛛手(くもで)にものや、思ふらん。沢辺に匂ふ、杜若(かきつばた)。花は咲かぬが、実は鳴海(なるみ)。頭護(とうご)の地蔵と、伏し拝み、一夜(いちや)の宿(やど)を、とりかねて、まだ夜は深き、星が崎、熱田の宮に、車着く。車の檀那御覧じて、かほど涼しき宮を、たれか、熱田とつけたよな。熱田大明神を、引き過ぎて、坂はなけれど、うたう坂、新しけれど、古渡(ふるわたり)、緑の苗を、引き植ゑて、黒田と聞けば、いつも頼もしの、この宿(しゅく)や。杭瀬川(くんぜがわ)の川風が、身に冷ややかに、沁むよさて、小熊(おおくま)河原を、引き過ぎて、おいそぎあれば、ほどもなく、土の車を、たれもただ、引くとは思はねど、施行(せんぎょう)車のことなれば、美濃の国、青墓(おうはか)の宿(しゅく)、万屋(よろずや)の、君の長(ちょう)殿の、門(かど)となり、なにたる因果の御縁やら、車が三日すたるなり。
あらいたはしや、照手の姫は、御茶の清水を上げに御ざあるが、この餓鬼阿弥を御覧じて、くどきごとこそ、あはれなれ。「夫(つま)の小栗殿様の、あのやうな姿をなされてなりともよ、うき世に御ざあるものならば、かほどみづからが、辛苦を申すとも、辛苦とは思ふまいものを」と、立ち寄り、胸札を御覧ある。「「この者を、一引き引いたは、千僧供養、二引き引いたは、万僧供養」と、書いてある。さて、一日(ひとい)の車道(くるまみち)、夫(つま)の小栗の御ためにも、引きたやな。さて一日(ひとい)の車道、十人の殿原たちの御ためにも、引きたやな。二日引いたる車道、かならず、一日(ひとい)に戻らうに、三日の暇(ひま)の欲しさよな。よき御機嫌を、まもりてに、暇(ひま)、乞はばや」と、思しめし、君の長(ちょう)へ、御ざあるが、「げにや、まことに、みづからは、いにしへ、御奉公申ししときに、夫(つま)ないよしを申してに、今、夫(つま)の御ためと、申すものならば、暇(ひま)を給はるまい」と思しめし、「うき世に御ざの二親(にしん)の親に、もてないて、暇(ひま)乞はばや」と思しめし、また、長殿へ御ざありて、「なういかに、長殿様。門(かど)に御ざある、餓鬼阿弥が、さて胸札を見てあれば、「この者を、一引き引いたは、千僧供養、二引き引いたは、万僧供養」と、書いてある。さて、一日(ひとい)の、車道、父の御ために、引きたやな。さて、一日の、車道、母の御ために、引きたやな。二日引いたる車道、かならず、一日に戻らうに、情けに三日の暇を給はれの」。君の長は、聞こしめし、「さても、なんぢは、憎いことを申すよな。いにしへ、流れを立ていと申す、その折に、流れを、立つるものならば、三日のことは、さておいて、十日なりとも、暇取らせんが、烏(からす)の、頭が、白くなつて、駒に、角が、生(は)ゆるとも、暇においては、取らすまいぞ、常陸小萩」とぞ申すなり。照手、このよし聞こしめし、「なういかに、長(ちょう)殿様。これは譬へで、御ざないが、費長房(ひちょうぼう)、丁令威(ていれい)は、鵜の羽交(はがい)に宿を召す、達磨尊者のいにしへは、芦(あし)の葉に宿を召す、張博望(ちょうはくぼう)のいにしへは、浮木(うきぎ)に宿を召すとかや。旅は心、世は情け、さて、回船は、浦がかり、捨子は、村の育(はごく)みよ。木があれば、鳥も棲む、港があれば、舟も入(い)る。一時雨(ひとしぐれ)、一村雨の、雨宿り、これも百生(ひゃくしょう)の、縁とかや。三日の暇を給はるものならば、自然後の世に、君の長夫婦、御身の上に、大事のあらんその折は、ひき替り、みづからが、身替りになりとも、立ち申さうに、情けに、三日の暇を給はれの」。君の長は聞こしめし、「さてもなんぢは、やさしいことを申すやな。暇取らすまいとは思へども、自然後の世に、君の長夫婦が、身の上に、大事のあらん、その折は、ひき替り、身替りに立たうと申したる、一言(いちごん)の言葉により、慈悲に情けを、あひ添へて、五日の暇を取らするぞ。五日が、六日に、なるものならば、二親(にしん)の親をも、阿鼻無間劫(あびむげんごう)に、堕(おと)すべし。車を引け」とぞ申されける。
照手、このよし、聞こしめし、あまりのことのうれしさに、徒歩(かち)や跣(はだし)で、走り出で、車の手縄に、すがりつき、一引き引いては、千僧供養、夫(つま)の小栗の御ためなり、二引き引いては、万僧供養、これは、十人の殿原たちの、おためとて、よきに回向(えこう)をなされてに、「承れば、みづからは、なりとかたちが、よいと聞くほどに、町や、宿(しゅく)や、関々で、徒名(あだな)取られて、かなはじと、また、長殿(ちょうどの)に、駈け戻り、古き烏帽子を、申し請け、さんての髪に、結びつけ、丈(たけ)と等(ひと)せの黒髪を、さつと乱いて、面(おもて)には、油煙(ゆえん)のすみを、お塗りあり、さて召したる小袖をば、裾を肩へと、召しないて、笹の葉に、幤(しで)をつけ、心は、ものに狂はねど、姿を、狂気にもてないて、引けよ、引けよ、子どもども、ものに、狂うてみせうぞと、姫が涙は、垂井(たるい)の宿(しゅく)。美濃と近江の、境なる、長競(たけくらべ)、二本杉、寝物語を、引き過ぎて、高宮(たかみや)川原に、鳴く雲雀、姫を問ふかよ、やさしやな。  
第十三
御代(みよ)は、治まる、武佐(むさ)の宿(しゅく)、鏡の宿に、車着く。照手、このよし聞こしめし、人は鏡と言はば言へ、姫が心は、このほどは、あれと申し、これと言ひ、あの餓鬼阿弥(がきあみ)に、心の闇がかき曇り、鏡の宿(しゅく)をも、見も分かず。姫が裾に、露は浮かねど、草津の宿、野路、篠原を、引き過ぎて、三国一の、瀬田の唐橋を、えいさらえいと、引き渡し、石山寺の、夜の鐘、耳に聳えて、殊勝なり。馬場、松本を、引き過ぎて、おいそぎあれば、ほどもなく、西近江に隠れなき、上り大津や、関寺や、玉屋の門(かど)に、車着く。
照手、このよし御覧じて、あの餓鬼阿弥に、添ひ馴れ申さうも、今夜ばかりと思しめし、別屋(べちや)に宿(やど)をも取るまいの、この餓鬼阿弥が車のわだてを、枕となされ、八声(やこえ)の鳥(とり)はなけれども、夜すがら泣いて、夜を明かす。五更(ごこう)の天も開(ひら)くれば、玉屋殿へ御ざありて、料紙、硯をお借りあり、この餓鬼阿弥が、胸札に、書き添へこそはなされけり。「海道(かいどう)七か国に、車引いたる人は多くとも、美濃の国、青墓(おうはか)の宿(しゅく)、万屋(よろずや)の君の長(ちょう)殿の、下水仕(しもみずし)、常陸小萩と言ひし姫、さて青墓の宿からの、上り大津や、関寺まで、車を引いて、まゐらする。熊野本宮、湯の峯に、お入(い)りあり、病本復(やまいほんぶく)するならば、かならず、下向には、一夜(いちや)の宿を参らすべし。かへすがへす」とお書きある。なにたる因果の御縁やら、蓬莱の山の御座敷で、夫(つま)の小栗に離れたも、この餓鬼阿弥と別るるも、いづれ思ひは、同じもの、あはれ、身がな、二つやれ。さて一つのその身は、君の長殿に、戻したや。さて一つのその身はの、この餓鬼阿弥が車も引いて、とらせたや。心は二つ、身は一つ。見送り、たたずんで御ざあるが、おいそぎあれば、ほどもなく、君の長殿に、お戻りあるは、諸事のあはれと聞こえける。
車の檀那、出で来ければ、上り大津を引き出だす。関、山科(せきやましな)に、車着く。もの憂き旅に、粟田口、都の城(じょう)に、車着く。東寺、さんしや、四つの塚、鳥羽に、恋塚、秋の山、月の宿りは、なさねども、桂の川を、えいさらえいと、引き渡し、山崎、千軒、引き過ぎて、これほど狭(せば)き、この宿(しゅく)を、たれか、広瀬と、つけたよな。塵(ちり)かき流す、芥川、太田の宿を、えいさらえいと、引き過ぎて、中島や、三宝寺(さんぽうじ)の渡りを、引き渡し、おいそぎあれば、ほどもなく、天王寺に車着く。七不思議のありさまを、拝ませたうは候へども、耳も聞こえず、目も見えず、ましてや、ものをも申さねば、下向に、静かに拝めよと、阿倍野(あべの)五十町、引き過ぎて、住吉四社の大明神、堺の浜に、車着く。松は、植ゑねど、小松原、わたなべ、南部(みなべ)、引き過ぎて、四十八坂、長井坂、糸我(いとが)峠や、蕪(かぶら)坂、鹿瀬(ししがせ)を、引き過ぎて、心を尽くすは、仏坂、こんか坂にて、車着く。こんか坂にも、着きしかば、これから湯の峯へは、車道(くるまみち)の、嶮(けわ)しきにより、これにて、餓鬼阿弥を、お捨てある。大峯入りの、山伏たちは、百人ばかりざんざめいて、お通りある。この餓鬼阿弥を御覧じて、「いざ、この者を、熊野本宮湯の峯に入れて、とらせん」と、車を捨てて、籠を組み、この餓鬼阿弥を入れ申し、若先達(わかせんだつ)の背中に、むんずと、負ひたまひ、上野(うわがの・ママ)原を、うつ立ちて、日にち積もりて、見てあれば、四百四十四か日と申すには、熊野本宮湯の峯に、お入(い)りある。なにか愛洲(あいす)の湯のことなれば、一七(いちしち)日、お入(い)りあれば、両眼が明き、二七(にしち)日、お入(い)りあれば、耳が聞こえ、三七(さんしち)日、お入(い)りあれば、はやものをお申しあるが、以上、七七(なななな)日と申すには、六尺二分(ぶん)、豊かなる、もとの小栗殿とおなりある。
小栗殿は、夢の覚めたる心をなされ、熊野三山、三(み)つの御山(おやま)を御にうたうなさるるが、権現、このよし御覧じて、「あのやうな大剛の者に、金剛杖を買はせずば、末世の衆生(しゅじょう)に、買ふ者はあるまい」と、山人(やまびと)と身を変化(へんげ)、金剛杖を二本お持ちあり、「なういかに、修行者、熊野へ詣つたるしるしには、なにをせうぞの。この金剛杖をお買ひあれ」との御諚(ごじょう)なり。小栗殿は、いにしへの威光が、失せずして、「さて、それがしは、海道七か国を、さて餓鬼阿弥と呼ばれてに、車に乗つて、引かれただに、世に無念なと思ふに、金剛杖を買へとは、それがしを、調伏(ちょうぶく)するか」との御諚なり。権現、このよし聞こしめし、「いやさやうでは、御ざない。この金剛杖と申するは、天下にありし、その折に、弓とも、楯(たて)ともなつて、天下の、運、開く、杖なれば、料足なければ、ただとらする」と、のたまひて、権現は、二本の杖をかしこに捨て、かき消すやうにぞ、お見えない。小栗、このよし御覧じて、「今のは、権現様を、手に取り拝み申したることのありがたさよ」と、三度の礼拝(らいはい)をなされ、一本はついて、都に御下向なさるる。よそながら、父兼家殿の、屋形を、見て通らうと、思しめし、御門(ごもん)の内に、お入(い)りあり、「斎料(ときりょう)」とお乞ひある。時の番は、左近の尉(じょう)が仕(つかまつ)る。左近はこのよし見るよりも、「なういかに、修行者、御身のやうな修行者は、この御門の内へは、禁制(きんぜい)なり。とうお出であれ。とうお出でないものならば、この左近の尉が、出だすべし」と、持つたる、箒(ほうき)で、打ち出だす。小栗、このよし御覧じて、「憎(にく)の左近が打つよな。打つも道理、知らぬも道理」と、思しめし、八町の原をさして、お出である。
折しも東山の伯父御坊は、花縁行道(はなえんぎょうどう)をなされて御ざあるが、今の修行者を御覧じて、  
第十四
兼家殿の御台所(みだいどころ)を近づけて、「いかに、御台所。われら一門にばかり、額(ひたい)には、よねといふ字が、三行(みくだり)坐り、両眼に、瞳の四体(したい)御ざあるかと思へば、今の修行者にも御ざありたる。ことに今日は、小栗が命日では御ざないか。呼び戻し、斎料、参らせ候へや。左近の尉」との御諚なり。左近は、このよし、「うけたはつて(うけたまはつてカ)御ざある」と、ちりちりと走り出で、「なういかに、修行者、お戻りあれ。斎料参らせう」とぞ申されける。小栗殿は、いにしへの威光が、失せずして、「さてそれがしは、一度追ひ出(だ)いた所へは、参らぬが、法」との御諚なり。左近はこのよし、承り、「なういかに、修行者。御身の、さうして、諸国修行をなさるるも、一つは人をも助けう、または御身も助かりたいと、お申しあることにては御ざないか。今御身のお戻りなければ、この左近は、生害(しょうがい)に及ぶなり。お戻りあつて、斎料もお取りあり、この左近が命も、助けてたまはれの、修行者」とぞ申すなり。小栗、このよし聞こしめし、名のらばやと思しめし、大広庭に、さしかかり、間(あい)の障子を、さらと明け、八分(ぶん)の頭(こうべ)を、地につけて、「なういかに、母上様、いにしへの小栗にて御ざあるよ。三年(みとせ)が間の勘当を、許いてたまはれの」。御台(みだい)、なのめに思しめし、このこと、兼家殿に、かくとお語りある。
兼家、このよし聞こしめし、「卒爾(そつじ)なことをお申しある御台かな。わが子の小栗と申すは、これよりも、相模の国横山の館(たち)にて、毒の酒にて、責め殺されたと申するが、さりながら、修行者、わが子の小栗と申するは、幼い折よりも、教へ来たる調法(ちょうほう)あり。御聊爾(りょうじ)ながら、受けて御覧候へ」と、五人張りに十三束(そく)、まちを拳(こぶし)に、間(あい)の障子のあなたから、よつ引(ぴ)きひようと、放す矢を、一(いち)の矢をば、右で取り、二の矢をば、左で取り、三の矢が、あまり間近く来るぞとて、向(む)か歯で、がちと噛みとめて、三筋の矢を、おし握り、間(あい)の障子を、さつと明け、八分(ぶん)の頭(こうべ)を、地につけて、「なういかに、父の兼家殿。いにしへの、小栗にて御ざあるぞ。三年(みとせ)が間の勘当、許いてたまはれ」。兼家殿も、母上も、一度(いちど)、死したる、わが子にの、会ふなんどとは、優曇華(うどんげ)の花や、たまさかや、例(ため)し少なき、次第ぞと、喜びの中(なか)にもの、花の車を、五輌飾りたて、親子連れに、御門(みかど)の御番にお参りある。
御門、叡覧ましまして、「たれと申すとも、小栗ほどな、大剛の者は、よもあらじ。さあらば、所知を与へてとらせん」と、五畿内五か国の、永代(えいだい)の薄墨の御綸旨(りんじ)、御判を給はるなり。小栗、このよし御覧じて、「五畿内五か国に、欲しうも御ざない。美濃の国に、あひ替へてたまはれ」とぞ、申されける。御門、叡覧ましまして、「大国に小国を替へての、望み、思ふ子細のあるらん。その儀にてあるならば、美濃の国を、馬の飼料(かいりょう)に取らする」と、重ねての御判を給はるなり。小栗、このよし御覧じて、あらありがたの御ことやと、山海の珍物、国土の菓子を調へて、御喜びはかぎりなし。高札(たかふだ)書いて、お立てある。「いにしへの小栗に、奉公申す者あらば、所知に所領を取らすべし」と、高札書いて、お立てあれば、われも、いにしへの小栗殿の、奉公を申さん、判官殿(はんがんどの)に手の者と、なか三日がその間(あいだ)に、三千余騎と聞こえたる。三千余騎を、催して、美濃の国へ、所知入りとぞ、触れがなる。三日先の、宿札(やどふだ)は、君の長(ちょう)殿に、お打ちある。
君の長は御覧じて、百人の流れの姫を、ひとつ所へ押し寄せ申し、「いかに流れの姫に申すべし。この所へ、都からして、所知入りとあるほどに、参り、うきなぐさみを申してに、いかなる、所知をも給はつて、君の長夫婦も、よきに育(はごく)んで、たまはれ」。十二単で、身を飾り、今よ、いらよ(いまよカ)と、お待ちある。三日と申すには、犬の鈴、鷹の鈴、轡(くつわ)の音が、ざざめいて、上下花やかに、悠々と出で立ちて、君の長殿にお着きある。百人の流れの姫は、われ一(いち)、われ一と参り、うきなぐさみを申せども、小栗殿は、少しもお勇みなし。君の長夫婦を御前に召され、「や(やあカ)いかに、夫婦の者どもよ、これの内の、下(しも)の水仕(みずし)に、常陸小萩と、言ふ者があるか。御酌に立てい」との、御諚なり。君の長は、「承つて御ざある」と、常陸小萩殿へ、お参りあつて、「なういかに、常陸小萩殿。御身のみめかたちいつくしいが、都の国司様へ漏れ聞こえ、御酌に立ていと、あるほどに、御酌に参らい」との御諚なり。照手、このよし、聞こしめし、「おろかな、長殿の御諚やな。いま御酌に、参るほどならば、いにしへの、流れをこそは、立てうずれ。御酌にとては、参るまい」とて申しける。君の長は聞こしめし、「なういかに、常陸小萩殿。さても御身は、うれしいことと、悲しいことは、早う忘るるよな。いにしへ、餓鬼阿弥と申して、車を引くその折に、暇取らすまいと、申してあれば、自然後の世に、君の長夫婦が、身の上に、大事のあらん、その折は、ひき替り、身替りに、立たんと申したる、一言(いちごん)の言葉により、慈悲に情けをあひ添へ、五日の暇を取らしてあるが、いま御身が御酌に参らねば、君の長夫婦の者どもは、生害に及ぶなり。なにとなりとも、はからひ申せ。常陸小萩」とぞ申しける。照手、このよし聞こしめし、一句の道理に詰められて、なにともものはのたまはで、「げにや、まことにみづからは、いにしへ、車を引いたるも、夫(つま)の小栗のおためなり。また今御酌に参るもの(のもカ)、夫の小栗の御ためなり。深き恨みな、な召されそ。変る心の、あるにこそ、変る心は、ないほどに」と、心の中(うち)に思しめし、「なういかに、長殿様。その儀にて御ざあらば、御酌に参らう」との御諚なり。君の長は、聞こしめし、「さても、うれしの次第やな。その儀にて、あるならば、十二単で、身を飾れ」とぞ申すなり。照手、このよし聞こしめし、「おろかな、長殿の御諚やな。流れの姫とあるにこそ、十二単もいらうずれ、下の水仕とあるからは、あるそのままで参らん」と、襷(たすき)がけの風情(ふぜい)にて、前垂れしながら、銚子を持つて、御酌にこそはお立ちある。
小栗、このよし御覧じて、「常陸小萩とは、御身のことで御ざあるか。常陸の国にては、たれの御子ぞよ。お名のりあれの、小萩殿」。照手、このよし聞こしめし、「さてみづからは、主命(しゅうめい)にて、御酌にこそは、参りたれ。初めて御所(ごしょ)様と、懺悔(さんげ)物語には、参らぬよ。酌が、いやなら、待たうか」と、銚子を捨てて、御酌をこそは、お退(の)きある。小栗、このよし御覧じて、「げにも道理や、小萩殿。人の先祖を聞く折は、わが先祖を語るとよ。さて、かう申すそれがしを、いかなる者とや、思(おぼ)し候らん。さて、かう申すそれがしは、常陸の国の、小栗と申す者なるが、相模の国の、横山殿の、一人姫(ひとりひめ)、照手の姫を、恋にして、押し入つて、聟入りしたが、科(とが)ぞとて、毒の酒にて、責め殺されては御ざあるが、十人の殿原たちの、情けにより、黄泉(よみつ・よみじカ)帰りをつかまつり、さて餓鬼阿弥と呼ばれてに、海道七か国を、車に乗りて、引かるる、その折に、「海七か国に、車引いたる、人は多くとも、美濃の国、青墓(おうはか)の宿(しゅく)、万屋の君の長(ちょう)殿の、下水仕(しもみずし)、常陸小萩と、言ひし姫、さて、青墓の、宿からの、上り大津や、関寺までの、車を、引いてまゐらする。熊野本宮、湯の峯に、お入(い)りあり、病本復(やまいほんぶく)するならば、下向には、一夜の御宿を、参らすべしの。かへすがへす」と、お書きあつたるよ。胸の木札は、これなりと、照手の姫に、参らせて、この御恩賞の御ために、これまで、お礼に参りて、御ざあるぞ。常陸の国にては、たれの御子ぞよ。お名のりあれや、小萩殿」。照手、このよし聞こしめし、なにともものは、のたまはで、涙にむせておはします。「いつまでものを包むべし。さてかう申す、みづからも、常陸の者とは申したが、常陸の者では御ざないよ。相模の国の、横山殿の一人姫、照手の姫にて御ざあるが、人の子を殺いてに、わが子を殺さねば、都の聞けいもあるほどにと、思しめし、鬼王、鬼次、さて兄弟の者どもに、沈めにかけいと、お申しあつては御ざあるが、さて、兄弟の、情けによりて、かなたこなたと売られてに、あまりのことの、悲しさに、静かに、数へてみれば、四十五てんに、売られてに、この長殿に、買ひ取られ、いにしへ、流れを立てぬ、その科に、十六人して、仕る、下(しも)の水仕(みずし)を、みづから一人して、仕る。御身に会うて、うれしやな」。かき集めたる藻塩草(もしおぐさ)、したひ(しんたい(進退)カ)、ここにてに、是非をもさらにわきまへず。小栗、このよし聞こしめし、君の長夫婦を御前(まえ)に召され、「やあいかに、夫婦の者どもよ、人を使ふも、由(よし)によるぞや。十六人の下の水仕が、一人してなるものか。なんぢらがやうな、邪慳な者は、生害」との御諚なり。  
第十五
照手、このよし聞こしめし、「なう、いかに小栗殿、あのやうな、慈悲第一の長(ちょう)殿に、いかなる所知をも、与へてたまはれの。それをいかにと申するに、御身のいにしへ、餓鬼阿弥と申してに、車を引いた、その折に、三日の暇を、乞ふたれば、慈悲に情けを、あひ添へて、五日の暇を給はつたる、慈悲第一の、長殿に、いかなる、所知をも、与へてたまはれの。夫(つま)の小栗殿」との御諚なり。小栗、このよし聞こしめし、「その儀にてあるならば、御恩の妻に、免ずる」と、美濃の国、十八郡(こおり)を、一色(いっしき)進退(しんたい)、総政所(そうまんどころ)を、君の長殿に、給はるなり。君の長は、承り、あらありがたの御ことやと、山海の珍物(ちんぶつ)に、国土の菓子を、調へて、喜ぶことはかぎりなし。君の長は、百人の流れの姫の、その中(なか)を、三十二人よりすぐり、玉の輿(こし)にとつて乗せ、これは、照手の姫の女房たちと、参らする。それ、女人と申するは、氏(うじ)無うて、玉の輿に乗るとは、ここの譬へを申すなり。
常陸の国へ、所知入りをなされ、七千余騎を催して、横山攻めと、触れがなる。横山、あつとに、肝をつぶし、「いにしへの小栗が、蘇りを、つかまつり、横山攻めとあるほどに、さあらば、城廓を、構へよ」と、空堀(からぼり)に、水を入れ、逆虎落(さかもがり)、引かせてに、用心、きびしう、待ちゐたり。照手、このよし聞こしめし、夫(つま)の小栗へ、御ざありて、「なういかに、小栗殿。昔を伝へて、聞くからに、父の御恩は、七逆罪、母の御恩は、五逆罪、十二逆おん(ママ)を、得ただにも、それ悲しいと、存ずるに、今みづからが、世に出でたとて、父に弓をばの、え引くまいの、小栗殿。さて明日(みょうにち)の、横山攻めをば、お止まりあつてたまはれの。それが、さなうて、いやならば、横山攻めの、門出(かどい)でに、さてみづからを、害(がい)めされ、さてその後に、横山攻めはなされいの」。小栗、このよし聞こしめし、「その儀にてあるならば、御恩の妻に、免ずる」との御諚なり。照手、なのめに思しめし、その儀にてあるならば、夫婦の御仲ながら、御腹いせを申さんと、内証(ないしょう)を書きて、横山殿に、お送りある。横山、このよし御覧じて、さつと広げて、拝見ある。「昔が今に至るまで、七珍万宝(しっちんまんぽう)の数(かず)の宝より、わが子にましたる、宝はないと、今こそ思ひは知られたり。今はなにをか、惜しむべし」と、十駄の、黄金(こがね)に、鬼鹿毛の馬を、あひ添へて、参らする。これもなにゆゑなれば、三男の三郎がわざぞとて、三郎には七筋の縄をつけ、小栗殿にお引かせある。小栗、このよし御覧じて、恩な恩、仇(あたん)は仇(あたん)で、報ずべし。十駄の黄金をば、欲にしても、いらぬとて、黄金御堂(こがねみどう)と、寺を建て、さて、鬼鹿毛が姿をば、真の漆で、固めてに、馬をば、馬頭観音とお斎(いわ)ひある。牛は、大日如来、化身とお斎ひある。これもなにゆゑなれば、三男の三郎がわざぞとて、三郎をば、荒簀(あらす)に巻いて、西の海に、ひ(ふカ)し漬(づ)け(柴漬ふしづけカ)にこそなされける。舌三寸のあやつりで、五尺のいの(いのちカ)を、失ふこと、悟らざりける、はかなさよ。それから、ゆきとせに、お渡りあり、売りそめたる、姥をば、肩から下(しも)を、掘り埋み、竹鋸で、首をこそは、お引かせある。太夫殿には、所知を与へたまふなり。
それよりも、小栗殿、常陸の国へお戻りあり、棟(みね)に棟(みね)、門(かど)に門(かど)を建て、富貴万福(ふっきばんぷく)、二代の長者と、栄えたまふ。その後、生者(しょうじゃ)、必滅(ひつめつ)の習ひとて、八十三の御ときに、大往生を、とげたまへる。神や仏、一所(いっしょ)に集まらせたまひてに、かほどまで、真実に、大剛の弓取りを、いざや、神に斎(いわ)ひ籠め、末世の衆生に、拝ませんが、そのために、小栗殿をば、美濃の国、安八(あんぱち)の郡(こおり)、墨股(すのまた)、垂井おなことの、神体は、正八幡、荒人神と、お斎ひある。同じく、照手の姫をも、十八町(ちょう)下(しも)に、契り結ぶの神と、お斎ひある。契り結ぶの神の御本地も、語り納むる、所も、繁盛、御代(みよ)もめでたう、国も豊かに、めでたかりけり。  

1.上記の本文は、東洋文庫「説経節 山椒太夫・小栗判官他」によりました。ただし、新潮日本古典集成「説経集」、新日本古典文学大系「古浄瑠璃 説経集」によって、本文を一部改めた。
2.ここに掲げた「小栗判官」の底本については、御物絵巻「をくり」を底本にしたことについて、東洋文庫巻頭の凡例に、横山重氏が「説経正本集」に翻刻された本文をそのまま利用させていただいた、とあり、巻末の荒木繁氏の解説・解題に次のようにあります。「(小栗判官の)正本としては、太夫未詳「おぐり判官」(延宝年4月刊、正本屋五兵衛板)、佐渡七太夫豊孝正本「をくりの判官」(惣兵衛板)、その他の諸本があるが、このほかに注目すべきものとして、御物絵巻「をくり」と奈良絵本「おくり」がある。これらは、いずれも説経の正本から詞章を得ていると推定されるもので、とくに絵巻の詞書は小栗の説経の中でもっともくわしく、かつ古型を残している。また、その冒頭のへんは、ごく初期の人形操りの演出形態をあらわしている。(中略)このように考えて来ると、絵巻「をくり」の詞書は、操りにかけられた説経正本の正確な写しであることが、いよいよ確かめられて来る。本書ではこの絵巻の詞書を底本に採用することにした」。  
3.上記の「小栗判官」は、古くは五説経の一つに数えられたものです。五説経については、東洋文庫巻末の荒木繁氏の解説・解題に次のようにあります。「説経節の中で、古来五説経として重んじられたものがある。「芸能辞典」によれば、古くは「苅萱」「俊徳丸」「小栗判官」「山椒太夫」「梵天国」を称したが、享保期になると、「苅萱」「山椒太夫」「愛護若」「信田妻」「梅若」を言うようになったとある。(中略)日暮小太夫の「おぐりてるてゆめ物かたり」という抜本があり、その柱記に「五せつきやう」とあるので、寛文の当時五説経という呼び名がすでに成立していたことが知られるのである。」
4.東洋文庫に収められている本文は、現代かなづかいに統一してあるのですが、ここでは引用者が、歴史的かなづかいに改めました。ただし、漢字の振り仮名は、現代かなづかいのままにしてあります。
5.東洋文庫「説経節 山椒太夫・小栗判官他」の「小栗判官」にある、本文冒頭の「安八の郡、墨俣、垂井、おなこと」の注を、引用させていただきます。安八の郡、墨俣、垂井、おなこと…今の岐阜県南部。墨俣は安八郡に属しているが、垂井は不破郡に属している。「おなこと」は不詳。末尾にも同文があるが、その後に「同じく、照手の姫をも、十八町下に、契り結ぶの神と、お斎いある」とある。この契り結ぶの神は、「和漢三才図会」にも記されているように、安八郡結村(現、安八町内)の結神社(照天社ともいう)をさす。延宝3年板「おぐり判官」の冒頭には「ひたちの国とつはた村といふ所に、正八まんむすぶの神といわゝれておはします」とあって、これなら茨城県東茨城郡茨城町、鳥羽田(とっぱた)の竜含寺小栗堂をさす。茨城県には小栗照手ゆかりの寺社が多い。同県真壁郡協和町(引用者注:現、築西市)の太陽寺、一向寺など。福田晃氏「小栗照手譚の生成(「国学院雑誌」昭40・11)参照。その他小栗照手伝説を伝える場所、寺社は多いが今は略す。
6.「をぐり」の諸本についての、新日本古典大系の解説を引かせていただきます。諸本=底本は絵巻「をぐり」、宮内庁三の丸尚蔵館蔵のもと御物。本文は説経正本によっていると思われ、現存本中もっとも完備し古形を有するが、それでも省略がある。すなわち、照天が青墓の長のところで七文で七色の買物を命じられる難題のくだりがない。清水を汲みに行くところにも省略が見られる。また土車で熊野までの道行も奈良絵本に比し省略が多い。さらに、熊野で神から二本の杖を授かるが、一本について記述が欠ける等がそれである。奈良絵本「おぐり」はそれに次ぐが、その結末部は都北野に愛染明王結ぶの神と二人は斎われる。他に、古活字丹緑本、寛永頃「せつきやうおぐり」と古本が残るが、前者は下巻のみ、後者は中巻零葉で完全でない。寛文6年・延宝3年整版正本、草子「おぐり物語」(中・下巻)鶴屋版もある。さらに正徳・享保頃刊の佐渡七太夫豊孝本「をぐりの判官」があり、常陸国鳥羽田村正八幡結ぶの神の本地と所を大きく変えて現われる。
7.参考にした書物を、挙げておきます。東洋文庫「説経節 山椒太夫・小栗判官他」 新潮日本古典集成「説経集」 新日本古典文学大系90「古浄瑠璃 説経集」      
8.全国をぐり連合公式サイト「をぐり関連資料ファイルindex」というサイトがあり、「小栗判官物語について」というページや、小栗判官関係の書籍が多数出ている「三木ファイル目録」などがあり参考になります。
9.「Webup」というサイトに「小栗判官一代記」というページがあり、そこに「小栗判官と照手姫」のあらすじがあります。ここには、主人公2人(小栗判官と照手姫)のプロフィールについての、法政大学の田中優子教授の解説もあります。
10.東海大学の志水義夫先生による「六條院」というサイトに「スノークの図書館」があり、そこの「桜壺文庫」に「説経をぐりの世界」というページがあります。ここには「小栗判官を読むために─参考文献─」があって参考になります。
11.築西市のHPに、「小栗判官まつり、小栗伝説の世界」の記事があります。また、「小栗判官まつり」が、毎年12月の第一日曜日に、筑西市で開催されているそうです。
12.水上勉訳・横山光子脚色「五説経」という本があります。ここには、水上勉氏が東洋文庫の「説経節」によって訳されたものを、横山光子氏が脚色された五つの話、「さんせう太夫」「かるかや」「しんとく丸」「信太妻」「をぐり」が収められています。また、水上勉氏の「説経節を読む」が、岩波現代文庫に入りました。「さんせう太夫」「かるかや」「信徳丸」「信太妻」「をぐり」の5編をとりあげています。
13.小栗判官=伝説上の人物。常陸の人。父満重が鎌倉公方足利持氏に攻められたとき、照姫(照手姫)のために死を免れ、遊行上人の藤沢の道場に投じた。説経節や浄瑠璃に脚色。(「広辞苑」より)小栗判官=説経の作品。中世の熊野修験や時衆聖(ひじり)、あるき巫女み(こ)との交流の中で、説経師によって語り伝えられて成立した。鞍馬の毘沙門の申し子として生まれた小栗は、英雄的な剛直な性格と行動が災いして恨みをかい、相模の豪族横山に毒殺される。しかし地獄から餓鬼身となって蘇(よみがえ)り、許婚照手姫(てるてひめ)の力添えと熊野の湯の峰の霊験でもとの身にもどり、後に美濃国墨俣(すのまた)に正八幡荒人神(あらひとかみ)として祭られるという内容である。行動範囲が広く、京都、常陸(ひたち)、相模、近江(おうみ)、摂津、熊野、美濃青墓(おうはか)にわたる。小栗が餓鬼の姿で復活する藤沢の遊行(ゆぎょう)寺は時衆の本山で、熊野信仰とも深いつながりがあり、この話は時衆の管理下に育ったものといえる。また照手の献身的な奉仕によって小栗を熊野にまで運ぶ車引きの場面は、あるき巫女の想像力から生まれたもので、時衆聖と巫女の介入が作品成立の契機になっている。近松門左衛門の≪当流小栗判官≫、義太夫節の≪小栗判官車街道≫はこれに拠(よ)る作品である。
14.説経節=中世末から近世に行われた語り物。仏教の説経(説教)から発し、簓(ささら)や鉦などを伴奏に物語る。大道芸・門付芸として発達。門説経(かどせっきょう)・歌説経などの形態もあった。江戸期に入り胡弓・三味線をも採り入れ、操り人形芝居とも提携して興行化。全盛期は万治・寛文頃。祭文と説教が結びついた説経祭文の末流が現在に伝わる。説経浄瑠璃。説経。(「広辞苑」より) 説経節=中世末から近世にかけて行われた語り物芸能。<説経>とはもともと経典を講じ教義を説くことであるが、鎌倉時代には身ぶりや音楽的要素を加えて、しだいに芸能化の傾向を示したことが、≪元亨釈書(げんこうしゃくしょ)≫などによって知られる。しかしこれからどのようにして、いつごろ説経節が成立したのかは、明らかではない。慶長(1596〜1615)のころになると、<簓(ささら)説経>と呼ばれる下級の芸能民が、ささらを伴奏楽器として寺社の境内外や大道で傘を立てて語ったり、<門(かど)説経>と称して家々の軒下に立って喜捨(きしゃ)を乞うといったことが行われた。その語り物は、善光寺の親子地蔵や丹後の金焼(かなやき)地蔵の由来を説くといった本地(ほんじ)物の形式をとることが多く、内容的にも宗教的色彩が濃いが、親子夫婦の愛別離苦が哀切に語られ、感動的な物語となっている。やがて伴奏楽器に三味線を採用し、寛永(1624〜44)のころには操り芝居と結合して大いに流行した。その全盛期は万治・寛文(1658〜73)のころで、京都には日暮(ひぐらし)小太夫、大阪には説経与七郎、江戸には佐渡七太夫、天満八太夫などの太夫が現れたが、やがて並行芸能である浄瑠璃に圧倒され、享保(1716〜36)のころには衰滅した。その代表的な語り物としては≪山椒太夫(さんしょうだゆう)≫、≪小栗判官(おぐりはんがん)≫、≪苅萱(かるかや)≫、≪信徳丸(俊徳丸)≫、≪愛護若(あいごのわか)≫、≪隅田川(梅若)≫、≪松浦(まつら)長者≫、≪信太妻(しのだづま)≫(説経正本は伝わっていない)などがあり、浄瑠璃や歌舞伎に多くの素材を提供した点でも、その芸能史的、文学史的意義は小さくない。(荒木繁)(平凡社「国民百科事典 2」1976年10月10日初版第1刷発行による)五説経(ご・せっきょう)=説経節の代表的な五つの曲目。「山椒太夫」「苅萱(かるかや)」「信田妻(しのだづま)」「梅若」「愛護若(あいごのわか)」。また、「山椒太夫」「苅萱」「俊徳(信徳)丸」「小栗判官」「梵天国」の五つなど。 (「広辞苑」第6版による) 五説経(ご・せっきょう)=説経節の代表的な五つの曲目。古くは「苅萱(かるかや)」「俊徳丸」「小栗判官」「三荘(さんしょう)太夫」「梵天(ぼんてん)国」をさしたが、のちには「苅萱」「三荘太夫」「信田(しのだ)妻」「梅若」「愛護若(あいごのわか)」をいう。(「大辞林」)
 
説経節「小栗判官」2 (抜粋)

 

照手に車を引かれ、山伏に背負われ、餓鬼阿弥は湯の峯へ
あらあらいたわしくてなりません。
照手姫さまが、お茶の清水を汲みに出て、餓鬼阿弥に目を止めました。
「夫の小栗どのがあのような姿になっても、それでも、生きてこの世にいてくれさえすれば、どんなに苦労をしても、苦労とは思わないのに」と思わず語る心のうちこそ、あらあらあわれでなりません。そばに近寄って、その胸札を見てみましたら、『この者を一引き引けば、千人の僧を供養することになる。この者を二引き引けば、万人の僧を供養することになる』と書いてある。
照手姫さまはこれを見て、「たった一日でいい。夫の小栗のために、これを引きたい。たった一日でいい。十人のご家来衆のために、これを引きたい。二日引いた車道(くるまみち)は、かならず一日で戻るから、三日の暇をもらいたい。長(ちょう)どののご機嫌のいいときにおねがいしてみよう」と思いました。君の長のところに行こうとしたそのときに、「いやいけない、この御奉公をはじめるときに、あたくしは、たしか夫がないと言ったはず、今、夫のためと言ったところで暇はもらえない」と思い直し、「父上も母上もまだ生きておいでだが、親のためといいつくろって、おねがいしてみよう」と考えながら、長どのの前へ出ていきまして、
「おねがいがございます、長どのさま。門のところにいる餓鬼阿弥の、その胸札を見てみれば、『この者を一引き引けば、千人の僧を供養することになる。この者を二引き引けば、万人の僧を供養することになる』と書いてございます。どうか、ただ一日でよろしゅうございます、父のために、これを引きたいのです。そして、もう一日、母のために、これを引きたいのです。二日車を引きましたら、かならず一日で戻りますから、お情けでございます、三日の暇をくださりませ」と言いました。
君の長はこれを聞き、
「おまえはなんとも憎たらしいことをいう子だね。前に、流れの姫になれとおれが言った。そのときに流れの姫になっていたなら、三日どころか十日だって暇をやる。でも今はちがう。からすの頭が白くなり、馬に角が生えたとしても、おまえに暇なんぞやるものかい、常陸小萩よ」と言いました。
照手姫さまはこれを聞き、
「おねがいでございます、長どのさま。これはたとえでございますが、費長房(ひちょうぼう)や丁令威(ちょうれい)は鶴のつばさにお宿を召して、達磨尊者(だるまそんじゃ)は芦の葉にお宿を召して、張博望(ちょうはくぼう)は浮木(うきぎ)にお宿を召したといいます。旅は心、世は情け、回船は浦につながれます、捨て子は村に育てられます。木があれば、鳥も棲みます、港があれば、舟も入ります。一時雨(ひとしぐれ)に、一村雨(ひとむらさめ)に、雨やどりをいたしますのも、百ぺんくり返すいのちのご縁でございましょう。三日の暇をいただけたなら、まんがいち、君の長ご夫婦の身の上に大事がありますそのときには、わたくしが身替りになって立ちましょう。ご夫婦をおまもりしましょう。ですからどうか、お情けでございます、三日の暇をくださいませ」と言いました。
君の長はこれを聞きまして、
「おまえはなんともやさしいことをいう子だね。暇なんかやるかと思ったが、まんがいち、おれたち夫婦の身の上に大事があろうそのときには、自分が身替りになって立とうと、おれたち夫婦をまもろうと。その一言に動かされた。慈悲に情けをあい添えて、五日の暇をやる。五日が六日になろうものなら、そのときは、いいか、おまえの死んだ両親も、地獄の底に、阿鼻無間劫(あびむげんごう)に堕としてやる。車を引け」と言いました。
照手姫さまはこれを聞き、
あまりのうれしさに裸足で外に走り出て車の手縄にすがりつき。
一引き引いて、これで千の僧の供養になる。
これは夫の小栗のため。
二引き引いて、これで万の僧の供養になる。
これは十人のご家来衆のため。
すでに善行を為しまして、その善行を死者たちにふりむけまして。
でもそのときに考えたのでありました。
「聞けば、あたくしはなりとかたちがよいという。そんなことで、町や宿場や関所でいやな目にあったらかなわない」と考えまして、また、長どのの内にかけ戻り、古い烏帽子(えぼし)をもらいうけ、髪にくくりつけ、背丈と同じ長さの黒髪をふりほどき、顔には油煙のすみをぬりたくり、着ている小袖の裾を肩までからげ、笹の葉に幤(しで)をつけ、心はもの狂いではありません、でもなりとかたちはそう見せかけて、「引けよ、引けよ、子どもらよ、もの狂いがとおるよ」と声をかけ。
姫の涙はしたたる、垂井。
美濃と近江の境には、長競(たけくらべ)、二本杉、寝物語。
在所在所を引き過ぎて、高宮川原に鳴く雲雀(ひばり)。
姫にうたってくれるのか。
けなげな小鳥だ、やさしい声だ。
み代は治まる、武佐(むさ)の宿、鏡の宿に車は着きました。
照手はこれを聞きまして。
鏡のようにあかるいと人は言う。
でも姫の心はこの日々は、あのことやこのことに。
そしてあの餓鬼阿弥に、心の闇がかき曇り。
鏡の宿もあかるくないまま通り過ぎ。
姫のすそには露はつかないが、露おく草は、草津の宿、
それから野路(のじ)、篠原を引き過ぎて。
三国一の瀬田の唐橋をえいさらえいと引き渡し。
石山寺の夜の鐘が、耳に聞こえる、おごそかになりひびく。
馬場、松本を引き過ぎて。
道をいそいで行きましたので、ほどもなく。
西近江に名の高い、上り大津の関寺の玉屋(たまや)の門(かど)に、車は着きました。
照手姫さまは、餓鬼阿弥のそばにいられるのも今夜きりだと思いまして、別のところに宿をとることもせず、餓鬼阿弥の車のわだちを枕に、夜すがら泣いて、夜を明かしました。明け方に鳴くという八声(やこえ)の鳥のようでありました。東の空が白む頃、玉屋の内へ行きまして、料紙と硯を借りまして、餓鬼阿弥の胸札に、こう書きつけたのでありました。
「東海道七か国、車を引いた人は多くとも、その中で、美濃の国、青墓の宿、万屋の、君の長どのの下女、常陸小萩という姫が、青墓の宿から上り大津の関寺まで車を引きました。熊野の本宮の湯の峯にお入りになり、病が本復したならば、お帰りのさいかならず青墓の万屋にお寄りください。かえすがえすも、お名残りおしゅうございます」
どんな因果のご縁やら。
蓬莱の山のお座敷で夫の小栗に離れたときも。
この餓鬼阿弥と別れる今も。
思いは同じでありました。
ああ、この身が二つあったなら。
一つのその身は、君の長どのに戻したい。
もう一つの身は、餓鬼阿弥の車を引いて行きたい。
心は二つ、身は一つ。
見送り、たたずんでいたのでありますが。
いそぎの帰り道を、いそいで行きましたので、ほどもなく、君の長どのに戻りついたということ、ここにこそ、ものごとのあわれをとどめたのでございます。
さてまた、車を引こうという人が出てきまして。
上り大津を引き出して、逢坂の関、山科に、車は着きました。
もの憂き旅に、逢わないままの粟田口(あわたぐち)、都の城(じょう)に車は着きました。
東寺、三社、四つの塚、鳥羽に、恋塚、秋の山。
月かげは川面にやどらなくとも、月がうつると評判の、桂の川をえいさらえいと引き渡し。
山崎の千軒の町並みを引き過ぎて。
これほど狭いこの宿をだれが広瀬とつけたのか。
塵(ちり)かき流す芥川、太田の宿を、えいさらえいと引き過ぎて。
中島の三宝寺の渡りを引き渡し。
道をいそいで行きましたので、ほどもなく、天王寺に車は着きました。
天王寺の七不思議のありさまを、餓鬼阿弥にも拝ませてやりたいと、引く人は思いましたが、耳も聞こえず、目も見えず、ものもいわない餓鬼阿弥でありました。帰りには心静かに拝みなさいよと、阿倍野五十町を引き過ぎて。
住吉四社の大明神、堺の浜に車は着きました。
松は植えてなくとも小松原、わたなべ、南部(みなべ)を引き過ぎて。
四十八坂、長井坂、糸我峠や、蕪坂、鹿瀬(ししがせ)を引き過ぎて。
心を尽くして仏坂、こんか坂に車は着きました。
こんか坂までたどり着いたのでありますが、これから湯の峯へは、道が険しくて車を引いては行かれない。しかたがない、引く人は、ここで餓鬼阿弥を捨てて行きました。そこへ、大峯山に入る山伏たちが百人ばかり、ざんざめいて通りかかりまして、この餓鬼阿弥を見て、「いざ、この者を熊野本宮の湯の峯に入れてやろう」と言いまして、土車を捨てて籠を組み、餓鬼阿弥を入れて、若い山伏の背中にむんずとおぶわせ、さらにのぼっていきました。
お上人に引かれて上野が原を立ってから、日にちをかぞえてみれば、四百四十四日めに、とうとう熊野本宮の湯の峯に入りました。たいそう効き目のある薬湯でありました。
一七(いちしち)、七日間、入ったあとには両眼が明き、二七(にしち)、十四日間、入ったあとには耳が聞こえ、三七(さんしち)、二十一日間、入ったあとには早くもものが言えました。七七(しちしち)、四十九日めになりますと、六尺二分の、どうどうと豊かな、元の小栗どのに戻ったのでありました。
小栗どのは、夢から覚めた心持ちで、熊野三山、本宮、新宮、那智のそれぞれの湯に入っておりました。それを熊野の権現さまがごらんになりまして、
「あのような大剛の者にこそ金剛杖を買わせたい。あの者が買わなければ、末世の衆生に買う者はあるまい」と、山人(やまびと)に変化(へんげ)して、金剛杖を二本お持ちになりまして、
「ああ、そこの修行者さんや、熊野へ詣った記念はいらんかね。どうだな、この金剛杖をお買いなされ」とおっしゃいました。
小栗どのは、むかしの傲慢さがまだなくなっておりませんから、
「おれは東海道七か国を、餓鬼阿弥などと呼ばれながら、車に乗って引かれて歩いたことが無念でならないのだ。そのおれに金剛杖を買えとはなんだ。おれを呪いたおそうとしているのか」と言いました。
権現さまはこれをお聞きになりまして、
「いやいや、そうではない。この金剛杖というのは、そなたが天下に出たときに、そなたの弓とも楯ともなり、運を開く杖なのだ。金がなければ、ただでやろう。一本の杖を川に捨てればたちまち舟となる。また一本は帆柱となる。舟の名前を『浄土の舟』という。この舟に乗るならば、どこへでもそなたの行きたいところへ行くぞ」とおっしゃいまして、かき消すようにいなくなりました。
小栗どのはこれを見て、
「そこらの山人と思ったが、権現さまだ。おすがたをあらわしてくださった権現さまを、手に取るように拝み申したのだ、なんとありがたい」と、熊野三所を伏し拝み、二本の杖をいただいて、ふもとを指して降りていきました。教えられたとおり、一本を川に流してみましたら、浄土の舟として川の面に浮かびました。もう一本を帆柱として立てて、船に乗りこみましたら、まことに権現さまのおはからいか、漕ぎ手も押し手もいないのに、するすると舟は向かいまして、小栗どのは都に戻ったのでありました。
小栗、照手と再会し、常陸に戻る
さて、小栗どのは都につきまして、父兼家さまのお館を、遠くからでも見たいと思いまして、門の内に入って「斎料(ときりょう)」と乞いました。
そのとき、左近の尉(じょう)が門番をつとめておりましたが、これを見て、
「おいおい、修行者よ。おまえさんのような修行者は、このご門の内へ入っちゃいけない。早く外に出ていきなさい。出ていかないと、この左近の尉が追い出さねばならなくなる」と手にした箒(ほうき)で、打って追い出したのでありました。
小栗どのはこんな目にあいまして、
「ああ腹が立つ。左近のようなものに打たれた。しかし打つのも道理だ。おれのことを知らないのも道理だ」と思いまして、八町(はっちょう)の原をさして出て行ったのでありました。
折しもお館では、東山の伯父上の御坊が、香華(こうげ)を散らしながら経文をとなえて歩く修行の最中でありました。今の修行者をごらんになって、兼家さまの奥方さまをそばに呼び、
「ほかでもないが、妹よ。わが一門だけが持っている、ふしぎなしるし。額には米(よね)という字が三行(みくだり)坐り、両眼に瞳が四体あるというそのしるしを、今の修行者も持っておったよ。今日は小栗の命日ではないか。あの修行者を呼び戻して斎料をやってくれないか、左近の尉や、いそいでたのむ」と言いました。
「合点承知でございます」と左近はちりちりと走り出て、
「おおい、待ってくれ、修行者よ。戻っておくれ。斎料をやるから」と言いました。
小栗どのは、むかしの傲慢さがまだなくなっておりませんから、
「いやわたくしは、一度追い出された所へは二度と行かないことにしております」と言いました。
左近はこれを聞きまして、
「そう言わずに、修行者よ。おまえさまがこうして諸国修行をしているのも、一つには人を助けたい、または自分も助かりたいと、思っておられるからだ。今おまえさまが戻ってくれないと、この左近のいのちはたちまち無くなる。戻っておくれでないか。そして斎料も受け取っておくれでないか。この左近のいのちを、どうか助けると思って、修行者よ」と言いました。
小栗どのはこれを聞き、今は名乗ろうと思いまして、館に戻り、大広庭に行きまして、間仕切りの障子をさらりと明け、深々と頭を地につけて言いました。
「おなつかしゅうございます、母上さま。あの小栗でございます。三年の間の勘当をどうか許してくださりませ」
奥方さまは、それはそれは喜んで、夫の兼家さまに、かくかくしかじかとお語りになりました。兼家さまはこれをお聞きになりまして、
「奥や、ばかなことを言うんじゃない。わが子の小栗は、何年も前に、相模の国、横山の館で、毒の酒に責め殺されたではないか。しかし修行者よ、わが子の小栗には、幼い頃から、わたしが手づから教えこんだわざがある。失礼だが、わたしの矢を受けてみてくださらぬか」と言いました。
そして、五人がかりで張った強い弓に、十三束(そく)の長い矢をつがえ、やじりの先の二股を拳にあてて、間仕切りの障子の向こうから、ぐいと引いてひょうと放した、すると小栗どの、一の矢を右手で取り、二の矢を左手で取り、三の矢が間近くまで来たところを前歯でがっちり嚙みとめて、三筋の矢をおし握ったまま、間仕切りの障子をさっと明け、深々と頭を地につけて言いました。
「おなつかしゅうございます、父上さま。あの小栗でございます。三年の間の勘当をどうか許してくださりませ」
兼家さまも、奥方さまも、死んだわが子に会えるとは、優曇華(うどんげ)の花や、たまさかや、どこにもためしのないことでありまして、喜びのわきたつ中、花の車を五輌仕立てて飾りたてまして、みかどの警護の番として、親子連れ立って御所に参ったのでありました。
みかどはごらんになりまして、
「小栗ほどの大剛の者はほかにはおらぬ。それなら知行地を与えてやろう」と、五畿内(ごきない)五か国をくださるという永代の薄墨の御判をくだされたのでありました。
小栗どのはいただきましたが、
「五畿内五か国は欲しくございません。美濃の国に替えてくださいますか」とみかどに申しあげました。
みかどはお聞きになりまして、
「大国に小国を替えてという望み、何かわけのあることだろう、それなら美濃の一国を馬の飼料用に与えてやる」と、さらに御判をくだされたのでありました。
小栗どのはいただきまして、あらあらありがたいことでございました。遠くの珍味に近くで穫れたての産物を山とつみあげて、祝ったのでありました。
「小栗である。奉公したい者があれば知行地を与える」と高札を書いて立てましたら、あの小栗どのなら奉公したい、判官どのの家来になりたいと、丸三日の間に三千余騎があつまってきたのでありました。
新しいとのさまが三千余騎をひきつれて、美濃の国へお国入りということのお触れが出回りました。三日後の宿は、君の長どのということでありました。君の長はこれを見て、百人の流れの姫を一つ所にあつめて、
「さあさあ、流れの姫たち、いそがしくなりましたよ。都からおとのさまがお国入り、なんと、この家においでである。御前に出て、憂いをおなぐさめしてさしあげて、たくさんごほうびをいただいて、君の長夫婦のことも、よくやしなっておくれでないか」と言いました。
姫たちは十二単で身を飾りたて、今か、今かと、待っておりました。
三日後のその日になりまして、犬の鈴、鷹の鈴、轡(くつわ)の音がざざめいて、上も下も、花やかに、悠々とやって来まして、君の長どのの館に着いたのでありました。百人の流れの姫は、われ先に御前に出て、憂いをなぐさめようとしたのでありますが、小栗どのはちっとも楽しむことがないのであります。やがて君の長夫婦を御前に呼びまして、
「たのみがあるのだ、夫婦の者どもよ。おまえの家には、下働きの下女で、常陸小萩というものがいるだろうか。いれば、お酌に呼んでくれ」と言いました。
君の長はこれを聞き、「合点承知でございます」と、常陸小萩のところに行きまして、
「たのみがあるのだ、常陸小萩よ。おまえのみめかたちが美しいということが、都からおいでになった国司さまに漏れ聞こえ、お酌にこいとおっしゃっておられる。お酌に行っておくれ」と言いました、
照手姫さまはこれを聞きまして、
「長どのさま、おろかなことをおっしゃいますな。いまお酌にまいるくらいなら、そのむかし、流れの姫になれといわれたときにもなっておりましょう。お酌には行きません」と言いました。
君の長はこれを聞き、
「なにをいうか、常陸小萩よ。まったくおまえは、うれしいことと悲しいことは、すぐ忘れると見えるね。そのむかし、餓鬼阿弥とかいう、あの車を引いたときを思い出さないか。おれが、暇なんかやるかと言ったとき、いつの日か、おれたち夫婦の身の上に大事があろうそのときには、自分が身替りになって立とうと、おれたち夫婦をまもろうと。その一言の言葉に動かされ、おれは慈悲に情けをあい添えて、五日の暇を取らせたのだ。いまおまえがお酌に行かなければ、おれたち夫婦のいのちはたちまち無くなる。なにがどうあっても、おまえはお酌に行かねばなるまいよ、常陸小萩」と言いました。
照手姫さまはこれを聞き、ことばの道理に詰められて、何も言えなくなりまして、「ほんとうに、ほんとうに、そうだった。あのときに車を引いたのも、夫の小栗のためであった。また今お酌に行くのも、夫の小栗のためである。小栗どの、どうかお恨みくださいますな。変わる心があって、お酌に行くんじゃございません。あたくしに、変わる心はさらさらございませんから」と心の中で思いまして、
「長どのさま。それではお酌にまいります」と言いました。
君の長はそれを聞き、
「よく決心してくれた。さあ、それなら十二単で身を飾っておいで」と言いました。
照手姫さまはこれを聞きまして、
「長どのさま、おろかなことをおっしゃいますな。流れの姫として呼ばれたならば十二単も着ましょうが、わたくしは下働きの下女として呼ばれております。このままでまいります」
たすきがけのそのままで、前かけもそのままで、銚子を持つて、お酌に立ったのでありました。
小栗どのはこれを見て、
「常陸小萩とは、あなたのことか。常陸の国では、だれのお子でおられたか、お名のりください。小萩どの」と言いました。
照手姫さまはこれを聞き、
「主人の命令でお酌にまいったのでございます。初めてお目にかかるおとのさまと懺悔話(ざんげばなし)をするために来たのではございません。お酌がおいやなら、ここでお待ちしております」と、銚子を捨てて、お酌の場から退がろうとしたのでありました。
小栗どのはこれを見て、
「すまない、そのとおりだ、小萩どの。人の先祖を聞くときは、まず自分の先祖を語らなければな。わたしを何者とお思いになるだろう。わたしこそ、常陸の国の小栗という者だ。相模の国の、横山どのの一人姫、照手の姫に恋をして、押し入って婿入りした罰として、毒の酒にて責め殺されたが、十人の家来たちの情けによって黄泉(よみ)から帰ることができた。それから餓鬼阿弥と呼ばれ、東海道七か国を車に乗せられ、引かれていった、そのときに、『東海道七か国、車を引いた人は多くとも、その中で、美濃の国、青墓の宿、万屋の、君の長どのの下女、常陸小萩という姫が、青墓の宿から上り大津の関寺まで車を引きました。熊野の本宮の湯の峯にお入りになり、病が本復したならば、お帰りのさいかならず青墓の万屋にお寄りください。かえすがえすも、お名残りおしゅうございます』と書いてくれた人がある。これがその胸の木札」と照手姫さまに見せまして、
「恩返しのために、ここまでお礼にまいりました。常陸の国では、だれのお子でおられたか、お名のりください、小萩どの」と言いました。
照手姫さまはこれを聞き、何も言えなくなりまして、ただ涙にむせんでおりました。
「いつまでも隠しとおせるものではありません。こう申しますあたくしも、常陸の者とは申しましたが、常陸の者ではございません。相模の国の、横山の一人姫、照手でございます。父横山が、人の子を殺してわが子を殺さねば都の聞こえも悪いと申しまして、鬼王、鬼次の兄弟に、照手を沈めよと言いつけたのですけれど、その兄弟の情けで助けられ、あちらこちらと売られたのでございます。あまりの悲しさに、静かに数えてみましたら、四十五回売られまして、とうとう、この青墓の、君の長どのに買い取られたのでございます。そして今、流れの姫にはならぬと言い張った罰として、十六人分の水回りの雑用やら下働きやらを、あたくし一人でやっております。あなたに会えて、うれしゅうございます」
うれしいやらかなしいやら、これまでの思いが、どっとあふれて出てきまして、姫さまは、かき集めた藻塩草(もしおぐさ)のように、すすむも下がるもできなくなったのでありました。
小栗どのはこれを聞き、君の長夫婦を前に呼び、
「はなしはきいた、夫婦の者どもよ。人の使い方にもほどがあろう。十六人分の下女仕事が一人の人間にできるものか。その方どものような邪慳な者は死刑である」と言いました。
照手姫さまはこれを聞き、
「ああどうか、小栗どの。慈悲深い長どのには、どうぞごほうびを与えてくださいませ。理由はこうでございます。あなたが、むかし、餓鬼阿弥と呼ばれていた頃、あたくしが車をお引きしましたわね。そのときに三日の暇をおねがいしましたら、長どのは、慈悲に情けをあい添えて、五日の暇をくださいましたの。それほど慈悲深い長どのには、どうぞごほうびを与えてくださいませ、夫の小栗どの」と言いました。
小栗どのはこれを聞き、
「それなら、妻の受けた恩にめんじて」と、美濃の国、十八郡(ごおり)をすべて自由にしてよろしいと、君の長に与えたのでありました。
君の長はいただいて、あらあらありがたいことでございます。遠くの珍味に近くで穫れたての産物を山と積みあげて、祝ったのでありました。それから君の長は、百人の流れの姫の中から、三十二人をよりすぐり、玉の輿(こし)にとって乗せ、照手の姫の女房たちとして差し出しました。女人がよい家の生まれでなくともよい地位にのぼるということを、玉の輿に乗ると言いますのは、このことから言われるようになったのでございます。
さて、次は常陸の国へお国入りをすることになりまして、七千余騎をひきつれて、横山攻めがあるとお触れが出ました。横山どのは心底から肝をつぶし、
「あの小栗が蘇ったと。横山攻めをするのだと。みなの者、城を守る用意はよいか」と空堀(からぼり)に水を入れ、棘(とげ)の柵を引き並べ、用心おこたりなく待ち構えておりました。
照手姫さまはこれを聞き、小栗どののもとへ行きまして、
「おねがいがございます、小栗どの。昔からこう申します、父のご恩に背けば七逆罪、母のご恩に背けば五逆罪。十二逆罪を得るだけでもほんとにかなしいことですのに、今、あたくしがこうしてすくわれて、そのけっか、父に弓を引くなんて、かなしくてたまりませんの、小栗どの。明日の横山攻めはおよしになってくださいませ。もしおよしくださらないようでしたら、横山攻めにお出かけになる前に、まずあたくしを殺してくださいませ。それから横山攻めにお出かけくださいませ」と言いました。
小栗どのはこれを聞き、
「それなら、妻の受けた恩にめんじて」と言いました。
照手姫さまは喜びまして、でもやっぱり夫婦の仲のことであります、夫の怒りは晴らしたいと思いまして、これまでのことの次第を手紙にしたためて、父の横山どのに送りました。
横山どのは受け取って、さっと広げて読みはじめたのでありました。そして「昔からよく言うことではあるけれども、七珍万宝(しっちんまんぽう)のかずかずの宝より、わが子にまさる宝はないと、今こそ思い知らされた。なんでもくれてやろう」と馬十頭分の黄金に、あの鬼鹿毛をあい添えて、照手と小栗に贈りました。そして、これも元はといえば、三男の三郎のたくらみから始まったということで、三郎に七筋の縄をつけ、小栗のもとに引いていきました。
小栗どのはこれを見て、恩は恩で、仇は仇で、報いてやろう。馬十頭分の黄金は欲しくもないからと、その金で、黄金御堂(こがねみどう)と呼ぶ寺を建てました。それから、鬼鹿毛の姿を真の漆で固めて、馬頭観音としてまつりました。牛は大日如来の化身としてまつられているのであります。そして、これも元はといえば、三男の三郎のたくらみから始まったということで、三郎を荒簀(あらす)に巻いて、西の海に柴漬けの刑に処したのでありました。舌三寸のあやつりで五尺のいのちを失う、それを見通せなかった三郎のはかなさでありました。
それから、ゆきとせが浦に行きまして、はじめに姫さまを売ったあの姥をひったてて、肩から下を土に埋め、道行く人々に、竹鋸(たけのこぎり)で首を引かせたのでありました。太夫殿には、知行地を与えたのでありました。
そしてそれから、小栗どのは常陸の国へ戻りまして、棟に棟をつらね、門に門をつらねてお屋敷を建てまして、富貴万福、二代にわたる長者として栄えたのでありました。そしてその後、生者必滅(しょうじゃひつめつ)の習いでございます、八十三の年で大往生をとげました。そのとき神や仏が一か所にお集まりになりまして、ここまで真に大剛の武士はめったにおらぬ、これはぜひとも神としていつきまつり、末世の衆生に拝ませたい。それで小栗どのを、美濃の国、安八郡、墨俣、垂井にまします正八幡宮の荒ぶる神としておまつりになりました、同じく照手姫さまを、それより十八町下手の方に、契り結びの神としておまつりになりました。契り結びの神のご本地も、ここに語りおさめます。
ところも繁盛いたしまして、おめでとうございます。
御代もおさまりまして、おめでとうございます。
国も豊かに、おめでとうございます。  
小栗判官伝説

 

小栗は二条大納言兼家が鞍馬の(くらま)の毘沙門(びしゃもん)から授かった申し子である。知勇兼備の秀れた武者で、十八歳のとき、兼家夫妻が妻を娶わせようとしたのを、いろいろ難癖をつけて妻嫌いをし、七十二人も撥ねつけた剛のものである。その小栗があるとき鞍馬(くらま)に参詣の途次、みぞろが池の大蛇に見染められてこれと契り、都中の風聞の種となる。父兼家はわが子なれども心不浄のものは都に置くことはできないと、常陸国玉造に小栗を流す。小栗は常陸に住んでも大剛ぶりを発揮し、多くの武士を配下に従えて威勢を振う。
ある日玉造の御所に、後藤左衛門という山伏体の行商人が現れ、商いのかたわら、武蔵、相模の郡代横山のひとり姫照手の美しさをいいふらす。小栗はこれを聞き、見ぬ恋に憧れ、後藤に仲介を頼んで恋文を書く。後藤はその文を持って、横山の館に着く。照手は下野国(しもつけのくに)日光山の申し子で、観音が常に影身に添うように守護する女性である。父横山や兄たちに厳しく監視されて育ったこともあって、後藤から手渡された恋文が自分あてのものだと知って狼狽しこれを破り棄てる。後藤は観音経をひいて文を破った照手の罪を攻め、返書を強要する。照手はやむなく小栗に返書を書く。照手の承引は一家一門の関知しないことであり、そこに一抹の不安はあったが、小栗は強引に、十人の臣人を従え横山の館に入り、乾の局で照手と契る。父横山は理不尽な小栗の婿入りに腹を立て、七十騎の軍勢を向けて殺そうとするが嫡子家継に止められる。しかし怒りは静まることなく、三男の三郎の意見を入れて、稀代(きたい)の荒馬(人食い馬)、鬼鹿毛(おにかげ)に小栗を乗せ、人まぐさにすることに決める。小栗はまえもって鬼鹿毛に宣命を含めて柔順にし、ついにこれを乗りこなし、曲乗りなども披露する。あまりの見事さに横山一門は唖然とするが殺意は衰えず、第二の手段として蓬 山の宴に小栗を招き、毒殺の計画をねる。この企みを察知した照手は自らが夢みた悪夢の数々をあげて、小栗の出仕を制止する。しかし小栗は、大剛の者の習いとして招きを断るわけにはいかないとして十人の家臣ともども宴に出、ついに横山の手にかかって毒殺されてしまう。そして臣下十人は火葬に、小栗一人は土葬として葬られる。(これまでがこの物語の前半を作っており、後半は主役が入れ替り照手が中心になって進行する。)
横山は、「人の子を殺して、わが子を殺さねば、都のきけい(聞こえ)もあるから」という理由で照手を殺すことにし、鬼王鬼次に命じて、相模国のおりからが淵に沈めることにする。しかし鬼王鬼次は照手を救い、牢輿(ろうこし)に入れて流す。照手は相模国(さがみのくに)のゆきとせが浦に漂着し、そこの村君(むらぎみ)の太夫(たゆう)に拾われて養われる。しかし村君の太夫の姥(うば)(妻)は照手に嫉妬し、生松でいぶすなどの折檻をするが、観音の加護のある照手には何事もない。姥はついに照手を六浦(むうら)が浦の人商人に売る。これ以降照手は転々と諸国を売られ歩き、北陸道から近江の大津へ、さらに美濃国青墓(みのくにあおはか)の遊女宿よろず屋の君の長のところへ売られてくる。
よろず屋の長は照手に遊女となって客を引くことを命じるが、照手は頑固に拒み水仕(みずし)として働くことになる。そして常陸小萩、念仏小萩とよばれて苦しい労働に明け暮れする生活を送る。
一方、話かわって、冥土に堕ちた小栗主従は閻魔大王の前でその罪を裁かれる。そのとき住人の臣下は、たっての願いといって、土葬にしてある小栗の身体を今一度娑婆(しゃば)に戻してくれと頼む。
閻魔は臣下の忠節に感じて願いを聞き入れ、藤沢の上人(しょうにん)(遊行寺)(ゆぎょうじ)のめいたう聖のもとに返すことにする。やがて小栗は物いえぬ餓鬼阿弥(がきあみ)という醜い姿のままで、閻魔直筆の「この者を熊野本宮、湯の峯の湯に入れて本復させよ」という胸札をつけ、うわのが原(遊行寺の近く)にある小栗塚を破って出てくる。
藤沢の上は小栗に餓鬼阿弥仏と名をつけ、土車に乗せて自ら先頭に立ち、熊野本宮湯の峯目指して引いていく。途中上人と別れた土車は、なおも街道の人々の援けによって東海道を上り、やがて青墓のよろず屋の長のところへ着く。
照手は小栗のなれの果てとは知らず、餓鬼阿弥と対面し、夫の供養のために車を引くことを思い立ち長から三日の暇をもらう。そして手に笹を持ち狂女の風躰となって、先に立って土車を引き、青墓より近江に入り、大津、関寺とたどり、玉屋の門前にまできて止まる。そこで餓鬼阿弥と一夜を明かし、後ろ髪をひかれる思いで土車を捨てて、約束の三日の期限を守るため、照手は長のところへ帰る。
しかし土車の道行きはなおも続き、新しい車引きの旦那を得て、住吉明神、堺の浜とコースをとって引いていく。そして本宮湯の峯の近くで車道が絶えたので、やむなく餓鬼阿弥一人、大峯入りの山伏にかつがれて、目的地の峯の湯に着く。小栗はそこで七七四十九日の間湯治に専念し、ついにもとの小栗に本復する。
小栗は、熊野権現の加護を受け、金剛杖(こんごうづえ)を授かって山伏姿に身を変え、まず京の二条にある父兼家の館を訪れる。そこでいったんは館を追放されるが後、実子小栗とわかり、親子は久々の対面で涙を流す。小栗は次に帝と対面し、五畿内五箇国を与えられ、また美濃国も馬の飼料としてもらい受ける。小栗は昔の奉公人三千人を従え、青墓の宿の長の君のところへ赴く。そこで水仕となって働く照手と対面し、すべてが明らかになり、二人は喜びの涙にひたる。小栗は長者夫婦を罰しようとしたが、照手の取りなしで恩賞を与え、また横山に対する報復も同じく照手の言を入れて思い止まる。横山は子に勝る宝はないと、十駄の黄金と鬼鹿毛を馬頭観音と祀る。それにひきかえゆきとせが浦の姥や、横山の三男三郎の対しては極刑を下し、小栗の厳しさの一面をのぞかせる。小栗照手夫婦はやがて常陸に戻り末長く長者として栄え、八十三で小栗は往生をとげる。神仏は大剛の者小栗をたたえ、末世の衆生(しゅうじょう)に拝ませんと、美濃国安八郡墨俣(すのまた)に正八幡荒人神として祀り込め、また照手はそれより十八丁下に契り結ぶの神として祝い祀られる。
伝説 小栗判官と照手姫について
その昔。浄瑠璃や歌舞伎など、江戸を中心に俄然有名になった小栗判官と照手姫とはどのような人物で、旧協和町とのかかわりはどのようなものだったでしょうか。最近の歴史ブームと共に郷里の史的人物の評価と顕彰が盛んに行われるようになってきました。これらが、ふるさとの活性化へのステップになっているようです。小栗判官と聞いても非常にあいまいな答えしか返ってきません。大まかには分かっているつもりでも、本当は良くわからないのが実状のようです。どこまでが史実で、どこからが伝説なのか、もちろん明確な基準はなく、あってもその根拠は希薄なものでしかないようです。
−その一説をたどると−
中世の小栗(旧協和町)は伊勢皇太神宮の神領で御厨と呼ばれ、その管理を代々世襲したのが常陸平氏一族の小栗氏でした。応永三十年。今からおよそ五百六十余年前の頃、常陸小栗の第十四代城主、判官小栗満重(判官は当時の官位)は関東公方・足利持氏に攻められ、小栗方は苦戦の末ついに落城してしまいました。その満重の子、小栗助重は涙を流し城を捨てて、主だった家臣十名と共に一族に当たる三河国(愛知県)に逃げのびる事になってしまったのです。この時の家臣十名が小栗十勇士であり、幾多の合戦で武勇をとどろかせた強者たちでした。三河めざして落ちて行く途中、相模国藤沢宿(神奈川県藤沢市)で横山大膳という豪族の家に泊まりました。この横山は実は盗賊で判官は、毒殺されかかったが、遊女照手姫は宴席で舞をまいながら同じ歌を繰り返し歌って毒酒であることを助重に伝えたのでした。  
 

 

 ■戻る  ■戻る(詳細)   ■ Keyword    


出典不明 / 引用を含む文責はすべて当HPにあります。