真田幸村の娘

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六文銭赤備え真田幸隆真田昌幸常田隆永諸説・・・
 
辞世の句

雑学の世界・補考   

山之手殿(寒松院) 五行をばその品々に返すなり 心問わるる山の端の月
真田幸村 関東軍 百万も候え 男は一人も無く候
矢沢頼綱の母 死出の山月のいるさをしるべにて 心の闇を照らしてぞ行け
真田幸村の娘

上田は真田幸村の居城があった地である。市民の誰もが六文銭の旗を掲げて徳川軍を悩ませた真田の兵を誇りに思っている。多くの人は幸村の父・昌幸、祖父の幸隆のことを知っている。
幸村の妻は大谷刑部少輔吉継の娘、於利世(おりよ)。大谷吉継は関が原の戦いで石田三成方に立ち、輿に乗って奮戦したが、敗北し自害して果てた。ハンセン病を患い、面体を白い頭巾で隠して戦った戦国武将として有名である。
幸村の子女として四男九女説が伝えられている。長子の大助は大阪夏の陣で秀頼に従って殉死している。大八という名の男子がいたが、節句の日の石合戦で石に当たって死亡したといわれている。他の男子のことは分からない。夭折したのではなかろうか。
むしろ於利世の方との間で生まれた女子の方が分かっている。大阪夏の陣で討死したとはいえ幸村の武名は天下に轟いた。於利世の方は大阪落城の前に娘たちを連れて逃れたが、徳川方に捕縛されている。於利世の方は間もなく亡くなった。女子たちは無罪赦免となって、成人するや武将の妻になった者もいる。
長女は「いち」。関ヶ原の戦い後、幸村が幽閉された九度山で亡くなっている。「梅」は仙台藩士・片倉小十郎景長の後妻となり、白石城15000石の奥方、この末裔は明治維新後に男爵となった。家紋を六文銭としている。六文銭は「六連銭」というのが正しい。信州・滋野氏の代表家紋で、その一族の海野、真田氏や浦野氏、駿河安倍氏、矢島氏、大戸氏、羽尾氏が用いている。
「あぐり」は蒲生源左衛門郷真の妻となった。郷真は蒲生氏郷の一族で陸奥三春三万石の城主。このほか於利世の方の娘ではないが、幸村家臣の石合十蔵道定に嫁した「すへ」がいる。
真田家系図には大助、大八が出ているが、女については出ていない。姓氏家系大辞典(太田亮著)に白石片倉氏の詳しい記載があるが、「梅」のことには触れていない。他の資料から探し求めるしかない。
見逃せないのは、幸村の華々しい討死の蔭で家康方についた幸村の兄・信之の存在ではなかろうか。真田の名が後世に伝わったのは、信之が真田の家名を守ったからだといえる。信之の妻・小松殿は家康の養女。実父は徳川譜代の重臣・本多平八郎忠勝である。小松殿はその長女。
信之は上州・沼田城を預かったが、関ヶ原の戦いの前夜、昌幸がこの城を訪れている。生憎、信之が不在だったが、小松殿は甲冑に身を固め、長刀(なぎなた)を携えて、昌幸一行が城内に入るのを拒んだ。まさに本多平八郎忠勝の娘の面目躍如たるものがある。
信之の小松殿が徳川重臣の長女、幸村の於利世の方が豊臣重臣の娘ということは、妻方の血脈によっても、この真田兄弟が徳川方と豊臣方に別れて戦う運命にあったことを示している。しかし大阪城の落城後、この兄弟の縁(えにし)は幸村のもう一人の娘・お田の方の存在によって思わぬ展開をみせている。
話はガラリと変わる。常陸国の太守だった佐竹義宣が、秋田に国替えとなった時に、弟の多賀谷宣家(宣隆に改名)も檜山城に入った。宣家は多賀谷家に養子入りして、多賀谷重経の娘と一緒になっている。
関ヶ原の戦いで石田三成方についた多賀谷重経は家康から疎まれ、常陸国下妻城を逃れて琵琶湖の湖畔で憤死した。養子の宣家はやむなく佐竹家に帰参、重経の娘と離別している。家康の追及を怖れたのである。兄の義宣とともに伏見城に赴き、ひたすら恭順の意を示して家康、秀忠の勘気を解くことに汲々としている。
一国一城令によって檜山城も破却され、名を宣隆と改めた宣家は、伏見城で一人の女性と運命的な出会いをした。この女性はお田の方、真田幸村と隆清院の間にできた忘れ形見であった。大阪城の落城で隆清院とお田の方は町人に姿を変えて、京都に隠れ住んでいたが、徳川方に捕らえられた。
このことを知った真田信之は二人の助命嘆願をして、後にお田の方は江戸城大奥に仕えている。15、6歳の少女だったが、幸村の娘として気高く、気品を備えていたという。佐竹義宣の上洛に際して、給仕係りとして身の回りの世話をしたが、それを妻と離別していた宣隆が見そめた。
この裏には遠く秋田の地に国替えした佐竹氏に対する徳川家の深謀遠慮があった様に思う。お田の方を宣隆に娶せることによって、佐竹一族の動きを内部から監視する狙いがあったのではないか。真田信之も、それに一役買った気がする。
徳川幕府側の思惑は別として、宣隆の後妻となったお田の方は、後世に名を残す賢夫人となった。宣隆の長男・重隆は、亀田藩の名君といわれたが、賢母・お田の方から受けた訓育が大きかったという。
幼少の時から苦難の境遇に置かれたお田の方は、数奇な星の下で生まれている。祖母は豊臣秀次の夫人・一の台。秀次は秀吉によって高野山で切腹、一の台は三条河原で処刑されて果てた。母・隆清院は仏門に入って両親の菩提を弔っている。
この事件は秀頼の誕生によって秀次が邪魔になった秀吉が、秀次謀反説をデッチ上げたのだと思うが、三条河原で処刑されたのは一の台はじめ継室、側室と秀次の遺児ら39人にのぼった。
しかし、秀次の妻子が皆殺しにされたわけではない。小督の局の娘のお菊、幸村の側室・隆精院、公家の梅小路氏に嫁いだ娘の二人は難を逃れた。秀次の母・智子(日秀尼)も処刑を免れている。秀次の正室は池田恒興の娘・若御前だが、助命されている。継室の菊亭大納言晴季の娘・一の台が処刑されるなど犠牲者の選択に一貫性がない。
ともあれ実母の非業の死をみた隆精院の悲しみは想像にあまりある。寛永10年に死去し、京都の菊亭大納言晴季邸で盛大な「報恩供養法会」が営まれた。お田の方は特使を派遣して隆精院を弔っている。ますます法華経の信仰を厚くする毎日だったという。
さらには子の重隆の訓育に厳しく、書や礼儀作法、武芸に至るまで自らの手で教えている。顕性院と称したお田の方は、亀田に顕性山妙慶寺を建立した。
 
幸村の妻子 (「新釈眞田十勇士」での設定背景)

日本史の授業で習ったと思いますが、この時代、女性の名前は殆ど伝えられていません。大名や公家のクラスの子女でも、せいぜい誰々の女(むすめ)とか、法名や戒名、通称などが伝わっていれば良い方です。その素性なども後世になって家系に箔を付ける為に誰々の娘だったとでっち上げたり、婚姻の際の政略上の都合から身分の高い人の養女として嫁いで来たりと、実際がどういう出自であったかなどは不明なことが多いのです。
例えば今年のNHK大河の主役である山内一豊の妻にしても、確実なのは一豊の死後に落飾して「見性院」と号したことぐらいで、名前もドラマでは「千代」説ですが、「まつ」説もあります。しかし前に「利家とまつ」で前田利家の妻「まつ」を取り上げている関係などから、今度は「まつ」説の出る幕はないのでしょう。また、同作では秀吉の妻は「ねね」としています。これは原作が書かれた頃は「ねね」が定説だったからですが、最近では「ね」またはそれを丁寧に言って「おね」が定説になっていて、近年の大河では「おね」とすることが一般的でした。日本の最高権力者になった人の妻でさえこの程度ですから、一般庶民はおろか、大名クラスでも妻子の名前などが伝わっていることは殆どないと言っていいくらいです。
そうした中で、「真田幸村」の妻子に関しては例外的に研究が進んでいます。これも「幸村」の人気の故でしょう。兄の信之は10万石の大名として存続したにも拘らず、その娘の名は不明(長女が高力忠房室、次女が佐久間盛次室=見樹院、三女 、四女は名前も事跡も不明)なのと対照的です。
幸村の正室ですが、史料的には「大谷氏」で、法名が「竹林院」であったというのは定説ですが、それ以上は史料的に裏付けるものはありません。出自は大谷刑部少輔吉継(吉隆)の娘ということになっていますが、実子ではなく養子で、吉継の妹の子であるという説もあります。名前を「安岐(あぎ)」としたのは「日本史諸家系図人名事典」(講談社)に拠りました。他に「利世」という説もあります。
年齢はわかりませんが、没年は1649年とわかっていますので、仮にその時69歳とすると1600年当時は20歳となります。吉継の享年は41歳なので、21歳の時の子となります。当時は10代で子を為すのも普通ですから二人の兄(大谷大学吉胤、木下山城守頼継)がいるとしても、三人が年子で19歳の時から順に生まれたとしても年齢的には矛盾しません。逆に言うと安岐姫はこれ以上年齢が上とは考えにくいのです。武門の子弟では15歳ぐらいで妻を娶ることもありますが、吉継は13歳で秀吉に小姓として出仕したといいますし、24歳の時に賤ヶ岳の合戦で武功を上げ、26歳で任官しています。その婚姻がそれほど早いとは考えにくいので、この辺がギリギリの線ではないかと思うのです。安岐姫が養子で妹の子であったとしても、その妹は当然吉継より年少ですし、当時は14-5歳で子供を産む事もあるとしても、やはりこれより上とは考えにくいのです。幸村=信繁との婚姻が1594年(左衛門佐任官の年)頃とする説が有力なので、当時信繁が27歳とすると14歳となり、当時の適齢期といえます。
一方二人の年齢差は20歳近いのではないかとする説もあります。それだと婚姻の時は7-8歳の童女ということになり、九度山蟄居の時でようやく14-5歳、確かにこれだと安岐姫の産んだ子が九度山時代からに限られることの説明にはなりますし、死亡時の年齢も63歳ぐらいになります。
そんな訳で、「新釈眞田十勇士」では幸村の正室は「安岐」で大谷刑部の実子、年齢は1600年時点で20歳と、設定しました。九度山時代まで子供が生まれなかったのは、彼女が人質として大坂に住み、信繁は大坂より上田にいることが多かったから、ということです。
次に幸村=信繁の側室とその子女です。
信繁の長女の名は以前は「阿菊」として知られていました。上田の真田祭りの武者行列では未だにそう表記されています。しかし昨今の研究で「すへ」(読みは「すえ」)が正しいのではないかという説が有力です。この長女は生まれてすぐに養女として引き取られたといいます。引き取ったのは堀田作兵衛興重という眞田家臣で、すへの生母の兄に当たるといいます。ちょっとややこしいのは堀田家では代々「作兵衛」を名乗っていたということで、興重の父も「堀田作兵衛」です。つまりすへの生母は「堀田作兵衛女」としか伝わっていないのですが、家臣の娘でもあり、これは信繁が若い頃に「手を付けた」ということだろうと推測できます。それで生まれた娘は伯父が引き取った、ということでしょう。時期は信繁が大坂に出仕する前と考えられますので、二人の関係は「遠距離」による自然消滅か、「身分違い」ということで遠ざけられたかかと推測します。この堀田作兵衛女にはもう一人夭逝した女子があったという説もありますが、はっきりしませんので本作では長女「すへ」のみとしました。
幸村の次女・於市、三女・阿梅の生母とされるのが側室・高梨内記女です。本作では「采女」とする説を採りました。(これも諸説あって「采女」はその母の名だとか、高梨采女は幸村に仕えた家臣の名だという説もあるのですが)
もちろん正式な記録は何もないですが、大坂と上田を行き来する信繁の「上田妻」であり、若い正室より年上の側室と考えました。於市が九度山で早世したのは定説ですが、采女のことは不明です。ただ、その後の子供たちの母として名前が出てきません。また、阿梅に関しては正室・竹林院の子とする説もあります。そこで於市と采女が流行り病で同時に亡くなり、残された阿梅は竹林院が「わが子」として育てた為に二説が流布したという設定にしました。
実はこれには本ネタがあります。以前、うちの仏壇の位牌を調べていた時のことですが、私の曽祖父の位牌には当人の戒名の左右に「--信女」の名が並んでいました。調べると曽祖父の長女と孫(その長女)の戒名で、没年を見ると大正7年11月5日と同月11日と非常に接近した日にちが記されていました。気になって更に調べると、それは「スペイン風邪」の大流行の時期と一致します。昨今の「鳥インフルエンザ」の件で取り上げられることも多いのでご存知の方も多いでしょうが、新型インフルエンザの登場によって世界で3000万人が亡くなったと言う大流行の時です。親子や兄弟が罹って一家が全滅することさえあったようです。治療法のない昔なら、一度に家族から複数の死者が出ることも珍しくはなかったのを実感させられたものです。それが頭にあったので、於市の夭逝の際に采女も亡くなったのではないか、そういう設定になりました。当時は当然インフルエンザがウィルスによるものだとか理解されていませんが、「インフルエンザ」という言葉自体は16世紀のイタリアで作られたらしいですから、流行病として当時から存在が認識されていたとしてもおかしくはないです。
幸村の長男・大助と四女・あぐりは竹林院=安岐姫が生母とするのが一般的ですが、これも異説はあります。また二人が生まれた時期や順番はハッキリしません。本作では大助が九度山蟄居後の1601年に生まれ、あぐりはその後としました。
問題は五女・なおです。生年は1604年ですが、生母が「豊臣秀次女」とされていることです。実はこれまであまり「問題」にされていないような気がするのですが、幸村の側室に「秀次女」がいるのはどう考えても不思議です。身分、年齢、それぞれが置かれた立場、いずれをとっても結びつく要素が見えません。虚説だと断じてしまうのも一策ですが、何とかこれを整合性のある設定にできないかと、そう考えて創り上げたのが本作の設定です。清姫(正式には「清子」)という名は、その法号が「隆清院」ですので、そこから一字取りました。(というか、実名から字を取って戒名や法号を付ける例があるので、法号に実名の手掛かりがあるのではないかと)
昌幸の正室の「山手殿」の出自には諸説ありますが、菊亭晴季の養女とする説を採り、信繁がその子であるとするならば、一応晴季は信繁の「祖父」になります。清姫が秀次の正室・一の台(晴季の実子)の女なら、信繁と清姫は「従兄妹」ということになります。まぁ、それならばまんざら縁がないわけでもないか、ということです。
真田十勇士(立川文庫)
虎は死して皮を遺し、人は死して名を遺す。「猿飛佐助」の冒頭にはこのようにあったらしい。立川文庫は大阪にあり大阪赤本という蔑称まであったそうだ。真田十勇士の名前…猿飛佐助、霧隠才蔵、三好清海入道、三好為(伊)三入道、穴山小助、望月六郎、海野六郎、筧十蔵、由利鎌之助、根津甚八。真田十勇士はもともとは10人ではなかったようだ。
猿飛佐助・・・甲賀流忍術使い。父鷲塚佐大夫。師匠戸沢白雲斎。十勇士筆頭。モデルは不明。陽気で豪快、五遁の術を使う。
霧隠才蔵・・・伊賀流忍術使い。父霧隠弾正左衛門。師匠百地三太夫。モデルは霧隠鹿右衛門。冷静沈着で美貌の忍者。
三好清海入道・・・18貫の鉄棒を振るう怪力者。モデルは三好清海入道。十勇士最年長。佐助とともに諸国漫遊の旅にでる。
三好伊(為)三入道・・・清海の弟。兄と同じく怪力者。モデルは三好伊三入道。「落ちゆかば地獄の釜を踏み破りあほう羅刹のことを欠かさん」と辞世の句を読んで自決する。
穴山小助・・・幸村の7人の影武者筆頭。穴山梅雪の甥?父玄蕃。モデルは穴山小助。
筧十蔵・・・鉄砲の名人。狙撃の名人ばかり30名もの猟師組みをもつ。父は筧十兵衛?蜂須賀家の家臣?筒井家の筧孫兵衛の子?モデルは筧金六。由利鎌之助とコンビを組み情報収集をする。
由利鎌之助・・・鎖鎌の名人。天下第二の槍の使い手。朝倉義景の一族?農民出身とも。モデル由利鎌之助。
海野六郎・・・真田家譜代の家臣。父海野善兵衛。モデルは海野六右衛門。幸村の一番最初の郎党。
望月六郎・・・甲賀流忍術・火術をつかう。モデルは望月六右衛門。諜報も得意。影武者のひとり。
根津甚八・・・海賊の首領。モデルは根津甚八貞盛。由利鎌之助のけんか仲間。影武者のひとり。
海野、望月、根津(禰津、発音はネツ)は真田家の血族(滋野三家)。幸隆の頃から海野家の正系を継いでいると自称しだすことにことによって近郊の同族をまとめ上げていき勢力を張ったものと思われる。
 
真田一族

真田幸隆(幸綱)
1513-1574 海野氏の一族。幼名二郎三郎。松尾古城に生れる。父親も諸説あり。海野棟綱か?それとも棟綱の孫か?娘婿か?昌幸の叔父で幸隆の弟の矢沢綱頼は「矢沢氏系図」によれば真田頼昌の三男という。とすると、父が頼昌になる(寺島隆史氏説)。ちなみにこの説によると長男は右馬助綱吉、次男が幸綱(幸隆)。
信之、信繁(幸村)の祖父。幸綱の名で出る資料の方が多い。真田家の中興の祖。弾正忠。
天文10年(1541)5月、甲斐の武田信虎に攻められ上野に逃げるが、同年6月に父を追放した武田晴信(信玄)の才能を見抜き、後の天文14年(1545)頃に信玄に仕える。天文19年(1550)、武田軍が村上義清の砥石城の攻略に失敗(砥石崩れ)するが、翌年5月、奇襲攻撃や内応などの謀略で砥石城を攻め取り、北信濃を次々と攻略し晴信の信任を得ていく。永禄7年(1564)10月岩櫃城をおとす。武田軍の上野方面の攻略に活躍(白井城攻略など)した。信玄の懐刀と称され「攻め弾正」と呼ばれる。
永禄2年(1559)、晴信とともに出家し、「一徳斎」と号す。天正2年(1574)5月19日没。妻は河原隆正の妹。長男は信綱(1537-75)。次男は昌輝(1543-75)。三男は昌幸(1547-1611)。四男は信尹(1547-1631)。  
真田昌幸
真田昌幸1(通称及び官職名・安房守)
知略に優れた武将として知られる。当初は武田に仕えており、高遠城が落城し滅亡寸前の武田勝頼を岩櫃城に迎えようと考えていた。武田家滅亡後は織田、北条、徳川、上杉、豊臣と仕える主君を転々としながら生き残りを図る。小牧・長久手の戦いの後、沼田を明け渡すよう命じる家康を拒絶し、徳川と戦う道を選ぶ。徳川方を上田城で退けるが、秀吉の斡旋により家康の傘下に入る。秀吉が北条討伐の口実を得るため、名胡桃城奪取の陰謀をお江から聞くが、あえて見捨てる決断をする。関ヶ原の戦いの前の犬伏の陣では信幸に「豊臣家のために徳川と石田をどちらを残すのがよいか」と問いかけるが、信幸はどちらが天下のためになるかと反論される。関ヶ原の戦いの際には上田城で徳川秀忠軍を翻弄し、本戦には間に合わなくさせる。戦後は紀州九度山に配流されるが、大坂城で徳川相手に一戦することを願い、草の者を各地に飛ばし世の中の動向を探らせていたが志を果たせぬまま最後に「左衛門佐、わしに夢を見させてくれ。見果てぬ夢を」という言葉を残し九度山で亡くなる。英雄色を好むの言葉通り、女好きの武将として描かれている。
真田昌幸2
(1547-1611) 天文11年(1547)幸隆の三男として生まれる。母は河原隆正の女。真田家は嫡男の信綱が継ぐ関係もあって、昌幸は名家武藤氏の姓を受け、武藤喜兵衛と名乗る。通称は源五郎。父は謀略家の幸隆であり、幼少より武田晴信の奥近習として仕えていたこともあり、智将として大きく成長を遂げていく。昌幸の戦略・外交はこの時期に大きな影響を受け、その後の人生に反映されていく。
永禄4年(1561)、第4回川中島の戦いが昌幸の初陣とされる。天正2年(1574)、長兄の信綱が真田家を継ぎ、同年7月に室町幕府が滅ぶ。しかし、翌1575年の長篠の戦で、信綱と次兄の昌輝が戦死し、昌幸が真田家を継ぐことになる。その後、沼田城や名胡桃城などの上野国を攻略する。
天正10年(1582)、甲斐へ進出してきた織田信長は天目山の戦いで武田勝頼を滅ぼす。昌幸は勝頼を岩櫃城に迎えようとしていたが同時に北条氏にも服従する連絡もとっている。やがて、織田家に属し、本能寺の変後は北条氏に属し、甲斐で北条と徳川が争うと、徳川家に属している弟の信尹(加津野信昌)の斡旋により徳川に属す。
その後も、北条や上杉と争いながらも生き抜いていく。やがて、上田城を築き上げる。別名海士ヶ淵城。中央では秀吉が大勢力となるも徳川家康と小牧長久手で衝突する。徳川と同盟関係にあった北条氏は上野進出のため真田領にせまる。この両国の同盟の条約に上野は北条家の領土という約束があったが昌幸はこれに不服をしめす。ついに天正13年(1585)8月、徳川家康は真田を攻撃するため小県に兵をすすめる。昌幸は上杉景勝に次男弁丸(幸村)を人質にだし、上杉に援けを求める。閏8月2日には、徳川軍と上田城(国分寺)で戦い、これをおおいに破る。これを第一次上田合戦または神川合戦という。さらに翌日丸子川原にても昌幸軍は勝利をおさめる。真田軍は北条軍も沼田城で破る。11月に家康家臣の石川数正が秀吉のもとへ走ったため信濃より兵をひく。翌年には、秀吉は家康に真田を攻めろと言ったが結局秀吉の調停を受け戦が終わる。秀吉の命で徳川の与力となる。
天正17年(1589)には、長男の信幸は本多忠勝の娘、小松姫を嫁に貰う。同年には秀吉の裁定で上野の領土を北条と分かち合うも、北条氏邦の家臣・猪股邦憲が真田領の名胡桃城を攻める。この時、真田家臣・鈴木主水は自殺。これをきっかけにして秀吉の北条攻め(小田原征伐)がはじめられる。昌幸は、前田利家、上杉景勝とともに北条領に攻め入る。その後、奥州攻めにも参加す。戦後の恩賞は元の地が戻ってきただけで新たな加増はなかった。
慶長5年(1600)、家康の上洛要請に応じない上杉景勝を攻めるため、徳川家康に属し進軍するも、犬伏で石田三成の檄文を受け、昌幸と信繁は石田方に、信幸は家康方につくことになる(犬伏の別れ)。中山道を通る徳川秀忠軍を上田城に釘づけし関ヶ原に遅参させる大功をたてる(第二次上田合戦)も西軍の敗北と毛利輝元があっさりと大坂城を明渡ししたため敗軍の将として裁きを受けることになる。信幸の嘆願で命だけは救われるも紀州九度山へ幸村とともに蟄居させられる。
慶長16年(1611)、この九度山で悲運のうちに没する。
増田長盛、石田三成に「表裏比興の者」(したたか者)と表される(豊臣秀吉にも)。「我が両目のごとき者」と言ったのは武田信玄。主家を何度か変えるが最後は秀吉に忠節を誓っている。二度も徳川を破ったのに敗軍の将の昌幸、その無念は信繁(幸村)へと受け繋がれていく。
なお、宇田下野守頼忠の娘が石田三成の妻で、頼忠の息子の河内守頼次は昌幸の娘を妻にしている為、三成と昌幸は愛婿と誤解されていることが多い。
長男は信幸(1566-1658)、次男は信繁(1567-1615)、三男は昌親(1583-1632?)、四男は信勝(1593-1634?)。  
山之手殿 (寒松院)
山之手殿1(やまのて) (1546-1613)
寒松院ともいう。武田晴信の養女として真田昌幸に嫁ぐ。真田信幸・真田幸村らの母。出自については諸説あり、未詳のままになっているのだが、松代藩の重臣河原綱徳は「寒松院殿御事蹟稿」において各説を上げている 。
1.菊亭晴季の娘。「滋野世紀」「真武内伝」などの一説。
2.正親町実彦の娘。菊亭晴季の養女として真田昌幸に嫁ぐ。「滋野世紀」の一説。「取捨録」「樋口系図」など。
3.宇田頼忠の娘。「諸家高名記」などや「真武内伝」の一説。
4.宇田頼次の娘。「真武秘伝記」など。
5.遠山右馬亮の娘。「沼田記」「続武家閑談」など。
6.正親町氏の娘。武田晴信の養女として真田昌幸に嫁ぐ。「綱徳家記」。
遠山右馬亮は武田家の足軽大将の1人として「甲陽軍鑑」に名が見える甲州の武士である。「滋野世紀」によれば、真田幸隆の娘つまり真田昌幸の妹の1人が、その妻になっており、また「真田軍功家伝記」では、真田昌幸の弟真田信尹の娘がその妻になったともある。いずれにしてもこの説は、真田氏の娘の1人が遠山氏に縁付いたことにより誤伝、とみてよかろう。菊亭晴季は真田昌幸より8歳年上(1539年-1617)である。真田昌幸と山之手殿の間に永禄9年(1566)には真田信幸が生れているので、まず菊亭晴季の娘という説はかなり無理がある。正親町実彦は天文17年(1548)の生れで真田昌幸より1歳年下であり、山之手殿が正親町実彦の娘とする説はまず無理である。宇田頼忠の娘説も石田三成が関わってくる分、有力視されてきたが、現在では否定されている。1-5の説を消してくると、6の説が残る。
真田昌幸は7歳の時から甲府にあって、武田晴信に小姓として仕えた。真田昌幸は特に有能であったため、武田晴信に引き取られ、成人後は旗本となり、常に武田晴信の側近にあって活躍したという。そして、武田家ゆかりの甲斐の名門武藤の姓を与えられ、武藤喜兵衛昌幸とも称していた。武田晴信の妹婿が菊亭晴季であり、その菊亭家と正親町家とは同じく西園寺家の分かれ、という近い間柄にあった。このことからも多少身分が違い過ぎるきらいはなしとしないが、真田昌幸の妻は公家正親町氏の出であるとする説も、あながち荒唐無稽だとばかりは言い切れなくなる。幼少時代より可愛がった側近の家臣の嫁捜しにあたり、武田晴信がその妹婿菊亭晴季に候補者の推薦を頼み、菊亭家の親威であった正親町家の娘が紹介され、その娘が武田晴信の養女という形で真田昌幸と結婚したという可能性は、十分にあり得るのではなかろうか。菊亭晴季自身も、武田晴信に招かれて2度甲府を訪れているという。とすれば、1.の菊亭晴季の娘婿説も、この辺の事情から生じた誤伝とみられるわけである。
真田昌幸は武田家滅亡後も「信玄様御菩提所造立致すべく候の間」などと表明している。また文禄から慶長にかけて、一時期を除き、終生武田晴信と大変よく似た花押を用いてもいる。このような事実は、真田昌幸が武田晴信との縁を、生涯にわたって強く意識していた様子を物語っている、と受け取れるものである。
その出自が公家であったか否かはともかくとしても、山之手殿は武田晴信の養女という形で、京都より真田昌幸のもとへ嫁いできたことに、まず間違いはあるまい。これは真田昌幸が、武田晴信にそれほどに目をかけられていた証左と言うこともできよう。
慶長5年関ヶ原合戦に先立ち、真田昌幸がはじめ徳川方として上杉景勝討伐に向っていたため、大阪城の人質となるが、河原右京綱家に救出されている。慶長18年6月3日(1613)に没した。追号寒松院殿宝月妙鑑大姉。上田大輪寺に葬られている。
山手殿2
真田昌幸の正室。妹の久野にもかつて昌幸と関係があったことを根に持っており、お徳との関係など昌幸の女癖の悪さに手を焼いている。長い間信幸と共に岩櫃城にいて、昌幸とは離ればなれの生活を送っていたが、稲姫が信幸に嫁ぐと共に、上田に移り住む。お徳の子である於菊を育てる。関ヶ原の戦いの後九度山へ同道する。昌幸の死後、信之の下に引き取られる。昌幸の死の2年後上田で亡くなる。
山手殿3
生年不詳-慶長18年6月3日(1613/7/2)戦国時代から安土桃山時代、江戸時代の女性。真田昌幸の正室。出自は宇多頼忠の娘という説が最も有力である。村松殿・真田信幸(信之)・真田信繁(幸村)らの母。通称は京の御前。
永禄7年(1564)頃に武藤喜兵衛(後の真田昌幸)に嫁ぐ。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの直前、大坂にいたため、石田三成の人質になったが、河原綱家により、拘束から逃れる。12月13日昌幸・信繁親子は16人の家来と信繁の妻女を伴って、九度山に幽閉されることになったが、山手殿は信之に引き取られ上田に留まった。この後、出家して名を寒松院と改める。慶長6年(1601)頃から大輪寺で生活を始める。慶長16年(1611)に昌幸が死ぬと、2年後の慶長18年(1613)に昌幸の三回忌に当たる日に自害した。法名・寒松院殿宝月妙鑑大姉。墓所は大輪寺(長野県上田市)、大林寺(長野県長野市)。
山之手殿4(寒松院)
?-1613 京の御前。幸村の母。一説によると信之の母は山之手殿だが幸村は違うとしているところもある。菊亭(今出川)春季の娘か正親町実彦の姪で菊亭氏の養女もしくは武田信玄の養女、遠山右馬允の娘とも諸説あり。慶長18年(1613)6月3日死去。追号は寒松院宝月妙鑑大姉。  
山之手殿5(寒松院)
生没 生年不明-1613(慶長18)年6月3日 享年不詳
出生 正親町実彦の娘または姪説、今出川春季(菊亭春季)の養女説、 宇田頼忠の娘説、など諸説あります。
別名 山手之殿、山手、山手殿、山手の方、京の御前(きょうのごぜん)
法号 寒松院殿宝月妙鑑大姉、喜山理慶大姉、恭雲院
移籍 正親町氏の一族か、正親町氏に近い京の公家、武田信玄の養子、真田昌幸の正室
夫 真田昌幸(正室)
子供 長男/信幸(信之)、次男/信繁(幸村)
墓 大輪寺(長野県上田市)、大林寺(長野県長野市松代町)
山手の出自
山手殿の出身については資料が無く分かっていません。
昌幸は1553(天文22)年8月10日、11才の時に弟の信尹(信昌)とともに甲府の武田氏へ人質として出されました。しばらくして、武田家ゆかりの武藤氏の養子になって武藤喜兵衛と名乗り、これより以降しばらく甲府にて暮らし、元服(成人)した後は昌幸は父譲りの才能を開花させ、信玄の旗本として、戦いでは使番・検使を務めました。信玄の正室は公家の三条公頼の娘ですが、三条氏は藤原氏北家閑院流の嫡流であり、今出川氏は庶流西園寺氏からさらに分かれた家でした。そして、信玄の妹の一人が晴季の妻になっています。こうした関係を見ていくと、昌幸を高く評価していた信玄が公家の娘との縁談を昌幸に勧めても不自然ではないでしょう。
山手殿の生い立ちについての諸説一覧
正親町実彦の娘で、武田信玄の養女(綱徳家記)
「高野山蓮華定院過去帳」によると、1607(慶長12)年9月21日に昌幸とその室(山手殿)の生前供養の日牌が上げられています。これに昌幸は「一翁千雪居士逆修」、山手殿は「宝月妙鑑信女逆、武田信玄養子、真田房州簾」と記されています。これは「綱徳家記」の信玄養女説を裏付けるものです。
正親町(おおぎまち)実彦の姪で、菊亭晴季の養女(滋野世記、取捨録、樋口系図)
正親町実彦(おおぎまち さねひこ、別名:正親町季秀(おおぎまち すえひで))は天文17年生まれで、昌幸より1才年下です。実彦と山手殿それぞれの親子関係が実の親子と言うことなら山手殿の親と実彦が兄弟というのは難しい事ですが、異母兄弟や養子と言うことになれば従兄弟同士が30才以上離れていても可笑しいことではなく、この説の可能性は否定できません。
今出川(菊亭)晴季(はるすえ)の娘(滋野世記、真武内伝)
今出川晴季は後に右大臣も務め、武田氏滅亡後には秀吉の関白就任などで武士と朝廷のパイプ役を果たしていくことになる大物で、いくら武田氏の仲介があったとしても、まだ武田氏の一家臣だった真田氏が一足飛びに今出川(菊亭)氏ほどの公家の大物の娘を嫁に迎えることはまず不可能だったと考えます。
宇田下野守頼忠の娘(真武内伝、諸家高名記) / 宇田河内守頼次の娘(真田秘伝記)
宇田頼忠と宇田頼次は親子です。頼忠の娘は石田三成に嫁いでおり、頼次と三成は義兄弟ですが頼次はさらに三成の父である正継の養子でもありました。つまり頼次と三成は義兄弟ながら2つの縁で結ばれていました。石田氏と親密だった頼次は昌幸の娘と結婚していますので、その娘、つまり昌幸にとっては孫に当たる頼次の子を昌幸の夫人にすることはあり得ません。この説は宇田氏を中心とした石田氏と真田氏の関係に、後世において関ヶ原合戦での武勇伝などが語られるうちに誤伝してしまったのでしょう。
遠山右馬亮の娘(沼田記、続武家閑談)
滋野世記では幸隆の娘(昌幸の妹)が遠山氏に嫁いだことになっており、真田軍功家伝記では昌幸の弟である信尹の娘が遠山氏に嫁いだことになっています。
この説は真田氏の娘の一人が遠山氏に嫁いでいったことの誤伝によるものである可能性が高いです。
山手が昌幸と結婚した経緯における現時点での最も有力な説
昌幸の嫁探しをしていた信玄が、妹の婿である正親町実彦に相談を持ちかけ、そして正親町氏の親戚だった女子か、正親町氏のごく親しい間柄の女子が信玄の養女という形で昌幸と結婚させたと言う説が現在では最も有力とされています。正親町娘説が出てきた背景は、長い間で行われた言い伝えの最中に「近親者である女子→娘」に情報が変化してしまったか、「正親町の娘」である方が真田氏にとって都合が良かったからかも知れません。山手殿は「京の御前」とも呼ばれていましたが、これは山手殿が京都出身の身分の高い家の出身だったことの表れであり、山手殿は正親町氏または公家に近い階層の出身者だった可能性が高いようです。
山手の経歴
山手殿の生年など出身に関することは分かっていません。「山手の出自」の項目にもありますように、自出については諸説あります。
いつ頃か詳細は不明ですが、真田昌幸と結婚しました。
昌幸は7才の頃、1553(天文22)年から甲府の武田氏へ仕えていたので、これ以降の元服後にに武田信玄から縁談を世話されたものと思われます。
1566(永禄9)、山手殿は昌幸との間に信之を産みました。
1567(永禄10)年、山手殿は昌幸との間に信繁(幸村)を産みました。
関ヶ原の戦いの直前、山手殿は大坂にいました。
徳川方が合図の上杉景勝を討伐する為に北上した時を狙って、挙兵した石田三成によって山手殿は人質になりました。
この時、河原綱家(山手殿にとって姑の兄弟)により、拘束から逃れました。
夫昌幸と次男信繁(幸村)は西軍として上田城に籠城し、大軍である東軍の秀忠軍の攻撃をかわしましたが、関ヶ原の戦いで西軍は大敗退し、戦後処理は徳川氏主導のもとに行われました。
家康は西軍として上田城に籠城し、将軍秀忠が率い東軍と戦闘を繰り広げた夫昌幸・二男信繁(幸村)に切腹を言い渡しましたが、信之が井伊直政と榊原康政を通じて助命嘆願をしました。これに秀忠が最も抵抗をしましたが 、家康は助命嘆願を受け入れて、康政に秀忠も説得されて、昌幸・信繁(幸村)の切腹は回避されました。そして、 家康は1600(慶長5)年12月上旬に昌幸と信繁に対して下された死罪を免除し、高野山での幽閉を命じました。
1600(慶長5)年12月13日、昌幸は近い立場にあった16人の家来、信繁(幸村)とその妻子や家来らと共に上田を出発しました。この時、山手は九度山へ行かず上田に留まりました。
出家して寒松院を名乗りました。
一方、関ヶ原の戦いで東軍として徳川方についた長男信幸に対し、幕府は本領である吾妻郡を含んだ沼田領に加え、家康から約束されていた上田領6万5000石を与えました。
9万5000石の大名になった信幸は徳川氏に忠誠を誓うため、名前から幸の字を消して、信幸を信之に改めたのです。
1601(慶長6)年になって真田信之に上田城は引き渡されました。
上田城の中枢部は徳川氏による破壊により利用できる状態ではなかったため、信之は現在の上田高校の地に居館を構えて藩政にあたりました。
城主が城の戦略的な中枢部ではなく、城下の屋敷で政治を執ることを陣屋支配体制と言います。
この頃から、山手殿は寒松院として大輪寺で生活を始めたようです。 九度山に幽閉された真田氏の邸宅ができた後に、寒松院は九度山を訪れた事もあるらしいですが、真偽は不明です。1613(慶長18)年6月3日、昌幸の三回忌にあたるこの日に山手殿は自害しました。(山手殿享年不詳)墓は長野県上田市の大輪寺と長野県長野市松代町の大林寺にあります。 法号は寒松院殿宝月妙鑑大姉です。  
真田信之1(改名・真田信幸>真田信之、通称及び官職名・源三郎>伊豆守)
真田昌幸の長男。冷静沈着な性格で、熱くなりがちな父の昌幸や弟の幸村と正反対な性格である。昌幸から煙たがれているように周囲からは見られているが、その優秀さは一目置かれていた。初陣は幸村に先を越されたが、昌幸が上杉景勝に備えて砥石城に移った後は矢沢頼康とともに岩櫃城の守りにつき、上杉家の援助を得て中棚の砦を攻めた羽尾源六郎をその知略で敗走させる。第1次上田城の戦いでは、砥石城に入り徳川勢の側面を突く。戦いの後、秀吉の斡旋で徳川家の傘下に加わることになったため、昌幸と共に挨拶に駿府城へ向かうが、その際に家康の養女として本多忠勝の娘稲姫を正室に迎える。関ヶ原の戦いでは犬伏の陣で西軍に味方しようとする昌幸、幸村と袂を分かち東軍に味方し、上田城攻めの先鋒として砥石城へ入城する。戦後は岳父忠勝の後援で、昌幸、幸村の命乞いをする。昌幸、幸村が九度山に去る前夜、昌幸、幸村とつながる「幸」の字を改め、信之と改名した。大坂の陣では将軍秀忠の意向で出陣せず、信吉、信政を名代とした。しかし、冬の陣のさなか家康の密命で秀忠に秘密で京へ上る。そして幸村を徳川方に引き入れるよう説得するよう命じられるが、信之は幸村の説得は無理であると思っていた。信之を庇ってくれた家康の死後、将軍を継いだ秀忠や幕閣の陰謀により取りつぶしの危機に遭い、上田から松代に移封されるものの巧みな政治手腕で乗り切り、幕末まで続く松代藩真田家の礎を築く。
真田信幸2(信之)
1566-1658 永禄10年(1567)、真田昌幸(武藤喜兵衛)の嫡男として甲斐に生まれる。伊豆守(1594)に叙任す。母は、「山之手殿」。信繁(幸村)の兄。一当斎。真田藩祖。 徳川四天王のひとり本多平八郎忠勝の娘(小松姫)を家康の養女としてから、妻にする。分家し沼田城を預かる。関ヶ原の戦いでは徳川軍に属し、徳川秀忠軍に従軍し上田城攻めに参加す。戦後、その忠誠を褒められ真田本家領をさずかる。あわせて9万5千石。昌幸と幸村の赦し家康にを請う。このころ「信之」と字を変える。 元和8年(1622)、松城(のち松代)へ移封され沼田領とあわせて13万石になる。ここは、川中島の戦いで有名な旧海津城。京の浄瑠璃作者、小野のお通と親しく、次男の信政と二代目お通との間に信就が生まれている。長男は信吉(1593-1634)、次男は信政(1597-1658)。ともに、大坂の陣に父の代理として出陣。真田の家名を守る。三男は信重。
真田信吉
真田信之の長男。真田家に圧迫を加える秀忠の命で江戸に人質として赴く。大坂の陣では父に代わり真田軍の総大将として弟信政と共に徳川方として参戦する。和議がなった後は陣所を訪問した幸村、大助と対面する。家康の死後、沼田に分家をする。
真田信政
真田信之の次男。大坂の陣では信吉を助け出陣する。和議がなった後は陣所を訪問した幸村、大助と対面する。家康の死後、江戸に人質に出される。
真田幸村
真田幸村(通称及び官職名・源二郎>左衛門佐)
真田昌幸の次男。昌幸と山手殿の子とされているが、母は実は名も無き女で、幸村が生まれた後に亡くなっている。信幸とは正反対の性格で、上杉との戦いの際には信幸と共に初陣を止められていたが、強引に兄を差し置いて戦場へ赴く。しかし、信幸のことは尊敬しており、次男として兄を助ける思いが強い。若年の頃には上杉景勝や豊臣秀吉の人質になる。お江とは恋仲であるが、甲賀に潜入し生死が定かでなかった時期に秀吉の命により大谷吉継の娘於利世を正室にする。お江が無事であると又五郎に告げられた時は、「なぜもっと早くに知らせなかった」と怒ったが、お江の無事には大喜びであった。関ヶ原の戦いの前の犬伏の陣では、「親子兄弟が別れるのも悪くはない」と言い父とともに西軍につく。戦後は紀州九度山に配流される。大坂冬の陣、夏の陣では大坂城に入城する。冬の陣では真田丸を築き徳川方を大いに苦しめる。冬の陣の後には信之と小野お通の屋敷で対面し、信之に「なぜ戦うのだ」と問われ、「この私が10年15年生きたところで何になりましょう」と言い、「大御所様の首級をとってみたいのであろう」という信之に頭を下げた。夏の陣では家康を後一歩の所まで追い詰めるが安居天神で西尾仁左衛門ら越前兵に囲まれ自害する。
幸村の妻たち
堀田作兵衛興重の娘(もしくは妹) すへと於市?を産む。
高科内記の娘 於市?と阿梅?を産む。
大谷刑部少輔吉継(吉隆)の娘(竹林院) 阿梅、あぐり、大助幸昌、阿菖蒲、おかね、大八(片倉守信)を産む。一説には吉継の実の娘ではなく、妹婿の浅井内蔵之助の娘をつまり姪を養女にしたという(「当信寺萬記録」)。
関白羽柴(三好)秀次の娘(興清院) なお(御田姫)、幸信(三好幸信)を産む。
女 之親を産む。之親は幸村の4男。  
真田大助1(幸昌)
真田幸村の長男。大坂入城の際には母於利世の願いもあり、上田の信之の元に行くよう幸村から言われるが、長子として幸村を助け戦うことを願い出る。冬の陣では真田丸に攻めかかった本多政重隊などの側面を突く。戦後、信之と幸村の小野お通屋敷での対面の席に同席し、幸村に「叔父上の元で働いて見る気はないか」と問われ信之にも上田に来るように誘われたが、幸村の元で働くと答える。そして信之からはの信之の祖父幸隆から貰ったという刀を授かる。夏の陣では父の側で戦うことを希望したが、城の外に出陣をするよう豊臣秀頼を説得することを父に申し渡され、涙ながらに別れた。最後は秀頼と運命を共にする。
真田大助2 幸昌(信昌)
1601?-1615 幸村の嫡男。慶長6年(1601)九度山村で生まれる。慶長5年とも7年ともいう(諸説あり)。「仙台真田系譜」によれば慶長6年(1601)7月24日生まれとある。「蓮花定院書面」によれば慶長7年(1602)生まれ。九度山で生まれたのなら1601年か1602年のほうが正しい気がする。幸村たちが1600年に九度山に到着したのは12月の末であるからだ。母は、大谷刑部吉継の娘。慶長19年(1614)、幸村とともに大坂城に入城する。大坂冬の陣では、真田丸で父とともに前田勢、松平勢を破る。混乱する敵勢に真田丸の東の木戸より討って出たとされる。冬の陣の和議成立後、大坂城へやってきた原貞胤を幸村が酒宴に招いたときに大助が曲舞を舞ったエピソードがある。 大坂夏の陣では、5月6日の誉田の戦いで活躍。 翌日幸村の命を受けて秀頼の側に従う。父幸村のもとで討ち死にしたいと訴えるも、秀頼を出馬させるために、または、人質の意味をも込めて秀頼の側へやられる。5月7日に父幸村が討死しその翌日城内で「将たるものの腹切りでは佩楯は取らぬ、我は眞田左衛門佐の倅なり」とさけび膝鎧をつけたまま切腹したとも、他の人と左脇腹を刺し違えたとも。非常に怖かったことでしょう。秀頼とともに南九州の島津領に逃げた説あり。 諡号は真入全孝大居士。  
真田大八
1612-1670 幸村の次男。慶長17年(1612)、九度山で生まれる。ある年の5月5日京都で夭折したのではなく、伊達家家臣、片倉重長の保護を受けここで養育される。のちに、片倉重長の養子となり片倉久米之介守信の名で仙台藩士(360石)になる。守信の子、辰信のときに真田姓に戻っている。
すへ
?-1642 母は家臣堀田作兵衛興重の娘(妹)。石合十蔵道定の妻。上田で生まれる。大坂冬の陣と夏の陣の間の慶長20年(1615)2月10日「すへのこと、心にかなわぬ者であっても、御見捨てなきようお願いいたします」と石合道定に手紙を返している。
於市 ?-?
母は高科内記の娘。一説に堀田興重の娘(妹)。上田で生まれる。九度山で死去。
阿梅
1604?-1681 母は大谷吉継の娘。一説に高科内記の娘。滝川伊予守一益の孫の滝川三九郎一積の養女?片倉小十郎重長の妻。九度山で生まれる。一説のよると大坂夏の陣で強奪されたとか、穴山小助の娘とともに片倉の陣所に訪れたとか。
あくり(あぐり)
?-? 母は大谷吉継の娘。滝川一益の孫、滝川三九郎一積の養女。九度山で生まれる。蒲生源左衛門郷喜の妻、もしくはその子郷明の妻。蒲生家断絶後、日向延岡に移るがその後不明。
おかね
?-1657 母は大谷吉継の娘。九度山で生まれる。奥州白石で養育され石川備前守貞清の子重正の妻。もしくは貞清の妻。京に居住。
阿菖蒲
?-1664 母は大谷吉継の娘。九度山で生まれる。奥州白石で養育される。青木次郎右衛門の妻。のち、片倉定廣に再嫁す。
某(女)
?-? 母は大谷吉継の娘。九度山で生まれる。奥州白石で養育される。早世。
なお(御田姫)
1604-1635 母は三好秀次の娘。九度山で生まれる。岩城(佐竹)宣隆の妻。
幸信
1615-1667 幸村の三男。母は三好(羽柴)秀次の娘。元和元年(1615)7月14日梅小路家の知人宅で生まれる。380石で出羽亀田藩に仕える。岩城宣隆の養子になり三好幸信と名乗る。  
幸村の兄弟
真田昌親 幸村の弟のひとり。内匠。
真田信勝 幸村の弟のひとり。左馬助。戸田半之丞勝興と争論し逐電したとも斬殺されたとも。
村松殿 1565-1630 永禄8年(1565)甲府で生まれる。信之・幸村の姉で家臣小山田壱岐守茂誠の妻。母は遠山右馬允の娘? 幸村との手紙が有名。
女子(5人) 真田長兵衛幸政(信尹の長男)の妻、鎌原宮内少輔重春の妻、保科弾正忠正光の妻、滝川三九郎一積の妻、妻木彦右衛門頼照(頼熊)の妻というように5人(6人)の女子がいたとされる。  
長女/村松 (むらまつ)
生没 1565(永禄8)年-1630(寛永7)年6月20日 享年66才 出生 真田昌幸の長女。母は山手殿。(昌幸の側室である遠山氏の娘の説も有) 別名 村松殿 移籍 真田氏から小山田氏へ嫁ぐ。 夫 武田二十四将だった小山田昌辰の子供である小山田壱岐守茂誠(おやまだ しげのぶ) 子供 不詳 墓 不詳 備考
経歴 1565(永禄8)年、村松殿は真田昌幸の長女として武田氏の本拠地である躑躅ヶ崎で生まれました。母は山手殿説と、昌幸側室である遠山の娘説の2つがあります。村松殿は小山田茂誠と結婚しましたが、その時期については不明です。夫茂誠は武田二十四将だった小山田昌辰の子供です。信濃へ侵攻してきた織田徳川連合軍と戦っていた小山田昌辰は、1582(天正10)年、守っていた高遠城が織田方の攻撃により落城し、その時戦死しました。父親と武田氏という主を失った小山田茂誠は真田氏の重臣になりました。村松と言う名前は、昌幸から小県郡村松(現在の青木村)の領地を与えられたことから来ています。(越後国村松に住んだこともあるからという説も有ります。)長姉として信幸(信之)・信繁(幸村)から敬愛されていました。 信繁(幸村)は大坂冬の陣が終わった後の1615(慶長20)年1月24日、大坂城内での近況報告と村松殿を気遣った手紙を、茂誠の子供である小山田之知に託している程です。これに対して、村松殿の意向もあってか夫茂誠は返事と共に鮭を2匹送っています。そして、信繁から2月8日付のお礼の手紙が返信されています。 1630(寛永7)年6月20日、村松殿が亡くなりました。(村松殿66才)松代の長国寺に葬られました。松代藩では小山田氏は代々、真田氏の重臣を務めました。  
真田昌幸次女
真田昌幸の次女として生まれましたが、母と生年は分かっていません。父昌幸の弟である真田信尹の長男、つまり従兄弟の幸政と結婚しました。幸政との間に長男幸信をもうけました。1657(明暦3)年4月28日、昌幸次女が亡くなりました。(享年不詳)江戸渋谷の大安寺に葬られました。幸信には後継者ができず、この家系は幸信の代で断絶しています。  
六女 清光院
真田昌幸の六女として生まれました。母は不詳ですが、平原彦次郎の娘であるという説もあります。妻木重直(幕府旗本3千石)と結婚しました。夫重直は「頼能」という別名もあります。1662(寛文2)年から1670(寛文10)年までの間、幕府勘定奉行を務めました。重直の次男幸頼が真田幸政(真田信尹の長男)の養子になって家督を継いでいます。幸頼の母が清光院であるのかどうかは不詳です。  
樋口角兵衛
信之・幸村の従弟。久野と武田家の家臣、樋口下総守の間に生まれた子。武勇に優れていたが実の父は昌幸であると耳にしたため以後屈折した人生を送る。初陣では信幸の命に背き突進するも、その武勇で信幸の命を救う。しかし、山手殿と久野の会話でお徳が身ごもったことから信幸が肩身が狭くなると思い、真田庄のお徳を襲うが信幸から連絡を受けた幸村に阻止され、砥石城の岩牢に入れられる。その時、信幸に頼み岩牢を訪れた久野がすっかり様子の変わった角兵衛の前で信幸、幸村と同じ昌幸の子であることを告げられる。そして、佐平次ともよとの祝言の間に腹痛を装い番人を牢に入れたところを襲い脱走する。探索に出かけた草の者を殺害し、同じく探索に出かけた幸村を襲うが、お江により阻止される。第1次上田城の戦いの時の前に、真田家の危機と知り帰参する。しかし、久々に上田に戻った幸村に酒を飲んで絡み、秀吉から拝領の刀を所望する。北条攻めの時は幸村の命により危機に陥った信幸を救出する。朝鮮出兵の時は肥前名護屋に出陣を命じられた真田家であるが、角兵衛は留守居を命じられる。しかし、それでも参陣したいという気持ちを抑えきれずに名護屋の真田家の陣所に駆けつけるが、昌幸、信幸らに叱責される。ふて腐れているところを山中忍びの杉坂重五郎に誘われ山中大和守に対面する。そして、山中忍びの者と共に真田庄に戻るが、実は山中忍びの孝助、儀平が上田に潜り込むためであった。孝助と儀平は又五郎に本性を見抜かれ殺されるが、その後、又五郎の進言により沼田の真田分家に預けられることになる。しかし、鈴木右近が信幸に本家に角兵衛が情報を知らせているのではないかと信幸と話をしているのを聞き、右近を襲撃するが、逆に顔に傷を負う。そして、京に出て西軍の伏見城攻めを遊郭から眺める。関ヶ原の戦いでは真田本家と共に上田城の戦いに参戦する。しかし、その後信幸を討ちに砥石城に向かうが信幸に取り押さえられ説教される。戦後は信之に仕えるよう勧める昌幸に高野山へ連れて行ってくれるよう頼み、九度山へ同道する。しかし、そこでは鬱屈した生活を送り、昌幸が倒れた時幸村に叱責されたため九度山を出奔し、家康上洛の警護のために設けられた重五郎の忍び小屋に赴く。そこで、山中忍びと弥五兵衛、お江の戦いに遭遇する。弥五兵衛の最後の際にも居合わす。そして、その後上田の信之の下に姿を現す。再度信之に仕えたいという角兵衛に対して信之は50石で仕えるようにと言う。そして、威光寺の慈海に再び九度山に行き幸村を監視し、いざとなれば討ち取るよう唆される。幸村は角兵衛の不審な動きをお江の報により知っていたが角兵衛の願いにより再び仕えることを許す。しかしやはり山中忍びに通じており、山中忍びの小弥太を通じて幸村入城の報を知らせるが、佐助により阻止される。そしていざ大坂入城の際には酒に眠り薬をしこまれた隙に、幸村達は九度山を退去する。その後、慈海の勧めもあり大坂の幸村の元を訪れる。幸村は角兵衛の不審な行動を知っていたが、「共に死ぬるか。」と問い角兵衛の参陣を許す。そして真田丸での戦いでも活躍する。夏の陣の前には信之の元に帰るよう言われるが、共に戦うことを誓う。幸村の元戦うが慈海と伴長信に助けられる。そして彼らの口利きにより尾張徳川家に仕える。しかし人を斬り出奔し、上田城の久野の元に戻る。真田家を取り潰すために角兵衛を尾張徳川家に仕えさせ、頃合いを見て刃傷沙汰を起こさせて上田に戻らせ、真田家を取り潰すための口実であることを矢沢頼康に聞かされる。また、病床の久野に、実の父は昌幸でも樋口下総守でもなく武田家の若侍小畑亀之助であることを聞かされた。全てを悟り、自分の所行が真田家に迷惑をかけ続けてきたことを顧みて恥じた角兵衛は、自らの自害が最初で最後の奉公であると信之に遺書を残して自害した。  
一族
真田頼昌
?-1523 真田右馬佐(允)頼昌。松尾古城の城主。真田幸綱(幸隆)の父親?、もしくは義父?。「矢沢氏系図」によると矢沢薩摩守綱頼は頼昌の三男とあり、幸綱も頼昌の子とある。矢沢綱頼はあらゆる系図に幸綱の弟とあるので、やはり親か。海野棟綱の娘が真田頼昌に嫁ぎ幸綱を産んだ説もある。だとすれば義父である。 現在の長野県にある真田町に古くから土着していた豪族であろう。応永7年(1400)に北信濃で起きた大塔合戦について書かれた「大塔物語」に祢津遠光の配下として「実田横尾曲尾・・・」とあり”実”はサナと振り仮名がふられている。実田=真田であろう。幸隆の時代から「真田」を名乗ったとするよりは、以前から真田家があったとするほうがよさそうである。 武田信玄が永禄10年(1567)に徴した武将で海野衆の中に、真田右馬助綱吉とある。頼昌は1523年3月15日に亡くなったとされているので綱吉は子である可能性が高い。また、右馬助(佐)を襲名していることから嫡男であろう。だとすれば、長男綱吉、次男幸隆(幸綱)、三男矢沢薩摩守綱頼(頼綱)、四男常田出羽守隆永(寺島隆史氏説)。 法名:真田道端大禅定門一翁宗心大居士。
真田信綱
1537-1575 真田幸隆の嫡男。母は河原隆正の女。通称源太左衛門。昌幸の兄。幸村の叔父。武田二十四将のひとり。長篠合戦で戦死。
真田昌輝
1543-1575 真田幸隆の次男。母は河原隆正の女。通称兵部。昌幸の兄。幸村の叔父。武田二十四将のひとり。長篠合戦で戦死。
真田信尹(信昌)
1547-1632 真田幸隆の四男。昌幸の弟。幸村の叔父。隠岐守。武田家に仕える加津野家の養子となり加津野市右衛門信昌と名乗る。のち真田に復姓。池田輝政、蒲生氏郷、徳川家康に仕える。大坂冬の陣で幸村に寝返るように勧めるも断られている。妻は馬場美濃守の娘。長男は長兵衛幸政。幸政の妻は昌幸の娘。
河原殿 (1522-1593)
河原氏、恭雲院ともいう。海野氏重臣河原丹波守隆正の妹。真田幸隆に嫁ぐ。天文10年(1541)、海野氏没落のとき兄河原隆正は武田晴信に降伏し仕えたとされるが、身を隠していたともされる。河原殿は真田幸隆に嫁いでたので、真田幸隆の浪人生活を考えると、相当苦労したと思われる。真田信綱、真田昌輝、真田昌幸、真田信尹の四男を産んだ。もう1人真田高勝がいるが、これは河原殿の出生かどうか不明である。だが、いずれにせよ彼女は五人の男子を父に劣らぬ武将に育て上げた。真田氏は、河原殿だけでなく正室たちがしっかりしている。もし彼女たちが子どもたちの教育を誤っていれば、真田昌幸、真田信幸、真田幸村という名将は存在しなかったであろう。河原殿の没年は天正20年(1592)5月20日とも、翌文禄2年(1593)8月1日ともいわれる。長男真田信綱を16歳で産んだとされるため、享年は72歳になる。追号喜山理慶大姉。
海野殿 (1512-*1570)
海野氏ともいう。海野棟綱の娘。
於きた殿(於北殿) (1536-*1600)
中野箱山城主高梨摂津守政頼の娘。真田信綱に嫁ぐ。信綱寺に華翁妙栄大姉とある。「小県郡御図帳」には、北さま(於北殿)知行として合計13筆80貫文がみえており、真田昌幸に代替わりしてからも上田周辺で多くの知行を有していたことが明らかである。「滋野世記」には「真田河内守信吉の母は真田源太左衛門(真田信綱)の娘」とあることからも真田信綱の娘は真田信幸に嫁いだことが分かる。真田信綱と於北殿との間には長男真田信興、次男真田信光らが生まれている。
井上殿 (1540-*1610)
井上次郎座衛門の娘。真田信綱に嫁ぐ。
相木殿 (1545-*1600)
相木昌朝の娘。真田昌輝に嫁ぐ。真田昌輝と相木殿の間には長男真田信正が生まれている。
村松殿(むらまつ) (1565-1630)
宝寿院ともいう。永禄8年(1565)、真田昌幸の長女として躑躅ヶ崎の館で生れる。家臣小山田壱岐守茂誠の妻。真田幸村の姉。小山田茂誠は甲斐の小山田昌行(上原昌行)の三男で、天正10年(1582)、父小山田昌行(上原昌行)が高遠城で戦死してのち、真田氏の重臣となった。後松代藩家老にまでになる。この村松殿は小県郡村松で領地を与えられたので、村松殿と呼ばれた。真田信幸も真田幸村(真田信繁)も、この姉を長姉として敬重し、真田幸村が大阪城中からこの姉に送った手紙も多数現存する。寛永7年(1630)6月20日に没する。行年は66歳。宝寿院殿残窓庭夢大姉と謚号され、松代長国寺に葬られたという。
加津野殿 (1569-1657)
真田昌幸の次女。加津野幸政の妻。加津野幸政の父は加津野信尹(真田信尹)であり、加津野信尹(真田信尹)は真田昌幸の弟。よって、加津野殿と加津野幸政は従姉弟同士の結婚である。2人の間には嫡男真田幸信が生れている。明暦3年(1657)4月28日に没し、江戸渋谷の大安寺に葬られたという。一説には明暦2年没ともいわれる。
鎌原殿 (1570-1619)
真田昌幸の三女。鎌原重春の妻。母は綿内兵庫頭の娘(綿内殿)。鎌原重春の父は鎌原重澄。鎌原重春との間に鎌原重宗が生れている。母は綿内兵庫頭の娘(綿内殿)なので山之手殿の子真田信幸や真田幸村とは異母兄妹にあたる。元和5年(1619)8月3日に没した。
高遠殿 (1571-1610)
真田昌幸の四女。保科正光の妻。保科弾生忠正光の父は保科弾生忠正直。保科正直は槍弾正といわれた勇将で、高遠城将であったが、武田氏滅亡後は、徳川家康に属し、慶長5年、再び高遠城を与えられた。保科正直の後妻は徳川家康の同母異父の妹の久松殿だった。保科正直と久松殿は天正12年(1584)に結婚している。このように、保科氏は徳川と姻戚であったため、保科正直の後を嗣いだ保科正光は、将軍徳川家忠の隠し子保科正之を押し付けられた。徳川家忠は夫人浅井殿(淀君の妹)のほか、側室がなく、保科正之は唯一の隠し子であったが、浅井殿に配慮してか、夫人の生前は、父子の名乗りをあげることもできなかったようだ。
保科正光は夫人高遠殿との間に子がなかったらしく、保科正光の末弟にあたる保科正貞(母は久松殿で保科正光の義弟、徳川家康の甥)を養子とした。保科の正系は保科正之に受け継がれ、松平姓となり、会津に移ったが、保科正貞の系は、代々弾生忠を名乗り、下総飯野1万7000石を領した。高遠殿は慶長15年(1610)10月20日に没した。葬地は高遠満光寺。
宇田殿1 (1573-1666)
真田昌幸の五女。宇田河内守頼次の妻。宇田頼次死後は滝川一積の妻となる。宇田頼次の父は宇田頼忠であり、宇田頼忠の娘が石田三成に嫁いでいるので、石田三成と宇田頼次は義兄弟である。宇田頼次は石田三成の父石田為成の養子となり「石田刑部少輔」とも名乗っていた。名目の上でも石田三成と宇田頼次は兄弟になっていたのである。
宇田頼忠・宇田頼次父子が石田三成に従い、関ヶ原の合戦で討死した後は、「石田系図」「滝川十次郎家記」によると、真田氏の諸系図にもあるとおり、滝川三九郎一積の妻となっている。滝川一積は滝川一忠の子で、滝川一忠は織田信長家臣の滝川一益の子である。滝川一積は徳川家旗本1000石を知行したが、真田幸村の娘を養女として蒲生忠知の家臣蒲生郷喜に嫁がせた罪で改易となり、後に松代に住む。滝川一積との間に生まれた子滝川一明は旗本小普請で300俵、妻は真田幸道の叔母という。滝川一明の養子滝川一重は真田氏家臣鎌原外記重俊の子で、その母は真田信政の娘である。また石田頼次の娘も滝川一積が養女として家臣小山田主膳之知に嫁がせている。寛文6年(1666)5月13日に没した。葬地は京都妙心寺。
於菊2
真田昌幸の娘。側室のお徳の子であるが、名胡桃城の戦いの後山手殿に育てられる。昌幸が溺愛しており、石田三成より義弟の宇田頼忠への縁談があった時は、手放したくないためうやむやにしてしまった。関ヶ原の戦いの後、真田家の行く末が不透明なことを案じた昌幸により滝川三九郎に預けられ諸国を旅する。後に三九郎と結婚する。
清光院殿 (1579-1670)
清光院ともいう。真田昌幸の六女。母は平原彦次郎の娘。妻木彦右衛門頼照の妻。妻木頼照は妻木頼熊(頼能)が正しく、妻木重直とも称した。徳川家旗本3000石。勘定奉行など勤めた。その次男妻木幸頼は真田長兵衛幸政の子真田幸吉の養子となっている。なお、妻木頼照妻の詳細については「高野山見聞記」に「長野村平原彦次郎娘昌幸公御部屋に入られ候よし、清光院様腹の出生にて妻木彦右衛門様へ被嫁候」とある。寛文10年(1670)7月に没した。
於楽殿(おらく) (1581-*1630)
お楽、於らくともいう。真田昌幸の七女。陸奥伊達家の家中の妻となったとされる。
馬場殿 (1555-*1620)
馬場氏勝の娘。真田信尹に嫁ぐ。真田信尹と馬場殿の間には長男真田幸政、次男真田政信、三男真田信辰が生まれている。
小松殿1(こまつ) (1573-1620)
大蓮院ともいう。本多忠勝の娘として生れる。徳川家康の養女として真田信幸に嫁ぐ。小松殿は長女、次女、次男、三男を産んだとされる。長男真田信吉は真田信綱の娘(真田信幸の従兄妹)との間に生まれた子であるとされている。関ヶ原合戦の直前、西軍についた真田信幸の父真田昌幸が「孫の顔を見たい」と沼田城を訪れたが、彼女は頑として入城を拒んだという。真田氏は、上田から松代へ移封されたものの、真田信幸の系統が、同じく信州の大名として明治維新まで存続した。そして、真田氏は終始一貫「滋野」を本姓としていた。松代藩祖でもある真田信之(真田信幸)は、上田在城時代の元和6年(1620)2月24日に、妻小松殿(大連院)を亡くしたが、その一周忌に真田信之が常福寺(上田市諏訪部のちの芳泉寺)に建てた小松殿の墓塔の銘文には、「真田伊豆守滋野朝臣信之妻女」とある。これを今に伝わる確かな記録の始めとして代々の真田氏当主は、全て「滋野○○」と名乗っていたものであった。武蔵鴻巣で没したとされ、同地の勝願寺には同じくこの地で没した三男真田信重の墓と並んで小松殿の墓がある。上田の芳泉寺、沼田の正覚寺、松代の大英寺にも供養塔がある。追号大蓮院殿英誉皓月大禅定尼。享年48歳。
小松殿2(改名・稲姫>小松殿)
本多忠勝の娘。徳川家康の養女となり真田信幸の正室として嫁ぐよう家康に命じられたが、娘の気に入った人物に嫁がせたいとする忠勝の考えもあり、複数の相手と見合いをする。扇子で相手の顔を見ていった稲姫であったが、信幸には「このような礼儀知らず、本多平八郎様の娘とは思えませぬ。」と咎められる。しかし、逆に稲姫の心をつかみ、信幸と結婚することになる。三河風の質素倹約を伝え、真田家の家風にもなじむ賢夫人である。信幸と昌幸、幸村が敵味方に分かれた関ヶ原の戦いでは、「孫の顔が見たい」と沼田城を訪れた昌幸、幸村に対し「御本家とは敵味方になったと聞きました。」と気丈に入城を拒んだ。しかし、昌幸、幸村が九度山へ配流された後は佐平次の名で九度山に衣類を送るなど支援する。家康の死後病がちであったが幕府の命により人質に出される。幕府の許可を得て信政に伴われ上田に戻る途中武州鴻之巣で病に倒れた。信吉、信政が駆けつけたが、城主たるものは軽々しく城を開けてはならないといい、信吉は沼田へ、信政は江戸にすぐに帰るよう諭した。そして、信之には2千あまりの家臣と領民がいることを忘れぬようにと語り亡くなった。
右京殿 (1580-1660)
お京、お亀ともいう。玉川伊予守秀政の養女。玉川秀政は松代城代を務めたとされる。右京殿は京の町人の娘で、お京とも、お亀ともいわれるが、初めは安芸広島藩主福島正則の側室となっていたとされる。福島正則は元和5年に広島城の無断修築を理由に除封となり、信濃へ配流となっている。右京殿が真田信之(真田信幸)に仕えたのは福島正則の除封後である。その後、玉川秀政の養女として真田信之の身の回りの世話をするようになり、さっそく真田信之に気に入られたらしく、女中頭という地位を手に入れる。正室小松殿の家老山野井大内蔵と右京殿とが激しく対立したという。怒声を連発する山野井大内蔵、たまらず号泣する右京殿、宥めに入る真田信之、この出来事はとりもなおさず、真田信之をめぐる小松殿と右京殿の女の争いを如実に現しており、正室と女中頭という身分では右京殿に到底勝ち目はないものの、既に右京殿が真田信之の心を据えており、寵愛を一身に受けていたことが窺える逸話といえよう。真田信政が藩主就任後、僅か半年で急死した為、真田信政六男真田幸道と沼田藩主真田信利との間に相続争いが惹起したが、右京殿は真田幸道を次期藩主に据えるべく、隠居していた初代真田信幸に働きかけを行ったとされる。後半生の真田信之を実際に支えた大切な存在の女性であったのには違いない。真田信之没後、京で没した。墓は松代梅翁院にある。
お通殿 (1567-1631)
小野お通ともいう。昭和期に「真田勘解由家文書」が分析された結果、お通の実在が確認され、従来喧伝されていた説に誤りが多かった点が判明した。美濃北方の小野氏の出身で、森蘭丸長定の同僚で本能寺の変で討死した塩川伯耆守に嫁いでいたというのが実際の前半生のようである。その後、渡瀬羽林家に再婚。この間一女を産んでいる。のちの小野宗鑑尼である。上田藩主であった真田信之(真田信幸)と親交を結ぶが、一説には豊臣秀吉や真田信之(真田信幸)の側室と据える説もある。元和8年(1622)松代転封を命じられた真田信之がお通に送った書状が残る。晩年は真田信政の側室となった長女を頼り、松代へ住んで寛永8年10月にこの地で没したという。享年64歳。お通が永禄2年(1559)に出生し、元和2年(1616)3月5日に没したとする説もある。
お伏殿 (1587-1679)
小野宗鑑尼、お犬、国子、円子。二代小野お通とも呼ばれる。小野お通の一人娘。母同様、箏曲の演奏、書道などに秀でていたとされる。やがて、真田信之の次男真田信政の側室となり、長男真田信就を産んだ。松代へ住み、八橋流箏曲を同地へ伝えた功績もある。延宝7年(1679)12月18日に没したとされる。墓所は江戸下谷の広徳寺桂徳寺。なお、真田信就の七男真田信弘が松代藩4代藩主に就任しており、お通の血は松代藩主から真田家の歴代に流れていることになる。
高力殿 (1587-*1650)
真田信幸の長女として生まれる。母は小松殿とされる。高力忠房に嫁ぐ。
台殿 (1593-1673)
二の丸殿、柴殿、西之台殿、見樹院ともいう。真田信幸の次女として生まれる。母は小松殿とされる。佐久間盛次の妻。文禄2年(1593)に出生したとされるが、文禄4年(1595)とも言われる。真田信吉と同年(天正18年(1590))の出生であるがという説もある。信濃飯山藩主であった佐久間民部少輔盛次(佐久間勝次)に嫁ぐが、元和2年(1616)3月夫の死により生家へ移った。東京の高輪広岳院は佐久間氏の開墓で、寺号は佐久間盛次の法名広岳院殿に因む。台殿(見樹院)は上田城時代は西之台に住み、台殿と呼ばれた。松代時代は二の丸に住み二の丸殿、父の隠居後は父とともに城北柴村に住み柴殿と呼ばれたとされる。「真田軍功家伝記」は、台殿(見樹院)のことを「大慈悲者なり」と記す。父真田信幸が台殿(見樹院)に送った書状が現存している。彼女は父真田信幸の死を看取り、寛文13年(延宝元年(1673))に79歳で没した。追号見樹院殿貞誉英庵大禅定尼。。。
堀田殿 (1564-1620)
真田家の家臣堀田五兵衛の娘。真田幸村に嫁ぐ。真田幸村の長女阿菊殿(すへ)の母。真田幸村の側室だが、最初の本妻という見方もある。真田幸村の長女阿菊殿(すへ)を産んでいる。堀田殿のその後は明らかとされていない。真田幸村の娘阿菊殿(すへ)は信州上田で出生しているが、叔父堀田興重(堀田作兵衛)の養女として育つ。
采女殿 1570-1620年
真田家の家臣高梨内記の娘。真田幸村に嫁ぐ。「真武内伝」等には高梨内記の娘が采女殿の母と記されている。つまり高梨内記の孫が実は采女殿と称されていたという説もある。真田幸村の次女於市殿、三女阿梅殿を産んだとされる。高梨内記は真田昌幸、真田幸村父子の紀伊九度山への配流に扈従し、大阪の陣でも真田幸村に属して討死を遂げた。
竹林院殿1 (1579-1649)
小石、徳、小屋ともいう。大谷刑部吉継の娘。真田幸村に嫁ぐ。真田幸村とは12歳の年の差があったとされる。大谷吉継の実娘ではなく、親戚の娘を養女として真田幸村に嫁がせたという説もある。この為か、竹林院殿の実母については史料が一切残っていないし、実母の墓所等も不明である。「鶴亀文懸鏡」の銘に、「願主、同(大谷)東、小石、徳、小屋-文禄2年9月吉日-」と見えているという。「東」とあるのは大谷吉継の実母であるから、他の3名はおそらく大谷吉継の娘たちであろう、という説がある。しかし、文禄2年(1593)といえば真田幸村に嫁いだ後であることや、大谷吉継の妻の存在もあることなどから、この3人の女性たちが単純に大谷吉継の娘であると断定することは難しい。真田昌幸・真田幸村父子が高野山麓九度山村に配流されると彼女も子どもたちと従った。だが慶長19年(1614)10月9日、冬の陣に先立ち九度山を引き払ったとされるが、真田幸村とともに大阪城に入城したとも。竹林院殿が大阪城へ入城したかどうかは分からないが、真田幸村は高野山蓮華定院行永と入魂で、内証どとも相談していたというから、そのつてで隠れ家を用意していたとも考えられる。嫡男真田大助の言葉や彼女が捕らえられたとき黄金や来国俊をもっていたことを思うと入城していたのかもしれない。彼女は大阪城落城12日後の元和元年(1615)5月20日に捕らえられている。山狩りをして紀州伊都郡に潜んでいた彼女を逮捕した浅野長晟は、所持していた黄金57枚と来国俊の脇差で真田幸村の妻と知る。いずれも冬の陣に先立ち豊臣秀頼が真田幸村に遣わしたものであった。生命は助けられて、七女於金殿(かね)夫婦と暮らし、慶安2年5月18日(7日)に没する。恐らく幼い末娘2人を伴い潜んでいたのであろう。六女阿菖蒲殿は母や妹と京にいたが、三女阿梅殿に引き取られた。法号竹林院梅渓永春清大姉。大阪の陣から34年も生き延びたというのだから、戦国時代の女性哀話が多い中で、珍しい運命の人である。
於利世2
大谷吉継の娘。真田幸村の正室となる。関ヶ原の戦いの後九度山へ同道する。幸村の大坂入城の際にはお梅やあぐりと共に彦根の小助の忍び小屋に行くように幸村に申し渡される。そして戦後幸村と大助が彦根の忍び小屋となっている両替商銭屋を訪れてくる。その後、再び戦いがあった時には高野山の蓮華定院を頼るようにと申し渡される。そしてどのようなことがあっても恨みに思うなという幸村に対し、「お恨みいたします」と泣き崩れた。戦後蓮華定院にいたが、徳川方に連行される。しかし滝川三九郎が引き取る。そして三九郎の元で亡くなり後に信之が最期を看取ってくれたことを滝川三九郎に礼を言っていた。
隆清院殿 (1584-1640)
深谷六郎の娘。豊臣秀次の娘という説が定説。真田幸村に嫁ぐ。出羽亀田藩関係の史料で法号隆清院とされており、妙慶寺には隆清院殿の位牌がある。真田幸村の側室となり、五女御田殿、三男真田幸信を産んだという。周知の通り、豊臣秀次は文禄4年(1595)に豊臣秀吉によって自刃を強いられ、その妻妾、若君なども同年8月2日に京三条河原で斬られている。真田幸村の側室となったというこの女性は女児であったことからこの惨劇を潜り抜けて成長していたのであろうか。ともあれ、大阪の陣の際、御田殿とその母隆清院は豊臣秀次の母(豊臣秀吉の妹)瑞龍院殿(智殿)の許に身を寄せ、難を逃れたという。その後の豊臣秀次の娘隆清院殿の行動は不詳だが、妙慶寺に位牌があるところを見ると、亀田に身を寄せた可能性もある。
詳細は、深谷新左衛門(三好清海)の項に記述。
阿菊殿(すへ) (1584-1642)
石合道定の妻。真田幸村の長女として生れる。小県郡長窪の郷土石合十蔵道定に嫁ぐ。真田幸村の娘で、母は真田家臣堀田五兵衛の娘。信州上田で出生しているが、叔父堀田興重(堀田作兵衛)の養女として育つ。寛永19年(1642)に死去した。享年59歳。その墓は長安寺にある。また長門町西蓮寺にもある。
於市殿(いち) (1587-1610)
高梨殿ともいう。真田幸村の次女。母は真田家臣高梨内記の娘。上田で生まれ、配所の九度山で病死した。
阿梅殿1 (1594-1681)
泰陽院、泰陽院殿ともいう。真田幸村の三女。片倉重長の側室(のちに正室)。母は真田家臣高梨内記の娘。信州上田で生まれる。母は大谷吉継の娘(竹林院殿)という説もある。出生については五女の御田殿と同年(慶長9)ともされている。父真田幸村とともに大阪城に入る。落城のとき仙台城主の伊達政宗の家臣片倉重長に生け捕りにされる。片倉重長の側室となる。大阪の陣で片倉重綱の陣に投降したときは22歳(12歳とも)であった。元和6年(1620)27歳で片倉重綱の後室となり、寛永3年(1626)正室針生殿の死去に伴い正室の地位についた。33歳(23歳とも)のときである。慶安元年(1648)には真田幸村の菩提を弔うため月心院を建立した。阿梅殿は片倉家の行く末を見守り続け、88歳(78歳)の元和元年(1681)に死去した。菩提寺の当信寺の紋は、真田の六連銭である。片倉家は仙台藩の重臣で、片倉重長は武名が高く、鬼小十郎と言われ、白石城1万7000石を与えられ、子孫は明治に至り男爵を与えられた。この阿梅殿は滝川三九郎一積の養女になっており、大阪の役後、滝川家から片倉家へ嫁がせたともいう(「古前島助之進覚書」「滝川家記」)。滝川一積の妻は真田昌幸の娘で、義兄真田幸村の娘、つまり姪を養女にしていたのである。また一説には大阪の陣のとき、片倉重長(片倉小十郎)が乱取、つまり強奪したのだという(「白川家留書」)。どちらもありうることである。る。る。
後日談であるが、松代藩第三代藩主真田幸道が伊達家を訪れたところ、家臣に六文銭の紋をつけている者があったので、不思議に思って尋ねてみると、片倉沖之進という者で、先祖片倉重長(片倉小十郎)が真田幸村の娘阿梅殿を妻にしていることが分かった。そこで真田幸道から懇ろな言葉を与えられたので、片倉家は真田家の江戸屋敷へお礼に来たという。
お梅[梅]2
真田幸村の娘。母於利世と共に彦根の小助の忍び小屋に行くように幸村に申し渡される。そして戦後幸村と大助が彦根の忍び小屋となっている両替商銭屋を訪れてくる。その後、再び戦いがあった時には高野山の蓮華定院を頼るようにと申し渡される。戦後蓮華定院にいたが、徳川方に連行される。しかし滝川三九郎が引き取る。信之に会った三九郎の口を通じて仙台伊達家の重臣片倉小十郎に嫁がせたことが告げられた。
阿栗殿(あぐり1) (1598-*1650)
あくりともいう。真田幸村の四女。母は正妻の大谷吉継の娘(竹林院殿)。坂郷明(蒲生郷明)の妻。阿栗殿は滝川三九郎一積の養女として蒲生飛騨守氏郷の重臣坂郷喜(蒲生源左衛門)の長男坂郷明(蒲生郷明)に嫁ぐ。坂郷喜は父についで陸奥三春3万石を領した。その後、坂郷喜は浪人となり、寛永12年(1635)に近江大津で没した。寛永10年(1633)主家蒲生家が断絶、坂郷明と阿栗殿は日向延岡に移る。
あぐり2
真田幸村の娘。母於利世と共に彦根の小助の忍び小屋に行くように幸村に申し渡される。そして戦後幸村と大助が彦根の忍び小屋となっている両替商銭屋を訪れてくる。その後、再び戦いがあった時には高野山の蓮華定院を頼るようにと申し渡される。戦後蓮華定院にいたが、徳川方に連行される。しかし滝川三九郎が引き取る。
御田殿(なほ) (1604-1635)
あくり、顕性院ともいう。真田幸村の五女。岩城宜隆の妻。母は三好秀次の娘(隆清院殿)。母三好秀次の娘(隆清院殿)は、一説には三好清海(女であるとの説から)という。三好中納言秀次の娘(隆清院)と真田幸村の間に、慶長9年(1604)九度山で生れた。御田殿とその母(隆清院殿)は、大阪落城を前にして、京都に住む豊臣秀吉の姉の瑞龍院日秀尼の許へ避難している。日秀尼は三好法印一露の妻で三好秀次の母である。従って御田殿の曾祖母にあたる。御田殿は成人して岩城但馬守宜隆に嫁いだ。
岩城氏は慶長5年の上杉討伐に出兵しなかったために所領を没収されていたが、元和2年8月信州川中島で1万石で復帰した。元和9年(1623)に岩城吉隆の時代に1万石を加増され、由利郡亀田に移封された。佐竹常陸介義重の四男佐竹宜隆は岩城吉隆の跡を継いだ。
御田殿は長男岩城伊予守重隆、さらには長女、次男岩城隆房を生む。寛永12年(1635)、江戸にて32歳で没した。法号は顕性院。江戸下谷の宗延寺で葬儀が行われ、後に供養のため、亀田城下に妙慶寺が建立された。なお、長男岩城重隆など、同藩の歴代藩主には御田殿の血を引く男子が就任している。妙慶寺には御田殿や、母隆清院殿、姉を頼ってこの地に来た真田幸村三男真田幸信の位牌、太刀がある。余談ながら、「真田十勇士」の中に出羽亀田城主の末裔という三好清海入道、三好伊三入道の兄弟があるのは、「立川文庫」」の著者が御田殿が出羽亀田に嫁したのを伝え聞いたからともいう。
阿菖蒲殿(しょうふ) (1605-1635)
しよふ、石森殿ともいう。真田幸村の六女。母は正妻の大谷吉継の娘。九度山で生れる。姉の阿梅殿に引き取られ、伊達政宗の家臣田村定広(片倉定広)に嫁ぐ。この田村家は田村定顕を祖とし、登米郡石森村を知行する平士300石だが、田村定広が片倉重長(片倉小十郎)の異父姉(伊達政宗乳母)の養子であり、片倉重長と相婿となった関係から、伊達政宗正室の命で片倉姓に改正した。阿菖蒲殿は寛永12年(1635)に没した。子孫は昭和期に石森村長をつとめている。
於金殿(おかね) (1608-1657)
御兼殿、御金殿ともいう。真田幸村の七女。石川重正の妻。母は正妻の大谷吉継の娘。母は正妻の大谷吉継の娘(竹林院殿)。九度山で生れる。石川貞清(石川宗休)という茶人の長男石川藤右衛門重正に嫁いでいる。大阪夏の陣後に奥州白石で養育される。於金殿の婿石川重正は石川宗雲と称し、京都に居住したという。於金殿は明暦3年(1657)に死去。石川貞清(石川宗休)はもと尾張犬山城主1万2000石で、石川備前守貞清(石河光吉)として関ヶ原合戦にも参戦。関ヶ原合戦後に浪人し、京都で石川宗休と称したとされる。石川貞清(石川宗休)は京都大珠院に真田幸村夫婦の墓を建てている。真田幸村の墓は数ヶ所にある。1つが京都市右京区竜安寺塔頭大珠院にある五輪塔で、真田幸村の娘於金殿が白川家と関係の深いこの寺へ墓を建てたのだという。「大光院殿日道光白大居士」という法号を刻してあるというが、今ははっきりしない。竜安寺は石庭で有名であるが、真田幸村の墓は訪れる者も稀である。高野山の麓九度山の善名称院(真田屋敷跡)にも「真田幸村公碑」と刻んだ墓があり、「慶長20年乙卯5年8日頤神院殿直入全孝大居士」と刻んである。この碑は大正3年に建てられたものである。
青木殿 (1610-*1660)
しよふともいう。真田幸村の八女。母は大谷吉継の娘(竹林院殿)。紀伊国の領民の娘ともいう。青木次郎右衛門に嫁したというが、その他は不詳。
久野
真田昌幸の正室山手殿の妹。樋口角兵衛の母。非常に涙もろい。武田家滅亡の時に夫の樋口下総守が自害する。昌幸ともかつて関係をもっていた。角兵衛が自分の元から離れていくと、信幸に色目を使った。そして、信幸が好意を寄せていた侍女の弥生を嫁に出した。関ヶ原の戦いの後九度山へ同道する。昌幸の死後、信之の下に引き取られる。大坂の陣で幸村の元にいた角兵衛のことはあきらめていたが、信之にさる大名家に仕えていると聞かされ喜ぶ。しかし、角兵衛は尾張徳川家で刃傷沙汰を起こして出奔し、上田の久野の元に戻る。久野は病床であったが角兵衛に残り少ない人生であることから自らの若い頃の奔放な生活を角兵衛に語り、角兵衛の本当の父は武田家の若侍で小畑亀之助であることを告白した。角兵衛はそれを聞き、自らの人生を恥じて自害。駆けつけた久野はその姿にショックを受けて亡くなった。
お徳
沼田城にいる真田昌幸の側室。於菊の母。天真爛漫な性格。昌幸が上杉景勝に備え、砥石城に移った時、真田庄に移る。お菊を身ごもったが、樋口角兵衛により殺されそうになったため、幸村に護衛され鈴木主水の名胡桃城に移される。北条方による名胡桃城襲撃の際に上田に知らせんと脱出しようとするが、敵兵に射られ、お江の見守る中亡くなる。
 
真田幸村1

親父・昌幸
幸村の父・真田昌幸がまだ武田信玄の家臣だったころ、甲斐国甲府で次男として生まれた。本名、真田信繁。信繁の名は「川中島の戦い」で散った信玄の弟・武田信繁(信玄に匹敵する名将で兄をかばって戦死した)を敬慕して父がつけたもの。幸村が8歳の時、「長篠の合戦」で武田軍は敗北し、この戦で父の2人の兄も討死した。1582年には「天目山の戦」で信玄の子・勝頼も自刃し、これで主君の武田家は滅亡する。
この戦の帰り、わずか300人で敗走する真田軍は北条軍4万と遭遇する。発見されれば瞬殺だ。すると15歳の幸村が「父上、私に策があります」と昌幸に進言した。それは無地の旗に北条方の武将の紋(永楽通宝)を描くことだった。しかし、味方のフリをして逃れても怪しまれたら終わり。だが、疑う隙も与えぬ方法があった。夜襲を掛けるのだ。真田軍は50人ずつ分かれ、6方向から襲撃して人数が多いように見せた。
北条側は旗を見て自軍の武将が裏切ったと思い大騒ぎ。その混乱に乗じて敵陣を突破した。6つの旗に銭が描かれたことから、これにちなんで幸村の旗印は「六文銭」の紋になった。また、三途の川を渡る船賃は6文とされ、当時は棺の中に六文を入れたことから、“真田隊はいつでも死ぬ覚悟が出来ている”という気概を象徴した。
「武田が滅び、次はいったい誰を主君にすればいいのか…」悩んだ昌幸は信長に名馬を贈って接近しつつ、「真田家」として独立大名への道を模索する。ところが勝頼の死からわずか3ヵ月後の6月に信長も本能寺の炎の中に消えた。仕方なく7月から関東の覇者北条氏の配下になり、さらに9月には家康に従属するなど戦国の世を渡る為に昌幸は試行錯誤する。
1583年(16歳)、昌幸は上杉軍に勝利して信濃国北部(長野・上田市)に居城となる上田城の築城を開始。翌年、家康と北条が和睦する。この時、真田家にとって大事件が起きた。家康は講和の条件に“真田領の沼田(群馬北部)を北条に譲る”と勝手に決めたのだ!父は怒った。「沼田は真田が戦で勝ち取った土地であり、徳川から頂戴した土地ではない!」と引渡しを拒絶した。天下を狙う家康は、このまま真田の言い分を聞いてしまうと「徳川はあんな小国も自由に出来ぬのか」と笑い者にされてしまう。家康はメンツを守る為に真田征伐を決定した。昌幸は徳川との対抗上、越後の上杉に接近する。しかし、上杉はこれまで何度も戦ってきた相手。そこで17歳の幸村を「人質」として上杉に送った。
第1次上田合戦
1585年8月、家康は徳川軍7千を信濃に派遣し、昌幸は兵700でこれを迎え撃った。10倍の徳川軍と戦って勝ち目はあるのか?昌幸は築城中の上田城に兵500を入れ、残りの200をおとり部隊として城の手前の神川に配置する。そして城下町のあちこちに柵を交互に置いた。姿を現した徳川軍はおとり部隊へ攻撃を開始。おとり部隊は敗走する振りをしながら城の側まで敵を引き寄せた。調子に乗る徳川軍「真田は不甲斐ないのう」。徳川軍が城下にすっかり入ったことを確認すると、昌幸は道に面した家屋に火を放った(住民は既に避難済み)。
この日は風が強く、すぐに徳川軍は炎に包まれた。しかも、大軍ゆえに柵で身動きが取れない。そこへ真田鉄砲隊の一斉射撃が始まった。大混乱に陥った徳川軍に対し、さらに隠れていた農民兵が襲い掛かった。徳川軍が火災から逃れるように川へ逃げ込むと、上流で真田側が堰を切った為に大増水。多くの人馬が流された。徳川勢の死傷者は3千を超え、ついに撤退命令が出され、真田軍は10倍の敵を見事に撃退、「上田合戦」に勝利した。“徳川敗北”の報は天下を巡り、“真田恐るべし”と諸大名から一目置かれるようになった。
昌幸は家康との次なる戦いに備え、秀吉の力を頼ることにする。秀吉は真田家の後ろ盾となることを約束し、人質(幸村)は上杉から秀吉の下へ移った。この後、家康は秀吉に屈服し、あとは関東北条氏さえ下せば天下の統一となった。1590年(23歳)、20万の兵を導入して小田原征伐は完了。秀吉は天下人となり、真田も徳川も同じ主君に従う家臣として和解する。昌幸の長男・信之(幸村の兄)は徳川四天王の一人・本多忠勝の娘と結婚し、幸村は秀吉の重臣で敦賀の大名・大谷吉継(石田三成の親友)の娘と結婚した。1598年(31歳)、秀吉病没。時代は再び動き出す。
1600年(33歳)、家康は天下取りに向けて豊臣五大老の征伐を開始、前田利長(利家の子)を服従させた後、会津120万石の上杉景勝に狙いを定めた。6月、家康は東進開始。一方、石田三成が7月に挙兵。21日、上杉討伐に従軍していた真田父子(昌幸、信之、幸村)は、下野国犬伏(栃木・佐野市)で家康を断罪する密書を受け取った。そこには「秀吉の遺命に家康は背き、秀頼を見捨てて勢力を拡大している。秀吉の御恩を大切にするなら西軍に入るべし」と記してあった。
「これはどうしたものかのう…」その夜、真田父子は東西のいずれに身を置くか話し合った。昌幸の妻と石田三成の妻は姉妹。信之の妻は父が徳川四天王、幸村の妻は父が三成の最大の親友(ちなみに側室は豊臣秀次の娘。)。昌幸は真田領譲渡の一件で家康を嫌っていたが、信之は和平後に家康から才を認められ側近を務めるなど家康と親しく、幸村は豊臣方での人質時代に世話になった知人が大勢いる。その結果、昌幸と幸村が西軍に、信之が東軍につくことになった。敵味方に分かれる事になった両者は、互いの武運を祈ると共に、戦国の世の非情さを痛感した。昌幸・幸村は上田城に帰った。家康は信之が残ったことに感激し、関ヶ原の後、昌幸の土地は信之に与えることを約束した。
関ヶ原に向かう家康は、関東不在中に上杉・真田軍に江戸を奪われぬよう、軍を二手に分けて進軍した。自ら率いる本隊8万は東海道を、嫡子・秀忠が大将の分隊4万は真田の牽制も兼ねて中山道を行かせた。西軍としての昌幸の戦略は、秀忠軍を足留めして関ヶ原合戦に遅刻させること。東軍の両隊12万に対し西軍は9万と数の上では負けている。しかし本隊8万のみなら西軍の方が1万多い。小大名の真田が関ヶ原で秀忠の4万を倒すことは不可能だが、合戦に遅参させれば倒したも同然。このあたり昌幸が天才戦略家と呼ばれる由縁だ。
第2次上田合戦
秀忠にとって、重要なのは関ヶ原であり、真田攻めはあくまでも“大事の前の小事”。無視して真っ直ぐ関ヶ原に行っても良かった(ていうか、行くべきだった)。しかし、信濃を通過後に背後から攻撃される可能性があり完全には無視できない。まして秀忠はこの時21歳と若いうえ、これが初陣だった。かつて徳川軍が敗退した上田城を自分が落とせば、関ヶ原に到着した時の良い土産になるし、初陣を勝利で飾れば父からも誉められる…「我が軍は4万、上田城は天守閣すらない小城(実際、真田軍は2千人だけ)、負ける訳がない」。
一方、昌幸としても秀忠を関ヶ原に行かせない為に、何とか相手を怒らせ、戦闘に持ち込む必要があった。
秀忠は上田城に近づくと、「この大軍を知れば戦わずに降伏するかも知れぬ」と、使者を立て降伏勧告をさせた。使者に選ばれたのは信之と本多忠勝の子・忠政。「信之、父上を説得して来るのだ」。会談の場に現れた昌幸は頭を剃り、粛々と降伏を受け入れ開城を約束した。秀忠は大喜び。「それ見たことか。我が軍は一人の犠牲も出さずに真田を落としたぞ!」。…ところが策士・昌幸、これは巧みな時間稼ぎだった。その日も、翌日も開城されない。どうなっているのだ。翌々日、9月5日。関ヶ原合戦は10日後(15日)であり、布陣の準備や他大名との作戦立てを考えると2日前には着いていたい。もうタイムリミットだ。
「これ以上待てん!今一度使者を送って開城を催促して来い!」。すると昌幸は、会談を拒否するどころか逆に「宣戦布告」をしてきた!「カーッ!真田め、徳川を馬鹿にしおって!」。秀忠の側近達は“殿、真田など無視して先へ!”と説得したが「何もせずナメられたままでは、武士の顔が立たぬわ!余は物笑いの種ではないか!」。秀忠は全軍に攻撃命令を下した。
真田側は上田城に昌幸が、北部の戸石城に幸村が入っていた。秀忠は本隊で上田を攻め、分隊を戸石に派遣した。分隊の大将は土地勘のある信之が選ばれた。幸村は「それがし、兄上とは戦いとうない」と、信之が着く頃には上田城に撤退していた。信之はもぬけの殻の戸石城に入ったが、奪還される可能性があるのでそのまま城を守備した。昌幸は戦わずして秀忠軍を分断することに成功し、また信之がいないので思う存分戦えた。
昌幸は徳川軍を挑発する為に、まず昌幸と幸村が自ら50騎を率いて城外に出てきた。総大将が現れて徳川軍はびっくり。昌幸らは偵察だけして戦わずに城内へ戻って行った。総大将が最前線に出てきたのは“お前らに絶対やられはせん”と嘲笑するのと同じ。頭に来た徳川軍は一斉に城門へ向かった。その結果、後方の本陣が手薄になる。この一瞬の隙を突いて、敵本陣の後方に潜んでいた伏兵たちが秀忠を襲撃した。
「本陣が攻撃されているぞ!」慌てて徳川軍は城に背を向け戻り始めた。そこを城内の真田鉄砲隊が一斉射撃!徳川軍がパニックになると、城門が開いて幸村の騎馬隊が襲い掛かってきた。徳川軍は挟み撃ちになって大混乱。これはいつか来た道。徳川は援軍が到着したが、城の手前の神川は真田側によって上流の堰が切られて大増水しており、渡河して参戦することが出来ない。
真っ赤だった顔色がみるみる真っ青になる秀忠。水位が下がって援軍が合流すると、真田軍は上田城に閉じこもって篭城戦に入った。城内にはたっぷりと兵糧・弾薬が備蓄されている。「この城を落としていたら関ヶ原に間に合わぬ…無念」。
秀忠軍は急いで関ヶ原へ向かったが、途中の天候が最悪。山中で豪雨にあうわ、利根川は洪水寸前だわで、関ヶ原合戦の開戦時間に間に合わないばかりか、到着したのは合戦から4日後の9月19日のことだった。家康は激怒し、秀忠が合流しても3日間対面を禁じた。
高野山
真田父子は秀忠軍を翻弄し、遅参作戦は大成功に終わったが、肝心の関ヶ原の方で西軍が敗れてしまった。第二次上田合戦に勝利したのに敗将という立場になった2人。家康は真田父子に二度もメンツを潰され死罪にするつもりだった。そこへ信之と本多忠勝が助命の懇願にきた。「真田だけは絶対に許せん」と譲らぬ家康に対し、信之は「自分の命と父弟の命を引き換えに」と訴え、忠勝に至っては「ならば、殿と一戦つかまつる」と言う次第。家康はあくまでも特例として、真田父子を高野山の麓の九度山へ謹慎させることにした。
昌幸は上田城から連行される際、「悔しい。家康をこのようにしてやりたかった」と涙ながらに語った。10月9日、高野山に到着。
※配流先への家臣の同行も一部認められ、昌幸には16人の家臣が、幸村には妻が随行した。当時の高野山は女人禁制だったので、幸村たちは高野山の入口となる九度山に入った。
配流先の善名称院(ぜんみょうしょういん)、通称「真田庵」で父子は仕送りに頼って細々と生活を送る。昌幸は三男に宛ててこんな手紙を書いている--「借金が重なって大変苦しい。至急20両を届けて欲しい。無理なら10枚、せめて5枚でも」。幸村も「焼酎を2壷送って欲しい。そして途中でこぼれないようシッカリと2重に蓋をして欲しい」と書くなど、配流生活は実に侘しい日々だった。※信之の妻・小松は鮭を届けている。
1611年(44歳)、配流から11年目に昌幸が再起の夢も虚しく病没。享年64歳。翌年に幸村は出家、伝心月叟と名乗った。幸村は来るべき日に備えて兵法書を読み、武術の訓練を積む。
やがて時代は徳川と豊臣の全面対決へ。1614年10月1日(47歳)、家康は大坂城討伐令を布告。豊臣家の兵は3万しかおらず、秀頼は関ヶ原以降の徳川の政策に不満を持っている諸国の大名や浪人に対し、大坂城に結集するよう呼びかけた。大名は動かなかったが浪人は大勢集まった。家康が天下を統一して戦が無くなった今、諸大名からの召抱えを期待する浪人で豊臣勢は10万を超える大軍となった。
高野山にも使者が尋ねて来た。「徳川を滅ぼすため幸村殿の力を貸して頂きたい」豊臣家から当座の支度金として黄金200枚、銀30貫が贈られた。
使者が帰った後、幸村は感極まる「このまま高野の山中に埋もれるかと思ったが、ついに武士として最高の死に場所を得たぞ!」。幸村は14年間の謹慎生活で周辺の農民とも親しくなっており、彼らは幸村の心境を察し、脱走に協力したという。10月9日、幸村は高野山を脱出し妻子(長男大助など5人の子)と共に大坂城に入城した。
14日、家康の元に「真田が入城せり」と報告が入る。「なんだとッ!」家康は驚愕して立ち上がり、思わず掴んだ戸が手の震えで音を立てたという。「その篭城した真田は親か子か」「子の幸村であります」。まだ幸村の本領を知らぬ家康は胸を撫で下ろした。
大坂城での軍議は「篭城」「出撃」で真っ二つに割れた。豊臣家重臣は大坂城の堅牢さに自信を持っており、長期的な篭城戦に持ち込むことで、真冬が来て敵は疲弊し、諸大名にも寝返りが出てくると主張。幸村たち浪人衆は篭城策が有効なのは援軍を待つ時だけであり、今回は先制攻撃をかけ、伏見城、宇治川、京都、大和、茨木、大津を真っ先に抑えて畿内を統一し、遠征で疲労した東軍を迎え撃つ野戦を主張した。しかし、結局は「きっと味方になる大名が現れる」という豊臣家の強い願望が作戦に反映され、篭城策になった。
「さて、どう戦うか」。篭城が決定した後、幸村は攻城戦をシミュレーションして、東に湿地帯、北に天満川、西に難波港という地形を考えると、大軍が陣を張るのは南と考え、最も防衛力をそこへ集中する必要があるとし、南城壁の外側に砦・真田丸を築いた。真田丸は背後を大坂城の堀で防御し、三方を空掘り(水の無い堀)と三重の柵で囲み、矢倉、銃座、城内への抜け穴を持つ強固な砦になった。
大坂冬の陣
11月15日、「大坂冬の陣」開戦。幸村は大坂城の外に飛び出た「真田丸」が総攻撃の的になる事を覚悟して立て篭もり、兵たちの団結力を高める為に、真田隊の鎧を赤で統一した(真田の赤備え)。家康は力攻めでは落城できぬと判断し、城内にスパイを忍ばせて内部の切り崩しを謀るなど、攻撃のタイミングをうかがった。同時に戦場では常に争いの種になる「一番槍」を固く禁じた。※最初に戦った者は合戦の勝敗に関係なく、英雄として後世まで語り継がれる。武士の世界では最大の名誉。
開戦から数日が経っても一向に東軍が攻めてこないので、幸村は敵兵の功名を焦る気持を刺激する心理戦で勝機を生もうとした。真田丸と敵陣との間には小山がある(真田丸の前方200m)。幸村はこの山に少数の鉄砲隊を配置し、前列の前田利常隊を連日射撃した。前田隊には死傷者が出たが家康はまだ攻撃命令を出さない。前田隊の兵たちは腹を立てて、小山の鉄砲隊を追い払おうと出陣したが、山につくと既に敵兵は撤退して誰もいない。手持ち無沙汰で小山をウロウロする前田隊は両陣営から笑われた。
翌日(12月4日)も発砲された前田隊は、小山に夜襲をかけたがやはり誰もいない。カッコ悪くて陣に戻れず、前田隊は真田丸の堀まで進撃した。これを見た徳川勢は、前田隊が「一番槍」を抜け駆けしたと思い、「我が隊も遅れをとるな!」と井伊直孝、藤堂高虎、松平忠直の各隊が真田丸に殺到した。まさに幸村の思うツボ。「撃ていッ!」堀に入った敵兵は真田丸からの一斉射撃を受けた。一瞬のうちに数百名の犠牲者を出した東軍は退却を始めたが、その時真田丸後方の城壁で、守備兵が誤って火縄を火薬桶に落とし大爆発が起きた。城内には徳川の内応者が裏切る手はずになっており、これを寝返りの合図と勘違いした東軍は引き返して来た。
手柄を焦り狭い城門の前にひしめき合う敵兵を見て、幸村は呆れ果てた。連中は開城を待っており防御していない。「…では遠慮なく」再び真田鉄砲隊の一斉射撃!みるみる死傷者が増え、やがて事態を把握した東軍は撤退を始めようとしたが、後方からはどんどん援軍がやって来てバックできない。前にも後ろにも身動き出来なくなった東軍の頭上に、さらに弾丸の雨が降り注ぐ。幸村は完全に指揮系統が崩壊した徳川勢を見て「ようし!一気に叩き潰すぞ!」と、城門を開いて長男・大助ら陸戦隊を突撃させた。
東軍は24時間で1万人以上の死傷者を出し、この日から迂闊に真田丸に接近できなくなった。師走の厳寒の中、吹きさらしの塹壕や仮小屋で野営を続ける東軍の士気は著しく低下していく。米を補給するにも、豊臣側が既に買い占めていたので現地調達は出来なかった。家康は焦燥する。
家康は家臣の真田信尹(幸村の叔父)を使者に真田丸を訪問させ、「信濃10万石で寝返らないか」と幸村を勧誘した。信濃一国をやるというのだ。幸村は「お断り申す」。あっさり断った。
「うーむ、これでは埒(らち)があかん」家康は豊臣方に和議を提案した。当初、総大将・秀頼は和睦を拒否した。しかし、家康が一晩中、約300門の大筒(大砲)で断続的に攻撃する為、轟音で母・淀君の神経が参ってしまった。しかも一発が居室を直撃、侍女の8名が即死した。悲惨な現場を見て震え上がった淀君は秀頼を説き伏せ、城の「外堀」を埋めることを呑んで12月20日に和平が成立した。豊臣側は「だらだらと埋め立てて時間を稼ごう。家康はもう高齢だ。死ねば諸大名も寝返るだろう」と考えた(事実、家康は1年半後に他界している)。和平が結ばれ、真田丸は日本中の大名20万を相手に大阪城を守り通した。
※冬の陣で幸村は真田の軍旗「六文銭」を使用せず、真紅の旗を使っている。東軍の兄・信之の部隊が「六文銭」を掲げていたので、立場を考え遠慮した。ただし、冬の陣に信之は病気で出陣しておらず、代わりに2人の若い息子が戦列に加わっていた。甥っ子たちは攻撃が巧みで豊臣の武将も感心し、猛将・木村重成は鉄砲隊に「あの六文銭の2人を撃つなよ。鉄砲なんかで殺してはならん」と命じた。
しばしの休戦。幸村は故郷の姉や親戚に遺書とも思える手紙を書く。「豊臣方について本家に迷惑をかけ申し訳ありませぬ。豊臣の味方をして奇怪とお思いでしょうが、まずは戦いも済み、自分も死なずにいます。ただし明日はどうなるか分かりませんが…。とにかく今は無事です」。
ただちに外堀の埋め立てに取り掛かった家康は、豊臣側が工事を担当したエリアまで「お手伝い」と称してどんどん埋めていった。一気に内堀まで埋めようとする東軍に豊臣方が抗議しても、シラを切ったり、とぼけたりで、約1ヶ月後には外堀、内堀、全ての堀が埋まり、真田丸も壊されてしまった。大坂城は本丸だけの裸城になった。さらに家康は、秀頼に大坂から別の土地への国替えと、すべての浪人の追放を要求してきた。秀頼はキレた「和談要求は我がドクロの前で言え!」。
大坂夏の陣
1615年4月28日、夏の陣開戦。兵力は豊臣軍約7万、徳川軍約15万5千。豊臣方の武将は城を捨て野戦にうって出た。2倍の敵に突撃していったのだ。
5月6日、「道明寺の合戦」。豊臣方は奈良と大坂を結ぶ道明寺付近に布陣して、畿内入りする東軍を各個撃破する作戦をとった。しかし、スパイがいた為に進軍ルートを変更され、しかも濃霧の中で豊臣勢は終結が遅れ、先に集合地点に着いて孤立した後藤又兵衛、薄田兼相(すすきだかねすけ)ら有名武将が、伊達政宗の騎馬鉄砲隊1万5千の前に次々と壮絶な戦死を遂げていく。
幸村が到着した頃には戦線が崩壊しており、撤退する大坂方の殿軍(最後尾)を務めた。幸村は伊達軍に対し、地面に伏した長柄槍隊で波状攻撃をかけ追撃を食い止めた。幸村は「関東の武士は百万いても、男は一人もおらんのう!」とひと吠えした後、悠々と帰還した。大坂城に戻った幸村は、木村重成が八尾合戦で討死したことを知る「そうか…あの男も逝ったか」。
5月7日、幸村は徳川の主力が天王寺方面から進軍して来ると予想し天王寺口(茶臼山)に布陣。多くの古参武将が倒れた今、戦に勝利する方法はただ一つしかない。家康の首だ。豊臣勢の疲弊は激しく、幸村は兵の士気を一気に高める為、秀頼出陣を求めた。城内には「幸村は東軍の兄のスパイ」という心無い噂が広まっていたので(おそらく東軍内応者の仕業だろう)、幸村は子・大助を大坂城に人質として送り、秀頼の出馬を要請した(秀頼側近によって出馬は阻止された)。
正午。幸村の正面の越前松平軍1万3千の後方に、家康は本陣を張った。幸村は目を細める。「まっこと、ワシは名誉な死に場所を得た。真田隊、行くぞ!」。真田隊3千は、家康だけにターゲットを定め一丸となって突撃を敢行した。幸村は越前勢の戦力を分散させる為に、数名の影武者と共に進撃し、各影武者が果敢に東軍を引き付けた(影武者は最初から死ぬ気だ)。真田隊は鬼気迫る戦いぶりで越前勢の大軍の中を突破し、そして防御が手薄となった場所を突いて、とうとう家康の本陣にたどり着いた!
本陣前では家康の旗本隊(先鋭部隊)が人間の壁を作り、真田隊の猛攻を受け止め凄絶な乱戦となった。真田隊は討死が相次ぐが、戦列を整えて3度本陣への突撃を繰り返した。そしてついに家康の「馬印」(うまじるし、本陣の旗)が引き倒された。家康にとって馬印が倒されたのは、生涯で「三方ヶ原の戦」の武田戦と、この真田の特攻の2度だけだ。“真田にこの首は取らせぬ!”踏み倒された馬印を見て家康は腹を切ろうとしたが、これは側近たちに止められた。
決死の覚悟で臨んだ真田隊だが、多勢に無勢、次第に追い詰められ四天王寺に近い安居神社に撤退した。負傷した幸村は神社の側の畦(あぜ)で手当てをしていたが、そこを越前松平隊の西尾仁左衛門に槍で刺され討ち取られた。享年48歳。翌日、秀頼・淀殿は自害し、大助も秀頼に殉死。こうして大坂夏の陣は終わった。幸村を討って褒美を授かった西尾仁左衛門は、故郷に「真田地蔵尊」を建て菩提を弔った。

夏の陣で幸村の武神ぶりを目の当たりにした島津家当主・島津忠恒(家久)は、故郷への手紙にこう記した。
「真田は日本一の兵(つわもの)。真田の奇策は幾千百。そもそも信州以来、徳川に敵する事数回、一度も不覚をとっていない。真田を英雄と言わずに誰をそう呼ぶのか。女も童もその名を聞きて、その美を知る。彼はそこに現れここに隠れ、火を転じて戦った。前にいるかと思えば後ろにいる。真田は茶臼山に赤き旗を立て、鎧も赤一色にて、つつじの咲きたるが如し。合戦場において討死。古今これなき大手柄」。
大坂の陣の後。家康は幸村の首実検の際に、「幸村の武勇にあやかれよ」と言うと、居並ぶ武将達がこぞって遺髪を取り合ったという。そして家康は「幸村の戦いぶりは敵ながら天晴れであり、江戸城内にて幸村を誉め讃えることを許す」とした。石田三成のように名前さえ口に出来ない者がいる一方、「誉め称えていい」というのは極めて異例なこと。家康は本陣が崩壊するほど窮地に追い込まれながらも、騎上の幸村に同じ戦国の男として感嘆していたのだろう。
兄の智将・信之は、弟の人柄をこう評している「柔和で辛抱強く、物静かで言葉も少なく、怒り腹立つことはなかった」「幸村こそ国を支配する本当の侍であり、彼に比べれば、我らは見かけを必死に繕い肩をいからした道具持ち。それ程の差がある」。
これは連戦連勝の豪傑としての幸村のイメージとは随分異なる人物像だ。しかし、普段はとても温厚なのに、戦場では無敵の漢に変貌するところが人々の畏敬の念を呼び、各地から集まった浪人衆をひとつに結束させた。名だたる武将の中でも傑出した名将だ。
戦局不利と見るや身内でも裏切りが珍しくない世に、幸村の家臣は誰も降参しなかった。これも高い人徳ゆえと諸将は感心した。庶民からも歌舞伎・講談のヒーローとされたが、幕府はこれを禁じなかった。
幸村は生き延びたければ高野山にいれば良かった。それでも大坂城に入ったのは武人としての死に場所を求めたゆえ。信濃譲渡の話を蹴ったように、保身や利害といった文字は幸村の心にはない。敵味方の関係なく幸村が絶賛されるのは、戦国期においても時に失われがちな武士の誇りを、身をもって体現した数少ない本物のサムライだったからだろう。武士が憧れた武士、それが真田幸村だ。 
 
真田幸村2

真田幸村(さなだゆきむら)/真田信繁(信仍・のぶなお) 1567(1570)-1615
幼名・通称
真田幸村は、永禄10年(1567)、真田昌幸(武藤喜兵衛)の次男として生まれる。「仙台真田系譜」では元亀元年(1570)2月2日生まれとする。本名「源次郎信繁」、幼名「(御)弁丸」。なお、本人が自称したのかどうかわからないが後世には「真田幸村」と伝わる。水戸光圀の言行を書き記した「西山遺事」には「真田左衛門佐信仍」とし「幸村と云うはあやまりなり」とある。また「常山紀談」には「秀頼、信仍招かりけり」とある。さらに「武林雑話」には「・・・信賀父子も一両年中に討死とこそ・・・」とある。ただ「信」の次の字が読みづらく信賀は信仍とすることもある。生まれたときの名は武藤弁丸。
兄の真田信幸(信之)が源三郎なので、産まれた順に名前をつけるなら兄と弟が逆であるが、本当は先に幸村が産まれ、次に信幸が産まれたのか?それとも幸村の母親は武田家の養女(菊亭晴季の養女など諸説あり)の山之手殿(寒松院・京の御前)ではなく、身分の低い女性だったため順番を入れ替えたのか。また真田家では一番最初に産まれた子供が早死にすることが続いたため、信幸を「源三郎」にしたのか、真相は不明。ただ、父昌幸(三男)は源五郎、昌幸の弟の信尹(四男)は源次郎なので、数字の順逆は産まれた順とはあまり関係の無いことなのだろう。さらに、幸村の本名「信繁」には父や祖父の名前に使われている「幸」の字が無いことから、やはり信幸が長男なのだろう。また、武田信玄のすぐ下の弟の武田信繁にあやかって付けたとも言われている。
幼少時代
天正2年(1574)、真田幸村8歳の時に真田家中興の祖である祖父の真田弾正忠幸綱(幸隆)が亡くなる。ついで翌年の天正3年(1575)には、真田家を継いでいた真田昌幸の長兄であり幸村の叔父である真田信綱が次兄真田昌輝とともに長篠の合戦で戦死。その為に真田家を継ぐこととなったのは幸綱の三男昌幸であった。つまり名字が武藤から真田に変わった。幸村9歳のことである。少なくともこの頃まではおもに甲斐の武田家で育ったことだろう。
天正10年(1582)3月にはその主家である武田家が滅ぶ。父の昌幸は北条家にも織田家にも臣従の意を示すが同年6月の本能寺の変で織田信長が亡くなると北条氏直に属し、ついで徳川家康に属す。天正11年(1583)には昌幸は上田城を築きはじめる。北条家と同盟を結んだ徳川家康は領土問題で不満を示した真田家と合戦するにいたった。
人質時代(上杉家)
その天正13年(1585)閏8月2日の徳川軍と戦った「神川合戦」は、真田昌幸の采配で勝利をおさめるも、真田幸村がこの戦に参加したかは不明。兄真田信幸は参加している。徳川との合戦がさけられず上杉家の後ろ盾が必要となり、幸村は19歳のとき上杉景勝の人質(矢沢三十郎頼幸らとともに天正13年8月下旬から翌年5月まで)になっている。「信繁年若に付、矢沢三十郎軍代とし、海野・望月・丸子等、合備と成て、上田勢百キづつ、春日山へ勤仕」(「真武内伝」)とある。おそらく合戦には参加していないだろう。上杉氏の海津城もしくは春日山城にいたと思われる。
この人質時代に上杉景勝から屋代秀正の遺領のうち千貫文を与えられている。弁丸の名前が書かれたこの頃の文書があるので、まだ元服をしていないのかもしれない。19歳で元服がまだというのも遅い気がするが、案外1570年生まれのほうが正しいのかもしれない。それなら数えで16歳である。ちなみにその文書では、弁(弁丸)が屋代秀正の旧臣諏訪久三に秀正時代の領土をそのまま安堵し、さらに十貫文加増するとある(諏訪久三宛真田幸村知行宛外状「諏訪氏文書」)。
人質時代(豊臣家)
天正14年(1586)5月に上杉景勝が上洛しその留守中に、真田昌幸は真田幸村を上田に呼び戻し豊臣秀吉のもとに人質として送り出す。景勝は大いに怒ったとされる。「大きに怒りて、かの源次郎幸村をきっと返し給はらん」と「藩翰譜」にある。ただし、景勝の留守をまもる上杉家の家臣達が勝手に幸村を昌幸のもとへ帰したとは考えにくいので、景勝にことわって許しを得ていたとか、もしくは、景勝自身が幸村を秀吉のもとへ連れて行ったのが真相かもしれない。
幸村にとって人質という立場は変わらないが天下人秀吉のもとでの生活が始まった。当時の文化の最先端である上方での生活は幸村の生き方や考え方が大いに刺激されたことであろう。人質というよりは秀吉のそばに仕えるといったほうが的確な表現かもしれない。後に豊臣の姓を与えられたことを思うと、秀吉のお気に入りの一人だったのではないだろうか。
小田原攻め(初陣?)
天正17年(1589)、北条氏は突然真田領の名胡桃城を攻めた。これを理由に豊臣秀吉は小田原攻めを実行に移した。翌天正18年(1590)2月、真田幸村は真田昌幸とともに前田利家に属しながら秀吉の北条征伐に参加したとされる。4月の昌幸に従っての上野国の松井田城攻めが初陣?その前の碓氷峠での戦いが先か。「源次郎信繁、自身に働き、手を砕きて高名あり」(「滋野世記」)とある。ついで箕輪城も落とす。7月7日小田原開城。秀吉の奥州攻めにも父子とも参加。
結婚
天正19年(1591)頃??真田幸村は越前敦賀城主大谷刑部少輔吉継(吉隆)の娘(養女説有)と結婚。この義父からは大いに薫陶を受けたであろう。文禄3年(1594)11月2日、従五位下左衛門佐の官職を受け、豊臣の姓をも許される。左衛門佐豊臣信繁。兄真田信幸も同日伊豆守に任官する(「柳原家記録口宣案」)。この頃??に結婚か。
文禄・慶長の役は朝鮮には渡らず、肥前名護屋に在陣か(真田昌幸・信幸は在陣)。おそらく、秀吉のそばにいたのではないかと思うので大坂や伏見と名護屋を往復したことであろう。
第二次上田城の戦い
慶長3年(1598)8月18日に伏見城で豊臣秀吉が亡くなるやいなや徳川家康が動き出した。翌慶長4年(1599)正月、家康は伏見城の自邸にいて政務をとった。この頃、真田昌幸・幸村はおなじく伏見城で家康に仕えていたようだ。伏見には幸村の屋敷もあったようだ(昌幸の手紙)。同年10月1日に家康が大坂城二の丸へ移ったが、昌幸・幸村はしばらく伏見に残り翌慶長5年(1600)4月頃までに大坂へ移ったもよう。
慶長5年(1600)6月16日、上杉攻めに家康は向かった。この徳川軍に従軍中の7月21日上野の犬伏で石田三成の密書(勧誘状)を受け、昌幸・信幸・幸村の親子三人にて東軍・西軍のいずれにつくか話し合う。「今度の意趣、かねて御知らせも申さざる儀、御腹立ち余儀なく候」(「七月三十日付昌幸宛三成書状」)にあるように事前に三成からの連絡が無かったことを昌幸は不服としたが、昌幸・幸村は石田方の西軍につくことになる。信幸はそのまま東軍につく(犬伏の別れ)。幸村の義父大谷刑部が三成方に付いたこと、信幸の妻が家康家臣本多忠勝の娘であることも、この別れの原因の一つであろう。昌幸・幸村は兄信幸の沼田城を経て上田城へ帰った。沼田城には信幸の妻小松殿が拒否した為、城には入れなかったが。
同年9月の関ヶ原の戦いに徳川秀忠軍約3万7千が遅参したのも、父昌幸の力によっている。この9月6日の「第二次上田城の戦い」(対徳川)でも少数の兵力で多数の徳川軍を翻弄した昌幸の用兵力は、幸村にも多大の影響を与えたことであろう。数日前に秀忠軍に降参するふりをして時間を稼ぎ、開戦するや軽兵で秀忠軍を誘い込み神川を渡ったときに上流にいた幸村?が堰をきって流し込み、敵が乱れたところを主力の軍が突撃し秀忠軍をこらしめた(もう一説)。とにかく、関ヶ原戦後秀忠はこの上田城攻めの失敗、家康の軍との合流の遅参を家康にこっぴどく叱られる。関ヶ原の戦いがあった日は秀忠はまだ木曽福島の妻籠宿だったという。
その後、家康軍との戦闘は無かったが昌幸は開城した。大激怒の秀忠は真田父子の処刑を訴えるも、信之(この頃から信幸→信之に改めた)と信之の義父本多忠勝の嘆願で紀州九度山村への蟄居という形になった。幸村34歳(31歳)。同年12月12日高野山に昌幸とともに向かった。従者16名。昌幸の上田領は信之が貰い受けた。その後、幸村は入道し「伝心月叟」と号す。
九度山蟄居時代
慶長5年12月からの九度山村での蟄居生活でも、生業を助ける意味もあったであろうが配下を使い「真田紐」を売りさばきながら(真相は不明)、情報収集をしていたことであろう。もともと忍(山伏や歩き巫女)を用いていた真田家である、九度山にいながらにして世情に通じていたのではないだろうか。
真田幸村は父昌幸とともにここで来るべき時を待っていたのかどうかわからないが、昌幸は免赦されることを望んでいたようである(「・・・本佐州定めて披露に及ばるべく候か・・・」)。本佐州は家康の家臣本多佐渡守正信のことである。この期間の昌幸の手紙には、老齢のため気力が萎えてきたとかお金を都合してもらいたいとか、幸村の手紙にも、父は山暮らしが不自由であるとか自分も気力が衰えてきたとかの文章が見られる(「永々の御山居、万御不自由、御推量成らるべく候。我等手前などの儀は、猶もって大くたびれ者に罷り成り申し候」)。また木村土佐守綱茂には、あなたの好きな連歌をわたしもここでしていますが老いの学問でうまくいきません、とか、真田藩士河原左京には焼酎を所望している。もっとも、手紙が江戸の目に触れることを見越して弱々しい気持ちを書き記していたとしたら話は別だが。これらの手紙では、「真左衛入」「真好白」「真好白信繁」「さえもんのすけ」「真左衛門佐」とある。入道して好白と名乗っていたことがわかる。昌幸の晩年の信之にあてた手紙には、病気が治ったら一度会いたいという旨が記されている。
比較的自由に行動が出来るような蟄居状態のようだったが、やはり大名の殿様、そしてその息子である。生活費は結構いったものと思われる。幸村も妾を持っていたようだ。借金があった記述も残っている。慶長16年(1611)6月4日昌幸他界す。慶長17年(1612)、幸村は「好白」と号す。慶長18年(1613)6月3日、山之手殿死去。この蟄居期間中に父と母、娘(於市?)を失った。
九度山脱出
慶長19年(1614)10月1日徳川家康は大坂追討を命じた。徳川方との戦が避けられない状態になった豊臣方は、大野治長?の使者が真田幸村をむかえに行く。「秀頼公より大野修理亮治長承りにて、御頼み有り」(「武林雑話」)とある。当座の音物として黄金二百枚、銀三十貫をもらう(「駿府記」)。これで借金は利子をつけて返せたことだろう。そして九度山村の脱出の時も付近の村民にできるだけ被害が及ばないように気遣いながら脱出したと思われる。父昌幸の死後、まわりの家臣達も信之のもとへ行き人数も減っていた。残っていたのは高梨内記、青柳清庵、三井豊前の3人か?脱出時のエピソードもいくつかあるが深夜にこっそりと抜け出たと思われる。また、村人を集めて酔わしてその隙に脱出したとかの話もある。おそらく村人の協力もあったであろう。雑賀一揆に見られたとおり紀州人には権力者に対する反骨精神がつよいのか幸村達には好意的だったのではないだろうか。近辺猟師が数十人幸村に付きしたっがている(「鉄炮茶話」)。慶長19年(1614)10月9日に大坂入城。その時の幸村のお供は数十人(もしくは100-300人)になっていたようだ。
大坂の陣前夜
徳川軍を二度も破ったのは真田昌幸の采配、その倅である無名の幸村は敵にも味方にも父のようなたいした人物とは思われていなかったようだ。「真田大坂入城」の報を聞いた家康が体を震わせ、真田の倅(せがれ)が入城したわかるとやっと落ち着きを取りもどしたとされるエピソードは後年の作であろうが、当時は真田の武名は幸隆や昌幸がうちたてたものだから、幸村の能力は未知数の存在だったと思われる。したがって幸村の作戦はなかなか豊臣方首脳陣に用いられなかった。もし、幸村の作戦通りに宇治あたりへ集結したばかりの徳川軍を奇襲し瀬田あたりで防衛線を引いていたら、どうなっていただろうか?もっとも、幸村の作戦も昌幸がきっと九度山で幸村に語って聞かせたものを幸村なりに工夫したものであろうが。「これらの謀り事もワシだからできることであって、倅のお前には無理である」と昌幸が幸村に語り、それに反発した幸村に「これらの謀り事を実行する采配能力はお前にはある。が、それを指揮するのは実績のあるワシだから兵たちも信じて戦うが無名のお前では誰も信用せずにこの謀り事は失敗に終わるだろう」のようなことを言って聞かせたらしい。しかし、実際に10月中頃までには徳川軍は伏見、木津、大津あたりにぞくぞくと集結していたため、大坂方のこの作戦もどこまで通用するものであっただろうか?
それでも大坂入城浪人五人衆に数えられた。長宗我部宮内少輔盛親、毛利豊前守勝永、明石掃部全登、後藤又兵衛基次と幸村こと真田左衛門佐信繁の5人である。
大坂冬の陣
そして、真田幸村に配属させられた浪人衆の寄せ集めの軍隊は次第に幸村に信服していく。もっとも、昌幸の元配下が幸村を慕って兄信之の真田領から数百人集まってきてはいるが、あっという間に手なずけるところに幸村の才能、人柄、人望、カリスマ性があるのではないだろうか。父昌幸から戦いは指揮するものの魅力がいかに大事かをきっと教えられていたことやそれを素直に実行していたところは流石である。やはり、大将たる器の持ち主なのである。
真田丸攻防戦
真田幸村や後藤又兵衛等の作戦は用いられずにいるも、大坂城の唯一の弱点(陸続きということで)である南側(玉造口)に真田丸なるものを築くことができた。12月4日、ここで采配を振るった幸村は、引き付けてから鉄砲を撃ちかける攻撃などで、さんざんに前田利常勢など徳川軍を打ちのめした(真田丸攻防戦)。
しかし、大筒で直接大坂城を狙い、淀殿をはじめ大坂城の女性達を震え上がらせてから和睦を持ちかけ、これを12月22日に成立させるとあっという間に総掘りを埋めてしまった徳川軍、不平不満の大坂方が和睦の条件を破るのも時間の問題で、起こるべくして起こった大坂夏の陣は幸村の最期の意地を示す場となった。
大坂夏の陣
慶長20年(1615)の大坂の夏の陣は、大坂方が壊れた塀を修繕したり埋め立てた堀を掘り返すなどの不穏な動きありとの報告を京都所司代の板倉勝重が3月15日家康に報告し、豊臣秀頼の国替えか浪人の放逐をもとめるが4月5日大野治長の使者が国替え拒否を報じた。徳川家康は諸大名に動員命令を下し京周辺に集結させた。5月5日には大坂へ進軍。裸同然の大坂城では篭城もできず家康の得意な野戦をしなければならなかった。
道明寺・八尾・若江の戦い
5月6日の決戦の日、先発の後藤基次隊2800は、不運にも濃霧のため後続の真田幸村隊などが続いていないにもかかわらず、集結地点の道明寺付近をも通過した。
奈良方面、河内方面からやってくる徳川軍を迎え撃つには国分が最適かつ最重要地点なので単独部隊だけでもいち早く押さえたかったのだろう。しかし、後藤隊が国分に到着する前に徳川軍水野勝成隊等が集結しつつあった。そして後藤又兵衛は河内の国分小松山で奮闘むなしく戦死。まるで死に場所を求めていたかのような行軍だったと思われてもしかたがないか。あとに続いた薄田隼人正兼相も正面攻撃で崩れ、兼相自身も数十人を血祭りに上げるも戦死。
大きく南へ迂回してしまい遅れてきた幸村隊等は南河内の誉田あたりで徳川方の伊達政宗隊とぶつかる。伊達家自慢の騎馬鉄砲隊も功をなさなかった。どうやら、片倉小十郎重綱隊の発砲は幸村隊に打撃を与えず、逆にその硝煙で視界がさえぎられそれでも突撃を命じた重綱に十分に引き付けた幸村隊が鉄砲を浴びせかけ別働隊が突撃しみごとに追い散らした。真田軍お得意の攻撃である。幸村は追撃をおさえ反撃しみごとに撤退することができた。このときに幸村は「関東勢百万も候へ、男は一人もなく候」(「北川覚書」)と言い残し真田強しの印象をさらに強くした。しかし、八尾・若江の戦いでは、後詰なく木村長門守重成戦死。冬の陣で活躍した後藤・木村は、はやくもいなくなる。しかし、井伊、藤堂勢は翌日は先鋒からはずさなければならないほどの大打撃を受けた。木村重成、長宗我部盛親隊の奮闘の結果である。ほんと後詰さえあれば・・・。
天王寺口(表)の戦い
翌7日の大坂城の南側の天王寺口での戦いでは、真田幸村、毛利勝永等が徳川軍の先鋒にあたり敵をひきつけ、遊軍の明石全登隊が迂回して家康本隊を攻撃する作戦をたてるが、徳川軍の攻撃に毛利隊がたまらず反撃を開始したため開戦、死に物狂いの大坂方と徳川軍との乱戦がはじまる。ここでも幸村の作戦通りにはいかなかった。「重ねて申し遣わす。敵が押し寄せても、茶臼山、岡山より前へ我が軍を出したならば、必ず不覚を取るから、このことを侍どもへもよくよく申し付け、もしこの命令に背く者があったら死罪に申し付けよ」と大野治房の書状にもあったのだが・・・。この時幸村は息子大助を城中に帰している。これは人質の意味、総大将豊臣秀頼に出馬をさせる意味、もし敵に秀頼が殺されるような場合には大助が秀頼に辱(はずかし)めを受けないようにするためとか、落城の際には大坂城を脱出させるためとかいろいろある。
緋縅の鎧、鹿の角の前立に白熊付きの冑をかぶり、日頃より秘蔵の河原毛の馬に、六連銭の家紋を打った金覆輪の鞍を置き、紅の厚総をかけた出立で茶臼山に陣を構えた。真田隊の主だった人々は、真田与左衛門・江原右近・大谷大学(大谷刑部の子息)・御宿政友・細川興秋(細川忠興の次男)・福富平蔵・渡辺内蔵助。赤備えの幸村隊(戦場では赤色は目立つ色である。それを敢えて全身を真っ赤な鎧、兜、旗などを用いた。これは、いかに我が部隊は勇猛果敢で強いかをあらわしている。武田家の山県昌景、徳川家の井伊直政が有名)と決死の毛利勝永隊の攻撃はすばらしかった。3000人の幸村隊は越前勢の右翼を突き崩し、これを突破し、さらに駿河衆を蹴散らし家康本陣へ迫った。赤い塊が家康を襲ったのである。幸村は部隊を3段に分け数度の突撃を家康本隊にぶつけた。金扇や大馬印をうちすて家康本陣はくずれ(三方が原の敗戦以来「三河物語」)、側近たちも半里も一里も逃げるありさまで、家康はなんども切腹を叫んだという。「幸村十文字の槍を以って大御所を目掛け戦はんと心懸けたり。大御所とても叶はずと思し召し植松の方へ引き給う」(「本多家記録」)ともある。さらに、「家康の本陣総崩れとなり家康は身代わりとして本多正純を将座に残し自分は身をもって玉造方面さして落ち延びその到底のがるべからずとして二度まで自害せんとす」と「朝野旧聞哀稿」にある。しかし、奮闘虚しく幸村は茶臼山方面へ撤退する。疲れ果てた幸村と数人の側近達は安居神社近くの畦で動けなくなっているところを「手柄にすべし」と言ったかどうか、越前松平家の鉄砲頭西尾仁左衛門久作に首をかかれた。「眞田左衛門佐、合戦場於いて討死。古今にこれなき大手柄、首は越前宰相殿鉄砲頭取り申し候。さりながら手負ひ候ひて、草臥れ(くたびれ)伏して居られ候を取り候に付、手柄にもならず候」と細川家の記録にある。さらに「七日の合戦に、この方歴々の人数持(部将)、逃げざるは稀に候。笑止なる取り沙汰にて候。人により、平野・久宝寺・飯守まで逃げたる者もこれある由に候」とある。数が多い徳川軍、休まず戦ってきた大坂方の兵士たちの疲労、幸村の戦死と時間がたつとともに体勢を立て直した徳川軍が有利になり、大坂城は落城する。幸村49歳で没。長国寺過去帳などには46歳没とある。
戦後、幸村の勇戦は古今無類の者と評される。薩摩の島津家の記録にも「五月七日に御所様の御陣へ真田左衛門は仕かかり候て、御陣衆追い散らし、討ち取り申し候。御陣衆、三里程づつ逃げ候は、皆いきのこられ候。三度めに真田も打ち死にして候。真田日本一の兵、古よりの物語にも、これなき由、惣別これのみ申すことに候」とある(「後編薩藩旧記雑録」)。細川忠興は「古今これなき大手柄」と「細川家記」に記録した(エピソード10)。
生き残った真田幸村
また、真田幸村が薩摩へ豊臣秀頼を奉じて落ち延びたという噂が広まったようだ。その頃に流行った童歌に「花の様なる秀頼様を、鬼の様なる真田がつれて、退きものいたよ鹿児(加護)島へ」とある。薩摩では真栄田(真江田)と名乗りなんとお墓まであるそうだ。また、芦塚大左衛門と名乗ったという資料もあるようだ。九州平戸の商館長も落ち延びの話を本部へ報告している。英雄には生き残り伝説が付きものであるが幸村もまたしかりであった。尚、幸村の逃亡先は他に秋田、讃岐、紀伊などがある。秋田説では飯田と名乗ったそうだ。讃岐では新たに子をもうけ「之親」と名付けた話が残っている。
影武者真田信繁
影武者といえば、武田信玄が有名だが、真田幸村もどうやら複数の影武者を用いていたようである。「元和先鋒録」には「真田左衛門合戦の様子奇怪の節多し、この日、初めは茶臼山え出、それより平野口において伏兵を引廻し、また岡山に出て戦ふ、後に天王寺表において討死す」とあり、幸村があちこちに現れたことを記している。西尾仁左衛門に討たれたのは望月宇右衛門(望月六郎兵衛村雄?)で幸村の首だと信じ切っていた松平忠直に遠慮して将軍秀忠も本物ということにした(「真武内伝追加」)。また、「慶長見聞書」でも首実検に立ち会った叔父の真田信尹も西尾がもちかえった首を幸村だとは断定できなかったようだ。またこれとは別に、幸村だと思って討ち取った首を吟味したら穴山小助だとわかったので刑場に捨て、後に土地の者が丁重に葬ったと伝えられる(「真武内伝追加」)。「真田三代記」には七人の名前を載せている。三浦新兵衛国英、山田舎人友宗、木村助五郎公守、伊藤団右衛門継基、林源次郎寛高、斑鳩(鵤)幸右衛門祐貞、望月六郎兵衛村雄であるが、夏の陣で活躍した大坂方の武将たちの名前にちなんでいるようで創作っぽい。「影武者を銭の数ほど出して見せ」という狂歌まである。
真田幸村評
兄の真田信之は、この弟幸村(信繁)のことを「ものごと柔和、忍辱にして強からず、ことば少なにして、怒り腹立つことなかりし」(「先公実録」)と語ったという。忍辱とは仏教用語で、はずかしめを受けても耐え忍び、恨まぬことを意味する。また、「翁草」には「性質屈僻ならず、つねに人に交わるに笑顔多く和せり」とある。後藤又兵衛基次の部下、長沢九郎兵衛は「真田左衛門は四十四、五にも見え申し候。ひたひ口に二、三寸の疵跡あり小兵なる人にて候」と書き記す(「長沢聞書」)。大坂城に入城する少し前の幸村がだした手紙には「去年から俄にとしがより、ことのほか病身になりました。歯なども抜けました。ひげなども、黒いものはあまりありません」とある。
江戸期から人気があり講談や芝居などで有名になった「真田幸村」は、かなりイメージが先行し諸葛亮孔明のような軍師・策士のようだが、悲劇の人物がヒーローになるのは日本の文化なのだろうか。源義経や楠木正成もそうであるが、日本人の心にうったえるものがある。ある意味無念の人である彼を弔う意味もあるだろう。人生の大半を人質と囚人という立場の生活ですごした虚しさと、衰退した豊臣家の虚しさとが重なり合い、死に花を咲かせるために、あるいは死に場所をもとめて幸村は大坂城に向かい、自分の生きたいようにできる最後のチャンスだと考えたのではないだろうか。豊臣家に味方する大名もいないのに、勝てる見込みなどないのはわかっていたはずだ。幸村以上に豊臣恩顧の大名はたくさんあったのに、幸村は入城したのである。幸村の己の生き様をしめした生き方に漢(おとこ)の魅力を感じるのである。真田丸での勝利、夏の陣での家康本陣への突撃などには猛将・智将の印象もあるが、それ以上に人としての魅力を感じるのである。家康を討ち取ることも豊臣に忠誠を誓うことも真田の家名を上げることも二の次で幸村は彼なりの生き方(家臣等を護る等)を全うしたかったことであろう。
幸村という名前
真田幸村の姉の村松殿の夫、小山田壱岐守茂誠への手紙に「信繁」の名前がでる。それで本名は「信繁」であるとされている。他の手紙には「信仍(賀)」という名前もみられる。「西山遺事」には真田左衛門佐信仍とある。「幸村」の名前は講談師「幸村(こうむら)さん」の作で、幸村が大活躍する物語のおもしろさが世間に受け、架空の名前の「真田幸村」は、いつしか本当の名前??になったのでは???、とも考えられる。しかし、この説は次に紹介する「難波戦記」が出来る以前でないと説得力がない。
寛文12年(1672)に万年頼方と二階堂行憲によって書かれた「難波戦記」には「幸村」の名前が出ているが、彼ら作者二人か後世の誰かが真田家に続く「幸」の字、それと幸村の姉の「村松殿」の「村」を合わせて創作したのだろうか。もしくは徳川家にとっては魔物の刀「村正」の「村」か。大坂入城の時に名前を幸村に変えたということも言われるが、大坂夏の陣直前の3月19日に書かれた小山田茂誠とその子之知への手紙の一節に「さだめなき浮世に候へ者、一日さきは不知事、我々事などは浮世にあるものとはおぼしめし候まじく候」(さだめない浮世ですから、一日先のことはわかりません。私などは、浮世に生きている者とはおぼしめし下さいますな)とあり(「小山田文書」)、私はこの世にはいないと思っていてくださいね、と親族に伝えている。縁を切ったとまではいかないが、そのような決意からもこの手紙を出した後、信繁の名前を別の名前に変えていたのかもしれない。もしそうなら、その名前が「真田幸村」で、それが死ぬまでの約2ヶ月という短い期間にしか用いられなかったこと、改名の事実は大坂方のごくわずかの者や身近にいた者(配下の兵士等)しか知らなかったことが原因で自筆の手紙や公家の日記、東軍が書き残した戦記などに幸村の名前が出てこないのかもしれない。一般に文献に出ていないから幸村という名前は創作だとされている。しかし、それが大坂方生き残りの兵士達が改名の事実を憶えていて、後世に伝わっていたのかもしれない。大坂の陣も穏やかに話せるようになった後の時代にはじめて「難波戦記」というかたちで現れたのかもしれない。享保16年(1731)にできた「真武内伝」には途中まで左衛門佐と書き大坂城に入城後は左衛門佐幸村というように書かれてある。真相は不明である。法名:大光院殿日道光白居士 
 
真田幸村のエピソード

天正10年(1582)の武田家滅亡後、真田昌幸が上野国の岩櫃城へ帰る途中の話。以下は小林計一郎編の「真田幸村のすべて」の真田幸村の戦略からの引用です。 「大笹村の入口に雁ヶ沢という谷がある。両岸は断崖でそこへ橋を渡してある。橋の上から下を見下ろすと、目がくらみ、足がすくむ程である。信之・幸村はその橋の上にたたずみ、「この橋から飛び下りる者があるか」とたわむれに部下に尋ねた。赤沢嘉兵衛という者が進み出て「私が飛び下りましょう」という。「雁が下りてさえ、上がることができぬというので、雁ヶ沢というのだぞ。人間業でできるものか」と信之がからかうと、赤沢は「お先に御免」と叫んで、谷底へ身をおどらせた。信之兄弟はじめみなおどろいたが、どうしようもない。 昌幸がこの騒ぎをきいて駆けつけて「せっかくの赤沢を無駄に死なせるとは何事だ。言語道断」とくりかえし兄弟を叱りつけた。やがてその場を出発しようとすると、嘉兵衛がどこからか、けろけろした顔であらわれた。「これくらいな所を飛び下りたとて死ぬような私ではない」と笑っている。昌幸は言った。「稀に死なぬこともあろう。しかし、このような無茶な者はオレの用には立たぬ。無益に命を捨てようとしたのは不所存の至りだ」ときびしく叱り、勘気を申しつけた。この嘉兵衛はのちに上田篭城神川合戦の時、敵二人を討ち捕り、勘気を解かれたという。」 若い息子たちに昌幸が叱っているシーンが想像されておもしろい。また、真田家の家臣のあり方や昌幸の家臣に対する考え方などもうかがえて興味深い。

上杉家の人質であった幸村が秀吉の人質になったとき、上杉景勝が秀吉に「大きに怒りて、かの源次郎幸村をきっと返し給わらん」とつめよったらしい。秀吉は聞き入れなかったが(「藩翰譜」)。景勝はよっぽど幸村を気に入っていたのか真田を繋ぎとめるのが必死だったのかはわからないが、無口だったとされる景勝が秀吉に詰め寄ったシーンを想像するとおもしろい。

犬伏の父子別れの話。以下は小林計一郎著の「真田一族」よりの引用です。 「昌幸父子は宿営していた民家の近くの離れで人払いをして何か相談していたが、なかなか出てこない。そこで部将の河原綱家が心配して様子を見に行くと、昌幸は「だれも来るなと命じておいたのに、何しに来たのだ」とどなって、はいていた下駄を投げつけた。そこで顔にあたって綱家はまえばが欠けてしまい、その後一生歯抜けのままだったという。」 松代藩の重臣河原家の家記に書いてあるそうだ。昌幸の従兄弟の説もある河原綱家は運が悪かったのだろうか。

犬伏での話し合いで昌幸と幸村が石田方に信幸が家康方につくことになり、昌幸らが急いで上田城に帰る途中、信幸の沼田城へ立ち寄るのだが信幸夫人の小松殿に入城拒否をくらう。そこで昌幸たちは近くの正覚寺で休んだ。以下、小林計一郎著の「真田一族」よりの引用です。 「ここへ石庵(坂巻夕庵。医者)という反俗がきて、「伊豆守(信之)様はどうされましたか」と聞くと、左衛門佐が「伊豆殿は浮木に乗って風を待っておられる」と答えたので、石庵は怒って帰ってしまった。伊豆守殿の行方がわからぬので、沼田は大騒動である。しばらく休息して昌幸は出発した。左衛門佐は腹立ちまぎれに沼田の町に火をかけて去ろうとしたが、昌幸は「ばかなことをするな。放火も時によりけりだ」と左衛門佐を制した。」 幸村の乱暴な発言をしているのがめずらしい。

大坂城へ入城前の話。大峰山中に住む伝心月叟と名乗る山伏が大野修理治長を訪ねてきた。番所で待っていると詰めの武士たちが互いの刀と脇差の鑑定を行っていた。ふと誰かが山伏の刀と脇差に目が行き、からかうような感じで「鑑てやるから」と言ってくるので山伏は渡した。すると、それが刀は「正宗」脇差は「貞宗」だと判明した。大名クラスの者しか持ち得ない刀なのでまわりの武士たちは動揺もしたし、どうせ偽物だと思ったらしい。しかしそのときに治長があらわれてこの山伏が眞田左衛門佐幸村であることがわかった。「少しは目が肥えたかな」と幸村は言ったという。

大坂の陣のはじまる前に真田信繁が大坂城に入城したことが家康の耳に入った。家康は「親か子か」と質したが、身体が震えていたのか手をかけた戸がガタガタと鳴っている。「親は病死し、子の左衛門佐でござる由」と言上すると安堵したという話が「迎応貴録」にある。これなんかは明らかに後の時代の作であろう。徳川としては2度真田に破れてはいるが、2回とも家康は直接指揮をしていない。震えたとしたら秀忠あたりか。

おそらく真田丸の戦いの後の話(12月14日以降か)。幸村調略を家康から命じられた本多正純。かれは幸村の叔父の真田信尹を使者に任命し、幸村のもとへ向かわせた。寝返りの条件に「十万石下さるべく候旨」という提示をし応じるなら正純の誓詞を入れると申し出た。しかし幸村は「牢人して高野に落ちぶれていたところを秀頼様より召し出されて、ひとつの曲輪を預かる身となったのは有り難いことである。だから、出仕せよといわれても難しい。もし和談のうえに召し出されるなら、たとえ一〇〇〇石でもご奉公したい」(「慶長見聞書」)といって答えた。和議が整えば千石ででも奉公したいと言っている。謙虚な態度である。さらに2回目に信尹がやってきて「上野方(正純)より信濃一国下さるべく候間、御味方に参り候へと申し越し候へば、真田腹を立て候て、隠岐(信尹)に対談申さず候」(同書)と怒って会わずに追い返しようだ。信濃一国という破格の条件を出されたが、これには腹を立てたようだ。馬鹿にするなということか。実際にあったかどうかはわからないが家康方の幸村の評価が高かったこと、幸村の潔さがよく伝わっている。

大坂冬の陣が和睦というかたちで終わった後の話。旧知の原貞胤(松平忠直御使番)が幸村・大助父子を訪ねてきた。大助が曲舞を見せてもてなした後、幸村が秘蔵の白河原毛の駿馬を引き出し5,6度乗り回してから「もし重ねて合戦あらば、御城は破却せられしならば、必ず平場の合戦なるべし。天王寺表へ乗り出し、東方の大軍に渡り合ひ、此の馬のつゞかん程は戦ひて、討死すべし」と貞胤に語ったらしい(「武林雑話」)。実際にそうなったのだが、幸村は和睦しても再戦が近々あるのを予期していたのであろう。

慶長20年5月6日の道明寺戦の殿(しんがり)を引き受けた幸村。これは彼自身が強引に引き受け、しかも自身の強さのみを強調したやりかたで退却したものだから味方の諸将からは評判がよくなかったらしい(「北川覚書」)。「人々聞きて憤り、真田やゝもすれば己が武勇を自慢して諸人を蔑如する事奇怪なれ。この上は巳然の評議を破り、面々存分に任せ相働くべしと云う」とある。これは幸村への妬みがかなり入ったコメントだと思うが大坂方の武将同士がうまくいっていない証拠でもある。幸村自身は決してそんな気持ちで殿を請け負ったとは思えない。古より殿ほど難しいものはない。殿を見事にやり遂げる武将は高い評価を得たものだが小言をいう武将もいたのであろう。それほど見事な撤退ぶりだったのであろう。諸将をなだめた武将もいる、明石全登である。「真田が申す所、過分なれ共、武勇を好むは本意也。悪(にく)むべからず」

大坂の夏の陣で家康が幸村の首実検を終えた後、こころざしをもつ武将たちは幸村にあやかろうとして毛髪を抜き取って持ち帰った(「滋野世記」)。その残った首はどこに葬られたのだろうか。 首実検に立ち会った叔父の信尹は幸村の首かどうかわからないと秀忠に答えたそうだ。真田丸攻防戦後に幸村と会っているのにわからないということは影武者の首だったのだろうか?「その時は夜中、殊に左衛門も用心仕り、近所へ近づき申さず、遠く罷り在り候」とも答えている。
 
真田幸村3

永禄十年−慶長二十年(1567−1615) 正しくは、真田信繁、真田左衛門佐信繁。
直筆書状に"信繁"とあり、同年代の史料に「幸村」とは出てこない。
江戸時代の軍記物「難波戦記」が"幸村"と記したのが流布したらしい。同書がなぜ"幸村"と記したのか分からない。他に"信仍"とも呼ばれるが、いずれも「藩翰譜」など後年の史料・講談本により、史料の裏付けはない。
なお、"信繁"という名は、武田信玄の弟・武田信繁の名将ぶりをあやかってのものという巷説があるが、確かな史料にはそのような事は書かれていない。しかし、一概に否定できないとも思う。
謀将・真田昌幸の次男として永禄十年(1567)甲府で出生した。母は、宇田下野守頼忠の娘とも菊亭晴季の娘とも。
幼名は「お弁丸」、のちに「源次郎」と改名した。
幸村は、真田家を継ぐことはなく、45歳まで父・昌幸に付き添っていた。したがって、大坂城に入るまでの彼に関する史料は豊富とはいえず、不明な点が多いのも事実である。
幸村の幼少時代
天正十三年(1585)真田家は、徳川家康に背いたが、上杉景勝の保護を求めるため、八月二十日過ぎ、幸村は人質として海津城に入った。
幸村には矢沢頼幸(矢沢城主・綱頼の嫡男)と同心衆(騎馬5名、東松本の足軽12名)が差し添えられた(「矢沢文書」)。
同年八月、家康は上田城に真田氏を攻めた。
真田昌幸は、景勝に「信繁を越後に被官に差し出す」と言ってきたので、上杉軍は五千の兵を真田館に派遣したという(「景勝一代略記」)。
実際に、援軍は曲尾城まで来ており、幸村に同道していた矢沢頼幸がこの一大事に実家まで帰っていたと思われ(柴辻俊六「真田昌幸」、「矢沢文書」)、同様に、幸村も地元に戻っていた可能性が指摘される。幸村17歳。
この後、上杉氏の本拠・春日山城へ赴き、景勝に勤仕したという。
さらに、天正十四年(1586)六月、景勝の上洛の際、昌幸は幸村を呼び戻し、豊臣秀吉に人質として差し出されたという。
若き幸村の戦い
天正十八年(1590)小田原の役では、前田利家・上杉景勝の先鋒として松井田城、箕輪城、八王子城を攻めたが、これが幸村の武将としての初めての戦いとされている。しかし、その詳細は一切伝わっていない。幸村24歳。
また、この頃、大谷吉継の娘を娶ったという。
文禄三年(1594)従五位下・左衛門佐に叙任された。「豊臣」の姓を与えられ、「豊臣信繁」と記された史料がある(「柳原家記録口宣案」)。
慶長五年(1600)関ヶ原の戦いでは、昌幸とともに再び家康に反旗をあげた。
真田氏は東西に分かれたが、父子の談合において、幸村は「秀頼から恩は受けていないが、家康の所業は腹に据えかねるものがあり、三成の挙兵はこれを糺すための義挙であり、こういう時にこそ家を興すべきである」と主張したという(「真武内伝」「野史」)。
徳川秀忠は、真田昌幸・幸村の籠る上田城を攻めた。
徳川軍は城のまわりの稲を刈らせたが、城から三百人ほどが討って出た。これに対して本多忠政の隊が攻め込み、城の木戸まで押し寄せた。この時、幸村が城門を開けて一丸となって突進したために徳川軍は敗戦したという(「異本上田軍記」)。
九度山への配流
関ヶ原後、真田昌幸・幸村は九度山に蟄居となった。家康は二人を死罪にしようとしたが、兄・信之の懇願で一命を赦されたとされる。
慶長五年(1600)十二月十二日、高野山へ出発し、池田長門ら十六人の従士を連れて蓮華定院に入り、のちに山麓の九度山村に屋敷を構えて移った。父子は別々に屋敷を持ったらしい(桑田忠親「日本部将列伝」)。
幸村は妻の大谷氏と三人の女児を連れ、九度山においても女児3人、男児2人をもうけたという。
配流先では、狩や囲碁をやって過ごし、深夜まで兵書を読み、昌幸と問答を交わし、近隣の郷士と兵術や鉄砲の鍛錬をしていたと伝わる(「真武内伝」)。
高野山配流の十一年目、慶長十六年(1611)父の昌幸が逝去した。昌幸の近侍のほとんどは信州上田に帰り、45歳になった幸村の身辺は寂しくなったという。
慶長十七年(1612)入道して「好白」と号する。
この頃、真田家の重臣・木村土佐守綱茂に、お歳暮の鮭を送ってもらった礼をしている。その中で、
「こちらの冬は不自由にて、いっそう寂しく思う。私のうらぶれた様子を使者が話すだろう。もはやお目にかかることはない。とにかく歳を取って残念である。」
と、その当時の心境を吐露している(「木村綱茂宛書状」)。
幸村の容貌
幸村自身で「急に歳をとり、病身となって、歯も抜けた。髭なども黒いところは無い」(にわかにとしより、ことのほか病者になり申し候。歯なども抜け申し候。ひげなどもくろきはあまりこれなく候)と述べている(「木村綱茂宛書状」)。また、「額に二、三寸の傷があり、小柄な人」であったと、後藤又兵衛の近習が語っている(「長沢覚書」)。
幸村の文芸
天正十三年(1585)秋、人質として海津城にいる時に連歌を巻いている(「松代俳諧史」)。
また春日山城でも連歌が好まれており、幸村は参加していたのかも知れない(「越佐史料」)。その三十年後、九度山において真田家の重臣・木村綱茂に書状を送り「そちらは連歌をしているそうだが、こちらでも徒然草などを見ろと奨められている」と言っている。また、別の書状でも「対面して一巻連歌を巻きたいものだ」と言っている(「木村綱茂宛書状」)。
大坂冬の陣
慶長十九年(1614)十月ごろ、豊臣秀頼の使者が九度山に訪れた。幸村は大坂入城を決意。十月九日、周辺の百姓数百人を屋敷に招いて酒宴を開き、彼らが酔いつぶれたところを見計らって山里を出たという(「武辺咄聞書」)。この時、鉄砲と刀槍を抱えた百人ばかりの勢であったため、途中の村の人々はその通過を止められなかったという。
「九度山町史」によれば、田所庄衛門らの地侍が加わっており、村の人々の人望を集めていた一端がうかがえる。
また、多くの兵が信州から来たともいわれる(「真武内伝」)。
翌十日(九日とも)大坂城に入った。この時、「のぼり、指物、具足、兜、ほろ以下、上下ともに赤一色」だったという(「大坂御陣山口休庵咄」)。
秀頼は幸村を歓待し、黄金二百枚、銀三十貫を贈って、勝利のあかつきには五十万石を与えると約束した(「駿府記」)。
徳川家康は、真田入城の注進を受けた際、「親か子か」と聞き返し、手のかかった仕切り戸がガタガタと鳴り渡るほどに震え、恐怖を見せたという(北島正元「日本の歴史」)。
同年十一月、徳川軍が攻め寄せた。幸村は最初の軍議で「初めから籠城するのは得策ではなく、城を討って出て、時間を稼ぐうちに敵にも内応者が出るだろう」と積極的な交戦を主張したという。これには後藤又兵衛も賛同したが、大野治長らが反対し幸村の話は採用されなかったとされる(桑田忠親「日本部将列伝」)。
しかし、この軍議で幸村の持ち場が決められ、城の弱点に出丸を築いて守ることとなった。これが“真田丸”である。
-真田丸の造り-
真田丸は、「大坂城玉造御門の南、一段高い畑のあった所に、三方に空堀を設け、塀を一重にかけ、柵を三重に付け、櫓や井楼があった」(「大坂御陣山口休庵咄」)。
また、「その形は新月に似ており、周りに空堀を巡らし、東西に長く南北に短かった」(「武徳編年集成」)。
「父子の人数六千人で籠り、狭間は一間に六つ切ってあり、狭間ひとつに鉄砲三挺ずつ並べた」という(「大坂御陣山口休庵咄」)。
「慶長見聞書」を引用する。
「大坂惣手辰巳門、真田左衛門左持口、門の前橋を越、惣構より二町半ばかり、敵への張出し、取手をかこひ、成程丈夫に大木材をもって普請いたし、から堀をほり、菱をまき、申すに及ばず成程手つきよく持詰、へいを一間と破られ申さず候」
-真田隊の猛勇-
十一月二六日から交戦がはじまったが、十二月三日の戦いでは、真田勢が徳川軍を散々に打ち破った。功を焦った攻め手が深入りしたところを幸村らが一斉に攻撃し、「弓矢・鉄砲は雨が降る如くで、死傷者は数え切れなかった」(「大坂御陣覚書」)。
真田丸の手前には「篠山」という小山があって、ここに陣していた幸村隊によって前田利常隊は連日死傷者を出していた。このため前田利常は篠山を強襲したが、人影が無い。さらに真田丸に突進したが何の反応もないので空堀を渡り始めた。そこで幸村は夜明けを待って一斉に攻撃を仕掛け、ことごとく敵を倒したのだという。
幸村隊の射撃は正確だったが、これは九度山時代に共に遊猟した猟師を多数引き連れていたからともされる。
翌四日には、松平・前田隊の猛攻を受けたが、嫡男・大助も奮戦し、松平隊480騎、前田隊300騎、その他雑兵多数を討ちとって、その評判は京都にまで及んでいる(「孝亮宿禰日次記」)。
家康は、幸村の際立った活躍を見て、叔父・真田信尹(信昌とも)を使い、十万石、次に信濃一国を報酬に寝返るよう、二度誘った。
しかし、幸村は「乞食の様な生活をしていた私を召し出し、曲輪のひとつをまかせてくれた秀頼の恩顧に答える」とも「ご恩は土地や金には到底代えられない」と断った。さらに本多正純も寝返りを誘ったが、使者に会いすらしなかったという(「慶長見聞書」「真武内伝」)。
結局、大坂冬の陣は和睦したが、大坂城の堀は埋められ、豊臣軍は丸裸にさせられた。
大坂夏の陣
夏の陣までの間に、幸村が信州に送った文書が数点残っている。
元和元年(1615)一月、大坂城中から上田の姉・村松宛て(「小山田家文書」)。
「思わぬことから合戦になり、大坂に参りました。奇妙なこととお思いでしょう。ともかく戦いが済んで生き残りました。明日はどうなるか分かりませんが、今のところ何事もなく過ごしています」
二月十日、石合十蔵(幸村の娘すえの夫)宛て(「長井氏所蔵文書」)。
「私どもは籠城の上は、決死の覚悟ですから、もうお会いすることはないでしょう。娘すえの事、どうかお見捨てなきようお願い致します」
三月十日、姉婿・小山田壱岐宛て(「小山田氏文書」)。
「秀頼様のご懇意がひとかたならないのは良いのですが、城内はいろいろ気遣いが多い。何かとお目にかかりたいと思います。懐かしいことは山のようです。定めなき浮世のことですから、一日先のことは分かりません。私たちのことなどは浮世にいるものと思わないで下さい」
遠く信州を想う気持ちと、二度と信州には帰ることが出来ないという決死の覚悟が伝わってくる。
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真田信繁書状
様子御使可申候。当年中も静かに御座候者、何とぞ仕、以面申承度存候。御床敷事山々にて候。さだめなき浮世に候へ者、一日さきは不知事候。我々事などは、浮世にあるものとおぼしめし候まじく候。恐々勤言
三月十日 真左衛門佐信繁(花押)
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元和元年(1615)五月、家康軍は再び大坂を囲んだ。
五月五日、後藤又兵衛、幸村らが打合せをし、翌日六日、道明寺で落ち合って、奇襲をかける約束をした。しかし、なぜか幸村は遅延してしまい(一説に濃霧のため)、後藤らは討ち死した。
作戦が失敗に終わった豊臣軍は、止むなく大坂城に退却したが、この時、幸村は殿軍を務めて追撃する伊達軍に反撃した。
伊達政宗はその強さを恐れ、攻撃を中止した。真田隊は諸隊を退却させた後に、悠々と引き上げていったという(「北川覚書」)。
この後、大坂城での軍議で、幸村は秀頼自らの進軍を強く要請したとされる。
翌七日朝、幸村は茶臼山に布陣した。茶臼山に真っ赤なのぼりを立てて、赤一色の鎧兜で固め、東には真田大助が控えていたという(「大坂御陣山口休庵咄」)。
毛利勝永、大野治長、明石全登らとともに敵を待ち構え、敵の正面から真田隊が突撃し、混乱させたところで背後から明石隊が挟撃するという幸村の作戦だったという。しかし、明石隊が配置につく前に城方の兵が勝手に鉄砲を撃ってしまい、期待していた秀頼の出陣もなく、真田隊は劣勢に陥った(桑田忠親「日本部将列伝」)。
幸村は死期を察し、嫡男・大助を秀頼の最後を見届けさせるために城に戻し、正面の松平忠直隊に突撃した(「真武内伝」)。
幸村を先頭に、それぞれ念仏を唱えながら、死に物狂いで突撃して行った(「北川覚書」)。
真偽は不明だが、「今は是までなり。最後のいくさを快くなすべし。」と叫んで家康本陣に駆け入ったともいう(「武徳編年集成」)。
-関東勢少し敗北-
真田隊の攻撃は壮烈で、松平隊を崩したばかりではなく、背後の家康本陣(旗本)にまで達した。
旗本らを追い散らして討ち取り、旗本でも三里も逃げた者だけが生き残れた(「薩藩旧記雑録」)。
家康本隊は混乱して四散し、最後まで家康を守っていたのは本多正重と金地院崇伝だけだったという。また、家康は、絶望して、一時切腹を覚悟したと伝わる(「耶蘇会士日本年報」)。
一説に、幸村は十文字の槍で家康目がけて突撃し、家康はとてもかなわないと思い、植松の方に退いた(「本多家記録」)。
重臣・藤堂高虎も防戦に当たったが、「御旗本大崩」という有り様であった(「高山公実録」)。
徳川家も「関東勢少し敗北」と、その猛烈さを認め、家康本隊が押し込まれた事実を伝えている(「駿府記」)。また、家康本隊の旗が崩されたのは、武田信玄と戦った三方ヶ原の合戦以来だったという(「三河日記」)。
真田隊は、三度まで家康本隊を追い立て、家康は馬印を臥せたり隠したりして逃げ回った(「山下秘話」「銕醤塵芥抄」)。
しかし、孤軍奮闘の真田隊は徐々にその数を減らし、幸村も負傷と疲れで動けなくなっていた。休憩している幸村を松平忠直の鉄砲頭・西尾仁左衛門が討ち取ったという(「諸士先祖之記」)。
享年49歳。
この日の幸村の戦いは「真田日本一の兵、いにしえよりの物語にもこれなく由、惣別これのみ申す事に候」と島津藩士の手紙に書かれている(「薩藩旧記雑録」)。
細川家の記録にも「古今、これなき大手柄」と記されている(「細川家記」)。
大坂城に入った真田大助は、翌日、秀頼の切腹を見て、これに殉じた。大助は、秀頼が身を潜めていた蔵の前で座っていたが、それを見た豊臣家の武士・甲斐守久が、「お前はまだ若いし、傷も負っているから逃げなさい」と何度も諭したものの聞かず、食事も摂らなかったという(「大坂御陣覚書」)。没年13歳とも16歳ともいわれる。
真田幸村は、戦国時代を代表する猛将である。
なぜこれほど強かったのかはよく分からない。
しかし、九度山に幽閉され、故郷にも戻れず、失意の中で徳川家康に一矢報いようとした強固な決意があったのは間違いない。
兄・信之が後年、幸村の人柄について語ったという言葉が伝わっている(「幸村君伝記」)。
「物ごと穏やかにして、我慢の心がある。強がらず、怒ったり腹を立てることもない人物であった。」
 
真田幸村4 (真田信繁)

1567年に武藤喜兵衛昌幸(のちの真田昌幸)の2男として甲府で生まれた。真田幸隆の孫にあたる。幼名は真田弁丸。のち真田源次郎。母は、武藤喜兵衛の正室・山手殿と考えられるが、別の説では1570年誕生。
江戸時代に95000石の大名となる兄・武藤源三郎(のちの真田信之)は1566年3月に誕生している。
なお、真田幸村と言う名は、江戸時代に書かれた書物による通称であるため、以後、正しい名前である真田信繁として明記させて頂く。
信繁と言う名は、武田信玄の弟・武田信繁を尊敬していた父・武藤喜兵衛昌幸(のちの真田昌幸)が、自分の2男に授けた名である。
この頃、祖父・真田幸隆や武藤昌幸は武田信玄の重臣として活躍していたが、武田信玄が1573年に病没すると、翌年1574年には真田幸隆も亡くなり、真田信繁が9歳前後の1575年には長篠の戦いで、武田勝頼は大敗。真田家当主の真田信綱、真田昌輝が討死し、父・武藤喜兵衛昌幸(武藤昌幸)は、真田を継ぐことになり、真田昌幸として家督を継ぎ、父・真田昌幸、兄・真田信幸と真田信繁は真田郷に戻った。
1582年には織田勢の武田攻めがあり、武田勝頼が討死し武田氏が滅亡。以後、真田は独自の道を模索する事になる。真田信繁は主に岩櫃城で育ったと考えられる。
1585年、真田昌幸は上杉景勝と同盟をする。その際、7月頃に真田信繁は人質として越後に赴いた。
真田昌幸は一度上杉を裏切った事があった為、臣従の証として真田信繁だけでなく、叔父・矢沢頼綱の嫡子・矢沢頼幸と軍兵も越後に送った。そして、上杉景勝より九ヶ条の起請文を受ける。その中には、真田に手違いがあっても、謀反の噂があっても、惑わされずに上杉景勝は情をかけるとも記載されている。
なお、上杉景勝は、上杉家を離反して徳川家康のもとに走った屋代秀正の旧領3000貫文の内、1000貫文を真田信繁に与えている。上杉家の重臣直江兼続らも真田信繁を人質ではなく客将として迎えたようだ。
19歳の真田信繁は越後で始めて広大な海を見て、騙したり、裏切る事により活路を見出してきた真田のやり方と異なり、何よりも「義」を重んじる上杉家の方針を目の当たりにし、感じるものもあったのであろう。
しかし、越後滞在も5ヶ月程度とつかの間で、1585年11月-12月頃には父・真田昌幸が豊臣秀吉に臣従し、真田信繁は上杉から豊臣秀吉へ人質として出仕した。
1590年には豊臣秀吉の小田原征伐が始まる。その際、上杉勢は10000の兵にて北国軍として2月10に春日山城を出陣し、上杉景勝や直江兼続らは2月15日海津城に入った。北国軍の総大将である前田利家も前田慶次ら18000で2月20日に金沢を発し、信濃で上杉勢に合流。
そして真田昌幸・真田信繁も3000にて軽井沢で加わり、松平康国の4000と合わせて、北国軍は35000の大軍となった。
なお、この小田原攻めで初めて真田信繁の名が見られ、真田信繁の初陣とされているが、1567年誕生説の場合、1590年では24歳であるため、実際にはもっと早く初陣は果たしていると言うより、攻められる事が多かった真田氏だけにもっと昔から否が応でも戦いに参加していたものと小生は考えている。
北国軍が碓氷峠に差し掛かった際、北条勢も碓氷峠を防衛の最前線と、松井田城主・大道寺政繁は碓氷峠に与良与左衛門ら800の兵を置いていた。
真田勢からは真田信幸がまず碓氷峠と松井田の物見に出たが、待ち構えていた与良勢と遭遇し、激しい戦闘になる。物見の真田信幸一行は少数であったが、見事与良を討ち取り北条勢を撃退した。その後、真田勢は大道寺勢と遭遇し乱戦になったが、初陣の真田信繁は敵勢に突っ込み、かく乱させるなど活躍したと言う。
そして北国軍は4月20日に松井田城を兵糧攻めし、大道寺政繁は降伏。箕輪城の垪和信濃守は城内で謀反が起こり追放され、箕輪城はほぼ無血で占領。 真田昌幸と真田信繁は豊臣秀吉から箕輪城仕置きを命じられる。
6月14日には鉢形城を落とし、八王子城も攻め、6月20日大量虐殺の上、八王子城も陥落させている。
この功により、真田は豊臣秀吉より沼田領を安堵され、以後、真田昌幸・真田信繁は上田の統治、真田信幸は沼田の統治に当たった。
1592年3月、真田昌幸、真田信幸、真田信繁は朝鮮の役に参陣する為、肥前・名護屋城に赴く。1593年8月、名護屋より大坂に戻り、そして上田に入った。  1594年3月伏見城普請開始。真田昌幸、真田信幸、真田信繁の3人分で役儀を1680人と定めた。11月、真田信幸が伊豆守、真田信繁が左衛門佐に任ぜられる。
1598年8月18日、豊臣秀吉が死去。
1600年、真田昌幸、真田信幸、真田信繁は在京しており、徳川家康に促されて会津の上杉景勝を討つため、国元に戻り出陣の準備を行い、7月の上旬に上田を発ち関東に向かう。宇都宮で徳川勢と合流する予定だったが、
7月21日、下野・犬伏の陣に石田三成の密使が真田昌幸に届く。その長束正家、増田長盛、前田玄以の連署状を見て、真田昌幸、真田信幸、真田信繁の3人は今後の真田家の方針を話し合った。真田昌幸の妻・山手殿は羽柴秀長の家臣で13000石だった宇多頼忠の娘であるが、宇多頼忠のもう1人の娘は石田三成の正室になっているだけでなく、山手殿自身、大阪で石田三成の人質になっていたと考えられる。
真田信幸は徳川四天王の1人・本多忠勝の娘(徳川家康の養女)を妻に迎えており、一時、徳川家に出仕もしていた事から、徳川家康を裏切る事はできない。
このような事情から、真田昌幸と真田信繁は石田三成につくことを決めて徳川の陣を離れ本領・上田へ引き帰すことに。真田信幸はこのまま徳川勢として小山に進み、徳川秀忠にその旨を報告。この真田の決断は、犬伏の別れとも呼ばれている。
徳川家康は7月24日小山に着陣すると、即日、徳川に味方することを決断した真田信幸を賞して、離反した真田昌幸の所領についても真田信幸に安堵させた。
一方、真田昌幸と真田信繁は今生の別れと、上田に戻る途中、沼田に寄り道して、孫(真田信幸の子)の顔を見てから上田に帰ろうと思い、夜半に沼田城に使者を出し入城を申し入れたが、城を守る真田信幸の正室・小松殿は入城を拒否したと言われる。
ただし、翌日、沼田城下の正覚寺に孫を連れて小松殿は真田昌幸と会ったと伝わる。そして、真田昌幸と真田信繁は7月23日に上田に帰参。
宇都宮城を8月24日に出発し、中仙道を通り、関ヶ原を目指した徳川秀忠軍38000は、9月2日に小諸城に到着。翌日、真田昌幸と、徳川秀忠軍に同行していた兄・真田信幸と本多忠政が会見。真田昌幸は頭を丸めて降伏する旨を伝えたが、上田城に兵糧・弾薬などを運び込み、上田城周辺の各所に伏兵をしのばせるなど、軍備を固める為の時間稼ぎであった。降伏の約束を守らない真田昌幸に使者を出したが、逆に宣戦布告されると徳川秀忠は怒り、9月5日攻撃命令を出す。
砥石城には真田信繁が入っており、徳川勢に抵抗する姿勢を見せたが、真田信幸勢が進撃すると、真田信繁は兄との戦闘を避けて上田城に撤退し、砥石城は真田信幸が占領し守備した。
徳川秀忠は9月6日に上田城外の染谷台に陣を進め、上田城を包囲。様だ昌幸と真田信繁が約50騎を率いて城外に偵察に出たのを見た徳川勢は、真田昌幸らを追って上田城に接近し、上田城付近に潜んでいた真田の伏兵と戦闘となった。徳川軍は次々に兵を進めた所に、伊勢崎城(虚空蔵山)から討って出た伏兵が、手薄になった徳川秀忠本陣を襲撃。更に真田鉄砲隊が射撃開始し、真田信繁隊が城から討って出て、徳川秀忠軍を挟み撃ちし、徳川勢は大損害を被った。
その後、徳川勢は援軍を得たので、真田昌幸、真田信繁は2000で上田城で篭城。徳川秀忠は9月9日に上田城攻めを諦めて、先に進む事を決意した。
徳川軍は二度にわたって真田昌幸に敗れたこととなる。そして、徳川秀忠は、悪天候もあり、徳川秀忠軍は結果的に9月15日の関ヶ原決戦に間に合わなかったのである。
関ヶ原の結果、石田三成に協力した真田昌幸と真田信繁は窮地に立たされる。
真田信幸は父・真田昌幸と決別すべく、名前を信之に改めて、以後、真田信之と名乗り、真田昌幸と真田信繁には上田領没収と死罪が下されると、徳川家康に味方した真田信之は懸命な助命嘆願をする。その甲斐もあって真田昌幸と真田信繁は何とか命は助けられ、16人の家来と高野山麓の九度山に蟄居。真田信繁が妻の竹林院を伴った為、女人禁制の高野山には入れず、九度山へ配流したとも言われている。九度山に付き従った16人の家臣は真田十勇士の元とも。
兄・真田信之は沼田領30000に加え、旧領30000も安堵され、合計95000石で上田藩主となった。
真田昌幸と真田信繁は九度山の真田庵で暮らし、紀伊藩からの年50石の合力や、上田からの仕送りで生活したが、借金をするなど苦しい生活であったようである。有名な「真田紐」は竹林院が自ら上田地方の紬技術を応用して考案し、家臣たちに行商させてたという。
このように、多少の監視はあったものの、人の出入りなどは自由だったようだ。
真田昌幸の長男・真田大助(1601年又は1602年誕生、母は大谷吉継の娘・竹林院。のち真田昌幸)、次男・真田大八(母は竹林院)や、あぐり(のち蒲生郷喜の室)・菖蒲(のち片倉定広の室)・おかね(のち石川貞清の室)ら女子3人も九度山で生まれたとされる。
1603年2月、徳川家康が征夷大将軍に任じられ、江戸幕府が開かれる。
1611年6月4日、大阪の陣を目前にして真田昌幸は配流先の九度山で病死。享年65歳。正式の葬儀は行われず、真田昌幸の一周忌がすむと、上田から真田昌幸に随行した家臣の大部分は帰国し、真田信之に帰参し、残った家臣は高梨内記など2-3名しかいなかたとされる。翌年1612年に、真田信繁は出家し、伝心月叟と名乗った。
1614年、徳川家と豊臣家の関係が悪化し、8月に京都方広寺の豊臣家が大仏開眼供養が実施しようとしたが、徳川家康は梵鐘の銘文に「国家安康」「君臣豊楽」と記載されている事に難癖をつけた。大仏殿造営を行った片桐且元は、急ぎ駿府の徳川家康に弁明しようとしたが、徳川家康は片桐且元に面会せず、本多正純に命じて豊臣方の不都合を攻めた。大阪に戻った片桐且元は、淀殿に大坂城を明け渡すか、豊臣秀頼か淀君のいずれかを人質として江戸に送らなければ、徳川家康の怒りを収められないと報告。徳川と豊臣板挟みにあった片桐且元は大坂城内で孤立。身の危険を感じ、摂津茨木の居城に篭った。
最終的に豊臣家は徳川家に対抗する方法を選択するが、関ヶ原の戦い以降、豊臣家は65万石、兵は30000前後しかない。豊臣秀頼の名を持って、故太閤秀吉恩顧の大名、福島正則、蜂須賀家政、細川忠興、蒲生秀行、佐竹義宣、島津家久、前田利常、浅野長晟、池田利隆らに徳川家康に抵抗するよう使者をだしたが、誰一人豊臣に味方はしなかった。
一方、徳川家に対して不満を持つ諸国の浪人を呼び集める策もとり、10月2日より大阪城に浪人を集め始め、長宗我部盛親、後藤基次、毛利勝永、明石全登、塙直之、大谷吉治らも応じた。
この際、徳川勢は九度山で蟄居中の真田信繁宛にも使者を出し、大阪城に入るよう、黄金200枚、銀30貫を贈った。
真田信繁は10月9日に家族を伴って九度山を脱出。父・真田昌幸の旧臣(上田領)たちに参戦を呼びかけ、九度山を脱出して、子の真田大助(真田幸昌)とともに大坂城に入城。上田からも旧臣約100人が大阪城に参じたと言う。
しかし、入城の際の真田信繁の容姿は、歯は抜け落ち、白髪交じりで腰も曲がっていたため門番に山賊と勘違いされたと言う。
九度山の監視役であった紀州の浅野長晟は、真田信繁脱出を知って、追っ手を出したが、九度山の郷民は3時間前に逃亡したのを3日前に出たと言い、追うのを諦めさせたとか、紀州の浅野長晟はわざと逃がしととも言われている。
10月1日、徳川家康は大坂城討伐を江戸の将軍・徳川秀忠に通達し、自らは10月11日に駿府城を出発。また、本多正純らに命じて、近畿西国の諸藩に大阪攻めを命じ、伊勢・近江・美濃・尾張・三河・遠江の諸藩は淀や瀬田に布陣させ、北国勢は大津や、阪本、堅田へ、中国勢は池田、西国勢は西宮、兵庫にそれぞれ布陣させた。四国勢には船団を編成させ、和泉の沿海に停泊。大和の諸城主には各自の城の守備を固めさせた。
10月14日に京都所司代・板倉勝重は浪人が多数、大阪城に入り、真田も入ったと徳川家康に報告した。父・真田昌幸や、兄・真田信之と比べて、真田信繁はこの時点ではほとんど無名。真田と聞いて「篭城した真田は親か子か」と徳川家康一瞬驚いたが、使者が、篭城したのは子の真田信繁で、真田昌幸は既に病死していると告げると、徳川家康は安堵したと言われている。11月23日に徳川家康は二条城に入った。
大坂城では援軍が期待できない以上、単なる篭城では勝てないと力説し、積極策に出ることを主張。
徳川勢の軍が揃わないうちに先制攻撃をして、豊臣秀頼自ら出馬し天王寺に旗を立て、真田信繁、毛利勝永、後藤基次らで伏見城を落とし、宇治・瀬田に陣を構え、東軍の渡河を阻止。木村重成らが京都所司代を屠って京都を占領し、長宗我部盛親、明石全登らは大和から奈良を攻撃し、豊臣秀頼側の近衆が片桐且元の茨木城を攻撃して大津に砦を築き、畿内を制圧してから遠征疲れの徳川本隊と戦うことを提案。浪人衆の後藤基次、毛利勝永らも真田信繁の提案に賛成した。
しかし、豊臣恩顧の大野治長らは、徳川家康の行軍速度が遅い間に、もっと多くの浪人が大阪城に入り、豊臣方が大軍と知れば、徳川から豊臣に寝返る大名が出てくると主張。また、豊臣秀吉が築いた広大で強固な大坂城は絶対に落城しないと篭城策を取る事に決まった。
篭城すると決すると、真田信繁は大阪城の南側防御に弱点があると指摘。南方の天王寺方面に抜ける丘陵地帯に砦を築く許可を願い出た。しかし、無名の新参者で尚且つ、真田本家は徳川方である真田信繁の提案は信用されなかったが、後藤基次らの後押しもあり、なんとか砦を作る許可を得た。
大坂城の堀を背負い、三方を空掘りで囲み、柵は三重にめぐらして、矢倉などを設けた堅固な砦となり、大阪城と繋がるトンネルもあったと言い、のち「真田丸」と呼ばれ、真田信繁の率いた軍は、鎧を赤で統一した「真田の赤備え」とした。
11月15日、徳川家康は奈良の大和路から、徳川秀忠は河内路から大阪城へと迫り、11月19日大坂冬の陣の火蓋が切って落とされた。
大阪冬の陣
浪人を合わせると約10万人となった豊臣側が期待していた豊臣恩顧の大名の寝返りがなく、初戦は20万と言う大軍である徳川勢が有利に戦いを進め、戦局は豊臣側不利で推移した。
そんな中、唯一、真田信繁率いる真田丸の兵5000が徳川勢をかく乱し、僅かではあるが戦果を上げていた。
真田丸の眼前には伊達政宗、藤堂高虎、松平忠直10000、井伊直孝4000、寺沢広高、松倉重政、前田利常12000が布陣し、そのうしろには徳川家康本陣、徳川秀忠本陣が控えた。
真田信繁は、真田丸に攻め寄る徳川勢大名の中より、加賀藩2代目の前田利常に注目した。前田氏は豊臣恩顧の大名で、徳川政権下では最大の外様大名であり、次々と外様大名が因縁をつけられて取り潰しや改易にあう中、必ずしも徳川家を信用していないと判断した模様だ。
積極的に攻めてこない徳川勢に対して、真田信繁は前田利常の陣だけに、毎日、鉄砲隊により射撃した。前田利常は徳川家康から城を攻撃するなと命じられており、はじめのうちこそは、真田信繁の鉄砲にも耐えていたが、毎日死傷者が出て、次第に真田隊の攻撃に苛立ちはじめる。
前田利常の許可無く、前田勢の本多正重、山崎長徳ら12月3日、痺れをきかして、真田の鉄砲隊が潜んでいた真田丸から約200の地点にある篠山に押し寄せた。真田信繁は前田勢の出撃をみて、鉄砲隊を退却させた。そんな事に気がつかず、篠山に到着した前田勢は敵はどこだと右往左往。それを見た真田丸の真田兵が嘲笑し愚弄したので、前田勢は敵だけでなく味方からも笑い者となり、前田の面子を潰した。
前田勢は理性を失い、翌日12月4日の夜に篠山へ押し寄せたが、やはり誰も居なかったため、また笑い者になると、そのまま真田丸を攻撃せんと、真田丸の堀際まで攻め立てた。藤堂高虎、井伊直孝、松平忠直は前田勢が抜け駆けしたと思い、功を焦って一斉に真田丸を攻撃するために軍を進めた。
真田丸の真田信繁は、前田勢が充分城壁にとりついたところに鉄砲で迎え撃ち、空掘りに攻め込んだ敵兵数百を討ち取り、後続部隊を釘付けにした。被害にたまらず退却しようとした徳川勢であったが、真田丸の西後方の大阪城壁を守る石河康勝隊で火薬桶に火縄を誤って落としたために大爆発が起き、真田丸の矢倉も焼ける事件が発生。
これを大阪城で寝返る手はずになっていた南条元忠が寝返った合図と勘違いした徳川勢は、大阪城になだれ込もうと平野口に殺到した。
ちなみに、南条元忠は前日に徳川に内通していることが発覚し、切腹させられていたが、当然、徳川勢は知らなかった。
城壁に殺到する狭いところに大軍で押し寄せた徳川勢を真田信繁は再度鉄砲で攻撃。徳川勢の被害は増大し、退却しようにもあしろからは大勢の兵が進んでくるので、退却もままならず、徳川勢は大混乱に陥った。そこに、真田信繁は真田丸から真田大助、伊木七郎右衛門ら500人を出して、寺沢広高、松倉重政に甚大な被害を与えた。また松平忠直隊480騎、前田利常隊は300騎が戦死すると言う大損害を受けた。
日常は穏やかでありながら、いざという時は武勇を発揮する真田信繁が烏合の衆である浪人衆を巧みに束ねて、的確な指揮が行き届いた結果の戦果であり、真田昌幸の息子という扱いではなく、初めて武将・真田信繁として、その武名を世の中に知らしめる事となった。
結果、強固な大阪城を力攻めするのは難しいと悟った徳川家康は、12月3日から大阪城に和睦の使者を出す。大坂城内では、真田信繁ら浪人衆を中心に、講和に反対する意見が多かったが、京にも砲音が届き途切れることはなかったと言う大砲の攻撃に悩まされていた淀君と、真田丸以外では不利の戦が続いていると大野治長らは大坂城の外堀の埋め立ての条件を承諾して12月19日、和睦することにした。
その和睦交渉の間、徳川家康の側近・本多正純の傍にいた真田信尹が、真田丸を訪ねて真田信繁に面会。信濃10万石を条件に徳川への寝返りを勧めたが、10万石なら飛びつくであろうと思っていた徳川家康の思惑を、真田信繁はあっさり断っている。最初は信濃の中より1万石の条件を出したところ、断られたので、信濃1国10万石の条件を再び提示したとも言われ「一万石では不忠者にならぬが、一国では不忠者になるとお思いか?」と真田信繁は断ったとも言われている。
なお、大坂冬の陣に本家・真田信之は、病気のため出陣していない。代わりにまだ若い真田信吉や真田信政と2人の子が、真田信之の名代として参陣していた。それを知り、真田信繁は大坂の陣では六文銭の旗印を使わず、真紅の旗印を使い、甥に対して気を遣ったとされている。
また、戦後、真田信吉や真田信政や真田家臣とも会見し、上田に住む姉・村松に宛てた手紙では、冬の陣で大坂方につき、上田の真田本家に迷惑をかけた事を詫びている。
豊臣が和睦に応じたのは、そのうち、老齢の徳川家康も亡くなり、そのときこそ豊臣恩顧の大名も味方につき情勢を打破できるだろうとの期待もあったと考えられる。その為、日数が掛かる、外堀・内堀・二の丸埋立ての条件ものんだと考えられるが、埋め立てを命じられた徳川側の諸大名は、命じられたよりも多くの人夫を動員し、作業も徹夜で行い、短期間に外堀を埋め、豊臣勢が担当する事になっていた部分まで「工事が進んでいないので手伝う」と埋め立てし、最終的に二の丸までを埋めてしまい、大阪城は堀を失い、本丸のみになってしまった。
なお、真田丸は埋め立て前の一番最初に取り壊されてしまっている。
これに、豊臣は兵糧、弾薬を城内に運び、再度浪人を募集し大阪城に入れ始める。これに対して、徳川家康は、豊臣秀頼が大坂城を出て国替えに応じ、集めた浪人衆を追放することで、徳川への恭順を示せと厳しく要求した。
この要求を到底、豊臣は受け入れる事はできず、再び戦いとなるのである。
大阪夏の陣
1615年、再び徳川勢は大阪城を取り囲み、大坂夏の陣がはじまるのである。
4月6日頃、徳川家康は諸大名に鳥羽・伏見に集結するように命令。
徳川家康は4月18日に、徳川秀忠は4月21日に二条城に到着。約15万5000の兵を二手に分けて、5月5日京を発った。
大軍が押し寄せる前に、紀州藩・浅野長晟に打撃を与えるため、豊臣方は大野治房を主将に、塙直之、岡部則綱、淡輪重政ら兵3000で先制攻撃のため出陣し4月26日に筒井定慶の守る大和郡山城を落として紀州に侵攻。
浅野長晟は4月28日に5000を率いて和歌山城を出発。樫井の戦いとなり、豊臣勢の塙直之、淡輪重政が討死。大野治房らは堺まで退却し5月6日まで浅野勢と対峙した。
一方、大和路から大坂城に向かう、水野勝成を先鋒大将にし、総大将・松平忠輝、後見役・伊達政宗など総勢34000の徳川軍を、河内平野に侵入する狭い場所にて有利に迎撃する作戦を立てる。5月6日、後藤基次指揮の2600が道明寺に到着。しかし、内応者などからこの豊臣勢の動きを事前に察知していた徳川軍は既に迎撃体制を取っていた。
早朝、後藤基次指揮の2600は単独で松倉重政、奥田忠次勢に対し攻撃をし、奥田忠次を討取り、松倉勢も追い詰めたが、徳川勢の水野勝成、堀直寄が来援し、その後、伊達政宗、松平忠明らが激しい銃撃を加えた。後藤基次は丹羽氏信勢に側面を衝かれ、後藤基次は戦死し部隊は壊滅した。
午後になり、薄田兼相、明石全登、山川賢信ら豊臣勢3600が道明寺に到着し、徳川軍を迎え撃ったが、薄田兼相は戦死し、豊臣勢は後退した。
更に、豊臣勢の毛利勝永、真田信繁ら12000が道明寺に到着。後退してきた兵を吸収して、誉田村付近に着陣した。伊達勢の片倉重長は、真田勢を見ると攻め寄せ、激戦となったが決着はつかず、徳川軍は道明寺から誉田の辺りで陣を建て直し、豊臣軍は藤井寺から誉田の西にかけて布陣して、両軍が対峙・にらみ合いの状態になった。
そこへ、豊臣勢には大阪城より退却命令が届き、真田信茂を殿軍とし、午後4時過ぎから天王寺方面へ撤退を開始した。
豊臣勢は、後藤基次の部隊のみが予定通りの作戦行動が行え、他の各部隊はことごとく遅参し、充分な兵力で徳川勢を撃つことができなかった。
道明寺の戦いで後藤、薄田らの将を失い、若江・八尾の戦いでは木村重成を失った豊臣勢だったが、まだ50000の兵が残されていた。戦国の世最大にして最後の戦いとなる天王寺・岡山の戦いが始まる。
豊臣勢は最後の決戦のため、大阪城を5月7日出陣。真田信繁は士気を高める為、豊臣秀頼自身の出陣を求めたが、側近衆や母の淀殿に阻まれ失敗する。
天王寺口は茶臼山に真田信繁、子の真田幸昌、一族の真田信倍ら3500、茶臼山前方に真田信繁の寄騎・渡辺糺、大谷吉治、伊木遠雄ら2000、茶臼山西に福島正守、福島正鎮、石川康勝、篠原忠照、浅井長房ら2500、茶臼山東に江原高次、槇島重利、細川興秋ら(兵数不明)、四天王寺南門前には毛利勝永勢、木村重成・後藤基次の残兵など6500が布陣。
岡山口は大野治房を主将に新宮行朝、岡部則綱らが、後詰に御宿政友、山川賢信、北川宣勝ら計4600が布陣。
そして、別働隊として、茶臼山から北西に離れた木津川堤防沿いに明石全登勢300、全軍の後詰として四天王寺北東の後方に大野治長、七手組の部隊15000が布陣した。
対する徳川勢は、天王寺口先鋒に本多忠朝を大将とした秋田実季、浅野長重、松下重綱、真田信吉、六郷政乗、植村泰勝ら5500。二番手に榊原康勝を大将とし、小笠原秀政、仙石忠政、諏訪忠恒、保科正光ら5400。三番手に酒井家次を大将とし、松平康長、松平忠良、松平成重、松平信吉、内藤忠興、牧野忠成、水谷勝隆、稲垣重綱ら5300、その後方に徳川家康の本陣15000を置いた。
岡山口は先鋒前田利常、本多康俊、本多康紀、片桐且元ら計20000。二番手は井伊直孝、藤堂高虎勢ら7500と、細川忠興(兵数不明)。その後方に近臣を従えた徳川秀忠の本陣23000を置いた。
5月7日の正午頃、豊臣勢・毛利勝永指揮下の寄騎が、物見に出ていた徳川勢・本多忠朝隊を銃撃した事により戦闘開始。真田信繁は自隊を先鋒・次鋒・本陣など数段に分け、天王寺口の松平忠直隊と一進一退の激戦を続けたが、「紀州の浅野長晟が裏切った」という虚報を徳川勢に流すと、越前・松平勢が動揺したのに乗じて突破。徳川家康本陣へ迫り、三度に渡り徳川家康本陣へ突撃を繰り返した。
真田信繁の攻勢に徳川家康本陣は大混乱に陥り後退を開始。三方ヶ原の戦い以降倒れたことのない家康の馬印が倒れるなど、徳川家康は窮地に追い込まれ、騎馬で逃げる徳川家康は切腹を幾度もなく口走ったが、側近に止めたられと言われている。
しかし、さすがの真田隊も死傷者が増え戦力が低下。真田信繁は疲労のため安居天神で休息をとっていたところを松平忠直隊鉄砲組頭の西尾宗次に槍で刺され討ち取られたとされるが、徳川家康は「信繁を討ち取った」という報告を真に受けようとしなかったとも言われている。堺にある南宗寺境内には「家康の墓」も現存しており、徳川家康は真田信繁勢に傷つけられ亡くなったと言う俗説もある。また真田信繁は傷を負い、安居天神で自刃したと言う説や、真田勢の兵士の手当てをしていたところ襲われたと言う説もある。
いずれにせよ、徳川家康を震えあがらせた真田信繁(真田幸村)の名は不朽のものとなったのである。
豊臣勢は乱戦の中、大谷吉治も戦死、御宿政友は重傷、毛利勝永は真田勢壊滅の後、四方から集中攻撃を受けたため大阪城内に撤退。別働隊の明石全登は天王寺口の友軍が壊滅したことを知ると松平忠直勢らに突撃しその後姿を消した。
真田信繁の嫡男・真田昌幸は、父とともに最後まで付き従うつもりだったが、大坂城の落城を見届けるように命じられ、やむなく大坂城に引き返したとされる。大坂城落城の際には13歳又は16歳であり、若年のために脱出するように勧められたが、豊臣臣秀頼が切腹すると、真田幸昌は加藤弥平太の介錯で切腹した。大阪城の淀殿、豊臣秀頼らの自害の地に建てられた地蔵の前に、淀殿や豊臣秀頼、大野治長と並んで真田幸昌(真田大助)の名前も記されている。
真田信繁討死の翌5月8日、豊臣秀頼・淀殿母子は大坂城内で自害し、太閤秀吉の誇った大坂城は炎上し落城。天下は完全に徳川家のものとなった。
しかし、大阪ではその後、真田信繁は生きており、豊臣秀頼・淀殿を助け、紀州へと逃げ落ちたという噂が流れ、さらなる噂では薩摩の島津家領内に逃げて隠れていると言う噂も出たと言う。
真田信繁家族のその後
1615年5月7日に大坂夏の陣で真田信繁(享年49)が戦死すると、徳川家康に命じられた紀伊領主・浅野長晟は真田信繁の室・竹林院を捜索し、5月20日に紀伊・伊都にて娘のあぐりとともに3人の侍に警護されて隠れていたのを発見。5月24日に京都の徳川家康に引き渡したが、その後、無罪・放免となり、その後は七女・おかね(於金殿)の嫁ぎ先である石川貞清の援助で京都で暮らしたと言う。1649年5月18日に竹林院は京都で亡くなった。
長女・阿菊(お菊)は上田で生まれたとされ、母は真田家臣・堀田興重(堀田作兵衛興重)の娘とされる。九度山蟄居の際にも上田にて堀田興重に育てられ、小県郡長窪宿の郷士・石合重定(石合十蔵重定)に嫁いだ。1642年没。なお、堀田興重は大阪の陣で真田信繁に従い、大坂城で討死している。
次女・於市も上田生まれで、母は真田家臣・高梨内記の娘とされる。九度山に同行したが病死した。高梨内記も大阪の陣で真田信繁に従い、大坂城で討死している。
三女・阿梅の母も高梨内記の娘とされる。大坂落城の際、城中から白綾の鉢巻に白柄の長刀を杖にした16歳ほどの阿梅が、仙台藩・伊達氏の重臣で白石城主である片倉重綱の陣の前へ出てきたので、阿梅は捕まり、連れて帰って侍女とされた。そして、のちに阿梅は片倉重綱の継室となったのである。のちの泰陽院。
 この話には諸説あり、真田信繁が片倉重綱の武勇と英明に感じて、わざと片倉重綱の前に阿梅を出して後事を託したと言う説や、武名高き真田信繁の娘を求めていた片倉重綱が、落城の際、獲得したと言う説もある。
いずれにせよこの縁故で、西村孫之進と我妻佐渡守に守られて落ち延びていた真田信繁の次男・真田四郎兵衛も白石城主・片倉重長に保護されたと考えられ、真田信繁の旧臣たちも片倉家の家臣となった者が多く出た。
次男・真田四郎兵衛は西村孫之進と我妻佐渡守に守られて落ち延び、その後、片倉家の家臣として召し抱えられ、真田守信を称した。しかし、その後、徳川を苦しめた真田信繁の子孫が生きているとの噂が立ち、子供の頃に石合戦で負傷し1624年には既に他界していると、嘘の情報を公式記録にしてしまうなど存在を隠す行動も見られる。1640年には江戸幕府から伊達家に真田守信の出自の調査命令が出た際、伊達家は真田守信を真田信尹の次男・政信の子だと偽証報告している。その際、真田守信は片倉守信(かたくらもりのぶ)と改名し、仙台藩士として300石を与えられた。1670年10月30日に死去。享年59。片倉守信の子・辰信の代において「既に将軍家を憚るに及ばざる」と内命を受け、公に真田姓を名乗る事が許され、子孫は仙台・真田家として今なお続いている。
四女・あくりの母は正妻になる越前・敦賀城主で50000石の大谷吉継の娘(竹林院)。あくりは大坂落城後、徳川家康の使番・滝川一積(滝川一益の孫)の養女となった。滝川一積の妻が、真田信繁の妹であった縁からと考えられる。この養女の件は、本多正純も認めていたようだ。その後、あくりは会津の蒲生忠郷の重臣で、三春城主・蒲生郷喜の子の妻となった。しかし、後年に敵側だった娘を勝手に妻に迎えたと言う理由から、蒲生忠知家では内紛の一因となり、滝川一積は改易処分となる。蒲生家が断絶したあとは、日向・延岡に移ったが、その後は不明。
嫡男・真田昌幸は本文中でも触れたとおり、大阪冬の陣にて自害。13歳-16歳前後であったと考えられ、余りにも若い命であった。
五女・なほ(御田姫)の母は、真田信繁の側室・三好秀次の娘で、1614年に九度山で生まれた。大坂落城を前にして、三好秀次の娘である母と、なほは京都に住む豊臣秀吉の姉・瑞龍院日秀尼の許へ避難。日秀尼は三好法印一露の妻で豊臣秀次の母である。従って御田姫の曾祖母にあたる。御田姫は成人して岩城宜隆(岩城但馬守宜隆)の継室として嫁いだ。
岩城氏は秋田城25万石の佐竹氏の支流で、出羽・由利郡で125000石を領していたが、会津成敗の際、出兵しなかった為、所領没収。その後、1615年8月に信濃・川中島(木島平)で10000石で復活し、その後10000石加増され、亀田藩に転封。御田姫は1628年1月15日に3代藩主となる岩城重隆(岩城伊予守重隆)を生んだが、1635年に32歳で没した。
六女・阿菖蒲(おしよふ)の母は大谷吉継の娘で、九度山で生まれた。大阪の陣後は、姉の阿梅に引き取られ、青木次郎右衛門の妻になるが、のちに再婚して伊達政宗の家臣・田村定広(後に片倉定広に改姓)に嫁ぎ、1635年没した。
七女・おかねの母も大谷吉継の娘で、九度山で生まれた。関ヶ原役の後浪人し、京都で宗休と称して茶人・商人として活動していた、元・尾張の犬山城で12000石だった石川貞清(石川備前守貞清)に嫁いだ。宗休は京都で竹林院を援助した他、大珠院に真田信繁夫妻の墓を建てている。
三男・幸信の母は三好秀次(豊臣秀次)の娘(隆精院)とされるが、真田信繁討死の2ヵ月後に京都で生まれた。豊臣秀次の旧姓である三好姓を称し、幼名は三好左次郎と称した。その後、姉である御田姫の嫁ぎ先の岩城宣隆に引き取られ、、元服すると三好幸信(三好左馬之介幸信)と改名して出羽・亀田藩にて380石で家臣となった。1667年没。
四男・真田之親は詳しい生まれの経緯は不明。真田信繁が九度山蟄居中に百姓の娘に産ませた子とも伝わる。大坂夏の陣のあと、讃岐に逃れて細川国弘(石田国弘)の保護を受け、その後養子になったと言う。「全讃史」では、真田信繁が大坂から脱出して讃岐に至り、その地で生まれた子が真田之親であるとされている。
 
六文銭

六文銭のいわれ その1
真田家が六文銭を旗印として用いたのは武田家滅亡後の北条氏との一戦で勝利してからだとする伝承がある。
居城である上田城に逃げ込もうとした真田勢を北条の大軍が追いかけてきた。そのときに、上杉家から帰された弁丸こと真田幸村が一計をたてた。白無地の旗に永楽通宝を書き込ませ、それを布下や穴山らの部将に持たせ北条軍に夜討ちさせた。北条軍の重臣のひとりである松田尾張守の紋所が永楽通宝であったため北条軍では謀反が起こったかと驚き、その混乱した隙に上田城に戻ることができた。真田昌幸はこれにより幸村に六文銭を家紋にせよと言ったらしい。
しかし、上田城は武田家滅亡直後ではまだ出来ていないことを考えるとあやしい伝承である。
六文銭のいわれ その2
次は九度山真田庵にある言い伝え。六文銭旗の由来としています。
「天正十年三国峠で上杉の大軍を戦わずして説伏せた真田父子は三百余人の軍勢を引いて三国峠を過ぎた箕(笠?)城(箕輪城か)で北条氏政の大軍四万五千と対決。その時幸村は十四才。父昌幸に「家名をあげるのはこの時です。どうして恐れることがありましょうか」と言って無紋の旗を取出し北条方の重臣松田尾張守の旗の紋、永楽通宝の紋を描き、旗六本を造り味方を六隊に分け敵陣に夜討ちをかけた。北条方は松田が謀反を起こした言って大騒動でした。昌幸は幸村にその功を誉め「お前は今から定紋を六文銭にすることを許す」と言いました。これが真田の六文銭旗の由来です。」とあります。
六文銭のいわれ その3
六連銭は仏教でいうところの六道銭のことで、三途の川の渡し賃である。決死の覚悟であるという意気込みが伝わるところからこの家紋にした。
六文銭は真田家の家紋として有名である。六連銭紋。真田家は六文銭を用いる前は雁金(かりがね)の紋であった。ちなみに、この家紋は真田家だけの家紋ではなく、海野氏や深井氏もこの家紋である。 
 
赤備え

あかぞなえ / 戦国時代の軍団編成の一種で、具足、旗差物などのあらゆる武具を朱塗りにした部隊編成の事。戦国時代では赤以外にも黒色・黄色等の色で統一された色備えがあったが、当時赤は高級品である辰砂で出されており、戦場でも特に目立つため、赤備えは特に武勇に秀でた武将が率いた精鋭部隊である事が多く、後世に武勇の誉れの象徴として語り継がれた。赤備えを最初に率いた武将は甲斐武田氏に仕えた飯富虎昌とされ、以後赤備えは専ら甲斐武田軍団の代名詞とされる。
武田の赤備え
武田軍にて赤備えを最初に率いたのは後代に「甲山の猛虎」とも謳われた飯富虎昌である。永禄8年(1565年)に虎昌が義信事件に連座し切腹すると、虎昌の部隊は彼の実弟(甥とも)とされる山県昌景が引継ぎ、同時に赤備えも継承したという。飯富虎昌・山県昌景の両者は「甲陽軍鑑」において武勇に秀でるとともに武田家及び武田軍の中心として活躍した武将として記されており、両名の活躍が赤備えの価値を高めたと言える。また、「軍鑑」によれば武田家中ではこの2将以外にも小幡信貞、浅利信種の2名が自部隊を赤備えとしたという。
発給文書においては、元亀3年・天正2年の武田信豊宛武田家朱印状など武田氏の軍制において装備外装に関する規定が存在していたことを示す文書が見られる。元亀3年文書では信玄が信豊に対し装備を朱色で統一することを独占的に認められており、天正2年文書では武田勝頼により信豊の一手衆が黒出立を使用することを許可されており(これは「軍鑑」や「信長公記」長篠合戦時における記述と符合している)、武田軍では一手衆ごとに色彩を含めて兵装の規格化が整えられていたと考えられている。
武田の赤備えが強すぎたため、[赤備え隊]=[精鋭部隊]または[最強部隊]というイメージが諸大名の間で定着したと言われる。その後、徳川精鋭部隊の井伊直政や真田家最強の真田幸村が赤備えを採用したことでもこの事実が読み取れる。
井伊の赤備え
武田氏滅亡後、本能寺の変による武田遺領の争奪を経て甲斐国は徳川家康によって平定されるが、その折に武田遺臣を配属されたのが徳川四天王にも数えられる井伊直政である。武田の赤備えを支えた山県隊の旧臣達も直政に付けられ、これにあやかって直政も自分の部隊を赤備えとして編成している。井伊の赤備えは小牧・長久手の戦いで先鋒を務めて奮戦し、井伊の赤鬼と呼ばれ恐れられた。以後幕末に至るまで井伊家の軍装は赤備えをもって基本とされた。
家康が大坂の役の折、煌びやかな直孝隊を見て平和な時代で堕ちた赤備えを嘆いた。その中で使い古された具足を身に付けている者達を発見し、「あの者らは甲州からの家臣団であろう」と言い、確認が取れると「あれこそが本来の赤備え」と言ったという。
1866年(慶応2年)の第二次長州征伐では井伊直憲率いる彦根藩が芸州口の先鋒を務めた。長州藩のミニエー銃に対し、彦根藩は赤備えに火縄銃という古来より伝わる兵装で挑むが、小瀬川を渡ろうとした所を長州軍石川小五郎率いる遊撃隊のアウトレンジ戦法を受け一方的に敗れる。この時、赤備えであったことがかえって格好の的となり、夜間にも関わらず長州軍の狙撃を容易にした。この為、彦根藩兵は由緒ある鎧を脱ぎ棄てて逃走した。
真田の赤備え
慶長20年(1615年)大坂夏の陣において真田信繁(幸村)が編成した。敗色濃厚な豊臣家の誘いに乗って大坂城に入った信繁の真意は、恩賞や家名回復ではなく、徳川家康に一泡吹かせてもって真田の武名を天下に示す事だったと言われている。武田家伝統の赤備えで編成した真田信繁隊は、天王寺口の戦いで家康本陣を攻撃し、三方ヶ原の戦い以来と言われる本陣突き崩しを成し遂げ、「真田日本一の兵 古よりの物語にもこれなき由」と「薩摩旧記」(島津家)に賞賛される活躍を見せた。
 
真田幸隆

真田幸隆(1513-1574)の出生には諸説あるが、信濃国・小県郡(現在の長野県東御市)の豪族・海野棟綱の次男あるいは真田頼昌の次男と考えら、真田荘(現在の長野県真田町)に在住して真田姓を名乗ったと考えられる。古文書などには真田幸綱と記載されている事が多く、晩年に真田幸隆と改めたものとも考えられる。この章では真田幸隆で統一してご紹介したい。弟は諏訪神氏系矢沢氏を継いだと考えられる矢沢頼綱。真田幸隆の正室は真田氏家臣河原氏の娘か、藤原隆正の妹とも言われている。正室の名前は不明。子に真田信綱、真田昌輝、真田昌幸、真田信尹、金井高勝。3男だった真田昌幸の次男が真田幸村(真田信繁)と繋がる。
1541年、甲斐を統一していた武田信虎は当時姻戚関係だった諏訪頼重や村上義清らと小県郡へ侵攻。その際、真田氏は松尾城主・海野棟綱に従っていたが、望月・禰津が降服。関東管領上杉の援軍が遅れ、5月14日、真田氏は上州吾妻の羽根尾城主・羽尾幸全を頼り、真田幸隆らはその身柄を長野業政に預けられ、箕輪城内の一角で居住した。
真田幸隆28歳、真田信綱は5歳の時だった。真田氏の生き残り戦略はこの時から始まったと言われる。
この戦いのあと、甲斐・武田氏内部では、武田晴信(のちの武田信玄)が父・武田信虎を駿河に追放。
同じ1541年7月4日には関東管領上杉憲政は小県郡を狙い碓氷峠を越えて侵入。その際、上杉氏重臣の長野業政の客将として、真田幸隆も参戦し佐久に入るが頼りの上杉勢は武田勢に敗北し、旧領回復もならず。
1541年以降、望月氏・禰津氏などは武田に屈したようで、真田氏が武田家臣になった時期や経緯には諸説あるが、1543年-1544年頃に真田幸隆は武田晴信に臣従した模様。(諸説では1541年-1545年と幅があり、よくわかっていない。)
数々の軍功によって武田晴信より、1545年には、旧領の松尾城、又は岩尾城に戻ったとされている。
また有名な「六紋銭」の旗印を武田晴信から与えられとも言われているが、旗印を家臣に与えるという風習はいつの時代でもあまり聞かない為、信憑性に欠け、旗印は真田幸隆自ら考案したものと考えられる。「六道」とは仏道でいうところの、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上であり、その「銭」とくれば、三途の川渡し銭だ。命を惜しまないと言う真田勢の旗印を見た敵兵は、さぞかし恐ろしかったことであろう。
いずれにせよ、真田幸隆が従っていた海野氏などの諸族は、関東管領上杉氏に被官することにより周囲国から自分の領土を守ってきた訳であったが、旧領を追われ、しかも回復できないのは、関東管領上杉氏の救援が遅れたり、頼りにならないからだと、頭の良い真田幸隆は悟ったに違いない。しかし、理由はよくわかっていないが、武田により領地を追われたのに、その仇敵である武田に臣従した真田幸隆の判断には恐れ入る。
1546年頃から真田幸隆は武田軍の先鋒としても活躍するようになり、1546年5月、武田晴信が佐久内山城・大井貞清を攻めた際には、真田幸隆が大井貞清を助命したとされる。
1545年川越城の戦いで、小田原・北条氏に大敗した関東管領上杉氏は、佐久の志賀城主・笠原清繁より救援要請があったことなどから対武田の出陣を決めるが、長野業政は笠原氏を助ける理由はないと猛反対。結局、猛将・長野業政抜きで関東管領上杉勢は出陣した。1546年10月、碓氷峠(笛吹峠)を超えつつあった上杉勢約2万を、武田勢の板垣信方らが攻撃。上杉勢の先鋒はくじ引きで決めた金井秀景だったが、混乱し敗走。2度目の攻撃では真田幸隆や武田本隊が加わって武田勢約7000になっていた為か、上杉勢は足並みが崩れて退却し、笠原氏救援どころか、以後、関東管領上杉氏は信濃での影響力を失った。この時、板垣信方の馬に矢が当たり、落馬し危うかった所を、真田幸隆が救ったと言われている。
このように真田幸隆は「信州先方衆」として、戦にて功績を上げるだけでなく、独自の忍者衆も使用して佐久・小県・北信濃の血縁者など在地土豪を説得し、武田晴信の信濃侵攻を大きく助けた。
1548年の上田原合戦にも従軍し、1550年の砥石城(戸石城)攻撃に際しては、事前に武田晴信より諏訪および旧領の小県の所領を約束された。この時は武田軍は退き陣に際し村上義清軍の追撃を受けて大敗(砥石崩れ)したが、上田原と砥石と2度の武田敗北でも真田幸隆は武田を見限ることなく、武田に尽くし、1551年、真田幸隆は独力だけで、しかも武田7000で攻めても落ちなかった砥石城をたった1日で確保。武田は小県周辺を得ることになり、真田幸隆は旧領を回復し、砥石城を預けられた。この時の功により、本領1600貫になる。更に、諏訪地方の一部や、砥石崩れでしんがりを勤め戦死した横田高松の遺跡・上条合など1000貫が加増された。
「武田家の陰の軍師」「信玄の名参謀」とも呼ばれ、信濃衆(外様)でありながら譜代家臣と同等の待遇を受け、甲府に屋敷を構えた。
1553年には、武田氏への人質として3男・真田昌幸(7歳)を甲斐へ送ると、更に350貫加増。合計約3000貫(石高に換算すると約9000石か?)となる。人質に出されていた真田昌幸の才能は武田晴信の目にもとまり、真田昌幸は武田晴信の奥近習衆に加わり、以後武田勝頼と2代に渡り仕えることになる。
真田幸隆は晩年、真田の跡継ぎである長男・真田信綱と、次男・真田昌輝に真田勢をほぼ任せていたようで、三増峠の戦いなどでは、真田信綱、真田昌輝、真田昌幸の3人の名が見られる。しかし、重要な局面では武田信玄の命で総大将として真田幸隆も出陣することもあった。
1573年、武田信玄が病死すると真田幸隆は後を追うように1574年5月19日、砥石城で病死。享年62。
智将で知られるが、真田幸隆の体には25箇所ほど傷があった話は余り知られておらず、戦場では武士として勇猛でもあった事が伺える。
真田忍者
元は鷹匠の家だった禰津家が真田幸隆に仕えた。禰津家は甲陽流忍術の家元として知られ、真田家に仕えた忍者集団が情報収集、調略活動などにて大いに活躍したことが武田家における真田氏の立場を大きなものにした。禰津信政や望月六郎などがいる。真田忍者はのちに「真田十勇士」のモデルにもなっている。
真田氏の生き残り作戦
真田幸隆の子、長男・真田信綱と、次男・真田昌輝は1575年の長篠の戦で戦死した。残った3男の真田昌幸が真田氏の家督を継いだ。
臣従していた武田氏が滅亡した後は、滝川一益の与力となり、上田の本領は安堵された。しかし、武田を滅亡させた織田信長も本能寺の変で亡くなると、その後、信濃・甲斐は周りの勢力に狙われる状態となるが、北条氏直→徳川家康→上杉景勝 と主君を変え、優れた智謀にて生き残った。
しかし、徳川家康と北条氏直は、上田領を狙い1585年、鳥居元忠を総大将とした7000で真田昌幸の居城・上田城を攻め、同時に北条氏邦が沼田城に侵攻した。その際、真田昌幸は2000の兵力であったが、徳川勢に3000もの死傷者を出させ、上田合戦では大勝を得た。
名実ともに真田氏は信濃の小領主から大名化となり、真田昌幸の存在は豊臣系大名の間でも知られ、その後、豊臣秀吉に臣従する経緯となり、真田昌幸の次男・真田幸村と共に、関が原の戦いの際には豊臣側に協力した。
一方、真田昌幸の長男で、真田幸村の兄にあたる真田信之は、真田昌幸が武田勝頼などに仕えていた際、人質として武田氏に出されていたが、真田氏が一度徳川と和睦した1589年以降は、父・真田昌幸や真田幸村とは、別の道を歩み、以後、徳川の家臣を離れることなく、父・弟と敵対関係となった。
しかし、その結果、真田氏は滅亡することなく、関が原以降、真田信之は上田・沼田藩(約10万石)、その後1622年には松代藩に移封し13万石となり、幕末まで続くことになり、明治に入ってからは男爵家となっている。
徳川へ一環とした忠誠と言う判断、そして父譲りの才気で混乱の戦国末期を乗り切り、家中の騒動を収め、その卓越した政治力と生命力で真田の名跡と血を残した真田信之は真田幸村同様評価できる。
真田昌幸と真田幸村は、関が原以後、敗軍の将として死罪が下されていたが、真田信之が徳川家康に必死に嘆願し、二人は紀伊国九度山に配流を命じられるのみに留まったのも真田一族らしい卓越した交渉能力と言える。大坂冬の陣の後に、真田幸村が恐ろしくなった徳川家康は、真田幸村に信濃一国40万石を与え味方にしようとしたが、それがとても現実的な話でなく、何かウラがある誘い文句と見抜いたのか、最後まで豊臣に忠誠を尽くした真田幸村と言う人物は皆様ご承知のとおりである。
 
真田昌幸

1547年真田幸隆の3男として生まれる。幼名は真田源五郎。母は河原隆正の妹・恭雲院、又は阿続方という説もある。この頃、父・真田幸隆は武田晴信(のちの武田信玄)の軍門に入ってまだ数年と考えられ、1545年に旧領に復帰したばかり。信濃先方衆として、戦場では常に最前線で戦っていた。その為、戦功も多く、真田幸隆の活躍が目立つ。
真田源五郎(真田昌幸)は7歳になると、父母の元を離れて1553年、甲斐・甲府へ人質として送られた。
真田本家の跡取りである真田幸隆の嫡男・真田信綱や2男・真田昌輝ではなく、3男を人質としたのは武田晴信の配慮とも言える。
この頃の1553年と言うと、武田晴信は4月に小笠原氏の残党と村上氏の諸城を攻略。村上義清が信濃を追われて上杉へ逃れた。しかし、上杉は和田城主・大井信広を武田から上杉に寝返えさた為、8月1日に武田晴信は大井信広・大井信定が討ち取るなど北信濃の状態が安定せず、信濃衆から人質を取る事に。そして1553年8月10日に真田幸隆から3男・真田源五郎を預かる変わりに秋和の地(上田近郊)350貫を加増し、真田幸隆は約3000貫(約9000石?)にした。9月には川中島に上杉兼信自ら出陣し、武田晴信と対峙している。
信玄の近習として活躍
人質とは名目上のことであり、真田源五郎(真田昌幸)は、甲府で過ごす間にその才能を見出され、武田晴信の奥近習衆に加わり、将来、武田氏の重臣になるべく英才教育を15年間受ける事となる。
この奥近習衆には「奥近習六人衆」と呼ばれた蒼々たる若き武将がおり、真田昌幸のほかには、三増峠の戦いでも活躍した土屋昌次や曽根昌世、山県昌景からも信頼を得た三枝守友、譜代家老衆である甘利虎泰の嫡男・甘利昌忠、長坂光堅の子・長坂昌国がいる。
1561年の第4次川中島の戦いでは15歳の真田源五郎(真田昌幸)が初陣したとされ、武田信玄の近習として武田信玄の警護にあたった。
その後、1561年-1564年頃には、武田信玄の母方である大井氏の支族になる武藤家の養子に入り真田源五郎(真田昌幸)は武藤喜兵衛昌幸(武藤昌幸)を称した模様だ。
1564年頃には、遠江・尾藤頼忠(のちの宇多頼忠)の娘・山之手殿(寒松院)を妻に迎えた。山之手殿の出身は諸説あって、菊亭晴季の娘とも。京之御前様と呼ばれていたこともあるようで、公家の娘である可能性も高く、武田信玄の仲介で真田昌幸の正室になったものと推測する。
1565年7月には長女が、1566年3月には長男・武藤源三郎(真田信之)が誕生。続いて1567年には2男・武藤弁丸(真田幸村、真田信繁)が生まれた他、1568年には次女も誕生している。
1569年10月、三増峠の戦いで、武藤喜兵衛昌幸(武藤昌幸)は馬場信春隊の検使の旗本を務め、一番槍の功をたてた。
1570年1月、駿河花沢城攻めに武藤喜兵衛昌幸(武藤昌幸)も参陣したと名が見られる。
駿河攻めの際には、曽根昌世と武藤喜兵衛昌幸(武藤昌幸)は、武田信玄から「我が両眼だ」と称されている。
1572年春には、武藤喜兵衛昌幸(武藤昌幸)の名が奉行人として見られる。そして、武田信玄は10月に西上開始し、12月、三方ケ原の戦いでは真田一族も参戦し徳川家康・織田連合軍に勝利している。
1573年4月12日、武田信玄が帰陣途中、伊那駒場で病没する。真田幸隆は落胆のあまり、七日六夜の間、食を断ったという。
1574年5月19日、62歳の真田幸隆も武田信玄を追うように死去。真田幸隆の嫡子・真田信綱(真田昌幸の兄)が、真田本家の家督を継ぐ。
1575年5月21日、長篠で戦いで武田勝頼は敗北し、多くの武田重臣も討死。真田家も当主・真田信綱(39歳)だけでなく、2男の真田昌輝も戦死。
兄2人が討死し、武藤喜兵衛昌幸(武藤昌幸)は、真田を継ぐことになり、真田昌幸として家督を継ぎ、真田昌幸と真田信幸、真田幸村は真田郷に戻った。
1576年、海野長門守、海野能登守の兄弟が真田昌幸に属する。
1578年、武田と上杉が同盟。御館の乱に乗じて相模の北条氏直が占領していた東上野・沼田領へ、武田勝頼は真田昌幸に侵攻するよう指示。真田昌幸は名胡桃城の鈴木主水、小川城の小川可遊斎を味方に引き入れ、沼田城は矢沢頼綱に正面攻撃させ1580年5月には沼田城を奪還した。矢沢頼綱は真田幸隆の弟で、百戦錬磨の武将であった。
1580年1月11日、真田昌幸は名胡桃城で軍議を行う。そして、1月31日に明徳寺城を攻略し、沼田周辺に放火してあと、名胡桃城に引き返した。この後、真田昌幸は沼田城攻略軍を叔父の矢沢城主・矢沢綱頼に任せ一旦甲府に戻る。
1580年3月、矢沢綱頼は沼田城を包囲する。4月上旬、真田昌幸が名胡桃城に入ったところで金子泰清、渡辺左近允らが投降。そして5月になると沼田城の藤田信吉も武田に投降し、5月18日、真田昌幸は無血で沼田城に入城し、6月30日、藤田信吉は沼田城をあとにしている。
以後、藤田信吉は武田勝頼の家臣として真田昌幸に仕えた。藤田信吉は、はじめ用土・小野姓を称してようだが、沼田城開城の恩賞として12月に武田勝頼から藤田姓と能登守を賜り、上野国沼田や南雲に5700貫の所領を拝領している。
1581年1月、武田勝頼より甲斐・韮崎の新府城普請奉行に真田昌幸が任じられる。
また、沼田から会津に逃れていた旧沼田城主・沼田景義が沼田城奪回を目指し大胡氏・那波氏らの加勢を加えて3000の兵で挙兵し、田北の原の戦いで沼田城代の藤田信吉と海野勢は敗戦。沼田衆には旧城主の沼田氏に参陣する者も多かったようだ。しかし、真田昌幸の計略により不意打ちを受けた沼田景義は討死し沼田氏は滅亡している。
真田の生き残り作戦
1582年3月、織田信長の武田攻め開始。武田勢は初戦こそ奮戦するものの、家臣の裏切りが相次ぎ、織田勢が甲斐に侵攻すると、撃退する為の兵すら集める事が困難となり、武田は内から崩壊した。真田昌幸は、武田勝頼に難攻不落な岩櫃城(いわびつじょう)に逃れるよう進言するが、武田勝頼は小山田信茂の岩殿城を目指すこととなる。
その逃亡途中、小山田信茂も裏切り、3月11日、武田勝頼は甲斐・田野で討死。
武田滅亡が滅亡した事により、独自に生きる道を選択することを迫られることとなった真田昌幸であったが、武田信玄から吸収した外交・戦略、父・真田幸隆から受け継いだ神出鬼没の用兵が、生涯、戦国大名へと独自に進む上で役に立つ事となった。
加津野家を継いだ真田昌幸の弟・信尹も武田家滅亡後は真田姓に戻り真田信尹と称した。
鉢形城主の北条氏邦は真田昌幸に手紙を送り、北条氏直への臣属をすすめたが、真田昌幸は織田信長に臣従する。真田昌幸は織田信長に馬を贈り、4月8日に本領安堵。滝川一益の旗下になる。1583年6月2日本能寺の変で織田信長死去。
本能寺の変
織田信長の死が厩橋城(前橋城)の滝川一益に伝わったのが6月9日。滝川一益は明智光秀を討つ為、兵を厩橋城に集めて16000の兵力で6月16日出発し倉賀野城に入る。しかし、上野奪回の為、北条氏直が56000の兵を進めている知らせが入り、6月18日に神流川の戦いとなったが、滝川勢は大敗する。
滝川一益が厩橋城を見捨てて本拠地の伊勢長島城に逃亡すると、真田昌幸はやむなく北条氏直に臣従する。一説によると真田昌幸が滝川一益が碓氷峠から小諸を経て逃走するのを手助けしたとも言われている。
真田昌幸は、旧領・沼田城をなんなく奪い返したが、旧武田領の甲斐・信濃・上野の空白地帯となり、江戸・徳川家康、相模・北条氏直、越後・上杉景勝らが勢力を争うことになる。
1582年7月12日、北条氏直が海野平に進攻し、真田勢は北条の圧迫を受ける。
しかし9月28日、真田昌幸の弟に当たる真田信尹(旧名・加津野信昌)や依田信蕃の斡旋により、真田昌幸は北条を見限り、徳川家康に寝返り、本領安堵と甲州で2000貫を得た。
しかし、徳川家康が北条氏直との和睦条件として沼田領を譲渡すると発言。代替地が不透明な事もあり「沼田は弓矢に問うて切り取った土地。徳川殿からの頂戴した土地ではない。」と真田昌幸は反発し、徳川家康と対立。以後、徳川・北条と敵対していた越後の上杉景勝に近づいた。
1583年1月、埴科の虚空蔵山で真田昌幸は上杉勢を破る。4月、上田城の普請開始。城下町の建設にも乗り出し居城を砥石城から上田城に移した。
1584年、真田昌幸は小県の丸子城を落とす。そして、出浦氏、長井氏らが真田に帰属する。
1585年5月、真田昌幸の勧めで高井の須田信正が上杉景勝に反す。6月21日には沼田城代・矢沢頼綱の子・矢沢頼幸に上田領内の足軽衆を付属させた。
豊臣秀吉に臣従
徳川と北条を敵に回した真田昌幸はたまらず、1585年7月15日、越後の上杉景勝と同盟する。真田幸村(真田信繁)を上杉に人質として出した。一度上杉を裏切った事があった為、臣従の証として真田幸村(真田信繁)だけでなく、叔父・矢沢頼綱の嫡子・矢沢頼幸と軍兵も越後に送った。そして、上杉景勝より九ヶ条の起請文を受ける。その中には、真田に手違いがあっても、謀反の噂があっても、惑わされずに上杉景勝は情をかけるとも記載されている。
これに対して徳川家康は北条氏直と連合軍を組み真田攻めを開始。北条氏邦は沼田城に侵攻。7000を率いる鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉らは上田城攻め。上田城近くの神川西まで侵攻した徳川勢を城下まで誘い込み、真田昌幸と子の真田信幸は僅か2000(諸説あり、5000とも)にて包囲攻撃し8月2日に撃退、約1200名を討ち取った。徳川勢は上田城攻略失敗の閉塞感を打破する為丸子城攻めを敢行するがこれも失敗する。徳川勢は退却せずに、上田城への再攻を伺っていたが、徳川家の重臣・石川数正が豊臣家に寝返った事から全面撤退した。
この徳川勢の大軍相手に大勝利したことにより、真田昌幸の武名は天下に知られる事となる。
9月5日には禰津昌綱が真田昌幸の同心に加わる。9月29日、北条勢が沼田城を攻撃したが矢沢頼綱は撃退する。11月-12月頃には真田昌幸は、豊臣秀吉に臣従して、真田幸村は上杉から豊臣秀吉へ人質として出仕した。
1586年5月25日、北条氏直は沼田城を攻撃するが敗退。7月17日、再び真田昌幸を討つために徳川家康自ら駿府まで出馬。19日には甲府に入る。8月3日、豊臣秀吉の奉行・増田長盛と石田三成より、真田昌幸は「表裏比興の者」と称される。8月7日、豊臣秀吉が徳川家康に働きかけ、徳川家康の真田攻めは中止。
ただし、豊臣秀吉は上杉景勝に真田昌幸支援を禁じ、徳川家康家臣の水野忠重に真田討伐を指示する書状を送った。さらに上杉景勝にも信濃国割を伝え徳川家康と協力するように命じ、真田昌幸の領する上州沼田についても指示している。
しかし、この真田討伐は突如中止。10月、徳川家康はついに大坂に行き、豊臣秀吉に臣下の礼をとった。
これにより、豊臣秀吉は関東を徳川家康に任せることにして、上杉景勝へは真田昌幸が所領を徳川家康に返せば罪を免じると知らせ、真田昌幸の上洛を命じた。11月4日、豊臣秀吉の命により、真田昌幸は徳川家康の与力大名となる。
1587年3月、真田昌幸は駿府に出向き、徳川家康と会見。その後、上洛して豊臣秀吉に拝謁。
1588年、沼田城代の矢沢頼綱を沼田から呼び戻して、信濃小県郡内に知行を与える。
1589年2月13日、真田信幸が徳川家康に出仕。徳川家康は真田信幸の才能を高く評価し、本多忠勝の娘・小松姫を徳川家康の養女とした上で、真田信幸に娶らさせた。
豊臣秀吉が沼田領の裁定を下す。7月14日、沼田領の利根川より東を北条氏に明け渡し、真田氏は代替地として信濃伊那郡・箕輪領を与えられた。
1589年11月3日、真田昌幸が在京している間に、北条氏邦の家臣・猪股邦憲が、真田領の名胡桃城を攻め、真田家臣・鈴木主水が自害する事件が起こる。この北条氏の行動に豊臣秀吉は、諸大名に対して北条征伐の宣戦布告状を11月24日達する。
1590年3月、真田昌幸、真田信幸、真田幸村は3000の兵にて、前田利家を大将とした北国軍に加わり、上杉景勝・直江兼続・前田慶次らと共に小田原城攻めに参戦。4月19日には松井田城攻め。こり松井田城攻めが真田幸村の初陣とされる。7月上旬には武蔵・忍城を真田昌幸が攻略。7月5日、小田原城降伏。7月下旬、豊臣秀吉より沼田領を安堵され、真田昌幸は真田信幸に支配を委ねた。
1592年3月、真田昌幸、真田信幸、真田幸村は朝鮮の役に参陣する為、肥前・名護屋城に赴く。1593年8月、真田昌幸は名護屋より大坂に戻り、そして上田に入った。12月、真田信幸が伏見城普請を命じられ、1594年3月伏見城普請開始。真田昌幸、真田信幸、真田幸村(真田信繁)の3人分で役儀を1680人と定めた。11月、真田信幸が伊豆守、真田幸村が左衛門佐に任ぜられる。
1598年8月18日、豊臣秀吉が死去。
究極の生き残り術
1600年、真田昌幸、真田信幸、真田信繁は在京しており、徳川家康に促されて会津の上杉景勝を討つため、国元に戻り出陣の準備を行い、7月の上旬に上田を発ち関東に向かう。宇都宮で徳川勢と合流する予定だったが、
7月21日、下野・犬伏の陣に石田三成の密使が真田昌幸に届く。その長束正家、増田長盛、前田玄以の連署状を見て、真田昌幸、真田信幸、真田信繁の3人は今後の真田家の方針を話し合った。真田昌幸の妻・山手殿は羽柴秀長の家臣で13000石だった宇多頼忠の娘であるが、宇多頼忠のもう1人の娘は石田三成の正室になっているだけでなく、山手殿自身、大阪で石田三成の人質になっていたと考えられる。
真田信幸は徳川四天王の1人・本多忠勝の娘(徳川家康の養女)を妻に迎えており、一時、徳川家に出仕もしていた事から、徳川家康を裏切る事はできない。
このような事情から、真田昌幸と真田幸村は石田三成につくことを決めて徳川の陣を離れ上田に帰参。真田信幸はこのまま徳川勢として小山に進み、徳川秀忠にその旨を報告。この真田の決断は、犬伏の別れとも呼ばれている。
徳川家康は7月24日小山に着陣すると、即日、真田信幸を賞して、離反した真田昌幸の所領についても真田信幸に安堵させた。
一方、真田昌幸と真田幸村は今生の別れと、上田に引き返す途中、沼田に寄って孫(真田信幸の子)の顔を見てから上田に帰ろうと思い、夜半に沼田城に使者を出し入城を申し入れたが、城を守る真田信幸の正室・小松殿は入城を拒否したと言われる。
ただし、翌日、沼田城下の正覚寺に孫を連れて小松殿は真田昌幸と会ったと伝わる。そして、真田昌幸と真田幸村は7月23日に上田に帰参。
宇都宮城を8月24日に出発し、中仙道を通り、関ヶ原を目指した徳川秀忠軍38000は、9月2日に小諸城に到着。翌日、真田昌幸と、徳川秀忠軍に同行していた兄・真田信幸と本多忠政が会見。真田昌幸は頭を丸めて降伏する旨を伝えたが、上田城に兵糧・弾薬などを運び込み、上田城周辺の各所に伏兵をしのばせるなど、軍備を固める為の時間稼ぎであった。降伏の約束を守らない真田昌幸に使者を出したが、逆に宣戦布告されると徳川秀忠は怒り、9月5日攻撃命令を出す。
砥石城には真田信繁が入っており、徳川勢に抵抗する姿勢を見せたが、真田信幸勢が進撃すると、真田幸村は兄との戦闘を避けて上田城に撤退し、砥石城は真田信幸が占領し守備した。
徳川秀忠は9月6日に上田城外の染谷台に陣を進め、上田城を包囲。様だ昌幸と真田信繁が約50騎を率いて城外に偵察に出たのを見た徳川勢は、真田昌幸らを追って上田城に接近し、上田城付近に潜んでいた真田の伏兵と戦闘となった。徳川軍は次々に兵を進めた所に、伊勢崎城(虚空蔵山)から討って出た伏兵が、手薄になった徳川秀忠本陣を襲撃。更に真田鉄砲隊が射撃開始し、真田幸村隊が城から討って出て、徳川秀忠軍を挟み撃ちし、徳川勢は大損害を被った。
その後、徳川勢は援軍を得たので、真田昌幸、真田幸村は2000で上田城で篭城。徳川秀忠は9月9日に上田城攻めを諦めて、先に進む事を決意した。
徳川軍は二度にわたって真田昌幸に敗れたこととなる。そして、徳川秀忠は、悪天候もあり、徳川秀忠軍は結果的に9月15日の関ヶ原決戦に間に合わなかったのである。
関ヶ原の結果、石田三成に協力した真田昌幸と真田幸村は窮地に立たされる。
真田信幸は父・真田昌幸と決別すべく、名前を信之に改めて、以後、真田信之と名乗り、真田昌幸と真田幸村には上田領没収と死罪が下されると、徳川家康に味方した真田信之は懸命な助命嘆願をする。真田昌幸と真田幸村は何とか命は助けられ、16人の家来と高野山麓の九度山に蟄居。山手殿は真田信之に引き取られ上田に留まった。この後、出家して名を寒松院と改めている。九度山に付き従った16人の家臣は真田十勇士の元とされている。 真田信之は沼田領30000に加え、旧領30000も安堵され、合計95000石で上田藩主となった。 真田昌幸と真田幸村は九度山の真田庵で暮らし、真田信之からの仕送りもあったが、有名な「真田紐」を作り販売もしたという。
1603年2月、徳川家康が征夷大将軍に任じられ、江戸幕府が開かれる。
1611年6月4日、大阪の陣を目前にして真田昌幸は配流先の九度山で病死。享年65歳。本領の真田長谷寺に葬られたが、正式の葬儀は行われず、真田昌幸の一周忌がすむと、上田から真田昌幸に随行した家臣の大部分は帰国し、真田信之に帰参した。
真田忍者
禰津信政(ねづのぶまさ)
通称は神平(しんぺい)と言い、真田幸隆・真田昌幸に仕えた忍者集団の頭領。元は鷹匠の家だった禰津家は甲陽流忍術の家元として知られ、後に女忍者集団「禰津流くの一」を輩出。
出浦盛清(いでうら もちきよ)
村上氏の一族で更級郡村上村が出自。出羽清種(出羽左衛門尉清種)の2男、更級郡の上平城(出浦城)主。村上義清が越後に逃れたあとは武田信玄に臣従し、武田信玄から素破を預かった。部下より先に自ら敵情を視察し、見てきたと言う素破のサボリを見破ったという逸話が残る。 1582年頃は出羽上総守と称し、武田家滅亡後は森長可に従っていたが、本能寺の変の後、西へ戻る森長可を猿ヶ馬場峠まで送り、形見の脇差を貰ったとされる。
1583年から真田昌幸・真田信之に仕え、小県郡武石村に30貫文を領し吾妻奉行を拝命。吾妻忍び衆を統率して活躍。1590年6月の忍城攻めでも奮戦。のち松代藩の忍者の頭領となり、出羽対馬守と称している。
横谷幸重(よこたにゆきしげ)
通称は左近。もともとは雁ヶ沢城を本拠とする土豪で、真田昌幸・真田信之の2代に仕えた。出羽清種と共に真田忍者集団の頭領の双璧として並び称される。真田昌幸の参加したほぼ全ての合戦にその名が見られる。
割田重勝(わりた しげかつ)
吾妻横尾村の割田与兵衛の子で割田下総守。武田時代の沼田城攻めでは小荷駄奉行としても名が見られ、「吾妻七騎」の1人にも数えられる。忍びの達人と言われ、北条氏が真田昌幸の沼田城に攻め寄せたとき、敵将・松田憲秀から名馬を奪った話などが残されている。大坂の役のあと、盗みを働いたため真田信之の家臣・出浦盛清の手により討たれたという。
唐沢玄蕃(からさわ げんば)
信濃・沢渡の地侍で、武田時代の沼田城攻めでは使番として名が見られる。武田滅亡後はは真田昌幸・真田信之に仕えたとされる伊那忍者。割田新兵衛とともに信濃・尻高城に忍び込み、焼き討ちに成功。長篠合戦にもその名が見えるが、危地をくぐり抜け無事帰国している。
鷲塚佐太夫(わしづかさだゆう)
真田昌幸配下の真田忍者として名が見られる。鷲塚佐太夫の子が、猿飛佐助だという説もある。
 
常田隆永諸説 

常田隆永1
(常田氏) 常田氏は真田幸隆、矢沢頼綱の弟・常田出羽守隆永(隆家とも)を租とする。隆永は兄・幸隆に従って転戦したあと、元亀3(1572)年に没している。隆永の子・図書助道行には子供がいなかった為、河原丹波守隆正の三男をもって図書助永則を名乗らせた。永則は長篠の戦で討死。その子・作兵衛も大阪夏の陣で討死した。このため河原綱家の五男・小兵衛のちの忠兵衛に常田の家名を継がせた。  
常田隆永2
(ときだ たかなが) 戦国時代の武将、上野長野原城主。
信濃の豪族・滋野氏の一族である海野氏の傍流である。常田(現在の長野県上田市)は荘園として早くから開けた土地で八条院領であった事が知られるが、常田家に関しては系譜も含めて文献がほとんど無く、詳細は不明。
兄は武田信玄に仕えた真田幸隆で、隆永は常田家に養子として入り、兄と同じく武田信玄に仕えた。永禄5年(1562年)、上杉政虎(輝虎・謙信)に属する斎藤憲広の居城だった上野国長野原城が武田方に落とされると、その城代に任命された。しかし翌年、憲広の反撃にあい、城を落とされ戦死したという。元亀3年(1572年)、上杉氏との合戦で戦死したとも伝わる。
ただ、これらの経歴に関しては不明な点が多く、実情はわからない。武田家臣として『甲陽軍鑑』には隆永の名は散見しており、同書の「信玄代惣人数書上」では信濃先方衆として矢沢家と共に記載されており、隆永は真田家の家臣ではなく、独立した小領主として武田家に認められていたようである。
常田俊綱は息子と言われるが、隆永自身だともいう。
子孫は矢沢氏と同じく真田家の家臣として存続した。 
常田隆永3
真田頼昌の三男である隆永が養子として入った常田氏は、現在の上田市の中心部の一部である常田の庄を治めていた豪族でした。
兄である真田幸隆が武田氏の下で海野氏の主流派として活躍している時は、武田氏の家臣として幸隆を支えていましたが、矢沢頼綱よりも早い時期に真田氏の家臣になったものと思われます。
兄である真田幸隆・矢沢頼綱と共に武田氏の家臣となり奮戦した後、吾妻郡の箱岩城の城主となりました。
岩櫃城攻略の真っ直中だった1563(永禄6)年9月に起きた長野原合戦で、上杉氏からの攻撃に対して隆永は激しい攻撃から城を守りきりましたが、この戦いで長男俊綱が戦死しました。
その後、家名存続の為に河原隆正の三男である隆頼を養子にしました。
1583(天正11)年頃、徳川氏の下で上田小県を平定した真田昌幸が常田の庄を含む現在の上田城周辺を上田に改名し上田城を築き始めました。
そして、約2年後の1585(天正13)年頃、真田氏が沼田問題で徳川氏と訣別し合戦に及んだ頃に上田城は完成しました。
江戸時代以降に藩主邸として使われた場所は昌幸が上田城に在城した当時では、常田屋敷と呼ばれたという説もあります。
昌幸が陣取る上田城の周囲に、元々地元で栄えてきた常田氏が真田氏重臣として大きな館を構える事は不自然ではないかも知れません。
隆永は晩年、剃髪して道尭を名乗り、1570(元亀3)年7月8日に亡くなりました。
長野県上田市にある月窓寺に月窓寺殿前羽州公伝叟一天大居士と刻銘された墓があります。 
真田源太左衛門尉信綱・真田兵部丞昌輝・常田隆永
真田信綱は幸隆の嫡子で、幸隆が隠居してその家督を相続した人物。昌輝はその弟。常田隆永は幸隆の弟とされます。この3名いずれも真田家の一族に属します。
まず常田隆永、この人物は真田幸隆の弟と言うだけで、その事績は伝わっていません。上田市の中心、上田駅から信州大学へ向かう途中に常田と言う地名は今でも残っています。上田城からまっすぐ伸びる街道上です。おそらくこの地に移住して常田を名乗ったと言う事なので、一応真田家から独立して一家を構えた人物であると想像出来ます。
隆永は永禄六年九月に吾妻郡長野原で行われた真田と羽尾との合戦で、長野原砦の守将として働き討死したと言われます。また元亀三年に討死したともいわれているようです。
真田源太左衛門尉信綱、真田信綱は幸隆の嫡子で真田家の家督を継いでいます。真田幸隆は武田晴信が出家して信玄を名乗った頃、同じく出家して一徳斎を名乗ります。
本来、出家したのですから引退して家督を譲るべきなんですが、晴信は信玄となってもその家督を譲っていません。これが信玄亡き後に武田家の結束を欠き、武田家が滅亡する要因の一つとなっています。信玄はこの頃にその嫡子義信に家督を譲るべきだったかも知れません。
真田幸隆の場合、信綱にその家督を譲ったのは、長篠の合戦の数年前であったと想像されます。わずか数年ですが信綱は真田家の家督を相続しています。
信綱が家督を相続している証拠しては、真田家の信仰の中心と言える山家神社、この山家神社は白山を奉っているわけですが、その白山、信仰上の白山は「四阿山」でこの山頂部に奉られている奥社に「信綱」が寄進した記録があるからです。
幸隆が寄進した記録もありこの文字は、幸隆ではなく幸綱を読める事から、幸綱が正しいのではないかと言われてきました。これが決定的となったのは、高野山蓮華定院に残っていた幸隆の母の書状でした。
真田兵部丞昌輝、真田昌輝は幸隆の次子で信綱の弟です。信綱が真田家の家督を相続した頃、昌輝は真田家分家を創設して独立したものと思われます。
50騎を預かる侍大将として歴戦を戦い、兄を補佐して信州先方衆の副将格として活躍したようです。
永禄11 年(1568年)には信綱と駿河国攻めの先鋒を担い、永禄12年(1569年)の三増峠の戦いでは信綱や内藤昌豊とともに殿軍を務めて戦功を挙げています。
昌輝の嫡子信正は、武田家滅亡後、松平忠輝・忠昌に仕えた。子孫は越前松平氏に仕え、越前真田家として現在も存続しているようです。
真田昌幸、幸村、信之に比べて、信綱、昌輝兄弟はどうしてもその事績が少なく、真田家の一族にあっても影が薄い存在といえます。 
真田幸隆 随身
武田家には優秀な武将が多く存在したが、中でも晴信の信濃攻略において、山本勘助とともに大いに活躍した武将がいた。
真田幸隆である。今回は幸隆が武田氏に随身するまでを中心に、少しご紹介しておきたい。
幸隆は永正十年(1513)、信濃小県(ちいさがた)郡の豪族・滋野一族の本家筋に当たる海野信濃守棟綱の子として生まれ、同郡の北東部に位置する山家郷真田(長野県上田市)に住んで初めて真田氏を称したという。真偽はともかく、この「真田」の地名については次のような説がある。
「上田にかぶと石(甲石)と云ふ村あり。此の処に三田と申す田■■(不明) 此の処、真田御在城成され候に付いて、御名字に罷(まか)り成り、真田と申す由、三田と申す処を真田と申し伝へ候由」(「赤沢光永留書」)
この記録によれば、幸隆が海野氏改め真田氏を称するに当たって、本来なら「三田(さんだ)」と称すところを「さなだ」としたため、後に表記も「真田」と改めたのではないかということである。
幸隆は海野棟綱の子とされる場合が多いが、系図によっては長男とするものや二男とするもの、あるいは長男幸義の甥(つまり棟綱の孫)とするものなどもあり、よくわかっていない。幼名は小太郎、諱は初め幸綱と名乗った。官称は弾正忠 (だんじょうのじょう)、弟に矢沢薩摩守頼綱、常田出羽守隆永ら、子に源太左衛門尉信綱・兵部丞昌輝・安房守昌幸・隠岐守信尹・宮内介高勝(金井氏)がいる。
信綱・昌輝兄弟は天正三年(1575)の長篠設楽原(したらはら)合戦において戦死したため、三男の昌幸が家督を嗣いだ。ちなみに昌幸は信之・幸村(信繁)兄弟の父である。
さて、天文十年(1541)五月十三日のこと、武田信虎は諏訪頼重・村上義清と連合して信濃小県郡へ侵入、滋野一党の拠る尾野山城(上田市)を攻めた。引き続き翌日に海野平の戦いで滋野一党を撃破すると、敗れた同党の禰津(ねづ)氏・望月氏は降伏、海野棟綱・幸隆父子は幸隆の岳父(妻の父)である羽尾幸全を頼って上野吾妻郡羽尾郷(群馬県長野原町)へと逃れた。
こうして信濃を追われた幸隆であったが、直後に武田家で異変が起こった。六月二十四日のこと、武田氏の当主信虎が、嫡子晴信によって甲斐から追放されたのである。そして晴信は幸隆の器量に目を付けていたようで、やがて雌伏していた幸隆を招いた。
ただ、その時期については
「天文十四年乙巳春、甲州武田晴信、幸隆を招き寄せ、本領を与えらる。此故に旗下に属し」(『沼田記』)、
「天文十五年丙午、幸隆上州ヨリ信州ヘ帰国有リテ、小県郡松尾城ニ居住シ玉ヒ、海野ヲ攻メテ真田弾正忠ト名付キ給フ」(『滋野世記』)
など、諸書様々で明らかではない。
最も信用のおける『高白斎記』には、天文十八年三月十四日の記録に
「七百貫の御朱印望月源三郎方へ被下候真田渡ス依田新左ヱ門請取」
とあるので、この頃までには晴信の幕下に参じたと考えられる。ちなみに『真田秘伝記』には時期の記述はないものの、「幸隆公上州箕輪に浪人にて御坐(おわ)せしを、信玄公、山本勘助に御尋ね有りて、召し寄せられ、食禄を下され、度々軍功あり」と見える。
そして、幸隆が武田家に従うと同時に、父棟綱の消息が以後途絶える。このため幸隆が密かに父を殺したのではないかともいわれているが、あながち荒唐無稽な話とも言えないようである。以下は史実として確認は出来ないが、一つの見方としてご紹介する。
当時、信濃東部〜上野西部に割拠していた滋野一族は関東管領上杉家に従っていたが、武田信虎らの侵攻に際し、上杉憲政に対して援軍を要請したものの、ついに加勢は現れなかった。信濃を追われて上野で雌伏しつつ旧領回復の機会を窺っていた棟綱・幸隆父子の目に、自分の父で当主の信虎を追放した若き晴信の姿がどう映ったか。棟綱・幸隆を信濃から追い出した武田氏の当主は信虎であり、信虎は棟綱・幸隆にとって不倶戴天の仇敵である。では、その信虎と対立して甲斐から追い出した晴信はどうか。幸隆は、晴信は明らかに逸材であると認めていた。さらに信虎とは違う一面を持つはずであり、そこに期待をかけたのである。
屈辱と引き替えに、晴信に従うことによってこそ旧領回復のチャンスがあると考えたのではないか。すでに斜陽化の兆しが見える関東管領家にいつまでもしがみついていても、晴信が当主となった武田氏討伐は難しいと判断したのである。
一方、棟綱はそうは考えなかった。あくまで自分たちを追い出した「武田氏」への報復を果たした上での旧領回復にこだわった結果、幸隆と棟綱の間には埋めることの出来ない溝が出来、何度か激論を交わした末に、ついに幸隆は棟綱を殺害した上で晴信のもとへ参じた・・・。ちなみに、幸隆はその際羽尾ではなく、箕輪 (上杉家の重臣・長野業正の本拠)から晴信のもとへ移ったとする記録が多い。
以上はあくまで見方の一つであるが、晴信は幕下に参じた幸隆を手厚く迎えた。晴信は、自分と同じく父子の対立を経験した幸隆に同情する部分があったのかもしれない。やがて幸隆は大きな戦果を挙げて悲願の旧領回復を果たすのだが、その「戦果」である天文二十年五月の戸石城攻略については稿を改めてご紹介する。
しかし時代の流れは容赦なく押し寄せ、後の永禄六年(1563)十月十四日、幸隆は晴信の将として出陣、上杉方斎藤憲広の拠る上野岩櫃(いわびつ)城(群馬県東吾妻町)を攻め落とした際、岳父でかつて苦境を救ってくれた羽尾幸全を討ち取っている。幸隆の心中はどのようなものだったのであろうか。 
真田随想録 / 祢津家悲報
平沢峠(佐久甲州街道)で、平賀源心の胴塚に、山野の草花一輪を手向けた真田幸隆と、山本勘助は、峠を下り、平沢宿に入った。平沢宿は、飯盛山の南面にあって、宿場の西を流れる大門川の対岸は、甲斐の国である。したがって、ここで目にする山々は、すべて甲州の山ということになる。地勢上からいって、信州よりは、甲州の影響が随所に現れている。「この宿の人びとは、上津金村(山梨県須玉町)海岸寺の檀徒が多く、宿内にある道祖神は甲州色の強い石宮入りで、人びとの生活が甲州に深く関わっていることを示している」と、『信州の街道』(郷土出版社)の平沢宿の説明にもある。
さて、一行は平沢宿で四日目の朝を迎えた。出立の旅支度を整えたところへ、意外な人物が現れた。幸隆の末弟隆永である。
「兄じゃ、おひさしゅうござる」
潤んだ目が、幸隆を凝視している。
「隆永か…」
これも答えたきり言葉が続かない。
常田隆永、前にも書いたとおり、幸隆の弟であるが、常田家に養子に入って常田姓を名乗った。『長野県市町村誌』によれば、「常田屋敷は、常田村(現上田市常田)の戌亥の方にあり。常田氏代々之に居る。天文十年五月海野棟綱、村上、諏訪両氏と神川に戦ひ、敗走して上州へ逃げる。常田出羽守隆永(真田幸隆の弟なり常田氏を嗣しと見ゆ)亦此の時に走りしならん。」とあって、隆永も天文十年の海野平の合戦後は、上州に逃亡していたものであろう。その折、兄幸隆と同一の行動を取ったかどうかは詳らかではない。上州には、海野の支族が多く蟠踞していたところから、いずれかの支族の庇護を、受けていたものと推定したい。
隆永の落ち延びた先は、鎌原城辺りであろうか。城主は、鎌原宮内少輔である。合戦の混乱の中で、一族郎党は、散り散りになった。隆永は、討ち死に寸前、神川に臨む崖に転落して意識を失った。それが結果的に命を救うことになる。意識を取り戻した時、命に別条がないことが分かったが、両太ももと右腕に、かなりの深手を負っていた。薬草の類いで傷を癒しながら、昼は森や林に潜み、夜になって行動を起こした。執拗な追っ手の探索を逃れて、上信の国境を越え、ようやくの思いで鎌原の城に到着した。合戦から二か月余を経過していた。
「ようこられた。傷はしっかりと治しなされ」
宮内少輔は、隆永を迎え親切に言ってくれた。
隆永は、以来治療に専念し、鎌原城に止まり、傷がすっかり癒えたのはこの春である。この間、棟綱の死を仄聞し、また、兄幸隆の動静をわずかに耳にしたが、行き会えるあてはなかった。
「隆永、よくもわしがここにいること分かったものじゃな」
まじまじと隆永を見詰めて、幸隆は言った。
「実は兄じゃ、こうして会えるきっかけは、祢津家に不測な事態がおきましてな」
と言って、隆永が続けた話は以下の内容であった。
坂城・葛尾)城主・村上義清にとって、祢津元直は、海野一族と手を組んだ宿敵である。もっと言えば、義清の東信濃の制覇にとって目の上の瘤とも言える。海野平の合戦に勝利して、この瘤を除去できたと思ったのだが、諏訪頼重に、祢津家は諏訪大社にゆかりの神家だから、所領を安堵させて欲しいと頼まれ、それを承知してしまった。ところが最近、元直は、その後預かった諏訪家の姫を、信玄に娶らせた。それを義清は、元直や幸隆が、武田と結ぼうとする不穏な動きと見て取った。そこで細作を放ち、内偵を進めていたらしい。が、思うように裏がとれない。そこでついに義清は、非常手段にでた。
「兄じゃ、義清は残酷なことをしたものよ。兄じゃも多分ご存知の元直殿の弟御、長命寺の住職を捕らえ、拷問にかけたうえ、千曲川の河原で磔殺したのでござる」(『評伝真田一家』猪坂直一著から)
隆永の握り締めた拳が、小刻みにふるえた。山の湯を出発する直前に、元直の重臣・別府種臣の注進した危惧が、現実のこととなったのか、と幸隆は思った。種臣の注進で、自分は難を逃れたが、元直は、今どんな状況にあるのか、幸隆の思いは、祢津の地へと飛んだ。暗く、辛い思いであった。
元直の弟が磔殺されたのは、幸隆等が山の湯を出立した日という。その日のうちに祢津から鎌原城にも連絡があり、村上の探索を避けるために、鎌原の家中の者から、甲州に向かっている幸隆に、伝えてほしいという依頼があった。そのことは隆永の耳にも入った。その時、隆永は
(この話を持って、兄に会いに行こう)
と咄嗟に思ったという。
「兄じゃに会える。そのことだけがが頭にあって、他のものを遣わすと言った鎌原殿にたってお願いして、ただ、一途に追いかけて来申した」
といって、汗を拭う隆永の顔には、しきも切らず汗が流れていた。
「隆永よ、よく駆け付けてくれた。わしもお前に会えてうれしい。なれど今は、元直殿のことが気にかかる。何ごともなければいいが」
長い沈黙が流れた。弟との再会の喜びと、元直への気掛かりの、ない混ぜにした複雑な気持ちが幸隆のこころを包んだ。
(わしが、武田家に仕官することで、ついに犠牲者がでたのか、義清は、元直の肉親にむごい仕置をすることで、武田と結んではならぬと暗に恫喝したのであろうか…)
幸隆は暗澹たる思いに閉じ込められた。勘助も黙ったままである。隆永を加えた一行は、そのまま信濃を後に、大門川を渡って甲斐の地に入った。八ヶ岳の主峰・赤岳が、甲斐の空にくっきりと聳えていた。
(なれど負けてはならぬ。この山のような高い意志を持つことだ)
と思いつつ、幸隆は歩みを続けた。 
長野原城1
(ながのはらじょう) 別名/箱岩城 所在地/群馬県吾妻郡長野原町 主要城主/斉藤氏、常田氏、羽尾氏、湯本氏
吾妻川と白砂川(旧称・須川)が合流する舌状台地に長野原の町並みが広がっています。長野原城はその町並みの北側にそびえる急峻な岩山の尾根に設けられた東西約700メートルの細長い城郭です。その築城年代はわかっていません。
武田信玄が上州への進攻を開始すると、武田の上州攻略先鋒方真田幸隆は永禄5年(1562)に斉藤氏のものであった長野原城を落とします。長野原城には幸隆の弟・常田隆永が入り、岩櫃城の斉藤憲広(上杉氏配下)とにらみ合います。永禄6年(1563)、斉藤憲広は農繁期のため郷士が地方に戻り手薄となった長野原城の攻略に動きます。常田隆永は自ら須川西岸の諏訪神社の辺りまで出て斉藤方を迎撃しますが討死し、長野原城は斉藤方の手に渡りました(このとき討死したのは常田隆永の息子の俊綱で、隆永は元亀3年(1572)の上杉方との戦いで戦死したとも伝えられています)。斉藤氏が奪い返した長野原城には、羽尾幸全、海野幸光が入りますが、間もなく真田氏に奪い返され、草津の領主であった湯本善太夫が城主となりました。
天正10年(1582)以降はどのような変遷をたどったのかはわからず、廃城の時期も不明となっています。 
長野原城2
沿革
滋野氏流海野氏一族の羽尾氏によって築かれたとみられているが、詳しい築城年代は不明である。羽尾幸全は、同族の鎌原幸重と所領争いを起こし、岩櫃城主斎藤憲広と結んで鎌原氏を逐った。鎌原氏は武田信玄を頼り、永禄五年(1562)八月に、信玄は真田幸隆に斎藤氏攻略を命じた。斎藤氏は武田氏に降り、長野原城には幸隆の弟常田隆永が入れられた。
翌永禄六年(1563)九月、憲広は白井長尾氏の援軍を得て、幸全も従えて長野原城の奪還を図った。隆永とその子俊綱(同一人物とも)は打って出て城下で合戦に及んだものの、討ち死にした(隆永は生き延びたとも)(長野原合戦)。
幸全は旧領を回復したが、まもなく信玄の命により再び真田勢が吾妻へ侵攻した。同年十月、岩櫃城は幸全の弟海野幸光・輝幸兄弟や憲広の甥則実の内応により落城し、幸全は上杉氏を頼って落ち延びた。長野原城は、真田家臣湯本善太夫に与えられた。善太夫は、天正三年(1575)の長篠の戦いで致命傷を負い、跡を甥の三郎右衛門が継いだとされる。
天正十二年(1584)に上杉景勝から岩井信能(『日本城郭大系』には「岩井備前守」とあるが、備中守の誤りであろう)に宛てた書状に、同年三月二十六日に信濃国高井郡の須田信正・市川信房が、羽尾源六郎幸全を援けて長野原・丸岩両城を落としたことが記されている。翌十三年(1585)、昌幸は、徳川家康が真田氏を介さずに取り決めた沼田城の北条氏への譲渡を拒絶し、上杉氏と結んだ。上杉氏に奪われた吾妻領は、このとき昌幸に返還されたものと推測される。
その後の長野原城については不明である。

長野原城は、吾妻川と白砂川の合流点に細長く伸びた丘陵に築かれた城です。最初、『中世城館調査報告書集成』所収の縄張り図にしたがって諏訪神社裏手から登ろうとしたのですが、八ツ場ダム建設に伴う線路や道路の建設現場に阻まれ、行きつくことができませんでした。諏訪神社前は、上記の長野原合戦の古戦場とされ、境内に石碑が建てられています。
後日、「儀一の城館旅」管理人の儀一さまとご一緒させていただくことになり、儀一さんの入念な下調べにより、かみつけ信用組合長野原支店の向かいに、無事登城口を見つけることができました。
この道を上ると、別称の箱岩城のもととなっている箱岩の下に着きます。その名の通り四角くせり出した巨岩は、長野原城のシンボルともいえます。箱岩の名は、あるいは丸岩城との対比でつけられたものかもしれません。さらに上ると、腰曲輪や井戸跡を経て、尾根筋にでます。ここから東に行くと、箱岩の出丸に出ます。さらに東に行くと、三方を急崖に囲まれた細長い曲輪に出て行き止まりとなります。『集成』の縄張り図では、さらに東の丘陵先端までびっしりと曲輪が続いているように描かれています。しかし、この行き止まりの曲輪は周囲を鉄柵で囲まれており、前述のとおり麓の諏訪神社からの道は塞がれているため、確かめることができませんでした。
個人的には、この突き当たりの曲輪はその急崖で東側からは遮断されており、羽尾氏や湯本氏の規模を考えると、それより東にまで城域を広げる必要はないようにも感じられます。
さて、箱岩出丸から西へ向かうと、本丸の手前に1つ小さなピークがあります。秋葉社跡の石碑が立っており、『日本城郭大系』では秋葉山出丸とされています。秋葉社がいつから祀られていたのかは不明ですが、石碑のあるところは櫓台状になっています。この出丸は、西側に武者溜りをもち、さらにその外側に堀切を穿つという、堅固で凝ったつくりとなっています。おそらく、真田氏の手によるものと推測されます。
秋葉山出丸の西に本丸域があります。本丸にも櫓台状の小区画があり、そこに城址碑が建てられています。その下には、段築状にやや広い曲輪が連なっています。こうした、堀を伴わないのっぺりした平場が段築状に続くという構造は、吾妻地方の城にしばしばみられる特徴と思われ、長野原城内でも古い縄張りを残す箇所であると考えられます。この果樹畑のような段々の本城部分は、「大堀切」と呼ばれる堀切および竪堀で南北に分けられています。この「大堀切」は、たしかに堀そのものが少ない長野原城内においては最大のものといえるでしょうが、これまで私が見てきたたの大堀切と呼ばれる堀と比べると、明らかに見劣りします。これを「大」と呼ぶなら、もう何も言うまいという感じです。『大系』では、この堀をして本城の「中央を掘り切った一城別郭」と奇妙なことをいっています。『大系』の群馬編担当者は、一城別郭の意味を理解してらっしゃらないようで残念です。
長野原城最大の見どころ(だと私が思っているところ)は、本丸域の西麓にあります。ここは城の大手になるのですが、明らかに真田氏の手によるものとみられるシステマティックな構造をしています。すなわち、大手の虎口から入った侵入者は、三日月状の堀の底を進みます。この堀の両側は曲輪になっており、その片割れである大手曲輪の付け根にある第二の虎口を超えるまで、両曲輪からの攻撃に晒されます。大手曲輪の反対側の曲輪は、堀と土塁に囲まれて半独立しており、笹曲輪ないし捨曲輪といった感じになっています。
総合してみると、上記の通り長野原城には、部分的に高度な技術による改修が認められます。この改修は、長野原合戦前後になされたと考えるには少々早すぎるように思います。したがって、天正十年(1582)に真田氏と北条氏の間で緊張が高まって以降の作事ではないかと、個人的に推測しています。 
風林火山「真田の本懐」
ようやく勘助は越後から信濃に帰ってきた。
「勘助様!」
太吉をはじめ兵達は勘助の帰りを待っていた。
その頃、村上・小笠原連合軍がこの地の奪回を図って武田についた信濃衆の寝返りを図っていた。
休む間もなく勘助は戦場に向かっていく―――。
勘助
笑顔で晴信は自分を迎えてくれた。
大儀であったのう。
何も申さずとも良い。
ここに入る者、皆喜んでおる。
そなたの無事を信じていた。
誠にしぶといの。そこまでしぶといと憎みきれぬわ。
小山田の言葉に皆は笑った。
勘助は嬉しかった。
武田の兵のみならず、御館様や武田家家臣達に自分が必要とされている事を。
砥石城の一戦は聞いておるか。
はっ
越後はいかがであった。
長尾景虎は越後を統一してござりまする。
宇佐美定満なる軍師も手に入れました。
如何なる人となりを見定めてまいったか。
しかと。
越後の国主・長尾は武将にして武将にあらず。
あれは坊主にござりまする。
七つの頃より禅僧に学問を教わり神仏を養う心があります。
戦には強いのか。
おそらく。
ただし、長尾には他国を我が物にするような欲がござりません。
他国を切り取る考えを持ちませぬ。
皆、勘助の言葉を信じて疑わないまでに勘助を信じていた。
「左様な武将がこの世におろうか。」
勘助の言葉に馬場信春は信じられなかった。
「ならば何のために戦を致す」
己の正義にござりまする。
さも、それが当然のように勘助は語る。
景虎の言によれば天下取りは望まず、天下をあるべき姿に戻したいとの事。
未だ会った事もない他国の武将の言葉に武田家の諸将は
長尾景虎なる男を図りかねていた。
晴信は勘助に尋ねた。
一言で答えよ。勝てるか。
勝ちまする。
かの者の強さも弱さも分かり申した。
敵となれば必ず勝ちまする。
そのためにも今は出来るだけ兵を減らさず
村上を降し、信濃を治めなければなりません。
砥石城は勝ちを急いだわしの軍配違いじゃ。
御館様が念を押すように自分のせいだと語る言葉に勘助は違和感を感じた。
此度の負け戦は真田の進言によるもの。
真田の失態じゃ。
馬場信春は吐き捨てるように言った。
戦で武を重んじる彼にとって策ばかり講じては いつかはその策によって失すると考えていた。
それが今、真田によって起きたのだと。
砥石城が落ちぬ限り真田の所領回復は仕舞じゃ。
―――おそらく皆このように考えているのであろう。
勘助は思う。
それから数日後、勘助はある考えを持って真田幸隆のいる松尾城を訪ねた。
『策士、策に溺れ』ですかな。
何とでも言え。
此度の失態は自分にあると感じていた幸隆は気分が滅入っていた。
某も越後で溺れ申した。
そう勘助は慰めるものの勘助には通じない。
「此度の策を進言したのはわしなのじゃ。責めるならわしを責めろ。」
相木殿が幸隆を庇うように言う。
威張られても困りまする。
真田・相木両名の落胆の顔色を窺いながら勘助は言う。
此度は真田殿に秘策を授けに参りました。
その言葉に真田・相木が色めき立った。
如何なる秘策じゃ。
調略は出来ませんか。
わしの秘策とは調略をもって城を落とせぬものかと。
相木と真田は勘助に失望した。
幸隆の息子でさえ言った策。
既に真田が調略の手を尽くしてきた。
それでも砥石城は落ちなかった。
常田隆永殿ではいかがでござろう。
無理だ。
真田幸隆がこのように言うのも無理はなかった。
実の兄である幸隆が説得したものの常田隆永は寝返らなかった。
それどころか真田家家臣である深井を調略の使者に立てたものの その深井が常田家に寝返ってしまったのだ。
そんな幸隆の考えを意に介さず、勘助は言う。
海野家を再興してはいかがでしょうか。
海野家は真田家、常田家の主筋に当たる。
同族として宗家再興をすれば常田も寝返るのではないかと勘助は考えた。
しかし、武田は海野家を討ったのだぞ。
さればこそ武田家によって海野家を再興すれば常田殿の恨みも晴れましょう。
勘助は真田に海野家の一族の今を尋ねた。
海野家の嫡男は既に討ち死に。
その嫡男の娘は今上州にて幸隆の妻の兄・河原隆正が養っていると言う。
しかし、河原隆正もまた武田家に恨みを持っていた。
その兄がこの話を承諾するとは思えぬ、妹であり幸隆の妻である忍芽はそう考えていた。
勘助の言葉に戸惑いを覚える真田に勘助は囁く。
御館様にご相談しては如何にござりましょう。
海野家を再興する事、勘助が進言したか。
御館様の下を訪ねた幸隆に晴信は言う。
海野、望月、根津の三家は滋野一族。
望月、根津の一族は武田に従っておる。
海野家再興もそちの宿願であったな。
そして御館様は幸隆に尋ねた。
海野家は目が見えぬ者に深き関わりがあるとな。
幸隆は言う。
海野家は代々目の見えぬ者と深い関わりがあったと。
一族の祖が目が見えぬ者であったためとも言われていると。
幸隆の言葉を知っていたかのように晴信は言う。
勘助が申しておった。
勘助は隻眼である。
それ故、そちは勘助を厚遇したのだと。
勘助が・・・
我が次男は目が見えぬ。
今は出家して龍芳と名乗る。
武田家の若君を海野家の跡取りにしてはどうじゃ?
それでそちの願いも叶うか。
―――武田家の一族、それも武田家の若君が海野家を再興してくれる。
常田や河原を納得させるのに十分なものであった。
幸隆は直ちに真田家家臣・春原を上州にいる河原隆正の使者に送った。
勘助、龍芳様の事、御主初めから念頭にあったか。
海野の姫の事も知っていたのであろう。
真田様と御館様の機転にござりましょう。
あくまでもへりくだる勘助に幸隆は苦笑する。
憎いやつじゃ。
それから半月が立った。
上州からの知らせは来ない。
忍芽は息子・源太左衛門を呼んだ。
勘助は再び真田幸隆の下を訪れていた。
しかし、奥方様と幸隆の嫡男・源太左衛門の姿が見えない。
家来に聞くとどこかに出掛けたと言う。
真田殿!
勘助も幸隆も忍芽の意図を悟った。
その時、春原が河原を説得し、まもなく河原殿がこの城に訪れるとの報せが届く。
馬鹿者めが!
何故今日という日を待てなんだか!!
幸隆は激昂した。
忍芽は源太左衛門と共に常田隆永の下を訪れていた。
その場にはかつての真田家家臣・深井もいた。
常田隆永は何故このような城を訪れたかと忍芽に尋ねた。
「兄上に味方して下されませぬか。」
「お断りする。」
隆永は姉上の申し出をにべもなく断った。
「我が殿は海野家を再興致しまする。」
その言葉に隆永は嘲笑う。
「左様な手で調略しに来ましたか。
そのために妻も息子も引き連れてか。
真田幸隆も落ちたものよ。」
常田には海野家を討った武田が海野家を再興するなどと言う話は
自分を寝返らせるための世迷言にしか聞こえなかった。
それでも忍芽は引き下がらない。
「此度参ったのは彼女自身が勝手にした事。真田が武田につく事は罪とは思いません。もし罪があるのであればそれは実の兄と弟が敵として戦う事。それをあがないとうござりまする。」
「左様な覚悟を見せ、某の心をたばかりまするか!」
それでも隆永の信念を崩す事は出来なかった。
隆永は己の脇差を源太左衛門の前に出し、自害をしてその覚悟を見せよと言った。
目の前にある脇差に手が震える源太左衛門。
その脇差を忍芽は奪い取り、脇差を抜き放つと己の首筋に構えた。
「お待ち下され!
このお方様は誠に死ぬ覚悟にござりまする。」
深井は奥方様の持つ太刀を止めて隆永に懇願した。
「もうよい!帰れ!!」
兄嫁の覚悟を知った隆永にはそう言うしかなかった。
それから、兄・真田幸隆が砥石城に参ったとの報せがやってくる。
海野家家臣・河原隆正も一緒だった。
武田との縁組により海野家再興が叶う事になった。
河原隆正の言葉によれば 長野業政の口添えによって海野家家臣は皆承諾されたと言う。
皆、恨みは捨て、某も武田に下りますると。
常田殿、武田は決して我ら滋野一族を粗略に扱わぬ。
信濃を平穏に治めようとしているのじゃ。
その力、最早村上にはござるまい。
「このわしの負けじゃ。」
常田隆永は武田に寝返る事を決意した。
承知致した。
河原隆正は妹の非礼を詫びた。
「わしは昔より兄上を羨んできた。それだけを更に増した思いよ。」
常田は幸隆にそう告げると忍芽を見据えた。
「姉上、負けました。」
常田の決心に忍芽はただ頭を下げるばかりであった。
松尾城に戻った真田幸隆は妻と息子を激しく叱り付けた。
馬鹿者めが。
そなたらはこの真田家の恥じゃ。
かような事でそなたらを失えば
家臣らに会わす顔がないわ。
そして幸隆は膝を折り妻の顔を見据えた。
わしが困るのよ。
わしが困る。
そなたを失えばわしが困るのじゃ。
わしが生きていけぬのじゃ。
そなたらがいなくなった時わしは生きた心地がしなかった。
そこまで心配をかけてすまなんだ。
なれど、二度といたすな。
「はい。」
幸隆は妻をしっかと抱きしめた。
「わしは妻にあんな事はよう言えぬ。」
相木は真田夫妻の熱に当てられた。
そして勘助は静かに立ち去っていく。
その夜、砥石城に謀反が起きた。
常田の手引きもあって真田の軍勢が先陣となり
武田軍は砥石城へ夜討ちを仕掛けた。
その軍の中には真田幸隆の嫡男・信太左衛門もいた。
真田の忍・葉月から常田が武田に寝返った事を知った須田新左衛門もまた武田に寝返った。
これにより砥石城は武田の手に落ちた。
その報せを聞いた村上軍は撤退を決めた。
如何にこの地に留まっても誰一人、武田から寝返る者はいなかった。
彼らは戦でも武田に負け、人望でも武田に負けを喫した。
村上勢の引き上げによって武田晴信は砥石城に入城した。
須田新左衛門の所領は安堵され、御館様の一字を受け須田信頼と名を改めた。
幸隆の嫡男・信太左衛門もまた名を真田信綱と改めた。
そして真田幸隆は兼ねての約定通り、所領を与え砥石城の城代に任じられた。
所領を回復した真田幸隆が第一にする事。
それはこの地に早速寺を建てる事だった。
その寺にかつて上州で世話になった僧・伝為晃運を招くという。
これで約束が果たせる。
これで本懐が果たせる。
それが幸隆には嬉しかった。
勘助、御主のおかげでまた我が里に帰る事が出来た。
そして、頭を下げる忍芽に勘助は戸惑った。
ふと簡素な墓が目に止まった。
我が里も今は戦で奪った領地。
そして幸隆と忍芽、勘助はその墓に手を合わせた。
そこで勘助は見慣れた物を見つけた。
思わず声が漏れた。
「平蔵」
かつて勘助が平蔵に渡した摩利支天。
それが今再び勘助の手に戻ってきた。
その摩利支天の重さに平蔵の親しい人を一時とはいえ平蔵が守ろうとした里を奪った悲しみを勘助は感じていた。 
 

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