「灯り」(あかり)と「蝋燭」

灯り1灯り2灯芯引き蝋燭と提灯提灯行灯灯籠蝋燭の歴史1歴史2歴史3歴史4和蝋燭の歴史和蝋燭彦根に残る和ろうそく屋「和ろうそく」のゆらめき宗教儀式お灯明中世ヨーロッパの職業和紙1和紙2灯火
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雑学の世界・補考   

灯り1

人類史上、最も重要なものの一つが、「火」の発見です。人々は「火」の発見によって、「食」と闇を照らす「あかり」を手に入れました。そして長い時を経る中で、たいまつや篝火からランプ、ガス灯、そして現代の電気の「あかり」に至るまで、「あかり」は常に人々の生活と共にあり、人々の暮らしと未来を明るく照らし出してきました。ここではそんな「あかり」の移り変わりをご紹介いたします。
日本で古くから行われていた発火方法は「両手錐もみ式」と「舞い錐式」の2種類でした。そして火打ち石による発火方法が工夫され、その後、木や草などの自然物を燃やして屋外用のあかりとする「庭火」や「篝火」、また屋内用の「いろり」や「ひでばち」、そして携行用の「松明」などが工夫されていきます。篝火「庭火」から発達し、篝と称する鉄で編んだ籠を、支柱に載せたり吊り下げたりして、その中で薪を焚きました。奈良時代には鵜飼いなどの漁業に用いられ、平安時代になると貴族の庭園の池などのほとりに用いられて風情を添えました。ひでばち/松の木の根など脂の多い部分を細かく割った肥松、俗にいう「ヒデ」を燃やす灯火器。砂岩や玄武岩などの自然石を彫り込んで加工したり、石の挽き臼などを利用して高さ30cmくらいの円筒形または角形にし、台座を付けて安定を図っています。
松明
松・竹・樺など燃えやすい草木を手頃な太さに束ね、これの先端に火を付けて手に持って携行用のあかりとしました。手に携えて持つの意味の「手火松」が語源であるといわれています。
毎日の暮らしの中で、人々は動物や植物の油脂をあかりに用いるようになりました。植物性灯油はハシバミ、ツバキ、クルミなどの木の実にはじまり、その後、渡来したエゴマが用いられ、やがてアブラナが主流となります。動物油はクジラ、サメ、サンマなどの魚類が使われましたが煙と臭いがひどいため、屋外用として用いられ、一般民家ではあまり使われませんでした。
灯台
火皿と称する小さな土器の皿に灯油を満たして灯芯を浸し、これを支柱の台の上に載せたものが灯台です。木の枝や細い竹3本を結び合わせただけの結灯台にはじまり、台座の形態によって菊灯台、牛糞灯台などがあります。また、火皿の背後に風よけの円板を設けた眠り灯台という珍しい物もあります。
ねずみ短檠
ねずみを形取った油容器を灯柱の頂部に置き、火皿の底にあけられた小さな孔を通る空気圧を利用して、ねずみの口から油を補給し、一定の明るさを長時間保つ工夫が凝らされています。考案者は不明で中国からの伝来という説があります。
行灯
風除けのために火皿の周囲を紙で覆い、手に持って歩くときに共にしたあかりで、後の提灯の原形といわれます。江戸時代には屋内に定置されるようになり、火袋に横板を取り付けて火皿を載せたり、火皿を上から吊り下げたりと、様々な創意工夫が凝らされ、あらゆる形態のものが誕生しました。
ウルシやハゼの実から採取したろうを原料とする和ろうそくは、室町時代頃からはじまり、江戸時代に普及したといわれます。和ろうそくは筒状の紙に灯芯を巻き付けた物を芯に用いたため、火力が強く、まわりのろうが早く溶けるので、絶えず芯を切り整える必要がありました。当時の和ろうそくは非常に高価で貴重なもので、他に絵ろうそくや懐中ろうそくなどの特殊な物もあります。
燭台
ろうそくを取り付けるための基本的な道具となった燭台。最も多く用いられているのが灯台型燭台で、この燭台の火を灯す部分に紙や布などの火袋を取り付けた燭台、手燭は「雪洞」と呼ばれます。燭台や雪洞の中には多様な種類が発展し、中でもギヤマンガラスを火袋にかぶせた物は貴重です。
吊燭台
家の構造上、日本ではあまり発展せず玉灯籠と呼ばれるものしかありませんが、ヨーロッパでは古くから使われていた「吊燭台」。ろうそくの普及につれて教会や宮廷、大邸宅で使われるようになり、装飾的技巧を凝らしたものが多く作られました。これがシャンデリアの原形です。
提灯
細い割竹をらせん状にしたものを骨として伸縮自在にし、紙を張り、これを火袋として底にろうそくを立てるようにした灯火器。もとは竹籠に紙を張っただけの籠提灯から発展しました。小田原提灯はこれをぐんと小さくし、火袋をたたんで上下の蓋を合わせると懐中できるので「懐提灯」とも呼ばれました。
それまで種油を火種皿に満たして灯芯を燃やしたり、和ろうそくを芯切りに煩わされていた日本人にとって画期的なあかりとなった「ランプ」。日本開国と共に多くが渡来し、明治時代の初期には非常な勢いで普及しました。また、その技術力と美しさに魅入られた日本人技術者たちがこぞって模倣・開発に取り組み、日本人独特の美意識を活かした国産ランプを開発するまでの様子と美しい国産ランプを紹介しています。
西洋ランプ
1859年、アメリカ・ペンシルバニアにおける石油の発見に伴い、ランプの燃料も一気に石油に取って代わり、石油ランプ時代の最盛時代がもたらされます。アメリカからヨーロッパへ渡った石油ランプは、ガラスまたは金属製の油つぼに石油を入れ、これに口金を付け、口金を通して木綿糸で編んだ芯を石油に浸し、毛細管作用によって石油を吸い上げ、これに点火する装置です。完全燃焼を避けるために「ほや」を立てて炎を覆うなど、適度な通風が行われるようになっています。この技術と、当時ヨーロッパで著しく発達したガラス細工が合わさって、豪華なランプが製作されました。
座敷ランプ
ヨーロッパから渡来したランプが日本の暮らしに普及するにつれて、日本人の畳の生活に適応したスタイルのものが求められるようになります。「座敷ランプ」はこうした要求に応えて生まれたもので、日本独特のランプです。畳の上に置くので、焔(光)の位置は約60-70cm、台座には孟宗竹を輪切りにして台とし、これに様々な絵模様や彫刻を施し、上部に油つぼをはめ込んだ「竹洋灯(たけらんぷ)」が広く用いられました。その他、ガラスや伊万里焼の台座のもの、ランプ紙を張った籠をかぶせた「籠ランプ」などもあります。
日本のランプ
当初はランプそのものも部品もすべて輸入に頼っていましたが、明治2(1869)年には東京でランプ用の「ほや」の製造がはじまり、明治10年ごろには「油つぼ」が、その後「ランプ用笠」が、そして明治14年には口金(バーナー)も製作され、国産化が進んでいきました。また、日本人独特の器用さと技術力によって、明治時代半ばごろには舶来品とみまがうばかりに装飾価値の高いランプが次々と生み出されました。さらに日本人の生活スタイルや使用形態に合わせて、「吊ランプ」「座敷ランプ」「豆ランプ」「手提げランプ」など、形状にも新しいものが登場しています。
石油ランプ、ガス灯に続いて、画期的な照明として登場するのが電灯です。明治11年に東京の工部大学校講堂での試験点灯に始まり、明治17年、東京・上野駅にて白熱電球の初点灯が行われ、続いて明治19年に東京電灯、20年に神戸電灯、21年に大阪電灯、22年に京都電灯が相次いで開業し、電灯の「あかり」は、近・現代の主役となって発展していくのです。
ガス灯
明治5年、我が国初の実用化されたガス灯が点灯されたのは横浜でした。明治7年には東京と神戸にもガス灯の火が灯されます。今世紀に入って白熱マントルが出現し、ガス灯器具の機能は著しく改善され、明治時代中頃までに急速に普及した街灯だけでなく屋内灯としての需要も高まります。ちなみに街灯のガス灯の保守管理には、点消方と呼ばれる職業的人夫が存在していました。
電球
エジソンがカーボン電球の製作に成功したのは明治12(1879)年。日本でも電灯会社の設立などに伴って白熱電灯の製作に取り組み、明治23年に我が国初のカーボン電球の製作に成功します。その後、より性能の優れたタングステン電球が発明され、庶民の暮らしを照らすようになります。
電笠(セード)
白熱灯の開花期・大正時代には、電球の開発と共に当時の優れたガラス加工技術によって、様々な美しい花形セード(電笠)が生まれました。中には透明ガラスや乳白ガラス、銅赤ガラスなどの色つきのガラスと組み合わせたり、切り子模様やぼかしが入ったものなど、そのデザイン性の高さに今でも見とれるようなものが残されています。
 
灯り2

和蝋燭 / 芯についての説明
燈芯
燈芯草(イグサ科)より表皮の中にある「ズイ」の部分を取り出したもの。燈芯草は3種類あります。
1.柔道場等の畳の表に使用します。七島藺(琉球藺)
2.一般家庭の畳の表に使用します。丸藺
3.伝統の和蝋燭に使用する燈芯草
1本づつ刃と手で髄(ズイ)を抜き出す為、太く栽培する必要がある為、田植え時の隙間は33cmで丸藺と比較しまして2倍の広さです。植える深度も分藺を押える為8cmこちらも丸藺の2倍の深さです。収穫時は丸藺の様にドロ染めをする事もなく、天日乾燥の後梱包する。丸藺と燈芯草との違いです。
「万葉集」には、燈し火に関する歌がいくつも納められている。
燈火の 影にかがよふ うつせみの 妹が笑まひし 面影に見ゆ
燈之 陰尓蚊蛾欲布 虚蝉之 妹蛾咲状思 面影尓所見
燈火に寄せる恋。
燈の火影に揺れ輝いている、生き生きしたあの子の笑顔、その顔が、ちらちら目の前に浮かんでくる。
きわめて印象鮮明な歌である。事象だけを述べた歌の強みである。女の形象が燈火の影の中にあるので、図柄は明確な線の中にあるのでないけれども、燈火の中にいる女の姿は浮き立つがごとくである。佳作の一つ。
これから女の許に行こうとする時にの想像なのであろか。それとも、ふと相手を思うた時に浮かんでできた姿なのであろうか。女のさような情景を、美しいものとして何回も見た男の詠であることはまちがえない。なお、原文中の「蚊」「蛾」(2回)「蝉」は燈やその周囲に集まる虫を意識して用いられたもの。
燈火 / 松の脂肪による油に、山吹の軸の芯を乾燥させた燈心とすることは、昭和初期までは存在した。これもその類か。
かがよふ / ちろちら揺れて輝く。原文「蚊」「蛾」などの釈文参照
うつせみ / 生身の姿。「妹」の実在感を強めるためのの言葉。
安士桃山時代の「燈明」は燈芯を使用。美しい明かりはまず燈明皿(とうみょうさら)と呼ぶ小皿に油を注ぎ、それに燈芯をいれて浸し一端を皿の縁に乗せて出した火を点す。室町、安土桃山時代は、それ程和蝋燭は使用されてなかった。(和蝋燭は高価であった為。)
芯(しん巻き)
木のくし、竹のくしに和紙(紙)を巻き、その上に燈芯を巻く、その上に、真綿をかける。和蝋燭の太さにより、芯の大きさもかわります。
芯切り
伝統の和蝋燭は切りが必要である。これは芯切りによって炎が正常にする為である。浄瑠璃や芝居の舞台でのような蝋燭を立てた所には、必ず一人の芯切りの男が、あちらこちらと走りまわって芯を切りました。燭台の下にはまた切った芯をを入れるための、蓋のある火消壷のようなものがついていて、昔はこれを「ほくそほとぎ」といいました。ホトギは壷のことでたいていは土焼きの器、後には真鍮などの立派なものができました。燭台と芯切りとこの壷と、三つ揃えて一組になったものが、かっては普通の家庭の欠くべからざる道具になっていた。
巻掛け・巻き掛け
蝋から蝋燭を造るには、その芯に何度も蝋燭を塗り重ねることをいう。蝋燭の大きさは、蝋の掛けた重さで何刃掛けというように表現した。
伝統の和蝋燭のつくり方である。
ウルシ
大和本草批正に伝、漆弓にも作るべし、質白く心黄なり、〔ハジ〕今はハゼと云、漆の一種也漆にまける人、椿などにもまける也。吉野ウルシは、性よきゆへ彩色、又朱ウルシに用ひ、奥州、水戸は、性つきゆへ物をつぐに用ひ。セシメウルシと云う中華のウルシは甚下品となり本邦漆器を賞すること。遵生八牋に伝へり、流球は可なり。
燈芯と燈明皿 (柳田國男)
油を入れ燈芯をともす皿をスズキといていました。行燈の下から3分の2くらいの高さにでした、これも地方によりまた時代によって、いろいろの違いがあったようです。茨城県の方では挑燈のことをオッペシアンドウといっている事が「俚言集覧」にに見えておりますが、それは行燈をおし潰したという意味だけでなく、行燈ももとは桃燈の一種だったからであります。
アンドウのアンは行くという字の南方支那音で、元来下げて歩き回り近距離用の燈だから行燈と名づけたのです。
後に危ないからといって持ってあるく習慣がすたれ、おいおいと後のランプのようなに、一つ処に置いて使うようになりましたが、持ったあるくものだから下げる把手が附いているのです。
土佐の坂本竜馬の最後にも、行燈をもって出たと心を斬られたということは人がよく知っていますまたかの「猿蓑」の有名な連句にも
  草むらに蛙こはがる夕まぐれ
  蕗の芽とりに行燈ゆりけす
というのがありますして、お客でもあってちょっと蕗の芽をとりに、行燈を下げて暗い庭へ下がりて行ったら、蛙が跳ねてのに驚いてゆり消したというので、もとは桃燈ほど遠くへは下げて出ないまでも、そのへんをちょいとあるくという時に、ちょうど今日の懐中電燈の役目をしていたのであります。
その用途が後でにはボリボリといったり、手燭といったりする小行燈というのが始めたできた時には、むしろ奥の間で物を捜したり、土間に落ちてものをみつけるような用途が、主ではなかったかと思いますそれがしまいには家の中の、きまった場所に置いて使うようになって、形も大ぶりで下がり重く、台に引き出しもあるような1つの家具になっのであります。屋外に持った出るのは高くて土に引きずるようでも困るし中ほどの木に油皿を載せておけば油もこぼれやすいわけですから、前には多分行燈の底をくぼめて、その上に燈蓋皿を置いたのかと思います。台に引き出しもなく足ごく短く、丈の低い底に板のおいてあるものが、今でも絵などの中に残っています。
 行燈とともに思い出すのは、燈芯というものの珍しい形であります。
 子供は誰でも面白いがって、よく手に取っておもちゃにしようとします。
これは藺という草から抜き出したもので、それゆえまたこの草を燈芯草ともいいました。
これへ油を吸わせたものは、端の方からよく燃えるので、その火を油皿の縁のところで押えておくと、そこでとまって明るい焔になるのです。軽くふわふわとした長い細いもので、それで痩せた男などというおかしな名もありました。空気の中長く出してあるとその細いのがさらにまた痩せて細くなるので、黒い紙に包んで引き出しの中にしまっておりました。明礬を熱い湯でにといた中に、黒い紙に包んで引き出しの中にしまっておりました。一度浸してから乾かすと、痩せを防ぐことができると古い本にも出ています。値段もほくちんと同様に、商品としてこんな安いものは他にないといていましたが、昔の人たちはそれさえ倹約して通例お客でもある時は二すじ家の者だけで仕事をする時は一すじに減らして、三本も燈芯を入れるようなお嫁さんは、経済を知らぬ女のように悪く言われました。燈芯が大切なというよりも、多くしておくと油のヘリ方が大きいからであります。それさえ構わなければ相応にあかるいものなのですが、通例は燈芯を倹約するために、行燈はうす暗くものと言われていました。
寝る時なはむろん吹き消しますが、赤ん坊でもあるか、まだ還って来ぬ人があれば、有明かにして残しておきます。そういう時はなるたけ細い一本あかりにしまして、他の燈芯は燈芯かきで、脇の方へ寄せておきます。こういう加減があるので、たびたび行燈の中に手を入れ、そのためにまた丸行燈が便利だったのであります。
この燈芯が油皿に浮いていると、油がよく泌まずまた火が動きやすいので、その上に燈芯押えというものをのせて、たいていはこれを燈芯_きと兼用にしました。行燈の火を_き立てるには、その燈芯押えをつまんで燈芯を前へ出し、暗くするのにもそれで後ろへ下げます。
いつ頃からかわかりませんが、この燈芯押さえには白い瀬戸物の観音の象にかたどったのもありました。
普通は下の方が輪になった棒みたいなもので、これもちょっと珍しい形でした。親たちは行燈をもっと明るくせよ、または暗くせよと言いつけられました、燈芯を動かすのが女や子供の役目であったことは、多分古い世の松の火から引きつづきと思いますが、それは決して不愉快な任務でなかったことは、私などもよく記録しております。
燈蓋または燈明皿というものは、昔は一枚のものだったらしく、古い絵巻にみえているのは、多くは木を三本組み合わせた上に、皿を一つだけ乗っています。ところが近世のリントウとかは、スズキ皿とかいうのは、どこでも上下二枚の皿を重ねております。
足利時代にできた「真俗雑記」という本には、油皿を二枚重ねて下の皿に水を入れておくと明るいと書いてあります。
もうあの頃から燈明皿を二重にする風習が始まっていたものとみえます。
実際には上の皿に燈芯を入れて場合、燈芯の吸い上げる力で油が上に集まり、それが皿の裏へ廻って下へ滴たるのを防ぐためにそうしたもののようで、もとは下の皿に溜まった油を、上の皿はへ戻しているのをよく見ました。それまでまだ油は物を伝って流れやすいので、行燈の底には別にまた行燈皿といって、上から落ちるものを受ける大形の皿があり、これがまた家々の欠くべからざる道具の一つでありました。
その皿は普通は瀬戸もので、これに簡単な絵模様が描いてありました。
近頃では珍しいものになって、それをたくさん集めて喜んでいる人さえあります。
柳宗悦さんなどが言い始められたゲテモノは、こういう行燈皿などの中に多いのであります。
太平記
中堂常灯滅ゆること扞びに所々怪異の事(巻第五)あさましやな、新常灯と申すは、先帝臨幸の御時、御叡信のあまりに、古 桓武皇帝の御自ら挑げさせ給ひし常灯に准へて、御手づから百三+三筋の灯心をかさね束、銀の御器に油を浸へて、かき立てさせ給ひし常灯なり。
太閤記
呂尊より渡る壷之事
泉州堺津菜屋助右衛門と云し町人、小琉球呂尊へ去年夏相渡り文禄甲午、七月廿日帰朝せしが、其比堺之化官は石田木工助にありし故、奏者として唐の傘、蝋燭千挺、生たる麝香ニ疋上奉り、御礼申上、則 真壷五懸御目しかば事外後機嫌にて、西之丸の広間に並べつ、壱千宗易などにも御相談有て、上中下段に代を付けさられ、札をおし、所望之面、誰によらず執候へと被仰出なり。依之望の人、西丸に祗候いたし、代付にまかせ五六日之内に悉 取候て、三つ残しを、取帰侍らんと、代官の木工助に菜屋申ければ、吉公其旨聞召、其代をつかはし、取って置候へと被仰しかば、金子請取奉りぬ。助右衛門五六日之内徳人と成にけり。
ろうそくの語る科学 (M・ファラデー)
ファラデーはロンドンの近いニューイントンの貧しい鍛冶屋の子として生まれた。1840年、13歳の時、本屋の小僧となり、のち製本屋の従弟に転じた。そして自分が綴じることを命じられた本のページをとおして、科学の原理を知った。
化学者ハンフリー・デービーに知られる機会を得、1813年王立協会の助手となり、23年に王立学会の会員に列せられ、25年に王立協会実験所長となった。
その主著《電気学の実験的研究》(全三巻)の最初の一節が公にされたのは31年8月であったが、これはその後20年間書き続けられた一種の研究日誌ともいうべきものであり、55年、5430節を教えて終わった。
彼を19世紀最大の物理学者たらしめた、いずれも画期的な三つの大発見、すなわち「電磁誘導」(1831年)「電解の法則」(1832-33年)および「静電誘導」(1837年)は、すべてこの《電気学の実験的研究》に不朽の言葉をもって記録されている。中から炎に関するものを抜粋した。
炎はいったいどんなふうにして、燃焼物(蝋)をつかまえるのでしょう、そこには一つの美しい秘密があります。「毛管引力」です。
燃料を燃焼の起こっている場所に持ち込み、しかもそこへ出たらめに置くのでなくて、燃焼がそれをとりまいて行なわれるちょうどその中心にみごとに置く力を言う。
ろうそくについて知らなければならないもの一つの条件燃料はこのさい蒸気の状態になっているということ。
炎の形について、ろうそくの実質が結局は芯の上端でどういう状態になるかを知ることが、肝心です。そこで燃焼によって、すなわち炎によってでなければ見られない美しい光輝が見れます。例えば、金や銀のまぶしく光る美しさ、ルビーやダイヤモンドのような宝石のもっとすばらしい輝きを知っています。けれどそのどれ一つとして、この炎と、その光輝と美しさを競うものはありません。どんなダイヤモンドが炎ほどに輝くことができますか?夜、ダイヤモンドが光るのは、じつにそれを照らす炎のおかげなのです。炎の闇(やみ)に輝きますが、ダイヤモンドの光はそれに当って輝き出すまでは何ものでもないのです。ろうそくの光だけが、自分で、自分のために、またその原料をととのえたもののために光るのです。
芯の種類によって炎の形が変わります。
伝統の和蝋燭は木蝋(純植物性)の原料を使用し、芯においては燈芯を使用します。
M・ファラディーはパラフィン(石油)でテストしたと思います。
ろうそくを消すとき臭い。これは蒸気が凝結するためである。
蝋の種類によってもいやな臭いがするものもある。
燈火の歴史 (M・イリーン)
発明家たちは最初は、油ランプを改良しようと努力した。良いランプをつくるために、第一に知っていなければならないことは、油をが燃えるときにどんな現象がおこるか、ということであった。彼らは、燃えるということはどいうときにどんな現象がおこるか、ということであった。彼らは、燃えるということはどういうことであるかを、正確にしらねばならなかった。この問題が完全に解決されたときに、はじめて、良いランプが現はれ始めたのである。
燃えている一本のろうそくを、びんのなかに入れてフタをすると、ろうそくはしばらくの間は、よく燃えている。だが数秒間たつと、炎小さくなり始め、ついに消えてしまう。このろうそくを外へ取りだし、再び火をつけてびんのなかへもどすと、今度はすぐに消えてしまう。そうしてみると、びんのなかにはまだ空気があるが、炎を生ぜしめるのに必要な、あるものがなくなっているのだ。
この「あるもの」というのは空気の一つの成分をなすガスである。これを酸素という。
ろうそくが燃えると、酸素は使い尽くされて、なくなってしまう。だがこれだけではまだ、燃えるということはどういうことであるかを正確には説明していない。ろうそくがすがたを消しており、そのうえに、酸素に何かの変化がおこっている。
この秘密はなんであろうか?
そのわけは、ろうそくの炎の消えたことだけが、私たちの目に見えるためである。ろうそくの炎の上にコップをかぶせると、コップの内側はすすでおおわれ、なかに水のしずくができる。これはろうそくが燃えている間に水のほかに、もう一つの物質すなわち目に見えないガラスである炭酸ガスも生じる。
燃えているろうそくをびんのなかへ入れたときには、びんの底には炭酸ガスが集まるのである。そしてろうそくは水のなかで燃えることができないのと同じようにこのガラスのなかでも燃えることができないのである。この炭酸ガスは液体のように、びんから流しだすことができる。
こうしたあとで、火のついたろうそくを再びびんのなかへ入れても。すぐに消えない。その炭酸ガスの層がまた、たまるまで燃えているだろう。つまり、ろうそくが燃える場合には、ろうそくも空気のなかの酸素も、なくなってしまうのではない。それらはただ、炭酸ガスと水蒸気とに、変化するだけのことである。昔の人々は、このことを知らなかった。
四百数年前に、燃えるということはどういうことであるかという問題を解決した、ただひとりの人があった。それはイタリアの芸術家で科学者および技術家であった、レオナルド・ダ・ヴィンチである。
レオナルド・ダ・ヴィンチ
ルネサンス期の芸術、自然科学の万能的な先覚者で解部学、土木工学など広い分野にわたる膨大な数の手稿、スケッチ、素描があり、特に絵画、建築、彫刻においてすぐれた作品を多数残した。絵画には「モナリザ」「最後の晩餐」など。
煙突つきのランプ / 当時すでに、すすが空気の不十分なために生じることを、理解していた。そしてまた彼は空気を十分に供給するためには、ストーブのなかに生じるような気流をつくらなければならぬ、すなわち炎の上に煙突をおかねばならぬ、という結論をもえていた。そうすれば熱せられた空気は炭酸ガスと水蒸気とを伴って、煙突を十分に含んだ新鮮な空気は下からはいってくるのである。
そこで、ランプのほやが発明された。最初のほやはガラス製ではなくし、サモワルの煙突みたいに、錫製(すずせい)であった。しかも、それをガラスのほやのように、ランプつぼへじかにはつけずに、炎の上のほうへおくようになっていた。それから約200年ほどしてから、カンケというフランスの薬剤師が光を通さないこれまでの錫製のほやのかわりに透明なガラス製のほやを使うという、すばらしい考案をした。
しかし彼でもさえ、このほやは透明であるから、もっと下へさげて、ランプつぼへじかにくっけることができるということには気づかなかった。
諸君は、こんなことは誰にでも一目でわかることだと思うだろうが、それから33年もたって、アルガンというスイス人が、はじめてこのことに気づいたのであった。
複雑なランプ / だから、ランプは一部分ずつ、徐々につくられたのである。最初は油を入れるつぼだけ、そのつぎには芯(しん)、最後にガラスのほやという順であった。
けれども、このガラスのほやつきのランプでさえも、あまりよく燃えなかった。
それはろうそく一本よりも明るくなかった。油がぐあいよく芯へ上ってゆかなかった。その上り方は、私達が使っている石油よりも、ずっと悪かった。しかも、当時は石油が世界中のどこにもなかったのである。
吸取紙を石油のなかと融けたバターのなかへと、浸してごらん。そうすれば、石油のほうがずっと速く吸い上げられることが、わかるであろう。油ランプの炎が小さかっとのは、油が芯へのろのろと上っていたためなのである。
そこで、油が自分からすすんで上ってゆかないとすれば、なにか方法を考えて、これをむりやりにもっと速く芯に送りこむように、しなければならなかった。この方法を考えだしたのは、レオナルド・ダ・ヴィンチよりも50年後の数学者カルダンであった。
彼の考えは、油のつぼを燃え口の上のほうにおくことだった。こうすれば、たるの飲み口から水が落ちるように、油は重力によって、炎のところまで流れ落ちてくる。
そこで、彼は、油流れ落ちる小さな管(くだ)で、油つぼと燃え口とをつないだのであった。カーセルという別の発明家は燃え口へ油をむりやりに送りこむために、ポンプを使うことを考えついていた、精巧な機械装置を考案した。
それは時計仕掛けで動くランプで、これでもって油を燃え口へ、むりやりに燈台で使われている。それはこのランプがきわめて一様な光を出すからである。最後に、第三番めの発明家はランプのつぼのなかへ一個の輪とばねを入れた。ばねが輪をおし、輪が油をおし上げて管から燃え口へ油をむりやりに送りこんだ。この式のランプは、ごく最近まで使われていた。私たちの祖父母もこれを使っていたのである。
空気がろうそくに触れると、それはろうそくの熱のために生じた気流に押されて上昇します。それは蜜蝋、獣脂、またはその他の燃焼物の外側を冷やすのでそのふちは内側よりずっと冷えています。
その中心部は、炎ために溶けていますが、外側の部分は溶けません。この場合は燃焼のできなくなるところまで芯に伝わっておりていくのです。もし気流を一方の側だけにつくるようにすれば、うえに述べた杯は傾き、液(溶けた蝋)がそこからこぼれます。なぜなら、この宇宙を統合している同じ重力が、この液体を水平にしているのですが、杯が水平でなくなれば、液体は当然こぼれ落ちることになるからであります。上昇気流のいくつかの働きのりっぱな実例をみるでしょう。
それはろうそくの片側に小さいこぼれ口が出来、そこが他よりも厚くなっている場合です。ろうそくが燃えていくと、その部分が残って、その側に小さな柱のようにつき出してきます。なぜなら、そこが他の蝋や燃料の部分よりも高くなると、風当たりがいっそう強くなり、よけいに、冷やされ、すぐ近くに働く熱の作用にいっそうよく対抗するようになるからであります。
 
灯芯引き

灯り / 電気も石油もガスもない時代、日本では灯りに何を使っていたかご存知ですか?油が入った小さな皿に糸が浸っていて、その先が灯りになっているものです。あれ、イグサが使われています。あんどん・和ろうそく、そして習字用の墨にもイグサが使われています。
畳やゴザに使われるイグサとは違います / イグサをちょうちんやあんどん、和ろうそくに使うといっても、あの緑のイグサそのままでは使えません。そこで「灯芯引き」と呼ばれる伝統技術の出番です。灯芯引きとは、イグサからズイ(芯)の部分だけを取り出す技術のことです。つまり、「灯芯」とはイグサの芯の部分のことです、「とうしみ」と呼びます。芯を取り出したあとには、イグサの表皮(藺ガラ)が残ります。これも他に用途があります。この灯芯用のイグサは畳やゴザ用のイグサとは種類が異なります。畳表用は細くて長い品種ですが、灯芯用の場合はイグサの原種に近く太く短い種類です。
安堵町 / 江戸時代中期-昭和43年までは安堵町でもイグサ栽培が行われていました。安堵町は富雄川、大和川、岡崎川とが合流する場所に位置し、いわゆる湿田(泥田)となっているためイグサ栽培に最適だったのです。しかし、家庭に電気が普及し灯芯の需要の落ち込みに従い、昭和43年(1968年)のイ刈りを最後に、町内でのイグサ栽培は途絶えたそうです。現在行われる灯芯引きは、年配のわずかな女性たちによって伝統が守られています。需要は少なくても灯芯は日本文化になくてはならないものです。現在は東大寺の修二会行事や茶事、墨の採墨などで使われています。東大寺のお水取りにも灯芯の束が献納されています。
お茶 / 茶道には、暁の茶事と夜噺(よばなし)の茶事というものがあるそうです。このうち夜噺の茶事というのは、冬の夜間に行う茶事です。日没後に集まり、闇を手燭や行燈で照らしながら灯かりをとり行うお茶のことです。この夜噺の茶事で、茶席での灯かりとなるのが短檠(たんけい)と呼ばれるものです。上の皿が油つきと呼ばれ、油が入っています。そして、その油つきに長い灯芯(長灯芯)が何本か浸してあります。この灯芯を長く、そして本数を多くすることで、「ごゆっくり、お楽しみください」というもてなしの心を表現するんだそうです。現在も、この夜噺の茶事には灯芯が欠かせません。
墨 / 灯芯が墨の原料のひとつであることと聞いて、本当に驚きました。ご存知のように、墨の原料は煤(スス)です。煤(スス)を採る道具は、素焼きの皿に菜種などの植物油を入れ、浸した灯芯を燃やします(不完全燃焼させる)。うして採った煤(スス)をニカワで固め、仕上げ加工をします。油は、菜種以外に松の木の樹脂や重油・軽油も使われてるそうですが、一番品質の良い高級品は、この菜種と灯芯の組み合わせです。  
 
蝋燭と提灯

蝋燭の伝来
「貧者の一燈」という言葉が佛典にあるから、その昔中国から渡ってきたものか、または古くインドからのものなのか分からないが、インドからのものとするとこの一燈も、これに対比される万燈も蝋燭の灯りであるような気がする。そうするといつ頃蝋燭が発明されたのかという詮索心が起ってきて、ものの本を調べてみると紀元前3世紀頃の青銅製の燭台が中国で出土しているということから大凡2,300年前の戦国時代、中国の王侯貴族が蝋燭の明かりを堪能していた、ということになる。
それでは我が国ではどうなのだろうか。遣隋使とか遣唐使によって佛教とともに伝来したであろうことは分かるが、貴重な輸入品として、宮廷、寺院などで儀式用としてちょっぴり使われたものか、どうなのか。
考えてみると日本人は上古から近代まで、闇に眼を慣らす生活をしてきた。荏(え)の油や菜種油や松脂などを頼りにする灯火具で、例えば行灯などに灯芯1本をつけて、蛍火のような光を引寄せ、縫いものの針を動かす女性の姿を、テレビドラマは時代劇で見せてくれるが、あれなどはまだいい方で、大方は日が暮れると寝に就き、夜が明けるとともに起きるという、そんな生活をしていたのではないか。
蝋燭の普及
秀吉の時代になって、日本でもようやく蝋燭が作られ出したと謂われているから、秀吉とてもその一生のうちに蝋燭の光の明るさを満喫できたということは何回あっただろうか。
江戸城などで綺羅星のように並ぶ大名達の席上、煌々とした大蝋燭が立ち連なっている光景などは、相当に時代が下がった頃の、それもドラマを通しての想像である。
江戸時代に入って次第に蝋燭が普及したとはいえ、おそらく可成り高価なもので、特権階級の特殊な用途にしか使えなかったらしく、何らかの儀式やお祭りや酒宴、集会など、人がたくさん集まるようなとき、或いは上流の武家、裕福の商家などの物儀(ものぎ)のとき、のような場合の使用に限られたようである。江戸期といえば町人抬頭の時代であって、文化、経済とも支配階級の武家社会を凌駕していたようだが、それとても夜は菜種油で灯芯の行灯であった。
畳表の藺草の髄を引き出したのが灯芯で、それを油皿に1本、暗ければ2本、3本と副えるが、副える本数だけ明るくなるものの、それに比例して油の消費が進む。何かとつつましい生活の昔の人が2本、3本というゼイタクは余程のときであったにちがいない。
提灯の伝来と普及
今でも旧家といわれる家の土間の上り口に、定紋入りの提灯箱がいくつも長押の上に並んでいるのを見る。あの中には、例えばソレッ火事だという大変なときの外へ飛び出す折、咄嗟に持ち出す提灯と蝋燭が入っている筈である。昔は外燈もなく真っ暗であったための非常の備えであり、蝋燭は大方の日常生活のなかでは特殊な用途のためのものだった。
面白い話がある。赤穂浪士が吉良邸打ち入りの際、浪士の磯貝正久が屋敷内へ踏み込むと真っ暗。そこで吉良家の下人をおどして1束の大蝋燭を出させ、それを部屋々々へ立てて廻り、一同の動きを大いに助けた、というのが山手樹一郎の小説の中にある。3万2千石という大身の吉良家であっても、蝋燭は何かの折に使うべき常備のものだったのだろう。
江戸時代、商人経済が発展してくると人々の動きは活発となり、夜間の外出も多くなる。また旅行なども盛んになるが、そういうとき必要になるのが提灯だった。蝋燭の普及があってこそ考え出されたヒット商品である。
いままで提灯というのは日本で考案されたものとばかり思っていたが、調べてみるとなんとやはり中国がその源流であった。いささかガッカリだが、それでも日本という国は面白い国で、何事によらずところにより用途によって、それなりの姿、形を整え、それを美しいものに煮つめてゆく力を持っている。
蝋燭の形は早くからあのずん胴型に形が定まっていまに続いてきているが、提灯には各地でいろいろな形に出会う。日本には提灯に最適の和紙があり、和紙があることにより提灯の発達があったといえようか。
その数多い提灯のなかで最も普遍的なのが「ぶら提灯」といって、ぶらぶら提げて歩くからこの名が付けられ、どこででも見られる丸形のものである。旧家の提灯箱の中味もこの提灯である。それに屋号や家紋を入れたりしているが、私の子供のころの八尾町の夜の路上はまだ街灯も少なく暗かったので、使いにゆくときや夜のお墓詣りにはこれを提げて行ったものである。
そのぶら提灯、たかが提灯かと思いながら仔細に見ると、なかなか驚くような発見がある。昔の人が永い間かかって出し合ってきた智恵の固まりみたいなものがここにも見られた。
提灯の構造
提灯を提げるときの持手、黒漆塗りの34、5cmほどの長さで、握る部分の手許と先端部に藤が巻きつけてある。
その持手の中に仕舞い込まれている飴色のものの端を引張り出してみると、偏平角に削った細い棒が伸びて出てきてしなしなと撓(しな)る。鯨のヒゲであるそうな。鯨のどこの部分のヒゲなのかわからぬがそう聞いた。竹などよりもはるかに強い弾力で撓やかである。
引張り出してそのヒゲの先につけるのが蝋燭の熱除けの笠である。円形の漏斗型をしていた径10センチもあろうか。提灯にともした蝋燭の炎と熱が真っ直ぐに立上るのをこれで遮断しようというのである。紙縒り製の編組品で漆が塗ってあり黒くカチカチになっている。大福帖など1度使った和紙をコヨリにして編んだものだが、まことに緻密に美しく編まれていて昔の人の手技に感心する。ぶら提灯をいくつも見たが様式はみな同じであるので、これはこう作るものという一定の形式が全国的に成り立っていたものだろうか。この2点、鯨のヒゲとか紙縒りの熱除けだけを採り上げてみても、ここまで作りあげるには積んだり崩したり、提灯職人たちの相当の時間と工夫があった筈である。
旅と提灯
江戸時代後期にはいまから想像もできない程の旅行ブームであったという。楽しいことの少なかった時代に、お伊勢詣りとか富士講とか、庶民たちは歴史上かつてなかった平和な生活を克ち取っていたのか。旅をする人々で東海道も中山道も賑わいが絶えなかった。そして旅には提灯と蝋燭が必須持物であったろう。
小田原提灯という小型に折り畳める軽便な提灯がブームとなり、それに似合う小型の蝋燭が売り出された。これで庶民の生活と蝋燭との距離がぐんと近くになった。小田原提灯も口のところと底のところは、ぶら提灯の熱除け皿と同じ紙縒り細工のものが殆どである。底を返してみると編み初めの芯の部分から外に向けて、菊の花のように広がる編み方で、漆で塗り固められているコヨリの浮き立つような跡目が美しい。
提灯づくり
県下でもいまは珍らしくなってきた提灯づくりの職人さんが、八尾の町に1人いる。
坂本善治さんである。先代から和傘づくりと提灯づくりをされていたが、傘は洋傘の普及で需要がなくなり、祭礼があるおかげで辛うじて提灯だけの仕事が残った。
「いま、提灯をつくっているから、見にこられんか」という案内をいただいて出向いてみた。以前は元気のいい人だったが、もう78才になられ、病後のこととてずいぶんと小柄になっておられた。畳敷6畳間の隅に、いま型を抜いたばかりの、1メートルもあろうかと思われる高さのずん胴の祭礼用大提灯が立てられていた。1対つくるので、あとの1個にとりかかる前のちょっと一服というときであった。
畳の上には木製でさまざまな形の小道具が散らばっていて、その色合い、擦れ工合はどれも永年使いこなされてきたことをしのばせて飴色になっている。くさび形のものが多いようだった。
仕事はまず提灯の紙を貼る前の骨組みからはじまった。これが根幹になる。すべてが部品の組立てなので、立ったり座ったり、周りに散らばるクサビを拾って締めつけたり、説明のしようもない熟練と重労働の連続にただただ感動しながら見ているだけだった。
これだけの大提灯の骨格づくりとなると、さすがに善治老1人では手不足で、老夫人が傍らから助っ人になる。大提灯の底部に当る古い型に何か書かれている。
「越中国石川県婦負郡」とある。明治9年から数年間富山県は石川県に編入されていたから、約120年前になる。
紙と提灯
型を組みあげると今度はそれに細い竹ヒゴを巻いてゆく。型を廻しながら間隔の目を追って巻くのだが、どうもそれが細くて白い節のないようなヒゴなので尋ねてみると、なんと細い針金に紙を巻いたものだという。昔から提灯の骨は竹ヒゴとばかり思い込んでいたが、ここにも時代の推移があり、少しでも手間のかからぬように、との智恵が働いている。針金に巻かれた紙は、表面に貼る紙と骨とが糊でしっかりと接着できるようにするためなのだ。
傍らの擂(す)り鉢に糊がつくられていた。蕨(わらび)糊である。いまどきは化学接着剤もいろいろある筈、しかし「昔とおんなじことしとるちゃ、これでなければ承知しられんから」とは手伝いの老夫人。
蕨糊は、蕨の根っこから採る白い澱粉糊で、鍋に固めに溶いて3、40分つきっきりで焦げないように煮る。煮あがると擂り鉢に移し、柿渋を少量加え、さらによく擂りあげる。この柿渋を入れるのがコツらしい。こうして驚くほど強い粘着力を持つ糊が、傘などの骨と紙との接着に用いられたのである。
ところで八尾の山家では江戸時代初期から冬になると紙漉きが盛んで、その紙の大半が富山売薬の袋などに使われたが、ほかに障子紙、傘紙、提灯紙などの生産も相当量あった。提灯紙は明かりを通さねばならぬため透明度が必要な上、薄手ながら繊維の絡み工合が緻密な、しかも強度のあるものが要求された。いまは八尾町に編入されているが、以前は仁歩村といわれた村の松倉という集落から漉き出された提灯紙は、楮の皮を江戸時代から続く手法の木灰のアクで煮て、皮についているゴミやキズを丹念に取り除くという方法を経て、前場に出し竿に掛け連ねる。厳冬のさなか、それも八尾の町から10キロも山の奥、渓谷の風は夕暮れになるともう凍みはじめるので、1晩の夜干しで楮の皮はカチカチに凍る。このように、煮た皮を冷凍させるという処理は類例のない方法なのだが、このために楮の繊維には何らかの変化が起こり、松倉紙という提灯に最適の紙が生まれたのではないか。
凍った皮は解凍してから石の上で木槌で丹念に叩く。叩いて広げ、引繰返してまた叩く。この繰返しで、細い繊維は1本から2本に3本に、さらにその繊維から微毛が出たりして研がれる。
このようにした原料を手も切れるような冷水の中から漉きあげると、薄手ながらパリッとして、腰の強靱な、象牙色の透明度抜群の紙ができあがる。「松倉紙」はまさに提灯紙の王さまだった。いまはもうこうした紙にお目にかかることはない。
蝋燭づくり
1月の16日は、毎年大荒れの雪空になることから、昔はこの空模様を「ごまんさん荒れ」と呼んでいた。親鸞上人のご命日で、善男善女が雪道をかきわけ、夜通しのお寺詣りをするのが真宗王国富山の習わしである。
この夜のお寺の御(み)堂の入口に大蝋燭が1対での2本立ち、高い炎をあげていたのが子供の頃の記憶にある。
「蝋燭屋」さんも、以前はどこの町にもあったのだろうが、いまは富山市中央通りの尾島健一さん、高岡市旅篭町の槻橋さん、ほかに黒部か滑川あたりに1軒と開くが、和蝋燭の需要もお寺さんあればこその細々とした継続、ということになってしまった。
「ごまんさん」の行事はいまも真宗のお寺に続いていて、大蝋燭の註文は絶えなくあるが、昔のように一貫匁蝋燭という巨大なものはなく、その半分の五百匁ていどになってしまったと蝋燭屋さんはいう。五百匁蝋燭とはどれほどの大ささのものか分からぬが、因みに値段は、ときくと1本5、6,000円位のものという。
或る日、高岡の槻橋屋さんで、蝋燭をつくる作業を見せて貰った。お店の中は蝋燭店という構成でなく、お香屋さんで、沈木とか伽羅とかの名香がガラスケースの中でコレクションされ、店内は香のかおりに満ちていた。
狭い仕事場には真っ黒な大鍋が二つ、中に澄明な液体をいっぱいに湛えながら炉の上に乗っている。澄明な液体は蝋であり、炉には蝋が冷えて固まらない程度の弱い炭火が埋め込んである。入口に近い室の隅に縁(へり)の分厚い流し台が、床板にべたりと据えられていて、その前にこの家の主人がどかっと胡座を組んで仕事をしていた。易者が使う筮竹のような竹の棒に、蝋燭の芯が巻きつけてあるのを十数本ほど、鍋に澄んでいる液の中にどっぷりとつけ、流しの板の上でしばし揉んでから、両の掌で縄を綯う手捌きで棒をこすり合わせて廻す。軽快なリズミカルな音がする。1工程が終ると傍らにそれを立て、つぎの十数本というふうに、右に左に身をよじって、手の届く範囲で竹の棒の1握りづつを並べてゆく。手際の良さに見とれているうちに、蝋を重ね重ねしてゆく竹棒の蝋燭が次第々々に太くなる。幾回かけるのかと聞くと15、6回だろうという答え。それで1本4匁の蝋燭が出来、目加減、手加減に狂いはない。最後に表面を手で撫でつけて化粧をし、薄刃で口のところを切って芯を出し、一定の寸法に切り揃えると仕上りであるが、箱の中に並べられてゆく白い蝋燭は、いまこの世に生まれ出たばかりという、まことに清浄無垢な感じであった。
朱蝋燭のことなど
蝋燭には白蝋燭と朱蝋燭があって、朱の方はお芽出度に関係するときに使われるが、裡から滲み出るような深い朱の色は美しい。さきに蝋燭の形には昔も今も変化はないといったが、朱蝋燭になると普通のずん胴型のほかにバチ型という形が出てくる。丁度三味線のバチに似て、上部が大きく開き、中程は細く根方がやや太目になり、武家が裃を着けたように端正である。いつ頃に発生したものか分からないが、日本人が生み出した勝れた造形である。仕事場の棚の上で、小さな鉋の、台が凹部を削るように円味になっているのがあったが、バチ型はこの鉋で削り出すのである。
朱蝋燭の朱は一体どんな色料を使っているのかという疑問が生じて訊ねてみたが要領を得る答えを貰えなかった。朱蝋燭というのは作って半年もすると褪色して、それも紫色がかった汚い色になる。
それを槻橋さんは「うちでつくるものは特別の工夫がしてあるので変色も褪色もしない」といわれるので特別な工夫とは?と訊くと「それは企業秘密」との答えだった。
専ら佛事に使われていた朱蝋燭だが、その美しさ、バチ型という形の良さから戦後のクリスマスパーティなどにも使われてきて、需要もまだ多いとはいえないが、季節になると東京の民芸店から注文がくるという。1本ずつ箱に入れ、詰めものをして動かぬようにして出荷するのだが、さいきんになつて蝋燭の生命ともいうべき先端の芯が折れて届くという苦情が出てきた。以前にはあまりなかったことで、原因が分からなかった。和蝋燭の芯は例の竹の棒に薄手の和紙を巻いて、藺草から引き出した髄、いわゆる灯芯をその上から巻きつけてつくるのだが、近年は和紙の代りに古くなった電話帳の紙を使っているとのこと。和紙は楮という長繊維が搦み合って出来ている丈夫なものなのだが、電話帳用紙は足の短い化学繊維をさらに微少にして抄造されているので、力が加わればすぐに裂けてしまう弱い紙である。これでつくった芯では「折れる」というクレームがつくのはやむを得ないかも知れない。
和蝋燭と西洋蝋燭
和蝋燭は木蝋からつくられているとばかり思っていた。ところが30年程も前になろうか、或る日或るとき突然に和蝋燭の蝋が白くなった。
木蝋、いわゆる和蝋は黄ばんだ褐色をしている。櫨の木の実から採集するが、北九州、四国などが産地であった。
明治になり西洋蝋燭が輸入され、あのちょっぴり糸芯の見える白い蝋燭が、価格の廉さと明度の高さからたちまち家庭の中に入ってしまった。蝋燭というものが佛壇に灯るようになったのは、こうして明治になってからで、以来佛壇に蝋燭という生活習慣が身について今日に至っている。西洋蝋燭は、西洋蝋、即ち獣魚油、パラフィンなどが原料といわれるが、それが価格は廉く色が純白であるので、たちまち和蝋を駆逐し、形こそ和蝋燭であるが中味は西洋蝋が原料ということになってしまった。尋ねてみると木蝋と洋蝋では原料価格に5、6倍の差があるそうだ。佛壇を修理する漆屋の話では、本物の和蝋燭では煤の出が少なく佛壇の汚れもないが、西洋蝋燭ではそれがヒドイということだった。そんなことばかりでもないが、どうも安くて手間ヒマのかからない新しいものには、兎角一言ものをいいたいことが出てくる。  
 
提灯

伸縮自在な構造で細い割竹等でできた枠に紙を貼り底に蝋燭を立てて光源とするもの。ろうそくではなく電気による光源のものもある。
内部に明かりを灯し、紙などの風防を通して周囲を照らす。「提」は手にさげるという意味で、携行できる灯りを意味する。いわば昔の懐中電灯で、中に蝋燭を点して持ち歩いたが、現在では祭礼の際を除くと、日常の場でこのように使われることはほとんどない。
近年は、竹ひごや紙の代わりにプラスチックのシートを使い、蝋燭の代わりに電球を使って、主に祭りなどのイベントや看板として使用されることが多い。インテリアや土産物などとしても販売されている。
提灯について書かれた最も古い文書は、1085年(応徳2年)に書かれた『朝野群載』、絵画は1536年(天文5年)の『日蓮聖人註画讃(巻第五)』とされている。当時の提灯も折りたたみ可能な構造であったが、張輪は付いていなかった。江戸時代以前は、上流階級において宗教的な祭礼や儀式に使われた。江戸時代以降は蝋燭が普及したため、庶民も照明器具として使うようになった。現在では、照明に電球を用いたものが多い。
構造
火袋 / 提灯の本体部分。竹ひごを多数組み合わせて筒状に組み、その周囲に障子紙を張って、中に蝋燭を立てられるようにしてある。中国のものは、布を貼ることが多い。蝋燭に火を点すと明かりが障子を通し外を照らす。夜にこれを持ちながら歩くと道中の明かり取りになる。手に持たず、家の前にかけておくと外灯にもなる。外に貼った紙には折り目がつけられており、使用しない時は上下方向に折りたたむことができる。周りに障子紙が貼られているので、風で火が消えることはほとんどないが、上下に穴が空いて空気を通るようにしているため酸素不足で火が消えることもない。殆どには上下に曲げわっぱと呼ばれる木製またはプラスチックの皿と蛇腹状の紙で作成されている。竹ひごは一本の長い竹ひごを螺旋状に巻いて使う割骨(一本掛け)と、短い物を輪に組んだ物を多数用意する巻骨がある。前者は、現在日本では香川県で作られる讃岐提灯が用いており、製作工程が短縮される反面、竹ひごが一箇所切れると全て外れてしまう欠点がある。
種類
手に持つ弓張り提灯、吊り下げる吊提灯など様々な形がある。祭事に使われる物は神社仏閣の名称または家紋などを記し、涼風を楽しむ際に使われる岐阜提灯などは風景などが描かれている。
高張提灯 / 長型・丸型・卵型
弓張提灯 / 長型・細長型・丸型
箱提灯 / 小田原提灯
中国の提灯
中国語では、日本でいう据え置き用の行灯(これも本来は、字の通り携行用)を含め「灯籠」(タンロン)と呼んでいる。中秋節などに用いる柄の付いた手持ちの提灯は「手提灯籠」と呼ぶが、折りたたみ式のものは少ない。紙製の折りたたみの提灯は「折疊紙灯籠」と呼ぶ。小田原提灯のような円柱形のものは「直筒灯籠」、動物や植物などの形にしたものは「造型灯籠」と呼ぶ。大型で軒などに下げるものは球形に近いものがよく用いられるが、竹ひご(現在は鉄線を用いることが多い)は縦に通すことが多く、このタイプでは折りたたむことができない。現在は、照明用というよりも、慶事の際の飾りや、企業名や商品名を書いて、広告として使うことの方が多い。軒につるすための、枠を付けた四角い提灯は「宮灯」といい、中には走馬灯に加工しているものもある。
関連する語句
盆提灯 / お盆の時期にご先祖様を供養するために仏壇等の前に飾る提灯。
御神灯(御神燈) / 神前に供える、もしくは芸能の縁起を担いで飾る提灯。
看板提灯 / 食べ物の名前や店名が入った提灯で、店先等に看板用に飾る。主に赤提灯と白提灯がある。
赤提灯 / 店先に赤い提灯を吊り下げることから、飲み屋のことを赤提灯と呼ぶことがある。
緑提灯 / 地場・国産食材をカロリーベースで50%以上使用している飲食店や宿泊施設などが掲げている。提唱者の丸山清明は「2008年外食アワード」特別賞を受賞。
鼻提灯 / 鼻から垂れた鼻水に鼻息が混じり、膨らんだ様子を提灯に見立てた表現。チョウチンアンコウ(提灯鮟鱇)深海に生息するアンコウの一種で、雌は頭部に発光器を持っている。
提灯持ち / 他人の手先に使われ、その人の長所を吹聴して回ったりすること。頼まれもしないのに他人を誉めたり宣伝したりすること。また、それをする人のこと。
提灯記事 / 上記から転じ、特定の会社の新製品や新企画を褒めちぎる報道を指すが、企業がプレスリリースをネット配信するようになってからは廃れつつある。
提灯お化け / 日本に伝わる妖怪。
ふぐ提灯 / 本物のフグやハリセンボンを加工して作ったみやげ物。  
 
行灯、行燈(あんどん)

照明器具の一つ。持ち運ぶもの、室内に置くもの、壁に掛けるものなど様々な種類がある。もともとは持ち運ぶものだったため「行灯」の字が当てられ、これを唐音読みして「あんどん」となった。携行用は後に提灯に取って代わられた為、据付型が主流となった。
一般的に普及したのは江戸時代である。それまでは火皿が覆われていなかった。竹、木、金属などで作られた枠に和紙を貼り、風で光源の炎が消えないように作られている。光源は主に灯明(とうみょう)で中央に火皿をのせる台がある。石もしくは陶製の皿に油を入れ、木綿などの灯心に点火して使用する。蝋燭を使用するものもあったが当時は高価であったため、主に菜種油などが使用された。庶民はさらに安価だが、燃やすと煙と異臭を放つ鰯油(魚油)などを使っていた(化け猫が行灯の油をなめるという伝説は猫が脂肪分を効率よく摂取するためにこれらをよく舐めていたことに由来すると考えられている)。さらに下層では「暗くなったら寝る」という有様だった。
照明器具とはいっても現在のものとは比較にならないほど暗いもので、電球の50分の1程度といわれている。
現在でも和風旅館などでインテリアとして見かけるが、防災上、および実用上の観点から光源はほぼ電球が使用される。
行灯の種類
置行灯(おきあんどん) / 最も一般的な室内型。多くは縦長の箱型をしており、内部には灯明をおく台、上部には持ち運び用の取っ手が付いている。下部に引き出しなどを備えたものもあり、灯心、蝋燭などを収納した。小型のものは雪洞(ぼんぼり・せっとう)とも呼ばれる。
掛行灯(かけあんどん) / 店の軒先などに掛け、屋号や商品名を書いて看板としたもの。夜間も店を開けている飲食店などに多かった。
遠州行灯(えんしゅうあんどん) / 置行灯の一種。円筒形をしているが完全に囲わず、一部が空いている。ここから点火・消火の操作を行ったり、行灯自体を回して光量の調節ができる。一説には小堀遠州の発明による名称とも。
有明行灯(ありあけあんどん) / 小型の行灯で、就寝時、枕元に置いて使用する。こうしておかないと用を足しに立ったり何か突発的な事態が発生した時に即応できない。窓が付いており、光量を調節できるものが多かった。名前は「夜が明けて有明の月が出てもまだ点いている」ことから。 
 
灯籠

日本の伝統的な照明器具の一つ。「灯」を旧字体で「燈」、「籠」を異体字で「篭」と表記する場合もある。本項では固有名詞以外は「灯籠」の表記で統一する。
元は文字通り、灯(あかり)籠(かご)であり、あかりの火が風などで消えないように木枠と紙などで囲いをしたものである。木枠で小型のものは神棚などで用いられる。また、寺院の庭園など屋外には堅牢な石灯籠や金属灯籠(銅灯籠など)が設けられる。吊下型の吊下灯籠もある。
灯籠は仏教の伝来とともに渡来し、寺院建設が盛んになった奈良時代から多く作られるようになり、多くは僧侶が用いたとされる。平安時代に至ると、神社の献灯としても用いられるようになる。その後室内で用いるものは行灯(あんどん)、折りたたみ式で携帯も可能なものは提灯と分化した。灯籠と言った場合、神社、寺院や旧街道などに多く存在する屋外の固定式を指すことが多い。また仏具としての室内用の灯籠(置灯籠・釣灯籠)や祭礼用などで移動可能なものもある(青森のねぷた祭り、熊本の山鹿灯籠など)。近代以前は港に設置され灯台(常夜灯)としても使用された。
光源としては、油やろうそくが用いられた。現代では電気やプロパンガスによるものもある。日本庭園における石灯籠のように実用ではなく装飾目的になっているものもある。
寺院における灯籠
灯籠はもともと仏像に清浄な灯りを献じるために仏堂などの前面に配置された。古代寺院においては、伽藍の中軸線上に1基置かれるの通例だった。そのため、左右非対称の伽藍には灯籠の遺構は見られず、中軸線が確認できる伽藍においてのみ確認されている。これは平安末から中世における浄土寺院においても同様である。
日本庭園における石灯籠
日本には飛鳥時代に仏教が伝来したのと同時に灯籠が伝来した。初期はその多くが「献灯」と呼ばれ、社寺に設置されていたが庭園文化の発達と共に園内に鑑賞目的で設置されるようになった。石質は花崗岩が主流で、その中でも御影石は石灯籠の中で最も多い。
石灯籠の部分名称
宝珠(擬宝珠) / 笠の頂上に載る玉ねぎ状のもの。
笠 / 火袋の屋根になる部分。六角形や四角形が主流であるが雪見型の円形などもある。多角形の場合は宝珠の下部分から角部分に向かって線が伸び、突端にわらび手という装飾が施されることもある。
火袋 / 灯火が入る部分で灯籠の主役部分である。この部分だけは省略することができない。装飾目的の場合は火をともすことは無いが、実用性が求められる場合には火や電気等により明りがともされる。
中台 / 火袋を支える部分で最下部の基礎と対照的な形をとる。蓮弁や格狭間という装飾を施すことがある。
竿 / もっとも長い柱の部分。雪見型に代表される背の低い灯籠ではよく省略される。円筒状が一般的であるが、四角形、六角形、八角形のものも見られる。節と呼ばれる装飾がよく用いられる。
基礎 / 最下部の足となる部分である。六角形や円形が主流。雪見型灯籠などでは3本や4本の足で構成される。
灯籠の代表的な種類
春日型 / 寺社で多く見られるもので実用性も高い。竿が長く火袋が高い位置にあるのが特徴である。園路沿いに設置するのが一般的。適切な固定措置をとらないと地震時には倒壊する危険性が高い。
雪見型 / 雪見とは「浮見」が変化した語である。竿と中台が無い為、高さが低い。主に水面を照らすために用いられるので笠の部分が大きく水際に設置することが多い。足は3本のものが主流。笠の丸い丸雪見と六角形の六角雪見がある。
岬型 / 雪見型から基礎部分(足)を取り除いたもの。州浜や護岸石組の突端に設置する。灯台を模したものである。
織部形灯籠 / つくばいの鉢明りとして使用する、四角形の火袋を持つ活込み型の灯籠。その為、高さの調節が可能である。露地で使用される。奇抜な形から江戸時代の茶人・古田織部好みの灯籠ということで「織部」の名が着せられる。石竿に十字模様や聖人(実際は地蔵菩薩)のようにも見える石像が刻まれており、これをもってキリシタン灯籠と呼ばれることもある。ただし、織部灯籠をキリシタン遺物と結びつける説が現れたのは昭和初期からであり、否定的な学者も多い。
遠州形灯籠 / 小堀遠州の意匠によるもので、笠が特徴的で、小堀家の家紋である七宝紋の彫りのあるものもある。  
 
蝋燭の歴史1

古代エジプトではミイラ作成などで古くからミツロウが使われており、2300年前のツタンカーメンの王墓からは燭台が発見されていることから古くからろうそくが使われていたと見られている。紀元前3世紀のエトルリア(現在のイタリアの一部)の遺跡から燭台の絵が出土し、この時代にろうそくがあったことは確かだとされる。この時代の中国の遺跡でも燭台が出土している。
ヨーロッパにおいては、ガス灯の登場する19世紀まで、室内の主な照明として用いられた。キリスト教の典礼で必ず使われるため、修道院などでミツバチを飼い、巣板から蜜ろうそくを生産することが行われた。釣燭台(シャンデリア)は本来ろうそくを光源とするものであり、従僕が長い棒の先に灯りをつけ、ろうそくにそれぞれ点火した。蜜ろうそくのほかには獣脂を原料とするろうそくが生産された。マッコウクジラの脳油を原料とするものが高級品とされ、19世紀にはアメリカ合衆国を中心に盛んに捕鯨が行われた。
日本でろうそくが最初に登場したのは奈良時代である。当時のろうそくは中国から輸入された蜜ろうそくと考えられている。恐らく、仏教の伝来とともにあわせて伝わった。平安時代になり、蜜ろうそくに代わって松脂ろうそくの製造が始まったと考えられる。その後、和ろうそくと呼ばれるはぜの蝋やうるしの蝋などを使ったものに変わり、江戸時代にはろうそくと松ヤニと混ぜてハードワックスにしていた。また、江戸時代には木蝋の原料となるハゼノキが琉球から伝わり、外出用の提灯のための需要が増えたこともあって、和ろうそくの生産量が増えた。和ろうそくは裸で使うより提灯などに入れて使うことが多かったので、蝋が減っても炎の高さが変わりにくいように上の方が太く作られていた。明治以降の西洋ろうそくの輸入により、その地位も取って代わられている。
産業革命、石油化学工業の発達により18世紀後半以降、石油パラフィンからろうそくが作られるようになり、工業的大量生産が可能になった。厳密には蝋ではないが、「ろうそく」として最も普及している。
ろうそくを供える
私たち地球人は時代と国境を越えて、喜びや悲しみの時に必ずローソクを点してきました。そして、世界のほとんどの宗教はローソクの明りの下で敬虔な祈りを捧げます。
日本人は神棚に神を、仏壇にご本尊をお祀りします。また、仏様になったご先祖の位牌を置いて感謝のお祈りをすることを習慣として永く継承しています。そして「五供/ごく」として花、水、ご飯、香、灯明を供えますが、ローソクに火を点すことにはどんな意味があるのでしょうか。
ローソクの灯には「燃焼する炎」としての要素と「周りを明るく照らす光」としての二つの要素がありますし、自らを燃やしながら周りを浄化し、辺りに光を送り続ける姿は「超我の奉仕」を象徴しています。
仏教では苦しみの根源である迷いや煩悩を「無明/むみょう」という言葉で表現しています。そして、人生は苦しいことの連続だけれども、少しでも煩悩を鎮めて苦を減らす努力をしましょう、と釈尊は説いています。
炎には不浄を燃やし、魔を除き、周囲を清める働きがあります。
光は人間が煩悩の暗闇から脱却するための道を明るく照らし、仏の知恵と救いを表しています。
だから、ローソクを供えることは、炎で周りの不浄を清め、苦しみから離脱するために煩悩の闇に光を当てる(知恵を以て悟りを開く)意味があります。
さらに、ローソクの明りはご先祖様と現世の私たちを結ぶ架け橋ですから、この明りに依ってご先祖様は彼岸から此岸にやって来るし、私たちが彼岸に行く時もまた明りに導かれるのです。
静かな灯をじっと見ていると心がどんどん澄んでいくのがわかるでしょう。炎として燃え盛る灯が、逆に心の炎を鎮めてくれるのです。煩悩の火がおさまれば、知恵が授かります。正しい判断が生まれ、自然に勇気が湧き出てきます。
ダイアナ王妃を悼む英国民や9.11でアメリカ人があれだけの数のローソクを捧げて祈る光景を眼のあたりにして、彼らの心の中にも生きとし生けるものとして同じ感性や考えが宿っていると想わざるを得ません。むしろ、宗教を超えた領域の、人間としていとも自然な行為でありましょう。
ローソクを点すことは、静かな無の境地で仏に祈り、先祖に感謝の誠を捧げるために素直な自分の心を導き出す大事なプロローグの儀式と言えるでしょう。オン・オフによって点滅される電気灯に、ローソクの掛け替えのない役目と深い意味を見い出すことは不可能です。
お釈迦様は八十才で入滅する時に「おまえたちは自分自身を灯明として生きなさい。決して他に頼るな」と弟子たちに遺言を残し、灯明を知恵や真理の象徴として遣っています。
そして、仏教ではこの遺言を自灯明と言い、全ての教えの根幹に位置づけているのです。 どうぞ、真心を込めて、良いローソクをお供えください。  
 
蝋燭の歴史2

紀元前3世紀 / 紀元前3世紀頃までさかのぼり、イタリア・エトルリアの墳墓の壁画に2台の蝋燭台が描かれている。又、中国においても紀元前3世紀頃漢の高祖の時代に200枚の蜜蝋が献上されたという記事が残されている。日本においては、仏教伝来と共に始まったとされている。
奈良時代 722年 / 元正天皇から大安寺に「蝋燭40斤8両」が下賄されたと記述されている。この時代の蝋燭は蜜蝋(みつろう)であったが、貴重品であり、遣唐使船よりの輸入であったため遣唐使船が廃止されると、輸入がが途絶えると松脂を使用した蝋燭が登場する。
原始的な蝋燭ながらも日本においては一部明治時代まで使われていたと言われている。
平安時代 1132年 / 蝋燭の形状を示す資料は「兵範記」の1132年の七夕の挿入図などには形状が現代のものとほぼ同様であることがわかる。
室町時代 / 「太平記」などに蝋燭の記事が見えることから再び中国より輸入されたようである。室町時代後期には「木蝋燭」が登場する。これは現代でいう和蝋燭のことで、その製法が今に伝わる
明治時代 / ヨーロッパからパラフィンを使用した蝋燭の製法が伝わり洋蝋燭が登場する。安価な灯火として広く庶民に広まった。  
 
蝋燭の歴史3

紀元前32000年頃 / フランスのショーヴェ(Chauvet)洞窟(現在のところ、世界最古)に、松明(たいまつ)の跡。
紀元前4000年頃 / エジプトで燭台(現在のようなものではない)が発見されている。主に獣脂が使われていた。
紀元前1600年頃 / クレタ島のミノス宮殿で、円筒形のキャンドルを差し込む穴のある燭台が発見された。
紀元前1300年代 / ツタンカーメン王墓から、4つの燭台が発見されている。おそらく蜜蝋キャンドルが使われていた。
紀元前15年頃 / ギリシアのテサロニケのアンティパトロスは、ワックスでおおわれたキャンドル、一片の薄い樹皮によってまとめた、(灯心草の)髄で形作られたクロノスの灯心草(トウシンソウ、イグサ)ランプについて書き留めた。
100年頃 / 小プリニウスは、灯火は一部皮をはいだ灯心草をワックスの中に浸すことによってつくられる。キャンドルもまた、亜麻の織り糸を樹脂やワックスでおおう。
313年 / キリスト教がローマ皇帝によって公認される。教会では蜜蝋キャンドルが灯される。それに伴い、中世では、修道院をはじめとして養蜂が盛んとなる。
500年代 / 仏教伝来とともに蜜ろうそくが日本に伝わったとされる。貴重なもので宮廷や寺院で特別なときに用いられていた。
平安時代 / 遣唐使が廃止され、唐との交易が衰退し、蜜ろうそくも姿を消す。松脂(まつやに)ろうそくができる。
室町時代 / ウルシや櫨(はぜ)で作られた木ろうそく(和ろうそく)が生まれる。
16世紀. / 宗教改革が行われる。教会は質素になり、養蜂は衰退する。ステンドグラスも衰退。
江戸時代 / 櫨の生産が始まり、和ろうそくが出回るようになる。かなり高価で庶民が手にするようになるのは、江戸後期に入ってから。旅ブームと相まって、提灯とろうそくは旅の必携品だった。
1800年代初期 / 庶民にとって、蜜ろうそくは高嶺の花。主に獣脂が使われていた。
1820年代 / フランスの科学者シェブルール(Chevreuil)による研究書が出版された。植物や動物の脂肪を、アルカリと混ぜることで脂肪酸とグリセリンに分離する。このケン化の技術は石けん製造に使われていた。
1830年代 / そのケン化の技術をさらに発展させ、ステアリン酸のキャンドルがつくられる。獣脂のようなすすや悪臭がない。
1870年-  / ガス灯に代わり、石油ランプが普及する。キャンドルよりも明るく安価。1882年にはエジソンが世界初の電灯用発電所をロンドンに設置し、照明は電気へと移行して行く。キャンドルの照明としての価値は下がっていった。一方石油から作られるパラフィンのろうそくは1850年頃から製造され出し、1870年ではまだわずかな普及率だったのが20世紀に入ると90%の普及率となっている。
明治時代 / 石油ランプが輸入され、そのうち国産品が出回るようになる。やがて、ガス灯、電灯が台頭してくる。
大正時代 / 電灯が急速に普及し、ろうそくはパラフィンが主流となったため、日本の主要産業であった和蝋燭は衰退していく。  
 
蝋燭の歴史4

ローソクは古くから使われており、紀元前3世紀ころから、蜂の巣から採れる蜜蝋が使われていました。日本では奈良時代に中国から伝わってきましたが、大変貴重なもので特別な時、特別な場所でのみ使用されていました。国内でローソク(木ろう)が製造され始めたのは飛鳥時代末期(8世紀)に漆の実からロウを採ったであろうと言われています。天正年間(16世紀)博多の商人が、中国から長崎へはぜ実を伝えました。明治時代に入ってようやく現在のようなローソクが作られるようになり、大変普及しました。
しかし、昭和になって明るい電気照明器具が実用化され始め、現在では生活のなかに照明としてほとんどローソクを使う事はありませんが、オシャレなローソクやアロマローソクが販売され、若い人達の間でも人気があり癒しの面でも喜ばれローソクの灯りもまた、見直されてきています。
神秘的で安らぎを感じるローソクの灯り、その焔を見つめていると心が落着きなごやかな気持ちになる人も少なくないでしょう。最近は日本でもインテリアや癒しの効果にローソクを購入している方も増えてきました。
ミツロウのお話 / ミツロウは多年にわたって、人間の生活に重要な役割を果たしてきました。ミツロウの最初の記録は、紀元前4200年頃に、ミイラの保存に使われていました。5-15世紀には、ミツロウは通貨として使用されるほど価値あるものでした。また、処女ミツバチが、天から地上へ直接舞い降りたという伝説があり、神秘的な意味を持つことから、今日でも教会や悪魔祓いの儀式用キャンドルに、ミツロウの使用が規定されているところもあります。ミツロウはミツバチの巣から採取するのですが、ミツバチには多くの種類があり世界各地に分布しています、現在、養蜂事業で飼育されているミツバチには、大別してヨーロッパ系とアジア系があります。ミツバチは、巣作りの時に巣の材料を(蜜ろう)下腹部にあるろう線から分泌します。ミツロウは花粉の色素によって、色々に着色して臭いもつきます、そのためミツロウはミツバチの種や花の種類によって異なります。最も良い臭いのミツロウは、イングランド東海岸のノーフォーク州産のものといわれています。
 
和蝋燭の歴史1

和ろうそくの歴史は古く、奈良時代に中国より「ろうそく」が輸入されました。江戸時代に、はぜの木(ウルシ科)の輸入により広く栽培が始まると、仏教の普及と共に仏壇の灯明として広く用いられるようになりました。
1650年頃、七尾に「蝋燭座(ろうそくざ)」が開かれました。「座」とは現代における同業者組合のようなものです。当時、物資の運搬には主に船が使われました。はぜの木から採る原料の蝋(木蝋)は四国や九州より、芯に使われる和紙は石見(いわみ)より船で運ばれてきたようです。「北前船」の活躍の舞台でした。
七尾は湾の奥にあり、日本海の荒波から守ってくれるので、物資のあげおろしには最適でした。北前船の寄港地として、天然の良港である七尾港が栄えたため、各地の原料をとりよせ、出来上がった和ろうそくを各地に運ぶことができました。
このような背景から、七尾でろうそくの生産が盛んになっていったのです。  
 
和蝋燭の歴史2

日本のろうそくの始まり / ろうそくは、日本にも早く仏教の伝来に伴って輸入されたらしく、奈良時代にはすでにろうそくが用いられていたことは確かで、747年(天平19)に記された大安寺の〈流記資財帳〉にも722年(養老6)の元正天皇から同寺に賜ったもののなかに〈蝋燭40斥8両〉の品目がある。
大安寺 / 「天下大平、万民安楽」護国の官寺として、平城左京に、右京の薬師寺と雄を競った寺。日本仏教の源泉と称せられた寺。建築史、彫刻史上に異彩を放ち、印度、中国の来朝者の足を止めた進歩的な寺院。  
 
和蝋燭の歴史3

会津における蝋燭の歴史は古く、今から500年ほど前、宝徳年間、時の領主芦名盛信が漆の植樹を奨励したことに始まったといわれています。漆樹の樹液は漆塗料となり、又その実(種)からは蝋(ろう)が採取されたため、以来漆器と蝋燭は会津の伝統的、かつ誇るべき産業となりました。天正年間(1590)この地に移ってきた蒲生氏郷が、近江より優れた技術者を呼び寄せ、品質は更に向上しました。その後、江戸時代には藩主である松平氏が財源として活用した為、蝋燭は日本中に行き渡り会津蝋燭の品質の良さは広く世間に知られることになりました。又売り上げ向上をはかるために蝋燭に絵を付けた絵蝋燭が考案され、大名や神社仏閣、上流社会で愛用されました。特に婚礼の際には一対の絵蝋燭がともされ、これが「華燭の典」の語源になったとも言われています。又花のない会津の冬には仏壇に供える花の代わりに絵蝋燭を飾るようになったといわれています。
 
和蝋燭1 職人談

私が考える和ろうそく職人とは、手掛けが出来る事が条件と思います。
3年では、条件がそろえば何とかできるが、暑いとき寒いとき湿度の多いとき、乾燥しているとき、また、蝋の温度、その時の体調など条件が変わったときその時どう対処すればいいか解らない。
その事を総合的に体得できる様になるのは、やはり10年かかる。
最初は挫折のくり返し、どうして手だけであんなにそろった物が出来るのだろう。
大量生産時代に、逆行したような、手作業。
生産性とか、効率性とか、利益率とかその様な世界からは無縁の忍耐の作業が続く。
しかし、それだけを続けていたのでは、希望がない。
その中にでも、よそと違う自分独自の特徴を持たせなければ、なりません。
試行錯誤の上、まだ満足ではないにしろ、ようやくそれなりのものができた時は感激しました。
そんな事から、今の時代ではこの技術は第三者には伝えられないと思う。
まず、3年もの間人件費を払い続ける資金がない。
その初心者の失敗作を全て手直ししなければならない、手間は3倍以上かかる。それなら、最初から自分がつくった方が早い。継承するなら、血縁者しかいないと思う。
自分の息子で、やる気があるなら、覚えるまで頑張れる。
昔の職人は、世間が皆貧乏だったから、口減らしのため、食べられるだけで良かった。
現在は、それでは誰も協力してくれない、何もできなくても日当は払わなければならない。
そんな事は、零細企業の和蝋燭屋に出来るはずはない。
当社は女性パートに来てもらっているが、手掛け作業はしてもらっていない。
ハゼ蝋の原料価格は、例の白いパラフィンの15~20倍、手掛けで作ったときの手間は時間で8倍、純正の和ろうそくは、手間がかかることをご理解下さい。
私は、21歳に家に帰り、蝋燭修行に入りました。最初は、芯切りから、慣れないと芯先をよくとばします。蝋は、失敗しても何度も溶かせますが芯は、元に戻りませんから、結構原料代の比率が高いのです。
祖父が隣町のマキノ町出生で、名前は大西與一郎。家は名前に與がついている人が多く。それで大與。
当時(明治時代)主要産業だった和蝋燭の修行に大阪に13歳で丁稚奉公に行った。
21歳で田舎に帰ってきたがマキノより、人口の多い今津で店を開いた。
子供が多かったので多分苦労したと思う。
私は子供の頃から、母親に長男は家を継ぐ者と育てられ当たり前に家業を継ぐことになった。
京都、松栄堂(お香の専門店)でよその飯を食べてこいと修行に出され、21歳の時、帰郷し、それから蝋燭修行に入りました。
最初は、こんな事は人間技では出来ないと思った。何回やっても形にならない、座ることすらが大変なことだった。
父は、私が高校2年の時、廃線になった江若鉄道に勤めていた。父はそれからろうそく屋になった。
祖父は90歳まで現役で教えてくれた、教えてくれたと言っても、何も言わない「これで、ええ」「こりゃ、まだあかん」こんな事ぐらいです。
県や町や伝産協会から伝統を守ったと、表彰されその明くる年、永眠した。もし、もっと早く死去していたら家業は継承出来なかったかもしれない。
それから、和蝋燭を手で作れる人間は当家で私だけになってしまった、その時は自信がなかった。
しかし、人間は追いつめられると、そこで何とか生きようとする。
追いつめられるのは嫌だが人生そこで新しい物が生まれる、自分の人生は自分でしか生きられない。
そんな事こんな事を、繰りかえしながら今に至ります。
ハゼ蝋は江戸時代に琉球より渡来したといわれています。特に外国ではジャパンワックスと言われ非常に高い評価を得ています。ハゼ蝋は日本での品種改良により、灯明用として最適の蝋に、進化しました。一般の人は、高価な和ろうそくはなかなか使えなかった、灯明油しか使えませんでした。
先ほどの話ですが、なぜ生産されないか、生産性が悪い、櫨実の全量から約20%以下しか取れない。非常に手間がかかりまた、危険も伴う(高い木に登るため)現在はその様なことをしなくとも稼げることはある、また、老人の小遣い稼ぎでもあったが、福祉の充実によりその必要がなくなった。
ハゼ蝋はウルシ科の植物、だからかぶれます。かぶれる事で地元の人には嫌われているようですが、その優れた性質は他の蝋にはありません。
終戦後、戦地からの帰還兵が本土に降り立ち、夕日の中に櫨の木を見たとき涙が止まらなかったと、あるパンフレットから読んで、こちらまで感動しました。
現在は主に九州で採取されます。ハゼ蝋が九州の人々に与えた影響は大きいと思います。
そして、櫨に日本の伝統文化を感じました。櫨を、充分理解して大事に和蝋燭を生産しなければと思います。
搾り方には玉搾りと、溶剤抽出があります。一口で言って玉搾りは粉砕した櫨の実を、熱を加えて圧力で搾ります。抽出法は溶剤で蝋を、抽出する物です。
昭和福ハゼ / 茎房が短く、果実は中粒で核が細い。果肉が豊富であるため、蝋の含有量が多いことは最高である。蝋の色はよいが質がやや軟らかく、隔年結果の傾向が強い。
長崎県島原の原産で、原木は島原市千本木にある。
葡萄ハゼ / 茎房が長く、実は最も大きく、蝋の含有量も昭和福ハゼについで多い。蝋質は硬く粘りもあり特殊用途にも使用され、優良品種であるが隔年結果の傾向が強い。和歌山県原産で、九州では宮崎県が多い。
伊吉ハゼ / 実は大小の二種類あり、大粒の方が優良である。枝条がよく繁茂し収穫量も多い。蝋質は粘りがあり、豊凶の差が少なく、やや晩生で収穫も20日ほど遅れる。枝はよく曲がり採取には便利で横広い扇形の見事な樹形となる。福岡県三井郡の原産で、筑後地方に多く栽培されている。
松山ハゼ / 果肉が多く、蝋分も多い。隔年結果の傾向がある。やせ地の栽培にも適するので、全国各地に普く栽培されている。福岡県浮羽郡の産である。
王ハゼ / 形は松山ハゼに似ているが、茎房は長く、果実は中粒である。蝋分が多く、蝋質も優良である。愛媛県の原産で、原木は同県周桑郡中川村にある。
利太治ハゼ / 小粒多産で隔年結果もなく、蝋分も比較的多い。愛媛県宇和郡宮内村で発見されたもので、愛媛県下で、多く栽培された。原木は同県宇和郡宮内村にある。
南京ハゼ / 街路樹、植物学的には全くの別物。蝋は採れるが蝋燭にならない。佐賀には多い。
このごろ、櫨を、色々調べるうちに、暖かい地方は櫨、寒い地方はうるし蝋でなかったのかとの疑問を抱くようになりました。と、申しますのも、ハゼの蝋燭はきれいに燃えるのに、寒い地方の和蝋燭は煙も多く蝋が流れるとの、言葉も聞かれました。
あるところでこのような話を聞きました。
薩摩の島津藩が、櫨蝋を搾り始めたのは、東北地方に働きに行っていた人が同地方でウルシの実を搾っているのを見て、薩摩にも似たような実があると言って真似たのが櫨搾りの始まりと言われています。
その後、生産性のよいはぜ蝋にウルシ蝋が押されて、暖かい地方の生産が主になったとのことで、最初は東北地方のウルシの実を絞ったのが始まりと言われています。
昭和38年に日本の漆蝋を搾ることはなくなりました。
このページの最初に書いてある、琉球より来たとありますが、それは、より昔の話と思います。なぜ、なんのために琉球よりその昔、渡来したかと疑問は残ります。蝋を絞るため以外に何の目的があったのか疑問です。また、調べられましたら書きます。
ご存じの方がおられましたらお教え下さい。
薩摩藩が櫨を藩の専売とし、重要な産品として藩外に流出することを厳しく取り締まったことは以前から知っていました。東北から帰ってきた薩摩の蝋搾りの職人が薩摩で始めましたがなぜ、薩摩だけに櫨の木があったか?それは、他藩はそれから、蝋が採れることを知らなかったのでは?藩主は、そのことが知れるのが怖いからより藩外に漏れることを恐れたのではないか?その証拠に、多品種です。時代が進むに連れ、各地でその産業が興った物と推測されます。
また、話は品種改良に進みますが品種は突然できる物で人が作為的に改良などできる物では、ないそうです。接ぎ木でしか櫨蝋はできませんが、全て接ぎ木でなくtestとして種も蒔くそうです。突然変異で、選りすぐれた櫨実ができる可能性があるとのことです。  
 
和蝋燭2

櫨の実から搾り取った木蝋などを加熱して熔かしたものを、和紙およびイグサのから作った芯(灯心)の周りに手でかけ、乾燥させて作る。完成した蝋燭は、断面が年輪状になる。ハゼの油のみで作った蝋燭が最も高級とされる。
洋蝋燭に比べ光が強く、長時間保(も)つと言われている。また、芯の状態によって炎の揺らぎ方が異なり、その燃え方の表情の変化を好む人もいる。マイケル・ファラデーの「ロウソクの科学」では、和蝋燭の芯の換気構造をファラデーが驚きを持って聴衆に語るエピソードがある。
洋蝋燭より作成に手間がかかるため高価であり、一般には仏具専門店にて販売されるが、西日本ではスーパーマーケット等でも販売されている。西日本では金箔仏壇を使用する例が多いが、和蝋燭の煙に含まれるカーボンが洋蝋燭に比べ少ないので、金箔を汚しにくいためである。  
 
和蝋燭3

家庭用の蝋燭ではほとんど出ない油煙も、寺院用の大きな蝋燭になると目立つようになります。これは、燃焼と煙はどうしても切れない関係にあると思います。そこで、油煙を少なくする研究を進めてまいりましたが、未だ結論を出せずにいます。なかなか人間が望む方向には行かず、化学変化を起こしかえって悪くなります。これは、ベースとなる蝋に関わってくる問題だと思います。また、燃焼は自然現象です。温度、湿度、換気、空気の流れ、全てが関わって来、人間がコントロールする事が出来る範囲を超えてしまいます。誠に、僭越ですが綺麗な燃焼をお望みの節は是非櫨蝋の和蝋燭をおためし下さい。
和ろうそくの火は時には、静かに燃え、時には瞬きしているかの如く揺れる。これは、どうしてだろう。あるところから質問を受け色々な観点から解明してみた。先ず、蝋燭の燃焼は芯が融解した蝋を吸い上げ、それが、燃える。融解したろうが吸い上がった、その時は蝋の供給が最大のため炎は大きくなり揺れる。しばらくすると、その蝋は燃焼によって無くなる、芯は燃える物がないから、一段下がる。この蝋が燃えて燃える物がなくなったときこのときは炎は小さく一番安定する。これが繰り返されて蝋燭の燃焼は成立する。それじゃ、炎が小さいほど良いのかになるが蝋燭の大きさと比例しない芯だと、溶けた蝋を吸い上げる力が少ない。
だから、蝋があまって蝋が流れる原因になる。そのため、どの蝋燭を何処に使うかは、ほぼ決まっていると、言える。純粋な櫨蝋は、きれいな燃焼をもたらします私の叔父が亡くなり、櫨の20号を点灯しました。自分でも驚くほど、綺麗に燃えていました。自分が作った物を、自分でほめるのはおかしいけど、納得できる燃え方でした。参列して下さった方も、喜んでいただきました。本当ですよ。
和蝋燭の形は、棒形と碇型があります。その使用法はどうなんだと、近頃、よく聞かれます。一般に禅宗関係は棒形真宗関係は碇型と言われますがどうもハッキリしません。私なりに、知り合いのお坊さんにお尋ねしたところ、そんなところだが、明確な使い分けがある物ではないと、申されました。いまだ明確な答えが掴めないままにいます。
もしご存じの方がおいででしたら、お教え下さい。
今の現状での、私の判断は、灯りそのものが信仰の対象の一つだった。
一つには、蝋燭屋の工夫で、こんな形も出来ましたと、他店と差別化を計ろうとした結果、徐々に変わる物、そのまま残る物と、変化したと思います。
それと、もう一つ、それは、2001/4/27に蝋燭の説明をしていて自分なりにそう思った、寺院では行事の節目で、蝋燭を新しいのに変える。それは、30分の時もあるし60分の時もある、その時間だけその内容の炎があればそれで良いという考え方。だから、上部だけ大きくしてある。重量で商品になっていた蝋燭は、同じ目方ならその蝋を上部に持っていけば少ない匁で、大きな蝋燭の価値を見いだせると言うことだろうか?勝手な判断で、もし誤りならご勘弁を。
和ろうそくの火は時には、静かに燃え、時には瞬きしているかの如く揺れる。これは、どうしてだろう。あるところから質問を受け色々な観点から解明してみた。先ず、蝋燭の燃焼は芯が融解した蝋を吸い上げ、それが、燃える。融解したろうが吸い上がった、その時は蝋の供給が最大のため炎は大きくなり揺れる。しばらくすると、その蝋は燃焼によって無くなる、芯は燃える物がないから、一段下がる。この蝋が燃えて燃える物がなくなったときこのときは炎は小さく一番安定する。これが繰り返されて蝋燭の燃焼は成立する。それじゃ、炎が小さいほど良いのかになるが蝋燭の大きさと比例しない芯だと、溶けた蝋を吸い上げる力が少ない。
あるサイトから藺草と灯芯草とどう違うかと、質問がありました。私も今まで真剣に調べたことがなかったのですが、奈良の安堵町民俗資料館に聞きました。結局、藺草の呼び方が各地でいろいろあって、そうなっているとのことでした。和漢三才図会という、書物に書いてあるそうです。一度読んでみます。
 
彦根に残る和ろうそく屋

1996年の2月、彦根市内中心部・河原町にある和ろうそく屋さん・蝋喜(ローキ)商店にうかがい、家の建物や内部の様子、ろうそくづくりの現場を記録に残す機会を得ました。
家の建物は江戸末期に建てられた町屋造り。その家を近く建て替えるとの知らせが市史編纂室に入り、急遽、教育委員会との合同で調査に入ることになりました。しかし、建て替えまでの期日は迫っており、ろうそくづくりのお仕事も忙しそうです。そこで、昔ながらの作業場での和ろうそくづくりの工程の映像記録と、店舗と通り庭部分の現状を図面に記録化する調査を許していただきました。これは、彦根の人々の日常生活を記録化する私たちの試みの一環でした。
日常の暮らしの記録と考現学
私たちの日常の生活は、この50年ほどを考えてみても大きく様変わりしています。これからの彦根の人々の暮らしも大きく変わっていくでしょう。
ところが、日常の暮らしの具体的な様子というものは、普通は記録に残されることがきわめて少ないものです。ほんの数十年前の暮らしの姿さえ、今、具体的に細部にわたって再現してみようとすると大きな困難を伴います。日常生活に使う道具などのさまざまのモノ(生活財)は、その時々の暮らしぶりを最もよく伝えてくれるものですが、生活様式の変化によって失われやすく、記録化しておかなければ正確に再現することができません。生活の細部にわたる記録化の方法として、考現学といわれるものがあります。その創始者・今和次郎(1888-1973)は、わが国の民家研究の草分けでもありましたが、関東大震災直後のバラックをスケッチ記録に残し、昭和初期の東京銀座街頭や当時の新興住宅地などで、種々の生活・風俗調査をおこないました。今和次郎たちの調査手法としては、街頭でみられた服装の統計的調査が有名ですが、そのほかにも重要な手法として、家の中のすべてのモノの形や配置を事細かにスケッチした生活財調査があります。当時の学生下宿の持ち物調査、新婚家庭の持ち物調査など、今では他では得難い生き生きとした生活記録の資料です。今回のローキ商店の調査でも、限られた時間でしたが、店や作業場、通り庭に置かれていたモノの考現学的なスケッチ記録をおこなってみました。家の中に置かれているモノの集まりの全体を、この家の暮らしの歴史の積み重なりを示すものとして見てみようとしたのです。
和ろうそく屋の家と暮らし
ローキ商店が現在の場所に開業したのは、現当主の4代前がここの家屋を購入して袋町の借家から移ってきた明治3年のこと。裏にあった離れは、もと彦根藩士の屋敷にあったものを購入し、引っ張ってきたものだそうです。現在、彦根で和ろうそくづくりをおこなっているのは、ここ一軒のみになってしまいましたが、ローキ商店で和ろうそくづくりを続けている古川五郎さんによれば、かつて彦根には53軒ものろうそく屋があったそうです。「いま電気屋が各町に必ず一軒くらいあるように、昔は各町にろうそく屋があった」ほどだということになります。ローキ商店では、ろうそくを手作りし、卸・小売りするほかに、仕入れたろうそくや線香・沈香などの小売りもおこなってきました。かつてはもぐさも商っていました。現在の店先には、このほかにもろうそく立てや灯明皿、花立てなども並んでいます。明治時代のものだという大きな戸棚二つには、できあがった和ろうそくの他、さまざまな種類の線香や焚香、いろいろのサイズの洋ろうそくなどが納められていました。和ろうそくづくりの中心になる「蝋かけ」の作業は店の一部に小さな作業場所を設け、店とは障子で仕切っておこないます。溶かした蝋の温度を微妙に調節しながら作業する必要があるためです。ここには二人が並んで作業できる道具がそろっていました。和紙を巻いてろうそくの芯をつくる「芯巻き」の作業は、店の板の間、ときには座敷でおこなったものです。原料になる木蝋を溶かす「蝋炊き」は、通り庭の竈でおこないます。蝋かけや蝋炊きの燃料の薪や炭は、通り庭の先の小屋や奥の離れの脇に積まれていました。全体として、この町屋の限られた空間が、ろうそく屋の仕事のために高密度に使われていたことがわかります。通り庭はこういう町屋形式の家に特有の細長い空間ですが、ここにも生活の歴史が積み重なっています。このお宅では、座敷側に人が一人通れる位の間隔を残して、壁側には、木蝋や芯のストック、立派な水屋の棚、竈と神棚、流し、調理台、冷蔵庫や給湯器、食品や調味料の買い置きなど、新旧含めて実にさまざまなものが見事に配置され積み重なっていました。この家の仕事や生活の行動が行き交う大切な場所であることがうかがわれます。座敷は、ごく親しい人が上がり込むことがあるのを除けば家族のくつろぎの場所のようでした。食事をする座卓や、ろうそくの「口切り」(ろうそくの先を切って芯を出す工程)にも使うことがある火鉢などが置かれていました。大きな夜具箪笥や衣装箪笥なども目に付きます。奥の座敷はテレビや仏壇が置かれ、濡れ縁を通して中庭の立木や植木鉢が眺められる落ちついた部屋でした。ローキ商店にはかつて家族のほかに最大で五人の職人がいたそうです。調査にうかがった時点では、中庭の奥の離れは物置として使われていましたが、かつて住み込みの職人さんがいたころは、ここが職人3人が寝る部屋でした。店・作業所の2階(つし)にも職人が2人寝ていたことがあります。職人が大勢いたころは店の板の間の方でも蝋掛けの作業をおこなったといいます。芯巻きも家族と職人合わせて一家総出でおこなったものだそうです。このように、この家の代々のご家族、住み込みの職人たちの毎日の暮らしのお話をうかがっていくと、今回作成したスケッチは、単なるモノの配置状況の記録というばかりでなく、この家の代々の生活が繰り広げられたいわば舞台装置の説明図のようにも見えてきます。一般に和ろうそくの最盛期は明治時代までといわれます。菜種油を使う行灯や火皿に比べて高価だったろうそくが庶民の間に一般化してくるのは江戸時代も後期以降のこと。明治になると石油ランプにとって変わられていき、大正頃からは電灯にも押されて、和ろうそくづくりはさらに減ってしまいます。彦根に何十軒ものろうそく屋があり、ローキ商店に職人が五人もいたのは五郎さんの祖父・父の時代、明治から大正はじめにかけてのことでしょうか。現在でも和ろうそく屋さんが健在なのは、彦根に多数の寺社が存在することや、報恩講など和ろうそくが欠かせない信仰行事がよく維持されていることの証といえるでしょう。
21世紀にむけた暮らしの記録化
旧城下の町々に限ってみても、彦根には様々な生業の人々が暮らしてきました。今回調べることのできた和ろうそく屋さんのような手仕事と小売りというなりわいは、今でこそやや少数派と思われがちですが、旧城下町で古くから続いてきた典型的な生業のひとつなのです。このような典型的な暮らし方を他にもいくつか見いだし、同様の考現学的な記録づくりを進めていけば、やがて次の世紀にむけて、旧彦根城下町全体の日常の暮らしぶりをいきいきと伝える資料となるのでは、と考えています。  
 
現代人の心を魅了する「和ろうそく」のゆらめき

闇夜を灯すために人類が生み出したさまざまな明かりのひとつに、日本で独自の発達をとげてきた「和ろうそく」があります。植物油(主としてえごま油)に灯心を浸した神事に欠かせない灯明や行灯(あんどん)と比較すると、明るさはおよそ5倍。常温で固体となる油脂を用いて、油と灯芯が一体化した和ろうそくは、携帯性に優れた最高級の照明ということができます。
和ろうそくの魅力と特色
現在市場に出回っているろうそくの大半は、石油を精製してつくるパラフィンを原料とする西洋ろうそくです。癒し系グッズとして人気が高いキャンドル類もほとんどは石油系の製品ですが、近頃のキャンドル愛好家の間では、純植物性原料でつくられる和ろうそくが注目されています。オレンジ色のやさしい光と、不規則に上下動する神秘的な炎のゆらめきが、現代人の心を魅了しているようです。和ろうそくの形は、上部が太く下部が細いのが特徴で、棒状と碇(いかり)型の二種類があります。このうち碇型は日本固有のデザインです。色は白、朱(赤)、金、銀ほか多彩で、それぞれ仏事や慶事といったシーンにより使い分けてきました。会津地方が発祥とされる絵ろうそくは、東北や北陸などで発展しました。生花が入手しにくい寒冷地では、代わりに花の絵をろうそくに描いて仏壇に供えたということで、和ろうそくが単なる消耗品でなかったことをうかがわせるエピソードです。創業明治40年の松井本和蝋燭工房(愛知県岡崎市)では、ハゼろうのみを使い、日本古来の手法を忠実に受け継ぎながら、伝統の和ろうそくをつくっています。
和ろうそくの原料と作り方
和ろうそくは、ハゼの木の実からつくる木ろう(ハゼろう)だけで製造したものが最上とされます。油煙がきわめて少なく、燃え方が美しいことに加え、風が吹いても消えにくいのがその理由ですが、近年はこのハゼの実の採取量が減少しているため、米糠油、パーム油、とうもろこし油、菜種油といったおなじみの植物油が用いられるようになりました。しかしながらその一方で、和ろうそくと称しながら、パラフィンろうを使った製品も販売されているようです。また、西洋ろうそくを大量生産しているメーカーでは、先々石油の安定供給に不安があるとして、数年前に植物油を原料とした製品を開発しています。このように原料面だけを見れば、和洋のろうそくはボーダレス化しているようにも思えますが、ほとんどが手づくりによる和ろうそくは、やはり伝統工芸品としての存在感を示しています。和ろうそくの作り方は、型に木ろうを流し込む方法と、生掛け(きがけ)といって木ろうを塗り重ねていく方法の二種類があります。どちらも熟練の技を要しますが、よりむずかしいのは生掛けのほうで、イグサ科の灯芯草などでつくった芯に、溶かしたろうを手で幾層にも塗り重ね、上塗りをしたあと、両端を切りそろえて仕上げます。根気と正確さが要求される作業です。
和ろうそくの歴史
ろうそくは、西洋や中国では紀元前から作られていました。ミツバチの巣を原料とする蜜ろうそくです。奈良時代に仏教とともに日本に渡来したのが、この蜜ろうそく。ちなみに「ろう」を漢字で書くと虫偏の「」ですが、つくりは一カ所にものが集まることを意味し、まさしく蜜ろうを指す文字です。輸入品に頼らずに、日本でろうそくの生産が始ったのは室町時代からです。当時はたいへんな貴重だったので、宮廷、貴族、一部の寺院でしか使用されませんでした。江戸時代中期以降、ろうを搾り取る漆(うるし)やハゼの木の栽培が各藩で奨励されると、生産量は大きく伸びました。そうは言っても、高価な照明であることに変わりなく、民衆の日常生活で使われることはあまりありませんでした。広く全国に普及するのは明治時代に入ってからで、西洋ろうそくの国産化が始まってからです。同時に和ろうそくは、用途が儀式に限定され、減産を余儀なくされました。その後、明かりの主役は、ガス灯や石油ランプ、そして電灯と目まぐるしく入れ替わっていったのです。  
 
蝋燭と宗教儀式

ろうそくはまたキリスト宗教の儀式においても用いられてきた。これは多く光の象徴として用いられる。伝統的なキリスト教の祭儀では、祭壇の上にろうそくが献じられる。正教会の奉神礼、ローマ典礼いずれの典礼書でも、聖体礼儀(正教会)、聖体祭儀(カトリック教会の、いわゆるミサ)においてろうそくを灯すことが義務づけられている。正教会・東方典礼では、蜜蝋を用いるのが好ましいとされる。また死者のための祈祷(埋葬式・パニヒダ)や復活祭(正教会では復活大祭)の祈祷では手に灯りをともしたろうそくをもって礼拝に参加する。復活祭のろうそくは地方によってはそのまま家に持ち帰り、家庭の火を灯すのに使われることがある。
日本の仏事においてもろうそくは欠かせない道具となっている。お盆やお彼岸におけるお参り、寺社参拝時には線香とともにろうそくを燭台に立てるのが一般的である。このろうそくの淡い光は仏の慈悲によって人の心を明るくするものとも、先祖が子孫(つまり立てた本人)へ生きるための光を導き出す一種の道標ともいわれている。基本的に仏事に使うローソクは和蝋燭を用いるのが正しい。それは材質の違いで、過去には洋ろうそくは動物性油(鯨・魚類)等の油が原料であり、いわゆる「なまぐさもの」命を殺めてはいけない、命のあったモノを使えないといった理由から使うことができないためである。これは精進料理と同じ考えと言えよう。その点、和蝋燭は植物から採取出来る油を使用している為に問題にはならない。なお、現在売られている仏事用ろうそくの多くは洋ろうそくであるが、石油パラフィンから作られているので問題は無い。仏事において蝋燭の色は白・朱(赤)・金・銀の4色である。白は通常のお参りの時に灯す。朱(赤)は法事(年忌法要)・祥月命日・お盆・春や秋のお彼岸の時に灯す。金は仏前結婚式(挙式)のお祝いの時に灯す。銀は通夜・葬儀・中陰の時に灯す。宗教・宗派によらない慰霊式でもろうそくが用いられる。事故や災害現場での慰霊式典などで犠牲者の数と同数のろうそくが灯される事がある。故人を偲ぶ伝統行事であるろうそく流しにも通じるものがある。
 
お灯明

お灯明1
御仏前に灯されるお灯明は、「仏様」のお知恵を象徴したものです。私達の心には、常に「我欲」という煩悩の霞がかかっている為に「もの(この世の全ての事象)」の真実の姿を見抜くことは非常に困難です。お灯明は、その光で煩悩の霞を祓い私達に「もの」の本質を気付かせて下さいます。さらに、お灯明の光は私達の心の闇をも祓い、心に安らぎを与え、進むべき道を照らし出します。またお灯明は、我が身を減らして闇を照らすように、私たち自身も世のため人のために尽くすべきという、精進の徳をも表していると言われています。
お灯明2
お仏壇に、お灯明(おひかり)を上げるということは、単にみ仏のおいでになる場所を明るくする供養の心のあらわれだけではありません。光はすべての暗黒をひらくという仏さまの偉大なる智慧の光、慈悲の光をたたえるという意味があります。さらにいえば、六波羅蜜の智慧行であり、根本無明、つまりいつも暗黒の迷いの世に生きている人間世界に真実の光をかかげるものといわれます。灯明は、灯龍や燭台(ローソク立て)、または輪灯といって上から油皿の器具を吊した仏具によってかかげます。灯龍や輪灯はやむをえませんが、最近では燭台にまで豆電球を配し、スイッチーつでともる電気仕掛けになっているものがあります。しかしこれはあまり感心しません。仏さまのあかりは単なる照明ではなく、浄火をともすという意味があるからです。燭台には、なるべくローソクを用いたいものです。ローソクは、和蝋にこしたことはありません。点火してしばらくすると、炎が躍動するように揺れ、仏壇が華やいだ雰囲気になるからです。一般家庭では、ほとんどが普通の洋蝋を使用しています。消火のときは、真ちゅう製の香箸(こうばし)で芯をはさみ切って消すか、小型のうちわで消します。口で吹いて消すことは、つつしまねばなりません。  
お灯明3
(燈明/とうみょう)とは、神仏に供える灯火をいう。仏教においては、サンスクリット語の「ディーパ」の訳で、闇(無明)を照らす智慧の光とされ、重要な供養のひとつとされる。灯明は古くは油をともす油皿(あぶらざら)が使われていたが、現在は、ろうそくまたは電球によるものが多い。灯明を供えるために用いられる仏具は、「燭台」「灯籠(灯篭)」「輪灯」などがある。なお、灯明をともすための燭台は、仏教における基本的な仏具である三具足・五具足のひとつとなっている。
お灯明4
神仏に供えるともしび。灯明は、かつては松の油を用いた松灯台だったが、今日では燭台・輪灯・灯篭が、使われている。輪灯や灯篭は、油皿にイグサからとったとトシビという芯を入れて燃やす。しかし一般の家庭では、ほとんど豆電球で代用している例が多い。灯明を消す場合、浄火ですから息を吹きかけず、手や小さな扇で消す。輪灯や和ローソクは芯切り箸で挟み、消壷の中に入れる。  
輪灯
輪灯1
浄土真宗では、燭台の他に「輪灯」と呼ばれる真鍮製の灯火具が用いられる。形状は、油煙よけの傘を付けた吊り具に、油皿をのせる皿に輪を付けたもの。対で用いられる。寺院では、中尊前(本尊・阿弥陀如来前のこと)と祖師前(親鸞御影前のこと)にのみ、天井から吊って用いる。在家の御内仏では、仏壇の天井より一対吊る。輪の形状は、宗派により異なる。大谷派は、油皿をのせる皿に輪が付いただけの簡素なものを用いる。本願寺派は「菊輪灯」、高田派は「桐輪灯」、佛光寺派は「藤輪灯」と呼ばれる輪灯を用い、それぞれ輪と油皿をのせる皿に装飾が入る。大谷派以外は、相吊(間吊)と呼ばれる装飾された吊金具を輪灯本体と傘部の間にはさむ。
輪灯2
お仏壇の中を明るくする照明用の真鍮製の灯火具です。真宗大谷派においては、真鍮の棒を丸くまげた模様の無いシンプルな丸蔓のものを使用します。輪灯の栓は内側に向けてさすのが作法となっています。また、輪灯を吊る高さは、輪灯の底が花瓶の上部と同じ高さになるように吊り下げます。輪灯はその昔、宮中で用いられたともいいますが、その変遷は明らかではありません。真宗全派で用いられますが、大谷派のものは間吊りがなく、輪灯の始原の形に近いものと思われます。元来は油皿に輪を付けて上に釣金具を付けただけのものと思われますが、上に油煙の立ち上ぼるのを防ぐために笠を付けたものです。各尊前の灯明は、単に内陣や仏前を明るくするという照明のためだけでなく、浄火を燃ずるという意味から、植物性の菜種油を使用し、灯芯を入れて紙燭(しそく=こよりで作った点火道具)にて点火します。消灯(おしめし)の時は、芯を切る香箸と芯切壺を持って出て灯芯の火屑を挟み切って消します。なお、灯芯はいぐさのずいからできております。  
自灯明  (じとうみょう)
自灯明1
釈尊(しゃくそん)は、八十歳で、伝道の旅路で亡くなります。釈尊は、その晩年に、高弟の舎(シャー)利子(リプトラ)と、目連(マウドガリヤーヤナ)とを相次いで喪(うしな)います。釈尊は、弟子に教えるというよりも、しみじみと自分に言い聞かせます。
「古木にあっては、幹よりも枝が先に枯れることもある。生あるものは必ず死に、会うものは必ず別れなければならない。故に、人は依頼心を捨てて、自分が自分を頼りになるように、自分を光とするがよい」と。
「自らを灯明(ひかり)とし、自らを拠(よ)りどころとせよ」自分を光とするということは、自分が光り輝くように、自分の心や、言動をよく調(ととの)えて、自分の心を豊かにすることです。  
自灯明2 (法灯明)
「自灯明・法灯明」は、仏陀が入滅される前に弟子に示された最後の教えのようです。自灯明・法灯明の教えに関して、私が一般的な仏教の書物を読んで理解したその意味は、「他者に頼らず、自己を拠りどころとし、法を拠りどころとして生きなさい」ということであろうと思っています。灯明に当たる原語は、島(洲)を意味するとの解釈もあるらしいのですが、いずれにしても、「自己を拠りどころとし、法を拠りどころとせよ」という大意は変わらないようです。この教えは、仏陀の死が間近であったときに、師が亡くなったら、何に頼ればよいのか、と嘆く弟子のアーナンダに対して、仏陀が仏弟子に諭した最後の説教と言われています。
弟子のアーナンダにとって、生についての根本的な教えを説き、そして常に自分を教え導いてくれる釈尊は、彼が心から頼りとする偉大なる師であったのでしょう。自分が心から頼りとし、自分を教え導いてくれるその師が亡くなってしまったならば、そのあと自分は、誰から教えを受け、どうやって生きていったらよいのかと、彼は途方に暮れてしまったようです。そのようなアーナンダの問いに答えて、仏陀は、「私や他者に頼ってはならない。自己とダルマ(理法)を拠りどころとせよ。」と、仏教において重要な教えを説いたのです。
私は個人的に、「自灯明・法灯明」というこの教えは、仏陀が説いた生に関わる教えの中でも非常に重要な教えであろうと思っています。私たちはこの地上の生において、自分一人では生きられないということを知っています。私たちには家族がおり、友人がおり、社会で多くの人との関わりを持ちながら、私たちは生きています。この世で人が生きることにおいて、人は他者との関わりなくしては生きられず、人は人と支えあって生きています。人と人とが支えあうということは、人が生きる上で欠くことができないとても大切なことであり、その意味において人は他者に頼っているということになりますが、けれども、仏陀が説く、「自灯明・法灯明」における「他者に頼ってはならない」という意は、人と支えあって生きるという、前述の意味とは少し違うようです。基本的には、すべての人間はこの世界で生きていく上で、他者に依存せず、精神的にも物質的にも自立していなければならないということは自明の理ですから、その意味においては、自灯明・法灯明の、他者に頼ってはならないという部分は重なりあうとは思います。しかしながら、この教えにおける、他者に頼ってはならないという意味は、生きる上で人と支えあう、人を頼りとするという、そのような皮相的な意味ではなく、仏陀の教えにはもっと深遠な意味が含まれているようです。
「自灯明・法灯明」の教えにおいて、「自己を拠りどころとし、法を拠りどころとせよ」の真意は、「人がこの世で生きていく上で、人は自己の裡の神性を拠りどころとし、理法を拠りどころとせよ」という意味であろうと、私は考えています。自己の裡に神性が宿っているということを認識している人は、この世界にどれほど存在するのでしょうか。おそらく大多数の人間は、そのことについて全く無知であることでしょう。ですから現代でも、宗教、特に仏教を学ぶ人たちにおいても、「自灯明・法灯明」の教えに関して、「他者に頼らず、自分を拠りどころとし、法を拠りどころとして生きる」と、単純にそのように考え、そして自己の内奥に神性を宿すということを知らない自分を絶対的な主体と思い誤り、そのような無知な自分を生きる上での拠りどころとすると考える人々もいることだろうと思います。しかし、仏陀が弟子のアーナンダに諭したことは、そのようなことではありません。仏弟子アーナンダは、仏陀に師事して、生についての教えを授けられ、自己の裡に神性が宿っているということをすでに認識していたことでしょう。そのようなアーナンダに仏陀が示した教えの真意は、「自己の裡のアートマン(真実の自己、神我)を拠りどころとし、ダルマ(理法、ブラーフマン(究極絶対神))を拠りどころとせよ」ということだったでしょう。
「自灯明・法灯明」という教えの真実の意味は、「すべての人間が自己の裡の神性を拠りどころとし、理法を拠りどころとして、真実の自己以外の何ものにも頼ってはならない」ということです。その理由は、アーナンダは、釈尊が入滅した後は自分を教え導いてくれる人がいなくなり、そのとき自分は誰に師事し、誰の教えに頼ればよいのかと問うたのですから、それに対する仏陀の諭しは、「自己の裡に神性という真実のものがあり、そしてそれが自分を教え導く師であり教えであるゆえに、他者や他者が述べる教説に随従することなく、自己の裡の神性と理法のみを拠りどころとせよ」ということだったと考えられるからです。
ただ単純に信心深く、神様事に熱心で、そして神を求める人々のうち、その多くは、真実の宗教の意味を知らず、ましてや自己の内奥に宿る神性についての知識などは皆無で、現世利益を説く似非宗教や超能力獲得を標榜する心霊主義に関わってしまったりするようですが、真実の宗教とかけ離れたこのような邪教や偽宗教教団と関わることは非常に危険なことです。真実の宗教が指し示すところのものを知らず、不可視の世界における事象の真贋を識別する合理的な思考能力と知性に欠け、ただ神様事に心惹かれているだけの無知な人々が、宗教の正道から外れ、金儲けを目的とする偽宗教家や似非教団などと関わると、そのような人々は宗教の本質について明確な知識がないのですから、偽宗教の教説に容易に騙(だま)されて洗脳され、そしていかがわしい心霊の世界に深く沈み込んでしまうでしょう。それは、自己が霊的により高く向上し、最終的に神意識実現へと至る真実の宗教の道とは全く背反する、宗教の名を騙(かた)るまやかしの霊性求道なのです。
再度、「自灯明・法灯明」という教えの真実の意味を強調しますが、自灯明・法灯明における「自己以外の何ものにも頼ってはならない」ということの真意は、「自己の内奥に潜む神性を認識し、そしてその自我本性である神性と、ダルマ(理法)という、自己の裡の神性と同質の‘絶対真理’のみを頼りとせよ」ということなのです。仏陀は、その慈愛の心から私たちすべての人間に対して、さまざまな比喩や方便を用いて生における真実について解き明かされたのですが、この「自灯明・法灯明」という教えからも、仏陀が指し示した宗教の本質と、私たちが指向すべき正しい霊性求道のあり方が見えてくるのです。それゆえ、自灯明・法灯明という、簡潔な言葉にして深遠な意味を持つ、仏陀在世におけるこの最後の教えは、真実の宗教の道を行ずる真摯な霊性求道者にとって、自己の心に銘記して、そして常にその意に思いを致すべき重要な教えであることでしょう。  
自灯明3 (法灯明)
お釈迦さまがご往生をむかえられた時のことです。お弟子たちは、お釈迦さまが亡くなられたら、さてあとは誰をたよりにしたらよいかと心配しました。そのことを気づかれたお釈迦さまは「自らを灯明とし、自らをたよりとして他をたよりとせず、法を灯明とし、法をたよりとして他のものをたよりとせず生きよ」(涅槃経)と語られました。これが「自灯明、法灯明」の教えです。
とかく私たちは、人の言ったことに左右されがちです。とくに権威ある人の言葉に追随しがちです。その方が安易だからです。しかし、結局、「信用していたのにだまされた」ということがしばしばです。人間が人間を信じるということは危険をともなうことなのです。だから、人の言葉を鵜呑みにするのではなく、何が正しいかを見定めることのできる自分を確立せよということを、「自らを灯明とせよ」と教えられたのです。
それでは、私たちは何を根拠に正しいと判断すればよいのでしょうか。それを「法を灯明とせよ」と教えられたのです。法とは、物ごとの本当のあり方のことです。たとえば、すべてのものは変化し、永久に続くものではありません。この事実が無常という真理なのです。この疑いようのない真理を法といいます。
このことは誰でも認める真理ですが、この明白な事実でも、自分自身のこととなると素直に認めようとはしません。他人は死んでも自分はいつまでも元気でいると思っています。これが迷いなのです。自分jだけは例外だと無意識に思いこんでる誤りに気づき、迷いから抜け出すには、この法に根拠をおき、法に教えられ、自分自身が目覚めるよりほかに道はないのです。そこを「自灯明、法灯明」と教えられました。
二月二十五日はこの説かれた涅槃会(お釈迦さまの命日)なのです。  
 
中世ヨーロッパの職業

中世という時代は、今から考えると、とても信じられないような職業が生業として成り立っていた時代です。「公示人」「ジオラマ師」「蝋燭(ろうそく)の芯切り係」「理髪外科医」「つけぼくろ師」など、今の私たちの目からは、思わず頭をかしげたくなるような職業がしばしば登場します。「マッチ売りの少女」の「マッチ売り」も、中世という範疇からは少し離れますが、近世にあだ花のように登場した職業です。
蝋燭の芯切り係
劇場の照明がまだ蝋燭だった時代に、その蝋燭の芯を切ることをなりわいにしていた人々です。つまりは舞台の照明係というわけですが、当時はこの「蝋燭の芯切り」もひとつの見せ物であり、芯切り係は本職の俳優に劣らぬ注目を浴びておりました。蝋燭はシャンデリアの上に載せられており、照明が暗くなってくると、芯切り係はおもむろにシャンデリアを降ろし、その芯を切り出し始めます。火を消さずに芯だけ切るのはなかなか技巧のいる仕事で、慣れない人間がやると火が消えてしまうので、かなりの才能と熟練度が必要とされた、かなり難しい仕事ではあったようです。この芯切りが完全に上手くいった時には、客席から拍手喝采が鳴りやまなかったとも言われています。人気のある「芯切り係」の中には、本職の俳優に混じって舞台に立つ者もいたそうです。  
 
和紙1

1986年、中国甘粛省の古い墓から山、川、道などと文字が書かれた、草の繊維で作られたものと推定される紙片が発見された。これが現在世界で最も古い紙と考えられることから、紙は中国で発明されたとされる。我が国には、朝鮮を経て600年ごろに伝わり、製法に改良を重ねて優れた品質の“和紙”へとつながった。[和紙の歴史]飛鳥時代には「唐紙」と呼ばれる中国や朝鮮で漉かれた紙が輸入されていたが、本格的な紙の国内生産は製紙技術がもたらされて100年を経たころから始まったといわれる。天平年間には、筑紫、近江、越前、美濃、常陸などの地方でも紙が漉かれ、現存する我が国最古の印刷物といわれる『百万塔陀羅尼』もこの時代の作といわれる。平安時代に入ると官営の紙漉き場はいっそう拡充されて「紙屋院」という官営の製紙場が造られた。このころになると、手漉きの際に揺すりながら紙層を形成する現在の“流し漉”と呼ばれる方法も確立され、室町時代までには“備中の檀紙”“楮(こうぞ)を用いた厚手の美濃紙”“越前の奉書”“雁皮を原料とし鳥の卵色をした鳥の子”“播磨の杉原紙”“雁皮に初めて三椏(みつまた)を混ぜて作られたという修繕寺紙”“大判の間似合紙”“泥入り鳥の子の名塩紙”など和紙の産地は更に各地方へと広がった。ちなみに、“流し漉”の技法は静置して脱水する“溜め漉き”と異なり粘性物質を併用するもので、日本画で絵の具のにじみをコントロールする「ドウサ引き」の技法もこの時期に発達したものだという。江戸時代に入ると、和紙は文化面だけでなく生活の必需品ともなり、襖、障子、傘、提灯、扇子、団扇、帳簿、浮世絵、などに多用されるようになった。しかし、明治時代に入って洋紙の製造技術が発達し、官公庁で洋紙とペンの使用が始まると共に衰退が進むようになり、大正時代には洋紙に完全に取って代わられた。[和紙の材料と製法](1)材料:和紙は“わがみ”とも呼ばれるが、非木材繊維を原料とし、桑の仲間の楮、ジンチョウゲの仲間で枝がすべて三叉になっている三椏、それに、同じくジンチョウゲの仲間の雁皮の三種がその代表的な素材である。これらの枝や幹の表皮の内側の繊維を取り出して原料とする。(2)和紙の製法:現在では機械で漉かれる和紙が多いが、手作業で漉く方法をまとめてみた。1刈り取った楮や三椏の場合、水を張った釜鍋の上に束ねて積んで蒸し、蒸し終わったものにすぐに水をかけて幹を縮ませ、熱いうちに手早く皮を剥ぐ。2次に原料を一つまみずつ取って丹念に表皮やゴミを取り除く。きれいになった原料を木製の台の上に乗せて木の棒で叩いて伸ばす。折り曲げては叩き、折り曲げては叩きを繰り返す。3綿のようになった繊維を大きな容器に入れ、黄蜀葵(とろろあおい)の根や糊空木(のりうつぎ)の皮などで作った粘性物質と水を加え、馬鋤(まんが)で均一になるまでよく混ぜ合わせる。4簣を挟んだ“漉き桁”で手前から薄く汲み上げながら紙を漉き、回数を重ねて厚い紙に仕上げる。5出来上がった湿紙は紙床の上に耳をそろえて重ね、自然に水を切り終わった後に圧搾して残りの水分を絞る。6慎重に1枚ずつ剥がして板に刷毛で貼り付け、太陽にあてて乾燥させる。[終わりに]1200年にも及ぶ長い歴史のなかで育まれてきた和紙は、衣食住や冠婚葬祭など我々日本人の生活のさまざまな場面に取り入れられ、重用されてきた。洋紙が一般化した今日ではあるが、依然として日常生活の節目節目ではかけがえのない存在として認められ愛用されている。また、書や絵画など文化の分野はもちろん、現代アートの分野でも新たな魅力が発見され、その魅力は世界的にも注目されている。 
 
和紙2

(わし/わがみ) 日本古来の紙。欧米から伝わった洋紙(西洋紙)に対して日本製の紙のことをさす。日本紙と同義。
和紙の特長は洋紙に比べて格段に繊維が長いため、薄くとも強靭で寿命が比較的長く、独特の風合いをもつ。木材パルプから生産される現在の洋紙と比較すると原料が限られ生産性が低いために価格が高い。伝統的には独特な流し漉き技術を用いるが、現代の和紙は需要の多い障子紙や半紙を中心に、大量生産が可能な機械漉きの紙が多い(伝統的な製法と異なる機械漉きの紙を和紙と認めない人もいる)。
和紙は世界中の文化財の修復に使われる一方、1000年以上もの優れた保存性と、強靱で柔らかな特性を利用して、日本画用紙、木版画用紙等々、独特の用途を確立している。また、日本の紙幣の素材として用いられる。一部工芸品の材料・家具の部材・紙塩など一部の用途にも使用され、江戸時代には日本中で大量に生産され、建具の他に着物や寝具にも使用されていた。
近年は天然自然の素材として、インテリア向けの需要も高まっており、卒業証書をはじめ、様々な習い事のお免状用紙などは越前和紙の透かし入りの鳥の子、局紙、もしくは檀紙などが現在も試用されている。近年では、敬宮愛子内親王や悠仁親王の命名の儀に古式にならい、越前檀紙が使用されて話題になった。
和紙の産地は全国に点在しているが、代表的な産地として「越前和紙(えちぜんわし)」「美濃紙(みのがみ)」「土佐和紙(とさわし)」があり、3大和紙産地と呼ばれている。 
和紙の歴史
飛鳥時代 / 紙の伝来
紙漉きの伝来
製紙技術の歴史は、中国「後漢」時代の蔡倫の改良から始まる。日本への製紙技術の伝来は、610年とされる。公式記録として確認できる記述は「日本書紀」にある。また、513年五経博士が百済より渡来し、「漢字」「仏教」が普及しはじめ、写経が仏教普及の大きな役割をはたしていたことからこの頃すでに紙漉がいたのではないかと推測される。
「日本書紀」の記述は、推古「十八年春三月 高麗王貢上僧 曇徵 法定 曇徵知五經 且能作彩色及紙墨 并造碾磑 蓋造碾磑 始于是時歟」、高句麗の王、僧曇徴、法定を貢上る。曇徴は五経を知れり。また能く彩色及び紙墨を作り、併せてみず臼(水車を利用した石臼)を造るとある。飛鳥時代の推古天皇18年(610年)に高句麗の僧侶曇徴によって紙漉きと墨の製法と、紙の原料となる麻クズの繊維を細かく砕く(繊維の叩解)ための石臼が伝えられたことが記録されている。年代のわかるものとして現存する最古の和紙は、正倉院に残る美濃、筑前、豊前の戸籍用紙である。また、最古の写経である西本願寺蔵の「諸仏要集教」は、立派な写経料紙に書かれており、西晋元康6年(296年)3月18日の銘記がある。
紙の発明の地と伝えられる中国及び地続きの朝鮮半島と交流のあった日本には、比較的早い時期に伝来した。
書物としての紙の伝来
製紙技術の伝来以前に、むろん紙そのものは書物として伝来された。「古事記」によれば、応神天皇16年(285年)に、百済の王仁が「論語」10巻と「千字文」1巻を将来したのが、日本における書物の初伝とされるが、「千字文」の作者は、応神天皇より100年後の人物であるので、考証学上は誤りである。考証学的には、4世紀から5世紀には伝来したものと推定される。 
奈良時代 / 紙の国産化
図書寮の設置
製紙技術の伝来から100年程経過してから、本格的な紙の国産化が始まった。「正倉院文書」によれば、天平9年(737年)には、美作、出雲、播磨、美濃、越などで紙漉が始まった。「大宝律令」によって国史(「古事記」「日本書紀」)や各地の「風土記」の編纂のために図書寮が設置され、紙の製造と紙の調達も管掌した。図書寮では34人の定員の内、写書手は20人、紙漉きを行う造紙手は4人いた。更に図書寮の下に、山城国に「紙戸」と呼ばれる50戸の平民の紙漉き専業家を置き、年間の造紙量を二万張と規定し、租税を免除して官用の紙を漉かせた。この他にも各地で紙を漉かせ、これを「調」として徴収した。
天平11年(739年)には、写経司が設置され、写経事業のために紙の需要が拡大した。「図書寮解」の宝亀5年(774年)の項によると、紙の産地として、美作、播磨、出雲、筑紫、伊賀、上総、武蔵、美濃、信濃、上野、下野、越前、越中、越後、佐渡、丹後、長門、紀伊、近江が挙げられている。しかし、この時代には、紙はまだまだ数が少ない高級品で、日常的に使用されることはなく、一般的な用途には安価で丈夫な木簡が使用されていた。また、一度使われた紙の中にはその裏面を再利用して別の筆記に用いる例も存在した(紙背文書)。
原材料別・紙の種類
麻紙 / 麻紙は、最も古くから漉かれた紙である。原料は大麻(Hemp)や苧麻(Ramie)の繊維で、麻布のボロや古漁網などからパルプを作った。麻は繊維が強靱で、多くは麻布を細かく刻み、煮熟するか織布を臼で擦り潰してから漉いた。 漉き上がった麻紙を平滑にするため、槌で打ったり(紙砧)、石塊、巻貝、動物の牙などで磨いていた。また、石膏、石灰、陶土などの鉱物性白色粉末を塗布することで墨のにじみ(遊水現象)を防ぐ技術も用いられた。また、澱粉の粉を塗布するなどの加工も行われた。 しかし次第に取り扱いが容易で、増産に適した穀紙と呼ばれる楮を原料とした紙が普及した。
穀紙 / 穀とは梶(楮)の木のことで、若い枝の樹皮繊維を原料とした。麻紙と同様に煮熟して漉いた。表面の肌理がやや荒いが、繊維が長いため丈夫な紙となり、写経用紙や官庁の記録用紙、更には建築材料として、染色されずにそのまま使用された。
斐紙(雁皮紙) / 雁皮を原料とした紙で、肌理の細かいツヤがある。「雁皮」は繊維が短くて光沢があり、その風格から「鳥の子紙」とも呼ばれる。
檀紙(陸奥紙) / 檀紙は、厚手で美しい白色が特徴である。原料の檀(真弓)は、主に弓を作る材料であったニシキギ科の落葉亜喬木で、その若い枝の樹皮繊維を原料として使う。「みちのくのまゆみ紙」とも言われ、厚手で美しい白色が特徴である。
用途別・紙の種類
「正倉院文書」には、彩色紙として植物で染色した五色紙・彩色紙・浅黄紙など10数種類が、加工紙として金銀をあしらった金薄紫紙・金薄敷緑紙・銀薄敷紅紙など10数種類が、加工法の違いとして打紙・継紙(端継紙)が、形と性質の違いとして長紙・短紙・半紙・上紙・中紙が、用途の違いとして料紙・写紙・表紙・障子料紙(間仕切り用)の名が見え、日本での製造を確立出来たことが窺える。
紙文化
この時代の紙を利用した文化としては、国家が仏教を信仰していたこともあり、主として仏教文化への関わりが深く、紙や布、漆を原料とした紙胎仏や数多くの経典が作成されている。中でも宝亀元年(770年)に作成された百万塔陀羅尼は、現存する世界最古の印刷物である。 
平安前期 / 紙屋院と流し漉きの確立
「紙漉き」呼称
奈良時代には、製紙のことを「造紙」と称していたが、平安時代になると、「延喜式」で簀を「紙を漉く料」と注記しているように、「紙を漉く」と表現するようになり、「源氏物語」には、唐の紙よりも上質な紙が漉かれていたことが記されている。
紙屋院
平安京遷都直後の大同年間(805年 - 809年)、山城国にあった紙戸が廃止され、代わりに官立の製紙工場として紙屋院(かんやいん、しおくいん)が設置され、日本独特の製紙法である「流し漉き」の技術が確立された。
流し漉き
流し漉きとは、紙漉きの際に、紙料(抄けるように処理された紙の原料)を濾水性の簀や網を動かして、紙料を簀に汲み込んだり紙料を簀から捨て戻したりして、簀や網の上に紙層を作る漉き方。日本、中国、朝鮮半島など東アジアで発達した漉き方で、日本の流し漉きと中国・朝鮮の流し漉きの方法は異なる。
中国・朝鮮の流し漉き / まず中国・朝鮮の流し漉きは、紙料を汲み込む動作と紙料を捨て戻す動作を漉き簀を振り子のように揺らす一連の動作で行い、所定の紙厚が得られるまで漉き簀を往復させて抄紙する。中国・朝鮮の流し漉きは比較的薄い抄紙用粘剤でも漉くことが可能である。
日本の流し漉き / 次に日本の流し漉きについて述べると、中国・朝鮮の流し漉きに類似する部分と日本独特な漉き方の部分で構成されているのが特徴である。紙の表面と裏面の紙層を作る時には、中国・朝鮮の流し漉きと同様に、紙料を汲み込む動作と紙料を捨て戻す動作を一連の動作で行い「化粧水」(紙表面)と「捨て水」(紙裏面)の薄い紙層を作るが、表と裏の中間の紙層(紙の厚みの部分)を作る技術は日本独特で、汲み込んだ紙料をしっかりと粘剤を利かせて繊維同士を絡ませるために、紙を均一にするように簀を十分に振って紙層を作ってから不用な紙料を捨て、また次の紙料を汲み込んで必要な紙厚が得られるまで繰り返す。これが日本の流し漉きの特徴である。
流し漉きの確立
日本の流し漉き技術を歴史的にみると、原料に独特の粘性物質を持つ日本雁皮原料の配合により紙料液に粘りが出て、ちょうど薄い抄紙用粘剤を使用して紙漉を行ったように溜抄きでの濾水性が向上することに始まったとされる。抄紙用粘剤などを使用しない溜抄き法でも良い紙層を作る為に細かい揺すりを行っている(伝統的なスペインの溜抄き法では約2秒間に3回程度の細かい揺すり)ことから、粘状物質を使った溜抄きの場合さらに簀を大きく揺することが可能となり紙質が向上し、さらには繊維が一定方向に揃う捨て水動作を伴う流し漉きに繋がったと推定されている。
抄紙用粘剤を使った流し漉きの開始 / 抄紙用粘剤の使用による流し漉きが、いつどこでどのように始まったのかははっきりとしないが、高品位な薄様紙(原料は雁皮(日本)や楮(朝鮮)と推定される)のことや抄紙用粘剤の使用(中国)に関することが、平安時代や唐代末になり日本や中国で記述されているので、この時代以前に使用が開始されたものと推定され、抄紙用粘剤使用に繋がったとされる有力な説のひとつに後加工用粘剤の流用説がある。これは古代中国で開発され、後に朝鮮、日本でも行われていた紙の加工技術「打紙」加工用粘剤「滑水」を抄紙用粘剤に転用したものという説で、日本でも楡(ニレ)の皮の粘液は打紙にも抄紙にも使用されていたとされる。ニレと同じように古い時代の抄紙用粘剤として実鬘(サナカヅラ・サネカヅラ)の茎の外皮などがある。抄紙用粘剤はネリ、サナ、トロ、ノリ、タモ等と地域ごとに異なる「粘状物質」名称がつけられて愛用された。
抄紙用粘剤の多様性 / 近世に使用技術が確立し現代に伝わる流し漉きの抄紙用粘剤として一番有名な粘剤に、中国原産の植物で強い粘性を持つ黄蜀葵(和名:トロロアオイ)の根がある。これは日本、中国等の東アジアの国々や地域で使用されており、世界の流し漉きの産地や紙造形作家にとって欠くべからざる粘剤ではある。しかし、黄蜀葵には夏季高温による著しい粘度低下が起こる性質があるため、南国台湾では馬拉巴栗(根の粘液)という30℃〜35℃の高温域でも黄蜀葵より粘度低下の少ない粘剤が使われ、日本の糊空木(ノリウツギの皮)も夏季に強い粘剤とされ奈良県吉野の産地等で使われている。またトロロアオイは兵庫県の名塩紙のように、7種類もの土を用途に合わせ紙に漉き込むような紙にも使用されない。トロロアオイは化学的に活性な土と反応して粘性が低下することがあるからである。さらに短繊維の稲ワラ繊維を70%も配合して紙を漉く中国安徽省の宣紙の産地では、極めて低い粘度の粘液だが短繊維を漉くのに相応しい低粘度域で調整が容易な楊桃藤(つる茎粘液)を使用し黄蜀葵は使用しない。このように抄紙粘剤の選定は地域性や紙用途による依存性と選択性を有しているが、このことは粘剤使用技術が「何でも良いので粘性物質を配合すれば紙質が改善する」という情報伝達型の技術伝播である可能性を示唆し、物的証拠が残り難いこともあり、抄紙粘剤使用と流し漉きの技術史を曖昧なモノにしている。
抄紙用粘剤の効用 / 抄紙用粘剤を適量使用して漉きあげると、漉きあがった湿紙をその直前に漉いた湿紙に直接順次積み重ねていくことが、簡単に出来るようになる。積み重なった湿紙の集まりを「紙床」といい、紙床はしっかりと圧力を掛けて湿紙をまとめて脱水することが容易になり、それ以前の紙と比較し締まった紙となり、まとめて脱水した後も一枚一枚に剥がせるという特性があり生産性も向上した。なお床積み技術がいつごろどこで開始されたのか明確ではない。
そして乾燥して完成した紙には、外観上の変化はみられないが、紙に残った天然の抄紙用粘剤の成分は、紙のカレ(紙中に残留する樹脂分が、空気中の酸素と反応する現象で、カルシウムなどが正の触媒として働く自然酸化現象といわれる)を促進し、長い時間をかけて紙に穏やかな撥水性を与える。 
平安後期 / 和紙文化の成立
からかみの国産化
平安時代、部屋を仕切る衝立に張る絹織物の代用として、中国から輸入した紋様や図案が雲母で擦り込まれた厚手の唐紙を使用していたが、製紙技術の向上によって、厚手の紙の製紙が可能となり、唐紙が国産化された。詠草料紙の雁皮紙(後に鳥の子紙にも)に、花文(唐紙の紋様や図案)を胡粉に膠を混ぜた物を塗って目止めをした後、雲母の粉を唐草や亀甲などの紋様の版木で刷り込んだこれらの唐紙は、本家と区別するために「からかみ」「から紙」と言われ、更に、鎌倉時代になって障子が普及すると、「からかみ」は襖障子の総称に転じた。
平安時代の紙文化
これら紙屋院の設立と流し漉きの確立の結果、和紙は大量生産されるようになり、紙屋院以外にも44ヶ国で製紙が行われ、木簡利用から和紙利用の時代へと移項し、和紙をふんだんに利用した王朝文化が花開いた。
檀紙 / この時代の貴族階級では、漢字を使用する男性は穀紙、かな文字を使用する女性は檀紙を使用した。この時代の檀紙は真弓ではなく、楮から製造されたという説もあるが、「源氏物語」や「枕草子」に檀紙に関する記述が見られる。 また、檀紙は表面に繭のような荒くて艶のある皺が波打っている所から松皮紙とも呼ばれ、鎌倉時代に中国へ逆輸入された。
かな文字と手紙 / この時代の女性は、手紙を薄い色紙を二枚重ねて仮名文字で書き、末尾には性別を問わず「あなかしこ あなかしこ」と書いた。 正式の手紙は、一枚の紙をそのまま使用して縦に書くので竪文と言う。また、横に二つに折り、折り目を下にして書く折紙もあり、折紙を二枚に切り離した切紙、これを横に継いだ継紙、更にこれを巻いた巻紙もあった。
斐紙(雁皮紙) / 雁皮を原料とし、薄様、中様、厚様の三種類製造された斐紙がこの頃流行した。雁皮は日本独自の製紙原料で、流し漉きによる高度な技術によって製造される薄様に特色がある。 男性が主に懐紙として厚手の檀紙を愛用したのに対し、女性は薄様の斐紙を愛用し、「宇津保物語」や「枕草子」に記述が見られる。 最澄は、延暦23年(804年)に留学僧として中国へ渡航した際に、筑紫斐紙200張を献上している。
懐紙 / 貴族は常に懐に紙を畳んで入れ、ハンカチのような用途の他に、菓子を取ったり、盃の縁をぬぐったり、即席の和歌を記すなどの用途にも使用し、当時の貴族の必需品であった。 懐紙は「ふところがみ」や「かいし」、また、畳んで懐に入れる所から「たとうがみ」、「てがみ」と称し、後には和歌などを正式に詠進する詠草料紙を意味するようになった。 男性は檀紙を、女性は薄様の斐紙を使用するのが慣習となり、正式の詠草料紙には色の違う薄様を二枚重ねて使用した。
詠草料紙 / 歌集用の紙である詠草料紙には、打雲、飛雲、墨流しなどの様々な製紙技術や、切り継ぎ、破り継ぎ、重ね継ぎなどの加工技術が施されている。 打雲とは、予め漉いた雁皮紙の上に、青や紫に染めた繊維を細長く横に流し、漉槽の中で下辺にゆっくり打ち充てるようにすると、染めた繊維が雲の形に漉かれて行く技法である。 墨流しとは、墨滴を水面に落とし、その上に松脂を落として墨を散らせ、これを繰り返して息を吹きかけ、水の流れを表現した墨汁の紋様を、雁皮紙で吸い取って写す技法である。 切り継ぎとは、紙を斜めに切断し、切り口を少しずらして重ねて糊付けする技法である。 破り継ぎとは、様々な形に破った紙を糊付けし、長い繊維の足が不規則な形を作る面白味を演出する技法である。 重ね継ぎとは、数枚の紙を少しずつずらして糊付けする技法で、濃淡に着色した四枚の薄葉紙と一枚の白紙を使用して、色の濃淡の差を順次重ねると、ぼかし模様になる。 この他にも、金銀箔や金銀泥による加工紙など、様々な詠草料紙が作られている。
色紙 / 王朝文化が熟成すると、白一色の紙よりも次第に様々な色や性質を持った紙を使用するようになり、染紙や加工紙などとして製紙され、天皇の宣命料紙として、紅紙、緑黄紙などが使用された。 後には薄様の紙を2枚重ねて使用するのが慣習となり、季節に合わせて上が紅梅、下が蘇芳の「紅梅がさね」、上が白、下が青の「卯の花がさね」、「萩かさね」、「紅葉かさね」などの様々な組み合わせが開発された。
文化財 / 和紙を使用したこの時代を代表する文化財として、装飾経や絵巻物が挙げられる。
薄墨紙
大量生産されていたと言っても、和紙はまだまだ貴重品であり、贈答品としての価値があったほか、一度使用した古紙を漉き返して再利用する薄黒紙が普及した。880年に藤原多美子が崩御した清和天皇からの手紙を集めて漉き返し、その紙に法華経を写経して供養している(日本三代実録)。この時代には脱墨技術はないので、漉き返しを行うと、紙の色は薄い黒色となった。このためこうした紙を薄墨紙と称した。
紙屋院紙の変遷
かつて紙屋院紙と言えば、官立の製紙工場から出荷された紙として、高級紙の代名詞であった。しかし、平安末期となると、各地の荘園で製紙が行われるようになって原材料が不足し、専ら紙屋院では古紙や反故紙をリサイクルして漉き返しを行うようになった。そこで製紙された薄墨紙(水雲紙)は旧・久の意味を持つ「宿」の字を冠して「宿紙」と呼ばれるようになり、もはやかつての高級紙の面影は失われた。こうして、和紙技術の普及という当初の使命を果たした紙屋院は、南北朝時代に廃止された。 
鎌倉時代 / 武家文化と和紙の変容
文治的な朝廷から、鎌倉幕府が成立して質実剛健な武士に政権が移行すると、紙の消費層が公家や僧侶から武士に広がって、華やかな薄い紙よりも厚くて実用的な丈夫な紙が求められ、主に播磨の杉原紙や美濃和紙が流通した。
和紙と贈答文化
和紙は、生産量の少ない頃は貴重品として敬意や謝意を表す贈り物として利用され、「御堂関白記」には灌仏会の布施料として、大臣は5帖、納言は4帖、参議は3帖納めた事が記されている。このような紙を贈答する風習は武家社会にも受け継がれ、一束一本、一束一巻という形式へ移項し、一束一本の場合は扇一本と杉原紙(壇紙・美濃紙・越前紙・甲斐田紙・修善寺紙)一束(10帖)を、一束一巻の場合は、緞子(小袖・絹布・縮緬・葛布)を一巻としてセットとし、水引でまとめるのが慣習となった。また、贈答品を和紙で包むことも行われるようになり、後に折形という礼法として確立された。
和紙と日本家屋
障子のある部屋 / 夏に高温多湿であるのが日本の気候の大きな特徴であり、ゆえに「徒然草」にも「家の作りようは 夏をむねとすべし」とあるように、夏に快適な生活が出来る住宅作りが、古来よりなされてきた。材料が豊富にあるのと、湿度の調節が可能であることから、日本の家屋は木材と草と土と和紙によって造られている。高床式の基礎構造に、高い茅葺きの屋根、長い庇、泥壁に畳、和紙を貼った木製の建具。これらは全て天然素材で、湿度が高い時には湿気を吸収し、湿度が低い時には湿気を放出する調湿機能を持っている。建物が大きくなり、屋根が瓦屋根になると、室内には和紙が貼られた明かり障子、襖、衝立、屏風などが配置され、湿度、温度の調節を行った。これら建具用の和紙は、いずれも植物繊維(主成分はセルロース)が原料で、紙自体が多孔質構造で表面積が非常に大きく、水分の吸収脱着を自然に行う。しかも障子や襖は、開け放すことで開放空間の創出が可能で、家中を風が吹き抜ける。また障子や襖で仕切り、屏風や衝立で囲めば冬でも暖かく過ごせる。
寝殿造と建具
平安時代の貴族の邸宅は寝殿造であり、大広間様式で構造的な間仕切りがなく、開口部には蔀戸が設置され、内部は衝立・御簾・几帳・屏風・遣戸・襖障子などの間仕切り(障子)でスペースを区分けして使用し、それらの障子には、絹布・麻布・葛布などを張り、その上から仏画・唐絵・大和絵を描いた。これらについては「源氏物語」や「源氏物語絵巻」、「餓鬼草紙」、「病草紙」、「春日権現験記絵」、「法然上人絵伝」、「一遍上人絵伝」などに使用状況が描かれており、当時の生活を窺い知ることが出来る。
衝立・屏風
衝立には、軟錦(ぜいきん)と呼ばれる唐錦(綾錦)の幅の広い縁取りが付けられていた。屏風はこの衝立を縦長にした物で、正倉院の「鳥毛立女屏風」のように、当初は各扇が一枚ずつ離れており、その各扇を襲木(押木、縁)で枠を付け、革紐で繋ぎ合わせていた。平安時代に入り、革紐に替わって紙の蝶番が使用されるようになり、連続した広い画面にパノラマの絵が描かれるようになり、絵の達人で大和絵の創始者とされる巨勢金岡が、時の関白藤原基経の依頼で屏風に大和絵を描いたという記録もある。饗宴や儀礼の際には、母屋と庇の間の柱間に、軟錦で縁取りされた副障子(押障子)を嵌め込み、室礼として使用した。
通入障子
一本の樋(溝)を設けて落とし込み、取り外し可能な張り付け壁の副障子が基となり、後に鴨居と二本の樋を設けて開閉して通り抜けが可能な、通入障子(鳥居障子)が発明され、更に遣戸や襖障子に発展し、遣戸は廊下と室内の間仕切りに、襖障子は室内の間仕切りに使用された。
明かり障子
明かり障子の優れている点は、壁や遣戸のように外界とは遮断せずに、外界の雰囲気を光と影で取り入れて、住人に自然の暖かみを与えている事である。遣戸は、開閉自在ながら、閉めると室内が暗くなり、冬には、寒くとも採光のために、遣戸を少し開けておかねばならず、明かり障子の発明が求められていた。まず、明かり障子は遣戸の杉板の代わりに格子状の木枠に薄絹を張ることで採光を行っていたことが、「平家納経」の図録に見られ、その後、徐々に細い組子桟の今日的な明かり障子へと進化し、文書を日光消毒する際などに四面に立てて使用されていた(「江談抄」)。しかし、明かり障子は風雨の激しい時には、障子の下の部分が濡れて破れ易いため、その際には半蔀戸を釣って内側に明かり障子を立て、下半分の蔀戸は立て込んだまま使用していた。こうした状況から、明かり障子の下半分に板を張った半蔀戸と同じ高さの腰板付きの障子が考案された。鎌倉時代以降、書院造の普及につれて、明かり障子も普及し、「大乗院寺社雑事記」には、障子用として厚紙130枚を使用したという記録があり、歳末に障子紙を張り替える風習は、この時代からあったようである。採光を目的とする明かり障子には、透光性が良い薄い紙が適切なのであるが、破れ難い粘り強さも必要となり、また、大量に使用するため、安価な物が好まれた。このような条件を満たす紙としては、壇紙や奉書紙、雁皮紙は不適当であり、明かり障子用の書院紙として雑紙や中折紙などの文書草案用や雑用の紙が採用され、中でも美濃和紙は美濃雑紙と呼ばれて、多用途の紙として最も多く流通していたので、障子紙としても使用され、美濃和紙が明かり障子紙の代表紙となった。 
室町時代 / 紙座の成立
紙屋院の廃絶以後、和紙の生産は地方の生産地に舞台を移していくことになる。この頃には和紙の生産・流通を扱う業者による紙座(かみざ)が形成されて生産・流通を支配していった。紙座は本来は紙を生産して公家や寺社(本所)に納入することで奉仕する供御人・神人などの集団であったが、後に本所の保護を受けて一般の生産・流通にも関与するようになったのである。彼らは本所に商品や座役を納める代わりに営業や身分保障を受けた。代表的な紙座に元の紙屋院の職人達が蔵人所を本所として結成した宿紙上座と新規業者による宿紙下座から構成される宿紙上下座(しゅくしかみしもざ)や奈良南市の紙座、六波羅蜜寺を本所とした紙漉座、美濃大矢田や近江小谷などの産紙の販売権を独占した近江枝村商人(枝村紙座)などが著名である。
だが、この時代に入っても和紙が貴重品であったことは、近衛家の財務内容を記した目録である「雑事要録」から知ることが可能である。長享3年(1489年)に八朔に用いるために引合紙5束を190疋(1900文)、杉原紙8束を2貫100文(2100文)で買ったことが記されている。ところが、同年春に近衛邸の浴室を新造したときの職人の日当が平均110文であった。つまり、杉原紙1束を買うのに職人2日半分の日当を必要としたのである。こうした事情が、上級公家であっても宿紙や紙背文書を用いた背景にあったと考えられている[1]。
戦国時代に入ると、領国内に文書による支配体制を成立させた戦国大名が出現する。戦国大名は文書料紙の確保のため和紙の生産を奨励していたと考えられており、甲斐の武田信玄が楮・三椏の生産を奨励した逸話は良く知られている。だが、こうした戦国大名の政策は紙座の方針と対立するようになり、織田信長・豊臣秀吉らが推し進めた楽市楽座によって紙座の特権は否定されるようになり、紙商人の御用商人化や生産業者に対する支配強化が進められることになった。 
江戸時代 / 和紙文化の成熟
江戸時代に入ると、社会における紙の需要が高まり、全国各地で和紙の生産が行われるようになった。また、三椏などの新たな原料による製紙も普及するようになり、生産も増大していくようになる。その一方で、各藩では財政収入の強化を図るために和紙生産の特産化、専売制強化を図った。これらの和紙は江戸や大坂の蔵屋敷を経由して問屋などに売却した。また、都市の問屋は江戸中期以後に株仲間を結成して和紙の販売の独占を図るようになった。藩の専売制と幕府の保護を受けた問屋株仲間の独占販売による流通体制が完成したことにより、生産者や小売商は自由な販売を制約されるようになった。これに対して生産業者は抵抗したが、権力の圧迫の前に挫折した。それでも幕末の社会混乱に乗じてこうした支配から脱却して僅かながら自由市場が形成される兆しも現れるようになった。 
近現代 / 洋紙の伝来と和紙の衰退
明治に入ると、欧米よりパルプを原料として洋紙が輸入されるようになった。これに対して日本の和紙製造業者は江戸期における藩の専売制や問屋からの支配からは脱却して以後生産の近代化が図られた。1901年の統計では、生産業者は7万戸・従事者は20万人であったとされている。だが、明治後半から大正にかけて新聞や書籍などの大量印刷が本格化すると、洋紙と比較して生産効率が悪く、インクや印刷機との相性が悪い和紙は次第に洋紙に押されるようになっていった。これに対して生産業者側も三椏などを使ったインクやタイプライター、印刷機に強い和紙の開発によってこれに対応し、海外への輸出も行われるようになった。障子紙や傘紙原料としての需要や昭和前期における戦時経済における洋紙生産工場の軍事工場化などによってある程度の規模は維持し続けた(1941年の統計では13,000戸の生産業者が存在している)。だが、戦後の高度経済成長期における地方の和紙産地での人口減少による後継者不足、洋傘の普及、障子紙など和紙の機械生産の本格化などによって日本の和紙産業は大打撃を受けた。現代の和紙の大半は機械漉きである。それでも、強度に優れ独特の風合いを持った手漉き和紙の需要は絶えることがなく、近年では「地球環境に優しい」自然素材を原料とした紙として再評価する動きも起こっている。 
和紙の多彩な用途
和紙は建具の他にも、扇子や紙衣、紙衾、紙布の主材料として使用された。和紙は本来、麻クズを原料として製紙された事から考えれば、和紙を衣料や寝具として利用する事も不思議ではないが、世界的に見て珍しい使用例である。
平安中期に和紙が大量生産された結果、一般に普及し、文房具以外にも利用されるようになった。丈夫な和紙は柿渋や寒天、コンニャクノリなどで加工すると更に丈夫となり、耐水性も向上する事から、傘や笠、合羽などの雨具にも利用された。
コウゾの屑を原料に用いた低級品も、ちり紙として様々な用途に用いられた。当初は和紙の束の包装紙として用いられたが、軟らかくてその目的に都合がいい事から、鼻紙、尻拭き紙として用いられた。幕末〜明治時代に来日した外国人は、鼻をかむのにハンカチのような再利用可能な物を用いず、紙を使い捨てにする日本人の慣習を贅沢視した。現在ではティッシュペーパーやトイレットペーパーに置き換えられている(現在でもティッシュペーパーをちり紙と呼ぶ例があるが、パルプを原料に作られるティッスペーパーと、低級和紙であるちり紙は別物である)。
防水加工紙
紙に油を塗布して防水性を持たせる加工は、平安時代から始まっており、「和名類聚抄」に油単、油団の名が見られる。油単とは、一重の紙に油を引いた物で、主に敷物や包装用に使用される。油団とは、数枚の紙を貼り合わせて、荏油または柿油を引いて、更に漆を塗布した物で光沢がある。油紙用の油は、亜麻仁油・荏油 ・桐油などの乾性油を使用し、江戸時代には他の成分を加えた加工油を使用した。雨傘には荏油を使用した。
この傘用の防水紙は、「御から笠紙」や「傘紙」と呼ばれ、江戸時代初頭には紀伊の傘紙がよく流通し、需要が拡大するに従って各地でも製造されるようになり、紀伊の高野紙、大和吉野の宇陀紙、美濃の森下紙が傘紙として名を成した。また、蛇の目傘用の傘紙は、本染宇陀、阿波染と呼ばれ、阿波で大量に生産された。
原料

楮(こうぞ)
三椏(みつまた)
雁皮(がんぴ)
檀(まゆみ)
苦参(くじん)  
 
灯火、燈火(ともしび)

灯火の 明石大門(あかしおほと)に入らむ日や こぎ別れなむ 家のあたり見ず
   柿本人麿(万葉集)
江戸時代までの歌は原則として「日本古典文学大系」を底本としたが、早速第三句の「入日哉」は、やはり声調上「入る日にか」には従えなかった。
人類が万物の霊長たりえたのは、言葉と火を使う術をもったからだという。一体、人類は何百年前から火を使うようになったのだろうか。ともあれ、洞窟の中の彼らにとって、火は、まわりを明るくし、体を暖かくし、食べ物をおいしくし、猛獣を遠ざけ、害虫を焼き、石を溶かし、泥をかためるなど、時には太陽以上に聖なるものであったろう。
「ともしび」という語が、日本で使われるようになったのも幾万年前か知りたいところだが、元来は、人間が点した火という大きな意味をもっていたに違いない。それが、やがて「まわりを明るくするために点された火」に固定し、漢字の到来の頃は、燈火、炬火、燈、蜀(留)火、燎火、燭、焼火、止毛志比、等毛之備等々と記され、用例も多く、日常の基本語彙になっている。
一方、言葉の方も、単なる伝達の手段から昇華して、言葉芸術の詩歌をも生み出し、日本に於いては、語意を超え、この歌の「ともしび」のように、一首の調べを調えるための「枕詞」なるものも持て噺されるようにまでなっていたのである。
あぶら火の光に見ゆるわが蘰さ百合の花の笑まはしきかな 
   大伴家持(万葉集)
前書きに「同じ月(天平元年五月)九日、諸僚、少目秦伊美吉石竹の館に会ひて飲宴す。時に主人、百合の花蘰三枚を造り豆器に畳ね置きて賓客に捧げ贈る。各々この蘰を賦して作る」とある。貴重だった御殿油も、この夜ばかりはふんだんに使ったのだろう。
この一首、巻十一の「寄物陳思歌」にある「燈のかげにかがよふうつせみの妹が笑まひし面影に見ゆ」には及ばないなどとも言われて来たが、四句迄の具体的な表現から、客の為に心をこめて用意してくれた灯火と百合の花の蘰が目に浮かび、宴の亭主に対する感謝の気持ちと喜びが率直に伝わって来て好感が持てる一首である。 荘重な ますらをぶりもだが、この歌のような明るく優美な歌もあるのが万葉集の魅力だ。
芥川龍之介の施頭歌「あぶら火の光に見つつ心かなしもみ雪ふる越路のひとの年ほぎのふみ」は、この歌あっての歌だろう。
さて、前書きの中の「豆器」は、枕草子に「高杯にまゐらせたる御殿油なれば髪の筋などもなかなかに昼よりも顕詳にみえてまばゆけれ」と記された高杯のことである。大正六年六月、山県有朋が、八十歳の誕生日に、椿山荘に諸僚を招いて飲宴した折に、賓客に「知る人もまれになるまで老いぬるを若きにまじるけふの楽しさ」と添書きした高杯を贈っているが、これも、この万葉の故事を偲んでのもてなしではなかったろうか。
人にあはん月のなきには思ひおきて胸はりし火に心やけをり 
   小野小町(古今和歌集)
『日本古典文学大系』の頭注には<人にあおうにもその手がかりの無いためには、思いつつ起きていて、胸はいらいらしながら心こがれているという意を、思ひの「火」の関係で「おき」「はしり火」等をからませて表現した。「はしり火」は、パチパチ飛びはねる火。「月」は借字。>とある。北原白秋は『鑑賞短歌大系』で「月は便宜を懸けた。だが、続松のつきなどに関係あるか。」とも記している。
古今集では徘徊歌としているが、火の縁語を詠みこんだ物名歌とも言えよう。ともあれ、機知の赴くままに縁語を懸詞をと並べたてている点、古今集の技法を伝える代表歌であろう。「人に会いたいと思っても、月も、松明も無い夜は、思いばかりが、火桶の火が赤々と燠るように、胸の中に走り火が駆け回り、心が焼けるばかりです」ということになるだろう。
火鉢(火桶)を、灯火器に加えることには問題もあろうが、その中の、燠の煽光は平安時代になって、俄かに歌の素材となっている。小町には他に「おきのゐて身をやくよりもかなしきはみやこしまべの別れなりけり」もある。
本来、回りを明るくするために点されていた火では無いが、それを歌人があかりとして心を動かされ、歌に詠んだものは少なく無い。この灯火百人一首において、火鉢の火の他に囲炉裏火、蚊遣り火、マッチの火、煙草の火なども少なからず取り上げているのはその視点からである。
五月山木の下闇にともす火は鹿のたちどのしるべなりけり 
   紀貫之(貫之集)
七のような言葉遊びは影を潜めて、平明温順で、形象性も確かな歌である。和歌を史的に捉えた文学者貫之らしい歌である。
ところで、この歌の「ともす火」は、十三の西行の歌の「照射ともしする火串の松」つまり鹿狩りの松明のことである。照射のことは十三に譲って、ここでは、先ず松明について述べてみたい。松明は単に松とも、松明かしとも、続松とも、手火とも、更には、とぼし、ひで、やにまつ、わりまつとも言われ、遡ってみると、万葉集にも志貴親王の葬列を詠んだ金村の長歌の結びに「手火の光ぞここだ照りたる」と見える。たいてい「たいまつ」を変換すると「松明」と出てくるが、本来はこの長歌に見える「手火」の松、つまり「手火松」なのであろう。
材料としては「多肥松」が、用法的には「焚松」「続松」「旅松」が、渡来的には「炬火」「炬」の用字にも捨てがたいものもあるのだが。最後にあげた「炬」は、『神代記』に「炬此云多妣」とあり、伊邪那岐命の「一つ火」の故事から、一本燭しが忌み事とされ、以来、割木を数本束ねて燃やすようになったといわれている。松の丸太一本より、割木数本を束ねた方が燃えやすいのは理の当然ではあるが、松明一つにも有職故事が付き纏うのも日本文化の奥ゆかしさなのであろうか。
かがり火にたちそふ恋の煙こそよにはたえせぬ炎なりけり 
   紫式部(源氏物語)
「広ごり臥したる檀の木の下に、打松おどろおどろしからぬ程に置きて、さし退きて、灯したれば、御前の方はいと涼しく、をかしき程なる光に、女のおん有様見るにかひあり。御髪の手辺りなど、いと冷ややかに、あてはかなる心地して、うちとけぬさまに、物を「つつまし」とおぼしたる気色いとらうたげなり。かへり憂く、おぼしやすらふ。「絶えず人さぶらひて、灯しつけよ。夏の月のなき程は、庭の光なき、いと物むつかしく、おぼつかなしや」とのたまふ。《見出しの歌》何時までとかや。燻るならでも、苦しき下燃えなりやと、きこえ給ふ。女君、あやしの有様やとおぼすに《ゆくへ無き空に消ちてよ篝火のたよりにたぐふ煙とならば》人のあやしと思ひはべらむ事と詫び給へば、「帰はや」とて出で給ふに、東の対の方に、おもしろき笛の音、笙に、吹き合はせたなり。
源氏と玉鬘の歌がクライマックスをなし、絶妙な効果をあげている。それに当時の庭火の様子も具で、灯火史の好資料だ。
今に思えば燈火の煙、とりわけ松の黒煙は厄介物と考えられているのだが、『枕草子』の「さきにともしたる松の煙の香の車にかかりたるもいとをかし」に見るように、意外に「をかしきもの」とされたのは、この源氏と玉鬘のような思いを誘ったからであろう。
照射(ともし)する火串(ほぐし)の松も かへなくに鹿目合はせであかす夏の夜
   西行法師(山家集)
四句の古今集的懸詩に拘らなければ、燈火の歴史の貴重な資料である。十二の「鵜飼」と並んで、「照射」つまり夜の鹿狩りは、当時の公家や武家の、夏の年中行事として持て囃され、歌合わせの席題としても少なからず登場している。
「照射」は、この歌のように、火串の先に刺した松明の明かりで、鹿をおびきよせ、火に光る二つの目の間を狙って矢を射て鹿を討ち取る猟で、火串の他に鉄の篝も用いられたようである。この歌に詠まれた火串は、後世の俳句の「暁は土にもえいる火串かな」(闌更)でも伺えるように竹や木の棒であった。照射を読んだ歌の中で、九の「下こがれ」の作者 好忠の
照射すと秋の山べにいる人の弓の羽風に紅葉散るらし
からは、照射が晩秋まで行われていたことが知られる。
ところで、西行の歌の「松」つまり松明は、風雨に強く、庭火として、漁火として、また照射の火として、長く広く、灯火の主座に据えられていたものであるが、提灯や行灯が一般化した江戸末の『並山日記』の「初鹿野の村に近づく頃かの案内せし家の主なるべし松をともして迎へに来あひぬ。(中略)この家清くつきづきしくていと棟広くしつらひたるを地火炉のもとにて松のひでといふものを焚きたるいとまばゆきまで輝きたるこそ山里のしるしなりけれ。」の記述は、松明が携行灯としても室内灯としても、いかに重宝がられていたかを彷彿とさせる。後の樋口一葉は「松のひでを燈火にかへて」と貧農の象徴としているのだが。
夜をさむみ衣かたしき独居の床に思ひをおこすうつみ火
   武田晴信(法善寺晴信百首和歌)
題は「炉火」。「衣かたしきひとり」は万葉集にも先例があり、小倉百人一首にある藤原良経の「きりぎりすなくや霜夜のさむしろに衣かたしきひとりかもねん」が良く知られている。また、「思ひおこす」は、七の小野小町を思いおこさせる。
晴信すなわち信玄の歌といえば、新民謡『武田節』にも歌いこまれている「人は石垣人は城情けは味方仇は敵」の方が人口に膾炙されているのだが、このうづみ火の歌は、京を目指した山国の武将の教養の程と人間味が偲ばれて捨ててはおけない。
捨ててはおけないと言いついでに、この百人一首から、うづみ火にしてしまった鎌倉時代までの有名歌人のうづみ火の歌を、このあたりで起こしておくことにしよう。
うづみびの下にこがれし時よりかかくにくまるる折ぞわびしき 在原業平
風音もいつしか寒き槇の戸にけさよりなるる埋火のもと 藤原良経
うち匂ふふせごの下のうづみ火に春の心やまづ通ふらむ 藤原定家
ところで、信玄の戦略などを記した『甲陽軍艦』の中の、織田信忠と信玄の息女の婚約の折の進物の「越後有明け蝋燭三千帳、漆千桶」の記録は灯火の歴史上、これまた、捨ててはおけないものであろう。
よもすがらつまきたきつつほろゐしてにごれる酒をのむがたのしき 
   良寛(近世和歌集)
二句の「つまき」は、万葉集にも「磯の上に爪木折り焚き汝がためと我が潜き来し沖つ白玉」とあるように、指先でも楽々と折れるような薪で、粗朶とも呼ばれ、六で見た河口の葦と並び、庶民の囲炉裏で焚かれたものである。一茶の「焚くほどは風がもちくる落ち葉かな」の落ち葉よりはましだったが。
三句の「ほろゐ」は、この底本とした「日本古典文学大系」では、<「ほ」は「ま」の誤りか、「まろゐ」は「まろね」の意か>としている。しかし、2文字の誤記とするより、そのまま「ただなんとなくぼけーっと起きていて」と会得したい。
月よみの光を持ちて帰りませ山路は栗のいがの落つれば
埋火に足さしのべて伏せれどもこよひの寒さ腹にとほりぬ
などに見られる単純素朴な表現から滲み出る孤高の「ほろ苦さ」こそ、私を引き付けて止まぬ良寛の歌の味だ。
ところで、良寛といえば目に浮かぶのは「夜のなかにまじらぬとにはあらねどもひとりあそびぞわれはまされる」の歌の自画像賛に添えられた遠近法無視の台形台四脚行灯である。世話行灯とも呼ばれる下手ものだ。この頃には、菜種あぶらも普及し、行灯も全盛期を迎えていた。二脚角行灯、遠州行灯、あこだ行灯、雪洞型行灯、有明行灯、書見行灯、船行灯などなどと多彩で、おのずから持ち主や、使用場所の格差を示すものともなっていたようである。
ともしびをさしかふるまでいくさ人おこせし文を読み見つるかな 
   明治天皇
「ともしびをさしかふる」について、昭和二年刊の『明治大帝』に、御用掛の樹下定江は次の様に記している。
「宮城は表の方こそ外国との交渉上、やむを得ず電灯をお許し遊ばされましたが、御内儀は御崩御まで、ランプや電灯を用いることを許されませんでした。御座所も御局も、西洋蝋燭にホヤをした御灯で、聖上が御書見を遊ばすおそばにも、やはりお蝋燭立が御座いました。長い長い御廊下は種油に灯芯を入れた網行灯が十間おきぐらいに立って居て、ボンヤリと照らして居りました。また、蝋燭の使用については、千葉胤明が「いずれ家計の豊かでない者が奉仕しているので、御蝋燭の半分ぐらいは燃え残りとして彼らの余得になされたとのことである。なお、御殿の御障子は御蝋燭の油煙のため黒ずんで、御間内は昼でもうす暗い程でありましたが、そんなになっても容易に御張り替えのお許しがなかったそうで、農家のくりやの障子紙でも、こんなに黒くなったのはなかろうと思うくらいであります。」とも記している。
定江の記した「ホヤをした御灯」は、『聖徳記念絵画館壁画集』の「広島大本営軍務親裁の図」に見られる所謂ギヤマン燭台であろう。また、胤明の「油煙のため黒ずんで」から推すと、その西洋蝋燭は、まだ牛脂(ステアリン)蝋燭であったろうと考えられる。
ともあれ、御製からも、御所の照明の記録からも、「ひとりつむ言の葉草のなかりせばなにに心をなぐさめてまし」と詠まれて、専門歌人以上に和歌に心を寄せ続けられた明治天皇のお人柄が偲ばれる。
あたまもるとりでのかがり影ふけて夏も身にしむ越の山風 
   山県有朋
戊辰戦争が、明治にずれ込んだ越後妙見峠での戦争詠。内戦の「あたまもるとりでのかがり」も、このあとの西南戦争で日本からは消えていったものの一つと思っていたのだが、戦国武将好きのNHKの大河ドラマと、それに追従した城や砦の復元や、合戦絵巻などというイベントで、最近は、幼い子供たちまで、その火の粉を浴びるようになって来たようだ。
くろがねの 筒の火花をちらしつつ さきあらそひてゆくは誰が子ぞ
とも、あたまもりつつ詠んだ有朋の思いは、称賛であったのか、悲しみであったのか。
ところで、山県有朋と聞けば、厳めしい髭と軍服姿が先ず目に浮かぶだろうが、三二の小出粲に師事して若い頃から歌の道に入り、晩年まで作歌に勤しんだ文人でもあった。還暦の年に京都無隣庵に明治天皇から京都御所の松の若木の御下賜を受け、
おひしげれ松よ小松よ大君の めぐみの露のかかるいほりに
と詠んで、写真を添えて捧げたことや、八十歳の誕生日に東京椿山荘における賀宴で、天皇・皇后の御親筆を掲げ、寺内首相以下二百名近くの諸侯文人の祝歌を受け、有朋自らも
しる人もまれになるまで老いぬるを 若きにまじるけふの楽しさ
と漆でしたためた高坏を返礼として贈ったことは、人のよく知るところである。
提灯の火が少しばかり先になりて野菊の花が照らされ居たり 
   佐々木信綱
三十一文字みそひともじを和歌やまとうたから穏やかに短歌に移行させた清新な一首である。「提灯の火が少しばかり先になりて」には、期せずして、そんな自負も伺える。
さて、提灯は、十五世紀頃から図会などに見られ、はじめは行灯のように木の枠に紙を張って手に提げて歩いていたものだったが、十六世紀中頃に細かい割竹を螺旋状に巻いて骨とし、折り畳みができるものが生まれ、以後、日本の灯火器というより日本文化を代表する存在でありつづけているものだ。しかし、江戸時代には、俳句には盛んに登場しながら、和歌には登場していなかった。音読みが、和歌の世界では敬遠されたからだろうか。そういう和語、漢語の使用という点からも、この信綱の歌は、画期的なものではあるまいか。ちなみに、この百人一首に取り上げて来た歌の中で、音読みの漢語は、十の「衛士エジ」と、二八の「像ザウ」「酒シュ」だけであった。
なお、用語にこだわるなら、信綱の歌の四句の「野菊」も、提灯と並んで懐かしい日本語だ。言うまでもなく「野」は「の」で和語、「菊」は「キク」で本来は漢語だ。所謂湯桶読みの合成語だが、伊藤左千夫の『野菊のごとき君なりき』を待つまでもなく、信綱はその優しい響きと姿を愛していたのであろう。漢語音の響きと言えば、信綱の代表作「ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なる一ひらの雲」の中の「薬師寺」と「塔」の二語も、一首をぐっと引き締めている日本語である。
かなしきは浅草寺の本堂のとびらしまりて火のともる時 
   与謝野寛
「芭蕉の寂は喜ばじ」「われ男の子意気の子名の子つるぎの子詩の子恋の子ああもだえの子」「いたづらに何をかいはむ事はただ この太刀にありただこの太刀に」と、詩歌の大革新を唱えて、いたずらに剣を振った鉄幹にも、こんなおとなしい歌もあったのかとほっとさせられる一首である。
櫺子窓も瓦灯窓もない漆黒の大壁のような大扉が閉められる浅草寺本堂前の夕景が、虎剣流鉄幹をして、寺の子・人の子寛に帰らせたのであろう。そして、それと同時に、橘曙覧の「たのしみは炭さしすてておきし火の紅くなりきて湯の煮ゆる時」の調べにも温故の気持ちを湧かせたのであろう。
寛には、この歌の他、「あるときのかの人の頬を見るごとく紅き帷をすけるともしび」など、あかりを詠んだ歌があるが、晶子や茂吉にくらべるとはるかに少なく、他の作品も、鉄幹の下に参じた晶子、啄木、白秋や、終始対峙した茂吉の陰に隠されて「すけるともしび」的存在になってしまっているようだ。
さて、浅草寺と言えば、誰でも、雷門、宝蔵門、本堂そして二天門にぶらさがる四大提灯を思い浮かべることであろう。提灯が一寺のシンボルを越えて、古き良き日本の観光スポットとして、海外からの旅行者にも仰ぎ見られている光景は「うれしきは浅草寺の提灯を世界の友らとくぐりゆく時」と、興じたくもなる情景である。
窓の灯の油のつぼの小ささなる波みて秋の夜を更かしたり 
   与謝野晶子
三五の歌と比べて、こちらは素材の面からも、その歌格の点からも、まさしく画期的な歌である。  晶子には、この他に
いさり火は身も世も無げに瞬けり 陸は海よりも悲しきものを
牛つれて松明したる山乙女 湖ぞひゆけば家教へける
燭さして赤良小舟の九つに 散り葉のもみぢ積みこそ参れ
夜によきは炉にうつぶせるかたちとぞ とほきおん人のものさだめかな
炉にむかひ鼓あぶりてものいふを 乙女と誉めぬわれいつく母
梅幸の姿に誰がいきうつし 人数まばゆき春の灯の街
春の雨障子のをちに川暮れて 灯に見る君となりにけるかな
などなど、あかりを詠んだ歌は多く、その対象把握と調べの確かさに、今更ながら驚かされる。
さて、灯火器の大革命であった石油ランプが日本にもたらされたのは、横浜開港の安政六年だとされているが、国産のランプが製造され、一般に普及したのは明治二十年代のことのようである。「蝋燭何十本分のあかるさ、ほつれ毛一筋をも見あやまることなし」ともてはやされた炎とともに、透明ガラスの油壺や火屋の美しさは、当時の人々に新時代の到来を実感させ、「秋の夜を更かしたり」の晶子の歌もまた、広く共感を呼び、もてはやされたのであろう。
寝静まる里のともしび皆消えて天の川白し竹藪の上に 
   正岡子規
私が定住の地と定めた日下部の里も、東には勝沼ぶどうの丘センター、西には笛吹川フルーツパーク、南には石和温泉郷が夜もすがら灯を点し合い、新日本三大夜景の里としての名を広め、この歌のような情景は、もはや望むべきもないものとなってしまった。
でも、歌の世界は、この歌のような虚飾を捨てた率直な写生歌が、子規没後百年、再び本流となってきているようだ。
「貫之は下手な歌よみにて『古今集』はくだらぬ集に有之候」
と断じて、万葉集の真摯素朴を範とした写生道を唱えた子規には、この歌の他にも、あかりを詠んだ歌は少なくない。
都路はともし火照らぬ隈もなし 夜の埃の立つも知るべく
百照らすともし火百の影そひて いつき島宮潮満ちにけり
夜をこめて物かくわざのくたびれに火を吹きおこし茶を飲みにけり
ともし火の光に照らす窓の外の牡丹にそそぐ春の夜の雨
ガラス戸の外の月夜をながむれど ランプの影のうつりて見えず
紙をもてランプおほへばガラス戸の外の月夜のあきらけく見ゆ
「紙をもて」と同じ心情を、「ランプ消し行灯ともすや遠蛙」と俳句では表現している。興がのれば、ランプのシェードに俳句を墨書したと伝えられる子規ではあったが、ガラス戸越しに夜の庭を眺めたり、蛙やほととぎすの声に声を傾けるのには、ランプは明かり過ぎると感じていたのであろう。
観音をきざむ仏師が小刀の光もさむき燈火のかげ 
   落合直文
この歌の結句の「ともしび」は、朴の燭台に突き立てられた和蝋燭ではなかったろうか。
さて、この歌の三句の「小刀」は「こがたな」だろうか「セウタウ」だろうか。「クワンノン」「ブッシ」の緊張した声調で締めるなら「セウタウ」と読みたいところだが、結句が「蝋燭(ラッソク)」でも「トウクワ」でもないので、やはり「こがたな」なのだろう。
直文は、明治二十六年、あさ香社を創立、和歌改良運動を起こし短歌革新の先駆者として現在も高い評価をうけている一人であるが、作品は、浅嘉町に馳せ参じた鉄幹のように猪突猛進することはなく、漸進的、折衷的であった。しかし、この歌の「観音」「仏師」のような当時日常語になっていた漢語を自在に歌ことばとして活用したり、
町中の火の見やぐらに人ひとり火を見て立てり冬の夜の月
のように、「耳にて聞くべき調べ」を強調し、子音配列・母音配列による日本語特有の押韻や、五音・七音を二拍・三拍・四拍のリズムとして捉えた声調論に基づく歌を実現した功績は、やはり現代短歌の革新者として位置づけてよいであろう。
引用の「火の見やぐらの」の歌は、三三で触れた信綱の「ゆく秋の大和のくにの薬師寺の塔の上なるひとひらの雲」の歌とともに、時折口ずさんでみたい歌だ。
つのらんぷのあかりおぼろかに水を照らして家の静けさ 
   伊藤左千夫
前書きに「八月二十六日、洪水俄かに家を浸し、床上二尺に及びぬ。みづく荒屋の片隅に棚やうの怪しき床しつらへつつ、家守るべく住み残りたる三人四人がここに十日の水ごもり。いぶせき中の歌おもひも些か心なぐさめのすさびにこそ」(明治四十年) とある。この時の連作十首の中には、
灯をとりて外におり立てば濁り水動くが上に火かげ漂ふ
もあるが、「いぶせき中の歌おもひ」は、水ごもりの仲間の人々の心をも静めたことであろう。
左千夫には、「世の中の歌を大いに新しく起こさむ」と、子規の門をくぐった翌年、明治三十四年に灯火の歌が三首ある。
雨の夜の牡丹の花をなつかしみ灯し火とりていでて見にけり
ともし火のまおもに立てる紅の牡丹のはなに雨かかる見ゆ
さ夜ふけて雨戸もささずさ庭べの牡丹の花に灯をともし見つ
この一連は、子規の「ともしびの光に照らす窓の外の牡丹にそそぐ春の夜の雨」に習っての作であるが、子規の唱える「写生」を、ひたすらに実践している真摯な態度があふれている。こうした一途な修業があったればこそ、後の左千夫、後の 「アララギ」が造られたのである。
ところで、表出の二句の「らんぷ」という外来語のひらがな表記も注目すべきものであるが、斎藤茂吉が、その著『伊藤左千夫』の中で、「らんぷ」の歌とほぼ同じ頃の「み灯霞む鹿苑院の沈の香や山ほととぎす閣近く鳴く」などの歌を評して「固有名詞、漢語などを自由に駆使して、新しい歌境を現出せしめて居る。この種の漢語さへ、同じ陣営にあって非難するものも居た程である。」と述べていることは、興味深いことだ。
アーク灯ともれるかげをあるかなし蛍の飛ぶはあはれなるかな 
   北原白秋
色彩感覚、時代感覚、対比構成、韻律、象徴性など、やはり白秋ならではの一首であろう。
「東京銀座通電気燈建設之図」と題した明治十六年の錦絵の説明には「電気灯は米国人の新発明にして、灯火を点ずるに非ずしてエレキ機械を以て火光を発し、その光明数十町の遠きに達し恰かも白昼の如し。実に日月を除くの外、之と光を同じくするものなし」と記されている。アーク灯が当時の人々をどんなに驚かせたかが伺える。白秋にはこの歌の他に
空見ればアークライトに雪のごと羽虫たかれり春よいづこに
とアーク灯を詠んだ歌もある。こちらは昼の実景だろうが、五六の歌は、美的虚構であろう。恰かも白昼の如しと言われたアーク灯の光の中に、しかも東京の中心地の銀座に蛍が飛んでいたとは、どうしてもイメージが湧かないが「反自然主義」「反アララギ」の象徴詩運動を唱えて「日光」を創刊した当時の記念詠ではあろう。こうした眩しすぎるアーク灯と無理やり対比させられたあわれな蛍に比べて、晩年に詠んだ
昼ながら幽かに光る蛍一つ孟宗の藪を出でて消えたり
の蛍は、心に沁みて消えない。
提灯は昔ながらにぶらぶらとかうしてゐても過ごせる世かな 
   竹久夢二
大正ロマンの風に乗って、吉井勇の「東京紅燈集」などとともに「絵入歌集山へよする」として新潮社から出された特装本の中の一首。巻末の広告には、同じ絵入りの歌集「小夜曲」が第五版となつているところをみると、当時は歌集のベストセラーが続いたのだろう。 後記には「大方は数週日の間に書いたもので、挿絵はある読者のために描き添へたもので、ある感覚の説明に過ぎない。とある。孤高より読者の為という宣言なのか。とまれ、この「山へよする」には
さあここが観音様だ豪勢な提灯を見よまた鳩を見よ
築地なるルカ病院の窓の灯を数へつつゆきし夏は来にけり
花道の蝶花形の提灯に灯をいるるころぞ都ぞこひしき
誰に逢ふあてもなければ仁丹の広告灯をながめゐにけり
ぽっかりと電気つきしにおどろきぬ何とて我の泣きゐたりける
ぽっかりと野末にひとつ消えのこる朝の灯よ汝も目ざめつらむを
などの灯を詠んだ歌があるが、どれも優しく自由で”ハイカラ”で、確かな画家の目も感じられる。現在では歌人としての評価は高くない一人だが、こうした撫肩の姿勢は、むしろ、羨ましい。
あなあはれ寂しき人ゐ浅草の暗き小道にマッチ擦りたり 
   斉藤茂吉
茂吉が歌壇に不動の位置をしめた大正五年の「寂土」と題した連作中の一首。素材からこの歌を挙げたのだが、茂吉は燈火の歌においても質量ともに一際抜きん出た存在だ。その中から十首
ゆうさりてランプともせばひとときは心静まり何もせず居り
のぼりつめ来つる高野の山のへに護摩の火むらの音ひびきけり
秋の夜の燈しづかにゆるるときしみじみわれは耳かきにけり
まかがよふ昼の渚に燃ゆる火の澄み透る間の色の寂しさ
電灯の光とどかぬ宵やみのひくき空より蛾は舞ひて来つ
松風の吹きゐるところ紅の提灯さげて分け入りにけり
秋ふけし山のゆうべにわが焚きしひくき炎もこほしきものぞ
暗幕を低くおろしてこもりたる一時間半もわが世とぞ思ふ
蝋燭を消して眠をつむりけりひとりごとさへ言ふこともなく
くやしまむ言も耐えたり炉の中に炎のあそぶ冬のゆうぐれ
さて、国産のマッチが作られたのは明治八年からだとのこと。当初は洋火打、早附木、擦附木などと当てられていたが、明治二十年頃から燐寸が一般化したようである。点火具の大革命だった燐寸の寸時の炎と匂いと熱は、人々の心を揺さぶり続け、敗戦直後の寺山修二の絶唱
マッチ擦るつかのま海に霧深し身捨つるほどの祖国はありや
に及ぶのである。 
真白なるランプの笠の瑕のごと 流離の記憶 消し難きかも 
   石川啄木
啄木は『二筋の血』の中で「私はうす暗いランプの影で贈り物の帳面に読本を丁寧に謄写した。私が文学を学ぶ喜びを知ったのは、実にその時であった。」と述懐している。
「私のランプよ」と呼びかける人もあったほどで明治文学には随所にランプが登場している。例を笠一つに限っても「火鉢の灯は消えかかって籠洋灯かごランプの光も暗い」(鏡花)、「机の上の洋灯が玉火屋たまほやを被って居るので、ぼんやりした光を此方に投げて」(露伴)、「ぶりき骨の紙蓋洋灯貧しげに」(露伴)、「句想のあふるるままにランプの紙笠に書つけ」(子規)などなど多彩だ。啄木の愛用したランプの笠は石笠と呼ばれた曇りガラスの笠だったのだろう。
石笠も玉火屋も本来は、ランプの光効率を高めるらっきょう火屋に被せて光を拡散させるための補助火屋だったのだが、乳白カットガラスや赤緑花笠など飾り火屋とも呼ばれ美しさを競うものが出回り、日本では籠や雪洞の火屋を被せた所謂座敷ランプが上流階級で持て囃されたようである。明るさを抑えても洋燈を日本間に合うように工夫した日本人の心は、「新しき詩歌」に『あこがれ』ながら、結局は日本の伝統の短歌に心を委ねて、せめてもの三行書きにした啄木の心とも重なる物があろう。
とろとろとひとり燃えつつゐろりなる榾のほのほのあはれなるかな 
   若山牧水
たまたま、この稿を入力し始めたパソコンの脇に、妻の読みさしの『声に出して読みたい日本語』が目についた。短歌もあるかなとページを繰ってみると、茂吉と牧水と啄木が選ばれていた。おおいに我が意を得て早速牧水の項に目を留めた。齋藤孝氏は、その解説の中で「淋しさを味わう一人の時間は、しんしんと雪の降るような静けさの中で本来の自分に向き合う貴重な時間でもあった。やがてはこの純粋な時が失われることを予感していた。こんなときは、歌を暗誦したくなる。牧水はこうした青春の寂しさを徹底的に作品化した。」と述べている。六七の歌の評としても頷ける見解だ。
私も敗戦直後の青春時代、心に響いた詩歌を口ずさんだ一人であったが、その多くは万葉相聞歌や茂吉や牧水の歌であった。中でも牧水の歌は声に出して読みたくなるばかりか、読んでいるうちに知らず知らず心に焼きついて、いつとはなしに口ずさみ、時には声を張り上げて歌唱したものだった。牧水にも一時
飲むなと叱り叱りながら母がつぐうす暗き部屋の夜の酒の味
のような破調時代もあったが、牧水短歌の魅力はやはり日本語の良さを最大限に生かした優美な声調にこそあろう。牧水短歌以後、作曲家の心を擽り、青少年が声高らかに歌いたくなる短歌が現れないことは淋しいことだ。
柏はら ほのほたえたるたいまつを ふたりかたみに 吹きてありけり 
   宮沢賢治
大正六年七月、賢治は山梨県出身の保坂嘉内を伴って岩手山に登った。その折、嘉内も
松明の赤い火ありて わが上にしばらく 星の またたくは無し
岩手山の 大空の前に来て見れば 裾野のなかを 歩む松明
松明が たうたう消えて われら二人 牧場の土手の上に登れり
と、賢治と同様四行書きにした短歌を残している。共に盛岡高等農林学校の学生だったが、夫々の歌稿ノートには啄木への憧れと、啄木を越えようという思いが満ち溢れている。二人は盛岡中学校のバルコニーにも立ったり、文芸誌「アザリア」を発行したりして、友情と文学修行を深めたのだが、その「アザリア」に発表した随想により大正七年三月、嘉内は学籍除名処分を受け山梨に帰ったのだった。以後賢治から嘉内に宛てた手紙は、現在保坂家に保存されているだけでも七十三通に及んでいる。その中の大正八年の一通には「裾野の柏原の星明かり、銀河の砂礫のはなつ光のなかに居て火の消えた松明、夢の赤児の掌、夜の幻の華のような松明を見つめてゐたあの時を思ふにつけ、私は明るい賑やかな東京の光の中では寂しいとしか思ひません。」と、次の年には「あなたとかはるがはる燠を吹いた。松明の燠はちいさな赤児の掌か夜の赤い華のやうに光り遠くから提灯がやって来た。」と繰り返し認められている。一本の松明の火が斯く二人の文学青年の絆となったということは、灯火の歴史の上からも特筆されよう。それから九十年、賢治の嘉内宛の手紙と松明の歌などを記した歌稿は、山梨県立文学館に展示され、嘉内の故郷の韮崎市文化ホール前には、銀河鉄道を模った「嘉内、賢治の花園農村の碑」が建ち、盛岡農の後身の岩手大学の平山学長も嘉内の生家を「保坂嘉内の名誉回復の為」に訪れている。
峰(を)の上(へ)には さ夜風起る木のとよみ たばこ火あかり 人くだり来も 
   釈迢空
「あかり」といえば今では「周りを明るくするもの」を示し灯火か明かりと表記される名詞的用法が普通であるが、この歌の「あかり」は、「枕草子」の「山の端すこしあかりて」と同じ動詞で、「たばこ火あかり」は「たばこの火が周りを明るくして」の意味であろう。本来の灯火でないたばこ火を灯火として捉えたところがいかにも迢空らしい歌だと言えるだろう。さて「たばこ」は、「大言海」(昭和七年初版)は「タバコ」が見出しで「烟草、tabaco西印度諸島のとばご(tobogo)島に起る。欧米人、始めて此処にて得たりと。葉を晒し、火を点じて烟を吸ふ。今世界に之を用ゐざるなし」としている。それに対して「新明解」(平成十六年第六版)は「たばこ」を見出しとして、解説の後に「未成年者は吸うことを禁じられ、多飲は発癌の基とされる」と付け加えている。
煙草が日本に伝来したのは安土桃山時代とのことであるが、江戸時代には各地各層に広がり、茶室にも茶屋にも意匠を凝らした莨盆や煙管が常備され、携帯用の莨入れも甲州印伝の袋や象牙の根付等、工芸文化の発展も促したものであった。「恩賜の煙草を頂きて明日は死ぬぞと決めた夜」から半世紀余、公共施設から灰皿は追放され「たばこ火あかり人くだり来も」という歩きタバコも罰金の対象になって来ている。あと半世紀もしたら、この「たばこ火」の歌の「たばこ」も、「をのへ」「さ夜」「とよみ」「来も」と同様に長い注釈が必要な日本語の一つになるのだろうか。 
 

 
油と歴史

油の起源
エジプトから地中海世界へ
油の歴史は、植物油の中では、特にオリーブ油と胡麻油に関して、古い記録が確認されている。
『旧約聖書』冒頭の「創世記」には、大洪水の時、ノアが方舟から一羽の鳩を飛ばし、その鳩がオリーブの葉をくわえて戻って来たことで、水が引いたことを知る記述がある。オリーブは、今から5000年ほど前、紀元前3000年代には、エジプトを中心とする中近東世界で栽培されていた。
古代エジプト人は、死者の魂は必ず帰って来ると信じ、復活の日に備えて、高貴な人物の遺体を、ミイラとして保存した。そのため、腐敗を防ぐための香料に関する豊富な知識と技術を蓄積するに至ったのである。香料は、ミイラづくりだけでなく、種々の宗教儀式や日常生瀬にも広く使われていた。墓の壁画には、宴会に出席した人々の頭の上に香料の塊が乗せられている場面がしばしば描かれている。
香料の主原料は油である。香料に最も適した油は、今日では顧みられることのないバラノス(バラニテス、バルサムとも)油で、バラノスの木は当時スーダンやエチオピアには広く自生していたが、エジプトでは珍しく、高値で取り引きされたという。香りが強く、最も粘性が低い特徴がある。これに次いで適するのが、新鮮なオリーブ油とアーモンド油とされる。ラムセス三世は、王家専用の油畑を持ち、オリーブを栽培していた。しかしエジプトのオリーブは品質が悪く、実を食べるのが主用途だったといわれる。油分が少なかったか、搾油法が悪かったかは定かではない。エジプト王国は、アジアの従属国に命じて、オリーブと胡麻の油を貢ぎ物として提供させた。後には、それでも足りずに金を払って輸入もした。ただし、オリーブ油に関しては、エジプト人は、ギリシャやレバノン、シリアの人々ほどの愛着は持たなかったともいわれる。
香料用の油としては、他にワサビノキ油、ヒマシ油、アマニ油、サフラワー油などが使われた。近年発掘された資料の記述によると油は品質によって等級が分かれ、特級の柚には、甘い油、白い油、緑の柚、赤い油、樹脂の甘い油などがあった。主な搾油の場所は、エジプト国内とシリアであった。
古代エジプトでは、油は香料の他、灯りとして、また医薬品・化粧品としても幅広く使われた。食用もわずかにあった。医薬・化粧分野もミイラ技術の応用が利くエジプト人の得意分野であり、軟膏、女性器用座薬、洗顔料、しわとり液、包帯薬、駆虫剤などに加工された。
プトレマイオス朝(紀元前350〜同30年)時代になると、油が国家の財政に影響を与えるほどになり、国家が油の生産と販売を全て統制することとなった。主な油脂原料の作付け面積は国家が定め、種も国家が支給した。牛や羊などの動物油脂を植物油に混入することも固く禁じられた。大量の灯明を必要とする神殿には自己搾油を認めたが、それを外部に販売することは禁止された。この法律は、歩留りが良く、当時量産されていた胡麻、リシナス、カータマム、コロシンス、アマニの5種に適用された。
オリーブ油は、エジプトでは主流の油にはならなかったが、地中海世界に伝えられると、食用油として急速に普及し、オリーブ油文化圏とも呼ぶべき栽培・使用地域を形成した。オリーブ油を西方世界に伝えたのは、世界を股にかけて交易をしていたギリシャ人・フェニキア人だったといわれている。紀元前3000年までには、既に地中海のギリシャからスづイン、北アフリカへかけての地域では、風車を使ったオリーブの搾油が行われていた。
古代ギリシャでは、オリーブ油は“液体の黄金”と呼ばれ、他の油脂とは区別されていた。オリーブ油は三等級に分けられ、一級と二級は食用に、三級は灯りに使われた。古代ローマでも、紀元前1000年代からオリーブ油が食用油の主役となり、バージンオイルが最も良い油とされた。
キリスト教社会では、オリーブ油が洗礼の際に用いられ、また死者の顔にも塗られる。この面からも、他の油とは違う特別の油という意識が維持されている。地中海沿岸諸国では、今日でも食用油の中心はオリーブ油であり、オリーブ文化は5000年の長きに渡って伝えられている。 
中国・胡麻の来た道
胡麻は熱帯地方原産の植物で、アフリカのサバンナに起源を発するとする説が有力視されている。胡麻が世界に広がるルートは、二つの大きな流れに分かれていた。一つは陸路で、エジプトから地中海、中東、インドを経て、中国、日本まで伝えられた。もう一つは海路で、アフリカ東部からアラビア、インド西岸、東南アジアへと運ばれた。
エジプトでは、モーゼの時代以前から胡麻が栽培されていたと伝えられる。種子をそのまま食用・薬用にするのと、胡麻油としての利用と、両方が一般的であった。胡麻油は、軟膏などの薬や灯火、そして食用にと、幅広く利用された。
インドでは、紀元前3000年頃に栄えたモヘンジョ・グロとハラッパ遺跡から、大量の胡麻種子が出土している。古代インドでは、仏教の教えで肉食が禁じられたため、栄養補給のために胡麻が主食となった。そのため、インドの歴史は胡麻の歴史とまでいわれた。
中国では、漸江省太湖沿岸の遺跡から、黒胡麻の種子が大量に出土している。紀元前3000年頃のもので、この時代は稲作の初期に当たる。すなわち、中国では、胡麻の文化は米に匹敵する歴史を有している。黒胡麻は、八穀の中でも最も優れたものとされ、不老長寿の薬効を持つ植物として珍重された。油の他、胡麻餅、胡麻煎餅なども食べられていた。
日本への伝来も、非常に古い。縄文時代の晩期には、既に関東以西で栽培されていたことが確認されている。中国から直接入ってきたか、朝鮮半島を経由してきたかは定かではない。
わが国で初めて国家によって本格的に農業が整備されたのは、701年、天武天皇が「大宝律令」を公布した時である。農業の基幹は稲作で、農民には口分田が与えられたが、この際、園地も与えられ、ここで胡麻が栽培された。特に胡麻は、米に匹敵するものとして重視され、租税においては、米が獲れない時には、胡麻による代納が認められた。しかし当時の胡麻はまだ貴重品であり、身分の高い人々の食用、灯火用に供された。庶民にとっては、荏胡麻の方が身近な油脂原料であった。 
灯火のはじまりと油脂原料
人類にとって“あかり”の歴史は、すなわち“火”の歴史でもあった。それはまた、“油脂”の歴史でもある。火を作り出すことを覚えた人類は、長時間にわたって火を絶やさない方法を考え、囲炉裏を生み出し、木を燃やした。竪穴式住居の縄文人は部屋の真ん中に囲炉裏を作り、この囲炉裏は炊事と暖房と、そして灯火の役割を果たした。その後、徐々に火をそれぞれの用途に応じて使い分けるようになって行くが、未分化状況は意外に長く残り、江戸時代でも地方の農家や漁村では、囲炉裏の火が唯一の灯火であった。
灯火が何時ごろから囲炉裏の火から独立したかは明らかではないが囲炉裏で燃やした時に樹脂を多く含んだ木がひときわ明るく輝いたことから、照明専用の火として使い始めたという説が有力となっている。
最初は松脂(松ヤニ)を多く含んだ、松の根や幹をそのまま燃やして灯かりとして使ったという。灯かりを絶やさないために、松の根や幹を細かく割り、石や鉄で作った灯台に次々と差し加える形が一般的となった。
「日本書紀」には、イザナギノ尊とイザナミノ尊が黄泉の国に行ったとき、湯津爪櫛の端の太い歯を折って松明にしたという記述があり、その後長い間こうした松明が灯火として重要な役割を果たしていたと見られる。
石油の発見も意外に早く、「日本書紀」には、天智天皇即位の年(668年)に越後地方から燃える水と燃える土が献上されたという記述がある。
松の根や幹に代わり、油脂類が灯火として何時ごろから使われ始めたかについて明らかにした文献はない。竪穴式住居跡から発掘された釣手形土器に、灯火器として使われたと推定される痕跡が残っていることから、古墳文化期にすでに灯火として油脂類が使われていたとも思われるが、実証は全くされていない。
中世になると灯火の種類も増え、家の中の照明用、携行用(屋内と屋外)、庭のかがり火などにそれぞれ異なる灯火具が使われるようになった。中世の灯火具としては、灯台、短けい、灯籠などが使われた。灯油も松や杉をそのまま利用する形から、さまざまな油脂類が使われ始めた。宮本馨太郎氏の「燈火その種類と変遷」では次のように触れられている。「松の木など木を焚く灯りについで、動物や植物の油脂を燃して灯りとすることが行われたのであろう。海からとった魚を火で焼いた時、その脂がよく燃えるのを見て、人々はこれを灯りに使うようになったのである。海の幸に恵まれたわが国では、この魚の脂を灯りに使用することは案外早くから行われ・…・・」
こういった灯火の研究書においても、油脂類が灯火として利用され始めた年代については書かれておらず、大雑把な推定がなされているのみである。一方、油の歴史から見ると、わが国で初めて榛(はしばみ)の実が灯火用に搾油されたのは、神功皇后の時代というのが定説になっており、その種本は「製油録」(大蔵永常著)である。しかし「製油録」は搾油の起源についての記述のほとんどを1810年に刊行された「搾油濫傷」(衝重兵衛編)に因っている。
その「搾油濫傷」によると-。
わが国で初めて木の実が搾油されたのは神功皇后11年(211年)のことで、摂津の国の住吉大明神(現在の住吉大社)において行われた神事で灯火がつかわれ、その灯明油として献燈するため同じ摂津の国の遠里小野村において、榛の実が搾油されたといわれている。遠里小野村はこれにより、社務家から御神領のうち免除の地を与えられたという。これがわが国の搾油のはじまりとされている。
こうした木の実油から、草種子油へと変わって行くまでには少し時間がかかり、「貞観元年(859年)、城州山崎の社司が初めて長木(ちょうぎ)という道具で荏胡麻油を絞り、禁裏をはじめ石清水八幡宮、離宮八幡宮の灯明油として献上したのが草種子油の始まりである」(搾油濫腸)と述べられている。
また、「搾油濫傷」では、実際に灯火がどのように使われたか、さまざまな文献を収集して紹介しているので、その一部を以下に掲げる。
孝徳天皇の大化年中(651年)、味経宮で2、100人の僧尼を招請し、一切経を読ませ夕刻、宮殿前の広場で2、700余の灯火を燃やし、安宅経・土側経等を読ませた(難宮安鎮の仏事と推定)(「日本書紀」)。
天武天皇の白鳳年中(673〜686年)、河原寺で燃灯供養(多くの火を燃やし仏を供養する行事)が行われた(「日本書紀」)。
以上の行事には木実の油が使われたと推定され、8世紀以降はもっぱら草種子油(油火)が用いられるようになったという。
文武天皇の慶雲2年(705年)、日本初の追難の節会で、台盤所の前の協会に小灯台を立ててともした(「日中行事」「公事根源」)。
孝謙天皇の天宝勝宝6年(754年)正月5日、東大寺に行幸があり、2万の灯を点して天下に大赦を行った(「続日本紀」)。
弘仁の頃(810〜824)、空海が高野山において万灯万花の会(1万の花を仏に供養する法会)を修した(「性霊集」)。
仏事、神事とともに灯火が発展し、より明るく、より手軽に、より長時間、灯を維持できる油が求められ、やがて荏胡麻油がその中心的な地位を占めるようになってゆく。
しかし、木実油や草実油の油も長く残り、たとえば正暦の頃(990〜995年)には、椿油が売り歩かれ、長谷寺の灯明に用いられたという記述が「小右記」に見られる。伊勢神宮の灯明油には椿油が使われており、岡崎の太田油脂が椿油を献納している。
灯火油の歴史は松脂を多量に含んだ松の根を燃やすことから始まり、魚油、榛油、椿油、胡麻油、荏胡麻油と変化してくるが、これらの油は時代とともに変遷するといったことではなく、それぞれ同時期に重なって使われている。たとえば漁村では魚油を灯火用に使うことが明治時代でも行われていたし、木実油や草実油も使われ続けた。
しかし、9世紀以降、時代を経るごとに荏胡麻油が圧倒的な地位を占めるに到ったことが推測される。この荏胡麻油の発展は、大山崎で考案された長木による搾油法と無縁ではない。
優れた搾油法の確立とともに、荏胡麻油は全国の社寺や宮廷、貴族階級、武士階級へと着実に浸透し、灯油の市場を席巻するに至る。 
大山崎の繁栄
山城の国・大山崎の地は、古くから天然の要害として知られ、水陸交通の拠点として知られていた。山城と摂津の国境の地で、町は両国にまたがっていた。地形的には、天王山と男山丘陵に挟まれた谷間にある。延暦13年(794年)、平安京の開都により、大山崎は、西日本より京に入る玄関口となり、重要性が高まった。水路では、宇治川、木津川、淀川の合流点付近の港として栄え、陸路では、山陽道の宿駅であり、江戸時代には参勤交代の大名は京へ寄らずにこの地を通った。
大山崎離宮八幡宮の歴史は、清和天皇の代、貞観元年(859年)に発する。伝承によれば、大和の国大安寺の行教和尚が、豊前の国字佳人幡宮に参籠中、八幡棟が姿を現された。その神託により、同年8月23日、山崎の地に、八幡様を分霊遷座した。これが大山崎離宮八幡宮の発祥とされる。離宮という名称は、遷宮に先立つ桓武天皇(在位781〜806年)・嵯峨天皇(同809〜823年)の時代天皇が行幸の折りにしばしば行宮として立ち寄り、山崎離宮、あるいは中国風に河陽宮と呼ばれたことに発する。その後行宮としては使われなくなったが、離宮の名称は残った。
伝によれば、遷座と同時に、大山崎の社司が、新しい道具、長木(ちょうぎ)による搾油を開始した。また、原料は、その頃広まりつつあった荏胡麻を栽培した。荏胡麻は、胡麻とは類縁関係にないシソ科の一年生植物で、搾油が始まったのはこの頃だが、食用としては、古代から利用されていた。この油は、大山崎の灯明の他、宮中にも献上された。朝廷は、その功績を貧して、社司に「油司」の宣旨を賜った。それ以来、神社仏閣の灯明の油は、全て大山崎が納めることとなった。
その後、諸国でもこれに倣い、長木による荏胡麻の搾油が拡がっていった。
そこで朝廷では、論旨・院宣を発し、大山崎の社司を、特に「荏胡麻製油の長」と認定し、独占権を認めた。また、大山崎を「荏胡麻製油家の元祖」として、諸国の関所や渡し場を自由に通行できるようにし、課益を免除した。
天正年間(1573〜1592年)には、豊臣秀吉による京都大仏の建立があった。太閤政権は、大仏殿の門前に長木を立てさせ、大山崎に油座を許可し、灯明油を献上させた。慶長3年(1598年)、秀吉が没すると、豊臣秀頼は、豊国廟を建立、諸侯から献上された56基の石灯籠の灯明油を、大山崎の油座に命じて納めさせた。この時大仏殿の傍らに与えられた土地に下司を置き、灯明油の献上を続けることとなった。その後、豊国廟が荒廃し、石灯籠の数が減っても、灯明は灯され続けた。
離宮八幡宮における最も重要な例祭が、日使頭祭である。その最も古い記録は、「明月記」の承元元年(1207年)四月三白の条に見出される。祭儀は八幡宮山崎離宮より男山に遷幸の儀式を型取ったもので、勅使参向の儀式祭礼を日使頭祭と称する。日使頭を勤める人を日の長者という。初めは神職が勤めていたが、後には八幡宮の油座の印券を帯びて柚の商売をなす者から、福裕の人を選んで指定するのが恒例となった。日使頭人は、天皇の前をも騎乗のまま通ることが許された。日使頭祭は江戸時代には稀となり、維新後は行われなかったが、戦後、崇敬会によって復活した。油祖離宮八幡宮崇敬会は、昭和61年、坂口幸雄氏(日清製油渇長)を発起人代表とする業界有志の人々により設立された。崇敬会による日使頭祭は、今日まで連綿と続いている。 
遠里小野のしめ木
山崎に代わって、油の生産と販売の一大拠点となったのが、摂津の国遠里小野である。伝承によれば、住吉大明神がこの地に鋲座したのは神功皇后11年(神功皇后は日本武尊の娘)。以来、朝廷が様々な行事をこの地で行ってきた。このうち、御鎮座神事(正月13日)、祈年祭(2月)、御祓神事(6月)、新嘗会(11月)など、灯火を用いる神事がある。神事に用いる灯明は、すべて遠里小野で生産され、このために拝受された土地は油田と呼ばれた。畝傍山の土で灯台をつくり、ハシバミの実から搾油した。
遠里小野の名前は、古くから記録に登場する。弘法大師空海が住吉大社に石灯寵を寄進した際、遠里小野から灯明油を納めさせた。楠正成が遠里小野極楽寺の昆沙門天像に石灯籠を寄進した時も、灯明油を提供させた。遠里小野の地から、油売りが諸国へ行商に出掛けた。だが、やがて大山崎で長木による荏胡麻油の生産が始まると、山崎が優位に立ち、諸国に長木による製油が拡がった。原始的な製法による、油分の少ないハシバミの搾油は、時代遅れになった。
そこで遠里小野の若野某という人が知恵を絞り、油分の多い菜種の搾油に着手した。その際、新しい道具のしめ木(搾木、揺押木)を発明した。しめ木は、巧みさで大いに長木に勝った。一説には、住吉明神の神託により造られたとされる。
遠里小野では、土地の人々が総出で菜種油の製造に当たり、大いに国を富ませた。「油田仲間」と称して掛け札を出し、毎日油の価格を書き記すようにした。「油茶屋」なるものを建て、油売りたちが集まって休んだり、油の値段を決めたりした。『搾油濫傷』には、慶長17年(1612年)4月20日の日記として、油1升75文という内容が引用されている。
その後しめ木は改良が加えられ、明暦(1655〜1658年)の頃には、諸国の搾油法も、長木によるものから、しめ木へと、すっかり切り替わったという。
菜種の搾油が主流になったことは、戦国の世から太平の世に替わり、油の大きな需要が生じる中での、必然的な流れでもあった。※『製油録』の記述によると、菜種の歩留りは、土地の良い所で2割5分、土地の悪い所でも、1割7分から2割はある。荏胡麻は1割5分から1割9分なので、この差は大きい。胡麻は、1割7、8分から2割5、6分である。いずれの場合も、土地と肥料によって、その歩留りにはかなりの優劣がつくとみられた。 
中世の商人 

 

行商人のはじまり
わが国の歴史学・社会学においては、戦前までは、日本は一貫して農業国家であったかのように扱われ、ともすると手工業・商業に豊かな歴史と伝統があることが忘れられがちであった。柳田国男の民俗学における常民の概念も、おおむね平地の農村に住む人々を対象としている。だが戦後、多くの歴史学者の研究によって、わが国における種々の産業の発達の歴史が、明らかにされつつある。例えば、現在では農民にたいする蔑称として避けられている百姓という言葉は、元は字義通り百の姓、すなわちあらゆる産業に携わる一般庶民に対する総称であった。
商人の源流は、農民以外の非常民から起こったと推定される。古代の社会では、農民は自給自足の生活を営み、余剰鹿産物を外部に供給する余裕も必要もなかった。農村の生産物は何処も似たようなもので、交易が成立するだけの差異に乏しかった。しかし、定住しない漂泊民との間で、物々交換が行われた形跡はある。また、遠く隔たった漁村と山村などの間では、産品に違いがあり、足りない物を助け合う形で交換が行われた。それらの中に、商いの萌芽が見られる。
古代から中世にかけて、海人(あま)と呼ばれる集団があった。海人は、海岸や島部に住んで漁労を生業としていたが、航海術に長けていたことから、収穫した海産物を遠方まで売りに行くようになった。
中でも有名だったのが伊勢の海人であり、早くから小舟で海岸伝いに東海や瀬戸内まで行商に出ていたと伝えられている。海人の活動が松阪商人の起源ではないかとも言われている。
一方、神社に奉仕する俗人である神人(じにん)として活動していた漁民の集団もある。賀茂御祖神社の社領であった摂津国長洲庄の漁民は、供御人あるいは神人として神僕の魚介類を奉ずるとともに、余剰の産物を各地に売りに行っていた。長洲に近い今宮には、広田神社に神人がいて、全国を回り、魚介類以外の麦や絹なども販売した。
山人も、早くから職能民として自立していった。山間部では自給自足が難しいので、旅職人として渡り歩く道を選ぶ者が多かった。彼らは木材の加工に長じ、腕の良い者は、大工として、普請のある所に雇われた。それ以外の者は、山の産物を持って行商に出かけた。山人の中でも、商人として特に活躍の目立ったのが、木地屋である。彼らは、里から離れた山あいの部落で、糎櫨を用いて椀などの木製品を製造し、これを売り歩いた。
鋳物師も、諸国を遍歴して仕事をした。彼らは、自己の製品の販売と修理の請負仕事に留まらず、時として他人の製品を仕入れて販売した。荘園の発達が、彼らの特殊な技能の需要を促した。農機具や武具、梵鐘などを製造するために、荘園領主や寺社は鋳物師を重用し、多額の礼銭を支払ったのである。
山人や鋳物師には、戸簿を持たない浮浪人が多かった。彼らは常民の立ち入らない場所に小屋をつくって、細工ものをした。その生活から河原者、坂の者、散所などと呼ばれ、中世の産業の影の原動力となっていった。
古代においては、まだ固定化した店舗での販売は発達せず、商売の中心は行商であった。行商には、居住地の近くを売り歩く小商人と、全国を放浪する旅商人との区別が見られた。中世になって、都市では店舗営業が一般的になった後も、小商人は日帰りか一泊程度で都市を訪れ、棒を担いで振売を行った。都市の発達に伴い、種々の振売の姿は、都市の住民の需要を満たすためには、欠かせない存在となっていったのである。その中には、大山崎の油商人の姿もあった。室町時代に入ると、農閑期を利用した農民の出稼ぎの姿も数多く見られ、江戸時代に禁止されるまで続いた。
近郊の農村から来た商人は、寺社の祭礼に合わせて出店するのが常であった。奈良の輿福寺の大乗院には塩の本座と新座があったが、新座は、原則として町中で振売を行い、屋内では一切売らないことを定めていた。
小商人の場合、個々の売り上げは少なかったが、旅商人は、まとまった売り上げを上げる存在であった。古代では、『日本書紀』欽明天皇(在位539?571年)の条に、秦大津父が、山城から伊勢にかけて行商をしたことが記されている。この秦氏は、勢力のある帰化人であり、古くから商業に従事していたものと見られている。荘園の発達した平安時代には、行商人の数も増え、『伊勢物語』には、「田舎わたらひする人」、すなわち田舎へ行商に向かう人の記述が見られる。『新猿楽記』には、「利を重んじて、妻を知らず、身を念ひて他人を顧みず、その交易地は、北は陸奥から南は貴賀島(鬼界ケ島)に及び、その交易品は唐物四十五種、本朝物三十六種に上る」との記述がある。遠路運ばれる国産品の中には、化粧品の原料となる水銀、砂金、硫黄など、産出地が限られる上に産出量が少なく、生産・精製に技術を要するもの、すなわち高値で取り引きされる特殊産品が数多く見られた。
行商が本当の意味で日本列島を席巻するのは、荘園制が崩壊し、全国に大名の領地が形成された以降のことである。鎌倉時代に入って、貨幣が全国規模で流通したことも、商業の本格化を促した。京の商人が、次いで堺の商人が、全国の市場に姿を現した。堺の商人は、最初、地元の魚や塩を奈良近辺で売っていたが、後には東国に至るまで、諸物品を売り歩いた。近江商人も平安時代より活動し、伊勢商人も鎌倉時代末から、東海地方に進出していた。伊勢商人の起こりは、東海の地に数多く存在する皇大神宮の御厨・御薗の年貢を運搬する廻船業者だったと推定されているが、後に伊勢神宮の参拝客や、営利目的の物資の輸送に手を広げ、勢力を伸ばした。他にも、博多商人、日本海の敦賀商人、小浜商人などが次々に商売で名を馳せた。陸奥の十三湊の船も、蝦夷地の物産を本州に運んで販売していた。
かくして、都市と地方との間の取り引きは、日常的、組織的なものとなった。都市には、国名を冠した屋号の商人が多く住んでいた。京なら越後屋・若狭屋・奈良屋・淀屋・丹波屋・筑紫屋・豊後屋・備中屋・坂東屋、堺なら備中屋・奈良屋・日向屋といった面々である。これは、単に主の出身を示すものではなく、多くの場合、その地方の商人と密接な関係を保っていることを示していた。
行商人が使う便利な道具に、連雀という背負い粋があった。連雀という小鳥に似ていることから付いた名で、両手が自由で、かなりの量を背負えることから、長距離の人力輸送には、ほとんどこの道具が使われた。そのため、これを背負った姿が行商人の象徴となり、行商人は連雀商人と呼ばれることとなった。連雀に乗せる千多構には、油単と呼ばれる油紙を掛けて、商品を保護した。現在も各地に残る連雀の地名は、連雀商人が集まって形成していた連雀町に由来する。連雀町には、連雀頭がいて、役所としての連雀座が存在した。連雀座は、連雀役という税を徴収し、町内の取り締まりも行った。
古代から近世にかけて、非定住者同士の間に横の繋がりがあったことは既に述べたが、連雀商人の場合も、連雀の縄の結び目一つとっても、熊野権現を現す「龍の口」という結び方が広く行われ、修験道の影響が顕著に伺える。
平坦な都市では、肩に棒を担いで両端に物を吊るす方法が便利であった。中世の絵巻物、例えば『七十一番職人歌合』に登場する塩売り・油売り・瓦器売りなどは、一様に棒を担いでいる。都市部の行商が振売と呼ばれることが多いのは、この棒を担いだ姿のためであった。この棒が近世になってさらに工夫されたものが、天秤棒である。
商業が大規模化・常態化した15世紀には、行商人も自由に放浪することを止めて、店舗に定着し、そこを拠点に活動するのが普通になった。また、旅の時も、集団で移動して安全を図る光景が当たり前になった。一人気優に諸国を遍歴する物売りの姿は、もはや過去のものとなったのである。大山崎の油商人が地方に原料の荏胡麻を買い付けに行く時も、隊を組んで行動した。中世の商人が同業者組合である座を結成する背景にも、行商時の集団行動の必要性が上げられる。
個人の常設の小売店舗は、平安末期から一部には存在していた。『宇津保物語』には、京は七条大路の真申に魚と塩の店を構える女の話が出てくる。店舗売りが一般的になった応仁の乱以降は、奈良では、元亀3年(1572年)の調べで、世帯数の約3分の1が商人・工人の店や住居で、その種目は約50種に及んだとある。
商品を売る場所は、平安の昔から、棚と呼ばれていた。これは、文字通り、商品を置く棚を据え付けていたためである。鎌倉末期から、見世棚という言葉が使われたようで、『庭訓往来』には、「市町は通辻小路に見世棚を構えしむ」と書かれている。見世とは、やはり、人に見せるの意であろうと言われている。室町時代になると、この見世棚から、「店」という言葉ができる。だが、たなという言葉も生き延び、江戸時代には、店と書いて「たな」と読ませるのが普通であった。この時代には、屋号も使われるようになった。早いところでは、応安4年(1371年)頃の記録に、有馬街道の太田宿に的屋という宿屋が、播磨の八日市場にカヤ屋という宿屋がった。物を売る店では、応永13年(1407年)頃、京三条に、ネツミヤという店の記録がある。 
大山崎の神人(じにん)
大山崎には、「判紙の会合」と呼ばれる、秘密の神事が存在していた。毎年12月13日、大山崎の社司らが廟に参拝し、社座を開き、油売りに古式に倣って許可状と印券を与える。油を売る行為が、営利目的だけではなく、神様に奉仕する活動の一部を構成していたことがわかる。
この時代、大山崎は、全国の油売りの元締めとしての地位を守っていた。諸国から集まった油売りも、みな大山崎の免許状を受け、印券(許可証)を持って、諸国の港や渡し場を通行した。港を守る武士も、これを妨げことはできなかった。大山崎の印券を持っている以上、彼らはただの商人ではなく、聖域の住人だからである。所によっては、灯明の渡しという地名も生まれた。鎌倉幕府が室町幕府に変わっても、大山崎を尊重する方針は変わらなかった。
様々な職業を歌で表した『職人歌合』には、“よひごとに都へいづる油うりふけてのみ見る山崎の月”とあり、山崎の油売りの非常に多忙な様子が偲ばれる。
大山崎は、搾油と販売の独占権を認められていた。それは実効を伴うのであり、もし秘密に搾油を行うものがあれば、大山崎の神人が出向きたちまち搾油の道具をたたき壊したという。
離宮八幡宮に残る最古の文献である貞応元年(1222年)12月の美濃国司の下文によると、油や雑物の交易のため、不破関の関料免除の特権を保持し、不破関を越えて、遠く美濃尾張まで行商の旅に出ていた。また、旧社家・疋田種信氏所蔵写本中にある覚書元年(1229年)12月28日付の六波羅探題御教書によれば、既にこの頃、大山崎は播磨国で専売の特権を有し、翌寛喜2年の御教書では、肥後国まで範囲を拡げていることがわかる。
応長元年(1311年)には、神人の訴えによって、後嵯峨院の院宣が下り、荏胡麻と油の販売独占を保証された。正和3年(1314年)には、六波羅の下知状によって、荏胡麻の運送に関して、淀河尻、神崎、渡辺、兵庫等の関料を免除された。その後、南北朝から室町時代にかけて、大山崎商人の活躍はますます目覚ましいものとなっていった。文安3年(1446年)に室町幕府が下した兵庫開制札の中では、山崎神人の買い入れた荏胡麻の運送は、「山崎胡麻船」として、大神宮船等とともに、関料の免除が保証されている。室町幕府においては、歴代の将軍が御教書を下して、大山崎の権益を保証している。
後代になると、山崎神人は、直凍の行商に留まらず、諸国の油商人への卸売りをも行っていた。八幡宮の古文書の内、「日頭年中度々令勤仕分」と裏端書のある文書には、”文安二年四月三日三条タカツトイヤ”とある。日使頭役勤仕としての油座商人の問屋(といや)である。問屋の誕生については後に述べる。
また需要の多い京では、山崎神人が居住して店舗を構え、定住の油売商として営業していた。
大山崎は独占企業として財を成し、同時に諸国を自由に往来できることから、自然に多くの情報が集まった。そこで、野心的で優秀な人材が集まることになる。美濃の戦国大名、斎藤道三もその一人であった。道三は、油の行商人として全国を渡り歩き、その時に得た知識や経験が後々役に立ったという。司馬遼太郎の「国盗り物語」では、道三は大道芸めいた販売方法で成績を伸ばし、山崎屋という油問屋の主人に収まり、これを国盗りへの足掛かりとしていく。
もちろん、このような大山崎の油の生産と販売の独占に対しては、多くの対抗勢力があった。既に鎌倉時代には、播磨、丹波等における神人の独占販売に対して、土着商人の激しい反対運動があったとの記録が残されている。
摂津国遠里小野では、住吉神社を中心として早くから油商人が台頭し、しばしば山崎神人と対立していた。嘉慶2年(1388年)には、和泉、摂津の商人が「住吉神社御油神人」と称して油木を立て、荏胡麻油を販売しているのを大山崎神人が訴え、営業を停止させている。
大山崎神人の活躍は、鎌倉時代初期から室町時代まで約200年にわたって全盛を究めた。しかしながら、応仁の乱(1467〜1477年)が起こると、京は戦火に包まれ、山崎の地も荒廃して、往年の勢力は失われた。さらに天下統一の過程で楽市楽座の波に呑み込まれ、大山崎の繁栄は終焉を迎えるが、大山崎の名前は、今日に至るまで、歴史と伝統の象徴として残っている。「判紙の会合」は、文化年間(1804〜1818年)頃まで続いた。その流れを汲むのが、大阪、東京をはじめ、各地に残る山崎講である。 
中世の商業 

 

市と座
座のルーツは、市にある。ここで言う市とは、定期市のことだ。その背景には、平安末期の荘園領主の銭稼ぎの動きがあった。この時代は、物々交換経済から貨幣経済への変わり目の時代で、宋銭が本格的に流通し始めたことで、中央への年貢銭獲得のため、余剰生産物を市に出して、銭に変えた。
鎌倉時代に、最も早く市が発達したのは、寺社の門前であった。中でも特に有名だったのが、伊勢神宮の門前の八日市である。
室町時代に入ると、交通の要地に市が形成されていく。奈良では、南市、北市、高天市が毎日交替で開かれた。この頃から、虹の立つところに市を開く風習も始まった。交易の盛んな所では、「一・六」「二・七」「三・八」「四・九」「五・十」と、月に6回、5日日毎に開かれる「六斎市」が栄えていた。
その中から、“市座”が出現する。市座とは、一定商品の専売権を有す特定の販売座席のことだ。祭良の南市には、魚座、塩座など、30余の市があった。彼らは次第に集団を形成し、何かにつけて利益を吸い上げようと図る封建時代の諸種カに対抗していく。
こうして次々と発生していったのが座である。 
油座
さて、その中で油座である。前節で述べたように、中世までは、油の販売は、寺社の神人、寄人がほとんどを占めており、これらの特権商人達が集まることで、「油座」が形成された。したがって、その起源は非常に古い。主な油座を見ると、九州宮崎八幡宮の油座は、遅くとも平安末期には成立していたと推定され、醍醐寺の油座は、鳥羽天皇の久安年間(1145〜)に、既に記録に登場する。
そして油問屋市場と縁の深い大山崎の油商人は、遅くとも貞応年間(1222〜1224年)には、商業集団として機能していたと推測される。
中世の前半には、油は贅沢品であり、寺社や公家が夜間の燈明に用いるだけだったが、貨幣経済が発達し、生活レベルが向上すると、地方豪族なども、夜間照明のために油を求めるようになった。その結果、油座の中でも、商才に長けた特定の座が、突出した勢力を獲得するに至る。大和の国に、符坂座という油座があった。当初は、輿福寺春日社に燈油を奉仕するだけの集団だったが、東大寺の油倉(大仏殿の燈油を貯蔵する機関)への販売を請け負ったのを皮切りに、次々に勢力を拡大し、ついには奈良一帯に、油の独占販売網を張り巡らすに至った。こうなると、各地で利権を巡る騒動が巻き起こる。大和の南方に起こった矢木座は、胡麻の購入を巡って符坂座と衝突し、長年に渡って闘争を繰り返した。
この矢木座であるが、この時代としては、際立った特色を持っていた。すなわち、各地で栽培された胡麻を購入して、これを売り捌くという。しかし当時の経済状況や商圏から見て、小売り業だけで利益を得るのは困難で、彼らの本業は農業で、余暇を利用して商売をしていたとする見方が有力だ。商業化の進展とともに、座は寺社などの特権への依存度を弱め、村落社会との結びつきを強めていく。第三勢力と呼ぶべき木村座も、拝津の天王寺近辺の木野村の農民達が結成した座であった。 
水運と陸運
物資の運搬手段は、人力、牛馬、船の三手段に大別される。古代においては、馬による輸送は、もっぱら農民が無償の労役として領主に奉仕していたが、荘園時代も終わりに近くなると、これを商売にする農民も現れた。平安末期に書かれた『新猿楽記』には、色々な職業が紹介されているが、その中に「馬借」も登場している。馬は鞍を付けて直接荷を乗せるが、牛の場合は車を引かせた。「馬借」と同時期に「車借」なる業者も確認されている。公的制度としては、律令制度の下で駅戸・駅馬の制度がもうけられ、主要道の30里毎に駅馬が置かれた。馬は駅に着くと、次の馬と荷を交換した(駅伝制度)。
鎌倉時代からの貨幣経済の普及に伴い、日本の陸路は早々に全国規模で整備されていたと思われるが、実際には、南北朝の動乱、応仁の乱、そして戦国時代が次々に到来し、陸路の整備はままならなかった。群雄割拠の時代には、領地の境毎に関所が設けられ、自由な往来を妨げた。しかし次第に有力な戦国大名が領地を拡げ、国境の数が減っていくと、関所も少しずつ撤廃されていった。その結果、各地に宿場町が発達した。宿駅には、旅人のために伝馬が用意され、渡し場の宿には船も用意された。
さらに織田信長が、広大な占領地で次々に閑所を撤廃し、道路を整備したので、主要陸路の自由な往来が可能になった。豊臣秀吉もこの政策を継承し、有力寺院の関所も撤廃した。
遠隔地に物を運ぶ場合、陸上では、輸送能力に限界がある。特に米は重量があるので、農民が無償の奉仕をしなくなり、運賃が必要になった荘園時代には、既に船による輸送が主流となっていた。馬が1頭で運べる米は二俵(90〜120也)で、100石(15トン)の米を運ぶには、馬125頭以上が必要で、しかも通常、馬1頭に人夫1人がつく。
船による輸送は、荘園時代までは古代以来の単材到船、すなわち丸木舟が使われていたが、鎌倉時代に入ると、複材到船(中心部の前と後に木材をつぎ足した船)に、板を舷側につけ加えて荷を多く積めるようにした船が主流になった。中型の準構造船である。米を一度に100〜300石積めるので、馬とは比較にならない。運賃は、陸運の半分ないし四分の一以下であった。船の有無は大きな差となり、平安時代、美濃より東の国は、米をほとんど中央に送らなかったが、中国、四国、九州からは、瀬戸内海の海運によって、多量の米を送った。平安末期には、都では、「鋲西米」(主として筑前米)が有名ブランドとなっていた。
室町時代になると、商品の流通量が著しく増大したため、船の大型化が急がれた。500石積み、1000石積み、1500石積みと、巨大化の一途を辿り、明に渡航する遣明船では、2500石のものが建造された。500石積み以上の大型船は、準構造船では無理で、船底の航(かわら)と称する部分に平板を使い、外板の全てを板で構成した、完全な構造船へと移行した。大型船の建造には、古代より瀬戸内海を活動の場としてきた各地の水軍の技術の蓄積が役立った。 
問丸
中世には、水上交通の要所に問丸(といまる)という組織が置かれていた。そのルーツは、平安時代、荘園の津頭に設けられた問・問所(津屋とも称する)にある。特定の領主に奉仕する運送補助の担当部署である。交通の要地に当たる港では、大量の米が集まり、よその領主から輸送管理を依頼されるケースが多かった。ここに、問料で生活する専門業者「問丸」が出現した。
問丸の仕事として確認されているものとしては、水上交通への労力の提供や、年貢米の輸送とそれに伴う陸揚げ作業の統括、港湾税の徴収、馬借・廻船の管理などがあり、この他に倉庫業があった。さらに時が経つと、委託を受けて保管の農産物を売り、貨幣に代える仕事が加わった。室町時代には、20数港に問丸が在したといわれる。
中世も後半に至ると、問丸は、米以外の商品の流通、宿屋などへと手を広げ、不特定多数の行商人の営業拠点、代理店としての役割を担っていく。例えば、近江商人は、美濃の商人から紙を買う時、中間地点の桑名の問丸を利用したという。
中世末期になると、問丸は運送・販売機能よりも卸売機能が中心となり、扱う商品が細分化していった。運送中心の問丸は、宿駅の伝馬問丸として発達した。資料に残る最も古い特定商品を扱う問丸は、明徳2年(1391年)の大坂・淀の魚市問丸である。その後、紙問丸、材木問丸などが現れた。
油問丸も、早い時期に存在していた。文応2年(1261年)の摂津国勝尾寺の文書には、同寺に付属する油問丸があったことが記されている。その後、観応2年(1351年)の東大寺関係の文書には、東大寺の油倉の管理を、ある時は符坂の油座が引き受け、ある時は淀の油問丸が引き受けていたと取れる記述がある。
関所は本来、公権力が、港や道を整備す為ために、必要な費用を徴収するための機関であった。すなわち、今日の高速道路の通行料と同じ発想である。しかし交通量が増えて関銭の徴収が大きな利益を生み出すことがわかり、設置者が儲けを意識するようになると、交通の要所以外にも関所が設けられるようになり、通行者の負担が増加した。また、寺社が管理する関も多かった。東大寺の油倉は、兵庫の南関を支配していた。徴収した関料によって港湾の整備を行い、残りは徴収代行料として、東大寺の収入となった。
商業の全国ネットワークは、天下統一とともに張り巡らされた。織田信長は、関所を撤廃し、楽市楽座の制を、性急に押し進めた。昔の為政者にとっては、何であれ利益を独占する特権集団は、明確に敵である。楽市楽座とは、主として、市場税の免除(楽市)と、専売座席、すなわち市座の撤廃(楽座)を指す。つまり、一部の商人の特権を排して、外部からの新たな参入を容易にし、商業規模を拡大することを意図していた。信長の政策が市場を本格的に動かし始めたのは、天正5年(1577年)、安土城を構えた際、城下を楽市としてからである。
楽市楽座は、まず特定の地域で楽市を実施し、その後、複数の市場にまたがる座の特権を停止するという順番で行われた。この時、問丸も大きな制限を加えられた。運送から港湾税の徴収までを取り仕切る問丸は、信長にとっては、座と同じく、全国経済の円滑な発展を阻害する邪魔者であった。問丸は運送と物資の調達のみを認められ、他の業務は禁じられた。そのため、それぞれ一つの業務に特化していった。
楽市楽座にあっては、大山崎の油座の特権も、ついに廃止された。信長の死後、豊臣秀吉は、一時大山崎の油座の復権を認めたが、時代の流れは変わらず、天正12年(1584年)11月10日付けの安堵状を最後に、大山崎油座は、文献上から完全に姿を消した。その他諸々の座も、破却を命じられた。そして徳川家康は、江戸、大坂は元より、幕府の主な直轄地すべてで、座の結成を完全に禁止した。 
江戸時代の経済 

 

大坂のはじまり
大坂の地に街が出来たのは、天文元年(1532年)、石山本願寺の寺内町として形成されたことに発する。本願寺が全てを支配し、信長との闘争に事実上敗れるまで、経済特権都市として繁栄し続けた。
今日の大阪(明治維新まで大坂)の基礎は、豊臣秀吉が築いた。天正11年(1583年)より数年で、大坂城と城下町を築き上げた。秀吉は、自由都市として栄えた堺の特権を剥奪して大坂に与え、城下町集中政策を採った。そのため他の都市から商人が移住し、農家の二三男も流入して、商業人口が増えていった。大坂の急成長により、それまで商業の中心地だった京都が寂れた。摂津の搾油業者も、秀吉の命により大坂に移住させられた。
大坂は、大坂夏の陣(1615年)でいったんは焦土と化したが、幕府は元和元年(1615年)より、復興事業を行った。そして元和6年(1620年)から寛永15年(1638年)にかけては、西国の諸大名に命じて、大坂城の再建工事に当たらせた。それは、秀吉の城を完全に土中に埋めて、その上に新しい城を建てるという大がかりなものであった。
大坂には、同じ幕府直轄の大都市でも、江戸とは新著に異なる特徴があった。それは、武士人口の少なさである。総人口30万から40万人に達する中で、武士は大きく見積もっても、わずか1、500人にも満たなかったと推算されている。大坂は、正に町人の都、すなわち商人の都であった。
大坂が「天下の台所」と呼ばれたのは、京とは明らかに異なり、生活に密着した物資の全国流通の拠点として機能していたからである。京も大坂も周辺に手工業者が集まり、経済の基盤を支えた点では同じだが、京周りの二次産品が絹織物など贅沢品が中心だったのに対して、大坂周りは、油や木綿などの生活必需品が中心であった。これらの製品も戦国時代までは庶民の手の届く物ではなかったが、世の中が安定し、生産能力と生活水準が向上したことで、大都市では必需品となりつつあった。さらに、後の節で述べるように、問屋とその仲間組合も、まず大坂で発達したもので、大坂は問屋商人の町と言われることもある。また世界で初めて先物取り引きを行った米市場も、江戸ではなく大坂に出来た。さらに海運の時代に入り、内陸部の京都に対して、海に面し河川も多い大坂の優位が決定的になった。そして西廻り航路が開拓されるに及び、日本海側や江戸との廻船の往来が頻繁になり、大坂経済の繁栄を築いた。 
江戸のはじまり
慶長8年(1603年)、関ケ原の合戦に勝って天下人となった家康は、江戸城の改築と同時に、大規模な江戸の街づくりに着手した。不毛の湿地に茅葺き屋根が点在する江戸は百万都市に生まれ変わった。その最大の目的は、埋め立て工事によって、住宅地と商業地を造成することにあった。駿河台にあった神田山が跡形もなく崩され、その土で日比谷、日本橋、京橋などの埋め立て地が作られた。その発想と基本的技術は、後世に受け継がれた。二代将軍・秀忠は、伊達政宗に命じて、本郷の台地を崩して御茶の水に川をつくり、湯島台と駿河台を分離した一方、芝崎町(現大手町)にあった神田明神を、将門首塚を除いて北西の湯島に移して江戸総鎮守とし、風水上も完璧を期した。港湾も整備して、大型船の入港を容易にした。江戸の人口は、約100万人、後期には130万人以上ともいわれるが、流動が激しく、計算の仕方もまちまちで、実際のところは判明していない。男女の比率は、中期には男6に対し女4と不均衡で、参勤交代の単身赴任によるところが大きい。このため、吉原の遊廓が栄えた。後期には、是正されて、ほぼ同数となったとみられる。江戸では、未曾有の大都市が出来たことで、歴史上初めてゴミの処理が問題になった。糞尿は肥料としてすぐ買い取られたが、一般ゴミは、火事になるので野焼きが禁止されたため、河川への投棄が大問題になった。そこで幕府は次々に埋め立て地にゴミ捨て場をつくり、税金(芥銭)で指定業者の船を運営して運ばせた。結果的に、江戸は世界の他の大都市には例を見ない清潔な環境を維持したといわれる。 
水運網の整備
江戸は武家地が60%、寺社地が20%を占め、町屋は残りの僅か20%に押し込められた。従って幕府は、諸大名・旗本などの膨大な生活消費財を賄い、また初期には、江戸城などの造築に必要な資材の荷場や人夫達に生活物資を供給する必要があった。
大都市・江戸の人口を養うためには、米の大増産が急務であった。わが国における治水・潅漑事業は、中世を通じて各領主の下で行われていたが、徳川幕府にとって、それは基幹事業の一つであり、大規模な計画が進められた。初代将軍・徳川家康は、天正18年(1590年)の江戸入府と同時に、利根川水系の大規模改修工事に着手した。その中核を成した大工事が、利根川の瀬替えであった。それまでの利根川の自然の流れは、江戸湾(東京湾)に注いでいた。銚子に注いでいたのは鬼怒川であった。
幕府は、寛永10〜11年(1633〜1634年)のいわゆる天下普請によって、関宿付近で利根川を、鬼怒川の支流の常陸川に分けさせた。これにより、利根川は今日見られるような、銚子に河口を持つ川となったのである。
同時に荒川を西にずらし、江戸川も開削した。現在の安定した関東平野は、元は荒川、利根川、渡良瀬川の洪水に常時さらされていた不毛の低湿地で、幕府のカで豊かな水田地帯に変えられたのであった。
関東水脈の要というべき葛西用水は、利根川の瀬替えと並行して、利根川や荒川の元の通り道を利用してつくられた。葛西用水の利根川からの取水口は昭和43年(1968年)まで、約300年間使用された。もう一つの要、見沼代用水は、享保12年(1727年)に開削された。工事には、八代将軍書宗が紀州から連れてきた井沢為永が当たった。この用水は、見沼を干拓し、まったく新しい水路を開削してつくったもので、幹線水路だけで9仙に及ぶ大工事を、わずか半年で完成させた。これは、予算と人手もさることながら、技術力の進歩に負うところが大きい。「伏越」と呼ばれる立体交差の技術などは、基本的には今日まで変わらない。そして見沼代用水は、先行の葛西用水と組み合わせる形で、江戸の水田を潤していった。
治水事業には、水の確保以外にも、重要な目的があった。一つは洪水の防止であり、もう一つ、より重視されていたのが、水運網の整備である。家康が直ちに開発した、江戸〜行徳間の小名木川運河は、全国規模の海運網と、関東の河川交通を初めて合体したものであった。そして利根川の瀬替えによって、利根川と鬼怒川が一体化した。
当時の帆船の水準では、東北沖を南下してきた船が房総半島を回って直接江戸湾に入るのは困難であった。そこで、いったん下田に寄って風待ちするか、あるいは銚子で下ろして、河川と陸路を併用して江戸へ行くか、いずれにしても効率の悪い方法を強いられていた。それゆえに、銚子から利根川に入って江戸へ向かう水路の開通は画期的なことであった。船が定期的に運航するためには、港の整備も欠かせない。慶長11年(1606年)の江戸城改築時には、諸大名に命じて、諸国から巨木大石を運ばせたので、海上交通が発展するきっかけとなった。さらに慶長16年(1611年)には大規模な港湾工事を行い、江戸湊は京橋地区まで延長された。『往古江戸地図』によれば、江戸横付近を中心として日本橋川筋、京橋川筋、楓川筋が江戸湊の内港を成していた。このうち日本橋川筋は、日本橋川、伊勢町掘留町人掘、箱崎川浜町掘、薬研掘、霊岸橋川、小網町北から元大坂町に達する掘などから成っていた。
元和6年(1620年)、浅草は蔵前に幕府の米蔵が建てられ、この地に大坂をはじめ全国から送られた米が集まった。物資を荷揚げする場所は河岸と呼ばれ、おおよそ商品毎に河岸の場所が決まっていた。鰹河岸、米河岸、材木河岸などのほか呉服町、木綿町、金物町小間物町など商業の街が形成されている。
江戸の街は火事が多く、しかも町人は「宵越しの銭は持たぬ」ことを美風としていたので平時の蓄えに乏しく、火事が大工や職人の増収をもたらし・景気浮揚につながる一面があった。中でも明暦の大火(1657年)は、根本的な都市計画の実施につながった。万治3年(1660年)には、隅田川に両国橋が架けられ、その周辺に運河を掘り、道をつけて新市街地とし、以後、物資流通の要となったのである。 
石高制から貨幣経済へ
徳川幕府は、幕藩体制の財政基盤として、徹底した米本位制度を実施した。いわゆる石高制である。石高制の下では、藩の規模から武士の給与に至るまで、全てが米の生産能力で表され、これに基づいて年貢が課税された。そこから必然的に、各領主は、自家消費分を除いた米を販売し・その代金であらゆる物を購入することとなった。それが市場の形成を促し、貨幣経済を発達させたとも言えるし、逆に、貨幣経済が整っていたから、米本位制度を実行できたとも言える。
領主が米を売る市場としては、天下の台所と呼ばれる大坂に最も多く集中した。貞享5年(1688年)に書かれた井原西鶴の『日本永代蔵』によると、北浜の淀屋米市では、「一刻の間に、五万貰」(2時間に125万石の取り引き)があったとされ、誇張はあるにせよ、相当量の商いがあったとみられる。市場では、信用取り引き、先物取り引きが成立していた。幕府は、しばしば大坂の米市を統制下に置こうとしたが、自由な商売の流れを止めることは出来なかった。江戸では、文政の初め頃(1818年頃)、現在の日本橋本町で米の先物取り引きが行われ、いったん中止された後、数年後に現在の蛎殻町で再開された。今日の証券取引所や穀物取引所は、その流れを汲んでいる。
江戸時代は、全体を通して米本位経済と貨幣経済が並立していたと言えるが、その中でも、時代が下るに連れて、より自由な貨幣経済の比率が増していくようになる。領主米の販売のみならず、農民も余剰生産物が増えて換金能力が増していった。貨幣の流通量が増えると、信用経済も発達し、手形決済も日常的に行われるようになった。
手形決済は、中世から存在してはいたが、日常的に行われるようになったのは、江戸時代に入ってからであった。菱垣廻船、樽廻船の発達に伴い、江戸から大坂へ大量の支払いが恒常的になされるようになったことが、為替の利用を日常化させた。その中から、為替業務や貸し付け業務を行う両替商が、信用経済の要として台頭し、大坂商人の頂点に君臨する富豪として急成長を遂げたのである。
貨幣は大きく分けると、全国で通用する幕府の貨幣、各藩が発行する藩札、商人間での私札の3種類があった。幕府が発行する貨幣は、金貨・銀貨・銭貨(銅貨)の3種類に分かれていた。この内、銭貨は補助的な小口の通貨で、大口の取り引きには、西日本では主に銀貨が、東日本では主に金貨が通用していて、はっきり経済圏が分かれていた。しかし一方では全国規模の商取り引きが発達していたので、貨幣の交換比率が重要な問題となっていた。
幕府は、金座・銀座・銭座を設けて鋳造権を独占するとともに、慶長14年(1609年)、貨幣の交換比率を金1両=銀50目=永楽銭1貫文=京銭4貫文と定めた。その後、元禄13年(1700年)には、金1両=銀60目=銭4貰文に改定した。しかし、実際には、市場は公定の比率では動かず、その時々の変動相場で取り引きがなされたのである。なお、幕府は度々貨幣の改鋳を行い、金銀の含有率を下げることで利益を上げ、財政赤字の補填に当てた。銭貨については、寛永から寛文期(1624〜1672年)にかけて、寛永通宝が大量に鋳造され、永楽銭を駆逐して、銅貨の統一が成り、全国経済の発展に貢献した。
有力な両替商は、大名に対しても大口の貸し付けを行っていた。かくして、本来、士農工商の身分制度の最下位にあるはずの商人が、実質的には国家の経済を支配することとなり、幕府といえども、意のままに管理すること出来ない状況であった。 
江戸時代の海運 

 

宿場と中馬
徳川幕府の治世においては、参勤交代の制度によって、宿駅制度が充実した。幕府は万治2年(1659年)、物流と情報網の構築を目的とする道中奉行の職を設けた。道中奉行は、東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道の五街道と、水戸佐倉道を直轄下に置いた。
江戸時代の城下町では、大手町の近くに伝馬町があった。伝馬町は、領主から特別の保護を受けるのが常であった。江戸の場合、大伝馬町と南伝馬町が五街道へ次ぐ人馬を、半月ずつ交互に担当し、小伝馬町が江戸周辺への人馬を担当した。
宿場には伝馬問屋が置かれ、人馬の供給や大名と武士の宿泊を生業とした。戦国時代には、自然発生的な商人であサたが、寛永12年(1635年)の参勤交代の制度化に伴って、幕府の役人に準ずる位置付けが与えられた。しかし幕藩体制も18世紀に入ると、民間の輸送業者が台頭して、体制下の伝馬問屋の地位が揺らいでいく。中でも画期的だったのが、信州は伊那の農民が始めた「中馬(ちゅうま)」である。中馬は、当時の常識を覆して一人の人間が一度に3〜4頭の馬を引き、宿場で馬を替えることなく、しばしば宿場のない脇道を通り、スピード輸送を実現した。宿場を使わないので、運賃も安かった。しかし宿場の伝馬問屋等にとっては収入減となったので、問屋側は、延宝元年(1673年)と元禄6年(1693年)に、中馬の営業の制限を求める訴えを起こしたが、却って中馬を公認する結果となった。だがその後も争いが続き、明和元年(1764年)にまた訴訟となった。今度は街道毎に中馬荷物の品目を定め、その他の荷物は宿場を通すこととなり、中馬運送の宿場口銭も明確に定められた。また中馬を扱う村と、村毎の馬の数も定められた。それでも、合計すると馬は1万頭を超えており、中馬需要は増え続けた。中馬と宿場の争いは、明治時代まで続いた。伝馬は今日の運送業へとつながる。 
菱垣廻船と樽廻船
海運をめぐる事情も、江戸時代に入ると、鎖国により事情は大きく変わった。慶長14年(1608年)、幕府は、西国の諸大名に対し、500石以上の軍船の建造を禁じた。この禁令は、実質的には民間の船にも及び、三代将軍・家光の代には、船といえば、帆柱一本の和船に限られた。
しかし鎖国はしても、国内物流の大型化は進行したので、幕府も商船については大型化を徐々に認めることとなり、1000石を超える船も生まれた。
大坂と江戸を結ぶ航路のために開発されたのが、菱垣廻船である。菱垣という名は・舷側を高くするための構造物である「垣立(かきだつ)」の一部が菱形になっているところから付けられた。この菱形は、江戸十組問屋所属の廻船であることを示すものであった。船の構造そのものは、菱垣廻船も樽廻船も、「弁才船」と呼ばれる普通の大和型和船で、両者の間に新著な相違は見られなかった。船の規模は200〜300石積みのものが多かった。弁才船は瀬戸内海で発達した船で、木綿の帆を採用することで逆風走行を可能にし、少ない乗員での航行を実現して、運賃の引き下げに貢献した。
菱垣廻船の誕生は、江戸時代の初期、元和5年(1619年)の事であった。泉州堺の船問屋某が、紀州富田浦から250石積みの廻船を借り受け、大坂から木綿・油・綿・酒・酢・醤油などの商品を積み込んで江戸に送った。これを発端として、廻船の定期就航への道が開けた。寛永元年(1624年)には、大坂北浜の泉谷平衡門が江戸積船問屋を開業し、続いて同4年(1627年)には、毛馬屋、富田屋、大津屋・荒屋傾屋)、塩屋の5軒が開店して、ここに菱垣廻船の運航は独立した業種として確立したのである。廻船問屋は、手船を所有する例もあったが・多くの場合・最初の堺の船問屋のように、紀州や大坂周辺などの船持の廻船を雇い入れて営業していた。
港湾の整備と並んで大切なのが、航路の開拓である。幕府は、東廻り航路と西廻り航路の開拓にカを入れた。東廻り航路とは、日本海沿岸から出発し、津軽海峡から太平洋に抜けて南下し、房総半島を迂回して江戸に至る海路である。西廻り航路とは、日本海沿岸を西に向かい、赤間ケ閑(下関)から瀬戸内海に入り、兵庫・大坂に寄港して紀伊半島を迂回し、遠州灘から下田を回って江戸に着く海路を指す。いずれも、以前から部分的かつ不定期的には、航行が行われていたが、江戸時代に入ってからは、仙台藩が慶長・元和年間には、江戸に大量の米を廻送していた。
寛文10年(1670年)、幕府は、江戸の商人、河村瑞賢に、陸奥国信夫郡桑折・福島などの幕領米数万石の江戸への廻送を命じた。瑞賢は綿密な調査を行って幕府に必要な処置を建議し、諸施設を整備した上で東廻り航路で廻送に当たり、翌寛文11年、無事に成功させた。さらに寛文12年、幕府は瑞賢に、出羽国の幕領米を江戸に送ることを命じた。瑞賢は、前回同様、調査と整備を念入りに行い、年内に西廻り航路で全ての廻送を終えた。
瑞賢が行った海運改革の一番の特徴は、それまでの商人請負方式を廃止し、幕府の直雇方式を採用した点であった。これで運賃を圧縮できる反面、事故があった時は、全て幕府の負担となる。それゆえに、瑞賢は諸施設の整備を急いだ。各拠点に安全施設を設けて、諸侯と代官を、船の保護に当たらせ、西国の弁才船を採用したのである。かくして全国を網羅する安全な航路が確立し、本格的な廻船の時代が幕を開けた。
これに先立つ正保期(1644〜1647年)に、大坂の西の伝法の船が、伊丹の酒を積んで江戸に送る商売を始め、万治元年(1658年)には、伝法船の船問屋が出来た。そして河村瑞賢によって東廻、・や、西廻り航路が開拓された寛文11、12年頃には、伊丹の造り酒屋の後援により、伝法船は大いに栄え、酒の他に酢・醤油・塗り物・紙・木綿・金物・畳表などの荒荷(雑貨品)も積み合わせて出荷していた。酒樽は重量があるので下積みとし、上に荒荷を乗せた。酒樽は大きさを四斗樽に統一したので、積み込みが速く、伝法船は300〜400石積みの廻船で、仕立てに日数がかからない上に船足が速いので、「小早」と呼ばれた。これが次第に発展して、後に樽廻船と呼ばれるようになった。
白嘉納家文書によれば、元禄13年から同15年(1700〜1702年)までの3年間で、江戸湊に入津した廻船は約1、300艘、1年間に1艘が5往復すると仮定すれば、約260艘の廻船が営業していたことになる。 
佃島住吉神社の起こり
油の神様として知られる住吉神社のある佃島は、徳川家康ゆかりの土地として知られている。佃島は漁業の村であったが、住民は土着の人々ではなく、家康の命をうけて、大坂の佃村より移住してきたものである。家康と佃村との縁については様々な伝承があるが、天正18年(1590年)8月、家康が江戸に移る際、佃村の漁夫と、住吉明神の御分神霊を奉拝した平岡宮司が随行したのが始まりとされる。佃島の漁民は漁業技術に優れ、幕府の保護を受けて、毎年、将軍の食前に白魚を献上していた。
住吉神社は、正保3年(1646年)に社殿が建立された。この時、底筒男命、中筒男命、表筒男命、神功皇后の御霊四柱を「油脂神四座」として祀るとともに、徳川家康の御霊も祀った。
住吉神は、『古事記』『日本書紀』にも登場する由緒ある神霊であり、楔祓神、軍神、海上の守護神、和歌神、農耕神など多彩な顔を持ち、幅広く信仰されてきた。現在の大阪市住吉区にある住吉大社は、全国に2、100社以上ある住吉神社の総元締めで、前章で述べた通り、遠里小野の搾油業は、住吉大社の保護により、大きな発展を得た。
佃島の住吉神社は、船の安全の神様として知られ、江戸十組問屋も信仰していた。神社は、菱垣廻船と樽廻船に対して船手形を発行し、往来を保証した。江戸と奥州の間に航路が出来た時にも、住吉講が設けられた。十組問屋の中の河岸組(水油・色油問屋)は、毎年1月20日を参拝の日と定め、揃って祈願に参詣した。この参拝は、今日の油脂業界にも連綿と引き継がれ、初詣を行っている。
住吉神社の社殿は慶応2年(1866年)の火事で全焼したが、明治3年(1870年)に再建された。 
内海船と北前船
菱垣廻船と樽廻船の興隆は、大坂以外の廃人にも、海運業参加への意欲をかき立てた。その中でも、尾張国知多郡内海浦を拠点とする「内海船」は、菱垣廻船、樽廻船とほぼ同じ航路を就航し、大いに栄えた。
この内海船は、19世紀初頭から急速に勢力を伸ばし、幕末・維新期を頂点として、明治20年代まで続いた。菱垣廻船や樽廻船のように運賃で利益を得るのではなく、荷物を買い取って商売をする船団であった(買積船)。主に米、麦、大豆、肥料、塩、荒荷などを運んだ。内海船は、「戎講」と呼ばれる仲間組織をつくっていた。幕末には、戎講に所属する船は80〜90艘にのぼり、樽廻船をも次ぐ勢いを見せたのであった。これは従来の廻船の衰退と関係しているともいわれるが、その点については議論が分かれる。ただ、幕末には菱垣廻船の延着と運賃の高さが表面化し、荷主を悩ませていた。対する内海船は、速さと低料金で顧客を増やしていった。また、内海船は、関西での寄港は、大坂ではなく兵庫を拠点とした。大坂の商人は、幕府により制度面で保護されていたので、幕府公認の菱垣廻船、樽廻船を重視したが、自由な立場の兵庫の商人は、新興勢力の内海船を支持した。特に灘の酒造業は時代が下るほど栄えていき、内海船を発展させた。
兵庫を拠点としたのは、「北前船」も同様であった。北前船は、蝦夷地(現北海道)と本州を結ぶ交易の大動脈として、日本海を航行した。もともと蝦夷地との交易は敦賀や小浜の豪商が、手持ちの船で行い、松前藩の昆布・鮭・獣皮・米などを本州に運んでいた。次にこの航路を担ったのが近江商人で、慶長から寛永年間(1596〜1643年)には、開拓された西廻り航路を通って交易し、敦賀・小浜商人に取って代わった。近江商人達は、「両浜組」という仲間組織をつくって、松前藩から、通行税の免除などの特権を与えられていた。その頃急増した、にしんの魚粉の農業用の需要が、蝦夷地との交易を盛んにした。
両浜組が使っていたのは、共同雇用の「荷所船」であった。荷所船の船主は敦賀を拠点に荷所船仲間をつくり、両浜組に完全に従属していた。
その後、宝暦〜天明年間(1751〜1789年)になると、蝦夷地との交易による利益を当て込んだ各地の新興商人が次々に廻船業に参入したため、両浜組の地位が揺らぎ、構成員の撤退が相次いだ。こうなると、両浜組に依存していた荷所船仲間には死活問題である。そこで船主達は組織から独立し、内海船と同様の買積船の商売を始めた。これが、いわゆる北前船の始まりである。北前船は、売り先として、大坂の問屋商人を確保し、蝦夷地のにしん粕を大量に運んで、利益を上げた。そして文化4年(1807年)、蝦夷地が幕府の天領となると、松前藩と密接に結びついていた近江商人の地位は、さらに低下したのであった。近江商人のうち、財力のある家は手船を持って交易を継続し、そうでない家は、北前船に依存することとなった。かくして力関係が逆転し、北前船が蝦夷地交易の中心となったのである。北前船は、文化・文政期(1804〜1830年)を通じて増え続けた。船には、上り荷として米や海産物が、下り荷として木綿・塩・砂糖・酒・紙などの生活必需品が積み込まれ、南北を往復した。
内海船と北前船はともに、菱垣廻船・樽廻船のような運賃契約ではなく買積船方式を採り、かつ特定の問屋仲間に従属しない自由な運航形態だったために、経済の変化に柔軟に対応することができた。これら自由な新興の海運業の繁栄は、陸上輸送において、伊那の中馬が従来の伝馬問屋に取って代わった現象に比することができる。また内海船や北前船は、兵庫や神奈川といった、後に国際貿易の基地となる港町を拠点に選んでいた。その結果、開港後も生き残り、明治も半ば、全国鉄道網が整備されるまで、国内輸送の大動脈として機能し続けたのであった。 
搾油の革新 

 

灘の水車搾り
酒の名産地として有名な灘は、かつては、油の「水車搾り」で知られていた。灘とは、摂津の国・武庫、兎原、八部の三郡の総称である。この地方で搾る油は全て、水車で菜種を粉にして搾るので、他産地の油とは区別され、「水車搾り」あるいは「灘油」と呼ばれた。
普通の搾油では、菜種を炒り、人力で碓を踏んで粉にするが、灘では、水車に「同搗(どうづき)」という押しつぶす道具を仕掛けて粉にするので、大いに手間が省ける。搾った油の品質は変わらないが、油の抜け方が悪いので、油粕の値段は、人力搾りよりも少し安い。しかし人力では、5人体制で菜種を一日に2石も搾れば良い方だが、水車を使えば3石6斗も搾ることができる。採算性の良さで水車に及ぶものはなかった。
水車は、普通は自然に地を流れる水に掛けるが、水の乏しい所では、高い所から樋で水を引いて水車に落とす「腹がけ」を用いる。これは、平坦地ではできない。
灘では、菜種油のみならず、水車搾りにより、おびただしい量の綿実油を生産した。この大きな生産能力が、後に、古くからの菜種油の産地である大坂周辺の地域との間で、トラブルを生むことになる。 
綿実油の改良
綿実油は、綿花の副産物である。木綿の栽培は、安土桃山時代より、畿内や三河を中心に盛んになり、大量の綿が江戸へ送られた。江戸では綿を用いた衣服が普通に着られるようになった。木綿の産地では、綿実を搾油し、これも江戸へ送られた。
綿実油は、そのままでは赤黒く濁って、見栄えの良いものではない。そのため、最初は「黒油」あるいは「赤油」と呼ばれて、消費が伸びなかった。
ところが、偶然の事故から精製法が発見された。元和年間(1615〜1624年)のことである。大坂の搾油業、木津屋三右衛門は、ある夜、綿実油を入れた壷の傍らに、土蔵の上塗り用の石灰を積み重ねておいた。翌朝、油を見ると、色が抜けていた。石灰が崩れて、油の中に溶けていたのである。天の恵みと喜んだ三右衛門は、今度は意図的に石灰を混ぜ合わせ、透明な綿実油の製法を確立した。できた油は、灯の付き方も前より良かった。三右衛門は、他の油屋にもこの方法を教え、皆が石灰を用いることとなった。「白油」の誕生である。世間では、自油は種油(菜種油)より良い油だという評判が広まり、急速に需要を伸ばしていった。
新しい商品が拡大していく過程で、旧来の勢力との衝突が起きるのは、世の常である。後から見ると笑い話でも、その時の当事者達は、真剣そのものだ。
種油の搾油業者には、14人の談合頭がいた。寛文9年(1669年)、この談合頭が、綿実油の製造・販売を停止させるべく、公儀に訴状を提出した。この中で、彼らは石灰を加えた白油を「眼毒油」と称し、この油火の光を見た人は、みな眼病を患としている。また、原料の綿実そのものの性質も寒冷で良くないとしている。
これを採り上げた大坂町奉行は、訴状の中に名のあった、白油生みの親の木津屋三右衛門や松屋弥三右衛門(惣右衛門とする資料もある)といった人々を召しだし、事情を開いた。すると松屋が、先般飢饉の際に非常食として出回った「穀団子」が綿実からつくったものだったこと、蒟蒻は石灰を混ぜてつくることなどを反証として挙げ、白油を眼毒油とする根拠のないことを力説した。これを開いた町奉行は、もっともであるとし、種油14人衆の訴えを退けた。一説には、この時の町奉行は、油問屋の振興に熱心だった大坂東町奉行・石丸石見守定次だったという。かくして綿実油は、「世上の重宝」と呼ばれ、安心して使われるようになった。 
正本ため桶の作成
油問屋の商売が発展すると、容量を統一する必要が生じた。それまでは問屋毎に違うため桶を使って搾り油屋で詰めていたので、店毎に容量が異なり、したがって相場も違い、顧客に不公平が生じていた。そこで8軒の京向・江戸向油問屋が集まって相談した結果、搾り油屋・問屋双方が立ち会い、正本(正しい拠り所)となるため桶をつくろうという事になった。搾り油屋に相談したところ同意を得たので、製作にかかった。正本は、絞升で計って、九升と一斗の目盛りのあるため桶をつくることに決めた。そこで町奉行・石丸石見守定次に願い出ると、石丸は、ため桶が出来たら箱に入れて、問屋の封印をして絞り油屋に預け、必要な時に両者立ち会いの上取り出して正本にせよと返答した。
正本は慎重な作業と修正を経て完成し、以後は毎年新年に、この正本を基準として新立桶を製作することとなった。正本の方は、幾千年経っても、つくり直すことは固く禁じられた。正本から新立桶を写す時は、無心中庸の心で行うべきとされ、容量の正確さがいかに重視されていたかがわかる。
江戸向けの油樽は、当初は裸樽だったが、寛永19年(1642年)春、備前屋宗兵衛が、筵で包んだ樽を出荷した。これが使いやすく評判になったので、江戸から全てこれにして欲しいと要望があり、以後はどの店も、江戸向けの油は包み樽で出荷することとなったという話が伝わっている。 
株仲間の成立 

 

問屋の成立
問屋という呼称が一般的になったのは、江戸時代に入ってからのことである。元和年間(1615〜1624年)には、既に油・木綿・木材・生魚・干鱈などの問屋が発生していた。大坂では元和2年に油問屋加島屋三郎右衛門の名が見られる。
大坂では、江戸時代の中期に問屋の専業化が進み、中でも米問屋・炭問屋・綿問屋・木綿問屋・油問屋などは、軒数・規模ともに発展を見た。だが初期においては、まだ未分化の総合問屋が主流で、元和から慶安にかけての黎明期には(1615〜1652年)、専業問屋はまだ少数派であった。当時の問屋の主要形態は、松前問屋、薩摩問屋、土佐問屋といった、特定の地域から送られる多種類の物産を総合的に扱う「国問屋」と呼ばれる店だった。専門問屋の場合は、売り先が大坂・京の近在に限られていた。
しかし時代とともに大都市に安定した需要が生まれ、それぞれの商品の流通量が増加し、収拾過程と分散過程が長く多岐に渡るようになると、自然に商品毎の卸売業が発達することとなった。
延宝7年(1679年)刊の『難波雀』には、問屋の総数378軒、業種は58種類と記されている。そして元禄10年(1697年)刊の『国花万葉記・五畿内摂津難波丸』には、問屋総数826軒(江戸口酒屋2、218軒除く)、業種62種類となっている。既に扱う商品とサービスが完全に専業化しており、かつ仲買も分化していた。今日の問屋と大きく異なるところは特にない。
この時期には、上に挙げた最重要産品に加えて、生魚・塩魚・八百屋物・薪・鰹ぶし・布・木わた・たばこ・塩・鉄・木蝋など、日用品のほとんどに関して専業問屋が誕生した。販売先も全国が対象であった。一方、京では高級衣料や美術工芸に関する問屋が、江戸では墨筆・櫛・きせる・小間物・土人形・畳表など、贅沢品の問屋が発達した。京も江戸も、生活必需品の供給を大坂に依存していた。このことが、菱垣廻船、樽廻船の発達を支えた。
問屋の商売のやり方も変貌を遂げていた。初期には、各地の荷主から送られる依託荷物の引受・保管・販売に当たる荷受問屋だけだったが、元禄時代には、自分の裁量で、売れそうな品物を生産地に発注し、買い付けに出向く仕入れ問屋が増えていた。仕入れ問屋は、生産者に前金を払ったり、産地に「買宿」と称する仕入れのための出張所を設けるなど、生産者の取り込みでも競争した。その結果、古い荷受問屋に留まった店は衰退を余儀なくされ、仕入れ問屋が、今日まで繋がる問屋の形として、市場の利こ成立したのである。 
大坂の油問屋
原料の問屋と、油の問屋は、はっきり分かれていた。農地で集められた原料は、菜種は菜種問屋に、綿実は綿実問屋をそれぞれ通して、絞油屋へ送られる。そこから直接小売りに出される商品もあったが、流通の全国化に伴い、多くは油問屋を通して市中に出た。
むろん、経済と海運の発達だけでは、油問屋の全国展開は成立しえない。前節で見た、搾油技術の向上で、菜種油や綿実油の量産が可能になり、油が特権階級の手を離れて、庶民の手の届く商品となったことが大きい。
全国流通の拠点となった大坂には、諸国から油商人が集まり、中でも京・大津の商人が多かった。彼らは大坂京橋三丁目の加島屋三郎右衛門方を油宿として、山城方面の油を買い集め、諸国に販売した。京口油問屋の始まりである。こうして諸国から大坂に油が集まったため、大坂に荷受問屋をつくろうということになり、13軒が店を開いた。出油屋である。 
大坂と灘の対立
江戸時代は、世の中が平和になり、農村でも町方でも次々に新しい技術を生み出す余裕が生じた時期であった。しかしそれは同時に、既得権を持つ旧勢力と新技術で拡張する勢力の対立の時代でもあった。長木の大山崎としめ木の遠里小野の対立しかり、菜種油と綿実油の対立しかり。そして、従来の搾油の本場・大坂と、水車搾りの灘の対立が表面化するに至った。
灘の水車搾りの勃興は、西摂津地域の菜種生産と搾油産業を伸ばし、大坂の搾り油菜の市場占有率を圧迫し始めた。江戸の油需要の大部分は大坂に依存していたので、幕府は、安定供給を維持するため、大坂保護の政策を採った。
早い段階では、元禄11年(1698年)に、菜種と菜種油の買い占めを禁じる御触書を出して灘を牽制している。
その前年の元禄10年、大坂の綿実油屋(石灰で自油をつくる業者)が、町奉行に、大坂以外の油を買う許可が下りるよう願い出ている。町奉行は油問屋衆を呼び出して意見を求めた。油問屋衆いわく、近年他国の油の出回りが多く、日雇いの職人数万人が干上がってしまった。そこで京向・江戸向の油問屋は他国の油を買うのをやめていたのに、森田屋・柏屋・堺屋の3軒だけが買い続けている。この3軒の買い付けを止めさせ、綿実油屋の願いも却下してほしいとのことであった。数万人の失業は誇張があるにせよ、深刻に捉えられていたことは伺える。この一件が、翌年の御触書に繋がったとみられる。
同様の御触書は正徳・享保期にも出されたが、あまり効果はなかった。むしろ西宮の嵯峨屋、小池屋が、大坂油問屋の手を経ずに、江戸へ油を直送するなど、灘側の商売は拡大の一途であった。そこで幕府はついに、寛保3年(1743年)、住国以外の他国種物の買い入れを禁止し、種物の大坂種物問屋への販売を命じ、兵庫・西宮・紀州・中国筋などからの江戸直積みを禁ずる御触書を公布した。16年後の宝暦9年(1759年)の御触書では、大坂へ送られる菜種が少ないため油が高値になったとして、諸国で菜種などを増産して大坂へ送るように、綿実も、幕府が指定する大坂の綿実問屋に送るようにと命じている。さらに、畿内・中国・四国・九州などで搾った油を江戸に直接送ることを改めて禁止し、大坂以外で生産された油を、自国内消費に限定した。原料も自国内で調達することとし、大坂行きの荷物を途中で買い取る道買いやはしけ買いを禁じた。幕府は石高制経済の維持に腐心しており、諸物資の高騰を警戒していた。支配の及ぶ大坂の問屋仲間を保護し、統制を続ける必要があったのである。
明和3年(1766年)、幕府は、次のような過去にない厳しい内容の御触書を発令した。「どの国においても、搾油の原料は自給自足に限る。搾った油は、自家消費以外はすべて大坂の出油屋に売らねばならない。同じ村の中であっても、他家から原料を買ったり、油の売買をしてはならない」。これは、事実上、大坂以外の搾油業そのものを否定するものである。搾油業は、木綿づくりなどと異なり、家内工業の範囲を超え、大がかりな設備を揃え、専門の職人を雇って行うものである。ここまで締めつけられれば、コスト倒れで廃業せざるを得なくなる。畿内で広く行われていた搾油業の現状を無視したこの法令に対して、一斉に反対の声が上がった。廃業が続けば却って大坂への油の供給は不足するとの意見も出た。中には平野郷の出油屋のように、江戸の油問屋と連絡を取りながら、大坂の出油屋と争う例もあった。
そこで4年後の明和7年に幕府は改めて、「明和の仕法」と呼ばれる政策を打ち出した。その中身は、大坂に近接した摂津・河内・和泉の三カ国の搾油業については、原料の買い付けや油の自由販売を認めるが、それ以外の西日本諸国については徹底的に禁止するというもので為った。
これで三カ国は一息ついたが、他地域の搾油業も相当発展していたので、法令違反や村同士が連合しての反対運動が続出した。その結果、19世紀に入ると幕府も方針を変更し、各地の搾油業を認めるに至った。 
江戸積油問屋
寛文年間(1661〜1673年)、大坂の名町奉行として名高い石丸石見守定次は、出油屋・江戸積油問屋・京口油問屋・絞油商・油仲買の区別を立てて株仲間を結成させた。株仲間の構成員は京橋三丁目に集中していたので、ここを売買立ち会いの地とし、油相場を定めるに至った。株仲間は、公儀に冥加金を納める代わりに、独占権を保証された。出油屋は13軒、江戸積油問屋は6軒、京口油問屋は3軒に限り、新規加入は許さなかった。後に多少の増減はあったが、独占体制は変わらなかった。天保年間(1830〜1844年)、油寄所を内本町橋詰町に設けたが、後に古巣の京橋三丁目に移転した。
江戸においては、元和年間(1615〜1623年)には、既に問屋と仲買の明確な区別ができていた。一般に、市売り、入札売り、相対売りの3つの方法で仲買に販売するものを問屋と呼んだ。そして問屋から品物を購入して、地方や市中に転売するものを仲買と言った。仲買業成立のきっかけは、元和3年(1617年)生魚の入荷があまりに多すぎて、市場で売買できない事態となった。問屋がそれぞれに雇い人を駆使して、直接買い手に売り渡した。この時の活躍を機に、雇い人達が独立し、仲買としての地位を固めていったのであった。
上方においては、仲買の発祥は中世まで遡る。当時は、まだ「すあひ」との区別が明確ではなかった。「すあひ」は、依頼者の名義で契約し、小量の取り引きを仲介することを指す。江戸時代になって、常時大量の取り引きを行う仲買が独立し、業種として成立した。
また大坂の問屋は、寛文年間には既に、普段から大量の委託販売をこなし、掛け売り商売を行っていた。寛文元年(1661年)の町触れには、他の商人の売り掛け金延滞についての訴訟は受理しないが、諸問屋の売り掛け金延滞についてのみ受理するとある。問屋は掛け売りが当たり前ということをお上も認識し、保護していたことがわかる。
さて、先述の加島屋三郎右衛門は京都・伏見への大々的な商いで財をなした人だが、早くも、消費の中心地となった江戸を目指した人もいた。その先陣を切ったのが、備前屋惣左衛門だと言われる。備前屋は、元和3年(1617年)、上方の絞り油屋から油を買い集め、江戸への輸送を開始した。これが、江戸積油問屋の始まりとされる。
その発端は、最初の油問屋である加島屋には、連日、京から油を買いに来る商人と地元の絞り油屋が集まり、賑わいを見せていた。この商売繁盛を見ていた山崎に縁のある人が、山崎の絞り油衆にその様子をしばしば語った。
話を開いた人の中に、山崎離宮八幡宮の社家の川原崎某という人がいた。先祖は菅原道真公の子孫で、離宮八幡宮の神前で大神事を執り行っていたという。この川原崎某が、大坂の油を江戸に船で輸送・売買することを思いついた。まず試しに少しだけ積み下すことにして、初めて大坂に出た。その宿所が、備前屋宗左衛門であった。備前屋で油屋衆に相談したところ賛成だったので、江戸表に油を積み下すことに決まった。京・伏見へは荷桶で十分だが、遠路なので樽に詰めることになった。一樽の入れ目は、相談の結果、3斗9升に落ち着いた。これは米の5斗俵に等しく、万事米中心に動いていた当時としては船賃の見積もりもしやすく、1樽12匁と決まった。これが「江戸詰三斗九升」の始まりである。
その前提に海運の発達があったことは言うまでもない。元和5年(1619年)、堺の船問屋某が、紀州富田浦から250石積みの廻船を借り受けて、江戸に大量の商品を出荷した。菱垣廻船、樽廻船の始まりである。主な荷としては、木綿、水油、綿、酒、酢、醤油などがあった。この船問屋は、荷主と船頭との間で、その前は曖昧だった運賃を、きちんと定めている。彼らの商業活動を端著として、上方から江戸へ向けて大量の水油が輸送され、江戸に水油問屋が誕生することとなった。
海運の発達と備前屋の成功に促され、大坂では、次々に江戸積間屋が誕生していく。寛永元年(1624年)には、泉屋平右衛門が、北浜町に江戸大廻問屋を開業。それから数年の間に、毛馬屋、富田屋、大津屋、塩屋などが名を連ねていった。
大坂から江戸へ、どれほどの油が流れていたのだろう。大坂町触書には、享保9年から同15年(1724〜1730年)にかけて、生活必需品11品目の江戸への出荷量の統計が残っている。その11品目とは、米・塩・味噌・醤油・酒・繰綿・木綿・薪・炭・油・魚油である。その中の油を見てみよう。
享保 9年 73,651樽
享保10年 62,802樽
享保11年 69,172樽
享保12年 49,744樽
享保13年 57,301樽
享保14年 48,639樽
享保15年 77,022樽
油は既に、江戸の市民生活の必需品であることがわかる。その背景には、搾油の技術革新によって、灯油が特権階級の贅沢品ではなく、庶民でも普通に使われるようになったことがあった。行灯には、庶民階級では、魚油も広く用いられていた。魚油(イワシなど)は、享保9年に298樽の記録があるが、その後は、ごく少量かゼロとなっている。上記の西からの油に関東近辺から集荷した油を合わせると、大体10万樽前後の油が、江戸では消費されていた。1樽72リットルで計算すると、720万リットルの消費ということになる。当時の江戸の人口は、武家と町人がそれぞれ50万人ずつの計100万人と推定されている。当時ヨーロッパ最大の都市だったロンドンが50万人なので、実に倍である。これは、参勤交代の武士も含めての数だが、彼らが江戸市中で物資を消費することに変わりはない。720万リットルを単純に100万人で割ると7.2リットルで、妥当な数字といえる。もしも搾油の技術革新、原料革命がなければ、さらに上方から廻船が来なかったなら、市民はさぞ因っていたことだろう。これだけの需要があれば、油問屋の商売は充分に成り立つはずである。
江戸では、上方からもたらされた品物を「下り物」「下り荷」と呼んでいた。そこには、高度な技術による本物、高級品という意味が込められていた。京の絹織物などはその代表例である。「下り酒」「下り油」など商品毎にも呼ばれた。一方、江戸の近郊、関東各地から来た品物は「地廻り物」と呼ばれた。また「下り物」に対して「下らぬ物」とも呼ばれた。「下らぬ物」は加工度の低い一次産品が多かったことから、つまらないものを指して、下らないと言うようになったといわれる。
しかし18世紀後半になると、関東・東北では江戸向けの商品の生産が活発になり、江戸地廻り経済の発達を見た。それに連れて下り物の割合は減っていく。寛政年間(1789〜1801年)には、関東の綿の豊作のため、上方から仕入れた繰り綿が売れなくなるという事態が起こった。
そして関東の綿作の発達は綿実油の搾油量を増やし、幕府による油菜作付けの奨励は菜種油の増産をもたらし、文政年間(1818〜1830年)には、江戸の油の需要の3割近くを地廻り油が占めることとなった。
油以上に変化の激しかったのが醤油である。野田・銚子で江戸っ子好みの濃い口の醤油が発達した結果、安政3年(1856年)に江戸に入荷した156万5、000樽の内、下り荷は9万樽、わずか6%以下となっていた。
それでも地廻りの荷が一次産品中心であることに変わりはなく、下り物を高級品として尊重する気風は、江戸時代を通じて保たれた。 
東京油問屋市場の前身誕生
江戸においても、大坂に歩調を合わせるように、問屋が増えつつあった。寛永年間(1624〜1644年)初期に、大伝馬町に4軒の木綿問屋が開業した。彼らはいずれも、町年寄や伝馬行司を務めた初期の特権商人であった。続く慶安年間(1648〜1652年)には、まだ問屋、あるいは仲間と称するものの急激な増加は見られず、商家といえば小売商が多かった。問屋が相次いで誕生したのは、明暦の大火(1657年)以後のことである○江戸城の本丸さえ焼失したこの大惨事により、江戸では物資が極端に不足し、今までのように、小売店がその都度大坂から取り寄せるやり方では追いつかなくなった。それが、一度に大量の品物を購入して、各小売店に配分する問屋の誕生を促した。大火があったのは1月のことで、この年の9月の江戸町触には既に.材木問屋・米問屋・薪問屋・炭問屋・竹問屋・油問屋・塩問屋・茶問屋・酒醤油問屋などが記載されている。
油問屋も、大火の後、大坂からの下り油が減少し、価格が高騰したことで軒数が増え、大口の仕入れが目立つようになった。寛永元年(1615年)頃から大坂・江戸間を定期的に就航していた菱垣廻船は、この時期、江戸への物資の運送に欠かせなくなっていた。万治年間(1658〜61年)には、陸上輸送の輸送量を上回っていたのである。
そして万治3年(1660年)、江戸は霊巖島に「油仲間寄合所」が設立され、大坂からの下り油の売買所と定められた。東京油問屋市場の前身の誕生である。今年(2000年)から数えて、ちょうど340年前のことだ。その後、油仲間寄合所は、油会所、油売買所などと改称された。
当時の油の取り引きは、現物売買が普通であったが、限月を定めての延べ売りも行われていた。問屋の仕入れの方法には、「送り込み」と「買い出し」とがあった。送り込みとは、荷主の裁量もしくは問屋の注文を待って、荷主から問屋に送る。買い出しとは、問屋が自ら産地に出張して、もしくは中継ぎ人に依頼して、その場で契約して仕入れる。主な産品は送り込みによるものが多く、油も送り込み中心であった。問屋が力をつけ、複数の荷主からの売り込みを待った方が有利な契約が出来たためである。江戸の問屋は、荷主に対しても小売りに対しても強い立場となり、やがて十組問屋という強力な仲間組織を結成するに至る。 
二十四組問屋
廻船の定期的な運航が始まった頃には、輸送業務に係わる一切が、廻船問屋と船頭の自由な裁量に任されていた。そのため、難船に見せかけて積み荷を横領するなどの不正行為がしばしば起きた。そこで、荷主の立場を強化するため、元禄7年(1694年)、江戸の問屋商人が結集して、江戸十組問屋を結成した。これに呼応して、大坂でも、二十四組問屋が出来た。この十組問屋と二十四組問屋の関係は、注文主と買次人の間柄で、その商品を運搬するのが廻船問屋という新たな構図が成立したのである。これにより、菱垣廻船は、廻船問屋の自由な裁量による独立営業の性格を失い、十組問屋・二十四組問屋の手船、あるいは定雇船同然の位置付けとなった。
二十四組問屋の構成員は以下の通り。
綿買次問屋、油問屋、鐵釘積問屋、江戸組毛綿仕入積問屋、一番組紙店、表店(畳表)、塗物店、二番組紙店、内店組(木綿類)、明神講(昆布、白粉、線香、布海苔、下駄、鼻緒、傘、絵具類)、通町組(小間物、古手、葛籠、竹皮、日傘、象牙細工類)、瀬戸物店、薬種店、堀留組(青筵類)、乾物組、安永一番組(紙類)、安永二番組(金物、鋼、鐵、木綿、古手、草履表、青筵、火鉢類)、安永三番組(渋、櫓木、砥石類)、安永四番組(打物、釘金、砥石類)、安永五番組(煙草、帆木綿、布海苔類)、安永六番組(指金、肥物、鰹節、干魚、昆布類)、安永七番組(鰹節、傘、柳行李、白粉、砥石、木綿類)、安永八番組(蝋店)、安永九番組(木綿、灰、紙屑、針金、古綿、古手、櫓木類)、安永追加九番組鰹節組・同東組(紙、木綿、綿類)、同紅梅組(足袋、下駄、雪駄類)、同書林組、同榮組(白粉、竹皮、木綿類)、同航榮組(菱垣廻船問屋、書林、小間物、布、畳表、諸方荷次屋、蝋、紙類)。以上の通り、木綿類を扱う問屋が重複しており、需要が多かったことがわかる。仲間の総人数は347名に及んだ。
二十四組問屋には取締方、惣行事、大行事、通路人などの役員があり、仲間定法を定めて、全体を管理していた。
その規約には、次のような条項が定められていた。
一注文を受けた買次荷物は、なるべく安価に買い入れて送付すること。
一荷物送状には必ず積み込み荷物の元価を記入すること。
一江戸荷主よりの買次諸荷物の海上請合、船歩銀の減額請求等には一切応ぜざること。一菱垣廻船以外には一切積み込まぬこと。
一荷渡し後の荷物の異変には、その責に任ぜざること。
さらに仲間の新加入に対する条件としては、実子の分家による加入、奉公人の別家による加入、その他無関係者等に対し各々加入金に等差を設け、全く新規の加入者は仲間全部の同意を得、金百両を加入金として振る舞うことを定めていた(以上『日本植物油沿革略史・黄金の花』〈日本製油株式会社発行〉より)。十組問屋と二十四組問屋の連携により、廻船に関わるもめ事は激減し、就航する船の数もさらに増え、享保8年(1723年)には、菱垣廻船のみで160艘に達した。 
十組問屋の成立
初期の江戸の有力商人達の多くは、市場性を見込んで上方からやって来た人々であった。彼らは、利益を守るために、次々に仲間を結成していった。その中でも最もカを持っていると言われたのが、「江戸十組問屋」である。
江戸十組問屋の誕生については、最大の顔役、大坂屋伊兵衛の覚書が残っている。それによると、問屋同士の結束を促した背景には、当時の菱垣廻船は、難船が多かったことがある。難船そのものは天災だが、問題は、むしろ難船に付き物の人災の方であった。船頭や水主の中には欲の皮が突っ張った者が大勢いて、難船の度に、港の関係者と共謀して、荷物を横領した。甚だしい場合は、無事に運航しているのに難船を装い、荷物を掠めとった。分けても、貞享3年(1686年)、小松屋仲右衛門の船が相州沖で暴風により破船したとされる事件は、船頭が斧で船底をたたき割り、積み荷のほとんどを盗み出すという悪質なものであった。これでは、荷物の受け手は丸損である。
そこで十組の問屋が結集し、組毎に行司を定めて、船問屋を通さずに、直接菱垣廻船を支配することとなった。元禄7年(1694年)のことである。この時集まったのは、次の各種荷受問屋十組だ。各組が取り扱う主な商品を()内に記す。塗物店組(塗物類)、内店組(絹布・太物・繰綿・小間物・雛人形)、通町組(小間物・太物・荒物・塗物・打物)、薬種店組(薬種類)、釘店組(釘・鉄・鍋物類)、綿店組(綿)、表店組(畳表・青筵、河岸組(水油・繰綿)、紙店組(紙・蝋燭)、酒店組(酒類)。この時、油問屋も、河岸組に編入された。
大坂屋伊兵衛は通町組の商人で、発起人である彼は、大坂の鴻池組に交渉して、菱垣廻船側が船の手配を拒否した場合、鴻池の船を回す約束を取り付けた。鴻池では、もしもの時は手船を100艘手配し、それで足りなければ150艘を新たに建造すると請け負ってくれたという。かくして江戸における菱垣廻船の十組問屋は、すんなりと成立した。
十組問屋が難船をめぐるトラブルに神経質になっていたのは、問屋のあり方が、元禄期までに、ほぼ変わっていたからだ。以前の、ただ上方からの荷を待つだけの荷受問屋ならば、揖害の負担は、送り手の責任となるが、前節で見たように、この時期の問屋は、才覚、思い入れで、どんどん品物を発注する、仕入れ問屋になっている。この場合、船が大坂を離れた瞬間、荷物の所有権は買い手に移るというのが、当時の慣習だった。当然、損害があった時も、買い手の負担となる。彼らが対策を急いだのは、当然のことであった。そして、江戸の十組問屋に対して大坂から品物を送るのが、二十四組問屋であった。
十組問屋は、仲間全体を束ねる「大行司」を定め、一組が4カ月ずつ、船手全ての支配を順番に勤めた。毎年正月と9月に寄合を開いて、当番行司を決めた。海損勘定の振分散の時には、その年の行司が支配した。三極印元という係は、船具や船足(吃水線)を調べて焼印を押した。
なお、十組のうち、最初に集まった人々の中には、河岸組の名はなく、代わりに米問屋が入っている。米問屋といっても、当時の資料から推測すると、実際には米・油・綿などを扱う諸色問屋を指すものとみられる。諸色問屋は荷受け問屋であって仕入れ問屋ではない。米問屋4軒の内、鎌倉屋市左衛門は廻船問屋に転身したことがわかっているが、あとの3軒は、河岸組の油仕入れ問屋に転身したことも十分考えられる。
今日に伝えられる十組問屋のうち、水油問屋、色油問屋として名前が出てくる商人は、以下の通り。
十組問屋(「江戸買物独案内」より)桝屋源之助(長谷部吉右衛門商店)、井筒屋善治郎(小野善助、後の小野組)、大坂屋孫八(松澤孫八商店)、駿河屋長兵衛(藤田金之助商店)。下り水油問屋・絹川屋茂兵衛(小網町三丁目)。地廻水油問屋・三河屋長九郎(四ッ谷伝馬町)、山崎屋勘兵衛(上野北大門町)、池田屋喜右衛門(芝二本榎)、笹屋豊次郎・直三郎(萩原利右衛門商店)。後に油商組合の頭取となる岩出惣兵衛は当時は肥料問屋として名を連ねている。水油仲買・井筒屋伝右衛門(田所町)、枡屋喜右衛門(長谷部喜右衛門)(大伝馬町二丁目)。これらの問屋が今日の油市場営業人に連綿とつながっている。 
地廻りの油
関東で搾油が盛んになったのは、畿内よりもかなり遅く、18世紀後半頃から徐々に伸びていった。それまでは生産性の悪い荏胡麻や胡麻を細々と搾油していたが、下り油の菜種油と綿実油が市場の大半を占めるに至り、幕府の奨励もあって、これらの原料を栽培し、油の量産体制を整えることとなった。
関東でも綿作は17世紀から行われていたが、搾油に結びつかなかった。宝暦4年(1754年)に江戸で綿核問屋の公認を願い出た姓不詳の清兵衛という人の願書が残っている。そこには、関東では綿核(綿実)は18〜9年前までは捨てられていたが、近年になって上方で油の原料に使われていることを知り、買い集めて江戸に出荷するようになったとある。
明和4年(1767年)3月、幕府は綿実買問屋2軒を認可し、そこから足柄郡早川村(今の小田原市)に送って搾油し、江戸油問屋に売ることを認めた。明和4年といえば、関西では大坂以外の搾油業を否定する御触書が出された翌年であり、比べて関東がいかに遅かったかがわかる。この早川村の綿実油は、灘と同じ水車搾りで量産が可能であった。同時期に、筑波山麓でも、井上善兵衛が水車搾りを始めている。真壁では、木村六郎兵衛が水車搾りを始めた。井上家は、自油をつくるため、関西の職人を雇った。この職人は石灰を用いる技術を教えなかった。そこで善兵衛の弟に節穴から覗き見させて製法を盗み出し、以後は関東の搾油業者も、上質な白油の量産が可能になったという。井上家の水車は、最初一丈六尺だったが、その後一丈八尺、二丈一尺と寸法を大きくしていき、小道具も工夫して増産に励んだ。
菜種に関しても、米の裏作として作付けが増加し、19世紀に入ると、農村で人力による水油の生産が増えていった。油の何割かは北開東や武蔵で養蚕・製糸・織物業などの夜なべ仕事の灯火に使われたが、大半は江戸に売られて消費された。「地廻り油」の台頭である。
幕府にしてみれば、地廻り油が増えた方が、上方が価格操作をやりにくくなり、価格統制に好都合である。したがって西日本に対する時とは対照的に、関東の搾油は大いに奨励した。かくして下り油の地位は低下の途を辿っていった。 
幕府の問屋政策 

 

享保の改革の問屋政策
正徳6年(1716年)、御三家の一つ、紀州徳川家出身の徳川吉宗が、八代将軍に就任した。吉宗は、将軍の座に就くと同時に、いわゆる享保の改革に着手した。享保の改革は、一言でいえば、幕府の独裁体制を確立し、財政を再建するのが目的だった。倹約令を発し、相対済まし令で金銭貸借に関する訴訟を停止した。しかし商業に関しては、徒らに押さえつけるのではなく、商人のカを充分に認めた上で、彼らを幕府のカの及ぶ範囲に取り込み、統制する政策を取った。それが株仲間の公認となり、大坂堂島の米市場の公認となった。吉宗は、物価、特に米価を統制して、米将軍と呼ばれた。当時は米価安の諸物資高という現象が起きて、石高制そのものの危機が叫ばれていた。石高制経済にあっては、領主は米を売って貨幣を入手し、その貨幣で諸物資を買う。すなわち、米価に諸物資の価格が追随しない限り、領主経済は成り立たない。事実そうなっていたので、元禄期までは、米価をいかにして引き下げるかが幕府の主要経済対策であった。しかし商業の発達とともに経済構造が変わった。
宝永3年(1706年)、江戸市中の豆腐が非常な高値を続けた。時の江戸町奉行は豆腐屋全員を呼び出し、原料大豆が大幅安になったにも関わらず、豆腐の値段が下がらない理由を問いただした。だが納得のいく説明が得られないので、豆腐の大幅値下げを命じた。多くの豆腐屋は渋々値下げに応じたが、7軒の豆腐屋が苦塩や油糟の高値を理由に応じなかったので、怒った町奉行は、この7軒に営業停止を命じた。いったんは幕府の目論見通りになったが、これを機に、幕府は個々の商品毎に物価対策を打たなければならなくなる。
吉宗は、米価と諸物価のバランスの是正に必死になっていた。幕府の財政は火の車で、旗本・御家人は、人事・待遇面の引き締めの実施により、生活に窮していたのである。
そこで、吉宗の腹心、江戸南町奉行・大岡越前守忠相は、諸物価の引き下げに乗り出した。大岡は、吉宗の意見具申の求めに応じて、享保8年10月、相役の諏訪頼篤と連名で、七箇条から成る「物価引き下げに関する意見書」を提出した。
当時は、談合による価格操作が、物価上昇の原因となっていた。ここに、油問屋が標的にされる。
享保9年(1724年)のことだ。この年、3月25日〜26日にかけて10樽につき22〜25両だった油の値段が、3月27日〜4月8日の間に、27〜37両3分という異常な値上がりをした。大岡は、油問屋達を役所に呼び出し、詮議をした。その結果、油問屋達が価格操作をして「過分之利得」を得ていたことが判明したので、その分を過料として没収した。処分を受けたのは、油問屋17名、仕入れ問屋24名の計41名。彼ら全体で1、842樽を販売し、1、035両2分と銀20匁6分の超過利得を得ていた。これは、代金の18%強に相当した。
幕府は、搾油業者が西国に集中し、流通過程での独占性の強いことが価格操作を容易にしているとみて、関東近辺での菜種の作付けを奨励した。そして売り先を保証するため、享保12年(1727年)5月、中橋広小路の大和屋七郎左衛門を、一手買受人に指定した。最初のうち農民達は、新たな税を課されることを警戒したため、菜種栽培には不熱心で、お義理に作付けをしても肥料はやらない例が多かった。だが幕府の努力が徐々に実を結び、菜種の栽培が増えていったことで、やがて「関東地廻り経済圏」を育てる出発点になったのである。
ところで、「江戸積油問屋」の章で引用した大坂町触書の、大坂から江戸への出荷量のリストは、大岡越前の依頼によるものだった。当初、大岡は、大坂町奉行に対し、諸国と江戸へ送った品物の量を、全て報告するように要求した。対する大坂町奉行の返答は、煩雑すぎてできないというもの。江戸町奉行が、諸国への出荷量まで調べるのは、越権行為と判断し、面白くなかったとみられる。そこで大岡は妥協し、主要11品目の江戸への出荷量に限定、大坂もこれを了承した。おかげで、今日我々は、先の油の享保期の流通量を知ることができる。そして大岡は、問屋の組合強化策に乗り出した。先の「物価引き下げに関する意見書」は、当時としては流通革命ともいうべき内容で、幕府は、あまりの大胆さに驚き、一度は実現不可能として却下した。しかし、大岡は再三にわたっ吉宗に詰め寄り、執念で許可を得た。
大岡が意見書の中で最もカを入れていたのが、幕府主導による問屋仲間の結成である。第一条には、炭・薪・酒・醤油・塩など生活必需品を扱う商人は問屋・仲買・小売まで仲間をつくらせ、相場書を提出させ、もし不時に相場が高くなった時は仲間で吟味して高くなった理由を提出させる。江戸でわからない時は京・大坂へ人を寄越して調べさせるとしている。
彼が目を付けたのは、十組問屋であった。海千山千の廻船関係者達と渡り合い、自分達の利益を守り通した十組問屋。これを拡大し、統制することで、物価を統制することができる。こう考えた大岡は、享保9年5月12日、14日、16日の3回に分けて、品目にして22種類に及ぶ問屋を、町年寄奈良屋に集めた。ここに、十組問屋は、実質的には、二十二組問屋となった。22種類の内訳は、真綿・布・繰綿・紬・晒・ほうれい綿・木綿・米・水油・蝋燭・蝋・魚油・茶・醤油・薪炭・たばこ・味噌・酢・塩・酒・紙・畳表となっている。この組織は、株仲間へと発展し、問屋・仲買・小売りというわが国流通機構の根幹が確立していく。
大岡の意見は、結局は全面的に受け入れられ、この年、「物価引き下げ令」として発布された。2月15日、幕府は「物価引き下げ令」を江戸・京・大坂・奈良・堺を初めとする町奉行に出し、代官・領主にも、諸国で製造している品々の元値を安くするように命じている。その中には「酒・酢・醤油・味噌の類いは、米穀を原料にしてつくるものであるから、米の値段に準じて値動きすべきは当然である。また、竹・木・炭・薪・塩・油・織物などは、それらをつくる職人の“賃銀は飯米”を元にして割り出すものであるから、それらの値段も米価に追随して当然」とある。値下げしない者は3月1日を期して詮議にかけ、違反者は処罰するとある。これほど、幕府の姿勢は厳しいものであった。
しかしながら、大岡越前は、この後、時代の孤児となっていく。商人の不正を摘発することに性急だった大岡は、いつしか商人のカが武士を凌駕したことに気付かず、商人との協調路線を選んだ将軍・吉宗によって、町奉行を解任された。時代は、確実に変化を続けていた。 
廻船問屋との対立
幕府によって拡大・公認された十組問屋だが、享保期には、既に分裂劇が始まっていた。きっかけをつくったのは、先述の十組問屋の役割分担の中の、船の吃水線を調べて焼印を押す三極印元の人々であった。三極印元は、表極印、櫃極印、島極印の三派に分かれていた。このうち島極印は油問屋の河岸組と綿店組から成り、独自の動きをするようになっていった。最初は享保4年、島極印が、表極印、櫃極印の管轄する廻船に荷物を積まないことを決め、対立が起きた。河岸組、綿店組以外の八組は、島極印の廻船に荷を積まない申し合わせをしたが、大坂の船問屋から、十組一体でいてほしいとの申し入れがあり、他の七組ほど強硬ではない酒店組の仲裁もあって、2年後には元の鞘に収まった。
しかしその後も島極印は他派と距離を置き、これまで菱垣廻船に積んでいた荷物を、運賃の安い摂津国西之宮船に積むようになった。これを「洩積(もれづみ)」という。このため収入の減った大坂の菱垣廻船問屋は、享保14年(1729年)、十組問屋に対し、洩積の差し止めを申し入れた。十組と島極印の交渉の結果、運賃の大幅引き下げを条件に、菱垣廻船への復帰を了承した。翌年から、菱垣廻船の中に「仮印」という焼印を押した仮船が就航を始めた。仮船方は、新組と呼ばれた。運賃が安いので、次第に参加する問屋が増えたが、古組は一本化を要求した。元文5年(1740年)、綿店問屋は古組に復帰した。孤立した河岸組(油問屋)は、大坂廻船問屋に対し、新組の荷は古組の廻船には積まないと通告したので、大坂廻船問屋と新組の提携が成立した。かくして新組の勢力が優位となり、古組に加入できなかった問屋仲間が次々に加わって、18世紀後半には、十三組に拡大した。明和4年(1767年)の「十組定法記」にある古組と新組の内訳は以下の通り。
古組綿店組・紙店組・塗物店組・釘店組・表店組・薬種店組・内店組・通町組・茅町組(内店組下組〉・丸合組(通町組下組)新組河岸組・綿店組・鉄店組・紙店組・堀留組・薬種店組・新堀組・住吉講・油仕入方・糠仲間・三番組・焼物店組・乾物店組新組の勢力拡張に伴い、綿店組の一部が再び新組に戻ったことがわかる。以上の動きは、油問屋が確実にカを付けてきたことを示している。
もう一つ、文化年間(1804〜1818年)まで続いた大きな動きがあった。下組の結成である。今で言う、系列店の組み込みである。新組の中軸を成す河岸組(油問屋中心)の下には、乾物店組、瀬戸物店組、糠仲間の三組が付いた。これは、中小問屋の台頭を、十組の系列の下に取り込むことで統制しようと図ったもので、幕府と大手問屋の利害が一致したことで、次々に実現していった。幕府と問屋仲間の良好な関係は、まだしばしは続く。
享保期には、かつて小早と呼ばれていた伝法船が、樽廻船として大きな勢力を持つに至っていた。そして享保15年(1730年)、酒店組が十組問屋を脱退し、酒樽荷物の樽廻船一方積みが宣言された。従来問屋毎に仕立てられていた菱垣廻船と樽廻船の間で積み荷協定ができ、菱垣廻船は酒荷以外を、樽廻船は酒樽を積むことが取り決められたのである。酒店組が十組問屋を脱退した背景には、酒荷と他の荷物との性格の違いがあった。他の菱垣廻船の積み荷は十組問屋の仕入れ荷物だったが、酒荷は造り酒屋の送り荷物であった。すなわち、事故の際の責があるのは酒屋側であり、共同補償組織である十組問屋に酒店が入っているのは元々不自然であった。酒のみを積んで航行することで樽廻船は速度が向上し、品質劣化の心配が減り、海難の確率も減った。
こうなると樽廻船は安全で速いと評判になり、酒以外の輸送の依頼が舞い込み、再び混載で航行するようになった。その結果、菱垣廻船と樽廻船が仕事を奪い合うこととなった。安永元年(1772年)、大坂の樽廻船問屋8軒と西宮の樽廻船問屋6軒が問屋株を公認され、翌安永2年には、菱垣廻船問屋9軒が問屋株を公認された。双方の公認を契機として、改めて積み荷協定が結ばれ、分担が決まったが、その後も樽廻船の方が需要が多く、協定はなし崩しとなった。
そのため菱垣廻船は減少の一途を辿り、文化5年(1808年)には38艘にまで落ち込んだのである。この38艘も老朽化のため海難事故が相次ぎ、天明4年(1784年)から享和3年(1803年)までの19年間の損害は、合計35万8、080両余という巨額に達した。文化5年(1808年)、実力者として知られる杉本茂十郎が十組問屋の頭取に就任すると、菱垣廻船の再興策が採られた。幕府の保護の下、十組問屋以外の問屋も菱垣廻船を利用する政策が推進された。その結果、翌文化5年には、菱垣廻船の数は新船53艘、修理船27艘の計80艘と大きく回復した。さらに杉本は、新たな金融機関である三橋会所(永代橋、新大橋、大川橋[吾妻橋])を設立して、十組問屋そのものの基盤を強化した。しかし文政2年(1819年)、杉本茂十郎が失脚すると、十組問屋の勢力が衰え、樽廻船側は、この機を逃さず菱垣廻船の領分に進出した。そして文政8年(1825年)には、菱垣廻船は、再び27艘にまで減っていたのである。菱垣廻船問屋は、その後も回復に向けてあらゆる手を打ったが、ついに勢いを取り戻すことはなかった。
天保12年(1889年)、幕府は株仲間解散令を公布した。菱垣廻船問屋仲間と樽廻船問屋仲間も解散となり、積み荷協定も正式に撤廃された。これで完全な自由競争の時代となり、競争力のある樽廻船が菱垣廻船を圧倒した。嘉永4年(1851年)には株仲間が再興されたが、もはや流れが変わることはなかった。
幕末に至ると、西洋型帆船と蒸気船が出現して、従来の和船の地位を脅かした。慶応2年(1866年)、民間による西洋型帆船の運航が始まった。翌慶応3年(1867年)には、大坂・江戸間で蒸気船の運航が始まり、荷物と旅客を運んだ。これらは幕府と諸藩の払い下げ船であったが、明治7年(1874年)には、大阪と東京の蝋問屋の協力により、民間初の西洋型帆走船が建造され、就航した。速力で圧倒的に勝る新型船の営業により、廻船はその使命を終えたのであった。 
株仲間の発展
株には、社会制度的な株と、商業上の株の2種類があった。前者には、御家人株、郷土株、名主株などがあった。これらの株も、金銭によって売買されていた。
商人の株には、幕府によって制限された、自由に数を増やせない株と、長年の取り引きによって発生する契約上の優先権のような、自由につくれる株とがあった。十組問屋に属する個々の店の株などは、制限される方に属する。
これらの株を有する同業者同士が団体を結成し、かつそれが幕府の認可を受けた時に、その団体は株仲間と呼ばれた。株仲間の中では、問屋の株仲間が最も多かったが、両替屋や、水車による油絞屋なども、株仲間をつくっていた。株仲間の株には、御免株と願株の二通りがあった。御免株とは、幕府の方から、員数を指定して認可したもので、十組問屋もこれに当たる。対する願株は、当事者からの申請によって認可されたものである。当初は御免株が主流だったが、次第に願株中心へと移行していった。
仲間は、初めは人偏のない「中間」の文字を使うのが普通であった。「中」は「同中」の意で、村中・惣中・講中などの中と同じく、差別のない全体の概念を有し、これに交際関係を意味する間が結びついたものである。
十組問屋の公認・強化に先駆けること3年の享保6年(1721年)11月、幕府は、江戸市中のあらゆる商人・職人に、仲間を積極的に結成することを促す法令を発した。この時点では、幕府の主眼は、まだ商業の保護にあったとみられる。すなわち、まだ江戸時代後半と比べれば商品の流通量が少なく、需要範囲も狭かった。徒らに新規参入の商人が増えれば、過当競争で共倒れになり、その業種がつぶれる。数を制限し、先行者を保護することで発展を期そうという考え方である。しかし大岡越前も解任され、より時代が下ると、幕府は願株による株仲間の認可を乱発していく。その目的は、冥加金による収入増にあった。以前からの仲間に対しても冥加金が制度化された。
冥加金は、各仲間毎に金額が決まっていて、初年金は入会金の意味合いがあるので多額だった。仲間内の集金は、月々集める方法と、上納の時に集める方法とがあった。分担金を払わない者は、株を仲間に取り上げられ、預かり株、明き株(空き株)とされ、分担金は他の仲間に割り増しされた。
冥加金は、営業税というべきものだが、課税単位が、個々の営業人ではなく、株仲間単位だった点に特徴がある。冥加金は、建て前上は、株仲間が公儀による特権の保護を恩義に感じ、自発的に拠出する形を採っていた。だが実態は強制的な課税であり、株仲間は頻繁に値下げを願い出るのが常であった。 
天保の改革の株仲間政策
老中・田沼意次(在位1767〜1786年)の時代になると、株仲間政策は、政治の中心課題となっていた。大坂を中心に増え続ける株仲間を田沼は次々に公認し、政権末期の大坂では、約130の問屋株仲間が公認されていた。これには、二つの側面がある。
一つは、冥加金の大増収による幕府財政の安定である。しかもそれは、貨幣による増収であった。直接税である年貢は米だが、間接税である冥加金は貨幣である。この時期には、幕府といえども、貨幣なくしては公共事業も動かせない貨幣経済社会となっていた。商人からの間接税の徴収強化は必然的な流れであった。
もう一つは、地方商人の統制である。公認された株仲間の数が多いのに比して、個々の冥加金は安い。必ずしも税収目当てだけの政策とは言いきれない。特徴的なのは、かつて度重なる御触書によって否定されたはずの摂津・河内・和泉の搾油業の株仲間が、堂々と公認されている点である。幕府の完全な路線転換は天保期のことだが、田沼は既に、地方を株仲間の管理下に置くことで、江戸や大坂同様、幕府の統制の及ぶ存在とし、全国的に商工業を奨励する路線を採っていた。幕府は株仲間を通して上意を個々の商家に伝え、個々の意思もまた、仲間の決定となることによって幕府に伝わった。両者の関係は、全体的にはうまくいっていたようである。また株仲間は新規加入の扱いを厳しく吟味すると同時に、既存の構成員でも、道楽者や怠け者の跡取りを厳しく審査し、排除した。これは個々の私事への介入とは見なされず、仲間全体の存亡にかかわる重大事と認識されていた。
冥加金経済が発展する中で、両替商がカをつけていった。特に江戸と大坂の間で交わされる為替の業務を幕府から請け負った御為替請負人と呼ばれる両替商は、冥加金の送金に当たり、儲けを得た。中でも三井三家と、文化13年(1816年)の御為替請負人改組以降重きを成した小野善助・島田八郎右衛門は、幕府政権下での実績が物を言い、明治新政府にも重用されて発展を続けた。
時代が下り、天保期を迎えた頃には、幕藩体制が構造的な行き詰まりを迎えていた。貨幣経済が行き渡る過程で農民に貧富の差が生じ、農村では過疎化が進行し、下層農民が都市に流れ込んでいた。都市の新下層民の多くはまともな職に就けず、無宿人と化して、社会不安を増大させていた。そんな時代背景の中で、天保の大飢饉が発生する。この飢饉は天保元年から同8年(1830〜1837年)まで続き、東北地方では人を殺して食い合うほどの惨状を呈した。天明の大飢饉(1782〜1787年)の時も同じような惨状だったが、当時よりも物資の流通が進み、全国経済が成り立っていたために、東北・関東地方の飢饉が全国に飢餓をもたらした。都市でも農村でも米価と諸物価が高騰し、下層階級の生活を困窮させた。その結果、天保7年(1836年)には各地で大規模一揆が発生し、翌8年には、大坂で大塩平八郎の乱が発生した。そのような状況の中、老中・水野忠邦は、大胆な政治改革に踏み切った。いわゆる天保の改革である。
水野の目的は、幕府の絶対権力を強化し、農村と商業を直接的に統制することにあった。そのために都市の商人に御用金の調達を命令し、粗悪な天保通宝を発行した。人返しの法で都市に流入した農民を村に強制送還もした。
そして政策の目玉は、株仲間の解散である。大塩平八郎の乱の動機が物価の高騰だったことを、幕府は深刻に受け止めていた。水野を動かしたのは、御三家の一人、水戸の徳川斉昭であった。斉昭は水野に書状を送り、十組問屋を名指しで非難して、物価高騰の元凶である問屋仲間を解散させよと迫った。水野はこの意見を容れ、改革の初年度、天保12年に、最優先課題として株仲間停止令を施行したのである。
この時期、江戸と大坂の油問屋は、幕府の方針転挽に右往左往する事になる。水野の老中就任に先立つこと2年前の天保3年(1832年)、幕府は明和の仕法を全面撤回して、大坂の特権停止・江戸一極集中政策を採った。すなわち大坂とその周辺以外の搾油業を公認し、摂津・河内・和泉・播磨の油の江戸への直送を奨励した。同時に、江戸周辺の地廻りの油の増産を進めた。
そして天保12年12月13日、江戸町中の問屋、仲買、小売など全ての株札が全廃され、「問屋」の名称を用いることが禁止された。「商売は何人も勝手次第たるべし」とされ、素人の新規参入、完全自由化が実施されたのである。
当時の問屋仲間は、業界の利益擁護団体として、談合によって販売価格を決定し、新規参入を妨げる一面もあった。だが物価の高騰は必ずしも問屋仲間のせいではなく、貨幣の改悪や、料金滞納による大坂の商品出し惜しみなどが当時の官僚によって指摘されていた。そして、あまりにも極端な同業者組合否定政策は、市場に大混乱をもたらした。
まず株を担保とする金融が停止したので、問屋の代金回収は事実上不可能になり、不良債権が莫大な金額となって、問屋の商売がまったく成り立たなくなった。かくして市場は機能しなくなり、未曾有の大不況が訪れたのである。また長年の信用と経験を必要とする商売では、素人の新規参入が成功せず、水野が意図した自由競争による物価引き下げは虚しく瓦解した。この時初めて、為政者と世間は、問屋・流通機構の繁栄なくして健全な経済社会は成り立ちえないことに気付いたのである。水野の性急な改革は、あらゆる階級の猛反発を招き、大奥にも睨まれて、天保14年(1843年)、水野は老中を辞任し、天保の改革はわずか3年間で幕を閉じたのであった。天保の改革は、貨幣経済・全国経済が発達し、石高制の土台が揺らいでいく中で、武士の側からの商人に対する最後の抵抗だったと言われている。
水野に代わって老中首座に就いたのが、阿部正弘である。弘化2年(1845年)、水野が減封の上蟄居となり、その影響力が完全に排除された。これを好機と見た南北両町奉行・遠山左衛門尉景元は、実権を手にした阿部に、株仲間の復興を建議した。だが役目上、庶民の経済的疲弊を熟知していた“遠山の金さん”と、幕府の財政優先の上層部では意識のずれがあり、この時は却下された。しかし翌弘化3年、前南町奉行・筒井紀伊守正憲が、「御府内窮民救助」対策として、諸問屋の再興を求める建白書を提出した。現職と前職の町奉行からの相次ぐ要求に、幕閣も事の重大さを認識し、阿部は遠山に、諸問屋再興の可否を調査し、その対策を講ずるように命じた。
遠山は慎重に時間をかけて調査に当たり、嘉永元年(1848年)4月、上申書を提出した。その表書には、『諸問屋株式再興之儀に付見込之趣申上候書付』とあり、遠山の並々ならぬ意気込みを伺わせる。中には、世の中を明るくするためには問屋の再興を図ることが大切だと記されていた。上申書には、筒井の意見書と町年寄・館市右衛門の意見書も付されていた。館の算定した株の評価では、水油問屋21人は、塩仲買問屋、下り酒問屋、紙問屋などとともに最高水準の五百両位とされており、水油問屋の勢力がわかる。遠山は、同年9月にも同様の意見書を提出、株仲間禁止の結果、資金融通が停滞する一方、物価は下がらなかったとの見解を示した。
これを受けて幕府はさらに吟味の結果、嘉永4年(1851年)、問屋再興令を施行した。株仲間停止からちょうど10年が経過していた。しかしこれは、あくまでも問屋再興令であって、けっして株仲間再興令ではなかった。
その内容は、政策の失敗を認めた上で、問屋仲間の再結成を命じている。ただし、株札は交付せず、冥加金上納の必要もない。さらに、仲間への新規加入の希望者は必ず受け入れ、理由なく拒んではならないとしている。停止令以前にあった問屋は本組(古組)、その後開業したものは仮組として組織された。これは、株仲間が本来持っていた独占機能を無力化するもので、幕府は新興の商人に恩を売ることで、旧勢力を統制しようと図っていた。
その後、安政4年(1857年)には、冥加金上納の復活と、本組・仮組を合併して株札を与える改正令が施行されたが、新規加入を自由とする政策は変更されなかった。
それでも、顔ぶれはかなり入れ代わったが、水油問屋を初めとする諸問屋の仲間が復活した意味は大きい。明治以降に活躍する問屋の多くは、この時期に源流を持つ。問屋仲間の再興に長い間尽力した遠山景元は、問屋の恩人と言われている。
だが、遠山や筒井が強く願っていた経済の復興は、問屋の復活によって叶うことはなかった。幕府も商人も予想しなかった未曾有の事態が、日本を根本から変えようとしていた。 
開港と問屋仲間の終焉
嘉永6年(1853年)、米国東インド艦隊司令長官ペリーが、米国大統領の国書を携えて、浦賀に来航した。これを境に、日本は未曾有の大動乱に突入していく。翌嘉永7年にはペリーが再来日して日米和親条約を締結。安政5年(1858年)には、就任後間もない大老・井伊直弼が米・蘭・露・英・仏の五ヶ国と修好通商条約を締結、国内の反対を押し切って、翌安政6年、横浜・長崎・箱館(函館)を開港した。ここに、226年間に渡って続いた鎖国が幕を下ろしたのである。徳川幕府の威信は地に落ち、8年後の慶応3年、大政奉還に至った。
開港の少し前から、問屋仲間には崩壊の兆しが見えていた。遠山景元の情熱でようやく形になった復興令が、問屋の復活に止まり、株仲間の復活には遠い内容だったため、昔日の繁栄を取り戻すのは元々無理であった。木綿問屋仲間の場合、古組を構成していたのは、近江屋以外は、白木屋、越後屋、柏屋、大丸屋といった、江戸有数の大手ばかりであった。そして古組にも新組にも属さない問屋が勢力を持ち、産地直売の「地元買い荒らし」を行って、旧勢力の脅威となっていた。
幕府の方針もどっちつかずで、古組に相当する売り上げのある問屋は古組への加入を認めることにしたので、水油問屋の松居久左衛門と呉服・木綿問屋の佐野屋長四郎の二大新興問屋が古組に編入された。このことは古組衆に相談なく決められたので、古組仲間は、幕府に激しく抗議した。松居は、文久3年(1863年)、禁制の浦賀への荷揚げを行い・古組の叱責を受けたが、翌元治元年にも大坂へ上って地元買い荒らしをしたため、仲間から町年寄に除名願いが出ている。一方、大手でも西川が産地に買い次ぎのための出店を設け、特定の買い次ぎ問屋と独占契約を結ぶなど、仲間とは独立した動きをしていた。このように、開港前には、問屋仲間は内部から崩れようとしていた。
そして安政6年の横浜開港に際し、幕府は、江戸の商人に、横浜への出店を促した。しかし全く未知数の西洋人との貿易に多くの商人は尻込みし、近江系を中心にわずかな出店に届まった。横浜で活躍したのは、開港以前から店を出して地廻り産品の国内取り引きをしていた新興の地方商人達であった。彼らは、外国人との貿易により、江戸と大坂に取って代わる、新しい商業の中心地を、短期間でつくり上げていった。輸出される商品は、江戸の問屋を経ることなく、産地から直接横浜に送られた。
油については、ごく一時的に生糸に次ぐ重要輸出品となった。開港の翌年、万廷元年には、上海向け中心に10万樽が輸出された0江戸の総需要量が14万樽なので、一時はもはや国内の庶民は油は手に入らないと言われたが、すぐに輸出は激減し、文久3年には輸出はほとんどなくなった。それでも開港による油の高騰は抑えられず、大坂では、安政6年に一石当たり450匁以下だった菜種油の値段が、慶応3年(1867年)には2、551匁となった。
幕府は、諸物価の高騰を抑制し、江戸の商品市場を保護するために、万延元年(1860年)、「五品江戸廻し令」を発布した。これは、生活必需品の中で最も重要な五品目である雑穀・水油・蝋・呉服・糸について、必ず江戸の問屋に回すことを求め、産地から横浜に直送することを禁じたものである。江戸でこれらを扱うものは、米問屋・水油問屋・水油仲買・蝋問屋・呉服問屋・糸問屋と定められた。問屋では、江戸で消費する分を確保してから、横浜に送ることとした。
だが時代の流れを強引に戻すこの法令は、横浜商人ばかりか、身内の神奈川奉行・外国奉行からも反対された。そして江戸の問屋仲間は産地との関係が疎遠で、保護されても、うまく商談ができなかった。そのため元治元年(1864年)には、早くも実質的な廃止に追い込まれた。
その後慶応4年(1868年)、幕府は、改めて江戸の問屋仲間から身元金を徴収し、一人ずつに鑑札を与えた。しかしこれは事態に何の変化も与えず、幕府が財政難のために徴収した御用金に過ぎないと言われた。株仲間の勢力が衰え、幕府は一人一人からの御用金に頼らざるを得なくなっていた。横浜の貿易が栄えるほどに江戸の問屋仲間は衰微し、もはや建て直しは不可能になっていた。遠山の金さんの意見を全て容れず、問屋の復興はしても問屋仲間の復興が不完全だったことが、ここへ来て響いた。江戸の経済を支えていた問屋仲間を、天保の改革以来、軽視してきたことが、江戸の経済を壊し、幕府自身の首を締めることになった。諸物価の高騰は、開港こそ諸悪の根源であり、それを行った幕府は倒すべきということで、攘夷派に恰好の口実を与えた。かくしてわずか数年で幕府は瓦解し、幕府とともに歩んで来た問屋仲間は、自然消滅し、約二世紀にわたる使命を終えたのである。 
明治維新の経済的動因
明治維新は、一般的には、黒船の来航、すなわち外圧によって引き起こされたものとされる。また政権交代と近代化の担い手は、薩長を中心とする下級武士であったとされる。だが、それらは冷静に観察すれば、“急激な変革”の要因であり、遅かれ早かれ、変化を促す機運と矛盾は、日本国内に満ち満ちていたのである。それは、ここまで見てきた通り、商人の台頭であった。江戸と大坂、二つの大都市の間を大量の物資が行き交い、大量の消費が行われることで、江戸期に勃興した商人達は、着実に富を蓄積していった。商人が経済の実権を手にしたことで、幕府や諸藩といえども、武士の都合だけによる政策は打てず、随所で商人との話し合いを余儀なくされた。特に豪商と呼ばれる人々は、経済全体を左右しかねないほどの影響力を持っていた。そして当初は持ちつ持たれつだった幕府と商人の関係が、天保の頃からずれを生じ始めたのは、既に見てきた通りである。商人は、種々の規制に守られてきた面もあるが、規模の拡大とともに、規制緩和を求め、身分秩序の無い社会を求めるのは、自然な流れであったといえる。特に一部の先鋭な人々が、常に念頭に置いていたのが開国であった。 
油の話 

 

油関係の古文書
江戸時代には、農業や手工業の飛躍的な発達に伴い、これら産業の歴史や技術を記した書物が、数多く発行された。油に関する書物で後世に伝わったものは数えるほどしかないが、内容の水準は高く、当時の油事情を知る上で、貴重な資料となっている。中でも最も基本的な資料として多くの研究書に引用されているのが、『搾油濫觴』、『清油明鑑』、『製油録』の3点である。おおまかにいうと、『搾油濫觴』は製油の起源と歴史を説き、『清油明鑑』は大坂の油問屋の記録を中心に記し、『製油録』は、搾油の工程など製油法の実態を、図表などを利用しつつ、具体的かつ詳細に解説している。
『搾油濫觴』は、文化7年(1810年)、衢(ちまた)垂兵衛によって書かれた。濫觴とは、物事の始まりを意味する言葉である。践文によれば、著者は、この書を著すに当たり、大山崎離宮八幡宮と住吉大社の秘蔵の古記録や国書など信頼できる資料だけを使い、根拠のない俗書の類は用いず、疑わしいことは国史の専門家や博物学者に開いて正した。また著者は、執筆の目的は、昔の事を好む人のために書いたのではなく、搾油業には起源と歴史という「本」があって、「永世不易ノ基」となっていることを知ってもらうためだとしている。
この記念誌の中で、古代の油についての記述、及び大山崎と遠里小野に関する章は、多くを『搾油濫觴』に負っている。
『清油明鑑』は、正徳5年(1716年)、大坂の油問屋、浅井快住によって書かれた。題の明鑑は、製油業者の明るく立派な手本となることを意図したものと考えられる。自序によると、「油は灯火のために必要なもので、身分の上下を問わず公平に用いてきたものである。製油業の家では、<滓濁>(にごり)を恐れ、<清明>(清らかに澄んで明らかなこと)を求めてきた」。また著者によれば、これは賢人に見せるためではなく、油問屋を家業とする人のために書いたものである。70歳に至るまでに、油問屋の昔のことを知っている人に会うたびにその由来を尋ね、過去100年余りのことを集めて書き記した。
この記念誌の中で、大坂の油問屋の起源に関する部分、正本ため桶の作成、綿実油の改良と、それに関する争いの記述などは、『清油明鑑』に基づいている。次に記すのは、それらの章では触れられなかった記録である。
天保3年(1683年)5月、大坂の油問屋・河内屋善衛門が、認められていない水油と白油を混ぜた油を売っていたことがわかり、詫び状を書かせた。この年9月、江戸から、油の容量が同じでないものがあるので、確かに吟味するよう要請があった。これを受け、問屋衆では油屋八郎兵衛が奔走し、正しく詰める約束を取り付けた。八郎兵衛の名は、もめごとの度に問屋を代表して派遣される人物として、しばしば登場する。
元禄9年(1696年)、油問屋は重要な職業なので、新規に問屋に参入する衆には「入口銀」を出させるのが良いという意見があり、議論になった。参入希望者に開いたところ、指図に従うとのことだったので、一人から金20両ずつを「酒手」として徴収した。
正徳4年(1714年)、江戸より、容量のばらつきが多いので、樽毎に油屋の家名の焼き印を押すように申し入れがあった。問屋衆が油屋衆に伝えたところ、油屋衆は了承しなかった。このため翌正徳5年、問屋側は初立ち会いを中止、3月まで売買が滞る異常事態となった。油絞りの職人は仕事が激減したため困窮し、訴訟を起こした。公儀は親方不届きとし、両者は和解、10軒の油屋が、焼き印を押すことに同意した。
『製油録(せいゆうろく)』は、天保7年(1836年)に刊行された。著者の大蔵永常は、全国を訪ねて研究した農政家・農学者で、著書は30冊を超える。『農家益』、『農具便利論』など農業全般に係わるものの他、菜種の栽培法を記した『油菜録』などもある。その中でも『製油録』は特に評価が高く、英訳もされている。本書では、関東・灘・大坂の菜種搾油の実態、すなわち必要な人員と賃金・経費、菜種を乾燥させるところから油を搾り上げるまでの工程、それに必要な技術・施設・道具等が、挿絵を利用しながら解説されている。搾油の採算見積もりも数字で示されている。きわめて実用的で、搾油業者、あるいはそれを志す人を読者に想定している。以下に内容の抜粋を記す。
菜種は、西国の種子の搾油量が多いといわれるが、関東でも肥えた土地に肥料を多く施してつくった菜種の搾油率は、西国と変わらない。奥州の最も悪いところで1割7分、関東と九州の最も良いところで2割5分ほどである。
胡麻の搾油率は1割7、8分から2割5、6分、荏胡麻が1割5分から1割9分である。
搾油の採算の見当は、すべて油粕の代金を諸経費に当てる。これはどこの国でも変わることがない。ただし、菜種の良し悪しによる値段の高低によって、また搾油率の良し悪しによって、一石当たりの有利不利は出てくる。
大坂の搾り油屋は、寄り合いには良い着物を着て、下僕を連れて行くが、家に帰ると古い刺子の筒袖を着て縄帯を締め、下働きの雇い人に混じって働く。雇い人に任せておいても粗相はないが、油屋というものは、その主人が槌で打つことまでしなければ、採算は取れない。
菜種は炒り方が非常に難しい。関東や西国では、炒りすぎて狐色にしてしまうが、大坂や灘では、それより大いに「若く」炒っている。この理由は、種の中には小さな未熟な粒がある。これを炒りすぎると、焦げすぎて、油気が抜けてしまい、粒は炭となって品質を損なう。
蒸した粉を立木で搾る時には、関東では打つ間に二度も休むが、大坂では一気に打ち切ってしまう。
油を搾る道具は、多く大坂で製作され、諸国に売られている。地方によっては、ただ臼、立木、炒り鍋、桶類、蒸し窯、袋だけはその地方で作って用いることもある。だが立木の場合、欅で作ると材質が柔らかいので早く壊れてしまう。大坂には、樫屋といって、樫ばかり扱う職人がいる。紀州熊野や日向あたりから樫を取り寄せて、数年乾燥させてから用いるので、材質が良い。油を搾る諸国へ道具を運送する時は、だいたい船が使われる。 
江戸のあかり
“擣押木(しめぎ・搾木)”の発明によって、菜種油が荏胡麻油に取って代わり、灯明油の中心を占めるようになるとともに、庶民も灯火の恩恵に浴するようになった。仏事、神事、あるいは宮廷以外の人々の生活にも明るい夜の世界が開けてきたのであり、江戸の豊かな文化を支える重要な基盤ともなったのである。
菜種油の価格はそう安価ではなく、文化年間の価格で見ると、米が1升100文だったのに対して菜種油は400文と高かった。ろうそくは、まだ贅沢品であった。そのため庶民の間では魚油を灯火用に使ったと伝えられており、江戸では外房で採れるイワシの油が使われていた。
江戸を代表する室内の灯火具といえば“行灯(あんどん)”である。中世の灯台は台の上に灯火皿が置かれているだけで、火は裸のままであるのに対して、行灯は火の回りを紙を張った枠で囲み、灯火が消えないように工夫するとともに、照明も間接的で目に優しくなった。反面、照度は極めて弱く、60ワットの電球1個の50分の1程度といわれている。
行灯そのものは江戸以前から存在していたが、江戸時代に急速に普及・発達することとなったもので、さまざまな種類の行灯が登場し、それ以前の手提行灯のほかに、置行灯、掛行灯、釣行灯、辻行灯などが生まれた。形状を見ても、角形には4角、6角、8角といったものがあり、丸形には円筒形、球形、みかん形、なつめ形、円周形(円筒の半分が回転する)といったものがある。さらに角形には4脚のほか、1脚、2脚、3脚のものなどがあった。さらに外蓋を引いて台にする有明行灯(寝室で終夜とぼしつづける特殊の行灯)や、八開行灯、レンズ付の書見行灯など、枚挙にいとまがない。遠州行灯は、円筒形の火袋が回転し明るさの調節ができるしくみになっている。
行灯の中には主として菜種油を入れた油皿が置かれ、菜種油の中には灯芯が浸されており、この灯芯に火をつけて明かりとした。油皿の下には受け皿が置かれ、底に油が回ることを防いだ。灯芯には、古い麻布を細かく裂いて用いた。後には、綿布、綿糸、細蘭なども用いた。
また、灯芯を皿の中央に立てるように工夫した道具が“ひょう燭”と呼ばれたもので、油皿よりも火持ちが良いことなどのため、掛行灯などで使用されたという。1979年に開館した蒲郡市博物館には、岸間芳松氏が寄贈した、「岸間ひょう燭コレクション」が展示されている。ちなみに同館所蔵のひょう燭のうち178点が重要民族文化財として国の指定を受けている。
蝋燭(ろうそく)は仏教伝来とともに輸入され、奈良時代にはすでに用いられており、蜜蝋から作った蜜蝋燭が中心だったようだ。蜜蝋燭は隋や唐からの輸入で賄われていたが、平安後期に唐との交易が途絶えたため輸入も姿を消すこととなった。その代わりとして作られたのが松脂蝋燭である。松脂を捏ねて棒状にして竹皮や笹の菓などで包む。松脂蝋燭は1本で30分から1時間程度使うことができたという。江戸時代には、櫨蝋(はぜろう)から作る木蝋燭が各地で作られるようになり、蝋燭の利用が全国へと普及することとなる。「製油録」の著者で有名な大蔵永常の「農家益」には櫨の木の栽培から製蝋法までが詳しく述べられている。山城、越後、陸奥などが蝋燭の産地として知られ、大都市には蝋燭問屋も現れた。
明治時代に入ってからはパラフィンを原料にした西洋蝋燭が主流になるが、この西洋蝋燭を大きく扱ったのが江戸時代の油問屋の代表的存在であった大孫商店であった。ライジングサン石油(シェル石油の前身)で製造、輸入した物を大孫が販売を行った。これに対して、カク石・藤田金之助商店は、スタンダード石油からパラフィン蝋を買い、蝋燭の生産を行った。蝋を管に溶かして冷やし、芯の穴は針金を通して木綿糸を差し込むというやり方で、また管からいちいち木槌で叩いて打ち出すという原始的ややり方だった。そのうち、化学的に抜く方法や大量生産の方法にめどをつけ、カク石の“藤印電光ローソク”(電気の光よりも明るいという意味)は好調な売行きを示したという。
灯火以外には塗料用、化粧用などにも油が使われていた。塗料用の代表的な油が、桐油である。桐油は、熱を加えると、膠状の物質に変化する性質がある。そのため灯火用には向かない反面、雨傘、合羽、提灯などの塗料として、大変重宝された。原料のアブラギリは、江戸時代以前に中国より渡来し、若狭、丹波、越前、伊勢、駿河、安房などで栽培された。
椿は、『日本書紀』『万葉集』にもその名がみられ、『続日本紀』には、宝亀8年(777年)、勃海の使者に、日本特産の椿油一缶を与えたとの記述がある。江戸時代に入ると、髪の油や化粧水として広く使われるようになった。享和3年(1803年)に刊行された『本草網目啓蒙』には、「此油は男女に限らず髪のねばりて櫛の歯に通らざるに少しそそげばよくさばけて櫛けずり易く、又土にそそげばよく虫を殺す」との記述がある。また天ぷら油としても、一部の高級店で使われていた。 
天ぷらの話
中世までの日本では、支配者層を除けば、庶民は日々食べることに精一杯で、何でも食べる物さえあれば良いという暮らしぶりであった。ようやく江戸時代になって、平和が続き、都市部では町人も含めて食生活が向上し、食べる行為の中に、楽しむ要素が加わるようになった。
江戸の街には、様々な屋台が集まって、食べ物を商った。そば屋やすし屋、うなぎ屋など、今日まで外食店として続く伝統の商いは、いずれも江戸時代の屋台に源を発する。一つの大きなきっかけとなったのが、明暦の大火(1657年)である。江戸の3分の2が焼けたため、大勢の職人が集まって、復興に当たった。彼らは今日でいう単身赴任の男性なので、食事に困り、屋台に人気が集まった。満腹しては仕事にならないので、軽食、おやつ的な献立が好まれた。後には、男女に関係なく、生活を豊かにするおやつとして、食べ物の屋台は、江戸の街に定着していく。
屋台の中でもそば、すしと並んで人気が高く、江戸の三味と呼ばれたのが、天ぷらである。天ぷらは、日本古来の料理ではない。戦国時代に南蛮人が渡来するようになり、彼らによってもたらされた南蛮料理に端を発する。一般に、徳川家康は鯛の天ぷらが原因で死んだとされているが、その真偽はさておき、この時家康が食したのは、鯛を胡麻油で揚げ、蒜のようなものを摺って食べる南蛮起源の料理であった。天ぷらの語源には諸説あるが、ポルトガル語で調理を意味する「テンペロ」から転じたとする説が、現在有力視されている。
江戸の屋台の天ぷらに用いられた油だが、当時の絵図の看板には、「胡麻揚げ」「かやの油」と強調した看板が見られる。普通の天ぷらは菜種油だった。しめ木や水車搾りといった搾油技術が開発され、油売りの時代が始まり、菜種の作付け面積が増えたことが、油料理の普及を促したと見て良いだろう。菜種油量産の技術が確立されるまでは、油は高価なもので、灯明用として大切に使うものであった。
天ぷらが屋台料理として定着した直接の理由は、町人が住む長屋が密集し火事の多い江戸では、油を高温に熟する天ぷらの屋内営業が禁止されたためである。それが結果的に、気軽に立ち寄れる屋台の天ぷらという、江戸独特の風物を花開かせることとなった。天ぷらは、そばやすしと比べて味覚が濃厚で、腹持ちも良い。当時としては、最もカロリーの高い食品であった。天ぷら以外の揚げ物は、豆腐の油揚げや、ひりょうず(飛竜頭、今でいうがんもどき)がある程度だった。しかも天ぷらは大体一串四文ほどだったので、求めやすく、人気があった。
屋台の天ぷらは、天つゆと大根おろしで食べた。手が汚れないように、串に刺して出した。種には、江戸前のあなご、芝海老、こはだ、貝柱するめなどが使われた。技術の向上で江戸湾からの魚介類の漁獲が増えたことも、天ぷら文化の普及に貢献した。
庶民の食べ物として根づいた天ぷらだったが、時代が下るとともに、高級化が進み、安政期(1854〜1859年)の頃には、店構えの天ぷら屋が現れ、料亭でも出されるようになった。さらに、客の家まで出張して、目の前で揚げる天ぷら屋もいた。屋内での天ぷらを禁じる法令は続いていたが、儲けが優先で、この頃は幕府の威光も落ちていたので、無視された。これらの高級天ぷらでは、種の魚や油に高級なものを使って、差別化を図った。また、店の看板に「金麩羅」「銀麩羅」「珍麩羅」などと書いて、少しでも客の目を引こうとした。
江戸時代も後半になると、関東では幕府主導で菜種の増産が行われ、江戸では、上方からの油に加えて、地廻りの油が流通し、庶民の手に届きやすくなった。油の食文化の下地が出来たことで、明治以降の西洋料理の揚げ物、炒め物を受け入れる土台も出来ていったのである。 
江戸の豪商井筒屋
江戸は田所町に繁栄をもたらした豪商・井筒屋小野組は、近江の大溝の出身であった。1600年代後半に盛岡に進出し、その後時期は不明だが、江戸に出店した。同族間の共同企業という経営形態を築き、京都に本家の小野善助家(善印井筒屋)を筆頭に助次郎家、又次郎家、鍵屋権右衛門家があり、盛岡にも5つの分家があった。京の井筒屋本店は本家の小野善助家、助次郎家、又次郎家の三家から成り、江戸の出店は、これらの組合店であった。この他、京と大坂にも組合店があった。元禄期(1688〜1703年)には、糸割符商人と同時に金銀為替御用に任じられ、井筒屋は本両替商を営んでいた。江戸時代においては、油問屋などでも規模の大きな店では、両替商を兼業するのが一般的であった。嘉永期(1848〜1853年)に作成された『諸問屋名前帳』においては、井筒屋善次郎の名前が、下り水油問屋、小間物問屋、本両替屋、繰綿問屋の四箇所に登場している。田所町の目抜き通りを含む町の約三分の一近くの土地を所有していたという。井筒屋の髪油は、「井善の油」と呼ばれて名高かった。井筒屋は、大坂城や二条城から江戸へ送る年貢の代銀を預かり、同額面の為替を江戸店に送り、代銀を幕府に預ける間、無利息で運用して利潤を得ていた(『日本橋街並み商業史』白石孝)。しかし為政者への密着度が高く、放漫経営に陥っていた井筒屋は、明治中期以降は生き残れなかった。 
問屋と口銭、丁稚制度
問屋は、口銭によって儲ける。この口銭という言い方は、この時代、既に一般に使われていた。
口銭の語源については、説が分かれている。一つは、間銭から門構えが脱落して口銭となったというもの。もう一つは、取り引きに当たって“口入れ”し、弁舌を駆使したから口銭というものである。当初は「くちせん」「くちぜに」と読まれることもあったが、次第に「こうせん」に統一された。当時、利息のことを“子銭(こせん)”と呼んでいた。口銭と非常に紛らわしいので、当時の文献には、「利息をコセンと云ふは口銭の字には非ず、子銭なり即ち利息の息の字なり」の記述がある。これをあながち誤用と言い切れないところに、時代の空気が漂っている。
口銭の中には、運送料・保管料・宿賃・利子などが含まれていた。中世の間丸などと異なり、問屋は単なる物流の拠点などではない。問屋は、自ら利益を生み出す存在である。
この時代、社会の最上層にいる武士達が、儲ける感覚を持った下の身分を見下している間に、商人達は、合理的精神を培い、儲けることを恥と思わず、あらゆる工夫を駆使して利潤を上げる技量を磨いていった。この時代、商人の儲ける知恵を表す言葉に、“才覚”“思い入れ”がある。
問屋で言えば、先売り先買い、延べ売り延べ買いといった投機的商行為によつて、利子を稼ぐ。基本的には、現代の商業を支える営利技巧は、この時代には出揃っていたと言える。
しかし一方では、仲間の中では、定式口銭、定方口銭が定められ、いわば公正価格の観念が確立していた。他者を圧迫してまで儲けようとするのは、恥とされた。そうした中から、“分をわきまえる”“程を知る”といった庶民の道徳が確立されていった。
豪商と呼ばれる家系ではいずれも、人間としての礼節を忘れてあこぎな稼ぎに走ることを戒め、家訓や商別を定めて、日々声に出して読ませ、家人や使用人に徹底させた。その背景には、幕府によって深く浸透した儒教の教えがあり、石田梅岩が創始した平易な庶民道徳、石門心学の影響も大きかった。使用人は、自分もいつかは独立して商家の主となることを夢見て、日々の勤めに励んだ。晴れて独立した奉公人は、別家と呼ばれ、主家の親族である分家とともに同族団を形成した。別家の発言権は強く、主人に不行跡がある時は意見することが認められていた。それでも改まらない場合は、分家、別家、手代が集まって相談し、主人を隠居させることが定められていた商家さえあり、実例も少なくなかった。江戸時代の商家は、丁稚制度によって支えられていた。手代から支配人を経て別家になれる者は、ほとんどが子供の頃から丁稚として住み込みで奉公していた者であり、元服以後に雇われた者は、ほとんどの場合、出世することはできなかった。丁稚として奉公に入るのは、12〜14歳の少年で、無給で休暇は盆と正月のみだった。丁稚は17〜18歳で元服して手代になる。手代になると、自分の見込みで商売をすることが許され、給金も定まる。丁椎と手代の期間は大体15〜20年で、この年季奉公を終えた者が、ようやく番頭になれるのである。 
木綿問屋
わが国における綿作の始まりは、廷暦18年(799年)に、三河の国に漂着した天竺の青年が、綿の種をもたらした記録がある。この時は、九州を中心に綿作が始まったが、日本の気候に合わず、90年ほどで絶えてしまった。本格的な綿の栽培が始まるまで、その後800年の歳月を待たなければならない。再度の渡来は明応・永正年間(1492〜1520年)だったが、全国で生産されるようになったのは、ようやく16世紀後半、江戸時代を目前に控えた時期である。
江戸時代も元禄を過ぎたあたりに、最初に大産地となったのは畿内、次いで伊勢・三河だった。畿内の綿作は、秀吉の時代に大和の国で始まり、その後和泉、河内、摂津、山城へと広がっていった。これと連動して、副産物である綿実の油が、産地の近辺で生産されるようになった。
寛永年間(1624〜1643年)、京橋十一丁目に、青物市場や魚市場と並んで、綿を取り引きする市場が開設され、近在の綿商人が集まって、売買を行った。やがて彼らは綿問屋として定着していく。正保年間(1644〜1648年)になると、繁栄に連れて京橋の地は手狭になり、綿問屋17軒は、相生西ノ町に移転した。その際、三カ所に分散したので、三所綿問屋と呼ばれた。
綿作に向いていない東北では、綿実を取り去った後の繰り綿を上方から取り寄せて、木綿を生産した。これらの商いは、関東商人達が、大和や摂津の繰綿商人に書状で注文し、仕入れ金を送っていた。万治年間(1658〜1660年)には、大坂に、江戸及び北陸に綿を販売する江戸綿買次積問屋仲間が誕生した。木綿問屋の場合も、油問屋の項に登場した名町奉行、石丸石見守走次が積極的な仲間作り政策を展開し、江戸綿買次積間屋12軒を認可した。
江戸は霊巌島に、東京油問屋市場の前身が誕生したのも、万治年間のことだつた。この17世紀半ばという時代は、大坂から江戸へ、商業の大きな流れが形成された時期だった。
江戸で上方から着いた繰り綿を受け取り、東北に回送するのは諸色問屋の役目であった。貞享4年(1687年)に刊行された、当時の江戸案内記である『江戸鹿子』には、米・油・綿を扱う諸色問屋14軒が挙げられている。主だった商人としては、鎌倉屋市左衛門、結城屋太郎兵衛、久保寺喜三郎といった人々がいた。鎌倉屋は、下館の中村兵左衛門家、真壁の中村作右衛門家といった有力な木綿生産者の、総代理店として、大坂から繰綿を仕入れていた。だが、諸色問屋は、商業が細分化していく過程の中間形態であった。18世紀に入ると、彼らは専門問屋に地位を奪われていく。鎌倉屋も、享保期には、廻船問屋に商売替えした。
江戸では、大伝馬町一丁目が最も古い木綿問屋の町として知られている。江戸の城下町が出来た頃から、三河の商人、久須木七左衛門・赤塚善右衛門・久保寺喜三郎・富屋四郎左衛門らが今の和田倉門外の宝田村で伊勢・尾張・三河の特産物を売っていたが、江戸城の拡張で移転させられ、代わりに与えられたのが、大伝馬町であった。その後、伊勢・尾張・三河の商人がこの四人を頼ってこの地に集まったが、中でも伊勢商人は早くから進出し、地盤を固めた。それは、伊勢・三河が古くから綿織物の産地として知られ、特に松坂木綿が最上の銘柄とされていたことによる。
生活水準が向上した大消費地、江戸では、それだけ木綿の需要があり、これが三河地方一帯では、綿花の栽培の拡大を促した。西から始まった綿花づくりは、やがて武蔵、上野、下野、常陸、甲斐の国々へと拡がっていった。前節で見てきた綿実搾油の発展がもたらされたのである。
日本の木綿産業は、開港後もすぐにはすたれず、関東圏では、油の山工場への供給も続いていた。しかし明治29年、輸入綿花の関税が廃止されると、外国産の安い綿花による大量紡績時代が始まり、江戸時代の花形産業だった木綿づくりは、一つの役目を終えた。一方で、モスリンが輸入され、普及をみると、新業種・洋反物問屋が興隆していった。大阪では、明治6年、株仲間の廃止を受けて、三所綿問屋、綿買次問屋、三郷綿仲間の合同による綿商組合が結成された。これを継承して明治18年(1885年)には、大阪綿南問屋仲買組合が結成されている。これは、大阪油取引所(明治26年)より8年、東京油問屋市場(明治34年)よりも16年早い。大正時代には、重要物産同業組合として認可されている。 
油の年代記 (古代〜江戸時代篇)
紀元前3000年代 エジプト文明圏でオリーブ油生産中国で胡麻油生産
神巧皇后11年  摂津の国・遠里小野に住吉大明神が鎮座(搾油のはじまり)
552年       仏教伝来その後、胡麻・荏胡麻が搾油原料として渡来
大化元年(645)  大化の改新 胡麻油・荏胡麻油を税として献上
大同年間(806-810) 空海が住吉神社に石燈篭を献上 油は遠里小野より献上
貞観元年(859)  京・大山崎の地に油祖離宮八幡宮が鎮座(長木による搾油のはじまり)
貞応元年(1222)  鎌倉幕府が大山崎神人に油販売権独占の下知状を発行
天正5年(1577)  織田信長が安土城下を楽市楽座とする
元和年間(1615〜24) 綿実油精製法の発見
元和3年(1617)  江戸で仲買業成立
 大阪の備前屋が江戸に油の出荷開始(江戸積油問屋の始まり)
元和5年(1619)  菱垣廻船・樽廻船の始まり(堺の船問屋某)
寛永元年(1624)  江戸積油問屋開業(泉屋平衛門)
正保3年(1646)  佃島に住吉神社建立
正保年間(1644〜47) 伝法船の開業(後の樽廻船)
明暦年間(1655〜58) 搾油法が長木からしめ木に
承応3年(1654)  玉川上水完成利根川が太平洋に
万治年間(1658〜60) 大阪で江戸綿買次積問屋仲間結成
明暦3年(1657)  明暦の大火
万治3年(1660)  江戸で油仲間寄合所結成(東京油問屋市場の前身誕生)
寛文年間(1661〜73) 大阪で江戸積油問屋など株仲間を結成
寛文9年(1669)  大阪で油売買の斗量制度確立
寛文12年(1672) 河村瑞賢が西迴り航路を開発(海運網の統一)
元禄7年(1694)  江戸十組問屋の結成 大阪二十四組問屋の結成
享保年間(1716〜36) 灘で水車による搾油始まる
正徳6年(1716)  徳川吉宗、将軍就任
享保6年(1721)  株仲間結成令の発布
享保9年(1724)  大岡越前、油問屋の価格操作を摘発
 物価引下げ令の発布 十組問屋を事実上の株仲間化
享保12年(1727) 江戸の大和屋、関東菜種の一手買受人となる
享保15年(1730) 十組問屋が分裂、河岸組(油問屋中心)が新組に
天明2〜7年(1782〜87) 天明の大飢饉
明和4年(1767)  幕府が関東の綿実搾油を奨励
天保元〜8年(1830〜37) 天保の大飢饉
明和7年(1770)  明和の仕法(大阪の搾油業を保護) 水油高騰で問屋の買い占めを禁止
天保3年(1832)  大阪の油問屋の特権を停止 油寄所を設立
天保7年(1836)  全国で大規模一揆
天保8年(1837)  霊巌島油寄所を撤廃
天保8年(1837)  大塩平八郎の乱
天保12年(1841) 株仲間停止令の実施
天保10年(1839) 蛮社の獄
嘉永元年(1848) 諸問屋再興令の施行
嘉永6年(1853)  ペリー来航
万延元年(1860) 五品江戸廻し令の発布
安政5年(1858)  五ヶ国と通商条約
慶応3年(1867)  大政奉還 
 

 

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