織田信長の「敦盛」/幸若舞 猿楽 能楽

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辞世の句 

雑学の世界・補考   

幸若舞「敦盛」

そもそも、此たび平家一の谷の合戦に、御一門、侍大将、総じて以上十六人の組足のその中に、もののあはれを留めしは、相国の御弟経盛の御子息に、無官の太夫敦盛にて、もののあはれを留めたり。その日の御装束、いつにすぐれてはなやか也。梅の匂の肌寄の優なるに、唐紅を召され、練貫に色 いろの糸をもつて、秋の野に草尽し縫ふたる直垂、弓手の手蓋、両面の脛当、紫裾濃の御着背長、黄金作りの御佩刀、十六差ひたる染羽の矢、村重籐の弓、連銭葦毛なる駒に、梨子地蒔白覆輪の鞍置かせ、御身軽げに召されたる御馬、鎧の毛に至るまで、げにゆゝしくぞ見えられける。御一門と同、主上の御供を召され、浜に下らせ給ひしが、御運の末の悲しさは、漢竹の横笛を大裡に忘れさせ給ひ、若上臈の悲しさは、捨てても御出であるならば、さまでの事のあるじきを、且うは、この笛を忘れたらんずる事を、一門の名折りと思し召し、取りに返らせ給ひて、かなたこなたの時刻に、はや御一門の御座船を、遥かの沖へ押し出す。あら、いたはしや、敦盛。塩屋の端を心掛け、駒に任せて落ちさせ給ふ。
かゝりけるところに、武蔵の国の住人、私の党の旗頭、熊谷の次郎直実、この度一の谷の先陣とは申せども、させる高名をきはめず、無念類はなかりけり。「あつぱれ、こゝもとを、良からん敵の通れかし。押し並べ、むずと組んで、分捕りせばや」と思ひ、渚に沿ふて下りしが、敦盛を見つけ申、斜めならずに喜ふで、駒の手綱うつ据ゑて、大音上げて申。「あれに落ちさせ給ふは、平家方にをきては、良き大将と見え申て候。かう申兵を、いかなる者と思し召す。武蔵の国の住人、私の党の旗頭、熊谷の次郎直実、敵にをひては、良き敵候ぞ。まさなくも、敵の鎧の総角、逆板を見せ給ふものかな。引つ返し御勝負候へ。いかに いかに」とて、追つかけ申。あら、いたはしや、敦盛。熊谷と聞し召し。逃れ難くは思し召されけれ共、駒に任せて落させ給ふ。
かゝりけるところに、遥かの沖を御覧ずれば、御座船間近く浮かんであり。あの船を招き寄せ、乗らずものと思し召し、腰よりも、紅に日出したる扇抜き出で、はらりと開かせ給ひて、沖なる船を目にかけて、ひらり ひらりと招かるゝ。船中の人々に、人しもこそ多きに、門脇殿は、御覧じて、「母衣懸け武者の船招くは、左馬の頭行盛か、無官の太夫敦盛か。あれを見よ」との御諚なり。悪七兵衛承り、船梁につつ立ち上がり、長刀を杖につき、甲を脱いで、きつと見て、「いたはしの御事や。何として御座船に、召し遅れさせ給ひけん。経盛の御子息に、無官の太夫敦盛にて渡らせ給ひ候ぞや。召されたる御馬の毛、鎧の毛にいたる迄、まがふ所はましまさず。いたはしさよ」と申けり。門脇殿は、聞し召し、「敦盛ならば、この船を押し寄せて、助けよ」。水手、楫取、承り、臚櫂、舵を立て直し、船を渚へ寄せんとす。此ほど二三日吹きしほりたる北風の、名残の波は今日も立つ。風はきほおつて、波は強蛇のごとく也。白浪船世(元字は木篇)を洗ひ、砂子を天に上ぐれば、たゞ雪の山のごとくなり。小船こそ、自づから弓手へも馬手へも、思ふ様には扱はるれ、殊に勝れたる大船に、大勢は召されたり。畳む波に塞かれつゝ、次第 しだいに出づれ共、磯へ寄るべきやうはなし。
敦盛、この由を御覧じて、「いやいや、この馬を泳がせて、あの船に乗らふずもの」と思し召し、駒の手綱かい繰つて、海上にうち出で、浮きぬ沈みぬ泳がせらるゝ。いたはしや、敦盛。老武者にてましまさば、三頭に乗り下がつて、時 どき声を立て給はば、御馬は逸物なり、沖の御座船に難なく馬は着くべきに、若武者の悲しさは、馬に離れて叶はじと、思し召されける間、前嵩に乗り懸て、左右の鐙を強く踏み、手綱に縋り給ひて、浮きぬ沈みぬ泳がせらるゝ。馬逸物とは申せ共、畳む波に塞かれつゝ、泳ぎかねてぞ見えにける。
熊谷、此由を見参らせ、「まさなの平家や。沖の御座船は、遥かにほどを隔てつゝ、しかも波風荒ふして、いかで叶はせ給ふべき。引つ返し御勝負あれ。さなき物ならば、中差を参らせん」と、弓と矢をうち番つて、そゞろ引てかゝりけり。敦盛、御覧じて、「なか なか錆矢に射当てられ、一門の名折り」と思召、駒の手綱引つ返して、遠浅になりしかば、水鞠ばつと蹴立て、染羽の鏑うち番ひ、かうこそ詠じ給ひけれ。
梓弓矢をさし矧げて引く時は返す事をば知るかぞも君
熊谷も、心ある弓取にて、「あつ」と思ひ、左右の鐙を蹴放つて、返歌と思しくて、かくばかり、
平題箭のはや外れんと思ひしにやと言ふ声に立ちぞ留まる
かやうに詠じて、待ち受け申。
さる間、敦盛、弓と矢をがらりと捨て、御佩刀ひん抜いて、「受けて見よ」とて、打たれたり。熊谷さらりと受け流し、取て直してちやうど打つ。二打ち三打ち、ちやうちやうど打合せけれども、いづれも勝負見えざれば、「寄れ、組まん」「尤」とて、互ひに打物がらりと捨て、鎧の袖を引つ違へ、むずと組んで、二人が、両馬の間にとうど落つる。あら、いたはしや、敦盛。御心は猛く勇ませ給へども、老武者の熊谷にて、物の数とはせざりけり。易 々と取て押さへ申。甲ちぎりてがらりと捨て、腰の刀ひん抜いて首を取らんとしたりしが、あまり手弱く思ひ、さしうつぶひて相好を見奉るに、薄化粧の鉄漿黒く、眉太う掃かせ、さもやごとなき殿上人の、年齢ならば十四五かと見えさせ給ふ。熊谷、あまりのいたはしさに、少しくうつろげ申。「上臈は、平家方にをひては、いかなる御公達にてましますぞ。御名字を御名乗り候へ」。あら、いたはしや、敦盛。老武者の熊谷に、組み敷かれさせ給ひ、よに苦しげなる息をつき、「げにや、熊谷は、文武二道の名人とこそ聞きつるに、何とて合戦に、法なき事をば申ぞ。我らは天下の朝臣とし、雲客の座敷に連なつて、詩歌管弦の道に長じたりし身なりしか共、この二三ヶ年は、一門の運尽き、帝都をあこがれ出しよりこの方、武士の勇める法をば、あら あら聞て候。それ、人の名乗といふは、互ひの陣に群がつて、軍乱れの折から、矢なき箙を腰に付け、鍔無き太刀を抜き持つて、これはしんぢやうその国の、何某、誰某と名乗て、打物の勝負をし、又組んで勝負を決するとこそ聞きつるに、我は敵に押へられ、下より名乗法とは、今こそ聞て候へ。あふ、心得たり、熊谷。名字を名乗らせ首を取つて、汝が主の義経に見せんためな。よし よし、それ、世には隠れもあるまじきぞ。たゞ某が首を取て、汝が主の義経に見せよ。見知る事もあるべし。それが見知らぬ物ならば、蒲の冠者に見せて問へ。蒲の冠者が見知らずは、この度平家の生捕りの、いかほど多くあるべきに、引向けて見せて問へ。それが見知らぬものならば、名もなき者の首ぞと思ひて、叢に捨てての後は用もなし、熊谷」とこそ仰けれ。熊谷承て、「扨は上臈は、武士の勇める法をば、詳しくは知ろし召されぬや。世にもの憂きは、我らにて候。君の御意に従つて、身を助けんとすれば、親と争ひ子と戦ひ、はからざる罪をのみ作るは、武士の習ひなり。花の下の半日の客、月の前の一夜の友、清風朗月飛花落葉の戯れ、尚今生ならぬ機縁と承る。この度の合戦に人しもこそ多きに、熊谷が参り合ふ事を、前世の事と思し召し、御名乗候へ。御首を給て、たゞ奉公の其忠に、後世を弔ひ申べし」。敦盛は、聞召、「名乗らじものとは思へ共、後世を問はんず嬉しさに、さらば、名乗て聞かすべし。我をば誰とか思ふらん。門脇の経盛の三男に、未だ無官は仮名にて、大夫敦盛。生年は十六歳。軍は、是が始めなり。さのみに物な尋ねそよ。はや首取れや、熊谷よ」。
熊谷、承つて、「さては、上臈は、桓武の御末にて御座ありけるや。何、御年は十六歳。某が嫡子の小次郎も、生年十六歳に罷りなる。扨は、御同年に参候ひけるや。かほどなき小次郎、眉目悪く色黒く、情も知らぬ東夷と思へ共、我子と思へば不便也。あら無残や、直家、直実もろともに、今朝一の谷の大手にて、敵まれいの三郎が放つ矢を、直家が弓手の腕に受け留め、某に向かつて、「矢抜いてたべ」と申せしを、「痛手か、薄手か」と問ばやと思ひしが、いや いや、熊谷ほどの弓取が、敵味方の目の前にて、問ふべきかと思ひ、はつたと睨んで、「あら、言いに甲斐なの直家や。其手が大事ならば、そこにて腹を切れ。又薄手にてあるならば、敵と合ふて討死をせよ。味方の陣を枕とし、私の党の名ばし朽すな」と言ひてあれば、まことぞと思ひ、某が方を、たゞ一目見、敵の陣へ駆け入てよりその後、又二目とも見ざりしなり。さても熊谷が、つれなく命長らへ、武蔵の国に下り、直家が母に逢ひて、討たれたると言ふならば、眼路の母が嘆くべし。経盛とやらんも、花のやうなる若君を、渚に一人残し置き、さこそ嘆かせ給ふらん」。経盛の御愁嘆と、さて直実が思ひをば、物によく よく譬ふれば流水同じ水なれど、淵瀬の変るごとくなり。
熊谷、あまりのいたはしさに、又さし俯ひて、御相好を見奉るに、嬋娟たる両鬢は、秋の蝉の羽にたぐへ、宛転たりし双蛾は、遠山の月に相同じ、業平の往古、交野の野辺の狩衣、袖打ち払ふ雪の下、翠黛紅顔錦繍の粧ひを、たとへば絵には写すとも、此上臈の御姿を、筆にもいかで尽すべき、熊谷、心に按じけるは、「いや いや、この君の御首を給て、某、恩賞に与りたればとて、千年を保ち、さて万年の齢かや。末代の物語りに、助け申さばや」と思ひ、「なふ、いかに敦盛。平家方にて仰せらるべき事は、「武蔵の熊谷と申者と、波打ち際にて組みは組んで候へども、我が子の直家に思ひ替へ、助け申たり」と、御物語り候へ」と、取つて引つ立奉り、鎧に付たる塵うち払ひ、馬に抱き乗せ奉り、直実も共に馬に乗り、西を指ひて、五町ばかり行き過ぎ、後ろをきつと見てあれば、近江源氏の大将に、目賀田、馬淵、伊庭、三井、四目結の旗差させ、五百騎斗で追つ掛くる。弓手を見てあれば、成田、平山控へたり。馬手の脇には、土肥殿、七騎で追つ掛くる。上の山には九郎御曹司、白旗を差させ、御近習にとつては、武蔵坊弁慶、常陸坊海尊、亀井、片岡、伊勢、駿河、この人々を先として、声 ごえに申やう、「武蔵の熊谷は、敵と組んづるが、既に助くるは、二心と覚えたり。二心あるならば、熊谷ともに討ち取れ」と、我も我もと追つ掛くる。この君の有様、物によく よくたとふれば、籠の内の鳥とかや。網代の氷魚のごとくにて、漏りて出づべきやうはなし。「人手に掛け申さんより、直実が手に掛け、後世を某弔はばや」と思ひて、又むずと組んでとうど落、いたはしや、御首を、水もたまらず掻き落し、目より高く差し上、鬼のやうなる熊谷も、東西を知らで泣き居たり。
熊谷、涙を留め、御死骸を、かなたこなたへ押し動かして、見奉れば、鎧の引き合せに、漢竹の横笛を、紫檀の家に篳篥を添へて差されたり。又馬手の脇を見てあれば、巻物一巻おはします。「是は何ならん」と、開いて拝見仕に、あら、いたはしや、敦盛の、都出の言の葉を、くれ ぐれとこそ遊ばしけれ。此君、都に御座の御時は、按察使の大納言資賢の卿の姫君、十三にならせ給ひしが、天下一の美人にてましますを、仁和寺御室の御所にて、月次の管弦の有し時、敦盛は笛の役、同じ楽工にて、琴弾き給ひし御姿を、一目見しより恋と成て、歌に詠み、文に書きこさる。その文、数の重なりて、逢瀬の仲となり給ふ。中三日と申に、平家帝都の花洛を去つて、西海の波濤に赴き給ふ。あら、いたはしや、敦盛。御身は一の谷に御座あると申せども、御心は、さながら都へのみぞ通はれける。思召出されし時に、作られけるかと覚しくて、四季のちやうをぞ書かれける。先づ青陽の朝には、垣根木伝ふ鶯の、野辺になまめく忍び音や。野径の霞あらはれて、外面の花もいかばかり。重ね桜に八重桜。九夏三伏の夏の天にも成ぬれば、藤波いとふか、郭公。夜々の蚊遣り火下燃えて、忍ぶる恋の心す。黄菊紫蘭の秋にもなりぬれば、尾上の鹿、立田の紅葉、枕にすだく蟋蟀、聞かでや、萩の咲きぬらん。玄冬素雪の冬の暮れにもなりぬれば、谷の小河も通ひ路も、みな白妙に、四方なると言へ共、消えて跡もなし。名残惜しき故郷の木々の木末を見捨てつゝ、今は又一の谷の苔路の下に埋もるゝ、経盛の末の子の、無官の太夫、敦盛」と、書き留めてぞ置かれける。かれを見、これを見奉るに、いとゞ涙も塞きあへず。御死骸をば郎等に預け置き、御首、笛、巻物、供に持たせ、大将の御前に参り、此由かくと申上ぐる。判官、御覧じて、「あら、不思議や。この笛は、某が見知るところの候。それをいかにと申に、一年、高倉の宮、御謀叛企ての時、天下に、小枝、蝉折とて、二管の笛あり。蝉折をば、三井寺にて、弥勒に回向し給へり。小枝をば、御最後迄持たせ給ふ由、承るが、水無瀬光明山にて、討たれさせ給ひし時、此笛、平家の手に渡る。一門の其中に、笛に器用を召されしに、弱冠なれども、敦盛は、笛に器用の人也とて、下されけると承る。今朝一の谷の内裏役所にて、笛の遠音の聞えしは、此人の吹きけるか」とて、大将涙を流させ給へば、知も知らぬもをしなべて、皆涙をぞ流しける。
「敦盛は名大将、熊谷、いしくも仕たり。この度の勧賞には、武蔵の国長井の庄を取らするぞ。急ぎ罷り下れ」との御諚なり。熊谷が郎等ども、所知入せんと喜ぶところに、熊谷、その御返事に及ばず、涙の隙よりも、かくばかり、
人となり人とならばやと思ふさらずはつゐに墨染の袖
かやうに詠じ、御前を罷り立ち、「何として、敦盛の御死骸を、源氏雑兵の駒の蹄の通ふ処に、捨て置き申べきぞ。送り申てあればとて、よも罪科には行はれじ。いやいや、送り申さばや」と思ひ、塩屋の端に下り、小船一艘拵へ、雑色二人、侍一人相添へ、状を書きしたゝめ、八島の磯へぞ送られける。
平家は、元暦元年二月七日に一の谷を落ち、浦伝ひして、十三日の早朝に、八島の磯に着く。熊谷が送りの船も、同じ日、八島の磯に着く。敵味方の事なれば、其間はるかに臚櫂を留め、大音上げて申。「抑源氏方よりも、熊谷が私の使ひに罷り向かつて候。門脇殿の御内なる、伊賀の平内左衛門の尉殿へ、申たき子細の候」と、高らかに呼ばはる。あら、いたはしや、平家は、一の谷を落ち、海路遥かに落延びたれば、左右なふ源氏の勢の、かゝるべしとも、思し召されず、只此程の朦気には、波枕、楫枕、夢驚かす松の風、命も知らぬ松浦船、こがれて物や思ふらん。心細く思せしに、「源氏の船よ」と聞召、我先に 我先にと、臚櫂を速め、落ち行けども、東国の源氏に会はんと言へる平家なし。
大臣殿、御覧じて、「不覚なり、方ぼう。世は澆季に及て、時末法に帰すといふ。例へば、異国の樊膾(元字は口篇)が渡て乗つたりとも、あれほどの小船に、何ほどの事のあるべきぞ。誰かある。行き向かつて、聞て参れ」とありし時、平内左衛門承て、「存ずる道候。聞て参り候はん」と、屋形の内へつつと入て、出で立つ。その日の装束は、はなやかにこそ見えにけれ。肌には白き帷子皆白折て引違へ、褐の鎧直垂の、四の括り緒ゆる ゆると寄せさせ、楊梅桃李の左右の小手、白檀磨きの脛当に、獅子に牡丹の脛楯し、糸緋縅の鎧の、巳の時と輝くを、綿噛取つて引つ立て、草摺長にざつくと着、結つて上帯ちやうど締め、九寸五分の鎧通しを、馬手の脇に差いたりけり。一尺八寸の打刀、十文字に差すまゝに、三尺八寸候ひける赤胴作りの太刀佩ひて、梨子打烏帽子に鉢巻し、白柄の長刀を杖につき、我に劣らぬ郎等どもを、七八人相具し、端舟下ろし、打ち乗り、面に楯を蔀ませ、ざゝめかひて押し寄する。樊膾が勢ひも、あふ、かくやと、思ひ知られてあり。
「抑源氏方よりも、熊谷が私の使ひとは、そも、何事の子細ぞや」。送りの者申。「さん候。敦盛を熊谷が手にかけ申、あまり御いたはしきによつて、御死骸に色いろの武具共、又は進状を相添へ、是迄送り申て候。急ぎ御座船に召され、阿波の鳴門にまします由を承て候が、やはか討たれさせ給ふべき。もし偽りにてや候らん」。送りの者申。「御不審は理誠偽りをば、たゞ船中を御覧ぜよ」と申。基国聞て、「げに げに、これは言はれたり」とて、送りの船に、我が船を押し寄せ、長刀を杖につき、送りの船をさし俯ひて見て有ければ、げにと色いろの縫物したる直垂に、敦盛の御死骸と覚しきを、押し包みてぞ置きにける。紫裾濃の御着背長、黄金作りの御佩刀、十六差いたる染羽の矢。村重籐の弓もあり。粉ふところはましまさず。基国、余りの悲しさに、長刀をがらりと捨て、送りの船に乗り移り、御死骸に抱き付き、泣け共さらに涙なし。叫べども声は出でざりけり。やゝありて、基国は、涙を流し、申やう、「いたはしや、この君の、一の谷を御出での時、この着背長を奉る。おとなしやかに、敦盛の、「いつしか御一門、世が世にまし まして、四海に風の治まりつゝ、基国に所知領らせみるとだに思ひなば、いかばかり嬉しかるべき」と、仰られし其時は、基国が嬉しさを、何にたとへん方もなし。誠の時には動転し、召されざる敦盛を、一門の御船に召されつゝ、阿波の鳴門にましますと申たる、基国が心の中の不覚さよ。今一度基国かと、仰せ出され候へ」とて、消え入るやうに泣きければ、送りの者も、供人も、「げに理や、道理」とて、みな涙をぞ流しける。
送りの者申。「是は御使ひの身にて候。急ぎ御座船に御移しあれ」と申。基国聞て、「げにげに思ひに忘じ、思ひ忘れて候」とて、敦盛の御死骸を、我船に移し、大船に漕ぎ寄せ、「この由かく」と申上ぐる。
門脇殿も、経盛も、「何、敦盛が、討たれたると言ふか」「さん候」と申。「あら、不思議や。敦盛は、一門の船に乗り、阿波の鳴門にある由を、風の便りに聞しほどは、いかばかり嬉しかりつるに、熊谷が手に掛り、さては討たれてありけるか」と、涙ながらに出で給ふ。女房達にとりては、女院を始め奉り、宗徒の女官百六十人も、袴の稜を取り、皆船端に立ち出でて、御死骸に抱き付き、「是は、夢かや、現か」と、一度にわつと叫ばれしを、物によく よくたとふれば、これやこの、釈尊の御入滅の如月や、十大御弟子、十六羅漢、五十二類に至るまで、別れの道の御嘆き、かくやと思ひ知られたり。
やゝ有て、父経盛は、落つる涙の隙よりも、「あら無残や、敦盛。一の谷を出し時、故郷の方を見送り、心細げにて立たりしを、いさめばやと思ひ、「あら、不覚なりとよ、敦盛よ。三代槐門の家を離れ、屍を野山に埋み、名を万天の雲居に挙ぐべき身が、郎等の見る目をも恥よかし」と言ふてあれば、さらぬ体にて、渚まで下りしが、「笛を忘れて候」とて、取りに帰りし其時、共に帰らんと思ひつれども、敵味方に押し隔てられ、又二目とも見ざりしなり。情ある熊谷にて、形見これまで送りたり。空しき死骸、この形見、今日は見つ。明日より後の恋しさを、誰に語りて慰まん。なふ、人々」との給ひつゝ、悶へ焦がれ給ひけり。平家方の人々は、今一人の涙なり。
其後、熊谷が送たる状を召し出し、「大将なれば、此状を、もし義経ばし送りてあるか」。使ひは是非を弁へず、たゞ、「門脇殿へ」とばかり申。とても伊賀の平内左衛門へと書たる状にてある間、「家長、文を仕れ」「承り候」とて、船の船世(元字は木篇)に跪き、状を賜り、差し上げ、高らかにこそ読ふだりけれ。
直実謹言。不慮に此君と参会し奉し間、直に勝負を決せんと欲する刻、俄に怨敵の思ひを忘じ、却而武芸の勇み消え、剰は守護を加へ奉る処に、多勢一同に競い懸て、東西にこれは居る。かれは多勢、是は無勢。樊膾却而張良が芸を慎む。たま たま直実は、生を弓馬の家に生れ、巧を洛城に廻らし、命を同す。陣頭が夕、瀬ゞ万々に及で、自他かくの面目を施せり。さても、此度、悲しきかなや、此君と直実、深く逆縁を結び奉るところ、嘆かしきかな、拙きかな。この悪縁を翻すものならば、永く生死の絆を離れ、一つ蓮の縁とならんや。閑居の地所をしめしつゝ、御菩提を懇ろに弔ひ申べき事、誠偽り、後聞隠れなく候。この趣をもつて、御一門の御中へ、御披露あるべく候。よつて恐惶謹言。元暦元年二月七日。武蔵の国の住人、熊谷の次郎直実。
進上。門脇殿の御内なる伊賀の平内左衛門殿へ。
と読ふだりけり。御一門雲客卿相、同音に「あつ」と感じ給ひ、「げにや、熊谷は、遠国にては、阿傍羅刹、夷なんどと伝へしが、情は深かりけるぞや。文章の達者さよ。筆勢のいつくしさよ。かほど優しき兵に、返状なくて叶はじ」と、大臣殿返状を、経盛の自筆に遊ばして賜ぶ。
使ひは文を給はり、急ぎ一の谷に漕ぎ戻り、熊谷殿に見せ奉る。熊谷、「いかんとして、弓矢の冥加無くしては、経盛の御自筆を拝み申さん」と、三度戴き、開いて拝見仕る。その御書に曰く、
敦盛が死骸、並びに遺物給はり訖。此度、花洛を打立しより此方、なんぞ二度思ひ返す事のあらんや。盛んなる者の衰ふるは。無常の習ひ。会へる者に別るゝ事、穢土の習ひ。釈尊、羅候(元字は目篇)羅(らごら)、天の一子の別れにあらずや。いはんや凡夫をや。去ぬる七日に打立しより以来、燕来たつて語らへど、其姿を見ず。帰雁翼を連ね、空に訪れ通るといへど、その声を聞かず。されば、彼遺跡の聞かまほしきによつて、天に仰ぎ地に伏し、これを祈る。神明の納受、仏陀の感応を待つところによつて、七日が内にこれを見る。内には信心をいたし、外には感涙袖を浸すによつて、生れ来たれるに会へり。喜悦の芳意なくしては、いかゞその姿を二度見ん。すみ、すこぶる須弥の頂低うして、蒼海却而浅し。進んで是を報ぜんとすれば、過去遠 々たり。退き応へんとすれば、未来永々たる物か。万端多しと言へど、筆紙に尽しがたし。是は武蔵の熊谷の返し状。
とぞ、読ふだりける。
去程に、熊谷、よくよく見てあれば、菩提の心ぞ起りける。「今月十六日に、讃岐の八島を攻めらるべしと、聞てあり。我も人も、憂き世に長らへて、かゝる物憂き目にも、又、直実や遇はずらめ。思へば、此世は常の住処にあらず。草葉に置く白露、水に宿る月より猶あやし。金谷に花を詠じ、栄花は先立て、無常の風に誘はるゝ。南楼の月をもてあそぶ輩も、月に先立つて、有為の雲に隠れり。人間五十年、化天の内を比ぶれば、夢幻のごとくなり。一度生を受け、滅せぬ物のあるべきか。これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ」と思ひ定め、急ぎ都に上りつゝ、敦盛の御首を見れば、もの憂さに、獄門よりも盗み取り、我が宿に帰り、御僧を供養し、無常の煙となし申。御骨ををつ取り首に掛け、昨日までも今日までも、人に弱気を見せじと、力を添へし白真弓、今は何にかせんとて、三つに切り折り、三本の卒塔婆と定め、浄土の橋に渡し、宿を出でて、東山黒谷に住み給ふ法然上人を師匠に頼み奉り、元結切り、西へ投げ、その名を引き変へて、蓮生房と申。花の袂を墨染の、十市の里の墨衣、今きて見るぞ由なき。かくなる事も誰ゆへ、風にはもろき露の身と、消えにし人のためなれば、恨みとは更に思はれず。
かくて蓮生、黒谷に籠居し、正念念仏申てゐたりしが、ある時、蓮生、心の内に思ふやう、「紀の国に御立ある高野山へ参らばや」と思ひ。上人に御暇申、頭陀の縁笈肩に掛け、頼む物は竹の杖、黒谷を、まだ夜を籠めて出でけるが、都出での名所に、東を眺むれば、誓願寺、今熊野、清水、八坂、長楽寺。彼清水と申は、嵯峨の帝の御願所、すみともの造立、田村丸の御建立、大同二年に建てられ、万の仏の願よりも、千手の誓ひは頼もしや。「敦盛の聖霊頓証菩提」と回向して、西を眺むれば、丹波に老の山、下り口に谷の堂、峰の堂。北を帰て見送れば、内野を出でて蓮台野、舟岡山の墓じるし、見るに涙も塞きあへず。南を眺むれば、東寺、西寺、四塚、年はゆけども老もせぬ、六田川原とうち眺め、山崎、宝寺、関戸の院をうち過ぎ、八幡の山を下向して、惟喬の親王の御狩せし、交野の原を通り、禁野の雉子は子を思ふ。鵜ど野に茂き籬垣の、宿を過れば糸田の原、窪津の王子を伏し拝み、天王寺へぞ参りける。天王寺と申は、聖徳太子の御願なり。七不思議の有様、劫は経るとも尽きすまじ。亀井の水の流れ絶えぬぞ尊かりけると、伏し拝み候ひて、天野に参らるゝ。大明神と申は、高野の鎮守でおはします。「御山に法師を授けてたばせ給へ」と、懇ろに祈誓申て、はや高野山へ参らるゝ。忝くも高野山と申は、帝城を去つて二百里、郷里を離れ無人声、八葉の峰、八つの谷、峨ゝとして岸高し。青嵐梢を鳴らせど、夕日の影のどか也。
相賀の寺より、御影堂の谷、胎蔵界の大日、百八十尊を表せり。金堂の本尊は、阿■(あしゅく)、宝生、弥陀、釈迦、これ又大師の御作なり。大塔と申は、南天の鉄塔を学んで、兜率天のばんりを象り、十六丈の宝塔、上は千体の阿弥陀、中は千手の二十八部衆、下は薬師の十二神。生 ぜい世々に際なく、衆生悪所の罪消え、来迎の三尊を拝むぞ尊かりけると、伏し拝み候て、奥の院へぞ参りける。道の辺りの白骨は、砂子を撒くがごとく也。いよいよ念仏申、奥の院へ参り、敦盛の御骨を籠め置き、蓮華谷の傍らに、知識院と申庵室を結び、峰の花を手折り、閼伽の水を掬び、行ひすまし、蓮生八十三と申に、大往生を遂げにけり。悪に強ければ、善にも強し。文武二道の名人、漢家は知らず、本朝に、かゝる兵あらじと、感ぜぬ人はなかりけり。
 
幸若舞1

「人間五十年、化天の内を比ぶれば、夢幻の如くなり」 この文句をお聞きになった方は多いはずでしょう。織田信長が桶狭間の戦いを思い出す事でしょう。では、この文句は何なのでしょう。「敦盛」の一節ということはわかっても、それは何か。中には猿楽(能)であると思っている方もいらっしゃるのでは。
幸若舞
幸若舞、そのまた昔は曲舞(くせまい)と呼ばれた芸能で、室町時代に一世を風靡しました。材料が猿楽や平曲と通う所がありながら、現在まで残った能楽とは対照的に、亡びつつある芸能です。現在、福岡県南部の大江という集落で毎年1月20日に行うもの以外でまともに見る事が出来ません。しかし、室町時代、後花園天皇の父であった伏見宮貞成(さだふさ)親王は、その日記「看聞御記」永享4年(1432)6月15日条に、このような事を記しています。
抑於稲荷御旅所、此間くせ舞児有勧進。於即成院去々年稚児云々。猶上手ニ成。万人群集云々。前宰相、長資朝臣、重賢、梵祐、承泉等今日見物、言語道断殊勝之由申。
冒頭の信長をはじめ多くの人に人気があったこの「幸若舞」という芸能、一体どのような芸能だったのでしょうか。
幸若舞のルーツ
白拍子
「幸若舞」として知られるこの芸能は、もともとは曲舞(くせまい)、もしくは、舞々(まいまい)と呼ばれておりました。曲舞の有力流派である「幸若家」が台頭してくると共に、「幸若舞」と呼ばれるようになりました。それでは、「曲舞」あるいは「舞々」と呼ばれた芸能とはいかなるものだったのでしょう。
「日葡辞書」からみてみましょう。曲舞/ある物語を歌ったり舞ったりして生計を立てる者。韻律をつけて作られたある種の物語であって、節を付けて歌うもの。日本の演劇(能)において、普通のところよりも長く引き伸ばして謡うくだり。舞/謡って舞うためのロマンセ(物語詩)のような昔の物語。舞々/日本で舞と呼ばれる、ロマンセ(物語詩)に似た或る物語を歌う人、又は調子を取ってそれを歌う人。
ビジュアル化したものに「七十一番職人歌合」があります。四十八番に「曲舞々」として描かれているのがそれです。その姿は烏帽子を被っていますが、垂髪で扇、鼓を持った姿が描かれ、女性、もしくは稚児のように見えます。どうやら、現存している幸若舞とは、ずいぶん違うイメージが出てきます。現存の幸若舞は、舞うことは舞いますが、非常に型にはまったものであり、また、舞の魅力と言うより、語りの内容の方が重い、語る芸能ともいえましょうし、担い手も、現在は素襖着の男性であり、その点でも大きく違ってきます。
童子が曲舞を舞った記録としては、曲舞の記録としても古い、「看聞御記」応永23年(1416)3月25日条に、
抑手クヽツ参、猿楽仕。小童一人天骨者也。リウゴヲ舞ス。又獅子ヲ舞、又クセ舞ヲ舞。種々施芸能。禄物種々賜之。
とあるところからも、首肯できます。この場合「手クヽツ」とあり、「手〜」、つまり「素人の傀儡子」の童子が天性の才能があり、さまざまな芸能で魅了する中、曲舞が挙げられています。ちなみに冒頭に挙げた、「看聞御記」永享4年(1432)6月15日条も、「抑於稲荷御旅所、此間くせ舞児有勧進。於即成院去々年稚児云々」とあるように、稚児が演じていました。
また先の「七十一番職人歌合」は、平家を語る琵琶法師に対して、曽我物語を語る聾女が対に配され、似た職同士で歌合せが行われるのですが、「曲舞々」の相手は「白拍子」となっているのです。白拍子というと、平家物語の祇王や仏など、女性の芸能ということが想起されますね。(平家では、その起源を鳥羽院の時代の女性としています。)また、「風姿花伝」には、このような記事が見えます。
「舞・白拍子、又は物狂などの女がゝり、扇にてもあれ、かざしにてもあれ、いかにもいかにも弱々と、持ち定めずして持つべし。」
舞、白拍子、そして、憑依の対象であった巫女が含まれるであろう物狂が同一線上に語られていることに注目しましょう。また、これらの芸職が女性の芸として認知されていたことも、ここから伺う事ができます。
少し道から逸れますが、「日葡辞書」の「曲舞」の項において、曲舞が能楽の用語と化しているところに注目しましょう。白拍子や曲舞は能楽にも影響を与えていたのです。能楽書の「申楽談儀」に「観阿節の上手なる。乙鶴がかりなり」と、おなじく「五音」に「乙鶴、此ノ流ヲ亡父ハ習道アリシナリ」とあるように、能楽の祖ともいうべき観阿弥は白拍子、または曲舞とみられる者たちから舞を習い、自らの芸を取り入れていました。麻原氏によると、この乙鶴は春日社の巫女の名前であるとし、観阿弥が伊賀から大和に移ったときに興福寺配下の声聞師を介して曲舞を習得したのだということです。
白拍子と曲舞
白拍子と曲舞が近似なる芸能というのであればその境はいかなる時期にあったのでしょう。麻原氏は、貞和4年(1348)に書かれた「峯相記」の中で文保2年(1318)の蓑寺大堂建立縁起の法会で、白拍子が抜けて曲舞が初見されること、また、永仁5年(1297)の「普通唱導集」には白拍子がまだ記されていることから、その間である13世紀半ばは未だ白拍子の全盛で、曲舞の隆盛は14世紀半ばころからだとしています。
蓑寺ト申ハ正和二年六月ノ比、坂越ノ庄ヘ下ル旅人、ナニトナク雨ヤドリ、英賀ノ西田寺ニ立寄。タワレニ古仏二体負テ福井ノ庄山本村ニ蓑ヲ覆テ捨奉ル。薬師観音両像也。其辺ノ人々、板ヲ上ニフキ崇メ奉ル。自然所求所望悉ク叶セ、祈所ムナシカラズ、ト披露セリ。利生掲焉ニ賞罰厳重ナル聞ヘ国土ニ謳歌有テ、上下万民参詣ス。盲目ハ眼前ニ眼ヲ開キ、腰折ハ即時ニ立馳スル。万病皆癒福寿疑ナキ由シ、掌ヲサシテ分明也、トノヽシル。七八月ノ比ハ、当国ニ限ラズ、摂津河内和泉紀伊ノ国、但馬丹波備前美作四国、辺土京田舎集ル間、二三里ガ内ハ諸方ノ道、更ニ通リヱズ。九品念仏・管絃・連歌・田楽・猿楽・咒師・クセ舞ヒ・乞食・非人人数百人充満シ、灯明仏具昼夜経営市ヲ成ス。無程三間四面ノ大堂ヲ造立シ、文保二年十一月八日、書写山長吏俊盛導師ニテ供養ヲ遂畢ヌ。(「峯相記」播磨の霊地・霊験を集めた書)
また、彼女は「五音」の記事に出てくる、曲舞は「賀歌の末流」とすることについて、この「賀歌」という白拍子が「教言卿記」「北山殿行幸記」「年中定例記」などに祇園会に参加していることを指摘した後に、「五音」に「キオンエノ車ノ上クセマイコノ家ナリ」と記されたものと同一であるとし、時代遅れとなった白拍子が新たに開発した舞が曲舞であった可能性を見出しました。彼女は、曲舞の要素が猿楽に導入されたとき、曲舞は洗練された猿楽の曲舞に圧倒され、評判の小歌がかりの曲舞節で演じなくてはならぬ羽目になり、現存のような語り物に転化していったのではないか。時期としては観阿弥・世阿弥の猿楽能の完成する応永・永享ごろではないかとも推察しています。
参考資料
一、音曲に曲舞と只音曲との分目(を)知る事。曲舞と申は、一道より出でたるゆへに、只、音曲には黒白にはの変り目あり。然者、文字にも「曲」「舞」を添えたり。惣名音曲と云に、「曲舞」と書きたるを以て、別曲ありとは知るべし。
この変り目と云は、曲舞は拍子が体を持つ也。只謡は、声が体を持ちて、拍子をば用に添えたり。しかれば、曲舞は拍子が体を持ゆへに、「舞」と云文字を「曲」に添へたり。さる程に、曲舞と言へり。立ちて謡ふ態也。風体より出づる音曲也。
しかれば、昔は格別の事にて、曲舞は曲舞の当道にて、あまねく謡ふ事はなかりしを、近代、曲舞を和らげて、小歌節を交へて謡へば、ことにことに面白き也。面白く聞ゆるゆゑに、当時はことさら、小曲舞のかゝり、第一のもてあそびとなれり。これは亡父、申楽の能に曲舞を謡ひ出したりしに(よりて)この曲、あまねくもてあそびし也。白鬚の曲舞の曲、最初なり。去程に、曲舞がゝりの曲をば、大和音曲と申付たり。
かゝる程に、曲舞節の硬きを和らげて、小歌節になりゆく所に、曲の道少(し)づゝ違ふことを、人不知。(曲舞)にも小歌の曲まじり、小歌にも曲舞がかりあり。しかれども、面白きこと肝要なれば、これを僻事とは申さぬなり。(さりながら)この分かれ目を知らざれば、道を理るべき導師は絶えたるになるべき事、本意をそむけり。
抑、曲舞・只音曲の分目と云は、曲舞は拍子を体に謡ふ曲なれば、文字を拍子が持つによりて、文字も句も移りも軽し。(世阿弥「音曲口伝」応永20年識語)
舞う芸能から語る芸能へ
語る芸能と舞う芸能。どうやら、白拍子を祖とした曲舞は、14-15世紀にかけては、稚児や女性が「舞った」ものからでてきたようです。それでは、今「舞の本」にあるような、「語り聞かせる」芸能としての性格が濃くなったのはいつ頃なのでしょうか。室木弥太郎氏は 、舞と語りに置き所が分化したのは1500年前後であるとしています。語り物であれば、児舞・女舞という一時的な人気に頼らざるとも歳をとっていてもやれる。「二水記」永正17年(1520)9月12日の曲舞について「近頃聞事各拭感涙了」と舞を「聞く」とあるので、長編の語りをしたのであろうとしています。
曲目が見えてくるのは、「鹿苑日録」明応8年(1499)2月29日条のことです。「摂州優者両人来、多田満仲並奥州佐藤兄弟事。恵三百銭二百扇。」現行の「満仲」「高舘」とおぼしきものが、演奏されています。
しかし、川崎剛志氏は、「曲舞と幸若大夫」(「幸若舞曲研究」第七巻)で、「鹿苑日録」の記事をもって1500年がターニングポイントであると決定するのは危険であるとします。なぜなら、「鹿苑日録」のこの項の執筆者、景徐周鱗はこれ以外に曲舞の曲目に関する記事を載せていないからと理由付けます。つまり日記者の性格を考えてみる場合、これをもって今日残るような舞曲が出始めた点であるとは言えないというのです。確実に曲舞の曲目を水準で捕らえることができるのは、天文年間(1532-)に入ってからということとします。
天文年間あたりがと言う意味では、西脇哲夫氏の「幸若二第」(「幸若舞曲研究」巻四所収)も重要な意見となるでしょう。室町物語的往来物である「東勝寺鼠物語」天文6年(1537)では、鼠の食いちぎった寺の中の手習い・学問の書の中に舞曲の一群があるのに注目しているところ、また、幸若詩章とのつながりを持つと思われる能「正尊」と幸若「堀川夜討」・能「武文」と幸若「新曲」で、その成立下限が、大永3年(1523)であり、更に大永6年(1526)の奥書をもつ「神祇陰陽秘書抄」は幸若「日本記」の一部に関わっている。これらのことから、天文6年の段階で70点ものテキストが寺に蔵せられてもおかしくなく、このころには現行の曲目の素地ができていたとします。
一方で、「自戒集」の曲舞の起源を説いた記事が真実性を持っているとすると、この、声聞師が琵琶法師のかわりに源平の合戦を読んだのが起源という説が「自戒集」の成立年代、つまり寛正2年(1461)から応仁元年(1467)の間の頃にあったということになり、結果、その頃には現在残っているような曲舞の詩章が成立していた事になります。
総合すると、16世紀前後に、「語り」としての素地ができてきたと言えるでしょう。
 
幸若舞の担い手

六角堂クセ舞見物之。与八男也。□□近江河内義乃(美濃?)八幡声聞衆等上京。」「康富記」応永30年(1423)年10月1日条
白拍子を母体とした芸能の曲舞(後の幸若舞)ですが、その担い手の多くは、幸若一族もこの流れを汲むとされる、声聞師(しょうもんじ・しょもじ)と呼ばれる芸能者でした。上の記事は彼らが曲舞を舞った初見とされる記事です。
玄問曰。サテ舞々ハ何比ノ者ニテ候哉。夫答曰。伝承ニ今ノ舞々ト申者。世間ヲ往来スル声聞師カ。仏菩薩ノ因縁ノ唱テ人ヲ勧ル字ノ源平已後、両家取合非(悲)て。是喝人の心ヲ喝。一人ノ心ヲ慰ル。是今ノ舞々也。(「旅宿問答」永正4年(1507)奥書)
上の記事からも、声聞師のありようが見えてきますが「日葡辞書」では、声聞師/舞をする呪術者や占い師のような者で、祈祷や呪術をなどを行う者と整理されています。
声聞師は寺院や特定の家に隷属し、曲舞をはじめとした芸能の担い手であると共に、陰陽道に従事し暦を作成したりしていた者達です。しかし、声聞師という呼称は貴族など上からの呼称であって、彼ら自身も声聞師と言っていたのかは不明です。また、「唱門師」と表記されることがあり、そこからは門付をする者達であったことは伺えます。
なかでも興福寺大乗院に隷属していた五ヶ所十座という声聞師は大和国に強力な力を持っており、造園。築地などの土木工事や物資運搬に携わりつつ、所謂七道者とよばれる声聞師芸能の総元締めでありそこに経済的基盤を持っていました。
参考資料
「大乗院寺社雑事記」寛正四年十一月二三日条
七道者。猿楽。アルキ白拍子。アルキ御子。金タタキ。アルキ横行。猿飼。以上。
「大乗院寺社雑事記」文明九年五月三十日条
一切声聞之沙汰条々、陰陽師・金口・暦星宮・久世舞・盆彼岸経・毘沙門経等芸能、七道物自専事
それでは、声聞師というキーを踏まえた後で、諸記録に見える、曲舞の担い手を見ていきましょう。
幸若流と大頭流
幸若流
白山神社と関りのある越前丹生郡西田中(現鯖江市)出身の芸能一座です。室木氏は西田中は元は院内(いんない)村と呼ばれた声聞師の村とし、麻原氏は後に家の名前ともなった、八郎九郎という名前は声聞師の名前として見られたとしています。江戸時代の由緒書きでは、南北朝期に活躍した武将桃井氏の没落した末裔で、幸若は末裔桃井幸若丸が延暦寺の稚児として舞を舞ったところ、後柏原天皇の寵を得たことからとしていますが(江戸時代の幸若舞を参照してください)、室木氏によると、幸若という名前は幸春・幸鶴・幸福・幸菊とひとしく「幸」の字を用いる、この地方の一特色であったようです。「○○声聞師」といったような書き方ではなく「幸若大夫」という書式で登場するので、寺社に従属する声聞師より一個の芸道の家として独立していたのではないかと見られています。初見は「管見記」嘉吉2年(1442)5月24日。8日の南庭でのくせ舞、22日の推参での曲舞に対して「幸若大夫」がお礼に来た記事ですが、この舞について「号之二人舞」とあることは幸若流の舞が二人で舞う事を基本としていた事を示しています。(現在は3人)他の団体と異なり古くからずっとコンスタントに公演を続けている、大きなグループです。
川崎剛志氏の「曲舞と幸若大夫」(「幸若舞曲研究」第七巻)によると、文明11年(1479)の幸若大夫による勧進曲舞は前年盛大に行われた観世の勧進猿楽に匹敵するものであり、曲舞愛好家細川政之が後ろから幸若を支えているものであったようです。また、長享2年(1488)7月の興福寺主催の元興寺極楽坊の幸若大夫による勧進曲舞は、先に挙げた、興福寺の下で権勢を振るっていた大和五ヶ所十座寺をおしのけて、寺を挙げての催しでありました。勧進で集めた費用は幸若の禄物となっていたとされ、この両者の事例から、応仁の乱前にはすでに幸若流は他を跳ね除けて確固とした地位を築いており、他は追いつくだけであったと考えられ、そのような状態であったからこそ、演目の固定化、共有化が行われたとします。
幸若八郎九郎義安が信長をはじめとした戦国大名をパトロンとする事に成功し、曲舞の代表的家となり、幸若舞を確立させました。
「幸若舞」の言葉の初見は「上井覚兼日記」天正12年正月24日条。中央での初見は「輝元公上洛日記」天正16年(1588)8月14日条になります。つまり、このころには、名実共に他の「曲舞」団体から一歩抜け出た存在として確立していたことがわかります。
武家としての待遇を受けた幸若家は武家の式楽を担当する役となり、他の曲舞の担い手と一線を画する運命をたどります。(後述)幸若家は八郎九郎家とそこから派生した小八郎家、そして養子から入ってきた弥次郎家の三つの家で構成され、江戸幕府の将軍に対する舞は三家が輪番で担当していました。
九州の幸若
「上井覚兼日記」は島津家の武将で芸能は武家の嗜みである言った上井覚兼によって書かれた日記ですが、そのなかに九州の地で活躍する幸若与十郎や幸若弥左衛門という曲舞が、天正11年(1583)を中心に活躍した記録があります。かれらも上の幸若一門であるならば、幸若一族のテリトリーはとても広いものだったと想像できます。
大頭(だいかしら)流
「御湯殿の上の日記」永正13年(1516)2月13日条からみえはじめるグループです。「言継卿記」は京の者としています。
現在唯一残る福岡県山門郡瀬高町大江の舞は、この大頭流です。
「雍州府志」「古跡」では幸若と同じくして比叡山に入った岩松家の稚児が始めたという伝承があり、また「和漢三才図絵」「芸能」では、幸若・笠屋と共に舞の流派として認知されていました。
笹野氏は、元禄・享保のころから書き継がれたと見られる「大頭舞之系図」に注目しました。そこでは幸若弥次郎の流れを受けた山本四郎左衛門が、後小松院の北面武士であり、大頭大声であったところから大頭とし、その子の「京の町人」であった百足屋善兵衛が後柏原天皇の叡覧あって大いに繁盛、その弟子の大沢次郎幸次が天正10年に筑後の戦国大名蒲池鎮運の下向と共に九州に移住し、蒲池家の没落と共に流浪する。となっています。基本的に一家相伝ではないが、天明年間頃から大江の松尾一族が代々相伝して行く形となっているようです。麻原氏はこの「大頭舞之系図」において幸若弥次郎の孫弟子筋が「京町人」の者だらけあること、彼らの名が百足屋・笠屋といった屋号であることから、大頭流を担った人々は京の町衆であるとみています。これは同じく京の町衆による手猿楽の盛況時期(天文・永録年間)とも重なることも傍証のひとつとして挙げています。
さらに麻原氏によると、曲舞の新流であった越前幸若流が大頭流によって京にもたらされて、それに舞々の徒も加わり、古い曲舞が一掃されたと見、また、地理上幸若流よりも有利に展開できるため禁中・公家との繋がりを強くして行き、幸若は戦国大名との働きを強めていったとします。また、大頭が斬新・改革的な流派で、従来二人が基本で二人舞とも称されていた曲舞のありかたに三人舞という新形式を打ち出したとします(「言継卿記」天文14年6月4日条)
大沢次郎の九州下向についても麻原氏は、パトロンであった公家層の衰微と菊地氏の招きによる利害の一致の他、芸風に対する一座の内紛、つまり、女舞の導入の是非があったとします。
笹野氏は「京都御役所向太概覚書」「歌舞伎事始」「女舞之事」より、女舞の流れは寛文から元禄にかけて、柏木という大頭流の女舞が出てきて、笠屋流を下に置き、その一部は歌舞伎に流れていったとします。また、麻原氏は、市村座の前身桐屋の家譜では先祖を幸若小八郎の弟子与大夫とし、伊豆の曲舞としてやって来たものの、男子に恵まれず、女舞に転進して成功を納めたということを紹介しています。
その外の声聞師系の曲舞
小犬党 
曲舞での初見は「看聞御記」永享10年(1438)2月16日。児舞をさせて、「其芸いたいけ也」といわしめています。声聞師の一座で代々小犬太夫を襲名しており、童舞をウリにした曲舞をしていました。猿楽の世界にも手を出しましたが、23時間のうちに五番もこなしていることから(「蔭涼軒日録」文正元年2月6日条)その芸は聞き所・見せ所のさわりを演じていたもの考えられます。しかし、観世金春をはじめとした猿楽座から弾圧を受け、時には猿楽座の働きかけにより将軍から弾圧された事もあり(「康富記」宝徳3年(1451)2月23日条)、麻原氏は文正年間以降は曲舞に戻ったとしています。
河内の布施舞々
「経覚私要抄」長禄4年(1460)正月26日初見。興福寺とつながりのある舞々。千秋万歳も行っていました。
美濃国人
先に挙げた「康富記」応永30年(1423)10月1日条初見。単独の例としては「後法興院記」文正元年(1466)4月16日の千本桟敷での公演。男の露払いの跡、十四・五歳ぐらいの稚児の舞、次に女舞といった具合で行われたが、女が19歳で大変美しく、四、五千人の見物客でごった返したと言います。
摂津の優者
「満済准后日記」応永34年5月10日条が初見。「摂州野瀬郷声聞」とあり、声聞師であった。男と稚児が舞を舞っています。この条に「児は水干大口立烏帽子ニテ舞之。男ハ直垂大口也。」と服装が書かれているのは貴重でしょう。因みに曲目らしいものの初見の記事で演じているのがこの声聞師である。
若狭「遠敷(小浜市)の幸福舞」
室木氏が言及しています。舞々谷と呼ばれる場所に居住。土御門家に属して泰山府君を祭り、陰陽師の仕事をしていた。若狭一宮上社下社の社役を務めたことは確かと。「蔭涼軒日録」延徳3年(1491)6月20日条には「武田彦次郎殿奉一献。若州九世舞用意之。」とあり、若狭武田氏との繋がりが深かったようです。
加賀の舞々
これも金沢大学の室木氏が言及しています。瀬領(石川県石川郡)の村外れの藤田屋敷と呼ばれる竹やぶに居住していたそうです。
近江の曲舞
東寺百合文書にある文明12年(1480)8月1日付の東寺の評定引付に見えます。
相模の曲舞
室木氏により、権力との結びつきが強い団体として取り上げられました。
千秋万歳系の曲舞
千秋万歳(せんずまんざい・せんずばんぜい)とは正月子の日に行われる門付芸で予祝芸能のひとつでありました。三河万歳・尾張万歳のルーツになります。主な担い手は北畠党などの声聞師であり、予祝の言葉を投げかけるのが、だんだんと今日見る大道芸のようなものや曲舞・猿楽を伴って来ました。そこから、曲舞と千秋万歳とのつながりは、担い手である声聞師と併せて関連を否定することは出来ません。
しかし、千秋万歳の担い手が普段の曲舞の担い手であるかというのには疑問点がある。北畠党が普段の曲舞を演じることは少なく、反対に幸若や大頭が千秋万歳を演じることも少ないようです。恐らくはある時期を境に声聞師の間ですみわけが出来たのでしょう。
大黒党
「御湯殿の上の日記」文明15年3月12日条初見。稚児舞を得意とするようです。盛田嘉徳氏は「中世賎民と雑芸能の研究」(昭和49年・雄山閣)で、御所近くの声聞師村の住人で1月5日の千秋万歳・三毬打・重陽には定期で伺候しており、他の曲舞の世話をするほど相当力を持っていたとされるが正親町上皇の命日がこの日に当たってしまい、公演が出来なくなってしまった後、退転してしまったようだとしています。
北畠党
「蔭涼軒日録」長享2年(1488)正月2日初見。千秋万歳の時に、稚児を連れて曲舞をさせている大黒の後、遅れて千秋万歳を行うことになっていた声聞師集団。正月5日はかれらのテリトリーでした
その他の担い手
元遊女の曲舞
「実隆卿記」文明9年閏正月12日から何度か見える。「入夜尼真禅(旧遊女)候簀子。密々於庇有曲舞。」とあり、元遊女がこっそりと曲舞を舞っていたことを示します。白拍子舞の系譜を引いているのでしょうか。曲舞は女舞の系譜を引くはずですが、女舞は曲舞の記録の前半を中心としています。幸若流は基本的に男舞の流派であるから、幸若流が地位を形成するに従って女舞が衰えたことを示すのかもしれません。
琵琶法師の曲舞
「蔭涼軒日録」長享2年(1488)2月21日にみえます。俊一・乗一が平曲とともに曲舞や小歌を演じていました。このほかにも白拍子舞と平曲を同一にこなす藤寿なる人物もおり(「看聞御記」永享8年正月16日条)芸能者間で、芸能に関してあるていどのシェアリングがあったことをを想起させます。
 
幸若舞と権力者

幸若流をはじめ、曲舞を生業とする芸能者たちは、次第に権力者、つまり戦国武将とのつながりを深めてゆきました。戦国武将は寺社に崇敬を寄せ、利用支配していったと言う関係から(中には、信濃諏訪氏/諏訪社の神主、肥後阿蘇氏/阿蘇の大宮司。大和筒井氏/興福寺の官府衆徒のように、戦国武将そのものが寺社関係者であった例も有る。)曲舞と城主や領主の権威につく可能性が出てきました。
北条氏
相模平塚の鶴若孫藤次 / 恐らく偽文書と思われる頼朝と梶原景時の花押のある判物を持ち、鶴岡八幡宮所属の舞々で相模八郡の舞々の元締め。永享5年(1433)足利持氏の花押を持つ判物を持ち権力者に接近したようです。
足柄下郡古新宿町の天十郎太夫 / 大永8年(1529)に北条氏綱からの判物に舞々・いたか・陰陽師を取り締まり、役銭を取る権限を与えられ、領主の来客接待としては舞を舞う。
足柄下郡荻窪村の大橋治部左衛門嘉義…/ 北条氏の舞太夫となり、北条氏政から政の字を貰い義政と改めたり、勧進の舞々の認可を得たりしている。室木氏はこう言っています。「(大橋の演じた曲について)「与市」にしろ「馬揃」にしろ、武将にふさわしい祝儀性を持つ作品である。舞曲成立の要因が奈辺にあるかを暗示するものといってよい」
若狭武田氏
「蔭涼軒日録」延徳3年(1491)6月20日条には「武田彦次郎殿奉一献。若州九世舞用意之。」とあるが、若狭は若狭武田氏の領地であった事から、武田彦次郎が若狭から曲舞を呼んできたのではないでしょうか。さすれば、この記事は曲舞と戦国大名の繋がりを示す早い記事となります。
信長・秀吉・家康の「幸若」寵愛
「信長公記」「宇野主人日記」天正10年(1541)5月19日、安土の惣見寺で幸若八郎九郎の曲舞と丹波猿楽の梅若大夫とを競わせて、曲舞を大いにこのみ、その後朱印状を与え、続く柴田勝家・丹羽長秀・豊臣秀吉らも是に倣って「幸若」に対して知行安堵状を与え(三木・本能寺・金配の三曲は秀吉による命によって作詞作曲されたようです。)徳川時代もそれに倣いました。現行の曲目に源氏関連のものが多いことも一考すべきでしょう。
また、毛利家本の由来を考えてみましょう。毛利輝元が家臣をわざわざ越前の幸若家に派遣しています。幸若流が権力者との繋がりの中で舞の家の家元的存在となり、曲を管理する家として君臨していたことが伺えますね。
しかし、この権力者との結びつきは、江戸時代において、この芸能の寿命を短くした原因でもあったのです。
 
幸若舞2

中世末期から近世初期にかけて流行した語り物芸能の一つに、幸若舞曲といわれるものがある。多くは超人的な英雄の戦いぶりを描く。例えば、無碍宝珠をめぐって阿修羅軍と戦う万戸将軍、鉄の弓を引いて「むくり」(蒙古)と戦う百合若大臣、歌舞伎の荒事を思わせる金王丸、三七度頼朝をねらう景清、天狗の法を得て強盗を退治する牛若、巨大な棒長刀を持って敵をなぎ倒す弁慶、怒りの塊のような曾我五郎などである。総じて彼らは饒舌であり、危機に陥っては弁舌で敵を欺き、自らを勘当した母を説得し、内外の故事を引用して自らの行動を決断する。女性もまた戦闘的であり、饒舌であり、行動的である。彼らの名が後世国民的英雄として定着したのは、幸若舞曲の影響であるといっても過言ではない。
幸若舞曲の登場人物たちは荒あらしく行動し、大げさに悲しむ。流離した英雄は悪人を退治し、部下はあくまで主君に忠義を尽くし、ときには妻子を犠牲にし、父や母は道理のためにはわが子を殺し、裏切った部下は徹底的な復讐を受け、女性は献身的に夫に尽くし、神仏は信仰する者に奇跡を現わす。また、内容に関わりなくめでたい言葉で結ばれるという祝言的性格をもつ。
異なる曲間で類似場面・表現が繰り返される。例えば、子殺しの場面は「鎌田」「景清」「和泉が城」にみられるが、ほとんど固有名詞が違うのみであり、そのほか武装表現・戦闘場面・道行なども類型的である。この類型性は語り物ということを考えれば当然のことであり、耳で聞く分には極めて理解しやすいものである。同じ語り物でも、「平家物語」のように哀切美にあふれているのでもなく、説経節のように悲惨な内容を語るのでもない。曲名を一覧すれば明らかなように猿楽(能)と同じものが多いが、地謡もなく、弁慶役・義経役といった役割分担もなく、小道具もなく、場面に応じて刀を抜いたり手足で所作をしたりすることもない。長い物語を数人で区切り、舞いながら節をつけて語っていくというものである。したがって、2人でも3人でも上演できる。基本的には二人舞であった幸若が、天正3年(1575)8月29日に坂井郡豊原寺の信長陣で「烏帽子折」を舞ったときのように、4人で舞うこともあったし、名人といわれた小八郎安林の時期以降はワキ・ツレをともなう三人舞であったようだ(「長明書留」)。平家琵琶が一人で語っていくのに対して、語り物に簡単な舞を取り入れて視覚化したものといえる。幸若舞曲は、まさに戦国期の人びとに愛好されるにふさわしい内容であり、表現であったといえよう。
現在は福岡県瀬高町大江に伝承されているのみである。大江では3人が舞台に立ち、単調な節まわしで語ってゆく。楽器は鼓のみである。舞とはいえ特別な所作があるわけではなく、やや下に両手を広げて前進後進を繰り返し、ときに足を強く踏みながら舞台を8字形に回る。大江の舞は大頭系のものだが、幸若舞もこれと同じようなものであったろう。幸若は二人舞という違いがあるが、節付けはコトバ・フシ・ツメを基本とし(コトバはリズムのある朗読調の説明的部分で、フシはメロディーがあり情感をこめた部分で、ツメはテンポが早く勇壮な部分で使われる)、これは大江のものも幸若系のテクストもほぼ同じ箇所に付けられている。  
白拍子舞と曲舞
14世紀から17世紀初頭にかけて曲舞(久世舞・口宣舞・舞々・舞)とよばれる芸能が流行した。その曲舞のなかで、丹生郡田中(近世には西田中)を根拠地にした幸若舞は、最も大きな勢力をもった一派であった。曲舞は、平安末期から鎌倉期にかけて流行した白拍子舞から出たものといわれるが、詳しい実態はわかっていない。白拍子舞は拍子を主にした歌舞であったようで、曲舞もまた拍子に合わせて長い物語を舞いながら語っていくものであった。
のちに能といわれるようになる猿楽の改革者観阿弥は、当時人気を博していた田楽の歌舞と曲舞の拍子・語りを猿楽に取り込んだ。ものまねを主体としていた猿楽が、ストーリーをもった歌舞劇として再生したのである。現在の謡曲のなかにはクセとよばれる部分があるが、これがその名残りだという。観阿弥の子世阿弥はさらに積極的に曲舞を取り込み、例えば「百万」では実在の女曲舞師百万をシテとし、「山姥」ではそれをモデルとした百ま山姥が、山姥の曲舞を作って評判になっていたという設定になっている。これらの曲舞は、世阿弥が「五音」のなかで記しているところによれば、かつては多くの曲舞師があったが、永享元年(1429)ころにはほとんど絶えて、わずかに南都の女曲舞師の流れをくむ「賀歌」(加賀)のみが残っていたという。以前の曲舞は、それを取り込んだ新しい芸能である猿楽に圧倒されたというのであろうか。  
声聞師と曲舞
世阿弥の言っていることにもかかわらず、この時代、曲舞師による曲舞は終わったにしても、唱門師(声聞師)たちがそれを伝えていた。応永30年(1423)10月1日近江・河内・義乃(美濃か)・八幡などの国ぐにの唱門師たちが、京都の六角堂・亭子院・梅小路・珍皇寺・矢田寺・大堂(犬堂か)で連日舞を舞い、人びとは棧敷を構えて見物したという(「康富記」同日条)。このころから唱門師たちが勧進曲舞という形で京都や奈良の寺社で活動していたことが、諸記録によって明らかにされる。記録の性格による制約もあるが、特に児舞・女舞と書かれたものが目につき、当時の曲舞がかなりあでやかなものであったことが推測される。そのことは嘉吉2年(1442)5月8日「管見記」に、「当時諸人弄翫せしむるくせ舞あり。これを二人舞と号す。家僕等勧進によつて今日南庭においてこれを舞ふ。音曲舞姿尤も感激あり」とあることによっても確かめられる。「管見記」の著者西園寺公名を感激させた曲舞は、5月22日にも推参し、「見聞の衆庭前に満つ」ありさまであった。その二日後、24日に「幸若大夫先日の礼と称して来たる」とあり、この二人舞が幸若であったことがわかる。都の貴顕が「幸若」の名を記録した最初の例である。曲舞の曲名が記録されるのは、1500年代に入ってからだが、おそらく幸若が登場したころから、曲舞も英雄の活躍を主にした長編の語り物という新しいものに変わっており、それが都の人びとに受け入れられたのであろう。
室町期から近世初期にかけて曲舞を舞った者は、幸若や前述の国ぐにの唱門師のほかに、京都の北畠・桜町の唱門師(千秋万歳)や大頭などがある。越前幸若の実態はほとんど不明であるが、世阿弥の言っていることや、曲舞を舞っている者たちが唱門師であることからすると、幸若もまた唱門師の一派であったらしいが、早くから他の曲舞とは別格の扱いを受けていたようでもあり、なお問題は残る。
現在「幸若舞曲」という用語が使われるのは、曲舞のなかで幸若が大きな力をもつようになったために、新しい曲舞を幸若の名で代表させているのである。したがって、「幸若舞曲」と言った場合、幸若以外に大頭や笠屋やその他の曲舞をも含めている。  
越前幸若
幸若の名が史料に現われる最も古いものは「天王社御幸供奉日記」である。これは天王社(丹生郡朝日町西田中 八坂神社)の六月の祭礼において供奉すべき郷民の役割分担を定めたもので、嘉慶元年(1387)6月7日の日付をもつ。すなわち、獅子・八乙女(別当衆の児の役)・田楽(法師の役)に続いて「十六日の白昼より舞三番、これは幸若役」とある。この史料は原本ではなく、写であるために信憑性にやや疑問があるが、事実であるとすれば、都において曲舞が人びとの評判になるかなり以前から、越前においては幸若といわれる人びとが、天王社の祭礼に奉仕して舞(これも曲舞であるという確証はない)を舞っていたことになる。
幸若と天王社との結びつきについても未詳だが、宝徳2年(1450)2月18日にも「越前田中香若大夫、室町殿に参り、久世舞これを舞ふと云々」とあり(「康富記」同日条)、幸若の発祥地が丹生郡田中付近であることは間違いない。なお田中とあるが、幸若が居住したのは印内村(元禄13年以降は西田中村となる)であり、そのことが確かめられる最も早い例は天正11年8月21日付の丹羽長秀が幸若小八郎に与えた知行充行状である。  
幸若系図
幸若の起こりについて、近世の幸若家はいくつかの由緒書・系図を残しており(「幸若舞曲集 序説」)、そのなかで次のような伝説を記している。
足利直義派の武将で越中国守護桃井直常の孫(または曾孫)にあたる直詮(幼名幸若丸)は、桃井氏没落ののち、応永年間(1394-1428)末ころ丹生郡法泉寺村に生まれ、比叡山に登り学問をした。容貌・音声ともにすぐれ、音曲を学び、名声を得た。後花園天皇(または後小松天皇)の叡聞に達し、御前で披露することになったが(あるいは披露の後)、武門の家であることを理由に音曲者たることにためらいを申し上げたところ、「已来鄙賎の芸列には仰せ付けらるまじき」という勅定を受けた(「幸若家系図之事」)。さらに三六冊の草子を賜わり、白山権現の感通を得てこれに節をつけ、世に広まった。名人の名を得た幸若丸は「子々孫々まで白人芸たる」勅定をも受け、以来猿楽など他の芸能者とは別格となった。のちに越前に所領を得て、丹生郡天王村・法泉寺村に居住した。
幸若はいくつかの家に分かれていた。上出の弥次郎家、北家の八郎九郎家、南家の小八郎家・庄兵衛家、敦賀に移った五郎右衛門家などである。諸系図や由緒書によれば、都での名声とともに早くから朝倉氏の庇護を受けていたようであり、「桃井直詮画像」は土佐光信の描くものとされ、賛を朝倉氏菩提寺である心月寺二世海梵覚が記したものといわれる。諸系図によれば、幸若丸は文明12年(1480)60歳(66歳、78歳ともいう)で死に、その子直継が土佐光信にあつらえて描かせたものという。
芸能者に限らず始祖伝承は神話的なものであり、そのままに信用することはできない。例えば、先の幸若丸が比叡山で音曲を学んだと多くの系図類にあるところを、小八郎家の「幸若家系図」では、「そのころ都にもてあそぶ舞太夫地福太夫と云ふ者に長郎・満仲と云ふ曲を習ひ覚え」たとあるが、これなどは、幸若丸以前に「長郎(張良)」「満仲」という曲がすでに存在し、かつ都で評判になっており、おそらく唱門師であろう舞太夫から修得したということ、幸若そのものが唱門師であったであろうことを、はしなくも現わしてしまったものであろう。また「天王社御幸供奉日記」が疑わしいことは先にもふれたが、これが正しいとすれば、幸若舞の始祖である幸若丸よりはるか以前に越前に幸若がいたことになる。しかし、彼らが桃井姓を名乗っていることには何らかの根拠があるのであろう。没落した武家が芸能者のなかに溶け込むことはありうることであり、幸若が他の曲舞とは別格扱いされていたのも、その芸が抜きんでていたことによるのであろうが、出自の問題もあったかもしれない。
幸若諸家の系図類は延宝年間(1673-81)以降に作成されたものであり、系図そのものが語っているとおり、古い時代の系譜は定かではない。幸若は戦国大名との結びつきが強く、織田信長・柴田勝家・丹羽長秀・豊臣秀吉・結城秀康らから知行を与えられている。家康もまた幸若を愛好し、幸若は幕府に召し抱えられ、八郎九郎・弥次郎・小八郎家を中心に江戸へ入府し、将軍の舞御覧にあずかった。これは形式的には幕末まで続くが、実際に幸若が舞を舞ったのは宝永6年(1709)までと思われ、それ以後は単に短い謡い(祝言)のみを行なったようである。系図類が作成されるころから、幸若は武士の白人芸であることを主張し始めていた。芸能者としては破格の待遇を受けたことがその系譜を美化させ、芸を断絶させたといえよう。なお、幸若が桃井姓を名乗っていたことが確認できる最も古い例は、慶長16年(1611)に小八郎安信が「富樫」「幸若歌謡」に記した奥書である。
大頭舞
幸若より少し遅れて大頭といわれる一派が台頭してきた。大永3年(1523)2月7日に「上京ノ者」とあるので(「二水記」同日条)、京都で素人衆がプロに転向したものらしい。このころから諸記録には曲名が記されるようになる。幸若舞曲の諸本は大きく分けて幸若系と大頭系に分かれるとされる。流派によって二つに分かれるとはいえ、一般の語り物のような詞章上の違いはなく、同一のテクストから派生したものと思われる。各地の唱門師や曲舞の派があったにもかかわらず、同じ曲を似たような詞章で語っていたことは、これらを統括する力が働いていたからであろうが、その中心にいたのが幸若と思われる。
織豊期から幸若は大名との結びつきを強めていき、次第に一般の人びとの前では上演しなくなっていくが、かわって大頭が人びとの間で受け入れられていき、近世には舞といえばむしろ大頭の舞をさしていた(例えば近松門左衛門の「傾城反魂香」など)。また近世に古活字版や版本という形で「舞の本」が出版され、読み物として人気があったが、これらは大頭の詞章にもとづくものである。  
その他の曲舞
曲舞は幸若と大頭の二大流派のほかに、京都の北畠や桜町の唱門師の流派があった。
このうちムカデヤ・かさや(笠屋)は大頭流、江戸勘大夫は岡崎勘大夫が江戸に進出したものであろう。越前幸菊は若狭幸菊の誤りであろう。記録に現われているだけでも近江・摂津・三河・若狭・加賀があり、そのほか能登にも舞々がいたことが報告されている。県内では幸若のほかに敦賀の幸鶴がおり、大飯郡高浜には幸菊らの舞々が、遠敷郡には幸福座舞々がいた。
また伝来の詳細はわからないながら、遠敷郡上中町明応寺に大般若経紙背幸若舞曲がある。「満仲」「笈さがし」「伊吹」の三曲のみだが、天正13年以前の写で、現存する幸若の写本としてはかなり古いものであり、若狭の曲舞と何らかの関係があるのかもしれず注目される。  
幸若舞と戦国大名
先にもふれたように、幸若は戦国大名との結びつきが強い。信長の幸若好きは有名であり、特に「敦盛」を好んで、自らも舞ったという(「信長公記」巻一)。天正10年5月19日、信長は安土見寺に家康を招き、幸若八郎九郎の舞と梅若大夫の能を見た。舞二番・能三番があったが、梅若の能が不出来で、梅若は折檻された。改めて幸若舞があり、信長の機嫌が直り、幸若は黄金10枚を賜わったという。この幸若先・猿楽後という格式・序列は江戸幕府においてもそのまま踏襲された。諸大名が幸若家に所領を与えたことは先述したが、最も古いものが天正2年正月6日に八郎九郎へ100石を与えた信長の朱印状である 。
「上井覚兼日記」は薩摩・大隅・日向の大名島津義久に仕えた宮崎城主上井覚兼の日記である。ここにも幸若与十郎・弥左衛門尉父子がしばしば現われている(天正10年11月から同14年正月)。彼らの名は幸若家諸系図にはみえない。また家康に仕えた松平家忠の「家忠日記」には、三河の舞々たちのほか、越前の舞々の名がしばしばみえる。毛利輝元・秀就父子も幸若を愛好し、御伽衆奈良松友嘉の子善吉・善三郎を、舞習得のために小八郎家に遣わした。慶長17年のことらしい。兄弟は熱心に舞を学び、元和4年(1618)5月「我等家の舞一部の通り残らず念を入れ相伝」を許され(毛利家家老益田玄蕃充ての小八郎安信書状)、帰国の途についた(なおこの時期、幸若家に入門する者が多くいたことは、同書状に「弟子分の者共国々に数多御座候へども」とあることによってわかる)。両主君のご機嫌よく、兄弟は面目をほどこした。このとき、兄弟が持ち帰った「小八郎安信」署名の幸若正本をはじめ、そののちに収集されたものを含め、山口県防府市毛利報公会に残されている。
大頭も大名の庇護を受ける。大江の「大頭舞之系図」によると、百足屋善兵衛の弟子大沢次助幸次が天正10年に筑後山下城主蒲池鎮運によばれ、家中の者に舞を教えた。天正15年の蒲池氏没落後は筑後国内を転々とし、天明7年(1787)松尾増墺に伝えられてからは大江に定着し、家元制度のもとに農民の間に伝えられ、今日にいたっている。
大江の近くの福岡県甘木市秋月郷土館には秋月藩黒田家の蔵書が納められているが、そのなかに元禄以前の写と思われる舞の本10冊(39曲)がある。黒田家と曲舞との関係は不明ながら、曲舞をたしなむこと、あるいは読むことが当時の大名家にあって教養とされていたことは、「上井覚兼日記」に明らかである。  
幸若の衰退
曲舞は一般の庶民から貴族・僧侶にいたるまで愛好されたが、なかでも戦国末期の武士たちに強く支持された。それは曲舞の語る内容の豪快さと悲哀、単調なリズムの繰返しが受け入れられたのであろう。しかし泰平の時代に入ると、もっと華やかで艶っぽいものの方に人びとの興味は移り、歌舞伎や人形浄瑠璃に芸能としての主流の座を奪われてゆく。曲舞の徒のなかには笠屋のように歌舞伎に転向する者もあったし、以前の唱門師業に戻った者もいた。幸若は猿楽のように様式美を確立することもできず、時代の要求をくみ取ることもせず、家柄の高さという誇りのなかに閉じ篭もり、庶民からは離れてしまい、自ら芸能であることをやめてしまった。しかし浄瑠璃や歌舞伎に与えた影響は大きなものがあった。初期の浄瑠璃のなかには曲舞の台本をそのまま使ったものがある。動作のほとんどない、語りを主にした曲舞を人形に演じさせ、節を浄瑠璃節に代え、楽器を鼓から三味線に代えたのである。また浄瑠璃や歌舞伎には曲舞を題材にしたものが多く、曲舞の世界を当代流に改編したものといえる。人物造形にしても、曲舞のそれを受け継いだものが多い。曲舞は語り物であって劇ではないが、ほとんどそのまま劇に移行することができる内容をもっていた。
 
越前猿楽

観阿弥・世阿弥により能が大成される以前の鎌倉末から南北朝期に、越前において猿楽がすでに相当高度に発達していたらしいことは、世阿弥の「申楽談儀」の次の記事から想像することができる。
越前には、石王兵衛、そののち竜右衛門、そののち夜叉、そののち文蔵、そののち小牛、そののち徳若なり。石王兵衛・竜右衛門までは、たれも着るに子細なし。夜叉よりのちのは、着手を嫌ふなり。金剛権守が着し、文蔵打の本打なり。この座に年寄りたる尉、竜右衛門。恋の重荷の面とて名誉せし笑尉は、夜叉が作なり。老松の後などに着るは、小牛なり。
観阿弥と同世代の金剛権守が文蔵打ちの面を着ているので、石王兵衛・竜右衛門・夜叉・文蔵と続く面打ちの系譜から単純に逆算すると、石王兵衛は観阿弥より相当以前の鎌倉末期ごろまでさかのぼるような著名な面打ちということになり、越前での早くからの猿楽の隆盛がしのばれるのである。
また右の記事は、越前が尉面(老夫の面)の一大産地であったことを告げている。越前の面打ちたちは尉面製作を得意としており、他国の猿楽に尉面を供給していた。さらに「文蔵打の本打なり」という言葉からは、文蔵の尉面がすでに本面として扱われていて、その写しの面が多く作られていた事情がうかがえ、尉面の様式的完成は越前の地でなされたとも考えられる。このような越前での面製作の伝統は、のちの平泉寺三光坊や大野出目家へと脈々と流れていくのである。
越前での猿楽の記録の初出は正和3年(1314)丹生郡越知山大谷寺の小白山社の八講においてである。また、越前猿楽の役者の名が史料にみえ始めるのは、世阿弥晩年のころからである。永享7年(1435)2月21日「今日越前猿楽新参す、御所に於いて仕る」とある(「看聞日記」同日条)。この日、京都室町第で行なわれた猿楽は、足利義教夫妻や貞成親王を主要な観客とする、観世と越前猿楽の立合(競演)で、観世が五番、越前猿楽が八番の能を舞っている。新参の越前猿楽を迎えうつ観世方は年盛りの音阿弥が五番すべてを舞ったと思われるが、「今日将軍御所に於いて、越の申楽福来芸能を施す」とあるので(「満済准后日記」同日条)、越前猿楽の方の中心役者は福来であったことがわかる。福来は、永享7年より少し前に書かれた世阿弥の「五音」に、「松浦」という曲の作曲者として記されている。近世に入って編まれた「近代四座役者目録」や「仮面譜」によれば面打ちとも伝えられる福来だが、永享ごろの越前猿楽は福来を中心として中央とも拮抗するほどの力をもっていたようである。
永享7年福来率いる越前猿楽を将軍の前にデビューさせる能会を斡旋し主催したのは、「勘解由小路治部大輔」すなわち斯波義郷であった(「看聞日記」同年2月21日条)。また少し時代は降るが、寛正6年(1465)7月7日に斯波義敏邸で越前猿楽右馬太郎の演能がある旨が記されている(「親元日記」同年7月6日条)。室町前期の越前猿楽の保護者は斯波氏であった。なお右馬太郎の系譜に連なる者に、一時期金春安照(1549-1621)を養子にした越前ノ右馬太夫がいる(「近代四座役者目録」)。また文正元年(1466)2月越前の女猿楽が上洛して室町第や仙洞御所で演能したことが知られる(「後法興院記」同年2月23日条、「蔭凉軒日録」同年2月24日条)。このように応仁の乱以前には、越前猿楽はしばしば京都に進出して演能する機会をもっている。
一方、応仁の乱後の文明10年代(1478-87)京都の芸能市場の縮小を余儀なくされた金剛・金春・観世など大和猿楽の諸座が越前や能登に下るケースが増えてくる。
この時期からは、越前猿楽と中央の猿楽との能役者の交流が目立ってくる。「越前の者なり、召上げられ、京座に居候なり、名人なり」とされる犬若大夫のような越前の猿楽者(15世紀末ころか)もいれば(「観世狂言之次第」「近代四座役者目録」)、前述の金春安照のように、越前の猿楽大夫の養子となる者も現われるのである。
応仁の乱後、越前を平定した朝倉孝景(英林)はその晩年、「朝倉英林壁書」のなかで猿楽について次のように述べている。
一、四座の猿楽切々呼下し、見物好まれ間鋪候。其価を以て、国の申楽の器用ならんを上洛させ、仕舞を習はせ候はば、後代迄然るべきか。
京都から四座の猿楽をたびたび呼び寄せて見物することを控え、その余った費用で地元の優秀な猿楽者を京都に派遣して能の技を学ばせるほうが末代まで猿楽を楽しむことができる得策である、というものである。これは、短期的には、文明10年代に頻繁となった大和猿楽諸座の越前下向に歯止めをかけることをもくろんだものと思われるが、長期的には、斯波氏に代わって越前猿楽の保護者となった朝倉氏によるその保護奨励策といえる。といっても、国内の猿楽を京都に派遣して学ばせることを奨励するものであり、この方針により、朝倉氏の時代になって越前猿楽はいっそう中央の猿楽との交流を深めるのである。
朝倉氏が特に目をかけた越前猿楽は、「時衆過去帳」(神奈川県藤沢市清浄光寺所蔵)の記事により応永以前からの存在が確認される一若大夫とその一座であり、この一若の人びとが中央の猿楽をよく学んでいる。月舟寿桂の著した「幻雲北征文集」の「宿神像」の賛からは、「越之」という文字が冠せられる一若大夫吉家が観世大夫元広に習ったことがわかる。また同じ「幻雲北征文集」「金春与五郎寿像傍有鼓」の賛の付載記事には、 金春与五郎鼓を以て業となす。其右に出る者なし。一若源三郎吉久従いてこれに学ぶ。また能く妙を得。因りて其真を写す。以て拙賛を需む。蓋し表受虚ならざるなり。
とあり、一若源三郎吉久が小鼓の名人金春与五郎(美濃権守)について小鼓を学び、「能く妙を得」たため小鼓の師資相承が行なわれ、印可を受けたしるしに師の寿像を描くという禅宗の習慣に従って、金春与五郎の寿像が描かれたということがわかる。「幻雲北征文集」での位置からすると、その賛は永正年間(1504-21)の初めころの作であろう。
また「鼓秘書」の奥書(鴻山文庫蔵「音曲秘書」添付「古書売立目録」所載の写真による)からは、「鼓秘書」が美濃権守すなわち金春与五郎から一若弥右衛門吉次に贈られたものであることがわかる。「吉」を通字とする越前の一若の一統と金春与五郎は浅からぬ関係をもっていたらしい。「金春与五郎寿像」「宿神像」の賛が、ともに「幻雲文集」でなく「幻雲北征文集」に入っているのは興味深い。「北征」とは北方へ行くの意であり、「予自壮歳往来于越四十余年」(「某人住東福山林友社」「幻雲稿」)と40年以上にわたって越前と京都を往来した月舟寿桂の、越前で書いた文の集成が「幻雲北征文集」と考えられる。「金春与五郎寿像賛」は月舟寿桂が越前に滞在中、一若源三郎吉久に請われて書いたものであろう。しかし、印可を受けるくらいに上達した一若源三郎吉久は、やはり「朝倉英林壁書」の方針どおり、京都に出向いて金春与五郎からかなり長期にわたって小鼓を習ったと考えた方がよいだろう。一若大夫吉家の場合も同じである。こうして一若の座は、高水準の技倆をもって朝倉家お抱えの越前猿楽の地位を維持し、それは永禄11年(1568)3月8日朝倉義景がその館に足利義昭を招いたさいの一若大夫の演能にまでつながっていくのである(「朝倉始末記」)。
金春与五郎と同時代の笛の名人彦兵衛も越前と縁が深い。鴻山文庫蔵「遊舞集」の奥書によれば、この書は永正10年8月12日彦兵衛が朝倉与三(与三右衛門景職)に相伝した笛伝書である。「能口伝之聞書」(「細川五部伝書」)には、越前朝倉孝景(宗淳)が観世宗節に所望した「関寺小町」の笛をめぐる彦兵衛とその弟子千野与一左衛門の確執が語られる。弘治3年(1557)には観世宗節(大夫元忠、永禄10年ごろ出家して宗節を名乗る)の率いる観世一座が越前に下向したことが知られる(資2 石徹白徳郎家文書二号)。「能口伝之聞書」の「関寺小町」の一件は、これ以前の越前でのエピソードに違いない。また、金春禅鳳は「反古裏の書」や「禅鳳雑談」で朝倉貞景の言葉を引いており、「朝倉宗滴話記」には禅珍弥次郎(金春方太鼓方)のことがみえる。
朝倉一族と中央の能役者のかかわりもまた深いものがあった。それをよく示す16世紀ころのエピソードが、次に示す「越前者」のなかの「越前ノ萩原・同小萩原」の項にみえる(「近代四座役者目録」)。
越前ノ萩原
是は能はせず。謡上手にて、よく音曲をさいさいする。或時、朝倉殿へ大蔵九郎見舞われ、一調を打つ。萩原、色々音曲を仕掛け、和布刈の切に、つたい下つて、ここにてむつかしく音曲し、九郎も、自由に打事成りがたし。
同小萩原
幸四郎次郎、越前へ下り、子の萩原の音曲に逢て、鼓散々打損じ、上る。此やがて次に、宗拶下られ、又一調にて謡ふ。何方も鼓につきうたい、其上、さてさてうたいよき事かな。この前、四郎次郎下り、打損ふ。知らぬ者は如何思はんと存ずるに、御下りにて名を上げ申すと悦び、朝倉殿も御悦び限りなく、色々御引出物有り。親の萩原より、朝倉殿ことのほか御自慢なされたる者なり。色々咄どもあり。
越前の萩原親子は、京都から下ってきた大蔵九郎(大鼓)、幸四郎次郎(小鼓)、宗拶(観世九郎豊次、小鼓)などの名人を相手に一歩もひかず、かえって彼らを手こずらせるくらいの謡の名手であった。朝倉氏が愛顧した越前猿楽のレベルの高さと都の芸への対抗意識がうかがえるエピソードである。「近代四座役者目録」でわざわざ「越前者」を立項するくらいに、越前は室町期の能のなかで特異な位置を占めていたのである。  
 
若狭猿楽

「拾椎雑話」は若狭の猿楽について、「元来は四座にて倉氏・尾古・吉祥・気山と申候、いつとなく倉を頭として三座はしたがひける」と述べている。倉大夫は慶長元年(1596)に丹後浦島神社(京都府伊根町)で演能しており、また酒井氏の若狭移封以後の倉座の隆盛は明らかである。
これに対して中世の若狭において気山座がさかんに活動していた様子は、気山座の末裔である江村伊平治家の文書からうかがえる(江村伊平治家文書)。
観応2年(1351)4月1日猿楽の楽頭米の給付を代官が保証する充行状で、若狭における猿楽の初出史料である。次に古い延文4年(1359)の充行状は、地頭によって発給された楽頭職の補任状であり充行状である。その内容は、地頭により三方郡の藤井天満宮の楽頭(祭礼における猿楽上演の独占権と義務をもつ者)に気山(別の史料には毛山とも書かれケヤマと訓む)大夫が任ぜられ、それにつき藤井保からの二石二斗の給付を保証されたというものである。この文書は気山という名の初出史料である。
江村文書には、このほか応安4年(1371)や応永元年(1394)の楽頭田充行状が残っており、南北朝から室町前期にかけて、気山座が各所の楽頭職を手に入れて隆盛のさまがうかがえる。しかし明応4年(1495)4月日付の気山彦三郎による長文の言上書によれば、気山座はこのころ楽頭職獲得の競争に敗れたり、楽頭職を奪われたりしており、倉氏の初出史料である永正16年の文書によれば、極楽寺の楽頭職が気山彦九郎から倉弥二郎に売り渡されている。「拾椎雑話」に「いつとなく倉を頭として三座はしたがひける」とあるが、16世紀中に倉座が気山座をおさえて首位に立っていったものと思われる。
気山座の人たちのなかには、中央の役者と交流する者もいた。江村文書の天文16年(1547)3月朔日付の文書にみえる気山五郎三郎には、観世左衛門尉・保正源次郎・宮増弥左衛門の3人の判が押された鼓・笛の伝書が相伝されている(「早稲田大学演劇博物館所蔵文書」)。
この3人のなかで特に気山五郎三郎と関係が深かったのは、晩年を若狭で過ごした小鼓の名人宮増弥左衛門であろう。宮増弥左衛門の経歴については「四座役者目録」に詳しいが、「弥左衛門若狭国にて、弘治二丙辰七月十三日に、七十四五にて果てらる」とあり、若狭で弘治2年に74、5歳で亡くなったことがわかる。宮増弥左衛門は、天文12年2月25日の「天文日記」の記事を最後として記録類から姿を消すが、この年以降若狭に下ったのではなかろうか。この推定を傍証するものとして、次の「大野本笛鼓伝書」(「細川五部伝書」)の奥書がある。
大野三郎は若狭武田の被官人であった大野党の一人とみて間違いなく、若狭の地において宮増弥左衛門が大野三郎に対し、右のような奥書を与えたと考えられる。現存最古の能役者の肖像画「宮増弥左衛門親賢画像」も若狭で描かれたものである。のちにこの絵に賛を書いた雄長老の「羽弓集」には、この画像について「窪田日向守統泰若耶に於いてこれを画く、小鼓を持つ」とあり、窪田日向守統泰が若耶(若狭)で描いたことがわかる。
窪田統泰もまた若狭の猿楽に大きな影響を与えた人物である。窪田統泰は史料では「御湯殿上日記」「言継卿記」の大永7年(1527)5月9日条に禁裏出仕の手猿楽(素人猿楽)者として初めて姿を現わし、以降謡が看板の手猿楽者として禁裏を中心に公卿の間でもてはやされるが(「御湯殿上日記」、「言継卿記」、「公頼公記」)、享禄2年(1529)3月11日の「実隆公記」に初出してからは、他の日記類にほとんど姿をみせず、「実隆公記」にのみ頻出するようになる。
特に「実隆公記」享禄5年6月5日の「窪田若州より上洛す、海松を献ず、晩に及び来たる、盃を賜わる」と、五日後の十日の「窪田若州へ下向すと云々、□□一声興あり、右京亮返事これを遣す」とある記事が注目される。十日の記事では、窪田が若州に下向する由をいい、謡をうたい、右京亮すなわち粟屋元隆への実隆の返事をことづかっている。これ以降、窪田統泰は若狭の粟屋元隆と京都の三条西実隆の連絡役として活躍する。
これは、若狭の武田元光が多能な文化人で手猿楽者でもあった土倉の吉田与次(角倉了以の祖父)を被官として登用し、若狭と京都の連絡役にあたらせていたことを、粟屋元隆が見習ったものと考えられる。つまり、元隆はその勢力の増した享禄年間、実隆邸に出入りする吉田与次のような文化人窪田統泰に目をつけ、これを客分的被官として若狭において抱え、若狭と京都との連絡役に起用したのである。
天文3年の冬から同5年の秋にかけて、窪田統泰は粟屋元隆の庇護のもと、小浜の長源寺において「日蓮聖人註画讃」を描いている。統泰は、天文6年には三条西実隆の長逝、翌7年には粟屋元隆の失脚という悲運に見舞われるが、ずっと若狭の地に住んで、宮増画像などの絵を描いたり、地元の武士たちに謡を教えたりしていたようである。大野党の一人大野甚六なる人物に謡本二百番を進上したのもこのころであろう。この二百番の謡本を核として丹後の細川家においてできあがったのが、「妙庵玄又(細川幽斎の三男)手沢五番綴本」である。
宮増弥左衛門や窪田統泰などによって蒔かれた若狭の能の文化は、永禄年間(1558-70)ころから観世元頼・古津宗印・観世又九郎など観世座のワキ系統の人たちが若狭と深い縁を結ぶことによって、いっそう大きく花開いたと考えられる。
細川幽斎や同忠興を中心とする丹後の細川氏の高度な能楽文化の一翼を担ったのが、若狭から流れ込んできた武士たちであった。細川忠興関係の丹後における能会の記録である「丹後細川能番組」は、天正11年(1583)から慶長4年に及ぶ50回総計433番の番組を収め、各役の名を詳細に記載している点に特色があるが、その出演者の顔ぶれをみると若狭衆が多いのに驚かされる。旧幕臣グループにつぐ勢力である。
例えば沼田氏・大草氏は旧幕臣だがその根拠地は若狭であり、逸見蔵人や中津海次兵衛など逸見氏の一党、また大野右京進をはじめとする七人の大野党、それに山本中務・畑田善加・入江権丞・寺井直松・わかさ親七・わかさ与六・くらや又七なども若狭の人間であろう。観世元頼の弟の古津宗印も若狭と関係が深く、窪田宗佐は窪田統泰の後嗣と考えられ、やはり若狭出身であろう。
大野党を例にとってみよう。大野右京進を名乗る人物は大永年間(1521-28)ころの「実隆公記」に確認されるが、永禄8年の将軍義輝暗殺のとき、その情報を若狭の武田義統の命令で朝倉義景に注進した人物に大野右京進がいる(「島津家文書」)。「丹後細川能番組」の大野右京進もこれと同一人物と思われる。その右京進をはじめとする大野党の人びとが、「妙庵玄又手沢五番綴本」の原本である大野甚六充ての窪田統泰所持二百番本、あるいは若狭小浜で没した宮増弥左衛門からその署名を与えられた「大野本笛鼓伝書」などを持って、若狭から丹後へ流れ込んでいるのである。「能口伝之聞書」に「若狭衆、観世小次郎(元頼)弟子、山本中務云」とある山本中務なども主な仲介者の一人であろう。
「九州道の記」にみえる天正15年4月28日の出雲大社でのエピソードは、能にたしなみのある若狭衆が細川幽斎の家中に流れ込む場面を活写するものである。
休み居たる所に、若州の葛西といふもの尋来て対面しける。大鼓打つ人にて、若狭衆おほく同道ありて、一番きくべきよしあれば、さらばとて催けるに、両国造より所につけたるさかな(肴)たる(樽)など、つかひにてをく(贈)られけるほどに、笛鼓の役者どもきこみて、夜更るまで乱舞ありけるに、おもひかけぬことなりき。
細川幽斎は観世与左衛門国広から奥義を相伝されるほどの太鼓の名手であり、「丹後細川能番組」では大鼓をも打っている。その幽斎を興がらせるほどの力量を、大鼓打ちの葛西以下の若狭衆はもっていたに違いない。
 
能楽

日本の伝統芸能を代表する能楽(のうがく)は、鎌倉時代後期から室町時代初期の14世紀頃に成立した日本独自の舞台芸術で、能と狂言の2つを合わせて能楽と呼んでいる。国の重要無形文化財の指定を受け、歌舞伎と並び国際的にも高い知名度を誇り、2009年9月、第1回世界無形遺産への登録が事実上確定している。世界無形遺産とは、世界的に価値の高い無形文化財として保護・継承するためUNESCO(ユネスコ)が登録する予定の「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表(リスト)」に掲載されているもので、リストに掲載された芸能は、「無形文化遺産保護条約」の枠の中に編入される仕組みである。ちなみに日本は文楽と歌舞伎がリストアップされており、順次登録される予定である。さて話は本筋に戻る。
「能」は、舞踏・劇・音楽・詩などの諸要素が交じり合ってできた、現存する世界最古の舞台芸術といわれる。幽玄(ゆうげん)という言葉で表現されるように優雅で典麗な美的情趣に溢れ、歴史・古典文学などを題材にして歌舞を中心に構成され、シテ(主役)が造形美に優れた能面を着けて演じる象徴劇である。時代・国などに左右されることのない不変の人間の本質・情念を描くことを主題とし、簡素な舞台上で、凝縮・省略された1つ1つの動きに多くの意味が込められ、夢幻能の幽玄の世界にその典型的表現が見られる。
「狂言」は笑いを基調とした対話劇で「笑いの芸術」ともいわれるものだが、狂言の項に任せるとして、本項では日本舞踊としての能楽、主に舞に掛かる部分に触れてゆきたい。その前に、その成立と歴史を追ってみたいが、源流である散楽から猿楽の能への発展の詳細は「猿楽」の項を参照していただくとして、現在に至るまでの概略を紹介することにする。  
能の源流は奈良時代まで遡り、中国・唐の頃(618〜907年)に盛んだった「散楽(さんがく)」という民間芸能が日本に伝来したことに始まる。物真似・曲芸・歌・踊・呪術・手品など多彩な散楽は、全国各地に分散し、多くは大きな寺社の保護を受け、祭礼の場、または各地巡業などで芸を広め、次第に滑稽な物真似主体の滑稽芸・寸劇となり、世相を捉えて風刺する笑いの台詞劇「猿楽」として発達し、後の「狂言」へと繋がってゆく。また農民の間で発展した踊りである「田楽」、密教的な「呪師猿楽」なども盛んになり、互いに交流・影響し合い融合する。猿楽衆は寺社公認の下「座」の体制を組み、当時流行していた「今様」「白拍子」などの歌舞的要素を取り入れ、物語的要素を持つ楽劇を作り上げてゆく。田楽・猿楽の諸座が勢力を競う中、大和猿楽四座(後の観世・金春・金剛・宝生座)が台頭・興隆し、能楽の大成者・観阿弥を生み出した。観阿弥は将軍・足利義満の庇護の下、先人の良い所を吸収し、近江猿楽の幽玄・田楽歌舞の風流・白拍子の曲舞(くせまい)などを取り入れ、猿楽の能を芸能として大きく発展させた。その子・世阿弥は、父の芸風を継承し「夢幻能」に発展させた人物であるが、後世に伝えるべく「風姿花伝」を初めとする多くの著述を残し、能楽理論をまとめ、芸道の整備・能曲の製作に生涯を捧げ、父・観阿弥の志した「幽玄美」を追求して歌舞主体の舞台芸術として洗練・完成させた。豪華絢爛な桃山文化の隆盛・豊臣秀吉の能愛好などを背景に、能舞台の豪壮な様式が確立、豪奢な装束、能面作者の名手の輩出による能面の型の完成など、芸能として確固たる地位を築いた。江戸時代には徳川幕府の式楽として定着して洗練・完成されたが、幕府・諸藩は能楽の保護者であると同時に、技芸の鍛錬・伝統の正確な継承を要求するなど厳しい監督官でもあった。気力・体力を消耗する重々しい芸質に変化してゆくとともに、三役(ワキ・囃子・狂言方)などの役割分担が細分化し、大夫中心の家元制度の下、自由な発展性が閉ざされた。しかし一般民衆の能への関心は高く、町人の間に謡本が普及したことで「謡」が全国的に広まることとなった。明治維新により幕府という保護者を失った能役者・振付師の多くは廃業転業を強いられ、断絶した流儀もあったが、日本国家の伝統芸術の必要性に対する政府の見直しや、皇室などの後援により能楽は再興し、現在に至る。  
演能舞台の全体的な話は置いておくとして、演舞に必要な「舞台」に触れておくことにする。能の舞台は「本舞台」と呼ばれる京間3間四方(=約6m四方)の空間に、後方から正面に向け縦に、主として檜の板を敷き渡す。足拍子(舞台を踏む所作とその音)の響きを良くするため床下に共鳴腔が設けられ、滑りを良くするため米ぬかやおからで乾拭きして艶を出しており、舞台では必ず白足袋を履くことになっている。能専用の劇場である能楽堂を始めとして、野外能・薪能が行われる仮設舞台や、観衆が多く入る事ができ、天候に左右されない大きなホールや文化会館などでの「ホール能」も行われ、条件を満たせば能はどんな場所でも演じることができる。また大道具の類は無く、予め作り保管しておく「小道具」と、演能の度に作られ、極端に簡略化した骨組みのような家・牛車など、比較的大型の「作り物」とが用いられ、製作はシテ方(主人公)が担当する。シテの説明は以下に触れる。
本題の舞に入る前に、必要最低限の用語位は頭に留めておかねばならないので、演者側、シテなど役柄(職掌)に触れておくことにする。
能は、登場人物が極めて少なく、舞台装置も非常に簡略化されたものであるが故に、その一動作に様々な表現が凝縮され、重みがある。「演じる」ではなく「舞う」と表現されるように、能のシテ(主人公)の所作(動き)は全て特有の様式に基づいた、これも簡略化された型によるものである。顔の表情による喜怒哀楽などの心情表出を用いず(シテは大抵能面を着け、面の無い直面の場合でも無表情である)、感情の起伏は囃子・地謡・歌舞などで表現される。場面設定なども同様で、3間四方の空間で打合働(斬り合い)などの働事(はたらきごと)をこなすため、極力簡素な所作により表現される。登場人物が担う役柄(職掌)は次の通りである。
シテは、正に主となり能を舞う主人公のことで、実体は異界の者という設定が多いため面を着け、華やかである。三役ほか登場人物は、シテの演技に奉仕する側面を持つ芸術的構造があり、能はシテ方により主催され、三役は出演要請を受けるという興行慣習はこれに起源を持つ。シテ方側の登場人物には、ツレ・トモ・立衆・子方などがあり、ツレ以下が存在しない能もある。シテ方は地謡・後見・作り物の製作・幕上げ・装束の着付けなど多岐にわたる役割をこなし、地謡のリーダーである地頭(じがしら)・主後見(おもこうけん)と呼ばれる役は、シテと同格か、実力上位者が担当する。現行の流派は観世流・金春流(上掛)・宝生流・金剛流・喜多流(下掛)の5流である。
ワキはシテに対し、その主張を聞き、それを体現する舞を形而上的に受けとめる役割を持つため、必ず男性で、僧侶が非常に多い。大体、能の冒頭に登場して場面・情景を設定する役目を担い、必ず登場する不可欠の役ではあるが、直面(面を着けない)で派手さが無く、華やかな活躍や舞はほとんどない。現行の流派は高安流・福王流・宝生流の3流であるが、古くはシテ方・ワキ方の分類が無く、ワキが地謡のリーダーを勤めたため、ワキ方出身のシテ方なども多い。この他、囃子方・地謡・狂言方があり各々複数の流派がある。  
シテによる舞が本項の主題であるので、舞のある所作を抽出して触れてゆくことにする。
能の見どころとしてよく挙げられるのが、謡い・舞い・囃しどころのまとまりを曲目と区別し「○○之段」と名付けられた「段物」である。舞台である以上、音曲も大事な要素なのだが、簡略化され研ぎ澄まされた舞台の空間に舞う美しいシテの姿は別世界であり、囃子だけで舞われる舞は、能曲のクライマックスを盛り上げる。舞の形式は色々あるので、以下に並べてみよう。
大別すると「舞事」と「働事」の2つになる。
舞事(まいごと)は、謡の入らない囃子だけの伴奏による舞踊的所作のうち、具体的意味を持たず抽象的な形式舞踊の総称のことで、音楽・所作に表意性を持たない純粋舞踊である。序ノ舞から急ノ舞に至る「舞ノ類」は、旋律はほとんど同じで、急ノ舞に至るに従いテンポが速くなり、リズムが単純化する程度の違いしかない。「舞ノ類」以外のもの、神楽・羯鼓などは特有の旋律を持つ。
「序ノ舞」女体や老体などのシテが舞う、気品がある、ゆったりと静かな舞のこと。以下の2種類がある。
「大小序ノ舞」序ノ舞の1つで、大鼓・小鼓・笛だけで演じるもの。最も静かで気品がある舞で、女体の霊・白拍子などが舞う。
「太鼓序ノ舞」序ノ舞の1つで、大鼓・小鼓・笛に太鼓が加わり演奏されるもの。女体や老体の精や神仙などのシテが舞う、気品がある、ゆったりと、ほのかに華やかな舞。
「真ノ序ノ舞」序ノ舞(太鼓序ノ舞)をゆったりと重々しくした舞。荘厳な趣きを持ち、主に老神が舞う。「老松」など。
「中ノ舞」多くの役柄に幅広く舞われる、中間的な速さの最も舞いやすい基本的な舞。以下の2種類がある。
「大小中ノ舞」中ノ舞の1つで、大鼓・小鼓・笛だけで演じるもの。多くの役柄に幅広く舞われるが、主に現実の美女・しっとりとした狂女などが穏やかに舞う。
「太鼓中ノ舞」中ノ舞の1つで、大鼓・小鼓・笛に太鼓が加わり演奏されるもの。多くの役柄に幅広く舞われるが、主に女体の神・精が軽やかに舞う。特に「天女ノ舞」は有名で、脇能物で後ツレの天女が浮やかに舞う優雅な舞のこと。「羽衣」「竹生島」など。
「早舞」中ノ舞よりやや速いテンポの、楽しげで伸びやかな舞のこと。主として貴人や成仏した女性などが盤渉調(ばんしきちょう・高音)で舞うが、物凄まじき男体の霊などが黄鐘調(おうしきちょう・やや低音)で舞うものもある。「海人」「当麻」「融」「錦木」など。
「急ノ舞」最も急テンポで激しい舞。主に荒ぶる神・鬼などが舞う。「道成寺」の急ノ舞は、更に早いので「急々ノ舞」と呼ばれる。
「男舞」面を着けない、直面(ひためん)のシテが舞う颯爽とした舞で、速いテンポであるが重厚な舞。「現在物」(現在能)だけで用いられる。
「神舞」若い男体の神がテンポも早く、颯爽と舞う舞。男神の威厳と霊験の確かなことを表現する。「高砂」「佐保山」など。
「神楽」元来神を祭るための奏楽・場所を指すが、能では女体の神や、神がかりの巫女が幣を持って舞う優雅で雅やかな舞。前場は幣、後場は扇を持って舞うことが多く、笛は固有の旋律で、小鼓も「神楽地」という特有のリズムを刻む。「三輪」「巻絹」など。
「鞨鼓」元来雅楽で用いる鼓。腰に付け、バチで打ちながら舞う舞で、「遊芸者」がこの楽器を演奏しながら舞う様を模したもの。リズム豊かな、軽やかな舞で、大小鼓と笛で行い、太鼓は入らない。「自然居士」「花月」など。
「楽」異国の神や仙人、唐人などが舞う、のびやかな舞。雅楽を模したものとされる。やや静かで、エキゾチックな旋律・リズムで足拍子が多く、ノリのよい拍子が特徴。「太鼓樂」「大小樂」がある。
「獅子舞」能「石橋」だけの豪快で雄壮華麗な舞のこと。文殊菩薩の遣いという霊獣・獅子が、牡丹に戯れ遊ぶ様を模し、連獅子で舞う。  
働事(はたらきごと)は働(はたらき)とも呼ばれ、「舞事」が抽象的な形式舞踊であるのに対し、働事は謡を伴わず、囃子だけの演奏で、表意的・具象的意味を持たせた舞踊的所作の総称である。
「祈り」ワキ方の山伏・僧が悪霊・鬼などを相手に争い、法力で祈り伏せるまでの闘争、いわゆる祈祷と抵抗の一進一退が表現される。「道成寺」「葵上」など。
「カケリ」修羅道の苦しみや物狂い・不安などを表す所作。精神的な興奮状態、心の動揺や苦悩を表現する。
「イロエ」囃子に合わせて舞台を一巡する舞踏的な所作だが、立廻リと明確な区別がない。
「立廻リ」拍子に合わせ静かに舞台を回る所作のこと。主に男性が、何(者)かを探し求める雰囲気を出す。定義が曖昧なので「イロエ」と明確な区別がない。
「舞働」謡を伴わない囃子だけの伴奏による舞踊的所作のうち、ある程度具体的意味を持つ形式舞踊の総称。主に龍神・天狗・鬼畜などの威勢を誇示し、猛々しく演ずる豪壮活発な所作を指す。
「斬組働」天狗・鬼などが武士を相手に闘争するもので、特にシテとツレ・ワキが一対一で闘争する場面が多い。舞働より更に早くなる。「舎利」「龍虎」など。
以上、主な舞を並べてみたが、随分沢山あるし、特定の曲に特有のものも多い。能がそれだけ多くの人の手によって創られ、培われてきた痕跡とも思える。舞とともに舞台を彩るものとして音楽・装束(能では装束という語を用いる)・装置などまだまだ色々挙げられるのだが、舞に関わる部分だけに留め、残りは別の機会に別の項で触れることにする。
話は戻り、舞台上のシテの姿で重要なのが、装束と能面である。巫女装束などのように舞に合わせて裾がヒラヒラなびく様なものではなく、舞台空間にしっくり馴染む格式のあるものであり、また能面は現在200種類以上あるというが、シテの顔のみならず全体を表出する不思議な趣を持つものである。いずれが欠けても能が成立しないように思うが、略式として装束・能面無しで演じられる形式もある。以下、各々の概略を述べる。
能装束(のうしょうぞく)は、室町から桃山時代にかけ、染色・織物技術が発達し、舞台装束として美術品レベルのものが用いられ、武家の式楽となった江戸時代に形式が定まり完成した。装束は消耗品ではあるが、修繕・虫干しなどで大事に扱うため、舞台用の古いものでは江戸時代中期頃のもの、国宝レベルの貴重品というものもあるほどだ。演目毎に種類が決まっているものの、色合いや柄等は、表現したい曲・役柄の雰囲気に合わせシテ方が決めることになっている。一般的に能装束というと絢爛豪華なシテの装束のイメージが強いが、ワキ方や老婆役などの使用する地味目のものもある。現在、装束もかなり様式化され、色の面では、白は高貴なもの、紅は若い女性を表わすとされる。
次に能面だが、面(おもて)と呼ばれ、一曲の演出を全て左右すると言われるほど重要で、能の命とも言えるもので、とても大切に扱われる。鏡の間(楽屋と舞台の間にあり、役者が装束・精神を整える場)で面を着ける時、面に向かって一礼する慣習がある。喜怒哀楽全ての心情表現を所作で表わすため、面の角度(ウケ)が演技に大きく作用するという。
猿楽の能が大成する以前から、面(おもて)は名工達により数多く作られ、江戸時代には能面師も世襲制となり、先人の優れた作品を模倣することが盛んになった。特定の能曲でしか見られない面や狂言専用の面などもあり、各々名が付けられている。  
長い歴史を持つ能楽の、日本舞踊に係る部分について述べてきたが、この世界が完成された芸術美を持つだけに、完全女人禁制で守られ、継承されてきた不健全さというか、不自然さはどう解釈すべきであろう。筆者は、1948年に女性の能楽協会への加入が認められ、2004年に日本能楽会への加入が認められ…という記事を読み、大いに喜ばしいことだと拍手したいのだが、反面、日本の代表的な芸能として大成した能楽の下地として、今まで女性が全く必要なかったのだろうか?という方に関心が向いてしまう。芸能・興行として洗練・発展する過程において、どうあれ邪魔になっていたのは確かであろう。時代背景が大きく変わり、女性がこの芸能に携わることができる世になったということになるが、手放しで喜べない負の要素が垣間見える気がする。既存の芸能を守る状況にある能において、時代が変化した中で芸能を正確に継承する難しさを考えさせられる。
 
能楽に於ける「わき」の意義・「翁の発生」の終篇

二つの問題
日本の民俗芸術を観察するにあたつて、我々は二つの大きな問題に、注意を向けなければならぬ。平安朝の末から、鎌倉・室町時代にかけて、とびとびに、其中心がある事を考へて見ることが、其一つ。江戸に接近しては、歴史家の所謂桃山時代が、やはりさうなのであるが、ともかくも、さうした衒耀(ハデ)な時代が、とびとびに山をなして、民俗芸術興隆の中心となり、其が連結して、漸層的に発達して来てゐるのである。 第二に注意を向けねばならぬ大切な問題は、日本の芸能には、常に副演出が伴うてゐる事である。此は、日本の古いあらゆる芸能の上に見られる事実であるが、殊に、民間の芸能において著しい。小寺融吉さんは雑誌「民俗芸術」昭和四年二月号で、能楽の根本は脇能にある、と述べてをられるが、此には訣があるのである。脇能とは、脇方の役者が主になつてやるから言ふのではなく、或神事舞踊に附随した能、と言ふ風に考へねばならぬのだと思ふ。訣り易く言ふなら、神事舞踊の説明が脇能である。現在能楽の上での術語になつてゐるして対わきを土台にして考へたのでは、説明が出来ない。やはり、神能と言ふのが、最適した名であらう。小寺さんの論文では、能楽の根本は脇能にある、とだけはあつたけれども、何故さうなのかの説明にまで及んでゐなかつた様であるから、日本の芸能に副演出が伴ふ理由の説明として、一応、能楽に於けるわきの意義を闡明して置かうと思ふ。
もどき・をかし・あど
古く御神楽(ミカグラ)に才(サイ)の男(ヲ)が配されたのは、決して睡気覚しの為ではなかつた。田楽に於けるもどきを考へて見なければならない。もどきは普通、からかひ役だけのものゝ様に感じられてゐる。--此を動詞にした「もどく」の用語例で見ても、反対する・逆に出る・非難するなどの意味を持つたものばかりである--が、古くはもつと広い意味があつたと思はれる。尠くとも演芸史の上からは、物まねする・説明する・代つて再演するなどの意味を持つ、説明役であつた事が考へられる。猿楽に於けるをかしは、此から変転してゐると見られるのである。 をかしは、をかしがらせることから言ふのだとするのが、一般の解釈の様であるが、実は、他人の領分にまで侵入するからのをかしで、犯しである。勿論これにも、からかひの意味を持つた用語例もある。平安朝の用語例で、をんなをかしなどゝ言うたのは、女をからかふことで、今日警察の厄介にならねばならぬやうな意味の事を言うたのではない。 併し、猿楽に於ける此役名には、もどきと同様、説明役の義があつたらしい。狂言と言うたのは、興言利口などゝあるやうに、言ひ立て・語りの義から出た名称で、此に狂言の字を当てたのは、其言ひ立て・語りに、をかし味があつたからだと思はれる。いづれにしても、猿楽能のわき芸だつたので、此脇方からの分立が、やがて、能と狂言とに岐(ワカ)れて行つたのである。 一体、能楽ほど多くのわきを持つてゐるものは尠い。あい・能力がそれであり、狂言の方には、あど--して役をおもと言ふに対して、脇方を言ふ名--がある。茲で、多少結論に近い事を言ふなら、猿楽はもともと、脇芸であつた。能楽と改称はしても、もともと其が本領であつたのだから、宿命的に此約束が守られて、幾つものわき芸を重ねて行く様になつた。能の演芸番組は、さうして成立してゐるとも見られるのである。
わきの語原
猿楽の先輩芸は、田楽であつた。田楽は、五月の田遊びから出てゐる。田遊びに呪師(ノロンジ)系統の芸能が加味し、更に、念仏系統のものが加はつて、田楽が出来たのであつた。此田楽には、それの副演出として、田楽能が行はれた。後世では、田楽と言へば、舞ふ事と奇術・軽業(カルワザ)様のものとだけが、記憶せられる様になつたけれども、田楽での主なるものは、田楽能だつたのである。さうして、此わき芸を勤めたものが猿楽であつた。 かうして、もと、田楽のわき芸だつた猿楽は、だんだんそれの面白い部分だけを吸収して行つて、やがて自立する様になつた。田楽が舞ふことゝ、軽業・奇術様のものとだけになつたのは、此猿楽との分離による残滓と見られるのである。 わき芸は同時に、二つの意味を兼ねてゐる。まじめなものに対するおどけで、おどけの方は、狂言・をかしとなつて行つたのであるが、能楽の本芸となつてゐる脇方能は、至極まじめな正式なものである。 わきと言ふ言葉は、脇腹から出てゐるものゝ様に考へた人もあつたが、さうならば、二人の対立が必要である。此言葉は、本来は日本の神事から出てゐる。巫女で言ふなら、一人の兄媛(エヒメ)に幾人もの弟媛(オトヒメ)がある様に、随伴者の意味もあるが、ほんとうは若いと言ふ言葉から出てゐる。即、わくといふ古動詞から出てゐるので、わか・わきおなじなのである。さうして、此から控へ役・神聖な役を勤めるものなどの観念が、生れもしたのであつた。
能楽の根本組織
日本古代の神事演芸は、神と精霊との対立に、其単位があつた。して対わきは、其から出来たのであるが、能楽の本領は、其わき方にある。小寺さんが、能楽の根本は脇能にある、と言はれたのに符合する訣であるが、此わきが醇化して行くと、わき方からして方を生み出す。わき芸其ものゝ中にして方を生じる。此は、わき芸が本芸のやうな形をとつて、発達したからである。幸若などでは、してが一人でない。 かやうな訣で、わきは必しもおどけ役を意味してゐるものではないが、此が分化したものになると、極めて自由なものになる。をかし・狂言はかうして、能と岐れて行つたのであるが、更に狂言の方にはあどといふものが生れた。あどは大鏡にも「あどうつめりし」などゝある様に、あいの手をうつこと、相手方となり動作を示すもので、やはり説明役の一種である。 此あどと同じ意味から出たものに、能楽のあいがある。此も脇方から出たもので、をかし・狂言に似たものではあるが、多少役どころが違ふ。前してが中入りをした後で、間語(アヒガタ)りと言ふ事をする。其があいである。だからあいとは、間の繋ぎをするからの名称と考へてゐる人もある様だが、其は誤りである。あいの職分を分解して行くと、能楽の根本組織を理会する事が出来る。のみならず、古代の文学を生み出して行つた、芸能の基礎的事実に触れる事にもなるのである。
副演出を必要とした訣
昨春、旧正月の十八日に、遠州の山奥、水窪町を訪ねて、西浦(ニシウレ)所能の田楽祭りを見学した。田楽とは言うても、編木(ビンザヽラ)を使ふことも、舞ふことも忘れて了ひ、高足をさへ忘れかけて、手に持つて歩くほどのものであつたが、田楽能だけは覚えてゐた。此点で極めて、古色蒼然たる感じを与へたが、とりわけ暗示に富んでゐると思つたのは、番毎に「もどきの手」と言ふことがくり返されてゐる事であつた。まじめな一番がすむと、装束や持ち物など稍、くづれた風で出て来て、前の舞ひを極めて早間にくり返し、おどけぶりを変へて、引き上げるのである。我々は此を見て、日本の芸能が、おなじ一つのことを説明するのに、いろいろと異つた形であらはし、漸層的におなじことを幾つも重ねて来た事実を、よく感じることが出来たのであつた。 併し、かうした事のくり返されるのは、何故であつたらうか。根本は、日本の宗教が極めて象徴的なものである為に、其を説明するのに、いろいろと具体的な形で示す事が必要であつた。さうしてそれには、いろいろな現し方があつた。いろいろな現し方で、一つの事を説明して行く中に、姿・形が変ると同時に、だんだん大きく育つても行つたのである。そこに、日本の演芸の発達があつたので、主たる一人が発言し、動作したことを、いろいろな方法で説明して行つた。要するに、日本の芸術はその発生するにあたつて、まづ説明をまたねばならぬやうな事実が、横はつてゐたのだ、と見なければならぬのである。
幸若舞ひの影響
能楽のあいが、間のつなぎでなく、前の舞台の説明であるとすると、能楽には既に一番の中に二つの副演出が重つてゐる。後じては更に、具体的な説明である。即、前に現れたものはこれこれのものである、と説明するのが後じてである。勿論、新しいものゝ中には、此論理を踏んでゐないものもある。曾我もの・判官ものなどは新しいものであるから、此約束が忘れられてゐる。幸若舞ひの影響を受けて出来たものだからであらう。 ともかく曾我ものは、謂はゞ後じてだけのものである。曾我の姿を説明してゐない。船弁慶では、前してと後じてとが、何の関係もないものになつてゐる。能楽本来の論理で説明すれば、前しての静(シヅカ)は、後じての知盛(トモヽリ)の霊の化身である、と謂はねばならぬ。此で見ると、元来後じては一種のわき役なのであるから、前してとは、別人でなければならぬ訣であるが、役として重いものなので、いつかして方が、其両方を兼ねてしまふ様になつたのだと思はれる。 能楽の新作が、幸若舞ひの影響を受けた適切な例は、修羅ものである。修羅物を見ると大抵、組織は同じでも、現代の生活--当時の武士の生活の写生--に近いもので、さうしたものが面白がられた結果、従来のものとはだんだんに、離れて行く傾向を持つてゐた事が、明らかに見られるのである。
翁と三番叟
能楽で重要なものになつてゐるのは「翁」である。明治になつてからは、年の始めと、新築の舞台開きとだけしか演らなくなつたが、江戸時代までは、興行日数のある限り、毎日これを演つたのである。明治以後、所演が尠くなつた訣は、役者がものいみの生活を嫌ふ様になつたからである。要するに、翁を毎日演つたと言ふことは、此があらゆる演芸種目を超越したものであり、どの能にも深い意味を持つてゐる。言葉を換へて言ふなら、すべての能が翁の副演出だ、と言ふ事になるのである。 翁は元来して方の役目のやうに見えるが、実は脇方で始めたもので、脇役者がしてをつけた、と見なければならぬ。翁に対する黒尉、即三番叟は、誰が見ても、白式の尉のもどきである事が理会出来る。翁が神歌を謡ひながら舞うた跡を、動作で示すのが三番叟である。三番叟を勤める役者が、狂言方から出るのには、深い意味があつて、動作が巧妙だからだなどゝ言ふ、単純な理由からではない。白式の尉の演ずるものは、歌も舞ひも、頗象徴的のもの--河口慧海氏は、とうとうたらりは西蔵語だと言うて、飜訳されたが、これは恐らく、笛の調子であらう--であつて、その神秘な言動を動作によつて、説明するのであるから、此はどうしてもわき方の役者によつて、演じられなければならない。脇方としては、重要な役目である訣だ。
翁の副演出
ところで、能楽では更に、此上にそれの説明がつく。能の本随である、神能の所演が其である。翁が入り、三番叟がすむと、殆ど、お茶を呑みに行く間(マ)もない程の間で、神能が始まる。養老・田村・高砂・嵐山など、神仏に関係したものが演じられる。前してで田夫野人であつたものが、後じてで、実はかうしたものであると、神・仏或は聖なるものゝ姿となつて、現れるのである。 翁に対する神能の関係は、副演出と見なければらない。翁の芸を三番叟が飜訳し、更に神能が説明することになるのであるが、尚此上に、次の番組で神能の説明が試みられる。能の番組は、さうして作られたのだと思ふが、いつか其意味が忘れられ、たゞ神の意志を伝へればいゝと言ふやうになつたのである。 翁が毎日繰り返された意味は、これで訣る。どの能もが、翁の説明であり、副演出であるからである。猿楽の基礎は、翁であるが、此「翁」は、もとは田楽附属の芸であつた。それが幾つもの副演出を重ねて行くことによつて、遂に猿楽を分離せねばならぬほどにまで、発達したのである。猿楽は其最著しい例であるが、かうして副演出を重ねて行つたのは、単に猿楽ばかりではない。日本の芸術はかくして、豊かに発達して行つた。かくて、能の源流は脇能にあると言ふことは、日本の演劇史を研究する上に、極めて大切な問題となるのである。  
 
翁の発生

おきなと翁舞ひと
翁の発生から、形式方面を主として、其展開を考へて見たいと思ひます。しかし個々の芸道特有の「翁」については、今夜およりあひの知識の補ひを憑む外はないのであります。翁芸を飛躍させたのは、猿楽であります。翁が、田楽の「中門口(チユウモングチ)」に相当する定式の物となつた筋道が、幾分でも訣つて貰へるやうに致したいと存じます。 おきなと言ふ語(ことば)は、早くから芸能の上に分化したおきなの用語例の印象をとり込んでゐます。尠くとも我々の観念にあるおきなは、唯の老夫ではない。芸道化せられたおきなを、実在のおきなに被せたものなのであります。 おきな・おみな(媼)の古義は、邑国の神事の宿老(トネ)の上位にある者を言うたらしい。おきな・おみなに対して、をぐな・をみなのある事を思ひ併せると、大(お)・小(を)の差別が、き(く)・み(む)の上につけられてゐる事が知れます。つまりは、老若制度から出た社会組織上の古語であつたらしいのです。舞踊(アソビ)を手段とする鎮魂式が、神事の主要部と考へられて来ると、舞人の長なるおきなの芸能が「翁舞」なる一方面を分立して来ます。雅楽の採桑老(サイシヨウラウ)、又はくづれた安摩(アマ)・蘇利古(ソリコ)の翁舞と結びついて、大歌舞(オホウタマヒ)や、神遊びの翁が、日本式の「翁舞」と認められたと見ても宜しい。 尾張ノ浜主の 翁とてわびやは居らむ。草も 木も 栄ゆる時に、出でゝ舞ひてむ(続日本後紀) と詠じた舞は、此交叉時にあつたものと思ひます。翁舞を舞ふ翁の意で、唯の老夫としての自覚ではなさ相です。おきなさぶと言ふ語も、をとめさぶ・神さぶと共に、神事演舞の扮装演出の適合を示すのが、元であつた様です。 翁さび、人な咎めそ。狩衣、今日ばかりとぞ 鶴(タヅ)も鳴くなる と在原の翁の嘆じた、と言ふ歌物語の歌も、翁舞から出た芸謡ではなかつたでせうか。古今集の雑の部にうんざりする程多い老い人の述懐も、翁舞の詠歌と見られぬ事もない。私など「在原」を称するほかひ人の団体があつて、翁舞を演芸種目の主なものにしてゐたのではないかとさへ思うて居ます。 山姥が山の巫女であつたのを、山の妖怪と考へた様に、翁舞の人物や、演出者を「翁」と称へる様になり、人長(ニンヂヤウ)(舞人の長)の役名ともなり、其表現する神自体(多くは精霊的)の称号とも、現じた形とも考へる様になつて行つたものであります。 だから「翁」は、中世以後、実生活上の老夫としてのみ考へる事が出来なくなつてゐるのです。 此夜話の題目に択んだ翁は、其翁舞の起原を説いて、近世の歪んだ形から、元に戻して見る事に落ちつくだらう、と思ひます。
祭りに臨む老体
二夏、沖縄諸島を廻つて得た、実感の学問としての成績は、翁成立の暗示でした。前日本を、今日に止めたあの島人の伝承の上には、内地に於ける能芸化せられた翁の、まだ生活の古典として、半、現実感の中に、生きながらくり返されてゐる事を見て来たのです。 私は日本の国には、国家以前から常世神(トコヨガミ)といふ神の信仰のあつた事を、他の場合に度々述べました。此は「常世人」といつた方がよいかと思はれる物なのです。斉明天皇紀に見えてゐるのが、常世神の文字の初めでありますが、此は、原形忘却後の聯想を交へて来た様で、其前は思兼神も、少彦名命も、常世の神でした。然し純化しない前の常世人は、神と人間との間の精霊の一種としたらしいのが、一等古い様であります。 元来ひとと言ふ語の原義は、後世の神人に近いので、神聖の資格をもつて現れるものゝ義である、と思ひます。顕宗紀の室寿詞は「我が常世(トコヨ)たち」の文句を結んでゐます。此は、正客なる年高人(トシタカビト)を讃頌した語なのです。常世の国人といふことから、常世の国から来る寿命の長い人、唯の此世の長生の人と言ふ義になつて来たのです。 日本人は、常世人は、海の彼方の他界から来る、と考へてゐました。初めは、初春に来るものと信じられてゐたのが、後は度々来るものと考へる様になりました。春祭りと刈上げ祭りは、前夜から翌朝まで引き続いて行はれたものでした。其中間に、今一つあつたのが冬祭りです。ふゆまつりは鎮魂式であります。あき・ふゆ・はるが暦法の上の秋・冬・春に宛てられるやうになると、其祭りも分れて行はれる。其祭りの度毎に、常世人が来臨して、禊ぎや鎮魂を行うて行く。かうなると又、臨時の祭りが、限りなく殖えて来ました。 田植ゑ祭りに臨むさつきの神々なども迎へられ、季節--の交叉期(ユキアヒ)祭りには、邪気退散の呪法を授けるか、受けるか分らぬ鬼神も来る様になりました。さうしたまれに而も、頻々とおとづれるまれびと神も、元は年の交叉点に限つて姿を現したものでした。此等の常世人の、村の若者に成年戒を授ける役をうけ持つてゐた痕が、ありありと見えてゐます。春祭りの一部分なる春田打ちの感染所作(カマケワザ)は、尉と姥が主役でした。これの五月に再び行はれる様になつたのが「田遊び」です。此にも後に、田主(タアルジ)などゝ言ふ翁が出来ますが、主要部分は変つて居ます。簑笠着た巨人及び其伴神(トモガミ)なる群行神の所作や、其苛役を受けて鍛へ調へられる早処女(サウトメ)の労働、敵人・害虫獣等の誓約の神事劇舞(ワザヲギ)などが其です。此が田楽の基礎になつた「田遊び」の本態で、其呪師(ノロンジ)伎芸複合以前の形です。 高野博士が「呪師猿楽」なる芸能の存在を主張せられたのは、敬服しないでは居られません。但、本芸が呪師で、其くづれ・脇芸とも言ふべきのが、呪師に入つた猿楽で、唯呪師とも言ひ、呪師猿楽とも並称したらしく思はれます。此「呪師猿楽」が、田遊び化して田楽になつたとするのが、私の考へです。だが一口には、田楽は五月の田遊びから出てゐると申してよろしい。此猿楽は、田楽では、もどきと言ふ脇役に、俤を止めました。能楽と改称した猿楽能では、狂言方とまで、変転を重ねて行きました。わき方も、勿論此から出たのです。結論に近い事を申しますと、翁も純化はしましたが、やはり此で、黒尉(クロジヨウ)は猿楽の原形を伝へてゐる、と申してよろしいのです。 猿楽の用語例の一部分には、武家以前古くから興言利口などゝ言ふべき、言ひ立て又は語りの義があります。興言利口も、其根本になるべき話材までも、さう言ふ様になりました。此は、狂言の元の宛て字が興言であると共に猿楽の、言と能との二方面に岐れる道を示すものです。能楽が専ら猿楽と称へられたのは、此方面が主となつてゐたからかと思ひます。故事語りに曲舞の曲節をとりこみ、ことほぎのおどけ言ひ立てを現実化したのが、猿楽の表芸を進展させた次第であります。能芸の方は寧先輩芸道なる曲舞・田楽の能などからとり込んだらしいのです。 猿楽能に於ける翁は、此言ひ立て・語りを軽く見て、唱門師(シヨモジン)一派の曲舞(の分流)から出て、反閇(ヘンバイ)芸を重くした傾きがあります。だが、元々、猿楽と言つても、田楽の一部にも這入つて居たのです。だから、田楽にも、その演芸種目の中に猿楽が這入つてゐたのです。此が呪師芸や、其後身なる田楽のわき役(もどき役、同時に狂言方)から独立して来たものと思ひます。 だから、田楽にも、翁の言ひ立てや語りがあつたらしいのです。唯、田楽能をまるどりして、自立したにしても、猿楽能自身の特色がなくてはなりませぬ。其は、翁の本家であつた、と言ふことです。語りの方は、開口(カイコウ)や何々の言ひ立ての側に岐れて行つたのでせう。開口も、何々の言ひ立ても、元は翁の中に含まつて居たと見えるのです。奈良に残つた比擬開口(モドキカイコウ)や、江戸柳営の脇方の開口の式なども、同じ岐れです。其もどきと言ひ、脇方の勤めると言ふのは、事実の裏書きであります。此脇方--並びに狂言方の--翁一流の式に対する関係や、翁が最古式を保つてゐるとの信仰は、猿楽がわき芸であつた事を、暗示してゐるのではないでせうか。田楽と違ふ点は、念仏踊りの要素を多く含んだ彼に対して、神事舞としての部分を重く見てゐる点にある、と言へます。 冬の鎮魂を主とし、春田打ちに関係の深いのが、猿楽の、呪師習合以前の姿なのです。田植ゑに臨む群行神の最古の印象は、記・紀のすさのをの命の神話の外に、播磨風土記には統一のない形の、数多い説話として残つてゐます。此間に、常世人自身も、海の彼方から来ると信じられたものが、天から降ると考へられる様になり、山に住む巨人とせられる様にもなつて行きました。従つて、常世人と言ふ名も変り、其形貌性格や対人地位なども易つて行く一方には、原形に止り、或は、二つの形を複合した信仰も出て来ました。 我々の研究法は、経験を基調としたものであります。資料の採訪も、書斎の抜き書きも、皆、伝承の含む、ある昔の実感を誘ふ為に過ぎません。実感による人類史学と言ふべきものなのです。一芸能の翁に拘泥せず、田楽・神楽・歌舞妓其他の現在芸能は固より呪師田楽以前の神事・劇舞踊などに現れた翁の形態の知識の上に、更に、其現に行はれてゐる演出の見学から、体験に近い直観を得ねばなりますまい。沖縄の島渡りをして、私の見聞きしたのは、此から話さうとする三つの型でありました。
沖縄の翁
祖先考妣の二位の外に、眷属大勢群行して、家々をおとなふ形。盂蘭盆の行事である(一)。海上或は洞穴を経て、他界の異形(又は荘厳な姿)の、人に似た霊物が来て、村・家を祝福する形。清明節其他、祭りの日にある(二)。村の族長なる宗家の主人並びに一門中の代表者と見なされる群衆を伴うた、前族長なる長者が踊り場へ来て、村を祝福するのを一番として、村々特有の狂言(チヤウゲン)(能狂言・俄などに似た)を行うて、後は芸尽しになる。村によれば、長者の一行が舞台に来ると、家長の挙げる扇に招かれて、海の彼方の富みの国から、其主神が来て、穀物の種を与へて去る式をする処もある。此神の名は儀来(ニライ)の大主(ウフヌシ)、長者の名は長者の大主(ウフヌシ)、家長の名は親雲上(ペイチン)と言ふ。童満祭(ワラビミチ)に行ふ(三)。私の目で見た知識よりも、更に大きな補助を、島袋源七・比嘉春潮二氏の報告から得ました。 此中で(一)は最、常世人に近い形であります。海の彼方なる大(オホ)やまと--又は、あんがまあと言ふ国があると考へたのが変じて、其行事又は群行の名としたのらしい--から、祖霊の男女二体及び、其他故人になつた村人の亡霊の来る日を、盂蘭盆に習合したので、其又一つ前には、初春を意味する清明節に、常世人として来た事が考へられます。此中心になる大主前(ウシユメイ)と言はれる老夫--老女(アツパア)を伴ふ--が時々立つて、訓戒・教導・祝福などを述べるのであります。其間に、眷属どもの芸尽しがあります。 此からしても、内地の古記録から考へられる常世のまれびとの元の姿はやゝ、明るくなつて来ます。此と通じてゐるのは(三)の式であります。此は村踊りと言ひ、又村芝居とも言はれてゐます。祖霊を一体の長者の大主とし、眷属の霊を一行としたものです。さうして今は、其本処の考へを忘れてゐますが、他界の聖地から来たものに違ひありません。親雲上は、其等の群行から、正面に祝福を受ける人として、予め一行を待つ形が変つたのでせう。其に、儀来の大主を加へたのは、長者大主一行の本義の忘れられた為、更に祝福の神を考へ出したのです。 此が変じて(二)になると、色々の形に変化してゐます。なるこ神・てるこ神と言ふ二体の、聖なる彼岸の国主とするのもあり、唯の一体の海神(ウンヂヤミ)とする処もあります。もつと純化しては、海の向うのにらい・かないの国の神とし、更に天上の神として、おぼつ・かぐらと言ふ其国を考へてゐます。其史実化したのが、あまみきょ・しねりきょの夫婦神です。先島(サキジマ)の中には、まやの国といふ彼岸の聖地から、まやの神及びともまやと称する神が来るとしてゐるものもあつて、此は、蒲葵(クバ)の簑笠を被つた異形神であります。同じく、先島諸島に多く、あかまた・くろまたなど言ふ風に、仮面の色から名づけた二体の巨人が、蔓草を身に被り、畏ろしい形相の面を被つて出ます。処によつては、青またと言ふのが、代つて出る事もあつて、洞穴又は村里離れた岬などから出るのです。此は、鬼と言ふべきものであります。にらいの大主と浄化した地方に対して、此にいる宮城(スク)から来る者は、祖霊と神との間に置くべき姿をしてゐます。祖霊の、異形身と畏怖の情とが、其まれびととの関係を忘れた世に残れば、単に、祝福と懲罰と授戒との為に来る巨人を、考へる様になる筈です。此が、聖化し、倫理化して考へられると、にらいかないの神となるのです。
尉と姥
かう言つて来ますと、考妣二体、又は一位の聖なる者の、或は群行者を随へて来る神来臨の形式が思はれます。内地の、古代から近代に続いてゐる、まれびとの姿も一つ事なのです。考妣二体の聖なる老人と言へば、直に聯想するのは、高砂の松の精と住吉明神一対の「尉と姥」の形です。謡の高砂が、さうした標本を示す前から、翁媼の対立は、考へられて居ました。平安初期に、既に、大嘗祭の曳き物なる「標山(シメヤマ)」にすら、蓬莱山の中に、翁媼の人形を立てゝ居ました。常世の国の考妣二位のまれびとを、常世の蓬莱化した時代にも、仙人の代りに据ゑて怪しまなかつたのです。高砂に出る住吉明神は、播州からは彼方の津の国をさす処に、来臨する神と、神行き媾(ア)ひの信仰とを印象して居るのです。 日本の書物で、まづ正確に高砂式のまれびとの信仰を書き残したのは神武紀です。香具山の土を、大和の代表物(モノザネ)として呪する為に取りに行つたのは、椎根津彦(シヒネツヒコ)と弟猾(オトウカシ)とでした。弟猾は男の様に考へられて来ましたが、兄猾を兄か姉かとしても、此は、女性の神巫だつたのです。男の方は老翁になり、女の方は老媼に扮(ヤツ)し、敵中を抜けて、使命を果しました。此は、常世人の信仰があつたから出来た物語です。敵人は見逃し、御方は祝福せられる呪詞呪法の助勢を得た事を、下に持つて居るのです。呪詞呪法は、常世の国から齎らされたもの、と信じられてゐたのでした。 歳暮に来て、初春の年棚の客となる歳神(トシガミ)--歳徳神(トシトクジン)とも言ふ--の姿も、高砂の尉と姥の様な、と形容する地方が多いやうです。さすれば、考妣二体の祖霊です。近世の歳神は、海を考へにおいた常世神と違つて、山から来る様に、大抵思はれてゐます。同じ名の神の性格にも、古今で、大分違ひがある様ですが、出雲人の伝へた御歳神・大歳神は、山祇(ヤマツミ)の類と並べてある処を見ると、山中に居るものと見てゐたらしいのです。古く、海祇(ワタツミ)から山祇に変化すべき理由があつたからです。近代の歳神には、穀物の聯想が少くなつて、暦の歳の感じが多く這入つてゐますが、此名は俗陰陽道などが、古代の神の名を利用して、残し伝へたものと思はれます。だから、方位の聯想などがあるのです。 山から来る歳神にも、一人としか考へられてゐないのがあります。又群行を信じてゐる地方もあります。歳神にお伴があるわけです。かうなると、祖霊来臨の信仰に近づいて来ます。年神棚を吊らず、年縄や年飾りをせぬ家や村があります。此等は、山の歳神以前の常世神の迎へ方を守つてゐて、家風の原因を忘れたものが多いのでせう。だが、まだ外にも理由はある様です。
山びと
常世の国を、山中に想像するやうになつたのは、海岸の民が、山地に移住したからです。元来、山地の前住者の間に、さうした信仰はあつたかも知れませぬ。だが書物によつて見たところでは、海の神の性格職分を、山の神にふり替へた部分が多いのです。 私は山の神人(カミビト)、即山人(ヤマビト)なるものを、こみ入つた事ながら、説かねばならなくなりました。山守部と山部とは別の部曲です。私は、山部を山人の団体称呼と考へてゐます。其宰領が、山部宿禰なのでせう。ちようど海人部(アマベ)があまと言はれるやうに、山部も山(ヤマ)と言はれてゐます。山(ヤマ)ノ直(アタヘ)・山ノ君などいふのが、其です。海人は、安曇(アヅミ)氏の管轄で、安曇氏は海人部の族長ではない事を主張して居ます。が、山部氏は山人族の主長であるらしいのです。安曇氏の如きも、其ほど海人の血から離れてゐるか、信じられません。山人なる山部が、基本職を忘れて来る様になつて、山部・山守部の混同が起ります。山人とは、どうした部民でせうか。 私の仮説では、山の神に仕へる神人だとするのです。海人部が、海祇(ワタツミ)に奉仕して、時には、海の神人の資格に於て、海祇としての行事を摂行する事がありました。海人の献つた御贄は、海祇の名代で、同時に、海祇自身のする形なのでした。私は海部・山部を通じて、先住民の後とばかりも言へぬと考へます。おなじ族中の者が、海神人・山神人に択ばれて、常住本村から離れて住んで居て、其が人数の増した為に、村を形づくつたものもあると思ひます。 勿論、前住民の服従を誓ふ形式の寿詞(ヨゴト)奏上を以て、海人・山人のことほぎ(祝福)みつぎの起りと考へる事も出来ますが、其は第二次の形です。初めの姿は、海祇即、常世人(わたつみの前型)に扮するのは、村の若者の聖職なのでした。其が山地に入つて、山の神を、常世人の代りにする様になつて来る。此までは、常世の海祇の呪法・呪詞のうけての代表者は、山の神なので、其山の神が、多くの地物の精霊に海祇の呪詞を伝へる役をしました。其が一転して、海祇に代る様になつたのであります。 さうすると、山の神の呪詞は、宣下式ではなく、又奏上式でもありません。つまり仲介者として、仲間内の者に言ひ聞かせる、妥協を心に持つた、対等の表現をとりました。此を鎮護詞(イハヒゴト)と言ひます。宣下式はのりと、奏上式なのにはよごとと言ふ名がありました。ちようど其間に立つて、飽くまでも、山の神の資格を以て、精霊をあひてとしてのもの言ひなのです。山の神に山の神人が出来たのは、此為です。だから、海祇の代りをする海人の神人が、前住民或は異民族とすれば、山人の職が出来てからの事です。即、海祇の代りに神事を行ふ者が、村国の主長よりも低い事になります。常世人は村の主長よりは、位置は高かつたのです。だから、海人が服従の誓約なる寿詞(ヨゴト)や御贄を奉るのは、山の神人の影響を更に受けたのです。 海村の住民の中、別居して神に仕へる形式が行はれ、男や女のさうした聖役に当るものが出来ました。女は、たなばたつめです。かうした人々の間に出来た村が、異種の村と混同せられる様になつたのでせう。山の村も、同様にして出来ましたのでせう。其が、蛮人の村と思ひ違へられる様になつた事もありませうが、此は、わりに明らかに、国栖・土蜘蛛などゝ区別せられた様です。海人部の民が、所謂あまのさへづりをする異人種の様に考へられた程ではありません。海部の民は、呪法・呪詞に馴れて居ました。其が諸国の卜部の起原です。 海人部の民の中の、小・中宗家など言ふべき家の中からも、宮廷の官司の馳使丁が出ました。此が海人(アマ)の馳使丁(ハセヅカヒ)です。其内、神祇官に仕へた者が、特にあまはせづかひと言はれたらしいのです。更に、此中から、宮廷の語部として、海語部(アマガタリベ)と言ふ者が出来たと見られます。天語部は鎮護詞を唱へると共に、其中の真言とも言ふべきうたを、おもに謡ふ様になりました。其が「天語歌」のあるわけで、其とおなじ性質で、寿詞や鎮護詞式でないものが、神語(カミガタリ)といはれたらしいのです。神語歌(カミガタリウタ)の末に、天語の常用文句らしい「あまはせつかひ、ことの語(カタ)り詞也(コトモ)、此(コヲ)ば」と言ふ、固定した形のついてゐるわけであります。 海語部が、諸国の海人の中にも纏はつて来ました。一方、卜占を主とする海人の卜部が、又諸国に還り住んで、卜部の部曲が拡がります。宮廷の海語部は、後には、卜部の陰に隠れて顕れなくなり、卜部の名で海語部の行うた鎮護(イハヒ)のことほぎを言ひ立てる様になりました。此卜部が、陰陽寮にも勢力を及ぼしました。踏歌の節の夜の異装行列は、元、卜部の海語部としての部分を行うたものらしく、群行神の形であつて、作法は、山人の影響を受けたものです。服従の誠意を示しに、主上及び宮殿をいはふ言ひ立てに来るのであります。
山づと
此高巾子(カウコンジ)の異風行列は、山人でもなかつた。万葉集には、元正の行幸が添上郡の「山村」にあつた事と歌とを記してゐる。 あしびきの山に行きけむ山人の 心も知らず。やまびとや、誰(舎人親王--万葉巻二十) 仙人を訓じて、やまびととした時代に、山の神人の村なる「山村」の住民が、やはり、やまびとであつた。此歌は、神仙なるやまびとの身で、やまびとに逢ひに行かれたと言ふ。其やまびとは、あなた様であつて、他人でない筈だ。仰せのやまびとは、外にありとも思はれぬ、とおどけを交へた頌歌である。此歌の表現を促したのは あしびきの山行きしかば、山人(ヤマビト)の 我に得しめし山づとぞ。これ(元正天皇--同巻二十) と言ふ御製であつて、此も、山人と言ふ語の重つた幻影から出た、愉悦の情が見えて居ます。だが、其よりも、注意すべきは、山づとと言ふ語です。家づとは、義が反対になつてゐます。山づと・浜づとなどが、元の用語例です。山・浜の贈り物の容れ物の義で、山から来る人のくれるのが、山づとであり、其が、山帰りのみやげの包みの義にもなる。元は、山人が里へ持つて来てくれる、聖なる山の物でした。此は、後に言ふ山姥にも絡んだ事実で、山草・木の枝・寄生木の類から、山の柔い木を削つた杖、其短い形のけづり花などであつたらしく、山かづら・羊歯の葉・寄生(ホヨ)・野老(トコロ)・山藍・葵・榧(カヘ)・山桑(ツミ)などの類に、時代による交替があるのでせう。 柳田先生の杓子の研究を、此方に借用して考へると、此亦、山人の鎮魂の為の木ひさごでした。神代記のくひさもちの神は、なり瓢の神でなく、木を刳つた、古代の木杓子(クヒサ)の霊の名であつた、と言はれませう。此、くひさと言はれたと思はれる杓子は、いつ頃からの山づとかは知れませぬが、存外、古代からあつたものらしいのです。かうした山人は、初春の前夜のふゆまつりの行事なる、鎮魂式の夜に来ます。即、厳冬に来たのです。若宮祭りの翁の意義が、其処に窺はれる様に思はれます。 若宮祭りの翁は、高い神--続教訓抄など--と言ふより、ことほぎの山の神で、春日の社殿及び若宮の神の鎮魂を行ふところに、古義があつたのでせう。夜叉神のことほぎや、菩薩練道が寺に行はれたのも、高位の者に誓ふ風からです。社の神にも誓ひ・いはひに、ことほぎの翁が参上する事のあるのは、不思議ではない。猿楽家の「松ばやし」も亦、暮の中に行はれるのが、古風であつた様ですが、此から翁が出たとは言へますまい。唯、「湛(タヽ)へ木」の行事を行ふだけです。一つ松の行事は、翁の一節を存するもので、其に続く、踏歌式を含んだことほぎが、消えて了うたのです。謂はゞ、一種の五節千歳が、踏歌から出たのは、武家時代の好みだつたのでせう。 雅楽にも「若」を舞はせる為に、本手の舞を童舞に変化させてゐるのがあります。猿楽能の翁は、鎮魂の為の山人の来臨で、三人の尉は、一種の群行を意味するものでせう。此事は更に説きます。 翁の文句の「ところ千代まで」と言ふのは、野老にかけた、村・国の土地鎮めの語で、かうした文句の少いのは、替へ文句が多くなつた為です。さうして、春祭りの田打ちの詞らしい、生み殖しの呪文が這入つて居るのは、翁が初春を主として、暮の鎮魂式から遠のいた為でせう。だが、春田打ちは、鎮魂と共に一続きの行事ですから、山人としての猿楽の翁も、初春に傾く理由はあるのです。仮に、猿楽の翁の原形の模型を作つて見ませう。 翁が出て、いはひ詞を奏する。此は家の主長を寿するのです。其後に、反閇(ヘンバイ)の千歳(センザイ)が出て、詠じながら踏み踊る。殿舎を鎮めるのです。其次に、黒尉(クロジヨウ)の三番叟が出て、翁の呪詞や、千歳の所作に対して、滑稽を交へながら、通訳式の動作をする。其が村の生業の祝福にもなる。此くり返しが、二尉(ジヨウ)の意を平明化すると共に、ふりごと分子を増して来ます。さうして、わりに難解な処を徹底させ、儀式的な処を平凡化して、村落生活にも関係を深くするのでせう。猿楽能の座の村が、大和では、多く岡或は山に拠つてゐました。殊に外山(トビ)の如きは、山人を思はせる地勢です。 松ばやしの如きも、春の門松--元は歳神迎への招(ヲ)ぎ代(シロ)の木であつた--を伐り放して来る行事でした。はやしは、伐ると言ふ語に縁起を祝ふので、やはり、山人の山づと贈りに近い行事です。かうした記憶が、寺の奴隷の、地主神・夜叉神等の子孫とせられた風に習うて、奈良西部の大寺のことほぎ役や、群行の異風行列を奉仕するやうになつたものと見えます。此は、高野博士の観世・金剛などの称号が、菩薩練道の面を蒙る家筋を表したものだ、と言ふ卓見に、微かな裏書きをつける事になるのです。
山姥
猿楽で、山姥が重んぜられるのも、先進芸からの影響もある様ですが、山人としての方面からも考へねばならぬでせう。山姥は、山の神の巫女で、うばは姥と感じますが、此は、巫女の職分から言ふ名で、小母と通じるものです。最初は、神を抱き守りする役で、其が、後には、其神の妻ともなるものをいふのです。其巫女の、年高く生きてゐるのが多い事実から、うばを老年の女と感じる様になつたらしいのです。うばを唯の老媼の義に考へたのも古くからの事だが、神さびた生活をする女性の意として、拡がつて来たのでせう。此山神のうばとして指定せられた女は、村をはなれた山野に住まねばならなかつた。人身御供の白羽の矢の話には、かうした印象もあるに違ひない。たなばたつめ同様の生活をして、冬の鎮魂にまた恐らくは、春祭りにも、里に臨んだものと思ふ。其山姥及び山人の出て来る鎮魂の場(ニハ)が、いちと言はれるので、我が国の「市」の古義なのです。此夜、山姥--及び山人--の来て舞ふのが、山姥の舞で、段々、村の中にも、此を伝へるものが出来る様になつたでせう。此は山姥の鎮魂の舞が、山姥を野山に出さぬ世になつて、仮装の山姥の手に移つた為でせう。 山姥といふ称呼から、山にゐる女性と考へ、山人を、蛮人又は鬼・天狗などに近づけて想像する処から、此をも山の女怪と信じる様になりました。其村の冬祭りに来た行事が形式化し、竟に型をも行はぬ様になつて、伝説化して、名と断篇の説話ばかりあつて、実のない時代になつて、冬の行事であつたゞけに、冬の夜話の題材に上る様になつたので、かうした、人であつて、又、魑魅の族らしい者を考へ出したのでせう。山姥の姥に対して、山男・山人は又、山をぢ又は、山わると称へる様になりました。山姥の洗濯日といふのは、山の井に現れて、山姥が禊ぎをする日だつたのでせう。市日に山姥の来て、大食をした話や、小袋に限りなく物を容れて帰つた伝説などがあるのは、鎮魂の夜の山づとと取り易へて、里の品物、食料などを多く持ち還つたからでせう。其に、其容れ物の、一種異様な物であつた印象がくつゝいたのだらうと思ひます。 古代には、市といはれる処は、大抵山近い処にありました。磯城長尾市ノ宿禰と言ふ家は、長い丘(ヲ)の末に、市があつた為でせう。此が、穴師の山人の初めと言はれる人です。布留の市もさうで、大倭の社に関係があります。河内の餌香(ヱガ)の市などは、やゝ山遠くなつてゐます。これなどは、商行為としての交易場だつたのでせう。「うまさけ餌香の市に、価もてかはず(顕宗紀・室寿詞)」などあるのも、市が物々交換を行うた時代を見せてゐるのです。山祇系に大市姫があり、伝説では、山姥の名にもなつてゐます。此はみな、市と冬祭りと山姥との聯絡を見せてゐるのです。此交易の行事が、祭りの日の鷽換(ウソカ)へ行事や、舞人の装身具・作り山などについた物を奪ひ合ふ式にもなつて行つたのです。 足柄明神の神遊びは、東遊(アヅマアソ)びの基礎になつた様です。此神遊びを舞ふ巫女が、足柄の山姥です。神を育てるものとの信仰が残つて、坂田金時の母だとされてゐます。其に、此山姥の舞は、代表的の「山舞」とせられて、東遊びと共に、畿内の大社にも行はれました。山舞を演ずる「座」や「村」の間には、其が伝はつて来たでせう。山づとは物忌みのしるしとして、家の内外に懸けられます。浄められた村の人々は、神の物となつた家の内に、忌み籠るのです。此が正月飾りの起りです。標め縄も、山野や木に張り廻すものです。唯、ほんだはら一品は古くから用ゐられてゐますが、海の禊ぎをついだしるしなのです。山人の鎮魂に、昆布・田作・蝦などが用ゐられる様になつたのも、海の関係がないとは思はれません。京では歳暮に姥たゝといふ乞食が、出たと言ひます。此もさうした者ではないでせうか。節季候(セキゾロ)といふ年の暮を知らして来る乞食も、山のことぶれの一種の役なる事は、其扮装から知れます。山の神を女神だと言ふのは、山姥を神と観じたのです。斎女王の野ノ宮ごもりには、かうした山の巫女の生活法が、ある点までは見えるではありませんか。
山のことほぎ
大和では、山人の村が、あちこちにありました。穴師山では、穴師部又は、兵主部(ヒヤウズベ)といふのが其です。此神及び神人が、三輪山の上高く居て、其神の暴威を牽制して居たのです。山城加茂には、後に聳える比叡が其でせう。この日吉の山の山人は、八瀬の村などを形づくつたのでせう。寺の夜叉神の役であり、社の神の服従者なるおにの子孫であると言ふ考へ方から、村の先祖を妖怪としてゐます。が、唯、山人に対する世間の解釈を、我村の由緒としたのです。この山村などから、宮廷や、大社の祭りに、参加する山人が出たのでせう。其が、後には形式化して、官人等が仮装して来るやうになり、さうした時代の始めに、まだ山舞が行はれてゐて、その方面の鎮魂歌もあつたのです。山舞は又宮廷にも這入つて来たらしいのであります。 まきもくの穴師の山の山人と、人も見るかに、山かづらせよ(古今集巻二十) かう言ふ文句は、穴師山から来なくなつた時代にも、穴師を山人の本拠と考へて居たからです。山人の形態の条件が、山かづらにあつた事は、此歌で知れます。鬘(カヅラ)が、里の物忌みの被り物とは、変つて居たからでせう。山人の伝へた物語や歌は、海語の様には知れませんが、推測は出来ます。即国栖歌は恐らく、山部の間に伝はつて居たものでないか、と思ふ根拠があるのです。此を歌ひながら、山人も舞ひ、山姥も舞つたのでせう。そして、山人のは、わりに夙く亡びて、山姥の方だけが変形しながら残つたのでせう。  さて、山人のことほぎや舞が、山の帝都に行はれる様になると、海人のほかひ人は段々、山人ぶりに転化する傾向が出来、そして常世人の位置も、山の神同様に低められ、其呪詞もいはひ詞に傾いて行く。果は、全く山人同様になつて、海や川に縁る生活を棄てゝ、山地の国を馳せ廻る様にもなつて行きました。其一群は、恐らく、北陸から信濃川を溯つて来て、北西の山野に入り、其処に定住し、山人としての隔離地には、其南方に深い穂高嶽を択んだのでせう。そして、平野の村里に、時々、山の呪法呪詞や芸道を以て訪れました。若い神が、人に養はれて、末には英雄神となる物語を語つたのが、ほたかの本地として、末代の正本には、物臭太郎と言ふ流離の貴族の立身譚に変化して行きました。信濃に、安曇氏を称する海人部の入つたのは、かうした径路を通つたのでありませう。 山のことほぎ・海のほかひが段々合体して来ても、名目はさすがに存してゐました。山人の団体として、遊行神人の生活法をとつた者は、ほかひ人であり、海人の巡遊伶人団は、くゞつと言うたらしいのです。其が後には、ほかひがくゞつと称し、くゞつにしてほかひと言はれたらしい混乱が見えます。ほかひ人の持つ物容れは、山の木のまげ物であつて、其旅行器をほかひと称へました。くゞつは恐らく、呪詞の神こゝとむすびの名に関係があるらしく、其携へた、草を編んだ物容れの名が、くゞつと言はれるまでに、其旅行器が、国々の人の目に止る機会が多かつたのです。其程浮浪の布教生活を続けたのです。山人も、ほかひ人の一派であり、--傀儡子女(クヾツメ)は、海人の岐れであるらしい。--其が山舞をする事で、くゞつから分類せられ、海人からくゞつの生活を棄てゝ、山舞をする様になつても尚、くゞつと称せられたのは、遊女はくゞつとし、ほかひを祝言乞食者と考へた為でありませう。
山伏し
山舞を伝承して居る村の中には、思ひの外に深い山中に住んだ者が多かつたのです。そして歳暮・初春其他の行事に、村里へ降つて、山のことほぎを行ひに来ます。此が「隠れ里」の伝説の起原であつて、さうした生活法を受けつぐ事に、不思議も、屈托も感じない者が多かつたのです。隠れ里と称する人居は、皆山人としての祝言職を持つて居たのです。此山人の中、飛鳥末から奈良初めへかけて、民間に行はれた道教式作法と、仏教風の教義の断篇を知つて、変態な神道を、まづ開いたのは修験道で、此は全く、山の神人から、苦行生活を第一義にとつて進んだのです。だから、里人に信仰を与へるよりも、まづ、祓への変形なる懺悔・禁欲の生活に向はしめました。即、行力を鍛へて、験方(ゲンパウ)の呪術を得ると言ふ主旨になります。だから、修験道は、長期の隔離生活に堪へて、山の神自体としての力を保有しようとした山人の生活に、小乗式の苦行の理想と、人間身を解脱して神仙となるとする道教の理想とをとり込んだに過ぎません。後々までも、寺の験方の形式をとり去ると、自覚者の変改した神道の姿が現れるのです。垢離は禊ぎであり、懺悔は、山祇の好む秘密告白と祓へとの一分岐です。禅定・精進(サウジ)は、山籠りの物忌みで、成年授戒・神人資格享受の前提です。 御嶽精進を経て、始めて男となると言ふ信仰は、近代に始まつた事ではない様で、山地に居させ、禁欲・苦役の後、成年戒を授けた昔の村里の規約が、形を変へて入つて来てゐます。男だけの山籠りで、女子は結界厳重な事も、女人禁制の寺方を学んだのではなく、固有の秘密結社の姿なのでした。山の神・山人がおにと感じられて来たのに対して、天狗を想像する様になりました。古代のおには、後世の悪鬼羅刹などでなく、巨人と言ふだけの意義でした。大方、赤また・黒またなど言ふ先島(サキジマ)のまれびとと、似た扮装をしたものであつたのでせう。田楽には、鬼や天狗がつきものになつてゐたらしいのですが、猿楽では、翁の柔和な姿になつてゐます。だが、「谷行(タニカウ)」の様な、山入りの生活を明らかに見せるものがあり、又、天狗も「第六天」や「鞍馬天狗」や「善界(ゼガイ)」など、数へきれない程あるでせう。田楽には天狗の印象があるだけで、今残つた種目からは窺はれません。其に比べて数から言へば、猿楽は、天狗舞を一分科とするほどです。先達・新達の区別も、宿老(トネ)と若者との関係です。山人生活のかたみだと言へないかも知れませんが、ともかくも考へに置かねばなりませぬ。 天狗が出産のあら血を嫌ふ事は、柳田先生が、古く「天狗、山の神」説に述べられました。山の神、或は山人生活の行儀・禁忌などが、その儘伝つて居るではありませんか。だから、修験道は、山人の間に醸せられた、自覚神道だ、と思ひます。此為に山人も、末は色々に岐れて行つてゐます。 山村に神事芸が発達すると共に、本来の姿で生活してゐる海人の村にも、偶人劇や歌詠が育つてゐました。さうしたものが、祭りの日に行はれてゐる中に、段々演芸化してまゐります。そして、神事能の外、種目が多くなつて行きます。中には遊行伶人団となつたものも、元より、早くにあつた事は考へられます。宮廷の神楽は、海人部出の物なので、海人部の偶人に当るものが、宮廷では、狂言方の才(サイ)の男(ヲ)です。其以前からあつた神遊びには、人形を用ゐなかつたから、人にして人形身になる「才ノ男ノ態」なるものを生んだのです。--社々のせいなう・さいのをは大抵、偶人だつた様です。--山人の神事にも人形のまじつた痕はありません。山人は、宮廷・神社の祭りに出れば、脇方に廻つたものなのでせうから、才の男なども、山人が勤めたのではないか、と思はれる処が、尠からず見えます。人長に対する才の男の位置は、もどきであり、其態は、狂言だつた様で、常世の神人と山の神人との関係にある様です。才の男系統の猿楽が、翁には翁・人長・黒尉・才の男と言つた形になつて来かゝつてゐます。此は神と精霊との関係の混乱し易い為です。 山村の印象と見るべきものは、山彦・こだまなど言ふ、口まね・口ごたへをする精霊の存在を信じた風の起原です。山人の芸の中に、さうした猿楽式なもどきが発達してゐた為、山人の木霊(コダマ)を一つにしたもので、やはり、一つの芸術の現実化して考へられたものでせう。才の男のする「早歌」のかけあひなども、やはりもどき芸なのです。 猿楽能は山人舞の伝統を引くもので、社寺の楽舞に触れて変化し、民間の雑楽に感染してとり込み、成立後の姿からは、元の出処が知れぬ位に、変つてしまひました。楽と言ふ字のつくのは、雑楽の義で、田楽は其であり、舞の方が一段上で、正舞系統を意味するものらしい、と、かう言ふ仮説は立たないでせうか。だから、寺方出の舞のはでなものは、皆、曲舞と言はれてゐますが、猿楽は、曲舞とも見られなかつたのです。其点でも、曲舞出の幸若舞よりも低く見られたのです。社寺から受ける待遇も、極めて低いものだつたでせう。伶人・楽人などゝは比べられなかつたものと思はれます。
翁の語り
三河の北の山間、南、北設楽(シタラ)郡を中心に、境を接した南信州の一部分は、私も歩いて来て、此地方にある田楽の、輪廓だけは、思ひ浮べる事が出来ます。此は、北遠州天龍沿ひの山間にもある事は、早川孝太郎さんの採訪によつて知れました。種目が可なり多く具はつて居て、田楽と称する土地の外は「花祭り」と称へてゐて、明らかに田楽の特質の一部を保つてゐます。花祭りは、鎮花祭の踊りから出た念仏踊りが、田楽と習合した元の信仰を残してゐるので、花祭りといふのは、稲の花がよく咲いて、みいる様子を、祝福する処から言ふのであります。春の花が早く散ると、田のみのりの悪い兆と見、人の身に譬喩して見ると、悪病流行の前ぶれと考へたのであります。春の祭りに花を祝福した行事が、春夏の交叉する頃にも、一層激しく行はれ、鎮花祭--行疫神や、害虫や、悪風を誘導して祓ひ出す--が、人間の精霊を退散させる事によつて、凶事は除かれるものとする念仏踊りを生み、其が教義づけられて、念仏宗になつたものゝ様です。然し、花鎮めと言ふ事は、忘れませんでした。 田楽の中にも、念仏踊り其儘、花鎮め行事を名のるものが残つてゐます。其が、此花祭りです。花に関しては、花の唱文・花の言ひ立て・花舞ひなどをする処もありますが、大して問題にして居ない様です。畢竟、かうした田楽を「花祭り」とか「花踊り」とか言つてゐたまゝを、承けついで来たのでせう。桜町中納言が、泰山府君に花の命乞ひをした伝説なども、田楽・念仏系統の伝へなのでせう。此祭りに、舞場(マヒバ)に宛てられた屋敷は一村の代表で、祭りの効果は、村全体に及ぶと考へてゐるのです。此は、殆ど、反閇(ヘンバイ)及び踏み鎮めの舞ばかりを、幾組も作つてゐるのです。が、其中に「鬼舞」と、「翁の言ひ立て」とが、田楽の古い姿を残してゐる様でした。春祭りの鬼は、節分の追儺・修正会と一つ形式に見られてゐますが、明らかに、祝福に来る山の神です。だから、鬼は退散させられないで、反閇を踏む事になつてゐて、此辺の演出は正しいものなのです。即、春祭りに、山人の祝福に来る形です。 翁は、どの村々にも必、ある様で、田楽祭りと称する村では、勿論、必あります。其語りにも色々ある様でありますが、主なものは、生ひ立ちの物語りと海道下りとである様です。此翁の語りの事を、猿楽と言ふのも、一般の事の様です。設楽郡の山地に入り初めの鳳来寺には、田楽の他に、地狂言と言ふものがあつて、其を猿楽と称へたらしい証拠があります。先年までしたのは、唯の芝居でしたが、其始まりのものは、三番叟であつて、此を特別の演出物としてゐます。此地狂言は、古くは、猿楽能に近いものを演じた様ですが、近代では、歌舞妓芝居より外はやりませんでした。此猿楽なる地狂言が、三番叟だけは保存してゐたと言ふのは、江戸芝居と一つで、翁が猿楽の目じるしだつたからであります。三番叟を主としたのは、猿楽の中の猿楽なる狂言だからでせう。豊根村の翁には、もどきがついて出て、文句を大きな声でくり返しました。鳳来寺の地狂言では、後に引いた幕の陰に、大勢の人が隠れてゐて、三番叟の詞をくり返して、囃したさうです。 花祭りの翁でも、役人は一人ではありません。翁の外に、松風丸(又は松風・松かげ)と言ふ女面があり、三番があるのが普通の様です。翁の言ひ立ての後で、三番叟(信州新野では、しようじっきり)が出て、翁のおどけ文句以上に、狂言を述べる。松風は所作はわからぬが、千歳の若役を若女形でするので、田楽らしい為方です。田楽には、女も役人に加はつてゐました。だから、千歳役も、田楽の猿楽では、女千歳であつた事があるのでせう。其が仮面になつたのかも知れませぬ。翁の語りの中に「松風のじぶんな、寒(サンブ)やかりける事よな」又は「翁松かげにかんざられ、寒や悲しや(?)」かう言ふ文句があるけれど、前後の関係の推測出来るやうに、筋立つても居ません。かうした翁の役は、此田楽でも三人なのです。翁の生ひ立ちの語りは、其誕生から、其に伴ふ母の述懐を述べて、自身の醜さを誇張して笑はせます。其から、今まで生きてゐた間に、滄桑の変を幾度も見た事を言ひまして、翁の壻入りの話になるのです。壻になつた時の準備に、色々な事を習うて、種々の失敗をする、おもしろい「早物語」らしい処があります。海道下りは、京へ上る道や入洛してからの物語で、其間に、みだらな笑ひを誘ふ部分を交へてゐます。 生ひ立ちは、神の名のりの詞章の種姓明しの系統で、其に連れて、村・家の歴史を語る形式が、壊れたものです。こゝの翁も、脇方・狂言方らしい姿を見せてゐるのです。海道下りは遠くから来た神が、其道筋の出来事を語る辛苦物語から出てゐるもので、道行ぶりの古い形が其で、早く、神人流離の物語や、英雄征旅の史実の様になつたものです。其から出た道行ぶりが、記・紀にも既に発達してゐます。而も、此を所作に示す「歩きぶり」が、芸としての鑑賞の目的にさへなつてゐました。つまり「前わたり」の芸能なのです。此は元、見聞を語つて、世間的な知識を授ける詞章のあつたのが、変化して来たのであります。
ある言ひ立て
以上の夜話の後、私どもは、山崎楽堂さんの「申楽の翁」を聴かして貰ひました。其理会と愛執とから出て来る力には、うたれないでは居られませんでした。此続き話なども、大分、其影響をとり込んで来さうな気がいたします。其で、やがて、発表になるはずの、山崎さんの論旨を先ぐりした部分も出て来さうで、気がひけてなりません。併しまあ、此も芸能にはつきものゝもどきがしやしやり出たとでも思うて戴きます。 こんな事を申し上げるのも、外ではありません。学問の研究の由つて来たる筋道と、発表の順序とだけは、厳重にはつきりさせて置くと言ふ、礼儀を思ふからであります。私どものしてゐる民俗学の発生的見地は、学者自身の研究発表の上にも、当然、持せられるべきはずであります。内外の事情の交錯発生する過程を明らかにすると言ふ事は、研究方法を厳しく整へるよりも、もつともつと重大な事なのです。 殊に「申楽の翁」の如き、まだ記録を公にしない研究から、多分論理をひき続けて行く私の論文の様な場合には、此用意が大事だと感じました。 如何様な価値と分量とを持つた論文にしても、其基礎の幾分をなしてゐる、未発表の研究を圧倒して了ふ権利はない訣なのです。私は常に、此だけは、新しい実感の学問の学徒としての、光明に充ちた態度と心得てゐるのであります。
春のまれびと
柳田国男先生の「雪国の春」は、雪間の猫柳の輝く様な装ひを凝して、出ました。私どもにとつては、真に、春のまれびとの新しいことぶれの様な気がします。殊に身一つにとつて、はれがましい程の光栄に、自らみすぼらしさの顧みられるのは、春の鬼に関する愚かな仮説が、先生によつて、見かはすばかり立派に育てあげられてゐた事であります。此、真に、世の師弟の道を説く者に、絶好の例話として提供せらるべき事実であります。実の処、をこがましくも、春の鬼・常世(トコヨ)のまれびと・ことぶれの神を説いてゐる私の考へも、曾て公にせられた先生の理論から、ひき出して来たものでありました。南島紀行の「海南小記」(東京朝日発表、後に大岡山書店から単行)の中に、つゝましやかに、言を幽かにして書きこんで置かれた八重山の神々の話が、其であります。学説と言ふものは、実にかくの如く相交錯するものでありまして、私が山崎さんの研究の一部たりとも、冒認する事を気にやんでゐる衷情も、お察しがつきませう。 今から四年前(大正十三年)の初春でした。正月の東京朝日新聞が幾日か引き続いて、諸国正月行事の投書を発表した事がありました。其中に、 なもみ剥(ハ)げたか。はげたかよ あづき煮えたか。にえたかよ こんな文言を唱へて家々に躍り込んで来る、東北の春のまれびとに関する報告がまじつてゐました。私は驚きました。先生の論理を馬糞紙のめがふおんにかけた様な、私の沖縄のまれびと神の仮説に、ぴつたりしてゐるではありませんか。雪に埋れた東北の村々には、まだ、こんな姿の春のまれびとが残つてゐるのだ。年神にも福神にも、乃至は鬼にさへなりきらずにゐる、畏と敬と両方面から仰がれてゐる異形身の霊物(モノ)があつたのだ。こんな事を痛感しました。私はやがて、其なもみの有無を問うて来る妖怪の為事が、古い日本の村々にも行はれてゐた、微かな証拠に思ひ到りました。かせ・ものもらひに関する語原と信仰とが其であります。此事は、其後、多分、二度目の洋行から戻られたばかりの柳田先生に申しあげたはずであります。 「雪国の春」を拝見すると、殆ど春のまれびと及び一人称発想の文学の発生と言ふ二つに、焦点を据ゑられてゐる様であります。殊に「真澄遊覧記を読む」の章の如きは、かの「なもみはげたか」の妖怪の百数十年前の状態を復元する事に、主力を集めてゐられます。馬糞紙のらつぱは、更に大きくして光彩陸離たる姿と、清(スヾ)やかに鋭い声を発する舶来の拡声器を得た訣なのです。
雪の鬼
真澄の昔も、今の世も、雪間の村々ではなもみを火だこと考へてゐる事は、明らかです。が、火だこを生ずる様な懶け者・かひ性なしを懲らしめる為とする信仰は、後の姿らしいのです。 かせとり・かさとりとも此を言ふ様ですが、此称へでは、全国的に春のほかひゞとの意味に用ゐてゐます。かせはこせなどゝ通じて、やがて又瘡(カサ)・くさなどゝも同根の皮膚病の汎称です。此をとりに来るのは、人や田畠の悪疫を駆除する事になるのです。なもみはぎ・かせとりの文言は形式化したものでありますが、春のまれびとの行つた神事のなごりなる事だけは、明らかになつて居ました。 ものもらひなどもさうです。恐らく、春のほかひゞとが此に関係して居つた為の名でせう。ばらばらに分布してゐる、此目瘡の方言まろとなる称へは、祝言・ことほぎがまだ、原信仰を存して、まらうどのするものとした時代から、ほかひ(乞士)・もの貰ひの職となつた頃まで、引き続いてゐた事を見せてゐる様に思ひます。即、まれびと瘡が、なもみの一種であつたらしい、と言ふ仮説を持つてゐたのであります。なもみ瘡が、薬草の耳子(ヲナモミ)・めなもみなどに関係のある事だけは、多少想像してもよいと思ひます。此草、支那に於てすら「羊負来」と呼ばれる通り、異郷の草種だつたのです。 かう言ふ風に考へられてゐる、私の疎かな組織に組み入れた春の妖怪は、沖縄にも、旧日本にもあつたのです。 寺々の夜叉神も、陰陽師・唱門師から、地神経を弾いた盲僧・田楽法師の徒に到るまで、家内・田園の害物・疾病・悪事を叱り除ける唱へ言を伝へてゐたのも、皆、此まれびと」としての本来の俤を留めてゐたのです。 私は数年来、知らぬ奥在所の人々からは、気の知れぬと思はれるばかり、春の初めを幾度か、三・遠二州の山間に暮しました。其処で見た田楽や田楽系統の神事舞の中にも、やはり正式には、家内・田園の凶悪を叱る言ひ立てを見出しました。此が大抵、翁或は其変形したものゝ発する祭文或は宣命といふものになつて居りました。
菩薩練道
牛祭りの祭文を見たばかりでは、こんな放漫な詞章がと驚かれる事ですが、邪悪を除却する宣命の所謂ことほぎのみだりがはしきに趨く径路を知つて居れば、不思議はない事です。あれは、人身及び屋敷の垣内・垣外の庶物の中に棲む精霊に宣下し、慴伏せしめる詞なのです。 大昔には、海の彼方の常世の国から来るまれびとの為事であつたのが、後には、地霊の代表者なる山の神の為事になり、更に山の神としての資格に於ける地主神の役目になつたものでした。さうして、其地主神が、山の鬼から天狗と言ふ形を分化し、天部の護法神から諸菩薩・夜叉・羅刹神に変化して行く一方に、村との関係を血筋で考へた方面には、老翁又は尉と姥の形が固定してまゐりました。 だから、此等の山の神の姿に扮する山の神人たちの、宣命・告白を目的とした群行の中心が鬼であり、翁であり、又変じて、唯の神人の尉殿、或は乞士としての太夫であつたのは、当然であります。翁及び翁の分化した役人が、此宣命を主とする理由は訣りませう。仮りに翁の為事を分けて見ますと、 語り/宣命/家・村ほめ 此三つになります。さうして、其中心は、勿論宣命にあるのです。でも、此三つは皆一つ宣命から分化した姿に過ぎないのです。
翁の宣命
宣命と名のつく物、宣命としての神事の順番に陳べられるものは、其詞章がたとひ、埒もない子守り唄の様に壊れて了うてゐるのでも、庶物の精霊に対する効果は、恐ろしい鎮圧の威力を持つものでした。中世以後、祝詞・祭文以外に、宣命といふ種類が、陰陽師流の神道家の間に行はれてゐました。続日本紀以降の天子の宣命と、外形は違つてゐて、本質を一つにするものでした。私の考へでは、此宮廷の宣命が、古代ののりとの原形を正しく伝へてゐるものなのです。神の宣命なるのりとを人神の天子ののりとなる宣命としたゞけの事です。常世神ののりとにおきましては、神自身及び精霊の来歴・種姓を明らかにして、相互の過去の誓約を新たに想起せしめる事が、主になつてゐました。此精霊服従の誓約の本縁を言ふ物語が、呪詞でもあり、叙事詩でもあつた姿の、最古ののりとなのです。其が岐れて、呪詞の方は、神主ののりとと固定し、叙事詩の側は、語部(カタリベ)の物語となつて行つたのです。だから、呪詞を宣する神の姿をとる者の唱へる文言が、語りをも宣命をも備へてゐる理由はわかります。「家・村ほめ」の方は、呪詞が更に、鎮護詞(イハヒゴト)化した時代に発達したものなのです。広く言へば、ことほぎと称すべきもので、多くは山人発生以後の職分です。 翁の語りは次第に、教訓や諷諭に傾いて来ましたが、尚、語りの中にすら、宣命式の効果は含まれてゐたのです。家・村ほめの形にも、勿論、土地鎮静の義あることは言ふまでもありません。
松ばやし
高野博士は、昔から鏡板の松を以て、奈良の御(オン)祭の中心になる--寧、田楽の中門口の如く、出発点として重要な--一(イチ)の松をうつしたものだ、とせられてゐました。当時、微かながら「標の山」の考へを出してゐた私の意見と根本に於て、暗合してゐましたので、一も二もなく賛成を感じてゐました。 処が、近頃の私は、もつと細かく考へて見る必要を感じ出して居ります。其は、鏡板の松が松ばやしの松と一つ物だといふ事です。謂はゞ一の松の更に分裂した形と見るのであります。松をはやすといふ事が、赤松氏・松平氏を囃すなどゝ言ふ合理解を伴ふやうになつたのは、大和猿楽の擁護者が固定しましてからです。初春の為に、山の松の木の枝がおろされて来る事は、今もある事で、松迎へといふ行事は、いづれの山間でも、年の暮れの敬虔な慣例として守られて居ます。おろすというてきると言はない処に縁起がある如く、はやすと言ふのも、伐る事なのです。はなす・はがす(がは鼻濁音)などゝ一類の語で、分裂させる義で、ふゆ・ふやすと同じく、霊魂の分裂を意味してゐるらしいのです。此は、万葉集の東歌から証拠になる三つばかりの例歌を挙げる事が出来ます。 囃すと宛て字するはやすは、常に、語原の栄やすから来た一類と混同せられてゐます。山の木をはやして来るといふ事は、神霊の寓る木を分割して来る事なのです。さうして、其を搬ぶ事も、其を屋敷に立てゝ祷る事も、皆、はやすといふ語の含む過程となるのです。大和猿楽其他の村々から、京の檀那衆なる寺社・貴族・武家に、この分霊木を搬んで来る曳き物の行列の器・声楽や、其を廻つての行進舞踊は勿論、檀那家の屋敷に立てゝの神事までをも込めて、はやす・はやしと称する様になつたのだと、言ふ事が出来ると思ひます。畢竟、室町・戦国以後、京都辺で称へた「松ばやし」は、家ほめに来る能役者の、屋敷内での行事及び路次の道行きぶり(風流)を総称したものと言へまして、元、田楽法師の間にも此が行はれて居たのであります。其はやしの中心になる木は、何の木であつたか知れません。が、田楽林(ハヤシ)・林田楽など言ふ語のあつた事は事実で、此「林」を「村」や「材」などゝするのは、誤写から出た考へ方であります。 此が、後世色々な分流を生んだ祇園囃しの起原です。元、祇園林を曳くに伴うた音楽・風流なる故の名でしたのが、夏祭りの曳き山・地車の、謂はゞ木遣り囃しと感ぜられる様になつたのでした。だから、祇園林を一方、八阪の神の林と感じた事さへあるのです。勿論、祇陀園林の訳語ではありません。此林田楽などは、恐らく、近江猿楽の人々が、田楽能の脇方として成長してゐた時代に、出来たものではないのでせうか。 此松ばやしは、猿楽能独立以後も、久しく、最大の行事とせられてゐたものではありますまいか。此事も恐らくは、翁が中心になつて、其宣命・語り・家ほめが行はれてゐたものと考へられるのですが、唯今、其証拠と見るべきものはありません。が、唯暦法の考へを異にする事から生じた初春の前晩の行事が、尠くとも二つあります。即、社では、春日若宮祭りの一の松以下の行事、寺では興福寺の二月の薪能です。此等は皆翁や風流を伴つてゐました。其ばかりか、脇能も行はれてゐたのです。薪能は田楽の中門口と同じ意味のものであつたらしいし、御祭りは全く、松ばやしの典型的のものであつたものと言へます。此場合に、松は、山からはやして来たものでなく、立ち木を以て、直ちに、神影向の木--事実にも影向の松と言つた--と見たのです。翁は御祭りから始まつたのではなく、其一の松行事が、翁の一つの古い姿だつた事を示すものです。二つながら、神影向の木或は分霊の木の信仰から出てゐます。薪能の起りは、恐らく翁一類の山人が、山から携へて来る山づとなる木を、門前に立てゝ行く処にあつたのであらうと思ふのです。かうして見ると、八瀬童子が献つた八瀬の黒木の由来も、山づとにして、分霊献上を意味する木なる事が、推測せられるではありませんか。此が更に、年木・竈木の起りになるのです。
もどきの所作
私は、日本の演芸の大きな要素をなすものとして、もどき役の意義を重く見たいと思ひます。近代の猿楽に宛てゝ見れば、狂言方に当るものです。だが、元々、神と精霊と--其々のつれ--の対立からなつてゐる処に、日本古代の神事演芸の単位があります。だからして方に対して、単に、わき方--或はあどと称する--に相当する者があつたゞけです。其中、わき方が分裂して、わき及び狂言となつたのです。訣り易く言はうなら、もどき役から脇・狂言が分化したといふ方がよい様であります。 もどきは田楽の上に栄えた役名で、今も、神楽の中には、ひよつとこ面を被る役わり及び面自体の称へとなつて、残つてゐます。もどき役は、後ほど、狂言方と一つのものと考へられて来ましたが、古くは、脇・狂言を綜合した役名でありました。私は前に猿楽のもどき的素地を言ひました。今、其を再説する機会に遇うた事を感じます。 もどくと言ふ動詞は、反対する・逆に出る・批難するなど言ふ用語例ばかりを持つものゝ様に考へられます。併し古くは、もつと広いものゝ様です。尠くとも、演芸史の上では、物まねする・説明する・代つて再説する・説き和げるなど言ふ義が、加はつて居る事が明らかです。「人のもどき負ふ」など言ふのも、自分で、赧い顔をせずに居られぬ様な事を再演して、ひやかされる処に、批難の義が出発しましたので、やはり「ものまねする」の意だつたのでせう。 田楽に於けるもどきは、猿楽役者の役処であつたらしく、のみならず、其他の先輩芸にも、もどきとしてついてゐたものと思ひます。其中、最関係の深かつた田楽能から分離する機会を捉へたものが、猿楽能なる分派を開いたのでせう。ちようど、万歳太夫に附属する才蔵が、興行団を組織して歩く尾張・三河の海辺の神楽芸人に似た游離が行はれて、自立といふ程のきはやかな運動はなく、自然の中に、一派を立てたのと同様だと思ひます。此点は、世阿弥十六部集を読む人々に特に御注意を願はねばならぬ処で、田楽・曲舞などに対する穏かな理会のある態度は、かうして始めてわかるのです。呪師猿楽と並称せられた呪師の本芸が、田楽師の芸を成立させると同時に、猿楽は能と狂言とを重にうけ持つ様になつて行つたのです。だから、総括して、田楽法師と見られてゐる者の中にも、正確には、猿楽師も含まれてゐた事は考へてよいと思ひます。林田楽など言ひました曳き物も、ひよつとすれば、田楽師のもどき方なる猿楽師(近江)の方から出たもので、松ばやしと一つ物と言ふ事はさしつかへないかも知れませぬ。 猿楽はもどき役として、久しい歴史の記憶から、存外、脇方を重んじてゐるのかも知れません。柳営の慶賀に行はれた開口(カイコウ)は、脇方の為事で、能役者名誉の役目でありました。而も、田楽の方にも、此があつて、奈良の御祭りには行はれました。高野博士が採集して居られる比擬開口(モドキカイコウ)といふのが此です。だから、開口に、まじめなのと戯れたのと二つがあつた、と見る人もありさうですが、私はさうは思ひません。開口がもどき・脇方の役目だつたものです。恐らくは、猿楽の游離以前の姿を止めてゐるものと思はれます。
翁のもどき
遠州や三州の北部山間に残つてゐる田楽や、其系統に属する念仏踊りや、唱門師風の舞踏の複合した神楽、花祭りの類の演出を見まして、もどきなる役の本義が、愈明らかになつて来た様に感じました。説明役であることもあり、をこつき役である場合もあり、脇役を意味する時もあるのでした。翁に絡んで出るもどきには、此等が皆備つてゐるのでした。まづ正面からもどきと言はれるのは、翁と共に出て、翁より一間(ヒトマ)遅れて--此が正しいのだが、今は同時に--文言を、稍大きな声でくり返す役の名になつてゐます。此は陰陽師又は修験者としての正式の姿をしてゐるのです。説明役と同時に脇方に当ります。此は重い役になつてゐる鬼の出場する場合にも出ます。此時は、鬼との問答を幾番かするのです。鬼に対するもどきは、脇役です。 翁の形式が幾通りにもくり返されます。ねぎとか、なかと祓--中臣祓を行ふ役の意らしい--とか海道下りとか称へてゐるのは、皆、翁の役を複演するもので、一種の異訳演出に過ぎないのです。即、翁を演ずる役者なるねぎの、其の村に下つた由来と経歴とを語るのでした。だから、此は翁のもどきなのです。処が、翁にも此番にも、多くのをこつきのもどきが出て、荒れ廻ります。而も、此外に必、翁に対して、今一つ、黒尉が出ます。此を三番叟といふ処もあり、しようじっきりと言ふ地もあります。又猿楽とも言ひます事は、前に述べました。此は大抵、翁の為事を平俗化し、敷衍して説明する様な役です。が、其に特殊な演出を持つてゐます。前者の言ふ所を、異訳的に、ある事実におし宛てゝ説明する、と言ふ役まはりなのです。翁よりは早間で、滑稽で、世話に砕けたところがあり、大体にみだりがはしい傾向を持つたものです。 信州新野(ニヒノ)の雪祭りに出るしようじっきりと言ふ黒尉は、其上更に、もどきと言ふ役と其からさいほうと称する役方とを派生してゐます。此は、多分才の男系統のものなる事を意味する役名なのでせうが、もどきの上に、更に、さいほうを重ねてゐるなどは、どこまでもどきが重なるのか知れぬ程です。畢竟、古代の演芸には、一つの役毎に、一つ宛のもどき役を伴ふ習慣があつたからなのです。 つい此頃も、旧正月の観音の御縁日に、遠州奥山村(今は水窪町)の西浦所能(ニシウレシヨナウ)の田楽祭りを見学しました。まづ、近年私の見聞しました田楽の中では、断篇化はしてゐますが、演芸種目が田楽として古風を、最完全に近く、伝へてゐるものなることを知りました。
もどき猿楽狂言
西浦(ニシウレ)田楽のとりわけ暗示に富んだ点は、他の地方の田楽・花祭り・神楽などよりも、もつともどきの豊富な点でありました。外々のは、もどきと言ふ名をすら忘れて、幾つかの重なりを行うてゐますが、こゝのは、勿論さうしたものもありますが、其上に、重要なものには、番毎にもどきの手といふのが、くり返されてゐることです。さうして更に、注意すべき事は、手とあることです。舞ひぶり--もつと適切に申しますと、踏みしづめのふりなのです--を主とするものなることが、察せられます。 大抵、まじめな一番がすむと、装束や持ち物も、稍、壊れた風で出て来て、前の舞を極めて早間にくり返し、世話式とでも謂つた風に舞ひ和らげ、おどけぶりを変へて、勿論、時間も早くきりあげて、引き込むのです。 此で考へると、もどき方は大体、通訳風の役まはりにあるものと見てよさゝうです。其中から分化して、詞章の通俗的飜訳をするものに、猿楽旧来の用語を転用する様になつて行つたのではありますまいか。して見れば、言ひ立てを主とする翁のもどきなる三番叟を、猿楽といふのも、理由のあつた事です。 此猿楽を専門とした猿楽能では、其役を脇方と分立させて、わかり易く狂言と称へてゐ、又をかしとも言ひます。此は、をかしがらせる為の役を意味するのではなく、もどき同様、犯しであつたものと考へられます。こゝに、猿楽が「言」と「能」との二つに岐れて行く理由があるのです。能は脇方としての立ち場から発達したもの、狂言は言ひ立て・説明の側から出た名称と見られませう。 かうして見ますと、狂言方から出る三番叟が、実は翁のもどき役である事が知れませう。さうして、其が猿楽能の方では、舞が主になつて、言ひ立ての方が疎かになつて行つたものと見る事が出来ます。 かう申せば、翁は実に神聖な役の様に見えますし、して方元来の役目の様に見えますが、私はそこに問題を持つてゐるのです。一体、白式・黒式両様の尉面では、私に言はせると、黒式が古くて、白式は其神聖観の加はつて来た時代の純化だ、とするのです。 役から見ると「翁のもどき」として、三番叟が出来たのですが、面から言ふと、逆になります。白式の翁も元は、黒尉を被つて出たものであつたのを、採桑老風の面で表さねばならぬ程、聖化したのです。さうして、其もどき役の方に黒面を残したものと見られるのです。 此黒面は、私は山人のしるしだと思ふのであります。譬へば、踏歌節会の高巾子(カウコンジ)のことほぎ一行の顔は、正しくはのっぺらぽうの物だつたらしいのです。即、安摩(アマ)・蘇利古(ソリコ)に近いものだつたのです。白式尉が採桑老らしくなると共に、山人面も次第に変化して、其を唯黒くしたゞけが違ふ尉面と言ふやうになつたのでありませう。古代の山人の顔は、今から知るよしもありませんが、黒といふ点では一致して居ても、黒式尉のやうな、顔面筋まで表した細やかな彫刻ではなかつたはずです。 併し、ちよつと申して置きました様に、黒といふ語が、我が国では、一種異様な舞踊の保持団体と関係のありさうなのは事実です。黒山舞の昔から、黒川能・黒倉田楽・黒平三番叟など皆山中の芸能村なのです。此等のくろは顔面の黒色を意味するものか、其とも、技芸の正雑を別つ上の用語か、今の処断言はいたしかねるのですが、何にしても「山人舞」と深い関係は考へられようと思ひます。
 
猿から尼まで / 狂言役者の修業

猿に始まって尼に終わる狂言の修業について、ここにシェイクスピアを演じたいと願っている一人の俳優がいるとしよう。その場合、彼がその目的を果たすために取るであろう幾通りもの道が想像できる。しかしいくらそのためだからといって、まだ幼い時期に「マクベス」に登場するバンクオの息子フリーアンスを演じたり、「ハムレット」の中でハムレットを演じる前にレイアーティーズを演じてみたり、更に、六〇歳で「リア王」のリアを演じる「許可を得る」ために、二〇歳代にハムレットを演じる必要はないだろう。むしろ彼は道化師や墓堀人や滑稽な召使いのような様々な役を自由に演じ抜いてゆくかも知れない。上演演目の経験を通して、自分の才能や気質やオーディションの結果により彼独自の成功が決定される。彼は彼自身の判断、そしてまた監督や批評家や聴衆の判断によって自分自身の修業を積むのである。
しかし、これから述べようとする狂言の世界では、プロの狂言役者はこのような自由を全く持たない。彼の訓練は「子宮にいるときから」始まり、彼のキャリアの道は、「Roles of passage」により決定されている。即ちそれは、二五〇曲のレパートリーの中の一〇曲であり、それらは自身の芸を十分に極めるために正しく演じられなければならないとされている。筆者はこれらの演目をアーノルド・ヴァン・ゲネップの「Rites of passage(通過儀礼)」からヒントを得、「Roles of passage」と称することにする。一人前になるための「通過儀礼」 のようにこれらのRoles of passageは彼自身の限界へと追い込むために必要とされる試練なのである。それらは又通常の稽古とは正反対の性質を持ち、俳優に新しい技術と自尊心を与えるものである。
修業の軌道
専門家の稽古は、殆どが完全な「型」(パターン化されたフォーム)の習得から成り立っている。稽古は、段階的に難しくなる。即ち、複雑なパターンは型の組み合わせ、或いは様々な種類の型として教えられ、既に習得された型はやがて第二の自然へと変化する。成人してから狂言を学び始めた狂言師丸石やすしは、「基本の型」はあたかも建築の構造に於ける柱のように、狂言役者の芸を磨くための必須技法として自動的に役者の身体より引 き出される必要があることを強調している。
しかし狂言の稽古過程は、ただ単に肉体の動きを真似るだけの機械的なものではない。はっきりと決められた技術習得が中心となるが、その過程において芸術の精神的な深い気づきがもたらされる。俳優のキャリアはそれ自体が「修業」または学ぶ過程と考えられ、それは一生を通じての訓練であり、勤勉で熱心な疑似宗教的性質を呈している。この様な狂言役者の修業段階に於ける定められた稽古方法は、その真面目ないとこにあたる能や他の日本の殆ど全ての芸道と共通のものである。戦前に活躍した名人、六世野村万蔵は、「古い稽古方法は弟子(の時期に)に於いて緊張をもたらすために試みられたもので、寺の門前に立つ下級の僧に向けられるようなものだが、「教えること」よりも、本人に「悟らせる」ように作られている。」と述べている(六世野村万蔵 一九八二年「狂言への道」)。この様な瞬間は狂言役者の人生を通して規則的な間隔で起こる。役者の修業は、一つ進んだ重要な役を披露することが節目となる。この初めての演技(舞台)は「披(ひらき)」と呼ばれ、これは単なる「初演」でも、標準的演目の中の曲の「初役」でもない。これらの「Roles of passage」での役者の「イニシエーション(入会)」は、長い修業に於ける時折のスポットライトである。即ちそれは万年端役の役者にとって、中央ステージに立つチャンスであり、また、スターの座に昇る者にとっては公的な自分への挑戦であり、著名な役者にとっては修業の持続を証明するものである。師匠、弟子、観客の三者から寄せられた期待の三角形は、これらの役者の演技にダイナミックな緊張と魅惑を与える。彼らは、これらの重大な時期に焦点を合わせ、役者の個人的な一里塚とその業績に対する公的承認の両方の経歴を生み出す。
披の曲の特殊性
披は、多くの側面において普通のレパートリーの曲と異なる。これらは特別な演技でこれを遂行するにあたっては、特別の禊ぎ、激しい稽古、注意深く検討されたプログラムの中で曲の遂行を絶えず支え続ける配役、適度な品位を持つ演技の場所等が必要とされる。師匠と弟子は共に披もののために、稽古に集中する、何故なら彼らはこれらが家の無形財産を含んでいるということを知っているからであり、それは用心深く守られてきた職人の道具だからである。家の存続は彼らの正しい伝承にかかっているのである。
Roles of passage
才能や環境により修業は多種多様であるが、進む道筋や早さに関わらず、プロの狂言役者の道は披の曲の坂道へと狭められる。
「狂言の修業は猿に始まり、狐に終わる」。これらの動物の役はプロの俳優人生の初めの数十年 を形成するが、実際には、後に成し遂げられるべき十分な熟練のためにこの間に取り組まなければならないより多くの役がある。表1(省略)は披の役と演目を示すもので、それらが演じられる理想的な年齢、彼らの初体験的な部分、そして特殊技術を示す。そのデビューの演目は、次の段階に進む前に身につけられていなければいけない狂言芸の特別な側面を持っていると言われている。口頭の記憶または声の表現のための演目もあれば、リズミックな謡や舞によるもの、また微妙な演技表現を徹底的に訓練するところもある。それぞれは役者の身に着いた技術を証明し、また役者として脱皮し、新しく生まれ変わり、自分の芸を深めることができるように、役者を問いただす機会となる。
筆者は狂言役者の「卒業」の演目が、ある種の肉体的精神的鍛錬法として注目に値するだけでなく、狂言の習得方法としての意味解釈の対象にもなり得るということを後述する。
猿から尼まで
初めの二つの披は、大蔵流と和泉流では順序が逆になっている。俳優は三歳から六歳で「靭猿」の快活な猿を演じる。
面を着け、毛の付いた衣装を着て、猿曳きが杖で拍子を刻む間、綱に曳き回される。子どもは舞台の存在の重要性を学び、「猿真似」を通じて物真似をし、リズムに合わせて舞う。
「いろは」は大蔵流のデビュー演目である。この役では子どもが自分の先生(兄や父親)の言った台詞を 繰り返すことにより台詞や仕草を覚えることが求められる。この曲で彼は始めて主(役)を演じる。
十代では、 一四歳から一五歳に儀式舞「翁│三番三(和泉流では三番叟と書く)」を演じる。ここで 最初の口伝を受ける、或いは口頭により伝授される。これには百日稽古という厳しい稽古がなされ、家族とは別の「別火」による食生活を送る。彼は靭猿の役以来初めて面を着け、初めて囃子を伴って舞を経験する。またその足踏みの複雑なリズムは重心の中心軸である腰の使い方を発達させると言われている。
同じ様な時期に、彼は「間(あい)」、つまり能の「八島」の幕間の狂言の語りである「那須与一」を演じる。
この独演による離れ業には、この武勇伝を語るにふさわしい動作や口調をつくり出すための注意深い呼吸のコントロール、間(ま)の使い方、つまり複雑な演技の時空間における間隔の取り方が必要とされる。
これは彼が能の中の間狂言で演じる初めての演目となり、これには大きな存在感と高い「位」(級位)が求められる。
「釣狐」 は二十歳前後で演じられる。これは大学生の「卒業論文」の如く、一般的訓練の習得成果 と「一人前」の役者の創造性が評価される。
前半第一場面では僧侶に化けた狐の、後半の第二場面ではその狐そ のものの描写となっている。釣り狐は悪賢い老狐を真似た普通の歩幅、歩き方、発声法とは全く逆の肉体的「拷問」のような痛烈な挑戦である。精神的にも、長い第一場面の中で、半分獣半分僧侶を演じるには大きな心理的緊張感がある。また、秘伝の中に含まれる「十八箇条」(習い)を覚え込む多大な能力が求められる。全ての披の曲の中で、この演技は最も新しい技術、肉体的に困難な型を含み、役者に「全て一から習うこと」を要求する。釣り狐と他の二曲は三つの大変重要な演目、「極重習(ごくおもならい)」とされている。「狸の腹鼓」は釣狐と似ているが、女性的魅力の表現が要求される。
役者は二つの面、即ち一つの面の上に他の面を着けて演じねばならず、更に後に子をはらむ尼僧の描写に挑むことが必要である。
恋人のために捧げられる主人の叙情詩調の長い謡と舞からなる「花子」は、二五歳から三〇歳ころに演じられる。
この一時間の演技は、謡と舞と演技能力を同時に見せる成熟した役者として立つための曲である。妻には真面目くさり、召使いには厳 しく、恋人の花子と会った後はこの上ない喜びに満ちて、という様に演者はすばやく役の雰囲気を変化させなければならない。また、この演目では男の恋を下品に演じてはならない。
最後に、役者が六〇から七〇歳で演じる「三老曲」のことを述べたい。「枕物狂」「比丘貞」「庵の梅」である。これらには特に身体的なテクニックは含まれていないが、極めて自由で開放的な曲である。それらは俳優の洗練された品格や軽妙なユーモアを表現するための役者に培われた技術や成熟した個性による曲である。観客は、よろめく歩行や好色性や面に現れた人物描写を通して、役者の洗練度に気づくだろう。
Roles of passage 通過すべき役の意味
狂言のプロの世界に入るということは、猿から狐、更には老尼僧と、あらかじめ決められた道に沿い続けながら、一生の修業を通じて必要とされる役を一定の方法で学ぶということを意味する。しかし、何の説明もなしに教え込まれた技芸の表面下に意味深い教えが隠されている。この通過すべき役という道によって導かれた一生続く演技の道は、決して狭き小道ではなく、狂言修業を三つの明確な類型に分ける三車線ハイウェイの様な道と言えよう。即ちそれらは、職人としての技術的性格、学習システムとしての教育的性格、道という精神修養的性格である。
この通過すべき役の分析により、披の曲が、通常の狂言を通して先に学ばれた必要技術の「試験演目」として演じられるものではなく、披という希にしか演じられない珍しい曲に於いて特別な学習を求めるためのものであるという事を知ることができる。披のユニーク性に関しては表2(省略)に見ることができる。
解決すべき問題は、もし狂言の通過すべき役が修業途上の役者への限界を試し、重要な技術を強調するために組まれた「試験演目」であるなら、滑稽な狂言劇のように、何故もっと手短で滑稽な狂言の典型的な演目でないのだろうか。「いろは」は例外としても、標準的な通過すべき役から成るどんな演目にも狂言が持つ典型的な筋や演技や衣装は見られない。
教育的手段としての披
明碓かつ不明確な教えは、非通常的な披の曲に内在しているようである。はっきりとした芸の型の中に、暗黙の教育的目的が隠されている。
芸術的技術を必要とするとき、役者は演目の主題内容をこなしていくことによって、 自分の芸の上達に関わる、主題を越えたものを学んでゆく。表3(省略)は披のメタメッセージを要約している。修業者は披の技術の中に刻まれた首尾の良い演技の秘密を学びとる。
通過儀礼としての披
披の演目には滑稽さがないが、これについては、狂言というものが日常とは逆の世界を描いているものであり、披の場合はその逆であると考えると理解しやすい。もし通常の狂言が真面目な状況を滑稽に描くものであるなら、披は通常の狂言を真面目なものに裏返したものである。狂言は普通裏返しの世界を描いている。則ち好色の僧侶や頭の悪い主人、したたかな召使い、威張った女房、不運な泥棒、霊力のない山伏等。逆さまの逆は当然正常な世界である。しかし狂言の逆さま世界は能と混同されてはならない。唯一披の枕物狂いは能がかりタイプであるが、この場合は能のパロディーなのである。披に於いて逆転させられた狂言は、荘厳さ、幸運(繁栄)、ドラマの複雑さのスペシャルブレンドであり、これは典型的な狂言にも能にも見られない質を表現している。
披を上記した様な通過儀礼の伝統的儀式として見てみるとよい。一般的に、集団的通過儀礼は、ある年齢になるとグループの全てのメンバーにより実施され、多くの場合秘密のものであり、厳しく危険である。しかしそれに正しく従うことにより、少年は成人男性として、またよそ者は秘密社会内部の人間として自動的に承認される。
一方、ヴァン・ゲネップに続くトランスの説のように、シャーマニズム的な通過儀礼は、個人に特有のものであり、シャーマンの一生を通じて不規則に起こり、予測しがたい結果を伴うものである(一九九四年)。狂言の披は、イニシエーションとシャーマニズム的儀礼の中間的なものである。これらの現象は、役者の一生を通じてそれぞれの経験段階の初期に起こるものであり、役者の身分(位)の変化を示すものである。
通過すべき役へと旅する狂言役者の一生は「永久の探究」である。披の曲ごとに経験する演技人生の狭間の中で、彼は次に続く旅への助けとなる新しい技を授かるのである。
さらに、各段階ごとに得る新しい技はもっと神秘に満ちている。通過儀礼の中で伝えられる秘密の教えについてのトランスの記述によれば、それらの教えは、神聖なものの現れとある種の見せかけのどちらをも包含している−則ち入門から今に至るまで隠されてきたものである。
狂言役者が授 かるそれぞれの工夫と秘伝もまた同じように、腕に磨きをかけるためのコツと、しかしまた能力を超えたところの重大な秘密をも役者に体得させるものである。
各段階で経験を積んでも、根本的な無知を少し減らすことしかできず、決して完全には無知を晴らすことはできない、ということを悟る時、比喩的に言うなら、役者は明示と秘事のこの組み合わせによって、霊的なものを感知するのである。
この明らかにされながらも一方ではまだ秘められているという考えを理論的にまとめてみると、狂言修行者は芸術的に不滅のたどり着くことのないゴールに挑み続けるものであり、狂言への入門者が芸の深さを感知するとき、役者は自分の一生に渡る技術習得の修業が精神的な探究でもあるということを悟る。「本当の習得というものはありません。一度一つのことを習ったなら、本当にそれをマスターしたなら、うまく演じたなら、三つの新しい問題が現れる。次に一旦これらの三つが解決したなら、更に他の一〇のお題が与えられる。従って誰であろうと、全てやり終わったと思っても、それはまだほんの半分にしか過ぎないのです。」(茂山あきら氏へのインタビューより、一九九二年)。外国人芸術家に繰り返し述べられる茂山あきら氏の芸術的マントラは、「ベストということはありません、ベターしかありません」というものである。
靭猿
太郎冠者を伴って狩に出た大名が、道すがら猿曵きに出会う。大名は猿の皮を靭(矢を入れた筒袋)に掛けたいので猿を譲れと命ずる。猿曵きは大名の強引さに負け、やむなく打杖で猿を殺そうとするが、猿の無邪気に戯れる仕草を見て泣き伏す。大名はこれを見て哀れに思い、猿の命を助ける。猿曵きは喜び、猿歌を歌い、猿が舞うと大名は褒美をやり、自ら猿の仕草をまねて興ずる。
以呂波
父親が子供に「いろはにほへと―」の四十八文字を口移しで伝えようとするが、子供は真似ずに先走って語の知識ばかり言い上手く行かず、父はこれを戒め、今度は何でも言うとおり口真似せよと命じる。すると子供はその命じる口調までも真似し返す。そのうち父が叱り出すと、子はそのとおり反復して叱り返す。しだいに父は怒り出し、子を引き回して倒すと、子も同じく父を打ち倒してしまう。
三番三(大蔵流以外は「三番叟」と書く)
翁、千歳の舞の後、「揉み出し」という囃子の前奏に乗って三番三が登場し、「揉ノ段」と「鈴ノ段」の二段から成る舞を舞う。口上を述べ大きく足を二回踏み鳴らし前半の舞が始まる。律動的な囃子に合わせ、舞い手の力強く躍動的な足拍子や掛け声が入り、「カラス跳び」と称される跳躍で終盤となる。三番三は黒式尉の面を着け、千歳(叉は面箱持ち)との問答の後鈴を受け取り、後段に入る。鈴を振りながら静かに足を踏み瓢逸に舞われ、次第に囃子・舞共急調子になり終わる。
那須語(「那須の余市語」ともいう)
能「屋島」の替間である。那須余市が扇の的を射た「平家物語」の著明なエピソードを仕方をまじえて演じる。
釣狐
猟師によって一族を次々に殺された古狐(シテ)が、狐つりを止めさせようと猟師の叔父の伯蔵主という僧に化けて猟師に意見をしに行く。狐の執心の恐ろしさを語り、罠を捨て猟を止めるよう約束させたのち、仕掛けてあった餌を食ってもどる。一方伯蔵主の態度に不審を感じた猟師は、餌の食い荒らされた状態を見て、蔵主が狐だったと知り、本格的に狐を捕らえようと罠を仕掛けるが、互いに渡り合ううちに狐は罠をはずして逃げてゆく。
花子
洛外の男が東国に下った折、宿で馴染みになった花子と言う遊女が、都へ上ってきており、会いたいと手紙 をよこした。男は花子に会いに行こうと決心し、妻には寺へ座禅をしに行くと偽って出かけたが、座禅はせずお供の太郎冠者を自分の代わりに座禅袋をかぶらせ座らせ花子のところに行く。夫の様子を見に来た妻は、男の偽りをあばき、太郎冠者と入れ代わって座って男の帰りを待つ。それを知らぬ夫は、朝帰りをし、太郎冠者(実は妻)に花子とのデートの一部始終を話し、更には妻の悪口までを述べてしまう。たまりかねた妻は、座禅袋から顔を出し、怒り狂いながら夫を追い掛けまわす。
狸腹鼓
狸取りを得意とする猟師のところに女狸が、尼に化けて現れ、殺生を止めるよう意見する。猟師は一旦騙されるが、狸と知って弓矢で狙いをつけ、腹鼓を打つところを見せれば助けようと答える。尼は、早変わりで狸の正体を現し、腹鼓を打って猟師と興ずる。
比丘貞
息子が成人したので、長寿で幸せに暮らす老尼に名をつけてもらおうと頼みに行く。老尼は一旦辞退するがやがて承知し、その息子に庵太郎と名付けた。次に名乗りも頼まれ、老尼は自分の比丘尼という呼称を取って比丘貞と付け、銭百貫を祝儀にする。その内に酒宴となり、庵太郎が舞い、やがて老尼も長い舞いをと所望されて祝言の舞いを舞い納める。
枕物狂
百歳をこえた祖父が近ごろ恋に悩むという噂を聞き、二人の孫は、それが事実なら叶えさせたいと、祖父 を訪問して事の真相を尋ねると、祖父はついに秘めた恋の相手は、若い娘であると告白する。孫はその乙女を連れてきて祖父と引き合わせる。祖父は老いの恥をさらした恨み言を謡に託して謡うが、喜びは隠しきれずに、乙女と連れ立って幕に入る。
庵の梅
梅の花が盛りなので、女達は老尼の庵を訪ねる。老尼は喜んでみなを内へ招き入れ、一同は美しく咲いた梅の花を眺める中、老尼が和歌を所望すると、女達はしたためてきた短冊を梅の花に結びやがて酒宴となる。女達は交互に舞い、老尼もひとさし舞う。宴も終わり女達はなごりを惜しむ謡を謡いながら去る。後には老尼が一人残る。
 
曲舞

能を鑑賞したことがあるだろうか。煌びやかな衣装の立方が、謡や囃子(鼓・笛など)に合わせて所定のゆったりとした所作で舞う古典歌舞劇だが、曲の多くに「クセ」という長い謡の部分があり、それが「曲舞」(くせまい)の名残であるという。能や舞など古典芸能が好きな人なら名を聞いただけでも解りそうなものだが、そうでない人にとっては、時代劇などで織田信長が「人間五十年〜」と歌いながら舞う姿が一番解りやすいかと思う。
信長が「幸若舞」(こうわかまい・曲舞の一派)の「敦盛」(あつもり)という曲を特に好んだことは有名で、その舞姿は彼の生き方を映すが如く潔く凛々しく、武将としてのあり方を窺わせる。ちなみに「敦盛」といえば世阿弥の自信作である有名な能曲があり、それと混同されるようだが、能曲には「人間五十年〜」の謡はない。
戦国時代、武士層で流行した曲舞の、背景などを取り入れながら、曲舞の歴史について触れてみたい。
曲舞(くせまい)とは、久世舞・口宣舞とも書き、また舞々・舞とのみ呼ばれた。現在の能の謡の部分に残るように、筋のある物語に韻律を付け、節と伴奏、簡単な舞を付けた歌舞のことであるが、その舞歌で生計を立てた芸能者をも指した。謡われる内容は、物事の由縁や有名な物語、特に英雄を語るものが多く、当初は、舞がなく叙事的でリズムの面白い謡曲だったとも言われている。特に織田信長・豊臣秀吉・徳川家康など、戦国大名に愛好された背景もあり、軍記物が圧倒的に多いのだが、これらの戦国大名が好んだ頃の曲舞は、幸若舞と呼ばれており、厳密に言うと曲舞ではないのだが。まず曲舞の変遷について少し触れることにする。
曲舞は白拍子舞から派生したものと考えられており、白拍子が衰退を見せる室町時代、1350年頃に史実上曲舞が初見され、以後、室町後期に興隆期を迎え、江戸時代に入る頃には表舞台から姿を消している。曲舞成立当初は白拍子舞が色濃く残り、鼓に合わせて稚児や女性が舞うものだったようで、立烏帽子(たてえぼし)に水干(すいかん)・大口(おおくち)の姿の男装で演じられており、後、直垂(ひたたれ)・大口の姿で男性も舞うようになったようだが、見せる芸能としての要素はまだ未完成であった。声聞師(しょうもんじ・しょもじ)と呼ばれる、社会の最下層民である下賎と蔑まれた芸能者が担い手であったが、元来、彼らは寺社や特定の家に奴婢として隷属し、陰陽師に従属して陰陽道に従事しつつ暦などを作成した。この分野の研究はまだ発展途上のようで、あまり詳しいことは解っていないが、「唱門師」と表記される場合は、門付(かどづけ)をする者であったようだ。中でも興福寺大乗院に隷属していた大和国(奈良)北部の十座・南部の五カ所の声聞師の群落は、強大な力を有し、土木工事や物資運搬に携わりつつ、声聞師村を統轄し、身分的には底辺に在ったものの経済的基盤を確保していた。声聞師は民間の卜占・経読などを生業とし、時代とともに曲舞・能など芸域を拡げてゆくのだが、芸を見ながら酒食を摂る客の接待などを担当する遊女を抱えていたと思われる女屋の記録も各地に残されている。傀儡(くぐつ)と呼ばれた漂泊の芸能集団も同様に遊女と芸能を売り物としていたことで知られるが、曲舞も、遊女や被差別民により発展し、明治時代までは細々ながら生き延びていたようだ。
室町時代、諸国の声聞師が演じる勧進曲舞が京都で度々行われて人気を博し、徐々に注目を集めていった。特に児舞(稚児)・女舞が目につき、この頃の曲舞は艶やかなものであったと思われる。能楽大成者として有名な観阿弥(かんあみ)が、女曲舞の賀歌女一統の乙鶴から曲舞の音曲を習得し、猿楽の能に取り入れたことが知られているが、それが曲舞の歩みの大きな分岐点となった。曲舞を取り入れた新しい猿楽能の「曲舞」が洗練され、本家・声聞師の曲舞以上の人気を博してしまったため、曲舞存続の最初の危機が訪れる。
観阿弥の子・世阿弥が「五音」という著書で、かつて多くの曲舞師が存在したが、1429年頃(室町中期)は、ほぼ絶えて、わずか南都(奈良)の女曲舞師の流れを汲む「賀歌(加賀)」のみ残っていた、と記している。実際には表に出られなかっただけで流派は数多く残っていたとの文献もあるのだが。
加賀は先に述べた観阿弥が師と仰いだ女曲舞師の流派であるが、その師「百万」は曲舞の祖とも言われた有名な舞師である。百万は観阿弥の子・世阿弥が能曲作品として採り上げ、その名を残している。当時、有名な舞師は名のある貴族同様、能曲の題材になるような雅やかな存在だったことが窺われる。
さて話は曲舞に戻る。曲舞衰亡の危機にあった室町時代中期、数ある流派の中から越前国丹生郡西田中(現・福井県鯖江市)を根拠地にした声聞師・幸若太夫演じる「幸若舞(こうわかまい)」が人気を得、曲舞の主流となっていった。曲舞という名はここからほぼ消失してしまい、後は、武将に愛好されたことで現在知られている幸若舞が表舞台に上る。
1442年、二人舞の曲舞が披露され、その音曲・舞姿が素晴らしかったことで評判になり、次に披露された時には見聞衆が満員の有様で、その後、幸若大夫が礼参りに来てその名が知れ渡ったことが「管見記(かんけんき)」にあり、これが都での「幸若」の名の初見である。管見記は西園寺家伝来の記録・文書であり、代々著者がいる日記のような形式である。幸若舞を賞賛した上述の文書は西園寺公名によるもので、実は古くから定期的に公演を続けている流派であったことが記されている。曲舞は一人舞が基本だったが、幸若が二人舞(相舞)の形式を作り上げて人気を博し、最も大きな勢力を持つ一派に成長した。演目の記録は1500年代に入ってから初見されるが、幸若の登場したこの頃から武勇伝を主体とする長編の語り物に変容しており、それが都で受け容れられた所以のようだ。一般庶民・貴族・僧侶まで愛好されたが、殊に戦国末期の武士に強く支持されたのは、物語の豪快さと悲哀の相対、リズムが単調で繰返しが特に馴染みやすかったのだろう。
中世期は古典芸能が乱立し、開花・融合する時代であり、その栄枯盛衰は各々の芸能同士絡み合い、宮中・幕府など時の権力者の庇護の有無と密接であった。幸若舞は前述のように演目に多くの軍記物を含み、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康など武将の愛顧を受けるのだが、要望とともに内容を変容し、特に当時権力のあった戦国大名との結びつきを強めたものと考えられている。
織田信長の幸若好きは逸話も多く、殊に有名である。敦盛の一節
「人間五十年、化天(下天)の内を比ぶれば夢幻のごとくなりひとたびこの世に生を受け滅せぬもののあるべきか」
は自らも好んで舞い、桶狭間の合戦前も舞ったという。信長は安土御山惣見寺に家康を招き、幸若太夫(6代)八郎九郎(義重)の舞と梅若大夫(猿楽)の能を見た。梅若の能が不出来で折檻され、次の幸若で信長の機嫌が直り、黄金10枚を賜わったという。この時の幸若先・猿楽後という格式・序列は江戸幕府にも踏襲された。江戸城内での年頭(正月)の将軍拝謁御礼席の着座は、観世太夫より幸若太夫の方が二間も上席にあったとの記載もある。諸大名が幸若家に所領を与えた記録も多く、1574年、信長が幸若太夫(6代)八郎九郎(義重)に対し、越前朝日村周辺に100石、幸若領としての知行領地の朱印状を下賜したのを初め、続く柴田勝家・丹羽長秀・豊臣秀吉らも倣って知行安堵状を与えている。徳川時代もそれに倣い、1600年に幸若太夫(8代)八郎九郎(義門)には、家康から知行230石が交付されている。幸若流が権力者との繋がりの中で諸流派の家元的存在となり、舞曲を管理する家として君臨したようだが、権力者との結びつきは逆に、江戸時代に入り、芸能の寿命を短くした原因となる。その話は後にして、幸若以外の流派について触れてみる。
近江(滋賀)・摂津(大阪)・三河(愛知)・若狭(富山)・加賀(石川)などで曲舞の記録が残っているが、「幸若舞曲」の諸舞本は、大別すると幸若系・大頭系に分かれる。この舞本は、幸若が大きな力を持っていたため幸若以外の曲舞も含まれている。まず幸若の次に大きい流派であった「大頭流(だいがしらりゅう)」を取り上げる。
初代幸若の子・弥次郎の弟子に山本四郎左衛門という人がおり、幸若舞の一流派である「大頭流(だいがしらりゅう)」を起こした。その孫弟子・大沢次助幸次が、1582年に九州・福岡に渡り、舞を教えたと伝えられている。当初転々としたが、大名の庇護を受けて大江に定着し、家元制度の下に農民に伝えられた。大江近くの甘木市秋月郷土館には元禄以前の写と思われる舞本が10冊(39曲)現存しており、曲舞を嗜むこと、読むことが当時大名家では教養とされていたことが窺える。大江地区には現在8曲が語り継がれているが、2008年には「敦盛」が復元され披露されることになっている。
この大頭流の3人立の幸若舞のみが現存し、福岡県みやま市瀬高町大江の重要無形民俗文化財の民俗芸能として唯一伝承・保存しており、毎年1月20日に大江天満神社で奉納されている。
曲舞は幸若と大頭の二大流派のほかに、京都の北畠・桜町の唱門師の流派などがあったが、いずれも大頭以外は消滅してしまい特筆できる資料も残されていない。明治維新後、禄を離れた各地の幸若舞はその舞を捨ててしまい、現存しないのである。
幸若舞の歴史は、それを支えた武家層の歴史と重なり、各々武将の栄枯盛衰を垣間見ることが出来る。しかし武将が現存しないのと同様、幸若舞が一流派しか残っていないのは皮肉なものである。
 
猿楽

失われた芸能とも言える猿楽・申楽(さるがく)は、現在その名がほとんど使われていないし、ほぼ鑑賞することもできないのだが、能楽・狂言という2大芸能の源流であると言えば、大方どんなものか想像できるのではないだろうか。とは言え、中国から伝来した当時は散楽という娯楽的要素の濃い芸能の集合体であったから、猿楽ほど変容し美しく昇華された芸能は他に無いと思われる。長い年月に渡り発展させ、現在見られる伝統芸能−能・狂言・歌舞伎・神楽等に華々しく昇華させた仕掛人は、漂泊の芸人と言えば少しはマシだが、下賎と蔑まされた七道の者や傀儡子(くぐつし・かいらいし)などであった。滑稽な物真似芸から夢幻能の幽玄世界へと移り変わった経緯を、時代背景を交えて触れてゆくことにする。
猿楽(さるがく)は、中国・唐の頃(618〜907年)に盛んだった散楽(さんがく)が日本に伝来し、平安時代にその音が転訛して「さるがく・さるがう」と名が付いたとされる。散楽は、「新しい遊戯」という意味のチベット語「サンロー」が語源とされ、その起源は、古代ギリシャ・古代ローマ・アレクサンドリア・アジア西域の文化が数世紀を経て中国に伝わり、発展してきたものとされる。中国では「百戯」とも呼ばれるように、物真似・曲芸・歌・踊・呪術・手品など多種多様な芸の集合体であり、宮廷芸能である「雅楽」に対し、俗楽を意味する民間の芸能であった。
日本への伝来は雅楽・伎楽から少し遅れ、奈良時代の735年、聖武天皇が唐人の軽業芸を見たことが初めて史実に登場するが、もう少し早い時期に古散楽が移入されたとも考えられている。いずれにせよ当時の日本において、大陸由来のどの文化も斬新な最先端をゆくものに見えたに違いない。701年、大和朝廷(4〜7世紀)による大宝律令制定の折に、雅楽ォ(うたまいのつかさ)が創設され、外来の雅楽・舞楽・伎楽などが官制の保護を受けるのと同様に、散楽の芸人を養成するための散楽戸(さんがくこ)も設置され、散楽も正式に宮中の芸能となった。752年の東大寺本尊・大仏開眼法要などでも式楽として取り入れられ演じられたようだが、宮中所管の他の芸能と比べてあまりに庶民的で、内容的にも式楽には向かないものと判断され(最初から俗楽扱いだったはずだが)、782年、桓武天皇の時代に散楽戸は廃止となってしまった。
桓武天皇が即位した翌年のことであり、これは散楽の内容的問題というより、天武系から天智系王朝へ移行した最初の天皇であった桓武天皇が、それまでと違った政策・指導力を示す意図があったためと思われる。即位直後の長岡京遷都に続く平安京への遷都の背景には、彼の身辺に続発する不幸=「呪い」を逃れるためとか、平城京周辺の豪族・寺社の勢力の肥大に対する危惧などが挙げられる。平安京造営事業と同時に行われた蝦夷征討(東北地方の鎮静化)により国民は多大な負担を課せられ、疲弊しきっていたに違いない。朝廷の保護を外れ、衰退の一途を辿ると思われた散楽が、以前より自由に街頭・寺社などで演じられたため、疲れた一般庶民を癒し、楽しませたのだろう。庶民の目に触れる機会を多く持てるようになり、これが逆に発展の足掛かりとなった。
華やかな新しい都・平安京の街頭で散楽を見た地方出身者などにより、新都の土産話と供に日本各地に自然に広まっていったのだろう。庶民の人気を博するうち、やがて各地を渡り歩き散楽を披露する集団が現れ始め、これらの集団は後には猿楽・田楽の座に成長し、又は漂泊の傀儡子たちにより吸収・変質されていった。各々の分岐の時代は定かではないが、母胎である散楽の歌・舞の一部が田楽・猿楽へ、特に物真似の部分は猿楽へ継承され、曲芸的な要素の一部は後の「歌舞伎」へ、滑稽な要素の強い芸は「演芸」へ、人形を使った芸は傀儡回しを経て「人形浄瑠璃」へ、奇術は手妻を経て「手品」へと発展し、日本古来の芸能と融合しながら各々確立してゆくのだが、猿楽以外の芸能の発展については各々の項を参照して頂くとして、本項の猿楽の流れに戻ることにする。  
平安時代に入り、散楽戸は廃止され続けたものの、宴席の余興として宮中に復活した。史実によると、相撲の節会・内侍所御神楽などで芸が披露され、場を盛り上げていたようだ。しかし、再び散楽を宮中から排除させた天皇が出現する。村上天皇は聡明で学芸に秀で、漢詩・和歌を推奨すべく和歌所を置き、勅撰集「後撰和歌集」を編纂したことで知られる。彼の嗜好に合わなかったとしても頷けるのだが、宮中の祭祀規則である「新儀式」成立の963年以降、結局、宮中で演じる機会は得られず、民間の芸能として完全に外へ出されてしまった。
最初から俗楽扱いであったのだから、あるべき場に戻ったとも言えるのだが、街頭で庶民の目を楽しませつつ様々な芸が付加され、更に滑稽味の強い日本古来の芸とも融合し、娯楽のための芸能として発展してゆく。こうしていつしか滑稽芸は全て「さるがく」と呼ばれるようになり、散楽から「猿楽」として確立したのが平安時代中期の頃のことである。当時の猿楽は滑稽芸・寸劇の類であったが、これを披露して生計を立てる専門の芸能集団(座)が現れて各地を渡り歩き、一部には寺社の保護を受けて寺社の祭礼行事と結び付き、その内容を祭事的・宗教的なものに変容しつつ、密教的な呪師猿楽(しゅしさるがく)が誕生した。
呪師猿楽とは、呪師が猿楽芸を披露するもので、儀礼色の濃いものであり、現在の能の「翁」の前身である。諸大寺の法呪師の役(法要などで独特の所作で加持祈祷を行う)が猿楽師に委ねられ、呪師走りと呼ばれる所作が習い伝えられた。こうして諸大寺と強く結び付き、有名になったのが大和猿楽四座、近江猿楽六座である。
大和猿楽四座とは、結崎(観世)座・円満井(金春)座・坂戸(金剛)座・外山(宝生)座の四つで、「物真似」が持ち味の、写実的で、義理人情を扱うものが多かったといわれる。能楽の大成者・観阿弥世阿弥の父子を輩出し、現在の能の四流派に発展したことで有名であるが、四座とも当時絶大な勢力を有していた奈良・春日興福寺に参勤・奉仕していた。興福寺の法要のうち、修二会には、仏に奉納する神聖な薪を春日の花山から運び、神を迎える儀式があるが、この儀式を猿楽師に委ね、真似させて神事芸能として一般に披露した。これが薪猿楽と称されるようになり、法楽行事として人気を博し、大和猿楽が興隆する足掛かりとなったとされる。
近江猿楽六座とは、上三座(山階座・下坂座・比叡座(日吉座))と下三座(宮増座・大森座・酒人座)の六座で、「幽玄」が持ち味の、歌舞を中心とした華やかなものであったといわれる。比叡山・日吉大社の保護下で活動し、その神事を執り行っていた。日吉座の犬王・道阿弥は力量が優れ、京都・鹿苑寺で足利義満に芸を披露し大和猿楽・世阿弥をも凌ぐ芸の持ち主であったといわれる。  
また猿楽の別の流れとして、滑稽な物真似芸を引き継ぎ、庶民劇として発展していった喜劇的な猿楽が誕生する。当時の猿楽は物真似や言葉芸が中心であったが、徐々にその内容が庶民の生活に沿った、世相を捉えて風刺するという笑いの庶民劇として発達し、後に「狂言」として大成した。僧侶(修験僧)・大名などを庶民の立場から風刺した内容のものが多く、南北朝の頃から室町時代には、ほぼ現在の狂言の原型が完成したといわれる。能楽誕生以前の、散楽に近い古い猿楽の姿は、現在では狂言にその面影を見ることができる。物語的要素の濃い楽劇(能)と、喜劇的な芸能(狂言)とを同じ舞台で交互に上演するという猿楽の形式は、現代の能楽の上演形式にも踏襲されているが、互いに強く影響を与え合い発展してきたと考えられている。狂言の詳細は狂言の項目に任せるとして猿楽の流れに戻ろう。
猿楽座形成期には、密教の所作や、能の「翁」に伝わる呪術的部分が演じられ、仏教の世界観を土台として幽玄の世界を織り成す芸能に発展していた。鎌倉時代後期には、「翁」をメイン演目とし、現在の能楽に見られる「翁面」の形態も出来上がっていたと考えられる。当時「翁」は猿楽座の本芸であったため、演能の最初に、必ず一座の最長老が務める特別な芸能であった。現在でも正月などの特別な時にしか演じられない、天下泰平・国土安全・五穀豊穣を祈願するもので、白式尉の翁面をつけたシテ(主役)が翁の舞を舞うものだが、前述したように現在でも呪術的な色彩の濃い独特のものである。この翁を大和猿楽・結崎(観世)座の最長老ではない観阿弥が初めて舞って以来、座の棟梁(座長)が演じることになったといわれる。これは1374年、京都・今熊野宮の祭礼での出来事で、室町幕府3代将軍・足利義満が初めて能を鑑賞し観阿弥・世阿弥父子を見出し、ここから能としての発展と隆盛に向かったため、能楽の紀元元年と言われている。
その後、義満が観阿弥・世阿弥を庇護・寵愛したことがきっかけとなり、武家全般に猿楽が流行し、各地の猿楽座が武家を中心に厚遇を受けるようになった。この頃は田楽が庶民の間で大流行しており、翁猿楽が主流だった猿楽は祝祷芸として扱われ、娯楽として一般化していなかった。猿楽座も多数組織されており、また田楽座衆とも派を競っており、幕府の庇護を受けないと仕事が得られぬ状況であった。そんな状況下で、観阿弥は幼少時から各地を巡り他座・他芸能を勉強し己の芸を磨き続けた努力の人だといわれている。猿楽を芸術として完成させるため、先人の良い所を吸収し、近江猿楽の幽玄・田楽歌舞の風流・白拍子の曲舞(くせまい)などを取り入れ、猿楽の能として大成させた。更にその子・世阿弥は父の芸風を継承し、高め、「夢幻能」に発展させた人物であるが、後世に伝えるべく「風姿花伝」を初めとする多くの著述を残し、能楽理論をまとめ、芸道の整備・能曲の製作に生涯を捧げた。ちなみに申楽(さるがく)という別表記は世阿弥がその能楽理論書の中で用いたもので、猿楽は本来神楽であるとする考えから付けられている。観世座は一世を風靡し、室町時代には能楽の完成を見るのだが、世阿弥の後年は悲運が続き、芸能界のスター街道から遠く離れた佐渡に流刑となり、かの地で没したと言われている。その後も猿楽は幕府の庇護の有無に左右されつつ、江戸時代には徳川幕府の式楽として定着し、能として洗練・完成された。江戸時代は一般庶民の目に触れる機会はほとんどなくなっていたが、勧進能(寺・橋などの修復のため資金調達手段としての公演)が催されると、多くの民衆が集まったというので、関心は高かったと思われる。能楽という言葉の成立は明治時代になるのだが、能楽の項目で触れるので、総論に入ることにする。
猿楽の最初の項に、七道の者や傀儡子などが能楽へと昇華させたと書いたが、これらが文中で説明されてないじゃないかと言われそうなので、最後に補足させていただく。
中世、特に平安時代、日本の階級社会の下層部分には被差別民が多く存在した。芸で生計を立てた人々とは、その日暮らしの下層の賎民たちであり、生活のため、差別から逃れるため、その中で下克上を繰り広げていたと筆者は推測する。己の芸を磨き、生き残る道を外れれば、脱落して更に下の賎民階級として生きてゆくか死に絶える他はない。芸能全般に言えることだが、そんな影の世で芸が生まれ、発展し、生き残ってきたものが、現在にも光彩を放つ素晴らしいものばかりなのである。
最初に記したように猿楽は失われてしまい、各地の寺社の神事の余興として細々と継承されている程度なのだが、現在、能は世界的にも高い評価を受け、現存する世界最古の舞台演劇として2009年の世界無形遺産に指定されることが内定している。  
 
白拍子

白拍子(しらびょうし)は、平安時代末期頃に成立し、室町時代にかけて流行した歌舞の一つで、演ずる芸人も白拍子と呼ばれ、男装の遊女が今様などを即興で歌舞を演じるもの、と一般的に言われている。通常、鼓が伴奏に用いられ、笛なども時として用いられたようだ。男巫(巫女の男版)が神楽として歌舞を演じていたのを女性が行ったのが始まりのようで、男女問わず舞われ、男性・僧侶・稚児(ちご)により舞われる場合もあったが、後には芸に秀でた傀儡女(くぐつめ)などの遊女の芸能となり、白拍子という職業として独立していったものと考えられている。一説には、巫女舞が原点にあり、巫女が布教の行脚中、舞を披露するうち芸を主とする遊女へと転化し、そのうち巫の伝統を受け男装したとも言われている。この芸能の伝播の担い手として主に遊女が挙げられるので、遊女について少し触れる。
狭義の遊女(売春婦)は、俗には世界最古の職業とも言われ、諸外国に存在した神殿娼婦と同様、日本にも古くから存在し、巫女として神に仕え寺社などで歌踊を行っていた者が、後に諸国を漂泊することとなり、営利のために宿場・港など人が集まる場所で歌踊を行いつつ、枕席に仕える職業になったと考えられている。「万葉集」では遊行女婦(うかれめ)の名で登場し、宴席に侍り貴族を祝す歌を詠むなど社会的地位の高い、教養のある女性もいたようだが、一方で、山間の旅宿などで宿を貸し旅人の相手をする類の遊女もいたようだ。その後の奈良〜平安時代には、水運の要所周辺に定住し生業を立てる遊女が出現し、特に大阪湾と淀川水系の水運で栄えた江口・神崎の遊女が有名になった。群をなし小船を操って今様を歌いながら旅船に近付き、客を呼んでいた。一方で諸国を漂泊し、宿駅で傀儡子(くぐつ・男)が人形劇を披露する傍ら「傀儡女(くぐつめ)」が売春で生計を立てる、傀儡と呼ばれる集団もいた。遊女・傀儡女は職業柄、全国にネットワークがあり、交通の要衝に本拠を置き芸能に携わったため、結果的に芸能の伝播・伝承の担い手として重要な役割を果たすこととなった。彼女らは後に都市部・町に定住したが、院政時代頃から白拍子が流行し、また京都に遊女屋街ができたことで衰退していったとされる。当初白拍子は武士層の支持を受け、貴紳に愛される者も多く、広く愛好された全盛期には芸が本分であったが、衰退に伴い、次第に売春婦化していったと考えられている。貴族の屋敷に出入りする機会にも恵まれていたため、芸達者で見識の高い人が多かったといわれる。その後、遊女らは鎌倉時代に職業権を認められ、徒弟制度に基づく遊女組織を形成し、後の遊郭へと繋がってゆく。  
さて話は本筋の白拍子に戻る。その名の起源は、伴奏を伴わず平音域の素声(しらごえ)で歌舞を演じたことから素拍子(しらびょうし)と呼ばれたことに起因する説と、白い装束(水干・長袴)を着けて演じることに起因するという説の二つがある。また素拍子と書く場合は、特に無伴奏での即興舞を指すという説もあるが、いずれにしても白拍子の特徴からその名が付けられたようだ。
白拍子の装束は、下げ髪に立烏帽子を被り、白小袖・紅の単・紅の長袴・白水干を着け、白鞘巻の刀を佩刀し、蝙蝠(扇)を持つという、男性の格好であり、源義経の愛妾・静御前の姿で知られている。後には色物の衣装を着るようになったというが、単なる男装ではなく稚児の要素も含まれた、凛々しく美しい姿だったようだ。男装で舞うことから「男舞」(おとこまい)とも呼ばれていた。何故、男装だったのか?巫の伝統を継承して男装したとも言われるが、当時、最先端の歌謡として流行していた今様(いまよう)を、男装の麗人が演じることは斬新であり、流行に敏感であった貴族・武士階級においてこの新奇の歌謡・衣装が人気を博し、宮廷にまで流行した。白拍子と今様は密接であり、この二つの流れはほぼ平行であるため、今様の詳細に少し触れることにする。
今様とは、現在は雅楽の中の謡物(うたいもの)と呼ばれるジャンルに含まれており、平安時代中期頃に和讃(わさん)・神歌・催馬楽(さいばら)・朗詠などから生じたとされる新興歌謡で、特に宮廷で流行し、長い院政を行ったことでも有名な後白河法皇(1127〜1192年)という支持者・理解者を得、最盛期を迎える。
後白河法皇は芸に秀で、自身も喉を痛めるほど熱狂的に今様を好み、乙前(おとまえ)という青墓(現・岐阜県大垣市、中世宿場町があった)出身の傀儡女を特に今様の師と仰ぎ、師弟の契りを結んで御所に住まわせ、彼女から歌の伝受を受けた。乙前は当時70歳を超える老女であったが、今様の名手として名高く、宿場町・青墓は多くの今様の名手を生んでいる。法皇は、傀儡女のみならず一般市民・端者(はしたもの)・雑仕(ぞうし)・傀儡子(くぐつ)、白拍子などの遊女など、あらゆる人々の側について習ったそうである。法皇が行った、1174年の「承安今様合」の頃が今様隆盛の頂点といわれ、今様は「梁塵秘抄」(りょうじんひしょう)という書として編纂され集大成された。こうして後世に伝えられている訳だが、今様は即興だからこそ粋であったので、伝承が行われ始めて以来衰退の蔭りを見せ始め、それと供に白拍子という職業芸人も次第に表舞台から消えていったようだ。元来、民衆芸能であった今様は、「現代風」と名付けられたとおり、時流に乗って京の都に伝えられ、宮廷で大流行を呼んだのだが、その興隆の様子は、現代にも名を残す二人の女流作家、清少納言と紫式部も書に残しているので、雑学として紹介してみることにする。  
清少納言は、彼女の有名な随筆「枕草子」で風俗歌や神楽歌の次に「今様」を取り上げ、「うたは、風俗。〜神楽歌もおかし。今様歌は、長うてくせついたり」と書いている。長い歌で節回しにはクセがある、とのことだ。
紫式部は、「紫式部日記」で、若い貴族らが宿直で内裏に泊まり込みの時、遊びとして「読経あらそひ」(読経の声を競う)とともに「今様」が歌われていたと書き留めている。
現代風に言えば、巷で流行歌(ポップの類)が歌われているが、俗っぽいので学者肌の女性らは冷ややかに見ていた、という趣である。女性にはうけなかったのかも知れない。しかし、平清盛の愛妾となった祇王や仏御前、源義経の愛妾となった静御前など名君に庇護され、愛された者も多く、静御前・佛御前、妓王、妓女・亀菊・千寿などの名が現在まで有名である。これらの名を残した白拍子について触れることにする。
まず一番有名な「静御前(しずかごぜん)」であるが、史実として名が登場するのは「吾妻鏡」のみで、生没年は不詳とされる。香川県東かがわ市小磯の小さな漁村で、磯禅師の娘として生を受けるが、6歳で父を亡くし、母と京都へ上京した。母は舞の道を極め、禅師の称号を授けられるほどの名人で、静も幼少より舞を修め、京の地で、その巧みな舞と美しさで屈指の白拍子に成長した。1182年、神泉苑で雨乞い神事を行った際、静が舞を披露した直後に大雨となり後白河法皇から日本一と賞賛され、一躍有名になった。源義経(幼名:牛若丸)に舞姿を見そめられ、側室となるが、義経は壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼした後、兄・源頼朝に追われる身となり、静もそれに同行したが、女人禁制の吉野山に静は入れず、別れて京都へ戻る途上捕らえられた。鎌倉に呼ばれ尋問を受けるが応じず、義経の子を宿しており、1186年の懐妊6ヶ月の頃、奉納舞を懇請されて鶴岡八幡宮に召され、源頼朝の前で白拍子の舞を披露した。
「吉野山峰の白雪ふみわけて入りにし人の跡ぞ恋しき」
「しづやしづ賤のをだまき繰り返し昔を今になすよしもがな」
敵である義経を恋い慕う歌を堂々と唄いながら舞い、鎌倉武士の度肝を抜いた逸話は有名である。頼朝の怒りに触れ、幽閉されて男児を生むが、赤子は生まれた日に頼朝により由比ヶ浜に棄てられ殺されてしまった。子を失った後の静は、禅尼となった母と共に、故郷に戻った説、自殺・客死など諸々の伝承が全国各地にある。
次に「平家物語」に登場する、平清盛(1118〜1181年)の寵愛を受けた白拍子たちの逸話に触れる。
平清盛は「平氏にあらずんば人にあらず」と言われるほどの平氏の全盛期を築いた人物で、絶大な権勢を誇り、出家後も平氏一門の総帥として強い発言権を持ち続けた。彼が頂点に上り詰めた頃、都で評判の白拍子の姉妹がいた。妓王(ぎおう)と妓女(ぎじょ)である。滋賀県野洲市の生まれで、保元の乱で父を亡くした後、母・刀自(とじ)とともに上京し、その美貌と気品ある舞により姉・妓王は清盛の寵愛を一身に受け、西八条の屋敷を与えられ、親子は人も羨む暮らしをしていた。妓王の願いで、妓王の故郷・野洲の村人のために水路(現・祇王井川)を掘らせたことなどからも清盛の寵愛ぶりが想像できる。3年後のある日、清盛に歌舞を披露したいという若い白拍子・仏御前(ほとけごぜん)が現れ、門前払いを受ける彼女を哀れんだ祇王のとりなしで、清盛の前で歌舞を披露することとなった。時に仏は16歳、若く美しく、声も綺麗な上、歌も上手く舞姿は比類ない…ということで、あっさり寵愛が移ってしまった。祇王に遠慮して退出を願う仏を清盛は許さず、祇王に追放を言い渡したため、祇王は襖に歌を書き残して実家へ戻り、泣き伏したという。
「萌え出づるも枯るるも同じ野辺の草いづれか秋に逢はで果つべき」
翌年、清盛から仏御前を慰めるため歌舞を披露することを強要され、祇王は今までよりずっと低い場で、哀切に今様を披露する。
「仏もむかしは凡夫なりわれらも遂には仏なりいずれも仏性具せる身を隔つるのみこそ悲しけれ」
あまりの屈辱に、生きてまた憂き目を見るならと、母・刀自、妹・祇女とともに剃髪して嵯峨野の山里の草庵で仏門に入った。時に祇王21歳、祇女19歳、母・刀自45歳であった。同年、尼となった仏御前もこの寺を訪れ、一緒に念仏の日々を過ごしたという。仏御前17歳、祇王の運命を己自分に重ね世の無常を思い、清盛の下から抜け出し、皆で極楽往生を遂げたという。この説話は清盛の傍若無人な振舞いを批判して後に平家物語に付加されたとも言われている。  
次に静御前と同期の白拍子・千寿(せんじゅ)の悲話について触れる。
千寿(千手)前は源平の乱世に、当代一の白拍子とも言われ、美女として名高く、平清盛の五男・重衡との悲恋が「平家物語」で語られている。駿河国手越(現・静岡県静岡市)で長者の娘として生まれ、白拍子として成長し、源頼朝に仕えた12人の白拍子のうちでも一際美しかったらしい。捕虜となった平清盛の五男・重衡の世話を頼朝に命じられ、その死が目前とも知らず千寿は思慕を抱く。二人は出会った日から恋に落ちたという。しかし重衡は奈良・木津川で斬首刑となり、千寿は死後もなお想い続け、21歳で尼となり、遠江国豊田郡(現・静岡県磐田市)で彼の菩提を弔うが、重衡を追うように23歳の若さでこの世を去った。「平家物語」では、亡き重衡を恋慕して憂死したと人々が噂したと記されている。
磐田市には千寿に因んだ地名が残っており、また「千寿白拍子」という地酒は地元に残されたこの逸話から命名されている。
最後に、後鳥羽上皇(1180〜1239年)が寵愛した白拍子・亀菊(かめぎく)について触れる。上皇の愛妾・伊賀局(いがのつぼね)の名でも知られ、恐らく歴代の白拍子の中でも社会的に高い地位を得た方だと思われるが、上皇には愛人が多かったので、その生涯が幸福であったかは分からない。亀菊は白拍子出身であるが、上皇の寵愛を特に受け、摂津国(現・大阪府)の長江荘・椋橋荘の荘園2ヶ所を分け与えられていた。しかし、荘園の地頭が彼女の領地を横領したため、上皇は亀菊の訴えを受け、地頭を罷免するよう強く申し入れたが、幕府の執権・北条義時はその申し入れを武力をも辞さない姿勢で拒否した。このことが「承久の乱(1221年)」の一因になったと言われている。この逸話は、彼女の名と供に「吾妻鏡」「承久記」などに登場する。承久の乱の後、上皇は隠岐の島に配流となり、同地で亡くなるのだが、亀菊は最期まで上皇の側に仕えていたそうだ。
最後に白拍子のその後に触れる。徐々に猿楽などへ変容してゆくのだが、鎌倉時代末期頃、あるき白拍子と呼ばれる者により、全国に広められた。後年の芸能に与えた影響も大きく、その命脈は歌舞伎に継承され、早歌(そうが)や曲舞(くせまい)などの起源ともなった。能や延年にも取り入れられ、室町時代初期まで民間芸能として残っていた。猿楽同様、白拍子を現在見ることはできないが、美しく昇華され、その面影は能など他の芸能に見ることが出来る。
華々しく流行し、都で注目を集めた白拍子たちは、上流階級の出身では無かったが故に一般庶民の共感を得、いずれも哀話が数多く伝えられ、全国に散在している。それだけ同情を集め、大衆に愛されたからだろうと思われる。若くして歴史の表舞台に登場し、あっけなく散ってゆく様は一輪の花の如くである。
和名に「白拍子」と名付けられた椿がある。白く、大輪で、八重の牡丹咲きの花を咲かせるその椿は江戸生まれだという。椿の品種は多く、花姿がしっとりと和の趣があるためか、和名が故事に由来するものも多い。名付けた人の想いも重なり、白拍子は、時を越えて現在も生き続けている。
 
田楽

田楽(でんがく)と聞いて豆腐や蒟蒻、味噌を連想する人がほとんどで、舞をイメージする人はまず居ないのではないかと思う。食物の田楽が実は舞の田楽から名付けられたものであることを知る人も少ないだろう。田楽の演目の一つに「高足(こうそく)」というものがあり、田楽専門職である田楽法師が高足(一本足の竹馬のようなもの)に乗り曲技を披露する姿が、豆腐を串に刺した田楽の姿に似ることから名が付いたとされる。
田楽は馴染みのある語ではあるが、日本舞踊の田楽に関しては、実際に触れたことのある人はかなり恵まれた環境ではないかと思われる。現存する典型的な田楽は社寺で奉納され継承されてきたものに留まり、演目も隆盛期のほんの一部が残っている程度である。国中で大流行した「風流田楽(ふりゅうでんがく)」の類は、数度ブームを起こしたが時代とともに衰退し、念仏踊りと融合したり、盆踊りなどに姿を変え、農耕儀礼であった田楽踊の類は、鎌倉時代(1192〜1333年)には座を有する芸能として確立し、更に猿楽などと融合して能楽へと発展したため、その名は喜阿弥(亀阿)を最後に消えてしまった。全国各地に残されているものの、原型を正しく受け継ぎ、国の重要無形民俗文化財などに指定されるほど形式が整ったものは20数件しかない。一般庶民に浸透し、かなりの人気を博していたといわれるが、現代に多くの謎を残したまま衰退してしまった理由も含め、その変遷を追ってみたい。  
田楽の起源は、古く平安時代(794〜1185年)に遡るといわれ、豊作祈願の農耕儀礼であった「田遊び」「御田(おんだ)」などから派生したと一般的にいわれている。田遊びとは、一つは年始に一年の五穀豊穣と子孫繁栄を祈願し、田作りから刈入れまでの稲作課程を模擬的に演じる豊作予祝の神事芸能、もう一つは実際の農作業の過程で行われる儀式・祭礼の2種類あり、各地の寺社などに継承され現在でも数多く見ることができる。中でも田植えは、大人数で、短期間で、集中して一気に行わなければならない作業のため、士気を高め、効率を上げるため、作業者を鼓舞するためのノリの良い歌・囃子が必要だった。これが田楽の原型といわれ、農作業の一部であった歌や囃子は独立し、芸能として確立した。華美を競い、豪華な扇子や鮮やかな花笠に、金銀ギラギラの豪奢な衣裳で、笛・腰鼓(ようこ)・ビン簓(ささら)・銅拍子(どびょうし)などを囃子に群舞が舞われ、刀剣・玉・高足・一足などと呼ばれる曲芸的な芸が演じられ、儀礼と併せて派手な見せ物として広まり、日本中で大人気となった。
院政期(平安末期1086〜1185年)には田楽の座(職業芸能者集団)が数多く結成され、町衆から貴族(公卿・殿上人)・儒者までが田楽踊に熱狂したほどの爆発的な大流行を見せ、「風流田楽(ふりゅうでんがく)」とも呼ばれた。これには政情不安など庶民の生活環境の悪化が背景にあるのだが、永長元年(1096年)の熱狂は「永長の大田楽」として、たくさんの田楽座が平安京の都大路を踊りながら練り歩き、その見物の桟敷が崩れる程の大騒ぎであったと「洛陽田楽記」に記録が残っている。
更に鎌倉時代に入ると、執権・北条高時が田楽に耽溺したことなどが「太平記」の記録に残り、また室町幕府4代将軍・足利義持は、田楽新座の増阿弥の芸を特に好んだというので、本座(近江)・新座(白河)など核となる座が形成され、田楽の能に変容し、伝統芸能の1ジャンルを確立して幕府の庇護を受けながら興隆していった様子が伺える。
増阿弥は田楽新座の名手・喜阿弥(亀阿)の弟子で、謡(音曲)に優れていたという。京周辺の寺社などで大規模な勧進田楽(寺・橋の修復のため資金調達手段としての公演)を度々催し、桟敷には将軍を始め、大名が数多く見物に出かけたようだ。当時、大和猿楽四座・結崎座の棟梁だった観阿弥(能楽の始祖)がその芸風を称え、観阿弥の子・世阿弥も彼をライバル視している。また彼が今日に残る能面「増(女)」を考案したといわれるなど、田楽の能と猿楽の能が融合しつつあり、境界が明確でなくなっている。観阿弥の子・世阿弥は有名な著書「風姿花伝」の中で、一忠・清次(観阿弥)・犬王(道阿弥)・亀阿(喜阿弥)を能楽の祖としているが、そのうち二人が田楽の名手であり、田楽の妙技も吸収されて能が成立したことが分かる。
一忠とは、田楽本座の人で、田楽能の名手とされる。1349年の京都四条河原の桟敷崩れの勧進田楽で、新座の花夜叉とともに演じたことでも知られる。観阿弥は「我風体の師」と呼び、近江猿楽の犬王も彼を師とした。幽玄・働き・音曲ともに優れていたため三体相応の達人と賞讃された。
結局、田楽においては、芸達者であっても観阿弥・世阿弥父子のように芸道を整備し、その精神を後世に残すような著述を行うなどの偉業を成す者が出なかった。また背景として、猿楽の能は、観世の頃には本来は祝祷芸であった翁猿楽からようやく脱却し、芸能として一般的に披露する場を得、室町幕府3代将軍・足利義満に観阿弥の能を見出されたことがきっかけとなり、武家全般に猿楽能が浸透し、各地の猿楽座が厚遇を受けるようになった。義満は観阿弥生存中より子の世阿弥を愛顧し、近江猿楽の犬王(道阿弥)も贔屓した。鎌倉時代末期には大流行していた田楽衆を猿楽衆が凌駕し、田楽は大和猿楽座の興隆と共に衰退し、表舞台から消えていった。  
以上、田楽の変遷を追ってみたが、表舞台から消えたとはいえ、消滅した訳ではない。獅子舞や神楽と融合するなど形を変え、様々な形態で奉納田楽として各地の寺社に伝え継がれている。最も原型を留めているといわれるのが和歌山県那智勝浦町・熊野那智大社の例大祭「扇祭」で奉納される「那智田楽」で、境内不出とされ、第1回・国の重要無形民俗文化財に指定された。日本三大火まつりの一つでもあり「那智の火まつり」とも呼ばれ、毎年7月に行われている。編木(ささら)4人・腰鼓4人・シテテン(童子)2人の計10人の舞人が、龍笛1人の音に合わせ、緞子の直垂(太鼓は赤、編木は黄)、白二引の縹色のくくり袴、綾藺笠を着用し、22節からなる舞を舞う。足利幕府の頃の1403年、京都から田楽法師・宗正、法輪を招いて田楽を習得したと伝えられ、創成期の田楽舞の原型をそのまま伝える希少な文化財といわれる。
また茨城県常陸太田市に西金砂神社七二年周期大祭礼という、72年周期(!)で行われる奇妙な祭があり、851年の開始以来、2003年までに17回行われた。金砂神社は西社と東社が数キロ離れた標高480m程の山頂にあり、山頂を出御した神輿行列は途中旅所に宿し、3日後に30キロ程離れた日立市水木浜で神事をし、帰還する行程となっている。西社と東社は3日ずれて出発するので10日間の行事となっており、その間500人を超える時代行列が延々と続く。田楽大祭礼・磯出祭礼とも呼ばれ、磯の鮑が御神体とされている点も特異である。2003年の大祭礼では、田楽鼻の下の砂浜が行列往還の祭事会場となり、大きなテントが張られ、神輿の祭壇が設けられ、その前に三間四方に柱を立て、注連縄を張り巡らし田楽の奉納舞台が作られた。神官達が祭壇を取り囲む中、囃子の音と共に禰宜の祝詞が始まり、玉串奉奠、田楽として「四方固め」「獅子舞」「種まき」「一本高足」の4段の舞が奉納される。
「四方固め」は、型をきめながら連続する所は能に似ているが、猿田彦が舞う「四方固め」は雅楽を感じさせるような型で、真っ赤な鼻高面(天狗)を着ける。「獅子舞」は普通の獅子舞と同じ様に大きな獅子頭をかぶり躍るのだが、獅子の尻尾をもった大国主命とされる笑面の男が獅子をじゃらす点が異なる。「種まき」は古来の田楽踊りを残し、直面で烏帽子状の物を被り、杓を持った神官らしき者が種籾を蒔き、菅笠状のものを被った白狩衣の数人がスリササラを鳴らしつつ鼓に合わせて踊る。「一本高足」は鬼の面を着け、一本足の竹馬状のものに乗り飛び上がるもので、数回上がれば大豊作になるといわれる。
この大祭礼の他に小祭礼という祭があり、7年目毎(6年に1度)に行われ、現在まで196回を数えている。大祭礼はハレー彗星同様、一生に一度見られるかどうかという類のものなので、見物客も相当数(100万人余り)押し寄せる。大祭のメインである奉納田楽舞が、江戸時代まで口伝で伝え継がれてきたものだというから驚きである。文書として残されているのは江戸以降であり、851年の初回の姿そのままなのかどうか、誰にも分からない。
田楽とはこの祭の存在同様、いつ・どこから・どのように・誰・何を介して現在に至るのか不明な点が多い。だからこそ未知の面白さがあるのかも知れないし、時代による変遷・変容があってこそ田楽なのかもしれない。新たな史実が見つかり、謎が解明されてほしいような、今後も時代に合わせ変化したものが田楽として後世に伝承されてほしいような、筆者としては不思議な位置付けの伝統芸能である。この手の芸能は、不自然に保護されぬ方が良いものなのかもしれない。  
 
狂言

狂言(きょうげん)との最初の出会いは小学校の教科書にあった「附子(ぶす)」だったように記憶するが、筆者の年代から察するに、現在は掲載されていないかも知れない。舞台写真と併せて台本のように話が展開されていたが、小学生でも理解できる単純な笑いの世界だったので「昔の大人の笑いのツボも、現代の子供と変わらないな」と思った記憶がある。能と共に歩み、同じ舞台で演じられてきたものの、その内容−追求するものは全く異なり、完全に笑いを主眼にした喜劇的な、人間臭い滑稽劇である。明治時代以降、能と狂言を併せて「能楽」と称するようになったが、能は別の項で触れているのでそちらを参照していただき、本項では狂言の笑いの世界を掘り下げてみたいと思う。
まず一言で狂言と言っても、言葉の解釈から入ると3つ余りに大別される。1つは本項で述べる、主に能舞台で演じられる狂言、2つ目は歌舞伎の演目を指す用語である歌舞伎狂言の略、3つ目は日本語の中の比喩的表現で、人を欺く企み・道理から外れた言動・戯れの冗談を指すものである。狂言舞台を見たことがない人でも、上述の3つ目の「狂言」という言葉に触れたことがあるだろう。これは道理に合わない言動・表面だけ飾った語や、虚構や文飾の多い物語などを意味する「狂言綺語(きょうげんきご・きょうげんきぎょ)」という中国の言葉に由来し、小説・詩などを批評する時に主に用いられた。猿楽の滑稽な物真似芸を指す言葉として転用され、やがてその名称として定着し、一方で滑稽な振舞・冗談や嘘などを指す一般名詞としても定着した。いずれも古い歴史を持つ訳であるが、その起源を追って狂言の成立から見てみることにする。  
「狂言」が文献に初めて登場するのは、およそ650年前の室町時代のことであり、それ以前の平安時代には「猿楽(さるがく)」、更に遡り奈良時代には「散楽(さんがく)」と呼ばれていた芸能の流れを引いている。散楽とは中国から伝来した民間芸能で、物真似・曲芸・歌・踊・呪術・手品など多種多様な芸の集合体のことであるが、詳細は「日本舞踊−猿楽」の項を参照していただきたい。猿楽は散楽の面白い部分を強調し、更に日本古来の様々な芸が付加されて娯楽的な滑稽芸・寸劇であり、この頃は寺社の前、街中などで一般庶民を相手に演じられ、笑いという大衆を惹きつける強大な力を蓄えていった結果が、現代まで続く狂言の魅力に繋がっていると考えられる。その後、世相を捉えて風刺する笑いの台詞劇として発達し、後の狂言へと繋がってゆく訳で、能と同様、猿楽の直系の芸能であり、日本が生んだ最古の喜劇と言える。楽劇である能が完成を見る14世紀から、能と狂言とは各々の専門に分化しつつも同じ舞台で交互に上演される形式が定着し、互いに影響を与え合って発展を遂げ、完成した。歌舞的要素に規制される能とは違い、狂言は台詞中心の劇であるため、脚本の固定は能より遅れて18世紀に入ってからと考えられるが、その前後から演技の基礎としての歌舞的修練がより重視されるに至り、独自の明朗洒脱な、格調ある台詞劇として大成した。室町時代に演じられた狂言の演目の中には、今に続くものもあり、現代にも通じる、かなり整った形だったと考えられており、この時期を狂言完成期と見ている。狂言役者は、この頃から財力・権力を有する人たちに庇護されて生きていくことになったので、その芸風も含め、時代の流れに大きな影響を受けた。戦国時代は世情の乱れに呑まれて混乱期であったが、織田信長・豊臣秀吉の時代になると再び保護を受け、江戸時代には、能と共に幕府の式楽となり、経済的安定の中で、型がきちんと定められ、洗練され、一子相伝の芸を継承する流れが整った。しかし明治維新で江戸幕府が消滅すると、大名らに保護されていた狂言師は皆解雇され、能は来日外国人に観せる芸能として重宝されたが、狂言は能が演じられるまでの休憩時間のような扱いを受け、狂言の上演中であっても客席は騒がしく、無関心の状態のような、辛い時代もあったようである。大戦後の世には「笑い」が求められるようになり、活躍の場を広げて注目を集め、前の世代で磨き抜かれた芸は高い社会的評価を受け、現代やっと、狂言師達が営々黙々と培ってきた技能を自由に披露できる時代になったといえる。
能楽(のうがく)の項でも触れているが、能・狂言の2つを合わせて能楽と呼び、国の重要無形文化財の指定を受け、歌舞伎と並んで国際的にも高い知名度を誇り、2009年9月、第1回世界無形遺産への登録が事実上確定している。世界無形遺産とは、世界的に価値の高い無形文化財として保護・継承するためUNESCO(ユネスコ)が登録する予定の「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表(リスト)」に掲載されているもので、リストに掲載された芸能は、「無形文化遺産保護条約」の枠の中に編入される仕組みである。ちなみに日本は文楽と歌舞伎がリストアップされており、順次登録される予定である。さて話は本筋に戻り、この芸能の概要に入りたい。  
狂言は、笑いを基調とした対話劇で「笑いの芸術」ともいわれているが、現代の吉本新喜劇と同様に、最初の登場人物が決まった名乗り(自己紹介)をし、話が展開する場所へ行くという設定で舞台上を歩く「道行(みちゆき)」があるなど一定のパターンを持つ。無名の一市民を主役にして日常生活での笑いを取り上げている点、笑いの質がドライでカラッとしている点なども吉本と似ているが、狂言は決められた芝居の中で生まれる、狂言師たちが演じる笑いに限定されており、アドリブは無い。狂言成立当時の室町時代の人々が、日常的に話していた室町口語が用いられており、現代日本語の基礎になる言葉でもあるため、現代人にも非常に解りやすいし、数ある伝統芸能の中でも特に、現代の芝居に近い形式であるため、親しみやすい芸能となっている。共に発展してきた能は面(おもて)を使用する音楽劇であり、舞踊的要素が強く抽象的・象徴的表現が目立ち、内容は悲劇的なものが多いのに対し、狂言は、一部の例外的役柄を除いて面を使用せず、猿楽の持っていた物真似・道化的要素を発展させたものであり、台詞も含め写実的表現が目立つ。内容は風刺や失敗談など滑稽さのあるものを主に扱うので、能とは好対照である。能の緊張感を解きほぐす役割を効果的に狙う構成として、古くから同じ舞台で交互に演じられ、現代にも踏襲されている。  
次に、狂言における狂言師の役柄(職掌)について触れてみる。
主役(主人公)を務める者は、能と同様に「シテ」と呼ばれる。能における「ワキ」「ツレ」に相当する、脇役(助演者)を務める者は「アド」と呼ばれる。複数の脇役が登場する時は「一のアド」「二のアド」と呼ばれたり、代表的な脇役以外は「次アド」「オモ(大蔵流)」「小アド(和泉流)」などと呼んだりする。アドの集団は「立衆」と呼び、立衆を統率者は特に「立頭」と呼ばれるが、曲の中の役名で呼ばれる方が多い。
役柄(職掌)は、能に比べると一定のパターンがあり、登場人物が大体決まっている。当時の社会で、ごく普通にみられた人々…どこにでもいそうな、実存しそうな無名の人物が登場し、身の回りで起きた出来事を、ユーモアを交えて演じられている。
主な登場人物は、主(しゅう)・太郎冠者(たろうかじゃ)・すっぱ(ペテン師)・亭主・大名・婿・女・出家・山伏などである。これらは面を着けない直面(ひためん)で、人間味溢れる人物として登場する。一方で、幽霊・生霊・神・鬼・天狗・仙人・動物・精などの役は、狂言面と呼ばれる面を着け、異界の者であることを表わしている。主従もの(主人と従者の遣り取り)が代表的であるが、田舎者が都へ買い物に出かけ、都のすっぱに騙される話など、庶民を題材とした話も多い。以下に内容上での一般的な分類を挙げてみる。
まず、大別すると3種類に分類される。
本狂言(ほんきょうげん)1つの演目、1曲として独立して演じられるもので、一般的にいわれる狂言のこと。
別狂言(べつきょうげん)能曲「翁」の一部としてしか演じられない「三番叟(さんばそう)」「三番三(大蔵流)」のこと。
間狂言(あいきょうげん)能の一部として演じられるもののことで、「間(あい)」とも呼ばれる。
上記のうち、狂言の大半を占める本狂言は、以下のように下位分類される(大蔵流による分類)。
・脇狂言(わききょうげん)祝言(しゅうげん)を第一とする、めでたさ本位の曲で、福の神・果報者・お百姓などが登場するもの。「末広がり」「福の神」「三人夫」「宝の槌」「鍋八撥」「佐渡狐」「牛馬」など。
・大名狂言(だいみょうきょうげん)主従もののうち、主として大名がシテ(主人公)のもので、威張っていて一見愚かではあるが、無邪気で大らかな、人のいい大名として演じられる。「萩大名」「武悪」「靫猿」「今参」「粟田口」など。
・小名狂言(しょうみょうきょうげん)主従もののうち、狂言の代表的人物である太郎冠者がシテ(主人公)のもの。太郎冠者は元来、元服をした若者の意味だが、下人(げにん)の通称として用いられ、人間味ある愛すべき人物として演じられる。「附子」「棒縛」「栗焼」「止動方角」「鐘の音」「金藤左衛門」「千鳥」「木六駄」など。
・聟女狂言(むこおんなきょうげん)聟取りや夫婦仲を中心に描いた、主に聟がシテ(主人公)のもの。「二人袴」「八幡前」「比丘貞」「右近左近」「千切木」「寝音曲」「水掛聟」「鈍太郎」など。
・鬼山伏狂言(おにやまぶしきょうげん)鬼や山伏を戯画化したもので、主に閻魔大王や鬼の類がシテ(主人公)のもの。「朝比奈」「八尾」「清水」「梟」「柿山伏」「蟹山伏」「神鳴」など。
・出家座頭狂言(しゅっけざとうきょうげん)僧侶・座頭などを中心としたもので、僧・新発意・座頭がシテ(主人公)のもの。「布施無経」「呂連」「薩摩守」「伯養」「猿座頭」「宗論」「お茶の水」など。
・集狂言(あつめきょうげん)能の四番目物と同様、どの分類にも収まらないもので、主に商人・農民・盗人などが登場するもの。「雑狂言」とも呼ばれる。「瓜盗人」「茶壷」「膏薬練」「釣狐」「合柿」「芥川」など。
なお、難易度レベルで分けると「平物」「内神物」「本神物」「小習」「重習」「極重習」の6つがあり、特に重要で難度の高い作品群は「習物(ならいもの)」と呼ばれ、演じるには技術的に相当の修行を要するという秘曲・大曲がある。「重習」が3番、その上の「極重習」が3番あり、極重習は「花子」「釣狐」「狸腹鼓」の3曲で、いずれも100歳の年寄がシテ(主人公)という難曲である。  
次に演じる側である狂言師に目を向け、特にその流派の変遷を追ってみることにする。
能と異なり、狂言師特有の姿というと、その装束と足袋である。代表的な装束は「肩衣」と「狂言袴」であり、絹ではなく麻でできていて、鬼瓦・カタツムリなどの生物を大胆にデザイン化しているのが特徴的であるが、全体的に能と比べ簡素である。能では白足袋が用いられるが、狂言では黄色の縞足袋を用いる。繻子地に金箔の縫い取りをした「縫箔」という装束に、白い麻布を被る「ビナン鬘(かずら)」という女性役の姿は、狂言独特のものである。また大体は面を着けない直面で演じられるため、狂言面は能面ほど発達せず、基本的には20種類程度しかないのだが、いずれも喜怒哀楽の表情が豊かな点が特徴的である。
次に流派に入ることにする。
江戸時代、家元制度が確立していた流派としては、大蔵(おおくら)・和泉(いずみ)・鷺(さぎ)の3流派があり、いずれも大成していたが、明治維新は狂言界には特に大きな打撃となり、いずれの流派も断絶の危機に直面し、特に鷺流は歌舞伎に接近したことや、流派の体質などにより衰微が激しかったため断絶し、その芸体は地方芸能としてわずかに残るのみである。しかし「松羽目物」と言われる能・狂言写しの歌舞伎演出に多大な影響を与えるなど、鷺流の残した足跡は決して小さなものではない。明治維新の波乱の後、狂言界が再生・興隆の流れを得ると、残る2流派の、大蔵流は主として関西、和泉流は主として東京を地盤とし、現在も幅広く活躍をしている。
大蔵流家伝に因ると、14世紀に後醍醐天皇の侍講を勤めたという比叡山の僧・玄恵を流祖とするが、一般的には代々金春座で狂言を勤めた大蔵弥右衛門家が室町後期に創流したとされる。猿楽の本流たる大和猿楽系の狂言を伝える唯一の流派であり、江戸時代には鷺流とともに幕府御用を勤めたが、狂言方としての序列は鷺流に次いで2位であった。長年に渡り幕府や諸大名に手厚い庇護を受けてきたが、一時宗家は断絶、近年になり再興した。
和泉流江戸初期に京都で、素人出身の職業狂言師である手猿楽師(てさるがくし)として禁裏御用を勤め、また尾張藩主・徳川義直の庇護を受けた7世・山脇和泉守元宜が、三宅藤九郎家、野村又三郎家を傘下に三派合同で創流した流派である。家元制度を取るも、三流で流儀を形成した経緯もあり、家元の力は弱く、明治以前は地方流儀であったが、明治維新により禁裏御用だった鷺・大蔵二流が相次いで没落すると、和泉流は東京の狂言界を席巻し、立場が完全に逆転した。しかし流派の内紛により宗家は中絶、現在は復興しているが、野村又三郎家(野村派)、野村万蔵家・万作家・三宅右近家(三宅派)、狂言共同社(名古屋派)に割れ、台本も各々異なっている。
鷺流狂言師・鷺仁右衛門宗玄が徳川家康の愛顧を背景に、一代で築き上げた流派であり、家康の命で観世座の座付となったのを機に流派を起こした。幕府狂言方筆頭となって以降、江戸時代を通じて狂言界の第一の座に就いた。宗家をはじめ、ほとんど観世座に頼り切った脆弱な構造が災いし、明治維新を迎え混乱し、流派廃絶に至った。
この他に、春日神社の禰宜(神人)による「南都禰宜流」という流派が江戸初期までは存在した記録があるが、既存の流派に吸収され消滅したとされる。他にも群小諸派が存在したようだが、いずれも消滅し、それらの台本の一部は、一般読者向けの読物として江戸時代に出版されたため、世に残された。  
国指定重要無形民俗文化財として各地に残っているのは現在3件のみで、当時の様式を現在に伝えている。最後にそれらについて触れてみることにする。
能郷の能・狂言(のうごうののうきょうげん)岐阜県本巣郡根尾村能郷・白山神社の4月13日の祭に演じられる、国土安穏・五穀豊穣・家内安全を祈り奉納されてきた神事芸能で、能「翁」「高砂」「浪速」など、狂言「百姓狂言」「餅酒」「たわけ婿」など計22曲が伝承されている。狂言面4面と装束は、室町時代のものともいわれている。能郷の猿楽衆16戸は、能方・狂言方・囃子方が決まっており、各々の家で世襲的に口伝で継承されてきたものである。演技・演奏法に地方的特色が顕著で、かつ中央五流の能・狂言の影響も受けており、能楽の変遷過程を知る上で重要とされる。現在は過疎化が進み、後継者問題に苦しんでいるという。
嵯峨大念仏狂言(さがだいねんぶつきょうげん)京都府京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町・清凉寺(嵯峨釈迦堂)の法会に行われる狂言で、鎌倉時代末、京都で円覚十万上人が遊戯即念仏の妙理を広めるために始めたという三大念仏狂言(壬生・嵯峨・千本)の1つである。大念仏会は、能「百万」という演目にも扱われている由緒あるもので、所蔵狂言面には1549年在銘のものがあるなど、歴史の古さが知られている。狂言を伴うようになった時期は明確ではないが、女系面の「嵯峨大念仏天丈十八年(1549)三月六日(花押)」の刻銘から、壬生、閻魔堂狂言との関連からみて、その頃には大念仏に狂言を伴っていたと考えられている。定例行事として充実するのは、確実な資料によると近世(1638年頃)に入ってからのようである。狂言の変遷過程を知る上で歴史的価値が高いとされる。「夜討曽我」「羅生門」などカタモンと称される能風の演目12番、「愛宕詣」「餓鬼角力」などヤワラカモンと称される狂言風の演目12番とが伝承され、壬生狂言より、全体的に大らかな古風さをよく保存していると言われている。
壬生狂言(みぶきょうげん)京都府京都市中京区仏光寺坊城上る・壬生寺で大念仏会(4月21日〜29日)などで演じられるもので、正しくは「壬生大念佛狂言」と呼ばれ、「壬生さんのカンデンデン」という愛称で親しまれている。寺伝によると鎌倉時代の1300年、壬生寺中興の祖・円覚上人が融通念仏を修し、「大念佛会」という法会を行ったのが始まりという。「炮烙割」「桶取」「棒振」「紅葉狩」など30番余りが伝承されている。着面の無言劇で、鰐口・締太鼓・横笛の囃子で演じられ、娯楽的な演目の中にも勧善懲悪・因果応報の理を教える宗教劇としての性格を今日まで残すなど独特の演技、演出法を有する。  
以上、2008年現在での重要無形民俗文化財を採り上げてみたが、各流派に伝わる狂言曲にない独自のものもあり、また能楽堂で演じられるものとも異なり、趣深いものである。選択文化財(芸能の一部を文化財指定しているもの)や他の芸能の中で狂言を採用しているものも含めると、他にも多く存在するのだが、面・装束・演目など全てを含め、完全ではなくても保存状態が良いと言えるものはそれほど多くない。
また人間国宝とも言える、狂言の技に対する文化財指定を受けている人は、現在2人いる。茂山七五三(芸名・茂山千作)氏と、野村太良(芸名・野村萬)氏である。狂言の世界には「猿に始まり狐に終わる」という言葉がある。「靭猿」の猿役で初舞台を踏み、「三番叟」や能のアイ(狂言方)などで経験を積みながら、特別伝授を受ける「習物」を経て、最後に「釣狐」の狐役を披く(披露する)のだという。狐を演じるまでに数十年余りを要するというから、文化財指定を受けた二人は、どれほど多くの曲を演じてきたものかと思う。芸能の一定の型の中から「笑い」という人間の自然な動作・本能的な心の動きを操ることは、容易いようで難しいものであろう。各時代、多くの狂言師たちにより同じ演目が無数に演じられ、現在でも同じ場面で同じ笑いを呼び起こすことに不思議な感動を筆者は覚える。人間の単純さも垣間見える気もするが、それに引き換え、その笑いを培うために狂言師たちが費やした長大な時間と労力に拍手を送りたい。  
 
稚児

日本には、古来から神霊は幼い子供の姿を借りて現れる、という信仰がありました。神が降りるための仮の肉体を、「尸童(よりまし)」または「依憑(よりわら)」と呼びます。日本の男色の風習の背後には、この「少年は神霊の化身」という信仰があります。稚児を神仏の顕現と見なし稚児との肉体的交わり自体を神聖視する宗教的側面もあったのです。
奈良時代、貴族の子弟が幼少のうちに寺院に入り、僧の身の回りの世話などをし日常生活の手助けをする、また歌舞音曲の伝授を受けることが制度化されていました。寺院は女人禁制ですので、男児を使ったわけです。さらに時代が下ると、貴族に限らず俗人の男児が寺院に預けられ、成人まで学問修行をしながら僧の供侍をすることが一般に行われるようになりました。いわゆる小坊主とは違います。これら有髪の少年達を、寺稚児、垂髪、渇食(かっしき)などと呼びます。
頭を丸めた殺風景な僧侶達のなかにあって、有髪の少年達は特別な存在であったようです。この僧と稚児の間に、同性愛的な恋愛感情が生まれる場合もありました。
このような稚児を寵愛する風習は、奈良・平安時代にはかなり広く仏教界に広まっていました。さらに公家などの貴族の間にも、美しい少年を傍に召し使わせる風習が広まりました。院政期の院の近臣たちは稚児上がりのものも多く、院と深い関係を持っていました。藤原頼長「台記」にはその奔放な男色関係の多くが描かれています。
また、古来より東大寺、法隆寺、園城寺、興福寺など近畿を中心とした寺院や貴族の間で法会や節会の後の遊宴で猿楽、白拍子、舞楽、風流(ふりゅう)、今様、朗詠などの古代から中世にかけて行われていた各種雑多な芸能が「延年」という名で括られて演じられていて、この「延年には稚児(ちご)が出るのが特色」でした。しかも延年(鎌倉時代には「乱遊」とも呼ばれた)の稚児舞(ちごまい)を舞った少年が僧侶と同衾することが行われていました。
稚児舞(童舞:とうぶ)は、他寺の僧が稚児の品定めをする絶好のチャンスでもあったのです。
鎌倉時代から室町時代にかけては、この僧侶と稚児,または公家と稚児の間の交情を描いた、一種の恋愛小説が流行しました。これを「児物語(ちごものがたり)」と呼びます。普通、宗教は恋愛には抑圧的であるものですが、中世の稚児物語はほぼ例外なく稚児と僧との恋愛に関して寛容でした。中でも最高傑作と呼ばれるのが「秋夜長物語」(作者不明)です。
「三井寺の前を過ぎけるに、降るとも知らぬ春雨の、顔にはらはらとかかりければ、しばらく晴間を待たむと思て、金堂の方へゆく処に、聖護院の御坊の庭に、老木の花、色ことなるが、こずゑ垣にあまりて雲をしけるかと覚えてけり。遥かに人家を見て、花有れば則ち入るといふ詩の心にひかれて、門の傍らに立ち寄りたれば、齢二八ばかりなる児の、水魚紗の水干に、薄紅のあこめがさねにて、腰のまはり細やかに、けまはしふかくたをやかなるが、見る人有るとも知らでや侍りけむ
降る雨に濡るとも折らむやまざくら雲のかへしの風もこそふけ
と詠めて、花のしづくにたちぬれたる体、これも花かとうたがはれ〜」
「秋夜長物語」
「其暁、泣く泣く家路へ下向する間、尾臥の山と申す麓を過ぐる程に、十三四計なる少人の、月のかほばせ花の粧まことに厳く、むらさきの小袖に、白練貫を折り重ねて、朽葉染の袴の優なるに、漢竹の横笛心すごく吹き鳴らし、たけなる簪元結をしすべらかして、頃は八月十八日の曙がたに、露にしほたれたる気色にみえて、春の柳の風に乱れたるよりも、なをたをやかに見給へり」
「稚児観音縁起」
稚児は、観世音菩薩の変化身としての「稚児」であって、稚児灌頂を受けていない稚児とのセックスは御法度とされていました。灌頂を受けた稚児は「〜丸」という名がつけられました。稚児の上限は17〜19歳ぐらいまでで、稚児としての生活は、4〜5年くらいの短いものでした。
朝起きたら先ず歯を磨き、顔を洗って、櫛で髪をとかす。
それから髪を結って化粧をする。それが済んでから昨日習った経文の復習。
書道の練習も忘れずに。
鏡と楊子は肌身離さず持っていること。
爪が長いのはダメ。立ち居振る舞いはあくまでもエレガントに。
障子や扉を荒っぽくしめるなんて以ての外。
稚児の生活にはさまざまな制限が加えられ「幽玄を専らにする身」(「右記」)として、寺院の中で磨き立てられ、育てられたのです。
寺院の生活の中で女性的な役割を担わされていた稚児は、その容姿まで、あくまでも女性的であることが求められていました。
平安時代から鎌倉時代にかけて武士が隆盛すると、今度は武士に稚児寵愛の風習が飛び火しました。武将の身辺の用事を務めるいわゆる「小姓」という身分がありますが、小姓は世話係であり、秘書であり、伝令役であり、ボディーガードです。さらにその中でも特別に寵愛を得た美少年の小姓は、閨で夜伽の相手もしました。これが「稚児小姓」です。 
 
修羅と鎮魂

中世末期、室町時代という時代には、文化的な面では、一種のルネッサンスが起こったのではなかろうか。
社会的には、各地に一揆が続発し、下剋上の風潮が広がり、中世封建社会の基盤が揺いでいる時代である。しかし消えかかる炎が最後にひととき改めて激しく燃えあがるように、文化面では時宗の阿弥たちが中心になって連歌、庭園、花、茶などの文化が革新されたり創造されたりしたが、とりわけ観阿弥、世阿弥父子によって確立された能は中世文化の粋を成したと言っても、言いすぎではなかろう。
室町時代の特色は、何といってもまず、源氏、北条氏の幕府が鎌倉という京都からみて僻遠の地に政権の座を置いたのに対し、足利氏が改めて京都というかつての王朝文化の中心地に還ったことであろう。そこにはかつての数世紀絢爛たる花を咲かせた平安朝文化の蓄積が残っていたはずである。
能の詞章を読んでいると、まったくそのことを痛感させられる。能作者たちは膨大な時間を費して、当時から見て古典的な文芸を博渉し、また渉猟したにちがいない。それにはまず前提として古い典籍が必要なはずだが、そのためには、京都という都市は何回かの天災や人災を通過しているとはいえ、当時としては絶好の条件をそなえていたであろう。足利将軍家もまた、かつての平家がそうであったように、武家でありながらしだいに貴族文化に染まりつつ、一方では、王朝文化に匹敵するものを創出したいと念じて能を含めて阿弥たちの技芸を賞揚し、他方では、動揺してきた自己の権力基盤に内心おののきながら、平家のたどった運命に我と我が身をなぞらえ、もってみずから慰めるということもあったであろう。室町期の文芸復興はたしかに王朝文化の再生であったが、その再生は迫りくる滅びの予感のもとに行なわれるという逆説に満ちたものであった。
私はかねがね、能の修羅物の主人公がどうしてこう平家の武将たちであるのか、という疑念をもっていたが、右のように考えるのもひとつの理解の仕方であると思う。そしてこのように考えたのは、今回改めて「重衡」の詞章を読み直してみた結果である。 
すでに十年近くまえのことになるが、私は、京都の西の端、逢坂と奈良の北の端奈良坂とを訪ね、前者は能「蝉丸」や「逢坂物狂」と、後者は岩波大系本の標題「笠卒都婆」、すなわち「重衡」とからめて、「二つの坂」という一文を書いたことがある(「中世への旅」、朝日新聞社、所収)。現在では変っているかも知れないが、十年まえには、二つの坂ともこの国の繁栄からとり残されたような、むしろ陰欝な空気に包まれた人家が散在したり、並んでいたりした。笠卒都婆のある般若寺にも行ってみたが、印象は変らなかった。要するに、両者とも都市のはずれ、昔から「坂の者」の住処だったのである。この印象をもとに、私は一定の論旨を繰り広げたのであったが、ふたたび「重衡」を説み直して、すでに述べたような別の感想をえた。
まず、前場のシテの翁による南都の寺々のワキの僧への教示が、考えてみれば、特異である。東大寺、興福寺等々はいま翁に化身しているほかならぬ平重衡がほぼ三百年ほどまえに焼き払った寺々であるから、特異なのではない。前場のおわりで翁がみずからその重衡の幽霊であると名乗るから、観衆は前シテとこの寺々との運命的な結びつきにはじめて気づくのであって、それまでの翁による、春のうららかな陽の下での、実に淡々とした解説によっては、そのような結着は予想できない。私は、このような客観的な「名所教え」が可能であったのは、作劇上の工夫のほかに、奈良の寺々が焼かれてから三百年たったいま、昔どおりに復元されているという事実があったからだ、と思う。これは木を素材としてきた文化を前提としてはじめてありうる現象であり、石の文化ではひとたび破壊されればそれで永久におわりである。木の文化ではそうでないことは、前場では、奈良坂の八重桜木が古都の換喩とされており、後場では、同じ樹木に重衡の魄霊が宿るとされていることによって象徴的に示されている。
このごろ私は、日本の歴史とは破壊(天災、人災による)と再建の反復だったのではないか、と考えることが多い。木を土台とする文化は崩壊しやすいが、また復元も容易であろう。しかしそれは外観上のことである。王朝の文化は中世末期に古典の引用を基盤として復興された、あるいは復興しようと試みられた。室町時代には、歴史は非連続の連続であると信じようとしながら、実は逆に、連続の非連続ではないかという疑念を、人びとは追い払うことができなかったのではないか、と思う。
奈良坂から見渡す南都の空間的展望は、昔も今も変るところはない。しかしこの空間の内部で生き、死んでいった数知れぬ者の愛憎の重みは、どのような手段によっても復元不可能であろう。その意味では、過去を今に還すよすがはない。重衡は、源氏の軍勢によって捕えられ、一度は鎌倉に送られて、運が好ければ盛久のように頼朝の釆配によって一命をとりとめることもありえたが、奈良の衆徒の怨念の犠牲となって、木津川のほとりで首を落された。そのとき、後段のシテの語りにあるように、重衡はその直垂の紐を阿弥陀仏の手にかけ、極楽浄土に引導してもらったはずである。こうした発想は源信の「往生要集」に由来し、平安貴族の慣いであったが、「重衡」では、「涼しき道に入る月の、光は西の空に、至れども魄霊は、なほこ木のもとに残り居て…」とあって、引導の効用は否定されている。
かつて宇治の平等院を訪れたのは、木津川の岸に建つ重衡斬られの石碑を見た日のことであった。平等院に柔和をきわめた阿弥陀仏が置かれてから、何度かの戦乱があり、浄土信仰も幾変遷かを経てきたことになる。悲しきかな愚禿親鸞、愛欲の広海に沈没し、名声と利益の大山に迷いて、と書いている「教行信証」は、読みようによっては、末世の世に生きる浄土信徒の内心の動揺を、膨大な仏典物らの引用によって抑えようとする鎮魂の書である。ましては僧侶ではなく、敵を殺しまた敵に殺される修羅道を生きる武士にとって、浄土の救いが遠いものとすくなくとも中世末期には考えられるに到ったのは、むしろ当然であろう。 もっとも親鸞の専修念仏をさらに徹底させた一遍の開いた時宗の僧侶は、戦場をかけめぐって、往生念仏を唱えたというから、能のなかに修羅物が重要な位置を占めるその一因となったであろう。前述のように、阿弥たちは時宗の徒である。がそれにしても、「重衡」における修羅道の怨念、「瞋恚」は激烈をきわめる。この曲の最後で、この激怒の隠喩としての、春日野を燃えあがらせる炎の幻視ほどリアルに激しい映像が、能の他の曲にあるだろうか。重衡は出口なしだからだ。浄土の門は、ただ仏敵となった者のまえにのみ、親鸞によってさえ、閉ざされている。
「重衡」は、王朝文化の復興を究極まで追求しながら、同時に、やがてくる戦乱の時代、戦国時代を予感させる。 
 
能「敦盛」詞章

観世流の謡本に基づいたものですが、現代かなづかいにしたり、表記は読みやすいように改めました。太字が謡、それ以外がセリフです。(ちなみに『敦盛』といえば、織田信長が好んだ「人生五十年。下天のうちに比ぶれば夢幻のごとくなり。ひとたびこの世に生を受け滅せぬもののあるべきか」という謡が有名ですが、これは能ではなくて幸若舞という芸能にある『敦盛』の言葉です。能の『敦盛』にはありません。) 
[次第]
ワキ「夢の世なれば驚きて。夢の世なれば驚きて。捨つるや現なるらん
[名乗リ]
ワキ「これは武蔵の国の住人。熊谷の次郎直実出家し。蓮生と申す法師にて候。さても敦盛を手に掛け申しし事。余りに御傷わしく候ほどに。かようの姿となりて候。またこれより一ノ谷に下り。敦盛の御菩提を弔い申さばやと思い候
[道行]
ワキ「九重の。雲居を出でて行く月の。雲居を出でて行く月の。南にめぐる小車の淀山崎をうち過ぎて。昆陽の池水生田川。波ここもとや須磨の浦。一ノ谷にも。着きにけり一ノ谷にも着きにけり
ワキ「急ぎ候ほどに。津の国一ノ谷に着きて候。まことに昔の有様今のように思い出でられて候。またあの上野に当たって笛の音の聞こえ候。この人を相待ち。この辺りのことども委しく尋ねばやと思い候
(前シテ・前ツレの登場)
[次第]
シテ・ツレ「草刈笛の声添えて。草刈笛の声添えて吹くこそ野風なりけれ
[サシ]
シテ「かの岡に草刈る男子野を分けて。帰るさになる夕まぐれ
シテ・ツレ「家路もさぞな須磨の海。少しが程の通い路に。山に入り浦に出ずる。憂き身の業こそもの憂けれ
[下歌]
シテ・ツレ「向わばこそ独り侘ぶとも答えまし
[上歌]
シテ・ツレ「須磨の浦。藻塩誰とも知られなば。藻塩誰とも知られなば。我にも友のあるべきに。余りになれば侘び人の親しきだにも疎くして。住めばとばかり思うにぞ。憂きに任せて過ごすなり。憂きに任せて過ごすなり
ワキ「いかにこれなる草刈たちに尋ね申すべきことの候
シテ「こなたのことにて候か。何事にて候ぞ
ワキ「ただいまの笛はかたがたの中に吹き給いて候か
シテ「さん候我らが中に吹きて候
ワキ「あら優しや。その身にも応ぜぬ業。返すがえすも優しうこそ候へ
シテ「その身にも応ぜぬ業と承れども。それ勝るをも羨まざれ。劣るをも賤しむなとこそ見えて候へ。その上樵歌牧笛とて
シテ・ツレ「草刈の笛木樵の歌は。歌人の詠にも作り置かれて。世に聞こえたる笛竹の。不審な為させ給いそとよ
ワキ「げにげにこれは理なり。さてさて樵歌牧笛とは
シテ「憂き世を渡る一節を
ワキ「謡うも
シテ「舞うも
ワキ「吹くも
シテ「遊ぶも
[上歌]
地謡「身の業の。好ける心に寄り竹の。好ける心に寄り竹の。小枝蝉折様々に。笛の名は多けれども。草刈の吹く笛ならばこれも名は。青葉の笛と思し召せ。住吉の汀ならば高麗笛にやあるべき。これは須磨の塩木の海士の焼き残しと思し召せ。海士の焼き残しと思し召せ
ワキ「不思議やな余の草刈たちは皆々帰り給うに。御身一人留まり給うこと。何の故にてあるやらん
シテ「何の故とか夕波の。声を力に来たりたり。十念授けおわしませ
ワキ「易きこと十念をば授け申すべし。それにつけてもおことは誰ぞ
シテ「まことは我は敦盛の。所縁の者にて候なり
ワキ「所縁と聞けば懐かしやと。掌を合わせて南無阿弥陀仏
シテ・ワキ「若我成仏十方世界。念仏衆生摂取不捨
[下歌]
地「捨てさせ給うなよ。一声だにも足りぬべきに。毎日毎夜のお弔い。あらありがたや我が名をば。申さずとても明け暮れに。向かいて回向し給える。その名は我と言い捨てて姿も見えず失せにけり。姿も見えず失せにけり
(シテの中入り)
[待謡]
ワキ「これにつけても弔いの。これにつけても弔いの。法事をなして夜もすがら。念仏申し敦盛の。菩提をなおも。弔わん菩提をなおも弔わん
(シテの登場)
[一セイ]
シテ「淡路潟通う千鳥の声聞けば。寝覚めも須磨の。関守は誰そ
シテ「いかに蓮生。敦盛こそ参りて候え
ワキ「不思議やな鳬鐘を鳴らし法事をなして。まどろむ隙もなきところに。敦盛の来たり給うぞや。さては夢にてあるやらん
シテ「何しに夢にてあるべきぞ。現の因果を晴らさんために。これまで現れ来たりたり
ワキ「うたてやな一念弥陀仏即滅無量の。罪障を晴らさん称名の。法事を絶えせず弔う功力に。何の因果は荒磯海の
シテ「深き罪をも弔い浮かめ
ワキ「身は成仏の得脱の縁
シテ「これまた他生の功力なれば
ワキ「日ごろは敵
シテ「今はまた
ワキ「まことに法の
シテ「友なりけり
地謡「これかや。悪人の友を振り捨てて善人の。敵を招けとは。御身のことかありがたし。とても懺悔の物語夜すがらいざや申さん。夜すがらいざや申さん
[クリ]
地謡「それ春の花の樹頭に上るは。上水菩提の機を勧め。秋の月の水底に沈むは。下化衆生の。相を見す
[サシ]
シテ「然るに一門門を竝べ。累葉枝を連ねしよそおい
地謡「まことに槿花一日の栄に同じ。善きを勧むる教えには。遇うこと難き石の火の。光の間ぞと思わざりし身の習わしこそはかなけれ
シテ「上にあっては。下を悩まし
地謡「富んでは驕りを。知らざるなり
[クセ]
地謡「然るに平家。世を取って二十余年。まことに一昔の。過ぐるは夢の中なれや。寿永の秋の葉の。四方の嵐に誘われ散り散りになる一葉の。舟に浮き波に臥して夢にだにも帰らず。籠鳥の雲を恋い。帰雁列を乱るなる。空さだめなき旅衣。日も重なりて年月の。立ち帰る春の頃。この一ノ谷に籠りて暫しはここに須磨の浦
シテ「後ろの山風吹き落ちて
地謡「野も冴えかえる海際に。船の夜となく昼となき。千鳥の声も我が袖も。波に萎るる磯枕。海士の苫屋に共寝して。須磨人にのみ磯馴松の。立つるや夕煙柴と云ふもの折り敷きて。思いを須磨の山里に。かかる所に住まいして。須磨人になり果つる一門の果てぞ悲しき
シテ「さても如月六日の世になりしかば。親にて候経盛我らを集め。今様を謡い舞い遊びしに
ワキ「さてはその夜の御遊びなりけり。城の内にさも面白き笛の音の。寄手の陣まで聞こえしは
シテ「それこそさしも敦盛が。最期まで持ちし笛竹の
ワキ「音も一節を謡い遊ぶ
シテ「今様朗詠
ワキ「声ごえに
地謡「拍子を揃え声を上げ
(中之舞)
[ワカ]
シテ「さる程に。御船を始めて
地謡「一門皆々船に浮かめば乗り遅れじと。汀に打ち寄れば。御座船も兵船も遥かに延び給う
シテ「せん方波に駒を控え。呆れ果てたる。有様なり。かかりけるところに
地謡「後ろより。熊谷の次郎直実。遁さじと。追っ駈けたり敦盛も。馬引き返し。波の打ち物抜いて。二打ち三打ちは打つとぞ見えしが馬の上にて。引っ組んで。波打際に落ち重なって。ついに。討たれて失せし身の。因果はめぐり逢いたり敵はこれぞと討たんとするに。仇をば恩にて。法事の念仏して弔わるれば。終には共に。生まるべき同じ蓮の蓮生法師。敵にてはなかりけり。跡弔いて。賜び給え。跡弔いて賜び給え 
 
人間五十年

司馬さんが亡くなられて一年余というわけでもないが、超閑日を持て余し、我が工房版「街道を行く」三十余冊をあちこち飛ばし読み。絶筆となった「濃尾参州記」(これは単行本)の一節にオヤと思った。
「その翌(五月)十九日午前三時、清洲城での信長は、先ず陣貝を吹かせ、甲冑をつけ、立ったままに湯漬を喫し、謡曲『敦盛』の一節をかつ謡いかつ舞ったのは有名である」
ここに言う「敦盛」の一節が、かの「人間五十年、下天の内をくらぶれば」である。
司馬さん程の作家がこの思い違いは、絶筆だけに気になった。信長がこの場で謡いかつ舞ったのは、謡曲「敦盛」ではなく、幸若舞の「敦盛」の一節であるからだ。
会の諸兄姉には「人間五十年」が謡本の「敦盛」のどこを捜しても出ていないこと、既にご承知のことであるが、世間一般は能の謡だと思っているようだ。大河ドラマで渡(哲也)信長あたりが仕舞めいた舞ぶりを見せるためかもしれない。
若き信長の一番恰好のよい場面は、何といっても、富田正徳寺で舅斉藤道三との対面場での「であるか」と、桶狭間出陣の朝である。その様子は、太田牛一が「信長公記」に伝えている。
「此時、信長敦盛の舞遊ばし候。人間五十年、下天(注)の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。 一度生を得て成せぬ者はあるべきかと候て、螺ふけ、具足よこせと仰せられ、御物具召され、立ちながら御食をまいり、御甲めし候ひて卸出陣なさる。」
この「敦盛」が「猿楽能」ではなく、「幸若舞」であることは、同書の尾張の僧天沢長老と武田信玄との間答によって明らかである。
「(信玄)その外数奇は何があるとお尋ね候(天沢)舞小うた数奇にて候と申し上げ候へば、幸若大夫来たり候がと仰せられ候間、清洲町人松井友閑と申す者、細細(さいさい)召しよせ、まはせられ候。敦盛一番の外は御舞ひ候はず候。人間五十年、下天の内をくらぶれば夢幻のごとくなり。是は口付きて御舞ひ候。」
能の「敦盛」ほ応永の新作、世阿弥の自信の作である。軍体の能は、「源平などの花鳥風月に作り寄せて、能良けれは何よりも面白し」(花伝物学条々)とあるように、「敦盛」は、笛を作り寄せ、カケリに代えて中ノ舞を舞わせる稚児修羅である。世阿弥の極付の真作であるが残念ながら信長とは縁がない。
では信長口付の愛誦曲「人間五十年」の『本説』と言うべき幸若舞の「敦盛」とはどうゆう曲か。話の順序として幸若舞について借り物の知識をひけらかさせて頂く。
幸若舞は、足利氏の一族桃井直詮(幼名幸若丸)によって創られたとされる舞曲て、別名「舞」と呼ばれた。曲舞系の一種である。
先学の研究によれば、幸若とは越前国丹生郡印内村の一聚落の呼称である。この地より出た舞々の一座に八郎九郎・小八郎・弥次郎等の名手が輩出、戦国武将の眷顧を受け士分に取り立てられ、足利末期から織豊期にかけて盛行した。この一派が「幸若」と呼ばれ「舞」を代表する名称となった。九州大江の「大頭(だいがしら)の舞」は幸若派の支流という。
現存曲は、平曲物・判官物・曽我物・その他(大職冠・百合若大臣等)約五十番、曲名は謡曲に共通するものが多いが、内容は大きく異なり、謡曲が謡物的であるのに対し、舞は語り物的、文体も一は韻文的、片や散文的である。
芸態は、二人立ちで囃子は小鼓一丁、シテ、ワキの役の分担はなく交互に謡う。
十数年前、テレビで「大頭の舞」の放映を見た。素襖烏帽子の三人立ちで、互いにサシたりヒライたり、拍子を踏んだりで、花イチモンメのような動きを繰り返し、小鼓を囃しながら朗誦するだけで、一向に面白くなかった。
さて「本説」たる幸若舞「敦盛」であるが、仲々の雄篇で、三段に構成されている。
第一段 組打ち 遺品(笛・ヒチリキ・恋文)の依託
第二段 父経盛への形見送り、一門悲嘆、経盛から熊谷への返し状
第三段 熊谷の発心・修行・往生
「人間五十年」の一節は、第二段熊谷発心の件りにある。この名文句、発心の文脈の中でどう納まっているのかを見、また「舞の本」のサンブルを知るために少し長いが引用する。
「さる程に、熊谷は(経盛の返し状)をよくよく見てあれば、菩提の心ぞ起こりける。(寿永四年三月)今月十六日に讃岐八島を攻めらるべしと聞いてあり、我も人も憂き世にながらえて、かかる物憂き目にも、また直実やあはずらめ。思えば此の世は常の住みかにあらず。草葉に置く白露、水に宿る月ょりなほはやし。金谷に花を詠し、栄花は先立って無常の風に誘わるる。南楼の月をもてあそぶ輩も、月に先立つて有為の雲に隠れり。人間五十年、化天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。一度生を受け滅せぬ者の有るべきか。是を菩提の種と思い定めざらんは、口惜しかりし次第ぞと思い定め」、以下熊谷は都に上り敦盛の獄門首を盗み取って荼毘に付し、遺骨を奉じ、黒谷の法然上人の許に投じて出家する。
以上見られるとおり、伜小次郎直家と同年の公達を我が弓にかけ、世の無常はやがてわが身と、命の儚さを身にしみじみと感じ、菩提の心を発し、遂に遁世を決意するまでの熊谷の心情を、語り物の型どおり、金谷(きんこく)の花南楼の月と詩句等を借りつつ文を飾っての結びの一節が「人間五十年」となる。無常を感じ菩提心を発し出家の決意をする文脈のなかに、見たとおリスンナリと納まっている一節である。「信長公記」永禄三年五月十九日の払暁におけるが如き光亡を、幸若熊谷の「人間五十年」は発していない。
何故か。
信長が、数ある舞曲のうち好んだのは、「敦盛」の一曲、しかも口付きに謡うのは、この「人間五十年」の一ふしである。
一度生を受けた人間の定命は五十年、「下天」の人々の寿命の十分の一に過ぎない。(注)その短き儚さを嘆き後世に安楽を求めるよりも、短さを短きままに直視し、その間を思うざま生き抜くべしとの思いが定まったのが、唯一愛誦の「人間五十年」の一節なのだ。
「死のふは一定、しのび草には何をしょぞ、一定かたりおこすのよの」清洲のカラオケバーで一晩中マイクを独占して、信長が熱唱していたであろうこの小歌への執着も、元来恋の気色の漂う歌だが、「死のうは一定」に賭けた生き方を歌い込めで「人間五十年」の一節への思入れと同じ心の働きである。
幸若も小歌も、どうせ死ぬ身の短か世をひたすら密度濃く生き抜くことが、五十年を「永く」生きる途なのだ、が信長の悟りである。
その悟りの実践が、先ず桶狭間であった。四万五千の今川勢に二千足らずで襲いかかろうとする信長は、五十年の生涯をその朝の一瞬に凝縮させたのだ。
こうみてくると、信長の「人間五十年」は「本説」幸若「敦盛」とは、正反対の生き方を指向しているようだ。文句を借りたというだけで、信長の「人間五十年」は、熊谷発心の「人間五十年」とは、生き方の方向が逆である。信長のそれは、幸若舞と言う母胎から産れでた「鬼子」である。
とすれば、その謡いが、幸若だ、猿楽だとあげつらうのは、信長に「あれはオレの人間五十年≠セ」と一喝されるのがオチであろう。

(注) 「下天」と「化天」
信長公記は、「下天」、幸若舞は「化天」と漢字表記している。「舞の本」の底本は「げてむ」とあるよし。どれが正しいか議論があるので注記しておく。仏教で人の輪廻する世界は、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天の六道とする。人間界の上位に位置する天界は、具舎論によれば、下から六欲天・色界・無色界に別れる。
下天(正しくは四天王衆天)=六欲天の最下位に位置し、四天王とその眷属が住む。この天界の一昼夜は人間界の五十年に当たり、住人の定命は五百歳とされる。
化天(正しくは楽変化天)= 六欲天の第五位に位置し、その一昼夜は人間界の八百年、住人の定命は八千歳とされる。
何れの天界に比べても人間界の定命は遥かに短く、正に夢幻の如くである。とすれば下天でも化天でも差し支えないようだが、学者にとっては放っておけないことらしい。 
山城道三と信長御参会の事 (大田牛一「信長公記」)
一、四月下旬の事に侯。斎藤山城道三、富田の寺内正徳寺まで罷り出づべく侯間、織田上総介殿も是れまで御出で侯はゞ、祝着たるべく侯。対面ありたきの趣、申し越し侯。此の子細は、此の比、上総介を偏執侯て、聟殿は大だわけにて侯と、道三前にて口々に申し侯ひき。左様に人々申し侯時は、たわけにてはなく侯よと、山城連々申し侯ひき。見参侯て、善悪を見侯はん為と聞こへ侯。上総介公、御用捨なく御請けなされ、木曾川・飛騨川、大河の舟渡し打ち越え、御出で侯。富田と申す所は、在家七百間もこれある富貴の所なり。大坂より代坊主を入れ置き、美濃・尾張の判形を取り侯て、免許の地なり。斎藤山城道三存分には、実日になき人の由、取沙汰候間、仰天させ侯て、笑はせ侯はんとの巧にて、古老の者、七八百、折日高なる肩衣、袴、衣装、公道なる仕立にて、正徳寺御堂の縁に並び居させ、其のまへを上総介御通り侯様に構へて、先づ、山城道三は町末の小家に忍び居りて、信長公の御出の様体を見申し侯。其の時、信長の御仕立、髪はちやせんに遊ばし、もゑぎの平打にて、ちやせんの髪を巻き立て、ゆかたびらの袖をはづし、のし付の大刀、わきざし、二つながら、長つかに、みごなわにてまかせ、ふとき苧なわ、うでぬきにさせられ、御腰のまわりには、猿つかひの様に、火燧袋、ひようたん七ツ、八ツ付けさせられ、虎革、豹革四ツがわりの半袴をめし、御伴衆七、八百、甍を並べ、健者先に走らかし、三間々中柄の朱やり五百本ばかり、弓、鉄炮五百挺もたせられ、寄宿の寺へ御着きにて、屏風引き廻し、
一、御ぐし折り曲に、一世の始めにゆわせられ、
一、何染置かれ侯知人なきかちの長袴めし、
一、ちいさ刀、是れも人に知らせず拵えをかせられ侯を、さゝせられ、御出立を、御家中の衆見申し侯て、さては、此の比たわけを態と御作り侯よと、肝を消し、各次第□に斟酌仕り侯なり。御堂へする□と御出でありて、縁を御上り侯のところに、春日丹後、堀田道空さし向け、はやく御出でなされ候へと、申し候へども、知らぬ顔にて、緒侍居ながれたる前を、する□御通り侯て、縁の柱にもたれて御座侯。暫く侯て、屏風を推しのけて道三出でられ侯。叉、是れも知らぬかほにて御座侯を、堀田遣空さしより、是れぞ山城殿にて御座侯と、申す時、であるかと、仰せられ侯て、敷居より内へ御入り侯て、道三に御礼ありて、其のまゝ御座敷に御直り侯ひしなり。さて、道空御湯付を上げ申し侯。互に御盃参り、道三に御対面、残る所なき御仕合なり。附子をかみたる風情にて、叉、やがて参会すべしと申し、罷り立ち侯なり。廿町許り御見送り侯。其の時、美濃衆の鎗はみじかく、こなたの鎗は長く、扣き立ち侯て参らるゝを、道三見申し侯て、興をさましたる有様にて、有無を申さず罷り帰り侯。途中、あかなべと申す所にて、猪子兵介、山城道三に申す様は、何と見申し侯ても、上総介はたわけにて侯。と申し侯時、道三申す様に、されば無念なる事に侯。山城が子供、たわけが門外に馬を繋べき事、案の内にて侯と計り申し侯。今より已後、道三が前にて、たわけ人と云ふ事、申す人これなし。
 
幸若舞「百合若大臣」

抑むかし我朝に、嵯峨の帝の御時、左大臣きんみつと申て並びなき臣下一人おはします。しかれ共、きんみつに御代を継ぐべき御子なし。かくてはいかゞ有べきと、大和の国初瀬の寺に詣でして、悲願尽きせぬ観音の利生を仰ぎ、三十三度の歩みを運び、申子をこそし給ひけれ、今に始めぬ観音の、願ひの潮もはや満ちて、程なく御子をまうけ給ふ。しかも男子にて御座ある。夏の半ばの若なれば、花にもよそへて育てよとて、百合若殿と名付申、いつきかしづき給ひけり。七歳にて御袴召し、十三にて初冠召し、四位の少将殿と申奉る。十七にては、程なく右大臣にならせ給ふ。御童名によそへて、百合若大臣と名付申。三条壬生の大納言あきときの卿の姫君を迎へ取らせ給ひ、並びなふこそかしづきけれ。
そも我が朝と申は、国常よりも始めて、さて伊奘諾と伊奘冉は、彼国に天降り、二柱の神と成て、第一に日を産み給ふ。伊勢の神明にて御座ある。その次に月を産む。高野の丹生の明神月読の御子、これなり。その次に海を産む。摂津の国に御立ちある蛭子の宮、夷三郎殿にておはします。その次に神を産む。出雲の国素戔鳴は、大社にておはします。その外、末社の部類等は、皆此神の総社たり。神の本地を仏とは、よくも知らざる言葉かな。根本地の神位こそ、仏とならせ給ひつゝ、衆生を化度し給ふなれ。其はともあらばあれ、そも我朝と申は、欲界よりもまさしく魔王の国となるべきを、神自ら開き、仏法護持の国となす。大魔王、他化自在天に腰を掛け、種々の方便めぐらして、いかにもして我朝を魔王の国となさんと巧むによりて、則天下に不思議多かりき。
此度の不思議には、む国の蒙古が蜂起して、四万艘の船どもに、多くの蒙古取り乗り、りやうさうとくわすい、飛ぶ雲、彼四人が大将にて、筑紫の博多に船を寄せ、攻め入とこそ聞えけれ。国に有あふ弓取、防ぎ戦ひけれども、彼らが放つ毒の矢は、降る春雨のごとくにて、四方鉄砲放ちかけ、天地を動かし攻め入れば、叶ふべきやうあらずして、みな中国さして引き退く。
そも我が朝と申は、国は粟散辺土にて、小さしと申せ共、神代よりも伝はれる三の宝、これあり。一つには神璽とて、大六天の魔王の押し手の判、是あり、二つには内侍所とて、天照神の御鏡なり。三つには剣宝剣とて、出雲の国簸上の山の大蛇の尾よりも取し霊剣なち。是みな天下の重宝にて、代々の御代に、異国より九夷興って欺け共、神国たるによりつゝ、亡国となす事もなし。今も天照御神の五十鈴川の末尽きず、伊勢へ奉幣奉り、内侍所の御託宣によりつゝ、討手を遣はすべしとて、諸社の奉幣、臨時の御神楽参らせ給ひけり。
其中にとつても、内侍所の御託宣は、かたじけなふぞ聞えける。七つにならせ給ひし乙女が袖に託して、鈴振り立て神託ある。「蒙古が向かふ日よりして、天下の神達、高天原に集会して、軍評定とり/\〃也。しかりとは申せ共、蒙古が大将りやうさうが諸庁に放つ毒の矢が、住吉の召されたる神馬の足に立。此傷癒さんそのために、神の戦を延べられたり。これによつて九夷ども、力を得たりと攻め入るなり。されども、彼らが振舞は、風吹かぬ間の花成べし。急ぎこの度凡夫の戦を早めよ。神も向かはせ給ふべし。凡夫の戦の大将には、左大臣が嫡男に百合大臣を向くべきなり。彼人討手に向くならば、諸神合力まし/\て、金剛の力を添ゆべきなり。もしさも有て下向せば、鉄の弓矢を持つべきなり。遅くて此事悪かりなん。急げ/\」と神託有て、神は上がらせ給ひけり。
御父左大臣は、御子の百合大臣を召して、「下向せよ」との御諚なり。神託と申、綸言又は命成ければ、吉日を選び、都出でと風聞す。扨神託に任せて、「鉄の弓矢を持つべし」とて、鍛冶の上手を召し寄せ、一所を清め鍛冶屋と定め、精誠を尽して作り立る。弓の長さは八尺五寸、周りは六寸二分。矢束は三尺六寸、矢数は三百六十三。根には八つ目の鏑を入、弓も矢も鉄にて、引ては返すべからずと、人魚の油をさし給ふ。国に有り合ふ弓取、みな当千の兵にて、一騎も残るところはなし。既に選ぶ吉日は、弘仁七年庚申二月八日に都を立つ。大臣殿の御勢は、三十万騎に記さるゝ。その外以下の軍兵は、百万余騎とぞ聞えける。
都を立て其日は、八幡の御前に、陣を取り、明くれば摂津の国難波潟昆陽野に陣を取り給ふ。去程に、王城の鎮守を始め奉り、衣冠を脱ぎ替へ鎧を召し、清麗微細の色の上には、夜叉羅神の形を現じ、雲に乗り、霞に乗り、一つは国家を守らんため、又は氏子を守護せん為、我氏子わが氏子、形に影の添ふごとく、先に立てぞ守らるゝ。さて神たちの議によりて、神風涼しく吹ければ、筑紫に陣取る蒙古共、この由を承て、「今度はまづ/\引けや」とて、四方艘に取り乗て、蒙古国へぞ引きにける。さてこそ天下も穏やかに、国も目出度おはしけれ。
大臣殿は、この由奏聞申されたりければ、内よりの宣旨には、「大臣がこの度の勧賞には、筑紫の国司を取らするぞ。急て罷り下れ」との宣旨なり。大臣殿は、九国に住まむもの憂さに、辞退申されけれども、「国の守りの為なれば、在国せでは叶ふまじ」と、重ねて勅使立ちければ、力及ばず、御台所を引き具して、急ぎ筑紫に下り、豊後の国府に京をたて、さながら都に劣らず住ませ給ふ。
又都には、公卿僉議まち/\たり。「蒙古が大将は四人と聞ふるを、せめて一人討取てこそ戦に勝ちたるしるしはあるべけれ。九夷は二相の者なれば、何とか思ふて引つらん。心の内も悟りがたし。先高麗国へうち越え、七百六十六国を攻め従へ、其大勢を率し、百済国を攻め靡け、其後む国を攻めん事、何の子細の有べき」と僉議して、筑紫へ勢をぞ越されける。大臣殿も吉日を選び、御出でとこそ聞えけれ。新造の大船百余艘、枝舟は数知らず。その外浦/\の漁船、かたせ舟、総じて船数は八万艘にて向かひけるに、一倍増してぞ向かはれける。扨大臣殿の御座船をば錦をもつて飾りたて、艫舳に斎ふ神/\〃、六十余州の霊神たち、斎垣、鳥居、榊葉、雲に光りを交へつゝ、烽火、太鼓を奏すれば、身の毛もよだつばかりなり。卯月半に、大臣は、はや御座船に召されけり。御台、名残を惜しみて、「同じ船に」と宣へども、「思ひ寄らず」との給ひて、押しこそ止め給ひけれ。さて船どもの艫舳には、五色の幣をはぎたてて、神風涼しく吹きければ、魔縁魔界も恐るべし。昔の譬へを引くときは、神功皇后の新羅を攻めさせ給ひし時、神集めして向かはれしも、かくやと思ひ知られたり。
む国に陣取る蒙古ども、天の色をきつと見て、二相神通の者なれば、討手の向くと悟をなし、「近ふ寄せては叶ふまじ。潮境へ討つて出で、防いでみん」と僉議して、四万艘の船どもに、多くの蒙古取乗、唐と日本の潮境、ちくらが沖に陣を取る。大臣殿の御座船をも、ちくらが沖へ押し出す。彼も恐れて近づかず。互ひに恐れて寄りもせで、五十余町を隔てつゝ、三年の春をぞ送られける。蒙古が大将りやうさう、一陣に進み出で、天を響かす大音にて、「我らが戦の手立には、霧を降らする習ひ有。霧降らせよ」と下知すれば、「承る」と申て、きりん国の大将、船の舳板に突つ立ち上がつて、青き息をつく。いかなる術をか構へけん、霧と成てぞ降りにける。初めは薄く降りけるが、次第/\に厚く成て、月とも日とも見え分かず、虚空長夜のごとくにて、一日二日にて晴れもせで、百日百夜ぞ降りにける。さしもに猛き弓取も、霧の迷ひに悪びれて、弓の本末をだにも知らざれば、引くべきやうもそなかりけれ。この霧ばかりに冒されて、蒼波の水屑とならん事憂かりなんとぞ嘆きける。大臣殿は無念至極に思し召し、「今ならでは、いつの時、神の力を仰ぐべき」と思し召されける間、潮を掬び手水とし、「南無天照皇太神宮、その外六十余州の大小の神祇、此霧晴らしてたび給へ」と、祈誓を申させ給ひければ、あらありがたや、祈誓の験はや見えて、伊勢の国荻吹く嵐に、霧も程なく住吉の、松吹く風も涼しくて、迷ひの闇も白山の、雪より早く消えければ、いつしか鹿島楫取も、喜びの帆をぞ上げにける。
大臣殿は斜めならずに御喜び有て、「さらば戦を早めん」とて、端船降させ給ひ、「態大勢は無益。思ふ子細のあるぞ」とて、十八人を引具して、蒙古が船へぞかゝられける。りやうさう、くわすいこれを見て、蟷螂が斧と勇みつゝ、鉾を飛ばせ、剣を投げ、四方鉄砲放ちかけ、天地を動かし攻めけれども、大臣ちつとも御騒ぎなく、蒙古が船へぞかゝられける。船の舳先につかせたる鉄の楯の面には、般若心経、観音経、金泥にて書かれたる尊勝陀羅尼の中よりも、社耶社耶昆社耶といふ文字が、三毒不思議の矢先と成て、蒙古が眼を射潰いたり。不動の真言に含鏝二つの文字が、剣と成て飛びかゝり、多くの蒙古が首を切る。観音経の名文に於怖畏急難といふ文字が、金の楯と成て、蒙古が矢先を防げば、味方一騎も手も負はず。さてこそ諸人力を得、鎮護の合戦手を砕く。大臣殿は御覧じて、「いつの料ぞ」と仰せ有て、鉄の弓の弦音すれば、雲の上迄響あり。三百六十三筋の矢を、残り少なく遊ばせば、りやうさうは討たれぬ。くわすい腹切りぬ。飛ぶ雲、彼ら二人は生捕られぬ。その外以下の蒙古ども、或ひは討たれ、腹を切て海へ入て死するもあり。四万艘に取り乗たる蒙古、多く討たれて、僅か一万艘になる。さのみは罪になるべしとて起請を書せ助け置き、本地へ戻させ給ひて、日本は戦に勝ちぬとて、八万艘の船内の喜び合ふ事限りなし。
大臣殿は、此まゝ御帰朝有ならば、めでたかるべき事どもを、この間の長陣に、精気を尽させ給ひ、傳(めのと)の別府を召して仰せけるは、「いづくにか島やある。上がりて身を休めん」との御諚なり。別府兄弟承て、端船降し尋ぬるに、波間に一つの小島有。玄海が島これなり。味方の船をば忍びやかに上げ参らせ、御敷皮を延べ、岩の角を枕にせさせ申、睡眠ならせ給ふ。大力の癖やらん、寝入て左右なく起きさせ給はず、夜日三日ぞまどろみ給ふ。 
さる間、別府兄弟は、徒然さの余りに、物語をぞ始めける。弟の別府の臣が、申けるは、「あらめでたや、この君、先度は筑紫九ヶ国を賜らせ給ひ、上見ぬ鷲と御座ありしが、剩この度は、多くの蒙古を攻め滅ぼし給へば、日本国を他の妨げなく賜らせ給はん事のめでたさよ。人の果報を願はば、みな此君のやうに」と申。兄の別府が、是を聞、「さればこそとよ、その事よ。君はさやうに富み給はば、我ら兄弟は、元のまゝにて朽ち果てむ事こそ口惜けれ。いざ、この君を討ち申、主なくして御跡を知行せん」と申。弟が是を聞き、「あら、勿体なの御巧みや候。此君の御恩を天山に蒙り、人と成し我等ぞかし。いにしへの御恩を忘れ申、我らが手にかけ申ならば、天命いかで逃るべき。御思案有べく候」。別府、此由聞くよりも、「扨は、汝は君と一体よな。遂にこの事洩れ聞えなば、我一人が科たるべし。よそに敵はなきぞとよ。和殿とと合ふて死なん」とて、刀の柄に手をかけて、飛んでかゝらむとす。弟がこれを見て、「げにと、さやうに思召給はば、例へば手にかけ殺し申さずとも、生きながら此島に捨て置き申て帰るならば、所は僅かの小島にて、十日ばかりも御命の何に長らへ給ふべき」。兄の別府が、是を聞き、「こは面白くも申されたるものかな。さらば、さやうに仕らん」とて、いたはしや、君をば玄海が島に捨て置き申、元の船に上がり、味方の軍兵共を近付て申けるは、「いたはしや、君は蒙古が大将りやうさうが放つ矢を、御着背長の引合せに受け留めさせ給ひて候を、薄手にて御座有しを、さりともさりともと、頼みをかけし験もなく、遂に空しくならせ給ひて候。御死骸をも陸に上げ、御台所の御目にかけたくは存候へども、諸神を斎ひたる御座船にて有間、いたはしながら海底に沈め申て候。さて有べきにてあらざれば、船出せよ」と下知すれば、味方の軍兵共は、ひとへに夢の心地して、我劣らじと押し出す。一艘二艘の船ならず、総じて船数は八万艘。一度に帆を上げ梶を取れば、天地も響くばかりなり。
この声どもに、大臣は夢うつ覚まさせ給ひて、「誰かある」と召さるれど、御返事申者はなし。「こはいかに」と思し召し、かつぱと起きさせ給ひて、あたりを御覧ありければ、人一人もなかりけり。召したる船を見給へば、帆を上げてこそ押し出せ。「さては別府が心変りを仕るか。例へば別府こそ心変りをするとも、などや以下の軍兵ら、我をば連れて行かぬぞや。あの船こちへ」と宣へども、皆船どもの音高く、聞きつけ申者もなし。せめて思ひの余りにや、海上に飛浸つて、息をはかりに泳がせ給へど、船は浮木の物なれば、風に任せて早かりけり。力及ばず大臣は、憂かりし島に又戻り、そなたばかりを見送りて、あきれて立たせ給ひけり。早離、速離が、古、海岸波頭に捨てられしも、これに似たりと申せども、せめて其は二人にて、語り慰む方もあり。所は僅かの小島にて、草木も更になかりけり。蒼天広遠うして、月の出べき山もなし。朝の日は海より出、又夕日も海に入る。露の身は頼みなや。夜更けて聞も波の音、岩間の宿を頼めてや、うち伏す方も濡れ勝る。稀にも言問ふものとては、波に流るゝ群鴎、渚の千鳥鳴く時は、猶又友も恋しくて、いとヾ明け行く夜も長く、暮行日影も遅かりけれ。露の命を草の葉に、宿すべきやうなけれ共、なのりそ摘みて命を継ぎ、憂き日数をぞ送らるゝ。いたはしゝ共なか/\に、申ばかりけり。
さる間、別府兄弟は、筑紫の博多へ船を寄せ、喜びの帰朝と風聞す。豊後の国府に御座有御台所は、珍しき曲共を構へさせ給ひ、御出遅しと待ちざせ給ふ所に、さはなくして、別府兄弟うち連れて、先御所様さして参る。御台所は御覧じて、「あれは、いつもの御先への案内申にこそ参りつらん」と、人して聞し召すべき事を遅く思し召し、自身御簾間近く御出有て、「珍しの兄弟や、何とて君は遅く見えさせ給ふぞ」。兄弟、しばし御返事申さず。重ねて「いかに」と尋ねさせ給へば、その時、兄弟涙を流す体をして、「申さんとすれば、涙落つる。申さずは知ろし召さるまじ。いたはしや、君は、蒙古が大将りやうさうと申者と、押し並べ組ませ給ひ、二人ながら海底に沈ませ給ひて、その後、又も見えさせ給はねば、その思ひのみ深ふして、戦に勝ちたる験も候はず。さりながら、御形見の物をば給て候」と、御着背長と鉄の弓、御剣を添へて参らせ上ぐる。御台、この由御覧じて、「これは不思議の事どもかな。敵と組ませ給はんに、いつのひまに御形見を止めて、海に入り給ふべきぞや。前後不覚の事を申ものかな。あはれ、この者兄弟を取て押さへて拷問し、召し問はばや」とは思へども、はかなき女性の御事なれば、心一つに腐しつゝ、簾中深く入り給ひ、形見の物を召し集め、抱きつかせ給ひて、流涕焦がれ給ひければ、御前中居の女房たち、一度にわつと泣きければ、よその袂に至るまで、しほるばかりにあはれなり。
其後別府兄弟、打連れて急都へ上り、喜びの帰朝と風聞す。「天下の繁昌世の聞え、何事かこれに勝るべき」と、上下ざゝめき給ひけり。しかりとは申せども、大臣殿御帰朝なき間、天下は闇のごとし。御父左大臣、御母御台所、「年たけ齢傾き、盛りの御子に後るゝ事は、枯木に枝のなき風情。つれなき命にかへばや」と嘆き給へど叶はず。内よりの宣旨には、「大臣が帰朝するならば、日本国をと思ひつれども、討たれぬる上、力なし。誰に勧賞を行ふべき。別府兄弟には筑紫の国司を取らするぞ。急ぎ罷り下り、後家に宮付き、大臣が孝養懇ろに問へ」との宣旨なり。別府承て、「案に相違の宣旨かな。日本国をと思ひてこそ、君をば振り捨て申たれ。珍しからぬ筑紫へ」とて、又こそ下りけるとかや。
別府、道/\案じけるは、「さもあれ、我君の御台所は、天下一の美人にてましませば、風の便りの玉章を参らせて見んずるに、承け引き給はばしかるべし。背き給ふものならば、柴漬け申さん」と、玉章懇ろにこしらへ、「これは都よりの御状なり」とて捧げければ、近所の女房取り次ぎ、御台所に参らせ上ぐる。御台所に参らせ上ぐる。御台所に参らせ上ぐる。御台所は、「都よりの御状」と聞召、なか/\上書をだにも御覧じあへず。急ぎ開いて見給へば、思ひの外に引かへて、別府が方よりの玉章なり。余りの事の悲しさ二つ三つに引裂き、かしこへがはと捨てさせ給ひ、「命あればこそ」との給ひて、御守刀を召し寄せ、自害をせんとし給へば、乳母の女房参り、御守刀を奪い取り申、「御道理にて御座候ふ。三条壬生の御所よりも、必ず御迎ひの参り候ふべし。命を全ふし給へ」と、とかくなだめ奉り、「返事をせぬ物ならば、不得心なる別府にて、いかなる所存か巧むべき」と、乳母の女房がそばよりも返事をする。「三年の後の新枕、我に限らぬ事なれ共、相撲草も取/\〃に、引けばや靡く習ひ也。ま見えむ事は易けれども、君のむ国へ討手に御向きの時、宇佐の宮に参り、千部の経を書読まむと、大願を立、七百余部は書き読みぬ。今二百余部は書き読まず。この宿願成就の後はともかくも」と書とめて、「これは御台所の御返事なり」とて返す。使は急立帰り、別府殿に見せ奉り、「あらめでたや。扨は靡かせ給ふべきや。宿願成就の間はいか程か有べき」と、百年を暮す心地して、明かし暮し待ち居たり。
其後御台所、数の女房たちを召し集めさせ給ひ、「命あればこそ、かゝる事をも聞くなれば、今も淵瀬に身を投げ、跡かきくれたく思へども、草の所縁も忍ぶゆへ、そよぐ心もよしあしと、君が面影の夢現に立ち添ふ時は、又死したる人とは見え給はず。恋は祈りのものと聞く。会ふまで命惜しき也。大臣殿此まゝ御帰朝なきならば、我も身を投げ空しくなるべし。さあらん時に、御形見を、山野の塵となさんより、尊き人に奉じ、跡をも問はせ申さん」とて、御手馴れの琵琶、琴、和琴、笙、篳篥、草子の数を取集め、尊き人に奉ぜらる。四十二疋の名馬ども、みな寺々へ引かれけり。三十二疋の鷹犬の絆を切てぞ放されける。此程有し鷹匠たちをも、思ひ/\に散らされけり。十二てうの鷹どもの足緒を解ひてぞ放されける。
十二てうのその中に、緑丸と申て大鷹の有けるが、君の名残を慕ひてや、立ち去る方もなかりけり。御台所は御覧じて、「あれは君の秘蔵の緑丸なるが、疲れに臨みてあればこそ、羽を垂れひれ伏しては居たるらめ。あれ/\女房達餌食を与へて放し給へ」と仰せければ、「承る」とは申されけれ共緒、いづれも皆女房たちの事なれば、餌飼うやうを知らずして、飯を丸めて供ふる。この鷹嬉しげにて、此飯をくはへ、雲井遥かに飛び上がり、羽うち延べて飛びけるが、大臣殿の御座ある玄海が島に飛び着きぬ。飯をば、とある岩の上に置き、我が身も傍なる岩に羽を休めてぞ居たりける。あらいたはしや。大臣殿は只うつせる影のごとくにて、岩間の宿を立ち出で、汀の方を見給へば、このほど見なれぬ鷹一もと、羽を休めてぞ居たりける。大臣あやしく思召、急ぎ立寄り見給へば、いにしへ手馴れし緑丸なり。余りの事の嬉しさに、急ぎ立ち寄り給ひて、「さて、大臣が此島に有とは、何とて知て来たりけるぞ。げに鳥類は必ず五通有とは、これかとよ。さてもこれなる飯は、御台所の御業かや。此飯を賜ばんより、など言伝文はなきぞ。豊後にいまだましますか。都へ帰り御上りか。淵は瀬となる習ひかや。いかに/\」と宣へば、心苦しき風情にて、涙ばかりぞ浮かべける。大臣殿は御覧じて、「今これほどの身と成て、此飯服してあればとて、いくほど命の長らへむ。鳥類なれ共、あの鷹の見る所こそ恥しけれ。食はでもあらで」と思し召すが、さもあれ、緑丸が万里の波を分越したる心ざしの切なきに、「いで/\さらば、服せん」とて、御手をかけさせ給ひければ、嬉しげにて、この鷹が、羽をたゝき爪をかき、御膝の回りにひれ伏して、ものいはぬ斗の風情なり。大臣殿は御覧じて、「あら、便りもなや、緑丸。汝が見るごとく木葉だにもなき島なれば、思ひの色をも書やらず。いかゞはせん」と仰せければ、この鷹嬉しげにて、又雲井遥かに飛上がる。大臣殿は御覧じて、「しばしもかくて候へかし。あら、名残惜しの緑丸や」と仰せければ、さはなくして、緑丸いづくより取りて来りけん、楢の柏葉含みて、大臣殿おに奉る。「蘇武が胡国の玉章を、雁の翼に言伝てしも、今こそ思ひ知られたれ。我も思ひは劣らじ」と、御指を食い切り、木葉にものをぞ遊ばしたる。単の落葉なりければ、たゞ歌一首書き付て押し畳み、丸めて鈴付に結ひつけて、「はや帰れよ」と有しかば、嬉しげにてこの鷹が、三日三夜と申には、豊後の御所に参りけり。
まだ早朝の事なるに、御台所は縁行直して御座ありしが、緑丸を御覧じて、「汝は虚空を翔るものなれば、至らぬ所よもあらじ。物言ふものにてあるならば、大臣殿の御行方を、などかは申さで有べきぞ。あら、うらやましの緑丸や」と仰せければ、この鷹嬉しげにて、御前さして参り、鈴付を振り上げ居直りたり。御台不思議に思し召し、詳しく見給へば、木葉に血の付いたるあり。急ぎ取り上げ見給へば、いにしへの人の言伝てに、一首の歌にかくばかり、
飛ぶ鳥の跡ばかりをば頼め君うはの空なる風の便りを
かやうに詠ませ給ひつゝ、「扨は此世に大臣は、いまだ長らへ給ふぞや。是こそ命のあるしるしなれ。紙なき方にてあればこそ、木葉にものをば遊ばしたれ。硯と墨筆なければこそ、血にてものをば遊ばしたれ。いざや、硯を参らせて、思し召されん事のはを詳しく書せ申さん」とて、紫硯、油煙の墨、紙五重に筆巻添へ、御台を始め参り、その数/\の女房たち、我劣らじと文を書く。取り集めたる巻物は、由なき業と思えたり。
鈴付に結ひ付け、「構へて今度は疾く参れ、緑丸」と仰ければ、この鷹嬉しげにて、又雲井遥かに飛び上がり、羽うち延べて飛びけるが、紫硯の習ひにて、潮の満干に従つて、時々重く成ほどに、次第に引に引かれつゝ、そのまゝ海に浸りて空しくなるぞ無残なる。
島にまします大臣殿、鷹だにも今は通はねば、何に慰み給ふべきぞや。「此鷹の又も参らぬは、もしも別府が方へ洩れ聞え、殺されてもあるやらん」と、時/\〃通ふ息だにも、限りの色と見えさせ給ふ。猶も命の捨てがたくて、海松布、青苔取らんとて、岩間の宿を立ち出で、汀の方を見給へば、波うちかゝる岩間に鳥の羽少し見ゆる。大臣怪しく思召、急ぎ取り上げ見給へば、此程通ひし御鷹なり。余りの事の悲しさに、かしこにどうどまろびゐて、鷹を御膝の上にかき乗せ、「あら、無残の有様や」と、詳しく体を見給へば、沈むも一つ理なり。紫硯、油煙の墨、その数/\の文共が、潮に乱れて見え分かねども、心静かに見給へば、とり/\〃にこそ見えにけれ。「これや女性のはかなきとは。紙、墨、筆だに有ならば、是ほど多き巌にて、いかほども物をば書くべきに、硯を付くるは何事ぞや。さても此鷹が、鬼界、高麗、契丹国へも行かずして、又この島に揺られ来て、二度物を思はする。必ず生を受くるもの、魂魄二つのたましゐ有。魂は冥途に赴けば、魄はうき世にあると聞。我も命つゞまりて、今を限りの事なれば、冥途の道のしるべをして、連れて行けや、緑丸。我をば誰に預けて、さて、何となれと思ふぞ」とて、此鷹に抱きつき、流涕焦がれ給ひけり。彼大臣の御嘆き、君に見せばやとぞ思ふ。
これは、大臣殿島にて御嘆き。豊後の国府に御座ある御台所の御嘆きは、なか/\申ばかりもなし。せめて思ひの余りにや、宇佐の宮に参り給ひ、七日籠り願書を書て籠めさせ給ふ。「帰命頂礼宗廟神。もしも大臣殿帰朝の笑を含ませ給ひ、二度御目にかゝるならば、宇佐の造営申べし。玉の宝殿磨き立、黄金の戸びらを延べ開き、瑠璃の高欄やり渡し、車(元字は石篇)渠(元字は石篇)(しゃこう)の擬宝珠磨き立、砌の砂に黄金を混ぜ、壁には七宝を鏤めて、池には玉の橋をかけ、斎垣は光耀鸞鏡し、回廊と拝殿、四つの楼門、玉の眉(元字は木篇)(まぐさ)を磨くべし。棟梁の棟を浮きやかに、神殿廂を広/\〃と、いかにも瓔珞結び下げ、華鬘の幡は雲を分け、紙銭幣帛、獅子狛犬、黄金をもつて磨くべし。大塔と鐘楼をいかにも高く、雲の上に光を放つて造るべし。四季の祭礼、別、臨時、花の徭役をなすべきなり。九本の鳥居を高く立、極楽浄土を学ぶべし。極楽外に更になし。諸神の所居、浄土とす。歩みを神に運べば、神道よりも仏道に帰する方便、これなり。その海底の印も、今も絶へせず新なり。報賽神にいたせば、菩提の種を包むなり。そも/\神と申は、神足たるを姿とし、正直たるを心とす。塵の中に交はり、我らに縁を結べり。本願限りあるならば、我をば漏らし給ふなよ。敬白」と書き止めて、くる/\とひん巻ひて、神前にとうど置、七日七夜まどろまで、至誠心にぞ祈らるゝ。
まことに神の誓ひにや、壱岐の浦の釣り人、釣りに沖へ出でたるが、南の風に放されて、北の沖へ流れ行き、大臣殿の御座ある玄海が島に吹きつくる。船人どもは島陰に上がり、いとゞ物憂き折節に、大臣殿を見付申、「けうがる生物有や」とて、かなたこなたへ逃げ去つて、怖ぢて左右なく近づかず。大臣殿おは御覧じて、「あら、口惜しや。さてははや、我が姿人間とは見えざりけるや。何と成行事共」とて、御涙にむせばせ給へば、涙を流す体を見て、ちつと心が剛に成て、「さもあれ、汝はいかやう成生物ぞ」と問へば、大臣嬉しく思召、「有のまゝに語らばや」と思し召すが、「もしも別府方の者にてもありもやせん」と思召、偽り、かうぞ仰ける。「是は一年百合若大臣殿、む国へ討手に御向きの時、舟夫にさゝれて、向かひたりし者なりしが、不思議に船に乗り遅れ、この島に捨てられて候。大臣殿御帰朝の後は、はや三年になるかと覚えたり。しかるべくは、御芳志に我を日本の地に着けてたべ」と仰せければ、船人共が是を聞、「あら不便の次第やな。公事する身には何はにつき、物憂き事の多ひぞや。人の上とも思はねば、助けて、さらば戻らふずが、風の心を知らぬなり。我人果報めでたくは、順風次第に出すべし。有とも運が尽き果てなば、なをしも遠く放さるべし。只果報を願へ」。大臣、「げにも」と思し召し、潮を掬び手水と召され、「あら、うらめしや。何とて日本の仏神は、我をば捨て果て給ふらん。観音経の名文に、「入於大海。仮使黒風。吹其船舫。飄堕羅刹」。例ひ船舫、飄堕羅刹の国に赴くと、我一人が祈念によつて、本地の岸へ着けてたべ」と祈誓申させ給へば、誠に仏神も不便に思し召さるゝか、八大竜神波風止め、俄に順風吹き来る。帆柱の蝉口に、八大竜神こと/\〃く面を並べ座せられたり。船の舳先には不動明王の降魔の利剣を引つ提げて、金剛堅固の索の縄、悪魔を寄せじと守護せらるゝ。含(元字は口篇)鏝二の御眦、艫には広目、増長天、伊舎那天、大光天と羅刹天、風天、水天、火天等、雨風波を静めんため、上界下界の竜神、邪心の毒を止めて、夜日三日と申には、筑紫の博多に吹きつくる。有がたし共、中々に申ばかりはなかりけり。
船人、申けるは、「これ迄届けたる忠に、我にしばらく宮使、恩を送れ」と言ひければ、大臣、「げにも」と思召、ならはぬ業をし給ひて、恩をぞ贈らせ給ひける。国内通計の事なれば、別府の臣が伝へ聞、「壱岐の浦の釣人が、けうがる者を拾い来て、養ひ置くと伝へ聞く。急ぎ連れて参れ」と御使立つ。その頃、靡かぬ草木もなし。やがて具してぞ参りける。別府立ち出で、つく/\〃見て、「あら、けうがる生物かな。鬼かと見れば、鬼にてもなし。人かと見れば、人にてもなし。たゞ餓鬼とやらんはこれかとよ。我にしばらく預けよ。都へ具して上り、もの笑ひの種となさん」とて押し止め、門脇の翁に預け、やがて扶持をぞ加へける。彼門脇の翁と申は、年比大臣殿に召し仕へし者なれども、御顔にも御足手にも、さながら苔のむし給ひ、御背も小さく色も黒く、有しに変る御姿を、いかでか知り申べき。され共、情深き夫婦にて、「あら、無残と痩せ衰へたる餓鬼や」とて、重ねて扶持をぞ加へける。
ある夜の寝覚に、祖父が祖母に語りけるは、「扨も先祖の君、百合若大臣殿、む国へ討手に御向き有て、又も御帰朝なき間、その思ひのみ深ふして、そゞろに年も寄るぞとよ。さても御台所は、国府の庁屋にましますよな」。祖母、此由を聞よりも、「さればこそとよ、その事よ。別府殿の、御台に心をかけさせ給ひ、御玉章のありかども、更に靡かせ給はねば、無念至極に思し召し、此二三日先ほどに、まんなうが池に柴漬け申けると聞く。是につけても、憂き命つれなく久に長らへ、かゝる事をも聞くや」とて、せきあへずこそ泣にけれ。大臣殿は物越しにて聞召、「あら、何ともなの事どもや。今迄命の惜しかりつるも、君にや会ふと思ふゆへ。今は命を惜しからず。明けなば急尋ね行き、まんなうが池に身を投げて、二世の契りをなさばや」と、思ひ入てぞおはしける。其後、祖父が声として、「今より後は、いま/\しうな泣そ」とこそ申けれ。祖母、この由を聞よりも、「あはれ、げに世の中に心強きは男子なり。祖父のやうにつれなしこそ、主の別れも悲しまね。我ら、日比の御情、只今のやうに思はれて、いかに云共、泣かうぞ」とて、又さめ/\〃と泣き居たり。祖父、此由聞くよりも、「あら、やさしの祖母御前や。さほど君を大事に思ひ申さば、物語をして聞すべし。構へて口ばし利くな。恐ろしや。彼別府殿の後見の忠太は、翁が甥にてある間、御台所の柴漬けられさせ給はん事を、祖父かねて承り、是をばさて、いかゞはせんと思ひ、愛子のひとり姫、御台所と御同年に罷り成を、「御命に替るべきか」と尋ねてあれば、姫は斜めに喜ぶで、「男子女子には限り候ふまじ。御主の命に替らむこそ、幸いにて候へ。忍びやかに」と申程に、祖父余りの嬉しさに、姫をば御台所と号し、まんなうが池に沈め、姫が居たりし帳台に、君をば隠し申たれ。形見を取り持ちて、「これは夢かや、現かや。さりながら、君を助け申こそ、嘆きの中の喜びなれ。しかりとは申せ共、人間に限らず、生を受けぬる類の、子を思はぬはなかりけり。三界一の独尊釈迦牟尼如来だにも、御子の羅候(元字は目篇)羅尊者をば、又密行と説き給ふ。金翅鳥は子を悲しみ、修羅の脳に嘴を立つる。夜の鶴は子を悲しみ、連理の枝に宿らず。野牛仔牛を舐り、野外の床に伏すと聞く。生きとし生き、生を受けぬる類の、子を思はぬはなきものを、我身を分けしひとり姫、主の命に替へし事、恨みとは更に思はねど、あら、惜しの姫や」とて、流涕焦がれ泣ければ、祖父も共に泣く時こそ、大臣殿は聞召、ともに連れて忍び音の、せき止めがたき御涙、やるかたなふぞ聞えける。大臣殿は、「唯今も立出、名乗て聞かせばや」と、思し召されけれ共、しばしと思ふ所存にて、時節を待たせ給ふ。
かくて其年もうち暮れ、新玉月にもなりければ、九国の在庁ら、弓の頭を始め、別府殿を祝ふ。いたはしや、大臣殿には、御顔にも御足手にも、さながら苔のむし給へば、苔丸と名付申、矢取りの役をぞ指しにける。大臣、弓場に立たせ給ひ、「こゝにて運をきはめばや」と思召、「あそこなる殿の弓立の悪さよ。こゝなる殿の押し手の震う」と、さん/\〃に悪口し給ふ。別府、この由聞くよりも、「いつ汝が弓を射習ふて、さかしらを申ぞ。もどかしくは一矢射よ」。大臣殿は聞召、「射たる事は候はね共、余りに人々の射させ給へるが醜きほどに、申て候」。別府聞て、「さほど、汝が射ぬ弓をさかしらを仕るぞ。是非射じと申さば、宇佐八幡も御知見あれ。人手にはかくまじ。直に切て捨つべし。とく射よ」と責めかくる。大臣殿は聞召、「仰にて候程に、一矢射たくは候へども、引くべき弓が候はず」。別府聞て、「やさしく申ものかな。強き弓の所望か。又、弱き弓の所望か」「同じくは、強き弓の所望にて候」「易き間の事」とて、筑紫に聞ゆる強弓を、十張揃へて参らせ上ぐる。二三張押し重ね、はら/\と引折つて、「いづれも弓が弱くして、事を欠ひた」と仰ければ、別府これを見て、「きやつは曲者かな、其儀にてあるならば、大臣殿おの遊ばしたる鉄の弓矢を射させよ」「尤然るべし」とて、宇佐八幡の御宝殿に崇め置く、鉄の弓矢を申下ろし、大臣殿に奉る。
いつしかもとより御執らし、懸りの松に押し当てて、ゆらりと張つて素引きして、鉄の御調度をうち番ひ、的には御目をかけられずし、歓楽して居たりける別府の臣に目をかけて、大音上げて仰せけるは、「いかにや九国の在庁ら、我をば誰とか思ふらん。いにしへ、島に捨てられし百合若大臣が、今、春草と萌え出る。道理に任せて我や見ん。非道に任せて別府や見ん。いかに/\」と有しかば、大友諸卿、松浦党、一度にはらりと畏まり、君に従ひ奉る。
別府も走り降り、「降参なり」とて、手を合する。いかでか許し給ふべき、松浦党に仰付、高手小手に縛め、懸りの松に結ひ付け、自身立出給ひて、「汝が舌の囀りにて、我に物を思はする、因果の程を見せん」とて、口の内へ御手を入、舌をつかんで引抜いて、かしこへがはと投げ捨て、首をば七日七夜に挽首にし給へり。上下万民おしなべて憎まぬ者はなかりけり。弟の別府の臣をも、同じごとく罪科あるべかりしを、島にて申言葉の情を、有のまゝ申。「さらば、汝をば流罪にせよ」とて、壱岐の浦へぞ流されける。
その後、大臣殿お、国府の庁屋へ移らえ給ふ。御台、この由聞召、ひとへに夢の心地して、袂を顔に当てながら、涙とともに出で給ふ。会はぬが先の涙は、理なれば道理なり。会ふての今の嬉しさに、言の葉も絶えてなかりけり。何のつらさに我が涙、押ふる袖に余るらん。御台所は、宇佐の宮の御宿願の由を御物語ありければ、大臣斜めに思召、立てさせ給ふ御願は、事の数にて数ならず。金銀珠玉を鏤め給ふ。
其後、大臣殿、壱岐の浦の釣人に、「尋ぬべき子細あり。急ぎ参れ」と御使ひ立つ。いかなる憂き目にか会ふべきと、只鬼に神とる風情にて、国府の庁屋へ参り、庭上にひれ伏す。大臣殿は御覧じて、「命の主にてある者が、何とて恐れをばなし給ふぞ。それへ/\」と仰有て、広縁迄召し出され、「嬉しきをも辛きをも、などかは感ぜらるべき」と、御杯に指添へて、壱岐と対馬両国を浦人の下し賜びにけり。門脇の翁を召し出させ給ひて、筑紫九ヶ国の荘政所賜び給ふ。翁が姫のために、まんなうが池のあたりに御寺を立給ひ、一万町の寺領を寄せさせ給ひけるとかや。緑丸が孝養に、都の乾に神護寺と申御寺を建て給ひけり。鷹のために建てたれば、扨こそ、今の世までも高雄山と申なれ。
大臣殿の御諚には、「筑紫に住居をするならば、もの憂き事もありなん」と、御台所を引具して、都へ上り給ひけり。網代の輿は十二挺、張り輿は百余挺、大友諸卿、松浦党、御供を申さるゝ。昨日迄は賤しくも苔丸と呼ばれ給ひしが、今日はいつしか引きかへて、七千余騎を引き具して都へ上り、父母に対面有て後、やがて参内申さるゝ。御門、叡覧まし/\て、「いかに珍しや。先度別府が上り、討たれぬる由申せしを、誠ぞと思ひて、勅使を下す事もなし。不思議の命長らへ、二度参内する事、一眼の亀のたまさかに浮木に会ふがごとく」とて、日の本の将軍になさせ給ふぞ有がたき。さてこそ、天下太平、国土安穏、寿命長遠なりとかや。 
 
猿楽伝記   巻の上(一部)

夫舞楽のはじめは、天照大神天の磐戸に隠れ給ふを歎き、猿田彦の命神楽を奏し給ふよりはじまる、聖徳太子漢楽を以て倭楽を定め、是より八音備り、舞楽調ふ、其舞楽を略し用るより、猿田彦の三字を分けて、猿楽、田楽、彦の舞と号す、猿楽と名付るは、五穀成就の祭の為、笛鼓の音曲、烏帽子をかむり、水干を着して舞、うたふ物はとう/\たらりと云、今の式三番に用る祝言の謡也、土田に限らず、田舎の長が家毎にも是を祭り、田畠の豊に実のる為の祝也、此謡物をうたふ時、心中に祈願の呪文を唱ふ、是神道より伝授也、(中略)
○村上天皇の御宇より二百年後、堀川院の御宇、承長元年洛中にて田楽時行はじまるより、是を世に翫ぶに付、舞と云物始る、男舞、女舞ありて、其謡物は、古き物語の文段の句続きの処に章を付て、ゑぼし、水干を着し、笛鼓を以て囃す、後世の大頭といふ物此姿也、其女舞の帯剣を止め、狩衣にて姿を優にして、扇を以て一曲を上る、白拍子と名づく、妓王、妓女、仏御前等の遊君也、
○後鳥羽院の御宇、亀菊といふ妓女を其始として、妓王、妓女、仏等、皆此類也、桃井幸若丸、叡山の児童として在しが、其舞の文段を、居ながら吟声を付て語る、是賎からず面白し、とさすがなる人も習ひ謡ふより、今の幸若の舞といふ物世に広まり、立て舞、又笛鼓の鳴物も止たり、是より、男舞、女舞の流儀、大頭も世に廃り、白拍子もいつとなく面白からず、真似の舞拍子を仕出し、歌舞伎河原芸となる、
○後嵯峨院の御宇に、往昔村上帝の御文庫に納置給ひし十六章の謡物の次第、叡聞に達し置たるを思召出され、謡舞べき物なりとて、上代よりの楽人の頭人たる大和円満が家の者に賜ふ、故に音曲の鳴物を添て、今の能を仕始たり、此円満の家といふは、聖徳太子倭国の音楽舞楽を定め給ふ時、川勝大臣を以て其事に預らしめらるゝに付、子孫へ伝へて代々楽頭たり、故に今円満に謡舞べき由を仰有し、川勝大臣の時より、円満猿楽の家にして、とう/\たらりの翁渡し家に伝るを以、其吟声にて十六章の謡物を諷ひ、其謡を囃す、笛鼓にて是を囃して、舞曲を取立たり、其吟声は、僧家に伽陀と云呪讃の吟声を元として、移し来る処也、是太子の神道習合を始給ふによる也、是より能といふもの始、則猿楽と是を呼来る、一説に、元ト神楽より起る処なれば、神楽の略にて申楽ともいふ、(但、神の字の示偏を取たる物なりといふ、)
又一説に、猿楽、田楽と同じ類也、則田の字の上下を引延して、申楽と名づけたりともいふ、
徂徠の可成談に曰、たう/\たらりやらるろうといふは、楽の譜成べし、陀羅尼といふは僻言ならん、
又曰、能は元の雑劇を擬して作れる也、元僧の来りて教たる成るべし、是ばかりの事も、此国の人の自ら作り出せるにてはあらじ、又曰、能に神の形チをよそほへるに唐冠を着せたるは、我国の昔を伝へたるやう也、末社の神のかむりたるものも、昔かゝる服の有成べし、聖徳太子定め給へる十二冠は、かゝる物なるにや、
翰林葫蘆集に曰、秦川勝に申楽始る、
推古帝の朝、厩戸皇子(聖徳太子の御事)天神地祇をさいれいし、安国の政を敷く、依て六十六番の曲を作り、川勝に命じ、紫宸殿の前にて大優の技をさしむ、太子、此神楽の神の字を分けて、申楽と名付て、説文に申も又神なりといへり、大歳神申の方にある時は、猿を以て是を配す、よつて猿楽と云、神楽を和らげ、面白く戯れをなすを俳優と云也、宇治拾遺に云、内侍所御神楽の夜、職事家綱を召て、今宵珍らしからん申楽つかふまつれと有り、源氏乙女の巻にも、さるがくがましくとあり、 (中略)
○観世太夫は伊賀の服部の一党の者也、足利将軍東山殿に仕へて、観阿弥と云同朋也、渠に仰せて猿楽の業を学びはじめ勤しむ、其子世阿弥、其子音阿弥とつゞき、同朋にてこれをつとむ、其子俗にて観世三十郎と号し、猿楽となり、金春が聟と成、弥芸修行熟し、子孫相続す、太閤御代世間に繁昌して、能太夫余多ありといへども、金春、観世最上たるも、右の訳故也、太閤の御時、権現様御在勤の後、御休息として関東御下向の時、いづれの太夫成とも江戸へ被2召連1、御慰の御能可レ有、と太閤の仰により、然らば観世太夫を御連被レ成度由御願にて、御借り被レ成候事、是常々御出入仕りし故也、夫より毎度江戸へ下向仕候に付、天下とならせ給ひては、直に御家の太夫と成たり、入道して宗雪と号す、宝生太夫が子を養子として家を譲り、三郎といふて家督す、五山相国寺にて大能あり、観世が家の石橋両度あり、初度宗雪、再度は三郎勤る、脇は観世小次郎也、後年、三郎御料有レ之、没収追放せられ、蟄居の内病死す、其子鬼若被2召出1といへども、父没収に付家業退転し、伝授の書物は有といへども、其習なし、依レ之福王が家より惣ての事を伝授す、福王が家は観世と同流にして、しかも又観世が座の脇の家なれば、謡の章も替りなし、此鬼若家を興し、後入道して黒雪と号す、其子を左近太夫といふ、左近壮年にして病死す、宝生将監が次男を家督として、左門と号し、左近太夫が子久米之介を其子として、後の家督を渡すべしと定む、久米之介成長に及び、相共に勤し所、常憲院様御小姓に被2召出1、藤本源右衛門と改号し、其後筑後守に任ず、依レ之、左門には観世三左衛門が子三十郎を家督に定、織部と改号せしめ、則家を渡したり、是は子たる諸太夫と成、公辺勤仕せし処、猿楽として徘徊迷惑に存ずる故にて、隠居して服部十郎左衛門と名乗、後年におよび、薙髪して園雪と改しが、老後に及び眼盲たり、其実子を服部三郎四郎といふて、ツレの家たり、其子三十郎家督を得て、大納言家重公(惇信院殿)の御能の御師範たり、惣じて猿楽の旧家を御糺被レ成、四座と御定に就ては、御家の太夫元被2仰付1たるものなれば、観世を以四座の第一とし、金春旧家の最上なれば、第二に立らる、 (中略)
○宝生太夫が家は、元観世が一族、是も服部氏にして、其元祖は観世が弟子也、其後観世が庶子を送り、家を相続せしめかゝる事故、観世が流儀に元来は替る事なし、古将監若き時は、元祖七太夫上手なれば、是にたよりて芸をみがきたり、達人なれば、古来よりの上懸りに、七太夫流の下掛りを加へて、己が作意を交、新規一流のものとなり、其加へ取交し事をのけて見れば、観世流にして、謡も左の如し、将監才発の上手なれば、世に触るを以、其家に道成寺の伝なき故、其時分の囃子方の名人どもへ頼み、一流の道成寺を興立せり、(中略)金春、金剛は足利将軍の太夫にして、秀吉公、御当家様迄の太夫也、中頃信玄の太夫にして、当御代別て御太夫也、大蔵も信玄の太夫也、日吉太夫は信長の太夫なり、
○金春太夫が家は、猿楽の開基楽頭大和円満が子孫也、円満が時、能数六十番を定む、後世に至り、其数次第に増益して余多に及ぶ、中頃は是を業とする者国々より出て、弘治、永禄の頃には、太夫たる者十六家あり、此十六家の流儀を、元祖七太夫には不レ残伝授したりと云、十六家今は退転して、日吉、梅若、春日等のみ、家衰る儘にて残れり、かゝる訳を以、金春が家にて今に至り六十番の外を用ひず、猿楽といふは前段書記したる通にて、金春が家根源なる故に、翁渡しの伝授、今に至りて代々子孫に伝来す、此伝授、元来習合の神道を以執立たる物なれば、観世は吉田殿神道の御家なれば、是へ参り、神道の旨を承りしを以、観世が家の翁は、唯一の神道なりといひ伝ふ、宝生は代替りには上京し、吉田殿へ参り、其意味を受得す、是を、観宝は吉田殿より翁渡しの伝授を請し、と世にいひならはし、聖徳太子の神道は、今の習合也、其時代の神道の教に、唯一習合の差別なき故也、金春が家、川勝大臣より近代の八郎迄五十一代に及ぶ旧家也、八郎が父を七郎と云、其父を太夫といへり、渠に男子余多あり、嫡子八郎家を継て、後及蓮といふ、次男金春源左衛門、脇一色を勤む、是より脇師の家別に立、三男大蔵太夫と号す、渠は武田信玄の太夫となり、甲州に行、其子後大久保十兵衛と号し、御家へ被 召出 御群代を勤、石見守に任ず、死後訳有て滅亡す、三男大蔵源左衛門大鼓の家と成、入道と号す、四男大蔵弥右衛門狂言師となる、 (中略)
○金剛太夫は坂戸家と云ふ、円満より六代目の家にて、大和の内坂戸四百五十石を領す、天正の頃の金剛は、小牧合戦に三好秀次の軍に従ひ、敗走の時は、只一人秀次の供して討死す、其子なく、千葉の家の支流といひ伝ふ、渠関ヶ原の時、石田三成に属せしに付、没収せられ、代々の坂戸領地を失ひしが、芸者の事なれば、被2召出1、御蔵米三百俵を賜る、 (中略)
○喜多七太夫家は旧家にあらず、慶長年中、元祖七太夫は鼻金剛が弟子にて、其父は堺の蛇谷に住せし翁屋也、廿七歳の時大坂御合戦にて、(夏御陣也)金春の大太夫と共に大坂へ籠城し、五月七日、真田左衛門佐に伴て、将軍家の御備へ伐込、大太夫は馬上、七太夫は歩行也、大坂落城に及び、両人ともに落去て、大太夫には藤堂和泉守常々目を懸らるゝに付、藤堂方へ走り入て隠れたり、七太夫は大和の方へ逃行しが、其道にて柳生但馬守通り合せしが、是を頼まんと行向ひたり、但馬守甚叱りて退かしむるを以、夫より因みの者を尋て是に便り、隠れ居たり、将軍家には渠が功なる事を御憎みにて、見付次第成敗せよと仰有しかども、両人ともによく隠れ課せり、其後御能の度毎に渠が芸を思し召出され、太閤御代渠が業を上方にて毎度御覧有しに、其内に清経の能すご/\と還幸なし奉るとの所の所作、下間少進と大太夫と七太夫が三人仕分たる事共を思召考へられける時、藤堂には大太夫が恩免の事を相願ふを以、御免にて被2仰出1けるは、七太夫は何方に罷在ぞ、御能被2仰付1御覧有度と上意の時、柳生申上けるは、其渠が居所当所御座候得ば尋見申さんや、と申上らるに付、尋来れとの仰を蒙り、大和在所辺にて尋出し、則呼下すを以被2召出1、七太夫義、元芸を鼻高金剛に習て上手となるを以、金剛と一所に可2罷在1由被2仰付1同居す、数年の浪々なるを以、一世一代の勧進能を勤むべしと、御免にて勤レ之、千両の金子を得たり、 (後略) 
 

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