鈴木主水

小説「鈴木主水」鈴木主水口説き1口説き2口説き3口説き4口説き5 
鈴木主水五人廻し昭和初期の新宿白糸塚・・・ 
内藤新宿 / 新宿1新宿2新宿3新宿4新宿5新宿6新宿7新宿8大久保百人町
 

雑学の世界・補考   

 
小説「鈴木主水」

享保18年、9月13日の朝、四谷塩町のはずれに小さな道場をもって、義世流の剣道を指南している鈴木伝内が、奥の小座敷で茶を飲みながら築庭の秋草を見ているところへ、倅の主水が入ってきて、さり気ないようすで庭をながめだした。 
「これからお上りか」とたずねると、「はっ、上ります」と愛想よくうなずいてみせた。 
伝内は主水がかねてなにを考え、なにをしようとしているかおおよそのところは察していたが、いつにないとりつくろったような笑顔を見るなり、「いよいよ今日だな」と、そう感じた。今日、池の端の下邸で後の月見の宴があるが、主水は御前で思いきった乱暴をする決心でいる。心が通じあっているので、いまさら言置くこともなかったが、あまりみじめな終りにならぬよう、士道の吟味に関することだけは確めておきたいと思った。たとえどのような無嗜無作法(むしぶさほう)を働いても、主従の間でなすまじきことだけは、断じてせぬという戒懼(かいく)のことである。 
上杉征伐に功のあった三河の鈴木伝助の裔で、榊原に仕えて代々物頭役を勤めてきたが、伝内は神田お玉ケ池の秋目刑部正直の高弟で義世流の達人であり、無辺無極流の槍もよく使うので、先代政祐のとき、番頭兼用人に進んで、役料とも700石を給わるようになった。  
主水は伝内の独り子で、前髪があって小主水といっていたころから政祐の給仕を勤めていたが、生れつき器量がよく、評判のある茸屋町の色小姓でさえ、主水の前へ出ると袖で顔を蔽って恥らうというほどの美少年だったので、寵愛をうけて近習に選ばれ擬作高百石の思召料をもらった。主水の美貌は当時たぐいないほどのものだったらしい。膚がぬけるように白く、すらりとした身体つきで、女でさえ羨ましがるような長い睫毛の奥に、液体のなかで泳いでいるような世にも美しい眼がある。人形にもならず、といって絵にもならず、生れながらそなわった品のいい愛嬌があって、いちど見ると、久しく思いが残って忘れかねたということである。 
近習時代のことだが、髪は自元結できりりと巻いた大髱で、白繻子の下着に褐色無地の定紋附羽二重小袖、献上博多白地独鈷の角帯に藍棒縞仙台平の裏附の袴、黒縮緬の紋附羽織に白紐を胸高に結び、大振りな大小に七分珊瑚玉の緒締の印伝革の下げものを腰につけ、白足袋に福草履、朱の房のついた寒竹の鞭を手綱に持ちそえ、朝々、馬丁を従えて三河台の馬場へ通う姿は、迫り視るべからざるほどの気高い美しさをそなえているので、毎度、見馴れている町筋の町人どもも、その都度、吐胸をつかれるような息苦しさを感じて、眼を伏せるのが常だったとつたえられている。 
伝内は秋月刑部門下の三傑の一人といわれたほどの剣客だったが、麹町三番町で泰平真教流の道場を開いている兄の小笠原十左衛門に主水を預け、弓は竹林派の高須十郎兵衛に、柔術は吉岡扱心流の吉岡次郎右衛門に、馬術は大坪流の鶴岡丹下に学ばせた。 
享保10年の春、主水は元服して鉄砲30挺頭に任命され、本知行200石取になり、その年、同藩の物奉行明良重三郎の次女安を娶った。翌年、太郎を生み、つづいてお徳が生れた。 
享保17年の8月29日に政祐が死に、分家の榊原勝直の四男が、式部大輔政岑(まさみね)と名をかえて姫路十五万石を相続することになった。大須賀頼母といって、本家の家中客人分として、300石の合力米をもらっていた居候同然の身分だったが、先年、兄の勝興が早世したので、不意に千石の旗本におしあげられ、こんどは政祐の死で急養子にとられ、たちまち播州姫路の城主になりあがった。 
10月、家督相続がすみ、能勢因幡守の二女竹姫を奥方に迎え、それぞれに新知、加増、役替があった。これまでは、御代替になってもこれというほどの異動はなかったが、こんどは思い切った御仕置で、先代の側仕えをしていた向きは、大目附役、大番頭、寄合以下、番頭、用人、給仕の果てにいたるまで、一人残らず君側から下げられ、若殿附と称する分家の番頭や、客分当時の用人小姓と入替になった。番頭、用人といえはいかめしいが、いずれも能太夫、狂言方、連歌俳諧師、狂言作者などの上りで、そのなかには島田十々六という品川本宿の遊女屋の次男坊までいた。遊興の取持を勤めと心得ている埒もないてあいばかりだが、新規に目附になった押原右内という男は、お家騒動で改易になった越後の浪人者で、御留守居与力をやめて豊後節の三味線弾きになり下った。原武太夫の推薦で大須賀の用人格になったものだが、こんどはまたお糸という娘をお側へ上げ、その功労で大目附の役にありついたという評判だった。 
こういう思いきった役替は、そもそも誰の捌きによるのかと、寄り寄り詮議してみたところ、あにはからんや、押原右内一人の方寸から出ていることがわかった。宝永6年の2月、家宣が将軍宣下をすると同時に、綱吉の近臣を残らず罷免した故実をひき、尤もらしい献策をしたのを、政岑がそのままとりあげたのである。聞いたものはみな無念に思い、三河以来、御懇意をねがった譜代の家来も、一朝にしてかような取扱いを受けるのかと、行末を儚んでお暇を願うものが出てきた。 
口切りは大番頭千石取津田伴右衛門で、向後、他家へは一切奉公いたすまじき旨、誓を立てて御暇をねがい、つづいて物頭450石、荻田甚五兵衛、寄合500石、平左衛門、使番大番頭500石、多賀一学などが暇乞いをして梶Xに退散した。主水の父の伝内は番頭兼用人から勘定役頭取に役替になったが、御納戸の役は勤めかねると辞退すると、それであらためて御暇になった。 
播磨守政岑は、分家とはいえ門地の高い生れだけあって、顔に間の抜けたところがなく、容貌はむしろ立派なほうだが、ツルリとした粋好みの細面がいかにも芸人染みたふうにみえ、殿様らしい威容はどこにもなかった。甲高いよく透る声で早口にものをいい、かならず人先に発言し、真面目な話にも洒落や地口をまぜ、嘲弄するような言いかたをする。剣槍弓馬から仕方舞、豊後節、役者の真似事まで、なにによらず一と通りのところまでやるので、一廉の器量の持主のように買いかぶられるが、内実は我意の強い狭量な気質で、媚びるものや諂うものは大好きだが、差図がましいことを言われるのは大嫌いで、時としては狂気したように激怒することがある。酔うととりとめなくなり、いつぞやなどは青原の往来端で、人立ちをはばからずに矢の根五郎の振事の真似をしてみせ、大方の物笑いになったようなこともあった。 
播磨守政岑というのはこういう困った殿様だったが、伝内も主水も感じたことはみな心の底にとりおさめ、親子二人だけのときでも、とやかくとあげつらうようなことは一度もなかった。おのれの主人の欠点を数えたてるなどは、武士の嗜みとしてあるまじきことで、どういう場合でも断じてしないものなのである。 
そういううちにその年も終り、18年、癸丑の年になった。前年、西南諸道で米がとれず、大飢饉になって餓死するものが出た。正月梶X、江戸に米一揆が起き、奥州米を運漕してお救い米を出す騒ぎになったが、政岑は、これも家督して間もない尾州名古屋の城主、従三位権中納言宗春と連れだって吉原へ出かけ、驕奢のかぎりをつくして江戸中の取沙汰になった。 
天和の頃、綱吉が武家法度15ヵ条で大名旗本が遊里に入ることを禁じてから、吉原で大名の姿を見かけたのは、50年以来のことだったはかりでなく、取巻きの原武太夫以下、はらやの小八、湯屋の五平、ねずの三武という連中の扮装が観ものだったので、いっそう評判になった。その頃は一般に合せ鬢にして髪は引詰めて結う風だったのに、髻を大段に巻きたて、髷は針打にして元結をかけ、地にひきずるほどの長小袖の袖口から緋縮緬の襦袢の襟を二寸もだし、着流しに長脇差、ひとつ印籠という異様な風態だったので、人目をひかぬはずもなかったが、尾張の殿様も姫路の殿様も、編笠なしの素面で、茶屋と三浦屋の間を遊行するという至極の寛濶さだった。 
またこんなこともあった。おなじ正月の11日、池の端の下邸に尾張侯、酒井日向守、酒井大学頭、松平摂津守などを招いて恒例の具足祝いをしたが、酒狂乱舞のさなか、見あげるような蓬莱山のつくりものを据えた16人持ちの大島台を担ぎだし、播磨守が手を拍つと、蓬莱山が二つに割れて、天冠に狩衣をつけ大口を穿いた踊子が12、3人あらわれ、「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり」と幸若(こうわか)を舞った。 
それですめばよかったが、取調べにきた横目に、政岑が今日はめずらしいものを聞かせると、書院の上段に簾を掛け、妾のお糸の方に三味線をひかせて豊後節を一段ばかり語り、平服に替えて出てきて、 
「御気鬱のせつは、いつなりとござれ。このつぎには弾き語りをご馳走しよう」 
と嘲弄するようなことをいった。横目の山村十郎右衛門はさすがに気色を損じ、苦い顔で帰って行った。 
放埒だけならまだしも助かるが、殊更、幕府の忌諱に触れるような所行ばかりする。政道に不平を抱いているかのように推し測られ、幕府の諸侯取潰しの政策に口実を与えるような危険な状態になった。御家門の越後侯ですら、家中仕置不行届で領地を召しあげられ伊豫の果てへ押籠めになった。いかに榊原が御譜代でも、いざとなれば参酌はないのである。 
伝内が四谷のほとりに身を落着けたころ、主水がこんなことをいった。 
「忠義な士が、忠義でもないことをして、忠義と思って死んで行く。善人と善人が命を削り合っていよいよ世の中をむずかしくする。情けないものですな」 
「というのは」 
「忠義ばかりでは、いやさ、善人ばかりでは国も家も立てかねるということです。榊原の家には悪人が不足しているが、それが不幸の源なのだと思って居ります」 
といって帰って行った。 
読みが深すぎて伝内にはなんのことか理解できなかったが、しばらくしてから思いあたった。 
黒田長政の後継、黒田右衛門佐忠之は放縦の行跡がつのって政道が乱れ、鳳凰丸の建造や足軽隊の新設など、幕府の忌諱に触れるような事件が続発するうえ、幕府に不満の駿河大納言忠長と懇談したというようなことから、大いに睨まれた。栗山大膳は苦肉の一策を案じ、忠之に逆謀ありといって56ヵ条の罪案をかまえ、主侯を相手どって公儀に出訴し、対決の結果、かえって忠之に逆心のないことを幕府に確めさせ、辛くも黒田の家を救った。武士として不忠不義の汚名を着る以上の大きな犠牲はない。終生、拭いようのない悪名を忍んで士道の吟味を貫いた栗山大勝こそ、無類の忠誠の士なりと、大石内蔵助が賞揚したと聞いたが、そのことを言ったのだと推量した。 
主水はなにかしらの存念を胸にひそめているらしい。それは起居振舞やものの言いかたが、この頃なんとなく変ってきたことでもわかる。主水はもう二人の子持ちで、大髻に結っていたころのような水の垂れるような美少年ではない。顔は薄皮立って色が美しく、いまでも目をそばだたせるが、肩幅が張って上背が増し、キッタリとして裃のつきがよくなった。髭のあとが青々とし、口元にゆるみがなく、太く静かな声が、堅く結ばれた唇から口重に洩れてくるところなどは、いかにも沈着な人のように見える。もともとおとなしい性で、圭角のあるようすを見せたことはなかったが、最近は別して柔和になり、挙止動作に丸味が出来、春草が風に靡くようなやさしい立居をするようになった。 
主水の存念はどのようなものか、伝内とても奥底まで洞察しているわけではないが、長年、御懇意をねがってきた老臣どもに、いっこうに勘弁がなく、みな身を退いて離散してしまったというのに、主水のような若輩に一分の志がうかがわれるのが、ふしぎなものを見るような気がしてならない。なにごとをしようと企んでいるのか知らないが、しかしながら主水の手にあうようには思えない。上邸にも下邸にも、昨日まで小唄や境で世渡りをしていた、素姓も知れぬ輩が黒羽二重の小袖に着ぶくれ、駄物の大小を貫木差しにしてあらぬ権勢をふるい、奥はまた奥で、お糸というあやしげな駈込女が押原右内の娘と偽って寝所の裀褥(おしとね)へ入り込み、薄毛の鬢を片はずしに結い、大模様の裲襠(うちかけ)を絆纏のように着崩す飛んだ御中揩ヤりで、呼出し茶屋の女房やら、堺町の踊子、木戸茶屋の娘、吉原のかぶろ、女幇間、唄の小八などというむかしの朋輩をひきこみ、仲ノ町の茶屋か芝居の楽屋のような騒ぎをしているそうな。見たわけではないが、おおよその察しはつく。そのうえ新規御抱えの近習なるものは、まったくもって沙汰のかぎり。主侯にはどこまでひねくれたもうのか、人がましいまともな面つきを嫌い、目っかちやら兎口、耳なし、鼻欠と、醜いものを穿鑿して10数人も抱えになり、多介子重次郎、清蔵五郎兵衛という浪人上りの喧嘩屋に赤鬼黒鬼と異名をつけ、200石の知行を与えて近習の取締にしているという法外千万な仕方である。 
代々、御懇意をねがった譜代のものどもが、咄嗟にお暇をねがって退散したのは、いわれないことではない。たびたびの前例によって、いちどお家が乱れだしたら、どう手をつくしても、一家離散にまで行きつくことを知っているからである。所詮は、愚痴と悪念が修羅の大猛火を燃やす魔界の現出なのであって、条理もなければ理非もない。いわんや人情などの通じる世界ではない。火中に栗を拾う譬えで、なまじっかなことをすれば、怪我をするだけではすまない。主水にどのような目途があるとしても、まずまず成功は覚束ないように思われた。 
萩の花むらを見ている静かな主水の横顔を、伝内はわきからながめていたが、主水の今日の身仕舞に軽薄なほど派手な気味合のあることに気がついた。 
薄小袖の紋服に茶事の袴は毎日の出仕の身裳だが、袖口から薄紅梅色の下着の端がのぞきだしているのが異様である。見れば芝居者のように月代を広くあけ、髷は針打にして細身につくり、なにか馬鹿げたざまになっている。一度もなかったことなので、どういう心の傾きなのか、そのほうを先に聞いてみたくなった。 
「今夜は、後のお月見があるそうだ」 
「さようでございます」 
「思いもかけない仕合わせだったな」 
「仕合わせとは、なにが」 
「野呂勘兵衛が小栗美作を討つため、日雲閣へ斬りこんだのも、やはり月見の宴の折だったそうな。総じて館の討入りには、順法と違法がある。いずれとも時宜に従うのはいうまでもないが、目ざす敵を一人だけに限っておくのが定法だ。その辺の心得がなかったので、野呂はやりそくなったのだとみえる。ときに、貴様が討果したいと思っているのは、男か女か」 
「これはまた意外なことを。男にも女にも、討ちたいものなどありません」 
「先日、明良の邸へ参ったとき、13日の後の月見こそ、一期の折というようなことを申したそうな。なんのことだ」 
「今夜の御宴会に連舞をいたすことになって居ります、そのことです」 
「連舞を。誰が」 
「手前が」 
「貴様に舞など舞えるのか」 
「この程から幸若秀平に舞を習って居ります。いちどお目にかけましょう」 
「どのような所存で」 
「郷に入っては郷にしたがう。こうなくては、勤めかねます」 
「すりや、その面と装束は、舞を舞うためのものか」 
「さようでございます」  
伝内はまじまじと主水の顔を見ていたが、大きな声で、 
「たわけ」  
と一喝すると、荒々しく座から立って行った。 
当夜の客には、尾張宗春卿、酒井日向守、松平和泉守、松平左衛門佐、御親類は能勢因幡守、榊原七郎右衛門、同大膳などがいた。 
月が出ると、不忍池を見おろす二階の大広間に席を移してさかんな酒宴になった。紅い萩の裾模様のある曙染めの小袖に白地錦の帯をしめた愛妾のお糸の方が、金扇に月影をうつしながら月魄(つきしろ)を舞っていると、御相伴の家中が控えた次ノ間の下座から、 
「女め、誰も知らぬと思って、晴がましく舞いおるわ」 
という声がかかった。  
最初の一と声は、三味線や琴の音に消され、近くの者しか気がつかなかったが、野太い声でつづいて三度ばかり叫んだので、こんどは誰の耳にもはっきりと聞えた。 
唄と囃しが一時にやみ、凧が落ちて海が凪いだような広間の上座から、播磨守が癇を立てた蒼白んだ顔で次の間のほうを睨めつけながら、 
「いま、なにか申した者、これへ出ろ」 
と歯軋りをするような声をだした。 
主水は朋輩のうしろに坐って、膝に手を置いてうつむいていたが、そう言われると、逃げ隠れもできない。はっといって広間の間際まで膝行り出て、そこで平伏した。 
「何者だ、名を名乗れ」  
播磨守が膝を叩いて叱咤した。主水は顔をあげてこたえた。 
「御鉄砲30挺頭、鈴木主水にございます。なにとぞ、お見知りおきを」 
「鉄砲持ちには出来すぎた面だ。舞っている女がどうこうと吐したを、たしかに聞いた。もう一度そこで申してみろ」 
「はずみに申した下司の痴言、お聞捨てにねがいます」 
「はずみとは言わせぬ。三度もおなじことを申したは、所存があってのことだろう。聞いてやる、隠さずに言え」 
主水はいよいよ平伏して、御高家御同座では申しあげかねることなので、おゆるしねがいたいと言うと、宗春卿はお糸の方のほうへ底意のある眼づかいをしながらニヤニヤ笑いだした。同座の一統もとんだ座興とばかりに、盃をひかえて聞くかまえになった。言え、言われぬの掛合のうちに政岑は焦立って来、佩刀をひきつけて片膝を立て、いまにも斬りつけるかという切羽詰ったようすになったので、主水も覚悟をきめたらしく、「お耳の汚れとは存じますが、では申します」といってこんな話をした。 
そこにおいでの御中揩ヘ、町方にいてお糸といっていられた頃、馴れ合った踊の朋輩だった。いつか思い思われる仲になり、行末を契ったこともあったが、そのうちに仲絶えて行会えぬようになった。侍は胸にとまって忘れたこともなかったが、このほど榊原殿の養女として、上のご寵愛になったのは意外ともまた意外。いちど懇談して、その折の思いを通じたく存じていたが、中ノ門は固くて忍ぶに忍ばれず、もだもだしていたところ、7月はじめの宿直の夜、ゆくりなく御腰掛の端居で出逢い、積る話をして本意をとげた。そのとき、また逢うまでの思い草に舞扇を預ったが、それこそ秋の扇となりはてて、その後は風の便りもない。今夜、月見の御相伴にあずかり、下座にいてお糸の方の膳を拝見していたが、あまりの白々しさに腹がたち、我を忘れて尾籠なことを口走ったという次第を述べ、言い終ってまた平伏した。 
播磨守の顔色が変ったようにみえたが、すぐ、ひょうげた顔になってお糸の方のほうへふりかえった。 
「聞いたか。また逢うまでの思い草に、そちから扇を貰ったと言っている」 
「聞きました」 
「町方にいるとき、そちと踊の朋輩だったそうな」 
「そう申しておりました」 
「庭先へ蹴落してくれよう。色呆けて、とりとめなくなつたとみえる。その扇であやつの頭を叩いてやれ」 
「でも」 
「打て、存分に打ち据えろ」 
お糸の方は顔を俯向けていたが、崩れるように畳の上に両手をついた。 
「申訳ございません」 
そういうと、曙染めの小袖の袂に顔をおしあてて泣きだした。播磨守は脇息を押しのけて裾から膝を乗りだし、崩れた花のようなお糸の方の襟足のあたりを、強い眼つきで睨めつけた。 
「あやつの言ったことは本当か、おぼえがあるのか。泣いていてはわからぬ、顔を上げい」 
お糸の方は顔をあげると、涙に濡れた長い睫毛を伏せて膝のあたりに眼を落した。 
「腰掛の端居で、忍び逢ったというのは、本当か」 
「はい」 
「扇を遣わしたというのも」 
「ご存分に遊ばして」 
下座から寿仙という幇間が飛びだしてきた。ツルリと禿げあがった頭のてっぺんを扇子の先ではじいて、 
「いや、出来ました。これまたご趣向な。萩野万助、左七、べっこう、裸足でございます。そこで一句・・・秋の人と成りおおせけり月の宴」 
と、ぺこりと頭をさげた。 
立田川清八という関取が飛びだす。俳諧師の貞住が飛びだす。わいわい言いながらはぐらかしてしまった。播磨守は苦笑いをしながら盃を含んでいたが、白けた声で主水にいった。 
「そこな鉄砲持ち、ここへ来い、前へ出ろ」 
主水はおそるおそるの態で前に進んだ。 
「ここな女と並んで坐れ」 
主水は言われたようにお糸の方と並んで坐った。 
「いかにも朋輩らしい面つきよ、似合うぞ、ついでのことに連れて舞え、舞ってみせろ」 
そうして、下軽にひかえた押原右内にいいつけた。 
「こいつらを括り合せて連舞を舞わせろ。原富は三味を弾け、庄五郎は唄え」 
はっ、といって押原右内が立ちあがった。 
主水は勘当になり、湯島のお長屋を出て青山権田原の借家に移った。竹の垣根に野菊が倒れかかり、野分のあとのもの淋しい風情をみせている。代々木の森が明るいぬけ色になり、朝々、霜が降りるようになった。 
格別、落ちこんだような気もしない。愁いもない。 
身体にもどこといって違和はないが、あの夜以来、気持にしまりがなくなった。寝るときのほか、ついぞ袴をはなしたことはなかったが、この頃は着流しで、帯も巻帯のままでいる。妻のお安は縁端で縫物をしながら、太郎とお徳を遊ばせている。勘当になったいきさつは、もとより知りぬいているはずだが、たわけな亭主だと思い捨てたかして、そのことには一言もふれない。生来、気性の勝った女なのである。 
主水は縁の陽だまりで膝を抱えて空を見ていたが、いかにも所在がないので、 
「おい」  
とお安を呼んでみた。お安は膝の上から縫物を払って、こちらへ向きかえた。落着きはらった自若とした眼つきである。 
「いや、なんでもない」 
お安はまた縫物を取りあげた。 
お安はなにか考えているが、なにを考えているのか 主水にはわからない。女というものは誰もみな覗きこんでも底の見えない、深い淵のようなものを一つずつ 胸のうちに持っているように思えてならない。 
「女の心はわからない」 
主水は口のなかで呟いた。 
後の月見の宴で、主水は群舞にまざれてお糸の方を刺すつもりだった。もっとも、お糸の方と限ったわけではない。押原右内でも、多介子でも、ねずの三武でも、誰でもよかったが、おなじ目ざましをくれるなら、花々しいほうがよかろうと思ったのである。 
一藩の仕置をつかさどる譜代の重役が、卒爾なざまで逃げるようにこそこそと退散するのを、主水は遺憾に思っていた。家中の違和に非理をたてようとする と、かえって禍を大きくするということを、これまでの例で身に染みて承知した。争うことは内輪の紛擾を外部に発表する愚を招くだけでしかない。対立は禁物 だ。家中の乱れは隠秘するにかざる。見ていれば言いたいことも出てくるが、見なければ意見もない道理で、身を退くことがすなわち忠義なのである。趣意のすじはよく通る。通りすぎておかしいくらいだが、なにか一点、溶けあえぬものがある。家を思い国を思う真心は、見ねばすむといった浅墓なものではないようである。ではどうするといって、主水の頭から答えは出て来ないが、愚にもつかぬ悪党どもが、自由気侭に跳梁するのを見すごしていては士道の一分が立ちかねる。この世に正邪の別のあることを、せめて思い知らしてやりたい。悪党ばらの一人を刺して、目ざましをくれてやろうと思ったのは、こういう気持からであった。 
この頃、酒宴のさなかに踊の心得のあるものが群舞をして興を添えることが恒例になっている。刺したいと思う者はみな群舞の仲間にいる。平素は中門にへだてられて近づくことが出来ないが、その機ならば素懐を遂げられる望みがある。 あの夜、主水は群舞の仲間に入れられ、相手はお糸の方ときめ、続きの間の下座で時のくるのを待っていた。この女体は押原右内の道具のようなものでしかないが、御家頽廃の源の一つはたしかにそこにあるのである。そのうちにお糸の方が舞いだした。毒のある花だが、美しいことは美しい。正目に見るのはこれがはじめてだが、話に聞いていた悪性女の感じはどこにもない。少女といってもいいような初々しい稚顔をしている。手足の形も未熟である。舞もかくべつ上手だというようなものではないらしい。気を張って舞っているのがその証拠である。楽しそうにはしていない。踊の手振りの間に、それとない愁い顔をする。 
主水はお糸の方の舞の手振りを見ているうちに、この女を刺すということが、たいして意義のあることのようには思えなくなった。悪人ばらに、いささかの覚醒を与える効果はあるだろうが、それでお家の禍根を断つというのでもない。事をするのは簡単だ。刺してその場から逐電するだけのことだが、この女が胸から血を流してのけ反るざまは、見られたものではなかろう。なんといってもむごたらしすぎる。 
そんなことを考えているうちに、この7月のはじめの夜、御待合の腰掛で舞扇を拾ったことを思いだした。 
「女の心はわからない」 
主水はもう一度そうつぶやいた。御腰掛の密会も、舞扇も、すべて当座の思いつきにすぎない。ありもせぬつくりごとだったが、どういう心であの女が承服したのかそこのところがわからない。いまもってこれは解けぬ謎である。 
聞けるものなら、誰かに聞いてみたい。お安がもうすこし気持の広い女だったら、あの夜のことを仔細に語って、そういう女の心はいったいどうしたものなのかと、訊ねることもできるだろう。さっきふとお安に呼びかけたのは、どうやらそのつもりだったらしいが、それは望んでも無駄なのである。 
両脇に子供をひきつけ、依怙地なほど身体を硬ばらせている石のようなお安の後姿を、主水は嘆息するような気持で見まもった。扶持を離れたといっても、明日の生計に困るわけではない。縫物の賃をあてにしなければならないほど逼迫していない。物を縫う女は一人置いてある。 
いつもは居づらそうにしてすぐ立って行くお安が、たどたどしく糸目を辿りながら、つづきの座敷に朝から頑に居坐っている。あてつけがましくていい気持がしない。恨みつらみを無言のうちに思い知らせようとしているとしか思えない。お糸の方と手を括りあわされ、満座のなかで馬鹿舞を舞わされた沙汰のかぎりの痴加減を聞かされたら、腹を立てずにはいられまい。うらめしくも、厚くも、情けなくもあろう。無理はないとは思うが、そうならそうで、面と向って、怒るなり泣くなりすればいいのである。 
主水がそんなことを考えていると、お安は子供達を奥へやっておいて主水のそばに来て坐った。 
吊り加減の切長な眼のあたりを蒼ずませながら、素っ気ない切口上で、 
「お話したいことがございます」 
といった。主水は正坐して背筋を立てると、 
「どういう話だ」 
と殊更強く聞きかえした。向きあうと、かならずこういう形になる夫婦なのである。主水は狐拳でもしているようだと思うことがある。 
「このことは、お聞きにいれない約束になっておりますが、わたし一人の胸にためておけといわれても、重荷なばかりで、気持が鬱してなりませんから、それで、申しあげることにいたしましたのです」 
うむ、と主水がうなずいた。 
「先夜、お糸さまがおいでになりました」 
主水はお安の顔を見た。 
「噂には承知しておりましたが、ほんとうにお美しい方でした」 
「どういう用向きで」 
「舞扇を拾っていただいたお礼に、とおっしゃっていられました」 
「礼などを言われる筋は、ないように思うが」 
「お糸さまは、あなたに拾ってもらいたいばかりに、あなたの宿直の夜、扇を腰掛へお置きになったのだそうです。お糸さまは三河台の近くにお住いになっていたころから、あなたを慕っていらっしゃって、お忘れになる折もなかったのです。お上のお側に上る決心をなすったのは、もしか、あなたにお逢いできるかと、それだけが望みだったのだといっていられました。上のお側にいても、心はあなたのほうにばかり通い、身も世もない思いをしていらっしゃったのです」 
主水は腕を組んで眼をつぶった。 
「お糸さまは飯倉のお長屋に押籠めになっていられたのだそうですが、このほど、吉原へ奴勤めに下げられることにきまったので、その前にお別れにいらっしゃったのです。この年から、お家で不義を働くと、女は吉原へやって、期限なし給金なしの廓勤めをさせるという御法令になったのだそうですね。死にでもしなければ、廓から出ることができない惨い境涯になって、この世ではもうお目にかかる折もないだろうが、なまじいお顔を見ると、かえって思いが残るから、逢わずにこのまま帰る、この話はあなたの胸だけにおさめて、あの方にはお聞かせくださるな、とそうおっしゃって」 
9月27日の夜、主水は池の端の松永久馬いう未知の人から急々の使いをうけた。用談は御面唔の節と書いてある。とるものもとりあえず宛名のところへ訪ねて行ったが、手紙の主は他出したまま、まだ帰っていなかった。 
湯島へぬけるので、男坂を上った。まだ宵の口で、大根畠の小格子といっている湯島の遊女屋へ行くぞめきの客が歩いている。板倉屋敷のそばまで行くと、角の餅屋の天水桶や一ト手持の辻番小屋の陰からムラムラと人影が立ちあがった。押原右内がいる、多介子重次郎がいる、松並典膳、瀬尾庄兵衛、はらやの小八、清蔵五郎兵衛、ねずの三武、それに化物の中小姓が57人、関取の立田川までまじって、板塀の片闇をおびやかすほどに押重なっている。 
急使の消息はこれでわかった。用談は御面唔の節とはよくいった。なるほど、この上のことはないわけである。 
あの夜、勘当になって上の御広間から過るとき政岑が、 
「武家の掟を知っているだろうな。おぼえて居れよ」 
といった。お家の不義は双方討ちとむかしからきまっている。お糸の方が吉原へ奴にやられ、こちらは勘当で捨ておかれるのは、チト偏頗な御処置だと思っていたが、こういう次第に逢着するなら、いっそ至当の成行といっていいのである。 
ねずの三武が、やッと斬りかけてきたが、刃の立てかたも知らぬ出鱈目さで、笑止なばかりであった。 
はらやの小八は、えらい向う気で、 
「スチャラカチャン」 
と口三味線でやってきた。これは胴折りに折って捨てた。 
この仕置は一刻ばかりつづき、男坂の界隈を血だらけにしたところで終った。押原右内は男坂をはね越し、新花町へ逃げこんだが、そこで仕留められた。この夜、主水は10人あまり斬っている。 
元文元年の8月、内藤新宿の橋本屋で心中があった。男は鈴木主水という浪人者で、相手は白糸という遊女だった。書置があった。 
手前事、長年、播州侯のお名を偽って遊里を徘徊したが、まことにもって慙愧のいたりと書いてあった。 
その年の9月15日、榊原家の留守居に老中連名の奉書が交付された。すぐ早打で姫路へ知らせたので、親類、能勢因幡守、榊原七郎右衛門、同大膳の3人が10月の12日に江戸へ着き、13日に柳宮へ出た。黒書院溜で老中列座の上、大目附稲生下野守から寄附をもって、 
式部大輔儀常々不行跡に付、隠居被仰付候急度相慎可罷在候、且、大手先屋布被召上、池之端下屋布居住可仕候  
という御達があった。 
家筋を思召され、家督は相違なく嫡子小平太(当年8歳、後に政永)へ下し置かれる旨、月番老中本多中務大輔から申渡された。11月1日、越後国頸城郡高田へ国替を命ぜられ、翌年、入部した。隠居の政岑は、その年、31歳で池の端の下邸で死んだ。鈴木主水の書置はどれほどの効果があったか知らないが、一説には、このために半地召上げを許されたともいう。「白糸くどき」のヤンレイ節が流行したのは、元文2年の末ごろからのことであった。 
 
   
鈴木主水口説き1

花のお江戸のそのかたわらに さしもめずらし人情くどき 
ところ四谷の新宿町よ 紺ののれんに桔梗の紋は 
音に聞こえし橋本屋とて あまた女郎衆のあるその中に 
お職女郎衆の白糸こそは 年は十九で当世育ち 
愛嬌よければ皆人様が われもわれもと名ざしてあがる 
あけてお客はどなたと聞けば 春は花咲く青山へんの 
鈴木主水という侍よ 女房もちにて二人の子供 
五つ三つはいたずらざかり 二人子供のあるその中で 
今日も明日もと女郎買いばかり 見るに見かねて女房のお安 
ある日わがつま主水に向かい これさわがつま主水様よ 
私は女房で妬くのじゃないが 子供二人は伊達にはもたぬ 
十九二十の身であるまいに 人に意見も言う年頃に 
やめておくれよ女郎買いばかり 金のなる木はもちゃしゃんすまい 
どうせ切れ目の六段目には つれて逃げるか心中するか 
二つ三つの思案と見える しかし二人の子供がふびん 
子供二人と私の身をば 末はどうする主水様よ 
言えば主水は腹うちたてて 何をこしゃくな女房の意見 
おのが心でやまないものは 女房位の意見でやまぬ 
きざなそちより女郎衆が可愛い それがいやなら子供をつれて 
そちのお里へ出て行かしゃんせ あいそつかしの主水様よ 
そこで主水はこやけになりて 出でて行くのが女郎買い姿 
あとにお安は気くやしやと いかに男の我がままじゃとて 
死んで見せよと覚悟はすれど 五つ三つの子にひかされて 
死ぬに死なれず嘆いてみれば 五つなる子はそばへと寄りて 
これさ母さんなぜ泣かしゃんす 気しょく悪けりゃお薬上がれ 
どこぞ悪くばさすりてあげよ 坊やが泣きます乳下さんせ 
言えばお安は顔ふり上げて どこもいたくて泣くのじゃないが 
おさなけれども良く聞け坊や あまり父さん身持ちが悪い 
意見いたせばこしゃくなやつと たぶさつかんでちょうちゃくなさる 
さても残念夫の心 自害しようと覚悟はすれど 
あとに残りしわしらがふびん どうせ女房の意見でやまぬ 
さればこれから新宿町の 女郎衆に頼んで意見をしようと 
三つなる子をせなにとかかえ 五つなる子の手を引きつれて 
いでて行くのはさもあわれさよ 行けば程なく新宿町よ 
店ののれんに橋本屋とて 見れば表に主水がぞうり 
それと見るなり小しょくをよんで わしはこちらの白糸さんに 
どうぞ会いたいあわせておくれ あいと小しょくは二階へ上がり 
これさ姉さん白糸さんよ どこの女中か知らない方が 
何かお前に用ありそうに 会ってやらんせ白糸さんよ 
言えば白糸二階を下る わしをたずねる女中というは 
お前さんかね何用でござる 言えばお安は始めてあいて 
わしは青山主水が女房 おまえ見かねて頼みがござる 
主水身分はつとめの身分 日々のつとめをおろそかにすれば 
末はご扶持もはなれるほどに ことの道理を良くきき分けて 
どうぞわがつま主水様に 意見なされて白糸さんよ 
せめてこの子が十にもなれば 昼夜上げづめなさしょうとままに 
又は私が去りたる後に お前女房にならんすとても 
どうぞそののち主水様に 三度来たなら一度は上げて 
二度は意見をして下さんせ 言えば白糸言葉につまり 
わしはつとめの身の上なれば 女房もちとはゆめさえ知らず 
ほんに今まで懇親なれど さぞやにくかろお腹も立とが 
わしもこれから主水様に 意見しましょとお帰りなされ 
言って白糸二階に上がり あとで二人の子供をつれて 
お安我が家にはや帰られる ついに白糸主水に向かい 
お前女房が子供をつれて わしさ頼みに来ました程に 
今日はお帰りとめてはすまじ 言えば主水にっこと笑い 
おいておくれよ久しいものよ ついにその日もいつづけなさる 
待てど暮らせど帰りもしない お安子供を相手といたし 
もはやその日もはや明けければ 支配よりお使いありて 
主水身持ちがほうらつゆえに 扶持も何かも召しあげられる 
あとでお安は途方にくれて あとに残りし子供がふびん 
思案しかねて当惑いたし 扶持にはたしてながらえいれば 
馬鹿なたわけと言われるよりも 武士の女房じゃ自害もしようと 
二人子供をねかしておいて 硯とりよせ墨すり流し 
うつる涙が硯の水よ 涙とどめて書き置き致し 
白き木綿で我が身を巻いて 二人子供の寝たのを見れば 
可愛可愛で子に引かされて おもい切刃を逆手に持ちて 
持つと自害のやいばのもとに 二人子供ははや目をさまし 
三つなる子は乳にとすがり 五つなる子はせなにとすがり  
これさかあさんもしかあさんと おさな心でただ泣くばかり 
主水それとは夢にも知らず 女郎屋たちいでほろほろ酔いで 
女房じらしの小唄で帰り 表口より今もどりたと 
子供二人はかけだしながら 申し父さんお帰りなるか 
なぜか母さん今日にかぎり ものも言わずに一日おるよ 
ほんに今までいたずらしたが 御意はそむかぬのう父さま 
どうぞわびして下さいましと 聞いて主水は驚きいりて 
あいの唐紙さらりとあけて 見ればお安は血潮に染まり 
わしの心が悪いが故に 自害したかよふびんなものよ 
涙ながらに二人の子供 ひざに抱き上げかわいや程に 
なにも知るまいよく聞け坊や 母はこの世といとまじゃ程に 
言えば子供は死がいにすがり 申し母様なぜ死にました 
あたし二人はどうしましょうと なげく子供をふりすておいて 
旦那寺へと急いで行けば 戒名もろうて我が家へ帰り 
あわれなるかや女房の死がい こもに包んで背中にせおい 
三つなる子を前にとかかえ 五つなる子の手を引きながら 
行けばお寺でほうむりなさる ぜひもなくなく我が家へ帰り 
女房お安の書き置き見れば 余りつとめのほうらつ故に 
扶持もなんにもとり上げられる 又も門前払いと読みて 
さても主水は仰天いたし 子供泣くのをそのままおいて 
急ぎ行くのは白糸方へ これはおいでか主水様よ 
したが今宵はお帰りなされ 言えば主水はその物語 
えりにかけたる戒名を出して 見せりゃ白糸手に取り上げて 
わしの心がほうらつ故に お安さんへも自害をさせた 
さればこれから三途の川も お安さんこそ手を引きますと 
主水も覚悟を白糸とどめ わしとお前と心中しては 
お安さんへの言いわけ立たぬ お前死なずに永らえさんせ 
回向頼むよ主水様よ 言うて白糸一間に入りて 
あまた朋輩女郎衆をまねき 譲りあげたる白糸が品 
やれば小春は不思議に思い これさ姉さん白糸さんよ 
今日にかぎりて譲りをいたし それにお顔もすぐれもしない 
言えば白糸良く聞け小春 わたしゃ幼き七つの年に 
人に売られて今この里に つらいつとめもはや十二年 
つとめましたよ主水様に 日頃三年懇親したが 
こんどわし故ご扶持もはなし 又は女房の自害をなさる 
それに私が生き永らえば お職女郎衆の意気地が立たぬ 
死んで意気地を立てねばならぬ 早くそなたも身ままになりて 
わしの為にと香・花たのむ 言うて白糸一間に入りて 
口の中にてただ一言 涙ながらにのうお安さん 
私故こそ命を捨てて さぞやお前は無念であろが 
死出の山路も三途の川も 共に私が手を引きましょう 
南無という声この世の別れ あまた朋輩寄り集まりて 
人に情けの白糸さんが 主水さん故命を捨てる 
残り惜しげに朋輩達が 別れ惜しみて嘆くも道理 
今は主水もせんかたなしに しのびひそかに我が家に帰り 
子供二人に譲りをおいて すぐにそのまま一間に入りて 
重ね重ねの身のあやまりに 我と我が身の一をさ捨てる 
子供二人はとり残されて 西も東もわきまえ知らぬ 
幼心はあわれなものよ 義理を立てたり意気地を立てる 
心おうたる三人共に 聞くもあわれな話でござる
 
鈴木主水口説き2

花のお江戸のそのかたわらに 聞くも珍し心中の話  
所四谷の新宿町の  紺の暖簾に桔梗の紋は 
音に聞こえし橋本屋とて 数多女郎衆のあるその中に 
御職女郎の白糸こそは 年は十九で当世育ち 
愛嬌よければ皆人様が  我も我もと名指して上がる 
分けてお客はどなたと問えば 春は花咲く青山辺の 
鈴木主水という侍は 女房持ちにて二人の子供 
二人子供のあるその中で   
日々毎日女郎買いばかり  見るに見かねた女房のお安  
ある日我が夫主水に向かい  これさ我が夫主水様よ 
私ゃ女房で妬くのじゃないが  二人子供は伊達には持たぬ 
十九二十の身じゃあるまいし  人に意見も言わしゃんす頃 
やめておくれよ女郎買いばかり  金のなる木も持たしゃんすまい 
どうせ切れぬの六段目には  連れて逃げよか心中をしよか 
二つ一つの思案と見ゆる  さても二人の子供が不憫 
子供二人と私の身をば  末はどうする主水様よ 
言えば主水は腹立ち顔で  何を小癪な女房の意見 
己が心でやまないものを  女房だてらの意見でやもか 
愚痴なそちより女郎衆が可愛い  それが嫌なら子供を連れて 
そちのお里へ出で行かしゃんせ  愛想尽かしの主水が言葉 
そこで主水はこ自棄になりて  またも出て行く女郎買い姿 
後でお安は泣く悔しさに  いかに男の我侭じゃとて 
死んで見せよと覚悟はすれど  五つ三つの子供が不憫 
死ぬに死なれず嘆いておれば  五つなる子が袂にすがり 
これさ母様なぜ泣かしゃんす  気色悪けりゃお薬ゅあがれ 
どこぞ痛くばさすりてあげよ  坊が泣きます乳下しゃんせ 
言えばお安は顔振り上げて  どこも痛くて泣くのじゃないが 
幼けれどもよく聞け坊や  うちの父様身持ちが悪い 
身持ち悪けりゃ暮らしに難儀  
意見いたさば小癪な奴と  たぶさつかんで打ち叩かるる 
さても残念夫の心 どうせ女房の意見じゃやまぬ 
いっそ頼んで意見をせんと  
さらばこれから新宿町の  女郎頼んで意見のことを 
三つなる子を背中に背負い  五つなる子の手を引きまして 
出でて行くのもさも哀れなり  行けば程なく新宿町よ 
紺の暖簾に橋本屋とて  見れば表に主水が草履 
それを見るなり小女郎を招き  私ゃこなたの白糸様に 
どうか逢いたい逢わせておくれ 言えば小女郎は二階へ上がる 
これさ姐さん白糸様よ どこのお女中か知らない方が 
何かお前に用あるそうな 逢うてやらんせ白糸様よ 
言えば白糸二階を下りる  わしを訪ぬるお女中と言えば 
お前さんかえ何用でござる  言えばお安が顔振り上げて 
私ゃ青山主水が女房  お前見かけて頼みがござる 
主水身分は勤めの身分  日々の務めをおろかにすれば 
末は手打ちになります程に  ここの道理をよく聞き分けて 
どうぞ我が夫主水様に  意見なされて白糸様よ 
せめてこの子が十にもなれば  昼夜上げ詰めなさろとままよ 
または私が去りたる後で  お前女房にならしゃんしょうと 
どうぞその後主水様に  三度来たなら一度は上げて 
二度は意見をして下しゃんせ  言えば白糸言葉に詰まり 
わしも勤めの身の上ばれば  女房持ちとは夢にも知らず 
日頃懇親早や三年も  さぞや憎かろお腹が立とう 
わしもこれから主水様に  意見しますぞお帰りなされ 
言うて白糸二階へ上がる  お安安堵の顔色浮かべ 
上の子供の手を引きながら  背の子供はすやすや眠る 
お安我が家へ早や帰りける 
御職戻りて両手をついて これさ青山主水様よ 
お前女房が子供を連れて  わしに頼みに来ました程に 
今日はお帰り留めては済まぬ 言えば主水はにっこり笑い 
置いておくれよ久しいものだ ついにその日は流連なさる 
待てど暮らせど帰りもしない  お安子供を相手にいたし 
最早その日は早や明けたれば 支配方より便りがありて 
主水身持ちが不埒な故に 扶持も何かも召し上げらるる 
後でお安は途方に暮れて  後に残りし子供が不憫 
思案しかねて当惑いたし 扶持に離れて永らくおれば 
馬鹿な私と言わるるよりも 武士の女房じゃ自害をしよと 
二人子供を寝かしておいて  硯取り出し墨すり流し 
落つる涙が硯の水よ 涙とどめて書置きいたし 
白き木綿で我が身を巻いて 二人子供の寝たのを見れば 
我子可愛いや子にひかされて  思い刀を逆手に持ちて 
ぐっと自害の刃の下に 二人子供が早や目を覚まし 
三つなる子は父にとすがり 五つなる子は背中にすがり 
これさ母様のう母様と  幼心でただ泣くばかり 
主水それとは夢にも知らず 女郎屋立ち出でほろほろ酔いで 
女房じらしの小唄で帰り 表口より今戻ったと 
子供二人は駆け出しながら  もし父様お帰りなるか 
なんで母様今日限り 物も言わずに一日寝ぬる 
坊は今までいたずらしたが 御意は背かぬのう父様よ 
どうぞ詫びして下されましと  聞いて主水は驚き入りて 
合の唐紙さらりとあけて 見ればお安は血汐に染まり 
わしが心の悪いが故に 自害したかや不憫なことよ 
涙ながらに二人の子供  膝に抱き上げ可愛いや程に 
何も知るまいよう聞け坊や 母はこの世の暇じゃ程に 
言えば子供は死骸にすがり もし母様なぜそうなした 
私二人はどうしましょうと  嘆く子供を振り捨て置いて 
檀那寺へと急いで行きて 戒名貰いて我が家へ帰り 
哀れなるかや女房が死骸 菰に包みて背中に負うて 
三つなる子を前にと抱え  五つなる子の手を引きながら 
行けばお寺で葬儀を済ます 是非も泣く泣く我が家へ帰り 
女房お安の書置き見れば 余り勤めの不埒な故に 
扶持も何かも召し上げらるる  またも門前払いと読みて 
さても主水は仰天いたし 子供泣くのをそのまま置いて 
これはお出でか主水様よ 
したが今宵はお帰りなされ  言えば主水はその物語り 
襟にかけたる戒名を出して  見すりゃ白糸手に取り上げて 
わしが心の悪いが故に  お安さんへも自害をさせた 
さらばこれから三途の川も  お安さんこそ手を引きますと 
言えば主水はしばらくとどめ  わしとお前と心中しては 
お安様への言い訳立たぬ  お前死なずに永らえしゃんせ 
二人子供を成人させて 
回向頼むよ主水様よ  言うて白糸一間へ入りて 
あまた同輩女郎衆を招き 譲り物とて櫛簪を 
やれば小春は不思議に思い これさ姐さんどうしたわけと 
今日に限りて譲りをいたし  それにお顔もすぐれもしない 
言えば白糸よく聞け小春 わしは幼き七つの年に 
人に売られて今この里に 辛い勤めも早や十二年 
勤めましたよ主水様に  日頃三年懇親したが 
今度わし故御扶持を離れ または女房の自害をなさる 
それに私が永らえおれば 御職女郎の意気地が立たぬ 
死んで意気地を立てねばならぬ  早くそなたに身ままになりて 
わしが為にと香花頼む 言うて白糸一間へ入りて 
口の内にて唯一言は 涙ながらにのうお安さん 
わしの故こそ命を捨てて  さぞやお前は無念であろが 
死出の山路も三途の川も 共に私が手を引きましょと 
南無という声この世の別れ あまた朋輩皆立ち寄りて 
人は情けの白糸様に  主水様故命を捨つる 
残り惜し気な朋輩達が 別れ惜しみて嘆くも道理 
今も主水は詮方なさる 忍び密かに我が家へ帰り 
二人子供に譲りを置いて  すぐにそのまま一間へ入りて 
重ね重ねの身の誤りを 我と我が身の一生すてる 
子供二人は取り残されて 西も東もわきまえ知らぬ 
幼心は哀れなものよ  あまた心中のあるとは言えど 
義理を立てたり意気地を立てて 心合うたる三人共に 
心中したとはいと珍しや さても哀れな二人の子供 
見れば世間のどなたも様も  三人心中の噂をなさる 
二人子供は路頭に迷う これも誰ゆえ主水が故よ 
哀れなるかや二人の子供 聞くも哀れなこの物語
 
鈴木主水3 (庄内の歌)

山にまします遍上金剛 
トコサッサノヨイトサノサ 
年に一度の今宵の祭りお大師様への供養のために 
さあさみなさん踊ろじゃないか綴る文句は拙いけれど 
歌いあげますお大師様へ渡る世間の茨の道も 
暗い世界は波荒くとも富士の高嶺の雪見たように 
洗い清めた体と心ささげまつりてお慈悲にすがる 
帰命朝来遍上尊よ導きたまえよ行く末かけて 
心のさきおばお祈りしますたとえ文化は咲きほころうと 
空の星さえ数えはならぬかぎりあるこそ浮世の定め 
人の情けはとあみも薫る南無大慈大師の本尊様よ 
守らせたまえいついつまでも時は移ろい流れは絶えぬ 
誰かおとずれ異郷の空でおさなこの日を夢路にさそう 
歌って踊って夜の更けるまでさあさこれから口説きにかかる 
聞けばこちらは初盆そうな年に一度のお盆の今宵 
御仏様への供養のためにさあさみなさん踊ろじゃないか 
歌の文句は拙いながら綴り合わせた片言交じり 
よちよち歩きの子供衆も腰に梓のお年の方も 
手拍子併せてみんなで踊りゃ思い出します亡きあの方の 
朝夕交わした笑顔や姿あの世この世のへだてでさえも 
あってないよな思いにむせぶ御月様には恥ずかし私 
見上げぐる空には北斗のさえて天の川原やらぬか星子星 
いずれが七夕犬飼様か長いこの世に短かな命 
うつろい易いはご浮世のならい歌って踊って夜の更けるまで 
さあさこれから口説きにかかる 
さあさこれから口説きにかかる 
春は花咲く青山辺で鈴木主水と言う侍は 
女房もちにて二人の子供五つ三つのいたずら盛り 
二人子供あるその中で今日も明日もと女郎買いばかり 
見るに見かねた女房のお安ある日わが夫主水にむかい 
あれさ我が夫主水様よ私や女房で焼くのじゃないが 
二人子供を伊達にはもたぬ十九二十の身じゃあるまいし 
人に意見をする年頃でやめてください女郎買いばかり 
金のなる木をもちなさるまいどうせ切れるの六段目には 
連れて逃げるか心中するか二つに一つの思案と見える 
しかし二人の子供が不憫二人子供と私の身おば 
末はどうする主水様よ言えば主水は腹立ち顔で 
なにを小癪な女房の意見親のいけんで止まないものが 
女房ぐらいの意見じゃ止まぬ続く文句はまだあるけれど 
あまり長いはお耳の障りまずはこれにて読みとめまする
   
鈴木主水白糸口説き4

(前分不明)  
表に主水(もんど)が草履(ぞうり)夫(それ)と見るなり小職を招き  
妾(わし)はこちらの白糸さんに どうぞ会(あひ)たい会(あは)しておくれ  
アイと小職は二階へ上り コレサ姉さん白糸さんよ  
何処の女中か知らない方(かた)が 何かお前に用ありさうに  
会ふてやらんせ白糸さんと 言へば白糸二階をおりる  ヤンレイー 
「妾をアアエ 尋ねる女中と言ふはお前さんかえ 何用でござる」  
言へばお安は始めて会ふて 妾は青山主水が女房  
お前見かねて頼みがござる 志水身分は勤の身分  
日々のつとめをおろそかにすれば 末はご扶持(ふち)に離るる程に  
ここの道理をよく聞分けて どうぞ我が夫(つま)主水殿に意見をされて白糸さんよ  
せめてこの子が十才(とお)にもなれば 書夜揚づめなされうとままよ  
又は妾が去られた跡で お前女房にならんすとても  
何卒そののち主水殿に 三度来たなら一度は揚げて  
二度と意見をして下さんせ 言へば白糸言葉に詰り  
私(わし)は勤めの身分(みのうへ)なれば 女房持ちとは夢さら知らず  
ホンに今迄懇親なれど さぞや悪(にく)からふ お腹は立とぶ  
わしも之から主水様に意見しませう お帰りなされ  
言ふて白糸二階へ上り 跡で二人の子供を連れてお安我が家ヘハヤ帰りける  
遂(つい)に白糸主水に向ひ お前女房が子供を連れてわしを頼みに来ました程に  
今日はお帰り 留めてはすまず (不明)  
言へば主水はにっこと笑ひ 置ひておくれよ 久しいものだ  
遂にその日は居続けなさる ヤンレエー 
「待とサアエ 暮せど帰りもしない  
お安子供を相手と致し も早その日はハヤ明けければ  
支配方よりお使ひありて 主水身持ちがふらちだ故に 扶持も何にも召上げられる  
後でお安 途方に暮れて 跡に残りし子供がふびんと思案しかねて当惑いたし  
扶持に離れて永らく居れば 馬鹿なたわけと言はれるよりも ヤンレエー 
「武士のアサエ 女房ぢや自害をせうと二人子供を寝かしておいて  
硯とり出し墨すり流し 落ちる涙が硯の水に 涙止めて書おきいたし  
白き木綿で我身を巻ひて ニ人子供の寝たのを見れば  
可愛くで見(こ)に引かされて思い切り刃(やいば)を逆手(さかて)に持ちて  
グッと自害の刃(やいば)の下に 二人子供はハヤ目が覚(さ)めて  
三ツになる子は乳にとすがり 五ツなる子は背中にすがり  
コレサ母(かあ)さんノウ母さんと 幼な心でハヤ泣くばかり  
主水 そ れとは夢にも知らぬ女郎や立ちいでほろく酔で  
女房ぢらしの小唄で帰り 表口より今戻ったと  
子供二人は駆出し乍ら モーシ父様(ととさま)お帰りなるか  
なぜか母さん今日限り 物も言はずに一日お寝る  
ホンニ今迄いたずらしたが 御意は反(そむ)かぬノウ父様(ととさま)よ  
何卒詫びして下されましと 聞いて主水は驚き入りて  
合の唐紙さらりとあけて 見ればお安は血汐にそまり  
わしが心の悪ひが故に 自害したかよ不びんな事よ  
涙乍らに二人が子供 膝に抱き上げ可愛や程に  
何も知るまいよく聞け坊や 母は此の世の暇(いとま)ぢや程に  
言えば子供は死骸(がい)へすがり モーシ母さんなぜサウなした  
私二人はドウしませうと 歎(なげ)く子供を振り捨て置ひて  
旦那寺へと急ひで行きて ヤンレエー 
「戒名サアエ 貰ふて我が家に帰り 哀れなるかや女房の死骸  
篇(こも)に包んで背中におふて三ツなるこを前にとかかへ  
五ツなる子を手に引き乍ら 行けばお寺で葬むりまする  
是非もなくく我家へ帰り女房お安の書置き見れば  
余り勤めの放らち故に 扶持も何も取り上げられる  
又は門前払ひと読みて さても主水は仰天いたし  
子供泣くのをそのまま置ひて 急ぎ行くのは白糸かたへ  
是はお出でか主水様よ したが今宵はお帰りなされ  
言へば主水はその物語り 襟(えり)に掛けたる戒名出して見せりや  
白糸手に取り上げて わしが心の悪ひが故に お安さんへも自害をさせた  
去ればこれから三途の川も お安さんこそ手を曳きませう  
主水の覚悟を白糸とどめ わしとお前と心中しては お安様への言ひわけ立たぬ  
お前死なずにながらへしゃんせ 二人子供を成人させて  
回向(えこう)頼むよ主水様よ言ふて白糸一と間へ入りて  
あまた朋輩(ほうばい)女郎衆を招き ゆづり物とて櫛こうがいをやれば  
くれば小春は不思議に思ひ コレサ姉さんどうした訳ぞ  
今日を限りてゆづり言ひ出し それにお顔もすぐれもしない  
言へば白糸 よく聞け小春 ヤンレエー 
「俺(わし)はサアエ幼き七ツの年に 人に売られて今此の里に  
つらい勤めもハヤ十二年 勤めましたよ主水様に  
日頃三年こん親したが 今度わし故ご扶持もはなれ  
又は女房の自害をなさる それに私が生存(ながらえ)おれば  
お職女郎の意気地が立たぬ死んで意気地を立てねばならぬ  
早くそなたも身なりになりて わしが為にと香花頼む  
言ふて白糸一卜間へ入りて 口の内にて唯一言と涙乍らにノウお安さん  
私故こそ命を捨ててさぞやお前は無念であろが  
死出の山路も三途の川も共に妾(わたし)が手を曳きませうと  
南無といふ声此の世の別れ あまた朋輩皆立寄りて  
人に情の白糸さんが 主水さん故命を捨てる  
残り惜し気に朋輩達が 別れ惜しみて歎く(なげ)くも道理  
今は主水も詮方なさに 忍びひそかに我家に帰り子供二人に譲りを置ひて  
すぐに其のまま一間に入りて 重ね重ねの身の誤りに 我と我が身の一生すつる  
子供二人は取り残されて 西も東もわきまへ知らぬ  
幼な心は哀れなものと あまた情死(しんぢう)もあるとはいへど  
義理を立ちたり意気地を立てて  
心合ふたる三人共に聞くも哀れな話でござる ヤンレエー 
 
鈴木主水白糸口説き5

花のお江戸のその側に 聞くも珍し情死(しんじゅ)ばなし  
所は四谷新宿町よ 紺ののれんに桔梗の紋は  
音に聞こえし橋本屋とて あまた女郎衆のある其の中に  
お職女郎の白糸こそは 年は十九で当世そだち  
愛嬌よければ皆人さんが 我も我もと名ざして上がる 
別けてお客を誰人と聞けば 春は花咲く青山辺の  
鈴木主水と言う侍よ 女房持ちにて二人の子供  
五つ三つは悪戯ざかり 二人の子供のある其の中に  
今日も明日もと女郎買いばかり 見るに見兼ねし女房のお安  
或る日我が夫(つま)主水に向かい これは我が夫(つま)主水様よ  
妾(めかけ)しや女房でやくのじゃないが 子供二人は伊達ではもたぬ  
十九や二十歳の身じゃあるまいし 人に意見を言う年頃に  
止めておく呉れよ女郎買いばかり 如何にお前が男じゃとても  
金のなる木は持ちやさんすまい 何うせ切れるが六段目には  
連れて逃げるか情死(しんじゅ)をするか 二つに一つの思案と見える  
併(あわ)して二人の子供が不愍 子供二人と妾(めかけ)の身をば  
末はどうする我が夫(つま)様よ 言えば主水は腹立顔で  
何の小癪な女房の意見 己が心で止まないものを  
女房位の意見じゃ止まぬ 愚痴なそちより女郎衆が可愛い  
それが不(いや)なら其の子を連れて 其方(そち)のお里へ出て行かしゃんせ  
愛想づかしの主水の言葉 又も主水はこやけになりて  
出て行くのが女郎買姿 後でお安は聞く悔しさと  
如何に男の我儘じゃとて 死んで見せうと覚悟はすれど  
二人の子供につい引かされて 死ぬに死なれず嘆いて居れば  
五つなる子が側えと寄りて 是さ母さんなぜ泣しやんす  
気色悪けりゃお薬あがれ 何處ぞ痛くばさすって上げよか  
坊が泣きます乳くだしゃんせ 言えばお安は顔ふり上げて  
どこも痛くて泣くのじゃないが 稚なけれ共よく聞け坊よ  
あまり父様身持ちが悪い 意見をすれば小癪な奴と  
たぶさ摑んで打擲なさる さても無念の夫のこと覚悟はすれど  
後に残りし汝等が不憫  どうせ女房の意見じゃ止まぬ  
さればこれから新宿町の 女郎衆頼んで意見さしようと  
三つなる子を背中に背負ひ 五つなる子の手を引き連れて  
出て行く姿のさも憐れなる 行けば程なく新宿町よ  
店ののれんに橋本屋とて 見れば表に主水の草履 
夫を見るより新造を招き 妾しや此方の白糸さんに  
何うぞ会ひ度い会わせてお呉 言えば新造は二階に上り  
コレサ姉さんよ白糸さんよ 何所の女中か知らない方が  
何かお前に用あるそうな 会うてやらんせ白糸さんよ  
言えば白糸二階を下りて 妾しゅ尋ねるお女中と言うは  
お前さんかえ何用がござる 言えばお安は初めて逢うて  
妾しや青山主水の女房 お前見かけて頼みが御座る 
夫の主水は勤めの身分 日々の勤めをおろかにすれば  
末は御扶持に離るる程に ここの道理を聞き分けられて  
何うぞ我が夫主水殿に 意見なされて白糸さんよ  
せめて此の子が十にもなれば 晝夜揚げづめせられよとままよ  
お前が女房にならんずとても どうぞ此の後主水殿が  
三度来たなら一度は揚げて 二度は意見をして下さんせ  
言えば白糸言葉につまり 私は勤めの身の上ならば  
女房持ちとは夢にも知らず ホンに今迄懇親なれば  
さぞや憎かろお腹も立とう 私も之から主水様に  
意見しましょうお帰りなされ 言うて白糸二階に上がる  
あとで二人の子を引き連れて お安は我が家へ帰りける  
遂に白糸主水に向ひ お前女房が子供を連れて  
妾し頼みに来ました程(ほど)に 今日は御帰り止めては済まぬ  
言えば主水はにっこりと笑ひ 置いてお呉よ久しいものだ  
遂に其の日は居つづけなさる 待(ま)てど暮らせど帰りもしない  
お安は子供を合手にいたし 最早や其の夜は早や明けたれば  
支配方より使がありて 主水身持ちがふらちじゃ故に  
扶持も何もかも召上られる 後でお安は途方に暮れて  
思案しかねて当惑致し 扶持に放れて長らく居れば  
馬鹿なたわけと言われるよりも 武士の女房じゃ自害をしょうと  
二人の子供を寝かせて置いて 硯を取出し墨すり流し  
落つる涙が硯の水よ 涙止めて書置き致し  
白い木綿で我が身を巻いて 二人子供の寝たのを見れば  
可愛い可愛い子に引かされる かくてはならじと気を取り直し  
刀逆手に持ちまして ぐっと自害の刃の下に  
二人の子供はそれとも知らず 早や目をさましそばに寄りて  
三つなる子は乳にとすがり 五つなる子は背中にすがり  
これさ母さんのう母さんと 幼な心で早や泣くばかり  
主水それとは夢にも知らず 女郎屋立ち出でほろ酔機嫌  
女房じらしの子唄で帰る 表口より今帰りたと  
言えば子供は駆け出し乍 もーし父様お帰りなるか  
何故か母さん今日に限り 物を言わずに一日お寝る 
ホンに今迄いたづらしたが 御意は反かぬのう父様よ  
何卒詑して下さりませと 聞いて主水は驚き乍  
合の唐紙さらりと開けて 見ればお安は血潮にそまる  
俺が心が悪いが故に 自害させたか不憫な事よ  
涙ながらに二人の子をば 膝に抱き上げ可愛いや程に  
何も知るまいよく聞け坊よ 母は此の世の暇じゃ程に  
言えば子供は死骸にすがり もーし母さん何故そうなさる  
坊や二人はどうしましょうと 嘆く子供を振り捨ておいて  
旦那寺へと急いで行きて 戒名貰うて我家へ帰り  
哀れなるかや女房の死骸 莚(むしろ)に包んで背中に負うて  
三つなる子を前にと抱え 五つなる子の手を引き乍ら  
行けばお寺に葬りまする 是非もなくなく我家に帰り  
女房お安の書き置き見れば 餘り勤の放埓故に  
扶持も何もかも取上げられる 其の上門前佛と読んで  
偖(さて)も主水は仰天いたし 子供泣くのを其の儘おいて  
急ぎ行くのは白糸方へ 是はお出か主水様よ  
したか今宵はお帰りなされ 言へは主水はそれ物語  
襟の懸けたる戒名出して 見せりゃ白糸手に取上げて  
妾の心が悪いが故に お安さんへも自害をさせた  
されば之から三途の川も 手を引きますよお安さん  
言えば主水は暫しを止め 俺もお前と情死をしては  
親方さんへ言い訳立たぬ 言へば白糸主水に向ひ  
お前死なず永らえさんせ 二人子供を成長させて  
回向頼むよ主水様と 言うて白糸一間に入りて  
数多朋輩女郎衆を招き ゆづり物とてくしこうがいを  
やれば小春は不思議に思い これさ姉さんどうした訳か  
今日に限りゆづり物出して 夫にお顔もすぐれもしない  
言へば白糸よく聞け小春 わたしは幼き七つの歳に  
人に売られて此の廓で つらい勤めも早十二年  
努めましたよ主水様に 日頃三年懇親したが  
今度妾し故御扶持に放れ 又も女房に自害をさせて  
それで妾が永らえ居れば お職女郎の意気地がたたぬ  
死で意気地を立てねばならぬ 早く其の方も身ままになって  
妾がためにと香花たのむ 言って白糸一間に入りて  
口の中では只一人ごと 涙ながらにのおお安さん  
妾故にと命を捨てて 嘸(さぞ)やお前は無念であろう  
死出の山路も三途の川も 共に妾が手を引きましょうと  
南無と言う聲此の世の別れ あまた女郎衆のある中で  
人に情けの白糸さんが 主水様故命を捨てる  
名残惜しげに朋輩衆が 別れ惜しみて嘆くも道理  
今は主水も詮方なさに 忍び密かに我家に帰り  
子供二人にゆづりを置いて 直ぐに其の儘一間に入り  
重ね重ねの身の誤と 我と我が身一生すてる  
子供二人は取り残されて 西も東も辧え知らぬ  
稚な心の哀れな者よ あまた情死もあるとは言えど  
義理を立てたり意気地を立てて 心合う三人ともに  
聞くも哀れな話で御座る 
 
 
鈴木主水(?‐1801)

江戸時代後期の武士。江戸青山百人町にすみ、享和元年内藤新宿の遊女白糸と心中したという。流行唄(はやりうた)「ヤンレイくどき」にうたわれひろく知られた。嘉永5年(1852)「隅田川対高賀紋(ついのかがもん)」(三世桜田治助作/江戸市村座初演)として歌舞伎化され、上方系の「百人町浮名読売(うきなのよみうり)」が近年でも上演されている。   
■ 
?‐享和1(1801)  
江戸内藤新宿橋本屋の遊女白糸と情死し,家名断絶となったと伝えられる武士。詳細は不明だが,天保〜嘉永期(1830‐54)に流行唄となり,瞽女(ごぜ)唄のヤンレイクドキや盆踊唄にうたわれ,また実録本にも行われて著名であった。その歌詞は〈花のエエ花のお江戸のその町々に,さても名高き評判がござる,ところ四谷の新宿辺に,軒を並べて女郎屋がござる,紺ののれんに桔梗の紋は,音に聞えし橋本屋とて,あまた女郎衆が皆玉揃ひ,中に全盛白糸様は年は十九で当世姿,立てば芍薬座れば牡丹,我も我もと名指しで上る,わけてお客のあるその中に,ところ青山百人町に鈴木主水といふ侍は,女房持にて子供が二人……〉。  
 
歌舞伎「隅田川対高賀紋(すみだがわついのかがもん)」の通称。世話物。三世桜田治助作。1852年江戸市村座初演。鈴木主水と宿場女郎白糸との情話を脚色したもの。  
 
俗説、およびこれを脚色した音曲・戯曲上の人物名。事実は未詳だが、江戸青山に住んだ侍で、1801年(享和1)内藤新宿(ないとうしんじゅく)の娼妓(しょうぎ)橋本屋白糸(しらいと)と情死したといわれ、嘉永(かえい)(1848〜54)ごろ、瞽女(ごぜ)の唄(うた)「ヤンレェくどき」に謡われて名が広まり、清元(きよもと)・常磐津(ときわず)や八木節(やぎぶし)にも扱われた。歌舞伎(かぶき)に脚色した最初は、1852年(嘉永5)3月江戸市村座初演、3世桜田治助(じすけ)作『隅田川対加賀紋(ついのかがもん)』で、書替え物に『褄重縁色揚(つまかさねえにしのいろあげ)』、『鈴木主水恋白糸(こいのしらいと)』『恋音便(こいのたより)主水白糸』などがあり、なかでも『百人町浮名読売(ひゃくにんまちうきなのよみうり)』は近年でも上演され、7世沢村宗十郎の当り芸「高賀(こうが)十種」に選ばれている。  
 
享和元年(1801)内藤新宿の遊女白糸と情死した武士の名。また、その事件を主題とした戯曲や歌謡。歌謡では踊り口説 (くど) きなどに今も残り、歌舞伎では嘉永5年(1852)江戸市村座初演の3世桜田治助作「隅田川対高賀紋 (すみだがわついのかがもん) 」などがある。 
鈴木主水・白糸口説  
文久(1860年)のころから、鈴木主水・白糸口説 (くどき)が全国的に流行したようです。八木節にあるというのは聞いています。詩人の萩原朔太郎 が「悲しき新宿」(昭和11年)という文章を書いていています。・・・昔私が子供の時、新宿は街道筋の宿場であって、白く埃っぽい田舎の街路が続いて居た。道の両側に女郎屋が並び、子供心の好奇心で覗いて歩いた。その女郎屋の印象は、私の故郷上州で唄う盆踊りの歌「鈴木主水(もんど)という侍は、女房子供のあるその中で、今日も、明日もと女郎買いばかり。」という歌の田舎めいた侘しい旋律を思い出させた。・・・ 萩原朔太郎は群馬県前橋出身です。  
また、関東だけでなく、広島にも盆踊り扇子踊に「鈴木主水・白糸口説」が歌われているそうです。江戸の末期になりますが、行商によってもたらされたとされています。「鈴木主水口説き」は、口説き物の代表的なもので、いろんなパターンがあるようです。例えば、「御杖祭文音頭」と名付けられて、1段目に鈴木主水の女房のお安が自害するまで、2段目では主水が敵討ちの身であることが明らかとなり、3段目では見事に仇を打ち白糸と心中して果てるという物語になっています。仇討ちとなると、完全につくられた物語になります。  
 
五人廻し

五人廻しは落語の演目の一つ。 
関東の遊郭には「廻し」という制度がある。一人の遊女が一度に複数の客の相手をするのであるが、遊女の嫌な客になると長時間待たされたり、ひどいのにはちょっとしか顔を見せない「三日月振り」とか、全く顔を見せない「空床」「しょいなげ」。来てもすぐ寝る「居振り」などがあるので、客はたまらない。しばしばもめ事が起こってしまう。 
そんな客の苦情を一手に引き受けるのは、「若い者」「妓夫太郎」(ぎゅうたろう)と呼ばれる男性従業員である。吉原のある遊郭、遊びは終わって、客と遊女が床にはいる大引け(午前0時ごろ)も過ぎたころ、若い者は、客たちからお目当ての遊女が来ないと文句を言われて四苦八苦である。 
一人目の客からはさんざん毒づかれて、吉原の由来まで聞かされた揚句、「ぐすぐすしてやがると、頭から塩かけてかじっちゃうぞっ!!」と一喝される。 
「少々御待ちを願います。ええ、喜瀬川さんえ」と汗だくになって遊女を探しているが、二人目の客に「ちょいと廊下ご通行の君」と呼ばれる。今度は薄気味悪い通人で、ねちねちと責められ、「君の体を花魁の名代として拙に貸し給え。」と迫られ、焼け火箸を背中に押しつけられそうになる。 
ほうほうの態で逃げ出すと、三人目の客に捕まる。権柄づくの役人で「小遣!給仕!」と呼ばれ、さんざん文句を並べて「この勘定書きに、娼妓揚げ代とあるがね。オイ、こら何じゃ。相手が来んのに揚げ代が払えるか。法律違反じゃよ。」と責められる。 
「へえ。お待ちくださいまし。」と逃げだせば、四人目の客が「若けえ衆さあん。若へえ衆さあん。ちょっくらコケコ!」と呼んでいる。「鶏だね。どうも。・・・へい。何でげす。杢さんじゃありませんか。」見れば馴染みの田舎客である。 
だが、この田舎客も前の三人と同じ苦情を並べたて「ホントにホントにハア。ホントにイヤになりんこ。とろんこ。とんたらハア。トコトンヤレ、トロスク、トントコオ。オウワアイ!」と意味不明の叫びをあげて若い者を呆れさせる。 
そんな騒ぎをよそに遊女の喜瀬川はお大尽と遊んでいるが、若い者の知らせにお大尽の方が気にして「おい。花魁。どうも困ったことじゃな。ワシが揚げ代を他の四人に渡してやるちゅうに、帰ってもらうべえ。」「じゃあ、わちきにもお金をくんなまし。」「お前に銭こ渡してどうする。ほれ。」「ありがと。じゃ、このお金を主さんに上げますから、四人と一緒に帰ってくんなまし。」 
 
廓噺の代表的な演目である。明治末期〜大正時代にかけて、名人と呼ばれた初代柳家小せんが、今日の演出を完成した。六代目三遊亭圓生、五代目古今亭志ん生も小せんから教えてもらっている。なお、圓生は、サゲが地味すぎるとの理由で田舎客の叫び声のあと「お馴染みの"五人廻し"でございます。」の終わり型を採り、サゲの五人目の代わりに押入れに入って「てえへんだ。おれの女がいねえ。天井裏をさがすんだ。」と大騒ぎする客を入れて五人にしている。噺自体は古く、「七人廻し」の演出もあった。歌舞伎にも取り入れられ、澤村宗十郎の家の芸である「高賀十種」の一つにある「百人町浮名読売」(1852年初演)に「五人廻しの場」として噺がそのまま演じられる。 
客一人一人の描写は難しく、一人目の立て板に水の能弁。二人目の絡みつくようなねちこさ。三人目の漢語交りの可笑しさ。四人目の訛りの技巧などを使い分けねばならない。その上に、今は存在しない廓の雰囲気を観客に伝えねばならず、かなりの技量が求められる。
 
昭和初期の新宿 

江戸時代の内藤新宿は甲州街道と青梅街道の追分に位置し、馬糞と風埃りの舞う甲州街道第一番目の宿場で江戸四宿のうちになります。明治の御一新後、鉄道線路や西洋式の経済構造が定著し財閥系合資会社の出現を初めとして大正時代に至り会社員とか、官吏とか称する階層が一挙に出現、郊外一帯に居住するようになりますと、内藤新宿は大変貌を始めます。 私達も知らない現代新宿の起点となった昭和の初期、変革期のお話・・・ 
 
”悲しい新宿”萩原朔太郎「廊下と室房」(昭和11年)  
世田谷に移ってから、新宿に出る機会が多くなった。新宿を初めて見た時、田圃の中に建設された、一夜作りの大都会を見るような気がした。周囲は真闇の田舎道で、田圃の中に蛙が鳴いている。そんな荒寥(こうりょう)とした曠野(こうや)の中に、五階七階のビルディングがそびえ立って、悲しい田舎の花火のように、赤や青のネオンサインが点って居る。そして真黒の群集が、何十万とも数知れずに押し合いながら、お玉杓子(おたまじゃくし)のように行列して居る。悲しい市街の風景である。……アスファルトの街路の上を無限に続く肥料車(こやしぐるま)が行列して居る。歩いている人間まで田舎臭く薄汚い。新宿はどにも人出が多くて、新宿ほどに非近代的な所はなかろう。  
昔私が子供の時、新宿は街道筋の宿場であって、白く埃っぽい田舎の街路が続いて居た。道の両側に女郎屋が並び、子供心の好奇心で覗いて歩いた。その女郎屋の印象は、私の故郷上州で唄う盆踊りの歌「鈴木主水(もんど)という侍は、女房子供のあるその中で、今日も、明日もと女郎買いばかり。」という歌の田舎めいた侘しい旋律を思い出させた。  
そんな田舎臭い百姓歌の主人公が、灯ともし頃に羽織をきて、新宿の宿場を漂泊して居るような気がした。そしてこの侘しい印象は、ネオンサインの輝く今の新宿にも、不思議に依然として残されて居るのである。……   
……街路は冬のように白っちゃけて、昔ながらの大道店が、ガマの油や、オットセイや、古着類や、縞蛇や、得たいのわからぬ壊れた金物類などを売って居る。歩いている人たちも、一様に皆黒いトンビを着て、田舎者の煤ぼけた様子をして居る。秋の日の侘しく散らばる青梅街道。此処には昔ながらの新宿が現存して居る。しかもガード一つ隔てて、淀橋の向こうに二幸や三越のビルディングが塁立し、空には青い広告風船があがって居る。何という悲しい景色だろう。  
 
と萩原朔太郎さんは大分屈折した御様子ですが、一方、大正時代の西洋化で開放感を享受する人々にとってはモダーンな楽しい街として人気が在ったようです。  
萩原朔太郎は群馬県前橋出身です。 
 
白糸塚
 

今日は 成覚寺に行って見ましょう  
靖国通り沿いで わかりやすいです  
ここは 江戸時代は 内藤新宿の「投げ込み寺」  
今は 万延元年(1860)・・・幕末ですね に立った  
「子供合埋碑」というのが 残っています  
子供・・・っていうのは 飯盛り=遊女のことですね  
当時の遊郭の近くには どこもこういうお寺があります  
吉原の浄閑寺が有名ですね  
そして 宿場の北を流れていた玉川上水に 入水した心中者 男女18人の霊を弔う旭地蔵もあります  
台座の部分には その名前も刻まれています 元は 玉川上水のほとりに立っていました  
その右下に 小さな石の墓が三つ並んでいますが 真ん中が有名な戯作者  
恋川春町のもの  
「金々先生栄華夢」「鸚鵡返文武双道」など 江戸検でもおなじみの本の作者です  
この人は 倉橋格(いたる)という 駿河小島藩の江戸用人で れっきとした武士ですね  
小石川春日町に住んだので 恋川春町  
狂歌名は 酒上不埒(さけのうえのふらち)  
うわあ 私もこの名前でも良かったかな・・・  
寛政の改革で 出版統制を受ける直前に急死  
おそらく 自害ではないかと言われています  
墓の側面に刻まれた 辞世の句は  
「生涯苦楽 四十六年  即今脱却 浩然帰天  
我もまた 身はなきものとおもひしが  今はのきはは さびしかりけり」  
そして もう一つ 歌舞伎にもなった心中物の主人公 白糸塚もあるんです  
これは「伝説 鈴木主水(もんど)白糸ゆかりの地」という木札が 立っているはずなんですが 当日は見過ごしてしまいましたね  
塚そのものは その左下にあるとっても小さいものです  
享保元年(1801) 鈴木主水という侍と内藤新宿の遊女・白糸が心中したという伝説を 嘉永5年 歌舞伎に仕立てた「隅田川対高賀紋(すみだがわついのかがもん」が大当たり  
お話は タイトルからもわかるよう 鏡山旧錦絵(かがみやまこきょうのにしきえ)という 奥女中の敵討ちの話と いっしょになったものですが このときお初と白糸の役をやった坂東しうか(秀佳)が これを立てました  
歌舞伎があたると 碑が立つのは 四谷怪談でも何でも同じですね  
もともと 心中事件はいくつもあったので 本当にこの名前であったのは わかりません  
たぶん違うでしょう 侍の実名を出した歌舞伎はできませんし そもそも吉原以外で 「白糸」というような太夫名はつけられません  
高尾だの玉菊などの名前をつけるのは 吉原のみと決まっていて 岡場所では みんな  
お倉 おとよなど 名前に「お」をつけて呼ぶだけです  
ただ この話は 口説き節という 物語詩を同じ旋律の繰り返しにのせて謡うバラッドというか   
今のラップのような流行歌になって 日本中に広まりました  
広めたのは 瞽女(ごぜ)と呼ばれる盲目の芸能遊行者と言われています  
庄内地方や 郡上踊り 八木節 奈良の御杖祭文音頭にも「鈴木主水口説き」と言うのが残っていますし  
他の地方でも 盆踊りの代表的なジャンルとして残っていたりします  
当時 非常に流行したんでしょうね  
昭和4、5年に「新宿まつり」で 仮装行列をしたところ  
土地柄から 主水と白糸が何組もかぶってしまい 困ったと田辺茂一も語っています  
塚石には 「すえの世も 結ぶえにしや 糸柳」  
と彫ってありますよ 
投げ込み寺  
投げ込み寺は、身よりのない遊女や行き倒れ[などの遺体が放り込まれたことからそれらの寺についた俗称です。  
最も有名なのが、三ノ輪の浄閑寺です。ここは、吉原の遊女が病気で死んだ時などに、その亡骸を投げ込みました。安政の大地震(1855年)の時には、特に多くの遊女が投げ込まれました。投げ込まれた遊女の数は、江戸時代に吉原が開業以来25000人に及ぶそうです。平均年齢は21歳ということですからあわれです。  
内藤新宿の投げ込み寺、成覚寺は、明和9(1772)年に新宿遊郭が再興してから大正12(1923)年までの間に死んだ遊女は3000体(2200の説があります)が投げ込まれたと言います。規模でみれば、浄閑寺の新吉原総霊塔に葬られている25000人には遠く及びませんが、新宿にも、忌まわしい歴史があったわけです。  
浄閑寺のことは有名で、知っていました。そして、偶然成覚寺を知って、内藤新宿がすごく身近に感じられました。ここにそういう世界があったのだと感じるものが生まれました。  
各地の宿場にも同様の投げ込み寺はあったのです。東京品川の海蔵寺、板橋の文殊など。  
また、白糸と鈴木主人の話は歌舞伎になり大当たしたようです。  
嘉永5年(1852)の江戸市村座初演の3世桜田治助作「隅田川対高賀紋(すみだがわついのかがもん)」です。その時の役者2代目坂東秀佳が成覚寺に白糸の塚を作ったということです。歌謡では。踊り口説(くど)きなどに今も残っています。それは全国的で、今でも盆踊りで歌われることがあるようです。 
成覚寺  
浄土宗の寺。文禄3年(1594)の創建と伝わります。江戸時代、内藤新宿の宿場の飯盛女の投げ込み寺として知られます。  
子供合理碑  
「子供」とは遊郭の抱え主が飯盛女を呼ぶときの言葉です。  
「江戸時代に内藤新宿にいた飯盛女(「子供」と呼ばれた)達を弔うため、万延元年(1860)11月に旅籠屋中で造立したもので、惣墓と呼ばれた共葬墓地の一角に建てられた墓じるしである。飯盛女の抱えは実質上の人身売買であり抱えられる時の契約は年季奉公で、年季中に死ぬと哀れにも投げ込むようにして惣墓に葬られたという」(新宿区教育委員会掲示)  
「女たちの待遇は犬猫にも劣る、ひどい取り扱いであった。たとえば、楼主や店主などに酷使されて死んだ女達から、着物をはぎ、髪飾りはもちろんのこと、身につけているすべてのものを取りあげ、ほとんどが、さらし木綿にお腰一枚という哀れな姿で、しかも米俵にくるんで寺に投げ込んだという。その数およそ3000体余りだったといわれ、寺の手がまわりかねるときは、そのまま放置されて鴉が群れをなして、その死体にとびかかり眼玉をつつき、また夜になると燐火がこの寺の名物になっていたといわれていた。この寺の別名を「投げ込み寺」というのはこのような理由からであろう。」(『新宿区史跡散歩』学生社)。  
こんな風習は明治30年(1897)頃まで続いたといいます。  
白糸塚  
塚には「すえの世も結ぶえにしや糸柳」と刻まれ、歌舞伎で市村座が演じ大当たりした遊女白糸と、青山百人組の下級武士鈴木主水との比翼塚です。白糸は古道具屋の娘でしたが吉原に身売りされ、後に内藤新宿の橋本屋に転売されてきました。  
鈴木主水は白糸の所へ通い詰めます。鈴木主水の妻お安は、意見をしますが聞き入れてくれません。思いあまって、白糸に直接頼みに行きます。白糸は、お安の気持ちをくんで主水と別れようと決意します。しかし主水は、白糸の話に耳を貸しません。  
やがて、このことが藩に知れ、主水は扶持を召し上げられてしまいます。お安は悲しみにうちひしがれ、子どもを残したまま自害してしまいました。  
それを聞いた白糸も、お安に申し訳が立たないと自らの命を絶ちます。そして、主水も2人の後を追うように割腹自殺を遂げたのです。  
八木節で、次のように歌われます。  
『花のエエ花のお江戸のその町々に、さても名高き評判がござる、ところ四谷の新宿辺に、軒を並べて女郎屋がござる、紺ののれんに桔梗の紋は、音に聞えし橋本屋とて、あまた女郎衆が皆玉濫ひ、中に全盛白糸様は年は19で当世姿、立てば芍薬座れば牡丹、我も我もと名指しで上る、わけてお客のあるその中に、ところ青山百人町に鈴木主水といふ侍は、女房持にて子供が二人……』  
旭地蔵  
玉川上水に身を投げた情死者の慰霊碑です。寛政12年(1800)から、文化10年(1813)まで18名の名が刻まれています。寛政12年新宿高校付近の玉川上水の川岸に建てられていたものを、明治12年(1879)に現在地に移したものです。  
春川恋町の墓  
江戸中期の戯作者。駿河小嶋藩松平家の家臣で、本名は倉橋格(いたる)。本では、藩邸が小石川春日町にあったこともあって恋川春町としました。狂歌の名前は酒上不埒。安永4年(1775)刊の『金々先生栄華夢』はベストセラーになり、黄表紙の祖といわれています。  
寛政元年(1789)刊の『鸚鵡返文武二道』は大好評でしたが、これが寛政の改革の老中松平定信を批判したと、呼び出しを命じられます。しかし、病を理由に出頭せず、死んでしまいます。一説には、主筋にあたる小島藩に類を及ぼさないため、自らの命を絶ったともいわれています。享年46。墓石の左面に「生涯苦楽四十六年 即今脱浩然帰天 我も万た身はなきものとおもひしか今ハのきハさ比しかり鳧」とあります。 
  
内藤新宿1

江戸時代に設けられた宿場の一つ。甲州街道に存在した宿場のうち、江戸日本橋から数えて最初の宿場であり、宿場内の新宿追分から甲州街道と分岐している成木街道(青梅街道)の起点でもあった。現在の住所では、東京都新宿区新宿一丁目から二丁目・三丁目の一帯にあたる。東海道の品川宿・中山道の板橋宿・日光街道(奥州街道)の千住宿と並んで、江戸四宿と呼ばれた。地名から四谷新宿と呼ばれることもある。 
開設の背景  
慶長9年(1604年)、江戸幕府により日本橋が五街道の起点として定められ、各街道で1里(約4km)ごとに一里塚を設けたほか、街道沿いに宿場が整備されていった。甲州街道最初の宿場は、慶長7年(1602年)に設けられていた高井戸宿である。しかし、高井戸宿は日本橋から約4里と遠く離れ、輸送や旅行には大変不便であった。東海道の品川宿・中山道の板橋宿・日光街道(奥州街道)の千住宿は、いずれも日本橋から約2里の距離にあり、五街道の内で甲州街道のみが、江戸近郊に宿場を持たなかったのである。このため、日本橋 - 高井戸宿間での公用通行に対して人馬の提供を行う必要があった日本橋伝馬町と高井戸宿は、負担が大きかったとされる。幕府成立より約100年、江戸の発展に伴い甲州街道の通行量も増加を続けていた。 
開設  
元禄10年(1697年)、幕府に対し浅草阿部川町(現在の台東区元浅草)の名主であった高松喜兵衛など5名の浅草商人が、甲州街道の日本橋 - 高井戸宿間に新しい宿場を開設したいと願い出る。請願を受けた幕府では、代官・細井九左衛門や勘定奉行・荻原重秀などが審査にあたった。  
翌年6月、幕府は5600両の上納を条件に、宿場の開設を許可。日本橋から2里弱の距離で、青梅街道との分岐点付近に宿場が設けられることとなった。宿場予定地には信濃国高遠藩・内藤家中屋敷の一部や旗本の屋敷などが存在したが、これらの土地を幕府に返上させて宿場用地とした。  
高松喜兵衛らは新たに5名の商人を加えて宿場の整備に乗り出し、この10名は「元〆拾人衆」「内藤新宿御伝馬町年寄」などと呼ばれた。元〆拾人衆の手で街道の拡幅や周辺の整地が行なわれ、元禄12年(1699年)に内藤新宿が開設された。宿場名である内藤新宿は、以前よりこの付近にあった「内藤宿」に由来する。内藤新宿への助郷は、開設当初どの村が請け負うのか明確でなかったが、後に角筈村など周辺24か所と定められた。  
なお、浅草商人が莫大な金額を上納してまで宿場開設を願い出た理由としては、この地を新たな繁華街・行楽地として開発し、商売によって利益を上げる計画だったとする説が有力である。 
繁栄  
内藤新宿は玉川上水の水番所があった四谷大木戸から、新宿追分(現在の新宿三丁目交差点付近)までの東西約1kmに広がり、西から上町・仲町(中町)・下町に分けられていた。宿場開設に尽力した高松喜兵衛は、喜六と名を改め内藤新宿の名主となり、以後高松家当主は代々喜六を名乗り名主を務めていく。開設当初はこの高松家が本陣を経営していたが、のちに本陣が存在しない時期もあるなど、火災による焼失や宿場の廃止・再開による混乱もあり、本陣や脇本陣に関しては一定していない。  
宿場内では次第に旅籠屋や茶屋が増え、岡場所(色町)としても賑わっていった。宿場に遊女を置くことは認められていなかったが、客に給仕をするという名目で飯盛女・茶屋女として置かれていた。享保3年(1718年)には、宿場内に旅籠屋が52軒という記録が残っている。吉原がしばしば奉行所に提出していた遊女商売取り締まり願いの対象にもなり、これが宿場廃止となった原因の一つという。  
また、元禄15年(1702年)2月と正徳6年(1716年)正月には、火災で大きな被害を出している。 
廃止  
享保3年(1718年)10月、内藤新宿は幕府によって廃止される。宿場開設より20年足らずでの決定であった。このため、高井戸宿が再び甲州街道最初の宿場となった。廃止により旅籠屋の2階部分を撤去することが命じられ、宿場としての機能は失われた。町そのものは存続したが、賑わいが消え人口も減少していくことになる。幕府が表向きに廃止の理由として上げたのは、「甲州街道は旅人が少なく、新しい宿でもあるため」不要、というものだった。しかし、この時期は8代将軍・徳川吉宗による享保の改革の最中であった。同じ10月に「江戸十里以内では旅籠屋一軒につき飯盛女は2人まで」とする法令が出されていることもあり、宿場としてより岡場所として賑わっていた内藤新宿は、その改革に伴う風紀取締りの一環として廃止されたと考えられている。 
再開運動  
享保8年(1723年)7月、高松喜六など4名が道中奉行所に宿場の再開を願い出る。宿場廃止に伴う町人の窮乏や、高井戸宿・伝馬町の負担増を理由とし、再開の際には1100両を上納するとの内容だったが、再開は認められなかった。享保20年(1735年)には、逆に幕府側である南町奉行所から日本橋の伝馬町に対し、内藤新宿再開の検討をするようにとの指示が出る。やはり高井戸宿では遠すぎて問題が多かったのである。しかし実際に伝馬町が提出した再開願いは、元文2年(1737年)に吉宗の御側御用取次であった加納久通により却下されてしまう。続いて、内藤新宿の西にあたる角筈村に宿場を新設する案が出る。寛保から明和年間にかけて数度に渡り開設願いが出されるが、いずれも認められることはなかった。これらの宿場再開・新設願いが却下され続けた理由は、廃止の際と同じく風紀上の問題が懸念されたためという。 
再開  
明和9年(1772年)4月、内藤新宿が再開される。50数年ぶりの再開であり、「明和の立ち返り駅」と呼ばれた。  
これまで却下され続けた再開が認められた背景には、品川宿・板橋宿・千住宿の財政悪化があった。各街道で公用の通行量が増加し、宿場の義務である人馬の提供が大きな負担となっていたのである。幕府は宿場の窮乏に対し、風紀面での規制緩和と、宿場を補佐する助郷村の増加で対応することになる(後者は伝馬騒動を引き起こして失敗に終わる)。  
幕府は明和元年(1764年)に、それまで「旅籠屋一軒につき飯盛女は2人まで」とされていた規制を緩め、宿場全体で上限を決める形式に変更。品川宿は500人、板橋宿・千住宿は150人までと定められ、結果として飯盛女の大幅な増員が認められた。これにより、各宿場の財政は好転し、同時に内藤新宿再開の障害も消滅した。また、10代将軍・徳川家治の治世に移り、消費拡大政策を推進する田沼意次が幕府内で実権を握りつつあったことも、再開に至る背景にあるとする説もある。  
それでも宿場が再開されるまでには歳月を要し、最終的には高松喜六(5代目)の請願で許可が下りている。再開に際して飯盛女は宿場全体で150人までとする、年貢とは別に毎年155両を上納する、助郷村は33か所とする、などの条件が定められた。  
宿場の再開により町は賑わいを取り戻し、文化5年(1808年)には旅籠屋が50軒・引手茶屋80軒との記録が残る。江戸四宿の中でも品川宿に次ぐ賑わいを見せ、その繁栄は明治維新まで続いた。現在では内藤新宿という地名は残っていないが、新宿の名はこの内藤新宿に由来するものである。 
逸話  
旗本・内藤新五左衛門(新五郎・新左衛門とも)の弟に、大八という者がいた。大八は内藤新宿の旅籠屋へ遊びに出かけて飯盛女と揉め、下男により袋叩きにされるという醜態をさらしてしまう。これを知った兄の新五左衛門は、大八を切腹させて大目付の元へ弟の首を届け、自らの知行と引き換えに、武士を侮辱した宿場の廃止を要求した…という話がある。内藤新宿廃止の原因として伝えられた事件だが、この事件が本当に起こったものなのかは不明である。 
  
内藤新宿2
 

甲州街道の遊廓  
江戸のころ公認の遊廓は吉原のみであった。しかし、街道筋の宿場にも半公認の飯盛女と呼ばれる実質的な女郎のいる飯盛旅籠があった。これらの旅籠は一軒当たり二名までと制限があったが実際にはこれより多くいたようである。目に余るようであれば幕府の取り締まりも行われていた事が記録に見えている。明治になると吉原、根津(州崎)、品川、千住、板橋、新宿、八王子、府中、調布の府内九カ所が名実と共に官許の遊郭免許地となった。吉原、根津以外はすべて街道筋の飯盛旅籠である。
 
内藤新宿 (江戸切り絵図より)
四ツ谷 (江戸切り絵図より)
寛政11年(1799)飯盛女のいる旅籠は現在の3丁目付近に20軒、2丁目に16軒、1丁目に16軒あった。江戸期の町名でいうと、上町、仲町、下町である。慶応4年(1868)新撰組が主体の甲陽鎮撫隊の結成と出陣式を祝う宴が内藤新宿の妓楼を借り切って行われている。甲陽鎮撫隊の行く先は甲府城で江戸へ進軍中の東山道官軍を阻止すべく派遣された。大正7年になると甲州街道沿いにあった妓楼が表通りにあるのは好ましくないとの理由で少し奥まった新宿2丁目に移転する。この時移転した妓楼は53軒だったとあるから江戸期の頃と軒数は大差ない。この2丁目の位置は現在の2丁目と少し違うようで昭和始めの地図で見ると末広亭のある通りと東側の要通りの間に3丁目と2丁目の境界線が有り、要通りは大門通りと表記されている。遊廓にふさわしい名称である。通りの両側には妓楼らしき名の店が建ち並んでいる。そしてこの区画の堺には板塀があったとされている。やはりここが遊廓だったとみて差し支えがないだろう。現在の2丁目の中央当たりに仲通りがあり、この通り名からここが遊廓があったころの中心地なのではないかと勝手に想像していたがどうも江戸期の町名の仲町からきているようである。戦後の赤線時代にはこの辺りが中心地であったような雰囲気もあるがどうも判然としない。当時の別な資料を見ると現在の2丁目の北側が赤線で南側は青線だったとなっている。昭和初期の地図で欠落している部分を埋める資料であり、新宿遊廓はL字状の区画だったと見るべきであろう。 
 
内藤新宿3 / 新宿の由来 

甲州街道の第一番目の宿場は高井戸宿でしたが宿場が遠く人馬ともに難儀だったそうです。そこで、浅草阿部川町に住む名主喜兵衛が元禄10年に同志4人と共に、大宗寺の南東に宿場を開設するように、幕府に願いを出しました。この願いは元禄11年に許可となり、信州高遠藩内藤大和守の下屋敷や旗本朝倉氏の屋敷地を返上させて新しい宿場を造りました。大名の内藤家があったので 「内藤新宿」と呼ばれました。  
宿場は大木戸側(当時の宿場には往来規制のために大きな木戸がある町があ った)、から下町、仲町、上町に分かれ、東西九町十間余で、今の四谷4丁目 交差点から伊勢丹あたりまでだったそうです。新宿通り沿いに青梅街道と甲州街道との追分け(分岐点)があり、それは新宿三丁目交差点付近でした。今でも「新宿追分」として名前が残っています。また、この辺りに内藤家下屋敷があり、屋敷前には玉川上水が流れていたそうです。 
 
内藤新宿4 / 遊女哀れ 

甲州道中(甲州街道)は、徳川家康が整備した五街道(東海道、中仙道、奥州道中、日光道中、甲州道中)の一つだ。江戸から甲府を経て下諏訪で中山道と合流する。  
この道中の最初の宿場は高井戸(杉並区)だった。しかし日本橋を出発して四里八町(16、6km)もあったため、浅草阿部川町の名主喜兵衛は、太宗寺の南東に宿場を開設するよう幕府に願い出た。幕府は、譜代大名内藤家の下屋敷(現新宿御苑)の一部を返上させ、これに当てた。こうして「内藤新宿」は、元禄12年(1699年)2月に開設の運びとなった。  
宿場は、現在の四谷4丁目交差点(四谷大木戸)の200m西から伊勢丹(追分と呼ばれる甲州道中と青梅街道の分岐点)まで続いていた。内藤新宿は、江戸の出入り口に当たる四宿(品川宿、板橋宿、千住宿、内藤新宿)の一つとして繁栄し、その繁栄を支えたのが旅籠だったという。旅籠には飯盛女という遊女が置かれ、幕府公認の遊郭吉原から訴訟が起こるほどの繁盛振りだった。  
門前に内藤新宿の本陣があったという、新宿通りを少し入ったとことにある太宗寺に寄ってみた。ビルの谷間に、見落としてしまいそうにひっそりと建っている。太宗という坊さんが建てた草庵「太宗庵」がその前身だという。内藤家の信望厚く、菩提寺でもある。「内藤新宿のお閻魔さん」「しょうづかのばあさん」として親しまれている。  
門をくぐると、右手に大きな地蔵さんが鎮座していた。銅像で267cm。深川の地蔵坊正元が発願した「江戸六地蔵」の一つだ。神田鍋町の鋳物師太田駿河守正儀の作という。メモを取っていると、熱心に手を合わせていたおばあさんが、「案内所に説明書が置いてありますよ」と教えてくれた。  
その左手が閻魔堂。中は真っ暗。覗き込んでいると、先ほどのおばあさんが、「手前のボタンを押すと1分間だけ照明がつきますよ」と教えてくれる。親切なおばあさんだ。「内藤新宿のお閻魔さん」として庶民の信仰を集めた。閻魔大王の右側に舌を抜く巨大なペンチのようなものが立て掛けてある。閻魔堂内の左側に、「しょうづかのばあさん」として信仰を集めた奪衣婆(だつえば)像がある。足元に沢山の草鞋が置かれていた。奪衣婆は閻魔大王に仕え、三途の川を渡る亡者から衣服を剥ぎ取り、罪の軽重を計ったといわれる。右手には、亡者から剥ぎ取った衣が握られている。衣を剥ぎ取ることから、内藤新宿の妓楼の商売神として信仰された。閻魔堂前の境内は、いうなれば三途の川ということか。とりあえず、衣類も剥ぎ取られず、舌も抜かれずに済んだ。  
その隣に竹本呂角斎辞世歌碑があったが、年代もので全く読めない。隠れキリシタンが密かに拝礼したという織部型の切支丹灯籠もあった。当寺ゆかりの信州高遠藩主で譜代大名内藤正勝の墓がある。三日月不動堂の左側に、願掛けの返礼に塩を掛けるという珍しい風習のある「塩かけ地蔵」がある。雪を被ったように、真っ白に塩が掛けられていた。  
太宗寺の裏手、靖国通りに面して成覚寺ある。内藤新宿の飯盛女の「投げ込み寺」だった。共葬墓地に投げ込まれた飯盛女たちを弔う「子供合埋碑」や心中した男女らを供養するための「旭地蔵」、「無縁仏の塚」など、内藤新宿繁栄の裏面を物語る文化財が残されている。鈴木主水と遊女白糸の悲恋を語る「白糸塚」もあった。「すえの世も 結ぶえにしや 糸柳」と刻まれていた。赤とピンクの八重椿が、哀れな飯盛女を供養するかのように咲いていた。  
左隣に、「綿のおばば」と呼ばれる奪衣婆像が祭られた正受院がある。大木戸坂下の東長寺、源慶寺、長善寺を経て四谷4丁目交差点に出た。江戸城の表玄関高輪に対し、裏玄関の検問所四谷大木戸跡碑と玉川上水を開いた玉川兄弟の功績を称えた水道碑がある。水番所があったところで、今は新宿の水道局になっている。   
新宿御苑大木戸門前の植え込みに「内藤新宿開設三百年記念碑」がある。高遠小彼岸桜が1本、記念碑を守るかのように咲き始めていた。新宿御苑脇の散策路を経て、源義家が奥州征伐の途中、雷雨を避けて立ち寄ったところ、白狐が現れ雷鳴を鎮めたという新宿高校隣の小さな雷電稲荷神社にお参りし、雑踏の新宿駅に戻った。  
大変な賑わいをみせた内藤新宿も開設僅か20年で廃止になった。飯盛女のみだらな客引きが、8代将軍吉宗の享保の改革による風俗統制に触れたものと言われる。その後、度重なる願い出により、50年後再興された。幕末に、新撰組の甲陽鎮撫隊の結成と出陣式の宴が、妓楼を貸し切って行われたという話もある。  
内藤新宿は、飯盛女の悲しくも哀れな営みを今に伝えている。 
  
内藤新宿5
 

馬の尻  
初めて会う人に、「東京はどちら?」と聞かれて、「あ、新宿の近くで」と答えると、なんかビミョーな顔されるのはなぜかしら?特に江戸検定に関係する人たちからは、「新宿・・・あ、場末ね」という心の声が・・・それもこれも全部この絵のせいね!  
「江戸名所百景」に入れてくれたのに、馬のおケツのアップって何よ、そりゃあ確かに新宿は馬ふんだらけの宿場でしたが、「潮来節」の替え歌で「内藤新宿 馬ぐその中に あやめ咲くとは しおらしや」と歌われたけど、それにしてもねえ・・・  
そもそも、ことのはじめから内藤新宿と馬は、切っても切れない間柄。最初の内藤の殿様は 家康から馬で走れるだけの土地をやろうと言われて、白馬で駆け回り、今の「新宿御苑」の地を賜りました。共に走った馬は、倒れて死んでしまい、今も「多武峰(とうのみね)神社」に白馬堂が残っています。  
この信州高遠藩、内藤家の中屋敷の地に、元禄の頃作られたのが「内藤新宿」です。それまで、甲州街道の最初の宿場は「高井戸」でした。ここまでは4里=16kmもあってちょっと遠すぎるということだったんでしょう。この頃の宿場の中心は、今の新宿よりずーっと四谷寄りです。四谷の大木戸が、今の四谷四丁目の交差点のところ、ここから200mほど西の「太宗寺」がほぼ中心だったそうです。そして今の新宿二丁目から御苑前まで拡がっていたんですね、「江戸名所図会」では、四谷内藤新宿となっていますよ。  
この「内藤新宿」一時廃絶したことがあるのです。記録には、遊女屋などが多くなって、風紀が乱れたから・・・と書いてありますが、それはちょっとおかしいでしょう。どこの宿場も多かれ少なかれ「飯盛り」の名の遊女はいます。  
実を言うと、ある旗本の馬鹿息子のせいなんですよ、享保の頃、こいつが出来心で百姓屋のこぎれいな女房に手を出そうとしました。そこへ帰ってきた亭主が、怒ってこの息子を、しこたま殴りつけたのです。ま、それだけなら笑い話だったんですが、この男の兄が大変なカタブツ、「武士ともあろうものが こともあろうに百姓に打ちのめされるとは・・・・」と、弟を即座に切腹させると、その首をたずさえて、おおそれながら・・・と訴えでたのです。こんな軟弱な武士が出来るのも、ふだんから宿場女郎にはまって、遊び歩くから・・・と。お家は断絶でかまわない、そのかわり内藤新宿もとりつぶしてほしいと主張したといいますから、とんだ冤罪。この願いが入れられて、とうとう新宿は50年間廃絶、明和になってからやっと 復活したんですよ。 
馬ふんの中に  
今日は、ちょっと誤解の多い「内藤新宿」の話をしましょう。以前も書きましたが、私にとって「盛り場」といえば新宿、それなのに広重ったら江戸名所に入れてくれたのはいいけど、馬のお尻のアップってなによ!・・・と私は、ちょっと傷ついています。  
内藤新宿の開発は元禄の頃、浅草安倍川町の名主・喜兵衛以下5人の町人が、運上金5千6百両を支払って願い出たものです。それまで甲州街道の最初の宿場は高井戸、青梅街道は田無で、どちらも日本橋から四里もありました。これじゃあ旅人も馬も大変!ってことで、両街道の分岐点=追分に新宿ができました。大木戸から、下町、仲町、上町・・・と、今の新宿三丁目の交差点まで、伊勢丹が立っている角までで9町10間=約1kmの町並みでした。宿場を開けば、そこに宿屋を作り飯盛り女を置くことができます。こうして内藤新宿は、品川に次ぐ遊興の町として発展したんですね。  
ところが18年たった享保3年(1712)急におとりつぶしになってしまいます。これについては「江戸砂子補正」に、旗本の次男坊が遊興が過ぎて怒った兄が、弟を切腹させ、その首を持って、新宿とりつぶしを請願した・・・というおもしろい話を書いてありますが、これは裏がとれなくて虚実が不分明です。おそらくは、あまりに流行りすぎたため、吉原からの横槍が入ったというのが本当のところでしょう  
当時の盛況ぶりは「いろは座敷という有名な店では 火の番に 廊下を金棒引いて歩いたほど」だったそうですよ。この「停止」は54年間も続き、明和9年(1772)になって、やっと再興されます。  
もともと、他の街道と違い、参勤で甲州街道を使う藩は、高島・高遠・飯田の三藩のみ。初期にはあった本陣・脇本陣も停止中に建物がなくなり、宿屋の肝煎(きもいり・・・組合の代表)の橋本家が以降は勤めました。  
再興以来、ますます繁盛を極め、吉原同様の大楼が立ち並んだといいます。お客は、馬方や百姓ばかりと思われそうですが、実は大木戸の内側からやってくる旗本・勤番侍がほとんどだったといいます。これらのご府内からやってくるお客のために、天竜寺では時の鐘を、明け六つだけは半刻(はんとき=1時間)早く打ちました、お勤めに間に合わなくなっちゃうからですねー。  
これは北尾政寅=山東京伝が書いた内藤新宿の女たち、ほーらきれいでしょ?。「馬糞の中に咲くあやめ」だって捨てたもんじゃありません。ちゃーんと、新宿にも美人はいたんですから、忘れないでくださいね。 
 
内藤新宿6 / 高遠藩内藤家の参勤交代 

甲州道中は、日本橋から甲府を経て下諏訪で中山道と合流する約55里の幹線道路で、日野宿は日本橋から内藤新宿(新宿区)・下上高井戸(世田谷区)・布田五宿(調布市)・府中(府中市)と継がれる甲州道中5番目の宿場です。ここを参勤交代のために通行する大名は、東海道や中山道に比べると非常に少なく、信州高島藩・高遠藩・飯田藩の三藩でした。  
このうち高遠藩内藤家は、甲州道中の最初の宿場である内藤新宿に下屋敷があり、内藤新宿という名前の由来となっていたり、日野宿の宝泉寺に葬られている金丸四郎兵衛が係わった絵島生島事件の絵島が預けられていた所でもあるので、昔から市域の人々にも身近な大名でした。  
内藤家は元禄4年(1691)河内国富田林(とんだばやし)(大阪府富田林市)から信濃国伊那郡高遠(長野県伊那市)に入国した3万3千石の小藩で、江戸には小川町(千代田区)に上屋敷があり、参勤交代で子・寅・辰・午・申・戌の年の6月に参府していました。  
高遠藩の代官岩崎博秋(はくしゅう)が嘉永6年(1853)に書き写した史料「高遠従(より)江戸マデ道中記」には、参勤交代の道筋を描いた絵図に、道中の様々な情報や注意事項が書き込まれており、甲州道中を参勤交代する高遠藩の旅の一端を知ることができます。  
この史料によって高遠藩の旅を追ってみますと、高遠の城を出た行列は、すぐ前の藤沢川を渡り、茅野に向かう杖突街道に入ります。本陣のある御堂垣外(みどうがいと)で杖突街道と別れ、ここから東側の金沢峠を越えて甲州道中の金沢宿に至ります。道は険しいのですが、甲州道中に出るにはこちらのほうが近道でした。  
金沢宿から先は甲府・八王子を経て内藤新宿まで甲州道中の旅です。甲州道中は山道が多い上に河川の多さも格別で、絵図の中には高遠城を出てから日野の渡しまで、街道の左右に大小の河川が見られます。また、参勤交代が旧暦6月で、梅雨の最中のこともあり、出水で橋が流されたときの回り道や近道などの情報も書き込まれています。  
下蔦木宿の先には、「釜無川 甲信の堺、この川橋が落ちれば新府へ廻り、二里遠し」、また勝沼の先の観音坂には「岩を切り通す、難所なり、馬上無用」の注意書きがあり、東海道などには見られない甲州道中の旅の苦労がしのばれます。  
駒木野の関所を通過して山道もようやく終わりをとげ、八王子宿に到着します。浅川を渡って日野原を通りぬけると日野宿、ここには「日野宿の外れより左に行べし、向うの道は古道なり、今道は新道ゆえ石原までの間里塚なし」と万願寺に向かう旧道に入らないように書き添えています。  
このあと府中から角筈までの宿継ぎが書かれ、いよいよ内藤新宿「御下屋敷」に至ります。下屋敷の人々の出迎えをうけた後、大木戸を通ってこの先の荒木横町を左に折れ、ここで長かった甲州道中の旅が終わります。さらに市ヶ谷御門をくぐり、九段坂・表神保小路(千代田区)を過ぎて、右に曲がると小川町の上屋敷表門に到着、高遠を立って六日の旅でした。 
  
内藤新宿7 / 甲州街道と内藤新宿  

甲州道中(甲州街道)は、徳川家康が慶長・元和年間に行った五街道(ほかに東海道・中山道・奥州道中・日光道中)のひとつで、江戸から甲府を経て下諏訪で中山道に合流します。  
この街道の最初の宿場は高井戸(現杉並区)でしたが、日本橋を出発して四里八丁(16.6km)もあったため、人馬ともに不便でした。  
そこで浅草阿部川町(現元浅草四丁目)にすむ名主喜兵衛(のちの高松喜六)は、元禄10年(1697)に同士4名ととも、太宗寺の南東に宿場を開設するよう幕府に願いをだしました。  
なぜ喜兵衛らが宿場開設を願い出たのか、その理由はわかっていませんが、5人は開設際し運上金5600両を納めることを申し出ました。  
この願いは翌年元禄11年(1698)6月に許可となり、幕府は宿場開設の用地として、譜代大名内藤家の下屋敷(現新宿御苑)の一部や旗本朝倉氏の屋敷など返上させて、これにあてました。  
こうして「内藤新宿」は元禄12年(1699)2月に開設のはこびとなり、同年4月には業務を開始しました。喜兵衛らも移り住み、名主などをつとめ町政を担当しました。  
宿場は東西九町十間余(約999m)、現在の四谷4丁目交差点(四谷大木戸)の約200m西から伊勢丹(追分と呼ばれ甲州道中と青梅顔道の分岐点であった)あたりまで続いていました。  
宿場は大きく3つにわかれ、大木戸側から下町・仲町・上町と呼ばれました。太宗寺の門前は仲町にあたり、本陣(大名・公家・幕府役人などが宿泊・休息する施設)や問屋場(次の宿場まで荷を運ぶ馬と人足を取り扱う施設)などがありました。  
「内藤新宿」は、江戸の出入口にあたる四宿(品川・板橋・千住・新宿)のひとつして繁栄しましたが、その繁栄を支えたのが旅籠屋でした。  
ここには飯盛女と呼ばれる遊女が置かれましたが、元禄15年(1702)には当時幕府公認の遊興地であった吉原から訴訟が出されるほど繁盛しました。  
このように大変な振るわいを見せた「内藤新宿」でしたが、享保3年(1718)には開設後わずか20年にして、宿場は廃止となります。  
これは、利用客の少なさ、旅籠屋の飯盛女がみだりに客を引き入れたことなどが原因といわれますが、八代将軍徳川吉宗の「享保の改革」に伴う風俗統制の影響もあったようです。  
その後、度重なる再興の願いにより、昭和9年(1772)には宿場は再興されました。 
  
内藤新宿8 / 内藤新宿と漱石 

よちよち歩きの樋口なつ(のちの一葉)が、「あらっ」と叫んで駆け寄って、幼児言葉で話しかける。格子窓越しに、幼女の相手をしてやるのは、当時8才の塩原金之助。のちの夏目漱石である。  
内藤新宿太宗寺門前、遊郭妓楼の前。時は明治7年。娼妓解放令が2年前に出たあと、すっかり寂れ果てた内藤新宿を舞台に、こんなありそうもない、しかし、いかにもあったような場面を書いたのは、山田風太郎である[「警視庁草紙」(1975)]。  
幕府瓦解により、幕府に使えていた士族は、全員失職する。薩長中心の新政府が立ち上がってくる。新参者の薩長の下級武士が要職につき、肩で風を切ってのし歩く。新政府のもと、東京と名前は変えたものの、江戸の町の支配と治安確保には、旧体制を使わざるをえない。そんな時代のありさまを、物語として巧みに描き出している。  
瓦解まで、治安の中心であった南町奉行駒井相模守信興は、「隅のご隠居」と称して、もと奉行所の一角に寓居を構えている。居候の、もと八丁堀同心、千羽兵四郎が物語の主人公であるが、それは本稿には関係がない。  
ある日、ご隠居を訪ねてきたのが、樋口為之助である。背中には幼児なつをおんぶしている。瓦解によって職を失い、就職口の斡旋を頼んできた。樋口一葉の父、為之助則義は、山梨県の農家の生まれである。同村の娘と恋仲になり、駆け落ちして江戸に出る。蕃書調所の小使いとなり、妻は旗本家の乳母となって、40才になるまで、こつこつと金を貯め、ようやく武士の株を買った。そういうことができたらしい。買ったのが八丁堀同心の株。その時期がいけなかった。瓦解前年、慶応3年のことである。せっかく買ったものが元の木阿弥になってしまった。何とか新政府の下級官吏に横滑りしたが、うまくつとまらない。何とかいい仕事を斡旋してもらえないかと、隅のご隠居を頼ってきた、という設定になっている。  
隅の隠居に紹介状を書いてもらい、兵四郎に案内されて、漱石の父、夏目小兵衛を訪ねていく。なつも一緒にである。江戸の町は、町奉行の配下に、各地区ごとに名主がいて、町民を取り仕切ってきた。名主は、市中に238人いたという。瓦解後、新政府も、この支配構造を継承し、名主は、今でいう区や町の責任者のような立場に移行していく。名主の中にも階層があって、夏目家は、何人かの名主をとりまとめ、広い地域を受け持っていた。新政府は、維新後、市中を50の区に分け、各区に中年寄りと添年寄りをおいた。さらに5区をまとめるのが世話掛であった。夏目家は中年寄りと世話掛を兼ねていた。今でいうと区長さんだろうか。そんな立場だから、樋口の職を斡旋できたのだろう。その後、樋口則義が、夏目小兵衛の下僚として働いた、というは事実である。山田風太郎の書くこの日の出来事は、フィクションであるが、史実はふまえている。夏目は、牛込馬場下(現在の新宿区喜久井町)に住んでいた。漱石(本名金之助)もここに生まれている。現在「誕生之地」の石碑がある。喜久井町の名は、井桁に菊という夏目家の紋章からきているという。この地の有力者だったようだ。  
さて、兵四郎と樋口親娘は、馬場下の夏目宅を訪ねたが、あいにく不在であった。夏目家が事情があって預かっている内藤新宿の遊女屋「伊豆橋」の面倒を見に行っているという。そこで、そちらに回ってみたところで、一葉と漱石の出会いという、冒頭のシーンとなったのである。  
兵四郎たちは、内藤新宿太宗寺の前の道で、夏目小兵衛をつかまえる。一緒にもう一人の男がいる。  
「いや、ここにおけるのは塩原昌之助と申しましてな。私の末っ子を養子に貰ってもらった男で。この塩原がいま伊豆橋の管理をしてくれておるので」という。  
兵四郎は遊女町を見わたした。本来なら、もうそろそろ不夜城のように灯がはいり、往来には浮かれ男たちがさんざめいている時刻だが、いま見る町は死に絶えたようだ。他に人はおろか、猫の子一匹歩いていない。  
内藤新宿は、新宿が宿場町となった元禄ごろからにぎわいはじめ、おびただしい数の飯盛女で名高い宿場として、幕末期には旅籠屋というよりは、妓楼といった方がいいような店が軒を連ねるようになっていた。明治になっても、それは同じであったが、明治5年、マリア・ルーズ号事件というのがあり、それを機会に、遊女たちが一斉に解放され、遊郭の営業は成り立たなくなった。まもなくそれは復旧するのだが、もっともさびれた時期に、金之助は、この遊郭の妓楼に住む羽目になっていた。  
金之助は、夏目小兵衛の5男末子として生まれた(1867)。上に4男3女の兄姉がいた。誕生は歓迎されなかったらしい。生まれてすぐ四谷の古道具屋に里子に出される。  
『私はその道具屋の我楽多(がらくた)と一緒に、小さい笊の中に入れられて、毎晩四谷の大通りの夜店に曝されていた』と『硝子戸の中』 29にある。  
どのあたりだろうか。当時の四谷の大通りは、麹町側から、現JR四谷駅の北側の橋(当時は土橋)を渡り、そのまま真っ直ぐ四谷第3小学校の南側の道に進み、最初の交差点で左折して横丁には入り、やがて、現新宿通りに出ていた。この横丁は当時「大横丁」と呼ばれ、もっともにぎやかだったという。このあたりが、赤子の金之助が笊に転がされていたあたりかもしれない。  
『それを或晩私の姉が何かのついでにそこを通りかかった時見付けて、可哀想とでも思ったのだろう、懐に入れて宅へ連れてきた』(同じく「硝子戸の中」)  
連れ帰してきたものは仕方がない。そこで、父は、面倒を見ていた塩原昌之助に、養子ということで、金之助を押しつける。昌之助は、夏目小兵衛配下の名主であったし、結婚の世話もしてもらっている。そんな関係での養子縁組であった。  
金之助が養子に出されたのは、まさに瓦解の年。その頃、塩原昌之助は、太宗寺門前町など周辺の四つの門前町の名主であった。屋敷は太宗寺の裏手にあったという。赤んぼうの金之助は、この屋敷に引き取られたが、間もない維新後の混乱期の中で、昌之助は、浅草の方の添年寄りなって浅草諏訪町に移ったり、紆余曲折があった。それに伴って金之助も、居所を転々としている。ものごころついた頃は、再び内藤新宿に舞い戻って、ひっそりした遊郭の一隅にいたらしい。東京市の地域支配制度が落ち着きを見せるまでのごたごたの中で、一時免職の憂き目にあった昌之助に、夏目家が、空き家になっていた妓楼伊豆橋の管理を任せたからであった。それが、山田風太郎の空想を誘い、冒頭のようなシーンを「警視庁草紙」に挿入させたのであった。  
漱石は、妓楼だった建物に住んだ思い出を、『道草』の中で書いている。  
行き詰りには、大きな四角な家が建っていた。家には幅の広い階子段のついた二階があった。その二階の上も下も、健三の眼には同じように見えた。廊下で囲まれた中庭もまた真四角であった。  
不思議な事に、その広い宅(うち)には人が誰も住んでいなかった。それを淋しいとも思わずにいられる程の幼ない彼には、まだ家といういものの経験と理解が欠けていた。  
彼は幾つとなく続いている部屋だの、遠くまで真直に見える廊下だのを、あたかも天井の付いた町のやうに考えた。そうして人の通らない往来を一人で歩く気でそこいらじゅう駆け廻った。  
彼は時々表二階へ上って、細い格子の間から下を見下した。鈴を鳴らしたり、腹掛を掛けたりした馬が何匹も続いて彼の眼の前を過ぎた。[表記を読みやすいよう変更した] 
これは、たぶん、妓楼伊豆橋に、幼い金之助がいた時の記憶を、書いているのだろう、といわれている。娼妓が禁止され、無人となって、がらんとしている遊郭の建物の中で、そこを、「天井の付いた」 町の、「人の通らない往来」 のように考えて、一人遊びしていた金之助の姿がいじらしい。  
伊豆橋は、太宗寺の真向かいにあり、内藤新宿一二といわれる旅籠屋(=遊女屋)であった。太宗寺は現在では、区画整理の結果、新宿通りから一本北に入った道に面しているが、もともとは、新宿通り(=甲州街道)に面して、入り口があった。その真向かい。幼い漱石が、「鈴を鳴らしたり、腹掛けをした馬が」 行き交うのを見た、新宿通りの南側に、伊豆橋があった。今は○○ビルという名のペンシルビルが建ち並んでいる。  
幕末期の、内藤新宿の町並みが、復元模型として造られており、新宿区歴史博物館で見ることができる。太宗寺を中心とする街道の様子が、リアルに再現されている。その姿は、幼い漱石が一時期を過ごした時代のものと、ほとんど同じだと考えてよかろう。  
遊郭伊豆橋と夏目家が、どんな関係にあったのか。俗に、漱石の実母千枝が、伊豆橋の娘であった、といわれている。江藤淳は、『漱石とその時代、第1部』で、もっと詳しい事情を明らかにしている。千枝は、四谷大番町(現在の大京町)の質屋鍵屋庄兵衛の娘であった。この質屋の父親が、伊豆橋に金を貸し、やがて債権者として伊豆橋の経営を任された。この父親は、千枝の姉に養子をとって、この遊女屋を営業させた。だから、千枝は伊豆橋の娘であるという説は、正確ではない、としている。  
この伊豆橋とは、もう一つ重複した関係ができる。漱石の腹違いの長姉佐和は、伊豆橋の跡取り息子福田庄兵衛に嫁いだ。継母(漱石の実母)の実家筋に嫁入りした、というわけである。この2重の関係から、左前になった伊豆橋を、漱石の父親、小兵衛が面倒見ることになり、その管理を、漱石の養父である塩原昌之助に任せた。そういうわけで、若き漱石、幼児金之助が、ここにいるのである。とても関係がややこしい。おわかりいただけだろうか。  
先ほど引用した『道草』の先を読むと、こうある。  
路を隔てた真ん向うには大きな唐金(からがね)の仏様があった。その仏様は胡坐(あぐら)をかいて蓮台の上に坐っていた。太い錫杖(しゃくじょう)を担いでいた。それから頭に笠を被っていた。  
健三は時々薄暗い土間へ下りて、そこからすぐ向う側の石段を下りるために、馬の通る往来を横切った。彼はこうしてよく仏様へよじのぼった。着物の襞(ひだ)へ足を掛けたり、錫杖の柄へ捉まったりして、後から肩に手が届くか、又は笠に自分の頭が触れると、その先はもうどうする事も出来ずにまた下りて来た。  
このように、漱石が遊んだ記憶を残している唐金の仏像は現存している。高さが約3メートルの金銅仏で、江戸六地蔵の一つとして知られている。地蔵坊正元が、江戸六街道の出入り口に、庶民の道中安全を祈願して、正徳2年(1712)に建てたものの一つで、各地にある。いずれも露座の小ぶりの大仏さんである。  
現在は太宗寺の入り口のすぐ右に西に向かって座っている。じつは、この仏像は、何度も位置と向きを変えているらしい。漱石があそんだ頃は、北向きだったという。位置は、漱石の書いたものにしたがえば、新宿通りを隔てた真向かいにあった伊豆橋から、すぐ目の前に見えたわけだから、ずっと新宿通り寄りにあったのだろう。 太宗寺は、浄土宗の寺で、正式の名は霞関山本覚院太宗寺である。かまぼこ(というより埴輪の建物の形だが)を縦横に組み合わせたような形のコンクリート2階建てのモダンな本堂を正面に、広大な境内を持つ。これでも、区画整理などでかなり縮小したのだという。北の一隅に区立新宿公園があるが、ここは太宗寺の庭園だったものを転用したのだという。池がある。『道草』で漱石が書いている池の跡かもしれない。新宿御苑がその屋敷跡である内藤家の菩提寺であった。今も境内の一隅に内藤家の墓所がある。  
この太宗寺には、ほかにも興味深いものがあれこれある。何より巨大な閻魔像がある。また、そのわきには脱衣婆の恐ろしげな像がある。この脱衣婆は、「衣をはぎ取る」ということから、遊郭商売の神様として信仰されたという。西側にある墓所の手前には、塩かけ地蔵がある。願をかけ、かなうとお礼に塩をかけるという、珍しい風習のお地蔵さんで、顔も身体も塩で埋もれている。寺務所の前に小さな灯籠がある。キリシタン灯籠だという。灯籠の足元の部分に、マリア像らしきものが彫られている。戦後になって、区画整理の際、墓所から出土したものだという。幼い心には、強烈な印象を与えそうな、閻魔さまも、脱衣婆も、漱石の記憶にはとどまらなかったらしい。のどやかなお顔の地蔵さんが、幼い漱石の遊び場であった、そしてそれが今もこういう姿で、座っておられるのはうれしい。  
幼い漱石のその後について、少し書いておこう。養父昌之助は、旧幕臣の未亡人といい仲になり、家を出る。金之助は取り残された養母と暮らしたり、養父とその愛人の家へ引き取られたり、たらい回しにされる。結局、養父母が離縁したのをしおに、漱石は実父母に引き取られる。明治9年、漱石が十才のときである。しかし塩原家の籍はそのまま残り、漱石が夏目家に復籍したのは、明治21年、22才のときである。復縁に当たり、大金を払い、絶縁状を取ったりしたようだが、その後も漱石はこの養父につきまとわれ、金をせびられたりした。この養父母との関係が、『道草』を生み出した。  
ここでは、内藤新宿と漱石という関心から、書いてきたが、図らずも、漱石の不幸な幼年期を辿ることになった。こんな育ち方が、その後の漱石の文学にどんな影響を残したのだろう。暗い幼年期であったに違いない。肉親や養父母の愛情の薄さを、骨身にしみて味わったに違いない。それが、漱石の文学の出発点となり、数々の小説を産み出す、人間観察のもととなったのだろうか。  
最初に引いた、山田風太郎の『警視庁草紙』では、少年金之助と、幼女樋口なつは、その後どうなっただろうか。何かがあったら、面白かったのだろうが、風太郎は、このシーンをちらりと見せただけである。事実としては、漱石の長兄大助(大一ともある)と、樋口一葉となる夏子との間に、縁談が持ち上がったことがあるらしい。新政府のもと、夏目小兵衛は、警視庁に勤め、夏子の父則義は、その下僚であった。小兵衛の世話で、夏目家の長男大助は、警視庁の翻訳係に採用され、樋口家と大助とが、同じ官舎に住んでいたことがあったらしい。そんなことで縁談が持ち上がったが、樋口家に財産がないことを知った小兵衛が反対し、つぶれたという。漱石の父は、そんな世渡りをする人だったらしい。大助は、そのころすでに肺病病みであった。明治20年、漱石21才のとき、32才で没している。
[参考文献] 
江藤淳:漱石とその時代、第一部(新潮社、1970)  
山田風太郎:警視庁草紙(文藝春秋社、1975、その後、ちくま文庫、1997)  
夏目漱石:道草(岩波書店、1915、全集第十巻、1994)  
野村敏雄:新宿うら町おもてまち(朝日新聞社、1993)  
安本直弘:四谷散歩(みくに書房、1989)  
斑目文雄:江戸東京・町の履歴書3 新宿西口・東口・四谷あたり(原書房、1991)  
森まゆみ:一葉の四季(岩波新書、2001)  
半藤一利:夏目漱石青春の旅(文春文庫、1994)  
新宿区立新宿歴史博物館:内藤新宿とその歴史(1991) 
  
大久保百人町

仕事で百人町に縁が出来、そのうち二年ほどは百人町4丁目(住居表示の実施前は、戸塚4丁目)に住んだ。1970年代、大久保駅から百人町2丁目(同、百人町3丁目)の旅館が立ち並んだ路地を歩いてくると、百人町3丁目(同、百人町4丁目)は木立に囲まれて、いくつもの研究機関の古い建物や二階建ての官舎が立ち並び、緑が濃くほっとする場所だった。だが、その建築現場の地中から煙が出て、毒ガスではないかと言われ、ここが旧陸軍の軍事施設の跡地であることを知った。
陸軍と百人町・大久保の変遷
現在の百人町3・4丁目と大久保3丁目には敗戦まで陸軍の施設があった。  
百人町にあった「陸軍技術研究所」の建物は戦後「戦災復興院戦災復興技術研究所」(後に「建設省建築研究所」)や東京文理科大学物理教室大久保分室(後の東京教育大学光学研究所)、資源科学研究所、東京都立衛生研究所などとして使用された。光学研究所南端の道路沿いには土手が残っていた。  
1945年10月から1946年4月に住宅営団によって百人町越冬住宅が450戸建設されている。  
『全住宅案内地図帳』によれば、百人町の陸軍用地のうち、百人町4丁目(今の3丁目)では都営戸山アパート(4階)、500戸弱の個人住宅、建設省建築研究所(3階)、国際地震工学研修所(2階)、蚕糸科学研究所、都立衛生研究所(4階)、資源科学研究所(2階)、東京教育大学光学研究所(2-3階)、呉羽化学工業東京研究所(3階)、KKロケット第二工場、国家公務員の一戸建て住宅10数軒、西戸山住宅(国家公務員のアパート、4階)、国民金融公庫寮(4階)、新宿住宅(国家公務員のアパート、山手線沿い、4階)が建っている。戸塚町3-4丁目(今の百人町4丁目)では都営西戸山ヶ原住宅(4階)、都営戸山アパート(4階)、西戸山小学校、西戸山中学校になっている。  
このうち、建設省建築研究所、国際地震工学研修所、東京教育大学光学研究所は筑波に移転した。資源科学研究所は国立科学博物館に吸収され、日本産淡水魚類の研究者が退官すると淡水魚の池は埋められた。その後十年余り、春になると多数のヒキガエルが産卵にやってきて数日間にわたり路上出産して卵は干からび、親は車に轢かれた。光学研究所跡地は西に蔦の絡まる建物があり木立が鬱蒼としていて社会保険病院の建築が始まるまでは袖群落にシロバナタンポポがたくさん生えていた。  
現在ここは、都営百人町3丁目アパート(8〜12階)、都営百人町4丁目アパート(13〜14階)、グランドヒルズ2棟(「百人町三丁目・四丁目地区整備計画」の「不燃化事業」で3丁目の個人住宅と等価交換、11階)、特別養護老人ホーム「新宿けやき園」(社会福祉法人 邦友会、建設中)、公務員宿舎百人町住宅(8〜12階)、個人住宅350軒前後、新宿区立ポケットパーク1〜18(これが更に複数に分かれている)、新宿区立ふれあい公園、西戸山公園(2箇所に分かれている)、サンケンビル(5階)、クレハ東京研究所(4階)、東京都健康安全研究センター(5階)、(独)国立文化財機構 東京国立博物館分館(研究施設、6階)、社会保険中央総合病院(8階)、サンパークホテル(7階)、西戸山公務員住宅(14階)(大蔵省大臣官房地方課、1990年)、西戸山タワーホームズ(25階)(大蔵省大臣官房地方課、1990年)、東京グローブ座(劇場、新宿西戸山開発(株)、2002年芸能プロダクションのジャニーズ事務所が買収)などになっている。 「百人町三丁目・四丁目地区整備計画」の「都営住宅の高層化」で、百人町3-30の給水塔脇にあったヤマナラシの大木も、 百人町4丁目の大ケヤキも伐られた。(大ケヤキの会)(東京新聞、2001年)(朝日新聞社、2001年) 井戸水を汲み上げて配水し地域のシンボルとなっていた2基の給水塔もなくなり、4階建ての棟と棟の間の広い空間にあった樹木群と地面はコンクリートに変わった。  
百人町3丁目にある東京都健康安全研究センターの改築工事(新棟建設)は2009年度から着手し2011年度竣工、2012年度共用開始(東京都福祉保健局健康安全室、2007年)と発表されている。その後、同センターの北側に東西の区道が新設され、西側の区道の拡幅が行われると、この地域の改造は完了する。  
大久保の陸軍射撃場は、戦後、米軍に接収され射撃場になった。大久保の陸軍用地はその後、『全住宅案内地図帳』(公共施設地図航空株式会社、1970年)によれば、国鉄戸山ヶ原アパート、都営住宅西大久保4丁目住宅(2軒続き)、西大久保住宅(2軒続き、『航空住宅地図帳』(公共施設地図航空株式会社、1980年)によると「西大久保住宅(公務員住宅)」)、保善高校、都立戸山交通公園、早稲田大学、戸山公園、早稲田大学理工学部となっていた。交通公園は今では都立戸山公園の一部となってゴーカートもなくなったが、その南端に小山があり、陸軍の射撃訓練に使われた射垜(あづち)の跡だという。国鉄のアパートがあった地域の一部はその後、都市計画道路補助72号とそれを利用する新宿区の「中継所」(不燃ごみの圧縮詰め替え施設)やスポーツ施設にもなっている。  
保善高校の西、山手線と国鉄戸山アパート、国鉄戸山ヶ原寮に挟まれた三角地帯に、朝鮮の人々がまとまって住んでいて、国鉄からJRに変わった1987年頃、立ち退き交渉がまとまったという(大正時代から続く商店の若主人の話)。1970年と1980年の住宅地図(公共施設地図航空株式会社)でこの場所には「日朝連合会新宿支部戸山分会」の文字があり、ほとんど日本姓だが30以上の家がまとまっている。  
陸軍用地の西向かいにあった東京市立豊多摩病院は1947年の地図にもあり、1970年の地図では空き地、その後、都立新宿看護学院があったが、看護婦不足にもかかわらず廃校となった。  
淀橋区役所は、1947年の地図では中央卸売市場淀橋市場と淀橋保健所、1970年の地図では中央卸売市場淀橋市場となっており、今も営業している。  
百人町3・4丁目、大久保3丁目の建物・風景の変化は、住民の意志による物では全く無く、筑波学園都市への研究機関の移転、国鉄民営化、中曽根民活による土地バブルの誘導と高層化という国家による強制的な変化だったと私は考えている。  
百人町2丁目には1970年代、通りから一歩入ると、母屋を改造したり、庭先に建てた2階建木造賃貸アパートがたくさんあったが、1990年代以降は2階建木造賃貸アパートよりも鉄筋コンクリートの3階建以上の集合住宅を建てることが多くなり、しかも1階に店舗や事務所が入るケースが多く、オフィスビルも増えてきた。 
大久保の歴史
1 鉄砲百人隊行列  
大久保通りの新大久保駅近くに皆中稲荷があり、その秋季祭礼に隔年で「鉄砲百人隊行列」が奉納されるのだが、百人町へ来ていながら、長年見たことが無かった。それが育児のためにこの地に2年住み、当地の保育園にその後も通ううち、初めて火縄銃射撃を子供と見る機会があり、歴史のある町にいることとそれを残していこうとする人々の意思を強く感じた。鉄砲組同心が皆中稲荷に奉納していた「出陣式」は明治以後行われなくなっていたが、皆中稲荷に昭和35年に赴任した新宮司が再現を思い立ち火縄銃・刀・胴丸を買い集めて実現したという。 
2 江戸時代の百人町・大久保  
『新編武蔵風土記稿』によると、このあたり一帯は古くは「戸塚村」のちに「大久保村」と呼ばれ、元禄の改め(1695年頃)では諏訪村、東大久保村、西大久保村、戸塚村、そのほかに分かれており、百人町は「百人組ノ屋敷」とか「大久保百人町」と呼ばれ、西大久保村(およそ現在の大久保1〜3丁目と歌舞伎町1〜2丁目)と柏木村にはさまれている。(林 衡、1830年)(表1)  
東大久保村と西大久保村は御簞笥組の給地と屋敷でのちに御領所(幕府直轄地)と玉藥同心等の大縄給地(知行所)であって、西大久保村の小名(字)に「御簞笥町」(簞=箪-ツ+口+口)がある。(林 衡、1830年)鉄砲玉薬組は慶長年間(1596年12月16日〜1615年9月4日)に鉄砲玉薬組奉行支配下に変わった。市内に近く、また、百姓が商売を許されていたために、徳川幕府の頃から軒並み 商店を開いていた。街道の洪水対策のために町人・百姓・奉公人を置いてよいとされたのが江戸の武家屋敷地に商店を作った最初であるとも、天正19年に家康が給地を与えたときに、「宅地裏の方に二町町家を作るべきの御内慮にて商人を置く、是江戸武家屋敷に市店を作るの始なり」(林衡、1830年)ともいう。  
百人町はというと、百人組が駐屯を始めた頃は、北通り・仲通り・南通りの東西に木戸があって見張りを立て砦のようになっていたが、後に南通りは高札を立てて昼間は開け放たれ、人通りが多かった。  
御鉄砲玉薬同心と鉄砲百人組の屋敷及び手作場(てさくば)は整然と短冊型地割になっていたが、その理由は、天正19年に鷹狩に来た家康が鉄砲玉薬組に給知した際、「間口を狭く裏行を長く賦與すべし」と命じたが、これは翌20年(12月8日以降は文禄元年)の高麗陣(後に言う文禄の役)を控えて、隣家が密に並んでいれば老人・婦女子が心強いだろうと考えたのだという。(林 衡、1830年、東大久保村の項)たとえば奥行き南北400メートルで間口東西20メートルほどの区画が通りをはさんで向き合って並んでいて、この細長い地形のため現在に到るまで道路の拡張が行われにくく、細い路地が残っていると言われている。翌年また鷹狩に来た家康が「田野の闢さることを問はせられ、百姓乏からんには小給の輩なれば手作にせよと仰けり」(開墾されていない理由を尋ねて百姓が足りなければ自分で耕作しなさいと言われた)(林 衡、1830年)というのが手作場が多い理由らしい。  
江戸時代、現在の大久保あたり、山手線新大久保駅と明治通りの中ほどにある全龍寺から東は西大久保村であるが、 江戸時代中期の絵地図では、 「御簞笥町通」に沿って武家の氏名と百姓名が入り混じり「南通」に沿って百姓名が並んでいる。その解説文によれば 「西大久保村の御簞笥町通をはさんで南北に御鉄砲玉薬同心の屋敷が百姓の屋敷を交えて並び御簞笥町という町の形をとっている」 別の絵図では、百人町の東隣りにある鉄砲玉薬組の通の両側に武家個人名の屋敷と「西大久保村 畑」、南の通の南では「西大久保村 畑」と「給地手作場」が入り混じっているが、「組屋敷道 北町」、「組屋敷道 仲町」、「組屋敷道 南町」の両側は「百人組同心大縄地」などと書いてあるだけで武家の個人名も無ければ百姓家・百姓地も無い。「四谷、高田村、内藤宿、源兵衛村、東西大久保村、諏訪谷村、角筈村、上戸塚村、柏木村、上下落合村、中野村一円の絵図」(嘉永5年1852年、国立国会図書館蔵、「御府内場末往還其外沿革図書」拾九貞の付図)、 また別の絵図では、西大久保百人仲町の延長上の道に沿って「御地頭屋鋪」と「百姓地」が入り混じり、西大久保百人南町の延長上の道に沿って百姓地が並んでいる。一方、現在の百人町あたりは「西大久保百人北町」、「西大久保百人仲町」、「西大久保百人南町」という通りを挟んで「百人組同心充」「与力充」「御鉄炮矢場」「禅宗長光寺」と書かれていて「久世三四郎様下屋鋪」以外に個人名は無く「百姓地」は混じっていない。  
御鉄砲玉薬同心大縄地と大久保百人組大縄地の大きな違いは、前者が当初25人最大で50人であったこと、絵図に「手作場」と書かれた広大な区画があること、屋敷地・手作地とは別に近隣の豊島郡西大久保村、東大久保村、諏訪村、戸塚村と源兵衛村、多摩郡本郷村(今の中野区南部にあった村)に給知をもっていたこと(大久保百人組は初め常陸の国にあり、後に現米に変わる)、家作を作って「目代百姓」を置き小作させ、転職しても給知がそのままであったことである。(『東京府豊多摩郡誌』(東京府豊多摩郡役所、1916年の中野町、大久保町および戸塚町の項、『旧高旧領取調帳 関東編』(木村 礎、1995年)  
明治44年(1911年)の「東京府豊多摩郡淀橋町大久保村」(1911年、逓信協会、5000分の1)(新宿区教育委員会、1984年)という地図を見ると、大久保村大字東大久保の字新田裏から流れ出て字前田甫で網目に分かれて北野神社(いまの西向天神)の西の麓を北上して行く川が描かれている。大久保の地名の元になった凹地を流れる蟹川(カニガワ)である。  
昭和16年(1941年)の「淀橋区詳細図」を見ると、戦前の百人町はおよそ現在と同じ、西大久保はおよそ現在の大久保1〜3丁目と歌舞伎町2丁目である。東大久保は西大久保の南と東に接していて、現在の新宿6・7丁目のほかに、歌舞伎町1・2丁目境の道路、久世三四郎抱屋敷跡地(大久保病院・ハイジア・新宿職業安定所)を含む、長押に掛けるフックのような奇妙な形の地形である。ただし久世三四郎抱屋敷跡地は明治2年になってから東大久保村に編入されたもので、江戸時代、久世三四郎抱屋敷は大久保百人町の一部であった。  
明治12年東大久保町を東大久保村へ合併。明治22年東大久保村、西大久保村、大久保百人町を合併して大久保村と改称、大正元年に大久保町と改称。(表1) 大久保町は東大久保、百人町、西大久保の3大字からなり、『東京府豊多摩郡誌』によれば「本町の全管内は明治元年武蔵知縣事の支配に属し、翌二年ニ月(旧暦)品川県管轄となり、四年十一月(旧暦)品川県廃せられ東京府の管轄となり第八大區三小區に入る。」
3 百人組  
『東京府豊多摩郡誌』によれば「御鐵砲百人組は四組あり、根来、甲賀、大久保、青山これなり。」「大久保百人組は伊賀組又は二十五騎組と號す」。  
『大久保鉄砲百人組』によれば、ここの百人組は4組あった百人組のうちの「二十五騎組(大久保組)」で、内藤修理亮清成(2万1千石の大名)に預けられて関が原の戦の翌年、慶長6年または翌々年、慶長7年(1602年)に成立した。25人分の与力屋敷は百人町に3人分のほか、今の新宿1丁目と5丁目に22人分があった。  
「二十五騎組」と言う名称について、『古事類苑 官位部 三』(神宮司廳、1996年)、「官位部六十九 徳川氏職員十八 百人組組頭」によれば、青山常陸介忠成が初代組頭の組は伊賀組あるいは貮拾騎組と言い、組屋敷は青山百人町にあり、内藤修理亮清成が初代組頭の組は貮拾五騎組で組屋敷は「よつや」にある。  
また 「嘉永五子年九月調 御府内場末其外往還沿革圖書 拾九 四冊之内元」に「百人組與力貮拾五騎之内」大縄地」、「嘉永三戌年九月調 御府内場末其外往還沿革圖書 拾八 四冊之内貞」に「内藤新宿北裏百人組溝口修理組貮拾五騎與力組屋鋪之内九人屋鋪之内御用ニ付被 召上候」とあり「貮拾五騎」と明記されている。  
江戸切絵図「青山渋谷絵図」(「東都青山絵図」)(嘉永6年(1853年)、金鱗堂尾張屋清七)(国立国会図書館蔵)では、与力屋敷の間の路地に「二十キ丁」と書いてあり、青山の百人組与力が20騎であることを示している。 江戸切絵図「内藤新宿新屋敷辺之図」嘉永四年(1851年)には「内藤新宿」の「下町」の北隣に「百人組」「与力屋敷」があり、間の路地に「二十五キト云」と書いてある。「内藤新宿千駄ヶ谷辺図」文久二年(1862年)でも「内藤新宿」の「下町」の北隣に「百人組」が2区画あり、間の路地に「二十五キト云」と書いてある。つまり大久保の百人組与力が25騎であることを示している。  
鉄炮百人組組屋敷の範囲は、現在の百人町1〜3丁目のほとんどと、大久保1〜3丁目の西側、歌舞伎町2丁目の北西部、西新宿7丁目の一部、それに新宿1丁目の一部と新宿5丁目の一部(内藤新宿の「二十五騎町」と「久能町」)(「江戸切絵図 牛込市谷大久保絵図」安政四年(1857年)、「内藤新宿新屋敷辺之図」嘉永四年(1851年)改正で、東に隣接して今の大久保通り沿いに鉄炮玉薬組の組屋敷が続いていた。  
現在の大久保通りは、鉄炮百人組組屋敷がある部分では「百人町仲通り」または「大久保百人中町通り」とか「西大久保百人仲町」、鉄炮玉薬組がある地域では「御箪笥町通」とか「大クボ御タンス丁」と呼ばれていた。もっとも、街路の上に「西大久保百人仲町」と書いてある場合、街路の両側の区画が「西大久保百人仲町」であって、間にあって家々の表が向いている街路の名前は「西大久保百人仲町通」かもしれない。  
統率者を当初は「支配」と呼んでいて、2代目までは大名が就任している。3代目からは旗本をあてたが3代目酒井讃岐守忠勝は任期中に大名になった。  
寛永12年(1635年)より「支配を旗下の士(旗本)とし組頭と改称」した。このとき、御先手組組頭より大久保組組頭(初代支配から数えて5代目)に転じた久世三四郎広当(ひろまさ)は5110石余の旗本で、部下に分与した残りの土地13000坪を老中に頼んで抱え屋敷にしたという。  
長女は内藤弥三郎重頼の室となった、つまりお隣にお嫁に行ったのである。しかしこの四谷にあった内藤家の屋敷は下屋敷、または中屋敷と下屋敷であり、久世三四郎広当の屋敷も拝領屋敷でなく無年貢抱屋敷である。広当はまた河合又五郎事件の登城人物でもある。  
『東京府豊多摩郡誌』(東京府豊多摩郡役所、1916年)によれば、昔時小川町に本邸を有 し、四谷内藤新宿に廣大なる中屋敷を有せり、嘉永二年の切繪圖に「内藤駿河守下屋敷」とあれど も武鑑によれば「上小川町、中四谷内藤新宿、下澁谷下深川田島町」とあり此處は中屋敷なりしな り  
国立公文書館のデジタルアーカイブのデジタル・ギャラリーで「正保年中江戸絵図」を見ると「内藤弥三郎下屋敷」という区画と「久世三四郎与力」という区画が入り乱れている。玉川上水はまだ無い。また、ちょうど大久保百人町に当たる場所に「久世三四郎与力同心」「久世三四郎同心」という記載がある。東に「中根喜蔵下屋敷」「中根喜蔵同心」と「夏目太左エ門同心」「同屋敷」があって大久保の地名の元になった凹地、西と北に神田上水がある。「百人組」とか「御箪笥」の文字がまだ見えない。図の左下に縦書きで  
  此江戸大絵圖年月未詳予考ルニ  
  長松君御屋敷越前宰相屋敷相見候  
  長松君正保元年七月廿四日御誕生  
  越前宰相忠昌朝臣正保二年八月  
  朔日逝去ナレハ正保元年中与り  
  二年七月頃迄之繪圖ニヤ  
と書かれていて、この記述にある正保1年7月24日〜正保2年8月30日はグレゴリオ暦の1644年8月26日〜1645年10月19日である。久世三四郎広当は寛永12年11月10日御先手組組頭より転じ万治3年1月25日卒去まで大久保百人組組頭であった。これはグレゴリオ暦の1635年12月19日〜1660年3月6日である。従って絵図が描かれたのは久世三四郎広当が大久保百人組組頭であった時期に含まれている。  
三四郎広当の弟は広之で老中、利根川と江戸川の分岐点にある関宿藩主になった。  
娘婿の内藤弥三郎重頼は初代大久保組組頭 内藤清成の三男 内藤正勝の長男であり寛永6年2才で父が死に、家督を継いだ当初は給地を返上して旗本となり、のちに、若年寄、大阪城代、京都所司代になった。大久保組支配2代目の内藤若狭守清次は伯父である。  
久世三四郎広当抱屋敷は明治2年に国有地とされ東大久保村に編入された。その位置は、現在の財団法人 東京都保健医療公社 大久保病院の辺りである。  
江戸時代の通りが今でも、「北通り」又は「社会保険病院通り」、「大久保通り」、「職安通り」として残っている。現在の大久保通りは小滝橋通りから東では幅員20mであるが、大正七年当時、「大久保停車場」「百人町停車場」の「駅前通りは馬力がすれ違うのがやっとでした」「震災後、この駅前通りが昭和6年頃に広くなりました。」という。

 ■戻る  ■戻る(詳細)   ■ Keyword    


出典不明 / 引用を含む文責はすべて当HPにあります。  
 
口説き言葉の比較
口説き1  口説き2  口説き4 口説き5  口説き6
花のお江戸のそのかたわらに 
さしもめずらし人情くどき 
ところ四谷の新宿町よ 
紺ののれんに桔梗の紋は 
音に聞こえし橋本屋とて  
あまた女郎衆のあるその中に 
お職女郎衆の白糸こそは  
年は十九で当世育ち 
愛嬌よければ皆人様が  
われもわれもと名ざしてあがる 
あけてお客はどなたと聞けば  
春は花咲く青山へんの 
鈴木主水という侍よ  
女房もちにて二人の子供 
五つ三つはいたずらざかり  
二人子供のあるその中で 
今日も明日もと女郎買いばかり  
見るに見かねて女房のお安 
ある日わがつま主水に向かい  
これさわがつま主水様よ 
私は女房で妬くのじゃないが  
子供二人は伊達にはもたぬ 
十九二十の身であるまいに  
人に意見も言う年頃に 
やめておくれよ女郎買いばかり  
 
金のなる木はもちゃしゃんすまい 
どうせ切れ目の六段目には  
つれて逃げるか心中するか 
二つ三つの思案と見える  
しかし二人の子供がふびん 
子供二人と私の身をば  
末はどうする主水様よ 
言えば主水は腹うちたてて  
何をこしゃくな女房の意見 
おのが心でやまないものは  
女房位の意見でやまぬ 
きざなそちより女郎衆が可愛い  
それがいやなら子供をつれて 
そちのお里へ出て行かしゃんせ  
あいそつかしの主水様よ 
そこで主水はこやけになりて  
出でて行くのが女郎買い姿 
あとにお安は気くやしやと  
いかに男の我がままじゃとて 
死んで見せよと覚悟はすれど  
五つ三つの子にひかされて 
死ぬに死なれず嘆いてみれば  
五つなる子はそばへと寄りて 
これさ母さんなぜ泣かしゃんす  
気しょく悪けりゃお薬上がれ 
どこぞ悪くばさすりてあげよ  
坊やが泣きます乳下さんせ 
言えばお安は顔ふり上げて  
どこもいたくて泣くのじゃないが 
おさなけれども良く聞け坊や  
あまり父さん身持ちが悪い 
 
意見いたせばこしゃくなやつと  
たぶさつかんでちょうちゃくなさる 
さても残念夫の心  
自害しようと覚悟はすれど 
あとに残りしわしらがふびん  
どうせ女房の意見でやまぬ 
 
さればこれから新宿町の  
女郎衆に頼んで意見をしようと 
三つなる子をせなにとかかえ  
五つなる子の手を引きつれて 
いでて行くのはさもあわれさよ  
行けば程なく新宿町よ 
店ののれんに橋本屋とて  
見れば表に主水がぞうり 
それと見るなり小しょくをよんで  
わしはこちらの白糸さんに 
どうぞ会いたいあわせておくれ  
あいと小しょくは二階へ上がり 
これさ姉さん白糸さんよ  
どこの女中か知らない方が 
何かお前に用ありそうに  
会ってやらんせ白糸さんよ 
言えば白糸二階を下る  
わしをたずねる女中というは 
お前さんかね何用でござる  
言えばお安は始めてあいて 
わしは青山主水が女房  
おまえ見かねて頼みがござる 
主水身分はつとめの身分  
日々のつとめをおろそかにすれば 
末はご扶持もはなれるほどに  
ことの道理を良くきき分けて 
どうぞわがつま主水様に  
意見なされて白糸さんよ 
せめてこの子が十にもなれば  
昼夜上げづめなさしょうとままに 
又は私が去りたる後に  
お前女房にならんすとても 
どうぞそののち主水様に  
三度来たなら一度は上げて 
二度は意見をして下さんせ  
言えば白糸言葉につまり 
わしはつとめの身の上なれば  
女房もちとはゆめさえ知らず 
ほんに今まで懇親なれど  
さぞやにくかろお腹も立とが 
わしもこれから主水様に  
意見しましょとお帰りなされ 
言って白糸二階に上がり  
  
 
あとで二人の子供をつれて 
お安我が家にはや帰られる 
 
ついに白糸主水に向かい 
お前女房が子供をつれて  
わしさ頼みに来ました程に 
今日はお帰りとめてはすまじ  
言えば主水にっこと笑い 
おいておくれよ久しいものよ  
ついにその日もいつづけなさる 
待てど暮らせど帰りもしない  
お安子供を相手といたし 
もはやその日もはや明けければ  
支配よりお使いありて 
主水身持ちがほうらつゆえに  
扶持も何かも召しあげられる 
あとでお安は途方にくれて  
あとに残りし子供がふびん 
思案しかねて当惑いたし  
扶持にはたしてながらえいれば 
馬鹿なたわけと言われるよりも  
武士の女房じゃ自害もしようと 
二人子供をねかしておいて  
硯とりよせ墨すり流し 
うつる涙が硯の水よ  
涙とどめて書き置き致し 
白き木綿で我が身を巻いて  
二人子供の寝たのを見れば 
可愛可愛で子に引かされて  
 
おもい切刃を逆手に持ちて 
持つと自害のやいばのもとに  
二人子供ははや目をさまし 
 
三つなる子は乳にとすがり  
五つなる子はせなにとすがり  
これさかあさんもしかあさんと  
おさな心でただ泣くばかり 
主水それとは夢にも知らず  
女郎屋たちいでほろほろ酔いで 
女房じらしの小唄で帰り  
表口より今もどりたと 
子供二人はかけだしながら  
申し父さんお帰りなるか 
なぜか母さん今日にかぎり  
ものも言わずに一日おるよ 
ほんに今までいたずらしたが  
御意はそむかぬのう父さま 
どうぞわびして下さいましと  
聞いて主水は驚きいりて 
あいの唐紙さらりとあけて  
見ればお安は血潮に染まり 
わしの心が悪いが故に  
自害したかよふびんなものよ 
涙ながらに二人の子供  
ひざに抱き上げかわいや程に 
なにも知るまいよく聞け坊や  
母はこの世といとまじゃ程に 
言えば子供は死がいにすがり  
申し母様なぜ死にました 
あたし二人はどうしましょうと  
なげく子供をふりすておいて 
旦那寺へと急いで行けば  
戒名もろうて我が家へ帰り 
あわれなるかや女房の死がい  
こもに包んで背中にせおい 
三つなる子を前にとかかえ  
五つなる子の手を引きながら 
行けばお寺でほうむりなさる  
ぜひもなくなく我が家へ帰り 
女房お安の書き置き見れば  
余りつとめのほうらつ故に 
扶持もなんにもとり上げられる  
又も門前払いと読みて 
さても主水は仰天いたし  
子供泣くのをそのままおいて 
急ぎ行くのは白糸方へ  
これはおいでか主水様よ 
したが今宵はお帰りなされ  
言えば主水はその物語 
えりにかけたる戒名を出して  
見せりゃ白糸手に取り上げて 
わしの心がほうらつ故に  
お安さんへも自害をさせた 
さればこれから三途の川も  
お安さんこそ手を引きますと 
主水も覚悟を白糸とどめ  
わしとお前と心中しては 
お安さんへの言いわけ立たぬ  
 
お前死なずに永らえさんせ 
 
回向頼むよ主水様よ  
言うて白糸一間に入りて 
あまた朋輩女郎衆をまねき  
譲りあげたる白糸が品 
やれば小春は不思議に思い  
これさ姉さん白糸さんよ 
今日にかぎりて譲りをいたし  
それにお顔もすぐれもしない 
言えば白糸良く聞け小春  
わたしゃ幼き七つの年に 
人に売られて今この里に  
つらいつとめもはや十二年 
つとめましたよ主水様に  
日頃三年懇親したが 
こんどわし故ご扶持もはなし  
又は女房の自害をなさる 
それに私が生き永らえば  
お職女郎衆の意気地が立たぬ 
死んで意気地を立てねばならぬ  
早くそなたも身ままになりて 
わしの為にと香・花たのむ  
言うて白糸一間に入りて 
口の中にてただ一言  
涙ながらにのうお安さん 
私故こそ命を捨てて  
さぞやお前は無念であろが 
死出の山路も三途の川も  
共に私が手を引きましょう 
南無という声この世の別れ  
あまた朋輩寄り集まりて 
人に情けの白糸さんが  
主水さん故命を捨てる 
残り惜しげに朋輩達が  
別れ惜しみて嘆くも道理 
今は主水もせんかたなしに  
しのびひそかに我が家に帰り 
子供二人に譲りをおいて  
すぐにそのまま一間に入りて 
重ね重ねの身のあやまりに  
我と我が身の一をさ捨てる 
子供二人はとり残されて  
西も東もわきまえ知らぬ 
幼心はあわれなものよ  
 
義理を立てたり意気地を立てる 
心おうたる三人共に  
 
 
 
 
 
 
 
聞くもあわれな話でござる
花のお江戸のそのかたわらに  
聞くも珍し心中の話  
所四谷の新宿町の  
紺の暖簾に桔梗の紋は 
音に聞こえし橋本屋とて 
数多女郎衆のあるその中に 
御職女郎の白糸こそは  
年は十九で当世育ち 
愛嬌よければ皆人様が   
我も我もと名指して上がる 
分けてお客はどなたと問えば 
春は花咲く青山辺の 
鈴木主水という侍は 
女房持ちにて二人の子供 
 
二人子供のあるその中で   
日々毎日女郎買いばかり  
見るに見かねた女房のお安  
ある日我が夫主水に向かい   
これさ我が夫主水様よ 
私ゃ女房で妬くのじゃないが  
二人子供は伊達には持たぬ 
十九二十の身じゃあるまいし   
人に意見も言わしゃんす頃 
やめておくれよ女郎買いばかり  
 
金のなる木も持たしゃんすまい 
どうせ切れぬの六段目には   
連れて逃げよか心中をしよか 
二つ一つの思案と見ゆる   
さても二人の子供が不憫 
子供二人と私の身をば   
末はどうする主水様よ 
言えば主水は腹立ち顔で   
何を小癪な女房の意見 
己が心でやまないものを   
女房だてらの意見でやもか 
愚痴なそちより女郎衆が可愛い   
それが嫌なら子供を連れて 
そちのお里へ出で行かしゃんせ   
愛想尽かしの主水が言葉 
そこで主水はこ自棄になりて   
またも出て行く女郎買い姿 
後でお安は泣く悔しさに   
いかに男の我侭じゃとて 
死んで見せよと覚悟はすれど   
五つ三つの子供が不憫 
死ぬに死なれず嘆いておれば   
五つなる子が袂にすがり 
これさ母様なぜ泣かしゃんす   
気色悪けりゃお薬ゅあがれ 
どこぞ痛くばさすりてあげよ   
坊が泣きます乳下しゃんせ 
言えばお安は顔振り上げて 
どこも痛くて泣くのじゃないが 
幼けれどもよく聞け坊や   
うちの父様身持ちが悪い 
身持ち悪けりゃ暮らしに難儀  
意見いたさば小癪な奴と   
たぶさつかんで打ち叩かるる 
さても残念夫の心  
 
 
どうせ女房の意見じゃやまぬ 
いっそ頼んで意見をせんと  
さらばこれから新宿町の   
女郎頼んで意見のことを 
三つなる子を背中に背負い   
五つなる子の手を引きまして 
出でて行くのもさも哀れなり   
行けば程なく新宿町よ 
紺の暖簾に橋本屋とて   
見れば表に主水が草履 
それを見るなり小女郎を招き   
私ゃこなたの白糸様に 
どうか逢いたい逢わせておくれ  
言えば小女郎は二階へ上がる 
これさ姐さん白糸様よ  
どこのお女中か知らない方が 
何かお前に用あるそうな  
逢うてやらんせ白糸様よ 
言えば白糸二階を下りる   
わしを訪ぬるお女中と言えば 
お前さんかえ何用でござる   
言えばお安が顔振り上げて 
私ゃ青山主水が女房   
お前見かけて頼みがござる 
主水身分は勤めの身分   
日々の務めをおろかにすれば 
末は手打ちになります程に   
ここの道理をよく聞き分けて 
どうぞ我が夫主水様に   
意見なされて白糸様よ 
せめてこの子が十にもなれば   
昼夜上げ詰めなさろとままよ 
または私が去りたる後で   
お前女房にならしゃんしょうと 
どうぞその後主水様に   
三度来たなら一度は上げて 
二度は意見をして下しゃんせ   
言えば白糸言葉に詰まり 
わしも勤めの身の上ばれば   
女房持ちとは夢にも知らず 
日頃懇親早や三年も   
さぞや憎かろお腹が立とう 
わしもこれから主水様に   
意見しますぞお帰りなされ 
言うて白糸二階へ上がる   
お安安堵の顔色浮かべ 
上の子供の手を引きながら   
背の子供はすやすや眠る 
お安我が家へ早や帰りける 
御職戻りて両手をついて  
これさ青山主水様よ 
お前女房が子供を連れて   
わしに頼みに来ました程に 
今日はお帰り留めては済まぬ  
言えば主水はにっこり笑い 
置いておくれよ久しいものだ  
ついにその日は流連なさる 
待てど暮らせど帰りもしない   
お安子供を相手にいたし 
最早その日は早や明けたれば  
支配方より便りがありて 
主水身持ちが不埒な故に  
扶持も何かも召し上げらるる 
後でお安は途方に暮れて  
後に残りし子供が不憫 
思案しかねて当惑いたし  
扶持に離れて永らくおれば 
馬鹿な私と言わるるよりも  
武士の女房じゃ自害をしよと 
二人子供を寝かしておいて   
硯取り出し墨すり流し 
落つる涙が硯の水よ  
涙とどめて書置きいたし 
白き木綿で我が身を巻いて  
二人子供の寝たのを見れば 
我子可愛いや子にひかされて   
 
思い刀を逆手に持ちて 
ぐっと自害の刃の下に  
二人子供が早や目を覚まし 
 
三つなる子は乳にとすがり  
五つなる子は背中にすがり 
これさ母様のう母様と   
幼心でただ泣くばかり 
主水それとは夢にも知らず  
女郎屋立ち出でほろほろ酔いで 
女房じらしの小唄で帰り  
表口より今戻ったと 
子供二人は駆け出しながら   
もし父様お帰りなるか 
なんで母様今日限り  
物も言わずに一日寝ぬる 
坊は今までいたずらしたが  
御意は背かぬのう父様よ 
どうぞ詫びして下されましと   
聞いて主水は驚き入りて 
合の唐紙さらりとあけて  
見ればお安は血汐に染まり 
わしが心の悪いが故に  
自害したかや不憫なことよ 
涙ながらに二人の子供   
膝に抱き上げ可愛いや程に 
何も知るまいよう聞け坊や  
母はこの世の暇じゃ程に 
言えば子供は死骸にすがり  
もし母様なぜそうなした 
私二人はどうしましょうと   
嘆く子供を振り捨て置いて 
檀那寺へと急いで行きて  
戒名貰いて我が家へ帰り 
哀れなるかや女房が死骸  
菰に包みて背中に負うて 
三つなる子を前にと抱え   
五つなる子の手を引きながら 
行けばお寺で葬儀を済ます  
是非も泣く泣く我が家へ帰り 
女房お安の書置き見れば  
余り勤めの不埒な故に 
扶持も何かも召し上げらるる   
またも門前払いと読みて 
さても主水は仰天いたし  
子供泣くのをそのまま置いて 
 
これはお出でか主水様よ 
したが今宵はお帰りなされ   
言えば主水はその物語り 
襟にかけたる戒名を出して   
見すりゃ白糸手に取り上げて 
わしが心の悪いが故に   
お安さんへも自害をさせた 
さらばこれから三途の川も   
お安さんこそ手を引きますと 
言えば主水はしばらくとどめ   
わしとお前と心中しては 
お安様への言い訳立たぬ   
 
お前死なずに永らえしゃんせ 
二人子供を成人させて 
回向頼むよ主水様よ   
言うて白糸一間へ入りて 
あまた同輩女郎衆を招き  
譲り物とて櫛簪を 
やれば小春は不思議に思い  
これさ姐さんどうしたわけと 
今日に限りて譲りをいたし   
それにお顔もすぐれもしない 
言えば白糸よく聞け小春  
わしは幼き七つの年に 
人に売られて今この里に  
辛い勤めも早や十二年 
勤めましたよ主水様に   
日頃三年懇親したが 
今度わし故御扶持を離れ  
または女房の自害をなさる 
それに私が永らえおれば  
御職女郎の意気地が立たぬ 
死んで意気地を立てねばならぬ   
早くそなたに身ままになりて 
わしが為にと香花頼む  
言うて白糸一間へ入りて 
口の内にて唯一言は  
涙ながらにのうお安さん 
わしの故こそ命を捨てて   
さぞやお前は無念であろが 
死出の山路も三途の川も  
共に私が手を引きましょと 
南無という声この世の別れ  
あまた朋輩皆立ち寄りて 
人は情けの白糸様に   
主水様故命を捨つる 
残り惜し気な朋輩達が  
別れ惜しみて嘆くも道理 
今も主水は詮方なさる  
忍び密かに我が家へ帰り 
二人子供に譲りを置いて   
すぐにそのまま一間へ入りて 
重ね重ねの身の誤りを  
我と我が身の一生すてる 
子供二人は取り残されて  
西も東もわきまえ知らぬ 
幼心は哀れなものよ   
あまた心中のあるとは言えど 
義理を立てたり意気地を立てて  
心合うたる三人共に 
心中したとはいと珍しや  
さても哀れな二人の子供 
見れば世間のどなたも様も   
三人心中の噂をなさる 
二人子供は路頭に迷う  
これも誰ゆえ主水が故よ 
哀れなるかや二人の子供  
聞くも哀れなこの物語
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
表に主水(もんど)が草履(ぞうり) 
夫(それ)と見るなり小職を招き  
妾(わし)はこちらの白糸さんに  
どうぞ会たい会(あは)しておくれ  
アイと小職は二階へ上り  
コレサ姉さん白糸さんよ  
何処の女中か知らない方(かた)が  
何かお前に用ありさうに  
会ふてやらんせ白糸さんと  
言へば白糸二階をおりる   
妾をアアエ 尋ねる女中と言ふは 
お前さんかえ 何用でござる 
言へばお安は始めて会ふて  
妾は青山主水が女房  
お前見かねて頼みがござる  
志水身分は勤の身分  
日々のつとめをおろそかにすれば  
末はご扶持(ふち)に離るる程に  
ここの道理をよく聞分けて  
どうぞ我が夫(つま)主水殿に 
意見をされて白糸さんよ  
せめてこの子が十にもなれば  
書夜揚づめなされうとままよ  
又は妾が去られた跡で  
お前女房にならんすとても  
何卒そののち主水殿に  
三度来たなら一度は揚げて  
二度と意見をして下さんせ  
言へば白糸言葉に詰り  
わしは勤めの身分(みのうへ)なれば  
女房持ちとは夢さら知らず  
ホンに今迄懇親なれど  
さぞや悪(にく)からふお腹は立とぶ  
わしも之から主水様に 
意見しませうお帰りなされ  
言ふて白糸二階へ上り  
 
 
あとで二人の子供を連れて 
お安我が家ヘハヤ帰りける  
 
遂(つい)に白糸主水に向ひ  
お前女房が子供を連れて 
わしを頼みに来ました程に  
今日はお帰り留めてはすまず  
言へば主水はにっこと笑ひ  
置ひておくれよ 久しいものだ  
遂にその日は居続けなさる 
待とサアエ 暮せど帰りもしない  
お安子供を相手と致し  
も早その日はハヤ明けければ  
支配方よりお使ひありて  
主水身持ちがふらちだ故に  
扶持も何にも召上げられる  
後でお安途方に暮れて  
跡に残りし子供がふびんと 
思案しかねて当惑いたし  
扶持に離れて永らく居れば  
馬鹿なたわけと言はれるよりも  
武士のアサエ 女房ぢや自害をせうと 
二人子供を寝かしておいて  
硯とり出し墨すり流し  
落ちる涙が硯の水に  
涙止めて書おきいたし  
白き木綿で我身を巻ひて  
ニ人子供の寝たのを見れば  
可愛可愛で子に引かされて 
 
思い切り刃(やいば)を逆手に持ちて  
グッと自害の刃(やいば)の下に  
二人子供はハヤ目が覚(さ)めて  
 
三ツになる子は乳にとすがり  
五ツなる子は背中にすがり  
コレサ母(かあ)さんノウ母さんと  
幼な心でハヤ泣くばかり  
主水それとは夢にも知らぬ 
女郎や立ちいでほろほろ酔で  
女房ぢらしの小唄で帰り  
表口より今戻ったと  
子供二人は駆出し乍ら  
モーシ父様(ととさま)お帰りなるか  
なぜか母さん今日限り  
物も言はずに一日お寝る  
ホンニ今迄いたずらしたが  
御意は反かぬノウ父様(ととさま)よ  
何卒詫びして下されましと  
聞いて主水は驚き入りて  
合の唐紙さらりとあけて  
見ればお安は血汐にそまり  
わしが心の悪ひが故に  
自害したかよ不びんな事よ  
涙乍らに二人が子供  
膝に抱き上げ可愛や程に  
何も知るまいよく聞け坊や  
母は此の世の暇(いとま)ぢや程に  
言えば子供は死骸(がい)へすがり  
モーシ母さんなぜサウなした  
私二人はドウしませうと  
歎(なげ)く子供を振り捨て置ひて  
旦那寺へと急ひで行きて 
「戒名サアエ 貰ふて我が家に帰り  
哀れなるかや女房の死骸  
篇(こも)に包んで背中におふて 
三ツなるこを前にとかかへ  
五ツなる子を手に引き乍ら  
行けばお寺で葬むりまする  
是非もなくなく我家へ帰り 
女房お安の書置き見れば  
余り勤めの放らち故に  
扶持も何も取り上げられる  
又は門前払ひと読みて  
さても主水は仰天いたし  
子供泣くのをそのまま置ひて  
急ぎ行くのは白糸かたへ  
是はお出でか主水様よ  
したが今宵はお帰りなされ  
言へば主水はその物語り  
襟に掛けたる戒名出して見せりや  
白糸手に取り上げて  
わしが心の悪ひが故に  
お安さんへも自害をさせた  
去ればこれから三途の川も  
お安さんこそ手を曳きませう  
主水の覚悟を白糸とどめ  
わしとお前と心中しては  
お安様への言ひわけ立たぬ  
 
お前死なずにながらへしゃんせ  
二人子供を成人させて  
回向(えこう)頼むよ主水様よ言ふて 
白糸一と間へ入りて  
あまた朋輩(ほうばい)女郎衆を招き  
ゆづり物とて櫛こうがいをやれば  
くれば小春は不思議に思ひ  
コレサ姉さんどうした訳ぞ  
今日を限りてゆづり言ひ出し  
それにお顔もすぐれもしない  
言へば白糸 よく聞け小春  
俺(わし)はサアエ幼き七ツの年に  
人に売られて今此の里に  
つらい勤めもハヤ十二年  
勤めましたよ主水様に  
日頃三年こん親したが  
今度わし故ご扶持もはなれ  
又は女房の自害をなさる  
それに私が生存(ながらえ)おれば  
お職女郎の意気地が立たぬ 
死んで意気地を立てねばならぬ  
早くそなたも身なりになりて  
わしが為にと香花頼む  
言ふて白糸一卜間へ入りて  
口の内にて唯一言と 
涙乍らにノウお安さん  
私故こそ命を捨てて 
さぞやお前は無念であろが  
死出の山路も三途の川も 
共に妾(わたし)が手を曳きませうと  
南無といふ声此の世の別れ  
あまた朋輩皆立寄りて  
人に情の白糸さんが  
主水さん故命を捨てる  
残り惜し気に朋輩達が  
別れ惜しみて歎く(なげ)くも道理  
今は主水も詮方なさに  
忍びひそかに我家に帰り 
子供二人に譲りを置ひて  
すぐに其のまま一間に入りて  
重ね重ねの身の誤りに  
我と我が身の一生すつる  
子供二人は取り残されて  
西も東もわきまへ知らぬ  
幼な心は哀れなものと  
あまた情死もあるとはいへど  
義理を立ちたり意気地を立てて  
心合ふたる三人共に 
 
 
 
 
 
 
 
聞くも哀れな話でござる ヤンレエー 
花のお江戸のその側に  
聞くも珍し情死(しんじゅ)ばなし  
所は四谷新宿町よ  
紺ののれんに桔梗の紋は  
音に聞こえし橋本屋とて  
あまた女郎衆のある其の中に  
お職女郎の白糸こそは  
年は十九で当世そだち  
愛嬌よければ皆人さんが  
我も我もと名ざして上がる 
別けてお客を誰人と聞けば  
春は花咲く青山辺の  
鈴木主水と言う侍よ  
女房持ちにて二人の子供  
五つ三つは悪戯ざかり 
二人の子供のある其の中に  
今日も明日もと女郎買いばかり  
見るに見兼ねし女房のお安  
或る日我が夫(つま)主水に向かい
これは我が夫(つま)主水様よ  
妾しや女房でやくのじゃないが  
子供二人は伊達ではもたぬ  
十九や二十歳の身じゃあるまいし  
人に意見を言う年頃に  
止めておく呉れよ女郎買いばかり  
如何にお前が男じゃとても  
金のなる木は持ちやさんすまい  
何うせ切れるが六段目には  
連れて逃げるか情死をするか  
二つに一つの思案と見える  
併(あわ)して二人の子供が不愍  
子供二人と妾(めかけ)の身をば  
末はどうする我が夫(つま)様よ  
言えば主水は腹立顔で  
何の小癪な女房の意見  
己が心で止まないものを  
女房位の意見じゃ止まぬ 
愚痴なそちより女郎衆が可愛い  
それがいやなら其の子を連れて
そちのお里へ出て行かしゃんせ
愛想づかしの主水の言葉  
又も主水はこやけになりて  
出て行くのが女郎買姿  
後でお安は聞く悔しさと  
如何に男の我儘じゃとて  
死んで見せうと覚悟はすれど  
二人の子供につい引かされて  
死ぬに死なれず嘆いて居れば  
五つなる子が側えと寄りて  
是さ母さんなぜ泣しやんす  
気色悪けりゃお薬あがれ  
何處ぞ痛くばさすって上げよか  
坊が泣きます乳くだしゃんせ  
言えばお安は顔ふり上げて  
どこも痛くて泣くのじゃないが  
稚なけれ共よく聞け坊よ  
あまり父様身持ちが悪い  
 
意見をすれば小癪な奴と  
たぶさ摑んで打擲なさる  
さても無念夫のこと覚悟はすれど

後に残りし汝等が不憫  
どうせ女房の意見じゃ止まぬ  
 
さればこれから新宿町の  
女郎衆頼んで意見さしようと  
三つなる子を背中に背負ひ  
五つなる子の手を引き連れて  
出て行く姿のさも憐れなる  
行けば程なく新宿町よ  
店ののれんに橋本屋とて  
見れば表に主水の草履 
夫を見るより新造を招き  
妾しや此方の白糸さんに  
何うぞ会ひ度い会わせてお呉 
言えば新造は二階に上り  
コレサ姉さんよ白糸さんよ  
何所の女中か知らない方が  
何かお前に用あるそうな  
会うてやらんせ白糸さんよ  
言えば白糸二階を下りて  
妾しゅ尋ねるお女中と言うは  
お前さんかえ何用がござる  
言えばお安は初めて逢うて  
妾しや青山主水の女房  
お前見かけて頼みが御座る 
夫の主水は勤めの身分  
日々の勤めをおろかにすれば  
末は御扶持に離るる程に  
ここの道理を聞き分けられて  
何うぞ我が夫主水殿に  
意見なされて白糸さんよ  
せめて此の子が十にもなれば  
晝夜揚げづめせられよとままよ  
 
お前が女房にならんずとても  
どうぞ此の後主水殿が  
三度来たなら一度は揚げて  
二度は意見をして下さんせ  
言えば白糸言葉につまり  
私は勤めの身の上ならば  
女房持ちとは夢にも知らず  
ホンに今迄懇親なれば  
さぞや憎かろお腹も立とう  
私も之から主水様に  
意見しましょうお帰りなされ  
言うて白糸二階に上がる  
 
 
あとで二人の子を引き連れて  
お安は我が家へ帰りける  
 
遂に白糸主水に向ひ  
お前女房が子供を連れて  
妾し頼みに来ました程(ほど)に  
今日は御帰り止めては済まぬ  
言えば主水はにっこりと笑ひ  
置いてお呉よ久しいものだ  
遂に其の日は居つづけなさる  
待(ま)てど暮らせど帰りもしない  
お安は子供を合手にいたし  
最早や其の夜は早や明けたれば  
支配方より使がありて  
主水身持ちがふらちじゃ故に  
扶持も何もかも召上られる  
後でお安は途方に暮れて  
 
思案しかねて当惑致し  
扶持に放れて長らく居れば  
馬鹿なたわけと言われるよりも  
武士の女房じゃ自害をしょうと  
二人の子供を寝かせて置いて  
硯を取出し墨すり流し  
落つる涙が硯の水よ  
涙止めて書置き致し  
白い木綿で我が身を巻いて  
二人子供の寝たのを見れば  
可愛い可愛い子に引かされる  
かくてはならじと気を取り直し  
刀逆手に持ちまして  
ぐっと自害の刃の下に  
二人の子供はそれとも知らず  
早や目をさましそばに寄りて  
三つなる子は乳にとすがり  
五つなる子は背中にすがり  
これさ母さんのう母さんと  
幼な心で早や泣くばかり  
主水それとは夢にも知らず  
女郎屋立ち出でほろ酔機嫌  
女房じらしの子唄で帰る  
表口より今帰りたと  
言えば子供は駆け出し乍  
もーし父様お帰りなるか  
何故か母さん今日に限り  
物を言わずに一日お寝る 
ホンに今迄いたづらしたが  
御意は反かぬのう父様よ  
何卒詑して下さりませと  
聞いて主水は驚き乍  
合の唐紙さらりと開けて  
見ればお安は血潮にそまる  
俺が心が悪いが故に  
自害させたか不憫な事よ  
涙ながらに二人の子をば  
膝に抱き上げ可愛いや程に  
何も知るまいよく聞け坊よ  
母は此の世の暇じゃ程に  
言えば子供は死骸にすがり  
もーし母さん何故そうなさる  
坊や二人はどうしましょうと  
嘆く子供を振り捨ておいて  
旦那寺へと急いで行きて  
戒名貰うて我家へ帰り  
哀れなるかや女房の死骸  
莚(むしろ)に包んで背中に負うて  
三つなる子を前にと抱え  
五つなる子の手を引き乍ら  
行けばお寺に葬りまする  
是非もなくなく我家に帰り  
女房お安の書き置き見れば  
餘り勤の放埓故に  
扶持も何もかも取上げられる  
其の上門前佛と読んで  
偖(さて)も主水は仰天いたし  
子供泣くのを其の儘おいて  
急ぎ行くのは白糸方へ  
是はお出か主水様よ  
したか今宵はお帰りなされ  
言へは主水はそれ物語  
襟の懸けたる戒名出して  
見せりゃ白糸手に取上げて  
妾の心が悪いが故に  
お安さんへも自害をさせた  
されば之から三途の川も  
手を引きますよお安さん  
言えば主水は暫しを止め  
俺もお前と情死をしては  
親方さんへ言い訳立たぬ  
言へば白糸主水に向ひ  
お前死なず永らえさんせ  
二人子供を成長させて  
回向頼むよ主水様と  
言うて白糸一間に入りて  
数多朋輩女郎衆を招き  
ゆづり物とてくしこうがいを  
やれば小春は不思議に思い  
これさ姉さんどうした訳か  
今日に限りゆづり物出して  
夫にお顔もすぐれもしない  
言へば白糸よく聞け小春  
わたしは幼き七つの歳に  
人に売られて此の廓で  
つらい勤めも早十二年  
努めましたよ主水様に  
日頃三年懇親したが  
今度妾し故御扶持に放れ  
又も女房に自害をさせて  
それで妾が永らえ居れば  
お職女郎の意気地がたたぬ  
死で意気地を立てねばならぬ  
早く其の方も身ままになって  
妾がためにと香花たのむ  
言って白糸一間に入りて  
口の中では只一人ごと  
涙ながらにのおお安さん  
妾故にと命を捨てて  
嘸(さぞ)やお前は無念であろう  
死出の山路も三途の川も  
共に妾が手を引きましょうと  
南無と言う聲此の世の別れ  
あまた女郎衆のある中で  
人に情けの白糸さんが  
主水様故命を捨てる  
名残惜しげに朋輩衆が  
別れ惜しみて嘆くも道理  
今は主水も詮方なさに  
忍び密かに我家に帰り  
子供二人にゆづりを置いて  
直ぐに其の儘一間に入り  
重ね重ねの身の誤と  
我と我が身一生すてる  
子供二人は取り残されて  
西も東も辧え知らぬ  
稚な心の哀れな者よ  
あまた情死もあるとは言えど  
義理を立てたり意気地を立てて  
心合う三人ともに 
 
 
 
 
 
 
 
聞くも哀れな話で御座る 
花のお江戸の そのかたわらに 
聞くも珍らし 心中話 
ところ四谷の 新宿町の 
紺ののれんに 桔梗の紋は 
音に聞こえし 橋本屋とて 
あまた女郎衆の あるその中に 
お職女郎衆で 白糸こそは 
年は十九で 当世育ち 
愛嬌よければ 皆人様が 
われもわれもと 名指して上がる 
分けてお客は どなたと問えば 
春は花咲く 青山辺の 
鈴木主水と いうさむらいが 
女房持ちにて 二人の子供 
五つ三つは いたずら盛り 
二人子供の あるその中を 
今日も明日もと 女郎買いばかり 
見るに見かねて 女房のお安 
ある日わがつま 主水に向い 
これさわがつま ご主人さまよ 
わたしゃ女房で 嫉くのじゃないが 
二人子供は 伊達には持たぬ 
十九、二十の 身じゃあるまいし 
人に意見も 言わしやす頃 
やめておくれよ 女郎買いばかり 
 
金のなる木も 持たしゃんすまい 
どうせ切れぬの 六段目には 
連れて逃げるか 心中をするか 
二つ一つの 思案と見ゆる 
しかし二人の 子供がふびん 
子供二人と 私の身をば 
末はどうする 主水さまよ 
言えば主水は 腹立ち顔に 
何のこしゃくな 女房の意見 
おのが心で やまないものを 
女房だてらの 意見でやむか 
愚痴なそちより 女郎衆がかわい 
それが嫌なら 子供を連れて 
そちのお里へ 出でいかしゃんせ 
愛想づかしの 主水が言葉 
そこで主水は こやけになりて 
またも出て行く 女郎買い姿 
後でお安は 泣くくやしさに 
いかに男の わがままじゃとて 
死んで見せよと 覚悟はすれど 
五つ三つの 子供がふびん 
死ぬに死なれぬ 嘆いておれば 
五つなる子が 袂にすがり 
これさかかさま なぜ泣かしゃんす 
気色悪けりゃ お薬あがれ 
どこぞ痛くば さすりてあげよ 
坊が泣きます 乳くださんせ 
いえばお安は 顔振り上げて 
どこも痛くて 泣くのじゃないが  
幼けれども よく聞け坊や 
うちのととさま 身持ちが悪い 
 
意見いたさば こしゃくな奴と 
たぶさつかんで ちょうちゃくなさる 
さても残念 夫の心 
 
 
どうせ女房の 意見じゃやまぬ 
いっそ頼んで 意見をせんと 
さらばこれから 新宿町の 
女郎衆頼んで 意見のことを 
三つなる子を 背中に背負い 
五つなる子の 手を引きまして 
出でてゆくのも さも哀れなり 
行けば程なく 新宿町で 
店ののれんに 橋本屋とて 
見れば表に 主水が草履 
それを見るより 小女郎を招き 
わたしゃこなたの 白糸さまに 
どうか会いたい 会わせておくれ 
あいと小女郎は 二階へ上がる 
これさ姉さん 白糸さまよ 
どこのお女中か 知らない方が 
何かお前に 用あるそうな 
会うてやらんせ 白糸さまよ 
言えば白糸 二階をおりて 
わしを尋ぬる お女中と言えば 
お前さんかえ 何用でござる 
言えばお安が 顔振り上げて 
わたしゃ青山 主水が女房 
お前見かけて 頼みがござる 
主水身分は 勤めの身分 
日々の勤めを おろかにすれば 
末は手打ちに なりますほどに 
ここの道理を よく聞き分けて 
どうぞわがつま 主水さまに 
意見なされて 白糸さまよ 
せめてこの子が 十にもなれば 
昼夜あげづめ なさりょとままよ 
またはわたしが 去りたるあとで 
お前女房に ならしゃんしょうと 
どうぞその後 主水さまに 
三度来たなら 一度は上げて 
二度は意見を して下しゃんせ 
言えば白糸 言葉に詰まり 
わしも勤めの 身の上なれば 
女房持ちとは 夢にも知らず 
日頃懇親 早三年も 
さぞや憎かろ お腹が立とう 
わしもこれから 主水さまに 
意見しますぞ お帰りなされ 
言うて白糸 二階へ上がる 
お安、安堵の 顔色うかべ 
上の子供の 手を引きながら 
背なの子供は すやすやねむる 
お安我が家へ はや帰りける 
部屋に戻って 両手をついて 
これさ青山 主水さまよ 
お前女房が 子供を連れて 
わしに頼みに 来ました程に 
今日はお帰り 泊めては済まぬ 
言えば主水は にっこり笑い 
置いておくれよ 久しいものだ 
ついにその日は 居続けなさる 
待てど暮らせど 帰りもしない 
お安子供を 相手にいたし 
最早その日は はや明けたれば 
支配方より 便りがありて 
主水身持ちが ふらちな故に 
扶持も何かも 召し上げらるる 
後でお安は 途方に暮れて 
後に残りし 子供がふびん 
思案しかねて 当惑いたし 
扶持に離れて 永らくおれば 
馬鹿な私と 言われるよりも 
武士の女房じゃ 自害をしようと 
二人子供を 寝かしておいて 
すずり取り出し 墨すり流し 
落ちる涙が すずりの水よ 
涙とどめて 書き置きいたし 
白き木綿で 我が身を巻いて 
二人子供の 寝たのを見れば 
かわいかわいで 子に引かされて 
 
思い刀を 逆手に持ちて 
ぐっと自害の 刃の下に 
二人子供が 早、目をさまし 
 
三つなる子は 乳にとりすがり 
五つなる子は 背中へすがり 
これさかかさま のおかかさまと 
幼な心で ただ泣くばかり 
主水それとは 夢にも知らず 
女郎屋発ち出で ほろほろ酔いで 
女房じらしの 小唄で帰り 
表口より 今もどったと 
子供二人は 駈け出しながら 
もしもしととさま お帰りなるか 
なんでかかさま 今日かぎり 
物もいわずに 一日お寝る 
坊は今迄 いたずらしたが 
御意はそむかぬ のう、ととさまよ 
どうぞ詫びして 下されましと 
聞いて主水は 驚き入りて 
合の唐紙 さらりとあけて 
見ればお安は 血汐にそまり 
わしが心の 悪いが故に 
自害したかよ ふびんな事よ 
涙ながらに 二人が子供を 
膝に抱き上げ かわいや程に 
何も知るまい よう聞け坊や 
母はこの世の いとまじゃ程に 
言えば子供は 死骸にすがり 
もうしかかさま なぜそうなした 
わたし二人は どうしましょうと 
なげく子供を 振り捨ておいて 
旦那寺へと 急いで行きて 
戒名もらいて 我が家へ帰り 
哀れなるかな 女房が死骸 
こもに包んで 背中へ負うて 
三つなる子を 前にとかかえ 
五つなる子の 手を引きながら 
行けばお寺で 葬儀をすます 
是非もなくなく 我が家へ帰り 
女房お安の 書き置き見れば 
余り勤めの ふらちな故に 
扶持も何かも 召し上げらるる 
またも門前 払いと読みて 
さても主水は 仰天いたし 
子供泣くのを そのまま置いて 
急ぎ行くのは 白糸方へ 
これはおいでか 主水さまよ 
したが今宵は お帰りなされ 
言えば主水は その物語 
えりにかけたる 戒名を出して 
見せりゃ白糸 手に取り上げて 
わしが心の 悪いが故に 
お安さんへも 自害をさせた 
さればこれから 三途の川も 
お安さんこそ 手を引きますと 
言えば主水は しばしとどめ 
わしとお前と 心中しては 
お安さまへの 言い訳たたぬ 
 
お前死なずに 永らえしゃんせ 
二人子供を 成人させて 
回向頼むよ 主水さまよ 
言うて白糸 一と間へ入りて 
あまた朋輩 女郎衆を招き 
譲り物とて 櫛かんざしを 
やれば小春は 不思議に思い 
これさ姉さん どうしたわけと 
今日にかぎりて 譲りをいたし 
それにお顔も すぐれもしない 
言えば白糸 よく聞け小春 
わしは幼き 七つの年に 
人に売られて 今この里に 
つらい勤めも はや十二年 
勤めましたよ 主水さまに 
日頃三年 懇親したが 
今度わし故 御扶持を離れ 
または女房の 自害をなさる 
それに私が 永らえおれば 
お職女郎の 意気地が立たぬ 
死んで意気地を 立てねばならぬ 
早くそなたに 身ままになりて 
わしが為にと 香、花頼む 
言うて白糸 一と間へ入りて 
口の内にて 唯一言 
涙ながらに のう、お安さん  
わしの故こそ 命を捨てて 
さぞやお前は 無念であろが 
死出の山路も 三途の川も 
共に私が 手を引きましょと 
南無という声 この世の別れ 
あまた朋輩 皆立ち寄りて 
人は情の 白糸さまに 
主水さま故 命を捨てる 
残り惜し気な 朋輩達が 
別れ惜しみて 歎くも道理 
いまも主水は せん方なさる 
忍びひそかに わが家へ帰り 
子供二人に 譲りを置いて 
すぐにそのまま 一と間へ入りて 
重ね重ねの 身の誤りを 
われとわが身の 一生すする 
子供二人は 取り残されて 
西も東も わきまえ知らぬ 
幼な心は 哀れなものよ 
あまた心中も あるとはいえど 
義理を立てたり 意気地を立てて 
心合うたる 三人共に 
 
 
 
 
 
 
 
聞くも哀れな 話でござる 
聞くも哀れな この物語