川魚漁・鮨・寿司

越中の川魚漁溯上魚サケ春を告げる鱒漁渓流を釣る岩魚山女漁鮒漁鮭漁鮎漁モクズガニ漁川よ蘇れ海と山をつないだ魚街道
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雑学の世界・補考   

越中の川魚漁

人類の古い文明は黄河、揚子江、ガンジス川、チグリス・ユーフラテス川、ナイル川など大河の流域から生まれ、川の恵み川の幸に育(はぐく)まれて豊かに発展した。
わが国の大和、山城の古い文化を育てたのも吉野川、泊瀬(はつせ)川、飛鳥川、佐保川、そして宇治川、木津川、賀茂川などの川の恵みであった。よく山の幸、海の幸と併称するが、これに川の幸を加えたい。
神武天皇建国神話にも吉野川で簗(やな)を仕掛けて魚を捕る鵜養(うかい)の祖が登場する。
「日本書紀」応神天皇の条には、吉野山間の国樔(くずひと)が鮎(あゆ)などを献上するのを慣例としたと記す。歴代天皇即位式の時、紫宸殿(ししんでん)の前庭に立てられる万歳旛(ばんぜいばん)には建国神話ゆかりの鮎が描かれている。
鮎は魚篇に占と書き、神意を占う神聖な魚でもあった。神功皇后鮎占(あゆうら)の神話にちなみ、入善町の入善神社には皇后鮎釣りの姿の銅像が建つ。
西日本・南日本の川魚を代表するのが鮎。これに対して東日本・北日本の川魚の代表が鮭(さけ)・鱒(ます)であった。東西日本文化の相接し、相交わる越中(富山県)の地は鮎の文化も、鮭鱒の文化も重なりあって豊かであった。
越中最古の川魚史料
越中の川魚が登場する最古の史料は平城宮跡から出土した和銅3年(710)の木簡で、これに記された魚は鮒(ふな)。花形の鮎ではなくて、意外にも地味な鮒だ。
木簡の表には「越中国利波郡川上里鮒雑」、その裏面に「(きたひ)一斗五升」「和銅三年正月十四日」と記されている。は干物(ひもの)である。小矢部川流域で獲れた鮒の干魚が貢租、献上物として都に送られた、それに付けられた木製の荷札だ。
「万葉集」には高安王が娘子(おとめ)に鮒を贈り、「妹(いも)がためわが漁(すなど)れる藻伏束鮒(もふしつかふな)」の1首を添えたとある。王のような身分のある人が川で苦労して鮒を捕り、恋人への贈り物にしたのだ。藻伏束鮒は川藻の中に潜む、一つかみほどの大きさの鮒のことで、この表現も面白い。
なお「万葉集」に登場する川魚はアユを筆頭にして、フナ・クソフナ(タナゴ?)・ムナギ(ウナギ)・ヒヲの5種。サケもマスもまだ登場しない。
どちらかといえば、鮎は弥生文化的、鮭鱒は縄文文化のにおいが強い。
万葉集と越中の鵜漁
天平19年(747)大伴家持は「越中は山が高く川が雄大だ」と胸を張って歌いあげた。そして越中の川で鵜を使っての川漁をしばしば歌った。
「鮎走る 夏の盛りと 島つ鳥 鵜養(うかい)が伴は ゆく川の 清き瀬ごとに 篝(かがり)さし なづさひのぼる…」(長歌の一節)すなわち鵜漁を職業とする鵜飼たちがいて、片手にかがり火を持ち、片手で鵜をさばきながら、川の瀬を溯って鮎を捕っていたのだ。
鵜を使って川漁をすることを「鵜川を立つ」といったが、家持は宇奈比(うなひ)河(氷見の宇波川)でも、辟田(ささた)河(子撫川?)でも鵜川を立てて漁をたのしんだ。家持にとっては鵜漁はスポーツであり遊びであった。売比(めひ)河(多分神通川)では
  売比河の早き瀬ごとにかがりさし 八十伴(やそとも)の男(お)は鵜河立ちけり
と見事に歌った。
また越前国へ転出した親友の大伴池主(いけぬし)に鵜を贈り届け、「この鵜を使って鵜漁をたのしみなさい」とすすめ、「鵜漁で獲れた鮎のハタ(ひれ)は私の方へ向けて下さい」と言い添えた。思う人の方へ獲物の魚のひれを向けるという、蔭膳(かげぜん)のような当時の儀礼であろう。
「万葉集」には吉野川の鵜漁、泊瀬(はつせ)川の鵜漁を歌った歌が各2首あるが、具体的に鵜漁のありさまをこまごまと何首も歌ったのは越中の家持ただ一人だ。
仏教の殺生禁断の思想から鵜飼禁止の勅が養老5年(721)にも天平17年(745)にも出されているが、多分徹底しては実施されなかったのであろう。それにしても都周辺では遠慮がちであったかもしれぬが、「天(あま)ざかる鄙(ひな)」の越中では家持は自由に鵜川をたのしんだ。まさに越中は鵜漁の天国であった。川の幸の醍醐味を満喫できる地であった。
現在、長良川で行われている鵜飼は舟漁であるが、家持のころは川瀬を踏み渡りながらの歩(かち)漁であった。歩漁の鵜飼が現在も行われているのは和歌山県の有田川ただ1カ所であるという。
元禄11年(1698)浪化の雄神川(庄川)舟中吟に鵜漁が何句も詠まれているから、江戸時代なお鵜漁は続いていた(金子宰大氏指摘)らしいが、その後残念ながら越中の鵜漁は断絶した。
浪化の句   
 首立てて鵜のむれのぼる早瀬哉   
 鵜のいろの照りにてりたる川原かな   
 中喰に鵜飼のもどる夜半かな
風名のアユと魚名のアユ
大伴家持は富山湾から陸地へ吹きつけてくる「あゆの風」を幾度も歌い、特にこの風名を「越の俗語」と注記した。後世にいたるまで日本海沿岸各地で「アイノ風」と呼ばれた風だ。柳田国男氏や池田弥三郎氏によれば、「アユノ風」は海のかなたから珍しい物を吹き寄せてくる「幸(さち)を運ぶ風」であるという。鮎もまた海から川を溯り、陸地に幸をもたらす魚だ。風名のアユと魚名のアユ。偶然の一致であろうか。それとも語源的に何か関連があるのであろうか。
平安時代の「延喜式」(延長5年、927)には越中国の中男作物(若者に課された租税)として「鮭楚割(さけすわり)、鮭鮨(すし)、鮭氷頭(ひず)、鮭背腸(せわた)、鮭子」の5種が列挙されている。楚割は魚肉を細長く割いて塩干にしたもの。鮨は魚の臓物を除去して飯と酒を混ぜ合わせて詰め、発酵させたもの。氷頭は頭部の軟骨。背腸は背骨についた血肉を塩辛にしたもの。鮭子はハラゴ。これら鮭加工品が貢租として越中国に割り当てられていた。
これら鮭加工品の割当は信濃国、越後国もほぼ共通しているが、鮭鮨だけは越中国にのみ割り当てられ、外の国の貢租品目にない。スシの作り方はかなりちがうが、後年、越中名物となった鱒のすしが連想されて興味深い。
 
神秘的な溯上魚サケ

鱒を神聖視した伝承はあまりないようであるが、鮭を神として祀った神社は東北地方に多いという。これは、鱒の溯上が春であるのに対し、鮭の溯上が初冬であることとも関連があろう。初冬の神無月(かんなづき・旧暦10月)は神の月で、そのとき溯上してくる鮭が神聖視されたのであろう。「鮭の大助いまのぼる」と言いながら溯上ってくるといわれ、その声を聞くことを畏れ、耳塞ぎ餅をつき、酒盛りして騒ぐ習俗が東北地方にあったという。
越中では、芦峅(あしくら)の釣鐘が洪水で常願寺川に流失したが、その鐘が鮭になって旧暦10月の立山開山上人の八講祭のとき、芦峅まで溯上してくるという。
また長沢(現婦中町)の貧農六治古(ろくじこ)が鮭を助けてやったが、やがてその鮭が女の姿になって雪の夜、六治古の家に泊めてもらい、ついに六治古の妻となり、夫を助けて、夫六治古を奥婦負(ねい)開拓の豪族にしたという。その妻は本来は龍神の娘で、龍女が鮭の姿で出現したのであった。
武部神社(大山町文珠寺)の女神が熊野川を渡るとき、鮭の背を踏んで足を滑らせ、ずぶぬれになったので、女神に恨まれ、その地点「糠淵(ぬかぶち)」には鮭が上がって来なくなったという伝説は、話が屈折しているが、やはり鮭が神秘的な魚とされていたことと無関係ではあるまい。
なお谷川で、それ以上魚の溯上できぬ地点には「魚止まり」「魚止めの滝」などの地名がつく。上高地への昔の道であった島々谷には「止(いわなど)め」の地名があって登山者に親しまれた。
岩魚の美味と怪異談
黒部峡谷は岩魚(いわな)の宝庫で、江戸時代、信州の漁師が入り込み、小屋掛けして岩魚を捕った。加賀藩の奥山廻り役はきびしくこれを取り締まった。
明治になって日本アルプスに入山した英国人の紀行にはしばしば岩魚が登場する。明治11年(1878)アーネスト・サトウは黒部の平(だいら)ノ小屋で「夕食にイワナという美味しい魚を食べた」と書き、それは「鳥の羽で出来た毛針を使って釣ったもので、重さはおよそ4分の3ポンドあった」と(「サトウ日記」)。
ウォルター・ウエストンは明治26年(1893)やはり平ノ小屋で「一番元気のいい若者が重さ1ポンドもあるおいしいイワナを黒部川で捕って来てくれたので夕食は一層うまいものになった。」と書いた(「日本アルプス登山と探検」)。
イワナは獰猛(どうもう)な魚としても知られ、五箇山の天柱石の下の淵で岩魚と蛇が大格闘の末、9尺もある大きな蛇がついに水中に引き込まれたという下梨村仁右衛門の実見談がある(注、1尺は約0.33m)(宮永正運著「越の下草」天明6年、1786)。
また百瀬川(ももせがわ)の奥で杣(そま)たちが毒流し漁法の計画をしていると、深夜、僧がたずねて来て「毒流しは止めなさい」と制止したが、翌日予定通り毒を流したところ、7、8尺の大岩魚が捕れた。岩魚の腹から昨夜僧に与えた団子が三つ四つ出て来たので、あの僧の正体は岩魚だったとわかり驚いた。大岩魚を埋葬して弔ってやろうとしたが、一人の男が「ぜひ食いたい」といって食べたところ、その夜高熱を発して苦しみもがき死んだという。
同じような伝説は常願寺川支流の小口川にもあるが、僧でなくて、ギャーギャー泣く赤子を抱いた女が深夜、杣たちの仕事場に現れた。皆気味悪がり小豆飯(あずきめし)を与えて帰した。翌朝釣った大岩魚の腹からは前夜の小豆飯が出て来たという。
黒部川の水源と双六(すごろく)谷(神通川の支流高原川の支谷)の水源は続いていて、黒部川の岩魚が双六谷へ越え、双六谷の岩魚が黒部川へ越えるという話は冠(かんむり)松次郎氏が山の人から聞いて書きとめた。
アユのスシからマスのスシへ
享保2年(1717)富山藩士吉村新八が神通川の鮎を用いてスシを漬けた。藩主利興(としおき)はたいそうこれを賞味して将軍吉宗にも献呈し、吉宗もこれを賞し、以後富山藩から幕府への献上品となり、富山名物となった。
神通川舟橋のたもとの茶店では鮎のすし(鮨・鮓)を売り、旅人はこれを賞味してゆくのが例となった。十返舎一九の「金草鞋(かねのわらじ)」(文政11年、1828刊)には挿し絵も入れ、狂歌も添えて鮎の鮨の美味を称賛した。越中川魚文化の記念すべき1冊である。その狂歌「名物の鮎の鮨とて買ふ人のおしかけてくる茶屋の賑はひ」。なおこの鮨は早鮨でなく、12日ほど漬けておく馴れ鮨であった。
尾張藩士某の「三山廻り(みつのやまめぐり)」(文政6年)には「この神通川、名物とて鮓(すし)にして売る」とある。は通常ハヤと読む字だが、ここではアユと読むべきである。貝原益軒「大和本草」・毛利梅園「魚譜」等もアユに字を当てている。を鱒とする説は、後世の鱒の鮨から類推し、無理にこれに引き寄せた強弁である。
明治33年(1900)登山家小島烏水(うすい)の紀行「山水無尽蔵」によると、神通河畔でミヤゲとして「鮎のうるかと鮎の鮨」を買い求めたとあるから、明治になっても神通川の名産は鮎の鮨であった。
多年、富山名物として激賞されてきた鮎の鮨は、いつのまにか鱒の鮨にとって代られた。近現代、一般に馴れ鮨は敬遠され、早鮨をもてはやす食傾向が強い。寿司屋で出すのはすべて即製の早鮨である。この近代人の嗜好の変化が大きく作用したのであろう。
明治天皇と富山県の川魚
明治11年(1878)明治天皇北陸巡幸のとき、神通川舟橋の上から鮎漁を御覧になった。十余艘の漁船を漕ぎ連ね、網をあげると、かかった鮎が立山を昇る朝日に輝いて見事であったという。庄川の雄神橋では、紅白の旗を橋上に建て連ねて鮭漁の勇壮なありさまを御覧に入れたという。(富山県「北陸御巡幸六十年記念誌」)。
千葉胤明氏の「明治天皇御製謹話」に神通川で鮭漁を御覧に入れたとあるが、これはあるいは庄川の誤りであろうか。このとき万一の不漁に備え、あらかじめ鮭を縛って網にひそませて置いたのを天皇が気付かれ、高崎正風(まさかぜ)が機転をきかせてその場をとりつくろったという。
神通川の川魚はきわめて美味であるので、やがて神通川は皇室の御猟場(ごりょうば)に指定された。川で御猟場になったのは長良川と神通川の両川であった。しかも長良川は鮎だけであったが、神通川は鮎・鮭・鱒の3種にわたっての指定であったという(重杉俊雄「神通川誌」)。
しかし指定後初めて獲れた鮎は、明治天皇が崩御されたため、御霊前にお供えしたという。(御猟場制度は現在廃止)。
川魚のまほろば越中
越中の川魚の美味なことについては、京都の漢詩人中嶋棕隠(そういん)が天保5年(1834)越中を来訪したとき、「北越三冬の食品、鮭魚を第一とす」と記している。北陸の冬の食べ物では鮭魚すなわちサケが一番うまいというのである。冬、鮭の新巻を並べ下げた店頭風景が思い合わされて感興深い。
前述の小島烏水は明治33年、神通川伝いに飛騨から越中に入り、片掛の茶店で昼食を取ったが、「串刺の鮭の鮮肉に醤油を塗りて炙(あぶ)りたるを勧」められ、「香気沸(ふつ)々、頤((おとがい)・あご)落ち」るほど美味で、つい御飯を何杯もおかわりしたという。その鮭は、神通川を「閃光よりも早く溯りくるを」「竹槍にてその眼を貫くに」「百中の妙あり」と、神通峡の名人漁師の漁法にも言及している。
ウエストンも明治26年(1893)神通峡を通過したとき「神通川にはいろいろな種類の魚がたくさんいた。時には8ポンドもあるようなマスは四つ又の銛(もり)で取るが、アユやイワナは網で捕る」と書いている(「日本アルプス登山と探検」)。
昭和11年、歌人川田順は富山の歌友藻谷銀河を訪ね、鮎料理に舌鼓を打ち、
 この家の老いたる母のもてなしは神通川の落鮎を焼く  と喜び
昭和12年、木俣修は黒部峡谷鐘釣温泉で
 火に寄りて岩魚食(は)みゐる時の間(ま)も渓邃(たにふか)く行く瀬の音たちぬ
の1首をとどめた。
越中富山はまさに川魚の宝庫である。この川の恵み川の幸にあらためて感謝し、この豊かな自然環境「川魚のまほろば」を守るとともに、長い伝統に培われた魚食文化・漁撈文化を受けつぎ、後々までも伝えてゆきたいものである。  
 
春を告げる鱒漁

春の使者サクラマス
冬も真っただ中の2月。時には春めいた日が見られることはあっても、神通川では連日神通川特有の山おろしの寒風が吹きすさみ、河原一面にはまだ雪が残っている。川はつい半年前、アユ釣りで賑わったあの夏がまるでうそのように、川底には垢が堆積して暗く、どんよりとしており、川水は生気もなく死んだように流れ、生き物の気配さえも感じられない。ただ、時折瀬のせせらぎと瀬音だけが、夏の面影を偲ばせてくれる。
そんな中を2艘の川舟が神通川の川面を割って出ていく。何のためにか。そう、あのサクラマスをとるためにである。冬の間どれだけこの日を待ちこがれたことだろう。「もう、マスは来ているだろうか」、「出たい」、「いや、まだ早いだろう」、この心の葛藤を繰り返した後、ついに川に出る日が来たのだ。
瀬を流れてきた2艘の舟は淵にさしかかる。淵の頭で網を入れる。2艘の舟は流れの芯に乗って、パッと東西に広がる。この時の舟の動きは芸術作品にも近い。舟はさらに開き、八の字状になってそのまま淵を流れに乗って下り、マスのいるポイントに近づく。「マスが掛かるなら、ここだろう。ここしかない」、櫂(かい)の持ち手にも網の持ち手にも緊張がみなぎり、回りの空気が張りつめる。と、突然「オッシヤー」と言う(言ってるかどうかわからないが、そう聞こえる)網の持ち手の怒号にも似た声が静寂を破り、網を上げる動作に移る。水面に魚が銀鱗を見せるまで、マスであるという確信が持てない。「マスだ」、銀色の魚体が網の中でさかんに躍動する。あわただしく、東西に開いていた舟が寄せられ、一つの舟に慎重にマスが入れられる。3キロ前後のまるまると太ったマスである。寒マスとまでいかなくとも、脂がのっているし、値も高い。もちろん、言うまでもなく、このマスは富山名産「ますの寿し」の原料となるあのマスである。櫂の漕ぎ手、網の持ち手とも、顔に笑みがこぼれる。今年もマスが来たか−。川の外見は未だに冬でも、川の中にはもう春を告げる使者が溯って来ていたのである。毎年、こういうふうに、神通川ではサクラマス漁が始まるのである。
神通川のサクラマス漁は2月半ばから始まり6月中旬で終わる。盛期は5月。連休を過ぎる頃からがいい。もっとも、溯上時期は多少それよりも早くなるのだが、3-4月にかけては、雪どけ水のため川が増水することが多く、マスをとりに出れる日は少なくなってしまう。
マスをとる漁法は、冒頭の流し網漁を初め、流し刺網漁、投網漁があり、最近では遊漁者のルアー釣りも見られるようになった。マスが多かった時代にはヤス漁でも比較的多くとれ、県内のどこの河川でも、年輩の方からは潜って何本突いたという話をよく聞く。また、庄川や黒部川近辺の伏流水が多く湧く小河川や農業用水路にも多くのマスが溯上したものだという。
ところで、富山県でマスをサクラマスと標準和名で呼ぶようになったのは、特に漁師の間では、ごく最近のことであるらしい。それまでは、マスはあくまでマス(神通川では本マスと呼ぶ)であった。秋にのぼるサケに対して、春にのぼるものとして、単にマスでよかったのである。ところが、マスメディアの発達にともないマスという魚にもいろいろあることが知れ渡るようになった。
カラフトマス、サツキマス、マスノスケ、アメマス、ニジマスなどのサケ科魚類、はたまた塩マスなどの商品など、マスという名のものは多いのである。特にアマゴの降海型をサツキマスと呼ぶようになってからは、しっかりと区別するように、いやサツキマスではなく、もっと立派なマスであることを言いたいがために、漁師の間でもサクラマスと言うようになったと思われる。
サツキマスは元岐阜県水産試験場長の本荘氏がサツキの咲く頃に溯るマスとして、サクラマスと区別する意味でサツキマスと名付けられたものである。サクラマスはもっと以前に魚類学者の大島正光博士が用いたのが最初らしいが、名前の由来はあいまいらしく、サクラの咲く頃から上るので、サクラマスと呼ぶようになった説が有力である。とにもかくにも、サクラマスは日本にいちはやく春を告げる魚なのである。
産卵・ふ化・成長
サクラマスは秋(10月-11月)、最下流に位置するダムや堰堤の下流にあるわずかばかりの産卵可能な場所で産卵する。ふ化した稚魚は冬の間を小砂利の中でじっとして過ごし、春を迎える。春には小砂利からはいだし、岸辺の緩みに集まり、ユスリカ、カゲロウなどの水生昆虫を食べてひっそりと成長し、雪解けの増水に乗って、下流域に広く分散する。
6月下旬のアユの解禁日。それまでベールにつつまれていたサクラマスの幼魚が、鮮やかなパーマーク(パーとはサケ、マスの類の子供の意)を体側面に出現させて、突然人間の前に姿を現す。神通川では空港付近から上流で、庄川でも高速道路辺りから上流のいたるところで、幼魚がアユの網に入ってくる。この時期のアユの網漁による幼魚の混入状況で、昨年のサクラマス産卵量、幼魚の生育状況の一端を伺い知る事ができる。幼魚は体長(尾叉長)は9-10cm、体重10-15グラムで、おなじ時期の増殖場で飼育されている幼魚と比べて魚体は大きいし、何と言っても幅広く、脂鰭(ひれ)や、尻鰭、尾鰭に発色している朱色がとても色鮮やかである。
夏の間、アユの網漁という捕獲をかいくぐって生き残った幼魚は、翌年の2月頃になると、体型はより細長く、しなやかになり、鱗は銀白色になり、パーマークも徐々に見えなくなって、海に降(くだ)ろうとする個体が出現してくる。この時期前後に海に降る個体(スモルトと呼ばれる。生まれた稚魚の約60パーセント)と河川に残る個体(ヤマメとよばれる)に徐々に分れていく。降海時期は3月から4月、盛期は3月下旬から4月上旬頃。降海する個体は体長13-15cm、体重20-30グラム、その7-8割が雌である。海に降りたサクラマスは、遠く日本海北部からオホーツク海にかけて1年間の大回遊をするが、いたるところで人間の営む定置網、ひき網、刺網といった難敵が待ちかまえている。これらを奇跡的に逃れた個体は、翌年の春、自分が生まれた富山の川に帰ってくるのである。
ふ化した稚魚が降海し、再び母川に帰ってくることができるのは、1,000匹のうち、2、3匹。春、神通川で捕獲されるマスは、エリート中のエリートなのである。無事、生まれた川に帰ってきたマスは、淵に潜みながら今度は鱒漁によって狙われ、また鮎漁によっても体力の消耗を余儀なくされる。このような試練を経て、秋には再び上流域へ溯り、マスどうし、あるいはマスと河川に残ったヤマメとのペアが出来て、産卵の後、まる3年の命を閉じる。
マスとヤマメ
ところで、マスの定義とはいったいなんであろうか。平成8年の7月上旬、私は某大学の教授といっしょに庄川で友釣りをしていた。その日は曇天で、水温も低く、アユの「追い」は極めて悪かった。昼さがり、私は河原で座って遅めのおにぎりを食べていたが、先生は、はやくも竿を出しておられた。
と、突然「田子さん、掛かったよ」との声。慌てて先生を見ると、竿を弓なりに曲げながら必死に引きに耐えている様子。「田子さん、大きいよ、これは尺アユだ」と耐えきれないのか、少しずつ下流に下がって来られた。まさか、尺アユなんて、今の時期どころか、庄川には最近いたためしがない。そう思って見ていると「た、田子さん、こ、これは、アユ、アユじゃないよ」といって今度は走り出された。
緊張感がみなぎる。数十mは下がっただろうか、もう下がれる限界…。と、やっと魚は銀色の魚体を水面上に見せた。「マスだ」、とその場に居合わせた誰もがそう思った。無事に上がるだろうかと、皆思ったが、そこは、アユ釣りの名手、0.25号の水中糸ながら、うまく緩みに誘導して釣りあげてしまった。掛かってから、陸に上げるまでにどれだけの時間が費やされたのかよく覚えていない。
興奮もさめやらないうちに、またもや「田子さん、また尺アユだよ」といって、先生はまた魚と格闘し、またしてもマスを釣り上げてしまった。長さ約30cm、体重は400-500gはあろうかという立派に銀毛した魚体である。それはまさに長良川郡上八幡でのサツキマス釣り漁を彷彿とさせるシーンであるが、さて問題はこの魚をマスと呼んでいいかということである。富山県内水面漁業調整規則にはマスとヤマメの言葉だけあって、サクラマスという単語は出てこず、マスとヤマメの区別については少しも触れてはいない。
先ほどの魚については、神通川の漁師ならマスとは言わないであろう。しかし、普通の釣り人から言わせればヤマメのイメージからも離れ過ぎている。では大きさで決まるのかというと、そういう基準もないし、また、そういう分け方は面白くない。
私自身は一旦海へ降って回遊し、再び川に溯ってきたものをマスと呼ぶのが一番妥当だと思うが、では体長30-40cm前後の、マスかヤマメかどちらか分からない魚が海に降ったものかどうかについては、実際のところ、魚に聞いてみないと分からないというのが正直なところである。
鱒漁の実際
鱒漁には流し網漁、流し刺網漁、投網漁があるが、それについて述べる前に、各漁に共通した漁師の言い回しについて触れたい。
漁師言葉では、川の上流域をオモテ、あるいはカマテ、下流域をウラあるいはシモという。例えば、大門町の人でかつて庄川で流し網漁をやっていた人では「おらっちゃみたい、シモのもんは、オモテ行ったら大変で、な−ん流しとれんちゃ。やっぱり、ウラでないとあかんわ」という具合に。オモテとウラは広い範囲に使い、カマテとシモは広い範囲でも、狭い範囲でも上流、下流を分ける言葉として使っているようだ。ただし、オモテとウラの区切りは漠然としていてはっきりしない。
また、川舟は舟首部をへサキ、舟尾部をトモという。そして、上下流に対しての左右の向きは、西、東を使う。「おい、西やぞ、もっと西によれま」とか「めいっぱい、東の際行ってくれ。もっと東に引っ張らんか」というような会話がなされる。
流し網漁
流し網漁は瀬の芯に乗って流すため神通川では「ノリカワ(乗り川?)」、また4人で行うため「ヨッタリ(四ったり)」とも呼ばれ、富山市七軒町の人が中心であった。神通川では往時は数十統の流し網漁の組が出漁していたらしい。
漁の基本は東西それぞれに分かれた2艘の川舟が八の字に近い形になって、淵の流れの芯をほぼ平行に(正確には流芯に近い舟がやや先に流れる)上流から下流に流すことである。このため、漁場の中心は大きな淵のある中下流域になる。
トモを下流側にしてトモの人が櫂を操り、ヘサキを上流側にして、ヘサキの人が網のついた青竿を持つ。東西の舟2艘で合わせて、トモの2人と網を持つ2人の計4人で漁を行う。もちろん、4人の呼吸がぴったり合わないとうまく舟は流れないし、舟がうまく流れないと、マスは捕れない。舟は流れに対して速く流れ過ぎても、遅く流れ過ぎてもいけない。
漁は一般に風の落ちついている早朝から行われる。日中でもかまわないが、風が強くなるとそこで終わりとなる。天候は雨でもかまわないが、風の強いときには舟がうまく流れないので、漁は行えない。
青竿の先端についている網は長さ10-15m(15m以下に制限されている。)、幅1-1.5mの一枚網で、網の底辺部分には重(おも)りが付いている。網の長さは長ければ入りやすいと思いがちだが、神通川のような大きな川でも、網の長さを15mにすると、長すぎてかえってとれないと言う。
マスは底層にいることが多いので、網は川底近くを流す。ヘサキの人は片手に竿、片手に「クリソ(繰素?)」という紐をもって、網を多少上流側に袋状になるように保たなければならない。マスが網に当たった場合、クリソを離して、網の底辺の重りの部分をたぐると、自然と袋状になり、その中にマスがはいることとなる。漁の感じは冒頭で書いたとおりである。私は平成3年から7年までの5カ年間に庄川の調査で計49回、延べ470キロの流し網に同乗、あるいは陸からトラックで伴走したことがある。
その日のあらゆる生き物の躍動が始まる夜明け前、川は既に明るく、しんと静まりかえっている。川面には異様な霊気のようなものが漂い、時には神々しささえ感じられる。そんな中を2艘の川舟が瀬から淵へ淵から瀬へと、華麗に開いたり、閉じたりしながら流れていく。
時に、怒号に近い声が静寂を破り、あわただしく網が揚げられる。マスが銀鱗の魚体をくねらせて川面を破る。まさに、至福の時である。もちろん、舟に乗せてもらっている私としては、マスがとれなくてもただそれだけで、例えようがなく幸せなのであるが、多く(259尾)のマスの捕獲に居合わせることができ、私はなんと幸せな日々を送ったことだろう。
庄川でのサクラマス捕獲結果では、96%が淵での捕獲で、瀬ではわずかに4%に過ぎなかった。淵では、淵頭が17%、淵中が23%、淵尻が56%で、淵尻が半数以上を占めた。このことは、淵で網に気がついたマスは一旦は淵尻まで下がるが、ついにこらえきれなくなり、反転して網に突っ込むのが多いことを示唆しており、実際、淵尻でマスが反転し網に突っ込むのを舟の上で何度か見たことがある。
同じ流し網漁でも、サケでは網に気がついた場合は淵から次の瀬へ落ちて行くという。サクラマスが次の瀬に落ちないで淵に執着するのは、溯上から産卵まで川で半年を過ごさなければならない宿命を背負い、その場合、どこが最も安全な場所であるかを、十分に認識しているからではなかろうか。
流し刺網漁
流し刺網漁は神通川では「ナガセ(流瀬?)」と呼ばれる。網の半分から下がアユのテンカラ網のように袋状になっている。一枚網で淵を流すもので、基本的な流し方は流し網漁と同じである。ただし、舟は1艘(トモとへサキに2人いるのが普通だが、1人でもできないことはない)で、もう一方の舟の役目を昔なら樽、現在ではポリタンク、すなわち樽に水を入れ、それに網を繋げて川に放り込む、そして樽を舟よりも先に流しながら、舟がやや遅れてトモを下流側にして流れ、一つの淵を流すのである。この時のこつは、必ず樽を先に流すことである。このため、樽は流芯近くを流さなければいけない。
網の長さは20m以下に制限されているが、実際は20mではマスは捕りにくい。昔は30-40mもあったというが、現在でも本当は25-30mはほしいところだという。網の幅は3-4m。網は水面近く(浮子部分)が先に流れ(下流側にあり)、川底の重り部分が後から流れる(上流側にある)。すなわち、底から水面に上流から下流に向かって斜め状になって流れないといけない。
底の部分で網に当たったマスは驚いて水面に向かって上がろうとして、網に刺さる。このシグナルは樽にも網にもすぐに表れる。淵を流している途中でマスが掛かっても、淵の尻まで流しきるのが基本である。網を上げる時にも網の重り部分が上流側にあって、浮子部分は下流側になければならず、この時網が返って(上下流逆になって)は、魚は逃げてしまうという。神通川の吉田さんは昔このナガセで一度に最高8尾を掛けたことがあるという。ただし、ナガセができる場所はノリカワよりも限られ、淵尻のけつ(最後部分)が、かけ上がり状になっていなければならず、今の神通川ではただでさえ淵がすくなくなっているのに、そのような淵はさらに少ないという。
6月上旬の夜、「ナガセ」をやる吉田さんの舟に2回ほど同乗させてもらった。暗い中、神通川の広い川面を、樽を見つめながら舟にのっていると、そのうち自分がどこにいるのか分からなくなり、気がついたときには遙か下流にいたりして、まるでワープしたような気分になった。吉田さんによると、ナガセはノリカワのようなことを、何とか1艘でできないものかと、昔の先達が考えだしたものではないかという。
投網漁
投網漁は文字どおり投網を打ってマスをとるものだが、これに関しては全国でも神通川の吉田信親子の右に出るものはいないであろう。吉田さんの使っている網は、丈が3間半、円周が1目4寸の360目、重量13キログラムというからとてつもなく大きい。
投網漁は上流でも下流でも行え、打てる場所も多く、二人でできる(舟を使わなければ一人でできる)ので、マスが少なくなった現在では最も効率のいい漁法かもしれない。
吉田流の投げ方は(私が見た限りでは)、まず、舟のへサキに正面を下流側にして乗り(舟は下流から上流に向かって操作する)、網の一部を肩にかけ、網の残りの鎖(重り)が左手4、右手6の割合になるように網を捌(さば)く。この時右手の網は手の甲を上側にして、各指で網を均等に等分するように持つ(吉田信さんは左手首が不自由で、右手だけで網を捌かれるので、まさに驚異である)。
トモの人の先導で、ポイントに着くと、舟を左右に揺さぶり、舟の反動を利用して一旦右肩側に軽く小さく振った後、その反動を利用して左肩背後上部に網を思いきり振り上げ、さらにその反動を利用して右肩後方(下流側から見てへサキの左前方)に勢いよく投げるのである。形としては横に8の字を描くような感じである。
何度か吉田さんの投網漁に同乗させてもらったが、投げる様は豪快そのもので、あんなに舟を揺らしてよく川に落ちないものだと敬服してしまう。
投網は淵の尻の方から上流に出向かってポイント、ポイントの深みを打っていく。普通アユの場合は、捨て打ち覚悟でこまめに打ってアユを淵の頭に追い込んでいくのであるが、マスの場合はいる場所が限られているので、そうはしないらしい。もっとも、マス網は重いので、アユ網と同じように回数を多く投げる訳にはいかない。
投網を打った後、舟はトモの人の操作でスーと網の下流に入る。網を寄せるときは上流から下流側に網を寝かせるように引かなければならない。マスが入ったかどうかは網を寄せるときの手ごたえで分かるらしい。マスが入った時、やはり水面を割って舟に載せるまでは緊張の連続である。
6月上旬の夜、神通川の有沢橋上流で吉田さんの鱒漁に同乗させていただいたことがある。川面には時々フーと上流からなま暖かい風が流れ、近くには富山市街のネオンがきらめき、幻想的でさえあった。
河川の激変
神通川のサクラマスの漁獲量は、山形県の最上川、新潟県の信濃川などと一、二を争う全国屈指のものである。その神通川の最近の漁獲量は5トン前後であるが、明治40年代には約160トンもの漁獲量があった。それが昭和10-30年代には約20トンと激減し、昭和50年代以降は10トンを割るようになった。
この大きな原因としては神通川第一、第二、第三ダムを始めとする各種ダムや堰堤の構築による親魚の溯上区域や稚魚の棲息区域の激減と河川工事や電源・農業開発による大きな淵や流量の減少など、棲息環境の悪化が考えられる。サケやアユと違って、サクラマスの場合は産卵場と稚魚の育成場の大部分をダム・堰堤の構築で失ったのはあまりにも痛手であった。考えてみると、有史以来、悠久を流れてきた川がこのように激変したのは、わずかここ100年に満たないことなのである。河川環境の重要性については、他の講師が詳しく述べられるであろうから、ここでは最近の黒部川の状況にだけ少し触れたい。
黒部川出し平ダムの排砂から2週間程たった平成8年7月中旬、私は黒部川内水面漁協アユ部会の人達の協力を得て、黒部川の魚類棲息調査を行った。排砂後の黒部川は、至る所、泥と砂で埋まっており、河原を歩いていると時折、ズボッと足がぬめりこんでしまった。緩みには流木が沈んでいることが多く、投網の破損が激しかった。
大人8人で、ほぼ1日を費やした結果は、河口付近の下黒部橋周辺で小さいアユがわずかばかり捕れたものの、そのほかの場所では、アユはほとんど捕れず、ウグイが少し捕れただけであった。それも、26節という目の細かい投網を使って、である。とにかく黒部川本川にはアユの影、いや魚の影はほとんどないと言うに等しい状況であった。
その日の昼下がり、魚が捕れないのが分かっている愛本下流の下立(おりたて)地域で、無理を言って、その日最後の調査をお願いしたが、予想通り1尾のアユも捕れなかった。皆疲れきって土手に上がり、しばしの休息をとっていた時である。
「もう、黒部川は死んだな」と、それまで冗談ばかり言って、皆を笑わせていたある役員が、真顔で、気力の抜けた表情でポツリと言った。その場にしばし沈黙が流れた。その場にいた誰もがそう思っていたに違いない。私は魚のとれない疲れもあって、呆然としてずっと黒部川本流の流れを見続けていた。
もしかしたら、自分は悪い夢を見ているのではなかろうか。今日は冬ではない。夏である。しかも、アユの解禁から1カ月も過ぎていない。なのにどうしたことか。いくら平日とはいえ、天候は晴、梅雨も明けたばかりで、水の状態は悪くない。あちこちに毛針釣りや友釣り、投網の好ポイントがありそうに見える。なのに、今日1日、一人の釣り人にも、一人の網を打つ人にも会っていない。一人にもである。こんな川がかつて日本に存在しただろうか。
「金なんかいらん。金なんかいらんから、魚の棲める川にしてくれ、と電力会社には言ってある」と別の役員が言ったが、何故か言葉には無力感が漂っていた。その夏、黒部川内水面漁協は、例年行っているサクラマス親魚の捕獲調査を行わなかった。
黒部川のこの状況はたぶん一時的な現象であろう。しかし、たとえ一時的な現象にせよ、このことは同じく数多くのダムを抱える神通川や庄川でも起こりうることであり、そして、もし起これば、ただでさえ溯上区域が最下流に位置するダムの下流に限られ、3年の生涯のうち2年を川で生きなければならないサクラマスにとっては、それこそ「致命的」なものとなりかねない。まさに、明日は我が身の危機的な状況に、サクラマスは、いや川は置かれているのである。
鱒漁の行く末
夏のある晩、神通川の年輩の漁師にふと「マス流しは今後も続きますかね」と問うと、「いや、おらっちゃの代で終わりやろ。今の若いもん、誰も竿とか櫂なんか持てんちゃ。ノリカワやる時ちゃ、若い頃から舟に乗らんとあかんわ。会社定年になってからじゃ、できんわ。それに、川が変わってきて、網を流せる大きな淵もほとんどなくなってきたしな。まあ、確実にわしらの代で終わりやちゃ」と、長年、竿と櫂を持ち続けた証しである、固く、厚く変形した手で杯を傾けながら、寂しそうに語った。
初秋の夕暮れ時、私は神通川の河原に座り、じつと川面を見つめていた。神通川ではアユのコロコロ漁が始まり、何人かの人が竿を盛んに振り回していた。ふと岸辺に目をやると、コロコロの針から逃れたのだろうか、体表の皮が破れた1尾のアユが力なく泳いでいた。
私は絶え間なく流れる川の流れを見つめながら、太古の昔から悠久を流れてきた神通川から、伝統ある鱒漁が消えていくことに思いを巡らせていた。投網漁は何とか残るであろう、しかし、「ノリカワ」と「ナガセ」はおそらく消え去るに違いない。そして、これらの漁が消えるということは、単に伝統とか文化的なものが消えるというだけでなく、物質的、皮相的な豊かさの代償に、またひとつ日本的なもの、日本人の心のよりどころを失うのだという気がして、情けなさとともに、残念さで胸ふさぐ思いであった。
しかし、人というものは若い頃の思い出や失った恋人のことをいつまでも背負って生きられないのと同じように、例えばかつて庄川にも神通川に匹敵するほどのマスが多く溯ったのであるが最近の庄川付近に住む人にその話をすると、「へえ、庄川にもマスが溯ったんですか」と感心されるのが関の山である。
過ぎ去った自然豊かな日々をも忘却の彼方に葬り去らずには、人は生きては行けないものなのかも知れない。
 
渓流を釣る、岩魚・山女漁

幽谷の主(ぬし)イワナ
貧食、悪食で知られたイワナは岩魚と書くとおり渓間の岩、大石の間を棲家とし、水生昆虫を主な餌とするが、陸上の昆虫ばかりか、カエル、ネズミ、時には水鳥のヒナなどの小動物まで捕食することがある。
河川の源流部や上流部、その枝沢の落差の多い流れを好み、水温が17-18度となる中流部ではほとんどその姿を見ることはない。
富山県内に生きるイワナはほとんどニッコウイワナ系と考えられるが、水系によりその色、斑紋、鰭(ひれ)の大小等微妙に変化が見られ面白い。
概して水量の少ない小沢、水温の高い谷では体色、特に腹部に赤味が濃くなり、深い瀞(とろ)、水温の低い渓谷では全身が銀色の美しい体色、体側の白斑も純白に近いものが多い。秋の繁殖期にはそれらに関係なく婚姻色が現れて雄は逞しい赤銅色を帯びる。
アメマスはイワナの降海型で流程が短い寒冷地の河川では普通に見られるが、富山県では黒部川など一部の河川でごく少数溯上することがある。
イワナを釣る、という漁は網漁やカイボリ漁(川の流れを変え、水のなくなった場所の魚を採る)など一網打尽的漁法で大切な資源の枯渇を招いたり、供給過多で価格を下げるということを防ぐにはとても合理的な漁であった。
昭和30年代までは川漁師や山仕事の人達が片手間に季節的に行う半専業のイワナ釣りは、山に近い料理旅館、川魚料理店などで需要があり成り立った。
しかし40年代に入ると養殖技術の進歩と普及で市場に出回る養殖イワナの数が飛躍的に多くなり、またどこへでも生きたまま運べる手軽さと消費先に蓄養が可能なことから、希少価値が身上であったイワナも価格が安くなり、専業としてのイワナ釣り漁はほとんど見られなくなった。
現在では天然ものの価値が見直されてはいるがまだ専業が成り立つ程には需要はなく、遊漁という分野で釣り人が多くなり、釣りという漁は技術として多岐に亘り発達・発展し続けている。
釣り人の増加とともに各河川では内水面漁協が組織され、養殖したイワナの稚魚、成魚が放流されるようになった。
しかし放流はその河川に悠久の日時を経て定着した固有種の雑種化を進めることにもなりかねないため、養殖に際してはその河川の親魚からの採卵受精が望まれる。
現時点では、もうほとんどの河川の上流域に養殖魚が放流されているから、その河川の純粋種は最源流部でのみ生き残っていると考えられ、こうした源流部には釣り人の立入りを許さないイワナの聖域を設け、自然繁殖を見守ることも必要ではないか、と思っている。
イワナを釣る/源流釣りと本流釣リ
イワナを狙う釣り人は源流派と本流派に二分される。
源流派はときに流水域が1mにも足らぬ小支流で釣ることもあり、ひとつのポイントをひと流しで探って次のポイントに移る、というように動きの早い釣りになる。
足に自信があり、釣場の源流まで2時間や3時間歩くことも苦にしない健脚の持主が多い。イワナは釣り人が少なく、スレていないからよく釣れるが、反面釣場はブッシュが多く、竿も4、5m以下、道糸もそれより短くしたチョウチン釣りとなりやや面白さに欠けるところもある。
一方、6m以上の長竿(ちょうかん)を振って本流の大場所に大型イワナを釣る面白さは格別で、イワナの強い引きを充分に堪能できる。常願寺川などでときには8mの長竿を使うこともあり、ひとつの大瀞を1時間以上もかけてゆっくり探る楽しみもある。
もちろんその両方を楽しむ釣り人も多く、私などその節操の無い釣り人の代表格である
エサで釣る
早春3月(神通川水系など一部の河川では4月)渓流釣りは解禁になる。
山野はまだ雪に覆われていて、渓流の釣場に近づくにはときにはカンジキの必要なこともある。
奥深い渓谷でのイワナ釣りはこの時期不可能。比較的浅い谷、井田川水系の久婦須(くぶす)川、野積(のづみ)川、大長谷(おおながたに)川などに釣り人が集中する。また足場の良い早月川、常願寺川、庄川水系の利賀川なども釣り人の多い谷である。
釣り人は先ずエサとなる川虫を採る。浅瀬の小石の下からキンパクと呼ぶヒラタカゲロウの類、クロカワムシと呼ぶトビケラの類、オニチョロと呼ぶカワゲラの仲間を専用の川虫タモを使って採る。これらはイワナ釣りに格好のエサとなり、エサ箱の水ゴケを敷いた上につぶさぬように入れ蓋をする。
川虫で釣る釣り人も必ず予備のエサを用意して行くが、それは増水で川虫の採捕が困難だったり、川虫をイワナが喰わない場合に使うためである。
予備エサはブドウ虫(ブドウスカシバの幼虫)、ミミズ(現在では釣具店で買える養殖のもの)あるいはイクラだったりするが、フルシーズンをミミズ、イクラでそれぞれ通す人も中にはいる。
初期のイワナは水温の低さからあまり動かず、深い淵や瀞場で静かにエサを待つ。
清冽な流れに仕掛けを入れる。やや重いオモリで川底近くをゆっくり流してイワナのアタリを待つ、と道糸の目じるしが流れに逆うようにツイッと止まる。
ひと呼吸待って竿先で合わせるとイワナの重みが竿を通して手元にぐんとくる。あまり冬の間エサを食べていないイワナはやや細く、サビも取れず体色も黒ずんで、それが身をくねらせながら水面に浮き、岸に寄せられ、やがて釣り人の手でビクに入れられる。
4月に入ると各河川は一斉に雪解けが治まり、イワナは活発にエサを捕食して魚体も見違えるほどに美しく、また引きも強くなる。この季節はエサにあまり気を使わなくてもよく、イワナはどんなエサでも良く釣れるときである。
やがて雪解けが治まると一転して釣れなくなり、7月中旬頃から富山県内の山間部には「オロ」「オロロ」(イヨシロオビアブ)と呼ばれる吸血アブが大量に発生し、8月下旬まで釣り人の立入りを拒み、実質的に休漁期となる。
9月に入ると陸上のバッタ、コオロギ、トンボなどの昆虫を水面に浮かせて釣るブットバシ釣りが効果があり、見ながら釣るという毛バリ釣りにも似て面白い釣りが楽しめる。
毛バリ、ルアーで釣る
雪解け水が治まって、エサ釣りが難しくなる頃、イワナは水面を翔ぶ羽虫を追い、毛バリ釣りが盛期をむかえる。
毛バリ釣りには源流や小沢で行われるチョウチン釣り、やや川幅の広い渓流や本流で行われるテンカラ釣り、人造湖や広い本流などで行われる洋式のフライフィッシングがある。毛バリは原則として自分で巻いたものを使う。
和式フライのテンカラ釣りでは、ミノ毛(蓑毛)に茶色のスズメ、キジなどの羽根、胴には浮力をつける意味で山菜のゼンマイの頭部を覆う綿毛を巻いて仕上げ、その上にクジャクの細い枝羽根を1-2本巻きにした、どちらかといえば不細工ともいえる仕上がりのハリ、洋式フライでは水生昆虫、羽化(うか)後の羽虫などをリアルに表現したものでパターンも何百種類と多く、魚を釣る行為よりも毛バリを作ること、使ってみることを楽しむ釣りである。
しかし釣果からいえばチョウチン釣り、テンカラ釣りの方が上で、これは釣果を重視したものと考えられ、昔の専業漁師達も釣ったイワナが弱らないため、この釣りを好んで行った。
ルアー釣りは小魚をイミテーションしたミノー、スプーン、スピナーなどバルサ材、金属、プラスチック製のルアーに、フック(3本イカリ状のハリ)を付け、60インチ(1m80cmぐらい)前後のトラウト用のロッド、それに道糸が1-2号150m巻けるリール、これは竿のガイドのパターンに合わせてスピニング、クローズドフェース、ベイトキャスティングリールなどをセットして行う。
遠投してリーリングしながらアクションを加えて釣るが、人造湖などではアメマス化した大型イワナの釣れることもあり、またスポーツ的な要素もあってファンが多い。
清流の妖精ヤマメ
美しい魚である。これほど美しい体型と色合いを持つ魚は他にはない。
アユも美しいが、ヤマメには清流の青さ、木々の緑、渓間に溢れる日差しの暖かさを合わせ溶かしたような温もりと気品がある。
一生を渓谷で終える陸封型と、成長期を海で過す降海型がいる。
陸封型は1年余りで成魚となり、産卵繁殖を行うが、サクラマスのように産卵後死ぬことはなく、2-3回産卵するものもいる。体長は1年で12-3cm、3年程で30cmぐらいになる。
降海型は海に入る準備のために河川の中流、下流域に降り体色が全体に銀白色となり、これを銀毛という。
なかにはそのまま海に降らず河川で過し、春になると再び体側にパーマーク(パールマークともいう)が現れてヤマメの姿に戻るものもいる。
しかし12-2月の短期間だけ海に入り豊富なエサを食べ、河川の水温が上昇を始める3月には川へ戻る短期降海型も富山県の黒部川沿岸にはいるのではないか、と私は考えている。
それは1-2月の冬期、入善海岸や、生地などでクロダイのウキ釣りに、オキアミのエサで25cmから30cmぐらいの銀毛ヤマメがよく釣れ、それが3月に入ると平曽(ひらそ)川、入(いり)川など黒部から出る用水路の河口に近い真水部分で釣れるようになることからで、かねてから研究者の方々の御意見を聞いてみたいものと思っている。
現在、富山県内にはヤマメのほか、養殖放流されたものか、または誰かが移入したものかアマゴが定着しつつあり、八尾の別荘(べっそう)川などではそのほとんどがアマゴに変わっている。
そのほか岐阜県と流程を同じくする河川では、上流で放流されたアマゴが下降してきてヤマメとの雑種化が進んでおり、その純粋種が年々少なくなりつつある。
ヤマメを釣る
エサ、毛バリ、ルアー釣りともにイワナ釣りと大差ないが、技術的には格段にむずかしくなる。仕掛け作りもイワナより繊細さが求められ、現在では道糸に0.2号、ときには0.15号などの細糸を使うこともある。
エサは川虫、ブドウ虫、ミミズ、生イクラなど、近年は入手の手軽さから生イクラで釣る人が増え、釣果も安定して良く、また使い易い。
ヤマメは渓流の上流部から中流部を好み、低山の小支流にも多い。
黒部川では本流よりも用水部分に多く棲み、3月の解禁直後には入善一帯のコンクリートで護岸された小用水でも数釣りが楽しめる。
しかしパーマークがほとんど消えた銀毛に近いヤマメが多く、居付きのヤマメ独特の体型をしたものはあまりいない。
県東部の境川、笹川、小川などの小河川にも多く、早月川、常願寺川では中流部で型のよいものが釣れ、神通川の支流熊野川、その支流黒川などの毛針のテンカラ釣りが面白い。
八尾町の久婦須川、野積川、大長谷川などは毛バリ、エサとも楽しめ、県西部では庄川支流利賀(とが)川、山田川、井田川の上流百瀬川、湯谷(ゆだに)川や桂川もヤマメの多い川である。
そのほか富山県の渓流にはニジマスの放流されている所も多く、人造湖では黒四ダムにはヒメマスもいて時々舟で釣っている姿を見る。
富山県は10月になると渓流は禁漁となり、やがて魚達は繁殖の時をむかえる。無事に産卵を終えた頃、山々はしだいに雪のべールに覆われてゆき、渓谷は半年にわたる深い眠りに入るのである。
 
鮒漁・幼き日々の思い出

人々と鮒
その昔、日本列島に住み着いた私達の先祖の生活は、野に山にそして川・海に食料を求める採集・狩猟から始まった。
その食料の中で川魚は、身近な動物性蛋白質(たんぱく)源として日常生活と深くかかわっていたと考えられる。なかでも、鮒は北海道から沖縄に至るまで、日本中至るところの小川や池に普通に生息していたので、手軽に利用されていた魚であったにちがいない。
鮒に関する越中最古の文書は平城宮址出土の木簡である。表には「越中国利波郡川上里 鮒雑」、裏には「一斗五升」「和銅三年正月十四日」とあり、西暦710年の事である。
私にとって越中の古文書に出てくる最初の魚が鮒であることは興味深い。一般に淡水魚は食料として保存しにくいのであるが、その中でも腐り易い鮒をはるばると奈良の都に貢粗品として届けていることは、越中人の鮒とのつき合いが古く、食料としてたいせつなものであったことを伺わせるからである。
奈良時代以降の古文書に食料として出てくる川魚は、鮒がもっとも多く、次いで鮎であり、動物性蛋白源として川魚を利用する風習は古くから近年まで続いていたと思われる。それは、今日のように漁獲量の多い海洋漁業の発達したのは、近年に入ってからだからである。しかし、古い時代の川魚の漁獲量についての記録は見あたらない。
富山県においても川魚の鯉の漁獲量(図1)は、昭和元年になって農林水産統計資料に6トンが見られ、以後、昭和11年には34トンに増え、昭和17年の28トンまで記録は続いている。昭和18年から昭和23年までは、戦争中の手不足と敗戦の混乱によるためか記録はない。昭和24年以降は途中の中断はあるが、平成時代には10トンから20トン程度の記録がある。
鮒(図1)は昭和24年の6トンの漁獲量が初見である。その後、昭和39年172トンにまで急増し、翌年の昭和40年には2トンに激減し、その後は1トン足らずの漁獲量で推移し、平成時代では10トン以下である。
ウグイも鮒と同じく昭和24年の10トンが最初の記録で、その後30トン余りで推移し、昭和42年に264トンに大飛躍するが、ここ数年は40トン程度に安定している。
このように、川魚は県民にとっては身近で庶民的な動物性蛋白源でありながら、昭和20年代にいたるまで、漁獲量の記録が少ないのは、漁業上の価値があまり評価されていなかったためか、或いは、戦中、戦後の食料の配給制度のなかで、内水面漁業の川魚は食料統制から外されていたためかもしれない。そのため内水面漁業従事者はその漁獲を自由に売買が出来た。
昭和24年以降の漁獲量がかなり多いのは、放生津潟の漁獲量が比較的正確に記録されてきたためであろう。しかし、高度経済成長に伴って、海洋漁業に比べて内水面漁業の経済性は軽視され、より経済効率が高いと思われた新工業地帯として開発され、放生津潟は消滅した。
このことで昭和40年以降は、鮒と鯉の漁獲量は衰退の一途をたどっている(図1)。それはまた、生産性の向上のために環境問題を無視した「たれ流し」による水質の汚濁・汚染と、河川の用排水路の三方コンクリート化による自然破壊によって、川魚が生態系内での生存権さえも奪われることによって加速されている。このことは、庶民の趣味と実益を兼ねた、鮒釣りや鯉釣りの楽しみさえも奪うことになった。
鮒釣り
5・60歳の年輩のほとんどの人は春先の暖かい日から秋が来るまで、竿を出して鮒やハゼを釣るとか、網でドジョウや子鮒をすくった経験を持っていることだろう。
坪田譲治が「故郷の鮒」のなかで、東京の散髪屋へ田舎から見習いにきている小僧が、あまりにも田舎へ帰りたがっているので、理由を尋ねると「仕事がきついから帰りたいのではなく、鮒が釣りたいのだ」といって皆から笑われているのを見て、自分の幼年の頃を思い出し鮒が欲しかったのではなくて、鮒釣りを通して故郷が懐かしかったのでしょう、とのべている。
今日流にいうならば、思いきり遊び回って体を鍛え、原体験をすりこみ、大脳を開発して心を育んだ故郷に郷愁を感じたのだろう。
私も子どもの頃の体験で釣りの占める割合が大きい。小遣いを貯めて釣針やすじ糸・重りを手に入れ、竿も手製のもので釣果を競った。
釣れるものの多くは鮒であったが、極くまれに釣れる鯉は自慢の種であった。生えている4本のひげと、鯉だけに見られる美しい鱗の並びを眺めては悦に入ったものである。色鯉を釣れば話の種になり、子どもらの中では英雄にでもなったかのように羨ましがられた。着物についた濡れた泥を、干してもみ落すことを覚えたのもその頃であった。
母は私が釣ってきた鮒は必ず料理してくれて、釣った魚は最後まで面倒を見るものだと教えてくれた。ある年の鮒の「乗り込み」の季節に沢山の鮒を釣ってきて、明日はもっと釣ってこようと言ったとき「漁師でもないのにそんなに鮒を捕まえてどうする」と、言ってたしなめられ、慰みに殺生をしてはいけないことを教えられた。母は貪(むさぼ)りを戒める信心深い人であった。
今の私流にいえば、物質循環、エネルギーの流れの生態系の中での殺生は許されても、それ以外の殺生は罪悪である、ということだろうか。
その当時の多くの人達の釣りは今日のへラ鮒釣りの「キャッチ アンド リリース」という単なる遊びとは本質的に違っていたように思う。今日のへラ鮒釣りは商業主義に乗せられた、弱いもの苛めのスポーツである以外のなにものでもないように思う。私の子どもの頃のように、例え泥水であっても生態系に有害な物質の含まれていない、美しい水の中にすむ鮒を釣り、安心して食べることは出来ないものだろうか。生態系のバランスの中で生命を尊重しながら…。
鮒漁のことなど
生業(なりわい)としての漁(すなどり)を含めて、今日の鮒漁・鮒釣りの衰退は、(1)鮒が泥臭いこと(2)生息環境のイメージの悪さ…水質の汚染、汚濁に耐える生命力の強さが災いしている(3)ブランド指向、高級魚指向の世相に逆行して、あまりにも身近で庶民的な魚であることが、その原因と考えられる。しかし、このことは古来日本民族を育み、その健康を守ってきた栄養価の高い魚であることを否定するものではない。
ちなみに、食品100グラム中に含まれるカルシウムは表1のとおりに鮒が抜群に多いことがわかる。その他の栄養価についても鮒はすばらしい食品であるが、そのことはあまり知られていない。そのために、鮒の食品としての評価を低くし、漁業としての評価をも低くして、ほとんど無視されることになっているのだろう。
鮒は富山県農林水産統計資料に昭和23年まで内水面漁業の魚種にはない。昭和24年(図1)の放生津潟(新湊)、十二町潟(氷見)での漁獲量は6トン余りである。この量は当時放生津潟に川手操網が5統あり、投網や三角網(三角だも)でも漁が行われていたといわれながら少ない。
その他、白岩川や、戦中、戦後の蛋白源として、趣味と実益を兼ねた一般人の釣りや、たも綱で捕獲された量もかなりあったと思われ、その年以降は毎年記録を更新して昭和39年には172トンに増加した。しかし、昭和36年に放生津潟で始まっていた富山新港の建設や、それに伴って行われた射水平野乾田化事業の影響で、昭和40年に19トンに急落している。富山新港の開港された昭和44年度以降の鮒漁は数トンである。鯉は戦前でもかなりの需要があり、富山県でも最高30トンあまりの漁獲量がある。近年は10トン余りの漁獲量で推移している。
放生津潟に流れ込んでいた下条(げじょう)川や十二町潟では冬になると寒鮒漁が盛んに行われていた。3メートル足らずの田舟(たずる)に乗って、枯れた葦やマコモの根元や、岸の杭のまわりの底泥のなかに手を入れて、冬眠中の鮒を手掴みにしたり、川の深みにある鮒の寄り場を探り当てて、竿を5本程並べての寒鮒釣りは冬の風物詩であった。
泥をかぶって冬籠りをしている寒中の鮒は、餌をあまり食べていない。そのため、腹の中がきれいで、冬眠前に採った栄養で太り、寒さで肉が縮まって泥臭さが少ない。それを狙って人々は寒さもいとわずに漁をしたのである。
寒鮒漁はいまでも氷見市の万尾(もお)川、仏生寺(ぶっしょうじ)川、そして福岡町、高岡市の福田六家(ろっけ)付近の小矢部川の中流域で、三角網等を使って少数の人々で行われている。付近の小料理屋で頼むと、昔懐かしい鮒料理を出してくれる。
山越えをした隣の羽咋市の邑知潟(おうちがた)では、冬に「白鳥と寒鮒の里・邑知潟フェスタ」が行われて、各種鮒料理が出される。金沢市でも近江町の市場で売られている河北潟や邑知潟の寒鮒を素焼にし、茶がらで煮て、甘辛く味を付ける伝統料理を、正月料理としている旧家がある。
鮒が泥地の柔らかいところを好むのは、敵に襲われた場合に泥濁りを立てて逃散するためである。弱い鮒にはそれが身を護る最上の手段であり、寒い冬に泥に身を潜めて静かに春を待つのにも適している。
3月になると、梅一輪一輪と暖かくなって鮒も深みの巣と浅場との間に姿を現し、いわゆる「巣離れ」が始まる。冬の間の欠食を回復するために一気に餌をあさり始め、桜のつぼみが膨らむと産卵のために、深みから浅場へ、背鰭(せびれ)が出るほどの浅い田圃の用水(今日ではこんな用水はない)や浅瀬へと入ってくる。これが「乗り込み鮒」である。この頃の鮒は一番捕りやすい子もち鮒で、琵琶湖では「なれずし」用の鮒の塩きり(塩漬け)が始まる。産卵を終えた鮒は小川や用水に残り、餌を捕り産卵で衰えた体力の回復をはかる。この頃の鮒は食用としてはあまり好まれない。
仏生寺川の流域には稲の花の咲かないうちに鮒を食べると「あて」られるという言い伝えがある。栄養価の低い鮒を食べるな、という戒めなのであろうが、水田に落ちた稲の葯(やく)の栄養価の高い花粉を食べて、鮒は体力を回復するのであろうか。いずれにしても鮒は夏から秋にかけて自由に水中を泳ぎまわって餌を食べ、やがて来る冬の生活に備える。11月には浅場から深みへ移動する「落ち鮒」となり冬籠りに入る。
鮒料理
人々に捕らえられた鮒は、産卵後の体力回復期の初夏を除けば、大小を問わず年中滋養分の豊かな庶民的な食べ物として利用されてきた。その重宝されてきた鮒が、わが国の経済活動の活性化に伴い、食べ物としての価値はほとんど顧みられなくなり、その生存権さえも無視されてきた。潟や沼はなくなり、用水は三方をコンクリートで、川の岸辺は矢板で固められ、ヨシ、マコモその他の水草が生えなくなり、生活の場を失って自然の片隅に押しやられている。人間の快適な生活を支える生産効率重視の建設は、鮒にとっては生存環境の破壊なのである。
ここで、鮒の価値を見直すために、数十年前までは私達日本人の食生活のなかに深く溶け込んでいた鮒料理について振り返ってみたい。
1年魚の小型の鮒は佃煮として小児から大人まで食べていたし、産卵後体力が回復した2年魚以上のものは晩夏から冬まで「洗い」として賞味された。今でも一部の人に喜ばれる寒鮒は、煮たり焼いたりしてその利用法は多様である。それを列挙すると鮒甘露煮、鮒味噌煮、鮒ヌタ、鮒のソロバン、鮒雀焼き、鮒昆布巻き、鮒こく(鮒汁)、鮒ずし等が巷間に伝えられる伝統料理である。鮒甘露煮はかなり大きな鮒でも素焼きにして、茶がらで煮、醤油・みりん・水飴等で味付けして煮込んだものである。
鮒ずしをつくる伝統は今は富山にはないが、琵琶湖周辺ではすばらしい郷土料理として伝えられている。それは5〜6月の産卵期に塩きりにされた鮒を、夏から秋にかけて飯に漬け込み、長時間乳酸発酵させたものである。味といい、栄養価といい、薬効といい健康食品としては第一級品である。ただ、光秀が信長のもてなし料理に使って不興を買ったという独特の臭いがあるが、世界の珍味にはその例が多い。
栄養価は消化吸収のよいタンパク質が生鮒の切り身100グラムに18グラムだが鮒ずしには25グラム、カルシウムは生鮒の切り身100グラムに100ミリグラムだが、鮒ずしには1,000ミリグラムあり、しかも乳酸カルシウムなのでイオン化しやすくなって含まれている。
滋養効果としては疲労回復、夏バテ、下痢、整腸、食欲増進、風邪の治療、つわりのときの食物であり、乳酸はTCAサイクル(クエン酸サイクル)の活性化を促す。中国やわが国では生きた鮒と同様に産婦の乳の出を良くするといわれており、精力増強にも卓効があると中国の医師張瀧英(ちょうろうえい)氏は証言している。
富山の鮒
主にギンブナとゲンゴロウブナだが、ニゴロブナとテツギョの記録もある。
ギンブナは肉付きがよく丸みを帯びて河川の下流域や潟沼の底層に生息して、群をつくる習性がある。雑食性で小型の底生動物や藻類、動物性プランクトンも食べる。不思議なことにこの鮒は、最近の研究によると全ての個体が雌で、雄がいない。ギンブナの卵は他の鮒の精子はもとより、コイ、ドジョウ、ナマズのような他の種類の魚の精子でも発生する。つまり、精子は卵発生開始の引金としてのみ働き、雄親の遺伝子は発現しない雌性発生をする。
ギンブナ以外のフナの染色体数は1個の生殖細胞のそれを1倍体とすると、雌雄の生殖細胞が合体して子供をつくるので2倍体である。ところがギンブナは3倍体で、明らかに他の鮒とは異なっている。ギンブナが広く自然分布しているのは、この生殖方法が生存力となっているためかもしれない。
ゲンゴロウブナは琵琶湖原産で、釣り堀用に品種改良されたものがカワチブナである。ヘラ鮒とも呼ばれ、放流されて競技用へラ鮒釣りの対象になっている。
ニゴロブナは琵琶湖特有の鮒の亜種であるとされているので、本県ではその存在には疑問があるが、もし生息しているとするならば、滋賀県の名物である鮒ずしのもっとも良い材料なので、富山県でも「鮒なれずし」の生産に期待がもてる。しかし、私の調査では、オオキンブナの生息している可能性が大きい。
テツギョは小矢部市の内山(うちやま)の池にいたが、道路の拡張工事によって埋められ、池がかなり小さく浅くなって環境が変化したためか、今はいない。ただ福岡町の養鯉業者は金魚のコメットと一緒に生まれているのを見かけたり、仏生寺川・小矢部川の漁師は、鮒のなかにときどきみかけることがあるという。
コイフナを捕らえたという話を庄川と小矢部川の漁師にかつて聞いた。宮地伝三郎さんが「淡水の動物誌」で、今世紀のはじめに松井佳一さんが鯉と鮒を掛け合わせてつくった話を書いているが、それとおなじものであろう。
松井さんの場合は鯉と鮒のどちらを雌に使っても形や性質に差がなかったという。外形は鮒にはひげがないが、鯉には4本、コイフナには2本ある。染色体の数も鯉と鮒の中間であるという。淡水魚にはこのような種間雑種の出来やすいものがいるが、コイ科の鯉と鮒もその例であり、生物の進化を調べる上で興味の深い存在である。
私は鮒
生息域をせばめられ、生存権を奪われて、虐げられている鮒を見直し、鮒に代わって自己主張をしてきた。
山紫水明の富山の風土で鮒の生態的位置付けは、物質循環とエネルギーの流れのなかに組み込まれてきた一つの歯車にしか過ぎないが、そのことは私達の健康な生命にとって、とても大切なことなのである。生態系では、もし、一つの歯車が抜けてなくなっても、新しい歯車が出来てくる。しかし、その歯車が環境に馴染むまでは不安定で、選択され、淘汰されて安定した歯車となり、健康な生態系に回復するまでにはかなり時間がかかるようだ。
現在地球上の生態系の骨格をなす歯車は、全てが悠久の昔に地球上に発生し、淘汰されて生態系の歯車となっているのである。
鮒がユーラシア大陸に住み着いたのは、人間に比べると問題にならないくらいに遠い昔であり、平地の殆ど至るところの水中に生息している。その長い時間をかけて選択され、淘汰されてきたものが、抜けてなくなった後には、なにが位置付くのであろうか。
自然のどこにでもいたものが無くなって、新しい生態系が出来ることは、自然界の革命であるが現代合理主義に汚染された日本人は、いとも簡単に、先の見通しもなく歴史的な価値を取り除こうとしている。日本人はもっと現在の生態系の歯車に、責任をもって経済活動をしないと、その人間性が疑われることであろう。
鮒ずし考
和銅3年に、越中国利波郡川上里より鮒雑、一斗五升が平城京に貢租されている。川上里とは、小矢部川の上流一帯を指し、城端町から福光町あたりの庄川扇状地西側を包含する地域を指すようである。については諸橋大漢和辞典に、魚(さくぎょ・しほびき、ひもの、魚)とある。そして1斗5升という容量は、干物を容器に入れた量というよりも、塩と共に塩漬けした魚を入れた容器の容量と見るのが妥当であろう。鮒の塩漬けは今日の食品として残っていないが、それを加工した食品として、琵琶湖周辺の「鮒なれずし」がある。
「なれずし」の技法は、すし研究の権威である篠田統(しのだおさむ)氏によると「悠久の昔に大陸からイネの渡来のとき、それと一緒に伝わった乳酸発酵による魚類加工法の一つ」であると述べられている。
であるとするならば、奈良の都に送られた越中よりの鮒は、更に味良く保存できる「鮒なれずし」にされていたとも考えられる。
この私の独断と偏見はさらに飛躍する。年代的に見ると当時の北陸にも、「なれずし」の技法は伝えられていたであろうから、鮒の塩づけは「なれずし」として保存され、私達の先祖の生活を支えていた、と考えるのは無理であろうか。
ちなみに、城端別院善徳寺と、井波の瑞泉寺には、寺としては珍しく「鯖のなれずし」が毎年の夏の虫干し法要の後の、お斎(とき)に付けられ、名物になっている海のヨーグルト・チーズである。そのルーツは不明である。 
 
山なみを紅く鮭漁

サケの種類
サケ科サケ属の仲間には、サケ(シロザケ)、カラフトマス、ギンザケ、ベニザケ、マスノスケ、サクラマスなどがあり、富山県の河川にはサケとサクラマスが回帰してくる。サケ(シロザケ)はサケの仲間の中で日本人に古くからもっとも親しまれており、そのため呼び名もさまざまで、北海道ではアキアジ、トキシラズ、北洋でシロ、宮古でオオナマコ、気仙沼でオオメマス、塩釜でラシャマス、石巻でイヌマスなどと呼ばれている。
分布
日本、朝鮮(東海岸)、沿海州、千島、カムチャツカ、アラスカ、北米西海岸などに分布しており、日本における回帰溯上河川は、太平洋側では利根川以北、日本海側では福岡県那珂川以北である。
回遊経路
日本で生まれたサケは、春になると川から海へ降り、夏には北上し、餌を求めてアラスカの沖にまで達する。そして北洋で3〜4年たって成魚となり、生殖腺が成熟してくると、生まれ故郷の日本の川へ向かって回遊する。ベーリング海を渡り、千島列島にそって南下し、日本の沿岸にたどり着く。
生態
サケは産卵期になると、親魚の体側に赤紫色の雲状斑の婚姻色があらわれ、体色が樹木のブナの木肌の色に似ていることからブナサケと呼ばれる。また、この時期の雄は、両顎の前端が突き出して鈎(かぎ)状に曲がっていわゆる「鼻曲がり」となり他の雄を追い払い、自分の子孫を残すための産卵場を確保する。
産卵期は、日本では9月から翌年の1月までで、川床から地下水の湧き出る砂礫(されき)底に雌が穴を掘って産卵する。産卵数は平均3,000粒ほどである。産卵後には親魚は全てへい死する。
ふ化した稚魚は、2〜5月ごろ、体重1グラム、全長5センチ前後になると川を降って海洋生活に入る。
海洋では動物性プランクトン、小魚、小イカなどを食し、北洋で3〜4年くらした後、全長約70センチほどに育って産卵のために1万キロ以上の旅をしながら、再び自分の生まれた河川に帰ってくる(母川回帰性)。
この習性を利用して、人工ふ化放流事業が行われており、産業上の南限は日本海側では富山県となっている。
母川回帰の謎
サケ属の魚は、主に北太平洋の寒流域に棲み、川で生まれ、海で育ち、再び生まれた川に帰って産卵する性質(母川回帰性)が強いという共通の特徴をもっている。
また、卵で移植された先の川で育ったサケについても、移植された川に帰ってくることから、母川回帰性は両親からの遺伝ではなく、後天性のものであることがわかる。
サケが生まれた場所をどのように記憶し、どのようにして探しだすのかは、まだはっきりとは解明されていないが、母川をどのようにして見分けるのかについては、「嗅覚」によるものであろうといういくつかの実験結果があり、実際に川へ戻ろうとするサケの鼻孔を塞ぐと、回帰しなかった例もある。
サケは、稚魚期に育った川の匂いを覚えて海に出て、北洋で3〜4年くらした後、産卵のために自分の育った河口に到達し、海に出る前に覚えた特殊な匂いに刺激されて自分の産卵すべき川に入るのだといわれており、その確率は98パーセント以上とのことである。
サケの母川回帰には、「嗅覚」を刺激するそれぞれの川の特有な化学物質が関与していることが、一般的に認められるようになった。
しかし、母川から北洋へ、北洋から母川へ回帰するまでの行動は、どのような感覚情報によるものかはまだ不明のままである。
仮説としては、太陽コンパス、地磁気、体内時計又は海流の走行性利用など色々な説がある。
いずれにしても、体重がわずか1グラムぐらいの小さな体で、1万キロ以上の旅をしながら、数年後に自分の育った川に間違えずに帰ってくることは驚異の一つである。
伝統的な食文化
サケは、正月用の新巻きや塩引きなど古くから親しまれており、卵は、すじこ、イクラとして珍重されている。
富山県は、ブリの食文化圏であり、残念ながら北海道や新潟県ほどサケの料理方法は発達していない。
北海道では、三平汁、ルイベ、薫製など多くの郷土料理があり、頭部の軟骨を使った氷頭(ひず)なますや腎臓の塩辛(めふん)は酒肴に最適である。
サケ漁の古い伝統をもつ新潟県では、村上市三面川に日本で最初の「種川制度」が設けられた。「種川制度」は、サケの天然産卵を保護するために人工的に作られた産卵用河川で、三面川では1750年代(宝暦年間)に村上藩の事業で行われた。
この地の人々のサケに寄せる愛着は強く、頭の先からしっぽまでが料理の対象となっており、昔から人々の間で伝えられてきた固有の伝統サケ料理は100種類以上とも言われている。
サケの各部位における主な料理としては、頭部(氷頭なます)、えら(カゲたたき)、身(刺身、塩焼き、川煮、飯ずし、酒びたし)、皮(おつまみ)、心臓(どんびこ煮)、内臓(なわた汁)、卵(味噌漬け)、白子(白子煮)、中骨(昆布巻き)などがある。
増殖事業
サケは、沿岸の漁業資源としてだけでなく、伝統的な食文化の材料として、また、内水面漁業及び地域振興のための資源としても重要な魚種となっている。
サケは、国の増大事業により人工ふ化放流事業が行われており、近年、その放流効果が現れてきており、来遊尾数は年々増加してきている。
来遊尾数
富山県の海面と内水面におけるサケの来遊尾数は、昭和40年代にはわずか1万尾前後であったものが、昭和50年代は3万尾前後、昭和60年代は6万尾前後、平成3年には12万尾に達し、平成7年には18万尾を上回り過去最高を記録した。
しかし、海面における魚価は漁獲量の増加とは反対に、年々低下してきており、昭和50年代のキログラムあたり1,000円台から最近では200円前後まで低下してきている。
河川内のサケ採捕
河川内でサケを採捕することは、資源保護の観点から、水産資源保護法(昭和26年法律第313号)により禁止されている。ただし、サケの増殖を行う場合に限り、都道府県知事の「特別採捕許可」を受け、種卵の採取等を目的とした採捕が認められている。
富山県の主なサケ捕獲方法
ヤナ
格子状の柵(竹や塩ビパイプなど)で川を横切って遮断し、その一部に捕獲槽を作り、捕獲槽に入ったサケをタモ網などですくいあげる。親魚に損傷をあたえないことや疲労を与えないことなどからヤナによる捕獲方法が最も良い方法である。
投網
円錐状の袋状の網で、裾に沈子(ちんし・網やつり針を水中に沈めるためのおもり)を付け、頂部に長い手縄を付けた漁具を用い、サケがいると思われる場所へ網をおおいかぶせるように投げ入れ、手縄によって静かに引き寄せ、広がった網を順次狭め最後にこれを引き上げて捕獲する。
小屋掛けオトリ投網
主に神通川で行われており、川岸に仮設小屋を建て、岸から2メートルほどの川の中にヒモでつないだオトリを泳がせる。オトリは主に雄を使用するが、オトリのしっぽから10センチほど後ろに水底から少し離して釣り糸を張りつめる。糸の片方を置き石に、片方は小屋の中に引き込んで鈴につなぐ。オトリに引き寄せられたサケが糸に触れると小屋の中の鈴が鳴り、投網をかぶせて捕獲する。
押し網
主に県東部で行われており、弧状の竹を2本交差し、竹の末端部分に袋状の網を付けた漁具を用い、夜間、灯火を体の後ろにぶら下げると前方に灯火による人影ができる。サケが周囲の明るさを嫌い人影に逃げ込むところを上から漁具を押しかぶせ捕獲する。
流し網
長さ15メートルほどの長方形の網地の下部に沈子を付け、その両端には竹竿を付け、網の上部に手縄(補助綱)を付けた漁具を用いる。舟2隻にそれぞれ2人ずつ乗り込み、うち1人は櫂を用いて舟を操り、もう1人は網を操る。舟と舟との間に網を張り流して降れば、網は袋状となり、サケが袋に突き当たった時に素早く竹竿と手縄で網口を塞ぎ、それと同時に舟を引き寄せ捕獲する。
人工ふ化放流事業
本県のサケ人工ふ化放流事業の歴史は、神通川において明治16年地元の先覚者生田清堅によって県下最初のふ化が試みられた。現在、7ふ化場17河川で実施されており、増殖施設の整備に伴い稚魚放流尾数の増大や増殖技術の改良により回帰量の増大が図られてきている。
また、稚魚放流尾数は、昭和40年代には500万尾前後であったものが、昭和50年代は3,000万尾前後まで増大し、昭和60年代には最高の約4,000万尾に達したが、その後は減少傾向を示し、現在ではふ化場の適正収容能力の約3,000万尾となっている。これは健康で大型の稚魚を生産し、回帰率を向上させるためのものであり、より効率の良い人工ふ化放流事業の実施に取り組んでいる。
内水面では、特に庄川における回帰親魚尾数の増大に目を見張るものがあり、平成7年には55,000尾が回帰し、本州日本海側で第1位となった。
この要因の一つとして庄川では河川敷内にある豊富な湧水を利用し、サケの生態に合わせた自然により近い飼育方法を行い、健康で大型の稚魚を大量に生産したことが第一と考えられる。
サケ・マスふ化場の飼育管理
サケの稚魚は、人間の赤ちゃんと同じように丁寧な扱い方が必要であり、最初のころには1日に8回も給餌を行わなければならないし、池の底掃除も毎日行わなければならない。
飼育管理を少しでも怠ると稚魚に病気が発生し、全滅してしまうこともあるので、飼育担当者は大変な気を使わなければならない。もちろん、正月も返上して飼育管理を行っており、このような苦労をして放流した稚魚が3〜4年後に大量に帰って来た時の喜びは何事にも換えられないものである。
しかし、人工ふ化放流事業を実施している内水面漁協では、その放流事業経費は主に国と県による稚魚の買い上げ補助金等でまかなわれているが、その補助金額では充分とはいえず、資金面等運営上解決すべき課題が多い。また、ふ化場の採卵、飼育に携わる人は、雇用期間が周年でないことや賃金が低いこと等から人の確保が難しく、後継者もほとんどいないのが現状である。
今後の対策
資源管理
稚魚放流尾数は、現有施設の適正収容尾数である約3,000万尾程度とし、健康で大型稚魚の放流により、回帰率の向上に努める。また、銀毛資源など品質が良く、価格の高い資源造成を図り、経済効率の高いふ化放流事業を推進する。
ブナザケの有効利用
採卵後のブナザケは、従来、薫製や味噌漬け等一部食品として利用されていたが、味の低下と独特の臭いのため商品価値が低く、大半は農業用肥料などに回されていた。
そこで、富山県食品研究所ではこのブナザケの有効利用として、すり身や魚醤油などの新製品の研究、開発を行い、平成9年からは県内食品業者が本格的に商品化、特産品づくりに乗り出す予定である。
内水面でのサケ活用
サケ祭り、サケのつかみ取り大会などのイベントの開催やサケの産卵ウォッチングなどの実施により、一般の人々に川とサケに親しみ、関心を持ってもらうことが必要である。
河川環境
サケにとっては、産卵場である河川が原点であるが、現在の河川のように魚が生息しにくい環境では、サケ資源の維持、増大のためには人工ふ化放流事業に頼らざるを得ない。しかし、将来は、人の手を加えなくても自然繁殖により資源がいつまでも維持できるような河川に環境を整えて行くことが必要である。 
 
初夏の香り鮎漁

アユに魅せられて
アユは昔から清流の女王とよばれ、多くの人々に親しまれてきた。釣りあげたときのアユの姿とその輝きは特に美しく感じる。
素早い泳ぎ、強い警戒心、釣り人のハリにも簡単に掛からない賢さもまた人びとの心を魅了する。
アユはその特有の櫛(くし)状の歯で、河川生産の基盤となる水域の石に付着した藻類を噛み削って食べるという特技の持主で、その量は1日に体重の半分以上ともいわれる大食漢だ。だから餌場への執着が強く、ナワバリ意識が盛んで、侵入する他魚には追い出そうとして激しく攻撃する。「友釣り」は、アユのこの習性をうまく利用した日本独得の釣漁法で、オトリアユを使っての釣趣の深さに人気が集まっている。
「働き過ぎ…」といわれる日本人にも、最近は自然と親しみ、余暇を楽しむゆとりがひろがり、県内のアユ釣り人口も5万人を超えた。
自然豊かな富山の川、そこで育まれる香りのよい、姿の美しいアユは、人びとにこのうえない健康的な娯楽を提供し、未来を担うこどもたちには自然環境の素晴しさを教えてくれる。
豊かな自然とアユ資源が正しく位置づけられれば、単に水産資源にとどまらず、町おこし、村おこしなどでの経済効果にも大きく貢献できることだろう。
さて、私とアユとのつき合いは、もう50年近くになる。アユとの出会いは、富山市が戦災の爪跡も生々しい昭和22、3年ごろだ。友人のすすめで毛バリから始め、数年を経て友釣りに移った。友釣りの最初の1匹は山田川だった。佐藤垢石著「鮎の友釣り」(昭和9年7月刊行、万有社)を手引書に、あれこれ仕掛けを工夫しての挑戦だった。坊主覚悟での釣行だったから、まさかの1匹で胸は高鳴り、足はガクガク、やっと玉網に取り込んでホーツと溜め息をついた。
初日の釣果のこの1匹のことは、いまでも新鮮な印象として残っている。私が友釣りにのめり込んでいったのはこのときからである。
アユは清流の鬼女?
いま川には、海から溯上してくる天然アユ(海産アユ)、琵琶湖で稚魚を採捕し放流した湖産アユ、そして採卵から放流まで人間が管理した人工産アユが棲んでいる。この三つのタイプのアユを、姿、形から識別することは容易ではない。識者は魚体の構成部分、例えば鱗を顕微鏡で拡大、その輪紋から生活の跡、履歴を調べて判別する。湖産アユは天然アユより2カ月も早く生まれるから、これが輪紋の数の違いとして現れるのである。
しかし、釣り人は実践にもとづく(感性的)情報から、天然、湖産の区別をしているようだ。
いま、河川に放流されている椎魚は湖産アユが大半を占めている。湖産アユはナワバリに固執する性格が強く、追い気抜群だから友釣りでは最も人気が高い。川を降りるのが9月と天然アユより釣期は短いが、天然アユ溯上のある川でも湖産アユの放流は不可欠だ。
つまり、追いはじめるのが遅く、下降するのも遅い天然アユと、追いも早く、下降も早い湖産アユの特徴をうまくとりあわせて、バランスよく放流すれば、釣り人はそれだけ長く友釣りを楽しむことができるからである。
人工産アユ放流の歴史は浅い。昭和50年、富山漁業協同組合が八尾町薄島地内に建設、翌年から本格生産に乗り出し、最初は80万匹を生産。その後増殖技術の進歩で、現在では180万匹が主として神通川に放流されている。
人工産アユへの依存度は年々高まってきているが、このアユには放流場所からの溯上がすくなく、周辺に留まるか、ちょっとした出水でもかんたんに下ってしまうという、クセというか難点がある。やはり流れのゆるい養殖池での飼育がその原因なのだろうか。
また人工産アユは追い(ナワバリ意識)も天然産、湖産に劣る、という人もあるが、最近での人工産アユの品質向上には目覚しいものがあり、飼育池での管理、放流時期の研究などでこれらの課題解決の日も遠くないことと思われる。
天然アユが川をのぼりはじめるのは、海水温と川の水温が接近する4月下旬ごろからで、そのピークは6月という(富山県水産試験場談)。海ではプランクトンを餌にしていた稚魚は、川にのぼると歯の型が変って付着藻類(珪藻)へと食性が変わる。そして川岸寄りの流れのゆるやかなところを選んで帯状に群れを作り、上流を目指すのである。
中流域に達するころには13、4センチに成長し、やがて群れから離れてナワバリをもつ。だが、すべてのアユがナワバリを持つとは限らない。群れアユのまま一生を過すのもいる。
また、天然アユは湖産アユにくらべて遅い時期までナワバリをもつ習性があるので、晩秋にかけて釣れるほとんどは天然アユと見てよい。
釣り人にとって気になるのは、海からどれだけの稚魚が溯上するかだが、水産試験場でも詳しい調査がなく、その数はさだかではない、しかし放流するアユの数倍、いや数十倍にのぼるのではないか、というのが一般的な見方である。
湖産の放流アユは成魚になって産卵、そしてふ化しても、ふ化した稚魚は海へ下ると死滅する−、つまり再生産しないという水産学者の説が、もし本当としたら、アユの将来を考え天然アユの保護、増殖にはもっともっと力をつくす必要がある。
「さいきんのアユは追いが悪く、釣りにくい」という声をよく聞く。
アユは川を溯って大きくなると、餌になる良質の珪藻(石垢)を確保するため一定のナワバリをもつことは前に述べたが、釣り人の操作する掛けバリのついたオトリアユにそのナワバリ荒しをさせ、怒った野アユがそれを追いかけるのを利用するのが友釣りの原理−。ということは、アユがナワバリをもち、強弱にかかわらずそれに執着するという性質さえ失わなければ、いついかなるときでも友釣りは成り立つのである。
アユのナワバリへの執着はさまざまで、ちょっと追う素振りを見せるだけのものもいれば、オトリがナワバリを離れるまでしつこく追いかけまわすのもいる。
はじめはオトリアユの後ろについていただけのアユが、オトリが逃げようとするや突然背ビレを立て、口をカッと開いて形相すさまじく体当りをくらわせる。その優美な姿で清流の女王といわれるアユだが、オトリに立ち向かうときの荒れ狂うさまは、さしずめ「清流の鬼女」としかいいようがない。
アユを香魚ともいうが・・・
「アユなんて美味しくても不味(まず)くても関係ない。たくさん釣れたほうがいいんだ」なんて思う釣り人はいない筈だ。アユはその呼び名の一つを「香魚」ともいう。良質のアユは西瓜に似た香りをもっているので、そんな名があるのだろうが、香りのあるアユほど美味しいのも事実だ。うまいアユは、きれいで美味しい水の流れに育つ。アユに限っては「水清ければ魚棲まず」の言葉はあてはまらない。
美味しい水の流れる川には美味しい良質の珪藻が生え、その珪藻を食べたアユは美味しいのである。
もちろん、水源地から良質の水が生まれても、ダムができて湖底に泥土が溜まってしまったり、人家が密集して生活排水が入り込み、燐や窒素などで富栄養化してしまった場合は論外である。
橋の上から川を覗いたとき、川底の石全体が薄い茶色で、石垢(珪藻)が付いているかいないか、またその石垢にアユのハミアトがあるかないか判断に困るような、それでいて川底が明るく光っているようにみえる川のアユは総じて美味しい。
一方、川底の石全体が茶褐色でくすみ、ハミアトがくっきり見える川のアユの味はややおちるようだ。
2、30年前までは、朝早く河原を散策していると、川面から西瓜に似たアユの香りが漂ってきたものだ。
先人たちはそんな場所を好ポイントとみて竿を入れたらしいが、その香りの源が、アユそのものの香りというよりも珪藻の香りだった、ということが分かっていたのだろうか。いい珪藻のあるところに美味しいアユが付くのは今も昔も変りない。
ただ、最近はこの匂いにめぐり合うこともなくなった。水の流れが変り、汚れが進んで、芳香を放つ珪藻が育たなくなったのだろうか。
川が汚染されると、真っ先に影響をこうむるのは、そこに棲む生物たちだ。汚染に弱いものは数が減り、さらに汚染が進めば死滅という事態も起る。
かつてたくさん棲んでいた天然の魚が少なくなれば、環境に異変あり、と考えていいだろう。最近は水そのものの汚染とともに水辺の環境悪化が気になる。ジュースや酒、ビールの空き缶、それに弁当の食べ残し、タバコの吸い穀など、ゴミの量はおびただしい。いずれも釣り人が放置したものばかりだ。
河川の環境変化に人一倍敏感であるはずの釣り人がこれでいいのか。「よごすまい、明日もみんなが来る釣場」。釣り人こそ率先して環境美化に努めるべきである。
清流を取り戻そう
近ごろ川にでかけてみて、1つ気になることがある。川にこどもたちの姿がめっきり少なくなってしまったことだ。
夏休みともなれば、川原のあちこちに家族連れが楽しそうに水遊びをしている姿は、いまでも時々見かける。しかし、私たちがこどものころよくそうしたように、手に手に玉網をもって川の中を走り回るこどもたちの姿は滅多になくなった。
かわってよく目につくのは、やたら長い竿をもって川の流れに立つおとなたちの姿である。その背景にはこどもをとりまく社会情勢の変化もあるのだろうが、なによりも川そのものが、こどもたちにとって近づきにくい、入っても面白くない場所になってしまったせいだろう。
いま、アユに熱くなっている人たちは、多かれ少なかれこどものころの川遊びを通じて、川の素晴らしさ、魚釣りの魅力にとりつかれてきた筈である。
胸はずむ幼い日の川遊びの思い出があるからこそ、いまの川のありかたを憂い、なんとかせねば…と思いをつのらせるのである。
次代を担うこどもたちが、川遊びの楽しさを知らずに成長するということは、こどもたちにとっても不幸なばかりでなく、川やアユの未来にとっても不幸なことなのだ。
こどもたちがはじめに興味をひかれるのは、釣り竿をもつことよりも、川の流れのなかで自分の目で見た魚を追いかけることにはじまるのだ。そして川遊びの楽しさのなかで社会ルールを守ることも覚えてゆくのである。
新緑、初夏−季節の到来を告げるアユ。その銀鱗の輝やく美しさは「愛すべき魚」として多くの人びとを魅了してきた。
だが文明の発達は、自然環境の破壊と河川の荒廃を進め、流域の人びとや漁協の人びとの力だけで流域を守り、アユを育てることは困難な時代になった。
清流とアユ資源の保全とが最もきびしい対立関係にあるのはダムの存在である。
だが、それによって供給される電力、水道、農・工業用水などの恩恵を受けるのは一般の人々である。川とアユに馴染みのない人たちにダムの弊害を説いてもほとんどが無反応だ。しかし、清流の素晴らしさとアユの魅力を充分に理解してもらうことができたら、きっとダムの功ばかりでなく罪の面についても客観的にわかってもらえるような気がするし、そこに河川流域と一般の人びとと共通の言葉が生まれる筈である。そしてさらに釣り人の協力が加わるならば、清流とアユ資源復活の道はかならず開け、その輪も大きくひろがるだろう。
これが川と自然を愛する人びとのねがいである。

追記 / 友釣りはナワバリをつくるアユの習性を利用した釣法だが、このほかに県内ではおこなわれていないものを含めると、主にシラスをエサにするエサ釣り、流れのゆるやかな深みで毛針を使うドブ釣り、丸いおもりをころがして掛け針を横にひくコロガシ、針をたくさんつけた竿をひきまわすスガケ、鵜の羽をたくさんつけた縄を水中でうごかし、集まってくるアユを投網などでとる鵜縄、ご存知の鵜飼、秋になると産卵のために川を下るアユをねらうヤナなどの漁法がある。 
 
万葉の流れとともに-冬の珍味モクズガニ漁など-

子どもの頃
戦前の小矢部川には、何処でもたくさんの小魚やカニ、エビなどが生息していました。
子どもの頃には、小川の縁に生えている柳の木の下や石垣のあるところで手掴みで小魚やカニを捕り、よくカニに手を挟まれたものです。
その頃の子どもの遊びのひとつに自転車のリム(車輪の外周の枠)を使ったカニ捕りがありました。
夕方、4、5人の友達と誘い合って川にでかけます。自転車のリムの下に網を張り付け、その真ん中に魚のあらを付けて川の中に沈めておくと、30分もすると10匹前後のカニが捕れました。
カニの手足を押さえるのに4、5人いると都合がよく、2、3時間でバケツに一杯捕れたものです。
私が初めて小矢部川へ漁に出たのは10歳の頃で、父親に連れられてアユ漁に行きました。13歳の時には13尾の鮭をヤスで捕ったのを今でもよく覚えています。
小矢部川の春夏秋冬
小矢部川では、正月も7日を過ぎると漁にでます。
冬場は、川の水も冷え込んでいますので魚たちの動きも鋭く、流し網などを使ってコイを捕ったり、テンカラ網を使いフナやウグイを捕ったりしています。
3月になると水も少しずつぬるんできまして、モクズガニが動き始めます。寒い間、ウロの中でじっとしていたモクズガニが、この時期になると海で産卵するために下り始めるのです。それを「カニのもんどり」という網を川に固定して捕ります。
春は、ウグイの産卵期でもあり、この時期のウグイを「サクラウグイ」といって婚姻色がついてとても美しくなります。この子持ちの「サクラウグイ」は投網を使い5月末まで漁をし、モクズガニは、4月末まで漁をします。
梅雨の時期になりますとアユ漁が解禁され10月まで、ずっとアユを投網で捕ります。小矢部川のアユは「尺鮎」といいまして、県内のどの河川のアユよりも大きくなります。
それは小矢部川の水温が高く、アユの餌になる珪藻類が豊富なため、アユが良く育つからです。
夏の間は主にアユの漁をしていますが、水田が青く繁る頃になりますとナマズの延縄(はえなわ)漁を始めます。
この頃のナマズは、「青田ナマズ」といって水田に産卵しにきます。
昔は、農業用水も今のようにコンクリートではありませんから、ナマズたちが農業用水から水田に入り産卵していましたが、今ではナマズも水田の中に入ることができず産卵場所も減って、ナマズもずいぶんと少なくなってしまいました。
7月になると海に下っていたモクズガニが再び川に戻ってきますので、「カニのもんどり」網を仕掛けます。
そして10月も10日を過ぎた頃に鮭が上ってきて、鮭漁が始まります。鮭漁は12月の末、冬至の頃まで行って1年の締め括りになります。
今申しましたように小矢部川では、春夏秋冬、1年中漁ができます。
その理由は、小矢部川の源流がそんなに高い山ではないこと、流れがゆるやかで大きく蛇行しているために水温が他の河川よりも高いという大きな特徴を持っているからと思います。
モクズガニ漁
小矢部川のモクズガニは、冬の珍味として関西地方では有名です。
このモクズガニは、甲羅の大きさが15センチくらいまでに成長し、色は茶褐色をしていますが、茹でると真っ赤になり、それが小矢部川のモクズガニの特徴でもあります。
塩茹でしたモクズガニのかにみそは天下一品です。
このモクズガニは、戦前から関西地方に出荷していますが、私の地方では昔、春祭りのときに大道で5、6匹山盛りにして売っていたりもしていました。
その頃からモクズガニのことを「川ガニ」とか「渡りガニ」(渡とは古い地名)と呼んでいます。
モクズガニを捕る漁法には、網を使う方法とカゴを使う方法があります。
網を使う漁法は、昔は「カニのもんどり網」と言っていましたが、今では「ふくろ網」と言っています。
「もんどり」という言葉の意味は、定置したもののことをいったように思います。昔は、仕掛けた網のことを「カニのもんどり」「エビのもんどり」「鯰のもんどり」「鯉鮒のもんどり」と呼んでいました。
それが昭和45年頃、県に登録するため「ふくろ網」と言うようになりました。この「ふくろ網」の仕掛け場所は、それぞれの人によって違いますが、だいたいは川の流れによってきまります。
川の中にモクズガニが移動する道がありその道を遮るようにして網を仕掛けます。
川の流れには、上の層を流れている水と下の層を流れている水があります。この下の層の流れがある所をモクズガニは好んで移動するので、網を仕掛けるには良い場所になります。
また月夜と闇夜によっても仕掛ける場所が違ってきます。闇夜は多少浅い場所でも仕掛けることができますが、月夜になると深い場所に仕掛けなければなりません。
それはモクズガニが月の明かりを嫌って深みへと移動するからです。
もうひとつ気をつけなければならないのが雨です。川が増水して網が流されてしまうことがあるので、雨の降る時は川の水量に特に気をつけます。
カゴ漁法は、横が70センチ、縦が40センチ、高さが30センチのカゴの中に魚のあらを付けて川の深みに1晩入れて置きます。だいたい2、30個のカゴを舟に積んでいくつかの深みに沈めて置きます。
翌朝引き揚げに行き、多い時はひとつのカゴに100匹くらいのカニが入っている時もあります。しかし、川の水温が10度くらいに下がるとカニはあまり餌を食べなくなってしまうので捕れなくなってしまいます。
戦前は、庄川や神通川、白岩川までカニを捕りに行ったといいます。
小矢部川では一時、川が汚れてカニはおろか小魚までいなくなったときもありましたが、今ではモクズガニも年間5トンくらい獲れるまでに回復しました。
漁業組合では、甲羅が5センチ以下のものは捕らないこと、また産卵期の5月から10月20日までをモクズガニの禁漁期間として資源確保に努めています。
ナマズ延縄(はえなわ)漁
夏の間はアユの漁をしていますが、7月にはその合間をぬってナマズ漁をします。夕方に出てナマズの延縄を仕掛け、それからアユの投網をまいてアユを捕り、深夜帰りがけに延縄を回収してナマズを捕ります。
延縄の仕掛けは、人それぞれによって違いまして、1尋(ひとひろ・約1.5メートル)に針を1本付けたり、2尋に1本付けたりします。
長さも人によってまちまちで、私は1,000メートルから1,500メートルの延縄を使っていました。
この延縄に、ミミズの餌を付けて仕掛けていくのですが、仕掛ける場所はその日その日の川の流れ方を見て、流れに対して縦に入れたり、斜めに入れたり、横に入れたりしますが、だいたいは流れの緩い淵を選びます。
ナマズに限らず、魚というものは水中に立っている糸や針に対しては警戒しますが、横に寝ている糸や針に対しては警戒が薄いので、1本の長い縄に何本もの針を付ける延縄漁ができるのです。
昔はよくナマズの蒲焼や刺身などを食べたものですが、今ではよほど物好きな人しか食べなくなってしまい、ナマズ漁をする人もほとんどいなくなってしまいました。
川エビ漁
川エビは、梅雨が明けて夏になると川の中流まで上ってきます。川エビは、早い瀬を移動することができず、流れの緩い場所を選んで上ってきます。
この川エビが通る緩い流れの所に「さかもじり」といって竹で編んだカゴを仕掛けます。「さかもじり」というのは、円筒形をしていて入り口に返しがついている、ちょうどウナギを捕るためのカゴを大きくしたようなものです。
この「さかもじり」を川エビの通り道に固定して、両側に竹や葦で壁を作って中に導くようにしておきます。
昔は1晩「さかもじり」を仕掛けておくと1斗くらいの川エビが捕れたものです。
川エビは、流れが早すぎて川を上ることができないと、陸に上がってその瀬を越えると言われています。
私が小さい時、父に連れられて川エビの漁に行った時のこと、川原が紫色に光っているのを見まして、何だろうと思ったら数えきれないくらいの川エビが早瀬を避けて、川原を帯のようになって移動している最中でした。
この川エビの目玉が月明かりで紫色に光っていたのです。この光景は今でもよく覚えています。
これほどまでたくさんいた川エビも一時はまったくいなくなってしまいましたが、近年少しずつではあるが見掛けるようになってきましたので数年後には、川エビ漁が再開できるのではないかと思っています。
ウグイ漁
小矢部川流域でもっとも身近な魚といえば、四季を通じてウグイではないでしょうか。
昔は、天秤棒を担いだ行商の人がイワシなどを売りに来ましたが、このあたりまでくるころには、すっかり魚もなれてしまっていておいしくありませんし、またそれを買うお金も持ち合わせていませんでした。それよりも川に行けば生きた魚がたくさんいましたし、その中でもウグイは簡単に子どもでも捕れる魚でした。
県東部の人たちは、このウグイを食べませんが、焼いて良し、煮て良しの美味しい魚です。このウグイは、春に産卵する魚ですが、この時のウグイは赤い婚姻色に染まって見た目にもよく、子持ちなので好まれています。
ウグイは、投網を使って捕りますが、その時期によって早瀬でまいたり、淵でまいたりします。網もまく場所によって大きさや重さの違った投網を使いわけています。
小矢部川に生きて
戦時中と戦後しばらくは、配給制度といって生活に必要なものすべてが統制にかかっていた時期がありました。その中で何故か川魚だけは統制から外れていまして、自由に売買ができました。
戦時中のこと、兵士として出征する息子がいる家庭では、これが息子との今生の別れになると思い、なんとかしてお頭(かしら)つきの魚でお祝いをして送り出してやりたいと思うのですが、海の魚は手に入れることができないので、鯉でもなんでもよいから、お頭つきの魚を捕ってくれないかと母親がよく私の所へ頼みに来ました。
けれどもその頃は、食糧事情もよくないので腹が減って網をまくこともできないと言うと、米を1升2升と持ってきてくれこれでなんとか魚を都合してほしいと頼まれたものです。戦時中はほんとうに食べるものが何も無く、この人たちが持ってきてくれる米が私たち家族の命の綱でした。
戦後、昭和25、6年ころから小矢部川流域にも製紙工場などができ始めると、川がだんだんと汚れはじめてきて、魚もいなくなり、漁ができなくなってしまいました。
仕方がないので建設現場で働いた時期もありましたが、昭和45年頃までは魚が減ることはあっても増えるようなことはありませんでした。
昭和50年頃からモクズガニが少しずつ戻ってきまして、小矢部川で漁を再開することができるようになりました。
小矢部川では、縄文時代から人が住み着き漁をしてきたといいます。
この川は万葉集にも出てくる、古くから人との関わりの深い川です。
それも小矢部川が魚がたくさんいる豊かな川だからこそだと思います。
この豊かな万葉の流れ「小矢部川」を汚すことなく、大切にして漁を続けていければと思っています。 
 
川よ蘇れ

川と魚と人
日本、特に富山の河川は、清冽な水を運んでくるというイメージがある。河川の水は、流域の人々の直接の飲料水となり、農業用水や工業用水として利用され、また電気エネルギーに変換されて、私達の生活に役立っている。
豊かで透きとおった河川の水の中には、魚が群れをなして泳いでいることも忘れてはならない。日本がまだそれほど豊かではなく、高度経済成長の初期の段階にあった昭和30年代の終わり頃まで、河川の魚は流域の人達の大事な蛋白源でもあった。河川の魚を獲る専業の職漁師が活躍していたのも、この頃までである。
職漁師が活躍していた時代は、まだ遊漁の釣り人の数も少なく、漁業者と魚の関係からみれば、河川の自然との調和がはかられていた時代でもあった。また、現代のような治水上の河川管理が行き届いていなかった代わりに、洪水で深くえぐられた大きな淵が存在し、多種多様な魚の共存できる環境があった。
川魚漁で生計をたてている漁師は、当たり前のことではあるが、いつ頃どこにゆけばどのような魚が獲れるのかをきちんと把握しており、それを根こそぎ漁獲してしまうよようなことはしなかった。また、その河川や地域にあった特殊な漁法を編み出し、後代へと伝え残してきた川の文化の伝承者でもあった。
漁業は、採取狩猟の時代の影をひきずっている。魚は自然に再生産する資源であり、乱獲や環境を破壊しなければ、人が手を加えなくても資源は存続してゆく。職漁師は、目先の利益だけにとらわれず、先々のことを考えて、漁業を営んできたといえる。
ひるがえって、現代の河川と漁業はどうなっているのであろうか。各河川、また地域に内水面漁業協同組合(漁協)があり、漁業は漁協のもつ漁業権によって成り立っている。最近の農林統計によると、富山県における内水面漁業は、400トンから600トンの間にあり、サケ類がその大半を占めている。次に大きいのはアユ漁であるが、遊漁者の漁獲するアユの量が把握しにくく、全体の漁獲量ははっきりしない。
農林統計による河川の総漁獲量は、昭和30年代後半には400トン弱あり、昭和40年代に入ると150トン〜250トンに減少している。この漁獲量の減少は、各種の公害問題が発生し、河川環境も急速に悪化した時代であったことを示している。また、漁業の中味も大きく変化する。フナ漁とアユ漁が中心で、次いでサクラマス漁の大きかった30年代から、漁獲量の減少した40年代をはさみ、アユ漁とサケ漁が中心となって、400トンを超える漁獲量へと復活する。ちなみに、サケは河口で漁獲され、採卵、受精、ふ化は人工的に行われて、河川の生態系の一員であるとは言い難い。またアユも大部分は琵琶湖産アユの放流に依存した状態である。
昭和30年代には40トンほどあったサクラマスの漁獲量は、ここ数年5トン前後に落ち込んでおり、河川環境の悪化を裏付けた形となっている。サクラマスは春河川に溯上し、半年近く河川ですごした後、産卵するという生活史をたどるので、河川環境の悪化は直接生息量に反映するからである。
本来、河川の占める空間は、職漁師の仕事の場であるとともに、地域の人達の憩いの場であり、子ども達の遊び場であった。水の中には多くの魚介(魚の他に、かに、えび、貝類等を含む総称)がおり、魚介を支える虫や植物も豊富であった。夏の暑い盛りに、川で魚や虫を追いかけた記憶をもつ人達の世代は次第に高齢化してきている。職漁師の伝統漁が廃れるだけではなく、子ども達が伝えてきた川での遊びも、すでに失われてしまったのではないかと思える。
川の生態系と魚
川の自然とは本来どのようになっていたのであろうか。魚を中心に考えてみよう。魚の一生は、まず卵からふ化するところから始まる。ふ化した仔魚は、形がだんだん魚らしくなってゆき、稚魚、未成魚と発育してゆく。やがて成熟して成魚となり、産卵した後死んでゆくが、寿命や何回産卵するのかは魚種によってちがっている。
この間、産卵場所、仔稚魚の成育場所、成魚の棲み場所などそれぞれちがっており、魚が生育してゆくためには、川の中にさまざまな環境のあることを必要としている。また魚は生育してゆくにつれて、食物を変えてゆく。魚の食物は、川に棲む多くの他の生物であり、これらの生物と複雑な関係をもって生活していることになる。川には魚だけが棲んでいるわけではなく、多くの他の生物の存在があってはじめて魚が生きてゆくことができる。一見単純そうにみえても、川の中の生物の関係は錯綜しており、複雑な生態系を構成していることを理解しておかねばならない。
川には、水草や付着藻類などの植物が生育し、水生昆虫を主とした底生動物が藻類などを食べて生活している。魚はこれら藻類や底生動物を食べて生活するが、大形の魚類や鳥類に捕食される。生態系の中の生物相互の関係は微妙なものであり、どれかひとつの要素が欠けてもバランスが崩れて、魚の生活に大きなダメージを与えることになる。
川の自然の喪失と魚の減少
長年、川魚漁に携わってきた人に話を聞くと、昔は魚が沢山いたが、今では本当に少なくなってしまったという答えが返ってくる。川に魚がいなくなった原因を探ると、川に多様な生物の棲める環境が失われ、川の生態系が単純化していることにゆきあたる。それは、ここ数十年の私達人間の生活の変化そのものに起因していると言わざるをえない。
魚の減った直接の原因を列挙してみると、(1)各種ダムの建設による河川の分断、(2)農業用水、工業用水、上水道用水等の取水による流量の低下、(3)流路の直線化、堤防の補強や床固め等の治水工事、(4)工場排水や都市排水、ごみの投棄等による水質の悪化、(5)林道の建設による山腹の崩壊や水源林の伐採による山地での保水力の劣化、(6)釣り人による乱獲と外来魚の放流、等々となる。これらの原因は、ある場合は単独で、またある場合は相互に関係しあいながら、魚の棲む河川環境を悪くする方向に作用してきた。
本来の河川は、山地に降った雨水が山肌を削り、深い谷間を作って流れ下る。全国的に急流河川の多いことで知られる富山県では、河川は山地を抜けたところに扇状地が形成されることが多い。扇状地は山地の崩壊した土砂が、大きな洪水によって押し出され、平野に堆積してできた地形である。
河川が扇状地を形成することは、後背に急峻な山岳をもつ富山の河川の源流域に、大規模な崩壊地が数多くあることを示している。富山の河川は、河川勾配が大きく、急流をなして流れることに加えて、大量の土砂が常に下流に供給されることを特徴としている。
下流地域の安全をはかるために、最上流部では大規模な砂防工事が行われている。明治39年に始まった常願寺川上流立山カルデラ内(湯川)の砂防工事は、現在も続けられている。山地の崩壊も自然現象のひとつであるが、砂防工事は山がなくならないかぎり際限なく続けなければならない宿命を負っているようにみえる。しかし、この荒れた湯川にもイワナが生息しており、自然の力の大きさを感じさせてくれるが、多くの源流域の谷では、砂防ダムが連続して建設され、魚の生息できる環境は失われているのが現実である。
砂防また治山と呼ばれている工事は、土砂の流出を抑え、山腹を安定させるために行われる。山腹に原生林などの植生があれば、崩壊も少なくてすむはずであるが、原生林は伐採され、保水力の弱い杉などの樹木が植林されている。また、伐採のための林道がつけられ、崩壊を助長することになる。砂防工事のための道路建設も、一方では崩壊を助長していることになり、何をしているのか分からなくなる矛盾をかかえている。
源流からやや流れ下り、流量も大きくなると、取水や貯水のためのダムが建設される。この種の大規模なダムの建設には、多額の費用がかかるため、利水と治水をかねた多目的ダムとなることが多い。しかし、治水と利水の兼ね合いは難しく、主目的を利水に置くダムでは治水の目的を達しないようである。
このことを黒部川の出し平ダムと建設中の宇奈月ダムを例に考えてみよう。両ダムとも、土砂の流出の大きい黒部川にあって、世界でも初めての排砂構造を備えたダムとして設計された。出し平ダムは関西電力によって発電を目的に建設されたダムで、すぐ下流に建設中の宇奈月ダムは、建設省による洪水調節を主目的としたダムである。
距離をおかず二つのダムを建設することは、利水と治水が同時に成り立ちにくいことを物語っている。発電用にはできるだけ水を溜めておく必要があり、洪水調節のためにはダムをできるだけ空にしておくことが望ましいからである。
問題は、ちょっとした洪水でも土砂がダムに流入し、ダムの貯水機能を損なうことにある。排砂装置はそのために作られているのであるが、実際に排砂をしてみると予想外のことも生じて、排砂方法等の検討がなされている状況にある。
大規模ダムは魚類の移動を妨げる構造物であり、漁業に与える影響は大きい。また、ダムの上流に出現するダム湖(湛水池)は、河川の途中にあって、流れのほとんどない止水域となることから、流れのあることを特徴とする河川とはいえない特殊な環境を形成することになる。富山を代表する急流河川として有名な黒部川も庄川も、大規模なダムの連続する河川としても名高い。
富山県の多くの河川では、山地から扇状地へ流れ出る所に取水用のダムが作られている。農業用、工業用、上水道用等を兼ねたものが多く、そのため合口(ごうくち)ダムと呼ばれる。河川流量に対する取水量の割合は大きいが、歴史的な重みをもつ水利権によって調整されており、川に水を戻したくても戻せない状況にある。そのため、早月川や常願寺川のように、渇水期には取水ダムより下流に水のない河川もみられる。
平野への入り口で多くの水が取水されるため、どの河川も平野を流れる流量は小さい。また、平野には多くの人が住み、工業や農業など活発な経済活動を行っている。人の生活にも、経済活動にも水は欠かせないものであり、使用された後の水がようやく河川へ戻される。
水の使用量の比較的少なかった時代には、河川の水質の汚濁もまだ深刻な状況ではなかったが、高度経済成長の始まった昭和30年代後期から、次第に深刻な状況となり、昭和40年代の公害問題へとつながってゆく。この時代、富山県は公害デパートと呼ばれ、河川の水質の汚濁もその一翼を担っていたことを忘れてはならない。
河川の水質の汚濁は、その後の懸命な努力である程度克服され、現在に至っている。現在は工場排水よりも、トイレの水洗化にともなう下水処理の問題が顕在化してきているが、都市部にあっては下水道と終末処理場が、農村部にあっては集落下水処理場の建設が進められて、改善されつつある。しかし、河川に清冽な水の流れていた時代とは、比較にならない状況であることは認識しておかなくてはならない。特に、富山市や高岡市のような大都市の排水を受け入れている神通川や小矢部川の水質は、魚の眼からみればなお改善の余地があるにちがいない。
また、平野を流れる河川は、流路ができるだけ直線的につけられ、破堤を防ぐためのさまざまな河川改修工事が行われている場所でもある。これらの工事は、大きな淵を消失させるなど、だいたいにおいて魚の棲みにくい方向へ向いている。
以上、河川の上流から下流まで、現在生じているさまざまな問題を、川に棲む魚の観点から捉えてみた。川が魚の棲みにくい環境に作り変えられたのも、人が快適に生活することを優先させてきた結果であることを理解しなければならない。人がこの先もさらに快適な生活を求めるならば、河川の環境はますます魚の棲みにくいものとなってゆくであろう。
川を蘇らせるには
現在の河川は、さまざまなタイプのダムで分断され、河道は直線的で一定の勾配をもつように修正され、また水が抜かれ、その結果としてありとあらゆる排水を受け入れて、海へと流れ出ている。いずれも人の生活と関係の深いことがらである。河川に対する人の生活の影響はきわめて大きく、そこにはもはや本来の自然など存在しないようにみえる。
しかし、治水は完全なものではなく、源流域に集中豪雨や長雨があると、人々の生活を脅かす破堤や洪水などの水害が繰り返されているのも事実である。水害は困るけれど、洪水も自然現象であり、洪水の時々起こることは、河川の自然を再生する機会ともなっている。魚類を含め河川に生きる生物は、渇水や洪水などがくりかえされる自然のサイクルの中で、生き続けてきたもので、それによって絶滅することはなかった。
この自然のサイクルを無視し河川環境を人為的に作り変えようと努力している現在、河川に棲む多くの生物が消滅しつつあるのも当然のことであろう。多種多様な生物で満ちあふれた河川を蘇らすには、河川は人工物ではなく、自然そのものであることを、まず認識するところからはじめなければならない。
地球の自然環境を支配している究極の存在は、太陽のエネルギーであり、人力では制御できないものである。人は自然を破壊することはできても、再生させることはできない。自然の再生は、自然そのものにゆだねるしかなく、人はほんの少しだけ手助けできるだけである。そのためには、自然の破壊をやめ、長い時間をかけて、自然がゆっくりと再生してくるのを待つ度量が必要である。
河川の自然もその例外ではない。河川本来の自然を完全に復活させるためには、ダムをはじめ人工的な構造物を壊し、取水をやめ、汚水の排水をとめて、なお多くの時間をかけなければならないであろう。これは現代人のライフスタイルを否定し、50年から100年前の状態へと戻すことを意味している。
もちろん時間を逆行させることはできないが、自然を食いつぶすことで成立している現代人の生活の矛盾、つまり「自然を食いつぶしてしまえば、生活は成り立たないことになる」ことを理解しなければならないだろう。ここに自然を再生させる必然性が生じる。
河川の自然を制御して、水害をなくす努力は必要であり、水という資源を有効に利用することも欠かせないことである。しかし、目先のことに囚われて必要以上のことをやり、自らを窮地に追いこんではいないのか、たえずチェックしながら進めなければならない。どのようにして河川に自然を残すのか、また破壊された自然をどのように再生させるのか、常に心にとめておく必要があろう。
「川よ蘇れ」というテーマは重く、川の自然を壊すことで成立している現代人の生活と矛盾するものであることを強調した。川を蘇らせるには、人々がまず自らのライフスタイルを変革する努力をしなければならない。人が自然と調和して生きてゆくライフスタイルを確立した時に、はじめて川は蘇るであろう。
現在、「自然にやさしい川づくり」また「多自然型川づくり」が行政主導で進められている。これらの事業は、河川の自然の再生のための出発点として位置づけられるが、それだけで川が蘇るとは思えない。川を蘇らすことは、人々の多くが自らの生活を変革し、河川の自然を再生させることによって、実現することであろう。
自然と調和した生活を営むことは、地球の生態系の一員として、人類が生き延びてゆくためにも必要なことがらなのである。 
 
海と山をつないだ魚街道

鰤(ブリ)街道
塩− 明治41年11月、氷見灘浦でブリの大豊漁(10万匹)があった。内臓を取って、すぐ塩をぶちこんで血ブリにした。ブリ1匹に対して2升以上の大量の塩を使った。塩1俵で30〜40匹の塩付けをした。10万匹を処理するのに1週間かかった。
輸送−氷見を夕方に出て、飛騨街道、糸魚川街道を担ぎ屋(ボッカ)が運んだ。竹の皮を使わず竹身だけで編んだ竹籠を力のある男は2荷(60キロ)、女は45キロ運んだ。ブリ4匹入り竹籠1行李4個で1荷30キロ。
ブリの購入−ブリは主人が年末に雪上を背負って家に持ち帰った。北安曇郡池田では、頭と尾に解体した。頭は31日に食べ、尾は1年間神棚に供えた。大変高価であっても、正月に1匹のブリが家にあることが大切なことであった。
鯖(サバ)街道
京都と若狭−サバ、アジ、カマス、甘鯛に塩をふって小浜を基点として、陸路、琵琶湖の水路を京都へ運んだ。塩をふった魚は一塩物といって、京都に着くと良い味になっていた。海と遠い京都であるがゆえにニシンそば、ぼうだら等が好まれたのではないか。
…高野川の河谷には、京都から大原を経て途中峠を越え、近江朽木に抜けて若狭に至る若狭街道が通じ、古代から重要な交通路であった。山端には旅人相手の茶屋が並び、若狭から塩サバなど塩干物が多数運搬されたため、若狭街道は〈魚街道〉とも呼ばれたという。江戸時代の高野川には井堰が約40ヵ所設けられて流域の重要な農業用水源とされ、水争いもたびたび生じた。…
海と山の関係
日本海から高山や松本へブリを運んだというようなことは、新しいことである。大林太良氏は、古代は海と山が交錯していたところを山と見なした。
古事記、日本書記に出てくる笠沙の岬は山が海に張り出し、海と山が交錯している。古代人は山の神が海に張り出したところにござるという考え方を持っていたのではないか。
「『魏志』倭人伝」では、「山島に依りて国邑を為す」人々の生業の場は限られており、山民すなわち海民であった。同列に考えても良いのではないか。山の神がオコゼを好んだり、海の神に鹿角を供えたりしているように、海の神が山の幸を、山の神が海の幸を求めていた。
海神と山神の境界
「常陸風土記」では、継体天皇の時に田を開いたタマチと日本列島に古くから住んでいたツチグモが境をめぐって争った折、杭を1本打って、杭の上を山の神、下をタマチの領有とした。
富山県の海山の交錯
氷見の大境や宮崎のように縄文期から人が住んできたところは、海と山の交錯しているところであり、邑を作り国を作った。「海の民は山の民」という世界であった。
新湊の築山では、山の神を呼んでいる。氷見の大境の延長が新湊まで来ている。海で二上山と同じ形式で祭りをしている。
海士の世界
海士といえば、定着しない流浪の民、漂泊の民。一生涯を船で過ごし、年をとると舳先に移り、中央部を若い世代に譲るという、西彼杵の例もある。
氷見や宮崎の漁師家を見ると、女は魚を売り歩き、田畑も耕している。男は漁だけ。1軒の中に、山民は即海民であることの証拠がある。ところが中間地の魚津や水橋などをみるとほとんど田畑を持たないで漁民で=海人でやってきた(昨今は田畑を持つように移り変わってきているが)。その意味で、氷見と宮崎は面白い域にあって、古代の姿をそのまま残しているような形態が見られる。これは、今後深めてみたいテーマ。日本海の平野ばかりではなく、時代別に 発展の基底を考えていくことに意味があるのではないか。
鯖街道
若狭国などの小浜藩領内(おおむね現在の嶺南に該当)と京都を結ぶ街道の総称である。主に魚介類を京都へ運搬するための物流ルートであったが、その中でも特に鯖が多かったことから、近年になって鯖街道と呼ばれるようになった。
狭義では現在の小浜市から若狭町三宅を経由して京都市左京区に至る「若狭街道」を指し、おおむね国道27号や国道367号に相当する。ただし、往時の若狭街道は現在の国道367号ではなく大見尾根を経由する山道であったほか、それぞれの国道ではバイパス道路が建設されているため旧道(指定解除)となっている区間もあるため必ずしも一致しない。広義では現在の嶺南から京都を結んだ街道全てを鯖街道と呼ぶ。
鉄道や自動車が普及する以前の時代には、若狭湾で取れたサバは徒歩で京都に運ばれた。生サバを塩でしめて京都まで運ぶとちょうど良い塩加減になり、京都の庶民を中心に重宝されたといわれている。夏期は運び手が多く、冬期は寒冷な峠を越えることから運び手は少なかったといわれる。しかし、冬に針畑峠を越えて運ばれた鯖は寒さと塩で身をひきしめられて、特に美味であったとされている。運び人の中には冬の峠越えのさなかに命を落とす者もいた。
鯖街道によって、サバだけでなく多くの種類の海産物なども運ばれた。平城宮の跡や、奈良県明日香村の都の跡で発掘された木簡からは、若狭からタイの寿司など10種類ほどの海産物が運ばれたと推定され、鯖街道の起源は1200年以上、あるいは約1300年前と考えられている。また、現在の橿原市にある藤原宮跡から出土した木簡には塩の荷札が多数見つかり、鯖街道を利用して塩も多く運ばれたとみられている。
鯖街道の由来
「鯖街道」とは、誰が名づけたかわからないけれど、そのものずばりの呼び方である。小浜に伝わる古い文書で『市場仲買い文書』というのがあり、その中に「生鯖塩して荷い、京へ行き任る」という文章があります。若狭から運ばれた鯖が、京の都へつく頃には丁度よい塩加減になったという意味ですが、いまも京の食文化の中に若狭の魚が生きているようです。しかし、若狭から運ばれたものは鯖だけでなく、いろいろな海産物や文化が運ばれ、そして京からも雅やかな文化や工芸品などが小浜に入ってきました。「鯖街道」という名前は、小浜から運ばれた代表的なものが鯖であったという事のようです。
鯖街道の歴史
板屋一助が1767年に著した『稚狭考』によると、本来は能登沖の鯖が有名で、それがとれなくなり、若狭の鯖が有名になったということのようです。
それらを運んだ鯖街道は1本だけでなく、5本ほどあったようです。その中でもっとも盛んに利用されたのが、小浜から熊川宿を通り滋賀県朽木村を通って、大原から鯖街道の終点といわれる出町に至る若狭街道です。この道では大きな荷物を馬借という馬による輸送を行っていたようです。さらには、小浜から北川の水路を使い馬で峠を越え九里半街道から今津に出て、琵琶湖を使って京へ運んだ水路もあったようです。
また、京への最短距離をとる峠道として、「針畑越え」があり、この道は鞍馬経由で京都出町に至っています。また、堀越峠を越えて京都高尾へつながる「周山街道」や、美浜町(現在若狭町)新座から滋賀県マキノ町へ抜ける「栗柄越え」や、遠く兵庫県の篠山までもつながっていたといわれます。
これらの鯖街道のルーツは、奈良、飛鳥時代に若狭の国が「御食国」と呼ばれ、朝廷に税として塩や塩漬けした魚介類を納めていた頃に遡ります。 かつてこの若狭は「裏日本」ではなく、大陸文化を受け入れる表玄関となっていたところです。
良好なリアス式海岸を持つ若狭湾は絶好の漁場であり、それらの魚は塩漬けにされ、朝廷に貢いでいたことは、平城京跡から多数の木簡が出土されていることで証明されています。
若狭の海の幸は奈良の高官の口を楽しませ、やがて京へ都が移ってからも、京の都の人々に「若狭もの」と称され、「若狭かれい」「若狭ぐじ」と今も京料理には欠かせないものとなっているようです。 
 
寿司 (すし 鮨 鮓 寿斗 寿し)

酢飯と主に魚介類を組み合わせた日本料理である。大別すると、生鮮魚介を用いた「早鮨(早ずし)」と、魚介類に米を加えて乳酸発酵させた「なれ鮨(なれずし)」に区分される。そのなかでも代表的な寿司は前者の握り寿司(江戸前寿司)であり、すでに“sushi”で通じるほど世界中に認知されている。
なれ寿司の本来はタンパク質(主に魚肉や獣肉など)の保存方法の一つであり、日本各地にその地方独特の寿司が根付いている。
語源説 / 「すし」は「鮨」の字があてられるが、近畿では「鮓」が使用され、延喜式の中に年魚鮓、阿米魚鮓などの字が見える。「すし」の語源は江戸時代中期に編まれた「日本釈名」や「東雅」の、その味が酸っぱいから「酸し(すし)」であるとした説が有力とされている。
種類 / 現在は握り寿司が代表的であるが、弁当などではそれ以外の押し寿司、ちらし寿司、巻き寿司、稲荷寿司、なれ寿司が多く使われる。
握り寿司
握った酢飯の上に、新鮮な魚介類などの切り身・むき身や、鯖(酢締めしたもの)・穴子(煮付もしくは焼いたもの)等調理を加えたもの、卵焼きを切り分けたもの等の具を上にのせて作る。一般に具と飯の間に、おろしわさびを飯に載せる形で挟む。わさび無しのことを「さびぬき」ということがある。具と飯との分離を防ぐため海苔を使った物もある。一口で食べられるほどの大きさに握られる。かつての江戸では屋台で出されており、これが全国へ広がった。早ずしの代表格「江戸前寿司」である。
寿司種
寿司に用いられる魚介類その他は「タネ」、またはそれを逆さにした符牒(職人用の隠語)で「ネタ」と呼ばれる。その主なものに次のようなものがある。
アジ、イワシ、カジキ、カツオ、カレイ、カンパチ、コノシロ(江戸前寿司におけるコハダもしくはシンコ)、サケ、サバ、サワラ、サンマ、スズキ、タイ、ハマチ(ブリ)、ヒラマサ、ヒラメ、マグロ(トロ)、メカジキ、アイナメ
アナゴ、ウナギ(煮付け・蒲焼等)
エビ(アマエビ-クルマエビ-ボタンエビ-ホッカイシマエビ)、シャコ、カニ(ズワイガニ-タラバガニ)、ザリガニ
イカ、タコ
アワビ、アオヤギ、赤貝、ホタテガイ、ホッキ貝、ミルガイ、ツブ、トリガイ
イクラ、ウニ、とびこ、キャビア
ネギトロ、だし巻き卵
近年は、特に回転寿司や日本国外の寿司料理店において、ミニハンバーグ、叉焼などの肉類や、シーチキン(ツナフレーク)・アボカドなどの和食以外をネタにした、従来の寿司から見ると奇想なスタイルだけを真似た商品が増えている。これらに眉をひそめ「寿司の枠を超えた異質のもの」として寿司とは別のものとする意見がある一方、これらのネタを従前から続く工夫の1つと捉える意見がある。
握り方
握り寿司において飯(シャリ)の握り方は寿司職人の技術が最も発揮されるところであり、様々な技法がある。
手返し / 本手返し・小手返し・たて返し・横手返し
親指握り
これのほかに、握りの形があり、たわら形、はこ形、ふね形などがある。
近年では大衆店化、チェーン店化しているところを中心に、シャリの自動握り機が普及している。タンク状の装置に酢飯を入れておくと、機械がそれを絞り出すような機構を用いて寿司の形に作ってくれる。中にはワサビをつけたり、軍艦巻の海苔を巻き付けるところまで自動で行なうものもある。また機械の外観が飯桶の形をしていて、客席から一見すると寿司職人が桶からご飯を取り出して握っているように見えるものもある。
握った寿司は付け台に直接置くか、寿司下駄にのせて客前に供される。
握り寿司の食べ方
握りたてを手でつかみ口に運ぶのが、伝統的で寿司を堪能できる食べ方とされているが、箸で食べる人も居る。もともと握り寿司は屋台で供されることが多く、簡単に食べられるように工夫されている寿司だからである。近年は「素手で食べると直前に食べたネタの脂等が指に残り、その後の寿司の味を壊してしまうから」として箸で食べることを推奨する事もあるが、普通は客一人ひとりに出されるおしぼりで手を拭く。
握り寿司には、味付けがなされているものと、自分で醤油をつけて塩味を加えて食べるものとがある。前者は、「ツメ」と呼ばれる醤油ベースの液体調味料を種の上に塗って供されるものや、塩などを振って出されるものなどがある(なんらかの味付けがなされた塩の場合などもある)。後者は、醤油を入れた小皿を用意しておき、寿司に適当に醤油をつけて食べる(醤油は種の側につけるとよく言われるが、これは米飯の側を醤油につけると飯が崩れてしまう事が理由とされている)。あらかじめ味付けをされているものについては、通常醤油はつけない。
職人
一人前の寿司職人になるためには「飯炊き三年握り八年」と言われるように約10年の修行が必要と言われている。高度な調理技術が求められ、寿司専門店でベテランの職人が腕を奮って居る。美味しい寿司が握れる職人になるには、市場で生鮮魚類を見極める力や、多様な魚の旬を知って脂が乗る時季は薄く切る、などの知識や経験、技術が必要である。また、寿司ロボットのシャリとは異なり、職人が握ったシャリは内部でご飯粒同士が圧縮されていないという違いがある。就業者は、男性が大多数を占めている。店主は中年以上の人が多く、最近では高齢の店主も増えている。従業員は高卒・中卒直後の若い人がほとんどだが、大卒の人たちも多くなっている。定年はないので、技術があり、やる気さえあれば一生続けられる職業といえる。一般には、他の和食と同様に、寿司職人も男性が多い世界であると考えられている。
一方、法規的に資格が必要であるわけではないので、持ち帰りや宅配専門店また回転寿司店では、アルバイトやパート労働者によって握りの作業が行われたり、産業用ロボットが行っていることさえある。
日本国外の事情は日本の寿司職人のそれと異なる。一例として、ニューヨーク・タイムズ紙(2007年7月29日)はニューヨーク市・クイーンズ区の「寿司教室」を紹介している。韓国人が主催する同教室では、1日4時間・6週間を全課程として寿司職人を養成する。学費1,000ドルでそのコースを修了した韓国系・中国系など大勢の生徒は、アメリカ各地で寿司屋や日本料理店のシェフになるという。
握り寿司の数え方
現在では、握り寿司1つを「1かん」と数え、「貫」の文字を当てることが多い。古い文献に「かん」という特別な助数詞で数えた例は見当たらず、いずれも1つ2つ、または1個2個である。江戸時代末期の「守貞謾稿」、明治43年(1910年)与兵衛鮓主人・小泉清三郎著「家庭 鮓のつけかた」、昭和5年(1930年)の永瀬牙之輔著「すし通」、昭和35年(1960年)宮尾しげを著「すし物語」のいずれも1つ2つである。ただし、寿司職人の間で戦前の寿司一人前分、握り寿司5つと三つ切りの海苔巻き2つを、太鼓のバチ(チャンチキ)に例えて「5かんのチャンチキ」と呼んだと紹介されている(篠田統「すしの本」1970年増補版)。寿司を「かん」と数えた例は比較的最近からで、国語辞典が採用するようになったのも最近である。昭和後期のグルメブームの時に一般に使われるようになったと言われる。「昔1かんの寿司を2つに切って提供した名残りで、寿司2つで1かんという」とした説も、同時期に頻繁にメディアに登場したが、握り寿司を2つに切って提供することが標準化した時代はない。戦後広まった2丁づけは、切ったのではなく最初から2つに握ったもの。「ひとつ一口半」とされていたサイズが現在のサイズに切り替わったのは明治の中頃から戦後昭和の半ばまでの間と言われており、小さくなっても、昭和の中頃になるまで寿司は1つずつ給仕されていたという記述もある。一方で、2つで1かんと数える人々もいるが、由来は不詳である。
「かん」の語源は諸説あり定かでないが、海苔巻き(もしくは笹巻き寿司や棒寿司などの巻いた形式の寿司)1つを「1巻」と数えたことからという説。江戸時代に穴あき銭を貫いて一つなぎしたものの「貫」から転じたという説、重さの単位「貫」から転じたという説などがある。
用語
握り寿司店にて用いられる主な用語を以下に記載する。ただし、これらの用語は必ずしも全国共通ではなく、一部地域では通用しない場合がある。また、基本的には寿司職人の間での符牒であり、客が使用するものではないが、トロ、ガリのようにすでに一般名詞化したものもある。
   用語 漢字 意味
アガリ 上がり お茶のこと。現代の寿司屋では粉茶が基本。語源は遊郭で来客時に出した上がり花から。
アニキ 兄貴 先に仕込み準備をした食材。相対的に古いこと。前日のシャリを指して「あんちゃんのしゃり」などと使う
オアイソ お愛想 勘定をするの意。常連でも勘定を払うと愛想をつかしたように帰っていくさまから、という説がある。ただし、これは板前が客に対して「お勘定のことなどお伺いしまして、さぞかし愛想の悪いこととは思いますが」と使う言葉を由来としているがために、客が板前に対して使うのは間違いであり、客が申し出る場合は「お勘定」とするのが正解である。また、かつて会計を頼まれた際女将などに対して「(お客さんに最後の)愛想をすませといて」と言ったのが元という説もある
オテショ 御手塩 醤油などを入れる小皿のこと。以前は家庭でもこの言葉を使った。
カッパ 河童 キュウリのこと。
ガリ 甘酢に漬けた薄切りの生姜。語源はその食感、ガリガリとする歯応えから。
ガレージ シャコのこと。「車庫」からきた洒落。符牒とは言いがたい。
ギョク 玉 玉子焼き、出汁巻き玉子。「玉」という漢字の音読み。
クサ 草 海苔のこと。「浅草海苔」(あさくさのり)の省略という説あり。
グンカン 軍艦 シャリを海苔で縦に巻き、ネタを載せた寿司のこと。軍艦巻(ぐんかんまき)。これはウニやイクラなど散りやすいネタに使われる巻き方。
サビ ワサビの省略。
シャリ 舎利 酢飯のこと。仏教語の舎利(飯)、すなわちサンスクリットの米を意味する単語シャーリ (zaali शालि) を語源とする。ちなみに仏舎利の「舎利」は「肉体・遺体」を意味する単語シャリーラ(zariira शरीर)であり、どちらもサンスクリットの音写に同じ漢字が宛てられたもの。後者の仏舎利を語源とする説も、空海「秘蔵記」に於ける「天竺呼米粒為舎利。仏舎利亦似米粒。是故曰舎利。」という記述で既に現われている。
ツメ 詰め アナゴや煮蛤などの淡白な味をしたネタに塗る、佃煮の汁に似た甘塩辛い煮汁。煮詰めの略。
デバナ 出花 アガリと同じお茶だが最初に出すお茶の事。
トロ マグロの腹身の一番脂の乗った部分のこと。脂の乗り具合で「大トロ」「中トロ」などと分類される。
ナミダ 涙 ワサビのこと。鼻につんとくる辛さで涙が出ることから。
ネタ 酢飯や海苔、カンピョウ等を除く寿司の食材のこと。「種」(たね)の逆さ読み。
バラン 馬蘭(ハラン 葉蘭) 仕切りや飾り付けに用いられる植物の葉。関東ではササが標準。
ムラサキ 紫 醤油のこと。醤油が高価であったため、高貴な色である紫を当てたと言う説。土浦から見える紫峰筑波(筑波山のこと)と言う商品名から来たという説。キッコーマンに代表される亀甲文様の亀甲は北極星信仰(妙見菩薩信仰)で、北極星のシンボルカラーである紫色からと言う説。単純に醤油の色からなど諸説様々存在する。
ムラチョコ 醤油皿(ムラサキのオチョコ)のこと。
ヤマ 山 なしということ。ネタ切れ。ササのことを「ヤマ」ともいったが、最近では「なし」という意味で使われることが多い。
巻き寿司
海苔の上に酢飯を乗せ、その上にかんぴょう、キュウリなどの具を乗せて巻き簾を使用し巻いた寿司である。海苔巻き(のりまき)と呼び、さらに太さの違いによって「細巻」「中巻」「太巻」と各々違う呼び名があるが、近畿地方には「細巻き」が存在しなかった事から、それらすべてを「巻き寿司」と呼んでいる。
握った飯の側面に海苔を巻き、上にイクラ、ウニなど崩れやすい材料を乗せたものを「軍艦巻」と呼ぶが、これは握り寿司の一種として扱われている。
なお、業務用には巻き寿司用の巻芯と呼ばれるものが冷凍品として販売されており、具材の組み合わせによって上巻芯、並巻芯、サラダ巻芯などがあり、これらの芯を海苔や酢飯と巻くことによって迅速かつ大量に巻き寿司を生産できるようになっている。

海苔巻は、全国的に行なわれる家庭向きのすしである。巻く材料は、海苔のほか青海苔(和歌山県)、昆布、玉子焼(高知県)などを用いる地方もある。
巻きずしは散らしずしと同様に原則として精進である。共に家庭で手っとり早く出来るから広く普及しているが、魚好き、すし好きの日本人が仏事用に、あるいは即席用に工夫したのかもしれない。起源はだいたい江戸中期前かと思われる。
散らしずしを箱に入れて押す際、普通底やへだてに笹の葉、バラン、竹の皮などを敷く。その代わりとして食用になる昆布、湯葉、浅草海苔などを使えば、それも一緒に食べられる。つまり巻きずしになる。
東京人は巻きといえば海苔巻だけしか考えないが、東京でももとは冬には昆布巻を作っていた。高知県へ行けば現在すし屋の店先をにぎわしている。
巻く材料は幅が広く食用になるものでさえあれば何でもよく、今も九州で行われているという湯葉巻も、天明ごろの江戸のすし屋の広告に見えている。
薄焼き玉子で四角で包む茶巾ずし、厚焼き玉子で巻けば伊達巻、油揚げで包んだ稲荷ずし、紀州熊野の漬菜の葉で包んだめばりずし(タカナずしともいう)なども広義の巻ずしに入る。
細巻
直径3cm程度の口に入れやすいのもの。半分に切った海苔で巻く。大抵は具が1種類のみ。かんぴょうを入れたものが標準で単に「海苔巻き」あるいはその細身の姿から「鉄砲巻き」とも呼ばれる
   名称 読み 材料・備考など
かんぴょう巻 乾燥させたかんぴょうを水で戻し甘辛く煮たものを使用。
かっぱ巻 キュウリを使用。店舗・家庭により「きゅうり巻」とも。河童(かっぱ)の好物がキュウリである事に由来。
新香巻 しんこまき キュウリ漬け、沢庵漬けを使用。
納豆巻 なっとうまき 碾き割り納豆(ひきわりなっとう)を使用。青味には青紫蘇が好んで用いられる。
鉄火巻 てっかまき 鮪を使用。使用されるマグロが火で真っ赤に熱せられた鉄と同じように赤いことが名前の由来である。
ねぎとろ巻 ネギトロを使用。マグロの中落ちを利用する物もある。
梅紫蘇巻 うめじそまき 梅肉と紫蘇を使用。
穴きゅう巻 あなきゅうまき アナゴとキュウリを使用。焼穴子や煮穴子が使用される。
ひもきゅう巻 アカガイのヒモ(外套膜)とキュウリを使用。
ツナマヨ巻 ツナ をマヨネーズで和えたものを使用する。
ツナマスタード巻 ツナ をマスタードマヨネーズで和えたものを使用する。
サーモンアボカド巻 さあもんあぼかどまき サーモンとアボカドとマヨネーズを使用。
Spider roll すぱいだあろうる ソフトシェルクラブの天ぷらを使用。
カリフォルニアロール かりふおるにあろうる カニ脚、アボカド、キュウリ、白ゴマを使用。
太巻
海苔を一枚以上、もしくは大判の海苔を使用する事から、直径5cm程度以上になるものが多く、具も複数となる。大きなものは厚さ1センチ程度に輪切りにして食される事が多い。標準的な具は、玉子焼き・高野豆腐・かんぴょう・椎茸・きくらげ・でんぶ・おぼろ・焼穴子・キュウリ・三つ葉など。地方により、また店舗や家庭により様々な材料が使用されている。近年では海老や生の切り身を用いた海鮮巻きといったものも見られる。
恵方巻
節分に食べると縁起が良いとされる太巻き、またはそれを食べる大阪を中心とした風習。別称として「丸かぶり寿司」「恵方寿司」「招福巻」「幸運巻」「開運巻き寿司」などと表現されることもある。 節分の日は暦の上で春を迎える立春の前日にあたるので、一年の災いを払うための厄落としとして「豆撒き」が行事として行われているが、同日にこの「恵方巻」を食べる場合がある。 恵方巻は、節分の夜にその年の恵方に向かって目を閉じて一言も喋らず、願い事を思い浮かべながら太巻きを丸かじり(丸かぶり)するのが習わしとされている。商売繁盛や無病息災を願って、七福神に因み、かんぴょう、キュウリ、シイタケ、だし巻、ウナギ、でんぶなどの7種類の具を入れることで、福を巻き込む意味があるとする説もある。 
中巻
海苔を一枚使用して巻く。昭和中期以降、持帰り店を中心に発売されている。上記の中間の太さで具は概ね2、3種類となっている。巻き簀を使わず飯と具を海苔で巻く手巻き寿司や、近年では海苔の代わりに薄焼き卵やレタスなどを使用したものもある。
裏巻
通常とは異なり海苔が内側に、酢飯が外側になっているもの。主に生の魚介類や海苔に馴染みのない外国人向けにカリフォルニアロールを作る際に用いられる。巻き簾の上に敷いた海苔の上に全面に酢飯、具を載せ、ラップをかぶせ巻く。さらに魚卵や胡麻などで飾ることもある。もともと裏巻は装飾寿司のひとつであったが、西洋人の多くがおにぎりと同様に「表巻」の黒い様相を嫌ったことに始まる。現在では、日本以外、特に米国の寿司店で出される巻き寿司の多くは裏巻の形態である。
稲荷寿司
稲荷寿司の語源は、油揚げが稲荷信仰に関わりの深い狐の好物であることに由来する(このため「狐寿司」と呼ぶ地方もある)。「守貞謾稿」によると、「油揚げの一方を裂いて袋状にし、木茸、カンピョウなどを刻みいれた酢飯をつめたすしを、天保の末年から(江戸市中に)売り巡る。店売りは天保前からあり、最も賤価なすし。名古屋には以前からあり、稲荷ずしまたは篠田ずしという」とある。「天言筆記」(明治成立)には飯や豆腐ガラ(オカラ)などを詰めてワサビ醤油で食べるとあり、「はなはだ下直(低価格)」ともある。「近世商売尽狂歌合」(1852年)の挿絵には、今日ではみられない細長い稲荷寿司を、切り売りする屋台の様子が描かれている。
現代の稲荷寿司は煮付けた油揚げを袋状に開き、中に酢飯のみを詰める場合と、酢飯にニンジンや椎茸、ゴマなどを混ぜ込んで詰める場合とがあり、後者を「五目稲荷」と呼ぶこともある。岐阜県あたりを境に、東は四角、西は三角と、地域によって形が分かれる。
また、稲荷寿司と巻き寿司を詰め合せたものを助六という。これは「揚げ」と「巻き」で揚巻(歌舞伎「助六」に登場する花魁の名)という洒落による名称である。

文献的には1800年代前半から見受けられる。「守貞謾稿」は、天保年間(1830-44)の末の江戸で、キクラゲやカンピョウを刻んだ飯を油揚げの小袋に詰めたすしを「稲荷ずし」「篠田ずし」と称して売る者がいたことや、名古屋では従来からこのすしがあったことなどを記している。
一方、「天言筆記」は、弘化2年10月(1845)頃より江戸で流行したいなりずしは油揚げのなかに飯やオカラなどを詰めたもので、ワサビ醤油で食べることをつたえているさて、「守貞謾稿」が伝えるいなるずしは中の酢飯に具材が混ざっている。
油揚げの切り方は、東の四角形と西の三角形と、ほぼ日本を二分するかたちで分布を分けている。たとえば四角形の栃木県河内郡できいたところのよれば「稲荷とは稲の荷物、すなわち米俵の形に仕上げるもの」だという。カンピョウの産地であることが影響してか、いなりずしをひとつひとつカンピョウで縛った「俵ずし」である。一方、三角形では、三重県で「お稲荷さまの使いはキツネ。
だからいなりずしはキツネの耳を形取って三角形につくる」という声を聞いた。
茶巾系統のもので一番ポピュラーなのは稲荷ずしである。簡便なのと安値なのとが庶民にマッチし、たちまちにして東西に広く伝播した。
すし飯も東の方では白い飯が普通で、せいぜい麻の実か胡麻の実を入れる程度だが、西風だと五目ずしか、少なくとも人参のセン切りにごぼうのささがきぐらいは混ぜてある。
稲荷ずしの誕生
棒ずしの変形 / 嘉永2年(1849)の随筆「守貞漫稿」によれば天保年間末期(1840)ころに、油揚げの小袋に五目ずしを詰め、「稲荷ずし」「篠田ずし」と称して売る者があったという。このすしは名古屋にはもっと前からあったもので、江戸でも店舗売りはそれ以前からあった。価格は「最も賤価」だった。
稲荷ずしを切り売り / 嘉永5年(1852)の「近世商売尽狂歌合」に書き添えられた売り口上はは「一本が16文、半分が8文、一切れが4文」とあるから。稲荷ずしは切り売りしていたことは明らかである。売る商人の台の上には細長い稲荷ずしと包丁が置かれていた。
細長いすしを包丁で切り、ワサブ醤油で食べるという行為は、魚の姿ずしや棒ずしに通じるところがある。稲成ずしもまた、巻きずし同様、「見立て」に端を発した発明品で、油揚げは、魚の外皮の代用と見られなくもない。
ちらし寿司
ちらし寿司は家庭で作られる機会も多く、祭礼などハレの日の手作り料理として供されることが多い。大きく分けて2つの系統に分類される。
具を飯の上に飾り載せしたもの
江戸前寿司店のちらし寿司(握り寿司用の寿司種を酢飯の上に並べる)、鹿児島県の酒寿司・がある。
飯に細かく切った魚介類、野菜などの具を混ぜて食べるもの
ばら寿司・バラちらしとも言う。具には錦糸玉子・干椎茸の煮つけ・かんぴょう・酢蓮根・海老・焼穴子等がよく用いられる。
上記以外の例では、三重県の手こね寿司で具を混ぜた後、更に切り身を乗せる事がある。また、岡山県のばら寿司も酢飯に具を混ぜた上に具材を乗せる形である。
店舗・家庭により好みの具が使用され、地方により果物(リンゴ、ミカン、サクランボ等)を入れる場合もある。

最も家庭的なものとして、全国に広がっているが、特に有名なのは岡山の備前ずし、長崎県の大村ずしである。また志摩の手こねずじのように、五目ずしを押す型のものもある。散らしずし、またの名をばらずし、五目ずし、起こしずしともいった。一番家庭的なすしだ。もっとも、具と飯を混ぜるのが五目で、上置きするのが散らしだと区別する人もあるが、必ずしもそうは言い切れない。二、三の具を混ぜた上に上置きを散らす場合もあるからむしろ方言的に関東が五目ずし、関西がばらずしといった方がいいかもしれない。瀬戸内海沿岸は魚が豊富だから、何かといえば魚味豊かなばらずしを作る。中国筋ならばアナゴ、香川でサワラ、愛媛で小鯛と、それぞれ自慢の種がある。
岡山散らしずし
この散らしずしの中でも最も有名なのは備前岡山ずしだ。藩政時代、お上から来た下々だけへの倹約令に対する庶民のレジスタンスとして生まれたとか。
数々の具を限りなく入れた豊麗なもので、すし一升金一両とまでいわれた豪華を誇った。
しかしながら、一口に「備前と申しましても広うござんす」し、戦前、戦後と時代によって相当の差も出てきている。
主に具に使われる魚
春 / ハモ、鯛、ブリ、マグロ、カツオ、ニベ、サヨリ、ホソ、ママカリ、コノシロ、鰻、ボラ、チヌ、ヒラゴ、ヒラメ、アジ、シイラ、メバル、アユ、ハエ、アサリ、モガイ、ハイガイ
夏 / 鯛、シクチ、マナカツオ、サワラ、サバ(山手のみ)、シイラ、ツナシ、ボラ、ホソ、アジ、サヨリ、ママカリ、鱸、サケ、マス、タラ、アユ、鯉、タコ、アサリ、モガイ
秋 / ハモ、ヒラ、ブリ、カツオ、タチウオ、サンマ、ハマチ、アジ、シイラ、鰯、ニベ、アカメ、コヤ、チヌ、ハネ、ヨコワ、鰻、イナ、アユ、タコ、イカ、アサリ、モガイ、カニ
冬 / アナゴ、ハモ、サワラ、ボラ、ブリ、ヒラ、ノセ、ホソ、ハマチ、マウロ、アカメ、ツクチ、アジ、サンマ、鯨、サケ、イカ、アサリ、牡蠣
つまりとれる魚は何でもすしに入れていることになる。
乾物、加工品のうちで圧倒的にどこでもどの家でも使われるのは、玉子を筆頭に高野豆腐、干瓢、椎茸で、特に高野豆腐が多いところ、さすが上方風だ。
山手では魚が少ない代わりに蒲鉾、竹輪に人気が出、カステラ(厚焼きの類)が、湯葉、切干大根なども。野菜は季節のものなら一通り並ぶが、山手ではワラビや芋がら(ずいき)というのも出てくる。
岡山市内のいずれの家庭でもその家のお得意の具を使い、お得意の盛り付けをするので一見共通点はないようだが、結局
@具が非常に多く使われていること。
Aなかんずく、魚味が特に豊富なこと。
B盛り付けが誠に美しいこと。
などに落ち着きそうだ。
都会式の作り方 / 鯛、その他白身の魚をできるだけ集め、刺身に作り、酒酢に一夜置く。干瓢、椎茸、キクラゲ、高野豆腐、湯葉、凍コンニャク、えんどう豆、クワイ、ウド、フキ、竹の子、ごぼう、人参、、蓮根などを適宜味付けし、全部を酢飯とよく混ぜる。
和歌山のばらずし
散らしずしは本来精進が多い。わざわざ精進にするわけでもないが、自家有り合わせのものを出来るだけ活用するので、自然生臭が入らないのだ。
たとえば和歌山県日高郡の山手での作り方
米一升につき酢八勺から一合、塩、砂糖少々を合わせ、具は、甘辛く煮た干瓢、椎茸、高野豆腐、麩などの乾物、人参、ごぼう(さきがけ)、蓮根、青豆など有り合わせの野菜、それに紅生姜や金糸玉子といったところ。生臭いものはシラス干か竹輪、はりこんだところでサバのそぎ身など。
つまり、上置きにサバの生ずしでも並べたら上等という程度だ。同じく紀州田辺の東の周参見で聞いた話では、すしに白身の魚を使うものではない。サバ、カツオその他赤身のものに限ると、岡山ずしとはすべて逆だった。
広島のもぐりずし
尋常の散らしずしの異名だが、具はジャガイモ、豆、人参、ごぼう、イリコといった程度。
熊本のトサカノリのすし
トサカノリを水に漬けて戻し、よく洗い、細切にして酢に漬ける。マンボー(=シイラ)の塩物を白水で塩出しし、刺身大に切り、酢を当てる。ほかに凍コンニャクぐらい。酢飯とよく混ぜる。
比叡山の精進ずし
米一升、水一升で、沸騰し始めたら火を弱め、飯の焦げぬようにゆっくり蒸す。
酢一合五勺、砂糖大さじ二杯、塩茶さじ一杯、味の素少々合わせ、釜の中の飯にうち、そのまま二、三分蒸し、浅いおひつに移して冷ます。
具は椎茸、干瓢、高野豆腐(以上椎茸の漬け汁で甘辛く煮る)、三つ葉(ゆでる)、湯葉、(油でいため、油抜きしておく)など。高野豆腐と湯葉は関西ではフンダンに使われる。
筑後の柿の葉ずし
サーヴの仕方でひどくうたれるのは、筑後三井郡小郡在の柿の葉ずしである。
近畿で見なれた柿の葉ずしとは全然違う。皿の上に濃緑色の柿の葉が放射状に並べられ、これを小皿代わりに散らしずしが美しく盛りつけられいるのだ。
干瓢、椎茸の褐色、金糸玉子の黄金色、生姜の紅に山椒の浅緑。それに銀のように輝くすし飯と。これらが濃い緑色の柿の葉の色と実に見事に対比をしていた。
これほど美しいすしの盛り付けは今まで見たことがない。
大阪の蒸しずし
蒸しずしは散らしずしを蒸して温めた冬向きのものだ。この蒸しずしは明治以前に京都で行われていたことは間違いない。
茶碗で蒸すと湯気の通りが悪く、茶碗の真中までなかなぬくまらないのではないかと気になるものだが、実際は15分ぐらいで十分らしい。しかしながら、昔は芝居といえばまだ夜も明けきらぬ五時ごろから始まっていた。その芝居見物の人たちの中食はまずは茶碗ずし(すなわち蒸しずし)と相場が決まっていた。
大勢の見物人がお昼になって一どきにこのすしを注文するとなると、一つの茶碗に15分もかけていたのではなかなさばききれない。
何かうまい工夫があったはずだ。昔の蒸しずし用の茶碗には底に穴があいていて、湯気の通りがよくなっている。
蒸しずしは散らしずしを温めたようなものだといったが、実際散らしずしその物を蒸したら失敗する。熱のために酢がききすぎるうえに、玉子などは容易に変色するから。
大阪風のやり方は次の通りである。
作り方 飯は普通のすし飯の加減、またそれに2,3割白飯を混ぜる。椎茸、焼きアナゴ、すだれ麩、竹の子、ごぼうなどの具を混ぜて、五目ずしにする。酢は必ず関西風の白酢を用いること。上置きはオボロ、豌豆キクラゲ、焼き栗など。蒸し上てから金糸玉子を置く。
なれずし (馴れ寿司、熟寿司)
魚に塩と飯を混ぜて長期間保存し乳酸菌の作用によって発酵させたもの。もともとは魚だけを塩蔵して自然発酵させていたが、16世紀前後に発酵を促進させるために飯を加えるようになったという。元は長期間発酵させた後に半ば融解した飯を取り除き、酸味のついた魚の部分だけを食べる形態であったが、発酵が進んで酸味が付いてはいてもまだ飯粒が原型を留めた熟成途中のものを「なまなれ」または「なまなり」と呼んで、魚だけでなく周囲の飯も一緒に食べることもあった。滋賀県の鮒寿司がこの原型に一番近いものであり、他には和歌山県の鮎の熟寿司(鮎鮨)、秋田県のハタハタ寿司などがある。なれずしが変化したものが押し寿司である。
鮒(ふな)ずし1
塩漬けにした鮒をご飯に漬け込んで発酵させた「なれずし」です。材料には、琵琶湖の固有種のニゴロブナの子持ちが最も適しています。以前は、各家庭で保存食としてつくられていましたが、近年、ニゴロブナが減少したこともあり、鮒ずしをつくる家庭は減っています。しかし、今でも根強い人気があり、滋賀県の特産品となっています。その味は、独特でかつ絶妙、多くの人に親しまれています。
作り方は、鮒の鱗をとり、内臓を抜き、腹に塩を詰め、塩漬けにします。3か月以上たって、夏の暑い時期に塩漬けした鮒を桶から取り出し、水で良く洗い、干してから、今度は、ご飯と一緒に桶に漬けこみます。これを「本漬け」といいます。桶に水をはって数か月以上発酵させてできあがります。琵琶湖の「なれずし」には、その他にもハス、ウグイ、オイカワ等があります。 
鮒寿し2
豊かな自然に恵まれた、びわ湖の北に海津という小さなまちがあります。この地の風土に育まれ、長い時を超えて受け継がれてきた鮒寿しを私たちは今も一子相伝の味として守り、心こめてつくり続けています。その確かなすがたを、愛され続ける味を正しく知っていただくことが、次の世代へ本物の鮒寿しを伝えること。そんな思いをこめて、書き記してみました。
歴史
鮒寿しは、タイの北部から中国雲南省にかけての地域に起源をもつ「熟れ寿司(なれずし)」の一種です。今から約千四、五百年前、大陸から日本に水田稲作農業が伝わったのと同じルートで伝わったといわれます。平安時代に編纂された古代法典『延喜式』に鮎寿司などと並んで記述が見られることからも、その長い歴史がわかります。今では、寿司といや箱寿司、巻き寿司を思い浮かべる方が多いと思われますが、これらの寿司のルーツこそが熟れ寿司なのです。現代うとにぎりの寿司は酢で酸味をつけているのに対し、熟れ寿司は発祥の頃より乳酸菌の発酵によってごはんに酸味を付けているのです。
恵まれた自然環境から生まれた
鮒寿しはもともと中国奥地で鯉を使ってつくられた寿司が始まりで、製法が近江に渡来してから鮒が使われるようになったといわれます。その素材に最も適しているのはびわ湖の固有種であるニゴロブナです。昔は今の田圃のように整備された田圃ではなく、梅雨時などの大雨では田圃も川も一面になり、そこに遡上した鮒が田圃の中で産卵したものでした。水田がニゴロブナの産卵場所になっていたのです。地域によってはニゴロブナのことをイヲといいますが、ニゴロブナが産卵のために遡上してくるさまを、水面が山のように盛り上がって見えたことから「イオ島」とか「魚島」とか呼んだものでした。このように一時期にたくさんとれる鮒の保存方法のひとつとして、鮒寿しの製法が定着していったと思われます。しかしそんなニゴロブナも昭和60年頃から漁獲量が年々減少し、今では稀少な魚となってしまいました。
近江のハレのご馳走
今でこそ高価な食べ物になってしまいましたが、鮒寿しはハレの場には欠かすことのできない食べ物でした。昔は近江の多くの家庭で漬けられ、お正月に樽を開けてお客さまのおもてなしをしたことからハレの日の筆頭となりました。時季的にもちょうどおいしい頃になるのです。また結婚式や法事、お祭りなどに出され、現在も祭典の神饌物としてお供えされているところがあります。地域に根ざした伝統食であり、いわば近江のソウルフード、それが鮒寿しなのです。
鮒寿しづくりの2年間
初春から春 / 2月から5月にかけて、お腹に子をぎっしりと持った姿形のよいニゴロブナを厳選し、鮮度のよいその日のうちに鮒寿しづくりを始めます。まず「ウロコ取り」「えら取り」のあと、「抜き針」といわれるまっすぐな針で浮き袋、内臓を取り出します。この「わたぬき」の時は、中の「卵」を傷つけないよう細心の注意が必要です。その後、鮒を清水でよく洗い、えらぶたに塩を詰め込んで樽に敷き詰め、上から塩、鮒、塩、という具合に交互に漬け込んでいきます。そしてふたをし、重石を乗せて2〜3ヵ月寝かせておきます。その間に鮒の体内の水分、血が抜け(血抜き)カチンカチンの状態になります。この一連の作業を「塩切り」といいます。
夏、土用の頃 / いちばん暑いといわれる土用の頃が、鮒寿しづくりの立役者、乳酸菌の最も好む温度。この時期に塩切りのニゴロブナを樽から取り出してきれいに洗い、水につけて「塩抜き」をします。その後よく水切りをしたのち、えらぶたにご飯を詰め、今度は鮒、ご飯、鮒、ご飯と交互に漬け込み、水が入らないよう工夫したふたをして重石を乗せます。これに雑菌が入らないように水を張り、密封して乳酸菌発酵させます。乳酸菌は空気を嫌うため、真空状態にして働きやすい状態を保つのも、欠かせない気配りです。この作業を「本漬け」といいます。
冬、完成まで / 本漬け開始からおよそ3ヵ月で骨までやわらかくなりますが、冬の寒さの中での低温熟成が鮒寿しをよりおいしくさせます。その間毎日樽の水を換えたり、重石の調整をするなど、いわゆる「守り」といわれる仕事が続きます。魚治では2年近くの間、手間ひまをかけてじっくりと熟成させることで、鮒寿しの味わいにより深みを醸します。丹念な「守り」によって純粋な乳酸菌発酵をさせた鮒寿しなので雑味がなく、通といわれる方はもちろん、初めての方でも抵抗なくお召し上がりいただけるのも特徴です。
ニゴロブナ
海津の地こそ鮒寿しつくりに最適の地であるように思われます。
まず、鮒寿しに欠かせない鮒。世界有数の古代湖である琵琶湖には、琵琶湖にしか棲んでいない固有種が多く棲息しています。鮒寿しに最適なニゴロブナは、この固有種のひとつです。子は小粒でぎっしりと詰まっていて、身は甘く、骨は柔らかい…そんなニゴロブナは鮒寿しをつくる上で最高の鮒です。「身の甘さ」は鮒寿しの旨さとなり、「粒の小さい卵」はぎっしりと詰まった鮒寿しのあのオレンジ色のきれいな「子」に漬けあがります。このオレンジ色の子こそ、鮒寿しの命といえます。

塩は鮒寿しを漬ける時に、素材であるニゴロブナの水分を抜く大切な作用を受け持っています。ニゴロブナの体内の血を浸透圧の違いで抜き取る「血抜き」によって水分を十分に出すという機能を果たすのです。この時の塩加減が、最後の段階、発酵の重要なポイントになります。また、本漬けの時におこなう「塩抜き」の塩加減はおいしい鮒寿しをつくる第一歩です。でんぷんでもある米も、塩の助けを借りてはじめて発酵します。この重要な塩がふんだんに手に入った海津の地の利も、鮒寿しが盛んに漬けられる要因のひとつになったと考えられます。琵琶湖に面し、物資を京の都へ運ぶための積出港がある海津は、古来から若狭・塩津と「塩街道」と呼ばれる3つの街道で結ばれた交通の要衝でした。若狭から運ばれた天然の塩が鮒寿しづくりを支えてきたのです。

おいしい鮒寿しをつくる上で、おいしい米は欠かせません。近江は古くから江州米で知られた米どころです。海津も、そんな江州米のすぐれた産地のひとつです。
海津には、近くを流れる二本の大きな川があります。その川がつくる大きな扇状地にある肥沃な砂地の田圃が、おいしい米をつくってくれます。この米の乳酸菌発酵によってご飯に酸味が生まれ、骨までやわらかい鮒寿しができあがるのです。そして、この味が鮒にしみこんでいきます。鮒寿しが漬けあがったとき、このご飯を食べるだけで鮒寿しの味がわかるほどです。
気候
さらに琵琶湖畔ゆえの「夏の暑さ」は、熟れ寿司にとって大切な発酵を助けます。そして日本海からの冷たい北西の季節風の吹く冬の「冷え込み」は、鮒寿しの旨味、味の奥深さを左右する熟成を助けます。この高温発酵、低温熟成こそ鮒寿しをおいしく仕上げる要素なのです。
ニゴロブナへのこだわり
米と塩と、風土に恵まれた魚治は、ニゴロブナの中でも琵琶湖で最深といわれる安曇川の先の舟木崎から竹生島・葛籠尾崎(つづらおざき)にかけての三角水域のものを使います。それも小糸網による刺し網漁で獲れたニゴロブナを使います。深いところに棲むニゴロブナは身が締まっておいしいのです。私たちは次の代に正しい鮒寿しを伝えていくためにニゴロブナの鮒寿しにこだわっています。
「蔵持ちの菌」
昔、各家庭で漬け庭ていた鮒寿しは、家によって味が違いました。今もお店によって味が違います。それは鮒寿しを漬け込んでからの守り(もり)の仕方の違いに加えて、それぞれの仕込み蔵に棲みついて発酵し、その店の味を守ってくれている乳酸菌に違いがあるからです。これを私たちは「蔵持ちの菌」と読んでいます。樽を変える時には同じ仕込み蔵で漬け、仕込み蔵を建て替える時にも同じ樽を使って漬けるというように、常にどこかで以前から使っている物を受け継いで使うことで、「蔵持ちの菌」を大切に育て、守ってきました。そのおかげで魚治の秘伝の味を今に伝えることができています。
「守りをする」ということ
私たちは、乳酸菌という微生物が鮒寿しをつくってくれていると思っています。人間はただ、発酵のお手伝い、段取りをしているに過ぎないのです。漬ける作業が終われば、あとはおいしい鮒寿しに育つまでじっと見守り、必要に応じて手を加えたりするのみです。しかしそこには、長い時をかけてつきあい続ける鮒寿しへの深い愛情と理解が必要です。この過程を、先代は愛着こめて「守りをする」と呼びはじめました。
召し上がりかた
そのままで / 鮒寿しに付いた飯を軽くしごき取り、おおよそ3?5ミリ位の厚さに切り、そのままお召し上がりください。ひと切れを口に運び吟醸酒を含んでみてください。鮒寿しと吟醸酒がお互いのよさをひきたてあい、その芳醇で深い味わいはまさに絶品といえます。ことに、鮒寿しの仕込みと同じ水を使って醸した吟醸酒「竹生嶋」(吉田酒造)との相性は格別です。
一般的には子のあるまん中あたりが喜ばれますが、本当においしいのは身の締まった筋肉質の尾びれの近くかもしれません。噛めば噛むほど旨味の出る食べ物です。この味を「やみつきになる味」「はまる味」と表現された方があります。
チーズによく合うおいしいワインがあるように「倭の国のチーズ」と呼ばれる鮒寿しにも、よく合うおいしいワインがあるはずと探していたのですが、ようやく出会うことができました。吟醸酒「竹生嶋」とともに、料亭「湖里庵」のほうでもお出ししておりますので、機会がございましたらぜひお試しください。
鮒寿し茶漬け / 鮒寿しの切り身二切れほどを熱いご飯の上に乗せ、まわりにたっぷりついている「飯」を少し乗せて、軽く塩をふり、熱い目のお茶をかけます。鮒寿しの熟成されたコクのある酸味が、おいしいお茶漬けをつくってくれます。お酒の後や、食の進まない時には、きっと満足していただけると思います。寒いときには、ほかほかと身体の芯からあたたまります。
※魚治の「鮒寿し茶漬け(セット)」は調合した抹茶塩が付いていますので、熱い目の「お湯」をかけてお召し上がりください。
ほかにもいろいろ / その他、握り寿司にしてみたり、頭をさっと焼いてお吸い物にしたり、いろんなお召し上がり方を楽しんでみてください。鮒寿しは、風邪を引いたとき、熱いお湯をかけて飲むとそれが持つ乳酸菌の作用により発汗を促し、楽になるといわれています。鮒寿し自身のもつビタミン、天然の抗生物質もそれに一役かっているそうです。お腹の調子の悪い時などは、鮒寿しの乳酸菌が調子を整える手助けをしてくれます。 
鮒ずし3
鮒ずしは"臭い"と思っておられる方も多いと思います。漬け方は店それぞれ、家それぞれのものがあり、自ずと匂いも味も違います。"臭い"のが本当だと思っておられる方には存念ですが、当店の鮒ずしはさほど匂いはしません。又、"現代風に食べ易く"しているわけではございません。江戸時代膳所藩お抱えの御用料亭でありました本家の製法を忠実に守り伝えております。本来手間、暇かけて製造し、上質な醗酵を経た鮒ずしは異臭はしないものなのです。料亭で膳の一品として作られていたものですから他の品を台無しにするような鮒ずしを膳の一品に加える理由はないのです。
明智光秀伝説に異議あり
織田信長が滋賀県安土城で徳川家康を接待した際、接待の役を任ぜられたのが当時大津坂本城の城主でありました明智光秀。この饗応の宴に"鮒ずし"を出し、信長から叱責をくらい足蹴にされ、これが後の本能寺の変の一因の一つであるという話であります。確かに当時の宴会に"鮒ずし"が出されたのは事実で献立にも残っておりますが、これは"鮒ずし"が臭いという固定観念を持った後世の歴史家の作り話であると思えてなりません。これが本能寺の変の原因等と伝われたのでは地元で名君と云われた明智光秀と鮒ずしがあまりにもかわいそうでなりません。是非一度伝統の味を御賞味下さい。
鮒ずしができるまで
鮒ずしはなれずし(熟れずし、馴れずし)の一種で稲作技術と共に大陸から日本に伝わったと云われています。はっきりした起源や発祥地は分からない程、古いものです。千年以上昔の諸国から宮中へ献上された諸国の産物に近江の鮒ずしがあります。琵琶湖の鮒と江州米が生みだした天恵のハーモニーと云えます。先年鮒ずしは滋賀県選定民族文化財にも選ばれました。鮒ずしは塩漬けからごはんによる本漬けをへて自然発酵し熟成させます。多量の乳酸菌とビタミン各種を含んでおります。又、醗酵により骨まで柔らかく召しあがれますので、当然カルシウムも豊富であり、湖国滋賀では自家製鮒ずしを病中病後に薬のように食する風習もあります。春の子持鮒も早ければ翌年の元旦頃には召しあがれます。昔から全国を又に掛けて活躍した近江商人は各家で作った鮒ずしをこの正月に一家に集い食し、今年の出来具合を品評するのも楽しみの一つでありました。
春 / 産卵期を迎えた良質の子持ちの雌鮒を厳選し、針金でえら、内臓を取り除きます。塩を内臓に詰め込み桶に塩漬けします。
夏 / 夏の土用の頃を目止に塩蔵の鮒を取り出し、水洗いしご飯に漬け込みます。本漬けは代々店主のみが行う重要な作業。塩加減とごはんの炊き具合、そして気温が大きく味に影響します。
冬 / 熟成された鮒ずしも冬には早いものは完成します。大きな鮒は再度ごはんを入れ、1年程漬け込みます。  
押し寿司
飯と具を重ね、一定時間、力をかけて押したもの。最も一般的な鯖寿司である大阪府のバッテラや京都府の鯖の棒寿司、富山県の鱒寿司、鰺の押し寿司、秋刀魚寿司、鳥取県の吾左衛門寿司、広島県の角寿司、山口県の岩国寿司、長崎県の大村寿司など、西日本に多くみられる。
鯖寿司(さばずし)
サバを用いて作られる棒寿司の一種、または鯖のなれ寿司のことである。
近畿地方から中国地方(山陰から山間部にかけて)に広くみられる。若狭(福井県)や山陰地方、岡山県新見市などの郷土料理としても有名。鯖寿司の一種として押し寿司のバッテラやネタにへしこを使ったへしこ寿司や、焼いた鯖を寿司飯の上にのせた焼さば寿司もある。
京都の鯖寿司
鯖寿司は有名な京料理の一つでもあり、京都の庶民生活の中で祭りや四季の催し物で食されるご馳走である。鮮魚が豊富な現代でもこの食文化は継承されている。大阪のバッテラとは違う鯖寿司は庶民の家庭で作っていた。塩鯖の鮮度、鯖の骨抜き、酢の甘さ加減、竹の皮に湿度を持たせて鮨を室温で保存する。いずれも冷蔵庫の無い時代の工夫であった。近年では輸送手段などの拡大により、保存が中心となった旧来の調理法ではなく焼さば寿司などをはじめ東北地方の八戸前沖鯖(通称:とろ鯖)などを使用した「とろ鯖棒寿司」なども定着してきている。
新見の鯖寿司
岡山県新見市では郷土料理として鯖寿司が伝わっている。古来、新見では今ほど海産物の流通が発達していなかったため、山陰地方で獲れた鯖が保存の利く塩漬けにされ、中国山地を越えて運ばれていた。その鯖を利用して、いつからか各家庭にて棒寿司が作られるようになった。主に祭事や祝い事の時などにご馳走としてふるわれた。その風貌から「金棒寿司」「鯖包み」などの通称がある。
鱒寿司(ますずし)
富山県の郷土料理。駅弁としても知られ、鱒(サクラマス)を用いて発酵させずに酢で味付けした押し寿司(早ずし)の一種。表記は必ずしも一定せず、ます寿し、ますの寿し、鱒の寿司などとされることも多いが、すべて同様のものを指している。
木製の曲物(わっぱ)の底に放射上に笹を敷き、塩漬け後に味付けをした鱒の切り身をその上に並べる。そこに酢めしを押しながら詰め、笹を折り曲げて包み込み、その上から重石をしたもの。通常は曲物の上下に青竹をあて、ゴムなどで締めた状態で流通する。たいていは曲物の中に笹で包まれた状態のものが1つのものと、2つ重なっているもの(二段重ね)の2種類がある。
食べる時には曲物のふたをはずし、放射状に切り分けて食べる。なお、商品には切り分けて食べる際に便利なように、専用のプラスチック製の小型ナイフが添付されることが多い。このナイフは、笹で包まれた上から鋸のように引きながら切って使用する。次項の献上逸話にもみられるように、従前は冬場で一週間、夏場でも3、4日間は日持ちする食品であったが、近年は消費者の嗜好の変化もあって押しも酢も弱い生寿司に近いものも生まれている。
元来鱒寿司に使う鱒は神通川に遡上してきたサクラマスを使用していたが、現在では遡上するサクラマスが少なくなったことと、需要が増えたことから主に外国産の鱒類、北海道産のものが使用されている。
歴史
鱒寿司は神通川流域を中心とした食文化である。平安時代中期の「延喜式」には鮭寿司が貢献物として登場するが、これは米飯を発酵させたなれずしだとされる。「越中史料」第2巻には、享保年間に富山藩第3代藩主・前田利興の家臣吉村新八が、将軍徳川吉宗に鮎寿司を献上したときの製法が、現在の鱒寿司と同じ早ずしであったことが記載されている。なお一般には、この時に吉宗の絶賛を受けたとする逸話が現在の鱒寿司の起源として語られている。
一方婦中町(現・富山市)にある鵜坂神社に、神通川で獲れた一番鱒を塩漬けにして春の祭礼に供えていたものが、江戸時代に現在の早ずしの形態をとる鱒寿司へと変化していったとも考えられている。
流通
現在のように鱒寿司が広く流通するようになったきっかけのひとつは、1912年から駅弁として販売されるようになった「ますのすし」である。「ますのすし」は、製造業者のひとつであった「源(みなもと)」によってつくられた造語(商品名)であるが、百貨店・スーパーマーケットなどにおける「駅弁大会」や「物産展」などでこの駅弁が有名になると、鱒寿司を「ますのすし」と称する店が出てきている。
富山市内を中心に30ほどの業者があり、寿司の押し加減や酢の強弱、鱒の切り身の選別も多様である。
現在では、各製造者の店舗のほか、富山駅や高岡駅、金沢駅及びその地域を通る特急列車の車内販売、百貨店、スーパーマーケット、高速道路のSA、コンビニエンスストアなどでも販売されるようになり、東京駅でも購入ができるようになった。
広く流通するようになったことで、従来の一段重ね、二段重ねといったものだけでなく、小ぶりの大きさのものや棒状になったもの、スーパーマーケット向けにプラスチック製の容器に入って笹にくるまれていない簡易包装の商品など、形態もさまざまなものが出現している。
なお、派生品としてコンビニエンスストアなどでは鱒寿司のおにぎりがあるほか、鱒の代わりにかぶら寿司をヒントにブリを使った「ぶりのすし」やカニを使ったものもある。

1912(明治45)年に登場したという、今や駅弁の範ちゅうを超えて富山名物となった超有名駅弁。富山以外でも簡単に入手できるが、北海道・森駅「いかめし」と異なり駅でも大量に販売する。中身は説明するまでもないかもしれないが、丸い木容器の中で富山産コシヒカリ使用の酢めしの上にピンク色のますを敷き詰めて、笹の葉でくるんでフタでしっかり押した押寿司。
付属のナイフでケーキのように中心から切り刻むのが正しい食べ方。量の多さは駅弁随一で、同行者と分けて食べたい。2段重ねの2,500円のものをひとりで平らげることができれば、テレビの大食い選手権の予選突破も近い。日持ちがする駅弁なのでおみやげや持ち帰りにも最適。普通の駅弁は製造後8時間前後で廃棄となるが、こちらは製造後20〜30時間が一番の食べ頃という。2004年度JR西日本「駅弁の達人」対象駅弁。
富山市を流れる神通川の下流域では昔から、この駅弁のようなマス寿司を作り食べる食文化が存在した。これが鉄道の開通により駅弁となり、レールに乗って現在の全国的な知名度を獲得したという。鉄道がなければ、という仮定はあまりにも現実性に欠けるが、明治時代から、あるいは少なくとも戦前から駅弁になっていなければ、マス寿司が富山の名物と広く認知されることはなかったかもしれないし、あるいは資源の枯渇により食文化そのものが消滅していたかもしれないと思う。2008年7月現在で市内には約30軒のマス寿司屋があるという。
鰺の押し寿司(あじのおしずし)
主に関東から九州にかけての太平洋側の漁港に見られる郷土料理である。主に小型の鰺を使用し、酢飯と塩漬けされた鰺を型で押し固めた押し寿司の一種。
製法
1.鰺を三枚におろし、皮を剥く。
2.薄い塩水を作成し、剥いた鰺をその中で洗う。
地方によって塩水ではなく塩をすり込み、その後、水で洗う場合もある。また、塩水で数時間漬けておく場合もある。
3.木型などの型枠に酢飯を入れ、その上に鰺を載せる。地域によっては2段程度に重ねる場合もある。
4.重しを載せ、暫く置き完成。
地域により、駅弁、土産物として売られていることもある。駅弁としては、大船駅(大船軒製)と小田原駅(東華軒製)のものがよく知られている。
秋刀魚寿司(さんまずし)
秋刀魚を用いた押し寿司で、三重県の志摩半島から和歌山県に至る熊野灘沿岸一帯で食べられる。主に、祝い事、祭りなどの際に作られる郷土料理である。
秋刀魚を開きにし、軽く塩漬けする。秋刀魚が一本丸ごと入る長方形の枠の中に酢飯を入れ、その上に開きにした秋刀魚を頭を付けたままのせて押した物で、押し寿司の一種である。秋刀魚を開きは背から開く物、腹から開く物と地方により異なる。新宮市などではこれを専門に販売する寿司店が何軒も存在する。秋刀魚の香り付けにはユズ、ダイダイ、ジャバラなどが用いられる。薬味には練芥子が添えられる場合が多い。特急南紀の車内販売や新宮駅などで駅弁にもなっている。
なお、同地方には米飯に秋刀魚を漬けて発酵させたなれずしもあり、これも特産品となっている。おそらく起源としてはこちらの方が古いのではないかと考えられる。中には30年以上発酵させたものを販売している寿司店もある。こうなると飯も魚も全く原型を留めておらず、粥状になっている。
前者は酢酸利用の「早すし」後者は乳酸発酵による「なれずし」に分類される。
三重県熊野市の産田神社で1月10日に行われる例祭の後の直会で出される秋刀魚の寿司が秋刀魚寿司の原形であるとして、熊野市の「さんま寿司保存会」が1月10日を「さんま寿司の日」としている。

「さんま寿司」は、紀南地方に平安時代頃から伝わるといわれる、古くからある伝統的な郷土料理です。サンマといえば、北海道や三陸沖で捕れた脂ののったものがよいとされ、塩焼きにして食べるのが一般的ですが、寿司の食材としては適していません。しかし、三陸沖から寒流にのって南下して熊野灘で捕れたサンマは、長い間潮にもまれることから肉は引きしまって脂も落ち、寿司にするにはちょうどよい食材になります。同じ食材でも、とれる場所によってそれ自身の質も変わり、質が変わることで調理のされ方も変わってくるといういい例です。
「さんま寿司」を作り続けて30年をこえる「くすもと寿司」さんにお話を伺いました。
「さんま寿司」は一般的な寿司とは違い、シャリの部分が多いのが特徴です。また、「さんま寿司」にはお腹の方から包丁を入れて開いた「腹開き」、背中から包丁を入れて開いた「背開き」があります。昔は「腹開き」の「さんま寿司」は、切腹を連想させるということで武士の人たちからは好まれませんでした。また、おなじ紀南地方においても、ちょうど真ん中にある潮岬を境にして「さんま寿司」の作り方は明確に分かれます。潮岬よりも西側、枯木灘に面する西牟婁地方は「腹開き」が主流、潮岬よりも東側、熊野灘に面する東牟婁地方は「背開き」が主流で、自分の住む地域で作られるのとは逆の開き方で作った「さんま寿司」はお互い見た目が気持ち悪いといって、お皿に載っていても口にすることはありません。同じ地域内でも、魚の開き方が異なるだけで、そのような違いがあるということに驚きました。
また、海岸部ではなく内陸に入ると、保存の問題があるので、腐りやすい内臓がある腹を開いた「腹開き」の「さんま寿司」が主流になります。
食通の方に言わせれば背開きの方があっさり味で、腹開きの方が濃厚で肉厚な部分が先に口に広がるらしいです。「さんま寿司」は秋祭りには欠かせないごちそうの一つですが、ほかにも正月や船の進水祝いなど、行事のあるときにはよく作られるハレの食べ物です。また、「かめばかむほど味が出る」といわれ、翌日は焼いて食べてもおいしいものです。
吾左衛門鮓(ござえもんずし)
西日本旅客鉄道(JR西日本)米子駅で販売されている駅弁で、株式会社米吾が製造販売している。
吾左衛門鮓の由来は江戸時代にさかのぼる。鳥取藩の年貢米を回送していた廻船問屋・米屋吾左衛門の妻女が、船子たちのために作っていた弁当が始まりとされる。300年を越える伝統の味である。この吾左衛門弁当をもとに改良が重ねられた結果、1978年(昭和53年)より本格的な販売が開始された。現在では年間売り上げ60万食に及ぶ人気駅弁である。
商品として、「鯖」「蟹」「鰺」「鯛」「鱒」「燻し寿司 鯖」などがある。形態としては棒寿司である。鳥取県産のヤマヒカリに日本近海で獲れる肉厚の寒鯖が乗り、北海道産の極上の真昆布を厚さ・幅が均一になるように巻くことで、豊かな風味を醸し出している。鯖は日本近海産の寒鯖のうち魚体600グラム前後の4年ものを使用している。巻き昆布は別のタイプもある。また酢の酸味と魚の生臭さをまろやかにするため、0℃以下の凍らない温度で熟成させる「氷温熟成」を応用した独自の技術も用いている。
角寿司(かくずし)
広島県広島市の内,概ね安佐北区周辺から広島市を越えた芸北(山県郡及び安芸高田市の一部)地域にかけての地域で作られる郷土料理で、押し抜きずしである。
地域によって異なるが、大抵の場合、法事や宴会、祭りの時など、客を大勢招くときに出される事が多い。四角い木型に酢飯と具を載せて詰め、押して作る押し寿司の一種である。ただし、大阪寿司の様な物とは見た目もかなり異なる。作り方については後述する。
作り方
酢飯は、やや堅めに炊いた飯に、酢、砂糖、塩で合わせ酢を作り(普通の合わせ酢の作り方と一緒。)、団扇で仰ぎながら切り混ぜる。別途、具には〆鯖、薄焼き卵、椎茸を甘辛く煮付けたものを、だいたい1cm以下の菱形に切っておく。(出来ればでんぶと山椒の葉(木の芽)、あさり剥き身を煮た物)も載せると、一層彩りが良くなり美味である。木型に酢飯を詰め、先の具を彩り良く載せて、押し出す。
岩国寿司(いわくにずし)
山口県岩国市周辺で作られる押し寿司の一種。岩国城内で食べられていたこともあり、「殿様寿司」とも言われる。地元では「角ずし」と呼ばれることも多いが、広島地域で食べられる角寿司とは若干製法が異なる。
今から約380年前、岩国藩で収穫された米と蓮根に野菜を配し、近海の魚の身を入れ、保存食にするため味付けを寿司にしたものである。保存食とした理由は、山城であり、水が確保できない岩国城においての合戦に備えるためであった。
特徴
2-3人前ずつ一層で作られる通常の押し寿司と異なり、一度に3升から1斗入る大きな木枠の中に、サワラやアジなどの生魚の身をほぐして混ぜ込んだ酢飯の上に春菊などの青菜、岩国名産の蓮根、椎茸、錦糸卵などをのせ、これを何層にも重ね、サンドイッチ状にして上から全身の力をかけて押す作り方である。
層の区切りにバショウやハスの葉を用いるのが特徴的である。できあがった大きな押し寿司を一人前ずつに切り分けて供するため、一度に数十人前が出来上がることになる。錦糸卵などで彩られ、切り分けた後でエビなどを後のせすることもあり、見た目はちらし寿司風であり、できあがりの見た目が鮮やかである。
大村寿司(おおむらずし)
長崎県大村市に伝わる郷土料理。伝承によれば、大村寿司の起こりは室町時代中期とされる。1474年(文明6年)、島原半島の領主有馬貴純が大村領に侵攻した。当時大村を支配していた大村氏の当主大村純伊は大敗して松浦郡加唐島(現佐賀県唐津市)に逃れ、後に少弐氏等の支援を得て反攻、1480年(文明12年)に大村に帰還することができた。
この時、領主の帰還を喜んだ領民らが歓迎のために食事を振舞おうとしたが食器が足らず、浅い木箱(もろぶた)に炊きたての米飯を広げて魚の切り身や野菜のみじん切りなどを乗せ、さらにそれを挟むように飯や具を乗せた押し寿司を作り、兵が脇差しでこれを四角に切って食べたのが現在の大村寿司の発祥とされている。
その後、大村の一般家庭で広く祝い事や来客の饗応に作ることが定着し、現在では市内の食堂のメニューや土産物にもなっている。
なお、大村市内に伝わる伝統芸能の黒丸踊りや寿古踊りも大村寿司と同じく純伊の帰還を祝ったのが始まりと伝えられている。

すし桶は大きく、角型(1.5尺×1尺×5寸)。すし飯は昆布味で、飯1升に酢2合砂糖少し濃い味付けだ。具は、魚味は鯛、ヒラメ、サバ、味、アナゴ、カニ、エビなど。野菜は人参、ごぼう、竹の子、ワラビ、フキなど。それに椎茸、干瓢が入る。飯と具とを三段に重ね、上置きは金糸玉子。柚を入れるとなおよい。四、五時間押す。
志摩の手こねずし
すし飯は塩、砂糖で調味して硬目に炊き、すしさまし(半きりのこと)に移し、酢を合わせてさます。米一升に酢二合、砂糖50匁、塩一勺(というから、これも濃い味つけだ)。魚はカツオ、ヨコワなど赤身のを喜ぶが、人によってはいっさい魚を用いない。里芋、人参、ごぼう、椎茸、さや豆など。飯を二寸に具一並びと交互に詰めてゆき、手で押さえるだけの人もあるし、そのあと重石する人もある。上置きは金糸玉子、アマノリ、青豌豆など。
加賀のおにえずし
飯は硬目に炊き、酢、塩、砂糖で味付けする。魚は鯛、鰯、サバ、シイラなど。一時間から三時間塩きりのうえ、酢に一時間から三時間漬ける。野菜としては人参、生姜、柚(ミカンでもよい)の皮、紺ノリなど。春は木の芽もよろしい。魚、飯と順々に重ねてゆき重石する。石はかなり重いようだ。ある程度馴らしてあり、尋常の散らしずしとは風味がまったく異なる。紺ノリがいかにも美しい。
丹後の切りずし
質素な方だと丹後熊野郡あたりの切りずしがある。飯は硬目。高野豆腐、竹の子、ワラビ、ゼンマイ、干瓢などを醤油で煮つけ、飯とよく混ぜて四角いすし箱(マツビタと呼ぶ)に詰める。別にサバを焼き、甘辛く煮しめてソボロを作り、紅生姜をミジンにきざみ、ソボロと一緒に上置きにして重石をかける。このうち高野豆腐、竹の子、ソボロの三つは欠けてはいけない。
須古ずし
須古ずしは、佐賀県特産おにぎり。佐賀県杵島郡白石町須古のもの。約500年の歴史を持つ郷土料理で、押し寿司の一種。起源はいくつかあるが、代表的なのが室町時代、須古地域を治めた代々のお殿様がとても農民を大切にし、米の品質改良に努めたため、農民がお殿様に献上したのが始まり。今も祭りや祝い事のときなど各家庭で作られており、親子代々その味が受け継がれている。
地方の寿司
各地で食べられる寿司には様々な種類があり、何れの地域以外ではあまり見られないものも多い。
伊達巻寿司
伊達巻寿司は、千葉県銚子市および大阪府などの郷土料理である。伊達巻の中に高野豆腐、椎茸、おぼろ、かんぴょうなどとともに酢飯を巻き込んだ寿司だが、具や飯の分量は地方によって異なる。明治初期、銚子の「大久保」の職人が細工寿司として考案したとの由来がある。
島寿司
島寿司は東京都の伊豆諸島及び小笠原諸島の郷土料理である。具材として島で捕れる魚を醤油漬にして使う。島で手に入りにくいわさびの代わりに唐辛子や洋がらしを使うなど、島の気候や食糧事情に合わせた製法で作られている。
柿の葉寿司
柿の葉寿司は、柿の葉で巻いた寿司で、奈良県・和歌山県、石川県の郷土料理である。尚、奈良・和歌山県の柿の葉寿司と石川県の柿の葉寿司は作り方・形状は異なる。
奈良では、塩漬けした柿の葉を主に用いている。元来は発酵させることが主流だったが、昨今は駅や空港等で売られている物については生産性を上げる為に味付けした寿司飯を用いて1-2日保管して出荷している物が多い。また、元来は塩漬けされた鯖のみを使っていたが、後に鮭・小鯛・穴子等も用いられるようになった。
めはり寿司
めはりずしは、同じく奈良県・和歌山県(および三重県の熊野地方)の郷土料理である。鯖の寿司と違い、酢飯(又は白米)をそのまま高菜の浅漬けの葉で巻き、おにぎりのように持ち運び用に適したものにした寿司。
鯖寿司
鯖寿司は、若狭地方・京都や山陰地方、岡山県新見市の郷土料理である。新見市では「金棒寿司」「鯖包み」などとも呼ばれる。
長方形に固めた酢飯の上に塩鯖の半身をのせ、出汁昆布で全体をくるみ、巻き簾で形を整えた後、竹皮で包んだ物である。バッテラとは異なり、型に入れる作業がない。
冷蔵技術が発達する以前に、京都の場合は鯖街道を通り若狭地方から、岡山県新見の場合は山陰から運ばれる塩干物の塩鯖が貴重な海産物であり、この鯖を利用した寿司が定着した。山陰や若狭では焼いた鯖を乗せることもあり、特に出雲地方では江戸時代から「焼さば寿司」として日常的に食されていた。最近では、漁獲量や輸送手段の問題などから、全国に流通していなかった脂質が21%以上ある「八戸前沖鯖」(通称:とろ鯖)などを使用した「とろ鯖棒寿司」など、新しい鯖寿司も増えてきている。
鮒寿司
なれずしは寿司の原形とされているが、その中でも滋賀県の鮒寿司は日本に現存する唯一の「ほんなれ」として有名である。石川県のかぶら寿司や北海道の飯寿司のように麹を加えることもある。食べ慣れない内は独特の腐敗臭が嫌われるが、魚肉のタンパク質がうまみ成分であるアミノ酸へ分解されるため、一旦慣れると病みつきになるほど美味であるとされる。このふなずしが変化したものが「押しずし」となる。
大阪寿司
大阪寿司は、江戸前寿司(にぎり寿司・早ずし)に対して、押しずしを指す。近畿の郷土寿司となっている場合が多い。大阪寿司は箱寿司(押し寿司)、酢締めの押し寿司バッテラを表していたが、その後には、ばら寿司(五目寿司)、巻き寿司等も含まれるようになり、にぎり寿司以外を指す言葉となっていった。
バッテラ
語源はポルトガル語のbateira(バテイラ=小舟・ボート)から。押し寿司の舟形の木枠用具がボートの形に似ていたのでこのように呼ばれるようになった。酢飯に酢締めにした鯖を乗せ、さらに白板昆布を重ねた押し寿司。酢による処理で保存性を高めつつ生臭みを押さえ、昆布が旨みと食感を加える。鯖の半身を使うため完成品は細長い形となり、切り分けて食べる。
巻き寿司
関西ではかつて細巻が不在であったため、単に巻き寿司といえば一般的に「太巻」を指す。甘みをもたらす具として高野豆腐や椎茸の煮しめを用い、田麩やおぼろはあまり使われない。そのため他の地方のものと比べ、ほんのりとした甘みと食べ応えがある。瀬戸内の特産である焼穴子が使用されることが多いのも特徴である。
茶巾寿司
椎茸やニンジンの入った酢飯を、茶巾状に薄焼き卵で包んでカンピョウで結び、小エビをトッピングした寿司。
温ずし
ぬくずし、又は蒸しずしと呼ばれる近畿以西、中国、四国地方に伝わる温かいバラ寿司の事。同地方共通の方言「ぬくい」は「温かい」の意味でこの方言が通用する地方の冬季限定メニュー。バラ寿司の酢飯に焼き穴子、海老、白身魚、錦糸卵、絹さや、銀杏、桜でんぶ等を色鮮やかに盛り付け、蒸籠で蒸して食べる。発祥は大阪(または京都)とされ明治時代からあるが、手間のかかる割に利益が少ないためかメニューから外された地域が多い。現在は大阪市、京都市、岡山市、尾道市、松山市などの寿司屋で郷土料理として12月から3月頃まで食べられる。どんぶりに盛り付け蓋をして蒸籠で蒸す店と一人前の蒸籠に盛り付けて蒸す店がある。
遠州の五目ずし
静岡県西部ではほとんどが干瓢と椎茸で、海苔、人参、蓮根、紅生姜、玉子、竹輪、おぼろなども少しは使われる。まれにごぼうや蒲鉾、油揚げ(ことに浜名湖北岸地区)も使われる。
遠江は太平洋岸に面しているがろくな漁港がないので、一般に魚は不自由している。(昭和44年時点)
ばら寿司
岡山県の郷土料理である。酢飯に干瓢などの具材を混ぜ合わせた上に錦糸玉子をまぶし、さらに大きめに切った多用な具材を乗せる。岡山県内でも地方によって具材は様々である 。
 
歴史

寿司の起源
中尾佐助著「栽培植物と農耕の起源」(1966年)では「ラオスの山地民やボルネオの焼畑民族」の焼畑農耕文化複合の一つとされている。篠田統著「すしの本」(1970年)は、東南アジアの山地民の魚肉保存食を寿司の起源とあげ、高地ゆえ頻繁に入手が困難な魚を、長期保存する手段として発達したものとしている。石毛直道・ケネス・ラドル著「魚醤とナレズシの研究 モンスーン・アジアの食事文化」(1990年)では、東北タイやミャンマーあたりの平野部をあげ、水田地帯で稲作と共に成立した魚介類の保存方法が後に伝わったとしている。
中国で「鮨」の字は紀元前5-3世紀に成立した辞典「爾雅」に登場する。「魚はこれを鮨という。肉はこれを醢という」と対比され、鮨は魚の塩辛と思われる。後漢の「説文解字」に「鮺は魚の蔵(貯蔵形態)」であるとし、䰼と鮺は同じとする一方、鮨は魚の䏽醬(塩辛)だとして区別した。鮺がどのような保存食かは不明だが、10世紀の徐鍇の注は「今俗に鮓に作る」としており、これをもって「鮓」の濫觴と言える。2世紀末成立の「釈名」で鮓は「葅。塩と米で葅のように醸し、熟してから食べる」とされている。葅は漬物のことである。しかし、3世紀頃に編まれた「広雅」は鮨は鮓なりとして区別せず、東晋の郭璞による「爾雅注」も同じである。篠田はさまざまな記録から「鮓」が中国の古い時代にはあまりポピュラーな食べ物ではなかったことを示し、「南方を起源とする外来食」、つまり東南アジアから伝わったものと位置づけている。
日本における文献初見は「養老令」(718年)の「賦役令」で、鰒(アワビ)鮓、貽貝(イガイ)鮓のほかに雑鮨が見える。「令義解」はこれに「鮨また鮓なり」と注解しており、以後も日本では鮨と鮓が区別されず、ともにすしとされた。「正税帳」(729年-749年)にも見える。篠田統、石毛直道らによると、これは外から来たものであり、稲作文化とともに中国は長江あたりから九州に伝わったのではないか、とみている。「鮓」の読みは「新選字鏡」(899年-901年)で「酒志」、「鮨」の読みは「倭名類聚抄」(931年-938年)に「須之」とされている
日本の寿司
平安時代の「延喜式」(927年)「主計式」には諸国からの貢納品が記されており、鮓・鮨の語を多く見い出すことができる。九州北部、四国北部、近畿、中部地区に多く、関東以北には見られないのが特徴的。当時の詳しい製法を知る資料には乏しいが、魚(または肉)を塩と飯で漬け込み熟成させ、食べるときには飯を除いて食べるなれ寿司「ホンナレ」の寿司と考えられている。
室町時代の「蜷川親元日記」(1473年-1486年)に「生成(ナマナレ)」という寿司が登場する。(ちなみに「ホンナレ」は、ナマナレに対して後世に作られた造語。)発酵を浅く止め、これまで除かれていた飯も共に食した寿司のことである。現代に残るホンナレは、ほぼ滋賀県の「ふなずし」に限られる(ただ、熊野地方には「本馴れ鮓」と称するヨーグルト状の鮓がある)が、ナマナレは日本各地に郷土料理として残っている。ナマナレが現代に多く残った理由として、発酵時間が短く、早く食べられることが挙げられようが、日比野光敏著「すしの貌」では「米を捨ててしまうのがもったいない」という感覚もあったのではないかと指摘している。
時代が下るとともに酒や酒粕、糀を使用したりと、寿司の発酵を早めるため様々な方法が用いられ即製化に向かう。そして1600年代からは酢を用いた例が散見されるようになる。岡本保孝著「難波江」に、「松本善甫という医者が延宝年間(1673年-1680年)に酢を用いたすしを発明し、それを松本ずしという」とあるが、日比野光敏によれば「松本ずし」に関する資料は他になく、延宝以前の料理書にも酢を使った寿司があるゆえ「発明者であるとは考えられない」としている。誰が発明したかはともかく、寿司に酢が使われ、酢の醸造技術も進んできて、いよいよ発酵を待たずに酢で酸味を得て食する寿司、「早寿司」が誕生することになる。
握り寿司(江戸前寿司)の誕生
「妖術という身で握る 鮓の飯」「柳多留」(文政12年(1829年)作句は1827年)が、握り寿司の文献的初出である。握り寿司を創案したのは「與兵衛鮓」華屋與兵衛とも、「松の鮨(通称、本来の屋号はいさご鮨)」堺屋松五郎ともいわれる。
江戸前(江戸の前=現在の東京湾)の魚介類と海苔を使用する江戸前寿司は、江戸中の屋台で売られるようになった。「守貞謾稿」によれば「握り寿司が誕生すると、たちまち江戸っ子にもてはやされて市中にあふれ、江戸のみならず文政の末には上方にも「江戸鮓」を売る店ができた。天保の末年(1844年)には稲荷寿司を売り歩く「振り売り」も現れた」という。この頃には巻き寿司もすでに定着しており、江戸も末期、維新の足音も聞こえてこようかという時代になって、ようやく現代でもポピュラーな寿司が、一気に出揃ったわけである。
明治30年代(1897年-)頃から企業化した製氷のおかげで、寿司屋でも氷が手に入りやすくなり、その後は冷蔵箱だけではなく電気冷蔵庫を備える店も出てくる。近海漁業の漁法や流通の進歩もあって、生鮮魚介を扱う環境が格段に良くなった。江戸前握り寿司では、これまで酢〆にしたり醤油漬けにしたり、あるいは火を通したりしていた素材も、生のまま扱うことが次第に多くなっていく。種類も増え、大きかった握りも次第に小さくなり、現代の握り寿司と近い形へ変化しはじめた時代である。
大正12年(1923年)の関東大震災により壊滅状態に陥った東京から寿司職人が離散し、江戸前寿しが日本全国に広まったとも言われる。
戦後の寿司
第二次世界大戦直後、厳しい食料統制のさなか、昭和22年(1947年)飲食営業緊急措置令が施行され、寿司店は表立って営業できなくなった。東京では寿司店の組合の有志が交渉に立ち上がり、1合の米と握り寿司10個(巻き寿司なら4本)を交換する委託加工として、正式に営業を認めさせることができた。近畿をはじめ全国でこれにならったため、全国で寿司店といえば江戸前ずし一色となってしまった。ちなみに1合で10個の握り寿司ならかなり大きな握りで、いわゆる「大握り」と呼ばれる江戸-明治初期を思わせる大きさである。当時を知る職人は、「あらかじめダミーの米を入れる袋を用意して店頭に置き、取り締まりを逃れて営業したこともある」と述べている。
戦後の高度成長期になると、衛生上の理由から既に屋台店は廃止され、廉価な店もあるにはあるものの、寿司屋は高級な料理屋の部類に落ち着いた。1960年代から1970年代にかけて、サラリーマンを題材とした漫画では、夜遅くまで外で飲み歩く亭主が、妻の機嫌を取るために寿司の折り詰めを買って帰るという姿が描かれる事もしばしばあった。1958年に大阪で回転寿司店「廻る元禄ずし」が開店し、廉価な持ち帰り寿司店「京樽」や「小僧ずし」も開業。1980年頃にはすっかり日本各地で普及するに至り、寿司は家族で訪れるような庶民性も取り戻していった。
既に明治43年(1910年)華屋與兵衛の子孫、小泉清三郎著「家庭鮓のつけかた」には、ハム(またはコールドミート)を使ってコショウをふった巻き寿司があり、江戸前寿司(早寿司)は様々な材料を受け入れやすい素地があった。1970年代アメリカ西海岸を中心に、寿司は一大ブームとなり、その中で生まれた「カリフォルニアロール」は大いにヒットして日本にも逆輸入された。1975年「すし技術教科書」の「新しいすしダネとすし」には、キャビアやセップ、ロブスター、納豆、じゅんさい、など、100種類にもなる新しい寿司ダネが紹介されている。現代の寿司店では、ありとあらゆる食材が寿司として提供される一方、古典的な材料・手法を守る店も人気があり、むしろ高級・高価である。そして、寿司は主に外食の料理となり、家庭で作られる寿司は減少している。
世界の「sushi」へ
長い鎖国が解かれ、明治になると移民として南米へ、北米へと渡る者も多く、各地で日本人コミュニティが生まれた。アメリカ合衆国で最初の日本料理店「大和屋」がサンフランシスコに開店したのが1887年。ロサンゼルスでは、後にリトル東京と呼ばれる地域に日本食レストラン「見晴亭」が1893年開店し、1903年に蕎麦屋、1905年には天ぷら屋、そして1906年には寿司屋が開店する。戦前のリトル東京の日本料理店は、主に最大数万人規模のコミュニティにまで膨れ上がった日系人のための食堂であった。しかし、第二次世界大戦でアメリカ合衆国と敵対国になったことにより、日系人コミュニティは強制収容という形で衰退してしまう。
戦後のリトル東京の寿司屋は、しばらく1930年代に創業した稲荷寿司と巻き寿司、型抜きした酢飯に魚を乗せただけの寿司を提供する店一軒のみであった。1962年にガラスのネタケースが海を渡り、老舗日本料理店「川福」の一角に本格的なカウンターを設えた「sushi bar」ができ、続いて「栄菊」、カリフォルニア巻き発祥の店となる「東京会館」も、1965年にネタケースを設えて「sushi bar」は3軒となった。当初は寿司を食べる白人はほとんどいなかったが、1970年代に入ると徐々に白人社会にも受け入れられ、1970年代後半には寿司ブームともいわれるほどに成長していった。現在では「すしバー」として、アルコール飲料とともに、寿司をアレンジした料理を提供するスタイルが増えており、欧米では「すしバー」の名称が正統派のすし店やすしレストランを含む総称になりつつあるとも言われている。
生の魚や海苔にあった抵抗感を覆してブームといわれるまでになったのは、寿司は低脂肪で健康的な食べ物というイメージが定着したことの他、カウンターをはさんで職人と対面して注文するという形式のおもしろさがあげられる。客は、なじみの職人の前に陣取りあれこれと注文して、バーでカクテルを注文するがごとく自分だけの特別な寿司を楽しみ、職人も、握り寿司より巻き寿司の方がバラエティがつけやすいため、これに応じて次々に新しい寿司を考案していった。寿司に魅せられたユダヤ人弁護士が職人を引き抜いて寿司屋を開き、顔の利くハリウッドの有名俳優たちが夜毎訪れて話題になったのもブームを後押しし、寿司屋の常連「寿司通」になることはステータス・シンボルとなった。
ロサンゼルスで火のついた寿司ブームは、その後日本の経済的進出も相まって、アメリカを中心とする世界各地に急速に広まった。1983年には、ニューヨークの寿司店「初花(はつはな)」が、ニューヨーク・タイムス紙のレストラン評で最高の4ッ星を獲得しており、この頃までには高級フランス料理店に並ぶ評価を得る寿司店が出現するまでにイメージが転換していたことが窺える。現在、「スシ」はテリヤキ、天ぷらと並ぶ日本食を代表する食品になっており、日本国外の日本食レストランの多くでは寿司がメニューに含まれている。特に北米では人気があり、大都市では勿論、地方都市のスーパーマーケットですら寿司が売られていることが珍しくない。
世界各地のスシ・レストランには中国人や韓国人など日本人以外の経営・調理によるものが増加し、日本人による寿司店の割合は10パーセント以下とまで言われるほど減少している。そのため、日本の伝統的な寿司の調理法から大きく飛躍(あるいは逸脱)した調理法の料理までもが「スシ」として販売されるようになった。酢をあわせていない飯に魚や中国料理を乗せて「スシ」だと称するところまである。このような現状から日本の農林水産省は「正しい日本食を理解してもらうための日本食の評価」を日本国外の日本食店に行う計画を打ち出したが、欧米の一部には、これを新しい食文化の誕生を疎外するものであると批判的に見る向きもあった。日本でも、アメリカの新聞・ワシントン・ポスト紙が2006年12月24日付け記事で用いた「スシ・ポリス(Sushi Police、スシ警察)がやってくる!」との表現が過大に取り上げられた。このような反応を受けて農水省は認証制度の導入を止め、和食の国際的普及を目指す特定非営利活動法人(NPO)の「日本食レストラン海外普及推進機構(JRO)」が民間の立場から推奨店を決定する方式を取ることとした。
経済発展目覚しいロシアでも寿司ブームが起こり、富裕層を中心に愛好家が増えている。日本人が寿司文化を世界に広めたために、今度は寿司ネタが世界市場で高騰すると言う現象が起きている。
寿司の雑説
販売・消費形態
寿司は鮨屋、回転寿司などの店内で料理として出される。寿司屋は出前を行なうこともある。スーパーマーケットやデパートの地下の惣菜コーナーでは詰め合わせや握り寿司2つ程度の小さなパックなどが売られる。弁当販売店の形式で、持ち帰り用寿司を売るチェーン店もある。巻き寿司、ちらし寿司はしばしば家庭でも作られる。
かつての江戸では露天での販売も盛んで日本国内に広がった程であったが、衛生上の理由から屋台での寿司等生魚を使用した食品の販売は昭和初期までにその多くが規制されている。なお、韓国やタイには近年寿司を扱う屋台が現れた。
衛生
握り寿司は、人間の手で腐敗しやすい生鮮魚介類と酢飯を握る工程を行うものであり、その過程で雑菌が付着することは避けられない。従って、夏期においては握ったものをすぐ食べることが望ましい。米やネタに匂いが移る危険性があるので、臭いを発する強力な洗剤や殺菌薬等で手を洗うことは避け、寿司職人は用を足した後丁寧に手洗いに努めているケースがある。また、酢(酢酸)には殺菌の効果がある。客によっては職人がカウンターから離れ戻ってきたときは、しばらく注文を差し控えるなど気にする人もいるが、どちらにしてもこれは想像力の問題で、実際に衛生上の問題があって寿司が安全ではないと言った大きな事件は日本において発生してはいない。
日本国外では、手で握る作業を不潔なものと見なし職人が薄いゴム手袋やビニール手袋を嵌めることを求める規則がある場合があるが、日本においては魚介を生食する料理の調理を素手で行うことは家庭でも行われているごく一般的な手法であるうえ、職人の微妙な手指の感覚を阻害するものであると見なされ、そのような習慣はない。ただし日本国内でもスーパーなどで持ち帰りの寿司を作る場合や、回転寿司店で手袋を着用していることがある。昨今では、世界的な日本食ブームのおかげもあり、日本人以外のいわゆる「通」を自称する人々の間でも、「素手で握る寿司が一番」という風潮がある。これは単に伝統にこだわっているだけではなく、特に西洋人の間では「日本の寿司職人は、素手で握っても食中毒を起こさない衛生的で清潔な職人」という西洋人独特のイメージを持っている人もいる。
勘定
会計は一つ一つの寿司に値段が掲示されていない場合が多い(回転寿司屋などを除く)。これは寿司ネタが時価の影響を受けるからである。一方、佐川芳枝「寿司屋のかみさんうちあけ話」講談社1995年5月の「高くてびっくり安くてびっくり」にて、寿司の職人でも他の店に行けば値段が分からないこと、どんぶり勘定で客を見て値段を決めている店があることが書かれている。また、同じネタでも客を見て切る部位を変えるので値段も違うという主張も載せられている。しかし、値段の内訳は注文の際に店員に尋ねればきちんと答えてもらえる。
 
寿司の歴史・諸説

寿司の歴史1
語源
「すし」には「鮨・鮓・寿司<当て字>」がありますが、鮨と鮓はもともと二千年以上も前からあった中国の漢字です。
「すし」の始まりは、はっきりは解らないけどおそらく東南アジアかどこかの山中の民族が川魚の保存に穀物を炊いたものを漬け込み、自然発酵させたものが、始まりだといわれてます(日本のフナ寿司の元祖ともいわれる)。
「鮨」のつくりである「旨」にはモノを熟成させるの意味があり、「鮓」のつくりの「乍」は、モノを薄くはぐの意味があるらしい。
それが、中国に渡り、日本に渡ったらしいが現在の中国にはそれらしき食物は残ってないらしい。とにかくそれが元祖の「鮨・鮓」であり、「寿司」とゆう漢字は「寿を司る(つかさどる)」で、縁起がいいものとしてその名を語っているらしい。
余談だけど、「シャリ」の語源は「仏舎利」(仏様の遺骨)が、ちょうどお米に似ているためそう呼ばれているといわれる。
日本の「すし」
さて、それではいつ頃日本に伝わったかと言うと定かではない。そもそも伝わってきたのは漢字だけかもしれないし、「すし」と呼ばれる魚介類の漬け物が大陸から渡ってきたのかもしれない。
じゃぁいつの時代から記録があるかと言うと、養老二年(718年)「養老律令」のなかに「鮨・鮓」の漢字が登場する。それらはおそらく、魚介の漬け物と思われる。それが、奈良時代には、
「熟(な)れずし」これは、現在の「フナずし」のようなモノで、
その後は「飯ずし」現在の関西の鯖の棒ずしみたいなモノ
「コケラずし」箱ずしの原型、現在も「ケラずし」として大阪に名を残す
「箱ずし」言わずと知れた関西の「押し寿司」の原型
「握りずし」となる。
ここで、注目すべきは、関西と言う言葉が沢山出てくる、そう、「関西ずし」こそ日本のすしの伝統を、今に伝えるすしである。
握りずし
握りずしのルーツは一八〇〇年前半ごろ、江戸のある屋台の職人の誰か(もちろんその頃は関西風の「押し寿司」が主であり、店だけではなく屋台でも売られていた)がシャリの上に押し寿司の材料を切り付けてのせ、即席のすしをつくったと言うのが始まりと言われている。
しかし、当時の「握りずし」は「押し寿司」と同様、シャリの味が重要で、甘辛く味付けた椎茸や海苔を加えたりオボロをのせたりして味を補っていた。それから、大きさもオニギリみたいに大きくて、現在のモノとは大違いだったらしい。もちろん、材料(ネタ)自体の違いは言うまでもない。
やがて、「江戸前ずし」の誕生によりその姿を変えるとともに、全国に広がっていったが、それはすでに戦後のことである。
ということは「握りずし」は、江戸以外ではまだまだ、そんなに昔からあるモノではないということになる。「江戸前の握りずし」は、気が短い「江戸っ子」が作り上げた、いわゆる「東京の郷土料理」と言っても過言では無いだろう。
江戸前ずし
さて、いよいよ「江戸前」ずしの登場だけど、前にものべたとおり「握りずし」が誕生したのは江戸だった。
しかし、「江戸前」という言葉は、もともとうなぎ屋さんだったらしい。
江戸幕府の徳川家康が、江戸城の前の浅い海を埋め立てて土地を造成したが、その時にできた沼でウナギが沢山とれて、それに目を付け商売をした人がいた。江戸城の前の沼で捕れる、「江戸前のうなぎの蒲焼き」と言ったそうである。やがてそれが、江戸の前の海(東京湾)で捕れる魚介類を指すようになり、ちょうど、握りずしの人気が上がってきたときと重なって、「握りずし」が、江戸前ずしと呼ばれるようになった。
それが、太平洋戦争後に全国に広がり北海道でも九州でも「江戸前ずし」と、語っている店が増えた(言葉の意味より、響きがいいから...かな?)と、あっけなく終わってしまったが、その後は、その店による工夫(〆もの、オボロ、玉子、アナゴ等の味付けや、
加工など)の仕方が違うので、これから先は、その店の歴史であり、「江戸前ずし」は、現在の「すし」の代表的な存在であると綴っておこう。
寿司の歴史2
普段、私たちはそのルーツを意識することなく寿司を食べています。しかし、ふとした拍子に考えたことは無いでしょうか。「寿司を最初に食べた人は誰なんだろう?」「寿司を発明したのは誰なんだろう?」と。そういった寿司のルーツに鋭く迫っていきます。
寿司の原点とは
歴史上、寿司は今のような酢飯を握り固めた上に魚などのネタを乗っける握り寿司の形で生まれてきたわけではありません。寿司の原点となるのは今で言う「熟れ鮨(なれずし)」であったと考えられています。熟れ鮨は米や麦などの穀物を炊き上げて、その中に魚などを詰め込乳酸菌の力で乳酸発酵させた発酵食品の一種です。発酵食品は、発酵に関わった微生物の力で原材料となった食品には無かった栄養が含まれています。熟れ鮨は一種の健康食品として、発祥の地であったとされる東南アジアから中国、そして日本へと伝播していったのです。
寿司とは「鮨」「鮓」である
熟れ鮨の「ズシ」の字を見て判るように、昔は寿司を「鮨」もしくは「鮓」と書いていました。「魚へんに旨い」、「魚へんに酢っぱい」と書いていたのです。乳酸発酵によって、米などの穀物が持つでんぷんや糖質は分解されてドロドロになります。この時乳酸菌は酢酸などを生成し、ビタミンと酸っぱさを加えていきます。この酸っぱさが不思議と魚と米を結びつけ、美味にすることを知った日本人は鮨・鮓を寿司へと昇華していくのです。
鮨・鮓の拡散
さて、熟れ鮨として伝わった寿司ですが、中国は宋の時代に最盛期を迎えたと言われています。乳酸菌の力を利用した健康食品である鮨・鮓を愛し、魚から動物の肉から野菜と漬け込んで行き、終いには昆虫までも鮨・鮓にしたと伝えられています。鮨・鮓が日本に伝わってきたのは、おそらく縄文時代の後期に稲作と共に伝わってきたと考えられています。鮨・鮓は日本においては宋に負けないほどに愛され、年貢として納められたという記録が残っているほどです。
寿司3
まず「すし」という漢字ですが、「寿司」と「鮨」と2つありますよね。おすし屋さんの看板をみても、両方ともたくさん使われています。明確な区別はないようですが、東の方では「寿司」が多く、西の方では「鮨」が多いようです。
志賀直哉の「小僧の神様」という小説の中では、主人公の少年のあこがれの食べ物として「にぎり寿司」が登場します。たしかに、お寿司は日本人にとって特別な食べ物です。
お客様に出す食事とか、お祝いの時のご馳走といったら、日本人は何と言っても「お寿司」です。普段あまり意識しませんが、お寿司に対して私たち日本人は、和食の中でも特別な位置を与えているのです。
ちょっと、おおげさな表現でしたね。
でもそれだけ日本人は、お寿司が大好きなんでしょうね。回転寿司のお店の数をみても、本当に多いですよね。
寿司の起源をたどると、東南アジアの川魚の保存方法だったそうです。それが中国や朝鮮半島を通って日本まで伝えられたようです。
その一番古い原型の寿司に近いもので現存するのが、琵琶湖周辺で作られている「フナずし」です。塩漬けにしたフナをご飯と一緒に一年漬け込みます。ご飯の発酵によって、魚が保存されるわけです。
豊臣秀吉の安土桃山時代の頃に酢が作られ、酢を混ぜた寿司飯が登場します。
最初は「押し寿司」が生まれ、江戸時代の後期に「にぎり寿司」が誕生します。
花屋興衛門という人が、握ったその場で食べるという方法を考案したとされていますが、とにかく最初に考えて創り出した人は偉いですよね。今なら特許をとって、大変な大金持ちになれたはず。
湿度が高く、腐敗やカビの出やすい日本の風土にもかかわらず、生魚を食べる「寿司」という食べ物は、和食の代表にまで成長しました。ここには、日本人の食の安全に対する知恵があったのです。
それは、腐敗しやすく食あたりの危険のある生魚を食べる時には、同時に殺菌作用の強い食品を同時に取るようにしたのです。それは、生魚の臭みを取る効果もあり、ますます「寿司」をおいしく食べられるようになりました。
まずは、「わさび」。「わさび」のさわやかさが生魚の臭みを押さえ、うまみを引き出してくれます。そしてすぐれた殺菌効果も発揮します。
そして、合間にいただく「ガリ」と「お茶」。「ガリ」生姜を漬けたもの。生姜もお茶も殺菌効果があり、口の中をさわやかにして、次に食べる「寿司」のうまみを際立たせてくれます。
何気なくいつも食べていますが、脇役の「わさび」「ガリ」「お茶」にも大きな働きがあって、結構計算されつくした食品なんですね。
寿司の歴史4
寿司の原点は今のような酢飯を握り固めた上に魚などのネタを乗っける握り寿司の形で生まれてきたわけではなく、今で言う「熟れ鮨(なれずし)」であったのではないかと考えられています。熟れ鮨とは米や麦などの穀物を炊き上げたものの中に魚等を詰め込んで、その乳酸菌の働きで乳酸発酵させた発酵食品の一種です。熟れ鮨は発祥の地であったとされる東南アジアから中国、そして日本へと伝播していったのです。
熟れ鮨として伝わった寿司ですが、中国は宋の時代に最盛期を迎えたと言われています。乳酸菌の力を利用した健康食品である鮨・鮓を愛し、魚から動物の肉から野菜と漬け込んで行き、終いには昆虫までも鮨・鮓にしたと伝えられています。鮨・鮓が日本に伝わってきたのは、おそらく縄文時代の後期に稲作と共に伝わってきたと考えられています。鮨・鮓は日本においては宋に負けないほどに愛され、年貢として納められたという記録が残っているほどです。
室町時代以降に入るといよいよ私たちの知っている寿司の原型が姿を現します。乳酸発酵をう熟れ鮨は、その発酵熟成に数ヶ月以上を費やしてしまいます。その為か、発酵がまだ充分進んでおらず、米の原型を留まっている状態で熟れ鮨を食べるようになり、酢が工業的に作られだした時代には乳酸発酵による酸っぱさを酢で代用するようになっていきました。これを早鮨といいます。酢を使った早鮨の登場は現在の押し寿司の原点である箱寿司につながり、握り寿司へと発展していくのです。
そして、江戸時代に入ると熟れ鮨や押し寿司などの上方の寿司とはまた違った寿司が誕生します。それが現在の握り寿司の原型です。川柳に「妖術と いう身で握る 握り寿司」と歌われたように、握り寿司は妖術使いが結ぶ手印のような動きで瞬く間に握り作ることから気の短い江戸っ子たちに浸透していきました。この握り寿司を発明したのは「與兵衛寿司」を興した華屋與兵衛であると伝えられています。握り寿司の発明はやがて、関西の押し寿司文化と関東の握り寿司文化という形で寿司文化を二分していくことになります。
 
江戸前ずし (江戸前鮨 江戸前鮓 江戸前寿司)

握りずしを中心とした、江戸の郷土料理である。世界共通語となった「sushi」は主にこの「江戸前ずし」を指す。古くは「江戸ずし」「東京ずし」ともいった。江戸前の豊富で新鮮な魚介類を材料とし、一般家庭で作られることがほとんどない、寿司屋の寿司職人が作る寿司である。
狭義に「江戸前ずし」を「東京湾の魚介を使用したすし」、あるいは「明治の始めくらいまでの技法を中心としたすし」とすることもあるが、広義には、東京で特に多く見られる「握りずしを中心とした寿司屋で提供されるすし」全般を「江戸前ずし」という(本稿では広義の「江戸前ずし」を対象とする)。
江戸の文化が生んだ寿司で江戸っ子が好む寿司で、郷土料理となっている。江戸前の海(現在の東京湾)は遠浅の干潟を抱えた天然の漁場であり、目の前で取れた新鮮な魚介類を新鮮なうちに提供することが可能であった。
発酵させるなれ寿司とは違うもので、江戸時代に食酢生産が始まり、この酢を利用した寿司が多くなっていき現在の主流となった。
江戸前ずしの種類
酢飯を握り、その上に主に魚介の生身や〆たものや火を通したものを合わせた握りずしが中心であり、他にはカンピョウなどを細巻きにした海苔巻き、ちらしずし、イカの印籠ずしなどがある。家庭で作られることはまれであり、「寿司屋のすし」「職人のすし」である。
江戸前握りずし
主に魚介の生身やコハダや鯖などを〆たもの、煮穴子や蒸しエビなどの火を通したもの、卵焼きなどの「タネ」と握った酢飯を合わせたすしを指す。ワサビやショウガ、オボロを間にはさむ(または上にのせる)ことが多い。はがれやすいタネには、古くはカンピョウを使うことが多かったが、現代では海苔の帯をかける。握った酢飯のまわりを海苔で巻いて、イクラなどの小さなものや、ウニのようにやわらかくて握りにくいものを乗せたすしを「軍艦巻き」といって、1941年に銀座のすし屋「久兵衛」で考案されたものといわれる。
握りずしは、「にぎり」と略されることがある。
主な江戸前握りずしの種
江戸前握りずしの具材を「タネ」といい、逆さにした符丁で「ネタ」とも呼ばれる。その主なものに次のようなものがある。
ヒラメ、カレイ、タイ、スズキ、シラウオ
マグロ、カツオ、カジキ、サケ
シマアジ、カンパチ、ブリ(とその幼魚)
コハダ(とその幼魚)、サヨリ、カスゴ(子鯛)、サバ、アジ、イワシ
赤貝、ミルガイ、アワビ、アオヤギ、トリガイ、ハマグリ
エビ、シャコ、カニ
イカ、タコ
アナゴ、卵焼き
イクラ、ウニ
シイタケ、芽ネギ
海苔巻き
海苔を巻いた江戸前ずしは通常「海苔巻」と呼び、単に海苔巻といった場合は細巻きのカンピョウ(干瓢)巻きを指すことが普通である。海苔半枚で巻いた「細巻き」が本来であり、その形から「鉄砲」とも呼ばれる。戦前は盛んだった玉子巻きや伊達巻きのすしは近年廃れてきている。関西などでは「巻きずし」と呼ぶことがあるが、かつての関西には細巻きが存在していないことからそれが含まれない場合もある。
主な江戸前海苔巻
カンピョウ巻き/煮たカンピョウを芯に巻いたもの。単に「海苔巻き」とも呼ぶ。
鉄火巻き/マグロの切り身またはスキ身、タタキ身にワサビを入れて巻く。
ネギトロ巻き/マグロのすき身など脂身を具としたもの。
アナゴ巻き/煮アナゴ。キュウリを入れることも多くそれを「アナキュウ」とも。
カッパ巻き/キュウリを千切り、または細長く切った一本を芯に巻いたもの。
新香巻き/いろいろなお新香が使われるが、普通はタクアン。
オボロ巻き/エビ(または魚)オボロを芯にして巻いたもの。
このほか、太巻き(一枚巻き)や手巻きを提供する店もある。近年は新しい具材や新しい巻き方が登場しているが、眉をひそめる寿司愛好家も多い。
ちらしずし
今日の江戸前ずし店でちらしずしは、寿司飯の上に生身を中心に握りずしと同様なタネを盛り付けたものが主流。戦前まではシイタケ、酢バス、卵焼き、オボロを中心に、煮アナゴ、エビ、コハダなど、調理済みのタネをのみを入れることが多かった。「ちらし」と略されることがある。
イカの印籠ずし
すしの分類では、イカやタケノコなどの空洞にすし飯を詰めたすしを印籠ずしと分類する。江戸前イカの印籠ずしは、刻んだカンピョウやガリ、もみ海苔などを混ぜたすし飯を煮イカの胴につめ、ツメをかけて食べるすし。「イカの印籠詰め」ともよぶ。
江戸前ずしの「仕事」
すし飯
すし酢は酢と塩、または酢と塩に砂糖を加えて合わせたもの。店によって塩と砂糖の配合は千差万別でそれがその店の特徴となっているが、酢は概ね米2升につき2合くらいである。
やや固めに炊き上げた飯を熱々のうちに飯切りに移し、すし酢をあわせる。ミヤジマ(しゃもじ)を下から起こすように、切るように使ってすし酢をまわす。行き渡ったところで団扇などで風を入れてツヤを出す。人肌に冷めたら食べ頃。
タネの調理
近年では生身のままタネとすることも多いが、冷蔵技術の無い時代に誕生したがゆえ、酢〆にしたり醤油漬けにしたりと、タネにさまざまに「仕事」をする技法がある。
酢〆
酢〆は比較的古い仕事が残っている調理法である。塩をあててしばらく置いてから、酢につけて(または酢にさっとくぐらせて)〆る。コハダ、キス、カスゴ、サバの他、今では生で使われることが多いアジやサヨリなども以前はたいてい酢〆にした。貝類や白身魚も酢〆にする仕事もある。強く〆て酸っぱいタネは、オボロをかませて握ることも多い。
醤油漬け
醤油を主体にした調味液にしばらく漬ける(またはさっとくぐらせる)。マグロの赤身を醤油漬けにしたものは「ヅケ」と称し、長時間漬けてねっとりした質感をもたせたものや、切りつけて数分程度の短時間漬けるもの、湯霜にしてから漬けるなどの仕事がある。古くは白身魚も醤油漬けにすることが多かった。
煮物
アナゴやハマグリは煮あげて、煮汁を煮詰めた「ツメ」を塗って供する。また「蒸しアワビ」と呼ばれるものも、実際にはほとんど煮物に近いものである。イカやシラウオも昔は煮て使うことが主流だったが、近年ではあまりみられなくなった仕事だ。
茹でたもの
タコ、エビ、シャコなどは茹でて使う。シャコは産地で茹でたものを仕入れることも多いタネ。茹でた後調味した酢に漬けたり煮汁で煮返したりと、さらに手をかける仕事も少なくない。
卵焼き
エビ・魚のすり身に塩を入れ、玉子を少しずつ加え、最後に砂糖を加えて弱い火で焼く。厚さによって「厚焼き」、「薄焼き」という。すり身を使わず出汁の入る「出汁巻」きもよく作られている。すり身を入れた方が江戸前ずし本来の仕事で、出汁巻きは日本料理的な仕事である。江戸前ずし店の卵焼きは概して甘く調味され、デザートのように最後に食べる人が多い。
握りずしの握り方
左手にタネを持ち、右手ですし飯を適量とって軽くまとめ(シャリ玉という)、ワサビを人差し指でとってタネにぬってシャリ玉を乗せる。左手の親指か右手の人差し指でシャリの真中に空洞を作り、上下・前後を何度か返して(手返し)その空洞をまわりから閉じていくように成形してつける。手返しには、本手返し、縦返し、小手返しなどがあるが、昔は基本とされた本手返しでつける職人はもうほとんどいなくなった。仕上がりの形状を、俵型、箱型、船型、地紙型とよび、現代では船型につける職人がほとんど。また、握りずしを製することを「つける(漬ける)」といい、調理場を「つけ場」というが、すしは古来漬け込んで製したことからくるいい方というだけではなく、握ることが「漬ける」に相当する重要な要素である。適度な押圧を加えることで瞬時に生じる一体感が江戸前握りずしの醍醐味であり、そのバランスが職人の腕の見せ所である。
近年では回転ずしを中心に、シャリ玉成形機が普及してきており、装置に酢飯を入れておくとシャリ玉を自動的に成形する。それにタネを乗せただけで提供している。本来の握ることによって一体感を得て「つける」握りずしとは別物である。
海苔巻きの巻き方
巻いてすぐ食べることを主として製することが肝要。海苔は焼いて香りを出しパリっとさせ、手早くサッと巻いて製する。関西の巻きずしは、時間を置いて食べることを主とするため、海苔は焼かずにしっかり巻くという違いがある。
焼いて半分に切った海苔を巻き簾に手前を揃えて置き、すし飯を適量とって一旦軽くまとめる。海苔の中央左から右へとすし飯を広げながら置いていき、端をきめながら1センチほど残して前後に広ていく。中央に薬味や具材を置いて、巻き簾を手前から持ち上げて巻く。カンピョウなら丸に、鉄火なら四角く絞めてきめる。カンピョウなら4つに、鉄火などは6つに切る。
江戸前ずしの歴史
江戸前ずしの誕生
江戸前握りずしの創案者は、両国は「與兵衛鮓(よへいずし)」の華屋與兵衛とも安宅の「松之鮨(まつのずし)」、堺屋松五郎ともいわれる。文献的には文政12年(1829年/1827年作句)「柳多留」に「妖術という身で握るすしの飯」とあるのが初出である。
與兵衛のひ孫、小泉清三郎「家庭 鮓のつけかた」(明治43年)に與兵衛の孫、文久子「またぬ青葉」(手写本、現在所在不明、震災で焼失とも)の引用があり、要約すると以前にも握りずしを試みた者はいたが、握った後に笹で仕切って箱に詰め数時間押しをかけるすしで、「翁(初代與兵衛)は此の製方の悠長なるを厭い(中略)握早漬を工夫せし也」とのことである。與兵衛が「握早漬(握りずし)」を売り出した年は、諸説あるが文政7年(1824年)あたりとされる。
文政13年(1830)喜多村信節「嬉遊笑覧」に「文化(1804-1817)のはじめ頃、深川六軒ぼりに、松がすしが出来て、世上すしの風一変し」とあるが、この「一変」には二つの解釈ができる。ひとつは握りずしを創案し、それまで押しずしなど、上方風のすしが中心だった江戸市中のすし屋が、握りずし一色に一変したという解釈。もうひとつは、これまでにない高額のすしを売り出し、市中のすし屋も追従したために一変したという解釈。ちなみに「松鮨」とも「松が鮨」とも言われたが、「安宅の松」と主人の名、松五郎にちなんだ通称であり、本来の屋号は「砂子鮨(いさごずし)」といった。後に屋号の方も「松之鮨」と改めたとのことである。いずれにしろ握りずしは文政年間(1818-1831)には完成をみて、「與兵衛鮓」、「松之鮨」は最初の大成者となった。
こうして誕生した握りずしは、手軽な屋台料理として江戸っ子にもてはやされて瞬く間に江戸市中に拡がった。箱寿司が主体であった大坂も1892年(明治25年)には大半が握り寿司の店に変わったと記録されており、天保(1831-1845)には名古屋にも江戸風のすし店が開店するなど、急速に日本全国へと拡がっていった。
江戸時代末期-明治初期の江戸前ずし
「守貞謾稿」には、玉子、玉子巻き、海苔巻き(カンピョウ)、車エビ、コハダ、マグロさしみ、エビそぼろ、シラウオ、穴子、があがる。冷蔵・冷凍技術のないこの時代のすしは、酢〆、醤油漬け、火を通す、などの下仕事をしたタネばかりであった。天保の末に鮪が豊漁となり、「恵比寿鮨」なる屋台のすし屋が鮪を湯引きし、醤油に漬けてすしに漬けたところ、大いに評判となり、以降江戸前ずしを代表するタネになっていった。しかし当時鮪は下魚とされており、名のある店では使わなかったといわれる。
屋台で廉価なすしを売る「屋台店」が市中にあふれる一方で、「内店」とよばれる固定店をかまえるすし屋では、比較的高価なすしを売った。特に「松之鮨」や「與兵衛鮓」の贅沢さは、時の川柳にたびたび詠われるほどだった。内店では主に持ち帰りや配達ですしを売ったが、「御膳」と書かれた看板をあげた店は、店内の座敷で食事のできるお店である。そして、贅沢を禁じた天保の改革では、200軒あまりの寿司屋が手鎖の刑に処せられることになった。
明治後期-昭和初期の江戸前ずし
明治30年代(1897-)頃から企業化した製氷のおかげで、すし屋でも氷が手に入りやすくなり、明治の末あたりからは電気冷蔵庫を備える店も出てきた。近海漁業の漁法や流通の進歩もあって、生鮮魚介を扱う環境が格段によくなった。江戸前握りずしでは、これまで酢〆にしたり醤油漬けにしたり、あるいは火を通したりしていた素材も、生のまま扱うことがしだいに多くなっていった。種類も増え、大きかった握りもしだいに小さくなり、現代の握りずしと近い形が整ってきた時代である。
戦後のすし
第二次世界大戦直後、厳しい食料統制のさなか、昭和22年(1947年)飲食営業緊急措置令が施行され、すし店は表立って営業できなくなった。東京ではすし店の組合の有志が交渉に立ちあがり、1合の米と握りずし10個(巻きずしなら4本)を交換する委託加工として、正式に営業を認めさせたのである。上方をはじめ全国でこれに倣ってしまったため、全国ですし店といえば江戸前ずし一色となった。ちなみに1合で10個の握りずしならかなり大きな握りでいわゆる「大握り」、江戸-明治初期を思わせる大きさである。
戦後の高度成長期に入ると、衛生上の理由から屋台店が無くなり、廉価なすし店もあるものの、すし屋は高級な料理屋の部類に落ち着いた。一方、1958年に大阪で回転寿司店「廻る元禄ずし」が開店し、廉価な持ち帰りずし店「京樽」や「小僧ずし」も開業。1980年頃には回転ずし屋も持ち帰りすし店も全国に普及、寿司屋は庶民性を取り戻していった。
既に明治43年(1910年)華屋與兵衛の子孫、小泉清三郎著「家庭鮓のつけかた」には、ハム(またはコールドミート)を使ってコショウをふった巻きずしがあり、江戸前ずし(早ずし)は様々な材料を受け入れやすい素地があった。1970年代にアメリカ西海岸を中心に、すしは一大ブームとなり、その中で生まれた「カリフォルニアロール」は大いにヒットして日本にも逆輸入された。1975年「すし技術教科書」の「新しいすしダネとすし」には、キャビアやセップ、ロブスター、納豆、じゅんさい、シイタケなど、100種類にもなる新しい寿司ダネが紹介されている。現代の寿司店では、ありとあらゆる食材がすしとして提供される一方、古典的な材料・手法を守る店もある。
江戸三鮨
寿司文化が花開いた江戸時代に三大名物として謳われた寿司店。与兵衛寿司(よへいすし)、松がすし(まつ-)、毛抜鮓(けぬしすし)が数えられている。
与兵衛寿司(與兵衛寿司)
1824年に両国尾上町(東両国)回向院前に華屋与兵衛(1799-1858年、小泉與兵衛とも)が華屋として開業、大繁盛した。すしに山葵を使ったのは與兵衛が最初であるため、一般的には「與兵衛が握り寿司を考案した」とされる。しかし、華屋の流れを汲む両国与兵衛寿司は関東大震災の影響もあり、1930年(昭和5年)に閉店。
安宅松が鮨(松のすし)
1830年、深川安宅六軒堀(戒橋畔、現在の東京都江東区新大橋付近)に堺屋松五郎が松ヶ鮨を開店。江戸中で最も贅沢な寿司であると謳われた。そのため「松カ鮓 一分ぺろりと 猫がくひ」「本所一番阿他家安宅の鮓 高名当時並ぶべきなし 権家の進物三重の折 玉子は金の如く魚は水晶」などと当時の川柳、狂歌などに詠まれている。歌川国芳による大判錦絵「縞揃女弁慶 松の鮨」にも登場しているが、描かれているのは握り寿司と押し寿司である。「嬉遊笑覧(きゆうしょうらん、1829年)」の記述から、握り寿司の考案者は與兵衛ではなく松が鮨だとする説もある。あまりの贅沢さから水野忠邦の発した倹約令にかかり、与兵衛寿司とともに逮捕されている。
毛抜鮓
元禄15年(1702年)に初代の松崎喜右衛門が竈河岸(へっついがし、現在の東京都中央区日本橋富沢町付近)にて創業。携帯食の形態の一つ。現在主流の江戸前寿司(握り寿司)以前の寿司の形態(押し寿司、なれ鮨)を色濃く残している。
笹の葉で巻いた押し寿司の一種で、保存食とするため飯を強めの酢でしめてあるのが特徴である。寿司だねも塩漬けで1日、酸味の強い酢(一番酢)で1日、次に酸味の弱い酢(二番酢)で3日から4日漬ける。一口大に切断したものを殺菌作用のある笹でロール状に巻いて保ちをよくしている。巻き寿司や握り寿司に比べて歴史が古く、巻いた笹を外すと握り寿司と同じ姿が現れる。このように早ずし(握り寿司)が流行する以前は、寿司は調理するのに時間がかかり高級品であった。そのため、当時は大名の江戸藩邸や旗本諸侯からの接待品あるいは贈答品としての注文が主であったと伝えられる。
屋号の一部「毛抜」とは毛や骨を抜く道具「毛抜き」のことで、これを使用して丁寧に寿司だねの魚の骨を抜いていたことから命名されたともいわれているが、西沢一鳳による「皇都午睡」には、毛抜とは食欲旺盛の意味だという記述があり定かではない。また「色気抜きの食欲をそそるほど美味い」から派生して、「色気抜き」から色を外し「毛抜き」の字を宛てたとする説がある。
現在は十二代目で、「笹巻きけぬきすし総本店」として神田小川町で営業が続いている老舗である。
 

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