争いの昭和史

昭和史 / 血盟団事件五一五事件神兵隊事件青年将校と北一輝永田鉄山殺害事件二二六事件宇垣内閣流産仏印進駐事件・・・
かくて玉砕せり / 序説敗北の真相米勝利の開始点日米戦闘力東京特急山本元帥の怪死アッツ島戦1アッツ島戦2ギルバート諸島戦タラワ島戦タラワ島の戦慄マーシャル群島侵攻トラック島破壊サイパン島戦1サイパン島戦2日本艦隊の潰走サイパン島の最後テニアン玉砕グアム玉砕硫黄島玉砕沖縄陥落・・・
太平洋戦争 / 評価と反省神話と迷信太平洋戦争の前夜日米会談決裂真珠湾奇襲の黒い霧真珠湾論争の審判真珠湾奇襲の功罪と遺産・・・
北一輝 / はじめに帝国主義と国家社会の進化と個人公民国家天皇機関論社会主義運動論国体論辛亥革命中国革命認識東洋的共和政論亜細亜モンロー主義改造法案国家改造国内改造の基本構想クーデター思想猶存社・・・
諸話 / 血盟団事件1血盟団事件2血盟団事件判決文五一五事件海軍青年将校犬養毅問答無用神兵隊事件北進か南進か北一輝1北一輝2北一輝の思想北一輝と二二六事件天皇機関説北一輝論の感想北一輝3相沢事件1相沢事件2永田鉄山死刑判決太平洋戦争を止められた永田鉄山の逸話​二二六事件1二二六事件2226事件の背景と影響226事件の原因226事件の悲劇226事件若者達の回想青年将校「父母への手紙」立憲政治の危機仏印進駐東南アジアと日本日本改造法案大綱亜細亜主義と北一輝皇道派と統制派・・・
陸海軍歌 / 明治大正昭和1-11昭和12昭和13昭和14昭和15昭和16昭和17昭和18昭和19昭和20「君が代」古関裕而・・・昭和軍歌大正軍歌明治軍歌・・・
 

雑学の世界・補考

朝日新聞記者の見た昭和史

序   
軍縮と、金融恐慌と、農村不況と、社会不安の中に発足した昭和日本の歴史は、政党の腐敗と軍部の決起によって動乱化し、満州事変、上海事変、五・一五事件、二・二六事件、日華戦乱を相ついでまき起こして、急速調で戦争への道を突進し、ついに、太平洋戦争の火ぶたを切ったのであった。この昭和の二十年こそ、実に血みどろな日本民族の相剋と闘争と侵略と受難の大史劇であり、また戦後の今日よりかえりみると、まさに民主日本誕生の偉大な陣痛であった。私はこの風雪二十年の昭和日本を彩るいくつもの歴史的事件を、現地でなまなましく目撃した一人のジャーナリストとして、とくに日本の興亡を賭した真珠湾の奇襲攻撃の運命の日をアメリカの首部ワシントンで迎えた奇縁の戦史研究家として、いまここに、私の見た昭和動乱史を綴ることは、意義のある使命だと思っている。それは今日の日本のもろもろの苦難も矛盾も、また将来の日本の限りない希望も不安も、それはすべて昨日の日本の――すなわち風雪二十年の因果応報であるからだ。戦後三十年余を経た昨今、大小さまざまの昭和史がすでに刊行されて、若い世代の読者の間に熱心に迎えられているようである。しかし、それは大抵、当時の新聞記事の切り抜きや回想録の抜粋などを寄せ集めて、適当にイデオロギーで粉飾した論文調のものであり、当時の息づまるような時代の雰囲気を呼吸したことのない、いわゆる戦後に育った若い史学者連中の合作、研究によるものが多いので、なかなか調査も行きとどき、万事がソツなくまとめられてはいるが、ただ、なまなましい真実感と迫真力に欠けているために、いわば「死んだ歴史」のような物足りない不満を私はいつも感じている。たとえば、「あの歴史的な二・二六事件の起こった雪の朝……」と記してみても、いったいどんなふうに雪が降っていたのか、またどの程度の大雪が積もっていたのか、あるいはその前夜に反乱の気配はなかったのか。昭和十一年二月の当時にまだ小・中学生であった史学者たちにはいくら記録を写しても、二・二六事件の実感は決して描き出せないであろう。しかし、そういう私自身でさえも、自分のこの目で見とどけ、自分の足で書いた風雪二十年の生きた歴史は、しだいに忘却の彼方へうすらぎつつある。いまこそ、私の忘れないうちに、私の見た昭和動乱史を綴って読者諸君の参考に供したいと念願するわけである。  
第一章 軍国への道 / 昭和動乱二十年、血盟団事件

 

一  
昭和の風雪二十年――それはひとくちにいって、ねっとりした寝汗をかきながら悪夢の連続を見つづけていたような、苦しい、息づまるような思い出である。それは要するに、神武建国以来、二千六百年にわたる長い長い歴史の絵巻物の最後を、血なまぐさい反乱と戦争と敗北と降伏によって描き終ったようなものであった。何と弁明してみたところで、まことに後味の悪い風雪二十年の走馬燈のような転変であった。結局、日本ははじめて明治、大正の二代、六十年間に鎖国のカラを破ってめざましく発展し、一躍、世界の一流国となりながら、粒々辛苦してたくましくも築き上げた国富と国土と国威を、惜しくも、昭和の二十年間にいっきょに喪失して、貧弱な三等国へ転落してしまったのだ。それは戦後、日本がいかに民主主義的に生まれ変わろうとも、また現在、日本がどんなに外見上は立派に復興しようとも、おそらく永久に取りかえすことも、呼びもどすこともできない「偉大な過去」になってしまった。昭和日本は、暗殺――反乱――戦争のコースをまっしぐらに突進して自滅したのである。しかし、軍国日本は亡んでも、民主日本がけなげにも生き返った。まったく不思議な日本民族の運命である。しかも八紘一宇(はちこういちう)をめざして宣戦の大詔を下した「現人神(あらひとがみ)」の天皇が、敗戦必至ときまるや、意外にも、「一億玉砕」を呼号した狂信的な軍部を押さえて終戦の詔勅をラジオ放送により発したうえ、さらに戦後の占領下に居残ってみずから神格を否定し、人間の座に下り、日本民主化の象徴となられたことは、まったく古今東西に未曾有の奇蹟現象であった。第一次世界大戦における帝政ロシアでも、第二次世界大戦におけるファッショ・イタリアとナチス・ドイツでも、敗戦によって国民大衆が決起し、皇帝を殺したり、独裁者を追放して血みどろな労農革命(共産革命)または国体の変革が起こったのは当然の成り行きであったが、日本だけは戦争に破れてもいわゆる国体(天皇制)はもとのまま護持されて、同じ天皇がそのまま占領軍(連合国軍)総司令官と円満に協力して、日本国民の不変の敬愛をうけ、皇位が首尾よく保持された。この皮肉な事実は、まことに風雪二十年の悪夢の奇々怪々なる様相を思い出すにつけても、私はいまでも不可解至極に考えている。なぜならば、昭和の暗殺と反乱と事変を強力に実行し、あるいは熱烈に推進した国家主義者と右翼団体は、明治、大正以来、日本を毒してきた(?)自由主義と民主主義を打倒して、神ながらの大道にもとづく昭和維新と国家改造をめざし、いわゆる天皇絶体主義の下に祭政一致の皇道を内外に打ち立てようと夢みていたにもかかわらず、太平洋戦争の完敗と無条件降伏の結果、生まれ変わった新日本は、じつに米英流の自由主義と民主主義にもとづいたものであった。すなわち、「米英撃ちてし止まん」の聖戦完遂の日本精神が、風雪二十年にわたる鉄火の試練をへて、意外にも米英に依存、協調する新日本精神に変わってしまったのだ。いったい、なんのために戦争を起こしたのか?――と自問自答するほかはない。だから、昭和動乱史を正しく描くことは、今日それを理解するのと同様にきわめてむずかしいことである。日本の敗戦を境として、戦前と戦後とでは、国家の理想も、民族の精神も、すっかり一変してしまった。しかし、同じ日本人でありながら(旧軍人をふくめて)昭和維新をめざした烈々たる国家主義の流行した時代と、今日の自由享楽の民主主義の全盛時代とを二つながら生き抜いて、別に矛盾も反発も苦悶も感じていない有様は、いったい、どういうわけであろうか? それは日本人の健忘症のためであろうか? それとも長いものに巻かれろ、という日本民族の習性のせいであろうか? はたまた日本人が覚醒したためであろうか? 昭和の風雪二十年を通じて、日本主義の思想と運動の最長老とみなされた徳富蘇峰(当時七十六歳)は、昭和十三年十二月に執筆した『昭和国民読本』の巻頭で、明治維新が昭和維新につながる日本の宿命をつぎのように喝破していた。「要するに維新大革新の運動は、皇室を中心として、日本を統一すること。日本を中心として、世界に皇道を宣揚することに他ならない。前者が尊皇(そんのう)であり、後者が攘夷(じょうい)である。攘夷は消極的の文字にして、その精神を積極的に言い顕わせば開国進取である。別語をもって説明すれば八紘一宇(はちこういちう)の皇謨(こうぼ=スローガン)である」 これが、昭和五年より十年間、日本を支配した暗殺と反乱の時代に狂信的な国家主義者と急進的な軍人グループの直接行動の指針となった尊皇攘夷の思想であり、また世界制覇を夢みた八紘一宇の理想であった。この蘇峰の徹底した日本主義の聖典ともいうべき『昭和国民読本』が、当時、日本の二大新聞の一つであった東京日日、大阪毎日新聞社(現在の毎日新聞社の前身)より堂々と刊行されて、数十万部も売りひろめ、ベストセラーになったことは、そのころの険悪な時勢をなまなましく反映したものだった。私は、昭和十年八月十三日、白昼に陸軍省内で執務中の軍務局長永田鉄山中将(当時少将)に軍刀をふるって斬り殺した、相沢三郎中佐の陸軍軍法会議公判の報道を、朝日新聞記者として担当したが、せまい法廷で長身の色浅黒い被告相沢中佐が直立不動の姿勢で、訊問しようとする判士長の佐藤正三郎少将を睨みつけながら、破鐘(われがね)のような大音声(だいおんじょう)で、「尊皇絶対であります!」と何回となく絶叫していた鬼気迫まるような光景を、いまなお忘れることができない。思慮分別ある当年四十七歳の剣道達人の現役の陸軍中佐が、国体を誤る不忠の臣として上官たる永田中将を一刀の下に殺害して尊皇を唱えるところに、恐るべき昭和の暗殺の時代の特色があった。ああ、これが、悪夢にあらずしてなんであろうか?

 

明治初年、熊本の乱を起こした敬神、国粋主義の神風党の巨頭大野鉄平は、失われゆく日本民族の誇りを惜しんで、排外、攘夷の熱情に燃え立ち、反乱を指揮し、「世は寒くなりまさるなり唐衣(からごろも)、討つに心の急がるるかな」と長恨の歌を残した。私は大正のころ、若い中学生時代に徳富蘆花(徳富蘇峰の実弟)の名著『青山白雲』の中で、この神風党の決起した当時を偲んだ名文を読んで印象が深かった。それは、大正のいわゆるデモクラシー流行と欧米模倣時代の反動として、ふたたび日本精神思想、国家主義運動が嵐をはらむ黒雲のごとくにわかに台頭して、左右両陣営の直接行動が目立ってきたからであった。歴史はくり返すように思われてならなかった。とくに大正の中ごろより昭和初年にかけて盛んになったマルクス主義思想とプロレタリア運動に挑戦、対決した急進的な国粋、国家主義運動は、まるで燎原の火のごとく日本中に燃えひろがっていった。その背後には、軍部、とくに天皇絶対主義にこり固まった陸、海軍青年将校の動きが烈しくなっていた。しかも当時の深刻な農村不況と議会政治の腐敗、堕落と労働争議の激化による社会不安を憂えた血気さかんな中堅ならびに青年将校の各グループは、「桜会」と「小桜会」を結成し、全国的に相互に連絡をとりつつ、時世を痛憤して、いわゆる挺身救国の非常決意をひそかに固めつつあった。そして、右翼言論界の大立者大川周明や、中国浪人で不朽の論客『日本改造法案大綱』の著者北一輝(本名、北輝次郎、二・二六事件の民間側首魁として死刑になる。後述)や、日蓮宗の怪僧井上日召(本名井上昭、血盟団事件首脳として無期懲役になったが、戦前に恩赦出所す)たちの強烈な指導原理と弁舌によって大いに啓発され、鼓舞されたのであった。それで、民間の各右翼団体は軍人と密接に結びついて、いっせいに示威大会を開いて不穏な形勢であったが、当時の政党政治の無気力と財界の無責任と一般国民の無頓着(いわば触わらぬ神にたたりなしといったような気持だった)とが、ますます彼らに慨世憂国の切迫感を覚えさせたようであった。私の考えるところでは、昭和の暗殺と反乱の時代を正しく理解し、評価するためには、決してその表面の事件のみによって判断してはならぬ。その裏面の底流を深くさぐり、彼らを指導し、あるいは煽動し、また決起させた思想と原理とを把握することが肝要である。なぜならば、当時の暗殺事件は、あたかも明治維新前後の暗殺時代とよく似て、いわば国家革新の捨て石となって大義名分のために直接行動に出たものであるから、それは、戦後のいわゆる犯罪流行時代の「理由なき殺人」とはまったく異なったものである。むしろそれは、「理由のありすぎた政治的殺人」と呼ぶべきものであった。ただし、その理由が正しいかどうかは別問題だった。昭和初頭、私が東京帝国大学の法科の学生だったころ、すでに学内には「民本主義(デモクラシー)」のチャンピオンたる吉野作造博士の指導する左翼の新人会と、国家主義に徹した上杉慎吉博士に率いられた右翼の七生社とが対立し、両派の学生有志が正面衝突して、平和な学園にも騒動が続発していた。いわゆる一高――帝大の官吏出世コースをめざす大多数の法科学生は、この険悪な学園の闘争を白眼視してはいたものの、地方出身の気骨ある真面目な学生ほど不況と就職難と生活苦の暗い日本の現状打破を志して、マルクス主義か、国家主義か、その一つを選んで社会革新の変動の荒波へ敢然と投じたものだった。もちろん、一九一七年(大正六年)十月のロシア大革命の深刻な社会的影響は、日本へも押し寄せてきた。それは、帝政ドイツの軍国主義の打倒とあいまって、軍縮と反軍と、平和を唱える民主主義と社会主義が世界中を風靡していただけに、日本でも欧米流の左翼、自由主義思想が圧倒的に優勢になり、これに対抗する右翼の国家主義陣営はいたく刺激されたものだ。そして、軍縮に反対する軍部と共同戦線を張り、天皇を利用した国体明徴運動によって勢力挽回を企てた。このように、昭和の暗殺時代は、あい反するマルクス主義の革命運動と日本主義の革新運動とが現状打破の点で皮肉にも相通じ、はからずも日本をめぐる内外情勢の圧力の下に激突して、ものすごい火花を散らし合いながら幕を開いたのである。この強烈な二大思潮と二大革新運動の板ばさみになり、左右から強く突きあげられた当時の政府も議会も政党も、ただ口先で空(カラ)元気だけは示したものの、井上日召の采配をふるった「一人一殺」主義の血盟団の直接行動の前には、ただおののくばかりであった。政府としては、国体を変革する目的の共産主義運動の方は、治安維持法の改正(最高刑は死刑)によって弾圧を強化し、三・一五事件(昭和三年三月十五日)と四・一六事件(昭和四年四月十六日)と、あいついで日本共産党の空前の大検挙(約六万五千人)を行なったが、国家主義運動の方は、背後でニラミを利かせていた軍部に気がねして積極的取り締まりができなかった。それにつけこんで、右翼陣営は、国体明徴と米英排撃と既成政党打倒、財閥追放と国防国家建設など、盛りだくさんの目標をかかげて、天皇帰一の皇道政治の実現と軍国主義の鼓吹(こすい)に努めた。かくて、日本の社会にはいたるところ殺気がみなぎり、暗殺と反乱の危機はまさに一触即発の状態にあった。  

 

私の友人で、戦前に三十年も東京に駐在していたロンドン・タイムスならびにニューヨーク・タイムス両紙の特派員であったヒュー・バイアス君は、当時、日本通の外人記者として、内外で有名であったが、彼は日米開戦直前に帰米して、昭和年間の日本の政情を痛烈に分析、批判した本を著わして、これにいみじくも『暗殺による政治』という題名をつけた。なるほど、民政党内閣の浜口雄幸首相襲撃を皮切りに、政友会内閣の犬養毅首相も、井上準之助前蔵相も暗殺されたし、さらに岡田非常時内閣も岡田首相(じつは奇蹟的に難をまぬがれて義弟松尾伝蔵老大佐が身代わりになって即死)が暗殺未遂、斎藤実内府と高橋是清蔵相が暗殺されるという有様で、そのつど、政府は倒れて政変が起こった。そして政変のたびに、政党は、ますます影がうすらいで、軍部独裁の色彩が濃厚になっていった。これでは、鋭い外人記者の目に、日本の政治がまるで暗殺によって左右され、右翼テロ団と軍部の思うままに支配されて、やがては無謀な対米英戦争への道を突進するように気づかわれたのも、至極もっともであった。この学究肌の老練な外人記者バイアス君は、一八七五年(明治八年)、英国スコットランドの生まれだから、もしも今日まで生き長らえていたらもう百歳の老人であるが、幸か不幸か、戦時中に英国へ帰らず米国で急逝したので、戦後の日本の民主政治を知らない。さぞ地下で、「暗殺による政治」がなくなった事実を驚き、かつ喜んでいることであろう。
「 (明治初年の神風党の大野鉄平以来、日本では進歩と自由の外来思潮が急なる場合には、かならず敬神、愛国の志士が決起して、排外と守旧の反動が激化するのは、天皇制の特色であろう。たとえば、二・二六事件の反乱軍を尊皇義軍と呼んだり、天皇の信任する重臣を暗殺しながら、これを尊皇討奸(とうかん)と号するような日本独得のファシズムの正体は、外人記者の目には、まったく奇々怪々に映じたことであろう。しかしながら、昭和二十年九月、日本の敗北降伏調印以降、外国軍隊に長らく全国土を占領されながら、排外攘夷の暗殺事件が、意外にもぜんぜん起こらなかったのは、日本人が骨抜きになったためか、それとも終戦の詔勅に対する「承詔必謹」の日本精神によるものなのか、これまた不可解なことであろう) 」
私は決して縁起をかつぐわけではないが、公正な立場より日本の現代史を検討してみて、明治時代の未曾有の国家的大発展をとげて増長した日本が、大正時代にはあまりパッとせず、失政を重ねて、昭和時代にその報いの混乱と反動の大激変をまねいたように思われてならぬ。これは日本の宿命であり、また因果応報ではあるまいか? 日本主義の代弁者ともいうべき徳富蘇峰でさえも、さきに引用した『昭和国民読本』の中で、つぎのように述べているのは注目されるだろう。
「 明治天皇の崩御は中外に大衝動をあたえた。英国の有力なる新聞は、『これから日本は下り坂である』と揚言した。しかしてわが国民の中にも、これに共鳴する者が皆無ではなかった。それは日本歴史の血管中に流れみなぎる日本精神を無視したる者の言にすぎない。しかも大正の御代は不幸にして日本が浮き腰となり、浮き足となり、その心までがみずから陶酔し、みずから放心したる時代であった 」
たしかに、大正の代は明治の代にくらべてはなはだ見劣りがした。それはわずか十五年で、短くもあり、はかなくもあった。日本は第一次世界大戦に米英側に加担、参戦して素晴らしい黄金景気をもたらし、異常な成金時代を現出したが、それも蘇峰流の表現を借りれば、まさに「邯鄲(かんたん)枕上(ちんじょう)黄粱(こうりょう)一炊(いっすい)の夢」にすぎなかった。そして、大正の後半期には大不況が到来して、大量失業と倒産と銀行取り付けと生活難と労働争議が続出した。蘇峰はこれをつぎのように論じている。
「 ――歓楽(かんらく)極まりて、哀情(あいじょう)生ず。流星の如く騰上したる成金者流は、また流星の如く落下した。しかして大正の下半期においては、上半期に呑み込みたる黄金そのものを、個人も国家も、ほとんどみな吐き出さればならぬ運命に立ち至った 」
大正十五年十二月二十五日午前一時二十五分、長らく脳病をわずらい、政務をはなれて療養中の大正天皇は、葉山御用邸で四十八歳で淋しく亡くなられた。そして、その日より皇太子裕仁(ひろひと)親王(昭和天皇)が即位して年号を昭和と改元した。新しい天皇はすでに大正十年十一月以来、摂政として政務をみてはいたが、当年二十五歳の若さで、昭和の国難を一身にになうことになった重責はまことにお気の毒であった。かくて昭和元年はわずか一週間にて、昭和二年へ移っていった。昭和という年号は書経の中の、「百姓照明(しょうめい)して、万邦(ばんぽう)協和(きょうわす)」という大変お目出度い言葉からとっているにもかかわらず、じつは暗い宿命の代となったのは皮肉な歴史の悪戯(いたずら)であったのだろうか? 

 

昭和二年三月には、金融大恐慌が起こり、ついに四月二十二日より全国に三週間のモラトリアム(支払い停止)が施行され、また五月には、田中義一(陸軍大将)内閣によって第一次山東出兵が断行された一方、中国各地に日貨排斥運動が激化した。ついで昭和三年に入ると、三月十五日には日本共産党の全国一斉検挙(三・一五事件)が行なわれ、五月に中国では済南事件が突発して日中両軍が発砲、衝突し、六月四日朝には、軍閥の巨頭の張作霖(ちょうさくりん)が北京より奉天に帰る途中、京奉線列車で爆死するという事件が起こった。当時、これは「満州某重大事件」として新聞に報道されたものだが、政府ならびに軍部の厳重な検閲のために、国民大衆はその内容を知ることができなかった。六月十二日付の陸軍省公表によると、
「 ――かくて四日午前三時ごろ、怪しき支那人三名ひそかに満鉄線鉄道堤を上らんとしおるを発見せるわが監視兵は、ただちにこれに近づき誰何(すいか=誰かと問う)せしに、該支那人はわが兵に向かい爆弾を投擲せんとしたるため、わが兵はただちにその二名を断殺したるに、他の一名はついに逃亡せり。わが兵は該支那人の死体を検視したるに、爆弾二個および三通の書信を発見せり。内二通はまったく私信に過ぎざりしも、一通は国民軍関東振撫使の書信の断片にして、これらの点より考察すれば南方便衣隊員なること疑いなし…… 」
ということであった。しかし、真相は、関東軍高級参謀河本大作大佐の一世一代の大謀略で、排日の巨頭たる張爆殺を計画、実行したものであった。彼は、これ以外に、満州問題解決の鍵はない、一個の張を抹殺すれば足りると決意し、極秘の中にわが龍山工兵隊の手で、京奉、満鉄両線の交差点の陸橋の脚上に強烈な爆薬を仕掛けたのであった。そして残酷にも、あらかじめ用意した中国人二名を現場付近で挙動不審として剌殺して、ニセの証拠品より、南方便衣隊の仕業のように偽装したものだった。これは、じつにどんなスパイ小説もスリラー映画も顔負けするような大胆不敵の陰謀計画であり、河本大佐は、張爆殺を合図に軍隊を出動させて満州南部占領を夢みていたが、これは失敗した。結局、軍部はこの真相をひたかくしにした。主謀者河本大佐を軍法会議にもかけず、予備役編入という行政処分でアッサリ片づけたが、田中首相は天皇より叱責されて面目を失い、翌、昭和四年七月、内閣総辞職となった。それから二ヵ月後に苦悩した彼は急死した。しかし、それから三年後の昭和六年九月十八日夜、満州奉天付近の柳条溝事件によって河本大佐の夢はついに実現され、満州事変――満州国成立――国際連盟脱退という昭和動乱の劇的なコースをたどったのである。これは、前回と同様に満州独立を画策した関東軍の高級参謀板垣征四郎大佐(のちに陸軍大将、陸相、東京裁判で絞首刑となる)と作戦主任参謀石原莞爾(かんじ)中佐(のちに陸軍中将、終戦直後病死)と奉天特務機関花谷正少佐たち一味の大謀略計画によるもので、関東軍部隊将校の手で柳条溝の満鉄線路を中国兵の仕業のようにみせかけて爆破すると同時に、在奉天部隊が夜襲を敢行して北大営の中国軍兵舎を総攻撃、占領して満州事変の狼火(のろし)を上げた。当時、政府と軍中央部は関東軍の過激な実力行動を事前に察知して、これを未然に防止するため、参謀本部第一部長(作戦担当)建川美次少将(のちに陸軍中将、元駐ソ大使、戦後病死)を現地へ急行させた。ところが、いわゆるミイラ取りがミイラになった形で(軍中央部の同志として計画の概要は予知していた)、酒好きの建川少将が九月十八日午後に奉天に到着し、同夜、市内の料亭菊文で陶然と酔っ払っていた最中、ほど近い奉天駐屯日本軍兵舎(歩兵第二十九連隊)にひそかに据えつけられていた二十八サンチ要塞砲が、轟然と響いて北大営砲撃の火蓋を切ったので驚いた――というウソのような真相が、戦後はじめて明らかにされた。要するに、当時の関東軍幕僚(佐官級、中堅将校)たちは、日露戦争で日本人の尊い血を流して獲得した満州生命線を、排日、抗日の嵐からあくまでまもり抜くためには、武力によって満州を占領し、中国から独立させ、皇道精神にもとづく五族協和の安民楽土の実現を念願としていた。そして彼らは、国内の革新運動とクーデター計画(昭和六年の三月事件と十月事件、後述)に呼応し、あるいはそれを外地より促進、支援するために、軍中央部を強力に牽制したり、その意向を無視したりして目的達成に努力した。彼らは、目的のためには手段を選ばぬような下剋上(げこくじょう)の気風をほしいままにしたのである。それはまた、昭和動乱時代の恐るべき原動力ともなった。もっとも、遠く故国をはなれて満州の現地でみると、日ましにつのる排日のあらしの中で、わずか一万の日本軍の駐屯部隊は、二十万以上の中国軍を相手にいくら頑張っても、在留邦人は圧迫されて、生命、財産の危険は刻々と増大して、事態はきわめて重大化していた。それで、ゆくゆくは満鉄さえも線路を取りはずして日本内地へ引き揚げねばならなくなるであろうと心配されていた。しかも浜口内閣(幣原(しではら)外相)は、いわゆる平和協調主義の軟弱外交で、米英列強の鼻息をうかがい、断乎たる方針を立てず、国内では政党あまた腐敗して、勲章疑獄(昭和五年、賞勲局総裁天岡直嘉その他連座)や、五私鉄疑獄(同年、元法相、鉄相小川平吉その他連座)や東京市会疑獄(昭和三年、民政党代議士三木武吉、政友会代議士中島守利その他連座)など大がかりな汚職事件が続出して、まさに底なしの疑獄時代を呈していたので、まさに内憂外患のため国家革新断行の必要をますます痛感させられたのである。こうして、日本をめぐる内外情勢は、一般の国民大衆が気づかない間に急速に険悪化して、すでに爆発的に切迫しつつあった。しかし、当時の都会の世相は案外、自由享楽的で市民は明暗二筋道をよろめいていた印象が深く、軍部の勝手な言動や、極左と極右の二大勢力の抗争や疑獄事件にも、「またか……」といった無関心な市民大衆は、浅草や銀座の青い燈、赤い燈に酔いしれ、賑やかな「東京行進曲」「東京音頭」「モン・パリ」や、甘美な「浪花小唄」「島の娘」「酒は涙か利息か」といったような非軍国調の流行歌が大流行していた。要するに、大あらしのせまる直前の息苦しい世の中を、庶民は酒や歌でごまかして、不安ながらもその日その日を気ままにすごしていたのだ。 

 

さて、昭和の暗殺時代の恐ろしい血祭りの火蓋を切ったのは、日蓮宗の怪僧井上日召を盟主とした血盟団であった。彼は昭和三年以来、茨城県磯浜海岸の丘に立つ立正護国堂に立て籠(こも)って、農村青年と海軍青年将校の同志を集めて、国難打開のために日本精神を鼓吹し、国家革新の必要を力説していた。そのたくましい雄弁と狂言的な信仰心は、若い青年同志に力強い感化をあたえていた。彼は怪僧といっても、もともと僧門の出ではなくて、群馬県の田舎の医師の四男に生まれて、明治三十八年に県立前橋中学を卒業後、各地を放浪したあげく満州に渡って苦労を重ね、いわゆる憂国慨世の浪人となり、日蓮宗に帰依して立正安国の大望を抱くようになった。そして、大正九年に内地へ帰ると、郷里(群馬県利根郡川場村)の荒れ果てた僧堂にひとり籠って、日蓮宗独特の荒修行を積んで、断食しながら決死の法悦(ほうえつ)を感得したらしい。かくて、満州浪人井上昭は、その名前の文字を日と召に分けて、熱血の僧日召(にっしょう)と名乗り、いわゆる「一殺多生」の国家革正運動を志して、その先達をもって自他ともに任じたのである。彼は、「非常時には非常手段もやむを得ない」と考え、また、「あくまで捨て石にならなければならぬ、権力に執着して真の革新はできない。破壊なくしては建設はあり得ず、究極の否定はすなわち真の肯定なるがゆえに、破壊すなわち建設、不二一体なり」と提唱していた。こうして、昭和の暗殺と反乱の時代には、大川周明博士のような社会的に有名な学者と北一輝のような中国革命育ちの実力者と、軍部の将軍連中と中堅将校と青年将校の各グループと、民間の右翼、愛国団体とがいきり立つ中に、日召のような無名の日蓮僧まで飛び入りして、昭和維新の名の下に、烈火のごとき国家革新の気運をぐんぐんと高めていったのだ。昭和五年十一月十四日朝、東京駅ホームで浜口雄幸首相(民政党総裁)が、右翼団体、愛国社員の佐郷屋留雄(さごやとめお=当時二十三歳)にピストルで狙撃されて重傷を負った。犯行の動機は浜口内閣の財政緊縮政策とロンドン海軍軍縮条約調印に反対、憤慨した軍部と愛国団体の煽動によるものであったが、浜口首相は東大塩田外科で手術の結果、幸いにも生命を取りとめたので、政変は避けて幣原外相が首相代理となり、政治的衝動は、だいぶ緩和された。なるほど、大正十年十一月には、原敬首相(政友会総裁)も東京駅頭で右翼団体の壮士中岡艮一(こんいち)のために暗殺されたし、昭和四年三月には、京都で労働党代議士山本宣治氏が、右翼団体、七生義団員の黒田保久二に刺殺されているので、浜口首相の暗殺未遂事件はまだ運がよかったのかも知れなかった。当時、新聞社でも、また世間でも、まだまだ暗殺時代が到来するとは予想もしていなかった。ところが、昭和六年九月、満州事変が起こるや、これに刺激されたような国内の革新運動は一段と激化して、三月事件と十月事件の軍部クーデター計画によって、ますます険悪な情勢となってきた。
かくて昭和七年二月九日夜、浜口内閣の蔵相として緊縮財政、金解禁、軍縮をすべて切りまわして軍部の恨みを買っていた井上準之助(元日本銀行総裁)氏が、東京本郷駒込小学校選挙演説会場入口で血盟団員小沼正にピストルで射殺され、三発命中、即死した事件が起こった。それからわずか四週間後の三月五日正午前に、三井財閥の巨頭の団琢磨(だんいくま)男爵(三井合名理事長、当時七十五歳)が、東京日本橋の三井銀行玄関で自動車から降りたところを、待ちうけていた血盟団員菱沼五郎のためにピストルで射殺される事件が続発した。このあいつぐ二つの暗殺事件は、さすがに日本中を驚愕させた。明治維新以来、これまでの暗殺をあまり憎むべき凶悪犯罪とは思っていなかったらしい日本人の感情も、同じ血盟団員によるこの連続暗殺には驚きもしたし、また血盟団という不気味な殺人秘密結社の正体には、恐怖を感じたのだ。「これはただごとではない、これからさきどんなことが起こるかわからないぞ」と当時、朝日新聞の若い事件記者であった私はすっかり緊張してしまったことを、いまでもなまなましく覚えている。ことに、現場で逮捕された暗殺犯人の小沼、菱沼の両青年は、落ちつきはらって、取り調べの係官に向かって志士気どりで堂々とつぎのように暗殺目的を語り、政界と財界に深刻な衝動をあたえた。
「 農村の窮乏を見るに忍びず、これは井上前蔵相のやり方が悪かったからだ! 」
「 腐敗しきっている既成政党を打破する目的でやったもので、政党の背後にはかならず大きな財閥の巨頭がついているから、まずその連中からやる計画を立てた。団男爵をやったのはいまの財閥の中心は三井で、三井の中心人物が団男爵だから同氏を血祭りに上げたのだ 」
奇しくも、この二人の暗殺犯人は、茨城県那珂郡出身の同郷の青年と判明したので、捜査当局で厳重追究の結果、井上日召を盟主とする、恐るべき昭和血盟団の「一人一殺計画」の全貌が暴露された。かくて昭和日本の暗殺の時代は、反乱の時代へ急転していった。 
第二章 問答無用! 撃て!  / 五・一五事件

 

昭和七年(一九三二年)五月十五日は、青空が晴れわたり、さわやかな微風がこころよく青葉をゆるがしていた日曜日であった。東京市内の目ぬきの盛り場は、どこも楽しそうな家族づれの人出で大いに賑わい、いかにも天下泰平の明るい表情を呈していた。つい数ヵ月前、この同じ年の二月から三月にかけて、前蔵相井上準之助氏と三井合名理事長団琢磨男爵が、血盟団団員の手で、あいついで暗殺された恐ろしい悪夢のような記憶も、毎日の生活に追われて忙しい庶民大衆にとっては、きびしい暗い冬が去りゆくのといっしょにすっかり薄らいでいたようだった。明るい、楽しい五月の好季節をむかえて、世の中も、大衆の気持を反映するかのように浮き浮きして、もはや、暗殺などという縁起のわるい、うわさ話は、だれでも忘れたい心地がしたであろう。これが、当時、若い朝日新聞記者であった私のいつわらぬ実感であった。というのは、この前年の昭和六年(一九三一年)の三月と十月にひそかに起こった陸軍の中堅幕僚と青年将校を中心とする軍部のクーデター(武力による政府打倒)計画未遂事件(三月事件および十月事件と呼ばれた。後述)については、国民はまったくツンボ桟敷におかれて全然なにも知らなかったし、新聞社の情報通でも、憲兵隊を怖れて実情を調べることはできないくらいであったからだ。それゆえ、軍部の中に爆発しかけていた現状打破の気運と革新運動の底流を、世間では少しも感づいてはいなかった。いわゆる識者でさえも同年九月に満州事変が起こって、軍部の永年つもりにつもった欝憤(うっぷん)と、軍縮をめぐる政党政治に対する不平不満の絶好のハケ口ができたので、軍人の旺盛なエネルギーはいっせいに満州の天地へ注入されていたので、むしろ国内の国家革新運動は、軍人の関心と協力が薄らいで下火になるのではないか、という楽観説をみとめていたくらいであった。このような時代の雰囲気の中で、五・一五事件は突発したのであった。それだけに、政治的にも社会的にも衝撃は深刻なものだった。この五月十五日午後五時二十七分ごろ、軍服を着用した海軍青年将校四名と陸軍士官候補生五名の一団が、突如、麹町(現在千代田区)永田町の高台(国会議事堂の裏通り)にある首相官邸に自動車二台で乗りつけて、表門と裏門の両方からピストルを振りかざしながら乱入した。首相官邸警備係の田中五郎、平山八十松両巡査が驚いて押し止めようとするや、軍人たちはいきなりピストルを乱射して両巡査を血祭りに上げた。彼らはいきり立って、ヒッソリと静まりかえった広い官邸の奥へ、軍靴の足音も荒々しく侵入した。彼らのめざす人物は、老齢七十八歳の首相犬養毅氏(政友会総裁)であった。犬養老首相は旧岡山藩士で、明治二十三年(一八九〇年)の国会開設にあたり第一回衆議院議員に当選以来、毎回当選四十余年の議会生活で鍛え上げた最古参の政党人であり、また、清貧に甘んじてきた日本の議会政治の最後のホープでもあった。彼は、田中義一大将(首相)の死後を継いで政友会総裁となり、さらに、前年の昭和六年十二月に、若槻内閣(民政党)が閣内不統一で倒れた後、難局打開の信念を燃やして首相の地位についたものである。
夕方五時半とはいっても、五月ともなれば日は長く、まだ西日が明るく当たっていた。ガランとしたモダンな洋風建築の首相官邸の一番奥まった日本間には、白い山羊ヒゲを生やした小柄の痩せ細った仙人のような風貌の犬養老首相がひとりで書見をしていた。彼は数日来の風邪気味のため、この晴れた日曜日の午後も、官邸の奥に閉じこもって静かに休養していたのだった。そこへ、ただならぬ物音、驚いた老首相の目の前に青年将校の一団が土足のまま現われた。「諸君はいったい、なんの用で来たのか? 乱暴なまねをするな、靴ぐらい脱いだらどうだね、おたがいに話せばわかることだ!」と、さすが犬養首相は生粋の党人の老政治家らしい貫祿をしめして、あまり取り乱したようすもみせず、自分の孫のように若い将校連中に向かって説得をこころみた。しかし彼の胸先には、数分前に警官を射殺したばかりの銃身の生あたたかい軍用ピストルの銃口が黒く光っていた。おそらく老首相は、血気にはやる軍服の若者どもをまずなだめて、その言い分を十分に聞いてやり、よく話し合えば誤解もとけて、まさか手荒いことはしないであろう、と考えたことであろう。彼は決して逃げ出そうとしたり、恐怖のあまり騷ぎたてるようなことはしなかった。その落ちついた老首相の態度は、一瞬、ピストルを握った青年将校たちの決断をにぶらせたようであった。腐敗した政党政治の張本人として、また国威を失墜した軟弱外交の責任者としてねらわれた老首相が、意外に気骨のある人物であることをはじめて知ってたじろいだのであろう。返事もせず無言のままニラミ合ったとき、首領格の海軍将校が大声で怒鳴った。「問答無用! 撃て!」轟然とピストルは発射され、犬養首相は、バタリと、まるで枯木が倒れるように、もろくも小さい身体を崩れ伏せた。日本間のクタミが赤く血に染まって、庭先よりさしこんだ夕陽に無気味に、映えていた。青年将校の一団は、顔面を血まみれにしてむごたらしくも虫の息で倒れている老首相に向かって、直立したまま目礼をすると、ふたたび靴音も荒々しく廊下づたいに立ち去った。そして、待たせてあった自動車に分乗して、意気ようようと帰途、警視庁を襲撃したのち、東京憲兵隊へ車を乗りつけていっせいに白首した。これが、いわゆる五・一五事件のクライマックスであった。「問答無用! 撃て!」という有名な歴史的セリフを叫んだのは、リーダー格の山岸宏海軍中尉(横須賀在勤)で、ピストルを発射したのは黒岩勇海軍少尉(予備)と三上卓海軍中尉(重巡「妙高」乗組)であった。弾丸は二発とも犬養首相の下顎部と右コメカミに命中して、ほとんど即死も同然の致命傷であった。(凶行後、急報により、午後六時十五分、東大青山外科の権威、青山博士が官邸に駆けつけて応急手当をつくしたが効なく、犬養首相は、翌十六日午前二時三十五分に絶命した。また重傷の田中巡査も数日後に死亡した) こうして犬養首相は暗殺されて、戦前の日本で最後の政党内閣はついに亡んでいった。
「 (犬養首相の死後、ただちに内閣は総辞職したが、後継内閣でもめたため、十日間、高橋是潸蔵相〈四年後の二・二六事件で暗殺された〉が臨時首相代理をつとめた後、元老西園寺公の苦慮のあげく、とうとう軍部の圧力で政党内閣は見切りをつけられ、前朝鮮総督、海軍大将斎藤実(まこと)子爵〈二・二六事件で暗殺された〉に大命が降下して、いわゆる非常時挙国一致内閣〈軍部、官僚、政党よりなる〉が出現した) 」 

 

当時――昭和七年のことであるが、私は朝日新聞記者とはいっても、まだ入社二年生の独身で横須賀支局に勤務していた。軍港市内の小さい旅館の一室を借りて住み、仕事にさしつかえのない限りは、土曜日の夜おそく東京荏原区(目蒲線、洗足田園調布)の親の家へ帰って、日曜日をゆっくり楽しんでいたものだった。ことに新橋駅より横須賀線で、わずか一時間あまりで任地へ往復できる点が非常にうれしかったので、いつも銀ブラの味を忘れなかった。じつはこの歴史的な五月十五日の午後も、私は銀座に出かけていた。夕方になって、けたたましい号外売りの鈴の音に、さすが商売柄、神経をとがらせて、さっそく一枚買ってみて、アッと驚いた。「海軍青年将校、首相官邸を襲撃、犬養首相射殺、市内各所に爆弾……」というような見出しの太文字は、本当に私の脳天をなぐりつけるほど強烈な衝撃をあたえた。「これは大変だ!」と、私はたちまち全身の血が逆流するような気持で、もうまったく夢中だった。それは空前の大事件が突発したという新聞記者らしい緊張感と、さらに休日ではあるが任地を離れていたという責任感とが、いっきょに胸中にこみ上げてきたためだった。「犯行の海軍青年将校はもしかしたら、横須賀鎮守府管内の海軍軍人ではあるまいか? まさか……それとも……」と私の頭脳は一瞬の間にくるくると回ったが、まさか目と鼻の先にある朝日新聞本社へ立ち寄って詳報を尋ねるわけにもゆかず、小走りに新橋駅からただちに横須賀行きの電車に乗って、任地へ舞いもどった。まだ日が長くて、軍港の空も海も明るかったように記憶している。市内のガケ下の小さい支局へ息を切らせて飛びこむと、意外にも主任は不在でだれもいなかった。本社からはまだなんの連絡手配も来ていなかった。私は、ホッとして、はじめて人心地がついたように感じた。急に咽喉がかわいて、お茶をがぶがぶ飲んだことを覚えている。それから、しばらくたって、卓上の電話が鳴った。ハッと胸をおどらせて受話器をとると、案の定(あんのじょう)、本社通信部からの至急報であった。相手はK次長で、いつもは落ちついているのに、このときばかりはよほど緊張して急いでいるようすで、早口ながらつぎのように指令してきた。
「 すでに号外かラジオでご承知と思うが、――今日の午後、陸海軍人の一団が首相官邸を襲撃して、犬養さんを殺したほか、警視庁や日本銀行や政友会本部や市内各変電所などを襲って爆弾を投げた。また、牧野内府邸も襲撃されたが、牧野さんはぶじだった 」
「 ところで、犯人一味は目下、憲兵隊で取り調べ中であり、まだよく判らないが、本社の探知したところによると、主謀者とみられる海軍将校の三上中尉と山岸中尉と村上少尉は横須賀に関係があるようだから、大至急調査されたい。これは重大事件だから、とくに自動車を二台ぐらい借りきって、全力をあげて手配を願います。いますぐ応援のため鎌倉通信部のK君にそちらへ行ってもらいました。調査の判明次第、どんどん本社へ通報されたい…… 」
私は脂汗をかきながら、電話の指令を受けとると新聞記者らしい興奮に燃えたっていた。あいにく、支局の主任は家族づれで、晴れた日曜日の朝からどこか田舎の方へ出かけて、まだもどっては来ないが、私は、十年に一回も起こりそうにもない大不祥事件の犯行軍人が、現任地の横須賀に関係があるとは、まことにニュース運にめぐまれたものだと感激しながら、まず、自動車を横鎮(横須賀鎮守府の略)へ飛ばした。そして、当直の副官に会って、いろいろ押し問答を重ねたうえ、ようやく横須賀在勤の山岸中尉その他の住所を確かめた。 それから、応援にやってきたK君と自動車に同乗して、まず、田浦方面の山岸中尉の下宿先へ向かった。もう日はとっぷり暮れて、丘とトンネルの多い横須賀から田浦へ通ずる街道は、真っ暗であった。当時、若い海軍軍人たちは陸上勤務のものも、海上勤務のものも、たいてい横須賀、田浦、逗子方面の素人下宿の一室を借りて生活または休養の場所にしていたものだ。しかし、これらの下宿先はいずれもガケの上の丘の中腹にあったり、あるいは畑の中の一軒家などが多いため、夜間に町名、番地を頼りにはじめて探し当てることは、それまでの私の支局勤務の経験からはなはだ困難であった。それゆえ、私はK君と手分けして、暗夜の田浦のガケや階段の多い坂道を転げるようにあちこち歩き回って、山岸中尉と村上少尉の下宿先を突きとめるのにとても苦労した。もちろん、自動車の利用できない細い小路であった。それから長い時間がたった後、私どもは山岸中尉と村上少尉の下宿先のおばさんや家人からいろいろ両人の平常の生活や言動について情報を集めて、支局から本社通信部へ電話で送稿した。といっても、それは翌日の朝刊紙上を華やかに飾るわけではなかった。なぜならば、この日の大事件――すなわち五・一五事件については即日、内務省警保局より当局発表以外、一切記事掲載禁止を命令されたからであった。ただ号外だけが、禁止発令前に刷り出されて東京市内その他でバラ撒かれたのだ。こんなわけで、私の綴った事件当夜の探訪記事は、一年後に記事解禁になったとき、はじめて「横須賀電話」として本紙社会面の片隅に小さく掲載された。それでも、私の三十年間にわたるジャーナリスト生活の中で、これは今日でも決して忘れられない思い出となった。なお事件直後、犬養首相の死去と内閣総辞職の報道につづいて、五月十七日、陸海軍当局がはじめて発表した事件内容は、つぎの通り、まことにお粗末なもので、真面目な国民をバカにしたものであり、かえって流言蜚語が世間に乱れ飛んだ。そして、社会の不安と人心の動揺をもたらした。
「 〔海軍省発表〕  [首相官邸その他における今次の不祥事件に関与せる海軍側人員は、海軍中、少尉六名にして、内一名は予備役にあるものなり、事件後ただちに全員、東京憲兵隊に自首したるをもって目下、同隊に収容取調中なり」 」
「 〔陸軍省発表〕  「帝国国内の現状に憤激し非常手段に訴え今次の不祥事件を惹き起こしたる一味に関与せる陸軍側人員は、在学中の陸軍士官学校生徒十一名にして、事件後ただちに全員、東京憲兵隊に自首したるをもって目下、憲兵隊に収容取調中なり」 」
正直にいって、私の見た昭和動乱史の中で、五・一五事件について私のなまなましく触れたものは、山岸中尉らの事件直前の生活と言動の片鱗にすぎない。実際に私が五・一五事件の全貌を新聞記者として承知したのは、一年後の昭和八年(一九三三年)五月十七日午後五時に公表された司法、陸軍、海軍三省共同の長文の発表文によるものであった。それほど軍当局では事件の内容を厳秘にして、その取り扱い(とくに後日の軍法会議による審理、処罰にも手心をくわえたらしい)に苦慮した模様である。というのも、五・一五事件の暗殺と襲撃に参加した海軍青年将校と陸軍士官候補生たちは、いずれも血盟団盟主井上日召一派の国家革新運動の熱烈な共鳴者であり、また信奉者であって、昭和七年(一九三二年)三月に血盟団事件(前述)の一斉検挙直後より、軍人を中心に計画を立てて急速に実行に移したものであったからだ。要するに五・一五事件は、同年二月の井上前蔵相の暗殺事件と、三月の団男爵暗殺事件とに密接に関連した、底知れない、大規模な軍民一体の直接行動計画の氷山の一角のようなものであった。政府も議会も政党も、このような連続テロ事件の発生には恐怖したが、軍首脳部でも、前年(昭和六年)に起こった二つの奇怪な軍部クーデター事件(三月事件と十月事件)を未然にモミ消して、ウヤムヤに葬り去り、国民大衆の前に頬被(ほおかぶ)りで押し通してきた手前からも、なんとか責任を他へ転嫁しようと腐心した。とくに満州事変(昭和六年九月)以来、軍部の鼻息はますます荒く、軍部の行動を批判したり、軍国主義を非難したりする自由言論にたいしては、直接、または間接に強い弾圧をくだしていたので、五・一五事件の当局発表文にも、いろんな手心をくわえて、軍部の面目と威信を保つ工夫をこらしていた。たとえば、事件経過の共同発表にさいして、当時の陸相荒木貞夫中将(のちに陸軍大将、皇道派の主要人物)と海相大角大将は、それぞれつぎの通り、被告たちを大いに弁護するような談話を発表したものだ。それは、その後の軍法会議の審判と量刑に無言の圧力と暗示をあたえたことは明白である。
「 荒木陸相談 「本件に参加したものは少年期からようやく青年期に入ったような若いものばかりである。これら純真なる青年がかくのごとき挙措(きょそ)に出たその心情について考えれば、涙なきを得ない。名誉のためとか私欲のためとか、または売国的行為ではない。真にこれが皇国のためになると信じてやったことである。ゆえに本件を処理する上に、単に小乗的観念をもって事務的に片づけるようなことをしてはならない…… この事件を契機として三省再思、もって犠牲者の心事を無にせざらむことを切望する次第である」 」
「 大角海相談 「ただ何か彼ら純情の青年をして、この誤りをなすに至らしめたるかを考えるとき、粛然として三思すべきものがある……罪とか刑罰の問題を離れ、ただ彼ら青年の心事に想到するとき、涙なきを得ぬのである」 」
今日からかえりみると、いやしくも天皇の親任した総理大臣を白昼、堂々と官邸の中に押し入りピストルで射殺した乱暴残酷な、制服の軍人一味を、いかにも純情憂国の志士のように賞揚、弁護した陸相も、まったく正気の沙汰ではないが、これが当時の険悪な社会的雰囲気の中では別におかしくはなかったのだ。 

 

五・一五事件のテロ行動は、軍人行動隊(十八名)と民間行動隊(十四名)の手によって、犬養首相を暗殺したほか、警視庁襲撃にあたり、同庁長坂書記と読売新聞高橋記者(同庁詰)の両名にピストルを乱射して重傷をあたえ、また仲間割れした革命家の退役陸軍中尉西田税(にしだみつぎ=その後に、二・二六事件に連座、反乱罪の首魁の一人として死刑になった)を襲い、ピストル六発を発射して瀕死の重傷を蒙らせた。しかし、牧野内府邸(芝三田)をはじめ、日本銀行、三菱銀行本店、政友会本部などを襲撃した連中は、ただ玄関先へ小型爆弾や手榴弾を投げこんですぐ自動車で逃走しただけであった。しかもその爆弾も手榴弾も不発が多く、その被害はとるに足らず、ただ人騒がせをした程度であった。また、帝都の暗黒化を狙ったと自称する市内各変電所を襲撃した民間側のいわゆる農民決死隊も、革命行動隊としては破壊訓練も行動計画も、未熟であったため全然、不成功に終った。要するに、彼らは国家革新の意識はものすごく過剰であったが、諸外国の武力革命にみられるような合理的な大衆煽動手段と政府打倒の具体的計画に欠けていたので、いわば一殺多生の血盟団的テロの軍人版になったわけだ。彼らは決して、犬養個人に恨みはないが、総理大臣たる彼を殺すことによって堕落した政党と腐敗した政界に粛清の痛棒をくわえ、また市内各所の襲撃によって政府を覚醒させ、みずから昭和維新の捨て石たらんことを念頭したものであった。したがって、その後のことはあまり深くは考えず、軍部の長老と先輩の手によって、一君万民の天皇政治の本然の姿が首尾よく顕現されるであろうと希望的観測をしていたようである。五・一五事件に関する当局の共同発表文は、つぎの通り各被告の心情に大いに同情して、犬養首相の暗殺を傷むよりも、むしろ加害者の憂国の至情に敬意を表している点は、当時の軍部のたかぶった国家観念と政治干渉をしめすもので、いわば日本を破滅にみちびいた「反乱への道」の重要な道標の一つといえるであろう。
「 ――本件犯罪の動機および目的は各本人らの主張するところによれば、近時わが国の情勢は政治、外交、経済、思想、軍事などあらゆる方面に行き詰まりを生じ、国民精神また頽廃を来したるをもって、現状を打破するに非ざれば帝国を滅亡に導くの恐れあり、しかしてこの行き詰まりの根源は、政党、財閥および特権階級がたがいに結託し、ただ私利私欲にのみ没頭し、国防を軽視し、国利民福を思わず、腐敗堕落したるによるものなりとし、この根源を排除して、もって国家革新を遂げ、真の日本を建設せざるべからずというにあり 」
さらに、昭和八年(一九三三年)九月十九日の陸軍軍法会議判決理由は、つぎの通り五・一五事件に参加した士官学校生徒の動機と目的を大いに取りあげて、間接的に彼らの反乱行動を正当化し、また光栄化している点は注目される。コチコチの固苦しい文章だが、かえって当時の雰囲気がよくにじみ出ている。
「 ――各被告人はわが国現下の状態を目し、皇道扶翼の精神は日に衰え、国体の尊厳は日に疎んぜられ、いわゆる支配階級たる政党、財閥および特権階級は腐敗し、堕落し、相より相助けて私利私欲に没頭し、国防を軽視し、国政を紊(みだ)り、外は国威の失墜を招き、内は民心の頽廃、農村の疲弊を来せるなど、皇国の前途はすこぶる憂うべきもののあるのみならず、とくに満州事変の勃発に伴う国際情勢およびロンドン軍縮条約の結果、わが対外関係の危機は一日の偸安(とうおん)をゆるさずとし、速やかにこれら時弊を革正し、もって建国の精神に基づく皇国日本を確立するため国家革新の必要を痛感し、しかも叙上(じょうじょう)の焦眉の事態と、被告人当時の境遇上、とうてい合法手段をもってしては、これが革正を期し難しとし、ついにみずから国家革新のための捨て石となり、直接行動によりこれら支配階級の一角を打倒し、支配階級および一般国民の覚醒を促し、もって国家革新の気運を醸成せんことを欲し…… 」
(海軍側の判決理由もこれとほぼ同じ趣旨であり、きわめて各被告人に対して寛大なものであった)また、事件の計画と経過については、司法、陸海軍三省の共同発表文はつぎのように明らかにした。
「 ――従来、海軍部内における運動の指導的地位にありたる海軍大尉藤井斉は上海に出征し、同年(昭和七年)二月五日戦死し、その中心を失うこととなりたるも、当時、霞ヶ浦海軍航空隊に勤務しておりたる古賀清志、中村義雄(いずれも海軍中尉、軍人行動隊の首脳部)らは謀議の末、井上昭(血盟団盟主井上日召の本名、同年三月検挙された)たちのいわゆる一人一殺主義は、その効果薄しとなし、むしろ一斉集団的に直接行動を実行し、これにより帝都の治安を紊(みだ)し、一時、恐怖状態に陥らしめ、戒厳令の布告せらるべき情勢を引き起こせしめんことを企図し、同年三月二十一日、かねて国家改造に関する文献などに刺戟せられいたる池松武志、後藤映範、篠原市之助(いずれも陸軍士官候補生、その他氏名は前表参照)たちと会見し、その企図を告げたるに、同人らはただちにこれに賛同し、行動を共にすることを約し、また当日、右会合に列せざりし中島忠秋もその後に参加することとなりたり 」
また一方、民間側の農民決死隊の参加のいきさつは、つぎの通りであった。
「 ――橘孝三郎(受郷塾頭)は、同年一月二十二日、茨城県土浦町において、古賀清志、中村義雄らに対し講演をなして農村の窮状を説き、国家革新の要あるを論じ、青年士官の奮起を奨励したることありて、肝胆相照らすにいたり、同年三月二十日以降、古賀、中村と、しばしば論議の結果、別働隊としてその配下なる後藤圀彦および塾生たちを率いて行動の第一線に立たんことを約したり 」
このように、歴史的な五・一五事件の全貌は、今日の民主日本の社会通念からかえりみると、まことに奇怪千万なものであった。とくに暴力否定の人道主義の立場からみれば、「一人一殺」とか「一殺多生」などという考え方は、いかに彼らの国家革新の熱情と天皇絶対主義の理想が純真なもので、愛国の至誠に燃え立ち、みずから護国の人柱たらんことを誓っていたとしても、偏狭な日本独特の独善、排他の軍国主義のバリエーションのようなものであった。少なくとも、彼らの唱えた「正義」は、今日の平和時代の「自由」と表裏一体をなす民主主義的な「正義」ではなかった。だが、彼らの信念と熱情が決していい加減な一時の気まぐれであったと判断してはならぬ。当時、深刻な農村不況と生活苦と就職難の暗い世の中で、政府はほとんど無為無策で社会不安は増大し、政党は腐敗して、疑獄事件が続出し、また、財閥は政商と結んで金もうけに狂奔して驕り高ぶり、まったく貧富の対立は、「これが同じ日本人の生活か?」と驚くほど激化していた。したがって、真面目な正議感の強い青年ほど、険悪な世相を憂え、支配階級の横暴を憎んでいた。とくに実行力と決断力に富んだ陸海軍青年将校たちが、日本の現状打破のために決起した気持は、当時の暗い泥沼のような社会的雰囲気を理解すればするほど、私にはよくわかるような気がする。むしろずるい意気地のない青年たちほど、険悪な社会相の現実を見て見ぬ振りをして、当時流行のジャズや、低級な流行歌や、銀座の青い燈、赤い燈の享楽主義へ逃避して、ひそかにウサ晴らしをしていたとも解せられるであろう。当時の日本の社会では、「正義」と「自由」とが背中合わせになって、いわば鋭く対立していたのだ。要するに、この当時、昭和日本は右せんか、左せんか、重大な十字路に立っていたのだ。いずれにせよ、張作霖の爆死から満州事変へとたくましく動き出していた軍部の巨大な推進力は、もはや日本を現状に立ちとどまらせておくことを許さなかった。かくて昭和日本は、天皇制の下に左旋回するよりも右旋回する方が、歴史的にみても、国民性からみても、きわめて容易で自然的であったため、急速に軍部の推進と圧力によって、狂信的な軍国主義と超国家主義による国家革新――すなわち、昭和維新をめざして突進していった。それが「反乱への道」であった。だから、五・一五事件の軍法会議の判決がきわめて軽かったのは、当時の社会的雰囲気の中では当然の情状酌量の結果であり、その責任は軍部のみならず、軟弱な政府にも、堕落した政党にも、横暴な財閥にも、利己主義にこり固まった支配階級にもあったわけである。ただ軽すぎる判決を不審に思い、不満に感じたのは善良な国民大衆であったが、しかし、大衆にはその当時、言論の自由もなく、また新聞を通じて真実を知る権利もあたえられていなかったから、まったく無力であった。私のような若い新聞記者も、ただ事件をめぐる情報をとったり集めたりするのが、精いっぱいの仕事であった。いわば巨大なドス黒い時代の潮流に浮かんで押し流されているようなものだった。
もう一つ、私の忘れられない点は、五・一五事件の公判が、軍人をさばく海軍の軍法会議と、民間人をさばく東京地方裁判所とか、それぞれ昭和八年(一九三三年)七月から九月の間に別々に開かれて、しかもその審理と判決がパラパラで統制を欠き、いかにも軍人偏重のバランスのとれない印象をあたえたことである。それは軍首脳部が青年将校を恐れた一方、また民間の革命家を嫌っていたせいであろう。すなわち、各被告人の判決は別表の通り軍人には反乱罪が適用されて、しかも一国の首相を多勢で取り囲んで射殺しても、首魁や下手人の古賀、三上、黒岩、山岸の各海軍将校はわずかに禁錮十五年(求刑は死刑)ないし十年という驚くほど軽いものであった。また、陸軍側の士官候補生十一名には、やはり反乱罪が適用されたが、一律に禁錮四年(しかも未決拘置百五十日通算、ただし求刑は禁錮八年)という、じつにバランスのとれない形式主義の判決が下った。ところが、民間側の被告全部には、反乱罪のかわりに、「殺人、殺人未遂、爆発物取締罰則違反」などの忌(いま)わしい罪名が適用されたうえ、ほとんどすべて求刑通りの厳刑が言い渡された。たとえば、犬養首相暗殺の直接下手人ではない黒幕の愛郷塾頭、橘には無期懲役、また被告池松は、陸軍側の士官候補生と同一行動をとりながら士官学校中退の民間人であるために、陸軍側の一律禁錮四年にたいして、懲役十五年の重刑といった工合であった。しかも陸海軍人がすべて愛国の志士扱いで「禁錮刑」であるのに反して、民間側は不名誉な「懲役刑」といった差別待遇(併合罪のためではあるが)が目立った。これについては、当時、弁護人側でも異論が出て、上訴すべしと意見もあったようだが、愛郷塾頭、橘孝三郎は全被告を代表して、
「 刑の軽重のごときはいまさら問うところではない。自分にあたえられた無期の判決は、青年将校の身代わりになり得たことと思われるのが光栄である。これより既知、未知の同志が将来、ぞくぞく起って国家革新に当たって下さるであろうと思う 」
と天晴れな男前をみせた。そして、全員が一審服罪の覚悟を明らかにした。この五・一五事件に関して、陸海軍当局が、ひそかにもっとも心配したのは、国家革新運動に参加する若い青年将校たちが、いわば世間知らずの血気盛んな純真な熱情から、大川周明(神武会頭)とか、本間憲一郎(紫山塾頭)とか、橘孝三郎(愛郷塾頭)とか、井上日召(血盟団)とか、いったような、民間のいわゆる職業的愛国運動家に煽動されたり利用されたりして、軽挙妄動して軍の威信を傷つけ、あるいは軍部独自の立場を危うくする恐れがあることだった。ことに陸軍首脳部としては、苦しい悩みがあった。前年の昭和六年に起こった三月事件では宇垣陸相を首班とする軍部政権を企て、さらに同年の十月事件では荒木中将(当時)をかつぐ軍政府の樹立を図るなど、一部の将官と有力幕僚と中堅将校の団体「桜会」(昭和五年九月結成)を中心とする軍部クーデター計画が続出していたやさきなので、たとえこの両事件が一応、未然に阻止されたとはいえ、それからわずか半年後に起こった五・一五事件に直面して、将軍連中が内心で愕然としたのはもっともであった。それは、軍部のクーデター計画と青年将校の反乱の陰謀とはたがいにからみ合って、いまや急進的な国家革新行動の底流は、刻々と全国的に青年将校層へひろまり、佐官級より尉官級へ、さらに尉官級より士官侯補生へと、まるで狂熱病のごとく伝染してゆく有様になったからだ。もはや、古い将軍連中の頭と力とでは、青年将校たちの血管に激流する反乱の熱情を押さえることはできなかったし、また、五・一五事件の反乱将校を寛大に扱ったことは、いっそう事態を悪化させるばかりだった。 
第三章 愛国大行進 / 神兵隊事件

 

犬養老首相を血祭りに上げて、政党内閣に最後の止(とど)めを刺した五・一五事件の恐怖と戦慄がまだすっかり消え去らず、なんとなくぶきみな不安と険悪な社会雰囲気が低迷していた昭和八年七月に、とつじょ、その名も奇怪千万な神兵隊事件が帝都に勃発した。もっとも、前年(昭和七年)の五・一五事件のように政府要人の暗殺、襲撃が実行されたわけではなくて、いわば大がかりな内乱計画の決行の直前に、警視庁の手で関係者多数の一斉検挙がおこなわれたので、大事にいたらず未然に防止された。しかし、新聞記事のさしとめによって、事件の内容はいろいろ臆測されて、早耳の新聞社内でも、「誇大なデッチ上げ」説と、想像以上に広汎な恐るべき「クーデター陰謀計画」(武力による政府打倒)説とが乱れ飛んだくらいであった。実際に、司法当局でも、関係者の取り調べの進行にともなって、しだいに明るみに出てきた事件の真相には、そうとう手を焼いたもようであった。それほど神兵隊事件は、奇怪、複雑をきわめて、その全貌がはっきりとつきとめられるまでには永い月日を要した。すなわち、昭和八年七月十日夜、警視庁特高課の総動員によって、東京代々木の明治神宮参道橋際の神宮講会館に、「国難打開、国防祈願」と称してひそかに集合中の前田虎雄、影山正治以下四十九名を一斉検挙し、さらに翌十一日朝までに鈴木善一以下多数を総検挙して神兵隊事件関係者を根こそぎにしてから、昭和十年九月十六日に東京刑事地方裁判所の予審終結決定にいたるまで、じつに満二ヵ年以上もかかっていた。しかも主要被告は全員、「内乱予備罪」として、大審院の特別裁判に付せられたが、昭和十二年十一月九日、その第一回公判いらい、回をかさねること百十六回におよび、その間に、国体明徴論争や裁判長忌避事件などいろいろ大波瀾をまきおこして、被告側の法廷闘争を有利に展開したあげく、昭和十六年三月十五日に、大審院法廷において意外にも全被告にたいして、「その刑を免除す」と無罪同然の判決が下るまで、まさに足掛け九年間を要した。これこそ、昭和動乱史の中でもとくに奇怪きわまる悪夢のような大事件の典型であった。まず、「神兵隊」と自称する民間決起部隊の構想もなかなか国粋的であり、また効果的であった。少なくとも、口の悪い社会部記者の間でも、なにか、神がかりな関心を高めたことは事実であった。これは後日、首謀者の被告の取り調べによって明らかにされたのであるが、神兵隊という名称の由来はつぎのようななかなか由緒あるもので、直接行動司令の前田虎雄が命名したものである。それは国学の大家藤田東湖以前の水戸学の重鎮であった会沢正志斎の詩に、「神兵之利」という言葉が使用されており、また彼の著『神論』にも、「天神之兵」という文字があるのを引用したものであった。その正志斎の文字の注釈によると、武器は元来、神のもので、平時はこれを神前にそなえ、有事のさいはこれを神の許しをえて取り出すべきであるというのである。前田はこの文字をとって、最初は大日本神兵隊と命名したのであったが、統率者の天野辰夫弁護士が日本の歴史と使命を論じて、「神兵は日本にこそありて、他の国にはないはずである」と主張したので、前田もその説を容れて大日本の三字を削り、ただ神兵隊と称することにしたのである。はからずも、事件から八年後に起こった太平洋戦争で、日本軍は皇軍あるいは神兵とみずから名乗って、大東亜各地へ進撃し、あるいは空中より挺身降下したのであった。かくて神兵隊の名称は昭和動乱史の中で、今日、すでに伝説化されているのだ。 

 

昭和八年といえば、すでに満州事変の二周年を迎えて、満州国は成立して、日本の承認によって日満一体の体制ゆ確立されたが、国際連盟は満州国不承認を決議した。また、この年にドイツではヒトラー内閣が成立、米国ではルーズベルト大統領が就任する一方、日本の国際連盟脱退など、まさに内外情勢はただならぬ波瀾の形勢をしめして、風雲急をつげつつあるようであった。もちろん、いますぐ世界動乱に火がつくとは、だれも思わなかったが、このまま進展したならば、軍国日本を中心とする東亜の情勢も、また、ナチス・ドイツを中心とした欧州情勢も、かならずや重大化することは識者の心配するところであった。しかし、正直にいうならば、この当時、日本の大新聞はすでに軍部に追従して、むしろ紙面を通じて非常時宣伝に協力することによって、かえってその発行部数を激増しているありさまであったから、満州事変以降、いわゆる言論と批判の自由は、知らず知らずのうちに放棄されつつあった。また、この昭和八年には、軍部の強力な別働隊として在郷軍人の国家主義運動への進出が目立ち、まず四月五日には、等々力(とどろき)森蔵陸軍中将を総裁として皇道会が結成された。その顔ぶれは、副総裁山下鋭八郎海軍中将、幹事長富家政市陸軍少将、顧間奥野英太郎陸軍中将その他、陸海軍の将星をつらね、また、五来欣造(ごらいきんぞう)博士と平野力三(りきぞう=日本農民組合)など右翼民間人もくわえて、いわゆる「兵農一致」の新政治体制を提唱し、全国府県に百個所の支部を設置して、宣伝運動に努めた。その宣言はつぎのようにきわめて激烈であり、また、その綱領もつぎのとおり、当時の軍国主義と国家革新主義とを大いに取り入れた、危機意識の時代色を濃く反映たものであった。今日からかえりみると、まことに大人げないような独りよがりの在郷軍人幹部の言動であった。当時、ひさしく社会より忘れられていたような旧軍人の老人や在郷軍人が、カビ臭い古い軍服を着用して、いわゆる「陽の当たる場所」に出現して気勢を上げはじめた光景を、私自身をはじめ若い新聞記者連中は、内心苦々(にがにが)しくは思いながらも、やはり軍国時代のカーキ色の従軍服と社名入りの腕章には誇りを感じて、勇躍して満支のニュース戦線へぞくぞく飛び出していったものだった。
「 宣言――「皇統三千年の光輝ある歴史を有する日本の現状は今や未曾有の危機に直面せり。すなわち国民生活はますます窮迫し、産業は停廃して、勤労大衆は餓死線上に彷徨(ほうこう)し、思想はますます悪化して極右極左ともに跳梁し、国民道徳は弛緩して軽佻浮華(けいちょうふか)の風は日に盛んとなり、列強は名を国際平和に藉(か)りて帝国の正当なる権益を抑圧せんとす。かくのごとくんば、皇国の前途は為に暗く、吾人の痛憤措(お)く能わざる所なり……(後略)」 綱領――皇道政治を徹底し、もって金甌(きんおう=黄金で作ったかめ)無欠なるわが国体の精華を発揮するを主眼とす。
一、既成政党の積弊を打破し、もって公明なる政治の確立を期す
二、資本主義経済機構を改廃し、国家統制経済の実現を期す
三、国民道徳の振興を図り、もって綱紀の粛正を期す
四、軍備を充実し、もって国防の完備を期す
五、国際正義を図り、世界資源の衡平を期す  」
すると、これに呼応するように、またこれと勢力を競うように、同年五月十六日に、田中国重(くにしげ)陸軍大将を総裁として明倫会(めいりんかい)が結成された。その理事には陸軍中将伊丹(いたみ)松雄、同二子石(ふたごいし)官太郎、海軍中将東郷吉太郎、伯爵山田英夫、元全権公使堀口九万一(くまいち)、同清水精三郎、法学博士大山卯次郎(うじろう)、実業家石原広一郎などの軍人と民間の有力者を網羅していた。みんな当時の有力者は、軍国時代のバスに乗り遅れまいとひしめいていた感がふかい。
「 (戦後の日本で、いわゆる当時の有力者たちがいずれも民主主義のバスに乗り遅れまいとひしめき合ったことを思いくらべてみると、まことに主義こそ異なれ、人間の心理は似ており、歴史はくり返す、との感ふかまるを禁じ得ない。将来、民主日本にふたたび軍国主義と国家主義が復活、再来しないとはだれも絶対に保証はできないであろう。もしも歴史の教訓を為政者が忘れたならば――) 」
この明倫会は資金も豊富で組識も強大であり、その政治、社会活動のために統制部長渡辺良三陸軍中将、政務部長匝瑳胤次海軍少将、宣伝部長二見甚郷(ふたみじんごう)元公使といった名士の顔ぶれをそろえていた。その綱領もつぎの通り、皇道会と大同小異ながら、もっと具体的であった。
「 綱領――一大難局に直面し徒(いたずら)らに袖手傍観するに忍びず、奮然蹶起し、明治天皇の御偉業を奉承恢弘(かいこう)し、聖恩の万一に酬い奉らん。
一、皇祖肇国の神勅を奉戴して天壌無窮のわが国体を尊重し、忠君愛国および献身奉公の至誠と道義的観念との普及徹底を期す
二、既成政党の積弊を打破して、天皇政治の確立、国家本位の政治の遂行を期す
三、退嬰追従外交を排して自主と正義とを基調とする外交を断行し、もって国威、国権の宣揚発展を図り、かつ大亜細亜主義の実現を期す
四、統帥大権の発動ならびに国際的軍備平等権を確保し、もって自主的国防の安固を期す
五、根本的行政、財政および統制の整理を断行し、かつ産業の振興、中正なる経済政策の遂行ならびに民族の海外発展によって国力の充実および国民生活の安定を期す 」
さらに同年十月十五日には、右翼の有力者たる小林順一郎海軍大佐を中心に、陸軍大将大井成元男爵、陸軍中将菊地武夫男爵、同浅田良逸男爵、同両角(もろずみ)三郎、同四王天延(しおうてん)孝、海軍少将南郷次郎、貴族院議員井田磐楠、同渡辺汀、同井上清純などの右翼議員たちの手で三六倶楽部泓結成され、全国の在郷軍人に強力に呼びかけて陰然たる大勢力を結集し、国家革新運動と国体明徴運動に拍車をかけた。(この三六倶楽部の名称は一九三六年の危機にちなんたちのであるといわれ、全国多数の会員に会報「三六情報」を配布していたが、昭和十三年一月に瑞穂倶楽部と改称した) こういう、物情騒然たる社会状勢を背景にして、神兵隊事件の破天荒な内乱計画がすすめられていたのだった。 

 

血盟団、五・一五事件についで首相官邸、警視庁の空爆、閣僚の暗殺、牧野内府邸、鈴木、若槻両総裁邸襲撃などを企てた民間側有志によるクーデター計画の神兵隊事件は、二年後の昭和十年九月十六日午前十一時に予審終結、決定書送達と同時に新聞記事の解禁となり、同日付の東京朝日新聞の号外は、つぎの通り驚くべき事件の全貌を報じて、天下を衝動させた。この新聞紙一ページ大の詳報号外は、当時、全国民にむさばるように読まれたものであった。それは、「『皇道維新』を標榜し、帝都動乱化の大陰謀、天野弁護士等五十四被告に『内乱罪』最初の適用」との五段ヌキの大見出しの下に、まず、司法当局の発表文を掲げていた。この原文は、いかなるスリラー小説よりも奇々怪々な事件の真相をはじめて明らかにしたものだった。
「 〔司法当局発表〕  「被告人天野辰夫外五十三名に対する殺人放火予備、爆発物取締罰則違反、被告人岩村峻外三名に対する殺人放火予備、被告人寺本久八に対する爆発物取締罰則違反事件は東京刑事地方裁判所予審に継続中であったが、本日、天野辰夫外五十三名の処為は刑法第七十八条(内乱の予備陰謀)に該当するをもって管轄違い。また岩村峻外四名の被告人については公判に付すべき嫌疑ありとして、東京刑事地方裁判所の公判に付する旨の予審終結決定があったが、本件の大要は次のごとくである」「被告人天野辰夫らは、かねてより現下のわが国は明治維新以後、欧米の物質文明と共に輸入せられた自由主義、個人主義、唯物主義の思想により政治、経済、法律その他社会諸般の組織制度が蠹毒(とどく)せられ、日本精神は忘却せられ、日本民族の将来は危殆に瀕し、一大改革を要するものと思考していた」「しかして、いわゆる血盟団、五・一五事件の同志があいついで蹶起したに拘わらず、政党、財閥、特権階級はますます相結び国家を紊(みだ)り国威を失墜したものと断定し、ロンドン条約の締結、国際連盟の脱退等により惹起せらるるものと予想すべき未曾有の国際的非常時局に直面し、皇国をこの危局より救い永遠無窮の発展を遂げしむるためには最後的に蹶起し、斎藤内閣を打倒し一挙に国家統治の中枢機構を破壊し、帝都を動乱化して戒厳令下に置き、大詔渙発を奏請して特異の内閣を組織し、皇道を指導原理として帝国憲法をはじめ国家統治に関する諸般の法律、制度、組織を根本的に改廃し、一君万民、祭政一致の天皇政治を確立し、神武肇国の皇政に復古し、いわゆる昭和皇道維新を断行し、もって憲法の大綱に一大変革を行なわんことを企てた」「その目的達成のため内閣総理大臣官邸における閣議開催時を期し、同志故海軍中佐山口三郎をして、飛行機により内閣総理大臣官邸および警視庁に爆弾を投下せしめ、これを合図に被告人前田虎雄を総指揮者とする地上部隊はそれぞれ数十名ずつ隊伍を組み内閣総理大臣官邸、警視庁、牧野内大臣、山本海軍大将、鈴木立憲政友会総裁、若槻立憲民政党総裁等の官邸または私邸、立憲政友会本部、立憲民政党本部などを襲撃してこれに放火し、かつ斎藤首相以下各大臣、藤沼警視総監等を殺害し、警視庁、日本勧業銀行等を占拠して本部となし、戒厳令施行に至るまでこれを死守し、もって政府顛覆その他朝憲を紊乱することを目的とし、暴動を起こさんことを企て、昭和八年五月ごろより諸般の準備を了したのである。(後略)」 」
今日、この司法当局の発表文を読んでみると、まことに荒唐無稽の架空の革命計画のように思われてならないが、実際に神兵隊事件は血盟団事件や五・一五事件と結合して、いわば、昭和暗殺時代の三部劇をなすものであり、当時の険悪な社会的雰囲気の中で、その「一殺多生」の奇怪な思想底流の根強さは驚くべきものがあった。なぜ、このような大規模な内乱的計画が企てられたのであろうか? 神兵隊事件は、血盟団事件および五・一五事件と同様に、当時の国家革新運動の合言葉であった「君民一致」の実現をめざして国家の大改造を企てたものである。血盟団の盟主井上日召は、錦旗革命事件(昭和六年三月事件と十月事件を指す)の首謀者、すなわち陸軍幕僚、中堅将校たちの独善的な態度と権力的な目的にあきたらず、昭和七年一月末に陸軍軍人側と手を切り、みずから「国家の捨て石」と称して血盟団を結んで、政界と財界の巨頭の一人一殺主義を実行したのであった。そして、彼が自首した後、その影響を受けていた海軍青年将校の手で、犬養首相暗殺の五・一五事件が決行されたわけだ。ところが、血盟団事件にせよ、五・一五事件にせよ、その期待していた「国家改造」も「昭和維新」もついに実現せず、すべて不成功に終わったので、井上日召と親交のあった熱血漢の天野辰夫弁護士はみずから乗り出して大規模な革命計画を決行する肚(はら)を決めた。彼は静岡県浜松の有名な日本楽器株式会社の元社長天野千代丸氏の長男で、大正二年に東京帝国大学独法科に入り、三年間病気休学の後、同八年に卒業して弁護士となり、また同十二年に法政大学教授となった。彼は大学時代から、天皇主義憲法の権威上杉慎吉博士に私淑(ししゅく)して国家主義運動に熱中し、同じ東大の内部で吉野作造博士の指導する左翼学生の新人会と対抗して学園闘争の先頭に立った。彼はいわば当時の右翼国家革新運動のインテリであり、熱烈な理論家兼闘士でもあった。大正十五年一月、第二次日本共産党が強力に指導した浜松楽器の大争議が起こるや、彼は父の会社を応援するというよりは、むしろ左翼勢力と大決戦を挑むために帰郷して、百五日間にわたり会社内に籠城して、悪化した争議団と猛烈に実力闘争を重ねて新聞紙面を賑わせた。かくて、彼の声望は愛国戦線に重きをなして、昭和四年から愛国勤労党を結成して軍国時代に大きくクローズアップされていた。神兵隊事件当時、彼は四十二歳の男盛りであった。では天野弁護士は、どうして宿望ならず下獄した井上日召の遺志を継いで革命計画を思い立ったのであろうか? それにはつぎのような宿縁があった。事実はまったく小説よりも竒なりの感がふかい。昭和七年二月から三月にかけて、井上準之助元蔵相と三井合名理事長団琢磨男爵の連続暗殺が決行されて、犯人の血盟団員小沼正と菱沼五郎両名が検挙され、一人一殺主義の暗殺計画の全貌が暴露されるや、盟主の井上日召はもはや身辺危うしと覚悟を決めて、潜伏中の東京市渋谷区常磐松(ときわまつ)の天行会道場内で割腹自殺を企てようとしていた。急報を聞いて、ひそかに駆けつけた天野弁護士は、彼一流の熱弁をふるって、
「 「まだ死ぬときではない。われわれはおたがいに偉大な目的を貫徹するまで、あくまで正々堂々と戦わねばならぬ。むしろ、いさぎよく自首して法廷で闘争すべきだ。われわれはかならず後につづいて決起するぞ――」と説き伏せた。 」
かくて、日召は天野の激励に感激して自決を翻意(ほんい)、同年三月十日に、当時、霞ヶ浦海軍航空隊に所属していた古賀清志海軍中尉(五・一五事件の主謀者)をたずねて後事を託した後、翌十一日、天野弁護士および親友の右翼団体、紫山塾頭本間憲一郎両名にともなわれて警視庁に自首したのであった。こんな関係から、天野は日招はじめ血盟団ならびに五・一五事件の同志、同憂の士を見殺しにはできず、みずから決起する覚悟をかためた。そして、同年五月、ただちに彼のもっとも信頼していた前田虎雄(神兵隊の行動隊司令となる)を上海より電報で呼びもどした。それから天野を中心に東京で極秘の協議を重わた結果、昭和維新の決行にあたり、「破壊」担当者がそのまま「建設」の任に当たるべきではない(これは三月事件および十月事件の軍部中心のクーデター計画の関係者の野心を戒めたものだ)、ということに一決し、前田はみずから捨て石となって、その「破壊」任務を担当することを内定した。もちろん、天野は「建設」を引き受けた。 

 

神兵隊の行動司令として決起、破壊計画を担当した前田虎雄は、まず、天野弁護士の主宰する合法団体の愛国勤労党に参加して中央委員となり、表面上はその資格で北海道、茨城、大阪各方面へひそかに遊説して、行動隊に投ずる青年同志の獲得に努めた。とくに彼は右翼愛国戦線の友誼団体たる皇国農民同盟、大日本生産党青年部、大亜細亜協会、神武会、大化会、国家社会党、大阪愛国青年連盟その他、国士館大学学生、敬天塾塾生などを動員しようと狙って、その代表者だちと連絡を図っていた。たまたま昭和七年夏、前田は紫山塾頭本間憲一郎の紹介状をたずさえて、当時、横須賀海軍工廠実験部長の山口三郎海軍中佐を訪ねて、大いに時局を論じ合って共鳴するところがあった。山口中佐は、わが海軍随一の空爆の名手であり、また国家革新の意気に燃えた熱血漢でもあった。前田はその後、数回も山口中佐と会見して意見を交わした結果、同中佐こそ「昭和維新」のために直接行動にくわわるべき重要人物であると確信するようになった。それで、翌昭和八年一月三日、前田は山口中佐を新年の挨拶をかねて訪ねて、はじめて神兵隊挙兵計画を打ち明けて助力を求めた。それは、もし山口中佐を味方に引き入れて帝都爆撃の大狼火(のろし)をあげることができたら、政府首脳をビックリ仰天させて、軍部の手で戒厳令の即時施行と革新政権の樹立を容昜ならしめるであろうと、途方もない内乱の夢想をしていたからだ。すると、相手の山口中佐は欣然として応じた。前田は大いに感激した。「よろしい、わしもできるだけの力を貸そう。その計画をまちがいなく成功させるためには、しかるべき有力な指導者を頼んだ方がよかろうね」「中佐! まことに有難く思います。中佐がわれわれの味方になって下さるならば、まさに千万人の味方ができたような力強さを感じます」 こうして、前田の手で早急に決起計画の腹案がつくられた。それによると、これまでの暗殺、反乱の計画が、ただ少数のピストルまたは爆弾と日本刀などにたよった破壊力の貧弱な点を非とし、思いきって警備当局の意表を衝いて、飛行機を使用して閣議開催中の首相官邸と警視庁と牧野内府邸に空中より爆弾を投下して粉砕する一方、これを合図に民間愛国、右翼団体の精鋭分子を出動させて空襲直後の首相官邸と警視庁を襲撃、占領させ、また市中の要府に放火して大混乱を起こせば、戒厳令はかならず施行されるにいたり、昭和維新の前提条件たる「破壊」の任務は達成される――というのであった。それで同年二月中に、前田は山口中佐とひそかに会見して、この大計画案を提示したところ、中佐は豪快そうに笑いながら、相手の真剣な顔を見つめるように答えた。「うん、それはなかなか、どうどうたる計画だね。しかし、警視庁の空爆は宮城が近いから、よほど慎重に考慮せねばならんよ」こうして、同年六月中に天野辰夫、前田虎雄、鈴木善一(青年行動隊の動員関係司令)など主謀者の手で練られた決起計画の最終案はつぎの通りで、その動員総数は三千六百名であった。
「 神兵隊第一次決行計画案
一、決行日時――昭和八年七月七日午前十一時(斎藤内閣閣議の日)
二、動員総数――三千六百名(ほかに飛行機一機)
三、決行方法――空爆、地上襲撃(ピストルおよび日本刀)、武器掠奪、放火
四、襲撃目標――首相官邸、警視庁、牧野内府邸、鈴木政友会総裁邸、若槻民政党総裁邸、故山本権兵衛伯邸、政民両党本部、裁判所(公判中の井上日召奪還)、社会大衆党本部、日本工業倶楽部、市中銃砲火薬店
五、事後行動――日本勧業銀行占拠ならびに籠城、対戦、戦死
六、主張宣伝――檄文撒布(空中ならびに地上)、幟(のぼり)大旗類による示威、襷(たすき)、腕章、鉢巻などによる愛国的表徴の染め抜き  」
なお、この計画によると、注目された山口中佐担当の帝都空爆用の海軍機は、爆弾を搭載して東京上空に飛来し、首相官邸、警視庁その他の目標にそれぞれ投爆し、また、空中から檄文を撒布したうえ、地上隊員の警視庁襲撃をまって、宮城前に着陸し、地上隊に合流するという予定であった。また、地上隊員は数隊に分かれて、一隊はピストルと日本刀をかざして首相官邸を襲撃し、もし閣僚中に生存者があれば、これを殺害する。他の一隊は同様に牧野内府邸を襲い、もし、空爆不完全とみれば、乱入して牧野内府を殺害するといった工合に、襲撃目標の人物と建物を殺害、あるいは占拠したうえ、麹町内幸町の日比谷公園前の日本勧業銀行本店の建物に立て籠(こも)り、その屋上より、「昭和維新決行、神兵隊」と大書した大白布を垂れ下げて、全市の警官隊を相手に戦って勇ましく討死を遂げようという筋書であった。かくて、昭和維新の第一段階の「破壊」の目的を達するや、ついで、第二段階の「建設」に移り、全市戒厳令の下で、全国民の信望を集めていた東郷平八郎元帥を中心に仰いだ補佐機関をともなう特別内閣に大命降下を期して、西園寺公を動かして、その下準備工作を行なう方針を決定していたそうだ。さて、神兵隊決起計画の首謀者の顔ぶれは別表の通りであった。いずれも血盟団の井上日召の流れをくむものであり、とくに山口三郎中佐が、井上の長兄で海軍航空隊の草分けである名パイロット、故井上二三雄(ふさお)中佐を敬慕していた後輩であったことは、まことに大空に結ばれた奇縁として、当時、新聞紙上に書き立てられたものだった。なお、右表の年齢はすべて昭和十年九月、予審終結のときの発表資料によるものであるから、昭和八年七月の事件当時には、各関係者ともこれより二歳ずつ若かったわけである。ところが、神兵隊の大規模な決起計画には首謀者たちの苦心と努力にもかかわらず、最初からいろいろな困難と無理がつきまとっていた。それは古今東西を通じて、革命計画の実行にともなう共通の悩みである資金難と武器の入手難であった。神兵隊事件の軍資金として実際に用意されたのは、総計六万二千円程度であったと司法当局ではみなしていた。また、この軍資金の一部を使用して、前田は関西方面の密輸ピストルの大量かき集めを図り、腹心の部下を大阪、神戸へ派遣したが、あいにく五・一五事件以来ピストルの密輸取り締まりが厳重になって入手できず、結局、第一次決行計画の七月七日までに調達した武器は、わずかにピストル(各種)十六梃、弾丸約七百発、その他に日本刀九十八本、木刀および短刀数十本、放火用の揮発油入り水筒十六個といった貧弱な有様であった。  

 

なぜ、神兵隊事件は決行直前に警察当局に探知されて、未然に一斉検挙されたのであろうか? それは計画があまりに大がかりで、しかも杜撰(ずさん)であったのみならず、首謀者たちの間でも即行論と慎重論(時期尚早論)が対立して動揺していたうえ、事件ブローカーの早耳を通じて秘密が漏れ、当局のスパイ網に情報が筒抜けにキャッチされたからだ。即行、急進派の天野、前田、山口中佐たちは、これを「最後的でかつ必勝的挙兵」とするために、まず、愛国学生連盟はじめ愛国諸団体数万名を動員して、東京市内で一週間にわたる「愛国大行進」の示威運動を行ない、一般国民大衆の愛国熱を煽動したうえ、大行進の最終日にあたる決行当日には、日比谷公園に決死隊三、四百名を待機させて、空爆を合図に一斉決起させる計画だった。しかし、その実行が困難のため、次第に計画を縮小して前述の第一次計画に決定したが、これまた直前に幹部の意見対立と武器不足のために延期された。そして、第二次計画(動員四百名予定)が立てられ、いよいよ七月十一日に決行ときまったところが、その前夜に集合中を一網打尽になってしまった。では、帝都空爆の大任を担った山口中佐はいったい、どうしたか? 彼は当時、七月中旬に行なわれる海軍特別大演習に参加するため、横須賀航空隊実験部長から臨時第二航空隊司令に補せられたが、横須賀より千葉県館山に移り、決行日の到来するのを待ちかまえていた。
彼は細心の注意をはらって空爆実施計画をたびたび練りなおし、決行当日には爆弾投下後、代々木練兵場に着陸、ただちに自動車を駆って明治神宮前に集結、進発した地上隊に追いつき参加することに決めていた。ところが、待望の七月七日は延期され、さらに七月十一日未明に、行動隊司令前田以下、一斉検挙の急報を電話によって東京の同志から知らせてきたので、山口中佐は失望落胆して、予定の行動を中止し、そのまま連合艦隊とともに洋上の演習へ出動してしまった。一方、神兵隊の中心人物たる天野弁護士と安田陸軍中佐は、連絡不十分のためにこの中止事情を知らなかったので、十一日午前十一時を期して空爆が決行されるものと信じていた。安田中佐は軍資金を提供した内藤へわざわざ決行時間を電話で予報したうえ、みずから麻布霊南坂の上で空を仰いで海軍機の飛来を待っていた。一方、天野は世田谷の自宅の窓から、これまた空ばかり眺めていたそうだ。まったく笑えない悲喜劇――神兵隊事件のみじめな終幕であった。この事件が、戦前の刑法ではじめて内乱予備罪を適用された理由は、当時の司法当局の発表によると、「五・一五事件と異なり、神兵隊事件は破壊と建設の両計画を立てており、その後者は憲法を停止して政治、経済、社会の諸機構を根本的に変革して、君民一致の国家たらしめんとするものであるから、これは朝憲の紊乱(びんらん)に該当する」というのであった。ところが、大審院の特別裁判の判決理由はつぎのとおり、まことに太平洋戦争の開戦直前の軍国時代の時勢におもねったのか、奇怪至極なものであった。今日より公正に考えてみると、じつに裁判の神聖なる権威とは、いつの時代にもあまり当てにならぬもののような気持がしてならない。それほど時代の嵐の圧力は強大なものだといえるだろう。(ただし事件当時から、戦後の今日にいたるまで、神兵隊事件は職業的革命家の天野弁護士が仕組んだ複雑巧妙な芝居で、もともと実現の可能性はきわめて薄く、かえって警視庁当局に利用されて誇大にデッチ上げられたものだという見方があるのは、注目される)
「 ――内乱罪の成立には朝憲紊乱の目的あるを要す。しかして刑法にいわゆる朝憲紊乱とは、皇国の政治的基本組識を不法に変革することをいうものにして、朝憲紊乱の一として刑法に例示せらるる政府の転覆もまたこの意義に解すべく、したがって、単に時の閣僚を殺害して、内閣の更迭を目的とするに止まり、暴動によりて直接に内閣制度その他の朝憲を不法に変革することを目的とするものに非ざるとき、朝憲紊乱の目的なきものとして、内乱罪を構成せざるものと解すべし 」
「 ――被告人らは皇国諸般の制度の改廃を一に天皇の大権の発動にまつべきものとなし、承詔必謹(しょうしょうひっきん)を以て臣道とし、民意強行の意図のごときは毫末もこれを有せず。(中略)
皇運を扶翼し奉らんことを念願したるものにして、被告人らは暴動により内閣制度を破壊し、その他憲法および諸般の制度を不法に変革することを目的としたることは、とうていこれを認め難し、したがって、本件暴動計画は内乱予備罪を構成せざるものといわざるべからず 」
今日、この判決文を読んでみると、じつに軍国調百パーセントの名文(?)のような気持がするが、当時のまさに噴火山上の軍国日本の社会的雰囲気を正直に反映したものとして、歴史的興味はふかい。かくて、全被告の犯罪内容は九年前の起訴当時の振り出し点にもどって、放火および殺人の予備罪に該当するものとみなされたが、「その動機、原因ならびに目的において大いに憫諒(びんりょう=あわれみ)すべきものがあり、かつ本件発生後におげる皇国内外のいちじるしき事情の変更その他、諸般の情状にかんがみて」、ついに有罪ではあるが、その刑を免除されたわけである。求刑では、首謀者天野は禁錮五年、前田は同四年、安田中佐は同四年、鈴木は同三年、影山と中島は同各二年六ヵ月、その他の被告は一年ないし二年の禁錮刑であったが、すべて非常時体制下の情状酌量によって神兵隊事件は御破算となり、右翼陣営は拍手喝采をしてこの名(?)判決を迎えた。 
第四章 戦ナキ平和ハ天国ノ道ニ非ズ / 青年将校と北一輝の思想

 

昭和日本の宿命ともいうべき動乱の歴史はすでに述べてきたように、血なまぐさい暗殺と恐ろしい反乱によってまことにすさまじく飾られ、むごたらしく彩られているが、この動乱の道をふり返ってみると、昭和六年から昭和十一年にわたるわずか足かけ六年の間に、九つの歴史的な重大事件が昭和日本の方向をしめす里標として残されている。この短い期間に自由日本は軍国日本へ大きく極石の急旋回をして、政党政治は軍部専制へ切りかえられ、昭和維新の名の下にいわゆる「尊皇討奸(そんのうとうかん=天子を敬い悪を討つ)」と「米英撃滅」の戦争への道を突進したのであった。同じ天皇制の下にありながら、たった六年間で、昭和日本の大改造が断行されたのは、この九つの重大事件の政治的ならびに社会的影響力が、いかに深刻なものであったかをしめすものであろう。
この九つの里標とは、つぎの通りである。
「 一、三月事件(昭和六年) 二、十月事件(同年) 三、血盟団事件(昭和七年) 四、五・一五事件(同年) 五、神兵隊事件(昭和八年) 六、十一月事件(昭和九年) 七、国体明徴、天皇機関説排撃事件(昭和十年) 八、永田鉄山中将殺害事件=相沢中佐事件(同年) 九、二・二六事件(昭和十一年) 」
このように、昭和動乱のものすごい火の手は、明治維新当時のほかには近代日本史上で決して見ることができないような猛烈なものであり、いっさいの障害も反対もたちまち焼きはらう勢いであった。そのクライマックスは、雪の朝の大反乱、二・二六事件であり、それから以後の日本は、まったく軍部の意のままに戦時体制を急速にととのえて、ついに五年後に太平洋戦争へ突入したわけである。しかし、今日より回顧してわれわれが見落としてならない点は、この昭和初期の六年間に日本の国内が暗殺と反乱によって血ぬられていたとき、国際情勢もまた大きくゆらいでいたことである。すなわち米国の金融大恐慌(一九三一年)とフランス大統領ドウーメル暗殺(一九三二年)、大海軍主義者のルーズベルト米大統領の当選(一九三二年)、ヒトラーの政権獲得(一九三三年)、オーストリア首相ドルフス暗殺(一九三四年)、エチオピア戦争(一九三五年)、スペイン内乱(一九三六年)というふうに重大な事件があいついで起こり、戦争の危機を予報する赤信号の下に全世界は騒然としていた。要するに目本の危機は、はからずも世界の危機に通じ、また、世界の風雲は東亜の戦雲に反映されていたともいえるであろう。こう考えてみると、昭和日本のいたましい悲運もまた、世界の宿命に相通ずるものがあるであろう。なぜならば、戦争はかならず相手を要するものであり、決して日本の軍部だけでひとり相撲はとれないからである。日本の国内で暗殺と反乱によって、軍部が「天皇親政」とか「昭和維新」の美名の下に戦争準備に努力していたとき、はるか遠い欧州の天地では、ナチ党(国家社会党)を率いてドイツに独裁政権を確立したヒトラー総統が、同じような暴力と煽動によって、ベルサイユ体制打破と大ドイツ帝国建設のためひそかに戦争準備をすすめていた。  

 

ところで、昭和動乱の原動力となった日本の軍部と青年将校と民間愛国団体は、いったい、いかかる日本の革新を意図していたのであろうか? また当時、軍国日本の合言葉となっていた「昭和維新」とか「国家改造」という言葉は、いったい、どんな具体的内容を持っていたのであろうか? さらにまた、一人一殺をめざした血盟団の同志や、五・一五事件の青年将校たちは、いかなる「皇国日本」の理想像を夢に描いていたのであろうか。それはひと口にいって、きわめてアイマイなものであった。なるほど、歴代政府の失政と政党の堕落、官僚の腐敗と財閥のあくどいヤミ取り引き、農村の窮乏などが、昭和日本の醜く歪んだ姿として、正義感と愛国心の旺盛な若い青年将校や士官候補生や大学生の目に映り、彼らの怒りを爆発させたことは明らかである。また、軍部の長老や、いわゆる佐官級の幕僚連中も、大正末期より国内に吹きまくった軍縮の冷たい風を身にしみて感じて、長いあいだ世間に出ても肩身の狭い思いをしていたことをまだ忘れていなかっただけに、いまや昭和動乱の黒い旋風に便乗して軍国時代の到来を迎えて、大いに一陽来復の快心の笑みをもらしていた気持もよくわかる。しかしながら、一般の軍人にとっては、ただ満州事変(昭和六年九月)の勃発以来、にわかに軍務が忙しくなり、異動や進級がはげしくなって、はなはだ活気づいてきた以外には、格別な言動の変化はみられなかった。彼らはすべて軍人勅諭(明治十五年一月四日、とくに明治天皇より軍人に賜わりたる日本軍人の根本精神の聖典)の中に明記された「朕(ちん)は汝ら軍人の大元帥なるぞ、されば朕は汝らを股肱(ここう)と頼み汝らは朕を頭首と仰ぎてぞ、その親さは特に深かるべき……」という天皇の言葉を有難く拝誦して、いわばその本分をよく守り、「世論に惑わず、政治に拘(かかわ)らず」(軍人勅諭第一条)、全国の任地で日夜、その職務に精励していたものだ。ところが、中央の陸軍省や参謀本部の要位についていた佐官級の幕僚連中、すなわち陸軍大学校を卒業して将来の軍部中枢を約束されていた連中は、いずれも秀才ぞろいで頭脳もよかった代わりに、野心も根強いものがあった。彼らは軍服の胸につけた天保銭型の陸大マークを誇って、皇軍の将来をになうものと自他ともに任じていた。彼らはみずから軍国日本のエリートをもって任じていたので、この千載一遇の絶好のチャンスを利用して、腐敗した政治家の政党政治にとって代わり、「天皇親政」の下に軍人政治を確立しようとひそかに企てたのである。それは軍人勅諭の中に述べられた「朕の股肱」(天皇の一番頼りにする部下の意)であるという軍人独特の優越感の現われであり、また、「帝国軍人」のみ強く正しいという偏狭な独善的正義感も大いにはたらいていたようである。この野心満々たる幕僚連中は、まず軍部の長老をかついで、「昭和維新」の大義名分の下にクーデターの陰謀をひそかに計画した。それが、いわゆる三月事件と十月事件の正体であった。しかし、軍部の長老と呼ばれた将軍連中の多くは、たいてい口先は強硬でも、内心は優柔不断の日和見(ひよりみ)主義者であって、いわゆる国難打開のためにみずから「昭和維新」の捨て石とならんとするような勇猛心も烈々たる気魄も欠けていた。ただ長年の上官のよしみとして、少壮気鋭の幕僚連中から、「閣下、閣下」と呼ばれてかつがれたら、決して悪い気持はしなかったのだ。一方、尉官級のいわゆる青年将校たちは、同じ「昭和維新」の合言葉の下に結集しながら、その純真な気持は、いわば天下乗っ取りを策する幕僚連中よりはずっと真剣であり、また人生の苦労も経験も足りないだけに、その必死、必殺の言動は神がかりで強烈なものがあった。このような青年将校の精神と感情をもっとも端的に現わしたのは、五・一五事件で首相官邸を襲撃した一味の中の陸軍士官学校本科生後藤映範(当時二十三歳)が軍法会議法廷で供述したつぎの心境であろう。
「 ――君国のために死ねる軍人をつくるのが根本の大精神であると思っています。国家革新のために慷慨(こうがい)、楽しんで死におもむいたのはこのためであります。もう一つの影響は維新志士、烈士の言行であります。私は烈士に対しては宗教のごとき信仰を持つようになり、志士の歴史は私にとって経典のような感じがしています 」
「 ―― 一君万民、天皇は国家意思の代表者であらせられる。したがって、これより生まれた忠君愛国、また家長中心の宗族制度、これが国体の特徴である。宇宙の大原則、生命道は惟神(かんながら)の道であり、これは祖先によって完成された。日月の運行、昼夜の別、風吹き雨降ろ生命現象は一定不変で間違いがない。これみな天の徳である。天の誠である。惟神の道は生命の大法則である。生命の大法則は誠の道である 」
彼は若年ながら、士官学校では同級生より、「昭和の松蔭」と呼ばれ、つねに愛読していた本は、北一輝著『日本改造法案大綱』、徳富蘇峰著『日本国民読本』、権藤成卿著『自治民範』、大川周明著『日本的言行』といった、いわゆる昭和維新の教典であったといわれる。また彼の盟友で、同じく五・一五事件の行動隊に参加した陸軍士官候補生の吉原政巳(当時二十三歳)もまた、国家改造運動にくわわった動機と、昭和維新に対する決意を、法廷で、つぎの通り明らかにした。
「 ――将校となって壮丁(そうてい=20歳で徴兵検査を受ける若者)を教育するには、まず国体の研究が必要であると思い、その研究に没頭しました。大西郷(隆盛)の、『名もいらぬ、金もいらぬ、名誉もいらぬ人間ほど始末に困るものはない』という遺訓には深く心を打たれました。坂本龍馬はかって西郷は馬鹿な奴だと評したが、非常時日本の要求するのは偉い奴ではなくて、この馬鹿な奴であります 」
これが若い血気さかんな青年将校の描いた昭和維新の夢であり、彼らはみずから生命を国家改造の直接行動に捧げて、幕末の烈士と明治維新の志士の遺志を継ぐつもりであった。  

 

その当時、全国の青年将校の間でもっとも熱狂的に愛読されて、ものすごい共鳴と深い共感をあたえていたのは、昭和動乱史上にもっとも奇怪な足跡を残した天才革命家・北一輝(きたいつき、本名、北輝次郎、明治十六年、新潟県佐渡郡生まれ)が熱血をこめて書き下ろした『日本改造法案大綱』一巻であった。もっとも、天皇中心主義と日本主義の理念については、明治、大正、昭和の三代を通じて徳富蘇峰がいちばん熱心に提唱してきたから、軍人の間では、だれでも敬意を表していた。しかし、彼はいわば日本学の長老であり、天皇主義の大記者ではあったが、つねに筆先で大抱負を説くばかりで、みずから国家革新の烈火の中へ身を投ずる献身、熱情の革命家ではなかった。それゆえ、彼の言葉はたとえば『昭和国民読本』の中で、つぎのように雄弁に昭和維新の由来を説いてはいるか、いかにも得意の漢文調の抽象論に終始している印象がふかい。したがって、直情径行の青年将校たちは蘇峰学人の門を叩くことなく、むしろ中国革命運動で鍛えられた上海帰りの実行力百パーセントの怪人物、北一輝のもとへ熱心に出入りしていた。
「 徳富蘇峰の『昭和国民読本』 「もし明治、大正、昭和の三代を一言にして尽くさば、明治は始め、大正は守り、昭和はこれを遂ぐ。昭和御代の任務は、明治皇政維新の大目的を徹底的に成就するにあり。その大目的とは、皇室中心主義をもって国内を統一し、一君万民の実を挙げ、統一したる国力を挙げて、皇道を世界に宣揚することである。しかしてその第一程は実に東亜の興隆に存す」 」
「 日本国は神の産みたまいし国にして、日本国は神裔(しんえい)の統治したまう国である。ゆえに日本国は神国である。神の産みたまいし国とは、かならずしも論理的に、物理的に、科学的に言うのではない。日本は国としての存在が、実にわが皇祖神に因りて出で来ったというのである。もしその証拠をしめせといわば、万世一系の皇統がそれである。今上天皇より神武天皇に遡り、神武天皇より神代に遡る。しかして、その原頭が、すなわち日本国の生産せられたる神代の創始だ 」
「 われらは、皇道の世界化をもって、天から日本に命ぜられたる天職と心得て、猛然その事に任ぜねばならぬ。これがすなわち、明治維新、開国進取の皇謨(こうぼ=天皇が国家を統治する)である。これがすなわち神武肇基(じんむちょうき=神武は日本の建国)、八紘一宇(はちこういちう)の聖猷(せいゆう=天子のはかりごと)である 」
こんな調子では、革命行動への煽動力は稀薄で生ぬるい。ところが、北一輝の『日本改造法案大綱』は、さすがに、全国の青年将校たちの愛国心を烈しくゆさぶり、昭和維新の大目標をはじめて具体的に明示しただけに、国家革新の恐るべき迫力と煽動効果を発揮した。それは当時、昭和維新の教典と呼ばれたのにふさもしく、直接行動によって現状を打破した破壊の後に、はじめて実現されるべき天皇親政の皇国日本のもろもろの姿をきわめて詳細に規定して、在来の抽象的な日本主義国家革新運動のめざす理想像を、大胆にもなまなましく具象化したものであった。それは輝かしい悪夢のようなものだった。それゆえ、同じ軍人でありながら、純真な若い青年将校たちは、北一輝にたちまち心酔して師事したのに反して、中年の幕僚連中は、彼を軍部を利用する民間の職業的革命家として憎み、さらに軍部長老将軍連中は、彼を危険な天皇制共産主義者とみなして青年将校を煽動する革命企図を恐れたものであった。それほど、北の『日本改造法案大綱』の内容はショッキングなものであった。彼が上海の病院で、高熱にうなされながら、しかも四十日間も断食したあげくに、この超怪文書ともいうべき長い原文をまるで神がかりのような有様で一気呵成(いっきかせい)に書きあげたのは、大正八年(一九一九年)八月であった。そして彼は、全文の最後につぎのごとく書き添えると、バッタり病床に倒れて昏々と深い眠りに落ちたといわれる。
「 ――日本国民ハ速ヤカニ、コノ日本改造法案大綱ニ基ヅキテ、国家ノ政治的、経済的組織ヲ改造シ、以テ来ルペキ史上未曾有ノ国難ニ面スペシ。日本ハ亜細亜(アジア)文明ノ希臘(ギリシャ)トシテ、スデニ強露波斯(ペルシャ)ヲ『サラミス』ノ海戦ニ破砕シタリ。支那、印度七億民ノ覚醒(かくせい=目覚め)、実ニコノ時ヲ以テ始マル。戦ナキ平和ハ天国ノ道ニ非ズ 」
その翌年――大正九年早々、彼は「支那よりも日本が危ない」と心配して上海より東京へ引きあげて来たが、彼のカバンの中には畢生の心血をこめて綴った『日本改造法案大綱』の原稿が秘められていた。それは間もなく猶存社(ゆうぞんしゃ=大川周明博士と北一輝を中心とする右翼愛国団体)同人有志の手によって、騰写版刷りで数百部が秘密出版され、各方面へ配布されたが、同年一月末に内務省警保局より不穏文書として頒布を禁止された。しかし、それはかえって彼の声名を国家革新陣営の間に高めた。とくに『日本改造法案大綱』の騰写版刷り原文は、年がたつにつれてつぎからつぎへと複写されて、全国の愛国団体同志と青年将校の間でむさぼるように愛読されたといわれる。それはいわゆる怪文書の王座を占めるものであった。その後、大正十二年五月に、「国家改造行程の手段、方法」など、不穏個所を削除したりえで公表を許可され、改造社より小型の売本(一部一円)が刊行された。さらに大正十五年一月に、彼は愛弟子で革命ブローカーと呼ばれた西田税に、この版権をゆずり、第三次の印刷頒布が行なわれた。しかし、この新版もまた削除と伏せ字の多いものであったから、昭和動乱時代に入るや、青年将校の間のみならず、広く政界や財界や新聞社方面にまで秘密出版の完本が一部数十円の破格の高価で、しかも十部、二十部と取りまとめて右翼団体の手でひそかに頒布されて、革新運動の資金稼ぎに大いに利用されたのは皮肉な現象であった。それはいわば、軍国時代の怪文書のベストセラーであった。当時、朝日新聞の社会部記者であった私もまた、ある有力実業家の手を通じて、伏せ字のまったくない全文二百七頁(騰写版刷りの初版原本)の『日本改造法案大綱』のほかに、同じく北一輝の執筆した『支那革命外史』序文「ヨッフェ君に与うる公開状」『国体論及び純正社会主義』序文などの有力な参考論文を収録した大冊の秘密出版(本邦文タイプ印字)を入手して通読、強烈な衝動をうけた。この本は今日、貴重な資料文献として私の書棚におさめられている。 

 

では、この昭和動乱の原動力とはいわずとも、最大の煽動力となった北一輝の『日本改造法案大綱』の眼目はなんであったろうか? 彼はその序文の中でつぎの通り叫んでいる。それは同じ軍人でも、みずから生命を投げ出して昭和維新の捨て石たらんと念願する青年将校たちに感激の天啓をあたえたが、陸大出の特権を自負した出世主義と権勢欲の幕僚連中や保守反動の将軍連中にとっては、共産主義革命の色彩の強烈な禁断の書であった。彼らにとっては、北一輝が若い青年将校を煽動して悪用する恐るべき危険人物に見えたのだ。
「 今ヤ大日本帝国ハ内憂外患、竝ビ到ラントスル有史未曾有ノ国難ニ臨メリ。国民ノ大多数ハ生活ノ不安ニ襲ワレテ一ニ欧州諸国破壊ノ跡ヲ学バントシ、政権、軍権、財権ヲ私セルモノハ、タダ龍袖(天皇の庇護)ニ隠レテ徨々(きょうきょう)ソノ不義ヲ維持セントス。而シテ外英米独露コトゴトク信ヲ傷ケザルモノナク、日露戦争ヲ以テ漸ク保全ヲ与エタル隣邦支那スラ酬ユルニ却ッテ排侮(はいぶ)ヲ以テス。真ニ東海粟(アワ)島ノ孤立、一歩ヲ誤ラバ宗祖ノ建国ヲ一空セシメ、危機誠ニ幕末維新ノ内憂外患ヲ再現シ来レリ 」
「 タダ天佑(てんゆう)六千万同胞ノ上ニ炳(へい=明らか)タリ。日本国民ハ須(すべから)ラク国家存立ノ大義卜国民平等ノ人権トニ深甚ナル理解ヲ把握シ、内外思想ノ清濁ヲ判別採捨スルニ一点ノ過誤ナカルペシ。欧州諸国ノ大戦(第一次大戦)ハ天ソノ驕侈(きょうし)乱倫ヲ罰スルニノアノ洪水ヲ以テシタルモノ。大破壊ノ後ニ狂乱狼狽スルモノニ完備セル建築図ヲ求ムペカラザルハ勿論ノコト、コレト相反シテ、我ガ日本ハ彼ニ於イテ破壊ノ五ヵ年ヲ充実ノ五ヵ年トシテ恵マレタリ 」
「 彼ハ再建ヲ言ウベク、我ハ改造ニ進ムベシ。全日本国民ハ心ヲ冷カニシテ、天ノ賞罰カクノ如ク異ナル所以ノ根本ヨリ考察シテ、如何ニ大日本帝国ヲ改造スペキカノ大本ヲ確立シ、挙国一人ノ非議ナキ国論ヲ定メ、全日本国民ノ大同団結ヲ以テ、終ニ天皇ヲ奉ジテ速ヤカニ国家改造ノ根基ヲ完ウセザルペカラズ 」
このように、北一輝の文章は古くさい漢文調ながら、なにかしら教祖的な説得力と神秘性が秘められていて、しかも、つぎの本文のようにきわめて明確に、昭和維新の断行すべき国家改造のもろもろの姿を指示していたから、読者の印象は痛烈であった。青年将校たちが狂喜したのもムリはなかった。これまで、いかかる日本学の学者も右翼の革新運動家も急進的な軍人も、みんな奥歯にもののはさまったようなアイマイな調子でごまかしてきた「天皇親政」のあり方と、国家革新の進め方を、彼ははじめて思いきって大胆不敵にも天下に堂々と発表したわげである。その反響がいかに深刻であり、その影響がいかに広汎におよんだか、今日よりかえりみても想像に難くはない。そして天皇制のつづく限りは、彼の「日本改造」の構想は現在も将来も注目の価値があるだろう。いわゆる今日の天皇制の民主化が、当時の北一輝の天皇制の国民化の考え方にもおよばないのはいったい、どういうわけであろうか? また今日、この『日本改造法案大綱』を読んで耳の痛い人々が、宮中にも政府にもさぞ多いことであろう。
「  巻一 「国民ノ天皇」
憲法停止――天皇ハ全日本国民卜共二国家改造ノ根基ヲ定メソガタメニ、天皇大権ノ発動ニヨリテ三年間、憲法ヲ停止シ両院ヲ解散シ全国ニ戒厳令ヲ布ク。
(注) クーデターヲ保守専制ノタメノ権力濫用卜速断スルモノハ歴史ヲ無視スルモノナリ。
ナポレオンガ保守的分子卜妥協セザリシ純革命的時代ニ於テクーデターハ議会卜新聞ノ大多数ガ王朝政治ヲ復活セントスル分子ニ満チタルヲ以テ、革命遂行ノ唯一道程トシテ行イタルモノ。
マタ現時、露国革命ニ於テ、レーニンガ機関銃ヲ向ケテ妨害的勢カノ充満スル議会ヲ解散シタル事例ニ見ルモ、クーデターヲ保守的権力者ノ所為卜考ウルハ甚シキ俗見ナリ。
日本ノ改造ニ於テハ、クーデターハ必ズ国民ノ団集卜元首トノ合体ニヨル権力発動タラザルベカラズ。
天皇ノ原義――天皇ハ国民ノ総代表タリ、国家ノ根柱タルノ原理主義ヲ明ラカニス。
コノ理義ヲ明ラカニセンガタメニ、神武国祖ノ創業、明治大帝ノ革命ニ則リテ宮中ノ一新ヲ図リ、現時ノ枢密顧問官ソノ他ノ官吏ヲ罷免シ以テ天皇ヲ補佐シ得ベキ器ヲ広ク天下ニ求ム。
天皇ヲ補佐スベキ顧問院ヲ設ク。顧問院議員ハ天皇ニ任命セラレ、ソノ人員ヲ五十名トス。
顧問院議員ハ内閣会議ノ決議及ビ議会ノ不信任決議ニ対シテ天皇ニ辞表ヲ捧呈スベシ。
但シ内閣及ビ議会ニ対シテ責任ヲ負ウモノニ非ズ。
(注) 現代ノ宮中ハ中世的弊害ヲ復活シタル上ニ欧州ノ皇室ニ残存セル別個ノソレ等ヲ加エテ、実ニ国祖建国ノ精神タル平等ノ国民ノ上ノ総司令者ヲ遠ザカルコト甚シ。
明治大帝ノ革命ハコノ精神ヲ再現シテ近代化セルモノ。シタガッテ同時ニ宮中ノ廓清ヲ決行シタリ。
コレヲ再ビスル必要ハ国家組織ヲ根本的ニ改造スル時、独リ宮中ノ建築ヲノミ傾柱壊壁ノママニ委スル能ハザレバナリ。
華族制廃止――華族制ヲ廃止シ、天皇卜国民トヲ阻隔シ来レル藩屏(はんぺい=垣根)ヲ撤去シテ明治維新ノ精神ヲ明ラカニス。
貴族院ヲ廃止シテ審議院ヲ置キ、衆議院ノ決議ヲ審議セシム。審議院ハ一回限リトシテ衆議院ノ決議ヲ拒否スルヲ得。審議院議員ハ各種ノ勲功者間ノ互選及ビ勅選ニヨル。
普通選挙――二十五歳以上ノ男子ハ大日本国民タル権利ニ於テ平等普通ニ衆議院議員ノ被選挙権及ビ選挙権を有ス。地方自治会モマタコレニ同ジ。女子ハ参政権ヲ有セズ。
国民自由ノ回復――従来、国民ノ自由ヲ拘束シテ憲法ノ精神ヲ毀損セル諸法律ヲ廃止ス。
文官任用令、治安警察法、新聞紙条例、出版法等ナリ。
国家改造内閣――戒厳令施行中、現時ノ各省ノ外ニ、下掲ノ生産的各省ヲ設ケ、サラニ無任所大臣数名ヲ置キテ改造内閣ヲ組織ス。
改造内閣員ハ従来ノ軍閥、吏閥、財閥、党閥ノ人々ヲ斥ケテ、全国民ヨリ広ク偉器ヲ選ビテコノ任ヲ当ラシム。
各地方長官ヲー律ニ罷免シ国家改造知事ヲ任命ス。選任ノ方針上ニ同ジ。
国家改造議会――戒厳令施行中、普通選挙ニヨル国家改造議会ヲ召集シ、改造ヲ協議セシム。
国家改造議会ハ天皇ノ宣布シタル国家改造ノ根本方針ヲ討論スルコトヲ得ズ。
皇室財産ノ国家下付――天皇ハ親(ミズカ)ラ範ヲ示シテ、皇室所有ノ土地、山林、株券等ヲ国家ニ下付ス。皇室費ヲ年額三千万円トシ国庫ヨリ支出セシム。但シ時勢ノ必要ニ応ジ議会ノ協賛ヲ経テ増額スルコトヲ得。
(注) 現時ノ皇室財産ハ徳川氏ノソレヲ継承セルコトニ始マリテ、天皇ノ原義ニ照スモ、カカル中世的財産ヲトルハ矛盾ナリ。国家ノ天皇ハソノ経済モマタコトゴトク国家ノ負担タルハ明白ノ理ナリ。 」
ではもう少し、『日本改造法案大綱』を展望してみよう。読者諸君もさぞ珍しい興味をそそられることであろう。
「  巻二「私有財産限度」
私有財産限度――日本国民一家ノ所有シ得ベキ財産限度ヲ一百万円トス。
海外ニ財産ヲ有スル日本国民モマタ同ジ。
コノ限度ヲ破ル目的ヲ以テ財産ヲ血族ソノ他ニ贈与シ、マタハ何等カノ手段ニヨリテ他ニ所有セシムルヲ得ズ。
(注) 限度ヲ設ケテ一百万円以下ノ私有財産ヲ認ムルハ、一切ノソレヲ許サザラソコトヲ終局ノ目的トスル諸種ノ社会革命説卜社会及ビ人生ノ理解ヲ根本ヨリ異ニスルヲ以テナリ。
個人ノ自由ナル活動マタハ享楽ハコレヲソノ私有財産ニ求メザルベカラズ。
私有財産限度超過額ノ国有――私有財産限度超過額ハスペテ無償ヲ以テ国家ニ納付セシム。
コノ納付ヲ拒ム目的ヲ以テ現行法律ニ保護ヲ求ムルヲ得ズ。
若シコレニ違反シタルモノハ、天皇ノ範ヲ蔑ニシ国家改造ノ根基ヲ危クスルモノト認メ、戒厳令施行中ハ天皇ニ危害ヲ加ウル罪及ビ国家ニ対スル内乱ノ罪ヲ適用シテコレヲ死刑ニ処ス。
(注) 違反者ニ対シテ死刑ヲ以テセント言ウハ、必シモ希望スルトコトニ非ズ。
マタモトヨリ無産階級ノ復讐的騒乱ヲ是非スルニモ非ズ。実ニ貴族ノ土地徴集ヲ決行スルニ、大西郷卿ガ異議ヲ唱ウル諸藩アラバ一挙、討伐スペキ準備ヲナシタル先哲ノ深慮ニ学ブベシトスルモノナリ。
二、三十人ノ死刑ヲ見バ天下コトゴトク服セン。
改造後ノ私有財産超過者――国家改造後ノ将来、私有財産限度ヲ超過シタル富ヲ有スルモノハソノ超過額ヲ国家ニ納付スベシ。
国家ハコノ合理的勤労ニ対シテ、ソノ納付金ヲ国家ニ対スル献金トシテ受ケ、明ラカニソノ功労ヲ表彰スルノ道ヲ取ルペシ。コノ納付ヲ避クル目的ヲ以テ血族ソノ他ニ分有セシメ、マサニ与スルヲ得ズ。
違反者ノ罰則ハ、国家ノ根本法ヲ紊乱スルモノニ対スル立法精神ニ於テ別ニ法律ヲ以テ定ム。
在郷軍人団会議――天皇ハ戒厳令施行中、在郷軍人団ヲ以テ改造内閣二直属シタル機関トシ、以テ国家改造中ノ秩序ヲ維持スルト共ニ、各地方ノ私有財産限度超過者ヲ調査シ、ソノ徴集ニアタラシム。在郷軍人団ハ在郷軍人ノ平等普通ノ互選ニヨル在郷軍人団会議ヲ開キテ、コノ調査徴集ニ当ル常設機関トナス。
(注) 在郷軍人ハカツテ兵役ニ服シタル点ニ於テ国民タル義務ヲモットモ多大ニ果シタルノミナラズ、ソ ノ間ノ愛国的常識ハ国民ノ完全ナル中堅タリ得ベシ。
且ツソノ大多数ハ農民卜労働者ナルガ故に、同時ニ国家ノ健全ナル労働階級ナリ。
而シテスデニ一糸乱レザル組織アルガ故に、改造ノ断行ニ於テ露独ニ見ルガ如キ騒乱ナク、真ニ日本ノ、専ラニスベキ天命ナリ。
日本ノ軍隊ハ外敵ニ備ウルモノニシテ、自己ノ国民ノ弾圧ニ用ウベキニ非ズ。
   巻三「土地処分三則」
私有地限度――日本国民一家ノ所有シ得ベキ私有地限度ハ時価十万円トス。
コノ限度ヲ破ル目的ヲ以テ血族ソノ他ニ贈与シ、マタハソノ他ノ手段ニヨリテ所有セシムルヲ得ズ。、
私有地限度ヲ超過セル土地ノ国納――私有地限度以上ヲ超過セル土地ハコレヲ国家ニ納付セシム。
国家ハソノ賠償トシテ三分利付公債ヲ交付ス。但シ私産限度以上ニ及バズ。
ソノ私有財産卜賠償公債トノ加算ガ私産限度ヲ超過スルモノハ、ソノ超過額ダケ賠償公債ヲ交付セズ。
違反者ノ罰則ハ戒厳令施行中、前掲ニ同ジ。
徴収地ノ民有制――国家ハ皇室下付ノ土地及ビ私有地限度超過者ヨリ納付シタル土地ヲ分割シテ、土地ヲ有セザル農業者ニ給付シ年賦金ヲ以テソノ所有タラシム。
年賦金額、年賦期間等ハ別ニ法律ヲ以テ定ム。
都市ノ土地市有制――都市ノ土地ハスベテコレヲ市有トス。市ハソノ賠償トシテ三分利付市債ヲ交付ス。
国有地タルペキ土地――大森林、マタハ大資本ヲ要スベキ未開墾地、マタハ大農法ヲ利トスル産地ハコレヲ国有トシ、国家自ラソノ経営ニ当ルペシ。
   巻四「大資本ノ国家統一」
私人生産限度――私人生産ノ限度ヲ資本金一千万円トス。
海外ニ於ケル国民ノ私人生産業モマタ同ジ。
私人生産限度ヲ超過セル生産業ハスペテコレヲ国家ニ集中シ、国家ノ統一的経営トナス。
賠償金ハ三分利付公債ヲ以テ交付ス。賠償ノ限度及ビ私有財産トノ関係等スペテ私有財産限度ノ規定ニヨル。
違反者ノ罰則ハ戒厳令施行中、前掲ニ同ジ。
(注) 現時ノ大資本ガ私人ノ利益ノタメニ私人ノ経営ニ委セラルルコトハ、人命ヲ活殺シ得ベキ軍隊ガ大名ノ利益ノタメニ大名ニ私用セラルルコトト同ジ。
国内ニ私兵ヲ養イテ私利私欲ノタメニ攻伐シツツアル現代支那ガ政治的ニ統一セルモノト言ウ能ワザル如ク、鉄道電信ノ如キ明白ナル社会的機関ヲスラ私人ノ私有タラシメテ甘ンズル米国ハ、金権督軍ノ内乱時代ナリ。
(巻五「労働者ノ権利」、巻六「国民ノ生活権利」、巻七「朝鮮ソノ他、現在オヨビ将来ノ領土ノ改造方針」、巻八「国家ノ権利」は紙面の都合により省略――筆者)  

 

以上、概観した通り、北一輝の「日本改造」の構想はロシア大革命(一九一七年)の直後の大正八年にまとめられただけに、労農革命の強い影響をこうむっていることは明らかであるが、まさに天皇制の下に日本的な社会主義革命を実現せんと夢想した点は、大いに進歩的なものであったともいえるであろう。それが急進的な青年将校を狂喜させ、また、反動的な将軍連中に嫌悪された理由でもあったのだ。彼は、国家の生理的組織として、政府のなかに銀行省、鉱業省、工業省、商業省などを設置して、民間の資本家より接収した金融業も大工業も貿易業も、すべて国有、国営として経営するほか、労働省を設けて労働者の権利を保護し、満十六歳以下の幼年労働を禁止、ストライキは別に法律の定めるところによって労働省が裁決することにした。また、満六歳より満十六歳まで十年間を国民教育年限として無月謝、教科書給付、昼食支給、男生徒に無用な服装の画一を強制せず、英語を廃止し、国際語(エスペラント)を第二国語に採用するなど、教育改造の方針においてもはなはだ先見の明を示していた。そして、日本民族の自立自活と、国家の自己防衛のためには開戦の権利を有することを認め、国際間における国家の生存および発達の権利として現行の徴兵制度を永久に維持するが、大学生に対する徴兵猶予、一年志願等は廃止する。また、現役兵に対して国家は十分な俸給を支給し、兵営または軍艦内では、階級的表章以外は、物質的生活の階級、差別を全廃するなど、じつに驚くべき革新的措置を明らかにしていた。しかも彼は、日本国民が全アジアの盟主たる大使命を有すると主張し、また日本は、もっとも近い将来にシベリア、豪州等の地域をその主権下におくものであると予想していた。さらに彼は、
「 国家ハマタ、国家自身ノ発達ノ結果、他ニ不法ノ大領土ヲ独占シテ人類共存ノ天道ヲ無視スルモノニ対シテ、戦争ヲ開始スルノ権利ヲ有ス 」
と宣言して、開戦の積極的権利を強調した。(彼は当面の現実問題として、日本か、豪州または極東シベリアを取得するために、その領有者に向かって開戦するのは国家の権利であると主張していた) ああ、これこそ昭和動乱史上、暗殺の時代に華々しく活躍し、反乱の道をたくましく突進した、血気さかんな青年将校たちが胸の中に描いていた昭和維新の夢であり、日本改造の理想図であった。さればこそ、日本改造運動の大先覚者であった日蓮宗信者の北一輝(きたいっき)と、その熱狂的な信奉者であった愛弟子の西田税(にしだみつぎ)の両人は、軍首脳部から極度に憎まれ、睨まれたあげく、ついに二・二六事件(昭和十一年)に連座して、「青年将校一味の決起を煽動した首魁(しゅかい)」として検挙された。陸軍軍法会議の裁判(非公開で上告をみとめない暗黒裁判であった)の結果、両人とも死刑の宣告をうけた。かくて両人は翌十二年八月十九日、銃殺刑を執行されたが、それは日本改造の輝かしい悪夢をいっそう、劇的に飾る効果があった。当時、北は五十五歳、西田は三十七歳であった。しかし、北一輝は死すとも、彼が心血を注いで綴った『日本改造法案大綱』は亡びず、戦後の今日までも生き残って、昭和維新を夢みた当時の青年将校たちの教典として、いまなお注目されている。この書は、将来日本に天皇制の存続する限り、天皇制共産主義者北一輝の奇怪な遺書として、だれも決して無視することはできないであろう。 
第五章 尊皇絶対であります! / 永田鉄山殺害事件

 

昭和十年八月十二日、月曜日はものすごく蒸し暑い日であった。この日は、朝から薄ぐもりではあったが、風のない大東京の中心の町々は、銀座も日比谷も、朝からうだるような暑熱に、すでに喘ぎはじめていた。街路樹もホコリにまみれて生色がなかった。「今日も、すごく暑そうだね……」「こう毎日、昼も夜も相変わらず暑いと、頭がガンガンして痛くなるよ」「鋭い頭ほど暑さに狂いやすいというからね……」銀座と日比谷の中間にある数寄屋橋の橋畔に立ったモダン建築の朝日新聞社の三階、大きな編集局の窓際を黒塗りの長い机の列で占めた社会部では、ボツボツ出そろってきた元気のよい十数名の遊軍記者(つねに本社に待機して重要な事件や行事に出動する万能の中堅記者)とクラブ詰記者(各官庁の記者クラブに専属するか、朝夕は本社へ連絡打ち合わせに立ち寄る。ただし朝は自宅から直接にクラブヘ出勤する場合もある)とが、食堂から取り寄せた冷たいソーダ水やアイス・コーヒーなどをすすりながら、いつもの通り雑談に花を吹かせていた。ちょうど、午前十時半ごろのことだった。とつじょ、社会部のデスクの電話がけたたましく鳴った。もっとも、新聞社の編集局の電話は、いつも大事件の突発を知らせるようにけたたましく鳴るものではあるが、この真夏の朝の電話くらい、さすがに心臓の強い記者連中をアッと驚かせたことは稀(まれ)であったろう。「なに? 今朝、軍務局長が斬られた? 生命危篤? 永田鉄山少将……犯人は制服の軍人……氏名不詳……その場で捕えられた……調査すみじだい、正式発表がある……それまで記事さしとめの見込みか……よしッ、いますぐ、遊軍と写真を記者クラブへ飛ばせるから、くわしく判明次第、電話を入れてくれたまえ!」電話の受話器を左手に握りしめながら、分厚い束のザラ紙に右手で鉛筆を走らせている次長の表情は緊張して、額には脂汗がタラタラ流れていた。その異様なようすを間近で眺めていた多数の記者連中は、にわかに雑談をやめて、そのまわりに集まった。しばし暑熱を忘れさせるような冷たい殺気を感じたものだった。「おい! エライ事件だぞ! 陸軍省で軍務局長がやられたそうだ、永田鉄山が斬られたんだ、犯人も軍人らしい……」と、たちまち重大ニュースが、社内の暑気を吹き飛ばすように流れた。急に社内はざわめいて、それまでいわばお茶を引いていた遊軍記者も、クラブ詰記者たちも、それぞれワイシャツの袖をまくったまま、上衣を片手にせわしく飛び出していった。みんな、赤い旭日の社旗を立てて自動車で、真夏の熱風を切るようにぞくぞくと持ち場へ急行した。そんなときこそ、新聞記者は暑さも寒さもつい忘れて、全身に異常な緊張感と闘志をわき立たせるものだ。当時、まだ二十九歳の青年記者だった私も、その中の一人であった。白昼の陸軍省内の上官殺人事件! これは、今日から見ても依然としてスリル百パーセントの奇怪な大見出しだ。いわんや、当時は軍国主義の最高潮の時代であり、しかも前述したように、それまでの数年間に血盟団事件、五・一五事件、神兵隊事件と、血なまぐさい暗殺と物騷きわまる反乱とが続発していただけに、今度はまた、意外な軍部内の奇怪事件へ飛び火したものだという強烈な印象をうけた。もはや軍のタガもゆるんで、メチャクチャな時勢になったものだ、と感じた。正直にいって、当時、昭和日本はすでに軍部と超国家主義愛国団体の共同戦線によって、がんじからめにされて、まったく合理性と知性を失った狂乱状態に陥っていたようなものだった。軍務局長永田少将(当時)の暗殺事件もまた、そのなまなましい反映であり、まったく正気の沙汰ではなかった。この日の午後零時十七分、陸軍省新聞班から記者クラブを通じて、各新聞、通信社にたいしてつぎのような第一回の発表が行なわれた。そして、この短い発表文は、その日の夕刊紙上に大きな見出しと活字で、全国いっせいに掲載、報道され、この前代未聞の陸軍省内の不祥事件について、日本の国民大衆を驚愕(きょうがく)させたのであった。
「 永田陸軍軍務局長 省内で兇刃に倒る(危篤) 犯人は某隊付中佐(朝日新聞の大見出し)「軍務局長永田鉄山少将は軍務局長室において執務中、午前九時四十分、某隊付某中佐のため軍刀をもって傷害を受け危篤に陥る。同中佐は憲兵隊に収容し、目下取り調べ中なり」 」
これこそ、真夏の狂乱にあらずして何んぞや――というほかはない。それは酒に酔った無頼漢の刃傷沙汰(にんじょうざた)ではなくて、天皇が「朕(ちん)の股肱(ここう)」と呼んでいた帝国軍人の現役中佐が正々堂々と上官の少将を斬殺した(叙勲のつごうで危篤と発表されたが、実際は即死であった)のであるから、まことに驚くべき大変な出来事であった。 

 

昭和動乱史上よりみると、この八月十二日事件は、まさしく翌年の二・二六事件(昭和十一年)の序曲であり、それこそ恐るべき大反乱事件の、スリルとサスペンスに富んだ死の前奏曲でもあった。なぜ永田軍務局長は、部下の一中佐のために軍刀で斬られたのであろうか? 満州事変(昭和六年)以来、準戦時気分が強くなって、出入りの警戒の厳重な軍閥の本拠ともいうべき陸軍省内で、なぜ大勢の軍人たちは、大胆不敵な犯行を未然に防ぐことができなかったのであろうか? また、軍務局長の受け付けや局課員たちは、なぜ犯人と応戦して、その場で射殺できなかったのであろうか? いったい、国体明徴とか政界粛正とか大言壮語してきた軍首脳部は、この驚くべき軍紀紊乱(びんらん)の上官襲撃事件について、上は天皇から下は国民大衆に対していかに釈明できるであろうか? これこそ思いあがった軍部自体の腐敗、堕落の現われではなかろうか? 当時、若手の新聞記者連中は、いずれもこのような奇怪な疑惑と深刻な感慨で胸を突きあげられるような心地であった。私自身も、取材に飛びまわりながら、内心では、斬った軍人も、斬られた軍人も同じ穴のむじなであり、同罪のような気がしてならなかった。それは軍国日本の悲劇であった! また、軍部の内状が、このようないわゆる下剋上(げこくじょう)の暴状をあさましくも露呈するようになっては、いったいこれから先、日本はどうなることであろうか――と心配でならなかったのは、決して青年記者の私ばかりではなかった。(果然、それから六ヵ月後に軍隊の大反乱の二・二六事件が起こり、さらに五年後に太平洋戦争へ突入したのであった!) この事件の当日は、午後になって事件の全貌と真相がしだいに判明するにしたがって、各新聞社の政治部と社会部は、暑熱の中でゴッタ返すような騒ぎを呈した。汗まみれの記者連中は、陸軍省を中心に関係各方面に飛んで、猛烈な取材活動をつづけていた。政治部記者は、陸軍大臣の責任問題と、その政局におよぼす重大影響について追求する一方、社会部記者は、永田軍務局長の斬られた当時の模様と、犯人の「軍服の殺人者」の正体を探求するため、夕刊の締め切り時間(午後二時)がすぎても、ひと休みするいとまもなく、翌日付の朝刊用の詳報記事を追って自動車を走らせていた。
「 (当時、各新聞社では、この未曾有の不祥事件をいち早く号外で報道しようと努力したが、事件発生後ただちに発令された内務省警保局の記事さしとめ命令によって妨げられた。その間、陸軍省内部にも発表説と禁止論〈軍の威信を失墜して国策遂行上に悪影響をおよぼすとの理由から、たとえば張作霖爆殺事件のごとく闇へと葬り去ること〉とが対立して、もめたが、新聞班長根本博大佐の意見によって、ようやく夕刊第二版に間に合うよう、とりあえず第一回発表が簡単ながら行なわれたのである。それから逐次、記者クラブ側の強い要望により、陸軍当局も、しぶしぶながら事件の続報を公表していった。それらの発表文は、軍事課課員の武藤章中佐が筆をとったものだといわれていた。しかし、本当に事件の全貌が全国民の前に明らかにされたのは、それから半年後の翌十一年一月二十八日に第一師団軍法会議の公判が開幕されてからであった。それまで事件の真相は、陸軍当局の正式発表以外、相変わらず記事掲載をさしとめられていたので、いわゆる自由な特ダネ競争はできなかったが、各社の担当記者たちは、記事解禁の日をめざして「書かれざる特ダネ」の情報資料集めに懸命であった) 」
もっとも、この事件の第一報をのせた夕刊の紙面には、政治部で書いた、「不統制の責任を負い、陸相進退を考慮」(大見出し)というような、当日午前中の陸軍省をめぐる林銑(せん)十郎陸相以下首脳部のあわただしい動きを報じた記事も掲載されてはいたが、もちろん、軍務局長室の凶行現場の写真など、一切、発表を禁止されて、ただわずかに外部から陸軍省二階の一角にある局長室の古びた木造建物を撮影したニュース写真と、黒い鉄ブチの眼鏡をかけた神経質そうな永田少将(当時)の生前の写真が、ものものしく掲載されているばかりであった。しかし、社会部では、「陸軍省当局の発表以外には書いてはならぬ」という記事さしとめ命令のギリギリの線で、つぎのようなふくみのあるニュースを、発表文のほかに小見出しでのせるように努力したものであった。当時の新聞記者は、言論の自由の今日ではとうてい想像もできないような人知れぬ苦労をかさねていたのである。
「 永田少将を襲撃した某中佐は目下、東京憲兵隊に収容、取り調べを受けているが、取り調べ終了をまち、第一師団軍法会議に付せられることになった。 なお某中佐は剣道の達人だったとのことである 」
ついで午後四時三十分、陸軍省より第二回発表が、つぎの通り行なわれて、永田軍務局長の死亡が確認された。
「 「任陸軍中将、叙従四位 陸軍少将、正五位勲二等、永田鉄山 十二日午後四時卒去せり」また、日の暮れるころ陸軍省よりはじめて事件の内容がつぎのようにやや詳しく発表された。しかし、真相がしだいに判明するにしたがって、ますます奇々怪々な印象をふかめていった。そして取材を担当する記者たちもまた、その記事を、はじめて翌十三日朝の新聞紙上で読まされる全国民も、いずれも同様の鶩きと嘆きを味わったものだ。「軍務局長永田少将は十二日午前八時、平常の通り陸軍省に出勤し、局長室にて執務中、午前九時すぎ東京憲兵隊長新見英夫(にいみひでお)大佐来訪、所管業務について報告聴取中、同四十分、某中佐突然同室へ闖入(ちんにゅう)し、軍刀をもって局長の右胸部を刺し重傷を負わした。当時、同憲兵隊長は身をもってこれを制止せんとしたため、左腕上膊部に受傷し東京第一衛戍病院に入院加療中なるが、傷は上膊部に及び全治三週間を要すべし」 」
これでみると、軍警察の元締めたる憲兵隊長がおりよく現場に居合わせながら、犯人を阻止することも、あるいは取り押さえることもできず、かえって犯人のために上官の永田軍務局長もろとも斬り倒されてしまったのだ。ゴッタ返す記者クラブの一隅では、ダラシのない憲兵隊長だなあ――とつぶやく声も聞こえたが、また犯人はよほど腕に自信のある剛勇の軍人らしい――という驚嘆の声も高まった。それで、ともかくこの発表文を堂々と掲載した八月十三日付、朝日新聞朝刊第二面(その当時は朝刊の第一面は広告で全面を占められ、記事は第二面よりはじまっていた)のトップには、つぎのような意味深長な大見出しがつけられた。そのころは各新聞とも、同一の発表記事には、せめて見出しによってそれぞれ異なったニュアンスと含蓄(がんちく)をしめそうとした。挺身、凶行を制止し、 新見憲兵隊長も重傷 永田軍務局長遭難詳報(大見出し)はたして謎の某中佐とは何者であろうか? 

 

当時、軍国主義の隆盛期にあたり、軍部の鼻息は日増しに荒くなりつつあったが、その中でも軍務局長永田鉄山の名前は断然、陸軍のホープとして光っていた。彼は陸軍士官学校十六期の出世頭として、卒業のとき以来、つねにトップに立ってきた英才であり、すでに軍事課長のころから将来の陸軍を背負って立つ第一人者のようにいわれていた。それだけにまた敵も多かった。彼は一見、青白いインテリ型の軍人であるが、鋭い眼光を近眼の眼鏡の奥より光らせて、物腰はおだやかだが、意志と信念はきわめて強く、陸軍部内でも有名な論客であった。そして、彼は昭和九年三月に軍務局長になるや、日本の国力を最大限に発揚して、高度国防国家を建設するために、ナチス・ドイツ流の統制経済の緊要なことを提唱して、みずから財界代表へも直接に呼びかけていた。それで、三井財閥の長老の池田成彬、有賀長文の諸氏とも交際があった。彼は財閥を倒さないで、むしろこれを利用して軍部に積極的に協力させようと企てていたようである。彼自身も陸軍部内の国家革新グループの有力者であり、昭和六年の三月事件(軍部のクーデター計画)には陸軍省軍事課長として加胆していたぐらいであったが、しだいに過激な暴力革命方式にあきたらず、いわば、「問答無用」の皇道派より、「話せばわかる」の統制派へ転身していた。要するに、永田鉄山の立場は、国家革新をあくまで合理的、かつ合法的な手段と方式によって実現しようとするものであり、それにはまず、軍部内部の見苦しい派閥抗争を解消して軍紀を粛正し、全軍が一致団結して全国民の前で率先垂範すべきであると主張していた。そして、軍務局長の強力な地位と権限により、いわゆる青年将校の下剋上の弊風を打破して、部内の統制強化をめざした。それは、たしかに正当な主張ではあったが、国家革新を「皇道精神」にもとづいた昭和維新として、いかなる犠牲を払っても決行しようと呼号する皇道派の青年将校たちから、彼はいかにも財閥と接触をはかる、なまぬるいダラ幹のごとく憎まれた。これが永田鉄山の悲劇であると同時に、また軍国日本の悲劇でもあった。さて、殺された永田軍務局長の経歴を、読者諸兄の参考までにたどってみょう。
「 彼は明治十七年一月、長野県上諏訪町に生まれた。父は医者であったが、彼は小学生のときに死別して貧乏の中に育った。そして十四歳のときに他家へ養子にいったが、家庭の事情で離縁してふたたび実家にもどるなど、淋しい孤独な生活に鍛えられた。小、中学校の成績は中位であったが、士官学校へはいってから、めきめきと頭角をあらわして秀才といわれた。また、無口だが太っ腹な男だともいわれた。 」
「 明治三十七年十月、陸軍士官学校を卒業、同四十四年十一月、陸軍人学校を首席で卒業、大正二年八月、歩兵第五十八連隊中隊長、同年十月に軍事研究のためドイツへ駐在、大正三年八月、教育総監部付、同四年六月、デンマーク駐在、同十年六月、スエーデン日本公使館付武官、同十二年二月、参謀本部付、同十三年一月、陸大教官、同十五年十月、陸軍省整備局動員課長。昭和二年三月、歩兵大佐、同三年三月、歩兵第三連隊長、同五年八月、陸軍省軍務局軍事課長、同七年四月、陸軍少将、参謀本部第二部長、同年八月、歩兵第一旅団長、同九年三月陸軍省軍務局長(昭和十年八月に至る) 」
この軍歴がはっきりとしめしているように、彼は陸軍の中枢の出世コースをめざましく歩んできた。いわゆる田舎まわりをまったくしないで、東京と海外の重要ポストを往復しながら、陸士同期生のトップを切って栄進し、将来の陸軍首脳たるべき軍務局長の栄位に落ちついたのだ。しかも軍事課長時代には、革新グループの智謀として三月事件のお膳立てを自分でつくったとさえいわれた急進的な彼も、それから三年後に軍務局長の要職について重大な内外情勢を真剣に考察、検討した結果、彼の革新思想は非合法な実力行使のクーデターを排撃して、ナチス流の統制経済による高度国防国家の建設へと大きく前進し、かつまた成熟してきた。彼の企図した国家革新は、流血をみない静かな日本革命であったようだ。しかし、それは血盟団、五・一五事件以来、大火山の鳴動するように神がかりの昭和維新をめざして、決起を誓う陸海軍の青年将校派と、国家主義愛国団体の過激分子の共同戦線からみると、彼こそ憎むべき裏切り者であり、また政界より逆用された昭和維新の道を阻止する害悪者であった。このような緊迫した雰囲気の中で、永田軍務局長を攻撃、誹謗(ひぼう)した怪文書が軍部内に乱れ飛んで、全国各地の部隊の中にいる血気の青年将校の憤激をそそり立てた。そして、一部の急進分子は、昭和維新の血祭りに、まず「永田斬るべし」とさえ唱えられた。また一方、永田自身の側にも誤解をまねく言動はあったようだ、彼はきわめて自信の強い、意思のはなはだ固い性格であったから、すこしも外部の圧迫には屈せず、三月事件以来、ガタついた軍の統制と粛正の断行を決意していたので、まったく妥協の気持はなかったらしい。それはひとつには、彼が貧しい孤独な家庭に育ったため、冷たい性情の持ち主であり、また、先夫人と死別後に十八歳も年下の若い美しい後妻をめとったために、家庭的にも複雑な事情がいろいろあったもようで、彼の印象はいまをときめく軍のホープに似合わず、その私生活にはなにか暗い影がつきまとった陰性な冷厳な人物のようであった。実際に、凶行事件の起こった当時、重子夫人(当時三十四歳)は、昌子(四歳)、外征雄(三歳)、忠彰(一歳)の愛児三人をつれて、神奈川県三浦半島の久里浜海岸に建設中のゴルフ場の事務所の閑静な留守宅を借りうけて避暑中であったが、このいわば貸別荘の世話をみていたのは、三井合名の長老の池田成彬の遠縁に当たる横浜在住の有力者O氏であった。
このO氏は、池田氏に頼まれて軍部と財界の間の重要な折衝(せっしょう)にも非公式に一役を買っていたので、永田軍務局長の一家とはとくに親しくつき合っていた。そのような事情から、O氏は当時三井財閥を相手に独力で抗争していた皇道派の満井佐吉(みついさきち)中佐(陸大教官、三井炭鉱をめぐる大牟田事件の中心人物、のちに相沢中佐の軍法会議公判で特別弁護人として大活躍す)とも交渉があったので、かえってO氏を通じて満井中佐は永田軍務局長の立場を曲解して、軍首脳部が財閥と結託するように痛感したらしい。軍人が財閥の世話で避暑用の別荘を借りるとはけしからん――というわけだ。永田軍務局長は凶刃にたおれたとき五十二歳であった。色白の若々しい三十四歳の重子現夫人は、その日の午後一時ごろ、東京からはるばる久里浜まで自動車を飛ばせて迎えにきた林陸相代理多田兵器局長から、はじめて悲しい知らせをうけて卒倒せんばかりに驚いた。それはあまりに意外な凶報であり、幼い三人の遺児を抱えて彼女の前途は真っ暗であった。重子夫人には、私も親戚関係にあった横浜市本牧海岸のO氏の家で、以前に会ったことがあるが、年齢よりもずっと若く見える色白の中肉の美人であった。気むずかしそうなイガ栗頭の痩身の永田少将(当時)には、むしろ不釣り合いのようにも思われたが、最初の結婚生活か夫人の病弱のためにあまり恵まれなかったせいか、若い現夫人と再婚した永田少将は元気で新家庭も円満そうであった。夫人は涙ながらに、三人の幼児をともなって迎えの自動車に乗って東京へ向かい、午後二時半ごろに渋谷区松濤の自宅に着いた。そこには急報で駆けつけた義理の長男の永田鉄城氏が、すでに喪主として座っていた。この長男は病弱のため中学校だけでやめて、当時、杉並区荻窪町の川南(かわなみ)郵便局長をしていたが、父の永田少将が若い後妻をめとって以来、父子の間柄も冷やかになり疎遠になっていたようだった。そんな複雑な家庭の事情が、永田家の悲しいお通夜の光景にも、ひそかにうかがわれた。陸軍最大のホープとして、永田将軍の横死を悼む立派な花輪は、座敷から玄関前までいっぱいに飾られており、とくに各宮家からの弔花も目立っていた。しかし、その死因がいかにも複雑怪奇なだけに、ぞくぞくと悔やみにやって来た将軍連中の厳(いか)めしい軍服姿も、かえって近所の人々の眼には奇異に映ったようであった。偉い軍人さんが部下の軍人に殺されるなんて――まったくわけがわからなかった。 

 

永田軍務局長殺害事件の第二日目、八月十三日の午後一時四十分に、陸軍省では謎の犯人たる某中佐の正体について、はじめてつぎの通り発表した。その内容は、ただちにその日の各新聞の夕刊市内版に報道されたが、陸軍、内務両当局のあまり大きく刺激的に扱わぬようにという要望によって、割り合いに控え目に相沢中佐の写真入りで掲載された。
「 「陸軍省発表――軍務局長永田中将に危害を加えた犯人は陸軍歩兵中佐相沢三郎で、第一師団軍法会議の予審に付せられ、十二日午後十一時五十分、東京衛戍(えいじゅ)刑務所に収容されたり、凶行の動機はまだ審(つまび)らかならざるも、永田中将に関する誤れる巷説(こうせつ)を妄信したる結果なるが如し」「同中佐は本月(昭和十年八月)の異動にて、歩兵第四十一連隊(広島県福山)付より台湾歩兵第一連隊付に転じて、台湾総督府台北高等商業に(配属将校として)服務を命ぜられた。その赴任準備を終わり十一日夜、上京したものである」 」
これで、永田中将を斬殺した「軍服の殺人者」の正体は明らかにされたが、この相沢三郎中佐とはいったい、どんな人物であろうか? 彼の軍歴はつぎの通りであるが、それは被害者の永田中将の晴れの出世コースを歩んだ軍歴と比較してみると、とくに興味がふかいであろう。すなわち、永田が陸大出の天保銭(てんぽせん)組(軍服の胸につける陸大卒の記章が小判形の天保銭に似ていたので、この異名が生まれた)のトップを切った幕僚型の秀才であったのに反して、相沢は無天組(陸大にいかない鈍才の意)であり、しかも、戸山学校(陸軍の歩兵実施学校、新宿区戸山にあった)の剣道教官で剣道四段という実戦型の猛者であった。相沢中佐は、明治二十二年、岩手県一ノ関に生まれ、彼の父は公証人を勤めて若干の財産を残した。彼は仙台幼年学校より陸軍士官学校に入り、第二十二期生として明治四十三年に卒業、任官した。それから戸山学校剣道教官、青森歩五、秋田歩十七などの歩兵連隊付をへて、昭和八年に福山(広島県)の歩兵四十一連隊付の中佐となっていた。要するに、彼は永田のような軍中央部の智謀型の軍人ではなく、剣道と禅で心身ともにたくましく鍛えあげた田舎まわりの武人であった。性質は単純で熱狂的であり、政界の腐敗と財閥の横暴と軍上層部の堕落について悲憤慷慨(ひふんこうがい)していた皇道派の闘士であった。彼は事件当時、四十七歳であったから、被害者の永田中将より五歳年下であり、また陸士は六期後輩であった。彼は見るからに武骨であったが、家庭では案外、気立ての優しい人情味のあつい人柄であったようで、よね子夫人との間には当時、十五歳を頭に一男三女があった。彼は歩兵少尉として仙台の歩兵二十九連隊に勤務中、三年間も市内北山町曹洞宗輪王寺に止宿して、住職の福定無外師について禅の修業を積んだ。それで彼はますます簡素、無欲な生活に徹する一方、皇道精神にも徹してきたらしい。幼少より貧乏で孤独な暗い生活にもまれた永田が、かえって華やかな軍中央部の出世コースをめざしたのに反して、公証人の中流家庭に育って仙台市内に四百坪の家屋敷まで所有した相沢が栄達、出世を求めず、青年将校として熱心に剣道と禅で自己修養を積んでいたことは注目に値するであろう。私は決して、犯人の相沢中佐に同情するわけではないが、事件後、世間をはばかり、門を固く閉めて謹慎していた相沢一家を、深夜、中野区鷺(さぎ)の宮の自宅に訪ね、悲痛なよね子夫人と対談して中佐の男らしい性格と質素な生活態度などを聞いたことがあり、今日でもその深刻な印象を忘れることができない。
ではいったい、剣道と禅で深く心身ともに修養を積んだ思慮分別のある相沢中佐が、なぜ、白昼、大胆不敵にも、まるで「軍服の殺人者」さながらに、陸軍省に現われて執務中の永田軍務局長を襲撃し、軍刀一閃の下に斬殺したのであろうか? それは公憤によるものか? それとも私怨によるものであろうか? まず、陸軍当局の非公式発表によると、犯人の相沢中佐の事件以前の行動はつぎの通りであった。
「 ――相沢中佐は、一昨年(昭和八年)暮に福山より上京の汽車中にて、中耳炎(ちゅうじえん)にかかり手術の結果、脳膜炎を併発し、昨年(昭和九年)五月まで慶応病院に入院、一時は危篤に陥り回復したが、元来、単純で熱狂的に悲憤慷慨する性質であったと友人間の噂である。長い病気と昨年、実母まきさんの死亡で三千五百円ほど借金ができて、本年(昭和十年)六月、仙台市光禅寺通り六の家屋敷(四百坪)を一万三千円で売却した。怪文書を絶えず手許に送られてきて、つねに悲憤していた 」
これでみると、当時の陸軍当局はもちろん、統制派の林陸相の下に永田派のそうそうたる幕僚連中が顔をそろえていたから、犯人の相沢中佐を憎むあまり、脳膜炎をわずらった狂人扱いにしていることが明瞭であった。しかし、反永田派のいわゆる皇道派の青年将校たちからみると、相沢中佐こそ憂国至誠の志士であり、彼こそ財閥と相通じた軍閥堕落の張本人たる永田鉄山に天誅(てんちゅう)をくわえたものであった。また、陸軍当局の発表によると、相沢中佐の凶行の動機は、「誤れる巷説を妄信した」とあるが、その巷説とは、陸軍部内の派閥抗争を暴露した幾多の、いわゆる怪文書を指すものである。それがはたして、虚説であるか、真説であるかは、決して軽々しく判断を下すことができないほど、すでに陸軍部内は血で血を洗うような険悪な状態に陥っていた。とくに軍中央部の実情にうとい地方勤務の相沢中佐は、同年四月に、十一月事件(昭和九年、士官学校)の首謀者として、皇道派の同志の村中孝次大尉と磯部浅一(いそべあさいち)一等主計が停職処分に付せられたうえ、さらに両人が、「粛軍に関する意見書」と題する怪文書を頒布した廉(かど)により、八月二日、免官処分となり、陸軍より追放されたことに大いに憤激した。また彼は、同年七月十五日に、皇道派の総帥として全軍の青年将校たちから慈父のごとく敬愛されていた教育総監真崎甚三郎大将が、本人の意思に反して突然、罷免、更迭されたことを永田軍務局長の策謀なりとして、激怒していた。これらの事実は、いずれも怪文書によって、その真相が相沢中佐の手許にも伝わってきたので、かねてから昭和維新の決行のために、みずから捨て石たらんという念願に燃え立っていた相沢中佐は、いよいよ陸軍部内の革正をはかるため、永田軍務局長に天誅をくわえようとひそかに決意した。そこへ、はからずも八月一日の陸軍定期異動が発令されて、相沢中佐は内地より遠く台湾へ転任することになった。無天組の彼は別に出世コースを期待してはいなかったので、台北高商の平凡な配属将枚に赴任することをいとわなかったが、しかし、内地を去っては昭和維新の決行のときにも間に合わず、また、永田軍務局長に天誅(てんちゅう)をくわえることもできない。
それゆえ、彼は同志のだれにも相談せず、ただひとりで最後の決断を下して、八月十一日の暑い日曜日の夜、福山より単身上京し、山手線の原宿駅で下車、まっすぐに渋谷区千駄ヶ谷に住む同志の退役陸軍中尉西田税(革命家北一輝の弟子で昭和維新の煽動家)の家を訪ねて一泊した。彼は上京の途中、わざわざ伊勢神宮に立ち寄り、参拝して目的達成を祈った。その翌十二日朝、相沢中佐は陸軍省へ台湾赴任の挨拶に行くと告げて、西田方を立ち出た。この二人の熱血の同志は最後の朝食をともにして別れたが、相沢中佐はしごく落ちついて、少しも言動に異状はなかったそうだ。彼は陸軍省に出頭して挨拶をすませた後、八月十四日にいったん、福山に帰り、家族同伴で台湾へ赴任する予定であった。してみると、彼は剣道四段の腕前で永田軍務局長を一刀の下に斬りすてた後、本気でゆうゆうと台湾へ赴任するつもりでいたのであろうか? 昭和動乱史上、もっとも奇怪な記録をのこした上官殺害犯人の相沢三郎中佐は、翌十一年一月二十八日、東京青山の第一師団軍法会議公判廷に立って、その狂信的な殺人の決意を滔々(とうとう)と吐露し、「尊皇絶対であります!」と大音声で絶叫しつづけるのであった。私は、この驚くべき「陸軍省内の上官殺害事件」の犯人、相沢三郎中佐を裁く軍法会議公判を担当した当時の社会部記者として、いまでも、顔色の浅黒い、筋金入りのように筋骨たくましく引きしまった長身の相沢中佐の直立不動の姿と、判士長を鋭い眼光で睨みつけながら、大声で、「尊皇絶対」を説く中佐の熱弁を忘れることができない。いや、おそらく永久に忘れることはできないであろう。 

 

私の三十年間にわたるジャーナリスト生活は、昭和五年に東大法学部を出てからはじまり、戦前と戦中の朝日新聞記者ならびに海外特派員として十八年、さらに戦後の自由ジャーナリストとして十二年より成り立っている。このじつに長い鉛筆一本、ペン一本のあわただしい活動と生活の全期間を通じて、いろいろな大事件に出会った中で、私がもっとも感銘ふかく終生忘れられない重大事件は、昭和十六年十二月七日午後(米国時間)、真珠湾攻撃の第一報を米国の首都ワシントンで聞いて、宿命の日米開戦を敵国で迎えた、私にとって一生一代の衝撃をのぞけば、なんといっても、昭和十年八月の永田中将殺害事件と、それにつづく翌年一月の相沢中佐の軍法会議公判、さらにこれに直結した皇軍大反乱の二・二六事件であった。とくに私は、その当時、朝日新聞東京本社の社会部遊軍記者として、永田事件直後より殺害犯人たる相沢三郎中佐(当時四十七歳)の取り調べ、予審、公判一切の取材と報道を担当して、朝から夜おそくまで大いに飛びまわり、また大いに書きまくったので、その印象と思い出は、今日でもなおなまなましく、こんこんとしてつきない。ところで、陸軍のホープといわれた軍務局長永田鉄山中将(当時五十二歳)の殺害事件は、いろいろ深刻な反響と波紋をまき起こしたのみならず、また意外な副産物を生じた。まず第一に、永田中将の無残な横死は、粛軍と部内統制強化に努力していた林銑(せん)十郎陸相(陸軍大将)以下、中央部のいわゆる統制派に大打撃をあたえた一方、かねてより「永田斬るべし」と怪文書を通じて叫んでいた皇道派の急進青年将校たちには、いわば「天誅下る」とばかり喝采を博した。それは永田軍務局長がナチス・ドイツ流の統制経済による高度国防国家の実現をめざして、重臣や財閥とひそかに接触していた一方、理由の如何(いかん)を問わず軍紀粛正のため、青年将校の軽挙妄動を厳重に取り締まり処罰していたことから、「尊皇討奸(そんのうとうかん)」をめざして昭和維新を念願とする皇道派の青年将校ならびに中堅佐官級より、彼は憎悪の的になっていたようだ。その有力な証拠として、永田中将を斬り殺した相沢三郎中佐の行動を、皇道派の連中は、国体明徴のための義挙(ぎきょ)と呼んでいたし、また、翌年(昭和十一年)の二・二六事件の中心人物として策謀、行動したため、銃殺刑に処せられた(昭和十二年八月十九日執行)元陸軍一等主計磯部浅一(いそべあさいち=当時三十三歳)は、その獄中でしたためた遺書形式の行動手記(看守の手でひそかに持ち出されて戦後の昭和三十二年に二十年ぶりで正式公表された)の中で、
「 今度の相沢さんの事だって、青年将校がやるべきです。それなのに何ですか、青年将校は……相沢中佐のようなえらい事は余にはとても出来なかった。それで相沢事件以来は、弱い自分の性根に反省を加え、これを叱咤(しった)激励することにつとめた 」
と明記している。それは当時の昭和維新派の若い青年将校たちの相沢中佐に対する絶大な尊敬の念を代表するものであり、また、「相沢中佐の後につづけ!」と叫んで維新義軍(後日二・二六事件で決起した反乱軍はみずからこう名乗った)の決起をうなす勝鬨(かちどき)でもあった。また、磯部元一等主計は銃殺されるまで「尊皇討奸(そんのうとうかん)」の信念を変えず、二月義軍事件(二・二六事件を、決起青年将校たちはこう呼んでいた)の絶対正当性を主張していただけに、その獄中日記(昭和十一年八月、相沢中佐ならびに同志青年将校の処刑後に記したもの)の中には、相沢中佐の率先決断と捨て身の勇気を絶賛した文句がいたるところに見られた。
「 ……いまや、天上維新軍は相沢司令官統率のもとにまさに第二維新を企図しあり、地上軍は速やかに態勢を回復し、戦備を急がざるべからざるを痛感す 」
「 明日は相沢中佐の命日だ。今夜は待夜(たいよ)だ、中佐は真の日本男児であった……。中佐を殺したる日本はいま苦しみに堪えずして、七転八倒している。悪人が善人を図(はか)り殺して良心の苛責(かしゃく)にたえず、天地の間にのたうちもだえているのだ。中佐ほどの忠臣を殺した奴に、その報(むく)いが来ないでたまるか、今にみろ、今にみろ 」
いま私は、この磯部の獄中日記をひもときながら、この奇怪な文字の行間に躍る彼の切々(せつせつ)たる心理と烈々たる感情を汲み取りつつ、当時の動乱日本の険悪な社会的雰囲気をなまなましく思い起こすことができる。それは、決して笑ってはすまされぬ厳粛な破局寸前の軍国日本の歪(ゆが)んだ姿であった。 

 

また一方、永田中将殺害事件は意外な副産物をつぎつぎにもたらした。その一つが事件当時、永田軍務局長の下で兵務課長を勤めていた山田長三郎大佐の自殺事件であった。暑い夏もようやくすぎて、すがすがしい秋も次第に深まりつつあった昭和十年十月五日、すでに永田事件の加害者相沢中佐にかかわる第一師団軍法会議の予審取り調べもすすんで、近日中に予審終結し、その真相が天下に公表される日も近づいていたおりから、突如、また、新しい事件が陸軍首脳部を痛撃した。それは、この日午前十時ごろ、陸軍兵器本厰(ほんしょう)付砲兵大佐山田長三郎(当時四十九歳)が、世田ヶ谷の自宅で軍刀をもって自殺を図り絶命しているのを家人が発見したのであった。同大佐は、この朝、夫人を無理に外出させたのも、軍服に威儀を正して、覚悟の自殺を遂げたのだ。山田大佐の自殺の第一報は、当日、陸軍省の発表よりも数時間も早く朝日新聞社の社会部デスクには速報されていた。 それは、同性の整理部部員Y君が山田大佐の甥に当たるので、この事件をいち早く知って電話で知らせてきたわけだ。しかし、陸軍省の正式発表のあるまでは、夕刊記事を勝手に書くことは許されなかった。当時、すでに新聞報道と言論の自由は大幅に制限されていたのである。なぜ山田大佐は自殺したのか? それは今日、ひろく流行しているスリラー推理小説さながらの奇怪な謎につつまれているが、もちろん、表向きの理由は陸軍省発表の通り、「永田中将の死に深く責任を感じた」ためであった。では、いったい、なぜ山田大佐は、直属上官の永田軍務局長の横死について、それほど深く責任を痛感したのであろうか? ちょうど二ヵ月前の八月十二日午前九時四十五分ごろ、相沢三郎中佐が軍刀を抜いて陸軍省二階の軍務局長室へ闖入(ちんにゅう)し、執務対談中の永田軍務局長に斬りつけたとき、そこに居合わせたのは東京憲兵隊長新見英夫(にいみひでお)大佐であった。同大佐は午前九時すぎに来訪して憲兵所管業務を報告中であったが、剣道達人の相沢中佐の襲撃に出会って、永田局長を実力でかばうこともできず、かえって相沢中佐の軍刀で斬り倒されたのであった。その間に相沢中佐は、「天誅(てんちゅう)!」と叫んで、ゆうゆうと永田局長を斬り殺したのであったが、ただ不審なことには、永田局長が背中に第一刀を受けながら、よろめくように隣室(軍務局兵務課へ通ず)の扉まで逃れて凶刃を避けようと懸命に努力していたとき、隣室ではだれもこの騒ぎを知るや知らずや、助けに飛び出してきたものはいなかった。しかも奇怪なことには、だれかが隣室の内部より扉を固く押さえて、故意に開けさせなかったために、永田局長は扉のところで、残酷にも相沢中佐の軍刀により、背後からグサリと一突きに刺されてしまった。その軍刀の尖端は永田局長の背後から胸に貫通して血を憤出し、扉にまで刺さったといわれた。なぜ、血まみれの永田軍務局長が扉を押しても開かなかったのであろうか? だれか反永田派の兵務課課員が隣室の大騒動に気づきながら、わざと知らぬ顔で扉を押さえていたのではなかろうか? また、この軍務局長室の隣室へ通ずる扉は押せばすぐ開く外開きであったか、それとも瀕死の重傷の永田局長が内部から体当たりしても(隣室の方から開けない限りは)決して開かない内(うち)開きであったか? 当時、このようなさまざまな疑問が、私をはじめ永田事件担当の各社記者連中の間で黒雲のようにうず巻いたものだ。ことに不可解千万であったことは、隣室の兵務課長たる山田長三郎大佐は、相沢中佐が乱入するつい直前まで永田局長室に居合わせて、業務報告中の新見憲兵隊長としばらく同席していた点であった。かくて山田大佐の事件当日の行動については、深い疑雲が高まった。たとえ彼は軍務局長室を出た後で、相沢中佐が軍刀をふるって飛びこんできたとはいえ、扉ひとつへだてた隣室にいながら、ものすごい叫び声や、乱闘の音を聞かないわけはあるまい。しかも、扉一枚の向こう側では血まみれの永田局長が、必死になって凶刃をさけようともがいていたのではないか! なぜ、山田大佐はみずから軍刀なり、ピストルなり、あるいは素手でもよいから、すぐ扉を開いて隣室へおどりこんで屈強な課員総出で、「軍服の殺人者(キラー)」を凶行現場で取り押さえなかったのであろうか? それとも、山田大佐は扉ひとつへだてた隣室の出来ごとを本当に知らなかったのであろうか? あるいは知っていたが、恐れをなしていくじなく上官の惨死を見送ったのであろうか? また、山田大佐は犯人相沢中佐と知り合いで見のがしたのではなかろうか? この奇怪な謎を秘めたまま、山田大佐は自殺したのであった。もっとも彼の行動と責任についでは、部内でもいろいろ取り沙汰されて、軍首脳部でも、士気粛正のため永田事件後、同大佐を兵務課長の要職よりはずして兵器本厰付に左遷(させん)したくらいであった。それゆえ、山田大佐の自殺は明らかに、彼が永田事件をめぐる苦慮したあげくの覚悟の自決であった。彼の心境についての唯一の手がかりは、自殺決行の前日の十月四日付で書き残した宛名のない一通の遺書であったが、その内容はつぎの通りであった。(陸軍省発表の原文のまま)
「 山田長三郎大佐の遺書
一、永田軍務局長事件当時の行動に関し疑惑を受くるものありしは、まったく不徳のいたすところにして、ここにその責を負うて白決す。
一、同事件に対し、余と相沢中佐とはなんら関係なし。
一、中途にしてご奉公をなし得ざりしは遺憾(いかん)に堪えざるところなり。
一、大元帥陛下の万歳を祈り奉り皇軍のますます隆昌ならんことを祈る。
    十月四日      山田長三郎  」
今日よりかえりみると、この山田大佐自殺事件もまた、昭和動乱の巨大な歴史の歯車にはさまって押しつぶされた一人の気の弱い軍人の哀れな悲劇であったと思う。それは、永田中将殺害事件のまき起こした意外な波紋の一つであった。 

 

さて、話は永田事件の直後にもどるが、私は新聞の社会部記者として、永田事件=相沢事件を専門に担当することになったので、他のニュースにはいっさいかかわらず、朝から晩まで社旗を立てては自動車を乗りまわして、この事件の取材、調査に努力した。まず、O社会部長ならびにM次長と打ち合わせたうえ、私はつぎのような三つの任務と方針をきめて、この重大事件の真相とその全貌をできるだけ明らかにしようと企てた。それは新進の青年記者として、大いに働きがいのある仕事だった。
「 一、永田事件の犯人である相沢三郎中佐について細大もらさず調査、追及すること。とくに事件前後の彼の行動と、平常の思想、性行と、背後の黒幕、あるいは共同謀議の事実をたしかめること。
二、相沢中佐の犯行事実を正確かつ詳細に知るために、同事件の取り調べを担当する責任者の第一師団司令部法務部長島田朋(とも)三郎氏(相沢事件軍法会議公判の検察官)を毎日一回、かならず自宅に訪ねて、根気よくその取り調べ状況と事件の概況を探知すること。
三、相沢中佐の夫人、家族ともつねに連絡をとって、東京渋谷区宇田川町の陸軍衛戍(えいじゅ)刑務所に収容、拘禁中の相沢中佐の身辺動静をくわしく知っておくこと。 」
〔それは、同中佐の身辺に、なにか異変が起こるかも知れないし、また当時、急進派の青年将校と極右愛国団体の間で、同中佐を昭和維新の志士として、身柄の奪回計画のデマまで乱れ飛んでいたからだ〕 こうして、私はまず、青山南町の電車通りの第一師団司令部を再三訪問して、第一師団長柳川平助中将(公判当時は転出して堀丈(たけお)中将に代わる)にも島田法務部長にも面会して、いろいろ事情をたずねた。〔しかし、あまり自由には会えなかった〕 それは当時、相沢事件に関しては陸軍当局発表以外には記事掲載を禁止されてはいたものの、予審終結の場合の記事解禁の日に備えて、少しでも早く、また少しでもくわしく、事件の真相を知り、確かめて内報ニュースを集めておくことが当時の新聞記者の重要な任務であった。
「 (今日のように新聞言論の自由な時代では、政府当局の記事さしとめ命令がないので、新聞記者はなんでも探知、取材したニュース記事をすぐ自由に書いて報道することができる。 当時の軍国時代を思うと、まったく隔世の感がふかい) 」
当時、第一師団の島田法務部長は、青山一丁目の電車の交差点にある「石勝」という有名な大きな石屋の横をはいった狭い露地の奥の小さい古い二階家に住んでいた。陸軍少将同等の法務部長の家にしては粗末なものであったが、師団司令部まで歩いて数分の近い点が便利であったのだろう。彼は見るからに野人肌の剛直清廉な人柄だった。私は毎晩九時か十時ごろ、島田法務部長が疲れて帰宅した時分を見はからっては、この露路奥の家を訪ねた。他社の記者になるべく気づかれないように、社旗をはずした自動車をわざわざ半丁ぐらい先へとめてから、この石屋の横の露地を緊張してはいる。あまり早すぎては、島田法務部長は、まだ自宅にもどってはいない。彼は毎日、渋谷の衛戍(えいじゅ)刑務所へ出張して、相沢中佐の訊問、取り調べに専念しているからだ。また、あまり遅すぎては、彼は、疲れてすでに寝てしまっているからだ。私が顔馴染みになった家人にいくら頼んでも、 「明朝(あす)が早いので、もう寝ていますから……」と何回も断わられたものだった。だが、私はじつに根気よく石屋の露地に島田法務部長を訪ねて、いつも玄関先で、四、五分ぐらい立も話を交わした。もちろん、彼は相沢中佐の取り調べ内容を私に特別にもらしてくれるわけではない。当時、天下注目の重大事件の真相だけに、相沢中佐の取り調べは極秘であり、とくに軍部の威信にかかおる不祥事件だけに、取り調べ状況が外部へ漏洩することを敝重に取り締まっていた。しかし、島田法務部長も、毎晩、私宅に現われる私の根気には次第に負けたようすで、一日の取り調べの疲労から寛いでひとりで晩酌をしていることがよくあった。そんな夜には、彼は赤ら顔で玄関へ現われて、「やあ中野君、君はじつに熱心だね。こんなに夜おそくまで大変だねェ」と私を温かく迎えてくれた。
「いや、貴方こそ毎晩、おそくまで重大なお仕事で大変ですね。どうですか、もうだいぶ、取り調べは進んでいますか?」「ああ、順調に進んでいるよ」「世間でも、また陸軍省の中でも、相沢中佐は頭がオカシイとか、気狂いであるとか、脳膜炎をわずらったことがあるとか、いろんな評刊が立っていますが、精神鑑定はやりましたか?」「そんなバカなことはないよ。相沢はしっかりした軍人だよ。もっとも熱狂的な性質のようではあるがね。私にはとても礼儀正しく丁重だよ……」「ところで、相沢が永田中将を軍刀で斬ったのは、一太刀(たち)ですか、それとも二太刀ですか、その中の一回は突きですか?」「それは……予審内容については、なんとも返事はできないよ。まあ君の想像にまかせるよ」「いや、どうせ記事解禁まで書けませんから、ただ参考までにお尋ねするだけです。ただイエスか、ノーかを、知らせて下されば結構ですよ……。すると相沢はまず軍刀を抜いてから『天誅(てんちゅう)』と大声で叫んで、立ち上がって逃げようとした永田中将の背部に第一刀をくわえたのですね。それから追って扉のところで、永田を後方より第二刀で強く突き刺したうえ、さらに第三刀で止(とど)めを刺そうとして倒れている永田の頭部へ斬りつけたんですね……」と、私はねばり強く島田法務部長を誘導訊問した。すると彼は、やはり老練な法務官らしい調子で、「やあ、君はなかなかくわしいね、だいたいそんなところだろうね。もうおそいからこれで失礼するよ」と彼は奥へ引きとる。私は大きな収獲に心を躍らせながら、ふたたび社旗をつけた自動車で深夜の町を疾走していた。
こうして、私の相沢事件に関する真相調査メモは毎日、毎晩くわしく集まっていった。それで翌昭和十一年一月二十八日に第一師団軍法会議の公判が開かれて、陸軍省より公訴状全文が発表されて新聞記事さしとめが解除された朝、朝日新聞号外には、私が事件五ヵ月間にわたり苦心して丹念に収集した事件の全貌が、予審調書大要としてくわしく報道されて異彩を放った。それはあまりにも詳細に凶行当時の模様を記事にしていたので、他社では朝日新聞社が極秘の軍法会議の予審調書(三冊三千枚)をひそかに入手して記事を書いたのであろう……と邪推されて陸軍省記者倶楽部でも問題化された。しかし、実際は前述のごとく、私が予審調書など決して見ないでも、島田法務部長を毎晩、私宅に訪ねて問答を重ねている間に、みずから事件の真相を新聞記者の鋭い第六感で正しく感得するようぱなったわけである。 

 

私は前述のように第一師団の島田法務部長を、毎夜、自宅に訪ねて相沢中佐事件の真相を探るために苦労した一方、また相沢中佐の家族にもぜひ会見して、家庭より見た中佐の人物、性行などを正しく知ろうと努めた。その当時、永田中将を軍刀で殺害した凶悪犯人として、相沢三郎中佐の名前は日本中に轟いていたが、軍部でも、政府、政界、財界方面でも、彼を狂人か、あるいは半狂人扱いにして、いわば、陸軍当局発表以外には彼の存在を黙殺したような形であった。それほど相沢中佐の犯行は、新聞界でも苦々しいものとして憎(にく)まれていた。しかし、私は正義感と好奇心の狂盛な元気な青年記者として、相沢中佐の犯行の動機を昭和維新運動に直結するものとして、個人的に好むと好まざるとにかかわらず重視する一方、中佐のような熱狂的な、いわば神がかりの軍人で、しかも、思慮分別のある四十七歳のスパルタ式の武人は、いったいどんな家庭を持っていたか――大きな関心を抱いていた。また、新聞記者の良心は決して、罪を憎んでも、その人を憎んではならぬと私は信じていた。それで私は、相沢事件担当者として社会部のM次長を口説いて、事件以来、世間よりまったく消息を絶っていた相沢中佐夫人訪問を企画して、カメラマンをともなって秋風の立つ十月のある夕方に朝日新聞社の門を出た。「たぶん、世間をはばかって相沢夫人は会うまい。もし会ってくれたら心温まる記事を書いてみたい。相沢中佐の家族こそ永田中将の家族以上に気の毒だ……」と私は柄になく感傷的になっていた。その気持は、奇しくもこの一文を綴る私のいまも変わらざる心境である。その夜、私は大きな感動にはげまされて長文の記事を書いた。この相沢中佐夫人会見記は、昭和十年十月十四日(月曜日)付の朝日新聞朝刊社会面トップに、五段抜き四行の破格の大見出しでつぎの通り掲載されて、珍しく特ダネ会見として大きな反響をまき起こした。
「 憂愁の相沢中佐夫人 “夫を信じ強く生きる” 母親の震う膝に戯れる児 秋月、隠れ家寂し 〔記事〕 天下を震駭(しんがい)した八月十二日――前陸軍省軍務局長永田鉄山中将が陸軍省構内で非業(ひごう)の死を遂げてから、早くも二ヵ月余、すでに事件は予審終結もせまり公判の日も近づいた。贖罪(しょくざい)の幽暗にひそむものは被告人の汚名をきる相沢三郎中佐とその一家だ。冷たい秋風が愁々たる夕まぐれ、囹圄(れいご=牢屋)の相沢中佐の心境は? そしてこの世のもっとも不幸な宿命をジッと涙にかみしめる家族の人たちの祈りは?
煌々(こうこう)たる月光が黒い雑木林を青白く照らしている。中野区鷺(さぎ)の宮の丘の上の一軒家、雨戸を固く鎖ざした真っ暗な門内は空家のように無気味に静まり返っている。マッチのフラッシュに浮かんだ古ぼけた標札『相沢三郎』――手探りで叩く玄関にかすかに人の気配がして、闇の中に悲しそうな女の顔が現われた。油気の無い頭髪を無造作に束ねて粗末な紺色のセルの着物をきた相沢よね子夫人(三十五歳)は、驚きの鼓動を抑えるように無言のままジッと考え込んでいたが、やがて記者を案内して奥座敷に対座した。つぎの間には、女学校二年の長女をはじめ三人が静かに勉強中である。
鈍い電灯のともったガランとした八畳間、床の間の菊の花は枯れかけて、傍に中佐愛用の指揮刀二本、『随処主為』の扁額は中佐が師事した仙台輪王寺の禅僧の筆だ。事件直後から杳(よう)として消息を絶った相沢一家――黙々と遁世の生活をつづけていたよね子夫人は、いまはじめて記者に火のような熱い涙の胸中を打ち開けたのである。「本当に世間をお騷がせ致して……いろいろと皆様に大変ご迷惑をおかけして申しわけの言葉もございません。永田様の御遺族にも一度お会いしてお詫び申し上げたいとは心に念じながら、いかにもあつかましいようで気が引けて独り悩んでおります。私どもはなんという不仕合わせな運命に生まれたのでしょう。四人の子供たちさえいなければ、私は死んでしまった方がましかも知れません。でも私はやっと堪えました。たとえ主人の身がどうなるとも、私はこれから十年、二十年――この末の女児(四歳)が大人になるまでは強く生きてゆかねばなりません」 母親の震える膝の上に無心に戯れる「父のいない子」のいじらしさ――
絶望の幽暗の中に一縷(いちる)の希望の光を探し求めるように、夫人は語りつづける―― 「でも私は信じています。子供が親を信じるように、ただなんとなく主人を固く信じているのです。主人が悪いことをしたとはどうしても思えません。主人はなにか私には話せぬ深いわけがあってしたことですから、私は主人の気持をいたわるだけで、責める気など全然ありません」「考えればまるで夢のような半年でした。十七年前に私どもが結婚したとき、主人は台湾の連隊(台北)の中尉でした。そのころから現在まで主人はいつも木綿の着物に小倉の袴を着用して、いつか私がセルの袴を作ったら真っ赤になって怒鳴られました。この八月はじめに思い出多い台湾へふたたび転任すると聞いたとき、私は飛び上がるほど喜びましたのに……。十二日に主人が東京から帰るのを福山の宅で待っていた私は、意外な事件の知らせに茫然(あぜん)としました。あまり大きな衝動でただボンヤリしていたというのが本当です。それから、台湾へ向けて発送ずみの家財道具の荷物を門司で押さえて、福山の家をたたむと十六日、ひそかに上京しました。四年前に主人が東京在任中に建てたこの家が空いたので引きこもったわけです」「ときどき、刑務所に主人に会いにゆきますが、『俺のことは心配するな、用がなければきてはならん』と平常の性質そのままの口調です。主人は家庭や子供のことをいったい、思ったことがあるのでしょうか? 子供のことを考えればあんなことは決してできないでしょうが、でも最近実弟が訪ねたら、『子供は丈夫かい?』と珍しく尋ねたそうです」果てしなき悲しみの夫人の泣き笑いに、記者も思わず涙をさそわれて、「どうか写真を」とも言い出せず暗然とした。 」
以上が私の書いた会見記事の全文である。そして、相沢中佐夫人と家族の写真の代わりに、「世を忍ぶ相沢家=昨夜撮影」と題する生垣のある家の写真が大きく掲載されていた。この記事はあまりにも大きく扱われたために、社内でも相沢中佐に同情しすぎるといって非難する向きもあったが、私はいまでもこれは軍国時代には珍しい立派なヒューマニズムの記事であったと思っている。たとえ古めかしい美文調で、いささかセンチメンタル気味であったことは認めるとしても――。同じ日付の紙面に、私はもう一つ相沢中佐の記事を書いた。それほど私は相沢事件の報道に全力を注いでいたのだ。
「 感想録を綴る獄中の中佐 獄衣のまま端坐して 〔記事〕 渋谷区宇田川町――厳めしい東京衛戍刑務所の奥深く相沢中佐は“ただ一人”で独房の明け暮れを送っている。独房の窓から覗く青空に、奇しくも向かい側の代々木練兵場の銃剣の響きがこだまする。中佐は取り調べの際には軍服を着用する。衣服は差し入れも断わり、獄衣のままつねにジッと腕を組んで蓙(ござ)の上に坐し、禅(ぜん)の冥想に耽(ふけ)っているといわれる。とくに当局の許可をえて、率直な真意を吐露した長文の感想録を綴りながら黙々と公判の日を待っている。 」 

 

かくして、事件後三ヵ月をへた十一月二日午後、陸軍省では永田中将殺害事件の犯人たる相沢三郎中佐が、「用兵器上官暴行、殺人及び傷害」の罪名で正式起訴されたと、つぎの通り事件の概要を発表した。相沢中佐は事件後ただちに逮捕されて、第一師団軍法会議で予審中であったが、十月二十八日に、同軍法会議長(第一師団長)柳川平助中将のもとに一件書類が提出され指揮を仰いだ。それで柳川中将は、十一月二日に陸相川島義之大将へ報告した後、相沢中佐起訴の命令を発した。それによって、軍法会議の島田朋三郎検察官は起訴手続きをとり、軍法会議公判に付することに決定したものである。
「 〔陸軍省発表〕 「相沢中佐はかねてよりわが国の現状をもって建国の精神に悖(もと)り、各部門とも悪弊累積して、その前途すこぶる憂慮すべきものありとし、速やかにこれを革新して国体の真姿を顕現せざるべからずと思惟しありしが、昭和八年ごろより国家の革新は軍部が国体観念に透徹して、一致結束して巡進せざるべからざるに拘わらず、陸軍の情勢はその期待に反するものありとし、まず部内の革正を断行せざるべからずとの意見を抱懐するに至れり」「しかし、昭和九年三月、永田少将(当時)の陸軍省軍務局長就任以来、同少将がことさらに国家革新運動を阻止するものなりとの一部の者の言を信じ、同少将に不満の念を抱きおりたるところ、同年十一月、反乱陰謀被疑事件起こり、これに関連して村中孝次(みらなかこうじ)、磯部浅一(いそべあさいち)が停職処分にふせられ、ついで同十年七月中旬、教育総監(真崎甚三郎大将)の更迭(こうてつ)を見るにおよび、一部の者の言説および、いわゆる怪文書の記事等により、これはまったく永田少将の策動に基づくものとし、なお七月十九日、同少将に面談し辞職を勧告しおきたるも、その後これが実現を見ざるを知り、同少将をこのまま放任するにおいては陸軍の革正はとうてい期し難く、したがって皇軍の前途憂慮に堪えざるものありとし、八月十日、福山発、単身上京し、同十二日、陸軍省軍務局長室において急進、執務中の永田少将に迫り、これを殺害するに至りたるものなり」 」
こうして、いよいよ陸軍未曾有の現役中佐の上官殺人事件は、第一師団軍法会議公判に付せられることになった。十一月二十七日に公判準備がととのい、裁判長(判士長)には歩兵第一旅団長佐藤正三郎少将、裁判官(判士)には歩兵第一連隊長小藤恵大佐、野砲兵第一連隊長木谷資俊大佐以下、木村(民)大佐、若松中佐、杉原法務官、また、検察官には島田法務部長がそれぞれ任命、発令された。また、被告弁護人には軍部と愛国団体に信望の高い法曹界の長老、鵜沢聡明(うざわそうめい)博士、特別弁護人として革新派の熱弁家の参謀本部付、陸大教官満井佐吉(みついさきち)中佐が選任、決定した。一方、天下注目の相沢中佐を裁く軍法会議法廷は、青山南町の第一師団司令部の構内に建つ古びた木造の小さい建物とされた。かって、大正十二年には社会主義者大杉栄(さかえ)夫妻を惨殺した甘粕(あまかす)憲兵大尉事件を審理し、また昭和八年には五・一五事件の陸軍側被告の裁判が行なわれた思い出のふかい法廷であった。しかも、今回の相沢中佐公判に検察官として立ち会い、論告、求刑の大役をになった島田法務部長は、三年前の五・一五事件公判では裁判官として判決を起草した奇しき因縁があった。彼は公判直前に、顔なじみの私に向かってつぎのように感想を語った。「今回の相沢事件は、五・一五事件と異なり、陸軍部内の政治的問題に関連するので、私の立場ははなはだ難しく、いわゆる憎まれ役ですが、私情を超越して淡々たる公明厳正な態度で、適切な論告をする覚悟です」かくて相沢中佐の軍法会議公判は、昭和十一年一月二十八日午前十時から息づまるような緊張した雰囲気の中で開廷されたが、せまい法廷の最前列の記者席(各社一名)の粗末な木製の長机とベンチに陣どって、十数本の鉛筆と、ザラ紙の新聞用原稿紙をまえにおいて、興奮しながらはしり書きする私のすぐ前に、直立不動の姿勢をとった、はじめて見る被告相沢三郎中佐(当時四十八歳)の筋骨たくましい長身と眼光烱々(けいけい)たる不敵の相貌は、まことに異様なおそろしい印象をうけた。しかも第一回公判は、冒頭より特別弁護人満井中佐の「予審のやり直しと公判延期」の爆弾動議の提起によって荒れ、はやくもその前途には不吉な暗影を投げかけた。はたして、公判の成り行きはどうなるであろうか? 

 

全陸軍のホープといわれた軍務局長永田鉄山中将(当時少将、五十二歳)を軍刀で斬り殺した相沢三郎中佐にかかわる「用兵器上官暴行、殺人及び傷害事件」の第一回公判は、昭和十一年一月二十八日から全国民注目の中に、東京青山南町の第一師団軍法会議法廷で開かれたが、果然、その冒頭から大波瀾をまき起こした。それは、被告相沢中佐(当時四十八歳)の特別弁護人として、とくに皇道派の急進将校たちの間で選定、推薦された参謀本部付、陸大教官の満井佐吉中佐が開廷直後、いちはやく、「裁判長!」と叫んで立ち上がり、意外にも法廷闘争の火蓋を切って、「予審のやり直しと公判の延期を」要求する爆弾動議を提起したからであった。なにしろ、第一師団司令部構内の片すみに建った古い粗末な平家建ての軍法会議法廷はとてもせまくて、軍部ならびに司法部内の特別傍聴人百名と毎回その朝九時に表門で抽選による一般傍聴人わずか二十五名で、すでに満員の有様であった。それで被告席のすぐ後方に設けられた新聞記者席には、主要新聞各社一名に限り入廷を許されて報道に当たり、原稿は書くそばから竹筒に入れて、特別通行証の腕章をつけた各社の原稿係(給仕)が記者席わきの出入口より足音を忍ばせて受けとっては、軍法会議場の正面玄関前にいくつもテントを張った各社の相沢中佐公判報道本部へ届けて、そこに陣どった多数の記者が、それぞれ特設電話で、本社社会部デスクへ読み上げて、送稿する仕組みになっていた。この陸軍未曾有の不祥事件の裁判を、細大もらさず、全国民ヘー刻も早く、かつくわしく報道するためには、法廷内外の報道陣は、ものものしく緊張していた。私はこの年の八月、永田中将暗殺事件の発生以来、同事件の責任記者として、この相沢中佐を裁く軍法会議の開廷の日を、まさに一日千秋の思いで待ちわびていただけに、この日は若い記者としてまことに一生忘れられない重大な報道任務の感激をひしひしと感じていた。そして、僚友の司法記者S君とそれぞれ午前と午後の公判を交代で分担して、まず、私が第一日の前半を受け持って入廷し、記者席へ着いた。せまい法廷にぎっしりつめきった傍聴人たちも、息をのむような緊迫した重苦しい雰囲気の中に、ゆうゆうと現われた軍服姿の相沢三郎中佐は長身で、顔色は浅黒く、いかにも殺気をふくんだ恐ろしい眼光であった。裁判長(判士長)は歩兵第一旅団長佐藤正三郎少将で、見るからに温厚篤実そうな人がらであったから、最初から被告相沢中佐にはその気魄において圧倒された形であった。公判開始前に、私は佐藤少将に歩兵第一旅団司令部で会見したが、少将はつぎのように語り、相沢中佐の言い分をよく聞いて、なんとか公判を荒れないようにぶじに進行させようと、ひそかに苦心しているようすであった。そのときの旅団司令部の副官が、後日の二・二六事件の首魁として決起、処刑された香田清貞(こうだきよただ)大尉であったことは皮肉なめぐり合わせであった。私が数回会った印象は、落ちついた物わかりのよさそうな青年大尉であった。「私ども各判士は、ただ公正無私、何人の意見もきかず、何人の掣肘(せいちゅう)も受けず、誠心誠意、適切な裁判を期するのみです。私は昨年十一月、裁判長に任命されて以来、調書を閲読すること数十回、判士打ち合わせも十二回開いて、もはや調書の内容を暗誦したくらいで、研究は十分できました。あとは公判廷で、ただ静かに被告の陳述を聞くばかりです。いまや責任の重大なることを痛感するとともに、公判のぶじ進行を祈るしだいです」このように、用兵器上官暴行、殺人という恐るべき皇軍部内の不祥事件に対して、当時、陸軍首脳部はきわめて低姿勢をとり、なるべく被告相沢中佐を支持する皇道派の急進将校連中を刺激しないように配慮していた。この極秘の方針にもとづいて、佐藤裁判長は相沢中佐をなるべく怒らせずに、なんでも言いたいことは十分に言わせて、公正な裁判を首尾よく行なうつもりでいたらしい。ところが、昭和維新をめざす青年将校の一派は相沢中佐を偉大な烈士として尊敬するあまり、「相沢中佐を犬死させるな!」といっせいに猛烈な法廷闘争をめざして立ち上がり、優柔不断な軍首脳部を鞭韃(べんたつ=元気づける)して、昭和維新の気運を大いに推進しようと企てた。そのお先棒をかついで公判廷を晴れの舞台に、ナチス仕込みの熱弁をふるったのが熱情家の特別弁護人満井佐吉中佐であった。
さて、この歴史的な相沢中佐公判第一日のなまなましい模様を、当時、私が熱心に綴った報道記事(昭和十一年一月二十九日付朝日新聞夕刊第一面)より引用して紹介しよう。
「 〔新聞記事〕――この朝、酷烈の寒気を衝いて殺到した傍聴人の大群と警戒の厳めしい憲兵の一隊で、第一師団司令部の門前はただならぬ混雑を呈し、異常の興奮の熱気があふれる中を、特別傍聴の将星連の緊張した顔が、門内に吸い込まれてゆく。九時三十分、相沢中佐を乗せた「東刑二号」の自動車が憲兵分乗のサイドカーに護送されて到着、ただちに法廷裏の仮監に入った。早朝、明治神宮に参拝して「公判の公正」を祈願した裁判長佐藤正三郎少将以下各判士検察官は相前後して構内に足早に消える。――九時四十分、法廷のせまい傍聴席に、百二十五名の傍聴者と二十四名の新聞記者団が、ギッチリ身動きならぬ興奮につつまれて、前方の被告席を凝視して待つ。ほどなく、佐藤裁判長以下入廷(中略)。ときに正十時、やがて緊張の中に軍服に丸腰の相沢中佐は、左手の入口から看守および警査数名に付き添われて現われる。弁護士席には、法服の鵜沢聡明(うざわそうめい)博士と特別弁護人満井中佐がならんでジッとみつめている。息づまる満廷の沈黙が裁判長の厳(おごそ)かな「開廷」の宣言で破れると、眼光鋭いやせた長身の相沢中佐は軍帽を右手に、直立不動の姿勢で、幾分青味がかった顔を真正面に向け、「私は相沢三郎中佐であります」と力強く一言――ここに歴史的公判の第一ページを切って落とした……。
かくて、佐藤裁判長が荘重な態度でかたのごとく氏名点呼をはじめると、相沢中佐は、東北訛(なまり)の強い軍隊口調で、身分、本籍、現住地、前任地など、いちいち明瞭に答えた。そのとき、突然、満井中佐が立ち上かって、いわゆる爆弾動議を「投げつけた」のであった。「裁判長!」と叫んだ満井中佐の異常な大声は、法廷中にみなぎる緊張した雰囲気をどよめかして、だれもハッとおどろいて息をのんだ。一番、驚いたのは真正面の高い裁判長席に座った佐藤少将であったろう。彼のおだやかな顔色はサッと青白く変わった。「本公判の進行について重大な発言を致します……」と、いかめしい参謀肩章をつけた満井中佐は立ち上がって、 「公判の中止と再審の要求」を申し入れた。この満井中佐については、昭和動乱劇で躍(おど)った興味ふかいワキ役の一人として、後でくわしく説明するが、当時の私の綴った報道記事は、この光景をつぎの通り記していた。「――法廷内はこの意外な出来事に息をこらして、ひたすら同中佐の一言一句に聞き入る。中佐も極度の緊張から両手の拳骨を固く握りしめ、一言一句、力のこもった調子で滔々(とうとう)と主張のあるところを明らかにして、どうか本公判は本日はこのまま審理に入らず閉廷せられ、審理をさらに延期せられたいと、予審のやり直しおよび公判の延期を正式に上申した……」 」
満井(みつい)中佐の主張する理由は、つぎの三点にあった。
「 一、相沢中佐の行動(永田軍務局長を斬殺したこと)は公人として行なったものか、私人の資格でやったのか全然、明確になっていない。すなわち犯行の主体が公人か、私人か明瞭でないまま取り調べを終わり、公判に付することは不可である。
二、行動した被告側の審理調査は十分できているが、その行動の原因、動機たる社会的事実の審理調査がまったくないので不可である。
三、被害者たる永田中将の死亡時刻が、事件当日陸軍省公表では午後四時死亡せりというが、検察官の談によると午前九時四十分やや過ぎ、犯行後数刻を出でずして死亡したとなっている。 」
すなわち、前者の公表によれば永田中将は重傷を負い、その後に死亡したことになる。陸軍大臣の言に誤りがあるか、また検察官の起訴に誤りがあるか、いずれかである。もし永田中将の死亡後さらにいつわって存命させ、官位昇叙を奏請したと考えれば皇軍のため重大な不正である。この大きな食いちがいの調査が行なわれないで公判を開くことは不可である。この特別弁護人満井中佐の緊急動議は、まるで戦後に激化した左翼事件裁判の法廷闘争そっくりの戦術であるが、今日より回顧すると、昭和動乱史上を飾るいくつもの極右運動事件が戦後の極左運動事件と、その過激な闘争行動と巧妙な戦術において一脈相通ずるものがあるのは感慨ふかいことだ。ところで、満井中佐の爆弾動議の内容をよく検討してみると、常識では、とうていみとめられないような論法が目立っていた。たとえば、たとえ軍人であろうと民間人であろうと、人を殺しておいて、その犯人が公人の公的行為であるか、または私人の私的行為であるか、などと論争することは正気の沙汰ではない。しかし、当時の重苦しい昭和動乱時代の雰囲気の中では、相沢中佐が重臣、財閥と結んだ永田中将を斬ってすてた行動が、立派な昭和維新の烈士の「尊皇討奸」(天皇を敬い奉り君側の奸臣を討ち亡ぼす意)の義挙であるかのように急進的な青年将校の間でみとめられたようであった。それは、一点の私心も一片の邪念もなき、忠君愛国の赤誠の表現であるというわけであった。もちろん、このような矯慢な考え方は、当時の軍首脳部も一般将校も決してみとめていたのではないから、佐藤裁判長は合議のため約二十分間、休憩して別室で判士会議を開いた後、 「弁護人の申請はこれを却下する。これより公判を続行する」と宣した。これでいちおう、公判は軌道にのって進行し、杉原主任法務官の訊問により事実審理にはいったが、公判の前途には暗い影がただよっていた。それを佐藤裁判長は、はたして知るや、知らずや? 記者席で鉛筆を走らせる私の頭の中には、「これは大変なことになりそうだ!」という不吉な予感がうずいて、思わず指先がふるえた。 
十一

 

軍法会議公判廷で、被告相沢三郎中佐は、直立不動の姿勢で、正面の高い壇上にいならんだ佐藤裁判長以下各判士を直視しながら、まるでにらみつけるような眼光も鋭く、烈々たる憂国の心境を吐露した。彼は、「兵器を用いて上官暴行、殺人」という現役軍人として最悪の大罪を犯しながら、すこしも悪びれたり後悔するようすは見えず、あくまで、「尊皇討奸」の正義の刃をふるって、国運をあやまり皇軍を毒する永田軍務局長に対して、いわゆる「天誅」をくわえたことを主張した。したがって、人を殺しながら悪いことをしたという犯罪意識は毛頭なかった。佐藤裁判長は、杉原法務官の訊問と相沢中佐の答弁を、黙々として聞いていたが、その表情はますます固く暗かった。おそらく彼は、内心ではパラパラして気をもんでいたことだろう。生真面目な善良な軍人として、彼はこのような重大な軍法会議の裁判長などまったく不慣れであり、やっかい千万な法廷闘争などは苦手であった。杉原法務官 「被告の信仰はどうか?」
「 相沢中佐 「私は小さいとき、父から一つの重大な教訓を受けております。私の父は、白河藩の藩士でありましたが、誤った考えから御維新当時、いちど官軍に叛(そむ)き賊軍の汚名をこうむったのであります。父はこのことを非常に残念に思い、お前は大きくなったら、かならず天子様のためにつくしてくれ、と懇々と教えられておりました。およそ、この日本の国に尊い生を受けるものは、自分のものというのは何ものもないのであります。みなこれ天子様からお預かりしているものでありますから、時が来れば、すべてを捧げるべきであるというのが私の不動の信念であります」 」
相沢中佐の答弁は、裁判官の命令で事実審理をすすめる法務官の訊問にたいして被告が答えるというよりは、むしろ軍隊で部下を集めて訓示するときのように、たくましく胸を張り、頭を上げて大声をふるわせて熱弁をふるった。とくに、皇室の尊厳なるゆえんを述べるときには、みずから興奮のあまり、感きわまってパラパラと落涙し、それを右手の大きな拳骨ではらう有様であった。杉原法務官が、相沢中佐の答弁がワキ道へそれるのを注意して訊問をすすめるや、中佐はクワッと殺気だった目を大きく見ひらいて、法務官をにらみつけ、「もっとしっかり聞いて下さい。そうでないと気合いのこもったことは申し上げられませぬ」と右手に持った軍帽を打ち振り、満廷の緊張を高めた。また相沢中佐は、正面壇上で黙々と審理問答を聞いている佐藤裁判長の態度がいわゆる気合いのこもらない、いい加減なものと思ったのか、それとも判士連中の眠気をさまそうとしたのか、突然、大声を立てて、「尊皇絶対でありますぞ! もっとまじめに聞いて下さい」と叫んで裁判長を叱り、超満員の傍聴席をどよめかすような場面もあった。しかし、相沢中佐はそのつど、ハッと気づいたものか、まるで神がかりの状態から我にもどったような調子で、軍隊式に両足のかかとを鳴らして直立不動の姿勢をとりながら、「失礼しました!」と佐藤裁判長の前に恭々しく最敬礼をしたので、記者席にも傍聴人席にもホッと安堵の色が流れた。それから、相沢中佐は独特の熱弁をふるって、明治維新の精神を説き、欧米思想(民主主義を指す)の国内浸潤を述べて、悲憤慷慨し、日本国民はあくまで藩籍奉還の大精神に立ち返らねばならぬと、あたかも裁判長以下各判士へお説教するような調子であった。しかし、佐藤裁判長は、相沢中佐の発言を制して怒らせては、どんな事態をもたらすかもわからないと心配したらしく、中佐の滔々(とうとう)たる意見陳述を苦々しく思いながらジッと聞いていた。
杉原法務官 「それでは、被告の信念はだいたい、父からの影響が一番大きかったのだね」
相沢中佐 「はッ、そうであります。そのほかに私は仙台の無外和尚の教えを受けるところが多かったのであります。その方丈を私は父と思い、なんでもあったことはかくさず言っておりました」 この無外和尚というのは、相沢中佐が陸軍少尉時代に下宿していた仙台市北山町曹洞宗輪王寺の住職で、中佐はその指導の下に三年間も禅の修業を積んだのであった。
佐藤裁判長 「その無外和尚はまだ生きておられるのか?」
相沢中佐 「はッ、まだご存命であります。私の決行後、二度も……二度もおいで下さいました……」 恩師の無外和尚のことにおよぶと、相沢中佐はふたたび感きわまって泣いた。
佐藤裁判長 「教えられた、一番大事なことはなにか?」
相沢中佐 「はいッ、尊皇絶対であります!」
記者席で脂汗を額ににじませながら鉛筆を走らせていた私は、相沢中佐がまるで号令でもかけるような気合いのこもった大声で叫んだ「尊皇絶対であります!」という言葉の異様な響きを、いまでも、いまだにハッキリと覚えている。それは昭和維新のおそるべき雄叫びであった。 
十二

 

公判は午前十一時四十分、休憩、午後二時十分、再開して、杉原法務官は、相沢中佐の抱いている「国家革新の思想」について訊問をすすめようとした。すると、相沢中佐は、憤然と色をなして法務官の訊問をさえぎり、怒りをこめた大声を張り上げて、つぎの通り大見栄を切った。それは、どう見ても、厳めしい軍法会議で裁かれている被告の態度ではなくて、天晴れ「天に代わりて不義を討つ」昭和維新の志士をもってみずから任ずる人物の狂信的な姿であった。「相沢の申し上げることに国家革新などという言葉を当てはめられるのはまったく誤りであります。天子様のまします国に、国家革新などということがありようはずはありませぬ。まずこれをハッキリ決めてからかかります」それから相沢中佐は、現時の世相に対して関心を持つにいたったのは、鉄道疑獄、勲章疑獄、東京市会疑獄、教育疑獄など続発した泥沼のような汚職事件と、また政党、財閥、特権階級の腐敗、堕落の実状を見て、あまりに天皇陛下の大御心を悩まし奉ることのみ多いのを衷心(ちゅうしん)から憂えたためであると述べた。さらに相沢中佐は、いわゆる「青年将校」の本質を説いて、まるで裁判長以下各判士の認識不足を是正するような調子で、純情至誠の青年将校たちこそ、皇室中心と上下一致の精神的結合をなんとかして築き上げたいということのみを念願しているのである――とはげしく主張した。
「 相沢中佐 「青年将校が国家革新のためには直接行動もあえて辞せぬ、などと簡単に申されるのにはまったく心外の至りであります。青年将校の昭和維新を念願しながら切瑳琢磨(せっさたくま)する実情を見れば、日本国民として熱涙にむせない者がありましょうか?」 」
かくて、相沢中佐のものすごい気合いと鋭い熱弁にまくし立てられて、せまい法廷には、異常な雰囲佃が重苦しくよどんで、裁判長以下各判士も傍聴人も咳き一つせず、疲れたような暗い表情であった。しかし、相沢中佐ただ一人は、胸中のうっぷんを思う存分に晴らしつつあるかのごとく、疲れも知らぬげに明るい顔つきであった。公判は午後三時、休憩、三時二十分、再会、いよいよ杉原法務官は相沢中佐の思想背景と交友関係を諮問して、永田鉄山中将の陸軍軍務局長就任当時の模様を追及した。
「 相沢中佐 「永田閣下が軍務局長就任と同時に、ある青年将校の会合を阻止された一事があったのであります。しかも、これはいったん許しておきながら、直前に各隊長を通じ禁止されました。その背後には政治的な策謀のあったことを聞き、陸軍大臣を補佐すべき唯一の永田閣下がかかる政治的策動に相通じて弾圧を下されたものと認定し、私は以後ふかく陸軍首脳部の動向を注意して見たのであります。すると永田閣下が、純真な士官学校生徒を使って青年将校たちの間を探らせ、事件を起こしたことを知り、私は慨嘆にたえなかったのであります。なおこのほか、罪のない各地の青年将校が酷く扱われた例などたくさんのことを知っております」 」
(注) 昭和九年十一月中旬、在京青年将校および士官候補生の間に不穏な計画が伝えられて、極秘のうちに関係者が検挙され、軍法会議において厳重取り調べが行なわれた。しかし、証拠不十分として不起訴と決定し、闇に葬られたが、これは十一月事件または士官学校事件と呼ばれた。その関係者として、翌十年四月二日、歩兵第二十六連隊大隊副官歩兵大尉村中孝次、陸軍士官学校付歩兵中尉片岡太郎、野砲兵第一連隊付一等主計磯部浅一の三名が停職処分に付された。ところが、村中大尉および磯部一等主計は、この十一月事件が統制派の永田軍務局長一味のデッチ上げた陰謀なりとして憤慨、「粛軍に関する意見書」と題する同事件の真相を暴露したいわゆる怪文書を各方面へ配布したうえ、さらに教育総監更迭に関する怪文書も頒布したため、部内の統制を紊乱(びんらん)するものとして、同年八月二日、免官処分に付された。この十一月事件こそ、相沢中佐の単独決起の直接動機であり、また、村中、磯部両人こそ、来るべき二・二六事件(昭和十一年)の首魁として華々しく活躍した人物であった。この両人とも昭和十二年八月十九日、銃殺刑を執行された。
杉原法務官 「そういう話はだれから聞いたのか?」
相沢中佐 「前に申し上げたような人びと――西田税、村中、磯部、大蔵(陸軍大尉大蔵栄一)などであります……」
杉原法務官 「なぜ、その人びとの言葉を本当と思ったのか?」
相沢中佐 「私は世の実情を自分で詳細に真剣に注視しておったので、私の背後に指導者などはありません」
杉原法務官 「それ以外になにか聞いたことはないか?」
相沢中佐 「聞いたわけではありませぬが、いろいろ中央部の幕僚だちと会って、その気分などから察知したのであります」
杉原法務官 「では、被告の感じだね?」
相沢中佐 「感じといわれても、致し方もありませぬ。証拠がないのですから……。(珍しく苦笑)しかし、私はまったく苦心して注視しておったのであります」
こうして、相沢中佐は午前、午後にわたる長時間の大熱弁の陳述を終わり、大公判の第一日をぶじ終了したが、彼は言うべきことを十分に吐露したせいか、たくましい浅黒い顔に微笑さえ浮かべて上きげんに見えた。ちょうど、裁判長の背面にかけられた古びた円形の大時計は、午後三時四十八分をしめしていた。法廷内にみなぎる緊張した空気はようやくとけて、記者席にも、スシづめの傍聴人席にも、ホッと重荷を下ろしたような解放感が流れた。表に出ると、一月の寒風が熱した頭を快く冷やしてくれた。「まあまあ、ぶじに終わってよかったね……」と、私は軍法会議場正面入口の前にテントを張った朝日新聞社の相沢公判報道本部で、僚友のI次長、S君、F君その他と肩をたたき合って、オートバイの原稿係が、本社よりとどけて来たばかりのインキの香りも高い夕刊の第一面をデカデカと埋めつくした相沢中佐の軍法会議公判記事を、息もつかずに、むさぼるように読みかえしていた。つい数時間前に、自分が夢中になってザラ紙に鉛筆で走り書きした原稿が、いま堂々たる歴史的な大記事となり、活字になって日本中の国民大衆に読まれていると思うと、私は青年記者としてさすがに大きな感激で胸がはずむようであり、ひどく緊張した一日のつかれも忘れた気持になった。 
十三

 

相沢中佐の軍法会議続行公判(第二回)は、二日後の一月三十日午前十時から、前回と同じ第一師団司令部構内の法廷で開かれた。なにしろ、第一回公判で被告相沢中佐も、特別弁護人満井中佐も、この公開の法廷を通じて、日本中に昭和維新の気運を盛り上がらせようと念願して、いわゆる法廷闘争を企てていることが明らかになったため、軍首脳部も内心では大いに成り行きを憂慮した。また一方、急進派の青年将校だちと極右愛国団体のあわただしい動きもいろいろ流布され、愛国熱血の志士相沢中佐を護送途上で奪回、救出せんとするようなデマまで乱れとんで、いかにも公判の前途は重大化しつつあるように感じられた。それで、この日の早朝より赤坂憲兵分隊長の率いる二十五名の武装憲兵が法廷内外を厳重に警戒する一方、渋谷宇田川町の陸軍衛戍刑務所より青山の第一師団軍法会議法廷まで、相沢中佐を護送する沿道にも憲兵隊のサイドカーが爆音も荒々しく走りまわるなど、ものものしい警戒ぶりであった。とくに第二回公判で目立ったことは、第一回公判にはほとんど顔を見せなかった金ピカの肩章の将軍連中が大勢、特別傍聴席に居ならび、その中には香椎東京警備司令官、堀第一師団長などの固苦しい顔も見えた。また、警視庁、司法省、裁判所の幹部級も公判を重大視して列席するなど、帝都治安の責任者たちの表情はいずれも心配そうであった。前回と変わらぬ温顔の佐藤裁判長が午前十時四分すぎ、おごそかに、「これより公判を開廷する」と宣告するや、まさに間髪を入れず、待っていましたとばかり、特別弁護人の満井中佐が参謀肩章をひるがえしてすっくと立ち上がり、「裁判長! 公判の進行につきお願いがあります!」と大声で叫んだ。緊迫した法廷の雰囲気は、またしても冒頭よりかき乱されて、「また例の満井中佐だぞ、第二発の爆弾動議だ!」と、記者席にたちまち、ざわめきが起こった。佐藤裁判長は、ハッと表情を変えながらも満井中佐の意気ごみに押され気味で、「それは、公判の進行についてのみですよ」と注意したうえで発言を許した。すると満井中佐は、あらかじめ用意した書類を片手にしながら、自信満々たる口調でつぎのような強硬な主張を行ない、法廷をますます緊張させた。彼の熱気のこもったネバリ強い口調は、いかにも軍人には珍しいくらい理屈攻めで、本職の弁護士も顔負けするくらいの堂に入ったものだった。
「 一、軍法会議の存立精神は建軍の根本精神の擁護にあるから、事件の正邪善悪を裁くのは裁判長以下本科将校みずからこれに当たられて、法務官はただ法律適用のみに当たられたい。(その趣旨は、軍人精神に徼せぬ文官たる法務官に軍人を訊問させるのは、軍法会議の精神に反して不当であると、裁判長を牽制したものだ)
二、本件は皇軍未曾有の重大事で、軍統帥の根本問題にかかわるものである。したがって軍はもちろん、財界、政界、元老、重臣の各方面にも関連するものである。しかし、現時は昭和維新の途上の異常な情勢にあり、本事件を裁くにあたっては、前述の通り各方面の理解、洞察力あるを要する。この点については、とくに法務官にお願いがある。
三、それはつぎの三点である―― 第一に一件調書はきわめて不備である。第二に公訴状もはなはだ不備である。第三には法務官の被告訊問の態度方法は、事件の重大本質を衝くに足らず、下級者にして上級者を刺し殺すというその形式は、皇軍のため、ふたたび反覆を許さぬものではあるが、中佐の精神に関しては、小官あてにまいった多数の信書により明らかである。 」
満井中佐は、このようにヒトラー張りの大熱弁をふるって、弁護人席の机上に積んだ書類の中より一通の長文の手紙を取り上げてゆうゆうと朗読しはじめた。それは越村(こしむら)捨次郎という後備歩兵少尉から寄せられた血判の助命減刑嘆願書であった。おだやかな佐藤裁判長も、たまりかねて満井中佐の朗読をさえぎるようにして、「それは私の方で読んでおくから、貸してもらいたい。まだたくさんあるのか?」と打ち切るように求めた。しかし、満井中佐は色をなして裁判長をなじるような語調も荒く、「いいえ、これは公判の進行に重大関係があるものです、判士諸官はもっと公正な態度で謹聴されたい」とがんばった。そして、そのまま朗読をつづけて、全国各地と朝鮮在任の多数の青年将校および青年団、愛国団体などからきた数十通の激励電報や嘆願書を涙ぐみながら約一時間にわたって読みあげた。これには佐藤裁判長も無理に押しとどめるすべもなく、ただにがりきって、黙々と傾聴するのみ――午前十一時十五分、満井中佐はようやく熱弁の朗読を終わり、休憩に入った。しかし、記者席では、「公判第一日で被告相沢中佐が佐藤裁判長を叱り、また第二日では特別弁護人満井中佐が同裁判長を叱りつけた。佐藤少将には気の毒ではあるが、こんな調子ではいったい、厳正な裁判ができるであろうか」という不安と不満のささやきが聞こえた。
第二日の公判は午後一時五分、再開、審理はようやく本筋にもどって、杉原法務官は前回(第一日)の事実審理にひきつづいて陸軍教育総監真崎甚三郎大将の罷免当時の相沢三郎中佐の心境の訊問にはいる。
杉原法務官 「教育総監更迭にさいして、村中、磯部についてどう考えたか?」
「 相沢中佐 「国軍が憂うべき方向に進んでいることを衷心より心配いたしました。教育総監は不当に更迭させられ、しかも、これに警告した人びとは軍法会議に付せられるような状態では、皇軍はまったく腐敗、堕落の渕に瀕している。これはどうしても尊皇絶対の思想を、子弟の間に強く植えつけねばならぬと思いました。たまたま福山に士官学校の優等生が帰ってきました。しかし、話をしてもいっこうに反応がないので驚いた次弟であります。それ以来、私は国家の現状を憂慮して食事の箸もとれぬ有様でありました。そこで私か演習中とくに連隊長に上京方をお願いしたところが、『間違いないよう』。との注意をうげて許可されました。そして、私は七月十七日(昭和十年)午後四時発の急行で上京し、途中、和歌山で大岸大尉に会い、同夜は語り明かしました。その翌朝、ふたたび車中の人となり東京へ向かいました」 」
公判廷は重苦しい雰囲気の中で、相沢中佐のたくましい軍隊口調の陳述がつづき、いよいよ永田事件の核心にふれてきた。すると相沢中佐は突然、一段と大声を張り上げて、「これからのことは、じつは恥ずかしいことが多くありますが、思い切って申し上げます」と前置きして、永田軍務局長との関係について述べはじめた。いったい、相沢中佐はなにが恥ずかしいのか? それは、相沢中佐が永田将軍に天誅をくわえる決断が容易につかなかった点をみずから昭和維新の志士として恥じるとともに、また、ほかの若い同志の前に自分の優柔不断を恥じたのであった。はたして狂人か? 愛国者か? 相沢中佐の神がかりの熱弁は、まるでドス黒い悪夢の霧のごとく、法廷内に立ちこめて、記者席も傍聴人席も圧倒されたように気味わるいくらい静まり返っていた。
「 相沢中佐 「私は車中で明治維新の志士のことなどを思い浮かべて、自分の力の足りぬことを考えたり、あるいはこれではいかぬとみずから激励したりして、ついに考えは永田閣下を一刀両断にせんと決心するにいたりました。そして着京後、恥ずかしいことながら神田で短刀まで買い求めたのでありますが……もちろん、これはだれにも言わずただ一人で考えたことであります」 」
相沢中佐の発言は、ますます熱をおびて彼の横顔は異様に輝いていた。確かに彼は当時四十八歳の現役中佐とは思われぬくらい熱狂的な壮士の印象が強かった。とうてい正常な軍人には見えなかった。それから、相沢中佐は陸軍省へ赴いて、有末少佐(当時、陸相秘書官)らに会い、昼食をとった後、所用で外務省より帰庁したばかりの永田軍務局長に面会を求めて、辞職を勧告した模様を、なまなましく陳述した。しかし、永田局長が軽くあしらって相手にしたいため、相沢中佐はその無誠意を深く怒り、もはや永田局長の反省を求めるには一刀両断にするほかなしと重大決意をしながら、いったん、福山へ帰任した経過を明らかにした。かくて、相沢中佐の軍法会議公判が全国民の息づまるような注目の中に進行しつつある間に、ひそかに昭和維新をめざす青年将校の同志一味は、東京の近衛歩兵第三連隊、歩兵第一連隊、歩兵第三連隊を中心に維新義軍のクーデター決行計画をちゃくちゃくと進めていたのであった。ああ、それは昭和動乱史を鮮血で彩る皇軍反乱の前夜――奇々怪々たる相沢中佐公判はそのクライマックスに達したのだ――。 
十四

 

あとから考えると、陸軍部内最悪の不祥事件として注目された軍務局長永田鉄山中将殺害事件の犯人、相沢三郎中佐を裁く第一師団軍法会議公判こそ、じつは後に来るべき皇軍未曾有の大反乱――二・二六事件の騒がしき前奏曲であり、また奇怪な序幕であった。それは、昭和維新をめざした、軍隊反乱の大爆発を起こした、恐るべき導火線でもあった。しかし、軍首脳部も、軍法会議当局も、相沢中佐公判が被告の言い分をよく聞いて順調に進行中の間は、いかかる急進派の青年将校一味といえども、決して実力行使の直接行動に出ることはなかろうという、虚しい希望と安心感にとらわれていたのである。だが、実際には相沢中佐公判で、被告自身と特別弁護人の陸大教官満井佐吉中佐の思うままに神がかりの自己弁論が堂々と行なわれていた最中に、意外にも、皇道派の青年将校一味は、天下注目の法廷闘争の成り行きには頓着せず、第一師団扇下諸部隊の満州移駐、出動の時期切迫をおそれで、昭和維新断行と武装決起の計画を極秘のうちにぐんぐん進めていたのだ。それゆえ、相沢中佐公判のおそるべき導火線がまだ燃え切らないうちに、二・二六事件という大爆発が起こったわけである。では、皇軍反乱の前夜――いったい、相沢中佐公判はどこまで進行していたのであろうか? また、ヒトラー張りのチョビヒゲと熱弁で一躍、日本中に皇道派の有力人物として名声を馳せた満井中佐は、はたして事前に二・二六事件の決行を予知していたのであろうか? 相沢中佐公判と二・二六事件の不可分の関係を知れば知るほど、昭和動乱と昭和維新の奇怪な宿命にふれて慄然とするのは、ひとり私のみではあるまい。したがって、二・二六事件の秘密を明らかにするためには、どうしても相沢中佐公判の真相を正しく理解する必要があるのだ。ところが、事実上は二・二六事件という未曾有の大爆発が起こったために、かえってその導火線となった相沢中佐公判は、中途半端のままウヤムヤに葬られた感が深く、とくに、戦後の今日ではすでに伝説化された二・二六事件のもろもろの謎のベールのかげにおき忘れられたように思われる。これは記録をみるとよくわかるが、二・二六事件が勃発したために、相沢中佐の公判は二月二十五日以降、論告、求刑、判決をみずに審理中途でいちじ延期された。その後、判士の一部も更迭(こうてつ)して審理を更新し、四月二十二日以来、五回にわたり非公開のまま公判を開き、いわゆる秘密裁判によって、五月七日、死刑の判決が宣告された。陸軍当局では、前回の相沢公判のものすごい法廷闘争とその反響に懲りて、「現下の情勢上、安寧秩序を害し、かつ軍事上の利益を害するおそれあり」という理由で、新公判の公開を禁止してスピード判決を行なったのであった。それは、軍首脳部がいかに被告相沢中佐や特別弁護人満井中佐の発言を恐れ、かつ憎んでいたかをしめすものであった。それだけに、昭和十一年一月二十八日から二月二十五目までの第一次相沢公判の内容こそ、昭和動乱史上きわめて重大な歴史的意義があるといえるだろう。
「 (注) 被告相沢三郎中佐は、死刑の判決を不当として、五月八日、陸軍高等軍法会議に上告したが棄却され、同年七月三日、東京渋谷の陸軍衛戍刑務所内で銃殺された。それは二・二六事件の決起将校の第一次処刑(十三名)にさきだつ九日前のことであった。そういうわけであるから、私は読者諸君の正しい理解のために、もう少し二・二六事件の恐るべき導火線となった相沢中佐公判の複雑な内容と、その奇怪な行方を明らかにしておきたいと思う。 」 
十五

 

昭和十一年一月三十日、相沢中佐を裁ぐ第一師団軍法会議の第二回公判の午後の審理で、相沢中佐は、陸軍省で軍務局長永田鉄山中将(当時、少将)に面会して辞職を勧告した場面をつぎのようになまなましく述べた。彼は昭和十年八月十二目、永田軍務局長を斬り殺す約一ヵ月前に、わざわざ任地の広島県福山市(歩兵第四十一連隊の所在地)より上京して陸軍省へ出頭し、永田局長に面会を求めて強硬意見を申し入れたのであった。それは同年七月十九日午後三時すぎごろのことであった。
「 「私は軍務局長室にはいって挨拶をした後、単刀直入に、『近ごろ、大臣閣下のやられることには間違いが多いようですが、永田閣下は大臣の唯一の補佐官であるから責任をとり、ご引退になってはいかがでしょうか?』とご忠告をしたところが、永田閣下は、『それはどういうわけか、もっと具体的に言え!』と反問されました」「それから、『ご忠告はまことにありかたいが、わしも誠心誠意、大臣を補佐しているが、大臣が、きかれねば止むを得ぬ』とのことでした。さらに、二、三問答しましたが、結局、私との問答にも少しの誠意も認められぬと思いました」 」
かくて、相沢中佐は永田局長の責任回避の態度を論難したうえ、その夜は急進派の青年将校の有志、大蔵栄一大尉と昭和維新運動の中心人物西田税とも会って、いろいろと教育総監真崎甚三郎大将更迭の裏面を聞かされ、なんだか淋しい感を抱くにいたった模様を重々しく陳述した。それから審理はいったん、休憩の後、午後二時二十五分、再開、杉原主任法務官の訊問はいよいよ相沢中佐の犯行直前の行動と事件の核心にうつり、超満員の法廷は極度に緊張した。
「 相沢中佐 「私は、永田閣下がまったく辞職する気がないとはっきり認めて、福山に帰任しました」 」
杉原法務官 「被告は、八月、また上京したね、それを述べなさい」
「 相沢中佐 「私は、村中大尉から送られてきた教育総監更迭事情の書類その他を見て、皇軍が急速度で私兵化している重大危機を憂いました。村中が苦心して書いた粛軍意見書を、連隊に配布せず葬り去り、さらに村中大尉と磯部一等主計も免官にされてしまいました。私が怒ると、いまの世の中にそんな正直なことを言うのは馬鹿だと、冷笑する軍人もありました」 」
相沢中佐は直立不動のまま、その語調はますます熱気を帯びて、興奮気味となり、紊乱した軍部の内状と享楽化した世相にいたく悲憤慷慨(ひふんこうがい)した。いま法廷に立って熱弁をふるう中佐の胸中にいら立つ激情こそ、まさしく五ヵ月前に氷田中将を斬ってすてた公憤の殺意に相通ずるものであったろう!
「 相沢中佐 「貪乏しながらも田舎の青年まで麻雀に熱中するようではもはやいかん! 私はいまこそ無外禅師(相沢中佐が師事、参禅した仙台市輪王寺住職)の教訓を身を挺して行なう時期が来たと悟りました。私が永田閣下に目標をとったのは、もっとも重大責任ある永田閣下が職責を行なわないからであります。八月一日に私は突然、台湾に転任を命ぜられましたが、台湾に行くことは忍びないことでありました」 」
杉原法務官 「それからどうしたか?」
「 相沢中佐 「永田閣下を除くには方法が三つありました。一つは時世が許さぬ、一つは私の貧しい知恵と力ではできぬ、結局、最後の一つとして私の刀を向けるほかはないと決心しました。それで私は、八月十日に福山を立ち、宇治山田に一泊して、十一日早朝、伊勢両宮(内宮、外宮)を参拝したのち、大蔵、村中、西田に『神代餅』の土産を求めて出発しました。東京に着き原宿に下車したのは夜の九時すぎでした。明治神宮を遥拝し、雨上がりの淋しい神域にむかって、祈願をこめた後、円タクに乗り午後十時ごろ、代々木山谷の西田税方に落ちつきました。しかし、私も万に一つの情勢の変化を望んでいました。西田は喜んで迎えてくれましたが、情勢に変化なしと聞いて、私はガッカリしました。そこへ大蔵も来合わせましたが、話は不愉快なことばかりでありました。午後十一時ごろに別室に入り寝につきました。このとき、明日は偕行社で買い物をして台湾に赴任すると、大蔵に伝えました」 」
いまや、相沢中佐の陳述は永田軍務局長斬殺事件の核心に迫ってきたので、佐藤裁判長以下各判士も、満廷の傍聴人も、また、記者席の担当記者たちも、みんな固唾(かたず)をのんで、中佐の一言一句にじっと耳を傾けていた。それは相沢中佐公判の絶大なスリルであった。
日本中を驚愕させた昭和十年八月十二日、白昼堂々と陸軍省軍務局長室で全陸軍のホープといわれた永田鉄山将軍を軍刀で斬り殺した奇怪な不祥事件の真相は、いまこそ犯人の相沢三郎中佐の口より明らかにされようとしていた。記者席で鉛筆を走らせる私の胸もさすがにときめいて、いわば歴史の重さを指先にひしひしと感じていた。
「 相沢中佐 「その翌日――八月十二日朝、私はブラブラと西田税方を出て、円タクで陸軍省の裏門に着きました。フト、私は山岡閣下(陸軍省整備局長山岡重厚中将)に会おうと考えました。予審では、私がなにか深い企みがあるように、この点を訊問されましたが、山岡閣下は私の尊敬する昔の上官で、ご挨拶するつもりだったのであります。裏口の受付で山岡閣下の部屋をたずねると、給仕に案内させてくれました。山岡将軍にお目にかかると、将軍は、『ひさし振りだ、まあ掛けろ』と言われ、私は座りながら、『閣下はいつもお若いですね』と言うと、『悪いことをしないものは若いのだ』と笑われました。私は、『永田閣下に会いたい』と言いますと、『なぜか?』とたずねられました。私が給仕に永田閣下の在否をきいたので、山岡閣下は、『お前は会ってはならぬぞ』と注意されました。私が山岡閣下に向かって、『世のなかは重大時期だから、しっかりやって下さい』と言うと、『俺は知らんよ』と言われたので、私もムッとして詰問しました。ちょうどそこへ給仕がもどって来たので、後でご説明しますと断わり、永田閣下の部屋へ向かいました。部屋に入ると、永田閣下のほかにだれか二人いました。私はすぐ軍刀を抜いて迫りました。永田閣下は私の権幕に驚いてスッと駆けられた」 」
そこで、相沢中佐は思わず興奮したようすで両手を振りかざし、軍刀を上段にかまえた形で、恐ろしい凶行の瞬間の光景を述べて、法廷には戦慄の殺気が流れた。
杉原法務官 「それからどうしたか?」
「 相沢中佐 「私は、それから先はハッキリ覚えていません、永田閣下がヒラリと体をかわして逃げたので、一刀を浴びせると、閣下は隣室(軍務局兵務課)のドアの方へ逃げ、ピタリと身体をドアにつけた。私は斬れないので、両手で軍刀を握り、背中からグサリと突き刺しました。そのとき、軍刀のキッ先がドアに刺さったように思いました。私が軍刀を引き抜くと、閣下はヨロヨロと部屋の中央の円テーブルの下に這って倒れました。私は後を追って、閣下の首に深く斬りつけました。このとき隣室で押さえろとかなんとか、どよめきが聞こえました」 」
佐藤裁判長以下各判士は、壇上より、身振りよろしく熱弁をふるう相沢中佐をじっと見つめながら、口をはさむ余地もないほど深刻な無言の表情だ。また、満廷の傍聴人も、この「陸軍省構内の上官殺人事件」のなまなましい恐怖にとらわれたように息をのんで、咳ひとつ聞こえない。これまでの相沢中佐の陳述で明らかにされた点は、つぎのような奇怪な諸事実であった。それは、永田中将暗殺事件の背景をなす軍部の派閥抗争の底知れぬ醜状であった。
「 一、相沢中佐は性質が単純で、熱狂的な正直者であった。だから軍中央部の派閥抗争にまきこまれて、その犠牲になった。
二、軍中央部では、反永田派の山岡重厚中将や山下奉文(ともゆき)少将(当時、調査部長)などは、相沢中佐の犯行を咎(とが)めるどころか、かえって、「よくやった!」と激励した形跡が濃厚である。もちろん、犯行を教唆したわけではないが、彼らは積極的に制止することはせず、むしろ内心では、時世に乗じて出世コースを独走する目の仇の統制派の重鎮、永田鉄山中将を除いて清々した気分であったらしい。
三、現状打破と国家革新を主張する同じ皇道派でも、中央部の権勢欲の強い将軍連中と、陸大出の目先の利いた秀才の幕僚(佐官級)たちと、名利に頓着せぬ直情熱狂の青年将校(尉官級)たちとの間には、それぞれ相異なる思惑があった。 」
相沢中佐はこの実情を公正に理解し、冷静に判断する能力に欠けていた。相沢中佐は、上官たる永田軍務局長にたいして軍刀をふるってまず袈裟斬りにしたうえ、背中より柄(つか)も通れと突き刺し、さらに第三刀で首筋に止めを刺したものであったが、あくまで「天に代わりて不義を討つ」という烈々たる気概をしめして、まったく犯罪意識はなかった。しかも、彼は被害者たる永田中将にたいして閣下という敬称をつけて呼んでいた。その驚くべき心境を公判廷で、彼はその通りまさに堂々と開陳して、裁判長以下各判士にも傍聴人にも深刻な印象はあたえていた。
「 相沢中佐 「私は、永田閣下を刺して廊下に出たとき、兵務課長山田大佐の声で、『相沢、相沢』と呼ばれたのを覚えています。私はそのまま山岡閣下の部屋にもどると、閣下は私の左手の血を見て驚かれ、新しいハンカチで、手首を結(ゆ)わいてくれました。なんとか血を止める方法はないかと閣下はしきりに心配して、いまからどうするのかと聞くので、私はこれから偕行社に行き買い物をして台湾に赴任すると答えました。だんだん、騒ぎが大きくなりましたので、私はこの部屋にいてはならぬと思い、部屋を出て医務室に行くと、病院の担架が廊下を出るのを見ました。このとき、私は自分が戸山学校の剣道教官をやったことがありながら、一刀両断できないのは情けないと残念に思いました。また、局長室に軍帽を飛ばして置き忘れた失策をしている。そこへ私服の憲兵などが来たので、早く帽子を持って来てくれと頼んだが、持って来てくれません。私は軍帽なしでは不体裁で困ると思っていると、憲兵が、麹町分隊に行きましょうと言うので、出かけました。その出がけに、新聞班長根本大佐が丸くなって駆けつけてきて、私の手を強く握ったので、私は士官学校では彼より先輩なので兄貴のような気持がして喜んで、『お国のためにしっかりやってくれ!』と言うと、根本は感きわまったように固く握手しました。そこへこの法廷にいられる山下閣下が見えて、『おいどうしたか、静かにしろ!』と言われたので、私は敬礼して階段を降りました」 」
相沢中佐は、永田局長を斬り殺した直後、もっとも痛感した一事は、自分が剣道四段の達人でありながら、「永田閣下」を一刀の下に殺害できなかった未熟と不覚の念であった。そして、彼は犯行について一切の責任は感じないで、ゆうゆうと落ちついて、台湾へ赴任するつもりであった。それは皇道派の将軍連中が当然、しかるべく後始末をしてくれるものと信じていたようすであった。まことに驚くべき異常な心理であり、奇怪な愛国者の信念であった。
「 相沢中佐 「私は偕行社で帽子を買って行きたいと申し出たが、許されないので、そのまま憲兵隊へ行きました。私の左手から血がホクホク出るので、地方の医者が来て包帯を巻いてくれました。それから取り調べがはじまりましたが、最初は憲兵曹長で、つぎに森憲兵少佐が訊問されました。私はここに来た以上は、憲兵司令官に会って聞きたいことがあれば、お話してから偕行社にもどり、買い物をするくらいに軽い気持でいました。しかし、これは私の認識不足でありました。森少佐から私は永田閣下の死亡されたこと、および新見憲兵大佐に傷を負わせたことも、はじめて知りました。新見大佐のことは、私は再三きかれたが、どうも覚えがありません。ただ怪我をさせたのは、たしかに私であると思います」 」
あくまで、昭和維新をめざす熱狂的な信念の下に正しい行動をしたと陳述する相沢中佐の熱弁は、滔々として尽きるところを知らぬ調子であった。佐藤裁判長はこのとき、はじめて口をはさんで、「被告は疲れはいないか?」とたずねると、相沢中佐は、「はい、別に疲れません。いくらでもこのままお話いたします」と答えた。しかし、裁判長は、杉原法務官と耳打ちして、「今日はこれまで……」と午後三時二十分、閉廷を宣した。それで、極度に緊張をつづけていた傍聴人席も、やっと救われたようにホッと息をついた。 
十六

 

相沢中佐の第三回公判は、二月一日午前十時二十五分から第一師団軍法会議法廷で続行されたが、相沢中佐は、軍人として最悪の、上官殺人の大罪で裁かれている被告であるという観念は全然なく、あくまで君側の奸臣に天誅をくわえた明治維新の烈士たる気概をしめして、むしろ優柔不断の軍首脳部と立身出世主義の天保銭組(陸大出を指す)幕僚連中に痛烈な警告をあたえるような態度であった。まず冒頭に、杉原法務官から、「被告は前回、永田中将を殺害した顛末を述べたが、なにか原因と動機についてつけくわえることはないか?」 と訊問されると、相沢中佐は、いよいよわが意を得たりとばかり、大声一番、満廷の緊迫した注目のうちに、つぎのような点につき熱弁をふるい、公訴状の語句を一々、反駁して大見栄を切った。
一、大義名分の上から永田中将を斬り棄て、重臣、財閥と結託した軍首脳部の反省を求めたこと。
二、凶行後、根本博大佐(当時の陸軍省新聞班長)が飛んで来て握手した事実は、純真な青年将校を煽動しながら、蔭では自己の栄達のみを図る中央部の幕僚連中の不純な態度の現われであること。
三、満州事変以来、ひそかに、尊敬していた石原莞爾大佐の要領のよいやり方にも疑惑を抱くようにたったこと。
四、現内大臣斎藤実子爵へも、獄中より国家革新の要求書を書いて出そうとしたが、法務官にさしとめられたこと。
「 相沢中佐 「海軍は藤井斉少佐、陸軍は西田税、この二人こそ青年将校の発祥であって、この二人の後にみんなついて来ます。そして、だんだん広く根を張って来ました。公訴状に書いてある国体観念なんてバカな言葉はありません…… いや失礼しました。バカではありませんが、こんな言葉は青年将校を侮辱した言葉であります!」 」
こんな調子で、相沢中佐は、公訴状の字句を不敬扱い(当時の絶対天皇制の下では、天皇制自体や国体を論ずることさえ不敬罪の疑いをかけられた)にするので、さすがに温厚な佐藤裁判長以下各判士も、「聞き捨てならず」とばかり緊張して被告を見つめた。
「 相沢中佐 「私が真崎閣下のために、なにか企んだように思われているのは絶対ウソであります。私は法律の知識はありませんが、私はただ大君にたいする信念から統帥権干犯(かんぱん)の事実を確信するのであります」 」
いかにも中年軍人には珍しく単純で熱狂しやすい性格の相沢中佐は、軍部の堕落と国家の現状を憂えるあまり、前年の一月二日に上京したとき、当時、伊豆の伊東温泉の山田旅館で、真崎大将に会って青年将校のことにつき意見を述べようと行ってみると、意外にも陸軍の某大将その他の将官連中が財界の某氏別荘で昼食をしていることを知り、また、数名の青年将校たちも某宿屋で地方の人々となかなか愉快に飲み食いしていたと聞き、大いに義憤を感じて、公訴状のごとく軍人が「財閥、官僚と通じ」という事実もあることを承知したと苦言を呈した。かくて軍法会議法廷は、狂信的な相沢中佐の独壇場と化して、満員の傍聴人席を埋める金ピカの将星たちも、右翼関係者たちも、息をのんで、ただ黙々と傾聴するばかり――。新聞記者席でもこの異様な被告の恐るべき気合いに押されて、ザラ紙の原稿用紙に走り書きする鉛筆に思わず力がこもった。そのうち相沢中佐は、一通の手紙をポケットから取り出して読みあげた。それは中佐が永田軍務局長を斬り殺したとき、同席して重傷を負った東京憲兵隊長新見大佐が、事件後の八月十九日付で獄中の中佐へ送ったものであった。
「 ――先日は小生の周章狼狽(ろうばい)尽くすべきことを尽くさず、永田軍務局長を死なせ、貴官を不自由の身にいたしたることは、じつに慚愧(ざんき)に堪えず、深くその責任を痛感し、その罪は万能に当たるべく、ここに深くお詫び申し上げ候 」
当時の軍国時代で、地方の人々には鬼のごとく怖れられた憲兵隊長が、上官殺人の狂乱した軍人に向かって、しかも自分も斬られて重傷をこうむりながら、このような「お詫びの手紙」を差し出すとは、まことに常識ではとうてい考えられたいことであった。しかも相沢中佐は、この気の弱い憲兵隊長を憐れむよりは、むしろ軽蔑するような調子で、つぎの通りコキ下ろした。
「 新見大佐は、この手紙によるとまったく私の精神を知らず、ただ永田閣下の死と、私の入獄というような事実だけで、この書面を下されたとすれば、失礼ながら番犬のごときものといわざるを得ません! かくのごとき状態でありますから、私は斎藤内大臣閣下に一言申し上げたいことを再三、杉原法務官殿にお願いしてきたのであります。どうかいまお許し下さいませんか? どうか(軍人の)英邁(えいまい)と横着(おうちゃく)とはあくまで区別していただきたい。私欲のために洞(ほら)ヶ峠を決めこんで、いつも利口に立ちまわっているようなものはあくまで一刀両断すべきであります。最後に私は無理かも知れませんが、お願いがあります。私が永田閣下を斬ったのはお国のため、また皇軍のためであります。上(かみ)陛下の宸襟(しんきん)を悩まし奉り皆様にご心配をかけたことは申し訳ありませんが、どうかこの尊皇絶対の精神により一致団結、勇往邁進していただきたい 」
かくて、第三回公判は暗い影を法廷に残して、午後三時に閉廷したが、相沢中佐はいかにも満足そうであった。
このように相沢中佐公判は、ますます荒れ模様を呈してきたので、最初に第一師団軍法会議当局が予定していた事実調べ二回、証拠調ベ一回、証人調べならびに検察官論告求刑一回、弁護人弁護一回、合計五回で結審判決へ持ちこもうとしていた方針はすでに崩れてしまった。すでに三回の事実審理もすべて相沢中佐のまさにひとり舞台で、杉原法務官の訊問さえろくろく、行なわれず、あべこべに相沢中佐の「尊皇絶対」の熱弁に圧倒されてまったく手も足も出ない有様だった。その後の記録はつぎの通り。
「 第四回公判――二月四日午前十時より午後二時二十五分まで。
杉原法務官 「被告は国法の大切なことは知っているが、今回の決行はそれよりも大切なことだと信じたのであるか?」
相沢中佐 「そうであります。大悟徹底の境地に達したのであります……。私は憲兵司令官に私の精神を十分にわかってもらえば、当然、『安心して任地に赴任せよ』といわれ、私は台湾に赴任することになると思っておりました。私がこの法廷でお調べを受けようとは思いませんでした。これは私の期待したもっともよき状況の場合であります。ただし、もし悪い状況ならば、私は憲兵隊で殺されたであろうと思います」 」
「 第五回公判――二月六日午前十時より午後一時十五分まで。
島田検察官 「上官に暴行すれば上官暴行罪にたり、人を殺せば殺人罪になることぐらいわからかったのか?」
相沢中佐 「私は罪状を隠蔽するために前回申し上げたのではありませぬ。勅語にある国憲を重んじ、国法に遵いの文字通り、国憲重しとみたためであります」
島田検察官 「その動機はわかったが、刑事上の責任を考えず、台湾に赴任するなどとどうして考えたか?」相沢中佐はさすがに答弁につまって、気短そうに顔を真っ赤にして、「国法を犯しました!相沢のバカなためでありました!」と破鐘のような大声を発して法廷を驚かせた。
島田検察官 「国法は陛下のご裁可により発布されたものであるから、国法を犯すことは陛下の大御心にそむく結果となることを考えなかったか?」相沢中佐はまたもや答弁をしぶり、傍聴人席をハラハラさせたが、特別弁護人の満井中佐が助け舟に立ち上がり、つぎのような得意の大熱弁をふるって、被告を弁護しながら検察官に反駁した。「中佐の陳述を総合大観すると、相沢個人が永田個人を刺しだのではなくて、中佐は皇軍の一員たる公人の資格をもって軍人勅諭を守り決行したのであると思います。中佐は皇軍を救うためにやむにやまれぬ志から部隊付将校として行なったのではありませんか!」相沢中佐は欣然として、「ハイ、その通りであります!」 」
「 第六回公判――二月十二日午前十時より十一時五十五分まで。
永田事件当時の前陸軍次官橋本虎之助中将の証人喚問が行なわれたが、「軍事上の利益を害するおそれがある」との理由で公開を禁止された。新聞記者も傍聴人も全部、取り締まりの憲兵に追い立てられた非公開の法廷で、橋本中将は約一時間にわたり重大な証言を述べた。 」
「 第七回公判――二月十四日午前十時より午後二時三十分まで。
法務官の証拠調べが行なわれ、永田軍務局長の血染めの軍服や、相沢中佐が兇行に使用した刀身の歪んだ血痕のついた軍刀などの証拠品が並べられて、法廷に息苦しいような殺気が漂っていた。 」
「 第八回公判――二月十七日午前十時より午後零時二十五分まで。
永田事件当時の陸軍大臣で現軍事参議官林銑十郎大将が勅裁を仰いで証人として喚間され、相沢中佐の凶行の原因となったといわれる教育総監(真崎甚三郎大将)更迭問題と統帥権問題(天皇の大権を干犯したか否かの争点)の真相を明らかにするため、二時間にわたり非公開の中で重大な証言が行なわれた。 」
「 第九回公判――二月二十二日午前十時より午後五時四十五分まで。
公開禁止のまま、佐藤裁判長から前回の林大将の証言が相沢中佐に読みきかされた後、午後より公開審理にもどり、相沢中佐の「心の父」といわれる禅道の恩師の輪王寺(仙台市)住職福定無外師が特別傍聴人として出廷し、相沢中佐と劇的対面をした。 」
「 第十回公判――二月二十五日午前十時より午後五時まで。
永田事件の謎のカギを握る最重要の証人として前教育総監、現軍事参議官真崎挂三郎大将が公開禁止の中に喚問されたが、「軍の機密事項は勅許がなければ証言できない」と堂々と答弁して、わずか四十七分で退廷した。 」
これは自分の意思に反して教育総監を罷免された真崎大将の暗黙の挑戦として、軍法会議当局も狼狽したし、また新聞記者団も事態を重大視した。しかも、午後の公開法廷で特別弁護人満井中佐は、次回に証人として、次の人々の喚問を正式申請したうえ、「もしもこの証人喚問をみとめなければ重大事態を招来しますぞ!」と裁判長に向かって意味深長な発言をこころみた。三井財閥の巨頭池田成彬(せいひん)氏、その親戚の会社重役太田亥十二(いそじ)氏、木戸幸一侯爵、井上三郎退役陸軍少将、牧野前内府秘書下園佐吉氏、内務省警保局長唐沢俊樹氏。 
十七

 

忘れもしない昭和十一年二月二十五日夕刻、私は同僚数名とともに青山南町の第一師団軍法会議の相沢中佐公判をすませて、朝日新聞の社旗をひるがえした自動車二台をつらねて有楽町の数寄屋橋々畔の本社へもどった。私は心身ともにヘトヘトに疲れきっていたが、この日の公判は永田事件の黒幕的人物とみられた重大証人の真崎大将が、意外にも、「天皇の勅許がなければ何も言えない」と言い放って退廷し、大波瀾を起こしたので、なにかきわめて不吉な重苦しい気分にとらわれていた。それに満井中佐の申請した証人もあまりに大物ぞろいで、いかにも重臣ブロック攻撃の気がまえが見えすいて気がかりであった。「これはどうもただごとではないね、なにか大事件が起こりそうだぞ!」「だが、軍法会議が相沢中佐の言い分をよく聞いて、万事納得のゆくように進めている間は、まさか青年将校連中も無茶な行動はするまいよ」「それもそうだね、まあまあ先が長いから、今日はおたがいに早く帰宅して休養した方がよかろう」こんな会話を私は社内で同僚とかわしながら、この夜に限って好きな酒を飲まずに早目に、車で荏原区洗足田園調布の自宅へ帰った。ひどく底冷えのする厳冬の夜であった。そして夜半より大雪が降りはじめた。その翌朝――二月二十六日、水曜日の早朝六時半ごろ、私はけたたましい電話のベルで目を覚まされた。それは本社の交換台からで、徹夜勤務の交換嬢の声もうわずっていた。すぐ社会部の宿直記者が電話口に出て、歴史的な二・二六事件の突発を知らせてくれた。「いま、社の車はみんな出払ってないから、タクシーを雇って大至急、出社してくれたまえ!」薄明の窓外には、珍しい大雪が深々と積もって、見渡すかぎり白一色の銀世界であった。天下注目の相沢中佐公判の担当記者として、私はついに来るべきものが到来したという感慨無量なものがあった。一夜のうちに積雪は深く道を埋めて、郊外の町通りにはタクシーの影も見えなかった。私はイライラしながら、電話であちこちのハイヤーを頼んでまわり、ようやく午前八時前に本社へたどりついた。それはすでに反乱軍によって朝日新聞社が襲撃された直後であった。騒然たる本社三階の編集局の中央にある社会部のデスクに飛びこんだ私は、息もつかずに大書された社内特報の貼紙をむさぼるように読んでいた。
「 ▽本日未明、軍隊反乱が起こり、青年将校指揮の下に重臣をつぎの通り襲撃、殺害す。 ▽首相官邸――首相岡田啓介海軍大将即死(のちに生存判明) ▽内大臣私邸――内大臣斎藤実(まこと)子爵即死 ▽教育総監私邸――陸軍教育総監渡辺錠太郎大将即死 ▽大蔵大臣私邸――大蔵大臣高橋是清(これきよ)子爵即死 ▽侍従長官邸――侍従長鈴木貫太郎大将重傷 ▽湯河原伊藤屋旅館――前内大臣牧野仲顕伯爵生死不明  」
「これで相沢公判もすっかり吹っ飛んでしまった。この雪の朝の大反乱事件にくらべたら、これまでの血盟団事件や五・一五事件などまるで子供だましのようなものだったなあ」と私はしみじみ思った。それから、社会部長の命令で、私はカメラマンをつれて自動車で雪の市街へ出動した。青山の高橋蔵相私邸と杉並区の渡辺大将邸をめざして――。 
第六章 日本軍、東京を占領す / 二・二六事件

 

昭和十一年(一九三六年)二月二十六日未明、帝都警備の大任をになった完全武装の軍隊が反乱を起こして、天皇の信任篤(あつ)い重臣と政府、軍部の首脳をいっせいに襲撃、殺害したいわゆる二・二六事件は、日本中を驚愕させたのみならず、全世界へも不吉な大衝動をまき起こした。それは今日より回想しても、いまだに不可解な謎が残され、奇怪な真相が十分に明らかにされていないほど黒い秘密のベールにつつまれたものである。なぜならば、この秘密こそ軍国日本の推進者として、それまで天皇制をわがもの顏に最大限に利用してきた軍部にとっては、きわめて都合の悪いものであったから、むしろ一般に高まった粛軍(しゅくぐん)と厳罰主義を要望する世論にたくみに便乗して、二・二六事件の謀議に参与し、あるいは部隊指揮にあたった青年将校全員を、反乱罪で非公開のスピード裁判にかけて銃殺刑に処し、みずからの口をぬぐってしまったからだ。四年前の五・一五事件で犬養(いぬかい)老首相を官邸に襲撃、射殺した海軍青年将校ならびに陸軍士官侯補生にたいして、大いに弁護して破格の減刑(反乱罪で禁錮十五年から同四年の軽い判決、前述)をみとめた軍首脳部としては、まことに奇怪な方針の大転換であった。これは後でくわしく追究するつもりであるが、要するに、それまで現状打破をめざす士気旺盛な青年将校の推進力をたくみにあやつって、いわゆる「軍の総意」を切り札として政党政治に強引に介入してきた軍部は、もはや青年将校の力をかりなくとも思うままに日本の政治を左右し、支配することができるようになったのだ。むしろ軍首脳部の肚(はら)の中は、重臣や財閥を指導して、聖戦の名の下に「支那事変」に全面的に協力させたうえ、ナチス・ドイツ流の高度国防国家を建設することが焦眉の急務であると決意していた。したがって、ただ空想的な日本改造の昭和維新を呼号する青年将校の一派の急進的行動は、かえって軍部として迷惑千万であり、まかりまちがえば権勢欲の強い将軍連中の出世昇進主義の中央幕僚(陸大出の佐官級)たちの足元をさらい、その地位をゆさぶる危険さえ生じてきた。そこで二・二六事件の決起将校たちが、維新義軍とみずから名乗り、それまで尊敬していた真崎甚三郎大将(前教育総監・軍事参議官)はじめ皇道派の軍巨頭のきもいりで、天皇より「維新大詔」の渙発(かんぱつ=公布)を奏請することを期待していたのに反して、事件直後、宮中に参内、集合した軍参議官の将軍連中は、いずれも責任のがれと一身の利害にとらわれた優柔不断に終始し、だれ一人として賊軍の名に甘んじた西郷南洲の大決断にならうものはなかった。それどころか、かえって青年将校たちを国体とあいいれぬ危険思想の持ち主とみなした。かくて、二・二六事件は、表面上は「雪の朝の大反乱」として昭和動乱史上、もっとも劇的なクライマックスを展開しながら、その結果は不可思議な矛盾だらけの事件におわり、われみずから昭和維新の捨て石たらんとこころざした前途有為の青年将校たちの悲願もむなしく、結局は獄舎で犬死にに終った。しかしながら一方、軍首脳部自体の積年の責任追及は頬かぶりでおし通されたのみならず、いわゆる功利的な幕僚ファッショ時代をもたらし、日本の戦時体制はますます強化されて政党も新聞も骨ぬきにされてしまったから、二・二六事件の犠牲となって殺された重臣たちの死にまったく報いられなかった。殺した方も悪いが、殺された方も悪い――というのが軍部の賢明な独善的立場だったのである。読者諸君はすでに、戦後の出版物や、映画やテレビドラマによって、この二・二六事件の表面的な経過についてはいろいろご承知のこととは思うが、しかし、私がこれから当時の悪夢のような雰囲気を紙上に再現して公正に検討しようとする二・二六事件の大秘密というものは、いったい、なんであるか? そのためには、以上の通り、いくつも奇怪な矛盾と謎が事件の背後に秘められたまま葬られている点を、ここに前もって推察していただきたい。そうすることによって、今日すでに伝説化され、あるいは講談化されている二・二六事件の真相がはじめて冷静に見なおされるであろう。 

 

さて、その二月二十六日の大雪の朝、私か荏原区洗足の自宅から、都心の朝日新聞社へ緊急呼び出しをうけて出社したときには、幸か不幸か一足ちがいで、同社を襲撃した反乱軍の一部隊は「自由主義的な朝日新聞」を“膺懲(ようちょう=こらしめる)”したうえ、引き揚げたばかりであった。―― まだ烈しい興奮と驚愕の熱気が、厳冬の朝の社屋の中に立ちこめているような心地がした。同僚の話では、一階の裏手の印刷局の工場へ銃口をかざした兵士多数が乱入して、植字台や活字箱をひっくり返して暴れたが、ズラリとならんだ巨大な輪転機には別に被告がなかった。もしも手榴弾や爆薬によって輪転機がやられたら、人的ならびに、物的の損害はさぞ甚大なことであったろう。一方、正面玄関から、指揮官らしい若い青年将校が大型ピストルを右手ににぎりながら、銃を構えた手兵を率いて押し入って来たそうだ。応待に出たO主筆の落ちついた態度にかえって逆上したらしく、血相を変えて大声でわめいて威嚇(いかく)したが、新聞社側では全然さからわず、無抵抗のまま、彼らのいいなり放題にまかせて、全社員がゾロゾロ社屋の外へ避難退去したので、幸いにも衝突も発砲騒ぎも起こらなかった。しかし、いちじ、朝日新聞社は反乱軍によって完全に占領された。その間に、新聞社玄関前の数奇屋橋々畔には、反乱軍の機関銃隊が物々しく銃座をすえて警戒陣を張り、もしも近くの警視庁から武装警官隊がかけつけてきた場合は、華々しく一戦をまじえて撃退する作戦計画を立てていた。この威勢のよい指揮官は、反乱軍随一の急進的青年将校といわれた歩兵第一連隊の柴原安秀中尉であり、この早暁すでに三百名の部隊を率いて麹町永田町の首相官邸を襲撃して、岡田啓介首相(海軍大将)を血祭りに上げた(ただし後に、これは人違いで、岡田首相の義弟の松尾伝蔵予備海軍大佐を殺害したものと判明した)後、意気ますますあがり、さらに下士官兵約五十名を指揮して軍用トラック三台に分乗し、朝日新聞社を襲撃したものであった。それから栗原中尉の一隊は、同じ有楽町にある東京日日新聞社(現在の毎日新聞社)、時事新報社、国民新聞社、報知新聞社、電報通信社の各有力社をまわり、代表者にそれぞれ面会してかねて用意したガリ版刷りの決起趣意書を配布して、同日夕刊の紙面にいっせい掲載を要求した上、ゆうゆうと反乱軍が占拠中の首相官邸へ引き揚げたのであった。このように、東京にある大新聞社の中で朝日新聞社のみが反乱軍の憎悪のまとになって襲撃されたことは、当時の軍国時代の言論界の動向をしめすバロメーターとして注目されよう。もっとも反乱軍側でも、欧米の武力革命行動の定石である、現政権を打倒したうえ、新聞社とラジオ放送局を奪取占拠して、国民大衆へ革命支持を強くアビールするような意図はまったくなかった。そこが昭和維新をめざす青年将校たちの、日本独特の武力革命行動の特色であった。なぜならば、彼らの大目的は民衆的な西洋流のいわゆる社会革命ではなくて、あくまで天皇制のワクの中で、ただ君側の奸臣、財閥を除いて天皇親政を実現しようとする、古めかしい大化の改新のような昭和維新の義挙であったからだ。反乱軍の青年将校一味の単純な考えでは、日本の政治を動かしている目ぼしい重臣たちさえ血祭りに上げれば、皇道派の軍長老が事態を収拾し、戒厳令下で尊皇討奸(そんのうとうかん)の昭和維新は立ちどころに実現されるものと期待していたようである。したがって、朝日新聞社の襲撃にしても、あまり深い魂胆(こんたん)はなくて、ただ時局に対する反省を促すための威嚇攻撃のようなものであったかも知れない。もちろん一発も銃弾は飛ばなかったし、一人も負傷者を出さなかった。ただ多数の鼻っぱしの強い新聞記者連中が、小人数の反乱兵士の銃口に平伏して、ぜんぜん争うこともなく、まるで屠所の羊のようにおとなしく新聞社の生命であり誇りである三階の編集局の広い職場を放棄して、エレベーターも使用不能のためゾロゾロとせまい階段をあわてて降りて、屋外へ追い出された光景はみじめなものだった。恐怖のために足がすくんで背中で階段をすべりおりたという中老の編集幹部もいたと噂されたものであった。かくて、数百人の新聞記者たちが命拾いをしたころには、日本の最高指導者たる重臣たちはすでに残酷にも血みどろな死体となって、それぞれ官邸または自邸で冷たく横たわっていた。その殺し方は、機関銃とピストルと日本刀と小銃を乱用したじつに残虐なもので、外国映画に出てくるギャングや殺し屋でもおそらく顔をそむけるくらい大規模な殺人戦闘作戦であった。
反乱第一日――二月二十六日、大雪の水曜日は、帝都をはじめ日本中の国民大衆はまったくツンボ棧敷におかれて、二・二六事件が起こったことも、重臣たちが軍隊の手でみな殺しにされたことも知らなかった。ただ、政府関係者と警察方面と新聞社のみが朝からちまなこになって右往左往するばかりだった。それは、今日より考えると、まったく驚くべき言論報道機関の意気地なさをしめしたものだ。しかし、当時の険悪な軍国主義の社会的雰囲気は、すでに数年来、血盟団事件(昭和七年)、五・一五事件(同年)、神兵隊事件(昭和八年)、永田中将殺害事件(昭和十年)、相沢中佐公判(昭和十一年)と、たび重なる血なまぐさい変乱のために大爆発点に達しており、ついに来るべきものが到来したという深刻なあきらめのような宿命感が各方面にみなぎっていたので、ただ新聞界の無力だけを責めるわけにはゆかなかった。要するに、最悪の事態に直面した場合には、ペンは剣よりも弱いものであった。いわゆる「世界に冠たる国体」を護持するために、「精強無比」な皇帝の武装部隊が青年将校の指揮命令の下に堂々と出動して、重臣たちをいっきょに襲撃、殺害したのであるから、これに正面から対抗する力というものは、あの当時にあるものではなかった。ただ反乱軍を慰撫して、原隊へおとなしく復帰させることぐらいが、軍首脳部の将軍連中のなしうる限界であった。その軍長老の連中でさえ、陸相官邸で反乱軍の手中に軟禁されている川島義之陸相(陸軍大将)の生死を気づかうあまり、血相変えた青年将校の鼻息(はないき)をおそるおそるうかがうばかりで、はじめから毅然(きぜん)たる態度で反乱軍を叱責して、大義名分と理非曲直をあきらかにした将軍はいなかったようである。たとえば、太平洋戦争の末期、敗戦降伏の前夜の昭和二十年八月十四日に、天皇の終戦勅命に抗して反乱を企てた青年将校代表に対して、断乎、その不心得をさとして軍隊の私用を拒否し、軽挙妄動を厳禁したためピストルで射殺された、当時の近衛第一師団長森赳(たけし)中将のしめしたような武将らしい勇気は、当時の将軍連中たちは一人として持ち合わせていなかったのである。それはまた、狂信的な昭和維新の実現のために、いわば捨て身になって決起した青年将校一味の気魄と、軍部独裁による栄達で「わが世の春」を謳歌しようと肚の中で打算していた将軍連中の気合いの大きな相違をしめしていた。これまで青年将校を甘やかして、軍の推進力として、むしろ利用してきた軍首脳部は、天皇の軍隊を率いて堂々と決起した青年将校たちをただちに抑えつける決断力も勇気もなかった。それで突然、舞いこんできた軍政権樹立の絶好のチャンスではあったが、将軍連中にとって、内心、嬉しくもあり、また、恐ろしくもあった。彼らは不意を突かれたように、見苦しくも戸惑ったのだ。それはなぜか? 天皇自身の考えがサッパリわからなかったからである。絶対天皇制を看板にして、「われこそ天皇の股肱(ここう)である」という軍人勅諭の特権意識にこり固まっていた将軍連中も、じつは天皇の真意はまったくわからなかったのだ。そしてそれは、決起した青年将校たちもまた同様であった。ここに二・二六事件の不可解な秘密があり、近代世界革命史上でも珍しい「尊皇討奸」という革命目的の奇怪な謎がのこされている。さて、このような未曾有の大不祥事件が未明に起こりながら、一切の新聞、ラジオのニュースは十五時間以上もさしとめられて、はじめて事件の内容について陸軍省発表が行なわれたのは、同夜八時十五分のことであった。それは、重臣のみな殺しによって日本政府が一時的にせよ、抹殺同然にされたためでもあるが、即刻、天皇に奏上し、一身の利害をすてて、生命を賭しても事態を早急に収拾すべき軍長老が優柔不断で、ますます見苦しい混乱と狼狽を重ねていたからであった。 

 

この最初の発表は、つぎの通り、いかにも決起した青年将校の行動を弁護した口調のものであり、この発表文と戒厳令公布の発表記事以外は、翌二月二十七日付の新聞記事は一切の論評も報道も禁止されて、まったく間の抜けたものになった。たとえば同日付の朝日新聞朝刊をみると、社説は皮肉にも、「職業紹介制度の改正」と題する見当ちがいのものであり、社会面トップは、「世界注目の焦点・日蝕――各国の天文学者北海道へ急ぐ、完全な成功か完全な失敗か」という四段抜きの大見出しで、これまた間の抜けた閑(かん)ダネが大きく掲載されて、政治面の「重臣襲撃」の発表文と奇妙な対照(コントラスト)をしめしていた。ただ社会面の左上段に、厳重な検閲をのがれる窮余の一策として、「吹雪に暮れる春の東京二十六日夕 数寄屋橋で」と題して、暗い雪空の街上に傘をさした群衆の集まっている不思議な光景のニュース写真が、ポツンと一枚、掲載されていた。それはさながら、苦悶する当時の言論報道機関のわびしい象徴のようなものであった。
「 〔二月二十六日午後八時十五分、陸軍省発表〕 本日午前五時ごろ、一部青年将校等は左記個所を襲撃せり。首相官邸(岡田首相即死)、斎藤内大臣私邸(内大臣即死)、渡辺教育総監私邸(教育総監即死)、牧野前内大臣宿舎、湯河原伊藤屋旅館(牧野伯爵不明)、鈴木侍従長官邸(侍従長重傷)、高橋大蔵大臣私邸(大蔵大臣負傷)、東京朝日新聞社 これら将校らの決起せる目的は、その趣意書によれば、内外重大危急のさい、元老、重臣、財閥、軍閥、官僚、政党等の国体破壊の元兇を芟除(せんじょ)し以て大義を正し国体を擁護開顕せんとするにあり、これに関し在京部隊に非常警備の処置を講ぜしめられたり。 」
「 〔二十六日午後九時十五分、内務省発表〕 さきに陸軍省より発表せられたる事件に関しては帝都および全国各地方とも一般治安は維持せられ、人心は動揺なく平静なり。また当局発表の形式で、つぎの二本の重大記事が意味深長に掲載されているが、一切ノーコメントで、解説さえ禁止された。 」
二十六日午後、後藤内相は次のごとく首相臨時代理を仰せつけられた旨、午後六時、内閣より発表された。
「 内務大臣 後藤文夫 内閣総理大臣臨時代理被仰付  政府は二十六日枢密院の御諮詢を仰いで戒厳令を発布することとなり、二十七日午前三時半、次のごとく公布した。
勅令――朕(ちん)茲(ここ)ニ緊急ノ必要アリト認メ枢密顧問ノ諮詢(しじゅん=諮問)ヲ経テ帝国憲法第八条第一項ニ依リ一定ノ地域ニ戒厳令中必要ノ規定ヲ適用スルノ件ヲ裁可シ之ヲ公布セシム
   御名御璽(ぎょじ)   昭和十一年二月二十七日  各国務大臣副署 」
この勅令にもとづいて、さらに戒厳司令部令が公布、施行されて、東京警備司令官兼東部防衛司令官香椎浩平中将が戒厳司令官に兼補され、安井藤治少将が戒厳参謀長に任命された。それで警視庁も戒厳司令官の指揮下に入れられた。戒厳司令部は東京九段の軍人会館に設置された。歴史的な、反乱第一日の重大ニュースは、こんな簡単な発表形式によって、翌二月二十七日付の朝刊新聞により全国いっせいにつたえられた。それゆえ、日本中にありとあらゆるデマや流言が乱れとんだのは当然であった。しかしながら、軍隊の大反乱の渦中にあった都心はいわば台風の眼の中のように、案外、平静であった。それはこの反乱が、一般大衆の感情と世論をまったく度外視して、まるで神がかりの尊皇思想の世界で決行されたからであろう。外国の革命によくみられるように軍隊の決起にともなって、民衆がいっせいに蜂起して現政権を打倒し、国体または政体を変革しようとする気配も計画も全然なかった。私はいま当時を回想して、とくに興味ふかく思ったことは、この二月二十七日付の朝日新聞朝刊第二面の陸軍省発表文(朝日新聞社襲撃をふくむ)の下に、つぎのような社告が掲載されている点である。これは自分の社が反乱軍によって攻撃されたが、社員は全員ぶじであったという一種の御見舞い御礼のようなものだった。輪転機には異状がなかったので、予備活字を使用すれば二十六日午後の夕刊はつつがなく印刷発行することができたが、反乱軍に気がねして(もしも被害なく夕刊発行をしたら反乱軍を刺激して再襲撃の心配があった)夕刊を出さなかったものである。
「 社告  二十七日付夕刊(二十六日発行)は不慮の事件のため工場の一部に支障を生じやむなく休刊いたしましたが、今朝刊より平生通り印刷発行いたしましたからご諒承を願います。なおこれに付きさっそく各方面より懇篤なる御見舞いをうけましたが、故障も復旧し従業員は一同無事執務いたして居ります。取敢えず紙上を以て厚く御礼申し上げます。   東京朝日新聞社 」
では、いったいこの二・二六事件を起こした青年将校一味はどんな顔ぶれで、いかなる目的と計画を立てて決起、行動したのであろうか? それは、一言でズバリと答えることは不可能なくらい複雑怪奇をきわめている。これまで二・二六事件に関する出版物は戦前、戦中、戦後を通じてじつにおびただしく出ているが、いずれも一方的に偏し、あるいは一知半解のものが多くて、事件の真相はなかなか究明されなかった。ことに右翼関係者の見方は、青年将校決起行動を英雄化しやすく、また、左翼関係の者の見方は、二・二六事件そのものを公式的にファッショ革命の暴力なりと軽率に片づけている。さらにまた刑死した青年将校たちの遺族関係者は、あくまで「昭和維新の烈士」として彼らの生と死を光栄化(グローリファイ)しようと望んでいる。私はこの三種三様の見方のどれにも真実の一面を認めながら、あくまでこの三通りの見方を立体的に総合したうえ、是を是とし、非を非とする公正な立場から、二・二六事件の全貌とその秘密を追究しようと思う。そのためには、入手可能のあらゆる史実資料とドキュメントを利用、または引用して読者諸君の自由な判断の参考に供したいと思う。
まず最初に、反乱軍の謀議指揮に直接参加した青年将校二十名の顔ぶれと、その所属部隊、攻撃任務などを一覧表にして御覧に入れよう。それは前掲の通りであり、これをよく念頭において本文を読まれると、当時の反乱軍の行動がよくわかると思う。(この一覧表は二・二六事件に関する東京陸軍軍法会議の判決理由書にもとづいて作成したものである) また、これらの青年将校一味の決起した目的は、彼らが二月二十六日朝、各新聞社へ直接配布した有名なガリ版刷りの「決起趣意書」に明らかにされている。それは反乱直前の二月二十四日、青年将校の尊敬のまとになっていた盟主格北一輝の自宅の二階で、二・二六事件の民間側の中心人物と目された元陸軍大尉村中孝次が、反乱軍の首魁の野中四郎大尉の執筆した原文に加筆、補生してできあがったものだった。そして事件の前夜、歩兵第一連隊内で騰写印刷をして、決起後に川島陸相はじめ軍首脳部と各新聞社などへ配布して、維新義軍の大義名分を強調した。しかし、その全文はつぎの通り、いかにも神がかりの難解なものであったから、いわゆる右翼的な国学の素養のないものは、物識りの新聞記者でさえ通読するのに骨が折れた。いわんや青年将校の命令、指揮下に重臣暗殺の武力行動に盲目的に参加した一千数百名の下士官兵たちが、はたしてこの「決起趣意書」を読んでどれくらい理解したか、それは大いに疑問であろう。
「 決起趣意書(原文のまま)
謹ンデ惟(おもんみ)ルニ我神州タル所以ハ、万世一神タル天皇陛下御統帥ノ下ニ、挙国一体生成化育(せいせいかいく)ヲ遂ゲ、終ニ八紘一宇(はちこういちう)ヲ完(まつと)フスルノ国体ニ存ス。此ノ国体ノ尊厳秀絶ハ天祖(てんそ)肇国、神武建国ヨリ明治維新ヲ経テ益々体制ヲ整へ今ヤ方(まさ)ニ万方ニ向ッテ開顕(かいげん)進展ヲ遂グペキノ秋(とき)ナリ。然ルニ頃来(けいらい=近頃)遂ニ不逞(ふてい)兇悪ノ徒(やから)簇出(そうしゅつ)シテ、私心我慾ヲ恣(ホシイママ)ニシ、至尊(しそん)絶対ノ尊厳ヲ藐視(びょうし)シ僭上(えんじょう)之レ働キ、万民ノ生成化育ヲ阻碍(そがい)シテ塗炭(とたん)ノ痛苦ニ呻吟(しんぎん)セシメ、従(よ)ツテ外侮外患日ヲ逐(お)フテ激化ス。所謂(いわゆる)、元老重臣軍閥官僚政党等ハ此ノ国体破壊ノ元兇ナリ、倫敦(ロンドン)海軍条約並ニ教育総監更迭ニ於ケル統帥権干犯(かんぱん)、至尊兵馬大権ノ僭窃(えんせつ)ヲ図リタル三月事件或ハ学匪、共匪、大逆教団等利害相結(むすん)デ陰謀至ラザルナキ等ハ最モ著シキ事例ニシテ、其ノ滔天(とうてん)ノ罪悪ハ流血憤怒真ニ譬(たと)へ難キ所ナリ。中岡、佐郷屋、血盟団ノ先駆捨身、五・一五事件ノ噴騰(ふんとう)、相沢中佐ノ閃発トナル、寔(まこと)ニ故ナキニ非ズ。而(しか)モ幾度カ頸血ヲ濺(そそ)ギ来ッテ今尚、些(いささ)カモ懺悔反省ナク、然モ依然トシテ私権自慾ニ居ッテ苟且倫安(こうしょとうあん)ヲ事トセリ。露支英米トノ間、一触即発シテ祖宗遺垂ノ此ノ神州ヲ一擲破滅ニ堕(おとしい)ラシムルハ火ヲ賭(み)ルヨリモ明カナリ。内外真ニ重大危急、今ニシテ国体破壊ノ不義不臣ヲ誅戮(ちゅうりく)シテ、稜威(みいつ)ヲ遮(さえぎ)リ御維新ヲ阻止シ来レル奸賊ヲ芟除(せんじょ)スルニ非ズンバ皇讃ヲ一空セン。恰(あたか)モ第一師団出動ノ大命渙発セラレ、年来御維新翼賛ヲ誓ヒ殉国捨身ノ奉公ヲ期シ来リシ帝都衛戍ノ我等同志ハ、将(まさ)ニ万里征途に上ラントシテ、而モ顧ミテ内ノ世状ニ憂心転々禁ズル能ハズ。君側ノ奸臣軍賊ヲ斬除シテ、彼(か)ノ中枢ヲ粉砕スルハ我等ノ伍トシテ能ク為スペシ。臣子タリ股肱(ここう)タルノ絶対道ヲ今ニシテ尽サザレバ破滅沈淪(ちんりん)ヲ翻ヘスニ由ナシ。茲(ここ)ニ同憂同志機ヲ一ニシテ決起シ、奸賊ヲ誅滅(ちゅうめつ)シテ大義ヲ正シ、国体ノ擁護開顕ニ肝脳(かんのう)ヲ竭(つく)シ、以テ神州赤子ノ微衷ヲ献ゼントス。皇祖皇宗ノ神霊、冀(ねがわ)クバ照覧冥助(めいじょ)ヲ垂レ給ハンコトヲ。
昭和十一年二月二十六日   陸軍歩兵大尉 野中四郎 外同志一同  」 

 

反乱第一日の二月二十六日夕刻から、昼間はやんでいた雪が、ふたたびさかんに降り出して、沈黙の帝都はさむざむとした銀世界と化していった。私は相沢中佐の軍法会議公判の担当記者で苦労していただけに、すでに前にも述べたように二・二六事件には新聞記者としても、また一日本人としても、当時、いろいろ深い関心と感慨無量なるものがあった。それを今日、私はすべて細かく記憶しているわけではないし、またくわしく読者諸君へつたえるだけの紙面をあたえられてもいない。しかし、忘れ難い二月二十六日、「雪の朝の反乱の日」の東京の雰囲気は、じつにシーンと静まりかえって、沈黙の町と化していたことをなまなましく覚えている。いつも騒々しかった街上の雑音もパタリとやんで、反乱の流言を知った銀行、会社も商店も早じまい。また浅草や丸の内の映画館も夕方より休場して、盛り場は火の消えたようになり、反乱の夜はふりしきる雪の中に気味悪くふけていった。東京の中心地がこんなにしずまりかえったのは、それから九年後の戦争末期に大空襲下におびえて暗い死の町と化したときをのぞいては、まったく未曾有の経験だった。もう一つ、私の決して忘れることのできない印象は、この大雪の一日がとても長かったことである。朝早く自宅で新聞社の電話の急報にたたき起こされてから、郊外の積雪の道を自動車で走らせて出社して以来、反乱事件のニュースを追って、終日あちこちとびまわり、やっと夜おそくなって、鍛冶橋際の朝日新聞社専用の旅館の臨時宿舎に多数の同僚とゴロ寝したときは、まったく心身ともに綿のごとくつかれきっていた。わずか一日前の二月二十五日、相沢中佐の第十回公判に証人として出廷した青年将校の信望のあつい皇道派の長老、真崎挂三郎大将は、「軍の機密事項は勅許がなければ証言できませんぞ」と大見栄をきって退廷したが、はたしてこの硬骨の老将軍は、十数時間後に切迫した青年将校一味の決起を、内心、ひそかに予期していたのではなかろうか? また今朝、未明に決起した青年将校たちは事態収拾を真崎大将に一任したので、同大将は午前中に宮中に参内して、各軍事参議官と軍政権樹立の重大会議を重ねているらしい――という情報も私は耳にしていた。さらに私は、この反乱の日の正午ごろに、雪どけの泥道を朝日新聞社の社旗をひるがえした車で飛ばして、杉並区荻窪二丁目のバス通りに面した新築したばかりの明るい簡素な渡辺教育総監の私邸を訪問したなまなましい印象を思い浮かべた。渡辺邸の、玄関の真新しい洋風ドアには、まるで蜂の巣のごとく無数の大粒の機関銃弾で撃ち抜かれた穴があいているので驚いたものだった。軍用トラックで渡辺大将を殺しにおしよせた反乱部隊は、まず車上より玄関めがけて機関銃を乱射しながら、庭先へまわり、雨戸をけ破り、日本間に就寝中の渡辺大将を縁側先より、下から上向きに機関銃で掃射したため、大将の鮮血と肉片は無残にも四散して天井まで付着した、と涙ながらに語るすず子未亡人の悲しみと怒り――それも私には強い衝動をあたえた。その夜、それやこれやで、私は宿舎の日本座敷に大勢の同僚とゴロ寝しながら、頭が妙にさえて、真夜中すぎてもなかなか、眠られなかった。一生忘れられない反乱の雪の夜はしんしんと更けていった。 

 

昭和十一年二月二十六日水曜日、大雪に明けて吹雪に暮れた歴史的な二・二六事件の第一日、「尊皇討奸」をめざし、「昭和義軍」と名のって決起した急進的青年将校一派の率いる約一千四百七十名の武装兵力は、あらかじめ慎重に決められた重臣の襲撃殺害計画にもとづいて、きわめて迅速に、しかも時計の針のごとく精確に行動して、なんらの妨害も受けずに、ほぼその第一段階の目的を達成したようにみえた。正確な記録によると、これらの決起部隊の実力行動は、まことになにものもはばかるところなく、堂々と皇軍の威力を行使して遂行されたのであった。しかし、もちろん、前述したように、その当時には言論、報道機関はすべて厳重な軍検閲の下におかれて、当局発表(毒にも薬にもならないような検閲ずみの雑報記事)以外は一切、掲載をさしとめられていた。そのために新聞関係者にも反乱部隊の行動はなかなかわからず、二・二六事件に関する具体的な事実は、半年後の昭和十一年七月七日午前二時付で陸軍省から発表された、反乱事件の軍法会議審判の判決理由書(七月五日判決言い渡し、後述)によって、はじめて新聞、通信社へも全国民へもあきらかにされたのであった。
「 一、まず、急進的青年将校の代表格の栗原安秀中尉(歩兵第一連隊)の指揮する首相官邸襲撃隊は総理大臣岡田啓介大将殺害を任務とし、対島勝雄中尉(豊橋教導学校)、林八郎少尉(歩兵第一連隊)、池田俊彦少尉(歩兵第一連隊)が参加した。二月二十六日未明、栗原中尉らは所属部隊である、歩兵第一連隊機関銃隊下士官らに命じて非常呼集を行ない、機関銃隊全員を兵舎前に整列させて決起の趣旨を告げ、みずから機関銃隊下士官兵約三百名を率いて、午前四時三十分ごろ、兵営を出発し、同五時ごろ、永田町の首相官邸を襲撃した。官邸を護衛していた警官村上嘉左衛門、土井清松、清水与四郎、小館喜代松の四名ならびに首相秘書官事務嘱託松尾伝蔵大佐の計五名を機関銃を乱射して殺害したが、松尾秘書官を岡田首相と誤認したため首相殺害の任務をぱたさなかった。 」
「 二、中橋基明中尉(近衛歩兵第三連隊)および中島莞爾少尉(陸軍砲工学校)は、大蔵大臣高橋是清私邸襲撃隊を指揮し、高橋蔵相殺害を任務として担当した。二月二十六日午前四時ごろ、中橋中尉は近衛歩兵第三連隊第七中隊に非常呼集を行ない、明治神宮参拝と称して下士官兵約百二十名を指揮し、同四時三十分ごろ、兵営を出発し、自ら突入隊を率いて中島少尉とともに同五時ごろ、赤坂俵町の高橋蔵相私邸を襲撃して老蔵相を殺害した。 」
「 三、坂井直中尉(歩兵第三連隊)は、高橋太郎少尉(歩兵第三連隊)、麦屋清済少尉(同前)、安田優少尉(陸軍砲工学校)とともに内大臣斎藤実私邸襲撃隊を指揮し、斎藤内府殺害を任務とした。二月二十六日午前四時二十分ごろ、坂井中尉らは歩兵第三連隊の下士官兵約二百名を率いて兵営を出発し、同五時ごろ、四谷区仲町の斎藤邸を襲撃して老内府を殺害したうえ、そのさいに身をもって内府の殺害を防ごうとした春子老夫人にたいしても銃創を負わせた。それから坂井中尉は主力部隊を率いて陸軍省付近にいたり、占拠する一方、高橋、安田両少尉は下士官兵約三十名を指揮し、軍用トラックに分乗して杉並区荻窪二丁目の教育総監渡辺錠太郎大将私邸へ向かい、同六時すぎごろ、同邸を襲撃、すず子夫人の制止するのを排して、渡辺総監を殺害した。 」
「 四、首謀者の一人である安藤輝三大尉(歩兵第三連隊)は、侍従長鈴木貫太郎大将の殺害を任務とした。二月二十六日午前三時ごろ、安藤大尉は歩兵第三連隊第六中隊長として、非常呼集を行ない、全員を兵舎前に整列させ、同三時三十分ごろに兵営を出発、同四時五十分ごろに侍従長官邸を襲撃し、鈴木侍従長に数個の銃創を負わせて瀕死の重傷をあたえた。ついで安藤大尉は侍従長に止めを刺そうとしたが、孝子夫人の懇願によりこれを中止して、殺害せずに同五時三十分ごろ、引き揚げた。 」
「 五、首謀者の一人である野中四郎大尉(歩兵第三連隊)は、警視庁を制圧、占拠する任務を担当し、常盤稔少尉(歩兵第三連隊)、清原康平少尉(同前)、鈴木金次郎少尉(同前)も参加、二月二十六日午前二時ごろ、歩兵第三連隊の各所属中隊の非常呼集を行ない、準士官以下約五百名を指揮して、同四時三十分ごろ、兵営を出発し、同五時ごろ、警視庁に到着した。かくて同庁周辺に機関銃、軽機関銃、小銃の各分隊を配置して同庁の出入口をやくし、さらに同庁舎屋上に軽機関銃、小銃若干分隊を配置し、また電話交換室にも一部配置し、外部との通信を妨害して、同庁を完全に占拠した。 」
「 六、丹生誠忠中尉(歩兵第一連隊)は三宅坂の陸軍大臣官邸を占拠し、陸軍および参謀本部周辺の交通を遮断して、首謀者の香田清貞大尉(歩兵第一旅団副官)、村中孝次(元陸軍大尉、昭和十年八月怪文書事件で免官処分)、磯部浅一(元陸軍一等主計、怪文書事件で免官処分)ら三名の、陸軍上層部にたいする折衝を容易ならしめる任務を担当した。二月二十六日午前四時ごろ、丹生中尉は歩兵第一連隊で非常呼集を行ない、下士官兵約百七十名を指揮し、香田大尉、村中、磯部らとともに同四時三十分ごろに兵営を出発、同五時ごろ、陸相官邸に到着し、主力部隊を官邸の表門に配置し、特定人以外の出入りを禁止した。 」
こうして、数班に別れた決起部隊は、大雪の朝が明けるころにはすでにそれぞれ任務を果たして、あらかじめ決めた計画にもとづき、首相官邸、陸相官邸、陸軍省および警視庁を占拠した。そしてさらに麹町区西南部地区一帯の交通を厳重に制限して、帝都の中心部、すなわち日本の心臓部を完全にその手中におさめた。当時、日本中の新聞、通信は、事実上すべて軍当局の威圧の下に絶対的な検閲下におかれていたから、この緊急事態を全国民へ速報することは許されなかったが、東京駐在の外国新聞、通信特派員たちは、いち早く反乱事件の内容を打電して、「日本軍、東京を占領す!」と報じたのであった。さすが横暴な軍部も、法律上、外国の新聞、通信電報までさしとめることはまだできなかったのである。決起部隊は、いわば電光石火のごとく武力行動を首尾よく完了すると、いよいよ第二段階の軍政府樹立による事態収拾へと迅速に動いた。すなわち兵力一千四百七十名の反乱軍は、作戦上の重要拠点を確保して、万一の政府軍の反撃に備えて戦闘警備態勢を強化する一方、有力な首謀者香田大尉、村中、磯部三名による陸軍首脳部への重要工作を実力によって支援した。それは、宿望の昭和維新をいっきょに実現するためであった。それで、これらの首謀者一行は、午前五時ごろ、丹生中尉の指揮する部隊とともに陸軍大臣官邸に到着して、風邪気味でまだ就寝中の陸相川島義之大将をたたき起こして面接を強要した。日本陸軍最高の地位にある陸相も、押しかけたピストル片手の血相変えた青年将校と、銃剣や朧関銃をたずさえた反乱部隊の恐ろしい気勢には意気地なく圧倒されて、たちまち軟禁状態にされてしまった。川島陸相にとっては、まったく寝耳に水のような驚きであった。
天下注目の相沢中佐の軍法会議公判もどうやら順調に進行中であったし、また革新的青年将校が多くて不穏な言動の中心とみられていた東京の第一師団(師団長堀文夫中将)の各部隊も、いよいよ満州駐屯中の岩越、児玉両部隊と交代のため派遣されることに決定し、この二月二十日に陸軍省より正式発令されたので、いわば永田鉄山中将暗殺事件以来、陸軍部内にみなぎっていた粛軍騒動も、これではっきりと終止符が打たれるものと期待されていたからだ。厳冬の二月の午前五時といえば、まだ夜は明けきらず、洋風の官邸の広い応接室は火の気のなく氷のように冷えきっていた。ただ窓外は雪明かりでほんのりと薄明るく、多数の武装兵のひしめく姿がかえって恐ろしく異様に見えた。「いったい、これはどうしたことだ! 君たちはだれか?」と川島陸相は将軍らしい威厳をつくって発言したものの、その言葉は弱々しく、身体までかすかに震えていた。彼は軍人として決して気が弱いわけではなかったろうが、このような夢にも思わぬ異常な状況の下におかれては、もはや、厳しい陸軍大臣もただ一個の平凡な人間にすぎないように思われた。将軍もまた、自分の生命の危険をまず心の中で感じていたであろう。「閣下、いよいよ昭和維新断行のときがまいりました!」一同を代表して年長の香田清貞大尉が落ちついた、しかし、力強い語調であいさつした。それから彼は大きな声で、「決起趣意書」を朗読するとともに、すでに各重臣を襲撃して昭和維新の血祭りにあげた状況をくわしく説明した。みるみるうち、川島陸相の顔面は蒼白(そうはく)となり、もうこれ以上、恐ろしい報告を聞きたくないような悲しい表情をしめした。もはや、眼前に意気揚々(いきようよう)といならんでいる青年将校や元将校の革命家たちに反抗する気力も、また軍の長老として叱責(しっせき)、訓戒する意志もくずれ去ってしまった。
「 閣下、いまや維新断行のときでありますぞ! どうか閣下もこの事態をよく理解されてご尽力を願います。ついては、真崎閣下(皇道派の総帥として青年将校の信頼の的であった前教育総監真崎甚三郎大将)を至急、招かれて、よろしく事態収拾のため善処されたく思います 」
香田大尉は、眼前に青くなって放心したように座っている川島陸相に向かって、きつく真崎大将中心の軍政府樹立を要求した。その善後策のため、彼は黒幕的指導者の村中、磯部両人と耳打ちしながら、皇道派の古荘(ふるしょう)陸軍次官、山下奉文少将、斎藤瀏予備少将、満井佐吉中佐(相沢中佐軍法会議公判の特別弁護人)たちをも至急、陸相官邸に招致するように申し入れた。その間、陸相官邸周辺区域は反乱部隊によって厳重に警備されており、夜が明けて騒ぎは大きくなったが、川島陸相は人質同然にされて、陸軍省上層部の機能はマヒ状態に陥っていた。午前九時半ごろ、警戒線を突破して、陸相官邸の表玄関前に現われた軍務局課員の片倉衷少佐は、かねてより統制派(相沢三郎中佐に斬殺された永田軍務局長らの一派で皇道派と鋭く対立す)の腹心とみられて革新的な青年将校連中から憎まれていたため、「陸相に会わせろ」「会わせられぬ」と押し問答のあげく、激怒した磯部浅一のためにピストルで頭部を射撃されて瀕死の重傷を負った。このただならぬ銃声と流血の騒ぎは、いっそう陸相官邸内外の雰囲気を緊張させて、まさに昭和維新の第二段の革命行動は成功しそうにみえた。 

 

記録をよく検討してみると、二・二六事件の大反乱を計画した首謀者たちは、いわゆる重臣殺害の行動班と、軍首脳部と折衝してまず皇道派の軍政府を樹立して、昭和維新の実現を図る政治班とに分かれていた。このうち後者は、決起将校中の最年長者であり、また地位も上位であった香田清貞大尉と、民間側から元将校の青年革命家としてすでに知られていた村中孝次(元陸軍歩兵大尉香田と同期の陸士第三十七期)と磯部浅一の三名が参加指導して、その全責任を引き受けていた。この中で村中、磯部両人が、『日本改造法案大綱』の著者の職業革命家北一輝に心酔していたことは注目される。彼らは反乱前夜の二月二十五日夜、歩兵第一連隊内でひそかに会合して、決起後に各個所の襲撃と占拠を完了したらただちに陸軍大臣に面接して、要望すべき事項を打ち合わせて決定した。それはつぎのような六個条の要求であり、予定どおり川島陸相にたいして突きつけられ、一応陸相内諾をみたのであった。
「 一、陸軍大臣の断乎たる決意により、すみやかに事態を収拾して維新に邁進すること
二、皇軍相撃の不祥事を絶対に惹起せしめざること
三、軍の統帥破壊の元凶をすみやかに逮捕すること
四、軍閥的行動をなしきたりたる中心人物を除くこと
五、主要なる地方同志を即時、東京に招致して意見を聞き、事態収拾に善処すること
六、前各項実行せられ、事態の安定を見るまで決起部隊を現占拠位置より絶対に移動せしめざること  」
さて、反乱軍によって包囲された陸相官邸では、川島陸相からの電話の招きにより、午前八時ごろに早くも軍事参議官(前教育総監)真崎甚三郎大将が、軍服姿もいかめしく緊張したおももちでかけつけだ。皇道派の総帥と自他ともに任じていた真崎大将は、すでにこの日の未明四時半ごろに、世田ヶ谷の自宅で青年将校の一味で右翼浪人の亀川哲也の来訪を受け、反乱決起の内報を聞いて万事承知していた。しかも、彼は亀川から、「決起将校はいずれも閣下のご出馬を待望しております。どうか昭和維新断行のためによろしくご尽力を願います。閣下の手で時局を収拾されるよう、一同、希望しております……」と、ひそかに懇請(こんせい)されていたのだった。それから冬の夜の明けるまでの数時間、老将軍の胸中は、「青年将校にかつがれて天下を取るか? それとも青年将校を叱って決起部隊を解散させるか?」と深刻に迷ったことであろう。しかし、陸相官邸にいち早く駆けつけた真崎大将は、待ちうけた決起将校のスポークスマン格の磯部から、決起の趣旨と武力行動の概要について報告を受けたうえ、決起趣旨の貫徹につき努力するよう懇請された。すると彼は、真剣な表情にかすかな微笑をたたえながら、諸君の精神はよくわかっとると意味深長な言葉をもらした。それから、気の毒なくらい大きなショックを受けて心身ともに衰弱した川島陸相をまじえて、真崎大将は決起将校の要望事項と決起者の氏名表などを閲読(えつどく)しながら協議を重ねたうえ、「自分はこれから諸君の要望にそって善後処置に取りかかることにしよう」と大きくうなずいた。そして、川島陸相と相前後して自動車で宮中へ参内し、緊急召集された軍事参議官会議に出席した。
この歴史的瞬間に立った真崎大将の奇怪な言動は、二・二六事件をめぐる最大の謎の一つとして、戦後に、同大将の病死した後までも釈然(しゃくぜん)としない点が多い。老将軍は二・二六事件の首謀者と、いったいどの程度に共鳴、協力していたのであろうか? また真崎大将は、昭和維新断行について、はたしていかなる信念と決断を、持っていたのであろうか? 事件後二十年以上もたってから、はじめて遺族有志の手で発表された故磯部浅一(昭和十二年八月十九日銃殺刑執行)の「獄中手記」をみると、当時の模様を、つぎの通りなまなましく綴ってしる。これはおそらく現場の真実の情景であろう。
「 ――歩哨の停止命令をきかずして、一台の自動車がすべり込んだ。余が近ずいてみると真崎将軍だ。『閣下、統帥権干犯の賊類を討つために決起しました。情況をご存知でありますか』という。『とうとうやったか、お前たちの心はヨオークわかっとる、ヨオッークわかっとる』と答える。『どうか善処して頂きたい』と告げる。大将はうなずきながら官邸内に入る。門前の同志とともに事態の有利に進展せんことを祈る……  」
かくて午前十時ごろ、真崎大将は宮中に参内するや、まず、侍従武官長室で先着の川島陸相に向かい、「決起部隊はとうてい解散しないであろう。こうなった上はご詔勅(しょうちょく=天皇のお言葉)の渙発(かんぱつ=布告)を仰ぐほかはなかろう」と強く進言し、さらにその席にいあわせた軍事参議官の荒木貞夫、阿部信行、林銑十郎各大将にもこの意見を力説して同調を求めたといわれる。しかし、日ごろは国体明徴問題などきわめて強硬な発言をする陸軍の長老連中も、さすがに重臣の大量殺害と皇軍反乱という、驚くべき非常事態に直面しては、ただ、とまどうばかりで、断乎たる決戦を行なう勇気も気魄(きはく)も欠けていた。いましばらく反乱軍のようすをみてから、打つ手を慎重に考えるべきであろう、いますぐ天皇にたいして「維新大詔」の詔発を要請することはあまりにおそれ多い――という常識論がめずらしく将軍連中の心理を支配したようであった。しかし、この未曾有の日本改造革命の進行する真最中のこのような生ぬるい態度は、結局、いわば優柔不断な責任回避でもあった。すなわち、陸軍の長老たちは、宮中に参内しながらムリをしてもぜひ天皇に拝謁を願い出ることもせず、侍従武官長室にて、いかにもアイマイな態度で小田原評定を重ねるばかりであった。その結果、反乱軍の忠君愛国の趣旨と行動を一応みとめながら、興奮した決起将校たちを、慰撫(いぶ)して、これ以上の事件の進展をくいとめるために、各軍事参議官は合議のうえ、「陸軍大臣告示」の草案をまとめた。それは川島陸相のもとで極秘の告示命令となり、その日の午後三時三十分に、東京警備司令部から、ガリ版刷りで各部隊へ配布された。
「  陸軍大臣告示(原文のまま)
一、決起の趣旨に就いては天聴に達せられたり
二、諸子の行動は国体顕現(けんげん)の至情に基(もとず)くものと認む
三、国体の真姿顕現(弊風(へいふう)をふくむ)については恐懼(きょうく)に堪えず
四、各軍事参議官も一致してこの趣旨により邁進することを申合せたり
五、之れ以上は一に大御心(おおみこころ)に待つ  」
この奇怪な「陸軍大臣告示」は当時、陸相官邸に頑張っていた決起将校代表にたいしてはとくに山下奉文少将を派遣して口頭で伝達された。これを聞いた決起部隊は大いによろこび、いよいよ「維新大詔」の渙発もちかいというきわめて有利な情報判断をした。ところが、翌二十七日午後より形勢は一変して、決起部隊は騒擾(そうじょう)部隊とレッテルをつけ変えられてしまった。さらに二十八日には、正式に反乱部隊として討伐の奉勅命令がくだったのであった。川島陸相も各軍事参議官も優柔不断でぐずぐずしている間に、天皇から不満の内意が伝えられたために、彼らはにわかに態度を変えて、遅まきながら第三日目に反乱軍の討伐へ踏み切った。だが、反乱軍の行動を是認した二十六日付の「陸軍大臣告示」は決して取り消されず、そのままだった。かくて、昭和維新はついに成らなかったのである。 

 

二・二六事件には表裏ともにいろいろ意外な副産物の怪事件が続出したが、その中で一番世間をビックリ仰天(ぎょうてん)させたのは、雪の朝の反乱で真っ先に血祭りに上げられた首相岡田啓介海軍大将が、反乱軍に襲撃占拠された麹町永田町の首相官邸の奥深く、じつは女中部屋の押し入れの中でぶじに生き残っていたビッグ・ニュースであった。血なまぐさい重臣の大量殺害という黒い恐怖の霧が立ちこめる中で、まったく息づまるような不安と疑惑におののいていただけに、この岡田首相生存の朗報には、「まあよかった!」と全国民がホッと愁眉をひらいたものだった。しかしながら、あの四年前の五・一五事件に、同じ首相官邸で、ピストルを片手に血相変えた青年将校たちを相手にして悠然と、「話せばわかる!」と叫んでたおれた犬養毅(いぬかいつよし)老首相の悲壮な最期とくらべると、女中部屋へ逃げ込んで命びろいした岡田首相の幸運は、いかにも武人らしくないわびしいものであったともいえるだろう。また、「生きている首相」を「即死」と全国民の前に発表した陸軍省当局の狼狽(ろうばい)ぶりも思いやられて、まったく国民大衆は悲喜、明暗こもごもといった矛盾した気持であった。ではいったい、どうしてこんな悲喜劇的な出来事が起こったのであろうか? まず記録の上からみると、二月二十六日未明、柴原中尉らの指揮する決起部隊約三百名が永田町の首相官邸を襲撃して以来、官邸は占拠されてしまったので、岡田首相の死体を検視、確認することは陸軍当局にもできなかった。また、官邸警備の村上巡査部長以下警官四名も、ピストルを撃ち尽くして、いずれも壮烈な殉職を遂げたので、岡田首相殺害の確報を警視庁へ知らせることはできなかった。一方、若い青年将校連中はかねて岡田首相に面識あるものはなくて、ただ新聞写真などでその顔を覚えている程度にすぎなかったから、あの異常に緊張、興奮した殺気あふれた雰囲気の中では、顔つきも年齢もきわめてよく似た寝間着姿の老人を岡田首相と誤認したことは、むしろあたり前であったろう。じつは当時、われわれ新聞記者たちでさえあの広い首相官邸の奥の間に、顔も年齢も岡田啓介首相にそっくりの老人が、もう一人住んでいようとは夢にも思わなかった。この哀れにも首相の身代わりになって惨殺された老人は、岡田首相の義弟で私設秘書官の予備陸軍歩兵大佐松尾伝蔵氏であった。松尾大佐は、岡田首相の身辺の世話をみるために官邸に寝泊まりして、いわば兄弟仲よく静かに暮らしていたわけだ。これこそ、世界革命史上にもおそらく比類ない「事実は小説よりも奇なる」めずらしい実例であろう。そんなわけで、反乱の第一日には、岡田首相は完全に「殺された」ものとみとめられて、だれも疑うものはなかった。したがって、二十六日夜八時十五分、陸軍省の最初の発表――いわゆる十五時間おくれの第一回発表にも、「本日午前五時ごろ、一部青年将校らは左記個所を襲撃せり、首相官邸(岡田首相即死)……」と、まことにハッキリと明記されていた。だが、意外にも岡田老首相は生きていたのだ! それは無残にも同じ時刻に襲撃されて本当に殺害され、即死した内大臣斎藤実(まこと)子爵、大蔵大臣(元首相)高橋是清(これきよ)子爵、陸軍教育総監渡辺錠太郎大将たちの悲運を思うと、まことにくすぐったいような皮肉な印象をかくすことができなかった。また、岡田首相即死の報に驚き嘆いた内閣は、二十六日午後、た危ちに総辞職を内定して、後藤文夫内相が内閣総理大臣臨時代理をおおせつけられたと正式発表した。そして同夜半おそく、正確にいうと翌二十七日午前一時三十分、彼が宮中に参内して天皇に閣僚全員の辞表を奉呈したことも、今日から考えるとずいぶんあわてた話である。天皇はこの朝から殺された重臣を深くいたみ悲しんで、青年将校のテロ行動にも、軍首脳部の優柔不断な態度にも、大きな怒りを感じていたといわれる。それはみずから「尊皇討奸」をさけんで決起した青年将校一味にとっては致命的な「聖慮(せいりょ=天子の考え)」であり、また、昭和維新という名の天皇制日本革命は、その奇妙な矛盾と取りかえしのつかない盲点をさらけだした。忠君愛国の志士をもって任じていた彼らは、いわば天皇をかつぎながら天皇に嫌われたのだった! なんという悲惨な誤信であろう! (それだからこそ、二・二六事件の原動力となった黒幕的革命家磯部浅一は、獄中で天皇を不甲斐なく思いつめてうらんだ手記を残した。これは後述する)
かくて、反乱平定直後の昭和十一月三月一日付の日本全国の朝刊新聞は、「岡田首相生存」のビッグ・ニュースをデカデカと掲載して、大きな反響をまきおこした。それは「内閣発表」の形式でつぎの通り述べていたが、発表時間は二月二十九日午後四時五十八分で、その内容はまことに劇的なエピソードであった。
「 今回の事件にさいして、岡田首相は官邸において、遭難せられたものと伝えられ、(冗談ではない! 二月二十六日付の権威ある唯一の陸軍省発表ではないか!――筆者注)まことに痛惜に堪えぬ次第であったが、はからずも今日まで首相と信ぜられていた遭難者は義弟の松尾大佐であって、首相は安全に生存せられていたことが判明した。昨朝、首相はまず後藤臨時代理を経て闕下(けっか=天子)に辞表を奉呈し、同夕刻、参内して奉伺するとともに、今回の事件にたいし宸襟(しんきん=天子のお心)を悩まし奉り恐懼に堪えざる旨、深くお詫びを申し上げたところ、優渥(ゆうあく)なるご沙汰を拝し、恐懼感激して御前を退下したのである。ついで後藤内務大臣にたいし、内閣総理大臣臨時代理被免の辞令が発せられた 」
一方、「岡田首相即死」の重大誤報の責任者であった陸軍省でも、同日付でつぎのような奇妙な訂正発表を新聞、通信社にたいして行なった。これは、じつに取り乱した軍当局にとっては泣き面に蜂のような醜態であった。
「 二月二十六日午後八時十五分、陸軍省発表中、岡田首相即死とあるはこれを取り消す 」
だが、これらの発表だけでは、どうして岡田首相が生き残ったかという真相はあきらかにならず、いろいろな流言やデマが、新聞記者の間にも高まって世間へ広く流布されたのは当然であった。それで三月五日午後九時半になり、はじめて「総理大臣秘書官発表」の形式で、つぎの通り岡田首相の「死の首相官邸」脱出の模様が公表された。それは、今日流行のいかなるスリラー推理小説も顔負けするような興味ふかい事実であった。いま読みなおしてみても、じつに面白いから参考のために引用しよう。
「 二月二十六日早暁、官邸が反乱軍の襲撃を受くるや、おりから日本間に就寝中の岡田首相は、松尾大佐および村上、土井両護衛警官とともに日本間の奥の方に難を避けられたところ、彼らは松尾大佐をたおしてこれを首相と誤信し、それ以上捜査しなかったため、首相はついにぶじなるを得られたのである。首相のぶじなることは間もなく私(岡田首相女婿の迫水久常(さこみひさつね)秘書官)にわかったので、速やかに、官邸より出そうと努めたが、反乱軍の警戒厳しく、ついに遺憾ながら同夜はその目的を達することができなかった。しかして翌二十七日午後にいたり、弔問者の出入りが許されたので、男ばかり十二名の弔問客にまぎれてぶじ、官邸を出てもらうことができた。このときの服装は、モーニングの上から外套を着し、マスクをかけていた。この間、首相は警戒のため派遣せられた憲兵の犠牲的な掩護の下に、日本間の一室に安全にしておられたのであって、ときに二、三の兵士の目に留まったこともあるようであるが、別に咎(とが)められることもなく、ぶじに経過したのである。二十七日午後、官邸を出てひとまず知人の淀橋区下落合三丁目の佐々木久二氏宅に落ちつかれ……云々 」
とあった。ではいったい、早耳の大新聞社では、いつごろこの首相生存の秘密をかぎつけたであろうか? 記録によると、反乱第二日の二月二十七日夜までに、新聞社にはまだ岡田首相生存のニュースははいっていなかったようだ。なぜならば、二月二十八日付朝刊の朝日新聞社会面には皮肉にも「首相即死」の記事が掲載されていたからだ。淋しいお通夜 岡田・斎藤の両邸―― 岡田前首相の遺骸は二十七日午後二時五十分、消え残る雪をふんで官邸から淀橋角筈(つのはず)一ノ八七五の私邸へ移された。二年前の七月四日、首相の印綬を帯びて裏町の私邸を出て行った岡田さんの帰宅である。正式の発喪(はつも=死の公表)はされていないので、二十七日夜は弔問客もなく、近親の人々数名だけが佗びしく坐っているばかり。花輪もなく、玄関に自動車さえ一台もない。陸相、内閣書記官長、満鉄総裁各代理の焼香がなされた。
あとからかえりみると、当時六十九歳の奸人物の海軍長老だった岡田啓介大将は、「生きながら死者扱いにされてお通夜とお焼香をうけた」ただ一人の現職首相の珍記録を昭和史上に永く残したわけである。 

 

いわゆる「君側の奸臣(かんしん)」を実力によってたおして、天皇親政の昭和維新の実現をめざした二・二六事件の決起部隊の指揮をとった、革新的青年将校一派は、中心人物の歩兵第一旅団副官香田清貞大尉と歩兵第三連隊第五中隊長野中四郎大尉の各三十四歳を最年長として、あとを三十歳以下の中尉と二十四、五歳の少尉が大半をしめ、最年少は歩兵第一連隊付の二十三歳の林八郎少尉であった。彼らはみな、強烈な愛国心に燃えた成績優秀な青年将校たちであり、謹厳な軍人の子弟が多かった。とくに注目されるのは、彼らは陸軍士官学校を卒業後、陸軍少尉に任官して各連隊へ配属されるや、学業抜群、志操堅固の模範将校のホープとしてあこがれの的である、晴れの連隊旗手を勤めたものが多かった。ことに竹島中尉は、昭和三年に陸軍士官学校を卒業したときは首席で恩賜の軍刀を授けられた秀才であり、また、決起部隊の総指揮役の安藤輝三大尉は、東京麻布にあった歩兵第三連隊の第六中隊長として、同連隊付の秩父宮とは陸軍士官学校以来の長い、深い関係があって信任があつく、彼の抱いていた革新思想には、殿下もかねてよりひそかに共鳴していたといわれる。秩父宮が連絡将校の坂井直中尉を通じて、安藤大尉に対して、「もしも決起のさいは、一個中隊の兵を率いて迎えに来いよ」といわれたという話は、いまでは有名な伝説となっている。彼らは急進的な国家革新の決意と意気に燃えながら、民間のいわゆる右翼、愛国団体の壮士のように大酒をあおって大言壮語する粗暴な連中とはまったく人間がちがっていたようだ。彼らはむしろ平常は生真面目で口が重く、いわゆる正義感の旺盛な硬骨漢ではあったが、情誼(じょうぎ=真心)にあつくて部下を愛することが強く、下士官たちから深い信頼と尊敬をあつめていたものがめだった。たとえば歩兵第三連隊の中隊長として、一番多数の部隊(九百数十名)を率いて決起した安藤輝三大尉のごときは、日蓮宗の熱心な信者で、農村出の部下の貧しい兵士のために給料の大半をさいてあたえるなど思いやりが深く、日ごろから部下より絶大な信頼をうけていた。それで彼は、早くより第一師団麾下部隊を中心とする革新的青年将校の指導的立場にあり、「もし安藤が起てば三連隊は動く」とまで同志の間で期待されていたそうだ。しかも彼は、昭和維新の決行の時機と方法についてはあくまで慎重であり、即時決行を叫んだ民間側の磯部浅一、村中孝次と現役側の河野寿大尉、栗原中尉たちとは意見を異にして自重論をとなえたが、ついに同志の熱情に動かされて昭和維新の捨て石たらんと覚悟をきめて同意した。この信念の強い安藤大尉が決行に踏み切ったときこそ、二・二六事件の導火線に点火されたときであるといわれる。また、決起将校中最年長の歩兵第一旅団副官香田大尉も日蓮宗の信者で、つねに法華経を愛誦していた、いわゆる不言実行型の信念の強い人物であった。永田軍務局長を刺殺した相沢中佐事件を裁く軍法会議の判士長(裁判長)に、同旅団長佐藤正三郎少将が任命されて以来、私は数回にわたり青山南町の歩兵第一旅団司令部で香田大尉と会見したことがあったが、彼はきわめて丁重な態度と物静かな口調で新聞記者の私を迎えて、大変に好感をあたえた。彼からは、いわゆる時世に悲憤慷慨(こうがい)して昭和維新を呼号する豪傑気どりの志士くさい言動はまったくくみとれなかった。それだけに、事件鎮定後に陸軍省発表の反乱軍将校の氏名リストの筆頭に香田大尉の名前を発見したとき、本当にビックリしたのは決して私だけではなかったはずである。相沢事件の担当記者として、私はまったく半信半疑で温厚な彼の面影を浮かべたものであった。要するに、二・二六事件を計画、実行した指揮将校たちは、血気さかんな若い青年将校ではあったが、決して思慮分別のあさい、粗暴な、若気のいたりの単純な暗殺、破壊行動であるとは断言できないと思う。しかも、彼らの烈々たる憂国の熱情と尽忠尊皇の悲願は、いずれも昭和維新の実現のための捨て石たらんとするものであって、だれ一人として、決起後にみずから軍政府の要位について天下に号令せんと欲するような西洋流の野心的な革命家はいなかった。それゆえ、昭和六年十月に発覚して、未然に阻止された奇怪な幕僚ファッショ的クーデター陰謀の十月事件で、荒木貞夫大将を首班にかつぎ、みずからは内相や警視総監の地位をそれぞれ約束していた橋本欣五郎中佐(当時、参謀本部ロシア班長)、長勇(ちょういさむ)大尉(当時、北支軍参謀)一派の強引な権勢欲につかれた自称革新軍人連中とは、その計画も人柄も全然ちがっていたわけである。では、これらの邪念も私欲もない謹直、純情の青年将校一味は、なにを目あてにして昭和維新の必成を期していたのであろうか? また、彼らはなぜ天皇の親任した重臣たちを残酷にもみな殺しにすることによって、いわゆる「君側の奸臣」をのぞいて「君臣一如(いちにょ=一体)」の維新の天業を成就するものと確信していたのであろうか? それは彼らが、皇道派の総帥たる前教育総監、軍事参議官真崎甚三郎大将がかならず決起後の非常事態を収拾して、すぐにも軍政府を樹立して、昭和維新を実現するものとひそかに期待していたからだ。その順序として彼らは、真崎大将以下の将軍連中の斡旋と、天皇の最有力の側近とされた皇弟の秩父宮少佐(事件当時、青森県下の歩兵第三十一連隊大隊長)の理解と協力によって、宮中の内外より強く天皇を動かして、晴れの「維新大詔」の渙発を待望していた。そのためには大義親を滅すというか、あるいは泣いて馬謖(ばしょく)を斬るというか、彼らは老いた重臣たちを惨殺しても、昭和維新の血祭りとしてやむをえないとわりきっていたようだ。ともあれ、第一段階の情勢は決起部隊にはなはだ有利に展開した。それは皇道派の第一人者と自他ともに任じていた真崎大将が、万事、陸軍長老の間で強力なるイニシャチブをとって、決起部隊の行動と信念を大いに称揚し、「決起の趣旨については天聴に達せられたり」にはじまる陸軍大臣告示が示達されるなど、いかにも青年将校の悲願が天皇の耳に通じて、いまにも天皇より軍政府樹立の大命が降下しそうな思惑が高まりつつあったからだ。ところが、重臣を皆殺しにして殺気だった青年将校たちの信望を一身に集めた真崎大将は、頑固一徹ながら、あんがいにも小心翼々たる正直者の老将軍であった。彼はこの朝、いちはやく陸相官邸へ駆けつけて、血相を変えた青年将校たちに囲まれて軟禁状態にあった川島陸相を救い出しながら激励する一方、興奮した青年将校たちをなだめるように、「とうとうやったか! お前たちの心は、ヨォークわかっとる、わかっとる」と、いかにも自信満々たるようすで宮中へむかったものだ。そこまでの彼は、慈父のごときたのもしい老将軍らしく、表面はいかにも堂々として立派であった。真崎大将は、同じ皇道派の大立者の荒木大将はじめ他の陸軍長老連中が、二・二六事件突発の報をまったく寝耳に水のような形で知ったのとはちがって、いまだ夜の明けぬこの日の午前四時半ごろに、世田ヶ谷一丁目の自宅を訪ねてきた右翼浪人の亀川哲也と会見して、反乱蜂起の内報を事前に聞いて、極力阻止するどころか、かえって武者ぶるいした形跡があった。彼は青年将校一味のクーデターによる真崎首班の軍政府の出現を予想して、大命降下にそなえて軍服に勲章を佩用(はいよう=付ける)し、いつでも天皇の御前に出られる身仕度をととのえたうえ、陸相官邸へ急行したのだ。しかしながら、この日本未曾有の内乱勃発に直面したとき、いかに歴戦の名将軍といえども戸惑うことはむしろ人間として当然であったろう。なぜならば、軍人にとっては外敵を相手の戦争の方が長年、作戦準備に専念するだけに、周到な戦略と冷静な心構えもととのうであろうが、まるで天から降っておいたような軍隊の内乱では、いわゆる「皇軍柤撃つ」という最悪の事態も起こりかねないため、平常は日本精神のチャンピオンのような老将軍も内心はとり乱して、公明正大な言動をつい忘れがちであったとしても、責めるのは気の毒であろう。これは戦後の公正な記録にもとづいた結果論ではあるが、どうやら真崎大将は、決起将校一同が絶対に信頼し、また衷心より期待したほど、昭和維新の必成をにないうる大人物ではなかったようだ。これをいいかえると、彼は運を天にまかせて、彼を慕いあおぐ青年将校の必死の意気に感銘して、帝国軍人の長老として一身の毀誉褒貶(きよほうえん)をかえりみず、決起部隊といさぎよく生死をともにする覚悟を明らかにするべきであったろう。そのためには、彼はみずからすすんで天皇に拝謁を願いでて、直接に事件の重大性と真因について奏上して、いわゆる「維新大詔」の渙発を奏請しなければならなかった。そして、もしも、天皇がこれに反対して、逆に重臣暗殺と軍隊反乱の責任を追及し、陸軍長老たる彼の軽挙妄動を叱責した場合には、彼はむしろ決起将校一同に代わって不明の罪を謝し、明治十年の西南の役に敗れた西郷隆盛のごとく、決起将校もろとも自決したら、かえって昭和動乱史上に、ながく芳名を残したことであろう。だが、反乱第一日の午後になって、宮中に参集して事態拾収を熱心に協議していた陸軍長老たちの先達(せんだつ=指導者)格の真崎大将も川島陸相も、天皇に不満の色が濃いという知らせを侍従武官長よりもれ聞くやいなや、まったく青菜に塩のごとく萎縮(いしゅく)してしまったようだ。将軍連中はたがいに苦い顔を見合わせて、だれも全責任を一身に引きうけて天皇に、また決起将校代表に、堂々と面接して国家百年の大計のために是非を明らかにするような気魄のある人物はいなかった。ただ、目前の内乱拡大の危機を避けるだけで精一杯だった。かくて真崎大将は、天皇をおそれて、心ならずも自重して千載一遇のチャンスを逸し、青年将校たちの必死の期待を裏切った。また麻布の歩兵第三連隊に在任中から、安藤大尉や坂井直中尉たち革新的青年将校と親交のあったといわれる秩父宮の、天皇にたいする働きかけも、急には間に合わず、期待はずれに終った。記録によると、秩父宮は、大正十一年十月に、陸軍歩兵少尉に任官するや、歩兵第三連隊付に補され、さらに、昭和六年十一月、大尉として陸大を卒業後、ふたたび同連隊中隊長に任命されて、急進青年将校たちと長く深い関係を結ばれたものといわれる。秩父宮がはたして二・二六事件の首魁(しゅかい)の安藤大尉たちと、従来どの程度まで国家革新について話し合っていたかは明らかにされていないが、事件発生直後、秩父宮が勤務中の青森の歩兵第三十一連隊より無断で上京して、その軽率な行動を母親の貞明皇太后より叱られたという秘話はあまりにも有名である。結局、皇道派の巨頭たる真崎大将が笛吹けど天皇は踊らず、決起将校の待望した「維新大詔」は、川島陸相が軍事参議官一同の承認をえて、二十六日正午ごろ、宮中より陸軍省へ電話して軍事課長村上啓作大佐に起草を命じ、同大佐はただちに部下の岩畔豪雄、河村参郎両少佐に至急、草案の執筆を下命しながら、とうとう陽の目をみずに握りつぶされてしまったといわれる。従来、陸軍に関する天皇の勅語はすべて陸軍省軍務局の軍事課で起案することになっていたので、この当日も命令をうけた岩畔、河村両少佐が大急ぎでこの歴史的な「昭和維新」の勅語を起草していたところ、午後三時ごろに村上軍事課長が現われて、その草案を、わしづかみにして、あわてて陸相官邸へ急行したという。それは、官邸に集まって殺気だっていた決起将校たちへ内示して、極度に興奮した彼らを慰撫するために利用されたらしい。もちろん、これは天皇の意思ではなくて、川島陸相か、村上軍事課長の独断によるものだろうが、すでに天皇を怒らせてしまった以上、「維新大詔」どころの騒ぎではなくて、この勅語草案は永久に闇に葬られた。その内容は反乱軍の首魁の一人である野中四郎大尉が起草、配布した狂信的な「決起趣旨書」を全面的に認めたものであり、重臣を血祭りに上げて、いきり立った決起将校に対して、「大詔はまさに渙発されんとしているが、内閣が辞表を出していて副署ができないためおくれている」とたくみに説明されたらしい。かくて、「尊皇絶対」を狂信した彼らは、天皇にさえソッポを向かれたわけだ。

 

国民大衆はもちろん、早耳の各新聞社でさえぜんぜん知らない舞台裏で、二・二六事件はこのように深刻にゆれていた。もしも、真崎大将をはじめ陸軍長老が固く結束して、天皇に帷幄上奏(いあくじょうそう=内閣を通さず上奏する)して「維新大詔」の渙発を要請したならば、あるいは天皇はこれに同意して形勢はたちまち一変していたかも知れない。また、皇道派の総帥たる真崎大将自身が、形勢の非を察知して保身上より決起将校の期待を裏切っても、もし彼らが名実ともに「維新義軍」の目的貫徹のため、重臣暗殺後にもっと積極的行動に出て、西洋流の民衆解放の社会革命へ踏み切っていたら、たとえ天皇の錦の御旗の争奪のために「皇軍相撃つ」ような大惨事をまねいたとしても、もっとスッキリした事態を展開したかもわからない。しかし、決起青年将校のめざした昭和維新の目的は、「決起趣旨書」の難解な文字の羅列がしめすように、国民大衆には、まったく理解も共鳴もできないものであった。彼らは不正不義の政党、軍閥をことごとくたおして農村の窮乏を救い、庶政を一新して肇国(ちょうこく=建国)の理想であった「君民一如(一体)」の天皇親政を実現すると呼号しながら、天皇制本来の封建的な矛盾と元老、重臣中心の側近政治の宿命を打破することは毛頭、考えていなかった。それは彼らの考えがあまかったというよりは、むしろ幼年学校より士官学校まで一貫した「天皇の股肱(ここう=忠義の家来)」たる帝国軍人の精神教育の行きすぎた悲劇の結果ともいえよう。すなわち、半世紀以上にわたって帝国軍人のバイブルであった「軍人勅諭」(明治十五年一月四日発布)の五ヵ条の誓いの第一に命ぜられた通り、「軍人は忠節を尽くすを本分とすべし」という天皇の至上命令をもっとも忠実に、万難を排して励行せんと企てたのが決起将校たちだったからだ。彼らは、日本の政党の腐敗、財閥の邪悪、軍閥の堕落の現状を見るに忍びず、いわゆる軍人の本分をもっとも忠実に尽くそうと決心して、「君側の奸臣、軍賊を斬除(ざんじょ)して、その中枢を粉砕する」(「決起趣旨書」による)ために決起したのだ。しかし、彼らの忠節はかえって、天皇のもっとも信任していた重臣を流血の中に殺してしまったのだ! しかも彼らは、天皇より大いにその「忠節」を嘉賞(かしょう)され、「維新大詔」が渙発されることを衷心より期待していた。かくして、彼らはみずから天皇のもっとも忠誠な股肱(ここう)であり、尽忠の臣下であり、また熱誠な味方であると固く信じこんでいたのに、実際には穏健で気の弱い天皇のもっとも好まない、過激な反乱分子とみなされ、いわゆる賊臣乱臣になり下がってしまった。要するに、ことの理非曲直にかかわらず、天皇のいわゆる「鶴の一声」にはもっとも弱い青年将校一味は、みずから重臣へ「天誅」をくわえたかわりに、今度は天皇から悲しい「天罰」を頂戴したわけだ。さて、反乱第二日の二月二十七日には、戒厳令が施行されて、香椎(かしい)浩平中将が戒厳司令官に任命されて、東京市内の警備は、ぞくぞく入京した、甲府、佐倉両連隊をはじめ横須賀の海軍警備隊まで到着して、厳重に固められた。いわゆる決起部隊は、第一日の二十六日午後以来、歩兵第一連隊長小藤恵大佐の指揮下にそのまま入れられて、「麹町地区の警備を命ず」という珍妙な待遇をうけていたが、武器を棄てて神妙に原隊へ復帰せよとの連隊長の説得に服さず、相変わらず、陸相官邸を中心とする三宅坂一帯の帝都の心臓部を占拠して、「昭和維新の目的貫徹まで戦う」という不穏の形勢を強化してきたので、ついに反乱第三日の二十八日朝、天皇より伝家の宝刀を抜いた「奉勅命令」が下った。しかし、軍首脳部の心境と対策の変化にもとづいて、決起部隊の呼称が騒擾部隊となり、さらに反乱部隊となり下がっても、決起青年将校たちの決心は断固として変わらなかった。なぜならば、彼らには、この「奉勅命令」は、当時、正式には下達されず、彼らはかえって、大先輩の革命家北一輝の激励をうけて、あくまで天皇の維新の天業翼賛(よくさん=助ける)を狂信していたから、「奉勅命令」を利用した軍閥の謀略を粉砕すべく、討伐の包囲軍に抗戦する覚悟をあらたにした。それで、「維新義軍」の名で、決起部隊にたいするつぎのような檄文が配布されて、ふりしきる雪の中に、いよいよ反乱軍と討伐軍の壮烈な市街戦が現出する形勢になった。
決起部隊本部から各行動部隊下士官に配布された檄文 (ガリ版刷り、二月二十八日午後配布、原文のまま)
「 尊皇討奸(そんのうとうかん)ノ義軍ハ如何ナル大軍モ兵器モ恐レルモノデハナイ。又、如何ナル邪智策謀ヲモ明鏡ニヨッテ照破(しょうは)スル。皇軍卜名ノツク軍隊ガ我が義軍ヲ討テル道理ガナイ。大御心(おおみごころ)ヲ奉戴セル軍隊ハ我ガ義軍ニ対シテ全然同意同感シ、我ガ義軍ヲ激励シツツアル。全国軍隊ハ各地ニ決起セントシ、全国民ハ万歳ヲ絶叫シツツアル。八百萬(やおろず)ノ神々モ我ガ至誠ニ感応シ加護ヲ垂レ給フ。至誠ハ天聴ニ達ス、義軍ハ飽(あ)クマデ死生ヲ共ニシ昭和維新ノ天岩戸(あまのいわと)開キヲ待ツノミ。進メ進メ、一歩モ退クナ、一ニ勇敢、二ニモ勇敢、三ニ勇敢、以テ聖華ヲ翼賛シ奉レ。   昭和十一年二月二十八日   維新義軍   」
もうこのころには、反乱第一日の千両役者であった真崎大将も川島陸相も、二・二六事件の舞台裏より姿を消してしまって、宮中も政府も軍部も、天皇の勅命の下に皮肉にも一体となり、数万の大軍を出動させてでも、頑強な反乱軍の武力討伐にふみ切ることを決意した。かくて二十八日夜より二十九日朝にかけて、つぎのような戒厳司令部発表が新聞とラジオのために行なわれ、さすがにツンボ棧敷におかれた全国民を驚かせ、心配させたものだ。
「 〔戒厳司令部発表第三号〕 (二月二十八日午後十時三十分)
一、一昨二十六日早朝、騒擾を起こしたる数百名(実際は約一千四百七十名であるのをごまかしている――筆者)の部隊は目下、麹町区永田町付近に位置しあるも、これに対しては戒厳司令官において適応の措置を講じつつあり
二、前項部隊以外の戒厳司令官隷下の軍隊は陛下の大命を奉じて行動しつつありて軍紀厳正、志気また旺盛なり
三、東京市内も麹町区永田町付近の一小部分以外は平静なり、またその他の全国各地は何等の変化なく平穏なり  」
「 〔戒厳司令部告諭第二号〕 (二月二十九日午前六時二十分)
本職はさらに戒厳令第十四条全部を適用し、断固南部麹町区付近において騒擾を起こしたる反徒の鎮圧を期す、然(しか)れどもその地域は狭小にして波及大ならざるべきを予想するを以て、官民一般は前告諭に示す兵力出動の目的をよく理解し、特に平静なるを要す   戒厳司令官 香椎浩平  」
「 〔戒厳司令部発表第四号〕 (二月二十九日午前六時二十五分)
二月二十六日朝、決起せる部隊に対しては各々その固有の所属に復帰することを各上官よりあらゆる手段を尽くし、誠意を以て再三、再四説諭したるも、彼らはついにこれを聴き容るるに至らず、そもそも決起部隊に対する措置のため、時日の遷延(せんえん)をあえて辞せざりしゆえんのものは、もしこれが鎮圧のため強硬手段をとるにおいては流血の惨事あるいは免(まぬが)るる能(あた)わず。不幸かかる情勢を招来するにおいては、その被弾地域は誠に畏(かしこ)くも宮城をはじめ皇、王族邸に及び奉るおそれもあり、かつその地域内には外国公館の存在するおり、かかる情勢に導くことは極力これを回避せざるべがらざるのみならず、皇軍互いに相撃つが如きは皇国精神上、真に忍び得ざるものありしに因るなり。然れども徒らに時日のみを遷延せしめて、しかも治安維持の確保を見ざるはまことに恐懼(きょうく)に堪えざるところなるをもって上奏の上、勅を奉じ現姿勢を撤し各々所属に復帰すべき命令を昨日、伝達したるところ、彼らはなおもこれに聴かず、遂に勅命に抗するに至れり、事すでにここに致る、遂に已むなく武力をもって事態の強行解決を図るに決せり、これに関し不幸兵火を交うる場合においても、その範囲は麹町区永田町付近の一小地域に限定せらるべきをもって、一般民衆は徒らに流言蜚語にまどわされることなく、勉めてその居所に安定せんことを希望す。 」
「 〔戒厳司令部発表〕 (二月二十九日午前七時十分)
万一、流弾あるやも知れず、戦闘区域付近の市民は次の様御注意下さい。
一、銃声のする方向に対して掩護物を利用し難を避けること
二、なるべく低いところを利用すること
三、屋内では銃声のする反対側にいること
四、立退区域=市電三宅坂から赤坂見附、溜池、虎の門、桜田鬥警視庁前、三宅坂を結ぶ線は戦闘区域になるから立ち退きのこと、この区域内には、国会議事堂、霞ヶ関離宮、閑院宮邸、外務省、警視庁、府立一中等がある……(以下略) 」
かくて、反乱の第四日――二月二十九日未明から有力な兵力の討伐部隊は、四方八方より反乱軍を包囲して武力弾圧の作戦行動を開始した。私は朝日新聞社会部記者として、切迫した皇軍相撃つ市街戦の実況を目撃、報道するために、前日夕刻より写真班をともない、三食分の食糧を用意して、社旗を立てた自動車で四谷見附を迂回して、国会議事堂と三宅坂をすぐ眼下に眺める四谷一丁目の電停角に立つ東京電力の変電所になっていた大きな三階建てのビルにようやくたどり着き、その屋上に陣どって、酷寒の一夜を外套とセーターにくるまって緊張して明かした。暗い雪空の下、暁の薄明かりがさしたころ、戦車数台がゴトゴト近づいてきた。私は思わず息をのんで、刻々迫る壮烈な反乱軍討伐戦をいまか、いまかと待ちかまえていた。だが――幸か不幸か、新聞記者としては残念ながら、市街戦ははじまらず、一発の銃声も聞こえなかった。ただ、にわかに飛来した数機の軍用機の上から、また三宅坂より議事堂周辺をさかんに示威行動していた戦車群の砲塔から、まるで白雪のごとくたくさんの降伏勧告ビラが撒布されて、空中にも、交通の絶えた路上にも舞い散り、異様な印象を私にあたえた。そのビラにはつぎの通り印刷されていた。
「  下士官兵ニ告グ
一、今カラデモ遅クナイカラ原隊へ帰レ
二、抵抗スル者ハ全部、逆賊デアルカラ射殺スル 
  オ前達ノ父母兄弟ハ国賊トナルノデ皆泣イテオルゾ
  二月二十九日   戒厳司令部   」
また、同時刻ごろ、反乱軍のたてこもった議事堂と陸相官邸の周辺に、彼らによくわかるように、芝田村町の飛行館屋上から大きなアドバルーンが雪空に高く揚げられて、「勅命下る! 軍旗に手向うな」 の大文字がフワリフワリと寒風に震えていた。いっぽう、午前八時五十五分から東京中央局のラジオ放送(当時はJOAKと呼んでいた)は、歴史的な「兵に告ぐ」と題する香椎戒厳司令官の帰順勧告を電波にのせて、くり返しさけんでいた。
「 勅命が発せられたのである。すでに天皇陛下のご命令が発せられたのである。(中略) この上お前たちがあくまでも抵抗したならば、それは勅命に反抗することとなり、逆賊とならなければならない。正しいことをしていると信じていたのに、それが間違っておったと知ったならば、いたずらにいままでのいきがかりや義理上からいつまでも反抗的態度をとって、天皇陛下にそむき奉り、逆賊としての汚名を永久に受けるようなことがあってはならない……  」
反乱鎮圧に乗り出した軍当局の反乱下士官兵に対する切り崩し戦術は、たちまち効を奏した。まず、二十九日午前十時前後から参謀本部付近で、機関銃を有する兵隊約三十名が帰順したのを皮切りに、ついに兵火を交えることなく午後二時ごろまでに全部帰順して、四日間にわたる大反乱はまったく鎮定された。では昭和維新の実現に失敗した、「尊皇討奸」の熱血に燃えた決起青年将校たちはいったい、どうしたのか? 彼らは結局、真畸大将はじめ日和見(ひよりみ)主義の軍長老に裏切られ、また絶対視した天皇にも裏切られ、さらに部下の下士官兵一千数百名にも逃げだされて裏切られ、いまや名実ともに孤立無援の絶体絶命の窮地におちいった。かくて、反乱軍の首魁、香田、安藤両大尉以下幹部将校ら二十二名は陸相官邸で、総自決か公判闘争か、悲痛な論争を重ねたあげく、午後になって野中四郎大尉のみ別室で轟然一発、ピストルで単独自決したが、犬死にをきらった他の二十一名は、あくまで「獄中闘争」の決意をあらたに燃やして、夕刻までに、全員が悠然と多数の憲兵の手で逮捕された。そして彼らは、輝かしい帝国軍人の誇りも空しく軍服の肩章と襟章をもぎ取られたうえ、渋谷宇田川の代々木練兵場裏手の古めかしい東京陸軍衛戍(えいじゅ)刑務所へ護送されて、氷のように冷たい鉄窓につながれたのであった。それから半年後に、これらの青年将校と元将校の囚人たちは、いずれも特設された東京陸軍軍法会議で、非公開の秘密裁判にかけられたのち、昭和十一年七月五日、極刑の判決を言い渡された。そして上告も、訴願も一切許されず、わずか一週間後の七月十二日朝、香田大尉以下十五名の第一次処刑が銃殺により執行された。ただし、村中、磯部両名のみは、皇道派革命分子の根だやしの策謀から、一年間もおくれて翌十二年八月十九日、国家革新運動の大立物たる北一輝、西田税両人もろとも銃殺刑を執行された。かくて全日本を震撼した二・二六事件の幕は閉じたが、秘密裁判であわてて大量処刑された青年将校の亡霊は天皇をうらみ、将軍を呪いながら、二十五年後の今日にいたるもいまだに浮かばれず、奇怪な謎を秘めている。それはつぎに述べる。  

 

昭和三十五年十月十二日、秋も深まったさわやかな水曜日の午後三時半ごろ、東京の日比谷公会堂で開かれた都選挙管理委員会と公明選挙連盟共催の三党首立ち会い演説会の壇上で、社会党委員長浅沼稲次郎氏(六十一歳)が、千数百名の聴衆とテレビ・カメラとラジオ・マイクの寸前で暗殺されたテロ事件は、日本中を愕然(がくぜん)とさせた。しかも犯人は児島高徳(こじまたかのり=御醍醐天皇時代の天皇主義の武将)や、吉田松陰や西郷隆盛や、ヒトラーを深く尊敬するという、絶対天皇主義の愛国少年山口二矢(十七歳)の狂人的な一人一殺の右翼テロであると判明したので、世間はいっそうビックリした。それは戦前の軍国主義の狂乱時代に、日本の政界と社会を衝動した一人一殺の血盟団事件(昭和七年)や犬養(いぬかい)首相を暗殺した五・一五事件(同年)、陸軍統制派の実力第一人者永田鉄山中将を斬殺した相沢三郎中佐事件(昭和十年)、斎藤実(まこと)内大臣、高橋是清蔵相以下重臣を大量殺傷した二・二六事件(昭和十一年)などの、流血走馬灯のごとき一連の昭和暗殺譜を二十五年ぶりになまなましく思いおこさせる事件であった。それで、新聞、ラジオ、テレビがいっせいに「テロ時代来る!」とヒステリックに騒ぎ立てたのもむりはなかった。さる六月の日米安保条約改定阻止の左翼デモの集団暴力に対抗して、ついに右翼テロの古風な一人一殺の暴力が荒れ狂いはじめたのだ! 歴史はくりかえす――と私は二十五年前の暗殺と反乱の各事件を回想して、まことに感慨無量であった。この「昭和動乱史」の記録こそは、読者諸君に貴重なドキュメント的読み物として無限の興味をそそるものと信じている。この晴天の霹靂(へきれき)にも似た浅沼暗殺事件について、海外の反響はきわめて日本に不利であった。たとえば英国のロンドン・タイムス紙は、「日本における民主主義の将来は絶望的と思われるにちがいない」と論じ、また米国の各新聞はペンをそろえて、「日本の民主主義はまだ借り物であり、戦前の軍国時代の右翼テロが復活した」と難じている。さらにフランスや西独の新聞までがいちように、「公衆の面前で白昼堂々と白刃をふるって政党党首を刺殺した日本人の残忍性」を酷評した。しかし、日本国内の反響はかならずしも一定せず、ことに戦後、長いあいだ鳴りをひそめていた、いわゆる愛国右翼団体はいっせいに拍手喝采(かっさい)して、この十七歳の少年テロリストを白虎隊の勇士のごとく称揚し、また尽忠愛国の志士のようにあつかい、「赤化社会党」の浅沼委員長が山口少年の白刃に刺殺されたのは「天罰」であり、「安保デモの集団暴行を指揮した当然の報い」であると称号したものだ。私は新聞紙上で、犯人山口二矢が十七歳の少年に似合わず、落ちついたゆうゆうたる心境を取り調べの係官に吐露したつぎのような言葉を知り、思わず慄然(りつぜん)とした。それはちょうど二十五年前の夏の白昼、永田軍務局長を「天誅(てんちゅう)!」と叫んで斬殺した相沢中佐の「尊皇討奸(そんのうとうかん)」の心境と、いみじくも相通ずるものがあったからだ。
「 ――社会党は、国家のためにならないものだと信じていました。社会党はけっきょく、ロシア革命のときに政権を共産党にわたす役をやったケレンスキー内閣の日本版になると考えたからです。私は安保闘争でこの考えに確信をもち、浅沼氏のほかにも、野坂日共幹部会議長、小林日教組委員長もやらねばならないと思い、ねらっていました……  」
また山口少年の自宅の裏庭には、必殺の空手を練習していたワラをまいた一本の太い杭が立っていたが、その角柱の両面にはそれぞれ「神州不滅」「皇紀二千六百二十年」という文字が墨で大書されて残っていた。しかも、彼が凶行当時着用していた古ぼけたジャンパーのポケットに入れた一冊の中型の手帳には、黒インキでつぎのような和歌二首が書きこまれていた。
「 国ノ為、神州男子ハ晴レヤカニ、ホホエミ行カン死出ノ旅 」
「 大君ニ仕エマツレル若人ハ、昔モ今モ心変ラジ 」
私がこれらの事実を知って、しみじみと痛感したことは二十五年前の血盟団の一殺多生(いっさつたしょう)の精神と、二・二六事件の青年将校たちの昭和維新をめざす殉国捨身(じゅんこくしゃしん)の覚悟がいまだ亡びず、民主日本の今日に生きながらえているということであった! それから、三週間たった十二月二日夜、冷たい秋雨が降りそぼる八時半ごろ、東京練馬の少年鑑別所に収容されたばかりの浅沼暗殺犯人山口二矢は、独房内で首つり自殺をとげた。その壁には、歯みがき粉を水でといて、「七生報国、天皇陛下万歳」と指先で書き残されてあった。私はこの秋雨の蕭々(しょうしょう)と降る深夜十二時すぎ、書斎で奇しくも二・二六事件の記録を調べながら原稿を執筆していたとき、突然、ラジオ放送の臨時ニュースで意外な山口少年の自殺を知り、まるで胸を突かれたように驚いた。そして、重苦しい気持で五・一五事件や二・二六事件の悪夢のようなもろもろの思い出を偲(しの)んで、夜がふけてもなかなか眠られなかった。私はふと、こんなことを妄想した―― 二十五年前に大量処刑された決起青年将校たちの亡霊はいまだに浮かばれず、民主日本の今日もなおさまよいつづけて、十七歳の少年愛国者の山口二矢の心身に乗りうつったのではなかろうか? なぜならば、あの当時の青年将校の物事の考え方と、二十五年後の山口少年の考え方とは、世の中の移り変わりを超越してあまりにもよく似ているからだ。しかも、山口が凶行後、検察当局の取り調べにたいして率直に自供した内容はつぎの通りで、二・二六事件の決起将校の残した獄中手記や遺書とあまりにも相通ずるものが多いように思われた。
「 ――襲撃計画の目標には、小林日教組委員長、野坂日共中央幹部会議長、浅沼社会党委員長、社会党の松本治一郎氏らを選んだ。これらの人々は日本を滅亡さす赤色革命を起こす原動力になるからだ。自民党の河野一郎、石橋湛山の両氏も考えの中に入れ、狙ったが計画を中止した。浅沼委員長を襲ったのは十月十二日の事件当日、三党首の立ち会い演説会が開かれるのを知ったからだ。一人一殺の考えは大日本愛国党を脱党してからだ……。具体的な行動を起こす決意をしたのは、自宅で短刀を見つけた十月初旬だ。十月六、七日には明治神宮に参拝し、和歌二首(前掲)を詠んで神助を祈った。浅沼委員長が死んだのは警視庁に連行されてから知った。気の毒ではあったが、やむを得ない。しかし、目的は達した 」
要するに山口少年は、昭和維新をめざした血盟団団員や皇道派の急進将校とまったく同様に、「尊皇討奸」の若い狂信者であり、「身を捨てて大義を行なう」と悲壮な覚悟をかためていたのだ。そして、いわゆる古めかしい楠公(なんこう=楠正成)精神に深く感銘して、「七生報国」を念願し、実行したのだ!そしてそれが、軽薄狂燥のロカビリー時代、カミナリ族の横行するスポーツとセックス万能の現代の世相をしり目に、正義感と愛国心の強烈な十七歳の山口二矢の悲しい抵抗の姿であった。山口少年の残した歌を、もう一度、つぎに平がなに言き改めて引用してみよう。それは二十五年前の決起将校たちの辞世と比較して、驚くほどそのムードがよく似ていることに、読者諸君もさぞ同感されるであろう。
国のため神州男子は晴れやかに、ほほえみ行かん死出の旅   山口二矢
ひたすらに君と民とを思いつつ、今日永(とこし)えに別れ行くなり   香田清貞
心身(こころみ)の念おもいをこめて一向(ひたふる)に、大内山に光さす日を   安藤輝三
しばしして人の姿は消えぬるを、ただ捧げなん皇御国(すめらみくに)に   竹島継夫
日は上り国の姿も明るみて、昨日(きのう)の夢を笑う日も来ん   対島勝雄
君がため捧げて軽きこの命、早く捨てけん甲斐のある中   栗原安秀
五月雨の明けゆく空の星のごと、笑を含みて我はゆくなり   中橋基明
むら雲に妨げられし世をすてて、富士の高嶺に月を眺めん   丹生誠忠
身は一代名は幾千代の命なり、義を残してぞ生甲斐にこそ   丹生誠忠
大君のために生れて大君の、ために死すべき我身なりけり   坂井 直
我はもと大君のため生れし身、大君のため果つる嬉しさ   田中 勝
身はたとひ水底の石となりぬとも、何惜しからん大君のため   中島莞爾
我がつとめ今は終りぬ安らかに、我れかへりなむ武夫(もののふ)の道   安田 優
うつし世に二十四歳の春過ぎぬ、笑って散らん若ざくら花   高橋太郎
鬼となり神となるともすめろぎに、つくす心のただ一筋に   林 八郎
ただ祈りいのりつづけて討たればや、すめらみ国のいや栄えよと   村中孝次
国民よ国をおもひて狂となり、痴となるほどに国を愛せよ   村中孝次
わが魂(たま)は千代万代(ちよよろずよ)にとこしえに、厳(いか)めしくあり身は亡ぶとも   磯部浅一  
十一

 

さて、本題に立ちもどって、前述のとおり、二・二六事件を計画、指揮した決起将校一味の大量銃殺は、昭和十一年七月十二日朝、代々木練兵場裏手の東京陸軍衛戍(えいじゅ)刑務所で執行された。これよりさき、七月五日の東京陸軍軍法会議の第一次判決では、反乱罪首魁として元歩兵第一旅団副官、元陸軍歩兵大尉香田清貞以下、元将校十三名と常人四名、計十七名が死刑をいい渡された。この元将校というのは決起当時は現役将校であったが、反乱鎮定後に逮捕されて、「大命に抗し陸軍将校たる本分に背いた」という理由で免官処分に付せられたうえ、位の返上と勲等功級記章の褫奪(ちだつ=剥ぎ取る)を命ぜられた人びとである。また常人というのは、反乱当時、すでに軍人の身分を喪失していた村中孝次元大尉と磯部浅一元一等主計両名(いずれも十一月事件ならびに粛軍に関する意見書の怪文書事件で昭和十年八月、免官処分となる)に、さらに陸士本科中退の渋川善助をふくめていたので、純粋の民間人は日本大学出身の弁護士で湯河原の旅館に牧野伸顕(しんけん)元内府を襲撃(河野寿大尉の指揮下に入り、同大尉の負傷後、代わって指揮をとった)した水上源一(当時二十九歳)ただ一人であった。以上の死刑囚十七名のうち、職業的革命運動家とみなされた村中、磯部両名を除いた元将校ならびに常人、計十五名は、七月十二目に銃殺刑を執行されたのである。村中、磯部両人が分離されて処刑を延期されたのは、陸軍首脳部がかねてより青年将校を煽動して革命思想を鼓吹する黒幕の危険人物として憎んでいた、急進将校のバイブルといわれる『日本改造法案大綱』の著者、北一輝とその弟子の革命運動家西田税(元陸軍少尉、五・一五事件にも関係)両名を反乱罪首魁(しゅかい)として断罪するために、利用しようと企てたからだ。その結果、二・二六事件には法律上、直接関係の薄かった北と西田は、村中と磯部もろともに、第一次判決処刑より一年以上もたった昭和十二年八月十九日(判決は八月十四日)に、反乱罪首魁として銃殺刑を執行された。さて、このようなわけであったから、二・二六事件の首謀者または謀議参与、群集指揮者として、特設の軍法会議で死刑の宣告を受けた被告たちの心境はかならずしも同様ではなかった。もちろん、彼らは昭和維新のみずから捨て石となる覚悟は固くできていたから、決して三月事件や十月事件に連座した権勢欲の強い将軍や、幕僚(陸大出の佐官級)連中の不純なクーデター計画の野心とは、同一視すべきものではない。彼らは衷心より祖国日本の理想実現をめざして、一点の私利、私欲の邪念もなかったように思われた。だから、昭和維新実現のために天皇の信任した重臣たちを無残にも暗殺した責任について、彼らは決して生命を惜しむつもりはなかったであろうが、しかし、血気にはやる青年将校の胸中にはあくまで「君側の奸臣(かんしん)を除いて国体明徴に徹することが、臣子(しんし)たり股肱(ここう)たる絶対道である」と確信していたわけだ。さればこそ、彼らは天皇より「維新大詔」の渙発(かんぱつ=公布)を期待して、皇道派の総帥たる真崎甚三郎大将を首班とする軍政府の樹立を切望していたのである。それをはっきりと見とどけるまでは決して死ねるものではなかった。ところが、天皇は重臣暗殺をいたくなげいて、青年将校の暴挙を怒り、ことに真崎大将はじめ皇道派の将軍連中を前々から毛嫌いされていたので、いわゆる昭和維新の夢はたちまち破れて、皇軍反乱の悲劇はわずか四日間でその幕を閉じた。そして、「皇祖皇宗ノ神霊、翼(ねがわ)クハ照覧冥助(めいじょ)を垂レ給ハンコトヲ」(決起趣意書)とて、昭和維新の成功を祈念した決起将校は、いも早く自決した野中四郎大尉を除いて全員、反乱軍首魁または謀議、指揮者として憲兵隊の手で一斉逮捕されて、鉄窓に収容された。しかも弁護人もつけられず、非公開の一審制の軍法会議のスピード裁判によって事件後わずか四ヵ月半で十八名の元将校のうち、十三名もが死刑の判決を受けたのであるから、彼らの胸中にみなぎる激情はいかにも深刻であったろう。彼らが銃殺刑の執行直前に詠んだ辞世の和歌は、既述のようにいずれも名利を求めぬ淡々たる志士の心境をしめしてはいるが、しかしながら、七月五日に死刑の宣告を受けてから、七月十二日に銃殺刑を執行されるまでの一週間の彼らの獄中での懊悩(おうのう=苦しみ)は、まことに絶望の地獄の苦しみであったろう。なぜならば、彼らは絶対崇拝する天皇から勅勘(ちょくかん=天皇からのとがめ)をこうむり、またみずから最大の忠臣をもって任じながら、意外にも最悪の逆賊として処刑されることになったからだ! したがって、彼らの中にはあくまで判決の不正を攻撃して自己の正義を主張するもの、あるいは反乱の失敗を反省して自己の不明を謝するもの、さらにまた忠義者を見殺しにする天皇を怨んで軍長老の無責任と裏切りを呪うものなど、さすがに木石ならぬ死刑囚の心は生死の境で乱れざるを得なかった。
大量銃殺の悲運をむかえて、東京陸軍衛戍刑務所の独房の中で、昭和維新の志士を気どる死刑囚たちは、それぞれ遺書を書き残した。それは生前に義侠心のある看守の手を通じて、あるいは面会に来た家人の手を通じて、または死後、遺品といっしょに、合法的に、または非合法的に、獄外へ持ち出された。そして戦中も戦後も、長い間ひそかにかくされていたが、連合軍の占領終了後、ようやく発表された。これらの悲痛な獄中手記や遺書を丹念に読むと、奇々怪々な二・二六事件のまさに氷山の一角に触れたような気持がする。ここにそのいくつかの記録を紹介しよう。彼らの亡霊は、今日にいたるまで、いまだに浮かばれず鬼哭(きこく=霊魂が泣く)啾々(しゅうしゅう)たる感がふかい。
「 安藤輝三(元歩兵第三連隊、陸軍大尉)
公判は非公開、弁護人もなく(証人の喚請は全部却下されたり)発言の機会などもなくまったく拘束され、裁判にあらず捕虜の尋問なり。かかる無茶な公判のなきことは知る人のひとしく怒るところなり」「万斛(ばんこく=多大)の恨みを呑む――当時、軍当局は吾人の行動を是認し、まさに維新に入らんとせり。しかるに果然、二十七日夜半、反対派の策動奏功し、奉勅命令(撤退命令)の発動止むなきにいたるや、全く掌を返すがごとく『大命に抗せり』と称して討伐を開始(奉勅命令は伝達されず)、全く五里霧中の間に下士官兵を武装解除し、将校を陸相官邸に集合を命じ、憲兵及び他の部隊を以て拳銃、銃剣を擬せしめ山下奉文少将、石原莞爾大佐らは自決を強要せり。一同はそのやり方のあまりに甚しきに憤慨し自決を肯んぜず(とくに謂れなき逆賊の名の下に死する能はざりき)今日に至れり」
「叛軍ならざる理由――
(一)決起の趣旨に於て然り、
(二)陸軍大臣告示は吾人の行動を是認せり、
(三)天皇の宣告せる戒厳部隊に編入され、小藤大佐(当時、歩一連隊長)の指揮下に小藤部隊として、麹町地区警備隊として任務を与えられ、二十七日夜は配備に移れり、
(四)奉勅命令は伝達されあらず」  」
「 栗原安秀(元歩兵第一連隊、陸軍中尉)
「昭和十一年七月初夏の候、余輩青年将校十数士、怨(うらみ)を呑みて銃殺せらる。余輩その死につくや従容たるものあり。世人或いはこれを目して天命を知りて刑に服せしと為さん。断じて然らざるなり」「余、万斛(多大)の怨を呑み、怒りを含んで斃れたり。我魂魄(こんぱく=霊魂)この地に止まりて悪鬼羅刹となり我敵を馮殺(ひょうさつ)せんと欲す。陰雨至れば或いは鬼哭啾々として陰火燃えん。これ余の悪霊なり。余は断じて成仏せざるなり。断じて刑に服せしにあらざるなり。余は虐殺せられたり。余は斬首せられたるなり。嗚呼、天は何故にか、かくも正義の士を鏖殺(おうさつ)せんとするや」「そもそも今回の裁判たる、その慘酷にして悲惨なる、昭和の大獄に非ずや。余輩青年将校を拉致し来りこれを裁くや、ろくろく発言をなさしめず、予審の全く誘導的にして策略的なる、何故にかくまで為さんと欲するや。公判に至りては僅々一ヵ月にして終わり、その断ずるや酷なり。政策的の判決たる真に瞭然たるものあり。すでに獄内に禁錮し、外界と遮断す、何故に然るや」「余輩の一挙たる、明らかに時勢進展の枢軸となり、現状打破の勢滔々(とうとう)たる時、これが先駆たる士を遇するに極刑を以てし、しかして粛軍の意を得たりとなす。嗚呼、何んぞその横暴なる。吾人徒(いたずら)らに血笑するのみ、古(いにしえ)より狡兎死して走狗(そうく)烹(に)らる(注)、吾人は即ち走狗なるか」(注=兎が死ねば猟犬は不要になって煮て食われる。敵国が滅びれば軍の忠臣は邪魔物として殺されるの意味) 「余は悲憤、血涙、呼号せんと欲す。余輩はかくの如き不当なる刑を受くる能はず。しかも戮(りく)せらる、余は血笑せり。同志よ、他日これが報いをなせ、余輩を虐殺せし幕僚を惨殺せよ。彼らの流血をして余の頸血(けいけつ)に代わらしめよ、彼等の糞(ふん)頭を余の霊前に供えよ。余は瞑せざるなり、余は成仏せざるなり、同志よ須(すべから)く決行せば、余輩十数士の十倍を鏖殺すべし。彼等は賊なり、乱子なり、何んぞ愛憐を加ふるの要あらんや」  」
「 香田清貞(元歩兵第一旅団副官、陸軍大尉)
「南無妙法蓮華経、決起の主意は決起趣意書に示せる通りなるも、或いは伝はらざらん。大意は天日を暗くする特権階級に痛棒を与へ国体の真姿を顕現し、国家の真使命を遂行し得る態勢になさんことを企図せるなり」「二十五日夜より二十六日朝にわたり、歩一第十一。中隊に在りて諸準備をなす。二十六日、午前四時三十分、首相官邸に於いて大事決行中の栗原部隊を横に見ながら、陸相官邸に至り、陸相と会見、上部工作をなす。正午過ぎ、陸軍大臣告示を山下(奉文)少将より伝達を受く。二十六日夜、宮殿下を除く軍事参議官全員を集め交渉をなす。同夜は同邸に在り」「二十七日、戦時警備令下令せられ、その部隊に入る。次いで戒厳令下令せられ同部隊に入り、小藤大佐指揮官となり、麹町地区守備隊となり、完全に皇軍として認めらる。二十七日午前、戒厳司令部に至り司令官に交渉せり。二十七日夜、陸相官邸に於いて、真崎(甚三部)、西(義一)、阿部(信行)の三大将と交渉す」「奉勅命令は誰も受領しあらず。安藤大尉は維新の大詔の原案を示されたり。軍幕僚並に重臣は吾人の純真、純忠を蹂躙(じゅうりん)して権謀術策を以て逆賊となせり。公判は全く公正ならず判決理由は全く矛盾しあり。父は無限の怨を以て死せり。父は死しても国家に賊臣ある間は成仏せず、君国のため霊魂として活動してこれを取り除くべし」  」
「 竹島継夫(元豊橋教導学校、陸軍中尉)
「昭和十一年二月二十六日、皇軍未曾有の大事に参加し、ついに七月五日、反乱の罪名の許に死刑の宣告を受けたり。顧ればこの世に生きを受けて三十年、過去は是れ一場の夢、我が三十年は悉(ことごと)く是れ非なりき。道を求むる事無く、酔生夢死、今に至りて悔恨(かいこん)の情に苛(さいま)まれ然も及ばず。ここに過去を悔(く)ゆるまま、思い出ずるままを書き残し、以て前車の轍(わだち=跡)を後人をして踏まざらしめんとす」「天皇陛下に対し祟り恐懼(きょうく)に堪えず、微臣(びしん)謹んで刑に服し以て地下において御詫び申上げ祟る。然れども微臣御上に対し祟り、一点邪心、二心無かりしを、死に臨みて言上し祟る」「皇軍に拭ふべか参ざる汚点を印したるは、我が浅慮の致すところ、その威信を失墜したるは誠に衷心申訳なき極み、死してなお償ふべからざるものなり。願はくば皇軍上下一層、自奮自励、その士気を作興し、その歩武を正し、以て、上(かみ)聖明に対し祟り、下(しも)国民の期待に反かず、以てその威信を中外に宣揚せられんことを」「獄中所感――吾れ誤てり、ああ、我れ誤てり。自分の愚かなため、是れが御忠義だと一途に思い込んで、家の事や母の事、弟達の事気にかかりつつも、涙を呑んで飛び込んでしまった。然るにその結果はついにこの通りの悲痛事に終った。ああ、何たる事か、今更悔いても及ばぬ事と締める心の底から、押さえても押さえても湧き上がる痛恨悲憤の涙、微衷(びちゅう=私の心中)せめても天に通ぜよ」「我れ年僅かに十四歳、洋々たる前途の希望に輝きつつ幼年校に入り、爾来星霜十五年、人格劣等の自分ながら、唯々陛下の御為めとのみ考えていた。然るにああ、年三十歳、身を終わる。今日自分に与えられるものは、反乱の罪名、逆徒の汚名、この痛恨、誰が知ろう」 」
「 中橋基明(元近衛歩兵第三連隊、陸軍中尉)
「吾人は決して社会民主革命を行ないしに非ず。国体反逆を行ないしに非ず。国の御綾威(おみいづ=御威光)を犯せし者を払いしのみ。事件間、維新の詔勅の原稿を見たる将校あり、明らかに維新にならんとして反転せるなり。奸臣の為に汚名を着せられ且つ清算せらるるなり。正しく残念なり。我々を民主革命者と称し、我々を清算せる幕僚共は昭和維新と称する」「秩父(ちちぶ)宮殿下、歩三に居られし当時、国家改造法案も良く御研究になり、改造に関しては良く理解せられ、此度決起せる坂井(直)中尉に対しては御殿において、『決起の際は一中隊を引率して迎えに来い』と仰せられしたり。これを以てしても民主革命ならざる事を知り得るなり。国体擁護の為に決起せるものを惨殺して後に何か残るや、来るべきは共産革命に非ざるやを心配するものなり。日蘇(につそ)会戦の場合、果たして勝算ありや、内外に敵を受けて何如となす」「吾人が成仏せんが為には昭和維新あるのみ。『日本国家改造法案』は共産革命ならず。真意を読み取るを要す。吾人は北、西田に引きずられしに非ず。現在の弊風を目視(もくし)しこれを改革せんとするには軍人の外、非ざるを以て行ないしなり」 」
以上のような反乱首謀の青年将校たちの獄中手記、あるいは、遺書形式の絶筆を熟読してみると、今日もなおなまなましく、刑死を目前にして獄中に呻吟(しんきん)する若い魂の激動を感ずることができるように思う。  
十二

 

しかし、なんといっても、二・二六事件の表舞台で活動した決起将校たちは、いずれも世間ずれのしない直情径行の現役軍人であったから、ついに事が志に反して失敗し、みずから逆賊として処刑される悲運に立ちいたっても、あまり見苦しく天皇を怨んだり、軍長老の冷淡な豹変(ひょうへん)を怒るものはなかった。ところが、二・二六事件より二年前の十一月事件(昭和九年十一月中旬、在京青年将校と士官候補生若干名を中心とする不穏計画事件)に連座して停職処分を受けたうえ、さらに粛軍に関する怪文書事件によって免官追放された村中孝次大尉(当時、歩兵第二十六連隊大隊副官)と磯部浅一一等主計(野砲兵第一連隊付)の両名は、あくまで冤罪(えんざい)を主張して争い、深く軍首脳部の統制派を恨んで、烈しい憎悪を燃え上がらせて、昭和維新運動の急先鋒となって奔走していた。それゆえ、反乱の当時すでにこの両名は民間人の自由な立場にあって、青年将校一味の指導的役割を努めて、重臣襲撃後の軍上層部への政治工作を担当して奮闘した。したがって、両名とも直接、重臣の暗殺行動には参加しなかったが、軍法会議では反乱罪首魁として死刑を宣告されたわけだ。ところが、既述のようにこの村中、磯部両名は、国家改造運動の大先覚者たる北一輝と弟子の西田税両名を断罪するために利用されたので、死刑執行を一年余も延期され、獄中で翌年の昭和十二年八月まで生き延びた。その間に、両名は革命家として悲憤慷慨のあまり激烈な獄中手記を丹念につづっていた。とくに熱血革命児をもって自他ともに任じていた磯部は、長文の手記のほかに遺書や北と西田の助命嘆願書などを大いに書きまくり、獄内でものすごい鬱憤(うっぷん)晴らしをしていたらしい。それらの獄中手記は、まったく奇蹟的にも非合法的に刑死前に持ち出されたうえ、戦中も戦後も絶対に秘密にかくされていた。こうして二十年ぶりではじめて発表されたこの貴重な手記を通読して、私がもっとも興味をひいたのは、彼が「尊皇討奸」の夢破れて、深く天皇を怨み、正しい天皇制のあり方について苦言を呈している幾多の率直な文章であった。もしも、忠臣は諌言(かんげん=主君をいさめる)するというならば、死刑囚の磯部浅一こそ昭和史上、未曾有の忠臣であるといわねばなるまい。彼は天皇のために、また日本国家のためによかれかしと念願しつつ、明治維新につぐべき昭和維新の天業をみずから生命を賭けて翼賛(よくさん=助ける)し奉ろうと企てたものであった。しかし、維新義軍の決起は、かえって天皇が深く信頼した重臣たちの老体を血祭りに上げたために、平和好みの温情な天皇の悲しい怒りを買って、逆賊と反軍の汚名をさせられてしまった。だが、このような天皇の態度に磯部は不平であり、不満であった。みずから正しいと信ずる彼は、あくまで天皇の反省と覚醒をうながすために、烈々たる獄中日記を書き残したのだ。
「 天皇陛下! 陛下の側近は国民を圧する漢奸(かんかん=売国奴)で一杯でありますゾ。御気付き遊ばさぬでは日本が大変になりますゾ。今に今に大変な事になりますゾ。明治陛下も皇太神宮様も何をしておられるのでありますか。天皇陛下をなぜ御助けにならぬのですか。日本の神々はどれもこれもみな眠っておられるのですか。この日本の大事をよそにしているほどのなまけものなら日本の神様ではない……」「死刑判決主文中の『絶対に我が国体に容れざる』云々は、如何に考えてみても承服出来ぬ。天皇大権を干犯せる国賊を討つことがなぜ国体に容れぬのだ。剣をもってしたのが、国体に容れずと言うのか、兵力をもってしたのが然りと言うのか」「仮りにも十五名の将校を銃殺するのです。殺すのであります。陛下の赤子を殺すのでありますぞ。殺すと言うことはかんたんな問題でない筈(はず)であります。陛下の御耳に達しない筈はありません。御耳に達したならば、なぜ充分に事情を御究(おきわ)め遊ばしませんので御座いますか。なぜ不義の臣等をしりぞけて、忠烈な士を国民の中に求めて事情を御聞き遊ばしませぬので御座いますか。何人というも御失政はありましょう。こんなことを度々なさりますと、日本国民は陛下を御うらみ申すようになりますぞ…… 陛下、日本は天皇の独裁国であってはなりません。重臣、元老、貴族の独裁国であるも断じて許せません 」
はたして磯部元主計は、獄中で気が狂ったのであろうか? 私はここにこそ、天皇制の不可思議な実体があり、また、相沢中佐から磯部以下、決起将校の「尊皇討奸」イデオロギーの神秘性がひそんでいると思う。この問題をタブーにして戦中も戦後もあい変わらず頬被りしていては、二・二六事件の真相と正しい究明は永久に不可能であろう。だが、磯部にせよ、香田にせよ、栗原にせよ、あるいは相沢中佐にせよ、皇道派の革新将校連中は、天皇の理想像について致命的な誤算と誤解をかさねていた。彼らはその「決起趣意書」の中で、猛烈に元老、重臣、軍閥、官僚、政党を非難攻撃して「国体破壊の元凶」ときめつけ、また「ロンドン海軍条約並に真崎教育総監更迭」を天皇の統帥権干犯なりとはげしく憤激していながら、皮肉にも、天皇自身がそれを統帥権干犯などとは考えていない事実を知らなかった。また当時、軍部や愛国、右翼団体がうるさく騒ぎ立てていた天皇機関説をめぐる国体明徴問題についても、天皇は案外にも無関心であって、戦後にはじめて明らかにされた元侍従武官長本圧繁大将の手記には、
「 天皇機関説はいけないといろいろ論ぜられているが、自分はそれでもよいと思う――と仰せあり」という天皇の言葉が記載されている。また、この本圧大将手記によると、「軍の配慮は朕にとっては精神的にも肉体的にも迷惑至極である。機関説の排撃が、かえって自分を動きのとれないものにするような結果を招くことについて慎重に考えてもらいたい……」 とも天皇が語ったようにつたえられている。 」
要するに、天皇制そのもののあり方について、天皇およびその有力側近者(つまり元老重臣たち)と、陸軍ならびに皇道派の急進青年将校たちとの間に、決定的な思想上の相違と対立があったのだ。これは二・二六事件の奇怪な秘密を追及するための有力な手がかりとなるものであろう。それはまた日本国民にとって、過去の問題ではなくて、現在ならびに将来の重要な問題であろう。 
十三

 

二・二六事件は、雪の朝に決起した「維新義軍」の青年将校たちの大量銃殺によって幕を下ろし、あわただしくも片づけられたが、この軍隊反乱の傷痕は意外に深く日本の運命に残された。それは、軍国日本の支配をめざして陸軍派閥の主流たる統制派が、つねに目のかたきにしていた真綺甚三郎大将を統帥とする皇道派を徹底的に弾圧、追放する口実に、この事件をたくみに利用したからであった。こうして、いわゆる口うるさい邪魔者を根こそぎ一掃した統制派の軍首脳部は、反乱事件をしかるべく逆用して、財界と手をむすんで経済統制を強化しながら、国民大衆の関心を大陸へ向けて、日華事変の拡大と太平洋戦争への道を突進したのである。「もしも陸軍首脳部に皇道派が健在であったならば、無謀な太平洋戦争はおそらく起こらなかったであろう。そうすれば日本は敗戦の悲運も、降伏の屈辱も決してうけることなく、建国二千年の光輝ある歴史を汚すことはなかったであろう」と、年老いた真崎大将が戦後にもらした所感は、かならずしもそのまま受け容れられるものではない。しかし、二・二六事件以来、まったく軍部より追放されて、長年、悶々の蟄居生活をしのんできた老将軍にとっては、祖国の開戦も敗戦も、その真因が遠く二・二六事件の不当な処理と弾圧にさかのぼることを、だれよりも痛切に感じていたのであろう。要するに、当時の軍首脳部は形式的な厳罰主義を励行して、国民大衆の前にゆらいだ軍の威信を取りもどそうと懸命に努力する一方、事件の全貌と真相を国民の眼から極力かくそうとあらゆる策略を弄したようだ。すなわち、表面上、決起将校を「問答無用」とばかり迅速に大量処刑にしながら、皮肉にも彼らの悲願の決起の趣旨は、そっくり統制派の要望として、狼狽し恐怖した政界および財界に圧力をかけ、かえって統制派に有利な軍部独裁体制を促進した結果となった。こうして、昭和維新の捨て石たらんと決起した皇道派の急進青年将校たちが打倒しようとねらった「奸臣軍賊」が、亡びるどころか逆にかえって枕を高くして眠れるような、ぼう大な軍事予算と戦争景気を謳歌する時勢が到来したわけだ。したがって、特権階級の排除と万民の至福をめざした「国家革新」は、いわゆる軍閥や財閥につごうのよい「戦時体制」にスリかえられてしまったのである。 
十四

 

国民大衆が完全に眼をふさがれてツンボ桟敷で、ただヤキモキしながら、日本の運命をゆさぶる重大危機の二・二六事件を心ならずもウヤムヤに見すごしていたとき、はからずも東京の一角から雪の朝の大反乱をじっと目撃して、その実相を、いちはやく全世界へ向けて打電し、「日本軍、東京を占領す!」と題する長文の現地報告をタイプライターで叩いていた老練な外国新聞特派員があった。それは私の長年の友人で、当時、はからずも日比谷の帝国ホテルに止宿していた英人記者ヘッセル・チルトマン氏である。この彼の歴史的な二・二六事件報告記は、彼の著書『極東はいよいよ接近す』(一九三六年十月、ロンドン、ジャーロルド社刊)の中に、第五章「死が東京を打つ」として収録されているが、今日でも貴重なドキュメントとして異彩を放っている。ではいったい、全世界を衝動したといわれる二・二六事件は、青い眼の外人記者に当時、どのように映ったであろうか? チルトマン氏は満州事変以来、英人記者としてたびたび日本にきて、日華事変には日本軍と中国軍の双方に従軍するなどめざましく活躍し、当時、朝日新聞記者だった私と親交を結ぶようになった。奇しくも昭和十五年(一九四〇年)末に、私が波高き太平洋をわたってニューヨーク特派員として赴任するや、彼もまた一足さきにロンドンより着任したばかりで、ニューヨークのタイムス・スクェア近くのホテルに同宿することになり、日米開戦の日まで長い間、朝夕いつも顔をあわせて、軍国日本の動向と、昭和動乱の行方を心配しながら、たがいに愁眉をよせあう間柄であった。さて、英人記者チルトマン氏の二・二六事件報告記の要点をつぎに紹介しよう。まず、彼の当時の日本観はつぎの通りで、よく日本の実力と、その目標を鋭く洞察していた。
「 極東――それは、歴史の終局の場であり、いまや移り変わりつつある。日本はもはや島国ではなくて、大陸国家である。日本軍の手により満州、蒙古、北支において中国領土を約百万平方マイルも奪取したことは、アジアの現状を打破してしまった。しかも、それは現代の歴史上の重大事件の一つとなってしかるべきものであろう 」
「 今日、日本の国境はソ連との国境にまで進出している。黒竜江とウスリー河の両河に沿って、また、蒙古の大草原をこえて、非公式の『戦争』が、日本=満州国とソ連=蒙古の両連合軍のあいだで、すでに過去二年間も戦われており、その死傷者数は絶えず増大している……。日本の新軍備拡張計画は、日本を六年以内にソ連のごとく強力にするよう企画されている。欧米の列強からの抗議に対して、日本の実際の支配者である軍国主義者たちは、“必然”という口実をもって返答し、また国内の穏健主義者からの忠告に対しては暗殺をもって回答しているのだ! 」
さすがに日本通の老練な英人記者は、当時、日本を支配していた軍国主義者の正体をよく見ぬいていた。そして、軍国日本を「太平洋の火薬庫」と呼び、また「極東の噴火山」にたとえていた。そのチルトマン記者が、昭和十一年二月、ちょうど、反乱事件の起こるわずか数日前にはるばる上海経由でロンドンからヒョッコリと入京して、常宿の日比谷の帝国ホテルに旅装をといたことは、まことに国際的ジャーナリストたる彼にとって好運であった。二月二十六日朝、軍隊反乱の報を聞くや、彼はすぐホテルの玄関から積雪の日比谷公園へとび出して、お濠端より警視庁方面へ急行し、反乱軍に占拠された桜田門一帯の実況を視察した。そしてひと通り取材をすませて、ホテルのロビーヘもどると、止宿中の外人連中にたいして、決起の趣旨をよく説明して、昭和維新が決して西洋流の革命にあらざることを強調し、「在留外人の保護には万全を期するから心配なし」と申し入れてきた皇道派の有力な革新的幕僚、満井佐吉中佐とロビーのテーブルをかこんで会談した。彼は外国新聞特派員として、まことに絶好のときに、絶好の場所にいあわせて、自由な立場よりこの歴史的な反乱事件を冷静に、公正に、報道したり批判することができた。ちょうど同じころに、私もまた、日本人記者として雪の東京市内を取材にとびまわってはいたが、すっかり緊張し、とても興奮してしまって、とうてい冷静な軍部批判などは思いもよらなかった。もっともそんなことを口に出したらい恐ろしい憲兵の眼がたちまち光って、ひどい目にあったことであろう。今日から回顧すると、いかにも不思議にみえるが、当時、日本中の新聞社と新聞記者が、すべて厳重な検閲と言論統制の下に、いわばはがいじめにされていたのに反して、在留外人記者たちはいずれも自由に思うままに取材し、打電していたものだ。要するに当時の日本では、軍部も政府も、国民大衆にはつごうの悪いことを、なるべく知らさぬために、厳重な記事掲載さしとめ政策を強行していたが、さすがに「言論の自由」の欧米諸国からきた外人記者連中までも取り締まることはできなかった。だから、二・二六事件の実相についても、外国にはすっかり筒抜けになりながら、知らないのはかえって日本人ばかり、というわけであった。 
十五

 

これまで述べた通り、二・二六事件の突発した朝より、四日目に反乱の鎮定した夕刻まで、この重大なニュースの報道にあたり、われわれ日本人記者はその見聞したことを当局発表以外、いっさい書くことも、発表することも厳禁されて、まったく新聞人として意気地なくも全国民を裏切ったようなものであった。当時の日本の新聞を拡げてみても、ただ大活字と大見出しで当局発表の官製ニュースがものものしく掲載されているばかりで、雪の朝の戦慄した市内風景や、市民の驚愕と反響などについては一行も報道されてはいない。ところが、チルトマン記者をはじめ外国新聞特派員は、その見聞した反乱ニュースをさかんに書きまくり、それぞれ海外へ向けて打電していた。それこそ新聞の本然の姿であり、また何ものも恐れぬ真実の追求こそ新聞記者の唯一の使命であったのである。残念ながら二・二六事件のような日本の運命を左右する重大事件にのぞんで、日本の新聞はまったく無力であり、私のような若くて元気な新聞記者もまた、軍部を恐れて意気地がなかったと思う。おそまきながら深く反省するしだいである。だが、チルトマン記者の「東京反乱」の現地報告は、今日あらためて読んでみても、じつになまなましくて、つぎの通り当時の模様を目前に見るように記録している点は、まったく敬服せざるをえない。
「 一九三六年(昭和十一年)二月二十六日朝五時十分ころをもって、とうとう日本の総理大臣は、もはや支払い金額の如何をとわず生命保険をかけることができなくなってしまった。(昭和七年の五・一五事件で犬養首相が暗殺されて以来、日本の首相は生命保険会社より加入を敬遠されてきたが、ついに二・二六事件で完全に忌避されたという寓意である)。この時刻に“死”が東京を打ったのだ―― それは全世界を目覚ますほど高らかに打ちのめした 」
「 その大雪の朝、東京は眠りよりさめると、東京そのものが、いわゆる、『ニュースの渦中にある』ことを発見した。日本軍の満州侵入以来、アジアから起こった最大のニュースがすぐ東京の鼻の先で突発したのであった。『これは軍事革命だ。岡田、高橋、おそらく斎藤など半打(ダース)の重臣が暗殺された!』と第一報は報じた 」
「 乱れとぶ流言から真実をふるいにかけてよりわけるには、若干のときを要するが、ただ一つの事実は、水晶のごとく明白であった。すなわち、夜半の間に、東京駐屯部隊の一部よりなる日本の軍隊が反乱を起こして、東京市のもっとも重要な地区を占拠したのだ。その地区の中には、宮城と政府官庁(ただし外務省をのぞく、同省は皮肉にも反乱軍から無視されたのだ!)と警視庁と東京逓信局と参謀本部その他、重要建物が包含されていた。そして海外電信も長距離電話も不通であった。東京は世界よりまったく隔絶されたのであった 」
「 この事態はクーデターのように見えた。ただ似ていたのみならず、その後におこった諸事件が証明したように、たしかにクーデターであった。この反乱は青年将校の一団の命令のもとに東京駐屯の第一師団の約一千五百名によって遂行され、少数の砲兵隊員に支援されたものであり、青年将校中の野中四郎大尉と安藤輝三大尉の両人が指揮官として行動した」「この『殺人部隊』は二月二十六日の真夜中すぎに機関銃、小銃、手榴弾で武装し、軍用トラックに分乗して兵営を抜けだした。それから二時間後に、彼らは宮城(したがって天皇もその中にいた!)を包含する市内の中心の戦略地点を首尾よく占拠したうえ、反撃に対して防衛態勢を固めようと布陣していた。これらの出来事は、世界第三の大都市で、日本帝国政府の所在地であり、また軍統帥部の各総司令部のある東京の心臓部で、最初の暗殺が決行される少なくとも四時間以前に起こったのであった 」
「 東京は能率の高い警察力と特高刑事隊をもつ大都会である。ところが奇怪千万にも、全東京中だれ一人として、すでに起こったこれらの出来事について、総理大臣の岡田啓介海軍大将に、もしくは他の閣僚たちに、緊急警告しようと企てたものさえいなかったようだ。かくて呪われた運命の人々は、いまだ暁の到来しないまえに、その寝床の中で、無残にも惨殺されるままに放任されていたのだ! 」
「 東京の中枢地区をすべて占拠したうえ、暗殺任務を担当した選抜隊は、『君側の奸臣たる自由主義分子を芟除(せんじょ=削除)するために』午前五時ごろには進撃した。しかし、この目的は平易な言葉でいいかえれば、『陸軍のアジア膨脹計画を支持しない重臣全部を皆殺しにする』ことであった。多分その槍玉にあかって死んだ最初の犠牲者は、老練な大蔵大臣高橋是清(これきよ)であったろう。反乱部隊は午前五時すこし過ぎに彼の家に乱入して、彼の寝室に押し入り、彼をめがけて拳銃を三回も発射した 」
「 日本財政界の偉大な老人は、『諸君はいったいなにをするのか?』と、反問した。この質問は殺人部隊を指揮する将校を激怒させたようだ。その将校はいきなり軍刀を抜き放ち高橋老を斬り倒し、ほとんどその右腕を切断した。かくして老人はそのままおきすてられ、数時間のうちに死んだのである 」
チルトマン記者の二・二六事件の現地報告は、さすが、長年にわたり全世界の動乱をかけめぐり、流血の革命騒ぎを見聞してきたベテランだけに、日本の新聞記者にはとうてい描けないような鋭いセンスと表現力を発揮している。そこで日本全国の新聞が、まるで唖のように黙殺していた反乱第一日の二月二十六日の東京市内の光景を、つぎのとおりなまなましく描いているのが注目される。
「 その二月二十六日の正午、私は町へ出て日本人の群衆にくわわった。そこには大勢の女や子供たちもまじっていた。いずれも吹雪まがいの粉雪が荒れ狂うのにもめげず、東京を占領した日本軍の珍しい光景を見物しようと、遠くから市内の中心へでかけてきたのであった。しかし、群衆の大きな行列は、みんな怒るでもなく悲しむでもなく無表情な顔つきをして、宮城地域のまわりに反乱軍が構築して守備する鉄条網のバリケードまえを、ぞくぞくと通り過ぎていった 」
「 また群衆は、警視庁とその近辺を占拠して守備していた、五百名の軍隊と二十五梃の檐関銃のまえに立ちどまって、珍しそうに見つめていた。彼らは政府官庁の建物の前を、ゾロゾロと過ぎて行ったが、交通のほとんど途絶した道路の中央に、まるで銃剣をもった雪人形のごとく立ちはだかった反乱軍の兵士たちに、立ちどまらないで、歩くよう押されていた。また彼らは、反乱軍の大半が所属した歩兵第三連隊の兵舎の門前で、軍用トラックから重い大きな弾薬箱がたくさん積みおろされて、門内へ搬入されるのを眺めていた 」
「 私の見たところでは、三マイルたらずのみちのりに沿って、数万の見物人が列をつくって集まっていたにちがいない。その全部の人々は、厳重な検閲と軍発表の詳報がまったく欠けていたにもかかわらず、『どうか立ち止まらないで下さい』とどなっていた兵隊たちが、ほんの数時間まえに、八十二歳の高橋蔵相をふくめて日本の有する偉大な公僕(パブリックサーバント)の多数を暗殺した凶行に関与したことを知っていた。この高橋老に国民大衆からよせられていた人気は大変なもので、私はつぎのような光景を数日前に総選挙運動中の大阪で目撃したばかりであった。それは『右翼』のある候補者が高橋の政策を思いきって攻撃したところが、演説会場の全聴衆が憤慨して、一人のこらず立ち去ったのであった 」
「 それでいながら、この反乱の日の群衆の中に、私はすこしでも感情を顔にあらわした人を見かけることはなかった。これらの東京市民は、みんな完全に沈黙して、完全な秩序を守りながら、ゾロゾロと不可解な無表情のまま、この『革命』を視察していた。その中の多数は、会社から早退した会社員であった。それはこの当日、東京市内の会社は休業していたからであった。そして彼らはこの『革命』なるものを自分の眼で見物すると、いそいで市内電車か乗合バスに乗ってしずかに帰宅していった。それで東京の中心は人通りも絶えて、一面の雪と反乱軍兵士と、その『尊皇討奸』の思想に独占されたのであった 」
「 この二月二十六日の夕暮れちかく、湿ったボタ雪が降りつづいて、道路上に立哨した反乱軍と政府軍の双方の兵士の頭上に公平に白く積もっていた。私は宮城に接近した東京の心臓部の一角に立って、現代史上で珍しい光景を見つめていた。私のすぐ後方には、宮城へ通ずる道路を守備する反乱軍の一隊が、機関銃を鉄条網のバリケードのそばに立てて黙々と立っていた。彼らは日本流に銃剣をつけた小銃を脇の下にかかえていた。それは多分、二百名くらいの部隊であったろうが、いずれも厳重に武装して東京の大動脈を支配していたのだ。そしてその近辺には、もっと多数の部隊と、若干の砲兵部隊もかくれていたといわれる。彼らの機関銃は豊富な弾薬を供給されていたので、恐るべき殺戮の十字火をもって、その辺一帯を掃射することができたであろう 」
「 突如、東京中央駅の方角より軍隊の行進してくる軍靴の音がひびいてきた。すると軍隊の一部隊があらわれた。それは一隊また一隊とぞくぞく現われ、雪まみれの軍帽と長外套を着用し、雪の泥道のぬかるみをはね返しながら勇ましく行進していた。その兵士の一部は機関銃を携行しており、また他の兵士は多量の弾薬箱をはこんでいた。これは東京警備司令官香椎中将が反乱軍を『掃蕩する』ために急遂、呼集した政府軍の中の、兵力数千の先遣部隊であった。この先遣部隊の先鋒隊が、最初の反乱軍の前哨陣地の前面にさしかかったとき、そのときこそまさに強烈な劇的な瞬間であった。ただ一本の舗道が、この相反する両兵力をへだてているばかり。それは一瞬にして流血の海と化するのだ。もしもこの瞬間に、だれか一人の兵士が小銃をぶっ放したならば、たちまち血なまぐさい修羅場と化したことであろう。世界中のほとんどすべての他の国々では、このような、いわゆる『政府軍』の行進は、流血の悲劇に終ったことであろう! 」
「 この光景を目撃していたごく少数の外国人は、香椎司令官が危険を賭してとった措置を知ったとき、思わず呼吸をとめて緊張した。だが、外人記者たちは気をもむ必要がなかったのだ。香椎将軍は日本人をよく知り、とくに日本の軍隊をよく知っていた。しかも、彼はなによりも、反乱軍がいわゆる『君側の奸臣』を手当たりしだいに殺害した後で、いまや彼らが引き起こした混乱の中より脱け出る道を探し求めていることも承知していた。しかも、日本軍の戦友愛は、まったく英国軍の戦友愛のように、固いものである 」
「 この反乱軍も政府軍も、その下士官兵はいずれも同じ型の貧しい農村の家庭の出身であった。その両者とも、同一の強烈な国家主義精神を鼓吹されていた。また、両者とも武士道をわきまえて、それを実行していた。この武士道とは、だれかがすでに述べていたように、『従容として死ぬ術』を守りぬく信条である 」
「 かくて、東京の中心を占拠していたカーキ色の制服を着た武士は、実弾をこめた小銃を手にしたまま、いそいで構築したバリケードの後方で黙々と身動きもせず立ちつくしていた一方、その相手のいわゆる『敵軍』の部隊は、近代戦のあらゆる武装を完備して行進をつづけていった。そしてこの政府軍の各部隊は東京市内の警備のため、またもしも必要あらば革命を粉砕するため、指定された地点に陣どった 」
このように、雪の日の大反乱をじっと見つめていたチルトマン記者のなまなましい描写と鋭利な洞察は、二・二六事件の真相をいち早く全世界へ興味ふかく報道した。さすがに長年の敏腕な特派員生活を通じて世界中の動乱や革命を目撃してきた彼は、反乱の第一夜、反乱軍と政府軍の衝突の危険をいちばん重視して、吹雪に暮れゆく町角に立って、大きな「歴史の鼓動と戦慄」をひしひしと感じていたのだろう。しかし、皇軍は決してあい撃つことがなかった。その理由を、日本通のチルトマン記者は、外国人のだれよりも十分によく理解していたようである。
「 それから、ぞくぞくとやってくる政府軍の行進は、一回か二回ばかり、反乱軍の立哨によってさしとめられたが、別に何事も起こらなかった。政府軍の兵士の一部は、反乱軍の陣地に接近していたので、会話をかわしていた。また煙草をたがいに分けあい交換するものもいた。両軍の半打(ダース)ばかりの兵士は、たがいに二ヤード以内で向かいあって、立哨しながら話し合っていた。それは、私のすぐそばであったので、私は彼らの顔をよく見つめた。それは絶対に無表情であった。私に限らずだれでもその場に居合わせたものが言えたことは、この反乱軍と政府軍の双方の兵士たちが、まるで何事も起こらなかった平常の一日のように、この反乱の日をむかえているように見えたのであった!なにか異常な大事件が起こったのを信ずることは不可能だった 」
「 もしも、この道路一面を殺戮の銃火で掃射できるようにかまえた反乱軍の機関銃座がなかったならば、また積雪の中に立てた反対側の機関銃座もなく、しかも反乱軍を威嚇しないようにわざと狙いをそらせた銃口さえ見えなかったならば、この光景はなにか軍隊の儀礼行進の後始末のようなものに見えたことであろう。そこには完全に非現実な雰囲気がただよっていた。それとも、反乱軍はすでに疲れていたのであろうか? あるいは、また、彼らはもはや唯一の終末しかあり得ないことを悟っていたのであろうか? おそらく、これらの説明のうちどれよりも重要な理由は、日本の軍隊固有の紀律と訓練のしからしめたものであろう 」
合理的な考え方を重んずる青い眼の外人記者には、昭和維新の奇怪な反乱がこう映ったのだ。結局、反乱の第一夜で日本の革命は失敗したことを彼は直感した。しかし、二・二六事件の犠牲者の屍をのりこえて、軍国日本は中国大陸へ、南方へ、北方へ、あくまで進軍することを彼は予言していた。
「 ――かくてつぎの事実は、いまや一点の疑問の余地がなくなった。それは斎藤実子爵や高橋是清氏や野中四郎大尉が同様に死んで埋葬されたのではあるが、しかし、進軍をつづけてゆくのは野中大尉の魂である! 」
私の親友である英国著名の日本通の新聞記者チルトマン氏は、二・二六事件の現地報告「日本軍、東京を占領す」の終わりをこの言葉で結んでいた。今日より読み返してみて、まことに先見の明のある警句であったと思う。  
十六

 

雪の朝の皇軍反乱として全世界を驚かせ、また、重臣の大量殺傷で日本全土を衝動した二・二六事件が昭和十一年二月二十六日未明に勃発してから、すでに二十五年が過ぎた。まったく歳月は水の流れるごとく早くすぎ去るものであるが、一方、また古今東西を通じて歴史がくりかえすものであることは、だれでも異様におそろしく感ずるであろう。なぜならば、二・二六事件後約二十五年たった昭和三十五年十月、社会党委員長浅沼稲次郎氏を脇差(わきざ)しで一撃の下に刺殺した十七歳の狂信的少年刺客山口二矢(おとや)は、二十日後に東京練馬の少年鑑別所の独房内で、「七生報国、天皇陛下万歳」と壁に書き残して首つり自殺をとげたが、彼の受国精神は、皮肉にも二十五年前の雪の朝に反乱を起こした青年将校たちの憂国精神と、一脈相通ずるものがあるからだ。たとえ左翼偏向の大新聞や、興味本位のマスコミが、いくら少年刺客の行動を抹殺しようとつとめても、彼の精神と行動は、日本独特の天皇制国家主義者の各団体によって広く是認され、また強く支持されて、十二月に盛大な追悼会まで開催された事実を、決して黙殺するわけにはゆかぬ。よかれ悪しかれ、日本に天皇制のつづくかぎり、この事件は決して忘れられないであろう。私は浅沼暗殺事件と、山口自決事件とを表裏一体のものとして、昭和三十五年度の日本の十大ニュースの上位をしめるものであると信じていた。それは、私の二・二六事件の調査、研究がすでに明らかにしたとおり、「尊皇絶対」を信じて行動しながら、不覚にも、天皇自身に見棄てられて大量処刑された青年将校の、いまだに浮かばれぬ亡霊が、今日の民主日本に黒い影をひいて、いまなおさまよっているからである。(前述) 彼らは――二十五年前の決起青年将校も山口少年も同様に、日本固有の絶対天皇制の理想政治と理想社会をつねに夢に描いて、いわゆる「天皇親政」の「維新」という名の革命を悲願としていたのだ。その原因はもちろん複雑ではあるが、なによりも、まず第一に彼らを刺激し、悲憤慷慨させ、決起させた要因はつぎの五点に要約されるであろう。
「 一、政党政治の腐敗と官僚の堕落
二、重臣と財閥の結託、不正
三、特権階級の専横
四、農村の疲弊と大衆の貧困
五、軍縮と米英追従外交   」
また一方、日本とはまったく国情も民族精神も異なるアフリカの黒人帝国エチオピアでも、この年(昭和三十五年)の十二月に三千年の歴史をゆるがして、ハイレ・セラシエ皇帝の追放と庶(しょ)政一新をめざすクーデターが親衛隊の青年将校連中の手で企てられた。エチオピア国民にとっては幸か不幸か、それはひとまず失敗に終ったけれども、反乱を起こした青年将校の決起理由として、皮肉にも日本の二・二六事件の決起青年将校と共通したつぎの原因が挙げられていたのは注目すべきことだった。
「 一、大衆の貧困
二、特権階級(皇族、僧侶、金持、大地主)の独裁、専横
三、支配階級(宮廷、重臣、政治家、官僚)の腐敗   」
もちろん、日本の天皇制とエチオピアの皇帝制とを同列に比較することはできない。が、しかし、国民大衆の望んでいる理想的な社会建設を夢みて、現状打破の直接行動に決起した青年将校の気概と悲願には、時代も国境もこえて、なにか大きな共通点があるように思われる。また、山口少年の場合でも、二・二六事件は彼にとっていまだこの世に生まれてこない遠い昔の出来事ではあるが、しかし、不可思議にも敗戦後の自由享楽のロカビリー時代に生きる、彼の異常な愛国精神は、「尊皇討奸」の旗印の下に決起したいまは亡き青年将校の熱狂的な憂国精神を再現したのだ! それは時代をこえて同じ児島高徳(こじまたかのり)や、吉田松陰の天皇中心主義に培われたものである。今日の民主日本に右翼革命や軍隊反乱の危険はあまりなさそうであるが、さりとて決起した青年将校たちが、夢に描いたような昭和維新の理想日本は、いまだになに一つ実現されてはいないのだ! われわれ日本国民は、戦前と戦中と戦後の各世代をとわず、二・二六事件の全貌と真相を、あらためて認識し再検討して、その血みどろな教訓を正直にくみとることを恐れてはなるまい。二十世紀の後半の現代にて、国王や大統筒が高級車を乗りまわしながら、民衆が貧しくハダシで暮らしているような矛盾した国では遅かれ早かれ、また左翼か右翼かをとわず、革命とクーデターは必至であろう。  
十七

 

さて、二・二六事件が昭和動乱のクライマックスであるならば、それより五年前の奇怪な三月事件と十月事件は、まさに二・二六事件の導火線ともいえるだろう。この軍部中心の二つのクーデター陰謀事件は、戦後の今日でこそ、一般に知れわたってはいるが、昭和六年の事件当時はもちろんのこと、戦前も戦中も長年の間、終始一貫して厳秘に付せられていた。なぜならば、それは上は軍閥を牛耳(ぎゅうじ)る老将軍たちから、下は陸大出のいわゆる天保銭(てんぽせん)組(陸大卒業の楕円形の記章が天保年代に徳川幕府の作った銅銭に似ていることに由来す)の秀才少壮幕僚(佐官級)まで参加して、武力発動により政党政府を打倒し、戒厳令下に軍部政権を樹立して、いわゆる「天皇親政」の実現を企てたものであったから、その後の非常時色の時代相と世論の高揚の手前、軍部としてもはなはだ都合が悪く、面目上より、闇から闇へと葬り去って、「そんなことは軍を誹謗するデマだ」と空トボけて頬被(ほおかぶ)りしていたからだ。当時は早耳の新聞社情報通でさえ、事件については、いわゆる怪文書によって推察するほかはなかった。それが日本国民の前に正々堂々と公表され、はじめて自由に事件の真相を討議されるようになったのは、敗戦後の昭和二十一年四月より二年有半、世界注目の中に、東京で開廷された極東国際軍事裁判の法廷であった。そしてこの東京裁判の判決(昭和二十三年十一月)によって、三月事件の正体はつぎのように明らかにされ、これまで久しくツンボ棧敷におかれていた天皇はじめ、国民大衆を驚かせたものであった。その後、旧軍人の手記などで三月事件も十月事件もいろいろと論議されたが、いずれも自己弁護か、あるいは派閥の相手方を非難する偏狭な言辞がめだち、この東京裁判の判決文の冷静、かつ客観的な批判にとうていおよぶものではない。 今日では、この判決文も入手困難であるから、読者諸君の参考のためにつぎに原文を引用、紹介しよう。
「 一九三一年(昭和六年)三月二十日を期して、軍事的クーデターを起こす計画が立てられた。この事件が、後に『三月事件』として知られるようになったものである。参謀本部による絶え間ない煽動と宣伝の流布(るふ)とは、その効果を挙げた。当時、軍事参議官であった岡田啓介男爵(海軍大将、元首相)が証言したように、陸軍が満州の占領を開始することは、単に時の問題であるというのが一般の人の考えであった 」
「 陸軍が満州に進出する前に、このような行動に対して好意を有する政府に政権を握らせることが必要であると考えられた。当時は浜口内閣が政権を握っていた。そして、総理大臣(浜口雄幸)の暗殺未遂事件(昭和五年十一月十四日、犯人は佐郷屋留雄)のために、『友好政策』の主唱者、すなわち外務大臣幣原が総理大臣代理をしていた 」
「 橋本(A級戦犯、橋本欣五郎陸軍大佐、終身禁固刑)の計画は、参謀次長であった二宮(二宮治重中将)と参謀本部第二部長であった建川(建川美次少将)とをふくめて、参謀本部の上官の承認をえたものであるが、それは議会に対する不満の意を表わす示威運動を始めることであった。この示威運動の中に警察と衝突が起こり、それが拡大して陸軍が戒厳令を布き、議会を解散し、政府を乗っ取ることを正当化するような混乱状態にまで達せさせることができようと期待されていた 」
「 小磯(当時、陸軍省軍務局長小磯国昭少将、のちに陸軍大将、戦時中に首相)、二宮、建川およびその他の者は、陸軍大臣宇垣(宇垣一成大将)を官邸に訪問し、この計画について宇垣と討議し、彼らの策謀のためには、宇垣はいつでも利用できる道具であるという印象をもって辞去した 」
「 大川博士(A級戦犯、大川周明博士、獄中で精神異状を呈し免訴釈放)は大衆示威運動に着手するよう指示された。小磯がその際に使用するために確保しておいた三百個の演習用爆弾を、橋本は大川にとどけた。これらの爆弾は群衆の間に驚愕と混乱をまき起こし、暴動のような外見を強くするために使用することになっていた 」
「 ところが、大川博士は熱心さのあまりに、陸軍大臣宇垣にあてで書簡をおくり、その中で宇垣大臣が大使命を負うことになる時期が目前にさしせまったとのべた。陸相はいまや陰謀の全貌を見てとった。彼はただちに小磯と橋本をよび、政府に対するこの革命を実行するために、陸軍を使用する今後のすべての計画を中止するように命令した。計画されていたクーデターは未然に阻止された。当時の内大臣秘書官長であった木戸(A級戦犯木戸幸一元内大臣、終身禁固刑)は、このことを宮中に知らせておくべきだと告げた友人によって、この陰謀のことを前もって十分に知らされていた 」
「 この『三月事件』は浜口内閣の倒壊をはやめ、この内閣につづいて一九三三年(昭和八年)四月十四日に若槻内閣が組織されたが、幣原(しではら)男爵が抱壊していた『友好政策』をとり除くことには成功しなかった。彼が総理大臣若槻の下に、外務大臣として留任したからである。朝鮮軍司令官を免ぜられ、軍事参議官になっていた南大将(A級戦犯、南次郎大将、終身禁錮刑)が陸軍大臣として選ばれた。陸軍の縮減を敢行し、また、『三月事件』に参加することを拒んだために、陸軍の支持を失った宇垣大将に代わって、南は陸軍大臣の地位に就いた。宇垣は陸軍を辞めて隠退した 」
要するに、この三月事件は軍部の枢要部が中心となり、軍部独裁をめざすクーデターを企てたもので、その関係者のリストをみると、当時の軍事課長永田鉄山大佐(のちに陸軍中将、昭和十年に軍務局長に在任中、相沢三郎中佐に斬殺さる)のごとき志操堅実の統制派の智謀まで参加していたことは注目される。結局、彼らは、政党政治の腐敗を口実に武力を使用して政府を倒し、天皇制軍事国家を建設しようと策動したのだ。しかし、一味にかつがれた当時の宇垣陸相自身が、にわかに変心して計画を裏切ったのか、それとも誠心誠意で反乱を未然に防止したのか、この点を戦後にも、明らかにせず他界してしまった。あるいは悲運の老将軍の心中に、なにか暗い影が秘められていたせいかもしれない。すると、同じ年の十月に、またもや軍部中心のクーデター(十月事件)が計画されたが未遂に終った。その主謀者は、三月事件の中心が、参謀本部の将軍級であったのに反して、佐官級のいわゆる幕僚ファッショ連中であり、その指導分子は、参謀本部支那課長重藤千秋大佐、同ロシア班長橋本欣五郎中佐(当時)、北支軍参謀長勇(ちょういさむ)大尉といった顔ぶれで、皇道派の重鎮、荒木貞夫中将(のちに陸軍大将、陸相、文相を兼任す、A級戦犯、終身禁錮刑)をかついで、軍事革命政権の首班にしていた。これについて、東京裁判の判決文は、つぎの通り鋭く論断している。
「 (日本政府が満州事変について)国際連盟とアメリカ合衆国に与えたこれらの誓約(「日本政府が満州においてなんらの領土的意図をも抱くものでないことは、あえてくり返す必要がないであろう」)は、内閣(第二次若槻内閣、幣原外相)と陸軍との間には、満州における共通の政策について、意見の一致がなかったということを示した。この意見の相違がいわゆる『十月事件』を引き起こした。これは政府を転覆するクーデターを組織し、政党制度を破壊し、陸軍による満州の占領と開発の計画を支持するような新政府を立てようとする参謀本部のある将校たちと、その共鳴者との企てであった。この陰謀は桜会(急進派の犒本欣五郎中佐を中心に昭和五年九月に結成された国家改造をめざす革新将校一味の団体)を中心としていた。その計画は政府首脳者を暗殺することによって、『思想的と政治的の雰囲気を廓清(かくせい=粛清)する』ことにあった。橋本がこの一団の指導者であり、陰謀を実行するために必要な命令をあたえた 」
「 橋本は、荒木(当時、陸軍中将)を首班とする政府を樹立するために、一九三一年(昭和六年)十月の初旬に、自分がこの陰謀を最初に考え出したということを認めた。木戸がこの反乱計画のことをよく知っていた。彼の唯一の心配は、広汎(こうはん)な損害や犠牲を防止するために、混乱を局限する方法を見出すことにあったようである。しかし、根本(根本博中佐)という中佐は、警察にこの陰謀を通報し、陸軍大臣(南次郎大将)がその指導者の検挙を命じたので、この陰謀は挫かれた。南がこの反乱に反対したという理由で、白鳥(元駐伊大使白鳥敏夫、枢軸外交の提唱者、A級戦犯終身禁固刑)は彼を非難し、満州に新政権を立てるために迅速な行動をとることが必要であり、もし南がこの計画に暗黙の承認をあたえたならば、『満州問題』の解決を促進したであろうと断言した 」
記録によると、橋本中佐一味は同年十月十八日を期して若槻首相、幣原外相、牧野内府らの重臣、大官を暗殺した上、軍隊を出動させて政府と議会その他、要所を占領し、戒厳令下に新内閣を樹立する計画であった。そして宮中には東郷元帥を参内させて天皇の承認を得る一方、閑院宮(へいいんのみや)と西園寺公には急使を特派して、新興勢力に大命降下を奏上させる工作を企てた。彼らはみずからを新興勢力と称して、きわめて権勢欲が強く野心的であり、つぎのとおり新内閣の顔ぶれまで手まわしよく内定していた。 (この点は、名利を求めず、昭和維新の捨て石たらんと念願した純忠な二・二六事件の青年将校たちとは、まったく精神も理想もちがっていた)
首相兼陸相 荒木貞夫中将
内務大臣  橋本欣五郎中佐
外務大臣  建川美次少将
大蔵大臣  大川周明博士
警視総監  長勇少佐
海軍大臣  小林少将(中将として 霞ヶ浦に在る海軍航空隊司令)
これをみると、橋本中佐一派の計画したクーデター計画は、まるで日本でトルコやエジプトや中南米諸国なみの軍事革命を起こそうとしたものであり、しかも、一味は財界の一部より多額の軍用金を提供させて、連日連夜、築地の待合「金竜亭(きんりゅうてい)」その他の料亭に居つづけて酒と女にひたり、明治維新の志士を気どって大言壮語していたとつたえられている。まことに腐りはてた軍人魂の正体である。こんな邪心と野心と私心をもって国家改造とか昭和維新とかを論じながら、天皇制軍隊を革命の道具に使おうと企てた彼らこそ、じつに昭和日本の墓穴を軍人みずから掘ったものといえよう。 
十八

 

このような将軍中心の三月事件と、幕僚中心の十月事件の二つのクーデター計画を未然に探知して阻止しながら、軍首脳部は軍刑法の反乱予備罪を公正に適用して断乎、関係者を軍法会議に付して、徹底的に捜査、摘発するということをせず、処罰もせず、ただ、軍の体面上より軽い行政処分(転勤ならびに禁足処分)でごまかして、ひそかに闇から闇へ葬り去ったのであった。これがその後に来る五・一五事件(昭和七年)から二・二六事件(昭和十一年)にいたる一連の暗殺、反乱時代をまねいたのであった。しかも、軍部の手による国家革新のクーデターのタネをまいた将軍や、幕僚連中が、わずか数年後には、「統制」と「粛軍」の名の下に直情径行の青年将校(尉官級)の言動をおさえて、皮肉にも昭和維新の芽をつみとろうと努力したことが、かえって全国各地の青年将校たちの憤激を誘発した。とくに革命家北一輝の大著『日本改造法案大綱』に心酔、感激して、「重臣、財閥とともに内閣も君側の奸臣(かんしん)として仆(たお)すべし」と主張した急進派青年将校の指導者、村中孝次大尉と磯部浅一一等主計の両人は、昭和十年四月に、「粛軍に関する意見書」と題する三月事件および十月事件の真相を暴露、追及した怪文書を各方面に頒布したため停職処分に付せられ、さらに同年八月、免官処分となった。それ以来、青年将校たちは統制派の軍主流をむしろ敵視して、昭和維新へ独走したわけだ。(前述)なぜ、三月事件と十月事件の中心人物たちが、わずか数年間のうちにクーデター壮画を放棄して、かえって重臣、財閥と手を結んで、高度国防国家の建設へ邁進したのであろうか? なぜ、青年将校たちの崇敬の的であった皇道派の大立者の真崎甚三郎大将が、軍主流の統制派よりにくまれて、冷(ひや)飯を食わされたのであろうか? それは、日本人固有の偏狭な島国根性がとくに軍人心理に強く作用していた点もあるが、最大の要因は、昭和六年九月十八日、奉天北郊の柳条溝(りゅうじょうこう)の爆音一発により満州事変が起こって、軍部のかねて計画していた日満一体化の大陰謀が着々と成功しつっあったため、軍主流の将軍も幕僚連中も、軍部の政治的発言権が飛躍的に増大し、巨大な軍事予算も思うままに獲得できるようになって、「わが世の春」を謳歌していたからであった。軍人もまた人間である以上、とくに野心満々たる将軍や出世コースをめざす幕僚たちは、新橋や赤坂の一流料亭で、政財界の有力者ならびに革新官僚グループと接触している間に、冒険的なクーデターや、空想的な国家改造計画を未練もなく棄てて、満蒙支の経営と国防充実に熱申するようになった。このような将軍や幕僚の変節は、純真で単純な青年将校一派をいっそう、痛憤させて、これらの軍上層部を「軍賊」と罵倒して憎悪させるようになった。それで、二・二六事件の首魁として銃殺刑を執行された磯部浅一元主計の獄中遺書をみると、決起将校たちは川島陸相にたいする要望事項の一つとして、「小磯国昭、建川美次、宇垣一成、南次郎などの将軍を逮捕すること」を決定していたし、さらにまた、磯部個人として作成した斬殺すべき軍人リストには、「林銑十郎、石原莞爾(かんじ)、片倉衷(ちゅう)、武藤章、根本博の五人の将軍と幕僚(いずれも統制派)」が記入されてあった。
また磯部は獄中より、尊敬する革命の先覚者北一輝と西田税両人(いずれも反乱罪首魁として死刑)の助命と冤罪(えんざい=無実の罪)について、再三、激烈な上申書を出しているが、その一節につぎのようにのべている。
「 北、西田両氏の思想は、わが国体顕現を本義とする高い改造思想であって、当時流行の左翼思想に対抗して毅然としているところが、愛国青年のもとめるものとピッタリと一致したのであります 」
「 要するに、青年将校の改造思想は、時世の刺激をうけて日本人本然の愛国魂が目をさましたところからでてきておるのであります。ですのに官憲は、北、西田の改造法案を弾圧禁止することにヤッ気になっています。これは大きな的(まと)はずれです。為政者が反省せず、時勢を立てかえずに北、西田を死刑にしたところで、どうして日本がおさまりますか? 」
「 北、西田を殺したら、将来、青年将校は再び尊皇討奸の剣をふるうことはないだろうと考えることは、ひどい錯誤です。青年将校と北、西田両氏との関係は、思想的には相通ずるものがありますけれども、命令、指揮の関係など断じてありません。ですから、青年将校の言動はことごとく愛国青年としての独自のものです。この関係を真に理解してもらいたいのです。北、西田が青年将校を手なづけて軍を攪乱するということを、陸軍では大きな声をしていいます。こんなベラ棒な話はありません 」
「 軍を攪乱したのは、軍閥ではありませんか。田中(田中義一大将)、山梨(山梨半造大将)、宇垣(宇垣一成大将)の時代に、陸軍はズタズタにされたのです。この状態に憤激して、これを立て直さんとしたのが青年将校と西田氏らです。永田鉄山(陸軍省軍務局長、相沢中佐に刺殺さる)が林(陸軍大臣林銑十郎大将)とともに、財閥に軍を売らんとし、重臣に軍を乱されんとしたから、粛軍の意見を発表したのです。真崎(教育総監真崎甚三郎大将)更迭の統帥権干犯問題は林、永田によってなされたのです 」
「 三月事件、十月事件などは、みな軍の中央部幕僚が、ときの軍首脳者と約束ずみで計画したのではありませんか。何をもって北、西田が軍を攪乱するといい、青年将校が軍の統制を乱すというのですか? 北、西田両氏と青年将校は、皇軍をして建軍の本義にかえらしめることに身命を賭している忠良の士ではありませんか! 」
「 昭和六年十月事件以来の軍部幕僚の一団のごとき『軍が戒厳令を布いて改造するのだ』『改造は中央部で計画実施するから青年将校は引っこんでおれ』『陛下が許されねば短刀を突きつけてでもいうことをきかせるのだ』などの言辞を、平然として吐く下劣不逞なる軍中央部の改造軍人と、北氏の思想とを比較してみたら、いずれが国体に容れるか、いずれが非(ひ)か是(ぜ)か、容易に理解できることです。軍が二月事件の公判を暗闇のなかに葬ろうとしているのは、北氏の正しき思想信念と青年将校の熱烈な愛国心とによって、従来、軍中央部で吐きつづけた不逞きわまる各種の放言と、国体に容れざる彼らの改造論をたたきつぶされるのが恐ろしいのが有力な理由であります。重ねて申します。北、西田両氏の思想は断じて正しいものであります 」
要するに、三月事件、十月事件から二・二六事件にいたる五年間のいたましい昭和動乱の傷あとを冷静にさぐってみると、私は天皇制の矛盾という大きな厚い壁にぶつかるのだ。すなわち、将軍も幕僚も青年将校も、すべて軍人勅諭によって天皇に直結し、天皇絶対の軍隊を構成しながら、みにくい派閥内争と、いわゆる下剋上(げこくじょう)の抗争をつづけ、いずれも「朕の股肱である」という特権意識の上にあぐらをかいて驕兵(きょうへい)のそしりをまぬがれなかった。しかも天皇自身の強い自由な発言権は、側近者と古い因習とによって「おそれ多い」という口実の下に封じられていたようだ。将軍も幕僚も青年将校も、めいめい相手を非難、攻撃しながら、それぞれ天皇をかついで、われこそ「天皇の寵児(ちょうじ)」たらんと忠臣ぶって言動していた。この天皇=将軍=幕僚=青年将校の奇々怪々な四角関係に思い切ってメスを入れないかぎりは、二・二六事件の複雑な秘密は永久に解けないであろう。しかも戦後に民主化されたとはいえ、二・二六事件のときと同じ天皇の下に、新しい軍隊たる自衛隊はすでにかなりの兵力を備えている。多数の“青年将校”たちはいったい、なにを考えているであろうか? 彼らは天皇制をどう思っているであろうか? また、今日の自衛隊の青年将校は二十五年前の天皇制軍隊の青年将校と、どこがちがっているのか? どこがちがっていないのか? 私は率直に訴えたい――天皇も政府も財界も官界も言論界も自衛隊も国民大衆も、どうか二・二六事件の真相を直視して、決して、腐い物にふたをすることかく、いったい、なにが誤っていたか、なにが正しかったか、当時の皇軍反乱のもろもろの教訓を、あらためて真剣に反省しようではないか! 我々の同胞と子孫とがふたたび同じような誤りを犯さないために――。 
十九

 

おそらく現代の国民の大半は、もはや二・二六事件などはるか遠い昔の軍国主義時代の日本のおぼろげな悪夢として忘れてしまったか、あるいは、いまではまったく関心のない昭和史上の軍人ファッショの狂気のさたとして、あっさりかたづけているのではなかろうか? もちろん、我々日本人にとっては、悪夢といえば太平洋戦争(開戦――敗戦――降伏――占領をふくめて)という大きな悪夢をだれでも覚えているはずであるから、これにくらべたら同じ悪夢といっても、二・二六事件のごときはいわば「茶碗の中の嵐」のようなものであり、しかも、それは直接に国民大衆とのつながりのない絶対天皇主義固有の独断的な軍人クーデターに終ったので、いまや二・二六事件が一般の国民大衆の間にもはや忘れられてしまっても別に怪しむにはおよばないであろう。しかし、二・二六事件は、そんなに現代の日本とは無関係であり、また今日の国民大衆より忘れられてよいものであろうか? 私のような戦史家の立場よりみると、二・二六事件こそ、まさに日本を破滅へみちびいた昭和動乱史上の、いわば呪いの墓標であり、またそれは、天皇制日本に永久に残された奇怪な傷痕でもある。さらにまた、二・二六事件の真相摘発と責任追及をゴマ化したがために、かえって天皇制の名の下に軍部と財閥の合作によって、軍国日本の戦争体制はいっそう強化され、無謀な太平洋戦争へ突入する破目におちいったともいえるだろう。私に率直にいわせるならば、二・二六事件は今日まで、本当はまだ未解決なのだ。その証拠には、戦中または戦後に育った世代が中学校や高校で学習した教科書には、いずれも二・二六事件の真実も意義も故意に省略されるか歪曲されて、いわば臭い物にふたをするように無視されている。また生徒が質問をしても、正確に答えられるような知識も関心も、今日の若い教官たちには欠けているようにみえる。それはいったい、なぜだろう? おそらく、二・二六事件こそ、日本に天皇制のつづく限りは、戦前と戦後を通じてつねに、天皇自身をはじめ歴代の為政者にとって、はなはだていさいの悪い、また都合の悪い不祥事であるために、いわば国民大衆の健忘症に便乗して故意に忘れさせられてきたように思われる。それはいいかえると、二・二六事件の真因を厳正無私の立場から追及、検討すると、どうしても天皇制のアイマイな本質、すなわち、その長所と短所をふくめた大きな矛盾を明らかにせねばならなくなるために、とうとう歴代の政府は事件そのものを闇から闇に葬りさり、国民大衆も真相を知らぬまま、いつとはなしに事件そのものを忘れてしまったのではなかろうか? では、なぜ二・二六事件の真因を明らかにすると、天皇制にとって都合が悪いのであろうか? それはまず第一に、天皇個人に傷がつく恐れがあるからだ。あの当時、武力決起した急進的な青年将校一派は、いずれも幼年学校、士官学校を通じて天皇制軍人教育によって徹底的に鍛えられた心身ともに百パーセントの愛国者であったから、その目的はその「決起趣意書」が明示していたように、あくまで天皇政治の理想的社会を実現するため「尊皇討奸」(いわゆる君側の奸臣を実力で排除すること)を決行して、日本的錦旗(きんき)革命と呼ばれた「昭和維新」を達成することであった。それはじつに決起青年将校たちの邪悪な野心のためではなくて、ただただ絶対天皇制の真価を広く日本民族のために顕現せんとする滅私奉公の尊皇精神の発露であった。したがって、重臣、財閥の腐敗と政党の堕落を憤怒して武力決起した青年将校一派の行動も理念も、結局は天皇制のもたらした悲劇であり、また行きすぎた天皇制軍人教育の生んだ奇型的忠義の実践をしめしたものだ。なぜ天皇は大元帥として、これらの純忠な青年将校たちと事前に親しく話しあい、無用の流血を阻止する決意を、もたなかったのであろうか? おそらく、気の弱い善意の天皇自身は「現状維持」になれて、血気さかんな青年将校連中よりも、保守的なおとなしい老人の重臣たちを頼りに思っていたのであろう。もしも天皇自身が、永田鉄山中将を白昼、陸軍省構内で「天誅!」と叫んで斬り殺した相沢三郎中佐の「尊皇絶対」の国粋精神に身ぶるいして、国家革新運動を内心、恐れて悪感情を抱いていたとしたならば、天皇こそじつに重臣、財閥、政党などいわゆる「腐敗、堕落した特権階級」の最大の味方であり、天皇親政を念願しながら、心外にも逆賊の汚名をさせられて刑死した青年将校たちの亡霊は永久にうかばれないであろう。私は決して二・二六事件の決起将校の行動を正当化したり、あるいは彼らの理念を光栄化したりするものではない。むしろ、彼らの言動と精神の深刻な矛盾を公正に検討することによって、この不祥事件の矛盾の禍根(かこん)が今日の日本にまだそのまま取り残されている点を明らかにしたいと望んでいるのだ。敗戦のおかげで日本の政治体制は独裁的な軍国主義と、神がかりの超国家主義から、自由、平和の民主主義へ百八十度の大転換をとげながら、天皇制にたいする日本人の国民心理の習性と惰性は、決して一朝一夕で変わるものではないことは最近の情勢からも明らかである。 
二十

 

さて、今度は二・二六事件の反乱軍、すなわち、決起将校一派のひきいた「昭和義軍」の正体と、その戦闘力について、私か入手した資料にもとづいて検討してみょう。それはいったい、どれくらいの兵力あるいは武力があったら、二・二六事件ぐらいの規模の反乱、ないしはクーデターが日本で実行できるであろうか――という今日の時点よりみた興味ある軍事的研究の題目であると思う。「決起趣意書」その他の文書にも明記されたとおり、決起将校たちはみずから「昭和義軍」または「維新義軍」と呼んで、大きな白布の幟(のぼり)に墨痕もあざやかに大書して幾旒も用意していた。それは彼らのつねに悲願としていた「昭和維新」を決行するための正義の軍隊を意味するものだった。わずか数人の年老いた元老、重臣を暗殺するためのみならば、彼らはそれほど多数の軍隊も武器も必要とはしなかったであろう。その場合には、おそらく五・一五事件(昭和七年)に参加した海軍、陸軍、民間各側をあわせてせいぜい三十名ぐらいの人数でことたりたであろう。しかしながら、彼らのめざす「昭和維新」の実現をみるまで、あくまで「尊皇討奸」を徹底的に断行するためには、まず、警官隊と憲兵部隊の干渉を制圧せねばならないし、また最悪の場合には、政府軍とも一戦をまじえるだけの戦闘力を保持する必要があった。彼らは天皇より「維新大詔」が渙発(公布)されるまでは、断乎として戦いぬかねばならなかったのである。それゆえ、彼ら決起部隊の武装と兵力は、つぎの通りきわめて強力なものであった。
「 一、首相官邸を襲撃して、岡田啓介首相殺害の任務を担当した栗原部隊(歩兵第一連隊)の兵力―― 指揮官=栗原安秀中尉、兵力約=三百名、武器=機関銃七、同実包二千数百発、軽機関銃四、小銃百数十挺、同実包一万数千発、拳銃二十、同実包二千数百発、発煙筒約三十、防毒面約百五十、このほかに梯子(はしご)などを携行す。
二、大蔵大臣私邸を襲撃して高橋是清蔵相を殺害、ならびに宮城坂下門を制圧する任務を担当した中橋部隊(近衛歩兵第三連隊)の兵力―― 指揮官=中橋基明中尉、兵力=約百二十名、武器=軽機関銃四、小銃百、同実包千数百発、拳銃数挺、同実包百発、ほかに梯子などを携行す。
三、内大臣私邸を襲撃して、斎藤実内府殺害の任務を担当した坂井部隊(歩兵第三連隊)の兵力―― 指揮官=坂井直中尉、兵力=約二百名、武器=機関銃四、軽機関銃八、各実包二千数百発、小銃約百三十梃、同実包約六千発、拳銃十数梃、同実包約五百発、発煙筒若干。
四、侍従長官邸を襲撃して鈴木貫太郎侍従長殺害の任務を担当した安藤部隊(歩兵第三連隊)の兵力―― 指揮官=安藤輝三大尉、兵力=約二百名、武器9機関銃四、同実包約二千発、軽機関銃五、同実包千数百発、小銃約百三十衍、同実包約九千発、拳銃十数衍、同実包約五百発。
五、警視庁占拠の任務を担当した野中部隊(歩兵第三連隊)の兵力―― 指揮官=野中四郎大尉、兵力=約五百名、武器=機関銃八、同実包約四千発、軽機関銃十数衍、同実包約一万発、小銃数百衍、同実包二万発、拳銃数十衍、同実包千数百発。
六、陸軍大臣官邸占拠の任務を担当した丹生部隊(歩兵第一連隊)の兵力―― 指揮官=丹生誠忠中尉、兵力=約百七十名、武器=機関銃二、同実包約一千発、軽機関銃四、小銃約百五十衍、同実包約一万発、拳銃十二衍、同実包約二百発。
七、朝日新聞社襲撃の任務を担当した栗原部隊(歩兵第一連隊)の兵力―― 指揮官=栗原安秀中尉、兵力=約五十名、武器=機関銃一、軽機関銃二、軍用自動車三台。
八、湯河原伊藤草旅館に牧野伸顕前内府を殺害する任務を担当した河野隊(軍人および民間人)の兵力―― 指揮官=河野寿大尉(所沢飛行学校)、兵力=下士官兵(歩兵第一連隊)二名、民間同志五名、武器=軽機関銃二、ほかに小銃、拳銃同実包各若干、日本刀数本(自動車二台に分乗して二月二十六日午前零時四十分に東京を出発、午前五時ごろに湯河原に到着) 」
以上が、二・二六事件を引きおこした空前の「昭和義軍」の正体であった。その強力な戦闘力は、重火器その他の大型兵器をまったく保有してはいなかったが、各部隊ともいずれも「昭和維新」の捨て石たらんと決意した、いわば筋金入りの青年将校――――たちに指揮された必死、必殺の特攻隊のようなものであったから、もしも政府軍との間に兵火を交えるような不幸な事態を生じたならば、おそらく徹底的に最後の一弾まで撃ちつくして壮烈に戦いぬいたことであろう。 
二十一

 

ところで、戦後になってはじめて明らかにされた反乱事件関係記録を仔細に検討してみると、当時の政府も軍首脳部も、また、軍長老連中も、ただ天皇の前では最敬礼して形式的に「恐懼(きょうく)にたえず」とあやまりながら、軍部内にみなぎっていた恐るべき下剋上の雰囲気を強力に取りしまる措置と実行には驚くほど欠けていた。むしろ、彼らは二・二六事件のような軍隊を利用した反乱、またはクーデターが近く起こるべきことをひそかに予想しながら、これを未然に防止するために、政府も軍部も一丸となって全力をあげて努力することをあえてしなかった。しかも外部にたいしては、軍の絶大なる威信をつねに強調して、わがもの顔に、あの狂信的な「国体明徴」の運動の推進力となっていた軍部自体が、その内部では将校と幕僚と青年将校の三者がバラバラにはなれて、たがいに「われこそ天皇の股肱である」とひとりよがりをして争っていたのであるから、まったく収拾がつかないのも当然であったろう。また一方、木戸日記などによると、天皇の軍部不信の念はそうとうに根強いものがあったようで、二・二六事件の第一日午前中に参内した川島陸相にたいして、天皇は、「今回のことは精神の如何を問わず、はなはだ不本意である。国体の精華を傷つけるものと認める」と手きびしい発言をしている。また同日記によれば、同夜参内した臨時総理大臣代理の後藤文夫内相に対して、天皇から、「すみやかに暴徒を鎮圧せよ、秩序回復するまで職務に精励せよ」という言葉があったそうだ。しかし、二・二六事件は、決して一朝一夕にして起こったわけではない。それは昭和六年の三月事件と十月事件から、さらに昭和七年の五・一五事件から、ずっと引きつづいた軍部中心の国家革新運動の激流のごときものである。それがいわば昭和維新の系譜であり、その淵源(えんげん=根本)は遠く天才的革命家北一輝が大正八年に狂熱をこめて書きあげた『日本改造法案大綱』にあるとみられている。したがって、二・二六事件の大爆発が起こるまでには、長年にわたり奇怪きわまる怪文書が乱れ飛んで、国内はもちろん、満支方面の各部隊の少壮血気の青年将校たちの悲憤を駆りたてていたものだった。その一例として、つぎのような珍しい記録が残っている。これこそ昭和維新のムードをしめす有力な資料文献であると思う。しかし、このようなムードが肝心な天皇自身には全然、理解されていなかったのは皮肉千万であった。
陸軍士官学校卒業第四十五期生の間に送付された維新運動に関する不穏文書の要旨。 (昭和十年四月一日付、原文のまま)
「 「全国同期生諸兄に送るの書」
此度(このたび)次の如き意見の一致を見たるに就き全国同期生諸兄に御通知致す次第に御座候、希(ねがわ)くは諸兄同期生百四十名の意の存する処を熟読玩味せられ各衛戍(えいじゅ)地同期生は勿論、青年将校全般に普及徹底せられ、以て全国青年将校一体の維新運動を促進せられる様、切に希望する次第に御座候。
一 現在の国情に就きて――全面的に国体に違反す。吾人は明治維新の強化を断行せざるべからざるを痛感するものなり。
二 現在軍部内の情勢に就きて――軍部内にファッショ的勢力あり。彼の十一月二十日事件に於いて士官学校中隊長辻(政信)大尉が佐藤士官候補生を使嗾(しそう=けしかける)して青年将校の状況を偵察せしめて青年将校の間に何等かの計画あるかの如く捏造して告発したるは此のファッショ的精神の活動の証左なり。
三 時局に対する同期生並に青年将校各位の態度宣明(せんめい)。方針――吾人青年将校は国体顕現(けんげん)の為に剣を提げて立つ青年武士なり。下記のものは悉(ことごと)く国体反逆の存在にして、所謂「天皇機関説」と同列なり。
1 元老重臣等中心の国家支配―― 一木氏(喜徳郎博士)が天皇機関説の開祖なること。
2 議会中心主義、政党政治主義。
3 国民的協翼(きょうよく)を否認ぜる一党独裁主義。
4 唯物的、功利的、個人的なる経済思想に依る財閥の国家経済の壟断専恣(ろうだんせんし)、所謂資本主義経済。
5 官僚中心主義――特に軍部内に於ては幕僚中心主義、軍部幕僚一部間に潜在し常に暗躍さるる権勢奪取のクーデター、その下に対してなされたものが十一月二十日事件と称せられる皇軍一体主義破壊の密計なり、然してこの官僚主義独裁主義は必ず国家社会主義に堕落して恐るべき赤化(せっか)共産主義の前駆となる。
6 皇族内閣を提唱する改造断行請願運動。
7 国家社会主義、一国社会主義。
8 赤化共産主義。
これを要する吾人を以て見れば、国家の殆ど全部の存在が、何れも五十歩、百歩の国体反逆なり。今や美濃部博士の存在抹殺と其の旧書の焚却(ふんきゃく)とか国体明徴に非ず。それは実に末枝の一葉のみ。斯くして国体原理の具現(ぐげん)拡充を方針とする「皇道維新」以外に吾人と皇国との行うべき途なし。
処置――
1 先ず衛戍(えいじゅ=赴任)地又は学校毎に維新的団体を完成す。
2 在京同期生と各衛戍地との連絡を密にするため……。
3 唯に同期生に止らず青年将校団結のため……。
   四月一日 在京同期生    」
これらの急進的な青年将校一派のいわば旗印となった「尊皇討奸」の思想こそは、天皇制のワクの下に現状打破をめざす軍人反逆の時代精神であった。それは結局、天皇制の美名にかくれた右翼暴力革命ともいえるであろう。当時、このような軍人反逆の時代精神がいかに猛烈に流行していたか、つぎの記録は読者諸君に異常な興味をわきたたせるであろう。これを一読すると、二・二六事件の起こったことは格別に驚くにはあたらず、来るべきものが到来したといえるだろう。北満に駐屯中の青年将校有志が陸軍大臣に宛てた十一月事件に関する上申書。(原文のまま)
「 北満鎮護の任に服し内に外に皇軍の負える使命、殊に深大なるを体感す。
国体の正しき精神と形容とを皇軍自体の特有優秀なる組織の上に顕現することにより、凡有(あらゆる)反皇道的歪曲の照魔鏡たらしむる事実に之が帰結的念願たり。即ち畏(おそれおおい)けれども、陛下を頭首と仰ぐ上下一体の秩序と調和とを名実共に具象化して、以て不言(ふげん)の範を示す喫緊(きっきん)の急、之を措きて朔北(さくほく=大陸の辺境)の光明も延いて亦期すべからざらんとす。頃日(けいじつ)偶々(たまたま)十一月二十日事件なるものの生起を耳にす。而してその真相の、一部不純分子による作為的捏造(ねつぞう)たるを知るに及び、切歯痛憤止み難きを覚ゆ。更に従来、屡々(しばしば)なる犬糞的泥試合的中傷讒侮(ちゅうしょうざんぶ)、目的の為には手段を択ばず底(てい)の非武士的暗黒行為の実演者が是等(これら)権術の徒輩(とはい)たりしを知り、憐愍(れんびん)と憎悪とを超え正に活人剣(かつじんけん=正しい剣)一揮(き)して道義の峻崇(しゅんそう)堅持(けんじ)せらるべきを祈念す。蓋(けだ)し下剋上的乃至相剋的妄想を根底とせる此種(このしゅ)非違を寛仮(かんか、看過の誤りか?)するに於ては満天下の信望は国軍を去り、国軍は亦自らの毒素により、その死命を制せらるべく、而して又根本的に破邪(はじや)顕正(けんしょう)の肇国(ちょうこく=建国)的信念に汚点を印せらるべきを恐慄(きょうりつ)すればなり。不肖(ふしょう)等上記の念願に立ち急転直下して此怪聞(かいぶん)に直面するや勃然たる義憤如何ともすべからず。不肖等が護国の本分に基き茲(ここ)に天誅必加を決意す。即ち先ず司直(しちょく)の明断により正邪曲直の理法を明かにし明大義正人心の道開かるべきを天神地祇(てんしんちぎ)に拝跪し、絶対不可奪の志を貫徹せんとす。不肖等の尊信する顕要(けんよう)高邁(こうまい)なる先輩と純情赤誠の僚友とを陋劣(ろうれつ)卑穢(ひあい)なる奸手(かんしゅ)より救出するは誠に今日の要事なりと信ず。敢て微沈(びちん)を披瀝(ひれき)し謹みて御賢慮を希(こ)い奉(たてまつ)る。
   昭和十年三月十日   在北満 歩34中隊長、陸軍歩兵大尉。山田洋(以下略)  」
これはまた、いったいなんという神がかりの悪文であり、難解な迷文であろう! しかし、よくこの一言一句を検討してみると、それは当時の日本全国ならびに満支各地に駐在中の各部隊の急進的青年将校の間にまるで燎原(りょうげん)の火のごとく燃えあがりつつあった国家革新気運の恐るべき狂熱を反映したものであることがわかる。まさに切迫していた相沢中佐の永田軍務局長斬殺事件(昭和十年八月十二日)と皇軍反乱の二・二六事件(昭和十一年二月二十六日)の前兆たる異常な昭和動乱的気圧をしめすものであった。 
二十二

 

私は二・二六事件に決起した青年将校たちの殺人行為を憎み、かつ悲しむけれども、しかし、彼らの純情と義憤と反逆の気持には深く同情を禁じ得ない。その一方、血気さかんな青年将校の行動力を利用して、軍部独裁の権勢を張り、あるいは厖大な軍事予算の獲得に成功して戦争準備に踊った将軍と幕僚連中の利己的な野心には烈しい怒りを感じた。そして、「尊皇絶対」の殉教的信念に燃えた青年将校たちを、いたずらに犬死にさせた不運な天皇とその側近の無為、無策に、ただもどかしさと失望を深く覚えるばかりである。それは要するに、真善美の理想をめぐる天皇国家の、夢と現実の間の永遠の矛盾を物語るなまなましい姿ではなかろうか? 私の手許には、国家革新の理想と情熱に挺身した青年将校たちの残した、いろいろな記録資料がある。それを今日の時点より読みなおしてみると、左翼と右翼、学生と軍人のちがいはあっても、正義感の強い青年大衆の現状打破の反逆精神には、不思議に一脈相通ずる熱気があるように思われてならない。
反乱軍首魁の安藤輝三大尉の街頭演説の要旨(昭和十一年二月二十八日午後十時半赤坂の料亭「幸楽」門前にて)
「 我々が諸君の前に発表せんとすることは、わずか一言にして尽くし得る。すなわち、我々も諸君も同じく日本臣民であるということである。我々の心情は一切を挙げて、陛下の下へということでなければならぬ。そもそも日本帝国には天皇は唯一人であらせられるはずである。しかるに何ぞ! 腐敗せる軍閥、堕落せる財閥、重臣らは、その地位を利用して、畏(おそれ)多くも上(かみ)天皇の大権干犯(かんぱん)を為し来っているではないか! なお言うならば、わが同胞が貴き血を流し骨を曝(さ)らして手に入れた満州は全土を挙げてこれら分子の喰(く)うところとなり終っているではないか! 我々はこれを知る。しかして諸君においても、同じくこれを知っているはずである。いまや我々は長きにわたる熟慮の結果、諸君らには為し得なかったところの腐敗分子の一斉除去を敢えてしとげたのである。我々はこれを喜ぶとともに、これにより諸君が為すべき仕事として幾重にもお願いすることは、我々同志が恐らくは為し得ずに残してゆくであろうところの新日本の建設である。しかして、やがて生まれ生ずる新しき日本の姿が、従来のそれと大差ないものであるならば、此度(このたび)の挙(きょ)は単なる暴動として漸次、世人の記憶から薄らいでゆくであろう。だが諸君らの力により、立派な日本が生まれ出るならば、我々の死は昭和維新の人柱(ひとばしら)として価値あるものたり得るのである。我々は諸君を信じ、我々に課せられたる任務とともに喜んで死んで行くものである。諸君! 我々は諸君が我々の死を踏み越えて、新日本の建設に進まれんことを希望するとともに、日本国民が一切を挙げて共同し、陛下の下に帰せられる日の一日も早きを祈って止まない次第である。   天皇陛下万歳三唱   」 
二十三

 

私は前述のように二・二六事件の真相を自由、公正な立場より、戦後あきらかにされた重要な資料と、私自身の貴重な体験とにもとづいて追及、検討しているが、まだまだ論じつくさぬ点がいろいろ多いので、すこし謎のベールをはいで、皇軍反乱事件の実相を忌憚(きたん)なく描いてみょうと思う。それは歴史の教訓を決して忘れないためである。これまでに私は、主として大量刑死した決起青年将校たちの烈々たる闘魂と切々たる悲願をくんで、なるべく当時の腐敗した政界と重苦しい社会的雰囲気を生かして反乱事件の核心をドキュメント本位に描いてきた。それは「尊皇討奸」を叫んでいっせい決起しながら、かえって天皇の信任厚い重臣を大量殺傷したために、気の弱い天皇の嘆きと不興を買い、逆賊叛徒として葬られた純忠血気の青年将校こそ、二・二六事件という国民的悲劇の主人公であるからだ。しかしながら、我々は決起目的の是非いかんにかかわらず、青年将校たちの犯した流血の惨事の犠牲者を弔うことを忘れてはなるまい。これらの重臣は、決起将校一味から「不義不忠」と呼ばれ、また「国体破壊の元凶」とののしられ、さらに「奸臣軍賊」と憎まれながらも、やはり天皇制を支持して明治憲法による議会政治の下に日本の発展に大いにつくしてきた人たちであった。さて、二・二六事件の血祭りに上げられた重臣たちの殺され方は、まことに残酷非情なものであった。私はいまここに、昭和十一年(一九三六年、日独防共協定調印、スペイン内乱勃発という重大な年だった)二月二十六日の早暁、反乱軍の軍刀と銃弾にたおれた老重臣の最期を明らかにして、その冥福を衷心より祈りたい。反乱軍の重臣襲撃の行動については、事件発生の五ヵ月後の昭和十一年七月七日午前二時、陸軍省発表(七月七日付全国新聞掲載)の軍法会議判決(同年七月五日判決言い渡し)ならびに理由概要によってはじめて全国民の前に明らかにされたが、しかし、その公表内容はなるべく国民に悪感情と反軍的影響をあたえないように、殺害の模様はほとんど省略されていた。しかし、戦後になってようやく入手された判決理由書全文の原文によると、重臣殺害の凶行場面はつぎの通り、慄然として目をおおうようなものすごいものであった。
「 〔斎藤内府の殺害〕 坂井直中尉(歩兵第三連隊)、高橋太郎少尉(同前)、麦屋清済少尉(同前)、安田優少尉(陸軍砲工学校)は、内大臣私邸を襲撃して斎藤実内府を殺害する任務を担当したが、その行動はつぎのごとくである。昭和十一年二月二十四日夜、坂井中尉は高橋少尉と麦屋少尉をともない、東京市四谷区仲町三丁目の斎藤私邸付近を偵察し、二十五日午後十一時ごろ、歩兵第三連隊第一中隊将校室において協議し、部隊を突入隊と警戒隊とにわかち、さらに突入隊はこれを表門、裏門の二隊にわけ、坂井、麦屋は表門、高橋、安田は裏門突入隊をそれぞれ指揮し、警戒隊は下士官をしてこれを指揮せしむることを決定した。ついで、第一中隊下士官の大部および第二中隊下士官の一部を集合せしめ、週番司令の命令とし、本件計画の概要をしめして、おのおのその任務を定め、二十六日午前二時ごろ、第一中隊全員に起床を命じ、出動準備をなし、第二中隊および配属をうけた機関銃隊の一部とともに、兵舎前に集合せしめたうえ、払暁を期して昭和維新断行に邁進する旨および計画目的等を告げ、下士官兵約二百名を指揮し、午前四時二十分ごろ、兵営を出発した。二十六日午前五時ごろ、斎藤私邸に到着して侵入、軽機関銃を発射して女中部屋の雨戸を破壊し、屋内に、闖入し、斎藤内府にたいし坂井、高橋、安田および林伍長は、拳銃をもって、兵一名は軽機関銃をもって各射撃して殺害した。そのさい、身をもって内府の危害を防がんとした妻女にたいし、あやまって、銃創を負わしめたうえ、午前五時十五分ごろに退去した。坂井、麦屋は主力を率いて、陸軍省付近にいたった。このようにして、七十七歳の老重臣は、全身にまるで蜂の巣のごとく四十数個所の弾創をうけて即死したが、これについて反乱の首魁の一人、村中孝次元大尉が、死刑執行前の獄中遺書の中で、つぎのようにこの残酷な殺し方を弁解しているのは注目される。やはり自責の念によるものであろう。「同時に内府の居所を発見した三将校が同時に拳銃を発射し、これに続行せる一下士官もまた発射し、さらに同下士官と同行せる軽機関銃手が、これにひきつづき連続発射したもので、勢いのおもむくところ蓋(けだ)し止むを得ざるものありしならん」 」
当時、八十二歳の高齢の高橋蔵相は、自由主義思想の持ち主として、また自由経済の擁護者として反乱軍から強く憎悪されていた。そのせいか、まるで白ヒゲの童顔の達磨さんのような風貌のこの老政治家は、決起将校たちの銃弾と軍刀によって、無抵抗のまま、もっとも残酷な殺し方をされた。全身に銃弾を撃ちこまれたうえ、まるで手足を斬りおとされた血達磨のようになって寝床の上で絶命した。当時、彼らは 「達磨に手足は不要なり!」と豪語していたと伝えられた。その殺害の模様は、公表されなかった判決理由原文によると、つぎの通りであった。
「 〔高橋蔵相の殺害〕 中橋基明中尉、中島莞爾少尉は大蔵大臣私邸を襲撃して高橋是清蔵相を殺害する任務を担当したが、その行動はつぎのごとくである。二月二十五日夜、中橋中尉は栗原安秀中尉より、襲撃用小銃実包一千四百四十発、拳銃三梃、同実包五十発を受領し、二十六日午前四時ごろ非常呼集を行ない、近衛歩兵第三連隊第七中隊下士官兵約百二十名を指揮し、明治神宮参拝と袮し、軽機関銃四挺、小銃百梃、同実包千数百発、拳銃数挺、同実包百発、ほかに梯子等を携行し、午前四時三十分ごろ兵営を出発し、途中で突入隊にたいして高橋是清襲撃に赴く旨を告げ、実包の分配および装填をなさしめ、赤坂区表町シャム国公使館付近において今泉義通少尉の率いる守衛隊控兵(第二小隊)を待機せしめ、中橋みずから突入隊(第一小隊)を率いて蔵相私邸に到着した。ついで邸前に軽機関銃を配置し、中橋は表門より、中島は東側の塀をのりこえて侵入し、内玄関の扉を破壊し、兵若干名を指揮して屋内に闖入(ちんにゅう)し、臥床中の蔵相にたいし中橋中尉は拳銃を発射、中島少尉は軍刀にて殺害、午前五時十五分ごろ同邸を退去し、中島は突入隊を指揮して首相官邸にいたった。  」
このように高橋蔵相の殺害方法が残忍であるという非難にたいして、前記の反乱首魁の村中孝次元大尉は、その獄中手記の中で、つぎのように青年将校たちの立場を弁護している。
「 高橋蔵相にたいしては、中橋中尉の拳銃発射とほとんど同時に中島少尉が軍刀をもって斬りつけしものにして、後に評判せられたるごとく、『達磨に手足は不要なり』というがごとき観念をもって軍刀をふるいたるものにあらざることは、打ち入りし者の真剣必死の心理に想到せばおのずから明らかなり 」
「 要するにこの三者(斎藤内府、陸軍教育総監渡辺鋺太郎大将、高橋蔵相を指す)とも、死屍に対して無用に射撃し、斬撃したるにあらず。数名の者がほとんど同時に射撃し斬撃したる結果、勢いの赴くところ、意外の創傷をあたえたるものにして、武道の未熟なりと評せらるは止むを得ざるも、故意に残忍酷薄なる所業をなせしに非ざること明瞭なり 」
また一方、侍従長鈴木貫太郎海軍大将は、いわゆる「君側の奸臣」の大物として、反乱軍の襲撃をこうむり、重傷をうけたが、幸運にも生命はとりとめた。
「 〔鈴木侍従長の殺害未遂〕 侍従長殺害の任務を担当した安藤輝三大尉の行動はつぎのごとくである。二月二十五日夜、安藤大尉は歩兵第三連隊第一大隊の週番司令服務中、週番士官坂井直中尉、鈴木金次郎少尉、清原康平少尉をあつめ、明早朝に昭和維新を断行するにつき非常呼集を実施する旨等を指示し、また連隊兵器委員助手新井軍曹をして、弾薬庫より機関銃実包約八千五百発、軽機関銃実包約一万五千発、小銃実包三万五千発、拳銃実包約二千五百発、代用発煙筒等若干を搬出して、出動各部隊にそれぞれ交付せしめた。さらに機関銃隊週番士官柳下良二中尉にたいし、機関銃十六分隊を編成し、二十六日午前三時までに野中部隊(警視庁襲撃部隊)に八個分隊、安藤部隊、坂井部隊に各四個分隊を配属すべき旨を指示した。ついで所属第六中隊下士官約十名にたいし、侍従長殺害を告げ、各分担任務をさだめた。二十六日午前三時ごろ、非常呼集を行ない、所属中隊および配属せしめた機関銃の一部とも、下士官兵約二百名を指揮し、午前三時三十分ごろ兵営を出発し、午前四時五十分ごろに麹町区三番町の侍従長官邸に到着、外部を警戒せしめるとともに、各一部を下士官に率いさせて表門と裏門より邸内に侵入、下士官などが鈴木侍従長を拳銃にて負傷せしめ、ついで入室した安藤大尉は侍従長にとどめを刺さんとしたが、妻子の懇請によりこれをやめて、午前五時三十分、退去し三宅坂付近にいたった。 」
かくして、鈴木侍従長は奇蹟的に命拾いをしたが、それから九年後に終戦内閣の首相として天皇の内命を奉じて、和平降伏の至難の大任を果たした鈴木老提督は、戦後まで生き残り、奇しくも遭難当時の模様を、みずから『鈴木貫太郎自伝』のなかで、つぎのように記録しているのは興味がふかい。
「 「二・二六事件の前触れのように、我々が感じたのは、昭和十年に九州大演習がありましたとき、流言があって、私たちが暗殺されたということが世の中に流布された。それから二・二六事件の十数日前くらいであったが、今度はなにか不穏な陰謀が陸軍青年将校の間に企てられ訓練をしており、それがよほど進んでいる、という噂を耳にしたことがある。なにか革新運動に障害のある大臣を片づけるんだというようないろいろの風説があり、本庄君(侍従武官長本庄繁陸軍大将)からも気をつけるようにという注意があった。二月二十五日夜は、アメリカのダルー大使から斎藤内大臣夫妻らと共に招待をうけて、午後十一時ごろに帰宅した。二十六日の朝四時ごろ、熟睡中に女中が私を起こして、『いま兵隊さんが来ました、後ろの塀を乗り越えてはいって来ました』と告げた。(中略) 私は、すぐ跳ね起きて、防御になるものを搜したが見当たらない。その中に大勢、闖入の気配が感ぜられたので、(中略)八畳の部屋に出て電灯をつけた。すると周囲からいちじに二、三十人の兵が入って来て銃剣でとりまいた。その中の一人が進んで出て簡単に『閣下ですか』と丁寧な言葉でいう。『そうだ』と答えて、『静かになさい、理由を聞かせてもらいたい』と言った。それでもみな黙っている。三度目に下士官らしいのが『もう時間がありませんから、撃ちます』と言うから、『それなら止むを得ませんからお撃ちなさい』と言うて、直立不動で立ったそのとたん撃たれた。私の倒れるのを見て、向こうは射撃を止めた。すると大勢の中から、『止(とど)め! 止め』と連呼する者がある。そこで下士官が私の前に座った。そのときに妻は数人の兵に銃剣とピストルを突きつけられていたが、『止めはどうかやめていただきたい』ということを言った。ちょうどそのときに、指揮官らしい大尉が入って来て、(中略)『止めは残酷だからやめろ』と命令した。そう言って指揮官は引きつづいて、『閣下に対し敬礼!』という号令を下した。そこにいた兵隊は全部、折り敷き、ひざまづいて捧げ銃をした。指揮官は、妻に行動の理由を述べ、安藤輝三とはっきりと答え、自分もこれから自決すると口外した。(中略) その後に脈が消えたが、自分が蘇生したのは、妻が懸命に霊気術と止血法をやってくれたのが成功したのかも知れません。  」
全身に銃弾を浴びて、瀕死の重傷で呼吸も絶えだえの、老重臣の血まみれの姿をまえにして、「敬礼!」の号令一下、反乱兵がいっせいに捧げ銃をした光景こそ、じつにショッキングな全世界に類例のない天皇制軍隊の反逆の姿であった。それがいわば「尊皇討奸」をめざす昭和維新の奇怪なあり方でもあった。こうして、この雪の朝の皇軍反乱――すなわち決起青年将校の唱えた「昭和義挙」により、斎藤内府と高橋蔵相のほかに、岡田啓介首相の身代わりとして首相官邸に同居中の義弟の松尾伝蔵予備海軍大佐と、皇道派からもっとも憎まれていた陸軍教育総監渡辺錠太郎大将とが、無残にも全身に銃弾を撃ち込まれて惨殺されたのである。これについて、さきに引用した反乱首魁の村中孝次元大尉が、その獄中遺書『続丹心録』の中で、つぎのとおり無理に弁明しているのは、やはり内心で一沫の良心の苛責を感じていた証拠ではなかろうか?
「 殺害方法が残忍酷薄にして、非武士的なりという非難あり。斎藤内府は四十数ヵ創を受け、渡辺大将は十数ヵ創を受けたりと言い、人をして凄惨の感に打たしむ。残忍といえば、すなわち残忍なり。ただし、一弾一刀を以て人の死命を制し得る武道の達人に非ざれば、むしろ巧妙を願わず、数弾を放ち、数刀を揮(ふる)うことをいとわず、完全に目的を達するを可とし、宋譲の仁は絶対に避くべきなり。余は一、二同志に向かい、必ず将校みずからが手を下し、下士官は自己の護衛および全般的警戒に任ぜしむべきこと、五・一五事件の山岸中尉のごとく『問答無用』にて射殺するを可とする旨を言いしことあり……  」
しかしながら、二・二六事件で凶弾にたおれた各重臣のいたましい犠牲について、軍の内部にも痛烈な自己批判の声が高まったのは当然である。ことに多数の反乱部隊をだした第一師団ではいたく狼狽して、師団長堀丈夫中将以下幹部は大いに自粛、謹慎し、麾下(きか)部隊の責任者を緊急召集して、つぎのとおり舞(まい)参謀長より決起将校を徹底的に非難する極秘の発言をおこなった。
「 第一師団参謀長舞伝男(まい・つたお)少将口演要旨
(前略)この事件は皇軍を盗用して大命に抗したるものにして、この間用捨することは一つもこれ無く、目下西田税、北一輝を調査中にして、彼らの思想は矯激にして純真なる将校が彼らと悪縁を結び判断を誤りて彼らに動かされたるものにして、かくの如きことは隊の青年将校にも示して疑惑なき如くせよ。師団においては事件直後における収拾、今後の建直しに努力しありて、これが真の御奉公にして決して責任を避けんとする意志なく、将兵一同昼夜心血を注ぎ努力しあること、このことが真の御奉公の道なりと信ず。反乱将校の態度は武士道に反し指断すべきもの多々あるを遺憾とす。たとえば、
1 大官を暗殺するに機関銃数十発を射撃して、これを斃(たお)し、血の気なくなりたる後、これに斬撃を加えたるものの如し。
2 大元帥陛下をはじめ奉り全国挙(こぞ)って憂愁に暮れある間に、反徒は飲酒銘酊醜態を演じありたり。
3 死すべき時来れるに一人の外、悉(ことごと)く自決するに至らざりき。事件の原因として、ようやく判明しつつある事項を挙げれば次の如し。
4 反軍幹部及び一味の思想は過激なる赤色団体の思想を、機関説に基く絶対尊皇の趣旨を以て擬装したる北一輝の社会改造法案及び順逆不二の法門に基くものにして、我国体と全然相容れざる不逞思想なり。尊皇絶対を口にするも内容は然らずして、如何にも残虐なる行為をなして、これを残虐と考えざる非道のものなり。
5 彼らが敵とせる財閥は、これを恐喝して資金を提供せしめたる事実あり。(原文のまま) 」 
二十四

 

さて、二・二六事件の舞台裏で踊った人々のなかで、いちばん注目された人物は、決起青年将校たちから最大の尊敬と信頼をあつめていた陸軍内部の皇道派の巨頭で前教育総監、軍事参議官真崎甚三郎大将であった。彼は葉隠れ武士の本場の佐賀県生まれ、陸軍士官学校第九期卒業、明治四十年に陸軍大学校を優等で出ていらい、かがやかしい経歴をたどって陸軍部内の長老の地位にあり、陸士第九期の同期生には、荒木貞夫大将、阿部信行大将、松井石根大将、本庄繁大将などがいて有力な勢力をつくっていた。彼が皇道派の巨頭として、全国の青年将校たちより「おやじ」として慈父のごとく敬愛されていたのは、彼の素朴で強烈な忠君愛国の熱情と、村夫子然たる態度によるものであり、また容易に妥協せぬ頑固な一徹者の気性のせいでもあったようだ。それだけに、彼には敵も多く、個性のつよい正直者といわれた反面、また腹黒い野心家とも誤解された。それで二・二六事件がおこったとき、戒厳令下で、もちろん新聞報道は厳禁されていたが、各新聞社の消息通の間では、はやくから事件の背後に黒幕の大物として真崎大将の姿が大きくクローズアップされていたものだ。それはなぜか? これにはいろいろ複雑な理由があったが、とくにだれの眼にもあきらかであったことは真崎大将が陸軍部内で、もっとも革新的な皇道派の巨頭として、二・二六事件の導火線ともいうべき統制派の第一人者、永田鉄山少将斬殺事件の犯人、相沢三郎中佐の軍法会議公判廷で、いかにも被告相沢中佐の行動を支持するがごとき同情的な態度をしめしたうえ、「軍の機密事項は天皇の勅許がなければ証言できない」と、大ミエをきり、軍法会議当局にたいして非協力というよりも、むしろ挑戦したからであった。それは波瀾万丈の相沢中佐公判の第十回目――昭和十一年二月二十五日午前、公開禁止の証人喚問の法廷における出来ごとであり、はたしてその翌日未明に、二・二六事件が突発したのである。すくなくとも彼は、「昭和維新」という名の大規模な軍隊反乱をかねてより内心で予想していたのではあるまいか? かれが相沢中佐に深く同情するのは当然であった。なぜならば、皇道派の中堅将校のなかでいちばん熱狂的な相沢中佐は、昭和十年七月十五日に、当時の教育総監真崎大将が、本人の意思に反して突然、罷免されたことを、永田軍務局長を中心とする統制派の陰謀によるものであり、これは「統帥権の干犯」であると信じこんで、単身、決起して、「天誅!」とさけんで永田局長を斬殺したからであった。すなわち、相沢中佐の決起した直接の原因は、真崎大将の教育総監罷免問題であり、それは後に二・二六事件の民間側首魁として死刑を宣告、執行された西田税の配布した「軍閥重臣の大逆不逞」と題する怪文書のなかでも、つぎのごとく誇大に強調されて、全国の皇道派青年将校たちを激怒させていたからだ。
「 教育総監更迭の背後には、重臣軍閥のおそるべき陰謀がある。軍閥の中心は永田軍務局長であり、林陸軍大臣はそのカイライである。かれらは統帥大権を干犯し、皇軍を私兵化した  」
また当時、十一月事件(士官学校事件とも呼ばれ、昭和九年十一月の在京青年将校および士官候補生の不穏計画をさすが、軍法会議で取り調べの結果、証拠不十分で不起訴となる)に連座して停職中の革新派の急先鋒、村中孝次大尉と磯部浅一一等主計の両人もまた、真崎教育総監の罷免にいたく憤慨して、「教育総監更迭事情」というパンフレットを各方面に配布したため、いずれも昭和十年八月二日付で免官処分に付された。こんな調子で、真崎大将は血気さかんな青年将校たちのあいだで、国家革新運動の「偉大な犠牲」のごとくみなされて、当時、陸軍中央部を支配して粛軍方針をおしすすめていた統制派とまっこうから対立し、部内の派閥争いをますます激化させていた。しかも、相沢中佐公判をめぐる急進派の法廷闘争の台風の中心にあった真崎大将自身は、軍の長老として私情をはさまず、青年将校同志の軽挙妾動をいましめるべき立場にありながら、かえってかれらの過激な国家革新運動の火にアブラをそそぐような言動がめだった。かくて二・二六事件が突発するや、かれはあたかも待っていましたとばかりに軍服の正装に威儀をただしていちはやく、反乱部隊が包囲占拠中の麹町永田町の陸相官邸へ急行して、重臣暗殺をすませた決起将校一味にむかって、「とうとうやったか、おまえたちの心はよくわかっとる、よおくわかっとる」となぐさめたうえ、宮中に参内して、侍従武官長を通じて決起の趣旨を上奏し、いわゆる「維新大詔」の渙発を期待して軍政府樹立をめざす工作につとめたのであった。もしも二・二六事件が成功して昭和維新が実現していたら、絶対天皇制のもとに、真崎大将を首班とする国家革新的な色彩のつよい軍部独裁政権が出現したことであろう。 
二十五

 

私は当時、朝日新聞社会部の相沢中佐公判担当記者として、世田ヶ谷一丁目一六八番地の新築早々の真崎大将邸を再三たずねて、将軍とも数回会って、いろいろ意見を聞いたことがある。そのときに私がいちばんつよく印象づけられた点は、この陽焼けしたあから顔の質素な田舎の村長さんのような風采の老人が、急進的な国家革新派の軍人の巨頭とはどうしても思われなかったことだ。私はもっと眼光炯々(けいけい)とした熱弁の鬼将軍の風貌を想像していただけに、かえってかざらぬ口下手の真崎大将には好感がもてた。おなじ皇道派の重鎮として相たずさえていた荒木貞夫大将が、陸軍大臣として華やかなりしころ、ピンとはった得意のカイゼルヒゲと青白い顔で革新的な熱弁をふるっていた才子型の派手なようすとくらべると、真崎大将はじつに地味な鈍重な印象をあたえた。ところが、この人の好さそうな老将軍が、ひとたび教育総監更迭問題におよぶや、にわかに語調をかえ、満面に朱をそそいだように激情をしめしたので、私はおどろいた。それほど、彼はこの問題に怒り、こだわり、帝国軍人として面目をつぶされたことを無念に思っているようであった。そして、彼をこの要職より追放した統制派の陰謀者たちを心の奥底より憎悪し、呪詛しているようにみえた。なぜならば、これまで陸軍の永いしきたりとして、陸軍大臣、参謀総長、教育総監の三長官の人事は三長官の同意を要することになっていたにもかかわらず、昭和十年七月、統制派の林銑十郎陸相は、永田軍務局長の策謀に応じて部内の皇道派を粛清するため、閑院宮参謀総長をだきこんで、真崎大将の同意をうることなく、二対一の多数決で勝手に教育総監の更迭を断行、発令したことは天皇の統帥大権を干犯した大逆行為である――というのが真崎大将の憤怒の理由であった。しかも彼の後任には、統制派の大物の渡辺錠太郎大将(航空本部長、台湾軍司令官を歴任した政治色のない温厚な人物とみられていた)が任命されたことも、老将軍をいっそう痛憤させたようだ。「よくわかりましたが、もし三長官の同意を要することを無視したのならば、閣下は、なぜあくまで正々堂々と更迭問題について反対、抗議されなかったのですか?」と私は青年記者らしい熱意をこめて、思いきってたずねてみた。相手はさすがに胸中の激情をおさえるように、ふとい両腕を組んでしばし思案していたが、まるではき出すように、
「 あれは勅勘(ちょくかん=天皇からのとがめ)である。勅勘をこうむった以上、わしはなにもできん。残念ながら、わしの生きている間にこの勅勘をといて汚名をそそぐことはできないが、わしがけっして間達っていたいことと悪いことをしなかったことについては、わしの子孫に遺書を残して十分にあきらかにしておく覚悟である……  」
これは、いかにも実直が忠誠の古武士が、はからずも勅勘をこうむったため自己弁解の余地なく、無念至極ながら謹慎しているといった心境であった。要するに、かれは陸軍最高地位の一つである教育総監として、青年将校の訓育のみならず、重大時局にさいして帝国軍人の士気振興の重大責任をになう軍長老として、皇道精神の鼓吹(こすい)におおいに努力してきただけに、あくまで自分は正しいと信じていながら、天皇と直結する閑院宮参謀総長まで、彼の反対側にたった以上は、もはや理非曲直をあらそうことができず無念の涙をかみしめていたわけだ。しかし、かれもまた人間である以上は、とくに明治の建軍以来、軍部内では薩摩だ長州だ佐賀だと出身地や先輩、後輩をめぐる派閥感情が一般社会よりもはなはだ強く、職業軍人の通癖にたっていただけに、かれを敵視する統制派の陰謀によって、教育総監の栄位を追われたことをあきらめきれず、かれのもとに出入りする青年将校有志に、胸中の鬱憤をもらすことがしばしばあったようだ。一方、真崎大将に皇道精神の大先達のように心服し、慈父のように敬愛していた青年将校一派は、この問題をおおきくとりあげて、「統帥権干犯」という錦の御旗をおし立て、軍中央部の統制派へ「天誅」の大鉄槌をくだすために決起した。それで、正体のあいまいな「絶対天皇制」は、まるでフットボールのようにおなじ皇軍部内の皇道派と統制派のあいだの血みどろな争いに利用されたわけだ。かくて永田軍務局長は相沢中佐に暗殺され、また、渡辺新教育総監は二・二六事件の血祭りに上げられたのである。
かくて、真崎大将は二・二六事件の黒幕の重要人物として、ついに東京軍法会議に召喚、身がらを拘置された。そして、獄中にあること一年余、極秘のうちに厳重取り調べの結果、雪の朝の大反乱のかげにひそんだつぎのような諸事実が明白になった。
「 一、昭和十年十二月、対島勝雄中尉の来訪をうけたとき、真崎大将は、「教育総監更迭問題については自分はつくすべきところをつくしたのみならず、この更迭には妥協的態度に出ず、最後まで強硬に反対した。私は近来、そのすじより非常に圧迫をうけている。天皇機関説問題については、まじめに考慮する必要あり」と力説した。
二、同月二十四日ごろ、元一等主計磯部浅一および小川三郎大尉と自宅で面接したとき、真崎大将は興奮した態度で、「総監更迭につき相沢中佐は命までささげたが、自分はそこまではいかないが、最後まで強硬に反対した」と語り、また小川大尉が、「もし国体明徴問題と相沢公判がうまくはこばない場合は、流血も避けがたい」と述べると、かれは、「たしかにそのとおりだ、血をみることがあるかも知れぬ。しかし、自分がこういえば青年将校を煽動するようにみとめられるから、はなはだ困る」と意味深長に答えた。
三、同月二十八日ごろ、香田清貞大尉が来宅したとき、真崎大将は、「国対明徴問題にたいする青年将校の努力がまだ足らぬ」と非難した。また、相沢中佐の決起精神を称揚してふかく同情の意を表し、同中佐の公判には統帥権問題で証人に立つこと、教育総監渡辺大将が辞職すればつごうよく運ぶむねを説いた。
四、昭和十一年一月および二月に相沢中佐弁護人満井佐吉中佐と二回、自宅で会見したとき、真崎大将は教育総監更迭のいきさつと最後まで反対した内情を説いたうえ、同中佐から青年将校の革新運動の激化した状況をくわしく聴取した。
五、同年一月二十八日ごろ、磯部が来訪して、「教育総監問題であくまで努力するから、金千円か五百円の支出をねがいたい」と申し出たとき、真崎大将は、「よろしい、なんとか都合しよう」と約束した。
六、反乱当日の二月二十六日午前四時半ごろ、二・二六事件の民間側参謀格の亀川哲也が真崎大将の自宅をたずねて、「今朝、青年将校等が部隊をひきいて決起し、内閣総理大臣、内大臣等を襲撃するにつき、青年将校たちのため善処をねがいます。また、同人たちは、閣下が時局を収拾されるよう希望しているから自重されたい」とたのまれた。亀川はかねてから数回、大将宅をたずねて青年将校の不穏情勢を報告していた。
七、真崎大将は反乱事件の発生を了承し、夜の明けるころまで、その対策をひそかに熟考していたおりから、軟禁中の川島陸相より電話招致をうけて午前八時ごろ、陸相官邸に急行した。そこで、磯部、香田、村中より、決起の趣旨と行動概要をきき、その目的貫徹方を懇請されるや、「諸君の精神はよくわかっている、自分はこれよりその善後処置にとりかかる」と豪語して官邸を出て、午前十時、宮中に参内した。
八、真崎大将は参内後、侍従武官長室で川島陸相にたいし、「決起部隊はとうてい解散しないだろう。かくなるうえは詔勅の渙発をあおぐほかはない」と昭和維新の実現をつよく進言し、さらに、居あわせた荒木大将以下の軍事参議官たちにも同一趣旨の意見を強調した。
九、同日夜、真崎大将はふたたび陸相官邸におもむいて、決起将校側にたって斡旋努力中の満井中佐にむかい、「宮中に参内して種々努力したが、なかなか思うようにゆかないから、決起将校たちをよろしくなだめられたい」と告げた。
十、翌二十七日、決起将校一味が、大先輩格の職業的革命家北一輝とその愛弟子の西田税両人より、「人なし、勇将真崎あり、正義軍一任せよ」との霊告(北は法華経を狂信して霊感をうけていた)ありと電話指示をうけた結果、時局収拾を真崎大将に一任することに決して、軍事参議官一同に会見をもとめるや、大将は午後四時ごろに陸相官邸で軍事参議官の阿部信行、西義一両大将の立ち会いのうえ、決起将校十七、八名と会見して、「無条件でいっさいを一任せよ、誠心誠意努力する」と約束した。(軍法会議の判決理由書による) 」
以上の諸事実は、真崎大将がいかにも反乱を事前に通報されて、決起の趣旨を貫徹するために尽力したことをしめすもので有罪の見込みであったが、二・二六事件発生の一年半後の昭和十二年九月二十六日正午、意外にも陸軍省よりつぎのとおり無罪と発表された。
「 東京陸軍軍法会議においては、二・二六事件に関し『反乱者を利す』被害事件として起訴せられし真崎大将につき慎重審理中のところ、九月二十五日、無罪判決言い渡しありたり 」
この判決理由全文を検討してみると、真崎大将は取り調べにたいして終始一貫して、「決起将校とは関係なく、反乱事件には関知せず」と一身の潔白を主張したもようであり、彼を敬慕した皇道派の青年将校が、軍法会議の極刑判決によって大量銃殺された件についても、軍長老として部下を擁護するどころか、むしろかかわりあうことをおそれで見殺しにしたという感がふかい。それで真崎大将は、軍内外で信望を失墜してしまったようだ。とくに天皇からひどくきらわれて、ついに戦中も戦後も、「忘れられた老将軍」として陽の目をみず、彼のおそれた勅勘はとうとう死ぬまで解けなかった。つまり真崎大将は、長年にわたり陸軍部内で国体精神の宣揚と、皇室観念の涵養(かんよう)につとめて自他ともに皇道派の大立者をもって任じてきたが、かれを崇敬する急進的青年将校がしだいに独走して、特権階級の打倒と、国家革新を目的とする「昭和維新」の断行のために、ついに決起するや、彼はこれを敢然(かんぜん)と阻止せんとする勇断もなく、かえってこれに便乗する言動をしめした。しかも天皇の厳命により討伐令が下って、形勢逆転するや、たちまち反乱軍と手をきり、家にとじこもって一身の保全につとめた態度こそ、奇怪にも公明な皇道精神にそぐわないものだった。私の朝日新聞時代の親しい先輩で、陸軍通として有名な高宮太平君は、「真崎甚三郎はハラ黒い役者で、陰険な野心家であり、それは彼の眼のまわりの黒いくまがよくしめしていた。ただ純真な青年将校がだまされていたのだ」ときわめて手きびしく批評しているが、私は多少の面識があったこの老将軍に、むしろ好印象をおぼえている。かれもまた、天皇制という美名のもとに、「われひとり正しい」と信じて忠君愛国をはげみながら、歴史におどらされた不幸な日本軍人ではなかったろうか? ただ彼は、戦場ではなばなしく名誉の戦死をとげるかわりに、敗戦後、さびしくタタミの上で病死したのだった。 
二十六

 

永田軍務局長を、いわゆる「大逆不逞の軍賊」として、軍刀で斬り殺した相沢中佐の軍法会議に、特別弁護人として活躍した、当時、陸大教官満井佐吉中佐もまた、二・二六事件の舞台裏で暗躍したワキ役の花形であった。彼は、ドイツ在勤のあしかけ三年間(一九二九〜三二年)、ナチス・ドイツのすさまじい国家社会主義運動に共鳴して、隆々たる統制経済と軍備強化との姿を眼のあたりにして帰国したのだ。すると、日本の政党政治の腐敗と官吏の堕落と財閥の搾取が目にあまり、胸中の正義感が爆発した。たまたま北九州の三井経営の三池炭鉱に大争議がおこるや、ナチスじこみの満井中佐は、数万のまずしい炭鉱夫と家族を見ごろしにする資本家の横暴にいかり、大牟田市の市民大会に軍服のままとびいりして、三井財閥庸懲(ようちょう=こらしめ)をさけんで大熱弁をふるったうえ、みずから単身上京して日本橋の三井合名本社へ乗りこんだ。そして財閥の長老の池田成彬氏に面会、軍刀で床をたたきながら強談して善処を要求したのは、当時、すでに有名な話であった。この事件で、九州に熱血漢満井中佐あり、とばかり彼の雷名は、にわかに国家革新の運動上にクローズ・アップされた。そして昭和九年八月、陸大教官に転任して上京した後は、すでに国家革新運動の闘士になっていた。彼が相沢中佐の公判で、特別弁護人に選任されたのは、急進的な青年将校一派のあいだで、先輩格の彼の地位と熱弁と闘志が、たかく買われたために推薦されたからであった。私は当時、相沢事件の専任記者としてたずねたが、まず初対面でおどろいたことは、彼の軍人にはめずらしい滔々たる現状打破の熱弁と、頬骨が出てヒトラー流のチョビヒゲをはやした神経質な青白い顔にするどく光る異様な眼光であった。さて、ついに二・二六事件がおこるや、彼は率先して決起将校のために事態収拾に乗り出し、軍首脳部にたいして、「日本を救うためには青年将校の精神を生かして、これを機会に速やかに維新を実現せしめよ!」と強く進言して、二十八日に討伐の奉勅命令の下るまで連日、反乱軍のために奔走したのであった。かくて、反乱部隊の鎮定後、満井(みつい)中佐は事件の黒幕の有力人物として検挙され、「反乱者にたいして軍事上の利益をあたうる行為をした」という罪状により起訴され、東京陸軍軍法会議の公判に付された。皮肉にも彼は、一年まえに相沢中佐の弁護に立ち、重臣、財閥攻撃の熱弁をふるった法廷で、みずからがさばかれる身とかわったが、昭和十二年一月十八日に禁固三年の判決を言いわたされた。また、二・二六事件の突発のために中断されていた相沢中佐の永田中将殺害事件の審理は、判士(裁判官)を更迭したうえ、非公開のまま裁判のやりなおしを行ない、昭和十一年五月七日に死刑の判決が宣告された。これにたいして、相沢中佐は不服で高等軍法会議に上告したが棄却され、同年七月三日に代々木陸軍衛戍刑務所で銃殺された。それは二・二六事件の香田大尉以下、多数の決起将校の処刑の九日前であり、享年四十七歳だった。 
第七章 下剋上 / 宇垣内閣流産

 

昭和日本史上に奇怪な汚点を残した二・二六事件は、決起青年将校の大量銃殺と、事件参加者および関係者多数の検挙、処罰、さらに、上部責任者の引責、引退(陸軍の軍事参議官全員総辞職、予備役編入)とによって一応、片づげられた。そして、事件の責任をとった岡田内閣のあとをついで、広田弘毅前外相を首班とする新内閣が成立した。しかし、日本の軍部は、欧米の民主主義国の軍部のように政党出身の文官支配ではなくて、統帥権という絶対的な特権によって、大元帥たる天皇に直結していたから、軍部の横暴なり、越権なりを絶対に押さえる力は、事実上、天皇以外には政府にも政党にも世論にもなかった。しかも天皇自身は遠慮しがちで、すべて元老と重臣にまかせきりだった。それにつけこんで、軍部はのさばりだしたのだ。だからといって、財閥と手をむすんだ政党の腐敗と、汚職(当時は疑獄とよんで鉄道疑獄や勲章疑獄までおこって政府の大官連中が検挙された)事件の流行による政治家の堕落が、善良な国民の反感をあおり、とくに農村の不況と生活苦とあいまって、ますます軍部の独善的正義感を刺激した事実を見おとしてはなるまい。たしかに軍部をのさばらせたのは、政党の責任であった。そんな険悪な社会的雰囲気の中で、ひとにぎりの老練な政治家が生命の危険さえも覚悟して、議会の壇上で、軍部にたいして個人的な抗議をつづけていたことは注目すべき現象であった。その有名な実例は、二・二六事件の軍法会議判決もまだおわらない昭和十一年五月七日、第六十九議会の衆議院本会議でおこなわれた民政党の闘士斎藤隆夫代議士の大熱弁であった。彼は、事件後まだ二ヵ月半しかたたない当日、最高責任者たる陸相寺内寿一大将にたいして、軍人の政治活動の禁止と五・一五事件、および二・二六事件の責任と処断などについて、つぎの通りするどく追及した。
「 申すまでもなく、軍人の政治運動は上(かみ)御一人(ごいちにん)の趣旨に反し、国憲、国法の厳禁するところであります。かの有名な明治十五年一月四日、明治大帝が軍人に賜わりましたところのご勅諭(ちょくゆ)を拝しましても、軍人たるものは世論にまどわず、政治にかかわらず、ただただ一途におのれが本分たる忠節を守れと仰(おお)せだされている聖旨のあるところは、一見明瞭、なんら疑いをいれるべき余地はないのであります。帝国憲法の起草者でありますところの伊藤博文公は、その憲法義解において、『軍人ハ軍旗ノ下ニ在リテ軍法、軍令ヲ恪守(かくしゅ)シ専(もっぱら)ラ服従ヲ以テ第一義務トス……即(すなわ)チ現役軍人ハ集会結社シテ軍政マタハ政事ヲ論ズルコトヲ得ズ』とあります。また陸軍刑法、海軍刑法におきましても、軍人の政治運動は絶対にこれを禁じて、犯したるものについては三年以下の禁固をもってのぞんでいる……。もし軍人が政治運動にくわわることを許すとなりますると、政争の結果ついに武力に訴えて自己の主張を貫徹するにいたるのは自然の勢いでありまして、ことここにいたれば、立憲政治の破滅はいうにおよばず、国家動乱、武人専制の端を開くものでありますから、軍人の政治運動は断じて厳禁せねばならぬのであります。しかるにこれらの青年軍人は、天皇親政、皇室中心の政治というようなことをいうが、いったいどういう政治を行なわんとするのであるかというと、さっぱり分かっておらぬ。ただある者が今日の政党、財閥、支配階級は腐っているというと、一途にこれを信ずる。ロンドン条約は統帥権の干犯であるというと、一途にこれを信ずる。国家の危機目前に迫る、直接行動のほかなしといえば、一途にこれを信ずる。かくのごとくして、軍人教育をうけて忠君愛国の念にこりかたまっておりますところの直情径行(ちょくじょうけいこう)の青年が、一部の不平家、一部の陰謀家らの言論をそのままうのみにして、複雑なる国家社会に対する認識を誤りたることが、この事件(二・二六事件を指す)を惹起するにいたりたるところの大きな原因であったのである。それゆえに、青年軍人の思想はきわめて純真ではありますが、また同時に危険であります。禍(わざわい)のもとはすべてここから胚胎(はいたい)しているのでありますから、この思想を一洗するに非ざれば、将来の禍根を芟除(せんじょ)することはとうていできないと私は思います。陸軍大臣はこの点についてどういう考えを持っておられますか? 」
こんな調子で斎藤隆夫代議士は、陸軍当局が、三月事件、十月事件、五・一五事件の適切な処理をあやまったために、二・二六事件をまねいた点を非難し、また五・一五事件の海軍軍法会議で山本検察官が厳正な論告ののち、首魁(しゅかい)三名に死刑を求刑したところ、海軍部内外より猛烈な反対と圧迫をこうむり、身辺が危険となって、同検察官は憲兵の保護をうけ、家族一同は遠方に避難したという怪事実まで暴露したので議場は騒然となった。寺内陸相は、
「 ただいまの軍部に関しまするご質問、まことに熱誠適切なるご所論をうけたまわりまして、私はその論旨につきましては同感でございます 」
と表むきは低姿勢で答弁したものの、軍部の政党打倒の火に油をそそいだ結果となった。ことに政党の内部からさえ、「あんな演説をして軍部を怒らせたらとんでもない破目になるぞ」と目先のきく政治家連中も少なくなかった。それで、斎藤代議士は新聞界では大いに男前(おとこまえ)を上げたものの、民政党のなかではこの痛烈な演説がたたって、かえって孤立するようになった。(その後、天下の形勢は日一日と軍国主義の一色にぬりつぶされていったので、斎藤代議士の「自由の熱弁」も次第に影がうすくなっていった。そして軍部から徹底的にニラまれた彼は、それから四年後の昭和十五年三月に、衆議院での対華政策批判演説が問題化して、とうとう除名処分を決議され、議会より追放されてしまった)また翌年の昭和十二年一月二十一日、第七十議会で政友会の老闘士浜田国松氏は、政府ならびに軍部にたいする質疑としてつぎの通り追及した。
「 軍部は近年みずから誇称(こしょう)して、わが国政治の推進力はわれらにあり、乃公(だいこう)出でずんば蒼生(そうせい)を如何(いかん)せんの慨(がい)がある。五・一五事件しかり、二・二六事件しかり、軍部の一角よりときどき放送せらるる独裁政治意見しかり、議会制度調査会におげる陸相懇談会の経緯(いきさつ)しかり、満州協和会に関する関東軍司令官の声明書しかり。要するに、独裁強化の政治的イデオロギーは、つねにとうとうとして軍の底を流れ、ときに文武恪循(かくじゅん=行う)の提防を破壊せんとする危険あることは、国民のひとしく顰蹙(ひんしゅく)するところである 」
軍部は痛いところをつかれたので、寺内陸相はただちに反撃のため立ちあがり、
「 先刻来の浜田君の所説中に、軍人にたいしていささか侮辱するような言辞のあったのは遺憾である 」
と開きなおった。すると浜田代議士は、さすが政界に硬骨(とうこつ)で知られた老政治家だけに、黙ってひっこんではいなかった。すぐ再登壇すると、力のこもった声で陸相にむかい、
「 いやしくも国民の代表者である私が、国家の名誉ある軍隊を侮辱したというケンカをふっかけられてはあとへは退けませんぞ……  」
と逆襲した。 これにたいして、陸相もまた負けてたまるものかと立ちあがり、
「 侮辱するがごとく聞こえるところの言辞は、かえって浜田君のいわれる国民一致の精神を害するからご忠告申し上げる 」
とやった。これは五・一五事件いらい、つもりにつもった政党の軍部にたいするうっぷんをはきだしたもので、拍手と怒号が議場にわきたった。議員のなかにもひそかに軍部と手をにぎっていたものがあったから、浜田老代議士の熱弁をかえって、
「 時局をわきまえぬ旧体制の政治家の世迷言(よまよいごと) 」
のごとく野次(やじ)ったのだ。 それで同代議士もあとにひくわけにもいかず、満場騒然たるうちに三度、登壇してつぎのように大みえをきり、ついに軍部と正面衝突した。
「 速記録を調べて、僕が軍隊を侮辱した言葉があったら割腹して君に謝する。なかったら君が割腹せよ! 」
これには寺内陸相も内心、ビックリしたらしいが、一応その場はおさまり、議会は質疑第一日を終えた。しかし、この浜田発言で軍部はカンカンに怒り、そのはねかえりは、たちまち広田内閣の屋台骨をゆさぶった。表面は柔和な顔つきで貴公子然たる寺内陸相も、陸軍省の鼻息の荒い幕僚連中から強くつきあげられて、「政党に反省の色なし、議会を解散すべし」と、強硬な申し入れを政府へすることになった。政府は議会の散会後、院内で緊急閣議をめぐり論争を重ねたが、結局、二日間の停会ののち、広田首相は軍部の強圧にたえかねて、一月二十三日、あえなくも総辞職を行なって軍門へくだったのでった。いずれきたるべき運命ではあったが、浜田発言は寺内陸相に挑戦しながら、かえって返り討ちにあったようなものだった。すでに当時の大新聞も世論も、錦の御旗を押したてた軍部の威圧と実力を恐れて、政党の没落を積極的に反対、もしくは抗議する気概もかけていたといえるだろう。明治いらいの古い福岡の右翼団体「玄洋社」の出身というので、外交官にはめずらしく右翼方面に評判のよかったはずの広田弘毅首相も、とうとう軍部の横車には勝てず、あっさり退陣したわけだ。それくらい、軍部のいわゆる「集団独裁力」は、もはや当時の日本を事実上、支配していたのである。 

 

そこで、天皇をめぐる元老、重臣たちは政局のなりゆきを心配して、このさいに軍部のわがままを押さえるためには、軍出身の長老を総理にすえることが肝要である、と常識的にかんがえた結果、大正の末と昭和のはじめに陸相を二回もつとめた軍人政治家として定評のある宇垣一成大将(予備役)に、一月二十五日、組閣の大命が降下した。宇垣大将は明治元年、岡山県の生まれで、陸軍士官学校の第一期卒業であり、明治三十三年に陸大を優等で出てから参謀本部第一部長、陸大校長、教育総監本部長、陸軍次官、陸相を歴任した陸軍の大先輩であった。しかも昭和六年に退官、予備役になってから朝鮮総督に任命されて、十一年八月まで満五年間の在任中、政治家としての実力を大いにみがき、軍人にはめずらしい、幅の広い見識と清濁あわせのむ器量を兼備した人物といわれ、当時六十八歳であった。それだけにまた、彼を目の仇とする軍部内外の反宇垣派もなかなか、根強いものであった。とくに宇垣陸相時代の軍縮で首にされた多数の予備役軍人の反感は大きかった。しかし、宇垣大将自身の目からみれば、当時、いわゆる陸軍首脳部として、ときめいていた将軍連中も、たいてい十年以上も後輩のいわば小物であった。たとえば二・二六事件当時の陸相川島義之大将は陸士第十期、後任の陸相林銑十郎大将は陸士第八期、また皇道派の巨頭といわれた元教育総監真崎甚三郎大将と元陸相荒木貞夫大将の両人は、いずれも陸士第九期といったぐあいで、陸士第一期の宇垣大将のはるかに末輩であった。だから、先任順序をなによりも重んずる陸軍部内では、宇垣大将が出馬すれば、いくら政党打倒と軍部独裁をめざす強硬な将軍たちも幕僚連中も、一応、おさまるであろうと元老、重臣方面では期待していたし、また政党側も、「宇垣ならば軍部をうまくまとめるだろう」と注目しており、世論もまた大いに議会政治の存続を希望していた。ところが、組閣大命の降下した一月二十五日から、軍部は猛烈な宇垣反対運動を起こした。まず、静養中の伊豆の長岡より上京する宇垣大将の自動車を途中で待ちかまえた憲兵司令官がとめて、みずから寺内陸相の使者なりと称し、部内の険悪な情勢を理由にして「大命拝辞」を強要した。「おやめになった方が閣下の身のおためですぞ。もしもムリをされたら重大事がおこります」とおどかした。宇垣大将は内心、この末輩の不穏当な言動ににがりきりながら軽くあしらって上京し、堂々と参内(さんだい)して天皇に拝謁したうえ、大命を受諾した。一方、陸軍首脳部では宇垣参内の報に、驚きあわてて寺内陸相を中心に宇垣内閣の出現をはばむ非常措置を講じた。そして、ロボット的存在の閑院宮参謀総長と杉山元教育総監をくわえた形式的な、いわゆる、三長官会議の決議として、同日夕刻に宇垣大将にたいし、「全軍の総意」により、「協力せず」と寺内陸相から正式に通告した。陸軍が宇垣内閣に「協力せず」ということは、「陸軍大臣を出さない」ということである。なぜ天皇が、最適任者として組閣を命じた軍部の大長老の宇垣大将にたいして、かくも軍部が猛烈な反対をしたのであろうか? 天皇の命じた次期内閣首班に協力せず、と公言することは、絶対天皇制下の帝国軍人首脳として、最大の抗命罪に該当するものではなかろうか? (もしも天皇自身が怒って、大元帥の資格で三長官を叱責したら、もちろん、軍首脳部は協力せざるをえなかったであろう!)
さて、表面上の反対理由には、つぎの二点があげられていた。
一、粛軍完成のため、宇垣内閣の出現は部内に悪影響をおよぼし、全軍統制の上において絶対反対である。
二、時局認識において、宇垣内閣は陸軍の待望するところと、根本的に相いれざるものと思惟(しい=思考)される。
要するに、軍部としてはせっかく、広田内閣を倒して軍部の政党不信と国防強化の方針をはっきりと打ちだしたやさきに、かつて大正末期の軍縮時代に大ナタをふるったのみならず、奇怪な三月事件の黒幕的人物として注目された宇垣大将が、内閣首班として登場することは、内心でコワかったのだ。また、長年にわたり政党とも財界とも深いむすびつきのある宇垣大将が首相となれば、没落しかけた政党政治がふたたび力をもりかえして、軍部の行動は大いに牽制され、国内体制も軟化するおそれがある――といったような軍人らしい偏狭と独善の敵愾心(てきがいしん)から、陸軍の大先輩にむかって「全軍の総意」を口実に楯をついたわけだ。現首脳部にとっては目の上のコブのような、邪魔者にたいする軍人らしいあくどい嫌がらせともいえた。さらに同夜七時、寺内陸相と杉山教育総監を中心に、陸軍首脳部は緊急会議をひらいたうえ、主要幕僚(統制派)もろとも、「宇垣絶対反対」の方針をかためた。そして、翌二十六日午前十一時、寺内と杉山両大将が打ちそろって組閣本部を訪ね、大先輩の宇垣大将にたいして、かさねて後任陸相の推薦は困難であるからとて、「大命拝辞」と「組閣断念」を勧告した。宇垣大将としては、かっての部下である寺内、杉山両大将から体裁よくボイコットの通告をうけたことは心外千万であり、また片腹いたく思ったことであろう。なぜならば寺内寿一は陸士第十一期、杉山元は陸士第十二期で、いずれも陸士第一期の宇垣よりみれば、十年以上も年下の後輩であった。たとえ革新的な幕僚連中につきあげられても、これをしっかりとおさえて、軍の長老たる宇垣の組閣に協力することが軍の秩序を守るゆえんであったろう。また、絶対的な天皇の大命による組閣であってみれば、「宇垣は好かん!」とか、「宇垣は政党と財閥とに腐れ縁がある!」とか、悪口をいってケチをつけたり、いやがらせをすることは紀律を重んすべき軍人としてもっともつつしむべきことであったろう。またもし、寺内陸相や杉山教育総監たちの宇垣阻止運動が、かならずしも本人の意思ではなくて、部下の幕僚のつきあげによるものであったというならば、それこそ「粛軍」を金看板にしていた統制派首脳もまた、革新青年将校にとってかわった、いわゆる「幕僚ファッショ」に牛耳(ぎゅうじ)られていたわけであり、いまやかがやかしい皇軍の実体は、もっとも忌むべき「下剋上」の風潮に深くむしばまれてしまったことになるのだ。それが「日華事変」のかくれた原動力となったのではなかろうか? 宇垣大将としては、軍部の横車は明らかに大権干犯であると考えていたが、軍首脳部は、「もしも宇垣がそのような非常措置をとったら、それこそ宇垣個人の政治欲を満たすために天皇を利用する大権干犯である」と逆宣伝につとめた。当時、組閣本部につめきった各新聞社の記者連中は、たいてい宇垣老将軍の苦しい立ち場に同情をよせて、「宇垣に一度やらせてみたらよいでぱないか?」「天皇から組閣の大命を拝受した以上、これを妨害するものは大命に抗するものだから餃罰にしたらよかろう!」という意見が強かった。私も老獪で腹のすわった宇垣大将のことだから、いく日でも辛抱強くねばって、なんとか妥協するか、あるいは重臣の支持で強引に押しきるであろうと期待していた。しかし、軍国日本のわが世をときめく軍部の「集団独裁力」は、軍長老の宇垣個人よりもはるかに強大であった。宇垣が湯浅内府に頼みこんでいた間に、二十七日午後、陸士第十五期の大後輩の梅津美治郎次官は、この大先輩排斥に追い討ちをかけるように、「宇垣大将はすみやかに拝辞を期待する」という敵意のあふれた談話を発表した。そして翌二十八日、宇垣が低姿勢で懇請した陸軍三長官との会見を体裁よく拒絶した。かくて長年、軍部最大の実力者とか、政界随一のダークホースとよばれて注目されていた宇垣大将は、大命降下後、五日間にわたる努力もすべてむなしく一月二十九日、ついに組閣を断念して投げだした。彼の悲壮な表情を私は決して忘れないだろう。そして、同日の深夜、あらためて組閣の大命は、軍部のロボットのような元陸相林銑十郎大将(陸士第八期)に降下した。今日より冷静に回顧すると、元老の西園寺公も湯浅内府その他の重臣たちも、軍部を恐れるあまり、まことに優柔不断で勇気をかき、そのような気の弱い補弼(ほひつ=天皇の助言者)のワクのなかで、ただ気をもんでいた軍服を着た天皇の姿こそ、軍国日本の悲劇の象徴であったといえるであろう。二・二六事件から「日華事変」にいたる一年半の間には、このような昭和動乱史をかざる奇怪な幕間(まくあい)劇が演ぜられたのであった。昭和十二年七月七日夜、北京郊外の芦溝橋(ろこうきょう)に鳴りひびいた一発の銃声によって八年間にわたる「日華事変」という名の限定戦争がおこった。これは太平洋戦争の文字通り大序曲をなすものであり、満州事変いらい、日本軍部が公然と熱望していた中国大陸への進出の野心は、ついに実現の日を迎えたのであった。七月二十八日、日本軍は内地の三個師団に動員発令、七月末までに電光石火のごとく平津地区の中国軍を掃蕩したが、八月十三日に戦火は上海へ飛んで華中へ拡大した。いよいよ、「北支事変」は「支那事変」と改称されて、全面的な日中戦争の様相を呈してきた。かくて、日本軍は破竹のごとく進撃して十二月十三日、ついに中国の首都南京を攻略したが、意外にも、それは国民政府の降伏をもたらさず、かえって勝ち誇った日本軍を泥沼のような、長期抗戦の中へ引きずりこんだのであった。  
第八章 軍靴の足音 / 仏印進駐事件

 

想えば、昭和三年の張作霖爆殺事件以来の日本をめぐる、重苦しい雰囲気のなかで、軍部は“支那事変”という名の日中戦争へ突入したのだった。六年まえの満州事変の成功と、満州国建国という大冒険に味をしめた軍部の急進派は、ついに第二の冒険をめざして中国大陸へ武力行動を起こしたのである。しかし、満州事変とうじとは国際情勢が一変しており、とくに中国の蒋介石政権はすでに米英両国の援助によって、抗日態勢を日ましに強化していたから、軍部は武力によって、中国四億の民衆を征服するかわりに、ひさしい年月の間、列強の間で、「眠れる獅子」と呼ばれていたこの老大国を、意外にも「挙国一致」で決起させてしまうことになった。私は、今日でもまだ決して忘れないが、昭和十二年(1937年)七月、芦溝橋事件が突発して、いよいよ“支那事変”が悪化の一途をたどりはじめた暑い日の正午ごろ、東京霞ヶ関の、外務省情報部の玄関先で出あった、当時の在京外人記者団の長老格のヒュー・バイアス君は、私にむかって、つぎのようにいみじくも語った。「ミスター・ナカノ、日本政府は不拡大方針とか、現地解決とか声明しているが、戦争は相手があるから、決して日本の思うようにはいかないだろう。昔から“Short War is Long War”ですよ」彼は当時、米英両国の代表的新聞である「ニューヨーク・タイムズ」と、ロンドンの「タイムズ」両紙の東京特派員をかねた、学究肌で日本通の立派な英人記者であったが、その公正な報道と率直な論評によって、憲兵隊や特高警察から睨まれてはいたものの、外務省当局はじめ日本の上層階級とインテリ層からひそかに尊敬され、かつ重視されていた。また、私は当時、朝日新聞記者で、外務省内の記者クラブ「霞クラブ」の担当記者として、毎日、朝と夕の2回の情報部長会見に出席していた。外人記者団の会見( Press Conference と呼ばれた)は一日おきで、午前十時よりはじまり、それがおわると、日本人記者たちの会見が情報部長室で行なわれるシステムであった。ここで情報部長をめぐり、当日の国際情勢をめぐる外務省着公電(世界各地の在外公館からあつまる情報報告)について、質疑応答がおこなわれ、また外務省当局の公式発表も、この席上でおこなわれた。“支那事変”がおこって極東情勢が悪化するや、この霞ヶ関の情報部長会見は外人記者団にとって、非常に重荷なニュース源となり、トーキョー発の外電は、世界中の新聞の第一面を賑わせていたものだ。老練なバイアス記者は日本に長年住んで、日本文化を愛し、著名な政界や財界の日本人に、たくさん友人知己を持っていただけに、狂信的な軍国主義に支配された昭和日本の危機を痛切に感じていたらしい。とくに“支那事変”には深刻な憂慮をしめして、「早く片づけなければ大変なことになる、大戦争になる」と私に再三、うち明けていた。彼がいみじくも喝破した「短期戦こそ長期戦なり!」という言葉は、“支那事変”の正体をズバリと言い当てたものだった。もちろん、日本側にもそれ相当のいい分はあった。たとえば日本が、華北の平津地区(北京、天津)に兵力を駐屯させる権利は、北清事変(日清戦争後の明治三十三年五月、清国におこった義和団の暴動事件で北京の列国公使館が襲撃され、日、英、米、独、仏、印、露、墺の八ヶ国が出兵して鎮圧する)の細末議定書にもとづく正当なものであったが、時世の移り変りにともなって、中華民国政府としては、清朝時代の国辱的な取決めをなるべく速やかに廃棄して、国内統一をはかる立場にあった。それで北支に駐屯する日本軍(支那駐屯軍と呼ぶ)の存在は、蒋政権にとって目ざわりである一方、日本軍部としては満州建国の威勢をかって、米英の援助のもとに抗日、排日、侮日(ぶにち)に増長する蒋政権に反省をもとめて、もしもききいれない場合は、実力をもって庸懲(ようちょう:こらしめる)し、日本の権益を守りぬくという固い決意であった。しかも、ナチス・ドイツの独裁者ヒトラーの呼号する、米英体側打破と欧州新秩序建設にならって、米英体制にとってかわる日本帝国支配のもとに、東亜新秩序の樹立を目指して、“支那事変”を誘発する謀略工作に、陸軍の出先機関はいずれも懸命であったようだ。私は戦史家の立場より、太平洋戦争の開戦にいたるまでの、足かけ五ヵ年にわたる泥沼のごとき“支那事変”で、勇敢に戦った日本軍将兵の労苦と犠牲を、決して忘れるものではない。しかし、事変当初に大元帥たる天皇の前で、「支那事変はすぐ片づきます」と自信満々で奏上した陸軍首脳の軽率な戦略指導と、近視眼的な戦局誤断は、まことに英人バイアス記者の予言のごとく、日本を泥沼の中へ投げこんで取返しのつかないハメにおちいらせたもので、その責任は極めて重大だと思う。なぜならば、東亜の平和を望んだ天皇自身でさえ、“支那事変”の長期化には大変、不興であった事実が戦後になってはじめて明らかにされたからである。記録によると、昭和十六年九月六日の御前会議で、統師部の強い要請により、対米開戦準備を十月下旬までに完了するという重大方針が決定した前日に、近衛首相がこの議題を内奏したところが、天皇はいたく心配して、陸海軍統師部の両総長を呼んで、近衛首相立ち会いのもとにみずから質問した。
「 まず天皇は、杉山元参謀総長にたいして、「日米に事おこらば、陸軍としては幾許(いくばく)の期間に片づける確信があるか?」とたずねた。杉山大将は、「南洋方面だけは、三ヵ月ぐらいにて片づけるつもりであります」と答えた。すると、天皇はいかにも不機嫌なようすで杉山大将をみつめながら、「汝は支那事変勃発とときの陸軍大臣であるぞ、そのときに陸軍大臣として、事変は一ヵ月ぐらいにて片づくと申したことを記憶する。しかるに、四ヵ年の長きにわたり、まだ片づかんではないか?」と追及した。杉山大将は、すっかり恐縮して脂汗をかきながら、「支那は奥地が開けておりまして、予定通り作戦しえなかったわけでございます」と、まったくしどろもどろな答弁をした。 天皇はこれを聞いてさすがにムッとした面持ちで、一段と声を大きくして、「支那の奥地が広いというなら、太平洋はなお広いではないか! 汝はいったい、いかなる確信があって三ヵ月と申すか?」と叱責した。杉山大将はかえす言葉もなく、ただ顔を蒼白にして低く頭を下げ、直立不動の姿勢のまま震えていたという。 」
このように杉山参謀総長は、支那事変のはじめにも、太平洋戦争の直前にも、その戦争指導上のいい加減な見通しについて、天皇からきつく叱られていたにもかかわらず、いわゆる“幕僚ファッショ”の下からの突上げによって、ずるずると泥沼のような長期戦の中へ引きずりこまれていったようである。ではいったい、かくも平和愛好の天皇が、重臣を大量殺傷した二・二六事件以来、不信の念を強くしていた軍部にたいして、なぜ、もっと強硬な態度をしめして厳然たる天皇の統帥大権を発揮して、陸軍の専断、独行を禁圧しなかったのであろうか? 別の記録によると、日米開戦の危機迫るころ、天皇は、しばしば自重論者の東久邇宮稔彦(ひがしくにみやなるひこ)王(陸軍大将、終戦直後の首相)にむかって、「軍にも困ったものである」と嘆息していたという。しかし、天皇は側近の近衛公のみたところでは、「いつもご遠慮がちと思われるほど、御意見をお述べにならない」というのであった。それは長年にわたり元老の西園寺公などから、「陛下はなるべく自主的発言をしない方がよろしい。あまり陛下が政治上の指図をすると、かえって君徳(くんとく)を傷つける畏れがある」という趣旨の、いわゆる日本独特の天皇学を吹きこまれていたせいであろう。要するに、軍部の独断専行を押えることができた、ただ一人の大元帥たる天皇は昭和動乱史上、つねに消極的で孤独であった。そして、天皇は“支那事変”から太平洋戦争にかけて、軍部の武力行動を、いつも不安な眼と危惧の念でじっと見まもっていたが、積極的にこれを阻止したり、あるいは断固として抑制するような勇気に欠けていた。(ただ敗戦のときだけ、はじめて自由意思による聖断をくだした。) これについて、戦後、日本のある政治学者が天皇と戦争の関係を、つぎのように鋭く批判していたのは注目されるであろう。
「 近衛が言っているように、天皇が終始一貫して平和主義の態度をとられており、大戦争に突入するさいも、たいへん、苦慮されたことは、明らかなことであった。ただ当時は、側近にもどこにも、すでに真に天皇を支持するものとてなく、戦争を主張する強大な軍部や右翼勢力の前には、天皇個人は極めて微力な、そして気の毒な存在でしかなかった 」
かように天皇の個人的意思は軽視または無視されたが、天皇個人から切りはなされた天皇の神的権威そのものは、ときの支配的政治勢力(軍部と右翼)によって、あくまで鼓吹宣伝され、彼らの内外における政策遂行の道具として、十二分に利用されたのであった。 

 

さて本題にもどって、の推移をみよう。すでに述べたように、軍部の企図した中国征圧の野望は、意外にも思うままにはかどらず、杉山参謀総長が天皇の前で、「一ヵ月で片づける」と奏上した“支那事変”は、首都南京を攻略(昭和十二年十二月十三日)しても一向に片づかず、ますます泥沼のような長期戦の様相を呈してきた。それは、軍部が完全に見通しを誤ったのだ。空軍がなく、まともな海軍もないような中国軍にたいして、日本は世界一流の強大な陸、海、空軍兵力を保持していたから、いざ決戦となれば、中国軍はまったく手も足も出ずに蹴散らされ、殲滅されて、蒋介石の国民政府はたちまち降伏するか、崩壊するものと希望的観測にひたっていた。ところが、日本軍は、中国大陸に進撃して転戦すればするほど、巨大な厚い壁にブツかったのである。それは中国四億の民衆の、烈火のような抗日意識と、米英の無限に近い物量的援助であった。けっきょく、日本軍は中国の首都を攻略し、軍事上ならびに交通、商業上の要点を次から次へと占領して、いわゆる「連戦連勝」をつづけても、決して“支那事変”は片づくものではなかった。それはますます中国民衆の対日憎悪と抗日意識を深めて、重慶政権を死物狂いに決起させるばかりであった。それで、翌昭和十三年一月十一日の御前会議で、軍部がメンツをたもつのに都合のよいような「支那事変処理根本方針」が決定された。そして「過去いっさいの相剋か一掃して、日満華提携の新国交を、大乗的基礎の上に再建する」という、いかにも結構な趣旨と講和交渉条件が再確認されて、中国側の出方を期待した。しかし、さんざん武力で痛めつけた重慶政権にたいして、いまさら日本の都合次第で、仲直りしようと申しでても、それは無理であった。日本側としては大いに寛大な態度をみせて譲歩したつもりであったが、重慶や昆明の奥地で徹底抗戦を決意した蒋介石政権は、一月十五日の期限をすぎても、日本側の提示した解決条件(容共抗日満政策の放棄、日満両国の防共政策に協力、非武装地帯の設定、日清華三国間の経済関係の緊密化、対日賠償の支払いその他)にたいして回答を与えなかった。もはやすでに、中国は米英の援助をたよって、日本といい加減な妥協に応ずる吐はなかった。それには中国共産党の大きな抗日的圧力が利いていた。その第八路軍(いわゆる紅軍)は日本軍にたいして、猛烈なゲリラ戦を展開して気勢をあげていたからだ。
一方、日本の軍部内では、相変わらず派閥争いがたえず、“支那事変”の処理をめぐってさえも激しく対立していた。すなわち、参謀本部第一部長石原莞爾(かんじ)少将一派は、「支那と決して戦うべからず、ソ連と戦うべし」と主張して、中国との和平交渉に大いに熱心であったが、杉山陸相以下、陸軍省の主流派はむしろ、和平交渉に冷淡であり、米英と固くむすんだ重慶政権の完全打倒と、親日カイライ政権の樹立による「第二の満州国」の建設を望んでいた。なるほど、日本の立場からみると、この両派のどちらにも、一理はあった。しかし、日満華一体の、いわゆる東亜協同体というような遠大な構想は、強大な政治指導力と、世界戦略の緻密な計算に基ずかないかぎりは、ただ慢心した軍部の号令と、銃剣のみによっては到底、達成されるものではなかった。けっきょく、石原少将一派の和平主張を押さえて、昭和十三年一月十六日、日本政府は、「国民政府を相手とせず」という有名な声明を発表して、事変解決の門を自ら閉ざした形となった。そのかわり“支那事変”の長期化にそなえて、三月三十一日には国家総動員法が判定された。また、前年の十一月には日露戦争いらい三十年ぶりで、大本営がすでに設置されており、ついに “支那事変”は宣戦布告をしない、本格的戦争として拡大していった。かくて同年六月には、徐州大会戦がおこなわれて、日本軍は大勝利をおさめ、蒋介石軍に大打撃を与えたのみならず、十月下旬には武漢および広東も陥落した。だが、重慶政権の所在地まで、日本軍は攻め込んで行くだけの兵力も補給力もなかった。当時、日本中の全兵力を中国大陸へ投入しても、広大な中国の400余州を占領することは、とうてい不可能であった。こうなると、日本の軍部は深刻にあせる一方、重慶政権はビルマと仏印の、いわゆる援蒋ルートをフルに活用して、莫大な戦用物資をぞくぞく輸送して、長期抗戦の有利な構えをみせた。日本にとって、気楽な“負ける心配のない戦争”であった“支那事変”は、いつのまにか苦しい“勝つ自信のない戦争”となりつつあった。いったい、どうしたらよいか? それにはつぎのような三つの手があった。しかし、どれもこれも、泥沼のような“支那事変”を一挙に解決する決め手ではなかった。
「 (一) さきの「国民政府を相手とせず」という大見得を引っ込めて、ふたたび国民政府(重慶政権)と和平交渉をすること。(近衛新声明)
(二) 日本側と内通、了解のあった国民党副総裁で和平派の大立者、汪兆銘(おうちょうめい)を引っ張りだすこと。彼は昭和十三年十二月、重慶を脱出して雲南省経由、仏印のハノイにあらわれ、和平反日救国の声明を発表して、日本とむすんで新中央政府(汪政権)樹立の運動を発足した。(昭和十五年三月三十日、南京で中華民国の新政府成立する)
(三) 重慶(じゅうけい)政権の屈服を促進するための最重要方策の一つとして、米英の援蒋補給を完全に断ち切り、蒋介石一派の孤立、窮乏をはかること。 (仏印の援蒋ルートとビルマ・ロードの閉鎖要求問題がおこってきた) 」
(一)の近衛三原則によっても、また、(二)の汪工作によっても、重慶政権との和平と事変の解決ができないとなれば、日本軍はどうしても、(三)の武力制裁を強化するほかはなかった。それで蒋介石政権の背後にある、米英勢力と正面衝突する危機をはらんできた。こうして“支那事変”は刻々と、対米英戦争へ実質上、移っていったのだ。四年前に英人記者ハイアス君が日本のために一番心配していた最悪の事態が、今や目前に迫っていたのである。 

 

昭和十五年五月、逆巻くドイツ軍の破竹の進撃によって、フランス本国が没落し、その海外権民地が、本国と連絡を断たれて孤立状態に陥るや、日本の軍部はただちに仏領印度支那(略称仏印、今日のベトナム)に目をつけた。そして“支那事変”の早期解決に資する目的と称して、微力な仏印政庁に難題をふっかけて、強引な軍事謀略を企てた。まず、日本側では仏印当局にたいして、重慶政府向けの物資輸送にあたっていた、いわゆる援蒋ルートの即時閉鎖を要求し、もしもこれに応じない場合は、実力をもってしても、要求を貫徹する覚悟であることをほのめかした。これに驚いた当時の仏印総督カトルー陸軍大将は、本国政府(パリよりビシーに移転)と無電連絡もとれず、さりとて、ぐずぐずしていては広東省境より日本軍の侵入する恐れもあったので、本国政府にははからず、独断をもって、日本側の要求をすべていれた。そして、問題の援蒋ルートを全部、自発的に閉鎖したから、その実状をぜひ視察されたいと日本政府に通告してきた。当時、いわゆる仏印の援蒋ルートというのは、北部仏印のトンキン地方の玄関口に当るハイフォン港を起点とし、首都ハノイをへて中国国境のラオカイに達し、それより雲南省の省都昆明に至る有名なテン越鉄道と、ハイフォン港より北上してランソンを通り、それより国境の鎮南関径由で、広西省の省都南寧に通ずる自動車道路を二大幹線としていた。このほかに、自動車道路により、奥地のジャングル地帯の淋しい国境の町カオバン、ハージャンなどを経由して、広西省と雲南省へ直通していた。ただし輸送物資はすべて米国製産の軍需品であり、主として米国船よりハイフォン港に陸揚げされていた。こうして、仏印政庁は日本側の要求をいれて、中国国境に接するラオカイの国境駅の構内で鉄道を切断し、また、鎮南関付近の峠の下で、自動車道路を破壊するなど、中国むけの援蒋物資の輸送禁止を命令する一方、日本政府に監視団の派遣をもとめて、この一行を国賓待遇でもてなし、歓心を買うことにつとめた。それは、もしも日本軍を怒らせたら、どんなヒドイ目にあうかわからなかったからだ。ところが、日本の軍部、とくに南支の仏印国境近くで作戦行動中の現地の広東軍と、東京の参謀本部では、懸案の援蒋ルートの自発的禁絶などではとうてい満足せず、このさいに仏印政庁の弱点をついて、強圧による日本軍部隊の北部仏印(トンキン地方)への進駐、確保をのぞんだ。それは盟邦ナチス・ドイツの、あざやかなオーストリアならびにチェコスロバキア無血進駐をまねてみたい野望であった。
かくて、昭和十五年六月二十五日の正午、突然、大本営陸海軍部と、外務省の同時発表によって、陸軍部内で、有数のフランス通であった西原一策少将(元フランス駐在陸軍武官)を団長とする「大本営派遣援蒋禁絶監視団」が、特別機で空路、仏印の首都ハノイに急派されることになった。それは陸軍と海軍と外務省の専門監視委員より混成された、総員三十数名の一行(あとでもっと増員された)であり、荒涼たる奥地のジャングル地帯に監視所を設定するため、日本式の鍋、釜類からコンロなど炊事道具まで、陸軍省の小使や軍属が要員として携行するという騒ぎであった。海軍側は柳沢蔵之肋大佐(当時、海軍省高級副官)と根本純一中佐その他、陸軍側は元フランス駐在の小池大佐以下、奉天憲兵隊特高課長から転じた有賀甚五郎少佐、それに事務員格のフランス語の大家、徳尾俊彦元少佐など多彩な顔ぶれであった。また、外務省側は最初、フランス通の文化人として知られた一等書記官柳沢健(元ポルトガル代理公使)、元ハノイ総領事宗村丑生の諸氏を予定されていたが、まるで、足もとより鳥が飛びたつような陸海軍側の早急な東京出発(六月二十六日)には、とてもまにあわず、しぶっていたために忌避されて、若手の元気のよい、欧亜局第二課事務官与謝野秀君(歌人の与謝野晶子夫人次男、戦後にスペイン大使、東大以来の筆者の友人)が選抜され、自宅に戻るひまもなく、着のみ着のままで、フランス語のできる書記数名をひきつれて、ただちに参加し、大本営が緊急徴発した日本航空の新鋭ダグラスDC3型三機をつらねて台湾の台北経由で、堂々と空から仏印へ乗込んだ。この重大な軍事的外交使命をおびた監視団には、朝日、毎日、読売、同盟通信の四社より、記者各々一名ずつが特別に随行を許された。当時、私は外務省詰の記者で、英語で電報も打てるところから、運よく一行に加わることになり、たった半日のあわただしい出発準備で、はるか仏印のハノイを目指し、汽車と飛行機を乗りついで急行した。私は念のために、在京フランス大使館より旅券査証を入手する一方、海軍省より南支方面艦隊付の従軍許可証をうけて東京を出発した。(私は外務省のほか、海軍省の記者クラブ「黒潮会」にも加入していたので便宜をえられた) そして西原少将一行より数日おくれて、台北より大本営特別機に便乗して、当時、長らく、いっさい外国人旅行者、とくに日本人へ門戸を固くとざしていた謎の国、仏印の首都ハノイ市郊外のジアラム飛行場に到着した。ものすごく暑い、燃えるような日の午後であった。それから、私の約4ヵ月間にわたるスリル100%の汗まみれの新聞記者的冒険がはじまった。それは、私自身が、はからずも昭和動乱史上に奇怪な秘密をいまだに秘めている“仏印の嵐”の真唯中にまきこまれて、日本軍のいまわしい、平和を偽装した流血進駐の正体を生々しく現地で目撃した、極めて少数の“歴史の証人”の一人となったからだ! その驚くべき真相は次に述べよう。 

 

今日、昭和動乱、風雪二十年の記録を飾る奇怪な秘話――日本軍の仏印(現在のベトナム)進駐事件といっても、日本人の大半にとっては、遠い昔の、おぼろげな記憶に残るか残らないかわからないような出来事であろう。しかも、仏印進駐といえば、いまでは大抵の人々は、太平洋戦争の序幕となった、昭和十六年七月28日に決行された、日本軍の南部仏印進駐を思い出すようであるが、この1年前に日本国民の眼をごまかして「平和進駐」と銘をうった北部仏印進駐は、どうも忘れられているようだ。しかし、実際には、太平洋戦争の開戦の足場として、日本軍の南部仏印進駐が、無抵抗でスラスラと運んだのは、前年の無理押しの北部仏印進駐で、流血の騒乱を起こした結果であった。これを正直にはっきり言いかえれば、日本軍は北部仏印へ「武力進駐」したおかげで、仏印当局と仏印軍を恐怖萎縮させ、とうとう骨技きにしたため、その翌年に南部仏印へ平和進駐できたわけである。ただ、このような複雑な真相を、当時の日本人は、すべて新聞報道の禁止的検閲によって、知らされなかったので、日本軍の北部仏印進駐こそ、いわゆる皇軍の威光が中国大陸よりさらに進んで、天然資源の無限の宝庫たる広大な仏領印度支那にまでおよんだと、単純に喜んだものであった。それは当時、すでに軍部の厳重な指導下にあった日本中の新聞と、そこで活動する新聞記者たち全体の総合的責任でもあった。いわゆる、国策にそった言論、報道活動しかみとめられなかった苦難の時代であったのだ。私自身も、やはり朝日新聞紙上には、仏印の首都ハノイより「日本軍堂々と進駐、仏印にひるがえる日章旗――」という感激の大見出しにふさわしい現地報告記事を綴って、打電しなければならなかった。しかし、私は、それとは別に私個人の記念のメモをつくって、この日本軍進駐の波瀾万丈の内幕ニュースをひそかに綴っていた。それは、当時はもちろん、戦時中もいっさい発表することを許されず、二十年以上もハノイ土産の、古ぼけた革トラソクの中に、他の記録資料類とともに秘蔵されていた。いま私はここに、この汗まみれの貴重なメモを拡げている。こうして「仏印の嵐」の真相を綴っていると、まことにめまぐるしい祖国日本の移り変わりを偲んで感慨無量である。それはまさに、昭和動乱の大詰めがいよいよ切迫してきたという、恐ろしい不吉な予感であった。あの当時、私は新進気鋭の新聞記者として、いわゆる昭和動乱が刻々と「昭和戦争」へ向かって進展してゆく、軍靴の歴史的な足音を鼓膜に刻み込んでいたのである。
さて、私が昭和十五年六月末に、西原一策少将の率いる「大本営派遣援蒋禁絶監視団」(仏印側ではミッション・ジャポネーと呼んでいた)に随行して、空路ハノイ市に乗込んだとき、この緑したたるような美しいフランス風の町並木の首都は、まるで世界戦乱の荒々しい動きから取り残された、平和な別世界の秘境のように静まりかえっていた。灼熱の大陽のもと、住民も建物も、風物いっさいが、ただ汗をかきながらじっと眠っているような第一印象をうけた。仏印と国境一つへだてた中国大陸の南部、とくに広西省では、血みどろな南寧攻略作戦が行なわれていて、日本軍が悪戦苦闘していたことは、仏印の首都ハノイではとうてい想像もできなかった。だが、大本営派遣の監視団が突然、ハノイ市内にあらわれて、軍服姿の日本人が町に出没したり、銀翼に日の丸を描いた日本機が、時々燃えるような青空から連絡に飛来するようになってから、仏印をめぐる風雲は、にわかに急を告げはじめた。東洋の小パリと呼ばれた、ハノイ市内のカフェーのテラスに、三々五々たむろしたフランス人たちの顔は、暗く眉をひそめて、のんびりした地元の安南人男女の群れも、流石にわれわれ日本人を眺めてヒソヒソ話し合うという有様であった。それはひと口にいって、まさに嵐の前の静けさという表現が、実にピタリと当てはまった。ところが、この六月二十五日付の大本営発表には、「仏領印度支那当局が先に帝国に対し誓約せる援蒋物資輸送禁止の実行を監視するため、陸海軍および監視員を編成派遣することとした」とあり、その目的は文字通り、「支那事変」の解決のガンであった米英両国の、蒋介石政権(重慶)への物資援助ルートを禁絶するためという、監視団の看板の通りであった。また、晴れの団長に任命された西原一策少将は陸士第二十五期の逸材で、大正十一年、陸大を優等で卒業したのち、東京帝大法学部に学んだうえ、フランスに駐在し、さらにジュネーブの軍縮会議にも前後二回、随員として参加するなど海外勤務が長いだけに、やっかいな対外交渉にはもっとも適したフランス語の達人であった。しかも彼は、気骨のある外柔内剛の人格者であり、この大任を負って、実に誠心誠意、その当時としては珍しい軍人外交に努力した。とくに西原少将が私に親しく語ったところによると、当時、陸軍の「支那事変」の処理について、不安と不満を、ひそかに痛感していたといわれる天皇の意向を反映して、出発前に閉院宮参謀総長より、「いかなることがあっても、慎重に平和的に仏印当局と折衝して、日本の正当な要求を達成すべし、決して性急な武力行動をとるべからず」という思召(おぼしめ)しが伝達されたといわれる。ところが「支那事変」のドロ沼の中で、皮肉にも勝ちながら苦しんでいた、日本軍の主兵力たる南支那方面軍(軍司令官安藤利吉中将)では、南寧攻略作戦で惨憺たる苦難をなめてようやく難行軍のあげく、翠緑(すいりょう=青々とした)したたる仏印国境までたどりついた。そして、いよいよ好機をみはからって、仏印に対する武力進駐の夢を抱いていただけに、今回の大本営の監視団派遣にはすこぶる不満であった。それで南支方面軍では、参謀本部首脳に強硬に申し入れた結果、監視団長の西原少将を牽制するために副団長として、南支方面軍参謀副長佐藤賢了大佐を参加させ、広東より直接、軍用機でハノイに遅ればせながら着任させた。そして、佐藤大佐は西原少将の目付役として、監視団内部で策勤し、日仏印交渉にひそかに水をさして妨害するなど、目にあまる行動があったようだ。私は当時、個人的には西原少将とも、佐藤大佐とも現地で懇意にしていたので、この両人がいずれも、「国家のためによかれかし」と念じながら、日仏印軍事交渉を有利にするために、熱病の地で汗を流しながら努力していた事実を目のあたりにしている。しかし、この両人は、余りにその肌合いが違っていたのみならず、その目指す目的もかけ離れていた。要するに西原少将は、東大に学んだほどの理論家肌の紳士型軍人であり、佐藤大佐は、「だまれ事件」の示すような、直接行動的の野人型軍人であった。この両人が、異邦の地にある艦視団という狭い枠の中で、しかも、表面は如才がないが、外交的かけ引きの巧妙なフランス軍人を相手にして、仲よく調和して任務に精励することは、とうてい無理であった。そこに歴史的な日仏印軍事交渉に、はじめから内在した暗い影があったのだ。西原少将は、天皇の思召しを謹んで拝承して、たとえどんなことがあっても、辛抱強く交渉を続けて、仏印側を説得し、東亜の新秩序と日本の真意について、フランス軍人を納得させることを目的としたので、武力行動は絶対に避ける決心を固めていた。一方、佐藤大佐は、仏印もまた米英と同様な敵性国家群の一つとみなして、武力庸懲(ようちょう=こらしめ)の必要を主張する強硬な南支方面軍を背景にして、「仏印との交渉は、期限をつけて、相手の老獪な引きのばし策に乗ぜられてはならぬ。もし相手に反省の色なく、ダラダラと交渉をつづける場合は、断乎たる処置をとるべし」と提唱して、監視団の内部から西原少将を牽制した。
このように、フランス本国の没落をめぐる国際情勢の急変によって、それまで渋っていた仏印当局が、にわかに日本側に笑顔をみせて、監視団派遣を招請したことは、当時の第25代仏印総督カトルー将軍の政治的配慮によるものだった。彼はフランス本国政府の対独降伏によって、たとえ本国を独軍に占領されて独立を失っても、極東のフランス植民地たる印度支那だけは、安全にフランス人の名誉のために守り抜きたいと覚悟を固めていた。しかも仏印は、天然資源が豊富で、経済的にも自立ができるため、当時、仏印の通貨ピアストロは、フランス本国のフランの十倍以上の価値をもち、米国のドルと一対一で、直結して実力があった。(当時、1ドルは約4円)
「 (注) 当時、仏領印度支那は、フランス語で、アンドシーヌと呼び、トンキン、アンナス、ラオス、カンボジアの4保護領(形式だけの王様がいて、統治はフランス政府任命の知事が行なっていた)と直轄植民地の交趾(こうし)支那から構成されて、人口的2480万(安南人1800万、カンボジア人300万、マレー人100万その他)、面積は朝鮮、台湾、南樺太をふくめた、当時の日本全土よりも大きかったが、わずか4万のフランス人が政治、軍事、経済のすべてを支配していた。また、地物的には、アジア大陸の東南部インドシナ半島を占める要点であり、各王国の内乱につけこんで、一八八三年、フランス遠征軍が侵入して占領、植民地化したのである。 」
日本軍部が仏印へ進出したのも、その戦略的価値により、大平洋戦争への踏み石にしたものである。カトルー総督は、無電連絡の一時、杜絶した本国政府の許可をまたず、独断で日本の要求を入れ、日・仏印軍事交渉に踏切ったのであった。ところが、七月中旬になって突然、カトルー総督がフランス本国のビシー政府(ドイツ傀儡政権)から解任された。その理由は、本国政府に無断で日本と軍事交渉をはじめたというのであった。その背後には、ナチスドイツ政府が、「フランスを倒したのはドイツの独力によるもので、日本はまったく手伝わなかった。したがって、世界中のフランス植民地の処理はドイツの権限であり、日本は勝手に仏印へ手を出してはならない」という指示が、ビシー政府にあったものと推定された。当時、たとえ日独両国が親密な同盟関係にあっても、仏印の処理は別問題であると、ヒトラーは打算したのであろう。かくて、親日的態度のカトルー将軍は失望してハノイを去り、その後任として仏印艦隊司令長官のドクー海軍中将がサイゴン(現在のホーチミン市)より出てきて、第二十六代仏印総督に就任した。しかし、彼は見るからにコチコチの、融通のきかない小柄の提督で、好人物ではあったが、万事、本国のビシー政府へ訓令を仰がねば、日本との交渉に応ぜられないという態度であった。その結果、待望された日・仏印軍事交渉はすっかり停頓して、いっこうに進捗しなかった。また一方、大本営の内部でも、仏印対策について陸軍省首脳部(東条英機陸相)の和協方針と、参謀本部首脳(閑院宮参謀総長はロボットで、大本営陸軍作戦部長をかねた第一部長冨永恭次少将は、仏印武力介入を支持していた)の強硬方針とが最初から相反していた。しかも、援蒋ルートの禁絶状況を監視するという名目で、はるばる仏印入りをしながら、まるで居直り強盗のごとく、監視団を通じて仏印当局へあとからあとから重大な要求の付け足しをしたので、西原少将も非常に交渉がやりにくくて困っていた。 

 

日仏印交渉が東京に移って、ハノイにいた西原少将以下の監視団も、われわれ少数の特派記者団もひさしぶりでくつろいで、炎暑下に仏印当局の招待で、白塗りのフランス砲艦に乗り、仏印の奇勝ベイダロン(龍の洞窟湾)へ、舟遊びを楽しんだことがあった。そして燃えるような青空の下、美しい仙境の海上で、中国古風の帆船(ジャンク)に乗り移って、フランス名産のブドー酒と御馳走を、心ゆくまで味わいながら、平和の有難味をしみじみと味わったものだ。なぜ日本軍は、この平和な仏印へ「支那事変」を口実に荒々しく侵入して、静かな、幸福そうな雰囲気をかき乱したのであろうか。その当時、日本軍部の野望はフランス本国の没落を利用して、いわゆる火事ドロ的に、フランス植民地を日本植民地に塗り変えようとしたのではなかろうか。白人植民地主義の打破と、安南民族の自由解放などは、後からコジつけた能弁にすぎない。それから数日後に、西原少将一行は、仏印軍代表の案内で援蒋自動車道路の主要線のランソン(諒山)経由、鎮南関へ視察に赴いた。私も同行したが、そこは中国の広西省と接する国境で、まるで芝居の背景に描かれたような淋しい峠の上に古色蒼然たる大きな城門が立っていた。そして、コケむした石の楼上には、「鎮南関」の三文字が大きく記されてあった。この日は、かねて大本営より連絡してあったので、中国側より、すでに鎮南関付近まで、戦闘態勢で進撃してきていた中村部隊(第5師団)の中村明人中将と、仏印側より監視団団長の西原少将が、この峠の上の城門で相会した。ところが、驚いたことには、定刻に、軍用トラック数台に分乗した戦闘部隊を率いて現われた中村部隊長は、いかにも歴戦の豪将らしく、軍刀のツカに手をかけながら、のしりのしりと、肥満した身体をゆさぶり、先着の西原少将の持ちうけたところにちか寄るや、いきなり「貴様はそれでも日本軍人か!」と面罵した。それは軍人にふさわしからぬ、軟弱な外交交渉などに専念していた西原少将一行が、よほど癪にさわって憎悪していたせいであろう。「フランス人相手に香水などつけて、お世辞をつかっているとは何事だ!」とも怒鳴りつけたそうだ。すると、温厚で端正な西原少将も、さすがに憤然と顔色を変えて、「バカなことをいうな、日本軍人の面目のために無礼千万なことをいうな!」と怒鳴りかえした。私は新聞特派員として、鎮南関の城門下で、はからずもこの異常な光景を生々しく目撃しで、実に嫌な気持になった。仏印軍代表のフランス人将校たちの前で、日本軍人の偏狭独善な心理をさらけ出したような悪感に打たれたのである。はたして九月四日に、ハノイでようやく西原・トクー協定が調印されたが、翌5日未明に、中村部隊(第5師団)の一個大隊が、正式の「進駐命令」もなくして乱暴な大隊長の独断で、鎮南関より越境して仏印へ雪崩こんだため、仏印守備隊と交戦した。 しかし、大本営の命令で一応は撤退した。(注:細目協定は調印されたが、進駐期日は受け入れ準備の都合で追って協議のうえ、取決めることになっていた。)
この越境事件のため、仏印側は怒って協定の無効を主張して、日本側と対立した。一方、南支方面軍は大本営首脳部の軟弱方針にあきたらず、参謀本部の強硬派の冨永少将と結んで政府を動かし、仏印側の遅延策と不誠意を責め、期限つきで仏印代表へ正式回答を要求し、もし九月二十二日を期限として交渉成立しない場合は、武力進駐することに決定した。こうして強硬方針へ転じた大本営陸軍部は、ただちに南支方面軍司令官安藤利吉中将に対して、大本営命令を下した。
「 北部仏領印度支那進駐日時は、九月二十二日零時(東京時間)以降とし、進駐にあたり仏領印度支那軍抵抗せば、武力を行使することを得る。進駐の目的は、対支作戦の基地を設定するとともに、支那側補給連絡路遮断作戦を強化するにあり 」
しかし、この作戦命令は、乱暴な話であった。相手の仏印側が、外交交渉を妥結してもしなくても、日本側は勝手に仏印国境を越えて進駐するというのは、一体いかなる国際法上の権利にもとづくものであろうか。またこれは一体、天皇の希望した「平和進駐の趣旨」にそうものであろうか。なぜ日本軍はもっと正々堂々と、あせらずに仏印側を納得させて、万全の準備を完了した上で、双方で取決めた期日に、晴れの進駐を行なう雅量を示すことができなかったのであろうか。この作戦命令の進駐日時は、その後になって、一日遅らせて「二十三日零時以降」と変更されたが、実際の進駐日時の細部は、現地の西原少将と仏印代表の間で取決めることになっていた。日本側は難色をしめす仏印当局を威圧するため、大型汽船二隻を、ハイフォン港に回航して、仏印全土より在留邦人多数の総引き揚げをやってみせたり、さらに西原少将以下、監視団本部の閉鎖と引き揚げのため、ハイフォン港に大型駆逐艦「子の日」一隻を横づけにして最悪の事態に備えたり、あらゆる手段を尺くした結果、ついに強情な仏印側も折れて、期限ギリギリの九月二十二日午後二時半(東京時間で午後四時半)に、ハイフォン港のホテルにいる西原少将と、総督代理との間に協定調印を完了した。だが、鎮南関の国境に集結中の戦闘部隊は、すでに進撃行動を起こしかけていた。東京の大本営から南支方面司令官(すでに広東から海南島へ戦闘司令部を進出)へ急電した「協定成立したから進駐待て」の命令もむなしく、また、西原少将の特使の有賀憲兵少佐が、仏印側連絡将校をともないハイフォンより、自動車と小型飛行機と乗馬を乗り継いで、数百キロを走破、真夜中の鎮南関へ急行したときすでにおそく、日本軍部隊は砲撃を開始して、仏印国境を突破して進撃南下していた。かくて、仏印守備隊は必死に応戦し、ドンダン要塞付近で大激戦が行なわれ、仏印軍は連隊長以下全滅した。それから日本軍は、猛烈な勢いで大挙して北部仏印の軍事基地ランソンを攻略した。この凶報に、仏印側も西原少将も大本営もビックリ仰天した。大本営は現地部隊進駐中止と、戦闘停止を厳命していたので、ようやく、二十五日までに国境方面各地の戦闘は終わった。しかし、仏印当局は激昂して、再び協定違反を理由に日本軍の海上進駐をみとめず、協定とりやめを通知してきた。私は西原少将一行とともに、この変転極まりなき仏印の嵐の中をくぐり、いよいよ最悪の事態に陥ったので、二十五日夜半、ハイフォン港に待機中の駆逐艦「子の日」に便乗して、冒険的に仏印を脱出した。そして二十六日の暁があけそめるころ、ハイフォン港は日本機によって爆撃され、西村兵団三個大隊は海上より輸送船団で、ドーソン海岸へ既定の敵前上陸を決行した。しかし、海軍側は、大本営命令にそむいた陸軍部隊の武力進駐を認めず、藤田少将の率いた第三水雷戦隊は、輸送船団の護衛任務を中止して、海南島基地へ引き返した。それゆえ、もしドーソン砲台の仏印軍集中砲撃をくわえたら、西村兵団は、たちまち全滅したことであろう。(だが仏印軍は意気地なく沈黙したので西村兵団は無事上陸した) 西原少将の一行は、三ヵ月間にわたる炎熱下の、悪夢のような空しい努力の思い出を抱いて、駆逐艦で海南島に到着、上陸しようとしたところが、南支方面車司令部の連中から、「西原一味が上陸したら、新聞記者もろとも斬ってすてるぞ」とスゴまれて、私は軍人の恐ろしい執念に驚いたものであった。これが日本軍の面目を汚した、奇怪な北部仏印流血進駐の真相である。この不祥事件は、平和念願の天皇を大いに怒らせたため、大本営もさすが頬かむりはできず、命令に違反して、前後二回にわたる越境戦闘事件の責任者として、南支方面軍司令官安藤中将と、大本営陸軍作戦部長冨永少将の罰免、中村師団長の左遷、越境大隊長を軍法会議にかけるなど、関係部隊長を厳重処分し、また、閉院官参謀総長も辞職交代した。
以上は、私の見た昭和動乱史の奇怪な終章である。この翌十六年七月、日本軍は南部仏印へさらに進駐して、それから五ヵ月足らずで太平洋戦争へ突入したのだ。思えば対外的には、満州事変から「支那事変」をへて北部仏印進駐へ、また、国内的には五・一五事件から相沢中佐事件を経て二・二六事件へ――この昭和動乱こそ太平洋戦争へ通ずる道であったのだ。 
 
かくて玉砕せり――敗戦の歴史 中野五郎

 

日本の民主化は敗戦の洗礼によって始まり、新日本の建設は降伏の廃墟の中よリ着工された。今日よリ顧みると太平洋戦争こそ軍国日本の挽歌であり、また封建日本の弔鐘であった。何故ならば太平洋戦争の敗北と無条件降伏によって、初めて七千五百万の日本人大衆は軍部独裁の暗い社会よリ解放され、自由な平和な新日本が生まれ出たからである。だから日本の敗戦の歴史は、我々にとって決して過去の悲しい悪夢として強いて忘れられる可きものてはなくて、寧ろ我々の子孫代々のために、新日本誕生の偉大な陣痛の記録として、正直に残されねばならないであらう。今や戦後三周年を迎え、さらに世界注目の市ヶ谷の極東国際軍事法廷で戦争犯罪人裁判の最後の審判が宣告される時、我々は世界平和のためにも、我々の子孫のためにも敗戦の歴史を今こそ厳粛に反省し、残酷な玉砕作戦の秘められた真相を正視して、決して再び戦争の悲惨と野蛮と恐怖に巻き込まれないことを誓いたい。
筆者略歴 / 1906年東京生まれ、東大法学部卒業、元朝日新聞ニューヨーク特派員として在任中に日米戦争が勃発し、一時アメリカに抑留され交換船で駐米日本大使一行と一緒に帰国、著書には、戦前はアメリカ研究のものが多かったが、戦後はアメリカの日米戦の記録の翻訳と、太平洋戦争に関する著書を多く手掛けた。これはその第一号の著書。  
はしがき
日本の民主化は日本の敗戦より始まり、新日本の建設は降伏の日よりスタートレた。この厳粛な、しかも偉大な現実を幸いにも生き残った七千五百万の日本国民大衆が正しく認識するためには、太平洋戦争の真相を十分に知ることが肝要である。われわれ日本人は民主化の甘い夢に耽けるまえに、長い苦い悪夢を忘れてはならないであろう。何故ならば、軍国日本の過去の恐しい悪夢こそ新日本の将来に対する正しい教訓と反省の警鐘となるからである。即ち太平洋戦史を研究して日本がいかに敗北したかを正しく知ることは、日本人の老若男女大衆の重大な勤めと言うべきであろう。アメリカ署名の歴史学者でコロンビア大学名誉教授デビット・S・マズィー博士は、『現在は過去に蒔かれた種より成長した植物の如し。現在の諸問題を解く鍵は過去の中に潜んでいる 』といみじくも説いているが、この言葉は敗戦の過去の中より立上る日本国民にとって特に含蓄が深いものである。成程、事件の連続としての過去は永久に去った。昨日の過去はジュリアス・シーザーの過去と同様に去ったが、しかし一つの国家の生成と変遷の歴史として、また一つの国民の発展の物語としての過去はつねに現在に生きているのだ。われわれは現在を説明するために過去を利用せねぱならない。この歴史の連続性をマズィー博士は『現在の中の過去』と称して、新しい民主的歴史観の命題としている。しからば軍国日本の敗戦は、決して七千五百万の日本人のすぺてにとって、単なる『過去の悪夢』に非らずして寧ろ新日本建設の『現実の教訓』とならねぱならないであろう。本書は私がアメリカ太平洋戦史研究と題して1946年(昭和21年)秋より翌47年(昭和22年)春まで前後五回にわたり『中央公論』誌上に連載して好評を博した新形式の戦争記録を、さらに推敲の上で一巻にまとめたものである。もともとこれは私が戦争中並に戦後にアメリカで続々刊行された多数の第二次大戦記録を広く捗読した中より、特に太平洋戦争の真相と経過について日本人の立場より知る可くして未だに知らなかった幾多の事実を紹介して、これを当時のわが大本営発表の戦果報道と比較対照しつつ戦況の批判を加えたものである。したがって雑誌に、連載の形式上、一回宛興昧深い主題を中心にして解説的に筆をすすめているために、今ここに一巻にまとめてみると太平洋戦史研究としては甚だ簡略すぎるように思われて意に満たないものがある。しかしながら、ここに収録された日本の敗戦の歴史的諸事実は『中央公論』誌上に発表当時予想外の反響を巻起して各方面の注目を集めたのみならず、私の連載記事は同誌が昨年夏、発表した読者誌上人気投票で諸名家の評論記事を圧倒して第二位の高点を獲得したのであった。それは山本元帥の怪死事件の真相をはじめ幾多のかくれた戦況事実が初めて 日本全国に衆知されたためであって、日本の民主化が日本の敗北の中より生まれつつあるととを思えば、この悪夢の如き祖国敗戦の歴史と同胞玉砕の記録を冷野に且つ厳粛に直視して、その真相を探ぐり且つその教訓を学ぷことがいかに意義深いものであるかを示すものであろう。この山本元帥の怪死事件をめぐる反響の一例として、私は1946年(昭和21年)12月22日付の毎日新聞(東京)紙上の『余録』の全文を次に引用したい。『山本五十六元帥の戦死について、日本人はいづれ真相が知れる時があるだろうとは思っていた。山本元帥が太平洋戦争の前途に見切をつけて、楠正成が湊川で戦死したように、わざと死の飛行をやったのだろうという噂もあった。ところがギルバート・キャント氏の著書を解説した中野五郎氏によれば、真相は全く想像とは違う。昭和18年4月17日で米海軍長官ノックス氏からソロモン群島方面空軍司令官にあてた秘密電報は、山本元帥が西南太平洋の日本基地を巡察する道筋を詳細に記して、山本を討取るため最大の努力を以てせよとの命令であった。つまりアメリカでは前から日本海軍の暗号を解読していたのだ。元帥は苦もたく討取られたのだ。即ちジョン・W・ミッチェル少佐指揮の陸軍三八型ライトニング戦闘部隊は、元帥を待ち構え、元帥の爆撃機はライフィアー大尉に撃墜され火を噴いてジャングルの中に打込まれた。』このように私の綴った敗戦の歴史は当時、天下の耳目を衝動させたといっても過言ではあるまい。ところがその後、日本の民主化は進行しながら太平洋戦争の正しい戦況調査と記録研究は日本では一向どこにも行はれず、ただ帰還軍人又は報道班員の不確実な記憶に基く個人的手記が少しばかり現われたにすぎなかった。そして七千五百万の日本人の老若男女大衆は『知らぬが佛』で戦争に引摺り込まれて開戦し、敗北し降伏しながら今日もなお敗戦の歴史に目をふさいで『知らぬが仏』でいて果してよいのであろうか? これに反してアメリカでは終戦直後に公表されたマーシャル陸軍参謀総長の戦争報告、キング海軍作戦部長の戦争報告、アーノルド陸軍航空総司令官の戦争報告の権威ある三部作的記録をはじめとしてアイゼンハワー元帥、パットン将軍、ウェインライト将軍、スティルウェル将軍、ニミッツ提督、ハルゼー提督その他アメリカ陸海空軍の要職にあった人達の貴重な手記又はその幕僚の手になる精密豊富な資料に基いた戦争記録が続々刊行されている。さらに東西両戦線に従軍した多数のアメリカ新聞、通信特派員のもたらした大小さまざまの戦争現地報告記は今日に至るまで引っきりなしに刊行されて後世の史家のために興味深い資料を提供している。その中で太平洋戦争について特に私の注目を惹いたものは、ギルパート・キャント著『太平洋の大勝利――ソロモン群島より東京まで』(1946年刊)、退役海軍大佐ウォルター・カーリッグ編著『アメリカ海軍戦闘報告』(1946年-48年刊)、海兵隊少佐フランク・ホー著『島の戦争』(1947年刊)などである。いづれも正確豊富な軍当局の資料を縦横に活用して、人類の戦争史上空前の大規模な太平洋上の海、陸、空の立体戦争の激烈な戦況並に劇的な戦略を描いている。殊にキャント氏の著書は戦時中、彼が『ニューヨーク・ポスト』紙並に『タイム』の戦争記事主任として今大戦の全局面を細大漏らさず報道解説する任に当った敏腕のジャーナリストであり、且つまたアメリカの太平洋反攻の勝利のスタートとなったガダルカナル戦以来、二回にわたり戦火燃え立つ太平洋戦線全域を従軍視察しただけに、宛かも豊富な資料に血が通って、生々と躍動し、夥しい事実と数字も劇的描写に巧くみに織込まれて単なる無味乾燥な戦争記録に堕さず異彩を放っているし、また彼の戦略批判もよくバランスがとれて概ね妥当なように思われる。私は今まで広く渉読したアメリカの太平洋戦争記録の中でこのキャント氏の書に大いに教えられ且つ甚だ負うところが多い。また彼はこの他にも『海上の戦争』及『第二次世界大戦に於けるアメリカ海軍』の両著があり、この三部作で今大戦に於けるアメリカ海軍の海戦と未曾有の水陸両用作戦の全貌を綿密に研究報道しているのは注目に値する。勿論アメリカの太平洋戦史は勝利の記録であり、それはわれわれ日本人にとっては悲しい敗戦の歴史である。しかしながらわれわれは平和国家として再建途上にある祖国日本の将来のために、敗戦の教訓を永久に忘れてはならないであろう。そしてわれわれの子孫のために、正しい敗戦の歴史を綴り、同胞玉砕の記録を残すことはわれれれ戦争の時代に生まれ、敗戦の責任を荷うものの義務ではなかろうか? 私はかく考え、かく信じて、ここにこの小著を一巻にまとめて日本の終戦三周年記念に刊行し、今や敗戦の辛苦をともに苦しみつつある全国七千五百万の同胞諸君に捧げるものである。全世界の視聴を集めている三年越しの市ヶ谷の東京戦犯裁判も、いよいよ近く極東国際軍事法廷で最後の宣告が下されることになり、われわれ日本人は誰も好むと好まざるとに拘らず、悪夢の如き太平洋戦争の真相とその意義を厳粛に回顧して、反省せねばならない。その時に、このささやかな敗戦の歴史と玉砕の記録が広く読まれて、日本の民主化のために役立てば私の幸甚とするところである。なおアメリカ太平洋戦史研究と題して本文の執筆にあたり、私は豪州よりニューギニア、レイテ、フィリッピン作戦を指揮したマッカーサー作戦を省略して、専らアッツ、タラワ、マキン、クェゼリン、ルオット、サイパン、テニアン、グアム、硫黄各島の攻略戦を指揮したニミッツ作戦を詳述した。それはこれらの太平洋上の孤島の日本軍守備隊がいずれも全滅又は玉砕したために、今日まで悲しくも全然、闇の中に葬り去られていた戦況の真相を、初めて日本国民同胞のために紹介したいと念願する私の意図によるものであることを付記する。 
序説

 

日本の民主化は、日本の敗戦より始まる。従って日本が戦争にいかに敗北したかを知ることは、日本の民主化の不可欠の要件であらう。しかし、日本人は敗戦3週年を顧みて日本の敗戦についてどれだけ知ったであらうか? また日本の知識層は、日本の民主化の甘い空想のみを描いて、日本の敗戦の苦い悪夢を忘れてはいないであらうか? もちろん、新日本の将来は明るい希望と輝しい光明にあふれている。しかし、この理想のゴールに辿り着くためには、われわれはすべて過去の醜い事実を正しく認識し、その中より現実の針路をしっかりと把握せねばなるまい。それが新日本の将来を指導する無言の羅針盤となるであらう。従ってわれわれは過去の悪夢を決して怖れず、また少しも偽らず、日本の敗戦の真実の姿を反省することによって、日本の民主化の確乎たる設計をむしろ促進するてあらう。実際、日本人たるものは、惨憺たる祖国の敗戦の真相を知れば知るほど、醜怪なる軍部官僚の戦争指導の亡国的責任に驚愕と憤怒を禁じえないであらう。それと同時にまた、日本人たるものはあらゆる階層と職域とにかかわらず、その程度の相違こそあれ、自分の愛国的心理と戦争努力に対して忸怩(じくじ)たる感が深いものがあろう。われわれは敗戦国民として敗戦の真実を究めようではないか。それは消極的な自嘲のためではなくて、接極的な覚醒のためである。臭い物に蓋をしないで、むしろ腐敗した戦史の実相を明るみに暴露し、また過去の汚辱を闇の中に葬り去らないで、これを現実の批判の前に剔抉(てっけつ:えぐり出す)しよう。それは苦しいことであり、また辛いことではあるが、しかし、日本人のすベてにとって甚だ有益なことである。なぜならば、日本人は老若男女すぺてが程度の差こそあれ、日本人の伝統的精神の中に必勝不敗の神話的信仰を胚胎(はいたい:持つ)していたからである。それは世界連合諸国で記念されたVJデー、すなわち9月2日、日本の降伏調印の一周年記念日にあたりマッカアーサー元帥が発表した歴史的なステートメントの中にも次のとおり強調されているのである。
「 幾世紀の間、日本人は太平洋地域の隣人、即ち中国人、マレー人、インド人及び白人と異なり、戦争技術を勉強し、武士階級(warrior)を崇拝して来た。日本人は太平洋に於ける生まれつきの武士であった。日本の武力の不敗は、日本人の必勝不敗の信念を植えつけ、その文明の 全機構は武士階級の力量と知能に対する殆ど神話的な信念の基礎の上に打ち立てられた。それは政府のあらゆる機構のみならず、生活のあらゆる面に、すなわち肉体的の、心理的の、精神的の面にも完全に浸透し、且つこれを支配したのである。またそれはあらゆる政治的活動のみならず、すべての日常生活の面にも織込まれた。それは日本の存在の本質であるのみならず、また実際の縦糸と横糸であった。あらゆる支配は、全人口の僅か一部分にすぎない封建的支配者によって行われた一方、残る7000万大衆は僅かな進歩的分子を例外として、伝統や伝説や神話や軍隊組織の哀れな奴隷に過ぎなかった。戦争の全期間を通じてこれらの7000万大衆は、日本の勝利と日本の敵の野獣性以外はなにも聞かなかったのであった。そこへ突如、全面的敗北という深刻な衝撃を受けた。彼らの全世界は崩壊した。それは単に彼らの軍事カの崩壊と国家の大敗北とにとどまらず、彼らの信念の崩壊であった。それは彼らが信じ込み、それによって生き、それを求めて考えていた、すべてのものの分解であった。そしてただ道徳的な心理的な肉体的な完全なる真空(vacuum)が残ったのである。そしてこの真空の中へ、民主的な生活のあり方(Democratic Way of Life)が流れ込んで来たのであった。 」
しかし、日本人は民主的な生活のあり方を習得するばかりではなく、民主的な物事の考へ方(Democratic Way of Thinking)を体得せねばならない。それはマッカーサー元帥の忠告に俟つまでもなく、現在の7500万の日本人が『従来、教えられていたことの虚偽と旧指導者の失敗と過去の信念に対する悲劇的な失望とが、実際の現実の中に表示されたことを正しく理解するためである。もしこのような民主的な考え方を体得することなく、ただ単に民主的な言動のみを恣(ほしいま)まにするならば、マッカーサー元帥の説くごとく『日本人は3千年の歴史と伝統と伝説の上に築いた生活の理論と実践とが殆んど一夜にして粉砕した精神的革命の意義』をかえって、水泡に帰する恐れがあるであろう。日本の敗戦を正しく知ることは、日本人の精神的革命の不可欠の要素なのである。日本の敗戦の記録は日本人にとってもはや、怖しい悪夢ではなくて、むしろ貴重なる教訓となるであろう。そして、それが日本の民主化を推進する精神力となるであろう。 
日本敗北の真相

 

太平洋戦争――日本人は従来これを大東亜戦争と呼んでいたが、今後は第二次世界大戦の東亜戦線として国際的な名前を使用することになるであらう――の全戦争期間を通じてアメリカはいかに勝ち、また日本はいかに敗れたのであろうか? これは1941年12月月7日、日曜日(アメリカ時間)日本軍のパール・ハーバー攻撃によって始り、1945年9月2日、日曜日(日本時間)日本の無条件降状によって終った太平洋戦争の勝敗の結論的意義である。これに対して『太平洋の大勝利』の著者キャント氏は、420ページに及ぶ戦史の最終の第24章『大降伏』(GrateSurrender)において、次のとおり論断しているのは注目される。
「 日本の敗北はテクニカル・ノックアウト(TechnicalKnockout)であった。それに種々多様の攻撃の複合型式によって速成されたものだ。アメリカの空軍力は敵の心臓部の地域に最大の痛打を与えたけれども、いわゆる『空軍力による勝利』(Victorythrough Air Power)はなかった。また新しき海軍力として空母航空力と協同し、日本に最も接近した戦略的爆撃機の基地を前進させることを可能にしたが、しかし『海軍力による勝利』(Victorythrough Sea Power)もなかった。さらにまた歩兵部隊が基地線を前進させた重大な役割にもかかわらず『陸軍力による勝利』もなかった。何故なら休戦のラッパが鳴り響いた時に、日本の主力軍はいまだ撃破されず、実際は交戦さえもしなかったのであった。また原子爆弾によって最後の一撃を加えたが、原子物理学による勝利でもなかった。その代り、これらのすべてが窮極の勝利をもたらした複合的軍事力の本質的要素であったのである。 」
これはパール・ハーバーの攻撃より東京湾頭の降伏まで、アメリカの戦争記録を詳細に検討した新進の軍事評論家キャント氏の興味深い結論であるが、わたしはこれを捕捉して特に次の2点を強調したい。
(1) 日本の敗北は惜敗にあらずして、実際上テクニカル・ノックアウトであった。それは日米両図の軍事カに格段の相違があったからである。
(2) しかし、戦前ならびに戦争中アレキサンダー・セバースキー少佐一派の主張した『空軍力による勝利』(セバースキー少佐の同名の著書は1942年度のベスト・セラーとなった)の空軍万能論も、またW・F・カーナン中佐一派の主張した『陸軍力による勝利』(カーナン中佐の著宿『防禦は戦争に勝たず』も、また1942年度のベスト・セラーとなった)の陸軍万能論も、あるいはフランク・ノックス海軍長官一派の『海軍カによる勝利』の海軍至上論も、実戦の結果いづれも理想論ないしは希望的意見にとどまり、大戦争の現実は最近強力の陸、海、空軍の複合的軍事カが窮極の勝利を収めることを示し、かつ証明したのであった。
さて太平洋戦争は、日本の攻勢とアメリカ側の反攻ならびに勝利の二つないし三つの時期に分けられるが、キャント氏はこれを次の二つの時期に大別して、それぞれ二つの著書に詳述している。前期――1941年12月7日(アメリカ時間)日本軍のパール・ハーバー攻撃より、1943年夏ガダルカナル上陸作戦まで(キャント氏著『第二次世界大戦に於けるアメリカ海軍』) 後期――1943年ソロモン群島全域にわたるアメリカの反攻より、1945年9月2日戦艦『ミズーリ』号上の日本の無条件降伏調印まで(同氏著『太平洋の大勝利』) この前期の戦況に関しては、開戦の翌春すなはち1942年4月いち早く人気評論家ジン・ガンサーの名著『亜細亜の内幕 InsideAsia 』の改訂戦争版が刊行されて、第7章『日本の開戦』、第8章『パール・ハーバーと太平洋』、第20章『シシガポールの悲劇的最期』、第21章『戦火の蘭領東印度』、などにおいて太平洋戦争の緒戦の概要が記録されている。これは恐らくアメリカの太平作戦史の最初のものであらう。その後ガンサーは、戦局の進展に応じて要領よく毎年改訂をつづけたものと想像されるが、わたしがアメリカで 抑留中に入手した戦争版の第一版は、旧版の5000ヶ所を改訂し3万語を書き加えたと宜伝しているのは、さすがにアメリカ的のスピード・ジャーナリズムの典型であろう。しかしこや前期の戦記として最も注目されるのはキャント氏の前掲書を除いて、アメリカ海軍(退役)のウォルター・カーリング大佐及びウェルボーン・ケレー大尉共著『戦闘報告――パール・ハーバーより珊瑚海まで』(Battle ReportPearl Harbor to Coral Sea)である。これはルーズベルト大統領がアメリカ議会に対する開戦の教書(War Message)の劈頭で『屈辱の日』(TheDay of Infamy)と呼んだ1941年12月7日(アメリカ時間)のパール・ハーバーの惨害より珊瑚海々戦までの6ヶ月間、アメリカ海軍の歴史上の最悪の時期の勇戦苦闘を海軍側資料に基づいて記録したもので、当時アメリカの太平海艦隊が数的劣勢にもかかわらず、日本海軍の圧倒的攻勢といかに抗戦して、危機を打開したかを知るには貴重た文献である。これはノックス海軍長官の訓令により編纂されたものであるだけに、各海戦に関する正確な資料と記録的叙述が、従軍記者の戦記と異なりとくに異彩を放っている。ところで、太平洋戦争の後期の戦況については、いまここに紹介するキャント氏の著書が最も新しくかつ総合的に記録している。もっとも各海戦の部分的研究に関しては、例えばアメリカ著名の海軍評論家フレッチャー・プラットの『日本艦隊の死滅』(The Death of Japanese Fleet 『改造』1946年4・5月号掲載)の如き論文が注目される。しからばこの時期においてアメリカの『太平洋の大勝利』はいつから開始されたか? これに対してキャント氏は明瞭に1943年2月11日と記している。しからばこの日は、一体いかなる日であらうか? 彼の記録をひもといていて、日本の苦々しい敗戦の跡を辿ることにしよう。 
アメリカ勝利の開始点

 

1943年2月11日、全連合国はほっと安堵の胸を撫で下したのであった。なぜならアメリカ合衆国海軍は次の通り発表したからであった。「ガダルカナル島の日本軍は一切の組織的抵抗を終了した」かくて軽率な連中は、ガダルカナル戦の手間どった損害の多い勝利の後は、東京への道は今や坦々と開けて連合国軍はその決勝点へ向ってようやく突進するように話合ったものだ。しかしこの遠隔の、一般によく理解されていない戦争を闘いつづけている前線の将兵は、その前進についてそんな生易しい幻影を抱いていなかった。もっとも彼らもすべて東京へ到達するに要する時日については過少評価していたが、しかし彼らは補給の困雛と熱帯戦の惨憺たる状況と、今後連合国軍が前進するごとに抵抗するであらう日本軍の強情な頑張り――それはその中で最も重大なものであるが――を決して過少評価していなかった。ここでキャント氏は太平洋戦線の地図を入れて、1943年2月11日現在の日本軍の態勢を次の通り詳細に説明している。これはアメリカの『太平洋の大勝利』の開始点として、その後の世界戦争史上未曾有の近代的水陸両用作戦の全貌を正しく理解するために必要な前提条件となっている。
日本軍の配備要図を概観すると、まず北は本州の東北延長である千島列島のみならず、アリュシャンン群島のアッツ及びキスカ両島(アガツ島は1942年夏、この両島とともに占領されたがその後に放棄された)に前進基地を有した。アッツ及びキスカ両島の日本軍は アラスカまたはカナダ及ぴアメリカ本土には積極的脅威を及ぼさなかったが、しかしこの2基地より日本軍は飛行機及び潜水艦の偵察哨戒を行うことが出来たので、もし両島の開発施政に熟練と工夫を凝らしたならば北アメリカ全土に重大なる潜在的脅威となりえたであらう。いづれにしても日本軍がこの両島に立籠るかぎりは、太平洋の濃霧の発生地であるアリューシャン群島経由のアメリカの千島及ぴ北海道進攻作戦は実現不能であった。
千島・アリューシャン線より南方のミクロネシアに至る間は、尨大なる海洋の空所が横たわり、東京の南東1150哩(マイル)、北緯25度の辺りにある南鳥島(マーカス)に達するまでの広大な水面には、僅かな汚点は一つもなかった。そのつぎにウェーク島があるが、これまをた偵察機の重要な基地であり、また恐らく潜水艦の作戦基地でもあった。それよりはるかに重大であり、かつ1943年2月におけるアメリカの軍事力では接近し難く見えたのは、日本の天嶮ともいうべき飛び石――すなわち南鳥島及びウェーク両島の西方に横たわる伊豆、小笠原、硫黄、マリアナ諸島群(グァム島を含む)であった。それはあたかもT字を逆さにして直立させたごとく、カロリン群島に直接連なっていたが、このカロリン群島はフィリッピン群島の戦闘機行動圏内まで延々2000哩の洋上に広がっていた。そしてマーシャル群島とその南方の次の占領島嶼のギルパート群島が、日本軍のミクロネシアにおける前線をなしていた。
マーシャル群島の主要地点は攻撃並びに防禦の両用に十分配備され、またギルバート群島の主環礁たるタラワ島も同様であった。この東方及び南方の洋上には小さい無人島が連なっていた。ホーランド及びベイカー両島ともアメリカの国旗の下にあったが、太平洋戦争の勃発するまでは、いまだ軍事的目的のため開発されていなかったので、ただ海鳥の巣に委ねたまま放棄されていた。日本軍もこれらの島の空巣狙いはしなかった。かくて敵のアリューシャン列島侵入を除けば、ちょうど国標日付変更線が日本軍対アメリカ軍の海洋戦線を形成し、それははるかに赤道を越えて南方350哩のエリス諸島の付近まで達していた。そこで日付変更線は東南にそれているが、もし180度の子午線を辿るならば、ちょうどエリス諸島の真中を通過するであろう。したがって日米両軍の戦線は子午線に沿っているといえるかもしれない。なぜならば当時、エリス諸島は日米両軍のいづれの側にも確保されていなかった。1942年12月、同群島にいた少数の英軍は撤退して、日本軍が各環礁に巡視隊を派遣していたが、しかし1943年2月に日米両軍ともその占領を声明していなかった。そしてこのエリス諸島の一つのフナフテイ島の作戦こそ、ギルバート及びマーシャル両群島よりマリアナ群島に至る蛙跳び作戦の大連続戦の開始点となった。エリス諸島は南緯10度辺で消えているが、ちょうどここで戦線は右角をなし西方に折れ、南緯10度線と並行して1200哩の洋上をソロモン群島まで及んでいる。そして少々曲りながらガダルカナル島の北部を経てニューギニアに達している。この南緯10度線の真南にあたり、世界第2の大きなニューギニア島の東端にミルン湾があった。日本軍と連合国軍はこのミルン湾の争奪と確保を競争したが、1942年8月及ぴ9月に遂に連合国軍の勝利に帰した。またこの少しばかり北方にグツトイナフ島があったが、これも同年10月オーストラア軍によって再占領された。そして1ヶ月後にはオーストラリア軍及びアメリカ軍の両部隊はニューギニアのオーエン・スタンレー山脈を突破してプナ及びゴチ付近で合流し、日本軍を海岸沿いにラオン湾へ向けて押返し始めていた。しかし連合国軍の支配は南部ニューギニアでさえも、同島の中央部(豪州行政下のパプア)以上には及ばず、蘭領の西半分の全域は敵の手中に在った。そして実際に日本軍は蘭領東インド(現インドネシア)の一平方フィートの土地さえもことごとく占領して、それはインド洋に臨んだスマトラの西北端の岬にあるサバンまで西方3000哩(マイル)に及んでいた。また日本軍はフイリッピン群島、英領ボルネオ、マレー諸州及び海峡植民地(シンガポポールを含む)のすべてを占領し、さらに仏領印度シナ(べトナム)、シャム(タイ)及び印度洋上のアンダマン及びニコバル両島を占領していた。また日本軍はビルマでは、最北部の嶮峻の山岳地帯のフォートー・ヘルツ付近の数平方哩を除いた全土を占領し、中国では国内の大部分と福州及び温州を除く良港を全部占絡していた。かくて東シナ海はまるで日本の湖であった。開戦後18ヶ月以上の間、連合国側の飛行機は一機も東方の洋上より来襲しなかったし、また連合国軍の艦船は一隻も、2年以上の間この湖に侵入しなかった。このように敵国日本は広大なる生存権を保持して、潜水艦以外の連合国艦船の攻撃より全く安全に、蘭印諸島(インドネシア)の掠奪品を、本国に連続往復して運搬し、また本国より軍隊を交通の内線に沿って前哨地点へ派遣することが出来た。そしてこの潜水艦の封鎖も決して完成されなかった。実をいえば、この日本軍の防禦線の周界は日本のように潜在力の乏しい国にとっては余りに長大すぎたが、しかし安く買って高く売ることが出来た前哨基地によってよく護られていた。また日本の内面要塞線(日本、揚子江以北の中国占領地域、朝鮮及び満州)に自給自立していたので、たとえ凡ゆる外廓線が突破されても十分に防禦に堪え、攻撃するには困難なものであった。かくて東亜において戦う連合国の直面した任務は、全く恐るべきものであった。これがキャント氏の説明する歴史的な1943年2月11日現在のアメリカの『太平洋の大勝利』の開始点の戦線概要である。 
日米戦闘力の比較と評価

 

それではこの当時、日本軍の戦闘力とアメリカ軍の戦闘力との比較はどうであったろうか? それはキャント氏もいうように日米両軍の重爆撃機より銃剣に至るまで各種類、各性能について比較し、かつ評価するのが最も便利であらう。
これについて彼の詳細な説明を要約すれば次の通りである。
(1)長距離爆撃機については、アメリカによって代表される連合国軍は日本より圧倒的に勝れている。
(2)中型爆撃機については、日本もほぼ同等であった。
(3)雷撃機については各種のグラマン製『アベンジャー』機は、日本が1943年に新型の雷撃機の大量生産を開始するまで、比較にならないほど勝れていた。
(4)急降下爆撃機については、アメリカが断然優勢であった。
(5)戦闘機については、日米両軍の功績に関してつねに論争があった。戦争の初期における、あらゆる日本軍の戦闘機の原型は三菱の零型戦闘機であった。それは軽快で、快速で、高度の機動性があった。初戦には連合国軍のいかなる戦闘機よりも上昇力で勝れていた。また20ミリの戦闘砲2門と機関銃2基を装備していた。これに対して初期の連合国軍の戦闘機は、速力も、上昇力も、機動性または火力装備も不十分であった。また連合国軍のパイロットは、このような敵に打向って闘う訓練も経験も十分にもたなかった。連合国軍は、敵と死物狂いで闘うべく努めたが、それはいわば零型戦闘機の条件の下でそれと闘うのと同然であった。しかし1943年当初には、連合国軍は改善された戦術と急速に改良された新鋭機をもって、日本軍の零型戦闘機と闘う手段を講じつつあった。
(6)対日戦の多くは尨大なる海洋上で闘われねばならなかったので、この任務のために海上航空力すなわち航空母艦勢力が頗る重要であるが、この時期において連合国側の航空母艦は全部で甚だ僅少であった。パール・ハーバー以来、4隻のアメリカ航空母艦すなわち『レキシントン』『ヨークタウン』『ワスプ』『ホーネツト』は沈没していた。また『レンジャー』はいまだ大西洋上にあり『エンタープライズ』は1941年4月以来、引続いて太平洋勤務にあったが、東ソロモン群島及びサンタ・クルス両海戦で爆弾の被害を蒙っていたので、1942年夏より43年まで南太平洋上で補助勤務についていた。かくて当時、太平洋戦線で戦闘に適するアメリカの戦闘的航空母艦は『サラトガ』ただ一隻であった。そして新造航空母艦はいまだ一隻も戦闘行動の用意が出来ていなかった。すなわち『エセックス』は1942年7月31日に進水して同年の暮れに就役したがいまだに装備中であり、新しい『レキシントン』は1942年9月26日に進水し、『バンカー・ヒル』は同年12月7日に進水したが、両艦とも就役していなかった。また新しい『ヨークタウン』は1943年1月21日まで進水しなかった。したがって日本艦隊に対して『サラトガ』のみに重荷を負わせておくことは出来なかった。キャント氏の見解によれぱ、この当時アメリカ海軍の情報部でさえも日本海軍にこの時、いかなる型の航空母艦が、何隻存 存していたか判らなかったことが明瞭であった。しかしその後の撃沈状況によってみると 日本側にはまだ数隻の戦闘用の航空母艦のみならず、アメリカ側の『ロング・アイランド』、または当時就役中の他の型の護送用航空母艦よりも大きくて速い護送用航空母艦があったことを示している。イギリス海軍はこの劣勢を補うために、航空母艦『ビクトリアス』を太平洋戦線に振向けたので、1943年初めの数ヶ月間、ハルゼー提督靡下の南太平洋艦隊には『サラトガ』と『ビクトリアス』の航空母艦2隻が作戦したのであった。要するに航空母艦では日本が優勢であった
(7)戦艦でも日本がそれまでには相当に有利であった。パール・ハーパー攻撃によって、アメリカ戦艦群の中で『アリゾナ』は永久になくなり、『オクラホマ』は戦闘不能となり、また『カリホルニア』及び『ウエスト・バージニア』はいまだ再就役していなかった。かくて当時アメリカ海軍には11隻の戦前の型式の戦艦が残存していたが、この中で旧式の4隻は大西洋上にあり、残る7隻は太平洋上にあった。そしてこの太平洋上のアメリカ戦艦群には、16インチ砲を9門備えた3万5千トン級の新鋭戦艦『ノース・カロライナ』『ワシントン』『サウス・カロライナ』の3隻が加わっていた。この中で『サウス・カロライナ』はガダルカナル戦で損害を蒙り修理中であった。また新戦艦『マサチューセッツ』はカサブランカ攻撃後、太平洋へ移動する予定であったし、『インディアナ』はちょうど、太平洋に到着したところで、『アラバマ』も間もなく馳せ参んずることになっていた。これに対して日本側の戦列については種々の臆測が乱れ飛んでいたが、いまより推測するに、1943年初頭に戦艦10隻並びに巡洋艦1隻が就役していた。その中には修理中のものも若干あり、その後数ヶ月間に戦闘出動の危険を冒したものは一隻もなかった。
(8)日本側の巡洋艦と駆逐艦については、より以上に観測が混乱していた。連合国側のコミニュケにおいて2回ないし3回も撃沈された日本の艦隊並びに戦隊があった。たしかに間違いが相当あったに違いない。なぜならば日本側では1944年末に至るまで、相当数の巡洋艦と駆逐艦を引続いて繰出していたからだ。
(9)日本の軍艦の質を分析することは、その数を評価するのと同様に困難である。日本の軍艦の中には、甚大なる損害を蒙りながら異常な頑強さを発揮したものもあり、またサバオ海戦におけるごとく優秀な砲撃を見せたものもあった。また各艦の単独行動においても艦隊または戦隊行動においも、ともに立派に操作されたものもあった。しかしながら、日本艦隊の行動はつねに無定見であった。例えば、臨機応変の処置が遥かによい結果をもたらすであろうときでも、頑固に予定計画を強行したことが時々あった。そして戦局が進展するにつれて、日本側が当然に予期しうるよりもはるかに安価なる勝利を仕遂げる希望をもって、いわば戦争市場における格安品(バーゲン)を買いあさって、狡猾な且つ複雑な戦術に訴える傾向を示すようになった。これら日本人の特異な心理的過程はさておいても、これは日本軍の武器の特徴を反映している。例えば日本軍のレーダーは馬鹿にはできないが、連合国軍のレーダーのように優秀でもなければ、かつまた大量でもなかった。また砲撃装置も主としてレーダーに依存しているので、これが大分苦しんだ。
(10)日本の軍艦は一般に速力も速く、機動性もあり、装甲や艦内設備も勝れていた。しかし軍艦は専らこれを指揮する士官の良否に依存するが、日本人はこの点でその素質が最もムラがあって不均衡であった。例えば厳格なる命令によって行動し、奇襲を敢行するときには日本人は最善を示したが、しかし戦闘が白熱化して状況の変化に応じ作戦計画を修正しないとならないときには必ずいつも、日本人の考えは融通が利かず、まるで一本槍でかつ進取の気象に欠け、アメリカ又はイギリJスの海軍士官には不可解であった。これは、また日本軍の指揮官の場合も全く同様だ。もちろん、勝ち戦さの時には立派にみえたが、戦況が悪化したときにはその欠点が明瞭になった。すなわち、日本軍の指揮官の防禦戦法はまるで木偶坊(でくのぼう)のごとく間の抜けたものであった。その戦術は全く単調な型式であったが、それでも初期の段階ではまだ悪くもなかった。それに連合国軍の守備線に侵入して司令部を夜襲したり、あるいは同様の撹乱戦術であった。しかし、そのいわゆる正面突破攻撃はしばしば愚劣に敢行され、まるで殲滅的な砲火の中へ狂気のごとく殺到していった。 その次の段階は、神道主義を発揮したバンザイ突撃であったが、これは決して健全な戦術ではない。
(11)日本兵の最も顕著な且つ実際の特徴は、その頑張な粘りであった。どんな小さい地点でも、各人が確実に死に直面するまでは守り通した。また日本の将官級の将校は天皇の命令があるまでは、決して降伏しなかった。レイテ島で片付けられた約7万人の日本軍の中で、最高位の捕虜は大尉であった。大部分の戦闘において、とくに初期の戦局では捕虜になった日本兵と殺された日本兵との割合は一人対約百人であった。そして1943年末まで、アメリカ側に捕えられた日本軍の捕虜は、わづか277人にすぎなかった。これは神道と現代日本の『思想コントロール』が甚だ預かっていた。日本の徴募兵は8歳の子供の時分より軍国的病毒を注射されて、軍事的指導者が欲するもの以外の外界の知識は全く持たなかった。彼らはただ『白い野蛮人』に捕えられたら拷問されると教えられていた。また自殺(切腹またはハラキリ)でさえも、天皇のために死ぬことは光栄の軍神化を意味し、これに反して捕虜に甘んずることは死よりも悪い言語道断の不名誉であると教えられてきた。これに対してアメリカ兵は10人の中の1人さえも、日本兵が満州か中国で実行してきたような軍事的訓練または経験に匹敵するものも持っていなかった。さらにアメリカ兵は10人の中の1人さえも、日本兵または他のいかなる侵略者と闘う積極的慾望をもっていなかった。実際、アメリカ兵の士気の最大の弱点は、なぜ、闘わねばならないかに関して明確な観念を持たなかったことだ。それは陸軍省が、嫉妬深い議会を怖れて、政治的なものに近似した教養(ドクトリン)をアメリカ兵に吹込むごとを注意深く避けたからであった。その結果は、従軍記者や戦線視察の議員がアメリカに向って、なんのために戦っているかと尋ねたとき、彼らの答はつねに『オッ母さんのアップル・パイの一片』であったのだ。もっともこれは、数億のアジア人の上に天皇の支配を達成しようと欲する日本兵の欲望よりは、はるかに称賛されるぺきものかもしれない。しかし、それはアメリカ兵を軍事的に、より効果的にはしなかった。
(12)軍事的技術者としては、アメリカの徴募兵は日本の徴募兵に対して二つの大きな利益をもっていた。第一にはアメリカ兵は個性主義者であるから、戦況の変化に即応して自己ならびにその計画を、いつでも修正する能力があった。第二にはアメリカ兵は少年時代より自動車工場や機械修理工場の仕事を見て興味をもっているので、機械的に熟練して近代戦争の扱いがたい武器も怖れなかった
(13)アメリカ軍の軍隊指揮の弱点は、主として急速な兵力拡張の直接の結果であった。1943年〜44年度におけるアメリカ陸軍は、1940年9月に軍備接張のパークウォズワース法案が通過する直前のアメリカ陸軍の、50倍〜75倍に当った。ところがこの同じ期間に、日本陸軍はわづか2倍から3倍に拡張したに過ぎなかった。またアメリカ海軍は約10倍に拡大したのであった。
(14)太平洋戦争は、アメリカ陸軍にはとくに卓越の可令官を生み出さなかったようにみえる。マッカアー元帥かクルーガー大将のごとき人物の名声は、むしろパール・ハーバーの開戦以前に樹立されていた。またアメリカ海兵隊ではバンデグリフト大将やホーランド・スミス中将やローイ・ガイガー中将が顕著な功績を立てたが、しかしこれらの任務は陸軍の同地位の将軍の任務とは比較にはならないほど大きかった。海兵隊はあらゆる輝しい成功を収めたが、いまだに海軍の付属物である。これに反してアメリカ海軍には、太平洋戦線におけるあらゆる他の人物を圧倒するごとき二大人物が出現した。それはニミッツ元帥とハルゼー大将の両提督であった。ハルゼー大将はパール・ハーバー以前よりアメリカ海軍の士官ならびに水兵の間にすこぶる人気があったが、大平洋戦の初期の航空母艦機動作戦の痛快な『ヒット・アンド・ラン』攻撃戦によって全米に人気と名声を博した。ただし皮肉にも彼は1944年10月の第2次フィリッピン海戦までは、日本海軍との主要な海戦にぶつからなかったのである。 しかし太平洋全作戦の礎石はニミッツ元帥であった。この中肉中背の白髪の提督の責任はあまりに重大であったので、彼は戦争期間の大部分を全作戦の神経中枢であったパール・ハーパーを離れることが出来なかったが、彼はここで見事に『太平洋の大勝利』の責任を果したのであった。ニミッツの名前は、太平洋の名前とともに残るであろう。 
『東京特急』の出発

 

これがキャント氏の説明する1943年2月当時の日米両国の戦闘力の概観である。もちろん、これらの戦闘力の根幹には彼我(ひが:敵と自分)の軍事生産力、軍事的資源、戦争政治指導力、その他の重要な問題が横たわっているが、しかしキャント氏の指摘した直接的の戦闘力の比較評価のみを見ても、日本の敗北の宿命的結論が容易に見出されるであらう。すなわち日本のテクニカル・ノックアウトの要素はあまりに多くありすぎたのだ。かくてパール・ハーバーの騙し討ち (Trickily Attack) よりこの1943年2月11日まで、アメリカは太平洋戦線における連合国軍の主軸として苦難の道を辿って来たが、いよいよ大反攻の準備なるやここに勝利の大道が開けたのであった。そして水陸両用の画期的ないわゆる『蛙跳び作戦』を大規模にかつ合理的に展開して、東京行特急列車(TokyoExpress)が猛然と全速力で出発したのであった。アメリカの大反攻の前に、日本軍は周章狼狽して、狂信的 (fanatic) な抵抗を試みたが、もはや実力を無視した長大なる防禦線は『アメリカ軍が攻めるところ必ず落ちる』の悲劇を繰返すのみで、『東京特急』は時間表 (Time Table) の通り目的地へ進んだのであった。あるときは予定の停車駅 (Stop) に立ち寄らずに通過し、前進したことも再三あった。最もこのアメリカの勝利の出発より東京入城の最後の決勝点までに2年半の歳月を要しているが、これは日本軍の善戦よりむしろアメリカ軍のヨーロッパ戦線に対する重点的努力、ならびに太平洋作戦の海上輸送、補給、集結の困難によるものであることがキャント氏のみならず、あらゆるアリカ側の太平洋戦争記緑によって明らかにされている。日本ならびに日本人にとって、宿命的な敗北は、すでにこの歴史的な日に審判されたのだ。日本でも1942年夏ガダルカナル島争奪戦の最中に、日米戦争の関ヶ原の決戦であると一時宣伝されたことがあったが、日本軍の敗退に伴い、いつのまにかガダルカナル島の戦略的転進と逆宣伝されるに至り、天皇の名における勅語と大本営発表が日本人を欺くための道具化したのは、後世にまで注目されるだらう。また日米開戦以来、太平洋戦争を冷静に注視していたソ連でさへ、著名な軍事評論家M・トルチェノフ大佐が『戦争と労働階級』誌上で1942年中に早くも次のとおり喝破していたことも反省されねぱならなかった。『日本海軍は1942年5月及び6月、ミッドウェー及び珊瑚海の二大海戦の敗北によって、完全に太平洋上の制海権を失い、戦局は逆転して戦争の主導権はアメリカ海軍の手に移った』またある外国新聞記者が『日本は戦争を開始する準備のみして、戦争を最後まで遂行する準備を怠っていた』『日本人は近代戦争 (Modern War) の素人 (Amateur) であった。彼らの武器も戦法も日露戦争当時より、概して進歩を見せていなかった』と痛烈な批評しているのは決して悪意ある毒舌ではなかった。その証拠には目下、市ヶ谷の国際戦犯法廷で刻々と暴露されつつある日本の戦争指導者の意図もまた、『アメリカには勝てないが、戦争が長く続けばなんとかなるであらう』という実に最初から無責任極まるものであったからだ。わたしは、キャント氏が詳述しているとおり『日本の敗北はテクニカル・ノックアウトであった』をいう悲しい恥ずかしい結論を、むしろ日本人に対する好意ある忠告として認めざるをえないのである。 
山本元帥の奇怪な死

 

軍国日本の勝利の『偉大たる幻影』(Grand Illusion)の象徴であり、無敵海軍のホープであった連合艦隊司令長官山本五十六元帥の戦死は、実に全日本国民にとって青天の霹靂’へきれき)のごとき衝動を与えた。そしてこれは太平洋戦争の全経過を公正にかつ冷静に点検してみると、それは極めて宿命的な日本の敗北に対する恐しい兇兆の予言的象徴であった。それはただ単に敗北の凶兆であったのみならず、日本大本営の作戦指導上の根本的失策の奇怪な事実を露呈したものとして注目される。キャント氏もこの点を指摘してとくに第4章を『山本の怪死』(The strange death of Yamamoto)と題して、その冒頭で『ニュー・ジョージア島の侵入作戦の準備が進行中に、太平洋戦争中で最も注目すべき事件の一つが起った』と説明している。この山本元帥の死が、なぜ注目されるかというと、それは当時日本の大本営が日本人のために発表したように、同元帥が勇敢に機上から日本軍を指揮中に戦死したものではなくて、日本大本営と作戦首脳部の不注意より日本海軍の極秘暗号電報がアメリカ側によってすでに一年前より解読されていたために、同元帥の行動が予知されて驚くほどあっけなく日本海軍の巨星が地に墜ちたからであった。これを1943年(昭和18年)5月21日15時、大本営は次のとおり発表した。
「 連合艦隊司令長官、海軍大将山本五十六は本年4月前線において全般作戦指導中、敵と交戦、飛行機上にて壮烈なる戦死を遂げたり。後任には海軍大将古賀峯一親補せられ既に連合艦隊の指揮を執リつつあリ。 」
それと同時に情報局は『――多年の偉功を嘉せられ大勲位功一級に叙せられ、元帥府に列せられ、特に元帥の称号を賜い、正三位に叙せられ、逝去につき特に国葬を賜う』と発表したが、決して一ヵ月以前に起った山本元帥の奇怪な死の真相を国民の前に知らせなかった。それは無敵海軍のホープを保ち、かつ日本の勝利の『偉大なる幻影』を傷つけまいとする政府当局のはからいであるよりは、むしろ山本元帥の奇怪た原因をうやむやに葬って責任を頬被りしようとする大本営の腹黒い魂胆と見られた。しからば実際に、山本元帥の戦死の事実はいかなるものであったか? 私はいま詳細なる記録によって奇怪なる真相をつぎに要約しよう。1943年4月17日、ガダルカナル島のへンダーソン飛行場とルンガ湾の中間の谷間にあるソロモン群島方面空軍司令部の司令官に宛てて一通の極秘の電報がくばられた。その電文は白本の連合艦隊司令長官山本五十六提督が南太平洋ならびに西南太平洋の日本軍基地を巡察する道筋を詳細に記してあった。それによると山本は翌朝ラバウルを出発、三菱零一型双発爆撃機(アメリカ軍では『ベッティー』と通称する)に搭乗し、幕僚の大部分は同型の他機に分乗して零型戦闘機6機の護衛の下に南下し、一方は地方時間の午前9時45分にブーグンビル島の南端のカヒリ飛行揚(ブイン付近)に到着する予定であった。同方面のアメリカ軍司令官は山本を討取るため『最大の努力』 (Maximum Effort) をつくすべしと命令された。そしてこの電文の最後には海軍長官フランク・ノックスの署名があった。
当時ガダルカナル島を起点に勝利の大反攻のスタートを切ったアメリカ軍は、まづヘンダーソン飛行場より戦闘機の前進基地を推進するために、60哩先のラッセル諸島を占領して、そのバニカ、バヴヴ両島に数ヶ所の飛行基地を建設した。それはヘンダーソン飛行揚より往復120哩で、戦闘機にとって僅か20分間の飛翔時間にすぎなかったが、しかし当時連合国空軍の最新型戦闘機であった『ワイルド・キャット』『コルセーア』『ウォアホーク』『エアコプラ』の航続距離は500哩を少し越える程度であったから、ガダルカナル島より日本空軍の基地のニュー・ジョージア島西南端のムンダまで190哩を翔破してここで戦闘を交へた後、さらに同距雛を飛び帰ることは非常な危険であった。それはせっかく日本空軍の基地を襲っても、僅か数分間の戦闘時間しかガソリン・タンクが許さなかった。従って、アメリカ空軍のラッセル諸島進出は、僅か60哩の基地前進でも重要な攻戦略的意味があったのだ。例えぱソロモン群島の日本軍の主要基地であるブーゲンビル島南部のブインを昼間爆撃する場合には、アメリカ軍の重爆撃機はガダルカナル島のへンダーソン飛行場より出発して来たし、途中ラッセル諸島より発進した戦闘機群と合流して、その攻撃的掩護の下に目的地を空襲することが出来るようになった。このアメリカの尺取虫式の二段構えの空軍基地の前進戦法は、太平洋全戦局に適用されて、その後サイパン島及び硫黄島よりB29及びP38戦爆連合の日本本土総爆撃の最終段階まで、合理的な威力を発渾したのであった。ところで『山本討取れ!』のノックス海軍長官の直電をソロモン群島方面空軍司令官が受取ったとき、ラッセル諸島のバニカ島に新設した飛行場が、目指すプーゲンビル島のカヒリ飛行場に最も近い連合国軍基地であったが、生憎、いまだ長距離戦闘機の使用には適さなかった。それでこの重大命令は当時ヘンダーソン飛行場に臨時駐屯中のジョン・W・ミッチェル少佐指揮の陸軍P38型『ライトニング』戦闘機に下ったのであった。
かくて太平洋戦争中で最も注目すべき劇的な事件が映画的スリルの中に開幕した。重大命令を受けたP38型『ライトニング』戦闘機は、胴体に補助タンクを取りつけても行動半径は僅か500哩にすぎなかった。しかるにヘンダーソン飛行場よりカヒリ飛行場まで直行航程でも300哩あり、もし中部ソロモン群島を占領中の日本軍のレーダー基地を避けるために西南海上を迂回すれば、400哩以上もあった。これは山本元帥一行を攻撃する限界が僅かにカヒリ飛行場に近接して攻撃しなければならないことを意味した。かくてチミチェル少佐ならびにトーマス・G・ランヒァー大尉の計画に基づいて山本元帥一行をカヒリ西北方35哩の地点で撃撃することに決定した。ヘンダーソン飛行場では別に用心もせず行動を秘密にしたかったので、多数の地上勤務の将校と兵隊は直ちに何ごとが進行中であるかを知った。そしてそれは、あとで司令部にとって重大な困惑の種となったのであった。さてこの任務のために戦闘機隊の『ライトニング』機を18機繰り出すことが出来た。そしてミッチェル隊長は、この中の4機をランファイアー大尉指揮の攻撃隊に割当て、残る14機を自ら直接指揮して上空掩護隊に用いる意図であった。それはソロモン群島方面の日本空軍司令官が来訪する山本提督に敬意を表するため、その指揮下の100機以上の飛行機を進発させることが十分予期されたからであった。この山本提督こそ、パール・ハーパー攻撃が計画されたときの日本の当局者であったのみならず、彼がホワイトハウスで城下の誓いを行うであらうと豪語したことによってアメリカ全国民の憎悪の的となった人物であった。かくていよいよ4月18日早朝壮挙敢行にあたり、ランフィアー少尉指揮の攻撃隊4機の中の一機は、滑走中に車輪のタイアをハンクさせて離陸不能となり、また他の一機はエンジン不調のため引返したので、ミッチェル隊長は自分の指揮下の2機をもってこれを補充し、上空掩護隊は12機で当ることになった。ブーゲーンビィル島への飛行は時速250哩で海面をすれすれに超低空飛行を続けが、予定の目的地に到達する5分前に一斉に急上昇を行った。ランフィアー少尉指揮の攻撃隊は3000メートル、またミッチェル少佐指揮の上空掩護隊は6000メートルへ昇った。そして午前9時33分にブーゲンビィル島の海岸を通過した。この重大任務の成否はほとんど全くタイミングにかかっていた。それは山本元帥一行の到着時間の予測に対する攻撃隊のタイミングの予測という微妙なものであった。しかし山本元帥にとって不運なことには彼は敏速な性格を持ち、彼の習慣を熟知したアメリカ諜報将校は、戦闘機隊に対して必ず彼の一行が予定の到着時刻に現れるであろうことを請け負っていた。そして彼はアメリカの予期より1分早く現われた。午前9時34分、敵爆撃機2機は零型戦闘機6機を伴って現われた。しかし護衛を強化するため、同方面の各飛行場より集まる敵戦闘機の、予期された雲のような大群は実現しなかった。敵の先頭の零型戦闘機はランフィアー大尉機に向って来た。そして彼がこの敵機と交戦して撃墜した間、山本元帥及び幕僚を乗せた改良爆撃機は、樹木の上の高さにまで急降下した。ランフィアー大尉は直ちにこれを追って敵の零型戦闘機2機に肩すかしを喰わせながら先頭機に向って挑みかかった。彼自身の目測では彼はこのとき樹上僅か3メートルの超低空にあったが、この瞬間彼は敵爆撃機の編列に向って直角に猛射を浴びせかけた。たちまち山本元帥を乗せた爆撃機は右側エンジンと右翼に火を噴いて、ジャンダルの中へもんどり打って突込み、粉砕し、焼失した。(その後日本側の報道によれぱ、山本元帥は座席で両膝の間に軍刀を挾んだまま死んでいるの発見された。) それから矢つぎばやにレックス・パーバー中尉機は第2番目の幕僚を乗せた爆撃機を、敵の零型戦闘機3機を追払ったのち、同様の猛射で撃墜した。この攻撃でアメリカ側の損害はレイモンド・M・ハイン中尉の1機のみであった。それはバーバー中尉機を襲撃した敵戦闘機と交戦後、黒煙を吐きながら高度を失ってゆく姿が望見された。そしてハイン中尉の消息はその後聞かれなかった。ガダルカナル島の米軍基地では盛大な凱旋祝賀会が催された。そしてこの吉報は直ちに空軍の陣中新聞に掲載された。ところが、もしアメリカ軍が山本元帥一行の巡察飛行を予知していることを日本軍が探知したならば、彼らはこの情報の根源を追及しうるかもしれないことがわかった。それは当時、明瞭にも敵は山本元帥一行の搭乗した、特別の爆撃機の襲撃について、背後になにか潜んでいるかも知れないと不審に思いながらも、全くアメリカにとって幸運な『まぐれ当り』に他ならないと確信していたからであった。それならこの山本元帥の怪死の真相は如何? その説明は実に全く簡単だ。アメリカ海軍の情報将校はすでに山本元帥がこの最後の死の飛行に出発する一年以前より、日本海軍の暗号 (code) を解読していたので、日本海軍の無電の傍受により、山本元帥の巡察計画を知っていたのであった。これが山本元帥の奇怪な死の真相であり、嘘のような平凡な最後の事実であった。もはや、これ以上蛇足を付け加える必要もあるまいが、アメリカ側でも日本海軍の暗号解読の事実を秘するために山本元帥の『討取り』をあまり宣伝しなかった。そして日本の降伏の年の9月11日、アメリカ陸軍省は初めてアメリカ空軍P38戦闘機隊が山本元帥一行の搭乗機を待ち伏せして見第に撃墜した事実を簡単に公表したのであった。これは9月12日ワシントン発電で、14日付の日本の各新聞紙上の一隅に申し訳的に掲載されたが、降伏直後の国内不安で人心動揺の最中のため、気に留めた人は少かったようである。 
アッツ島攻略戦の全貌

 

山本元帥の『討取』によって、士気いよいよ昂まったアメリカ軍は、南太平洋艦隊司令長官ウィリアム・ハルゼー大将総指揮の下に、下部ソロモン群島(ガダルカナル島、ラッセル諸島、フロリダ島など)を拠点として、日本軍の支配する中部ソロモン群島(ニュー・ジョージア島、レンドバ島、コロンハンガラ島、バングス島など)へ、大規模な進攻追撃作戦を快速調で開始した。かって日米修交の当時、ワシントンで客死した故斎藤博駐米大使の遺骨をはるばる日本まで送り届けた儀礼艦『アストリア』号の艦長であったリッチモンド・ケリー・ターナー少将(当時大佐)が水陸両用作戦の指揮官に当り、フロリダ島のツラギは海軍の前進基地となり、またラッセル諸島には膨大なる南太平洋上陸用艦艇部隊司令部が新設されてジョージ・H・フィート少将が司令官に任命された。かくてアメリカ本国で新造された最新型の各種上陸用艦艇(LST・LCT・LCI)の大群が集結され、新鋭の陸軍及び海兵隊の大部隊が続々到着して、3月より6月にわたり南太平洋戦線はとみに緊張した。キャント氏はこれを『ハルゼーのニュージョージア進軍』と呼んで、約25ページにわたって世界戦史上未曾有の特異な水陸両用作戦の全貌を詳説しているが、ここでは紙数の制限のため割愛せねばならない。ただ8月13日ニュー・ジョージア島の日本軍の重要な拠点ムンダの陥落により、リチャード・M・ペイカー少佐指揮の海兵戦闘部隊が進駐し、これによってアメリカ空軍の傘(Umbrella)がラッセル諸島より到達しうる最大距離よりも、更に135哩拡張されて、以後の進攻をいよいよ急速ならしめた。かくて南太平洋のソロモン群島方面の日本軍の前線が次々に突破されている間に、はるか北太平洋のアリューシャン方面では、日本軍の最北端の拠点アッツ島の一角が崩れ落ちたのであった。このアッツ島の攻略戦は実に太平作戦争最大の悲歌(Elegy)の一つで、日本人にとっては、いまだに忘れがたい悲壮な思い出であらう。今日より顧みればアッツ島血戦の特徴は、その後に来たる太平作戦線の日本軍の各島嶼守備隊の悲惨な運命の前兆として、戦闘そのものの残酷性よりもむしろ人命を紙屑のように無視した、大本管の無慈悲な作戦そのものの残酷性にあった。この『悪夢の中の悪夢』のような怖しい北洋の悲劇の真相を明らかにしよう。
1942年6月日本軍によって占領されたアリューシャン列島の3島はキスカ、アダク、アッツであった。この中で最西端のアッツ島は同秋に一時放棄されてその守備隊はキスカ島へ移動した。外観より判断すればこれはアメリカ軍がアッツ島へ進出して強固な陣地を造る、キスカ島の日本軍を包囲するチャンスであったらう。しかしアメリカ軍司令部は当時、強固な陣地を造るだけの兵力を持たなかったので、日本軍の不在を利用しなかった。しかしこの決定は結局、アメリカ軍にとっては賢明であったろう。この冬の間に日本軍は再びアッツ島に舞い戻って来たが、アダク島の小部隊は撤収した。日本軍が軍隊の再配置を行っている間に、アメリカ軍もまた列島線に沿って西方へ展開していた。
日米両軍とも相手の行動を十分に知らなかったのは、この全地域が一年の90%の間、物凄い濃霧に掩われ、残余の期間はウィリウォー(台風に近い威力をもった暴風の意)に鞭打たれていたからだ。アメリカ軍は1942年8月末、アリューシャン列島中のアダク及びアッカ両島を占領して飛行基地を設定したので、日米両軍の距離は狭ばめられたが、それでも1943年初頭の戦局ではこの距離はいまだ大きすぎた。かくて北洋の長い夜が訪れて、軍隊の行動をほとんど完全に探知されないように隠蔽した。1月の陰鬱な日に、アメリカ軍の主要な西方移動が行われたのであった。それはアラスカ・スカウト部隊の1ヶ中隊がキスカ島東方僅か75哩のアムチトカ島に上陸して、後続の工兵部隊のために偵察したのだ。この偵察は軽便に行軍し、かつ孤島で生活する特別の能力を持ったものを選抜したものだが、この荒涼たる不毛の地に暮すことは容易な業ではなかった。これはローレンス・カストナー大佐の指揮する奇襲部隊(Comandoes)であって、通称『カストナーの殺人部隊』 (Cut Throat) と呼ばれた強者ぞろいであった。しかしアムチトカ島では殺すべき相手の日本軍は見当らず、ついで1月12日に後続の空軍基地建設部隊が上陸して来た。そして早くも2月には飛行場が完成した。このアメリカ軍の迅速なる建設作業は日本軍の貧弱なる作業と比較されるべきである。すなわち日本軍はキスカ及びアッツ両島の岩地に数ヶ月もかかって、やっと数条の短い滑走路を切り刻んだのみであって、僅かに数機の軽飛行機を離陸させる以上には決して使い物にはならなかった。これに反してアムチカト飛行場に堂々と中型爆撃機及び重爆撃機を多数飛ばせることが出来たのであった。2月中に第11航空隊はここよりの9回の爆撃を敢行して、キスカ島上の濃霧を通して1000トンの爆弾を役下した。そして一機も矢わなかったことは、物凄い悪天候の冒険飛行として最も注目すべきことであった。これを皮切りとして3月に入るや、平均一日一回以上の爆撃が続行され、同月15日には一日6回の爆撃が行われた。これに対し日本軍の報復空襲はまるで問題にならず、日本軍最高司令部は当時、アラスカ方面に対する東進作戦について全くなんの意図ももっていなかったように思われた。しかし日本軍が執拗で、その保持する両島を放棄することは明らかに考えていなかった。かくて4月中アッツ、キスカ両島の空襲のテンポは大いに高まり、いよいよ最高潮に達した。これがアッツ島血戦の前夜の状況であるが、アメリカ側は1943年初にトマス・カシヤ・キンケード少将を北太平洋艦隊司令長官に任命した。そして荒れ狂う北洋の海陸空より大挙反攻作戦の準備を整えたのに反して、日本側は全く無為無能で孤島の守備軍はろくに補給を受けず、ことに3月26日のコマンドルスキー海戦以後は全く日本艦船の連絡交通は杜絶したので、戦わずともすでに絶望の境地に置き去りにされたのであった。アメリカ軍の偵察機の報告によれぱアッツ島に到着した最後の日本輸送船は3月10日であった。さて、このアッツ島攻略戦だけでも、日本人に知られない詳細なる全貌を叙述すれば数10ページを要するので、私は残念ながらその要点のみを摘記するにとどめる。ただアッツ島上陸戦の前奏曲そして烈風と濃霧と激浪の北洋上に展開されたコマンドルスキー海戦において、アメリカ側のチャールス・H・マックモリス少将指揮の古ぼけた旧式重巡洋艦『ソルト・レーク・シティー』、旧式軽巡艦『リッチモンド』並びに旧式駆逐艦『モナガン』及び『デール』、新式駆逐艦『ベイリー』及び『コクラン』2隻、合計6隻よりなる弱力の機動部隊が、日本側の『那智』級重巡2隻、軽巡2隻、駆逐艦7隻、合計11隻よりなる強力な護送艦隊と交戦して、午前8時37分より正午子過ぎまで太平洋海戦史上最も猛烈な砲撃戦の結果、ついに日本艦隊を輸送船もろともに混乱敗走させた事実は、日米両海軍戦闘力について深甚なる注意を喚起する。
(一) アメリカ軍最高司令部が攻撃の第一目標としてアッツ島を選定したのは、次の3大理由に基づくものであるとキャント氏は説明している。
(1)アッツ島の日本軍守備隊は、キスカ島よりも少い。その総数は約2500名で、最初シカゴフ港に主力をおいたがその後、投錨地が狭く岩が多いため、数哩西方の広くて便利なホルツ湾に揚陸地を移動した。
(2)アッツ島の攻略は、キスカ島を包囲して孤立させる。
(3)アッツ島に飛行揚を獲得すれば、北部千島列島を偵察及び爆撃圏内に置くことになる。
(二)最悪の天候条件を別として、アメリカ軍のアッツ島攻略戦はなぜ、とくに困難であり、かつ犠牲が大きかったのであるか? 日本軍の守備隊は大きなものではなく、また主要な固定陣地もなかった。それはただ、散発的に効果のない空軍掩護を受けたのみで海軍の支援は全くなかった。それにもかかわらず攻略戦の困難と犠牲は、主としてアメリカ軍最高司令部の上層部将校の弁解の余地なき判断の誤解に基づくものである、とキャント氏は批判している。それによればアラスカ・アリューシャン方面にあるアメリカ軍はカストナー大佐の『殺人部隊』のような奇襲部隊用の少数の偵察部隊とアラスカ防備司令部の正規軍の2部隊であって、これはいづれも極寒用の装備と訓諭とを受けていた。しかるに1942年12月アメリカ軍最高司令部はアリュシャン攻略戦の第一目標に対して、当時アメリカ本国のカリフォルニア州サン・ルウィス・オビスピ付近の砂漠で訓練中の正規軍の第7師団を起用したのであった。すなはち北アフリカ作戦に参加するため熱帯戦闘訓練を積んでいた精鋭部隊を、にわかに戦局の急展開に応じて極東戦線に振向けたのであるから無理があったのは当然である。この緊急命令を受けるや第7師団は直ちに北緯36度半の位置にあるモントレー付近のフォート・オードに移駐して寒帯戦闘訓練を開始したが、しかし北緯53度にあるアッツ島の気候地勢に備えるには甚だ不足であった。第7師団は4月24目サンフラシスコ出発の直前に、初めて高さ高さ36センチ総皮紐編上げ型の新式長靴と、『アラスカ野戦用上衣』と呼ばれる外面は布地で内側を毛布のように厚い羊毛で裏打ちした襟の極めて低い頭巾なしの防寒衣を支給された。ところがこれらの軍装は、長年極寒地の訓練を受けていたアラスカ方面の現地部隊には珍しい新型であって、いづれも現地の気候、風土の条件に適さなかった。例えばアラスカ防備軍は陸海軍ともに長年の経験に基づいて独特の軍装を工夫していたが、4月30日コールド湾に到着した第7師団の兵隊の装備した『アラスカ野戦用上衣』を初めて見て、その不適当なのに驚いた。またアラスカ方面の海軍では、ゴム底で上部が皮製の『シューパック』と呼ぷ防寒用靴と、大きな頭巾のついた『パルカ』を支給していた。
(三)要するにアッツ島攻略戦でアメリカ軍の遭遇した困難と犠牲の最大原因が、日本軍の死物狂いの抵抗にあらずして、まず第一にアメリカ軍の防寒用服装の不備で、その次にはツンドラ地帯のため、重火器その他近代兵器の移動困難と攻撃陣地の構築の不便などにあることが明らかにされているのは、日本人にとってはまことに悲惨な事実である。しかもアメリカ軍はアッツで攻略戦の犠牲と教訓とを十分に生かして、その後に太平洋全戦線にわたり快速調の大反攻戦を最も合理昨に進めたの対して、日本軍は惨烈極まるアッツ島血戦の教訓を少しも学ぷこともく、2年後の硫黄島ならびに沖縄島の血戦に至るまで最も非合理的作戦を墨守して、自らの原始的な出血狂乱戦術を繰返し敗北したのは、今日より冷静に顧みてただ単に日米両国の軍事力の相違のみによるものではなかろう。 
アッツ島血戦の真相

 

アッツ島血戦がその後に来たるタラワ島、ケゼリン島、レイテ島、グァム島、サイパン島、硫黄島、沖縄島各攻略戦と全然同様の『玉砕型』の戦闘の原型である事実より、アメリカ太平洋戦史研究上の最も興味ある課題の一つとして、アッツ島血戦における日米両軍の線祝の真相を少し詳しく調査してみよう。まづ最初に、日本側の記録として1943年(昭和18年)5月30日17時付の大本営発表は次のとおり簡単であった。
「 (1)アッツ島守備部隊は5月12日以来、極めて困難なる状況下に、寡兵よく優勢なる敵に対して血戦継続中のところ、5月29日夜敵主力部隊に対し最後の鉄槌を下し皇軍の神髄を発揮せんと決意し、全カを挙げて熾烈なる攻撃を敢行せり。其後通信全く杜絶、全員玉砕せるものと認む。傷病者にして攻撃に参加し得ざるものは、之に先立ち悉(ことごと)く自決せり。我が守備部隊は2500名にして、部隊長は陸軍大佐山崎保世なり。敵は特種優秀装備の約2万にして5月28日までに与えたる損害6000を下らず。
(2)キスカ島はこれを確保しあり。 」
ところが、アメリカ側の詳細なる詳細なる戦況記録によると、アッツ島の攻略戦の経緯が次の通りに要約されるのは注目すべきである。
(1)アメリカ軍はウォルター・ブラウン少将指揮の第7師団で、上陸作戦の直接指揮は第17歩兵連隊長エドワード・P・アール大佐が当った。また上陸部隊の輸送及び掩護のためにフランシス・W・ロックウェル少将指揮の護衛艦隊が参加したが、これは旗艦『べンシルバニア』以下戦艦、巡洋艦、駆逐艦多数よりなる有力艦隊であった。
(2)アメリカ軍の上陸は5月7日に予定されていたが、悪天候のため輸送船団が5月4日までアラスカのコールド湾に立往生していたために一日延ばされた。ところがこの大輸送船団及び艦隊は日本軍の偵察機に発見されて、アッツ及びキスカ両島の日本軍は警戒した。しかし5月8日アッツ島周辺のスープのような霧は全く視野が利かないので、大船団は北方に出航してベーリング海に入り天候の回復を待った。日本軍は次第に徹夜警戒をゆるめ5月11日、アメリカ軍がアッツ島に再び切迫した時までに、守備隊は平常警備に復帰していた。そこを突如、アメリカ艦隊の戦艦『ペンシルバニア』『ニューメキシコ』『アイダホ』『ネバダ』4隻の巨艦が一斉砲撃を浴びせたのであった。
(3)上陸時間――作戦符号の『Hアワー』は5月11日午前7時40分と決定されていたが、アメリカ軍の第一部隊がマサカー湾の海辺に到達したのは、午後4時20分であった。この海辺では日本軍の反撃は全くなかったが、最大の困難は変幻極まりない濃霧の中で上陸計画地点に各ボートを着けることであった。
(4)アメリカ軍の上陸戦略は二重包囲作戦をとり、アール大佐指揮の主力(第17歩兵連隊の第2、第3大隊及び第32歩兵連隊第2大隊と105ミリ砲の3ヶ砲兵中隊)のマサカー湾上陸と相前後して、アルバート・V・ハートル中佐指揮の別働隊(第17歩兵連隊の第一大隊)がホルツ湾の西側の入江の北端の『赤い浜』(Red Beech)に上陸した。この部隊は南下し、一方主力はマサカー峡谷を北上して両部隊は36時間中に連絡合流する予定で、日本軍を島の東部の半島と釘付けにして撃滅する計画であった。元来、このアッツ島域の7/8はホルツ湾・マサカー湾線の西方に在り、そこは全く無人境であった。しかしホルツ湾地区の日本軍をこの無人境に逃がさないようにするために、ウィリアム・ウィロビー指揮の少数の補助部隊(第7スカウト部隊の一ヶ小隊及び第7偵察部隊より成る臨時編成大隊)がハートル中佐の担当した『赤い浜』の西方のオースチン峡湾に上陸し、さらにこの偵察部隊より分遣された一ヶ部隊は主力の南方上陸の側面を掩護し、かつアール部隊長に東部の岬付近の日本軍の配備状況を通報するため、マナカー湾東方のアレキセイ岬に上陸する計画であった。
(5)かくて南方に上陸した主力の2ヶ大隊の中で、第3歩兵大隊はマサカー湾の左岸の『黄色い浜』(Yerrow Beach)に上陸してマサカー峡谷の底部を前進し、第2歩兵大隊は右岸の『青い浜』(Blue Beech)に上陸して同峡谷の北東方の壁をつくる『豚の背』(Pig Back)のように切立った山稜を前進することになった。
第1日の夕刻、アメリカ軍の前進は単調ではあったが急速に進んだ。しかしやがて歩兵隊は重い足を引きずって歩くツンドラ地帯がまるで水を吸った海綿のように靴を水浸しにすることを発見した。また砲兵隊はその重い火砲装備が寒帯食物の草根よりなるツンドラ地帯の地表を破って落ちこみ、ただその下の真黒い矮小食物の中に奇怪な水泡をブクブクと立てるのみであることを知った。彼らは固い土地を見つけ次第、そこに大砲を据えつけて、上陸後一時間に日本軍の臼砲の位置を測定して最初の砲撃を行った。一方、歩兵隊は一哩また一哩と全く抵抗を受けることなく峡谷の奥深く前進を続けて、夜営の陣地をつくった。ところがアメリカ軍の装備の欠点がますます明瞭になって来た。すなわちツンドラ地帯に塹壕を掘れば、たちまち半分まで水没しとなり、また霧と雨のために湿度は全く飽和状態に達して、問題の長靴や『アラスカ野戦用上衣』を柳の灌木類の切株に架けて乾燥しようとしても、それは水没しのままだった。また水漬け同然の地面は海辺より揚陸した野戦食糧の輸送を遅らせるばかりであった。かくて北洋の夜のとばりが迫るころ、前進は停止されたが、日本軍はマサカー渓谷を取巻く岩山の嶺の割れ目や洞穴の中よりアメリカ兵の咽喉部を掻き切ろうと狙っていたのであった。ただ1ヶ小隊より成るアメリカ軍の偵察隊は北東部に侵入しようとして撃退されたが、戦死した日本軍の一将校の死体のボケットより作戦要図が発見され、日本軍は主力をシカゴフ港凋辺の主陣地に後退させて、ここで防戦する意図が判明したのであった。
かくて5月12日早朝、アメリカ軍は峡谷周辺の高地より射ち出す日本軍の砲火によって、釘づけにされ、歴史的なアッツ島血戦の火蓋が切られた。海辺の揚陸地点は混乱を呈して補給物資の輸送はますます坊害され、また上陸各地点の司令部間の通信連絡は不良で、ことに前進部隊の指揮地点とアール部隊本部との通信は全く杜絶してしまった。そしてアール大佐は大胆にも自ら斥候一名を伴って状況調査のため前進したところが、数時間後に死体となって発見されたのであった。そして斥候も瀕死の重傷を蒙り虫の息で倒れていた。同大佐は部下の将兵の信頼が厚かったので、最初はその戦死を部隊に知らせないように秘密にされたが、かえって流言蜚語を煽り、むしろその戦死の凶報と同様に悪影響を部隊に及ぼしたのであった。そして同大佐の後任には第7師団長ブラウン少将の参謀長ウェイン・の・チンメルマン大佐が自から就いたのであった。それから6日間、惨めな昼と夜が続いて、南方上陸軍の主力は渓谷の底部で前進不能に陥った。しかも前線より後方の野戦救護所へ後送される死傷者の数は、激増するぱかりで、戦局は全く進展しなかった。しかし注目すべきとは日本軍の砲火で負傷したアメリカ兵よりも装備の欠点より凍傷でやられたアメリカ兵の方がはるかに多かった。アメリカ軍が峡谷の底部に在り、日本軍がその上方の高地にいるかぎりは、戦局の進展は不可能であるとともに、犠牲は甚大であることは明白であった。5月14日になって、この事実が司令部によって認められたようで、第3歩兵大隊ははじめて両側面の山稜の友軍の掩護を受けて峡谷の底部より攻撃を繰返したが再び失敗に帰した。その損害は余りに甚大なため、新任の部隊指揮官チンメルマン大佐を止むなく同部隊を後方に休養のために移して、第32歩兵隊の第2大隊と交替させたのであった。
15、16両日にこの新鋭部隊にとって2回の攻撃が敢行されたが、前回と同様に撃退された。海岸沖に碇泊中のアメリカ艦隊の巨砲も日本軍の野砲及び臼砲の陣地を発見することが出来なかったし、空軍の支援も実行不能であることが判った。例えば戦局膠着の第4日目にアメリカ軍の『ワイルドキャット』戦闘爆撃機2機は護送用航空母艦より飛来して、アメリカ上陸軍の前方の狭い峠の日本軍陣地を精密爆撃しようと試みたが、峻嶮な山岳と暗澹たる天地の間にあたかも箱詰めされたごとく操縦の自由を失い数分間の中に空中衝突して火焔に包まれてて墜落した。アメリカ軍の司令部では善後策に腐心して、5月14日ブラウン少将はアダク島に駐屯中のアラス防備司令部に属する部隊より成る最後の予備軍の出動救援を求めた。アメリカ掩護艦隊司令官ロックウエル少将もこれに同意したで、第4歩兵連隊の第1大隊は5月17日アダク島より出発して翌18日マサカー湾に上陸した。しかしこの時までにすでに当面の責任者である第7師団長ブラウン少将はその職を罷免された。ユージェヌ・M・ランドルム少将が新司令官に任命され、その相談相手としてアリューシャンの状況と寒帯戦闘に熟知したアラスカ防備司令官のスチュアート大佐及びローレンス・カストナー大佐がそれぞれ、参謀長並びに副参謀長に選抜され、全作戦を一新して捲土重来を期したのであった。そしてランドルム新司令官は全軍に対して峡谷より出て側面の山嶺へ移動するように命令した。アメリカ軍としては、これは実に苦い教訓であって、陸軍の将軍が戦闘の真最中に海軍または海兵隊の上級司令官によって交替されたのは、これが最初の例であった。しかしアメリカ軍はこの思い切った司令官及び主任参謀の一斉更迭を断行して、全く面目を更め合理的な猛攻撃を再開した。
結局アッツ島血戦はアメリカ軍に対して苦い良薬を与えて、以後の各島嶼(とうしょ)作戦に最も有利な経験と教訓を教えたのに反して、日本軍は絶望的な死相を確かめたにすぎなかった。かくて膠着状態にあった戦局は、5月16日ハートル中佐指揮の北方上陸軍がホルツ湾の西側の入江を見下す山嶺を占領したために決定的に一変した。それは日本軍司令官山崎保世大佐がこのために彼の最右翼が危険に曝らされることを認めて、戦線を短縮して守備隊をホルツ湾の東側の入江を見下す高地へ撤収させたからであった。彼は部下に日本軍常習の自殺的抵抗を命令する代りに、地形の有利な点まで後退させてアメリカ軍からより高価な通行税を徴収する心算であった。しかしこれはかえってチンメルマン大佐指揮の南方上陸軍に前進を可能とさせた。そしてこの上陸軍の主力は5月17日夕刻、それまで一週間も立往生していたジャーミン峠を無事に突破して、同夜深更過ぎに峠を越えた次の峡谷で、ホルツ湾より南下したハートル中佐指揮の北方上陸軍と劇的な連絡を遂げた。それは最初の作戦計画に基づくと36時間で達成されるべきはずであったが、実際には6日半の日数を要したのであった。(この時までに北方上陸軍は第32歩兵連隊の第3大隊及び砲兵2ヶ大隊が増援されて、フランク・L・クーリン大佐が新たに指揮を取った。) 南北両軍の連絡が成るや、両軍の攻撃方向は東方に転じて、クレベシー峠に集中された。すでに日本軍の相当の大部分はアメリカ軍の猛砲撃のため『シェル・ショック』(砲撃または激戦の衝動で精神異状をきたす痴呆症)の一種に苦しんでいた。それでアメリカ軍が日本軍の陣地に切迫するや、日本兵は狭い一人用塹壕や狙撃抗の中に隠れて気犯いじみた喚声を揚げたり、または拳骨で地面を叩いて狂態を示したのであった。彼らは捕虜になることを承知しなかったが、さりとていくらも自殺する機会があっても、一向に自殺しなかった。そして大多数の場合は、彼等がついに捕虜になろうをするときに、アメリカ軍の火器の前にノコノコ接近して殺されたのであった。あるアメリカ兵はこれを評して『たしかに、われわれは沢山捕虜を捕まえたよ!ただし奴らはあまりに早く冷たくなるんだ』と表現したものだ。
孤立無援の日本軍の死相は深刻になった。アッツ島守備隊に届い唯一の救援は、5月22日北部千島列島より飛来した、2隊の日本機群であった。1隊は雷撃機より成りマサカー湾沖でアメリカ砲艦『チャールストン』及び駆逐艦『フェルプス』を攻撃したが失敗した。 他の一隊は水平爆撃機16機より成っていたが、アムチトカ島より飛び立った〈『ライトニング』戦闘機隊に妨害されて爆弾を海中に投じて遁走し、しかもその9機を撃墜されたと公表された。この後間もなく南方上陸軍がシガゴフ渓谷に突入するや、アメリカ軍司令部は地上軍の直接かつ緊密な掩護のため、重爆撃機(B24『リベレイター』)を使用することに決定した。これはキャント氏の説明によると東西戦線を通じて最初の試みであって、これより後日に南伊カッシーノ戦線及びノルマンディー上陸戦にも適用されて、つねに恐るべき効果を発揮した。その方法は色彩の布片を張った板をアメリカの最前線の地上に掲げて標識とし、また爆撃中に射撃手の手引となるように発煙弾を発射するのであった。かくて5月22日より28日までアッツ島の戦闘はお決まりの型を繰り返した。すなわち最大限まで砲兵の準備砲撃を利用してから、アメリカ軍の全力約1万2千名が峻嶮な山嶺と頑強な抵抗を突破して前進するのであった。(この兵力の中で恐らく約半数が直接戦闘に参加した。) そこでアメリカ軍は日本軍と殆んど同等の条件で決戦を交へたのであったが、兵カの増大と火力の圧倒的な優勢がものをいったのであった。28日夕刻までに生残った日本軍のすベては、部隊にはぐれた狙撃兵を除いてシカゴフ港に面したシカゴフ峡谷の入口の主陣地周辺に閉じ込められ、西と西南と南の三方より激しい圧迫を加えられた。
アメリカ軍司令官ランドラム少将は29日早朝を期して総攻撃を敢行することに決定した。ところがアメリカ軍司令部がこの重大決定をしている時に、日本軍司令官も同様の決意をしていたのであった。キャント氏の説明を要約すると、当時、山崎大佐は約1000名の部隊を率いていたが、その中の300名は負傷していた。多くの日本軍の指揮官はこのような場合には、日本兵の生命と引換にアメリカ兵の生命を強要するため、現状を死守するのが通例であったが、山崎大佐はあまりに策略と奇想に富んでいた。彼はこの戦闘段階において、アメリカ軍が全面的展開を遂げて攻撃態勢にあることを正しく判断したので、斥候の報告によりアメリカ軍の右翼の手薄な地点を衝いて、戦線のはるか後方の砲兵陣地を奇襲する計画を企てた。それはあまりに大胆なもので、ばかばかしい位に狂喜なものであった。実際に日本軍を見くびることはよくなかったが、しかしこの場合に彼の計画がもし成功したとすれば、それは信じられない殊勲であったであろう。それはただ、偶発的なチャンスのみを狙った計画であった。山崎は重症者には自殺を命令し、軽傷者にはいかなる武器でも使用できるものを取って攻撃に参加することを命じた。この反撃の進展に応じて、戦線の後方のアメリカ軍の救護所を兇暴に襲撃して混乱させ、その隙に砲兵陣地へ殺到する計画であった。日本軍の反撃開始点よりアメリカ軍の砲兵陣地まで、8哩の距離があった。
山崎は彼の部隊に対して、5月29日午前3時進発しアメリカ軍の戦線を突破して、途中戦闘のため停止することなく一挙にアメリカ軍の砲兵陣地を占領し、その大砲の砲口をマサカー湾の海辺に集結するアメリカ軍へ向けるように命令した。この反撃はその戦闘の初期には山崎が期待した以上の相当の成功を収めた。すなわち第32歩兵連隊のB中隊は日本兵の喊声をあげて殺到する一団に襲われたとき、ちょうどシカゴフ峡谷の底部の位置より後方の大隊炊事場まで後退しつつあった。それがいかに不意打ちであったかということは、彼らがこの朝なにも予期せず温い食事を取りに守備位置を離れて大隊炊事場へ赴いた事実が示している。全く日本軍の反撃は予期もされなかった。たちまち中隊は混乱の底へ投げこまれた。日本軍の進撃した前線の他の多数のアメリカ部隊も同様であった。救護所も野戦病院も蹂躙されてアメリカ軍の負傷兵は医師や看護兵たち共ども惨殺された。かくて血に狂った日本軍は、アメリカ軍の野営地域に非常警報が発せられたときには、すでに師団工兵隊ならびに第50工兵連隊の陣地を目掛けてなだれ込みつつあった。山崎の計画の効果を評価するにあたり重要なことは、このときまで彼の部隊が、アメリカ軍の砲兵陣地に辿り着くために強行軍を命じられた8哩の行程の5哩以上を踏破していたことである。まさか歩兵として戦闘せねぱならないとは夢にも思わなかったアメリカ軍の工兵隊は、手当たり次第の小さな武器を手にして非常線を張ったが、直ちに最も接近した戦闘に巻き込まれた。勤務兵や料理人までこの死闘に加わった。しかし陰鬱な暁光が射し始めたころに、日本軍の反撃が工兵隊の非常線に対して力尽きたことが明らかとなった。
孤立して離れ離れになった日本兵の一団が一つ二つ、アメリカ軍の曲射砲陣地に辿り着いたが、いずれも砲口をアメリカ軍に向ける目的を果たせない中に倒れていった。この気狂いじみた日本軍の奇襲を食い止めた最大の功績は工兵隊にあった。この29日のまる一日と30日朝にわたり潰乱した日本軍の残兵が、戦線のはるか後方で掃滅された。30日の午後にはシカゴフ陣地は微弱な抵抗の後に占領された。そしてアッツ島攻略戦は6月2日正式に終了した。数百名の日本兵は手榴弾を頭部や胸部に打ち当てて自殺を遂げたのであった。かくて北洋の孤島に凄惨な血戦の暮は閉じらたのであるが、日米両軍の戦果は果して如何? 日本軍が『玉砕』によって、尨大(ぼうだい)なアメリカ軍に対して莫大な人的並ぴに物的損害を与えたという大本営の発表と、それに対する日本人の『輝かしい玉砕の戦果』の錯覚は、アッツ島より硫黄島に至る幾多の血戦の反復のたびごとに強化されたが、冷厳なる戦争の現実は玉砕戦術こそ常に人的ならびに物的損害の莫大な、拙劣たる敗北戦法であることを立証したのである。
大本営の発表を盲信させられた日本人にとっては実に意外千万であるが、キャント氏はアメリカ側の正確な資料に基づいてアッツ島血戦の戦果を次の通り報じている。要するに日米両軍の損害は、まるで大本営の発表の逆が真であったのだ。アッツ島の無益な防戦で、日本軍は2300名が戦死した。僅か27名が捕虜となった。アメリカ軍は12000名の中で3000名の死傷者を出したが、その大部分は負傷(1135名)または防寒用服装の不備による『足部湿性壊疸』(トレンチ・フート)及ぴ凍傷であって、戦死及び行方不明は僅かに400名であった。2300名対400名(6対1)――これがアッツ島血戦における日米両軍の掛値のないバランス・シートであった。そしてそれはソロモン群島より東京まで、少しも変動せずに持ち越されたのである。  
ギルバート諸島の攻略戦

 

1943年夏、アメリカ第14海兵隊が南太平洋でニュージョージア島の日本軍の要衝ムンダを占領する以前、そして一方では北洋でキスカ島の奪還のために遠征軍が装備されつつあり、また南部ではブーゲンビル島の上陸作戦の計画が進行中のときに、アメリカ太平洋艦隊司令長官ニミッツ大将は日本に対する攻撃は南太平洋からすると同時に、中部太平洋からも開始されねばならないという幕僚の進言を承認したのであった。そしてこの中部太平洋の攻撃開始点(ベイカー島の基地建設後)は、国際日付変更線西方約400哩にある赤道を越えて蛇のごとく横たわる16の環状瑞瑚礁より成るギルバート諸島であった。アメリカ海軍の鬼才レイモンド・エイムズ・スプルーアンス中将は、太平洋艦隊司令長官のニミッツ大将の参謀長兼副司令長官の地位を解かれて、新たに中部太平洋艦隊司令長官に任命され、南北太平洋の数千哩を距てて両翼の攻撃が展開している間に、ギルバート諸島の侵入作戦の計画が進行した。このギルバート諸島は軍事的目標としてあまり知られていなかった。それは1942年1月1日ごろに、日本軍が侵入してここに居座ったのだ。しかし2月1日までにアメリカ航空母艦『ヨーククウン』(バルゼー大将の最初の空母奇襲部隊の一部)より飛んだ偵察機は、その日攻撃すべきギルバート諸島中の唯一の環礁であるマキン島になんらの沿岸防備を認めなかった。ただし、日本軍の侵入直後に撮影された偵察写真が、1943年の夏に役に立たたかったのはもちろんである。その後、ギルバート諸島は平穏であったが、1942年8月17日アメリカ潜水艦『ノーティラス』及び『アルゴーナウト』2隻は、突如マキン島に出現してエバンス・F・カールソン中佐指揮の下に第2海兵奇襲大隊の戦闘隊を上陸させた。
そして日本軍の守備隊300名を事実上全滅させて、若干の死傷者を伴って退去したのであった。このときはマキン島が軍事的目標であったが、他の環礁は踏査されなかった。それから2ヶ月後、巡洋艦『ポートランド』及び『ジュノー』は南太平洋へ航行の途中、ギルバート諸島の日本軍に対して砲撃演習を行うことを決めた。そして、マーロン・S・ティスデール少将指揮の下に両艦は10月15日南東より諸島内に進入して『ポートランド』は8インチ砲火9門でマイアナ、アペママ、タラワの中央環礁を砲撃し、『ジュノー』はキングスミル群島の南部環礁を同様に砲撃した。あまり手応えはなかったが、ただタラワ島の西南端のペティオ礁の西方で、日本の船舶が礁湖の中を忙しそうに出入していた。しかしティスデール少将はそのまま見すごして去ったのであった。その後ギルバート諸島は、アメリカ陸軍の第7航空隊がフナフチ島より飛来して爆撃を開始するまで置き去りにされていた。 次いでベイカー島より攻撃が接近し、海軍第137爆撃隊及び第3写真偵察隊が陸軍機と協力して、精密な写真偵察による最大限の情報蒐集に全力を挙げた。また航空母艦も1943年8月15日には攻撃を加えて若干の成果を加えた。それによると日本軍はタラワ環礁のペティオ礁をギルバート諸島防衛線の核心と化していたのであった。すなわちそこには8インチ砲を8門儲備えた砲台と、5.5インチの口径まで含んだ多数の各種高射砲と、多数の防舎と戦車壕と夥しい小防禦点が構築されていた。しかしその総数は不明であり、また地下の施設もいかに築かれているか空中偵察では不明であった。それにベティオ礁の自然的要塞は恐るべきものであったが、これも偵察だけではほとんど判らなかった。しかもタラワ環礁の存在は、1841年アメリカ海軍のジョン・ウィルクス大尉(後に中佐)の訪問以来、全く海洋学上の研究より除外されていたのであった。そして彼の作製した海図が102年後にいまだ使用されていたのだ。この間に珊瑚蟲は大いに活動して、ウィルークス大尉の海図をはなはだ不正確なものにしてしまった。キャント氏の記するところによれば、これまでに太平洋戦争で闘われて来たあらゆる島嶼(とうしょ)の地図には欠点があったが、しかし概して戦争遂行上に重大な支障はなかった。しかるにタラワ島の攻略戦ではこれが恐ろしく祟(たた)ったのであった。ことにタラワ島の地勢よりも重大であったのはその潮の干満であった。一般に中部太平洋では、潮の干満はあまり烈しくなくて、大体その差は60センチ以下である。しかるにペティオ礁への通路にあたるタラワ島の礁湖の内側の礁脈(海面下に横たわる珊瑚礁脈)上の水深は春季の満潮時でさえも決して160センチを越えることはなかった。小潮のときには30センチ以下になった。そして南東の強風が珊瑚礁上の海水を吹払うときには、水深はますます浅くなり、平底のヒギンス型上陸用舟艇を浮べることさえ無理であった。タラワ島の血戦は、健忘症の日本人にはもはや忘れさられているであろう。当時すでに日本軍部は戦局の不利に焦燥して、陸海軍互いに猜疑的確執を露呈し、陸軍側は陸軍魂を宣伝するため、『アッツ島の玉砕』をあまりに日本中に昂揚しすぎたので、かえって海軍側ではその後に起った『タラワ島為の玉砕』で海軍魂を宣伝する機会を失したのであった。従って『アッツ島の勇士』は巷間の流行歌にまで讃えられながら、『タラワ島の勇士』は空しく異郷に忘れられた観があった。しかし近代戦史上より批判すると、タラワ島の攻略は太平洋上の巨大な環状珊瑚島の要塞をめぐる最も劇的な空前の水陸両用攻略戦であって、キャント氏はとくに『恐るぺきタラワ』(Terrible Tarawa)と題する一章をもうけて約25ページにわたり、その作戦の意義と戦闘状況を詳説している位である。日本軍はタラク島でいかに玉砕したか? アメりカはいかなる教訓を学んだか? 私は悪夢のような記録をひもといて、その概要を報告する義務があると思う。 
タラワ島上陸作戦

 

『恐るぺぎタラワ』〈Terrible Tarawa)と呼ぱれたギルバート諸島の要衝であるタラワ島の攻略戦はアメリカ軍にとって甚大なる犠牲と深刻な教訓とを与えたが、しかしそれは皮肉にもアッツ島血戦と同様に日本軍の功績によるものではなく、むしろアメリカ側の作戦の欠点――とくに戦史上に比類なき巨大な環状珊瑚礁より構成された奇怪な要塞島に対する水陸両様作戦の困難によるよるものであった。そしてアッツ島血戦のアメリカ軍の損害が防寒用服装の不備と、寒帯戦闘の訓練不足にあったように、タラワ島血戦のアメリカ軍の損害が環礁の地勢、ならびに潮の干満の調査偵察の不備と上陸用舟艇の操作欠点にあったことは注目される。しかし、いづれにしてもタラワ島の血戦は日本人が忘れようとしてもアメリカ人にとっては太平洋戦争の全過程を通じて最も忘れがたき激烈な死闘であった。キャント氏の詳細な戦況記録によって、アメリカ軍の作戦の全貌をつぎに要約しよう。なお念のために付記するが、タラワ島というのは正確にはタラーア環礁(アトール)と称し、ベティオ、バイリキ、エイタそのほか多数の有名無名の大小珊瑚礁より成り、延々とした礁脈を周囲に廻らして、その内側に広い礁湖を造っている。
(一) ギルバート諸島攻略戦の作戦計画には二つの方策が考えられた。一つは陸軍側の意見で、まづ最初に防備の手薄な小島を占領して、ここに強カな大砲を据え付けて防備の強固な主要目標の島を攻撃することを主張した。これに対して海兵隊側の意見は、主要目標のタラワ島に直接上陸作戦を主張したのであった。この二つの見解の相違は、陸軍側は戦略(Strategy)に富みながら戦術(Statics)に欠けているのに対し、海浜隊側は戦略に欠けながら戦術に長じていることを、はっきり例証したものであるといわれた。例えば南太平洋戦線で陸軍側では、レンドバ島の近接砲兵陣地の使用によってムンダ(ニュージョージア島の日本軍基地)の攻略戦の損害を軽減したことを力説するのに反して、海兵隊側ではムンダの攻略に5週間以上も要したことに反発したものだ。しかし両者の言い分はいずれも真実であり、決して互いに排外的なものではないのであった。
(ニ) かくて最高司令部では、ギルバート島攻略の作戦を慎重に練った結果、戦闘指揮に細部については、直接作戦にたづさわる各師団司令官に委ねるべきことに決定した。即ちマキン島攻略に関しては陸軍の第27師団長ラルフ・C・スミス少将に、またタラワ島攻略に関しては第2海兵師団のジュリアン・スミス少将に全権を委ねられたのであった。とくにこの大任を帯びた後者の参謀長には、ツラギ及びガダルカナル両島の攻略戦で勇名を馳せたメリット・A・エドスン大佐が選ばれ、作戦主任将校にはバビッド・シェ−プ中佐が任命された。主力の海兵師団はガダルカナル島攻略戦の勇士揃いで、当時ニュージーランドに駐屯して訓練し、ウエリントン市のウインザー・ホテルに司令部があった。
(三) 上陸作戦の計画に当り重要な問題は、海面下にかくれた珊瑚礁脈であった。それはもし干潮のため水深が浅ければヒギンズ型上陸用舟艇の使用が出来なくなるので、作戦は大失敗に帰する惧れがあったからだ。これについて師団水陸両用装甲車大隊の指揮官ヘンリー・C・ドリュース少佐は、ニュージーランドの海辺でヒギンス型舟艇その他水陸両用車の実験演習を重ねた結果、初めて実戦に使用することに決定したのであった。ただしそれまでにこれらの舟艇を使用したのは、エズピリ・サント島のような波止場の不十分な基地で船舶より積荷をおろして運ぶためだけに限られていた。
(四) 1943年11月1日、海兵師団はウエリントンを出発して、一路タラワ島に向った。途中、油槽船団は旧式戦艦 (パール・ハーバーで損傷した戦艦3隻を含む)及び巡洋艦、駆逐艦多数よりなる強力な護衛艦隊を加えてアメリカ軍の占領中のある島に立寄り、ここで上陸作戦の予行演習を行ったが、大成功を収めた。ただしこの海辺ではヒギンス型舟艇の使用に十分な海水があったのだ。同師団の兵隊は目的地はウェーク島であるとばかり思いこんでいたが、11月14日護送艦隊のハリー・ヒル海軍少将が『各兵員に作戦計画の概要を知らせよ』との命令を出したところ、これは各司令官によって快く十分に行われた。
(五) 輸送船団はジグザグのコースを進み、国際日付変更線を越えて前進したり後進したりしたので、乗員の大部分はしばしば今日は何日であるかを見失うことがあった。上陸作戦開始のDデーは11月20日と指定されたが、これさえも当てにならなかった。それはちょうどパール・ハーバー攻撃の日時が、戦闘の起った場所の地方時間で表現されるべきであったのと同様であった。即ちタラワ島上陸作戦開戦の日時を『西経日付』をもって11月20日と誤用したのが、あまりに一般化してしまったので、正しい『東経日付』の後にカッコして示さねばならなかった。
(六) 輸送船上の兵隊が初めて行先を知った頃には、既に同方面は陸軍第7航空隊およぴ海軍機の予備的爆撃が開始されていた。そして侵攻開始の10日前より爆撃はギルバート諸島およびマーシャル群島全域に分散されたが、その理由は二つあった。一つは攻撃地点に対する日本軍の増援を阻止するため、付近のあらゆる島嶼の日本軍、とくに航空力を破砕するためであった。他の一つは侵攻目標を特に選抜して日本軍に正確な予告を与えることを避けるためであった。従ってタラワ島の日本軍が特別の警戒をはじめたのは、Dデーの僅か4日前であった。それから2日間フナフチ島の陸軍『リベレーター』爆撃機が猛爆を加へ、さらにDデーの二日前にはアルフレッド・E・モントゴメリー少将およびバン・H・ラグスデール少将の指揮する航空母艦群より猛爆が重ねられた。Dデーの3日前に第7航空隊の『リベレーター』爆撃機はタラワ島の中心であるぺティオ礁上の低空を飛んで、爆撃ならびに銃撃を行ったが、日本機の反撃もなくまた高射砲火も微弱で全機異状なかった。
(七) この『微弱な高射砲火』はその後3日間、いつも控え目に繰り返されたし、航空母艦のパイロットは地上に日本軍の姿をみなかったし、空中より眺めた環礁はまるで荒廃したようであった。これらの当てにならない印象の噂は輸送船上の攻撃部隊の耳にも達したが、長い炎熱下の航海に苦しみ抜いた将兵は一刻も早く上陸戦闘を熱望し、とくに将校のなかには余りに楽観的なものがあった。しかし参謀長エドスン大佐は強固な防禦を破壊するための準備的爆撃の効力に対して、過大な信頼をかけない少数の一人であった。一方、ヒル海軍少将は次のようなメッセージを回覧した。――『わが意図は島を破壊するに非ず、また島を打毀すにあらず。諸士よ、我々は島を抹殺しようとするものである』 これに対してキャント氏は次のように批判している。――全くタラワ島は抹殺すべきものであった。しかしながらそれはある人達が考えたような生易しい、腕を延ばした程度の爆撃によって、出来るものではなかった。 
タラワ島の戦慄

 

かくて11月21日、日曜日、午前3時45分、アメリカ軍を満載した輸送船団はタラワ島の西側の、珊瑚礁の海へ通じる入口の沖合に停泊した。午前5時ごろ、日本軍の灯火信号が回答を要求したが応じなかったので、タラワ島守備隊司令官柴崎恵次少将は直ちに戦闘措置を命じた。当時のタラワ島の防禦陣はシンガポール要塞より日本軍が撤去して運んできたといわれる英国ビッカース製の8インチ砲8門が最長距雛砲であって、これはベティオ礁に2門ずつ4基の砲座に据え付けられていた。一つは礁上の北西隅に、一つは南西隅に、一つは桟橋の基地付近の北浜の中間に、一つは東隅の突出部にあった。この中で桟橋付近の砲座は航空母艦『シェナンゴー』の攻撃機によって千ポンド爆弾の直撃のために既に破壊されていたといわれるが、他の3砲座は上陸作戦開始のDデーが到来し、戦闘開始Hアワーが近づいたときにいまだ有効であった。午前5時7分、その砲座の一つは砲門を開いた。第一弾は輸送船の付近に落下した。次いで他の砲門も火を吐いて輸送船団の停止している海域に雨のように降りはじめた。そこでは既に多数のヒギンス型舟艇が群がり、人員および兵器を積込みつつあった。タラワ島攻略戦の最初の死傷者は、海中に落下した至近弾のため巨大な水煙の山を築き上げて、多数の舟艇を吹き飛ばしたことによるものであった。午前5時12分、旗艦『メリーランド』がまづ反撃の砲門を開き、次いで他の戦艦2隻も巨砲の火を噴いた。日本軍の大砲は20分間で沈黙したが、この予定外の砲撃は午前5時42分まで継続された。航空母艦の攻撃機が到着する予定であったが、なかなか現われなかった。その代り、日本軍の大砲は再び砲撃をはじめて輸送船は唯、命中弾或は至近弾に挾撃されるばかりであった。
午前6時48分、輸送船団に対して砲撃射程外に退避するように命令された。従って既に海上にあった上陸用舟艇は全力を尽して追従しなければならなかった。戦闘開始のHアワーは午前8時30分と定められていたが、これは延期されねばならなかった。午前6時、戦艦群は日本軍の頑強な沿岸砲台に対して猛撃を再開したが、6時13分航空母艦の最初の攻撃機隊が飛来したので、砲撃を停止した。そして空中より9分間で全爆弾を投下し終ると再び艦砲射撃が行われた。日本軍の守備する海辺より駆逐艦は1哩以内、戦艦は3哩以内に位置して殆ど水平砲撃を重ねたのであった。その結果、砲弾がその弾道が低すぎて、日本軍の鋼鉄の砲塔で覆われた砲台のような固い円形の外面より跳ね返りやすかった。むしろ遠距離砲撃の方が正確度は減じても、砲弾が殆ど垂直に落下するので貫通力は遥かかに大きく、跳ね返る率は少なかったであらう。これもその後の苦戦の原因となった。午前7時、掃海艇が煙幕を張るために礁湖の中へ進入したが、たちまち日本軍の猛烈な砲火を浴びて、しかも都合の悪いことには、ペティオ礁には南東方より強い風が吹いていて、煙幕を張ればかえって友軍の攻撃部隊の邪魔をするばかりであった。そのため機動部隊の司令官は煙幕を張る計画を止めて上陸作戦を変更した。日本軍の砲火が暖慢になり、洋上遠く群がっていた上陸用舟艇は出発点についた。午前8時20分ヒル少将は旗艦『メリーランド』上より『第1回の舟艇部隊は15分後に出発する』と信号を発した。かくてちょうど8時30分、ウィリアム・ディーン・ホーキンス中尉の指揮する偵察兵および狙撃兵1ヶ小隊の分乗した第1番目の上陸用舟艇に進発した。その任務はベティオ礁の北岸の中間より礁脈の端へ突出した420メートルの桟橋を占領するにあった。そこにはガソリン集積場と倉庫があった。8時30分、まだホーキンス中尉の舟艇が突進中に旗艦より『Hアワー(上陸戦闘開始詩間)は午前9時とする』と信号があった。キャント氏の説明によれば、このHアワーの延期変更のために空軍の掩護協力が破綻したのか、あるいは航空母艦が他の理由で飛行機を間に合うように出発させることが出来なかったかいまだ明らかでないが、ただ一つ明確なことは、これらの上陸攻撃隊が予定計画の空軍の掩護を全く受けなかった事実である。ホーキンス中尉の舟艇は午前8時55分に桟橋の突端に到達し、小隊の一部は傾斜面を占拠した。桟橋のココナツの丸太と珊瑚岩の割れ目には日本軍の狙撃銃座が沢山あり、また難破した日本船の上部を利用して多数の銃座が造られてあったので、攻撃隊は火焔放射器を用いて虱潰しに掃蕩せねばならなかった。既にガソリン集積場は炎々と燃え上がり、弾雨の中を32名の攻撃隊が桟橋伝いと海中のを突進して海辺に辿り着いた頃、接続部隊は『アムトラック』(水陸両用トラックの意)、または『アリゲーター』(平底の鰐の形をした舟艇の意)と種々の名称で知られた水陸両用車に分乗して殺到しつつあった。
これに対応して日本軍の防戦も全力を発揮してきた。その防備は既に述べた5.5インチならびに8インチの巨砲のほかに、多数の臼砲、口径5インチまでの各種重機関銃、25ミリおよび37ミリ速射砲、70ミリ野砲、75ミリ山岳砲、75ミリ空陸両用速射砲、80ミリ舟艇攻撃砲、127ミリ2連水陸両用砲などあらゆる火砲を備えて火を吐いた。上陸地点はベティオ礁上の北岸の中央部を『赤い浜』(レッドビーチ)と称して、これを西方より第1、第2、第3の3区域に分けて、第2海兵隊の第3大隊と第2大隊及び第8海兵隊の第2大隊が分担して攻撃に当った。午前9特10分より17分の間に、この3大隊は比較的少ない死傷者を出しただけで、目指す海辺に到着したが、意外にもこの『赤い浜』は幅が僅か10メートル、しかも多くの場所ではそれより狭く、島の主要部分より1.2メートルもある岸壁で距てられ、かつココナツの丸太で遮られていた。攻撃隊は日本軍の狙撃銃と臼砲の猛射を浴びてバタリバタリと仆れ、この岸壁を測量しようとする者は、機関銃の十字火で薙ぎ倒された。かくて水陸両用車が海辺で立往生いている間に、日本軍の37ミリまたは40ミリ速射砲は第4回目の攻撃隊を満載した後続のヒギンス型舟艇に砲火を集中していた。午前9時25分『赤い浜』の指揮官の報告によれば、右翼の第1地区に向った舟艇群はすべて海冲の珊瑚礁脈に阻まれ、乗員は猛烈な弾雨の中に海中を徒渉しなければならなかった。精密な数字は不明であるが、タラワ島攻略戦の戦死者の半数はこの戦闘段階で蒙ったらしい。しかも煙幕の使用を不可能にした強い南東の風は海中の礁脈上の海水を吹き払ったために、ヒギンス型舟艇は海辺より半哩を沖合でひどく坐礁して了った。そして日本軍の火砲陣を直接攻撃すべく予定されていた航空母艦機の掩護攻撃は、この絶好の時期を逸したのであった。これが『恐るべきタラワ』のアメリカ軍の苦戦の真相であった。
キャント氏の描写を次に要約する。
日本軍の臼砲または中型砲の砲弾がアメリカ軍の上陸用舟艇に命中して、20名以上の乗員の中で僅か2〜3名を残して全滅された実例が幾つもあった。死傷者が総員の25%の高率に達した実例はさらに多かった。また重い装備をつけて、日本軍の自動火器の壊滅的猛射を冒して、首まで達する海中を徒渉中に仆れた死傷者は遥かに多かった。しかも攻撃隊の上陸戦闘の進展に伴って、海辺の敵陣に対する艦砲射撃は殆んど全く中止せねばならなかった。水陸両用装甲車大隊長ドリュース少佐も、彼の指揮する水陸両用車の中で戦死を遂げた。また海兵隊第2連隊第2大隊長ハーバート・R・アミー中佐も『赤い浜』第2地区に這り着こうとして浅瀬の海中で仆れた。かくて第1回目の攻撃隊を海辺へ運んだ大型水陸両用車は既に夥しい負傷兵を満載して沖合の輸送船に引返しつつあった。上陸用舟艇が礁脈を突破出来ないので、これらの水陸両用車は渡し船の役割を強要されたのであった。空前の激戦は続いたが、午前10時上陸軍の作戦主任ダビット・シュープ中佐も上陸して桟橋付近に臨時司令部を設置、アメリカ軍の攻撃部隊は続々殺到して『赤い浜』を占領し、さらに島内心飛行場(名ぱかりの滑走路)へ向って橋頭堡を拡大した。そして午後早々には中型戦車を揚陸することが出来なかったことで、午後3時『赤い浜』第1区の大隊長は無電でシュープ中佐に対して、いまだ海上の上陸用舟艇の中にあり、海辺上陸戦闘中の部隊と連絡がとれないと報告している程であった。これに対してタラワ島上陸軍司令官ジュリアン・スミス少将は、この大隊長に対して『いかなる犠牲を払っても上陸し、部隊の指揮を掌握し、攻撃を続行せよ』と厳命した。激戦の中に日が暮れて、スミス司令官は作戦主任シュープ中佐に対し陣地を強化して日本軍の夜襲に備えることを命じた。当時いまだ最右翼の第2海兵隊第3大隊より全く報告に接せず、ただ『赤い浜』第2地区で同連隊の第1、第2両大隊が130メートルの深さで陣地を確保していること、また司令部3地区に上陸した第8連隊の第3大隊は、深さ30メートルの地点を辛じて占めていることだけが判明していた。要するに両連隊とも海辺に分散して、多数の兵士は岩壁の下に釘付けにされ、島内へ侵入できなかったのだ。この上陸第一夜の状況こそ危機一発であった。もし日本軍が断乎たる、各兵協力の十分な反撃を敢行したならば、アメリカ軍を礁湖の中へ押返へしたであろう。しかし日本軍にはこのような反撃を決行する結集力が明瞭に欠けていた。それは日本軍の各守備陣地はいまだ持ちこたえていたが、地上の通信連絡は破壊されていたからだ。夜を通して火災は炎々として燃え続け、赤々と照された桟橋と海辺には絶間ない銃火を冒してアメリカ軍の上陸部隊が、弾薬、食糧、飲料水その他の補給品を運んでいた。礁湖のどこからともなく謎の射撃が続いたが、これは2隻の日本の難破船の船体に潜んだ狙撃兵と機関銃兵が狙い射ちしているものと思われた。しかし『タイム』特派員ロバート・シャーロッドの報告によれば、日本兵は海中に放棄されたアメリカ軍の戦車や水陸両用車に泳ぎ着いて、その中から狙撃していた。いずれにしてもアメリカ海兵隊にとってベティオ礁こそ本当の地獄であった。
かくてタラワ島の恐怖の一夜は明けて、上陸第2日の11月22日を迎えたが、依然として激闘は続き、『赤い浜』第2地区の背面にある飛行場の奪取戦は激烈を極めた。アメリカ軍は飲料水と食糧と弾薬の補給困難に苦しんだが、この日午後より後続部隊の到着によって戦況は漸次好転し、タラワ島血戦は上陸後約30時間を転機として、アメリカ軍に有利な形勢に変ったのであった。第3日の23日払暁、増援の第6海兵連隊の2ヶ大隊が自動銃及び火焔放射器を携えてベティオ礁西岸の『緑の浜』(グリーン・ビーチ)に上陸し、また多数の戦車も陸揚げされるに及んで、もはや大勢は決した。殊に日本軍の退路を断つためにベティオ礁東方に隣接するバイリキ礁にも、第6海兵連隊の第2大隊が上陸占領したので、孤立無援の日本軍は全く袋の鼠同然となった。同夜11時より翌24日午前4時にわたり、日本軍はアメリカ軍の陣地を目掛けて、狂信的な『バンザイ突撃』を数回にわたり敢行した。第1回は自動銃と手榴弾の火を吐きながら死物狂いで第6海兵連隊のA、B両中隊の前面に殺到して来た。第2回には血に狂った日本兵は中隊長のノーマン・K・トーマス中尉の本部の塹壕に侵入して格闘の上、ビストル台尻で殺された。かくて日本軍の反撃はいよいよ気狂い染みて最後の『ハンザイ攻撃』には、全員褌(ふんどし)一つの真裸で日本刀または短刀を握って殺到してきたが、かえって接戦では、海兵隊の方が強かった。そして24日朝、大隊陣地前面には約300名の日本兵の死体が数えられた。午前8時新手の第6海兵隊の第3大隊が上陸して、日本軍の敗残兵の掃討を進めた。日本兵の残存したものは多かったが、いづれも疲れ果てて戦闘力を失っていた。同大隊の通り過ぎたある地区では475名の死体を発見し14名の捕虜を捕えた。午後1時12分、上陸軍司令官ジュリアン・スミス少将はタラワ島の中心であるべティオ礁の占領を公表した。それはホーキンス中尉指揮の第1回偵察攻撃隊上陸後76時間12分を経ていた。星条旗が奇怪な焼野原と化した珊瑚島の上に翻った。世界注目のタラワ島攻略戦はこれで終わったのである。またタラワ島の北方120哩に在るマキン島(環礁)の攻略戦は僅か300名の日本守備隊と同数の朝鮮人労働者に対して、猛烈な艦砲射撃と航空母艦機の爆撃による準備攻撃が十分行われたので、アメリカ軍の上陸占領はタラワ島より遥かに容易であった。しかし日本軍は地下陣地に隠れて執拗に頑張り最後の23日夜半、酒を酌交して『バンザイ突撃』を行ったが、アメリカ側ではこれを気狂い染みた『酒戦闘』と呼んで、日本兵はアメリカ軍の銃火の前に無残にも殲滅されたことを報じた。24日午前11時マキン島上陸軍司令官ホーランド・スミス少将は同島の占領を公表したのであった。
日本の大本営は一切の戦況を秘密にしていたが1ヶ月後の12月20日午後3時15分次のとおり発表したのであった。
「 タラワ島並びにマキン島守備の帝国海軍陸戦隊は、11月21日以来3000の寡兵をもって5万余の敵上陸軍の進撃、熾烈執拗なる敵機の銃爆撃並びに艦砲射撃に抗し連日奮戦、我に数倍する大損害を与えつつ敵の有力なる機動艦隊を誘引して友軍の海空戦に至大の寄与をなし、11月25日最後の突撃を敢行、全員玉砕せり。指揮官は海軍少将柴崎恵次なり。なお両島に於いて守備部隊に終始協力奮戦した軍属1500名も亦全員玉砕せり。 」
しかしながらキャント氏の説明するところによれぱ、アッツ島の玉砕を同様に、タラワ、マキン両島の玉砕でも日米両軍の損害は全く大本営発表と逆であって、日本軍は孤立無援の環礁に無慈悲な作戦の犠牲となったが、アメリカ軍の戦死者は日本軍の数分の一にすぎなかった。玉砕作戦とは最も卑劣にして且残酷なる戦術である、とは世界戦史上の真理である。タラワ島攻略戦の精密な死傷者総数は明らかではないが、海兵隊の死傷者数は将校および士官兵の戦死および行方不明984名で負傷2072名であった。この他、海軍医療隊の将校2名、兵士27名が戦死し、また上陸月舟艇の舵手及び砲手と航空母艦機の飛行士等の戦死者はこの2〜3倍に達するであらうから、戦死者数は総計1100名と見られる。その後、タラワ島のブアリキ礁に潜んでいた200名の残敵掃蕩で32名の海兵が戦死した。 
マーシャル群島侵攻

 

連合国統合参謀本部では、ギルバート諸島の攻略戦を実施する以前より、既にマーシャル群島の侵攻作戦を決定していた。そしてこの作戦の一般的命令は、ワシントンにあるアメリカ海軍作戦部長キング大将よりパールハーバーにある太平洋艦隊司令長官ニミッツ大将に移された。キング大将の冪僚によって計画された作戦試案によれば、マーシャル群島の侵攻はまず東マーシャル群島、即ちラダック(別名サンライズ)諸島より順次、島伝いにはじめることを準備した。なるほど日本側ではこのラダック諸島中のウォッエ、マロェラップ、ミリ各島を十分に要塞化し、さらに西マーシャル群島すなはちラリック(別名サンセット)諸島に及んでいた。更に北端はロンジェラップ島、南端はヤルート島に至り、日本軍のマーシヤル防禦線が形成されていたのである。しかしニミッツ大将の太平洋艦隊司令部ではこの試案に反して、マーシャル群島の外廓をなす前記の諸島を素通りして一挙に内方の奥深く、クェゼリンおよびエニウエトック両島を衝く、空前の大規模の蛙跳び作戦を主張したのであった。それはいわゆる『東京特急』の速度を早めるためと、この両島の日本軍の大基地がタラワ島また東マーシャル群島の諸島の海辺陣地のごとく強固に完備されていないとみられたからであった。しかしそれは非常な冒険であり、クェゼリン島の上陸軍は北方はウエーク島より、西北方はエニウエトク及びウジェラン両島より、また西南方はカロリン群島より、南方はナウル島より、そして東方のあらゆる素通りした諸島より飛来すべき日本空軍の攻撃に曝される危接にあった。
唯この危険を防ぐには、前もってこれらの諸島を爆撃によって無害にしないとならなかったが、ニミッツ大将の空軍参謀とこの新作戦の幕僚ラォーレスト・シャーマン少将は必ず可能であることを同大将に保証した。 かくてニミッツ大将はクェゼリン島よりマーシャル群島侵攻を開始する新作戦を承認したのであった。まず南のナウル島を一挙にノック・アウトするため『バンカー・ヒル』および『モンティレー』2空母を含む混成機動部隊が攻撃に当ると同時に、ウィリス・A・リール少将指揮の下に3万5千トン級の戦艦『ノース・カロライナ』『ワシントン』『サウス・ダコタ』『マサチューセッツ』『インディアナ』『アラバマ』の6隻が、太平洋上のこの孤島を『撃沈』するために、一斉に遠巻きにして16インチ砲弾を各200発以上を射ち込んだ。
ナウル島は沈まなかったが、もはや回復することはできなかった。タラワ島占領後、パールハーバーへ帰投することになった空母艦隊は、行きがけの駄賃にクェゼリンおよぴウオッゼ両島に痛打を浴びせることになり、チャールス・A・ポーノール少将指揮の機動部隊はアルフレッド・E・モントーゴメリー少将指揮の空母集団を伴い、12月4日両島を奇襲して猛烈な爆撃を加えたが、ちょうどクェゼリン島には環礁の南端に日本軍の増援部隊と軍需品を輸送して積降したばかりの大輸送船団約12隻が碇泊し、また付近には軽巡洋鑑2隻と油槽船1隻が碇泊していたので、血祭に上げられた。その後6週間、マーシャル群島の準備爆撃はアメリカの基地空軍によって徹底的に行われ、とくにウィリス・H・ヘール少将指揮の陸軍第7航空隊が全力を挙げて、同期間中に1750トンの爆弾を投下した。そのためマーシャル群島に散在する多数の日本軍の飛行場は、いずれも20%ないし80%の使用不能や損害を蒙った。かくて1944年(昭和19年)1月5日、マーシャル群島の主目標に対する一日がかりの猛爆撃が行われたので、日本軍の守備隊も何かが近ずきつつあるのを察知したが、しかしどこからくるのか精密には知らなかった。キャント氏の説明によれば、このマーシャル群島侵攻に割当てられたアメリカ上陸軍は、はなはだ厖大な規模のものであるため、クェゼリン島の周囲の種々の地点に集結した後、それぞれ異なる速力をもって目的地へ到着するように派遣された。それはアリューシャン群島より来たものもあり、米本国の太平洋岸から来たのもあり、ハワイより来たのもあり、エリス諸島より来たのもあり、マーシャル群島よりもっと南方の島々より来たのもあった。この大遠征軍の総指揮はレイモンド・A・スプルーアンス海軍中将がとり、その下にマーク・A・ミッチャー少将が艦隊を指揮し空母『ヨークタウン』に司令官旗を掲げた。彼の下にはさらに4人の少将が配置され、それぞれ空母機動部隊を一つづつ指揮した。クェゼリンおよびエニウエトク両島はいづれも巨大なる環礁であるが、アメリカ上陸軍はタラワ島上陸作戦の教訓を十分に生かして、水陸両用部隊の指揮編成に万全を期したのは注目に値する。即ちアメリカ軍は蛙跳び作戦のスピードアップに伴い、一つの新しい上陸作戦毎に新しい速度と新しい教訓を学びとって、日本本土の心臓である東京を目指して殺到しつつあったとき、太平洋上の各島嶼の至るところに、あたかも島流しの俊寛(しゅんかん)部隊を置去りにして、小刻みの玉砕と敗戦の悲しい教訓に目を閉じ、頬被りを続けた日本軍部が、実力の絶対的劣弱とはいえ、余りにも国民大衆を欺いて恥なき呪われた行状を示したものであった。即ちキャント氏の指摘するように、日本軍部は戦争の前途に全くなんらの勝算も、あるいは成果もなくして、ただ徒らに、絶望的な死闘を繰り返して自らの出血を増大し、敗北のときを稼いでいた。日本人にとってクエゼリン島血戦といっても、既に忘れられた悪夢の中のささやかな断片に過ぎないが、しかし太平洋戦史上からみると、この上陸戦はタラワ島上陸戦に匹敵するほどの重要た戦術的意義があった。(実際に太平洋上における上陸作戦はアッツ、タラワ、クエゼリン、サイパン、硫黄各島とも世界戦史上未曾有の、各島各様の特異な戦闘形態を示したものであった。) 何故ならばクエゼリン島は世界最大の環礁であって、太平洋上に延々230哩にわたる狭い断続的なリボン状の周辺をつくり、正に微細な珊瑚蟲が築き上げた巨大な記念碑の偉観を呈していた。そしてこの大環礁の長さは、その内側に抱えた礁湖を測量しても実に80哩もあり、一つの『陸地の集団』と他のそれとは、50哩も隔たっている位に特異な地理状勢を示していた。それで上陸軍はこのクエゼリン大環礁の攻略ために南北二つの大集団に分けて、リッチモンド・ケリー・ターナー海軍少将が両集団を指揮して空前の大規模な水陸両用作戦を実行することになった。そして彼は自も南方軍を率いて大環礁の中心であるクエゼリン島攻撃の陣頭に立った。また北方軍は大環礁北端の要衝であるルオットおよびナムール両島の攻略を目指して、リチャード・L・コノリー少将が指揮した。かくて1月30日未明より、ルオット、ナムール、クエゼリン3島に対する海空呼応の大砲爆撃が開始され、48時間にわたり継続された。これには新に『メリーランド』『テネシー』『ペンシルバニア』『コロラド』『ノース・カロライナ』『ワシントン』『アイダホ』『ニューメキシコ』『ミシシッーピー』『サウス・ダコタ』『マサチューセッツ』『インデアナ』『アラバマ』『ニュージャージー』『アイオワ』の新旧戦艦15隻が参加し、この中『ニュージャージー』および『アイオワ』2隻は空母集団の掩護に当った。そして遠征艦隊司令長官スプルーアンスは旗艦『ニュージャージ』より采配を揮った。又彼の靡下の4つの機動部隊に配属された大型空母は『サラトガ』『エンタープライズ』『エセックス』『ヨークタウン』『バンカーヒル』5隻、また軽空母は『プリンストン』『カウペンズ』2隻以外は不詳であるが、15隻の戦艦に匹敵する10数隻の戦闘用空母が動員されたものとみられ、これに付随して護送用空母『コレヒドール』『サンガモン』『スマニー』『チェナンゴ』『ナッソー』他多数、また巡洋艦『パルチモア』『ポストン』『ウィチタ』『ニュー・オルリーンズ』『インデアナポリス』『ルイスビル』『サンフランシスコ』『ポートランド』『ミネアポリス』他、多数が参加し、実に今大戦開始以来最大の近代的戦闘艦隊を繰出したのであった。そして48時間にわたる上陸準備の砲爆撃で、ルオット、ナムール両島の2平方哩の陸地に2500トン、またクェゼリン島の同じくらいの陸地に2500トンの砲弾と爆弾が投じれたののち、2月1日未明に上陸攻撃が開始されたのであった。クェゼリン島に対する上陸攻撃部隊はアッツ島攻略戦の勇士たる陸軍第7師団でチャールス・H・コーレット少将が司令官であった。そしてまづ上陸の第一目標はクェゼリン島の北西方に点在する4つの小さい珊瑚島で、大洋と礁湖とを区切るギア水道に面したニニ及びギア両島、ならびに南水道に面したエニラベガンおよびエヌブジ両島であった。この日未明、漆黒の闇は深く雨が降り続けて、巨大な大環礁を目指して無数の水陸両用舟艇とゴーム・ボートが攻撃隊を満載してまるで蟻のごとく群がり殺到する光景は奇怪壮絶であった。かくて日の出前に4つの小島(例へばギア島は長さ800メートル幅400メートル)はアメリカ軍の手に委ねられ、数10名の日本兵が殺されて、または捕虜となった。
そして海上より大環礁の内部の礁湖に通じる各水道は確保されて、以後の主要作戦行動に便した。また北方のルオット、ナムール両島の上陸攻撃には海兵第4師団が当った。上陸作戦の戦況は、第1日の2月1日の日没までに北方軍(海兵師団)はルオットおよびナムール両島の側面の5つの小島を占領し、また南方軍(陸軍)はクェゼリン島側面の4つの小島を占領して、翌2日よりいよいよ主要目標であるルオット、ナムール、クエゼリン3島の上陸攻撃が行われた。作戦上、最も注目すべきことはエヌブジ島に早くも強力な師団砲兵陣地が設定され、これより上陸地点に対する巨砲の据置砲撃が行われたことである。地下に構築した陣地に依って抵抗した日本軍は、狂信的なまたは絶望的な夜襲斬込みにも拘わらず、甚大なる近代的戦術の前に空しく玉砕するほかはなかった。『タラワの恐怖』に懲りたアメリカ軍は徹底的な準備砲爆撃を行い、かつ将兵の生命を保護するために無謀な上陸突撃を慎んだので、クエゼリン環礁の完全占領には4日間を要したが、損害ははなはだ少なかった。
即ちキャント氏の記録によれば、クェゼリン島におけるアメリカ陸軍第7師団の損害は戦死177名、負傷712名に対して、日本軍の戦死は司令官秋山少将以下約5000名に達した。これは日米両軍の死傷者比率が28対1を示しており、タラワ島上陸戦における同比率5対1に比較するとアメリカ軍の圧倒的勝利と作戦の改善進歩を物語るものであると言われた。また大環礁北端のルオット、ナムール両島攻略において、海浜第4師団の損害は戦死129名、行方不明65名、負傷436名に達したが、一方日本軍の損害は司令官山田少将以下戦死3479名、捕虜91名を数えた。日本兵の死体は多くは弾雨の中に四分五裂して、満足な形骸を備えたものは少なかったが、しかし従来の南太平洋戦線で戦死者の1%平均であった日本軍の捕虜の比率が、3%に激増したのは注目された。かくてクエゼリン全環礁の征服即ちマーシャル群島侵攻に要したアメリカ軍の犠牲は陸軍および海兵隊を合わせて戦死および行方明不明僅かに356名に対して日本軍の戦死は実に8500名におよび日米軍の損害比率は24対1を示している。これに関して歴史的な水陸両用作戦の実施責作者であるリッチモンド・ターナー少将は次のように述べている。『恐らく我々は、この上陸戦のために余りに多くの兵員と、余りに多くの艦船をもったかもしれない。しかし私はこの作戦の遂行にあたり、そのような方法を選んだのである。それは我々をして多数の生命を救ったのだ!』このアメリカ軍のマーシャル侵攻作戦の大成功に対して、悲しいかな日本の大本営発表はまたしても、『孤島の守備隊』を見殺しにして『玉砕の光栄』を謳歌したのであった。それはいわば伸びすぎた生命線によって、自らの首をじりじりと絞め殺されたようなものであった。
「 大本営発表【1944年(昭和19年)2月25日16時】 クエゼリン島ならびにルオット島を守備せし約4500名の帝国陸海軍部隊は、1月30日以降来襲する敵大機動部隊の熾烈なる砲爆撃下これと激戦を交え、2月1日敵約2ヶ師団の上陸を見るや之を邀撃(ようげき)し、勇戦奮闘、敵に多大の損害を与えた後2月6日最後の突撃を敢行、全員壮烈なる戦死を遂げたり。ルオット島守備部隊指揮官は海軍少将山田道行にして、クエゼリン島守備部隊指揮官は海軍少将秋山門造なり。なお両島に於いて軍属約2000名もまた守備部隊に協力奮戦し、全員其の運命を共にせり。 」 
太平洋制覇・トラック島破壊

 

ギルバート諸島よりマーシャル諸島へ尨大なる海、陸、空の複合的戦闘力を推進したアメリカ軍は、いよいよ急ピッチで敗北の暗影の濃い日本軍を圧迫しつつ、広茫たる太平洋の支配権を掌握するに至った。それまでミクロネシア全域にわたる無数の島嶼に航空基地を確保して『沈まざる航空母艦』と無敵帝国艦隊とにより太平洋の征覇を呼号していた日本軍が、なぜアメリカ軍の大反攻の前に脆くも制海権を奪回されて絶望的な防禦態勢に陥ったか、これをキャント氏は戦略的に次のとおり辛辣に批判している。
(一) 日本軍の誇示するように開戦以来2年間、日本軍は太平洋の制海権を握って、アメリカ戦闘艦隊は赤道の北方、また国際日付変更線の西方の広大なる海域には近寄ることが出来なかった。それは日本軍が無数の『沈まざる航空母艦』である島嶼の基地航空力を駆使できたからで、この海域に危険を冒して突入したのは、ただ高速力の空母機動部隊がヒット・エンド・ランの奇襲を行ったのみであった。
(二) 従って、アメリカでも日本軍の太平洋支配権を奪取するには、陸上基地の強大な航空カによる以外は不可能であるとの意見が有力に行われ、米本土の西部海岸の基地より太平洋を一翔びに横断することの出来る超爆撃機の大空中艦隊の建造案が唱導された。それと同時に航空母艦は時代遅れの間に合わせ物して、廃棄を堤唱されたものである。恐らくこの意見は、日本がアメリカと同様の技術的熟練と産業的潜在力を持っていたならば正しかったであらう。但し連合軍統合参謀本部ではこの点に関して日本の実カを決して過大評価していなかった。そしてこの意見には耳をかさず、多数の航空母艦建造の大計画と空母戦闘用の航空機の大量生産に馬カをかけたのであった。
(三) また日本軍も産業力の点では日本が二流国であるから、航空消耗戦では到底アメリカと競争できないことを、ソロモン群島およびニューギニア両戦線で知ったのであった。即ち日本軍は戦闘機を戦況に間に合うように急速に補充することが全く出来なかったのだ。それに日本軍は守勢に立った場合、頼りとする基地航空カの配置の適当でないことを、タラワ及びクエゼリン両島で露呈したのであった。従って日本軍の誇示した、『沈まざる航空母艦』の鎖(chain)威力は、それが相互に独立自活することが必要であった。この理論は健全であったが、しかし貧乏国がこの理論を適用しようと企てるときには、それは虚弱なものになることを日本軍は発見した。
(四) ギルパート、マーシャル両群島失陥後の日本軍とアメリカ軍との戦闘態勢は皮肉にも次のような対照を示した。
【日本軍】――『沈まない航空母艦』は無限に補給されているが、航空機の補給は甚だしく不足した。それに艦隊は甚だ時代遅れの旧式で均衡(バランス)が取れていない。
【アメリカ軍】―― 戦闘地域に『沈まない航空母艦』は一つも持たないが、無数の航空母艦の甲板から飛び立つ航空機の補給は殆ど無限のようで、かつまた艦隊は世界最新、最重装備、最高速力の戦艦陣を造っている。
(五) かくてアメリカ軍は日本軍の戦略上の致命的欠点に見抜いて、クエゼリンおよびルオット両島占領後、直ちにニミッツ元帥は現地に赴き、遠征軍司令長官スプルーアンス中将及び水陸両用作戦指揮官ターナー少将と謀議の結果、2ヶ月後に遂行する作戦計画であったエニウェトク環礁上陸作戦を矢継ぎ早やに決行した。そしていわゆる内南洋のカロリンおよびマリアナ両群島の日本軍の干渉を不能にさせるため、太平洋艦隊の主力で編成した第5艦隊を急遽繰り出して、この両群島を攻撃させることに決定した。
(六) 強大なる第5艦隊は2月第1週に、マジェロ環礁の大きな礁湖の中に新設された根拠地に集結して補給および弾薬糧食の補給を終ると、再び急いで出発した。その攻撃目標は極秘にされたが、スプルーアンス中将が総指揮をとり、その下にマーク・A・ミッチャー少将があらゆる機動航空カを指揮して第58機動部隊を編成した。この第58機動部隊こそ、以降、日本の降伏まで1年半にわたり日本軍打倒の恐るべき猛威を揮ったものである。この強カ無比の航空機動部隊は3集団に分かれ、各集団はジョン・W・リービス、アルフレッド・E・モントゴメリー、フレデリック・G・シャーマン3少将の指揮下に3隻宛の新鋭航空母艦を含んでいた。
ミッチャー少将指揮の第58機動部隊こそ、アメリカ太平洋戦史を飾る最もスマートで、最も強大でかつ最も機敏な最新式航空艦隊の花形であった。そしてその初陣の攻撃目標は日本の生命線と頼む内南洋(日本統治領)の要塞トラック島であった。1944年2月4日リベレーター写真偵察機2機は高度6400メートルの上空よりトラック島を偵察して、日本軍の配備ならぴに艦船の出入り状況を写真に収めたが、この精密な偵察写真に基いて、ニミッツ大将はトラック島の急襲を決意したものといわれる。2月17日早暁、ミッチャー司令官の旗艦『ヨークタウン』に率いられた第58機動部隊の新鋭空母集団は、トラック島北東方100哩の攻撃開始地域に到達した。その中には『エセックス』『エンタープライズ』『バンカー・ヒル』『イントリピッド』『ベロー・ウッド』 などがあった。午前6時35分、いまだ漆黒の闇が海上を鎖ざしていたが、各空母は風に向って方向を転じ、戦闘機発進の姿勢をとり、午前6時49分『ヘルキャット』戦闘機は出発を開始して僅か数分間に80機が空中に浮かび、編隊を組むと猛烈な速力でトラック島目掛けて殺到した。午前7時14分、トラック島のラジオ放送は中断され、空襲警報が島内を驚愕させた。日本軍の哨戒機より通報を受けたか、あるいはレーダーによってアメリカ空軍の襲来を探知したかどうかは不明であるが、7特50分トラック島の上空で戦闘が開始されたとき、日本軍の零式戦闘機の相当数が空中に舞上っていた。『ヘルキャット』戦闘機隊はエドガー・E・ステビンス中佐の指揮により、これらの日本機に襲いかかった。それは激烈な戦闘であったが、しかし日本機ははなはだ多数でありながら、その性能並びに戦術は著しく劣悪化していた。この当時には零型戦闘機も改良されて自動漏止装置油槽(self sealinggas tank)のような安全装置を備えていたが、しかし『ヘルキャット』戦闘機の50ミリ砲弾の一発の命中で忽ち火を噴いて墜落し、全くこの最新式グラマン機は零式戦闘機の10倍の滅力があった。そしてこの第一回の空襲で日本機は空中で127機の中約3/4を撃墜され、また地上で77機を破壊された。これに反してアメリカ機の損失はなはだ僅少で、しかもそのパイロットはすべて救助された。
この戦闘機隊の攻撃後、1時澗ばかりたってから『ドーントレス』および『へルダイバー』急降爆撃機隊と『アベンジャー』雷撃機隊が、トラック島を襲撃して地上軍事施設ならびに海上艦船に猛爆撃を加えた。10時45分、スプルーアンス中将は攻撃隊指揮官より『日本巡洋艦および駆逐艦6隻が遁走中』という無電報告を受けたが、それより早く既に空母『ヨークタウン』の攻撃機は、これを洋上に捕捉して撃沈破した。次いでスプルーアンス中将は4万5千トンの『ニュージャージー』及び『アイオア』の両戦艦と巡洋艦2隻、駆逐艦4隻を率いて、30ノットの高速力で遁走中の日本艦隊を追撃して絶滅したのであった。さらにこの夜バン・メーソン大尉指揮の雷撃機12機は夜間攻撃用のレーダー装置をつけてトラック島の冒険的夜襲を敢行し、48発の500ポンド時限爆弾を投下し日本の輸送船8隻を撃沈し5隻を大破する戦果を収めた。同夜、トラック島の日本軍は狼狽してカロリン群島の日本軍基地に飛行機の増援補充を求めたが、要するに『沈まない航空母艦』は独立自活する能力を持たなければ、全く無力であることを説明したのであった。即ちトラック島の日本軍は少くともアメリカ空母艦隊の攻撃に対抗するためには、700機以上の航空機を備えていなければならなかったのだ。ところがトラック島の日本基地航空力は、第1回の攻撃で儚(はかな)くも全滅してしまった。かくて翌18日朝、全く無傷の8隻の空母より大挙出発したアメリカ軍の攻撃機は再びトラック島の上空に殺到したが、日本機は唯の1機も舞上って反撃するものはなかった。これによって前日の日本機の損失204機のほかに、さらに地上で50機が破壊されたものと見積られた。また日本艦船の撃沈は合計23隻に上り、この内訳は軽巡2隻、駆逐艦3隻、弾薬補給船1隻、油槽船2隻、砲艦2隻、貨物船8隻、艦船種未詳5隻であった。その後、海軍側では日本船の撃沈6隻、大破11隻を追加したので、トラック島における日本艦船の損失は総計40隻に達したが、アメリカ軍の損害は僅かに19機を喪ったのみであった。このトラック島に対する第58機動部隊の奇襲の成功は、次のような重大な戦略的意義を有するもので、いよいよアメリカ軍は太平洋の支配権を日本軍より奪回して、日本本土攻撃の決定的段階に突入することになったとキャント氏は説明している。日本海軍の根拠地であったトラック環礁。日本の委任統治だった関係で、島々には日本名が付けられていた。この環礁には東西南北に四つの船舶の出入りする水道があった。しかし一回の空襲で徹底的に破壊され、日本海軍はここを見捨てるしかなかった。
(一) この作戦によって海上航空力すなはち空母航空力は、もし十分な航空母艦と十分な搭載航空便と十分な戦艦および掩護艦隊を伴う十分に強力なものであれば、日本軍の守備圏内の西太平洋のいかなる地点へも自由に威力を揮うことができることを示唆した。
(二) トラック島がこのように片付けられるならば、マリアナ群島も同様に処理しうるであらうと推定された。
(三) 従ってスプルーアンス中将はトラック島攻撃に成功するや息もつかせずミッチャー少将指揮の第58機動艦隊にさらに前進を命じたのであった。
さてアメリカ機動部隊のトラック島攻撃に関する日本大本営の発表は次の二つであるが、意外にも自ら日本側の大損害を計上しているのは、いかにその奇襲的戦果が大きかったかを示すもので、『嘘で固めた日本大本営発表としては珍しい正直さを示した』とキャント氏は皮肉っているが、しかしアメリカ側の損害は相変らず嘘で固めてあった。
「 大本営発表【昭和19年2月18日16時】 2月17日朝来、敵に有力なる機動部隊を以てトラック諸島に反覆空襲し来たり、同方面の帝国陸海軍部隊は之を進撃激戦中なり。
大本営発表【昭和19年2月21日16時】 トラック諸島に来襲した敵機動部隊は同方配帝国陸海軍の奮戦に依り之を撃退した。本戦闘に於て敵巡洋艦2隻(内1隻戦艦なるやも知れず)撃沈、航空母艦1隻及軍艦(艦種未詳)1隻撃破、飛行機54機以上を撃墜したが、我方も亦巡洋艦2隻、駆逐艦3隻、輸送船13隻、飛行機120機を失った他、地上施設に若干の損害があった。 」 
呪われたサイパン島

 

日本の心臓を目指す『東京特急』の次の目的地はマリアナ群島の中心のサイパン島であった。それは東京より僅か1450哩の海上に横たわっていた。トラック島奇襲の勝利の勢に乗じたミッチャー少将指揮の第58機動部隊は、大胆にもトラック島よりサイパン島まで700哩の洋上を一路北上して、2月23日サイパン島攻撃を企図した。しかし前日の22日午後2時、日本軍の哨戒機に発見されたので直ちに戦闘配置についた。同夜11時日本軍の雷撃機隊は暗黒の洋上に閃光弾を放ちつつ機動部隊を目がけて波状攻撃を加えた。さすがにアメリカ空母集団も日本雷撃機の狂信的な突込み体当りには混乱させられたようであるが、キャント氏の記録によると事実上アメリカ艦隊は1隻も撃沈破されていない。これに反して日本雷撃機は翌朝までに14機も撃墜されていることが算えられた。そして夜が明けるや否や、雨雲が海上僅か300メートルに低く垂れこめた悪天候を冒して、アメリカ機は一斉に空母より出発して、超低空飛行でサイパン島及びテニアン島飛行場を空襲し、日本機を空中で29機撃墜し、また地上で87機も破壊した。また3隻の貨物船を撃沈破し、7隻の小型舟艇を大破した。かくて多数のアメリカ機は空母より終日、反覆攻撃を続行して、サイパン、テニアン、グァム3島の飛行場、弾薬庫、ガソリン貯蔵所、水上機基地などに大損害を与えたが、意外にも日本軍の反撃は驚くほど微弱であった。それは絶好の『沈まざる航空母艦』を徒らに擁しながら、航空力が殆ど皆無で手も足も出なかったのである。このマリアナ群島空襲の戦果は、日本機の損失135機に対してアメリカ機の損失僅か6機であった。続いて神出鬼没の第58機動部隊は洋上補給行うや直ちに西進して、3月30日未明西カロリン諸島の日本海軍基地パラオ島を襲撃したのであった。もっともこの前夜日本軍の哨戒機は機動部隊の来襲を探知したので、未明にお決まりの雷撃機の先制攻撃を行ったが不成功に終った。しかしパラオ島は空襲警報を発して、夜明けとともにアメリカ攻撃隊が殺到したときには、上空には日本機30機が待ち構えていた。
しかし彼らは夥しいアメリカ攻撃隊の前には絶望的に少数のため、忽ち10機を撃墜されて四散した。アメリカ攻撃隊に次いで多数の急降下爆撃機と雷撃機が襲来して、全島に火の雨を降らせ、逃げ遅れた日本駆逐艦3隻も撃沈した。もっとも日本艦隊の主力は一両日前に危険を感じて狼狽してパラオ島より出発したが、意外にも置き去りにされた連合艦隊司令長官古賀峯一元帥以下暮僚は、命からがら特別仕立の大型機2機に分乗してはるか比島のミンダナオを目指して遁走中、濃雲のため山中に激突して墜落し名誉の戦死を遂げたのであった。これはキャント氏の記録にはないが、古賀元帥の死が今日に至るまで杳(よう)として真相を公表できないほど、儚(はかな)いものであったのは驚くべきであろう。殊に生き残った元帥の幕僚達がミンダナオ山中のゲリラ部隊に生捕りにされた顛末に至っては、アメリカ記者のぺンを俟(ま)たずとも日本人の手で暴露せねばならないであらう。しかるに当時、日本軍部はこの醜悪なる事実を隠蔽して、ようやく5月5日に至り大本営が『連合艦隊司令長官古賀峯一大将は本年3月前線に於いて飛行機に搭乗、全般作戦指導中殉職せり』と奇怪な発表を行い、また天皇は真相を知るや知らずや『その偉功を嘉せられ元帥府に列せられ特に元帥の称号を賜い、功一級に叙し金鵜勲章を授けられ旭日桐花大綬章を授けられ正三位に叙せらる』というに至っては、全く無知同然の国民をよくも愚弄したものといえるであらう。この第58機動部隊の西カロリン諸島の奇襲は3日間にわたったが、その戦果よりも日本軍部に与えた心理的効果は深刻であった。成程内地の一般国民は『儼(おごそか)たり内南洋(日本の委託統治の南洋)』とか『我に絶対の勝算、陸海一体の神武精神』といったような大本営報道部の欺瞞宣伝に目を眩(くら)まされてされていたが、しかし前線の日本軍は狂信的な抗戦も空しく、敗戦の死相が日増しに濃くなった。そして日本人の頼みの綱である無敵帝国艦隊は既に広茫たる太平洋上に安住の港なく、ラバウルよりパラオヘ、パラオより日本近海へと体裁よく逃げまわっていたのだ。3月31日、パラオ島攻撃の第2日に、アメリカ空母の多数の攻撃隊はフィリッピン基地より飛来した日本戦闘機40機以上を上空で全滅させた上、補助艦艇および貨物船(油槽船5隻を含む)22隻を撃沈し、16隻を撃破した。また2日間わたる航空戦果は日本機114機を撃墜し、36機を地上で確実に大破し、さらに49機に損害を与えた。これに対しアメリカ側の損失は25機にすぎず、しかも搭乗員は18名を除いてすべて海軍の手で救助された。4月1日の第3日の攻撃は、パラオ島の北東方325哩の日本軍の重要な通信基地ヤップ島に向けられ、建設中の飛行場ならびに軍用無電局および海底電信所を爆破炎上した。日本軍の基地建設能力は貧弱で、同島には高射砲さえないようで、かつアメリカ機の大攻撃に対して日本機はただ1機も応戦するものがなかった。また同日、多数のアメリカ戦闘機および爆撃機の別動隊は、パラオ島東方675哩でヤップ島の南東方にあるウォレアイ環礁を急襲して飛行場にあった零型戦闘機10機および双発爆撃機2機を破壊し、無電局、貯油所、弾薬庫、輸送船を爆破した。しかし日本軍は全く応戦力なく蹂躙にまかせるばかりであった。かくて、第58機動部隊は日本の生命線たる内南洋を縦横無塵に暴れ廻って、一旦補給基地に帰るや息つくいとまもなく4月13日再び出港して、4月22日のマッカーサー元帥のホーランディア海陸作戦掩護の重大任務に当った。それはアメリカの太平洋作戦がいよいよ急速に進展して、遂にニミッツ元帥がパールハーバーで采配を揮う太平洋水域作戦と、マッカーサー元帥が豪州よりニューギニアにわたって采配を揮う西南太平洋作戦とが表裏一体となり、従来ニミッツ元帥靡下の水陸両用作戦に協力するためにのみ使用されていた第58機動部隊が、マッカーサー元帥靡下の上陸作戦に協力使用されるに至ったことは、画期的な戦略的意義があるとキャント氏は強調している。すなわちミッチャー少将は新たに『レキシトン』を旗艦として同機動部隊の空母部隊を強化し、4月21日より23日にわたりニューギニア北岸のホーランディア地区(ホーランディア、サイクロップス、センタニ各地)をケニー中将指揮の陸軍基地航空部隊と呼応急襲し、数百トンの爆弾を投下し、さらに数万発の50ミリ砲弾を発射して、同方面の制空および制海権を完全に奪取して、マッカーサー元帥靡下の大軍の上陸に成功させたのであった。しかし第58機動部隊はこの任務を果すや、直に東方に転進し、洋上補給を行った後、4月30日未明大胆不敵にもトラック島を急襲した。前回の攻撃以来、同島の日本軍は内地より戦闘機および爆撃機200機を補充していたが、ミッチャー少将は同島南西方75哩の地点より、多数の戦闘機隊を進発させて同島の地上軍事施設を攻撃し、応戦した日本機60機を撃墜した上、地上の60機を大破し、さらに全島を火の海と化した。キャント氏の記録によればこの第一日の攻撃で『ヨークタウン』の空母集団のみでも、延べ227回も編隊出撃して110トンの爆弾を投下し、日本軍は唯、高射砲火で絶望的に応戦するばかりであった。かくて2日間にわたるトラック島攻撃を終えた第58機動部隊は、帰航のついでにトラック島東方440哩のポナペ島に砲爆撃を加え、3ヶ月間にわたる空前の海空機動作戦を完了した。ミッチャー少将の卓抜なる企図と第58機動部隊の戦闘力は、航空母艦を中心に構成された超近代的の海上機動航空カを以てすれば、日本軍支配下の如何なる海上にも自由に出没して、その制海および制空権を意のままに奪い取るととが可能であることを証明したのであった。実際に同機動部隊は僅か3ヶ月間にマーシャル群島よりフイリッピン海域に及ぶ数百万平方哩の膨大な太平洋を支配したのである。そしてミッチャー少将は抜群の功績により中将に昇進するとともに、いよいよ大規模なマリアナ群島攻略戦が迅速に企てられた。このアメリカ軍の最新戦略たる強力な空母航空力をキャント氏は『翼を持った海軍カ』(Winget Sea Power)または『海を行く航空カ』(Sea Going Air Power)と呼んでいるのは面白い表現である。かくて呪われたサイパン島の運命は既に決した。そして太平洋戦争の勝敗もまた早くも決まったのである。ただそれを悟らないのは『元寇(げんこう)の奇蹟』(鎌倉時代に蒙古が九州に攻めて来た時、嵐が起こって蒙古軍が敗退した古事)を妄信した日本軍部と、その巧妙な天皇利用の必勝宣伝に踊らされた日本国民ぱかりであった。 
サイパン島の悲運

 

日本の敗北の『命取り』となったサイパン島はくどいようであるが、初めから悲運と死相に取り付かれていた。サイパン、テニアン、グァム諸島より成るマリアナ群島は、最初マゼランによって1521年に発見されて『三角帆の島』(Islands of thelatten sails)と命名されたが、その後海賊の棲家となって『盗賊の島』(Islands of thieves)と呼ばれたのであった。1668年以来スペイン領となっていたが、1899年に至りドイツはアメリカ・スペイン戦争の結果アメリカ領となったグァム島を除いて、全諸島をスペインより買収し開発に努めた。しかるに第一次世界大戦で1914年に日本軍によって占領され、1919年より1935年日本の国際連盟脱退まで日本の委任統治下におかれた。しかし日本は連盟脱退後もこのマリアナ群島をはじめ旧ドイツ領有の南洋諸島を完全占拠して、太平洋武力侵略の前進基地と化し、とくにサイパン島を要塞化して戦備に汲々と努めたのであった。かくて、太平洋上の昔の『盗賊の島』は新しい『国際的盗賊』たる日本軍の頑丈な棲家となっていたのだ――とキャント氏は喝破している。そして原著は第15章を『盗賊の島』と題してサイパン島を叙述しているのは、日本人の読者には余りに痛烈な皮肉であらう。ところで勝算満々たるニミッツ元帥はサイパン島攻略の戦略的目的を次のように判断して大規模な上陸戦を計画したのであった。 
(一) サイパン、テニアン両島は日本本土沿岸とくに日本の心臓である東京より1300哩ないし1500哩の圈内にあり、当時まさに就役しようとしていた『超空の要塞』B29にとって絶好の攻撃基地となるものである。
(二) ことに南部マリアナ諸島の攻略は、日本本土と南方諸島との航空ならびに海上の直接連絡を遮断して、1944年初頭における日本軍の南方の最も重要な根拠地であるトラックおよびパラオ両島の要塞を、全く孤立無力化するものである。 
(三) マッカーサー元帥のフィリピン島奪回作戦を待たなくても、サイパン島攻略によって日本本土に対する太平洋上の大突撃路が開かれ、アメリカ軍の全面的勝利と日本軍の完全敗北を急速に促進するであろう。
(四) サイパン、テニアン、グァム各島の占領によって、日本海軍の虎や子の残存艦隊は全く太平洋上より閉め出され、太平洋全域にわたる制海権と制空権とは完全にアメリカ軍の手中に帰するであろう。
要するに今日より顧みて、サイパン島の攻略戦こそアメリカ軍にとっては、東条大将はじめ日本国民の考えていたより遥かに重大な意義をもつものであった。そしてその結果は果してニミッツ元帥が周到に企図した通りであった。これをいいかえれば東条大将を持った日本国民と、ニミッツ元帥を持ったアメリカ国民との運命は、余りに悲痛な対照を示したのだ。アメリカ軍によるマリアナ諸島の日本軍備状況の偵察写真は、この年の2月23日、第58機動部隊の攻撃当時の空中撮影によってはじめて準備され、ついで4月18日陸軍第7航空隊の『リベレーター』爆撃隊のサイパン、テニアン両島空襲によって詳細な偵察写真が撮影された。かくて5月19、20両日にはサイパン島の北東方700哩の南鳥島(マーカス)島が第5艦隊の新機動部隊によって爆撃され、同月23日にはウェーク島も空襲され、6月に入るやサイパン島攻略を目指す大がかりな準備爆撃が、近接する太平洋上の各島嶼の日本軍基地に対して激化した。これにはマッカーサー元帥靡下の陸軍基地航空力も動員されて、ソロモン群島、アドミラルティー諸島、エミラワ、ホーランディア各基地より大挙して、カロリン諸島の要衝トラック、ヤップ、パラオ各島が反復爆撃された。その間にサイパン島上陸作戦のためにスプルーアンス司令長官指揮の第5艦隊に出動命令が下り、ミッチャー中将指揮の第58機動部隊はその攻撃の急先鋒をうけたまわり、6月11日はやくもマリアナ群島海域に出現して大空襲を敢行した。この日の戦果はサイパン、テニアン、ロタ、グァム各島の日本軍基地の上空または地上で、日本機124機撃破したが、アメリカ機の損失は僅か11機であった。翌12日の空襲では残存の日本機16機が撃墜され、貨物船10数隻が撃沈破された。13日より同機動部隊の高速戦艦多数は空母集団より離れてサイパン、テニアン両島の西海岸に16インチ巨砲陣をならべて7時間にわたり猛烈な一斉砲撃を行い、同時に快速の掃海艇隊は上陸戦に備えて沿岸一帯の機雷掃討を行った。さらに15日朝よりパール・ハーバー生き残りの旧式戦艦多数がサイパン、テニアン両島沖に現れて大砲爆を開始し、また上陸掩護用の護送用空母多数が続々到着して戦機は熟したが、既に戦わずしてサイパン島の死命は制せられた観があった。歴史的なサイパン島攻略戦の水陸両用部隊の輸送船団の指揮も含めて、すぺてリッチモンド・ターナー海軍中将(マーシャル群島作戦ののち少将より昇進した)が総指揮をとり、その下にホーランド・M・スミス陸軍中将が第5上陸軍を指揮した。 その編成はトーマス・E・ワトソン少将指揮の第2海兵師団とハリー・シュミッド少将指揮の陸軍第27師団をもって攻撃部隊とし、別に予備部隊としてラルフ・スミス少将指揮の第2海兵師団を当た。またグァム島攻略戦の準備も完了し、サイパン島攻略戦の数日後に行われることに決定した。一方サイパン島の72平方マイルに及ぶ、ごつごつした岩だらけの地勢は日本軍の堅固な地下要塞を構築するのに適していたが、実際には日本軍は29年間にわたる占領中に要塞工事は遅々として進まず、アメリカ軍の侵攻前の数ヶ月にはじめて狼狽して、昼夜兼行の防禦工事に狂奔したのであった。地勢上、アメリカ軍の上陸予想地点は島の西海岸の北端と推定され、日本軍はここに主要陣地を集中した。そしてその兵勢は約2万と推測された。これに対してアメリカ軍のサイパン島攻略作戦は、上陸地点として日本軍が予想した西海岸の北端を避けて、珊瑚礁脈が北端よりもいっそう西方に拡がっているために、上陸が困難にみえる角海岸の南部地区選定して、日本軍の意表を衝いたのである。この上陸地点は南北2区に分けて、北浜はちょうど島都ガラパンとチャラン・カノアの二つの町の中間にある角海岸の長さ1350メートルの海辺で、これにはダイ海兵師団に割当てられた。また南浜はチャラン・カノアの町をふくむ南方の砂糖山地域におよぶ角海岸の南部1350メートルの海浜で、これには第4海兵師団が当った。アメリカ軍の上陸戦開始の時刻は、6月15日午前8時40分と決定していた。そして実際にこの作戦計画より僅か11分遅れて、最初の上陸部隊はサイパン島の角海岸に到着したのであった。続いて第2、第3の上陸部隊も同様に比較的楽に上陸して予定の海浜地区を確保したが、突如それまで鳴りをひそめていた日本軍は、遮蔽陣地より野砲および臼砲の猛烈な集中砲火を浴びせかけたので、第4以降の上陸部隊はたちまち上陸用舟艇のまま立往生して死傷者が続出し、また海浜地区に無事に上陸していた上陸部隊の頭上にも、日本軍の十字砲火が火の雨を降らせ甚大な被害を蒙った。かくて上陸開始後10時間の中に第6海兵連隊(第4海兵師団)の第2大隊のごどきは、4人の大隊長が負傷のため交替したのであった。もっとも第1日に上陸部隊は相当の進出を見せたが、1メートル進むごとに払う犠牲は莫大であった。夜はふけても日本軍の砲火は激烈でアメリカ軍の前進部隊はかえって危険なため後退した。そしてこの戦術後退を利用して、沖合のアメリカ艦隊は海岸奥地の日本軍砲兵陣地に猛烈な艦砲射撃を加えた。第2日の6月16日、上陸部隊は日本軍の死物狂いの砲火と抵抗とを排して進出し、正午ごろには南北両上陸地区の橋頭堡の中間地帯の日本軍は一掃されて、第2及び第4海兵師団の上陸部隊の連絡がなり、戦況ははなはだ好転した。しかし危険は決して去らず、上陸部隊は日本軍の逆襲によって水辺に撃退される心配はなかったが、しかし死傷者の比率が甚大なため、非常処置を講じないと海兵師団は消耗戦により重大危機に陥るものとみられたので、ターナー総指揮官とスミス中将は緊急協議のうえ、直ちに予備軍の陸軍第27師団を繰出したのであった。第3日の17日正午、第27師団は上陸地区の南端に上陸したが、既に第4海兵師団の先駆隊は島内深く快速に進出し、その一部は島の南東角のアスリート飛行場付近に達していた。第27師団の任務は、このアスリー飛行場を占領し、さらに島の南東部のナッタン岬を確保するにあった。ところで第5日目の19日、サイパン島沖合の第58機動部隊に対して突如、日本空軍が大挙して襲来した。その目的はアメリカ艦隊を撃破して上陸軍を孤立させてサイパン島の日本軍の危機を救うにあった。もちろんこの大戦闘は陸地より望見することはできなかったが、翌20日、日米両艦隊の大海戦が行われ、アメリカ空母集団の海軍機数百機は全力を挙げて日本艦隊を撃破し、遂にアメリカ艦隊のためにフイリッピン海域を安全にすると同時に、南マリアナ諸島攻略戦の成功を確保した。このマリアナ群島沖の日米艦隊の大海空戦は、劣勢を一挙に挽回しようと焦って乾坤一擲(けんこんいってき)の攻勢に出た日本連合艦隊の主力が、アメリカ空軍のために無残にも敗退した歴史的意義を有するもので、キャント氏はとくに『新スタイルのジェトランド海戦』と題する一章を設けて詳説しているところである。6月12日ハルマヘラ沖を警戒中のアメリカ潜水艦より、戦艦4隻、航空母艦6隻以上、巡洋艦8隻、駆逐艦8隻よりなる日本艦隊が北上中との報告がアメリカ軍司令部に達したので、第5艦隊司令長官スプルーアンスおよび第58機動部隊司令官ミッチャー両中将は、この日本艦隊撃滅の秘策を練った。そして19日午前9時30分、日米両艦隊は遂に遭遇し、まず日本艦隊の航空母艦9隻(大型5隻および中型4隻と推定)の航空力約600機は日本独特の先制攻撃を企てアメリカ艦隊目掛けて襲来してきた。これに対して第58機動部隊の空母集団は直ちに全航空力をあげて邀撃(ようげき)し、午前10時40分より3時間にわたり空前の洋上の大空中戦が開始された。しかし日本機は40機ないし75機ずつの数編隊をつくりその機数ははなはだ多かったが、パイロットの技量ならぴに航空機の性能ともにアメリカ空軍にはなはだ劣り、ことにその攻撃力は奇妙なくらいに非効果的であった。これらの日本海軍の空母乗組パィロットは18ヶ月もかかって、このような洋上の空中戦のために猛訓練されてきたものであったが、しかし人員数ばかり厖大ながらその実力は全く悲惨なくらいに無能であった。たとえば日本の攻撃機は全く攻勢的でなく、また爆撃機の掩護も殆んどしなかった――とキャン卜氏はマリアナ群島沖の大空中戦および大海戦における日本海軍の致命的敗因を辛辣に指摘しているのは注目される。要するに日本海軍自慢のいわゆる予科練パイロットも無敵海軍も、海空一体の近代的立体戦では、全くアメリカ海軍の前に手も足も出ず、徒にミッチャー中将指揮の老練な『翼をもった海軍力』に、またしても名をなさしめたのであった。かくて第58機動部隊を目掛けて殺到した日本機の大群も、アメリカ戦闘機の空中哨戒網を突破したものははなはだ僅少であって、日本機の編隊はバタバ夕火を噴いて10機、15機と一団となって撃墜され、アメリカ艦隊には被害がなかった。そして空中戦は午後1時16分まで約3時間も続いたが、その戦闘はキャント氏の表現をかりれぱ『甚だしく単調なもの』で襲来した日本機総数500機以上のうちで、撃墜404機さらに100機以上は海中に不時着して沈没したものと算定された。また日本機のうちでアメリカ戦闘機の哨戒網を突破して、アメリカ艦隊の頭上に到達したものは僅か18機にすぎず、しかもこの中で12機は高射砲のため撃墜された。これに対してアメリカ機の損失はたった27機で、しかもこの中の9機の搭乗員は無事に救助された。海洋航空戦において、かくも短時間に、かくも強大な航空力が、かくも得るところなく潰滅した実例は世界戦史上に比類なきものと言われる。そして日本海軍航空力の神髄(しんずい)は僅か数時間の中に泡沫のごとく消え失せてしまった。日本の空母艦隊は全く取り返えしのつかない大失敗を犯し、各空母甲板には僅少の哨戒機を残すのみであった。従って日本艦隊のホープであった空母群は全く無用の廃船と化し、アメリカ軍は大空中戦の勝利に引き続いて大海戦の勝利を追及したのである。ここにサイパン島の重ね々々の悲運があった。それを不幸にも日本国民は全然知らなかった。 
日本艦隊の潰走

 

日本空軍を全滅させた第58機動部隊は、遁走中の日本艦隊を捕促してこれを殲滅するため、空母『レキシントン』および『エンタープライズ』の長距離偵察機が全力をあげて西方海上を捜索したが、19日夜までに発見することができないで空しく帰投した。もっとも快速の同機動部隊が西方へ追撃して空母より空中攻撃をしたならば、敗戦の日本艦隊は完全に捕捉されたであろうが、第5艦隊司令長官スプルーアンス中将はこれを聞き入れなかった。それはサイパン島に上陸中のアメリカ軍を置去りにして、万一、日本基地航空力の襲来にさらす危険があったのみならず、第58機動部隊の各空母は重油および爆弾が欠乏していたからであった。翌20日早朝よりアメリカ空母機は西方海上の偵察捜索に努めた結果、午後3時半になって『エンタープライズ』乗組のロバート・ネルソン大尉機よりサイパン島西方700哩ルソン島東方700マイルの海上に、日本艦隊を発見したとの報告があった。そして海上一面に漂う油は、日本艦隊が洋上で給油中に発見されて狼狽して遁走中なることを示した。既に日没まで2時間をあますのみであり、かつ航程400哩の困難な冒険的海洋飛行であったが、ミッチャー中将以下各空母指軍官は、この千歳一遇のチャンスを逃すなとばかり、月のない暗夜の洋上の帰還を覚悟して、午後4時大挙して数百の攻撃機隊を出発させた。そして最初のアメリカ機編隊が獲物を発見し襲いかかったのは午後6時30分で、既に広大なる洋上には夕闇がたれこめていた。猛烈な雷撃と爆撃が夜気を壮絶に彩ったが、戦果は不明であった。例えば同じ攻撃機隊の搭乗員でありながら日本艦隊の空母数を6隻とも8隻とも報告し、また戦艦についても異論があった。ただ一つ各報告に一致したのは、日本の各空母の甲板上に全く機影を見ないか、或は僅少の機影を見たのみで、日本艦隊の掩護哨戒には僅か零式戦闘機が30機ないし40機が当っているのみであったが、この中確実に26機が撃墜された。このアメリカ空軍の大追撃に対して日本連合艦隊の主力は、ただ高射砲火を盲目撃ちにしながら鬼気迫る洋上を右往左往して逃げ廻るばかりであった。アメリカ第24雷撃機隊は空母『早鷹』の中央部に魚雷3発命中させて撃沈させたのみならず、各攻撃機隊の日本艦隊にそれぞれ重大損害を与えたことが報告されたが、しかし夜陰のため、戦果は確認されなかった。かくてアメリカ空軍はガソリン欠乏のため潰走する日本艦隊に止(とど)めを刺せなかったが、一方的勝利の凱歌をかかげながら、黒闇の洋上を遥か遠く第58機動隊の空母群を目指して、再び決死的な帰還飛行についたのであった。この珍しい冒険的壮挙はジョセフ・プライアン中佐著『闇黒の彼方の爆撃行』(1945年刊)に詳述されているが、この夜、旗艦『レキシントン』の飛行甲板上で漆黒の空と海とを睨んで、歴史的な夜間洋上空襲の成否を気遣っていたミッチャー中将は、断然戦闘海域の厳重な灯火管制令を破って各空母に点灯を命じて、空っぽのガソリンタンクに命懸けの帰還をあせる数百機の攻撃機群を温かく迎えたのであった。もし当夜、日本の有力なる潜水艦隊または夜間攻撃群が、この闇夜の洋上に忽然と不夜城のごとく煌々(こうこう)と輝いた第58機動部隊の大艦隊を奇襲したならば、驚くべき戦局の変化をしていたかもしれないと、キヤント氏はミッチャー中将の大胆不敵な決断を評している。とにかく日本軍はもはや陸海空ともに、手も足も出ないような窮状にあったために、アメリカ軍にあらゆる戦略上の幸運が独り占めにされたのであった。そしてまるで闇黒の空より大粒の雨の降るように、おびただしいアメリカ攻撃機は各空母の甲板上に折り重って殺到し、転倒しまた付近の海上に不時着した。そして沈没した機体の乗組員を救肋するため探照灯の中を駆逐艦が活動した。かくてこの闇夜の爆撃行でアメリカ機の損失は95機(日本艦隊を攻撃中の損害と帰投の機体破壊および沈没を含む)におよんだが、大部分の人命は救助されて死者は僅かパイロット33名および搭乗員37名にとどまった。日本艦隊の損害は、物質的にも精神的にも実に莫大であった。それは闇夜の戦果不明のためのみならず、最初より第5艦隊司令長官スプルーアンス中将はサイパン島攻略戦の重大使命を痛感して、むしろ日本艦隊の追い打ちにあせるミッチャー中将を制したので、この19、20両日にわたる大海空戦の戦果をはなはだ過小評価したくらいであった。しかし、この大海戦(日本ではマリアナ沖海戦と称し、アメリカでは第2フイリッピン海戦とよんでいる)は、あたかも前大戦のジュトランド海戦と同様に、勝ったアメリカ側ではいかに莫大たる損害を日本艦隊に与えたか、当時は不明であったが、その後次第に大勝利の程度が判明してきたのだ。すなわち、ミッチャー中将指揮の第18機動部隊はサイパン島攻略に牽制されたために、潰走する日本艦隊を余力をあげて殲滅することには成功しなかったが、しかし、日本海軍の機動航空力を全滅することに大成功した。そしてそれは空母航空力を喪失した近代的大艦隊の末路を宣告したも同様であった。かくて、その後アメリカ軍の日本本土攻撃に対して、もはや日本の空母機動部隊は、決して再び脅威となることはなく、サイパン島より直接に東京に至る海上は、全くアメリカ海軍の支配するところとなった。それは前大戦でジェトランド海戦の勝利により、ドイツ本土に直接通じる海上をイギリス海軍が支配したのと、全く同様であった。太平洋戦争における『新スタイルのジェトランド海戦』とキャント氏が呼んでいる由縁である。アメリカ側の記録によれば、この6月19、20両日の海空戦の日本艦隊は制式空母『大鳳』『翔鶴』『早鷹』3隻を撃沈され、また積載航空機をほとんど全部失って艦体にも相当損害をこうむって潰走した空母『瑞鶴』『瑞鳳』『千代田』『千歳』4隻も、それより4ヶ月後の10月25日ルソン島沖で再びミッチャー中将指揮の第58機動部隊に見舞われて、ことごとく撃沈されたのは奇しき宿命であった。かくて開戦の翌春――1942年6月4日および、5日ミッドウェー島沖ではやくも空母『赤城』『加賀』『蒼龍』『飛龍』4隻をアメリカ空軍のため撃沈されて、暗い影に呪われていた日本海軍の制式空母15隻の大半は既に1944年秋までに潰滅してしまったわけである。なおマリアナ沖に撃沈された『大鳳』は、アメリカ潜水艦『アルバコア』により、また『翔鶴』は同じく潜水艦『キャバラ』により魚雷攻撃を受けたものであるが、第58機動部隊の航空力により積戦機を全滅させられて潰走する途中を待伏せて、潜水艦によって止(とど)めを剌したアメリカ海軍の周密な総合的作戦は、その後レイテ島の大海戦にも発揮されて、常に大成功を収めたのであった。ところが太平洋戦争におけるジュトランド海戦と呼ぱれるくらいに重大な意義のあるこの大海空戦について、日本の大本営は6月23日15時30分、次のような驚くべき発表を行った。それは日本国民の狂信的希望である無敵艦隊の幻影を壊すまいとする軍部の思いやりにしては、余りに出鱈目過ぎるではないか!太平洋戦争を通じてこの大本営発表は『最大の嘘』の一つであった。
「 わが連合艦隊の一部は6月19日マリアナ諸島西方海面において、3群よりなる敵機動部隊を捕捉、先制攻撃を行い爾後、戦闘は翌20日に及びその間に敵航空母艦5隻、戦艦1隻以上を沈破、敵機100機以上を撃墜するも決定的打撃を与えるに至らず、わが方航空母艦1隻、油槽船2隻及び飛行機50機を失えり。 」
決定的打撃を与えるに至らずとは、アメリカ側の発表を大本営が逆に先制発表しているのは、全く珍無類のインチキではないか。悲しいかな!  
サイパン島の最後

 

かくてサイパン島は、日本本土より孤立無援の悲運に陥ったのである。遥か南洋の海のかなたより、SOSを呼び続けるサイパン島の日本軍と在留邦人は、頼みの綱の連合艦隊のあっけない潰走と海軍航空力の壊滅によって、もはや東条大将の豪語した太平洋の防塞にもなりえないくらいに無力になってしまった。一方、ミッチャー中将指揮の第58機動部隊の赫々たる勝利に士気ますます盛んなサイパン島上陸のアメリカ軍は、6月20日はやくもアスリート飛行場を占領して、これを同月12日同飛行場上空で戦死した空母攻撃隊長ロバート・H・イスレー中佐の記念のためイスレー飛行場と命名した。そして第2および第4海兵師団と陸軍第27師団の各部隊は、互いに入り交わって競争的に島の奥地に進出した。そして上陸開始後10日にして、左翼軍はサイパン島都ガラパンの町の南部に達し、6月25日はR・M・トムプキンス中佐の指揮する第2海兵連隊の第1大隊は、島の最高峰のタポーチョ山(海抜466メートル)を攻撃して頂上付近の陣地を確保した。またその間に第4海兵師団は島の南東部のマジシェンヌ湾を扼する北岸のカグマン半島の日本軍を激破して占領した。タポーチョ山以北は島が狭くくぴれて上陸軍の3師団が並進することができないので、海兵師団はタポーチョ山の占領ならびにガラバンの町の残敵掃蕩に当り、陸軍第27師団が西北岸へむかって突進した。全島は日本軍の地下陣地であたかも密蜂の巣の如き形状をなし、日本軍は狭い道の曲折を利用して、至るところ機関銃座と3インチ戦車砲を備えて抵抗した。また多数の重砲は岩窟の中に据え付けて軌道で隠現出没させ、数発発射するごとに再び岩窟の奥深く引っ込んだため、アメリカ軍はスチンソン偵察機またはL5S型機のような軽飛行機で日本軍の砲兵陣地を探して、アメリカ軍陣地に無電報告をするのに骨を折った。これらの偵察機はもちろん、新設のイスレー飛行場より盛んに話動を開始したものだ。6月26日タポーチョ山の一角のポケット地区に残存した日本軍は猛烈な逆襲を行い、また翌27日島の南端のナフタン岬でも残存の日本軍が反撃してアメリカ軍の守備線を突破した。しかし7月4日、ガラバンの町はアメリカ軍によって完全占領された。人口一万を擁した町は全く廃墟と化して僅かに数軒の建物が残っているばかりであった。それはもはや、サイパン島攻略戦が長くは続かないことを示していた。これは日本軍の司令官斉藤義次中将も中部太平洋方面最高司令官南雲忠一中将も覚悟していたとみえて、7月7日払暁を期して日本軍は最後の総突撃を敢行すべき計画を立てた。ところがこの命令書は6日午前3時にアメリカ軍の手に獲得されたので、日本軍の突撃の予定された島の西岸に既に強力な砲兵陣地を張っていたアメリカ軍の砲兵隊は、6日の夜間日本軍の出現すべき地域に一斉掩護砲撃を浴せるぺきであった。しかるに当時の第27師団が日本軍の突撃に対する配備は不十分であったのはいまだに理由が公表されていない。かくて7日の暁闇を衝いて、日本軍は喚声をあげながらアメリカ軍の陣地へ殺到した。その総数は1500人とも3000人とも、また5000人ともいろいろ報告されている。日本兵は小銃や自動火器を携えていたが、後続部隊はただ日本刀や箒の柄にしばりつけた銃剣を持つだけであった。この突撃のためアメリカ軍の最左翼の第105歩兵連隊の陣地は突破されて混乱し、海中の珊瑚礁脈へ泳いて逃げたものもあった。野戦救護所も蹂躙されて多数の負傷兵は殺され、全く1年前アッツ島の日本軍の最後の突撃と似ていた。日本兵は殺したアメリカ兵の武器を拾って突撃を続けた。そして日本軍は1.5キロないし2キロ前進してアメリカ軍の砲兵陣地も危機に瀕したが、ようやく砲兵陣地の砲火を集中して喰い止めたのであった。ウィリアム・L・クルーチ少佐の指揮する砲兵大隊は、前夜運んだばかりの150ミリ曲射砲数門を、日本兵の突進してくる大群目掛けて水平射撃して、たちまちその大半を撃滅した。信管を4/10秒に切ってあったので、砲弾は砲口の僅か45メートル直前で爆発し凄惨な修羅場を呈した。このとき、既に日本軍の突撃は疲労と消耗のために鈍った。そして夜の明けるころに日本軍の戦意は喪失し、これに反して、アメリカ軍の武器と増援が優勢となった。かくて日本軍はたちまち前進した全距離を押し返されて、アメリカ軍は日本兵の死体の散乱した血腥い土地を再び取り戻したのであった。この逆襲が失敗するや、南雲および斉藤両中将は自殺した。ところが斎藤中将は元気が不十分なため、この突撃に参加することができなかったが、しかし自分の手で潔く自殺することさえできたかったので、彼の幕僚の手で殺してもらわねばならなかった。また多数の日本将校はある程度の儀式によって自殺を遂げ、さらに多数の下士官兵は手榴弾を胸や頭に打つけて自決したのであった。しからば問題のサイパン島の在留邦人の悲劇の真相はどうか? 当時日本の新聞、雑誌、ラジオは軍部の命令に踊って悲壮な婦女子の最後を煽情的に報じたが、これについてキャント氏の報告の大様を紹介する。
(一) サイパン島の一般在留民の自殺に関す誇張されたニュース物語がアメリカに盛んに流布されたために、返って日本軍部はこれをもって日本国民の一死報国の精神の証拠として意気揚々と宣伝に努めたのであった。しかしながら一般在留民で自発的に死んだ者は、最初に報道されたよりも遥かに少数である。大体、サイパン島の一般在留民の総数は2万5千人と数えられ、この中の5千人は日本内地より来たものであった。この人達の間に自殺の比率が最も高かった。それでも5千人の中で半数よりもはなはだ多数のものが生き残ったのであった。人口の大部分を占める沖縄人の間にも多数の死者があったし、またチャモロ人、朝鮮人、カナカ人の間にも死んだものがあった。しかしこれらの死者の大部分は日本兵によって殺されたか、あるいはアメリカ軍の戦闘行動の避けがたい結果によるものであった。
(二) 7月9日、日本軍の残存部隊は島の北端のポケット地帯に追い込まれて、ここにサイパン島の日本軍の組織的抵抗は終止したと公表された。しかし残敵掃蕩は引続いて行われ、ある海兵連隊は7月11、12両日に岩窟に立て籠もる日本兵711人を壊滅したと報告された。かくて大規模な掃蕩戦は数週間も続行したが、全島より敗残の日本兵を狩り出すには一年もかかった。
(三) サイパン島攻略戦のアメリカ軍の損害は死者3426名、負傷者13099九名である。これに対して日本軍の死者および捕虜は合計29747名に達した。野戦医療施設の行届いたアメリカ軍では、いかなる戦線でも負傷者は手厚く看護されて安全に後送療養されるので、実際の人員損害は主として死者について、見るべきであらう。しからば激烈なサイパン島でもアメリカ軍の死者約3400名に対して日本軍の死者および捕虜約2万9700名は余りに悲惨な対照ではあるまいか? サイパン島の陥落は7月18日午後5時の大本営発表で次の通り、はじめて公表されたが、それは相変わらず軍部に都合のよいように敗北の真相を隠蔽するため、ことさらに守備部隊の玉砕を神秘化して、日本人の必勝の聖なる夢を繋ぎとめようとする魂胆であった。アメリカ側の正確なサイパン戦果と比較検討すると、アッツ島の玉砕以来、常に軍部が成算なき戦争にいかに日本人の生命を濫費したか慄然たらざるをえない。
「 7月18日午後5時の大本営発表 
(一) サイパン島の我が部隊は7月7日早朝より全力を挙げて最後の攻撃を敢行、所在の敵を蹂躙しその一部はタポーチョ山付近まで突進し勇戦力闘、敵に多大の損害を与え16日までに全員壮烈なる戦死を遂げたものと認める。同島の陸軍部隊指揮官は陸軍中将斉藤義次、海軍部隊指揮官は海軍少将辻村武久にして、同方面の最高指揮官南雲忠一また同島に於て戦死せり。
(二) サイパン島の在留邦人は絡始軍に協力し、およそ戦い得るものは敢然戦闘に参加し概ね将兵と運命を共にするものの如し。 」
戦争は残酷である。しかしサイパン島在留2万の同胞男女の非戦闘員があらゆる辛酸をなめたあげく、アメリカ軍の保護抑留を受けているにもかかわらず、勝手に『敢然戦闘に参加し概ね将兵と運命を共に』させてしまったことは、世界に比類なき日本軍部の狂信的惨酷性を遺憾なく発揮したものであった。敗戦を常に玉砕の美名で偽り『神州護持』とか『悲憤一億』とか口先きだけの空虚なかけ声で国民を叱咤した東条英機大将も、サイパン失陥(しっかん)によって7月18日内閣総辞職して(20日発表)2年9ヶ月にわたる恥多き首相の地位を喪ったことは、いよいよ日本にとって戦局の収拾できない暗湛たる形相を露呈したものであった。東条大将が18日『緊急なる戦局を顧みて』と題する置き土産の首相談の一節に
「 ――正に帝国は考古の重大局面に立つに至ったのである。しかして今こそ敵を撃滅して勝を決するの絶好の機会である。この時に当り皇国護持のため、我々の進むべき道は唯一つである。心中一片の妄想なく眼中一介の死生なく、幾多の戦友ならびに同胞の鮮血によって得たる戦訓を生かし全力を挙げて速やかに敵を撃砕し勝利を獲得するばかりである――  」
とあるのは当時の戦局をかえりみて、日本国民を愚弄したものであった。何故なら東条大将はじめ日本の陸海軍部は誰一人、戦争の前途に対して合理的な成算がなかったからである。そしてサイパン島を基地として、『超空の要塞』B29の日本本土の大爆撃が開始され、全国が惨憺たる焦土と化して、天皇はじめ日本人がすべて敗北を覚悟した。降伏直前においてさえ軍部指導者は『死中に活を求めよ。日本人一千万人を殺すつもりなら必ず勝てる』と狂態を呈したことは、今日より回想しても戦慄と憎悪を禁じえないのである。 
テニアン・グアム両島玉砕

 

サイパン島攻略後、アメリカ軍は息もつかずに直ちに7月21日、グァム島攻略戦を開始し、さらに3日後にはテニアン島の上陸作戦を始めた。とくにテニアン島の比較的平らな地形は、B29の日本本土爆撃用の長さ2550メートルの大滑走路を6本も十分に建設できる戦略的価値があった。テニアン島の日本軍守備隊は9000人と見積もられたが、島の標高は全体としてサイパンおよびグァム両島よりも遥かに低いにもかかわらず、嶮しい断崖で囲まれた台地となっているので、要害堅固であった。精密な空中偵察の結果、テニアン島の北西岸のはなはだ小さい二つの海辺が上陸地点に指定された。その北寄りの浜は幅60メートル、南寄の浜は幅120メートルの狭いものであったが、日本軍の防備の比較的手薄と、サイパン島南岸のアメリカ砲兵陣地の掩護射撃ならびにサイパン島より上陸用舟艇の短距離往復の便宜があった。上陸作戦の総指揮官はハリー・W・ヒル海軍少将で、上陸軍はサイパン島攻略に勇名を馳せた戦歴の第2および第4海兵師団が再び参加し、7月24日午前7時40分上陸攻撃を開始した。クリフトン・B・ケーツ少将指揮の第4海兵師団が先鋒をうけたまわり、最初のマートン・J・パチェルダー大佐指揮の第25海兵連隊とフランリン・A・ハート大佐指揮の第24海兵連隊がLSTおよびLSD等の各種上陸用舟艇をつらねて、大挙二つの狭い上陸地点へ殺到した。いづれもサイパン島より集結出発したもので、太平洋戦線で最初の大規模な海浜から海浜への島伝い作戦と、キャント氏は評している。テニアン島の日本軍は南部方面に陣を固めて防備していたので、アメリカ軍の北岸上陸は全く奇襲的成功を収めた。そしてその夜から日本軍は必死の猛砲撃をはじめ、ことに25日午前2時半、日本軍の指揮官は周囲2250メートルにわたるアメリカ軍の上陸地点に対して強行軍で逆襲を開始した。しかし日本軍は余りに部隊を広く分散したために、どの地点でもアメリカ軍の守備線を突破することができず、夜明ごろには全く失敗して、逆にアメリカ軍が攻勢にでて、たちまち数百人の日本兵を倒した。このアメリカ軍の上陸地点の周辺のみで日本兵の死体が1241も算えられた。25日には後続の第2海兵師団が上陸用舟艇の代りに、堂々と輸送船に乗ってサイパン海峡を隔てて僅か2哩半のサイパン島に最も近いウシ岬の付近で上陸し、島の東岸を急速に南下した。かくて第2および第4両海兵師団は、島の東西両岸に沿って一日2哩ないし3哩の速度で南進し、7月28日にはテニアン島最高のラッソー山(標高170メートル)を第4海兵師団が占領した。島都テニアン町周辺の日本軍の守備陣地も、アメリカ軍の大進撃の前には威力も示さず、7月31日陥落し、8月1日アメリカ軍の2個師団は島の南岸にて連絡した。ところでサイパン島と同様、このテニアン島でも一般在留人の混乱状態を呈した。まず最初に多数の日本人男女が投降した。恐らくテニアン島在留民の最大多数は降伏を希望したことは明らかであった。しかるに日本軍は彼等がアメリカ軍に降伏することを望まなかった。そのため狂気の日本兵が在留民を多数縄で縛り、爆薬または小銃火器で殺した実例がいくつも記録されている――とキャント氏が、同胞殺戮の日本軍の暴状を報じているのは注目される。テニアン島攻略戦のアメリカ軍の人員損害は死者および行方不明314名、負傷者1515名であった。これに対して日本軍の損害は死者6939名、また捕虜ははなはだ多く、守備隊全員の投降もあって合計7500名に及んだのであった。さてグァム島攻略戦は、サイパン島およびテニアン島攻略戦とは別個の作戦計画に基いて、リチャード・L・コノリー海軍少将がターナー中将の代理として総指揮をとり、ローイ・S・ガイガー少将が上陸軍を指揮した。それはアレン・H・タ−ネイジ少将指揮の第3海兵師団とレミュエル・P・シーファード代将指揮の第1特設海兵旅団とアンドリュース・D・ブルース少将指揮の陸軍第77師団(『自由の女神』師団とよばれている)より編成された強力なものであった。ことに特設海兵旅団はマキン、ツラギ、ガダルカナル、ニュージョージア、ブーゲンビルなどの歴戦の豪勇部隊より選抜した猛者ぞろいでアメリカ領土のグァム島奪回の意気に燃え立っていた。まず第5艦隊の猛烈な準備砲撃――とくにその空母群より編成された第58機動部隊が、6月23日より北部マリアナ群島のぺイガン島ならびに火山列島を海空より攻撃し、7月4日には硫黄島ならびに小笠原群島の父島および母島襲してグァム島孤立化の作戦が進められた。かくて7月5日よりグァム島に対する上陸準備のため猛烈な艦砲射撃と爆撃が開始され、大飛行揚はじめ日本軍の防備陣地を徹底的に破壊した。すなわち、上陸開始のDデーと決められた7月21日朝までに、1万トン以上の砲弾がアメリカ戦艦群の巨砲よりグァム島にそそぎこまれた。長さ30哩、幅8哩のこの島はそれまでに攻略した他の中部太平洋の諸島より遥かに大きいため、アメリカ軍の攻撃準備も大規模に企てられた。日本軍はアメリカの上陸地点を中央西岸のポート・アープラと予想したとみえて、同方面に沿岸防備の大砲陣地を集中していたが、アメリカ軍司令部はこの予想を裏切り、ポート・アープラの北方ならぴに南方のはなれた二つの浜辺を上陸地点に選定した。そして21日午前8時30分を期して第3海兵師団は北方の、島都アガーニャ付近のアデラップ岬より900メートル南方に延ぴたアッサン岬の海辺に突撃し、また特設第1海兵旅団および陸軍第77師団は、南方のアガート部落より3千メートルのバンギー岬に至る海辺に殺到したのであった。しかし日本軍の防備陣地は既にサイパン島の場合と同様に、アメリカ軍の海空よりの猛砲爆撃よって無力化していたので、アメリカ軍の一斉上陸を阻止することはできなかった。そして南北両地点にアメリカ軍は予定時間(H時間と呼ぶ)の数分以内に首尾よく上陸したのであった。もちろん、日本軍の多数の臼砲は、アメリカ軍の上陸用舟艇ならびに上陸地点に砲火を浴びせたが、アメリカ軍は続々殺到して海頭堡を確保した。ただし地勢は日本軍に有利で、高い崖の上より海岸沿いの狭い道に集結するアメリカ軍へ盛んに砲火を浴せていたが、E・R・スモーク中佐指揮の第21海兵連隊の第2大隊は、勇敢に海岸より半哩奥の断崖とその後方の150メートルの嶺を上陸第1日の午後には早くも占領して戦果を拡大した。もっともこの第一夜から日本軍は逆襲に転じて、5日間にわたるこの嶺の争奪戦闘が展開した。日本軍は22〜23両日の夜にわたり臼砲および野砲の掩護射撃の下に死物狂いの夜襲とバンザイ突撃をくり返した上、25日夜には大挙してアメリカ軍の守備線を突破し人員に大損害を与えた。たとえぱ同夜10時、日本軍の主力はM・C・ウィリアム中佐指揮の第1海兵大隊の正面に『バンザイ』と叫びつつ殺到して混乱状態に陥れ、同大隊は戦線に僅か250人を残すのみとなった。しかし夜の明けるころ、アメリカ軍は再び陣地を回復した。そして戦線には日本軍の第18歩兵連隊の将兵の死体が500ないし700も遺棄されていた。この激戦の行われた150メートルの高地を『バンザイ嶺』と命名された。その後、戦局はアメリカ軍の有利に好転して、とくに左翼の第3海兵師団のフォンテ地方の高地を占領して日本軍の脅威を除去し、また特設海兵旅団はオロテ半島の基部を切断して日本軍陣地を孤立させ、アメリカ軍の前進を早めた。南方の要衝たるアリファン山の争奪戦も激烈を極めて日米両軍の戦車が接戦を演じたが、遂に2年半ぶりで山頂に星条旗が翻った。そして7月31日島都アガーニャがアメリカ軍に占領されたが、しかしかって絵のように美しい人口1万2千の南海の町は全く瓦礫と焼木の塊と化してしまった。日本軍は島の南半を放棄して、島の1/3にあたる北部に立て籠もり抵抗を続けた。しかし日本軍の退却により収容中の3千人のチャモロ人が解放された。8月3日より北部のサンタ・クローザ山地区に追いつめられた日本軍に対して、アメリカ軍の総攻撃が開始され同月10日に日本軍の組織的抵抗は終止と公表された。かくてグァム島攻略戦は終ったが、日本軍の死者は10971名で捕虜は86名であった。これは最初グァム島の日本軍守備隊の兵力2万と見積られたのが、過大評価のようにおもえるが、その後グァム北部の山岳地帯の残敵掃討は12ヶ月間も続行された。そしてその後11月中旬までは日本軍の死者は17283名に増大し、また捕虜も463名に増加したことは注目される。グァム島では、日本軍による強制による一般在留民の『集団自殺』はなかった。ただ日本軍の占領中に虐待された原住民のチャロモ人は、アメリカ市民権はないが立派なアメリカ国民としてアメリカ軍の手によって自由に解放され、変らざるの忠誠を示したのであった。かくて日本本土の直接攻撃の大基地としてマリアナ諸島の要衝サイパン、テニアン、グァム3島はアメリカ軍の手に帰して急速に多数の飛行場や大軍港や大軍需品貯蔵所その他厖大なる軍事施設が整えられた。また日本本土に至る内南洋の各島嶼チェーンは全くアメリカ海空軍の強大なる砲爆撃によって無カ化され、ここにソロモン諸島より東京までの道は自由に開かれたのであった。それはキャント氏の表現をかりれば、アメリカの『太平洋の大勝利』の道であり、日本にとっては降伏への道であった。 
降伏への道・硫黄島玉砕

 

太平洋戦争はついに最終段階に入り、アメリカの戦闘力は量的にも質的にも加速度的に増大しつつあったのに反し、日本の戦闘カはただ『本土要塞』に400万の陸軍を勢揃いさせて、量的には一応虚勢を張りながら、質的には全く加速度的に転落するばかりであった。ことにアメリカ軍がマリアナ諸島を占領するや、たちまちサイパン、テニアン、グァム3島を厖大なる攻撃基地と化して、巨大な東京爆撃用の『超空の要塞』B29を千機以上も連続使用できる大飛行場を僅かの短時日でスピード建設し、また従来は数隻の貨物船しか碇泊できなかったグァム島の貧弱な港ポート・アープラをアメリカ海軍は議会の協賛もえないで戦時緊急令に基いてバール・ハーバーに匹敵する大軍港化の工事を瞬く間に実現するなど、たくましい軍事的潜在力を縦横自在に発揮したのは驚くベきものであった。それは『太平洋の大勝利』の著者ギルバート・キャント氏のいわゆる世界一の強カなる『海空陸軍の複合的戦闘力』とあいまって、狭小なる本土要塞に旧式の武器と貧弱なる防備によって立て龍る日本軍を、一挙にテクニカル・ノックアクトするのに絶対的の威力を示して余りあるものであった。一方、日本軍部は必敗の死相に取付かれながらも、口先では必勝の信念を説いて空虚な『バンザイ精神』と無力な『竹槍訓練』に七千万国民を駆立てて、唯いたずらに降伏への道を悲惨に血腥く染めたのは、実に世界戦争史上千載に醜怪な汚名を残したというぺきであろう。南マリアナ諸島攻略こそ日本本土要塞に対する総突撃のため、中部太平洋戦線における最後のステップであって、いまやアメリカ大攻撃基地と日本本土の心臓部である東京との間には僅かに火山、小笠原、伊豆の3諸島が点在するのみであった。もはやサイパン、テニアン、グァム3島の占領によって、アメリカ軍は日本の死命を完全に制したも同然であったが、しかしニミッツ総司令官は、アメリカ軍の東京攻撃をより堅実にするために、この中間の片々たる一島嶼の攻略を企てた。それが硫黄島であった。そして太平洋戦争の終幕を飾るにさわしく、それは最後の大激戦であって、キャント氏も「地獄の土地』と名付けているように、アメリカ軍にとってIWOJIMAの名前は忘れられないものになった。
1944年11月末に、南マリアナ諸島の陸軍航空基地は完成してB29の東京地区爆撃が可能となった。しかし南マリアナ諸島より東京まで直線往復3千哩の渡洋爆撃は、実際飛行には4千哩近くの航程となるため、爆撃積載量を10トンより3トンに減少し、かつまた敢闘機の掩護を受けられないために、7千メートルないし9千メートルの越高度飛行をしなければならず、そのためにガソリン消費量が過大になった。従って日本本土の大爆撃を効果的に実施するため、ワシントンの連合国統合参謀本部は12月、にわかにニミッツ総司令部に対して硫黄島の攻略を命令したのであった。硫黄島の攻略命令は余りに遅すぎたので、これを遂行するには、アメリカ軍は恐るべき犠牲をはじめから覚悟せねばならなかった。硫黄島は1891年以来日本に占領され、少くとも1937年より要塞工事が行われてきたが、しかし1944年6月サイバン政略戦当時には、まだ、難攻不落の要塞には遥かに遠いものであった。もしグァム島占領直後に急速に硫黄島の攻略戦を行ったならば、それは1945年2月に遂行したよりも遥かに少い犠牲で成功したであろう。しかし連合国統合参謀本部の硫黄島作戦決定の遅延を責めてもしかたがない。何故ならぱ――たとえ同作戦決定が早期に行われたとしても、当時アメリカ太平洋艦隊の主力と新鋭の陸軍兵力は全部フィリッピン作戦に従事していたので、硫黄島の攻略戦は待たねぱならなかった――とキャント氏もアメリカ軍の作戦の真相を記している。一方、日本軍はこの期間を利用して硫黄島の泥縄的の防備に狂奔し、1944年6月アメリカ軍のサイパン島侵攻の直後に小笠原、火山諸島方面指揮官として『老練にして深謀ある』栗林唯道中将を任命して同島に送った。キャント氏もまた栗林中将を『要塞構築の天才で、島の地形を一目見ただけで防備の大要を会得した』と讃めているのは珍しい。要するに切迫するアメリカ軍の攻防の中で、同中将が少しも狼狽せず、長さ8キロ幅4.8キロ(最も広い部分)で面積僅か8平方マイルの太平洋上のチリのような小島を、全力を尽して周密に要塞化した戦術的力量は、アメリカ軍も敵ながらあっぱれと折紙を付けたのであった。しかしいかに栗林中将が秘策と妙智をこらしても、圧倒的なアメリカ軍の侵攻の前には、ただ玉砕する他に道はなかった。ただアメリカ軍の上陸開始後何日間陣地を持ちこたえて、かつまたどれほどの損害をアメリカ軍に与えるかが問題であった。アメリカ軍は1945年2月19日を硫黄島攻略戦のDデー(上陸作戦開始日)と決めた。そして2月中旬までに陸軍第7および第20航空隊は総動員で同島を連爆撃して5800トンの爆弾を投下し、またアメリカ艦隊は数千発の砲弾を射込んでいた。かくていよいよ上陸作戦の日が迫るや、2月16日には第5艦隊の一部よりなる掩護艦隊(主力はスプルーアンス司令長官指揮の下に第58機動部隊とともに、日本本土沿岸攻撃に出動中であった)としてW・H・ブランディ少将指揮の旧式戦艦『アイダホ』『テネシー』『ネバダ』『テキサス』『ニューヨーク』『アルカンソー』6隻が硫黄島をぐるりと取巻いて巨砲を射ちまくった。そして多数の空母と巡洋艦まで参加して、19日の上陸開始の朝までに海空より硫黄島に徹底的な砲爆撃を加えたので、アメリカの海兵隊勇士も『もはや島には日本兵が一人も生き残っているとは見えない』と思ったくらいであった。かくてアメリカ水陸両用作戦の最大構成といわれるリッチモンド・ターナー中将総指揮の下に、800隻の船舶を連ねて硫黄島の上陸作戦が行われた。上陸軍の総指揮官はホーランド・スミス中将があたり、第4および第5海兵師団が主力となって、第3海兵師団が補充に当てられた。硫黄島の激戦については、ターナー中将も『硫黄島こそ世界中で最も厳重に要塞化され、かつ最も巧妙に防備された島である』と驚嘆したように、日本軍の火砲力がアメリカ軍司令部の最初の予測を遥かに裏切った。とくに蜘蛛の巣のように張り巡らされた地下陣地の火砲のために悩まされたスミス中将は『わが部隊は地獄の土地の上に一面に広まって、隠れた日本兵の火砲を追い回わしている』と息巻いた。最初は5日間で占領する予定であったアメリカ軍司令部の作戦計画は狂った。そして上陸第1日の夕方までに死者及び行方不明者が続出し、後送された負傷者は1700人に達した。それでもアメリカ軍は強引に第1日の日没までに4万人の兵力を島の南岸の3.2キロにわたるフタツネ海浜の4地区(緑の浜、赤い浜、黄色い浜、青い浜と称す)に上陸させて『地獄の土地』を前進した。昼夜わかたぬ死闘が続き、上陸3日間でアメリカ軍の死傷者は5400名に及んだ。ことに第1および第2両飛行場の争奪戦と摺鉢山の激戦は壮烈で、数10台のアメリカ軍の戦車が日本軍の地雷に爆破され、また日本軍の地下陣地のロケット砲でアメリカ軍は散々に苦戦した。かくて猛烈な砲爆撃に耐えた地下の日本軍を殲滅するために、アメリカ軍は最新式の火焔放射器とバズーカ砲(強力なロケット砲の一種)を大量に使用して、『地獄の土地』を1インチづつ奪取したのであった。また3月6日には、上陸以来最大の集中砲撃を行い、4万5千発の砲弾が射込まれたが、それでもアメリカ軍は僅か100メートル前進したのみであった。かくて悪戦苦闘のあげく、アメリカ軍が上陸してから25日後に硫黄島の占領が公表されたのであった。しかし地下の鼠の 穴に潜んだ日本兵の掃蕩は、その後数週間も続行された。 キャント氏の記録を参考にして硫黄島攻略戦の損害を紹介すると次の通りである。
(一) 2月21日硫黄島海岸沖で護送船用空母『ビスマーク・シー』が、日本機に撃沈され死傷者300人を出した。
(二) 2万人の日本軍守備隊に対してあらゆる種類の砲弾4万トン消耗した。これは日本兵1人について2トンの爆薬を消耗した割合となる。
(三) アメリカ軍の死者および行方不明4630名、負傷者19983名に達した。もっともこれに対して、日本軍は栗林中将以下2万人が全滅したのである。このアメリカ軍の莫大な人的損害(それでも死者は日本軍の1/4以下である)については、当時アメリカ国内でも『かかる莫大な犠牲を払って硫黄島を攻略する必要があったか?他により安易な攻略方法はなかったか』とやかましい問題となったが、硫黄島攻略の軍事的必要性は、
(一) 日本軍のレーダーおよび飛行場の除去
(二) アメリカ軍のレーダーおよび日本本土攻撃用の前進航空基地の設定
であり、この重要地点を攻略するために損害の少ない方法とは、毒ガスの使用以外は誰も考えることが出来なかった。そして例え毒ガスを使用したとしても、地下の日本軍のかくれた無数の洞窟を探し当てて、その中に的確に毒独ガス弾を射ち込むことははなはだ困難であり、却って多数の毒ガス弾の当りそこなった爆発のため、戦場一帯の窪地に猛烈な毒ガスが充満して、アメリカ軍の行動を阻害し、かつ数万のアメリカ兵は防毒マスクと防毒用衣の重荷のために、戦闘に最大の支障をきたしたであろう。しかも、もしアメリカ軍がたとえ軍事上の利益のためとはいえ、毒ガスを使用したならば、日本軍は連合国側の捕虜ならびに拘留民間人に対して、より恐るべき報復手段をとったであろうのみならず、アメリカ国内ならびに連合国側の強烈な道徳的非難を巻き起したであろう――とキャント氏もこれを指摘して、素人の軽率なる安易な戦術論を戒めているのは、特に注目に値するであろう。「またアメリカ人にとって栗林中将(誰も知らない洞窟の中で死んだ)こそ、永久に有害なる天才として忘れられない。しかし彼の天才の事実は見落としてはならない。他のいかなる要因にも増して、丘の黒い火山灰の上に、そしてフタツネ浜の北東端を見下す崖の上に悲惨な純白の行列を造っているアメリカ海兵隊の墓地を充満させたものであった。」と、この攻略戦を顧みているのは印象深い。いずれにしてもアメリカ軍が硫黄島で払った代価は決して安くはなかったが、しかし硫黄島の占領によって、日本本土に対するB29の大編隊による戦略的爆撃が本格化されて、日本の降伏への道をはなはだ短縮した価値は大きいものがあった。 
日本の敗北・沖縄陥落

 

硫黄島の占領以後、沖縄島の攻略戦より日本本土への総攻撃へと、急速調で展開するアメリカ海空陸軍の複合的戦闘力の圧倒的な威容は、いかにも世界戦史に比類なき太平洋戦争のフイナーレに相応しく、まことに劇的なものであるが、しかしここに紹介するのは敗戦の跡は7千万の日本人にとって余りも傷ましく、かつ生々しいものであるから、私は唯その中より、日本人の立揚より注目すべきことの未知の諸事実を、次に列挙して参考に供するに留めたいと思う。
(一) 沖縄島ならびにその防備の日本軍の状況などに関して、攻略戦実施前まで連合国情報は情けないほど、不十分かつ不正確であったと、キャント氏は指摘している。たとえば43万5千人の住民の生態は動物より幾分ましに描かれているに過ぎず、また全島に毒蛇がはびこり、日本軍の防備は東岸および南岸に固められ、守備隊の兵が5万ない7万5千という情報であった。また島内の飛行場の数させも明確ではなかった。この情報の欠乏は日本のような警察国家(ポリス・ステート)との戦争に避けられない弱点であって、日本がいかに厳重に沖縄島のような海外領土を外国人に門戸閉鎖していたかの証拠である。
(二) 沖縄島を孤立させるため、アメリカ空軍は四つの指揮系統の空軍を総出動させた。第一は第58機動部隊の空母群の海軍攻撃機、第二はマリアナ基地の陸軍第20航空隊のB29、第三はルソン島基地の陸軍第5航空隊の爆撃機、第四は中国の多数の分散基地ののクレーア・L・シェンノート少将指揮の陸軍第14航空隊の爆撃機である。硫黄島を基地とする第7戦闘機隊司令部は、1945年4月中旬まで本州に対する長距離戦闘機攻撃の準備ができなかったので、これらの爆撃出動には第5艦隊の空母集団に属する戦闘機計1200機がつねに参加したのであった。
(三) 沖縄島攻略戦にはスプルーアンス中将指揮の第5艦隊のものに、英国艦隊の第57機動部隊が参加して一層強化された。それは戦檻『ギングジョージ5世』および27万5千トン級空母『インデファティガブル』『インドミタブル』『ビクトリアス』『イラストリアス』4隻より構成された強力なものであった。
(四) 沖縄島上陸作戦の指揮は再びリッチモンド・ケリー・ターナー海軍少将が当り、まず西方の慶良間(けらま)列島攻撃が企てられた。これは沖縄島攻略を容易にする一方、飛行艇および水上機基地として東シナ海より朝鮮海峡にいたる偵察を万全にする目的であった。慶良間列島の上陸作戦には、日本軍の兵力不明のため、アンドリュー・D・ブルース少将指揮の第77師団(自由の女神師団)の全力を使用し、3月26日朝まず阿加島に上陸し、次いで急速に慶良間島、座間味島、渡嘉敷島ほか敷島を占領した。しかしこれらの島の日本軍守備隊は、朝鮮人部隊を含めて総数僅か800名にすぎず、その抵抗は問題にならなかった。 従ってニミッツ総司令官の『――列島は占領されたり』という言葉は誤った印象を与えやすかった。しかしアメリカ人は楽々と慶良間島に上陸したものの、はじめて琉球諸島の住民に接して、彼らの先入観の間違いを痛感した。それは琉球人は身体は小さいが、日本人よりむしろ中国人に近似しており、また日本の排外宣伝を盲信して『白色の野蛮人』のアメリカ兵を怖れて200人も自殺した。いずれも子供たちを殺してから両親が自殺し、渡嘉敷島のみでも150人の自殺者を数えた。
(五) 自殺好きの日本軍は、フイリッピン戦でリンガエン湾に使用して失敗したにもかかわらず、沖縄島戦で再び爆薬装置の体当り用特攻艇を大規模に使用して、アメリカ軍艦艇を奇襲する計画を立てたが、実行する機会は殆どなかった。そして慶良間列島の小さな島々の洞窟には、爆薬を満載した小型のモーターボートが300隻も隠されていたのを発見し、拿捕された。
(六) 連合国側は既にシシリー島およびノルマンディ海岸で、2回の大規模な上陸侵攻作戦を実施していたが、しかし沖縄島進攻上陸作戦の計画は、戦史上より最大の困難かつ複雑なものであった。それは作戦基地より上陸地点に至るまでの前例なき遠隔の距離であった。何故ならば、補給は距離に正比例するのではなく、距離が2倍になれば補給は5、6倍に増大するからである。
(七) 沖縄島上陸軍は新編成の第10軍で、シモン・ボリバー・バックナー中将が指揮に当った。それはローイ・S・ガイガー少将指揮の第3海兵上陸軍(第1、第2、第6海兵師団より構成)とジョン・R・ホッジ少将指揮の陸軍第24上陸軍(第7、第27、第77、第96師団より構成)よりなり、このほかに陸軍第81師団が補充として総兵力8ヶ師団におよび、1400隻の艦船舶が使用された。
(八) 沖縄島攻略戦のDデー(上陸開始日)は1945年4月1日と決定されたが、アメリカ軍の間ではLデーまたはLOVEデーと呼ばれた。これは当時、硫黄島上陸作戦のDデーと同時に二つの作戦が計画されていたので、混同を避けるためであった。
(九) 沖縄島の日本軍司令官は、アメリカ軍の侵攻のまえに、島の北方の2/3(3500人の日本軍が抵抗したのを除いて)と南方中央地区とを全く放棄して、全兵力の97%を南部の半島の那覇、首里、中城の線に集結した。この兵力移動はDデーの1週間前に行われ、16歳より60歳までの一般住民男子をすべて使役して、大砲、弾薬、貯蔵品まで運搬させた。従って4月1日朝アメリカ軍が沖縄島西岸の残波(ざんば)岬の南方3マイルの海浜に上陸した時には、日本軍の歩哨の姿さえ海浜には見られず、高さ3メートルより4.5メートルの暗礁を乗り越えて渡礁したアメリカ兵は、全く狐につままれた感があった。何故ならば、もし日本軍がこの絶好の地形を利用して自動火器、地雷、臼砲などで応戦したなら、アメリカ軍に甚大な損害を与えたからである。上陸第1日にアメリカ海兵隊の死者は事故と病気で僅か2名にすぎず、また6時間も前進して発見した日本兵の死体はたった14人であった。
(十) 日本軍の作戦はアメリカ軍の主力を奥地に引入れ、その補給のために集結している厖大なアメリカ艦船を、好機をつかんで一挙に撃滅しようと狙っていたが、それはレイテ湾の惨敗で試験済みの戦略の反復にすぎなかった。ただしレイテ湾の惨敗で艦隊力を喪失した日本軍は、こんどは唯一の武器として航空力――とくにカミカゼ(神風)特攻隊をたよるばかりであった。上陸後の最初の5日間に日本機は少数でたびたび来襲したが、合計65機が撃墜された。4月6日正午すぎ、日本軍の500機の大編隊が来襲したが、その大部分は沖縄島東北部で第58機動部隊の快速の攻撃機のため邀撃(ようげき)されて245機機が撃墜され、かろうじてアメリカ艦船の上空に到達した200機ぱかりも空母戦闘機のため55機以上を撃墜され、また高射砲火にて61機を撃墜された。かくて日本機で基地に生還したものは全体の約20%で100機内外にすぎなかった。しかし目標点に達した日本機は、数字的には少数であっても軍事的には無意味ではなかった。神風機の攻撃でアメリカ艦隊は1隻また1隻と命中損害を蒙り、第5艦隊は酷しい試練をなめた。翌7日は日本の182機が来襲したが、その55機は空母戦闘機で撃墜され、35機は高射砲で撃墜された。しかし体当り攻撃の成功率ははなはだ少なく、あるアメリカ海軍士官は『もう数日間このような日が続いたなら、日本空軍にはもはや1機も残らないであろう』と快哉を叫んだくらいだった。
(十一) 沖縄島攻略戦には最初60日説が行われ、ついで3ヶ月説が行われた。日本軍の主要陣地の攻防戦は一時膠着状態を呈したが、アメリカ軍司令官バックナー中将は上陸後30日に全戦線を視察の上、戦況が計画通り進捗中であることを確認して『アメリカ兵の生命は進撃を焦って犠牲に供するには、余りに貴重である』と声明したのは注目される。
(十二) 5月3日深夜、600人の日本軍決死隊が上陸用舟艇で、アメリカ軍前線の背後に逆上陸し、他の方面にも大逆襲を企てたが、3000人の死体を残して失敗した。
(十三) 沖縄島戦に日本軍は神風機、体当り魚雷艇、親子飛行機、飛行爆弾などの新兵器を繰出したが、科学力の発達したアメリカ軍専門家の目より見ると、体当りの魚雷艇は単なる『自殺ボート』(suicide boat)にすぎず、また『眼のあるV一号』と日本で宣伝された『搭乗員を有するロッケト弾』神雷特攻隊も、アメリカ軍の間では『馬鹿爆弾』(baka bomb)と呼ばれて馬鹿にされていた。
(十四) 6月10日、アメリカ軍は日本軍の死守する最後の陣地に対して全線にわたり総攻撃を開始したが、バックナー司令官は日本軍司令官牛島満中将に『名誉ある降伏』を勧告した。牛島中将はこれを無視したが少数の下士官兵が投降した。しかし6月18日バックナー司令官は前線司令部におもむき総攻撃視察中、日本軍の砲弾が炸裂して戦死した。これは南北戦争以来、戦場で総司令官が指揮中に戦死した最初の例であった。後任はガイガー少将が中将に昇進して、第10軍の司令官代理に任命された。
(十五) 6月21日午後1時、沖縄島の日本軍の組織的抵抗は終止したと公表された。攻略戦に要した日数は、最初のアメリカ軍司令部の70日計画に対して、実際には82日であった。アメリカ軍の損害は死者6900名、負傷者29598名に達し、太平洋戦争の全戦闘を通じて最大の死傷者数であった。アメリカ艦隊は掩護砲撃のため3万5千トンの大型砲弾(口径5インチ以上)を費やし、またダーギン少将指揮の護送用空母集団のみで、延3万5千回以上出撃した。上陸軍の各種火砲は6万6千トンの弾丸を撃ち尽くした。
(十六) 確かに沖縄島攻略戦はアメリカ陸軍に対して、最大の損害と消耗を与えたのみならず、アメリカ海軍の蒙った損害も甚大であった。(ガダルカナル島攻略戦がこれに次ぐものであろう。) すなわち駆逐艦をふくむ艦船35隻が沈没し、299隻が損傷した。第5艦隊の人員被害は、3月18日東京攻撃より6月20日までに、死者および行方不明者4907名、負傷者4824名に達した。かくて中部琉球諸島攻略戦に要した陸軍、海兵隊、海軍の死傷者(行方不明を含む)総計は46319名に及んでいる。
(十七) これに対して日本軍は沖縄島で117000名の死者および捕虜を出した。これはアメリカ軍の損害(負傷者を含む)46319名に対して5対2の比率である。もし死者のみで比較すればこの比率は遥かにアメリカ軍に有利となるであろう。要するに、11万7千と4万6千という日米両軍の数学よりみれば、日本本土決戦の最後の牙城である沖縄島戦も、また日本軍のテクニカル・ノックアウトであった。
硫黄島と沖縄島の陥落によって、日本の敗北はもはや時期の問題となり、軍部の威圧にもかかわらず天皇以下日本の政府、重臣、官僚も愕然として降状への道を急いだのである。アメリカ空軍の日本本土の絨毯爆撃、アメリカ艦隊の本州沿岸砲撃、原子爆弾、ソ連参戦――と日本降伏前後の状況については、ここにアメリカ記者キャント氏の説明を借りなくとも、7千万の日本人の今なお記憶するところであろう。そして8月14日、日本政府は連合国の要求するポツダム宣言を受諾して無条件降伏し、翌15日正午、天皇は日本国民に降伏をラジオで告げたのであった。1945年9月2日の東京湾頭アメリカ第3艦隊旗艦『ミズーリ』号上にて歴史的な日本降伏の調印が行わわれた。それは唯単に一つの戦争を終結したものではなくて、実に人類の闘争における一つの世紀を終えたものであった。私はここに筆を置くに当り忘れ難いのは、私が1941年12月7日(アメリカ時間)日米開戦の歴史的な日に、遥かアメリカ首都ワシントンにあって、日本軍のパール・ハーパー奇襲攻撃のニュースをNBCのラジオ放送で聞いた衝動である。そして数日後にデラウェア河畔のフィラデルフィア抑留所に収容中に『ニューヨーク・タイムス』紙上の広告面に大きく掲載された次の言葉を、今なお私は心痛くも忘れられないのである。
「 山本提督はワシントンで城下の盟いをして、ポートマック沖で日本艦隊の観艦式を行うと豪語している。それならば、我々は東京で城下の誓いをして、東京湾頭でアメリカ艦隊の観艦式を行うであろう! 」 
 
太平洋戦争――誰が悪かったのか

 

 
T 太平洋戦争の評価と反省

 

1 国民は一体なにを学んだか
我々日本人同胞三百二十万人の尊い生命を奪い、さらに数千万の老若男女大衆に、耐えがたいような犠牲と、苦痛と破壊をあたえた太平洋戦争が終ってから、多くの歳月が流れた。そして、敗戦のいまわしい洗礼をうけて、廃墟と混乱のドン底から、ようやく再生した民主日本と、危うくも生き残った国民大衆は、あらゆる困難と辛苦をたくましく突破して、めざましい復興と繁栄を取戻して、今日を迎えたのであった。
(注、この戦没者三百十万という数字は、昭和四十年八万十五日の終戦記念日の追悼式に政府が発表した数字であり、その内訳は昭和十二年七月七日の盧溝橋事件〈日中戦争〉から太平洋戦争の敗戦まで、八年余にわたる大戦災による戦死、戦病死した軍人、軍属、準軍属二百三十万人と、外地で死亡した民間人三十万人と、内地の戦災死亡者五十万人を合計したものである。しかし、軍人、軍属の戦没者にたいして、恩給や叙勲の特典が復活実施されているのに反して、民間人の犠牲者と遺族が無視されている現状は、平和日本の建前から不合理ではないだろうか?)
これはまことに、現代総力戦時代の敗戦国としては、じつに、まれにみる幸運な国家再建であり、確かに欧米のマスコミが賞めてくれたように『奇蹟の復興』である。そのかわり現在、我々一億の日本人の大半は、おそらく太平洋戦争の血みどろな悲痛も、おそろしい悪夢も、すでに忘れてしまって、ただ目前の商売繁盛と、身辺の幸福を願いもとめているだけではなかろうか? とくに、戦後に生まれ育ったような若い世代の人々は、太平洋戦争の敗戦のおかげで、『進駐軍』という名の外国占領軍隊の下であたえられた『平和』と『自由』を、腹いっぱいにむさぼり食って、ぬくぬくと気楽に成長したので、まったく戦争の教訓も、敗戦の実感も学ばない、享楽的なレジャー族と化したのではなかろうか? それはムリもない。彼らは、日本国民の義務教育とされている小学校でも、中学校でも、けっして、太平洋戦争について、正確な知識も、公正な理解もあたえられていなかったからだ。そして、今日でさえも、日本の大新聞は、文部省の反動的な教科書検定方針をめぐり、太平洋戦争の史実と認識についての激しい論争を報道しつづけているのである。これは、奇怪千万なことではないか! なるほど、我々日本人にとって太平洋戦争は、途方もない無謀な『負け戦さ』であり、それは国家としても、国民としても、また、天皇一家としても、けっして内外に向けて自慢になることではない。しかし、絶対天皇制の下で軍国日本が、まるで『清水の舞台より飛び降りる』(東条大将の有名な言葉)ような大決断で、大戦争へ突入した事実は、すでに現代世界史上に、永久に刻みこまれているので、たとえ、戦後日本の文部省がいくら国家的体面上、体裁が悪いからといって、『真珠湾攻撃から東京湾頭の降伏調印まで』の、厳然たる三年八ヵ月間の史実を勝手に歪(ゆが)めたり、都合よくゴマ化したりすることは許されない。太平洋戦争の真相を知らないのは日本人ばかりなり――ということであってはならないのだ。なぜ、文部省は、いわゆる官製、検定の現在の小、中学校用歴史教科書に、太平洋戦争の開戦から敗戦までの、正しい史実と意義を、正々堂々と記述させて、戦争をまったく知らない若い世代に、この貴重な『民族の遺産』を、素直に理解させることをおそれたり、妨げたりしているのであろうか? おそらく、これらの文部官僚と、一部の、いわゆる御用歴史学者の胆(はら)の中では、戦前、戦中と相通ずる、『絶対天皇制護持』の封建的な偏見と、独善的な超国家主義(ウルトラ・ナショナリズム)にもとづく『皇国史観』を、いまだ強く温存して、日教組を中心にした左翼的、革新的勢力に、あくまで対抗しようと努力しているのであろう。私は、自由、公正な戦史家として、太平洋戦争を第二次世界大戦の視野から調査、研究しているが.このような文部官僚と日教組の対立、抗争のために、太平洋戦争の真実を、それぞれの政治的立場を守るために、勝手に歪曲したり、変造したりして、日本の次代をになうべき若い青少年大衆にたいし、誤った戦争認識をあたえたり、あるいは敗戦無視を教えたりすることには大いに反対する。なぜなら、そのような姑息(こそく)な、近視眼的な太平洋戦争観こそ、かえってこの戦争の貴重な教訓を忘れて、平和な民主日本を、再びつぎの戦争へ、知らず知らずのうちに巻きこみ、引きずりこむ危険がきわめて大きいからである。英国の世界的軍事評論家リデル・パートがつねに強調しているように、『平和を欲するならば、戦争を理解することである』という警句は、けっして欧米諸国にかぎらず、日本の場合にも、ピタリと当てはまるだろう。すなわち、私たち日本人が、我々の子孫代々のために、あらゆる努力を惜しまず、平和を守りぬく覚悟であるならば、まず、なによりも、太平洋戦争の、もろもろの苦い教訓を正確に知り、戦争の起因と責任までも、厳正に理解することが必要である。
では一体、太平洋戦争の貴重な教訓とはなんであろうか? それはまず第一に、太平洋戦争の起因を、正しく突きとめて反省することである。もちろん、その起因は、直接の近因から間接の遠因まで、複雑な要因をふくんでいるのは、当然である。しかも太平洋戦争のような、世界的規模の現代総力戦では、日本の立場が、敵国の米国、英国、オランダと真っ向から対立し、たがいに敵視し、憎悪しあったことは当然である。だからといって、日本の開戦理由がすべて正当であるという独善的な考え方は、結果論として、戦勝国なる連合国側の『大義名分』が百パーセント正しかった、と現在もなお認めるのと同様に、反省不足であり、時代錯誤であろう。
すなわち、太平洋戦争は、軍国日本の超国家主義者一派が主張したような、神がかりの『八紘一宇のための聖戦』(皇道日本を全世界に宣布するための正義破邪の戦い)ではなかった代わりに、また米英側で声明したような『世界を征服しようと努めている、野蛮で野獣(やじゅう)的な軍隊に対する共同闘争』(一九四二年一月一日、連合国共同宣言)でもなかった。これを言いかえると、古今東西を通じて、戦争は人間の狂気がもたらす、国家間の大量殺戮である点には変わりがないが、たがいに敵国の侵略性と残酷性を憎みながら、みずから『侵略』と『残酷』を犯して平然たるのが通例である。もちろん、勝者は有利であり、敗者は不利ではあるが、後世の史家の判断は、正しく評価するものだ。結局、公正に史実を検討して、太平洋戦争は、中国にたいしては、確かに『侵略戦争』であったが、いわゆる、米英蘭三国にたいしては、『自存自衛のための先制攻撃による予防戦争(大本営発表)』であったと、強調できないこともないだろう。だが、いずれにせよ、日本は真珠湾奇襲による開戦の責任を負うことは明白である――というのが私の見解である。戦争の起因、目的と、戦争の決断および遂行とを混同してはならない。 
2 太平洋戦争への大きな疑問

 

戦後、わが国で発表、または刊行された太平洋戦争にかんする戦史、戦記、評論、読物類は、新聞、雑誌、単行本を通じて、じっに数万点以上にたっしていると思われるが、それを大別すると、つぎの三つにわけられる。
「 (一) 軍国日本の『侵略戦争』と、はっきり認めるもの。(これは、米英ソ、中国はじめ連合国側の第二次大戦史観にもとづいたものであり、したがって、敗戦後の連合軍占頷下に、日本で発表された、太平洋戦争の記事、刊行物の主流をなすものである。 しかし、日本の独立後から今日まで、軍国日本の破滅と、絶対天皇制の終止を歓迎する革新的、民主主義的立場から、太平洋戦争の侵略性を認めて反省する向きが多い)
(二) 国際情勢の変転と日米関係の変化(軍事、政治、経済上の緊密な協力関係)によって、近年は太平洋戦争の解釈もおのずから一変し、戦前、戦中と同じような『皇国史観』を復活して、程度の差こそあれ、日本の正当性と戦没勇士の栄光化を認めるもの。(これは、日米安保体制の維持、強化を熱望する日本の保守政治勢力と、米国政府筋の見えない圧力から、この数年来、とくに太平洋戦争の正邪を、真剣に論議することを避けて、たがいに、『日米双方の誤解にもとづく不幸な過去の出来ごとであった』というふうに軽く受けながし、公正な戦史の調査、究明を黙殺する傾向が目立つようだ)
(三) 戦争の起因、目的、責任などはすべて関知せず、ただ他人事(ひとごと)のように、太平洋戦争のすさまじい戦闘経過のみを、小説や、ニュース映画や劇映画、テレビドラマで面白く再現して、数千万の若い世代のために、いわゆる戦争物の通俗的な『スリル』と『ヒロイズム』を提供するもの。 」
このような、三者三様のカテゴリーのちがった日本人の戦争観の中に、いまや太平洋戦争の偉大な教訓はひそかに葬られ、忘れられようとしているのである。これまで、わが国の旧軍人の手で、またジャーナリストの手で、あるいは大学の歴史学者の手で、太平洋戦争の開戦から敗戦までの戦闘経過と戦争指導については、十分に書きつくされてきた。したがって、真珠湾奇襲も、シンガポール攻略、ミッドウェー海戦も、またガダルカナル島争奪戦も、アッツ島、タラワ島、サイパン島、硫黄島の死闘も、マリアナ沖とレイテ両大海戦も、最後の沖縄大決戦も、すべて、その流血と玉砕の詳細は広く知れわたっている。かくて人類最初の米軍機による、原子爆弾の広島、長崎への投下と、ソ連軍の対日参戦、満州進撃によって、日本帝国は、あえなくも崩潰して、太平洋戦争は悲壮な敗戦の幕を下ろした。太平洋戦争の作戦経過の史実は、戦前、戦中、戦後の三世代に、よく知れわたっているように思われるが、意外にも、長年にわたり故意に、あるいは軽率にも頬被(ほおかぶ)りして忘れかけていた、幾多の重大な事実が残っている。しかもそれは、いずれも太平洋戦争史のいわば首尾一貫した背骨をなすものであり、米英流の表現を借りれば、日本の『世界的戦略』(グローバル・ストラテジー)の正体とゆくえである。まず、米英の戦史家たちは、『日本の軍部も政府も、ただ戦争を開始する準備、決断と、シンガポール、フィリピン、蘭印諸島(現在のインドネシア)の南方地域を攻略する作戦計画を立ててはいたが、それから以降は一体どうするのか、明確で合理的な、世界戦略方針を持ち合わせていなかった』と、いかにも日本流の、大マカな腹芸的な考え方で、現代総力戦に挑んだ無謀な点を、痛烈に指摘している。これに対して、旧日本陸、海軍の最高責任者たち(すでにその大半は亡くなってしまった)は、ほとんど良心的に反論したものはなく、また戦後の日本政府も国民大衆も、『太平洋戦争の真相調査』については、ほとんど無関心であったようだ。すなわち、太平洋戦争の悪夢のような約四年間を通じて、最大の疑問の一つは、『はたして日本はいかなる勝算があって、開戦に踏み切ったのか?』という点であったが、これは当時の戦争指導者のだれからも、明確な回答を得ないままである。そして、戦後の歴代の日本政府は、太平洋戦争をめぐるこれらの重要な根本問題を、いかにも厄介物あつかいにして、とくに天皇の道義的責任問題のむしかえしを恐れ、醜い古傷の跡を、強いてかくすように努めてきたように思われる。それだから、憲法調査会には、多くの歳月と数億円の費用(これも、国民の負担した税金だ)を喜んで浪費しながら、官民協力の権威ある太平洋戦争調査会の方は、いくらたっても、けっして実現しないし、また、今後も日米協力、親善関係に悪い影響をあたえないようにという、よけいな政治的配慮から、到底実現しそうもない。それは、日本国民へ戦争危機感を吹きこんで、日米軍事協力を強化するためには、太平洋戦争の冷静な研究調査は、かえって日本国民の反戦、平和感情を高めて、有害無益であるからだろう。 
3 神がかり『皇国史観』の正体

 

さて本書では、これまでの戦史の形式をやぶり、まず、これらの重要問題――とくにいまだに解明されない、軍国日本の開戦当時の立場と、その戦争観=聖戦イデオロギーについて、分析、検討したい。そして、日本軍部には、チャーチルやルーズベルト、スターリン、ドゴールが、つねに討議し、論争し、協調してきたような、米英流の合理的な『世界的戦略』というものは欠けていた代わりに。まったく対外的(ヒトラーにもムッソリーニにもわからぬ)にも、対内的(日本国民大衆に実際には全然、共鳴されず、理解もされず)にも、けっして通用しないような独善的な『皇国的戦争観』によって、いわゆる、大東亜戦争政策なる大綱をつくり上げて、『皇道日本』による、八紘一宇(はちこういちう)的な世界制覇を夢想していたわけを知りたいのである。では、いったい、軍国日本の『大戦略』(グランド・ストラテジー)であった『皇国的戦争観』とは、どんなものであろうか? それは皮肉にも、文部省の歴史教科書検定問題で、非難のマトになっている、戦前、戦中の反動的な御用学者による、『皇国史観』から生まれた聖戦イデオロギーなのだ。したがって、この神がかりの、『皇国史観』の正体を知れば、それにもとづく軍国日本の狂信的な戦争理念の根源と影響力も明らかにされるわけだ。
この軍国日本の神がかりの理想像(ビジョン)であった、『皇国史観』について、自由民主化の、今日の若い世代の人々に説明、納得させることは、きわめてむずかしい。それは太平洋戦争敗戦前まで、天皇が『現御神』(あきつみかみ=この世に姿を現わしている神の意味)と呼ばれて、いわゆる紫雲につつまれて神格化され、我々国民大衆は、天皇のいる宮城前を通るたびに、電車の中でさえ、脱帽、敬礼を要求された、狂信的時代の日本史観であるからだ。戦時中、文部省は軍部と呼応して日本国民に対し、この極端に超国家的な皇国精神を鼓吹(こすい)するために、いわゆる国民教育の根本指針として、天皇のために徹底的な『滅私奉公』と『七生報国』を強要した『国史概説』(菊判、上下二巻、各四百八十頁、昭和十八年八月、内閣印刷局発行)という大冊の本を数十万部も編集、刊行して、全国の小、中学校、高校、大学教育者へ広く配布した。
これがいわゆる『皇国史観』の決定版であり、軍国精神総動員の教典であったと同時に、また、学徒総動員や、神風特攻隊のための推進力となったものである。つぎに掲げるのは、『国史概説』(結論――わが国体)の内容である。(以下、原文のまま)
「 『大日本帝国は万世一系の天皇が皇祖天照大神の神勅のまにまに、永遠にこれを統治あらせられる。これ我が万古不易の国体である。しかしてこの大義に基づき、一大家族国家として億兆一心、聖旨を奉体して、克く忠孝の美徳を発揮する。これすなわち我が国体の精華である。国史は各時代に於いて、常に推移変遷の諸相を呈するにも拘らず、それらを一貫して肇国の精神を顕現している。国史の神髄はこの精神によって貫ぬかれたる大なる生命であり、国史の成跡は、国体を核心とする国家発展の姿である。かくの如くして、宏遠なる太古に肇まり、不易の国体を中心として、撓(たわ)むことなき生命を創造発展せしめつつある国家は、世界広しと雖(いえど)も独り我が国あるのみである。他の国にあっては、建国の精神は必しも明確ならず、しかもそれは革命や衰亡によってしばしば中断消滅し、国家の生命は終焉して新たに異なる歴史が発生する。したがって建国の精神が、古今を通じて不変に継続するが如きことはない。すなわち、外国は個人の集団を以て国を形成し、君主は智・徳・武等を標準として、それらの力の優れたるものが位につき、これを失へば位を追われることがあり、或は民衆が主権者となり、多数の力によって政治が行われる。(中略) 我が国家はこれと異なる。天皇は皇祖皇宗を祭らせられ、これと御一体にあらせられて神ながらに御代治しめし、宏大無辺なる聖徳を具へさせられ、国土国民の生成発展の本源にまします。国民は天皇の聖徳を仰ぎ、淳美なる良俗に啓培せられ、神皇一体、君民一致の国家を形成している。不動の国体を基幹として日に新たなる創造が展開されるのであって革命はあり得ない。国家の進展が特に顕著なるときには、いわゆる維新の鴻業が行はれるが、それは同時に復古であり、したがって復古的維新ともいうべきものであって、国体を特に著しく発揚せしめる政治改革である』 」
そのつぎに『国民性』と題して、生きた神である天皇の命令}下、日本国民が生命をいさぎよく捧げて、戦場へ赴くことを大いに称揚している。
「 『すでに述べた如く、天皇は御親ら皇祖皇宗の神霊及び諸神を祭らせられ、神を祭り給う大御心を以て民を治しめし、国民もまた神々を崇め祭り皇室を宗家と仰ぎ、祖孫一体となって、現御神にまします天皇に帰一し奉る。これすなわち古今を通じてかわらざる我が国家生活であると共に、更に郷土の生活には必ず氏神があって国民は聚落の融合一体を実現する。これらに見られる国民の敬神の念は、実に国民性の基礎をなすものである。かかる敬神の念は、我が国にあっては特に報本反始の誠を致す国民精神として顕現する。この精神がすなわち忠孝の徳の根源となり、また天地万物に対する敬虔感謝や愛護の心ともなるのである。神に仕へる心は、また身心一切の穢(けがれ)を去り、純一無雑の心意に帰する清明心であって、これは古来まことの精神として特に尚(とうと)ばれている』 」
それは今日の時点より考えると、まことに難解、複雑な、神がかりの独善、尊大な、『万邦に冠たる天孫民族の国民思想』とみなすほかはないが、しかし、このような文部省制定の『皇国史観』から、いわゆる『神兵の聖戦』というような『皇国的戦争観』が生まれたのは当然であった。それは、ヒトラーの狂信したナチズムを光栄化した哲学者のアレフレッド・ローゼンバーグ(悪名乱い『二十世紀の神話』の著者、戦後の一九四六年十月、ニュールンベルクの戦犯裁判で絞首刑を宣告、執行された)の場合とはちがうが、しかし、『支那事変』以来の日本の侵略戦争を正当化し、さらに光栄化するために、この『皇国的戦争観』が、いかに忠勇な日本軍将兵を激励し、奮起させるのに役立つたか、はかり知れないであろう。私は日本の戦史家として、太平洋戦争中の決戦下で、このような日本独特の天皇制国家における、忠君愛国の国民精神と、一死報国の軍隊精神の長所、美点をよく理解するものである。が、しかし、その短所と欠点も明らかに認めざるを得ない。それについては、太平洋戦争の各作戦段階にしたがって、十分に究明するつもりでいるが、ただ一つここにはっきりと指摘しておきたいことは、天皇自身が終戦直後に、みずから建国以来、二千六百年にわたる神秘的な神格を公然と否定して、いわゆる『人間宣言』をした事実である。したがって、戦後だいぶたった今日、文部省の一部に、もし、まだ独善的な、非民主的な『皇国史観』を、ひそかに信奉する絶対天皇主義者がいて、小、中学校用歴史教科書の中の、太平洋戦争の記述について、公正な史実をことさらに歪め、開戦の原因や敗戦の理由をゴマ化すような干渉、検定をこころみるようなことがあったら、かえって彼らの口ぐせにする『承詔必謹』の鉄則に反して、それこそ天皇の大御心に背く、不忠の臣となるわけだ。この天皇の『人間宣言』は、いわば『平和憲法』と抱き合わせの形で、戦後の民主日本の再建に、二大支柱とされたものであるが、近年どういうわけか、一般の戦争記録書などにもまったく再録されず、意外なくらい、その原文に接したものが少ないようである。とくに、読者諸君の中でも若い世代は、それを知らないのではなかろうかと思って、つぎに、その勅語(ちょくご=天皇のお言葉)の一節(昭和二十一年一月一日の勅語)を紹介しておく。
「 『――惟(おも)フニ、長キニ亘レル戦争ノ敗北ニ終リタル結果、我国民ハ動(やや)モスレバ焦燥ニ流レ、失意ノ渕ニ沈淪(ちんろん)セントスルノ傾キアリ。詭激ノ風激ク長ジテ道義ノ念頗(すこぶ)ル衰へ、為ニ思想混乱ノ兆アルハ洵(まこと)ニ深憂ニ堪ヘズ。然レドモ朕(ちん)ハ爾等(なんじ)国民卜共ニ在リ。常ニ利害ヲ同ジウシ休戚ヲ分タント欲ス。朕卜爾等国民トノ間ノ紐帯(じゅうたい)ハ、終始相互ノ信頼卜敬愛ニ依リテ結バレ、単ナル神話卜伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神トシ、且ツ日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基(もとず)クモノニ非ズ』 (以下略) 」 
U 太平洋戦争の神話と迷信

 

1 公正な評価と責任のゆくえ
『歴史は自分の国においてのみ、立派に書くができる』とは、十八世紀のフランスの大思想家ボルテールの言葉である。確かに古今東西を通じて、『言論と思想の自由』がみとめられていない国では、真実の歴史を書くことは許されなかった。したがって、国王または皇帝のような、絶対権力者に対する民衆の反抗や、闘争の歴史が、当時、つねに抹殺されたり、歪曲されたりして、正しく伝えられないのは当然であった。それはなにも、中世の欧州の絶対君主国家だけにかぎらず現代でも、ヒトラー、ムッソリーニ、スターリンたちの全体主義独裁国における、いわゆる『一党専制政治』と『言論抑圧』と『思想統制』の、暗い思い出がまだ生なましい。わが軍国日本でも、満州事変――日中戦争(支那事変)――太平洋戦争の暗雲の十五年間に、歴史の真相がいかに国民大衆の眼から掩い隠され、真実がつつまれていたかは(早耳の新聞記者たちにたいしても)、――敗戦後はじめて『言論と思想の自由』を獲得(じつは戦勝の連合軍からあたえられ、助長されたのだ!)した我々日本人の、身にしみて痛感したところである。戦争の歴史もまた同様である。とくに独裁、専制国では、戦争中、国家の緊急非常時という美名のもとに、国民の戦意昂揚と、決戦体制を最大限に強化するため、『言論』も『思想』も、すべて国家へ奉仕して戦力化されるもの以外は、すべて弾圧され抹殺された。我々日本人もまた戦時中は、いわゆる『依(よ)らしむべし、知らしむべからず』の政府、軍部の強硬方針の下に、『言論の自由』どころか、国民大衆の心の糧ともいうべき『報道の自由』まで抑圧されたまま、ついに痛ましい敗戦の日を迎えたのである。たとえば、太平洋戦争の開戦後わずか六ヵ月で日本軍が主導権をうしない、敗勢の重大転機をむかえた昭和十七年六月五日と六日の、ミッドウェー決戦の致命的な大敗北についても、大本営は、日本艦隊の大勝利と発表、報道して、国民大衆をだまし、大いに喜ばせたものである。それは、ただ軍部の威信を保つために。
なるほど、軍国日本は、開戦前から独、伊の枢軸国と盟邦関係を結んではいたが、その国柄と独裁政権の成り立ちもちがうので、ヒトラー独裁のナチス・ドイツや、ムッソリーニ独裁のファシスト・イタリアと、軍国日本を、同列に論ずることは日本人の立場から、不穏当でムリな点がある。ここに、満州事変――日中戦争――太平洋戦争という十五年間の、いわゆる『昭和戦乱』の責任問題をめぐり、天皇、政府、軍部の三者三様のデリケートな論争点があるが、公正に、かつ良心的に触れてゆくつもりである。たとえば、第二次大戦の起因について、米、英、仏、ソ各国の戦史では、ヒトラーとムッソリーニという、野蛮な独裁者兄弟こそ、『最大、最悪の戦争犯罪者』と断定している。
また、敗戦国側でも、戦後にドイツ共和国(東西両ドイツとともに)とイタリア共和国では、『戦争は狂信的な独裁者が善良な国民大衆をだましたり、暴力でおどかしたりして、計画し放火したものである』と、すべての戦争責任(開戦責任も敗戦責任も)を、ヒトラーとムッソリーニ両人に、それぞれ押しつけることによって、きわめて明確に割り切っていた。要するに、戦後の独、伊の国民大衆は、ただ、ヒトラーと彼のナチ党を、またムッソリーニと彼のファシスト党を、それぞれ極悪非道の悪玉あつかいにして、あらゆる怒りと憎悪を、この独裁者の上に吐きかけることによって、万事、重苦しい胸のなかを晴らしたものだ。したがって、戦後に、独、伊両国では、その建国の歴史を別に書き変える必要などは毛頭なく、ただ現代史のごく一部分、すなわちヒトラー独裁政権時代の、わずかに歪められた史実を訂正して、その誤った解釈を変更するだけで、すべてこと足りたわけだ。ところが幸か不幸か、敗戦の結果、軍国日本の場合には、そう簡単に都合よく、昭和史の一部だけを是正して、日本とつなぎ合わせることはできなかった。すなわち、軍国日本の精神的中核をなした、ふるめかしい『絶対天皇制』や、厳(いか)めしい神がかりの『皇国史観』を、ただ敗戦の結果によって、また、戦後の米英流の民主日本に、うまく適合するように、自由自在に改廃するわけにはゆかなかった。すなわち、危険な日本の神国思想を打破し、日本の歴史を根本的に書きなおすような、空前の民主化作業を必要としたのだ。だから、ヒトラーやムッソリーニのような野心的独裁者を排除するように、軍国日本の戦争責任者としての、東条首相(陸軍大将)以下、いわゆるA級戦犯の政府、軍部の要人だけを、いくら悪者あつかいにして憎み、恨んでも、太平洋戦争の起因はけっして究明されず、また公正に評価されないのは当然である。そこに太平洋戦争の特異な本質と、評価のむずかしさがあるのだ。独、伊両国の場合は、いったい、だれが悪かったのか、その解答も解釈も、すこぶる簡単明瞭である。しかし、軍国日本の場合には、いったい、だれが悪かったのか? その真相は、きわめて複雑怪奇であり、またその実情は、アイマイにはぐらかされて、今日、かえって、ますます黒い霧におおわれたまま、現在の教科書論争の深刻な原因をつくったのである。 
2 東条首相は“大悪人”か!

 

確かに、敗戦直後の日本では`東条英機大将が最大の悪者あつかいにされた。しかし、彼が、東京裁判でA級戦犯第一号として絞首刑を宣告、執行された後味は、我々日本人にとって晴れぱれとした、さわやかなものではなかったようだ。なぜなら、『東条は、六百万のユダヤ人を虐殺したヒトラーほど、悪いやつではなかった』と、一般に思われたからだ。また、ナチス・ドイツでは、だれでも、『ハイル・ヒトラー!』(ヒトラー万歳)という挨拶が強制されて、戦場でも銃後でも、厳重に励行されたが、軍国日本では、だれひとり、『東条大将万歳!』と叫んで、死んだ兵士はいなかったからだ。軍国日本では、日本国民は、すべて天皇の命令で戦場へ駆り立てられて、『天皇陛下万歳!』と叫んで玉砕していった、冷厳な事実を忘れてはならぬ。とくに、『勝者の裁判』とよばれた東京裁判の市ヶ谷法廷で、見るからにやつれ果てて、みすぼらしい東条被告(当時六十四歳)が、直立不動の姿勢で、米国の検事のするどい訊問、追及にたいして、
「 『私の経験した間には、天皇は、御前会議でも、ほとんどご発言なさったことはありません。日本国民として、私は陛下が裁判にかけられるのを見るにしのびません。一九四一年十二月の開戦と、真珠湾攻撃に関して、私が起訴され、裁判にかけられる責任を持つものである点は妥当なことです。しかし、私は、陛下が裁判されるということは、考えるにしのびません。私自身ばかりでなく、日本国民すべて、天皇陛下が裁判にかけられるとしたら悲しむでしょう。私は主として、国務大臣の観点から責任を負うべきものであります。――統帥の観点からなら、参謀総長および軍令部総長に責任があります。他の閣僚も責任がありますが、私よりも責任の程度は少ないと思います。(中略) 戦争の避けられなかった原因は、統帥権の独立、その他いろいろありますが、いま自分が弁明しようとすることは、臣下として、自分と陸、海軍統帥部長が、陛下に対する輔弼(ほひつ)の責任を果たさなかったという点であります。天皇陛下には、絶対に責任がありません』 」
と、大ミエを切ったとき、彼の失墜した人気は、右翼、保守主義者たちの間でにわかに盛りかえした。確かに、太平洋戦争の憎むべき張本人と、米英ではみなされた東条大将も、私が戦時中に交換船で帰国後、朝日新聞記者(前ニューヨーク特派員)として、再三、親しく面接したが、けっして狂気の大悪人というような印象を受けなかったくらいである。太平洋戦争では、軍国日本にはヒトラーもムッソリーニもいなかった、という平凡な結論に達する。
「 『あの顔の青白い神経質な、軍人としては、むしろ小心な律義者のようにみえた人物が、なぜ軍国日本の興亡と、一億玉砕の暴挙を賭した大戦争にあたり、平和念願の天皇の切々たる「大御心」(神格化された天皇の心境)に添わない、無謀な開戦の決断に踏み切ったのであろうか?しかも彼は、戦後の東京裁判法廷で、「独裁者東条大将」として被告席にならんで、旧敵国の代表と、日本国民大衆の面前で生き恥をさらしながら、その内心では、東条は国民にたいしては、逆賊といわれるかも知れないが、陛下をお守りすることだけは、命がけでやり通す覚悟である。 自分が自殺し損ねてこうして生きているのも、ただ一点そのことのためだ』(東条被告弁護人、元逓信院総裁塩原時三郎氏の手記による) 」
と、ひそかに誓っていた。こうなると、軍国日本の戦犯追及問題はきわめて困難で、いわゆる戦争責任が行方不明になりやすい。戦後の東西ドイツでは、いずれも連合国の手による、ニュールンベルク裁判とはまったく別個に、両ドイツ政府が、戦時中のナチス犯罪に対する厳正な摘発、裁判を、長年にわたり根気よく続行し、さすがは権利と責任と法律観念の強い、ドイツの国民性の合理主義を発揮したものだと、私は戦史家として大いに感嘆させられたものだ。これにたいして戦後の民主日本では、めざましい経済的復興と物質的繁栄のかげに、太平洋戦争の起因究明も、責任追及もすでに忘れられてしまって、むしろ戦争の過去の古傷や悪夢を、戦後派の有力な政治家や財界人までもが最近、ウヤムヤに葬り去ろうとする傾向が目立ってきた。また、日本人の国民性の一つといわれる健忘症のせいか、戦犯として刑死した東条大将の、戦争内閣の有力メンバーだった、岸信介(当時、商工大臣=現安倍首相の祖父)と賀屋興宣(かやおきのり=当時、大蔵大臣)両氏が、戦後もわが政界で依然として健在で、保守勢力(自民党中心)の長老として、権勢をふるっていたのは、まことに戦後の独、伊両国には見られない現象である。それを、別に怪しまない日本人独特の政治的センスは、けっして健忘症のせいばかりではあるまい。私のように、太平洋戦争をあくまで第二次世界大戦の一部であるとみなして、ヒトラーとムッソリーニ両独裁政権下の独、伊両国が戦った、欧州戦争と同時に並行、関連させて、パノラマ的に総合、比較、検討する立場からみると、たとえてみれば、ヒトラー内閣の商工相や、ムッソリーニ内閣の蔵相が、戦後まで元気よく生き残って、しかも、新しい民主政権の首相や閣僚に返り咲いたり、再び時めくようなことは、到底信じられないことである。ここにも太平洋戦争を、欧州戦争と同一の普遍的な戦史的レベルから、公正に評価することの特殊な障害と困難があると思う。もっとも、日本人の淡白な国民性から、日本人同士が戦後に、たがいに戦争責任をなすりつけ合ったり、あばき立てて争うことは、あまり好ましくないようであった。しかも太平洋戦争には、いかに軍部独裁とはいえ、ヒトラーのような狂信的な残虐行為――たとえば六百万のユダヤ人大虐殺や、占領地域における敵性市民男女にたいする、大規模な集団的テロ行為などは、さすがに日本軍の性質には合わなかったとみえて、幸いにも模倣されなかった。それだけに、我々日本人は一般に、識者も、大衆も、戦争にたいする罪悪感が少なく、したがって、連合軍総司令部(GHQ)から、とくに命令されたり、要求されないかぎりは、戦後の国民的反省も、自己批判もたりないで終ってしまったのではなかろうか?
たとえば、終戦直後から東京裁判の判決(昭和二十三年十一月)の下るまでの約三年間、天皇の戦争責任問題は、当時の幣原(しではら)内閣にとっては、国民大衆の食糧不足や、戦災復興の緊急問題よりも重大視され、天皇制の廃止はないとしても、天皇の退位は、相当にその可能性があるものとして心配された。しかし、その当時でさえ、いわゆる民主化されたはずの戦後の日本の各新聞は、やはり天皇制を論評することを、戦前同様に『畏(おそ)れ多い』ものとして極力、これを敬遠したため、かえってGHQから、『天皇制についてもっと自由に論議、報道して世論を起こすべし』と、新しい戦後の『主権在民』のあり方について、指示と指導を受けたものであった。このような点にも、太平洋戦争の公正な責任論争が、早くから日本では不評判に終わり、時の流れによって、いつのまにか、戦争責任が行方不明になっても、国民大衆がほとんど怪しまない理由があるのではなかろうか? しかし、私がかっての日、歴史的な日米開戦を新聞特派員として、敵国(当時)の首都ワシントンで迎えてから戦後の今日まで、じつに長い間、太平洋戦争をふくむ第二次大戦の真相と経過と結末を、日本の自由、公正な戦史家として丹念に調査、検討してきた結論は、まさにつぎの通りである。
「 『軍国日本は、武力戦で敗れて無条件降伏をした。のみならず、思想戦でも徹底的に敗れ去った。したがって、軍国主義を打破された日本は、戦後に急速に政治、経済制度の民主化には成功した。だが、いわゆる「国体の精華」である、八紘一宇の皇国史観と、皇尊絶対の民族精神をひとたび粉砕されたら、その思想的空白状態を、新しい民主主義の精神でみたすには、数十年の長い歳月と、忍耐づよい国民的努力を要するであろう。なぜなら、制度の改革はやさしいが、国民精神の改変はきわめてむずかしいからである。しかも、軍国日本の象徴であった天皇が敗戦の結果、みずから民主日本の象徴(シンボル)に変身したことを認めて、これまでの神話と、伝説にもとづいたところの神格を否定し、「人間宣言」の歴史的な詔勅を発した(昭和二十一年一月一日)からには、天皇はもはや、再び、もとの神性にもどることはできない。――これは将来の天室制のあり方について、大きな希望と深い矛盾をもたらすであろう』 」 
3 開戦の決断をめぐる天皇の立場

 

むかしから戦争の勝敗は、いわば『時の運』であるから、軍国日本が、たとえ米英相手の大戦争で武運つたなく敗北したとて、けっして卑下したり、卑屈になるにはおよばない。ドイツ民族は、二十世紀の前半に、二回も世界大戦をみずから起こして、無残にも敗北しながら、またもや戦前にまさるすばらしい復興ぶりをみせて、そのたくましい民族的エネルギーを発揮しているではないか。日本も太平洋戦争で敗れたりとはいえ、米、英、蘭、中国、(終戦直前にソ連)を相手に、三年半以上もよくぞ堂々と戦い抜いたではないか。しかも、インド、ビルマ、マレー、インドネシアなど東亜の白人植民地は、すべて日本軍の手で解放し、独立させたではないか――と、太平洋戦争を日本に有利に過大評価する旧軍人も少なくない。確かに、このような戦争観にも一理はあり、とくに東京裁判で、『満州事変以来、過去十五年にわたる日本の行動は侵略戦争なり』と、日本が一方的に烙印(らくいん)をおされたことには強い不満と異議をとなえる人々も多いであろう。しかし、このような戦争観の致命的な欠点は、太平洋戦争をただ武力戦として解釈して、その戦争の結果である勝敗だけにこだわっていることである。なぜなら、現代総力戦の究極的な目的は、けっして単なる武力的勝利ではなくて、じつは百七十年前に、プロシアの偉大な戦争哲学者カール・フォン・クラウゼビッツ将軍が、『戦争は他の手段による政治の延長である』と、いみじくも喝破(かっぱ)したように、政治的目的を達成することであるからだ。だから軍国日本は、たとえ武力戦では不運にも敗れても、もし、思想戦にはあくまで屈服せずに、その政治的主体性を確保していたならば、我々日本人は、いわば『負けるが勝ち』と称しても、かならずしも単なる負け惜しみではなかったであろう。その代わり、敗戦後、日本はけっして戦勝国たる米国の安易な援助、救済を受けず、天皇以下、政府も全国民もすべて『臥薪嘗胆(がしんしょうたん)』の苦労を重ねて、戦後の祖国復興はもっとおくれたであろうが、かえって、物心両面のバランスのとれた堅実な再建が実現したことであろう。そして、今日のような、日本のはなばなしい経済復興のカゲに、日本人の精神的空白と思想的迷いが生ずるような、国民的不幸をもたらすことはけっしてなかったであろう。私は日本人である以上は、長い長い民族の歴史が生みはぐくんできた、いわゆる神話と伝説にもとづいた『皇国史観』を、けっして、バカらしいものだとは思わない。しかし、戦前、戦中の軍国時代を通じてあまりに誇張され、あまりに独善的に国民大衆に押しつけられた、行きすぎた思想統制が、皮肉にも、かえって敗戦後の日本人の思想的混乱と、国民精神の喪失をまねいた重大な原因になったと信ずる。それはまさしく、『過ぎたるは及ばざるにしかず』という感がふかい。たとえば、米英的民主主義(デモクラシー)を全面的に否定した文部省制定の『皇国史観』を、敗戦後、日本政府みずから、たちまちホゴ紙のごとく放棄して、占領軍の命令のままに、国民教育制度を根本的に改変し、さらに民主主義を鼓吹、普及するために、日本の歴史の書き変え作業まで、意のままに追従してきた文部省官僚が、いまや、再び保守反動の逆コースにのり、歴史教科書の検定騒動を起こしつつあることは、なんとしても醜悪な不手ぎわではないか? くどいようであるが、私は戦史家として、太平洋戦争における軍国日本の敗北、降伏は、その武力戦の敗北による物的損失よりも、その思想戦の敗北による精神的損失の方がはるかに重大であり、しかも現在から遠い将来にわたり、我々の子孫代々にまで深甚な影響をおよぼすであろう、と心配している。なぜなら、国家の物的損害は、早急に経済力によって回復されるが、国民のうしなわれた民族精神は、けっして容易に取りもどすことができないからだ。我々日本人は、一般に、つごうの悪いことは忘れやすく、また、にがい教訓を学び、きびしい忠言に耳をかすことを好まないようだ。しかし、太平洋戦争の開戦から敗戦までの暗い真相を、できるだけ率直に、なるべく相異する見解も公正に取り上げて、国民教育のため、歴史教科書に収載することは民主主義の教育上、もっとも望ましいことである。たとえば、昭和四十一年度用の中学、高校歴史教科書にたいする文部省検定では、満州事変――日中戦争(支那事変)――太平洋戦争の記述、説明について、つぎのような逆コース的方針が、明白に実施されたと新聞報道されて反響をよんだことがある。
「 (一)『皇国史観』(絶対天皇制と一君万民を国体の精華とみなす)の復活と、十五年戦争の正当化と光栄化。
(二)太平洋戦争の肯定と米、英、蘭、中国(ABCD)の、対日包囲陣の日本圧迫を戦争原因とみなす。
(三)天皇神話の重視。
(四)戦後の新憲法の平和尊重と戦争放棄の精神、規定に対する逆行。
(五)戦争観の国家統制の危険。
(六)日本人の立場で愛国的に書くことの強調。
(七)検定から検閲へ。 」
この新検定歴史教科書の実例をみると、『戦争の暗い面を強調しすぎるからいもっと明るい面を出すように』とにいう文部省側の指示によって、これまで、長らく使用された広島の原爆キノコ雲の歴史的写真や、広島のいたましい廃墟の実況写真が、多くの教科書から自発的(?)に削除され、その代わりに、『遺児をはげます東条首相』の写真が新しく登場した。また、旧版で使われた『勤労動員の女学生の群れ』とか、『配給を受けるモンペ姿の家庭の主婦たち』とか、『強制疎開で、家財を運び出す住民たち』といったような、決戦下の国民生活の光景写真まで、遠慮して、いっせいに姿を消したといわれる。これでは、いわゆる反戦的な左翼学者たらずとも、中正穏健な歴史学者たちが、みんな怒るのもムリはないだろう。なぜなら、戦争というものは、古今東西を通じて、つねに残酷であり、きわめて非人道的な暗いものであるからだ。とくに世界史上、人類最初の原爆被災国民として、日本人の平和護持の悲願を、次代の国民へ強くアピールするために、各教科書は、太平洋戦争をもっと大きく真剣に取り上げて、戦争の暗い場面と、残酷な正体を十分に知らせ、しかも平易に説明、反省すべきであると思う。そして、軍国日本が敗戦によってはじめて巨大な軍備を放棄して丸腰になり、これまで『菊のカーテン』の奥にかくれて、『現御神』とおがみ奉られていた天皇か、みずからその非近代的な神格を否定して『人間宣言』を行ない、主権者たる国民大衆のまえに、おごそかに、日本の民主化と、平和保持の決意を誓ったことも、ぜひ教科書にのせて、後世のために明記せねばならない、と私は信ずる。またもう一つ重大な点は、戦後はじめて東京裁判、その他で公表された、極秘の記録や貴重な手記(元内大臣木戸幸一供述書および『木戸日記』、元首相近衛文麿著『平和への努力』、元侍従武官長本庄繁陸軍大将の覚書、元国務相、情報局総裁下村海南博士著『終戦秘史』その他)によって、開戦前に天皇は平和を求めて大いに気をもんでいたが、その大元帥たる統帥大権を発動して、断固として太平洋戦争を押しとどめることができなかった真相を、はっきりと教科書に記入すべきである。それは軍国日本にとって、けっして都合の悪いことではなくて、むしろ天皇自身にとって、名誉ある平和への切望と、戦争回避の努力を、日本の現代史上に永く銘記するものだ、と私は思う。太平洋戦争の開戦決断をめぐり、天皇の立場はきわめて微妙であり、またその責任は重大であった。前記の信頼すべき記録・資料によると、天皇は二・二六事件と支那事変以来、これまで、言行不一致とウソの多い軍部(陸軍をさす)にも統帥部にも、再三、不信の念を表明し、いつも戦争反対と、対米英協調と、平和愛好の態度をとってはいたが、ただひとり、皇居の奥深く苦慮するばかりで、はなはだ遠慮がちであったようだ。結局、神格化された絶対天皇の大権はかえって形式化し制約されて、消極的なものになり、国家百年の大計のために、戦争を主張する強大な軍部と右翼、国家主義勢力の前には、天皇個人は意外にもきわめて孤独で微力な、気の毒なロボット的存在になっていた――というのが、内外の歴史家の定説である。せめて天皇が開戦直前、昭和十六年九月六日の御前会議の席上で、戦争決意の重大決定が行なわれたとき、列席した政府、統帥部の最高責任者たちのまえで、『四方(よも)の海みな同胞(はらから)と思う世に、などあだ波の立ちさわぐらん』という明治天皇の御製を朗読して、平和愛好の意思表示をしたのが、悲しい最後の抵抗であった――ともいわれている。要するに、天皇自身の善意と、性格の弱さ(東京裁判のキーナン首席検事の言葉)と、軍部と側近が手をむすんだ主戦論の重圧が、ついに、孤独な天皇の、平和への悲願を裏切って、はじめから勝算のすくない戦争へ、軍国日本の突入を勅許したというわけである。それにつけても、太平洋戦争の実体を正しく直視するために、すでに我々日本国民が、忘れかけようとしている、『悪夢のような古証文』のごとき宣戦の詔書(Y-5)を、あらためて読みなおしてみよう。それは前述の『皇国史観』の、神がかりの発想と、むずかしい美辞麗句の羅列で、今日の若い世代には到底理解できそうもないが、軍国日本の対米英蘭開戦の理由と、目的とを明らかにしている点では、やはり太平洋戦争にかんする日本側の、もっとも重要な歴史的ドキュメントの一つである。 
4 勝算なき戦いへの契機

 

今日の時点から太平洋戦争の起因、経過、敗因をきびしく検討することは、当時の政府・軍部の主要な戦争指導者にたいして、彼らの人知れぬ心痛を無視した、いわゆる、「後(あと)ヂエ」の結果論議におちいり、日本人として不公平である、という意見を旧軍人から聞くが、私は一日本の戦史家として、けっしてこのような意見を無視するものではない。開戦直前の和戦の決定する御前会議にせよ、政府と軍内部の深刻なジレンマについては、戦後はじめて発表された、大本営と陸軍統帥部の極秘記録によって、いまでは日本人の間に、よく理解されており、私もその運命的な開戦の決断が、決してなまやさしいものではなかったと認識している。だが、いかに祖国日本のためによかれかし、と確信して、太平洋戦争の重大決断と戦争準備に精根をつくしたにせよ、敗戦の結果がもたらした、果てしなき犠牲と、物心両面の重大な損失については、責任を負わねばならぬと思う。戦時中に、その要職にあった旧軍人たちは、天皇に対してもまた、国民に対しても、戦争の指導、判断の重大な錯誤について、『われ誤てり』と、いさぎよくカブトを脱いで、沈黙を守ることこそ、『さすがは日本武士道の典型』と、戦後も国民のひそかな敬仰と同情を集めたことであろう。私は日本人として、終戦直後に重大責任を感じて自決した阿南陸相、大西中将、本庄大将、田中静壱(しずいち)大将、杉山元帥、吉本貞一中将その他の軍人にたいして、今日なお深い哀悼(あいとう)と共感を禁じえない。そういう意味から、太平洋戦争の神話や伝統を打破して、その歴史的意義と、日本人の子孫代々に伝える偉大な遺産として、公正に評価するためには、今日こそまさに、内外のあらゆる権威ある、貴重なドキュメント資料が出そろった絶好の機会であるといえよう。太平洋戦争の開戦に先立ち、はたして軍国日本の指導者たちは、『日本はかならず勝つ』と天皇のまえで、また神に誓って、はっきりと明言することができたであろうか? また、もし天皇自身が戦後に、しきりに伝えられた(とくに東京裁判で、東条首相が“天皇に責任なし”と熱弁をふるったように)ごとく、戦争反対と平和愛好の熱意があったならば、なぜ、神格化された天皇の、無限大の絶対大権を発動(終戦の聖断のように)して、軍内部の強硬主戦派を断固として押さえつけ、あくまで開戦を回避することができなかったか。このような重大な疑問は、今日のいわゆる、「後ヂエ」から発せられたものである。したがって、開戦直前の緊迫した国内の雰囲気を正しく理解しなければ、我々が、軽率に天皇の優柔不断を怪しむことは失礼である。だが一方、当時の陸海軍最高首脳部が和戦の決断にたいする自己責任を恐れて、陸軍側では、『これは海軍の決意ひとつである』といえば、海軍側は、『それは海軍が独自に決定すべきことでなく、すべて総理(近衛公)に一任したし』と応じて深刻に対立するしまつだった。これは、当時の統帥部が、米英を相手に、けっして即戦即決の勝算がなかったことを物語っているものである。とくに山本五十六元帥は、陸軍の独走による日独伊軍事同盟に強く反対して、日米開戦を極力、回避しようと努力した人であった。しかし、陸軍側より、『海軍の決意いかん』と、ふくみのある申入れを受けた以上は、もはや国家の運命を、戦争によって打開するよりほかに、海軍軍人としては、まったく策なし、と覚悟したのであろう。
「 『それは、是非やれといわれれば、はじめの半年か、一年間は、大いにあばれてご覧に入れる。しかし、二年、三年となれば、まったく確信がもてない。三国条約が成立したのは致しかたないが、かくなりし上は、日米戦争を回避するよう極力、ご努力を願いたい』 」
と、山本元帥は、奇しくも開戦一年三ヵ月前の、日独伊三国同盟調印直後に、当時の近衛首相に申入れていた。また、開戦直前の、十一月一日の大本営政府連絡会議の席上で、当時の海軍軍令部総長・永野修身大将は、
「 『いま戦争をやらずに、三年後にやるよりも、いまやって三年後の状態を考えると、いまやる方が戦争はやりやすいといえる。 それは、必要な地盤が取ってあるからだ。(いつ戦争をしたら勝てるか――という質問にたいして)、それはいまだ! 戦機は後には来ない!』 」
と、語気も強く発言している。また、同席した陸軍参謀総長・杉山大将も、
「 『戦機はいまなり。陸軍作戦は、海軍の海上交通確保とともに、占領地確保に自信あり』 」
と、開戦必至を主張した。だが、東郷茂徳(しげのり)外相は、ただひとり、
「 『数年もさきの戦争のことは不明なるにつき、決心しかねるが、このさい、あくまで自重して戦争を回避し、臥薪嘗胆(がしんしょうたん)すべきである』 」
と、堂々と反対した。要するに軍国日本は、『長期戦になることは、止むをえないが、しかし、持久不敗の態勢を確立して勝機をつかむ』という、いわば『神国不敗』の迷信を信じて、昭和十六年十二月八日、パールハーバー奇襲による、対米、英、蘭開戦に踏み切ったわけである。それは、アメリカの著名な戦史家サミュエル・モリソン博士の言葉によれば、『日本は敗戦の第一歩を踏み出した』のであったといえよう。 
V 太平洋戦争の前夜

 

1 昭和十六年の国内情勢
昭和十六年(一九四一年)は日米開戦の年だ。それは、すでに半世紀近くもむかしのことであるから、戦後に育った若い世代の人々が、いくら当時の日本の大新聞の古い切り抜き記事や、縮刷版を手がかりにして、この開戦の年の実相と、ムードを知ろうとこころみても、おそらく、無益な骨折りに終わるであろう。なぜなら、その当時の軍国日本は、すでに戦時体制をますます強化して、国民精神総動員が政治、経済、社会の各方面から、市町村の各家庭にまで徹底的に実施されていたから、もはや対米英戦争はいつ起こるかも予測できないほど、政府と軍部は緊迫感にみなぎっていたからだ。いやしくも、反戦的な言動や平和愛好の気分は、五年越しの『支那事変』(日中戦争)の完全遂行のために危険、有害であるとみなされて、今日では到底想像もできないような、厳重な『思想、言論統制』と『新聞検閲』が励行されていたから、まさに日本国民たるものは、すべて絶対的神聖な天皇の有難い『御稜威(みいつ)』(天皇の威光と仁徳)の下に、欣然と『一億総決起』の大覚悟と勇猛心が要請されていた。それで毎日の新聞は、中央紙も、地方紙も、いっせい、一律に軍部の主戦論と、国粋右翼の好戦主義を強く反映し、内閣情報局の監督と指導による、反米英調の強烈な軍国的色彩がおどろくほど目立ってきた。いわゆる、皇国史観にもとづいた米英撃滅の思想的攻勢か、全国の新聞論説にも、雑誌記事にも、恐ろしい威力をふるっていたものであり、いかにも国民大衆が熱狂し、軍部を支持していたような錯覚をあたえやすい。しかし、これは、あくまで新聞論調や記事面の表面に現われた強がり現象であって、一般大衆のまったく知らない日本政府の奥座敷では、軍部(とくに海軍側)の自重派をまじえて、天皇自身の穏健な希望(日本の皇室が明治、大正、昭和三代を通じて親米英的な伝統が強かったことは、昭和軍部強硬派の反米英主義と皮肉な対照を示していた)にそって、ひそかに戦争回避と危機打開のため、最後の努力が、大いに行なわれたものであった。その一つの努力が、野村吉三郎海軍大将の駐米大使任命であった。それは、いかに軍部の強硬派といえども、世界一の富強を誇る米、英両国を相手にして、日本が独力で戦争を起こしてかならず勝つという自信と成算を持つものは、だれもいなかったからであろう。軍部も内閣情報局長も、口先では、国民大衆の前で、いかに『米英撃滅』の大言壮語を勇ましくブッてみても、五年越しの『支那事変』さえ、軍部の思う通りには到底片づかず、ますますドロ沼化して、長期消耗戦の悪あがきを露呈しつつあった当時だけに、軍首脳部の本音はむしろ、第二次大戦初期の、独伊両軍の圧倒的勝利の余勢に便乗して、米英のいわゆるアングロ・アメリカン世界支配体勢の打破をめざした和戦両様のかまえで、『支那事変』の収拾について、重慶政権(蒋介石主席)支持、援助から、手を引かせるように、米英ブラッフ(強がりを誇示しておどかす)をこころみたのだろう。軍部とは、かならずしも折り合いのよくなかった枢軸派の松岡洋右(ようすけ)外相のねらいも、またそのあたりにあったようだ。その意味から、昭和十六年一月二十三日、横浜出帆の鎌倉丸で、野村新駐米大使が波高き太平洋を渡り、はるばる赴任の途についたとき、軍部のひそかな期待は、複雑で切実なものがあった。とくに海軍側では、かがやかしい経歴を持つ海軍の長老が、素人外交に利用されたあげく、最悪の事態に、万一おちいった場合は、全責任を負わされるおそれがあるため、野村大将個人に傷がつかないように心配する向きが多かったようだ。それだけに全海軍の希望をこめて、戦争回避のため、ぜひとも野村大使の使命達成を願望する空気が部内に高まっていたようである。しかし、陸軍側の少壮幕僚のなかには、
「 『いまさら、親米派の海軍大将を駐米大使に任命して、ワシントン政府と外交交渉をしてみたところで、日本の弱腰をただ見すかされるだけで、かえって、支那事変の完遂に有害な影響をあたえ、また国民士気にも反戦、和平の悪影響をおよぼす。もはや、日米交渉はけっして期待されず、ただ開戦準備の時をかせぐのみ……』 」
と、豪語する連中も少なくなかった。要するに、日、独、伊三国軍事同盟にもとづいて、日本はおそかれ早かれ、第二次大戦に突入して、米英と対決して東亜百年の禍根を断ち、聖戦の大使命を実現すべきである―― というのが、彼らの革新的主張であった。平和外交を職分とする外務省の若手外交官のなかにさえ、当時このような革新派、あるいは枢軸派と呼ばれた強硬分子がいたことを忘れてはなるまい。彼らは軍部の主張に同調して、従来の米英追従政策の打破を要望していた。このような陸、海軍間の矛盾した対米交渉の根本的認識について、当時の第二次近衛内閣は、いわば捨て身の決断力に欠けていたので、つねに優柔不断で軍部の独走を押さえ切れず、また閣内でも、近衛首相と松岡外相の反目、対立など日にあまるものがあった。そのせいか、野村大使がワシントンへ赴任する直前に、同じ海軍出身で、海軍兵学校で三期後輩に当たる前首相・米内光政(よないみつまさ)大将を訪ねたとき、米内大将は、
「 『あなたが、この大任を受諾されたことは、感謝にたえません。ただし、現下の国内情勢は憂慮すべきものがあり、自分としては、あなたが渡米中に、二階に上がって梯子を取り上げられるような事態に立ちいたることを心配しています』 」
と、野村大使の手を固く握って語ったといわれる。確かに野村大使が、戦争回避の重大使命をおびて赴任したとき、日本国内は政情が険悪で、波はすでに高く、風雲は急を告げて、その前途は、けっして明るいものではなかった。陸軍の横車を身にしみて痛感していた米内前首相の忠言は、結局、その後の日米会談の進行につれて、果然、的中することになり、野村大使の努力にまず、日本国内から水をさされるような憂き目を見たのだ。
(注、米内光政海軍大将は明治十三年、岩手県生まれ。明治三十四年、海兵卒。佐世保鎮守府長官、連合艦隊司令長官、海相、軍事参議官を歴任した。海軍部内の清廉硬骨な反枢軸派の重鎮で戦争反対、回避の主張を堅持し、宮中方面の信望も厚かった。昭和十五年一月に米内内閣の首班となったが、汪精衛政権成立をめぐり、支那事変の処理について陸軍側と折り合い悪く、そのために彼のめざした親米英外交は行き詰まり、内外の難局に直面したまま政治力不足により、同年七月、あえなく総辞職した。その直後に、いわゆる軍部の総意に便乗した第二次近衛内閣が出現した) 
2 野村大使の米国上陸第一歩

 

この当時、私は朝日新聞ニューヨーク特派員として、野村大使よりも数ヵ月早く太平洋を渡り、その途中で平和的な美しいハワイの真珠湾軍港を視察し、またハワイ地方と米本土西岸のサンフランシスコ、ロサンジェルス両市方面の在米邦人一世、二世の状況を現地調査して、いわゆる、日米危機の実態を、太平洋の向こう側から熱心に観察していた。そして、野村大使の横浜出発が、予定よりもだいぶおくれて手間どっていた間に、私は隣邦のメキシコへ足をのばして、首都メキシコ・シチーで、カマチョ新大統領の右腕として知られたパディーヤ外相と特別会見して、その記事を本社へ打電していた。歌と踊りの、メキシコの異国情緒を、たっぷり楽しみながら、私が数日間を仕事と闘牛見物などでいそがしくすごしていたとき、本社から『野村大使、本日出発した』という電報をホテルで受け取って、にわかに緊張したし、また大いに元気づいた。それは、『もしも野村大使が出発を取り止めたら、日米関係は、戦争の心配があるが、もし出発したら、日米会談は有望で戦争の危機は避けられる』というのが、その当時の十数万の、在米邦人の一致した希望的観測であったからだ。私は、数日後にメキシコに別れを惜しんで、飛行機でメキシコ・シチーよりロサンジェルス経由で、サンフランシスコに舞いもどり、野村大使を迎える仕度をととのえた。それは野村大使一行に、ただ一人の日本人記者として特別参加し、同じ特別急行列車でシカゴ経由、ワシントンまで同行するためであった。それは、日米開戦の年のはじめの、私にとっては、永久に忘れられない思い出のひとつとなった。(当時、サンフランシスコには、日本の大新聞社も特派員を常駐させず、地元の邦字紙の記者を通信員として特約し、何かあるたびに臨時ニュースを打電させた) それで、東京の本社から派遣された正式の新聞特派員として、はるばる米国に赴任した野村大使を、サンフランシスコ港に出迎えて、長文の会見記事を綴って、打電、報道したのは、私だけであった。それは、太平洋戦争の前夜に関する、貴重な歴史的記録の一つとして、たいへん興味ぶかいものであるから、つぎにその一部分を私の手許のメモと、当時の東京朝日新聞の紙面より転載して紹介しよう。私が戦後の今日でもまだ生々しく記憶している点は、その当時には日米戦争の恐怖と懸念は、米国では現実的なものではなくて、『いくら日米関係が悪化してもまさか戦争にはなるまい』と米国人は、誰でも常識的に楽観していたようだ。すなわち、昭和十六年初頭の時点では、物資の不足した日本国内では、きびしい戦時体制下に、物情が騒然としていたが、さすがは世界一の富強をほこる米国では万事、ゆったりとしてコセコセせず、とくに米国の西岸最大の港都として、長年、日米貿易の繁栄に依存していたサンフランシスコ市の各界有力者と市民大衆は、衷心より『太平洋の平和』を願望して、野村大使の着任を明るい表情で歓迎したものだった。また米海軍も、この遠来の提督大使を親しい儀礼をもって迎えた。
昭和十六年二月六日、サンフランシスコにて―― 太平洋の危機に重き使命を帯びて赴任する新駐米大使野村吉三郎大将は、二月六日午前九時入港の鎌倉丸で、多数の在留邦人の感激的出迎えを受けながら、元気よくサンフランシスコに上陸第一歩を印した。この朝、未明に、アメリカ駆逐艦『キング』『ローレンス』二隻が港外三十五マイルの沖合いに野村大使を迎えて敬意を表し、やがて金門湾(ゴールデン・ゲート)の入口に近づくとプレディシオの要塞から、殷々(いんいん)たる十九発の礼砲が発射され、劇的光景を呈した。
前夜来の濃霧は名残りなく晴れて、サンサンたる陽光が青き空と海に輝き、いかにも新大使を歓迎するようだ。私も薄暗いうちから、日本郵船会社の埠頭に出掛けてみると、各新聞社の米人記者とカメラマン、それにニュース映画の連中がじつに六、七十人もすでに詰めかけてたいへんな騒ぎだ。そこへ河崎総領事代理をはじめ、百名以上の在留邦人官民代表が集まったので、大きな二隻のランチも、超満員だ。『過去五十年、日本から多くの大使が来たが、こんな盛大な出迎えを受げたものはない』とは、在留同胞の古老の感激した話である。午前八時に検疫が終わると、米人記者団を先頭に、一同は鎌倉丸になだれのように乗り込んだが、巨体の野村大使はグレーの背広服にくっろいだようすで、二コニコ笑いながら、みんなと愛想よく握手を交わし、少しも長い船旅の疲れを見せない。この数日来の冬の荒天で、海はだいぶ荒れて、顧問役の司行り若杉公使など、すっかり弱っていたが、野村大使は、さすが海軍で鍛えた提督大使らしく元気よく、ただちに記者団の包囲の中で、悠然と煙草をくゆらせながら、まず別項の声明書を発表した後、自由質問にうつった。米人記者のヤンキー流の不遠慮な質問は、『アドミラル、日米関係は絶望だと思うがどうか?』と詰め寄れば、野村大使は相変わらず童顔をほころばせて、通訳もぬきにして、少しなまりの強い流暢な英語で、『私は日米関係の前途に大きな希望を持っている。その希望を抱いて、これからワシントンに赴くのだ』と、なかなか素人放れのした名大使ぶりだ。
「 問『提督は、ルーズベルト大統領を知っておられるか?』
答『私が、一九一五年(大正四年)のはじめより一九一八年(大正七年)の秋まで、ワシントンで海軍武官をしていたとき、ルーズベルト氏は海軍次官であったから、よく知っている。このサンフランシスコには、一九二九年(昭和四年)に、練習艦隊司令官として来たので懐かしい』
問『日米戦争について意見は?』
答『私は日米間の戦争など、いまだかって考えたこともない。いま私の考えていることは、ワシントンに赴いて日米関係を改善することだ。戦争など、到底考えられないことだよ』
問『では、日米関係の改善は可能なりや? それならば、その理由は?』
答『日米関係を改善することは、私の信念である。それは理由などを超越した断固たる信念である。私はこの信念を持って太平洋を越え、いまからワシントンへ向かうのだ』
問『日本国民の対米感情は?』
答『わが国民は全体からみて、日米両国の友好親善を望んでいるよ』
問『シンガポールは、東亜新秩序の中に含まれるや?』
答『そんなバカなことはあるまい。現に、シンガポールは英国の海軍根拠地ではないか! 蘭印(オランダ領インド諸島)についても、いまわが国は堂々と、通商使節を派遣して交渉している。目的は、ただ貿易の増進にほかならぬ』 」
かくて、米人記者団の包囲線を、みごとに突破した野村大使は、今度は新聞カメラ班と、ニュース映画陣の二重包囲を受けたが、悠々たる態度で、たくさんのマイクの前で英語のスピーチを二分間ばかりやってのけて人気を博した。さすが人なつっこいヤンキー連は、だれも野村さんを『大使(アムバセダー)』とか『閣下(エクセレンシー)』とは呼ばず、きわめて親しそうに『提督』と敬称ぬきで呼んでいたのは面白い。 (中略) 上陸後、午後から野村大使は答礼の意味で、陸軍司令官デ・ウイット中将、海軍管区司令官ヘップバーン少将、サンフランシスコ市長ロッシー氏らを訪問して歓談した。また同夜、市内の日本人倶楽部で在留邦人団体合同主催の大歓迎会が開かれる。 (後略) 
3 評判がよかった提督大使

 

さすがに米国は、『新聞と言論の自由』を、なによりも尊重する民主主義の国だけあって、たとえワシントン政府が、いかに刻々悪化する欧州戦局と国際情勢について、反日独伊枢軸の政策を強調しても、『太平洋の平和』を熱望する米国西岸地方、とくにサンフランシスコ、ロサンジェルス方面の新聞論調と世論は、意外なくらい日本にたいして友好的であり、とくに野村大使の赴任を、『平和の使節来たる』と呼んで大いに歓迎した事実を、私は日本人記者として、現地で目のあたりにして忘れることかできない。それで当時の私の打電した記事を、もう少しつぎに引用して読者諸君の参考に供したい。それは後述するように、ヒトラー憎悪とナチス打倒と、反枢軸熱に燃え立つ戦時的色彩の強烈な、首都ワシントンの雰囲気と新聞論調とは、まったく『これでも同じ米国の新聞であろうか?』とおどろくほど、相反して不思議な対照を示していたからだ。しかし、よく考えてみると、当時の軍国日本のような厳重な新聞、言論統制と暗い検閲で規正された新聞界とはちがって、ルーズベルト大統領の対英ソ軍事援助反対、参戦反対、徴兵反対と、なんでも自由に堂々と政府を非難、攻撃できたアメリカ新聞界なればこそ、広い国内で東部と西部で、米国民の対日観がいろいろ異なっていたのは当然であったろう。
「 野村大使、大いに笑う――米紙鳴物入りの歓迎振り (当時の東京朝日新聞の見出しによる)
昭和十六年二月七日、サンフランシスコにて――二月六日、米国に上陸第一歩を印した新駐米大使野村吉三郎大将は、その堂々たる米人にひけを取らぬ体格と、人なつこい鷹揚な態度が非常に好感をあたえたとみえて、サンフランシスコの各新聞は、いっせいに大使の写真を、驚くほど大きく第一面に掲げ、いずれも二百行ないし三百行の長文の会見記事を、記者の署名入りで派手に掲載している。
まず、六日付夕刊では、『コール・ブレティン』紙が、第一面の三分の一ほどのズバ抜けて大きな写真をのせて、その大見出しは、「新しき日本の使節、サンフランシスコで歓迎さる。彼は平和を予見す、日米関係は決して望みなきにあらず、いな有望なり」とあった。
また、有力なスクリップス・ハワード系(全米チェーン)の『サンフランシスコ・ニュース』紙は、野村大使の大クローズ・アップ写真の見出しに、『私は偉大なる希望を抱く』と記して、大使の人物と経歴を詳細に紹介している。
つぎに七日付の朝刊では、『サンフランシスコ・クロニクル』紙が、非常に友好的な筆致で、『日本の使節野村提督、平和の希望を抱いて着任す』と大見出しの下に、つぎのように論じている。
『野村提督は偉大なるアメリカの友である。そのすばらしい体格は六フィート豊かで、体重は百九十ポンドである。六日午後、第四軍司令官ジョン・デ・ウィッ卜中将の案内で、野村大使はプレシディオ兵営を視察し、歩兵第三十連隊を閲兵せり』
また、『サンフランシスコ・エキザミナー』紙は、野村大使がキワドイ質問をたくみにそらしてゆくのを、皮肉まじりで、『野村提督は、みずから外交の素人と称しているが、なかなかどうして立派な外交官ぶりである。
なにを訊ねても、肝心なところは豪快にハッハッハッと哄笑してゴマ化してしまう』と、大々的に書き立てている。 」
サンフランシスコの新聞界では、日本人でこんなに大きく書き立てられたのは、じつに一九二一年(大正十年)のワシントンの軍縮会議に出席するため渡米した日本代表(日本全権徳川家達公、加藤友三郎海軍大将)一行以来はじめてのことである、といっている。また、七日午後には、サンフランシスコ第一の社交クラブであるボヘミアン・クラブで、米国西岸一流の有力者と名士を網羅した、商工会議所と、外国貿易協会共同主催の野村大使歓迎午餐会が盛大に開かれた。出席者は商工会議所会頭パース氏。市長ロッシー氏、陸軍司令官デ・ウィッ卜中将、海軍司令官へップバーン少将以下百数十名で、いずれも野村大使の平和使命達成を祈って乾杯した。とくに、パース氏は一同を代表して、
「 『サンフランシスコの繁栄は太平洋の平和にあり、我々は評論家連中のいわゆる、「すでに手遅れだ」という言葉を信じない。なぜならば我々は今ここに、閣下のごとき日米親善に努力する偉大な、理解のある友を見出すからである』 」
と歓迎の辞を述べた。これに応えて大使は力強い口調で、
「 『いま貴下は、サンフランシスコの繁栄は太平洋の平和にありと述べられたが、太平洋の平和は、ただサンフランシスコの繁栄の重要な要素であるのみならず、日米両国の繁栄の重要な要素である。さらに我々は実際に、全人類の平和を守護する義務がある。この狂瀾怒濤時代において、平和達成は日米両国民の非常な努力に待つのみであるが、我々はここに、微力を尽くして努力する覚悟である』 」
と述べて、満場の喝采を博した。このように野村大使は、米国上陸第一歩のサンフランシスコ市では、予想外に日米関係者多数から熱烈な歓迎をうけて大いに感動したようすであり、それらの歓迎会に同席した私もまったく肩身の広い思いがして、『日米関係はまだまだ大丈夫である』という楽観的気分がわき上がった。ところが、太平洋岸のサンフランシスコから、はるか数千マイルもはなれた東部地方、とくに首都ワシントンの空気はガラリと一変していた。私は野村大使一行とともに、最新式流線型特急に同車してシカゴ経由、ワシントン入りをして冷厳な現実に驚いた。それはサンフランシスコの熱烈な歓迎が、シカゴ(列車乗り換えのため途中下車して、ホテルでしばらく休憩したが、インタビューにやって来た米人記者はわずか数名だった)では無関心に変わり、さらにワシントンでは、冷やかな敵意に変ったのだ! この太平洋戦争直前の歴史的な一年間の、米国の政治的気候と社会的雰囲気については、これまで日本側の戦史、戦記類には一切、取り上げられていないようであるから、その当時の私の古い手記から、つぎの一節を引用、紹介しておきたい。これは日米戦争への道の、ささやかな歴史の指標となるものだ。
「 『蒼茫たる太平洋を一望に眺める港都サンフランシスコ市のノップ・ヒルの丘の上に聳える古めかしいフェアモント・ホテルの同じ五階に、私は野村大使一行と部屋をわかち、またモダン高層建築のマータ・ホプキンス・ホテルの夜会に、あるいは古風なボヘミアン・クラブの歓迎宴に、私もまた招かれて出席して、いかにも力強く頼もしい六十三歳の老提督大使の巨姿と人気に深く印象づけられた。二月八日夕、サンフランシスコ対岸のオークランド発の流線型特急「サンフランシスコ市」号は、太平洋の平和の希望をのせて東へ発進したが、町深きロッキー山麓のオグデン(ユタ州)でもシャイアン(ワイオミング州)でも、途中の停車駅には、かならず多数の在留邦人代表が家族を連れて、遠方よりはるばる駆けつけて出迎え、早暁や深夜にもかかわらず、野村大使に心尽くしの花束や握りずしや、果物を贈って、同胞の涙ぐましい熱誠を捧げたのであった。老大使もまた、寝る間を惜しむように、特急列車の停まるごとに服装を正して駅頭に降り立って、わずか数分間の停車の合間に、在米同胞の意気と覚悟を励まして、「日米関係はかならず好転するように全力を尽くしますから、みなさんは心配せずに、生業に精励してください」と感激をこめて応えたのであった。二月十一日、紀元節の朝、野村大使一行と共に私はワシントンに到着したが、さすがにヒトラー打倒のため、対英ソ軍事援助に懸命な米国の首都には、独伊枢軸国と結んだ軍国日本に対する冷やかな敵意が満ちていた。早朝の駅頭に出迎えたのは日本大使館幹部と、在留邦人商社代表たちとワシントン駐在の独、伊両国大使のみで、米国務省から儀典課の役人一名が姿を見せたが、新聞記者はまったく野村大使の着任を黙殺したように来なかった。太平洋沿岸地方の日米間の平和を願望する雰囲気は、ここには少しも感じられなかった。それは東亜の新秩序をめざす日本の生死を賭した闘争に対し、米国全権帝国主義の露骨な挑戦の相貌であった』 」
はたせるかな、野村大使のかがやかしい使命は、じつは暗い険悪な道であり、日米交渉は予想以上に当初から難航を覚悟せねばならなかった。その理由は、いろいろ複雑多様ではあったが、最大の難関は、すでに深刻なドロ沼化した『支那事変』(日中戦争)の処理に関する、日米両国の立場の根本的対立と、日本の政府対軍部の不統一(とくに近衛首相、松岡外相、東条陸相の三者三様の思惑と権力争いと責任回避)であった。かくてワシントン着任以来、野村大使の個人的信用と、努力と善意が、いかに涙ぐましいものであっても、米国側ではまったく強硬で譲歩する気配がなく、しかも交渉方針をめぐり、松岡外相と野村大使の間には、しだいに感情的なミゾが深まり、日米交渉の前途には、時日がたつにつれて、暗い影がただよってきたのだ。それは、いかに旧友のルーズベルト大統領の信用が厚くとも、野村個人の力では到底破れない厚い、非情な壁であった。では、野村大使は、はたして日米交渉について、本当に成算があったのであろうか? また、日米関係が刻々と悪化していた昭和十六年(一九四一年)はじめに、彼はなぜ軍人大使として、この至難な大任を引受けて渡米したのであろうか? かって野村大使が、大正四年(一九一五年)一月、在米日本大使館付海軍武官(海軍大佐)としてワシントンに着任した当時、ルーズベルト大統領は、少壮の海軍次官であったので親しく交際していたが、それ以来この両人は一体、どのような友情を持続していたのであろうか? 歴史的な日米交渉において、ルーズベルト大統領は、野村大使をいかに評価して扱っていたか? これらの日米交渉をめぐる幾多のナゾと、奇怪な軍事、外交の内幕こそ、まさに日米開戦前夜の軍国日本の秘めた矛盾と、苦悶を深刻に象徴するものであった。なお、日米開戦の年――昭和十六年の重大な歴史的意義については、つぎに掲げる一覧表を、ぜひ精読していただきたい。
昭和十六年の主なできごと――
1月 8日 陸軍が『戦陣訓』を示達す
1月11日 新聞紙等掲載制限令を公布実施す。
1月16日 全国の青少年団体を統合して、大日本青少年団結成式を挙行す。
1月28日 支那事変臨時軍事費累計百七十四億五千万円と議会で発表す。
3月 1日 教育の戦時体制化をめざして国民学校令公布。(従来の尋常小学校を、国民学校へ切り換えた)
3月 8日 野村吉三郎駐米大使がワシントンで、ハル米国務長官と日米交渉を開始す。
3月11日 米国政府は、画期的な武器貸与法を成立実施す。
3月12日 松岡洋右外相は、ソ連、独、伊三国訪問のため出発、スターリン、ヒトラー、ムッソリーニと重要会談を行なう。
4月 1日 東京、大阪で米の通帳配給制実施、また生活必需物資統制令公布。
4月 6日 欧州戦線でドイツ軍がギリシア、ユーゴスラビア両国へ侵入す。
4月13日 日ソ中立条約成立。満州国と外蒙の領土保全と不可侵を日ソ両国が声明。
4月16日 野村大使とハル米国務長官の間で日米了解案が成立す。
4月20日 米国、カナダ協定成立す。
4月22日 松岡外相が欧州より帰国し、日米交渉の了解案に反対す。
4月23日 ギリシア、対独降伏。(ユーゴスラビアは四月十七日に対独降伏)
5月 6日 スターリンがソ連首相(人民委員会議長)に就任す。(それまではソ連共産党中央委員書記長)
5月10日 独副総統ルドルフ・ヘスが和平交渉のためひそかに英国へ単独飛行して、英官憲に逮捕さる。チャーチル英首相は彼を相手にせず、ヒトラーは面目を失して激怒し、ヘスを狂人とみなす。 
5月10日 国防保安法施行。
5月12日 松岡外相は日米了解案の日本側修正案にもとづく交渉開始を野村大使に訓令す。
5月27日 ルーズベルト米大統領は、無制限国家非常事態を宣言す。
6月 6日 日蘭会談決裂す。(十八日に打切り声明)
6月12日 日ソ通商協定、貿易協定成立す。
6月20日 ハル米国務長官が野村大使へ覚書(日本修正案に対する米国対案)を手交す。
6月22日 独ソ開戦(独軍が対ソ総攻撃、侵入)、英国はソ連支持を声明す。米国も二十四日にソ連支持を声明。
6月23日 南京政権主席汪精衛が来日、近衛首相と会見す。支那事変解決につき討議の上、共同声明を発表す。
7月 2日 ソ連政府は対日政策が松岡外相の訪ソ当時と変わらずと声明す。しかし、同日御前会議で、『情勢の推移に伴う帝国国策要綱』をひそかに決定す。(松岡外相は対ソ開戦を主張す)
7月 7日 『関特演』(対ソ戦を想定した関東軍特別大演習)の動員令下る。これにより関東軍の総兵力は倍加して約七十万、馬匹約十四万、飛行機約六百機と記録されている。
7月16日 閣内不統一を理由に、第二次近衛内閣総辞職す。ただし近衛は、対ソ開戦と、独伊枢軸外交強化を主張する松岡外相を追放した上、七月十八日に大命再降下を受けて第三次近衛内閣成立す。
7月21日 日・仏印共同防衛協定成立し、二十八日、日本軍は南部仏印(サイゴン地区)に進駐す。
7月25日 米、英両国は日本軍の南部仏印進駐に対する報復措置として、日本の在外資産の凍結令を発布、対日経済断交す。
8月 1日 米国は対日石油輸出を完全停止す。
8月14日 ルーズベルト米大統領とチャーチル英首相の洋上会談により、『大西洋憲章』を発表、対独伊戦争目的、ナチス打倒、戦後の平和世界建設など八項目の米英共同宣言を行なう。(米国の対独参戦は、もはや時間の問題とみなされた)
8月28日 野村大使はルーズベルト米大統領に会見して、日米首脳会談を提唱した近衛メッセージを手交す。
9月 2日  政界の戦時体制化に即応して、翼賛議員同盟結成、三百二十六議員が参加す。
9月 6日 御前会議で対米英蘭戦争を辞せずとする『第一次帝国国策遂行要領』を決定す。
9月15日 米穀(べいこく=穀物)国家管理実施要綱を発表。
10月15日 赤色スパイ団首領ドイツ新聞記者リヒアルト・ソルゲ、元朝日新聞記者、近衛首相側近の尾崎秀実ら一味が一斉検挙さる。同日、ソ連政府はモスクワよりクイビシェフヘ移転す。
10月16日 第三次近衛内閣辞職。
10月18日 東条英機内閣成立、現役軍人が首相と陸相を兼任した軍部独裁体制が出現す。
11月 5日 御前会議で対米英蘭戦争を決意した『第二次帝国国策遂行要領』を決定す。(ただし、日米交渉が十二月一日零時までに成功すれば、武力発動を中止す)
11月 6日 野村大使と協力して最後の日米交渉に当たるため、来栖(くるす)三郎大使が東京発、香港よりパンアメリカン旅客機で渡米す。
11月10日 チャーチル英首相は日米が開戦すれば、英国も即時参戦すると演説す。
11月16日 第七十七回臨時帝国議会召集。
11月17日 ワシントンで米、英、蘭、中国四ヵ国会議開催。
11月20日 日米公式会談開始、野村、来栖両大使出席す。
11月22日 国民勤労報国協力令が公布施行さる。
11月26日 ハル米国務長官は野村、来栖両大使へ米国政府の対日回答――いわゆるハル・ノートを手交す(日本側提案の甲、乙両案とも拒否さる)。同日、米軍部はハワイ現地の陸海軍司令官に戦争警告を発す。
11月26日 南千島列島エトロフ島ヒトカップ湾に集結中のハワイ攻撃機動部隊(正規空母六隻基幹、指揮官南雲(なぐも)忠一中将=第一航空艦隊司令長官)は出港、オアフ島めざして進航す。  
12月 1日 日米会談はついに最終段階に到達し、御前会議でついに対米英開戦を決定す。
12月 8日 (米国時間では十二月七日、日曜日)日本軍はハワイ真珠湾軍港を奇襲攻撃、またマレー半島に上陸、米英両国に対して宣戦布告の詔勅下る。かくて太平洋戦争の火蓋が切られた。  
W 日米会談かくて決裂す

 

1 野村吉三郎大将未公開手記
いま私の手元には、泥史的な日米会談に関する、当時の駐米大使野村吉三郎大将の貴重な手記がある。これは、昭和三十五年十一月に、私が監修者として関係していた、日本テレビの連続ドキュメンタリー番組「日本の年輪――風雪二十年」(全百十一回)の一篇として、「日米会談」取材のために、テレビ・カメラ班数名を同行して、東京・日本橋にあるビクター本社の社長室で、野村老(当時八十三歳)と会談、録音したとき、几帳面な野村老(当時ビクター社長)が、みずから便箋数枚にメモ的に手記して、私に手渡してくれたものである。野村大将は、終戦直後に、『米国に使して――日米交渉の回顧』(昭和二十一年七月、岩波書店刊)と題する大冊の記録を刊行して、その当時のいきさつを、くわしく述べているが、しかし、戦後十五年もたっているので、その考え方も、回想の内容も、変わってきたことは当然であろう。その意味から、この私の手元に残された手記こそ、いまは亡き野村大将の、おそらく絶筆として、きわめて貴重な価値があり、興味ぶかいものであると信ずるので、ここにはじめて紹介、発表するしだいである。
「 (1)米国赴任当時(昭和十六年二月)
『私は、駐米大使の就任を一応、辞退しましたが、それは、日本が新たに日独軍事同盟を結ばんとしており、いわゆるイタリアを加えての三国同盟は、それ以前の平沼内閣で論議された防共協定を強化した三国同盟とは性質を異にし、米国の英国等援助のための参戦を阻止せんとする、すなわち戦争を制限せんとするものである。これは対米、対英関係を極端に悪化するは必至と考え、かかる国際情況をつくり上げては、自分は日米間の妥協を遂行する十分の自信なしと認めたからである。海軍の当局者は。日米戦争は避けねばならぬ、と考えていて、私がルーズベルトと個人的親善関係にあるのを好材料として、出馬をうながし、松岡外相もまた、熱心に私を推すので、とうとう就任いたしました。松岡氏との話の間では、あるいは日米戦争はアーマゲドン(世界最終の決戦場)であるとか申し、また、「君も、もはや湊川に行って然るべき時ではないか」とも言い、さらに日米戦争を避けたいが、あるいは避け得ず、私に楠木正成の役割を演ぜよとも言ったわけである。私は、けっして楽観はしていなかったが、米国の軍備情況より見て、米国も二正面戦争を避けるよう努力するであろうから、ここに活路を見出せるかも知れないと思っていた』
(2)日米交渉有望(昭和十六年三月−五月)
『ピショッブ・ウォルシュと神父ドラウト(昭和十五年十二月にひそかに来日して、近衛首相、松岡外相とも会見し、日米妥協工作に努力す)は、日米戦争は愚だと考えていた。私も同じ考えで、ギブ・アンド・テイクの常道をもって、平和の方へ方針を確定すべしだと考え、これはわが国の国利民福の上からも当然の途だと確信していた。私は、第一次大戦の間、約四年間、海軍武官として米国の国力を熟知し、また米国の歴史と、その国民性とを熟知している。私としては当然のことであり、開戦のまぎわまで、いかなる協定も戦争よりましだ、戦争は、両国間の問題を解決し得ないと、両人も申していた。私と通じる米人は、よくこれを承知しており、国務長官ハル氏の著書にも、私が平和を維持するため終始一貫、誠実をもって努力したことで「クレジッ卜」をあたえると書いている。また、評論家のデヴィッド・ローレンスなども、同様の批評を、しばしば、くりかえしている。そこでこのメリノール教派(米国のカトリック教の有力な教派)の二人の宗教家と、日本から出張した井川忠雄(元大蔵省官吏)、岩畔豪雄(当時、陸軍省軍事課長、陸軍大佐で野村大使を補佐するため特派された)の両人とが作成した平和の案を見て、大使館の公使、参事官、陸海軍の武官を加えて慎重に審議した上にて、一日、ハル長官と会見し、東京へ回訓を求めた次第である』
(3)日米交渉難航(昭和十六年六月〜十月)
『瀬踏(せぶみ)的の話は太平洋の平和を維持するための話であり、それには支那問題はつきものである。支那問題となると、撤兵問題が大問題となってくる。はじめは、防共(共産の文字は、米側にはばかって地下工作とす)、駐兵は認めねばならぬぐらいの気分であったか、先方は、だんだんと硬化してきた。そこで日本は、仏印のサイゴンまで進出したとき、経済断交となった。油が来なくなるとなれば、日本としては大問題である。このころ、近衛首相は大決心をもってルーズベルト大統領との会見を申し込んだ。当時、チャーチルと大西洋で艦上会談をやり、大酉洋憲章を作成して帰ってきたばかりのルーズベルトは、即刻八月十七日(月)に私を呼んで警告をなし、近衛との会見には、大なる色気を示した。しかし、予備会議で成案を得てから、両者会見では批准をすることを申し出て、交渉は頓挫(とんざ)をきたした』
(4)日米交渉決裂(昭和十六年十一月〜十二月)
『そのころ、私も会談が行きづまれば、しばらく中止し、私は帰朝を命ぜられてよかろうと、いちじは考えた。私は、元駐日米国大使だった米人の友人を訪問して(この人は日米戦うべからずとの信者であったが)、私は、いちじ話を中止して、世界の形勢をも見つつ、若干のときをへてから、話を再開するのも、一方法であろう。米国は民主国であるから、突然日本にたいしては戦争はしない。日本もまた、米国にたいし戦争をはじめないと思う、と私はかたった。戦後に、同氏より、「あの君の言葉は忘れない」と申して来た手紙があります。しかし、十二月七日(米国時間)に、ついに戦争がはじまった。当日、私は、午後一時に国務長官に、最後的公文を交付すべく命ぜられた。電文の翻訳、タイプ清書がおくれ、国務省に到着したのが、午後一時四十分であり、ハル長官に会ったのは、午後二時二十分であった。ハル氏は当時、すでに真珠湾攻撃の実情を知っていて、また私の持参した公文をすでに傍受、暗号解読していたらしい。私は、その公文をよく読むひまもなく持参したくらいで、真珠湾攻撃はまだ知らなかった。ハルの著者には、「野村は泰然自若としていた」と書いてあり、その後に、当時の心境を、私に問い合わせにきた新聞記者もあった。いま私は、日米親善が、太平洋の平和を保ち、日本の経済発展に、もっとも重要な基盤であると確信している。中立政策などは、過去の経験に学んでも、絶対にとり得ざるものと信ずる』 」
また、日米交渉の当時、野村大使の下で一等書記官として勤めていた私の旧友の奥村勝蔵君(戦後に外務次官、スイス大使を歴任す)は、昭和三十九年五月八日に、八十七歳で死去した野村老の追悼文の一節で、つぎのように述べていた。これもかくれた史実の断片だ。『野村さんが、近衛内閣から、駐米大使の話をはじめて持ちかけられたのは昭和十五年の夏である。松岡外相は、文字どおり三顧の礼をつくしたが、野村さんは、頑強に断わりつづけた。当時の政府の方針の下では、日米交渉はできない、とみていたからだ。ところがある日、まったく突然、これを引受けてしまった。「陛下に御心配をおかけするようなことになっては……」という声が耳にはいったからである。日本海海戦に初陣を飾った海軍大将である。まさかの時には、勝敗にかまわず、戦(いくさ)に出ねばならなかったのだ』 
2 米英討つべしの徳富蘇峰(とくとみそほう)

 

戦前と戦時をつうじて、軍国日本の国家主義的な言論の大指導者として、きわめて大きな勢力を張り、また多数の論策で国民大衆をあおりたてて、いわゆる、『米英撃滅』とか、『一億総決起』へ拍車をかけていたのは、言論報国会会長徳富蘇峰翁であった。彼は、明治、大正、昭和の三代にわたる言論人の最長老であり、その烈々たる皇室中心主義と大東亜政策は、まことに軍国調の強烈なものだった。そして、国家主義陣営の大御所として名声を高めていた。近衛内閣が、昭和十六年一月、海軍部内の米国通として知られる野村吉三郎大将を駐米大使に起用して特派したころには、すでに徳富翁の『米英討つべし』という熱弁が、日本全国にこだまするようにひびきわたっていて、もはや、時期おくれの感じさえある日米交渉の前途には、その第一歩から、すでに暗い影がただよっていた。では、米英排撃をめざした、当時の国家主義思想と論策とは、いったいどのようなものであったか? その見本として蘇峰翁の、いわゆる、『憂国の大文字』を、つぎに紹介しよう。これは、今日の若い世代の人々には、まったく理解しがたい奇怪千万な印象をあたえることだろう。
「 敗北思想――
『およそ、必勝にもっとも大切なるは、戦闘意志の熾烈(しれつ)なることである。戦争においては、いかなる場合においても、もっとも避くべきことは生(なま)ぬるいことである。ことに戦闘に対する生ぬるい根性は、一膜を隔てたる敗北思想にほかならない。世の中には、いずれ遠からず講和の時節も来るであろう。その場合には米英とも握手せねばならぬ。その時節到来をいまから準備して、必要もなきに彼らの感情を刺激するやら、彼らをして、わが国に対して怨恨を抱かしむることは、なるべく控え目にするがよしという者があるが、語を換えて言えば、どうせ喧嘩の仲直りをするから、叩くにもなるべく怪我をさせぬごとく叩けという話であって、すなわち、これは品を変えたる立派な敗北思想と言わねばならぬ。
元来、米英のわれに対する敵意は、我らが想像するほどなまやさしきものではない。彼らは、病院船と知りつつ、ことさらこれに向かって魚雷を発し、爆弾を落としたではないか。彼らはなんら戦争にゆかりのなき、わが在留国民をあたかも敵国の捕虜同様、いな、それ以上に残酷に取り扱い、ほとんどわが同胞をして死に至らしめんとし、しかも死する以上の苦痛を舐(な)めしめたではないか。現に米日親善使節と標榜して、わが国に在留したるクルー(開戦前まで日本に十年間駐在していたジョセフ・Cクルー米国大使)のごときも、いまは抗敵思想、抗日思想の宣揚を御用第一として、全国を行脚しつつ宣伝して回っているではないか。 クルー曰(いわ)く、「強大なる敵日本を打倒するには、ただ日本の軍事力のみでなく、歴史的なる日本人の民族的精神と伝統を抹殺するところまで行かねばならぬ」と。また曰く、「我らは日本の軍隊さえ殲滅すれば、日本の脅威を除去し得るがごとく速断すべきものではない。日本の脅威の抜本的除去は、日本の軍隊を絶滅したる上、歴史的なる日本の精神、伝統まで抉(えぐ)り出してしまわぬうちは、日本に勝つたということはできない」と。
これは、クルー一人の意見ではない。ルーズベルトが日本人を世界より葬り去れと言ったことは、かならずしも、単に大言壮語とのみみなすべきではない。彼らはまさしくあくまで日本を憎んでいる。また恐れている。かかる場合において、我らが彼らにたいして、何を酬ゆべきかということは多言を要しない。我らは我らの生存を擁護するために、我らを滅絶せんとする敵に向かって、一大打撃を加うるは、これは我らの祖国と祖先とに対する一大任務である』 (以下省略) 」
「 自由主義の一掃――
『わが国においては、共産主義か猛獣毒蛇よりも憎むべきことをみな知っている。しかし、自由主義がさらに恐るべきものであることには、ほとんど注意する者は少ない。されど自由主義はお玉杓子(たまじゃくし)のごとく、共産主義は蛙のごときものである。自由主義は毛虫のごとく、共産主義は蝶のごときものである。おおむね共産主義は自由主義が行き詰まったところに出できたるものであって、自由主義を歩行する者が、その関門に行き当たり、その一関を排しきたるところに、共産主義は出できたるものである。されば共産主義を杜絶せんとせば、まず自由主義に警戒を加えねばならぬ。わが国が共産主義のもっとも流行したるときは、他方において自由主義のもっとも流行したるときであった。明治末期より大正の上期を回想すれば、我らはじつに、今日でも戦慄を禁ずるあたわざるものがある。我らは単に東亜よりアングロ・サクソン人を退却せしむるばかりでなく、アングロ・サクソン人が植えつけたる自由主義を一掃せねばならぬ。自由主義、すなわち、アングロ・サクソン思想である。この思想が存在する間は久しからずして、再びアングロ・サクソン人が頭首をもたげきたることは疑いを容れない。王陽明(一四七二年〜一五二八年、支那の明代の有名な儒者、役の知行合一の説は陽明学としてわが国にも栄え、中江藤樹、熊沢蕃山などを出した)は、「山中の賊を破るは易く、心中の賊を破るは難し」と言うたが、敵の軍隊や飛行機や、戦車や魚雷やは、みなこれ山中の賊である。しかも自由主義は、すなわち心中の賊である。この賊を退治せざる以上は、東亜は決して新秩序を樹立することは出来ない』(徳富蘇峰著『必勝国民読本』)  」 
3 日本人とドイツ人

 

これが、いわゆる決戦下の、軍国日本の国民思想の中核をなす考え方であったが、このような偏狭、独善、狂気のような皇国イデオロギーは、すでに、満州事変から日中戦争(支那事変)にかけて、軍国日本の新聞、言論界を、強大な軍部の圧力を利用して、しめつけるように、刻々と圧倒しつつあったのだ。戦後の自由、民主主義の今日から回想すると、これは、まことに奇怪な、軍国主義的な思想の悪夢というほかない。だが、戦時中は、日本中の新聞も、雑誌も、すべてこのような決戦思想と、聖戦史観で埋めつくされて、『一死報国』とか、『一億玉砕』とかいった、人間性をまったく無視した、神がかりの超国家主義が、日本国民大衆を、まるでガンジガラメに重苦しく押さえつけていたのである。結局、軍国日本は、武力戦にも完全に敗れたが、思想戦にもまた見苦しく敗れ去り、いわば百八十度の思想転換と、完全な西欧デモクラシーによる洗脳を行なったわけだ。このような敗戦の重大な結果を、いったい開戦前に、日本政府と軍首脳部の中で、だれが、はたして予想したであろうか? ここに、結果論ではあるが、太平洋戦争の奇妙な誤算と、大義名分上の深刻な矛盾があることを忘れてはならない。我々日本人にとっては、忌まわしい敗戦の結果をもたらした太平洋戦争の正体と真相を、このような武力戦と並行した思想戦の観点から再検討することは(これまであまりに黙殺されてきただけに)、大いに意義があると信ずる。西ドイツでは、老練なジャーナリストのヘルマン・アイヒの著書『気味の悪いドイツ人』が大評判になったが、これは『愛されないドイツ人』と題した英語版まで出て、欧米で大論争をまぎ起こした。それは、二回の敗戦をなめたドイツ人がいっこうに、精神も根性も考え方も変わっていない点を強調した、自己反省と弁解の本であり、『我々ドイツ人は神を恐れるが、それ以外は世界中でなにも恐れるものなし』と、国会で豪語したプロシアの鉄血宰相ビスマルクの言葉が、つねにドイツ民族の精神の中に生きていて、それが世界中からドイツ人が嫌われ、憎まれ、孤立している理由である――と説いている。これに反して、我々日本人の場合は、ただ一回の敗戦の結果、しかも同一の天皇制が、形式を変えて残ったのに、幸か不幸か、日本精神も、国粋主義も、考え方も、あまりに一変し、急変してしまったのは、いったい、どういうわけなのであろうか? 皮肉にも、そのせいか、戦前にあれほど好戦国民として憎まれた日本人が、いまや世界中から『愛される日本人』として、大歓迎をうけている。そして、米英の代表的新聞は、こぞって今日の民主日本における平和愛好と、反戦感情の強さに驚いているようだ。敗戦によって、魂から思想まで、すっかり一変したらしい日本人と、敗戦によって精神も根性もいっこうに変わらないドイツ人と、はたしてどちらが幸福なのであろうか? 
4 天皇制は衣がえして残った

 

世界の注目を集めた東京裁判の判決が終った昭和二十三年十一月、大任を果たした裁判長ウイリアム・ウェップ卿(オーストラリア代表判事)は、つぎのような感想を、内外の新聞記者団にもらした。それは、彼が豪州人であるという立場から、米、英、ソ三大国の圧力に、かならずしも左右されないで、独自の厳正公平な発言をすることができたからである。日本占領行政の政策的目的から、天皇擁護を強調した米国側と対立した彼の、いわゆる少数意見は、終戦直後の天皇制存廃にかんする、内外の悪夢のような世論を反映するものとして、忘れてはなるまい。
「 『天皇の権威は、天皇が戦争を終結したとき、疑問の余地のないまでに立証された。それと同じように開戦にあたって天皇の演じた顕著な役割が、検察側から指摘されたが、それと同時に検察側は、天皇を起訴しないことを明らかにしたのである。私は天皇が開戦にさいして果たした役割にもかかわらず、その裁判を免除されたという事実は、本裁判の被告らの刑を決するにあたって、当然に考慮されなければならないと思う。天皇が平和を望んだという証拠はあるが、立憲君主制下の日本の元首として、天皇は、政府、その他からの好戦的勧告を、自己の意思に反してかも知れないが、とにかく受入れたのである。戦争開始には、天皇の権威が必要であり、もし天皇が、戦争を欲しなかったのであるならば、天皇は当然、その権威を保留すべきであった。天皇がつねに、周囲の進言にもとづいて行動しなければならなかった、という意見は証拠に反するが、またかりにそうだとしても、天皇の責任を軽減するものではない。私は、天皇が処刑されるべきであったというのではない。これは私の管轄外である。天皇が裁判を免除されたことは、疑いもなく、すべての連合国の最善の利益にもとづいて決定されたものである』 」
いっぽう、マッカーサー元帥の極秘の命令により、天皇の戦争免責、無罪論について、東京裁判の法廷で最大の努力をつづけて成功した米国側主席検察官マ元帥の最高法律顧問キーナン検事は、この判決をめぐるウェップ裁判長の談話にたいして、
「 『ウェップ裁判長は、天皇が、かならず補佐者の意見を受入れなければならなかった、ということについては証拠不十分だと思っているが、天皇が平和論者であったことは、証拠によって証明されている。その事実に、ウェップ裁判長は触れていない。もし検察側が責任ありと考えたならば、天皇は被告席に座っていたであろう』 」
と、ただちに強い語調で反駁したものだ。また、キーナン検事は、その歴史的な任務を首尾よく遂行して帰米する直前に、東京裁判の最大のヤマであり、世界注目の最大焦点であった天皇問題について重要談話を発表したが、それによると、つぎのような新しい事実が確認されて、その当時、大きな反響をまきおこした。
「 (一) 天皇制廃止を主張したソ連のスターリン首相も、結局、天皇不起訴に同意した。
(二) 最初、キーナン検事は、天皇を証人として、東京裁判法廷に召喚するつもりであった。
(三) もし天皇自身が法廷に召喚されれば、天皇にとって有利な証拠をまったく無視して、自分一人で全責任を負う決心である、とマッカーサー元帥に天皇が告げていた。
(マ元帥は、この天皇の言葉を重視して、天皇の不起訴はもちろん、不召喚をもひそかに指示したらしい) 」
この赤ら顔のデップリ肥ったキーナン検事は、日本占領中の米軍の威光をカサにきた首席検察官として時めいて、傲慢な態度を示していたので、一般に日本では、あまり評判がよくなかったようであるが、ただ天皇制支持の一点だけは、日米両国のために彼の大手柄であったようだ。彼は帰米直前に、宮中方面といわゆる生残りの重臣たちから、ひそかに深甚な感謝の意を示達されたそうであるが、彼の発表した談話の要旨は、つぎの通りであった。それは、『かくて天皇は退位もせずに居残った』という感慨が深いものだった。
「 『――天皇は、東条英機とともに戦犯容疑者として裁かれなかった。これは、戦勝諸国が政治的理由から、天皇に免罪の特典をあたえることに意見の一致をみたからである。証拠の点からみても、天皇を起訴する理由はなかった。しかし、天皇を裁判から除外したのは、連合国の政治的決定であって、この点については、ソ連のスターリン首相も、しぶしぶながら同意をあたえた。この決定は、政治的であり、検察当局のあずかり知るところではなかったが、いずれにせよ、私は首席検察官として、天皇を戦犯として起訴するだけの証拠はないと考えた。証拠の示すところによれば、天皇は、我々西欧的な考え方からすれば意志の弱い人物であった。しかし、天皇が終始、平和を望んでいたということは、はっきり証明されている。私個人としては、天皇自身の立場を説明するだけでもよいから、証人として出廷させたい、と思っていた。しかし、日本と同じように国王を戴く英国側から、そういうことは忍び難いとの反対があった。マ元帥の考えも、どちらかといえば、この英国の見解に近いものであったが、おそらくこれには、占領行政上の考慮があったものと思う。マ元帥が、私に語ったところによれば、もし天皇が証人として出廷させられたならば、天皇自身は、我々が証拠によって見出した、彼にとって有利な事実をすべて無視し、日本政府のとった行動について、みずから全責任を引受ける決心があったという。すなわち、証拠によって天皇は立憲国の元首であり、法律上また職責上、かならず側近者の補佐にもとづいて行動しなければならなかったことが証明されているが、それにもかかわらず天皇は、もし出廷させられたとしたら、このようなことを自己の弁解に用いるようなことは一切しなかったであろう』 」 
5 無条件降伏方式の大失敗

 

結局、軍国日本は太平洋戦争に敗北して、米英はじめ連合国側に無条件降伏をしたが、幸運にも連合国の主勢力たる米国側の政治的理由――とくに天皇の日本国民にたいする権威を、巧みに利用する占領行政の便宜上から、絶対天皇制は、いわゆる『位(くらい)すれども治(おさ)めず』とする民主的な象徴天皇制と衣がえをして戦後に残ったわけである。もしも米英側で、天皇制(いかなる形式にせよ)の存続を暗黙に認めて日本軍の降伏を要求していたならば、おそらく太平洋戦争は、広島、長崎両市への非人道的な原爆攻撃の大惨害をもたらす一年前(昭和十九年七月十八日、サイパン島失陥の責任を負い東条内閣が総辞職した時間をさす)か、おそくもレイテ大海戦(昭和十九年十月二十三日〜二十六日)で、わが連合艦隊が壮烈に全滅した直後か、あるいは沖繩大決戦(昭和二十年四月一日〜六月二十一日)の終了までに、降伏交渉は成立したことであろう。そうすれば、人命をあまりに軽視した特攻隊の悲劇も、B29による日本本土の残酷な焦土化もみないで、和平が実現したであろう。現在、米英の歴史家の間でも、ルーズベルトが、まず提唱して、チャーチルがこれに同調した、いわゆる『無条件降伏方式』の大戦略が、いかにドイツ国内の大規模な反ナチス抵抗運動(とくに一九四四年七月二十日の軍・民協力のヒトラー暗殺陰謀事件以後)を失望させて、無用の流血、抗戦をさらに、一年間も続行させたかについて反省、再検討を余儀なくされている。軍国日本の無用の抗戦も、やはり天皇制日本の打倒をめざした『カイロ宣言』(一九四三年十一月二十七日、カイロでルーズベルト、チャーチル、蒋介石が署名、声明す)がわざわいして、天皇制護持のみを、絶対の悲願として叫んだ狂信的な日本軍を徹底抗戦へと、ムリに追いつめて、日本軍にも日本国民にも、連合軍と同じように、莫大な犠牲者を続出させたわけだ。要するに、太平洋戦争にかぎらず、すべて戦争というものは、昔も今も、つねに開戦から終戦まで、敵味方ともに、誤算と矛盾の連続というべきであろう。いま、日米開戦の真相を追い、その内幕をさぐりながら、私は、公正で自由な戦史家として、やはり、この平凡な戦争の教訓をみとめないわけにはいかないのだ。確かに、軍国日本には、軍部の独善、独走をたしなめたり、抑制する勇気と実力と遠大な見識を備えた大政治家が、まったく欠けていたけれども、米、英、ソ三大国の三巨頭――ルーズベルトも、チャーチルもスターリンも、太平洋戦争をふくめた第二次大戦の遂行と処理については、やはり、後世の史家に、その真価を問われるような誤算とヘマをおかしていた。すなわち記録によれば、ルーズベルト大統領は、悪名高いヤルタ会談より帰米後まもなく、一九四五年(昭和二十年)四月十二日に急逝(当時六十三歳)する直前に、すでにソ連の独走によるヤルタ協定無視と冷戦の兆(きざし)を認めて心痛し、スターリンの不信を責める覚悟を、ひそかにかためていた模様である。また、第二次大戦の前半期に、孤軍奮闘中の英国の重大危機を奇蹟的に救った英雄的政治家チャーチルでさえも、この大戦こそ『不必要な戦争である』といみじくも喝破したのみならず、戦後の冷戦をむかえていち早く、『我々は戦争には勝ったが、平和に破れた』と長嘆息したものだ。またソ連では、『大祖国戦争の勝利の大指導者』として崇拝された独裁者スターリンも、その死後には、忠実な弟子のようなフルシチョフの手で、無残にも偶像の地位から引きずり下ろされて、ソ連大衆の前に、その狂乱した晩年の正体をばくろされる始末――。まことに、第二次大戦は、太平洋戦争をふくめて、敗戦国の指導者にとっても、勝利国の指導者にとっても、誤算と矛盾にみちた悔い多き戦争であった!  
X 真珠湾奇襲をめぐる黒い霧

 

1 真珠湾奇襲の意義と再評価
太平洋戦争は真珠湾で始り、東京湾で終ったといわれている。それは一九四一年(昭和十六年)十二月七日、日曜日(ハワイ時間)の朝七時五十五分、日本海軍の強力な空母機動部隊(指揮官南雲忠一中将、大型空母六隻基幹)が、ハワイの主島であるオアフ島の米太平洋艦隊基地、真珠湾軍港を、突然、大奇襲攻撃して太平洋戦争の火ぶたをきり、それから血戦死闘をかさねること三年八ヵ月後の一九四五年(昭和二十年)九月二日、日曜日(日本時間)の午前九時、東京湾内外に集結した米大艦隊の旗艦『ミズーリ』の甲板上で、日本政府および大本営各代表(重光葵外相と参謀総長梅津美治郎大将)が、連合国軍最高司令官マッカーサー元帥の前で『天皇および政府の命により、かつ天皇および政府の名において』降伏文書に署名して、血みどろな太平洋戦争の幕を閉じたことを意味しているのだ。おもえば開戦前から、軍国日本が世界一の富強を誇る米英両国を相手に戦っても、勝ち目は、ぜんぜんなかった。ただ日本の軍部は当時、まったくドロ沼化してぬきさしならぬ最悪状態に陥っていた支那事変(日中戦争)を、武力で打開するただ一つの、死にものぐるいの最後の方策として、いわゆる『米英撃滅』の聖戦へ、天佑神助を念じて突入したわけである。したがって、それは戦後の結果論から合理的にいえば、まことに無謀きわまる開戦決断ではあった。しかし、再三にわたる御前会議で、平和念願の天皇自身さえズルズルと戦争への道へ引きずられていったのであるから、軍国日本の悲壮な宿命として、我々国民大衆は、あきらめなければなるまい。だが、大本営が計画を立て、天皇が正式に裁可した対米、英、蘭戦争の開戦理由が、昭和十六年十二月八日付の詔書の中にいみじくも明示されたとおり、
「 『東亜安定ニ関スル帝国積年ノ努カハ悉ク水泡ニ帰シ、帝国ノ存立モマタ危殆ニ瀕セリ、事スデニ此ニ至ル、帝国ハ今ヤ自存自衛ノタメ決然起ッテ一切ノ障害ヲ破砕スルノ外ナキナリ』 」
ということを、一応認めるとしても、はたして戦端を開く手段として、真珠湾奇襲が最善の策であったかどうかについては、当時、大本営の内部にさえ強い異論があったくらいであるから、戦後に米英戦史家の間で、論争の的になったのは当然である。そして、日本人にとっては、まったく耳の痛い批判だが、有力な歴史家の見解はすべて、真珠湾奇襲が戦術上では、一時的の成功をおさめたとはいえ、戦略上からも、政略上からも、バカげた大失敗であったと、痛烈にコキ下ろしている事実は、けっして負けおしみの結果論として、黙殺することはできないだろう。もちろん、開戦劈頭の真珠湾奇襲をふくめて太平洋戦争の全貌と、真相の正しい評価ということは、旧交戦各国の異なる国民感情や、国際情勢のめまぐるしい複雑怪奇な変転によって、ますます困難になっているか、さりとて日本人にとっては、『忌わしい負け戦さ』であった太平洋戦争の実相を、もはや忘れたり、あるいは知らないままですましてしまうことは、二百六十万分同胞犠牲者に対しても、申し訳ないことではないか! その意味から、私は真珠湾奇襲の諸問題を、権威ある内外の最新資料にもとづいて、徹底的に究明して、いまだに世界的論争の的になっている、いわゆる、『真珠湾の黒い霧』の正体をできるだけ明らかにしてみたいと思う。要するに、実際、太平洋戦争の発端となった真珠湾奇襲こそ、軍国目本の敗北の第一歩であり、また、『ミズーリ号への道』の起点になることを公正に認識するならば、真珠湾奇襲の歴史的意義と功罪と、再評価は太平洋戦史上で、いちばん重大な問題であると信ずる。私の長年の親友で、太平洋戦争中に米国著名の軍事記者であったロバート・シャーロッド君(太平洋戦記三部作『タラワ』『サイパン』『硫黄島』の著者、米国の雑誌王カーチス出版社副社長)は、真珠湾奇襲の歴史的意義を、米国側の観点から、つぎのように論断しているが、それは、多数の米英歴史家の共通した評価を要約したものとして、注目すべきであろう。
「 『日本軍の真珠湾攻撃は、歴史上で一国が他国にくわえた、もっとも効果的な痛撃の一つであった。軍事上から見ると、それは、じつに完全な奇襲であり、まったく赫々(かくかく)たる大成功であった。しかし、全般的な戦略としては、それは正気のさたではなかった。すなわち、わずか二時間のうちに、山本五十六元帥(当時、海軍大将)麾下の日本海軍機の数波の編隊は、それまで和戦両論が争い、世論が分裂していたアメリカ合衆国を首尾よく一致団結させてしまった。そして、全世界の鉄鋼生産の半分を独占する人口一億四千万(当時)の、アメリカ全国民の強烈な戦意と怒りを、日本に対して圧倒的に投げつけさせるにいたった。かくて軍国日本にとって、太平洋戦争の最悪の錯誤は、じつにこの開戦のときにあったのだ』 」
もちろん、日本人の立場から、このようなドライな真珠湾奇襲論にたいしては、いろいろ異議もあるであろうが、それは、後でゆっくり取り上げて検討することにして、まずつぎに、いわゆる『真珠湾の黒い霧』のナソについて、その主要なものを列挙して、読者のみなさんの研究討議の課題として提供しよう。どうか、よく考えてみていただきたい。それについては、これから、じゅんじゅんに追及、検討するつもりである。
(1)戦前からすでに、日本側の暗号電報を自由に傍受、解読して、日本軍の軍事行動を明らかに察知していた米国政府および軍部首脳が、なぜ十二月七日(米国時間、日本では十二月八日に当たる)に、あのように油断して、大惨害をこうむったのであろうか? (これが米国内の反ルーズベルト派の政治家や軍人や、歴史学者や言論人たちが、戦後にとなえた、“ルーズベルト陰謀説”の論点である)
(2)開戦の前夜――すなわち、米国時間で十二月六日――(土曜日)の夜から翌七日の朝にかけて、米軍首脳のマーシャル陸軍参謀総長と、スターク海軍作戦部長の行動には、わざと日本側の開戦行動にかんする緊急な重要情報を見ないふり、知らぬフリをする不審な点が多かった。それはなぜか? (それはルーズベルト大統領から、なにか極秘に重大な指示があったような疑惑を起こさせるに足るものだった)
(3)日本政府から、ワシントン駐在の野村吉三郎大使を通じて、開戦直前――正確には真珠湾攻撃実施の三十分前――の十二月七日午後一時に米国政府へ手交すべき『日米交渉打ち切り通告』(事実上の最後通牒)は、なぜ別表の示すように一時間二十分ちおくれて、日本が『だまし討ち』とか『犯罪的攻撃』とか『裏切り奇襲』という屈辱的な汚名を着せられたのであろうか? (真珠湾奇襲を論ずる場合、日米間の時差と日付変更の点がよく混同され、誤解されやすいので、私は興味ぶかい開戦の歴史的事実にかんする一覧表を作成したから、よく御覧をねがいたい)
●日本機動部隊のハワイ真珠湾攻撃時刻と日米交渉打ち切り通告提出時刻(予定と実際)比較表
場所     通告予定時  攻撃予定時  実際の通告時 実際の攻撃時
      1941/12/7(日曜日)
ワシントン  pm1:00    pm1:30    pm2:20    pm1:25  (米国東部標準時)
ホノルル   am7:30    am8:00    am8:50    am7:55  (ハワイ時間)
      1941/12/8(月曜日)
東京     am3:00    am3:30    am4:20    am3:25  (日本時間) 
2 戦史家モリソン博士の正論

 

●真珠湾攻撃でのアメリカの人的損失
   戦死、行方不明、戦傷死   戦傷
海軍    2,008         710
海兵隊    109          69
陸軍     218         364
一般市民    68          35
合計    2,403        1,178
〈備考〉この真珠湾攻撃による米軍死傷者の内訳、数字は戦後の一九四七年に米海軍省医務局が補正発表したものであり、また、同年に米陸軍参謀本部次長事務局報告によるものであるが、戦時中の発表数字よりだいぶ減少している。その後、一九五五年に刊行された米海軍省戦史部編『第二次大戦アメリカ海軍年表』によると、戦死=(海軍)二、〇〇四名(海兵隊) 一〇八名(陸軍)二二二名、戦傷=(海軍)九二一名(海兵隊)七五名(陸軍)三六〇名と多少の増減を記録している。
米国の歴史学者で、ベストセラーの名著『オックスフォード版アメリカ国民史』その他、数十冊の一般歴史書と、米海軍省の準公刊戦史とみなされる『第二次大戦におけるアメリカ海軍作戦史』(全十五巻)の編著者として、世界的名声の高い戦史家サミュエル・E・モリソン博士(退役米海軍少将、ハーバード大学名誉教授)は、開戦直後にハーバード大学時代より親交のあった故ルーズベルト大統領へ進言して、厖大な『海軍作戦史』の編修計画を立てて、その全責任を引受けただけに、ルーズベルト支持派であることは当然である。モリソン博士はさすがに、古今東西の歴史に精通した大歴史家にふさもしく、太平洋戦争の背景と原因を精密に調査、検討した結果、米国側にいくつも誤算と油断があった事実をみとめながらも、真珠湾奇襲はあくまで、日本側の一方的な『だまし討ち』であったと、つぎのような結論を下した。
「 『――朝の十時には、戦い(真珠湾攻撃をさす)はすでに終っていた。いちばんしんがりの敵機群は、オアフ島(ハワイ群島の主島、首府ホノルルと真珠湾軍港がある)北部の上空で集合してその母艦ヘそれぞれ帰航した。近代史上で、戦争が一方の側による、かくも殲滅的な勝利によって開始されたことは、いまだかってなかった。そしてまた人類史上で、緒戦の勝利者が、その計画しただまし討ち払たいして、最終局に、かくも高価な代償(日本の惨敗、本土荒廃、海外の全領土喪失、無条件降伏をさす)を支払ったことも決してなかった。しかし、日本軍の飛行機パイロットたちが、はたして、正しい攻撃目標にたいしてむけられたかどうかは、日本側の観点より見てさえも、相当に議論の余地がある。すなわち、彼らは、米艦隊の戦艦部隊を撃滅し、所在の機動航空兵力を抹殺したが、真珠湾軍港の恒久的な諸施設(海軍工廠、大ドック、燃料貯蔵地区をさす)を無視した。そのなかには、あまり甚大な損害をこうむらなかった諸艦艇の修理のために、おどろくほど迅速な作業をすることができる修理工場もふくまれていた。さらに彼らは、動力施設や容量一杯に充満していた、莫大な液体燃料用の「油槽地帯」を、攻撃することさえしなかった。これは、当時の米アジア艦隊司令長官トーマス・H・パート海軍大将の意見にもあるように、もしそれを損失したならば、米太平洋艦隊のこうむった損害より以上に、米軍の太平洋反攻を遅延させたであろう。かくてアメリカ合衆国海軍は、このただ一回のだまし討ちで、それ以前の二つの戦争、すなわち米西戦争と第一次世界大戦において、対敵戦闘のために失った兵員の約三倍を、わずか二時間でいっきょに喪失したのである。真珠湾攻撃による米軍、および一般市民の死傷者は、右表の通りであった』 」
また、モリソン博士は、『アメリカ陸、海、空軍が真珠湾で不意打ちをくわされたのは一体、だれの責任であるか?』という重大な問題について、一九四八年に、すでに戦史家の厳正な立場から、つぎのように述べている点は注目されるだろう。
「 『真珠湾問題を考究するものは、だれでも一定の基本的要因に留意せねばならない。まず第一に、航空母艦による航空攻撃は、あらゆる形式の攻撃中で、もっとも予知するのが困難なものである。なぜなら、たとえ大艦隊といえども、広大な大洋上では、はなはだ小さい一つの点にすぎないものであるからだ。米海軍の空母部隊は、第二次大戦中に、しばしば奇襲の成功をみることができた。たとえば、ハルゼー=ド・リットル東京空襲(昭和十七年四月十八日)は、その空母部隊が日本本土に近い洋上で日本海軍の監視艇に発見、通報されていながら、日本軍当局にとってはまったく奇襲であった。また、ハルゼー、ブラウン、シャーマン、ポウノール諸提督は、開戦後の二年間に、日本軍占領下の島々にたいして、相ついで奇襲を敢行した。さらに大戦後半の一九四四年(昭和十九年)から一九四五年にわたる間、ハルゼー提督(当時、米第三艦隊司令官)の沖縄、フィリピン、仏領インドシナ各地にたいするめざましい大空襲は、だんぜん、その不意打ちに成功した。また、一九四四年十月、ルソン島沖でミッチャー提督の指揮する米空母機動部隊と、小沢治三郎中将の指揮した日本空母機動部隊より、それぞれ発進した偵察機群は、朝から晩まで互いに必死で索敵飛行を続行しながら、ついに何物も発見することができなかった。したがって、アメリカ太平洋艦隊か、宣戦布告もなければ、また、外交関係の断絶さえもなくて、まったく対敵状態にはなかった時点にあって、日本軍のハワイ攻撃機動部隊の接近を探知しなかったことは、別に驚くには当たらないのである。しかしながら、アメリカ太平洋艦隊は、その可能性にたいしては、準備をすべきであったろう。この準備を怠ったことこそ、責任を査問する要点である』 」
要するに、モリソン博士の論点は、戦時中でも、航空母艦(複数)を基幹とした、高速機動部隊による神出鬼没のような、洋上からの航空攻撃は、一般的に予知、警戒が困難であり、いわゆる敵の奇襲を防ぐことが容易ではない。いわんや、ワシントンで、日米会談がまだ続行している時点では、真珠湾奇襲のような、『だまし討ち』を、到底予想することは、至難である。ただ万一の可能性に対処することは当然であったから、米軍側に誤算と油断の責任はあるが、しかし、ルーズベルト大統領が、日本軍の奇襲を挑発、予知していたという陰謀説はナンセンスである――というわけである。 
3 事実は小説よりも奇なり

 

戦史家モリソン博士は、真珠湾奇襲をめぐる米国政府と軍部の、意外な誤算と、油断の諸事実をつぎのように、いろいろ指摘しているが、それは、まったく古い表現ではあるが、『事実は小説よりも奇なり』と、いうほかはない。それは、まことにウソのような話ではあるが、開戦直前までルーズベルト大統領以下、政府と軍部首脳は、もちろん、ハワイ現地の陸海軍責任者までか、日本の戦力を過小評価して、南方侵略をめざす日本軍にはハワイ攻撃の余力は到底ない、と独善的に判断していたのだ。しかも半年前には、ハワイ奇襲の恐怖感が一部にはまだ残っていたが、ワシントンの日米交渉がいよいよ行きづまって、日米対決の危機がついに深刻化した秋ごろには、かえってハワイの安全感が高まり、『日本軍はタイ国、マレー、シンガポール、フィリピン、蘭領東インド方面へ進攻する恐れがあるから、とてもハワイへ攻めてくることはできない』という考え方が、支配的になったのは、じつに不思議な心理作用であった。
「 (1)開戦の年、すなわち一九四一年(昭和十六年)の前半の八ヵ月間には、ワシントンとハワイの米陸、海軍統帥部は真珠湾にたいする、敵の航空攻撃の危険について、多大の関心をはらっていたが、その年の八月以後は、この可能性が、最高責任の地位にあったすべての軍人、または文官の頭の中から、うすらいでしまったようにみえた。このことは、米陸、海軍を通じて最優秀の知謀者の一人であった、海軍諜報部長ウィルキンソン少将さえも、それに同調していたことを自認していた。すなわち、日米対決の危機が増大するにつれて、意外にもハワイの危機はうすらぎ、忘れられていったのだ。
(2)米海軍作戦部長ハロルド・スターク大将は、同年四月一日付で、全海軍管区司令官にたいして、とくに各週末(土曜日、日曜日)の時期には、敵襲にたいする警戒を厳重にすべきことを警告した。また、ノックス海軍長官とスチムソン陸軍長官も、ワシントンにいるマーシャル陸軍参謀総長とスターク海軍作戦部長も、ハワイにいるショート陸軍中将とキンメル海軍大将にたいして、それぞれ、たびたび通信連絡が交わされて、『真珠湾をめぐる敵の航空攻撃の危険にかんして起こる可能性』のある、すべての様相を詳細に検討していた。
(3)ハワイ駐屯の米陸軍航空部隊司令官マーチン准将と、米海軍航空部隊司令官ベリンジャー少将の両人は、同年三月三十一日付で、陸海軍合同機密報告をして、そのなかで、『オアフ島にたいするもっとも起こりそうな、そして、もっとも危険な攻撃形式は、航空母艦より発進した航空攻撃であろう』と述べたうえ、さらに、『もしそこで、夜明け時に発進したならば、完全な奇襲をこうむる公算が多い』と指摘した。かくて、八月二十日には、マーチン准将は、ショート陸軍司令官にたいして、『日本軍の航空母艦部隊が、もっともオアフ島に接近してくる公算の多いのは北西方からであろう』と進言した。
(4)同年の五月二十六日に発令された米海軍基本戦争計画(戦争計画第四十六号、または「レインボー」第五号と呼ばれた)は、真珠湾軍港内の米艦隊にたいする奇襲攻撃の公算を、明白に予見していた。また、キンメル大将が七月二十一日付で布告した、太平洋艦隊自身の作戦計画では、敵の開戦劈頭の行動は、『おそらく、ウェーク島、ミッドウェー島、またはその他の米国外辺の領土にたいする空襲あるいは直接攻撃』となるだろうと述べていた。
(5)だが、これらのあらゆる適切な判断と、決心と警告にもかかわらず、危機感は同年八月以降には、責任の地位にある陸、海軍軍人の胸中から消え去ったように思われた。『私個人としては、まさか、日本軍が思い切ってわが方に攻撃をくわえてこようとは信じられない』と、スターク海軍作戦部長みずからが、十月十七日付で、ハワイの太平洋艦隊司令長官キンメル大将あてに、手紙を書き送っていた。
(6)また、キンメル司令長官の幕僚の戦争計画主務参謀マックモリス大佐は、十二月最初の三日間に開かれた作戦会議の席上で、『真珠湾に対する空中からの攻撃は決してないであろう』とキンメル海軍大将とショート陸軍中将に告げた。
(7)要するに、『根本的な災厄は、日本軍がいったい、なにをなすことができるか、また、なにをなそうとしていたかについて、わが海軍が正しく評価することに失敗したことであった』と、戦後に米海軍作戦部長アーネスト・キング元帥が語ったのが、真珠湾奇襲の一面の真相であろう。また開戦前に、日本軍が同時に二つ以上の大海軍作戦、もしくは水陸両用作戦を敢行することができると信じた米海軍士官は、ほとんどいなかった。また、同年四月の米、英、蘭三ヵ国軍事会議で米海軍のパーネル大佐とともに、その公算を検討した英国と、オランダの両海軍士官たちも同じように、日本海軍の多正面作戦の能力を信じたものはいなかった。
(8)キンメル司令長官の幕僚の戦争計画次席参謀マーフィー大佐は、戦時中の一九四四年(昭和十九年)に非公開でひそかに開かれたパート査問委員会(開戦当時の米アジア艦隊司令長官パート大将を委員長とした真珠湾攻撃に関する海軍軍法会議に相当するもの)で、『不意打ちの航空攻撃』にかんして、つぎのように供述したが、それは真珠湾奇襲にたいするハワイ現地の米海軍幕僚の真実の声であったろう。『私は、かくのごとき攻撃が行なわれようとは、夢にも思いませんでした。私は日本軍にとって、真珠湾において米軍を攻撃するのはぜんぜん、バカげたことであろうと、考えていました。私は日本軍が、おそらくタイ国とマレー半島へ、さらに、ことによったら蘭領東インド(蘭印=現在のインドネシア)の進攻は可能であると考えていました。しかし、日本軍が、真珠湾を攻撃しようとは思いませんでした。なぜなら私は、自分の見解にもとづいて、日本軍がそうすることの必要があるとは考えなかったからです……。我々は、補助艦艇の増強、各艦船の施設、とくに高射砲の改善など、米太平洋艦隊が具体的に強化される時期までは、日本艦隊と対決するために西太平洋に出動することができるとは信じていませんでした。私は、我々が劣勢な艦隊をもって西太平洋に出動せんと企てることは、自殺行為であろうと考えていました』
(9)一方、アメリカ国務省では、日本政府の部内には米国を怒らせて米国民を団結させ、日米戦争に導くような、無制限の侵略行為を回避するのに十分な、政治的才覚があるものと想像していた。 」 
4 ハルゼー元帥の真珠湾批判

 

太平洋戦争を通じて、米海軍で『猛牛』の勇名をとどろかせたウィリアム・F・ハルゼー海軍元帥は、開戦当時は米太平洋艦隊司令官キンメル大将の部下で、空母機動部隊の指揮官(第三艦隊司令官)として海軍中将の地位にあった。したがって、開戦直前の太平洋艦隊の動向と、ハワイ方面の配備、警戒状況については有力な現地の証言者である。その彼は、真珠湾奇襲の全責任をハワイ方面の米海、陸軍両最高司令官、すなわちキンメル元海軍大将とショート元陸軍中将のみに負わせることは不当であるとして、つぎのように正々堂々と主張していることは注目される。ただし、彼のこの発言は、戦後の一九五三年九月に、キンメル元太平洋艦隊司令長官を弁護して、故ルーズベルト大統領の戦争挑発政策をはげしく非難攻撃した、ロバート・シオボールド海軍少将の論争の書『真珠湾の審判』(中野五郎訳、昭和二十九年、講談社刊)の序文として寄せられたものであって、やはり戦時中は、硬骨漢の彼も、米国の世論統一と国家安全保障のために、沈黙をよぎなくされていたのだ。したがって、言論の自由の米国でも戦時中には、いわゆる『国賊』とか『卑怯者』の汚名をきせられて、まったく発言の自由を抑圧され、黙々とくらしていた当時の旧上官キンメル元大将のために、彼が職を賭して正論を吐いたわけではない。結局、程度の大差こそあれ、『自由の国』を誇る米国でさえも、戦時中は、軍国日本と同様に政府の戦争政策や、真珠湾惨敗の責任を批判することは禁止されていたわけだ。
「 『あの当時、私はアメリカ太平洋艦隊の三人の上級司令官の中の一人として、キンメル司令長官の麾下にぞくしていた。私は、彼が入手したあらゆる情報をつねに欠かさず、私に知らせていてくれたものと、今日でも信じている。それにもかかわらず、あの適切な「魔法(マジック)情報」(ワシントンの米軍首脳部が傍受解読していた日本の外交暗号電報の隠語呼称)は一通たりとも、確かに私は、読んだおぼえがないのだ。我々が入手していた軍事諜報はすべて、日本軍び攻撃がフィリピンか、マレーまたは蘭印など、南方地域へ指向されることを、明示したものばかりであった。なるほど真珠湾が日本軍の攻撃目標になるかも知れないということは一応、考慮されていて、けっして度外視されたわけではなかったけれども、我々の入手できた、たくさんの証拠はみんな、真珠湾以外の方向に攻撃の公算が多いことを指摘していたのである。もし我々が、「魔法情報」の中ではっきりと示されていた通り、日本が真珠湾内の米国艦隊の正確な位置と行動をつかむために、いかにたんねんな調査をつづけていたかを知っていたならば、真珠湾攻撃の現実的な確実性にそなえて、我々の全神経をこれに集中して対処していただろう、ということは火を見るよりも明らかである。そうすれば、私の指揮下の機動部隊を開戦直前の十一月下旬から十二月初旬にかけて、ウェーク島へ軍用機輸送のために出動させることには、私は極力、反対したことであろう。いやむしろ私は、そんな反対こそ、まったく不必要だったろうと確信している。なぜなら、もしもキンメル元大将が、当時、この情報を入手していたならば、あのような艦隊行動を命ずるはずがなかったからだ。当時、私の艦隊は航空母艦「エンタープライズ」を旗艦としていた。これは、その当時に太平洋方面に就役中の、米空母二隻中の一隻であった。他の一隻は、「レキシントン」で、ニュートン海軍少将の指揮下の別の檐動部隊にぞくしていた。また別にもう一隻の空母「サラトガ」が、太平洋艦隊に所属してはいたが、あいにく、その当時には米本国西岸のドックに入り、定期の点検修理中であった。
我々は、長距離偵察機がみじめなほど不足していた。当時、ハワイ方面に配置されていた米陸軍機で利用できたものは、ただ、B18双発中型爆撃機だけであった。しかし、この機種は速力がのろくて、航続距離もみじかく、到底洋上偵察飛行には適さなかった。また、米海軍のPBY飛行艇(通称「カタリーナ号」)も、機数が不足していた。この図体のバカでかい偵察機は、いわば海の駄馬で、ガッシリしてはいるが、旧式で速力ものろく、もし広い洋上を三百六十度の全方向にわたり、連続的に索的飛行を実施させるならば、ただ不足した機材と、乗員をクタクタに疲れきらすばかりであったろう。そのうえ、我々をさらに苦しめた困難は、このPBY飛行艇の乗員の大多数を、大西洋方面の戦線へ出動させるために訓練せよ、という本省からの命令であった。このような事情と、空母「ヨークタウン」が米本土東海岸へ移動、配置についたためとによって、我々のすでに手薄な人的、物的戦力は、いっそうはなはだしく、弱体化していたわけだ。しかしながら、もしも我々が、重大な「魔法情報」を以前から知らされていたならば、当然、三百六十度の全方向にわたる洋上索敵飛行の実施を命令していたであろうし、また、そのためにはどんな無理をしても、機材と乗員がその損耗と疲労の極点に達するまで、この洋上索敵飛行をつづけて強行していたことだろう。私はつねにキンメル元海軍大将とショート元陸軍中将について、つぎのように考えてきたものである。――この優秀な二人の軍人は、自分の力では絶対に自由にならぬ、ある目的のために犠牲の山羊として、狼群の前に放り出されたようなものである。この両軍人は戦備の点でも、情報の点でも、ただ、あたえられただけのものによって、行動せねばならなかったのだ。この二人こそ、わがアメリカの、偉大な軍人の殉教者である』 」 
Y 真珠湾論争への審判

 

1 奇襲とだまし討ちの相違
『兵は詭道なり』とは、二千五百年前の有名な孫子の兵法のなかの名句である。それは、戦争の本質が、相手のウラをかいてだますことを、いみじくも喝破したものであり、また、現代の戦術として、奇襲(サプライズ・アタック)の重要性が古今東西に相通じることを教えている。『攻撃戦争の最強の武器の一つは、奇襲攻撃である』とは、十九世紀はじめ(約百七十年前)のプロシアの偉大な戦争理論家カール・フォン・クラウゼビッツ将軍の『戦争学』の中の警句である。したがって、奇襲は、相手の油断を衝いた戦争の正攻法の一つであって、けっしで卑怯な『犯罪的攻撃』(クリミナル・アタック)と呼ぶことはできないはずである。それは、むしろ戦備を怠って奇襲をこうむり、大損害をうけた国の負け惜しみといわれても仕方がないであろう。ところが、世界戦史上に、すでに堂々と明記されているように、太平洋戦争の火蓋をきった日本軍の真珠湾奇襲は、日本軍独特の卑劣な『だまし討ち』(トレチャラス・アタックまたは、スニーク・アタック)であるという忌(いま)わしい烙印が押されてしまった。しかも、ルーズベルト大統領自身が、十二月八日(米国時間、日本では十二月九日に当たる)の米国議会にたいする有名な対日開戦教書で、つぎのように日本の奇襲を『だまし討ち』であると強調して、挙国一致の米国民の総決起をうながしたのだ。それは、ハワイの現地の米陸海軍当局の油断と怠慢の責任を、いちおうタナ上げして、もっぱら奇襲の重大責任を日本側の軍事的犯罪に押しつけ、たくみに、全米国民大衆の対日敵愾心(てきがいしん)と、復讐心を煽動する宣伝効果を発揮したものだった。
「 『昨日、一九四一年十二月七日(米国時間)――それは、国辱(汚名)の日として永く残るであろう――アメリカ合衆国は、日本帝国の海軍および空軍のために、突如、しかも用意周到に攻撃された。しかるに合衆国は、日本と平和関係にあり、しかもまた、日本の懇請によって太平洋の平和維持のために、その政府ならびに元首と会談をまだ続行中であった。実際に、日本航空部隊が、オアフ島(ハワイ群島の主島でホノルル市と真珠湾軍港がある)の爆撃を開始してから一時間後に、駐米大使(野村吉三郎大使をさす)は、その同僚 (来栖三郎大使をさす)とつれ立って、国務長官にたいし、最近のアメリカの通牒への公式回答を手交したのであった。この回答には、現在の外交交渉の継続の無益なることを述べていながら、少しも、戦争あるいは武力攻撃の威嚇、または示唆をふくんでいなかった。日本・ハワイ間の距離は、この攻撃が数日前はおろか数週間以前に用意周到に計画されたことが明瞭であることを記録するものであろう。この引きのばし期間中に、日本政府は虚偽の声明と、平和継続の希望表現によって、アメリカ合衆国を、用意周到に欺(あざむ)かんと努めたのであった。昨日、ハワイの攻撃は、アメリカ陸、海軍に甚大な損害をあたえた。はなはだ多数のアメリカ人の生命が失われた。さらに、サンフランシスコとホノルル間の大洋上で、アメリカ船舶が、魚雷攻撃されたと報じられている。昨日、日本政府は、またマレー半島を攻撃した。昨夜、日本軍は香港を攻撃した。昨夜、日本軍はグアム島を攻撃した。昨夜、日本軍はフィリピンを攻撃した。今朝、日本軍はミッドウェー島を攻撃した。日本はかくのごとく太平洋全域にわたり奇襲攻撃を敢行したのである。この昨日の諸事実こそ、みずから事態をもっとも雄弁に物語るものだ。それは、アメリカ国民が、すでに国論を一致させて、国家の存立と安全が、危殆に瀕していることを十分に了解するところである。この計画的侵略を克服するのに、いかに長い年月を要するとも、アメリカ国民は、その正しい力をふるって絶対的な勝利を、勝ちとるであろう。我々が全力をつくして、我々を防衛するのみならず、この種のだまし討ちが、けっして我々を、再び危険ならしめないために戦うということは、私の主張であるばかりではなくて、じつにアメリカ国民および議会の総意であると信ずる。戦闘は開始された。わが国民、わが国土、わが権益が重大脅威にさらされている事実に目をおおうことはできない』(中野五郎訳、ルーズペルト大統領の米国議会にいたする開戦教書より) 」
確かに、大衆政治家として老練なルーズベルト大統領は日本側のいちばん痛いところを衝いて、真珠湾奇襲はワシントンで、まだ日米外交交渉(野村・ハル会談)が継続中に、卑劣にも抜き討ちに行なわれた『だまし討ち』であると、米国内はからは、全世界へ向けて吹聴した。それは、日本側の外交交渉打切りの対米通告が、ハワイ攻撃の、開始時刻の三十分前(ワシントン時間十二月七日の日曜日午後一時に当たる)に、ハル国務長官へ野村大使から手交される予定のところ、意外にもワシントンの日本大使館の首席書記官と、電信官の油断とミスから、長文の暗号電文の翻訳とタイプ清書がたいへんに手間どり、とうとう提出時間を一時間二十分もおくれてしまったからだ。それは、日本にとって、まったく歴史的開戦の日を汚した取返しのつかない最大のミスであり、正々堂々たる奇襲作戦の成功に、おしくも『だまし討ち』とか『犯罪的攻撃』という不名誉な烙印を押されてしまった。すなわち、日本は、武力戦の奇襲には大勝利をおさめながら、宣伝戦には開戦早々から重大な失敗をしたわけだ。 
2 作戦の成否は国際法に優先

 

この日米開戦の前夜、日本側では天皇も、開戦の事前通告の点について、重大な関心をしめし、陸海軍統帥部へ注意されていたし、とくに対米外交の全責任をになっていた東郷茂徳外相(当時五十九歳)は、十二月一日の御前会議で、『対米交渉ついに成立するにいたらず。帝国は、英米蘭にたいし開戦す』という重大議題が、べつに異議もなく、『挙国一致』とか『一死奉公』とか『国難突破』という出席者全員(全閣僚、陸海軍両統帥部総長、両次長、内閣書記官長、陸海軍両軍務局長、枢密院議長)の悲壮な決意の下に決定した以上、国際法にもとづいて、正々堂々たる開戦(または宣戦)通告を、米国政府へ伝達すべきであると確信していた。そして、それが当然、天皇の公明な意向でもあり、また自存自衛のために決起せんとする皇軍の聖戦のあり方であると、彼は外務大臣の重責をひとしおに痛感していたようだ。ところが、東郷外相は、当時、大本営政府連絡会議の主要メンバーでありながら、ハワイ攻撃の作戦計画に関しては、まったくツンボ桟敷におかれており、ただ、『奇襲による開戦』ということだけを漠然と示唆されたのみであった。要するに、陸海軍統帥部は、真珠湾奇襲を成功させるために、『敵を欺くには、味方を欺くにしかず』という古い格言を実行した。つまり、米国側を、日米交渉継続の形でだまして油断させるために、まず、東郷外相と、ワシントン駐在の野村大使まで、天皇の『宣戦の詔勅』の公明正大な趣旨にも矛盾した戦争の奇怪な本質――『目的のためには手段をえらばず』という『勝利の戦略』の正体を暴露(ばくろ)したものであった。戦後はじめて、東京裁判で明らかにされた証言記録によると、その当時に東郷外相は、開戦の手続きについて海軍統帥部と大いに論争し、
「 『正式の宣戦の通告か、少なくとも交渉打切りの通告は、国際信義上、ぜったいに必要である。その通告時刻は、攻撃開始前に充分の時間の余裕があることを要する』 」
と、ヘーグ戦争条約の開戦規定をかたく守るように主張した。このヘーグ戦争条約は、一九〇七年(明治四十年)十月にヘーグ(オランダの行政上の首都)で日本も参加して、調印され、翌年に批准公布されたもので、その第一条は、つぎのとおり宣戦布告について規定し、第一次大戦では、交戦国の双方ともが忠実にこれを守った。ところが、第二次大戦では、皮肉にもナチス・ドイツと軍国日本が、これを破って奇襲によって開戦をしたわけだ。日本の場合、ハワイ攻撃が決行されたのが、現地時間で十二月七日午前七時五十五分であり、それは、日本内地時間では、十二月八日午前三時二十五分にあたった。しかし、大本営が、『帝国陸海軍は本八日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり』と、開戦を正式発表したのが十二月八日午前六時であり、しかも、天皇の歴史的な『宣戦の詔書』が発布されたのは、さらにおくれて、同日の午前十一時四十分であったから、ワシントンの日本大使館の日米交渉打切り通告の提出時刻の遅延問題とはかかわりなく、国際法上から、由緒ある古いヘーグ条約に、二重にも三重にも違反していたわけだ。ヘーグ条約には。『締約国は、理由を付したる開戦宣言の形式、または条件つきの開戦宣言をふくむ最後通牒の形式をもつ明瞭、かつ事前の通告なくして、その相互間に、戦争を開始すべからざることを承認す』とある。ところが、ハワイの真珠湾軍港に大奇襲をかけて、米国太平洋艦隊をいっきょに撃滅せんと決起した海軍統帥部では、あらゆる警戒手段をとって、この空前の作戦計画の発動についての機密保持に努力していた。それは、孫子の兵法の『兵は詭道なり』という極意を徹底的に実行したかわりに、国際法上の義務であるヘーグ条約の宣戦規定を平然と破ることとなった。ただ東郷外相の強硬な直言には多少おれて、正式の宣戦通告のかわりに、対米外交交渉の打切り通告を提出する時刻を、ワシントン時間で、十二月七日午後一時に指定するよう手続きを求めた。しかし、東郷外相には、それからはたして何時間後に攻撃が決行されるかを、全く知らせなかった。このために、東京の外務省とワシントンの日本大使館の間の外交暗号電報の連絡が、緊密に、しかも計画どおりにうまく行なわれなかったのは不運でもあるが、また海軍統帥部が、あまりに秘密主義にこだわりすぎたせいでもあった。実際に、外交交渉打切りの対米通告時刻は、最初、伊藤軍令部次長から、東郷外相にたいして、極秘に、ワシントンで十二月七日午後零時半と指定してきたが、その後さらに三十分くり下げて、午後一時に変更してきた。それは、ハワイ攻撃直前のギリギリでわずか三十分前の猶予しかないものであったから、たとえ通告提出が、本省の指示どおりにおくれないで行なわれたとしても、その通告文の内容は、やはり厳正なヘーグ条約の宣戦規定を破った。しかも相手をだまして油断させる目的の、インチキな公文書であった――という非難が、米国では、とうぜん起こったことであろう。なぜならば、単に日米交渉の打切りは、けっして、日米両国の外交断絶、大使の引揚げを意味せず、いわんや日米開戦へ、ただちに発展するものとは、国際慣例の常識では、到底考えられなかったからだ。  
3 東郷外相の遺書

 

これについて、すでに病死した東郷外相の遺書となった大戦外交手記『時代の一面』(昭和二十七年刊、絶版)の中のつぎの一節は、まことにミステリー的な興味の深い日本側の真珠湾奇襲の秘密の正体を明らかにしたものである。その要旨を引用して、読者の参考に供する。
「 『十二月一日の御前会議の直後の会議で、自分は宣戦通告の問題もあるからと思って、いつから戦闘を開始するつもりかと聞いた。これにたいして杉山参謀総長は、つぎの日曜日ごろだと、あいまいなことを言うので、その態度にますます疑念を抱き、戦闘開始の通告は、通常の手続きによることが適当だと述べた。しかるに永野軍令部総長は、奇襲でやるのだと言った。これに引きつづいて、伊藤軍令部次長から、開戦の効果を大ならしめるため、外交交渉は、戦闘開始まで打ち切らないでおいて欲しい、との申入れがあった。これで統帥部が、さきに急速開戦を主張していたにもかかわらず、御前会議の当日は、はなはだのんきな態度をしめしていた意味がわかった。しかし、自分はいままで海軍が邀撃作戦にて勝つ自信ありと言っていたのに、突然、奇襲をやるのだと言い出したのには、驚くとともに、奇襲をやらなければ、緒戦においても十分な見込みがないことにも解せられて、戦争の前途を心細く感じた。しかし自分は、このやり方は、通常の手続きに反して、はなはだ不当であること、開戦の際に無責任なことをしておくと、わが国の名誉と威信とに関して、はなはだ不得策であること、また、野村大使よりも自由行動に出る前に、交渉を打切りおくことが必要であり、その通告は、ワシントンにおいても行なうことが必要である、との意見上申をも引用して、事前の通告は、国際信義上から絶対に必要であると主張した。自分は、統帥部が開戦決定の後になって奇襲の必要をとなえ、あたかも、これを強要せんとするがごとき態度を示したのに、はなはだしき不満を感じ、他に先約があったから、これを理由として退席せんとした。すると伊藤軍令部次長は、私の席に来て、海軍の苦衷を訴え、もし交渉打切りの通告が、どうしても必要ならば、ワシントンではなく東京において米国大使になすようにしたい、と申出た。自分は、この方法については、ある種の不安を感じたので、その申出を拒絶して、そのまま別れた。しかるに、そのつぎの連絡会議のはじめに、伊藤次長は、ワシントンで交渉打切りの通告をなすことに、海軍軍令部は異存ないと述べ、その通告が、ワシントン時間で十二月七日午後零時半になされるべきことを申出た。自分は、この論争によって海軍側の要求を、国際法の要求する究極的限界にくいとめることに成功したと思った』 」
だが、東郷外相の期待は、すっかり裏切られた。なぜなら彼は、十二月五日に外務省に来訪した伊藤軍令部次長に向かって、『事前通告と攻撃の間隔は、どのくらいの時間が必要か?』と、念のためにたずねたところ、伊藤次長は。『それは作戦の機密であるから申し上げられない』と明答を断わられたからであった。それで東郷外相は内心で、『まさかと思うが、通告と同時に攻撃するのではなかろうか?』という不安と疑念がわいたらしい。 しかも、伊藤次長は、『わが方の通告が在米大使館へあまり早く発信されないように願います』と意味深長な言葉を帰りぎわに残したので、東郷外相は、『私は、指定時間(午後一時に変更)に間違いなく届けられるように発信しなくてはならぬ』とはっきり答えた。責任感の強い東郷外相は、長文の『対米覚書』を十四部に分けて、最高機密度の暗号電報に組んで、最終のわずか四、五行の第十四部をのぞく全文を、十二月六日(ワシントン時間)の午前六時三十分から十時二十分の間に、逐次、発信させた。そして重大な最終部を、七日(ワシントン時間)午前三時と四時に二つの路線で、正確と迅速を期して発信させた。しかし、ワシントンの日本大使館は、東郷外相の緊急訓電を守らず、開戦前日の夕方に着信した十三部までの暗号電報の翻訳とタイプ清書をすませていなかったため、運命の七日午後一時の提出時刻に間に合わなかったのだ。
(注、東条内閣の外相として、開戦の重大責任をになった東郷茂徳(しげのり)は、開戦二年目の昭和十七年九月、米英軍捕虜の取り扱い問題その他について、東条首相と意見が対立したため辞職引退したが、奇しくも敗戦直前の昭和二十年四月に鈴木貫太郎内閣の外相に返り咲いて、終戦促進に大いに尽力した功績は高く評価されている。すなわち彼は、戦争末期に、天皇の和平念願を達成するために、必死の献身的な努力をつづけ、陸海軍統帥部と一部の極右閣僚の『徹底的抗戦』と『本土決戦』と『一億玉砕』を呼号した狂信的な態度にあくまで屈せず対抗し、ポッダム宣言を受諾して一刻も早く終戦を決断、実現すべしと熱烈に主張した。彼は、明治十五年、鹿児島県に生まれ、同四十一年、東京帝大文科卒業、大正元年、外交官試験に合格、その後ドイツ大使館参事官、本省欧米局長、欧亜局長、駐独大使、駐ソ連大使などを歴任した。気骨ある外交官として知られ、開戦の責任を終戦の功績によって大いにつぐなったものとみられたが、昭和二十一年四月に、極東国際軍事裁判所でA級戦犯に指定、起訴された。そして昭和二十三年十一月、禁錮二十年の判決をうけ巣鴨刑務所に拘禁、服役中に胸部疾患が悪化して昭和二十五年七月さびしく死去した。享年六十八歳であった。 彼こそ太平洋戦争史上で開戦=終戦の二つの重大時点に外相としての大きな役割をはたしながら、現在では、一般に忘れられた悲劇的な人物である) 
4 戦争の教訓から

 

昭和四十一年十二月は、太平洋戦争の開戦二十五周年にあたった。まことに歳月のたつのは、水の流れのごとく、早くてはかない。我々日本人にとっては、それはまことに忌わしい悪夢のような思い出ではあるが、すでに戦後の若い世代の数千万の人々にとっては、日米開戦の記念日も、まったく遠いむかしの神話か、伝説のようにしか思われないであろう。それほど今日の日米には、太平洋戦争をすでに忘れた世代と、開戦――敗戦の実感を、全く知らない世代が多くなっている。しかし、『現在は過去の後始末である』という警句は、太平洋戦争の場合にもピタリと当てはまるのだ。すなわち、軍国日本の敗北降伏も、『大日本帝国の崩潰』も、神がかりの絶対天皇制から主権在民の民主日本へ更生したのも、さらに現在の奇蹟的な復興と、経済的繁栄と、愛国心の喪失も、また物質万能主義と、自由享楽と、犯罪激増も、すべて春秋の筆法をかりるならば、十二月八日のもたらしたものであり、したがって太平洋戦争が、今日の一億国民に残した明暗両様の『偉大な遺産』であると言えるだろう。それは、恥ずべきものではなくて、学ぶべきものである。そういう歴史的な意義を、公正に真剣に考えて、じっくりと再検討してみると、十二月八日を、我々日本人は、永久に忘れてはならないことが明らかになってくる。民主日本は、幸か不幸か、日米安保条約の改廃をめぐり、政界も言論界も荒れ模様の警戒信号を示した。しかし、つねに先物買いの日本の政治家連中が、保守、革新の両陣営をとわず、安保問題と自衛隊の増強と国防計画をめぐる大論争に張り切っているとき、まず銘記してもらいたいのは、十二月八日の教訓である。もはや日本人は、ベトナム戦争を対岸の火災のごとく安閑(あんかん)とながめていたようなことが、今後は許されないのと同じように、平和日本の足許に火のついたような切実な国防問題と 軍事計画について、政治家まかせも、制服軍人まかせも許してはならないときが到来した。すなわち国民全体で、めいめい自由で冷静な立場から、民主日本の現在の姿をあらためて直視して、あの悪夢のような十二月八日の教訓を、十分に学びとり、しっかり自分の身につけて、戦争への安易な妥協にも、また俗悪な英雄主義(ヒロイズム)にも、感傷的な新軍国主義(ネオミリタリズム)にも、押しながされないように努力し、自戒しなければならない。第一次世界大戦で、フランス共和国の老宰相クレマンソーは、『戦争は将軍連中にまかせておくには、あまりに重大な仕事である!』と喝破して、みずから戦争最高指導にあたって勝利への道を確保した。しかし彼は、やはり古い観念の戦勝国の絶対権利のみを主張して、敗戦ドイツの永久屈服をめざした不合理、非道なベルサイユ条約体制を、あくまで強要したため、かえって、欧州の混乱情勢と、独裁者ヒトラーの出現をもたらしたのであった。そして、第二次大戦の起因のタネを、不見識にもまいたわけだ。また第一次大戦で、『新しい自由』(ニュー・フリーダム)を提唱して、全世界の共鳴をかちえて、『米国は戦争を終わらせるために参戦する!』と大見栄を切った米国のウィルソン大統領も、やはり、国際連盟の彼の夢を実現するためには、ベルサイユ条約で敗戦ドイツをギセイにして恬然(てんぜん=平気)と恥ずるところがなかった。彼もまた、人道主義の持論をみずからすてて、クレマンソーの報復、懲罰主義に同調し、第二次大戦の起因の責任者に加わった。それゆえ英国の修正主義派の歴史学者として有名なA・J・P・テイラー博士(英国オックスフォード大学教授、BBC放送外交評論家)は、第一次大戦五十周年記念に刊行した最新の『第一次世界大戦史』の結論で、クレマンソーの警句を皮肉って、つぎのように反論をくだしたものだ。『戦争は、将軍連中にまかせておくには、あまりにも重大な仕事ではあるが、さりとて、政治家連中にまかせきりにしておくにも、やはりあまりに重大すぎる仕事であった!』このテイラー教授の警句は、そのままそっくり第二次大戦にもあてはまるものである。すなわち、ルーズベルト、チャーチル、スターリンの三巨頭は、第一次大戦の教訓をまったく学ばないで、いわゆる『無条件降伏』の世界戦略を固守したため、大戦後半期にナチス・ドイツも軍国日本も、和平交渉のチャンスを絶対に拒否されて、数百万の人命をムダにギセイにして、流血非惨な地獄的死闘に追い込まれたのであった。しかも、戦勝国の勝利の分け前を、ひそかにヤミ取引したといわれる悪名高いヤルタ会談(昭和二十年二月)で、チャーチル英首相は、『これこそ米英ソ三大国の団結、協力の最高潮である!』と、上機嫌でウォッカ酒の乾杯を重ねながら、それからわずか半年後、原爆投下とソ連参戦による軍国日本の徹底的な敗北と無条件降伏後まもなく、米英対ソ連の『冷戦』(コールド・ウォア)の幕が上がるや、いちはやく、『我々は戦争には勝ったが、戦後の平和には敗れた!』といみじくも嘆息したのである。戦争は終わったが、人類待望の恒久平和は幻滅と化して、また新しい戦争のタネがまかれたわけだ! 
5 十二月八日の歴史的詔勅

 

では一体、何のための七年間にわたる血みどろな第二次大戦であったのか? また、太平洋戦争の大義名分とは? 要するに戦争というものの正体は、たとえ『平和を守る』とか、『自存自衛』とか、『侵略を排除する』とか、『国家の独立』とか、『民族の解放』とか、『集団安全保障』等、いろんな、もっともらしい大義名分のレッテルを貼付ても、実際には、誤算と矛盾と憎悪の生み出した非人道的な、恐るべき無制限の殺し合いの人間残酷ドラマにほかならないのである。それは、戦争専門技術者である制服の将軍連中にも、また『文官支配』(シビリアン・コントロール)を自慢した政治家連中にも、到底理性的に、合理的にコントロールすることができないものである。結局、我々日本人としては、太平洋戦争の真相をできるだけよく知り、深く考えて、十二月八日の教訓をけっして忘れず、いつも左右両派の政治家や新旧の軍人たちが、『国防』という美名の下に、再び戦争の正当化と光栄化を提唱しないように、厳重に監視する必要がある。そこで私は、戦史家の立場より、いわゆる十二月八日の深刻な教訓の実例として、つぎの印象的な歴史的言葉を引用して、国民大衆のための永久不変の座右(ざう=身辺)銘に呈したいと思う。これを忘れたら、日本はかならず近い将来に、つぎの戦争に巻き込まれるだろう、と私は戦史家として予言したい。
「 『天佑ヲ保有シ万世一系ノ皇祚(こうそ)ヲ践(ふ)メル大日本帝国天皇ハ昭(あきらか)ニ忠誠勇武ナル汝(なんじ)有衆ニ示ス、朕(ちん)茲(ここ)ニ米国及ビ英国ニ対シテ戦ヲ宣ス、朕(ちん)ガ陸海将兵ハ全カヲ奮テ交戦ニ従事シ、朕ガ百瞭有司ハ励精職務ヲ奉行シ、朕ガ衆庶ハ各々其ノ本分ヲ尽シ億兆一心国家ノ総カヲ挙ケテ征戦ノ目的ヲ達成スルニ違算ナカラムコトヲ期セヨ (中略) 皇祖皇宗ノ神霊上ニ在リ、朕ハ汝(なんじ)有衆ノ忠誠勇武ニ信倚シ、祖宗ノ遺業ヲ恢弘シ速ニ禍根ヲ芟除(せんじょ)シテ東亜永遠ノ平和ヲ確立シ、以テ帝国ノ光栄ヲ保全セムコトヲ期ス』(昭和十六年十二月八日の天皇の宣戦詔書より) 」
「 『いま、宣戦の大詔を拝しまして、恐懼(きょうく)感激にたえず、私不肖なりと雖(いえど)も一身を捧げて決死報国、ただただ宸襟(しんきん)を安んじ奉らんとの念願のみであります。国民諸君もまた、己が身をかえりみず、醜(しこ)の御楯(みたて)たるの光栄を同じくせらるるものと信ずるものであります。凡(およ)そ勝利の要訣は「必勝の信念」を堅持することであります。建国二千六百年、我等(われら)は未だかって戦いに敗れたるを知りません。この史績の回顧こそ、如何なる強敵をも破砕するの確信を生ずるものであります。我等は光輝ある祖国の歴史を、断じて汚さざると共に、栄ある帝国の明日を建設せむことを固く誓うものであります。かえりみれば我等は、今日まで隠忍と自重との最大限を重ねたのでありますが、断じて、安きを惧(おそ)れたものでもありません。ひたすら世界平和の維持と、人類の惨禍の防止とを顧念(こねん)したるに外なりません。しかも敵の挑戦を受け、祖国の生存と権威とが危うきに及びましては、起たざるを得ないのであります。帝国の隆替(りゅうたい)、東亜の興廃、正に此の一戦に在り。一億国民が一切を挙げて、国に報い国に殉(じゅん)ずるの時は今であります。八紘(はつこう)を宇(う)と為す皇謨の下に、私は、ここに謹んで微衷(びちゅう)を披瀝し、国民とともに、大業翼賛の丹心を誓う次第であります』 (昭和十六年十二月八日、内閣総理大臣東条英機大将のラジオ全国放送『大詔を拝し奉りて』より) 」
(注=絶対天皇制下の軍国日本では、戦後の若い世代には、とても難解な用語が有難そうに広く使用されていた点も忘れてはなるまい。御稜威(みつい)とは、天皇の威光の意味、皇謨(こうぼ)とは、天皇の国家絖治のはかりごとをさし、大業とは帝王の事業、翼賛(よくさん)とは、力を添えて天子を助けることを意味する。また、有名な八紘一宇(はちこういちう)は古代中国の学者、淮南子(えなんし)の地形訓による四方と四隅を意味し、天下=全世界を一つの屋根の下におくという皇道の世界宣布の理想を表現したため、欧米では、軍国日本の世界征服の野望のシンボルとみなされていた。だが、それが悲しい誤解であっだことは敗戦によって証明された)
私は、あらためて読者のみなさんに訴えたい。『敗戦の教訓は、だれにでも、理屈ぬきで黙っていてもよくわかる。しかし、開戦の教訓こそ、じつは本当の戦争の教訓なのだ』と。 
Z 真珠湾奇襲の功罪と遺産

 

1 なぜ太平洋戦争というのか
ここで、太平洋戦争の戦端をひらいた世界戦史上、空前の真珠湾(パールハーバー)奇襲の是非と功罪について、自由公正な々場からその真相と、争点を明らかにするとともに、いわゆる歴史的な真珠湾の大秘密をおおった黒い霧を追いちらせて、いくつもの根本的疑点を迫及し、最新の権威ある調査記録資料にもとづいて、再検討してみたいと思う。それにさきだち、私はこれまでいちおう、解説するつもりでいながら、まだ機会をえなかった太平洋戦争の呼称について、読者のみなさんのために明確に説明しておきたい。昭和十六年十二月八日未明三時半ごろ、(ハワイ現地時間では一九四一年十二月七日、日曜日、午前八時ごろ、ワシントン時間では同日午後一時半ごろ)日本海軍の大空母機動部隊のハワイ真珠湾軍港(米国太平洋艦隊根拠地)にたいする奇襲攻撃で戦端をひらいた日米戦争は、正式には、日本の対米英蘭開戦と呼ぶべきであるが、日本側では、この戦争をとくに『大東亜戦争』と名づけ、連合国側ではこれを一般的に『太平洋戦争』とよんだ。日本側が名づけた『大東亜戦争』(The GreaterAsia War)という呼称は、いわゆる皇国日本を中心とした大東亜共栄圈の建設(東亜の新秩序をさす)という、戦争目的を明らかにしたものであるが、それはけっして、戦時下の日本の新聞、雑誌、ラジオなどマスコミが勝手につけた名称ではなくて、じつに東条首相のお声がかりで、昭和十六年十二月十二日付で内閣情報局より発表された、つぎのような公式声明にもとづくものであった。したがって戦時中は、すべて『大東亜戦争』という公式呼称で統一され、もっと一般的で、子供にもわかりやすい『太平洋戦争』という名称は、敵性表現として禁止されたも同じであった。『今次の対米英戦は、支那事変をも含む大東亜戦と呼称す。大東亜戦争と称するは大東亜新秩序建設を目的とする戦争なることを意味するものにして、戦争地域の大東亜のみに限定する意味に非ず』(原文のまま) しかし、敗戦後、このいかめしい『大東亜戦争』という呼称は、その誇大な戦争目的を喪失した理由からも、きわめて不適当であるため、日本政府も新聞ジャーナリズムも、いっせいに連合国側で正式に採用し、しかも現代史上で世界共通に広く使用されている『太平洋戦争』という名称を、公然ともちいるようになった。ところが、この数年らい、政界や言論界の一部では、いわゆる逆コース的風潮に便乗して、戦後に生長した全国の小、中学、高校生たちに自然になじまれた『太平洋戦争』という国際的名称を排して、ことさら、戦時中の『大東亜戦争』という呼称を使用するむきがある。これは前にのべた内閣情報局発表の趣旨を知らないための誤用であり、それが戦争の地域ではなくて、目的をしめす呼称である以上、敗戦国たる日本ただひとりが使用する、愚劣な、戦前派のノスタルジアといいうべきであろう。一方、連合国側でも、戦時中(とくに開戦後、まもなく)、『この大戦争をなんと呼ぶべきか?』ということが、さかんにジャーナリズムで論議された。いちばん自然で、すなおな名称は、『第二次世界大戦』(The Second World War, The World War U)という総称のもとに、『太平洋戦争』(The Pacific War)と『欧州戦争』(The European War)の二大正面をふくませるものであった。そしてそれが戦時中も戦後も一般化して、今日までは世界戦史上でも国際政治上でも、広く普遍的に使用されている。ただ、ソ連だけが国内むけに、とくに『大祖国戦争』という呼称を長らく使用しているのが例外とみられている。私は日本でも、けっして戦争に敗けたからという卑屈な理由からではなくて、いちばん自然的な、わかりやすい呼称として、『第二次世界大戦』『太平洋戦争』という、広、狭ふたつの名称を自由に並用するのが、もっとも適当であると思う。現在はもちろん、将来にも、全世界共通の大戦争の呼称が、時代のうつり変わりや、各国の国内事情によって、あれこれと特別の意味や、解釈をつけて変更されることは好ましいことではないだろう。ことに今日の日本国民にとっては、ラテン語の『パシフィカス』(平和づくりの意味)から由来した、『平和な大洋』を意味する『パシフィック・オーシャン』(太平洋)という言葉にちなんだ『太平洋戦争』の呼称こそ、じつに『けっして再び戦争をせず』と誓い合い、恒久平和をねがうわが民族の熱望をこめた絶好の、印象的な名称であると信じている。ところで、自由な世論とマスコミ宣伝のさかんな米国では、開戦そうそうから国民士気の昂揚のために、あれこれと戦争呼称の選定が行なわれ、ルーズベルト大統領までが、新聞記者団との会見で、『なにかうまい名称はないかね?』と名案をもとめたものだった。当時、私は朝日新聞ニューヨーク特派員としてすでに抑留されていたが、新聞やラジオで、自由に戦時下の『敵国アメリカ』の社会的な呼吸と、脈搏を記録することができた。その当時の貴重なメモによると、つぎのような名称が、いろいろ提案されて、米国名物のギャラップ世論調査の対象にまでなって、各新聞紙上をにぎわせていた。
『生存の戦争』(生き残り、勝ち残るための戦争、という意味、大統領提案)
『人民の戦争』(カーチン・オーストラリア首相提案)
『世界自由のための戦争』(二十六パーセント)
『自由のための戦争』(十四パーセント)
『自由権の戦争』(十三パーセント)
『反独裁者戦争』(十一パーセント)
『人道のための戦争』(九パーセント)
『デモクラシーの戦争』(八パーセント)
『ルーズベルトの戦争』(皮肉な反ルーズベルト分子の投票)
結局、このようなヤンキーごのみの戦争呼称の名案は、いずれも戦争の進展と激化にともなって影をひそめて、米国でも英国でも、いつのまにか、対日戦争はすべて、『太平洋戦争』という、自然で平凡な呼称に統一されてしまった。我々日本人も、この国際的な呼称をすなおに使用した方がよい、と私は思っている。 
2 奇襲をめぐる感激と悲哀

 

日本海軍随一の米国通であり、しかも日独伊軍事同盟にあくまで反対して、日米開戦を回避するために、海軍次官当時より苦心、努力しつづけてきた山本五十六海軍大将(開戦当時の階級、昭和十八年四月十八日、ソロモン群島のブーゲンビル島南端上空で機上戦死後、元帥に昇進す)が、みずから真珠湾奇襲攻撃計画を提案し、連合艦隊司令長官として軍国日本の興亡を賭(と)して、日米開戦の壮烈な火ぶたを切っておとした歴史的事実は、まことに世界戦史上に永久に記録されるべき、人間悲劇であろう。日本でも米英でも、『山本五十六伝が刊行されて注目されているので、戦後の日本国民にとっては、あまり寝覚めのよくない、真珠湾奇襲大勝の思い出(それはじつに軍国日本の敗北、降伏の第一歩でもあった)が、再びよみがえってきたようだ。それに十二月は、日米開戦を呼びさまされるので、我々日本人は、好むと好まざるとにかかわらず、真珠湾奇襲の『悪夢のような勝利感』を、皮肉にも、まるで砂をかむような索漠たる気持で味わわせられるにちがいない。なぜなら、我々日本人の国民的感情と、幻滅的悲哀をまったく無視して、米国はじめ往年の主要連合国では、あの『真珠湾を忘れるな!』(リメンバー・パールハーバー)の歴史的合言葉を、なまなましくマスコミがよみがえらせて、いろんな戦争記念行事か盛大に行なわれるだろう、と私は戦史家として予想しているからである。幸か不幸か、あの歴史的な十二月八日(日本時間)に、私に、ジャーナリストとして米国に駐在し、内地にはいなかったので、真珠湾奇襲大勝の奇蹟的な吉報に、大元帥たる天皇も機嫌うるわしく、日本中の軍、官、民大衆がいかに狂喜、乱舞して絶大な勝利の感激にひたったか、そのなまなましい姿や、歓声を、自分で見聞して、たしかめることはできなかった。しかし、後で紹介する有名な米英追放、大東亜主義の巨頭であった大川周明博士(戦時中は、満鉄東亜経済調査局最高顧問、法政大学大陸部長、主著『日本二千六百年史』『日本精神研究』『大東亜秩序建設』など)の真珠湾奇襲大勝にちなんだ感動の言葉と、当時の連続ラジオ放送のテキスト記録を読んでみると、確かに日本全国民の『世紀の勝利感』といったものを、いまさらのように切実に痛感させられたものだ。あの純情な芸術家気質で知られた詩人、彫刻家の高村光太郎でさえ、
「 『必死にあり、その時、人きよくして強く、その時、こころ洋々としてゆたかなのは、我ら民族の習(なら)いである』 」
と、米英撃滅の無限の感動をこめた戦争詩をいくつも発表した。戦前、戦後を通じて民衆詩人として愛好された三好達治さえも、『アメリカ太平洋艦隊は全滅せり』と題する、つぎのような長詩を堂々とつくって、勝利の祝杯に酔った。今日から回想すると、まことにハダ寒い悲哀感を覚えるばかりである。それがいわゆる『戦争のむなしさ』といってもよかろう。
「 『ああその恫喝(どうかつ)、ああその示威、ああその経済封鎖、ああそのABCD線、笑うべし、脂肪過多のデモクラシー大統領が、飴よりもなお甘かりけん。昨夜の魂胆のことごとくは、アメリカ太平洋艦隊は全滅せり! 荒天万里の外、激浪天を拍(う)つの間に馳駆(ちく)すべかりし、ああその凡庸提督キンメル麾下の艨艟(もうどう=軍艦)は、一夜熟睡の後、かしこ波しずかな真珠湾内ふかく、舳艫(じくろ)相含みて沈没せり、げにや一朝有事の日、彼らの光栄のさなかにあって、ああその百の巨砲は、ついに彼らの黄金の沈黙をまもりつつ海底に沈み横たわるなり』 」
おそらく私自身も、十二月八日に日本内地にいたら、このような国民的感激を爆発させた戦争詩を、さかんに愛誦していたかも知れない。だが、真珠湾奇襲大勝について、いちばんムッツリして浮かぬ表情のかげに、『ああ日米ついに戦えり、もはや後にはもどれないが、その前途は?』と矛盾した気持で、国民大衆のカラ騒ぎをひそかに注視していたのは、米国のおどろくべき強大な工業生産力をよく承知していた、山本司令長官ではなかったろうか?
それはそれとして、今日の時点で我々日本人は、たいていが真珠湾奇襲大勝のむなしい思い出を、いまではむしろ忘れたいくらいであろうと思われる。それに反して、米、英諸国では現在でも、相変わらず『真珠湾を忘れるな!』の警句が生きていて、一般的な多数の第二次大戦史や、太平洋戦史、戦記本の一部分になっているものをのぞいて、真珠湾奇襲だけを主題にしたノンフィクションの単行本が多く刊行され、いずれも好評を博している。その中には、私が訳述して、日本にはじめてルーズベルト謀略説を、くわしく紹介したロバート・A・シオボールド海軍少将の論争の書『真珠湾の審判』(原題は『真珠湾の最後の秘密』)もあれば、また新しく学問的な立場より、奇襲についての専門研究をまとめた社会科学者ロバータ・ウォールステッター女史の大著『真珠湾その警告と決断』(米国スタンフォード大学出版局、一九六二年刊)のような、良心的な専門書もふくまれている。(しかし、その大半は、興味本位のノンフィクション読物書が占めている) ではいったい、なぜ、米、英国民は真珠湾奇襲に、いまでも、それほど重大な関心なもっているのでふろうか? それは、現在の核ミサイル時代で、いちばん恐ろしい『核奇襲』のあり方と、その予知、抑止、防止のあらゆる対策、方法にかんして、真珠湾奇襲の貴重な教訓から、がめつく学びとるためだ! 我々日本人は、いまさら真珠湾奇襲について、かれこれ論じてもはじまらない、といったわびしい気持が一般に強いが、彼らにとっては、真珠湾奇襲こそ、将来の『核奇襲』の原型(プロトタイプ)として、この両者が、不可分なくらい、かたく結びついているのだ! 実際に、戦略上からも、戦術上からも、通常爆弾によった過去の真珠湾奇襲と、メガトン級の原、水爆弾による将来の『核奇襲』との間に、死傷者数と破壊力のものすごいケタちがいをのぞいては、べつに変わりはないわけである。 
3 奇襲は予知されていたか?

 

終戦後はじめて、米国の新聞、通信の報道によって、日米開戦の前夜ともいうべき重大な日米交渉(野村・ハル会談とも呼ばれた)をめぐり、日本側の最高機密度の外交暗号電報が、すべて米国側に自由に傍受解読されて、日本政府と軍部の手のうちがすっかり見すかされ、また日本の対米英蘭戦争の準備行動までもつつ技けになってした、おどろくべき事実がばくろされて、我々日本人はまさに唖然(あぜん)とし、かつ呆然(ぼうぜん)としたものであった。要するに軍国日本は、武力戦に敗けたのみならず、開戦前の諜報戦にもすでに敗けていたのだ!。それから戦後、米国政府がけっして正式に発表したわけではないが、しかし、米国側の熱心な大勢のジャーナリストや軍事専門家の努力により、この奇怪な暗号諜報戦の真相が、しだいに明るみに出てきた。いまその主要な点をつぎに列挙して、これまで日本では断片的にしか報道、紹介されなかった、いわゆる『マジック』情報の、極秘の正体を総合的に検討してみよう。
「 (1)最新の権威ある記録資料によると、米陸軍通信隊(シグナル・コアズ)諜報部の暗号班主任(文官)ウィリアム・F・フリードマン(戦後の一九五六年に陸軍大佐の階級で退職す)の苦心努力によって、米国側では、開戦の約一年半も以前の一九四〇年八月に、東京(外務省)とワシントン電報を、はじめて完全に解読することに成功した。それまでにも一部分の暗号解読は行なっていたが、暗号電報全文の解読成功は、このときが最初であった。
(2)フリードマンは、この機密度の高い暗号解読の技術と研究にかんしては、世界一の専門家とみとめられていたが、開戦の年(一九四一年)の二月、野村吉三郎大使のワシントン着任いらい、ひんぱんに東京の外務省との間に発、受信された数百通にのぼる極秘の、重大な外交暗号電報の傍受解読のために昼夜、やすみなく没頭した結果、精神過労と、心臓病のために開戦直後に倒れて、戦時中は長らく入院療養していた。しかし、彼のかくれた努力と功績によって、米国側では日米交渉をめぐる日本側の機密暗号電報の内容を自由に知り、きわめて有利な立場にあった。
(3)この偉大な功績によって、フリードマンは、一九五六年に退職したとき、米国議会の承認をへて十万ドル(三千六百万円)の功労金を贈られ、また新制定の『国家安全保障勲章』(NSM)を授与された。
(4)その当時、日本側の、あらゆる種類の外交暗号電報の傍受解読されたものに、米軍諜報部では『マジック』(魔法)という隠語名をつけて、それを極秘の『マジック』情報と呼んでいた。この隠語名の発案者は、当時の海軍諜報部長アンダーソン大佐であった。
(5)陸軍通信隊諜報部(SIS)の主任暗号官フリードマンの最大の功績は、日本側の各種の外交暗号電報のなかで、もっとも機密度の高い『パープル』(紫色)暗号用の精巧な 暗号機械(日本海軍技術研究所が苦心作製した電気モーター式の『九七式欧文印字機』で外務省へ十数台提供していた)を、手製で開戦時までに四台を完成していた事実である。この複雑で精巧な暗号機械にかけて、タイプライター式のキーを打たないかぎり、ぜったいに暗号解読は不可能と、日本側で自信を持っていたのに、彼は、十八ヵ月もかかって、その模造製作に成功した。その四台のなかで、ワシントンに一台、英国ロンドンに一台、フィリピンのキャピテ軍港に一台がそれぞれ配置されたが、かんじんの真珠湾軍港には配置されていなかった。(しかし、記録によると、その五台目は製作中であった)
(6)開戦の年の後半には、この模造された『パープル』暗号機械が大いに活動し、米陸海軍諜報部が、二十四時間交代制(奇数日は海軍担当、偶数日は陸軍担当)で、全米十数ヵ所の電波受信所で特別に傍受した日本外交暗号電報を、片っはしから解読にあたった。
(7)このように米国側では、『マジック』情報をたくさん入手して、日本側の動向と意図を十分に察知しながら、なぜ 十二月七日、日曜日(米国時間)の真珠湾奇襲にあのような 未曾有の油断と、大惨害をさらけ出したのであろうか? (これがルーズベルト謀略説の出所であるが、しかし、これは、反ルーズベルト派の絶好の攻撃材料にはなるが、厳正な太平洋戦史の調査研究によって否認されている)
(8)要するに米軍は、日本側の外交暗号電報を自由に傍受解読していながら、不覚にも、その『マジック』情報の内容を軍首脳部が迅速に、正確に評価、判断することに失敗したのだ。その主原因は、陸海軍諜報部とも、暗号解読作業の要員不足と、その作業プロセスにたいへん手間どり、せっかく重大な、緊急の暗号電報を傍受しながら、その暗号解読と英文翻訳に、じつに一ヵ月以上も要したからであった。 」
まさに、事実は小説よりも奇なり、である。 
4 大川周明の感激と大気炎

 

戦後に育った若い世代の人々は、大川周明博士といってもほとんど知らないであろうが、戦後の東京裁判(昭和二十一年五月〜二十三年十一月)の公判中に、おなじ被告席に着席していた、やつれ果てた東条元首相のハゲ頭を、突然、後方から強くたたいた長身の豪傑風の、A級戦犯の右翼論客といえば、あるいは記憶のある人々もあるだろう。大川博士は、ナチズム(国家社会主義)の理論指導者として、ナチス政治で重きをなしたドイツ哲学者アルフレッド・ローゼンバーグ博士(有名な『二十世紀の神話』の著者、戦後の一九四六年十月、ニュールンベルグ戦犯裁判で絞首刑を宣告、執行された)とならんで、軍国日本の代表的な超国家主義理論家と呼ばれ、A級戦犯に指定されて、スガモ・プリズン入りをしたが、公判中に精神異常をきたして、医師の診断の結果、ついに『発狂』とみとめられて、審理中止をいいわたされた。かくて彼は、あやうく絞首刑をまぬがれて数年間、精神病院に強制収容されていたが、退院後に、じつはみずから『仮病』を使って裁判をまぬがれたと、堂々と声明して、世間をあっとおどろかせた奇怪な人物である。(彼は結局A級戦犯の裁判を逃れて郷里に帰り昭和32年まで生きた。71歳で没) この大川周明博士は、明治四十四年、東京帝国大学文学部卒、法学博士の肩書を持った、大正・昭和時代の国家革新運動の大立者であり、昭和七年五月十五日に首相官邸で、当時の犬養毅首相(政友会総裁、七十七歳)を暗殺した、急進的な海軍青年将校一派(陸軍士官学校生徒、民間行動隊多数をふくむ)の有名な五・一五事件の黒幕的人物として、懲役十五年の判決をうけた、熱血の理論家兼闘士であった。彼は、はやくから日本主義、大東亜主義、反民主主義を強く提唱して、米英勢力の排撃を大いに主張し、大正八年には極右、国家主義結社『猶存社(ゆうぞんしゃ)』を結成して、狂信的な機関紙『雄叫(おたけび)』を発行、つぎのような目的宣言を発表して、活発な理論、実践の両方面にわたる運動を展開していた。彼の親しい仲間には後年、皇軍反乱の二・二六事件の黒幕的首謀者として、銃殺刑を宣告、執行された有名な右翼革命家・北一輝(きたいつき)もふくまれていた。『日本の現状を打破し、日本民族の真精神を発揮し、もって君民同治の革命的大帝国を東亜の天地に建設せん!』このような思想的立場と、行動的背景を持った大川博士が、日米開戦と真珠湾奇襲大勝の歴史的吉報を聞いて、いかに欣喜(きんき)感激したか、想像にかたくないであろう。(したがって、戦後に、彼が東京裁判でA級戦犯に指定されたのもムリはないだろう) 彼はその感激を得意の壮重、雄大な健筆にたくして、当時、つぎのように述べている。
「 『昭和十六年十二月八日は世界史において永遠に記憶せらるべき吉日である。米英両国に対する宣戦の詔勅は、この日をもって渙発(かんぱつ=公布)せられ、日本は勇躍してアングロ・サクソン世界幕府打倒のために起った。しかして最初の一日において、すでに、ほとんどアメリカ太平洋艦隊を撃滅し、同時にフィリピンを襲い、香港を攻め、マレー半島を討ち、雄渾(ゆうこん)無限の規模において皇軍の威武を発揚した。東亜新秩序の破壊を前提とする。東亜旧秩序の破壊とは、東亜における米英勢力の駆逐であり、亜細亜におけるアングロ・サクソン世界幕府支配の打倒である。かくして事物必然の論理として、日本は米英に対して宣戦するに至った。世界史は東西の対立・抗争・統一の歴史である。それゆえに世界の戦争史には、不思議なる秩序と統一がある。人類の歴史的記憶のうち、半ば想像的ではあるが、最初に明確に想起せられたるものは、恐らくトロイ戦争である。しかしてこの戦争は、実に亜細亜(アジア)と欧羅巴(ヨーロッパ)、東洋と西洋との最初の戦争であった。ヘロドトス(歴史学の父と呼ばれた古代ギリシアの史家)は、トロイ戦争をかくの如きものと考えたるがゆえに、その大著「歴史」をこの戦争から書き始めた。そは東洋と西洋との宿命的なる戦争を中心として展開せらるる世界史の序幕であり、爾来(じらい)、戦争の舞台は歴史の進行と共に広大となり、ついに全地球をその舞台とするに至った。いまやスカマンデル荒野の代りに渺茫(びょうぼう)たる太平洋が、またトロイの代りに尨大なる東亜の天地が、大東亜戦争の壮烈なる戦場となっている。しかも大東亜戦争は、依然として相対抗する東西両洋の戦いなることにおいて、トロイ戦争(古代ギリシアの有名な伝説的戦争で、スパルタの大軍十万が十年間にわたりトロイの城を攻囲、ついに占領した)と、その世界史的意義を一にする。あれらは、いま、全身全霊を挙げて、この雄渾なる戦いを戦いつつある。この戦争の勝敗は、まさに世界史の動向と人類の運命とを決着するものである。米英亜細亜(アジア)侵略の跡をたどる者は、彼らの支配がいかなる悲惨を世界にもたらすかを明白に認めるであろう』(原文のまま) 」
かくて長年の苦節、苦闘にきたえ上げられた国家革新運動の大立者大川博士は、西欧文明とアングロ・サクソンの金権資本主義を打倒する『聖戦』の世界史的意義を、全日本国民へ強く訴えるために、真珠湾奇襲大勝の直後の、昭和十六年十二月十四日より二十五日まで、十二回にわたりJOAK(当時の日本放送協会の唯一の全国中継ラジオ放送局)から、『米英東亜侵略史』と題する連続講演ラジオ放送で、得意の熱弁をふるった。いま私の手元にある、当時の大川博士のラジオ放送速記録によると、この注目すべき連続講演放送は、第一日から第六日を『米国東亜侵略史』と題して、
「 『日米戦争こそ、東洋と西洋との対立、抗争の歴史的帰結であり、この日米戦争における日本の勝利によって、暗黒の夜は去り、天(あま)つ日かがやく世界が明けそめねばならぬ。支那事変の完遂は東亜新秩序実現のため、すなわちアジア復興のためである。アジア復興は世界新秩序実現のため、すなわち人類の一層高き生活の実現のためである。世界史はこの日米戦争なくしては、しかして日米戦争における日本の勝利なくしては、けっして新しき段階を上りえないのである。日本とアメリカ合衆国とは、いかにして相戦うにいたったか。太陽(日本)と星(米国)とは、同時にかがやくことはできません! いかにして星は沈み、太陽はのぼる運命になってきたか、その経緯をさぐることが、とりもなおさず、私の講演放送の目的である』 」
と、全国民へむけ大見栄を切った。さすがに彼は、日本有数のアジア通の実践的学者だけに、東条首相以下、政府と軍部要人の紋切り型の、かたくるしい国民への士気激励演説よりも、それははるかに煽動的効果が強烈だったようだ。さらに第七日から第十二日までを『英国東亜侵略史』と題して、いわゆる英国の三百年にわたる東亜侵略、支配の罪業をあばき立てて、米英撃滅のために、ついに日本が決起した世界史的意義を大いに強調した。そして彼は、
「 『大東亜とは日本・シナ・インドの三大国であり、我々日本人の魂こそ三国魂である。すなわち日本精神とは、大和心(やまとごころ)によってシナ精神とインド精神とを総合せる東洋魂である。我らの心のなかにひそむこの三国を具体化し、客観化して、一コの秩序たらしめるための戦いが、大東亜戦である。正しきシナと、よみがえれるインドとが、日本と相むすんで東洋の新秩序を実現するまで、いかに大なる困難があろうとも、我らは戦いぬかねばならない。いと貴きものは、いと高き価をはらわずば、けっしてえられない。おもえば、一九四一という数は、日本にとって因縁不可思議の数である。元寇(げんこう)の難は皇紀一九四一年であり、米英の挑戦は西紀一九四一年である。私は日本の覚悟と努力とによって、米英の運命また蒙古のそれのごとくなるべきことを信じて、この不束(ふつつか)なる講演を終わることにします』 」
と、全十二日間にわたる大講演ラジオ放送を終わった。私はこの当時、米国首都ワシントンですでに、連邦検察局(FBI)の手に逮捕、抑留されていたので、この大川周明博士の歴史的な大熱弁を、内地のラジオ放送で聞くチャンスをいっした。今日、いまは亡き大川博士の名前は、すっかり忘れられ、あるいは、まったく知られずに過去の悪夢のなかへ葬り去られてしまった。しかし、私は、日本の戦史家の立場より、やはり彼こそ、軍国日本を代表した大東亜理念のたくましき提唱者であり、無定見な東条政府や、大本営のいかなる戦争指導者連中よりも、世界史的な戦争観のめずらしい持ち主であったと思っている。戦後、わが国では、すでに長年の間、太平洋戦争をただ軍事、政治、外交の面からのみ論議して、思想戦の点をまったく除外、無視していることは、今日の民主主義日本の国民感情としては、もっともに思われるが、しかし、戦時中の狂信的愛国心の正体と、発想を正しく理解するために、最右翼言論人の長老徳富蘇峰翁と大川周明博士の多数の戦前、戦中の発言、著述記録は、十分に再検討されねばならない、と私は信じている。  
 
北一輝

 

はじめに 
故田中惣五郎氏の著作『日本ファシズムの源流―北一輝の思想と生涯』が刊行されたのは1949年であった。それは最初の北一輝に関する研究書であると共に、その題名が、北についてのその後の一般的イメージを代表するようになった点でも、記憶さるべき著作であった。この北を「日本ファシズムの源流」とする見方は、現在でもある程度常識化しながら流通しているし、それは北をとりあげる場合の基本的観点を示してもいると今でも私は考えている。しかし、そのことは、すでに北の歴史的位置づけが確定されたということを意味してはいない。常識的に言っても、「源流」は必ずしも「主流」であることと同義ではないし、また「源流」と言っただけでは、それが唯一の、あるいは基本的な源流であるのか、複数のもののなかの一つのものという意味なのかも明かではない。
まず、「大政翼賛会」に象徴されるような支配体制のファッショ化の観点からみれば、2・26事件において銃殺されてしまった北が「主流」に位置していたとは言えない。しかしまた、1919年(大正8年)大川周明にむかえられて上海から帰国した北、及び彼が持ち帰った『国家改造案原理大綱』(のち『曰本改造法案大綱』と改題刊行)が、その後のファッショ化を促す大きな衝撃力となったことも否定し難い事実であろう。とすれば、その間には如何なる関連が存在したのであろうか。問題は、体制化した日本ファシズムに対する北の特殊性とは何か、北が日本ファシズムの源流となりえた衝撃力とは何かという二つの観点を中心として解かれねばならないであろう。
たしかに北の思想は、1937年文部省が国民教化をめざして発表した『国体の本義』などの立場からみれば、異端とされざるを得ないような性質を持っていた。その点について、2・26事件直後の1936年5月、将校閲覧用に作成された「調査彙報」第50号は『日本改造法案大綱』を次のように批判している。「要するに著者の根本思想は強烈なる社会民主主義の上に立ち、極端なる機関説を採り、天皇の神聖と我が国体の尊厳を冒涜し奉るものにして、表面尊皇の念を装へるも其内包する思想を検討するとき、彼の所謂国体観は絶対に我が軍人精神と相容れざるのみならず、日本臣民として正視するに忍びざるものと言ふべし1)」と。それは以後の日本ファシズムの主流からする基本的な北一輝批判の観点を代表するものでもあった。2)
   1) 『北一輝著作集』第3巻所収、621〜2ページ、なお、『北一輝著作集』については、以下の如く略記する。
   2) 例えば、1941年4月、司法省刑事局「思想研究資料」特輯第84号として刊行された山本彦助検事の報告書『国家主義国体の理論と政策』も、北について「彼は、不敬不暹思想の抱懐者であって、我国体と,全く相容れざるものである」と述べている。(東洋文化社復刻、1971年)
なるほど北は、すでに早く、1906年(明治39)に自費出版した最初の著作『国体論及び純正社会主義』において、自らの立場を「社会民主主義」と規定し、いわゆる国体論の妄想を打破せんと企てた。そこでは天皇は、帝国議会と共に国家の最高機関を構成する要素として性格づけられていた。そして北は20年後の1926年(大正15)、『日本改造法案大綱』の刊行にあたって、自分の思想は「二十年間嘗て大本根抵の義に於て一点一画の訂正なし」「一貫不惑である1)」と述べ、『国体論及び純正社会主義』の序文をその附録として収録したのであった。2)
   1) 「第3回の公刊頌布に際し告ぐ」、大正15年1月3日付。
   2) 北が、発売禁止のうきめにあった『国体論及び純正社会主義』に後年まで強い執着を持っていたことは満川亀太郎の次の記述からもうがじえる。「しばらくは猶存社に平和なる日が続いた。北君は朝夕の誦経が終ると、15年前の著作たる『国体論及び純正社会主義』に筆を入れるを日課としていた。」(満川亀太郎箸『三国干渉以後』1935年、平凡社)
おそらく北が、満川や大川周明らの招きで上海から帰国した1920年のことであろう。しかしこの時、北がどのような加筆、訂正を行ったか今のところ明かでない。
北が一貫不惑であったかどうかは評価の分れるところであるが、彼の「社会民主主義」が日本ファシズムの主流と異質であったことは疑いないところである。同時にまた、北の「社会民主主義」は、世の一般の社会民主主義とも箸るしく異質であった。従って、北一輝研究は、まずこの異質の内容を明らかにすることから始めねばならなくなる。
研究史の上から言っても、北一輝研究が盛んになったのはこの問題が提起されてからであるが、その場合、問題がファシズム主流からの異質性、とくに国体論=天皇制イデオロギーの批判者という観点を軸として立てられたことが特徴と言えた。そしてそれはファシストとしてのそれまでの北のイメージを180度転換させるような効果をもたらした。 最近の研究動向は、この観点から、北を日本ファシズムの問題から切り離しても通用する独自の思想家ないし革命家として再評価しようとする方向に傾いているように思われるのである。
ところでこの北一輝の新しいイメージを最初に提起したのは、久野収氏の「日本の超国家主義一昭和維新の思想1)」であった。久野氏は、まず北を「昭和の超国家主義の思想的源流2)」と位置づける。そしてこの「超国家主義」は「明治以来の伝統的国家主義」から切れていると同時に、第2次大戦期の支配的思想とも異質だというのでる。つまり氏は、明治の国家主義と、昭和の体制化したファシズム思想とを連続したものと捉え、「超国家主義」をその対極に置こうとしたのであった。
そしてこの「超国家主義」は天皇を伝統のシンボルから変革のシンボルに捉え直すことで伝統的国家主義への反抗を試みたが、2・26事件の失敗によって、結局「明治以来の国家主義に屈伏し、併合された3)」とみるのである。
このような位置づけから言えば、明治の国家主義に対立する点で、「超国家主義」と「民本主義」とは共通の性格を持つことになり、この論文は、北一輝と吉野作造をそうした共通性で捉えた点で、それまでの北一輝のイメージに深刻な衝撃を与えたのであった。氏は明治以後の状況について次のように述べている。「天皇中心のシステムは、だんだんと統合力、求心力をうしない、まだ外部からはみえなくても、内部から解体をはじめた。この時伊藤の作った憲法を読みぬき、読みやぶることによって、伊藤の憲法、すなわち天皇の国民、天皇の日本から、逆に、国民の天皇、国民の日本という結論をひき出し、この結論を新しい統合の原理にしようとする思想家が、二人出現した。主体としての天皇、客体としての国民というルールを逆転し、主体としての国民、客体としての天皇というルールを作ろうというのである。 一人は、吉野作造、他は、北一輝であった。吉野は、議会と政党の責任内閣を基礎として、このルールの実現をくわだて、北は、軍事独裁を通じて、このルールの実現をくわだてた4)」。そして、吉野の民本主義が大衆をとらえずに挫折したとき、代って北の超国家主義が舞台の正面に立ちあらわれたとみる久野氏は、その間に「土着的シンボルの回復」、「社会主義とナショナリズムの結合」といった問題をも示唆したのであった。
   1) 久野収、鶴見俊輔共著『現代日本の思想』所収、岩波書店、1956年。
   2) 同前。
   3) 同前。
   4) 同前。
この久野氏の問題提起は、北一輝研究を大きく発展させることになった。1959年には北の主著を復刻した『北一輝著作集』第1巻・第2巻が刊行され、さらに72年には、その後松本健一氏らによって発掘された北の初期の論文や関係資料を集めた第3巻が続刊された。しかし同時にまた、その後の研究は、久野氏のシェーマを基礎とし、それを増幅するという傾向を持つに至っているように思われる。それは大まかに言えば、一つは氏の言及した「土着」の問題から、土着革命家としての北一輝像をつくろうとする傾向であり、もう一つは明治から第2次大戦期に至る支配的国家主義に対する批判者・反逆者としての北のイメージをさらに引きのばして、北のなかに戦後改革をも透視する進歩的側面を読みとろうとする傾向である。
例えば鵜沢義行氏は、『国家改造案原理大綱』の思想を「天皇ファシズム」と規定しながらも、その「国民ノ天皇」の部分は、戦後の象徴天皇の「過渡的原理」を暗示するものと読み込んでいる1)。また村上一郎氏は北のなかに「天皇制を逆手にとって天皇制を打倒する方向2)」をよみとろうとし、河原宏氏は「土着革命の構想─北一輝が自らに課した課題、したがって彼の思想がかもしだす異様な魅力はかかってこの一点に要約されるであろう3)」と述べる。さらにG.M.ウィルソン氏は北を近代化の推進者だったとして次のように言っている。「北は、社会主義者たちが国民の中のナショナリズムに働きかけて、これを自分たちの支持源とすること、すなわち、国家とそのシンボルたる天皇を、『全国民』の要求に従うものにすることを望んでいた4)」「(北の国内改造案)は明らかに、近代の社会問題に対する一種の福祉国家的な考え方を示している5)」「北は近代化推進者(モダナイザー)であった6)」と。
そして最後に松本健一氏の次の一節を引用しておこう。「北一輝の思想は今日なお生き残っており、国民国家をもつき動かす可能性をさえもっている。……なぜならば,北は明治国家を天皇制国家として把握せずに、近代国家の成立、つまり国民国家として把握したからである。だからこそ8月15日以後のいわゆる『民主憲法』によって、北の国家改造法案のほとんどが実施されるという状態が現出したのである。けれど、北の内在論理としての『超国家主義』は、この国民国家が他の国民国家と相剋し、争い、超国家─世界連邦にまで突き進むと説いており、それこそが北の超国家主義思想だったと思えてならない。つまり超天皇制国家であるのはいうまでもなく、 超国民国家でさえあったということだ(手段は帝国主義戦争であるにせよ)。それゆえに、国民国家の形態を法制度上でいちおう成就した今日でも、北の思想が有効である所以があるのであり、そこに北の怖ろしさがあるのだと思わざるをえない7)」。
   1) 「昭和維新の思想と運動」日本政治学会編『政治思想における抵抗と統合』、若波書店、1963年。
   2) 『北一輝論』三一書房、1970年。
   3) 「超国家主義の思想的形成─北一輝を中心として」、早稲田大学社会科学研究所・プレ・ファシズム研究部会編『日本のファシズム』早稲田大学出版会、1970年。
   4) 『北一輝と日本の近代』、岡本幸治訳、勁草書房、1970年。
   5) 同前。
   6) 同前。
   7) 『北一輝論』、現代評論社、1972年。
北の著作には、それだけをとり出せば、このように読みうる部分がないわけではない。すなわち、これらの北一輝像に共通しているのは、『国体論及び純正社会主義』における国体論批判と、『国家改造案原理大綱』巻1「国民ノ天皇」とを結び、そこを北の思想の本質的部分として高く評価しようとしている点にあるようにみえる。しかし反面でこの評価は、北の国体論批判が、彼の「社会民主主義」の不可欠の一環であることを軽視する結果におちいってはいまいか。すなわち、明治維新で社会民主主義が日本国家の本質となったとみる彼の社会民主主義論は、国体論批判なしには成立しえないのである。従って、橋川文三氏が「奇妙な問題」「わかりにくいところ1)」と指摘したような、彼の言う社会主義・民主主義の特異性と切り離して、国体論批判だけを強調するとすれば、北自身の思想とは「思想系を異にする」―北の用語を借りれば―北一輝像にたどりつくことにならざるをえまい。私には、最近の北一輝研究の動向は、北を日本ファシズムの主流から区別するのに急なあまり、北の社会民主主義がもつ、一般の社会主義・民主主義に対する特異性に十分な分析を加えていないように思われるのである。 しかし、この面こそが北の思想の最も本質的な部分であり、それがまた北を日本ファシズムの源流たらしめる要因となっているのではあるまいか。
   1) 「国家社会主義の発想様式―北一輝、高畠素之を中心に」、日本政治学会編『日本の社会主義』岩波書店、1968年。
この問題もまた久野収氏によって指摘されながら、しかしその後掘り下げられないままに終っているように思われる。1959年「超国家主義の一原型─北一輝の場合1)」を書いて、『国体論及び純正社会主義』を中心に再び北一輝をとりあげた久野氏は、今度は北の社会民主主義のなかに、後年の「ファシズム化」の要因を指摘しておられる。すなわち、ここでは、『国体論』の段階と『改造法案』の段階の北とを区別し、前者で進歩的であった北は、後者ではファシストとして再登場するという見解が示される。その天皇論、国家構造論で進歩的であった北の社会民主主義は、その国家観によってファシストに転化するとして、次のように述べられるのである。
「北の天皇論、国家構造論こそは、……国家目的のための“君民同治”“君民共治”の姿、民主共和をイデーとして認める君民共治の姿を明治憲法のなかに読み抜いた思想だといってよく、この思想こそ明治以後の日本人の進歩的部分の“原哲学”をなす天皇観だといえるであろう。……天皇観、憲法観、国家体制論、社会的理想像において、あれほど進歩であった北が、後年、中国の独立革命での体験を通じ、『法案』によって、ファッシストとして再登場する秘密の一つは、実に彼の国家観にひそんでいたと考えられる2)。」
しかし、北の思想において、天皇観、国家体制論は進歩的で、国家観はファシズムヘ通じるといった分離が可能なのであろうか。氏は北の国家観を分析されたのち、 北の論理からは、「個人のなかに含まれる体制構想的契機、一言でいえば民主(デモクラティック)=自由的契機(リベラル)は落丁しないわけにゆかない3)」と指摘される。しかしこの点は果して北の天皇観、国家体制論と無縁なのであろうか。北の天皇機関論が天皇の特権の内容を検討しようとはせず、またその公民国家論が、公民国家か否かの本質判定にとどまり、それ以上の制度論に深入りしようとしないのは、この「落丁」との関連を除いては理解しえないのではあるまいか。
   1) 『近代日本思想史講産』第4巻所収、筑摩書房、1959年。
   2) 同前。
   3) 同前。
私には現在の北一輝研究の状況は、はなはだ混沌としているようにみえる。そしてそれは北の思想のなかから、何かすぐれた点をとり出そうとする意図が先走ってしまった結果ではないかと思われる。
本稿は、第1に北の思想において、さまざまな要素がどのような関連をもち、どのように内容づけられているか、それはどのような発展方向をもっているのかを追求すること、第2に北の思想が、日本ファシズムの形成に参与する諸グループにどのような影響を与えたのかを明らかすることをめざしている。それが、日本ファシズムの形成過程と性格を解明するために、さらにまた、かつて久野氏が提起された日本の国家主義の問題を検討するためにも、必要にしてかつ有効な作業となりうるのではないかと考えているからである。 
1 帝国主義と国家の必要

 

1883年(明治16)佐渡ヶ島に生れた北は、日清戦争が開始された時12才であった。このことは、彼が戦争そのものと戦後の「臥薪嘗胆」のスローガンによって国家意識が大衆にまで浸透していった時代に、10代を過したことを意味している。またそれは同時に、日清戦争の敗北によって中国に対する列強の植民地侵略が急テンポで進められた時期でもあり、日本の国内でも、「支那分割論」「支那保全論」などといったテーマに世論の関心が向けられていた。このことは北の思想形成の1つの背景と考えておいてよいであろう。
もちろん、それは北が10代において早くも強烈な国家主義者になったという意味ではない。彼は1900年(明治33)に『明星』が創刊されるとすぐさま投稿をはじめる文学青年であったし、また佐渡における自由民権の流を身近かにうけとり、同時に新しくおこってきた社会主義思想にも眼をむけていたことは、すでに田中惣五郎氏(『北一輝』増補版1971年、三一書房)や、松本健一氏(『若き北一輝』、1970年、現代評論社)などによって明らかにされている。そして特に内村鑑三に特別の敬意を払っていたことは、後で述べる「咄、非開戦を言ふ者」のなかの次のような内村についての叙述にもみることができる。
「氏は十字架を指して人道の光を説きぬ、世が尊王忠君を食物にして私慾を働くの時に於て、氏は教育勅語の前に傲然として其の頭を屈せざりき、……実に内村鑑三の四字は過去数年間の吾人に於ては一種の電気力を有したるなり」
このような北の思想的出発点は、政治問題についての最初の論文「人道の大義」(佐渡新聞、明治34・11・21〜29)に掲げられている次のような改革項目からも推測することができる。
「一、天皇は一般民人を親近し拝謁を贈ふを得るの制度となすべし
二、臣民間の階級制度を廃止すべし
三、智識の分配を平等ならしむべきこと
四、議員撰挙法を改正して広義なる普通法となすべし
五、労働組合を組織して資本家利益の壟断を制し及び相互救護するの方法を講ずべし」
それは、自由民権や社会主義の主張を彼なりに整理したものとみることができる。そして、ここではまだ、国体論打破の志向はあらわれていない。「伏して惟みるに天皇は民の父母たり民は其子女に異ならず、是れ我が立国の大本にして万世不易の格言国情の列国に異なる所爰に在り」として、「君臣の疎隔」を除去しようとする論法は、国体論の枠内のものであった。しかし後の北の思想展開との関連で言えば、ここで早くも国内改革と国際的発展を結合する視点がみられることに注意しておく必要があろう。
彼は、さきにあげた諸改革の目的が「現在の散邦裂士を連合し……世界的大政府を建立するの一事」にあるとし、そのために「率先して人道の大義を唱へ以て世界列邦を指導」することが「君子国たる吾日本の以て畢世の任務となすべき所」と述べている。そしてその「順序」として「先づ自国の国力を養成し、文明の基礎を確立し上下相一致し君民相和同して、而る後始めて其志を一世に行ふべきのみ」とするのである。すなわち、国力養成・文明の基礎確立→列国と異る君主国(日本の特殊性)→列邦に対する指導性→世界的大政府として、この「順序」を図式化することが出来る。そして国体論批判は、この「文明の基礎確立」のための試みとして出されてくるのであり、そのことによって日本の特殊性の問題は再検討せざるを得なくなったにちがいない。同時にまた1900年の義和団事件以後ロシアとの対立が激化しつつあるという現実のもとでは、戦争か平和かの問題を通して、列邦に対する指導性を確保 しながら世界的大政府に至る道程についても検討し直すことが必要となったと思われる。
北が最初に国体論批判の声をあげたのは、明治36年6月25、26日にわたって「佐渡新聞」に掲載された「国民対皇室の歴史的観察(所謂国体論の打破)」と題する論説においてであったが、この連載が新聞社の側の自主規制によって2回だけで中止された一週間後には、彼は「日本国の将来と日露開戦」(明治36・7・4〜5)なる論説をもって、再び佐渡新聞に姿をあらわしている。この論説は「政界廓清策と普通選挙」(明治36・8・28〜30)をはさんで、「日本国の将来と日露開戦(再び)」(明治36・9・16〜22)と続き、更に「咄、非開戦を言ふ者」(明治36・10・27〜11・8)において、社会主義者の非戦論への反撃へと発展しているのである。つまりここでは日露開戦を唱えるような国家意識の高揚が国体論批判を生み出しているという点に注意しておきたい。すなわちこの関連がのちの『国体論及び純正社会主義』の基本的骨組みを形成したと考えられるからである。
「国民対皇室の歴史的観察」は次のように書き出される。「克く忠に億兆心を一にして万世一系の皇統を載く、是れ国体の精華なりといひ、教育の淵源の存する所なりといふ。而して実に国体論なる名の下に殆ど神聖視さる。」そしてこの神聖視される国体論は実は「妄想」にすぎないことを明らかにしようとする。
そしてその意図を彼は次のように述べている。「迷妄虚偽を極めたる国体論といふ妄想の横はりて以て、学問の独立を犯し、信仰の自由を縛し、国民教育を其根源に於て腐敗毒しつゝあることこれなり。吾人が茲に無謀を知って而も其れが打破を敢てする所以の者、只、三千年の歴史に対して黄人種を代表して世界に立てる国家の面目と前途とに対して、実に慚愧恐倶に堪へざればなり。」
彼は「事実をして事実を語らしめよ」と言い、日本国民は1000年にわたって皇室を暗黒の底に衝き落してきたというのが歴史的事実ではないかと指摘した。しかしこの論文は新聞社側の自発的掲載中止によって、ほんの序論部分が発表されただけで姿を消したのであったが、 その末尾は「吾人の祖先は渾べて『乱臣』『賊子』なりき。」なる一文で結ばれていた。我々はこの未完の短文から、3年後の『国体論及び純正社会主義』のうち、「例外は皇室の忠臣義士にして日本国民の殆ど凡ては皇室に対する乱臣賊子なり」、「万世一系そのことは国民の奉戴とは些の係りなし」と述べられているような部分の構想がすでに出来あがっていたことを確認することができる。 しかし北の目的は、たんに歴史的事実をもって国体論の妄想にすぎないことを証明することだけではなかった。彼は国体論を排し、「以て我が皇室と国民との関係の全く支那欧米の其れに異ならざることを示さんと試む」と述べているが、しかし彼の意図が君主と人民、あるいは国家と国民の一般的関係を解き明かすだけに止まるものでなかったことは、先の引用の「黄人種を代表して世界に立てる国家の面目と前途」という言葉のなかにあらわれているように思われるのである。彼にとっては、国体論の打破はあるべき国家意識を明確にするための第一歩にほかならなかった。そしてその点において、次の日露開戦論につながっていたと言える。
北の日露開戦論は、彼にとっては、日本のあるべき姿の模索という意味をもっていた。「露国に対する開戦、然らずむば日本帝国の滅亡」−北は再論をふくめると8回にわたって連載された「日本国の将来と日露開戦」をこう書き出している。この論説において彼は、まず世界的な帝国主義の潮流を認識し、日本もまた積極的にこの潮流に加わりこれを突き抜けてゆかねばならないと主張する、彼はすでに、かつて主張した世界的大政府の下での世界平和─「天下ハ乃ち泰平にして交戦は祖先の未開を証する話柄となるに至らん」─は、帝国主義の段階を経過することなしには実現しないとの考えに傾いていたと思われる。
彼は、「侵略的意味に解されたる民族的帝国主義は現下世界列強の理想なり」と世界の現状を認識する。そしてこの帝国主義の原動力を「人口の増加」に求めた。「見よ。世界は電気と蒸気とを以て全く縮少せられたり。人口は恐るべき勢を以て増加しつつあり。この増加する人口がこの縮少されたる世界に於て其の利益と権利とを争ふ。帝国主義が多くの場合に於て血と火とを以て主張さるゝ当然のことに属す。」北はこの「人口の増加」を基本におく見方からさらに帝国主義を「人種的競争」と捉えるに至るのである。そして「吾人は実に人種的競争の、砲火に於てか平和に於てか、終に吾人の時代に於て結着の勝敗を見ざるべからざるを想ふ」、とすれば、「来るべき人種的大決戦」に勝ち残るための条件をさぐらねばならなくなる。
すでに国体論を妄想としりぞけていた北は、まず「吾人は不幸にして甚だ優等なる人種に非ざること」を率直に認識せよと言う。日本の独立がおかされなかったといっても、それは「単に四囲の風浪と鎖国政策との為めに穴熊の如き冬眠的状態に於て僅かに」維持されたにすぎず、その結果として「人種の政治的法律的経世的能力無く」、残されたのは「小さき、醜くき、虚弱なる、神経質なる、早熟早老の吾人」にほかならない。さらばと言って、経済的資源があるわけでもなく、欧米帝国主義のように「経済的帝国主義」に立って商工的戦争を行うだけの力もない。「米大陸といひ、西比利亜といひ、濠州といひ、印度といひ、亜弗利加といひ、渾べて皆英米仏独露の列強によって握らるゝ者。彼等が是等豊饒にして広大な領土により、関税の塁を築きて其激甚なる経済的戦争を戦ひつゝあるの時。粟大の島国が奈何ぞ商工に於て立 を得むや」つまり「この島々に籠城して農業立国といひ商工立国といひ早晩の滅亡を察せず」というのである。
では、日本が帝国主義的に発展するための条件は何なのか。北は「三千年間不断の乱世と、戊辰、西南、日清、北清の戦争とを以練磨されたろ戦闘的特性」があるではないかと答える。日本人は「現今の世界に於ては最も能く戦争に長ず」と。彼の結論は戦争しかありえなかった。「吾人は貧と戦闘の運命を荷いて二十世紀の日本に生る」。三国干渉以来の「臥薪嘗胆」のスローガンによる軍備拡張の下で、10代の少年期を過し終えたばりの北にとって、対露戦準備は進捗し、軍事情勢は我に有利と思われた。「実に千歳の一遇なり」、「吾人は言ふ、戦争のみ、戦争を以て帝国主義を主張するにあるのみと。」
北が戦争に期待したのは広大な領土の獲得であった。彼は帝国主義の本来的なあり方は経済的帝国主義だと考えていた。そして日本も帝国主義の列に加わるためには、領土の拡大が先決だというのである。「経済的帝国主義の戦争には領土てふ資本を要す」, 「吾人は残酷なる経済的帝国主義の敗者たるに堪へず。……帝国主義の残酷を免れむとする、或る場合に於ける方法として侵略は止むべからざるに非らずや。……吾人は商工的戦争を為すの前、前駆として必ず先づ傾土の拡張をなさゞるべからず」。彼は対露戦争の勝利によって、「満州・朝鮮、而して西比利亜の東南部」を獲得した日本の将来を夢想する。それによって「来るべき人種的大決戦に於て再び成吉〔思〕汗たり、タメーラーンたる」ことも可能になるであろうと。そしてそれが黄色人種のためにもなるであろうと。「吾人は嘗て清国を打撃して同胞の黄色人種を奴隷の境遇に陥れぬ、然らば吾人は其の罪滅ぼしとして其打撃を進で露に下さゞるべからざるに非ずや。……日本帝国の飛躍、黄色人種運命の挽回、今や三十歳の小児は世界歴史に向って最も壮厳なる頁を綴らむとす。吾人五千万の国民はこの光栄に対して大胆に覚悟する所なかるべからず」。
こうして帝国主義者として立ちあらわれた北も、自らは同時に社会主義者であるとの自覚を捨てることができなかった。
従って、彼の尊敬した内村鑑三をふくめて、社会主義者たちが非戦論の主張を声高く主張しつづけるという現実に直面したとき、改めて社会主義と帝国主義の関係をどう理論づけるかの問題に直面しなければならなかった。そしてその過程で、単純明快な帝国主義の主張を微妙に修正しなければならなくなっていったように思われる。
明治36年10月27日から11月8日まで9回にわたり、佐渡新聞に「咄、非開戦を言ふ者」を連載した北は、まず自らの立場を次のように述べている。「吾人は明白に告白せむ。吾人は社会主義を主張す。社会主義は吾人に於ては渾べての者なり。殆ど宗教なり。……而も同時に、吾人は亦明白に告白せざるべからず。吾人は社会主義を主張するが為めに帝国主義を捨つる能はず。否、吾人は社会主義の為めに断々〔乎〕として帝国主義を主張す。吾人に於ては帝国主義の主張は社会主義の実現の前提なり。吾人にして社会主義を抱かずむば帝国主義は主張せざるべく。吾人が帝国主義を掲げて日露開戦を呼号せる者、基く所実に社会主義の理想に存す」。彼にとっては、帝国主義から人種的大決戦への道は、社会主義をもってしても避けることの出来ない世界史の必然と考えられたのであった。そこで彼は、「帝国主義の敵は社会主義なり、社会主義の敵は帝国主義なり」とする「世界を通じての定論」に挑戦を試みるのである。
非戦論を唱える社会主義者に対する北の批判は、2つの論点に要約することが出来る。すなわち、第1には国家の必要という問題であり、第2は帝国主義における正義という観点である。 まず第1の問題について、北は自らの社会主義を次のように説明する。「吾人の社会主義は…… 無政府主義に非らず。社会主義の実現は団結的権力を恃む。国家の手によりて土地と資本との公有を図る。鉄血によらず筆舌を以て、弾丸によらず投票を以て。─生産と分配との平均、即ち経済的不公平を打破することが是れ吾人の社会主義なり。」この限りでは、北は社会主義の実現のために権力の獲得が必要であることを強調しているにすぎないようにみえる。しかしここから彼の議論は国家一般へと飛躍する。彼の文章は次のようにつづく。「故に社会主義は必ず国家の存在を認む。故に国家の自由は絶対ならざるべからず。故に他の主権の支配の下に置かるべからず。故に国家の独立を要す」と。
ここで「国家の自由」という言葉にどのような内容が含ませられているのか明らかでない。しかしそれがたんに「国家の独立」と等置されているものでないことは、次の一文からも推測される。すなわち彼は、社会主義の目的は「筆舌を以て国家の機関を社会主義の実現に運転せむとするに在り、……投票を以て国家の羅針盤を社会主義の理想に指導せしむとするに在り」とし、「科学的社会主義は機関の破壊と羅針盤の粉砕とを最も恐る。機関の破壊と羅針盤の粉砕とを企てる者は渾べて社会主義の敵なり。無政府党は社会主義の敵なり、国家の機関と国家の羅針盤とは社会主義者の全力を挙げて護らざるべからざる所なり。」というのである。ここでも「国家の機関と羅針盤」とは何を指すのか説明がない。しかしその言わんとする所は、国家は人為的につくりえないものであり、国家の連続的な発展の上にしか社会主義も成り立ちえないという点にあったのではないかと思われる。勿論まだそのような方向が明示されているわけではなく、北自身もまた国家について明確な主張を持ち得ていなかったようにみえる。例えば、前掲引用文のすぐ前には 「固より社会主義の実現されたる状態が、今日の国家なる称呼と全く別物なるは言ふまでもなしと雖も、其の実現の手段として国家の手を煩はさゞるべからざるは亦論ずるの要なし」と書いている。これでは国家が社会主義のための「手段」であるようにみえるのであるが、このような表現は以後は全く使用されなくなっている。また、社会主義の下で国家が全く別物になるということは、社会主義によって国家がつくり変えられるということではなく、国家の発展を促進し進化させるというニュアンスで主張されたものと思われる。この論稿でも「人類が千年二千年の後進化して政府を要せざるに至らば無政府主義は夢想にあらざるべし」と述べているのであり、それはやがて、「国家の進化」という方向に展開されてゆくことになるのであった。
従って、北の言う「国家の独立」とは国家の発展と同義であり、その国家とは現実の明治国家にほかならなかった。彼の社会主義は明治国家の発展上にえがかれていたと言ってよい。そう理解しなければ、「満韓の併呑さるゝの日は、乃ち帝圃の独立の脅かさるるの時なり。帝国の独立の脅かさるゝの時は乃ちスラヴ蛮族の帝国主義に蹂躙さるゝの時なり。」との主張を彼の社会主義や国家についての主張と結び合せて理解することは出来なくなろう。
しかし、国家の独立と発展を肯定するとしても、それはただちに侵略的帝国主義を是認することを意味しはしない。さきには帝国主義を宿命としてうけいれ、「侵略」も止むべからずとした北は、ここで「国家の正義」という観点を引き入れてくる。彼はまず日本の戦争を国際的無産者の階級闘争になぞらえることで、社会主義者を納得させようと思い至ったのであった。「社会主義者なる吾人が日露開戦を呼号するはスラヴ蛮族の帝国主義に対する正当防禦なり。謂はゞ富豪の残酷暴戻に対して発する労働者の応戦と些の異る所なき者なり。」この主張はのちのファシズムに於ける「持てる国」と「持たざる国」の論理につながっていると言えよう。つまり、北はさきには領土拡張によって「持てる国」になることが、帝国主義の商工的戦争に加わるための必須の課題であると説いたのであったが、今度は「持たざる国」の「持てる国」に対する挑戦を正義」の名によって擁護しようとしているのである。従ってここでは、その反面で「持てる国」の帝国主義を不正義として倫理的に断罪することが必要となってくる。そしてそこではさきの人口の増加→商工的戦争を軸とする帝国主義の一般的把握は、正義─不正義という倫理的価値づけによっておしのけられ、社会主義者の任務もこの帝国主義の倫理的価値に対応して異ったものにならねばならないとされるのであった。
彼は「世界の社会主義者が、国民的利益線の膨脹と国権的勢力圏の拡大とを事とする帝国主義に反対することは事実なり」と認める。 そして欧米帝国主義国における社会主義者が自国の帝国主義に反対するのは「大いに理あり」とするのである。すなわち、ロシアの帝国主義はピーター大帝の旧き夢想を追う「血を好む軍人と事を悦ぶ外交家の挑発」によるものであり、アメリカの帝国主義は「富豪資本家の私利私慾を図る」ものにほかならない。またヨーロッパ大陸の帝国主義は「皇帝や政治家の偏侠にして卑小なる名利の心と、旧思想の凝結せる国民の、国家的浮誇と国家的嫉妬の情との為めに、関税の城壁を築き海陸の防備を設け、全欧州をして尚戦争の恐怖より免かる能はざらしむる者」なのであり、社会主義者がこれに反対するのは当然だというのである。
欧米帝国主義をこのように規定した北は、日本帝国主義を次のように対置した。「吾人の帝国主義は国家の当然の権利─正義の主張のみ。外邦の残酷暴戻なる帝国主義の侵略に対して国家の機関と国家の羅針盤とを防禦するのみ。狭隘の国土より溢れ出づる国民をして外邦の残酷暴戻なる帝国主義の脚下に蹂躙せしめず、国家の正義に於て其の権利と自由とを保護するのみ。吾人の帝国主義とは乃ち是れなり」。さきには帝国主義一般の起動力の如くに説かれた「人口の増加」は、ここでは日本帝国主義の特殊性として、その正当化の根拠に転化させられているのである。そしてそれにもまして重要なことは、北における社会主義者は、国家の倫理的価値に従属させられているという問題であろう。彼は「日本に於ける社会主義者は、其の社会主義の為めに断じて帝国主義を執らざるべからず」として、社会主義者に日本帝国主義の正義への従属を求めているのであった。そして更にこの正義」を媒介として社会主義と帝国主義を内的に関連づけようと試みながら次のように書いている。
「社会主義は『国民』の正義の主張なり。帝国主義は『国家』の正義の主張なり。経済的諸侯の貧慾なる帝国主義は、労働過多と生産過多とを以て国民の正義を蹂躙す、社会主義の敵なる所以なり。而も其の経済的諸侯の侵入に対して国家の正義を主張する帝国主義なくば、国民の正義を主張する社会主義は夢想に止まるべし。」
北が「国家の正義」を「国民の正義」に先行するものとして捉えようとしていることは明らかであろう。自ら社会主義者と称する北が、国内における「国民の正義」がすでに完全に実現されていると考えていた筈はないのだから。
以上のような日露戦争前夜の北の言論をみるとき、社会主義者の非戦論に対する批判が彼の思想形成の上で大きな役割を果したと考えることが出来る。彼はそこで提起した問題に固執することによって、その後の思想を展開したといってもよい。問題は社会主義と帝国主義という形で提起されたけれども,その核心は「国家」の問題に他ならなかった。彼は社会主義者として、或いは反国体論者として現実の明治国家を批判したけれども、他方では帝国主義者として、その同じ明治国家の膨脹を擁護した。この間の矛盾を解決するためには、明治国家を本質的に肯定しうるものとして価値づけることが必要であった。彼自身もまた、この問題の解決を自分にとって切実な問題として考えたにちがいない。「咄、非開戦を言ふ者」の末尾を「社会主義と帝国主義とにつきての吾人の態度は、他日巨細に渉りて披瀝すべし」と結んだこ とは、彼のそのような思いをあらわしたものに他ならなかったであろう。彼は、社会主義と帝国主義、国家の正義、明治国家の性格、国体論の反動的役割などの問題を統一的に説かんが為めに、国家論の構築を志したにちがいない。3年後の『国体論及び純正社会主義』はこの課題への彼なりの解答であった。日露戦争のさなか、明治37年夏に上京した彼は、日露講和条約成立の翌月、佐渡新聞に「社会主義の啓蒙運動」(明治38・10・13〜21)を発表、この著作が完成しつつあることを示していた。 
2 社会の進化と個人

 

『国体論及び純正社会主義』は5編16章より構成されているが、その編別は次のようである。
第1編 社会主義の経済的正義(3章)
第2編 社会主義の倫理的理想(1章)
第3編 生物進化論と社会哲学(4章)
第4編 所謂国体論の復古的革命主義(6章)
第5編 社会主義の啓蒙運動(2章)
つまり、第3・4編でこの著作の3分の2近くを占めているのである。このうち第4編は、いわゆる国体論の妄想を打破して明治国家の性格を明らかにしようとするものであり、この著作の中心部分をなすことは言うまでもないが、第3編ではそのための基礎として自らの「進化論」を確立することが意図されているのである。
北は、当時の流行思想ともいえる「進化論」によって、社会主義の問題を解き明かそうと試みたのであった。彼は「進化」を、ただ単に環境への適応による生物の変化としてではなく、より高い価値が実現されてゆく過程として捉えた。従って人類の歴史もまた「進化」として捉えられ、この人類の「進化」を如何にすれば積極的に推進することが出来るかを問うことになるのであった。彼が「社会主義とは人類と言ふ一種属の生物社会の進化を理想として主義を樹つる者なり」というとき、そのようないわば倫理的進化観が前提とされているのであった。
彼は「生存競争」の概念を利用して、社会科学の基礎理論をつくろうと試みた。勿論そのためには、生存競争によって人類が発展することを認めただけでは不十分である。彼は人類社会の発展段階を決定づける基本的な力を生存競争のなかに見出し、社会のあり方が、生存競争のあり方によって規定されていることを明らかにしようとしたのであった。そのためには、生存競争についての彼なりの理論をつくることが必要であった。彼はまず進化の程度に従って生存競争の内容も異ってくると想定した。つまり生存競争の内容そのものも進化するというのである。
彼は「今の生物進化論者は人類の生存競争も獣類の生存競争も其内容に等差無き者」と考え、またその理論は「恰も人類を進化の終局なるかの如き独断の上に組織」されていると批判する。つまり「吾人々類は将来に進化し行くべき神と過去に進化し来れる獣類との中間に位する経過的生物」であることが忘れられているというのである。そして彼は、「進化の階級」1)によって、生存競争の内容が異ってくるという主張を対置した。
   1) 後年の『国家改造案原理大綱』(大正8年)の「結言」のなかに「歴史ハ進歩ス。進歩二階級アリ」という一節があるが、大正12年に『日本改造法案大綱』と改題刊行した際には、この「階級」の語を「階梯」と訂正している。従ってこの例にならえば、「進化の階級」も「進化の階梯」に改められることになったであろう。
すなわち、人類と獣類とは「進化の階級」が異るのであるから、弱肉強食、優勝劣敗などと言っても、強者・優者の内容も異っている、「人類の生存競争は死刑を以て不道徳の者を淘汰しつつある如く其の内容は全く道徳的優者道徳的強者の意義なり」と言うのであった。そしてここから北は、更に積極的に生存競争の内容が進化の階級を決定するという論点を導き出していた。
彼は「食物競争」と「雌雄競争」を「生存競争の二大柱」としているが、そのあり方の変化を通じて、進化はより高い階級へと進んでゆくと考えた。 例えば彼は、「人類」の将来に、「類神人」「神類」というより高い進化の階級を想定するのであるが、そこに至る過程は、食物競争の重圧を排除して雌雄競争を中心とするような、生存競争の内容の変化によって実現されるものと考えていた。それは、生存競争の内容の進化が進化の階級を高めてゆく基本的な力であるという考え方を示すものにほかならないであろう。彼はその過程で更に排泄作用や生殖作用の廃滅という肉体的進化についても述べているが、ここでは彼のそうした空想の後をおう必要はなく、人類進化の終極に「人類」を想定することによって、進化が倫理化され、美化される傾向がより明碓になっていることを指摘しておけば足りるであろう。
さて、一般に生物の生存競争の内容が進化の階級に対応して異り、生存競争の内容の進化が、進化の階級を高める基本的な力であるとすれば、次には、人類の生存競争はどんな内容を持ち、どんな要因によって進化するのかが問われねばならないであろう。北はさきの引用では、人類の生存競争の道徳性を強調しているようにみえるのであるが、しかし彼はまた「道徳的行為とは社会の生存進化の為めに要求せらるゝ社会性の発動なり」とも述べているのであり、問題は結局、生存競争における社会性という点に還元されてくるわけである。北はまずこの問題を「生存競争の単位」という一般的な形で提起していた。彼は再び「今の進化論」の批判から始める。
「吾人は信ず、今の生物進化論は生存競争の単位を定むるに個人主義の独断的先入思想を以てする者なりと。」
すなわち彼は、生存競争を一般的に個々の生物の間の競争と考えるのは誤りであって、生物の進化の程度が進むに従って、生存競争の単位は拡大するというのである。つまり「下等生物の生存競争の単位は最も低き階級の個体即ち個々の生物単独の生存競争なるに高等動物に進むに従ひ其の競争の単位たる個体の階級を高くして社会と言ふ大個体を終局目的とする分子間の相互扶助による生存競争に進化する」と。そして彼は、生存競争に於けるより拡大した単位を、より高級な個体」と考えるのである。従って、行動の単位としての集団を拡大し、その結合を強化することが、進化の「階級」を高める力となるという結論が導かれてくる。
「即ち、相互扶助による高級の個体を単位として生存競争をなす菜食動物は、分立による下級の個体を単位とする肉食動物に打ち勝ちて地球に蔓延せりと言ふことなり。……喰人族の野蛮人も其の喰ふ処の肉は個人間の闘争によりて得るに非ずして、生存競争の単位は少くも戦闘の目的に於て協同せる部落なり。最も協同せざる肉喰動物と雌も生存競争の単位は如何に少くも相互扶助の雌と子とを包合せる聊か高級の個体に於て行はれ、最下等の虫類たる蚯蚓の如きすら土中に冬籠る必要の為めには二三相抱擁するが如き形に於て暖を取るの共同扶助を解すと言ふ。生物の高等なるに従ひて愈々個体の階級を高くし、鳥類獣類の如き高等生物に至りては殆ど全く人類社会に於て見るが如き広大強固なる社会的結合に於てのみ見出され、社会的結合の高き階級の個体を単位として生存競争をなす。而して此の高き階級の個体を単位としての生存競争は其個体の利己心、即ち社会的利己心、更に言ひ換ふれば分子間の相互扶助によりてのみ行われ、個体の最も大きく相互扶助の最も強き生物が最も優勝者として生存競争界に残る。人類の如きは其優勝者中の最も著しき者の例なり」
要するに北は、生存競争の単位としての社会が自らを拡大、強化してゆくことが、人類進化の原動力になると考えたのであった。そしてこれまで結果として実現されてきた進化を意識的に目的として推進することを、自らの社会主義の基本的な立場としたのである。彼は言う。「吾人は社会主義を生物進化論の発見したる種属単位の生存競争、即ち社会の生存進化を目的とする社会単位の生存競争の事実に求むる者なり」と。
しかし、社会の拡大・強化は如何にして実現されるのか。北はこの問題に答えるために社会と個人との一般的関係を明かにしようとする。彼が自らの立場を「純正」社会主義と名づけたのは、この問題の把握についての独自性を自負したからにほかならなかった。
彼はこれまでの思想が、社会か個人かのいずれかに偏っていたと批判する。すなわち「社会の中に個人を溶解する」「偏局的社会主義」や、「思想上に於てのみ思考し得べき原子的個人を終局目的として、社会は単に個人の自由平等の為めに存する機械的作成の者なりと独断せる」「偏局的個人主義」の双方から自らの社会主義を区別しようとするのである。彼はこの両者の止揚をめざして次のように言う。
「社会主義は固より社会の進化を終局目的として偏局的個人主義の如く機械的社会観を以て社会を個人の手段として取扱ふ者に非ず、而しながら社会進化の目的の為めに個人の自由独立を唯一の手段とする点に於て個人主義の基礎を有する者なり」
これまで述べてきたことからも明らかなように、北は「社会主義」を第一義的には「社会」 に重点をおく「主義」として理解していた。しかし同時にこの「社会」は「個人の自由独立」 なくしては発展し得ないと主張するのである。「緒言」でも「社会の部分を成す個人が其権威を認識さるゝなくしては社会民主主義なるものなし。殊に欧米の如く個人主義の理論と革命とを経由せざる日本の如きは、必ず先づ社会民主々義の前提として個人主義の充分なる発展を要す」と述べている。ではこの「個人の自由独立」や「個人の権威」の発展と、生存競争の単位 としての社会の強化・拡大とはどのような関係に立つのであろうか。ここで確認しておかなく てはならないことは、北における「個人の自由独立」は原理的な意味を持つものではないと言 う点である。つまり北にとって基本的なことは、「個人の独立自由」は「社会進化」のための「唯一の手段」だということである。つまり、それは最初から「社会進化の手段」という形に於てしか認識されていないのであった。
そして彼は、社会的な拘束力がいかにして超越的な有機体に転化するのかを説明することなしに、社会は個人を分子とする高次の有機体であると主張するのであった。「人類の如き高等生物も生殖の目的の為めに陰陽の両性に分れたる者なるを以て、是れを男子として或は女子として、又親として、子として、兄弟としてそれぞれ一個体たると共に、中間に空間を隔てたる社会と言ふ一大個体の分子なり」つまり個人も社会も共に一つの「個体」として、同じ次元で扱おうとするのであり、そこで「分子」とは集団の構成員という意味をこえて、一つの有機体の部分という意味を与えられているのである。 そして彼が、個人と社会とを共に「個体」だと主張するのは、個体は「個体としての意識」をもつ、つまり、社会には社会としての意識があることを主張したいがためなのである。
「一個の生物(人類に就きて言へば個人は)−個体として生存競争の単位となり、一種属の生物は(人類につきて言へば社会は)亦一個体として生存競争の単位となる。而して個体には個体としての意識を有す。―個人が一個体として意識する時に於て之を利己心と言ひ個人性と言ひ、社会が一個体として意識する時に於て公共心と言ひ社会性と言ふ。何となれば、個人とは空間を隔てたる社会の分子なるが故に而して社会とは分子たる個人の包括せられたる一個体なるが故に個人と社会とは同じき者なるを以てなり。即ち個体の階級によりて、一個体は個人たる個体としての意識を有すると共に、社会の分子として社会としての個体の意識を有す。更に換言すれば、吾人の意識が個人として働く場合に於て個体の単位を個人に取り、社会として働く場合に於て個体の単位を社会に取る、吾人が利己心と共に公共心を、個人性と共に社会性を有するは此の故なり。―即ち公共心社会性とは社会と言ふ大個体の利己心が社会の分子としての個人に意識せらるゝ場合のことにして、分子たる個人が小個体として意識する場合の利己心も其の小個体が社会の分子たる点に於て社会の利己心なり。 故に利己心利他心と対照して呼ぶが如きは甚だ理由なきことにして寧ろ大我小我と言ふの遙かに適当なるを見る。」
この社会論の中心点は、「社会とは分子たる個人の包括せられたる一個体なるが故に個人と社会とは同じき者」という点にみられる。だがここではまだ社会は、個人の公共心=社会の利己心という形で、つまり個人の意識の一部分にその姿をかいまみせているにすぎず、個人を超える社会の個体性は明らかになってこない。そこで北は、個人の公共心を規定する「道徳」に社会をみ、道徳の展開のなかに、個人と社会、社会進化の動態をつかまうとするのである。
「道徳の本質は本能として存する社会性に在り。而しながら道徳の形を取りて行為となるには先づ最初に外部的強迫力を以て其の時代及び其の地方に適応する形に社会性が作らるることを要す。道徳とは此の形成せられたる社会性のことにして、……地方的道徳時代的道徳として地方を異にし時代を異にする社会によりて形成せられたるものとして始めて行為に現はる。……然るに社会の進化するに従ひて此の外部的強迫力を漸時に内部に移して良心の強迫力となし、惨酷なる刑罰によりて臨まれずとも又無数の神によりて監視されずとも、良心其れ自体の強迫力を無上命令として茲に自律的道徳時代に入る。他律的道徳と自律的道徳とは人の一生に於て小児より大人に至る間に進化する過程なる如く、社会の大なる生涯に於ても其の社会の生長発達に従ひて他律的道徳の時代より自律的道徳の時代に進化する者なり。」
ここで自律的道徳とは、さきの「個人の権威」、「個人の自由独立」に対応するものであることは明らかであろう。すなわち、自律的道徳が進化の過程で形成されたとみることは、自律した個人が歴史のある発展段階ではじめて登場してくるという把握を基礎としているわけである。従って北は、人類の進化を社会の拡大強化と、個人の自律化との二重の構造で捉えることとなるのである。彼はこの構造を、「同化作用」と「分化作用」という用語で説明しようとした。「社会の進化は同化作用と共に分化作用による」と。
彼はまず原始時代に個人意識の発生しない部落を想定する。そしてこの部落が「衝突競争の結果として征服併呑の途によりて同化せられ、而して同化によりて社会の単位の拡大するや、更に個人の分化によりて個人間の生存競争とな」るというのである。つまり進化の歴史は「同化作用によりて小さき単位の社会たりしものより漸時に其の単位を大社会となし、又分化作用によりて最初には部落若しくは家族団体の如き個人より大なる単位に分化したるものが、更に小さく分化して個人を単位となして愈々精微に分化的競争をなすに至れり」ととらえるのである。
北の社会進化論は、この同化=分化の論理で言えば、自然成長的な同化=社会の拡大によって、個人へと向う分化が生れ、その結果、自律的な個人が形成されることによって初めて、人類は意識的に同化作用を推進し、従って進化の過程を自らの力でおし進めることが出来るようになるということにほかならないであろう。つまり自律的個人の形成は人類史の第一の画期をなすものなのである。
彼がさきにみたように、「個人の自由独立」が社会進化の「唯一の手段」であると述べたのは、このような把握を前提としてのことであった。彼が「個人の自由独立」を強調したことは、一方における個性の自由な発展と他方での道徳への自律的な同化を、矛盾なく展開し得るものと考えたからであり、社会主義はまさにこの矛盾なき展開の道を拓きうると想定したからであった。そして社会主義の実現による未来への進化は次のようにえがかれるのである。 「物質的文明の進化は全社会に平等に普及し、更に平等に普及せる全社会の精神的開発によりて智識芸術は大いに其水平線を高む。経済的結婚と奴隷道徳とは去り、社会の全分子は神の如き独立を得て個性の発展は殆ど絶対の自由となる。自我の要求は其れ自身道徳的意義を有して社会の進化となり、社会I性の発展は非倫理的社会組織と辿徳的義務の衝突なくして不用意の道徳となる。」
つまり北は、 社会主義を「社会性を培養する社会組織」とみ、そこに於てはじめて「次なる行動が凡て道徳的行為」となる「無道徳の世」が実現され、同化=分化の両作用が合体し進化の新しい段階が開けると考えたのであった。そしてこのような進化を目的とする北は、同化と分化の同時的推進を道徳的義務として要求することになるのである。「道徳とは社会性が吾人に社会の分子として社会の生存進化の為めに活動せんことを要求することなり。故に吾人が吾人自身を社会の一分子として(小我を目的としてに非らず)より高くせんと努力することが充分に道徳的行為たると共に、多くは他の分子若しくは将来の分子の為めに、即ち大我の為めに小なる我を没却して行動することをより多く道徳的行為として要求せらろ。」
繰り返して言えば、この「道徳の要求」が、「個人の自由独立」によって達成されると考える点で、北は自らの思想の独自性を主張したのであった。従って外部からの強制は排されねばならなかった。彼が天皇は倫理学説を制定することが出来ないとして教育勅語を否認し、近代国家は「良心の内部的生活に立ち入る能はざる国家」であることを原則とすると主張したのもこの点にかかわっていた。
だがこの個人の独立・権威の強調、従って教育・啓蒙の重視は、あくまで北の理論の一つの 側面にすぎなかった。彼は決して個人の自由・独立を原理として、社会の再組織を考えているわけではなかった。自律的個人の小我は、社会の大我に吸収されることが予定されているのである。しかし社会の大我とは何か。それを道徳として捉えてみても、社会は個人を拘束する力であることが説明できるだけで、個人を超える主体としての社会はあらわれてこない。北がここで用意していたのは「国家人格」の理論であった。それは比喩的に言えば、社会を肉体とし国家を人格とする見方とも言えるもののように思われる。さきに述べた日露戦争前の彼の思想展開をみるとき、彼が進化論で自らの思想を基礎づけようとしたのは、このような社会=肉体、国家=人格の構想を思いついたからではなかったであろうか。
個人の自律化を人類史の第一段階とした北は、次に「国家人格」の顕在化を人類史の第二段階として設定しようとするのであった。 
3 公民国家=社会民主主義論

 

北の理論に於て、社会と国家の関係があいまいであることは、既に多くの論者によって指摘されているところである。例えば神島二郎氏は「彼には、国家と社会との区別がなく、支配機構としての制度観が確立されていない 1)」と述べ、或いは久野収氏は「国家と民族と生活上のゲマインシャフト〈共同体〉をほとんど無差別に混用し、それらをすべて国家という名前で呼ぶ意味論的まちがいをおかしている2)」と批判している。
   1) 『北一輝著作集第1巻』「解説」。
   2) 「超国家主義の一原型」『近代日本思想史講座』4。
なるほど北は国家と社会との関係を一般的な形では何等説明せず、両者を等置するかの如きやり方で、突如として国家の問題を引き入れているという印象をあたえる。例えば「社会主義者は…社会国家の為めに社会国家に対して個人の責任を要求す」、「地理的に限定せられたる社会、即ち国家」、「故に国家其者の否定を公言しつつある社会主義者と称する個人主義者は社会其者の否定に至る自殺論法として取らず」などといったたぐいである。しかし彼の論理の展開をみると、その要となっているのは、国家の問題を如何にして社会進化論のなかに位置づけるかという問題なのである。そしてその両者を結びつける論理として主張されたのが「国家人格実在論」であった。
「国家人格」とは、進化の過程で拡大・強化される社会性そのものを指していると解される。「国家の人格とは吾人が前きに『生物進化論と社会哲学』〈第3篇〉に於て説きたる社会の有機体なることに在り。 即ち空間を隔てたる人類を分子としたる大なる個体と言ふことなり」という言葉もこのように解さなくては意味をなさなくなってくる。彼はまた、国家を擬制的な法人格とみる学説を批判して、「個人主義の仏国革命を以て国家を分解せしと言ふも国家は依然として社会的団結に於て存し破壊せられたるは表皮の腐朽せる者にして国家の骨格は嘗て傷れざりしを見よ」とも述べている。従って、彼の国家と社会とを等置した用語法は、国家が社会性の代表者であることを強調するためのものであったと読めるのである。
ではそのような用語法が何故読者を納得させず、「混用」と批判されるのかと言えば、彼が基礎理論としてきた社会進化論によっては何ら国家の形成が説明されていないからにほかならない。つまり、国家人格によって社会進化と国家との対応関係が示されるだけで、社会進化が何故国家人格を生み出すのかは全く明らかにされていないのである。
このことはおそらく、北が国家の存在を自明のこととして前提してしまっていたことを意味するにちがいない。すでにみたように日露戦争を目前にした彼の関心は、国家の必要を如何にして論証するかという点に向けられていたのであり、そこから出発した彼は、国家を如何に意義づけるかという問題を中心に置き、そのための理論として社会進化論を用意したように思えるのである。従ってそこでは、国家を社会によって内容づけ、社会主義にとってもまた必要不可欠のものとして意義づけることに関心が集中し、国家を社会から区別するという逆の方向は欠落してしまったとみることが出来よう。彼はまた「人格は人格の目的と利益との為めに活動す」とも述べているのであり、従って、国家人格を中核としない社会は、それ自身主体的に活動できないより低次の有機体と考えていたと思われるのである。つまり北の理論では、社会有機体論は国家有機体論としてしか完結しないのであり、言いかえれば、国家人格は社会を有機体として完成させるものとして意義づけられていたのであった。
では、国家人格の問題は、進化論のなかに如何に位置づけられているのか。ここで北は「人格」という言葉を2つの意味で使っている。第1は国家人格と言う場合の人格であり、北はこの言葉で社会の有機体としての統一そのものを指しいるようにみえる。すなわち、国家人格は常に主体的に行動出来るのではなく、社会のなかに潜在的に実在している場合が想定されているからである。第2には、物格に対するものとしての人格という用語があげられる。つまり物格とは他人の所有物としてその処分に服従している客体を指し、これに対して人格とは自己の利益と目的のために活動する権利の主体となるものを指しているのである。
北は人格についてのこの2種の用法を用いて、まず国家人格が現実の権力とは別に実在していると説く。そしてそれが、君主の所有物=物格としての国家から、権利の主体となり主権をもった人格としての国家へと進化するというのである。この説明では、国家人格と国家との関係があいまいであり、それがまたさきの国家と社会の混用という問題につながっていることは明らかであるが、ともかく北の主張したかったのは、国家人格の人格化ということであったと思われる。それは、社会のなかに埋没していた個人が、自由独立な個人として分化してくるのと同様な過程として、国家の進化を考えたものと言いうるであろう。北は次のように説明している。
「国家は始めより社会的団結に於て存在し其の団体員は原始的無意識に於て国家の目的の下に眠りしと雖も…其の社会的団結は進化の過程に於て中世に至るまで、土地と共に君主の所有物となりて茲に国家は法律上の物格となるに至れり。即ち国家は国家白身の目的と利益との為めにする主権体とならずして、君主の利益と目的との為めに結婚相続譲与の如き所有物としての処分に服従したる物格なりき。即ち此の時代に於ては君主が自己の目的と利益との為めに国家を統治せしを以て目的の存する所利益の帰属する所が権利の主体として君主は主権の本体たり。而して国家は統治の客体たりしなり。此の国家の物格なりし時代を『家長国』と言ふ名を以て中世までの国体とすべし。今日は民主国と言ひ君主国と言ふも決して「中世の如く君主の所有物として国土及び国民を相続贈与し若しくは恣に殺傷し得べきに非らず、君主をも国家の一員として包含せるを以て法律上の人格なることは諭なく、従て君主は中世の如く国家の外に立ちて国家を所有する家長にあらず国家の一員として機関たることは明かなり。即ち原始的無意識の如くならず、国家が明確なる意識に於て国家自身の目的と利益との為めに統治するに至りし者にして、目的の存する所利益の帰属する所として国家が主権の本体となりしなり。此れを『公民国家』と名けて現今の国体とすべし。」
北の国家論の骨格は、この引用部分のなかに尽きているように思われる。彼は人格化された国家を「公民国家」と名づけるのであるが、この公民国家の出現は、人類進化の上の一大画期を意味することになるにちがいない。すなわち、自律的な個人の出現を第1の画期とすれば、この公民国家の出現は第2の画期とされねばならないであろう。すでにみたような、自律的個人の公共心の拡大強化が、社会の進化をもたらすという論理だけでは、その強化の度合いから社会の進化を質的に画期づけることは困難であったが、北はそこに国家の物格から人絡への進化という観点を引き込むことによって、主権を獲得し生存進化の目的を有する主体的有機体としての国家=公民国家を設定したのである。そしてそこから、個人の公共心は国家へと焦点をしぼることによって、より明確な進化の担い手たりうるとの観点が導かれてくるのであった。 いわば有機体としての社会の統一そのものを国家人絡と名づけることによって、これまでみたような社会と個人との関係は、そのまま国家と個人の関係におきかえられ、しかもそれは進化にとって一層本質的なものとみなされるに至るのである。すなわち、社会を拡大強化したのが個人の公共心であり、それはまた社会そのものの意識であるとされたのと同様に、公民国家を成立せしめたのは個人の国家意識の発展であり、それはまた国家そのものの意識にほかならないと主張されるのである。彼が人格化した国家を「公民」国家と呼んだのも、このような国家意識の発達した個人を基礎におくことを強調したかったがためであろう。それはまた個人に対する国家の要求へと転化されるのは必然であった。
「実に公民国家の国体には、国家自身が生存進化の目的と理想とを有することを国家の分子が意識するまでに社会の進化なかるべからず。即ち国家の分子が自己を国家の部分として考へ、決して自己其者の利益を終局目的として他の分子を自己の手段として取扱うべからずとするまでの道徳的法律的進化なかるべからず。」
つまり、公民国家に於てはじめて、国家は社会有機体と一致し、従って国家の強化が社会の強化と一致し、国家は進化のための生存競争の単位たるの資格を得るのであり、それ故にまた、国家は進化の名において、個人に対して忠誠を要求し得る立場に立つことになるのである。「国家は生存の目的を有す、国家は進化の理想を有す、而して吾人は凡て上下なく国家の分子なり、国家の分子として国家の生存進化の目的理想のために努力すべき国家の部分たる吾人なり」と。
北は、公民国家が出現した進化の段階では、国家主義者であることが、進化の担い手となる必須の条件であり、社会主義もまた、この公民国家を完成させるためのものでなければならないと考えたのであった。かくして北は、日露戦争前に直面した社会主義と帝国主義の矛盾という問題を、公民国家という基盤の上で解決し得ると自負したにちがいないし、そのことが彼をして『国体論及び純正社会主義』の自費出版に駆り立てたであろうことは想像に難くない。
では北の言う公民国家とは一体どのような内容を持っているのか。彼はまず、君主国か共和国かという分類に反対する。彼は国家を考える基準として「国体」と「政体」を用いるのであるが、彼の「国体」によると、一般に通用している君主国か共和国かという分類は無意味になるというのである。すなわち「国体とは国家の本体と言ふことにして統治権の主体たるか若しくは主権に統治さるる客体たるかの国家本質の決定なり」とするのであり、従って国家が統治権をもつ主権者であるか、或いはまた統治される客体にすぎないかが国体の分れめなのであって、君主が存在するかどうかは二次的な問題にすぎないということになるのである。この前者、国家が統治権の主体である場合が、「公民国家」であることは言うまでもないであろう。つまり、彼にとっては、公民国家か否かを判定することが国体論の最も重要な課題なのであった。
では君主の存在はどういうことになるのかと言えば、君主個人が統治権の主体=主権者である場合にはその国家は公民国家と区別される「家長国家」とされるが、国家が王権をもつ「公民国家」の場合には、君主は存在していてもそれは統治権の所有者ではなく、統治権発動のための制度=「機関」だというのである。北はこの「統治権発動の形式」を「政体」と名づけるのであり、「機関」、とくに最高機関の組織によって政体を分類するのである。彼においては、公民国家における政体は、次のように3分類される。
第1 最高機関を特権ある国家の一員にて組織する政体(農奴解放以後の露西亜及び維新以後23年までの日本の政体の如し)
第2 最高機関を平等の多数と特権ある国家の一員とにて組織する政体(英吉利独乙及び23年以後の日本の政体の如し)
第3 最高機関を平等の多数にて組織する政体(仏蘭西米合衆国の政体の如し〉
ここで「特権ある国家の一員」なる語が君主を指していることは容易に推測されるであろう。そして北は天皇をもこのなかに含ませていた。このことはあとで詳しくみることにするが、この文章で日本に触れている部分の意味は、明治維新から大日本帝国憲法の制定までは最高機関は天皇だけによって、その後は天皇と帝国議会の両者によって組織されているということにほかならない。従って公民国家の政体は、専制君主制、立憲君主制、共和制のいずれの場合もあり得るということになるのである。そして「特権ある国家の一員」の「特権」についてはそれ以上追究せず、ただ国家の必要によるものと理解するだけに止っているのである。そのことは、北にとって公民国家であるか否かが本質的な問題であり、その下の政体の問題は二義的な意味しか持たなかったことを示していると言ってよい。そして、この論理でゆけば、日本は欧米に対する後進国ではなく、欧米とならぶ「公民国家」となる筈であった。北のねらいはこの点にあったのであろう。彼はこれ以上政体の問題に深入りしようとはしなかった。彼が強調しようとしたのは、公民国家に於いては、君主と国民は相対立する階級ではなく、共に国家に対して権利義務を持つ機関なのだという点であった。彼は言う。
「近代の公民国家に於ては…主権の本体は国家にして国家の独立自存の目的の為めに国家の主権を或は君主或は国民が行使するなり。従って君主及び国民の権利義務は階級国家に於けるが如く直接の契約的対立にあらずして国家に対する権利義務なり。果して然らば権利義務の帰属する主体として国家が法律上の人格なることは当然の帰納なるべく、此の人格の生存進化の目的の為めに君主と国民とが国家の機関たることは亦当然の論理的演繹なり。」
従って、さきの「特権ある国家の一員」の「特権」も、国民に対する特権ではなく、「国家の目的の為めに国家に帰属すべき利益として国家の維持する制度」ということになるのである。つまり公民国家に於ては、君主も国民も国家の機関の観点からみれば平等だというのである。彼が「国家の進化は平等観の発展に在り」という時、その平等観とは 国家の一員として平等だとの意識、つまるところ国家意識そのものを指していたと解されるのである。しかもそれは彼の進化論にあっては、国家人格そのものの意識とされるのであるから、国家人格の主体化としての公民国家において最高機関がどのように組織されるかは、その国家人格の「個性」―彼はそのような言葉を用いてはいないが―の問題と考えられていたのではないであろうか。北が、公民国家の3つの政体の間の得失について論じようとしなかったのは、そのような考え方によるものではなかったか。つまり、日本が「公民国家」として欧米国家と肩をならべたとする彼の論から言えば、政体の問題は国家の本質にかかわりない国家の個性の問題とならざるをえないように思われるのである。
ところで、以上のような形で、北が公民国家を人類進化の画期として設定したのは、たんに自らの進化論を完成させるためではなかった。彼のもう1つのねらいはこの公民国家を以て社会主義を基礎づけるという点にあった。彼が「土地及び生産機関の公有と其の公共的経営と言ふことが社会主義の背髄骨なるなり」と述べている限りでは、3年前の「国家の手によりて土地と資本との公有を図る」という社会主義観そのままであるかにみえる。しかしさきには、国家の必要が強調されたのに対して、ここでは社会有機体が最高の所有権者であるとする論点が正面に押し出されてくるのである。「社会主義は社会が社会労働の果実に対して主張する所有権神聖の声なり」つまり彼は富は社会的に形成されたものなのだから本来社会に帰属すべきものだとして、社会のものを社会に返させることを以て社会主義の目的と考えるのである。それは同時に労働者階級による公有を否定することでもあった。
「真に法律の理想によりて円満なる所有権を主張し得るものは、其等個々の発明家にもあらず、其の占有者たる階級の資本家にもあらず、 又その運転を為しつゝある他の階級たる今の労働者にも非ず、只歴史的継続を有する人類の混然たる一体の社会のみ。 機械は歴史の智識的積集の結晶物なり。 機械は死せる祖先の霊魂が宿りて子孫の慈愛のために労働しつゝあるものなり。 …故に若し所有権神聖の理由を以て社会主義に対抗せんとするものあらば、 社会主義は寧ろ社会労働の果実たる資本に対して所有権神聖の名に於て公有を唱ふと言はん。」
社会を最高の所有権者とみるこの社会主義は、国家を社会の人格化とする理論によって国家主義へと転化する。すなわち、社会は国家人格が主体化した公民国家に於てはじめて所有権者たる資格を得たことになるのであり、社会主義は公民国家に於てはじめて実現の基礎的条件を得たとされるのである。従って社会主義は、公民国家の擁護者、その進化の推進者として性格づけられることになる。つまり社会主義の任務は、土地・資本を国家に与えて、公民国家を強化することにほかならなくなるのであった。
同時に北は、さきの平等観の発展=国家意識の浸透を以て民主主義の基礎的条件の成立とも考えていた。彼は公民国家を社会主義と同時に民主主義をも内含するものとして設定したのであった。もちろんそれによって民主主義の意味がそれ相応に変容させられたことは当然であろう。彼は言う。「国民(広義の)凡てが政権者」たるべきことを理想とし国民の如何なる者と雖も国家の部分にして、国家の目的の為め以外に犠牲たらざるべからずとの信念は普及したり。即ち民主主義なり」と。北は国民の政権への参加や普通選挙についても語っている。然し彼が民主主義の基本的条件としたものが、国家意識の普及にあったことはこの引用からも明らかであろう。そして、政権参加の具体的あり方を重視しなかったことは、さきの君主の特権の内容を問おうとしなかったことと表裏をなすものに他ならなかった。
ともあれ、先には偏局的社会主義と偏局的個人主義から自らを区別するために「純正社会主義」を名のった北は、今度は公民国家を基礎とする点で、自らの立場を「社会民主主義」と称したのであった。
「『社会民主主義』とは個人主義の覚醒を受けて国家の凡ての分子に政権を普及せしむることを理想とする者にして個人主義の誤れる革命論の如く国民に主権存すと独断する者に非らず。主権は社会主義の名が示す如く国家に存することを主張する者にして、国家の主権を維持し国家の目的を充たし国家に帰属すべき利益を全からしめんが為めに、国家の凡ての分子が政権を有し最高機関の要素たる所の民主的政体を維持し若しくは獲得せんとする者なり。」
このような北の社会民主主義から言えば、現実の国家が基本的に公民国家の性格を持つと考えられる場合には、そこにはすでに社会民主主義の要素が存在しているということになり、この要素を強化すると共に主として経済的な面での変革を行うことによって社会主義は実現し得るということになるのである。彼はかつての矛盾―帝国主義者として現実の明治国家の膨脹を積極的に支持しながら、他面では社会主義者として体制の変革を志すという矛盾を、このようなやり方で、つまり明治国家を公民国家と認定することによって解決しようとしたのであった。 
4 国体論批判の性絡と天皇機関論

 

北は公民国家の成立過程を次のように説明する。すなわち、「家長国時代に於ては社会の未だ進化せざるが為めに社会自身の目的と利益とを意識して国家の永久的存在なることを知らず、社会の一分子若しくは少数分子が其等個人としての(社会の一部としてにあらず)利己心を以て行動するより外なく、他の下層分子は其等上層の利己心の下に犠牲として取扱はれ以て社会を維持し来れる者なり。…近代の公民国家に至っては然らず。社会は大に進化して社会其れ自身が生存進化の目的を有することを解し,国家の利益と目的とが全分子に意識せられ,其の国家の意志を表白すと言ふ機関たる分子に於ても社会の一部としての社会的利己心を以て(機関が其自身を個人として意識する場合の個人的利己心にあらず)行動する者なり。」この過程の中心が社会の全分子が国家意識にめざめるという点におかれ、それが公民国家成立のメルクマールとされていることは明かであろう。それは君主や天皇をも含めた「国家の意志を表白すという機関たる分子」においても例外ではなく、彼等もまた個人的利己心ではなく社会的利己心を以て、すなわち国家の進化を目的として行動するに至るとされるのである。そして北は明治維新をこのような公民国家成立の過程そのものとして捉えたのであった。従って公民国家論が彼の理論の中枢に位置するのと対応して、彼の日本の現実への把握は明治維新論をその中軸にすえることになる。そしてそこから国体論批判は論理構成の上からも必然的要請となるのであった。
「維新革命とは国家の全部に国家意識の発展拡張せる民主々義が旧社会の貴族主義に対する打破なり。而してペルリの来航は攘夷の声に於て日本民族が一社会一国家なりと言ふ国家意識を下層の全分子にまで覚醒を拡げたり。恐怖と野蛮の眼に沖合の黒煙を眺めつゝありし彼等は、日本帝国の存在と言ふ社会主義を其の鼓膜より電気の如く頭脳に刺激せられたり。…実に維新革命は国家の目的理想を法律道徳の上に明かに意識したる点に於て社会主義なり、而してその意識が国家の全分子に明かに道徳法律の理想として拡張したる点に於て民主主義なり。…徳川氏時代に至りての百姓町人は最早奴隷賤民にあらず、土百姓にあらず、亦平民にあらず、維新後忽ちに挙がれる憲法要求の叫声を呑みつゝありし民主的国民なりしなり。」
しかし明治維新を公民国家の成立=社会民主主義革命として捉えるためには、それに見合った天皇観をつくりあげることがどうしても必要であった。天皇を権力と同時に倫理的価値の源泉とするような支配的イデオロギーを肯定しては、明治国家を公民国家だと言うわけにはゆかなくなる。彼の公民国家論でゆけば、明治国家の骨格をなしているのは、天皇への忠誠ではなく、国家への忠誠でなければならない筈であった。しかしこの観点を貫くためには、明治国家における天皇の性格を明らかにすると同時に、彼の言う社会民主主義革命としての明治維新が何故、天皇を政治の中心に押し上げていったのかをも説明しなければならなかった。彼の国体論批判は、今やこのような公民国家論にみ合う天皇観を築くためのものとなっていた。そしてそのためには、明治維新を王政復古とするような見方を打破することが先決であった。
「維新革命の本義は実に民主主義に在り。…維新革命を以て王政復古と言ふことよりして已に野蛮人なり。」「維新革命は家長国の太古へ復古したるものにあらず、家長国の長き進化を継承して公民国家の国体に新たなる展開をなせるものなり。」しかしこの王政復古否定論を成り立たせるためには、明治維新における天皇の地位を尊王イデオロギー以外の要因によって説明しなければならなくなる。北はまず維新以前の天皇を、次のように捉えた。すなわち天皇は神道的信仰の勢力による「神道の羅馬法王」という特殊性を持つとは言え、本質的には幕府諸侯と変らない「家長君主」であったとする。つまり著るしく弱体であったとしても、公卿を臣下とし土地人民の上に絶対の権利を有したことは明らかだと言うのである。そして彼はまた天皇家がともかくも存続し得たのは、「他の強者の権利に圧伏せられたる時には優温閉雅なる詩人として政権争奪の外に隔たりて傍観者たりしが故」であり、「万世一系そのことは国民の奉戴とは些の係りなし」と強調するのである。それは言いかえれば、尊王を中心とした国民的運動がおこるような歴史的条件は存在しなかったということになろう。では何故幕末に尊王論がおこるのか。彼は倒幕運動における尊王論を、外圧により革命論をねりあげる時間的余裕がなかったための便宜的なものと評するのであった。彼は尊王倒幕論者について次のように書いている。
「彼等は嘗て貴族階級に対する忠を以て皇室を打撃迫害せる如く、皇室に対する忠の名に於て貴族階級をも転覆せんと企てたり。貴族階級に対する古代中世の忠は誠のものなりき、今の忠は血を持って血を洗はんとせる民主主義の仮装なり。彼等は理論に暇あらずして只儒学の王覇の弁と古典の高天ヶ原との仮定より一切の革命論を糸の如く演繹したり。曰く―幕府諸侯が土地人民の上に統治者たるは覇者の強のみと、而して是れに対抗して皇室は徳を以て立てる王者なりと仮定したり。国民は切り取り強盗に過ぎざる幕府諸侯に対して忠順の義務なしと、而して是れに対抗して皇室は高天ヶ原より命を受けたる全日本の統治者なりと仮定したり。
維新革命は国家間の接触により覚醒せる国家意識と一千三百年の社会進化による平等観の普及とが、未だ国家国民主義(即ち社会民主々義〉の議論を得ずして先づ爆発したる者なり。決して一千三百年前の太古に逆倒せる奇蹟にあらず。」
つまり、尊王論は倒幕革命の理論を早急に、従って既成の理論からつくり出すための「仮定」にすぎず、若し理論的検討の十分な余裕があれば、倒幕論は社会民主主義の方向で、国家の問題を中心として論議されたであろうと言うのである。
このような国体論批判及び維新革命論から言えば、天皇制を生み出したことは、明治維新の必然的結果とは言えなくなる。彼の論理からは、天皇制否定を叫んだ方がより明快であったと思われる。しかし彼はこのぎりぎりのところから、天皇の地位の肯定へと転換してゆくのであった。そこには、明治国家を本質的には肯定的にとらえたいという彼の願望をよみとることができよう。ともあれ、彼はこの転換によって、倒幕運動における尊王論の役割を否定的に捉えることと天皇が維新革命によって家長君主から公民国家の最高機関に変身したことを矛盾なく説明する必要に迫られることになる。
彼は「君主固有の威力」という問題について「固有とは君主の一個人が先天的に肉体の中に有すとのことならば、力と言ひ威力と言ふ者は決して君主の固有に非らず社会と言ふ者の有する団結的権力なり。即ち君主の威力あるかの如く見らるゝは此の団結的権力の背後より君主を推し挙ぐるが為めにして」と述べているのであるから、維新の場合にも、倒幕運動が天皇を「推し挙げた」とみていることは明らかである。では何故倒幕運動は天皇を押し上げることになったのか。尊王論は拒否する北は、天皇は家長君主の地位を脱して国民と共に倒幕運動に参加し、その英雄的指導者となったと主張することで、この問題に答えようとした。
彼は言う。「維新革命の国体論は天皇と握手して貴族階級を転覆したる形に於て君主々義に似たりと雖も、天皇も国民も共に国家の分子として行動したる絶対的平等主義の点に於て堂々たる民主々義なりとす」「現天皇は維新革命の民主々義の大首領として英雄の如く活動したりき」「現天皇が万世一系中天智とのみ比肩すべき卓越せる大皇帝なることは論なし。常に純然たる詩人たりしものが徳川氏の圧迫を排除せんが為めに、卓励明敏の資質を憂憤の間に遺伝したり。…維新革命の諸英雄を使役して東洋的摸型の堂々たる風耒は誠に東洋的英主を眼前に現はしたり。(吾人は想ふ、今日の尊王忠君の声は現天皇の個人的卓越に対する英雄崇拝を意味すと)」
北が明治天皇に対して何か特別の感情をもっていたことは、後年の北の仏壇に軍服姿の明治天皇像がかざられていたことからも推測することが出来る。ここで述べられている維新の英雄としての明治天皇のイメージには、明治後期に彼が抱いた明治天皇観が投影されていることは疑いもない。しかしまた、いわゆる国体論を拒否した上で、天皇の存在を肯定するためには、このようなやり方以外にありえなかったであろうことも明らかである。この明治天皇英雄論は実証的根拠のない一つのフィクションである。彼は国体論の神話にかえて、維新の英雄という神話をつくったとも言える。彼はこのフィクションを以て、一方で天皇の現存に根拠を与えると共に、他方では天皇を国家の進化という目的以外には行動し得ないものとして限定づけようとしたのであった。つまり天皇はこのフィクションにより、公民国家の強化、すなわち彼の言う社会民主主義の方向を代表しなければならないものとして規定されることになるのであり、一見明治天皇への個人崇拝にすぎないかの如き「維新の英雄」論は、実はいわゆる国体論を拒否して、天皇機関論―と言っても公民国家論にみあう特殊なものであったが―を導き出すという役割を負わされていたのであった。
北は、維新の英雄としての活躍によって、天皇の性格は次のように変化したとする。「現皇帝は維新以前と以後とは法理学上全く別物なり。維新以前は諸侯将軍の君主等と等しく其の範囲内に於ける家長君主たる法理上の地位なりしと雖も、維新以後二十三年までは唯一最高の機関として全日本国の目的と利益との為めに国家の意志を表白する者となれるなり」ここで「国家の意志」とは、あとでみれるように、国家の進化を目的とする社会的勢力のなかにあらわれるとされるのであるから、「最高機関」としての天皇は、そのような社会的勢力を代表すべき者なのだということになる。北は明治維新を明治憲法制定に至る一連の過程とみるのであるが、その憲法制定はこのような形での「最高機関」の働きとして捉えられていた。
「維新革命は貴族主義に対する破壊的一面のみの奏功にして、民主々義の建設的本色は実に『万機公論による』の宣言、西南佐賀の反乱、而して憲法要求の大運動によりて得たる明治二十三年の『大日本帝国憲法』にありと。即ち維新革命は戊辰戦役に於て貴族主義に対する破壊を為したるのみにして、民主々義の建設は帝国憲法によりて一段落を劃せられたる二十三年間の継続運動なりとす。」つまり彼は明治憲法を明治維新の帰結とみると同時に、「憲法要求の大運動によりて得たる」ものと評価しているのである。そしてこの評価は次のような「欽定憲法」における「欽定」の理解につづいていた。「欽定とは…国家の主権が唯一最高機関を通じて最高機関を変更して特権の一人と平等の多数とを以て組織すべきことを表白したることなりとす。」すなわち、欽定とは、国家の意思を表明する最高機関が天皇だけであったから、天皇が定めるという形式になったということであり、天皇個人が定めたということではない、天皇は国家意思の媒介たるにすぎないというわけである。つまり明治憲法は「憲法要求の大運動」が国家意思を形成し、それが最高機関である天皇を通じて「欽定」という形式で制定されたと把握されているのである。
それは観点を移して言えば、天皇と国民は直接に相対立する存在ではないとする主張に変わる。「約言すれば日本天皇と日本国民との有する権利義務は各自直接に対立する権利義務にあらずして大日本帝国に対する権利義務なり。例せば日本国民が天皇の政権を無視す可からざる義務あるは天皇の直接に国民に要求し得べき権利にあらずして、要求の権利は国家が有し国民は国家の前に義務を負ふなり。日本天皇が議会の意志を外にして法律命令を発する能はざる義務あるは国民の直接に天皇に要求し得べき権利あるが為めにあらず、要求の権利ある者は国家にして天皇は国家より義務を負ふなり」従って「国民の忠は国家に対するもの」であって天皇そのものに向けらるべきものではない、「『国家の為めに』と言ふ社会主権の公民国家と、『君の為めに』と言ふ君主々権の家長国とは、国体の進化的分類に於て截然たる区別をなす」ということになるのである。北は「爾臣民克く忠に」という「忠」の内容は、「国家の利益の為めに天皇の政治的特権を尊敬せよと言ふこと」にすぎないと断ずるのであった。それは当時の支配者のスローガンであった「忠君愛国」を切断し、「忠君」ではなくて「愛国」こそが道徳の基本であることを強調するものにほかならなかった。
この論理で言えば、天皇もまた「愛国」という政治道徳によって拘束される存在であり、北は、天皇をも含めた最高機関としての「君主」が個人的利己心で行動するようになれば、公民国家が「事実上の家長国と化し去ることあり」と考えたのであった。「今日の天皇は…国家の特権ある一分子と言ふことにして、外国の君主との結婚によりて国家を割譲する能はず、国家を二三皇子に分割する能はず、国民の所有権を横奪して侵害する能はず、国民の生命を『大御宝』として殴傷破壊する能はず、実に国家に対してのみ権利義務を有する日本国民は天皇の白刃に対して国家より受くべき救済と正当防衛権を有するなり。」
彼は孟子の「一夫紂論」を援用しながら、論理的には国家の利益に反する天皇は打倒の対象となりうることを認める。しかし現実には、「天皇等の徳を樹つることの深厚なりしは…歴史上の事実なりとし、「固より独乙皇帝の如き一匹夫ならば…国家機関たる所の君主に非らざる帝冠の叛逆者として一夫紂論の爆発することはあり得くしと雖も、親ら民主的革命の大首領たりし現天皇は固より歴史以来の事実に照らして日本今後の天皇が高貴なる愛国心を喪失すと推論するが如きは、皇室典範に規定されたる摂政を置くべき狂疾等の場合より外想像の余地なし」としてその現実的可能性を否定したのであった。
このような北の天皇観は、国家の最高機関としての天皇に敬意を払うべきことを説き、天皇打倒の現実の可能性を否定したとは云え、支配的イデオロギーからみれば明らかに異端であった。北はこのような状況の下で大日本帝国憲法そのもののなかから、彼の天皇観、公民国家=社会民主主義論にみあう解釈を引き出し、自らの主張を補強しようと試みるのである。
北はまず憲法第5条と第73条に着目する。 第5条とは「天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ」との規定であり第73条は憲法改正手続についての規定である。即ち憲法改正案は勅令により帝国議会に付議し、議会は議員総数の3分の2以上が出席し、出席者の3分の2以上の多数を得れば改正の議決をすることが出来るとしたものである。この規定から北は、天皇が行政の長官として、或は陸海軍の統率者として活動する場合には独立の機関であるが、立法についてはたんに機関の一要素であるにすぎないと主張する。「即ち、立法機関は天皇と議会とによりて組織せられ始めて一機関としての段落ある活動を為すことを得」と。そしてこれを根拠に「天皇は統治権を総覧する者に非らず」として、第4条(「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総纜シ此ノ憲法ノ條規二依り之ヲ行フ」」を否定する。つまり立法機関として不完全な天皇が、統治権の総覧者でありえないことは明らかだというのである。
憲法の条文に矛盾のある場合には、「各々其の憲法の精神なりと認むる所、国家の本質なりと考ふる所によりて自由に取捨するを得べく」とする北は、天皇を「神聖」とし、「元首」とする規定をも切り捨てる。すなわち、「神聖」は歴史的に踏襲された形容詞にすぎず、学理上は意味のないものであり、また「元首」は君主を頭とし労働者を手足とするような児戯に類する比喩的有機体論の産物にすぎないとした。
では大日本帝国憲法において、統治権を有する機関は何なのか、まず「『最高機関』とは最高の権限を有する機関のことにして即ち憲法改正の権限を有する機関なり」と定義される。そしてさきの第73条の規定から云って、天皇と議会の合体したものを最高機関とみなすべきだとするのである。「若し此の国家の意志の表白さるる所の者を以て主権者と呼び統治者と名くるならば、天皇は主権者にあらず又議会は統治者に非らず、其等の要素の合体せる機関が主権者にして統治者なりとすべし」と。
このような北の天皇論・憲法論から云えば、いわゆる国体論はそれが単に根拠のない妄想であると云うだけではなく、打倒すべき反革命であり、国民を国家に向ってより強力に集中してゆくために排除しなければならない障害であった。彼は云う。世の所謂『国体論』とは決して今日の国体に非らず、又過去の日本民族の歴史にても非らず、明らかに今日の国体を破壊する『復古的革命主義』なり」と。復古的革命主義とは反革命と云うに等しい。彼は国体論の内容として君臣一家論や忠孝一致論をとりあげて批判するが、その観点は要するに「所謂国体論の背髄骨は、如何なる民族も必ず一たび或る進化に入れる段階として踏むべき祖先教及び其れに伴ふ家長制度を国家の元始にして又人類の消滅まで継続すべき者なりと言う社会学の迷信なり」という一節につきていた。それは云いかえれば、国体論は折角公民国家にまで進化した日本の国体を、再び家長国家に逆転させようとする反革命だということにほかならないのである。
たしかに北の国体論批判は当時においては極めて強烈であり、官憲をして発禁処分に走らせるに十分であった。しかしそこでの問題関心が明治国家を如何にして根底的に肯定するかという点にあったことは、「伊藤博文の帝国憲法は独乙的専制の飜訳に更に一段の専制を加へて、敗乱せる民主党の残兵の上に雲に轟くの凱歌を挙げたり」としてその専制的性絡を指摘しているにも拘らず、憲法論としては天皇大権の大きさにも、議会の権限の弱さにも触れることなく、ただ次の結論で満足していることからも明らかであろう。すなわち、現在の政体は「最高機関は特権ある国家の一分子と平等の分子とによりて組織せらるる世俗の所謂君民共治の政体なり。故に君主のみ統治者に非らず、国民のみ統治者に非らず、統治者として国家の利益の為めに国家の統治権を運用する者は最高機関なり。是れ法律の示せる現今の国体にして又現今の政体なり。即ち国家に主権ありと言ふを以て社会主義なり、国民(広義の)に政権ありと言ふを以て民主々義なり。
依之観之、社会主義の革命主義なりと云ふを以て国体に抵触すとの非難は理由なし。其の革命主義と名乗る所以の者は経済的方面に於ける家長君主国を根底より打破して国家生命の源泉たる経済的資料を国家の生存進化の目的の為めに国家の権利に於て、国家に帰属すべき利益と為さんとする者なり」と云うのである。
つまり、社会主義は国体と矛盾しないばかりでなく明治国家の本質的な意義を肯定するものなのだという結論を導くことだけが目的であり、北はそれ以上に憲法に執着しようとはしなかったと云える。 云いかえれば、彼の憲法論は、彼の公民国家論にみあう天皇機関論を導くためのものであり、彼はそれ以上に憲法解釈に立入ろうとはしなかった。天皇機関説という呼び方で理解すれば、北は美濃部達吉と共通の立場にあるかの如くみえるけれども、この点で彼は美濃部と決定的に異っていた。彼が憲法解釈学に立ち入らなかったのは「天皇と帝国議会とが最高機関を組織し而もその意志の背馳の場合に於て之を決定すべき規定なきに於ては法文の不備として如何ともする能はざるなり」つまり憲法の解釈権者が指定されていないという見方も関係しているであろう。しかし根本的な問題は、北の理論においては国家意思は常に憲法を越えるものとされている点にある。彼は云う。「国家主権の今日及び今後に於ては、其の手続きを定めたる規定其者と矛盾する他の規定を設くとも、又其の規定されたる手続によらずして憲法の条文と阻格する他の重大なる立法をなすとも、国家主権の発動たる国家の権利にして、国家は其の目的と利益とに応じて国家の機関を或は作成し或は改廃するの完き自由を有す」すなわち主権者としての国家は、憲法によって規定されるものではなくて、憲法を自由に改廃しうる超憲法的存在だというのである。さきにみた国家人格実在論がこの基底に置かれていることは繰返すまでもあるまい。
しかし、憲法をこえる国家は、如何にして自らの意思を発動することになるのか、ここでは、北の進化論が想定した社会そのものの意識にしろ国家人格にしろ、現実には個人の公共心や国家意識の展開としてしか自らをあらわしえなかったのと同様に、超憲法的存在としての国家も、結局具体的な人間の活動によってしか自らの活動をなし為ないことになるのであった。北は次のように書いている。「只、如何なる者が国家の目的と利益とに適合する主権の発動なるかの事実論に至りては、是れ自ら法理論とは別問題にして其の国家の主権を行使すと言ふ地位に在る政権者の意志に過ぎず。即ち事実上政権者の意志が国家の目的と利益との為めに権力を行使するや否やは法理論の与かり知らざる所なり。―是を以ての故に憲法論は強力の決定なりと云ふ。」そしてその「強力」については、「凡ては強力の決定なり。強力とは社会的勢力なり(単純に中世時代の腕力が社会的勢力を集めたることを以て今日の強力を腕力と速断べからず)。社会的勢力は社会の進化に従ひて新陳代謝す」と説明する。また「社会的勢力」については、次のようにも書いている。「国家は決して個人の自由に解散し若しくは組織し得べき機械的作成の者にあらずして、革命とは国家の意思が時代の進化に従ひて社会的勢力と共に進化すと云ふことなり。」「今の社会民主々義者は維新革命の社会民主々義を経済的革命によりて完備ならしめんとする経済的維新革命党なり。革命党の迫害せらるゝは其の社会的勢力を集中せざる間は社会の進化として常態なり」と。
従って彼の社会主義運動のあり方についての論議も、社会主義と国体は矛盾しないという点で憲法論にかかわるだけで、むしろこの強力論を主たる基盤として展開されているといえる。すなわち彼の社会主義運動論は、次のような形で導かれてくるのであった。まず公共心→国家意識がその社会で主導的な勢力=「強力」となるとき、そこに国家人格が顕在化し、その勢力の代表者が政権を握った時、国家人格は公民国家として現実のものとなる、しかし、政権についた代表者は、その社会的勢力から離れて個人的利己心にとらわれ、あるいは進化を更に進めることを忘れた保守反動に転化するのが常である。従って、公民国家が基本的には社会民主主義の方向を持つとは云え、その方向を現実のものとするためには、新な社会的勢力を結集して、眼前の政権担当者を克服しなければならない。このような国家の進化を担うべき社会的勢力=強力をつくりあげてゆくことが、社会主義者の任務なのだと。 
5 社会主義運動論の特徴と矛盾

 

北は明治国家の現実を次の2つの観点から捉えた。彼はまず第1に、明治維新後の権力者は、維新の本質であった社会民主主義の進展を阻害するに至っているとみる。「凡ての進歩的勢力が其の権力を得ると同時に保守的勢力」に転ずるのは「社会進化の原理」だとする北は、倒幕の志士たちも同様の運命をたどったとする。すなわち「彼等藩閥者は維新革命の破壊的方面に於て元勲なりき。而しながら維新革命の建設的本色に至っては民主々義者を圧迫する所の元兇となれり」と。ついで彼は第2に、維新によって政治的家長君主が打倒されたあとに、今度は「秩序的掠奪」によって、土地人民を私有する経済的君主・黄金大名があらわれ、日本は経済的家長国に転じたと論ずるのである。そして保守化した政治勢力は、この黄金大名の力の下にくみ入れられるに至ったとみる。
「凡ての事は天皇の名に於て、国家の主権に於てなさる。而も現実の日本国なるもの天皇主権論の時代にもあらず国家主権論の世にもあらずして、宛として資本家が主権を有するかの如き資本家万能の状態なり。大臣も資本家の後援によりて立ち議員も資本家のしん(臣+頁)使によりて動く。斯くの如くにして国家の機関が国家の意志なりとして表白しつゝある所は、国家の目的、理想の為めに国家が執らんとする意志にあらずして自己若しくは自己の階級の利益のみを意識して意志を表白するを以て事実上は階級国家となれり。」
北の見方から云えば、公民国家が空洞化されて、階級国家、経済的家長国家に転ずるということは、公民国家を成り立たしめた国家意識の担い手である国民が、賃金奴隷や農奴として貧困化することであり、それはとりもなおさず、経済的君主が強大化するのと反比例して国家そのものが弱体化するということであった。「日清戦争に勝ち日露戦争に勝ちて、利益線の膨脹、貿易圏の拡大が無数に存在する経済的家長君主の強大を加ふるとも、其れによりて国民と国家とが強大なりや否やは全く問題を異にす。十六軍団の陸軍と数十万トンの海軍とを以て武装せる巨人が骸骨の如く餓えて、貧民の上には小盗人を働き富豪の前には跪きて租税の投与を哀泣しつゝある醜態をみよ。大日本帝国は今や利益の帰属すべき権利の主体たる人格を剥奪せられて経済的家長君主等の為めに客体として存するに過ぎずなれり。経済的専制君主等は強大なるべし。而しながら大日本帝国は斯くても強大の国家か。」すでに述べたように、国家を強化することを目的とする北の社会主義は、この経済的君主と保守的政治勢力を打倒して、土地・資本の公有をめざすものであった。
北はこの闘争を一応は「階級闘争」と名付ける。「おゝ来るべき第二のの維新革命よ。再び第二の貴族諸侯に対して階級闘争を開始せざるべからず。…一切は階級闘争による。」しかしこの階級闘争は彼の進化論にみあって特殊であった。彼もまた階級闘争のためにまず第1に「団結」を求める。「団結は勢力なり。社会主義勢力は主権なり。」だがこの「団結」は階級的利害を結集して、敵対的階級を打倒しようという発想とは異なっていた。彼は階級闘争の目的は「階級絶滅にあるという。しかしそこで彼が力点を置いているのは、資本階級をも労働者階級をも共に解体して社会主義を実現するという点にあった。
「固より社会主義は当面の救済として又運動の本隊として今の労働者階級に陣営を置くものなりと雖も此れあるが為めに労働者階級を維持する者と解すべからず、階級なき平等の一社会たらしむるのみ。社会主義は社会が終局目的にして利益の帰属する主体なるが故に名あり。現今の階級的対立を維持して掠奪階級の地位を転換せんと考ふる如きは決して社会主義に非らず。」このような考え方が出てくるのは、彼が自らつくりあげた進化論に於ける同化作用と分化作用の論理を、社会主義実現のためにもより基本的なものとみ、階級闘争よりも根底的なものとみていたからにほかならなかった。それは簡単に言えば個人の自律性が強まるにつれて、同化作用も拡大・強化され、それによって社会は進化するとするものであったが、その場合、北は個人の自律性の内容を問題とすることなく、たんに個人の自由や権威が上層から下層へと漸次浸透するという形でしか捉えていないことが特徴的であった。すなわち、「社会の進化は下層階級が上層を理想として到達せんとする模倣による」。「個人の権威が始めは社会の一分子に実現せられたる者より平等観の拡張によりて少数の分子に実現を及ぼし、更に平等観を全社会の分子に拡張せしめて茲に仏蘭西革命となり維新革命となり」などと言った具合である。
それは言いかえれば、個人の分化作用は社会の上層より下層にと下降し、従って同化作用は下層から上層への上昇運動としてあらわれるということになる。北はこの考え方をそのまま階級闘争に持ちこんで次のように述べているのである。「社会民主々義の階級闘争は執て代らんとするの闘争に非らず。否、凡ての階級闘争とは運動の本隊が下層階級に在りと言ふことにして闘争の結果は模倣と同化とによりて下層階級の上層に進化して上層階級の拡張することに在り。即ち下層階級が其れ自身の進化による階級の掃討にして上層階級の地位が転換されて下層となり、若しくは社会の部分中進化せる上層が下層に引き下げらるゝ原始的平等への復古にあらず。」もっとも、「模倣と同化」と言っても、上層階級の何を模倣し、どの部分に同化するのか明らかではない。北としては、下層階級の不自由と貧困が「平等」の基準となるものではないことを強調したかったのであろう。
しかし北がそれ以上に云いたかったことは、この文章で言云えば、下層階級が自らの「階級の掃討」をなさねばならないとする点にあったと思われる。彼は良心は階級的に形成されるとしているのであるから、上層階級の階級的良心を下層階級の階級的良心が「模倣と同化」の対象とすることを期待しているわけではない。むしろこのせまい階級的良心を解体してより普遍的な良心を形成することが同化作用の基本だとみていることは、社会主義の目標を「現今の経済的階級国家を打破して経済上に於ても一国家一社会となし、以て国家社会の利益を道徳的理想とする良心の下に現時の階級的良心を掃討せんことを計る」という形で述べている点からもうかがうことが出来る。従って北における階級闘争とは、下層階級が上層階級の階級的良心を打倒すると共に、自らの階級的良心をも解体して、より普遍的な良心の下で旧上層階級と同化し、上層階級の自由と豊かさをわがものにする過程として捉えられていたと思われるのである。
こうみてくると北の言う「団結」は階級的連帯を軸とするものではなくて、より普遍的な良心の形成を伴うものでなくてはならなくなる。北の場合それが国家意識であり、国家への忠誠であるとされることは、これまで述べて来たことからも明らかであろう。国家意識の強化による階級的良心の掃討―そこから「社会民主々義の運動は純然たる啓蒙運動なり」という命題が生れる。「啓蒙運動は凡べての革命の前に先ちて革命の根底なり。 社会民主々義は其の実現を国民の覚醒に待つ」。 結局のところ、彼の言う社会主義をめざす「啓蒙」とは、下層階級を階級として結集させるのではなく、逆に階級としては解体し、国家意識の明確な国民としての自律性を強化してその線に沿って団結させると言うことにほかならなくなる。従ってまた彼の言う社会主義社会像は、革命運動に於ける階級的連帯に支えられるのではなく、国家への忠誠をちかう個人としての国民に解体された労働者や資本家を、国家が目的合理的に組織するという形で提示されることとなるのであった。
このことを最も端的にあらわしているのは、彼の「社会主義の労働的軍隊」「徴兵的労働組織」という発想であろう。北の社会主義経済についての基本構想は「ツラストの進行を継続」した資本の「大合同」によって、破壊的競争と浪費をなくすということにつきているが、この大合同に「徴兵的労働組織」を対置している点が著るしく特徴的と言える。彼は次のように説明する。「今日の公民国家の軍隊は絶対の専制と無限の奴隷的服従の階級とに組織せられ、其の報酬の如きは往年の主従の如き差ありと雖も、社会主義の労働的軍隊に於ては各個人の自由と独立は充分に保障せられ、権力的命令組織を全く排斥して公共的義務の道徳的活動と他の多くの奨励的動機とによりて労働し、物質的報酬に至っては如何なる軽重の職務も全く同一となること是れなり。即ち約言すれば、社会主義の軍隊的労働組織とは徴兵の手続によりて召集せられたる壮丁より中老に至るまでの国民が、自己の天性に基く職業の撰択と、自由独立の基礎に立つ秩序的大合同の生産方法なりと云ふを得べし」と。
なるほど待遇は画期的に改善され、組織は民主化されたと云えよう。しかし、徴兵という手続きは権力的な上からの動員であり、自由と独立もその枠のなかだけのことにすぎなくなる。従って北の言う社会主義の啓蒙運動とは、このような徴兵に堪え得る愛国心を持った国民をつく出すことにほかならないとも云えよう。そしてこれこそが北の社会主義運動論の軸をなす観点なのであった。
北が「革命とは思想系を全く異にすと云ふことにして流血と否とは問題外なり」と云う時、それはこれまでみてきたような、旧い階級的良心の掃討こそが革命の本質的問題なのだという主張と読める。そしてこのような啓蒙によって形成された団結からどのような形態の連動が生れるかは、その直面した条件にかかわるというのである。彼はこの点については、日本では流血を必要としないと断じ、彼の社会主義運動論は啓蒙運動を基礎とした「法律戦争」論として展開されてゆくことになるのである。「吾人をして露西亜に生れしとせよ、吾人は社会民主々義者の口舌を嘲笑して爆烈弾の主張者たるべし!」と述べた北は、日本の場合には「実に維新革命の理想を実現せんとする経済的維新革命は殆んど普通選挙権其のことにて足る」とするのである。つまり日本には「法律戦争を戦ふべき法律的形式」が存在しているというのである。「国家内容の革命は国家主権の名の下に一に投票によりて展開す。―『投票』は経済的維新革命の弾丸にして普通選挙権の獲得は弾薬庫の占領なり。」「経済的維新革命は投票の階級闘争を以て黄金貴族の資本と土地とを国家に吸収し事実上の政権独占を打破すべし」と。そしてまた、彼は「社会が今日まで進化し而して階級闘争の優劣を表白するに投票の方法を以てするに至れり」と述べて、このような「投票」による革命が可能となったことは、闘争方法そのものの進化なのだと強調するのであった。
しかし、この法律戦争論をたんに普通選挙さえ獲得されれば第2の維新革命が実現できるのだというように読んでしまっては、北がこれまでつみ上げてきた論理にそぐわなくなるであろう。彼は「一切は生存競争なり、真理の生存競争に打ち勝ちて社会民主々義が全国民の頭脳を占領せる時、茲(ここ)に国家の意志は新たなる社会的勢力を表白して経済的維新革命が法律戦争によりて成就せらるゝの時なり」と述べているのであり、啓蒙運動によって「新たなる社会的勢力」が「強力」となっているという前提があってはじめて、普通選挙による法律戦争の勝利がありうるとの主張と解すべきであろう。そして彼は、現実には日露戦争に於ける国民の団結、とくに満州から帰還してくる兵士たちに、この新しい社会的勢力を見出そうとしていた。
「満州の誠忠質実なる労働者が帰り来る時!―今、彼等は続々として帰りつゝあり、人は彼等の凱旋を迎ふと雖も彼等は凱旋者にあらずして法律戦争を戦はんが為めの進撃軍なり」 「吾人は断言す、普通選挙権の獲得は片々たる数千百人の請願によりて得らるべからず、実に根本的啓蒙運動による全国民の覚醒によりて彼等権力者の一団を威圧して服従せしむることなりと。凡ての権利は強力の決定なり。団結に覚醒せるときに強力生ず。…国民の下層にして団結の強力なることを覚醒せざる間は権利を要求すべき基礎の強力なし。吾人はこの点に於て万国社会党大会の決議に反して日露戦争の効果を天則の名に於て讃美す。国民は団結したり。団結の強力なることは明らかに意識せられたり。 而してしょう(火・章)烟の間に翻へりたる『愛国』の旗は今や法律戦争の進撃軍の陣頭に高く掲げられたり。」
北にとって普通選挙とは、多様な利害の統合のためのものではなく、「愛国」の団結を国家意志に高めるためのものであった。そして彼がそのための啓蒙運動を戦争と徴兵制軍隊に期待していることは、さきの徴兵的労働組織の問題と合せて、北のその後をみるために注目しておかなくてはならないであろう。彼は天皇の軍隊を国民の軍隊と読みかえることでこの論を立てていると思われるが、この読みかえがそのように簡単にゆく問題でなかったことは、のちの青年将校と北との関係のなかにも現れてくる。もちろん北のこの読みかえは、さきの最高機関としての天皇の性格づけを前提としていたにちがいない。そしてその問題はもう一つの別の面でも彼の普通選挙論の暗黙の前提となっていたことであろう。
すなわち北の憲法論から言えば、国家の最高機関は天皇と議会の合体したものとされるのであるから、たんに議会の多数を得たとしても最高機関の一部にくい込んだにすぎない。しかも彼は貴族院の問題に触れていないのだから、普選で制圧することが可能なのは衆議院だけということになる。とすれば、彼の普選=無血革命論は、普選によってその姿をあらわした社会的勢力の意志に他の国家機関が従うということが前提されねばならない。しかし事態がそのように進行するという保証は、制度的には存在せず、社会的勢力の圧倒的強さという点以外には求めえなくなる。ところで、圧倒的な社会的勢力は北の理論から言えば、国家意志を形成することになり、それは超憲法的存在となるはずであった。
こうみてくると、彼の普選中心論は彼の理論から出てくる唯一必然の結論ではないと云わざるをえなくなる。何故なら超憲法的な力が何も普選だけにこだわることはないからである。国家の最高機関を構成する要素のうち最大の力を持つ天皇を動かした方がはるかに効果的であることは明らかであろう。もちろん当時は、後世の我々からは想像し難い程に、普選の効果が過大視されていたことが、北をこのような普選中心論に走らせたのであろうし、またそれは当時としては極めて急進的と云える議論ではあった。しかし北のこれまでつみ上げて来た理論から云えば、後年の天皇を擁したクーデターの方が、より直接的結論であるように思われるのである。
『国家改造案原理大綱』は次の如く述べている。「挙国一人ノ非議ナキ国論ヲ定メ、 全日本国民ノ大同団結ヲ以テ終二天皇大権ノ発動を奏請シ、天皇ヲ奉ジテ速カニ国家改造ノ根基ヲ完ウセザルベカラズ」、「クーデターハ国家権力則チ社会意志ノ直接的発動卜見ルヘシ」。そしてそれはまさに、さきに引用した「団結は勢力なり、 社会的勢力は主権なり」という13年前の一文と直結していると云えよう。そこでは普通選挙権はもはや変革の突破口ではなくなり、クーデターの下で、改造体制の一環として上から与えられるものに転化していた。
このように、普選=無血革命論が、北の論理の筋道から云って、基礎薄弱なものであったとすれば、この普選論にみあう形で提示されている世界連邦による世界平和論が、彼の理論体系から完全にはみ出したものになることは必然であった。彼はまずその進化論の見地から、国家を発展させる基本的な力である社会の同化作用が更に拡大すれば世界大の単一社会があらわれると考える。そしてそこに至る中間頃として世界連邦による世界平和という進化の段階を設定しこれを社会主義の当面の目標にしようとするのである。つまり、階級闘争が「投票」で解決されるまでに進化したとする考え方を拡大して、国家競争をも世界連邦の連邦議会に於て解決するように進化させうるというのであった。日露戦争の勝利という状況の下で、北は帝国主義者としての興奮からさめて、帝国主義を克服する問題に眼をむけたとも言える。
「社会主義の世界連邦論は斯の競争の単位を世界の単位に進化せしむると共に、国家競争の内容を連邦議会の議決に進化せしめんとする者なり」、「社会主義の戦争絶滅は世界連邦国の建設によりて期待し、帝国主義の終局なる夢想は一人種一国家が他の人種他の国家を併呑抑圧して対抗する能はざらしむるに至らしむる平和にあり」、「社会主義の世界連邦国は国家人種の分化的発達の上に世界的同化作用を為さんとする者なり」。そして彼は、主体化した国家人格は帝国主義という野蛮な段階から世界連邦の形成へと進化するというのである。「個人が其の権威に覚醒せるとき茲に戦士となりて他の個人の上に自己の権威を加へんとする如く、君主等の所有権の下より脱したる国家は其の実在の人格たる権威に覚醒したる結果、他の国家の権威を無視して自己の其れを其の上に振はんとす。―帝国主義と云ふもの是れなり。天則に不用と誤謬となし。社会主義は国家の権威を主張すべき点に於て明らかに帝国主義の進化を継承す。即ち個人の権威を主張する私有財産制の進化を承けずしては社会主義の経済的自由平等なき如く、国家の権威を主張する国家主義の進化を承けずしては万国の自由平等を基礎とする世界連邦の社会主義なし」。そして日本が帝国主義の野蛮な段階にあることを認めて、次のようにも書いた。「吾人は日本国の貴族的蛮風の自由が更に進化して文明の民主的自由となりて支那朝鮮の自由を蹂躙しつゝあるを断々として止めしめざるべからず」と。
しかしこの世界国家を展望した世界連邦による世界平和論が、理論的難点を持っていることは、おそらく北自身も気づいていたのではないかと思われる。彼は次のように書いていた。「階級的道徳、階級的智識、階級的容貌によりて今日階級闘争の行はれつゝある如く、階級間の隔絶より甚しく同化作用に困難なる今日の国家間に於ては国家的道徳国家的智識国家的容貌の為めに行はるゝ国家競争を避くる能はず」。つまり、 世界連邦から世界国家への進化の推進力となるべき世界的同化作用が、どのような基礎の上に展開されるかについて、北の理論は何の解答も用意していないとうことである。彼は「経済的境遇の甚しき相違と精神的生活の絶大なる変異とが世界連邦の実現と及び世界的言語(例へぱエスペラントの如き)とによりて掃討されざる間、社会主義の名に於て国家競争を無視する能はず」として、世界連邦と世界的言語が世界的同化作用の基盤であるかのように述べているが、しかしこの説明も、そもそも世界的同化作用を前提としなければ、世界連邦の成立さえもありえないではないか、との疑問に答えることが出来ない。
彼の進化論から云えば、国家競争は「避くる能はず」とか「無視する能はず」といった消極的に容認さるべきものではなく、人類進化のための積極的な力であり、それ故に国民の国家への集中と国家の強化とを強調した筈である。それは国家を通さない個人間の国際的連帯を否定するまでに強烈であった。彼は社会主義者の非戦論を「原子的個人を仮定して直ちに今日の十億万人を打て一丸たらしめんとする如き世界主義なり」としてしりぞけている。つまり北の理論で云えば、個人の側から国家をこえる世界的同化作用が生ずる余地はなくなってしまうのである。残る方法は、国家そのもののなかに世界への方向が内在するという論理を組む以外にはなかった。
北は個人と国家との間に想定した関係をそのまま持ち込んで、国家は世界に対して道徳的義務を負う倫理的制度だと主張しようとする。「国家が個人の分子を包容して一個体たると共に、世界は国家を包容して其の個体の分子となす。故に個人が其れ自身を最善ならしむるは国家及び社会に対する最も高貴なる道徳的義務なる如く、国家は其の包含する分子たる個人と分子として包含せらる世界の為めに国家自身を最善ならしむる道徳的義務を有す。此の義務を果すことによりて国家はルーテルの言へる如く倫理的制度たり。然るに、個人が其の小我を終局目的として国家の利害を害するならば国家の大我より見て犯罪なる如く、 国家にして若し―否!今日の如く世界の大我を忘却し国家の小我を中心として凡ての行動を執りつゝあること帝国主義者の讃美しつゝある如くなるは、実に倫理的制度たるを無視せる国家の犯罪なり」と。
しかし、彼が社会=大我、個人=小我と述べた際には、個人は社会のなかでしか生きられず、 そこから社会を強めようとする意識が生まれるという点を基礎としたのであった。また国家は 国家意識にもとづいた社会的勢力によって規制される筈であった。とすれば、社会と個人との関係をそのままあてはめて、国家=小我、世界=大我とする主張は、彼のこれまでの理論の展開からはづれたものと言わざるを得ない。彼の理論展開からすれば、問題はあくまでも、個人―国家―世界の3段階を切り離すことなく、その進化の筋道を説明しなければならなかったと考えられる。彼は進化を倫理的価値の実現とみるのであるから、帝国主義→世界連邦→世界国家が進化の必然の過程であるということを証明したうえで、国家は世界連邦実現の倫理的義務を負うと主張するのでなければ、彼は自ら設定した論理の手続きを無視するものと評されても致方あるまい。つまり、帝国主義から世界連邦への進化の必然を説くことなく、「社会主義は近代に入りて漸く忠君より覚醒せる愛国心を更に他の国家に拡充せしめて他の国家の自由独立を尊重する所の愛国心なり」などと説くことは、北自身の進化論的見方と相反して いるということなのである。
では北の進化論を世界国家に向っておしすすめてみるとどういうことになるのであろうか。彼が想定した進化の基本的な形は、社会従って国家が拡大し、そのなかでの国民の同化作用と分化作用とが進行する、それによって強化された社会=国家が生存競争のなかで更に自らを拡大してゆくというものであった。従って単一の世界社会=世界国家もこの基本形の進行のはてに設定されねばならなかった筈である。つまり現実の国家を固定しておきながら、その国家をこえる世界的同化作用を考え、世界連邦の実現を説くのではなしに、現実の国家の拡大による同化作用の拡大が世界にまで達するというのが、北の進化論から出てくる結論だったと思われるのである。
ここでもまた、後年の『国家改造案原理大綱』の方が、この結論に忠実なのではないかと思われてくるのである。『原理大綱』は「国家改造ヲ終ルト共二亜細亜連盟ノ義旗ヲ飜シテ真個到来スベキ世界連邦ノ牛耳ヲ把」ることを目的とする。しかしこの亜細亜連盟から世界連邦への道は、『国体論及び純正社会主義』に於ける世界連邦による世界平和論とは本質的に異っている。『原理大綱』の説く展望は次のようなものであった。「現時マテノ国際的戦国時代二亜イテ来ルヘキ可能ナル世界ノ平和ハ必ス世界ノ大小国家ノ上二君臨スル最強ナル国家ノ出現ニヨツテ維持サル丶封建的平和ナラサルベカラズ。…全世界二与ヘラレタル当面ノ問題ハ何ノ国家何ノ民族ガ徳川将軍タリ神聖皇帝タルカノ一事アルノミ」。つまりこの世界連邦は、連邦議会で国家競争を解決するようなものではなく、最強の国家が君臨することを予定したものにほかならなかった。北の云う国家改造が日本をこの最強国家たらしめんとするものであることは云うまでもないが、同化作用もまた─この用語は使われなくなっているが─この過程と共に進展するものとされているのである。例えば、彼は改造国家の教育に於て「英語ヲ廃シテ国際語(エスペラント)ヲ課シ第二国語トス」ることとしたが、その理由として次のように述べている。
「国際語ノ採用ガ特二当面二切迫セル必要アリト言フ積極的理由ハ…日本ハ最モ近キ将来二於テ極東西比利亜濠洲等ヲ其ノ主権下二置クトキ現在ノ欧米各国語ヲ有スル者ノ外二新タニ印度人、支那人、朝鮮人ノ移住ヲ迎フルガ故二殆卜世界凡テノ言語ヲ我ガ新領土内二雑用セシメザルベカラズ。此二対シテ朝鮮二日本語ヲ強制シタル如ク我自ラ不便二苦シム国語ヲ比較的良好ナル国語ヲ有スル欧人二強制スル能ハズ。印度人支那人ノ国語亦決シテ日本語ヨリ劣悪ナリト言フ能ハズ。…言語ノ統一ナクシテ大領土ヲ有スルコトハ只瓦解二至ルマテノ槿花一朝ノ栄ノミ」と。それは大帝国内部に於て、エスペラントによってより広汎な同化作用を推進するということにほかならないであろう。また世界的同化作用については「東西文明 ノ融合トハ日本化シ世界化シタル亜細亜思想ヲ以テ今ノ低級文明国民ヲ啓蒙スルコトニ存ス」と述べているが、これもまた大帝国の建設を前提としていることは言うまでもないであろう。
北が『国体論及び純正社会主義』に於て、一方で、「国家の強化拡大を熱望しその理論的基礎づけに狂奔する強烈な国家主義者としての自己をあらわにしながら、他方、その社会主義運動論の結論として普選=無血革命論、世界連邦=世界平和論を説いたことは、恐らく日露戦争の勝利によって帝国主義国家としての日本の地位が確立したという現実と、日露戦争にあらわれた国民のエネルギーを、彼の云う国家主義としての社会主義の方向に誘導しうるという期待とにもとづいていたことであろう。そしてこの点において変らなかったならば、彼が、その進化論の必然的帰結とは言えない社会主義運動論を維持しつづけるということもありえたかもしれない。
しかし彼は、中国革命という新たな状況のなかに身をおくことによって、中国革命に対応する日本の改造という新たな視点を獲得し、それと共にかつての社会主義運動論を捨て去ってゆくのであった。  
6 『国体論』からの転回

 

『国体論及び純正社会主義』(以下『国体論』と略称)が発売禁止の処分をうけたことは、北のその後の思想的展開を容易にし、また促進する1つの条件となったとも考えられる。この著作で彼が主張した根本的命題は、国家意識の普及と強化によって国家を発展させることが、人類を進化させる原動力となる、というものであった。しかし彼がこの命題をうち立て証明しようとしたのは、そこに止まるためではなく、それを基礎としてその次の問題にとり組むための準備であった筈である。
日露戦争前夜の彼の問題関心に即して言えば、『国体論』は「帝国主義と社会主義」との原理的関連についての彼なりの答えを示したものではあったが、日本帝国主義を欧米帝国主義と区別して「正義」であると価値づけたことの根拠までは提示してはいなかった。それは、この著作において、「公民国家」と性格づけたままで残されている諸国家の特殊性の問題を世界=人類の進化過程のあり方とどう関連づけるのかという点にかかわってくる問題でもあった。そしてその際、普通選挙による無血革命や、世界連邦の連邦議会による世界平和の達成といった『国体論』の結論をそのまま維持するとすれば、日本国家の使命について語るとしても、後年の北とは異なった語り方をしなければならなかったであろうし、後年の如くに語るとしたら、幸徳秋水と共に「余が思想の変化」について述べねばならなかったのではあるまいか。発売禁止処分を北はこのようなわずらわしさから脱れるために利用したように思われるのである。
『国体論』は、自費出版にも拘らず、相当に大きな反響を得た 1)。そしてそのなかから、社会主義者と大陸浪人という二つの手が彼に向って差し出されたのであった。結局のところ、彼は大陸浪人の手の方を握ったのであるが、この選択そのもののなかに、すでに『国体論』以後の問題関心の変化の方向を読みとることが出来る。
   1) 『北一輝著作集』第3巻(1962年4月、みすず書房)には、『国体論及び純正社会主義』に対する書評10編、『純正社会主義の哲学』に対する書評13編が収録されている。
『国体論』が刊行されたのは、1906年(明治39)5月9日であり、5月14日には発売禁止処分に付されたが、北が社会主義者と直接の接触を持ったのはこの直後からであった。堺利彦が使を派して、発禁本を売りさばいてやらうと申出たのがその直接のきっかけと思われるが、彼は社会主義者と接触した模様を叔父本間一松にあてた6月の手紙で、次のように報じている。
「先日浦本の叔父様見送りの帰りに、片山潜氏を訪れ、色々話し侯。大に崇敬の情をこめて歓待せられ、談聊か万国社会党大会の日露戦争否認の決議に及び候へども、氏も何となく自信の動揺せることは認められ侯。しかし多くの議論に於て相違有之候に係らず、社会党が皆一将を得しかの如く歓び迎へられるるには満足罷在候。然れども少々考ふる処も有之、先日『光』に論説の寄稿を願はれ候へど、体よく断はり、全く遊撃隊として存せしめよと申居り候。……咋日より社会党の公判傍聴に赴く。今の処社会党はホンの卵子にて、到底権力者と戦闘するには堪へず候。」
北が、当時の日本社会党の実際上の中央機関誌であった「光」ヘの寄稿を断り、社会主義の本隊に入るのを避けて、自ら「遊撃隊」と位置づけたのは、直接には、『国体論』の分冊再刊に奔走していたことも関係していたかもしれない。彼は、発禁のおそれのない部分から分冊刊刊することを考えており、この手紙も、『純正社会主義の哲学』刊行(7月13日出版)のための金策を依頼したものであった。しかしより根本的には、日露戦争論をはじめ「多くの議論に於て相違有之候」と述べているように、社会主義者との間の思想的な違いを、じかに身をもって確認したためであったと考えられる。そしてその直後から始まった直接行動か議会政策かをめぐる日本社会党内部の論争をみることによって、北は社会主義者たちとの距離を測り、自らの思想を展開する方向を見定めていったのではなかったであろうか。
アメリカから帰国した幸徳秋水が、「世界革命運動の潮流」と題する講演を行い、議会政策以外の「社会的革命の手段方策」として、総同盟罷工=革命的ストライキの問題を提起したのは、北が先の手紙を書いたのと同じ月の月末、6月28日であり、 更にその要旨は7月5日の「光」に掲載された。すでに述べてきたことからも明らかなように、社会主義者たちと根本的に発想を異にする北の「社会民主主義」が、社会主義者たちと交わるのは、社会主義運動の第一着を普通選挙の実現に求めた点だけであったと言ってよい。従って普通選挙論という接点が、社会主義者の側から突き崩されてきたことは、北の側にも、その普通選挙=無血革命論の根拠の再検討を迫る衝撃をもたらしたとみることが出来る。そして彼はそこから、普通選挙=無血革命論─従ってそれを投影したにすぎない世界連邦会議の投票による世界平和という構想をも─思想の変化について語ることなしに捨て去っていったのではなかったであろうか。大陸浪人からのべられた第二の手は、北にこの方向に動き出す大きなきっかけを与えたものと言う ことが出来る。それは「革命評論」のグループであった。
「革命評論」は宮崎滔天、池享吉、和田三郎、萱野長知、平山周、清藤幸七郎らを同人として、1906年(明治39)9月5日付で第1号が発行されている。そしてこの創刊号が北の手許にも送られて来たのは、このグループに好意をよせていた社会主義者たちの紹介によるものだったのであろう。月2回発行、1号のこの小雑誌は、「誰か20世紀を以て世界革命の一期にあらずと云ふ者ぞ、然り現時の文明を鞭って、百尺竿頭一歩を進転せしむるは、正に今時に在り」(「発刊の辞」第1号)として、ロシアと中国の革命運動に関する論評・記事を中心に編集されていった。
この20世紀は世界革命の時代だとする指摘を、北は世界、とくに隣接諸国の革命と日本帝国の発展との関連の問題として受けとめたことであろう。彼は早速弟のヤ吉を革命評論社に派遣する。「16日(9月)……此日森近運平氏及北輝次郎氏の令弟来訪、北氏は殊に令兄の代理としてその著書を恵贈せらる。謹んで謝す。」と「革命評論」第3号(8月5日発行)の「編輯日誌」は記している。第2号の発行は9月20日だから、北は創刊号を読んだだけで弟をさし向けたことになる。北自身の革命論社訪問はその約50日後の11月3日のこととして、第5号(11月10日発行)の「編輯日誌」に記録されている。
「3日、……此日北輝次郎氏来訪、寛談数刻、氏談半にして断水に向ふ、『暗示の進化』なる文を艸せし鳳梨とは雖、断水指し示す、氏即ち鳳梨を見てハアー! アノ方ですかと太だ怪訝の色あり、鳳梨仍て頭を撫して私語して曰く、僕の顔は余程変ってるかナと、聞くもの豈に同情に堪へんや、北氏今回著す所の『純正社会主義の経済学』又発売禁止の厄に逢ひしと、古人曰く口を塞く水を塞くよりも酷だしと、况んや高尚なる理想をや、政府者未だ此の意を解せずと見ゆ。」
文中の「暗示の進化」は第4号(10月20日発行)に掲載されている一文であり、「人間萬事信念に職由せる暗示を以て支配せらる」と書き出し、暗示の基礎となる信念が時代と共に変化することを指摘したものであるが、その中の次の一節が恐らく北の眼をひきつけたのではなかったかと思われる。「然れども世の進運に供ふて此の根底なき暗示は次第に消滅し、太守様と握手し徳川様と膝を交ゆるも『目も潰れず罰も当らず』と云ふ心念を認識すると同時に、萬乗の君は神聖なりと云ふ暗示時代に推移し来れるなり」─この一節は筆者の意図がどうあったにせよ、「萬乗の君は神聖なり」というのも、時代と共に変化する暗示の一つにすぎないとの主張と読める。
この小論ののっている第4号のトップは「暗殺と思想の変遷」と題する評論であるが、「暗殺」の記事が多いというこの雑誌の特徴にも当然北の眼がむけられていたことであろう。2号には「帝王暗殺の時代(歴史的観察)」、3号には「暗殺の露西亜」、さらに1号から「雪雷編(近日発刊)秘密小説虚無党、発売元春陽堂」の広告が連戦され、ゴチック体の「虚無党」の文字が人眼をひいている。北は『国体論』第二分冊としての『純正社会主義の経済学』の出版を準備しながら、「革命評論」のこのような雰囲気に関心を強めて行ったことであろう。そして『純正社会主義の経済学』が発行(11月1日付)後直ちに発売禁止処分となるや、革命評論社をおとずれ、すぐさま同人に加わったとみられる。そしてその日、幸徳秋水に次のように書き送った。
「拝復御見舞奉謝候。今度は如何なる故か別して癇癪も起きず、国体論の未練がサッパリと切れた為め、近来になき霽光風月の心地致し候。何が自己に適するか、自己の任務が何であるかの如き考へも致さず、只自由の感が著しく湧きて、モウ何でもするぞと云ったやうな元気なり。先づ病気を征服して真に奮闘します。」(明治39年11月3日付)
「国体論の未練がサッパリと切れ……只自由の感が著しく湧きて」と北が書いたのは、革命評論社の雰囲気のなかに、『国体論』の思想を、『国体論』の結論とはちがった方向に発展させる可能性の如きものを感じとったからではなかったであろうか。北の来訪を記した次の号、第6号(11月25日発行)には、最近北の執筆と推定されるようになった「自殺と暗殺」(署名は外柔)が掲載された。私もこの推定を支持したい。
この小論は、天皇制のもとでは、自殺にまで至る「煩悶」は、「革命的暗殺」に転ずる可能性のあることを指摘したものであった。「余輩は煩悶の為めに自殺すといふものゝ続々たるに見て、或は暗殺出現の前兆たらさるなきやを恐怖す」と書き出したこの論文は、「煩悶」とは何かについて次のように展開される。即ち「煩悶とは個人が自己の主権によって他の外来的主権に叛逆を企つる内心の革命戦争」なのであり、外的権威に服従して「個人なるものなく、自己なるものなく、自己の自主権によりて社会的思想と歴史的慣習の上に批判せんとする人格」がなければ「煩悶」の起る筈がない。とくに日本に於ては、天皇は「国民の外部的生活を支配する法律上の主権者たるのみの者ならず、実に其主権は思想の上にも学術の上にも道徳宗教美術の上にも無限大に発現するもの」であり、そこでは忠君愛国の道徳があれば足り「煩悶」の生れる余地はない。従って「煩悶」の生ずるのは、外国の事実に心を躍らせて「恣に比較研究をなし、終に等しく自己の主権を以て評価せんとするが故」にほかならないと。そして「爾乱臣賊子の徒は天皇主権の領土を法律の範囲内にのみ縮めて己に思想界の版図に掠奪の叛旗を翻がへし得たりしか」と述べたこの小論は、「あゝ誰か煩悶的自殺者の一転進して革命的暗殺者たるなきを保すべきぞ」という一文で結ばれていた。
そこには「自己の主権」から、いわゆる国体論を復古的革命主義=反革命と批判して弾圧され、暗殺に肯定的な革命評論社に没入していったこの時期の北の心情がにじみ出ているように思われる。そしてそれは、後年「幸徳秋水事件等の外に神蔭しの如く置かれたる冥々の加護1)」について語っているように、日本の社会主義者のなかでは幸徳一派への親近感となってあらわれてもいた。しかし、いわゆる国体論に叛旗をひるがえしたとは言え、明治天皇英雄論によって、日本帝国をその根底において承認した北の思想には、天皇暗殺を志向する何のモメントも存在してはいなかった。彼にとっては、あるべき国家意識の基礎を問うための国体論批判の次には、その国家意識を集中強化するための、あるべき使命感の模索が思想的課題となる筈であった。この課題を北がどの時点でどれ程自覚的に捉えたかは明かではない。しかし、革命評論社に入るとすぐに中国革命同盟会にも入会し、国際主義派孫文を排して国家主義派の宗教仁との結びつきを強め、大陸浪人の生活様式になじむ2)と共にその大アジア主義をうけいれてゆくという北の歩みは、この思想的課題への一つの迫り方を示していることも確かであった。
   1) 『日本改造法案大綱』「第三回の公刊頒布に際して告ぐ」
   2) 「革命評論」は10号(明治40年3月25日付)までしか出なかった。その後北は翌明治41年夏から黒沢次郎方に寄宿し、大陸浪人とのつき合いを深めてゆく。この間の北の生活を、黒沢次郎・北ヤ吉両氏の談話にもとづいて叙述した田中惣五郎氏は、「北の黒沢時代の仕事といえば、中国の革命党と往来し(たまには日本の革命党とも)、革命資金をうることであり、その資金を流用して、自己も生きてゆくことのくり返しであったといえる。」(『増補北一輝』、1971年1月、三一書房)と評している。
革命評論社以後の北が、次第に黒竜会に近づいて行ったことは、1911年(明治44年)9月、同会が刊行した雑誌「時事月函」の編集にたずさわり、10月に辛亥革命が勃発すると直ちに、黒竜会から中国に派遣されたことからも知られる1)。しかしそのことは、彼が黒竜会の思想に全く同化してしまったと言うことではなかった。たしかに彼は日露戦争を肯定し韓国併合を支持する点では黒竜会と同じ立場に立っていたとみられる。もっとも彼が韓国併合をこの時点でどうみていたかを直接に示す資料はない。しかしのちの『国家改造案原理大綱』で、朝鮮は大国にはさまれているという地理的条件と、内部の「亡国的腐敗」のために亡びたとして、「其ノ亡国タルベキ内外呼応ノ原因ハ統治者ガ日本タラサル時ハ露支両国ノ焉レカナリシハ明白ナリ。……自立シ能ハザル地理的約束ト真個契盟スル能ハサル亡国的腐敗ノ為二日本ハ露国ノ復讐戦二対スル自衛的必要二基キテ独立擁護ノ誓明ヲ取消シタル事ガ真相ナリ。」と述べていることからみると、北は朝鮮には自立する力がないという独断的な朝鮮観で一貫していたように思われる。
そして北は、このような朝鮮にくらべて、中国の場合には、現に彼の身近かに存在する中国の革命運動家たちによって、清朝を頂点とする「亡国的腐敗」が打破されるならば、日本の発展と支え合うような新興国家が形成されるにちがいないとの期待を持ったのではなかったか。そしてそれはまた、社会を拡大することが生存競争の力を強化することになるという彼の進化論が、世界史の発展を大国による小国の同化として捉えていったこととも関連していたことであろう。あとでみるように、彼は朝鮮は日本と同化さるべきものと考えていたが、中国はすぐさま同化の対象とするにはあまりにも大きかった。
彼が、韓国併合に狂奔する黒竜会首脳の活動を傍観しながら、その間中国の革命運動家との交流を深めていったことは、このような朝鮮と中国に対する見方の差にもとづくものとして理解できる。おそらく彼の観点からすれば韓国併合は既定の事実にすぎなかったのに対して、中国革命を支援して新興国家をつくりあげることが出来るかどうかは、日本の将来を左右するほどの決定的問題と映じたにちがいない。そしてこの立場からすれば、中国革命の支援とは、それによって中国における日本の利権を拡大することではなく、中国の亡国的腐敗を打破して新興国家をつくるためのものでなくてはならなかった。この点で彼は革命支援の代償として満州を獲得する等の利権を得ようとした黒龍会2)等の大陸浪人の主流と袂を分たねばならなかった。そしてまたこの点で彼は、中国革命のよき理解者と評されるような一面をも持ち得ることとなった。しかし同時に、彼は決して日本帝国の発展という彼の思想の基本的要求を放棄した訳ではなかった。彼は日本帝国の発展と新興中国の発展とを、日露戦争の肯定の上に構想することで、やがて、「日本ファシズムの源流」と呼ばれる地点に到達することになるのであった。
いわば彼は、革命評論社から黒龍会を経て辛亥革命の内側にはいり得たことで、『国体論』の立場を脱皮すると同時に、既成右翼をもつき抜ける道を見出したといいうるであろう。彼はこの後、自らの立場を積極的に「社会主義」として語ろうとはしなかったし、『国体論』における「社会民主主義」は、『支那革命外史』においては、「国家民族主義」と表現されるに至るのであった。
   1)  黒龍会では、辛亥革命に関する現地からの電信の写しを綴って関係者に配布したようであるが、それには次のような序言が付されている。「支那革命軍ノ武昌ニ蹶起スルヤ、是ヨリ先キ、革命党ノ領袖等、密二内田良平二結托シ、事ヲ拳グルノ日、遙二声援ヲ約スル所アリ。10月17日、領袖者ノー人宋教仁上海ヨリ内田二飛電シ、我当局二向ッテ革命軍ヲ交戦団体卜公認スルノ交渉尽力ヲ依頼シ来ル。内田乃ハチ之ヲ諾シ、同時二従来革命党領袖間二信用アル黒龍会時事月函記者北輝次郎ヲ上海に簡派シ彼地二於ケル一般ノ状勢ヲ視察シ、併セテ革命党ノ為メ二斡旋スル所アラシム。」(西尾陽太郎編「辛亥革命関係資料」福岡ユネスコ協会編『日本近代化と九州』所収、1972年7月刊、平凡社)
なお、西尾氏の紹介されたものは、内田家所蔵の資料であるが、小川平吉文書にも同様の写しが保存されており(小川平吉文書研究会編『小川平吉文書』2、所収、1973年3月、みすず書房)『北一輝著作集』第3巻に収録されているのは、出所は明かにされていないが、ほぼ小川文書と同一の内容のものである。しかし、西尾氏紹介の内田文書には、他の文書にはみられない電信もふくまれているので、ここでは西尾氏編の資料集より引用させて頂くことにした。
2) 内田ら黒龍会主流と北の違いについては次節参照。  
7 辛亥革命への参加

 

北の中国からの第一信は1911年(明治44)10月31日付上海発内田良平宛電報であり、 彼はおそらく10月30日に上海に到着したものと思われる。そしてすぐさま革命派の上海占領工作に参画し、ついで11月8日宗教仁の先行している武昌に向った彼は、12日武昌で宋と会談しすぐ彼等と共に出発、南京を経て、18日には上海に帰っている。彼はこの間、内田良平、清藤幸七郎、葛生修亮等にあてて多くの電信を発しているが、その内容は単なる状況報告や連絡のみではなく、中国革命の根本的性格とそれに対する日本の態度についての意見を主張することに多くの紙面を割いていることが特徴的であった。
彼はまず、朝鮮に対すると同じ姿勢で中国革命に対してはならないと警告する。即ち内田にあてて、「万々一、対朝鮮ノ心得ヲ抱キテハ折角ノ大効業ガ手ノ裏ヲ翻へスヤウ可相成候間、ヨクヨク御体得願上候 1)」と注意をうながし、清藤に対してはより具体的に「君ノ従来ノ支那観ハ根本ヨリ一掃シナケレバナラヌ。又内田氏モ亡国ノ朝鮮人ノ大臣共ヲ遇スル時ヨリモ一留学生ノ値ハ不可量ノ覚悟ヲ以テサレムコトヲ望ム2)」と書き送った。この「留学生」とは中国から日本に留学した青年たちを指している。
   1) 11月10日、北発内田良平宛「武昌行途中、船南京ヲ過ギタル時発シタル書翰」前掲『日本近代化と九州』。
   2) 11月5日、北発清藤幸七郎宛「上海占領行動二関スル情報」。
北はこの中国留学生たちが、日本で学んだ国家民族主義をもって、革命運動の指導的部分を形成しているという点に二重の期待をかけていたと言える。即ち第1には、彼等によって、中国にも亡国的腐敗を一掃する明治維新と同質の革命が実現されるであろうとの期待であり、第2には、彼等が新たな治者階級となった新興中国は、日本帝国のよきパートナーたりうるであろうとみる期待であった。そしてこの二重の期待が実現されるか否かに、日本の将来がかかっているようにみえた。勿論そのためにはやがて、彼の論理のなかで、日本と中国との発展を結びつける可能性を求めねばならなくなってゆくが、当面はとりあえず「日本的」思想をもった青年たちが革命の中心であることを認識し、彼等を新しい治者階級たらしめるよう援助するという課題を、日本の政治的指導者たちに理解させなくてはならなかった。彼はこのような方向の媒介者たることを内田良平ら黒龍会幹部に求めたのであった。さきの清藤宛書翰はこれらの点について次のように書いている。
「直裁簡明ニ単刀直入的ナル革命党ノー般的気風ハ実ニ日本教育ヨリ継承シタモノデアル。……前後ヲ通ジテ幾万ノ留学生即チ四億万漢人ノアラユル為政者階級ノ代表的子弟ニ日本ノ国家主義民族主義ヲ吹込ダカラ排満興漢ノ思想ガ出来タノダ……コレホド明カニ思想的系統ノ示サレテ居ル事例ハ余リ類ガアルマイ。日本ハ革命党ノ父デアル。新国家ノ産婆デアル。日本ノ教育勅語ハ数万全漢民ノ代表者ノ上ニ此ノ大黄国ヲ産ムベキ精液トシテ降リ注ガレタモノデアル1)。」
つまり彼は、第一に日本が中国革命運動に与えた影響は、国家の独立を第一義に考えるという思想的なものである点を強調しようとした。従って、中国革命に対する援助とは、中国の独立を達成させるという点を根本としなければならず、そうでなければ、援助は干渉となり中国側が「排日」の態度をとるのは必然であると考えた。言いかえれば、中国革命を援助するとすれば、日本の対中国政策は一変されねばならない筈であった。
「新シキ大黄国ハ日本卜等シク国権卜民族ノ名ノ下ニ行動スベシ。コノ点ハ明ラカニ排日ヲ意味スルト同時ニ根本的ニ精神的ニ親日デアル。…コノ国権卜民族ノ覚醒ガ来タ而モ日本的ニ来ッタ新興国ニ対シ一点デモ其レニ対スル侮リガ見エタラ最後、日本ハ全四百余州カラボイコットサレルノダ。…革命党、即チ数万ノ日本的頭脳ガ治者階級ヲ形ヅクッテ居ル新支那ニ対シテハ、日本ノ対支那策モー変シナケレバナラヌ─而モ其一変タルヤ、支那ノ革命シツゝアルニ併行シテ革命的一変タルベキハ申スマデモナイ。…毛唐共ノ御先棒ハ北清事件ノ馬鹿ヲシタダケデ沢山デアル2)。」
   1) 11月5日、北発清藤幸七郎宛書翰『日本近代化と九州』
   2) 同前
上海上陸後一週間にして、北がこのような手紙を書いていることは、彼が自ら革命派の立場に立とうとし、その立場からみると革命に対する日本の干渉、あるいは革命の機会をねらった日本の侵略が最も恐るべきものとして映じたことを示しているのであろう。事実、革命の当初から日本政府の内部には、在満権益の確保、居留民の保護を名とした出兵論が存在し、やがて、満蒙の勢力範囲分割を中心とするロシアとの交渉が始められる。(1912年7月8日、第三回日露秘密協約調印)また、清朝援助を最初の方針とした外交当局は、立憲君主制─君主制維持の方向で英国との共同干渉を企図している。そして、この企図が英国の支持を得られずに失敗に帰すると、今度はロシアと共に四国借款国に加入し、袁世凱を通じた中国の国際管理の方向に加わっていった。
この間、民間では川島浪速らが宗社党を支援して満蒙独立を企て、革命派援助の大陸浪人と対立した方向に動いているが、満蒙支配の確立をめざしている点では、革命援助派も異るところがなかった。そしてこれらの動きと共に、軍払下げの武器の売り込みが南北両派に対して活溌となっていった。
このような日本側の動向は、北が想定した中国革命に対するあるべき日本の姿とは全くかけ離れていると言ってよかった。彼は1911年11月から12年3月、つまり革命派がまだ次の局面の主導権を握る可能性を持つと考えられていた時期には、このような中国革命に対する姿勢を修正するための活動を内田良平らに期待して、次のような問題を提起していた。即ち(1)無用の浪人の取締1)(2)孫文が革命運動の中心ではないことについての認識2)、(3)清朝側への武器売込みの禁止3)、(4)中国の共和制支持4)、(5)日英干渉打破のための元老勢力の利用5)、(6)南方中心の講和を促進する政策6)、(7)革命派代表としての宗教仁の訪日を成功させる必要7)、(8)武器商人8)の不信、(9)日米借款による革命政府9)支援、(10)満州独立宣言(川島らの満蒙独立運動を指す)の取消10)、(11)袁世凱の手で六国借款を成立させることに反対11)等々といった問題について、内田良平の注意をうながし、あるいは奔走を求めているのであった。
   1) 「無用ノ浪人輩、特ニ上海香港ノ間ニハ支那ゴロヤ支那不通ガ多ク……折角ノ国交モ、其等ニヨリテ傷ツケラレ申スコトハ明カ」とし、「真ニ今日ノ急務ハ、先ズ浪人共ヲ取締ルコトニ候」と述べている。 同時に渡航の軍人について、「人格ノ傲慢不遜、又ハ主我的ナルハヨロシカラズ、思想ハ軍隊外ニモ通ジテ、非侵略主義ノ人タルヲ要件ト致度侯」と希望しているが、この要件は浪人についても期待されていたことであろう。11月10日(1911年)北発内田良平宛、『日本近代化と九州』。
   2) しかし、この時期には孫文の勢力を排除することを求めていたわけではなかった。北は、孫文が革命に対して無力であると考えており、後に大総統の地位につこうとは全く予想していなかったにちがいない。1911年11月段階では次のように述べている。「孫逸仙ノ如キハ、内地ニハ全クノ無勢力ノ由、聞キテ驚入候。シカシコレハ、貴下等ノ胸中ニ止メテ一人デモ分裂セシメザルコトガ大事ニ存ジ候。」(11月13日、内田良平宛、同前)、「孫君ノ愚ナル、何ゾ甚シキヤト申度候。……徒ラニ米国ノ遠キニ在リテ無用ノ騒ギヲ為シ……自家ハ康有為ト等シク、時代ノ大濤ヨリ役ゲ出サレツゝアルヲ知ラズ」(11月14日、清藤幸七郎宛、同前)
   3) 北は、三井・大倉・高田などが清朝側に武器売込をしていることは革命派にもわかっていることを指摘し、「僕ガ折角日漢ノ関係ヲ円満二シヤウトシテモ、後カラブチ壊シテヤラレテハ何ニモナラヌ。政府モ方針ガ一定シテル位ナラ、ウント腰ヲ据エテ、干渉デモ圧制デモシテハドーダ」(11月18日、内田良平宛、同前)と憤激している。
   4) 12月18日、内田良平宛、同前。
   5) 12月20日、内田良平にあてて、「杉山氏共ニ、山県桂公ニ説キ外務省ヲ圧迫セシメヨ」と要請している。杉山氏は杉山茂丸。
   6) 1月20日(1912年)、内田良平宛、同前。
   7) 1月25日、内田良平宛、「日本ノ優越権ハ彼ヲ成功セシムルコト、彼ヲ歓迎スルコトニアリ」。なお1月4日、2月6日、3月17日の内田宛電信をも参照。
   8) 2月 6日、内田良平宛、同前。
   9) 2月17日、内田良平宛、同前。
   10) 2月19日、内田良平宛、同前。なお同じ日、宋教仁も内田にあてて、「貴国政府ノ責任者ヨリ満州独立ノ宣言ガ決シテ貴国ノ好ムトコロニアラザル事ヲ弊国ノ与論ニ普及スルガ如キ方法ヲ以テ言明セラレンコトヲ希望ス」と打電しており、この宋の希望の実現をはかることを求めたものであった。
   11) 3月13日、内田良平宛、同前。
北は宋教仁の活動の方向が、北自身の想定した中国革命のあり方に最も適合するものと考え、宋教仁を支援することを彼の活動の中心としていた。しかし情勢の進展は次第に彼の期待を打砕いていった。まず清朝側の全権を握った哀世凱のために、11月26日、革命軍は漢陽で一敗地にまみれる。しかし哀世凱もそこで軍をとどめ、以後革命軍との妥協交渉が断続的に継続されるに至った。この間革命派内部では、新政権樹立への動きが活発となってゆくのであるが、そのなかで北が期待した「黄興大元帥、宋教仁総理大臣1)」の線も崩れていった。一時は黎元洪大元帥、黄興副元帥に動くかにみえた各省代表者会議は、12月25日、孫文が上海に帰着すると、圧倒的支持を以て、孫文を臨時大総統に推戴するという北の予期しない事態があらわれた。1912 年1月1日、孫文を臨時大総統、黎元洪を副総統とする南京臨時政府が成立する。
   1) 北は12月1日付、内田良平宛電報で次のように述べている。「黄興大元帥、宋教仁総理大臣、中央政府発表近シ、漢陽失敗ハ(大局ニ)関係ナシ、三人秘密ニヤル。北」(『日本近代化と九州』)
臨時政府樹立によって、袁と革命軍との講和会議は表面上決裂したが、裏面では、清帝退位、共和制実現を条件とした妥協の方向に動いていた。この間講和実現の大勢をみた北は、新中央政府部内での革命派の主導権確保を日本が支援すべきだと考え、宋教仁の訪日促進(実現せず)などを画策したが、日本側の動きは彼の期待とはますます隔絶して行った。満蒙独立運動や第三次日露協約への動きが明確になるのはこの時期であり、日本政府内部にはさまざまな意見があったとは言え、北京の伊集院公使は、袁世凱に共和制反対の圧力を加えつづけ、列強のなかでも孤立しつつあった。また、他方黒龍会などこれまで革命派支援の立場をとってきた大陸浪人のグループは、いわゆる南北妥協そのものに反対の態度を示していた1)。これに対して北は、「革命党ガ根本ノ勢力タルコトヲ確信シテ、袁ニ六ケ月開花ヲ持タセタリトテ何ノ恐ルゝトコロゾ2)」と反論したが、彼等の態度を変えさせることは出来なかった。
日本の支援のもとに革命派の主導権を確保するという北の構想が実現の手がかりをつかめないうちに、「南北妥協」は進行した。1912年2月12日清帝退位の上諭が発せられると孫文は辞任、3月15日袁世凱は北京で臨時大総統の地位をついだ。そしてその直後、四国借款団(英米独仏)は、6千万ポンドの借款を袁政権に与えることと共に、日露両国の借款団参加に異議のないことを申合せた。日本外交は袁世凱支援に追ずいし、やがて展開される革命派弾圧の資金づくりに手を貸していた。袁の地位はもはや6カ月花をもたされたという程度のものではなくなりつつあった。北の構想は全面的に敗北しつつあったと云ってよい。彼を中国に送った大陸浪人たちからも孤立し、活動資金にも欠乏した北の姿を3月末の一電文は次のように伝える。 「北金策ニ窮シ(大局ヲ)誤ルノ恐レアリ。ナホコゝニ置クノ要アリ。金送レバ余コレヲ始末スベシ、ヘンデンS3)」と。これ以後、彼が内田良平らにどのような電信を送ったか明らかでない。 ただ南北妥協に反対して革命派を見限りつつあった内田と、なお宋教仁を支持しつづけた北との距離が次第に拡がりつつあったと推定できるだけである。彼が依拠した宋教仁は、5月革命派を糾合して国民党を組織、翌1913年(大正2)2月の総選挙に大勝したが、その翌月、3月 22日上海で暗殺されて32才の生涯を閉じた。北自身もまた、4月8日、上海領事を通じて日本政府から中国退去を命ぜられたのであった。
   1) 例えば、内田良平等黒龍会幹部は、南北妥協の報を「意外のことゝし」妥協交渉中止を勧告するために、葛生能久を南京に派遣している。(黒龍会編『東亜先覚志士記伝』中巻。1935年3月、同会出版部刊)また、内田らと革命派支援のために有隣会を組織していた小川平吉は、「吾々は万難を排して戦争を遂行し南北統一の実を挙げなければならないと云ふ考へ」から妥協に反対し、2月9日には宋教仁にあてて「袁世凱が時局を左右するに至る事は我々の絶対に反対する所なり。袁に欺かれず断乎として初心を貫徹するよう、孫、黄ニ君にしかと注意を乞ふ。尚ほ君の来朝を待ちて面談す。早々来れ」と打電している。(小川平吉文書研究会編『小川平吉関係文書』)
   2) 2月19日北発内田良平宛、『日本近代化と九州』。
   3) 3月26日、佐藤(惣治カ)発内田良平宛、同前、なおカッコ内は西尾陽太郎氏の推定及び判読。
退去命令によって余儀なく帰国してから、『支那革命党及革命之支那』(のち『支那革命外史』と改題)の執筆にかかる1915年(大正4)秋までの約2年半ばかりの間、北がどのような生活を送ったかについて語る資料は少ない。しかし「支那ノ完全ナル独立ハ、日本ノ絶対的必要1)」という観点からみれば、情勢は悪化する一方であった。北が帰国した同じ月の月末、4月27日には、 五国借款国(さきの六国借款団よりアメリカが脱退)と袁世凱政府との間に、いわゆる「善後借款」が正式調印される。そしてこれに力を得た袁は、国民党に対する弾圧を強化、追いつめられた形の国民党幹部は、七月第二革命と通称される武力闘争に立ちあがるが、たちまちのうちに敗退していった。そしてそのあとには、辛亥革命の成果をとりつぶしてゆく袁世凱独裁化の過程がつづく。
   1)  1月20日(1921年)北発内田良平宛、『日本近代化と九州』。
袁の独裁化過程は、1915年(大正4)後半には、袁自ら皇帝たろうとする帝制樹立工作にまで発展する。しかし袁政権の基礎は彼が思いあがった程強固ではなかった。前年8月に始った第一次世界大戦は、袁政権支援の国際的強調を破産させていた。日英同盟を利用して参戦した日本は、年内に山東省のドイツ権益を占領、ついで翌15年(大正4)1月には、悪名高い「21 カ条要求」をつきつけて袁政権を動揺させるに至る。日本はついに5月7日最後通告を発し、5月9日袁政権はこれをうけいれて、一応交渉は終ったが、このニつの日付が「国恥記念日」として中国民衆の間に記憶されてゆくことは、それだけ袁政権の基盤が失われてゆくことを意味していた。すでに威信を失墜しつつあった袁世凱の帝制工作には、これまで反革命の線で袁と手を握ってきた諸勢力も離反して、1915年12月第三革命に踏み切り、16年6月、袁が失意のうちに没したあとには、軍闘割拠の状況が残されることになるのであった。
北が『支那革命党及革命之支那』を執筆したのは、15年11月から16年5月にかけてであり、彼は袁世凱の帝制樹立工作が強引に遂行されるかにみえた時点に筆を起し、袁死去の前月に書き終ったことになる。それは辛亥革命から離脱した彼が、「世界大戦」という新しい状況のもとで、中国の将来と関連させながら、日本帝国の使命についての新たな構想を獲得し、それによって、日本の対外政策の「革命」を企てはじめたことを意味していた。そしてその場合にも権力中枢に直接に働きかけようとする辛亥革命時の姿勢がそのまま維持されてはいたが、しかしここではもはや、内田らを媒介とする訳にはゆかなくなっていた。
南北妥協を「対日背信1)」とみた内田は、第ニ革命勃発の1913年(大正2)7月には「宗社党ヲシテ満蒙ニ一区域ノ独立国家ヲ建設スル2)」方向を示唆した意見書を山本首相に送り、「満蒙問題の解決について中国革命党の協力を期待した従来の方式を拠棄し、専ら宗社党及び愛親覚羅氏に心を寄せる満蒙諸藩との協力によって満蒙新帝国を建設するという方式に傾斜3)」していた。そして彼は露骨な満州侵略を主張する「対支連合会」を組織し、その活動に力を注いでいた。
   1)  孫文の「満蒙譲渡の公約」が「来るべき革命後の日支関係に対し多大の光明を与へた」と考えた内田にとって、袁世凱との妥協はこの公約への背信とうけられた。『国士内田良平伝』。
   2) 大正2年7月26日付、山本権兵衛宛意見書『小川平吉関係文書』。
   3) 『国士内田良平伝』。
内田はもはや、中国革命に対する認識を全く放棄していた。彼は「現下ニ於ケル支那南北ノ抗争ハ支那人古今ヲ通ジタル政権慾ノ結果ニ出デ侯行動ニ有之、其双方ニ於テ主張卜云ヒ主義卜云ヒ人道卜云ヒ名分卜云フガ如キモノハ倡優一夕ノ粉粧ニモ値ヒセザル底ノ義卜奉存候1)」と述べており、中国の政治情況を民族的利害などという観点を失った泥沼の如きものとして捉えているのであり、従ってそれに対する日本の政策は、「浮動セル支那共和民国ノ噪妄ヲ威圧ス可キ2)」ものでなければならないとしたのであった。
   1) 前掲山本首相宛意見書『小川平吉関係文書』。
   2) 同前。
これに対して北は、中国革命はいまだ継続中であるとの認識を前提としており、従って、中国革命の性絡と行方を見定めることが日本帝国の使命を把握し、対外政策を立案する基礎とされねばならないと考えた。彼は辛亥革命の渦中から内田らに書き送った意見を出発点として中国革命認識を再整理し、今度は内田らの仲介を排して自ら権力中枢に働きかけるために、『支那革命党及革命之支那』を「執筆の傍より印刷しつつ時の権力執行の地位に在る人々に示した」のであった。彼は1921年(大正10)『支那革命外史』と改題刊行に際して付した序文のなかで、この著作の性格について次のように述べていた。即ち「此の書は支那の革命史を目的としたものでないことは論ない。清末革命の前後に亘る理論的解説と革命支那の今後に対する指導的論議である。同時に支那の革命と並行して日本の対支策及び対世界策の革命的一変を討論力説してある。即ち『革命支那』と『革命的対外策』という2個の論題を1個不可分に論述したものである」と。
北は、中国革命に対する認識を整理・再編しつつ、それとの関連のなかで、日本の「変革」の問題を提起しようというのであった。それは、『国体論』とは全く異った視角であると言える。すでにみたように、『国体論』においては、さまざまな問題を持つとは言え、とにもかくにも、「階級闘争」と「啓蒙運動」とが、つまり国内大衆の団結が社会主義の前提に置かれていたのに対して、ここでは、「革命支那」と「革命的対外策」という外からの要請が、彼の関心の基底をなすに至っているのである。そしてさらに「革命支那」との関連において設定された筈の「革命的対外策」が、その関連を失って独走しはじめるという点に、北の思想の決定的転換の鍵があるように思われるのである。ともあれ、彼は、中国革命の認識を媒介として『国体論』の立場から飛躍してゆくことになるのであった。 
8 中国革命認識の特徴

 

『支那革命外史』の序文によれば、北は本書を2回に分けて執筆したという。すなわち前半の第8章「南京政府崩壊の真相」までは1915年(大正4)11月から12月の間に、第9章以下の後半は翌16年4月から5月の間に書き上げたものとされている。内容から言うと、前半は辛亥革命の勃発からいわゆる南北講和によって袁世凱が臨時大総統に就任するまでの過程を中心として、中国革命の基本的性格を明らかにすることに力点がおかれている。後半の方は、以後第三革命の問題にまで触れられてはいるが、その間の政治情勢の変化を検討することよりも、今後の中国革命の展開の方向を展望し、それに対応する日本の対外策のあり方を議論することの方に力点が置かれるようになっている。
ところで3か月の時間をおいて書かれた前半と後半とでは、非常に異った印象をうけることが、刊行当時から注目されていた。例えば吉野作造は、前半は非常に立派な近来の名論だと思って国家学会雑誌で批評しようと思ったが、後半で意見を異にするのでやめたと述べている 1)し、また北自身もこの著作の反響について「初めの支那革命の説明は、皆喜んで了解して呉れました。後半の日本外交革命と謂ふ点になりましたら皆驚いて態度を変へました2)」と語っている。このように前半と後半とが全く異った評価をうけたのは、前半では中国革命を反帝国主義の民族革命として内在的に理解しようとし、日本の干渉にも反対しているのに対して、後半では叙述が進むに従って軍国主義・武断主義の主張が前面に押し出され、革命中国と日本とが手を握って対外戦争にのり出さねばならないと結論されるに至っているからであろう。北自身も、これらの後半の主張は「皮相的デモクラシーの徒の愕き否んだ所の者であった3)」と述べているが、そこには確かにデモクラシーの徒をおどろかせるに足る論理の異様な展開と飛躍とがみられるのである。
   1)  佐渡新聞、大正6年7月28日。
   2) 2.26事件関係憲兵隊調書。
   3) 改題刊行の際の序文。
この飛躍は、北自身にとってもかなりな精神的エネルギーを必要としたのではなかったであろうか。というのは、彼が法華経読誦に専念し始めるのは、前半の執筆を終えて後半にかかる間のことであり、彼はそこに後半執筆の支えを求めたのではなかったかと思われるからである。北自身の述べているところによれば、彼は前半を書き終えた直後の1916年(大正5)1月、「突然信仰の生活に入り1)」「以来法華経読誦に専念し爾来此事のみを自分の生命として1年1年と修業2)」を重ねたという。そしてそれに対応して後半では「如来の使」「救済の為の折伏」「彌陀の利剣」などといった表現が用いられるようになった。それはいわば「仏の宇宙大に満つる大慈悲は道を妨ぐる一切の者を粉砕せずんば止まらず。──観世音首を回らせば則ち夜叉王」といった観念の支えを得て、中国革命が大流血の局面を経なくては完成しないことを予言し、さらには日本と中国の将来に於ける武断主義・軍国主義を主張しようとするものであったように思われるのである。
ともあれ、北は中国革命を支援することに日本の「正義」を見出し、そこに日本の発展を構想する基礎を求めたのであった。そして一度は中国革命派の立場に身を置こうとしたかにみえた北が、彼のいわゆる「革命的大帝国主義」の方向に飛躍してゆくのも、中国革命の将来を「日本国権の拡張と支那の覚醒の両輪的一致策如何」という観点から模索する過程に於てであった。従ってここではまず、『支那革命外史』前半を中心としながら、北の中国革命認識がどのようなものであり、そこでどのような問題が彼を武断主義・軍国主義へと飛躍させる契機となったかを検討しておかなくてはなるまい。
   1)  2.26事件関係憲兵隊調書。
   2) 2.26事件関係憲兵隊調書。
北はまず、中国革命はたんに満州王朝という異民族支配を打倒するに止まるものではなく、列強帝国主義の抑圧を排除して民族の独立を達成することを基本的な課題としており、この基本的な課題の故に、革命は長期にわたる全社会的な規模での変革の過程にならざるを得ないとみていた。この見方からすれば、満州王朝=清朝を打倒した辛亥革命は、全体の中国革命の序幕にすぎないということになるわけであるが、その序幕からしてすでに反帝国主義という課題によって規定されていたというのであった。即ち彼は当時の中国が直面した対外的危機を「支那の憂は北境よりする日露の武力的分割と、英米独仏が清室と結托してする経済的分割の二あるのみにして他無し」と捉え、また財政の崩壊がそれに対応する国内の危機状況を象徴しているとした。つまり清朝の腐敗と列強の圧迫とは相乗的に財政危機を深化させており、その結果清朝の列強依存=列強の財政支配と領土的分割とが相関的に進行しているというわけである。そしてそれはもはや革命によってしか打破しえないまでに深化しているとみる。「清朝の財政が破産し終はれるが故に民国の革命あり」と北は書いている。
このような清朝の腐敗・弱体化の結果生じた民族的危機に対して、中国民衆は国家の独立を求めて起ちあがった、つまり民族的危機に直面して「国家」の意識にめざめた民衆が革命に立ちあがったと北は理解する。「全国土に拡汎せる民族的情操国家的覚醒」は「愛国的革命」を「渇望」していたというのである。従ってそこでの主題は「亡国」から「興国」ヘという点にあった。「革命とは亡国と興国との過渡に架する冒険なる丸木橋」であり、その点で中国革命と明治維新とは同質であると捉えられた。腐敗した徳川幕府と腐敗した清朝とは売国的であるという点で同じであり、「封建国としての日本の固より亡国なりしことは、清国としての支那の亡国なりしと同様なり」と。
それは言いかえれば、中国革命の本質は興国階級と亡国階級との対決であり、漢民族による満州民族の排除という形では捉えられないということでもあった。清朝が打倒されねばならないのは、それが亡国階級の最上部をなしているからであり、従って清朝打倒ののちには、革命はさらに、清朝につかえていた漢人官僚を一掃する方向に深化・拡大しなければ完結しないというのである。何故なら清朝と共に腐敗し弱体化した漢人官僚は「内治外交たゞ強者の勢力に阿附随従する」にすぎない「事大主義者」になり下っており、従って彼等の存在を許す限り、彼等は外国の後援をたのんで革命に対抗するに違いない、つまり北は清朝と漢人官僚を亡国階級という一つの範疇で捉えねばならないというのである。例えば、北は袁世凱を「奸雄」とする一般の見方に反対して、袁はこのような亡国階級の代表的人物でありイギリスの買弁となった事大主義者にすぎないと断じた。そして事大主義を「通有性」とする亡国階級を一掃しなければ、第2第3の袁世凱が出てくることは必然であり、列強の帝国主義的支配を排除することは出来ないとしたのであった。
ところで、この亡国階級=漢人官僚とは、国内的にみれば、封建的支配者にほかならず、従って民族的危機を打開するために亡国階級の打倒をめざした革命は、必然的に封建国家を打倒して近代国家を創出する方向に発展する性格を持つものと考えられた。そしてその点でもまた、中国革命と明治維新は同質であるとされた。北は亡国階級の中核をなす清朝下の漢人官僚とは、「皇帝に対しては単純なる代官」にすぎなかったけれども、人民に対しては「封建的全権能を有する」「中世的統治者」=「其の制令する地域の人民に対する権能に於ては生殺興奪の絶対的自由を有し、軍事財政司法一切の専権を行使すること全く中世的統治者」に他ならず、日本の大名と同質であるとした。北は次のように述べている。
「人種的感情を除却して考ふる時は『排満』は自らにして満人及び満人の中世的統治権の代官たりし凡ての漢人官僚の排斥を包含すること、恰かも『倒幕』が幕府及び幕府を盟主とせ凡ての諸候武士の倒壊を意味せる如し」と。即ち辛亥革命のスローガン・「排満興漢」に即して言えば、「排満」とは「亡国階級の根本的一掃を求むるもの」、「興漢」とは「真の近代的組織有機的統一の国家を建設」することを意味し、従って「排満は興漢の予備運動」に他ならない、そしてこの旧支配層の全体を打倒する「興漢」革命は、清朝を廃止するよりも困難な全社会的規模の変革の過程とならざるを得ず、従って長期にわたる過渡的な局面があらわれるであろうことが予測された。「1911年以後の支那は此の興国魂の或は顕現し或は潜伏する過渡期として察すべし」、つまり清朝滅亡後の袁世凱の独裁も、軍閥の割拠も革命途上の過渡的な現象にすぎず、革命運動の一時的後退・潜伏期として考察しなければならないと北は言うのである。
この見方は、前節でみたような、辛亥革命後中国は政権争奪の泥沼と化したとする内田良平的な見方に較べて、はるかに深く中国の情勢を見抜いていたと言える。そして北がこのような見方をとることが出来たのは、革命運動の指導者の背後にある民衆の「大勢」こそが、革命の動向を左右する基本的な力であると考えていたからにほかならなかった。「革命とは政府と与論とが統治権を交迭することなり」、「革命は戦争に非ず大勢の決定なり」とする彼は、「民衆に普汎せる愛国的覚醒」が「与論」となり「大勢」となったと考える。そして武昌蜂起に呼応して「諸省の挙兵自立する前後通じて僅々月余の日子を要せざりしなり」という革命運動の急速な展開は、「一石の投下が全局に饗応する如き支那現時の劃一的覚醒」を立証するものとみたのであった。
北はこの観点からさらに、辛亥革命が中国民衆の「自ら成せる革命」であり、外国の援助によって成功したものでないことを強調しようとした。そしてこの論点は当然、自らの革命援助を誇示して何らかの利権を得ようとする日本側の態度、とくに彼の身近かな右翼勢力に対する批判ともならねばならなかった。彼は自らの経験にもとづいて、革命の発端において 「不肖を始めとして、所謂支那浪人なるものの全部が微少なる援助だに無かりし事を証明」し、「渡来囂々たりし日本人が殆んど全部……酒間の声援者」にすぎなかったと断じた。また日本からの武器輸出については、革命軍が南京を占領したのは、「日本商館の暴利を貪りたる廃銃廃砲が未だ横浜の税関をも通過せざりし」時ではなかったかと反論 している。
北は日本が中国の革命運動に与えた影響は、思想的な側面に限定して捉えねばならないと主張した。彼はすでにみたように、辛亥革命の渦中からも革命運動における日本留学生の役割の大きさを強調していたが、ここでもまた、中国の革命派が自らの主体性において日本の国家民族主義を学びとったという理解を基本においていた。つまり「支那革命が日本的思想家の事業にして、革命の根本要求が日本と同様なる国家民族主義」であったということは、彼等が決して無条件の親日家であることを意味するものではない、彼等は「同文同種と言い唇歯輔車と言ふが如き腐臭紛々たる親善論に傾聴すべく彼等は遥かに覚醒したり。亡国階級を凌迫 し慣れたる日本の伝習的軽侮感を以て親善ならんには彼等は余りに愛国者」であり、従って日本が中国を脅威した場合に彼等が排日運動に立ちあがるのは当然ではないかと北は言うのである。そして「日本的愛国魂が漸く支那に曙光を露はして彼等革命党となれるに於ては、日本の或る場合の処置に対して排日運動を煽起するは寧ろ歎美すべき覚醒にあらずや」という立場から、21箇条要求に際しての排日運動の激発をも、中国民衆に於ける国家民族主義の発展として捉え、この点を理解しなくては日中両国の握手はありえないことを次のように強調していたのである。
「是れを排日の−小部分たる彼の日貨排斥につきて見るも数年前の辰丸事件に施せし地方的 其れと、今春の日支交渉に対せし全国挙りての其れと、強烈の差等に較ぶべからざる国家的理解あり。袁の亡国階級の治下に於てすら己に然り。日本的精華に錬治されたる革命党の愛国者が統治すべき今後は予じめ想像に堪ふべきにあらずや」、従ってまた、中国革命に 於て「何等か重大の援助ありしかの如き虚構誣妄を流布するは、革命遂行後の両国々交に恐る べき爆弾を埋むるものにあらずや」と。
では辛亥革命は如何にして成功しえたのか。北はここでもまた明治維新と対比しながら、中国の革命派も維新の討幕派と同じ道を歩んだと説く。即ち辛亥革命においても、討幕派が外国の援助を求めることなしに、藩権力を奪取して討幕のための武力をつくりあげたのと同じ過程がくり返されたというのである。「維新革命に於て薩長の革党が其藩内の幾政争に身命を賭して戦ひしは蝸牛角上の争に非ず゜。其の藩侯の軍隊を把握せずんぱ倒幕の革命に着手する能はざりしを以てなり。攘夷せんとする外国の浪人より囂々たる助力を受けたることなし。支那が革命さるべきならば革命の途は古今一にして二なし」、「外邦の武器を待たず外人の援助を仰がざる革命の鮮血道」を歩む以外にはない。
「則ち叛逆の剣を統治者其人の腰間より盗まんとする軍隊との聯絡これなり。−革命さるべき同一なる原因の存在は革命の過程に於て同一なる道を行く。実に腐敗頽乱して統制すべからざる軍隊は古今東西、革命指導者の以て乗ずべしとする所。彼等は全党の心血を茲に傾注したり。」「彼等は其の軍隊との連絡運動に於て大隊長以上に結托せざることを原則としたリ。革命されべき程に堕落せる国に於ては大隊長以上の栄位に在る者は悉く飽食暖衣の徒に して冒険の気慨なきは固よりなり。特に己に斯る栄位を得たるは軍功学識にあらずして一に請托贈賄の賜なるが故に、其の関係上直ちに反覆密告に出づべきは推想し得べし。彼等は又大隊長以下に連絡するに於ても下級士官に働ける手と、兵士を招ぐ手とを互に相聞知せざらしむる ことを規定したり。斯る複雑煩累なる手数を重ねずしては陰謀の漏洩を保つ能はざるほどに道念の頽廃し国家組織の崩壊せる支那の現状を察せよ。」
北はここから「革命運動が軍隊運動ならざるべからざる活ける教訓」をくみとり、さらに「古今凡ての革命が軍隊運動による歴史的通則を眼前に立証せられたる者」と 一般化しており、この点はのちの青年将校たちに一定の影響を与えたのであった。
このように軍隊運動を中心として、辛亥革命を「自ら成せる革命」と捉えた北は、中国革命が向うべき方向をも、民衆の「大勢」のなかから読みとろうとした。そしてこの「大勢」が 「統一」と「共和」とを要求しているとみた。北はまず、革命の大勢が「数十萬の書生によって支那の全土に同一なる民族的覚醒、同一なる愛国的情操、同一なる革命的理解が普汎せられしこと」によって生れたとするのであり、従ってそこから「統一」ヘの要求が拡がるのは必然であると捉えた。彼は歴史の上からも「支那は歴史ありて以来統一せらる。……治者 と民衆の理想が常に統一に存して其の分立し抗争せる時代は統一的覚醒が未だ拡汎せざる所」であり、統一の要求は中国の歴史を一貫しているとみるのであるが、さらにこの要求 は、帝国主義的分割の危機を打破することを目的とした革命運動においては更に、決定的に民衆にまで浸透したと言う。「四境より響く分割に恐'肺する彼等は、省的感情に従ひて各省分割的立法に禍さるるよりも統一の大勢を鞭撻するの遙かに困難少なきを洞見する者なり」と。そして中国の地方的差異が大きいと言っても、その「省的感情は維新前の独立国的統治によりて養はれたる各藩の其れに比すべからざる稀薄なるもの」にすぎず、逆に「各省の頑強なる団結力が其実却て国家的統一の第一歩」となることが強調されているが、そこにもまた藩的結合を基底としながら中央集権国家をつくり出していった明治維新の討幕派の姿が投影されていたことであろう。
北はさらに、この統一への要求は、軍閥として割拠する亡国階級打破の観点からも一層切実なものとならざるを得ないとする。即ち彼は、革命政府が樹立されたとしても、「中世的代官階級は或は都督となり絹紳となりて諸省に残存すべきが故に、自己等を掃滅せんとする新権力者に対しては極力抗争し、恐くは外国の後援を引きて対立を計ること仏蘭西貴族等の如くなるべし」と予測したのであり、 それ故に「武断政策を取りて中世的代官を一掃し各省の乱雑を統一せざるべからず」と強調したのであった。
このように亡国|階級の打倒と結びついて強まってくる統一の要求は、当然に「共和」に結実することになる。「維新革命に於て攘夷鎖港の文字が倒幕の異名詞なりし如くに、共和政の主張は征服者の主権を転覆せずんば止まざる民族的要求の符号として政体論以上の意義を有したるものなりき」。そして清朝が滅亡したあとの中国には、革命の中軸となしうる伝統的権威は残されていなかったと北はみる。即ち革命派は「国粋的復古主義者も日本的国家民族主義者も、異人種の統治を排除したる後にルヰ16世紀に代ふべきオルレアン公を有せず、徳川 に代ふべき天皇を持たず。為に茲に欧米の一政治的形式を取入れて東洋的消化を経たる共和政体を樹立」せざるをえなかったのだと。そして北は、このような革命の大勢がもつ統 一と共和の要求から、革命後の中国の政治形態は中央集権制と大統領制を二つの柱とするに違いないと考えたのであった。
ところで北が、時の政治指導者たちにこのような中国革命の大勢についての認識を、常に孫文批判とからませつつ提示したのは、日本のとなえる革命援助なるものが「革命の思想的系統 と革命的運動系の大綱」を把握することなく、それと係りない孫文援助に集中してしまっているとみたからであった。彼の言う如く「支那の要求する所は孫君の与へんとする所と 全く別種の者」であるとすれば、孫文を援助することは、 中国革命を妨害することに他ならなくなる。『支那革命外史』前半の叙述は、日本の朝野に「斯る革命に交渉なき別個の思想家を選びて援助したる自己の無知無理解」の反省を求めようとする実践的意図に貫かれていた。
北の孫文に対する批判は、彼が、ナショナリズムを基礎として「自ら成せる革命」として展開されている中国革命を内在的に理解しようとせず、アメリカの独立戦争を範として中国革命を考え、またアメリ力的な政治形態を中国に押しつけようとしているという点であった。北自身の言葉で言えば、「愛国的注意の欠乏、興国的気魄の薄弱」と、「米国的迷想」 とが、孫文と中国革命の本流とを分つ点だと言うことになる。北はまず、孫文がアメリカ独立戦争にならって、常に外国の援助を求めようとするのは、独立戦争と革命の区別を理解せず、 革命に対する援助が常に干渉に転化することを忘れた態度だと批判する。即ち「植民地の経済的政治的興隆によりて旧き本国の支配を要せずして分離せんとする別個の一新国家の創建」の場合には、「旧本国との開戦に於て、本国の敵国たる者に援助せらるることは恥辱にあらずして堂々たる国際間の攻守同盟なり」、 しかし革命はこのような「独立せる地域に拠りて 戦ふ一種の国際戦争」としての独立戦争とは異って、一国内の内乱であリ従って援助 は干渉と同義となると北は言う。「革命とは疑ひなき一国内に於ける内乱にして、正邪孰れが援けらるるにせよ内乱に対して外国の援助とは則ち明白なる干渉なり」と。そして北 はのちにみるように、この点の認識の欠如に孫文が臨時大総統の地位を失うにいたる最大の原 因を求めたのであった。
つぎに国内政治体制の問題については、北は孫文がアメリカ的な連邦制と大統領制を主張し ているとして批判した。北が連邦制に反対したことは、彼が統一を革命の大勢とみ、また列強帝国主義に対抗するための必要から捉えていた以上当然のことであったが、アメリカ的大統領制への反対は、中国の情勢に対する独自の把握と結びついて出されてきた問題にほかならなかった。
北が『支那革命史』前半で孫文を批判しつつ提起した「東洋的共和制」とは、「大総統は米国の責任制と反し自ら政治を為さず内閣をして責を負わしめ単に栄誉の国柱として立つ事と、 米国的連邦に非ずして統一的中央集権制なるべしと云ふ二大原則」の上に立つもので あったが、ここで彼が政治的責任を負はない「栄誉の国柱」としての大総統という範疇を押し出してきたのは、革命の混乱期において革命派の権力を如何にして維持してゆくかという問題 に答えようとしたからであった。彼は「栄誉の国柱」をうち立てることが、「君主制より共和制に激変せんとする支那に於て、仏蘭西の如き反動と革命の反覆を避くべき」唯一の方策とみたのであった。 彼はこの点について次のように書いている。「米国的大総統政治は大総統が責任を負ふものなるを以て、斯く議会と与論に弾劾さるゝに当りては大総統其者の引責辞職に至るべく、即ち国柱の交迭を見ざるべからず。平時ならば或は以て忍ぶべし。漸く覚醒せる各省の心的共通を統一せんとして求めたる心的中心を、今の南北対立の際に突として交迭 し得べくんば始めより孫君を上海の埠頭より逐ふに如かざるに非ずや」と。
北がこのような大総統の政治的無責任制を提起したのは、民族的危機を感じて革命へと昂揚 した民衆の「大勢」がその激しさの反面に、群衆心理としてゆれ動く浮動性を持つとみてとっ たからであり、またこの群衆心理の統御こそが、革命政権の当面する課題とみたからにほかならなかった。彼はまず、「革命の渦中は一切の事理性の判断を許さず」として「大勢 と名くる群衆心理」に注意をうながす。そして「一国の過渡期に於て賤民階級が常に新理想と没交渉なる歴史的通則を忘却」すべからずと一般化して述べている。しかし彼は、アメリカ的大統領制を採用し難い理由として、中国民衆を規制している伝統的な「国民精神」のなかに、アメリカ的な「自由」が欠除していることをあげているのであり、中国民衆 の伝統的な在り方が、革命に際しての群衆心理的動揺を一層大きなものにする要因になってい ると考えていたと思われる。
北は民衆の大勢を性格づけている伝統的在り方を「国民精神」と名づけ、アメリカと対比しながら中国の場合を次のように特徴づけている。即ちアメリカの場合には「自由は彼の歴史を 一貫せる国民精神なり。支那は之に反して全く自由と正反対なる服従の道徳即ち親に服し君に従ふ忠孝を以て家を斎ヘ国を治め来れる者、被治的道念のみ著しく発達せる歴史の下に生活す る国民なり」と対比する。そしてこのアメリカ的な自由とは具体的には「反対の自由、 監督の自由、批評攻撃の自由、交迭して自ら代はるべき自由、則ち反対党の存立し得べき凡ての自由」として理解された。北は中国の歴史のなかにも、眼前に展開されている中国革命の進展のなかにも、 このような「自由」の存在を見出すことはできないとした。「支那の建国にも歴史にも在野党の自由を擁護すべき国民精神の自由を発見し得べからず。……実に自由の建国精神あるが故に独立後嘗て自由を犯すものなかりし米国の事実と、服従の歴史的約束あるを以て革命後忽ち袁の専制を見るに至れる支那の事実とを見よ。」
彼は中国革命がこのような「国民精神」の根本的性格の変化の結果起ったものではなく、清朝を倒した後でも、まだそこに顕著な変化は始っていないと見たのであった。「革命の勃発は……愛国運動によりて火蓋を切りし者なり。民主共和にあらず、又自由平等にあらず」、 「支那の革命は民主共和の空論より起りたるものにあらずして、割亡を救はんとする国民的自衛の本能的発奮なり」といった言葉からは、中国革命が個人の立場を基礎とする自由・平等・民主などの要求からではなく、国家の自立と栄光への渇望から起こったとみる北の認識と、それ故にこそ同感と支援を惜しまなかった北の心情とを読みとることが出来る。つまり北は中国革命における「大勢」を個人の自立性の弱さと国家への渇望の強さという両面で捉えていたと言えよう。そしてその自立性の弱さの故に、この「大勢」は振幅の大きな群集心理的浮動性を持たざるを得ず、従って革命指導者にとって群集心理を如何に統御しうるかが、革命の成否を決する程の重大な課題とされたのであった。北が「栄誉の国柱」、「心的中心」と呼んだものは、言いかえれば「群集心理を統制すべき中枢」としての「新精神の体現者」ということにほかならなかった。
北は辛亥革命が袁世凱の独裁の下に敗退していく過程を、「新精神の体現者」をうち立てることが出来ず、群集心理の統御に失敗した過程として捉えた。北の意見によれば、革命派の最初の失敗は、武昌蜂起が成功したにも拘らず、革命派の政権を組織することなく、亡国階級の一司令官であり、革命軍の俘虜にすぎない黎元洪を表面に押し立てたことであった。「一個の俘虜を都督として全国の耳目を欺ける第一歩の発足点の不幸は、呪いの如く革命運動の展開に附き纏ひたりき」。つまり革命の最初において革命派の権威を打ち立てなかった失敗は、中心的指導者であった黄興の漢陽での敗戦という事情も加わって、群集心理の統制をいちじるしく困難にしたというのである。
北は革命派の第二の失敗は、南京政府臨時大総統として現実の革命と没交渉な孫文を擁立したことにあるとしたが、この間の事態は、群集心理という形で浮動する「大勢」をあるべき方向に導き得なかった指導者たちが、逆に「大勢」のなかにのみ込まれてしまったことを示しているとみた。即ち南京政府設立過程に於いて、宋教仁らは黎元洪を大元帥、黄興を副元帥とする新政府樹立を企てたが、「革命の洶濤に渦き流るゝ群集心理」は、彼らを「俘虜と敗将」とみてこの人事に不満を示し、その上に立つ「英雄」を求めた。そしてその時ようやく、中国同盟会総理孫文がアメリカから欧州を経て日本浪人団の熱狂的声援をうけながら帰国する、「群集心理は倖ひにも嘗て己等の指導者たり党首たりしものを担荷すべき偶像として得たり」というのである。
北は孫文が擁立された根拠を彼が中国同盟会総理の地位にあったことと共に、共和政の首唱者とみられていたことのなかに求めた。「兎に角孫逸仙君は共和制の犯すべからざる首唱者にして同時に権化なりき」、「彼の中華民国史に於ける百代不磨の功績として看過すべからざる事は、彼が此の新建国の始めに於いて支那の将来は必ず共和制ならざるべからずといふ大憲章の精神を宣布したることなりとす」。しかしそれらの根拠もまた、中国革命と孫文との距離を縮めるものではなく、革命政府と孫文との結合は不合理であったと北は断ずる。「二者の接合の不合理なるは俘虜を大元帥となし敗将を副元帥となせるよりも優りて、殆ど悪魔の胴に天使の首を載せたる如し」と。そしてこの不合理は、孫文が外国の干渉への警戒心を持たず、外国の援助を求めたことによってたちまちのうちに暴露されたというのである。具体的には孫文は三井との間に漢治萍借款を進めたことによって彼を偶像としてかつぎあげた筈の群集心理から見離され、南京政府崩壊の原因になったとして、北はこの間の経緯を次のように解説している。
「外国に生まれて国家的執着心を有せず且つ現下の革命運動に局外者たること等しく外国人の如き孫君は該借款を以て目的の為の手段と考へたるべし。而も是れ目的の為の手段に非ずして臨時政府の政費に過ぎざる一手段の為に革命勃発の大目的とせるところを蹂躙する者に非ずや。粤川鉄道借款に反対して四川より起これる革命は、南京に拠れる革命党の首領が漢治萍借款を企つるを寛恕する能はず。満州に於て日露の武力的侵入を扞禦せんとしてさらに英米独仏の経済的侵略を誘引したる者は亡国階級の事なり。中原に於て四国が鉄道を奪取する事を坐視せざりし革命的新興階級は、他の一国が鉄山を占領することを拒斥せずして止む能はず。」「革命連動が彼に何の恩恵を蒙らざりしのみならず革命の理想に対して彼の理想は却て明白なる反逆者なりき」、「彼等は革命の始めに於て四国に向けたる鋒先を今日本に転ぜざるを得ざる恐怖に戦慄すると共に、彼等の泰戴せる偶像を仰ぎ視て実に売国奴の相貌を 持てることに驚愕したり」、そして孫文は「只自己に逆行して波立ち始めたる群衆心理を呆然として眺め」ねばならなかった、と。
つまり北に言わせれば、哀世凱をして「南北統一の役者たらしめしことは孫逸仙君の弁解すべからざる責任なり」ということになる。彼は、孫文が日本の干渉を引き入れるので はないかという恐怖が、中国内部の統一を確保することを緊急の課題として意識させ、大勢は袁世凱による統一をも耐え忍ぶ方向に動かざるをえなかったとする。そしてさらには「被治的道念のみ著るしく発達」した中国民衆は袁世凱の専制をもうけいれてしまったとみるのである。
『文那革命外史』前半は、中国革命に対して「日本人が感謝さるべき何の援助を与へざりしみならず、日本政府は革命の遂行を中途に阻止したる妨害者にあらざりしか」という 痛'限の念によって貫かれている。そしてそこでの北は、日本帝国主義に対する痛烈なる批判者 として立ちあらわれているかにみえる。しかし彼が批判者たりえたのは、革命中国と日本の発 展を「正義」の名に於て結合させようとする欲求によるものであり、日本帝国の拡大を断念したからではなかった。彼が自らに課したのは「日本国権の拡張と支那の覚醒との両輪的一致策如何」という問いに答えることであり、 中国革命をたすけるために、日本国権の拡張を思いとどまるということではなかった。しかしこれまでみてきたような形で中国革命を把握するとすれば、その革命の発展に一致する日本の政策は、中国より奪った利権を返還し、不干渉不侵略・反帝国主義の立場をとるという以外になくなる筈である。だが日露戦争を全面的に 肯定した北は、それによって得た在満権益を放棄しようなどとは考えてもいなかった。とすれば両輪的一致策は如何にして可能となるのか、北はこの難問に挑む前に一たん筆を休めた。
彼は『支那革命外史』執筆中断の事情について、いわゆる第三革命の勃発によって、「革命党の諸友悉く動き、故譚人鳳の上京して時の大隅内閣との交渉を試むる等のことあり、為めに筆を中止した」と述べている。勿論そのような外的な事情の介在を否定するつもり はない。しかし同時に中国革命の将来と日本の発展を一致させるために、基礎的な問題の捉え 直しがこの間に行われたことも否定し難いことのように思われる。何故なら、3カ月の中断に書かれた後半においては、群衆心理についての議論も、大総統無責任制の提昌も姿を消し、「東洋的共和政」は全く新しい相貌の下に再登場してくるのであるから。 
9 「東洋的共和政」論の再構成と国体論批判の後退

 

「支那自らが自立独行すべき一国家」として存立することが「日本の利益」でもあると主張する北の立場からすれば、日本のあるべき対中国政策は、中国革命に干渉せず、中国革命を阻害するような列強の政策を阻止することを基礎として構想されねばならなかった筈である。従ってそこから日中の「両輪的一致策」を求めるとすれば、列強に日中共同して対決する という局面を想定することが必要であった。そしてさらにこの共同の対決のなかから「日本国権の拡張」を引き出そうとすれば、それに見合った形での革命中国の積極的な対外政策を予定 しなければならなくなる。『支那革命外史』執筆中断の際に北がつきあたっていた問題はおそ らくこの点にかかわるものであったと思われる。
つまり民衆の「大勢」のもつ群衆心理的浮動'性を重視し、それを統御するために「栄誉の国柱」 を立てねばならないといった捉え方では、中国革命のなかに対外行動に立ちあがる強力なエネ ルギーを見出すことは困難にならざるをえない。しかも当時の中国の政治情勢は、袁世凱の帝 制計画は失敗に終ったとは言え、いわゆる第三革命とは旧官僚勢力の内部分裂を示すものにす ぎず、革命運動は完全に停滞してしまっていた。従って対外行動に立ちあがる力は、何よりも まず、革命の停滞を打破しうる力でなくてはならなかった。法華経読誦に専念し始めた北は、 そこにこのような中国革命の原動力についての新たなイメージを得る助けを求めたことであろう。そして執筆を再開した彼は、政治責任を負わない大総統について論ずろ代りに、やがて現われるであろう武断的英豪について語り始める。「革命とは地震によりて地下の金鉱を地上に 揺り出すものなり。支那の地下層に統一的英豪の潜むことは、天と国民の渇望とが証明すべし。 之を人目に触れしむることは地震の後なり」。そしてその英豪に「大殺戮を敢行し得る器」たることを求め、またそれによって「東洋的共和政」論を再編成したのであった。その基礎となっているのは、言うまでもなく中国革命の原動力についての新たな構想にほかならなかった。
中国革命のエネルギーをつかみ直そうとする北の作業は、まず「自由」の問題を再検討する ことから始められた。すでにみたように、彼が中国民衆は自由の意識にめざめていないと指摘 したのは、アメリカとの対比に於いてであり、従ってそこでの「自由」とは、アメリカ的な、 社会秩序の核となる「自由」にほかならなかった。このような秩序形成力をもった自由が中国 民衆の間に欠如しているとの認識は、北は一貫して持ちつづけている。しかし同時に、「社会的解体の意味における自由」という新たな観点を提起し、この意味における自由な らば、中国社会にも存在していると主張し始めるのであった。つまり革命がおこるということは、社会が解体して革命を起す自由が得られたということではないかというわけである。北はこの点について次のように書いている。
「固より革命に当りては旧き統一的権力を批判し否定し打破し得る『思考の自由』と、其の自由思考を実行し得る程度にまで旧専制力の弛頽し了はれる『実行の自由』を要す。是れ社会 的解体の意味に於ける自由なり。従って革命とは自由を得んが為めに来るものに非ずして、自由を与へられたるが故に起るものなりとも考へ得べし」と。勿論それを「自由」の 名で呼んだとしても、 近代的秩序を形成するための「自由」とは異ることは北も認める。「即ち同一なる自由にして未だ新たなる統一的権力を得ざる時期の−例えば腐朽せる旧専制政治の弛緩せる結果として生ずる、脱税し得る自由、法網を免れ得る自由、罪悪を犯して罪する力を見ざる自由、 兵変暴動を起して征討されざる自由、 帝力我に於て何かあらんの自由は、是れ革命前の政治的解体と称すべきものにして近代的意義の自由に非ず」、それはむしろ「野蛮人及び動物の生れながらに有する本能的自由」とも言うべきものであろう、しかし、人間が「物格」として支配されていた中世を脱するためには、一度こうした「本能的自由」の階段を経ることが必要なのだと北は主張するのである。
「先ず天賦人権説によりて人類としての動物的本能より覚醒せざるべからず。耕作用に馴育 したる家畜の鎖を断ちて、曠野に放たれたる猛獣としての人類に覚醒されざるべからず。而し て中世的権力の鎖は腐朽して自ら断たれたり。家畜は檻を出でて猛獣の天賦を現はしたり。… …則ち近代史が自由なき中世史より脱却せんが為めに人類をj寧猛なる破壊に駆る期間を名けて 革命と云ふ」。つまり北は家畜の段階を脱するためにはまず人間としての本能を自由 に発揮しみることが必要だとして、近代をつくり出す力をそのような本能的エネルギーに求めたのであった。そしてそのエネルギーは中世的な権力や秩序を破壊するだけではなく、近代的 な権利主体としての個人をつくり出す力にもなるというのであった。「支那は明らかに人類的生活の権利に覚醒したり。四億萬民が各自権利の主体にして君主と其 の代官とのために存する物格にあらずとの覚醒は、実に中世的君主政治を排除して近代的共和政を樹立し得べき根基にあらずして何ぞ。各入悉く権利主体たる覚醒は切取強盗の中世的権利思想に対抗して、労力の果実に対する所有権の神聖を主張せしむ」と。
しかし猛獣としての破壊と反抗が個人の覚醒と権利の基礎となりうるとしても、その新しい基礎の上に立つ新しい秩序は、社会的解体状況のなかから自生的に形成されるものではないと北は考えた。いわば猛獣には猛獣使いが必要だというわけである。そして彼はこの猛獣使いと しての「専制」権力の問題を提起してくるのであった。彼はまず原理的に言って革命は専制的権力を必要とすると主張した。「凡て革命とは旧き統一即ち威圧の力を失へる専制力が弛緩 して、新たなる統一を求むる意味に於て強大なる権力を有する専制政治を待望する者なり」と。つまり「社会的解体の意味における自由」とは、いわばアナーキーな破壊力と して作用するだけで、新たな建設力とはなりえないとみる北は、この「一切の統制なき本能的自由」を専制権力によって「圧伏」しなければ、破壊の過程がつづくだけで新しい秩序を建設することは出来ないではないかというのである。しかし旧秩序の破壊力として荒れ狂った本能的自由をただ単に圧伏してしまったのでは、革命はそのエネルギーを失って失速・ 墜落するほかはない。そこで革命に必要とされる専制権力は、本能的自由のアナーキーな暴走を抑えると同時に、それを国民の「心的傾向」の改造の方向に導かねばならないと いうことになる。そしてアメリ力がこのような専制権力を必要としなかったのは、アメリカの 独立が本能的自由によって中世を打倒する革命ではなく、「掠奪より免れんとする人類の本能 に従って」「中世的掠奪者を本国に放棄したる近代的人類」による新社会の建設 という例外的な事例にほかならなかったからだとされるのであった。
北がこのような本能的自由という新たな観点をもち出してきたのは、革命の中心に国民の 心的傾向の改造=「国民信念の革命」という問題を位置づけるためであったと言ってよ い。彼は「革命の根本義が伝習的文明の一変、国民の心的改造に存する事」を主 張し始める。つまり社会的解体の結果として露出する本能的自由は、たんに秩序や制度を破壊するだけでなく、その基底にあって民衆を捉えてきた信念や教義をも破壊する点で革命の根底的な力となりうるのであり、同時にまた、専制権力による国民の改造を可能にする条件をつく り出すものでもあるというのであった。「革命とは数百年の自己を放棄せんとする努力なり。 制度に対する自己破壊は即ち国民信念に対する自己否定なり」とする北は、この旧来の信念を自己否定した国民を新たな信念の形成に導いてゆくことが専制権力の任務であり、 それがまた革命の中核となる過程にほかならないとみるのであった。そしてそこから更に、自己否定によって本能的自由のレベルにまで解体された国民は、革命の必要に応じた形で改造す ることが出来るという論理を引き出すに至っているのである。
北の中国革命論は、この論理を踏切板として明らかな逆転をとげる。そしてそれまで中国民衆の「大勢」を基礎として、辛亥革命以来の中国革命の過程を捉えようとしてきた筈の北は、 今度は内に対する武断主義と外に対する軍国主義とを革命の必要として中国革命の未来に押しつけはじめる。内に対する武断主義は、本能的自由をかきたてながら、旧社会を破壊し、革命権力を創出し、国民信念を革命する過程を見通すために、また外に対する軍国主義は、この武断主義を基礎とすると同時に、日本の国権拡張を前提とした「日支同盟」論を引き出してくるために不可欠の観点であった。そしてそのことは北が、中国革命が軍国主義的な国民を作りうるという論理を持ち出すことによってはじめて、それが如何に幻想的であったにもせよ、とにかく日中の両輪的一致策にについて語りうる地点に達したことを意味しているものでもあった。
北はまず中国革命における国民改造の方向を、国民を服従的かつ文弱にしていた儒教文化を排除して、「国家のための国民」をつくり 出すという形で提示した。「支那の文弱による亡運は孔教に在り」とみる北は、孔教の教義もそれにもとずく「文士制度」も共に革命の敵として打倒しなければならないと断じた。即ち「君臣の義を人倫の大本となし政道の根軸とする教義は、其の枝葉と雖も共和国に公許すべからざる異端邪説となれり。平和なる無抵抗主義の信条は、支那の山河が天下の凡てなりと考へし時代にすら多くの価値なき者なり。武断政策によりて各省を統一し、軍国主義を掲げて外敵を撃攘すべき救世済民の英雄を弾劾する結果を導くに至っては寸言の存在をも許す能はず」。そしてまた、このような教義にもとづく文士制度は「治国平天下の論策を職業となし、行政的能力なき者が官を売買するに至りて」中国の衰弱を決定づけたというのである。そして今や革命の進行と共に、この孔教は急速に国民から棄てられつつある、「第一革命に於いて共和制を樹立したること其事が孔教の否認なり、官僚討伐其事が文士階級の一掃なることに於いて亦孔教の終焉なり」、しかしその害毒が一掃されたわけではないと北は言う。『支那革命外史』前半における「群集心理」の問題は、ここでは儒教文化の残存の問題におきかえられてしまっている。
北は、群集心理にかつぎあげられた孫文、というさきのくだりを今度は次のように書き改めてゆく。「孔教に発せる文士制度の害毒は中世的文士の亡ぶると共に今や却て革命的階級の或る部分と国民との心的傾向に宿りて―見よ一たび言論文章の徒に大総統と参議院を委ねたり。是れ答案を英文又は日本文に求めたる形式の変更に過ぎずして依然たる科挙法の精神を継承する者。空虚なる言論を崇敬する文弱なる心的傾向なくんば、誤謬の知識を伝ふるに過ぎざる英語の達人を大総統に迎ふるの理あらんや」。
彼はもはや、群集心理の問題にかかわり合う必要はなかった。群集心理は孔教の害毒を洗い流し国民信念の革命をすすめることによっておのずと姿を消してゆく筈であった。従って革命の停滞を破るべき亡国階級との闘争は、本能的自由をかき立てるような暴力的な形で構想されねばならなかった。彼は内に対する武断主義を奏の始皇帝のイメージを援用しながら語り始める。即ち「教理其者に対する革命家は支那に於いては太古唯一人の奏始皇帝ありしのみ。『書を焚き儒を坑に』せしと伝へらるゝ者、後の反動は是を別個の説明に求めざるべからずと雖も、要するに孔孟の文士教を以てしては禹域の統一断じて望むべからざるを洞見せしが故なり」、「而して凡て国家の統一と国民の自由の為めに将に屠殺さるべき中世的代官等は実に孔孟の文士教を信仰する文士制度の遺類なり。―窩濶台汗と上院の諸汗とは書を焚き儒を坑にすべき大使命の下に立てる者ならざるべからず」。「窩濶台汗と上院の諸汗」とはあとでみるように、中世蒙古史のイメージで、革命中国の専制権力を言い表したものであるが、北はこの権力に「焚書坑儒」の武断主義を求めたのであった。「自由の楽土は専制の流血を以て洗はずんば清浄なる能はず」、「革命は速やかにギロチンを準備せざるべからず」と。
そしてさらに北は、亡国階級の財産を掠奪し没収し、彼等を亡命を許さない敏速さで打倒せよと叫ぶ。一切を力関係に還元しながら北は言う。「租税とは掠奪が法律の美服を着たる者なり。国家の存立のために必要なる物質的資料を徴集せんとして強要する掠奪力の最も強大なる最も組織的なるものが則ち法律なり。国家が平和に存する時租税となり、軍事行動をとる時徴発となり、物資徴収組織を根本的に一変せんとする革命の時に於いて掠奪となる」。「勇敢なる掠奪、大胆なる徴発、一歩の仮借なき没収、斯の如くにして一切の政治的腐敗財政的紊乱を醗酵する罪悪の巣窟は顛覆せられ、茲に始めて新政治組織新財政制度を建設すべき基礎を得べし」と。そしてこの過程で亡国階級の亡命を許すならば、彼らは外国の干渉をひき込むてさきになるであろうと警告したのであった。
亡国階級打倒の過程がこのような形で進行するとすれば、それは「国民の軍事的精神其者を一変すべき信念と制度に対する根本的革命」となる筈であった。そしてそこから、列強と武力で対決する軍国主義も生れてくると北は言うのである。「即ち不肖は革命の支那が一大陸軍国たるべき可能的目的に向って躍進すべしと推断せんと欲す」、「革命の支那が孔教の文士制度と共に其文弱文明を否定して蒙古共和国の軍国主義に急転し得べき事は、実に革命なるが故の真理なり」、「一大陸軍国たる支那の将軍は革命的青年と4憶萬民の泥土中より出ずべし」と。しかも彼は、革命の過程における対外的緊張そのものがこのような外に対する軍国主義を形成する契機となるであろうと予測するのであった。
「革命の支那が武断政策によりて国内を統一し軍国主義に立ちて外邦に当るべしとの以上の推定は、即ち支那と英露との衝突避くべからざるを断決せしむるものなりとす」。北は英・露両国を中国に対する最大の侵略者とみ、中国革命はこの両者との軍事的対決を避けることは出来ないと断じた。「英国にシンガポールと香港とに拠れる経営を放棄せんことを望むは、尚露西亜に西比利亜鉄道の割譲を求むる如き不可能事にして、―即ち国家の存亡を賭して争はざれば能はざる事」であり、「支那の革命」は「革命と同時に対外戦争を敢行せざるべからざる……運命を負へるものなり」と北は言うのである。
北はまず、中国の財政的独立を奪い、自己の利権保持のために亡国階級を支援しているイギリスは、革命が許すことの出来ない侵略者であるとする。「支那が財政的独立を得ることは、直に埃及の如く其れを侵しつつある英国の駆逐を意味す。己に海関税を奪ひ将に塩税を奪はんとする彼は、支那の財政革命と同時に若くは前提として先ず第一に革命政府の許容する能はざる侵略者なり。挨及が英国の主権の下に於て財政の独立を得べしと言ふ愚論無し。支那の革命政府は中世的代官階級の維持に腐心し其維持によりてのみ自己の利権を保持せんとする英国の駆逐を先決問題の一とせざるべからず」、とすれば、中国革命は亡国階級に対するのと同じく、掠奪・没収・徴発の方法を以てイギリスともたたかわねばならないと北は言う。 「英国資本の利払ひを拒絶すべし。主権は絶対なりの原則に従ひて必要の場合彼れの資本其者を収得すべし」と。
このようなイギリスの経済的侵略に対して、ロシアは蒙古の侵略にみられるように領土的侵略を中心にしていると北は言う。そしてこのロシアの侵略を許すことは、たんに蒙古を失うだ けではなく、列強の中国分割を呼びおこすことになるのだと北は言う。「蒙古其者は支那の大を以てすれば数ふるに足らざる如し。而も蒙古に露西亜の北的侵略を導くことは直ちに西蔵に英国の南的経営を迎へ、仏の雲南貴州を求むるあれば英は更に揚子江流域を呑まんとし、露独亦協定して山西陜西の森と山東の海より呼応し、対岸の島国は狼狽して亦ツーロンに上陸すべ し。蒙古一角の喪失は則ち全支那の割亡を結果す。即ち蒙古西蔵は浅薄なる支那学者等の考ふる如き中世史の外藩にあらずして,英露の経略に対抗して支那の存立を決する有機的一部なり」。北は中国革命の求める「統一」とは、漢民族によるいわゆる中国本部だけの統一を意味するものではなく、「支那の国民的理解は共和旗の下に五族を統一する大共和主義」を意味するものと理解する。従って、周辺からの中国分割を認めるということは、 日本を例とすれば、北海道をロシアに九州をイギリスに米仏などに夫々その欲する所を与えて本州だけの明治維新で満足するのと同じではないかと反論しているのである。
しかし、革命中国が英露二正面作戦を遂行することは如何にして可能なのか。ここで北は中国にとっての敵・英露は、日本にとっても敵であるとし、両国が「日支同盟」を以て共同の敵 に立ち向うという局面を想定する。「窩濶台汗の共和軍が英人を駆遂し蒙古討伐を名として対露一戦を断行する時、日本は北の方浦港より黒龍沿海の諸州に進出し、南の方香港を掠し、シ ンガポールを奪ひ……」と彼のイメージは拡がる。そしてそのなかの主要な局面を 日英・中露の対決として構成する。つまり、英露対日中の対決を「日英戦争」と「露支戦争」の組合せを柱として考えようというのである。一方で「実に支那の英国を駆逐すべきことは、唯日本と英国との覇権争奪に於て日本を覚醒せしめ後援すれば足れり」、「日英開戦の大策は、今や将に支那革命の展開に伴へる必然の運命となれり」、とみる北は、他方では、「支那の分割か保全かを端的に決定する者一に唯窩濶台汗と其諸汗とが露西亜を撃破 し得るや否やに存す」と言う。つまり彼は日英戦争が日本の発展の必然の道であるのと同様に、「対露一戦」は、中国革命の成否を分つ分岐点になるというのであった。北は「対露一戦」をたんに列強の侵略を打破するために必要な方策としてだけでなく、同時にまた革命を徹底させ、文弱な中国を一大陸軍国に転換させる跳躍台としても想定しているのであった。
「支那は対露一戦を以て山積せる革命的諸案を一挙に解決し得べし」とする北は、国家存亡の危機→挙国一致→民衆の対外戦への蹶起→全社会的変革の実現という図式を画いているのであった。「腐敗堕落して国内の革命的暴動をすら鎮圧する能はざりし都督将軍等の代官階級は逃亡して『泥土の将軍』と『地下層の金鉱』とがゴビ砂漠の陣頭に立つべし。……代 官に購買せられたる『最悪なる人民』の中世的軍隊は四散して、『国家の為めの国民』に覚醍せる至純なる農民の組織せる愛国軍を見るべし」、「不肖は固く信ず、対露一戦の軍費は代官階級の富を没収徴発することによりて得べく、政治的財政的革命亦対露一戦に依りてのみ始めて望むべしと」。従ってまた革命中国の政治権力も、この過程のなかではじめて確立されるということになってくる。北は言う。「徹底的革命後の大総統は断じて露支戦争の凱旋将軍ならざるべからず。兵は4億萬の組織さるべき国民軍あり。資は亡さるべき代官階級の富数十憶萬の山積せるあり。 而して各省乱離の統一、財政基礎の革命、 一大陸軍国の根柱、自らにして成る」と。
このような北の中国革命論は、いわば二つの想定を組合せ、逆転させてゆくという形でつく りあげられていると言える。彼はまず第1には、本能的自由による破壊の局面と、専制的革命権力がそのエネルギーを「国民信念の革命」に誘導する局面とを想定する。そしてそこから軍国主義的国民の形成の可能性を示唆する。しかしこれは革命の基礎過程についての観念的想定 に他ならず、そのなかから中国革命の停滞を打破してゆく現実的契機を引き出すことは出来ない。そこで彼は次に現実の問題として、中国革命と帝国主義列強との対立が激化するという局面を想定する。それは確かに現実の中国情勢に根拠を有するものではあるが、しかし現実の中国情勢をこの列強との対立、とくに英露の中国侵略の問題に局限している点でまた観念的であることを免れがたくなっている。つまりそこではその他の問題は捨象され、例えば国内の革命過程はさきの観念的想定におきかえられてしまう。そして北の中国革命論はこの二つの想定を 次のように組合せることによって構成される。
北はまず第1の想定で示した軍国主義中国の可能性を第2の想定に適用し、中国も英露との対立を戦争という方法で解決することが出来ると主張する。そしてそこから反転して、戦争こそが革命の基礎過程を引き出す現実的契機にほかならないとするのに至るのである。いわば、中国革命の根底に戦争を位置づけるわけである。そしてその戦争を「日英戦争」と「露支戦争」 の複合形態で設定することによって、日中関係を根底的に結びつけようというのであった。従 ってまた、革命中国の権力のあり方=「東洋的共和政」も、今度は基本的にはこの「露支戦争」 との対応から性格づけられてゆくことになるのであった。
北は「東洋的共和政」を、『支那革命外史』前半の場合とは異って、ここでは「中世史蒙古の建国に模範」を求めて構想しようとする。彼は中世蒙古がヨーロッパに向って大征服を敢行した事実に革命中国のイメージを重ね合せ、同時にまた、武将達による専制的共和制という独自の政治形態を引き出してくるのであった。「実に成吉,思汗と云ひ、窩濶台汗と云 ひ、忽必烈汗と云ひ、君位を世襲継承せし君主に非ずして『クリルタイ』と名くる大会議によ りて選挙されしシーザーなり。而してシーザーの羅馬よりも遙かに自由に遙かに統一して更に遙かに多く征服したり。…革命の支那は自由と統一との覚醒によりて将に最も光輝ありし共和政的中世史の其れを採りて窩濶台汗を求めんとす」、「而も剣を横へて神前に集まれる数百の諸汗が大総統を選出して是れを大汗となす者、古代羅馬に比すべからざる大共和国 にあらずや」。
北は「東洋的共和政」を、窩濶台汗としての終身大総統と軍事的革命指導者の集団としての 「クリルタイ」を中核とし、議会主義を排除する形で構成する。そしてそこでの彼の関心は、 如何にして革命指導者の専制体制を維持し安定させてゆくかという点に向けられており、その点では彼の関心は『支那革命外史』前半から一貫するものであったと言えよう。即ち、終身大総統制の問題についてみても、そこでは「総統一人の責に於てすると将た小数革命家の団集に任を分つと形式は云うの要なし」と述べられているように、大総統個人への権力の集中を求めていのるではなく、安定した政治的権威の確立のための方策が模索されているのであり、それ故に大総統の「終身制」が主張されているのであった。
また議会主義を排除するのも、革命期の議会は必ず反革命の拠点となり、革命権力の安定を 脅すものとなるとの観点からであった。革命が国民の心的改造を目的とするとすれば、その中途に於て国民の意思を問うことは、「投票の覚醒なき国民の法律的無効なる投票」を求めるという自己矛盾におちいるというのであった。北は「革命の或る期間に於て反動的勢力が必ず議会と与論とに拠りて復活を死活的に抗争すべしとの事実」を強調しつつ、革命中国の政治体制を次のように画き出していた。「中華民国大総統とは所謂投票神聖論者の期待する如き翻訳的議会より選挙さるゝものにあらず」、「是れ革命後に於ては統一者其人のみが国民の自由を代表し、而して議会又は与論に拠るものゝ多くが反動的意志を表白する者なればなり。固より大総統は革命の元勲等によりて補佐せらるべし。而も彼等は投票の覚醒なき国民の法理的無効なる投票によりて議会に来るものに非ず。旧権力階級を打破せる勲功と力 とによりて自身が自身を選出すべき者、断じて世の所謂人民の選挙に非ず゜。即ち適切に云へば、彼等は新国家の新統治階級を組織すべき『上院』の人なり。真に国民の自由意志を代表する 『下院』は、下院を組織すべき国民を陰蔽せる今の中世的階級を一掃屠殺したる後ならざるべからず」、「東洋的共和政は大総統と上院にて足れり」と。 そして北が自ら構想した中国共和政を「東洋的」を名づけたのも、この点に大きくかかわっていたと思われる。 彼は中国に向って「断じて投票萬能のドグマに立脚する非科学的非実行的なる白人共和政の輸入に禍さるゝ勿れ」と警告しているのであった。
北の中国革命論は、以上みてきたように、「露支戦争」ヘの展望を基底におき、「窩濶台汗」 を呼び求める声で終っている。彼は『支那革命外史』を、「不肖は窩濶台汗たるべき英雄を尋ねて鮮血のコーランを授けん」という−節で結んでいる。そして北は、このあるべ き中国革命と結合するために日本の対外政策の「革命的一変」を説くのであるが、その問題は節を改めて検討することとし、ここでは、以上のような「東洋的共和政」論を構想する過程で、 彼の国体論批判に一定の修正が加えられている点に眼をむけておきたい。
すでに述べたように北は『支那革命外史』前半においては、中国革命における共和制の要求を、一方では「征服者の主権を転覆せずんば止まざる民族的要求の符号」として積極的に解すると同時に、他方では「徳川に代ふべき天皇を持たず」と消極的に理由づけていた。これに対して『外史』後半になると、この消極的な側面に議論の中心がおかれるようになり、その反面で日本の天皇制の価値が強く意識されるようになってくるのである。北自身後年この点について次のように述べている。「支那自身の漢民族中に、君主と仰ぐべき者がないために、大統領が度々起きたり倒れたり、又は袁世凱が皇帝となろうとしても1つも国内の建設が出来ないので、万民塗炭の苦しみを続け居るを見、痛切に皇統連綿の日本に生れた有難さを理論や言葉でなく、 腹のどん底に泌み渡る様に感じました1)」。この陳述は官憲に対するものではあるが、しかし『支那革命外史』の叙述のなかからも彼のこのような天皇制に対する意識の変化を読みとることが出来る。辛亥革命敗退の決定的な原因の1つを、革命派が政治的権威を打立てるのに失敗したことにあるとみた北は、革命政権安定の問題は大きな関心を払い 「終身大統領制」を提議するに至るのであるが、この思考の過程で彼は、革命派が革命の渦中で伝統的権威を利用できればそれにこしたことはないと考え始めたように思われるのである。
   1) 二・二六事件関係憲兵隊調書
北は「東洋的共和政」を論ずるにあたって、明治維新で確立した天皇制を「東洋的君主政」 としてその対極におき、フランス革命を君主政と共和政との間を動揺した「変態化の革命」としてその中間に位置づけるという対比を用いた。そしてそこでは、革命は必ずしも伝統的権威を打倒することをめざすものではないという認識が前提とされていた。例えば彼 は、フランス革命についてこの観点から次のように述べている。「見よ。バスチールの破壊さるる時と雖も、軍隊の威嚇に対してミラボーが議会の神聖を叫びし時と雖も、飢民乱入してチュレリー宮殿の階上に鮮血の鎗が閃きし時と雖も、仏蘭西国民は帝王に対する忠順を失はざりき。彼等は古来貴族の横暴に対して抗争すべく常に王権の擁護を得たる歴史的感謝を持てるものなりき。彼等は不幸にしてルヰ16世なる売国奴を与へられしが為めに、当初の方針を持続する能はざりしのみ」と。つまりフランス国民は「革命の統一的中心を王室に仰」いでいたにも拘らず、亡命貴族の先導する列強の反革命軍に皇帝が内応するという事態がおこったため帝制打倒に向はざるを得なくなったのだというのである。
そして彼は、このように統一的権力の中心を「王室」に求めて得られず、更に「『革命政府』に求め『公安委員会』に求め終に『奈翁』に求めて漸く安んずるを得」るというように「左廻右転」したフランス革命を革命の模範とすることは出来ないとする。言いかえれば、 革命の最初から統一的権力の中心を見定め、一貫してその実現に邁進するのが革命の望ましい姿だというわけである。そしてその点で明治維新は模範に足ると北は言う。「是に反して日本の皇室は約1千年の長き貴族階級に対する痛恨の涙を呑みて被治的存続を忍びしもの。而して明治大皇帝は生れながらなる奈翁なりき」、「最初より萬世一系の奈翁に指揮せられたる維新革命は革命の理想的模範たるものに非ずや」と。
では中国革命の場合はどうなるのか。中国には革命に利用し得る伝統的権威は存在していないとみる北は、最初から一貫して共和政を目標とし、そのなかから政治的権威を生み出すための一貫した努力を中国革命に求めるのであった。「『東洋的君主政』は2千5百年の信仰を統一 して国民の自由を擁護せし明治大皇帝あり。『東洋的共和政』とは神前に戈を列ねて集まれる諸汗より選挙されし窩濶台汗が明白に終身大総統たりし如く、天の命を享けし元首に統治せらるゝ共和政体なりとす。近代支那と近代日本との相異は終身皇帝と万世大総統との差のみ。連綿の系統なき支那は日本に学びて皇帝を尋ぬることを要せず」。いわば彼は、統一的権力の中心を創り出す一貫性において、明治維新を学ぶべき模範として、フランス革命を学ぶべからざる悪例として提示したのであった。
ところで、このような対比が、すでに皇統連綿たる天皇の価値を前提としていることは明らかであろう。北は万世一系について、連綿の系統について、更にはまた国民の信仰的中心としての天皇について語り始める。即ち「万世一系の皇室が頼朝の中世的貴族政治より以来700年政権圏外に駆除せられ、単に国民の信仰的中心として国民の間に存したこと」は維新革命における天佑であったとされ、また明治維新は、「維新の民主的革命は一天子の下に赤子の統一に在りき」と規定しなおされるのであった。『国体論及び純正社会主義』におけると同一の、「民主的革命」の用語が使われていても、その内容は全く異質のものとなりつつあった。かつての『国体論』に於て北は、「万世一系そのことは国民の奉戴とは些の係りなし」 と断じ、皇統連綿たることを以て明治国家における天皇の地位を基礎づけることは、 維新革命に対する明らかな反革命であると斥けた筈である。そこでの彼は、維新革命によって天皇の性格が幕府・諸侯と同質な家長君主から公民国家の最高機関へと質的に変化したという点を力説し、維新の民主的性格について、「維新革命の国体論は天皇と握手して貴族階級を転覆したる形に於て君主主義に似たりと雖も、天皇も国民も国家の分子として行動したる絶対的平等主義の点に於て堂々たる民主々義なりとす」と述べていたことはすでにみた通りである。
しかし今や北は、国家意識にめざめ、国民と共に闘った維新の英雄という天皇観を捨てて、国民の信仰的中心として伝統的権威を保持していたが故に本能的自由の乱舞する討幕運動を統御 し専制者たりえたという側面から天皇を捉えようとするのであった。「然らば維新革命を見よ。 王覇を弁じ得る『思考の自由』と覇を倒して王を奉ずべしとする『実行の自由』とが、其の階級間に歯されざるほどの最下級武士によりて現われ、而して封建制の旧権力が是れを弾圧せんとして却て白昼大臣の頭を切り取られたる程度にまで腐朽せし社会的解体なりき。所謂勤王無頼漢と称せられし切取強盗の本能的自由を恣にすることを得て幕府を倒したるもの、維新革命は自由を与へられたるが故に来れるものなり。而も明治大皇帝の革命政府は……明白に統一 的専制の必要を掲げたり。而して革命の目的は一天子の権力下に一切の統制なき本能的自由を 圧伏することに在りとして、秋霜烈日の専制を23年間に互りて断行したり」。ここに述べられている天皇のイメージは、伝統的権威の上に立った「窩濶台汗」とみることも出来るであろう。
ともあれ、北が『国体論及び純正社会主義』の柱をなした強烈な国体論批判を大きく後退させていることは明らかであろう。彼はこの10年後(大正15年1月)、『日本改造法案大綱』に寄せ た序文、「第3回の公刊頒布に際して告ぐ」の中で「『国体論及純正社会主義』は当時の印刷で1千頁ほどのものであり且つ20年前の禁止本である故に、一読を希望することは誠に無理であるが、其機会を有せらるる諸子は「国体の解説」の部分だけの理解を願ひたい」と述べているが、それは公民国家論の部分だけを理解して欲しいということであり、もはやかつての国体論批判から離脱していることを告げる言葉とも読める。
この北の天皇観の変化のなかには、おそらくは混迷をつづける中国情勢を見通そうとする執念と、維新の英雄をついだ病弱な天皇に対する思念とが二重写しに投影されていたことであろう。彼はもはや個人としての、或いは機関としての天皇よりも、国民を統合し得る伝統的権威 としての、いわば制度としての天皇により強い関心を寄せるに至っていたのではあるまいか。 天皇大権の発動により天皇を奉ずるクーデターの構想は、『国体論及び純正社会主義』から直接にではなくて、このような天皇観の変化を媒介として生み出されてくるように私には思われるのである。そしてその上に、『支那革命外史』における日本対外政策の「革命的一変」のイ メージを重ね合せた時、北はすでに「日本改造法案」の骨格をつくりうる地点に達していたのではなかったであろうか。 
10 亜細亜モンロー主義

 

北の云う対外政策の「革命的一変」とは、中国革命の達成を支援することを「正義」とし、その「正義」を基礎として日本民族の新たな使命を構想すること、そしてそれを対外政策の中核に据えるということにほかならなかった。そしてそのため彼は、一方では前節でみたように、日本の膨脹と適合できる形に中国革命の将来を想定したのであったが、他方ではそれに対応した、「正義」に立脚した日本の対外政策を構築しなければならなかった。
彼はそこでの原則的立場を「日本民族の対外行動は挙手投歩唯正義と強力とあるのみ」と述べる。 正義はそれを遂行する強力と不可分のものとして捉えられていた。そしてここでの「強力」とは、極東に於ける日本の軍事的優位を前提とするものであった。北は日露戦争の勝利のあとでは、中国をめぐる国際関係に於ては、日本が圧倒的な軍事力を有すると信じていた。「支那を奪はんと欲せば須らく1個師団の陸兵と3隻の巡洋艦を以てすべし」、「日本が其の陸軍と海軍とを有して、誠実に而して勇敢に全亜細亜の保護者を任じて毅立せば千百の不割譲条約ありと雖も反古に等し」といった言葉からは、北が日本は極東において自ら望む方向に軍事行動を起し、勝利することが出来ると考えていた、あるいは少くともこの想定を対外政策論の前提としていたことを読みとることが出来る。従って「正義」とは、この力をどのような方向に行使し、あるいはどのような方向に行使してはならないかを決定する基準となるものであった。北はまず「支那保全主義」のなかに、対外政策における「正義」の基礎を求めようとした。
と云っても「支那保全主義」は言葉としては決して北の発明になるものではなかった。というよりもむしろ、当時、対中国問題を論ずる場合の1つの基準として、一般に通用していた考え方であったと云う方が正しいであろう。「支那保全主義」が対中国政策論議のなかに登場してきたのは、すでに古く日清戦争直後に、列強の中国からの利権奪取が露骨な形で進行し、遂に領土的分割に至るかと考えられた時からであった。ここでの「保全」とは、列強の領土的中国分割によって日本の大陸発展の道が閉ざされることを防ごうとする発想から生れたものであり、従って「支那保全主義」は、一般的には、中国の領土的分割に反対しながら、中国に対する経済的進出や利権の獲得を果そうとするものであった。それ故、日露戦争もまた、ロシアの満州領有=中国の領土的分割に反対する保全主義の戦いと意識される場合が多く、北自身も「日露戦争は支那全部の保全的正義の為めに戦われたるもの」と述べているのであった。
北はこのような当時一般に通用していた「支那保全主義」を捉え、それを彼なりに純化することによって、対外政策論の出発点を築こうとしたのであった。彼はまず「人道的要求から迸発せる保全主義」と述べているように、保全主義は列強の錯綜する利権奪取競争をかいくぐって自らの利権や勢力をのばすためのものではなく、文字通り中国の独立と自立的発展を保全するためのものでなければならないと主張した。それはまさに、当時一般に通用していた保全主義が、領土的分割を否定しながら、勢力範囲・優越権の設定や利権の獲得を肯定していたことへの批判であった。彼は云う、「由来正義に根拠する日本の支那保全主義と利権の保持に汲々たる英国の資本的侵略政策とは、仮令露西亜の分割的勢力に対抗せし期間外見上相似なるかの如きも根本精神に於て全く氷炭相容れざるものなり」、「特に況んや優越権の如きは保全主義の本義に撞着する一個の侵略として許容すべき限りのものに非ず」と。
そして更に「支那保全」は中国自身の自立なくしては成立しえないものであることを強調した。「人道的要求より迸発せる保全主義は支那其者の自立によりて真の実現を見るべく、国家を白人の競売に附しつつありし亡国階級を存在せしめて期待すべきものにあらず」、つまり「日本が誠実に支那の保全の為めに支那の復活を望」むことが「支那保全主義」の基本的態度でなければならないというのである。それはまさに中国革命が「自ら成せる革命」として発展しつつあるとみた中国革命認識と表裏をなすものであった。
しかし、このように中国の自立的発展を望み、不侵略・不干渉の保全主義を貫くとすれば、当然、これまで中国から奪取した既得権益についてどう考えるのかという問題につきあたらざるを得ない。とくに焦点は在満権益の問題であった。しかし北はここではこうした論理の筋道を断ち切り、態度を一変して次のように叫ぶ。「不肖を以て南満州を獲得したることを非議するものとなす勿れ」と。北も一応は「形式に於て」と留保をつけながら、日露戦争の結果が保全主義に反していることを認める。そしてその上で次のような反論を試みている。即ち日露戦争が「終に南北満州の分割を結果して戦前の保全主義を形式に於て損傷したることは、当時の清国が既に露国に割譲し更に加るに日露戦争に参加せざりし権利放棄として露西亜の領有より譲渡せられたる者」だというのである。しかし清国がロシアに満州を割譲したというのは事実ではないし、また彼が在満権益を正当化する論拠とする「権利拠棄」にしても、それが日本の強制の結果であることを北自身も認めているのである。「又日露戦争に支那の参加せんことを申込みしに係らず日本は之を拒絶し、支那亦日本に拒絶せられたるが故に茫然として傍観したり」、とすれば、「権利放棄」という理由づけには問題がおこってくる筈である。しかし北はこの問題にかえることなく、すぐつづけて「是れ両国の将来が同盟を以て露国の東進に対抗すべき運命に立てること」を示すものだ、という具合に問題をはぐらかしてしまった。
ここでは明らかに北の保全主義は一貫していない。日露戦争を保全的正義のための戦いとみることは、ロシアの満州領有の意図を打破することが戦争目的であったということであり、すでに満州がロシアの領土になっていたということになれば、日露戦争は直接には「支那保全」にかかわらない日本とロシアの間の領土争いだということにならざるを得ない。しかも彼は、遼東租借地を除けば鉄道・鉱山の利権と鉄道守備兵の駐兵権を得ているにすぎない―従って明らかに中国の主権下にある南満州を日本の領土として論じているのである。北にとってもこの保全主義の矛盾は気になる所であったのであろう。「不肖等は日本の国家的正義に訴へて南満州領有の法理を考ふるに露西亜より得たる南樺太と同一なりと断ずる者なり」と述べたのに続けて、「明確なる法理に基く南満州主権の了解は今後日支に取りて重大なる必要なり」と付記しているのであった。
しかし北はこれ以上この問題に深入りしようとはしなかった。彼の問題関心は、「既往は追ふべからず」として、将来に於ける日中の握手を、保全主義の「正義」の上に如何に実現してゆくのかという点に向けられていたからであった。満州問題にしても、日本の支配権を今後どのように運用してゆくのかという点に関心の中心がおかれ、保全主義はまさにその運用の点で強調されることになるのであった。即ち上述のようにして日露戦争による「南満州領有」を「支那保全主義」から切り離して擁護した北は、その後の事態については次のような形で保全主義の立場から批判するに至るのである。
「不肖は日露戦争によりて露西亜より奪へる南満州を以て日本の正義を疑ふものにあらず。只正義の発動は一張し一弛す。日本が露西亜より其れを奪ひし時に緊張したる国家的正義は南満州を占拠すると共に崩然として跡なく、支那を露西亜の侵略より防護せんが為めの占有にあらずして全く北満州に拠れる其れと相携へて支那を脅かさんとする南満州に一変したり。日露戦争の南満州占有は支那保全主義の為めの城壁としてなりき。日露協約に至りての同一なる其れは露西亜の分割政策に協力し助勢する所の前営となれり。」
ここには明らかに保全主義の転換がみられる。まず最初に、利権や勢力範囲を否定する保全主義によって自らの立場を「正義」とした北は、ついで保全主義の「ための」利権や地位の要求を肯定する方向へと一転してゆくのであった。そしてこの転換の鍵になるのが満州においてすでに権益を確保しているという現実であった。南満州を中国侵略の基地とせず、ロシアに対する城壁とするならば、保全主義の上に立った満州領有についての日中の了解が成立するであろうというのが北の想定であった。すでにみたような、中国革命において「露支戦争」を必然とするという主張が、満州領有を正当化し更にその拡張・強化を要求するために不可欠のものになることはもはや云うまでもあるまい。
そして北はこの論理を更に、中国の周辺全部に城壁をめぐらすための侵略主義へと拡大してゆくことになるのであった。もしも事態がこのように進展するならば、満州支配には新たな根拠が与えられ、在満権益についての歴史的疑惑などは一挙に吹き飛んでしまう筈であった。彼は云う。「日本の保全主義を徹底せしむべく更に北満州を奪ひて支那の北境に万里延々の長城を築き、好機一閃黒竜沿海の一帯を掩有して彼が東進の根拠を覆へし、以て朝鮮と日本海とに一敵なからしめん」、「而して南満州は日本の血を以て露西亜より得たる所。未解決のままに2個の主権を存立せしむることは断じて両国親善の所以に非ず。北満に至っては英の妨ぐるなくんば日露戦争当時既に獲得すべかりし者。大戦の意義に照して終に露西亜より奪はずんば止まず。−是れ支那の為めに絶対的保全の城廓を築くものに非ずや」と。そして北は更に満州支配の代りに、21カ条要求によって得た内蒙古に関する権利を返還することで、「対露日支同盟」は完成すると夢想した。「内蒙古の権利は露支戦争を援助すべき一条件として『満蒙交換』の協定によりて対露日支同盟の条件たるべし。支那は外蒙古と共に内蒙古を得べし。日本は南満州と共に北満州を得べし。内外蒙古は支那存立の絶対的必要なり。彼が日本の後援によりて内外蒙古を得ることは西蔵を維持し支那全部を保全し得る保障を得る者にして南満の一角と較量し得べき者に非らず」。
北が中国革命完成の国際的局面として、「露支戦争」と「日英戦争」の組合せによる露英両国勢力の打破を唱えたことはすでにみたが、彼にとっては日本の対英開戦もまた、こうした「支那保全主義」の必然的結論にほかならなかった。「不肖は支那保全主義と日英同盟とが絶対的に両立する能はざることを信ずるものなり。而して支那の革命によりて支那自らの力を以て領土の保全を主張せんとする日は、当然に両立せざる日英同盟は日本及び支那の一撃により破却さるべきことを信ずるものなり」とする彼は、「日本の対英露策に取りて独逸が支那保全主義の為に唯一同盟国たるべきことを思考だもせず」に、日英同盟を利用してイギリス側に参戦してしまった政治指導者を痛烈に批判した。彼にとっては、第一次世界大戦は、「露支戦争」と「日英戦争」を組合せて中国革命を完成させると共に、南北にわたる「支那保全」の万里の城廓を築きあげるための絶好の機会とみえていたのであった。彼は云う。「日本が真に保全主義を唱ふるならば北露と南英との領土を奪ひて四百余州を抱く雄大なる箍を外交方針とすべかりしなり」と。
中国大陸全体を抱きかかえる「箍」とは、たしかに雄大な構想と云うべきであろう。しかしそれはもはや「支那保全主義」の枠からはみ出していると云わざるをえない。北はさきの文章につづけて「軍人と国論とが侵略主義を高調するは興国の正気にして妄りに抑圧すべきものに非ず。要は向うべき所に放つに在り」と書いている。それは彼の「支那保全主義」が、侵略主義そのものに対する原理的批判を意味するものではなく、たんに侵略の方向を規制し、侵略を正当化する根拠を提供するためのものにほかならなかったことを示している。『支那革命外史』においても叙述が後半に進むに従って、中国状勢にかかわりなく、日本が本来実現すべきものとしての領土拡張の要求が次第に前面に押し出されてくる。例えば彼は云う。「実に支那の英国を駆逐すべきことは、唯日本と英国との覇権争奪に於て日本を覚醒せしめ後援すれば足れり。英国がスエズ以東に威権を振ふことが東洋の英国を自負する日本と両立すべからざる覇権の衝突なることは明白なり。…則ち南亜細亜より英国を駆逐せんとする日英戦争は支那の如何に関せず、今の『小日本』が『大日本』として覇権を確立すべき領士を英国の持てる者に奪はずんば行く所なきを以てなり」と。
この主張は、云いかえれば、中国革命の反英的性格を認識することによって、日本民族はイギリスとの覇権争奪戦が必然であることにめざめ、この戦いに蹶起せよというに等しい。更にまた『支那革命外史』の末尾の部分で、北が「諸公何ぞ支那の革命が伊勢大廟の神風なることを悟らざるや」と書いているのも同じ文脈で読める。つまり彼は、中国革命は、日本民族を自らの使命にめざめさせるために、天が与えたチャンスなのだと云いたかったのではなかったか。
結局のところ、北が「支那保全主義」を対外政策論の出発点に据えたのは、それが日本の対外行動のすべてを律する根本原則であると考えたからではなかった。彼が試みたのは「保全主義」という「正義」の立場から中国革命をみるとき、日本民族の使命がどのようなものとして映し出されるかを問うことにほかならなかった。そして彼は、中国革命は日本に対して「白人投資の執達吏か東亜の盟主か」の選択を迫っているとみた。勿論そこには、「黄白人種競争の決勝点」として対露開戦を主張した人種意識・国家の強化を人類進化の道だと考える進化論・日露戦争の勝利に至る日本の対外発展の根本的な肯定などが前提されていることはもはや云うまでもあるまい。そして彼が、この選択に於て「東亜の盟主」の道を選んだこともまた。
北は「支那及び他の黄人の独立自彊を保護指導すべき亜細亜の盟主」たることが「日本の天啓的使命」であると説き始める。「天啓的」とは何かについて彼は多くを語ってはいない。しかし「亜細亜の自覚史に東天の曙光たるべき天啓的使命」と書き、また「日清戦争は日本が天佑によりて列強の分割より免かるゝと共に、黄人諸国の盟主たるべき覇位争奪の墺普戦争なり」と述べているところからみれば、日本がアジアで最初に民族意識に基く独立国家を形成したこと、日清戦争の勝利によって、アジア諸国の中で最強の軍事力をもつことを実証したこと、という2つの点から「天啓的使命」を基礎づけているように思われる。
日本が国家的独立の先駆者たることを以てアジアの指導者となし、日清戦争の勝利者たることを以て、欧米列強と抗争するアジアの保護者として位置づけるというこの使命観は、八紘一宇・大東亜共栄圏という怒号の時代を経験した我々にとっては、ひどく平凡なものにみえるかもしれない。しかしそれは西洋文明のあとを追いつづけてきた明治の風潮を逆転させるということであり、やはり辛亥革命と世界大戦という状況の変化なしにはなしえなかったことに違いない。辛亥革命にあたっては、革命派に接した多くの日本人が、その客観的内実がどうあったにもせよ、主観的にははじめて他のアジア人に対して指導的相談役的地位にあると感じることができたのであり、また第一次大戦はヨーロッパの弱体化を実感することをはじめて可能にしたものと云えた。北はこうした新しい感覚を明確な使命観として打出した点で、確かに先駆的であった。すでに辛亥革命の渦中にあって、革命が日本から学んだ国家民族主義によって指導されていると論じた北は、また第一次大戦という未曽有の大戦乱のさなかに於て、はやくも大英世界帝国解体の可能性について論じはじめたのであった。日英同盟を破棄しドイツと結んでイギリスを攻めるべきであったとする北は、「日独の海軍は大西洋と太平洋に彼の海軍を分割せしめ、本国の降伏は独逸によりて、本国其者に値する印度の独立は日本によりて実現せらるべし」と述べて、はるかのちの、太平洋戦争期の政治指導者たちを想起させる。
「支那保全主義」から出発し、「白人投資の執達吏」であることを拒否して「東亜の盟主」たることを選んだ北は、自らの立場を「亜細亜モンロー主義」と名づけた。そしてこの立場が確立されるに至るや、「支那保全主義」がその一側面として吸収されてゆくことは必然であった。「支那保全主義」は次のように云いかえられねばならなかった。「革命的(中国)新興階級の親日主義は日本の左顧右盻せる保全主義が亜細亜モンロー主義の天啓的使命によりて正義化したる後始めて至純至誠なる信頼に表現すべし」と。それは、「支那保全主義」を基盤として生み出された筈の使命観が、亜細亜モンロー主義に到達すると同時に、逆に亜細亜モンロー主義が「支那保全主義」を従属化してゆく転換点を示すものとして読めないであろうか。
亜細亜モンロー主義とは、『支那革命外史』に於ては、革命中国との 「日支同盟」によって、イギリスとロシアの勢力を駆逐することを目的とするものとして提示され、そのための方策が論議されるに至っている。そしてそこでは、亜細亜モンロー主義の成否こそが−中国革命が必然的に戦争によらなければ完成しないという想定を前提としながら−中国の将来を決定するものとされる。「支那保全主義」をもふくめてすべての問題は、亜細亜モンロー主義実現のための戦略に従属させられ、押しのけられていった。
保全主義で否定された筈の利権獲得が、今度はモンロー主義の名によって正当化される。「亜細亜の安全の為めに支那と共に日本の擁護せざるべからざる経済的利権の存するあらば、至誠一貫堂々として支那と共に之を協るべし。 そしてこの観方からすれば、さきには孫文の愛国心の欠除を示し失脚の原因とされた漢治萍問題も、次のような形で再登場することとなる。即ち「漢治萍が白人国の分割を予想したる債権の下に置かるることが日本及び支那の危機なりとせば、誠実聰明なる両国の協定は支那の進で求むる所なるべし」、つまりモンロー主義実現のための利権は中国が進んで提供するであろうというのであった。彼は更に漢治萍による一大兵器製造会社を夢みながら「日支の軍事同盟に依る軍器の共通は支那の側より進んで漢治萍の解決を求めざるを得ず」とさえ書いているのであった。
日中合弁の兵器廠とは、かの悪名高い21カ条要求の第5号にふくまれていたものではなかったか。北は遂に21カ条要求でさえも、亜細亜モンロー主義→「曰支同盟」の基盤としてならば、中国は喜んで応じたであろうとまで考えるに至るのであった。彼は次のように云う。文中の「曰支交渉案」が21カ条要求を指していることは云うまでもない。「彼の恥ずべき恫喝と譎詐とを闘はしめたる日支交渉案の如き、北、満蒙は日露大戦の正義に返ることによりて解決すべく、南、漢治萍の鉄は啻に日本の軍器独立に必要なるのみならず支那の存亡の為に支那の進んで共同経営を求むべきは論なし。日本第一の噴飯すべき外交家加藤氏の如く英国に致されて『第五項案』を保留するに及ばず、又或る種の陸軍系政客の如く漢治萍解決の為めに周特使を迎えて逆臣の纂奪を日本皇帝の名に於て承認せんとする国民道徳の指弾を受くるにも及ばず。−漢治萍其他の鉄炭を基礎とせる大々的クルップ会社を組織し、三分して其一を支那政府に、他の一を日本政府に、余の一を日支両国民の民有とせば両国軍事同盟の礎石茲に於て動かず」。そして彼は更に次のようにつづける。「あゝ日支両国を永遠に結合する日支官民の一大軍器製造会社よ。営利は不肖の知る所に非ず。唯軍器の製造は国権の拡張を意味す」と。
一大合弁兵器廠が、「国権の拡張」であり両国「永遠」のきづなであるということは、「亜細亜の盟主」による中国植民地化でなくて何であろうか。排日運動に対してさえ、国家民族主義の高まりとして同感を惜しまなかった彼の中国革命認識は、一体何処に消えたのであろうか。そして更に、合弁兵器廠と共に「日支同盟」を支えるもう一つの柱として、「日米経済同盟」による大鉄道網建設について語り始める時、北が語っているのは植民地経営論以外の何物でもなくなっている。列強の中国分割に反対して門戸開放を唱え、日露戦争に於ては日本を支援したアメリカが、「露支戦争及び日本の西比利亜侵略に対して再び有力なる同盟的立場に立ち得」るであろうと考える北は、日米経済同盟の身勝手な幻想にふけるのであった。日米間には「彼(アメリカ)の弱点は支那の投資に於て日本の保証なくんば元利一切の不安なることにして、日本の弱点は彼の投資により支那の開発さるゝなくんば日本の富強なる能はざる利害の一致」があり、アメリカ資本は日本の保障があれば、中国に続々と投資されるであろうというのが北の想定であり、革命政権が没収した外国既設鉄道の上にこの米国資本を加えて、「軍隊輸送を基本とせる設計」によって大鉄道網を建設するならば、中国統一の基礎条件となるであろうと云うのであった。
「実に支那の統一者は袁孫に非ず譚黄に非ずして一に唯鉄道なり。支那の郡県制度は鉄道によりて統一せられ、支那の『産業革命』は鉄道によりて中世的経済生活を近代に飛躍せしむべし。鉄道は支那の主権者なり。…四百余州の郡県に連れる蒙古西蔵が軍隊輸送本位の鉄道に統一さるゝに至りて、支那は内地の為の軍隊浪費を要せざるべし。是れ日支軍器製造会社と共に支那が統一的有機的一国たる根本基礎にあらずや」。
『支那革命外史』前半においては、「同一なる民族的覚醒、同一なる愛国的情操、同一なる革命的理解」という中国民衆の「大勢」の中に、中国統一の基礎を見出そうとした同じ著者が、わずか3か月の中断の後に書きあげた後半の末尾では、同じ問題について、アメリカ資本による軍隊本位の鉄道建設という全く異った答えを提示することは如何にして可能だったのであろうか。我々はもはや、北の亜細亜モンロー主義が不干渉・不侵略の「支那保全主義」の規制を全く断ち切って暴走し始めたことを確認しなくてはなるまい。「日本国権の拡張と支那の覚醒との両輪的一致策如何」という北の最初の設問に即して云えば、「支那の覚醒」=中国革命に感応することによって生み出された筈の「天啓的使命」観が、中国革命をふり切って、「日本国権の拡張」のみを追求する「片輪的」方向に走り始めたということでもあろう。それは別の問題で云えば、中国革命の対外戦争への必然的発展という想定を媒介として生み出しされた積極的開戦論が、その媒介項を切り捨ててゆくことにほかならなかった。とすれば、『支那革命外史』の末尾は、すでに『国家改造案原理大綱』の「開戦ノ積極的権利」に接続していたと云いうるであろう。 
11 改造法案への契機

 

『支那革命外史』を書き終えた北は、すぐさま、中国への渡航を企てた。直接の目的は譚人鳳のもっていた10万円の不渡公債をつかって、資金をつくることにあったとされているが、天津で領事館警察に抑留され送還されてしまった。しかし1916年(大正5)6月には上海に渡り、妻すず子と共に同志長田実の経営する医院の2階で居候生活をはじめた。そしてこの生活が、19年(大正8)12月、大川周明の訪問にこたえて帰国の途につくまで続いている。
北が再度中国に渡ったのは、資金関係の問題を別にすれば、中国を反英・反露の方向に動かすことを意図したものであったであろう。しかしすでに軍閥割拠の時代にはいっていた中国情勢のなかで、宋教仁という盟友と黒竜会という後援者とを共に失ってしまっている北は、中国側に働きかける手だてをつくり出すことが出来なかった。彼に出来ることとしては、日本の為政者や同志に対して自らの意見を送りつけること位しかなかった。のちに「6年(大正)2月11日、神武建国の其日に於て、不肯北一輝なればこそ断乎として支那の対独断交に参加すべき理由なきを彼等に指示し」と書いているところからみると、北はこの時、中国の参戦に反対する意見書を日本の有力者に送ったものと思われる。しかし同年8月、中国は彼の意に反してドイツ・オーストリアに宣戦を布告した。この間、3月にはロシア2月革命によって彼が当面の敵としたツァーリズムが倒れた。4月にはアメリカも聯合国側に立って参戦している。『支那革命外史』に於ける、「希くは諸公の活眼達識能く一転独米と結んで英露を撃破し以て抑塞せる国力の向ふ所を南北に分ちて恣に放たしむることなきか」という北の訴えが実現する可能性は完全に消滅してしまっていた。11月にはレーニンのソビエト政府が出現する。
翌1918年(大正7)1月、ウィルソンの14か条の平和原則が発表されると、その影響は民族自決権を中心として中国にも広まり、11月には「独逸の対抗力なき全敗と云ふ意外なる結果」を以て第一次大戦は終った。19年(大正8)1月、ヴェルサイユ宮殿でウイルソンの14か条を中心として講和会議が開かれると、そこでの討議はたんなる戦争の後始末ではなく、「世界改造」をめざすものとしてうけとられた。講和会議からの報告に中野正剛は「世界改造の巷より」と名づけ、馬場恒吾は「改造の叫び」と題した。「改造」が新しい流行語となったことは、講和会議のさなかの、19年4月、雑誌「改造」の創刊に象徴されていると云ってよい。しかしこの「改造」の潮流は、民族自決・デモクラシー・平和主義という、北の思想とは異質の方向をめざして流れ始め、彼の周囲にも日本帝国主義に反対する中国民衆の運動が大衆的な盛り上りを示し始めてきた。5・4運動の波は6月に入ると上海で最高の高揚を示した。北は長田医院の2階から、「ヴェルサイユ会議に対する最高判決」を「投函して帰れる岩田富美夫君が雲霞怒涛の如き排日の群衆に包囲されて居る」のを空しく眺めねばならなかった。
『支那革命外史』の末尾において、すでに中国革命と思想的に離れてしまっていた北は、この過程においてその距離を実感として捉えたに違いない1)。「眼前に見る排日運動の陣頭に立ちて指揮し鼓吹し叱咤して居る者が、悉く10年の涙痕血史を共にせる刎頸の同志其人々である大矛盾」は、北の思考を祖国日本の対外政策の問題へとかり立てるものであった。自らの眼の前に盛上る排日運動を、「英米相和する時巴里に於て日本全権の被告扱となり、支那に於ては全部に亙る排日熱の昂騰となる」として、外からの影響の結果と捉える北の認識から云えば、あるべき中国革命を発展させるためには、この外からの影響を断ち切ることが必要であり、そのためには、日本の対外政策の変革を求めることが緊急の課題となる筈であった。
   1) 上海時代の北の中国情勢に対する意見を直接に示す資料は今のところまだ紹介されていない。しかし北が満川亀太郎にあてて自らの意見を書き送っていたことは確認することができる。満川は北からの手紙を二つの会合で公開している。その一つは、1918年(大正7)11月22日の老壮会第4回例会であり、この会合で「独逸の敗退に伴う英米勢力の増大は我国の生存を脅圧し来るや否や」を論議した際、満川は「右問題に関する在支那北輝次郎氏の来翰を披露」した。(「老壮会の記」「大日本」大正8年4月号」もう一つは、ヴェルサイユ会議に対応するため、佐藤鋼次郎中将を発起人として結成された国民外交会の席上であり、満川は次のように回想している。「私は当時久し振りに、北一輝氏が上海から私に宛てて送って来た対支時局観を謄写刷りとし、或る日のこの会合に配布したことがあったが、松田源治氏が最も卓見として共鳴していたことを今猶記憶している」(『三国干渉以後』、1935年9月、平凡社)。この二つの会合で示された北の手紙が同じものだったのか、違うものだったのかわからないが、北が「ヴェルサイユ会議に対する最高判決」で「拝啓、過日の書簡を広く示され誠に感謝します」と書いているのは、これらのことを指しているものと思われる。しかしそれにつづけて「支那の事終に実行時代に入りましたので、今後は鮮血の筆が小生の拙文に代て御報告申すであろうと信じます」と述べている背後に、どのような情勢認議があったかは、今のところ推測することが出来ない。
なお、満川と北の関係については、あとで改めてとりあげることにしたい。
と云っても、北はこうした激変する国際情勢のなかで、改めて日本の対外政策のあり方を再検討しようとしたわけではなかった。後年、「私の根本思想を申しますれば、この『支那革命外史』に書いてある日本の国策を遂行させる時代を見たいと謂ふ事が唯一の念願でありまして」 1)と述べているように、すでにこの時、日米経済同盟と対英一戦、つまりアメリカと手を握って、イギリスを倒すことを以て、北は確固不動のあるべき国策と考えるに至っていた。従って問題はそのために何を為すべきかであった。そしてこの観点からみれば、アメリカ参戦後の北の関心が「今後日本の方針は如何にして英米を引裂くことに成功すべきかに在り」2)という点に集中してゆくのは必然であった。北がヴェルサイユ条約が調印された1919年(大正8)6月28日、満川亀太郎に書き送った「ヴェルサイユ会議に対する最高判決」もこの点に関する論議にほかならなかった。
   1) 2・26事件関係憲兵隊調書。
   2) 「ヴェルサイユ会議に対する最高判決」のなかに、昨年(大正7年)満川に送った手紙の一節とし て引用されている。
北はここで、まず「柄にも無き世界改造といふ大望に逆上」した「口舌の雄」してウィルソンの理想主義を否定し、ついで「日米両国の完全なる提契あらば、疲弊せる英仏伊を屈服せしむる易々たるものであった」にも拘らず、この提契をなしえなかった両国外交を批判する。それは勿論アメリカの野心を中国からそらせて、イギリスの植民地に向わせ、「英国を分割すべき共同目的」に導いてゆくという観点からなされた批判であったが、その根底には人類進化の現段階では、あらゆる強国は「世界ノ大小国家ノ上ニ君臨スル最強国家」をめざして領土拡張に狂奔するものだとする彼特有の進化論が前提されていることに注意しておかなくてはなるまい。そして彼はこの見地から「日本は米国に向て亜弗利加の独領占有を約束し、米国は日本に向て赤道以南の南洋独領を約束する。……国際聯盟か亜弗利加独領かと云ふ二つを提出した時、ウヰルソンと雖も後者を取るは自明の理である」とみるのであるが、この同じ見方は、相手を食わなければこちらが食われるという形で、北の危機感を極度に増幅させる結果を招くことにもなるのであった。
「講和会議に於ける英米の提携−現時の支那に於ける英米提携の排日運動−を大きくする時は−英米同盟の日本叩き漬ぶしという元冠来の恐怖を推論することが出来ます」という北の言葉からは、このような形で増幅された危機感を読みとることが出来る。そしてこの危機感が、北に改造法案を書かせる一つの契機となったことを彼は『国家改造案原理大綱』末尾の一節に次のような形で書き記している。即ち「日本ハ米独其ノ他ヲ糾合シテ世界大戦ノ真個決論ヲ英国二対シテ求ムベシ…米国ノ恐怖タル日本移民。日本ノ脅威タル比利賓ノ米領。対支投資二於ケル日米ノ紛争。一見両立スベカラザルカノ如キ此等ガ其実如何二日米両国ヲ同盟的提携二導クベキ天ノ計ラヒナルカノ如キ妙諦ハ今ノ大臣連レヤ政党領袖輩ノ関知シ得ベキ限リニ非ラズ。一ニ只此ノ根本的改造後二出現スヘキ偉器二侍ツ者ナリ」と。そしてまた同じ問題を、のちにはこう語ってもいる。「私は改造案を書きました時、既に日本の改造は日本の対外政策遂行上…止むを得ざる結果として国内改造に帰着するものと断じて、前半の国内改造意見よりも後半の対外策に付いて力説詳論した訳であります」1)。
   1) 2・26事件関係警視庁聴書。
勿論この危機感だけだったならば、北は改造法案を書くまでには至らなかったであろう。彼を決定的に改造法案の方向に踏み切らせた第二の契機は、「日本危し」とする国内情勢に対する危機感にほかならなかった。1918〜19年には、改造をとなえるさまざまな団体が生まれ、それらは全体として云えば、デモクラシーや社会主義の方向を指向しつつあった 1)。いわば「改造思潮」は左への潮流として滔々として流れ始めるかにみえた。北が「ヴェルサイユ会議に対する最高判決」を書き送ったちょうど1年前、1918年(大正7)7月から9月にかけて、米騒動が日本全国をゆるがせていた。米騒動は大衆運動発展の画期をつくり出し、1917年から急激な盛り上りをみせ始めた労働争議は、19年に至って一つのピークにまで達した。
   1) こうした状況については、伊藤隆「日本『革新』派の成立」(「歴史と人物」昭和47年12月号、中央公論社)参照。
これらの情報を北が、どの程度、どのような形で受けとったかは明らかではない。しかし 5・4運動のうずまく上海に在った北は、排日・反帝の大衆運動の実感によってより鋭敏とな った感覚を以て、日本の情勢をうけとめたのではなかったであろうか。後に北は次のように回想している。「其の当時(大正8年)」は、日本国内に於ても、頻々として『ストライキ』が起り、米騒動が起り、大川周明が上海に私を迎へに来た時には、東京の全新聞は悉く発行不可能の『ストライキ』であると云ふ様な状態、世界の革命風潮が、日本をふきまくっている最中でありました」 1)。それは一般的には「ロシア革命あり、自由主義、共産主義の勃興時代」。2)として捉えられる。そしてその上に現実に全国的規模で米騒動がおこっているのであり、つい前年の出来事としてまだ強烈な残像を残しているドイツの革命による敗戦という事態が、日本の未来のものとして感じられてくるのであった。それは右翼や軍人の間に、程度の差こそあれ広く存在した感覚であったと思われるが、チャンスがあればすぐにでも大英帝国解体のための戦いを起したいと考えている北にとっては、特別に痛切な、決定的な危機感をひきおこし、改造法案作成の決定的な契機となったのであるまいか。官憲に対するものとは云え、次の述懐からは当時の北の心情が読みとれるように思われるのである。「私は必ず世界の第二大戦が起るものと信じまして、夫れには日本が戦争中、ロシアの如き国内の崩壊又はドイツの如き5カ年間の戦勝を続けながら最後に内部崩壊に依り敗戦国となった実例を見まして、日本は是等の轍を踏んではならない。即ち免がれざる世界第二大戦の以前に於て国内の合理的改造を為す事を急務と考へ、『国家改造案原理大綱』と題するものを書きました。之れは大正8年8月の事であります」3)。
   1) 2・26事件関係憲兵隊調書。
   2) 同上。
   3) 2・26事件関係警視庁調書。
北はまさに、最初の総力戦としての第一次世界大戦を踏まえながら、デモクラシー、さらには社会主義革命へと流れるかにみえる「改造思潮」と対決することを決意したのであった。のちの言葉を借りれば、「左翼的革命に対抗して右翼的国家主義的国家改造」1)を実現することこそが「革命的大帝国主義」に至る唯一の道と信じたのであった。そして北がこの点で先駆者たりえたのは、亜細亜モンロー主義の「天啓的使命」観をうち立て、イギリスを主敵とする世界戦略を構想していたからにほかならなかったであろう。
   1) 2・26事件関係憲兵隊調書。 
12 国家改造の進化論的発想

 

1919年(大正8)6月、北は、「21カ条を取消せ」「青島を還せ」という中国民衆の排日の叫びを身近かに聞きながら、断食による精神統一を企てた。満川亀太郎にあてて「ヴェルサイユ会議に対する最高判決」を書き送ったのは、この断食中のことであった。そして長田医師と譚人鳳の勧告で断食をやめると、今度は「身体の衰弱もまだ恢復しきらない中に、改造法案の執筆に着手した」1)。当時北の生活を世話していた長田医師は、官憲の弾圧を憂慮し、執筆に際しては「何事も皇室中心主義でなければならぬと言ふことをくれぐれも注意し、書き上げた原稿は一々自分が目を通すと固く言い渡したのである」2)と回想しているが、やがて書きあげられた『国家改造案原理大綱』3)には、この忠告によって北が筆を曲げたと考えられる部分は見当らない。例えば武家政治時代の天皇が「国民信仰ノ伝統的中心」であったとするような、『国体論』においてはみられなかった天皇の理解にしても、すでに『支那革命外史』において示されていたものであり4)、『改造法案』で新たに打出されたというものではなかった。
   1)、2) 長田実「北一輝を語る」、田中惣五郎『北一輝・増補版』(1971年、三一書:房)。
   3) この著作は、1923年(大正12)改造社より刊行されるにあたって、『日本改造法案大綱』と改題され、内容にも若干の修正が加えられたが、以下、この修正を問題にする場合を除いては、『改造法案』と略称することとする。
   4) 本稿(2)、人文学報38号
北はのちに『改造法案』執筆の意図について、 「日本帝国を大軍営の如き組織となすべしと謂う精神を以て記載した」 1)と述べているが、 なるほど彼にとっての「国家改造」とは、直接には、すでに『支那革命外史』で主張した対英・対露戦争を遂行できる国家体制をつくりあげることを指向するものであったことは明らかである。しかし彼はたんに、戦争遂行のためだけを目的とする国家の再組織を要求したのではなかった。若しそうだとすれば、「国家改造」ではなく「国家総動員」を主張することで、こと足りた筈である。もちろん「総動員」のためにも改造は必要であろう。しかしその観点から言えば、後述するような、国語のエスペラントヘの移行などという論点が生れることはありえなかったであろうし、また私有財産限度以内での個人の消費の自由などという主張は真向うから否定されてしまっていたにちがいない。
   1) 2.26事件関係憲兵隊調書
いまのところ、『支那革命外史』から『改造法案』に至る北の思考の過程を資料的にあとづけることはできない。しかし、この両著を比較してみると、次のような過程を推測することができる。まず北は、『外史』において「支那保全」のための積極的方策として打出した対英・対露戦争の主張を、今度は「支那保全」と切り離して、日本独自の課題として正面から捉え直そうと考えるに至った。すでにみたように彼は『外史』においてすでにこの方向に一歩を踏み出しているのであり、 この転換は、中国革命進展の具体的見通しを失いつつあった北にとって、避けがたいものとなったと考えられる。しかしこの戦争論の転換のためには、「支那保全」にかわる新たな意義づけが必要となり、そこから戦争そのものを、世界史の発展との関連で意義づけようとする観点が生れる。さらにこの間、米騒動の衝撃によって、彼は、戦争による国家の拡大と、それを支える国内体制のあり方との関連という問題に眼をむけざるをえなくなったに違いない。そしてこうした内外の問題を統一的に解決する方法を模索した北は、かつて『国体論』で展開した彼独特の進化論にたちかえり、理論的基礎の再確立を企てるにいたったと考えられるのである。もっとも、北は『改造法案』においては、彼の進化論そのものを直接には展開していない。しかしこの『法案』の骨組みはまさに彼の進化論によってしかときほぐしてゆくことのできない構造をもっているのであり、従って『改造法案』の理解のためには、まず彼の進化論展開の方向を探ることから始めねばならないであろう。
この『法案』における進化論的発想は、世界史の発展についての次のような把握のなかに、最も端的な形で示されていた。北はまず、世界の現状を「国際的戦国時代」と捉える。そしてこの「現時マデノ国際的戦国時代二亜イテ来ルヘキ可能ナル世界ノ平和ハ必ス世界ノ大小国家ノ上二君臨スル最強ナル国家ノ出現ニヨリテ維持サルル封建的平和ナラザルベカラズ」というのである。この「封建的平和」が全世界的な規模での幕藩体制といったイメージでとらえられていることは、「全世界二与へラレタル当面ノ問題ハ何ノ国家何ノ民族ガ徳川将軍タリ神聖皇帝タルカノー事アルノミ。日本民族ハ主権ノ原始的意義統治権ノ上ノ最高ノ統治権ガ国際的二復活シテ各国ヲ統治スル最高ノ国家ノ出現ヲ悟得スベシ」という叙述からうかがうことができよう。つまり最高国家の権力によって、他の国家の権力が制限され規制されるという幕府=大名的な関係が「封建的平和」として想定されているのである。
しかし彼がこうした形で世界史の発展方向を提示しようとしたのは、単なる予測の試みではなかった。彼がここで、人類進化の段階を問題にしようとしていることは、封建的平和につづく次の一節で明らかとなる。すなわち,「国境ヲ撤去シタル世界ノ平和ヲ考フル各種ノ主義ハ其ノ理想ノ設定二於テ是レヲ可能ナラシムル幾多ノ根本的條件則チ人類ガ更二重大ナル科学的発明卜神性的躍進トヲ得タル後ナルベキコトヲ無視シタル者」と彼は言う。つまり彼はここで、第一には、人類はその進化の結果、国境のない単一の世界社会に到達すると主張しているのであるが、しかし第二には、そのためには「封建的平和」という過渡的段階を経過することがどうしても必要であり、国際的戦国時代という現段階で直ちに、「国境ヲ撤去シタル世界ノ平和」を唱えることを非現実的幻想として排撃しているのである。
つまり北は、「封建的平和」を、そのもとで、人類が進化し国家的・民族的対立が次第に解消してゆくような、人類進化の一つの発展段階として設定したのであった。従ってこの論理でゆけば、封建的平和をもたらすべき最強国家とは、たんに最強・最大の軍事力・経済力を持つばかりでなく、現在の国家にはみられないような「進化の推進力」を有するものでなければならないということになる。もしそうでなければ、国際的戦国時代→最強国家のもとでの封建的平和→国境を撤去した世界単一社会という進化の図式そのものが成り立たなくなってしまう。 つまり最強・最高国家の本質はこの「進化の推進力」の内包という点に求められることになるわけであるが、しかし「進化の推進力」とは何かといった問題は、『改造法案』では全く論じられていない。さきにみたように、「国境ヲ撤去シタル世界ノ平和」についても、たんに「重大ナル科学的発明卜神性的躍進トヲ得タル後」と述べて、自らの進化論発想を示唆しているにすぎない。しかし、ここで北が、かつての『国体論』で展開した進化論を基礎としながら、人類進化の道程をかつてとはちがった形で捉えなおそうとしているのは明らかであろう。
ところで『国体論』における北の社会進化論は、進化の基本構造を生存競争の単位としての社会の拡大に求め、拡大した社会の成員間における同化作用と、意識主体の部落→家族→個人への分化及び「個人の自由独立」の強化という分化作用との相乗効果のなかから、次の進化をすすめるためのより大きな生存競争の力が生れるとするものであった。すなわち、分化し自律化した個人の公共心、国家意識の強化が国家社会を拡大し、そのもとでの同化作用の拡大と個人の社会性の強化とが、次の進化の推進力となる、つまり国家社会の拡大が進化の各段階のくぎりとなるというのが北の論理の特徴であった。
しかし北は、すでに指摘したように1)、『国体論』においてはこの進化論を国家社会と個人との関係にとどめて、 国家間の関係については、 世界連邦議会での投票による世界平和の可能性を追求しようとしていた。そしてそこでは世界平和について語り得たとしても、彼の進化論の立場から言って世界的な同化作用の基礎をどこに求めるべきかという問題を解明できないままに終っていたのであった。『国体論』から『改造法案』ヘの転回への論理的な基軸は、この世界連邦議会による世界平和の可能性という構想を放棄して、同化=分化を軸とする彼独特の進化論を、世界史のレベルまで貫徹させてゆくことにあったとみることができる。そしてそれは、かつての『国体論』では補足的にしか触れられていなかった「国家競争」の問題を正面に引き出しながら世界連邦構想を再検討するという形で進められていったと思われるのである。従ってわれわれもここでもう一度、この問題に立ちかえってみなくてはならない。
   1) 本稿(1)、人文学報36号
『国体論』における北の世界連邦構想は、次の2つの問題関心から生み出されたものであった。すなわち第一には、人類進化の終局において国家的対立を解消させるためには、過渡的な国家関係をどのように設定することが必要なのかという問題であり、第二にはそのことと関連させながら、現実に支配的な力をふるっている帝国主義を、進化論的にどう批判するのかという問題であった。
北はまず、生存競争の単位の拡大とともに競争方法そのものも進化するという考え方を前提としながら第一の問題については、次のように述べていた。「社会主義の世界連邦論は斯の競争の単位を世界の単位に進化せしむると共に、国家競争の内容を連邦議会の議決に進化せしめんとする者なり。階級闘争が始めに競争を決定すべき政治機関なかりしが為めに常に反乱と暗殺の方法にて行われ来りしもの、今日内容の進化して競争の決定を投票に訴ふるに至りたる如く、現今の国家競争が等しく未だ競争を決定すべき政治機関なきが為めに今尚外交の隠謀譎詐と砲火の殺戮の方法に於て行はるゝものを、今後は階級競争の其れの如く投票により決せんが為めに世界連邦論あるなり」と。そしてこの世界連邦のもとで「更に一段の進化によりて連邦間の競争は全く絶滅して人類一国の黄金郷に至」るというのが北の想定であった。すなわち北はこの時期には、階級闘争の議会主義的解決と対応させながら、国家間の闘争をも平和的に解決するという方向に人類は進化すると考えていたのであり、従ってまた国家関係を平和的に規制する機関としての世界連邦論に関心を向けたのであった。
しかし彼は、世界連邦への道が容易に進展すると考えていたわけではなかった。『国体論』 の末尾近くには次のような一節がみられる。「社会主義は階級競争と共に国家競争の絶滅すべきを理想としつつあるものなり。而しながら現実の国家として物質的保護の平等と精神的開発の普及となきを以て、社会主義の名に於て階級闘争が戦はれつつある如く、経済的境遇の甚しき相違と精神的生活の絶大なる変異とが世界連邦の実現と及び世界的言語(例えばエスペラントの如き)とにより掃蕩されざる間、社会主義の名に於て国家競争を無視する能はず。著しく卓越せる者に非らざるよりは階級的真善美より超越する能はざる如く、国外の人種民族に接すること少なく又外国の言語思想を解せざる一般の国民に取りては国家的道徳智識容貌の外に出づる能はざるなり。即ち個人の世界に対する関係は階級と国家とを通じてならざるべからず。階級闘争が階級的隔絶に依る如く、 国家競争は實にこの国家的対立に原因するなり。」
北はここでは、世界的同化作用を阻害する要因として「経済的境遇の甚しき相違」と「精神的生活の絶大なる変異」とをあげ、世界連邦と世界的言語がこの阻害要因を掃蕩することを期待する。しかしその反面では、一般国民が個人として国家をこえて交流することを不可能とみ、またこの国家間の経済的、精神的条件の相異から「国家的対立」が生ずるとしているのであり、その点から言えば、世界連邦や世界的言語の成立のきめ手を見出すことさえも困難になる筈であった。
ではこのような難点を知りながら、北は何故、世界連邦構想に固執しようとしたのであろうか。ここで我々は彼の帝国主義批判の問題に眼をむけなければならなくなる。つまり、『国体論』においては、帝国主義は人類進化を阻害するという側面から捉えられているのであり、従って北が自らの進化論に忠実であろうとすれば、いかに難点の多いものであったにしても世界連邦構想を打出して、帝国主義否認の原則的立場を堅持しなくてはならなかったと考えられるのである。かつての彼は帝国主義を次のように批判していたのであった。「帝国主義の終局なる夢想は一人種一国家が他の人種他の国家を併呑抑圧して対抗する能はざるに至らしむる平和にあり。……今日までに行はれたる国家競争が征服併呑の形に於て社会を進化せしめたる―即ち社会学者の所謂同化作用によりて個体の階級を高めて今日までの大国家に進化せしめたるは固より事実なり。故に吾人は帝国主義を以て歴史上社会進化の最も力ありし道程たることを強烈に認識す。而しながら同化作用と共に分化作用あり。外部的強迫力によりて同化するより外なかりし国家競争の進化は他の進化たる分化作用によりて其の同化作用を阻害せられ、又外部よりの同化作用を強迫さるることの為めに分化作用を圧迫せられて社会の進化に於て誠に遅々たりき。─社会主義の世界連邦国は国家人種の分化的発達の上に世界的同化作用を為さんとする者なり。故に自国の独立を脅かす者を排除すると共に、他の国家の上に自家の同化作用を強力によりて行はんとする侵略を許容せず。」と。
ここで北は、帝国主義を他民族に対する征服・抑圧の点で捉え、それが他民族をとり込むことによって同化作用を拡大したことを認めながらも、同時に、そこでは他民族に対する「抑圧」が、同化作用と分化作用との相乗的展開を阻害することになると批判しているのである。彼はこの点について具体的には説明していないが、そこには、階級闘争論において展開した論理が前提されていたとみることができる。すでにふれたように1)北は『国体論』において、階級闘争の効果は「模倣と同化とによりて下層階級の上層に進化して上層階級の拡張することに在り」と述べているのであり、同化・分化の観点から言えば、闘争による生活条件の向上が下層階級の分化をうながし、そこから上層へ同化しようとするエネルギーが生れる、という形で階級闘争を捉えていたと言うことができよう。
   1) 本稿(1)、人文学報、36号
つまりそこには、生活条件の向上が個人生活の充実をもたらすとともに(=分化的発達)、階級意識は消滅に向い同化作用が強化されるという図式が用意されているのであり、同化作用の基盤としては分化的発達が、さらにその分化的発達を生み出す条件としては生活条件の向上が想定されているわけである。従ってこの図式から言えば、帝国主義は同化作用の枠組を拡大するだけで、それを動かす原動力としての、下層階級=被支配民族の生活条件の向上を阻止している点で批判されなければならないこととなる。つまりさきの引用に示されている帝国主義の批判は、次のように言いかえることができよう。すなわち、帝国主義の支配は、その「抑圧」に対する被支配民族の抵抗によって同化作用の展開を阻害されるとともに、被支配民族の生活条件の向上=その「分化的発達」をはばみ、彼等の支配民族に向っての上昇=下からの同化作用のエネルギーを失わせるものにほかならないと。
従って『国体論』における北の「世界連邦論」は、こうした帝国主義の弊害を除去するために、征服と抑圧による同化という方向を否定して、まず「国家人種の分化的発達」を先行させ、その上で「世界的同化作用」の実現をはかろうとするものであったと言えよう。北を世界連邦論の方向につき動かしていった決定的な契機は、このような進化論的帝国主義批判にあったと考えられるのである。
しかし同時に、このような進化論にもとずく帝国主義批判にとっては、民族の国家的独立という問題は、第二義的な意味しかもっていなかったことに眼をむけておく必要があろう。
たしかに北はその世界連邦論においては、さきに引用したように、「自国の独立を脅かす者を排除すると共に、他の国家の上に自家の同化作用を強力によりて行はんとする侵略を許容せず」と主張していた。しかしすでにみてきたような彼の文脈から言えば、ここでの「独立」の擁護は、国家、民族の分化的発達を促すための1つの手段・政策の主張にほかならなかったとみるべきであろう。生活条件の向上を同化作用の推進力とみる彼の進化論から言えば、民族の国家的独立は、帝国主義に抵抗し生活条件の維持・向上をはかるという役割を与えられたとしても、やがては同化作用の拡大とともに、世界社会のなかに融解してゆくべきものである筈であった。つまりかつての「民族の国家的独立」の主張は、彼の進化論上の要請を満しうる他の手段方法が見出されれば、それによって代置されることが可能であるような、帝国主義批判のあり方に附随した命題にすぎなかったと言える。言いかえれば、『国体論』における世界連邦構想は、これまでみてきたような、特殊な進化論的帝国主義批判によって支えられているのであり、この支柱がとりはらわれれば直ちに崩壊せざるをえない性格のものなのであった。
といっても、『改造法案』における北が、帝国主義の全面的肯定に逆転したというのではない。彼は帝国主義に対する批判的観点を維持しながらも、同時に帝国主義的膨張力を再評価しようとする方向に転じていったのであった。この転換はまず、帝国主義の平和的解消という構想を非現実的なものとしてしりぞけ、帝国主義を打倒する現実的な力を模索するという形で始められたことであろう。つまり彼の帝国主義批判は、現に世界の強国という形で存在している帝国主義の支配体制を、どのような方法で、どのような現実的な力によって解体してゆくのかという新たな問題を中心として展開されることになるのであった。 そしてその現実的な力とは、彼の論理から言えば、現に存在する特定の国家の軍事力に求めるほかはなかった。彼は自国・日本をこの特定の国家たらしめんとするに至るのである。  
平和的な方向から軍事的な方向へのこの発想の転換によって、世界連邦構想はたちまちのうちに消滅し、かわって「国際的戦国時代」という現状把握が登場することになるのであった。『支那革命外史』において「支那保全」のために主張された対英・対露戦争は、この新たな観点から言えば、既成帝国主義を攻撃する人類進化のための戦いとして意義づけられることになる筈であった。
しかしこの構想を成り立たせるためには、帝国主義を攻撃し解体する特定の国家が、人類進化の担い手たりうる国家であることが必要となる。それが従来の帝国主義と同質の国家にすぎないならば、たんに帝国主義相互間の戦争がくり返されるにとどまり、進化のための新たな段階への展望は閉ざされざるをえない。ここで北は、そのなかで異民族が同化してゆけるような国家のあり方を構想することによって、この論理的要請に応えようとしたのであった。北における「国家改造」とは、まさにこうした進化の担い手たりうる国家をつくりあげるということにほかならなかった。
彼は『改造法案』の末尾に「改造セラレタル合理的国家が国際的正義ヲ叫ブトキ之レニ対抗シ得ベキ一学説ナシ」と書いているが、この「合理的」とは、彼が想定した進化の過程を促進する力を持つものといった意味に解することが出来よう。そして人類の進化を神に至る倫理的な過程として捉えている彼の立場から言えば、この「合理的国家」が武力によって次々と他民族を自己の内部にとり込んで来ることは、倫理的行為として全面的に肯定されることになる筈であった。 
13 国内改造の基本構想

 

北の『改造法案』が、この時期に流行した改造論議のなかで特異な地位を占めているのは、国内組織の改造によって対外的膨張のための正義が獲得されると主張し、2つの問題を分ちがたく関連したものとして提示したことによっている。そしてそれは、第一次大戦後の状況を、国民精神の弛緩として捉えていた国家主義者たちにとって、国家的使命感を再建する方向を示唆するものとしてうけとられたのであった。
では北は、如何にして内外問題を統一する視点をつくり出したのであろうか。それは根本的には、国家社会と個人との間に想定した進化のあり方をそのまま拡大させて、世界史の問題まで一貫してとらえようとする方法にもとずいているのであるが、『改造法案』に即して言えば、より直接的に、国家関係をも国内社会をも同時に裁き得る「正義」を提示することによって、統一的視点を基礎ずけようとしたのであった。
彼は自らの「正義」を次のように規定する。「正義トハ利己卜利己トノ間ヲ劃定セントスル者。国家内ノ階級争闘ガ此ノ劃定線ノ正義二反シタルガ為ニ争ハルル如ク国際間ノ開戦ガ正義ナル場合ハ現状ノ不義ナル劃定線ヲ変改シテ正義ニ劃定セントスル者ナリ」と。では「利己卜利己トノ間」は如何に劃定せらるべきなのか。彼は「英国ハ全世界二誇ル大富豪ニシテ露国ハ地球北半ノ大地主ナリ。散粟ノ島嶼ヲ劃定線トシテ国際間二於ケル無産者ノ地位ニアル日本ハ正義ノ名二於テ彼等ノ独占ヨリ奪取スル開戦ノ権利ナキヤ」とつづける。つまり土地・資源や経済的利益を独占して、他民族の生活向上の道を阻害することが「不義」だということになる。そこでは、かつては自国の同化作用を他国に強制することを非難する形で展開されていた帝国主義批判が、物質的・経済的利益の独占への非難、国際的大富豪・大地主批判におきかえられているのをみることができる。そしてこの転換によって、革命後のロシアをも敵視することが可能になっていた。「支那ヲ併呑シ朝鮮ヲ領有セントシタルツアールノ利己ガ當時ノ状態二於テ不義ナリシ如ク、廣漠不毛ノ西比利亜ヲ独占シテ他ノ利己ヲ無視セントスルナラバ、レニン政府ノ状態亦正義二非ズ」と。
『改造法案』の第一の特徴は、この「不義」の現状を打破するために、国家は「開戦ノ積極的権利」を有すると主張した点にあった。そしてその基礎になっているのは、前節で引用したような、「経済的境遇の甚しき相違」を克服しなければ世界的同化作用は進展しないという考え方にほかならなかった。しかし彼はここで、諸民族の経済的条件の平等を主張しているわけではなかった。彼は「開戦ノ積極的権利」を3種に分け、第一には自己防衛のための開戦、第二には「不義ノ強カニ抑圧サルル他ノ国家又ハ民族ノ為二」する開戦をあげたあと、第三の場合について次のように述べている。「国家ハ又国家自身ノ発達ノ結果他二不法ノ大領土ヲ独占シテ人類共存ノ天道ヲ無視スル者二対シテ戦争ヲ開始スルノ権利ヲ有ス」と。
ここで北が「国家自身ノ発達ノ結果」と言うのは、国家の対外的膨張力の充実した場合を想定していたと考えられるのであり、彼は曰本については、急激な人口増加をもって積極的開戦を正当化する根拠にしようとしていた。すなわち彼は『改造法案』緒言において「我曰本亦五十年間ニ二倍セル人口増加率ニヨリテ百年後少クモ二億四五千万人ヲ養フヘキ大領土ヲ餘儀ナクセラル」と述べ、また「開戦ノ積極的権利」の註においては「如何ナル豊作ヲ以テストモ日本ハ数年ノ後二於テ食フベキ土地ヲ有セズ。国内ノ分配ヨリモ国際間ノ分配ヲ決セザレバ日本ノ社会問題ハ永久ニ解決サレザルナリ」と主張していた。そして「当面ノ現実問題トシテ濠州又ハ極東西比利亞ヲ取得センガタメニ其ノ領有者ニ向テ開戦スルハ国家ノ権利ナリ」というのである。言いかえれば資源不足のためその民族的活力を十分に発揮しえなくなった国家は、他の国家の遊休(あるいは十分に活用していない)資源を奪うことができるという論理である。そして彼はそのような国家を「国際的無産者」と表現する。「国際的無産者タル日本ガ力ノ組織的結合タル陸海軍ヲ充実シ、更ニ戦争開始ニ訴テ国際的劃定線ノ不正義ヲ匡スコト亦無條件ニ是認セラルベシ」と。
北の言う「正義」とは結局のところ、分配的正義とでも言うべきものであり、彼が人類の進化を阻害すると考えているような経済状態を是正することを指している。従ってこの論理から言えば、「国際的無産者」であるというだけで、開戦の積極的権利が生ずることになる。しかしただそれだけのことでは、国際的無産者と有産者との交代がくり返されるだけで、世界史の新しい段階は生れようがない。また「国際的無産者」といっても、 その内部に分配的「不正義」をかかえていたとしたら、戦争の勝利はその「不正義」をより拡大する結果となる筈である。それ故、この「正義」を世界史のなかに貫徹するためには、国家改造によって自国の内部であらかじめ「正義」が実現されていなくてはならないということになる。 そう考えてくると、さきの「国家自身ノ発達ノ結果」という言葉は、国内で正義を実現するまでに発達した国家を指しているとも読めるのである。
とすれば、第三種の「開戦の積極的権利」は、改造実現後の国際的無産者だけに認められる特殊の権利ということになる。つまり、 国際的無産者である日本は、国家的改造さえ行えば、開戦の権利を自由に行使しうる特殊の国家になりうるのだという点に彼の主張の眼目があったと考えられるのである。彼は第一次大戦時のドイツについて、「英領分配ノ合理的要求」も「中世組織ノカイゼル政府」が行えば「不義」のものとなると評し、つづけて「従テ今ノ軍閥卜財閥ノ日本ガ此ノ要求ヲ掲グルナラバ独己ノ轍ヲ踏ムベク改造セラレタル合理的国家ガ国際的正義ヲ叫ブトキ之レニ対抗シ得ベキ一学説ナシ」と述べているのであった。
前節でみたような進化論的発想のうえに、「正義」についてのこのような観点を加えてみると、北の言う「国家的改造」は、次の3つの要請を同時に満すものでなければならないことになる。すなわち、第1には国内における分配的正義の実現であり、第2には対外戦争を遂行し「国際的戦国時代」をのり切るための軍事力の強化であり、第3には、異民族間の同化作用が進展する基盤をつくりあげることであった。
彼はまず改造さるべき国内状況を、大資本家・大地主が「経済的私兵ヲ養ヒテ相殺傷シツツアル」「経済的封建制」と捉える。この点は、「経済的貴族」「黄金大名」が「国家を手段の如く取扱」っているとし、彼等の「資本と土地とを国家に吸収し事実上の政権独占を打破すべし」という『国体論』での主張と変っていない。 すなわち、「現時大資本家大地主等ノ富ハ其実社会共同ノ進歩卜共同ノ生産ニヨル富ガ悪制度ノ為メニ彼等少数者ニ蓄積セラレタル者」であるから、社会に返還させるのは当然だと言うわけである。しかし彼は、少数者への富の集中を排除するために、私有財産制そのものを廃棄することには反対であった。 彼の進化論が、結局は国家に集中されることを予定していたとしても、ともかくも「個人の自由独立」を進化の一つの原動力とみなしていたことはすでに述べたところであるが、彼はこの「自由独立」の基礎を私有財産に求めていたのであった。「個人ノ自由ナル活動、又ハ享楽ハ之レヲ其私有財産ニ求メザルベカラズ」とする彼は、画一的平等の考え方にも反対し「貧富ヲ無視シタル劃一的平等ヲ考フルコトハ誠ニ社会万能説ニ出発スルモノニシテ・・・・・・人ハ物質的享楽又ハ物質的活動其者ニ就キテ劃一的ナル能ハザ」るものだと主張するのであった。
こうした私有財産制擁護の立場から言って、北の改造方針は、富の少数者への集中を結果する経済機構そのものの改変を打出すことは出来なかった。彼は私有に限度を設けることで、黄金大名の解体と私有制度堅持という2つの目的を満足させようとする。つまり経済機構には手をつけず、そこから蓄積されてくる富が一定の限度をこえた場合だけ,その超過部分を国家に納付させようというわけであった。彼はこの限度を、個人財産・土地・資本という3つの側面で具体的金額によって規定している。もっともその金額は、最初の『国家改造案原理大綱』と1923年(大正12)刊行の『日本改造法案』とでは異っているが、その相異をもふくめて彼の主張する私有限度額を一括して表示してみると次のようになる。
           『国家改造案原理大綱』     『日本改造法案』
私有財産限度   国家一人につき 300万円   国民一家につき 100万円
私有地限度     国民一家につき 時価3万円 同右 時価10万円
私人生産業制度   1千万円             1千万円
要するに、『日本改造法案』と改題刊行するにあたって、私有財産限度をひき下げ私有地限度を引き上げているわけであるが、その根拠は明らかではない。しかし1冊の参考書もなく書き上げたという彼の言葉1)からみても、日本経済の現状分析を基礎にした数字だとは考えられないのであり、従ってその改訂も、私人生産業限度を基準とした場合に、他の限度があまりに均衡を失しているという程度の考えにもとずいたものにすぎなかったのではなかろうか。
   1) 「第三回の公刊頒布に際して告ぐ」
『改造法案』の示す国家改造政策の根底をなしているのは、この私有財産限度をこえる部分を無償で国家に納付させるという点であった。すなわち土地・資本については個人或は一家の私有財産限度以内でも納付させられる場合がありうるから、この場合には国家が三分利付公債をもって賠償することにして、私有財産限度を無償納付の基準とする方針を貫こうとしていた。 彼はこの方針を皇室にもあてはめ、「天皇ハ親ラ範ヲ示シテ皇室所有ノ土地山林株券等ヲ国家二下附」し、代りに国庫から「年額三千万円」の皇室費を支出することを主張している。
結局のところ北が画く国家改造の構想は、このような有償・無償で徴集した財産・土地・資本の運用あるいは再配分によって、一方で国家を富強にすると共に、他方では国民の生活条件を、私有財産の強化を軸として向上させてゆくことを基本とするものであった。そしてその基礎となっているのは「大資本ノ国家的統一」という考え方であった。北の経済観は大規模経営の優位という観点に立っており、彼は一定規模以上の経営は国家、それ以下のものは私人というように、経営規模によって国家と私人の領域を分け、 両者を並存させることを主張している。すなわち、「積極的ニ見ルトキ大資本ノ国家的統一ニヨル国家経営ハ米国ノツラスト独逸ノカルテルヲ更ニ合理的ニシテ国家ガ其主体タル者ナリ。ツラスト、カルテルガ分立的競争ヨリ遙カニ有理ナル実証ト理論トニヨリテ国家的生産ノ将来ヲ推定スベシ」とする北 は、銀行省、航海省、鉱業省、農業省、工業省、商業省、鉄道省により、国家自らが大規模経営を行うことを予定する。そして反面、「私人生産業以下ノ支線鉄道ハ之ヲ私人経営ニ開放スベシ」、「塩煙草ノ専売制ハ之ヲ廃止シ国家生産ト私人生産トノ併立スル原則ニヨリテ私人生産限度以下ノ生産ヲ私人ニ開放シテ公私一律ニ課税ス」と規定するなど、 国家経営と私人経営の領域とを明確に区分するための再編成をも要求していた。
北はさらにこの原則を農林部門にも拡大し、「大森林又は大資本ヲ要スヘキ未開墾地又ハ大農法ヲ利トスル土地ハ之ヲ国有トシ国家自ラ其経営ニ当ルヘシ」と規定した。しかしここで注意しておきたいのは、北が土地所有権については私有財産制擁護の立場から原理的に支持しようとはしていなかった点である。彼はここでは土地国有論にも一理あることを認め、土地問題の解決については画一的な原則はないと主張する。「社会主義的議論ノ多クガ大地主ノ土地兼併ヲ移シテ国家其者ヲ一大地主トシテ国民ハ国家所有ノ土地ヲ借耕スル平等ノ小作人タルヘシト言フハ原理トシテハ非難ナシ。之ニ反対シテ露西亜ノ革命的思想家ノ多クハ国民平等ノ土地分配ヲ主張シテ又別個ノ理論ヲ土地民有制ニ築ク者多シ。併シ乍ラ斯ル物質的生活ノ問題ハ或劃一ノ原則ヲ想定シテ凡テヲ演繹スヘキニ非ス。若シ原則トイフ者アラハ只国家ノ保護ニヨリテノミ各人ノ土地所有権ヲ享受セシムルカ故ニ最高ノ所有者タル国家ガ国有トモ民有トモ決定シ得へシト言フコト是ノミ。……則チニ者ノ敦レカヲ決シ得ル国家ハ其国情ノ如何ヲ考へテ最善ノ処分ヲナセハ可ナリトス。」そして日本が「小農法ノ国情」にあるとする北は、土地問題も資本、企業経営の場合になぞらえて処理しようとする。
彼はまず都市の住宅地と農地とを区別する。そして農地については「農業者ノ土地ハ資本卜等シク其経済生活ノ基本タルヲ以テ資本ガ限度以内ニ於テ各人ノ所有権ヲ認メラルル如ク土地亦其限度内ニ於テ確実ナル所有権ヲ設定サルルコトハ国民的人権ナリ」として、農地を資本と同様に扱うことを主張した。しかし都市の住宅地については、私有を認めず、「都市ノ土地ハ凡テ之ヲ市有トス」と規定する。彼はその理由として、都市の地価が騰貴するのは土地「所有者ノ労力ニ原因スル者ニ非スシテ大部分都市ノ発達ニ依ル」ものであり、従って地価騰貴の利益を宅地所有者に与えることはできないと述べている。つまり彼は、都市居住者は市に借地料を支払い、地価の騰貴は借地料の騰貴となって市財政をうるおすという事態を想定しているわけである。
北が土地問題をこのような形でしか考えなかったということは、他の側面からみれば、地主・小作関係解消のための根本的対策を用意していないということを意味してもいた。彼も「熱心ナル音楽家ガ借用ノ楽器ニテ満足セサル如ク勤勉ナル農夫ハ借用地ヲ耕シテ其勤勉ヲ持続シ得ル者ニ非ス」として、自作農化が望ましい方向であることを認め、「皇室下附ノ土地及私有地限度超過者ヨリ納付シタル土地ヲ分割シテ土地ヲ有セサル農業者ニ給付シ年賦金ヲ以テ其所有タラシム」という対策を用意した。しかし彼はそれ以上積極的に地主・小作関係に介入することは考えていなかった。彼は言う。「凡テニ平等ナラサル個々人ハ其経済的能力享楽及経済的運命ニ於テモ劃一的ナラサルカ故ニ小地主卜小作人ノ存在スルコトハ神意トモイフヘク、且社会ノ存立及発達ノ為メ二必然的ニ経由シツツアル過程ナリ」と。
北がこのように小作問題を重要視しなかったことについては、当時労働運動が急激な発展を示していたのにくらべて、農民運動の発展がおくれていたという事情も影響しているかもしれない。しかしより根本的には、国家発展の基軸を、工業生産の拡大とそれを支えるような資本主義的経済活動の全面的展開に求めていることを関連しているように思われるのである。
例えば彼は改造後の国家による大規模経営の発展を極めて楽観的に捉え,「生産的各省ヨリノ莫大ナル収入ハ殆卜消費的各省及ヒ下掲国民ノ生活保障ノ支出ニ應スルヲ得ヘシ。従テ基本的租税以外各種ノ悪税ハ悉ク廃止スヘシ」などと述べている。そしてこの発展は「工業ノトラスト的カルテル的組織ハ資本乏シク列強ヨリ後レタル日本ニハ特ニ急務ナリ。又今回ノ大戦ニ於テ暴露セラレタル如ク曰本ハ自営自給スル能ハサル幾多ノエ業アリ」との指摘からもうかがわれるように、工業の拡大強化を中心とするものと考えられていたのであった。
北の国家改造の目的の1つが、このような強力な工業力によって、軍事力の強化を基礎づけようとすることにあったことは明らかであるが、彼の私有財産制擁護もまた、こうした国家企業の発展を支えるような企業活動、さらにはその基底となる活発な経済活動が私的所有なしには展開しえないとの認識によって性格づけられていた。彼は私人生産業の存在を認める理由の1つとして、「国民自由ノ人権ハ生産的活動ノ自由二於テ表ハレタル者ニツキテ特二保護助長スヘキ者ナリ」と述べているが、このことは彼が、改造後の経済発展を、結局のところ巨大な国家企業を中心とした資本主義的経済関係の全面的展開として促えていたことを示すものと考えられるのである。そして私的所有の擁護にもこうした経済発展の図式との関連によって強弱がつけられていたのではなかったであろうか。彼が都市住宅地の私有制を否定したのは、資本制生産との関連がうすいと判断したからであり、地主・小作関係にさしたる関心を示さなかったのは、それが資本主義的生産関係からはずれたものと考えたからであるように思われるのである。
このことは更に、小作保護策を何1つとりあげなかった北が、労働者保護については多くの頁を割いていることからも裏書きされる。彼の労働政策は、労働の自由、労働者の経営参加、争議の国家統制という3の観点から成り立っていた。まず彼は、「人生ハ労働ノミニヨリテ生クル者二非ズ。又個人ノ天才ハ労働ノ餘暇ヲ以テ発揮シ得へキ者ニアラズ」とし、「国民二徴兵制ノ如ク労働強制ヲ課」すことに反対する。そしてそれと対応する形で、「労働賃銀ハ自由契約」という原則を立てる。この点については「自由契約トセル所以ハ国民ノ自由ヲ凡テニ通セル原則トシテ国家ノ干渉ヲ背理ナリト認ムルニ依ル。等シク労働者ト言フモ各人ノ能率二差等アリ。特二将来日本領土内二居住シ又ハ国民権ヲ取得スル者多キ時国家ガー々ノ異民族ニツキ其ノ能率卜賃銀トニ干渉シ得へキニ非ズ」と説明されているが、その根底には次のような自由観が前提されているのであった。すなわち彼は「国民ハ平等ナルト共二自由ナリ。自由トハ則チ差別ノ義ナリ。国民ガ平等二国家的保障ヲ得ルコトハ益々国民ノ自由ヲ伸張シテ其ノ差別的能力ヲ発揮セシムル者ナリ」と述べているのであり、自由を個々人の能力・条件のちがいを通じて実現さるべきものと捉えていたことは明らかであろう。
彼は国家改造後には、このような各人の能力に応じた賃金が自由契約で実現されると考えており、「現今二於テハ資本制度ノ圧迫ノ下二労働者ハ自由契約ノ名ノ下二全然自由ヲ拘束セラレタル賃金契約ヲナシツツアルモ改造後ノ労働者ハ真個其ノ自由ヲ保持シテ些ノ損傷ナカルベキハ論ナシ」と断じているが、その根拠は明らかにされていない。彼は労働市場の問題には全く言及していないが弱者保護政策及び、労働者の権利の強化によって、おのずから労働市場での地位も改善されると楽観的に考えていたのではあるまいか。
労働者の権利としては15歳(改題刊行後は16歳)以下の幼年労働の禁止、8時間労働制を基礎とし、その上で純益配当の護得・労働者代表の経営計画及び決算への干与などを認めようとしている。つまり労働時間は国家企業、私企業を通じて一律に8時間制とし、さらに日曜祭日の休業日分の賃銀をも支払う。利益配当は私企業の場合には、純益の2分の1を労働者側に配分し、国家企業の場合には、それに代るべき半期毎の給付を行うというのである。利益配当の考え方は、「労働者ノ月給又ハ日給ハ企業家ノ年俸卜等シク作業中ノ生活費」であり、企業活動は両者の協同によるものであるから、利益は折半とするのが当然だというものであった。しかし国家企業の場合には、全体的観点から損失をかえりみずに投資を行う場合も多いのだからこの原則をあてはめるわけにはゆかないとされ、経営参加についても、「事業ノ経営収支決算二干与スル代ワニ衆議院ヲ通シテ国家ノ全生産二発言スベシ」という間接的な形態が考えられていた。
北は労働者を「力役又ハ智能ヲ以テ公私ノ生産業二雇傭セラルル者」と規定し「軍人官吏教師等」を労働者の範囲から除いたうえで、これらの原則は農業労働者を含めた全労働者に適用されるべきものだと主張した。すなわち「農業労働者ハ農期繁忙中労働時間ノ延長二応シテ賃銀二加算スベシ」とし、経営計画及収支決算への干与についても「農業労働者卜地主トノ間亦レニ同ジ」と規定している。しかし、この小作人よりも農業労働者の方をより重く保護するという北の考え方は、農業人口が全人口の過半を占め、そのなかで小作経営が圧倒的な比重をもっているという当時の日本の状況にそぐわないものであった。小作争議が激発しつつあった改題刊行時には、彼もその点を考慮したのであろう、労働者がその雇傭される企業の株主たりうる権利を設定すると共に「借地農業者ノ擁護」について次のような規定を追加した。すなわち「私有地限度内ノ小地主二対シテ土地ヲ借耕スル小作人ヲ擁護スル為メ二、国家ハ別個国民人権ノ基本二立テル法律ヲ制定スベシ」というのであるが、この場合も「小地主対小作人ノ間ヲ規定シテ一切ノ横暴脅威ヲ抜除スベキ細則ヲ要ス」と註しているように、むしろ農村における秩序維持の観点が、優位していたと思われるのである。そこには小作権・争議権といった考え方を見出すことは出来ない。
これに対し北は、労働者に対しては改造完成までの間には労働争議を「国民ノ自衛権」として容認しようとする立場にたっている。すなわち「同盟罷工ハエ場閉鎖ト共二此ノ立法二至ルヘキ過程ノ階級闘争時代ノ現象ナリ。永久的二認メラルヘキ労働者ノ特権二非ルト共ニー躍此改造組織ヲ確定シタル国家二取リテハ断然禁止スベキ者ナリ。但シ此ノ改造ヲ行ハスシテ而モ徒二同盟罷工ヲ禁圧セントスルハ大多数国民ノ自衛権ヲ蹂躙スル重大ナル暴虐ナリ」というわけであり、過渡的権利としてではあれ労働者の争議権を認めようとしていた。もちろんそれは労働運動の擁護を意味しているわけではなく、争議当事者は労働省の裁決に服さねばならないとされる。ただその場合には「此裁決ハ生産的各省私人生産者及ヒ労働者ノー律二服従スベキ者ナリ」とし、私企業ばかりでなく国家企業の経営者である各省もまた、一律に労働省の裁決に服さねばならないとした点は、この『改造法案』の特色ということが出来よう。なお労働者にあらずと規定した軍人官吏教師等については、巡査が内務省、教師が文部省というように、労働省は関与せずに関係省がその解決をはかることとされていた。
ともあれ、北の『改造法案』は、資本=労働関係を中軸とし、これに国家統制を加えるという形で、国家改造後の国民的秩序を構想していた点で、農本主義者の改造思想と決定的に相違していたといいうるであろう。つまり、北の国家改造思想の基本的性格は、彼の主観では社会主義と考えられたとしても、資本主義の諸原則を肯定したうえで、国家権力による統制・資本の国家への集中をはかろうとするものであり、国家資本主義への方向をめざすにほかならなかったと考えられるのである。
こうした北の資本主義的立場はまた、国民生活の改造における個人主義の主張をともなってあらわれており、この点でも右翼的思想家のなかでは特異であった。それは当時の社会秩序の根幹とされていた家父長的諸制度を否定しようとするものにほかならなかったが、しかし彼はすべての伝統的価値を排除しようとしたわけではなく、その個人主義と伝統の部分的擁護とのからみ合いは、『改造法案』の読者に一種異様な印象を与えたことと思われるのである。
この点は同法案における婦人問題の扱い方に最も端的にあらわれていた。彼はまず「婦人ノ労働ハ男子卜共二自由ニシテ平等ナリ」と宣言し、男女同一の国民教育(裁縫料理育児等の女子だけの特殊課目の廃止)、「婦人ノ分科的労働ヲ侮蔑スル言動」や男子の姦通の処罰やなどを唱える。更に改題刑行の際には、「平等分配ノ遺産相続制」の規定を追加し、「現代日本ニノミ存スル長子相続制ハ家長的中世期ノ腐屍ノミ」と家父長制反対の立場を明確にする。そして彼はここで「合理的改造案ガ必ズ近代的個人主義ヲ一基調トスルコトヲ知ルベシ」と強調したのであった。しかしその反面、彼は「但シ改造後ノ大方針トシテ国家ハ終二婦人二労働ヲ負荷セシメザル国是ヲ決定シテ施設スベシ」と述べ、また「女子ハ参政権ヲ有セズ」と規定する。そしてこの両者を結んでいるのは、個人主義への指向と曰本的伝統としての「良妻賢母主義」とを両立させようとする試みであったと言える。
北は「良妻賢母主義」を日本のよき伝統として捉え、次のように言う。「欧州ノ中世史二於ケル騎士ガ婦人ヲ崇拝シ其春顧ヲ全フスルヲ士ノ礼トセルニ反シ日本中世史ノ武士ハ婦人ノ人格ヲ彼ト同一程度二尊重シツツ婦人ノ側ヨリ男子ヲ崇拝シ男子ノ春顧ヲ全フスルヲ婦道トスルノ礼二発達シ来レリ。コノ全然正反対ナル発達ハ社会生活ノ凡テニ於ケル分科的発達トナリテ近代史二連ナリ、彼二於テ婦人参政運動トナレル者我二於テ良妻賢母主義トナレリ」と。つまり「近代的個人主義」をうけいれるかにみえた北は、ここでは「直譯ノ醜ハ特二婦人参政権問題二見ル」として欧米文化の導入を峻拒するに至るのであり、「国民ノ母国民ノ妻タル権利ヲ完全ナラシムル制度ノ改造ヲナサバ日本ノ婦人問題ハ凡テ解決セラル」と断ずるのであった。  
このように、婦人を政治と労働の分野から切り離しておきたいとする志向は、当時の男性に一般的であったと思われる次のような女性観にもとずくものであった。「婦人ハ家庭ノ光ニシテ人生ノ花ナリ。……特二社会的婦人ノ天地トシテ、音楽美術文芸教育学術等ノ広漠タル未墾地アリ。 婦人ガ男子卜等シキ牛馬ノ労働二服スベキ者ナラバ天ハ彼ノ心身ヲ優美繊弱二作ラズ」。そして彼はこのような女性像の社会的実現のために、女性に扶養の義務を負わせないような制度をつくるべきだと考えた。つまりそのような場合には国家がその負担を肩代りするというのであり、改造による「莫大ナル国庫収入」はそれを可能にするというのであった。
北は国家が荷うべきこの種の負担を次のように規定した。
(1) 児童の権利として国家から養育・教育をうける場合。
   (イ) 「満15歳未満ノ父母又ハ父ナキ児童」
   (ロ) 「父生存シテ而モ父二遺棄セラレタル児童」
(2) 国家が扶養の義務を負う場合
   (イ) 「貧困ニシテ実男子又養男子ナキ60歳以上ノ男女」
   (ロ) 「父又ハ男子ナクシテ貧困且ツ労働二堪へザル不具廃疾」
これらの場合を通ずる原則が「婦人ハ自己一人以上ヲ生活セシムル労働力ナ」しとするものであることは明らかであり、保護者あるいは扶養者としての男子を欠く場合に限られているわけである。それは逆に言えば男性は保護・扶養の責任をまぬがれることが出来ないということであり(例えば子を遺棄した父親は国家から養育・教育費の賠償を請求されることになる)、それを裏付けているのはさきの女性観と表裏をなす伝統的男性観だというのであった。北は「養老年金法案」の如きものを排して「実男子又ハ養男子二貧困ナル老親ヲ扶養セシムルハ欧米ノ悪個人主義卜雲泥ノ差アル者」と強調している。要するに彼は、女性の人格的尊重を説き、家父長制に反対したとは言え、養育・教育・扶養を荷う国民の基本的な生活単位を男子の血縁を軸とする家族に求めていたということができる。
そして更に、家族問題におけるこのような欧米の生活文化への拒絶反応は、教育の分野へと拡大されてゆくことになる。北はまず国民は5歳から15歳まで(改題刊行の際に6歳より16歳に改める)10年間の一貫した「国民教育」を受ける権利をもつと規定する。 そしてそれは国民の権利であるから「無月謝・教科書給付・中食ノ学校支辨」で「日本精華二基ク世界的常識ヲ養成」するものでなければならないとされる。彼がこの「日本精華」を全体としてどう捉えていたかは判然としないが、教育面では次のような提唱となってあらわれていた。
○ 英語ヲ廃シテ国際語(エスペラント)ヲ課シ第二国語トス。
○ 体育ハ男女一律二丹田・鍛治ヨリ結果スル心身ノ充実具足ニー変ス。
○ 従テ従来ノ機械的直譯的運動及兵式訓練ヲ廃止ス。
○ 男女ノ遊戯ハ撃剣柔道大弓薙刀鎖鎌等ヲ個人的又ハ団体的二興味付ケタル者トシ従来ノ直譯的遊戯ヲ廃止ス。
一見すると曰本の伝統的武術の修得を要求しているようにみえるが、彼はこれらはあくまで遊戯であり「精神的価値等ヲ挙ゲテ遊戯ノ本旨ヲ傷クベカラズ。コハ生徒ノ自由二一任スベシ。現今ノ武器ノ前二立チテ此等二尚武的価値ヲ求ムルニ及バズ」と註記しているのであり、ここでの彼の主張の主眼が直譯的形式的教育、更にその根底となる欧米文化の排撃におかれていたことは明らかであろう。彼は最初、英語教育の廃止について、たんに「現代日本ノ進歩二於テ英語国民ガ世界的知識ノ供給者ニアラス又日本ハ英語ヲ強制セラルル英領印度人二非レバナリ」と述べるに止っていたが、『日本改造法案』ヘの改題・刑行にあたつては、それにつづけて、次のような文章を追加しているのであり、それはこの際に行われた修正のうち、最も長文にわたるものであったと言える。  
彼はまず「英語ガ日本人ノ思想二与ヘツツアル害毒ハ英国人ガ支那人ヲ亡国民タラシメタル阿片輸入卜同ジ」と断じ、英語をもって輸入された害毒として、キリスト教・デモクラシー・平和主義非軍国主義などを列挙する。そして「言語ハ直チニ思想トナリ思想ハ直チニ支配トナル」のであるから、「国民教育二於テ英語ヲ全廃スベキハ勿論、特殊ノ必要ナル専攻者ヲ除キテ全国ヨリ英語ヲ駆逐スルコトハ、国家改造ガ国民精神ノ復活的躍動タル根本義二於テ特二急務ナリトス」として、英語文化をより激烈な調子で攻撃するに至っているのであった。
彼はここで、英語文化に代って、日本帝国の膨張に呼応する新たな世界文化の形成について夢想していたに違いない。例えば彼は丹田本位の体育に関して「印度二起リタル亜細亜文明ハ世界ヨリ封鎖セラレタル日本ヲ選ヒテ天ノ保存セラレタル者」と述べている。それは直接には、丹田本位とヨガとの関連を想定していたものであったであろう。しかしその根底で彼は、仏教文明を亜細亜思想の精髄とみ、その伝統が日本文化のなかにうけつがれていると捉えていたのであった。『改造法案』結言において彼は言う。「印度文明ノ西シタル小乗的思想ガ西洋ノ宗教哲学トナリ、印度其ノ者二跡ヲ絶チ、経過シタル支那亦只形骸ヲ存シテ独り東海ノ粟島二大乗的宝蔵ヲ密封シタル者。茲二日本化シ更二近代化シ世界化シテ来ルベキー大戦後二全世界ヲ照ラス時、往年ノ『ルネサンス』何ゾ比スルヲ得ベキ、東西文明ノ融合トハ日本化シ世界化シタル亜細亜思想ヲ以テ今ノ低級文明国民ヲ啓蒙スルコトニ存ス」と。  
つまり北の主観から言えば、彼はたんに文化的伝統の維持を求めたのではなく、曰本文化のなかに密封されている筈のアジア文明を全面的に開花させることによって、新しい世界文明をつくりあげることが出来るという図式を画いたということになるのであった。そして彼は第二国語に採用しようとするエスペラントが、英語文化の排撃と同時に、この新しい文明の担い手たる役割を果すことを期待していたのであった。それは逆に言えば、日本語はそのような役割を果しえない程劣悪だということでもあった。  
「国民全部ノ大苦悩ハ日本ノ言語文字ノ甚タシク劣悪ナルコトニアリ。……言語ノ組織其者ガ思想ノ配列表現二於テ悉ク心理的法則二背反セルコトハ英語ヲ訳シ漢文ヲ読ムニ凡テ日本文ガ転倒シテ配列セラレタルヲ発見スベシ」、とすればこのような「我自ラ不便ニ苦シム国語」を将来拡張した領土内の諸民族に押しつけるわけにはゆかないと北は言う。そしてそこから、合理的組織をもち簡明正確で短曰月ノ修得可能なエスペラントを異民族間の公用語とせよという北の主張が生れる。もしこのことが実現されるならば、劣悪なる曰本語は自然淘汰され「50年ノ後ニハ国民全部ガ自ラ国際語ヲ第一国語トシテ使用スルニ至ルベク、今日ノ日本語ハ特殊ノ研究者二取リテ梵語ラテン語ノ取扱ヲ受」けるに至るだろうと彼は考えるのであった。  
この主張は『古事記』以来の日本語の流れのなかに特殊曰本的なものを求めようとするいわゆる「日本主義者」たちとは決定的に対立するものであったが、おそらくは多くの場合現実性のない妄想として読みとばされてしまったことであろう。しかし北は「言語ノ統一ナクシテ大領土ヲ有スルコトハ只瓦解二至ルマテノ華花一朝ノ栄ノミ」という消極的理由からだけではなく、彼の進化論が想定した世界的同化作用を基礎づけるためにも、この国際語の採用・国語の変革を必須の条件と考えていたと思われるのである。言いかえれば北は、日本語によって保存されているアジア思想を、国際語によって近代化・世界化することを構想していたのであった。
そしてこのような分配的正義と大工業の同時的実現、伝統文化の維持発展と国際語による世界化という二つ基軸によって構成されている国内改造政策を、いかにして実現し、世界に向って拡大してゆくのかということは、政治の任務として北は捉えるのであった。 
14 クーデターの思想

 

北の『改造法案』が当時の国家主義者たちに大きな衝撃を与えたのは、いうまでもなく、「天皇大権によるクーデター」という問題を直截に提起したからにほかならなかった。
北が、『国体論』で展開した議会主義的な社会主義運動論を、辛亥革命とのかかわりのなかですでに棄て去っていたであろうことは、『支那革命外史』における「武断主義」ヘの傾斜のなかからも十分にうかがうことができる。そして北が、中国革命に対応する日本対外政策の「革命的一変」の主張からさらに進んで、それにみあう国家体制全般の変革=国家改造を、昌え始めるとともに、この「武断主義」は「クーデター」論へと結実してゆくことになるのであった。そしてまた『改造法案』の北は、当時の現実の議会を、かつての『国体論』の場合とは逆に、変革のための手段とはなえりず、むしろ敵の掌中にあり、クーデターにより奪取しなければならない敵の城郭と捉え直してくるのであった。
もともと『国体論』における北の議会主義とは、議会に多様な利害の調整と統合の機能を求めようとする本来の議会主義とは異質のものであった。北が議会制度に期待したのは、この制度を通じて国家意識を強化し統合することであった。すでにみたように(本稿(1)参照)、『国体論』では日露戦争からの凱旋兵士が社会主義の担い手に見立てられているのであり、北の議会主義は、日露戦争における「愛国」的団結を、普選の実施によって国家意思にまで高めうるという想定のもとに立てられてたものとも云えた。しかしこうした戦勝気分のなかでの身勝手な 想定が、実は幻想でしかなかったことはすぐさま北にも明らかになったことであろう。
日露戦争後の国内政治の推移を北がどう捉えていたかは明らかではない。しかしそれが北の期待に沿うものではなかったことは確かであろう。大正初頭の政局をゆるがした護憲運動は、軍国主義を批判し、2個師団増設に反対するものであったし、また第1次大戦後、成金景気のなかで、平和主義・自由主義・個人主義の風潮が高まっていったことも繰返すまでもないところであろう。北はこうした状況を国家意識が上下から解体してゆく危機であり、選挙→議会という活動方法によってはこの危機は打開できないと捉えたのであった。
『改造法案』緒言は次のように書き出されている。「今ヤ大日本帝国ハ内憂外患並ビ到ラントスル有史未曾有ノ国難二臨メリ。国民ノ大多数ハ生活ノ不安二襲ハレテ一ニ欧州諸国破壊ノ跡ヲ学バントシ、政権軍権財権ヲ私セル者ハ只龍袖二陰レテ惶々其不義ヲ維持セントス」。つまり彼は、私利私欲のために権力を利用する支配層と、国家を離れ、むしろ国家を破壊する方向するに走ろうとする国民との双方に、危機を深化させる要因を見出していたのであった。彼が「欧州諸国破壊ノ跡ヲ学バント」する国民について語るとき、彼の脳裡には、第1次大戦におけるロシアやドイツの、革命連動による「内部崩壊」の姿が画かれていたことであろう(本稿(3)参照)。しかし、国家意識の強化こそ人類進化の方策だと考える北にとって、危機は革命迎動の勃発というロシアやドイツの状況よりもはるか手前の段階で捉えられねばならなかった。
彼は危機の本質について次のように述べる。「経済的組織ヨリ見ルトキ現時ノ国家ハ統一国家二非ズシテ経済的戦国時代クリ経済的封建制タラントス。……国家ハ嘗テ家ノ子郎党又ハ武士等ノ私兵ヲ養ヒテ攻戦討伐セシ時代ヨリ現時ノ統一二至リシ如ク、国家ノ内容タル経済的統一ヲナサンガ為二経済的私兵ヲ養ヒテ相殺傷シツツアル今ノ経済的封建制ヲ廃止シ得ベシ」。これは国民の側の問題として云いかえてみれば、経済的封建制→金権政治による国民の「私兵化」として状況を捉えることにほかならないであろう。そしてこの国民の「私兵化」状況のもとでは、普通選挙を実施しても、議会を辺ずる国家改造の道はありえないというのであった。
1923年(大正12)の『改造法案』改題刊行に際して書き加えた1)国家改造議会についての註において、北は「現時ノ資本万能官僚専制ノ間二普通選挙ノミヲ行フモ選出サルヽ議員ノ多数又ハ少数ハ改造二反対スル者及反対スル者ヨリ選挙賀ヲ得ダル当選者」にほかならないと断じているし、また二・二六事件の軍法会議法廷においては、憲法の3年間停止を主張した理由について、「戒厳令下に於て時局事態を収拾せられるに際し、不忠なるものが憲法に依り貴衆両議会を中心に、天皇の実施せられる国家改造の大権を阻止するを防止する為、論じてあるものであります」2)と述べたといわれる。
   1) この部分は23年の刊本では伏字となっているが<何行削除>と書かれている行数からみて、この刊行の際に書き加えられたものと推定することができる。
   2) 林茂他編『二・二六事件秘録(三)』〈小学館、1971年)
北は、改造過程における議会の排除については、この程度のことしか述べていない。しかし彼はもはや、それがたとえ小数であるにしても、どうしても「私兵化」状況を反映してしまうような選挙→議会の方向に国民の不満を組織しようとは考えなくなっていたことは明らかであった。「由来投票政治ハ数ニ絶対価値ヲ附シテ質ガ其以上ニ価値ヲ認メラレルベキ者ナルヲ無視シタル旧時代ノ制度ヲ伝統的ニ維持セルニ過ギズ」と北が云う時、それは彼が、「経済的諸侯」とその「私兵」の拠点と化した議会、というイメージを更に一般化し、議会制度を、たんに現状を数量的にしか反映しえず、従ってそこから新しい「質」を生み出すことのできないものと評価したことを意味していたことであろう。「経済的維新革命は殆んど普通選挙権其のことにて足る」という『国体論』の観点から云えば、それは明かに180度の転換であったが、しかしそこで変化したのは、北の議会制度観であるよりもむしろ、彼の国民の現状についての認識であったという方が適切なように思われる。つまり、日露戦争直後の北は、国民のなかに望ましい「質」が順調に発展してゆくとみたのであり、それ故にその発展を量的にまとめあげ、国家意思へと媒介してゆく普選=議会制度に期待をかけたのであった。しかし第1次大戦になるとこの彼が発展を期待した「質」が逆に崩壊の道を歩んでいるとみられるのであり、従って、それを前提として成立しいていた彼の議会主義も、もはや無用のものとして棄てられていったとみることができよう。
北の唱える国家改造とは、なによりもまずこの崩壊に瀕した「質」を、かつて彼が期待した以上の強さに再建することをめざすものと云えた。そして彼は『改造法案』においてはこの「質」を端的に「国家主義」として提示したのであった。同書の「結言」は次のように云う。「マルクスの如キハ独乙ニ生レタリ雖モ国家ナク社会ヲノミ有スル猶太人ナルガ故ニ其ノ主義ヲ先ツ国家ナキ社会ノ上ニ築キシト雖モ、我ガ日本ニ於イテ社会的組織トシテ求ムル時一ニ唯国家ノミナルヲ見ルベシ。社会主義ハ日本ニ於イテ国家主義其ノ者トナル」と。『国体論』における「社会主義」をここで思い切って「国家主義」に書きかえたのは、世界的大帝国へと向う彼の目標の膨張に相応ずるものだったことは明らかであろう 1)。そして彼が国家改造によってうち立てようとしたのは、この目標への軍事的過程を担いうる軍国的国民組織にほかならなかった。前にもふれたように彼は『改造法案』を「日本帝国を大軍営の如き組織となすべしと謂う精神を以て記載した」2)のであった。では彼はこの「大軍営」に至る「国家主義」を如何にして再建強化しようというのであろうか。
   1) しかし北は、23年の改題刊行にあたってこの部分を削除してしまっている。その理由は明らかではないが、第1には、この社会主義=国家主義の主張が、自らの理論の特異な印象をうすめることをおそれたのではないか、第2には、国家なきユダヤ社会という問題を出すことによって、読者を改めて国家と社会の関連という問題に立ち戻らせることを避けようとしたのではないか、といった臆測をめぐらすことも可能であろう。
   2) 2・26事件憲兵隊調書
結論から云えば、北はここでまず「天皇」を持ち出し、そこから国家改造の政治方策を組みあげていった。しかし彼は状況認識だけから云えば、反対の結論を引き出すことも可能であったはずである。すなわちさきにあげた「政権軍権財権ヲ私セル者」が「只龍袖二陰レテ惶々其不義ヲ維持」しているという認識からすれば、彼等を「龍袖」にかくし「其不義ヲ維持」せしめている「天皇」をも、彼等の支配の根柱として追及し、その打倒を唱える方が素直な結論というべきものであろう。 あるいはまた、「クーデターハ国家権力則チ社会意志ノ直接的発動ト 見ルベシ。其ノ進歩的ナル者二就キテ見ルモ国民ノ団集其者二現ハル、コトアリ。奈翁レニンノ如キ政権者ニヨリテ現ハル、コトアリ」という彼のクーデターの定義から云えば「挙国一人ノ非議ナキ国論ヲ定メ」うるならば、クーデターは天皇の権威なしに正当化されうるはずであった。しかし北は逆に「天皇ハ国民ノ総代表タリ、国家ノ根柱タルノ原理主義」を叫び始めるのであった。
北のこの天皇論を支えているのは、歴史的に形成された国民精神を中核に据えることなしには、国家主義を確立することは出来ないとする論理であり、彼は日本においてはその中核は天皇以外にありえないとするのであった。『国体論』において明治天皇を維新の英雄とする理解を示し、『文那革命外史』において、 国民信仰の伝統的中心である天皇を変革の基軸とすることのできた明治維新を革命の理想型であると主張した北にとって、天皇中心主義はもはや信念の域に達して始めていたのでもあろうか。「神武国祖ノ創業明治大帝ノ革命二則リテ宮中ノ一新ヲ図リ」などとあえて「神武国祖」までをもとりあげていわゆる国体論的天皇信仰との妥協を図ろうとする姿勢さえとりはじめる北であった。
「国民ノ総代者ガ投票当選者タル制度ノ国家ガ或ル特異ナル一人タル制度ノ国ヨリ優越ナリト考フルデモクラシーハ全ク科学的根拠ナシ。国家ハ各々其国民精神卜建国歴史ヲ異ニス」。 しかし北は、「国民精神ト建国歴史」を基礎にして、改めて天皇を国民の総代表にしなければならないというのではなかった。そうした天皇の根本的性格はすでに明治維新において出来あがっているというのが彼の主張するところであった。「此時(維新革命)ヨリノ天皇ハ純然タル政治的中心ノ意義ヲ有シ、此国民運動ノ指揮者タリシ以来現代民主国ノ総代表トシテ国家ヲ代表スル者ナリ。即チ維新革命以来ノ日本ハ天皇ヲ政治的中心トシタル近代的民主国ナリ」との『改造法案』の叙述は、明治維新についての北の解説であり、「維新に帰れ」との叫びであったと読む外はない。彼は、維新における天皇は、国家意識にめざめた倒幕運動に参加し、それを指導することによって小家長君主から近代公民国家の政治的中心に転身したと理解しているのであり、国家改造の第一の課題は、この天皇の政治的本質をおおいかくし、天皇と国民の間に立ちはだかり肥大化していった支配層を打倒するために、彼の理解する維新を再度実現することにおかれたのであった。『改造法案』の主張するクーデターとは、維新革命の再現により、天皇に国民の総代表たる地位を回復させることによって、国民の国家主義への再編成をめざすものであったと云いかえることが出来るであろう。
しかし、この天皇=総代表論でゆけば、まず国民の側で天皇に代表さるべき「社会意志」を形成することが前提でなければならない。「日本ノ改造二於テハ必ズ国民ノ団集卜元首トノ合体ニヨル権力発動タラザルベカラズ」、「挙国一人ノ非議ナキ国論ヲ定メ、全日本国民ノ大同団結ヲ以テ終二天皇大権ノ発動ヲ奏請シ、天皇ヲ泰ジテ速力二国家改造ノ根基ヲ完ウセザルベカラズ」。打倒すべき支配層の城郭の奥深くに鎮座する天皇と、「国民ノ団集」とは如何にして「合体」することが出来るというのか。『改造法案」は、だから「ク ーデター」が必要なのだと述べるだけで、その具体策については何事も語ってはいない。   おそらく、上海で執筆した当時の北にとって曰本のクーデターのための具体的方策を画くことは困難であったであろうし、また官憲の弾圧を避けるためにも、まず基本的目標を示すにとどめることが有利だと考えられたことであろう。しかし、彼のクーデター論の性格が全くうかがえないというのではない。第1には、彼はクーデターヘの道においても、国民大衆の組織化には関心を示さず、少数のエリートに期待をかけていたとみられる点である。『改造法案』にみられる国民は、さきにみたように、「欧州諸国破壊ノ跡ヲ学パン」とする国民か、「経済的諸侯」に「私兵」化される国民かにすぎないのであり、そこから北の、大衆的エネルギーヘの期待を読みとることはできない。彼は逆に、この著作にかかる直前に満川亀太郎に書き送った書簡「ヴェルサイユ会議に対する最高判決」の末尾において、「数十人の国柱的同志あらば天下の事大抵は成るものと御決意下さい」と述べ、またこの書簡を永井柳太郎・中野正剛・小笠原海軍中将に示すことを依頼しているのであった。ここで彼の云う「国柱的同志」のイメージは明らかでないとは云え、これらの事柄は、彼のクーデター論が、少数のエリートによる上からの国民全体の再編成をめざすものだったことを示しているように思われるのである。もちろんそれは、国民の側の「社会意志」の形成の要請とは矛盾しているようにみえる。しかし、この点については、北は挙国一人の非議なき「筈の」国論の形成でこと足りると考えたのではなかったであろうか。
第2には、北がクーデターの実力部隊として、上級指揮官から離れ、より下級の将校に掌握された「軍隊」を想定していたと思われる点である。彼は国家改造を「天皇大権ノ発動ニヨリテ三年間憲法ヲ停止シ両院ヲ解散シ全国二戒厳令ヲ布ク」という状態のもとで実現するのだと主張した。云うまでもなく戒厳とは、統治権が軍隊の掌握下におかれることを意味する。従ってこの軍隊が国家改造に反対するならば、クーデターはたちまちのうちに崩壊せざるをえないであろう。しかも、クーデターはこれまでの軍首脳部の排除をもめざしているのである。「改造内閣員ハ従来ノ軍閥吏閥財閥党閥ノ人々ヲ斥ケテ全国民ヨリ広ク偉器ヲ此任ニ当ラシム」。 ここでは「軍閥」は斥けるべきものの飛頭にかかげられているのであり、そのためには、従来の指揮命命令系統は切断されなければならない。ここで北が、辛亥革命から得た「革命運動が軍隊運動ならざるべからざる活ける教訓」をその基礎においていたことは明らかであろう。すでにみたように『支那革命外史』における北は、大隊長以上とは結托しないという原則のもとに、軍隊との述絡を確立し、叛逆の剣を統治者の腰間より盗み出した辛亥革命の姿をみ、さらに維新討幕の志士たちの上にも想いをはせたのであった。「維新革命に於て薩長の革党が其藩内の幾政争に身命を賭して戦ひしは蝸牛角上の事に非ず。其の藩候の軍隊を把握せずんば倒幕の革命に着手する能はざりしを以てなり」。この点でもまた国家改造のクーデターは、北にとって、維新の再現と捉られていたことであろう。要するに、彼自身によっては書かれることなく終ったクーデターの構想は、こうした「国柱的同志」と軍隊を掌握した下級将校との連携を軸とするものであったと考えられるのである。
しかし、この軍隊掌握の問題は、『改造法案』の場合には、たんにクーデターのための武力というにとどまらず、国民組織の基軸に据えられている点に特徴がみられた。まず第1に、北は、在郷軍人団をして土地・私有財産の調査とその限度超過額の徴収にあたらせることを予定する。もちろんそこでは従来の階級を否定し、「在郷軍人ノ平等普通ノ互選ニヨル在郷軍人会議」を開いて、 在郷軍人団そのものを改造することが前提とされているのではあるが、同時にまた、軍隊による在郷軍人の指導という側面をそのままうけつごうとするものであったことも明らかであった。在郷軍人組織は日露戦争後、軍隊、さらには天皇制そのものの社会的支持基盤として全国的に拡大されてきたものであるが、北はこの組織化に依拠すると共に、さらにそれを国民組織の中核に再組織しようとするのであった。云いかえれば、彼は軍隊生活で養われた軍国的愛国精神を国民組織の基軸たらしめようと考えたとも云える。「在郷軍人ハ嘗テ兵役二服シタル点二於テ国民タル義務ヲ肢そ多大二果タシタルノミナラス其ノ愛国的常識ハ国民ノ完全ナル中堅タリ得ベシ。且其大多数ハ農民卜労働者ナルガ故二同時二国家ノ健全ナル労働階級ナリ。……在郷軍人団ハ兵卒ノ素質ヲ有スル労働者ナル点二於テ労兵会ノ最モ組織立テル者トモ見ラルヘシ」。
北が、「現時ノ日本ハ充実強健ナル壮者ナリ。……古今ヲ達観シ東西ニ卓出セル手術者アラバ曰本ノ改造ノ如キ談笑ノ間二成ルヘシ」として国家改造に極めて楽観的態度を示したのは、在郷軍人に「既ニー糸紊レサル組織アルカ故」と云う極めて安易な評価を基礎とするものであった。それは−面から云えば、天皇の権威をもってすれば、軍隊―在郷軍人組織の基底部分を「一糸紊レザル」ものとしてそのまま利用しうるとする安易さであり、「日本ノ国体ヲ説明スルニ高天ケ原的論法ヲ以テスル者」を排斥しながら、高天ケ原的国体論による組織化に依拠しようとする矛盾を示すものでもあった。かつての国体論批判の成果は、『改造法案』においては、「天皇」を国民の総代表とする論理を基礎ずけるだけのものとなり、 高天ケ原的国体論との闘争は実際上放棄されたとみるほかはない。
在郷軍人評価の安易さは、別の面からみれば、軍隊生活の体験が労働者・農民としての生活に優位するという単純な想定となってあらわれている。それはまた、労働者農民の階級闘争が、軍隊体験を解体してしまうまでには激化していないという情勢判断を基礎としているとも云えよう。さきにあげた、現時の日本は「充実強健ナル壮者」だとする評価は、云いかえてみれば、階級闘争がそれを軍事力で圧伏しなければならない程には激化していないとの判断を示すものにほかならなくなる。従って、改造過程における在郷軍人団の登用は、たんにそれが軍隊の延長としての性格をもっているとの消極的側面からだけではなく、そうした「団」としての活動によって、軍人意識を再強化し、労働者農民の生活者としての意識を圧伏し非主体化することをねらったものと云える。結局のところこの軍隊=在郷軍人を軸とする国民の再組織とは、階級闘争をその出発点で解体することを意図するものにほかならず、北を日本ファシズムの先駆とする評価は、この問題にかかわるものであった1)。
   1) 『改造法案』が「在郷軍人」書いたのは、検閲を顧慮したもので、実は「現役軍人」を指しているのだとする説が、最近においても、松木清張氏の『北一輝論』(講談社、1976年)によって援用されているが、そうした見方は、クーデターの政権奪取の側面だけに固執しすぎているのではあるまいか。北は、クーデターにおける現役軍隊を暗黙の前提とし、そのうえで在郷軍人に独自の役割を負わせていると私は読むのであり、そうでなければ、北の国民再組織の意図を読み落すことになると考えるのである。
こうした北の軍国的国民再組織論は、その基底となる徴兵制を堅持・強化すると同時に、軍隊生活に一定の改造を加え、国民生活の模範たらしめようとする意図を生み出すことになった。彼はまず「国家ハ国際間二於ケル国家ノ生存及ヒ発達ノ権利トシテ現時ノ徴兵制ヲ永久二亙リテ維持ス」と宣言する。もっとも、この「国家」は、日本帝国を指して居り、彼はここで、如何なる兵役制が適するかは、それぞれの国の建国事情や国民的信念にかかわる問題だとの主張を展開している。すなわち植民者の契約的結合から生じた米国や、社会契約的信念の普及している英国の場合には、契約にもとずく傭兵制の方が適しているが、日本の場合には事情が全く異っていると北は云う。「日本国民ノ国家観ハ国家ハ有機的不可分ナルー大家族ナリト云フ近代ノ社会有機体説ヲ深遠博大ナル哲学的思索ト宗教的信仰トニヨリ発現セシメタル古来一貫ノ信念ナリ。徴兵制度ノ形式ハ独仏二学ヒタルモ徴兵制度ノ精神タル国民皆兵ノ義務ハ中世封建ノ期間ヲ除キテ上世建国時代二発源シ更二現代二復興シテ漲溢シツゝアル国民的大信念ナリ」。
北はこの国民的信念にもとずく兵役制度を基礎とすることによってはじめて国家の発展が可能になると考えているのであり、従って次には、この国民的信念から逸脱する思想・信仰の自由を厳しく拒絶するのであった。「将来クエーカー宗ノ如キ又浅薄ナル非戦論ノ如キヲ輸入シテ徴兵忌避ヲ企ツル者アラバ刑罰ハ断々トシテ其ノ最モ重キ者ヲ課シテ可ナリ」と北は云う。そして彼は、こうした徴兵制度の徹底化と共に、軍隊生活における平等化をすゝめることで、軍隊を国民生活の中心に位置づけようとするのであった。彼は、高等教育履修者に対する例外措置としての徴兵猶予や1年志願兵制度を廃止すること、現役兵には国家が俸給を、給付して家族の生活を保証することなどを主張すると同時に、「兵営又ハ軍艦内二於テハ階級的表章以外ノ物質的生活ノ階級ヲ廃止」することを要求した。 彼がこの條項につけた註では、「物質的生活」は飲食のことについて述べられているだけであるが、ともかくも北は、私有財産を基礎にした自立した国民生活の中核部分に、こうした物質的平等の軍隊生活を組み入れることによって、そしてまたその両者を在郷軍人団によって結び合わせるという形で、国求改造によってつくり出すべき国民編成を方向づけていたと云うことができる。そして、政治機椛の改造もそれと見合った形で構想されたのであった。
北は、改造政策尖行のための中心機関としては、国家改造内閣、在郷軍人団、国家改造議会という3種の組織を考案しているが、そこに彼が暗黙の前提としていた筈の軍隊を加えてみると、改造内閣→軍隊→在郷軍人団という形で政策が実施され、その成果は在郷軍人団を軸とする国民の組織化として改造議会に吸収される、そしてそこから国民の合意が改造内閣にもたらされる、という政治過程が予定されていたとみることができる。そしてこの過程が安定したところで、憲法を改正し、クーデターの過程は完了することになるのであった。「天皇ハ第3期改造議会マデニ憲法改正案ヲ提出シテ改正憲法ノ発布卜同時二改造議会ヲ解散ス」と『改造法案』は規定した 1)。
   1) この規定は、23年の改題刊行の際に削余されてしまっているが、この点については後の機会に触れることにしたい。
以上みてきたことを要約すれば、北の国家改造とは、分配的正義と大国家産業の同時的実現、伝統文化の維持発展と国際語による世界化、天皇を中心とし「日本国民本有ノ国家有機体的信仰」を軸とする国民の軍国的編成という三つの課題を遂行しようとするものであり、またこれだけの課題が実現できれば、他民族を同化し世界的大帝国を建設することが可能になるというのであった。それは云いかえれば、『改造法案』に提示された諸方策を植民地・新領土にも普及・実施してゆくことが、大帝国を基礎づけることになるということでもあった。
北はまず、日本内地と同じ私有限度の原則を、日本人と現地人とに対し差別なく平等に実施してゆくことが、植民地統治の根本であることを強調する。「私有財産限度、私有地限度、私人生産業限度ノ三大原則ハ大日本帝国ノ根本組織ナルヲ以テ現在及将来ノ帝国領土内二拡張セラルヽ者ナリ」。そしてこの内外にわたる同一原則の実現は、植民地における日本人の横暴をおさえるとともに日本の「正義」を示すことになると北は考えるのであった。そしてこの三大原則の実現した後に、他の諸政策の実施に移り、参政権など、日本人と同一の権利を与え、同一の日本国民たらしめることを予定した。具体的には、朝鮮・台湾・樺太などの現有の植民地に対しては、日本内地の改造を終り戒厳令を撤廃すると同時に三大原則の施行に着手し、その後10年乃至20年の間に地方自治権、参政権など内地人と同一の生活権利を与えてゆくという曰程が掲げられた。そしてその後に獲得した新領土に対してもその文化程度に応じて改造方針を実施するというのであり、 従ってこの改造完了後には、日本人と異人種異民族とは同一無差別なる権利を有する日本国民になるというのであった。そしてさきに触れたように(本稿(4)参照)そこではエスペラントが通用している筈であった。
それこそ進化論上の先進国ではないか、と北は云いたかったのであろう。彼は日本の将来の姿を次のように画き出している。「将来ノ新領土ハ異人種異民族ノ差別ヲ撤廃シテ日本自ラ其ノ範ヲ欧米ニ示スベキハ論ナシ。濠州ニ印度人種ヲ迎ヘ、極東西比利亜ニ支那朝鮮民族ヲ迎ヘテ先住ノ白人種トヲ統一シ、以テ東西文明ノ融合ヲ支配シ得ル者地球上只一ノ大日本帝国アルノミ。従テ此ノ改造組織ヲ其等ノ領土ニ施行シテ主権国民自ラ私利横暴ヲ制スルト共ニ先住ノ白人富豪ヲ一掃シテ世界同胞ノ為ニ真個楽園ノ根基ヲ築キ置クコトガ必要ナリ」。そしてこの「白人富豪ノ一掃」が「支那保全」・「インド独立」のための対英・対露戦争論へとつづくわけであるが、この点はほとんど『支那革命外史』の主張そのままであるので、ここでくり返し検討することは必要ではあるまい。
この北の未来像のなかで問題なのは、彼が国家改造の基軸においた「国民の総代表としての天皇」論や、「国家有機体的信仰の上に立つ徴兵制」論などは、改造政策の世界への拡大につれてどうなっていくかという点であろう。北はこれらの点については、わずかに「現在及ヒ将来ノ領土内ニ於ケル異民族ニ対シテハ義勇兵制ヲ採用スル者アルベシ」と述べているにすぎず、何の解答も与えていないと云ってよい。しかしこれらの問題に対する彼の態度は、彼の民族自決主義に対する批判のなかにうかがえるように思われるのである。
北は民族自決主義について、「八十歳ノ老婆ニモ生活ヲ自決セシムベク十歳ノ少女ニモ恋愛ヲ自決セシム」というような、「自決スル力」の有無を考えない空想だと批判したあとに、次のようにつづけている。「現時ノ強国中各種老幼ノ民族ヲ包有セザル者ナキコト各家庭ニ於テ老婆少女ヲ有スルガ如シ。是等二向ッテ自決ヲ迫ラバ各家庭ノ分散スベキ如ク一切ノ強国ハ分解スベシ。強国ノ無用ヲ云フカ。然ラバウヰルキンソンハヴェルサイユニ行カズシテ端西ノ社会党大会ニ列席スベカリシナリ」と。北にとっては、弱小民族の自決よりも強大民族の発展の方が基本的な命題であった。そしてそれは文化の領域にもあてはめられてゆく。「思想信仰ノ価値ハ其ノ民族精神又ハ世界思想ニ戦ヒテ凱歌ヲ挙ゲタル時ニ認メラルヽ物ナリ」との北の言葉を、さきの「東西文明ノ融合ヲ支配」する日本という未来像につなげてみると、勝利した日本民族精神の支配下における諸文化の融合という結論が導かれてくるにちがいない。しかしその結論を『改造法案』にあてはめてみると、エスペラントを語る天皇制国家という奇妙なイメージしか得ることが出来ない。それは民族精神の攻撃性を解体することなしに、世界的同化作用につなげてしまうという北の進化論の矛盾を示すものであり、またその矛盾を解消しない限り、北の進化論も侵略擁護のための理論にすぎないと評されても致方ないであろう。
しかし彼の理論の帰結をそこまで追い求めることはさして意味のあることではないかもしれない。北も再びその進化論的未来像を語ろうとはしなかったし、彼の『改造法案』が右翼陣営に与えた影響もその進化論によるものではなかったのだから。北が『改造法案』を九分通り書きあげた時、大川周明が彼の帰国を求めて上海にやってきた。この時両者が夜を徹して話し合ったのは、進化論の展開についてではなく、天皇中心主義─金権政治打倒による国家の富強─白人帝国主義からのアジアの解放といった主題をめぐってであったことは、のちにふれる大川の思想からみても間違いないところであろう。北は後年、この時『改造法案』について大川との間に意見をかわし、「天皇大権の発動で日本を改造する様に論述してある主意から、革命的運動者と行動を共にせずに、吾々は何処迄も一天子中心の国家主義改造で進まねばならぬと云ふ事を確く約束しました」と述べているのであった 1) 。
   1) 2・26事件憲兵隊調書 
15 猶存社の時代

 

北が『改造法案』により、以後の国家主義運動のなかに一定の地位を占めることができたのは、当時の国家主義者達の間にも一種の「行き詰り」感が広がり、その打開策が模索されていたからであった。北を上海から呼び戻そうというのも、こうした模索の1つであり、『支那革命外史』の著者としての構想力に、期待がかけられたからにほからなかった。北呼び戻しの発案者は満川亀太郎1)であるが、彼は最も敏感にこの「行き詰り」を感じとった者の1人でもあった。彼は回顧して、「米騒動によって爆発したる社会不安と、講和外交の機に乗じたるデモクラシー思想の横溢とは、大正7年秋期より冬期にかけて、日本将来の運命を決定すべき1個の契機とさへ見られた」2)と述べているが、米騒動の火の手がようやくおさまったばかりの1918年(大正7)10月9日には、早くも自ら発起人となり、老壮会を創立して、「行き詰り」の打開を模索し始めている。この会は多方面にわたる異なった立場の人々を集めて意見を交換することを目的としたものであり、会名も、老人も青年も共に語る会という意味であった。この会はまさに、その目的通りに多彩な出席者を得て、1922年に至るまで「44回の例会を開き、出入会員は5百名に及ん」3)だといわれるが、こうした会合が永続きしたこと自体、この時期の特徴を示していると云うこともできよう。
   1) 満川亀太郎は1888年(明治21) 1月の生まれであるから北の5歳年下にあたる。苦学して早稲田に学び新聞記者となったが、川島浪速らの大陸浪人に知己を得、1914年(大正3)10月、国家主義的雑誌「大日本」の創刊に参加、老壮会創立時にもその記者であった。
   2) 満川亀太郎著『三国干渉以後』(平凡社、1935年)
   3) 満川亀太郎、「新愛国運動の諸士」、「解放」大正12年5月号、(第5巻5号)
老壮会の例会については、満川が雑誌「大日本」に7回にわたって紹介記事・「老壮会の記」を掲載しているので最初の26回分については、その出席者名や大まかな内容を知ることが出来る。ここでは北をむかえる日本の雰囲気を示す意味で例会の内容を簡単に要約しておくことにしたい。
第1回 大7・10・9 江戸川端・清風亭、出席27名、会名、普選論など論議。
第2回 同・10・22 清風亭、出席20名、会名を老壮会に決定、議題「現下世界を風靡し我皇室中心主義上将た亦講和上至大の関係ある所謂民主的大勢を如何に取扱ふべき乎」、島中雄三と大川周明論争。
第3回 同・11・2 出席13名、議題「我国政治組織改革の根本精神如何」、(なお、会合場所は、全部については記されていないが、はじめの頃は清風亭であったと思われる)
第4回 同・11・22 出席15名、議題「独逸の敗退に伴う英米勢力の増大は我国の生存を脅圧し来るや否や、来るとせば之に対応するの道如何」、満川より北一輝の来翰を披露。
第5回 同・12・11 出席11名、選挙制度について意見交換、普選論と反対論あり。
第6回 大8・1・19 出席24名、北原龍雄「社会主義とは何ぞや」、高畠素之「社会主義者の観たる世界の大勢」につき講演、質疑。
第7回 同・3・4 出席18名、長瀬鳳輔「社会主義の史的観祭」。(以上、「大日本」大正8年4月号)。
第8回 同・3・28 清風亭、出席7名、草間八十雄より東京市の貧民生活者の現状を聴取。
第9回 同・4・16 出席15名、藤井甚太郎より明治維新談、終わって北原龍雄の持論・大政奉還論も出る。
第10回 同・4・29 出席10名、『女性』社同人・権藤誠子・柳葉清子より婦人問題をきく。緊急問題として山東問題・国際連盟脱退などにつき激論。
第11回 同・5・17 神楽坂倶楽部、出席8名、中山逸三の露西亜談、普通教育問題や川島清治郎の貨幣廃止論(以上、「大日本」大正8年6月号)。
第12回 同・6・5 神楽坂倶楽部、出席20名、鹿子木員信の世界革命論、「日本も支那も印度も国際的にはプロレタリアにして、世界的ブルジョアジーたる英米に対抗すべきもの」。
第13回 同・6・11 出席17名、米穀応急策につき論議沸騰。
第14回 同・6・19 出席24名、中野正剛の時局談、「旭日旗影薄し」。(以上「大日本」大正8年7月号)。
第15回 同・7・8 出席15名、酒巻貞一郎より西伯利の近況談、遠藤友四郎らの富豪財産奉還論出る。
第16回 同・7・14 出席25名其他数名。大川周明「欧露の真相及労農政府の建設的施設」
第17回 同大7・22 出席19名、三井銀行増資問題につき論議、(以上「大日本」大正8年8月号)
第18回 同・8・5 出席30名、渥美勝の神政復古の理想論、藤田勇より活版工ストライキ、下中彌三郎より啓明会について報告。
第19回 同・8・24 出席31名、平賀磯治朗(世話人の1人)より、日立鉱山粉擾事件についての視察報告談。(以上「大日本」大正8年9月号)
第20回 同・8・29 出席27名、堺利彦より社会主義者より見たる刻下の形勢をきく。次いで綱島正興より足尾銅山の視察結果、坑夫組合設立など報告。
第21回 同・9・9 出席13名、大川周明「亜細亜解放運動の一大脅威たる西蔵及阿富汗問題」(イギリスのアジア政策)。
第22回 同・9・17 猶存社、出席29名。鵜沢幸三郎より国際労働会議委員選出側面談、下中彌三郎より「支那関税問題」につき所感、その他労資関係論、(以上「大日本」大正8年10月号)
第23回 同・9・25 神楽坂倶楽部、出席24名、長瀬鳳輔より独逸改造の真相及び其将来についての観察談。飯島省一より東京印刷職工現状談。
第24回 同・10・2 猶存社、出席27名。権藤成卿「日本歴史上より観たる労働問題」。川村豊三より海員の生活状態など報告。
第25回 同・10・9 猶存社、出席52名、創立一周年記念集会。寿司とおでんで小宴。
第26回 同・10・15 猶存社、出席26名。渋川雲岳「朝鮮独立運動の内情」藤沢親雄「エスペラントの由来・組織・使命」(以上「大日本」大正8年11月号、以後老壮会の記事がなくなのは、満川がこの年いっぱいで大日本社を退社したためである。)
こうして老壮会の会合はきちんきちんと進められたが、「老壮会の国家主義者中、一途に国内改造を目指せる人々は、最早毎週第1回位の集会討究に満足出来なくなった。」1)と満川は云う。そして彼らはまず活動の拠点として牛込区南町一番地に家を一軒貸りうけ、満川の発議により、大正8年8月1日、「猶存社」の門標をかかげた2)。(のち結社名に転ずる「猶存社」も最初はこの満川一派の事務所名であった。)満川は次に、かねてから考えていた北一輝呼び戻し策を提議することになる。彼はすでに早稲田在学中に図書館で『国体論及び純正社会主義』を読んでおり(当時の大学図書館では発禁本も読めたという)3)、さらに大日本社に送られてきた『支那革命党及革命之支那』(『支那革命外史』前半)を読むと早速、北を自宅に訪れている4)。そして以後上海に渡った北との間に文通をつづけていたであろうことは、前述の「ヴェルサイユ会議に対する最高判決」からもうかがうことが出来る。また同書中に「芳書には日本の外交革命に絶望したかの如く見えますが大丈夫です」と書かれているところからみれば、満川の伝えた「行き詰り」感が、北に『改造法案』の執筆を決意させる具体的契機となったとも考えられる。
   1)、2)、3)、4) 前掲『三国干渉以後』。
満川の回想はつづく。「猶存社も出来たし、我々の覚悟も出来た。だが実を言ふと、全般の国家機構に亘れる改造の具体案は出来ていた訳ではなかった」1)、「私は心ひそかに北一輝君を上海から呼び戻し、その識見と経験とを以て、混沌たる国内改造の機運を整調指導して貰ふより外に途が無いと考へていた。……私は熱心に同志に説いたところ、大川君がまことに君の言ふ通りだから、自分が上海まで北君を迎へに行かうと提言した。そこで何(盛三)君が愛蔵の書籍を売却して金百円を調達し、これを旅費として大川君を煩はすことになった」2)。当時すでに満鉄東亜経済調査局に勤務していた大川は、『支那革命外史』に眼を通していたと思われるし、また日本の現状を打破すべきものと考える点で、まさに満川の強力な同志であった。
   1)、2) 前掲『三国干渉以後』。
大川はすでに、北が『支那革命外史』を書いたと同じ1916年(大正5)、『印度に於ける国民的運動の現状及び由来』を刊行しているが、その序文(大正5年10月付)で次のように述べている。「今日の日本が非常の時機に際会していることは、更めて吾人の呶々するを俟たぬ。……吾人の眼に映ずるものは沈滞し弛緩せんとする生命、腐敗せんとする生命である。而して此の国民的生命の沈滞・惰弱・頽廃は、今日の日本が、雄渾森厳なる国民的理想を欠ける事に其の根本の原因を有すると信ずる」1)。彼は欧米列強に追いつこうとする「明治の理想」が達成されたのち、それに代わる「大正の理想」が確立されないところに、日本の沈滞の根源があるとみた。従ってこの現状を打破するための「今日の急務は、消極的に国民を縛るに存せずして実に積極的に国民の魂を熱火の如く燃立たらしむる雄渾なる理想の鼓吹に在る。しかして斯くの如き理想は、 皇国をして亜細亜の指導者たらしめんとする理想の外にない」2)と大川は云うのであった。そしてこの行き詰り感は、米騒動をむかえることによって更に深刻となり、危機感に転じた。「国家が軍を海外に出す(シベリア出兵を指す)時に米価が高いからと云って暴動を起し亦それが忽ち全国数十個所に拡まると云ふ事は深刻なる暗示を国民に与へるもので、日本国家は此の儘では不可と云ふ事を示す天意であると私には考へられました」3)と彼は回顧している。「亜細亜の指導者」たることに新しい「国民的理想」を求めようとする大川は、亜細亜モンロー主義を唱える『支那革命外史』の著者を自らの同志と感じたことであろう。大正8年8月8日付の満川の北宛紹介状をふところにした大川は、8月23日上海に上陸、早速北を訪ねている。
   1)、2) 橋川文三編『大川周明集』(筑摩書房、1957年)。
   3) 5・15事件予審調書、『現代史資料5、国家主義運動2』(みすず書房、1964年)。
満川や大川は、明治的右翼の国家主義にあきたらず、現状打開の力を持つ新しい国家主義を再建して、まさにわき上らうとする左翼勢力と対峙しなければならないと考えたのであった。そうした彼らの模索の方向を示すものとして、この年10月につくられた1枚のビラを紹介しておこう。
「 老壮会ノ労働問題解決案
老壮会ハ多年労働問題研究ノ結果、総テノ生産事業ハ家族制度ニ則リテ一切立憲的合理的ニ解決セサル可ラストナシ凡ソ左ノ九大原則ヲ主張スルモノナリ。
1資本主ニ対スル利益配当ノ制限
2労働者ニ対スル立憲的利益分配
3右分配ハ株券ヲ以テス
4勤続年限ニ依ル奨励法
5公傷害ニヨル遺族ノ永久保護
6労働者ニ可及的住宅供給
7工場法鉱業法其他関係法規違反ノ監視権ヲ労働者ニ与フルコト
8工場坑夫其他労働者食料費ノ検査権ヲ同上
9工場及坑内爆発物等ノ煙害並被害ノ科学的予防法
政府ハ物価調節・労資協調及労働組合法案ヲ以テ、資本者ハ温情主義・三益主義ヲ以テ、労働者ハ賃金値上・時間短縮・待遇改善ノ要求並ニ同盟罷業及怠業ヲ以テ孰レモ労働問題ヲ解決セント欲シ、又一般国民ハ政府ノ施設・治安警察法撤廃・普通選挙・通貨縮小・国際労働会議等ノ結果ヲ俟テ緩和セラルヘシト期待スルモ、吾人ノ所見ハ之ニ反シ労働問題ノ紛糾ハ社会組織ノ根本的錯誤ニ胚胎シ、世界大勢ノ険悪、思想問題ノ動揺ニ基クモノナルヲ以テ、我国体ニ合適セル吾人ノ九大原則ヲ先ス適用スルニ非レハ其解決到底不可能ナルコトヲ声言ス。
大正8年10月8日   東京市牛込区南町一番地   老壮会  」
ここに述べられている九大原則について語る必要はないであろう。問題は猶存社を拠点とする満川らの一派が、労働問題の解決をも、「社会組織ノ根本的錯誤」・「世界大勢ノ険悪」・「思想問題ノ動揺」という三つの悪条件を克服するための、国家主義的再編成の一環として捉えようとしている姿勢にあるのであり、この姿勢からみれば、北の『改造法案』が1段と高いレベルにあるものとみえてくることは明らかであった。
大川が北を訪れた時、北は『改造法案』の最終部分である「巻八・国家ノ権利」のうち「開戦ノ積極的権利」まで筆を進めていたという1)。大川の来訪は当時孤立の状態にあった北を喜ばせたに違いない。北は「一面識だにない六尺豊かな大川君が、日本が革命になる、支那より日本が危ないから帰国しろとワザワザ上海にまで迎えに来た大道念に刎頸の契を結んだ」と書いているし、大川も「欣然君等の招きに応ずる。原稿の稿了も遠くはない。脱稿次第直ちに後送するから出来ただけの分を日本に持ち帰って国柱諸君に領布して貰ひたい。取り敢えず岩田富美夫君を先発として帰国させ、自分も年末までには屹度帰国する」、との北の言葉を聞いて「抑え切れぬ歓喜と感激を覚えた」2)と回想している。2日間を北と語り合った大川は8月25日帰国の途につき、岩田も9月初旬には東京に帰ってきた3)。
   1)、2) 大川周明「北一輝君を憶ふ」前掲『大川周明集』。
   3) 岩田富美夫(明治24年10月27日生)について、司法省刑事局の資料は「大正5年陸軍参謀本部の特務機関の下に諜報勤務に従事する為、支那山東省に渡り政治、経済、地理其他一般情勢を探索したるが其の当時北一輝と相織り、大正7年6月帰国、爾来国家主義運動に身を投じ」大正12年6月大化会を組織したが、その活動の「多くは所謂暴力団的行動なり」と述べている。(司法省刑事局「思想資料パンフレット特輯」第24輯、「国家主義系団体員の経歴調書(一)」、昭和16年4月、この記述が正しいとすると岩田は大正7年6月帰国後、再び上海にわたり、北のもとに居たことになる。北が『改造法案』の残りの原稿と共に岩田に持たせた大川・満川宛の手紙は8月27日付となっており、前掲の満川「老壮会の記」によれば、9月17日の例会以後、老壮会の会合に出席しているから、岩田がこの間に帰国したことは間違いない。
大川・岩田によってもたらされた『改造法案』が「どれだけ同志をし歓喜せしめたか知れない。実際これだけ明確に国家改造方針を指示したものは無かった」1)と満川は云う。しかし、この北の『法案』をどう読むことによって彼等は歓喜したのであろうか。彼等はまず赤穂義士になぞらえて47部を騰写印刷で作成し、重要と目される人物に送付したが、その際「老壮会本部、大川周明・満川亀太郎の連名による領布の辞を付している。その大部分は北一輝なる人物の紹介にあてられているのであるが、『改造法案』の内容についても、「改造後ノ大軍国的組織ヲ示シテ日本民族ノ対亜細亜使命ヲ宣布セル等今ノ直訳的新思想家等ヲシテ必ズ反省皈順セシムルヲ信シ候」2)と述べている点が注目されよう。すなわち、彼等はまず『改造法案』を最も直截に「アジア解放」のための「大軍国組織」案としてうけとったのであった。
   1) 前掲『三国干渉以後』
   2) 林茂他編『2・26事件秘録』別巻(小学館、1972年)
しかし彼等もたんにそれだけのものとしてこの『法案』を読んだわけではなかった。1919年 (大正8)12月長崎に着いた北は、翌20年1月5日猶存社を訪れ、とりあえずその2階に住みつくことになったが、この北をむかえて満川らも、猶存社に集る同志たちを思想運動結社に組織 する方向に動き始める。満川が、「猶存社の……創立されたのは大正8年8月であるが、公然天下に名乗りを揚げたのは、大正9年7月機関誌『雄叫び』を発行してからである」と述べているところからみて、次の「猶存社綱領」が作成されたのもこの時であったと推定することができる。
一 革命日本の建設
一 日本国民の思想的充実
一 日本国家の合理的組織
一 民族解放運動
一 道義的対外策の遂行
一 改造運動の聯結
一 戦闘的同志の精神的鍛錬
そしてこの綱領の中軸は、「日本国家の合理的組織」化と、「道義的対外策の遂行」あるいは「民族解放運動」とを、不可分のものとして捉えようとする点にあった。『雄叫び』の宣言1)は云う。「吾々日本民族は人類解放戦の旋風的渦心でなければならぬ。従って日本国家は吾々の 世界革命的思想を成さしむる絶対者である。……眼前に迫れる内外の険難危急は、国家組織の根本的改造と国民精神の創造的革命とを避くることを許さぬ。吾々は日本其者の為めの改造又は革命を以て足れりとする者でない。吾人は実に人類解放戦の大使徒としての日本民族の運命を信ずるが故に、先づ日本自らの解放に着手せんと欲する」と。満川は「私共には最も多くの多くの影響を有する者は実に北君其人の思想である」2)と述べているが、その北の影郷のうち最も根本的なものは、この点、すなわち、国内改造を世界への進出の不可欠の前提とし、同時にそこに「人類解放戦」、「世界革命」といった民族的使命感を組み入れようとしている点にみられた。
   1) 私はまだ『雄叫び』の現物をみることができないでいるが、宣言のここに引用した部分は、前掲満川稿「新愛国運動の諸士」及び『現代史資料4国家主義運動1』に掲載されている。
   2) 同前 満川稿
しかし北は、猶存社において、積極的に『改造法案』を解説し、その影響力を広めようとしていたわけではなかった。「しばらくは猶存社に平和なる日が続いた。北君は朝夕の誦経が終ると、15年前の著述たる『国体論及純正社会主義』に筆を入れるを日課としていた」1)と満川が述べているように、北は『改造法案』を猶存社の人々の前に投げ出したまま、超然としたポーズをとって、次の活動の機会をうかがっていたと云えよう2)。これに対して、むしろ大川・満川らの方が北の影響力を広めるために、積極的に動いていたように思われる。例えば、彼等は大正9年9月26曰付で「北一輝談話要領、支那ノ乱局二対スル当面ノ施策」を、さらに大正10年4月9日付では、さきの「ヴェルサイユ会議に対する最高判決」を謄写印刷とし、猶存社同人の名で配布している3)し、また多くの人々を北に引き会わせてもいた。満川は「酋存社には多くの同志が出入りしだした。大川君沼波瓊音氏や、鹿子木員信氏、島野三郎君等を伴ふて来た。満州建国に重要な役割を演じた笠木良明君や、今満州国の要職に就いている皆川豊治、中野琥逸、綾川武治諸君とも知り合った」4)と書いているが、あとでみるように、西田税を知り、彼を北に結びつけるきっかけをつくったのも満川であった。
   1)、4) 前掲『三国干渉以後』
   2) もっとも北も、老壮会の例会などに顔を出すことはあったようである。ある会合での北の姿を遠藤友四郎は次のように書いている。「曽て老壮会では、大本教の幹部其を聘して、大本教の講演を聴かして呉れた。其時講師が力説したのは、奇蹟の大本教であった。祈れば雨が降るとか、天が晴れるとかであった。之を聴いた聴衆は、中にまともに感動した者も絶無では無かったらうが、多くは大本教に対する軽侮と反感とを抱いたのであった。特に学生や労働者で、講師に『今夜の雨を霽れさして呉れ』と所望した者も二三あった。其時、北一輝君は顔色朱を注いで、其様な質問は『大本教に対する不敬不遜』だと怒鳴った。奇蹟を生命とする宗教に奇蹟を求めて何が不適、何が不遜?、故に私は北君に云った、講師に対して不遜であらうとも、大本教そのものに対しては何等の不遜不適も無いでは無いかと」。(遠藤友四郎著『日本主義の確立―日本思想パンフレット第ニ輯』、大正14年12月。なお、北は「大本教を私が直接最初に知りましたのは大正9年の事」であったと述べている。
   3) 前掲『2・26事件秘録』別巻。
北が求めていたのは、政界最上層、とくに天皇側近に自らの影響力を及ぼし得る機会であったと思われる。上海から帰国した北が、まず第一番に行ったのは、時の皇太子(現天皇)への「法華経」の献上であった。「私は霊感に依って、当時の東宮殿下に法華経を献上すべく、それ丈けを持ちまして、大正9年1月初めに東京に着いて猶存社に入りました。法華経は小笠原長生氏の手を通じて非公式ながら殿下に献上が叶ひました。爾後、同小笠原氏から承りますと(虎の門事変後)、恐多くも最も御手近くに置かれて居られるとの事であります」1)と北は述べているが、田中惣五郎によれば、大正9年3月2日付で東宮大夫浜尾新から東宮御学問所幹事小笠原長生にあてて、右法華経の受領書が出されているという2)。そして北がこれにつぐ第二の積極的行動に立ちあがるのは、同じく皇太子にかかわる「宮中某重大事件」であった。
   1) 2・26事件憲兵隊調書。
   2) 田中惣五郎著『増補北一輝』(三一書房、1971年)。
宮中某重大事件とは、皇太子の婚約者(久邇宮良子女王)に色盲の遺伝があるとして、元老山県有朋が婚約解消を主張したことから起った対立・抗争を指している。そして猶存社も反山県の陣営に加わったのであった。満川は回想する。「大正10年の新年怱々、某重大事件が杉浦重剛翁の東宮御用掛辞任によって、漸く表面に現はれ出た。旧臘以来問題となっていたのがますます迫って来たのである。私はこれを杉浦翁と最も親交のあった一瀬勇三郎翁から聞いて君国のため容易ならざる一大事であると思った。……猶存社の同人は悲壮なる決意を懐いて起った。当の対手は元老山県有朋公である。押川方義、五百木良三郎氏等の城南壮も、頭山満翁、内田良平氏等の黒龍会も前後してこの問題解決のために起った」1)。北はいわゆる怪文書を執筆してばらまき、子分の岩田富美夫らは山県暗殺を策謀したと云われる。「北が久邇宮家におくった桐の箱入りの『勧告文』は、いわゆる怪文書中の白眉といわれ、これを垣間見た警視庁の人々さえ感激おくあたわざる文章であったという」2)と田中惣五郎は書いている。しかしこの時、北がどんな内容の怪文書を書いたのかは明らかになっていない。
   1) 前掲『三国干渉以後』
   2) 前掲『増補北一輝』
この事件では、長州閥の山県を抑えるために、内相床次竹二郎らの薩摩系政治家が動くなど、薩長対立の局面もあらわれたが、結局、山県が自己の主張を撤回し、1921年(大正10)2月10日、宮内省から「良子女王殿下東宮妃御内定の事に関し世上種種の噂あるやに聞くも右御決定は何等変更なし」との発表が行われて、事件は落着した。これに力を得た右翼勢力は、つづけて、3月3日出発と予定されていた皇太子外遊に対する反対運動を展開しているが、この点については、政界上層部の対立を引き出すことができず、何らの成果なく終っている。
北のこうした宮中某重大事件へのかかわりは、『改造法案』の観点から云えば、「平等ノ国民ノ上ノ総司令官ヲ遠ザケ」ている閥族・天皇側近への攻撃であり、天皇を国民の総代表者たらしめる1つの方策として意識されたことであろう。この点から考えると、大正10年1月24日政界有力者に配布されたという「宮内省の横暴不逞」と題する怪文書1)が、北の筆になるものではなかったかとも思われてくる。しかしより重要なことは、北がこの事件の過程から、自らの活動方式を固めてゆくための端緒をつかみとったと思われる点である。まず第1に北は、彼自身の怪文書活動と彼が配下とした岩田富美夫、清水行之助、辰川静夫(龍之介)らによる暴力団的活動との組合せが、意外と効果あることに気づいたに違いない。そして、以後、青年将校運動が抬頭するに至るまで、北の活動はこの方式を基本として行われるに至るのであった。第2には、こうした活動方式が既成の政治勢力にとって利用価値があり、従ってそこから資金的援助を獲得できる可能性の生れることをみてとったのではなかったろうか。
   1) 前田蓮山編『床次竹二郎伝』(同刊行会、1939年)、ただしこの文書の具体的内容については書かれていない。
宮中某重大事件において問題となるのは、北と床次竹二郎との関係である。北は、1926年(大正15)10月の宮内省怪文書事件予審訊問調書において「政友本党の床次総裁とも2、3年前までは深い交際があり」と述べているが、これを逆算すれば猶存社時代にあたることになる。両者の関係は間接的な形ではあれ、すでに北帰国直後に、『改造法案』の発禁問題をめぐって始っていた。満川は、大正9年の「休会(年末年始)明け議会の劈頭に、貴族院議員江木千之氏は秘密会を要求し、『日本改造法案大綱』の取扱方に就て政府に質問した。その結果(結局不起訴処分)と述べているが、速記録によれば江木の質問は2月19日の第1回貴族院予算委員会で行われ次のように記録されている。
「 江木千之君、私ハ世間ノ所謂社会改造問題ニ付テ政府ノ御意見ヲ伺ヒタイト考ヘルノデアリマスガ、是ハドウカ速記ヲ私ハ止メテ質問シタイト思ヒマス。委員長(子爵前田利定君) 速記中止(「第42回帝国議会予算委員会議事速記録」第1号) 」
ところが、北ヤ吉(一輝の実弟)によれば、このあと次のような出来事があったと云う。「兄はいった。『この書物を見て、江木千之が貴族院で危険思想だと騒いだので、床次内相は之は既に出版法違反で問ふことになっていると答へ、罰金三十円を取られたが、床次が三百円某君(多分後藤文夫君)に持たせてよこしたから、差引二百七十円儲かったことになる』と。そうして大笑した」1)。床次が北の『改造法案』に300円もの金を払ったのは、北とその周辺の勢力に何らかの利用価値ありとみたからではなかったであろうか。もちろん、その後の両者の関係を示す資料は見出されていない。しかし北の云う「深い交際」という言葉からは、その後、とくに両者が積極的に活動した宮中某重大事件において、資金援助的な関係が存在したことが読みとれるように思われるのである。
   1) 北ヤ吉「風雲児・北一輝」・宮本盛太郎編『北一輝の人間像』(有斐閣、1976年)所収、なお満川は、床次にも『改造法案』を送ったが、この配布のことがもれたのは床次からではなく、「別個の理由を以て朝鮮総督府警務局に知られたのが最初であった」(『三国干渉以後』)と述べており、また当時の朝鮮総督であった斎藤実の関係文書(国会図書館憲政資料室蔵)のなかには、現にこのときの騰写刷り『改造法案』が保存されている。
ともあれ、以後の北は、怪文書=暴力団的方向に活動を展開してゆくことになるのであるが、 さらにその目標を、天皇大権あるいは天皇側近の問題に集中させてゆくについては、もう1つ、 朝日平吾事件の影響を考慮に入れなくてはならないであろう。
宮中某重大事件が解決した7か月後、1921年(大正10)9月28日、安田財閥の創始者安田善次郎が大磯の別邸で、朝日平吾に刺殺されるという事件がおこっている。朝日はその場で自殺したが、彼の遺書は友人の手で猶存社1)にも送られてきた。「死ノ叫声」2)と題されたこの遺書は、自らの行動を「富豪顕官貴族」を打倒する「最初ノ皮切」と意義づけ、あとにつづけと訴えたものであるが、そこで彼は、日本の現状を、既成の支配層が天皇と国民を隔離し、私利私欲のために国民を圧迫しているという形で捉えている。そして当面の目標として、「第一二奸富ヲ葬ル事、第二ニ既成政党ヲ粉砕スル事、第三ニ顕官貴族ヲ葬ル事、第四二普通選挙ヲ実現スル事、第五ニ世襲華族世襲財産制ヲ撤廃スル事、第六ニ土地ヲ国有トナシ小作農ヲ救済スル事、第七ニ十万円以上ノ富ヲ有スル者ハ一切ヲ没収スル事、第八ニ大会社ヲ国営トナス事、第九ニ一年兵役トナス事」という9項目を掲げた。北はここ、自らの『改造法案』と根底において共通する発想を見出したことであろう。
   1) 朝日は、友人奥野貫に、内田良平、藤田勇、北一輝にあてた三通の遺書を残したと云われるが(前掲『現代史資料4、国家主義運動1』解説参照)、満川は「遺書に北・大川・満川の三名が名指され」(『三国干渉以後』)ていたと述べているので、ここでは一応、「猶存社あて」としておくことにした。
   2) 前掲『現代史資料4、国家主義運動1』による。
しかし、朝日が自らの行動の基点を、次のような形で、天皇の赤子としての権利の回復という点に求めているくだりを、北はどう読んだのであろうか。「吾人ハ人間デアルト共ニ真正ノ日本人タルヲ望ム、真正ノ日本人ハ陛下ノ赤子タリ、分身タルノ栄誉ト幸福トヲ保有シ得ル権利アリ、併モ之ナクシテ名ノミ赤子ナリト煽テラレ干城ナリト欺カル、即チ生キ乍ラノ亡者ナリ寧ロ死スルヲ望マザルヲ得ズ」。ここに云われている、真正の日本人は「天皇ノ赤子」・「天皇ノ分身」だと見方は、明らかにこれまでみてきたような北の思想とは異質であり、彼が排撃した「国体論」に属するものと云わねばならないであろう。しかし北はここで、朝日との思想的違いをとりたてる前に、国体論的系譜からも、『改造法案』に呼応する行動が生れたという点に眼をみはったのではなかったか。
以後の彼は、本来なら「頑迷国体論者」としりぞけるべき筈の政治家、小川平吉・平沼騏一郎などに接近してゆくのであるが、そこには、いかなる形であれ、朝日平吾的天皇信仰に刺激を与え、めざめさせることは、国家改造のエネルギーを拡大することになるという論理が用意されていたように思われるのである。そしてそのことは、この翌々年1923年(大12)に改題刊行された『改造法案』にみることができる。
すでに触れたように、この時北は『改造法案』にいくつかの修正を加えているが、そのなかで最も重要なものとして「天皇ハ第三期改造議会マデニ憲法改正案ヲ提出シテ改正憲法ノ発布ト同時ニ改造議会ヲ解散ス」との規定を削除して、次のような新たな規定と註とを書き加えた点をあげねばならないであろう。
「 国家改造議会ハ天皇ノ宣布シタル国家改造ノ根本方針ヲ討論スルコトヲ得ズ。
註ニ 是レ法理論ニ非ズシテ事実論ナリ。露独ノ皇帝モ斯カル権限ヲ有スベシト云フ学究論談ニ非ズシテ日本天皇陛下ニノミ期待スル国民ノ神格的信任ナリ。
註四 斯カル神格者ヲ天皇トシタルコトノミニ依リテ維新革命ハ仏国革命ヨリモ悲惨ト動乱ナクシテ而も徹底的ニ成就シタリ。再ヒ斯カル神格的天皇ニ依リテ日本ノ国家改造ハ露西亜革命ノ虐殺兵乱ナク独乙革命ノ痴鈍ナル除行ヲ経過セズシテ整然タル秩序ノ下ニ貫徹スベシ。  」
北の著作において天皇に対し「神格」なる言葉があらわれるのは言うまでもなくこれが最初である。そしてのちに西田税は、伏字版のこの部分に「神格」ではなく「人格」と書き込んでいるという。もちろん所有されるものとして「物格」、独立の主体としての「人格」という『国体論』の用語法から云っても、天皇を「国民ノ総代表」とする『改造法案』の観点から云っても、ここは「神格」ではなく「人格」であるべきであろう。しかし北は、そうしたことは充分承知したうえで、あえて「神格」と書いたのではなかったか。若しそうでないとすれば、この改訂を行う意味がないように私には思われるのである。
つまり、天皇の宣布したる根本方針を討論しえずという天皇の絶対性は、国民の「神格的信任」(人格的ではなく)を提示せずには主張しえないのではないかと言うことである。もちろんそれは、『改造法案』のなかに矛盾を持ち込んだことになり、従って北も、西田あたりには、「神格」と書いたのは弾圧を避けるためで、ほんとうは「人格」とすべきだったなどと語ったこともあったかもしれない。しかし北は、そうした矛盾をも意識したうえで、あえて「神格的天皇」を前面に押し出し、国体論的な天皇信仰をも国家改造のエネルギーとして動員しようとする、新しい戦略を明示して置こうとしたのだと私は解する。そしてそのことは、彼の思想のなかの進化論的契機を弱める結果となり、進化論的ユートピアと国家改造論との緊張感は次第に失われていったことであろう。同時にまた、この新しい戦略は、「頑迷国体論者」と交わり、そこから生活の資を得るという彼の行動に対する自己弁護の論理ともなったのではなかったか。
ともあれ、宮中某重大事件、朝日平吾事件という2つの事件を体験した1921年(大正10)は北にとって1つの転期であった。彼はそこから、怪文書=暴力団的行動によって、天皇大権・天皇側近、あるいはその反面としての共産主義排撃といった問題をとりあげ、既成政治家とも握手するという活動方式を生み出していった。そして同時にそのことによって猶存社のなかで次第に孤立していったと思われる。1926年(大正15)の『改造法案』第3回公刊に際して付した序文のなかで、「十年秋、故朝日平吾が一資本閥を刺して自らを屠りし時の遺言状が此の法案の精神を基本としたからとて聊か(も)失当ではない」と北が得意げに回想しているのに対して、同じ事件について満川は「その年の九月未知の人朝日平吾君が我々3人に宛てゝ遺書を送った。そこで又一層不穏の気を増した。有ること無いこと様々の評判を立てられて、私共の活動を妨げられたことは一再に止まらない」1)といささか苦々しげに回想しているのであった。
   1) 前掲「新愛国運動の諸氏」
この時期に大川・満川らが中心としていたのは、北とはちがって、学生などに対する啓蒙活動であった。「我等同志は良かれ悪しかれワシントン条約を一転機とする新世界の誕生を認識せざるを得なかった。それは米国の台頭に対する大英帝国の覇権の衰退、従って英国の世界支配に打ちひしがれた亜細亜民族勃興の機運であった。吾人はこの機に乗じて日本改造、亜細亜復興、世界革命の思想を三位一体の原理に整調具現化すべき急務に迫られた。ここに同人笠木良明君等の異常なる努力によって全国に各学生団体の組織と結合とが企てられた。帝大日の会を長兄として 、拓大には魂の会、早大には潮の会、慶大には光の会が組織された。これら兄弟の会の司宰に成る復興亜細亜講演会が、神田青年会館に開かれたのは大正11年11月30日であった」1)という。翌年には、日大・東の会、曹洞宗大学・命の会、第5高校・東光会などがつくられたようである。 そしてこのうち、日の会は鹿子木員信(大10・6創立)、魂の会は大川周明(大11・3創立)、潮の会は満川亀太郎(大11・11創立)、東光会は大川周明(大12・4創立)を指導者として、1925年(大正14)の大川・満川たちによる行地社設立まで存続していた2)。
   1) 前掲『三国干渉以後』。
   2) 前掲『三国干渉以後』、「新愛国運動の諸士」及び行地社機関誌「月刊日本」第1号(大14・4刊)に掲載の「各同志団体沿革並近情」などによる。
もちろん、こうした活動様式の違いが、すぐさま、北と大川・満川らとの分裂を結果したわけではなかった。とくに上海からの北呼び戻しの提唱者である満川の場合には、北の『改造法案』を広めることに熱心だったようにみえる。例えば、彼が指導していた「潮の会」では、創立以来「毎週1回北一輝氏の『日本改造法案大綱』を研究の中心として会合を開いた」1) いたと云うし、また1922年(大正11)春には、西田税らの陸軍士官学校生徒がつくっていた「青年アジア同盟」に接触し、彼等の間にも『改造法案』の思想を注入している2)。それまで、大陸浪人にあこがれ、黒龍会の方向を志向していた西田を、国家改造思想に転換させたのは、この満川の啓蒙活動の結果であったと云ってよい。
   1) 『月間日本』第1号
   2) 士官学校時代の西田税については、芦澤紀之著『2・26事件の原点』(原書房、1974年)が詳しい。同書によれば、青年アジア同盟の会合と彼等の満川・北への接触は次の如くであったと云う。
○大10・9初旬、西田税・福永憲・宮本進・平野勣ら、青年アジア同盟を結成し、黒龍会・長崎武に援助を求める。
○大10・12・18、青年アジア同盟第1回会合、長崎、長瀬鳳輔を同行、牛込宗参寺
○大11・1・22、同第2回会合、長崎、水野梅暁を同行、山王台日吉亭
○大11・2・19、同第3回会合、長崎、満川亀太郎を同行、清風亭、2・22西田発病、2・28〜4・23陸軍病院に入院。
○大11・3・19、同第4回会合、長崎、満川、ビハリ・ボース来る。清風亭。
○大11・3・26、満川、福永・宮本・平野を招き、北訪問をすすめる。4・2、3人は北を訪れる。
○大11・4・23、西田、自宅療養を命ぜられ、陸軍病院を退院、北を訪問したが『改造法案』の借用をも求めず帰郷。
○大11・4・30、福永、満川を訪れ『改造法案』の解説をうける。
○大11・6・19、西田、陸士卒業試験のため上京、満川を訪れて『国体論及純正社会主義』を借用、居合わせた大川周明に紹介される。帰校した西田は「福永から渡された『日本改造法案』を熟読して、初めて愕然とする」(同書)
○大11・7・21、西田ら秩父宮と会い、『改造法案』による国内改革を言上。
○大11・7・28、西田、陸士(第34期)卒業式後、北を訪問し、朝鮮へ赴任。
しかし、こうした啓蒙活動を中心とする大川・満川らは、暴力団的活動家を輩下とする北との間に次第に異和感を深めていったとみられる。そして、さらに、大川・満川らが、北の影響をうけながらも、自らの思想を明確にするに従って、北との間の、天皇中心主義、国家改造論などに関する発想の違いも次第にはっきりと意識されざるを得なかったことであろう。
猶存社が解散するに至るのは、1923年(大正12)2月のヨッフェ来日をめぐる対立によってであった。そしてその背後には、ロシア革命に対する大川・満川と北との評価の対立が存在し ていた。彼等国家主義者達が、ロシア革命の評価をめぐって分裂するというのは一見奇妙とも見えるかもしれない。しかしそこには、天皇観にまでつながる問題が存在しているのであった。 
 
諸話

 

 
血盟団事件 1
1932年(昭和7年)2月から3月にかけて発生した連続テロ(政治暗殺)事件。政財界の要人が多数狙われ、井上準之助と團琢磨が暗殺された。当時の右翼運動史の流れの中に位置づけて言及されることが多い。
経緯​
暗殺計画​
日蓮宗の僧侶である井上日召は、茨城県大洗町の立正護国堂を拠点に、近県の青年を集めて政治運動を行っていたが、1931年(昭和6年)、テロリズムによる性急な国家改造計画を企てた。「紀元節前後を目途としてまず民間が政治経済界の指導者を暗殺し、行動を開始すれば続いて海軍内部の同調者がクーデター決行に踏み切り、天皇中心主義にもとづく国家革新が成るであろう」というのが井上の構想であった。
井上はこの構想に基づき、彼の思想に共鳴する青年たちからなる暗殺組織を結成した。当初この暗殺集団には名称がなく「血盟団」とは事件後、井上を取り調べた検事によりつけられた名称である。
井上日召は、政党政治家・財閥重鎮及び特権階級など20余名を、「ただ私利私欲のみに没頭し国防を軽視し国利民福を思わない極悪人」として標的に選定し、配下の暗殺団メンバーに対し「一人一殺」を指令した。暗殺対象として挙げられたのは犬養毅・西園寺公望・幣原喜重郎・若槻禮次郎・団琢磨・鈴木喜三郎・井上準之助・牧野伸顕らなど、いずれも政・財界の大物ばかりであった。
井上はクーデターの実行を西田税、菅波三郎らを中心とする陸軍側に提案したが拒否されたので、1932年(昭和7年)1月9日、古内栄司、東大七生社の四元義隆、池袋正釟郎、久木田祐弘や海軍の古賀清志、中村義雄、大庭春雄、伊東亀城と協議した結果、2月11日の紀元節に、政界・財界の反軍的巨頭の暗殺を決行することを決定し、藤井斉ら地方の同志に伝えるため四元が派遣された。ところが、1月28日第一次上海事変が勃発したため、海軍側の参加者は前線勤務を命じられたので、1月31日に海軍の古賀、中村、大庭、民間の古内、久木田、田中邦雄が集まって緊急会議を開き、先鋒は民間が担当し、一人一殺をただちに決行し、海軍は上海出征中の同志の帰還を待って、陸軍を強引に引き込んでクーデターを決行することを決定した。2月7日以降に決行とし、暗殺目標と担当者を以下のように決めた。
池田成彬(三井合名会社筆頭常務理事)を古内栄司(大洗町の小学校訓導)
西園寺公望(元老)を池袋正釟郎(東大文学部学生)
幣原喜重郎(前外務大臣)を久木田祐弘(東大文学部学生)
若槻禮次郎(前内閣総理大臣)を田中邦雄(東大法学部学生)
徳川家達(貴族院議長)を須田太郎(国学院大学神道科学生)
牧野伸顕(内大臣)を四元義隆(東大法学部学生)
井上準之助(前大蔵大臣)を小沼正(農業、大洗町)
伊東巳代治(枢密院議長)を菱沼五郎(農業、大洗町)
団琢磨(三井合名会社理事長)を黒沢大二(農業、大洗町)
犬養毅(内閣総理大臣)を森憲二(京大法学部生)
井上準之助暗殺事件​
1932年(昭和7年)2月9日、前大蔵大臣で民政党総務委員長の井上準之助は、選挙応援演説会で本郷の駒本小学校を訪れた。自動車から降りて数歩歩いたとき、暗殺団の一人である小沼正が近づいて懐中から小型モーゼル拳銃を取り出し、井上に5発の弾を撃ち込んだ。井上は、濱口雄幸内閣で蔵相を務めていたとき、金解禁とデフレ政策を断行した結果、かえって世界恐慌に巻き込まれて日本経済は大混乱(昭和恐慌)に陥った。また、軍縮のため予算削減を進めて日本海軍に圧力をかけた。そのため、第一の標的とされてしまったのである。小沼はその場で駒込署員に逮捕され、井上は病院に急送されたが絶命した。
暗殺準備​
四元は三田台町の牧野伸顕内大臣、池袋正釟郎は静岡県興津の西園寺公望、久木田祐弘は幣原喜重郎、田中邦雄は床次竹二郎、須田太郎は徳川家達の動静を調査していた。第一次上海事変での藤井斉の戦死を知った井上らは陣容強化のため大川周明を加えることを画策し、2月21日、古賀清志は大川を訪ねて説得し、大川はしぶしぶ肯いた。また2月27日、古賀と中村義雄は西田税を訪ね、西田の家にいた菅波三郎、安藤輝三、大蔵栄一に、陸軍側の決起を訴えたが、よい返事は得られなかった。
一方、井上は井上準之助暗殺後に菱沼五郎による伊東巳代治の殺害は困難になったと判断し、菱沼五郎には新たな目標として政友会幹部で元検事総長の鈴木喜三郎を割り当てた。菱沼は鈴木が2月27日に川崎市宮前小学校の演説会に出ることを聞き、当日会場に行ったが、鈴木の演説は中止であった。
團琢磨暗殺事件​
翌日再び目標変更の指令を受け、菱沼の新目標は三井財閥の総帥(三井合名理事長)である團琢磨となった。團琢磨が暗殺対象となったのは三井財閥がドル買い投機で利益を上げていたことが井上の反感を買ったとも、労働組合法の成立を先頭に立って反対した報復であるとも言われている。菱沼は3月5日、ピストルを隠し持って東京の日本橋にある三井銀行本店(三井本館)の玄関前で待ち伏せし、出勤してきた團を射殺する。菱沼もまたその場で逮捕された。
逮捕・裁判​
小沼と菱沼は警察の尋問に黙秘していたが、両人が茨城県那珂郡出身の同郷であることや同年齢(22歳)であることから警察は付近で聞き込み、まもなく2件の殺人の背後に、井上を首魁とする奇怪な暗殺集団の存在が判明した。井上はいったんは頭山満の保護を得て捜査の手を逃れようとも図ったが、結局3月11日に警察に出頭し、関係者14名が一斉に逮捕された。小沼は短銃を霞ヶ浦海軍航空隊の藤井斉海軍中尉から入手したと自供した。裁判では井上日召・小沼正・菱沼五郎の三名が無期懲役判決を受け、また四元ら帝大七生社等の他のメンバーも共同正犯として、それぞれ実刑判決が下された。しかし、関与した海軍側関係者からは逮捕者は出なかった。四元は公判で帝大七生社と新人会の対立まで遡り、学生の就職難にあると動機を明かした。
五・一五事件​
古賀清志と中村義雄は3月13日に、血盟団の残党を集め、橘孝三郎の愛郷塾を決起させ、陸軍士官候補生の一団を加え、さらに、大川周明、本間憲一郎、頭山秀三の援助を求めたうえで、再度陸軍の決起を促し、大集団テロを敢行する計画をたて、本事件の数か月後に五・一五事件を起こした。
西田税が陸軍側を説得して同事件への参加を阻止したことから、これを裏切り行為と見た海軍側は暗殺を計画し、血盟団員の川崎長光を刺客に放った。事件当日、川崎は西田の自宅を訪問し短銃で重傷を負わせたが、暗殺には失敗する(西田税暗殺未遂事件)。 また事件当日、同じく団員だった奥田秀夫(明治大学予科生)は、三菱銀行前に手榴弾を投げ込み爆発させた。
関係者のその後​
その後、1940年(昭和15年)に(井上・小沼・菱沼・四元ら)は恩赦で出獄する。
井上は、戦後右翼団体「護国団」を結成して活動を続けた。1967年(昭和42年)3月4日死亡。
小沼は、戦後は出版社業界公論社社長を務める傍ら右翼活動を続け、『一殺多生』などを著わす。1978年(昭和53年)1月17日死亡。
菱沼は、帰郷して右翼活動から一線を引いていたが、結婚により小幡五朗と改名し、1958年(昭和33年)に茨城県議会議員に当選し、その後8期連続当選、県議会議長を務めて県政界の実力者となった。1990年(平成2年)10月3日死亡。
四元は、出獄すると井上日召らと共に近衛文麿の勉強会に参画、近衛文麿の書生や鈴木貫太郎首相秘書を務めた。1948年(昭和23年)の農場経営を経て、1955年(昭和30年)より田中清玄の後継で三幸建設工業社長に就任(2000年 - 2003年会長)。この間、戦後政界の黒幕的な存在として知られ、歴代総理、特に細川護煕政権では「陰の指南役」と噂された。2004年(平成16年)6月28日老衰のため死亡する。享年96。
川崎長光は出獄後、郷里の茨城に帰って保育園を経営した。長らく政治に係ることはなかったが、2010年、99歳にして初めてインタビューに応じ、事件を語っている。2011年に101歳で没した。
井上は「否定は徹底すれば肯定になる」「破壊は大慈悲」「一殺多生」などの言葉を遺している。血盟団によるテロ計画のアジトとなった立正護国堂は、現在もなお、正規の日蓮宗寺院・東光山護国寺として残っている。境内には、「井上日召上人」を顕彰する銅像や、「昭和維新烈士之墓」などがある。
一連のテロに恐れをなした三井財閥の池田成彬は、世間の反財閥感情を減ずるために、社会事業へ寄付を行なう三井報恩会の設立や株式公開、定年制の導入など、俗に言う「財閥の転向」を演出し、三菱財閥などもそれに倣った。  
 
血盟団事件 2

 

1932年に生じた右翼団体の血盟団による暗殺事件。血盟団は国家革新主義者である日蓮宗の僧井上日召を中心に組織された右翼民間グループ。井上らは「昭和維新」を実現するために一人一殺主義を唱え,32年2月9日井上準之助前蔵相,3月5日三井合名会社理事長の団琢磨を暗殺。このほか,犬養毅首相など十数人を暗殺する計画をもっていた。井上日召および,井上蔵相の暗殺犯人の小沼正,団の暗殺犯人の菱沼五郎をはじめとする団員 14人は裁判に付され,34年,井上,小沼,菱沼に無期懲役,他の団員には懲役3〜15年の判決が下った。この事件の直後に五・一五事件が起った。
右翼団体によるテロ事件。井上日召を中心に一人一殺主義を唱える血盟団が組織され,1932年2月小沼正が民政党幹部で前蔵相の井上準之助を,翌月菱沼五郎が三井合名理事長団琢磨を相次いで暗殺。日召ら3名は無期懲役,他は有期懲役。1940年恩赦によって全員出獄。同年5月の五・一五事件への口火となった。
井上日召を盟主とする一団によるファッショ的〈国家改造〉をめざすテロ事件。1932年2月9日,前大蔵大臣井上準之助が,3月5日には三井合名理事長団琢磨が,それぞれ小沼正,菱沼五郎によってピストルで射殺され,犯人逮捕から,政財界要人20余人の暗殺計画が明らかになった。この血盟団の首謀者井上日召は,1920年代後半,支配階級の腐敗,農村の窮乏,社会主義思想の影響の広がりに危機感を抱き,1928年以後,茨城県磯浜(現,大洗町)の立正護国堂にこもり,〈国家改造〉への決意を固め,付近の小学校教員,農村青年を同志に獲得。
右翼による要人暗殺事件。1932年(昭和7)2月9日、民政党筆頭総務・前蔵相井上準之助(じゅんのすけ)が小沼正(おぬましょう)により射殺され、続いて3月5日には三井合名理事長団琢磨(だんたくま)が菱沼(ひしぬま)五郎に射殺された。捜査の結果、井上日召(にっしょう)以下14名が検挙され、組織的な暗殺計画が明らかになった。ブラックリストにあげられた政財界要人は22名にも上る。盟主の井上は日蓮(にちれん)宗の僧侶(そうりょ)で、茨城県磯浜(いそはま)の立正護国堂にこもって布教に従事するかたわら、付近の青年たちを国家革新の同志として獲得した。31年十月事件のクーデター計画を知るや、井上は地方青年同志や上京中に獲得した学生同志を率いてこれに参加する決心をした。十月事件挫折(ざせつ)後も非合法手段による国家改造方針を捨てず、独自のテロ計画をたて藤井斉(ひとし)をリーダーとする海軍の青年将校グループと協力してこれを実行に移そうと謀った。しかし、32年1月に上海(シャンハイ)事変が起こり、藤井をはじめ海軍側同志に出征するものが続出したため計画を変更し、第一陣として井上一派が一人一殺による暗殺を実行し、続いて第二陣として海軍側が決起するという計画をたてた。34年11月の一審判決で井上、小沼、菱沼に無期懲役、他の11名には懲役3年から15年の刑が確定したが、たび重なる恩赦で減刑され、40年11月までに全員出所した。なお、この裁判は、被告側が「国体」の名によって司法権の独立を攻撃し、裁判所がそれに屈服したという点でも注目される。
1932年,前蔵相井上準之助と三井合名理事長団琢磨を射殺した右翼テロ事件。血盟団は日蓮宗僧侶井上日召 (につしよう) が恐慌下の農村青年を感化して組織した狂信的右翼団体で,「一人一殺主義」で政・財界の要人を暗殺して国家改革をはかろうとしたもの。五・一五事件の発生に影響を与え,軍部台頭の契機となった。
…1930年,小学校訓導古内栄司らの勧誘により日蓮宗信者となり,井上日召の影響をうけて,政財界要人の暗殺により〈国家改造〉の“捨石”たらんとする〈血盟団〉に参加。1932年2月9日,井上準之助前蔵相を拳銃で殺害(血盟団事件)。無期懲役に処されたが,40年仮出所。…  
 
血盟団事件判決文 1934年11月22日

 

判決
無職 日召事井上昭(当四十九年)
無職 古内栄司 (当三十四年)
無職 小沼正(当二十四年)
無職 菱沼五郎 (当二十三年)
無職 黒沢大二 (当二十五年)
東京帝国大学法学部学生 四元義隆(当二十七年)
無職 池袋正釟郎(当三十年)
東京帝国大学文学部学生 久木田祐弘 (当二十五年)
東京帝国大学法学部学生 田中邦雄(当二十六年)
国学院大学神道部学生 須田太郎(当二十七年)
京都帝国大学文学部学生 田倉利之(当二十七年)
京都帝国大学法学部学生 森憲二(当二十四年)
京都帝国大学法学部学生 星子毅(当二十七年)
建築設計監督、彰道事 伊藤広(当四十七年)
右被告人井上昭、同古内栄司、同小沼正、同菱沼五郎、同黒沢大二、同四元義隆、同池袋正釟郎、同久木田祐弘、同田中邦雄、同須田太郎、同田倉利之、同森憲二、同星子毅に対する殺人及被告人伊藤広に対する同幇助被告事件に付当裁判所は検事木内曽益、同岸本義広関与審理を遂げ判決すること左の如し
主文
被告人井上昭を無期懲役に処す
被告人古内栄司を懲役十五年に処す
被告人小沼正を無期懲役に処す
被告人菱沼五郎を無期懲役に処す
被告人黒沢大二を懲役四年に処す
被告人四元義隆を懲役十五年に処す
被告人池袋正釟郎を懲役八年に処す
被告人久木田祐弘を懲役六年に処す
被告人田中邦雄を懲役六年に処す
被告人須田太郎を懲役六年に処す
被告人田倉利之を懲役六年に処す
被告人森憲二を懲役四年に処す
被告人星子毅を懲役四年に処す
被告人伊藤広を懲役三年に処す
但被告人古内栄司、同黒沢大ニ、同四元義隆、同池袋正釟郎、同久木田祐弘、同田中邦雄、同須田太郎、同田倉利之、同森憲ニ、同星子毅、同伊藤広に対し孰れも未決勾留日数中五百日を各右本刑に算入す
押収物件中ブローニング小型三号拳銃四挺(昭和七年押第ニ〇四号の七同年押第四六九号の一三八及四〇)並白鞘刀一ロ (同年押第四六九号の四三)は孰れも之を没収す
訴訟費用は全部被告人等の連帯負担とす
理由 第一
被告人井上昭は
群馬県利根郡川場村に於て医師好人の四男に生れ同県立前橋中学校を経て明治四十二年東洋協会専門学校に入学したるも のにして幼少の頃より父の薫陶郷土の気風等により報国仁俠の精神を涵養せられたるが生来懐疑的性格にして長ずるに及 び漸次自己の本体善悪忠孝の標準等に付疑問を懐き之が解決を求めて師長の教を仰ぎたるも結局自己を満足せしむるに足 るものなく煩悶の末現在の教育道徳等は総て支配階級が無自覚なる一般民衆を制縛し搾取するの欺瞞的絡繰に他ならずと 為し自暴自棄に陥り明治四十三年八月同校第二学年を中途退学し死を決して満洲に渡り南満洲鉄道株式会社社員たる傍ら 陸軍参謀本部の牒報勤務に従事中偶々南満公主嶺に於て曹洞宗布教師東祖心に接し其の鉗鎚を受け初て一道の光明を認め たるも間もなく同人と別離するに及び再び懐疑の人と為り大正二年北京に到り大総統袁世凱の軍事顧問陸軍砲兵大佐坂西 利八郎の許に同様牒報勤務に従事し日独戦争に際しては天津駐屯軍附軍事探偵と為り功に依り勲八等に叙せられ其の後山 東革命奉直戦争等に関与し大正七年暮頃以降天津等に於て貿易商を営み尚傍ら牒報勤務に従事し居りたるところ宇宙人生 等に付深刻なる疑雲に閉されたるを以て之が解決を為し自己一身の安心を確立し更正を図らんとして大正九年暮頃帰国し たり而して当時の我国情を見て社会主義者の増加支配階級の横暴無自覚等頗る憂慮すベきものあり此の儘放任し置くベき に非ずと思惟し加ふるに其の頃在満当時の盟友木島完之に邂逅し同人より我労働運動は悉く社会主義者の指導下に在りて 寒心に堪へざるを以て蹶起して之を排撃し労働運動を指導せよと慫慂せられたるも前記の如き心境に在りたる被告人は自 己の安心確立を第一義と為し大正十一年春頃より郷里なる川場村の三徳庵に籠り独坐して日夜法華題目を唱し自己修養に 専念したる結果宇宙全一の真理を体得し自覚安心を得たりとして大正十三年九月初旬上京したり其の頃偶々日蓮の教義に 関する著書を繙読し該教義は自己の体得したる境涯を理論的に説明したるものなることを識り驚喜して之が研究を志し身 延山其の他に於て法華経日蓮の遺文集及日蓮に関する講演著書等により同教義の研究を為したる結果前記境涯の誤なき ことを証悟し小我の生活は自己の本体即宇宙の真理に反するものと為し日蓮の教義と自覚安心を得たる自己の肉体とを武 器として自ら国家革新運動に参加せんと決意し予て知合なる高井徳次郎と共に護国聖社を結成し又在満当時の盟友前田 虎雄等を援けて建国会の創立に関与する等国民精神作興運動に奔走し居りたるが当時国家革新を唱導せる人々と交るに及 び其の多くは非現実的なる口舌の士に非ざれば単なる不平家煽動家にして身命を惜まず其の衝に当るべき人物なきを知り 被告人自ら人物を養成し夫等の者を率ひて之が実行運動を起さんと決意し之が為には他人をして信頼を置かしむるに足る徳性を涵養せざるべからずと為し 大正十五年夏頃より静岡県駿東郡原町なる松蔭寺に赴き山本玄峰に参禅し昭和二年五月頃 高井徳次郎の依頼に依り同所を辞し茨城県東茨城郡磯浜町岩船山通称ドンドン山に於て自己独自の加持祈禱に従事し 同年十一月前記川場村に引揚げ爾来農村の疲弊状態を視察したる結果之が救済は単なる物質的給与のみを以て其の目的を達成することの困難なるを覚り 益々時弊の根本的刷新の必要なることを痛感するに至りしが昭和三年暮頃高井徳次郎に再び懇請せられて 茨城県東茨城郡磯浜町字大洗東光台に建立せられたる立正護国堂に籠り昭和五年十月頃迄同所に起居するに至れり
当時被告人は、宇宙人生観として宇宙震万象は同根一体絶対平等即宇宙全一にして差別相其の儘全一絶対なり 故に人間は差別相に於ては分離対立したる存在なりと雖其の本体に於ては其の儘宇宙と一如合体したる存在なることを悟り 差別相に於ける自己のみに執着したる小我の生活を為さず自己は比の身此の儘大衆なることを自覚し大衆と苦楽を共にする 大我の生活即菩薩道に立脚する報恩感謝の生活を為さざるべからずと観し
国家観として我国体は国祖神に在します天照大神の御精神にして大神が 天孫に授け給へる三種の神器は大神の御精神たる 人類最高の智徳武を表象し而も 大神御一方の御精神の具現なれば大乗仏教に所謂体相用三位一体の関係に在り 即是宇宙の真理を表現したるものなり故に大神の御精神たる我国体は宇宙の真理其のものにして天壌と共に窮り無し 而して歴代天皇は三種の神器を天壌無窮の御神勅と共に受継ぎ給ひ 天照大神の御精神を御承継在らせられ唯一絶対の元首として国家の中心を為し国民と不二一体に在しますと共に 国民の大御親に在せらるゝが故に一身に主師親の三徳を具する現人神に在しまし国民は神人一如の 天皇の赤子にして大御宝なるが故に天皇の御精神を以て各自の本質と為し依て以て君民一体一国一家の万邦無比なる理想国体を成す左れば我国体は 君民の間に何ものゝ存在をも許さず国民は天皇の下に一人として其の処を得ざるものなく国家全体の幸福を目的として各自其の地位を守り 分を尽し何等矛盾撞着なく自己の未完成を畏れず憚らず未完成を未完成として愈々精進し日に新に日に日に新に創造的発展を遂げ国家と共に完成せんことを 念願せざるベからず即国民は孰れも日本人として日本天皇国を生活して国体に帰一し以て理想国家の光輝を発揚し 延ては之を全世界に及ぼし四海同胞万邦一家の理想社会を建設し世界人類永遠の平和を招来せざるべからず即是日本精神なりと観し
我国状の批判として支配階級たる政党財閥特権階級は腐敗堕落し国家観念に乏しく相結託して私利私慾に没頭し 君民の間を阻隔し目前の権勢維持に努め事毎に国策を誤り為に内治外交に失敗し就中農村の疲弊都市小中商工業者 及労働者の困窮を捨てゝ顧ず幾多の疑獄事件は踵を接して起り国民教育は其の根本を個人主義に置き国体の絶対性に付何等教ふるところなく 智育偏重に流れ徳育を忘れ延ては国民思想の悪化を馴致する等政治経済思想教育外交等所有方面に極端なる行詰を生じ 此の儘放置するに於ては国家は滅亡の他なく此の深刻なる行詰は明治維新以来の支配階級が建国の本義を忘れを徒に西洋文明に陶酔し 其の模做に終始し彼の個人主義を基調とする資本主義の如き宇宙の真理に反する差別相対の原理を以て国民生活並国家組織制度の指導原理と為したるが為にして 資本主義に内在する矛盾欠陥は余す所なく我国の本質を覆ひ去り人文愈々開けて道義日に衰へ内外共に混乱紛糾の極に達し遂に昭和維新を要望する国民的血の叫と為りたり 然るに世に所謂学者宗教家の類は概ね気概なく此の現状を目前にしながら支配階級に阿諛迎合して自己の利害打算に汲々たるに非ざれば 拱手傍観して何等為すところなく又近時資本主義の修正原理として勃興したる社会民主主義国家社会主義乃至共産主義の如きも 畢竟する所差別相対の原理より離脱せず徒に支配階級と対立抗争を事とし却て混乱紛糾を助長する滅亡道にして到底此の行詰を打開すること能はずと為し 革命観として斯る行詰を根本的に打開し国運の進展を計らんには宜しく我国の本質に適合せざる差別相対の原理を排斥し 宇宙の真理其の儘なる日本精神を指導原理として此の行詰の淵源たる無自覚なる支配階級を日本精神に覚醒せしめ以て国家組織制度を改革し 一方国民教育を改善して国体教育を徹底せしめ制度及教育の両方面より国民を指導し本質形式俱に世界の模範国家と為し以て 日本天皇国を生活せざるべからず斯の如く国家革新即所謂革命は天壌と共に窮り無き我国家の発展過程に於て其の本来の発展力を阻害し 民衆の幸福を毀損する組織制度を廃棄し我国体に適合したる組織制度を樹立して国家本来の発展力を展開せしめ 民衆の幸福を招来せしめんとする必然的行為にして真に国家民衆の幸福の為にする仏行なり 而して旧組織制度を廃棄することは破壊即否定新組織制度を樹立することは建設即肯定にして而も破壊なくして建設は在り得ず 究極の否定は即真の肯定なるが故に破壊即建設不二一体なり故に革命を行はんとする者は深く自己を内省し先づ日本精神に覚醒し国家民衆の幸福を幸福とし 其の苦悩を苦悩と為す大慈悲心を有すると共に革命は 天皇の赤子として日本天皇国を生活する唯一絶対の道なりと自覚し革命を生くるの境涯を体し 苟も革命を事業視し之に依る権勢地位名誉等の報酬を期待すベきものに非ずと確信し居りたり
而して被告人は我国家は既に単なる論説に依て救済せられず実践あるのみと為し其の手段として当初先づ宗教的に育成せられたる四人の同志を獲得し 之等の者と共に農村に入り農事の手伝を為す傍ら農民を日本精神に覚醒せしめて国家革新の必然を説き一箇月に一人が一人の同志を獲得する 所謂倍加運動に依り三箇年の後に巨万の同志を獲得し之を糾合して上京し政府議会等に対し革新の実行を迫らんと計画し 同志は 一、成るべく従来社会運動に関与せざりし真面目なる人物 二、成るべく宗教的信仰を有する者若は宗教的鍛錬を経たる者少くとも革新運動に対して宗教的熱誠を有する人物 三、以上の条件に合せざるも人間として素質の純真なる人物 四、革新運動に身命を惜まざる確固たる信念に安住せる人物 五、大衆的喝采を受くることを快とする弁論者に非ざる人物 六、他人の保護によると否とを問はず成るベく自活し得る人物 匕、現在他の思想団体政治団体と関係を有せざる人物 八、成るべく係累少く一 家の責任軽き者なるか或は夫等を超越せる人物なること 等の各条件に適合せる者の把持する理論には重を置かず選定獲得することゝ為し爾来同志の獲得に努め 昭和三年暮頃より昭和五年九月頃迄の間に被告人古内栄司同小沼正同菱沼五郎同黒沢大二を始め 照沼操、堀川秀雄、黒沢金吉、川崎長光等所謂茨城組同志を獲得すると共に昭和四年十二月頃夙に国家革新の志を抱懐し海軍部内に於て熱心に之が啓蒙運動を為し居りたる 当時霞ヶ浦海軍飛行学校学生たりし海軍中尉藤井斉と相識り爾後肝胆相照して同志と為り次で昭和五年初頃より同年九月頃迄の間に 藤井斉より啓蒙せられたる当時海軍少尉古賀清志海軍少尉候補生伊東亀城同大庭春雄同村山格之等所謂海軍側同志を獲得したるが 其の間藤井斉より数次ロンドン海軍条約締結の結果対外関係の危機切迫し西暦千九百三十六年の交に於て我国は未曾有の難局に逢着すベく 挙国一致此の難局に当らんが為国家革新の急務なることを力説せられ茲に於て社会情勢再認識の必要を感じ昭和五年八月頃群馬栃木東京等を巡歴して 国民大衆の生活状態を視察し識者の意見を聴きたる結果国家の危機急迫し民衆の生活苦悩深刻にして革新を要望する声都鄙に充満し既に論議の秋に非ず 速に革新を断行せざるべからずと為し従来の倍加運動の方法を以てしては此の焦眉の急に応ずる能はざるのみならず之が実現の暁には大衆運動たる当然の結果として 官憲と大衆との衝突を惹起し流血の禍福大なるものあるに想到し斯る結果を招来するは自己の革新精神に反するものとして該計画を抛棄したり 而して事態は斯の如くなるに拘らず真に一身を賭して困難危険なる現状打破の任に当る者なく而も被告人等同志は自ら権力及金力を有せず 且言論機関は総て支配階級の掌握するところなるのみならず言論等の合法手段によりては彼等に何等の痛痒を感ぜしめ得ざるを以て 被告人等同志に於て自ら支配階級覚醒の為非合法手段に訴へ現状打破に従事し以て革命の捨石たらんと決意し且藤井斉より現状打破の具体的方法 及之が決行の時期の決定同志間の連絡並国家革新運動に関する情報の蒐集等の各事項を一任せられて昭和五年十月頃立正護国堂を去て上京したり
爾来被告人は昭和六年十月頃迄の間に被告人四元義隆同池袋正釟同久木田祐弘同田中邦雄同田倉利之等所謂学生組同志及藤井斉より啓蒙せられたる 当時海軍中尉三上卓海軍少尉山岸宏等所謂海軍側同志を夫々獲得し且被告人古内栄司等と連絡を執り昭和五年十一月頃より昭和六年二月頃迄の間に 被告人小沼正同菱沼五郎同黒沢大二及川崎長光を同年十月初旬被告人古内栄司を孰れも上京待機せしめ其の傍ら 後記其の一の(一)の如く同年四月頃海軍側同志に対し非合法運動に使用すベき拳銃の調達を命じたる他同年六、七月頃被告人古内栄司の斡旋により 愛郷塾長橘孝三郎と東京市内某所に於て会見して深く同人の人格識見に傾倒し其の後同人は昭和維新成就の暁に於ける新組織制度の建設に 有用欠くベからざる人物にして非合法的現状破壊運動は其の任に非ずと思惟し同人に対し破壊完成後に於ける建設に当るべきことを勧告し 又上京以来国家革新運動の一般情勢に注視すると共に一方従来藤井斉と親交あり革新運動に従事し居りたる西田税及其の背後に在りて志を同うせりと目され居りたる 陸軍部内の青年将校と提携し同人等を自己の革命精神を以て誘導せんことを企図し昭和六年八月下旬明治神宮外苑日本青年館に於て被告人等民間及海軍側同志と 西田税一派との会合を開き他方藤井斉をして当時革新運動を為し居りたる大川周明一派の動静を探索せしむる等諸般の活動を為し居りたるものなり
被告人古内栄司は
栃木県芳賀郡中川村に於て農哲太郎の長男に生れ敬神崇祖の家風裡に育ち十六歳頃居村の疲弊に伴ひ生家倒産したる為 家族と共に水戸に移住し労働に従事して家計を助くる傍ら准教員養成講習会を出て茨城県東茨城郡吉田小学校に奉職し 次で大正八年茨城県立師範学校に入学し大正十二年三月同校卒業後同県結城郡石下尋常高等小学校結城尋常高等小学校等に訓導として奉職し 其の間漸次現在の教育自己の本体等に付疑問を懷き苦難の道を歩み人生を極め尽さんことを決意し全身全霊を挙げて努力し来りたるものなるが 一時病の為退職し之が静養中日蓮主義等の宗教書を渉猟し一道の光明を認め昭和三年十月頃同県那珂郡前浜尋常小学校訓導に復職し 偶々同年十二月父の死に際会して貧富の懸隔より生ずる社会的矛盾を痛感するに至りし折柄其の頃立正護国堂に於て 被告人井上昭を識り爾後数次同被告人に接し其の指導を受け法華題目の修業に専念したる結果深く同被告人の人格思想に共鳴し 教育勅語は真に宇宙の真理即我国体を其の儘表現したるものにして此の勅語の御精神に適合せざる現在の国家組織制度を改革し以て天壌無窮の皇運を扶翼し奉るは 天皇の赤子たるものゝ責務なりと為し被告人井上昭より日栄なる居士号を受け其の同志と為り更に同志を獲得せんとして昭和五年一月頃より 被告人小沼正同菱沼五郎同黒沢大二を始め前記茨城組の青年を糾合して御題目修業を主唱し自ら之が指導の任に当り 同青年等を夫々被告人井上昭に紹介して同志たらしめ次で被告人井上昭の上京後前記同志の青年等を夫々上京せしめんことを策し居りたるところ 偶々予て知合なる日本国民党書記次長鈴木善一よりロンドン海軍条約問題に関連し決死隊を募集し来りたるを好機と為し被告人小沼正等と謀り之に応募せしめて 同年十二月頃より昭和六年二月頃迄の間に被告人小沼正同菱沼五郎同黒沢大二及川崎長光を各上京せしめ其の後同年三月頃同郡八里尋常高等小学校に転勤し 同年八、九月頃迄の間数回に亘り愛郷塾長橘孝三郎を訪問し同人を通じて同塾生中より数名を同志に獲得せんと努力し又前記の如く橘孝三郎をして 被告人井上昭と会見するに至らしめたるが同年十月初旬に至り被告人井上昭の命に接し直に教職を辞し革命の捨石たらん と決意して上京したるものなり
被告人小沼正は
茨城県那珂郡平磯町に於て漁業梅吉の五男に生れ父の厳格母の慈愛及郷土の水戸勤王の遺風裡に成長し大正十五年三月同郡平磯尋常高等小学校を卒業し 直に大工の徒弟となり其の後東京市内等に於て店員として雇はれ居りたるが其の間社会人心頽廃し尊王の念日々に薄らぎ行く実状を見聞し 又強大なる資本を有する者は種々の特権を有し弱小なる企業者を極度に圧迫し為に小中商工業者の間に簇出せる幾多の惨状等を体験し社会人生に疑惑を懐くに至り 且病を得たる為悶々として昭和四年六月頃より帰郷し居りたるもの
被告人菱沼五郎は
同郡前渡村に於て農徳松の三男に生れ平和なる家庭及郷土の水戸勤王の遺風裡に成長し昭和四年十月岩倉鉄道学校業務科を卒業したるが 翌昭和五年五月頃東上線池袋駅に就職せんとしたるに鉄道業務に致命的なる紅緑色盲の為就職不能と為り自己及父兄の期待を裏切り将来の希望を失うと共に 斯る致命的欠陥を有する者を入学せしめたる学校当局の無責任を憤慨して営利主義も亦極れりと為し延ては社会人生に対し疑惑と煩悶を懐くに至りて郷里に在りたるもの
被告人黒沢大二は
同村に於て農忠之衛門の二男に生れ敬神崇祖の家庭及郷土の水戸勤王の遺風裡に成長し大正十四年頃同郡前渡尋常高等小学校卒業後家事の手伝を為し 郷党青年の信望を集め居りたるが親しく農村の疲弊及政党政治の弊害が純真なる農村青年を毒する等の実状を見聞し憂慮し居りたるものなるところ 右被告人小沼正同菱沼五郎同黒沢大二の三名は昭和五年二月頃より同年五月頃迄の間に夫々被告人古内栄司に指導せられて御題目修業を始め 日蓮の教義等を通じ漸次国家社会問題を研究するに至り同年六月頃同被告人と共に立正護国堂に到り被告人井上昭より 被告人小沼正は日召被告人菱沼五郎は日勇被告人黒沢大二は日大なる居士号を受け爾後被告人井上昭同古内栄司の指導の下に益々修業に精進し 深く被告人井上昭の感化を受け就中被告人小沼正は其の頃茨城千葉東京等を行商し農村の疲弊都市細民の困窮状態を具に視察したる結果 被告人井上昭の許に於て自己を鍛錬し国家民衆の幸福の為一身を供養し以て国家革新に邁進せんと決意し同年七月頃より立正護国堂に起臥し 被告人井上昭より親しく其の椏ゥを受け被告人小沼正同菱沼五郎同黒沢大二は孰れも被告人井上昭の人格思想に共鳴し其の同志と為りたるものにして 被告人井上昭の上京後前記の如く被告人古内栄司と謀り日本国民党の決死隊募集に応じ同年十二月頃より昭和六年二月頃迄の間に革命の捨石たらんと決意して 順次上京し同党本部に起居し同年六月頃狩野敏の主宰せる行地社に転じ其の後被告人小沼正は郷里等に於て自己鍛錬に努め被告人菱沼五郎同黒沢大二は東京市内に於て 自動車運転助手と為り辛苦を嘗めて孰れも待機し居りたるものなり
被告人四元義隆は
鹿児島市南林寺町に於て会社員嘉平次の二男に生れ明治維新勤王家の血を享け
被告人池袋正釟郎は
宮崎県都城市姫城町に於て農清次の長男に生れ孰れも幼時より父の薫陶及郷土の気風等により武士道精神を涵養せられて成長し 共に大正十四年四月第七高等学校造士館に入学したるものなるが在学中学生の赤化無気力巧利的気風及教育の無権威等を慨歎して 日本精神の涵養を目的とする七高敬天会を組織し、昭和三年四月被告人四元義隆は東京帝国大学法学部に入学し 被告人池袋正釟郎は自ら教育家と為り教育界を改善せんと志して同大学文学部に入学し相次で法学博士上杉慎吉が主宰し日本主義を標榜せる七生社同人と為り 同博士の死後安岡正篤の経営に係る金鶏学院に入り同人の指導を受けて修養に努め居りたるもの
被告人久木田祐弘は
中華民国広東省広東に於て官吏祐俊の長男に生れ十二歳頃父の死に際会する迄父母と共に海外に居住して祖国意識を強め 其の後一家を挙げて鹿児島県日置郡伊集院町なる母の実家有馬家に引取られ其の敬神尊王の家風裡に成長したるものなるが 同家の扶養を受けたると生来の固疾とにより人生の負債者たるの感を懐き国家社会に報恩するところあらんと期し 昭和三年四月第七高等学校造士館に入学し七高敬天会同人と為り昭和五年十二月頃当時鹿児島聯隊に勤務し夙に国家革新の志を有し居りたる陸軍中尉菅波三郎を識り 被告人田倉利之と共に其の指導を受け漸次国家革新を志すに至り同校卒業に際し一度革命起らば共に之に投ぜんことを誓ひ昭和六年四月東京帝国大学文学部に入学し 七生社同人と為りて修養に努め居りたるもの
被告人田中邦雄は
鳥取市西町に於て質商団蔵の四男に生れ平和なる家庭に育ち松江高等学校を経て昭和五年四月東京帝国大学法学部に入学し七生社同人と為りて修養に努め居りたるもの
被告人須田太郎は
福島市大字福島に於て農幸太郎の六男に生れ平和なる家庭に育ち昭和五年四月国学院大学神道部に入学し同学内に組織せられたる日本主義研究会会員と為りて 修養に努め居りたるもの
被告人田倉利之は
鹿児島市下龍尾町に於て教育家紋蔵の長男に生れ父の感化に依り尊王の精神を涵養せられて成長し昭和三年四月第七高等学校造士館に入学し七高敬天会同人と為り 前記の如く被告人久木田祐弘と共に菅波三郎の指導を受けて漸次国家革新を志すに至り同校卒業に際し一度革命起らば共に之に投ぜんことを誓ひ 昭和六年四月京都帝国大学文学部に入学し同学内に組織せられたる日本主義思想の研究を目的とする猶興学会同人と為りて修養に努め居りたるもの
被告人森憲二は
朝鮮群山府に於て米穀商菊五郎の長男に生れ父の敬神崇祖と叔父森田清允の国粋思想等の感化を受けて成長し第六高等学校を経て昭和六年四月京都帝国大学法学部に入学し 猶興学会同人と為りて修業に努め居りたるもの
被告人星子毅は
熊本県鹿本郡稲田村に於て農進のニ男に生れ父の敬神と郷土の菊池家勤王の遺風を受けて成長し第五高等学校を経て昭和五年四月京都帝国大学法学部に入学し 猶興学会同人と為りて修養に努め居りたるもの
なるところ被告人四元義隆同池袋正釟郎同久木田祐弘同田中邦雄同須田太郎同田倉利之同森憲二同星子毅は孰れも我現下の国状を眺め 建国の精神日に疎ぜられ政権慾に燃ゆる政党利権慾に渇する財閥権勢慾に汲々たる特権階級は孰れも腐敗堕落し相結託して私利私慾に趨り 之が為には国利民福を蹂躪して顧ず為に内治外交は失敗に続くに失敗を以てし外国威を失墜し内帝国議会は其の権威を失ひ選挙界は腐敗し 幾多の疑獄事件は相次で起り国民大衆は疲弊困憊の極に達し教育界は萎微沈滞し教育家は身を以て子弟を教導するの人格識見気慨なく 教育の根本たる徳育は全然無視せられ就中高等教育は徒に洋学を偏重し修身済世の精神教育を等閑に附し為に学生は忠君愛国の念を失ひ 其の就くべき途に迷ひ或は軽佻浮薄なるアメリカ思想に惑溺して享楽に趨り或は不逞なる共産主義思想を信奉して我国体の変更を企つる等国民生活の不安動揺 甚しく此の禍根は明治初年以来の支配階級が西洋唯物文明に陶酔して移植に努めたる資本主義的政治経済組織の矛盾欠陥に由来するものにして 速に君民一体忠孝一本の我国建囯の精神に則り之が根本的改革を為すに非ざれば国家の前途真に憂ふべきものあり 而も言論文章等の合法手段を以てしては到底之が改革は望み難しと為し其の実行運動の指導者を求め居りたるが 被告人四元義隆同池袋正釟郎は偶々昭和五年暮頃被告人井上昭を識るに及び深く同被告人の人格思想に共鳴して其の同志と為り 被告人四元義隆は昭和六年二月頃福岡に於て九州帝国大学教授河村幹雄と会談したる結果我国は其の本質上不滅なりと雖之を不滅ならしむるは吾人の努力に在り との確信を得益々国家革新の決意を鞏固ならしめ 被告人池袋正釟郎は其の頃一死報国を決意したる以上就学の要なしとして退学し 被告人久木田祐弘は昭和六年六月頃被告人四元義隆の紹介により 被告人田中邦雄は同年九月頃被告人久木田祐弘の紹介により各被告井上昭を識り 被告人田倉利之は同年十月頃被告人久木田祐弘の通知により上京して被告井上昭に接し孰れも同被告人の人格思想に共鳴して其の同志と為り 被告人須田太郎は同年暮頃被告人井上昭を識り爾後同人と交るに及び其の人格思想に共鳴し昭和七年一月末頃同志と為り 被告人森憲二同星子毅は共に昭和六年十月頃被告人田倉利之を識り互に国家革新に付共鳴するに至り 被告人星子毅は同年十二月頃被告人田倉利之と共に上京して其の紹介により 被告人森憲ニは昭和七年一月中旬頃被告人田倉利之の紹介により被告人田中邦雄を識り同被告人と共に上京して其の紹介により孰れも被告人井上昭を識るに及び 同被告人の人格思想に共鳴したるも未だ自己の修養足らざるを自覚し爾後益々自己鍛錬に努め居りたるものなり
斯して被告人須田太郎同森憲二同星子毅を除く以上の被告人等は順次結合すると共に前記海軍側並茨城組の同志を加へ 被告人井上昭を中心として国家革新を目的とする一団を形成し之が実行運動に従事することゝ為りたるが昭和六年十月頃に至り我国状を眺め 外に於てはロンドン海軍条約の失敗に加ふるに満洲事変勃発を契機として国際情勢頓に悪化し対外関係の危機切迫すると共に 内に於ては旧態依然として支配階級たる政党財閥特権階級は私利私慾に耽り自己一身の安逸を貧り国民大衆の深刻なる経済的苦難を捨てゝ顧ず 為に国状騒然として将に我国は所謂危急存亡の秋に遭遇し此の儘推移せんか滅亡の他なく斯る現状を打開し国家を累卵の危より救ひ内国民大衆の要望に応へ 外西暦千九百三十六年の国際危局に際し挙国一致の実を挙げ以て 日本天皇国の真姿を顕彰せんが為には国家革新は一日も忽に為すことを得ず 此の情勢に伴ひ国内に国家革新の気運横溢し之を口にする者多数輩出するに至りしが彼等の多くは現在の財閥又は特権階級と結託して既成政党を打倒し 之に代りて政権を獲得せんとし又は民衆の不安動揺に乗じ之を煽動利用して自己の野望を遂げんとするが如き不純なる意図を懐き国利民福を顧ざるの点に於ては 支配階級と何等択ぶところなく真に国家民衆の悩を悩とする被告人等は到底彼等と其の行を共にすること能はず固より現代の如き複雑多岐なる国家組織制度を改革することは 一朝一夕の業に非ず其の成就を看る迄には革命せんとする者と革命せられる者との間に幾多流血の惨禍を繰返し孰れも革命の犠牲者として 破壊裡に斃るゝことは蓋し必要の数にして被告人等同志のみの行動により直に国家革新を成就せしむることは之を望むべくして達し得られざるところなりと雖 現下の情勢上国家革新は不可避必然且焦眉の急を要するを以て被告人等同志は思想も成敗も恩愛も一切を超越し日本天皇国を生くる唯一絶対の道として 自ら革命の犠牲的捨石と為り支配階級の最も尊重する彼等自身の生命を脅威し相俱に現状の破壊に斃れ以て支配階級をして 自衛上已むを得ず反省し革新の挙に出でざるを得ざらしむると共に愛国諸団体の自覚結束奮起及国民大衆の覚醒を促し 昭和維新の気運を促進せざるべからずと為し且被告人等少数の同志及武器により最大の効果を収むるには現在の政治経済機構の中枢を為す政党財閥特権階級の巨頭を 暗殺するの他なしと決意し只管其の機会を窺ひ居りたり 其の後被告人井上昭は夙に前記菅波三郎に指導せられて国家革新の志を有し居りたる陸軍士官候補生篠原市之助同八木春雄同中島忠秋等を識り 同候補生等が国家革新に付焦慮し居るを察知し同候補生等に対し自己の革命精神を説き軽挙盲動を誡め置きたるが 同候補生等は同年暮頃より数回被告人古内栄司同四元義隆同池袋正釟郎と接したる結果同被告人等の革命精神に共鳴し 昭和七年二月下旬頃に至り被告人等と共に蹶起し革命の捨石たらんと決意したるにより被告人四元義隆同池袋正釟郎等は同候補生等の決意を 被告人井上昭に報告したる上同候補生等をして前記古賀清志と連絡を執らしむべく斡旋したり
而して是より先昭和六年暮頃に至り被告人等は従来多少の連絡ありたる西田税及菅波三郎等一派の態度に慊らざるものあり 加ふるに支配階級の暴状益々甚しく所謂弗買の如き売国的行為を敢てして恥ざるの実状を呈し到底之を坐視するに忍びず 一日も速に政党財閥特権階級の巨頭暗殺を決行するの他なしと為し 昭和七年一月九日夜被告人井上昭同古内栄司同四元義隆同池袋正釟郎同久木田祐弘等は海軍部内の同志古賀清志、伊東亀城、大庭春雄 及其の頃同志と為りたる海軍中尉中村義雄等と共に当時東京府豐多摩郡代々幡町代々木上原千百八十六番地所在成郷事権藤善太郎方の一室に会合し 国家革新の実行方法に付協議したる結果被告人井上昭一派の民間及海軍部内の同志のみを以て同年二月十一日紀元節を期し政党財閥特権階級の巨頭を暗殺せんこと等を決定し 被告人四元義隆をして之を地方在住の海軍部内の同志に伝達せしむることゝし各其の準備に着手し 被告人四元義隆は同年一月十一日頃東京を出発して呉佐世保鎮海舞鶴等に在る海軍部内の同志を順次歴訪し右協議の結果を伝達し 京都に在りたる被告人田倉利之同森憲二を舞鶴に招致して同様伝達し尚被告人田倉利之をして被告人星子毅に之を伝達せしめ 茲に於て被告人森憲二同星子毅は其の頃被告人井上昭等が国家革新の実行方法として政党財閥特権階級の巨頭暗殺を計画せることを知り 之に参加して革命の捨石たらんと決意したり 而して同年一月三十一日被告人井上昭同古内栄司同池袋正釟郎同久木田祐弘同田中邦雄及前記暗殺計画を知り革命の捨石たらんとして 其の頃同志に加はりたる被告人須田太郎は古賀清志、中村義雄、大庭春雄等と共に右権藤善太郎方附近にして同人の管理に係り当時被告人井上昭が起居し居りたる 所謂空家内に集合協議し被告人四元義隆は未だ帰来せざるも当時海軍部内の同志中上海事変の為出征する者続出したるにより 前記協議に従ひ二月十一日を期し決行するときは海軍部内の勢力を二分することゝ為る為被告人等民間側同志のみを以て先づ暗殺を決行し 海軍部内の同志及其の他の同志は被告人等決行の後を受け出征者の凱旋を待ち蹶起すること被告人井上昭は計画実行に付 指揮統制の任に当り他の同志に於て暗殺実行を担任すること若し被告人井上昭に於て活動不能と為りたるときは各自臨機の処置を執るべきこと 暗殺実行の方法として約十人の同志と後記其の一の(一)の如き十挺の拳銃を以て集団的行動を執るは非効果的なるにより一人が一人を殪すこと 暗殺の目標人物として政友会犬養毅、床次竹二郎及鈴木喜三郎民政党若槻礼次郎、井上準之助及幣原喜重郎財閥三井系池田成彬、団琢磨、郷誠之助 三菱系各務謙吉、木村久寿弥太、岩崎小弥太特権階級西園寺公望、牧野伸顕、伊東巳代治、徳川家達及警視総監を選定し 尚財閥たる安田系住友系及大倉系より各一名宛を選定すること直ちに各自の担当人物の動静偵察に着手し決行は同年二月七日日曜日以後に於て為すべきこと等を決定し 次で被告人井上昭より各自の担当すベき人物は同被告人に於て決定すること 秘密を守る為同志間に於ても各自の担当人物に付語り合はざること 目標人物の動静を探索し暗殺を為し得る見込付きたる後被告人井上昭の許に拳銃を受取りに来るべきこと 目標人物は必ずしも死に致すを要せざること目標人物以外の警官等に対し危害を加ふべからざること 暗殺は可及的地味に決行すベきこと 暗殺決行後其の理由を明瞭ならしむる為成敗に関せず自殺すベからざること等周到なる注意を与へたり 而して其の前後に於て
其の一、被告人井上昭は
(一)昭和六年四月下旬頃東京市小石川区原町金鶏会館に於て海軍側同志に対し国家革新の実行運動に使用すベき 武器の調達方を命じ其の結果同年五月頃当時東京府豊多摩郡代々幡町代々木なる所謂骨冷堂に於て 伊東亀城よりブローニング小型三号拳銃一挺及実弾数十発を受取り次で同年八月下旬頃東京市本郷区駒込西片町二十二番地なる被告人の妻方に於て 三上卓の手を通じ藤井斉が入手したる同型拳銃八挺実弾八百発を受取り之等を明治神宮表参道同潤会アパートなる前記菅波三郎方に隠匿し 昭和七年一月十日之を海軍側同志をして前記空家に運搬せしめ更に同年一月三十日頃右空家に於て 大庭春雄よりユ二オン型拳銃一挺及実弾を受取りて各之を保管し置き
(二)昭和七年一月三十一日会合直後之に出席したる被告人等を前記権藤善太郎方附近にして同人の管理に係り 当時被告人四元義隆等の起居し居りたる所謂寮の一室に順次一人宛呼び寄せ被告人古内栄司に池田成彬を 被告人池袋正釟郎に西園寺公望を被告人久木田祐弘に幣原喜重郎を被告人田中邦雄に若槻礼次郎を被告人須田太郎に徳川家達を各暗殺すベく命じ 翌二月一日右空家に於て被告人四元義隆に対し前示協議の結果を告知し且同被告人をして牧野伸顕の暗殺を担当せしめ又 右協議に加はらざりし被告人小沼正同菱沼五郎同黒沢大二に対しては被告人古内栄司をして夫々招致せしめ 被告人田倉利之同森憲二同星子毅に対しては被告人久木田祐弘をして上京を促さしめ同年二月二日頃より六日頃迄の間に右空家に於て夫々会見し 右協議の結果を告知したる上被告人小沼正に井上準之助を被告人菱沼五郎に伊東巳代治を被告人黒沢大二に団琢磨を 被告人田倉利之に被告人四元義隆の補助として牧野伸顕を被告人森憲二に犬養毅を暗殺すベく各命じ 尚被告人星子毅に対しては武器足らざるが故に京都に於て拳銃を調達したる上犬養毅、床次竹二郎、鈴木喜三郎、若槻礼次郎、井上準之助、幣原喜重郎の 中関西方面に遊説に赴きたる者を暗殺すベく命じ更に同月四日頃被告人久木田祐弘の担当を変更して同志間の連絡を執るベきことを命じ 又同月三日頃被告人池袋正釟郎に同月六日頃同小沼正に同月七日頃同田中邦雄に同月九日頃同須田太郎使用の分として同久木田祐弘に 夫々ブローニング小型三号拳銃各一挺実弾十数発宛を同月九日頃被告人四元義隆に同型拳銃二挺実弾五十発を夫々交付し
(三)同月九日迄前記空家に於て同志の指揮統制に当り居りたるが同日被告人小沼正が井上準之助を暗殺したるより身辺の危険を感じ 翌十日残余の拳銃及実弾を大庭春雄をして其の頃同志となりたる当時東京府豊多摩郡代々幡町代々木上原千百八十九番地海軍大尉浜勇治方に運搬隠匿せしめたる上 在満当時の盟友本間憲一郎の紹介により当時同府同郡渋谷町常盤松十二番地天行会道場頭山秀三方に移り爾後同年三月十一日迄同所に隠れ 其の間後記其の六の(四)(五)の如く被告人四元義隆より被告人田倉利之同森憲二同星子毅をして関西遊説中なる若槻礼次郎を暗殺せしむることとし 被告人須田太郎を京都に派して其の旨伝達せしめたること及被告人菱沼五郎をして鈴木喜三郎次で団琢磨の各暗殺を担当せしめたること等の報告を受け 之を承認したる等同志の指揮統制に当りたる外数次前記古賀清志と会見し海軍側同志蹶起に関し同人に対し前記候補生等と連絡を執るベきこと 武器は大川周明より入手すベきこと等諸般の方途を授け
其の二、被告人古内栄司は
(一)同年一月三十一曰池田成彬の暗殺を担当し同年二月四日より同月十二日迄池田邸附近なる東京市麻布区飯倉片町十七番地中島幸太郎方に止宿し 其の間数次同区永坂町一番地なる池田成彬邸神奈川県中郡大磯町なる同人の別邸及同人の勤先なる東京市日本橋区室町二丁目一番地三井銀行附近を徘徊して 其の動静を探索したるも遂に暗殺決行の機会を捉ふることを得ず
(二)被告人小沼正が井上準之助を暗殺したる為同年二月十二日より同月二十六日迄前記浜勇治方に潜伏し居りたるが其の間 (イ)同月十四日頃右浜勇治方に於て被告人四元義隆同田中邦雄と協議の上同田中邦雄をして団琢磨を暗殺せしむることを決定し (ロ)同月十六日頃浜勇治を当時東京府北豊島都滝野川町字馬場五百十二番地国井善弥方に隠れ居りたる被告人黒沢大二の許に遣はし 其の附近なる蓬萊軒に於て被告人菱沼五郎同黒沢大二に対し更に指令ある迄外出せざる様伝達せしめ (ハ)同月十七日頃浜勇治方に於て被告人四元義隆と協議し当時神奈川県下に於て衆議院議員選挙に立候補し居りたる鈴木喜三郎を被告人菱沼五郎をして 又当時関西方面遊説中なりし若槻礼次郎を其の頃京都に立帰り待機中なりし被告人田倉利之同森憲二同星子毅三名をして夫々暗殺せしむべく決定し 同日直に被告人須田太郎を当時東京府北豊島郡板橋町元滝野川ニ千四百二十一番地被告人伊藤広方に遣はし同所に隠れ居りたる被告人菱沼五郎に右指令を伝達せしめ 次で翌十八日頃被告人須田太郎を京都市左京区田中門前町四十三番地勝栄館に遣はし被告人田倉利之同森憲二同星子毅三名に対し右指令を伝達せしめ 且之が実行の用に供する為ブローニング小型三号拳銃一挺実弾十二発を交付せしめ (ニ)其の後被告人菱沼五郎に於て鈴木喜三郎の暗殺に失敗するや更に同月二十四日頃右浜勇治方に於て被告人四元義隆と協議し 同菱沼五郎をして団琢磨を暗殺せしむべく決定し被告人四元義隆をして同菱沼五郎に之を伝達せしめ
(三)同月二十六日頃より当時東京府豊多摩郡大久保町西大久保三百四十三番地陸軍中尉大蔵栄一方に潜伏し同月二十七日頃前記大磯町に赴き池田成彬別邸附近を徘徊して 同人の動静を探索し
其の三、被告人小沼正は
同年二月二日井上準之助の暗殺を担当し爾後周到なる探索を遂げたる上同月六日被告人井上昭より前記の如く拳銃一挺(昭和七年押第二〇四号ノ七)実弾四十八発を受取り 直に茨城県東茨城郡磯浜海岸に到り之が試射を為し次で同月九日正午頃井上準之助が同日夜東京市本郷区駒込追分町百番地駒本小学校に於ける 衆議院議員候補者駒井重次の選挙演説会に出演することを知るや同夜七時頃前記拳銃を携へ右小学校通用門前に到り井上準之助の来るを待受け 同人が午後八時頃右通用門前にて自動車より下車し通用門を入りたる際同人の背後に迫り所携の拳銃を以て其の背部を目懸けて三発連射し為に弾丸は同人の胸腹部に命中し 遂に同人をして同日午後八時二十分頃東京帝国大学医学部附属病院に於て胸腹部重要内臓器の損傷に因り死亡するに至らしめ以て暗殺の目的を遂げ
其の四、被告人菱沼五郎は
(一)同年二月四日伊東巳代治の暗殺を担当したるも同月九日被告人小沼正が井上準之助を暗殺したる為同月十二日より前記伊藤広方に潜伏し居りたるが 同月十七日に至り同所に於て前記の如く被告人須田太郎より鈴木喜三郎を暗殺すべき旨の指令を伝へられて之を承諾し即日神奈川県川崎市に到り 鈴木喜三郎推薦演説会の日程を調査し翌十八日当時東京府豊多摩郡渋谷町省線渋谷駅前某喫茶店に於て被告人四元義隆よりブローニング小型三号拳銃一挺実弾六発を受取り 之を携帯して直に鈴木喜三郎の推薦演説会場なる川崎市宮前小学校に到り鈴木喜三郎の来場を待受け居りたるも同人が出演せざりし為暗殺決行の機会を捉ふることを得ず
(ニ)翌十九日より被告人伊藤広の斡旋に依り更に当時東京府北豊島郡巣鴨町宮下千六百八十ニ番地大概豊方に移り潜伏し居りたるが 同月二十七日頃東京市小石川区駕籠町日本皇政会に於て被告人四元義隆より団琢磨を暗殺すべき旨の指令を受けて之を承諾し 爾後当時東京府豊多摩郡千駄ヶ谷町原宿三百四十四番地なる団邸及同人の勤先なる前記三井銀行附近を徘徊して同人の動静を探索したる上 同年三月三日当時東京府北豊島郡巣鴨町市電大塚終点附近なる梅喫茶店に於て被告人四元義隆よりブローニング小型三号拳銃一挺 (昭和七年押第四六九の一)及実弾十六発を受取り翌四日千葉県船橋海岸に到り該拳銃の試射を為し同月五日午前十時頃右三井銀行附近に到り 団琢磨の出勤を待受け午前十一時二十五分頃同人が同銀行表玄関前にて自動車より下車し表玄関の石段を上りたる際同人の右側より其の右前面に出で 右拳銃を同人の右胸部に押当てゝ射撃したる為弾丸は同人の右胸部に命中し同人をして間もなく同銀行内に於て心臓創傷に因る大出血の為死亡するに至らしめ 以て暗殺の目的を遂げ
其の五、被告人黒沢大二は
同年二月六日頃団琢磨の暗殺を担当したるも未だ其の準備に着手せざるに被告人小沼正が井上準之助を暗殺したる為同月十日より前記国井善弥方に 同月二十二日頃より右大槻豊方に潜伏し其の間同月十三日頃雑誌キング一月号に依り団琢磨が三井銀行に勤務し居ること及其の面貌を知りたるが 同月十六日頃前記の如く浜勇治より被告人古内栄司の伝言を聴き更に三月一日頃被告人菱沼五郎に於て団琢磨の暗殺を担当し居ることを知りて 自己の担当変更したるものと思惟し別に指令の来るを待ちつゝありしところ前記の如く同月五日被告人菱沼五郎が団琢磨を暗殺したるより 即日前記伊藤広方に移り同月八日迄同所に潜伏し其の後同所を出て諸所を転々し
其の六、被告人四元義隆は
(一)同年二月一日牧野伸顕の暗殺を担当し直に東京市芝区三田台町なる内大臣官邸附近に到り状況を偵察したるが警戒厳重にして自己一人にては暗殺決行困難なりと思惟し 同月六日頃被告人井上昭と協議の上被告人田倉利之をして補助せしむることゝし同月十日頃前記の如く被告人井上昭より交付を受けたる拳銃及弾丸を被告人田倉利之に渡し 同被告人をして右内大臣官邸附近なる同市同区同町一丁目二十七番地三田ホテル事原田タツ方に止宿せしめて牧野伸顕の動静を探索せしめ
(二)同月九日被告人小沼正が井上準之助を暗殺するや官憲の捜査厳重と為りしより東京の地理に暗き被告人田倉利之同森憲二が東京に留るは全線暴露の危険ありとし 被告人井上昭の命により同月十二日被告人田倉利之同森憲二に対し一先づ京都に立帰り待機すベき旨を命じ
(三)前記其の二の(二)の(イ)の如く同月十四日頃浜勇治方に於て被告人古内栄司同田中邦雄と協議の上同田中邦雄をして団琢磨暗殺を担当せしめ
(四)前記其の二の(二)の(ハ)の如く同月十七曰頃浜勇治方に於て被告人古内栄司と協議し被告人菱沼五郎をして鈴木喜三郎を 被告人田倉利之同森憲二同星子毅三名をして若槻礼次郎を各暗殺せしむることを決定し被告人須田太郎をして夫々之を伝達せしめ 其の頃之を被告人井上昭に報告して其の承認を得尚前記其の四の(一)の如く同月十八日省線渋谷駅附近なる某喫茶店に於て被告人菱沼五郎に対し ブ口ーニング小型三号拳銃一挺及実弾六発を交付し
(五)前記其の二の(二)の(ニ)の如く同月二十四日頃浜勇治方に於て被告人古内栄司と協議し被告人菱沼五郎をして団琢磨を暗殺せしむることを決定したる上 前記其の(四)の(二)の如く同月二十七日頃日本皇政会に於て被告人菱沼五郎に対し団琢磨を暗殺すベき旨を命じ其の頃被告人井上昭に之を報告して其の承認を得 次で同年三月三日市電大塚終点附近なる某喫茶店に於て被告人菱沼五郎に対しブローニング小型三号拳銃一挺実弾十六発を交付し
其の七、被告人池袋正釟郎は
(一)同年一月三十一日西園寺公望の暗殺を担当し同年二月三日被告人井上昭よりブローニング小型三号拳銃一挺実弾二十五発を取り之を携帯して 同日静岡県庵原郡興津町に到り其の頃富士川沿岸に於て右拳銃の試射を為し同月二十七日迄同町清見寺に滞在し其の間同町内に在る西園寺公望の別邸 坐漁荘附近を徘徊して其の動静を窺ひ
(二)同年三月五日西園寺公望の入京するや東京市芝区新橋駅に到り警戒の状況を視察したる上同人退京の際を擁し之を暗殺せんとして其の機会の到来を待ちつゝありしが 其の目的を遂ぐるに至らず
其の八、被告人久木田祐弘は
(一)同年一月三十一日幣原喜重郎の暗殺を担当し同年二月三日頃東京市本郷区駒込上富士前町二十三番地なる幣原邸附近を徘徊して其の動静を探索し
(二)同月四日頃被告人井上昭より連絡係を命ぜられ爾後同月十三日頃迄の間同志間を往復して連絡の任に当り又同月九日被告人井上昭より同須田太郎に於て使用すべき ブローニング小型三号拳銃一挺実弾二十五発を受取りたるも同被告人に之を交付すベき機会を得ず其の儘所持し居り同月十日被告人田中邦雄より 同被告人が所持せし同型拳銃一挺実弾四十六発を預り同月十二日頃右拳銃二挺及実弾を浜勇治に交付し
其の九、被告人田中邦雄は
(一)同年一月三十一日若槻礼次郎の暗殺を担当し同人が東北方面遊説に赴くことを探知し之を宇都宮に擁して暗殺せんと企て 之が実行の用に供する為同年二月七日頃被告人井上昭よりブローニング小型三号拳銃一挺(昭和七年押第四六九号の四〇)実弾五十発を受取り 同月十日頃東武線草加駅附近に於て之が試射を行ひたるも若槻礼次郎が同月九日被告人小沼正の為暗殺せられたる井上準之助の葬儀委員長に選ばれたる為 東北方面遊説を延期したることを知るや一先づ右拳銃及弾丸を被告人久木田祐弘に預け同月十三日右井上準之助の告別式場たる東京市赤坂区青山南町三丁目青山斎場附近に赴き 警戒の状況等を視察し
(二)翌十四日頃前記浜勇治方に到り被告人古内栄司同四元義隆と協議したる結果若槻礼次郎の暗殺を中止し団琢磨の暗殺を担当することに決し 浜勇治より再び前記拳銃及実弾の交付を受け
(三)同月二十一日頃前記天行会道場に於て被告人井上昭同古内栄司と協議したる結果自ら床次竹二郎の暗殺を担当し其の後友人なる 東京市本郷区根津藍染町十八番地田村清長方関根三子雄をして床次竹二郎に対し書状を以て面会を申込ましめ只管暗殺決行の機会を窺ひ居りたるも 遂に其の目的を達するに至らず
其の十、被告人須田太郎は
(一)同年一月三十一日徳川家達の暗殺を担当し同年二月四日頃より徳川邸附近なる当時東京府豊多摩郡千駄ヶ谷町千駄ヶ谷五百二十六番地深沢長太郎方に止宿し 同町千駄ヶ谷三百三十番地なる徳川邸附近を徘徊して其の動静を探索したる上二月十一日徳川家達参内の途を擁し之を暗殺せんと為したるも 拳銃を入手し得ずして其の機会を失し
(二)前記の如く被告人古内栄司同四元義隆の命を受け同月十七日頃前記伊藤広方に赴き被告人菱沼五郎に対し鈴木喜三郎を暗殺すべき旨の指令を伝達し 更に翌十八日頃前記勝栄館に赴き被告人田倉利之同森憲二同星子毅の三名に対し関西地方遊説中なる若槻礼次郎を暗殺すベき旨の指令を伝達し 且之が実行の用に供する為ブローニング小型三号拳銃一挺実弾十二発を交付し
其の十一、被告人田倉利之は
前記其の六の(一)の如く被告人四元義隆の補助として牧野伸顕の暗殺を担当し同年二月十日頃被告人四元義隆より拳銃二挺実弾五十発を受取り 牧野伸顕の居住せる内大臣官邸附近なる前記原田タツ方に止宿し爾後右官邸附近を徘徊して牧野伸顕の動静を探索し居りたるが 同月十二日前記其の六の(二)の如く被告人四元義隆より待機を命ぜられて一先づ京都に立帰り
其の十二、被告人森憲二は
同年二月六日頃犬養毅の暗殺を担当し爾後東京市麴町区永田町総理大臣官邸同区内山下町立憲政友会本部及同市四谷区信濃町なる犬養邸附近を徘徊して 同人の動静を探索し居りたるが前記其の六の(二)の如く同月十二日被告人四元義隆より待機を命ぜられ一先づ京都に立帰り
其の十三、被告人星子毅は
同年二月六日頃被告人井上昭より其の一の(二)の如く京都に於て拳銃を調達したる上犬養毅、床次竹次二郎、鈴木喜三郎、若槻礼次郎、井上準之助、幣原喜重郎の 中関西地方遊説に赴きたる者を暗殺すべき旨の指令を受け翌日直に京都に立帰り予て知合なる京都帝国大学学生住川逸郎同大学武術道場専属巡視矢羽田慶造に付 拳銃を調達せんとしたるも入手することを得ず
其の十四、被告人田倉利之同森憲二同星子毅は
同年二月十八曰前記の如く勝栄館に於て被告人須田太郎より当時関西地方遊説中なりし若槻礼次郎暗殺の指令を受け且之が実行の用に供する為前記拳銃一挺 (昭和七年押第四六九号の三八)及実弾十二発を受取りたる上京都市電百万遍停留場附近路上に於て三名協議の結果被告人森憲二に於て 島根松江市に急行し同地に若槻礼次郎を擁して之を暗殺することゝし即日被告人森憲二は実弾を装填したる右拳銃を携帯して同市に赴き 翌十九曰松江駅附近松江劇場に於ける演説会場入口及松江駅等に於て決行せんとし其の機会を窺ひたるも遂に其の目的を果さずして帰洛し 次で若槻礼次郎が同月二十一夜京都駅発東上することを知り被告人田倉利之同森憲二には協議の上之を京都駅に擁撃せんとし 被告人田倉利之は右拳銃を同森憲二は其の所有に係る短刀一口(昭和七年押第四六九号の四三)を各携帯して京都駅に到りたるも 又其の機会を失したるより被告人田倉利之は同森憲二同星子毅と協議の上同月二十六日頃右拳銃を携帯して単身上京し 爾後若槻邸附近なる東京市本郷区駒込上富士前町十九番地福田金一方に止宿し数次同区同町百二十九番地なる若槻邸附近を徘徊して 其の動静を探索し居りたるも遂に其の目的を遂げず以て被告人井上昭同古内栄司同小沼正同菱沼五郎同黒沢大二同四元義隆同池袋正釟郎同久木田祐弘 同田中邦雄同須田太郎同田倉利之同森憲二同星子毅は共謀の上犯意を継続して井上準之助及団琢磨を順次殺害したるものなり
理由 第二
被告人伊藤広は
千葉県香取郡栗源町に於て農愛治郎の二男に生れ家庭並郷土の敬神崇祖の民風を享けて成長し明治四十四年築地工手学校建築科を卒業し建築設計業を営み居りたるが 昭和四年秋頃より今泉定助に師事して日本精神の鍛錬究明に努めたる結果
一、大日本天皇国の皇謨に基き 天皇親政の大義を宣昭す
二、天皇政治の天則に悖る不色分子一切の掃払を期す三、天皇意思並国体観念を明徴にし民心の統一を期すことを綱領とする教化団体日本皇政会を組織し 其の本部を東京市小石川区駕籠町今泉定助方に置き自ら同会の理事として事業部を担任し皇化運動を為し居りたるものなるところ 昭和七年二月十四日頃より予て知合の被告人井上昭同古内栄司等が国家革新を図らんとし之が手段として政党財閥特権階級の巨頭暗殺を計画し 被告人小沼正が其の同志の一人として同年二月九日井上準之助を暗殺したるものなること被告人菱沼五郎同黒沢大二が孰れも被告人井上昭等の同志にして 官憲より捜査を受け居り之が逮捕せらるゝに於ては被告人井上昭の右計画が挫折するの虞あることを知りながら
(一)被告人菱沼五郎を同年二月十二日より同月十九日迄当時東京府北豊島郡板橋町元滝野川二千四百二十一番地なる自宅に次で 同月十九日より同年三月五日迄予て知合なる大槻豊に依頼して当時同府同郡巣鴨町宮下千六百八十二番地なる同人方に秘に止宿せしめ 尚同年三月五日被告人黒沢大二が被告人方に遁れ来るや同月八日迄同人を前記自宅に潜伏せしめ
(二)同年二月十四日頃より同年三月初旬頃迄の間数回に亘り前記天行会道場に在りたる被告人井上昭及前記浜勇治方に在りし被告人古内栄司と 被告人菱沼五郎同黒沢大二等との間に於ける連絡を執り以て被告人井上昭等が計画したる前記第一の政党財閥特権階級の巨頭暗殺を容易ならしめて 之を幇助したるものなり
(証拠証明省略)
法律に照すに被告人井上昭、同古内栄司、同小沼正、同菱沼五郎、同黒沢大二、 同四元義隆、同池袋正釟郎、同久木田祐弘、同田中邦雄、同須田太郎、同田倉利之、同森憲二、同星子毅の判示第一の所為は 刑法第百九十九条第六十条第五十五条に該当するを以て其の所定刑中被告人井上昭、同小沼正、同菱沼五郎に対しては無期懲役刑を選択処断すべく 其の余の被告人等に対しては各有期懲役刑を選択し其の所定刑期範囲内に於て被告人古内栄司同四元義隆を各懲役十五年に 被告人池袋正釟郎を懲役八年に被告人久木田祐弘、同田中邦雄、同須田太郎、同田倉利之を各懲役六年に 被告人黒沢大二、同森憲二、同星子毅を各懲役四年に夫々処すべく 被告人伊藤広の判示第二の所為は刑法第百九十九条第六十条第五十五条第六十二条第一項に該当するを以て其の所定刑中有期懲役刑を選択し 同法第六十三条第六十八条第三号に則り法律上の減軽を為し其の刑期範囲内に於て同被告人を懲役三年に処すべく 被告人古内栄司、同黒沢大二、同四元義隆、同池袋正釟郎、同久木田祐弘、同田中邦雄、同須田太郎、同田倉利之、同森憲二、同星子毅、同伊藤広に対し 同法第二十一条に依り各未決勾留日数中五百日を夫々右本刑に算入すベく 主文掲記の押収物件は本件犯罪の用に供し又は供せんとしたるものにして被告人等以外の者に属せざるを以て同法第十九条第一項第二号第二項に依り 之を没収すベく訴訟費用は刑事訴訟法第二百三十七条第一項第二百三十八条を適用して全部被告人等の連帯負担とす 依て主文の如く判決す
昭和九年十一月二十二日
東京地方裁判所第一刑事部 裁判長判事 藤井五一郎 / 判事 居森義知 / 判事 伊能幹一  
 
五・一五事件

 

1932年(昭和7年)5月15日に日本で起きた反乱事件。武装した海軍の青年将校たちが総理大臣官邸に乱入し、内閣総理大臣犬養毅を殺害した。
背景​
大正時代に衆議院の第一党の党首が内閣総理大臣になるという「憲政の常道」が確立したことで当時の日本は議会制民主主義が根付き始めたが、一方では1929年(昭和4年)の世界恐慌に端を発した大不況により企業倒産が相次いで社会不安が増していた。
犬養政権は金輸出再禁止などの不況対策を行うことを公約に1932年(昭和7年)2月の総選挙で大勝をおさめたが、一方で満州事変を黙認し、陸軍との関係も悪くなかった。
しかし、1930年(昭和5年)ロンドン海軍軍縮条約を締結した前総理若槻禮次郎に対し不満を持っていた海軍将校は若槻襲撃の機会を狙っていた。1931年(昭和6年)には関東軍の一部が中華民国北部で満州事変を引き起こしたが、政府はこれを収拾できず、かえって引きずられる形だった。
そして立憲民政党(民政党)は選挙で大敗、若槻内閣は退陣を余儀なくされた。これで事なきを得たかに思われたがそうではなかった。計画の中心人物だった藤井斉が「後を頼む」と遺言を残して中華民国で戦死し、この遺言を知った仲間が事件を起こすことになる。
計画​
この事件の計画立案・現場指揮をしたのは海軍中尉・古賀清志で、死亡した藤井斉とは同志的な関係を持っていた。事件は血盟団事件につづく昭和維新の第二弾として決行された。古賀は昭和維新を唱える海軍青年将校たちを取りまとめるだけでなく、大川周明らから資金と拳銃を引き出させた。農本主義者・橘孝三郎を口説いて、主宰する愛郷塾の塾生たちを農民決死隊として組織させた。時期尚早と言う陸軍側の予備役少尉西田税を繰りかえし説得して、後藤映範ら11名の陸軍士官候補生を引き込んだ。
3月31日、古賀と中村義雄海軍中尉は土浦の下宿で落ち合い、第一次実行計画を策定した。計画は二転三転した後、5月13日、土浦の料亭・山水閣で最終の計画が決定した。具体的な計画としては、参加者を4組に分け、5月15日午後5時30分を期して行動を開始、
第一段として、海軍青年将校率いる第一組は総理大臣官邸、第二組は内大臣官邸、第三組は立憲政友会本部を襲撃する。つづいて昭和維新に共鳴する大学生2人(第四組)が三菱銀行に爆弾を投げる。
第二段として、第四組を除く他の3組は合流して警視庁を襲撃する。
これとは別に農民決死隊を別働隊とし、午後7時頃の日没を期して東京近辺に電力を供給する変電所数ヶ所を襲撃し、東京を暗黒化する。
加えて時期尚早だと反対する西田税を計画実行を妨害するものとして、この機会に暗殺する。
とし、これによって東京を混乱させて戒厳令を施行せざるを得ない状況に陥れ、その間に軍閥内閣を樹立して国家改造を行う、というものであった。
経過​
首相官邸​
5月15日当日は日曜日で、銃殺された犬養首相は折から来日していたチャールズ・チャップリンとの宴会の予定変更を受け、終日官邸にいた。
第一組9人は、三上卓海軍中尉、黒岩勇海軍予備少尉、陸軍士官学校本科生の後藤映範、八木春雄、石関栄の5人を表門組、山岸宏海軍中尉、村山格之海軍少尉、陸軍士官学校本科生の篠原市之助、野村三郎の4人を裏門組として2台の車に分乗して首相官邸に向かい、午後5時27分ごろ官邸に侵入。表門組の三上は官邸の日本館の洋式客間で、警備の田中五郎巡査を銃撃し重傷を負わせた(田中五郎巡査は5月26日に死亡する)。
表門組と裏門組は日本館内で合流。三上は日本館の食堂で犬養首相を発見すると、直ちに拳銃を首相に向け引き金を引いたがたまたま弾丸が装填されていなかったため発射されなかった。三上は首相の誘導で15畳敷の和室の客間に移動する途中に大声で全員に首相発見を知らせた。客間に入ると首相は床の間を背にしてテーブルに向って座り、そこで首相の考えやこれからの日本の在り方などを聞かされようとしていた。
しかし一同起立のまま客間で首相を取り囲み、三上が首相といくつかの問答をしている時、山岸宏が突然「問答無用、射て、射て」と大声で叫んだ。ちょうどその瞬間に遅れて客間に入って来た黒岩勇が山岸の声に応じて犬養首相の頭部左側を銃撃、次いで三上も頭部右側を銃撃し、犬養首相に重傷を負わせた。すぐに山岸の引き揚げの指示で9人は日本館の玄関から外庭に出たが、そこに平山八十松巡査が木刀で立ち向かおうとしたため、黒岩と村山が一発ずつ平山巡査を銃撃して負傷させ、官邸裏門から立ち去った。
それでも犬養首相はしばらく息があり、すぐに駆け付けた女中のテルに「今の若い者をもう一度呼んで来い、よく話して聞かせる」と強い口調で語ったと言うが、次第に衰弱し、深夜になって死亡した。
首相官邸以外​
首相官邸以外にも、内大臣官邸、立憲政友会本部、警視庁、変電所、三菱銀行などが襲撃されたが、被害は軽微であった。
第一組の一部は首相官邸を襲撃した後、警視庁に乱入して窓ガラスを割るなどし、その後日本銀行に向かい車の中から日本銀行に手榴弾を投げ、敷石等に損傷を与えた。
第二組の古賀清志海軍中尉以下5人はタクシーに乗って内大臣官邸に向かい、午後5時27分頃に到着、これを襲撃し、門前の警察官1名を負傷させたが、牧野伸顕内大臣は無事だった。その後、第二組は警視庁に乱入、ピストルを乱射して逃走した。これにより居合わせた警視庁書記1人と新聞記者1人が負傷した。
第三組の中村義雄海軍中尉以下4人はタクシーに乗って立憲政友会本部に向かい、午後5時30分ごろに到着、玄関に向かって手榴弾を投げ、損傷を与えた。
第四組の奥田秀夫(明治大学予科生で血盟団の残党)は、午後7時20分頃に三菱銀行前に到着、ここに手榴弾を投げ込み爆発させ、外壁等に損傷を与えた。
別働隊の農民決死隊7名は、午後7時ごろに東京府下の変電所6ヶ所を襲ったが、単に変電所内設備の一部を破壊しただけに止まり、停電はなかった。
血盟団員の川崎長光は西田税方に向かい面会し、隙を見て拳銃を発射、西田に瀕死の重傷を負わせた。
第一組・第二組・第三組の計18人は午後6時10分までにそれぞれ麹町の東京憲兵隊本部に駆け込み自首した。一方、警察では1万人を動員して徹夜で東京の警戒にあたった。
6月15日、資金と拳銃を提供したとして大川周明が検挙された。
7月24日、橘孝三郎がハルビンの憲兵隊に自首して逮捕された。
9月18日、拳銃を提供したとして本間憲一郎が検挙された。
11月5日には頭山秀三が検挙された。
後継首相の選定​
後継首相の選定は難航した。従来は内閣が倒れると、天皇から元老の西園寺公望にたいして後継者推薦の下命があり、西園寺がこれに奉答して後継者が決まるという流れであったが、この時は西園寺は興津から上京し、牧野内大臣の勧めもあって、首相経験者の山本権兵衛・若槻禮次郎・清浦奎吾・高橋是清、陸海軍長老の東郷平八郎海軍元帥・上原勇作陸軍元帥、枢密院議長の倉富勇三郎などから意見を聴取した。
当時、誰を首相にするかについては様々な意見があった。
総裁を暗殺された政友会は事件後すぐに鈴木喜三郎を後継の総裁に選出し、政権担当の姿勢を示していた。
昭和天皇からは鈴木貫太郎侍従長を通じて後継内閣に関する希望が西園寺に告げられた。その趣旨は、首相は人格の立派な者、協力内閣か単独内閣かは問わない、ファッショに近いものは絶対に不可、といったものであった。
陸軍の内部では平沼騏一郎という声が強く、政友会でも森恪らはこれに同調していた。また陸軍の革新派には荒木貞夫をかつぎだし軍人内閣を作れという要求もあった。いずれにせよ陸軍は政党内閣には反対であった。
結局西園寺は政党内閣を断念し、軍を抑えるために元海軍大将で穏健な人格であった斎藤実を次期首相として奏薦した。斎藤は民政・政友両党の協力を要請、挙国一致内閣を組織する。西園寺はこれは一時の便法であり、事態が収まれば憲政の常道に戻すことを考えていたらしいが、ともかくもここに8年間続いた憲政の常道の終了によって政権交代のある政治は第二次大戦後まで復活することはなかった。
裁判​
事件に関与した海軍軍人は海軍刑法の反乱罪の容疑で海軍横須賀鎮守府軍法会議で、陸軍士官学校本科生は陸軍刑法の反乱罪の容疑で陸軍軍法会議で、民間人は爆発物取締罰則違反・刑法の殺人罪・殺人未遂罪の容疑で東京地方裁判所でそれぞれ裁かれた。元陸軍士官候補生の池松武志は陸軍刑法の適用を受けないので、東京地方裁判所で裁判を受けた。
当時の政党政治の腐敗に対する反感から犯人の将校たちに対する助命嘆願運動が巻き起こり、将校たちへの判決は軽いものとなった。このことが二・二六事件の陸軍将校の反乱を後押ししたと言われ、二・二六事件の反乱将校たちは投降後も量刑について非常に楽観視していたことが二・二六将校の一人磯部浅一の獄中日記によって伺える。
評価​
犬養首相の暗殺で有名な事件だが、首相官邸・立憲政友会(政友会)本部・警視庁とともに、牧野伸顕内大臣も襲撃対象とみなされた。しかし「君側の奸」の筆頭格で、事前の計画でも犬養に続く第二の標的とみなされていた牧野邸への襲撃はなぜか中途半端なものに終わっている。松本清張は計画の指導者の一人だった大川周明と牧野の接点を指摘し、大川を通じて政界人、特に犬養と中国問題で対立し、軍部と通じていた森恪などが裏で糸を引いていたのでは、と推測している。 孫の犬養道子も著作で、「森が兵隊に殺させようとしている」という情報が、政友会幹事の久原房之助から親族を通じて伝えられたことを記録している。
だが、中谷武世は古賀から「五・一五事件の一切の計画や日時の決定は自分達海軍青年将校同志の間で自主的に決定したもので、大川からは金銭や拳銃の供与は受けたが、行動計画や決行日時の決定には何等の命令も示唆も受けたことはない」と大川の指導性を否定する証言を得ており、また中谷は大川と政党人との関係が希薄だったことを指摘し、森と大川に関わりはなかった、と記述している。
関係者​
実行者​
 首相官邸襲撃隊​
三上卓 - 海軍中尉で「妙高」乗組。反乱罪で有罪(禁錮15年)。1938(昭和13)年に出所後、右翼活動家となり、三無事件に関与
山岸宏 - 海軍中尉。禁錮10年
村山格之 - 海軍少尉。禁錮10年
黒岩勇 - 海軍予備少尉。反乱罪で有罪(禁錮13年)
野村三郎 - 陸軍士官学校本科生。禁錮4年
後藤映範 - 陸軍士官学校本科生。禁錮4年
篠原市之助 - 陸軍士官学校本科生。禁錮4年
石関栄 - 陸軍士官学校本科生。禁錮4年
八木春男 - 陸軍士官学校本科生。禁錮4年
 内大臣官邸襲撃隊​
古賀清志 - 海軍中尉。反乱罪で有罪(禁錮15年)。1938(昭和13)年7月、古賀清志らは特赦で出獄し、山本五十六海軍次官と風見章内閣書記官長のところへ挨拶に行って、それぞれ千円(2018年現在の貨幣価値で500万円)ずつもらったという。
坂元兼一 - 陸軍士官学校本科生。禁固4年
菅勤 - 陸軍士官学校本科生。禁固4年
西川武敏 - 陸軍士官学校本科生。禁固4年
池松武志 - 元陸軍士官学校本科生。禁固4年
 立憲政友会本部襲撃隊​
中村義雄 - 海軍中尉。禁固10年
中島忠秋 - 陸軍士官学校本科生。禁固4年
金清豊 - 陸軍士官学校本科生。禁固4年
吉原政巳 - 陸軍士官学校本科生。禁固4年
 民間人​
橘孝三郎 - 「愛郷塾」主宰。刑法犯(爆発物取締罰則違反,殺人及殺人未遂)で有罪(無期懲役)。1940(昭和15)年に出所
大川周明 - 反乱罪で有罪(禁錮5年)
本間憲一郎 - 「柴山塾」主宰。禁固4年
頭山秀三 - 玄洋社社員。頭山満の三男
反乱予備罪​
伊東亀城 - 海軍少尉。禁固2年、執行猶予5年
大庭春雄 - 海軍少尉。禁固2年、執行猶予5年
林正義 - 海軍中尉。禁固2年、執行猶予5年
塚野道雄 - 海軍大尉。 禁固1年、執行猶予2年
裁判関係​
高須四郎 - 海軍横須賀鎮守府軍法会議判士長・海軍大佐
西村琢磨 - 陸軍第一師団軍法会議判士長・陸軍砲兵中佐
神垣秀六 - 東京地方裁判所裁判長・判事
木内曽益 - 検事。東京地方裁判所に係属した被告事件の主任検事。
清瀬一郎 - 弁護人
林逸郎 - 弁護人
花井忠 - 弁護人
「話せばわかる」​
犬養が殺害される際に、犬養と元海軍中尉山岸宏との間で交わされた「話せばわかる」「問答無用、撃て!」というやり取りはよく知られているが、「話せばわかる」という言葉は犬養の最期の言葉というわけではない。前述の通り、犬養は銃弾を撃ち込まれたあとも意識があったとされている。なお、山岸は次のように回想している。
「 『まあ待て。まあ待て。話せばわかる。話せばわかるじゃないか』と犬養首相は何度も言いましたよ。若い私たちは興奮状態です。『問答いらぬ。撃て。撃て』と言ったんです。 」
また、元海軍中尉三上卓は裁判で次のように証言している。
「 食堂で首相が私を見つめた瞬間、拳銃の引き金を引いた。弾がなくカチリと音がしただけでした。すると首相は両手をあげ『まあ待て。そう無理せんでも話せばわかるだろう』と二、三度繰り返した。それから日本間に行くと『靴ぐらいは脱いだらどうじゃ』と申された。私が『靴の心配は後でもいいではないか。何のために来たかわかるだろう。何か言い残すことはないか』というと何か話そうとされた。 その瞬間山岸が『問答いらぬ。撃て。撃て』と叫んだ。黒岩勇が飛び込んできて一発撃った。私も拳銃を首相の右こめかみにこらし引き金を引いた。するとこめかみに小さな穴があき血が流れるのを目撃した。 」 
 
五・一五事件〜なぜ、海軍青年将校たちはテロリズムに走ったのか

 

昭和7年(1932)5月15日、五・一五事件が起こりました。海軍の青年将校たちが、犬養毅首相を暗殺した事件として知られます。
その日は日曜日でした。76歳の犬養首相は首相官邸におり、高齢ながら医師の診断を受けても健康そのものだったようです。午後5時30分頃、首相官邸に乱入した将校らは、警備の警官を銃撃し、食堂にいた犬養のもとに殺到します。そして一人が引き金を引きますが、弾が装填されておらず不発。犬養は慌てずに、一同を応接室に案内しました。自分の考えを、いま日本が置かれている状況を踏まえて説き聞かせる気だったのです。
ところが将校らは「問答無用」とばかりに犬養の腹部と頭部を撃ち、立ち去りました。女中たちが駆けつけると、犬養は「撃った男を連れてこい。よく話して聞かすから」と、最後まで言論で説得しようとする姿勢を見せます。しかし傷は重く、日付が変わる前に絶命しました。丸腰の老首相を武装した軍人が射殺する、紛れもないテロリズムです。
しかし、なぜ青年将校たちはテロに走ったのか。それについては、当時の日本と世界の状況を客観的に見る必要があります。
3年前の昭和4年(1929)、ニューヨークの株式相場が大暴落し、世界恐慌が始まります。衝撃は日本をも襲い、翌年には「昭和恐慌」と呼ばれる大不況に陥りました。その最中に、ロンドンでは海軍軍縮条約が結ばれ、海軍軍人の政府に対する不満が募ります。一方、満洲では中国国民党の妨害とソ連の暗躍で権益が脅かされ、昭和6年(1931)、状況打開のために関東軍が満洲事変を起こしました。我慢を続けてきた日本国民は、これに喝采を贈ります。さらに国内では、飢えに苦しむ貧しい農村で娘たちの身売りが日常化していました。そうした背景の中で、国家社会主義ともいうべき思想が蔓延します。「貧困にあえぐ国民がいる一方で大資本家が経済搾取を行なっている。それを助長する政党政治を倒さなくてはならない」というものでした。
そして事件直前の2月、3月には血盟団による前蔵相・井上準之助、三井財閥の團琢磨射殺事件が起きます。これには民間団体の血盟団がテロを実行してみせれば、海軍の青年将校たちも重い腰を上げるだろうという目論みがあったといわれます。
事件後、軍法会議にかけられた青年将校たちに、多くの国民から助命嘆願が寄せられたことも、時代の空気を示すものとして見逃せません。こうした背景と国内の空気の中で、4年後により大規模な二・二六事件が起きるのです。
ミッドウェー海戦で戦死した山口多聞少将の遺品の中に、五・一五事件の将校たち全員の顔写真が掲載された当時の新聞があります。よく見ると、その顔一つひとつにペンで丸眼鏡やらひげやら、子供のいたずらのような落書きが描かれていました。多聞がどんな思いで落書きしたのかは想像するしかありませんが、この事件に否定的な思いがあればこそ、でしょう。おそらく「軍人の本分は有事に備えることで、政治に口を挟むことではない。まして銃口を国民に向けるなど論外である」という思いではなかったでしょうか。 
 
犬養毅 「話せばわかる」と説いた政治家の生涯

 

うまれから代議士として活躍するまで
犬養はどのようにして総理大臣への道を辿ったのでしょうか。まずは、うまれから議員になるまでを振り返ります。
慶應義塾で学び立憲改進党に入党する
犬養は、安政2年(1855)備中国賀陽郡川入村(現在の岡山県岡山市)で誕生しました。父・犬飼源左衛門は大庄屋や郡奉行を務めていましたが、犬養が2歳のときにコレラで急死します。その後は苦しい生活を余儀なくされたものの、明治9年(1876)には上京して慶應義塾に入学。その後は記者の道へ進み、明治16年(1882)には大隈重信が結成した立憲改進党に入り、大同団結運動などで活躍しました。
「憲政の神様」と呼ばれるように
明治23年(1890)、犬養は第1回衆議院議員総選挙で当選します。以後、第18回総選挙まで連続当選し、尾崎行雄に次ぐ記録を打ち立てました。文部大臣などを務め、その後は「憲政の神様」と呼ばれるようになります。
また、横浜山手中華学校などの名誉校長にも就任し、アジア主義の功労者としてガンジーや孫文らと並んで世界的に称えられる存在となりました。
総裁就任から第29代内閣総理大臣へ
政党政治家となった犬養は、総裁から総理大臣へと上り詰めます。しかしこれが、のちの暗殺へと繋がるのです。
大政党・立憲政友会の総裁に
犬養は、第2次山本内閣で文部大臣兼逓信大臣を、加藤高明内閣でも逓信大臣を務めました。ところが小政党を率いることに限界を感じ、ついに政界から引退。それ以降は山荘に引きこもったものの、支持者たちによって立候補させられ選挙に当選し続けるという事態に陥ります。そして、政友会総裁の後継をめぐる対立にも担ぎ出されたのです。
こうして犬養は、昭和4年(1929)10月には大政党・立憲政友会の総裁に選ばれました。
統帥権干犯問題で政府を攻撃
濱口内閣が「ロンドン海軍軍縮条約」を締結。この条約により、第一次世界大戦の戦勝国であるイギリス、アメリカ、フランス、イタリア、日本の戦艦などの保有が制限されました。このとき政府は希望量を達成できずに調印したため、野党やマスコミから批判が噴出。犬養は鳩山一郎とともに、「政府が兵力量を天皇(=統帥)の承諾なしに決定するのは憲法違反(統帥権の干犯)だ」と政府を批判しました。
元老・西園寺公望の推薦で首相に
浜口内閣に次ぐ第2次若槻内閣は、満州事変をめぐる閣内不統一に陥り総辞職しました。元老・西園寺公望は、中華民国との話し合いで満州事変を解決しようとしていた犬養を評価し、政友会の総裁として推薦します。
その結果、首相となった犬養は、高橋是清を大蔵大臣に起用して経済不況からの脱却に取り組みました。高橋の積極財政への転換は功を奏し、日本は世界恐慌から最速で脱出することに成功します。
満州支配構想が頓挫してしまう
犬養は満州事変の処理について、中国国民党と独自のパイプで外交交渉しようとします。犬養の構想は、「中国に対し形式的な領有権を認めながら、実質的には日本の経済的支配下に置く」というものでした。これを実現するため、パイプ役の元記者・萱野長知を上海に送り込みましたが、萱野からの電報は内閣書記官長・森恪に握り潰されてしまいます。強硬派の森は、弱腰な犬養の外交姿勢が不満だったのです。結局交渉は行き詰まり、計画は頓挫しました。
五・一五事件で暗殺された犬養
犬養はやがて暗殺されてこの世を去ります。この事件は「五・一五事件」として知られるようになりました。
軍部に感謝されていたはずが標的に…
軍部の青年将校たちは、ロンドン海軍軍縮条約の締結は統帥権の独立を犯したとして怒りをもっていました。将校らの怒りは条約調印時に全権大使を務めた若槻禮次郎に向かうはずでしたが、怒りの矛先は政府そのものにかわっていきます。そして、そのとき政府のトップだった犬養が標的となったのです。かつて同じ主張をした犬養が狙われたのは、まさに皮肉といえるでしょう。
青年将校たちに銃撃される
昭和7年(1932)総理公邸で休日を過ごしていた犬養のもとに、ピストルをもった海軍の青年将校たちが乱入します。犬養をみつけた襲撃犯の一人が即座に引き金を引きましたが、弾が入っておらず不発に終わりました。一旦は彼らを落ち着かせた犬養でしたが、最終的には別動隊の銃弾に撃ちぬかれます。襲撃者たちが去ったあとに駆け付けた女中たちに「いま撃った男を連れてこい。よく話して聞かすから」と述べたという犬養は、その夜22時ごろまで「心配するな」と口にするほど元気でしたが、そのあと衰弱し、78歳でこの世を去りました。
喜劇王チャーリー・チャップリンから弔電も
犬養の葬儀は、総理官邸の大ホールで行われました。このとき、たまたま来日していた喜劇王チャーリー・チャップリンから「憂国の大宰相・犬養毅閣下の永眠を謹んで哀悼す」という弔電があったといわれています。これは世界に名を馳せた犬養ならではのエピソードといえるでしょう。
犬養毅の人物像がわかるエピソード
支持者によって国のトップに上り詰め、最後は暗殺されてこの世を去った犬養。そんな彼の人物像がわかるエピソードをご紹介します。
襲撃犯に「話せば分かる」と説いた
犬養は、襲撃された際に両手を上げて、「話せば分かる」と口にしたことで知られています。危機的状況にもかかわらず将校たちを応接室に案内した犬養は、靴を脱いだらどうかと言い、煙草まで勧めたといいます。銃撃されたのは、襲撃犯から「何か言い残すことはないか」と聞かれ、何かを返そうとした瞬間でした。このとき話し合いができていれば、結果も大きく変わっていたかもしれません。
弁の立つ毒舌家だった
犬養が話し合いを重視したのは、弁舌にすぐれていたことも関係しているでしょう。彼の演説は理路整然として迫力があったといわれています。また犬養は毒舌でもあり、親友の古島一雄は犬養の妻に「出がけに口を慎めと必ず言ってくれ」と頼んだこともあったのだとか。政敵を増やしたその毒舌は、正義感が強い性格だからこそのものと言えるかもしれません。
戦争を阻止しようとした総理
生前の犬養は、「政友会内閣である以上は、外国へ侵略しようとはまったく考えていない」と演説しました。自分の死に際でさえ話し合うことで解決しようとした犬養の死は、その後の日本に大きな影響を与えたといえるでしょう。この頃に起こった大正デモクラシーはファシズムを止められず、やがて第二次世界大戦へとつながっていきます。 
 
「話せばわかる」対「問答無用」

 

86年前の1932年5月15日に起きた五・一五事件。内閣総理大臣犬養毅と殺害犯である海軍の青年将校の間でのやり取りと言われているのが、本コラムのタイトルにした「話せばわかる」「問答無用」である。
五・一五事件は、課題はありながらもある程度は機能していた政党に基づく議会制民主主義が、大幅に後退する転機となった事件と言える。犬養首相以降は、軍人や皇族、官僚などが首相となり、政党の代表者が首相という形が復活するのは戦後まで待たなければならなかった。
軍の一部による首相殺害を狙った事件としては1936年の二・二六事件があり、テレビなどを始め近年ではこちらの方が取り上げられることが多い。規模の大きさや計画の周到性などからすれば、二・二六事件は本格的なクーデーターを企図したものと言える。しかし、軍の一部が直接的に首相殺害を企図し、政党政治を実質的に終わらせたという観点では、五・一五事件が嚆矢であると考える。この点については、五・一五事件は海軍の一部将校が中心であるが、二・二六事件は陸軍の一部将校が中心であり、戦後の海軍善玉論、陸軍悪玉論が両事件の取り上げ方に影響しているのではないかとの友人の見解に妙に納得がいった覚えがある。
物理的な危険が迫っている時など、「問答無用」で即座に行動しなければならない場面もある。しかし、大抵の場合は議論を尽くす事が大事であり、それは民主主義に限らず、社会を円滑に運営していく方法であろう。お互いの誤解や勘違いは、話し合わなければ気付かないことも多い。誤解などに基づくすれ違いが、大きな災厄に繋がることも間々ある。
卑近な話をすれば、結婚や離婚も「問答無用」な姿勢が招いている側面も多くあるように思う。もう少しお互いに「話し合おう」という姿勢に転じていれば、違った展開もあったと思われる事例も多いような気がする。
「話し合おう」という姿勢は衆知を集める手段でもあり、「問答無用」という態度では新たなアイデアを逸してしまうであろう。やることが明確な場合は、議論している暇があったら実践という意味で「問答無用」な態度もあり得る。しかし、ビジネスをはじめとして、実社会では試行錯誤が必要な事柄が多くある。
残念ながらわが国では、議論を尽くす事が求められる時に「問答無用」の方に偏り易い傾向があると思われる。五・一五事件の前年に起きた満州事変に関する国際連盟での対応もそうであった。当時の日本は五大国の一つであり(※1)、国際連盟に残って徹底的に「話し合おう」という態度を貫き通すべきであった。しかし、1933年、満州事変に関する日本の主張を否認するいわゆるリットン報告書が採択されると、国際連盟を脱退してしまった。
ここ数年の国会を見ていても、議論すべき内外の課題が山積しているのに、与野党ともに「話し合おう」という姿勢が欠けているように見える。どちらも結論ありきで臨んで、相手のあら探しはするものの、話し合ってより良い政策を作り上げようという風には見えない。というのが一般的な国民の感想ではないだろうか。特に2010年代に入ってからの日本国が直面している国際環境は激動のさなかにあり、こんな時こそ課題解決に向けて衆知を集めることが求められる。
なお、日本人は「話し合い」という表現だとプラスイメージだが、「交渉」と表現するとマイナスイメージに取る傾向があるように思う。「交渉」という表現には取引というイメージが付きまとうからかもしれない。
しかし、婚姻生活も国際関係も果てしない交渉の継続である。交渉し続ける姿勢が重要であると思うのだが、これがなかなか難しい。
(※1) 国際連盟発足時の常任理事国は、日本、イギリス、フランス、イタリアの4か国(アメリカが国際連盟に参加していれば常任理事国になる予定だった)。後にドイツが国際連盟に加盟し常任理事国となり、日本が国際連盟を脱退する直前は、日本、イギリス、フランス、イタリア、ドイツの5か国が常任理事国だった。 
 
神兵隊事件

 

1933年(昭和8年)7月11日に発覚した、愛国勤労党天野辰夫らを中心とする右翼によるクーデター未遂事件。「神兵隊」という名称は、会沢正志斎の詩に「神兵之利」、その著作『新論』に「天神之兵」とあるのにもとづいて、前田虎雄がつけたという。 血盟団事件、五・一五事件などの流儀を受け継ぎ、大日本生産党・愛国勤労党が主体となって、閣僚・元老などの政界要人を倒して皇族による組閣によって国家改造を行おうと企図した。警視庁特別高等警察部捜査により未然に発覚し、東京・渋谷の金王八幡神社の集結所で天野辰夫ら約50人が検挙され、内乱罪が適用されたが、刑は免除された。
経緯​
準備​
天野辰夫は、血盟団事件および五・一五事件の2事件に期待した国家改造が不首尾に終わったため、みずから乗り出すことに決め、昭和7年5月、前田虎雄(直接行動指令)を中国・上海から呼び、前田、紫山塾頭本間憲一郎の3人で、数次に渡って会見・謀議した。
まず国家改造の挙兵に際しては身命を賭する先鋭有力分子の獲得に努めるなど準備を進めたが、五・一五事件の検挙が想定外の深部にまで達し、大川周明についで、本間紫山塾頭も検挙され、企図の右翼諸団体に弾圧が及んで、昭和8年2月ころ活動を中止した。
しかしこの時期にも2人は、決行すべき挙兵は2事件にかんがみ、最終かつ必勝のものでなければならないとした。天野から破壊方面を任された前田は、皇国農民同盟、大日本生産党青年部、神武会、大化会、国家社会党、大阪愛国青年連盟その他、国士舘専門学校生徒、敬天塾塾生をも動員しようと考えた。これら団体の代表的人物と連絡をとることにつとめたが、動員計画は徐々に規模が縮小された。それでも動員計画に際して発送された通知状は3600通にのぼり、所要費用は数万ないし十数万円と予想された。
軍資金調達に悩んだ天野は、昭和8年2月、親交のある安田中佐(顧問格)に計画概要を打ち明け、調達方を懇請し、安田はこれを懇意の中島勝次郎(資金仲介者)に依頼した。内藤彦一(資金提供者)はこのころ、投機の失敗から300余万円の負債を抱え、イチかバチかの大投機をおこなって債務解消するかそれとも死を選ぶほかないというきわめて苦しい状況にあった。内藤は、松沢勝治(早耳提供者)の紹介で中島と会見の際、計画概略を聞いた、事件ブローカー佐塚袈裟次郎(資金仲介者)から、その秘書岩村峻(資金仲介者)を通じて話を聞き、ここにおいて、中島立会のうえ、岩村と安田との会見がおこなわれた。その結果、岩村は内藤が早耳の代償として提供した額面25000円の手形3通を、中島を通じて前後2回にわたって安田に贈った。
前田虎雄は本間憲一郎の紹介で、昭和7年以来、横須賀海軍工廠飛行実験部長山口三郎中佐(行動部顧問格)をしばしば訪れていたが、8年1月3日会見のさい、計画を打ち明け、賛同を得た。かくして海軍きっての空爆の名手山口中佐を味方に加えて、前田は計画をさらに推し進め、2月になると山口中佐に空爆に関する腹案を提示して、了解を得た。
翌年3月には、内藤の提供になる資金中、10000円が安田中佐から天野辰夫の手を経て届けられたので、準備運動はますます活発の度をました。
計画​
前田は面識のある大日本生産党青年部長鈴木善一(動員関係司令)に働きかけ、1933年(昭和8年)5月、計画の概要を打ち明けた。鈴木はこれに賛成し、自分が率いる党青年部員の動員と、党中央委員の中精鋭分子の糾合の計画をたて、6月21日から3日間、横浜市神奈川区神奈川の待合「明石」で、前田と決行方法について謀議をおこなった。
計画では、総理大臣官邸での閣議開催を期して海軍航空隊の100機近い飛行機から官邸と警視庁に爆弾を投下し、これを合図として地上部隊は数十名ずつ隊伍を組んで官邸・警視庁、牧野伸顕内大臣・山本権兵衛海軍大将・鈴木喜三郎立憲政友会総裁・若槻禮次郎民政党総裁などの官邸・私邸、政友会・民政党・社会大衆党の各本部などを襲撃・放火し、斎藤実内閣総理大臣以下各大臣、藤沼庄平警視総監などを殺害し、警視庁・日本勧業銀行などを占拠してこれを本部とし、戒厳令施行までこれを守り、政府転覆その他の朝憲紊乱を目的として暴動を起こす予定であった。計画決行期日は7月7日とされ、両者の担当は前田が行動隊の統率、鈴木は行動隊の動員とした。
しかし決行期日の直前になって、神兵隊幹部間の意見の衝突と武器調達の失敗とにより、第一次決行計画はいったん中止となり、あらためて7月11日に挙兵するという計画がたてられた。突然の計画変更で、中央と地方代表、地方代表と地方隊員、の間で連絡は混乱し、当局の警戒阻止にもあい、第二次決行計画に動員されたのは約130名であった。
陰謀に参加した者は、天野辰夫(愛国勤労党中央委員、弁護士)、安田銕之助(予備陸軍歩兵中佐)、山口三郎(海軍中佐)、前田虎雄(愛国勤労党中央委員)、鈴木善一(大日本生産党青年部長)、内藤彦一(松屋常務取締役)、中島勝次郎(西園寺公私設護衛隊長)など数十名であった。
決行​
前田は、7月11日決行に腹を決めて指令を発し、10日夜、明治講会館に集合したところを検挙された。検挙されたのは、同人をはじめ、影山正治・白井為雄・村岡清蔵(以上、行動隊東京部)、片山駿(同満州組)以下49名であった。
同夜、水戸から大型バスに乗って上京した行動隊茨城組の小池銀次郎など30余名は、検挙の模様に気付いて明治神宮外苑から引き返して土浦に帰ったところを、鈴木善一は検挙をしらずに11日朝に明治講会館に現われたところを、それぞれ検挙された。
山口中佐は11日朝、前田以下が一斉検挙されたことを知り、予定の行動を中止した。
裁判​
事件は昭和10年春以降、東京刑事地方裁判所において、被告人63名について取り調べた結果、被告人の大部分は内乱予備罪に該当することが明白になり、同年9月16日、天野・安田・前田・鈴木以下54名については内乱予備陰謀罪(大審院特別権限事件)に該当するとして、管轄違いの決定をなし、同罪に該当する被告人で予審中に死亡した山口・内藤など4名は公訴権消滅の決定をなし、早耳提供ならびに資金提供に関与した岩村他3名については殺人予備として、事件の早耳によって大阪で投機の思惑をおこなった寺本については爆発物取締罰則違反としてそれぞれ予審集結決定し、東京刑事地方裁判所の公判に回付した。
天野ほか53名は「大審院の特別権限に属する公判」に付すべきものであるか否かを審理中であったところ、昭和11年12月17日、泉二裁判長から、刑事訴訟法第483条第1項にのっとり、内乱予備陰謀罪として公判開始決定が与えられ、最初の内乱罪適用事件として大審院刑事四部宇野裁判長係、岩村検事次長、池田思想検事立会のもとに開廷された。
天野ほか43名については、昭和16年3月15日、大審院第二特別刑事部が、刑を免除する旨の判決をなした。
その理由は、大要、(1)時ノ閣僚ヲ殺害シテ内閣ノ更迭ヲ目的トスルニ止マリ暴動ニ依リ内閣制度其ノ他ノ朝憲ヲ不法ニ変革スルコトヲ目的トセサルトキハ内乱罪ヲ構成セス、(2)大審院ノ特別権限ニ属スルモノトシテ公判開始決定アリタル事件ニ付テハ其ノ然ラサルコト明白トナリタルトキト雖大審院ハ右事件ニ付実体上ノ裁判ヲ為シ得ルモノトス、というものである。
統制派将校が背後にいたといわれる。別働隊の元アナーキストであった吉川永三郎に、西田税および永井了吉を暗殺させようとし、皇道派の荒木貞夫を事件成功後殺害することを重大目的としていた。
また、今田新太郎少佐が恩賜の拳銃を神兵隊幹部に交付したという噂もあった。さらに検挙後、池田純久少佐、武藤章中佐、綾部少佐らが、警視庁の安倍源基特別高等警察部長を訪問し、「なぜ検挙したか」と詰問した。事件後、今田新太郎が辻政信大尉とともに新疆方面に出張を命じられたのは、参考人として取り調べられることを避けるためだと伝えられている。安倍源基は、陸軍の統制派と関係があったというのは全くのデマであると述べている。  
 
北進か南進か(1933-1934)

 

ショウの見下し
1933年2月22日、日曜日、著名なアイルランド生まれ英国人劇作家、ジョージ・バーナード・ショウ(77歳)が、連盟と熱河省間の危機の真っ只中、東洋に到着した。北京においての最初の記者会見で、彼は語った。 「もし、満州の3千万中国人のすべてがアイルランド人のように愛国者となるならば、満州問題は解決するだろう」。そう中国人の憂国心に問いかけつつ、次に、日本人に言った。 「日本兵は、あらゆる中国居住民に銃を突きつけているが、愛国心を抑えようとすることは馬の頭に座るようなものだ。ただ危なっかしいだけで何もできない」。
その一週間後、ショーは日本に到着した。そして一人の日本人記者に言った。 「私はどんなスポーツも大嫌いだ。悪いマナーと敵愾心を起こすからだ。国際的スポーツ試合は戦争の種をまくようなものだ」。二日後、熱河作戦について、彼はこう述べた。 「ヨーロッパでの戦争は帝国主義的なもので、三つの帝国を滅亡させた。日本人は、自分たちの帝国主義が、共和制〔の出現〕に終わるものであり、その支配者たちが欲していることはそんなことでは全くないということを、考えたことがあるのだろうか。ヨーロッパの帝国主義者たち、あるいは、彼らが残したことは、1914年に回帰する目をもたらしたことだった」。そして彼は、日本が産児制限を採用することを要望して付け加えた。 「どうして日本は、拡張政策を維持すべきで、そして、より低い文明の流入を嫌う他の国を倒す権利をなぜ主張するのか、〔人口膨張以外に〕その理由がない。」
一週間にわたり、ショウは、 「日本人が誇りとする近代都市のおぞましさ」 や 「戦争、愛国心、そして国際連盟の無益」 を徹底してこきおろし、日本の幻想を丸裸にした。そして、東京での最終日の3月8日、ショウは、北進派で饒舌な荒木陸軍大臣と、二時間にわたって、好敵手同士の会見をもった。荒木は、裕仁と皇后の父親、故久爾親王が支援する、日本の生物兵器研究に対する逆諜報の煙幕を張ろうと、その好機に飛びついた。
「ヨーロッパの諸国が、細菌を武器とする研究をしていることを承知しております」 と荒木が切り出した。 
「私は細菌を恐れはしませんが、しかし爆弾はそういうわけには行きません。爆弾が落とされたら、子供たちは逃げねばなりません」、とショウは応えた。
「日本では、進んだ武器をもつ資金が不足しており、そこでもっとも経済的な方法は、6千万人が竹やりをもって戦うことなのです」 と荒木は言った。
これにショウは、「私は怠け者で臆病です。ですから、防空壕に逃げ込むのも面倒です。私は銃声に身震いしますが、地下壕にこもることはもっと興味を欠くことなのです」 と応えた。
「怠惰は勇気だ」 と荒木は宣言し、そして続けた。 「貴殿は禅の悟りの境地に達しておられる。私は貴殿が地震を体験されていないことが残念です。日本では、怠惰でなくては暮らせません。地震は災難でありながら、同時に、国民精神をつくる宗教的開明でもあります。地震の際には、警報は出ません。そういう地震のことを思えば、もはや、空襲は恐れるものではないのです」。
対話の最後にショウが言った。 「もし閣下がロシアに生まれていたら、スターリンより偉大な政治家となっていたでしょう。私は、中国人が日本本土に上陸してくるまでここにいて、閣下と話をつづけていたと思います」。
北進指導者
陸軍大臣荒木貞夫は、面長で繊細な顔をもち、大きな天神ひげをつけた、明敏な小男だった。1932年から1933年の初めの間に、彼は、裕仁に対抗しうる唯一の日本人指導者として頭角を現した。政友会政治家、陸軍将校の北進派理論家、西園寺側近の国際派貴族、そして多くの事業家や地下組織の親分たちは、すべて、そのひょうきんで善意の政治的天才を支持することで、お互いの違いを無視することができた。
荒木は、しだいに顕著となりつつある天皇の南進の野心に、アメリカとの自滅的な戦争の可能性を見て反対していた。日本をこの破局から救うために、彼は、悲劇の可能性のより少ないことが予想される、ソ連との戦争を指図していた。彼はことに、その戦争を1936年に始めることを提案していた。1936年が日本の歴史にとって曲がり角となるという神秘的な考えは、はるかに遡る1918年に、大川博士やスパイ機関の他の知識人による予言的著作に書かれていた。それが1933年までに、あらゆる純正な右翼たちの世紀末的教理の中に明快に謳われるようになっていた。そして、36年倶楽部ができ、陸軍予備役向けの36年雑誌も発行されていた。荒木は、36年の重要性について、長い時間をかけて詳細に論じることができた。彼のその予言への意気込みは、本心と裏腹のものでも、狂気の沙汰でもなかった。軍事力構成を比較した細心な諜報予測に基づき、日本は、その前でもその後でもない、1936年にこそ、ロシアを破る最適の機会を迎えるというものであった。
荒木のロシアへの敵意は、職業的かつ深遠なものだった。彼は、1909年から1913年まで、ロシアにあって、少佐として日本の諜報機関に仕えていた。彼は 『資本論』 を読み、ロシア革命の数年前より、ボォルシェビズムの脅威について指摘を始めていた。彼は、裕仁がマルクス主義者に盲目であると見て、1932年中、彼の眼を開けさせようと、幾度も謁見をおこなってそれを試みた。しかし、裕仁は、寵臣の経済顧問、高橋是清大蔵大臣を信頼していた。頭脳明晰、非正統派、無節操な76歳の高橋は、ケインズ派経済人として時代に先んじていた。彼の助言は、日本が世界恐慌を切り抜けるため、軍備に資金を投入することを主に目指すものであった。彼は、専門家の意見として、ロシアのボルシェビズムは、いったんロシアが重工業を発展させ、資本主義的複雑性を必要とした時、生き残れないとの見解を表していた。
裕仁は高橋を信頼したかった。裕仁自身の見方では、ボルシェビズムは、国家宗教としては神道の比ではなかった。それは、日本の貴族のような、安定した指導者階級を持っていなかった。それは単に、一つの国の成長過程における経済的側面にすぎず、裕仁は、民族的不純と洋の東西が半々に混じるという根本的欠陥を持つと感じていた。
裕仁に反対するに際して、荒木陸相は、外見的には、自分の人望と人を説き伏せる能力に頼った。だが内実は、1920年代初期以来、裕仁について収集してきたファイルを利用した。荒木は、1967年に他界するまで、常にそのファイルを自分の傍らに保持していた。彼は、その中のあらゆる文書を写真複写し、そのコピー一式を密封した封筒に入れて信頼できる友人にあずけることをほのめかしていた。彼の不時の死の際、その封筒は開かれ、その内容が閲覧されるという考えだった。その〔ファイルが入れられた〕金庫は、未開のまま、彼の家族によっていまだ保管されている。彼の姪たちは、それを、自分たちに安泰をもたらすお守りだと考えている。
荒木はそのファイル作りを1921年の4月より始めた。彼が陸軍一般幕僚諜報部の欧米課々長になった時だった。その職権から、彼は若い駐在武官全員――裕仁の皇太子時代の欧州歴訪の際、各大使館で面会――からの暗号電報を手にすることができた。荒木はさらに、1925年、裕仁が陸軍より長州藩閥を一掃した際の憲兵の命令をそのファイルに加えた。1928年、満州軍閥張作霖の暗殺の際には、荒木ははじめて、彼の考えが裕仁と異なっていることに気付き、以来、自分の書類を携帯金庫に保管し始めた。
彼は、失職した長州閥退役軍人のためのクラブと雇用斡旋所を設立したため、陸軍官僚界では出世街道から外れ、権力を失っていった。にも拘わらず、彼に従うものは減らなかった。彼は、裕仁の特務集団から離反した北進主義者との栄誉を得ることとなった。彼はそうして、その斜陽な経歴から、陸軍政治家として表舞台へと返り咲いた。1931年12月、彼は44歳にして、悲劇に見舞われる犬養内閣の陸軍大臣に就任した。1933年、いまだ陸相のまま――裕仁の大兄たちが 「切り捨てるには人気がありすぎる」 と認めるように――、国内最後の、裕仁反対派となっていった。
赤い汚点
荒木がバーナード・ショウを相手に機微を交わし合った時、彼は、裕仁に公然と挑み始めるに充分な力を感じ始めていた。熱河作戦の際に長城を突破することで裕仁をまごつかせたのは、前線にいる彼の忠臣たちであった。また、それに遡ること1月、国際連盟からの脱退論議のさ中、荒木は、皇位に対する国内的攻勢を強めていた。それはもっとも奸智に長けていたもののひとつで、日本の政治家たちはその議論の中に老西園寺の巧妙な策動を疑っていたし、欧米の観察者たちは完璧に見る目を失っていた。その彼の挑戦は、荒木の友人で超保守的な老男爵が、貴族院において、京都帝大の法学部が赤とそのシンパに牛耳られていると非難した時に始められた。
欧米人には、その非難は、学問の自由を冒す典型的右翼攻撃であるかに聞こえた。しかし、個人の自由さえ信じない日本人には、それは異なった響きを持っていた。京都大学は、大兄の近衛親王、同じく大兄の木戸侯爵、そしてスパイ秘書の原田の母校だった。一次大戦さ中の彼らの在学時代、そこは、マルクス主義の研究と議論の温床だった。その中で三人は、裕仁が日本を導くための政府を形成する奇妙な混合形態――議会制マルクス主義的神政国家と、差別と自民族優越意識に基づく一丸となった単独政党と、警察とつるんで共存する大規模な諸財閥のカルテル――に、はじめて自信を深めていた。この知的エリートによる未熟な産物は、東洋と西洋の欠点ばかりを寄せ集めて形を成し始めており、社会はそれを、どこから見ても大学の責任に帰されるべきものだと見ていた。
もし大衆がその大学を罵倒したとするなら、荒木や西園寺は、京大卒の大兄たちが学問の自由を自らなぐさみ物としたが故のその皮肉な結末として、含み笑いをうかべたに違いない。彼らには、大逆罪を犯す恐れに比べれば、危険思想を弄ぶ危険なぞはさして重要ではなかった。すでに1920年代末より、近衛親王に後押しされた治安維持法によって、ほぼすべての大学から、真に自立した思想家は追放済みだった。ほとんどのマルクス主義者、労働組合運動家、フェービアン社会主義者、さらには民主的選挙制度の擁護者すらも、一人ひとりと沈黙のうちに退職させられ、警察のいんぎんな保護観察のもとに置かれていた。ただ京都と東京の両帝国大学の諸学部のみが、その教授たちと裕仁の宮廷人たちとの人的繫がりによって、無傷で残っていた。
荒木の魔女狩りが一人歩きする前にそれを差し止めようと、警察は、京都大学の危険思想家の一人、河上肇名誉教授を緊急に逮捕した。経済学者の河上は、 『資本論』 を邦訳し、数年前には、近衛、木戸、原田を教え、彼らの持つマルクス主義の知識はすべて彼が与えたものだった。1928年、河上は退職を強要されたために、かえって左傾化を深め、自ら共産主義者を名乗るようになった。そいう彼は、今にいたっては、破壊的思想家として摘発され、自宅監禁のもとで疲れ果てていた。彼はそうして、13年後の1946年に、事実上の囚人として死亡した。
これに続いて1933年2月20日、警察は、1928年3月以来始めて、左翼の一斉検挙をおこなった。以前の大量逮捕の後に釈放されていた左翼シンパや変人の全員が再尋問され、左翼運動へのどんな新参入者の名前も聞き出された。
そうした迅速な警察の動きは、荒木やその支援者に、宮廷の考えに対する彼らの攻撃には巧妙な工夫が必要なことを確信させた。そしてその検挙のひと月後の3月、一案が慶応大学の荒木支持者によって編み出された。その慶応大の教授は、京大の法学部教授を、異端なトルストイ的見解をもっているとして攻撃し、不貞は犯罪とみなすべきと、素朴なことをいい始めた。その京大法学部教授は、たまたま、近衛親王の7人の経済顧問団――親王の恩師と6人の元学友# 1――を率いていた人物だった。そこでその7人の顧問は、待ってましたといわんばかりに直ちに結束し、その慶応大教授を、旧弊な女性蔑視主義者として槍玉に挙げた。
# 1 佐々木惣一、末川博、恒藤恭、宮本英雄、田村徳治、森口繁治、滝川幸辰
日本の旧弊な男女の誰もが興味を抱き、おおいに沸きあがった時、その慶応大教授は京大に向かって、いっそう大型の学問的爆弾を投げつけた。すなわち、京大のその7人の教授たちは、天皇を 「国家の機関ないしは機械部品」と考える異説を説いている、と非難したのだった。
天皇が、国家の一部分であるのか、それとも国家を超越する存在であるのかといった憲法学上の論争は、1912年、大正天皇が専制君主たらんと試みて失敗に終わって以来、続いてきていたものだった。裕仁個人としては、天皇は機関であるとの説を受け入れており、自分の決定によるすべての責務を他のより下位の機関へと委任してきた。実際、彼の広報担当官は、天皇はほとんど自動的にゴム印を押すかの存在でしかないとの見方をしていた。しかし、宗教的には、裕仁は、自分が偉大な神道の神殿におけるゼウスであるとの考えを奨励していた。慶応大の博識な荒木の友人は、天皇が 「機関」 として背後に隠れ、神としての真の責任を回避するのは、自己犠牲的行為であるとの見解を示した。そして彼は、裕仁の精神が国家であり、国家の精神が裕仁である、と主張した。すなわち、裕仁は、現人神であり、代々の死した神に代わる最高司祭として、単に国を率いるだけでなく、国そのものでなければならない、とした。
その慶応大の教授は、自分の主張を際立たせるため、警察が拘束している二人の主力スパイ機関員、すなわち、血盟団の空家の家主を 「不忠実」 「共産党的」 とし 、そして、裕仁の内大臣牧野の雑用係、大川博士を 「その神道理解が不純でダーウィン的」 と断定して中傷し、その京大教授への攻撃に拍車をかけた。たとえそれ以外の形容が当時の日本語としては奇妙な用法であったとしても、 「ダーウィン的」 と言うのは、天皇の生物学者としての学問的立場にからめているのは明らかだった。
その慶応大教授の非難は、絶妙な当てこすりを含ませた先鋭な思想を代表し、いずれの物知りたちをも納得させるものであった。文部大臣の鳩山一郎は、荒木に強いられて直ちに、その七名の 「機関説論者」 を退職させない限り、政府補助金を差し止めると京都大学に圧力をかけた。それから二ヶ月間、裕仁と近衛は京都大学当局に、そうした教授たちを後押しするよう促したが、裕仁と近衛は、最終的には、御簾の背後からしぶしぶながら、大学当局がその七教授に他の機関の給与のより高い研究職を与えることを承認した。
天皇の不審
1933年3月、荒木が皇位に反対し始めた時、裕仁は最初、荒木が意図的に反対しているのだと無理に信じようとしていた。そこで11人クラブは会合を開き、荒木に 「情況の現実的意味」 を諭す最善の方法を話し合った。裕仁は、荒木を扱うに当たって、自分の側に立つ仲介役の必要に気付いた。1933年4月6日、彼は、自分の侍従長にひとりの北進派の英雄を据えた。それは、満州の征服者、本庄中将だった。そうして本庄は、以後裕仁のもとに3年と16日仕え、その間、天皇との親密な会話を日記# 2に書きとどめた。本庄は、最初に皇居に参じた時、裕仁が無垢な若い現人神であり、現実世界の迷路には案内人を必要としていると信じていた。だが1936年にそこを去る時、彼は、裕仁とは、憲兵のどの佐官や将官にも劣らないほどに、強靭で冷徹であることを知り抜いていた。彼の日記からは、その3年間に生じた裕仁と北進派との間の闘争の様を汲みとることができる。
# 2 日本では、周到に抽出されたその日記の13パーセントのみが出版された。それが1967年に世に出た際、それは、小さな出版社より、限られた部数のみで出版されたが、それは恐らく、私自身の著作活動の結果ではないかと思う。未出版のままの日記の87パーセントは、日本の今の自衛隊の歴史資料部に厳密に保管されている。
皇居での本庄中将の最初の一週間のある時、裕仁は、読んできていたヨーロッパ史の本を脇に置き、熟考の末こう指摘した。 「ナポレオンの生涯の前半は、フランスの発展への貢献であったが、その後半では、ナポレオンは自分自身の名誉のためにのみ働いた。その結果は、フランスにとっても、世界にとっても良いことにはならなかった」。こうたとえることで、裕仁は本庄に、次の日本の征服目標を裕仁にまかせ、そして、日本に数年の内政的平穏を与えて野心的軍備計画を完遂しうるよう、北進派を説得する用意を整えさせようとしていた。
裕仁の要望にも拘わらず、北進派は、長城南側への襲撃を繰り返し、日本を戸惑わせ続けていた。裕仁は、軍紀を立て直すため、北進派の第二の指導者、参謀次長の真崎甚三郎中将を現地に派遣した。その真崎の留守の間、大兄たちは裕仁に、北進派の反目の厳然たる真意を説明することに成功した。
1933年4月末、真崎が前線から戻るやいなや、裕仁の策士の叔父、東久邇親王中将は、皇位に望ましくない影響を与えようとしていると非難した。東久邇の見るところでは、真崎はある日、彼のところにやってきて、北進派に有利となるよう裕仁に影響を与えたいと、陸軍の命令系統上の部下である彼に命じたという。
それに答えて東久邇は、「それはできない。天皇は常に全体を見、要求を承認することもあれば、拒む場合もある。それゆえ、私は、たとえ貴殿が私に命令しても、それに従うことはできない」、と返答した。
その一週間後、東久邇親王は、自分の皇邸の召使を真崎が堕落させようとしていると告発した。さらに一週間後、裕仁は真崎を参謀次長から解任して大将へと昇格させ、安全圏の最高軍事顧問へと移動させた。
1933年5月21日、真崎更迭の決定が公表される前、裕仁の弟で人気を集めていた秩父親王が宮廷にやってきて、真崎の立場を擁護し、裕仁に国内政策の全体を再検討するように要望した。そして兄に、政府の機関であることを見せかけるのをやめ、皇位周辺の御簾を取り去って、国家の直接の采配を開始し、そして必要なら、憲法の一時停止を要請した。裕仁は拒絶し、後日、宮廷侍従が言うところでは、兄弟二人は 「激しく議論」 していたという。議論の後、裕仁は侍従の一人にこう言った。 「私は国を統治する重要な事項においては、絶対的な力を保持し、全体情況をつかむための広範囲な視野を維持している。憲法を停止することについては、明治天皇が設立した制度を壊すことになるので、全く考えられないことである」。
その翌日、裕仁は大兄の木戸と近衛親王を秩父親王邸にやり、その自分勝手な弟と、2時間半にわたって話をさせた。
荒木の大芝居
それから数日の間に、荒木陸相は、1936年に裕仁が対露戦に取り組むように画策する政治的大芝居を周到に準備して、一世一代の大博打に出た。
5月24日、水曜日、荒木は、学習院で開かれたマルクス主義者の研究会で、皇族が魔法にかけられているとして、先の赤宣伝を拡大した。それは事実のことだったので、ことは重大となった。もともと皇族の一員は、何代にもわたり、あらゆる傾向の政治的意見に明るいことが期待されていた。現代の左派系思想についても例外ではなく、皇后良子の弟の東伏見親王も、そうした学者たちによって色濃く染められていた。
5月26日、金曜日、荒木陸相は文部大臣に促して、京都大学に、近衛の顧問団で、天皇機関説に立つ7人の内、主席教授の休職を命じさせた。
5月27日、土曜日、陸軍の主だった戦略家たちは、裕仁に推奨する目的で、名古屋の第三師団本部で、どこの国が 「第一の敵」 であるのかを決定するための会議入っていた。
荒木の迅速な動きに驚かされて、裕仁は木戸侯爵に、拡大する赤宣伝への対抗策を練るように指示する一方、叔父の東久邇には名古屋での成り行きを観察するよう依頼した。こうした危険な情況の中で、裕仁は京都大学当局には、独自の判断に任せた。
第一の敵
名古屋での陸軍首脳の会談は、天皇による公的許可を必要とせず、報告のみを要する定例の年次あるいは半年次の演習で、机上作戦会議であると公表されていた。今年のその会議は、一週間にわたって行われ、皇室を代表して、東久邇親王中将が出席していた。
名古屋の第三師団本部は、日本の皇位の象徴である三種の神器のうちの剣をまつっていた〔熱田〕神社から数区画のところにあった。その庁舎は、日本のどのものより近代的で、訪れた将官がその長靴を脱ぐことが求められるような潔白な畳敷ではなく、伝統を思い起こす必要もなかった。将官たちはつかつかと入ってゆき、席につき、東京の部下から詳細情報を得たい際は、その場から電話をかければよかった。
北進派の一団は、荒木陸相によって代表され、参列した将官のうちの圧倒的多数を占めていた。彼らは、1936年にシベリアに侵攻した場合に、日本が得られるであろう、攻略、国際的支援、そして可能な戦果について示した図面を次々に提示した。彼らは、自分たちの展望の提示のほとんどを、バーデン・バーデンの三羽烏の二番手の小畑少将に任せていた。彼は長く 「天皇の忠臣の一人」 であったため、そこに出席していた若い陸軍官僚のうちで、現在、彼と天皇との間に不和がかもされていることを知っているものは誰もいなかった。
裕仁自身の見解は、机上演習の際、やや熱意を欠いてはいたが、三羽烏の一番手の永田少将――現在、一般参謀諜報部長――によって代弁された。永田は、門弟でありその会議の主任助手であった東条少将――後の戦時中首相――が用意した覚書を見ながら主張をのべた。それは、南進という彼の目的を隠し、それに代わり、 「まず中国を再構築し、次に日本」 との政策を打ち出すという東条の発案だった。
永田と東条は、日本はロシアを含むいずれの欧米国にも、対決する準備が整い、彼らが受身となるまで、攻撃には出られないと論じた。したがって、日本は、あらゆる黄色人種とその資源を駆り出し、 「総力戦動員体制」 を整えなければならない。すなわち、中国と5億人の中国人を巨大な労働部隊として日本兵士の背後につかせ、かつ、満州の資源と日本の工業力をもって、 「産業合理化」 を完成させなくてはならない。そして永田は、そうした計画は、1936年までには準備しえず、中国に侵入し、転覆させ、再構築するだけでも数年は要すると主張した。そしてそれに続き、国内改革という大問題を解決せねばならない。こうした準備に要する数年間、日本は、ソビエト連邦を攻撃するということすら、口にすべきではない。むしろ逆に、第一に必要とされることは、ソ連との不可侵条約締結の交渉であり、日本と中国の双方が充分に 「合理化」 されるまで、ロシアを脇に退けておくことだ、と論じた。
荒木の北進派は、ロシアとの不可侵条約についての投票まで、天皇を代弁する永田が会議の進行を先導することを許した。そして荒木が短い演説をして、その投票が行われた。そこで荒木は直ちに、第二の投票を求めた。それは、そこに集まった陸軍将官たちが裕仁に、日本の 「第一の敵」 は中国でなくロシアであることを進言すべきであることを票決するものであった。それは圧倒的多数で支持され、永田、東条、そしてもう一人の将官は窮地に追い込まれることとなった# 3。
# 3 多能な鈴木や他の南進派の指導的将官たちは、熱河省占領を終結するタング停戦協定の締結のために中国にいて留守だった。
机上作戦会議にこの危機が訪れたのは、第7日の6月2日であった。票決が済むと直ちに、黙って事態を見守っていた東久邇親王中将は会場を去り、興津に向かって汽車に乗った。そこで彼は、その海辺の別荘に、非妥協な荒木を後押ししたと見られている西園寺を訪ねた。その尊敬を集める政治家との面会を終えて、東久邇は記者団に、彼と西園寺は、ロシア、米国、そして他のどの国との戦争も、如何なる犠牲を払ってでも避けるべきであることに完璧に同意した、と語った。そして東久邇は、東京の皇居の自邸に戻り、裕仁に報告するとともに、陸軍からの歓迎し難い進言に対する策略の準備に入った。 
毒をもって毒を制す
裕仁は、ロシアが第一の敵であるとの陸軍の助言を丁重に取り上げた。その一方、荒木の持つ隠れた支援者への赤宣伝をひっくり返す望みをもって、内大臣の秘書で大兄の木戸は、日本のすべての貴族階級への共産党の影響を徹底して調査した。6月3日、東久邇親王が名古屋での机上演習会議を後にした翌日、木戸は息子の友人のひとりの西園寺公一――首相奏薦者の27歳の孫で、その老人の最初で最愛の妾のもうけた娘の子――とゴルフをした。野心に燃えるその若き西園寺は、祖父の敗北によって幻滅し、その自由主義にうんざりさせられており、日本のために新たな政治的信条を作り出すことに熱意をもっていた。彼は、1930年に、オックスフォードを卒業し政治経済の学位をたずさえて帰国し、そのほとんどが左翼系である、さまざまの貴族的知識階級と親交を深めていた。
44歳の木戸は、ゲームの間や、その後のクラブハウスでの午後に、それとなく質問をして、その若き貴族から話を聞きだしていた。若き西園寺は気楽にそれに答え、どれほど広範に、マルクス主義、個人主義、そしてその他の危険思想が親譲りの既成指導者階級に蔓延しているかを木戸に示して、因習破壊の喜びを表していた。
その翌週、木戸は、若き西園寺が彼に見せた先導のままに、左翼たちにまじって自由主義的な教育に浴した。彼は、1901年に近衛親王の父親の篤麿〔あつまろ〕が上海に設立した東亜同文書院〔1939年に大学に昇格、現愛知大学の前身校〕の世界に臨んでいた。そこでは、日本の諜報組織の知識人や中国古典に魅された学者たちが、他のアジア諸国の民族主義者や革命家――孫文、ガンジー、ウー・ヌ〔ビルマのナショナリストで初代首相〕、毛沢東の信奉者で、欧米の植民地主義が生み出した最も善良つ最も賢明な、そして最悪かつ最も狡知に長けた者たち――と机を並べ、情熱を共有しあっていた。
その東亜同文書院大学の学生たちは、その初年生として、欧米大使館付警官や、ロシアの革命組織、日本の諜報組織、そして、蒋介石のゲシュタボたる藍衣社の、私服に身を隠した工作員の見分け方を学んでいた。また学外では、ドイツやロシアの共産主義者の寄付によって運営されている 「時代思潮」 書店において、学生たちは、世界中からのアパラッチ〔共産党スパイ〕たち――そこで彼らは革命論を交しあい、時には、資金やマイクロフィルムの入った包みを交換しあっていた――と親交していた。
「時代思潮」 書店では、ミズリー州生まれの、変わり者で断固としたまるで男のようなジャーナリスト、アグネス・スメドレイ――毛沢東を理解した先駆者の一人――が、インドの知識人やブロンクス〔ニューヨークの一地区〕からやってきた男たちと交わっていた。そこに、ジョンソンとの別名で、リヒャルト・ゾルゲ――今日ではロシアのスパイとして有名で、後述するように、真珠湾攻撃の前の数年には、彼の東京諜報団が決定的役割を果たした――がおり、中国や日本の知識人たちの間にジャーナリストとしての情報網を広げていた。そこで、尾崎秀実――日本が生んだ唯一の大物売国奴――もアグネス・スメドレイと知り合い、彼女によってリヒャルト・ゾルゲの諜報団に紹介され、後にその重要な役を果たすに至る。
木戸は、むろんそうしたした今後生じそうな詳細のいくばくかをも知ったわけではなかったが、上海のもつ国際的諜報の世界の雰囲気に大いに刺激された。そして同時に、彼の常日頃からの実務的方法で、老西園寺あるいは北進派の支持者や荒木と同類になりそうな貴族たちの一覧表を作成した。そこで彼が発見したことは、貴族院の外向的資本家、井上清純男爵が、共産党シンパである姪を持っていることだった。また、個人主義をたたえる賛歌を詠う詩人、吉井勇伯爵の妻が、過激な思想をもつ文人を集め、ただサロンを形成していただけでなく、ベッドを共にしていたことだった# 4。
# 4 彼女の愛人たちのうちでもっとも有名だったのが、小説家であり劇作家であり映画監督の川口松太郎だった。
さらに重要なことは、内大臣秘書の木戸が、貴族院の反近衛派の保守的自由主義者である、80歳の徳川家達親王――徳川家の後継者で、80年前、もしペリー提督による横槍がなければ、彼が将軍を継いでいただろう――の政治的汚点をあばいたことだった。というのは、彼の最後の欧州旅行の際、赤十字の国際会議に臨み、その時彼は、通訳として若い今西けいこを同伴したが、彼女はそれまでに左翼人たちとの長い交際の記録を持っていた。
数ヵ月後、木戸が徳川親王の名声への脅しを完全に搾り出した後、彼はその話をゴシップ記者に漏らした。その際、木戸は自分の日記に、徳川の取り巻きたちが 「鳩首会談」 を行ったと記して、それをあてこすった。この言葉は、いい年をした者たちが集まり、頭を寄せ、首を伸ばし、問題を突っつきまわして、解決不能な問題を解決しようとする無駄な努力を言った日本語の表現である。
こう調べ上げることで、木戸は皇族に対する赤い汚点の亡霊を取りつかせた。良子皇后の弟、東伏見伯爵は、学習院時代、マルキスト講座に籍を置いていたため、親王から伯爵へと降格させられ、そして京都大学の文学部教授へと身分を落とさねばならなかった。皇后の女官庁を含む幾人かの老いた宮廷の忠僕は、スキャンダルから遠ざけるため、退職させられねばならなかった。しかし、木戸の努力によって、貴族階級への赤の浸透が余りに広範であることが証明され、北進派はそれを有利に使うことができた。さらには、木戸は、若い西園寺より左翼との貴重な接触先を見出し、後に、それをスターリンより以上に、歴史を動かすために活用することとなる。
交通信号事件
1933年6月17日、机上作戦会議が終わって2週間後、京都に近い港湾都市、大阪である事件がおこり、北進派指導者、荒木陸軍大臣が、文官政府に対する国民の怒りの証拠として、それを自分の記者会見で取り上げた。その事件とは、大阪で、中村という二等兵が、交通整理の警察官の合図を見落とし、赤信号なのに道路を横断してしまった。その警察官は、すべての交通を止めてその兵士に、誰もが見守る中で、ゆっくりと明瞭に、東北の田舎者がなんで陸軍の制服を着れているのか解っているのかと尋ねた。そうした田舎者ではまったくないその兵士は、その交差点を幾度もいくども横断してその違反を繰り返した。彼が停止信号に反して七回横断した時、その兵士の行動を見守る野次馬は増え、そしてその警官は当然に彼を逮捕し、記録を付け、七回分の罰金を科した。
その話は、交通信号事件と呼ばれて人々の間に尾ひれが付けられて広がり、7月末から8月にかけて、民間警察と陸軍警察の間の対立となるまでに至った。ある時には、その大阪の通りをはさんで、両者が向かい合って衝突寸前までにもなった。軍の憲兵は、天皇の軍隊が公衆の面前で辱められたのであるから、中村兵士はその罰金を払う必要はないと主張した。他方、大阪市の警察は、交通違反は交通違反であり、罰金は当然と主張した。事件をめぐる論争は、ほとんど毎日にように新聞紙上で闘わされていた。そして遂に、裕仁は荒木陸相に、妥協して事を納めるようにと求めた。陸軍は中村兵士の罰金を払い、大阪市警は、中村の上官に、その逮捕が軍に対して行われたかの無礼についての謝罪文を送った。
神兵隊事件
新聞の一面をかざったそうした日々――1933年の7月から12月までにわたった――、交通信号事件は皇位にとっての圧力となったが、その一方、さほど目立ちはしなかったが、別の事件のうわさがうわさを呼び、荒木陸相への圧力となっていた。その事件とは、1933年7月10日に起こった神兵隊事件で、東久邇親王が6月2日に机上作戦会議を後にして以来、練り上げてきた、反裕仁陣営を万遍に揺さぶる手品師のたくらみだった。その脅迫策は巧みに入り組んでおり、日本の法廷は、12年後の1945年9月、マッカーサーが上陸して占領を始めた時、その未解決の仕事をようやく終わらせて、その事件に関わったとみられた最後の被疑者を放免したほどであった。
その東久邇の策謀とは、表面上は単純なものだった。3千6百人の筋金入りの右翼を全国各地から呼び集め、宮参りに見せかけて、東京に集合させようとするものだった。東京西部の森に囲まれた明治天皇を祀るその神社に、参拝として集合し、その神主から、 「神の兵隊」 としての祈祷を授かるというものだった。そしてその集団参拝の後、彼らは分散し、東京を混乱に落とし入れるというものだった。さらにその計画によれば、第一の決死隊は荒木陸相を、第二は斉藤首相と政友会の指導者たちを暗殺する。警視庁は占領され、刑務所を襲撃して、井上教導師や血盟団員を解放する。さらに、その司令官の山口三郎は海軍航空隊の最高将校の一人で、東京上空を飛行し、抵抗拠点を爆撃する。そして東京が制圧された後、東久邇親王ないしは秩父親王が首相となる、というものだった。
この大そうな計画は、そのことごとくが全くお粗末なものだった。その陰謀の首謀者たちは、一部、賄賂を使い、一部、天皇の後押しがあるとのふれこみで、兵を徴募していた。その徴募担当者は、予備役の安田銕之助中佐だった。彼は、1923年の震災後に裕仁のために戒厳令を布いた福田将軍の義理息子だった。安田は、本国とパリの双方で長年にわたり、東久邇親王の私設秘書を勤めてきていた。安田はいまだ東久邇親王邸に住込んでおり、定期的な俸給を得ていた。その陰謀の手先の一人が彼と東久邇との間の親密さに疑いをはさんだ時、安田はその手先を道の反対側に立たせ、自分は東久邇邸の門前まで行って、大いなる歓迎を表すために自ら出てきてもらうようにと親王に頼んだ。
そのような方法をもって、安田は東久邇のために、その誰もが皇位の権威を利用しようと目論む政治傾向を持つ党派の代表ばかりで混成された資金提供者たちを集めた。海軍飛行隊司令官の山口は、たとえば、さらなる海外侵略の必須条件として、国家改造を煽動する海軍内の一派の活動家であった。彼は、日本最大の海軍横須賀工廠の飛行実験部長だった。他の資金提供者には、5・15事件の暗殺者である血盟団員の裁判での弁護士の天野辰夫、西園寺家の代々の門番でその老首相奏薦者の私設秘書であり護衛を勤めてきていた中島勝次郎、黒龍会の青年運動指導者、鈴木善一、出版会社をもちスパイ組織員でもあり、密かに左派グループに侵入して北進派に極めて接近した藤田勇、そして、財閥のひとつである松屋百貨店の代表かつ株の相場師などがいた。
この相場師、内藤彦一は、その陰謀に資金と滑稽な話題を提供した。内藤は、彼が東京北部に持つ土地に兵器工場を建てるという北進派の計画に便乗して賭けた。だがその机上の工場計画は、海軍開発のための国家予算から除去されてしまった。内藤は破産の崖縁に立たされることとなった。東久邇親王の私設秘書安田は、内藤に、資金的支援と引き換えに、皇室クーデタの情報を率先して与えると約束した。内藤は、彼を破産させないようにと望む債権者からおよそ20万ドル〔現在価値で約10億円〕を借り、偽造株式証書を売ってさらに40万ドルを調達した。彼はそのうち2万ドル〔同約1億円〕をクーデタ資金として私設秘書安田に献上し、さらに、330万ドル〔同約165億円〕の株を残金の58万ドル〔同約34億円〕で先物取引購入した。彼はその先物買いした株を売って約束手形に変え、そのクーデタが実行され、株式市場がパニックになって暴落した際、安値で買い戻そうとその機会を待っていた。つまり、もしクーデタが起こっていたら、彼はこの手の込んだ売買により、百万ドル〔同約50億円〕以上を手にする手はずであった。
そのクーデタは、起こらなかったばかりでなく、その積りさえなかった。東久邇親王の雑用係、安田中佐は、98振りの日本刀、10丁のピストル、700発の弾丸、そして16缶のガソリンをそのために仕込んだ。黒龍会の青年運動が駆り集めた3600人の兵士の間に、東京を制圧するには不十分な武器しか用意されていない、との伝言が流れた。1933年7月の第一週を通し、若い愛国者たちが東京へと上京し、武器庫をのぞき、その大半が愛想をつかして帰国していった。
その参拝日とされていた7月10日、その朝は晴れわたっていた。その日の朝刊のゴシップ面は、クーデタが失敗したとのうわさが流れていると報じた。その朝、債権者の一群が相場師内藤の所に押しかけ、その顔は青ざめ、震えている彼を発見した。彼は債権者に、二日後にまた来てくれれば金を返すと保障した。彼らは納得しないまま引き上げ、その午後、一部の人たちは彼を相手取って法的手続きを行った。
その日の夕方、明治神宮の参拝に集まったのは、わずか33名の信仰厚い屈強な剣士たちのみだった。後援者たちの要望で――東久邇親王と親しい神主からの祈祷を受けて――、彼らは、その計画を 「形だけでも」 実行しようと決心した。夜10時、警察が彼らの居る明治神宮に付属する参拝者用の宿を急襲した。祈祷集会に臨んでいたその33人と、夜中に荒木陸相を襲うために、提灯に火をいれ、日本刀を腰につけている新たに加わった16人の剣豪を驚かせた。5時間後の7月11日、午前3時、バスに乗って大洗のスパイ教育機関から東京に向かっていた17名の狂信的農夫が警察によって差し止められた。その17名全員は、愛郷塾――近衛親王と東久邇親王が資金提供しているトルストイ主義の農業共同体――の塾生で、一年前の5・15事件の際、東京の変電所を襲ったのもその塾生たちだった。警察はそのバスを止め、向きを変えさせて引きかえらせた。愛郷塾の他の11人は、東京の安宿の布団から起き、朝の汽車で大洗へと帰った。昼前、警察は黒龍会の青年運動の本部を丁重に手入れし、鉢巻、腹巻、煙草のライター、ビラ、そして、 「天皇政府確立」、「共産主義撲滅」、「国防樹立」 などと書いたのぼりを没収した。
結局、神兵隊事件が目論んだ脅しとは、舞台裏での神々の笑いとか、ベルベットでくるまれた拳とか、紋章を付けた奇妙な道化師の顔とかといったものにすぎなかった。明治神宮で逮捕された男たちは、警察の保護観察付きで釈放され、その事件は、5年後に至るまで、起訴も、公表すらもされなかった。陰謀への資金提供者のほどんども、いずれも同じような扱いで終わった。
スパイ機関の「赤」専門家、出版社社長の藤田は、告発が特定されないまま警察記録に挙げられたが、今後、もっとよろしく行動するようにと、ただちに釈放された。それから3年間、彼は、北進派の兵卒に紛れ込んで皇位や警察の秘密工作員として行動した。1935年と1936年の初め、リヒャルト・ゾルゲ共産党スパイの一員となった川合という反北進派の同僚に、資金、食料、住居を提供した。
黒龍会の青年運動の指導者、鈴木善一は、黒龍会の活動家の情報を全面的に提供するという了解の下に釈放された。彼の知識は、その後2年間、有益に役立ち、政治勢力としての黒龍会を崩壊させることとなった。
5・15事件の暗殺者の裁判においてその弁護にあたった血盟団の弁護士、天野辰夫は、満州へと脱出し、北進派の工作員から隠れ家を与えられた。その工作員は彼を毒殺しようとしたが、胃の激痛以外の効果はなくて生き残り、自ら自首して日本へと送還された。彼は逃亡しないことを誓約して釈放され、血盟団の井上教導師に会いに刑務所を訪れた。血盟団の公判は、1933年6月28日に始まった。それから6週間が経過した時、その公判が突如、中断された。井上と12人の血盟団員は被告席で立ち上がり、担当の判事を不満足と非難し、今後、公判に出廷しないと宣言した。判事は休廷を宣告し、井上の居心地のよい独房を自ら訪れ、何が問題なのかと問うた。井上は、近衛親王の党派員として、目下の危急時に公判を続けることを辞退したいと説明した。その判事――47歳で地方裁判所への昇進を目の前にしていた――は、その説明を受け入れ、自らの判事職を辞職した。彼は、裕福な年金を手に、終身退職してしまった。公判は、1934年3月27日まで休廷となった。そしてその日、弁護人の天野弁護士が保釈され、取り立てて問題とされることもなく、愛国的宣伝のモデルともなるその公判を続けていった。
海軍〔航空隊〕司令官の山口三郎――神兵隊の陰謀を無謀にも空から支援する役を負っていた――は、その陰謀のために実際に離陸したわけではなかったが、他の支援飛行士たちの誰よりも、厳しく取り扱われた。それから4ヶ月間、無罪放免はされていたが、警察は彼への介入を続けた。だが彼は持ち前の頑固さを表し、日本は対外進出する前に国内改造を必要とするという自分の信条を捨てることは拒否した。そして1933年11月、彼は逮捕され、12月に尋問され、1月に拷問のうえ殺された。
相場師内藤については、祈祷集会の後、東京大学病院の患者となって入院し、債権者から身を隠した。その数ヶ月後、警察の護衛のもと、彼は 「胃ガン」 で死んだ。胃ガンとは警察の婉曲表現で、事実は、自分の腹を切ることで、債権と文書偽造罪から逃れる名誉ある方法を最終的に選ばされたということであった。  
 
北一輝 1

 

(本名 北輝次郎、1883 - 1937) 戦前の日本の思想家、社会運動家、国家社会主義者。二・二六事件の皇道派青年将校の理論的指導者として逮捕され、軍法会議で死刑判決を受けて刑死した。
生涯​
1883年(明治16年)4月3日、新潟県佐渡郡両津湊町(現:佐渡市両津湊)の裕福な酒造業・北慶太郎と妻リクの長男輝次として生まれる。父慶太郎は初代両津町長を務めた人物で2歳下の弟は衆議院議員の北ヤ吉。ほかに4歳上の姉と、4歳下の弟がいた。尋常小学校の半ばに右目の眼疾により1年間休学する。
1897年(明治30年)に前年に創設されたばかりの旧制佐渡中学校(新制:佐渡高校)に一期生として入学、翌1898年(明治31年)にとび級試験を受け、3年生に進級する。1899年(明治32年)に眼病のため帝大病院に入院し、夏頃まで東京に滞在した。「プテレギーム(翼状片)」と診断され、当時の眼科の権威河本重次郎による手術を受けたがよくならなかった。1900年(明治33年)に眼病による学業不振のため5年生への進級に失敗し、さらに父の家業が傾いたことも重なり退学した。
1901年(明治34年)には新潟の眼科院に7ヶ月間入院した。上京し幸徳秋水や堺利彦ら平民社の運動に関心を持ち、社会主義思想に接近した。帰郷中山路を散策した際に木の枝で右目を傷つけてしまい、父親が山林を売り払って治療費を作り、河本博士により再手術を行なったが失明。1903年(明治36年)に父が死去。10月「輝次郎」と改名した。森知幾が創刊した『佐渡新聞』紙上に次々と日露開戦論、国体論批判などの論文を発表、国家や帝国主義に否定的だった幸徳たちと一線を画し、国家を前提とした社会主義を構想するようになる。北は国家における国民と天皇の関係に注目し、『国民対皇室の歴史的観察』で「天皇は国民に近い家族のような存在だ」と反論。たった2日で連載中止となった。弟れい吉が早稲田大学に入学すると、その後を追うように上京、同大学の政治経済学部生となる。有賀長雄や穂積八束といった学者の講義を聴講し、著書を読破すると、さらに図書館に通いつめて社会科学や思想関連の本を読んで抜き書きを作り、独学で研究を進める。
1906年(明治39年)に処女作『国体論及び純正社会主義』(『國體論及び純正社會主義』)刊行。大日本帝国憲法における天皇制を批判したこの本は発売から5日で発禁処分となり、北自身は要注意人物とされ、警察の監視対象となった。内容は法学・哲学・政治学・経済学・生物学など多岐に渡るが、それらを個別に論ずるのではなく、統一的に論ずることによって学問の体系化を試みた所に特徴があった。すなわち、北一輝の「純正社会主義」なる理念は、人間と社会についての一般理論を目指したものであった。その書において最も力を入れたのが、通俗的「国体論」の破壊であった。著書が発禁となる失意の中で、北は宮崎滔天らの革命評論社同人と知り合い、交流を深めるようになり、中国革命同盟会に入党、以後革命運動に身を投じる。
1911年(明治44年)に間淵ヤス(すず子)と知り合う。同年10月、宋教仁からの電報により黒龍会『時事月函』特派員記者として上海に行き、宋教仁のもとに身を寄せた。1913年(大正2年、中華民国2年)3月22日、農林総長であった宋教仁が上海北停車場で暗殺され、その犯人が孫文であると新聞などにも発表したため、4月上海日本総領事館の総領事有吉明に3年間の退清命令を受け帰国した。この経験は『支那革命外史』としてまとめられ出版される。この中で第一次世界大戦で日本が対華21カ条要求を中国に認めさせたことを批判している。
1916年(大正5年)に間淵ヤスと入籍、上海の北四川路にある日本人の医院に行った。この頃から一輝と名乗る。1919年(大正8年、中華民国8年)そこに出入りしていた清水行之助、岩田富美夫らが日華相愛会の顧問を約40日の断食後に『国家改造案原理大綱』(ガリ版47部、『日本改造法案大綱』と1923年に改題)を書き上げていた北に依頼した。1920年(大正9年、中華民国9年)8月、上海を訪問した大川周明や満川亀太郎らによって帰国を要請され、12月31日に清水行之助とともに帰国。
1921年(大正10年)1月4日から猶存社の中核的存在として国家改造運動にかかわるようになる。1923年(大正12年)猶存社が解散。「日本改造法案大綱」が改造社から、出版法違反なるも一部伏字で発刊された。これは、議会を通した改造に限界を感じ、「軍事革命=クーデター」による改造を諭し、二・二六事件の首謀者である青年将校の村中孝次、磯部浅一、栗原安秀、中橋基明らに影響を与えた。また、私有財産や土地に一定の制限を設け、資本の集中を防ぎ、さらに華族制度にも触れ、“特権階級”が天皇と国民を隔てる「藩屏」だと指摘。その撤去を主張した。
この頃東京・千駄ヶ谷、後に牛込納戸町に転居し母リクの姪・従姉妹のムツを家事手伝いとして暮らした。1926年(大正15年)安田共済生命事件。北の子分の清水行之助が血染めの着物を着て安田生命にあらわれ、会社を威嚇した。同年、北は十五銀行が財産を私利私欲に乱用し、経営が乱脈を極めていると攻撃するパンフレットを作製し、各方面にばらまいた。北の影響下にある軍人、右翼からのテロを恐れた財閥は、北に対して情報料名目の賄賂を送った。北は「堂々たる邸宅、豪華な生活」を送り、「妻子三人外に女中三人、自動車運転手一人等」を賄った。
同年、宮内省怪文書事件で逮捕。翌1927年(昭和2年)に保釈された。
1936年(昭和11年)二・二六事件で逮捕。1937年(昭和12年)8月14日、民間人にも関わらず、特設軍法会議で、二・二六事件の理論的指導者の内の一人とされ、死刑判決を受ける。処刑前日、面会に訪れた弟子の馬場園義馬に対して、「日本改造法案大綱」の出版を許可しながらも、「・・・君達はもう一人前になっているのだから、あれを全部信ずる必要は無い。諸君は諸君の魂の上に立って、今後の国家の為に大体ああ云うものを実現する心持で努力すればよろしい」と告げた。5日後の8月19日、事件の首謀者の一人とされた陸軍軍人の西田税とともに銃殺刑に処された。満54歳没。
辞世の句は「若殿に兜とられて負け戦」。
人物
幼名は輝次、20歳の時、輝次郎と改名。1911年(明治44年)中国の辛亥革命に参加し宋教仁など中国人革命家との交わりを深め、中国風の「北一輝」を名乗るようになった。右目は義眼であった。早稲田大学文科聴講生の時に、階級制度の廃止や労働組合の組織等、社会主義に傾倒する。
北は、国家社会主義者として、1906年(明治39年)23歳の時、千ページにおよぶ処女作『国体論及び純正社会主義』を刊行し、大日本帝国憲法における天皇制を激しく批判した。
内務省はこれを「危険思想」と見なし、直ちに発売禁止処分とし、北は「要注意人物」として警察の監視対象となった。
日本国内での発言と行動の場を奪われた北は、宮崎滔天に誘われ、孫文らの中国同盟会に入り、1911年(明治44年)中国の辛亥革命に宋教仁らとともに身を投じることとなった。
1920年(大正9年)12月31日、北は、中国から帰国したが、このころから第一次世界大戦の戦後恐慌による経済悪化など社会が不安定化し、そうした中で1923年(大正12年)に『日本改造法案大綱』を刊行し「国家改造」を主張した。
その後、1936年に二・二六事件が発生すると、政府は事件を起こした青年将校が『日本改造法案大綱』そして「国家改造」に感化されて決起したという認識から、事件に直接関与しなかった北を逮捕した。当時の軍部や政府は、北を「事件の理論的指導者の一人」であるとして、民間人にもかかわらず特設軍法会議にかけ、非公開・弁護人なし・一審制の上告不可のもと、事件の翌1937年(昭和12年)8月14日に、叛乱罪の首魁(しゅかい)として死刑判決を出した(二・二六事件 背後関係処断)。
死刑判決の5日後、事件の首謀者の一人とされた陸軍予備役の西田税らとともに、東京陸軍刑務所で、北は銃殺刑に処された。この事件に指揮・先導といった関与をしていない“北の死刑判決”は、極めて重い処分となった。
なお、北は、辛亥革命の直接体験をもとに、1915年(大正4年)から1916年にかけて「支那革命外史」を執筆・送稿し、日本の対中外交の転換を促したことでも知られる。大隈重信総理大臣や政府要人たちへの入説の書として書き上げた。また、日蓮宗の熱狂的信者としても有名である。 中国革命家譚人鳳の遺児を養子として引き取る。名を北大輝とし、死後彼に遺書を残す。
思想​
「明治維新の本義は民主主義にある」と主張し、大日本帝国憲法における天皇制を激しく批判した。
すなわち、「天皇の国民」ではなく、「国民の天皇」であるとした。国家体制は、基本的人権が尊重され、言論の自由が保証され、華族や貴族院に見られる階級制度は本来存在せず、また、男女平等社会、男女共同政治参画社会など、これらが明治維新の本質ではなかったのかとして、再度、この達成に向け「維新革命」「国家改造」が必要であると主張した。
評価
1906年(明治39年)23歳の時に、「全ての社会的諸科学、すなわち経済学、倫理学、社会学、歴史学、法理学、政治学、及び生物学、哲学等の統一的知識の上に社会民主主義を樹立せんとしたる事なり」として大日本帝国憲法における天皇制を批判する内容も兼ねた『国体論及び純正社会主義』を著し、社会主義者河上肇や福田徳三に賞賛され、また、『日本改造法案大綱』では、クーデター、憲法停止の後、戒厳令を敷き、強権による国家社会主義的な政体の導入を主張していた。
ゆえに、北を革命家と見る意見がある。同時に、北は『日本改造法案大綱』を書いた目的と心境について、「左翼的革命に対抗して右翼的国家主義的国家改造をやることが必要であると考へ」と述べている。花田清輝は、北を「ホームラン性の大ファウル」と評している。
また坂野潤治は、「(当時)北だけが歴史論としては反天皇制で、社会民主主義を唱えた」と述べ、日本人は忠君愛国の国民だと言うが、歴史上日本人は忠君であったことはほとんどなく、歴代の権力者はみな天皇の簒奪者であると、北の論旨を紹介した上で、尊王攘夷を思想的基礎としていた板垣退助や中江兆民、また天皇制を容認していた美濃部達吉や吉野作造と比べても、北の方がずっと人民主義であると評した。
北に二・二六事件への直接の関与はないという研究がある。
宗教​
法華経読誦を心霊術の玉照師(永福寅造)に指導され、日頃から大きな声で読経していた事がよく知られている。北一輝は龍尊の号を持つ。弟のヤ吉によると「南無妙法蓮華経」と数回となえ神がかり(玉川稲荷)になったという。
『北一輝 霊告日記』松本健一 編 第三文明社 1987年 ISBN 4-476-03127-7
1929年(昭和4年)4月 - 1936年(昭和11年)2月28日に妻のすず子が法華経読誦中神がかった託宣を自ら記録したもの。
北の日蓮理解や法華経帰依の契機などは、彼の天皇観とともに依然として定説がない。
墓所・記念碑​
墓は佐渡市吾潟の勝広寺青山墓地と東京都目黒区の天台宗瀧泉寺(目黒不動尊)墓地にある。
目黒不動尊の境内には、1958年(昭和33年)に建立された「北一輝先生碑」がある。碑文は大川周明による。なお、大川の墓も目黒不動尊墓地にある。  
 
北一輝 2

 

片目の魔王とよばれる北一輝を紹介したいと思います。彼は、1937年2月26日に発生した二・二六事件の際、直接的な関与はないものの、この事件を実行に移した陸軍の青年将校達に思想的影響を与えたという理由で、逮捕され軍法会議にかかり、非公開・弁護なしで一審判決で死刑となり、執行されました。この事に関する賛否は様々だと思いますが、彼の生涯を知ることは、なぜこのようなことが起きたのかを知る手がかりとなると思います。
佐渡に生まれた北一輝は、父と母、それに姉と二人の弟に囲まれて育ちました。16歳で重い眼病に罹り、義眼となります。その頃から、孝徳秋水や堺利彦などの社会主義思想に触れ、これに熱中するようになります。社会主義とは、貧富のない世の中で、みんなが幸せに暮らすにはどうしたらいいかを模索する考え方です。貧富のない世の中にするためには、私有財産制を否定する人もいますし、支配階級を打倒しようとする人もいます。
しかし、資本主義を是認し、国家を発展しようと考えている当時の日本では私有財産制は否定できないもので、天皇制による国家の統治も否定できないものです。日本で社会主義を浸透するためには、社会主義を掲げる代議士が選挙で当選し、国会で社会主義的政策を法律化していくしかないのです。ただ、当時の政府は社会主義を危険な思想と見なし、弾圧します。なぜなら、当時の日本は今よりもずっと貧富の差が激しく、大多数が貧乏人でした。社会主義の名の下に、多くの小作人や都市労働者が団結されたら、国家の発展に障害となるのです。だからこそ、彼らに選挙権を与えず、制限選挙のもと社会主義思想の国会議員を出さないようにしていました。
そんな中、北一輝は早稲田大学で社会主義研究に没頭し、その後中国で起きた辛亥革命に参加し、革命運動に身を投じていきます。社会主義研究の第一人者で革命にも参加している北一輝の知名度は年を追うごとに高まっていきました。そして、1923年北一輝が書き上げた書物が『日本改造法案大綱』でした。彼の思想は、天皇制を否定するものではありませんでした。北一輝にとって天皇は父なるもの、母なるものであり親愛なる存在で、天皇と我々の間を隔てる"特権階級"が、日本のいびつな状況を作り出しており、これを排除することが国家改造につながるというものでした。
特権階級とは、党利党略にはしる政党であり、財閥であり、一部の特権的な元老、軍部、宮中関係者でした。これらを排除し、新たな政権が天皇の意思を等しく民に伝え、資本の集中を排し土地の開放を行い、皆が暮らしやすい世の中を作ることが北一輝の主張でした。
そして、これに共鳴したのが、寄生地主制のもとで貧しい生活を強いられた小作農出身の青年達でした。彼らをまとめる隊付きの青年将校は、軍人としてより良い日本を作りたいと心の底から思っています。彼らは北一輝の『日本改造法案大綱』をバイブルとして、常に胸に仕舞っていました。
そして、1937年2月26日、陸軍青年将校たちは軍事クーデターを決行する。昭和維新をスローガンに天皇親政を目指して、総理大臣邸、大臣大蔵私邸、新聞社、内大臣私邸、侍従長官邸、参謀本部、警視庁などを占拠し、多くの被害者を出した。これに昭和天皇が激怒し、「反乱軍」として戒厳令が出され、徹底的に鎮圧される。
冒頭でも述べましたが、北一輝はこれに直接関与してないにも関わらず、銃殺刑となり亡くなっています。この時陸軍内部では皇道派と統制派の対立があり、陸軍士官学校・大学校出身のエリートで構成される統制派はこの事件を皇道派によるものとして、皇道派を徹底的に排除し、陸軍で主導権を握ると共に、陸軍の政界進出がより進む契機としていきます。
そして、総力戦体制に向けた統制が強まり、天皇制を国体論として強調することで、社会主義だけでなく、自由主義・個人主義を抑圧する社会が到来してしまったのです。
革命を起こし、人を害するようなことは決して許されることではないが、いろんな価値観・考え方をもって主張し、意見をぶつけ合うことは大事なことだと思います。自分と違うから排除したり、聞かないのではなく、様々な意見を取り入れてよりよい社会を築いて欲しいと考えさせる北一輝の生涯でした。 
 
北一輝の思想

 

よく右翼思想家の代名詞のように聞かれることがある北一輝だが、その思想の変遷は特異な面を見せている。ここではその思想面に的を絞り簡単に紹介していきます。
1.社会主義者 北輝次郎
北輝次郎(本名)は明治16年4月3日に佐渡の湊町の旧家の長男として生まれた。18歳の時、県立佐渡中学を中退した。すでにこの頃から「明星」や「佐渡新聞」等に論文を投稿し佐渡では若手論客としてその名をしらしめていた。この時代に書いた論文の中の 『鉄幹と晶子』『日本国の将来と日露の開戦』『咄、非開戦を云う者』『社会主義の啓蒙運動』『革命の歌』 は北を知る上で重要な論文である。
「革命の歌」は佐渡の中学生に向けて作られたものだったが、その一節はこんな詩である。
友よ、革命の名に戦慄(おのの)くか そは女童のことなり 良心の上に何者をも頂かず 資本家も地主も ツァールもカイゼルも 而して・・・・ 霊下一閃、胸より胸に 罪悪の世は覆へる 地震のごと 大丈夫斯くてこの世に生きる
これは日露戦争後の作であるのに注目したい。また、「咄、非開戦を云う者」で重大な主張をしている。
「吾人は社会主義を主張するが為に帝国主義を捨つる能わず」と断言しており、これこそ北の生涯を貫く思想の基本であった。
2.「国体論」の発禁処分
さて、明治38年に上京した彼は独学で『国体論および純正社会主義』という本を書き上げて翌年5月に自費出版する。が、この本は発売5日にして発禁処分となる。
1000ページにもわたる大著であるこの「国体論」であるが、なぜ発禁となったのであろうか。それは、明治憲法で確立された天皇制国家の持つ矛盾性と危険を鋭く指摘し批判したが故である。その批判があまりにも正当なものだったために発禁となり、以後(特高)警察に要注意人物とされたのだ。
北の指摘した矛盾とはこういうことである。
「天皇が現人神として無謬の神として国民道徳の最高規範として君臨することと同時に天皇は元首として過ちと失敗を繰り返さざるを得ない政治権力の最高責任者に暗いするものと定めた明治憲法の二元性」。
「国体論」の出版→発禁により北の存在が社会主義者に知られるようになった。幸徳秋水や堺利彦らとの交友がこうして始まり、革命評論社同人となる。またその頃日本には中国革命を決行せんとする革命党員が多数亡命してきていて、これらの人は中国革命同盟会という革命党を結成していた。北はこれに入党し特に、宋教仁と親睦を深めた。同時に内田良平を中心とする大陸浪人とも結び、黒龍会の「時事月函」の編集員となる。
もちろん、当局から社会主義者として刑事の尾行・監視下におかれていたのは言うまでもない。1910年(明治43)の大逆事件では辛くも釈放されたが、これは明治天皇の特赦による逮捕者削減の処置によりなんとか助かったらしい。
3.中国革命と北一輝
1911年10月に中国は武昌で革命が起こる。世に言う辛亥革命である。北は宋教仁からの招請電報を受けて黒龍会特派員として上海に渡った。この間、武昌−南京の間を往復し、弾丸の下革命軍と行動を共にした。この時の経験は後の『日本改造法案大綱』(最初は「国家改造案原理大綱」)に生かされる。1913年、革命軍の宋教仁が暗殺され、北自身も上海駐在日本総領事から三年間中国国外退去をこの4月に命じられ帰国することとなった。
帰国後、1915〜16年にかけて辛亥革命の体験をもとに『支那革命外史』を執筆し、これをキッカケとして大川周名・満川亀太郎が北を知ることとなる。ついでに名前を輝次郎から「一輝」と称するようになったのはこの頃からである。
1917年6月には再び上海に渡り、1919年8月、五四運動に在りながら断食(約)40日間を経て『日本改造法案大綱』を完成させる。また、この大著の執筆中に大川周名が上海に現れ「中国の革命より日本の革命が先だ」と帰国を促し、北は作品を書き上げた後同年12月31日に帰国、翌年1月4日に猶存社に入った。
この日から二二六事件で逮捕→刑死するまでずっと浪人生活となる。この浪人生活の間に北が関与した主な事件は
1925年 安田共済保険ストライキ事件
 〃    朴烈・文子怪写真事件
1926年 十五銀行恐喝事件
1930年 ロンドン海軍軍縮会議における統帥権干犯問題
ほかにもロシア革命政府が派遣したヨッフェの入国を弾劾する怪文書を作成したり、昭和7年に外交国策の建白書を草したり陰に陽に活動をしていた。
4.北一輝の革命構想
中国革命に参加して近代化されない国家の革命戦争を体験した北は、自らの日本の革命方式に先に国体論で指摘した天皇制の矛盾を逆手に取る発送を見いだした。それが法案巻一の「天皇は全日本国民と共に国家改造の根基を定めんが為に天皇大権の発動によりて三年間憲法を停止し両院を解散して全国に戒厳令を布く」にある。つまり、天皇の二元性のうち神としての天皇を憲法を越えた存在として同時に戒厳令施行により政治権力を一定期間凍結・停止する根拠を与え、この政治権力の空白期を狙って革命を行うというまさに日本独自の革命方式を北は考えたのである。
また法案の基本原則として「国家の権利」と題し 一国内の階級闘争を是認するならば、地球上の階級闘争も認めよ という開戦の権利の主張をしているのも要チェックである。
そして革命を遂行する主体は、唯一の武器の所有者である軍隊である。「支那革命外史」、「日本改造法案大綱」でも述べているように、軍隊の上層部は必ず時の政治権力に密着して腐敗しているから下級士官が下士官・兵、いわゆる兵卒を握って主体とならなければならないと主張した。
もうお気づきのことと思うが、この思想が実現したのが二二六事件なのである。下級士官たる青年将校が兵卒を連れだし、錦旗革命を行おうとしたのである。このときの青年将校の後ろ盾は何も皇道派だけではない。実際に北一輝、西田税と電話で最善策を協議したり、教えを請いだりしている。NHKのドキュメンタリーだかのビデオに肉声が収録されているので間違いはなかろう。
日本の軍隊は建軍の本義として神としての天皇の命令を基礎に置いている、故に純粋に天皇を神と信じる下級士官以下の兵こそ世界に類のない革命軍に転化するであろうと北は期待したのだった。
上層部の軍人や陸軍省・参謀本部に勤務する軍官僚は我が国の内閣制度では、元首としての天皇に奉仕する政治的軍人にならざるを得ないという北の主張はよく的を射ている。だからこそ政治権力者(軍上層部含む)にとっては北の存在と思想は、他の社会主義者や右翼に見られないある種の不気味さを感じさせ、畏怖させるに十分であった。これは二二六事件で北一輝は利敵行為ということでせいぜい懲役ぐらいの罪しかおかしてないのに死刑にされた原因の一つであると言えなくもないだろう。
しかし北がいかに斬新な革命論をひねり出しても現実の日本は、この北の思想を実現するにはほど遠かった。北自身もこれをよく熟知し、日々「法華経」を読誦するうちに世間との直接の交流を絶ち、退役少尉西田税を陸軍の下級士官とのパイプとし、影響力を残しつつ「地涌の菩薩」出現の日をひたすら待ち続けた。「地涌の菩薩」出現の日というのはいわゆる「革命決行の日」のことである。
二二六の尋問で北は「ただ、私は日本か結局改造法案の根本原則を実現するに至るものであることを確信していかなる失望落胆の時も、この確信を持って今日まで生きて来たり居りました」と答えている。
右翼の間で「魔王」と恐れられ、革命大帝国実現を主張した北の思想は、一国内の権力者、富豪を倒して貧しき者が平等を求める革命と、後進国が先進資本主義国と戦争を冒しても領土と資源の平等分配を求める権利の主張は同じだという、社会主義者にして帝国主義者という一風変わった思想家であった。
彼自身言うように、北一輝は一貫不惑のナショナリスト、革命家であった。  
 
北一輝と二・二六事件 

 

年表
明治16年(1883年) 4月3日誕生
明治34年5月 上京、幸徳秋水らと会う。研究の開始
明治37年夏 上京。研究開始。
明治39年5月 『国体論及び純正社会主義』自費出版 発禁
   11月 宮崎滔天の勧誘により「革命評論」同人となる
   12月 中国同盟会に入会。神田錦輝館で演説(通訳 張継)
明治40年2月 孫文の日本追放。宗教仁と親交。
明治43年5月 大逆事件の検挙始まる
   7月 北も拘留。
明治44年10月 武昌にて辛亥革命始まる。
   11月 宗教仁の招請で上海へ(黒龍会の援助)
大正元年1月 中華民国成立。 南京。
大正2年3月 宗教仁暗殺される。
   4月 上海日本総領事より、3年間の中国よりの退去命令
   5月 帰国。
   8月 中国第二革命の敗北。亡命客集まる。(張群)
大正3年7月 第一次大戦(北は米英側への参戦ではなく、反米英を主張。中国では中国の米英側に立つ参戦に反対して、参戦反対を掲げた第3革命運動が起こるが敗北) 譚人鳳来日。
大正4年1月 大隈重信「対支21か条の要求」
   2月 譚人鳳、大隈会談
大正5年4月 『支那革命外史』後半完成。
   6月 上海に渡る
大正8年5月 5・4運動
   8月 国家改造法案(国家改造原理大綱)執筆 大川周明、上海に渡航。改造法案を持ち帰る。
   12月末 帰国。猶存社に入る。
大正12年2月 猶存社解散
   5月 『改造法案』出版。「ヨッフェ君に訓ふる公開状」
大正14年8月 安田共済生命事件(大川との対立決定的)。西田税北の門下に移る。
大正15年5月 「改造法案」(第三回公刊頒布に際して告ぐ)。西田税編集兼発行人
昭和2年7月 西田税『天剣党規約』を配布。
昭和5年9月 橋本欣五郎ら桜会を結成
昭和6年9月 満州事変
   10月 十月事件
昭和7年2−3月 血盟団事件(井上準之助、団琢磨暗殺)
   5月 5.15事件、西田税事件派によって狙撃される
昭和8年 救国埼玉挺身隊事件発覚。栗原安秀、西田税に止められる。
昭和9年11月 士官学校事件(村中孝次大尉、磯部浅一一等主計逮捕される)
昭和10年6月 『日米合同対支財団の提議』執筆、頒布。
   7月 真崎甚三郎教育総監更迭
   8月 永田鉄山軍務局長を相沢三郎中佐が斬殺 北は中国訪問を考える。(外務部長張群)
   12月 相沢中佐の公判に向けて準備(第一回公判1月28日)。弁護人 鵜沢聡明 政友会を離脱して臨む。
昭和11年 2・26事件
はじめに
北一輝研究を始めた動機と方法
イ、「張群は『日本の平和民主化が一応の形を整えた』ことをみとめながら、『心理と詩想の改革こそ困難』なことを指摘し、、、、、『この二つは、平和民主日本を保証するだけでなく、日本と他の民主国家とが合理的な関係を再建するのに必要な保証にもなるものである』」と要約し、それに続けて、「張群が『思想革命と心理建設』の必要を説いているのを、私は、日本文化の根本にふれた批評だと思い、かつこれこそ中国国民の総意であると思った」(竹内好『日本とアジア』ちくま学芸文庫、59)と張群の意見に全面的に賛意を表明
ロ、「二月二十六日の朝のことである。当時上目黒駒場の私の家の玄関の鍵のかかったガラス戸をぶち壊すようにガンガン叩く者がある。寒さにふるえながら玄関の戸をあけてみれば、杉田省吾がころげるようにしてはいってきた。いつもユッタりしていた彼が、オーバーの雪も払おうともせず、帽子もとらず、『とうとうやったよ。すぐ一緒にきてくれ、そのままでいいから』と、私の外出をせきたてるのだ。」
ハ、二・二六事件をファッシズム運動だったという視点から北を捉えるのではなく、北の理論の発展から捉える。不惑一貫。
第一部 北一輝の理論の基本骨格
一 社会有機体論に基づく国家論―実在の人格としての国家と個人の独立
○1、草食動物の群れからの出発
「今の生物進化論者にして生存競争を個人間或は個々の生物間のこととのみ解するならば、個々としては遥かに弱き菜食動物が肉食動物に打ち勝ちたる所以も解せざるべく、野馬が其の団結を乱さざる間は一頭と雖も他の猛獣に奪わるること無しと云ふが如き無数の現象を説明する能はざるべく、牙と爪と有せざる人類は原人時代の遠き昔に於て消滅したるべき理にあらずや。」
○2、原始共産制(同化と分化)
「最も原始的なる共和平等の原人部落に於ては全く社会的本能によりて結合せられ政治的制度なき平和なりしを以て政権者なるものなかりき」。
「国家は長き進化の後に法律上の人格たりしと雖も、実在の人格たることに於ては家長国の時代より、原始的平等の時代より、類人猿より分かれた時代より動かすべからざる者なりき。」
「堯舜の時代とは、、、、、食物の特に豊富なりしが為めに平和に平等に些かも闘争なく生活したるなり。、、、、、堯と云ひ舜と云はる々如く柔和なる赤子の如き人物が村老ほどの地位に立ちて簡単な事故を処したりしものなり」
「この時代は後世の私有財産制度に入り君主が土地人民の凡ての上に所有権者とならざる部落共産制の原始時代として、本能的に国家の生存が目的とせられ其の目的の為めに素朴なる一時的なる機関が生ずるに至りしなり。」
○3、所有される実在の人格である国家(同化と分化による他国家の吸収と新たな分化)
「社会の進化は同化作用と共に分化作用による。小社会の単位に分化して衝突競争せる社会単位の生存競争は、衝突競争の結果として征服併呑の途によりて同化せられ、而して同化によりて社会の単位の拡大するや、更に個人の分化によりて個人間の生存競争となり、人類の歴史は個人主義の時代に入る。」
「然るに長き後の進化に於、大に膨張せる部落の維持を祖先の霊魂に求めて祖先教時代に入るや(如何なる民族も必ず一たび経過せり)祖先の意志を代表する者として家長がまず政権に覚醒し、更に他部落との競争によりて奴隷制度を生じ土地の争奪の始まるや、実在の人格ある国家は土地奴隷が君主の所有たる如く、(君)主の所有物として君主の利益の為に存するに至れり。」
「各員の独立自由は一切無視せられて部落の生存発達が素朴なる彼等の頭脳に人生の終局目的として意識せらるるに至れり。― 斯の意識は原人の無為にして化すと云はるる無意識的本能的社会性が、生存競争の社会進化によりて実に覚醒したる道徳的意識として喚び起されたる者に非ずや。漁労時代遊牧時代の殺伐なる争闘を以て道徳なき状態なりと速断する如きは幼稚極まる思想にして、この部落間の争闘の為に吾人は始めて社会的存在なることを意識するを得たるなり。」
○4、分化の進展による個人の独立と近代国家
「アリストーツルの国家の三分類を形式的数字の者に解せず之を動学的に進化的に見るならば、君主国とは第一期の進化に属す。而して貴族国とは此の政権に対する覚醒が少数階級に限られて拡張せる者と見るべく、民主国とは更に其の覚醒が大多数に拡張せられたるものにして第三期の進化たりと考へらるべし。」
「日本国も亦等しく国家にして古代より歴史の潮流に従ひて進化し来りたる国家なるが故に、如何に他の国家と隔離せられたることに由りて進化の程度に多少の遅速ありしとするも、独り全く国家学の原理を離るゝ者に非らず。」
○5、世界連邦と近代の倫理
「人類は其の歴史にはいりてより生存競争の内容を進化せしめて止まず」[人類の過去及び現在において異人種異国家間の生存競争が戦闘によりて行はれ来れしとするも(それは)其れだけのことにして、人類の進化と共に人類の生存競争の内容が更に進化して他の方法にて優勝を決定するに至るべきや否やは別問題なり。社会主義の戦争絶滅論は生物種族の進化に伴ひて、他の生物種族に対して完き優勝者たらんが為めなると共に人類単位の其れに到達するまでに、生物種族は進化に伴ひて競争の内容を進化して行くと云ふ他の理由によりて国家競争を連邦議会の弁論に於て決するに至らしめんとする者なり。」
「社会主義者の戦争絶滅は世界連邦国の建設によりて期待し、帝国主義の終局なる夢想は一人種一国家が他の人種他の国家を併呑抑圧して対抗する能はざるに至らしむる平和にあり。」(111)(この発言が北一輝と石原莞爾、大川周明らの世界最終戦争論や、東条英機らの対中戦争論根本的な分水嶺を形成するものであるが、それは別の機会において論ずることとする)
「社会主義の世界主義たる所以は茲にあり。個人の自由を認識する如く国家の独立を尊重す、而も其の個人主義の自由の為めに国家の大我を忘却し、其の国家の独立の為めに更に世界のより大なる大我を忘却することを排斥するなり。」
「個人の権威を主張する私有財産制の進化を承けずしては社会主義の経済的自由平等なき如く、国家の権威を主張する国家主義の進化を承けずして万国の自由平等を基礎とする世界連邦の社会主義なし。」
二 天皇機関説
○1、美濃部天皇機関説と北一輝の機関説(「綜合人」と「実在の人格」)
美濃部
「我が国体が其の歴史上の基礎に於て欧州の諸国と同じからず、国民の忠君愛国の信念が欧州の国民と同日に論ずることを得ざるは固より論なし。然れども…、今日の法的顕象に於て我国の国体は決して欧州の立憲君主国と其模型を異にするものに非ず。独乙の国法学者が統治権の主体に付て説明せる所は、我国の国法に於て亦等しく適用せらるべき所なり」(「君主の国法上の地位」)
「抑憲法は我国歴史の産物に非す、憲法以前の我国の歴史は嘗て国民の参政権を認めたることなし、我国の憲法は専ら模範を欧州近世の憲法に取る、明白なる反対の根拠あらざる限りは、欧州近代の立憲制に共通なる思想は亦我憲法の取りたる所なりと認めさる可からす。」(君主の大権を論じて教えを穂積博士に請う)
北一輝
「日本国のみ特殊なる国家学と歴史哲学(傍点)とによりて支配さるると考ふることが誤謬の根源なり。謂うまでもなく人種を異にし民族を別にするは特殊な境遇による特殊の変異にして人種民族を異にせる国民が其れぞれ特殊の政治的形式を有して進化の程度と方向とを異にせるは論なきことなりと雖も…、些少の特殊なる政治的形式によりて日本国のみは他の諸国の如く国体の歴史的進化なき者の如く思惟するは誠に未開極まる国家観にして、以然たる尊王攘夷論の口吻を以て憲法の緒論より結論までを一貫するは誠に恥ずべき国民なり。」
「社会の進化の跡を顧みよ。社会はその進化に応じて正義を進化せしむ。河流は流れ行くに従ひて深く廣し、歴史の大河は原人部落の限られたる本能的社会性の泉よりして、社会意識の奔流となりて流る――人類の平等観これなり。」
美濃部―天皇を最高機関とする君主政体
北一輝―「一人の特権者と平等の多数者」を最高機関とする民主政体
〇2、民主主義の首領としての天皇
万世一系の天皇という言葉の北の解釈(未来規定なのだ)
「日本民族も古代の君主国より中世史の貴族国に進化し以て維新以後の民主的国家に進化したり。――而して現天皇は維新革命の民主主義の大首領として英雄の如く活動したりき。『国体論』は貴族階級打破の為めに天皇と握手したりと雖も、その天皇とは国家の所有者たる家長と云ふ意味の古代の内容にあらずして、国家の特権ある一分子、美濃部博士の所謂広義の国民なり。即ち天皇其者が国民と等しく民主主義の一国民として天智の理想を実現して始めて理想国 の国家機関となれるなり。」
「『天皇』と云ふとも時代の進化によりて其の内容を進化せしめ、万世の長き間において未だ嘗て現天皇の如き意義の天皇はなく、従って憲法の所謂『万世一系の天皇』とは現天皇を以て始めとし、現天皇より以後の直系或は傍系を以て皇位を万世に伝ふべしと云ふ将来の規定に属す。憲法の文字は歴史学の真理を決定する権なし。従って『万世一系』の文字を歴史以来の天皇が傍系を交へざる直系にして、万世の天皇皆現天皇の如き国家の権威を表白せる者なりとの意義に解せば、重大なる誤謬なり。」
〇3、天皇と議会が衝突した場合。(松本清張の解釈)
「天皇と帝国議会とが最高機関を組織し而もその意志の背馳の場合に於て之を決定すべき規定なきに於ては法文の不備として如何ともする能はざるなり。」
この発言を引用し、北一輝をどうしても天皇主義者に仕立て上げねば気がすまない松本清張は、「北は天皇の絶対権を認めたのであり、天皇の「神聖不可侵」を承認した」と述べているが、私にはこの松本の発言は全くといってよいほど理解不可能である。
第二部 中国革命から日本改造へ
一 中国革命の挫折と改造法案
○1、孫文との対立―実在の人格としての国家
○2、日本の中国進出と民族革命路線
○3、改造法案−補足的ブルジョア革命としてのクーデター
二 改造法案路線の挫折と第二次大戦の予兆
○1、大川周明との決別の意味
○2、西田税との二人だけの党
当初のガリ刷りのごく少数に配られたものや、第二版は、北の思想を理解させ普及させるというよりも、これに賛同するもの集まれという姿勢であった。第二版の際の「凡例」においてはそれが顕著であった。「前世紀に続出したる誤謬多き革命理論を準縄として此の法案を批判するもの歓ぶ能ず。・・・・第20世紀の人間は聡明と情位を増進して、「然り然り」「否な否な」にて足るものべからず。」とあり、討論や説明を拒否する姿勢で貫かれていた。ところが、大川・西田との訣別以降の西田版では、北は『第三回公刊に際して告ぐ』なる一文を北は書き加え、なぜ、「改造法案」執筆にいたったのかという心情や個人史を書き記している。そればかりか、さらに、『国体論及純正社会主義論』と『支那革命外史』の序文を収めて、その理由についても次のように言っている。
「而して此の二著の序文だけにても収録した理由は、理論として二十三歳の青年の主張論弁したことも、実行者として隣国に多少の足跡を印したことも、而して此の改造法案に表はれたことも20年間大本根本の義に於て一点一画の訂正なしという根本事の了解を欲するからである。」
私は、『告ぐ』を執筆し、西田税に版権を譲った時点で、北の『改造法案』の扱い方に、大きな変化があったと考えている。大川や満川にそれを示した時点では、日本の「同志」たちには、一定程度、この法案を理解してもらえるだろうという楽観的な見通しが存在していたが、彼らとの訣別に及んで、日本人の思想の変化に気づかざるを得なかったということだ。自分の思想は日本においては孤立している、したがって、それに基づいて『国家改造』を行おうとすれば、既成の人々との共同によって行うことは不可能である、自らの思想の普及に努め、その力によってなさなければならない。それには、時間がかかるかも知れないが、その道を進もう。北一輝は、かなり自分よりも年少の西田税との出会いの中で、こうした方向へと転換したのである。元騎兵少尉の西田の若き情熱が、北と触れ合い、内部に潜んでいた彼自身の若き日々を思い起こさせていた。
「『国体論及純正社会主義』は当時の印刷で一千頁ほどのものであり且つ二十年前の禁止本であるが故に、一読を希望することは誠に無理であるが、其機会を有せらるる諸子は『国体の解説』の部分だけの理解を願いたい。右傾とか左傾とか相争ふことの多くは日本人自らが日本の国体を正当に理解して居らぬからだと思ふ。この著者はそれを閲読した故板垣老伯が著者の童顔を眺めて、お前の生まれ方が遅かった、この著述が二十年早かったならば我が自由党は別な方向を取って居ったと遺憾がられたことがあった。」
○3、日米合同財団による対中路線
「不肖嘗て海軍の責任者に問ふ。対米7割の主張は良し。若し米国海軍に英国の海軍を加え来る時、将軍等は能く帝国海軍を以て英米二国の其れを撃破し得るかと。答て曰く、不可能なり。一死を以て君国に殉ぜしめんのみと。不肖歎じて独語すらく、君国は死を以て海軍に殉ずる能はざるを如何にせんと。」
「日本の対外策が品行方正なりし時代は満州事変上海事変以前のご令嬢方をもって終わりと致候。、、、、元亀天正の国際渦中に突入したる今日、日米婚家修好して四海波静かなるや否やを疑うや何ぞ」
三 2・26事件
○1、国家改造へ向けた三路線
イ、幕僚と大川周明
「大川周明或はこれに従ったものの思想は、ファッショ的思想濃厚であると思われるし、われわれの反対するところだ。」 「幕僚ファッショなるものを(は)、日本本来の国体観を持つことが出来ず、外国への留学等に於て、ナチス、ファッショなどの政治形態への共鳴から、日本にこれを移植しようとする浅薄な思想をもっているものもある」。永田鉄山、岡村寧次、小畑敏四郎(ただし、彼の場合は満州問題で東条と対立し皇道派に分類されている)、東条英機ら。
ロ、井上日召と若手将校(テロリズム)
「5・15事件於ては、明きらかに吾々青年将校の有する思想と、それに非らざるファッショ思想が混在している。即ち、五・一五事件の被告中の陸軍士官候補生の如きは明らかに、われわれの思想であるが、大川周明或はこれに従ったものの思想は、ファッショ的思想濃厚であると思われるし、われわれの反対するところだ。」
ハ、北一輝と若手将校
「はっきり云うふと、今日に資本主義経済機構は明瞭に否定する。今日迄の所謂資本主義経済組織、明治維新の時に取り入れられた富国強兵の資本主義といふものは、、、今やその役目を果し段々破綻して、何等かの新しい形式に移りつつある、、、。だが、今日に資本主義の組織権力といふものを根抵としている統制経済主義には明瞭に反対だ。我々は今日の資本主義組織といふものを打破するために、すくなく共、大資本、私有財産、土地の三つの因子に、、、根本的修正を与へなければならぬ。先ず大資本を国家の統一に帰する、私有財産を制限する、土地の所有を制限する。この三つである」。
○2、長期的展望と第二次大戦回避路線
イ、天剣党規約
『天子皇室より国家改造の錦旗節刀を賜うと考ふるが如きは妄想なり。要は吾党革命精神を以て国民を誘導指揮して、実に超法規的運動を以て国家と国民とを彼等より解放し−彼等が使用妄便する憲法を停止せしめ、議会を解散せしめ、我党化したる軍隊を以て全国に戒厳し、、、正義専制の下に新国家を建設するにあり、、、、。」(現代史資料4,37)
「軍隊は国家権力の実体なり、故に一面之を論すれは国家を分裂せしめんと欲せは軍隊を分裂せしむべく国家を奪わんとすれば軍隊を奪うべき理、軍隊の革命が国家其の者の革命なりとか此の謂なり。,、、、吾党同志は其の軍隊に在ると否とを問わず軍隊の吾党化に死力を竭くすべく又同時に軍隊外に於ける十全の努力を以て国民の吾党化を期すべし。是の如くして天剣党は一般国民及軍隊の吾党化協同団結を以て日本国の更正飛躍を指揮し全国に号令せむことを期す。」(同右)
○3、士官学校事件と真崎罷免から相沢事件
○4、2・26事件の奇妙な性格
イ、青年将校たちの思想状況―天皇親政論と決起主義
大岸頼好 「皇政維新法案大綱」 不当存在の除去―「大命降下」― 一君万民の天皇親政社会
末松太平の『私の昭和史』には、この「維新法案」を手に入れた西田税が、「『皇国維新法案』を一冊を、たまたま西田のところへ来ていた渋川善助(註1)の前に突きつけ、「これは一体誰が印刷したんだといって、えらい剣幕でつめ寄った」という話が出ている。同書の同じ箇所で末松は、大岸が『改造法案』には「骨が粉になっても妥協できない三点がある」と言ったと記しているし、また、遠藤友四郎は『日本改造法案大綱』をしばしば「赤化大憲章」と表現していたと続けている。
磯部浅一
「陛下 日本は天皇の独裁国であってはなりません 重臣元老、貴族の独裁国であるも断じて許しません もっとワカリ易く申上げると 天皇を政治的中心とする近代的民主国家であります 左様であらねばならない国体でありますから、何人の独裁をも許しません 然るに、、、天皇を政治的中心とせる元老、重臣、貴族、軍閥 政党 財閥の独裁国ではありませぬか いやいや よく観察すると この特権階級の独裁政治は 天皇さへないがしろにしているのでありますぞ 、、、、ロボットにし奉って彼等が自恣専断を思ふままに続けておりますぞ ,、、陛下 なぜ もっと民を御らんになりませんか 日本国民の九割は貧苦にしなびて おこる元気もないのでありますぞ」
ロ、「妥協」の産物としての「要望書」路線
「要望事項」には、「事態を維新廻転の方向」に導くこと、「天聴に達しせしむる」こと、などとともに、「兵馬の大権を干犯したる宇垣朝鮮総督、小磯中将、建川中将の即時逮捕。軍権を私したる中心人物、根本博大佐、武藤章中佐、片倉衷少佐の即時罷免。」などが謳われていることが特徴的である。つまり、具体的には、軍部内部の統制派的人材の一掃によって、その改革を図り、天皇には維新への号令を発してもらうことによって国民意識の改革に着手しようとするわけである。
こうした「要望事項」を見ていると、二・二六事件というものは、クーデターの敗北というよりも、陸軍内部の全共闘闘争という面が浮かび上がってくる。なぜ、彼らは皇居を占拠し、革命委員会なり臨時革命政府を樹立しなかったのかなどという疑問が湧いて出てくるが、皇居占拠どころか彼らは陸軍省や参謀本部の掌握でさえも考えることができず、ただ単に、陸軍大臣にお願いしているだけなのである。註 この点で磯部が、「余の作製した斬殺すべき軍人には林、石原(莞爾),片倉(衷)、武藤(章)、根本(博)の五人であった」(248、獄中手記)と記しているのは注目されるが、それは反乱軍の統一方針にはならず、「要望」路線に繰り込まれてしまっている。
村中孝次
「我国体は神に万世一系連綿不変の天皇を奉戴し、この万世一神の天皇を中心とせる全国民の生命的結合なることに於て、万邦無比と謂はざるをべからず、我国体の真髄は実に茲に存す。」と彼が述べていることからしても、天皇神格化論的傾向は強いが、奸臣を除去すれば天皇親政が実現されるといった単なる「親政」論者ではなかった。彼は二・二六における決起を「昭和維新」への「前衛戦」と位置づけ、本隊を陸軍とみなす。本隊である陸軍が賛同すれば、陸軍そのものが維新に入り、国民が賛同すれば国民自身の維新となり、「而して至尊大御心の発動ありて、、、日本国家は始めて維新の緒に」に就くというのが、極めて抽象的であるが、「蹶起」成功後の青年将校全体の統一的な方針であったと考えられる。
ハ、二段階革命路線
これは、西田の天剣党規約の路線や北―西田の公判闘争路線とのある意味での妥協でもある。陸軍全体の取り込みから国民全体へ。「陸軍一家」中心主義。渡部教育総監に対する殺害意志のなかったこと。軍事参事官会議に下駄を預けていること。
「この次に来る敵は今の同志の中にいるぞ、油断するな、似て非なる革命同志によって真人物がたほされるぞ 革命家を量る尺度は日本改造方案だ 方案を不可なりとする輩に対して断じて油断するな たとひ協同戦線をなすともたへず警戒せよ」(磯部浅一)
 
2.26事件・天皇機関説・北一輝

 

『国体論』における天皇の問題
1、美濃部と北一輝の異同
1、 北は天皇機関説論者であったことが知られていますが、美濃部達吉のそれとどう違うのかは、あまり知られていません。この二者の相違は、美濃部が天皇一人を最高機関としているのに対して、北は最高機関は「特権的一人と多数なる国民」が最高機関を形成すると言います。美濃部より北が民主的なのです。
2、 美濃部は天皇説の根拠を西欧近代の憲法に求めますが、北は、「実在の国家」の進化に求める。したがって、憲法の解釈は、この「実在の国家」の進化の程度(我々のことばで言えば『階級闘争』に規定されているということになる。
ここから出てくることは、天皇と議会が対立した場合、どうなるのかということであるが、松本清張によると天皇が優先するとあるが、全く逆で、国民が優先ということになる。)
2、内村鑑三と北一輝
1、 北は日本の歴史は「天皇に対する忠義」の歴史であったということに全く反対で「乱心賊子」の歴史であったとする。これは内村鑑三の「時勢の観察」との関連で読まれるべきである。もちろん、北は、乱臣賊子を肯定的に捉え、それが進化であるとしている。
2、 天皇制問題とは直接関係ないが、北が中国に赴いたことは内村との論争が一つの契機になっている。
3北の天皇把握と明治維新
1、「眼前の君主を打倒するの急で」あったがために、維新後の計画が皆無であり、そこに「「民主主義の首領」としての」天皇が担ぎだされたというもの。したがって、天皇は民主主義の首領として存在し続けなければならない。
2、「万世一系の天皇これを相続す」という場合の、万世一系というのは歴史上そうだったことを意味しない。これは、未来に関する規定である。
『国家改造法案』における天皇の問題
1 国家改造法案は上海発の国家改造論
1、 中国革命(5・4運動その他)を支援するという立場から書かれたもので、そのためには日本が「明治の理念」に立ち返る必要があるというものである。(北にとっての明治の理念とはなにか)
2、 そのために政治革命が説かれている(政治革命と社会革命)。その政治革命の第一に挙げられるのは天皇機関説の実質化である。(実在の人格である国家の進化)。クーデターでなければならない理由。
3、『改造法案』で描かれている社会改革と社会主義革命との関連と断絶

二・二六事件と北一輝 (略)
北一輝と天皇制
はじめに
「咄、坤円球上愚人島あり。名けて日本と云ふ」
「足下速に是れを大隈総理に伝へしめよ。、、、、、。鄙人将に帰へりて国民に告ぐべし。日本強兵ありと雖も我が国の海岸線を封鎖し得るに過ぎず。鄙人一息すれば中国一日亡びず。此翁兵を引きて内地に退守すること数年、日本先ず財政破産をもって亡ぶべし。日本何の恐るる所ぞ。」
「「不肖嘗て海軍の責任者に問ふ。対米7割の主張は良し。若し米国海軍に英国の海軍を加え来る時、将軍等は能く帝国海軍を以て英米二国の其れを撃破し得るかと。答て曰く、不可能なり。一死を以て君国に殉ぜしめんのみと。不肖歎じて独語すらく、君国は死を以て海軍に殉ずる能はざるを如何にせんと。
一、内村鑑三の乱臣賊士論と北一輝
1、乱臣賊士論の継承
「上古のことは問わず、藤原氏政権以来、日本人は実に王室に対して忠良なりしか、なるほど将門を誅するに貞盛ありしは相違なし、、、、、、然れども過去八百年の歴史は、王朝衰退、武臣跋扈の歴史ならずして何ぞや、、、楠氏の主従七百騎、七生を冀望を約して陣に望むや、三十万の九州人は乱臣足利直義の旗下に隷属し、義人を湊川のほとりに屠りしにや…、九州一円乱臣賊士の巣窟と化せしにあらずや。、、楠公の名を繰り返すを以て宗教的義務の如く信ずる今日の日本人の多くは、楠公を殺せしものの子孫なることを記憶せよ…、公平なる歴史的観察を以て王室に対する日本臣民の去就を照らして見よ、吾人は勤王を誇るをやめて、不忠を恥じて地の哭すべきである。」(内村鑑三、「時務の観察」 )
「事実を事実をして語らしめよ。実に、久しく専横を恣にせし蘇我を斃したる鎌足の子孫は更に蘇我のそれを繰り返したるに非ずや…清盛は更に其の刃を提げて其れ(禁闕)に迫りたるに非ずや…其の平氏を滅したる頼朝は更に其れを欺きて帝王の実権を奪ひたるに非ずや…反動的王朝政治を一掃すべく起てるクロムエル(足利氏のこと)は其の可憐なる中心を湊川に屠りたり。…――斯の如し。吾人の祖先は渾べて『乱臣』『賊子』なりき。」(北一輝 「国民対皇室の歴史的考察―所謂国体論の打破)
2、内村鑑三批判
「ああ内村鑑三氏。本誌に本紙に寄稿せらるる等の関係によりして諸君の最も多く知り、最も多く知り、最も多く尊ぶ所なるべし。吾人の如き。氏の『警醒雑著』を読み、『小憤慨録』を繙きし幼き時に於ては氏の名は殆ど崇拝の偶像なりき。世が物質文明の皮相に幻惑して心霊の堕落を忘れたる時に於て、氏は教育勅語の前に傲然として其の頭を屈せざりき。」(同右)
二、美濃部の天皇機関説
1、統治権の主体論の否定
「君主は国家と相対する独立の人格たるものに非らす。…、君主が統治権の主体たりというの当然の帰結は臣民を以て君主と相対立する統治権の客体なりとなさざる可からず。…臣民は其全体相合して集合体の一人格を為すと看做すか…然らざれば…数多の人格の雑然たる集合なりと看做すのか何れか一つならさる可からす。何れに従うも国家は統一的の一体に非らす」(「君主の国法上の地位」、「法学志林」第一五号、明治三六年発行)
君主が統治権の主体であれば国民は客体ということになる。そこで国家機関として位置づけられる。
2、国家有機体説
「美濃部においては、法人としての国家は「全国民の共同団体」という意味であり、法人をもって抽象的擬制人とする見解は強く排斥されているので、その国家はむしろ綜合的実在人としての色彩が濃厚であって、国家と国民はほとんど同一観念に近いものがあったように思われる」(家永三郎)。
3、憲法の根拠
「我が国体が其の歴史上の基礎に於て欧州の諸国と同じからず、国民の忠君愛国の信念が欧州の国民と同日に論ずることを得ざるは固より論なし。然れども…、今日の法的顕象に於て我国の国体は決して欧州の立憲君主国と其模型を異にするものに非らず。独乙の国法学者が統治権の主体に付て説明せる所は、我国の国法に於て亦等しく適用せらるべき所なり」(「君主の国法上の地位」)
「抑憲法は我国歴史の産物に非す、憲法以前の我国の歴史は嘗て国民の参政権を認めたることなし、我国の憲法は専ら模範を欧州近世の憲法に取る、明白なる反対の根拠あらざる限りは、欧州近代の立憲制に共通なる思想は亦我憲法の取りたる所なりと認めさる可からす。」(君主の大権を論じて教えを穂積博士に請う)
4、日本の国体は最高機関を一人にて組織する君主国体
「抑我国の憲法に於て帝国議会か君主と相並て、対等なる国家最高機関を為すものに非さるは、何人も疑はさる所。…憲法改正の発議権を大権に留保したるは其不対等なる第一なり。法律の裁可権を大権に留保し而して外部に対して立法権を発現する所以は独り裁可に或るは其不対等なる第二なり。」(「君主ノ大権ヲ論シテ教ヲ穂積博士ニ請フ」前掲書)
三、北の天皇機関説論
1、近代以前においては、「実在の人格である国家」を君主が所有していた。近代以降は国家が主権を握った。したがって、1、2の論点においては美濃部と同様。
3、「日本国のみ特殊なる国家学と歴史哲学(傍点)とによりて支配さるると考ふることが誤謬の根源なり。謂うまでもなく人種を異にし民族を別にするは特殊な境遇による特殊の変異にして人種民族を異にせる国民が其れぞれ特殊の政治的形式を有して進化の程度と方向とを異にせるは論なきことなりと雖も…、些少の特殊なる政治的形式によりて日本国のみは他の諸国の如く国体の歴史的進化なき者の如く思惟するは誠に未開極まる国家観にして、以然たる尊王攘夷論の口吻を以て憲法の緒論より結論までを一貫するは誠に恥ずべき国民なり。」
4、「平等の多数者と一人の特権者とを以て統治したる民主国体」「而しながら天皇は統治権の総攬者に非らずと云ふことは、天皇一人にては最高機関を組織して最高の立法たる憲法の改正変更を為す能はずと云ふ他の条文と憲法の精神とに基づきて断定さるべき者にして,美濃部博士の如く日本の国体は最高機関を一人にて組織する君主国体なりと解釈しては斯る断言の根拠なくして明らかに矛盾する思想たるは論なし。」
5、北の政体区分
「吾人は在来の国家主権論者の政体二大分類を排して、今日の公民国家と云ふ一体に就きて政体の三大分類を主張するものなり。――第一、最高機関を特権ある国家の一員にて組織する形態(農奴解放以後の露西亜及維新以後二十三年までの日本の如し)。第二、最高機関を平等の多数と特権ある国家の一員とにて組織する政体(英吉利独乙及び二十三年以後の日本の政体の如し)。第三、最高機関を平等の多数にて組織する政体(仏蘭西米合衆国の如し)」
四、北一輝における天皇の歴史的位置
穂積八束の国体論
「家国は本と二義ならず、一家は一国を成し、一国は一家を成す、共に父祖を崇拝しその威霊の保護の下に子孫相依りて敬愛の公同の生を全うするなり。家における家長の位は即ち祖先の威霊の在ます所…、国における皇位は即ち天祖の威霊の在ます所、現世の天皇は天祖に代り天位に居り…、国は家の大なる者、家は国の小なる者、之を我が建国の大本とす、国家の淵源茲に在るなり」(「憲法提要」穂積八束一〇四、長谷川正安『日本憲法学の系譜』より)
北一輝の批判と日本史
「吾人は断言す――王と云ひ冶らすと云ふ文字は支那より輸入せられたる文字と思想にして原始的生活時代の一千年間は音表文字なりや象形文字なりや将た全く文字なかりしや明らかならざるを以て神武天皇が今日の文字と思想に於て『天皇』と呼ばれざることだけは明白にして、其の国民に対する権利も今日の天皇の権利或は権限を以て推及すべからざる者なりと(吾人は文字無き一千年間の原始の原始的生活時代は政治史より除外すべきを主張するものなり…、)。」
「所謂国体論の脊椎骨は、如何なる民族も必ず一たび或る進化に入れる階段として踏むべき祖先教及び其れに伴う家長制度を国家の原始にして又人類の消滅まで継続すべき者なりと云ふ社会学の迷信に在り。家長制度や祖先教は何ぞ独り日本民族の特産物にして日本のみ万国無比の国体なりと云ふが如き性質の者ならんや、今の欧州諸国も皆悉く一たびは経過したり。」
「問ふ――祖先教とは多神教のことなるが足下は多神教の信者か。恐らくは氏は傲然として然り八百万の神を信ずるのみと答へん。…而しながら祖先教と云ふ多神教は其れ以外に多くの拝すべき神を有す。…もっとも極端なる印度に於てはいま尚祖先の霊魂を祭る多神教在りて其の多神教には大蛇、木石、鳥獣、甚だしきは生殖器等が礼拝されるる如く、基督教伝播以前の欧州人も種々の動物奇石怪木を祖先の霊魂と共に拝りたる…。氏は動物園の大蛇を神社に祀るべく主張し、木造の生殖器の前に朝夕合掌稽首しつつありや。」
「等しく天皇と云ふも神武天皇と後醍醐天皇と明治天皇との全く内容を異にせる者なるべきに考え及ばざるか。彼等は文字の発音が類似すればミゼレベルと云ふ英語の悲惨もミゾレフルという日本語の霙降るも…同一意義なり…と考ふるに似たり。」
「三韓よりの移住者は多く九州、中国に独立し若しくは独立せる部落に属して未だ近畿に入りて帰化人となるほどに至らず、九州も東北も、又神武の経過せしと伝説される中国も全くの独立の原始的部落にして、雄健なる皇室祖先の一家が純潔なる血液によりて祖先教の下に結合して以て近畿地方と被征服者の上に権力者として立てる者なりき。」
「進化律は原始的宗教の祭主たりし『天皇』の内容を進化せしめて第二期に入れり。即ち日本社会其れ自身の進化と、更に進化せる社会と交通せる三韓文明の継承以後の天皇は(註)、凡ての権利が強力によりて決定せらりし古代として最上の強者としての命令者と云ふ意義にすすめり。――吾人はこれ以後の古代中世を通じて『家長国体』となし、藤原氏滅亡までに至る間の君主国時代を法理上『天皇』が日本全土全人民の所有者として最上の強者と云ふ意義に進化したる者となす。」
「日本民族は歴史的生活時代に入りしより以降一千五百年間の殆ど凡ての歴史を挙げて、億兆心を一にせるかの如く連綿たる乱臣賊子として皇室を打撃迫害しつつ来たれり」
「日本民族は系統主義を以て家系を尊崇せしが故に皇室を迫害し、忠孝主義を以て忠孝を最高善とせるが故に皇室を打撃したるなり。系統主義の民族なりしと云ふ前提は凡ての民族の上古及び中世を通じての真なり、而も其故に万世一系の皇室を扶翼せりと云ふ日本歴史の結論は全くの誤謬なり。」
五、実在の人格である国家論−北一輝とスペンサー
1、北一輝の原始共産制
「野馬が其の団結を乱さざる間は一頭と雖も他の猛獣に奪わるること無しと云ふが如き無数の現象を説明する能はざるべく、牙と爪と有せざる人類は原人時代の遠き昔に於て消滅したるべき理にあらずや」「最も原始的なる共和平等の原人部落に於ては全く社会的本能によりて結合せられ政治的制度なき平和なりしを以て政権者なるものなかりき」
「国家は長き進化の後に法律上の人格たりしと雖も、実在の人格たることに於ては家長国の時代より、原始的平等の時代より、類人猿より分かれた時代より動かすべからざる者なりき。」
原始共産制の段階での団結は、「原人の無為にして化すと云はるる無意識的本能的社会性」に基づく。
1b、スペンサーの原始時代論
「最初の、そして最低度の段階に於いては、同似的な権力と同似的の機能とを有する諸個人の同質的集合である。、、、総ての男子が武士であり獵人であり漁夫出あり器具製造人である。、、、総ての家族は自給自足である。、、、、、しかしながら、社会進化の経過のごく初期間に於て、我等は、統治者と被治者との間の萌芽的分化作用を見出すものである。、、、、最も強力にして最も敏捷なるものの権威が、野蛮人の間に感得せらるるのは、恰も動物の群れとか学童の兵隊ごっことかに於けるのと同様である。特に戦争の時において然りである。しかしながら、最初の間は、この事はまだ不定限にして不確実であった。」
2、北の権力発生論
「然るに長き後の進化に於、大に膨張せる部落の維持を祖先の霊魂に求めて祖先教時代に入るや(如何なる民族も必ず一たび経過せり)祖先の意志を代表する者として家長がまず政権に覚醒し、更に他部落との競争によりて奴隷制度を生じ土地の争奪の始まるや、実在の人格ある国家は土地奴隷が君主の所有たる如く、(君)主の所有物として君主の利益の為に存するに至れり。」
「各員の独立自由は一切無視せられて部落の生存発達が素朴なる彼等の頭脳に人生の終局目的として意識せらるるに至れり。― 斯の意識は原人の無為にして化すと云はるる無意識的本能的社会性が、生存競争の社会進化によりて実に覚醒したる道徳的意識として喚び起されたる者に非ずや。漁労時代遊牧時代の殺伐なる争闘を以て道徳なき状態なりと速断する如きは幼稚極まる思想にして、この部落間の争闘の為に吾人は始めて社会的存在なることを意識するを得たるなり。」
2b、スペンサーの権力発生論
「征服と諸部族の集合とに従って、統治者と被統治者との間の対照は、より決定的になって行った。優越的な権力は或る家族の世襲となってくる。首長は最初軍事的であるが、後には政治的となって来て自分で、自分の欲望に応じて獲得する事をやめて,他のひとびとから支給を受けるやうになる。そして彼は統治なる唯一の役目を襲い始めるものである。これと同時に、従属的な種類の統治――「宗教」の統治が――が発生しつつあったのである。」
「数時代の間王者は主長僧侶として継続していた。、、、多年の間宗教上の法則は多少の俗界規則を含むものとしてして存続していた。又俗界の法律も、多少の宗教的制裁をもっていた。、、、、、、時代を経過するに従って君主や、内閣、貴族、平民などの高度に複合的な政治組織が、、、出現する。、、、、、それと並んで複合的なる宗教的組織は発達する。」
3、北の同化−分化論
「小社会単位に分化して衝突競争せる社会単位の生存競争は、衝突競争の結果、征服併呑の途により同化せられ、而して同化によりて社会の単位の拡大するや、更に個人の分化によりて個人間の生存競争となり、人類の歴史は個人主義の時代に入る。彼の希臘羅馬の末年に於個人主義の萌芽は、、、、、其偶々社会単位の生存競争を為しつつありしゲルマン蛮族に亡ぼされて偏局的社会主義の中世史を暗黒に経過せしと雖も、更に、其の封建的区画の小社会単位に於てする生存競争が羅馬法王の教権の下に同化せらるるや、茲に個人主義の大潮流となりて個人の分化作用を以て社会を進化せしむる時代に至りしなり。」
3b、スペンサーの同化‐分化論
「一方に於いて統治者側が、複合的発達をなしたると同時に被統治者側に於いてもより複合的な発達を遂げて、その結果として進歩的国民の特色をなすところの、かの微小なる分業が生じたものである。、、、、産業的進歩なるものが、労働の分業の増加に通じて、、ついに各成員がそれぞれ相互のために各別行動を行ふといふやうような文明共存社会に至るものである、、、、この同質性より異質性の進歩において、、、」
六、同化と分化による進化と実在の人格である国家
1、同化と分化が社会の発展の基本法則である
2、この基本法則が、個人を生み出す。
3、日本歴史もそれの例外ではない(明治維新)、民主主義の大首領
4、天皇と「実在の人格である国家」(万世一系は未来規定)
5、天皇と議会の衝突
6、実在の人格である国家が主権を取り戻す
7、しかしながら、明治維新は法的に国家に主権がもたらされただけであり、事実上の国家はそうではない。
8、事実上の国家を完成させるのは純正社会主義である。
9、「実在の人格である国家」相互の関係と世界連邦  
 
北一輝論への感想

 

4月23日に専修大学で元雑誌「情況」編集長の古賀暹さんの北一輝に関する報告研究会(現代史研究会、演題は『北一輝と二つの竜巻―中国革命と2.26事件』)があった。参加者の中には、コメンテーターの丸川哲史さん(明治大学教授で専門は中国)をはじめ、大学関係者も多く、また昭和史の研究者も来ていた。古賀さんは、独自の視点から既に『北一輝論』という大著を物して御茶の水書房から出版しているが、今回はそれをベースに、さらに資料の渉猟を重ねた研究成果の発表になった。古賀さんの詳しいレジュメはちきゅう座で自由に閲覧できるので、ここでは、直接「北一輝」の思想や生き様などに関する私の感想(疑問や意見)を述べたい。その際、あえて古賀さん自身の著書からではなく、松本清張が書いた『北一輝論』(ちくま文庫版2010、以下引用は文庫と略し、ページ数はおおむねこの文庫からのもの)を参照しながら、古賀さんの報告や見解などと突き合わせて考えてみることにする。
さて、このちくま文庫の最後で筒井清忠教授が「北一輝と2.26事件をめぐる想像力と真実」という題で小論を書いているのだが、これが最新の資料や研究に基づいて書かれていて、非常に興味深い中味になっていた。そこから、古賀さんの今回の報告にはなかった興味深い話を2〜3拾って紹介したい。
皆さん方の中には、かつてNHKテレビで「2.26事件と北一輝」を扱った「報道特集」(?)があったことを記憶されている人もいるかと思う。その番組の中で、北一輝が電話で安藤輝三大尉と交信しながら、「マル(=お金)は大丈夫か?」といったような会話をする録音が放送されていた。驚くことに、実はこの放送は全くの捏造であったようだ。
まず、北一輝に良く接触し、その声を知っている中谷武世が放送後の早い時期に「北一輝と安藤輝三大尉との電話録音は偽作である」(昭和動乱期の回想 下 中谷武世回顧録 泰流社1989)との疑念を述べていた、そして決定的なのは、この会話録音時(2月29日)には、北は既に逮捕されていたため、こんなことはあり得ないということ、である。結局、放送番組制作者自体がこの事実を認めて「打ち切り」にしたそうだが、NHKはいまだに反省の弁をもっていないという。最近の様々な出来事と照らして、当時からのNHKの杜撰な無責任体質を痛感するとともに、厳しく糾弾したい。
また、「宮城占拠問題」(青年将校が宮城の完全占拠を企てたといわれたもの)という伝説に対する事実の指摘がある。この件に関してはこの文庫本(pp.386-7)の松本説も間違っているようだ。松本清張によれば、「中橋基明中尉が警視庁の野中四郎大尉の部隊に連絡を取って引き入れようとしたが阻止され、宮城占拠は挫折した」という。しかし、これにははっきりした根拠がないことと、首謀者の村中孝次の証言によれば、宮城占拠を戒めたのは北自身だったという。クーデター計画上、天皇拘束は支持者を減らすことになるという当時の社会、政治情勢を考慮する必要があったからだ。
また、古賀さんも報告の中で指摘していたが、処刑直前に西田税が「われわれも天皇陛下万歳を唱えましょうか」と聞いたのに北が、「いや、それは止めましょう」と答えたという伝説。これも事実は不明であるという。
前置きはこれくらいにして、私の感想(意見や疑問)を述べてみたいと思う。
北一輝が書いたものはなかなか複雑(難解)である。これにはいろんな理由が考えられる。まず、当時の物騒な政治・社会情勢がある(「国体論及び純正社会主義」を書いたのち、北は幸徳らの「大逆事件」に巻き込まれる恐れを感じて、中国に脱出したといわれる)。さらに彼はこれらを歴史書としてではなく、政論として書いていること、このことの意味は大きい。しかしとりわけ大きいのは、彼が上野図書館に通って、当時の最先端の理論書を読破し、これを独自の発想のもとに吸収、構想し、それを当時の一流の学者を批判する武器に用い、かつ実践方針化しようとしていることにある。
以下、出来るだけ簡略にいくつかの問題を剔抉してみたいと思う。
(1)「乱臣賊子」論について。
北の主唱したものに「乱臣賊子」という議論がある(「国体論及び純正社会主義」)。これは、「万世一系の天皇」の系譜は、実際には「乱臣賊子」の歴史にすぎないという極めて興味深い史観である。それによれば、蘇我馬子も、平清盛も、足利尊氏も、皆、天皇家と同等の権利をもつ支配者であったということになる。それなのに天皇家だけが唯一絶対的な(「万世一系」の)支配者であると唱えるのは「土人部落の滑稽劇」にすぎないと揶揄する。「革命とは政府と輿論とが統治権を交迭することだ」というわけである。ここから演繹すれば、当然ながら「天皇家」の否定、北のいう「同等な国民」という観点にならざるを得ない。しかし当時にあって、これは極めて危険な結論である。それ故か、北は「大化の改新」の天智天皇と「明治維新」の明治天皇を別格扱いし、いわば、「フランス革命」時の英雄(彼はナポレオンをイメージしている)、オゴタイ・カン(=元の太宗)やケマル・パシャ(=トルコ共和国初代大統領)さらに後には、「ロシア革命」のときのレーニンにすら見立てることで、天皇を「特権ある一国民」とする。しかし、両天皇の歴史的実像評価はともかくも、これでは、「天皇家一般」と二人の天皇(天智と明治)の区別、また「国民」としての天皇と庶民の関係が論じきれていないのではないか。このことが、2.26事件後の北の「公判」での法務官(陸軍法務官・伊藤章信)とのやり取りで露呈されたように思う。すなわち、明治天皇が欽定した憲法の一時停止(北は憲法を3年間停止して改革を断行すべしと唱えた)は、明治天皇を否認し、現天皇を否認することになり、「不敬罪」にあたるとの反撃にあうことになった。北一輝はこれに反論できない。
また、北は「国体論及び純正社会主義」の後半で、「乱臣賊子」論を放棄している。なぜか?
北は途中でこの「乱臣賊子」論を捨て、「天皇一般」を「特権国民」とみなすことによって、「天皇制」を肯定し、いわば「日和って」しまったのだろうか?・・・必ずしもそうは言えないようだ。
北は23歳で書いた処女作「国体論及び純正社会主義」に後で手を入れ、盟友の満川亀太郎(大川周明らとともに、超国家主義団体「猶存社」の結成にあたった)に「門外不出にしてくれ」と言って預けた、という。書入れをしたのは、「日本改造法案大綱」(1919、39歳)を書いた後であり、その本は1975年当時、久野収が保持していたという(pp.325-6)。
まず、久野の意見を聞いてみたい。
久野:…初めのものと比較してみますと、まず書物の表題そのものを「民主社会主義原論」と変えています。それから第四編の「所謂国体論の復古的革命主義」を「現代国体論の解説」と変え、「復古的革命主義」をすべて「国体破壊主義」に、「偏局的個人主義」は「民主主義」にそれぞれ変え、そのほか、文中の小見出しをすべて削り、文章もかなり訂正して、アップトゥデートにしている。また「純正社会主義」を全部「民主社会主義」にかえています。しかし、ぼくの一読したかぎりでは、むしろ前の説をラジカル化しているくらいです。さすが、「門外不出だ」といって預けただけあって、北自身は転向していないようです。ですから、彼のいう民主社会主義とは何かという問題を追究するに当たって、この手直しはたいへん重要な資料になってくると思っています。(pp.326-7)
それでは北はどのような点でこの「乱臣賊子」論を生かそうとしたのか?
北によれば、天皇と議会(国民の代表機関)の二つが平等に国家権力の代表だという。つまり、両者を統合する最高の存在を国家におき、天皇も議会も国家の機関であると考える(「天皇機関説」をとっている)。この点について久野は次のように証言している。
久野:…直接の自分の君主に対する忠誠と天皇への乱臣賊子とを、明治憲法以後において国家への忠誠に置き換えようと北はする。天皇も国民も国家への忠誠を尽くさなきゃいかん、国家こそが永遠なのであって、天皇はその単なる機関にすぎないという、だから忠君はあくまで愛国の一部でなければならない。そこが北の国家社会主義たる特色…乱臣賊子も忠君もすべて愛国に結集する。そうすれば天皇に対する乱臣賊子も、逆にいえば愛国になる場合もあるかもわからない…。
…北があの時点で考えたことは、今までの封建藩主への忠誠が明治維新で天皇への忠誠になったのを、もう一度国家への忠誠にどのように変えるか。…だから彼は「皇民国家」という言葉を自筆訂正本では全部「国民国家」にかえています。
…私が北に同情的なのは「皇民国家」を(自家訂正本ではすべて)「国民国家」と変えているところを見ても「国体論及び純正社会主義」を書いた時点では、何とかして「国民国家」という方向へ行きたいと考えていたと思うからなんです。
要約すれば、「革命とは政府と輿論とが統治権を交迭すること」にすぎないのに、「万世一系の天皇」を支配者とすることはおかしいし、歴史的にも実際にはあり得なかったはずだ。北の考えでは、国家は天皇と国民(議会)とを統治の両機関として成立する。それでは、両者が対立した場合にはどちらを優先させるべきであろうか?これは大問題である。彼はこの難問をいかに解決しようとしたのだろうか。
この辺が北の解読の大変興味深い個所のように思う。北はあくまで国家を軸にした「政論」を書いている。彼の考えからすれば、君民共治(皇民国家)は共和民主(国民国家)への過渡期(中間過程)でなければならない。かといって、一気にそれを実現することは困難である。そこでこう発想を転換する。国家を軸に据えれば、天皇への忠誠は必ずしも国家への忠誠とはいえないし、逆に、天皇への反逆も国家への忠誠になることもありうるのではないか、と。ここで、北が「天皇信仰から大元帥信仰」へ移行したことと、法華経の行者になろうとしたこととがパラレルに考察されなければならない。
多少強引な言い回しをすれば、「神道天皇制」を超えた位置、法華経の行者になって、自ら「大元帥」として日本国を変革しなければならないという考え方に至ったのではなかろうか。その際彼は、「統帥権干犯」(北の造語とも言われている)を逆手にとり、天皇側近の腐敗分子(重臣達)を軍事的な行政機関(在郷軍人団会議)を作って排除することで、実質的に「天皇制」を空語にしてしまう(天皇制廃止)革命を考えていたのではないだろうか。自らナポレオンになる(あるいは軍人であり僧侶であったクロムウェルになる)つもりだったとも考えられる。その結果が、御存知の2.26事件の結末に結びついてきたように思えるのである。以下、文庫本からの引用。
松本:北が言うような軍事的な行政機関を作れば彼は自らその最高顧問になります。「日本改造法案大綱」通りの国家になれば、北の「院政」です。つまり北のいう通りに操縦されることになる。…もう一つは、“改造法案”に従うと、それまでの重臣層は全部排除される。天皇から重臣層を排除したならば、天皇制の崩壊ですよ。天皇を核として二重にも三重にもそういう機構が取り巻いているから、天皇制が存続するわけでしょう。…自然に天皇制廃止につながる。
久野:だからこそ天皇が2.26事件にものすごく怒って、軍部が北と青年将校の一味を誅伐しなければ、自分が近衛師団を率いてでも出動するといったわけです。…北の行こうとするボナパルティズム、クロムウェル主義の持っている怖さを、天皇およびその周囲にいる元老、重臣、軍閥たちはかなりよく知っていた。だから2.26事件を未熟のうちに絞め殺したんだと思います。北自身もそのことは自覚していたと思うんですよ。
松本:それが一番重要な点です。反乱軍が重臣を殺すのは、朕の首を真綿で締めるようなものだ、と天皇は言った。そして反乱軍に同情的な第一師団が出動しなければ近衛師団を朕自ら率いて討伐に向かう、とまで言う。
このような議論の結果、北一輝を「右翼・超国家主義者」と決めつけていた松本清張も、以下のように思わず真逆の評価を与えることになる。
久野:…統帥権の干犯や天皇大権の干犯・・・で天皇と軍閥の統帥権を擁護することになれば、北の「国体論及び純正社会主義」でいった、国家が主権の持ち主でその統治権を天皇と国会が共同代行している、という考え方からはものすごく距離が隔たることになりますね。
松本:統帥権ということが彼の頭の中に大きく出てきて、それが、“改造法案”の、軍事顧問団で天皇親政を、ということになるのだと思うんです。ただそれを突き詰めていくと、それまでの天皇という核を包んだ外皮が崩壊する、そうすると天皇制の崩壊につながるというふうに、自然になっていきますね。そこまで北が鋭く読み取って「日本改造法案大綱」を書いたとすれば、北は根っからの社会主義者だということになる。彼の国家主義的なものは見せかけであって、真に日本の天皇制の崩壊を考えていたのかと、…。
(2)北は「構造改革論者」なのか、それとも「国家社会主義者」なのか?
北一輝に対する評価はこの点で大いに割れる所であるようだ。右翼だからといって北一輝を評価する者ばかりではない。むしろかなりの数の右翼が北の中に「反天皇制」左翼の陰を見て「擬装右翼」として毛嫌いするようである。左翼の方では、これまでほとんど北一輝を評価してこなかったように思う。松本清張が言うように彼は「右翼・超国家主義者」なのである。因みに、清張は初期の北一輝(「国体論及び純正社会主義」)=社会民主主義者と、後期の「日本改造法案大綱」=国家主義者との間に彼の思想的な変節を見ている。北は変節したのか?何が北の実相に近いのであろうか?
私見では、どちらも紛れもなく北一輝である。この場合、どちらか一方に決めつけることはできない。一方に決めつければ、たちまち他方の側によって反撃・否定されるからだ。北は一見すると相反する(正反対ともみなされうる)主張を独自のやり方で統合しようとしている。その統合の過程は北一輝にとってもなかなかの難儀で、一筋縄なやり方では解決できない。まさにその悪戦苦闘こそが北一輝そのものなのである。この悪戦苦闘の経過を、純粋に北一輝の精神の歩みとして捉えるとき、それは概念的な把握になる。
ここで改めて、松本清張の『北一輝論』(ちくま文庫)から少々長い引用(重複する箇所もあるが)をしながら、関連個所をピックアップしてみたい。
A.「日本改造法案大綱」の巻四は「大資本の国家統一」である。
1私人生産限度は、資本金1千万円とする。海外における国民の私人産業亦同じ。この限度を超過せる生産業はすべてこれを国家に集中し、国家の統一的経営とする。
2私人生産限度を超過せる資本の徴収機関は、在郷軍人団会議たることは前掲に同じ。
3銀行省、航海省、鉱業省、農業省、工業省、商業省、鉄道省の設置。
4生産的各省よりの莫大な収入は、消費的各省と国民の生活保障の支出に応じる。したがって、基本的租税以外各種の悪税は悉くこれを廃止する。
5遺産相続税は、親子の権利を犯すものなるを以て、単に手数料の徴集に止める。
…その資本金の超過を査察するのも、これを徴集するのも、すべて、在郷軍人団会議である。何もかも軍人が統制管理を行う。
B. 巻七でも「将来の帝国領土」の語を用い、私有財産限度、私有地限度、私人産業限度の「三原則」は「将来の帝国領土内に拡張せらるる者なり」と、侵略戦争結果の見取り図を描いている。
C. 久野:…(「国体論及び純正社会主義」を)初めのものと比較してみますと、まず書物の表題そのものを「民主社会主義原論」と変えています。それから第四編の「所謂国体論の復古的革命主義」を「現代国体論の解説」と変え、「復古的革命主義」をすべて「国体破壊主義」に、「偏局的個人主義」は「民主主義」にそれぞれ変え、そのほか、文中の小見出しをすべて削り、文章もかなり訂正して、アップトゥデートにしている。また「純正社会主義」を全部「民主社会主義」にかえています。しかし、ぼくの一読したかぎりでは、むしろ前の説をラジカル化しているくらいです。
D. 久野:…北には社会主義のインターナショナリズムと共和主義は、ずっと先へ進んだ後の話にしか過ぎない、という考え方がある。「国体論及び純正社会主義」の中でも、主権の本体としての国家はリアリティなのであり、個人の実在よりも高次の実在であって、国家の利益と目的のためには統治権の行使者は天皇や議会からどのように変わってもいい、個人が国家の利益と目的のために身を捧げる愛国主義が必要だという考え方を彼は持ち出しています。そしてこの愛天皇主義でない愛国主義が、伝統的国家主義によりかかって天皇を担ぎ上げる官僚と軍部から、北がすごく憎まれる理由でもあるし、同時にこの考え方は、階級闘争と階級連帯によって国家主義を越えようとする左翼からは右翼国家主義と見られる客観的理由でありましょうね。…北はさしあたり明治憲法を基礎にして君主主義を主張していますけれども、彼のいう君主主義はあくまで国家が主権の本体であって、政体の違いというのは国家の持つ統治権を誰に代行的に行使させるかという違いにすぎず、天皇に行使させるか、天皇と国会の共同に行使させるか、平等の国民に行使させるかになる。
明治憲法下の日本は、統治権の主体が国家にある国家主権の国家で、国家のこの統治権を行使する機関として天皇と国会がある。両方が協力し、それが国家機関となって統治権を行使しているのだ、という論理でしょう。
…彼の特色は、君主主義なんだけれども、主権と統治権を国家に代わって天皇と一緒に国民の代表たる国会が行使するのだという点で、民主主義の要素を持ち込んでいるところにある。
E. 久野:…君民共治から共和民主へという図式は明治維新をやった大久保利通や木戸孝允の様な天皇制官僚でさえ、日本の体制はやがては共和民主に行かなきゃいかんが、それまでの中間過程として君民共治をとるんだ、と既に言っていた。北は、…この大久保や木戸のいったところを逆用して、君民共治からどこへ行くかという問題は両義性のままにおいていると思うんです。もし松本さんのいわれるように、君民共治で絶対君主だというふうにとらえると、ちょっと北の意図とはずれる。北はあの書物を政論として書いていて、ずいぶん中で駆引きをやっている。それが要するに彼の、敵の武器をとって敵をうつというやり方です。大久保、木戸を逆用して、何とか国会及び国民の優越支配のほうへ進めていきたい、そして明治憲法をぎりぎりのところまで持って行きたいと考える。
北は国内体制としては「憲法と国会の中の国王」的民主主義を徹底化するというが、対外的には国家を、個人や自発的な集団を超えた超実在だと考える。…国内体制においては、あくまで個人自由主義を擁護して新しい藩閥になった巨大会社を倒さなければいけない。他方で対外的には、帝国主義と無関係に将来の社会主義国家のイメージを考えるのではなくて、帝国主義の革命化のところに彼のいう革命的大社会帝国主義を生み出そうとする。北は社会主義を、全体主義的にとらえる、…彼の場合全体の単位は国家なんです。だから彼のは、国家社会主義だ、と言っていいと思います。
F. 松本:…彼は忠義のことを言っていますが、それによると忠義とは眼前の君主に対する忠義である。それより上の天皇にしても将軍にしても、家来にとっては問題ではない。つまり、忠義とは直属の主人に対するものだから、その主人が天皇を弑逆しろと言ったら、家来はその通りにいうことを聴く。島流しにしろと言えば、何の抵抗もなく命令を実行して佐渡にも流す。だから日本の歴史は、国民がすべて「乱臣賊子」の歴史である、と北は言います。…ところが「国体論及び純正社会主義」をだんだん読んでいきますと、突然この説を撤回しているでしょう。…撤回するくだりはこうなっています。「吾人は更に前より用ひ来れる「乱臣賊子」の文字を取り消さざるべからず。それは日本国民の凡ては乱臣賊子の従犯者若しくは共犯として皇室を打撃迫害しタル乱臣賊子のみなりという吾人の断定これなり」ここで彼が言っているのは、中世の各領主、豪族は、それぞれが経済的に独立した自由な君主であるから、君主間の争闘にそのおのおのの家来が参加したところで乱臣賊子とはいえない、ということです。このことは君主の一つである皇室に対しても言えるので、他の君主が別の君主である皇室に自由を発動して衝突しても乱臣賊子的行動とはいえず、それに従う直属の家来も皇室に対して乱臣賊子とはいえない、とする。…それならば前の乱臣賊子論の活字を全部、著書から抹消すればいいのに、それはやっていない。
松本:明治維新後議会が天皇と衝突した場合を想定すれば、議会は天皇に対して反逆です。乱臣賊子です。ところが北の想定によれば、議会は天皇とともに民主主義国家を代表する機関であるから、これを乱臣賊子にする論理がなくなる。そういう矛盾…。
G. 久野:…直接の自分の君主に対する忠誠と天皇への乱臣賊子とを、明治憲法以後において国家への忠誠に置き換えようと北はする。天皇も国民も国家への忠誠を尽くさなきゃいかん、国家こそが永遠なのであって、天皇はその単なる機関にすぎないという、だから忠君はあくまで愛国の一部でなければならない。そこが北の国家社会主義たる特色…乱臣賊子も忠君もすべて愛国に結集する。そうすれば天皇に対する乱臣賊子も、逆にいえば愛国になる場合もあるかもわからない…。
…北があの時点で考えたことは、今までの封建藩主への忠誠が明治維新で天皇への忠誠になったのを、もう一度国家への忠誠にどのように変えるか。…だから彼は「皇民国家」という言葉を自筆訂正本では全部「国民国家」にかえています。
…私が北に同情的なのは「皇民国家」を(自家訂正本ではすべて)「国民国家」と変えているところを見ても「国体論及び純正社会主義」を書いた時点では、何とかして「国民国家」という方向へ行きたいと考えていたと思うからなんです。
H. 松本:国家についての北の解釈…進化論を援用…国家の進化とは…国家の繁栄である。そしてその繁栄に向かうべき国家の上に載っている元首の明治天皇はナポレオンにも比すべき大皇帝である。(オゴタイ・カン=元の太宗とナポレオンとケマル・パシャ=トルコ共和国初代大統領にあこがれている)
I. 松本:北が言うような軍事的な行政機関を作れば彼は自らその最高顧問になります。「日本改造法案大綱」通りの国家になれば、北の「院政」です。つまり北のいう通りに操縦されることになる。…もう一つは、“改造法案”に従うと、それまでの重臣層は全部排除される。天皇から重臣層を排除したならば、天皇制の崩壊ですよ。天皇を核として二重にも三重にもそういう機構が取り巻いているから、天皇制が存続するわけでしょう。…自然に天皇制廃止につながる。
J. 久野:2.26事件は人民のレベルまで届いていない。ぼくにいわせれば、あれはどれほど深刻でも、天皇の担ぎ方をめぐる争いでしょう。…官僚制の頂点として天皇を担ぐか、それとも官僚の垣根をぶっ壊して天皇を担ぐかという、天皇の担ぎ方の違いだというのが、ぼくの判断なんです。
以上かなり長々しい引用をしたが、前述したものと併せて、問題点を整理する。
1「財産制限」を設けて、主に財閥・大企業を国家管理下に置く。その場合の管理責任者として在郷軍人団会議(下級士官からなる軍人層)をあてる。(A,B)
2「民主社会主義」革命をめざし(改訂版「国体論及び純正社会主義」)、その過渡期形態として、天皇制と議会とよりなる「国家」を考えている。「愛国主義」「忠誠」の強調。(C,D)
3「国家有機体論(進化論)」という考え方。「北は国内体制としては「憲法と国会の中の国王」的民主主義を徹底化するというが、対外的には国家を、個人や自発的な集団を超えた超実在だと考える。…国内体制においては、あくまで個人自由主義を擁護して新しい藩閥になった巨大会社を倒さなければいけない。他方で対外的には、帝国主義と無関係に将来の社会主義国家のイメージを考えるのではなくて、帝国主義の革命化のところに彼のいう革命的大社会帝国主義を生み出そうとする。北は社会主義を、全体主義的にとらえる、…彼の場合全体の単位は国家なんです。」(E)
4多種の王侯(豪族、君主)の一つとしての「天皇家」(「乱臣賊子」論)という考えと、「特別な国民としての天皇家」という考えの並列。(F)
5「国民国家」という発想。(G)
6「国家の進化は国家の繁栄である」→「革命的帝国主義」の発想へ(H)
7「英雄」による革命の推進。→「神道天皇制」を超えた「法華経の行者」による「大元帥信仰」へ(I)
8「広汎な大衆運動」の欠落(J)
まずこの全体を概観してわかることは、北の理想が「民主社会主義革命」による「国民国家」の実現にあったこと、しかし一気にその革命を実現することの困難さゆえ、段階的な実現を考えていて、それが過渡的な形態としての「皇民国家」(天皇と議会の併存する国家)である。北の考えでは、天皇を取り囲んで、腐りきった重臣ども、高級将校群、高級官僚、それに旧藩閥にも等しい権勢をふるう財閥、これらを統制管理することが過渡期の主要な役割となる。そのために必要なのが、在郷軍人団会議(下級士官からなる軍人層)よりなる管理組織である。だが、北のこの構想からすれば、天皇は「裸の王様」にならざるを得ず、結局は「天皇制」は崩壊する。北の「国家社会主義」としての国家論は、このことの自覚の上に構想されていたのであって、途中からの変節などではないであろう。だからこそ、「日本改造法案大綱」を書き上げた後に、「国体論及び純正社会主義」に筆を入れ、それをさらに過激な方向で書き改めたのであろう。北は「乱臣賊子論」からもわかるように、終始「皇国史観」に組していないのである。この革命を実行するために、彼は法華経の行者になり、「天皇信仰」を超えた「大元帥信仰」を提唱しながら、少なくともレーニンのように青年将校中心の革命を嚮導しようとしたのではないだろうか。その際、彼は次の事を熟知していた。それは「契約」に基づく「法的な縛り」に代わる「道徳」(「愛国心」「忠誠」)の提唱である。
ミシェル・フーコーなどが指摘するように、権力(支配者)による「法秩序」「社会秩序」の押しつけ、は明らかに「外在的関係」である。既成の権力が崩壊すれば、当然の如く「規制の仕方=法秩序のあり方」も変わる。古代・中世の主従関係はある種の契約(恩賞、褒賞による)によって成り立っていたが、それは「下克上」によって絶えず破られてきた。近世江戸幕府に至って、永続的な政権維持のために、朱子学を徳川政権流にアレンジして取り入れ、「忠孝」や「忠誠」を道徳化することで、いわば、「上からの強制」という外在的な関係にオブラートをかぶせたこと、このような道徳化(徳義)は明治以降も採用され、「神道」「教育勅語」「軍人勅諭」などに残されたこと、このことを北は熟知していたがゆえに、「信仰」(「神道天皇信仰」に代わる「大元帥信仰」)を取り入れようとしたのであろう。これらの事は古賀さんの『北一輝論』の「第三部 天皇制イデオロギー批判」で詳しく論ぜられているので、これ以上は触れない。
続いて上のまとめの中の、3、6、8の問題について検討したい。
(3)北一輝の悲劇は何故に起こったのか?
『北一輝論』を読みながら、絶えず頭を離れなかったのは、彼はどのような革命を嚮導しようとしたのか、彼に「悲劇的結末」をまねいたものは何だったのか、という問題であった。
彼は国家を「有機体国家」と捉え、その「進化」を考えている。その機能としての「天皇」であり「議会」(国民)である。ここではいうまでもなく「国家」が主体であり、天皇も議会も「愛国心」「忠誠心」を以て国家に奉仕することを当然の義務とされている。一見すれば、両者は一体であるように思える。しかしそうではない。庶民に超越した国家は、庶民に対して上から「法」をお仕着せようとする。先述したように北は、道徳(あるいは信仰)を以て庶民の内側に「愛国心」「忠誠心」を呼び覚まそうとすることで、外からの強制ではなく、内側から働きかけようとした。しかし、それならなぜ、広汎な大衆運動を組織しえなかったのか?過酷な弾圧?どのように苛酷な弾圧化においても大衆の運動は繰り返し生み出される。このことは人類史が証明している。簡便のために卑近な例を示すことにする。それはナチズムとの比較である。
ナチの運動が、最初はミュンヘンのささやかな一地方政党から出発し、世界恐慌を契機に一挙に巨大な大衆運動に成長し、最後には政権を掌握して一つの新たな政治体制を樹立することになったことはよく知られている。それではナチの組織力とはどんなものだったのであろうか。『ナチ・エリート 第三帝国の権力構造』山口定著(中公新書1976)によると、おおよそ次のようだ。
「財界人、保守派の政治家、高級官僚、軍の首脳部、大土地所有者の援助が本格化したのは、ファシストがその独特のプロパガンダと組織力によって、大衆を掌握しうることを証明しえた後のことである。−政権掌握時の党員数は、イタリアの場合は、およそ25~29万人、ドイツの場合は、約138万人(1932年末)。政権定着後は、機会主義的便乗派のなだれ込みと、全体主義支配を可能にするための党分肢組織並びに各種の職能別の党付属大衆団体の発展により巨大なものになった。」
「1935年1月の時点でのナチスの中核…ナチ党帝国指導者:21人、大管区指導者:33人、管区指導者:827人、地区指導者:20724人、細胞指導者:54976人、街区指導者:204359人/総計:280940人−1937年にはこの数は約70万人を上回るにいたった。」
桁が違っていて比較にならない。確かにそのとおりである。古賀斌氏(古賀さんのご親父)が北派のオルグとして活躍したにもかかわらずである。次の久野収の嘆きがリアルに響く。
久野:2.26事件は人民のレベルまで届いていない。ぼくにいわせれば、あれはどれほど深刻でも、天皇の担ぎ方をめぐる争いでしょう。…官僚制の頂点として天皇を担ぐか、それとも官僚の垣根をぶっ壊して天皇を担ぐかという、天皇の担ぎ方の違いだというのが、ぼくの判断なんです。
なぜこのような差異が生じたのか?ここではこれ以上に立ち入ることは控えたい。私見では、運動が内在化しえていないこと(北の国家構想は「人民レベルまで届いていない」)、それ故「社会革命」をともなわない単なる「政治闘争」に矮小化されてしまったこと、一揆、暴動(暴挙)の類で片づけられる程度に治まったたこと、このことが北の悲劇である。道徳はまだ極めて抽象的なものでしかない。(ナチもかかる理念は持っていなかったのではあるが)共同主観性(世界精神)を基盤にした「理性国家」が実践的にも目指されなければならない。
「ツングースのシャーマンは、神を自己の外にもつが、西欧のキリスト教(カントと読んでも構わない)はそれを内にもつ。違いは外か、内かでしかない。内なる他者(外)は依然として残る」(今や内側において内と外との対立が生じているという意味)。−ヘーゲル
否定は再び否定されなければならない(「否定の否定」)。
北の「世界聯邦」論はカントと同様に外的な結びつきでしかない。またスペンサー流の競争をもとにした帝国主義の革命化論(ハイエクの「新自由主義」にまでつながっているのであるが)。あるいは中国(当時の支那)革命論、満州進出論と対ソ連防衛論、また「排満興漢」論−北は一方では元のオゴタイ・カン(太宗)を評価しながら、こういう逆の発想もしている、また、一方でアメリカを「正義の代弁者」の如く評価しながら、他方で反米の立場をも打ち出している、など。これらの議論はいずれも外部からの政治領域での問題提起(政治戦略上の問題−政治主義、ご都合主義)となっている。例えば、北の「乱臣賊子」論には底辺の民衆が出てこない。せいぜいが、天皇と他の豪族や武家の統領、そしてその家臣の関係だけが問題にされているにすぎない。社会の下部構造を形成する人々の動きは全く見えない。北らの運動に比べてナチ運動の怖さは、それが一定の「社会革命」へと展開されていた点にあった。
再び、先の山口定の著書からの引用を以てひとまずこの稿を終えたい。
「1965.西ドイツの社会学者R.ダーレンドルフ『ドイツにおける社会と民主主義』−この著書の中の「ナチス支配下のドイツと社会革命」という章で、ナチスの支配が、少なくともその意図せざる効果として、ドイツ社会における「近代化」を大きく推進する役割を果たした「社会革命」であった(「ダーレンドルフ・テーゼ」)。」
「要するにナチズムが、(1)その全体主義権力の力によって、それまでの地域社会、政治団体、家族、教会、大学に対するドイツ人の伝統的な忠誠心を破壊し、(2)その大衆運動を通じて下層社会の出身者を大量にエリートの座に押し上げることによって、それまでのドイツ社会における「社会的流動性」の欠如した「前近代的」なあり方を大きく破壊した、というもの。」
「これらの一連の「近代化」論の立場からするファシズム論は、一面で、その国の「近代化」の巨視的な歴史的展開の中でファシズムがどのような役割を果たし、またどのような歴史的位置を占めたのかという問題を、これまでの性急な論難の姿勢には一歩距離を置いたところから冷静に考えてみようとする点でプラスの側面をもっていることは否定できない。しかし、他面では、そこでいう「近代化」の概念の多義性のゆえに、さまざまの問題を孕んでもいるのである。この「近代化」の概念の多義性は、実は、それぞれの国の歴史的発展の特殊性が各国の社会科学者や歴史家の基本概念の中に入りこんだ結果なのである。
 
北一輝 3

 

かっての諸世代とぼくらの世代のあいだには、ひそかな約束があり、ぼくらはかれらの期待をになって、この地上に出てきたのだ。   ベンヤミン
第一章 純粋北一輝の概念
この試論はその人生のすべての期間を革命家として生きた北一輝(一八八三〜一九三七)の革命精神に注目し、その思想の全般的な解明の端緒を見い出さんと試みるものである。純粋北一輝の発見乃至創造がここでの課題である。純粋北一輝という言葉の意味については、竹内好が『毛沢東評伝』の中で〈純粋毛沢東〉に与えた定義を援用したものであることを断っておく。毛沢東は井岡山で根拠地を建設したが、この根拠地を毛沢東は中国の全域に拡張した。その意味で井岡山時代に〈純粋毛沢東〉が成立したと竹内好は考える。
「井岡山は、中華人民共和国の発祥の聖地と称しうる。ここで行われた実験が核になって、その周囲に肉づけされたものが今日の巨大な建設である。したがって、一切のものは遡れば井岡山に行きつくはずであり、危機に際して新しいエネルギイ源として省られるものも井生岡山である。そして井岡山の人格を代表するのが毛沢東である。」(竹内好『毛沢東評伝』1950年)
〈純粋毛沢東〉というのはユニークだが危うい概念だ。竹内好の弱点を象徴する概念と言ってもいいかと思う。なぜならば、もし成功した革命家毛沢東の人格の確立が井岡山にあるとするならば、文化大革命の混乱と破壊の原因もその淵源は毛沢東の人格そのものにあり、もしそうであるならば〈純粋毛沢東〉は中国の社会主義建設の理念であると同時にその破壊を担保する理論でもありうるということになるからだ。〈純粋毛沢東〉は歴史的現在の中国においてはどのような評価が可能であろうか。それはおのずから別個の問題である。
〈純粋毛沢東〉という概念が成立すると同様の意味合いにおいて私は純粋北一輝という概念も成立しうると考える。北一輝の思想と行動のすべてをそこから演繹できるような概念としての〈純粋北一輝〉。このような概念を発見しようと試みるのがここで私に与えられた課題である。しかし北一輝は毛沢東とは違って成功しなかった革命家である。今のところは成功していないだけであると大急ぎで付け加えておかなければならないのだが。北一輝の人生は挫折と失敗の繰り返しであった。そして北一輝のめざした革命は最終的に完全な敗北に終わったのである。失敗した革命家に我々が注目すべき理由などあるのだろうか? それはある。歴史の天使は廃墟をこそ凝視するのであるからだ。今はそれだけを述べて先に進むことにしよう。純粋北一輝はいついかなる形で成立したのか?
第二章 北一輝とは何者か
北一輝の名前はふつう二・二六事件との関連で語られることが多い。そこでまず高校の歴史教科書で北一輝がどのように記載されているか確認しておこう。
「1936(昭和11)年2月26日早朝、北一輝の思想的影響を受けていた皇道派の一部青年将校たちが、約1400名の兵を率いて首相官邸・警視庁などを襲い、斎藤実内大臣・高橋是清蔵相・渡辺錠太郎教育総監らを殺害し、国会を含む国政の心臓部を4日間にわたって占拠した。首都には戒厳令が布告された。このクーデタは、国家改造・軍部政権樹立をめざしたが、天皇が厳罰を支持したこともあり、反乱軍として鎮圧された。」(山川出版社2017年版『詳説日本史』)。同教科書の北一輝の名前には註釈が付いていて、「右翼の理論的指導者で、天皇と軍隊を中核とする国家改造方針について論じた『日本改造法案大綱』(1923年刊)は、右翼運動家のバイブルとなっていた」との説明がある。
歴史とは事件の連なりではあるが、歴史を創るのは人間である。この記事だけでは北一輝がどんな人物であったかは判然としない。人物はエピソードによってこそ上手く伝わると云われる。「純粋北一輝」の像を抽出するという本稿の趣旨と少し外れるのであるが、外堀から埋めるという意味合いにおいて、北にまつわる若干のエピソードを掘り起こしてみたい。因みにエピソードとは、ある人についてあまり知られていない興味ある話という意味である。逸話と同義。
エピソード1 北一輝に「魔王」という称号を奉った大川周明の証言。文中の渡邊氏とは経済と宗教との帰一を標榜する事業団体「天華洋行」の主宰者渡邊薫義。
「そのうち北君の方から、国家革新の必要を渡邊氏に説き初めた。話を進めていった北君が『あなたは非常に博学のやうでありますから無論ホジソン教授の有名な博物学をお読みになったでせう。ホジソンのナチュラル・ヒストリーをお読みになりましたネ』と訊ねた。渡邊氏は『勿論読んだ』と答へた。そして北君が『あの本の中に颱風の効能を述べて居りますが、御記憶でせうネ。ホジソンによると、蜘蛛の繁殖力は実に物凄いもので、若し時々の颱風が無ければ、全地の草木は蜘蛛の巣に包まれて枯れてしまひ、地上から緑の色が影を潜めるだろうと書いてありますネ。そうでせう?』と駄目を押すと渡邊氏は『其通り』と答へた。北君は革命を颱風に例えてその必要を説くのである。
それから話題は他の問題に移ったが、対談二時間の後に我々は辞去した。外に出てから私は北君に向い、『君は御経ばかり読んで本など手にしたのを見たこともないが、いつのまにホジソンのナチュラル・ヒストリーを読んだのか』と訊ねた。すると北君は平然として、『そんな本は僕も知らんよ』と答へた。私は其の洒々然たる態度に、今に始めぬことながら、さても驚き入った魔王であると感嘆した。」(大川周明「二人の法華経行者――石原莞爾将軍と北一輝君」『改造』1951年)
魔王と云うのは大川が北に付けた綽名であって、大川が真剣に北のことを語る場合には「仏魔一如」という言い方をしていることに注意すべきであろう。
エピソード2 北一輝夫人の回想録より。文中の譚老人とは辛亥革命の指導者譚人鳳。
「ところが、ある時のことです。譚老人は、形をあらため語を正しくして北に云うには、『中国革命ようやく成ると雖も前途はなお容易ではない。遠き東洋の将来のことを考えると、日華両国は必ず相援くる共存共栄の道を歩む以外に道はない。しかもこの一事は、かかって貴下と私との責任にある。だから貴下と私は二人であって二人でない。一躰のものである』と、前提し、『もしこの前提に誤りなくんば』と、語をつぎ、『どうか孫瀛生を貰ってくれ(瀛生の母は産褥熱で死亡していたー引用者註)。瀛生を貴下に託す。その理由は故なきではない。このことはどうにも私事のように聴こえるかもしれぬけれど、自分としては、貴下が、これを掬育し他日有用の材としてくれるならば、われ歿後、百年の後といえども、われわれは彼れに我が志を継がしむることが出来るではないか。だから、日華両国のため、東洋永遠の和平のために彼を掬育してくれ』言々句々誠意披露されて述べられたのです、北もまたそれに感激快諾したとのことですが、この時瀛生わづかに一年二カ月、しかも病弱のため骨と皮ばかりに痩せ衰えこの世のものとは思えませんでした。私は瀛生を一目みるや思わず、帯を解き肌を拡げて走りよって譚老人の手より奪いとるようにして私の肌に抱きしめたことを覚えていますが、そんな衝動に駆られるというのも、私が北と全くの同身一体になっていたからではないでしょうか。」(北鈴子「ありし日の夫・北一輝」『女性改造』昭和二五年二月号)
興味深いエピソードは他にも多いのだが逸話の紹介はこの二件だけにしておく。才能は個性を造るが個性を示す逸話をいくら積み上げても才能には到達しない。北一輝の天才こそ我々の関心事でなければならない。
第三章 佐渡の青年思想家
北一輝は佐渡の出身である。北が生まれる時代よりはるか遠き元禄二年七月七日松尾芭蕉は新潟県直江津で興行された俳諧の席に連なって次の発句を詠んだ。
荒海や佐渡によこたふ天河 芭蕉
これは佐渡に対する神聖な挨拶であろう。ハイデッガーはヘルダーリン講義の中で言葉としての挨拶について次のように述べている。
「神聖な挨拶とは、挨拶されているものに対して、そのものに当然帰せられるべき本質の高さを約する語りかけであり、かくしてこの挨拶されたものをその本質の高貴よりして承認すると共に、この承認を通して、その挨拶されたものをそのあるところのもので有らしめる、そのような語りかけである。」(ハイデッガー全集第53巻 ヘルダーリンの讃歌『イスター』 三木正之・エルマー・ヴァインマイアー訳)
時は流れて二十世紀、もう一人の人物が佐渡への神聖な挨拶を反復する。その挨拶は佐渡から新人が出現することを期待するものであった。その期待に応えて登場したのが北一輝である。図らずも北一輝に呼び出しを掛ける役割を果たしたのは内村鑑三であった。以下に引用するのは明治34年(1901年)1月1日の『佐渡新聞』「佐渡の新天地」と題する署名内村鑑三の記事である。なおこれは全文である。
「年は改まれり、世紀は革まれり、然れども人心は改まりし乎、政治、殖産、商業の改まざるを嘆くを休めよ、そは是れ枝葉問題なればなり、佐渡の孤島に一大道徳風を吹かしめよ、北海の波上に一聖・・・人国を起こらしめよ、黄金を日本国に供する佐渡は、之に黄金の思想をも供せよ、昔時は地中海の極東パトモスの孤島に聖ヨハネは一つの理想国を夢み、之を黙示録に載せて後世に伝えしより、幾多の政治的大試験は行われて人類の進歩に多大の致動力を加えたり、知らず金剛山の麓、加茂湖の辺は此の大理想を夢むるに適せざる乎を、余の佐渡人士に望む所のものは之より以下のものにあらず、第二十世紀始 東京市外角筈村に於て 内村鑑三」
内村鑑三の挑発に応えて北一輝の天才は開花した。挑発に応えたという言い方は誤解を招くかもしれない。内村鑑三は明治という時代にあってその高き理想を掲げて日本人を道徳的に高めようとした偉才である。彼の理想は明治という時代に深く刻印されている。内村の著書『代表的日本人』が初めて刊行されたのは日清戦争が戦われた直後だった。栄光の明治の息吹を今に伝える書物である。内村の理想に触発されて日露戦争後の日本の取るべき進路を深く考量し二十世紀日本の原哲学≠北は構築した。内村の挑戦の言葉に敢然と応じて立った者が佐渡の青年北一輝だったのである。
「北の思想の展開過程は、日露戦争から太平洋戦争までの日本人の大部分のまじめな思想過程の原哲学≠ナある。だから北の思想を現在の地点で読み直すことは、明治末期以後の日本人のエートス、問題意識、思考態度を、思想のトップレベルではっきりと意識化することを意味している。」(久野収「超国家主義の一原型」『近代日本思想史講座4知識人の生成と役割』筑摩書房、一九五九年九月)
『佐渡新聞』が創刊されたのは明治三十年九月、北が佐渡中学に入学した年であった。「日本のヨハネ」たらんとする北一輝の努力は実を結んだ。この『佐渡新聞』を舞台に天才思想家北一輝のデビューは果たされたのである。革命思想家北一輝の思想成熟の過程は、明治三十四年十一月二十一日の「人道の大義」という論文を皮切りに、明治三十八年十月二十一日の「社会主義の啓蒙時代」へと至る、『佐渡新聞』に掲載された約二十篇の論文詩歌等を跡づけることによって検証が可能である。北一輝初期作品の分析に関しては松本健一『若き北一輝』(1971年)が詳しい。なお北一輝初期作品は『北一輝著作集 第三巻』(筑摩書房1972年)にすべて収録されている。
第四章 島の伝説と森の伝説
日露戦争後に現れた日本の知識人の中で北一輝と大江健三郎はその突出した天才性に於いて双璧をなす。同じく天才性を有すると言っても両者の違いもはなはだ大きい。北一輝は二十三歳で『国体論及び純正社会主義』を書き上げた早熟の天才であるのに対し、大江健三郎はひたむきに努力を重ね晩年になってようやく大作家に成長した。ウサギと亀の競争のような対称性がある。北一輝は革命家としては挫折したが、大江健三郎はノーベル文学賞を受賞した(1994年)社会的な成功者である。しかし大江の作家としての真の進化はノーベル賞受賞以後の晩年の作品群の中にこそ見ることができる。大江の『取り替え子(チェンジリング)』(2000年)以降の作品群はその深みと濃度によって、北一輝の思想の濃度に並び立つレベルに到達したと私は考えている。両者の共通点について述べるならば、生まれ育った郷土の伝説に心底から捕えられたその徹底性にある。大江と北を対比的に考察するのが有効なのは、両者に於いて「伝説」に対して真摯に向き合ったその姿勢において共通性が認められるからである。伝説の意義について松本健一は次のように語っている。
「伝説というものが、その土地にすむ人びとの共同的な虚構であるかぎり、その土地に生まれる子孫たちにとっては、それが一種独特な迫真性をもって受けつがれることは間違いない。つまりこの迫真性とは、伝説のもとになる事実があったことによって生ずるものではなく、伝説じたいが存在することによって生ずるものなのである。」(松本健一「北一輝初発の動力」『思想としての右翼』1976年)
グーグルアースを起動して「愛媛県 大瀬中学校」で検索すると、大江の生まれ育った谷間の村に直行する。次いで「佐渡 北一輝」と打つと北一輝の墓がある勝広寺青山墓地へと一瞬で下降する。グーグルアースに現前するこの四国の森と佐渡ヶ島の幻郷の差異が大江と北の個性の違いを育てた背景にある。そこに視覚像として現前するのは森の伝説と島の伝説の本源的な差異である。
「私は佐渡に生れまして、少年の当時、何回となく順徳帝の御陵や日野資朝の墓や熊若丸の事跡などを見せられて参りまして、承久の時の悲劇が非常に深く少年の頭に刻み込れました。」(昭和十一年四月十七日「憲兵隊調書 第七回聴取書」『北一輝著作集第三巻』)
「おれの話すことに、語呂あわせじみた部分が多くまぎれこむのは、おれの幼年時代の記憶がほとんどすべて、谷間の口承の伝説に影響されているからなんだ。森にかこまれた谷間では、内部の情報をたがいにマリ投げみたいにいじくりまわしているうちに結局なんでもかでも、新しい伝説にしあげてしまう。しかもそれを口承伝説として語り伝える、唯一の修辞学的技巧が、つまらぬ語呂合わせなのさ。」(大江健三郎『みずから我が涙をぬぐいたまう日』1972年)
空間的差異に併せて時代的な差異の観点も重要である。北は佐渡に於いて日露戦争勝利の報を聞き、大江は森の中の谷間で大日本帝国の敗戦に直面した。大日本帝国最大の勝利と最後の大敗北。北一輝の思想と大江健三郎の文学の間にはこの時代的差異が深く刻印されている。これらの空間的及び時間的差異を構造的にトータルに把握することによって、北一輝と大江健三郎の本質が抽出されるであろうという直観がまず先にあった。最終的に、ここでは北一輝についての論を立てることになったのであるけれども、初発のアイデアとして「島の伝説と森の伝説」の構図が私にあったことを一言申し述べておく。
「松山東高校へ転校するならば、一応は思いどおりの大学へ入れるのじゃないか? それならばここで覚悟をきめて、歴史学をやるつもりになってもらいたいと思う。もちろん、大日本帝国→日本国の歴史学をやれというのじゃないよ。こんな若僧にも、戦争前後の歴史学の大転換は滑稽に見えるからね。自分としては具体的かつ積極的に、この方向へとKちゃんをみちびくことはできないが、この間歴史学の世界で行われた大転換を見ていると、また次の、第三の道がありそうな気がするんだね。しかもそれはどこかで、Kちゃんや自分が年寄りに話してきかせられた、森のなかの土地の昔語りと結びつくような予感がするんだ・・・・・・」(大江健三郎『懐かしい年への手紙』1987年)
「そもそも自分は、夢あるいは物語を語ることのみを「人生の習慣」として、このように年老いるまで生きてきた者ではないか?」(大江健三郎『憂い顔の童子』2002年)
大江健三郎は自らの宿命を生きた。自らの宿命を生き抜くことによって大江は晩年に至って驚異的なまでの大作家へと成長したのである。北一輝も又みずからの宿命を生き抜いた点において大江と同型であった。
第五章 北学の構造
北学とは歴史家の服部之総が北一輝の明治維新史観を評価する際に使った言葉である。北一輝は『支那革命外史』においてフランス革命・辛亥革命・明治維新の三つの革命を縦横無尽に対比し絢爛たる筆致で分析を行っている。服部は講座派の立場から明治維新はブルジョア革命ではなくその前段階の絶対主義であったという学説を保持していた。明治維新はブルジョア革命であったとする労農派の学説を批判する目論見を持って、北一輝の学説を紹介した。その紹介の際に「北学」という言葉を使った。服部によればまさしく「北学」なるものが存在するのである
《「維新革命」はフランス革命のそれと、また眼前に進行中の支那革命のそれと、まさに「同一なる自由主義の基礎に立つ「近代革命」であったとする主張こそ、北一輝をして原敬をはるかに抜いて独自の政論家たらしめるものであるとともに、彼をして後代の無数の孫悟空にたいする大釈尊たらしめるものでもある。》(服部之総「北一輝の維新史観」)
しかし北一輝の学問は維新革命に対する評価だけに限定されるものではなく、人類の進化という現象に関する根本的な評価を含む。そのような意味合いを含めて「北学」の内容とは何であるのか。それを一文で答えよという設問がなされるならば、北の次の一行がその回答になっていると私は考える。
「理想とは来たるべき高き現実なり。進化とは理想実現の連続なり。」(北一輝『国体論及び純正社会主義』第八章。以後、同書の引用は『国体論』と略記する)。
ではその理想はいかにして実現されるのか。この点に関する北の推論は明解である。人類進化の階梯を北は彼の頭脳の中で完璧に描き切っていた。天才の天才たる由縁は脳内現象がその外部の現実と完全一致する奇跡として存在する。北学の真髄は次の言葉にある。
「個人の権威の為には如何なる多数を以ても敵として敢然たるべしとの自由主義は、誠に社会が君主国時代よりの理想として掲げたる所のものなり。社会主義が社会進化の理法に背きて嗚号さるる時に、思想界乱矢を蒙りて戦死し実際に於ては暴民の動乱として忽ち沈圧せらる。社会の一分子が金冠の下に爛々たる眼を光らして社会の大多数を威圧したるの時は、是れ個人の権威は絶対無限なるべしとの理想が先づ社会の一分子によりて実行せられたるの時なり。社会の進化は下層階級が上層を理想として到達せんとする模倣による。(タルドの模倣説は倫理学に於て同一の説明をなして合致せる者ある如く凡て当れり)。」而して模倣の結果はタルドの言へる如く平等なり。群雄諸侯なる君主等は平等観を血ぬられたる刃に掲げて君主と同一なる個人の絶対的自由を得んことを模倣し始めたり。其の最高権威たる天下を取らんとの理想は富の為めに非ず名の為めに非ず、自己の自由を妨ぐる凡ての者を抑圧して個人の権威を主張せんが為めのみ!(北一輝『自筆修正版 国体論及び純正社会主義』第八章。自筆修正版『国体論』は『増補新版 北一輝思想集成』書肆心水2015年刊に収録されている)。
タルドの名前が出てくるのは北の著作中でただこの一ヶ所だけである。タルドの模倣説を自家薬籠中のものとし、日本の歴史に理想が如何に獲得されていったか。その理想の進化の様相を探索し、日本社会の進化の歴史を科学的に解明するところまで展開し著述を行ったのはやはり北の功績であり彼の天才に負う所業であるとしか他に言いようがない。人類社会の進化を促すあるもの、社会的進化の内在律、それは何なのか。北はそれをタルドの理論を踏まえつつ「理想の模倣」の一語で北は総括したのである。(ガブリエル・タルド『模倣の法則』河出書房新社2007年参照)。
「狼の社会に養はれたる人の怪物の子が獣類の歩行を模倣して半獣半人の怪物となりしが如く、吾人は人類社会に養はれて父母の歩行を模倣するが故に人類の形を得るなり。古来より人は理想を有する者なりと云い、傾向の生物なりと云へるが如く、今日の科学的研究も人は模倣性を有することを以て確定せられたる事実とせり。斯の模倣性の為に吾人は母の膝に抱かれたる時より善の如き唇を動かして母と同一なる発音を為さんには如何にすべきかを考えつつあるが如き眺めを以て唇の運動を模倣しつつあり。而して其の辛ふじて発音し得るに至りては其の発音中に如何なる意味が含まるるかも考えへずして発音と共に発音の中に含まるる思想その者を善悪の取捨なくして模倣す。・・・斯く模倣の対象は始めはその父母、家庭、近隣等にして漸次に学校となり、社会となり、書籍となり、古今の人物となり、世界の思想となる。而して是等先在の理想にして尚足らずとせられ更に一層の高き対象を求むるに至るや、茲に其の已に模倣して得たる先在の材料を基礎として、各個人の特質を以て更に高き者を内心に構造し、構造せられたる理想を模倣することによりて到達を努力す。此の特質と其の構造せられたるものの高貴偉大なる者が即ち英雄なり。」(北一輝『国体論』第四章)
北一輝のすべての発想の根源にあるのは「進化」という考え方であった。この「進化」はダーウィンの進化論に触発されたものであるのは勿論だが、北の場合に於いてはそれが生物種としての人類の社会的進化の原動力は何なのかという問いの形で再提起される。人類の進化を促す根本原理を問うという形で思考が展開されていくのが北の推論の特徴としてあった。北一輝の学問の中身は社会進化論と既存の国体論批判の二つの柱を持っている。北の国体論、その内実はどのようなものであったか。日本の国体は永遠不変のものではない、国体論者は誤ってそのような主張をするのだが、実は日本の国体は三段階に「進化」したのだと北は説く。
「日本の国体は三段の進化をなせるをもって天皇の意義又三段の進化をなせり。第一期は藤原氏より平氏の過度期に至る専制君主国時代なり。此間理論上天皇は凡ての土地と人民とを私有財産として所有し生殺与奪の権を有したり。第二期は源氏より徳川氏に至るまでの貴族国時代なり。此間は各地の群雄又は諸侯が各其範囲に於ておいて土地と人氏とを私有し其上に君臨したる幾多の小国家小君主として交戦し聯盟したるものなり。従て天皇は第一期の意義に代ふるに、此等小君主の盟主たる幕府に光栄を加冠するローマ法王として、国民信仰の伝統的中心としての意義を以てしたり。此の進化は欧洲中世史の諸侯国神聖皇帝ローマ法王と符節を合する如し。第三期は武士と人民との人格的覚醒により各その君主たる将軍又は諸侯の私有より解放されんとしたる維新革命に始まれる民主国時代なり。此の時よりの天皇は純然たる政治的中心の意義を有し、この国民運動の指揮者たりし以来現代民主国の総代表として国家を代表する者なり。即ち維新革命以来の日本は天皇を政治的中心としたる近代的民主国なり。」(北一輝『日本改造法案大綱』)
北は進化論が社会科学を含むすべての科学の根底にあるべきだと考えた。社会は進化する。しからばその進化をもたらす原動力、内的要因は何であるかが問題となる。北はどのようにしてこの問題を解いたか? 社会の進化は理想の模倣によってもたらされる。これが北の結論であった。
しかし北一輝の掲げる進化学説の究極の課題は、ただに日本の国内政治の改造にあるのみではなかった。世界史の現況を大観し、人類の理想の進化を図るには、日本はいかに行動すべきか。隣国中国の革命に対して如何に関わるべきかを北一輝は考察し、その考察に導かれるがままに実践した。北一輝の理論と実践は合致しており一点の齟齬もなかった。
「太陽に向って矢を番ふ者は日本其者と雖も天の許さゞるところなり。日本は天地の正義に従ひて始めて太陽旗に守護せらるべきのみ。」「言ふ所の者は匹夫一輝なり。彼奴をして言はしむる者は天なり」(北一輝『志那革命外史』)
北は自らを匹夫と称する。北は一民間人、草莽の資格に於いて語ることを願っているのだ。しかしその語る言葉は「天の声」であるとも北は告げる。天地の正義に従え、天地の正義に逆らうもの、太陽に向かって矢を番うものは、日本そのものといえども許さないのだと北は語る。北一輝のこの立言は西郷隆盛の「敬天愛人」の理念にまっすぐに連なるものである。
 
相沢事件 1

 

1935年(昭和10年)8月12日に、皇道派青年将校に共感する相沢三郎陸軍歩兵中佐(陸軍士官学校第22期、以降「陸士」と略す)が、統制派の軍務局長永田鉄山少将(陸士第16期首席、陸軍大学校第23期恩賜)を、陸軍省において白昼斬殺した事件である。被害者側の名前から、永田事件、永田斬殺事件とも言う。
統制派が皇道派を追放しようとしたことに反発し(村中孝次歩兵大尉(陸士第37期)、磯部浅一一等主計(陸士第38期)の停職に憤激したことが動機であり、その後の二・二六事件に繋がった出来事の一つである。
概要​
1931年に三月事件、満州事変、十月事件が起こり、日本陸軍においては国家総力戦を戦い抜くため、統制経済による高度国防国家への国家改造を目指す統制派が革新派の青年将校や皇道派と対立し、1934年11月の士官学校事件、1935年7月の皇道派の教育総監真崎甚三郎大将(陸士第9期、陸大第19期恩賜)の更迭により、反対派を一掃しようとした。陸軍大臣林銑十郎大将(陸士第8期、陸大第17期)から辞職勧告を通告されると、真崎は「これは真崎一人の問題ではなく陸軍の人事の根本を破壊するものだから承知できん」と反論した。皇道派の将校らは林大臣の行動を統帥権干犯と非難した。
1934年(昭和9年)12月31日の夜、士官学校事件の背後に永田鉄山がいると判断した相沢は、「こんど上京を機に永田鉄山を斬ろうと思うがどうか」と大岸頼好歩兵大尉に相談したが、大岸が反対し断念した。
1935年(昭和10年)6月、林陸相と永田軍務局長の満洲・朝鮮への視察旅行中、磯部浅一、村中孝次、河野壽は永田を暗殺しようとした。
義憤を感じたとされる相沢は、総監更迭の事情を確かめようと、1935年7月18日に上京。翌19日陸軍省軍務局長室において永田少将と面談し、辞職を勧告して一旦帰隊した。
相沢は真崎の更迭に際して配布された「教育総監更迭事件要点」や「軍閥重臣閥の大逆不逞」と題する怪文書を読み、教育総監更迭の「真相」を知って統帥権干犯を確信した。また「粛軍に関する意見書」を読み、磯部浅一、村中孝次の免官(8月2日付)を知ると、このままでは皇道派青年将校たちが部隊を動かして決起し、国軍は破滅すると考え、元凶を処置することによって国家の危機を脱しなければならないと決意した。
台湾転任を前に、8月11日に上京。途中、伊勢神宮と明治神宮に参拝して、「もし、私の考えていることが正しいなら成功させて下さい。悪かったならば不成功に終わらせて下さい」と、祈願したという。
永田鉄山暗殺​
8月12日午前9時30分頃陸軍省に到り、相沢が一番尊敬していた整備局長山岡重厚中将(陸士第15期、陸大第24期)を訪ね、談話中に給仕を通して永田少将の在室を確かめた後、午前9時45分頃、軍務局長室に闖入して直ちに軍刀を抜いて永田に切りかかり、次いで刺突を加えて殺害した。
決行後整備局長室に戻って「永田に天誅を加えた」と告げた。山岡は予想外の表情をしたが、永田を刺突した際に刀身を持ったため出血している左手をハンカチで縛り、たまたま来室していた大尉に医務室へ案内させた。途中、永田局長の一の子分といわれた新聞班長根本博大佐(陸士第23期、陸大第34期)が駆け寄ってきて、黙って固い握手を交わした。また、調査部長山下奉文少将(陸士第18期、陸大第28期恩賜)が背後から「落ち着け落ち着け静かにせにゃいかんぞ」と声をかけた。こうした陸軍省内の様子を見て「ありがたい、維新ができた」と内心感激した。
事件を受けて、綱紀粛正のため陸軍省では9月から10月にかけて首脳部の交代が行われた。林銑十郎陸相、橋本虎之助陸軍次官、橋本群軍務課長は退任し、川島義之陸相、古荘幹郎陸軍次官、今井清軍務局長、村上啓作軍務課長の布陣となった。
第1師団軍法会議による公開裁判が行われ、1936年(昭和11年)1月28日第1回公判が開始された。裁判長は判士、陸軍少将第一旅団長の佐藤正三郎、検察官は法務官の島田朋三郎、弁護人は弁護士、法学博士の鵜沢総明、特別弁護人、陸軍歩兵中佐の満井佐吉であった。公判は、問題が教育総監更迭に関し、勅裁を受けている大正2年の省部規定を蹂躙した軍首脳部の行動が統帥権干犯となるや否やに絞られ、林陸相の行動が統帥権干犯となるか、林陸相にあえてそれを行わせた永田軍務局長に陰謀の事実があったかどうかが、事件の焦点となった。
軍法会議は2月12日の第6回公判において、陸軍次官の橋本虎之助中将を、2月17日には陸軍大臣の林銑十郎大将を、2月25日には前教育総監の真崎甚三郎大将を証人として喚問し、軍機保持上公開を禁止した。しかし、三証人とも、職務として関与したものであるから勅許をまたずしては証言できない、と肝心の点については証言を拒否した。
鵜沢、満井両弁護人は勅許を仰いで真崎大将を再喚問するよう申請するとともに、斎藤実内府、池田成彬、木戸幸一、井上三郎、唐沢俊樹警保局長、下園佐吉(牧野前内府秘書)、太田亥十二を証人喚問することを申請した。
軍法会議は勅許奏請の手続きを執らなければならない段階となり、軍中央部も反対することはできなくなった。ところが2月26日払暁に二・二六事件が勃発した。
二・二六事件により一時中断されたが、4月22日に第11回公判を再開した。裁判長は判士、陸軍少将の内藤正一に変更され、裁判官も変更があった。また、弁護人も菅原裕弁護士と角岡知良弁護士に変更となった。裁判長は公開停止を宣言し、一般公衆の退廷を命じた。5月1日の第14回公判終了まで非公開のままで、証拠申請はことごとく却下された。
同年5月7日死刑の判決が言い渡された。翌8日に上告したが、6月30日上告棄却が言い渡され、死刑判決が確定した。1審、2審とも判決内容が事前に漏れていた。
同年7月3日午前5時、東京衛戍刑務所内において、判決謄本の送達さえ行われず、弁護人の立ち会いも許されず、銃殺刑は執行された。
鷺宮の相沢家では供養が行われた。夜になって荒木大将が弔問した。7月5日、真崎大将が弔問した。寺内陸相は花輪を供えようとしたが、側近に遮られたという。
なお、事件発生時は永田は軍務局長室で陸軍内部の綱紀粛正(過激さを増していた皇道派の青年将校に対する抑制策)に関する打ち合わせを行っており、兵務課長・山田長三郎大佐と東京憲兵隊長・新見英夫大佐が在室していた。新見大佐は怪文書について報告しており、軍務局長の机の上には、「粛軍に関する意見書」が開かれていた。相沢の襲撃に気づいた新見大佐は、永田をかばって相沢に斬りつけられ、重傷を負ったが、山田大佐は局長室から姿を消していた。この事情について山田大佐は事件後、「自分の軍刀を取りに兵務課長室へ走って戻り、軍刀を持って局長室にとって返した時には局長は殺害され、相沢は立ち去った後だった」と弁明したが、軍内部及び世間から「上官を見捨てて逃げ去った軍人にあるまじき卑怯な振る舞い」と批判され、さらには相沢と通じていたのではないかという噂までささやかれるに至った(新見大佐が相沢中佐の入室発見が遅れた理由については、戦後、新見大佐の治療にあたった長田眼科の長田昇医師が視野狭窄について証言している。(岩田礼著「軍務局長斬殺」) また、NHK「歴史への招待」(永田軍務局長斬殺 昭和10年・1981年6月27日放映)でも長田医師本人が出演し証言している。)
新見大佐は当初、誘導尋問のような事情聴取で山田大佐の在室を証言をしたが、しばらくして山田大佐の在室については確認していないと証言を訂正している。山田大佐は事件から約2ヶ月後の10月5日に「不徳の致すところ」という遺書を残し、自宅で自決した。
永田が殺されたとき大川周明は「小磯がバカだからこんなことになった。あの書類さえ始末しておけば永田は殺されずにすんだものを……」と嘆息したという。
社会民衆党の亀井貫一郎は、「永田の在世中、議会、政党、軍、政府の間で、合法あるいは非合法による近衛擁立運動についての覚書が作成され、軍内の味方はカウンター・クーデターを考えていた。だから右翼は右翼でクーデターを考えてもよい。どっちのクーデターが来ても近衛を押し出そうと、ここまで考えていたということが永田が殺された原因のひとつ」ということを述べている。  
 
相沢事件 2

 

相沢事件
相沢事件は、1935年(昭和10年)8月12日に、皇道派青年将校に共感する相沢三郎陸軍中佐が、統制派の永田鉄山軍務局長を、陸軍省において白昼斬殺した事件である。被害者側の名前から、永田事件、永田斬殺事件とも言う。
統制派による皇道派追放への反発(磯部浅一と村中孝次の停職に憤激)が動機であり、その後の二・二六事件に繋がった出来事の一つである。
相沢三郎
相沢 三郎(あいざわ さぶろう、1889年(明治22年)9月6日 - 1936年(昭和11年)7月3日)は、日本の陸軍軍人。皇道派に属した相沢は、真崎甚三郎教育総監更迭に憤激し1935年8月12日に統制派の永田鉄山軍務局長を殺害した(相沢事件)。剣道四段・銃剣道の達人であり、陸軍戸山学校の剣術教官を務めた。相沢事件において永田軍務局長に切りかかった際に、右手で持った軍刀の斬撃だけでは致命傷を与えることができず、とっさに左手で刀身を握って、銃剣付き小銃を両手で構えるような体勢を取り、永田を刺殺した。左手の傷はこの際にできた。
少尉時代には仙台の輪王寺に下宿して、無外禅師の教えを受け、三年間禅生活を送った。
相沢事件の概要
1931年に三月事件、満州事変、十月事件が起こり、日本陸軍においては国家総力戦を戦い抜くため、統制経済による高度国防国家への国家改造を目指す統制派が革新派の青年将校や皇道派と対立し、1934年11月の士官学校事件、1935年7月の皇道派の真崎甚三郎教育総監の更迭により、反対派を一掃しようとした。林銑十郎陸軍大臣から辞職勧告を通告されると、真崎は「これは真崎一人の問題ではなく陸軍の人事の根本を破壊するものだから承知できん」と反論した。皇道派の将校らは林大臣の行動を統帥権干犯と非難した。
1934年(昭和9年)12月31日の夜、士官学校事件の背後に永田鉄山がいると判断した相沢は、「こんど上京を機に永田鉄山を斬ろうと思うがどうか」と大岸頼好大尉に相談したが、大岸が反対し断念した。
陸軍士官学校事件
陸軍士官学校事件(りくぐんしかんがっこうじけん)は、1934年(昭和9年)に日本陸軍の陸軍士官学校を舞台として発生したクーデター未遂事件。磯部浅一、村中孝次ら皇道派青年将校と陸軍士官学校生徒らが重臣、元老を襲撃する計画だったが、情報漏洩により主なメンバーが憲兵に逮捕され未遂に終わった。関与した青年将校たちは2年後の二・二六事件で中心メンバーとなった。
統制派と皇道派の対立を背景としたでっち上げであるとの説もある。十一月事件、十一月二十日事件とも言われる。
義憤を感じたとされる相沢は、総監更迭の事情を確かめようと、1935年7月18日に上京。翌19日陸軍省軍務局長室において永田少将と面談し、辞職を勧告して一旦帰隊した。
相沢は真崎の更迭に際して配布された「教育総監更迭事件要点」や「軍閥重臣閥の大逆不逞」と題する怪文書を読み、教育総監更迭の「真相」を知って統帥権干犯を確信した。また「粛軍に関する意見書」を読み、磯部浅一、村中孝次の免官(8月2日付)を知ると、このままでは皇道派青年将校たちが部隊を動かして決起し、国軍は破滅すると考え、元凶を処置することによって国家の危機を脱しなければならないと決意した。
台湾転任を前に、8月11日に上京。途中、伊勢神宮と明治神宮に参拝して、「もし、私の考えていることが正しいなら成功させて下さい。悪かったならば不成功に終わらせて下さい」と、祈願したという。
相澤中佐永田鉄山を斬る
8月12日午前9時30分頃陸軍省に到り、相沢が一番尊敬していた山岡重厚整備局長を訪ね、談話中に給仕を通して永田少将の在室を確かめた後、午前9時45分頃、軍務局長室に闖入して直ちに軍刀を抜いて永田に切りかかり、次いで刺突を加えて殺害した。
決行後整備局長室に戻って「永田に天誅を加えた」と告げた。山岡は予想外の表情をしたが、永田を刺突した際に刀身を持ったため出血している左手をハンカチで縛り、たまたま来室していた大尉に医務室へ案内させた。途中、永田局長の一の子分といわれた新聞班長の根本博大佐が駆け寄ってきて、黙って固い握手を交わした。また、調査部長の山下奉文大佐が背後から「落ち着け落ち着け静かにせにゃいかんぞ」と声をかけた。こうした陸軍省内の様子を見て「ありがたい、維新ができた」と内心感激した。
永田鉄山
永田 鉄山(ながた てつざん、1884年(明治17年)1月14日 - 1935年(昭和10年)8月12日)は、日本の陸軍軍人。統制派の中心人物。陸軍中央幼年学校を2位、陸軍士官学校を首席、陸軍大学校を2位で卒業したのち参謀本部第2部長、歩兵第1旅団長などを歴任した。軍政家として本流を歩み「将来の陸軍大臣」「陸軍に永田あり」「永田の前に永田なく、永田の後に永田なし」と評される秀才だったが、陸軍省軍務局長で階級は陸軍少将時に、陸軍内部の統制派と皇道派の抗争に関連して相沢三郎陸軍中佐に殺害された。
軍法会議と相澤中佐の死刑
第1師団軍法会議による公開裁判が行われ、1936年(昭和11年)1月28日第1回公判が開始された。裁判長は判士、陸軍少将第一旅団長の佐藤正三郎、検察官は法務官の島田朋三郎、弁護人は弁護士、法学博士の鵜沢総明、特別弁護人、陸軍歩兵中佐の満井佐吉であった。公判は、問題が教育総監更迭に関し、勅裁を受けている大正2年の省部規定を蹂躙した軍首脳部の行動が統帥権干犯となるや否やに絞られ、林陸相の行動が統帥権干犯となるか、林陸相にあえてそれを行わせた永田軍務局長に陰謀の事実があったかどうかが、事件の焦点となった。
二・二六事件により一時中断されたが、4月22日に第11回公判を再開した。裁判長は判士、陸軍少将の内藤正一に変更され、裁判官も変更があった。また、弁護人も菅原裕弁護士と角岡知良弁護士に変更となった。裁判長は公開停止を宣言し、一般公衆の退廷を命じた。5月1日の第14回公判終了まで非公開のままで、証拠申請はことごとく却下された。
同年5月7日死刑の判決が言い渡された。翌8日に上告したが、6月30日上告棄却が言い渡され、死刑判決が確定した。1審、2審とも判決内容が事前に漏れていた。
同年7月3日午前5時、東京衛戍刑務所内において、判決謄本の送達さえ行われず、弁護人の立ち会いも許されず、銃殺刑は執行された。
軍法会議
軍法会議(ぐんぽうかいぎ、court martial)とは、主として軍人に対し司法権を行使する軍隊内の機関。一般的には軍の刑事裁判所として知られる。軍事裁判所、軍事法廷とも。
日本の軍法会議は、1869年に兵部省に置かれた「糺問司(きゅうもんし)」をはじめとする。その後、1872年に陸海軍に「軍事裁判所」が設置され、1882年には「軍法会議」になった。1883年には「陸軍治罪法」(刑事訴訟法に相当する)、1884年には「海軍治罪法」が制定され、1921年に陸海軍治罪法を廃止し、新たに「陸軍軍法会議法」・「海軍軍法会議法」を制定した。
山下奉文
山下奉文(1885年(明治18年)11月8日 - 1946年(昭和21年)2月23日)は、日本の陸軍軍人。陸士18期・陸大28期恩賜。最終階級は陸軍大将、位階勲等は従三位勲一等功三級。高知県長岡郡大杉村(現大豊町)出身。
太平洋戦争(大東亜戦争)の劈頭、第25軍司令官として英領マレーとシンガポールを攻略した武功、「マレーの虎」の異名で知られる。
統制派
統制派(とうせいは)は、大日本帝国陸軍内にかつて存在した派閥。
当初は暴力革命的手段による国家革新を企図していたが、あくまでも国家改造のため直接行動も辞さなかった皇道派青年将校と異なり、その態度を一変し、陸軍大臣を通じて政治上の要望を実現するという合法的な形で列強に対抗し得る「高度国防国家」の建設を目指した。
皇道派
皇道派(こうどうは)は、大日本帝国陸軍内にかつて存在した派閥。北一輝らの影響を受けて、天皇親政の下での国家改造(昭和維新)を目指し、対外的にはソビエト連邦との対決を志向した。名前の由来は、理論的な指導者と目される荒木貞夫が日本軍を「皇軍」と呼び、政財界(皇道派の理屈では「君側の奸」)を排除して天皇親政による国家改造を説いたことによる。
皇道派は統制派と対立していたとされるが、統制派の中心人物であった永田鉄山によれば、陸軍には荒木貞夫と真崎を頭首とする「皇道派」があるのみで「統制派」なる派閥は存在しなかった、と主張している。 
 
永田鉄山

 

(1884 - 1935/8/12) 日本の陸軍軍人。統制派の中心人物。陸軍中央幼年学校を2位、陸軍士官学校を首席、陸軍大学校を2位で卒業したのち参謀本部第2部長、歩兵第1旅団長などを歴任した。軍政家として本流を歩み「将来の陸軍大臣」「陸軍に永田あり」「永田の前に永田なく、永田の後に永田なし」と評される秀才だったが、陸軍省軍務局長で階級は陸軍少将時に、陸軍内部の統制派と皇道派の抗争に関連して相沢三郎陸軍中佐に殺害された。
略歴・人物​
長野県諏訪郡上諏訪町本町(現諏訪市)出身。郡立高島病院長の永田志解理の三男として生まれた。永田家は代々高島藩の藩医を務めてきた家で、鉄山は裕福な家庭で育った。諏訪出身で岩波書店の創立者である岩波茂雄とは生涯にわたって交友があった。
1890年(明治23年)に高島尋常小学校・諏訪高等小学校(現・諏訪市立高島小学校)入学。「お天気博士」の愛称で知られる中央気象台長の藤原咲平と同級だった。
永田が11歳であった1895年(明治28年)8月26日に父の志解理が死去した。同年10月に東京市牛込区愛日尋常高等小学校に転校。1898年(明治31年)9月に東京陸軍地方幼年学校に入校した。
1903年(明治36年)5月に士官候補生となり兵科は歩兵に指定され、歩兵第3連隊付となる。
1904年(明治37年)10月24日に陸軍士官学校(16期)を首席卒業し、陸軍歩兵少尉に任ぜられる。陸士同期の岡村寧次、小畑敏四郎共に陸士第十六期三羽烏の一人と評されることになった。
1908年(明治41年)に陸軍大学校(23期)入校。
1910年(明治43年)11月に陸軍大学校を2位(首席は梅津美治郎)で卒業し、恩賜の軍刀を授与される。他の同期に蓮沼蕃、前田利為、猪狩亮介、入江仁六郎、小川恒三郎、小畑敏四郎。
バーデン・バーデンの密約​
その後、1920年(大正9年)に駐スイス公使館付駐在武官となった。1921年(大正10年)に永田とロシア公使館付武官(ドイツにおいて待機)の小畑敏四郎少佐と欧州出張中の岡村寧次少佐の陸士16期の三者は、10月27日にドイツのバーデン・バーデンで会合をおこない、翌日にはここに東條英機も合流した。会合においては、陸軍における長州閥支配の打破、人事刷新、軍制改革、総動員体制の構築を目指すことが合意された(バーデン・バーデンの密約)。極東国際軍事裁判では検察側が軍部独裁に繋がる端緒であるとして取り上げている。
岡村は、「大正十年十月二十七日、ドイツのバーデンバーデンにおいて、永田鉄山、小畑敏四郎と私の三人が、陸軍革新の血盟を結んだという一件は正に事実である。まだ血の気の多かった私共は、欧州の軍事現状を視察し、母国を顧みて、陸軍が国民と離れているのを嘆き、陸軍を「国民と共に」の方向に転進させなければならないと痛感したのであった。」と述べている。当時の陸軍は山梨半造陸相、上原勇作参謀総長以下薩長閥が支配していた。永田(信濃)、岡村(幕臣)、小畑(土佐)は何れも陸士、陸大の優等生であるが藩閥に属しておらず出世は望めなかった。このような現状を打破すること、さらに第一次世界大戦の欧州における総力戦体制の構築を日本においてもおこなうことを目的としていた。これに賛同する中堅将校の勉強会として一夕会が結成された。
かねてからの「国家総動員に関する意見」などが認められて1926年(大正15年)に国家総動員機関設置準備委員会幹事となり、内閣の資源局、陸軍省の動員課と統制課の設置に導き、初代動員課長となる。
1928年(昭和3年)には動員課長を辞任し、後任は東条英機となった 。
麻布の歩兵第3連隊長を務めた後、1930年(昭和5年)に南次郎陸軍大臣の下で陸軍省軍事課長となる。
1932年(昭和7年)に陸軍少将に昇進。
1933年(昭和8年)6月、陸軍全幕僚会議が開催され、会議の大勢は「攻勢はとらぬが、軍を挙げて対ソ準備にあたる」というにあったが、参謀本部第二部長の永田一人が反対し、「ソ連に当たるには支那と協同しなくてはならぬ。それには一度支那を叩いて日本のいうことを何でもきくようにしなければならない。また対ソ準備は戦争はしない建前のもとに兵を訓練しろ」と言った。これに対し荒木貞夫陸軍大臣は「支那を叩くといってもこれは決して武力で片づくものではない。しかも支那と戦争すれば英米は黙っていないし必ず世界を敵とする大変な戦争になる」と反駁した。
対支戦争を考えていた永田は、対ソ戦準備論の小畑敏四郎と激しく対立し、これが皇道派と統制派の争いであった。
1934年(昭和9年)に陸軍省軍務局長となった。
同年8月、国府津に池田純久、田中清、その他数名の腹心を集めて会議を開き、永田が従来指導していた経済国策研究会を通じ、昭和神聖会に働きかけ、上奏請願に導き、国家改造に伴って戒厳令を布き、皇族内閣を組織するという計画を練った。
エーリヒ・ルーデンドルフの政治支配と総力戦計画に心酔し、同年10月、陸軍の主張を政治、経済の分野に浸透させ、完全な国防国家の建設を提唱する『国防の本義と其強化の提唱』という陸軍パンフレットを出版した。
「永田の在世中、議会、政党、軍、政府の間で、合法あるいは非合法による近衛文麿擁立運動についての覚書が作成され、軍内の味方はカウンター・クーデターを考えていた。だから右翼は右翼でクーデターを考えてもよい。どっちのクーデターが来ても近衛を押し出そうと、ここまで考えていたということが永田が殺された原因のひとつ」ということを、社会民衆党の亀井貫一郎が語っており、永田、東条英機、富永恭次、武藤章、下山琢磨ら陸大閥(一夕会)の一部が、亀井、麻生久らを通じて近衛を担いで革新内閣を実現し、革新官僚と連絡をとって革新政策を実現しようとした。
そのために軍内反対派の皇道派を追放し、部内秩序を乱す青年将校を弾圧しようとした。
統制派のカウンター・クーデターは『政治的非常事変勃発ニ処スル対策要綱』という具体案にまでなっていた。
永田らは機密費を使って、真崎甚三郎悪玉説を流布し、岡田啓介総理大臣は真崎を軍から追放することを内閣の最高方針としたという。
同年11月に陸軍士官学校事件が起こる。村中孝次大尉、磯部浅一一等主計をはじめ青年将校らは、「これは、我々を陥れる辻政信大尉と片倉衷少佐による陰謀であり、永田が暗躍しており、真崎教育総監の失脚を目論む統制派の陰謀である」と主張した。
青年将校らの政治策動を封じるために、少なくとも真崎大将の教育総監は退いてもらわねばならないという議論が、武藤章中佐や池田純久中佐といった統制派を中心に起こり、「多少の波乱があっても、それを覚悟しても断行せねばなるまい。波乱といっても大したこともあるまい」という結論に達した。
そこで永田軍務局長は陸軍大臣林銑十郎大将に真崎大将転補のことを相談すると、林陸軍大臣は真崎大将の転補を断行することを決意した。
1935年(昭和10年)7月15日の異動において真崎教育総監が更迭された事が、あたかも永田の暗躍ないし陰謀によるもので、統帥権の干犯であるかのように皇道派に喧伝された。
それを真に受けた歩兵第41連隊付の相沢三郎中佐は、同年7月19日に有末精三中佐の紹介により永田に面会し辞職を迫る。
同年8月12日、その相沢に軍務局長室で殺害された(相沢事件)。51歳没。
死亡時は陸軍少将であったが、特に陸軍中将に昇進される。没後追贈で正四位勲一等に叙され瑞宝章を授与。墓所は東京都港区青山霊園附属立山墓地。
永田暗殺によって統制派と皇道派の派閥抗争は一層激化し、皇道派の青年将校たちは、後に二・二六事件を起こすに至る。
その後、永田が筆頭であった統制派は、東條英機が継承し、石原莞爾らと対決を深め(石原は予備役となり)やがて太平洋戦争(大東亜戦争)に至る。
企画院総裁だった鈴木貞一は戦後、「もし永田鉄山ありせば太平洋戦争は起きなかった」、「永田が生きていれば東條が出てくることもなかっただろう」とも追想していた。
評価​ 1
統制派の頭領と目されていたこともあり、特に満洲事変以降の永田については、全く相異なる見解が存在している。
「統制派」の立場から見れば「濡れ衣で殺された犠牲者」、「皇道派」の立場から見れば「日本を戦争に追いやった昭和軍閥の元凶」といった具合に評価が分かれるのだが、近年では、永田の大陸政策や軍備政策など「戦争への道を食い止めようとした軍人」とする研究もある。
永田は1920年代中頃において、政党政治と共存していけるような陸軍組織改革を目指しており、満洲事変前から一貫して現地軍の統制に努力、永田の死が後の支那事変に至る一つのターニングポイントになった。また、青年時代より「陸軍を独走(暴走)させない」という信念と、「日本国民一人ひとりが日本の国防の責任を担うという自覚を持つ」(国防意識を高め、国民の理解を得る)という理想を持ち続けており、従来の単なる合理主義を重んじた有能な陸軍軍人という評価に留まらない、政治信念と理想に命をかけた軍人であるとも評されている。
他方、石原莞爾らが関東軍を使い起こした満州事変を、永田を含めた一夕会は支持していた。永田が、関東軍の暴走を結果的に支持していたのは事実である。
だが永田が満州事変に賛同していたとするには疑問が残る。
事変の三か月前、永田は軍事課長として五課長会の幹事役を務め「満蒙問題解決方策の大綱」を作成・提出している。大綱では主に「関東軍の自制・国際世論を味方につける事」等が掲げられており、当面の紛争を回避する方針だった。
また事変時、板垣が「独立国家建設」(満州国)案を提出した際、永田は外務省・海軍省と連携し「地方政権樹立」という対案を示し、性急な国家建設を行わない方針を荒木陸相に承諾させている。
また、永田は溥儀擁立にも反対しており、関東軍の板垣とは真っ向から対立していた事が分かる。
尤も、満州国が建国されて以後は、永田がこれまで行ってきた「現地軍の抑制・独立国家建設阻止」等の努力も甲斐なく、腹をくくって満州事変の現状を追認せざるを得なかった。世論が満州国承認で一致し、建国によって満州事変もこれ以上拡大しないだろうという観測もあり、永田は「満州国育成」に舵を切る事となる。
ただし永田は満州事変に際して、関東軍へ攻城用の24糎榴弾砲を送付している。24糎榴弾砲について、石原大佐は満州事変の功労重砲と述べた。永田は独立国家建設、溥儀擁立については反対したが、満州事変の発生、すなわち現地軍の暴走については手を貸していた。
暗殺の直前1935年8月4日、中国の非戦闘区内で日本人守備隊が攻撃され負傷する欒州事件が発生する。日中関係に緊張が走る中、永田は迅速に対応する。6日、関東軍に対しては軍中央との密接な連絡を指示して牽制する一方、事後処理を天津軍(支那駐屯軍)に当たらせる。更に、陸軍省は外務省と協議の上「対北支政策」を策定、「非戦闘区域から武力衝突の不安を取り除く」方針を発表する。その内容は「華北の各政権との親善」「華北地域との経済協力の推進」等を実践としてうたう。これらの対応により、永田は後の盧溝橋事件のような事件拡大を阻止し、又、関東軍独走への対処方法の道筋も付ける。
評価​ 2
戦後教育は昭和史の本質たる軍事史を教えず、「一夕会」「統制派」を率いた永田鉄山さえあまり知られていないが、「陸軍の至宝」「永田の前に永田なく、永田の後に永田なし」と称された逸材で「永田がいれば大東亜戦争は起きなかった」ともいわれる。陸幼・陸士(16期)・陸大を最優等で卒業した永田鉄山は、事務能力も抜群で陸軍の綱紀粛正・教育制度改革(軍隊教育令)を主導し一般学校の軍事教練(陸軍現役将校学校配属令)も創始、病弱で実戦経験は無いが、部隊に出れば謙虚・公正・合理性で「陸軍一の名連隊長」と慕われ、少壮から陸軍を背負うべき人材と輿望を集めた。第一次大戦前後の欧州情勢視察に任じた永田鉄山は、総力戦時代を痛感し「国家総動員」を提唱、同志のエリート将校を一夕会に組織化し、林銑十郎を陸相に担いで陸軍省枢要の軍務局長に就き長州閥から主導権を奪取した。永田鉄山は、国力の乏しい日本は総力戦に備え中国大陸の軍需資源を利用すべしと主張したが、非合法手段や派閥争いは認めず、十月事件では橋本欣五郎(23期)の極刑を主張し、石原莞爾(陸士21期)らの満州事変では暴走抑止に努めた。一夕会系は「陸軍三長官」を独占したが、統制を重んじる永田鉄山(統制派)と実力行使も辞さない「皇統派」の内部対立が発生、真崎甚三郎の教育総監更迭を巡り抗争が激化するなか皇統派の相沢三郎中佐が永田鉄山斬殺事件を起し、勢いづいた皇統派は巻返しを図り青年将校グループが二・二六事件を引起した。皇統派の自滅で陸軍を掌握した統制派の武藤章・田中新一(25期)・東條英機(17期)らは、永田鉄山の遺志を継いで満州から中国へ侵出し国家総動員体制を実現させたが、強引な手段で泥沼の日中戦争を引起し中国不戦を説く石原莞爾を追放、仲間割れの度に過激へ傾き、近衛文麿・松岡洋右ら反欧主義者と組んで日本を亡国の対米開戦へと導いた。永田鉄山個人は日本型官僚組織・部課長制組織史上の傑物で独断専行の抑止役でもあり、存命なら昭和史が変わった蓋然性は高いが、結果が敗戦ゆえに「陸軍暴走」の先駆者となり、故郷の上諏訪でも記憶されず高島公園の胸像に名残を留めるのみである。  
 
第一師団軍法会議にて死刑の判決を宣告

 

昨年八月十二日陸軍省軍務局長室において時の軍務局長永田鉄山中将を殺害、世人に異常な衝動を与えた相沢三郎中佐の用兵器上官暴行殺人傷害事件に対する第一師団軍法会議の公判はさる一月二十八日審理を開始して以来、二・二六事件のため一旦中絶、爾後軍法会議の構成を更新、新聞記事の掲載を禁止して審理を再開、公判を続行中であったが、さる七日にいたり遂に同中佐に対し死刑の判決言渡しがあった、中佐は同判決に対し翌八日上告の手続をとったが、陸軍省当局では九日午後十一時三十分公判に関し左のごとく経過を公表した
(陸軍省発表)相沢中佐の永田中将殺害事件はかねて第一師団軍法会議において審理中のところ今次の反乱事件に関連し一部判士の更迭を要するにいたりたる結果審理を更新し、四月二十二日以来五回にわたり公判を開廷せり、しかして裁判長は本弁論は現下の情勢上安寧秩序を害し且軍事上の利益を害する虞ありと認め、公開を停めて審理し五月七日判決を宣告せり
なお本判決に対し相沢中佐は五月八日陸軍高等軍法会議に上告をなしたり
判決
宮城県仙台市東六番町一番地士族元台湾歩兵第一連隊(原所属)予備役陸軍歩兵中佐従五位勲四等
相沢三郎
明治二十二年九月九日生
右の者に対する用兵器上官暴行殺人傷害被告事件につき当軍法会議は検察官陸軍法務官島田朋三郎干与審議を遂げ判決すること左の如し
主文
被告人を死刑に処す
押収にかかる軍刀一口はこれを没収す
理由の要旨
被告人は明治三十六年九月仙台陸軍地方幼年学校に入校し、逐次陸軍中央幼年学校、陸軍士官学校の課程を終え同四十三年十二月陸軍歩兵少尉に任ぜられ、爾来各地に勤務し累進して昭和八年八月歩兵中佐に進級して同時に歩兵第四十一連隊附に、越えて同十年八月一日台湾歩兵第一連隊附に補せらせ、いまだ赴任するに至らずして同月二十三日待命仰付けられ、ついで同年十月十二日予備役仰付けられたるが、かねてより尊皇の念厚きものありしところ、昭和四、五年ごろより我国内外の情勢に関心を有し当時の状態をもって思想混乱し、政治、経済、教育外交などの万般の制度機構孰れも悪弊甚しく皇国の前途憂慮すべきものありとし、之が革正刷新いわゆる昭和維新の要ありとなし、同志として大岸頼好、大蔵栄一、西田税、村中孝次、磯部浅一らと相識るに及び、ますますその信念を強め、同八年ごろより昭和維新の達成にはまず皇軍が国体原理に透徹し、挙軍一体いよいよ皇運を扶翼し奉ることに邁進せざるべからざるに拘らず、陸軍の情勢はこれに背戻するものありとし、その革正を断行せざるべからずと思惟するにいたりたるが、同九年三月当時陸軍少将永田鉄山の陸軍省軍務局長に就任後、前記同志の言説などにより同局長をもってその職務上の地位を利用し、名を軍の統制に藉昭和維新の運動を阻止するものと看做したる折柄、同年十一月当時陸軍歩兵大尉村中孝次および陸軍一等主計磯部浅一などが叛乱陰謀の嫌疑に因り軍法会議において取調べを受けついで同十年四月停職処分に付せらるるに及び、同志の言説およびその頃入手せるいわゆる怪文書の記事などにより右は永田局長などが同志将校などを陥害せんとする奸策に外ならずとなし、深くこれを憤慨し、さらに同年七月十六日任地福山市において教育総監真崎大将更迭の新聞記事を見るや、平素崇拝敬慕せる同大将が教育総監の地位を去るにいたりたるはこれまた永田局長の策動に本づくものと推断し、総監更迭の事情その他陸軍の情勢を確かめんと欲し、同月十八日上京し翌十九日にいたり一応永田局長に面会して辞職勧告を試みることとし、同日午後三時すぎごろ陸軍省軍務局長室において同局長に面接し、近時陸軍大臣の処置誤まれるもの多く軍務局長は大臣の輔佐官なれば責任を感じて辞職されたき旨を求めたるが、その辞職の意思なきを察知し、かくて同夜東京市渋谷区千駄ヶ谷に於ける前記西田税方に宿泊して同人および大蔵栄一らより教育総監更迭の経緯を聴き、かつ六月二十一日福山市に立帰りたるのち入手したる前記村中孝次送付の教育総監更迭事情要点と題する文書、作成者、発送者不明の軍閥、重臣閥、大逆不逞と題する所謂怪文書の記事を閲読するに及び教育総監真崎大将の更迭をもって永田局長らの策動により同大将の意に反して敢行されたるものとして本質においてもまた手続上に於ても統師権干犯なりとし痛くこれを憤激するに至りたるところたまたま同年八月一日台湾歩兵第一連隊附に転補せられ、翌二日前記村中孝次、磯部浅一両人の作成に係る粛軍に関する意見書と題する文書を入手閲読し、一途に永田局長をもって元老重臣財閥新官僚などと款を通じ、昭和維新の機運を弾圧阻止し、皇軍を蠹毒するものなりと思惟し、このまま台湾に赴任するに忍び難く、この際自自己のとるべき途は永田局長を殪すの一あるのみと信じて遂に同局長を殺害せんことを決意するに至り同月十日福山市を出発し翌十一日東京に到着したるもなお永田局長の更迭などの情勢の変化に一縷の望みを嘱して同夜前記西田税方に投宿し同人及び居合せたる大蔵栄一と会談したる上自己が期待するがごとき情勢の変化なきことを知り、ここにいよいよ永田局等殺害の最後の決意を固め翌十二日朝西田方を立出で同日午前九時三十分ごろ陸軍省に到り同省整備局長室に立寄り曾て自己が士官学校に在勤当時、同校生徒隊長たりし同局長山岡中将に面会し対談中給仕を遣わして永田局長の在室を確かめたる上、同九時四十五分ごろ同省軍務局長室に到り直に佩びいたる自己所有の軍刀を抜き同室中央の事務用机をへだてて来訪中の東京憲兵隊長陸軍憲兵大佐新見英夫と相対しいたる永田局長の左側身辺に急遽無言のまま肉薄したるところ同局長がこれに気づき新見大佐の傍らに避けたるより同局長の背部に第一刀を加え同部に斬りつけついで同局長が隣室に通ずる扉まで遁れたるを追躡し、その背部を軍刀にて突き刺し、さらに同局長が応接用円机の側にいたり倒るるや、その頭部に斬つけ因って同局長の背部に長さ九、五センチ、深さ一センチおよび長さ六センチ深さ十三センチ、左顳頸部に長さ一四、五センチ、深さ四、五センチの切創外数箇の創傷を負わしめ、右刀創に因る脱血に因り、同局長を同日午前十一時三十分死亡するに至らしめたるをもって殺害の目的を達し、なお前記のごとく永田局長の背部に第一刀を加えんとしたる際、前示新見大佐がこれを阻止せんとし、被告人の腰部に抱きつかんとしたるより右第一刀をもって永田局長の背部を斬ると同時に新見大佐の上官たることを認識せずして同大佐の左上膊部に斬つけ、因って同部に長さ約十五センチ幅約四センチ、深さ骨に達する切創を負わしめたるものなり
(証拠説明略)
法律に照らすに被告人の判示処為中永田少将に対し兵器を用いて暴行をなしたる点は陸軍刑法第六十二条第二号に、同人を殺したる点は刑法第百九十九条に、新見大佐の上官たることを認識せずして同人の身体を傷害したる点は同法第二百四条に各該当するところ右用兵器上官暴行殺人および傷害は一箇の行為にして数箇罪名に触るるものなるをもって同法第五十四条第一項前段第十条に依りそのもっと重き殺人罪の刑に従いその所定刑中死刑を選択して処断すべく押収に係る軍刀一口は本人犯行に供したる物にして被告人以外のものに属せざるをもって同法第十九条第一項第二号第二項に依りこれを没収すべきものとす
仍て主文の如く判決す
軍紀破壊は遺憾 犯行は全く単独、共犯なし 陸軍当局談
一、相沢中佐の永田中将殺害事件に関して最も遺憾とするところは軍紀の破壊である、抑も軍紀は軍の命脈であって相沢中佐が上官たる永田中将を殺害したことはその動機原因の如何にかかわらず軍の命脈たる軍紀を紊乱したるものであって罪責の重大なる所以もまた此処に存するのである
二、兇行の原因動機は裁判の審理に徴するに概ね次の如きものである
原因の主要なるものは相沢中佐の人物、性格、国法に対する観念、怪文書の横行などである、しかして同中佐の性格は純情朴直にして尊皇の念厚きものがあったが単純の嫌いあり、事象の認識的確ならず、往々思慮の周密を欠き感激性に富み時々矯激にして常軌を逸するの恐れがあるのであって冷静に事実を判断することなく怪文書などに刺激され憤激の極遂に軍紀を緊り国法を犯し直接行動を敢てするにいたったのである
動機の基調をなすものは同中佐が昭和四、五年ごろより当時の世相を目して国体の本義に悖り国体の尊厳に対する認識日々稀薄となり、皇謨翼賛の念を欠くのみならず、思想は混乱し政治外交、経済その他の各部門とも宿弊山積し皇国の前途頗る憂うべきものあり、速かに革新して一君万民の国体に還さねばならぬとの観念に本づき永田中将を目して政治的野心を包蔵し現状維持を希求する重臣、官僚、財閥等と結託して軍部内における維新勢力を阻止するとともに軍をしてこれら支配階級の私兵と化せしむるものとなし、その具体的事例として(一)維新運動の弾圧(二)昭和九年十一月村中、磯部らに関する叛乱陰謀被疑事件に対する策動(三)教育総監更迭問題における策謀(四)国体明徴の不徹底等を挙げているのである、しかしてこれらの諸点は公正なる審理の結果に徴するに何ら事実の認むべきものなく濫りに同志の言説およびいわゆる怪文書などの巷説を信じ、全く我執の偏見に本づく独断的推断に本づけるものに外ならないのである
この種純情の士が怪文書等の乗ずるところとなって次々に去就を過って行った過去の事実は真に痛恨に堪えない所でこれに対し陸軍としては軍紀の緊粛によりかくの如き行為の絶滅を期している次第であるがなおそのよって来る根源を断つとともにこの種事件の直接原因をなす怪文書の取締りについては速やかに徹底的処置を講ずるの要あるものと痛感しているものである
三、この種公人の暗殺は往々重大なるいわゆる背後関係すなわち教唆または従犯関係者があるのを普通とするのであって世人もまたこの点に疑惑をもっていた向もあったが、審理の結果は全く相沢中佐単独の行為であって他に共犯者として認むべきものはなかったのである
適用法条
相沢中佐に対する第一師団軍法会議判決の適用法条は左の如し
△陸軍刑法第六十二条(用兵器上官暴行)上官に対し兵器または兇器を用いて暴行または脅迫をなしたるものは左の区別に従って処断す
(一)敵前なる時は云々(略)(二)その他の場合なる時は無期もしくは二年以上の懲役または禁錮に処す
△刑法第百九十九条(殺人)人を殺したるものは死刑または無期もしくは三年以上の懲役に処す△同第二百四条(傷害)人の身体を傷害したるものは十年以下の懲役または五百円以下の罰金もしくは科料に処す△同第五十四条=一個の行為にして数個の罪名に触るるときはそのもっとも重き刑をもって処断す(略)
高等軍法会議 その構成
相沢中佐は七日の軍法会議判決に対して別項のごとく上告を申立てたので高等軍法会議が開かれる訳であるが、高等軍法会議法第四百四十四条によって「おそくとも最初に定めたる公判期日の三十日前にこの期日を上告人および相手人に通知すべし」となっている
また高等軍法会議は陸軍大臣をその長官とし、判士は少将一名大佐二名、検察官、法務官各一名計五名をもって構成される、なお軍法会議においては上告は法令違反を理由とする時に限り許され刑の量定不当ということは上告の理由とはならない
なお上告審は適法に上告手続がなされ、上告趣意書が提出さるればその趣意の点についてのみ審理がなされるもので公判廷に被告を呼出して事実調べなどは行われない
もし上告理由が認めらるれば高等軍法会議は原判決破毀の判決を宣し、原軍法会議にさし戻すかまたは他の師団の軍法会議に移送して改めて事実調べが行われるが上告趣意が認められねば上告棄却の判決があって原判決の死刑が確定することになる 
 
「太平洋戦争を止められた」エリート軍人・永田鉄山は本当か

 

日本のエリート官僚、その本質は変わっていない
1935年8月12日午前9時40分ごろ、東京・市谷の陸軍省軍務局長室で、局長の永田鉄山少将が執務中、突然軍服姿の1人の軍人が侵入。逃げようとした局長に軍刀で切りつけた上、背中を刺し通した。
「省内で兇刃に倒る(危篤)」(朝日)、「左肩に深傷・遂に絶望」(東京日日)など、13日夕刊(実際は12日夕刊)は各紙1面トップで報じた。「危篤状態」のまま、自宅に帰宅しているのは奇妙だが、実際は即死だったのだろう。永田の経歴も触れられており、東日は「陸軍稀有の逸材」、朝日は「第十六期中の出世頭」との評価。同日午後4時、正式に死亡が確認された。
13日朝刊で朝日は「永田局長逝去(中将に昇任)」、東日は「永田局長遂に逝く」と報道。同じ紙面では、自分の娘を芸妓屋に身売りした農民が遊郭で遊び続けたという話題を、「凶作地の娘は泣く」などの見出しで載せた。13日午後1時40分、陸軍省は、加害者は「陸軍歩兵中佐相沢三郎」と発表。「兇行の動機は未だ審らかならざるも永田中将に関する誤れる巷説を妄信したる結果なるが如し」とした。東日号外は「相沢中佐は剣道の達人」、朝日夕刊は「熱狂的な性質」と伝えた。
永田斬殺を決意させた「真崎甚三郎教育総監の更迭」
昭和の日本陸軍は、柳条湖事件以後、国家改造と満蒙(「満洲」と内モンゴル)問題解決を求める革新将校らが台頭。そのうち、天皇親政などを求める精神主義的傾向の強い「皇道派」と、軍の内部統制強化と総力戦のための国家総動員体制確立を目指す「統制派」に分裂した。統制派は、将校の養成機関である陸軍士官学校(陸士)と陸軍大学校(陸大)を卒業したエリート軍人が大半。その中心が永田で、1934年3月に軍務局長に就任すると、統制派の林銑十郎陸相(のち首相)の下、皇道派の将官を軍の中央から外す人事を進めたという。
そのピークが、皇道派の青年将校の支持を集めていた真崎甚三郎教育総監の更迭。のちに「二・二六事件」を引き起こす青年将校らは強く反発して、「教育総監更迭は統帥権干犯」「元凶は永田局長」とする怪文書を作って配布した。陸軍省発表の「巷説」はその怪文書を指しており、皇道派の相沢中佐はそれに激高して永田局長殺害を決意したとされる。
「軍務局長(少将)が白昼、その執務室で同じ軍人(中佐)によって殺害されるという事件に、当時の派閥抗争の陰惨さと異常さがうかがわれよう」と戸部良一「逆説の軍隊」は指摘する。「下克上」が行き着くところまで行ったということか。
今でも結び付けられる「永田軍務局長斬殺事件」と「二・二六事件」
事件はこれだけで終わらなかった。皇道派は相沢中佐に対する軍法会議での公判を勢力巻き返しの宣伝の場に利用しようと画策。公判中は東京・麻布のフランス料理店で青年将校らが集まって公判報告の会合が開かれ、決起の気運が盛り上がった。
1936年2月25日、皇道派の陸大教官による特別弁論。取材していた同盟通信の斎藤正躬記者は、1967年2月の東京12チャンネル(現テレビ東京)「証言・私の昭和史」で「聞いておりますと、はっきりとした現状変革なんで、これは当時の治安維持法にも触れるわけなんです。それを公開裁判で堂々というんだから、まあ、皇道派の人々の考えの宣伝というか、プロパガンダの場になっていたんです」と証言している。
日本史最大のクーデター未遂事件が起きたのはその翌日。以後、流れは一変した。公判は非公開となり、5月7日、死刑判決。翌8日には、二・二六事件の引き金の一つとなった第一師団の満洲移駐第一陣が出発した。7月3日、死刑執行。遺骨が自宅に還ったことを伝えた4日朝刊の同じ紙面には、オリンピックに出場する日本選手団のベルリン到着のニュースが大きく扱われている。「相沢事件」とも呼ばれる永田軍務局長斬殺事件は、現在も「二・二六」と直接結び付けて語られる。
現代の官僚にも通ずる、自己革新能力を失った日本軍
早坂隆「永田鉄山 昭和陸軍『運命の男』」の帯にはこうある。「東條ではなく、この男だったら太平洋戦争は止められた」。語り継がれている言葉の一つというが、その指摘は当たっているだろうか? 同書にあるように、永田が極めて優秀な軍人だったことは間違いない。幼年学校と陸士は首席、陸大では2番。まぎれもなく日本陸軍最高の頭脳だった。しかし、そこには根本的な問題があった。
例えば、将官や参謀を養成する陸大の中身。陸大教官や校長を務めた飯村穣・元中将は「白を黒といいくるめる議論達者であることを、意志鞏固なりとして推奨したのではないか」と述懐したという(大江志乃夫「天皇の軍隊」)。戸部良一ら「失敗の本質」は指摘する。「日本軍は近代的官僚制組織と集団主義を混合させることによって、高度に不確実な環境下で機能するようなダイナミズムをも有する本来の官僚組織とは裏腹の、日本的ハイブリッド組織をつくり上げたのかもしれない」。その結果、「日本軍の最大の失敗の本質は、特定の戦略原型に徹底的に適応しすぎて学習棄却(学んだ知識などを捨てて学び直すこと)ができず、自己革新能力を失ってしまった」。筆者に言わせれば、それは本質的な議論がないまま思い込みで一方向に動く組織だ。
それから80年余り。いまも官僚はさまざまな問題を起こす。その本質は変わっていないのでは?
「永田は戦争を止められたか?」日本型官僚エリートの限界
ほかにも難問があった。永田は徹底した合理主義者だったといわれる。理念を踏まえて現実的な思考をする人間だったと。本編でも矢次一夫氏は「正直なインテリ軍人」と評している。軍令機関である参謀本部勤務はごくわずかで、陸軍省や教育総監部が長い。現場で指揮を執った経験もない。軍政家であって軍令(作戦や用兵)の人ではない。
さらに「天皇の軍隊」によれば、「陸士16期生は陸軍史上では特別な意味を持っている」という。「大部分は留守部隊付、あるいは新設師団要員に留保され、戦場に出る機会を持たなかった」。高橋正衛「昭和の軍閥」も「十六期以降の軍人は戦後派であった」「永田たちが新しい陸軍の指導をしていくのだと決意したのは」「(戦場体験を持つ前の期の軍人との)断層の自覚が作用していたのではないかと思う」と述べる。いわば「戦場コンプレックス」だ。
そうであれば、もし彼が生きていたとしても、例えば中国大陸からの日本軍の撤兵など、できたとはとても考えられない。それではアメリカとの戦争を回避することは難しかっただろう。万が一、手をつけることができたとしても、別の機会に暗殺されていたかもしれない。それが、どんなに優秀でも「日本型官僚エリート」の限界だったのではないだろうか。
「政界の黒幕」と呼ばれた矢次一夫氏とは?
本編の著者・矢次一夫氏も一筋縄ではいかない人物。安倍晋三首相の祖父の岸信介・元首相と親しく、本編の冒頭にあるように「政界の黒幕」と呼ばれた。経済人や軍人にも広い人脈を持っていた。歴史家やジャーナリストとは違う視点で興味深いが、いま読んで理解するにはもっと詳しい注釈が要りそうだ。
永田鉄山とは違う道を歩いた陸士同期・小池七郎の人生
昭和の軍閥について語るとき、必ず出てくるのが「バーデンバーデンの密約(盟約)」だ。1921年10月、永田と、小畑敏四郎、岡村寧次、東条英機がドイツの保養地バーデンバーデンに集合。(1)陸軍の人事刷新(長州閥専横の打破)(2)総動員態勢に向けての軍政改革――を確認した。陸士で東条だけは17期生だが、あとの永田、岡村、小畑は同じ16期生で「三羽烏」と呼ばれた。そのことを考えたとき、筆者は1人の人物のことを思い浮かべないわけにはいかない。それは、筆者の祖父で3人と陸士同期だった小池七郎だ。
いま手元に「陸軍士官学校歴史附録生徒名簿」のコピーがある。祖父のことを調べていて入手した。そこには生徒名と「試験列叙」、つまり試験の成績順の序列が書かれている。成績は「豫(予)科」と「本科」に分かれる。「豫(予)科」とは陸士入学前、配属された原隊で1年7カ月、下士官として勤務した時の成績と思われる。本科は原隊から派遣された陸士在校時(この当時は1年間)の成績。日露戦争の勃発で約1カ月早く繰り上げ卒業した16期生は計549人。永田の成績を見ると、予科は4番、そして本科は1番だった。小畑は予科6番、本科4番、岡村は14番と5番。ほかに、戦後の東京裁判でA級戦犯として処刑された土肥原賢二は3番、6番、同じ板垣征四郎は68番と25番だった。この序列はこの後、現役の軍人である限り付きまとう。
小池七郎は予科99番、本科125番。軍人としての将来を考えれば問題にならない成績だ。その後、永田らは陸大も卒業して順調に昇進。岡村、土肥原、板垣は大将に、永田と小畑は中将になった(17期の東条も大将に)。それに対して祖父七郎は原隊こそ歴史のある近衛歩兵第二連隊だったが、何があったのか、栃木・宇都宮の新設連隊に転属。そこで不祥事を起こしたのか、1年余の停職処分を受けた後、中尉のまま1914年6月、腸結核のため満33歳で死んだ。この月、ヨーロッパでは第1次世界大戦のきっかけとなるサラエボ事件が発生。永田は大尉でドイツ留学中だった。筆者の父は1歳のときに死んだ祖父を生涯誇りにしていたが、私とも共通するDNAを考えれば、彼が軍人向きだったとは思えない。残されたものは彼の元に届いた女名前の絵葉書九十数枚だけ。軍人として何を考え、何をしたかったのかなどは全く分からない。比較するのもおかしいが、陸士同期の軍人たちの事績を見るたび、エリート軍人の光と影を見た思いがする。 
 
永田鉄山の逸話​

 

​ 1
ある日、陸軍大学校時代の教え子が永田局長を訪ねた時、永田は五・一五事件について教え子に尋ね、その教え子が犯人達を非難すると、永田も同意し、話せば分かると犯人に説いた犬養毅首相を古今の名将にもまさる床しさを感じると称賛し、十月事件以降の軍内の一部の不穏な動きを言語道断であると話していたが、その後まもなく、永田も犬養と同じ運命を辿ることとなった。
2
1921年、陸軍士官学校16期のエリート永田鉄山・小畑敏四郎・岡村寧次がドイツ南部の保養地バーデン・バーデンで落合い陸軍長州閥の打倒および「国家総動員体制」の確立へ向け会盟、ここに陸軍の下克上が始まった(バーデン・バーデン密約)。ドイツ駐在の東條英機(17期)も駆付け永田鉄山の腹心となった。盟主の永田鉄山は信州上諏訪出身、陸軍幼年学校から陸軍大学までほぼ主席で通し人心掌握も上手く「陸軍の至宝」と賞された逸材で、第一次大戦視察のためドイツ周辺諸国に6年間滞在し「総力戦時代の到来」に危機感を抱き国家総動員体制を提唱した。対する陸軍長州閥は、創始者の山縣有朋を1922年に喪うも田中義一(長州)・白川義則(愛媛)・宇垣一成(岡山)が系譜を継ぎ勢力を保っていた。大正デモクラシー=軍人蔑視、山梨・宇垣軍縮への不満渦巻く陸軍各所で中堅将校の「勉強会」が萌芽するなか、永田鉄山らは河本大作(15期)・板垣征四郎・土肥原賢二(16期)・山下奉文(18期)ら同志20人と渋谷「二葉亭」で会合を重ね(二葉会)、石原莞爾(21期)・鈴木貞一(22期)ら年少組の「木曜会」と合体し「一夕会」を結成、武藤章・田中新一(25期)・牟田口廉也(29期)らも加わった。僅か40人ほどの一夕会だが、このあと陸軍を動かす面々が悉く名を連ね、第一回会合では陸軍人事の刷新、荒木貞夫・真崎甚三郎・林銑十郎の非長州閥三将官の擁立、満州問題の武力解決、国家総動員体制の確立の大方針を決め、陸軍中央の重要ポスト掌握に向け策動を開始した。河本大作の「張作霖爆殺事件」は不拡大に終わったが、板垣征四郎・石原莞爾の「満州事変」は若槻禮次カ内閣の追認で拡大し満州国建国に結実、一夕会は「ソ連に勝つには今しかない」と説く小畑敏四郎ら皇道派(荒木貞夫の「皇軍」発言に因む)と総動員体制確立・中国問題解決を優先する永田鉄山ら統制派に分裂し、統制派が陸軍中央を制すと「永田鉄山斬殺事件」が起るが、皇道派は二・二六事件で自滅し、不拡大派の石原莞爾を退けた武藤章・田中新一・東條英機ら統制派が対外硬派の近衛文麿内閣を動かし中国侵攻(日中戦争)・国家総動員法を成就させた。
3
1925年の陸軍現役将校学校配属令により、公立学校に義務的に現役将校が配属され(私学は任意だが後に実質強制)、小学校から軍事教育が施されることとなった(軍事教練)。「国家総動員体制」を目指す陸軍教育総監部の永田鉄山が主導した政策で、山梨・宇垣軍縮に伴う軍人の大量失業への対策という側面もあった。弱肉強食の帝国主義世界が続くなか大正デモクラシーで緩んだ国民の国防意識を喚起するという永田鉄山の意図は誤りではなかったが、過剰な天皇崇拝を帯びた軍事教練は教育勅語に続く皇国史観・軍国主義教育の重要施策となり、昭和日本に及ぼした悪影響は計り知れない。
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石原莞爾は、陸士(21期)・陸大で奇才を現し「陸軍随一の天才」と称されたが、平然と教官を侮辱する異端児で哲学・宗教に傾倒し、写生の授業で己の男根を模写し退学になりかけたこともあった。田中智学の「国柱会」(日蓮宗)に帰依する石原莞爾は宗教的カリスマを帯び、服部卓四郎・辻政信・花谷正ら後輩の崇敬対象だった(なお国柱会には近衛文麿の父篤麿や宮沢賢治も加盟)。鈴木貞一(22期)らと「木曜会」を興した石原莞爾は永田鉄山(16期)の「一夕会」に合流し「満蒙領有方針」を牽引、関東軍参謀に就くと永田の制止を振切り板垣征四郎(16期)と共に満州事変を決行した。南二郎のアジア主義に薫陶された石原莞爾は中国独立運動のシンパで、日満蒙の平和的連携による資源と市場の獲得を追求(王道楽土)、「第一次世界大戦後に世界平和は回復されたが、列強はいずれまた世界戦争を始める。いろんな組合せで戦っていくうちに、最後にはアメリカ、ソ連、日本が残る。日本は戦いを避けて国力と戦力を整えつつ待ちの姿勢を貫くことが肝心で、そうすればいずれアメリカがソ連を破り、最終戦争で世界の覇権を賭けてアメリカと対決することとなろう」という「世界最終戦争論」を唱え、日本は「無主の地」満州を領有して国力不足を補い日中鮮満蒙の「五族協和」で総力戦に備えるべしとした。統制派・皇道派に属さず「満州派」を自称する石原莞爾は永田鉄山斬殺事件に伴い陸軍中央の指導的地位に就任、二・二六事件が起ると戒厳司令部参謀に就き皇道派を断罪し壊滅させた。反乱将校を扇動した荒木貞夫(陸士9期)に対し石原莞爾は「バカ!おまえみたいなバカな大将がいるからこんなことになるんだ」と怒鳴りつけ、軍規違反と怒る荒木に「反乱が起っていて、どこに軍規があるんだ?」と言返したという。盧溝橋事件が起ると、日中戦争泥沼化を予期する石原莞爾は停戦講和に奔走したが、武藤章・田中新一(25期)・東條英機(16期)ら統制派の「中国一激論」「華北分離工作」が優勢で近衛文麿内閣の和解拒否により不拡大派は失脚、関東軍参謀副長へ左遷された石原は参謀長の東條英機と衝突し、東條が陸相に就くと完全に政治生命を絶たれた。
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奇行が多いが成績抜群の石原莞爾は陸士時代から「陸軍随一の天才」と称され、永田鉄山の「一夕会」に加盟し「満蒙領有方針」の急先鋒となった。関東軍参謀に就いた石原莞爾は、永田鉄山ら陸軍中央の慎重論を無視し板垣征四郎と共に柳条湖事件を決行、若槻禮次カ内閣の追認を得て満蒙を武力制圧し、第一次上海事変、満州国建国までを主導した。一夕会が分裂し皇統派が永田鉄山斬殺事件を起すと無党派の石原莞爾が陸軍中央の指導的地位に就き、二・二六事件では戒厳司令部参謀として反乱将校の断罪と皇統派の粛清を主導、参謀本部に作戦部を設置し権限を集中した。日中戦争が勃発すると、中国革命運動のシンパで「五族協和」を志す石原莞爾はアメリカとの最終戦争に備えるべく(世界最終戦争論)日中講和に奔走したが、強硬に中国侵出(華北分離工作)を主張する武藤章・田中新一・東條英機ら統制派と対立、第一次近衛文麿内閣が講和を蹴り日中戦争拡大方針を採ったため失脚した。不拡大派は陸軍中央から一掃され、石原莞爾は関東軍参謀副長へ左遷、犬猿の仲の東條英機が陸相に就くと政治生命を絶たれた。鮮やかな作戦指揮で寡兵をもって満蒙を席巻し、陸軍・政府・マスコミへの根回しで満州事変を成功させた石原莞爾の奇才は疑うべくもないが、結果として日本が戦争に負けため評価は実に複雑である。石原莞爾が独断専行で関東軍を動かしたことは重大な軍法違反であり、上役の荒木貞夫や東條英機をバカ呼ばわりする傲慢さも陸軍の集団暴走に先鞭を付けた。また十月事件を起した橋本欣五郎は石原莞爾の親友で処罰に反対している。が、植民地収奪競争が熾烈な当時の世界情勢において「無主の地」満州は共産ソ連の格好の標的であり、中国が崩壊するなか朝鮮の防衛上譲れない地勢を占めていた。アジア諸国が結束し西洋列強の収奪を防ぐという石原莞爾の戦略も至極妥当なもので、国土と資源の乏しい日本は大陸に出る他なく、満州事変後の軍需バブルで逸早く世界不況を脱した現実もある。石原莞爾の戦略に従い華北を攻めず満州に留まっていれば、日中戦争泥沼化も英米との衝突も無く日本は朝鮮・満蒙を維持しアジアの盟主になった蓋然性が高い。
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東條英機と石原莞爾の犬猿の仲は有名だ。石原莞爾は、永田鉄山より5期・東條英機より4期下の陸士21期のエリートで少壮の頃から天才と称され、その世代の「木曜会」では鈴木貞一と共に指導的立場にあり、木曜会は永田らの「二葉会」に合流して「一夕会」となった。木曜会に目付役として参加した東條英機は石原莞爾らを指導し、共に「満蒙領有方針」の策定などを手掛けた。石原莞爾は陸軍の花形である作戦畑に進んで満州事変で名を轟かせ、永田鉄山の横死後は作戦部長に就いて陸軍中央を取仕切った。一方の東條英機は、永田鉄山・統制派のために奔命するも作戦畑には進めず、皇道派に恨まれて日陰のポストを転々とさせられた。才気煥発で自負心も強い石原莞爾にすれば東條英機など取るに足らない先輩であり、劣等視された東條は石原を敵視し、石原が日中戦争不拡大を唱えると拡大派の武藤章を支持し石原一派を陸軍中央から追出した。関東軍参謀副長に左遷された石原莞爾は参謀長の東條英機を公然と無能呼ばわりし聞こえよがしに「東條上等兵」「憲兵隊しか使えない女々しいやつ」などと挑発、怒り心頭の東條は石原を閑職の舞鶴要塞司令官に飛ばし、間もなく予備役編入に追込んで報復を果した。軍務を離れた石原莞爾は言論・教育活動などに従事したが、東條英機は得意の憲兵攻撃で執拗に石原を監視した。そして日本の敗戦が決定的となるなか、石原莞爾に師事する柔術家の牛島辰熊と津野田知重少佐による東條英機首相暗殺計画が発覚(なお、空手の大山倍達や極道の町井久之も石原莞爾に師事)、両名の献策書の末尾には「斬るに賛成」との石原の朱筆があった。東京裁判の証人尋問で東條英機との確執を訊かれた石原莞爾は「私には一貫した主義主張があるが、彼にはなかったのではないか。此れでは反目し合う事など有るわけがない。彼は一貫した信念がなく右顧左眄して要らぬ猜疑心を持つから、戦局の対応も適宜でなかっただろう。」と東條の無能を扱下ろしたが、戦勝国が裁く横暴を論難し「略奪的な帝国主義を教えたのはアメリカ等だ、戦争責任なら満州事変を起した自分と鎖国を破ったペリーを裁け」と気炎を上げた。
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石原莞爾は、関東軍参謀在任期に乗馬中誤まって軍刀で下腹部(睾丸)を傷つけ、それが原因で膀胱を患い生涯悩まされた。満州事変後に内地に呼戻された時には既に相当悪化しており、膀胱内乳頭腫摘出のための手術を受けている。終戦後は入退院を繰返す療養生活を送ったが、東京裁判の証人尋問を東京逓信病院の病床で受け、郷里の山形県に戻ってからはリヤカーで東京裁判酒田出張法廷に出廷した。なお、この時リヤカーを引いたのは後に空手界の重鎮となる゙寧柱と大山倍達だといわれ、両名とも石原莞爾が組織した東亜連盟の会員だった。さて、終戦直後の8月28日付『読売報知新聞』に「満州事変首謀者」石原莞爾のインタビュー記事が掲載された。「戦に敗けた以上はキッパリと潔く軍をして有終の美をなさしめて、軍備を撤廃した上、今度は世界の輿論に、吾こそ平和の先進国である位の誇りを以て対したい。将来、国軍に向けた熱意に劣らぬものを、科学、文化、産業の向上に傾けて、祖国の再建に勇往邁進したならば、必ずや十年を出ずしてこの狭い国土に、この膨大な人口を抱きながら、世界の最優秀国に伍して絶対に劣らぬ文明国になり得ると確信する。世界は、猫額大の島国が剛健優雅な民族精神を以て、世界の平和と進軍に寄与することになったら、どんなにか驚くであろう。こんな美しい偉大な仕事はあるまい」・・・国中焼け野原の惨状にあって敬服すべき前向きさだが、石原莞爾の期待どおり日本人は十余年にして奇跡の戦後復興を成遂げた。
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東條英機は陸軍中将の父に倣い陸軍幼年学校・陸士(17期)・陸大へ進み純粋培養の陸軍官僚に成長、ドイツ留学中に長州閥打倒・国家総動員を提唱する永田鉄山(陸士16期)に私淑し「バーデン・バーデン密約」に加盟、陸大教官に就くと入試選考工作で長州系人材の排除に努めた。東條英機は永田鉄山の腹心として「二葉会」「木曜会」「一夕会」で重きを為したが、能力凡庸で陸軍の花形部署には就けず、一夕会が永田鉄山(統制派)と小畑敏四郎(皇統派)の対立で分裂すると、永田信者の東條は皇道派の目の敵にされ非主流ポストをたらい回しにされた。林銑十郎を陸相に担いだ永田鉄山が枢要の陸軍省軍務局長に座り統制派が優勢となったが、東條英機の復権は成らず、「もう少し待て、必ず何とかするから」と慰めた永田が皇道派のテロに斃れると、東條は満州の関東憲兵隊司令官に飛ばされ予備役編入を待つ身となった。が、直後に驚天動地の二・二六事件が発生、一夕会系だが無党派の石原莞爾(21期)は寺内寿一(長州閥の寺内正毅の息子)を陸相に担ぎ軍規粛清を掲げ皇統派を断罪、真崎甚三郎・荒木貞夫ら七大将を予備役に追込み将佐官を一掃した。陸軍中央の主導権は石原莞爾が握ったが、皇統派を葬った武藤章・田中新一(25期)ら統制派が圧倒的優勢となり最年長の東條英機も関東軍参謀長に栄転、東條は日産の鮎川義介と満鉄の松岡洋右と結んで陸軍の満州国支配を確立し、ソ満国境の武力衝突事件で暴走、日中戦争が始まると察哈爾方面を率い独断で戦線を拡大し名を上げた。一方、陸軍中央は日中戦争不拡大を説く石原莞爾と「華北分離」を説く武藤章ら統制派の対立で大混乱に陥り、石原が板垣征四郎を陸相に担ぐと統制派は東條英機を陸軍次官に擁立、東條は多田駿参謀次長と衝突し共に更迭されたが、第一次近衛文麿内閣の日中戦争拡大政策で統制派が勝利し石原一派を追放した。東條英機は新設の陸軍航空総監に左遷されたが、停戦講和へ傾いた武藤章を田中新一ら強硬派が圧倒し東條を陸相に擁立、東條陸相は田中の戦略に従い日独伊三国同盟・関特習・南部仏印へと第二次・第三次近衛文麿内閣を牽引し、後継首相として対米開戦を決断した。
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陰険で執念深い東條英機は、憲兵を駆使して容赦なく反対者を粛清し徹底的な言論統制を敷いた。皇統派に憎まれ関東軍の憲兵隊司令官に左遷された東條英機は自軍の共産分子摘発に精を出し、関東軍参謀長に栄転すると憲兵を私用に使い始め「憲兵のドン」と恐れられた。関東大震災時に大杉栄一家殺害事件を起した憲兵大尉の甘粕正彦は、陸士恩師の東條英機の影響下にあり、出獄後は満州で陸軍の謀略に挺身し「夜の帝王」と恐れられた。さて、陸相・首相に上り詰めた東條英機は、身の回りの些事にも憲兵を使って目を光らせ陰険な報復を繰返した。東條英機は、宿敵の石原莞爾を予備役に追込んだ後も憲兵を貼付けて執拗に動静を探り、統制派の武藤章が対米講和へ傾くと反東條内閣の動きを憲兵情報で捉え前線のスマトラ島へ放逐、対米開戦を主導した田中新一まで反抗を理由にビルマ方面軍へ追放した。東條英機の魔手は陸軍外へも及び、東條の独裁を糾弾し内閣打倒を企てた中野正剛を憲兵隊の監禁で自殺へ追込み、東條批判をした言論人の松前重義や海軍の肩を持った毎日新聞の新名丈夫を徴兵した陰謀も明らかになっている。カタブツの東條英機は部下や身内の醜聞にも目を光らせた。あるとき、東條英機は甥の山田玉哉陸軍少佐を首相官邸に呼びつけ、いきなり「このバカ者!」と怒鳴りポカポカと殴りつけた。意味不明の山田が問い質すと「貴様は女の手を握ったろう!」と言う。東條英機の妹(次枝)宅を訪問したさい酒に酔って若い女中の手を握った一件に思い当たった山田が「アレか」と呟くと、東條は「アレとは何だ!」と激高しまた殴ったという。首相が官邸で陸軍少佐をしばきあげるという前代未聞の珍事であったが、粘着質の東條英機は山田を赦さず最前線のサイパン送りにすべく画策したという。
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東條英機は非常に几帳面・生真面目な性格で「メモ魔」といわれた。現在の官僚と同様に卒業席次で進路が決まる陸軍にあって、東條英機は陸大入試に一度失敗するなど超エリート組には入れず「師団長になれれば十分」なクラスだったが、勤勉さと抜群の暗記力でセンス不足をカバーし、永田鉄山の腹心として頭角を現した。東條英隆の東大の卒業式で来賓挨拶をした父の東條英機は「人間は学校の席次では決められない。卒業した後の努力が大切である」と激励したところまでは良かったが、「自分がその良い例である。陸軍幼年学校に入ったころは劣等生だったが、努力によって今日の地位を得た」と臆面も無く自画自賛した。対米開戦を決断した東條英機首相は、戦局が悪化しても妥協を拒み徒に被害を拡大させたが、「戦地に散った英霊に申し訳が立たない」とか「現地司令官の面子が立たない」など心情的な理由も大きかったようであり、律儀な性格が裏目に出た結果ともいえるだろう。首相に陸相・参謀総長を兼ね独裁的権力を握った東條英機は反対者を容赦なく弾圧したが、ノモンハン事件の辻政信・インパール作戦の牟田口廉也ら自分を慕う子分は愚か者であっても贔屓の引き倒しで保護し続けた。
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戦争終結が決定的となると、阿南惟幾(最後の陸相)・杉山元(対米開戦時の参謀総長)・橋田邦彦(東條英機内閣の文相)・大西瀧治郎(山本五十六の腹心で最初の特攻隊の指揮官)など、要人が次々と自殺した。日本に乗込んだマッカーサーのGHQは、A級戦犯指定者を日本政府に通告し次々と逮捕したが、絶対死刑にしたい東條英機には自殺の間を与えず通告無く米軍憲兵を差向けた。逮捕を予期していた東條英機はすぐさま拳銃自殺を図ったが、アメリカ軍に救助され軽傷で済んだ。医師に相談して心臓部分に丸印をつけてもらっていたが、左利きのため急所を外したのだという。自作の『戦陣訓』で「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すことなかれ」と説いた東條英機の自殺失敗と逮捕は、多くの国民を失望させた。なお、東條英機が『戦陣訓』を国民に配布したさい石原莞爾は「バカバカしい。こんなものは読まなくてもいい」と公言、ますます東條に憎まれ陸軍追放の決定打になったという。
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傲岸不遜を自称する武藤章は、陸士同期(25期)の田中新一と共に永田鉄山(16期)没後の陸軍「統制派」を指揮した。盧溝橋事件が起ると、参謀本部作戦課長の武藤章は「華北分離工作」を起草し強硬に戦線拡大を主張、日中和解に奔走する上司(作戦部長)の石原莞爾(21期)を「石原閣下が満州事変当時にされた行動を見習っている」と愚弄し、統制派最年長の東條英機(17期)を抱込んで石原一派を失脚へ追込み陸軍中央の主導権を奪った。が、一撃を加えれば蒋介石政権は屈服し日中戦争は早期に片付くという武藤章の「中国一激論」は忽ち行詰り石原莞爾の予期どおり日中戦争は泥沼化、武藤は潔く停戦講和へ転じトラウトマン工作などに加担したが第一次近衛文麿内閣の強硬姿勢を覆せず、陸軍では田中新一・東條英機らの強硬論が支配的となった。武藤章は南進政策の容認などで田中新一と妥協しつつ日中講和と対米開戦回避に努めたが形勢逆転はならず、太平洋戦争の戦局が悪化すると軍務局長の要職にあって戦争終結を唱え岡田啓介らの東條英機内閣打倒の策動に加担したが、東條の憲兵に探知され近衛師団長として前線のスマトラ島へ送られ、第14(フィリピン)方面軍司令官の山下奉文の招聘で参謀長に就任し同地で終戦を迎えた。そして東京裁判、極刑はないとみられた武藤章に無念の絞首刑判決が言渡された。判決後、東條英機は武藤章に「巻き添えにしてすまない。君が死刑になるとは思わなかった」と謝ったという。敵軍の矢面に立つ前線指揮官は報復の標的にされやすく、山下奉文は終戦早々にフィリピンで処刑され、板垣征四郎・木村兵太郎・土肥原賢二・松井石根も死刑判決を受けている。また、陸軍人の事跡を虚実取混ぜてGHQに注進した「裏切り者」田中隆吉の証言が武藤章を極刑に追込んだともいわれる。武藤章は笹川良一に「私が万一にも絞首刑になったら、田中の体に取り憑いて狂い死にさせてやる」と語ったが、田中隆吉は晩年「武藤の幽霊が現れる」と精神を病み何度か自殺未遂を起している。
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田中新一は最強硬路線を牽引した「イケイケ陸軍人」で対米開戦のキーマン、永田鉄山(陸士16期)の後継者を自認し陸士同期(25期)の武藤章と共に「統制派」を指揮した。関東軍参謀から陸軍省軍務局軍事課長に就いた田中新一は、武藤章参謀本部作戦課長の「華北分離工作」を支持し石原莞爾(21期)ら不拡大派を退け日中戦争を拡大させた。日中戦争泥沼化に連れ武藤章軍務局長は日中講和・対米英妥協へ転じたが、陸軍では田中新一参謀本部第1部長らの強硬論が支配的となり、東條英機陸相を動かし松岡洋右外相と提携して近衛文麿内閣を日独伊三国同盟・関東軍特種演習・南部仏印進駐へと誘導、永田鉄山以来の宿志「国家総動員体制」も実現させた。陸軍の主導権は永田鉄山・石原莞爾・武藤章・田中新一へと変遷したが「議論は過激へ流れる」典型例であった。陸軍は一枚岩で亡国の対米開戦へ暴走したわけではなく、生産力が懸絶するアメリカに勝てないことは自明であり、東條英機さえ土壇場まで回避策を模索した。南部仏印進駐で開戦を決意したアメリカは石油禁輸に踏切り、日本は到底呑めない中国・満州からの完全撤退を突き付けられたが、それまでは交渉の余地は残されていた。そうしたなか田中新一は、武藤章らの慎重論を抑えて南進政策を強行し早々に対米英妥協を放棄、ナチス・ドイツとの同盟で対決姿勢を鮮明にし、戦争ありきの強硬策を推し進め東條英機内閣に対米開戦を決断させた。さらに田中新一は正気の沙汰とは思えない米ソ二正面作戦を画策、独ソ戦が始まると松岡洋右と共にソ連挟撃論を唱え関東軍に大兵力を集中させたが(関東軍特種演習)、間もなく南進一色となり対ソ開戦は回避された。太平洋戦争の帰趨が決しても「負けを認めない」田中新一は強硬姿勢を貫き、ガダルカナル島撤退に猛反発して佐藤賢了軍務局長と乱闘事件を起し東條英機首相を面罵、前線のビルマ方面軍に飛ばされインパール作戦に関与したが、終戦直前に予備役編入となり無事に生還した。東京裁判では、天皇の温存を図るGHQが統帥権(参謀本部)関連の訴因を外したことが幸いし、田中新一は起訴を免れ、1976年まで83歳の長寿を保った。
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明治維新後の軍部は、西郷隆盛の薩摩閥と大村益次郎の長州閥が勢力を二分したが、西南戦争で西郷隆盛と共に桐野利秋・村田新八・篠原国幹ら薩摩閥を担うべき人材が戦死、大山巌や西郷従道は残ったものの長州閥が俄然優勢となった。長州藩の木戸孝允・大村益次郎・伊藤博文は文民統治を重視したが、運よく奇兵隊幹部から長州軍人のトップに納まった山縣有朋は木戸の死でタガが外れ、長州閥で陸軍を牛耳り政治に乗出して軍拡を推進、伊藤の没後は直系の桂太郎・寺内正毅・田中義一を首相に据え政府に君臨した。外征志向の山縣有朋は強大な軍隊を志し、プロシア流の皇帝直属軍すなわち「天皇の統帥権を大義名分とする自律的な軍隊」の建設に邁進、軍事予算の獲得と外征に励みつつ軍部大臣現役武官制などで文民統治を排除した。「金があれば早稲田の杜を水底に沈めたい」ほど政党嫌いの山縣有朋は自由民権運動の弾圧に執念を燃やしたが、これも「国民の軍隊」を作らせないための自己防衛であった。大村益次郎の遺志を継いだ山田顕義と三好重臣・鳥尾小弥太・三浦梧楼・谷干城らはフランス流の市民軍を構想し「外征を前提とした軍拡は国家財政の重荷となりむしろ国力を弱める」と正論を説いたが、山縣有朋は官有物払下げ事件に乗じ山田一派を追放、思惑どおり政府や国民の干渉を受けない自律的な軍隊を作り上げた。山縣有朋は死ぬまで極端な長州優遇人事を貫いたが、優秀な野津道貫・児玉源太郎らが死ぬと人材が枯渇、山縣の死の前年に「バーデン・バーデン密約」を交し長州閥打倒で結束した永田鉄山・小畑敏四郎・東條英機・石原莞爾ら中堅幕僚「一夕会」が下克上で陸軍を乗取り満州事変・日中戦争・仏印進駐・対米開戦へと暴走した。一方、当初陸軍の一部だった海軍では、薩摩人の山本権兵衛が西郷従道を擁して大胆な組織・人事改革を行い日清・日露戦争の活躍で陸軍から完全独立、出身地に拘らない人材登用で加藤友三郎(広島)・斎藤実(仙台)・岡田啓介(福井)・米内光政(岩手)・山本五十六(越後長岡)・井上成美(仙台)・鈴木貫太郎(下総関宿)らを輩出したが、後継指名した伏見宮博恭王が艦隊派首領となり対米開戦を主導した。
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関東軍は満州を支配する奉天軍閥の張作霖を傀儡に満州支配の機を窺っていた。張作霖は元来馬賊の一頭目で、日露戦争時にロシアの対日スパイ工作に従事(遼河右岸新民屯営長)、日本軍に逮捕され死刑宣告を受けたが、井戸川辰三軍政署長と田中義一参謀が生かして利用した方が得策と児玉源太郎参謀総長を説得した。日本軍の援助を得た張作霖は一躍満州の支配者となり、大元帥を僭称して華北を襲い安徽派・直隷派の北洋軍閥から北京政府を奪取したが、増長し自立の色を立てたため日本軍に見放され、蒋介石の北伐軍が北京に迫ると忽ち奉天へ逃避した。陸軍中央では再び張作霖を援助し国民政府軍と対決すべしとの意見もあったが、傀儡の張を捨て満州の直接支配を期す方針に決定、我が意を得た関東軍の河本大作高級参謀らは奉天へ向かう列車を爆破し張を殺害した(張作霖爆殺事件)。永田鉄山・石原莞爾ら一夕会系幕僚および一部陸軍首脳の組織的犯行であったと考えられる。関東軍は中国人アヘン中毒者の仕業と偽る隠蔽工作を施したが内地ではすぐに真相発覚、西園寺公望元老も知るところとなり、昭和天皇は事件の究明を強く求めたが、西園寺は陸軍の脅迫で脱落し、張作霖の黒幕にして陸軍長州閥首領の田中義一首相は軍法会議を図るも配下にも裏切られ内閣総辞職でお茶を濁した。昭和天皇に叱責された田中義一は間もなくショック死し(自殺説あり)、政友会は74歳の犬養毅を後継総裁に担出した。以後、昭和天皇は政府への口出しを控え、統帥権の監視を担わされた西園寺公望ら天皇側近は「君側の奸」と敵視されることとなる。陸軍首脳の自制で張作霖爆殺事件は不拡大に終わり一夕会系幕僚の野望は挫折したが、続く濱口雄幸内閣も事件究明を怠り、結果として統帥権違反の重罪を追認したことが満州事変、五・一五事件、二・二六事件、日中戦争拡大へ続く軍部暴走の呼び水となった。なお軍法会議を免れた河本大作は、軍役から外されたものの陸軍の引きで満鉄理事・満州炭鉱理事長に納まっている。
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張作霖の奉天軍閥を息子の張学良が引継ぎ、拠点の奉天城・北大営に入って新たな満州の支配者となった。父親を日本軍に殺害された張学良は、国民党に合流して日本に対抗する姿勢をとった。張学良軍25万人に対して関東軍は1万人であり、日本の権益と居留民の安全が脅かされる事態となった。一夕会の永田鉄山や石原莞爾らは、関東軍を増強して満州を武力制圧すべしという満蒙領有方針を主張し、陸軍内部で活発に運動した。一方、昭和天皇と西園寺公望らの重臣グループ、幣原喜重郎や濱口雄幸らの民政党は、武力によらずあくまで条約によって日本の権益を守るべしという国際協調路線のスタンスをとった。
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「張作霖爆殺事件」当時、対中国政策を巡り3つの構想が対立していた。第一は田中義一政友会内閣の「蒋介石の国民政府による中国本土統治を容認するが、中華の枠外にある満蒙については張作霖の奉天軍閥を用いて権益を確保すべし」とする「満蒙特殊地域論」、第二は幣原喜重郎や濱口雄幸ら民政党の「協調外交」路線で「満蒙を含む中国全土の国民政府による統一を容認し、日中友好に基づく経済交流の拡大により利益を得べし」と唱えた。第三は関東軍首脳の「増長した張作霖を排除して満蒙に親日政権を樹立し、国民政府からの分離独立を強行すべし」という強硬路線で、実際に関東軍高級参謀の河本大作らが張作霖爆殺事件を引起したが、昭和天皇と西園寺公望ら重臣が不拡大方針を貫いたため打上花火で終わった。これに対し「木曜会」(永田鉄山らの一夕会に合流)の石原莞爾は「傀儡政権などの過渡的措置は不要で満蒙を領有(直接統治)すべし」と更に強硬な「満蒙領有方針」を主張した。陸軍一夕会幕僚らは張作霖爆殺事件の反省を踏まえ参謀本部など陸軍中央への根回しとマスコミの抱込みを図り、関東軍参謀の石原莞爾・板垣征四郎らが「柳条湖事件」を決行、若槻禮次カ内閣が事後承認したため「満州事変」へ拡大し張学良(張作霖の嫡子)軍を掃討して満州全域を軍事制圧した。「満蒙領有」には至らなかったものの、石原莞爾・板垣征四郎らは若槻禮次カ内閣から「満州独立方針」を引出し傀儡国家「満州国」を樹立した。
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1929年、「暗黒の木曜日」に始まったニューヨーク株式市場の大暴落が世界恐慌に発展した。不況の波はすぐに日本にも押し寄せ、農産物価格の下落により農村は困窮化、全世界的な繊維不況と欧米列強によるブロック経済化の進展により輸出産業の柱であった生糸・綿糸・綿布産業も壊滅的打撃を蒙った。追込まれた日本は国を挙げて中国大陸に活路を求め、満州事変勃発、日中戦争拡大と続くなかで、高橋是清蔵相が主導した積極財政政策により軍事費が急拡大して第二次大戦終結まで国家予算の70%という異常な水準で高止まりした。一方、旺盛な軍需により重化学工業が勃興、中国市場の獲得で繊維輸出も持ち直し、日本経済は早くも1933年に回復基調に入り翌年には世界恐慌前の水準に回復、他の先進国より5年も早く経済回復を果した。高橋是清は、膨張した財政支出の正常化を図るため軍拡抑制に舵を切ろうとしたが、国家総動員体制の構築を企図する軍部と軍需景気に沸く世論を抑えられず、軍部や右翼に憎まれて「君側の奸」に加えられ、二・二六事件で斬殺されてしまった。以降も軍需主導の経済成長は進み、1940年には、鉱工業指数は世界恐慌前の2倍、国民所得は140億円から320億円と2.3倍に拡大、超高度というべき経済成長を遂げた。しかし、国力を度外視した戦争経済は、過剰な軍国主義的風潮と軍部の強権化、民生の圧迫など多くのひずみを生んだ。また、国策主導による統制経済への傾斜は、大資本による経済寡占化を進展させ、第二次大戦終結時には三井・三菱・住友・安田の四大財閥が全国企業の払込資本の半分を占めるという「開発独裁」状態をもたらした。財閥に富が集中する一方で農村では困窮化が進むという「格差社会」情勢は、社会主義的風潮と軍部主導による「国家改造」への期待を醸成し、安田善次郎暗殺、濱口雄幸首相襲撃、血盟団事件、五・一五事件、二・二六事件と続いたテロの温床となり、ますます軍国主義化を助長して格差はさらに拡大するという皮肉な結果をもたらした。
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濱口雄幸首相銃撃事件、血盟団事件、五・一五事件、二・二六事件と続いたテロの背景には、軍部における下克上の風潮に加え、世界恐慌後長引く不況と金解禁等政府の失策に対する民衆の憤りがあった。デフレ不況で農村の窮迫が深刻の度合いを深める中、政府は有効な手立てを講じることができず、濱口雄幸内閣に至っては時機を謝った金解禁で不況を悪化させたうえに財閥に巨富をもたらす結果を招いた。何時の時代でも不況の打開策で最も手っ取り早いのは戦争であり、ジャーナリズムの扇動もあって、世論は好戦ムード一色となり軍部への期待が高まった。兵卒の大多数は農村出身者であり、彼らの悩みに直に接する隊付青年将校達は最も敏感に反応し井上日召・北一輝・西田貢ら民間右翼の思想に共鳴、グループを結成して急進的な「国家改造」を企てた。方や陸軍上層部では、下克上で実権を掌握した中堅幕僚グループ・一夕会が、永田鉄山率いる統制派と真崎甚三郎・荒木貞夫・小畑敏四郎らの皇道派に別れて対立を深めていた。隊付青年将校グループは、思想信条が近い皇道派と結びつき、武力クーデターによって「君側の奸」を排除し真崎・荒木を首班とする軍部主導内閣を打ち立てて一気に「国家改造」を果たそうとした。こうした事情のもとに行われた隊付青年将校グループと民間右翼によるテロは、金解禁を実施した濱口雄幸と井上準之助、金解禁で儲けた三井の団琢磨を殺害した後、犬養毅を斃して政党政治を葬り、二・二六事件でピークに達した。二・二六事件は、統制派の林銑十郎陸相・永田鉄山軍務局長により陸軍中枢から追われつつあった皇道派の起死回生の反撃という意味合いもあり、1500人もの反乱軍による一大内乱事件に発展した。結局、二・二六事件は昭和天皇の英断により断固鎮圧され、陸軍中央では皇道派幕僚が完全に閉め出され、一夕会・非皇道派の石原莞爾、続いて武藤章・東條英機ら統制派の天下となった。
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張作霖爆殺事件後、日本が実効支配する満州では排日・侮日運動が高まり開拓団ら居留民の安全が脅かされる状況が続いていた。満州・華北視察で憂慮を深めた「一夕会」の永田鉄山軍事課長は陸軍中央に「五課長会」を設置し(委員長は参謀本部第二部長の建川美次で永田盟友の岡村寧次も参加、翌年永田側近の東條英機・今村均らが加わり「七課長会議」へ発展)「武力による満州問題解決を辞さないが、1年間は隠忍自重」とする「満蒙問題解決方策の大綱」を定め関係省庁の承認を得て正式に関東軍へ通達した。「無主の地」とはいえいきなり植民地にすると各国の干渉を招くため、先ずは満州皇帝を擁立して親日政権を樹立し独立国の体裁を整えることとされたが、早急な「満蒙領有」を企図する関東軍の石原莞爾作戦参謀・板垣征四郎高級参謀らは傀儡政権樹立には否定的であった。また一夕会も一枚岩ではなく、遵法精神が篤く陸軍の統制を重視する永田鉄山は(後に「統制派」の由来となる)関東軍の独断専行も辞さないとする石原莞爾らの暴走抑止に努めた。そうしたなか中村震太郎大尉殺害事件および万宝山事件が発生、陸軍省・参謀本部・関東軍の主要実務ポストを握る一夕会系幕僚は南次郎陸相・金谷範三参謀総長・武藤信義教育総監以下の陸軍首脳から満州問題武力解決の内諾をとり、焦点の関東軍司令官には剛毅で鳴らす本庄繁大将が任命された。強引にお墨付を得た関東軍の石原莞爾・板垣征四郎らは直ちに武力解決の謀略に着手、陸軍中央が制止に動くと計画前倒しで柳条湖事件を決行し思惑通り満蒙の武力制圧を成功させた(満州事変)。
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満州問題武力解決を強行する陸軍の謀略を知った昭和天皇と元老西園寺公望は南次郎陸相を呼びつけ停止を厳命、腰砕けとなった南は金谷範三参謀総長に相談のうえ止め役として建川美次作戦部長を満州へ派遣した。これを知った関東軍の石原莞爾作戦参謀・板垣征四郎高級参謀らは決行か中止かで大いに迷ったが、三谷清憲兵分隊長・今田新太郎駐在分隊長ら若手の強硬派に押され遂に実行を決意した。奉天に到着した建川美次を料亭菊文に招いて酒豪の板垣征四郎らが酔潰している間に、今田新太郎ら実行部隊は奉天郊外の柳条湖付近で鉄道を爆破した(柳条湖事件)。満鉄の鉄道爆破は、関東軍条例第三条に基づく合法的軍事出動の理由を得るためであった。菊文を飛出した板垣征四郎は張学良軍の先制攻撃と断じて奉天守備隊長らに奉天城・北大営の攻撃を命令、旅順の関東軍司令部では石原莞爾が本庄繁司令官を説伏せ関東軍を奉天へ進発させた。奉天作戦に続くハルビン侵攻を期す石原莞爾は、張学良軍が奉天周辺だけで2万・満州全土で25万もいるのに対し関東軍は1万余という戦力不足を補うため、朝鮮駐留軍の越境増援を画策し朝鮮軍作戦参謀の神田正種の内諾を得ていた。が、奉天で待っていたのは金谷参謀総長からの不拡大方針決定を伝える電報であり、本庄繁司令官は翻意して即時停戦を命じ「ハルビン侵攻などもってのほか」とした。が、諦めない石原莞爾らは「ハルビンが駄目なら吉林省」と侵攻作戦を書き直し本庄司令官に談判した。「沢庵石」の異名をとる本庄繁は撥ね付けたが板垣征四郎の強談判に屈し、石原莞爾参謀は戦線を満州全域へ拡大、林銑十郎司令官の独断で朝鮮駐留軍も越境来援し日本軍は瞬く間に張学良軍を掃討し満州全域を制圧した(満州事変)。このとき本庄繁が頑として拒否を貫いていれば、張作霖爆殺事件と同様に満州事変は忽ち沈静化し石原莞爾・一夕会の大陸浸出の野望も挫折した可能性が高い。
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石原莞爾関東軍作戦参謀と示し合わせていた神田正種朝鮮軍作戦参謀は、満州事変が起ると、朝鮮軍を率いて国境線の鴨緑江まで進んで待機した。金谷範三参謀総長は昭和天皇に朝鮮軍の越境出動を奏上したが、頑なに拒絶された。ところが、林銑十郎朝鮮軍司令官は独断で出動命令を下し、1万人以上の兵員を満州に進発させた。大元帥である天皇の命令なくして軍隊を動かすことは大犯罪であり、軍法会議で死刑になる決まりであった。慌てた陸軍首脳はこれを閣議に持ち込み、武力解決反対の若槻禮次カ首相や幣原喜重郎外相らは南次郎陸相を吊るし上げたが、林銑十郎司令官の越境朝鮮軍が既に満州に入ったとの報を聞くと若槻首相は「それならば仕方ないじゃないか」と一転、林司令官の行動の追認を閣議決定したばかりか、軍事費の特別予算拠出を決定、軍事予算急拡大の端緒を開いた。天皇の意思は無視されたわけだが、閣議決定には異を唱えない慣例のため、やむなく天皇も認可した。なお、新聞各紙は、林司令官を「越境将軍」などと持上げて犯罪行為を擁護した。
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対外硬派の松岡洋右外相(元満鉄副総裁)の演説を契機に「満蒙は日本の生命線である」とする論調が活発化し、マスコミが煽ったため世論は「満蒙生命線論」に染まった。「二十億の国費、十万の同胞の血をあがなってロシアを駆逐した満州は日本の生命線である」という分り易いキャッチは瞬く間に国民を捕え、後に親米派に転じる吉田茂(奉天総領事)なども「満蒙の支配なくして経済的な繁栄も政治的な解決もない」と歓迎する有様だった。当時の弱肉強食の国際情勢からすると、戦線を満州に留める限り、合理的且つ現実的な方向性ではあったが、過剰な世論の後押しは永田鉄山・石原莞爾ら陸軍幕僚に決起を促す重要な支援材料となり、新聞記者は陸軍の接待攻勢に進んで抱込まれた。そして関東軍参謀の石原莞爾・板垣征四郎が柳条湖事件を起し満州事変が勃発すると、当時ダントツの部数を誇った朝日新聞・東京日日新聞(毎日新聞)など新聞各紙は陸軍礼賛一色となり、新聞に煽られた世論は好戦ムードに染まった。新聞各紙は号外連発で民衆を煽り、巨費を投じた戦争報道で大きく部数を伸ばし、味をしめて完全に陸軍の宣伝機関に堕した。また、満州事変への関心の高まりはラジオの普及も促進し、約65万人だった契約者数は半年後に105万人を突破した。この後、勇ましい戦争記事を載せないと他紙に部数を奪われるという自縄自縛に陥った新聞業界は終戦まで軍部礼賛を継続、「社会の木鐸」の使命を放棄したマスコミは日本国民を破滅へ誘う笛吹童子となった。
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若槻禮次カ内閣の満州事変不拡大方針を不服とする橋本欣五郎(陸士23期)陸軍中佐ら「桜会」が、北一輝・西田悦・大川周明ら民間右翼と結託し東京で武装クーデター未遂事件を起した(十月事件)。桜会は同年3月にも「国家改造」を企てたが、非合法手段を認めない「一夕会」の永田鉄山・岡村寧次(16期)らの反対で首相に担ぐべき宇垣一成陸相に逃げられ失敗していた(三月事件)。捲土重来を期す橋本欣五郎は、親友の石原莞爾(21期)が起した満州事変に呼応し、若槻禮次カ首相・幣原喜重郎外相以下の政府要人を暗殺し荒木貞夫陸軍中将の組閣大命を得て軍事政権を樹立する、という陸軍史上最大級のクーデターを企てた。が、「宴会派」といわれた桜会の計画は永田鉄山が「たとえこころざしは諒とされても、こんな案で大事を決行しようと考えた頭脳の幼稚さは、驚き入る」ほど杜撰なもので、忽ち陸軍中央に発覚し首謀者は憲兵隊に一斉検挙された。永田鉄山は橋本欣五郎の極刑を主張したが、荒木貞夫・石原莞爾らの擁護論が通り内々に重謹慎二十日の軽処分で済まされ、陸軍は又も悪しき前例を積重ねた。処分を免れた大川周明は血盟団事件で團琢磨と井上準之助を暗殺し、北一輝・西田悦は陸軍青年将校を扇動し二・二六事件を引起すことになる。橋本欣五郎は反乱将校を擁護し予備役へ回されたが、日中戦争で軍務に復帰し、近衛文麿首相の新体制運動に加盟し翼賛選挙で衆議院議員となった。
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第二次若槻禮次カ内閣は8ヶ月の短命に終わったが、在任の1931年は極めて重大な年であり、切所に政権を担った若槻首相は重大な失策を犯した。組閣後すぐに柳条湖事件が起り満州事変へ拡大、若槻禮次カ内閣は「不拡大方針」を決定し南次郎陸相を突上げたが、林銑十郎司令官の朝鮮軍が越境満州に入ったと聞くと「それならば仕方ないじゃないか」とあっさり追従、満州事変と「越境将軍」の追認を閣議決定したばかりか、戦費の特別予算編成を示唆し軍事予算急拡大を規定路線化した。柳条湖事件ではオッカナビックリだった石原莞爾らは勇気百倍し「満蒙問題解決案」を策定、帰国した板垣征四郎が優柔不断な陸軍首脳を説伏せ若槻禮次カ内閣は「満州国建国方針」を承認、軍部暴走を運命付けた決定的瞬間であった。天皇の「統帥権」を侵した石原莞爾・板垣征四郎・林銑十郎らは軍法会議で極刑に相当する重罪犯だったが、若槻禮次カ内閣の事後承諾で逆に評価される立場となり処罰どころか陸軍中枢への道を歩んだ。金解禁が不況に拍車をかけるなか井上準之助蔵相は金輸出再禁止を拒み続け、満州事変処理で機能停止に陥った民政党内閣は閣内不一致となり若槻禮次カは首相を投出した。加藤高明内閣より憲政会・民政党政権の外相として対英米協調・対中国不干渉を主導してきた幣原喜重郎(加藤と同じく岩崎弥太郎の娘婿)は政界を去り「幣原外交」は終焉、日本外交の主導権は軍部および松岡洋右・大島浩・白鳥敏夫ら強硬派へ移った。政友会が政権を奪回したが、五・一五事件で犬養毅首相が斃され政党内閣は命脈を絶たれた。右翼やマスコミの軍部礼賛が盛上るなか、石原莞爾らは清朝の溥儀を担出し傀儡満州国を建国、松岡洋右全権が国連脱退のパフォーマンスを演じ日本の孤立化が始まった。民政党総裁を町田忠治に譲った若槻禮次カは重臣会議に列し、米内光政・岡田啓介らの平和穏健路線を支持した。第二次大戦後、東京裁判検事のジョセフ・キーナンは岡田啓介・米内光政・若槻禮次カ・宇垣一成の四人を「戦前日本を代表する平和主義者」と持上げたが、実際の若槻は身を挺して国難にあたったわけでなく東條英機内閣打倒に一票を投じたに過ぎない。
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ワシントン・ロンドンで英米と軍縮条約を締結した海軍主導で軍事費の縮小が進んでいたが、満州事変勃発により一転、若槻禮次カ内閣は陸軍の永田鉄山・石原莞爾らに引きずられ軍事費の急増が始まった。1930年には約5億円とアメリカの3分の1・イギリスの半分ほどだった軍事費は、1931年から急拡大し、日中戦争開戦の1937年には50億円と十倍増してアメリカとイギリスの軍事費を上回るほどに膨張、1940年には遂に100億円を超えた。「財政の第一人者」高橋是清は、世界恐慌脱出のため軍事費を中心とする財政出動に賛成し日本は軍需バブルで他国より早く不況を脱したが、勇気をもって引締めに転じたため「君側の奸」に加えられ二・二六事件で殺害された。国家予算に占める軍事費の割合は、1930年には30%ほどだったのが、1937年以降は70%を超える水準で高止まりすることとなった。日独の軍拡に対抗するため英米も軍事費を増やしたが、それでも軍事予算割合は日本の半分程度に抑えられた。
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満州事変を成功させた関東軍参謀の石原莞爾・板垣征四郎らは、満州から欧米列強の関心を逸らすべく各国の租界が集中する上海で武力衝突事件を発生させた(第一次上海事変)。上海日本公使館付き陸軍武官の田中隆吉中佐が現地で謀略工作を担当、田中は石原莞爾から約2万円の工作費を受取り、「東洋のマタ・ハリ」といわれた愛人の川島芳子などを使い「反日分子」に偽装させた不逞中国人に上海市街を托鉢中の日本人僧侶一行5人を襲撃させ、うち2人が死亡する事件を引起した。上海駐在の日本軍は満州に続けとばかりに国民政府の十九路軍に迫り、両軍が発砲して大規模武力衝突に発展した。陸軍中央は犬養毅内閣を強迫して白川義則司令官の二個師団・約3万人の日本軍を上海に送込み、瞬く間に十九路軍を撃退した。「華北分離」を期す武藤章・東條英機ら統制派幕僚は蒋介石の拠る南京まで攻込むべしと主張したが、昭和天皇から不拡大の厳命を受けた白川義則司令官は決然と停戦命令を下し上海事変を終息させた。なお曲者の田中隆吉は、終戦後の東京裁判に際し虚実取り混ぜた陸軍の非道をGHQに暴露し「陸軍の裏切り者」と憎まれ、「私が万一にも絞首刑になったら、田中の体に取り憑いて狂い死にさせてやる」と憤激した武藤章は現実に無念の極刑へ追込まれた。さて、米英の干渉で上海事変の停戦講和がまとまり、吉日(昭和天皇誕生日・天長節)を選んで上海北部の公園で調印式が執り行われたが、祝宴の最中、朝鮮人尹奉吉が手榴弾を投込むテロを起し、白川義則司令官ほか1名が死亡、重光葵公使は右脚を失い、野村吉三郎中将(ハル・ノートで有名)・植田謙吉中将・村井倉松総領事らが重傷を負う大惨事となった(上海天長節爆弾事件)。白川義則も重光葵も国際協調派の要人であり、伊藤博文暗殺と同様に反日原理主義者のテロが逆効果を招く皮肉が繰返された。なお韓国併合後、日本による朝鮮国家建設と民生向上に伴い反日運動は終息、金九ら少数の反日原理主義者は上海に逃避するも相変わらず内ゲバに明け暮れ、後に韓国初代大統領となる李承晩は政争に敗れ欧米へ逃避中だった。
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満州事変当時の中国では、南京に拠る蒋介石の国民政府(国民党)が最有力ではあったが、分派した汪兆銘が広東政府を建てて国民政府に反抗、共産党勢力も勃興しつつあり、内戦乱麻は関東軍の石原莞爾らに付込む隙を与えた。そもそも漢民族にとって万里の長城外の満州は「化外の地」で自国意識は低く、蒋介石は共産党・赤軍征伐を最優先し満州事変を黙殺するスタンスをとっていた。また、欧米列強も満州に重要な権益を持たないため、満州に留まる限り日本との決定的対立は生じない状況であった。さらに事変以前に満州を支配した奉天軍閥の張学良も決戦を回避したため、若槻禮次カ内閣のお墨付を得た日本軍は寡兵をもって快進撃を続け、半年経たないうちに満州全域の制圧に成功した。満州事変首謀者の石原莞爾は「陸軍一の天才」と称されたが、ここまでの情勢推移を読んでいたとしたら凄い。
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「方針-満蒙を独立国トシ我保護ノ下ニ置キ、在満蒙各民族ノ平等ナル発展ヲ期ス」関東軍参謀の石原莞爾・板垣征四郎は東京に一時帰国し、「一夕会」同志と「満蒙領有の前段階として宣統帝溥儀を擁立して日本の傀儡政府をつくり、南京に拠る蒋介石の国民政府から切離して独立国を樹立する方針」を策定、関東軍に「1年間の隠忍自重」を促した永田鉄山軍事課長も撤収に伴う事態悪化を危惧し「満州以外に絶対に兵力を使わない」条件で「独立政権の設定」を承認、板垣が陸軍首脳と若槻禮次カ内閣を説得し「満州国建国方針」を認めさせた。独断専行で満州事変を引起した板垣征四郎・石原莞爾・林銑十郎・神田正種らは、軍法会議で極刑に相当する重罪犯であったが、この事後承諾で逆に評価される立場となり、処罰どころか陸軍で出世の道を歩んだ。軍部暴走を正当化する致命的失策を犯した若槻禮次カ内閣は思考停止に陥り退陣、民政党政権の対中国不干渉・国際協調(幣原外交)を主導してきた幣原喜重郎外相も政界を退き、軍部・右翼および近衛文麿・松岡洋右・大島浩・白鳥敏夫らの強硬論が日本外交を席巻する時代へ移った。「中国通」の犬養毅内閣も手を付けられないなか、関東軍は満州全域を制圧し新京(長春)に満州国政府を樹立し中華民国(蒋介石の国民政府)からの独立を宣言した。国際批判をかわすため満洲国執政(のち皇帝)に愛新覚羅溥儀(清朝最後の皇帝)を据え中国人国家の体裁を整えたが、実態は純然たる傀儡であり、激怒した蒋介石は大抗議声明を発表、反日世論が沸騰し国共合作復活・統一民族戦線を求める機運が高まった。満州国では石原莞爾の「五族協和」の理想のもと統制経済に基づく壮大な国家建設が試みられ、「産業開発五ヵ年計画」を主導した岸信介ら「革新官僚」が台頭、陸軍の東條英機(関東軍参謀長)主導で星野直樹(国務院総務長官)・鮎川義介(満州重工業開発社長)・岸信介(総務庁次長)・松岡洋右(満鉄総裁)らによる支配体制が確立された(弐キ参スケ)。
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軍部抑制のため政友会との連携を企図した若槻禮次カ内閣であったが、その発案者である安達謙蔵内相の離脱により総辞職、代わって政友会の犬養毅内閣が発足した。満州事変解決を求める国民は孫文とも交流した「中国通」の犬養毅首相に期待し、組閣直後の衆議院総選挙で与党政友会は301議席(民政党は146議席)を獲得し圧勝を収めた。民政党総裁を町田忠治に譲り一線を退いた若槻禮次カは、重臣会議に列して米内光政・岡田啓介らと共に平和穏健路線を唱えたが、特筆すべき事跡はない。さて、孫文とも交流があり自ら中国通を任じる犬養首相は、中国問題の解決を内閣の使命とした。陸相には永田鉄山軍事課長ら「一夕会」が推す荒木貞夫が就任し長州閥打倒へ向け大きく前進した。
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ロンドン海軍軍縮条約や第一次上海事変の不拡大に不満を抱く三上卓中尉・古賀清志中尉ら海軍青年将校の一団が、天皇をミスリードする「君側の奸を排除する」として武装蜂起し犬養毅首相を殺害した(五・一五事件)。新聞記者あがりの犬養毅は政界に転じても毒舌の皮肉屋で鳴らし、大の負けず嫌いだった。三上卓らが首相官邸に来襲すると犬養毅は「早くお逃げください」と促す村田警備官を制し「きみらは何者だ?」と応酬、落着いた態度で「待て、話せばわかる。撃つのはいつでも撃てる。話をしてからにしろ。靴くらい、ぬいだらどうだ」と諭すも三上は「問答無用!」と叫んで銃弾を浴びせ逃走、犬養はタバコに火をつけ「いまの若いものたちを、もう一度呼んでこい。わしがよく話してやる」と話した。頭部に命中した2発の銃弾は急所を外れていたが、銃傷を軽く看た医師団のミスもあり数時間後に犬養毅は死亡した。軍部が「君側の奸」と憎む西園寺公望元老・牧野伸顕内大臣・鈴木貫太郎侍従長も狙われたが難を逃れた。現役の軍人が首相を殺すという大犯罪であったが、海軍内部では艦隊派(軍拡派)の東郷平八郎元帥・加藤寛治大将を筆頭に同情論が支配的で、国民からも助命嘆願運動が起り、首謀者の三上卓と古賀清志が禁固15年・実行犯2人が無期懲役と禁固13年に処されたものの残りは全部無罪という到底考えられない判決が下され、受刑者も6年後の特赦で放免となった。三上卓は、血盟団事件を起すも特赦放免の井上日召・菱沼五郎・四元義隆ら血盟団残党に合流し「ひもろぎ塾」を結成、右翼シンパの近衛文麿はテロ犯をまとめて内閣顧問に招聘する。五・一五事件後、テロに怯える西園寺公望と牧野伸顕は東京を離れたが、鈴木貫太郎は暴挙を容認した軍部を決然と非難し、高橋是清蔵相も財政の観点から軍事費抑制の主張を曲げなかった。政権争いに終始し機能不全に陥った政党政治は五・一五事件で命脈を絶たれ、続く斎藤実内閣(海軍)から第二次大戦終結まで「挙国一致内閣」が続くこととなった。五・一五事件の容認に味をしめた軍部や右翼は怖いもの知らずとなり、逆に政治家はテロに屈して抵抗を放棄、暴力が支配する恐怖時代への幕開けとなった。
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海軍青年将校が起した五・一五事件の収拾を図るべくテロに斃れた犬養毅に代わり海軍良識派の斎藤実が74歳にして組閣した。首相候補には平沼騏一郎と山本権兵衛の名も挙がったが、右翼の平沼は昭和天皇の「ファッショに近いものは不可」との意思により外され、山本は80歳の高齢であることと東郷平八郎元帥ら海軍艦隊派の反対により三度目の組閣を阻まれた。高まる軍部の専横を抑えるため、民政党と政友会からも閣僚を迎え入れた「挙国一致内閣」であった。なお斎藤実内閣の発足に伴い、長州閥打倒を掲げる永田鉄山ら「一夕会」が結党以来擁立に動いてきた荒木貞夫が陸相・真崎甚三郎が参謀次長(参謀総長は飾雛の閑院宮載仁親王)・林銑十郎が教育総監に就任し陸軍三長官の揃い踏みとなった。
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国際連盟が満州情勢調査のために派遣したリットン調査団は、3ヶ月間の調査を経て報告書を提出した。リットン報告書は、満州の特殊事情に配慮した中立的な内容であり、満州国承認を求める日本の主張は否認したものの、蒋介石政府の原状回復要求も現実的でないと退け、通商条約締結による和解を日中両国に勧告する公正なものであった。が、国際連盟事務局は満州国の分離独立を否認し日本軍は従来の満鉄守備区域まで撤退せよという「中日紛争に関する国際連盟特別総会報告書」をジュネーブ特別総会に提出、採択の結果反対は日本のみ、賛成42票の圧倒的多数で日本軍の満州撤退勧告が決議された。リットン報告書から大幅に中国寄りへ傾いた背景には、中国権益保全のため国民政府を援助する英米の策動があったものと考えられる。国際連盟総会に出席した松岡洋右全権(元外交官・満鉄総裁の衆議院議員)は「さよなら」の捨て台詞を残し日本外交は議場を退場し、斎藤実内閣は国際連盟に脱会を通告した。松岡洋右の対外硬パフォーマンスは日本の孤立と不協調を印象付ける暴挙であったが、国際連盟は今日の国際連合以上に無力で発起人のアメリカは議会の否決で参加せず、ソ連も不参加、ブラジルは7年も前に脱退し、ドイツとイタリアも日本に続いた。また直後に日中間で「塘沽停戦協定」が成立しており(日本側代表は永田鉄山の盟友で関東軍参謀副長の岡村寧次)、満州事変・国際連盟脱退から一直線に日中戦争へ突き進んだわけではない(「十五年戦争」は正確ではない)。とはいえ、さすがの松岡洋右もスタンドプレーの失敗を認めアメリカに身をかわし帰国を逡巡していたが、ジャーナリズムも世論も歓迎一色と知り勇躍凱旋、「栄光ある孤立」「ジュネーブの英雄」と持て囃され一層ファシスト化した。
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松岡洋右は米国オレゴン大学を出て外交官の傍流を歩んだが、山口出身ゆえに長州閥・後藤新平の引きで満鉄副総裁に就任、張作霖爆殺事件後の好戦ムードに乗じて「満蒙生命線論」を煽り、大衆人気を背景に衆議院議員へ転じた。「大東亜共栄圏」を唱える松岡洋右は、外務省主流の幣原喜重郎を弾劾し対英米協調・対中不干渉の「幣原外交」を打倒、1933年「満州国」が欧米の批判を浴びるなか首席全権として国際連盟総会に乗込み独断で派手な脱退劇を演じた。軍部と大衆の人気を得た松岡洋右は代議士を辞めて全国遊説し「政党解消運動」で首相を狙うも挫折、古巣の満鉄で総裁に就くと関東軍参謀長の東條英機を支持し親戚の岸信介・鮎川義介と共に陸軍主導の満州支配を実現させ「弐キ参スケ」に数えられた。1940年反欧米(現状打破)の近衛文麿が第二次内閣を組閣すると同志の松岡洋右は外相に就任、主要外交官40数名の一斉更迭など大粛清を強行し白鳥敏夫・大島浩・吉田茂ら積極外交派で外務省中枢を固め、田中新一・石川信吾ら陸海軍の強硬派と共に日独伊三国同盟および南進政策(北部仏印進駐)を主導した。が、徒に「漁夫の利」を狙う松岡洋右の場当り外交は激変する国際情勢で右往左往し脆くも破綻した。欧州を席巻するナチス・ドイツ軍の強勢をみた松岡洋右は「1940年秋頃」の大英帝国崩壊を予想し、第一次大戦における日英同盟と同様に日独同盟で参戦の口実を整え、米ソと不戦体制を維持しつつ手薄なアジアを攻め英仏蘭の植民地奪取を企図した(南進政策)。松岡洋右はスターリンと日ソ中立条約を締結し有頂天となったが独ソ戦勃発で計算が狂い、アメリカは意に反して大規模な英中援助に乗出し対日経済封鎖を強行、軍需物資の大半を対米輸出に頼る日本は窮地に陥った。慌てた松岡洋右外相は南進政策停止と対米妥協へ転じたが、野村吉三郎駐米大使の日米和解交渉を妨害し、蘭印との経済交渉も打切らせ、対ソ開戦(関東軍特種演習)を主張するに至り迷走は極みに達した。近衛文麿首相は内閣改造で松岡洋右を放逐したが既に退路は無く、日本は資源を求めて南部仏印進駐を強行し対米開戦へ引込まれた。
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松岡洋右は米国留学時代からコカインを常用し中毒化していたとする説もあり、そのためか極めて浮き沈みの激しい性格で、国際連盟脱退や日独伊三国同盟・日ソ中立条約を締結して悦に入るかと思えば「こんなことになってしまって、三国同盟は僕一生の不覚であった」「死んでも死にきれない。陛下に対し奉り、大和民族八千万同胞に対し、何ともお詫びの仕様がない」などと号泣、そうかと思えば自己弁護に躍起になった。躁鬱でお調子者の松岡洋右は、訪米時には「キリストの十字架と復活を信じている」と公言して憚らず、ソ連のスターリン会談ではウォッカに泥酔し「私は共産主義者だ」と語ったかと思えば天皇を宸襟を慮って涙を流し、公式外交の場では「八紘一宇」だの「大東亜共栄圏」だのを大真面目に力説した。松岡洋右は一貫してコテコテの天皇崇拝者だったが、昭和天皇は軽佻浮薄で真実味のない松岡が大嫌いで『昭和天皇独白録』には「松岡は帰国してからは別人の様に非常なドイツびいきになった。恐らくはヒットラーに買収でもされたのではないかと思われる」「一体松岡のやる事は不可解の事が多いが彼の性格を呑み込めば了解がつく。彼は他人の立てた計畫には常に反対する、また条約などは破棄しても別段苦にしない、特別な性格を持っている」「松岡はソ連との中立条約を破ること(イルクーツクまで兵を進めよ)を私の処にいってきた。こんな大臣は困るから私は近衛に松岡を罷めさせるようにいった」などと珍しく痛烈な批判を書き連ねている。第二次大戦後、東京裁判でA級戦犯指定を受けた松岡洋右は「俺もいよいよ男になった」と勇んで出廷し自慢の英語で無罪を主張、死刑が確実視されるなか持病の肺結核が悪化し公判中に病死した。
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林銑十郎は、永田鉄山・石原莞爾ら一夕会系陸軍幕僚に担がれ陸相・首相に上り詰めた。加賀藩出身の林銑十郎は陸士・陸大と進むも長州閥が牛耳る陸軍で傍流を歩んだ。が、長州閥打倒で結束した「一夕会」の少壮幕僚は担ぐべき上官を求め、上原勇作の佐賀閥に連なる真崎甚三郎・荒木貞夫・林銑十郎の三将官に白羽の矢を立てた。ここから林銑十郎の出世が始まり真崎甚三郎の推薦で陸軍大学校長に栄進、近衛師団長を経て朝鮮軍司令官となった。関東軍の石原莞爾らが柳条湖事件を起すと、朝鮮軍司令官の林銑十郎は神田正種参謀の進言に従い軍令を無視して派兵を断行、若槻禮次カ内閣の事後承諾を得て満州事変成功の立役者となった。「越境将軍」林銑十郎は「陸軍三長官」の教育総監へ栄転し、病気降板の荒木貞夫に代わり陸相に就任した。中国先攻を説く永田鉄山(統制派)と対ソ開戦を譲らない小畑敏四郎(皇道派)が対立し一夕会が分裂を起すと、陸相の林銑十郎は皇統派の真崎甚三郎と袂を別ち地方に飛ばされていた永田を陸軍省枢要の軍務局長に登用した。なお、「皇道派」は荒木貞夫・真崎甚三郎の両大将を担ぎ国家改造を期す急進改革派で、北一輝ら右翼の影響を受け武装クーデターも辞さない青年将校グループも巻込んだ。皇統派に対し下級将校の跳梁を認めない永田鉄山と腹心の東條英機・武藤章・田中新一らは「統制派」と称され、エリート幕僚が陸軍中央を掌握し全陸軍の威力をもって軍事政権樹立を図ろうとした。林銑十郎陸相を担ぎ人事権を握った永田鉄山は小畑敏四郎はじめ皇道派・対ソ開戦派を一掃し統制派が陸軍省・参謀本部・教育総監府を掌握、陸軍中央は永田の「中国一撃論」「国家総動員」で一枚岩となった。巻返しを図る皇統派は永田鉄山を斬殺し(相沢事件)二・二六事件に関与したが昭和天皇の逆鱗に触れ自滅、両派に属さず二・二六事件を断固処断した石原莞爾が陸軍の主導権を握り「猫にも虎にもなる(自由に操れる)」林銑十郎を首相に擁立した。カイゼル髭を靡かせ「祭政一致」を掲げた林銑十郎首相だが、「食い逃げ解散」失敗で陸軍にも見放され「何もせんじゅうろう内閣」は僅か4ヶ月で退陣した。
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林銑十郎陸相・永田鉄山軍務局長の統制派コンビによって陸軍中央から締出された皇道派は不満を募らせて次第に過激化し、北一輝・西田税に感化された相沢三郎中佐ら強硬派は統制派に迅速果敢な「国家改造」を迫った。永田鉄山は皇道派の不満をかわすべく「たたかひは創造の父、文化の母である」で始まり総動員体制の軍事国家建設を勇ましく謳いあげる『陸軍パンフレット』を刊行した。この『陸パン』で皇道派は一旦溜飲を下げたが、政財界から猛反発を受けた林銑十郎陸相らが日和見の姿勢をみせたため、皇道派の不満は再燃した。
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軍部の暴走抑止に努める西園寺公望・牧野伸顕・鈴木貫太郎・斎藤実・高橋是清・木戸幸一・一木喜徳郎ら天皇側近の重臣グループは「君側の奸」と敵視された。陸軍統制派と平沼騏一郎ら右翼は一木喜徳郎・美濃部達吉の「天皇機関説」を槍玉にあげ重臣の排撃を図り、真崎甚三郎・荒木貞夫ら陸軍皇道派は「国体明徴運動」を推進し「日本は万世一系の天皇が統治し給う神国である」という国家観を喧伝、マスコミも便乗したため全体主義・軍国主義が支配的となり言論封殺やテロを容認する空気が醸成された。国体問題が政局化するに至り統制派首領の永田鉄山などは慎重論へ転じたが、岡田啓介内閣の「国体明徴声明」で決着がついた。五・一五事件に怯えた西園寺公望・牧野伸顕は既に別荘に引籠り、一木喜徳郎は右翼の襲撃を受け隠退、過激派の敵意は猶も軍部に抵抗を続ける鈴木貫太郎や高橋是清へ向けられた。なお陸軍では、統制派に締出された皇統派の永田鉄山攻撃が加熱し相沢三郎中佐が永田斬殺事件を起した。皇統派は勢いを増し隊附青年将校グループによる二・二六事件が勃発、斎藤実内大臣・高橋是清蔵相・渡辺錠太郎陸軍教育総監が殺害され、テロを恐れる重臣は完全に腰砕けとなり抑え役を放棄した。リーダーの西園寺公望は首相指名権を重臣会議に譲り隠退、後継者と頼む近衛文麿の内閣が日独伊三国同盟を締結した直後に「これで日本は滅びるだろう。これでお前たちは畳の上では死ねないことになったよ。その覚悟を今からしておけよ」と側近に語り死去した。東京裁判で終身禁固に処された右翼の平沼騏一郎は巣鴨拘置所で重光葵に「日本が今日の様になったのは、大半西園寺公の責任である。老公の怠け心が、遂に少数の財閥の跋扈を来し、政党の暴走を生んだ。これを矯正せんとした勢力は、皆退けられた」と語ったという。終戦まで内大臣に留まった木戸幸一(木戸孝允の継孫)は主戦派の東條英機を首相指名する愚を犯したが、二・二六事件で一命を取り留めた海軍人の岡田啓介・鈴木貫太郎は重臣会議に加わった米内光政と共に東條英機内閣を倒し、鈴木内閣で昭和天皇の「聖断」を引出し第二次大戦の幕引き役を果した。
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満州事変首謀者の石原莞爾が内地へ召還された後も関東軍の独断専行は収まらず、「他国の領土を占拠して満州国を建設することは、民族意識の上からみて穏当ではない。それは四億の中国人を敵に廻し日支親善に超え難い溝を造るものだ。決して日本の得策とならない。だから満州は成るべく早く中国人の手に渡すべきだ」と考える陸軍省の永田鉄山軍務局長は林銑十郎陸相を伴い満州へ渡った。「満州国軍の育成」に奔走する佐々木到一などは酒席で永田鉄山の弱腰を詰り、陸相の渡満中にも関わらず関東軍は中央の命令を無視し進軍を続けたが、永田は支那駐屯軍司令官の梅津美治郎に交渉を促し国民革命軍から「河北省内の中国軍の撤退、排日活動の禁止」などの合意を引出し(梅津・何応欽協定)一応の成果をみて東京へ帰還した。
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北一輝・西田税の「国家改造論」を信奉する皇道派の相沢三郎中佐(陸士22期の剣豪)が、任地の広島県福山から鉄路上京して陸軍省軍務局長室に乗込み統制派首領の永田鉄山少将を斬殺した(没後中将へ特進)。永田鉄山は軍務局長の要職にあって陸軍中央から統制を乱す皇道派を締出す動きを主導しており、皇道派重鎮の真崎甚三郎大将の教育総監更迭問題を巡り両派の対立は沸点に達していた。教育総監更迭は林銑十郎陸相の肝煎りで永田鉄山は抑え役だったのだが、真崎甚三郎は永田を「恩知らず」と恨み陸軍人事を専断する「統帥権干犯」と糾弾し「三月事件」「陸軍士官学校事件」関与の濡れ衣を着せ攻撃、永田を犯罪者と信じ込んだ相沢三郎が暴挙に及んだ。罪の意識が無い相沢三郎は転任地の台湾へ向かおうとしたが逮捕されて軍法会議で死刑判決を受け、執行が迫ると暴れて手が付けられなくなり「真崎にそそのかされた」と恨み節を残したが、最期は従容と銃殺刑に服したという。永田鉄山斬殺事件後、真崎甚三郎・荒木貞夫を旗頭とする皇道派は「相沢に続け」とばかりに二・二六事件への策動を始めた。一方、永田鉄山を喪った統制派は求心力を失い、武藤章・田中新一・東條英機ら単純な強硬派が手柄を競うように暴走、統制派と距離を置く石原莞爾の不拡大路線を排して日中戦争を泥沼化させ、無謀な対米開戦へと突き進んだ。永田鉄山は一夕会に同志を結集して長州閥から陸軍の主導権を奪い「国家総動員体制」=軍事国家へのレールを敷いた戦前史最大のキーパーソンだが、遵法と陸軍の統制を重視し(統制派の由来)十月事件を起した橋本欣五郎の極刑を主張し、石原莞爾らの満州事変では暴走抑止に努めた。また、国家総動員は総力戦時代に伴う世界的潮流であり、第一次大戦を研究した永田鉄山はスイス流の武装中立国家を目指したともいわれる。一夕会・統制派の幹部で企画院総裁を務めた鈴木貞一は第二次大戦後「もし永田鉄山ありせば太平洋戦争は起きなかった」「永田が生きていれば東條が出てくることもなかっただろう」と無念がったというが、「陸軍の至宝」永田鉄山の早すぎる死は正に国家的損失であった。
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大黒柱の永田鉄山が皇道派将校に殺害された後、陸軍の主導権は一夕会系の石原莞爾、武藤章、田中新一、東條英機へと変遷した。永田鉄山斬殺事件と二・二六事件への関与で真崎甚三郎・荒木貞夫・小畑敏四郎ら皇道派が自滅した後、二・二六事件を断固鎮圧した石原莞爾が陸軍中央で主導的立場となり、参謀本部に作戦部を創設して権限を集中し自ら作戦部長に就任した。石原莞爾は、自陣の林銑十郎・板垣征四郎を首相・陸相に担ぎ、持論の「世界最終戦争論」に沿った対中融和・日満蒙連携による国力・軍事力涵養政策を推進した。が、盧溝橋事件が勃発すると、日中戦争の泥沼化を予期し不拡大を唱える石原莞爾・河辺虎四郎・多田駿らは少数派となり、強硬な「華北分離工作」を主張する武藤章・田中新一・東條英機ら統制派と鋭く対立、近衛文麿首相・広田弘毅外相が日中戦争拡大に奔ったことで統制派が主導権を確立し陸軍中央から石原ら不拡大派を一掃した。この間の陸軍中央における政治空白は、東條英機・板垣征四郎ら出先指揮官の独断専行を招き関東軍が自律的に戦線を拡大させる事態をもたらした。武藤章らは永田鉄山以来の「中国一激論」に固執し「強力な一撃を加えれば国民政府は早々に日本に屈服する」との甘い期待のもと大量兵力を投入し中国全土に戦線を拡大したが、上海・南京が落ちても蒋介石は屈服せず日本軍は「点と線の支配」に終始、石原莞爾の危惧通り日中戦争は泥沼化した。武藤章は日中講和へ転じるも近衛文麿首相は「トラウトマン工作」を一蹴、「国民政府を対手とせず」と声明し蒋介石を後援する米英を「東亜新秩序声明」で挑発した挙句に日独伊三国同盟で敵対姿勢を鮮明にした。武藤章軍務局長は対米妥協に努めたが果たせず、主導権を奪った最強硬派の田中新一が東條英機内閣で対米開戦を断行、東條首相は憲兵隊を使って反抗勢力を締上げ宿敵の石原莞爾を軍隊から追放し倒閣工作に加担した武藤を前線のスマトラへ放逐した。「負けを認めない」田中進一は、ガダルカナル島撤退に反発して佐藤賢了軍務局長と乱闘事件を起し東條首相を面罵してビルマ方面軍へ左遷されたが、牟田口廉也司令官のインパール作戦の大暴挙に関与した。
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「昭和維新」「尊皇討奸」を掲げる陸軍の隊付青年将校グループが独断専行で帝都駐在部隊1483人を動かし未曾有の武装蜂起事件を起した(二・二六事件)。反乱将校らは皇道派の真崎甚三郎大将を首班とする軍事政権樹立を目指し、帝都要衝の総理大臣官邸・警視庁・陸軍省・参謀本部・東京朝日新聞を武装占拠し「国家改造」を要求、最終目標の皇居占拠・天皇確保は近衛師団に阻まれ断念したが、岡田啓介首相・高橋是清蔵相・斎藤実内大臣・鈴木貫太郎侍従長・渡辺錠太郎陸軍教育総監・牧野伸顕前内大臣を次々と襲撃し高橋・斎藤・渡辺を殺害、岡田首相は側近の身代わりで虎口を逃れ、鈴木は重傷を負うも一命を取留めた。岡田・斎藤・鈴木は海軍条約派・高橋は財政家として軍拡要求に反対し「君側の奸」と憎まれていた。陸軍は大混乱に陥り反乱部隊と気脈を通じる真崎甚三郎・荒木貞夫・本庄繁ら皇道派重鎮と、荒木を「バカ大将」と面罵し断固鎮圧を主張する石原莞爾らの対立があったが、信頼する重臣を殺害された昭和天皇は「反乱」鎮圧を厳命した。3日後の2月29日、敬慕する昭和天皇に朝敵の烙印を押された反乱将校は部隊を解散して兵卒を原隊に復帰させ2人が拳銃自殺し他は全員投降、最終的に反乱将校16人および黒幕とされた民間右翼の北一輝と西田税が死刑に処され、数十人に禁固刑判決が下された。二・二六事件後、茫然自失の岡田啓介首相が退陣し広田弘毅内閣が発足、中立派の寺内寿一を陸相に担いだ石原莞爾が陸軍の綱紀粛正を断行し、皇統派は処罰を免れるも真崎甚三郎・荒木貞夫ら7大将と小畑敏四郎・山下奉文を含む将佐官の悉くが陸軍中央から追放された。日中戦争が始まると武藤章・田中新一ら統制派が不拡大を説く石原莞爾から陸軍の主導権を奪い強硬外交と軍国主義化を牽引、皇統派に憎まれ予備役間近といわれた東條英機も一躍陸軍中枢へ台頭し、テロの脅威が蔓延するなか軍部は再発をちらつかせて強迫姿勢を強め、結果的に二・二六事件は反乱将校が目指した軍事国家樹立への重大な伏線となった。
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近衛文麿内閣は、永田鉄山以来の陸軍統制派の悲願である国家総動員法を成立させた。徴用、賃金、物資の生産・消費など、国民が有するあらゆる権利を国防の名のもとに政府が統制できるという無茶苦茶な法律であり、軍部が総力戦を遂行するためには是非とも必要なものであった。国家総動員法案には、さすがに政友会や民政党も猛反対したが、なんと左翼の社会大衆党が党利党略から賛成にまわり、西尾末広代議士などは議会で勇ましい応援演説を打ち、政友会の重鎮尾崎行雄まで西尾を支持する有様であった。堕落した政党勢力に押し留める力はなく、近衛首相と軍部に押し切られる形で国家総動員法案が成立してしまった。
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[戦前史の概観]西南戦争で西郷隆盛が戦死し渦中に木戸孝允が病死、富国強兵・殖産興業を推進した大久保利通の暗殺で「維新の三傑」が全滅すると、明治十四年政変で大隈重信一派が追放され薩長藩閥政府が出現した。首班の伊藤博文は板垣退助ら非薩長・民権派との融和を図り内閣制度・大日本帝国憲法・帝国議会を創設、外交では日清戦争に勝利しつつ国際協調を貫いたが、国防上不可避の日清・日露戦争を通じて軍部が強勢となり山縣有朋の陸軍長州閥が台頭、桂太郎・寺内正毅・田中義一政権は軍拡を推進し台湾・朝鮮に軍政を敷いた。とはいえ、伊藤博文・山縣有朋・井上馨・桂太郎(長州閥)・西郷従道・大山巌・黒田清隆・松方正義(薩摩閥)・西園寺公望(公家)の元老会議が調整機能を果し、伊藤の政友会や大隈重信系政党も有力だった。が、山縣有朋の死を境に陸軍中堅幕僚が蠢動、長州閥打倒で結束した永田鉄山・小畑敏四郎・東條英機ら「一夕会」が田中義一・宇垣一成から陸軍を乗取り「中国一激論」と「国家総動員体制」を推進、石原莞爾の満州事変で傀儡国家を樹立し、石原の不拡大論を退けた武藤章が日中戦争を主導、最後は対米強硬の田中新一が米中二正面作戦の愚を犯した。一方の海軍は、海軍創始者の山本権兵衛がシーメンス事件で退いた後、「統帥権干犯」を機に東郷平八郎元帥・伏見宮博恭王の二大長老を担いだ加藤寛治・末次信正ら反米軍拡派(艦隊派)が主流となり、国際協調を説く知米派の加藤友三郎・米内光政・山本五十六・井上成美らを退けた。「最後の元老」西園寺公望ら天皇側近は右傾化の抑止に努めたが、五・一五事件、二・二六事件と続く軍部のテロで(鈴木貫太郎を除き)腰砕けとなり、木戸孝一に至っては主戦派の東條英機を首相に指名した。党派対立に明け暮れ軍部とも結託した政党政治は、原敬暗殺、濱口雄幸襲撃を経て五・一五事件で命脈を絶たれ、大政翼賛会に吸収された。そして「亡国の宰相」近衛文麿が登場、軍部さえ逡巡するなかマスコミと世論に迎合して日中戦争を引起し、泥沼に嵌って国家総動員法・大政翼賛会で軍国主義化を完成、日独伊三国同盟・南部仏印進駐を断行し亡国の対米開戦へ引きずり込まれた。  
 
二・二六事件 1

 

1936年(昭和11年)2月26日から2月29日にかけて、皇道派の影響を受けた陸軍青年将校らが1,483名の下士官・兵を率いて起こした日本のクーデター未遂事件である。 この事件の結果、岡田内閣が総辞職し、後継の廣田内閣が思想犯保護観察法を成立させた。
陸軍内の派閥の一つである皇道派の影響を受けた一部青年将校ら(陸軍幼年学校、旧制中学校から陸軍士官学校に進み任官した、20歳代の隊附の大尉、中尉、少尉達)は、かねてから「昭和維新、尊皇斬奸」をスローガンに、武力を以て元老重臣を殺害すれば、天皇親政が実現し、彼らが政治腐敗と考える政財界の様々な現象や、農村の困窮が終息すると考えていた。彼らはこの考えのもと、1936年(昭和11年)2月26日未明に決起する。
決起将校らは歩兵第1連隊、歩兵第3連隊、近衛歩兵第3連隊、野戦重砲兵第7連隊等の部隊中の一部を指揮して、岡田啓介 内閣総理大臣、鈴木貫太郎 侍従長、斎藤實 内大臣、高橋是清 大蔵大臣、渡辺錠太郎 教育総監、牧野伸顕 前・内大臣を襲撃、首相官邸、警視庁、内務大臣官邸、陸軍省、参謀本部、陸軍大臣官邸、東京朝日新聞を占拠した。
そのうえで、彼らは陸軍首脳部を経由して昭和天皇に昭和維新を訴えたが、天皇はこれを拒否。天皇の意を汲んだ陸軍と政府は彼らを「叛乱軍」として武力鎮圧を決意し、包囲して投降を呼びかけた。叛乱将校たちは下士官兵を原隊に復帰させ、一部は自決したが、大半の将校は投降して法廷闘争を図った。しかし、事件の首謀者達は銃殺刑に処された。
事件後しばらくは「不祥事件(ふしょうじけん)」「帝都不祥事件(ていとふしょうじけん)」とも呼ばれていた。
算用数字で226事件、2・26事件とも書かれる。
主な関係者​
叛乱軍​
   首謀者(首魁)​
野中四郎 (陸軍歩兵大尉・歩兵第3連隊第7中隊長)
香田清貞 (陸軍歩兵大尉・歩兵第1旅団副官)
安藤輝三 (陸軍歩兵大尉・歩兵第3連隊第6中隊長)
河野 壽 (陸軍航空兵大尉・所沢陸軍飛行学校操縦学生)
栗原安秀 (陸軍歩兵中尉・歩兵第1連隊附)
村中孝次 (元陸軍歩兵大尉)
磯部浅一 (元陸軍一等主計)
北 一輝 (思想家)
西田 税 (思想家、元陸軍騎兵少尉)
   参加者(群衆指揮等)​
竹嶌継夫 (陸軍歩兵中尉・豊橋陸軍教導学校附)
対馬勝雄 (陸軍歩兵中尉・豊橋陸軍教導学校附)
中橋基明 (陸軍歩兵中尉・近衛歩兵第3連隊附)
丹生誠忠 (陸軍歩兵中尉・歩兵第1連隊附)
坂井 直 (陸軍歩兵中尉・歩兵第3連隊附)
田中 勝 (陸軍砲兵中尉・野戦重砲兵第7連隊附)
安田 優 (陸軍砲兵少尉・陸軍砲工学校学生(野砲兵第7連隊附))
中島莞爾 (陸軍工兵少尉・鉄道第2連隊附)
高橋太郎 (陸軍歩兵少尉・歩兵第3連隊)
林 八郎 (陸軍歩兵少尉・歩兵第1連隊)
渋川善助 (思想家、元士官候補生)   他
被害者​
   死亡​
松尾伝蔵 (内閣嘱託、内閣総理大臣秘書官事務取扱・陸軍歩兵大佐)
高橋是清 (大蔵大臣)
斎藤 実 (内大臣)
渡辺錠太郎 (教育総監・陸軍大将)
警察官5名
   重傷​
鈴木貫太郎 (侍従長・海軍大将)
他警察官など負傷者数名
   他​
岡田啓介 (内閣総理大臣・海軍大将) - 殺害対象であり首相官邸を襲撃されるが、襲撃グループが松尾伝蔵を岡田と誤認・殺害したことで難を逃れた。
背景​
陸軍高級幹部の派閥争い / 皇道派と統制派​
大日本帝国陸軍の高級将校の間では、明治時代の藩閥争いを源流とする、派閥争いの歴史があった。1930年代初期までに、陸軍の高級幹部たちは主に2つの非公式なグループに分かれていた。1つは荒木貞夫大将とその盟友真崎甚三郎大将を中心とする皇道派、もう1つは、永田鉄山少将を中心とする統制派であった。
皇道派は日本文化を重んじ、物質より精神を重視し、ソビエト連邦を攻撃する必要性を主張した(北進論)。
統制派は、当時のドイツ参謀本部からの思想的影響が濃く、中央集権化した経済・軍事計画(総力戦理論)、技術の近代化・機械化、中国への拡大を支持していた(南進論)。
荒木大将の陸軍大臣在任中は、皇道派が陸軍の主流派となり、多くの重要な参謀ポストを占めたが、彼らは荒木の辞任後に統制派の将校たちに交替された。
青年将校の政治化​
陸軍将校は、教育歴が陸軍士官学校(陸士)止まりの者と、陸軍大学校(陸大)へ進んだ者たちの間で人事上のコースが分けられていた。陸大出身者は将校団の中のエリートのグループを作り、陸軍省、参謀本部、教育総監部の中央機関を中心に勤務する。一方で、陸大を出ていない将校たちは慣例上、参謀への昇進の道を断たれており、主に実施部隊の隊付将校として勤務した。エリートコースから外れたこれらの隊付将校の多くが、高度に政治化された若手グループ(しばしば「青年将校」と呼ばれるが、警察や憲兵隊からは「一部将校」と呼ばれる)を作るようになっていった。
隊付将校が政治的な思想を持つに至った背景の一つには、当時の農村漁村の窮状がある。隊付将校は、徴兵によって農村漁村から入営してくる兵たちとじかに接する立場であるがゆえに、兵たちの実家の農村漁村の窮状を知り憂国の念を抱いた。
たとえば、2.26事件に参加した高橋太郎(事件当時少尉)の事件後の獄中手記に、高橋が歩兵第3連隊で第一中隊の初年兵教育係であったときを回想するくだりがある。高橋が初年兵身上調査の面談で家庭事情を聞くと、兵が「姉は…」といって口をつぐみ、下を向いて涙を浮かべる。高橋は、兵の姉が身売りされたことを察して、それ以上は聞かず、初年兵調査でこのような情景が繰り返されることに暗然として嘆息する。高橋は「食うや食わずの家族を後に、国防の第一線に命を致すつわもの、その心中は如何ばかりか。この心情に泣く人幾人かある。この人々に注ぐ涙があったならば、国家の現状をこのままにはして置けない筈だ。殊に為政の重職に立つ人は」と書き残している。
また、昭和8年11月に偕行社(陸軍の将校クラブ)で皇道派・統制派の両派の中心人物が集まって会談した際、統制派の武藤章らが「青年将校は勝手に政治運動をするな。お前らの考えている国家の改造や革新は、自分たちが省部の中心になってやっていくからやめろ」と主張した際、青年将校たちはこう反駁した。「あなた方陸大出身のエリートには農山村漁村の本当の苦しみは判らない。それは自分たち、兵隊と日夜訓練している者だけに判るのだ」。
こうした農村漁村の窮状に対する憂国の念が、革命的な国家社会主義者北一輝の「君側の奸」思想の影響を受けていった。北一輝が著した『日本改造法案大綱』は「君側の奸」の思想の下、君側の奸を倒して天皇を中心とする国家改造案を示したものだが、この本は昭和維新を夢見る青年将校たちの聖典だった。『日本改造法案大綱』の「昭和維新」「尊皇討奸」の影響を受けた安藤輝三、野中四郎、香田清貞、栗原安秀、中橋基明、丹生誠忠、磯部浅一、村中孝次らを中心とする尉官クラスの青年将校は、上下一貫・左右一体を合言葉に、政治家と財閥系大企業との癒着をはじめとする政治腐敗や、大恐慌から続く深刻な不況等の現状を打破して、特権階級を排除した天皇政治の実現を図る必要性を声高に叫んでいた。
青年将校たちは、日本が直面する多くの問題は、日本が本来あるべき国体から外れた結果だと考えた(「国体」とは、おおよそ天皇と国家の関係のあり方を意味する)。農村地域で広範にわたる貧困をもたらしている原因は、「特権階級」が人々を搾取し、天皇を欺いて権力を奪っているためであり、それが日本を弱体化させていると考えた。彼らの考えでは、その解決策は70年前の明治維新をモデルにした「昭和維新」を行う事であった。すなわち青年将校たちが決起して「君側の奸」を倒すことで、再び天皇を中心とする政治に立ち返らせる。その後、天皇陛下が、西洋的な考え方と、人々を搾取する特権階層を一掃し、国家の繁栄を回復させるだろうという考え方である。これらの信念は当時の国粋主義者たち、特に元社会主義者の北一輝の政治思想の影響を強く受けていた。
緩やかにつながった青年将校グループは大小さまざまであったが、東京圏の将校たちを中心に正式な会員が約100名ほどいたと推定されている。その非公式のリーダーは西田税であった。
元陸軍少尉で北一輝の門弟であった西田は、1920年代後半から急増した民間の国粋主義的な団体の著名なメンバーとなっていった。彼は軍内の派閥を「国体原理派」と呼んだ。1931年の三月事件と十月事件に続いて、当時の政治的テロの大部分に少なくともある程度は関与したが、陸軍と海軍のメンバーは分裂し、民間の国粋主義者たちとの関係を清算した。
皇道派と国体原理派の関係の正確な性質は複雑である。この二派は同じグループとされたり、より大きなグループを構成する2つのグループとして扱われることも多い。しかし、当時のメンバーたちの証言や書き残されたものによると、この二派は現実に別個のグループであって、それらが互恵的な同盟関係にあったことがわかる。皇道派は国体原理派を隠蔽しつつ、彼らにアクセスを提供する見返りとして、急進的な将校たちを抑えるための手段として国体原理派を利用していた。
資金源​
国体原理派に属する人数は比較的少数ではあったが、同派がもたらした政治的テロの威力は大きかった。参謀たちや皇族の中にも理解者がおり、中でも特筆すべきは、天皇の弟(1933年までは皇位継承者)で、西田や他の国体原理派リーダーたちの友人であった秩父宮であった。また、国体原理派はかなり反資本主義的であったにもかかわらず、我が身を守りたい財閥から資金を調達することに成功した。三井財閥は血盟団事件(1932年2月-3月)で團琢磨が暗殺されたのち、青年将校らの動向を探るために「支那関係費」の名目で半年ごとに1万円(平成25年の価値にして約7000万円)を北一輝に贈与していた。三井側としてはテロに対する保険の意味があったが、この金は二・二六事件までの北の生活費となり、西田税にもその一部が渡っていた。
2月22日、西田から蹶起の意思を知らされた北は「已むを得ざる者以外は成るべく多くの人を殺さないという方針を以てしないといけませんよ」と諭したという。
2月23日、栗原中尉は石原広一郎から蹶起資金として3000円受領した。
2月25日夕方、亀川哲也は村中孝次、西田税らと自宅で会合し、西田・村中の固辞を押し切り、弁当代と称して、久原房之助から受領していた5000円から、1500円を村中に渡した。
政治的テロ​
二・二六事件に至るまでの数年は、軍による一連のテロ行為やクーデター未遂が頻発した時期であった。最も顕著なものは1932年の五・一五事件で、この事件では若い海軍士官が犬養毅首相を暗殺した上に、各地を襲撃した。この事件は、将来クーデターを試みる際には、兵力を利用する必要があることを陸軍の青年士官たち(五・一五事件の計画を知ってはいたが関与しなかった)に認識させた点で重要である。
また、その前にあった三月事件や十月事件と同様、事件の加担者たちは比較的軽い禁錮15年以下の刑を受けただけであった。この事も、二・二六事件の動機の一つになったともいわれる。ただし五・一五事件は古賀清志海軍中尉らの独断によるテロであり、将校としての地位を利用したクーデターではない。
統制派による青年将校への抑圧​
統制派のエリート幕僚たちは、欧州の第一次世界大戦の国家総力戦の教訓から、今後の戦争は、単に軍隊だけが行うものではなく国家の総力を傾注せねば勝てず、そのためには国家の全力を戦争に総動員する体制(総動員体制)が必要と考えた。したがって統制派の志向する国家改造とは、総力戦を可能にするために、軍部が国家の全般を指導できるようにするための国家体制の改造である。
この統制派の将校グループとしては、大正7年(1918年)頃から永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次、東条英機による二葉会があり、昭和元年(1926年)ごろからは陸軍の長州閥を打倒して、総力戦への体制を整えることの2点を大きな目標とした。
また、昭和2年(1927年)頃から、鈴木貞一を中心とする木曜会も形成され、満蒙問題の解決について議論していた。
二葉会と木曜会は、昭和4(1929)年に統合され、一夕会と改称した。ここで掲げられた目標は、1人事の刷新。具体的には宇垣閥を追放し、一夕会メンバーを主要ポストに就かせること。2満蒙問題の解決。具体的には機を見て武力で占領すること、などであった。
また、これとは別に1930年(昭和5年)には、橋本欣五郎を中心とする陸大卒エリートが日本の軍事国家化と翼賛議会体制への国家改造を目指して桜会を結成した。桜会は、1931年(昭和6年)3月の三月事件、同年10月の十月事件と二度にわたってクーデター計画を立てたが、いずれも未遂に終わった。計画の段階では青年将校たちにも参加するよう誘っていたが、青年将校たちには橋本自身の権勢欲のためと映ったため、青年将校たちは反発を感じて参加しなかった。
青年将校たち自身もクーデターを含む構想を持っていながら、別のクーデター計画を立てた橋本一派を嫌悪する点は一見理解しづらいが、青年将校たちは自分たちが政権を担うつもりはなく、蹶起後の政権作りは民主的選挙に任せ、自分たちはクーデターが成功しても、腹を切って陛下の股肱を斬ったことを詫びるつもりであった。「失敗はもとより死、成功もまた死」という「純粋な動機」からなすべき維新であると考えていた。それに比べて橋本らの行動は単なる欧米風の政権奪取にすぎないと考えたのである。
三月事件、十月事件事件後、同年12月には荒木貞夫陸相に代わり、事件首謀者の橋本らは左遷された。青年将校らは橋本の計画に反対していたため、この処断を行った荒木陸相(皇道派)を支持した。一方、統制派はこの荒木陸相人事で重用されなかったため、一夕会(統制派)は1934年(昭和9年)になると荒木陸相に見切りをつけ、荒木陸相排除に動いて、林銑十郎が陸相に就任した。
林陸相の下で、永田鉄山が軍務局長に迎えられ、陸軍省新聞班の名で「国防の本義と其強化の提唱」(いわゆる「陸軍パンフレット」)が発表された。ここで示された統制派の目指す国家改造は軍部主導の総動員国家、統制国家を樹立する方向性であったが、国防のためにも国民全体の生活基盤の安定が必要との観点から、「国民の一部のみが経済上の利益特に不労所得を享有し、国民の大部が塗炭の苦しみを嘗め、延ては階級的対立を生ずる如き事実ありとせば一般国策上は勿論国防上の見地よりして看過し得ざる問題である」と論じ、「窮迫せる農村を救済せんが為めには、社会政策的対策は固より緊要であるが、(中略) 経済機構の改善、人口問題の解決等根本的の対策を講ずることが必要」とした。これはまた「国家改造は陸軍省、参謀本部がやるから青年将校はおとなしくしておれ」というメッセージでもあった。
しかしながら、青年将校の考える国家改造とは、「君側の奸を倒して天皇中心の国家とする」ということであり、軍部中心の国家とすることを求めるものではなかった。統制派も青年将校も国家改造を求めてはいたが、両者は国家改造の方向性が異なるのである。このため、陸軍の中央幕僚(統制派)は、青年将校たちの動きを危険思想と判断し、長期に渡り憲兵に青年将校の動向を監視させていた。
また、永田鉄山は皇道派の追放とあわせて、先に三月事件、十月事件の件で左遷された橋本欣五郎や長勇ら清軍派(旧桜会) メンバーの復活を図った。青年将校たちは統制派に対する不信感を更に強めた。クーデターを計画した橋本らを処断しないことは、軍紀を乱すばかりでなく、天皇に対する欺瞞であり不忠であり、その意味では統制派も「君側の奸」の一種と映ったからである(青年将校らは自らのクーデターで自らが処断されることは覚悟していた)。
中央幕僚らは目障りになってきた隊付青年将校に圧迫を加えるようになった。
陸軍士官学校事件​
1934年(昭和9年)11月、事件の芽をあらかじめ摘む形で陸軍士官学校事件(十一月事件)において、国体原理派の主要メンバーである村中孝次大尉と磯部浅一一等主計が、士官学校生徒らとともにクーデターを計画したとして逮捕された。村中と磯部は、そのようなクーデターについて議論したことは認めたが、それを実行するための具体的な計画をしたことについては否定した。1935年(昭和10年)2月7日、村中は片倉衷と辻政信を誣告罪で告訴したが、軍当局は黙殺した。事件を調査した軍法会議は、3月20日、証拠不十分で不起訴としたが、4月1日、村中と磯部は停職となった。4月2日、磯部が片倉、辻、塚本の三人を告訴したが、これも黙殺された。4月24日、村中は告訴の追加を提出したが、一切黙殺された。5月11日、村中は陸軍大臣と第一師団軍法会議あてに、上申書を提出し、磯部は5月8日と13日に、第一師団軍法会議に出頭して告訴理由を説明したが、当局は何の処置もとらなかった。二人は、事件は統制派による青年将校への攻撃であると確信し、7月11日、「粛軍に関する意見書」を陸軍の三長官と軍事参議官全員に郵送した。しかし、これも黙殺される気配があったので、500部ほど印刷して全軍に配布した。この中で、先の三月事件や十月事件に中央の幕僚たちが関与した事情を暴露した上で、これらの逆臣行動を隠蔽し、これに関与した中央幕僚らを処断しないことこそ、大元帥たる天皇陛下を欺瞞し奉る大不忠であると批判した。中央の幕僚らは激昂し、緊急に手配して回収を図った。8月2日、村中と磯部は免官となったが、理不尽な処分であった。これらのことによって青年将校の間で逆に陸軍上層部に対する不信感が生まれることになった。
真崎教育総監罷免​
陸軍士官学校事件のあと、1935年(昭和10年)7月、皇道派将校として唯一、高官(教育総監)の地位に残っていた真崎甚三郎大将が罷免された。このことで皇道派と統制派との反目は度を深めた。青年将校たちはこの罷免に憤慨した。荒木大将が陸軍大臣であった頃でも、内閣の抵抗を克服できなかった荒木大将に対して幻滅していた経緯から、真崎大将が青年将校たちの唯一の希望となっていたからである。
また、真崎教育総監の罷免は統帥権干犯であるという批判もなされた。陸軍教育総監は陸軍三長官の一つに数えられ、これらの最高ポストの人事は陸軍三長官の合意により決められることになっていた。三長官会議で示された真崎の罷免案は、統制派による皇道派高官の一掃人事の一環であり、真崎はこの人事に承服しなかった。林陸軍大臣は真崎教育総監の承服を得ぬまま、天皇に上奏して許しを得た。こうした経緯で統制派は皇道派の真崎を教育総監の地位から追放した。このことが、教育総監は天皇が直接任命するポストであるのに、陸軍省の統制派が勝手に上奏して罷免するよう仕向けたのは、天皇の大権を犯す統帥権干犯であるとして批判された。村中と磯部は、罷免に関して永田を攻撃する新しい文書を発表し、西田も文書を発表した。
相沢事件​
1935年8月12日白昼に、国体原理派の一員であり、真崎大将の友人であった相沢三郎中佐が、報復として統制派の中心人物、永田鉄山陸軍省軍務局長を殺害する事件を起こした(相沢事件)。1936年1月下旬に始まった相沢の公判では、相沢と国体原理派の指導者たちが裁判官とも共謀して、彼らの主張を放送するための講演会のようにしてしまったため、報道は過熱した。マスコミにおける相沢の支持者たちは、相沢の「道徳と愛国心」を称賛し、相沢自身は「真の国体原理に基づいて軍と国家を改革しようとした純粋な武士」と見なされるようになっていった。
磯部と陸軍幹部の接触​
二・二六事件の蹶起の前年から、磯部浅一らは軍上層部の反応を探るべく、数々の幹部に接触している。「十月ごろから内務大臣と総理大臣、または林前陸相か渡辺教育総監のいずれかを二人、自分ひとりで倒そうと思っていた」と磯部は事件後憲兵の尋問に答えている。
1935年(昭和10年)9月、磯部が川島義之陸軍大臣を訪問した際、川島は「現状を改造せねばいけない。改造には細部の案など初めは不必要だ。三つぐらいの根本方針をもって進めばよい、国体明徴はその最も重要なる一つだ」と語った。
1935年12月14日、磯部は小川三郎大尉を連れて、古荘幹郎陸軍次官、山下奉文軍事調査部長、真崎甚三郎軍事参議官を訪問した。山下奉文少将は「アア、何か起こったほうが早いよ」と言い、真崎甚三郎大将は「このままでおいたら血を見る。しかし俺がそれを言うと真崎が扇動していると言われる」と語った。
1936年(昭和11年)1月5日、磯部は川島陸軍大臣を官邸に訪問し、約3時間話した。「青年将校が種々国情を憂いている」と磯部が言うと、「青年将校の気持ちはよく判る」と川島は答えた。「何とかしてもらわねばならぬ」と磯部が追及しても、具体性のない川島の応答に対し、「そのようなことを言っていると今膝元から剣を持って起つものが出てしまう」と言うが、「そうかなあ、しかし我々の立場も汲んでくれ」と答えた。
1936年1月23日、磯部が浪人森伝とともに川島陸軍大臣と面会した際には渡辺教育総監に将校の不満が高まっており「このままでは必ず事がおこります」と伝えた。川島は格別の反応を見せなかったが、帰りにニコニコしながら一升瓶を手渡し「この酒は名前がいい。『雄叫(おたけび)』というのだ。一本あげよう。自重してやりたまえ。」と告げた。
1936年1月28日、磯部が真崎大将のもとを訪れて、「統帥権問題に関して決死的な努力をしたい。相沢公判も始まることだから、閣下もご努力いただきたい。ついては、金がいるのですが都合していただきたい」と資金協力を要請すると、真崎は政治浪人森伝を通じての500円の提供を約束した。
磯部はこれらの反応から、陸軍上層部が蹶起に理解を示すと判断した。
1936年2月早々、安藤大尉が村中や磯部らの情報だけで判断しては事を誤ると提唱し、新井勲、坂井直などの将校15、6名を連れて山下の自宅を訪問した際、山下は、十一月事件に関しては「永田は小刀細工をやり過ぎる」「やはりあれは永田一派の策動で、軍全体としての意図ではない」と言い、一同は村中、磯部の見解の正しさを再認識した。
決起のきっかけ​
青年将校らは主に東京衛戍の第1師団歩兵第1連隊、歩兵第3連隊および近衛師団近衛歩兵第3連隊に属していたが、第1師団の満州への派遣が内定したことから、彼らはこれを「昭和維新」を妨げる意向と受け取った。まず相沢事件の公判を有利に展開させて重臣、政界、財界、官界、軍閥の腐敗、醜状を天下に暴露し、これによって維新断行の機運を醸成すべきで、決行はそれからでも遅くはないという慎重論もあったが、第1師団が渡満する前に蹶起することになり、実行は1936年(昭和11年)2月26日未明と決められた。なお慎重論もあり、山口一太郎大尉や、民間人である北と西田は時期尚早であると主張したが、それら慎重論を唱える者を置き去りにするかたちで事件は起こされた。
安藤輝三大尉は第1師団の満洲行きが決まると、「この精兵を率いて最後のご奉公を北満の野に致したいと念願致し」、「渡満を楽しみにしておった次第であります」と述べ、また1935年1月の中隊長への昇進の前には、当時の連隊長井出宣時大佐に対し「誓って直接行動は致しません」と約束し、蹶起に極めて消極的であった。栗原、磯部から参加要請され、野中から叱責をうけ、さらに野中から「相沢中佐の行動、最近一般の情勢などを考えると、今自分たちが国家のために起って犠牲にならなければ却って天誅がわれわれに降るだろう。自分は今週番中であるが今週中にやろうではないか」と言われ、ようやく2月22日になって決断した。
北一輝、西田税の思想的影響を受けた青年将校はそれほど多くなく、いわゆるおなじみの「皇道派」の青年将校の動きとは別に、相沢事件・公判を通じて結集した少尉級を野中四郎大尉が組織し、決起へ向けて動きを開始したと見るべきであろう。2月20日に安藤大尉と話し合った西田は、安藤の苦衷を聞いて「私はまだ一面識もない野中大尉がそんなにまで強い決心を持っているということを聞いて何と考えても驚くほかなかったのであります」と述べている。また山口一太郎大尉は、青年将校たちの多くを知らず、北、西田の影響をうけた青年将校が相対的に少ないことに驚いたと述べており、柴有時大尉も、2月26日夜に陸相官邸に初めて行った際の印象として「いわゆる西田派と称せられていた者のほかに青年将校が多いのに驚きました」と述べている。
磯部は獄中手記で「……ロンドン条約以来、統帥権干犯されること二度に及び、天皇機関説を信奉する学匪、官匪が、宮中府中にはびこって天皇の御地位を危うくせんとしておりましたので、たまりかねて奸賊を討ったのです。……藤田東湖の『大義を明にし、人心を正さば、皇道奚んぞ興起せざるを憂えん』これが維新の精神でありまして、青年将校の決起の真精神であるのです。維新とは具体案でもなく、建設計画でもなく、又案と計画を実現すること、そのことでもありません。維新の意義と青年将校の真精神がわかれば、改造法案を実現するためや、真崎内閣をつくるために決起したのではないことは明瞭です。統帥権干犯の賊を討つために軍隊の一部が非常なる独断行動をしたのです。……けれどもロンドン条約と真崎更迭事件は、二つとも明に統帥権の干犯です。……」と述べている。
村中の憲兵調書には「統帥権干犯ありし後、しばらく経て山口大尉より、御上が総長宮と林が悪いと仰せられたということを聞きました。……本庄閣下より山口が聞いたものと思っております」とある。また、磯部の調書にも「陛下が真崎大将の教育総監更迭については『林、永田が悪い』と本庄侍従武官長に御洩らしになったということを聞いて、我は林大将が統帥権を犯しておることが事実なりと感じまして、非常に憤激を覚えました。右の話は……昨年十月か十月前であったと思いますが、村中孝次から聞きました」とある。『本庄日記』にはこういう記述はなく、天皇が実際に本庄にこのような発言をしたのかどうかは確かめようがないが、天皇が統制派に怒りを感じており、皇道派にシンパシーを持っている、ととれるこの情報が彼らに重大な影響を与えただろう。天皇→本庄侍従武官長→(女婿)山口大尉、というルートは情報源としては確かなもので、斬奸後彼らの真意が正確に天皇に伝わりさえすれば、天皇はこれを認可する、と彼らが考えたとしても無理もないことになる。
「蹶起の第一の理由は、第一師団の満洲移駐、第二は当時陸軍の中央幕僚たちが考えていた北支那への侵略だ。これは当然戦争になる。もとより生還は期し難い。とりわけ彼らは勇敢かつ有能な第一線の指揮官なのだ。大部分は戦死してしまうだろう。だから満洲移駐の前に元凶を斃す。そして北支那へは絶対手をつけさせない。今は外国と事を構える時期ではない。国政を改革し、国民生活の安定を図る。これが彼らの蹶起の動機であった」と菅波三郎は断定している。
東京憲兵隊の特高課長福本亀治少佐は、本庄侍従武官長に週一度ぐらいの割合で青年将校の不穏な情報を報告し、事件直前には、今日、明日にでも事件は起こりうることを報告して事前阻止を進言していた。
蹶起の計画​
蹶起趣意書​
反乱部隊は蹶起した理由を「蹶起趣意書(けっきしゅいしょ)」にまとめ、天皇に伝達しようとした。蹶起趣意書は先任である野中四郎の名義になっているが、野中がしたためた文章を北が大幅に修正したといわれている。1936年2月13日、安藤、野中は山下奉文少将宅を訪問し、蹶起趣意書を見せると、山下は無言で一読し、数ヵ所添削したが、ついに一言も発しなかった。
また、蹶起趣意書とともに陸軍大臣に伝えた要望では宇垣一成大将、南次郎大将、小磯国昭中将、建川美次中将の逮捕・拘束、林銑十郎大将、橋本虎之助近衛師団長の罷免を要求している。
蹶起趣意書では、元老、重臣、軍閥、政党などが国体破壊の元凶で、ロンドン条約と教育総監更迭における統帥権干犯、三月事件の不逞、天皇機関説一派の学匪、共匪、大本教などの陰謀の事例をあげ、依然として反省することなく私権自欲に居って維新を阻止しているから、これらの奸賊を誅滅して大義を正し国体の擁護開顕に肝脳を竭す、と述べている。
襲撃目標​
2月21日、磯部と村中は山口一太郎大尉に襲撃目標リストを見せた。襲撃目標リストは第一次目標と第二次目標に分けられていた。磯部浅一は元老西園寺公望の暗殺を強硬に主張したが、西園寺を真崎甚三郎内閣組閣のために利用しようとする山口は反対した(後述)。また真崎甚三郎大将を教育総監から更迭した責任者である林銑十郎大将の暗殺も議題に上ったが、すでに軍事参議官に退いていたため目標に加えられなかった。また2月22日に暗殺目標を第一次目標に絞ることが決定され、また「天皇機関説」を支持するような訓示をしていたとして 渡辺錠太郎教育総監が目標に加えられた。
   第一次目標​
岡田啓介(内閣総理大臣)
鈴木貫太郎(侍従長)
齋藤 實(内大臣)
高橋是清(大蔵大臣)
牧野伸顕(前・内大臣)
渡辺錠太郎(教育総監)
西園寺公望(元老)(組閣のために対象から外される)
   第二次目標​
後藤文夫(内務大臣)
一木喜徳郎(枢密院議長)
伊沢多喜男(貴族院議員、元台湾総督)
三井高公(三井財閥当主)
池田成彬(三井合名会社筆頭常務理事)
岩崎小弥太(三菱財閥当主)
   西園寺公望襲撃の計画と取りやめ​
西園寺襲撃は18日夜の栗原安秀中尉宅での会合で決まり、翌19日、磯部が愛知県豊橋市へ行き、豊橋陸軍教導学校の対馬勝雄中尉に依頼し、同意を得る。
対馬は同じ教導学校の竹島継夫中尉、井上辰雄中尉、板垣徹中尉、歩兵第6連隊の鈴木五郎一等主計、独立歩兵第1連隊の塩田淑夫中尉の5名に根回しした。
21日、山口一太郎大尉が西園寺襲撃をやめたらどうかと述べたが、磯部浅一は元老西園寺公望の暗殺を強硬に主張した。
23日には栗原が出動日時等を伝えに行き、小銃実包約二千発を渡した。
24日夜、板垣を除く5名で、教導学校の下士官約120名を25日午後10時頃夜間演習名義で動員する計画を立てるが、翌25日朝、板垣が兵力の使用に強く反対し、結局襲撃中止となる。そして、対馬と竹島のみが上京して蹶起に参加した。
西園寺がなぜか事前に事件の起こることを知って、静岡県警察部長官舎に避難していたという説があるが、それは全くのデマである。
事件発生後、午前6時40分頃、木戸幸一が興津にある西園寺邸に電話をかけた際、「一堂未だお休み中」と女中が返事をしているし、また、官舎に避難したのは、午前7時30分頃であったと、当時の静岡県警察部長であった橋本清吉が手記にそのときの詳細を書いている。
事件経過
陸軍将校の指揮による出動​
反乱軍は襲撃先の抵抗を抑えるため、前日夜半から当日未明にかけて、連隊の武器を奪い、陸軍将校等の指揮により部隊は出動した。歩兵第1連隊の週番司令山口一太郎大尉はこれを黙認し、また歩兵第3連隊にあっては週番司令安藤輝三大尉自身が指揮をした。事件当日は雪であった。
反乱軍は機関銃など圧倒的な兵力を有しており、警備の警察官らの抵抗を制圧して、概ね損害を受けることなく襲撃に成功した。
政府首脳・重臣への襲撃​
   岡田啓介首相​
内閣総理大臣・退役海軍大将の岡田啓介は天皇大権を掣肘する「君側の奸」として襲撃の対象となる。
全体の指揮を栗原安秀中尉が執り、第1小隊を栗原中尉自身が、第2小隊を池田俊彦少尉が、第3小隊を林八郎少尉が、機関銃小隊を尾島健次郎曹長が率いた。
まず正門の立哨警戒の巡査が武装解除され、異変を察知して飛び出した外周警備の巡査6名も続いて拘束された。しかしこの間に、邸内警備の土井清松巡査は、総理秘書官兼身辺警護役の松尾伝蔵・退役陸軍歩兵大佐とともに、岡田総理を寝室から避難させ、村上嘉茂衛門巡査部長が廊下で警戒に当たった。また裏門の詰め所では、小館喜代松巡査が特別警備隊に事態を急報する非常ベルを押す一方、清水与四郎巡査は邸内に入って裏庭側の警備に当たった。非常ベルの音を聞いて襲撃部隊が殺到するのに対し、小館巡査は拳銃で応戦したものの、全身に被弾して昏倒した(後に警察病院に収容されたものの、午前7時30分、「天皇陛下万歳」の叫びを最後に殉職)。また清水巡査は、裏庭側からの避難を試みた岡田総理一行を押しとどめたのち、非常避難口を守ってやはり殉職した。
廊下を守る村上巡査部長は数分に渡って襲撃部隊と銃撃戦を演じたものの、全身に被弾しつつ一歩一歩追い詰められ、ついに中庭に追い落とされて殉職した。この間に邸内に引き返した岡田総理は女中部屋の押入れに隠され、松尾大佐と土井巡査はあえてそこから離れて中庭に出たところを襲撃部隊と遭遇、松尾大佐は射殺され、土井巡査も拳銃弾が尽き、林八郎少尉に組み付いたところを左右から銃剣で刺突され、殉職した。しかしこれらの警察官の抵抗の間に岡田総理は隠れることができ、また、襲撃部隊は松尾大佐の遺体を見て岡田総理と誤認、目的を果たしたと思いこんだ。
一方、遺体が松尾のものであることを確認し、女中たちの様子から総理生存を察知した福田耕総理秘書官と迫水久常総理秘書官らは、麹町憲兵分隊の小坂慶助憲兵曹長、青柳利之憲兵軍曹及び小倉倉一憲兵伍長らと奇策を練り、翌27日に岡田と同年輩の弔問客を官邸に多数入れ、反乱部隊将兵の監視の下、変装させた岡田を退出者に交えてみごと官邸から脱出させた。
   高橋是清蔵相​
元総理の高橋是清大蔵大臣は陸軍省所管予算の削減を図っていたために恨みを買っており、襲撃の対象となる。
積極財政により不況からの脱出を図った高橋だが、その結果インフレの兆候が出始め、緊縮政策に取りかかった。高橋は軍部予算を海軍陸軍問わず一律に削減する案を実行しようとしたが、これは平素から陸軍に対する予算規模の小ささ(対海軍比十分の一)に不平不満を募らせていた陸軍軍人の恨みに火を付ける形となっていた。
叛乱当日は中橋基明中尉及び中島莞爾少尉が襲撃部隊を指揮し、赤坂表町3丁目の高橋私邸を襲撃した。警備の玉置英夫巡査が奮戦したが重傷を負い、高橋は拳銃で撃たれた上、軍刀でとどめを刺され即死した。
27日午前9時に商工大臣町田忠治が兼任大蔵大臣親任式を挙行した。高橋は事件後に位一等追陞されるとともに大勲位菊花大綬章が贈られた。
   斎藤実内大臣​
斎藤実内大臣は、退役海軍大将であり第30代内閣総理大臣である。長く海軍大臣を勤めていたところ、1914年のシーメンス汚職事件により引責辞任し、朝鮮総督期に子爵の称号を受けたあと退役し、犬養毅首相が1932年に武装海軍将校らによって殺害された五・一五事件のあとは、元老の西園寺公望の推薦を受け斉藤内閣を率いる内閣総理大臣兼外務大臣に任命され、陸軍関東軍による満州事変などの混迷した政局において軍部に融和的な政策をとり、満州国を認めなかった国際連盟を脱退するなどしたうえ、帝人事件による政府批判の高まりから内閣総辞職をしていたが、天皇の側近たる内大臣の地位にあったことから襲撃を受けたものである。
坂井直中尉、高橋太郎少尉、麦屋清済少尉、安田優少尉が率いる襲撃部隊が、四谷区仲町三丁目(現:新宿区若葉一丁目)の斎藤内大臣の私邸を襲撃した。襲撃部隊は警備の警察官の抵抗を難なく制圧して、斎藤の殺害に成功した。遺体からは四十数発もの弾丸が摘出されたが、それが全てではなく、体内には容易に摘出できない弾丸がなおも数多く残留していた。
目の前で夫が蜂の巣にされるのを見た妻・春子は、「撃つなら私を撃ちなさい」と銃を乱射する青年将校たちの前に立ちはだかり、筒先を掴んで制止しようとしたため腕に貫通銃創を負った。しかしそれでも春子はひるまず、なおも斎藤をかばおうと彼に覆いかぶさっている。春子の傷はすぐに手当がなされたものの化膿等によりその後一週間以上高熱が続いた。春子はその後昭和46年(1971年)に98歳で死去するまで長寿を保ったが、最晩年に至るまで当時の出来事を鮮明に覚えていた。事件当夜に斎藤夫妻が着ていた衣服と斎藤の遺体から摘出された弾丸数発は、奥州市水沢の斎藤実記念館に展示されている。
斎藤には事件後位一等が追陞されるとともに大勲位菊花大綬章が贈られ、昭和天皇より特に誄(るい、お悔やみの言葉)を賜った。なお外国勲章はシーメンス汚職事件での海軍大臣引責辞任よりあとは受けていない。
   鈴木貫太郎侍従長​
鈴木貫太郎(予備役海軍大将)は、天皇側近たる侍従長、大御心の発現を妨げると反乱将校が考えていた枢密顧問官の地位にいたことから襲撃を受ける。
叛乱当日は、安藤輝三大尉が襲撃部隊を指揮し、第1小隊を永田露曹長が、第2小隊を堂込喜市曹長が、予備隊を渡辺春吉軍曹が、機関銃隊を上村盛満軍曹が率い、麹町区(現:千代田区)三番町)の侍従長公邸に乱入した。鈴木は、永田・堂込両小隊長から複数の拳銃弾を撃ち込まれて瀕死の重傷を負うが、妻の鈴木たかの懇願により安藤大尉は止めを刺さず敬礼をして立ち去った。その結果、鈴木は辛うじて一命を取り留める。襲撃部隊の撤収後、鈴木たかは昭和天皇に直接電話し、宮内省の医師を派遣してくれるように依頼した。この電話が襲撃事件を知らせる天皇への第一報となった。
安藤は、以前に鈴木侍従長を訪ね時局について話を聞いた事があり、互いに面識があった。そのとき鈴木は自らの歴史観や国家観などを安藤に説き諭し、安藤に深い感銘を与えた。安藤は鈴木について「噂を聞いているのと実際に会ってみるのでは全く違った。あの人(鈴木)は西郷隆盛のような人で懐が大きい人だ」と言い、何度も決起を思い止まろうとしたとも言われる。
その後、太平洋戦争末期に内閣総理大臣となった鈴木は岡田総理を救出した総理秘書官迫水久常(鈴木内閣で内閣書記官長)の補佐を受けながら終戦工作に関わることとなる。鈴木は生涯、自分を襲撃した安藤について「あのとき、安藤がとどめをささなかったことで助かった。安藤は自分の恩人だ」と語っていたという。
   渡辺錠太郎教育総監​
陸軍教育総監の渡辺錠太郎大将は、真崎甚三郎の後任として教育総監になった直後の初度巡視の際、真崎が教育総監のときに陸軍三長官打ち合わせの上で出した国体明徴に関する訓示を批判し、天皇機関説を擁護した。これが青年将校らの怒りを買い、襲撃を受ける。
斎藤内大臣襲撃後の高橋少尉及び安田少尉が部隊を指揮し、時刻は遅く、午前6時過ぎに東京市杉並区上荻窪2丁目の渡辺私邸を襲撃した。ここで注意すべきなのは、斎藤や高橋といった重臣が殺害されたという情報が、渡辺の自宅には入っていなかったということである。殺された重臣と同様、渡辺が青年将校から極めて憎まれていたことは当時から周知の事実であり、斎藤や高橋が襲撃されてから1時間経過してもなお事件発生を知らせる情報が彼の元に入らず、結果殺害されるに至ったことに対し、彼の身辺に「敵側」への内通者がいたという説もある。
殺されるであろう事を感じた渡辺は、傍にいた次女の渡辺和子を近くの物陰に隠し、拳銃を構えたが、直後にその場で殺害された。目前で父を殺された和子の記憶によると、機関銃掃射によって渡辺の足は骨が剥き出しとなり、肉が壁一面に飛び散ったという。渡辺邸は牛込憲兵分隊から派遣された憲兵伍長及び憲兵上等兵が警護に当たっていたが、渡辺和子によれば、憲兵は2階に上がったままで渡辺を守らず、渡辺一人で応戦し、命を落としたのも渡辺だけであったという。
28日付で教育総監部本部長の中村孝太郎中将が教育総監代理に就任した。渡辺は事件後に位階を一等追陞されるとともに勲一等旭日桐花大綬章が追贈された。
   牧野伸顕​
牧野伸顕伯爵は、欧米協調主義を採り、かつて内大臣として天皇の側近にあったことから襲撃を受けた。
河野寿大尉は民間人を主体とした襲撃部隊(河野以下8人)を指揮し、湯河原の伊藤屋旅館の元別館である「光風荘」にいた牧野伸顕前内大臣を襲撃した。玄関前で乱射された機関銃の銃声で目覚めた身辺警護の皆川義孝巡査は、牧野伯爵を裏口から避難させたのち、襲撃部隊に対して拳銃で応射し、遅滞を図った。これにより河野大尉が負傷したが、皆川巡査も重傷を負った。このとき、牧野伯爵の付き添い看護婦であった森鈴江が皆川巡査を抱き起こして後送しようとしたが、皆川巡査は既に身動きが取れず、また森看護婦も負傷していたことから、襲撃部隊の放火によって炎上する邸内からの脱出は困難として、森看護婦のみを脱出させ、自らは殉職した。なお、このとき重傷を負った河野は入院を余儀なくされ、入院中の3月6日に自殺する。
脱出を図った牧野は襲撃部隊に遭遇したが、旅館の従業員が牧野を「ご隠居さん」と呼んだために旅館主人の家族と勘違いした兵士によって石垣を抱え下ろされ、近隣の一般人が背負って逃げた。なお襲撃の際、旅館の主人・岩本亀三および従業員八亀広蔵が銃撃を受けて負傷している。
なお吉田茂の娘で牧野の孫にあたる麻生和子は、この日牧野をたずねて同旅館に訪れていた。麻生が晩年に執筆した著書『父吉田茂』の二・二六事件の章には、襲撃を受けてから脱出に成功するまでの模様が生々しく記されているが、脱出に至る経緯については上の記述とは異なった内容となっている。
   警視庁​
1月下旬から2月中旬にかけて反乱部隊の夜間演習が頻繁になっていたことなどから、警視庁では情勢の只ならぬことを察し、再三に渡って東京警備司令部に対して取り締りを要請したものの、取り合われなかった。このことから、警視庁では特別警備隊(現在の機動隊に相当する)に機関銃を装備して対抗することすら検討していたが、実現しないままに事件発生を迎えることとなった。
警視庁と首相官邸の間には非常ベル回線が設けられており、官邸警備の警察官(小館喜代松巡査)により襲撃の報は直ちに警視庁に伝えられた。警視庁は特別警備隊1個小隊(一説には1個中隊)を緊急出動させたが、官邸近くで反乱部隊に阻止されて武装解除されてしまった。また、所轄の麹町警察署も官邸の異常を察知し、複数の警察官が個別に官邸に向かったが、いずれも次々に反乱部隊の阻止線で拘束され、官邸内に抑留されてしまった。
26日午前5時、野中四郎大尉が指揮する約500人の部隊(歩兵第3連隊第7中隊常盤稔少尉以下156名、同第3中隊清原康平少尉以下152名、同第10中隊鈴木金次郎少尉以下142名、同機関銃隊立石利三郎曹長以下75名)が警視庁を襲撃、その圧倒的な兵力及び重火器によって、抵抗させる間もなく警視庁全体を制圧し、「警察権の発動の停止」を宣言した。この際、交換手の背に銃剣を突きつけて電話交換室を占拠し、警察電話を遮断することで警察の動きを封じようとしたが、兵士の電信電話知識の乏しさをつかれて、実際には全ての通信が維持されていた。
この電話手の働きにより、小栗一雄警視総監を始め各部長は、警視庁占拠直後より情勢を知らされた。総監官舎の襲撃等も想定されたことから、総監・部長は急遽脱出して、まず麹町警察署で緊急の協議を行い、まず警務部長名で非常呼集を発令、本庁勤務員は部ごとに麹町、丸の内、錦町、表町の各警察署に、また各警察署の勤務員はそれぞれの所属署に集合・待機するよう命じた。ついで、麹町警察署は反乱部隊の占領地域に近く、襲撃を受ける懸念が指摘されたことから、総監・部長は神田錦町警察署に移動し、ここに「非常警備総司令部」を設けた。
警視庁では、決死隊を募って本庁舎を奪還しようという強硬論も強かったものの、安倍源基特高部長は、警察と軍隊が正面から衝突することによる人心の混乱を懸念して強く反対し、警視総監もこれを支持したことから、最終的に、陸軍、憲兵隊自身による鎮圧を求め、警察は専ら後方の治安維持を担当することとした。
半蔵門に近い麹町警察署の署長室には当時、宮内省直通の非常電話が設置されており、午後8時、その電話が鳴ると、たまたま署長をサイドカーに乗せて走り回る役目の巡査が出た。一度「ヒロヒト、ヒロヒト…」と名乗り巡査が「どなたでしょうか」と訊ねるといちど電話が切れ、再度の電話では別の男性の声で「これから帝国で一番偉い方が訊ねる」と前置きし、最初に名乗った人間が質問、巡査からは「鈴木侍従長の生存報告」「総理の安否は不明で、官邸は兵が囲んでいる」などの報告を受けた。巡査は会話の中で、相手が「朕」の一人称を使ったことから昭和天皇だと理解し、体が震えたという。電話の主はその後、「総理消息をはじめ情況を知りたいので見てくれ」と依頼し、巡査の名前を尋ねたが、巡査は「麹町の交通でございます」と答えるのが精一杯だったという。
作家の戸川猪佐武によれば、警視庁は青年将校たちが数日前より不穏な動きを見せているとの情報をある程度把握しており、斎藤内大臣にそれを知らせたが特に問題にされなかったという。
   後藤文夫内相​
警視庁占拠後、警視庁襲撃部隊の一部は、副総理格の後藤文夫内務大臣を殺害するために、内務大臣官邸も襲撃して、これを占拠した。歩兵第3連隊の鈴木金次郎少尉が襲撃部隊を指揮していた。後藤本人は外出中で無事だった。
   霞ヶ関・三宅坂一帯の占拠​
更に、反乱部隊は陸軍省及び参謀本部、有楽町の東京朝日新聞(のちの朝日新聞東京本社)なども襲撃し、日本の政治の中枢である永田町、霞ヶ関、赤坂、三宅坂の一帯を占領した。
要望事項​
26日午前6時半ごろ香田大尉が陸相官邸で陸相に対する要望事項を朗読し村中が補足説明した。
現下は対外的に勇断を要する秋なりと認められる
皇軍相撃つことは避けなければならない
全憲兵を統制し一途の方針に進ませること
警備司令官、近衛、第一師団長に過誤なきよう厳命すること
南大将、宇垣大将、小磯中将、建川中将を保護検束すること
速やかに陛下に奏上しご裁断を仰ぐこと
軍の中央部にある軍閥の中心人物(根本大佐(統帥権干犯事件に関連し、新聞宣伝により政治策動をなす)、武藤中佐(大本教に関する新日本国民同盟となれあい、政治策動をなす)、片倉少佐(政治策動を行い、統帥権干犯事件に関与し十一月事件の誣告をなす)を除くこと
林大将、橋本中将(近衛師団長)を即時罷免すること
荒木大将を関東軍司令官に任命すること
同志将校(大岸大尉(歩61)、菅波大尉(歩45)、小川三郎大尉(歩12)、大蔵大尉(歩73)、朝山大尉(砲25)、佐々木二郎大尉(歩73)、末松大尉(歩5)、江藤中尉(歩12)、若松大尉(歩48))を速やかに東京に招致すること
同志部隊に事態が安定するまで現在の姿勢にさせること
報道を統制するため山下少将を招致すること
次の者を陸相官邸に招致すること
・26日午前7時までに招致する者――古荘陸軍次官、斎藤瀏少将、香椎警備司令官、矢野憲兵司令官代理、橋本近衛師団長、堀第一師団長、小藤歩一連隊長、山口歩一中隊長、山下調査部長
・午前7時以降に招致する者――本庄、荒木、真崎各大将、今井軍務局長、小畑陸大校長、岡村第二部長、村上軍事課長、西村兵務課長、鈴木貞一大佐、満井中佐
鎮圧へ​
26日​
事件後まもなく北一輝のもとに渋川善助から電話連絡により蹶起の連絡が入った。同じ頃、真崎甚三郎大将も政治浪人亀川哲也からの連絡で事件を知った。真崎は加藤寛治大将と伏見宮邸で会う旨を決めて陸相官邸へ向かった。
午前4時半頃、山口一太郎大尉は電話で本庄繁大将に、青年将校の蹶起と推測の目標を告げた(山口一太郎第4回公判記録)。本庄日記によると、午前5時、本庄繁侍従武官長のもとに反乱部隊将校の一人で、本庄の女婿である山口一太郎大尉の使者伊藤常男少尉が訪れ、「連隊の将兵約五百、制止しきらず、いよいよ直接行動に移る」と事件の勃発を告げ、引き続き増加の傾向ありとの驚くべき意味の紙片、走り書き通知を示した。本庄は、制止に全力を致すべく、厳に山口に伝えるように命じ、同少尉を帰した。そして本庄は岩佐禄郎憲兵司令官に電話し、さらに宿直中の侍従武官中島鉄蔵少将に電話して、急ぎ宮中に出動した。
鈴木貫太郎の夫人・鈴木たかが昭和天皇に直接電話したことにより事件の第一報がもたらされた。たかは皇孫御用掛として迪宮の4歳から15歳までの11年間仕えており親しい関係にあった。中島侍従武官に連絡を受けた甘露寺受長侍従が天皇の寝室まで赴き報告したとき、天皇は、「とうとうやったか」「全く私の不徳の致すところだ」と言って、しばらくは呆然としていたが、直ちに軍装に着替えて執務室に向かった。また半藤一利によれば天皇はこの第一報のときから「賊軍」という言葉を青年将校部隊に対して使用しており、激しい敵意をもっていたことがわかる。この昭和天皇の敵意は青年将校たちにとって最大の計算違いというべきで、すでに昭和天皇の意志が決したこの時点で反乱は早くも失敗に終わることが確定していたといえる。
襲撃された内大臣斎藤實私邸の書生からの電話で、5時20分頃事件を知った木戸幸一内大臣秘書長は、小栗一雄警視総監、元老西園寺公望の原田熊雄秘書、近衛文麿貴族院議長へ電話し、6時頃参内した。すぐに常侍官室に行き、すでに到着していた湯浅倉平宮内大臣、広幡忠隆侍従次長と対策を協議した。温厚で天皇の信任も厚かった斎藤を殺害された宮中グループの憤激は大きく、全力で反乱軍の鎮定に集中し、実質的に反乱軍の成功に帰することとなる後継内閣や暫定内閣を成立させないことでまとまり、宮内大臣より天皇に上奏した。青年将校たちは宮中グループの政治力を軽視し、事件の前も後もほとんど何も手を打たなかった。宮中グループの支持を得られなかったことも青年将校グループの大きなミスであった。
午前5時ごろ、反乱部隊将校の香田清貞大尉と村中孝次、磯部浅一らが丹生誠忠中尉の指揮する部隊とともに、陸相官邸を訪れ、6時半ごろようやく川島義之陸軍大臣に会見して、香田が「蹶起趣意書」を読み上げ、蹶起軍の配備状況を図上説明し、要望事項を朗読した。川島陸相は香田らの強硬な要求を容れて、古荘次官、真崎、山下を招致するよう命じた。川島陸相が対応に苦慮しているうちに、他の将校も現れ、陸相をつるし上げた。斎藤瀏少将、小藤大佐、山口大尉がまもなく官邸に入り、7時半ごろ、古荘次官が到着した。
午前8時過ぎ、真崎甚三郎、荒木貞夫、林銑十郎の3大将と山下奉文少将が歩哨線通過を許される。真崎と山下は陸相官邸を訪れ、天皇に拝謁することを勧めた。
26日早朝、石原莞爾大佐宅に、新聞班長である鈴木貞一中佐から電話があり、事件の概要を知らせてきた。その後、石原は軍事高級課員である武藤章中佐に電話をかけ「……いま鈴木から電話で知らせてきたが、三連隊の兵隊が一中隊ほど参謀本部と陸軍省を占領し、総理大臣と教育総監が殺されたそうだ。そちらには何か知らせがないか。こちらから役所に電話したが通じない……」と話し、直ちに参謀本部に出かけている。
歩兵第三連隊の麦屋清済少尉によれば、赤坂見付台上に張られた蹶起軍の歩哨線を、石原が肩を怒らせながら無理やり通行しようとしたため、蹶起軍の兵士たちは銃剣を突き付けながら「止まれ」と怒声を放ち、銃の引き金に手をかけている者もいたが、石原は少しもひるむことなく「新品少尉、ここを通せ!俺は参謀本部の石原大佐だ!」と逆に怒鳴り返してきた。麦屋は石原との間でしばらく押し問答を繰り返した後に、石原に近寄って「貴方は今危険千万、死線はこれからも連続ですぞ。私は貴方を誰よりも尊敬しています。死線から貴方を守りたい。どうかここを通らないで、軍人会館のほうに行ってください。お願いです」とそっと耳打ちをしたという。麦屋の懇望に対してやっと顔を縦に振った石原は「お前たちの気持ちはよく分かっておる」と言い残して、軍人会館の方向に向かっていったという。
このほか、当時は参謀本部第1部第3課の部員であった難波三十四砲兵大尉(陸士第35期。終戦時は大佐、近衛第1師団参謀長、東京湾兵団参謀)が、「そろそろ薄明るくなってきた頃でしたが、どこから来たんじゃろう思うんですが、参謀本部第一部第二課、作戦をやる課ですな。そこの課長の石原莞爾大佐がひとりでふらふらとやってきました。そして日直の部屋から参謀次長の杉山元さんに電話をかけ、閣下、すぐに戒厳令を布かれるといいと思います≠ニそれだけいうと、そのあたりを一巡して、また飄然としてどこかに行ってしまわれましたな。平然としたものでした。私たちには、まったく寝耳に水の出来事で何もわからなかったんですが、石原さんには誰かが知らせたんでしょうなあ」と証言している。
磯部浅一の『行動記』によれば、青年将校たちから「今日はお帰り下さい」と迫られた石原は「何が維新だ。何も知らない下士官を巻き込んで維新がやりたかったら自分たちだけでやれ」と一喝し、将校たちはそのあまりの剣幕に引き下がった。そして、執務室に入った石原に「大佐殿と我々の考えは違うところもあると思うのですが、維新についてどう思われますか?」と質問すると、「俺にはよくわからん。俺の考えは、軍備と国力を充実させればそれが維新になるというものだ」と答え、「こんなことはすぐやめろ、やめねば軍旗をもって討伐するぞ!」と再び一喝したとある。
山本又予備役少尉の獄中手記『二・二六日本革命史』によれば、陸軍大臣官邸前に現われた石原は「このままではみっともない、君等の云う事をきく」と山本に言ったとされ、官邸内で磯部・村中・香田に「まけた」と言ったとある。また、磯部が陸軍省軍務局の片倉衷少佐を撃った際の「白雪の鮮血を見驚いて」、「誰をやったんだ、誰をやったんだ」と叫んだ石原に、山本が「片倉少佐」と答えると「驚き黙然たり」だったという。ただし、片倉衷少佐によれば、片倉が事件発生を知って陸軍大臣官邸に入り、陸軍大臣に面会しようとした時点で、既に石原は陸軍大臣官邸内におり、片倉は「これは誤解に基づくものです」と述べたところ、石原は「誤解も何もこうなったら仕方がない。早く事態を収めることだ」と答えている。なお、片倉は反乱軍側の青年将校に対して「昭和維新はお互いに考えていることだ。俺も昭和維新については同じに思っている。しかし尊王絶対の我らは統帥権を確立しなければいかん。私兵を動かしてはいかん」と説論している。
この時、陸軍大臣官邸前の玄関には真崎大将が仁王立ちしており、石原は真崎に向かって「お体はもうよいのですか。お体の悪い人がエライ早いご出勤ですね、ここまで来たのも自業自得ですよ」と皮肉を交えて話しかけ、真崎は「朝呼ばれたのだから、まあ何とか早く纏めなければいかぬ」と答えている。この際、川島義之陸軍大臣と古荘幹郎陸軍次官が、真崎の左側に出て来て、古荘次官が石原を招いたが、この際に片倉は磯部浅一に頭部をピストルで撃たれている。このとき片倉は「ヤルなら天皇陛下の命令でヤレ」と、怒号を発しながら、部下に支えられて現場を立ち去っている。片倉はその後、銃弾摘出の手術が成功し、奇跡的に一命を取りとめている。
石原と皇道派の関係について、筒井清忠が真崎甚三郎と橋本欣五郎・石原の間に近接関係が構築されつつあったことや、北博昭も訊問調書などの裁判資料に基づいて、石原の蹶起軍に対する態度が他の軍首脳と同様にグラついていたことを指摘している。ただし、2月26日の夕刻に行われた石原と橋本の会談に関しては、橋本が「陛下に直接上奏して反乱軍将兵の大赦をおねがいし、その条件のもとに反乱軍を降参せしめ、その上で軍の力で適当な革新政府を樹立して時局を収拾する。この案をあなたはどう思いますか。」と質問し、これに対して石原が「賛成だ。やってみよう。だが、このことたるや、事まことに重大だ。僕一人の所存できめるわけにはいかぬ。いちおう参謀次長の了解を受けねばならぬ。次長はあの部屋にいるから相談してくる。待っててくれ」と言い残して席をはずして杉山元参謀次長の部屋に赴き、「ものの二十分もたったかと思うころ、(石原)大佐が帰ってきて杉山次長も賛成だからやろうじゃないか、ということに話がきまった」とされるが、杉山次長の手記には「賛成した」という表現はどこにもなく、実際は事件の早期解決を狙った石原が、「次長も賛成した」と橋本に嘘をついて、蹶起将校たちとの交渉を進めようとしていたことが指摘されている。ちなみに橋本は、石原との会談前の2月26日の夕刻に反乱軍が占拠している陸軍大臣官邸に乗り込み、「野戦重砲第二連隊長橋本欣五郎大佐、ただいま参上した。今回の壮挙まことに感激に堪えん!このさい一挙に昭和維新断行の素志を貫徹するよう、及ばずながらこの橋本欣五郎お手伝いに推参した」と、時代劇の仇討ちもどきの台詞を吐いたが、蹶起将校の村中や磯部たちには有難迷惑であり、体よくあしらわれて追い返されている。
26日、荒木貞夫大将に会った石原莞爾大佐は「ばか!お前みたいなばかな大将がいるからこんなことになるんだ」と面と向かって罵倒し、これに対して「なにを無礼な!上官に向かってばかとは軍規上、許せん!」と、えらいけんまくで言い返す荒木に対して石原は「反乱が起っていて、どこに軍規があるんだ」とくってかかり、両者は一蝕即発の事態になったが、その場にいた安井藤治東京警備参謀長の取り成しで事なきを得ている。
真崎大将は陸相官邸を出て伏見宮邸に向かい、海軍艦隊派の加藤寛治とともに軍令部総長伏見宮博恭王に面会した。真崎大将と加藤は戒厳令を布くべきことや強力内閣を作って昭和維新の大詔渙発により事態を収拾することについて言上し、伏見宮をふくむ三人で参内することになった。真崎大将は移動する車中で平沼騏一郎内閣案などを加藤に話したという。参内した伏見宮は天皇に「速やかに内閣を組織せしめらること」や昭和維新の大詔渙発などを上申したが、天皇は「自分の意見は宮内大臣に話し置きけり」「宮中には宮中のしきたりがある。宮から直接そのようなお言葉をきくことは、心外である。」と取り合わなかった。
午前9時、川島陸相が天皇に拝謁し、反乱軍の「蹶起趣意書」を読み上げて状況を説明した。事件が発生して恐懼に堪えないとかしこまる川島に対し、天皇は「なにゆえそのようなもの(蹶起趣意書)を読み聞かせるのか」「速ニ事件ヲ鎮圧」せよと命じた。この時点で昭和天皇が反乱軍の意向をまったく問題にしていないことがあらためて明瞭になった。また正午頃、迫水秘書官は大角岑生海軍大臣に岡田首相が官邸で生存していることを伝えたが、大角海相は「聞かなかったことにする」と答えた。
杉山元参謀次長が甲府の歩兵第49連隊及び佐倉の歩兵第57連隊を招致すべく上奏。
午後に清浦奎吾元総理大臣が参内。「軍内より首班を選び処理せしむべく、またかくなりしは朕が不徳と致すところとのご沙汰を発せらるることを言上」するが、天皇は「ご機嫌麗しからざりし」だったという(真崎甚三郎日記)。磯部の遺書には「清浦が26日参内せんとしたるも湯浅、一木に阻止された」とある。
正午半過ぎ、前述の荒木・真崎・林のほか、阿部信行・植田謙吉・寺内寿一・西義一・朝香宮鳩彦王・梨本宮守正王・東久邇宮稔彦王といった軍事参議官によって宮中で非公式の会議が開かれ、穏便に事態を収拾させることを目論んで26日午後に川島陸相名で告示が出された。
   一、蹶起ノ趣旨ニ就テハ天聴ニ達セラレアリ
   二、諸子ノ真意ハ国体顕現ノ至情ニ基クモノト認ム
   三、国体ノ真姿顕現ノ現況(弊風ヲモ含ム)ニ就テハ恐懼ニ堪ヘズ
   四、各軍事参議官モ一致シテ右ノ趣旨ニヨリ邁進スルコトヲ申合セタリ
   五、之以外ハ一ツニ大御心ニ俟ツ
この告示は山下奉文少将によって陸相官邸に集まった香田・野中・津島・村中の将校と磯部浅一らに伝えられたが、意図が不明瞭であったため将校等には政府の意図がわからなかった。しかしその直後、軍事課長村上啓作大佐が「蹶起趣意書」をもとにして「維新大詔案」が作成中であると伝えたため、将校らは自分たちの蹶起の意志が認められたものと理解した。正午、憲兵司令部にいた村上啓作軍事課長、河村参郎少佐、岩畔豪雄少佐に「維新大詔」の草案作成が命令された。午後三時ごろ村上課長が書きかけの草案を持って陸相官邸へ車を飛ばし、草案を示して、維新大詔渙発も間近いと伝えたという。
26日午後3時に東京警備司令官香椎浩平中将は、蹶起部隊の占領地域も含まれる第1師管に戦時警備を下令した(7月18日解除)。戦時警備の目的は、兵力を以て重要物件を警備し、併せて一般の治安を維持する点にある。結果的に、蹶起部隊は第一師団長堀丈夫中将の隷下にとなり、正規の統帥系統にはいったことになる。 午後3時、前述の告示が東京警備司令部によって印刷・下達された。しかしこの際に第二条の「諸子の真意は」の部分が
   諸子ノ行動ハ国体顕現ノ至情ニ基クモノト認ム
と「行動」に差し替えられてしまった。反乱部隊への参加者を多く出してしまった第一師団司令部では現状が追認されたものと考えこの告示を喜んだが、近衛師団では逆に怪文書扱いする有様であった。 午後4時、戦時警備令に基づく第一師団命令が下った。この命令によって反乱部隊は歩兵第3連隊連隊長の指揮下に置かれたが、命令の末尾には軍事参議官会議の決定に基づく次のような口達が付属した。
   一、敵ト見ズ友軍トナシ、トモニ警戒ニ任ジ軍相互ノ衝突ヲ絶対ニ避クルコト
   二、軍事参議官ハ積極的ニ部隊ヲ説得シ一丸トナリテ活溌ナル経綸ヲ為ス。閣議モ其趣旨ニ従ヒ善処セラル
前述の告示とこの命令は一時的に反乱部隊の蹶起を認めたものとして後に問題となった。反乱部隊の元には次々に上官や友人の将校が激励に集まり、糧食が原隊から運び込まれた。
午後になるとようやく閣僚が集まりはじめ、午後9時に後藤文夫内務大臣が首相臨時代理に指名された。後藤首相代理は閣僚の辞表をまとめて天皇に提出したが、時局の収拾を優先せよと命じて一時預かりとした。その後、閣議が開かれて午後8時40分に戒厳施行が閣議決定された。当初警視庁や海軍は軍政につながる恐れがあるとしてこの戒厳令に反対していた。しかしすみやかな鎮圧を望んでいた天皇の意向を受け、枢密院の召集を経て翌27日早暁ついに戒厳令は施行された。行政戒厳であった。
午後9時、主立った反乱部隊将校は陸相官邸で皇族を除いた荒木・真崎・阿部・林・植田・寺内・西らの軍事参議官と会談したが結論は出なかった。蹶起者に同調的な将校の鈴木貞一、橋本欣五郎、満井佐吉が列席した。磯部は手記においてこの時の様子を親が子供の尻ぬぐいをしてやろうという『好意的な様子を看取できた』としている。「緒官は自分を内閣の首班に期待しているようだが、第一自分はその任ではない。またかような不祥事を起こした後で、君らの推挙で自分が総理たることはお上に対して強要となり、臣下の道に反しておそれ多い限りであるので、断じて引き受けることはできない」と真崎はいった。
26日午後、参謀本部作戦課長の石原莞爾大佐が、宮中東溜りの間で開かれた軍事参議官会議を終えて退出する途中の川島義之陸軍大臣をつかまえて、事件の飛び火を警戒して日本全土に戒厳令を布くことを強く進言している。石原はすみやかに戒厳令を布いて反乱軍の討伐体制を整えようとしていた。その直後に宮中に居合わせていた内田信也鉄道大臣は、石原を始めとする幕僚たちの強弁で傲慢な態度を目撃しており、「夕景に至る頃おいには、陸軍省軍務局員や参謀本部の石原莞爾大佐らが、閣議室(宮内省臨時閣議室)の隣室に陣取り、卓を叩いて聞えよがしに、戒厳令不発令の非を鳴らし、激烈な口調で喚きたてていたが、石原大佐ごときは帯剣をガチャつかせて、閣議室に乗り込み強談判におよんで来たので、僕らは『統帥部と直接交渉は断然ことわる、意見は陸相経由の場合のみ受取るから……』と、はねつけた」と証言している。なお、このとき石原莞爾らが強引に推進した戒厳令の施行が、翌27日からの電話傍受の法的根拠に繋がっている。
なお当時、東京陸軍幼年学校の校長だった阿南惟幾は、事件直後に全校生徒を集め、「農民の救済を唱え、政治の改革を叫ばんとする者は、まず軍服を脱ぎ、然る後に行え」と、極めて厳しい口調で語ったと伝えられている。石原同様、阿南も陸軍内では無派閥であった。
27日​
午前1時すぎ、石原莞爾、満井佐吉、橋本欣五郎らは帝国ホテルに集まり、善後処置を協議した。山本英輔内閣案や、蹶起部隊を戒厳司令官の指揮下にいれ軍政上骨抜きにすることなどで意見が一致し、村中孝次を陸相官邸から帝国ホテルに呼び寄せてこれを伝えた。
午前3時、戒厳令の施行により九段の軍人会館に戒厳司令部が設立され、東京警備司令官の香椎浩平中将が戒厳司令官に、参謀本部作戦課長で大佐の石原が戒厳参謀にそれぞれ任命された。しかし、戒厳司令部の命令「戒作命一号」では反乱部隊を「二十六日朝来出動セル部隊」と呼び、反乱部隊とは定義していなかった。
「皇軍相撃」を恐れる軍上層部の動きは続いたが、長年信頼を置いていた重臣達を虐殺された天皇の怒りはますます高まり、午前8時20分にとうとう「戒厳司令官ハ三宅坂付近ヲ占拠シアル将校以下ヲ以テ速ニ現姿勢ヲ徹シ各所属部隊ノ隷下ニ復帰セシムベシ」の奉勅命令が参謀本部から上奏され、天皇は即座に裁可した。
本庄繁侍従武官長は決起した将校の精神だけでも何とか認めてもらいたいと天皇に奏上したが、これに対して天皇は「自分が頼みとする大臣達を殺すとは。こんな凶暴な将校共に赦しを与える必要などない」と一蹴した。奉勅命令は翌朝5時に下達されることになっていたが、天皇はこの後何度も鎮定の動きを本庄侍従武官長に問いただし、本庄はこの日だけで13回も拝謁することになった。
午後0時45分に拝謁に訪れた川島陸相に対して天皇は、「私が最も頼みとする大臣達を悉く倒すとは、真綿で我が首を締めるに等しい行為だ」「陸軍が躊躇するなら、私自身が直接近衛師団を率いて叛乱部隊の鎮圧に当たる」とすさまじい言葉で意志を表明し、暴徒徹底鎮圧の指示を伝達した。また午後1時過ぎ、憲兵によって岡田首相が官邸から救出された。天皇の強硬姿勢が陸相に直接伝わったことと、殺されていたと思われていた岡田首相の生存救出で内閣が瓦解しないことが明らかになったことで、それまで曖昧な情勢だった事態は一気に叛乱軍鎮圧に向かうことになった。
午後2時に陸相官邸で真崎・西・阿部ら3人の軍事参議官と反乱軍将校の会談が行われた。この直前、反乱部隊に北一輝から「人無シ。勇将真崎有リ。国家正義軍ノ為ニ号令シ正義軍速カニ一任セヨ」という「霊告」があった旨連絡があり、反乱部隊は事態収拾を真崎に一任するつもりであった。真崎は誠心誠意、真情を吐露して青年将校らの間違いを説いて聞かせ、原隊復帰をすすめた。相談後、野中大尉が「よくわかりました。早速それぞれ原隊へ復帰いたします」と言った。
午後4時25分、反乱部隊は首相官邸、農相官邸、文相官邸、鉄相官邸、山王ホテル、赤坂の料亭「幸楽」を宿所にするよう命令が下った。
午後5時。弘前より上京した秩父宮が上野駅に到着。秩父宮はすぐに天皇に拝謁したが、「陛下に叱られたよ」とうなだれていたという。これは普段から皇道派青年将校たちに同情的だった秩父宮の姿勢を昭和天皇が叱ったものだとする説が支配的である。
午後7時、戒厳部隊の麹町地区警備隊として小藤指揮下に入れとの命令(戒作命第7号)があった。
夜、石原莞爾が磯部と村中を呼んで、「真崎の言うことを聞くな、もう幕引きにしろ、我々が昭和維新をしてやる」と言った。
28日​
午前0時、反乱部隊に奉勅命令の情報が伝わった。午前5時、遂に蹶起部隊を所属原隊に撤退させよという奉勅命令が戒厳司令官に下達され、5時半、香椎浩平戒厳司令官から堀丈夫第一師団長に発令され、6時半、堀師団長から小藤大佐に蹶起部隊の撤去、同時に奉勅命令の伝達が命じられた。小藤大佐は、今は伝達を敢行すべき時期にあらず、まず決起将校らを鎮静させる必要があるとして、奉勅命令の伝達を保留し、堀師団長に説得の継続を進言した。香椎戒厳司令官は堀師団長の申し出を了承し、武力鎮圧につながる奉勅命令の実施は延びた。自他共に皇道派とされる香椎戒厳司令官は反乱部隊に同情的であり、説得による解決を目指し、反乱部隊との折衝を続けていた。この日の早朝には自ら参内して「昭和維新」を断行する意志が天皇にあるか問いただそうとまでした。しかしすでに武力鎮圧の意向を固めていた杉山参謀次長が激しく反対したため「討伐」に意志変更した。
朝、石原莞爾大佐は、臨時総理をして建国精神の明徴、国防充実、国民生活の安定について上奏させ、国政全体を引き締めを内外に表明してはどうかと香椎戒厳司令官に意見具申した。また午前9時ごろ、撤退するよう決起側を説得していた満井佐吉中佐が戒厳司令部に戻ってきて、川島陸相、杉山参謀次長、香椎戒厳司令官、今井陸軍軍務局長、飯田参謀本部総務部長、安井戒厳参謀長、石原戒厳参謀などに対し、昭和維新断行の必要性、維新の詔勅の渙発と強力内閣の奏請を進言した。香椎司令官は無血収拾のために昭和維新断行の聖断をあおぎたい、と述べたが、杉山元参謀次長は再び反対し、武力鎮圧を主張した。
正午、山下奉文少将が奉勅命令が出るのは時間の問題であると反乱部隊に告げた。これをうけて、栗原中尉が反乱部隊将校の自決と下士官兵の帰営、自決の場に勅使を派遣してもらうことを提案した。川島陸相と山下少将の仲介により、本庄侍従武官長から奏上を受けた昭和天皇は「自殺スルナラバ勝手ニ為スベク、此ノ如キモノニ勅使ナド以テノ外ナリ」と非常な不満を示して叱責した。しかしこの後もしばらくは軍上層部の調停工作は続いた。
自決と帰営の決定事項が料亭幸楽に陣取る安藤大尉に届くと、安藤は激怒し、それがもとで決起側は自決と帰営の決定事項を覆した。午後1時半ごろ、事態の一転を小藤大佐が気づき、やがて、堀師団長、香椎戒厳司令官も知った。結局、奉勅命令は伝達できず、撤退命令もなかった。形式的に伝達したことはなかったが、実質的には伝達したも同様な状態であった、と小藤大佐は述べている。
午後4時、戒厳司令部は武力鎮圧を表明し、準備を下命(戒作命第10号の1)。 同時刻、皇居には皇族7人(伏見宮博恭王、朝融王、秩父宮、東久邇宮、梨本宮、竹田宮、高松宮)が集まり、一致して天皇を支える方針を打ち出した。
午後6時、蹶起部隊に対する小藤の指揮権を解除(同第11号)。午後11時、翌29日午前5時以後には攻撃を開始し得る準備をなすよう、司令部は包囲軍に下命(同第14号)。
また、奉勅命令を知った反乱部隊兵士の父兄数百人が歩兵第3連隊司令部前に集まり、反乱部隊将校に対して抗議や説得の声を上げた。午後11時、「戒作命十四号」が発令され反乱部隊を「叛乱部隊」とはっきり指定し、「断乎武力ヲ以テ当面ノ治安ヲ恢復セントス」と武力鎮圧の命令が下った。
一方の反乱部隊の側も、28日夜から29日にかけて、栗原・中橋部隊は首相官邸、坂井・清原部隊は陸軍省・参謀本部を含む三宅坂、田中部隊と栗原部隊の1個小隊は赤坂見附の閑院宮邸附近、安藤・丹生部隊は山王ホテル、野中部隊は予備隊として新国会議事堂に布陣して包囲軍を迎え撃つ情勢となった。
29日​
29日午前5時10分に討伐命令が発せられ、午前8時30分には攻撃開始命令が下された。戒厳司令部は近隣住民を避難させ、反乱部隊の襲撃に備えて愛宕山の日本放送協会東京中央放送局を憲兵隊で固めた。同時に投降を呼びかけるビラを飛行機で散布した。午前8時55分、ラジオで「兵に告ぐ」と題した「勅命が発せられたのである。既に天皇陛下のご命令が発せられたのである…」に始まる勧告が放送され、また田村町(現・西新橋)の飛行館には「勅命下る 軍旗に手向かふな」と記されたアドバルーンもあげられた。また師団長を始めとする直属上官が涙を流して説得に当たった。これによって反乱部隊の下士官兵は午後2時までに原隊に帰り、安藤輝三大尉は自決を計ったものの失敗した。残る将校達は陸相官邸に集まり、陸軍首脳部は自殺を想定して30あまりの棺桶も準備し、一同の代表者として渋川善助の調書を取ったが、野中大尉が強く反対したこともあり、法廷闘争を決意した。この際野中四郎大尉は自決したが、残る将校らは午後5時に逮捕され反乱はあっけない終末を迎えた。同日、北、西田、渋川といった民間人メンバーも逮捕された。
終焉​
3月4日午後2時25分に山本又元少尉が東京憲兵隊に出頭して逮捕される。牧野伸顕襲撃に失敗して負傷し東京第一衛戍病院に収容されていた河野大尉は3月5日に自殺を図り、6日午前6時40分に死亡した。
3月6日の戒厳司令部発表によると、叛乱部隊に参加した下士官兵の総数は1400余名で、内訳は、近衛歩兵第3連隊は50余名、歩兵第1連隊は400余名(450人は超えない)、歩兵第3連隊は900余名、野戦重砲兵第7連隊は10数名であったという。また、部隊の説得に当たった第3連隊付の天野武輔少佐は、説得失敗の責任をとり29日未明に拳銃自殺した。
憲兵隊の動き​
皇道派が陸軍内部で一大勢力を誇っていたこともあり、皇道派の精神は憲兵将校以下の頭にも深く浸透しており、反乱軍と同じ思想を持っている憲兵が大勢いた。中には、「自己を犠牲にして蹶起した彼らの目的を達してやるのが武士の情である」と主張する者までいたという。しかしながら、麹町憲兵分隊の特高主任をしていた小坂慶助曹長などは憲兵としての職務に忠実であり、岡田総理の救出を成功させるなどの活躍をしている。しかしながら、憲兵隊内部に皇道派の勢力が事件後も浸透しており、憲兵隊内部では小坂らは評価されず、正面切って罵倒する将校までいたという。
海軍の動き​
襲撃を受けた岡田総理・鈴木侍従長・斎藤内大臣がいずれも海軍大将・海軍軍政の大物であったことから、東京市麹町区にあった海軍省は、事件直後の26日午前より反乱部隊に対して徹底抗戦体制を発令、海軍省ビルの警備体制を臨戦態勢に移行した。
事件当初より、蜂起部隊を「反軍」と認識していた。26日午後には横須賀鎮守府(米内光政司令長官、井上成美参謀長)の海軍陸戦隊を芝浦に上陸させて東京に急派した。また、第1艦隊を東京湾に急行させ、27日午後には戦艦「長門」以下各艦の砲を陸上の反乱軍に向けさせた。
この警備は東京湾のみならず大阪にも及び、27日午前9時40分に、加藤隆義海軍中将率いる第2艦隊旗艦『愛宕』以下各艦は、大阪港外に投錨した。この部隊は2月29日に任務を解かれ、翌3月1日午後1時に出航して作業地に復帰した。
事件後の処理​
陸軍の統制派は2.26事件の蹶起がもたらした状況を最大限に利用した。政治の面では、岡田内閣の後継内閣の組閣過程に干渉し、軍部独裁政治を実現しようとした。そして、陸軍内部では2.26事件後の粛軍人事として皇道派を排除し、陸軍内部の主導権も固めた。青年将校たちは統制派と対立していたが、青年将校たちが起こした2.26事件は、皮肉にも統制派を利する結末となった。そしてこれが、日本の軍部ファッショ化の本格的なスタートでもあった。
政府・宮中​
事件の収拾後、岡田内閣は総辞職し、元老西園寺公望が後継首相の推薦にあたった。しかし組閣大命が下った近衛文麿は西園寺と政治思想が合わなかったため、病気と称して断った。一木枢密院議長が広田弘毅を西園寺に推薦した。西園寺は同意し、広田に組閣大命が下った。3月6日には新聞で新閣僚予定者の名簿も掲載され、親任式まで順調に進むかに思われた。
しかし陸軍は陸相声明として、「新内閣は自由主義的色彩を帯びてはならない」とまず釘をさした。そして、陸軍省軍務局の武藤章中佐が陸相代理として組閣本部に乗り込み、下村宏、中島知久平、川崎卓吉、小原直、吉田茂などを名指しして、自由主義的な思想を持つと思われる閣僚候補者の排除にかかった。広田は陸軍と交渉し、3名を閣僚に指名しないことで内閣成立にこぎつけた。
反乱軍将校の免官等​
20名が2月29日付で、3月2日には山本も免官となる。3月2日に山本元少尉を含む21名が、大命に反抗し、陸軍将校たるの本分に背き、陸軍将校分限令第3条第2号に該当するとして、位階の返上が命ぜられる。また、勲章も褫奪された。
殉職・負傷者​
事件にあたって護衛にあたっていた5名の警察官が殉職し、1名が重傷を負った。これらの警察官は、勲八等白色桐葉章を授けられ、内務大臣から警察官吏及消防官吏功労記章を付与された。国民からの反響も大きく、全国から弔文十万通、弔慰金21万9833円が集まり、4月30日に弔慰金受付の打ち切りが発表されると、抗議の投書が新聞社に殺到するほどであった。築地本願寺において行われた合同警視庁葬においては数万人の市民が焼香した。
村上嘉茂衛門 巡査部長。警視庁警務部警衛課勤務(総理官邸配置)。死亡。
土井清松 巡査。警視庁警務部警衛課勤務(総理官邸配置)。死亡。赤坂表町署から本庁へと異動した巡査で、のちに空襲カメラマンと言われた石川光陽とは赤坂表町警察署勤務時代からの同僚だった。
清水与四郎 巡査。警視庁杉並署兼麹町署勤務(総理官邸配置)。死亡。彼の血で染まった庭の芝生は移植され警視庁警備部警護課の窓辺に置かれている。
小館喜代松巡査。警視庁警務部警衛課勤務(総理官邸配置)。死亡。
皆川義孝 巡査。警視庁警務部警衛課勤務(牧野礼遇随衛)。死亡。
玉置英夫 巡査。麻布鳥居坂警察署兼麹町警察署勤務(蔵相官邸配置)。重傷。
これが原因で戦後の陸上自衛隊も警視庁公安部公安第3課の監視対象になっている。
この他に、歩兵第15連隊の兵士4人が、暖房用の炭火による一酸化炭素中毒で死亡するなど、鎮圧側部隊の兵士計6名が、29日から3月1日にかけて死亡している。
皇道派陸軍幹部​
事件当時に軍事参議官であった陸軍大将のうち、荒木・真崎・阿部・林の4名は3月10日付で予備役に編入された。侍従武官長の本庄繁は女婿の山口一太郎大尉が事件に関与しており、事件当時は反乱を起こした青年将校に同情的な姿勢をとって昭和天皇の思いに沿わない奏上をしたことから事件後に辞職し、4月に予備役となった。陸軍大臣であった川島は3月30日に、戒厳司令官であった香椎浩平中将は7月に、それぞれ不手際の責任を負わされる形で予備役となった。
やはり皇道派の主要な人物であった陸軍省軍事調査部長の山下奉文少将は歩兵第40旅団長に転出させられ、以後1940年(昭和15年)に陸軍航空本部長を務めた他は二度と中央の要職に就くことはなかった。
また、これらの引退した陸軍上層部が陸軍大臣となって再び陸軍に影響力を持つようになることを防ぐために、次の広田弘毅内閣の時から軍部大臣現役武官制が復活することになった。この制度は政治干渉に関わった将軍らが陸軍大臣に就任して再度政治に不当な干渉を及ぼすことのないようにするのが目的であったが、後に陸軍が後任陸相を推薦しないという形で内閣の命運を握ることになってしまった。
事件当時関東軍憲兵司令官だった東條英機は、永田の仇打ちとばかり、当時満州にいた皇道派の軍人を根こそぎ逮捕して獄舎に送り、「これで少しは胸もすいた」と述懐した。
一方、事件に対する陸軍の責任をめぐっては貴族院で「それでは叛軍に参謀本部や陸軍省が占領されて、たとえ二日でも三日でも職務を停止させられた、その責任はだれが負うか」と追及されたが、結局うやむやにして、だれも責任を取らず、裁判にもかけなかった。
事件に関わった下士官兵
以下この事件に関わった下士官兵は、一部を除き、その大半が反乱計画を知らず、上官の命に従って適法な出動と誤認して襲撃に加わっていた。「命令と服従」の関係が焦点となり、下士官・兵に対する処罰が軍法会議にかけられた。無罪となった兵士たちは、それぞれの連隊に帰ったが、歩兵第1連隊も歩兵第3連隊もすでに渡満していたことから、彼らは留守部隊の所属となっていた。そこで無罪放免となった歩兵第3連隊の兵隊たちのうち8名は渡満を希望し、8月上旬に東京を出発して満州北部のチチハルに駐在する歩兵第3連隊へと向かった。しかし、ここで事件後に着任した湯浅政雄連隊長から思いがけないことを言われた。8人の中の1人だった春山安雄伍長勤務上等兵は証言している。「到着するとすぐに本部に行き晴々した気持ちで連隊長に申告したところ、湯浅連隊長はいきなり『軍旗をよごした不忠者めが』と怒鳴り、軍旗の前に引き出され、散々にしぼられた」春山伍勤上等兵は「私たちは命令によって行動したのに不忠者とは何ごとか」と連隊長の言葉に反発し、思わずムッとして開き直った態度をとると、さらに、「何だ、その態度は!」と一喝された。
反乱軍とみなされていたのは軍法会議に付された者ばかりではなかった。歩兵第3連隊は5月22日に渡満の途についたが、出発に先立ち湯浅連隊長は「お前たちは事件に参加したのだから、渡満後は名誉挽回を目標に軍務に精励し、白骨となって帰還せよ」と訓示したという。これに対して、歩兵第3連隊第3中隊の福田守次上等兵は「早い話が名誉挽回のため死んでお詫びせよという意味らしかった。兵隊に対する激励の言葉とは思われず反発を感じた」と戦後に憤りを語っている。こうした事情は歩兵第1連隊も同じで、歩兵第1連隊第11中隊の堀口真助二等兵の回想によると、歩兵第1連隊の新連隊長に着任した牛島満大佐も「汚名をすすぐために全員白木の箱で帰還せよ」と発言したという。事件に参加した兵たちは、中国などの戦場の最前線に駆り出され戦死することとなった者も多い。特に安藤中隊にいた者たちは殆どが戦死した。
なお、歩兵第3連隊の機関銃隊に所属していて反乱に参加させられてしまった者に小林盛夫二等兵(落語家。後の人間国宝・5代目柳家小さん。当時は前座)や畑和二等兵(後の埼玉県知事、社会党衆議院議員)がいる。また、歩兵第1連隊には後に映画監督として「ゴジラ」や「モスラ」といった東宝特撮映画を撮ることになる本多猪四郎がいた。
反乱軍を出した部隊​
反乱軍を出した各部隊等では指揮官が責任を問われ更迭された。近衛・第1師団長は、1936年(昭和11年)3月23日に待命、予備役編入された。また、各連隊長も、1936年(昭和11年)3月28日に交代が行われた。
東京警備司令部 / 司令官は、1936年(昭和11年)4月2日に、香椎浩平中将から岩越恒一中将へ交代。香椎浩平中将は、待命となり、同年7月10日に予備役に編入される。
近衛師団 / 師団長は、1936年(昭和11年)3月23日に、橋本虎之助中将から香月清司中将へ交代。橋本中将は同年7月10日、予備役編入。
近衛歩兵第2旅団 / 旅団長は、1936年(昭和11年)3月23日に、大島陸太郎少将から秦雅尚少将へ交代。大島少将は同年7月10日、予備役編入。
近衛歩兵第3連隊 / 連隊長は、1936年(昭和11年)3月28日に、園山光蔵大佐から井上政吉大佐へ交代。園山大佐は同年7月10日、予備役編入。
第1師団 / 師団長は、1936年(昭和11年)3月23日に、堀丈夫中将から河村恭輔中将へ交代。堀中将は同年7月10日、予備役編入。
歩兵第1旅団 / 旅団長は、1936年(昭和11年)3月23日に、佐藤正三郎少将から小泉恭次少将へ交代。佐藤少将は同年7月10日、予備役編入。
歩兵第1連隊 / 連隊長は、1936年(昭和11年)3月28日に、小藤恵大佐から牛島満大佐へ交代。小藤大佐は同年7月10日、予備役編入。
歩兵第2旅団 / 旅団長は、1936年(昭和11年)3月23日に、工藤義雄少将から関亀治少将へ交代。工藤少将は同年7月10日、予備役編入。
歩兵第3連隊 / 連隊長は、1936年(昭和11年)3月28日に、渋谷三郎大佐から湯浅政雄大佐へ交代。渋谷大佐は同年7月10日、予備役編入。
野戦重砲兵第3旅団 / 旅団長は、1936年(昭和11年)3月23日に、石田保道少将から菊池門也少将へ交代。石田少将は同年7月10日、予備役編入。
野戦重砲兵第7連隊 / 連隊長は、1936年(昭和11年)3月28日に、真井鶴吉大佐から北島驥子雄大佐へ交代。真井大佐は同年7月10日、予備役編入。
捜査・公判​
事件の裏には、陸軍中枢の皇道派の大将クラスの多くが関与していた可能性が疑われるが、「血気にはやる青年将校が不逞の思想家に吹き込まれて暴走した」という形で世に公表された。
事件後、東條英機ら統制派は軍法会議によって皇道派の勢力を一掃し、結果としては陸軍では統制派の政治的発言力がますます強くなることとなった。
事件後に事件の捜査を行った匂坂春平陸軍法務官(後に法務中将。明治法律学校卒業。軍法会議首席検察官)や憲兵隊は、黒幕を含めて事件の解明のため尽力をする。
2月28日、陸軍省軍務局軍務課の武藤章らは厳罰主義により速やかに処断するために、緊急勅令による特設軍法会議の設置を決定し、直ちに緊急勅令案を起草し、閣議、枢密院審査委員会、同院本会議を経て、3月4日に東京陸軍軍法会議を設置した。法定の特設軍法会議は合囲地境戒厳下でないと設置できず、容疑者が所属先の異なる多数であり、管轄権などの問題もあったからでもあった。特設軍法会議は常設軍法会議にくらべ、裁判官の忌避はできず、一審制で非公開、かつ弁護人なしという過酷で特異なものであった。匂坂春平陸軍法務官らとともに、緊急勅令案を起草した大山文雄陸軍省法務局長は「陸軍省には普通の裁判をしたくないという意向があった」と述懐する。東京陸軍軍法会議の設置は、皇道派一掃のための、統制派によるカウンター・クーデターともいえる。
迅速な裁判は、天皇自身の強い意向でもあった。特設軍法会議の開設は、枢密院の審理を経て上奏され、天皇の裁可を経て3月4日に公布されたものである。この日、天皇は本庄繁侍従武官長に対して、裁判は迅速にやるべきことを述べた。すなわち、「軍法会議の構成も定まりたることなるが、相沢中佐に対する裁判の如く、優柔の態度は、却って累を多くす。此度の軍法会議の裁判長、及び判士には、正しく強き将校を任ずるを要す」と言ったのである。
実際、裁判は非公開の特設軍法会議の場で迅速に行われた。その方法は、審理の内容を徹底して「反乱の四日間」に絞り込み、その動機についての審理を行わないことであった。これは先の相沢事件の軍法会議が通常の公開の軍法会議の形で行われた結果、軍法会議が被告人らの思想を世論へ訴える場となって報道も過熱し、被告人らの思想に同情が集まるような事態になっていたことへの反省もあると思われる。2.26事件の審理では非公開で、動機の審理もしないこととした結果、蹶起した青年将校らは「昭和維新の精神」を訴える機会を封じられてしまった。
当時の陸軍刑法(明治41年法律第46号)第25条は、次の通り反乱の罪を定めている。
   第二十五条 党ヲ結ヒ兵器ヲ執リ反乱ヲ為シタル者ハ左ノ区別ニ従テ処断ス
   一 首魁ハ死刑ニ処ス
   二 謀議ニ参与シ又ハ群衆ノ指揮ヲ為シタル者ハ死刑、無期若ハ五年以上ノ懲役又ハ禁錮ニ処シ其ノ他諸般ノ職務ニ従事シタル者ハ三年以上ノ有期ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス
   三 附和随行シタル者ハ五年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス
事件の捜査は、憲兵隊等を指揮して、匂坂春平陸軍法務官らが、これに当たった。また、東京憲兵隊特別高等課長の福本亀治陸軍憲兵少佐らが黒幕の疑惑のあった真崎大将などの取調べを担当した。
そして、小川関治郎陸軍法務官(明治法律学校卒業。軍法会議裁判官)を含む軍法会議において公判が行われ、青年将校・民間人らの大半に有罪判決が下る。磯部浅一はこの判決を死ぬまで恨みに思っていた。また栗原や安藤は「死刑になる人数が多すぎる」と衝撃を受けていた。
民間人を受け持っていた吉田悳裁判長が「北一輝と西田税は二・二六事件に直接の責任はないので、不起訴、ないしは執行猶予の軽い禁固刑を言い渡すべきことを主張したが、寺内陸相は、「両人は極刑にすべきである。両人は証拠の有無にかかわらず、黒幕である」と極刑の判決を示唆した。
軍法会議の公判記録は戦後その所在が不明となり、公判の詳細は長らく明らかにされないままであった。そのため、公判の実態を知る手がかりは磯辺が残した「獄中手記」などに限られていた。匂坂が自宅に所蔵していた公判資料が遺族およびNHKのディレクターだった中田整一、作家の澤地久枝、元陸軍法務官の原秀男らによって明らかにされたのは1988年のことである。中田や澤地は、匂坂が真崎甚三郎や香椎浩平の責任を追及しようとして陸軍上層部から圧力を受けたと推測し、真崎を起訴した点から匂坂を「法の論理に徹した」として評価する立場を取った。これに対して元被告であった池田俊彦は、「匂坂法務官は軍の手先となって不当に告発し、人間的感情などひとかけらもない態度で起訴し、全く事実に反する事項を書き連ねた論告書を作製し、我々一同はもとより、どう見ても死刑にする理由のない北一輝や西田税までも不当に極刑に追い込んだ張本人であり、二・二六事件の裁判で功績があったからこそ関東軍法務部長に栄転した(もう一つの理由は匂坂法務官の身の安全を配慮しての転任と思われる)」と反論した。また田々宮英太郎は、寺内寿一大将に仕える便佞の徒にすぎなかったのではないか、と述べている。これらの意見に対し北博昭は、「法技術者として、定められた方針に従い、その方針が全うせられるように法的側面から助力すべき役割を課せられているのが、陸軍法務官」とし、匂坂は「これ以上でも以下でもない」と評した。北はその傍証として、匂坂が陸軍当局の意向に沿うよう真崎・香椎の両名について二種類の処分案(真崎は起訴案と不起訴案、香椎は身柄拘束案と不拘束案)を作成して各選択肢にコメントを付した点を挙げ、「陸軍法務官の分をわきまえたやり方」と述べている。
匂坂春平はのちに「私は生涯のうちに一つの重大な誤りを犯した。その結果、有為の青年を多数死なせてしまった、それは二・二六事件の将校たちである。検察官としての良心から、私の犯した罪は大きい。死なせた当人たちはもとより、その遺族の人々にお詫びのしようもない」と話したという。ひたすら謹慎と贖罪の晩年を送った。「尊王討奸」を叫んだ反乱将校を、ようやく理解する境地に至ったことがうかがえる。
公判記録は戦後に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が押収したのち、返還されて東京地方検察庁に保管されていたことが1988年9月になって判明した。だがこれらは関係者の実名が多く載せられているためか撮影・複写すら禁止されており、1993年に研究目的でようやく一部の閲覧が認められるようになった。池田俊彦は、元被告という立場を利用して公判における訊問と被告陳述の全記録を一字一字筆写し、1998年に出版した。2001年2月21日に放送された「その時歴史が動いた シリーズ二・二六事件後編『東京陸軍軍法会議 〜もう一つの二・二六事件〜』」において、初めて一部撮影が許可された。
民間人に関しては、木内曽益検事が主任検事として事件の処理に当たった。
判決​
自決​
歩兵大尉 野中四郎 歩兵第3連隊第7中隊長 32歳 36期  
航空兵大尉 河野 壽 所沢陸軍飛行学校操縦科学生 28歳 40期
第1次処断(昭和11年7月5日まで判決言渡)​
死刑 叛乱罪(首魁) 歩兵大尉 香田清貞 歩兵第1旅団副官 37期
死刑 叛乱罪(首魁) 歩兵大尉 安藤輝三 歩兵第3連隊第6中隊長 38期
死刑 叛乱罪(首魁) 歩兵中尉 栗原安秀 歩兵第1連隊(機関銃隊)附 41期
死刑 叛乱罪(群衆指揮等) 歩兵中尉 竹嶌継夫 豊橋陸軍教導学校歩兵学生隊附 40期
死刑 叛乱罪(群衆指揮等) 歩兵中尉 対馬勝雄 豊橋陸軍教導学校歩兵学生隊附 41期
死刑 叛乱罪(群衆指揮等) 歩兵中尉 中橋基明 近衛歩兵第3連隊(第7中隊)附 41期
死刑 叛乱罪(群衆指揮等) 歩兵中尉 丹生誠忠 歩兵第1連隊(第11中隊)附 43期
死刑 叛乱罪(群衆指揮等) 歩兵中尉 坂井 直 歩兵第3連隊(第1中隊)附 44期
死刑 叛乱罪(群衆指揮等) 砲兵中尉 田中 勝 野戦重砲兵第7連隊(第4中隊)附 45期
死刑 叛乱罪(群衆指揮等) 工兵少尉 中島莞爾 鉄道第2連隊附(陸軍砲工学校分遣) 46期
死刑 叛乱罪(群衆指揮等) 砲兵少尉 安田 優 野砲兵第7連隊附(陸軍砲工学校分遣) 46期
死刑 叛乱罪(群衆指揮等) 歩兵少尉 高橋太郎 歩兵第3連隊(第1中隊)附 46期
死刑 叛乱罪(群衆指揮等) 歩兵少尉 林 八郎 歩兵第1連隊(機関銃隊)附 47期
死刑 叛乱罪(首魁) 元歩兵大尉 村中孝次 37期
死刑 叛乱罪(首魁) 元一等主計 磯部浅一 38期
死刑 叛乱罪(群衆指揮等) 元士官候補生 渋川善助 39期
無期禁錮 叛乱罪(群衆指揮等) 歩兵少尉 麦屋清済 歩兵第3連隊(第1中隊)附 特志
無期禁錮 叛乱罪(群衆指揮等) 歩兵少尉 常盤 稔 歩兵第3連隊(第7中隊)附 47期
無期禁錮 叛乱罪(群衆指揮等) 歩兵少尉 鈴木金次郎 歩兵第3連隊(第10中隊)附 47期
無期禁錮 叛乱罪(群衆指揮等) 歩兵少尉 清原康平 歩兵第3連隊(第3中隊)附 47期
無期禁錮 叛乱罪(群衆指揮等) 歩兵少尉 池田俊彦 歩兵第1連隊(第1中隊)附 47期
禁錮4年 歩兵少尉 今泉義道 近衛歩兵第3連隊(第7中隊)附 47期
田中光顕伯、浅野長勲侯が、元老、重臣に勅命による助命願いに奔走したが、湯浅内府が反対した。 7月12日、磯部浅一・村中孝次を除く15名の刑が執行された。
第2次処断(7月29日判決言渡)​
無期禁錮 叛乱者を利す 歩兵大尉 山口一太郎 歩兵第1連隊第7中隊長 33期
禁錮4年 叛乱者を利す 歩兵中尉 柳下良二 歩兵第3連隊(機関銃隊)附 45期
禁錮6年 司令官軍隊を率い故なく配置の地を離る 歩兵中尉 新井 勲 歩兵第3連隊(第10中隊)附 43期
禁錮6年 叛乱予備 一等主計 鈴木五郎 歩兵第6連隊附 38期
禁錮4年 叛乱予備 歩兵中尉 井上辰雄 豊橋陸軍教導学校附 43期
禁錮4年 叛乱予備 歩兵中尉 塩田淑夫 歩兵第8連隊附 44期
背後関係処断(昭和12年1月18日判決言渡)​
禁錮3年 歩兵中佐 満井佐吉 陸軍大学校兵学教官 26期
禁錮5年 歩兵大尉 菅波三郎 歩兵第45連隊第1中隊長 37期
禁錮4年 歩兵大尉 大蔵栄一 歩兵第73連隊第2中隊長 37期
禁錮4年 歩兵大尉 末松太平 歩兵第5連隊歩兵砲隊長 39期
禁錮3年 歩兵中尉 志村陸城 歩兵第5連隊附 44期
禁錮1年6月 歩兵中尉 志岐孝人 歩兵第13連隊附 44期
禁錮5年 予備少将 斎藤 瀏 12期
禁錮2年 越村捨次郎
禁錮3年 福井 幸
禁錮3年 町田専蔵
禁錮1年6月 宮本正之
禁錮2年(執行猶予4年) 加藤春海
禁錮1年6月(執行猶予4年) 佐藤正三
禁錮1年6月(執行猶予4年) 宮本誠三
禁錮1年6月(執行猶予4年) 杉田省吾
背後関係処断(昭和12年8月14日判決言渡)​
死刑 叛乱罪(首魁) 北輝次郎(一輝) 52歳
死刑 叛乱罪(首魁) 元騎兵少尉 西田 税 陸士34期 34歳
無期禁錮 叛乱罪(謀議参与) 亀川哲也
禁錮3年 叛乱罪(諸般の職務に従事) 中橋照夫
1937年(昭和12年)8月19日に、北一輝・西田税・磯部浅一・村中孝次の刑が執行された。
真崎の事件関与​
事件の黒幕と疑われた真崎甚三郎大将(前教育総監。皇道派)は、1937年(昭和12年)1月25日に反乱幇助で軍法会議に起訴されたが、否認した。論告求刑は反乱者を利する罪で禁錮13年であったが、9月25日に無罪判決が下る。もっとも、1936年3月10日に真崎大将は予備役に編入される。つまり事実上の解雇である。彼自身は晩年、自分が二・二六事件の黒幕として世間から見做されている事を承知しており、これに対して怒りの感情を抱きつつも諦めの境地に入っていたことが、当時の新聞から窺える。また、26日に蹶起を知った際には連絡した亀川に「残念だ、今までの努力が水泡に帰した」と語ったという。
一方、真崎甚三郎の取調べに関する亀川哲也第二回聴取書によると、相沢公判の控訴取下げに関して、鵜沢総明博士の元老訪問に対する真崎大将の意見聴取が真の訪問目的であり、青年将校蹶起に関する件は、単に時局の収拾をお願いしたいと考え、附随して申し上げた、と証言している。鵜沢博士の元老訪問に関するやりとりのあと、亀川が「なお、実は今早朝、一連隊と三連隊とが起って重臣を襲撃するそうです。万一の場合は、悪化しないようにご尽力をお願い致したい」と言うと、「もしそういうことがあったら、今まで長い間努力してきたことが全部水泡に帰してしまう」とて、大将は大変驚いて、茫然自失に見えたという。そして、亀川が辞去する際、玄関で、「この事件が事実でありましたら、またご報告に参ります」と言うと、真崎は「そういうことがないように祈っている」と答えた。また、亀川は、真崎大将邸辞去後、鵜沢博士を訪問しての帰途、高橋蔵相邸の前で着剣する兵隊を見て、とうとうやったなと感じ、後に久原房之助邸に行ったときに事実を詳しく知った次第であり、真崎邸を訪問するときは事件が起こったことは全然知るよしもなかった、ということである。
しかし、反乱軍に同情的な行動を取っていたことは確かであり、26日午前9時半に陸相官邸を訪れた際には磯部浅一に「お前達の気持ちはヨウッわかっとる。ヨウッーわかっとる。」と声を掛けたとされ、また川島陸相に反乱軍の蹶起趣意書を天皇に上奏するよう働きかけている。このことから真崎大将の関与を指摘する主張もある。
一方、当時真崎大将の護衛であった金子桂憲兵伍長(少尉候補者第21期、昭和19年9月1日調では北部憲兵隊司令部附、憲兵中尉)の戦後の証言によると、真崎大将は「お前達の気持ちはヨウッわかっとる。ヨウッーわかっとる」とは全然言っておらず、「国体明徴と統帥権干犯問題にて蹶起し、斎藤内府、岡田首相、高橋蔵相、鈴木侍従長、渡辺教育総監および牧野伸顕に天誅を加えました。牧野伸顕のところからは確報はありません。目下議事堂を中心に陸軍省、参謀本部などを占拠中であります」との言に対し、真崎大将は「馬鹿者! 何ということをやったか」と大喝し、「陸軍大臣に会わせろ」と言ったとしている。
また、終戦後に極東国際軍事裁判の被告となった真崎大将の担当係であったロビンソン検事の覚書きには「証拠の明白に示すところは真崎が二・二六事件の被害者であり、或はスケープゴートされたるものにして、該事件の関係者には非ざりしなり」と記されており、寺内寿一陸軍大臣が転出したあと裁判長に就任した磯村年大将は、「真崎は徹底的に調べたが、何も悪いところはなかった。だから当然無罪にした」と戦後に証言している。
決起した青年将校には、天皇主義グループ(主として実戦指揮官など)と改造主義グループ(政情変革を狙っており、北一輝の思想に影響を受けた磯部、栗原など)があり、特に後者はクーデター後を睨んで宮中などへの上部工作を行った。また陸軍省・参謀本部ではクーデターが万一成就した時の仮政府について下記のように予想していた。
   内閣総理大臣 真崎甚三郎
   内大臣あるいは参謀総長 荒木貞夫
   陸軍大臣 小畑敏四郎あるいは柳川平助
   大蔵大臣 勝田主計あるいは結城豊太郎
   司法大臣 光行次郎
   (不詳) 北一輝
   内閣書記官長 西田税
推理作家の松本清張は「昭和史発掘」で
「26日午前中までの真崎は、もとより内閣首班を引きうけるつもりだった。彼はその意志を加藤寛治とともに自ら伏見宮軍令部総長に告げ、伏見宮より天皇を動かそうとした形跡がある。真崎はその日の早朝自宅を出るときから、いつでも大命降下のために拝謁できるよう勲一等の略綬を佩用していた。(略)真崎は宮中の形勢不利とみるやにわかに態度を変え、軍事参議官一同の賛成(荒木が積極、他は消極的ながら)と決行部隊幹部全員の推薦を受けても、首班に就くのを断わった。この時の真崎は、いかにして決行将校らから上手に離脱するかに苦闘していた。」と主張している。
磯部は、5月5日の第5回公判で「私は真崎大将に会って直接行動をやる様に煽動されたとは思いません」と述べ、5月6日の第6回公判で、「特に真崎大将を首班とする内閣という要求をしたことはありません。ただ、私が心中で真崎内閣が適任であると思っただけであります」と述べている。また村中は「続丹心録」の中で、真崎内閣説の如きは吾人の挙を予知せる山口大尉、亀川氏らの自発的奔走にして、吾人と何ら関係なく行われたるもの、と述べている。
『二・二六事件』で真崎黒幕説を唱えた高橋正衛は、1989年2月22日、その説に異を唱える山口富永に対し、末松太平の立ち会いのもとで、「真崎組閣の件は推察で、事実ではない、あやまります」と言った。
青年将校は相沢裁判を通じて、相沢三郎を救うことに全力を挙げていたのに、突然それを苦境に陥れるような方針に転じたのは、2・26事件により相沢を救いだせると、何人かに錯覚に陥れられたのではないかと考えられること、西園寺公が事件を予知して静岡に避けていたこと、2・26事件は持永浅治少将の言によれば、思想、計画ともに十月事件そのままであり、十月事件の幕僚が関与している可能性のあること、2月26日の昼ごろ、大阪や小倉などで「背後に真崎あり」というビラがばらまかれ、準備周到なることから幕僚派の計画であると考えられること、磯部浅一との法廷の対決において、磯部が真崎に彼らの術中に落ちたと言い、追求しようとすると、沢田法務官がすぐに磯部を外に連れ出したことを、真崎は述べている。また、小川関治郎法務官は湯浅倉平内大臣らの意向を受けて、真崎を有罪にしたら法務局長を約束されたため、極力故意に罪に陥れるべく訊問したこと、小川が磯村年裁判長に対して、真崎を有罪にすれば得することを不用意に口走り、磯村は大いに怒り裁判長を辞すと申し出たため、陸軍省が狼狽し、杉山元の仲裁で、要領の得ない判決文で折り合うことになったことも述べている。
1936年12月21日、匂坂法務官は真崎大将に関する意見書、起訴案と不起訴案の二案を出した。
無罪 叛乱者を利す 大将 真崎甚三郎 軍事参議官 9期
死刑 水上源一 27歳
禁錮15年 予備歩兵曹長 中島清治 28歳
禁錮15年 予備歩兵曹長 宮田 晃 27歳
禁錮15年 軍曹 宇治野時参 歩兵第1連隊 24歳
禁錮15年 予備歩兵上等兵 黒田 昶 25歳
禁錮15年 一等兵 黒沢鶴一 歩兵第1連隊 21歳
禁錮15年 綿引正三 22歳
禁錮10年 予備歩兵少尉 山本 又 42歳
水上源一は、河野大尉と共に湯河原での牧野伸顕襲撃に加わったメンバーで、一連の事件に直接関わった民間人で唯一死刑に処せられた。
刑の執行​
昭和11年7月12日の刑の執行では首謀者である青年将校・民間人17名の処刑場、旧東京陸軍刑務所敷地にて15人を5人ずつ3組に分けて行われ、受刑者1人に正副2人の射手によって刑が執行された。当日、刑場の隣にあった代々木練兵場では刑の執行の少し前から、小部隊が演習を行ったが、これは処刑時の発砲音が外部に知られないようにする為だったという。
二・二六事件の死没者を慰霊する碑が、東京都渋谷区宇田川町(神南隣)にある。旧東京陸軍刑務所敷地跡に立てられた渋谷合同庁舎の敷地の北西角に立つ観音像(昭和40年2月26日建立 東京都渋谷区宇田川町1-1)がそれである。17名の遺体は郷里に引き取られたが、磯部のみが本人の遺志により荒川区南千住の回向院に葬られている。またこれとは別に、港区元麻布の賢崇寺内に墓碑があり、毎年2月26日・7月12日に合同慰霊祭が行われている。
事件後に自殺した軍関係者(決起者以外)​
1936年(昭和11年)2月29日朝、近衛輜重兵大隊の青島健吉輜重兵中尉が自宅にて、軍刀で腹一文字に切腹し喉を突いて自死しているのが発見された。妻も後を追って、腰に毛布を巻いて日本刀で喉を突き、一緒に自刃していた。
2月29日朝、歩兵第一連隊の岡沢兼吉軍曹が麻布区市兵衛町の民家の土間で拳銃自殺。
3月2日、東京憲兵隊麹町憲兵分隊の田辺正三憲兵上等兵が、同分隊内で拳銃自殺。
3月16日、電信第一連隊の稲葉五郎軍曹が、同連隊内で騎銃で胸部を撃った。
10月18日、三月事件や十月事件にも関係した田中彌歩兵大尉(陸士第33期首席)が世田谷の自宅で拳銃自殺した。遺書はなく、翌10月19日「二・二六事件に関連し起訴中の参謀本部付陸軍歩兵大尉田中彌は10月18日正午ごろ自宅において自決せり」と陸軍省から発表された。田中大尉は「帝都における決行を援け、昭和維新に邁進する方針なり」と各方面に打電し、橋本欣五郎、石原莞爾、満井佐吉らの帝国ホテルでの画策にも係わっていた。田中大尉は十月事件以来、橋本欣五郎の腹心の一人であった事件の起こる直前に全国の同志に向かって決起要請の電報を発送しようとしたが、中央郵便局で怪しまれて、大量の電報が差し押さえられた。その事実が裁判で明るみに出そうになったので、田中大尉は一切の責任を自分一人で負って自殺し、その背後関係は闇に葬られた。
歩兵第61連隊中隊長であった大岸頼好大尉は直接事件に関係ないにもかかわらず、その指導力を恐れられて、予備役に編入された。部下の小隊長をしていた後宮二郎少尉(陸士第48期)は、父である陸軍省人事局長後宮淳少将(のち大将)が下したその処分を不当として、自殺した。なお、同少尉の自殺動機については、死亡前日の式典での軍人勅諭奉読中に読み間違いをし、歩兵第61聯隊内で拳銃自殺したとの説もあり、現在でも真相は不明である。
昭和天皇に与えた影響​
2.26事件の蹶起当初は、陸軍上層部の一部にも蹶起の趣旨に賛同し青年将校らの「昭和維新」を助けようとする動きもあったと言われている。たとえば、蹶起当日の2月26日に出された陸軍大臣告示では、青年将校らの真情を認める記述もあり、全般的に蹶起部隊に相当に甘い内容であった。2月28日に決起部隊の討伐を命ずる奉勅命令を受け取った戒厳司令官の香椎浩平中将も、蹶起将校たちに同情的で、何とか彼らの望んでいる昭和維新をやり遂げさせたいと考えており、すぐには実力行使に出なかった。しかし、実際には「同志」の間柄の人々ですら地方から駆けつけてくるようなことは無かったため、革新勢力の間でもこの蹶起がよく思われていなかったフシがあり、また陸軍大臣らの行動も、単に事態を丸く収めようとしただけであり、反乱に同調していたわけでは無かったと考えられる。
「事件経過」の項で述べられた通り、本庄侍従武官長は何度も蹶起将校らの真情を上奏した。このように、日本軍の上層部も含めて「昭和維新」を助けようとする動きは多くあった。しかしながら、これらは全て昭和天皇の強い意志により拒絶され、結果として蹶起は鎮圧される方向に向かったのである。青年将校らは、君側の奸を排除すれば、天皇が正しい政治をして民衆を救ってくださると信じていたが、その思惑は外れたのである。
これについて、蹶起将校の一人である磯部浅一は、事件後の獄中手記の中で、昭和天皇について次のように書いている「陛下が私共の挙を御きき遊ばして、『日本もロシアの様になりましたね』と云うことを側近に云われたとのことを耳にして、私は数日間狂いました。『日本もロシアの様になりましたね』とは将して如何なる御聖旨か俄かにはわかりかねますが、何でもウワサによると、青年将校の思想行動が、ロシア革命当時のそれであると云う意味らしいとのことをソク聞した時には、神も仏もないものかと思い、神仏を恨みました」。ロシア革命は1917年(大正7年)、2.26事件の19年前にあたり、昭和天皇が16歳の時に起こった事件である。ロシア革命の最終段階では軍が反乱に協力し、ロシア帝国最後の皇帝ニコライ2世は、一家ともども虐殺された。昭和天皇が「日本もロシアの様になりましたね」と言ったとすれば、天皇家がロシア王家と同じ運命を辿ることを危惧していたのを考えられる。
もともと大日本帝国憲法下では、天皇は輔弼する国務大臣の副署なくして国策を決定できない仕組みになっており、昭和天皇も幼少時から「君臨すれども統治せず」の君主像を叩き込まれていた(張作霖爆殺事件の処理に関して、内閣総理大臣田中義一を叱責・退陣させて以降は、その傾向がさらに強まった)。二・二六事件は首相不在、侍従長不在、内大臣不在の中で起こったもので、天皇自らが善後策を講じなければならない初めての事例となった。戦後に昭和天皇は自らの治世を振り返り、立憲主義の枠組みを超えて行動せざるを得なかった例外として、この二・二六事件と終戦時の御前会議の二つを挙げている(なお偶然ながら、どちらの件も鈴木貫太郎が関わっている)。
それでも、この事件に対する昭和天皇の衝撃とトラウマは深かったようで、事件41周年の1977年(昭和52年)2月26日に、就寝前に側近の卜部亮吾に「治安は何もないか」と尋ねていた。
思想犯保護観察所の設置​
岡田内閣総辞職の後の5月、廣田内閣は思想犯保護観察法(昭和11年5月29日法律第29号)を成立させ全国に思想犯保護観察所を設置。思想犯保護観察団体には全日本仏教会なども加わっていた。  
 
全貌 二・二六事件 2

 

昭和11年(1936年)2月26日、陸軍の青年将校らが天皇中心の軍事政権をめざし、重要閣僚ら9人を殺害。日本の中枢を4日間にわたり占拠した二・二六事件。今回、事件を克明に記した最高機密文書が発見された。この事件を機に軍部の力が拡大し、日本は太平洋戦争へと突き進んだ。歴史の転換点となったこの4日間に、何があったのか。現代に蘇った最高機密文書で事件の全貌に迫る。
83年の時を経て明らかになった最高機密文書
太平洋戦争に敗れた日本。二・二六事件に関する文書を持っていたのは、終戦時、海軍・軍令部第1部長だった富岡定俊少将だった。富岡は、海軍の最高機密だった文書を密かに保管。これまで、公になることはなかった。
戦後、財団法人史料調査会の理事として旧海軍の資料の管理をしていた戸一成さんは、この極秘文書を目にするのは、初めてだという。
「これは本当にすごいですね。多くの結果を引き出す要素をもった、資料として本当に第一級のものと言っていいです」(戸さん・大和ミュージアム館長)
これまでは、事件後まとめられた、陸軍軍法会議の資料が主な公文書とされてきた。今回発見されたのは、海軍が事件の最中に記録した文書6冊。作成したのは海軍のすべての作戦を統括する「軍令部」だ。
この極秘文書を詳細に分析。そこから事件の4日間に起きていた新たな事実が浮かび上がってきた。
2月26日午前7時。海軍・軍令部に1本の電話がかかってきた。連絡を最初に受けた軍令部員が、手元にあった青鉛筆で書きつけた第一報には、「警視庁 占領」「内大臣官邸 死」「総理官邸 死」などと記されていた。
夜明け前、陸軍・青年将校が、部隊およそ1500人を率いて決起。重要閣僚らを次々と襲い、クーデターを企てた。
「将校の指揮により機関銃を発射しつつ突入し 将校下士官は室内に侵入、拳銃をもって鈴木侍従長を射撃しラッパ吹奏裡に引き上げたり」
「拳銃を乱射、内府を即死せしめ」
「首相は、栗原中尉の手により殺害せられたる模様なり」
後に明らかになる事件の概要を、海軍は発生当初の時点でかなり正確につかんでいた。岡田啓介首相は、間違って義理の弟が殺害された。天皇の側近、齋藤實内大臣、高橋是清大蔵大臣らは、銃や刀で殺された。警備中の警察官も含め、9人を殺害、負傷者は8人にのぼった。
決起部隊を率いたのは、陸軍の中の派閥「皇道派」を支持していた20代、30代の青年将校たち。政治不信などを理由に、国家改造の必要性を主張。天皇を中心とした軍事政権を樹立するとして、閣僚たちを殺害した。
しかし天皇は、勝手に軍隊を動かし、側近たちを殺害した決起部隊に、厳しい姿勢で臨もうとしていた。
赤坂と六本木に駐屯していた陸軍の部隊の一部が、国会議事堂や首相官邸など、国の中枢を武装占拠。これに対し陸軍上層部は、急遽設置された戒厳司令部にすべての情報を集め、厳しく統制していた。
ところが、今回の極秘文書から、当事者である陸軍とは別に、海軍が独自の情報網を築いていたことが分かってきた。海軍は、情報を取るため一般市民に扮した私服姿の要員を現場に送り込み、戒厳司令部にも要員を派遣、陸軍上層部に集まる情報を入手していた。さらに、決起部隊の動きを監視し、分単位で記録、報告していた。
相反する2つの密約
極秘文書には、事件初日にその後の行方を左右するある密約が交わされていたことが記されていた。
事態の収拾にあたる川島義之陸軍大臣に、決起部隊がクーデターの趣旨を訴えたときの記録には、これまで明らかではなかった陸軍大臣の回答が記されていた。
「陸相の態度、軟弱を詰問したるに」
「陸相は威儀を正し、決起の主旨に賛同し昭和維新の断行を約す」
川島は、決起部隊から「軟弱だ」と詰め寄られ、彼らの目的を支持すると、約束していたのだ。
「これは随分重要な発言だと思います。決起直後に大臣が、直接決起部隊の幹部に対して、“昭和維新の断行を約す”と、約束しているんですね。言葉として。これを聞いたら、決起部隊は大臣の承認を得たと思うのは当然ですよね。それ以降の決起部隊の本当の力になってしまった」(戸さん・大和ミュージアム館長)
この直後、川島は、決起部隊が軍事政権のトップに担ごうとしていた皇道派の幹部・真崎甚三郎大将に接触。
「謀議の結果、決起部隊の要求をいれ、軍政府樹立を決意」
極秘文書には、陸軍上層部の中に、クーデターに乗じて軍事政権樹立を画策する動きが記されていた。
一方、別の場所で、もう一つの密約が交わされていた。
極秘文書に「上」(かみ)と書かれた人物の発言が記されていた。「上」とは、軍を統帥する大元帥、昭和天皇だ。事件発生当初から断固鎮圧を貫いたとされてきた。しかし、極秘文書には事件に直面し、揺れ動く天皇の発言が記されていた。
事件発生直後、天皇は、海軍の軍令部総長である伏見宮に宮中で会っていた。伏見宮は、天皇より26歳年上、長年海軍の中枢に位置し、影響力のある皇族だった。その伏見宮に、天皇は次のように問いかけていた。
「艦隊の青年士官の合流することなきや」
「海軍の青年将校たちは、陸軍の決起部隊に加わることはないのか?」という天皇の問いに、伏見宮は、こう答えたと記されている。
「殿下より、無き様 言上」
「殿下」こと伏見宮は、「海軍が決起部隊に加わる心配はありません」と語った。
なぜ天皇はこのとき、海軍の行動を心配するような言葉を口にしたのか。当時、まだ34歳だった天皇。軍部の中には、批判的な声もあり、陸軍少佐だった弟の秩父宮などが、代わりに天皇に担がれるという情報まで流れていた。
「軍隊に人気があるような、秩父宮とか、高松宮の方を軍隊が天皇にしてしまう可能性があるんじゃないかという危機感は常にあったんじゃないかと。(軍部からは)夜にマージャンをしているとか、日常でもゴルフをしていて、いわゆる大元帥としての仕事をちゃんとしていないんだという形で、非常に権威が軽んじられていたと。軍隊の中で(天皇の)威信が確立していない状況が昭和初期と考えていいと思います」(天皇制を研究・名古屋大学大学院 准教授 河西秀哉さん)
事件の対処次第では、天皇としての立場が揺らぎかねない危機的な局面だった。決起部隊に加わることはないと明言した海軍に対し、天皇はたたみかけるように注文をつけていく。
「陸戦隊につき、指揮官は、部下を十分握り得る人物を選任せよ」
陸戦隊とは、艦艇の乗組員を中心に編制される海軍の陸上戦闘部隊。決起部隊に同調する動きが出てこないか、疑心暗鬼になっていた天皇は、陸戦隊の指揮官の人選にまで注文をつけるほど、細かく気をまわしていた。
「陸軍がどうなるか分からないし、実際、模様眺めの人たちがいっぱいいるわけです。こういう状況の中で事態を打開しようとしたとき、もう一つの武力の柱である海軍に期待するのは、当然、天皇としてはあったと。特に伏見宮は、まさに軍人皇族の代表という位置づけですから、自分のコントロール下に置きたいということはあったと思います。次にどういう手を打つかという点では、昭和天皇は大きな勇気を得たと思います」(昭和天皇を研究・明治大学 教授 山田朗さん)
海軍の表と裏
決起部隊の目的を支持すると約束した陸軍上層部。天皇に「決起部隊に加わらない」と約束した海軍。事件の裏で相反する密約が交わされる中、天皇は鎮圧に一歩踏み出していく。海軍に鎮圧を準備するよう命じる3本の「大海令」を発令。天皇が立て続けに大海令を出すのは極めて異例の事態だった。
極秘文書には、戦艦を主力とする第一艦隊、そして第二艦隊の動きが詳細に記録されていた。長門など戦艦4隻をはじめ、巡洋艦や駆逐艦、9隻の潜水艦、戦闘機・爆撃機などの飛行機隊。大分の沖合で演習中だった第一艦隊全体が、東京を直ちにめざした。さらに、全国で決起部隊に続く動きが広がることを警戒した海軍は、鹿児島沖で訓練していた第二艦隊を大阪に急行させた。
これまで陸軍の事件として語られてきた二・二六事件。実は、海軍が全面的に関わる市街戦まで想定されていた。
海軍・陸戦隊、第三大隊に所属していた中林秀一郎さん(99歳)。当時、16歳で海軍に入ったばかりだった。出動したときのことを鮮明に覚えているという。
「初めて実弾を300発渡されて。一番海軍に入って嫌な気持ちがしましたね。まかり間違えば陸軍と、東京で市街戦になる。そんなばかなことはねえと」(中林さん)
一方、この時、陸軍の不穏な動きはさらに広がりを見せていた。海軍が注目したのは、東京を拠点とする陸軍の第一師団。決起部隊の大半が、この師団の所属だった。第一師団の参謀長がもらした言葉を、海軍は記録していた。
「決起部隊もまた日本人、天皇陛下の赤子なり」
「彼らの言い分にも理あり」
「決起部隊を暴徒としては、取り扱いおらず」
クーデターに理解を示すかのような陸軍幹部の発言に、海軍は強い危機感を抱く。もし陸軍・第一師団が決起部隊に合流したらどうなるのか。海軍は、陸軍と全面対決になることを警戒していた。
2月27日午後2時。軍令部の電話が鳴った。電話の相手は、クーデターを企てた決起部隊だった。決起部隊は、なぜ海軍に接触してきたのか。実は、海軍の内部にも、決起部隊の考えに同調する人物がいた。
小笠原長生、元海軍中将。小笠原は天皇を中心とする国家を確立すべきだと常々主張し、皇室とも近い関係にあった。事件発生直後、小笠原は、軍令部総長・伏見宮を訪ね、決起部隊の主張を実現するよう進言していた。
「海軍は支持してくれる。部隊ごとに協力してくれるという錯覚を反乱側は持っていたのではないかと思います。(決起部隊は)ゆくゆくは天皇が自分たちの味方をしてくれたらそれで決まるわけですが、天皇が味方になってくれるという裏には、小笠原の存在は私は多分幾分かあったと思います」(軍事史を研究・防衛大学校 名誉教授 田中宏巳さん)
そして、海軍にまで接触を試みてきた決起部隊は、“ものの分かる”海軍将校に決起部隊の拠点に一人で来るよう求めた。派遣されたのは海軍・軍令部の中堅幹部・岡田為次中佐。岡田がそこで語った言葉が極秘文書に記録されていた。
「君たちは初志の大部分を貫徹したるをもって、この辺にて打ち切られては如何」
岡田中佐は、決起の趣旨を否定せず、相手の出方を見極めようとしていた。このときすでに天皇の命令を受け、鎮圧の準備を進めていた海軍。その事実を伏せたまま、このあとも決起部隊から情報を集めていく。天皇の鎮圧方針に従う裏で、海軍は、決起部隊ともつながっていた。
一方、この日、陸軍上層部も新たな動きを見せる。天皇が、事態の収束が進まないことにいら立ち、陸軍に鎮圧を急ぐよう求めていたのだ。
午後9時、戒厳司令部に派遣されていた海軍・軍令部員から重要な情報が飛び込んできた。
決起部隊が、クーデター後、トップに担ごうとしていた陸軍・真崎甚三郎大将。真崎が、満州事変を首謀した石原莞爾大佐と会い、極秘工作に乗り出したという情報だった。
2人が話し合ったのは、青年将校らの親友を送り込み、決起部隊を説得させるという計画だった。戒厳司令部は、この説得工作によって事態は収束するという楽観的な見通しをもっていた。そして、万一説得に従わない場合は、容赦なく切り捨てることを内々に決めていたことも明らかになった。
「要求に一致せざる時は、一斉に攻撃を開始す」
奉勅命令で事態は緊迫 追い込まれる決起部隊
事件発生から3日目の2月28日午前5時。天皇が出した、ある命令をめぐり、事態が大きく動く。
決起部隊の行動を「天皇の意思に背いている」と断定し、直ちに元の部隊に戻らせるよう命じる奉勅命令が出されたのだ。事件発生当初は不安を抱く言葉を発していた天皇。奉勅命令によって、自らの意思を強く示した。
天皇が奉勅命令を出し、自分たちを反乱軍と位置づけたことを知った決起部隊は、天皇が自分たちの行動を認めていないこと、そして、陸軍上層部はもはや味方ではないことを確信した。
奉勅命令をきっかけに、事態は一気に緊迫していく。同じ頃、決起部隊と面会を続けていた海軍・軍令部の岡田為次中佐は、交渉が決裂したと報告する。
「交渉の結果は、決起部隊の主旨と合致することを得ず 決起部隊首脳部より『海軍をわれらの敵と見なす』との意見」
「海軍当局としては直ちに芝浦に待機中の約三ヶ大隊を海軍省の警備につかしめたり」
天皇に背いたと見なされ、陸軍上層部からも見放された決起部隊。期待を寄せていた海軍とも交渉が決裂し、絶望的な状況へと追い込まれていく。鎮圧に傾く陸軍と海軍。決起部隊との戦いが現実のものとなろうとしていた。
攻撃準備を進める陸軍に、決起部隊から思いがけない連絡が入る。
「本日午後九時頃 決起部隊の磯部主計より面会したき申込あり」
「近衛四連隊山下大尉 以前より面識あり」
決起部隊の首謀者のひとり、磯部浅一が、陸軍・近衛師団の山下誠一大尉との面会を求めてきたのだ。
磯部の2期先輩で、親しい間柄だった山下。山下が所属する近衛師団は、天皇を警護する陸軍の部隊だった。追い詰められた決起部隊の磯部は、天皇の本心を知りたいと、山下に手がかりを求めてきたのだ。
磯部「何故に貴官の軍隊は出動したのか」
山下「命令により出動した」
山下「貴官に攻撃命令が下りた時はどうするのか」
磯部「空中に向けて射撃するつもりだ」
山下「我々が攻撃した場合は貴官はどうするのか」
磯部「断じて反撃する決心だ」
天皇を守る近衛師団に銃口を向けることはできないと答えた磯部。しかし、磯部は、鎮圧するというなら反撃せざるを得ないと考えていた。
山下は説得を続けるものの、2人の溝は次第に深まっていく。
山下「我々からの撤退命令に対し、何故このような状態を続けているのか」
磯部「本計画は、十年来熟考してきたもので、なんと言われようとも、昭和維新を確立するまでは断じて撤退せず」
もはやこれまでと悟った山下。ともに天皇を重んじていた2人が、再び会うことはなかった。
最後の賭けに出る決起部隊
事件発生4日目の2月29日。決起部隊が皇族に接触しようとしているという情報が前夜から飛び交い、鎮圧側は大混乱に陥っていた。鎮圧部隊は、皇族の邸宅周辺に鉄条網を設置。戦車も配備して警備を強化した。
午前6時10分。決起部隊が現れたのは、天皇を直接補佐する陸軍参謀総長、皇族・閑院宮の邸宅前だった。
「閑院宮西正門前に決起部隊十七名、軽機関銃二挺を、西方に向けおれり」
氷点下まで冷え込む中、決起部隊は閑院宮を待ち続けていた。閑院宮を通じ、天皇に決起の思いを伝えることにいちるの望みを託していたのだ。しかし、閑院宮は現れなかった。
「(閑院宮は)へたに出ると、宮様なんとかしてくださいとなってくるので、そうならないように、(決起部隊を)避けたということはあると思います。(決起部隊は)昭和天皇に決起した本当の意図を理解してもらいたいと、それを伝えるために、天皇に近い皇族に接触しようとしたと。直接伝えなきゃという意識は、追い込まれていったときにあったのではないか」(二・二六事件を研究・神戸大学 研究員 林美和さん)
この日の早朝。陸軍上層部は、ついに鎮圧の動きを本格化させる。戒厳司令部は周辺住民に避難を指示。住民1万5000人は着の身着のまま、避難所に急いだ。
一触即発となった鎮圧部隊と決起部隊。東京が戦場になろうとしていた。
決起部隊の兵士だった志水慶朗さん(103歳)、当時19歳。兵士の多くは、事前に詳細を知らされないまま、上官の命令に従っていたという。国会議事堂に迫りくる戦車の音を聞いた志水さん。自分たちが鎮圧の対象になっていることを知った。
「どうして撃ち合わなければいけないんだろうって、同じ兵隊同士、日本の兵隊同士がね。そういう疑心暗鬼と言いますかね。そういうような気持ちは感じましたね」(志水さん)
陸軍・鎮圧部隊の兵士だった矢田保久さん(103歳)、当時20歳。最前線での任務を命じられていた。
「緊張しちゃっているから何が起きてくるか分かんない。一発撃ったら絶対止まらないよ。海軍や何もかも全部来ているんだし、想像がつかないでしょう」
海軍・陸戦隊は攻撃準備を完了し、第一艦隊は、東京・芝浦沖に集結していた。もし決起部隊との戦闘が始まれば、海軍・軍令部は状況次第で、ある作戦の実行も想定していた。
「艦隊から国会議事堂を砲撃」
当時、対処にあたっていた軍令部員の名前が極秘文書に残っている。矢牧章中佐。艦隊が攻撃することになった場合の重大さを、戦後、証言していた。
「あそこ(芝浦沖)からね、国会議事堂まで、要するに4万メートルくらい飛ぶんだから、大砲の大きい奴が。陸軍(決起部隊)がもし考え違いして、やろうじゃないかと。一発やろうじゃないかと、海軍と。どんどん撃ったら、あそこの千代田区が無くなってしまいます」(矢牧さんの証言より)
天皇は、時々刻々と入る情報を聞き取り続けていた。事件発生から4日間、鎮圧方針を示してきた天皇。最終盤、陸海軍の大元帥としての存在感が高まっていた。
午前8時10分。ついに、陸軍・鎮圧部隊による攻撃開始時刻が8時30分と決定。
いつ攻撃がはじまるとも分からない中、海軍は、最前線で様子を探り続けていた。その時、追い詰められた決起部隊の変化に気づく。
「一〇時五分頃」
「陸軍省入口において決起部隊の約一ヶ小隊 重機関銃二門 弾丸を抜き整列せり」
「三十名、降伏せり」
「一一時四五分」「首相官邸の“尊皇義軍”の旗を降ろせり」
「一二時二〇分」「首相官邸内に、万歳の声聞こゆ」
海軍は、最後まで抵抗を続けていた安藤輝三の部隊に注目していた。極秘文書には、追い詰められた指揮官・安藤の一挙手一投足が記録されていた。
「安藤大尉は部下に対し、『君たちはどうか部隊に復帰してほしい。最後に懐かしいわが六中隊の歌を合唱しよう』と、自らピストルでコンダクトしつつ中隊歌を合唱。雪降る中に、第一節を歌い終わり、第二節に移ろうとする刹那、大尉は指揮棒がわりのピストルを首に。合唱隊の円陣の中に倒れた」
午後2時25分、戒厳司令官から軍令部総長に連絡が入った。午後1時、事件は平定したという。
二・二六事件から戦争への道
日本を揺るがした、戦慄の4日間。
陸軍上層部は、天皇と決起部隊の間で迷走を続けた。それにもかかわらず、事件の責任は、決起部隊の青年将校や、それにつながる思想家らにあると断定。弁護人なし、非公開、一審のみの「暗黒裁判」とも呼ばれた軍法会議にかけた。
事件の実態を明らかにしないまま、首謀者とされた19人を処刑し、陸軍は組織の不安は取り除かれたと強調した。一方で、事件への恐怖心を利用し、政治への関与を強めていった。
「現に目の前で何人も銃で殺されたり、斬り殺されたりという事件を見て、政治家も財界人も、もう陸軍の言うことに対して、本格的に抵抗する気力を失っていくんですね。これが二・二六事件の一番、その後に対する影響力の最たるものですね」(戸さん・大和ミュージアム館長)
34歳で、事件に直面した天皇。軍部に軽視されることもあった中、陸海軍を動かし、自らの立場を守り通した。クーデター鎮圧の成功は、結果的に、天皇の権威を高めることにつながった。
「二・二六事件を経て、軍事君主としての天皇の役割はすごく強くなってしまって。天皇の権威、神格化といってもいいですが、そういうものが二・二六事件で大いに進んだことは間違いないと思います」(山田さん・明治大学 教授)
事件後、日本は戦争への道を突き進んでいく。高まった天皇の権威を、軍部は最大限利用して、天皇を頂点とする軍国主義を推し進める。そして軍部は、国民に対して命を捧げるよう求めていく。
日本は太平洋戦争に突入。天皇の名の下、日本人だけで310万人の命が奪われ、壊滅的な敗戦に至った。二・二六事件からわずか9年後のことだった。
戦後、天皇は忘れられない出来事を2つ挙げている。終戦の時の、自らの決断。そして、二・二六事件。
「戦後天皇がもしこの事件に非常に思いをもっているとすれば、これは後の戦争に突き進んでいくような一つの契機になった事件、実は自分が起こした強い行動っていうのは、戦争に進んでしまった要因の一つではないかと、戦後いろいろな思いをもった可能性も考えられる」(河西さん・名古屋大学大学院 准教授)
晩年、天皇は、2月26日を「慎みの日」とし、静かに過ごしたという。
二・二六事件を記録し続けた海軍は、その事実を一切公にすることはなかった。なぜ事実を明らかにしなかったのか。極秘文書6冊のうち、事件後、重要な情報をまとめたと思われる簿冊がある。そこには海軍が、事件前につかんだ情報が書かれていた。その内容は、詳細を極めていた。
事件発生の7日前。東京憲兵隊長が海軍大臣直属の次官に、機密情報をもたらしていた。
「陸軍・皇道派将校らは、重臣の暗殺を決行 この機に乗じて、国家改造を断行せんと計画」
襲撃される重臣の名前が明記され、続くページには、首謀者の名前が書かれていた。事件の一週間も前に、犯人の実名までも、海軍は把握していたのだ。
海軍は、二・二六事件の計画を事前に知っていた。しかし、その事実は闇に葬られていた。なぜ事件は止められなかったのか、その真相は分からない。ただ、その後起きてしまった事件を海軍は記録し続けた。そこには、事件の詳細な経緯だけでなく、陸軍と海軍の闇も残されていた。
昭和維新の断行を約束しながら青年将校らに責任を押し付けて生き残った陸軍。事件の裏側を知り、決起部隊ともつながりながら、事件とのかかわりを表にすることはなかった海軍。
極秘文書から浮かび上がったのは二・二六事件の全貌。そして、不都合な事実を隠し、自らを守ろうとした組織の姿だった。
「本当のことを明らかにするのは、ものすごく難しいことで。如何に事実を知るということが難しいかということですよね。たまたま私どもは、何十年ぶりかに現れた資料によって、今まで知られなかったことがわかるわけですが、こんなことは類いまれなことで、わからないまま生きているんだと」(田中宏巳さん・防衛大学校名誉教授 極秘文書を発見した研究者)
事実とは何か。私たちは、事実を知らないまま、再び誤った道へと歩んではいないか。83年の時を超えて、蘇った最高機密文書。向き合うべき事実から目をそむけ戦争への道を歩んでいった日本の姿を今、私たちに伝えている。  
 
「二・二六事件」の背景と影響

 

はじめに(「大正デモクラシー」終焉が意味するもの)
「五・一五事件」で犬養毅首相が暗殺され、「大正デモクラシー」は短い生命を終えたことを紹介しましたが、“そのような事象がその後の我が国の歴史にいかなる影響を及ぼしたのか”について触れておきましょう。
当時の日本は、「満州事変」と一連の戦線拡大によって“大満州ブーム”が沸き返り、その延長で“国際連盟の脱退によって日本が世界から孤立したことへの危機感はほとんどない”ような高揚感が蔓延していました。その結果、内閣も議会も「妥協的態度を軟弱」として、「強硬論をすべて是」とする世論やマスコミの大勢に乗るだけになったのです。
国際連盟脱退後の昭和天皇の詔勅も紹介しましたが、国の統治とは難しいものだということを改めて考えさせられます。“権力を広く分散すれば、自ら良い政治になる”という民主主義の考え方は、そう簡単に人々に根付くものではないことを「大正デモクラシー」は教えてくれました。他方、国家が“一枚岩”になると、確かに意思決定そのものは容易ですが、一度動き始めたら軌道修正できないという致命的な欠陥を内在しています。
「世界恐慌」などの影響によって経済的に疲弊を来し、希望を失いつつあった国民が“強硬論”を最適な選択肢として同調すること、そして“強硬論”を掲げて有言実行する軍人達が“救世主”のように見えたのは容易に想像できます。このような国民精神が、結果として「大正デモクラシー」を終焉させ、我が国の混乱を増大させる要因となったのでした。
この風潮は、「五・一五事件」(昭和8年)の裁判にも表れます。マスコミは首謀者達の主張を正当化し、行動を称えもしました。その結果、減刑運動が拡大し、首謀者の判決は軽いものになります。このことがのちの「二・二六事件」の陸軍将校の反乱を“後押し”したともいわれます。
歴史を振り返れば、バランス感覚をもって極端な国の舵取りを諫め、軌道修正できた明治時代の伊藤博文のような人材を輩出できなかったのが、昭和時代初期の不幸だったのではないでしょうか。
同じ年の1月、巨額な賠償金と「世界恐慌」にもがき苦しんでいたドイツにヒトラー政権が誕生します。ドイツ国民も「彼こそが“救世主”だ」と信じたのでした。
「二・二六事件」の背景
さて、「激動の昭和」と言われるとおり、昭和初期は、今の常識からは想像を絶するような事件や事案が次から次へと発生しますが、1933(昭和8)年の国際連盟脱退からおおむね3年間は、昭和にしては静かな期間でした。
その静寂を破ったのは、1936(昭和11)年2月26日に発生した「二・二六事件」でした。20世紀に生きていた日本人に「何が最も強烈な記憶か」と聞くと「二・二六事件」と答えた人が多いといわれます。大東亜戦争時の真珠湾攻撃や原爆投下など様々な強烈な経験と比較して、日本人は、本事件を“自分達が生まれて育ってきた社会全体が足元から崩れる予兆”として脅えたのでした(岡崎久彦氏の言)。
その背景を探ってみましょう。まず、思想的背景として「昭和維新」の“革新思想”がありました。事件後、死刑に処せられた北一輝などが主導して一部の青年将校らに浸透していったものですが、その思想を簡単に紹介しておきます。
第1に、白人帝国主義に対するアジア主義です。日本が戦争に訴えても国際的不正義を匡(ただ)すことを是認しています。第2に、社会主義の影響を色濃く受けた平等主義です。特権階級の廃止などを主張します。この考えは、陸軍が画策した満州の計画経済の考えとも一致します。第3に、議会制民主主義に対するものとして革新派による専制体制の主張です。これらを求めたのが「昭和維新」だったのです。
これらの思想に加え、陸軍内の対立もありました。本シリーズでもすでに「昭和陸軍の台頭」として触れましたが、一枚岩のように見えた「一夕会」の中に、第1次世界大戦の教訓から「国家総力戦」の準備と計画を整備するために軍部主導の政治運営を主張する、いわゆる「統制派」が永田鉄山らを中心に結成されます。そして、それに対抗するように、荒木貞夫陸軍大臣や真崎勘三郎参謀次長らを担ぎ、“革新思想”を信じて国家改造を目指す青年将校らによる「皇道派」も形成されます。
両派の対立は、対ソ戦略を巡っても激しい論争を展開します。「統制派」が日ソ不可侵条約の締結に積極的だったのに対して、「皇道派」は対ソ強硬論を主張してこれを断念させます。その結果、ソ満国境にかなりの兵力を割く必要が生じ、陸軍の「対中国戦略」に大きな足かせとなっていきます。
「対中国戦略」についても、「統制派」が中国に日本との共存共栄が進むよう誘導し、排日が激化すれば断固排除する方針だったに比し、「皇道派」は、欧米列強と協調しながら安定を維持し、主に経済的観点から貿易市場とすべきとの方針でした。
「二・二六事件」発生と影響
このような背景によって、「皇道派」を軍中央から一掃しようとした永田鉄山が刺殺される事件が起きます(昭和10年)。永田暗殺の翌年の1936(昭和11)年、第1師団や近衛師団の青年将校グループがクーデタ―による国家改造をめざし、約1500人の兵士を率いて「二・二六事件」を引き起こします。
しかし、昭和天皇の「朕自ら近衛師団を率いてこれを鎮定に当たらん」の強いご意志もあってクーデターは失敗し、青年将校と繋がりのあった真崎、荒木らは予備役に編入、事件の背景にあった「統制派」と「皇道派」の争いも決着をみることになります。
なお、「五・一五事件で海軍に先を越された陸軍過激派はいつか大事を起こす。万一海軍省が占領されるようなことがあったら海軍の名折れである」と考えた当時の海軍省軍務局第1課長井上茂美らは、事件のかなり前から陸軍の動きを警戒して最小限の準備をしていたのです(当時の陸軍と海軍の関係を知る貴重なエピソードです)。
昨年8月15日、「NHKスペシャル」で「二・二六事件に関する海軍の最高機密文書を発掘した」と、鎮圧に至る「4日間」の詳細が報道されました。本事件に対する海軍の態度や昭和天皇の苦悩が明らかになっていますが、「皇道派」と「五・一五事件」を引き起こした海軍「艦隊派」とは気脈が通じていたともいわれ、本事件は事件後80年余り過ぎた現在でも依然、謎が多いのも事実です。
陸軍においては、当時、参謀本部作戦課長職にあった石原莞爾が「兵隊の手を借りて殺すなど卑怯千万」として反乱軍鎮圧の先頭に立った事を付記しておきましょう。
事件後、外務大臣だった広田弘毅が首相に任命されますが、広田内閣の陸軍トップは、陸軍大臣・参謀総長・教育総監らすべて政治色が薄く、その結果、「統制派」の中堅幕僚層の意向が強く反映され、同時に陸軍の政治的発言力が急速に増大します。
中でも、大正2年に山本権兵衛内閣によって削除された「軍部大臣現役武官制」が復活するなど、まさにクーデターが成功したかのように、“軍国主義化の潮流”は歯止めのない状態になっていきます。
近衛文麿登場
それらを象徴するかのように、「二・二六事件」後の我が国の政局は荒れに荒れます。広田弘毅首相は、1937(昭和12)年1月、立憲政友会の浜田国松議員の発言をめぐって寺内陸相の間で大混乱になった「腹切り問答」を機に辞任します。
その後継に指名された宇垣一成(かずしげ)内閣は陸軍の反対で組閣流産します。代わりに首相となった林鉄十郎(せんじゅうろう)も、解散する理由もないのに衆議院を解散(「食い逃げ解散」といわれます)し、政党勢力を勢いづかせた責任をとって同年5月、在職3か月で総辞職します。
このような政局の混乱から、国民に新世代の出現を期待させ、当時45歳の若き近衛文麿が首相となり、首相を辞めたばかりの広田弘毅(こうき)は外務大臣として就任します。
近衛文麿については、のちほど詳しく触れたいと思いますが、「近衛、広田、そして後の陸相・参謀総長の杉山元は、大事な節目で指導力を発揮せず、体制順応した不作為の罪を責められるべき」として、岡崎久彦氏は「大日本帝国を滅ぼした責任者はこの3人」と断じていることを紹介しておきましょう。
岡崎氏はまた、この3人にとどまらず、「昭和前期の人々の通弊(つうへい)だったが、この時期、国の為政者として骨のある人材が存在しなかった」と指摘しています。我が国にとっては何とも不幸だったとしか言えようがありません。
「宣伝は政治より重し」
さて当時の中国です。以前、「欧米列国が一方的に中国に加担した」と述べましたが、中国は国際世論を味方につけるため、積極的に宣伝を活用しました。蒋介石は「政治は軍事より重し、宣伝は政治より重し」として「戦争に負けても宣伝に勝てばいい」と述べていることから、いかに「宣伝」の力を入れていたかが理解できます。
蒋介石夫人の宋美齢が米国の大学卒のキリスト教徒で、のちに、ルーズベルトなど米国の要人工作に一役買ったのは有名ですが、1927年、蒋介石は「唯一無二の合法的な妻とする」として6年前に迎えた2番目の夫人・陳潔如を捨て、宋美齢と再婚します(偽装結婚だったという説もあります)。そして、自身も1929年にキリスト教に改宗しますが、当時の中国大陸には米国から来た宣教師団体が数千名おり、この「宗教勢力は宣伝に使える」と判断した結果と推測します。
蒋介石が私生活まで犠牲にして実施したような、三国志以来の伝統といわれる中国の宣伝工作は、この後の「支那事変」になっても大いに発揮されます。
これに対して我が国は、石原莞爾が「宣伝下手は日本人の名誉」と述べているように、「武士道精神」によって、武道そのものよりも「卑怯なまねはしない」のような徳を重視する考えが定着していたことに加え、軍事的勝利に対する自信から宣伝を軽視していたのでした。我が国の“宣伝ベタ”は今なお続いており、中国や韓国から“いいようにやられている”のは承知のとおりです。
「卑怯なまねはしない」などの清い精神は、は陸海軍共通の“作戦ベタ”にも表れます。これについては、のちほど繰り返し触れることになるでしょう。
「支那事変」の引き金になった「西安事件」
この時期の日中関係は比較的平穏でした。その訳は、蒋介石が共産軍の包囲殲滅に集中し、「塘沽(タークー)停戦協定」締結後の対日関係は行政院長の汪兆銘に委ねていたからでした。
その後の日中関係で重要な役割を果たす汪兆銘について少し触れておきましょう。汪兆銘は、日露戦争の最中に留学生として来日し、西郷隆盛や勝海舟にも深く私淑して親日派になりました。汪は「優れた人間同士が理解し、信頼し合えば、いかなる困難も克服できる」という“東洋思想”を最後まで捨てなかった人だったといわれます。
1935(昭和10)年、汪兆銘は抗日派に狙撃されます。一命は取り留めましたが、この結果、「支那事変」勃発時、我が国は中国側のキーパーソンの汪を欠くことになります。
その頃、共産軍撃滅作戦を推進中の蒋介石に対して、劣勢な共産軍から「抗日統一作戦」結成の呼びかけがありましたが、共産軍の狙いを見抜いている蒋介石は応じませんでした。そのような情勢下、1936(昭和11)年12月、戦意がない張学良を直接指導するため蒋介石が張の根拠地の西安に乗り込んだところ、逆に逮捕監禁されるという事件が発生します。有名な「西安事件」です。
レーニン没後、後継者として地位を固めつつあったスターリンは、毛沢東の「殺蒋抗日」に反対し、「国民党と日本を戦わせ、お互いが疲弊するのを待つ」との基本戦略のもと、蒋介石は釈放される代償として「共産党討伐の中止」「一致抗日」を約束させられ、「第2次国共合作」が成立します。ソ連の陰謀がみごとに成功したのです。
これによって、国民党内の“知日派”が失脚する一方、親ソ派が台頭し、ここに来て蒋介石ははっきりと「敵は日本」と定めたのでした。まさに、「西安事件が支那事変そして日中戦争の引き金になった」(米国駐支大使N・ジョンソン)のでした。
「盧溝橋事件」から「支那事変」へ
「盧溝橋事件」発生
「張作霖爆破事件」から「満州事変」そして北支工作などについては、依然として謎はありますが、戦後、そのほとんどを日本軍が仕組んだとされています。
しかし、「盧溝橋事件」に至る1935(昭和10)年以降に中国各地で起きた諸事件には日本側の秘密工作の証拠がなく、反日宣伝活動で感情が高ぶった一般国民か国民党下部か共産党系かは明確でないにしても、すべて中国側から挑発を受けていたことは明らかなようです。
「西安事件」を経て国共合作体制下にあった中国は、この頃から「日本と一戦交えてもいい」という雰囲気に変わり始め、北支・中支・南支各地で頻繁に事件が発生していたのです。
改めて、当時、日中両国が対峙している状況を振り返ってみますと、華北では、中国41万人の兵力が5千の日本軍を包囲する形となり、徐州方面でも35万の兵力が北上をうかがうなど、日中両軍の緊張が高まっていました。しかし、日本側はあくまで華北にとどまり、事態の不拡大方針を堅持していたのです。
このような中の1937(昭和12)年7月7日夜、「支那事変」の発端となった「盧溝橋事件」が発生します。まず、演習を終えた日本軍に突如、“中国側からと思われる数発の銃弾”が撃ち込まれました。翌8日払暁以降も、再三にわたり不審な発砲を受けます。隠忍自重すること7時間、ついに日本側は中国に攻撃開始し、これを撃滅します。
「盧溝橋事件」については、現在の中国政府は「日本側が意図的に侵略を開始した」としていますが、歴史研究家の間では、“日本軍を見通しのない戦争に引きずり込むために、国民党軍を矢面に立たせて消耗させ、共産党を勝利に導く道を開く”という共産党の陰謀だったという説が最有力です。
実際に、中国第29軍に入り副参謀長まで登りつめ、日本との戦争を画策していた共産党の秘密党員(名前も判明しています)や中国軍大隊長の告白も出版物や回想録として出回っていますから、中国政府が認めないとしても、“中国側からの発砲”には間違いありません。
事件当日、日本軍は検閲のための演習を実施中でした。中隊長の配慮で隊員は重い鉄兜をかぶってなかったことがわかっています。鉄兜を被ってないような部隊が“戦争を引き起こすような行動をしない”ことは明白です。
日本政府は、(中国に遠慮して)「偶発説」を採用しているようですし、歴史教科書もすべてその責任を曖昧にして「衝突が起きた」とだけ書いています。
確かに、共産党本部(延安)の指示ではなかったという意味では、「偶発」だったと言えるのかも知れませんが、“状況証拠が明白でもそれを事実として受け入れない”のが「中国の歴史認識」であることを私達は知る必要があるのです。
なぜ日本軍があの現場にいたのか、についても再度確認しておきましょう。それは、日露戦争前の「義和団事件」までさかのぼります。各国と中国の最終議定書で「北京から海に至る10数か所に各国の軍隊を駐留する」という協定を結びました。よって、当時、日本以外にもアメリカ、イギリス、フランス、イタリア(ドイツやロシアは撤退)が駐留していたのです。
「盧溝橋事件」から「北支事変」へ
次に「盧溝橋事件」勃発後の拡大ですが、ただちに外務省と陸軍中央は「不拡大・現地解決」の方針を固めます。しかし、陸軍内部は「拡大派」と「不拡大派」が対立し始めます。
「不拡大派」は、「日本が出兵したら、泥沼にはまって長期戦に陥る可能性があり、列強に漁夫の利を与えかねない。それよりも満州経営に専念し、対ソ戦に備えるべき」というもので、作戦部長の石原莞爾らがその中心人物でした。
他方、強硬意見を発する「拡大派」が存在しましたが、「拡大派」と言えども、中国の反日・侮日の機運が高まる中、反日政策を改めさせようする「対支一撃論」であり、けっして全面戦争を求めるものではありませんでした。
事件2日後の1937(昭和12)昭和7月9日、現地で「停戦協定」が結ばれ、軍の派遣はいったん見送られますが、中国軍による協定違反の執拗な攻撃が続き、とうとう我慢しきれなくなって反撃を開始します。
7月27日、日本の天津軍が中国に開戦を通告し、北京と天津を掃討します。それまで日本を挑発していた中国軍は、あっという間に北京・天津を放棄し、南の方に逃げてしまったのでした(「北支事変」と呼ばれます)。
その後、天皇が近衛首相に「もうこの辺で、外交交渉で決着させてはどうか」とのご意向を漏らされたこともあって、日本政府と陸海軍は一丸となって積極的に和平に乗り出します。
このような情勢下の7月29日、「通州事件」が発生します。通州は、それまで長城以南では最も安定した地域で、多数の日本人が安心して暮らしていました。日本の軍隊が「盧溝橋事件」で街を離れていた留守に、本来、日本の居留民を守るべき中国保安隊3000人が反乱を起こして日本人居留民を襲撃し、200人以上の日本人が、言葉では表現きでないような残忍で猟奇的な殺害・処刑を受けることになります。
「北支事変」から「支那事変」へ
やがて、蒋介石が中央軍を上海に増派し、現地の日本軍に対して攻撃を繰り返した結果、「第2次上海事変」が発生します。こちらは海軍が主導して陸軍を引きずり込みます。その経緯を振り返っておきましょう。
「盧溝橋事件」が起きるや、米内正光海相は、「不拡大方針」を主張していましたが、海軍は、本事件が全中国に波及する可能性が高いとの認識のもと、軍令部と海軍省が協議の上、全面作戦に備えた作戦計画や処理方針を作成していました。
日本側は「北支における権益をすべて白紙に戻す」という寛大な方針に基づき和平交渉案を作成し、中国側と交渉します。第1回目の話し合いを予定していた8月9日当日、交渉阻止を狙いすましていたかのように「大山事件」(海軍陸戦隊の大山中尉以下2名の射殺事件)が発生し、会談は流れてしまいます。
この事件を境に上海情勢が悪化するや、米内海相はそれまでの「不拡大方針」を放棄して、陸軍の派兵を要請し、居留民保護の目的で派兵が閣議決定されます。米内はのちに「全面戦争になった以上、南京を攻略するのが当然」と発言するまで強硬論に転じたのです。
陸軍参謀本部作戦部長の石原莞爾は、海軍の強硬論について「作戦の本質を知らないものである」と嶋田繁太郎軍令部長に申し入れたとの記録も残っています。また、拝謁した米内海相に対して昭和天皇が「これ以後も感情に走らず、大局に着眼して誤りのないよう希望する」旨のお言葉が下されたとの記録も残っていますし、「海軍はだんだん狼になるつつある」と当時の外務省東亜局長も日記に記しています。
海軍は、予ねてからの計画通り、南京や南昌に対する本格的な爆撃を開始しますが、それは上海を戦場に限定していた陸軍参謀本部の作戦計画を大幅に超えるものでした。
一方、蒋介石は、「盧溝橋事件」勃発後「不戦不和」「一面交渉、一面交戦」の中で葛藤していましたが、7月下旬、和平をあきらめ、「徹底抗戦」を全軍に督励します。そして「応戦」から「決戦」に転換しますが、その理由として、軍事力、特に空軍の優位について自信を保持していたことに加え、国際都市・上海で有利に戦えば、対日経済制裁など外国の支援を得られるだろうと考えていたといわれます。
上海においては中国側が先に仕掛けます。海軍旗艦「出雲」に対する爆撃を敢行しますが、軍艦には命中せず、上海租界の歓楽街を爆撃、千数百人の民間人死傷者が発生します(「第2次上海事変」といわれます)。
8月14日、中国側は「自衛抗戦声明」を発表し、日本側はこれを事実上の「宣戦布告」と受け止めます。翌15日、近衛内閣は「支那軍の暴虐を膺懲(ようちょう)し、南京政府の反省を促す」と声明を発表し、「上海派遣軍」を編成、松井岩根大将が司令官となります。一方、蒋介石側も全国動員令を下令します。
これによって、実質的に日中全面戦争に突入しますが、1941(昭和16)年12月に日米戦争が勃発するまでは両国とも実際の「宣戦布告」を行いませんでした。主な理由は、双方ともアメリカの「中立法」の発動による経済制裁を回避することが念頭にありましたが、日本側は早期事態解決を狙っていたこと、中国側は軍需物資輸入に問題が生じることを懸念していました。
8月17日、海軍の強硬論に引きずられるように、我が国は従来の「不拡大方針」放棄を決定し、「支那事変」と呼称しました。9月末、不拡大派の筆頭、石原莞爾作戦部長は更迭され、後任の下村部長によって、主戦場を華北から華中に移すことになります。陸軍も「不拡大方針」を放棄したのでした。
日本軍が上海の南の杭州湾に上陸すると、中国軍は予想外に敗走を続け、11月中旬には上海全域をほぼ制圧します。陸軍は、上海線終結をもって軍事行動停止案を作成していましたが、海軍などの「時期尚早」との反対から見送ることになります。
このあたりのいきさつは、以前に紹介しました、日中歴史共同研究の成果を取りまとめた『決定版 日中戦争』に克明に記されていますので、ある程度は中国側も了解しているものと判断されます。
今なお、「日中戦争は日本の侵略ではなかった」と主張する歴史家は後を絶ちません。戦場が中国大陸であった以上、日本側に全く非がなかったとは言えがたくとも、「日中戦争拡大に至るには様々な要因があった」「少なくとも日本の一方的な侵略ではなかった」ことを多くの読者に知っていただきたく少し長くなりました。
「陸軍悪玉論」も同じです。軍国主義者=戦争拡大論者=陸軍と決めつけるのは、あまりに「史実」と違います。海軍主導の展開は、今後も続きます。
「支那事変」の拡大
上海から南京まで
「北支事変」から「支那事変」に拡大した後も、日本はドイツを仲介に和平工作(トラウトマン工作)を始めます。仲介案の骨子は、「中国側が今後、満州を問題としないという黙約の下に、河北の諸協定を廃止し、その代わり反日運動を取り締まる」というものでした。
蒋介石もこの案を支持しますが、杉山陸相が(石原莞爾がすでに満州に転任させられていた)陸軍内の“強硬派”の突き上げを受けて一夜にして約束を反故にしたのでした。
その後の閣議において、近衛首相も広田外相も一言も発言しなかったといわれます。前にも紹介しましたように、近衛、広田、杉山に対して「大日本帝国を滅ぼした責任者はこの3人」(岡崎久彦氏)との厳しい指摘は、このような判断や指導力の欠如を指しているものと考えます。
中国軍の敗走を目のあたりにして、蒋介石は、首都・南京を死守すべきか否か迷った結果、死守を決めます。ソ連の参戦に“最後の望み”を託していたといわれています。中国共産党も「南京防衛は中国人民の責任であり、日本軍に対して人民が総武装化して戦うべき」と主張していました。
1937(昭和12)年12月1日、大本営は「南京攻略」を下令し、海軍爆撃隊による爆撃も南京に集中します。12月6日、蒋介石は南京死守を宣言したのにもかかわらず、日本軍の南京総攻撃の直前、脱出を決意します。
その理由として、日本軍の圧倒的な軍事力の差の前に敗北を予測したことのほかに、参戦を期待していたスターリンから「日本が挑発しない限り、単独での対日参戦は不可能」との回答を得たこと、それに一向に改善しない英米等の国際支援などがあったようです。
この結果、蒋介石をはじめ中国政府高官は次々に南京を離れ、重慶の山奥まで逃げ込んでしまいます。市民の多くも戦禍を逃れ、市内に設置された南京国際安全区(難民区)に避難します。この際、“日本軍に利用されないよう”多くの建物が中国軍によって焼き払われました。
12月9日、松井司令官は、中国軍に南京城を引き渡すよう開城・投降を勧告しますが、中国軍の司令官が拒否したので総攻撃と掃討を命じます。蒋介石の撤退指示が遅れた上、日本軍の進撃がきわめて敏速だったことから中国軍は撤退の時期を失してしまい、揚子江によって退路がふさがれていたことから混乱状態に陥ります。
その結果、多数の敗残兵が“便衣兵”に着替えて難民区に逃れますが、13日には、中国軍の組織的抵抗は終了し、日本軍は南京を占領します。
「南京事件」の真相
このような状況の中で「南京事件」が発生したとされます。「南京事件」の犠牲者は、東京裁判における判決では20万人以上、南京戦犯裁判(1947年)では30万人以上とされ、現在の中国の見解は後者に依拠しています。
現在、外務省の公式サイトでは「非戦闘員の殺害や略奪行為などがあったことは否定できないが、被害者の具体的な人数については諸説あり、正しい数を認定することは困難である」としています。
第2次世界大戦中に発生したマニラ、スターリングラード、ワルシャワ、ベルリンなどの市街戦にみられるように、一般に、大都市の市街戦に至った場合、兵士のみならず民間人の犠牲者がでることは避けられないことは明白です。
しかして、「南京事件」の真相はいかなるものだったのでしょうか。「激動の昭和」を振り変える際にどうしても避けては通れないと考え、諸説をチェックしてみました。
残念ながら、戦後に2つの裁判の結果を検証しようとした研究は、多かれ少なかれそれらの裁判結果に影響されているような気がしますし、日中共同研究も明確な分析は避けています。当然日本側は、「日本の分析に中国の同意が得られるわけがない」と判断したものと推測されます。
幸いにも、松井大将をはじめ南京攻略に参加した各指揮官の日記や従軍記者の写真や手記も残っており、「偕行社」がその抜粋を『南京戦史資料集』として平成5年に編纂しています。 
それらを紐解きますと、まず南京攻略前に「軍紀緊縮の訓示」を行った松井司令官にとって、「数10万の大虐殺」は“寝耳に水”の驚きだったことがわかります。
従軍記者の写真や手記などを読む限りにおいて、確かに、敗残兵の処断などの事実はあったものの、いわゆる通常の掃討、南京の場合には、明らかに国際法違反である便衣兵の捜索・処刑(これ自体は戦時国際法上合法とされた)が多かったことがわかります。
唯一、「数10万を処理した」とする騎兵将校の太田壽男少佐の供述書(1954年8月付)も残っております。中国にとってはありがたい供述なのでしょう、その原文は、南京の記念館に大事に保存されているとのことです。
しかし、太田供述は信ぴょう性に欠けることがわかります。理由は太田少佐の終戦後の足跡です。太田少佐は戦後ソ連に抑留され、その後、中国の橅順戦犯管理所に移送されます。供述はその際に提出したものでした。そこで何があったか細部は不明ですが、まともではない状態で供述した可能性は否定できないでしょう。太田少佐は、昭和31年ようやく帰国し、昭和39年死去してしまいます。
なお、太田少佐の供述には、12月14日から15日にかけて南京市内各地で何万体もの死体処理を目撃したように書かれていますが、太田少佐が南京に到着したのは、12月25日だったことが他の証言者によって判明しておりますので、供述は実際に太田少佐が直に見聞したものでなかったことは明白です。
また、戦後大問題になった「百人斬り競争」の2人の将校の写真について、実際に撮った従軍記者の証言も残っています。この写真は、南京へ移動中、つまり“攻略前の写真”であり、タバコほしさに“はやる気持ち”を語っていたに過ぎず、百人を切った証拠にはなりません。
当時の従軍記者は、発行部数の拡大のため(だったと推測しますが)、このような“飛ばし記事”を競って戦場からたくさん送っていたようです。不幸にもこの2人の将校は、この写真を証拠に有罪になり、銃殺刑に処されます。
「東京裁判」については後ほど振り返ることにしますが、陸上自衛隊の戦士教育参考資料『近代日本戦争概説』では、「南京攻略」の戦史は約1ページ、その作戦の概要が記されているのみで、「南京市内には市民がほとんどいなかったし、占領直後には市内に部隊が入れない処置などもあった。多数の遺棄遺体は、敗走した中国軍のものであった」とさらりと記述されていることを付記しておきましょう。
日中両国の戦争指導
一般に「戦争指導」については、その戦争が終わった後に、しかも第3者の立場で冷静に分析してはじめてその問題点などをとやかく論評するものが多く、いわゆる“後出し”です。
「支那事変」が拡大し「南京事件」が発生するに至ったのは、「海軍の積極的な作戦に陸軍が後追いした結果である」と第40話でその「史実」を解説しました。日本軍は、首都・南京を占領したものの中国に勝利することはできず、戦線はますます拡大します。
他方、中国側も、蒋介石の上海や南京の防衛戦における戦争指導の迷走は戦略的に重大な過ちであり、結果として多くの人的損害をもたらしました。また、南京を失ったものの、「日中戦争の国際化により勝利する」という蒋介石の戦略は中期的には成功しますが、最終的には、共産党に敗北して台湾への追われることになります。
当時の「ニューヨーク・タイムズ」は「南京の戦いにおいて、日中双方ともに栄光はほとんどなかった」と結論付けていますが、当時から、アメリカは「勝利なき日中戦争」を見抜いていたとも判断でき、そこに“つけ入る隙”を見出していたと分析できると考えます。その細部は後ほど触れることにしましょう。
国民政府の抗日戦争
改めて、複雑な中国の国内事情を整理しておきましょう。しばしば誤解されますので、1925年から1948年までの“中華民国政府の呼称”について整理しておきます。
つまり、中華民国=国民政府ではありません。国民政府は、1924年、国民党が広州で旗揚げした時からしばらくの間は、「広州国民政府」と名乗っていましたが、当時、国際的に承認されていたのは、清の末裔というべき北京にある政府(「北京政府」)でした。
国民政府は、北伐によってその「北京政府」を倒した後、広州から南京に移動し、「南京国民政府」と名乗り、ようやく中国を代表するようになります。日本と戦争したのは、この「南京国民政府」でした。その政府は、南京陥落後に重慶に移動し、「重慶国民政府」となります。
しかし実際には、重慶には一部の政府・党機能しか置かず、武漢(南京と重慶のほぼ中間に位置:今回、コロナで有名になりました)が事実上の戦時首都の機能を持ち、武漢において、蒋介石は断固たる抗戦意志を表明します。
他方、トラウトマン和平工作は南京陥落後も引き続き進められていましたがなかなか成功しません。そして1938(昭和13)年1月16日、近衛文麿は「国民政府を対手(あいて)にせず」という有名な声明を発し、トラウトマン工作は終焉するのです。
「支那事変」の内陸拡大とソ連の対日工作
日中交渉打ち切りの内幕
前回、近衛首相の「蒋介石を対手にせず」(昭和13年1月)と交渉打ち切りに至った日本側の議論についてもう少し補足しておきましょう。
中国側の応答拒否に対して、「交渉即打ち切り」を主張する近衛首相以下政府閣僚と、「打ち切り尚早」としてさらなる交渉を望む多田駿陸軍参謀次長らが激しく対立します。海軍軍令部長も参謀次長に同調して交渉継続を求め、会議は怒号と涙声を交える激しいものとなり、一歩も引かない多田次長に対して、追い詰められた近衛首相は総辞職をもって恫喝したようです。
こうして当日の朝9時から午後7時まで及んだ会議は、近衛の主張を認めることで打ち切られ、「対手にせず」との声明発表となります。
後年の手記で、近衛は「この声明は非常な失敗であった」と反省しますが、“時すでに遅し”です。近代日本交史上、屈指の大失敗であり、自殺行為だったことは間違いないでしょう。
なお、多田駿参謀次長は、閑院宮参謀総長のもと、実質上の陸軍トップであり、石原莞爾同様、蒋介石政権よりもソ連の脅威を重視し、戦線不拡大を唱えていました。その危惧が的中し、この後、「ノモンハン事件」が起こります(細部は後述しましょう)。
では、なぜ近衛首相とその側近が間違った判断をしたのでしょうか。「重慶国民政府が国民の信頼を失い、やがて地方の一政府に転落するので長期戦に引きずり込まれる心配はない。(汪兆銘)新政府の成立を誘導し、これを盛り立てて日本の要求を貫徹していけばいいとの認識に立ってあのような声明となった」(近衛秘書の風見章)の言い訳が残っています。
振り返れば、政府サイドの情勢判断が明らかに間違っていたのでしたが、この言い訳を含め、判断に至る経緯には何とも不可思議な部分が含まれています。その背景に何があって、何が“決め手”となってこのような判断に至ったのだろうか、と考えてしまいます。
いずれにしましても、このような“政軍不一致”の国の舵取りが後戻りできないところまで進展し、やがて致命的な結果に追い込まれるのですが、これをすべて“軍人、特に陸軍のせい”と断定するのは、(海軍が主導して)「支那事変」の拡大に至った経緯を含む“史実”をみれば、明らかに“間違った歴史の見方”であることがわかります。
「支那事変」内陸への拡大
その後、「支那事変」の内陸への拡大の概要を振り返ってみましょう。武漢に撤退した頃から、蒋介石は、日中戦争が長期化することを意識し、「持久戦」に戦略転換します。そして1938(昭和13)3月、武漢で臨時全国大会を開催し、新たに国民党総裁職が設けられ、蒋介石が総裁に就任します。
中国軍は、山東州南部の台児荘(徐州の東北に位置)で日本軍を撃退するなど一定の成果を上げますが、同年5月、日本軍は徐州作戦を実施し、同地を占領します。「徐州、徐州と人馬は進む…」と歌われたあの徐州です。
余談ですが、数年前に話題になりました『一等兵戦戦死』(松村益二著)それによると、「支那事変」は、日本軍にとってけっして楽な作戦ではなかったことがわかります。日本軍に比し中国軍の弾薬など物量の異常な多さと日本軍に好意的な地域住民には特に驚かされます。脚色したようには見えない本書が記す“戦場の実相”が意味することを改めて認識しなければならないと考えます。
一方、徐州を離れた中国軍を追うように、日本軍は華南に展開を目指しますが、中国軍は黄河の堤防を破壊するなどして日本軍の南下を防ぎます。蒋介石の持久戦論に基づく“焦土戦”を展開したのでした。
日本軍は計画より約1か月遅れて武漢攻略に向かい、同年8月、武漢作戦を発動し、10月下旬には武漢三鎮(武昌、漢口、漢陽)を陥落します。相前後して、重慶への支援ルートを抑えようとして広州などの沿岸部も占領します。
蒋介石は、武漢陥落後、湖南へ撤退、11月、蒋介石は「抗戦の第1段階は終わった。事後は、民衆を取り込んだ遊撃戦を主とする持久戦を実施し、守勢から攻勢に転じる第2段階に入る」と宣言します。一般に、遊撃戦といえば共産党の作戦のように思われますが、国民党も遊撃戦を採用していたのでした。
そして12月、重慶に移動し、本格的な重慶国民政府を始動させます。蒋介石は、この後、再び南京に戻る1946年5月5日までの6年半の間、重慶にとどまります。
さて、トラウトマン工作は失敗に終わりましたが、その後も一連の日中間の和平工作が行われます。しかし、蒋介石は、日本との長期戦を想定する一方で、将来的には日本とアメリカ、イギリス、ソ連と戦争を始めるであろうと期待を込めていました。つまり、単独で日本に勝利するというよりも、日本が欧米列国と対立することにより大局的に勝利することを想定していたのです。
よって、日本との和平交渉は世界情勢の進展を睨みながら交渉していましたので、なかなか妥協までには至りません。
そのような中、1938(昭和13)年11月、日本は「第2次近衛声明」を発し、「東亜新秩序」を提唱して汪兆銘と連携を模索します。それに呼応するように、汪兆銘は重慶を脱出します。12月、近衛首相は「第3次近衛声明」を発し、中国に再び講和を求めますが、蒋は、「この抗戦は、我が国にとっては民主革命の目的を達成し、中国の独立と自由平等を求めるもの、国際的には正義を守り、条約の尊厳を回復し、平和と秩序を再建するもの」と抗戦の正義を訴えました。
1940年3月、汪兆銘は南京に新国民政府を樹立し、同年11月、正式に主席になります。
「援蒋ルート」の設定
重慶政府は、抗戦のための物資の調達が困難を極めました。中国経済の中心は上海など沿岸部であり、「大後方」といわれた四川省など内陸部は抗戦のための産業基盤がないからです。にわかに重化学工業などの建設を行いますが、簡単に基盤形成はできず、列強の援助に頼ることになります。
この結果、周辺地域との間に「援蒋ルート」といわれる輸送ルートを開発が進められます。特に、雲南からビルマへの道路開通、ベトナムから雲南、ソ連から新疆への輸送ルートの確保が急がれ、このために、米英から巨額の借款が給与されました。
日本軍が沿岸部の要点を占領したことはまた、中国の経済に大打撃を与えます。さらに日本軍は、重慶政府に圧力を与えるために、湖南省の長沙作戦を実施する一方で重慶爆撃を継続します。のちに事実上、無差別爆撃となるなど激しさを増します。
再び、国民政府・共産党の対立へ
「支那事件」拡大の足跡を総括しますと、日本軍は、当初は短期決戦で中国側の戦意を喪失させ、勝利を得るつもりでしたが、中国側は持久戦をもってそれに応じました。
日本軍は100万人前後の兵力を中国大陸に注ぎ込みますが、それでも中国の降伏を得ることは出来ませんでした。その結果、戦線は膠着し、中国大陸は、1重慶国民政府の統治空間、2中国共産党の統治空間、そして3日本軍および日本占領下の現地政権統治空間など大きく3つに分かれることになります。
問題は中国共産党の統治空間です。中国共産党は、あくまで重慶政府の下で抗日戦争を展開しており、コミンテルンも重慶政府の指示に従うよう厳命していたのですが、毛沢東は、重慶に対する共産党の独立自主を目指し、遊撃戦によって一定の面積を得るとそれを「辺区」としてその拡大を企図していきます。
日本を中国大陸に引きずり込み、蒋介石軍と戦わせ、双方が疲弊した頃を見計らって“漁夫の利を得る”戦略が中国共産党側からみれば功を奏し始めたのでした。実に巧妙なやり方でしたが、コミンテルンとは少し“温度差”が出始めたのも事実でした。詳細はのちに触れましょう。
この「辺区」拡大は、やがて重慶政府と間に軋轢を生むことになります。蒋介石の共産党不信が拡大し、共産党も重慶の国民党と敵対する姿勢を明確にしきます。
ソ連の対日工作
最後に、ソ連(コミンテルン)の対日工作について総括しておきましょう。ソ連の陰謀は、この中国のみならず、欧州、アメリカなど全世界に及んでしました。冷戦終焉後の1995年、アメリカ国家安全保安局は、「ヴェノナ文書」の公開に踏み切り、それまでの近現代史の歴史観を根底から揺るがす事態となりました。
「ヴェノナ文書」とは、第2次世界大戦前後に、アメリカ国内のソ連の工作員達がモスクワとやり取りした通信を、米陸軍情報部が英国情報部と連携して秘密裏に傍受して解読した記録です。
日本においても、共産主義者達が活発に活動していたことは昭和初期から知られていました。また、戦時中も「ゾルゲ事件」のような大事件が発生します。
我が国においては、「ヴェノナ文書」の公開よりかなり早い1950(昭和25)年に、三田村武夫氏が“昭和政治秘録”として『戦争と共産主義』を出版します。三田村氏は、戦前、警察行政全般を管轄する内務省警保局や特高警察でも勤務し、共産主義者の謀略活動の実態を追及した経験がある人物です(現在、その復刻版をKindle(キンドル)で読むことができます)。
三田村氏は、「満州事変から敗戦まで、日本はまるで熱病にでもつかれたごとく、軍国調一色に塗りつぶされてきた。この熱病の根源は果たして何であったろうか。一般常識では軍閥ということになっており、この軍部・軍閥の戦争責任については異論がないが、軍閥が演じた“戦争劇”は、真実彼らの自作自演であったろうか。作詞・作曲は誰か、脚本を書いたのは誰か、という問題になると、いまだ何人も権威ある結論を出していない。これは極めて重大な問題だ」と本書を出版するに至った経緯を披露し、自身が共産主義運動と向き合った経験からその実態を赤裸々に告発しています。
このような共産主義の陰謀の歴史や実態を解明する書籍が戦後ほどなくして出版されたにもかかわらず、長い間、日本の戦前の歴史研究は、これらの“事象”を軽視あるいは無視して語られてきたことに個人的には少なからず疑問、いやある種の意図さえ感じてきました。
しかし、戦前の歴史を研究しているうちに、どうしても「共産主義者の活動が歴史を動かした要因として無視できない」と考えるに至りました。よって、「支那事変」から「日米戦争」への発展を振り返る前に、我が国や米国における共産主義者達の活動の概要をまとめて振り返っておきたいと思います。
日本を追い詰めた共産主義者達
三田村氏の指摘によると、日本を追い詰めた共産主義者達の陰謀の基本的考えは、要約すれば次のとおりです。
まず「コミンテルンの目的は、全世界共産主義の完成であり、そのための資本主義の支柱たる米、英、日本などを倒さなければならない。その手段としては、1革命勢力を強化して革命を内部崩壊させる、2資本主義国家を外部から攻め武力で叩き潰す、の2つだが、どちらも実行の可能性は低い。その結果、考えた戦略が、資本主義国家と資本主義国家を戦わせ、どちらも疲弊させ、漁夫の利≠得る。この戦略に基づき、欧州表面ではドイツと英仏を戦わせ、米国を巻き込む」ことを企てます。
また極東地域においては、「極東革命にどうしても叩き潰さなければならないのは、日本と(米英がバックにいる)蒋介石政権だ。日本と蒋介石軍を嚙合わせると米・英が必ず出てくる。その方向に誘導する。そうするとシナ大陸と南方米英植民地で日、蒋介石、米、英が血みどろの死闘を演ずるだろう。へとへとに疲れた時に一挙に兵を進め、襟首を取ってとどめを刺す。あとは中共を中心に極東革命を前進すればいい」と企みます。
その後の歴史はまさに彼らの陰謀通りになりますが、その第1段階として、1935年、「ファシズム反対」「帝国主義反対」のスローガンを掲げ、社会主義勢力も味方につけました。
その次には、後の「ポツダム宣言」において、第2時世界大戦を「デモクラシー対ファシズムの戦い」と位置付けたように、自らをデモクラシー勢力として“隠蔽”し、連合国の仲間入りをします。
他方、日本においては、有識者、マスコミ、官僚、軍部を巧妙に操り、無謀な戦争に駆り立て、我が国を自己崩壊する方向に誘導するよう企てます。この際、できるだけ合法的に食い込み、内部から切り崩すことを考えたといわれます。
特に、陸軍の存在に注目します。陸軍は、大部分が貧農と小市民、将校も中産階級出身で反ブルジョア的、しかも国体問題ではコチコチの天皇主義者なので、この点をうまくごまかせば十分利用価値があると判断したのでした。
その上、“天皇制廃止”の主張を止め、「天皇制と社会主義は両立する」との思い切った戦術転換を敢行、「天皇を戴いた社会主義国家を建設する」という理論を確立しました。「戦争反対」などともけっして言わず、「戦争好きの軍部をおだてて全面戦争に追い込み、国力を徹底的に消耗させる。このあとに敗戦革命を展開する」という大胆な戦略だったのです。
前述の近衛声明と共産主義者たちの活動とはどのような関係にあったのか、などについては次回以降に振り返ってみましょう。
世界に拡散した「東亜新秩序」声明
共産主義者がいかに暗躍したか
さて、三田村武夫氏が『戦争と共産主義』の中で指摘した、戦前の共産主義者達の具体的な活動について、後々のために振り返っておきましょう。
時は前後しますが、近衛文麿は、終戦間際の昭和20年2月、上奏文を天皇に提出します。有名な「近衛上奏文」です。その概要は次の通りです。
「過去10年間、日本政治の最高責任者として軍部、官僚、右翼、左翼、多方面にわたって交友を持ってきた自分が反省して到達した結論は、軍部、官僚の共産主義的革新論とこれを背後よりあやつった左翼分子の暗躍によって、日本は今や共産革命に向かって急速度に進行しつつあり、この軍部、官僚の革新論の背後に潜める共産主義革命への意図を十分看取することができなかったのは、自分の不明の致すところである」。
まさに、“時すでに遅し”でしたが、自分が革命主義者のロボットとして踊らされたことを告白したのでした。この“不明の致すところ”が国家の命運を狂わしたのですから、近衛個人の人生を反省するのとはわけが違うのです。
三田村氏の指摘では、共産主義者達の具体的な暗躍は次の通りです。第1には「尾崎・ゾルゲ事件」(昭和16年から17年)に代表されるように、近衛の側近としてコミンテルン本部要員のゾルゲや生粋の共産主義者の尾崎秀実が活動し、国の舵取りに決定的な発言と指導的な役割を果たしてきたことです。
第2には、「企画院事件」(昭和14年から16年)に代表されるように、革新官僚が経済統制の実験を握り、“戦時国策“の名において「資本主義的自由経済思想は反戦思想だ」「営利主義は利敵行為だ」と主張し、統制法規を乱発して、全経済機構を半身不随の動脈硬化に追い込んだことです。コミンテルンの上からの指示に従い、革新官僚が背後より操った結果といわれます。
第3には、「昭和研究会」の存在です。「昭和研究会」は、昭和11年に「新しい政治、経済の理論を研究し、革新的な国策を推進する」ことを目的とした近衛の私的ブレーンの集まりでした。メンバーは尾崎秀実を中心とした一連のコミュニストと企画院グループの革新官僚などによって構成されていました。近衛新体制の生みの親といわれた「大政翼賛会」創設の推進力になったといわれ、その思想の理念的裏付けはマルクス主義を基底としたものでした。
そして第4には、軍部内に食い込んだ謀略活動です。「支那事変」の中途から、転向共産主義者が召集将校として採用され、大東亜共栄圏の理念に飛躍していったといわれます。三田村氏は「大東亜共栄圏の理念はコミンテルンの理念と表裏一体であり、我が国を完全なる全体主義国家に変遷せしめた」と指摘しております。
そして「政治にも思想にもはたまた経済にもほとんど無知な軍人が、サーベルの威力により付焼刃的な理念を政治行動に移して強行し、自己陶酔に陥った時、策謀に乗せられるのは当然の帰結」と指摘しています。
さらには、名のある政治家、官僚、学者・有識者、経済人、マスコミ関係者など多数が関係していたことも判明しています。その一部は戦後、見事に“転向”して各界の要職についております。
いずれも後から判明するのですが、「支那事変」から「日米戦争」にかけて我が国が迷走した背後に、このような共産主義者達の暗躍があり、それらの活動を抜きに真実の歴史の解明は不可能との認識のもと、あえて取り上げてみました。
当時、これらの暗躍を近衛首相は見抜けないまま、「蒋介石を対手にせず」とか「東亜新秩序」の声明発表になり、やがては、いわゆる“南進論”に発展していきます。この“一連の動き”を引き続き振り返ってみましょう。
「東亜新秩序」声明とその影響
1938(昭和13)年11月、近衛内閣は「東亜新秩序」声明を発表したことは述べました。この声明は、日中戦争の目的をそれまでの「中国側の排日行為に対する自衛行動」としてきたことから、「日本、満州、中国による東亜新秩序の建設にある」と新たな目的を設定したことを意味し、中国の領土保全や門戸開放を定めたワシントン体制下の「9ケ国条約」を事実上否定するものでした。
その3年前の1935年、ナチス・ドイツは、「ヴェルサイユ条約」を破棄して再軍備を宣言します。翌36年には、西ヨーロッパの安全保障を取り決めた「ロカルノ条約」を破棄してラインラントに進駐します。同じ頃、イタリアもエチオピアを併合するなど、ヨーロッパの緊張が激化してきます。
このような欧州情勢から、「英・米など列強諸国は東アジアに本格的に介入できないだろう」と判断した結果、「東亜新秩序」声明に至ったといわれます。しかも、本声明の基本的な考え方は、ヴェルサイユ体制打破をかかげるナチス・ドイツの「ヨーロッパ新秩序」のスローガンを習ったものでした。
しかし、予想に反して、この「東亜新秩序」声明は、重慶国民政府はもちろん、米・英両国から猛反発を受けます。アメリカは、4000万ドルの対中借款を決定し、イギリスも1000万ポンドの中国通貨安定基金を設定、500万ポンド(2300万ドル)の政府保証を与えます。つまり米・英ともに、本声明を機に財政的な中国支援に踏み出すことになります。
ソ連もまた、1937年8月、「中ソ不可侵条約」を締結し、約1億ドルの借款を中国に与え、各種兵器や軍需物資を供給する一方、翌39年には1億5千万ドルの対中援助契約を結びます。
一方、「東亜新秩序」声明直前の1938年8月、ドイツから、ソ連のみならず英・仏も対象とする「日独伊3国同盟」の提示があります。ドイツは、従来の親中国政策を軌道修正して、満州国の承認、中国への武器・軍需品の輸出禁止など、対日提携強化に方針を転換したのです。
ドイツは、対日接近によって対ソ連に備えるとともに、アジアに広大な植民地と勢力圏を持つイギリスを背後から牽制する役割を日本に期待したのです。ちなみに、イタリアも1937年に満州国を承認し、日独伊協定に加わるとともに国際連盟を脱退します。
これに対して、我が国(特に陸軍)は、ドイツとは“ソ連のみを対象とした”同盟を結び、イタリアとは“イギリスを牽制するために秘密協定”に留めると考えていましたが、ドイツは、あくまで英・仏・ソを対象にした軍事同盟を要望します。陸軍は対ソ牽制のために同盟そのものが不成立になることを恐れ、結局ドイツ案を受け入れます。
しかし、外務省や海軍などは英・仏を対象とする同盟に強く反対して、翌39年1月、この問題の閣内対立によって近衛内閣は総辞職してしまいます。
後継の平沼騏一郎内閣も「日本が同盟に躊躇するなら、ドイツはソ連と不可侵条約を結ぶ」と警告されます。こうして、同年5月、日独伊の軍事同盟が調印されますが、依然として外務省や海軍の同意が得られず、閣議は紛叫します。
冒頭に述べましたように、「東亜新秩序」の発案者が、各国の思惑が交錯してこのような展開になることを企図していたとすれば、ものすごい謀略だと脱帽しますが、このような中、「ノモンハン事件」が発生します。続きは次号で。  
 
青年将校が立ち上がった『二・二六事件』の原因

 

『二・二六事件』とは? 青年将校の掲げた昭和維新
今から約80年前の1936年2月26日、陸軍の青年将校等が兵約1,500名を率い大規模なクーデターを断行しました。それが『二・二六事件』です。このとき高橋是清(たかはしこれきよ)、斎藤実(さいとうまこと)など首相経験者を含む重臣4名、警察官5名が犠牲になりました。事件後に開かれた軍法会議では、「非公開、弁護士なし、一審のみ」で、刑が確定しました。主謀者の青年将校ら19名(20〜30代)を中心に死刑となり、刑はすぐに執行されました。この事件の背景にはいったい何があったのでしょうか。
実は、事件の起こる6年前、金輸出解禁と世界恐慌により、日本は深刻な不景気(昭和恐慌)に見舞われました。企業は次々と倒産し、町は失業者であふれました。さらに農村でも農作物価格が下落し、都市の失業者が農山村に戻ったこともあり、農民の生活は大変苦しく(農村恐慌)、自分の娘を女郎屋に身売りする家もたくさん出てきました。
こうしたなか、当時の政党内閣は適切な対応をとらず、また汚職事件が続発しました。また不景気のなか、巨大な資本を用いて財閥だけが肥え太る状況が生まれました。このため、人びとは政党に失望し、財閥を憎み、満州事変などによって大陸に勢力を広げる軍部(とくに陸軍)に期待するようになりました。こうした国民の支持を背景に、軍部や軍に所属する青年将校たちが力をもち、右翼と協力して国家の革新を目指すようになります。
実際、過激な計画や事件が続発していきます。クーデターによる軍部内閣の樹立を計画する陸軍青年将校を中心とする桜会、現役の犬養毅(いぬかいつよし)首相を暗殺(五・一五事件)した海軍青年将校、一人一殺を標榜して財界人を殺害する右翼の血盟団などです。ちなみに、当時の陸軍には「統制派」(とうせいは)と「皇道派」(こうどうは)という2つの派閥がありました。「統制派」は、陸軍の中枢の高官が中心になった派閥です。彼らは政府や経済に介入し、軍部よりに政府を変えていこうと考えています。これに対して「皇道派」は、天皇親政を目指し、そのためには武力行使などを辞さない一派です。両派の対立は、「統制派」が勝利します。ところが1935年、「皇道派」を締め出した「統制派」のリーダーである永田鉄山(ながたてつざん)軍務局長を、「皇道派」の相沢三郎(あいざわさぶろう)中佐が斬殺する『相沢事件』などがおきました。これに、「皇道派」は大いに力を得て翌年、クーデターを決行したのです。青年将校は天皇を中心とした新しい政治体制を築く『昭和維新』を掲げ、国内の状況を改善し、政治家と財閥の癒着の解消や不況の打破などを主張しました。
時の陸軍大臣も、「おまえたちの気持ちはよくわかる」といった訓示を出すなどして、事件を起こした青年将校の要求に沿うように見えましたが、思いもかけぬ誤算だったのは、「皇道派」が最も崇敬していた昭和天皇(しょうわてんのう)は、彼らを「賊徒」(ぞくと・政府に対する反逆者)と見なしたことでした。自分の重臣たちを殺されたことに、昭和天皇は激怒し、自ら早急な鎮圧を陸軍大臣に指示しました。
天皇が自ら軍に指示したことは極めて異例なことでした。しかし、同士討ちを避けたい陸軍は、武力で反乱を鎮圧するのをためらいました。すると天皇は、「私が自ら軍を率いて平定する」とまで明言したといいます。ここにおいて、軍も本格的に動き出しました。アドバルーンをあげたり、ラジオ放送などによって、永田町一帯を陣取る反乱軍へ原隊への帰還を求めました。その結果、将校たちも観念して兵たちを原隊へと帰らせました。将校の二人は武力行使の責任をとって自決しましたが、その他の将校たちはこれらを「統制派」の陰謀と考え、『五・一五事件』、『相沢事件』と同じく、裁判闘争に訴えようと自決をやめ、宇田川町(現在の東京都渋谷区)の『陸軍刑務所』に収監されました。
「排除」は解決にならない『二・二六事件』後の処刑に学ぶ
『二・二六事件』のあと、首謀者であった軍の将校をはじめ多くの人が死刑となりました。また、民間右翼・北一輝(きたいっき)らがこの事件に深く関与しているとして死刑になりました。1993年に、それまでないとされていた裁判記録が一部公開され、人々により、さらに研究が進むと思われます。
岡田啓介(おかだけいすけ)首相に代わって、新しく内閣総理大臣となった広田弘毅(ひろたこうき)首相は『思想犯保護観察法』を成立させます。この法律は「危険思想によって罪を犯した人物が、再び犯罪を起こさないように監視する」というものです。『二・二六事件』で武力行使を起こした将校たちを意識した法律であることは誰の目から見ても明らかで、これ以降、思想行動の監視が強化されます。また、陸軍の実権を握った「統制派」は、広田弘毅が組閣する際、さまざまな口をはさみ、さらに『軍部大臣現役武官制』が復活し、軍の了解なくして内閣が存続できないようにしました。このように『二・二六事件』をへて、ますます軍部の政府に対する力は強まっていったのです。
この事件が教えてくれるのは「排除では何も変わらない」ということ、暴力などによる政治の改変はいけないことだということです。
自分の思っていることや考えが伝わらないのは辛いことです。この時代の悲劇もありますが、自分の意見を聞いてくれない相手を排除したとしても、聞いてほしいところにその意見が伝わるわけではありません。一切聞く耳を持たなくなってしまう可能性もあります。
誰かに自分の意見を届けたいと思ったら、邪魔な相手を排除するのではなく、別のやり方を考え、意見を届けることを諦めずに実行していくことです。そうすればいずれ、その人の目に留まるようになるでしょう。 
 
2.26事件は「上司に恵まれない部下」の悲劇だ

 

未遂に終わったクーデター
昭和11年を迎えた東京は、例年よりも雪の日が多く、特に2月25日の夜半から翌26日にかけては激しい吹雪で、30年ぶりとなる大雪が観測されるほどでした。
その悪天候の中で、完全武装をした複数の部隊が、東京の中心にあたる永田町の官庁街各所に、「夜間演習」と称して展開していました。
やがて部隊は、夜明け前の午前5時を合図に、首相官邸をはじめとする政府要人の邸宅と、警視庁をはじめとする主要官庁、朝日新聞社などを、突如として襲撃します。世に言う「二・二六事件」は、こうして幕を開けました。
当初の発表では、海軍出身の岡田啓介首相を含む関係閣僚の多数が死傷したことが報じられ(後に首相は無事が判明)、世間を大きく驚かせました。
事件の首謀者である陸軍の「青年将校」たちは、当時の停滞を続ける日本社会の現状を打開・打破すべく決起に踏み切ったものの、結局、クーデターは未遂に終わり、わずか数日であっけなくついえます。
この失敗の要因を探ると、「さほど能力のない上司に翻弄される、恵まれない部下が陥る悲劇」という、現代の私たちも共感したくなるような現実が垣間見えてきます。
今回は「二・二六事件」をテーマに、その経過と陸軍皇道派の青年将校がその派閥のトップから受けた考えられない仕打ちについて解説します。
青年将校はなぜ決起したのか
Q1. 二・二六事件とは何ですか?
1936年(昭和11年)2月26日から29日にかけて、陸軍の青年将校らが起こしたクーデター事件です。
陸軍の「皇道派」に属する青年将校らは、東京の近衛歩兵第3連隊などの部隊を率い、首相官邸や政府要人宅を襲撃。海軍出身の斎藤実内大臣、高橋是清大蔵大臣、陸軍トップ3の教育総監である渡辺錠太郎陸軍大将らを惨殺し、ほかにも海軍出身の鈴木貫太郎侍従長(終戦時の首相)が重傷など、多数の死傷者が出ました。
部隊は、国会議事堂を中心とする官庁街(永田町、三宅坂一帯)で警視庁を含む諸官庁を占拠。東京は一時、戒厳令下に置かれます。
しかしその後、騒ぎはわずか4日で鎮圧されました。
Q2. 陸軍の「皇道派」とは何ですか?
当時あった「陸軍内の派閥のひとつ」です。
天皇親政や極端な精神主義を唱え、クーデターを画策するなど、急進的な思想行動を実践することを持論としていました。事件の前年、「皇道派」の相沢中佐が、陸軍省内で永田鉄山軍務局長(「統制派」といわれた)を殺害する事件を起こしているのは、その一例です。
これと対立する「統制派」は、政党・財閥・官僚機構と協調して政治統制を進めるという考えでした。
Q3. 皇道派の「青年将校たちの目的」は何だったのですか?
大きく2つあります。
(1)国内外の経済危機を招き、国を滅ぼそうとする「元凶」と彼らがみなした政財界の要人を実力で排除し、自分たちの理想とする天皇中心の新政府を樹立して、国家改造を実現すること。
(2)そのころ台頭していたもう1つの陸軍派閥「統制派」から実権を取り返すこと。
「統制派」は当時、徐々に陸軍内部の人事権を掌握し、「皇道派」の重鎮たちを重要ポストから更迭していました。(2)こそが「決起の最大の目的」だったと思われます。
Q4. 一般市民の「事件への反応」は?
意外に冷静でした。事件の当日、異変を察した周辺住民の多くが、大雪にもかかわらず興味本位で決起部隊のやじ馬見物に足を運んだほどでした。
また、一部誤報もありましたが、翌日には新聞各紙が詳細を報じており、事件現場となった永田町周辺住民に出されていた避難命令も、クーデターが鎮圧された29日に即日解除され、東京は日常を取り戻しました。
Q5.「クーデター計画のシナリオ」は完璧だったのですか?
はじめの段階では、ほぼ予定どおりに計画は遂行されました。
彼らは政府要人を襲い、首相官邸や陸軍省、参謀本部、国会議事堂といった主要官庁や一部のマスコミを制圧しました。ここまでの過程をみれば、一連の行為は紛れもなく「クーデター」そのものです。
ところが、この計画は「重大な欠陥」がすぐに露呈するのです。
ズバリ、クーデター計画の「最大の欠陥」は、実行犯である青年将校らが頼りにしようとした「皇道派」の上官の将軍たちに、期待したような力がなかったことです。
「上の都合」で汚名を着せられるハメに
Q6. 決起した青年将校らも、その次の行動については「上官の将軍たち任せ」だったのですか?
そうなのです。決起した青年将校らは、「自分たちの役割はあくまで現政府を破壊し、政治の混乱を招くこと」と考えており、実際のシナリオもそこまでで終わりでした。
決起に際しての声明文(趣意書)でも、「『統制派』要人の罷免」と「『皇道派』の抜擢」のほかは、陸軍大臣に向けて「この混乱の収拾と自分たちの意図する新政府の実現に努めるよう要求」するのみで、具体性に欠けています。
そして、「ここから先は皇道派の将軍たちに実行してもらう」というあいまいな内容でした。
Q7. なぜ彼らは、自分たちで新政府を立ち上げなかったのですか?
「はじめから、そのつもりがなかった」からです。
現政府を倒し、政治の混乱を招いたあと、その先の新政府樹立に向けた具体的な行動については、彼らの「上司」である皇道派上層部の幕僚が、自分たちの決起に呼応して、暗黙のうちに引き継いでくれるものと考えていました。趣意書の内容にもその点がよく表れています。
Q8. ということは、事件は「青年将校と上層部の共謀」だった?
そのあたりは非常にグレーゾーンで、種々の記録をみても判然としません。
表向きには両者はあくまで無関係を装いつつ、青年将校らは日頃の接触から「自分たちの決起を上層部は暗に期待している」という確信を得ていたようです。
現に事件後すぐには、陸軍内の「皇道派」上層部がさも機に乗じる姿勢で、クーデター部隊を「蹶起(けっき)部隊」と呼び、趣旨に理解をみせたりもしました。最初の1日は、クーデター部隊に有利な展開もあったのです。
Q9. でも、上層部の将軍たちは立ち上がらなかった、と。
はい。最終的には立ち上がりませんでした。
同じ「皇道派」でも「青年将校と上層部」の間には若干の温度差がありました。そして決定的だったのは、このとき頼みとする「皇道派」上層の将軍たちには、青年将校らが考えるほどの陸軍を動かす力がなかったのです。
青年将校は、この「思い違い」に気づかぬまま、計画がまだ不完全ながらも、「上層部頼み」で計画を実行に移してしまったのです。
Q10. なぜ計画が不完全ながらも、決起したのですか?
「統制派」が掌握した陸軍本省によって、当時「皇道派」の中心とみられた東京の第1師団を3月に満州に派遣することが急きょ、決まったからです。
そのため青年将校らは決起を焦り、計画がまだ不完全なままクーデターを実行。肝心の詰めの部分は計画しないままの中途半端な行動になってしまいました。
なお、彼らに率いられた1400人もの将兵は、下士官、兵のほとんどが出動に際して内容を何も知らされていませんでした。
「天皇の一言」でいっきに鎮圧へ
Q11. 最終的に「決起」が失敗に終わったのは、なぜですか?
最大のポイントは、対応に煮え切らない陸軍に対して天皇が激怒し、「朕(ちん)自ら近衛師団を率いて鎮圧に乗り出す」とまで発言したことです。さらに、海軍も鎮圧に強い意向を示しました。
はじめはクーデター部隊にも理解を示していた陸軍上層部も、天皇の理解が得られないとみると、突如として、手のひらを返します。
「蹶起部隊」「行動隊」と呼んでいた青年将校らを「反乱軍」「叛徒(はんと)」と呼び、戦車を含めた総計2万4000人もの包囲軍を組織して、自らも鎮圧する側に回ってしまったのです。
クーデターの成功を待っていた青年将校は、思わぬ形で上司にはしごを外され、さらには「逆賊の汚名」まで着せられて、完全に孤立してしまいました。
Q12.「海軍」も鎮圧部隊を出したのですか?
すぐに鎮圧の意向を示し、横須賀から戦艦「長門」をはじめ40隻の軍艦をお台場沖に展開させ、さらに陸戦隊を芝浦に上陸させました。
海軍側は、殺害された斎藤内大臣や重傷を負った鈴木侍従長、殺害されたとされて後に存命がわかった岡田首相らの重臣が海軍の出身者だったことから、海軍に対する陸軍のクーデターとも考えたのです。
昭和天皇の記録をみると、このときの海軍側の鎮圧の対応を天皇が評価している記述があります。
実際には砲撃は行われなかったものの、お台場沖の軍艦の大砲の照準は、国会議事堂に定められていたといわれます。
2月29日朝、甲府や佐倉から派遣された鎮圧部隊に完全包囲され、いまや反乱軍となった部隊に向けて、投降を呼びかけるビラが投じられました。その中の一文「一、今カラデモ遅クナイカラ原隊ヘ帰レ」の「今からでも遅くない」は、後に流行語となります。
これをきっかけに、続々と投降が相次いだため、青年将校もついに計画を断念。わずか4日で決起は終息しました。
それでも、多くの青年将校らは自決せず、裁判で自分たちの正義を広く世間に主張するつもりでした。
しかし、4月28日から開廷された裁判は「一審制」「上告なし」「非公開」「弁護人なし」というもので、7月5日に中心となった将校ら17人に死刑判決が下り、1週間後にはほとんどの者に刑が執行されました。「皇道派」の思想的支柱人物とされた民間人の北一輝らも、1年後に処刑されました。
一方、「皇道派」の上層部は、法的な処罰はほぼ受けませんでした。ただし、この事件によって「皇道派」は失脚し、青年将校らが排除しようとしていた「統制派」が軍の中枢をさらに強固に掌握していきます。
そして、「粛軍」の名の下に反対勢力を一掃。「事件の遠因は政財界にある」と政府にも責任を追及し、軍の意のままになる政治体制が次第に固められて、日本は戦争への道を突き進んでいきました。
歴史を知ると、「日本型組織の問題点」が見えてくる
2014年2月25日の毎日新聞は一面トップで、千葉県習志野市の旧酒屋の倉から「二・二六事件当日の憲兵隊幹部による『機密日誌』が発見された」と報じました。緊張の4日間、「反乱部隊」と「鎮圧側」両方の生々しい実態が、憲兵隊幹部の手でひそかに残されていたのです。
このように、二・二六事件はまだまだ不明な部分の多い昭和の事件です。
現在の日本では、武力によるクーデターなど想像もつかないかもしれません。しかし、二・二六事件はいまからわずか81年前、実際に日本の首都・東京で起きた出来事です。
そのとき、日本はなぜこのような事態を引き起こす状態にまで陥ったのか。当時の歴史をあらためて学び直すことは、「日本人とは何か」「日本型組織の問題点は何か」を考えるための最良の材料になるはずです。
日本史は「人間と組織」を考えるための教訓に満ちています。ぜひ、二・二六事件を「深く」知ることで、現在の平和な時代のありがたみと同時に、「日本と日本人に潜む危うさ」を実感してみてください。 
 
「クーデター」2・26事件を経験した若者達の「それぞれの回想」

 

戦後50周年をきっかけに、多くの元零戦搭乗員を取材してきた神立氏。その中には、戦前の日本の歴史転換点となった二・二六事件の現場に居合わせた者がいた。海軍兵学校、予科練の学生だった者は、クーデター制圧軍として、また、より若かった世代は、現場に隣接する旧制中学の生徒として。のちに、零戦搭乗員として太平洋戦争の最前線で戦うことになる若者たちは、そこで何を感じ、何を思ったのか。
わずか5キロ離れたら、誰も事件を知らなかった
昭和11(1936)年2月26日水曜日、「皇道派」と呼ばれる陸軍の一部青年将校が「昭和維新」を号し、1500名近い下士官兵を動かして首相官邸や重臣、新聞社などを襲い、高橋是清大蔵大臣、斎藤実内大臣、渡辺錠太郎陸軍教育総監らを惨殺、鈴木貫太郎侍従長に重傷を負わせる叛乱事件が起きた。
岡田啓介総理大臣は、義弟の松尾伝蔵陸軍大佐が身代わりになって危うく難を逃れたが、日本の憲政史上にかつてない規模のクーデターであった。二・二六事件と呼ばれる。
襲撃を受けた重臣のうち、岡田総理、斎藤内大臣、鈴木侍従長はいずれも元海軍大将で、岡田総理は事件後、内閣総辞職により辞任するが、のちに太平洋戦争が始まると、戦争の早期終結、東條英機内閣の倒閣運動に奔走、鈴木侍従長は事件から9年後の昭和20(1945)年、総理大臣となり、太平洋戦争の幕を引く大役を果たしている。
事件から82年もの歳月が過ぎ、いまや当時のことを記憶する人も少なくなったが、私は20数年にわたり、元零戦搭乗員を中心に、かつての海軍関係者のべ数百名を取材するなかで、この事件についての興味深いエピソードや論評をいくつか聞いてきた。そこでここでは、そんな二・二六事件にまつわる語られざる余話を紹介したい。
中央気象台(現・気象庁)の観測記録によると、事件に先立つ2月22日、関東地方は、南岸低気圧の接近で、まれに見るほどの大雪に見舞われていた。2月23日の東京の積雪量は、観測史上第3位の36センチと記録されている。事件が起きたのは、その雪がまだ解けずに残る26日早朝のことだった。
叛乱軍による重臣への襲撃が終わったあと、朝8時頃からまたも雪が降り始め、翌朝までにさらに7センチの積雪が記録されている。横須賀にあった海軍士官御用達の料亭「小松」(2016年、火災で焼失)の創業者で、当時87歳だった山本小松さんが、事件の一報を聞き、
「横須賀で雪が二尺も積もるなんて滅多にないことで、なにかありゃしないかと思ってたんです。私が11歳の頃、井伊掃部頭様が桜田門外の変で殺されたときも、やっぱり大雪でしたし……」
と回想し、昔からの馴染み客だった岡田総理、斎藤内大臣、鈴木侍従長の安否を気遣ったとの話が、旧海軍関係者の間で伝えられている。昭和11年は「桜田門外の変」から76年、幕末当時のことを憶えている人がまだ存命だったのだ。
元零戦搭乗員の小野清紀(きよみち)さん(97)は、旧制九段中学2年生のとき、思わぬ形で二・二六事件に遭遇した。
雪の積もった朝、東京市小石川区(現・東京都文京区)音羽の護国寺の門前にあった自宅を出て、市電に乗って九段下に着くと、軍人会館(戦後・九段会館。東日本大震災で被災し2011年廃業)の前に高く土嚢が積まれ、重機関銃が目白通りを睨んでいたという。
「ものものしい雰囲気ですが、誰もなにも言わないので学校に向かって九段の坂を上がっていくと、坂の途中、靖国神社の大鳥居の正面にあった偕行社(陸軍将校の集会、社交施設)前には、カーキ色に塗られた陸軍の乗用車がずらりと並び、それぞれのフロントガラスに、『陸軍大臣』『軍事参議官』などと書かれた紙が貼ってありました」
1時間目の授業は通常通り行われたが、2時間目の途中、学校に突然、憲兵がやってきて、ほどなく生徒たちに帰宅が命じられる。そのとき初めて、陸軍の一部叛乱部隊によるクーデターが起きたことが生徒たちにも伝えられた。
「学校を出て、市電に乗ろうとふたたび九段の坂を下りると、靖国通りは当時としてはめずらしく交通渋滞になって、自動車が列をなしていました。市電も、一部路線は迂回させられたものらしく、九段近辺では何両もの電車が溜まっていましたね。ようやく市電に乗って、昼頃、音羽に帰ると、自宅あたりではこの日の騒ぎのことをまだ誰も知らず、いつも通りの日常生活でした」
いまでいえば、地下鉄有楽町線護国寺駅から、江戸川橋、飯田橋、ここで東西線に乗り換えれば一駅で九段下だから、存外に近い距離である。わずか5キロ先の九段下では土嚢が積まれ、兵が機関銃を構えて警備にあたっているのに、音羽の住民がそれを知らなかったというのは、現代の感覚からすれば不思議な気がする。
それだけ情報の伝達が遅い時代だったのだ。翌27日未明、戒厳令が敷かれると、軍人会館に戒厳司令部がおかれた。
小野さんは、のち、慶應義塾大学に進み、昭和18(1943)9月、海軍飛行予備学生(13期)を志願。猛訓練を経て零戦搭乗員となり、茨城県の谷田部海軍航空隊で特攻隊要員の海軍中尉として終戦を迎える。戦後は海上自衛隊に入り、対潜哨戒機のパイロット。退官後は全日空で教官を務めた。
「陸軍が馬鹿なことをやりやがって」
陸軍上層部のなかに叛乱軍に同情的な者がいたこともあって、陸軍はこの事件に対し当初は煮え切らない態度だったのに対し、海軍上層部の姿勢は始めから「蹶起反対」の線ではっきりしていて、場合によっては陸軍と一戦も辞せずの構えであった。
東京湾に回航した聯合艦隊旗艦・戦艦「長門」は40センチ主砲の照準を国会議事堂に合わせていたし、横須賀鎮守府管下の各部隊とも、叛乱軍鎮圧のため陸戦隊を出動させる準備を整えていた。このとき、横須賀鎮守府司令長官だったのは米内光政中将(のち大将、終戦時の海軍大臣)、参謀長は井上成美少将(のち大将)で、このコンビも、岡田総理、鈴木侍従長と同様、のちに太平洋戦争の終戦工作に大きな役割を果たすことになる。
二・二六事件の前年、昭和10(1935)に海軍兵学校を卒業(62期)して、オーストラリアへの遠洋航海から帰ったばかりの少尉候補生たちも、各術科学校で講習を受けているさいに事件に遭遇、それぞれ小隊長として陸戦隊を率い、陸軍に備える任務を与えられている。
砲術学校で講習中だった四元淑雄少尉候補生も、機銃小隊長を命ぜられ、霞ヶ関の海軍省2階テラスに機銃を据えて警備にあたった。
「陸軍が馬鹿なことをやりやがって。海軍省にちょっとでも手を出したらただではおかないからな」
と思いながら任務にあたったと、四元少尉候補生、のちの海軍戦闘機隊指揮官・志賀淑雄少佐は筆者のインタビューに答えている。志賀さんは軍艦乗組を経て飛行学生となり、戦闘機搭乗員として中国大陸上空で戦うことになるが、このときも、
「日本海軍の仮想敵はアメリカ海軍で、中国空軍は本来の相手じゃない。陸軍の始めたこんな戦争で、どうして部下を死なせなきゃいけないんだ」
という疑問はつねに抱いていたという。
志賀さんは昭和16年12月8日、空母「加賀」戦闘機分隊長として零戦隊を率い真珠湾攻撃に参加、その後、空母「隼鷹」に転じて数々の戦闘をくぐり抜け、さらにテストパイロットとして新鋭機「紫電改」を実用化。手塩にかけた「紫電改」で編成された第三四三海軍航空隊の飛行長として終戦を迎えた。
戦後は、占領軍が天皇を処刑するなどの不測の事態に備え、皇族の子弟を九州にかくまうという、南北朝時代さながらの「皇統護持」秘密作戦に任じたのち、警察装備を扱うメーカーの社長となる。
政治を牛耳る「君側の肝」をのぞき、天皇親政による新政府を樹立、政財界の腐敗を一掃して農村の困窮を解消しようと考えた叛乱軍将校たちの思いとはうらはらに、事件を知った昭和天皇は激怒し、陸軍もようやく重い腰を上げて鎮圧に向かうことになった。
叛乱軍に対する冷ややかな見方は、志賀さんだけでなく、私が会ったほとんどの元海軍士官に共通していた。海軍兵学校で志賀さんの一期後輩(63期)、同じく零戦隊指揮官として戦い、戦後は郷里の群馬県上野村村長として、村内の御巣鷹の尾根で起きた日航ジャンボ機墜落事故のさいには地元自治体の首長として救難活動にあたった黒澤丈夫少佐は、
「陸軍の叛乱将校みたいな、なにも知らない馬鹿が政治を牛耳ろうとするとダメだね。海軍が全部正しかったとは言わないが、若い頃に遠洋航海を通して外国をこの目で見ているだけに、陸軍よりは国力の差を客観的に見ていたと思いますよ」と容赦ない。
太平洋戦争後期、補給の途絶えたソロモン諸島で、飢餓と風土病の絶望的な戦場で陸戦隊を率いて戦い、戦後は東大法学部を経て弁護士になった前田茂大尉(海軍兵学校69期)も、二・二六事件を評して、
「軍人の無知による視野狭窄がもたらした悲劇。重臣を殺せばよくなるほど、世のなかは単純なものではない。いま思えば、昭和の軍人には世界観が欠けていました。自分たちだけが愛国者で、自分たちほど国を憂える者はいない、考えに沿わない人間はみな非国民だなんて、そんなふうに考えるようになっちゃおしまいですよ」と語っている。
軍の兵力を私兵化して重臣を殺した「青年将校」たちの行動について、どんな時代であれ、法治国家で、当時の立憲君主が任命した重臣たちを、天皇の股肱(主君の手足となって働く、もっとも信頼できる臣下)であるはずの、また国民の負託を受けて国を守るべきはずの軍人が、兵を率いて殺すようなことが許されるはずがない。
なかでも岡田総理、鈴木侍従長という「和平派」の二人がここで落命していれば、太平洋戦争の結末はさらに悲劇的なものになったかもしれない。幕末に勝海舟が語ったと伝えられる、
「憂国の士という連中がいて、彼らが国を亡ぼす」という言葉が、現実のことになりかねなかったのだ。
あれが成功していれば……
しかし、元海軍軍人でも、農村出身者のなかには、元零戦搭乗員・角田和男中尉のように、疲弊した農村での生活実態から、2月26日のクーデターを主導した陸軍青年将校たちを支持していたという人もいて、実生活に裏打ちされたそんな観方は尊重せねばならないと思う。「支持する層も一定数いた」のも、偽らざる事実だからだ。
事件当時、予科練習生として横須賀海軍航空隊にいた角田さんは、陸軍蹶起部隊(支持する立場の人は叛乱軍とは言わない)の討伐に出動を命じられそうになったとき、何人かの同期生と一緒に隊を飛び出し、陸軍に合流しようと密かに計画していたという。
日本全国から選抜されたエリートであった海軍兵学校に比べ、貧しい農村出身者も少なくなかった予科練では、政財界の腐敗を一掃して農村の困窮を解消しようと考えた叛乱軍将校たちにシンパシーを抱く者もいたのだ。
角田さんものちに戦闘機搭乗員となり、中国大陸上空からラバウル、硫黄島、フィリピン、台湾と転戦、誰よりも激しく戦い、奇跡的に生き残った。戦後は開拓農民となり、亡き戦友たちの慰霊に生涯を捧げた。
「終戦後のある日、GHQの占領政策を聞かされて驚きました。財閥解体、農地解放――二・二六事件で、青年将校が目指していたことと同じじゃないかと。私は貧しい農家の生まれですから、二・二六をいまでも支持しています。あれが成功して、農村の生活が楽になっていたら、満州事変だけで、それ以降の戦争はしなくてすんだと思うんです。
いかにもああいう人たちが戦争の導火線になったように言われていますが、全然違うと思います。それで、彼らがやろうとしていたことをアメリカがやってくれて、これは一体どうなってるんだ、と思いました。俺たちはなんのために戦争してたんだろうと思って、心底がっかりしましたよ」
ところで私は、二・二六事件で命を狙われた総理大臣・岡田啓介海軍大将の次男、岡田貞寛主計少佐とも何度かお会いしたことがある。
事件当時、18歳の海軍経理学校生徒だった岡田さんには、『父と私の二・二六事件』(単行本・講談社1989/02、文庫・光人社NF文庫 1998/01)という名著がある。家族、しかも海軍に籍を置いた息子の目から見た事件の模様、真相は、まさに余人では語り得ない。その文章たるや、じつに明瞭にして品があり、読み応えがある。
岡田さんは、限られた仲間内ではよく随筆を書いていたりもしたが、あまり自分の体験や考えを世に出すことを好まない人だった。
『父と私の二・二六事件』は、単行本も文庫本も、現在絶版、あるいは品切れ状態で、古本しか入手手段がないのが残念だが、昭和史の一端を知る上でぜひ一読を薦めたい。
戦後半世紀が経った頃、ある慰霊祭で、角田和男さんと岡田貞寛さんが同席したことがあった。角田さんは、
「かつて、本気で殺そうと思った総理大臣の息子さんですからね。つい昔のことが頭をよぎり、挨拶の言葉に困りました」と、率直に私に語ってくれた。本心だと思う。岡田さんも角田さんも、いまやこの世にない。これも、歴史のひとコマだろう。 
 
「二・二六事件」85年目の真実 青年将校「父母への手紙」

 

昭和11(1936)年2月26日に帝都東京で起きた「二・二六事件」――。「反乱軍」を率いた青年将校らはその後死刑判決を受け、同年7月12日、陸軍刑務所内で処刑された。命日にあたる今年7月12日、青年将校らが眠る麻布・賢崇寺では、事件で殺害された犠牲者の冥福を祈り、処刑された青年将校らを悼む85回忌法要が営まれた。
二・二六事件当時、1500人近い陸軍将兵からなる「反乱軍」は、4日間にわたって赤坂・三宅坂一帯を占拠した。しかし、速やかな原隊復帰を命じる昭和天皇の「奉勅命令」が出され、各部隊ともに帰順するに至る。
閏日(うるうび)の2月29日土曜日(奇しくも閏年の今年と同じ曜日のめぐり合わせ)、部隊を率いていた青年将校らは、建設中の国会議事堂の前にあった陸相官邸に集められた。そして、自決した野中四郎、河野寿両大尉らを除く全員が渋谷(宇田川町)にあった陸軍刑務所に護送・収容された。その後、将校らに対する処罰は、短期間に国民の目の届かないところで決められた。
翌3月1日には緊急勅令が出され、3月4日に東京陸軍軍法会議が特設される。しかし、当初から弁護人は付けられず、将校らの発言も制限され、一審制で上告も許されなかった。のちに「暗黒裁判」とも評された審理は非公開で、わずか1か月半で結審となり、事件から約4か月後の7月5日には死刑判決が言い渡された。新聞報道は翌々日で、それから5日後の7月12日日曜日、陸軍刑務所内で刑が執行されたのだった。
これに先立つ同種のテロ事件――昭和7(1932)年の「血盟団事件」や「五・一五事件」、昭和10年の「相沢事件」では、裁判も公開され、新聞報道もなされていた。たとえば、犬養毅総理大臣を暗殺した五・一五事件の裁判では、首謀した海軍将校らに対して最高で「禁固15年」の判決が言い渡されたが、それは事件から約1年半後のことだった。また、法廷での彼らの陳述はたびたび新聞で報じられたため、多くの国民が、青年将校らには私心がなく、悪政の元凶である政党や財閥、特権階級を打破し困窮する農民や労働者を救おうと意図していたと知ることになり、減刑を嘆願する動きすらあったという。
そのような“義憤”は、二・二六事件を引き起こした陸軍将校らにも通じるものだった。しかし、1500人近くの兵を動かして帝都の中心部を占拠し、斎藤実内大臣、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎陸軍教育総監など20人近い死傷者を出した未曾有のクーデター未遂を起こした将校らに対する昭和天皇の怒りと危機感も、過去に例のないものだった。それが、異例の厳しい処罰へとつながっていく。
判決が言い渡される7月5日を前に、将校の家族のもとに急遽、面会を許可する連絡が入った。犠牲になった渡辺教育総監の評伝『渡辺錠太郎伝』(岩井秀一郎著)によれば、渡辺邸襲撃を指揮した青年将校の一人、安田優(ゆたか)少尉(当時24歳/熊本県天草出身)も、最後に家族との面会が許されたという。
同書には、安田少尉の弟・善三郎氏の次のような証言が収録されている。
「父は、その年の5月ごろから東京に出て待機していたんですが、ある日、天草の実家に『7月5日に面会さし許す』という電報が届きました。後からわかりましたが、その日に判決が言い渡されることになっていたんです。そこで、今度は天草から東京の父宛にそれを電報で伝えなくてはいけない。村では電報を取り扱う郵便局がなかったので、急いで隣村まで電報を打ちに行きました。そうしたら、その1週間後の7月12日に今度は東京の父から『優、従容(しょうよう)として死す』という電報が天草に届いた。母ももちろん覚悟はしていたようですが、それを目にしてまた泣き崩れました」
父母に仕送りを続けた青年将校
同書には、安田少尉が事件に至るまでに実家に書き送った手紙が多数紹介されている。それを読むと、「クーデター」を企図し、「反乱軍」の一部を指揮した軍人とは思えない、一人の純粋な青年将校の素顔が見えてくる。
たとえば、二・二六事件の4か月前にあたる昭和10年10月には、両親あての手紙の中で、陸軍将校向けの生命保険(3000円=現在の価値にしておよそ600万円相当と推測)に加入したことを報告している。しばらくは結婚するつもりもないため、その保険の受取人を当時まだ幼かった妹(三女・久恵)にしたと明かし、続く11月の書簡では、翌月から実家あてに毎月10円ずつ仕送りすると書かれている。
〈拝呈仕り候[中略]/尚 今般参千円の生命保険に加入 受取人は妹久恵に致し置き候間御含み下され度候/是十四五年の間は 結婚する考も無之候えば久恵にて宜しかる可く候/二三年間に戦争等勃発仕り候折は勿論の事にて三十年にて満期とか 最も確実なる偕行社の将校保険に候[中略]/父母上様/(昭和十年十月二十日)〉
〈拝呈 砲工学校入校のために出京 姉の家に落ち付きました/旅費の関係で帰省しませぬ 年末には一寸暇がありますが帰省を見合せて金でも送りましょう/十二月からは一月に十円必ず送りますから今迄は悪しからず[中略]/父母上様/(昭和十年十一月十日)〉
さらに、事件の一か月半前には、実家を離れた妹(次女・土の)の代わりに女中を雇うようにと父親に提案し、その費用は自分が負担すると明言している。
〈謹呈 益々御清栄の事と存じます 土のが本渡町に行った間 手が足らなくて御困りでしょう/年に五六十円出したら女中がやとえるでしょうから 金は私が出しますからたのんで下さい[中略]/父上様/(昭和十一年一月十一日)〉
これらの書簡を読んでいると、一家の大黒柱として、まだ幼い弟妹も含めて安田家を支えていこうとする若きエリート将校の姿が浮かび上がってくる。ここからは、未曾有の軍事クーデターに身を投じようとしていた気配など微塵も感じられない。それでも、安田少尉は引き返せない道へ踏みだした。
7月12日朝の処刑5分前の記録に、次のような言葉が残されている。
〈我を愛せむより国を愛するの至誠に殉ず〉
このエピソードを紹介した『渡辺錠太郎伝』の著者・岩井氏は、こう解説する。
「安田少尉が処刑前日に書き残した遺書には、家計が苦しいにもかかわらず故郷を離れて勉学を修めることを許してくれた両親への感謝と謝罪の思いが綴られています。それでも、『国家の更生』のために蹶起せざるを得なかった。そこには、二・二六事件を首謀した青年将校の多くが抱いていた、疲弊する地方の農村や窮乏する庶民を救いたいという思いがあったことがわかります。
財閥・政治家が私利私欲を満たし、元老や軍閥、政党、役人が権力を恣(ほしいまま)にしている。理不尽な日本を天皇陛下の親政の下で『更生』させなくてはならない――そんな正義感が彼らを突き動かしていたのだと思います」
かたや五・一五事件を引き起こした海軍将校は、その義憤を法廷の場で訴えることができ国民からも同情を受けたが、二・二六事件の陸軍将校らに弁明の機会が与えられることはなかった。もちろん、彼らが多くの要人・警察官を殺傷した罪は重い。それでも、責任をとるべき軍首脳が無罪とされた一方で、“実行犯”の彼らだけを急いで処罰したという印象は否めず、それ以前のテロ事件と比べても公正な裁判が行なわれなかったことは明らかだろう。その意味でも、やはり二・二六事件は日本の大きな転換点だったといえる。
安田優少尉の生命保険証券は、今も弟・善三郎氏の手元にある。刑死だったためか、その保険金が支払われることはなかった。 
 
立憲政治の危機

 

1 政党内閣の終焉
政党内閣は、外交政策や経済政策の行き詰まり、政争の過熱などから急速に支持を失った。昭和6(1931)年の満洲事変勃発後、政党内閣が軍部の独走を抑制できず、翌年5.15事件で犬養首相が暗殺されると、政党内閣の時代は終焉を迎えた。支持を回復するため政党は議会改革に動く。しかし、それとは裏腹に政党内閣に憲法上の理論的根拠を与えた天皇機関説が批判を浴びるなど、政党政治の復活は遠のいていった。
1-1 満洲事変
昭和6(1931)年9月18日夜半、奉天(現在の瀋陽)郊外にある柳条湖で満鉄線路が爆破された。これは満洲(中国東北部)への武力進攻を計画していた関東軍将校による謀略であった。元老西園寺公望の秘書である原田熊雄は、事変を知った若槻礼次郎首相の動揺、またその後の内閣、宮中などの動静を克明に記している。内閣は直ちに事変の不拡大方針を決めたが、関東軍の進攻は拡大を続けた。事態の打開を企図した民政党と野党政友会の「協力内閣」構想は、思惑が交錯してかえって政局の紛糾を招いた。その結果若槻内閣は瓦解し、幣原喜重郎外相による協調外交は挫折した。翌年日本は関東軍の樹立した傀儡国家「満洲国」を承認し、昭和8(1933)年国際連盟を脱退、国際社会の中で孤立を深めていった。
1-2 5.15事件
昭和7(1932)年5月15日、犬養毅首相が海軍青年将校らに暗殺された。非常時を担うべき後継首班の選定は難航する。5月19日に上京した元老西園寺公望のもとに、鈴木貫太郎侍従長から天皇の後継内閣に関する希望が告げられた。その要点を書き留めたものがこの史料である。首相は人格の立派な者、協力内閣か単独内閣かは問わない、ファッショに近い者は絶対に不可、などの内容が記されている。5月22日、西園寺は海軍大将の斎藤実を次期首相として奏請し、官僚出身者を中心として二大政党の代表を加えた挙国一致内閣が組織された。以後政党内閣は、戦後に至るまで復活することはなかった。
1-3 議会改革の動き
昭和6(1931)年の第59回議会で、幣原喜重郎臨時首相代理の失言に端を発した大乱闘事件が起こった。さらに同年の満洲事変がもたらした政情不安で、議会政治への不信が高まっていた。翌年斎藤実による挙国一致内閣が誕生すると、議会は強い危機感を抱き、各政党が協力して自ら議会改革に動いた。
衆議院では、秋田清議長の主導により同年6月から議会振粛各派委員会で協議が進められ、7月15日に同委員会で「議会振粛要綱」が決定された。これは議会の品位向上に加え、議長・副議長の地位向上や、常置委員会設置などによる議会の機能拡充・権限強化を盛り込んだ画期的な改革案であった。しかし、同要綱に伴う議院法改正案は、衆議院各会派の共同提案として3回にわたって議会に提出されたものの、いずれも貴族院で審議未了となり実現しなかった。
一方貴族院では、この間に衆議院と同様の積極的な議論は見られなかった。大正末期の護憲三派内閣による貴族院改革以来、華族議員の削減や職能代表制の導入などが課題に挙げられてきたものの、散発的な動きに留まっていた。昭和13(1938)年に、第1次近衛内閣が議会制度審議会を設置したが、これも両院改革の実現には繋がらなかった。
1-4 天皇機関説問題
天皇機関説(国家法人説)は、明治憲法体制を法的に説明する理論として広く認知されていた。昭和10(1935)年2月18日、貴族院本会議で菊池武夫が、憲法学者美濃部達吉らの著作を挙げて天皇機関説を排撃した。これに対して貴族院議員でもあった美濃部が、2月25日に貴族院本会議で「一身上の弁明」を行ったことを契機に、国家主義団体などが天皇機関説排撃のキャンペーンを展開した。軍部や在郷軍人会、さらに倒閣を目論む政友会もこの動きに加わり、排撃運動は激化した。
陸軍教育総監の真崎甚三郎は、林銑十郎陸相が、美濃部説は承認できず、学説としても消失を希望するが、その処置については他の関係と共に慎重に考究する、と述べたことを3月12日の備忘録に記している。この問題が単なる学説論争を超えて、様々な思惑の絡む政治問題に発展していたことが窺われる。
排撃運動には、一木喜徳郎枢密院議長の辞職要求などにより、宮中グループをはじめとする現状維持勢力を打倒する目論見もあった。政府は、4月に美濃部の著書『憲法撮要』などの発売頒布禁止処分・改版修正処分を決定し、岡田啓介首相が天皇機関説を否定する「国体明徴声明」を8月と10月の2度にわたって出すことで事態を沈静化させたが、これにより明治憲法下における立憲主義の統治理念が公然と否定されることとなった。
2 軍部の台頭
凋落を続ける政党に対して、発言力を増大させていったのは軍部であった。特に昭和11(1936)年の2.26事件と軍部大臣現役武官制の復活は、軍部の政治的影響力の増大を象徴するできごとであった。後者は、軍部の政治的発言権を保証する手段として利用され、軍部の意向に反する宇垣内閣の成立を阻止するまでにいたった。昭和12(1937)年には日華事変が勃発し、政府が軍部をコントロールできぬまま泥沼化していった。
2-1 陸軍内の派閥対立
昭和9(1934)年11月20日、村中孝次大尉・磯部浅一一等主計ら青年将校と陸軍士官学校の士官候補生が、クーデター未遂の容疑で拘束された。村中・磯部は、士官学校事件(11月事件)と呼ばれるこの事件を、皇道派の中心である荒木貞夫軍事参議官・真崎甚三郎教育総監・林銑十郎陸相を陥れようとした片倉衷少佐、辻政信大尉ら統制派の策謀であるとして獄中から誣告罪で訴えた。陸軍刑法の叛乱罪では不起訴となったものの、村中らは停職、士官候補生は退校処分となった。昭和10年7月、荒木・真崎の党派人事に批判を強めていた林が、陸軍内の反皇道派や重臣グループの支持の下、真崎を教育総監辞任に追い込んだ。
この史料は、出獄後、停職中の村中・磯部が士官学校事件やそれ以前のクーデター未遂事件を暴露した「怪文書」である。これにより村中・磯部は免官となったが、「怪文書」流布の影響は大きく、皇道派系の相沢三郎中佐による、統制派の中心人物である永田鉄山陸軍軍務局長の暗殺に繋がった。さらに村中・磯部は、他の急進的な青年将校と共に2.26事件を引き起こすこととなる。
2-2 選挙粛正運動
岡田啓介挙国一致内閣のもとで、昭和10(1935)年5月に選挙粛正委員会令が公布されて各都道府県に同委員会が設置され、6月には民間の教化団体を組織した選挙粛正中央聯盟が結成された。この選挙粛正運動は、選挙の不正行為防止や「公正な選挙観念」の普及を目的とした内務省主導の官民合同運動であり、パンフレット配布、講演、ラジオなどによる啓蒙活動や、各地域での懇談会などが実施された。これは後に国民精神総動員運動・翼賛選挙へ繋がる下地となる。
また、同年8月27日に婦人運動団体により選挙粛正婦人聯合会が結成され、会長に吉岡弥生(東京聯合婦人会代表)、書記に市川房枝(婦選団体聯合委員会代表)を選出、中央聯盟へ加入し、女性も選挙粛正運動に積極的に参加した。しかし、これは選挙権を持つ男性へ働きかける「内助の力」を期待されたもので、婦人参政権獲得へ結びつくものではなかった。選挙権をはじめとする女性の権利獲得を目指していた女性運動家達も、国策協力への大きな流れに吸収されていったのである。
2-3 2.26事件
昭和11(1936)年2月26日未明、急進的な陸軍青年将校が所属部隊から約1,400人の兵を率いて首相官邸等を襲撃し、内大臣斎藤実・蔵相高橋是清・陸軍教育総監渡辺錠太郎らを殺害、政治・軍事の中枢である永田町・三宅坂一帯を占拠した。
この史料は、同日に宮中で開かれた非公式の軍事参議官会議で、決起将校達に同情的な荒木貞夫・真崎甚三郎などにより鎮撫・原隊復帰を目的として作成され、決起将校達に伝達されたものであるが、途中で字句が変わるなど、混乱を招いた。事態は決起将校達に一時的に有利に動くように見えたが、天皇が断固たる討伐の意思を示して事態は一転鎮圧へと向かい、29日に終息した。
事件に対する処分は厳しく、反乱将校及び彼らに思想的影響を与えた北一輝・西田税は死刑となり、その後の粛軍人事で皇道派などの将官多数が予備役に編入され、統制派が実権を握った。また、クーデターの恐怖が政界に影を落とし、軍部の発言力がさらに増すこととなった。
2-4 宇垣内閣流産
昭和12(1937)年1月23日に広田弘毅内閣が総辞職すると、25日未明に、組閣の大命が宇垣一成陸軍大将に下った。宇垣は満を持して組閣に臨んだが、陸軍の反発は予想を超えていた。参謀本部の石原莞爾大佐らが中心となって、宇垣の3月事件(クーデター未遂事件)関与の嫌疑や、政党・財閥との深い関係から庶政一新に不適当、などを理由に宇垣の首相就任を拒否し、陸軍三長官会議では次の陸相を推挙しないことに決した。広田内閣で復活した軍部大臣現役武官制が壁となり、陸相を得られない宇垣は、天皇の優諚を請うことまで考えたが果たせず、29日に大命を拝辞した。
宇垣は「大命拝辞の上奏控」で、「組閣の大命か陛下の陸軍に依りて阻止せらるることは痛恨の極」とし、組閣を断念した経緯を述べている。また、側近の林弥三吉中将は、同日新聞記者に対し、軍による組閣阻止を「違勅ではないか」と批判する談話を発表したが、この談話の記事は掲載禁止となった。2月2日に陸軍の推す林銑十郎大将が首相となったが、軍部大臣現役武官制はこの後も倒閣の手段となって、軍部の政治的発言力を強化した。
3 政党の解消と翼賛政治
第2次世界大戦の勃発とドイツの優勢は、日本とドイツとの提携の機運を高めた。国内では近衛文麿の新体制運動が盛り上がりを見せ、昭和15(1940)年に各政党は解党し、大政翼賛会が成立する。翼賛政治体制に批判的な議員もいたが、以後終戦まで、議会は戦争遂行に協力する機関となった。
3-1 無産政党の変質
全国労農大衆党と社会民衆党は、いずれも反ファッショを掲げる無産政党であったが、昭和6(1931)年9月の満洲事変を契機に、党内に急進的な国家社会主義派が台頭した。その危機を回避するため、翌年7月に両党は合同し、単一の合法無産政党である社会大衆党が誕生する。しかし、党指導部には資本主義を打倒し、国内改革を断行する主体として軍部青年将校らに期待する人物も含まれており、党勢はしだいに国家社会主義へと傾いていった。
昭和11(1936)年・12年の総選挙では、「反ファッショ」への国民の期待もあり、社会大衆党は37議席へ躍進した。しかし、これに自信を得た党指導部は、かえって軍部への接近を早めた。
この流れを決定付けたのが、昭和12(1937)年7月の盧溝橋事件による日中戦争(日華事変)の開始であった。社会大衆党は戦争を積極的に支持し、同年11月の党大会では党の綱領を改正して、国体の本義に基づき日本国民の進歩発達をはかることとし、公然と挙国一致体制への参加を表明した。
3-2 反軍演説
昭和15(1940)年2月2日の衆議院本会議で代表質問に立った民政党の斎藤隆夫は、日中戦争(日華事変)の処理につき米内光政首相を追及した。斎藤は、昭和13年末に当時の近衛文麿首相が表明した処理方針の持つ欺まん性を厳しく批判し、政府が樹立工作を進める汪兆銘政権の統治能力に疑義を呈しながら、「唯徒に聖戦の美名に隠れ国民的犠牲を閑却し」、国際正義・道義外交・共存共栄など雲を掴むような文字を列べ立てて国家百年の大計を誤ってはならない、と演説したのである。
これに陸軍などが憤慨したため、小山松寿衆議院議長が職権で議事速記録から斎藤演説の後半部分を削除した。懲罰委員会に付された斎藤は、周囲からの議員辞職勧告に対して、「憲法の保障する言論自由の議会」での演説に対する速記録削除や自らの論旨を曲解した非難がもとで辞めるのは、「国民に対して忠なる所以ではない」と拒否した。しかし3月7日の本会議で斎藤の除名処分が議決された。
3-3 近衛新党
斎藤隆夫の反軍演説を契機に各政党の有志議員が聖戦貫徹議員聯盟を結成し、政党の解消・一大強力政党の結成を主張した。また、昭和14(1939)年9月に勃発した第2次世界大戦で、昭和15年4月からのドイツの電撃作戦が成功して欧州情勢が激変したことは、日本に衝撃を与えた。そこで、新たに強力な指導体制を構築すべく、近衛文麿を党首とする新党の樹立運動が活発化する。
近衛の側近である有馬頼寧は同年6月4日の日記に、近衛の意思も大体定まった様に思われたと記しており、同日夜に、近衛は記者会見で新党構想を語った。さらに6月24日、近衛が枢密院議長を辞職して新体制運動に邁進することを表明したのを受けて、各政党は競って解党に向かった。7月に社会大衆党、立憲政友会久原派、同統一派、国民同盟、政友会中島派が、8月には、第一議員倶楽部、立憲民政党が解党した。しかし、10月に結成された大政翼賛会は国民運動の実行推進機関にとどまり、「一大強力政党」は実現しなかった。
3-4 大政翼賛会
昭和15(1940)年7月22日に第2次近衛文麿内閣が成立し、8月28日からの新体制準備会で国民運動の実行・指導・推進を担う組織の具体案が審議され、10月12日に大政翼賛会が発足した。総裁は首相が兼任し、国民を大政翼賛運動に組織すべく、中央本部、道府県・市町村の支部、そして中央・地方に協力会議を設けることが定められた。しかし、「革新派」に加えて旧政党など既成勢力をも抱合する「呉越同舟」の組織のため運営は難航し、「大政翼賛会実践要綱」が発表されたのは、発足から約2ヶ月も後であった。さらに、同会は「近衛幕府」「違憲」との批判や、地方の組織化を担当していた内務官僚からの反発などにより、翌年2月に公事結社と認定されて政治活動を禁止された。同会は内務省主導の行政補助機関へと改組され、「一大強力政党」実現を目指した「近衛新体制運動」は挫折した。
3-5 日米開戦
次第に緊迫の度を増してきた日米間の外交交渉は、昭和16(1941)年4月より政府間交渉へと移行していたが、日本は7月2日の御前会議の決定により、同月下旬、南部仏印へ進駐を開始した。これに対し米国は、在米日本資産凍結や対日石油全面禁輸等の報復措置をとり、日米交渉は行き詰まりをみせた。近衛首相は有田元外相宛書翰の中で、「仏印進駐は日米交渉に影響なし」という軍部の見込みが誤っていたことを、吐露している。
一方、昭和14(1939)年に外務省を退官した吉田茂は、対米関係の悪化を憂慮して、牧野伸顕、近衛文麿、木戸幸一などの重臣間を奔走していた。しかし日米交渉は進展を見せず、昭和16(1941)年11月26日、米国はハル・ノートを日本側へ手交、これを実質的な最後通牒と受け取った日本は12月1日の御前会議で開戦を決定した。吉田は岳父の牧野に宛てた書翰で、東郷茂徳外相が部下に「最早倒閣以外に開戦を阻止する方法なし」と語ったことを伝えた。
3-6 翼賛政治会
昭和17(1942)年4月30日に実施された翼賛選挙では、翼賛政治体制協議会から推薦を受けた候補の当選が全体の8割以上を占めた。一方、翼賛政治体制に批判的な議員は前年、同交会を結成し鳩山一郎、安藤正純等が非推薦で当選した。選挙後、東条内閣は政界、財界、言論界などを結集した単一の政治結社の結成を企図し、5月20日、翼賛政治会が創立された。これに先立ち衆議院内の各会派は解散に追い込まれ、ほとんどの議員が翼賛政治会に加入することとなった。
3-7 翼賛体制
戦時体制の進展は、女性に対する動員強化を目的とした、既成の婦人団体の統制、再編にも及んだ。昭和17(1942)年2月、愛国婦人会、大日本国防婦人会、大日本連合婦人会などが統合して大日本婦人会が発足し、同年5月には大政翼賛会に加盟した。20歳未満の未婚者を除く全婦人が加入させられ、会員数は1年間で1,900万人に達したが、本部事務局幹部は男性が占めるところとなった。昭和18(1943)年度には、会の指導運営の4大綱として、戦場精神の昂揚、必勝生活の確立、生産増強、軍事援護が掲げられ、婦人総蹶起申合が決議された。
3-8 小磯内閣(政務官の復活)
戦局の悪化にともない、岡田啓介、近衛文麿、木戸幸一らの重臣グループや、議会内の反東条派による東条内閣倒閣の動きが活発となった。内閣改造に失敗した東条内閣は、昭和19(1944)年7月18日ついに総辞職し、朝鮮総督の小磯国昭に組閣の大命が下った。「民意暢達」を掲げ、議会内の勢力との提携を重視した小磯内閣は、第2次近衛内閣によって廃止された政務官制度の復活を図り、衆議院、貴族院合わせて24名が、政務次官・参与官の任に就いた。翼賛政治会の安藤(旧同交会)は日記の中で、人事をめぐる猟官運動による議会内の混乱を痛烈に批判している。
3-9 終戦工作
昭和19(1944)年8月末、小磯内閣の米内光政海相のもとで、井上成美海軍次官より終戦工作の密命を受けた高木惣吉は、海軍省教育局長の職を辞し、重臣・陸海軍人・皇族等の間を頻繁に往復しながら情報の収集、調整に奔走した。
昭和20(1945)年4月7日、鈴木貫太郎内閣が成立。戦局の悪化の中で、ソ連を仲介とした和平交渉等を模索する一方で、「国体護持」を至上命題とする上層部は、7月26日に米英中三国から示されたポツダム宣言を「黙殺」した。翌月、2度にわたる原爆投下、ソ連の参戦を経て、8月14日の御前会議はポツダム宣言の受諾を決定。15日の終戦を迎えた。
4 戦時下の日本
総力戦へ対応するため、昭和13(1938)年国家総動員法が公布され、国民も大政翼賛会や大日本産業報国会などに組織化されて戦時体制への協力を求められた。一方、戦争の長期化による物資の不足は人々の生活を圧迫した。戦争末期には日本本土も爆撃対象となり、甚大な被害がもたらされた。
4-1 銃後の生活
「時局防空必携」は、太平洋戦争開戦当時、各省、企画院、防衛総司令部により作成され各家庭に配布された小冊子である。家庭、隣組、学校、工場等での空襲に対する備えや火災への対処法などが記されている。一方、扇子は、昭和7(1932)年10月に設立された大日本国防婦人会の記念品である。大日本国防婦人会は、満洲事変への出征兵士の送迎を機に結成された大阪国防婦人会をその前身として、かっぽう着にたすきの出で立ちで「国防は台所から」をスローガンに、軍部の指導のもと家庭婦人、労働婦人を中心に国防献金、廃品回収、献納運動等を通じて組織を拡大した。昭和17(1942)年大日本婦人会へ統合された時点で、会員数は1,000万に達していた。
4-2 国家総動員
昭和12(1937)年10月、第一次近衛内閣のもとで資源局と企画庁が統合され企画院が設置された。企画院は戦時の統制経済を推進する機関として物的・人的資源を動員するため、生産力拡充計画や国民動員計画等を作成した。特に柏原兵太郎が部長を務めた第2部は、開戦前後の物資動員計画の立案を担ったが、戦局の悪化にしたがい海上輸送力は低下し、当初計画は次第に後退を余儀なくされた。
昭和19年度物動計画大綱を策定した直後の昭和18(1943)年11月、行政機構の改革により企画院の業務の大部分は軍需省へと吸収されることとなったが、重要国策の企画事務は内閣参事官室に継承され、昭和19年11月、内閣総理大臣直属の総合計画局が設置された。
4-3 国会議事堂の被弾
昭和20(1945)年に入ると、B29爆撃機による日本本土への空襲は激しさを増し、東京は3月10日未明の大空襲に引き続き、5月25日夜から翌日未明にかけて、再び市街地への大空襲を受けた。当時の衆議院書記官長大木操の日記には、被弾した議事堂の消火に努める様子や、閣僚とその家族などが避難してくる模様が記されている。
一方、マリアナ諸島を基地として、爆撃を実行した米国第20航空軍の第21爆撃軍団が作成した報告書には、当日の天候、飛行ルート、爆撃目標と被害状況さらに投下爆弾の種類や量などの詳細なデータが記述されている。作戦任務報告書を含む戦略爆撃調査団(USSBS)文書は、当時の各地の空襲の実態を把握するためには、重要な基礎資料となっている。
4-4 戦況の悪化
昭和20(1945)年に入ると、米軍は日本本土への空襲を増すとともに、「伝単」と呼ばれた宣伝ビラや、ハワイ・マニラで作製した日本語の新聞なども空から投下するようになった。文面は、日本国民の厭戦気分を煽ったり戦況の不利を周知させるようなもの、さらに次なる爆撃目標の予告などである。
同年8月6日の広島および9日の長崎への原爆投下は、甚大な被害をもたらした。また8日にはソ連の参戦もあり、日本は8月14日ポツダム宣言を受諾し、終戦を迎えた。掲出の地図2点は、戦後、経済安定本部が実施した戦争被害調査の関連資料の中に、含まれていたものである。広島、長崎の各々の爆心地を中心とした物的被害状況が記されている。
伊東巳代治の国連脱退反対運動
昭和8(1933)年2月24日、国際連盟総会は満洲における日本の特殊権益を認める一方、同地方の主権は中国にあるとする対日勧告を採択した。それは「千九百三十一年九月前ノ原状ヘノ単ナル復帰ヲ定ムルモノニ非ズ」とされたが、日本は前年九月、日満議定書により満洲国を正式承認していたので落とし所を見出すのは困難だった。この問題は前年12月9日、十九ヶ国委員会に付託されていたが、委員会の段階で日本の劣勢が明らかになっていたことから、1月下旬になると国連脱退の主張が各界で頻りに唱えられるようになった。それは朝野、左右を問わず、ほとんど国を挙げての現象と化したが、その中にあって独り国連脱退に異を唱えた人物がいた。
それは帝国憲法の起草者の一人で伊藤博文の懐刀として聞えた伊東巳代治である。伊東は明治32(1899)年以来、枢密院に蟠居し、政党内閣期には「内閣の鬼門」として恐れられた。金融恐慌救済緊急勅令問題では第1次若槻内閣を倒し、不戦条約問題では田中内閣を倒壊寸前まで追い詰めた伊東はロンドン条約問題で浜口内閣に一敗地に塗れてからは鳴りをひそめていたが、今ここに脱退反対に立ち上がったのである。伊東は2月6日夜のラジオで十九ヶ国委員会の審議が満洲国の不承認で固まったことを聴き、憂慮のために寝つけなかった。9日、伊東は来訪した二上兵治枢密院書記官長に「脱退の危険なる事并に其理由なきこと」を内閣に伝えるよう求めた。二上は大正5年以来、枢密院書記官長を務め、「枢密院の主(ぬし)」とも「枢密院の癌」とも言われた人物である。ここから伊東の活動が始まり、10日には政友会の望月圭介、11日には国家主義者の杉山茂丸(作家夢野久作の父)、12日には政友会代議士の西岡竹次郎、13日には東京日日新聞社副社長の岡実(政治学者岡義武の父)、実業家の山下亀三郎、14日には政友会の岡崎邦輔(陸奥宗光の従弟)に外交の失敗を痛罵し、潜水艦の急造など軍備の拡張を主張している。伊東は満洲国の承認そのものに反対していたのではなく、日本の国際的孤立がもたらす軍事的危機を憂慮していたのである。
ここまでは政府の外交失策への批判だったが、14日に来訪した貴族院議員の石塚英蔵に牧野伸顕内大臣に対して「一朝の怒に乗して聯盟を脱するの不可なる所以」を忠告せよと依頼したあたりから国連脱退反対運動が本格化する。同じ日には来訪した外交官の吉田茂に「英国に頼りて一箇年の猶予を求むへきこと」を内田外相に伝えよと求めている。イギリスは在華権益を守るために日本との妥協を模索しており、伊東はここに期待をかけたのであろう。15日には旧友でライバルでもある枢密顧問官の金子堅太郎と会い、金子に栗野慎一郎・黒田長成の両顧問官に国連脱退反対を働きかけるよう勧説した。伊東は原嘉道・元田肇の両顧問官には自分が接触すると述べている。16日、山下の取り次ぎで海軍大臣の大角岑生が来訪したので、伊東は国連脱退は南洋委任統治領を失うことになるとして反対を説いた。大角は、国連に1年の猶予を求めよとの伊東の提議については熱河作戦が始まろうとしているので覚束無いと答えた。伊東は大角に進退を賭して脱退に反対するよう勧告した。17日には貴族院議員の児玉秀雄(源太郎の長男)、民政党の俵孫一に入説し、児玉は翌日、斎藤実首相に伊東の意向を伝達した。
18日、岡が大角の内意を伝えに来訪した。大角は自分一人が一身を賭しても国内を紛擾させるだけなので、伊東の注意に背くことになるかも知れないと言って来た。要するに反対は出来ないということである。海軍の反対に期待をかけていた伊東はかなり失望した。19日、荒木貞夫陸軍大臣が来たので、伊東は外交的には遷延策をとって、その間に中国の譲歩を引き出すべきだったことや潜水艦の急造などの持論を展開した。伊東は近く開始される熱河作戦について触れ、さらに問題が起きるので国連からの全権引揚げや脱退は不得策で軽挙だと説いた。荒木からは特段の意見はなかったようだ。実質的に賛同しなかったのだろう。
伊東の狙いは枢密院だけでなく、政官界の有力者に広く働きかけることで潜在している脱退反対論に点火し、最終決定の鍵を握る唯一の元老西園寺公望の意思形成に影響を与えることだったらしい。伊東の反対論はあくまで国連に留まって主張を貫くことが日本の国益にかなうというもので、二上が「硬軟ノ別ナラ却テ非脱退説ノ方ガ硬論ト云フコトカ出来ル」(「倉富勇三郎日記」昭和8年2月15日条)と評するように、決して「協調外交」「親英米論」の立場をとるものではなかった。
20日、伊東はラジオで西園寺が「内閣の提唱に一もなく雷同したる様子」を聴いた。「上下挙って聯盟の態度に憤懣の余り自制する所を知らす、一に脱退論に邁進しつゝあり」と判断した伊東は、自分はすでに首相・陸海相に忠告したので「今後一切此問題に触れさる覚悟を為すに至れり」と、脱退反対運動を諦め、この問題に背を向けたのである。誇り高い伊東は政治的なプライドが勝ち目の薄い抗争で傷つくのを嫌ったのであろう。半世紀に及ぶ政治生活で伊東が放った最後の淡い光茫であった。
5 新日本の建設
5-1 終戦の解放感
吉田が外務省の後輩である来栖三郎にあてた書翰で、原田熊雄宛書翰に同封されたもの。絵葉書4枚にわたって書かれている。終戦について「遂に来るものか来候」と述べつつ、軍国主義から脱却した日本は「政界明朗国民道義昂揚」となり、また外交も一新され、科学の振興や米資本招致により財界も立ち直るのならば、「此敗戦必らすしも悪からす」と、未曾有の事態を非常に楽観的に捉えている。一方、軍部や憲兵に対しては「今はザマを見ろと些か溜飲を下け居候」と積年の感情をあらわにしており、終戦が吉田に与えた解放感のあふれた文章となっている。
5-2 戦争責任
「大東亜戦争ヲ不利ナル終結ニ導キタル原因並ニ其責任ノ所在ヲ明カニスルタメ政府ノ執ルベキ措置ニ関スル質問」
この原稿は敗戦後初めての議会である、帝国議会第88臨時議会(昭和20(1945)年9月4・5日開催)に芦田均が提出した質問主意書の原稿である。
日本の敗戦の原因を、日本が世界から孤立するに至った経緯や、開戦準備や戦争指導、総力戦体制(生産増強、人的資源活用)などの戦争遂行体制確立の不充分さなどの観点から指摘し、敗戦責任の所在を明らかにするための政府の措置について、鋭く追及している。当時、議会は大日本政治会に統制されたままであったため、議場での質問は封じられ、書面による提出にとどめられた。
質問書に対し翌日送付されてきた政府の答弁は、「戦争遂行上各方面に互り組織、施策等に幾多遺憾の点あり」「政府は過去の経験を以て将来に対する誡めとなし今後の施策に万全を期したき所存」という表面的なものにとどまっていた。これを受け芦田は、「誠意の認められない答弁」であり、「呆然として云うところを知らなかった」と、戦争責任の所在を曖昧にしたままで国民に国家再建を呼びかけることの不条理を述べている。また、自身の戦争責任については、「責任を感じないのではない」としつつも、「率直に云ってあれ以上にどうすることもできなかった」と振り返っている。
5-3 占領と改革の開始
終戦とともに、日本は連合国軍の占領下に置かれ、非軍事化・民主化への改革が始まったが、占領統治方針の策定作業はそれ以前から本格化していた。間接統治、皇室存続など占領政策の前提や、武装解除、思想信条を取り締まる法律の廃止や変更、政治犯の釈放など諸改革の方針となる、「初期対日方針」は、日本本土進攻を目前に控えた 昭和20(1945)年4月、米国務省がその作成に着手した。
国務省が作成した原案は、国務・陸・海軍三省調整委員会(SWNCC)の極東小委員会を経て、6月11日にSWNCCに提出された。7月末に発表されたポツダム宣言を受け、直接軍政の規定が修正され、さらに、陸軍省・統合参謀本部による修正を取り入れた上で、8月31日のSWNCC会議で承認された。9月6日に大統領の承認を得た後、22日「降伏後における米国の初期対日方針」(SWNCC150/4/A)として国務省が発表、日本では24日付けで各紙に報道された。
また、10月4日には、GHQは日本政府に「政治的・民事的・宗教的自由に対する制限の撤廃に関する覚書」(SCAPIN93)、いわゆる「人権指令」を発令した。この指令で、天皇制討議の自由化、治安維持法・思想犯保護観察法など15の法令の廃止、政治犯の釈放等が命じられた。 
 
仏印進駐

 

第二次世界大戦下におけるフランス領インドシナ(仏領印度支那)への日本軍の進駐のことを指す。1940年の北部仏印進駐と、1941年の南部仏印進駐に分けられる。南部仏印進駐は日米関係の決定的な決裂をもたらした、太平洋戦争への回帰不能点であると評されている。仏印作戦とも。
   北部仏印進駐
1940年9月、日本が援蒋ルート遮断と南進を目的に行った、フランス領インドシナ(仏印、現ベトナム)北部への進駐のこと。日独伊三国同盟締結を前後して、日本は本国がドイツの支配下に置かれた仏印、蘭印への進出を強め、仏ヴィシー政権との交渉で北部仏印へ軍隊の進駐を認めさせた。進駐目的は、援蒋ルート(蒋介石に対する米英仏などの物資援助ルート)遮断による日中戦争解決の促進と、南方進出の足がかりにしたい思惑があった。また、同時期に日本が行った華南での作戦とも関係して北部仏印進駐が計画された。一方、日中戦争解決と南進という、異なった目的が併存したまま進駐が行われたことで、目的の差から日本陸海軍間や、軍と外務省との間で対立が発生。現地出張中の参謀本部作戦部長が進駐を強行したことで、一部で日仏間の武力衝突も発生した。他方、アメリカは日本への警戒を強めて、航空機燃料の対日禁輸を行ったため日米関係は悪化した。
   南部仏印進駐
1941年7月、日本が行ったフランス領インドシナ(仏印、現ベトナム)南部への進駐のこと。これに反発した米英蘭は対日経済制裁を強化した。日中戦争や北部仏印進駐などにより、日本は米英との関係が悪化。衝突回避のために日米交渉が開始された。こうした中、第二次世界大戦は拡大し、独ソ戦が勃発。日本の政策は、ドイツに呼応して対ソ戦に踏み切る北進論と、石油などの戦略資源を求めて東南アジアに進出する南進論の間で揺れ動いた。結局、北進・南進の両論を併記した国策が定められ、対ソ戦備を整えるのと同時に、南方進出の足がかりに南部仏印に進駐した。一方、米国は日本の行動に警戒感を強め、在米日本資産の凍結と石油禁輸を行い、英・蘭も制裁に続いた。日本はこうした米国の反応を予測できず、対立路線をさらに強めた。日米交渉が続けられたが、日本は武力解決の道に進んでいく。南部仏印進駐は太平洋戦争につながるターニングポイントの一つになった。
背景​
日本とフランスは日露戦争以降協調関係にあったものの、日本において民族主義者のベトナム人が活動していたこともあり、フランス領インドシナ政府は日本を警戒していた。1937年の日中戦争(支那事変)勃発以降、中華民国の蒋介石政権に対して行われていたイギリスやアメリカ合衆国などによる軍事援助は、いわゆる援蒋ルートを通じて行われていた。特にフランス領インドシナを経由するルート(仏印ルート)は4つの援蒋ルートの中で最大のものであった。10月27日、フランス領インドシナ政府は中国に対する輸出を禁止したが、密輸は継続されていた。1938年10月、日本は国境線の封鎖と視察機関の派遣を要求したが、拒否された。
1939年11月に日本はフランス政府と再度交渉を行ったが、これも拒否された。11月24日、日本軍は仏印と中国の国境に近い南寧を攻略した。第21軍参謀長の土橋勇逸少将がハノイに派遣され、フランス領インドシナ総督ジョルジュ・カトルーとの会談が行われ、日本は国境封鎖と、南寧の日本軍への補給を求めたが、インドシナ政府は拒否した。以降、雲南鉄道が日本軍によって繰り返し空爆された。1940年2月1日の空爆では40人が死亡し、その中にはフランス市民が5人含まれていた。蒋介石政権はフランスに軍を派遣することを提案したが、フランス領インドシナ政府は拒否している。
北部仏印進駐​
5月のドイツ軍のフランス侵攻によりフランスが劣勢になると、日本軍内ではフランス領インドシナに対する対応が検討され始めた。6月15日には有田八郎外相が陸海軍大臣にフランスに対する要求案を提出し、独仏休戦協定が締結された17日には可決された。同日、フランス領インドシナ政府は武器弾薬・燃料・トラックの輸出を禁止する措置を行う旨を日本側に通告したが、日本側の対応はかえって激しいものとなった。6月18日、フランス領インドシナ政府に対する要求案が決定された。
6月19日、日本側はフランス領インドシナ政府に対し、仏印ルートの閉鎖について24時間以内に回答するよう要求した。カトルー総督は、シャルル・アルセーヌ=アンリ(フランス語版)駐日フランス大使の助言を受け、本国政府に請訓せずに独断で仏印ルートの閉鎖と、日本側の軍事顧問団(西原機関、団長西原一策少将)の受け入れを行った。カトルーの受諾は時間稼ぎの目的があり、アメリカから武器を購入しようとした上で、イギリスの外相ハリファックス伯に軍事的援助を要請しているが、拒絶されている。
6月22日に成立したヴィシー政権はカトルーを解任した。カトルーの独断行動が直接の原因だったが、自由フランスに近いことも忌避の要因だった。後任の総督はフランス極東海軍司令官のジャン・デク―(フランス語版)提督だった。しかしカトルーの行った日本との交渉は撤回されず、日本の松岡洋右外務大臣とアルセーヌ=アンリ大使との間で日本とフランスの協力について協議が開始された。8月末には交渉が妥結し、松岡・アンリ協定が締結された。この中では極東における日本とフランスの利益を相互に尊重すること、フランス領インドシナへの日本軍の進駐を認め、さらにこれにフランス側が可能な限りの援助を行うこと、日本と仏印との経済関係強化が合意された。
大本営からは仏印監視団長西原に折衝や調整が一任されていた。進駐は平和裏に行われることが前提であり、参謀本部第1部長富永恭次少将も、参謀本部の命令で交渉の成り行きを確認するため現地入りし、8月30日にデク―総督と会談したが、デクーは「フランス政府が協定に署名したという報告は聞いてない」として交渉開始を拒否した。その後も日本軍の進駐引き延ばしを目論むデクーは「本国から訓令がきていない」などと理由をつけて交渉開始を遅らせた。フランス側の誠意のない態度に業を煮やした富永は、与えられていた現地第22軍の指揮権を発動して、武力進駐の準備を行わせた。これは、フランス側に脅しをかけるためで、西原や参謀本部次長の沢田も了承しており、陸軍大臣であった東條も許可した。9月3日、富永はデクーに対して「佛印がこうも不思議な態度に出る以上、最早交渉の余地はない」と最後通告を突きつけると、フランス側が折れて、同日夕刻に現地協定案を示してきた。フランス側の案は日本軍の行動領域や使用できる飛行場などで、日本軍側の希望とは異なっていたが、富永と西原は一旦このフランス案を受け入れることとし、9月4日に現地司令官アンリ・マルタン(フランス語版)将軍と西原の間で西原・マルタン協定が調印された。
あとは進駐の細目の協議が残されていたが、一旦は交渉妥結したものの、デクーとマルタンは未だに日本軍進駐の引き延ばしを画策していた。9月6日に森本宅二中佐率いる森本大隊が部隊の位置を見失って不意に越境する事件が発生すると、この事件は故意のものでなく、また武力衝突に至らなかったにも関わらず、フランス側はこの事件を進駐の引き延ばしに最大限利用しようと考えて、現地司令官アンリ・マルタン(フランス語版)将軍が西原に「本国政府の回答あるまで現地交渉を中止したい」と通告してきた。慌てた富永はデク―と会見し、「協定を知らない一部隊の行動をもってそのような措置をとられるとすれば、本国政府の回訓によって交渉継続を申し出られてもそれに応ずるわけにはいかない」と通告すると、フランス側への不信感をあらわにして東京に帰った。
その間、フランスはアメリカ本国やイギリス領事館に使節団を送って武器供与を要請したり、日本の輸送船武陽丸にフランス軍の砲艦が砲撃したりと挑発行為のようなこともあったので、現地入りした富永から詳細な報告を受けた陸軍の態度は硬化し、平和進駐の方針が次第に武力進駐へと傾いていく。9月14日に進駐の方針として「佛印印度支那進駐二伴う陸海軍中央協定」の大命が下ったが、この中央協定は平和進駐を原則としつつも、陸軍、特に富永ら参謀本部の意思が強く反映されて、フランス軍が抵抗すれば政府の指示を待つことなく武力進駐に切り替えてよいと決められており、平和進駐か武力進駐かは軍の裁量に委ねられているも同然となった。
富永はこの大命をもって現地部隊の作戦指導と交渉の経緯を確認のため再度現地入りした。一旦はフランス側の態度で姿勢を硬化させていた西原であったが、引き続き平和進駐実現に向けて司令官マルタンと交渉を続けていた。陸軍側の指揮しかできない富永の権限は、本来であれば陸海軍代表の西原には及ばないはずであったが、富永は、西原に参謀総長の職印を押印した辞令を提示し「今次交渉期間は富永の命に従って行動し海軍には絶対に内密のこと」と命じた。しかし、この辞令が正当な手続きによって発行されたかは不明であった。富永は現地を統括する南支那方面軍に赴くと、同軍参謀副長であった同じ東條英樹一派の佐藤賢了少将と謀議し、軍司令官の安藤利吉中将や第5師団師団長中村明人中将を集めて仏印進駐の方針について申し渡しをしているが、その中では松岡・アンリ協定で定められた9月22日午前0時の交渉期限を独断で半日縮めて、21日の午後12時までに交渉が妥結しなかった場合や日本側の提示条件に修正を加えてきたなら、これを拒絶と見なすとし、わざわざ第5師団長の中村を起立させて、出撃準備を行うように指示した。富永は東京を発つ際に昭和天皇から「交渉が期限前に妥結した場合はくれぐれも平和進駐をするよう」との指示があっていたが、この申し渡しの席で富永は、居並ぶ南支那方面軍の高官らに「いかなる場合も平和進駐はあり得ない」と話していたという。
9月17日、富永は西原とフランス軍司令部を訪問しマルタンと面談、仏印に進駐する兵力を、前回の西原・マルタン協定で決められた5,000人規模から1個師団の25,000人に増やし、進駐する飛行場も3カ所から5カ所に増やすとする富永の越権行為による独断での提示を行った。マルタンは富永の条件提示に難色を示し、その場では結論を出せずに一旦持ち帰り、回答は翌18日となった。その内容は飛行場の進駐5カ所など一部は受諾したものの、25,000人の進駐は断固拒否など、富永の条件とは大きな相違があったが、西原は富永に判断を仰ぐこと無く、陸軍中央に協定内容を打診、参謀本部はマルタンの回答を承諾し、9月22日に西原・マルタン協定が再締結されたが、富永の計画によって兵力増強され仏印進駐の準備をしていた第5師団の進撃開始6時間前の協定締結であった。
富永は自分が提示した条件通りの協定締結とならなかったことに憤慨し、西原と参謀本部を非難するような電文を打電しているが、そのまま現地をあとにしたので、進撃直前の第5師団に対して進撃中止の指示を行うことはなかった。一方で、現地軍である南支那方面軍も、富永からの申し渡しによって、既に準備が進んでいる第5師団の進撃開始を止めようという意志はなく、参謀本部から「陸路進駐中止」との電文が入ったが、正式な大本営陸軍部命令(大陸命)ではないとして、積極的な進撃中止の動きをとらず、第5師団師団長中村も西原からの「協定成立」の通報を無視し9月23日の未明に進撃を開始した。師団主力はドンダン要塞に進撃したが、フランス軍も日本軍が越境してきたら徹底抗戦するつもりであり、要塞司令官のクールーペー中佐は発砲を命じ、要塞守備隊は激しく抵抗したため、結局は武力進駐となってしまった。第5師団の無断越境の報告を受けた参謀本部次長沢田は深夜3時に慌てて進撃停止の大陸命を出したが、既に激戦が開始されており、現地軍の局地的交戦の自由は付与せざるを得ず、第5師団はこの“局地”を拡大解釈しさらに進撃を行った。23日の11時には要塞司令官のクールーペーと士官のジロー少佐以下多数が戦死し、残った兵士は投降してドンダン要塞は日本軍に攻略された。第5師団の順調な進撃を聞いた南支那方面軍は、第5師団を止めるどころか「中村兵団の行動に深甚なる敬意を表す」などと称賛する電文を打電し、「方面軍としては1度交戦した以上は、背進となるような命令は絶対に避け、フランス軍に一撃を加えねばならないと思っていた」と停戦命令を出すことをしなかった。この後、第5師団はメヌラ少将率いる要衝ランソンも占領した。ドクー総督は「日本軍と戦ってはならぬ。それではインドシナを根こそぎ取られてしまう」と指令して9月25日に停戦させた。その後ハノイなど重要拠点に進駐した日本軍は、紅河以北にある仏印国内の飛行場や港湾の利用権を獲得し、援蒋ルートや中華民国への攻撃に利用した。一方で、イギリス軍が9月23日に行ったフランス領西アフリカへの侵攻はフランス軍に撃退されている
富永自身がこの武力進駐を直接指揮したわけではないが、西原とマルタンが協定を結んで平穏に進めることもできた進駐に不満を抱き、武力進駐を煽るような行動をとったため、南支那方面軍や第5師団の独断越境をまねくこととなってしまった。こののち、海路からも武力進駐を進めたい現地の陸軍と、事件不拡大方針の海軍の意見が相違して対立することとなった。富永は9月25日には東京に帰り、報告のために参謀次長室を訪れたが、そこには次長の沢田と神田正種総務部長が待ち構えており、沢田が「第一部長を辞めてもらう。君の仕事は僕がやる」と富永の更迭を言い渡した。この処分に富永は参謀飾緒を引きちぎって怒りを露わにしたという。この富永の更迭には、陸軍大臣東條の意志がはたらいていた。軍紀には厳格な東條は、中央の指示を無視して武力進駐としたことを「統帥権越権」と見なして、目をかけている富永や佐藤であっても厳格に処分するように指示している。現地でも富永らに煽られて実際に武力進駐を指揮した軍司令官の安藤や師団長の中村も処分されて予備役となった。富永は一旦東部軍司令部付の閑職に回されたが、のちに安藤ら他の関係者と同様に昇進と復権の機会を与えられている。これは東條の温情であり、このように硬軟使い分ける東條の執務ぶりは陸軍内で傑出した存在と認められ、次の内閣総理大臣推薦にも繋がることとなった。富永らによってせっかく平和裏に進めていた仏印進駐を武力進駐にされてしまった西原は、陸海軍次官阿南と次長沢田宛てに『統帥乱レテ信ヲ中外ニ失ウ』の電文を発している。
11月25日からはタイ王国とフランス領インドシナ間の国境紛争が勃発した(タイ・フランス領インドシナ紛争)。陸上での戦いではタイが優勢だったものの、海上での戦いでフランス側が勝利した。タイとフランスは第三国に仲介を求めていたが、アメリカやドイツはこれに乗り気ではなく、結果として日本が仲介役を行うことになった。1941年5月9日に締結された東京条約では、フランス領インドシナからカンボジアとラオスの一部地域をタイに割譲するという合意が成された。これは領土・権益の保全を定めた、先の松岡・アンリ協定に反する内容であったが、フランスはこれを受け入れざるを得なかった。
日米関係の悪化と南部仏印進駐の決定​
1940年(昭和15年)9月27日、日本はイギリスと戦争状態にあったドイツおよびイタリア王国との間で日独伊三国条約を締結したことによって同盟関係を築き(日独伊三国同盟)、アメリカ合衆国の警戒心を招くことになった。アメリカは10月12日に三国条約に対する対抗措置を執ると表明、10月16日に屑鉄の対日禁輸を決定した。また援蒋ルートとしてはイギリス領ビルマのビルマ公路などを利用することで、蒋介石への援助を続けた。この経済制裁政策はフランス領インドシナにも及び、フランス領インドシナ政府が求めていた武器支援をもアメリカ側は拒絶した。翌1941年(昭和16年)に入ると、銅などさらに制限品目を増やした。
主要な資源供給先であるアメリカやイギリスの輸出規制により、日本は資源の供給先を求めることになった。対象としてあげられたのはオランダ領東インドであったが、連合国であるオランダ政府が日本への輸出規制に参加する可能性も懸念されていた。日本はオランダ領東インド政府に圧力をかけて資源の提供を求めたが(日蘭会商)、この行動はかえってオランダを英米に接近させることとなった。1941年6月にはオランダ領東インド政府との交渉が決裂し、陸海軍首脳からは資源獲得のために南部仏印への進駐が主張されるようになった。経済的側面以外では、南部仏印はタイ、イギリス領植民地、そしてオランダ領東インドに軍事的圧力をかけられる要地であり、またさらなる援蒋ルートの遮断も行えると考えられた。当時陸海軍は北部仏印進駐への反発が少なかったことからみて、南部仏印への進駐は、米英の反発を招かないという見通しを立てていた。
松岡外相は当初、南部仏印の進駐を前提として交渉するのは得策ではないとしたが、やがて強硬論に同調するようになり、6月25日の大本営政府連絡懇談会において南部仏印への進駐が決定された(南方政策促進ニ関スル件)。
ところが6月22日に勃発した独ソ戦の緒戦の状況が伝えられると、松岡外相はソビエト連邦への攻撃を主張するようになり、南部仏印進駐の延期を主張して陸海軍首脳と対立するようになった。松岡外相は、大本営陸軍部の『機密戦争日誌』にも「節操ナキ発言言語道断ナリ」「国策ノ決定実行ニ大ナル支障ヲ与フルコト少カラズ」とあるように激しく批判され、結局、6月30日に原案通り南部仏印進駐を行うことが決定された。
1941年7月2日の御前会議において仏印南部への進駐は正式に裁可された。(『情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱』)。しかしイギリスはこの時点で仏印進駐の情報をつかんでおり、7月5日には駐日イギリス大使ロバート・クレイギーが日本の南進について外務省に懸念を申し入れている。日本側は情報漏洩に驚き、進駐準備の延期を行ったが、イギリス側も日本を刺激することを怖れ、これ以上の警告を行わなかった。7月14日には加藤外松駐仏日本大使がヴィシー政府副首相のフランソワ・ダルランと会談し、南部仏印への進駐許可を求めた。ヴィシー政府はドイツの意向を探ろうとしたが、おりしも駐仏ドイツ大使オットー・アベッツは旅行に出かけており、不在であった。フランス政府はドイツ側と協議することなく、7月19日の閣議で日本側の要求を受け入れることを決定した。
フランス領インドシナ軍が日本軍に対して劣勢であることは明かであり、決定的な敗戦を迎えれば植民地喪失の危険性があった。また松岡外相は、同様にヴィシー政府の植民地であったフランス委任統治領シリア・フランス委任統治領レバノンが連合国の攻撃によって占領された事態を匂わせてフランス側を説得しようとした。また日本に対して強い影響力を持つドイツや、アメリカなどの中立国がこの事態に介入してくれる可能性も皆無であり、植民地の継続には日本軍にすがるほか無かった。こうしたことがフランス側の極めて早い受諾回答の背景にあった。
一方でイギリスとアメリカはこの間に協議を進めた。7月21日までの段階で、イギリス外相ハリファックス伯とディーン・アチソン国務次官は、日本が南部仏印進駐を行った場合には、共同して対日経済制裁を行うことで合意した。
南部仏印進駐​
7月23日、豊田貞次郎外相は野村吉三郎駐米大使に南部仏印進駐についてアメリカ政府に伝達するとともに、この進駐は「平和進駐」であり、日米交渉を継続するように訓令した。野村大使はこの日本の南進が「国交断絶一歩手前迄進ムノ惧レ」を招くことになり、駐日大使に南部仏印進駐の真意を説明するよう報告した。7月24日には野村とサムナー・ウェルズ国務次官の会談が行われた。野村は南部仏印進駐がやむを得ない措置であるとしたが、ウェルズは世論からの突き上げもあり、対日石油禁輸に踏み切る可能性があると警告した。7月25日にはフランクリン・ルーズベルト大統領と野村大使の会談が行われ、ルーズベルト大統領は仏領インドシナをイギリス・オランダ・中国・日本・アメリカによって中立化させる案を提案した。この後に野村が行った報告によると、アメリカの閣僚は南部仏印進駐をヨーロッパにおけるドイツの作戦と呼応していると考えており、この疑問が氷解するまでは日米間の交渉は「続行無意義ナリ」であると判断していた。野村は自分がいかに述べても『手ノ施シ様ナキニ至リタル』であるとして、対日石油禁輸と日本資産凍結も不可避であると報告している。豊田外相は25日および27日にジョセフ・グルー駐日アメリカ大使と極秘に会談し、南部仏印進駐は他国に対する軍事的基地として用いるためではないと釈明したが、結果として日本政府は仏印進駐の方針を変えなかった。
日本軍は7月28日に仏印南部への進駐を開始した。
南部仏印進駐の日米関係への影響​
野村大使が南部仏印進駐後アメリカ側の反応が明らかに悪化したと観測しているように、南部仏印進駐後のアメリカの態度は極めて強硬なものとなった。8月1日、アメリカは「全侵略国に対する」石油禁輸を発表したが、その対象に日本も含まれていた。またイギリスも追随して経済制裁を発動した。これらの対応は日本陸海軍にとって予想外であった。当時の石油備蓄は一年半分しか存在せず、海軍内では石油欠乏状態の中でアメリカから戦争を仕掛けられることを怖れる意見が高まり、海軍首脳は早期開戦論を主張するようになった。
8月2日には野村大使がアメリカの某閣僚と会談したが、その際にコーデル・ハル国務長官がひどく失望していると伝えられた。アメリカ側は以前のフランス領インドシナ中立化案についての回答を求めたが、日本は南部仏印進駐が平和的自衛的措置であるとして、支那事変終了後に撤退するという回答を行った。ハル国務長官はこの回答が申し入れに対する回答になっていないと拒絶し、日本が武力行使をやめることによって初めて日米交渉が継続できると伝えた。
その後も日本とアメリカの交渉は平行線をたどり、10月2日にはハル国務長官が「ハル四原則」の確認と、中国大陸およびフランス領インドシナからの撤退を求める覚書を手交した。日本側はハル四原則に「主義上」は同意するが、「実際ノ運用」については留保すること、中国大陸からは日中の和平が成立した後に撤退すること、フランス領インドシナからの撤退については、日中の共同防衛が実現した後に行うと回答した。日本側は日米の諒解案の一つ「乙案」をアメリカ側に提案することになったが、東郷茂徳外相は乙案の中に南部仏印駐屯の日本軍を北部に移駐させる案を挿入するよう訓令した。しかしこの提案はアメリカおよびイギリス、オランダ、オーストラリアにとっては不満のある内容であり、11月26日にはいわゆるハル・ノートがアメリカ側から手交された。
11月28日には野村大使、来栖三郎特命大使とルーズベルト大統領の会談が行われたが、この席でハル・ノートが日本政府をいたく失望させたという日本側に対し、ルーズベルト大統領は「日米会談開始以来、まず日本の南部仏領インドシナ進駐により冷水を浴びせられた」とし、またハル国務長官も『暫定協定』が失敗に終わったのは、「日本が仏領インドシナに増兵することによって他国の兵力を牽制した」ことが原因の一つであると日本側の対応を非難した。12月2日にはハル国務長官が北部仏印に対する日本軍の増派が行われていると非難し、日本側の対応を改善するよう求めた。日本側はこの増派は協定による合意内であると反論したが、日本政府はこの頃すでに対米戦を決定していた。12月8日に日本はイギリスとアメリカに宣戦布告し、ここに太平洋戦争が勃発することとなる。
戦時下のフランス領インドシナ​
フランス領インドシナは本国から遠く、軍備も極めて弱体であった。しかも本国がドイツに敗れたため、独力で植民地を維持することは困難であった。そのため多くの植民地がヴィシー政府から自由フランス支持に転向していった。ヴィシー政府および植民地政府は植民地を維持するため、日本と協力する道を選んだ。
また日本側も植民地政府を温存する方針をとり、1941年11月6日の大陸指991号、11月15日の「対英米蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」による大本営政府連絡会議の決定でも確認されている。この方針は「大東亜戦争(太平洋戦争)」の目的であるとされた植民地支配からの「大東亜解放」とは矛盾した方針であったが、陸軍は「人種戦争の回避」という方針のためであるとして対応した。
この協力関係はフランス領インドシナ政府側にとって不利ばかりではなく、経済面では有利に運ぶこともあった。独立運動家にとっては日本軍の登場は新たな支配者の出現であり、現代のベトナムでは「一つの首に二つの首枷」と評されている。
   軍事協力​
太平洋戦争開始後も、従前のヴィシー政権による植民地統治が日本によって認められ、軍事面では日仏の共同警備の体制が続いた。情報交換や掃海作業などでは両軍で協力が行われている。
もっとも、仏軍が日本に対して攻撃しないように念のための処置として、フランス駐留軍の軍備は制限され、主要海軍艦艇の武装解除などが行われている。日本軍はフランス側の許可を得てサイゴン(現在のホーチミン市)の放送局を利用し、ジャワやインドに対する謀略放送を行った。
またフランス領インドシナ政府は日本軍の駐留経費の支払いも行っている。北部進駐の翌月、1940年10月から支払が開始され、仏印処理までの4年半の間に7億2370万8000ピアストルが支払われている。これは当時のフランス領インドシナ政府の経常支出とほぼ同額である。この潤沢な資金により、日本軍はインドシナにおいて軍票を発行する必要がなかった。
   経済協力
フランス領インドシナの経済はモノカルチャー経済であり、輸出入の半分以上を本国に依存していた。しかし大戦の勃発により本国との連絡が途絶し、イギリスが付近の植民地にフランス領インドシナとの貿易を禁止するとたちまち経済は危機に陥った。そこに現れた日本が、フランス領インドシナにとって最も重要な貿易相手となった。
大戦中、日本は輸入額の半分、多い時は6割をフランス領インドシナとの貿易でまかなった。このためフランス領インドシナの対日貿易は圧倒的な黒字であった。しかしアメリカ側の通商攻撃が激化すると、インドシナからの物資を日本に運搬することは極めて困難になった。
仏印処理​
1942年、連合軍がアルジェリアに上陸したことによって(トーチ作戦)、ヴィシー政府の存続が危ぶまれる情勢となった。日本側はフランス領インドシナ政府を本国と切り離すことで支配を維持しようと考え、ドクー総督に植民地政府内の親英米派の追放と、さらなる対日協力を迫った。枢軸国の頽勢が明確になり始めた1943年には、武力によって植民地政府を「処理」すべきであるという案が陸軍の現地部隊や外務省から挙げられ始めた。しかし戦線の拡大を抑えたいという政府中央の意志により、フランス領インドシナ政府は維持され続けた。
1944年にヨーロッパ大陸に連合国軍が再上陸を果たし、その後シャルル・ド・ゴール率いる自由フランスと連合国軍がフランスの大半を奪還したことで、同年8月25日にはヴィシー政権が事実上消滅した。フランス領インドシナ政府はすでに本国に政府が存在しないという見解をとり、新たな正統政府に対応を一任する考えを明らかにした。これをうけて9月14日の最高戦争指導会議では、フランス領インドシナ政府が日本に対して離反・反抗する場合には、武力処理を行うことを定めた「情勢の変化に応ずる対仏印措置に関する件」が決定されたが、これは原則的には現状を維持するものであった。
しかしその後フィリピンの失陥などにより、インドシナは「前線」となり、その戦略的意味はいよいよ重大となっていった。12月30日には1945年1月中に仏印処理に関する決定を行うという方針が決定されたが、1945年1月11日の最高戦争指導会議で、場合によっては武力処理を行うという方針が決定された。1月17日には時期によっては「現仏印政権を武力で打倒せしめる」決定が行われ、『明号作戦』の準備が開始された。2月1日には最高戦争指導会議で武力処理の方針が再確認されたが、処理後の現地統治については意見が分かれた。陸軍はフランスを決定的に敵に回すことを避けるため、主権については完全否定しない方針をとるべきだと主張したが、外務省は「大東亜解放」の方針を貫徹すれば、民族解放の観点からソ連も反対できないと主張した。決定においては公表される処理の理由を「自存自衛のため」とするという陸軍側の意見が通ったが、現地統治については決定が先送りされた。その後陸軍と外務省の協議の結果、2月22日の最高戦争指導会議において「武力処理をしても、フランスと日本が戦争状態に入ったと考えない」「フランス直轄領であるコーチシナ、ハノイ、ハイフォン、ツーラン」に軍政を施行するが、外部に対しては一時的な管理と説明する」「インドシナ全体の統治にあたっては、総督府首脳に日本人をあて、日本が管理する」「インドシナ三国(安南・ラオス(ルアンパバーン王国)など・カンボジア王国)に対して自発的にフランスとの保護協定を破棄させ、独立させる」という方針が確認された。
3月9日に仏印処理は実行されたが、その動機は米軍上陸が迫ったという判断によるものであった。作戦終了後、安南国(阮朝)のバオ・ダイ(保大帝)を担ぎ出し、ベトナム帝国の独立を宣言させた。しかしベトナム人にとって極めて評判が悪かったバオ・ダイの擁立は、親日的な独立運動家に失望を与えた。同年8月14日に日本が連合国に対して降伏を予告すると、3日後の8月17日にベトナム八月革命が勃発し、日本が降伏文書に調印した9月2日には、阮朝は打倒されてベトナム民主共和国が樹立された。しかしフランスは植民地支配を復活させるべく、インドシナ政府を復活させようとした。1946年には第一次インドシナ戦争が勃発し、長い「インドシナ戦争」の時代を迎えることになる。  
 
歴史 東南アジアと日本

 

1 東南アジア侵攻から始まったアジア太平洋戦争
日本の海軍機動部隊がハワイの真珠湾を攻撃したのは、一九四一年一二月八日の朝三時二〇分(日本時間)だった。普通は、真珠湾攻撃によって太平洋戦争が始まったと言われている。しかし、本当にそうだろうか。実は陸軍の精鋭部隊はマレー半島の東北部のコタバル沖に到着し、この日の一時三五分に舟艇に乗って発進し、イギリス軍との戦闘の中を二時一五分上陸を開始した。真珠湾攻撃に先立つこと一時間余り、このマレー半島上陸作戦によってアジア太平洋戦争の口火が切られたというのが、歴史の事実なのである。
では、なぜ東南アジアのマレー半島なのか。日本は中国への侵略戦争に行き詰まっていた。そして、中国から撤退せよというアメリカの要求を拒み、石油や鉄の供給を止められてしまった。日本はあくまで戦争を続けようとし、そのために必要な資源を確保するために東南アジアに目を付けた。石油をはじめスズ、ニッケル、ボーキサイト、ゴムなど重要な資源の宝庫だったからだ。ここを占領すれば、資源に困ることなく戦争を続けられると日本の軍部や政府は考えた。
ところが、フィリピンはアメリカ、マレー半島やビルマはイギリス、インドネシアはオランダの植民地だった。これらの国々と戦わずに東南アジアの資源を手に入れることはできない。ここに日本がアメリカやイギリスを相手に戦争を始めた理由があった。つまり東南アジアを占領しそこから資源を獲得することこそがアジア太平洋戦争の最大の目的だった。
東南アジアの軍事経済のかなめがシンガポールであり、まずここを占領する必要があった。しかし、シンガポールには強力なイギリス軍がおり、難攻不落の要塞といわれていたので、日本軍はマレー半島の背後から攻撃することにした。そのためにマレー半島の東北部から上陸したのだ。他方、真珠湾を攻撃したのは、米海軍に打撃を与え、アメリカが東南アジア方面に出てこれなくするためだった。
日本軍は半年のうちに東南アジア全域を占領した。一九四三年五月御前会議は、現在のマレーシアとインドネシアの地域を「帝国領土」とし「重要資源の供給源」とすることを決定した。もちろんこの決定は国内外の人々には秘密だった。表向きは「アジアの解放」を唱えながら、実際には日本の領土にするか、形ばかりの「独立」を与えて実質的に日本が支配することを考えていた。
日本が東南アジアで何をしたのか、ということは、アジア太平洋戦争が一体何だったのかを理解するうえでもっとも重要な問題なのである。この連載では、このことを歴史の事実に基づいて考えていきたい。なお最近では、中国や東南アジアへの侵略戦争であることを重視する立場から、アジア太平洋戦争という呼び方が広まってきている。ここでもそれを採用したい。
2 近代の日本と東南アジア
東南アジアには各地に王国が繁栄していた時代があったが、一九世紀後半にはタイを除くほとんどの地域がイギリス・フランス・オランダ・アメリカの植民地にされた。明治の日本の指導者たちの目に映ったのは、植民地にされた東南アジアの人々の姿だった。明治の初め、岩倉具視を代表とし、伊藤博文、木戸孝允、大久保利通などその後の日本政府を担う人物たちによる使節団が欧米諸国を回り、その途中、東南アジアにも立ち寄った。その使節団の報告書には、欧米を日本のモデルとする考えとともに、東南アジアは文明と無縁の怠惰な人々がいる所という見方、日本の富強のために東南アジアの資源に着目する見方が示されていた。言いかえると、東南アジアの資源を利用して日本の近代化(富国強兵)を進め、怠惰な東南アジアの人々を蹴落として、欧米のような帝国主義国にのしあがっていこうという考え方である。つまり「脱亜入欧」の考え方である。
一方、明治期は、貧しくて日本ではやっていけない庶民が行商人、雑貨屋や「からゆきさん」と呼ばれる売春婦として、どんどん東南アジア各地に出ていった時代だった。その人たちは、相手を見下すのではなく、土地の人々と同じ庶民として付き合いながら生活を築いていった。ところが第一次世界大戦が始まってから、日本の工業製品、特に綿製品や雑貨が東南アジアに輸出されるようになり、重要な輸出市場として注目されるようになった。また東南アジアの石油や鉄鉱石などの資源も日本へ輸入されるようになってきた。それにともない日本の商社員たちが東南アジアに進出していった。新しく来た彼らは、前からいる庶民の日本人を日本の恥のように扱い、同時に地元の人々を見下していった。
アジア太平洋戦争の時に南方に向かう兵士たちに読ませるために陸軍が作った『これだけ読めば戦は勝てる』というパンフレットがある。この中には、「土人は懶けものが多く、……全く去勢された状態にあるから之をすぐに物にしようとしても余り大きな期待はかけられぬ」と決めつけている。「土人」という言い方は東南アジアの人々を見下したものだが、こうした見方が兵士たちに植えつけられていった。
こうして明治の指導者たちが抱いた東南アジアへの見方は、日本の大国化、軍国主義化につれて増幅されていった。日本の利益のためには、勝手に占領し資源を奪い、そこに住む人々を酷使し虐待しても何とも感じない、そういう感覚が日本人の中に広まっていった。東南アジアの人々はそれぞれが独自の文化、宗教、芸術などを育てていたのだが、日本人にはそうした豊かな文化を理解することができなかった。そういう意味で、アジア太平洋戦争は、明治以来の日本の歩んだ道の行き着いた先だったと言ってよいかもしれない。
3 マレーシア・シンガポール(上)
一九四二年二月一五日シンガポールの英軍が降伏し、日本軍はマレー半島全土を占領した。そしてすぐにシンガポールを昭南島と改名した。マレー半島には、マレー人、中国人(いわゆる華僑)、インド人など多くの民族が住んでいた。この中で華僑は祖国の中国が長年にわたり日本に侵略されてきたことから、日本への反感が強かった。そこで日本軍は華僑に対して最初から厳しい態度でのぞんだ。
軍司令官の命令で、シンガポールの一八歳から五〇歳までの華僑の男子が集められ、憲兵による検問がおこなわれた。二〇〜三〇万人はいたと見られる人々をかんたんな質問や人相だけで「反日」的かどうかを判断した。財産のある者や教師など学歴のある者はそれだけで「反日」的と見なされた。「反日」と見なされた者はトラックに載せられ、海岸や沼地に連れていかれて機関銃で射殺された。こうして虐殺された人は、日本軍が戦後に弁明のために作った資料でも約五千人、シンガポールでは約四〜五万人と言われている。
このシンガポールの粛清に続いて、三月から四月にかけてマレー半島全土でも華僑の粛清がおこなわれた。都市では、シンガポールと同じように成年男子が選ばれて殺された。しかし農村では、抗日ゲリラが潜んでいるとの理由で、村の人々が女性や子供も含めて皆殺しにされたケースが多い。たとえば、マレー半島の山の中の村イロンロンでは、三月一八日に日本軍がやってきて村の人たちは学校に集められた。そこから二〇〜三〇人ずつ連れ出され、銃剣で刺し殺された。当時八歳だった蕭招□さん(女性)は、家族らと一緒に並ばせられたところを日本兵に銃剣で刺された。おかあさんが彼女をかばって上にかぶさってくれたおかげで左足を刺されただけで生きのびることができた。しかし両親と弟妹三人を殺され、家族では彼女一人しか残らなかった。このイロンロンでは約一千人近い人が殺された。ゲリラは実際にはイロンロンの奥のジャングルの中にいたのだが、日本軍は村人みんなを反日的とみなして殺したのである。
マレー半島のいたるところでこうした粛清=虐殺がおこなわれ、その犠牲者数は、数万人あるいは一〇万人以上になると推定されている。その後も日本軍と憲兵は、疑いをかけた人々を逮捕しては拷問を加え、「ケンペイ」と聞いただけで人々はこわがった。また泥棒などの犯人を裁判にもかけずに首を切り、街角にさらし首にしたことも人々に衝撃を与えた。
アジア太平洋戦争の開始直後におこなわれたこうした残虐行為は、華僑を抗日運動に追いやっただけでなく、他の民族にも日本軍は残虐だというイメージを植えつけてしまった。力で抑えつければ住民は従うだろうと考えていた日本軍は、初めから見通しを誤ったのである。
4 マレーシア・シンガポール(下)
マレー半島の華僑の反発を招いたのは、残虐行為だけでなく、五千万ドルの献金を強制したことにもある。現在のお金に換算すると数千億から数兆円にもなるかもしれない多額のお金を各地の華僑団体に割り当てた。献金を拒めば殺されるかもしれないという恐怖心を抱きながら、華僑は財産を提供させられた。
日本軍への反感をつのらせた華僑を中心にして、マラヤ共産党がマラヤ人民抗日軍というゲリラを組織して、抗日活動をおこなった。家族や友人を日本軍に殺された青年たちがこれに加わっていった。一方、マレー人に対してはどうだったのか。日本軍は初めは独立をめざすマレー人の民族運動を支援した。しかし占領後しばらくするとそれを解散させてしまった。マレー半島を日本の領土にするつもりだった日本軍にとっては、英軍と戦う時には民族運動を利用したが、終わると邪魔になったからだ。その後、戦局が日本に不利になってくると、日本軍はその民族運動の指導者たちを使って義勇軍を組織し、日本軍に協力させようとした。しかし彼らは表向きは日本軍に協力しながらも、背後ではマラヤ人民抗日軍や英軍と連絡を取り、連合軍がマレー半島に進攻してきた時には、それに応じて日本軍と戦う準備も進めていた。一度裏切った日本軍をけっして信用しようとしなかったのである。
また日本軍は華僑を抑えるためにマレー人を警察官などとして使った。そして粛清の時の道案内をさせたり、実際に処刑までさせたりした。中国人とマレー人の民族対立を利用しようとしたのである。しかしそのことが悲劇を招くことになる。華僑は、マレー人が日本軍の手先となって同胞の虐殺に手を貸していることに怒り、復讐のために華僑のゲリラがマレー人を襲った。そのことは逆にマレー人の反発をかい、マレー人が華僑の村を襲う事件が起こるようになり、血で血を洗う流血事件が戦後にかけて頻発した。両者の対立は尾をひき、現在のマレーシアにとっても重大な問題になっている。日本軍が支配のために民族の違いを利用しようとしたことが、何十年にもわたる負の遺産を残してしまった。
もう一つ、マレー半島の重要な民族としてインド人がいる。彼らは主にゴム園の労働者としてインド南部から来た人が多かった。日本軍は、インドをイギリスから解放すると言って、インド人にインド国民軍を組織させ、日本軍のインド侵攻に利用しようとした。しかし実際には多くのインド人は東南アジアや太平洋の島々に連れていかれ労務者として働かされ、多くの犠牲を出した。
アジアの指導者だとうぬぼれていた日本人には、それぞれの民族の気持ちや願いを理解できなかった。一度、引き裂かれてしまった民族間の関係の修復が難しいことは、世界の現状を見ればよくわかる。現在、シンガポールもマレーシアも多様な民族が共存する国家を目指して努力しているが、私たち日本人はそれに無関心ではいられない。
5 インドシナ(ベトナム・ラオス・カンボジア)
日本軍のインドシナ侵略はアジア太平洋戦争の前にさかのぼる。インドシナ(フランス領インドシナを略して仏印)を支配していたフランスが一九四〇年六月にドイツによって占領された。これを絶好の機会と考えた日本は、九月に強引に軍隊を進駐させた(北部仏印進駐)。当時、中国への援助物資の約半分が仏印ルートで来ていたので、これを絶つこと、また東南アジア侵攻の拠点を確保すること、この二つが目的だった。さらに翌四一年七月には南部仏印進駐を強行し、インドシナ全土に日本軍を駐留させ、東南アジア侵攻の足場を固めた。しかしこのことがアメリカに日本への石油輸出禁止などの対抗措置を取らせ、アジア太平洋戦争に突入する大きな原因となった。
インドシナは日本軍と仏印当局の二重支配の下におかれた。仏印当局は民族運動を厳しく弾圧してきたが、日本軍はその仏印当局を利用して住民からの食糧や労働力の供出をやらせ、軍事費も負担させた。インドシナの米は日本に送られ「臭い」と言われながらも日本人の胃袋に入っていった。四五年三月に日本軍が仏印当局を攻撃し、単独支配にするまで、二重支配は続いた。
こうした中で一九四四年末から四五年にかけて、ベトナム北部で大飢饉が発生した。農村でも都市でも人々は次々と餓死し、ハノイなどの都市でも餓死者がころがっていたというほどだった。タイビン省だけの調査でも人口百万人余りのうち約二八万人が犠牲になった。ベトナム全体で一〇〇万〜二〇〇万人が餓死したと見られている。
なぜこうした大飢饉がおきたのか。大型の台風や洪水などの自然災害による不作があったがそれだけでは説明できない。第一の原因は米の強制的な供出である。当時、仏印にいた数万人の日本軍は二年分の食糧を蓄えていたと言われ、仏印当局も農民から強制的に供出させた大量の食糧を持っていた。四五年三月以降はこれらの膨大な食糧を日本軍が独占していたが、人々には提供されなかった。第二の原因として、水田などを潰して軍事物資であるジュート(黄麻)を植えさせたことがある。第三に戦況の悪化などによりベトナム南部からの米が入ってこなくなったことが指摘されている。こうした原因を見ると、戦争遂行を第一としていた日本軍の責任が大きいことがわかる。
こうした惨状の中で、ベトナム独立連盟(ベトミン)は「敵のモミの倉庫を破壊して人民を救おう」と呼びかけ、日本軍の倉庫を襲い人々に米を与えようとした。独立のための戦いが全土に広がっていった。これに対し日本軍は武力で鎮圧しようとしたが押しとどめることはできなかった。日本の敗戦後、このベトミンの指導者ホーチミンによってベトナム独立が宣言されるが、その後フランス、アメリカとの戦争を経て、ベトナムの完全独立を実現するのは、一九七五年を待たなければならなかった。
6 タイ
一七八二年に始まったラタナコーシン朝の下でタイは英仏の圧力を受けながらも近代化をはかり、東南アジアでは唯一独立を維持した。そして一九三二年の立憲革命により絶対王政が終わり、立憲制に移行した。一九三九年に第二次世界大戦が始まりアジアでも戦争の気配が濃くなる中でタイは中立を維持し、戦争に巻き込まれないように努めていた。すでにインドシナに進駐していた日本軍は、マレー半島やビルマに攻め入るためにタイを通過する必要があった。タイは独立国なので事前にタイ政府の承認が必要だが、そのための交渉を早くおこなうと開戦の意図が連合国に漏れてしまい、奇襲でなくなってしまう。そこで日本は開戦前夜の一二月七日夜にピブン首相らを招き、日本軍の通過を認めさせようとしたが、ピブン首相は姿をくらませてしまった。そのため日本軍はタイ政府の承認なしにタイに侵攻し、迎え撃ったタイ軍と激しい戦闘をおこなった。しかしタイ政府はまもなく日本軍の要求を認めて停戦した。
日本軍と戦っては勝ち目はないが、中立国として日本軍の要求をかんたんに認めることはできないという意地がタイにこのような行動を取らせたと言えるだろう。戦後、日本軍と戦ったタイ兵士のために立派な記念碑が建てられ、現在でも彼らの戦いは高く評価されている。
こうしてタイは実質的に日本軍の支配下におかれ、日本軍はマレー半島やビルマへの侵攻の基地として利用した。占領地のように振る舞う日本兵は、敬虔な仏教徒であるタイ人が敬う僧侶を侮辱するなどして反発をかい、怒ったタイ人たちが日本軍を襲うというバンボン事件までおこった。こうした中で、タイ政府は日本軍に表面的には協力する形をとったが、一方政府や軍、警察関係者らは密かに「自由タイ」という抗日組織を結成した。アメリカやイギリスにいた外交官や留学生が自由タイの国外組織を作り、国内ではプリディ摂政やピブンの後を継いで首相になったクウォンら政府首脳らもそのメンバーだった。抗日的として逮捕されタイ警察に引き渡されたタイ人は、警察内の自由タイによって密かに釈放されていった。自由タイは海外の組織とも連絡を取り、連合軍の援助を受けてゲリラ部隊も組織して、いざという時には日本に対して蜂起する準備も進めた。日本軍はこの自由タイの動きを察知していたが、うかつに手を出すことができなかった。結局、自由タイが表面に出る前に日本が降伏した。
戦後、連合国は日本に協力したタイ政府を責めたが、タイは日本軍の侵攻によってやむなく協力したこと、政府首脳を含む自由タイ運動によって連合国のために努力したことが認められて、敗戦国とは扱われず、寛大な扱いを受けた。
周辺諸国が次々に西欧の植民地にされていく中で独立を守り通した小国の智恵が、最小限の被害でアジア太平洋戦争を切り抜けることにつながったと言えるかもしれない。
7 ビルマ(ミャンマー)
現在、ビルマの軍事政権は、選挙で勝った野党に政権を譲ることを拒否して、今なお強権政治を続けている。その実質的な指導者はネウィンである。一方、民主化運動の指導者の一人が、自宅軟禁されているアウンサン・スーチー女史である。ネウィンとスーチー女史の父親アウンサンとは日本軍のビルマ占領と深い関係がある。
イギリスの植民地だったビルマでは一九二〇年代から民族運動が高まり、その中でタキン党(主人を意味する)が台頭してきた。第二次世界大戦が始まるとイギリスへの協力を拒否したタキン党は弾圧された。その時、日本軍の謀略機関だった南機関がタキン党の青年三〇人を脱出させ、海南島で軍事訓練をおこなった。そのリーダーがアウンサンであり、ネウィンもメンバーの一人だった。
アジア太平洋戦争が始まると、南機関はビルマを独立させると約束して三〇人を中心にしてビルマ独立義勇軍を結成させ、日本軍とともにビルマに進攻させた。このビルマ独立義勇軍とともに入ってきた日本軍を人々は歓迎したのである。ところがビルマを占領した日本軍は、独立を与えずに日本軍自らが統治する軍政を開始し、二万人以上になっていた独立義勇軍を解散させて三千人ほどのビルマ防衛軍に縮小改編させた。独立を与えると約束していた南機関は解散させられた。タキン党を始めとするビルマの人々が裏切られたと反発したのは当然だった。
日本軍の下で、特にタイとビルマをつなぐ泰緬鉄道の建設のために多くのビルマ人がロウムシャとして動員され多数の犠牲者を出した(次回くわしく紹介)。これらの犠牲者を含めて、日本軍支配下の死亡者は約一五万人、身体障害者になった者二〇万人とも言われている。
一九四三年八月日本は形だけの独立をビルマとフィリピンに与えた。バモーを首班とする政府が作られ、アウンサンは国防相としてビルマ国軍を指揮したが、実権は日本軍が握ったままだった。アウンサンは地下で抗日運動を続けるグループとも連絡をとり、ビルマ国軍、共産党、人民革命党などとともに一九四四年八月ファシスト打倒連盟(後に反ファシスト人民自由連盟パサパラと改称)を組織した。翌四五年三月インドからビルマに進撃してきた連合軍に呼応して、ビルマ国軍やパサパラに参加した抗日グループがビルマ全土で蜂起して日本軍を攻撃し、日本軍を次々に敗退させていった。こうして五月にはビルマ国軍の手で、日本軍から首都ラングーンを取り戻した。
このパサパラは、戦後イギリス植民地の復活を許さず一九四八年に独立を勝ち取った。しかしアウンサンはその直前に暗殺された。内乱に悩まされる中で軍を掌握したネウィンが台頭し一九六二年の軍事クーデター以来、政府の実権を握っている。日本政府はこの軍事政権に好意的である。ネウィンの中には、青年期にたたき込まれた日本軍の精神がそのまま生きているのではないかと推測するのは考えすぎだろうか。
8 泰緬鉄道
泰緬鉄道とは、タイのノンブラドックからビルマのタンビュザヤまでの四一五キロ(ほぼ東京。大垣間)に及ぶ鉄道である。この建設計画は一九四二年六月大本営によって決定され、ただちに着工、翌年一〇月完成した。ビルマへの海上輸送路が連合軍の攻撃を受け不安定であったので、日本軍は陸上輸送路を必要と考えたからだ。
人跡未踏のジャングルの山岳地帯であり、マラリアなど伝染病の多発地帯に短期間でこれだけの鉄道を建設するために多くの連合軍捕虜やアジア人ロウムシャが動員された。このことが悲劇を生み出した。
イギリス、オーストラリア、オランダなどマレー半島やインドネシアなどで捕まった捕虜約五万五千人(または六万二千人)がこの建設に投入された。途中までは汽車で送られたが、工事現場が奥地の場合には数百キロのジャングルの中の道なき道を歩かせられ、工事現場に着いた時には多くが病気にかかっていた。乏しい食糧、時には一日百グラムの米しか配給されない時も続いた。薬も乏しく、少しけがをすると熱帯性潰瘍になって手足が腐っていく。マラリアやコレラも蔓延した。そうした中で鉄道建設を至上命令とする日本軍によって工事に駆り立てられていった。そのため約一万二千〜三千人の捕虜が犠牲になった。特に奥地に送られたFフォースでは七〇六二名中三〇九六名(四四%)が犠牲になった。
この泰緬鉄道だけでなく、日本軍は連合軍捕虜に強制労働をさせ、極端に劣悪な環境においた。そのため東京裁判の判決によると、日本軍の捕虜になった連合軍兵士一三万人余りのうち三万五千人(二七%)が死亡した(中国軍や植民地軍を除く)。ドイツ軍の捕虜になった英米将兵の場合の死亡率が四%だったことに比べ、日本軍の捕虜の扱いが極めてひどかったことがわかる。捕虜になることを認めず必ず玉砕することを強制する人命軽視の体質、捕虜を人道的に扱うことを定めた国際法の無視などに原因がある。
泰緬鉄道の建設には、捕虜以外にもビルマ、タイ、マレー半島、ジャワなどからたくさんのロウムシャを連れてきた。その数は二〇万人以上と言われている。ビルマをはじめ各地では地方ごとに人数が割り当てられて集められた。日本軍による強引なロウムシャ狩りもおこなわれた。あるいは金になる仕事だとだまされて応募した人も多かった。鉄道の建設現場でのひどさは捕虜と同じか、あるいはもっと劣悪だった。その犠牲者は少なく見積もっても四万二千人、イギリスの史料では約七万四千人と推定している。マレーシアにいる宋日開さんの場合、一緒に行った七八〇人のうち戦後、一緒に帰ってこられたのは四九人だけだった。
こうして枕木一本に一人と言われるぐらい犠牲を出した泰緬鉄道は「死の鉄路」と呼ばれるようになった。現在、鉄道は平地の一部が使われているだけで、多くはジャングルの中に飲み込まれてしまっている。
9 オーストラリア
日本の侵略戦争を裁いた東京裁判にあたって、昭和天皇を被告として訴追するように主張したのはオーストラリアだけだった。また東京裁判の裁判長を務めたウェッブはオーストラリア人であり、天皇を免責したことを批判した意見書を出している。オーストラリアが天皇の戦争責任を厳しく追求しようとした背景を考えてみよう。
オーストラリアの北の町ダーウィンは一九四二年二月一九日日本軍機の空襲を受け、二四三人の犠牲を出した。これはオーストラリア本土が外国の軍隊によって攻撃された史上唯一の経験である。また実際にはおこなわれなかったが、日本軍の中央はシドニー、メルボルンなどをペスト菌で攻撃することを検討していた。
日本との戦争でのオーストラリアの犠牲は、戦死・行方不明九四七〇名、ほかに捕虜二万二三七六名中八〇三一名が死亡、計一万七五〇一名である。ダーウィン空襲の犠牲者はこれには含まれていない。
捕虜の犠牲者の約三分の一は泰緬鉄道でのものだが、もう一つ忘れてはならないのが、サンダカン「死の行進」である。一九四三年九月ボルネオ島東北の町サンダカンにはオーストラリア兵千八百名と英兵七百名、計二千五百名の捕虜が集められおり、日本軍の飛行場建設に使われた。しかし途中から食糧の配給が大幅に減らされ、栄養失調と病気による犠牲者が相次いだ。四五年に入り、米軍の上陸の可能性が高まると日本軍は捕虜をボルネオ島の西海岸に移すことを決定した。しかし海も空も米軍に握られていたため、道のないジャングルと湿地帯の地域約四百キロを歩かせることにした。三つのグループに分けて移動させたが、日本軍は歩けなくなった捕虜を次々に銃殺していった。特に第三グループは病弱者ばかりだったので、ジャングルの中で全滅した。西海岸にたどりついた者もそこで強制労働によって次々に死に、一方サンダカンに残った重病者たちは全員処刑された。こうして二千五百人のうち戦後まで生き残ったのはわずか六人だけだった。
実はこの行進で日本兵の中からも多くの犠牲を出している。「敵国」の人間の命をないがしろにする日本軍は同時に自国の兵士の命をも軽視していたことがはっきりと示されている。
こうした戦争体験はオーストラリア人の中の対日観にある影響を与えており、最近の日本人によるオーストラリアの土地の買占めなどに対する反発とオーバーラップしてくることがある。
ところでオーストラリアはかつて人種主義をとり、白人中心の国だった。しかし最近はアジアの人々を受入れ、様々な民族が共存できる国をめざしている。日本軍に虐待された捕虜たちは、住民から食糧を分けてもらったり、脱走を助けられたり、様々な助けを受けた。そうしたアジアの人々の優しさへの感謝が、オーストラリアの変化の原点にあるのではないかと指摘されている。
10 資源の収奪と経済生活の破壊
東南アジアはイギリス、フランス、オランダなど植民地宗主国とアメリカとの間で世界的な貿易のネットワークを作っていた。たとえば英領マレーでは、ゴムとスズをアメリカに輸出し、タイから米を、イギリスから工業製品を輸入するという貿易構造だった。基本的に東南アジアから原材料を輸出し、欧米から工業製品を輸入する構造だが、宗主国との二国間ではなく多角的な構造になっていた。
ところが日本の占領により、このネットワークが寸断された。日本は東南アジアの原材料を受け入れるだけの工業力はなく、工業製品を提供できる能力もなかった。英領マレーでは、ゴムとスズの生産は減少し、一方米の輸入が途絶えて食糧不足になった。工業製品が入ってこなくなり物不足が深刻化した。そうした中で日本軍は軍票(占領地で発行した紙幣)を流通させた。普通、紙幣には番号が付けられ、経済状況にあわせて発行量が調整されるが、軍票には番号がない。そして必要な物資の買い付けのために軍票を乱発したのですさまじいインフレが襲った。シンガポールの物価指数は、開戦時の一九四一年一二月を一〇〇とすると、翌年一二月には三五二、四四年一二月には一〇七六六、四五年八月には三五〇〇〇と三五〇倍になっている。特に米は開戦時、六〇キロが五ドルだったのが、四五年六月には五千ドルと一千倍になっている。
経済が破綻して職を失い、食糧が不足する中で、人々は庭や空き地を耕してさつまいもやタピオカを作った。タピオカはキャッサバ(いも)から作ったでんぷんであり、マレーシアの人々は、日本占領時代を「タピオカ時代」と呼んでいる。
さらに各地で日本軍によって、ロウムシャとして強制的にかり出され働かされた。働き手である青壮年の男子が奪われたことも人々に大きな打撃だった。
一方、日本軍とともに日本の商社や企業も次々と東南アジアに進出し、欧米の企業が持っていた鉱山や施設を自分たちのものにしていった。日本はそこで得られた資源を獲得することが目的だったが、戦況の悪化によって日本への船が沈められ、期待通りには行かなかった。しかし、地元の住民が苦しんでいる中でも、日本兵や日本人は支配者としての生活を謳歌していた。戦争末期のシンガポールでは「ビルマは地獄、昭南天国」と言われ、将校や商社員たちが日本料亭に入りびたり、軍慰安所には兵隊たちが行列をなしていた。
日本軍による住民虐殺・虐待、憲兵による拷問などと経済生活の破綻などがあいまって、「大東亜共栄圈」の実態が人々にはっきりとわかってしまった。「大東亜共栄圈」は、一握りの日本人の刹那的な繁栄だけを意味する虚妄にすぎなかったのである。
11 インドネシア(上)
日本が東南アジアを占領した大きな目的が「重要国防資源」の獲得だったことはすでに紹介したが、その中で最も重要視されていたのが石油だった。その石油の最大の供給地がオランダ領インド(蘭印)、現在のインドネシアだった。インドネシアにはほかにもボーキサイト、ニッケル、マンガンなど資源がたくさんあった。
インドネシアを占領した日本軍は、すべての政党を解散させ、民族旗・民族歌を禁止し日の丸と君が代を強制した。さらに「アジアの光ニッポン、アジアの守りニッポン、アジアの指導者ニッポン」という3A運動を組織した。オランダが民族運動を徹底して弾圧していたので、初めは日本軍を歓迎した人々も日本軍のやり方に失望させられた。その後、日本は一九四三年五月の御前会議でジャワ、スマトラ、セレベスはマライ、ボルネオとともに「帝国領土」にすることを決定した。もちろんこの決定は極秘だった。独立させる気などなかったのだ。
インドネシアの中では、スマトラが石油の供給地とされ、人口が多く食糧が豊富なジャワは米と労働力の供給地にされた。
ロームシャという言葉はインドネシア語になっている。行政機関を通じて強制的に徴用されたロームシャはジャワ島内だけでなくマレー半島やビルマ、太平洋の島々にまで連れていかれた。泰緬鉄道をはじめ過酷な労働や病気、飢えなどにより多くの犠牲を出した。約四〇〇万人がロームシャにされたと言われている。
インドネシアでよく知られている詩を紹介しておこう。
ロームシャは何処へ
ロームシャは何処へ行ってしまったのだろう
多くの若者が狩り立てられていった
網にかかった魚のように
兵補になったものも、ロームシャになったものも、看護婦になったものも
すべては皆同じ、何処かへ消えてしまった(以下略)  (後藤乾一『近代日本とインドネシア』より)
ここに看護婦とあるのは、その名目でだまして連れていかれ「従軍慰安婦」にさせられた女性たちのことを指している。彼女たちはマレー半島やボルネオに連れていかれた。特に戦争の末期になり、朝鮮から「慰安婦」を連れてこられなくなるとジャワの女性が東南アジア各地に送り込まれた。
村々には青年団、警防団、婦人会などの組織を作らせ、日本軍に協力させた。一〇〜二〇軒ごとに隣組が作られ、相互監視の下でロームシャや食糧の供出が強行された。こうして人も物もすべて日本軍の戦争遂行のために動員されていった。
12 インドネシア(下)
日本にとって戦況が悪化し、サイパンが米軍の手に落ち、次はフィリピンという段階になるとインドネシアは完全に後方に取り残される形となった。日本本土との連絡も難しくなってきた。
そうした中で日本軍は人員不足を補うために兵補の制度を作った。兵補は一応軍人だが、実際にはロームシャと同じように使われた。その数は四〜五万人と見られているが、敗戦とともに放り出され、賃金の三分の一は強制貯金させられたまま返らなかった。またインドネシアの防衛のためという名目で郷土防衛義勇軍(ペタ)を作り日本軍を補助させようとした。
インドネシアの人々の協力を得るために一九四四年九月になってようやく日本は近い将来インドネシアに独立を与えることを表明した。日本軍はスカルノなどの民衆に人気のある民族運動の指導者を利用しようとし、一方スカルノなどは表面的には日本軍に協力しながら、その影響を広めようとした。
その一方、連合軍の反撃の前にインドネシア住民が連合軍に通じているのではないかと疑心暗疑になった日本軍は、ポンティアナ事件やババル島事件のような住民虐殺を引き起こしていった。ボルネオ島西海岸のポンティアナでは、独立国家建設を計る抗日陰謀事件だとして、一九四三年から翌年にかけて約一五〇〇名を検挙し、処刑した。チモール島の東のババル島では、食糧やタバコの強制的な供出を強いられ、横暴な日本軍に耐えかねた島民が蜂起し、山に立てこもった。日本軍の呼びかけに山を下りてきた島民を日本軍はまとめて射殺した。犠牲者は七〇〇人とも四〇〇人とも言われている。
日本軍の過酷な占領に対する激しい抵抗も次々に起きた。その代表的な事件が、一九四五年二月に起きたブリタル(東部ジャワ)の郷土防衛義勇軍による反乱である。日本軍による食糧やロームシャの厳しい徴発、横暴な態度に怒ったブリタルの義勇軍が反乱を起こしたが、数日後に日本軍に鎮圧された。日本軍に訓練されたこの義勇軍の反乱はインドネシアでは高く評価されている。反乱の指導者スプリヤディは行方不明になったが、その栄誉を讃えて独立したインドネシア共和国の初代国防大臣に任命された。このように日本軍の支配の矛盾が各地で噴き出していった。
日本軍の下で独立の準備を進めていたスカルノなどの指導者は日本の敗戦後の八月一七日に独立宣言を発表し、オランダとの独立戦争に備えることになる。
インドネシアのあるジャーナリストは次のように言っている。「日本人の中には、いまだにインドネシアの独立は日本の援助によってなされたのだ、と公言してはばからぬ人がいる。違う!私達は自ら闘ったのだ。あらゆる障害と闘って、独立を克ち得たのだ。」(ヘラワティ・ディア)
13 フィリピン(上)
一六世紀から始まるスペインによる植民地支配に対して、一八九六年フィリピン革命が始まり九九年にはフィリピン共和国を樹立した。しかしスペインにかわって介入してきたアメリカ軍によって鎮圧され、アメリカの植民地にされてしまった。しかし植民地を持つことについてアメリカ国内でも批判が強く、アメリカはフィリピンのアメリカ化を進める一方、一九三五年フィリピン・コモンウェルス政府(独立準備政府)が樹立され、一九四六年に独立することが約束された。
そうしたところに日本軍が侵攻したのである。ケソン大統領はいち早く脱出してアメリカに亡命政府を建てた。またフィリピンとアメリカの軍隊の連合隊である米比軍(ユサッフェ)司令官マッカーサーも「私は必ず帰るI shall return」という有名な言葉を残して脱出した。
一九四二年四月バターン半島、五月コレヒドール島の陥落により主な戦闘は終わった。この時日本軍は約七万六千人を捕虜にしたが、彼らにろくに食糧や水を与えないまま炎天下を歩かせ、収容所に着くまでに約一万七千人が死亡した。これは「バターン死の行進」と呼ばれ、日本軍の残虐さを表す象徴的な出来事とされている。
しかしその後、各地でユサッフェ・ゲリラが組織されその数は三〇数万人にのぼった。ほかにフィリピン共産党が組織したゲリラ組織フクバラハップがあった。ルソン島中部を拠点として日本軍追放と農地解放を掲げて住民を組織し、常備軍二万人、在郷軍三万人と言われる強力なゲリラ活動をおこなった。
フィリピンを占領した日本軍は政党を禁止し代わりにカリパピ(新生フィリピン奉仕団)を組織させ、地域の末端には隣組を作らせて、住民相互に監視させた。憲兵による拷問・虐待はフィリピンでも恐れられた。日本兵による強姦掠奪などの非行も頻繁におこった。このことは陸軍中央の会議でも「比島方面においても強姦多かりし」と東南アジア方面では最も日本軍による強姦事件が多いとくりかえし問題にされるほどだった。ただ「支那事変に比すれば少い」とされており、中国でのひどさが推測される。
ところでフィリピンは重要な資源が少なく、日本軍にとっては東南アジアへの中継地として軍の行動の自由が確保されればよかった。またすでにアメリカによって独立が約束されており軍政を続けることは都合が悪かった。そうしたことからフィリピンの独立を認め、一九四三年一〇月にフィリピン共和国が成立した。しかし「帝国軍隊の為一切の便宜を供与」させられ、日本軍による支配に変わりはなかった。フィリピン独立準備委員会(PCPI)は、「どうぞフィリピンの独立を取り消してくださいPlease Cancel Philippine Independence」と皮肉られるほどだった。
14 フィリピン(下)
米軍の来襲に備えて、一九四四年夏より日本軍が増強された。それまで警備用の部隊しかいなかったのに米軍に決戦を挑むために五〇万人を超える大部隊が配備された。ところがこれらの部隊による強姦事件が頻発し、さらにゲリラ討伐の名によって住民を虐殺する一方で若い女性を拉致して強姦し「従軍慰安婦」にしていくことが相次いだ。
米軍は四四年一〇月にレイテ島、翌四五年一月にルソン島に上陸し、それに呼応して各地のゲリラも立ち上がった。フィリピンのゲリラは強力であり、日本軍の被害も大きかった。そのため米軍とゲリラに挾撃された日本軍にとってはフィリピン人すべてが敵に見えたのだろう。ルソン島南部のバタンガス州などでは、ゲリラの協力者も粛清せよとの命令が出され、各地で村民を集め虐殺していった。リパでは、米軍に協力している疑いのある村の男子を通行許可書を渡すという理由で集め、一〇人ずつ銃剣で刺して崖の上から突き落とし、約八〇〇人を虐殺した。戦後におこなわれた戦争裁判の史料によるとリパで虐殺された人は一万二千人以上にのぼるとされている。
四五年二月米軍が迫ってきたマニラでは、海軍部隊が住民を教会や大学に集めてダイナマイトで爆破したり、機関銃で撃ち殺した。これらはマニラの大虐殺として知られている。
米軍の前に日本軍は敗退していった。しかし日本兵は敗北が決定的になりながらも降伏を許されず、補給も受けられなかったため、敗走しながら住民から食糧を奪ったり虐殺をおこなった。日本兵が山に逃げてきた民間の日本人を襲うこともあった。パナイ島では、足手まといになると老人や女性子どもら数百人が、日本軍の手によって手榴弾や機関銃によって殺害されることさえあった。
フィリピン民衆に対して残虐行為をおこなう一方、日本軍も約五〇万人近い犠牲を出した。日本軍にとって東南アジア戦線で最大の犠牲だった。フィリピン人の生命を軽んじた日本軍は、日本人の兵士や民間人の生命をも軽んじた軍隊だった。
フィリピン政府の調査によると、戦争による犠牲者は一一一万一九三八人(戦前の人口約一六〇〇万人)、戦争被害の総額は一六一億五九二四万八〇〇〇ペソ(一九五〇年価格で約八〇億八〇〇〇万ドル)にのぼっている。フィリピンは全土が日米両軍の戦場になったために被害が大きいが、虐殺や強姦などによる犠牲者は東南アジアでは最も多いのではないかと見られる。
フィリピンの小学校の歴史教科書の中で「フィリピンの歴史における暗い時代は私たちの国を日本国が占領した時です」と書いてある。スペイン、アメリカ、日本のフィリピンを支配した三国の中で日本時代は最もひどい時代と記憶されている。
15 「従軍慰安婦」
日本は一九三一年満州事変を起こすと翌年に上海にも戦線を拡大した。この時、上海に日本軍慰安所が開設されたのが最初である。その後、一九三七年に中国への全面的な侵略戦争を開始し、まもなく南京大虐殺をひきおこした。この過程で日本軍はすさまじい強姦事件を続発させ、軍内部でも問題にされた。そこで日本軍は部隊の移動に応じて中国の各地に慰安所を開設し、将兵の性の処理をさせた。
「従軍慰安婦」として日本人も連れていかれたが少なすぎることと日本人女性を大量に慰安婦にすると社会問題になることを恐れて、朝鮮女性を多く集めた。当時の朝鮮は長年の植民地支配の下で疲弊しており、かんたんに貧しい家の少女を集められる状況だった。朝鮮総督府や警察の協力の下に軍から依頼を受けた周旋業者がだましたり脅したりして少女たちを集め、中国の慰安所に送っていった。中には強引な人狩りのような手段も用いられたと見られている。慰安所へ連れられる途中、あるいは着いてから、少女たちはまず強姦されたうえで慰安婦にさせられた。また中国の各地でも日本軍は地元の女性を慰安婦にしていった。そこでは朝鮮以上に軍によって暴力的に女性が集められた。
アジア太平洋戦争が始まり東南アジアを占領した日本軍は各地に慰安所を設けた。陸軍省自らも開戦前から慰安所の設置を計画しており、占領した地域にはすぐに慰安所が開設された。東南アジアの慰安所には、日本や朝鮮、さらに中国・台湾の女性も連れてこられたが、地元の女性も多数が慰安婦にさせられた。その女性の出身地は、フィリピン、マレーシア、シンガポール、インドネシア、タイ、ベトナム、ビルマ、インド、太平洋の諸地域、インドネシアにいたオランダ人などほぼ日本軍の占領地全域に及んでいる。
その際に地元の有力者に慰安婦集めを強要したり、ウェイトレスや事務員だと言ってだまして集め強姦して慰安婦にしたりしている。また特にフィリピンをはじめ、日本軍が各家に押し入り、女性を暴力的に拉致し輪姦してから慰安婦にするケースが多数報告されている。インドネシアでは日本軍に抑留されたオランダ人女性の中から二〜三百人が慰安婦にさせられている。
残されている断片的な史料や関係者の証言から、東南アジア地域での「従軍慰安婦」は地元の女性が最も多かったと推定される。
慰安婦たちは軍の管理の下で、時には一日に何十人もの相手をさせられ、いやがると暴行を受けた。慰安婦の状況は性奴隷といっても過言ではなかった。慰安所制度とは、軍による組織的な強姦輪姦の制度だった。元「従軍慰安婦」だったことがわかると白眼視される社会のもとで、東南アジアの元慰安婦の人たちの実態はあまりわかっていない。もちろんその犠牲に対して何ら償われていないままである。
16 太平洋諸島
ミクロネシアの島々は戦前は南洋諸島と呼ばれ、日本の統治下におかれていた。これらの島々にも日本軍が配置されていた。島民はロームシャとして駆り立てられ、食糧を供出させられた。特に日本の戦況が悪化すると外部との連絡が途絶え、多くの日本兵が駐屯していたため食糧難に陥った。また米軍に通じているとして疑いをかけられ、殺された人も多い。これらの島々はかつてのスペイン統治の影響でカトリック教徒が多く、グアムやロタでは白人の神父がスパイ容疑で処刑されている。
グアム島はアメリカ領だったので、地元のチャモロ人は日本に反感が強かった。一九四四年七月米軍が上陸する直前にメリーソン村で、米軍に通報したという理由で一六人が捕らえられ、手榴弾で殺された。さらに三〇人も同じようにして殺された。その一方、村にいた日本兵と在留邦人たちが村の男たちを監禁したうえで若い女性を一人ずつ連れ込み泊まらせた。その直後にメリーソン村の日本人は、地元民に荷物を担がせて避難を始めたが、その途中、地元民に襲われ一一人が殺される事件がおきた。
マーシャル諸島のミリ環礁のルクノール島では、島民が逃げ出して米軍に情報を漏らすことをおそれて厳しく監視されていたが、その中で一人が逃亡した。そのため同じ防空壕に住んでいた家族など約二〇人が処刑された。チェルボン島では食糧の強制的な供出に抗議した首長が日本軍に殺されたため、島民は朝鮮人軍属と一緒に反乱を起こしたが、鎮圧され朝鮮人約六〇人と島民三〇〜四〇人が殺されるという事件が起きた。ミリ環礁全体では五つの島で虐殺があり二〇〇人近くの犠牲者が確認されている。
日本軍が占領していたニューギニア島北側のティブンケ村では、住民がオーストラリア軍に通じているとみなした日本軍が住民を集め、その中の男たちを銃剣や軍刀でさらに機関銃で殺していった。現在九九人の犠牲者の名前が確認されている。さらに日本軍は、親日派の他の村の男たちにティブンケ村の女性たち約六〇人を集団で強姦させた。何人かの少年は初めは男たちと一緒に紐でつながれたが幸い釈放され、彼らが虐殺の目撃者となった。
日本軍が駐留していた各地の島々で、敵に通じているという疑いや食糧を盗んだという理由で住民が拷問・処刑され、時には集団虐殺される事件がたくさん起こっていたと推測される。さらに米軍が上陸してきた場合には、激しい爆撃や艦砲射撃、地上戦により住民にも多くの犠牲が出た。サイパンやテニアンなどでは、降伏を許されず、追い詰められた在留邦人が絶壁から身を投げたり手榴弾で「自決」したことは有名だが、こうした太平洋の島々の人々に日本軍が与えた被害については、ほとんど忘れられたままである。
17 インド
インドはイギリスにとって最も重要な植民地だった。一九三九年に第二次世界大戦が始まるとインドもイギリスの下で戦争に加わり、イギリス軍のために膨大な兵士を提供した。また北アフリカから西アジアのイギリス植民地に食糧を供給する役割をはたした。その一方でビルマが日本軍に占領されたためビルマからの米の輸入が止まり、食糧難になりインフレが進行した。
日本との戦争が始まると、インド領であるベンガル湾のアンダマン・ニコバル諸島が一九四二年三月日本軍に占領された。最前線のこの島々は連合軍の工作の対象となり、そのため住民がスパイを働いているという疑いをもった日本軍による住民への拷問、虐殺がおこなわれた。 さらに日本軍はセイロンのコロンボ、南インドのヴィサータパトム、コークーナーダー、マドラス、東インドのカルカッタ、チッタゴン、マニプールなどの都市に対して無差別爆撃をおこない、住民に多数の犠牲者を出した。こうした爆撃に対して、インドの人々から厳しい批判がおこなわれた。
一九四三年から四四年にかけて、日本軍占領によりビルマからの米輸入が途絶えたこと、イギリス軍が日本軍の侵攻に備えて牛車や小舟などの輸送手段を徴発する一方で食糧輸送の手立てを行わなかったことなどからベンガル地方で大飢饉が起きた。これにより一五〇万人(一説には三五〇万人)とも言われる人々が餓死した。日本がおこなった戦争とイギリスの植民地支配が増幅して被害を生み出した飢饉だった。
日本軍はマレー戦線などで捕虜にしたインド人兵士を再組織してインド国民軍を編成した。さらにドイツに亡命していた元会議派の指導者スバス・チャンドラ・ボースを潜水艦でマレー半島に呼び寄せ、彼を首班とするインド仮政府を作り、イギリスの植民地当局をゆさぶった。そして一九四四年のインパール作戦にインド国民軍も参加させたが、インドの人々はこの動きに呼応することなく、日本軍は敗退していった。
一方、インド国内ではガンジーやネールなどを指導者とする国民会議派などのによる強力な民族運動が展開されていた。会議派は一九四二年八月、反ファシズムの戦争に勝利するためにもイギリスはインド植民地支配を終わらせるべきだというインド退去要求決議をおこない、日本の侵略に反対する姿勢とともに即時独立を要求した。会議派は、日本による侵略に苦しめられてきた中国と友好関係を深めており、反帝国主義反ファシズムの立場をとっていた。ただその姿勢はイギリスに対しても向けられたためイギリス当局の弾圧を受けた。しかし戦争中を通しての独立運動を続け、戦後、イギリスはインドの独立を認めざるをえなくなったのである。
18 日本の敗戦と各国の独立
八月一五日の日本の敗戦をむかえて、日本人のあいだでは虚脱感が広がっていた。戦争に批判的だった一部の知識人の中には日本の敗北を予想し、それを歓迎していた人々もいたが、それは一部にすぎなかった。 中国の重慶に日本の敗戦が伝えられると群衆が街にあふれ、爆竹が鳴り響き、抗日戦争勝利の歓声が続いた。中国でも朝鮮・韓国でも八月一五日は「光復」の日、つまり暗黒の世界から解放され光が戻ってきた日とされている。
シンガポールでは日本の降伏が人々に知らされたのは一七日のことだった。人々はカタカナを消して店の看板を書き直し、日の丸を投げ捨てた。中国、アメリカ、イギリス、など連合国の旗が町になびき、歓喜にわいた。イギリス軍がシンガポールに上陸した九月五日には港からイギリス軍司令部が入るキャセイビルまで五キロにわたって歓迎の人々であふれ、「祖国万歳」「連合国万歳」などと書いた旗やのぼりを持ってパレードをくりひろげた。
日本軍に支配されていた人々にとって八月一五日は解放の日だった。もちろんそれはすぐに独立を意味していない。インドネシアでは、八月一七日に独立宣言を出して、その後四年にわたるオランダとの独立戦争をへて一九四九年に独立をかちとった。
ビルマでは、ビルマ国軍が日本軍に反旗を翻して連合軍とともにビルマを解放していた。イギリスは植民地復活をあきらめ一九四八年にビルマは独立した。
ベトナムでは八月一三日ベトミンが全国総決起をよびかけ、自力で全土を解放し、九月二日ベトナム民主共和国の独立を宣言した。そして独立戦争をへて一九五四年ついにフランスを敗北させたが、今度はアメリカが介入してきたため、完全独立はベトナム戦争でアメリカを破った一九七五年になった。
インドネシア、ビルマ、ベトナムでは日本軍の占領下で、表面的に日本軍に協力したり、あるいは明確に抵抗した民族運動が力をつけ、日本軍と戦い、さらに植民地復活をねらう宗主国と戦って独立をかちとっていった。これらの地域では宗主国の復帰は歓迎されなかった。一方、マレー半島とフィリピンではイギリス軍やアメリカ軍は歓迎された。ここでは宗主国が話し合いで独立を認めたので独立戦争を経ることなく独立をかちとった。
日本の侵略戦争に対し、時にはそれを利用し、最後には正面から戦って独立を導いた民族運動こそが独立の主体だった。
シンガポールの小学校の教科書は次の言葉で日本支配時代の章を閉じている。「占領はすべての人にとって大きな苦難であった。しかし、それはある貴重な教訓をもたらしてもくれた。(中略)これによって日本の支配より西洋の支配の方がまだましだが、自主独立の方がもっとすばらしいであろうということを、彼らは悟ったのである。」
19 賠償―解決されていない戦争責任
日本を占領した連合国は、日本を徹底的に非軍事化民主化しようとした。ところが冷戦が始まるとアメリカは日本の戦争責任をあいまいにし、反共のために日本の経済力を利用する政策に転換した。その結果、サンフランシスコ平和条約では、連合国は原則として賠償を放棄し、ただ例外的に日本軍に占領され損害を受けた国が希望する時は、日本は「役務」の提供という形で賠償を支払うことが決められた。
この条項に従って、日本は一九五四年ビルマ、五六年フィリピン、五八年インドネシア、五九年南ベトナム、とそれぞれ賠償協定を結んだ。カンボジア、ラオスは賠償請求権を放棄し、その代わりに無償援助を受けた。タイ、マレーシア、シンガポール、韓国、ミクロネシアへは賠償に準ずる無償援助や経済協力がおこなわれた。台湾、中国、ソ連、インドなどは賠償を放棄した。北朝鮮とはまだ国交がなく賠償問題も解決していない。
これらの賠償・準賠償については多くの問題が含まれていた。日本側には侵略戦争への反省がまったくなかった。特に東南アジアの人々に深刻な被害を与えたという認識はほとんどなかった。財界では賠償を日本製品の輸出、日本企業の経済進出の機会に利用しようとした。「賠償から商売へ」という言葉が流行るほどだった。
賠償の内容を見ると、たとえばビルマに対しては、水力発電所の建設と四大プロジェクトつまり大型自動車、小型自動車、農機具、家庭電器の工場の建設運営に使われた。日本企業は国内の工場からこれらの工場に部品を提供し、それらの製品の市場が開拓されていった。
さらに賠償が政治的に利用された。たとえばベトナムは当時南北に分断されており、アメリカは南の反共政権を後押ししていた。日本軍による被害は北に集中していたが賠償は南に対してのみなされた。しかも賠償のほとんどが水力発電所の建設に使われた。この計画は実は日本のコンサルタント会社が計画を作り、南ベトナム政府を通じて、日本政府に要求したものだった。日本企業が自らの利益のために事業計画を作り、相手政府を通じて日本政府に資金の供与を求めるという方法がとられた。この方法はその後の政府開発援助(ODA)に引き継がれている。
また賠償の一部が日本と受入れ国の政府要人にリベートとして流れている疑惑がある。
賠償は実際の戦争犠牲者にはまったく渡らなかった。少なくとも侵略戦争を償う賠償としてはふさわしくなかった。
賠償を受けたアジア諸国は独立後まもなく、それぞれ困難な状況にあり、人々の自由は制約されていた。そのため被害者たちの声は賠償交渉に反映されなかった。日本は冷戦を利用して真の賠償を避け、日本の経済成長のために「賠償」を利用してきた。そのことが冷戦が終わった今日、あらためて問題にされているのである。
20 今日の日本と東南アジア
いよいよこの連載も最終回を迎えた。日本の東南アジア侵略の負の面ばかりを見てきたという印象があるかもしれない。しかし侵略戦争とはまさにそうしたものでしかないことをまず理解する必要がある。もちろん歴史はダイナミックなもので意図と結果が異なることはいくらでもある。東南アジアを日本の支配下に置こうと意図して始めた戦争が、結果として西欧の宗主国の力を弱め、さらに日本も敗北したことにより、独立に有利な条件を生み出したと言える。しかしそれは結果論にすぎない。比喩的に言えば、力の弱い人が、二人の強盗(宗主国と日本)のけんかを利用して両者の力を弱め、自らの力を蓄え、ついに二人の強盗を追い出して独立したということだろう。もちろん強盗のうち日本の方が残虐だったことも忘れてはならない。東南アジアの人々の主体的な努力こそが独立をかちとる原動力だった。日本が独立を与えたという議論は、東南アジアの人々は自力で立ち上がれない劣った人々だという、ごうまんな意識の表れではないだろうか。東南アジアの人々を見下した意識は、侵略戦争への反省がないまま克服されずに残ってしまっている。
日本企業の進出、観光旅行など日本人が東南アジアへ出かける機会は急速に増えているし、東南アジアの人々も日本にたくさんくるようになった。こうした中で二つの傾向があるように思う。
一つは日本の経済大国化をバックに優越感とごうまんさが増長される傾向である。東南アジア諸国の一部の経済発展が注目されているが一方で貧困、内戦など汚い暗いイメージも強くある。カンボジアの内戦をめぐって日本では「国際貢献」が議論されるようになったが、そこでは大国の力を借りなければ自立できない人々というイメージがふりまかれ、平和で豊かな日本がかわいそうな人々のために何かしてあげなければ、という議論が主流だった。相手を見下しているのではないか。
こうした傾向とは別の流れも育ってきている。バングラデシュで活動をしているシャプラニール=市民による海外協力の会の次の言葉は印象的だ。「(バングラデシュの)農民と接していく中で、若者たちは、彼らが本当に欲しているものは同情や哀れみや、それを起点とする“援助”ではないことに気づく。“援助をする”というのは豊かな国に住む者の奢りでしかない、との反省にたどりつくまでに、そう多くの時間を必要としなかった。」(『NGO最前線』)
一九八〇年代から広がってきたNGOの活動、戦争責任・戦後補償や日本のODA、熱帯雨林問題などアジアと日本にかかわる様々な問題に取り組む人々が増えてきた。それらの人々には、国家の威信をバックにするのではなく、相手を見下すのでもなく、同じ人間として理解しあい共感と信頼を育て、共に生きていこうとする姿勢が見られる。近代以来の東南アジアへの歪んだ関わり方を克服し、平和と人権をベースにした人間関係を築いていこうとする人々の努力に期待したい。 
 
日本改造法案大綱

 

東京は今朝から雪が降ってはいない。麻布には何もおこっていないし、皇居前は静かで、戒厳令も出ていない。けれども、今日は北一輝を思いたい。こんなことは初めてである。だいたいぼくは誰かの命日に何かを偲ぶという習慣がない。それなのに、今日は何かを感じたい。いや、2・26事件での北を思うだけではなく、この構想者の輪郭と相貌を勝手に思い浮かべ、なにがしかのことを考えたい。ちょうど数日前から松本健一の『北一輝』単独全5巻述作(岩波書店)という驚くべき仕事が始まったばかりでもある。これまでも十全だった松本の北をめぐる研究と感想に何を付け加えられるわけでもないだろうけれど、やはりせめての望憶の思いを綴っておきたい。いや、松本だけでなく、橋川文三や村上一郎や渡辺京二の北一輝などを読んできたのに、ぼくはこれまでノートに何も綴ってこなかった。『遊学』に収録した北一輝にも、ぼくは友人Sのことばかりを書いて、ついに北の何たるかを言及しなかった。
こういうことはいつまでたっても苦い悔恨が残るもので、それは和泉式部でもミラン・クンデラでも同じこと、感想をネジで留めておくべきときにはどこかへネジを買いに行っても、それをしておくべきなのだ。さいわい和泉式部(第285夜)やクンデラ(第360夜)にはネジをつくった。いや「千夜千冊」とは、そういうネジを1000本のうちの3分の2くらいはしっかり、手塩えをかけて特製する作業なのである。それを北一輝にもする必要がある。いいかえればつまり、ついつい北一輝に「仁義」をきってこなかった。それだけである。しかし、それこそはしておかなければならないことなのだ。
ここに採り上げた『日本改造法案大綱』は、2・26事件の青年将校たちの聖典となったものである。内容は驚くべきもので、天皇の大権による戒厳令の執行によって憲法を3年にわたって停止し、議会を解散しているあいだに臨時政府を発動させようというふうになっている。その3年のあいだに、私有財産の制限、銀行・貿易・工業の国家管理への移行を実現し、さらには皇室財産を国家に下付して華族制なども廃止してしまおうという計画になっている。そのほか普通選挙の実施を謳い、満15歳未満の児童の義務教育を10年延長することも提案する。その費用は国家が負担すべきだと書いた。英語を廃してエスペラント語を第二国語とすること、男たちが女性の権利を蹂躙するのは許さないこと、ようするに国民の人権を擁護すること、かなり進んだ社会保障も謳われている。
「 憲法停止。天皇ハ全日本国民ト共ニ国家改造ノ根基ヲ定メンガ為ニ天皇大権ノ発動ニヨリテ三年間憲法ヲ停止シ南院ヲ解散シ戒厳令ヲ布ク。 」
しかし、この改造法案は2・26事件ではなんら浮上しなかった。まったく無視された。話題にすらなっていない。北は「改造」のためにはクーデターを辞さないでよいという方針を出していたから、青年将校が決起したのは当然だとしても、暗殺は指示していない。また臨時政府の樹立には、北は真崎甚三郎の名を霊告によって直観したようだが、これは軍部にも政府にもまったく受け入れられなかった。最大の問題は、天皇に革命を迫るという主旨で、青年将校はその大胆不敵なヴィジョンにこそ酔ったわけではあるが、これこそまったく逆の結果を招いた。それではなぜ『法案』が神聖視され、かつ、みごとに打ち砕かれたのか。北がこの事件にみずから責任をとったとは思えない。逃げているとも思えない。
そもそも『法案』は大正8年(1919)の刊行で、それから昭和11年(1936)までは16年がたっている。もしそのあいだに北がクーデター(昭和維新)の計画の実施を練っていたとしたら、話は別である。北はそんなことはしなかった。一言でありていにいえば、書きっぱなしだった。しかし、しかしである。この『法案』はその半分くらいが結局は、上から実施されたのである。それこそがマッカーサーによる戦後改革だったという評者たちは少なくない。いったい、北一輝とは何をしたかった構想者だったのか。それとも何もしたくない口先だけの構想者だったのか。ぼくは長らく、この男の信条をはかりかねてきた。
一人で佐渡へ渡ったことがある。両津港から若宮通りの八幡若宮神社に参ると、北一輝と弟を顕彰する安っぽいとも慎ましいとも見える記念碑があった。表に北兄弟のレリーフ、裏が安岡正篤の碑文。地元の有志が建てたという。それなら安岡などに一文を頼まないほうがよかった。安岡が北を引き寄せるのでは、北の歴史は広がらない。しかし、この顕彰碑は北一輝ではなくて、弟の令吉(日ヘンに令のツクリ)に引っ張られていると思われる。弟は兄の危険な思想にいっさい近寄らず、早稲田の教授から温厚な衆議院議員となり、戦後の自民党長老の一人となった。そういう弟を北一輝はずっとバカ呼ばわりをした。よくは事情は知らないが、安岡はきっとこの弟とも親しかったのである。湊町61番地には北一輝の生家があった。かつては酒造りの家構えだったろうが、すでに斎藤蒲鉾店というふうに代替わりをしている。しばらく佇んて、何かを感じようとしたが無理だった。ついで勝広寺をたずねて椎崎墓地に入ると、そこに祖父北六太郎の墓があった。北の分骨がひっそり納められている。墓の前で手を合わせてみたけれど、北一輝と向かいあっている気はしなかった(ずっとのちのことになるのだが、大晦日近くの目黒不動に詣でていた時期があった。あるとき、そこに北一輝の墓があるのを知って、なんとも異和感をおぼえた。ここでは碑文を大川周明が書いていた。まだ安岡よりましである)。
「 児童ノ権利。満十五歳未満ノ父母又ハ父ナキ児童ハ、国家ノ児童タル権利ニ於テ、一律ニ国家ノ養育及ビ教育ヲ受クベシ。国家ハ其ノ費用ヲ児童ノ保護者ニ給付ス。 」
そんなことを思いながら湊町をぽそぽそ歩いてみたが、佐渡からは北一輝の気配がほとんど消えていた。実際は北は素封家の酒家で生まれ育ち、父親の慶太郎は両津の町長にもなったのである。北は分限者の長男として、何ひとつ不自由しなかったはずなのだ。午後遅く、佐渡空港に近い両津郷土博物館に入って、ついに本物の北一輝に会った。全部で6冊ほどの『北日記』である。昭和11年2月28日までの日記と霊告が、ガラスの向こうでかすかに口をひらいた。そのときのぼくは何も言うことがなかった。
北の霊告日記については、のちにその中身を知って驚いた。こんなことばかりを書くのは、どうみてもオカルト革命主義者としか思えない。出口王仁三郎ならともかくも、ここからぼくの北一輝を綴るのは不可能そうだった。しかし他方、法華経に傾倒した北からオカルティズムと革命志向を抜き去るのも馬鹿げたことで、それならどこかで北の霊告システムをなんとか力ずくで組み伏せてでも、日本近現代史はここをネジで留めておくべきだったのである。それをいつまでも放っておけば、たとえば石原莞爾の法華経も、近現代史の埒外に据えおかれたままになる。これについては、第378夜の『化城の昭和史』や第900夜の宮沢賢治のところに、少しく感想を綴っておいた。夕方近くドンデン山にバスで登って日本海を見渡してみた。なぜか渤海を感じたが、海には北一輝はいなかった。その夜は国民宿舎に泊まって、ハイネを読んで寝た。もう、40年ほど前のことである。
佐渡と北一輝。そこから思いを動かそうとしているのだが、記録や研究からは、この「故郷の男」を彷彿とさせるものはあまりにも少ない。それでも、憲兵少佐福本亀治の取調べに答えた記録には、「私は佐渡に生まれまして、少年の当時、何回となく順徳帝の御陵や日野資朝の墓や熊若丸の事蹟などに魅せられておりまして、承久の時の悲劇が非常に深く少年の頭に刻みこまれました」と述べている。まるで承久の悲劇を自ら引きずって2・26にまで至ったと言わんばかりだが、なるほど分限者の長男としての日々はどうでもよくて、佐渡の史実に刻まれた悲哀とでもいうものが、少年一輝にうっすら覆いかぶさっていたということなのだろう。北にはその文章のどこを読んでも「文化」が埋めこまれていないのであるが(僅かな詩歌がのこされてはいるが)、憲兵を前にしての述懐にも、たとえば世阿弥が佐渡に流されたことなど、一言もふれずじまいになっている。とくに怪しみたいのは日蓮の佐渡について一度も語らなかったということだ。日蓮こそは後半生の北をまっすぐに貫いたのに。
仮に土地の力(ゲニウス・ロキ)が北に大きな投影をしていないとしても、時代はぐりぐりと北を動かしていた。これは隠せない。明治16年に生まれたということは、10歳前後に自由民権運動の気運と、国会開設の動向を感じたということである。北は、いったい何を感じていたか。
「 今ヤ大日本帝国ハ内憂外患並ビ到ラントスル有史未曾有ノ国難ニ臨メリ。国民ノ大多数ハ生活ノ不安ニ襲ハレテ一ニ欧州諸国破壊ノ跡ヲ学バントシ、政権軍権財権ヲ私セル者ハ只龍袖ニ陰レテ惶々其不義ヲ維持セントス。 」
少年一輝は眼病を患っていた。また、写真でわかるとおり、斜視でもあった。そのことについても言いたいことはあるけれど、それは控えておく。鉄斎やサルトルやテリー伊藤をつなぐものまで説明しなければいけなくなる。読書は好きだったが、海や山とは戯れてはいない。北は自分では一度だけ「自然児だった」と言っていたことがあるが、自然児どころか、自然観照からもかなり遠かった。自分の計画を科学的だとも書いていたが、フィジカル・イメージのない構想者だった。それよりも、のちに1年にわたって上野の図書館に通いつめて『国体論及び純正社会主義』を仕上げたという“伝説”がのこったように、北はあくまで「文の人」なのである。それゆえ、少年期から作文が好きだった。漢字カタカナ交じりの文体は、いかにも北にふさわしく、北もその文体を磨いた。その文章には他人を鼓舞し、日本を立ち上がらせ、世界に対峙する力が漲っている。しかし、2・26にいたるまで、一度も「武の人」になろうとはしなかった。
その中学時代の作文には、はやくも尊皇心もあらわれている。尊皇心はあるのだが、天皇自身のあり方については、すでに一風変わった見方をしていた。「天皇は進化するものでなければならない」というものだ。天皇の進化――。これは北ならではの思想の萌芽とついついみなしたくなるが、これについては少し説明を要する。
「 天皇ノ原義。天皇ハ国民ノ総代表タリ、国家ノ根柱タルノ原理主義ヲ明カニス。 」
松本健一は、北一輝の特質が個人主義者にあると見ていた。これはあたっている。北自身、マックス・シュティルナーばりの「唯一者」たらんとするという自負をもっていた。高山樗牛の文章でニーチェの「超人」を知って大いに感嘆し、また岩野抱鳴が「自分を帝王とした世界」を称揚したことに、かなり共感したりもしている。そういう北が尊皇心をもって「天皇の進化」を問題にしたいというのは、このあとの北の思想形成の謎を解く大きな手がかりになる。松本の『北一輝』(現代評論社)はその後の北一輝論を大きくリードする好著であるのだが、その論旨のひとつは、「なぜ個人主義者の北が国家主義者になったのか」という点におかれていた。まさに最初の謎はこのことであるだろう。北は絶対的な個人主義者であって、「超人」としての「唯一者」でありたいと希っていた。それなのに、なぜ国家主義を提案し、国家の改造を求めたのか。超人宣言とは、進化を超越する立場の表明であろうはずなのに、なぜに「天皇の進化」などが必要だったのか。三島由紀夫だってこんなことは言ってはいなかった。この謎を解くには、いったんこの時代舞台に戻る必要がある。もういっぺん佐渡にまで戻ることになる。ただしそれは日蓮や世阿弥の佐渡ではなく、佐渡新聞にさかんに論評を書いた明治半ばの佐渡である。
北一輝が自由民権運動に影響をうけていたことは、ほぼ資料があきらかにしている。研究も進んでいる。自由民権思想にそもそも近代の個人主義をめざめさせる動機がふんだんに動いていたことも、いまさらいうまでもない。個人主義とむすびついたから、まさに「民権」だった。しかし、この自由民権的個人主義は、中江兆民がなかなかうまいことを言っているのだが、実のところは「恩賜的の民権」(三酔人経綸問答)だった。天皇という君主から与えられた恩賜の民権だ。この日本的民権は、半分は民衆から(といっても板垣退助の土佐自由党から秩父の農民までを含んでいたが)、半分は上から降りてきたようなところがあって、それが日本的に折衷した。北が佐渡にいたとき、まさにこのような“民権個人”の風潮がこの島にも巻き起こっていたわけなのだ。そこで北は考えた。このように天皇と個人がどこかで連動しているとなると、個人が「超人」や「唯一者」をめざしているときは、天皇や君主にもそうなってほしい。「天皇の進化」という言葉には、こうしたニュアンスがこめられていた。
「 日本国民一人ノ所有シ得ベキ財産限度ヲ三〇〇万円トス。私有財産限度超過額ハ凡テ無償ヲ以テ国家ニ納付セシム。 」
19世紀後半、ロシア・ドイツ・日本などの後発で資本主義をめざした国が何をしようとしたかといえば、国家主導による富国強兵をめざした。封建遺制がいろいろのこる国情のなか、この目標を完遂するには、「ツァール」「カイゼル」「天皇」というカリスマ権力を歴史的に温存し、その絶対主義的支配力を有効に活用しなければならなかった。それが後進国の戦略というものである。しかし一方、資本主義を浸透させるということは、アダム・スミスの言うとおり、そこに個人の判断が自由に動く必要がある。国民に個人主義が浸透することが資本主義の裏シナリオなのである。明治政府が立身出世を煽り、大学が知識の自由を与えようとしたのは当然だった。けれども個人主義があまりに放蕩を広げるなら、ここに民権の歪みもおこる。そこで絶対主義を背景とした近代国家では、君主自身が変質し、臣民を国民になっていくプロセスを立憲君主制のなかで共有する必要もある。ここで漱石ならば、国家の危機と個人主義の発揚と自己の脳天への鉄槌を切り替えて考えることができたはずである(第583夜)。しかし北一輝は、「個人の進化」(超人化)と「天皇の進化」(国体の進化)とがひとつの社会現象になるものと見た。これは北の不幸の始まりである。なぜならば、天皇に言及し、あまつさえ天皇の変質に言及して、日本の明日を語ることなど、まだこの国には許されていなかった(いまなおこのロジックをまともに提起できる者はいないままである)。それなのに、北はここを突っ切った、そして23歳にして一挙に書き上げたのが『国体論及び純正社会主義』という傑作だった。
早熟の23歳の著書は、明治30年台の日本を、帝国憲法からみれば社会主義国家で、藩閥政府と教育勅語でみれば天皇制専制国家で、社会経済面からみれば地主とブルジョワが支配する資本制国家であると、3段にみなしている。このうち、最初の国家観に立って、あとの二つを打倒してしまうというのが、北の革命になる。この異様な見方の前提になっているのは、北が、明治の維新革命は日本を社会主義国家にする可能性を開いたと見ていたということである。そして、それは帝国憲法によって法的に確立された。北の言葉でいえば「物格」が「人格」になったのである。そのように見ると、天皇専制という現状は、憲法が定める国体とは適合していないということになる。そこでこれを変更して天皇制を進化させ、さらに地主とブルジョワが占める制度をくつがえすことが、北のいう第二維新革命の骨法だった。
この破天荒な著書は発売5日にして発禁になった。これは北を逆上させていく最初のトリガーになる事件だが、そのぶん、幸徳秋水らの社会主義者たちからは人気を得ることともなった。河上肇も片山潜も書評を書いた。けれども、いまなら多少の見当がつこうけれど、北の社会主義はマルクス主義とはまったく交差していない。北は北一輝であって、その独自の理論の組み立てに、何も社会主義者の輸入理論などを頼る必要はなかったのである。それが社会主義者の歓心を買ったために、北に変な自信をもたせた。しかも北には国体の純正化こそが重要であって、それには民衆の蜂起がおこるよりも、天皇の軍隊の変質こそが必要だったのである。これは社会主義者からみればまったくおかしな議論であったはずなのに、このときは誰もそれを指摘しなかった。が、この著書はそんなことをアピールする前に、東京日日新聞などから不敬の対象になるとキャンペーンされて、まさに天皇制日本からの弾圧を食らったのである。北はこの弾圧には動じなかった。それどころか、天皇制政府というものは、このようにいつも過ちを犯し、手続きを踏み誤るものだとみて、いずれ天皇制をゆさぶるのはたやすいことだと、とんでもない過信をしたようだった。
「 生産的各省ヨリノ莫大ナル収入ハ殆ド消費的各省及ビ下掲国民ノ生活保障ノ支出ニ応ズルヲ得ベシ。従テ基本的租税以外各種ノ悪税ハ悉ク廃止スベシ。 」
その後の北が宮崎滔天らの「革命評論」に迎えられ、孫文・黄興・宋教仁らの中国革命同盟会の活動に接することになっていったのは、日本の天皇制を動かすにはまだ時間がかかるとみて、いったん中国革命にテコ入れをして、その余勢をかって日本に革命を再帰させようと考えたからである。むろん『国体論及び純正社会主義』だけで、日本革命がおこるとも考えていない。北も、そういうことは察知していた。察知したがゆえに、その国家革命の意志を中国に託そうともして、明治44年10月、中国に渡ってしまった。亡命ともいうべき「支那革命への没入」をはかったのだ。『支那革命外史』の執筆がこうして生まれた。北輝次という本名を北一輝と中国ふうに改名したのも、このときである。北はここから10年以上の時間を中国に投入する。けれども、ここでふたたび北の不幸が加算する。中国では五四運動が勃興し、排日運動が北をとりまいたのである。北は「さうだ、日本に帰らう」と決意する。そして帰る以上は、支那革命の理想を日本に翻案するべきだと思われた。『日本改造法案大綱』は、中国から日本への転換あるいは回帰の正当化のために書かれたとしか思えない。
2・26事件の青年将校たちが『日本改造法案大綱』をバイブルとしたことは、最初に述べた。この一書が昭和維新の聖典だった。北はこれを日本に帰る前の上海で書いた。大正8年である。その前年、満川亀太郎は老壮会をおこし、そこに大川周明が加わって猶存社が結成された。その大川が上海に密航して北に接触し、『日本改造法案大綱』の原稿を持ち帰った。満川はさっそくこれを謄写版印刷に付し、47部を配布した。
集約すれば、この『法案』の指示するところは「天皇の活用」と「国家社会主義の実践」という二つの構想が、奇妙に結びついたものになっている。この結びつき方は高度といえば高度、思慮がないといえばいかにも慌てて書いたというもので、滝村隆一の『北一輝』(勁草書房)や渡辺京二の『北一輝』(朝日選書)がそのことを分析していたけれど、いずれにしてもこれが青年将校に理解できたとは思えない。大正12年、『法案』は改造社から刊行される。甚だ伏字の多いものだった。いま、みすず書房版の本書にもその伏字版が収録されていて、これを見ていると、ぼくは急に北一輝の宿命を痛打された思いになる。何を北に向かって言えるものか。われわれは黙って北を感じるしかないではないかという気分だ。けれども、『法案』が2・26の青年将校たち、とりわけ『法案』の伏字部分にすべて書きこみをしていた西田税などに、さて、どんな果敢な負荷をもたらしたのかということを思うと、「天皇の活用」という北のヴィジョンがあまりに細部にわたりすぎて(どう考えても「天皇の活用」と「国家社会主義の実践」は別々のプランにしかなっていない)、かえってどんな青年たちにもその計画の意味を伝えられなかったのではないかという危惧をもつ。
「 「クーデター」ハ国家権力即チ社会意志ノ直接的発動ト見ルベシ。其ノ進歩的ナル者ニ就キテ見ルモ国民ノ団集ソノ者ニ現ハル、コトアリ。日本ノ改造ニ於テハ必ズ国民ノ団集ト元首トノ合体ニヨル権力発動タラザルベカラズ。 」
北一輝には、天皇を拝跪する気持ちがまったくなかった。北がほしかったのは、天皇に代わって自分を「超人」として拝跪してもらうことなのだ。大川周明は、そういう北の傲慢な「魔王」ぶりが気に食わず、袂を分かっていく。けれども大川のところにいた西田税は、北一輝についた。北はすでに大正15年に『法案』の版権を西田に譲っている。厳密にいうのなら、この時点で北は自分の日本革命企画を、自分の手から放してしまったのである。そのかわり、北は新たに拝跪する絶対世界を得た。それが法華経の世界である。ここでヴィジョンががらりと上下に切り替わる。仏が天皇の上に立ち、その仏の高みから「天皇の軍隊」に指令をくだすという、それまでの北の従来にないヴィジョンがここに起動した。2・26事件の渦中、北が仏前に祈っていたというのは、きっと本当のことだろう。一方、磯部浅一は2・26事件の直後に、こう呻吟していた。「日本には天皇陛下はおられるのか。おられないのか。私にはこの疑問がどうしても解けません」。
青年将校たちにとっては、天皇を悪用する「君側の奸」を除去することがクーデターだったのである。しかしながらいくら天皇の権威に群がる「君側の奸」を打ち払っても、天皇は姿をあらわさなかった。それどころか、天皇は将校決起に激怒した。天皇は青年将校のテロリズムを憎んだだけではなかった。自分を騙る者に激怒した。おまけに、天皇の怒りは青年将校の向こう側には届いていない。皇道派の青年将校たちに対して、いわゆる統制派とよばれた幕僚将校たちこそ、天皇中心の“錦旗革命”を標榜しつつ、実は天皇の“大御心”を信じてもいないくせに騙ろうとしていたはずなのである。しかし、天皇は統制派には文句をつけなかった。
「 維新革命以来ノ日本ハ天皇ヲ政治的中心トシタル近代的民主国ナリ。何ゾ我ニ乏シキ者ナルカノ如ク彼ノでもくらしいノ直輸入ノ要アランヤ。 」
日本には幕末維新を通して、互いに異なる二つの天皇論が並列処理されてきた。ひとつは吉田松陰に代表される精神派(社禝派)で、民族民権の根拠として天皇を中心とした組み立てをしたいと希う考え方である。もうひとつは横井小楠に代表される合理派(近代派)で、天皇を制限君主として立憲君主制のもとに近代国家を組み立てたいという考え方だ。この二つは、明治維新では表向きだけで合流したにすぎなかったのに、自由民権運動をへて帝国憲法にいたる過程では、天皇を精神的にも合理的にも活用するという両義的体制の確立に向かっていった。大久保利通や伊藤博文はあきらかにこのことを知って、明治立憲君主の体制を整えた。そこに大きな二枚舌が動いた。大久保・伊藤は、天皇が政府・軍部のトップにとっては単なる天皇機関説のシンボルにすぎないことは常識でありながら、これを公言することは絶対にしてはならぬものと戒めていた(いわば密教的天皇論)。一方、政府や軍部の下部組織や国民に対しては、天皇が絶対服従をもたらす崇敬の対象でなければならないことは絶対公言によって伝わるべきものだと考えた(いわば顕教的天皇論)。
日露戦争前後から、この絶対秘密と絶対公言という両義的な天皇活用度は一挙に広まっていく。明治政府からすれば事態は好ましく誘導されていると思われたはずである。ところが、そこに立ち現れたのが北一輝だったのである。北はその鋭い洞察力をもって、密教的天皇論を“合理”として、“近代”として、見抜いてしまったのだ。皇道派の青年将校は、最初から最後まで顕教的天皇論の中にいた。青年将校のヴィジョンは、そもそもが権藤成卿(第93夜)や橘孝三郎の農本主義に近かった。それなのになぜ北の構想に従えたかといえば、その構想が、密教・顕教ともに出発点を同じくしたと見えた明治維新の原点(国家社会主義の原点)を継ぐ、第二維新革命と定義されていたからだった。
2・26に青年将校を駆り立てたのは、直接には相沢三郎が永田鉄山を一刀のもとにを斬り捨てたことだった。また、農村疲弊の突破にはやる熱情の噴出だった。決起が2・26に定められたのは、青年将校の本拠である第一師団が満州派兵の“用具”にされていった急転直下の事情を食い止めたかったからだった。かつてはぼくも見間違えていたのだが、宇垣一成大将を据えた昭和6年の三月事件や建川美次少将を据えた十月事件は、あれは2・26への前哨などではなくて、むしろ統制派の軍事クーデターのための布石であったのだ。そうだとすれば、北一輝の改造法案構想はまさにこの統制派の布石をとっくの昔に読み切ったものだったわけで、だからこそ、統制派からすれば5・15や2・26の重要人物暗殺の連打によって、北と青年将校が共倒れになることは、願ってもないことだったのである。もうひとつ、ここに動いたものがある。それが第914夜の『この国のかたち』にのべておいた統帥権干犯の問題だ。天皇を実用的に持ち出したのは、北一輝ではなくて、結局軍部幕僚たちだったのである。そして、司馬遼太郎が期待した日本の「真水」は、北によってではなく、青年将校の嚥下に飲み下されたのだった。もはや詳しい感想を述べるまでもないだろう。
恋厥(れんけつ)という。恋い焦がれる心情をいう。2・26の青年将校にはあきらかに恋厥がある。しかし、恋厥をもって希望をもつか、絶望も辞さないかというと、ここからは思想や構想を超えるものが出てくる。雪降りしきる2・26は、最後の最後のところで、この問題に抱かれる清浄なものを流出させた。のちに三島由紀夫は『文化防衛論』に、「絶望を語ることはたやすい。しかし希望を語ることは危険である」と書いた。それもそうであろう。三島はこのとき磯部浅一一等主計の遺稿のことを言ったのだ。けれども、2・26事件にはまた、安藤輝三大尉の行動というものもある。安藤はクーデターがすでに天皇から見放されたことを知ったのちも、希望も絶望ももたずに、永田町付近の一角をただ一心に見守り続けたのである。いまふりかえれば、こういう北一輝がいてもよかったような気がする。事件というもの、ときにシテよりもワキによってその本来を告げるものなのだ。それならそこには「文の人」も「武の人」もない舞台があってもよかったのである。佐渡がただ沛然と湧きおこる複式夢幻の革命児があってもよかったのである。
「 只天佑六千万同胞ノ上ニ炳タリ。日本国民ハ須ラク国家存立ノ大義ト国民平等ノ人権トニ深甚ナル理解ヲ把握シ、内外思想ノ清濁ヲ判別採拾スルニ一点ノ過誤ナカルベシ。 」
 
亜細亜主義と北一輝

 

グローバリゼーションとアメリカナイゼーション
私が「亜細亜主義」という言葉を書き綴るようになったは、一九九九年の「WTOシアトル総会」がきっかけです。当時は「亜細亜主義」という言葉を大量に売れる刊行物の中に表立って書く事には勇気がいりました。ところが実際には拍子抜けで、何の反発もありませんでした。「あ、みんなもう知らないんだ」ということがよく分かりました。
今年(二〇〇三年)私は朝日新聞に、憲法改正についての論説と、亜細亜主義についての論説を載せました。両方ともデスクが突っ返してくることを期待したんですが、これまた何の抵抗もなくスルーしたんで、「ありゃ、ありゃ」という感じです。「民度が上がった」ので受け入れられるようになった──なんてことは、ありえないでしょう。
むしろ、何もかもが忘却の彼方にあるということなのです。とすれば、忘却の意味を理解するためにも、なぜ私が「WTO総会」の後に「亜細亜主義」の見直しを提案したのかをお話ししたい。それは追って話すとして、私の提案にアジアの留学生たちが反発してきたので、誤解を回避するべく「盟主なき亜細亜主義」という言い方をするようになりました。すると留学生の方々も、驚くほどすんなり納得してもらえるようになったのです。
盟主なき云々の問題は、「亜細亜主義」の弱点とも密接に関ってきますので、後で触れるでありましょう。いつもそうですが、私は事前に何の準備もしてきてないので、皆さんの顔色を見ながら話の方向を変えていきます。ですから、話が嫌な方向になったときは、みなさん、嫌な顔をして下さいね。
まず最低限の基礎知識から始めます。今日グロバリゼーションと言われるものと、帝国主義時代のグロバーリズムとは根本的に違います。そこから始めましょう。WTOへの反発を理解するためにも大切なことです。帝国主義的グローバリズムとは、簡単に言えば、軍事力を背景にした経済的覇権追求です。とりわけ九〇年代以降には、それまでの「国際化」(インターナショナリゼーション)という言葉に替わり、「地球化」(グローバリゼーション)っていう言葉が出てきました。
その背景にあるものは何か。問題をグローバリズムには還元できません。グローバリゼーションっていうときに最も重要なのは、「自発性」──「服従者の自発性」──です。「服従者の自発性」という問題を北一輝も意識しているんですけれが、先の「WTO総会」につながる直接の概念的ルーツは、私の記憶の範囲で言うと、スーザン・ジョージ、あるいは師匠筋にあたるレイチェル・カーソンでしょう。
分かりやすく言うと、こうなる。貧乏な南側の国がある。豊かになろうとする。そのために「近代化」しようとする。キーワードが出てきました。「近代化」。そのためには外貨を獲得しなければいけない。それゆえに換金作物に作付けを換える。すなわち一次産品を輸出して得た外貨で「近代化」する。抽象的にいうと流動性から収益をあげようとする。
すると国際市場で買い叩かれて構造的貧困に陥る。それに気付いて後戻りしようにも、土地には農薬がぶち込まれてスカスカ。マングローブは破壊され、森林は砂漠化している。つまり伝統的な自立経済圏を支えるインフラはズタズタ。だから永久に近代的システムに従属しつつ「構造的な貧困」に甘んじるしかない。ここにあるのは、軍事力を背景とした経済的覇権追求というより、「幸せになるために近代化しよう」いう「自発性」です。
当初は一次産品だけが問題でした。今やWTOというスキームにまで関係しています。要は自由貿易を前提に、国際的な部品調達ネットワークから収益をあげる仕組みです。かつてNIESと言われた諸国も含めて、工業化を遂げようとすれば、国際的な部品調達ネットワークに組み込まれるしかない。流動性から外貨を獲得する以外にないので、WTOスキームに組み込まれるわけです。
その結果、先進諸国、というより、アメリカ一国に対して従属的立場に陷ってしまう。これが「WTOシアトル総会」が、アンチ・グローバリゼーション=アンチ・アメリカニズムを起爆させた理由です。象徴的なのが、今や世界社会フォーラム(WSF)で活躍しているジョゼ・ボベのマクドナルド打ちこわしです。彼の行動についてはフランスの世論調査では六割の国民が「理解できる」としています。すごい民度だと思いませんか。もし私が日本でマクドナルドを打ちこわしたとしたら「気が狂った」で終わり。
こうした欧州の民度には二つの背景があります。一つは、自立経済圏やそれに結びついたコミュニティー的なライフスタイルが現に存在して、「グローバリゼーションによって失われるものがある」という痛切な感覚を抱いているという事実です。グローバリゼーションによって破壊される伝統があるという感覚であるとも言える。日本には、維新以降の近代化や戦後復興の図式ゆえに、こうした感覚は昔も今も全くと言って言いほどありません。
もう一つ、それにも関係しますが、ECSC(欧州石炭鉄鋼共同体)からEU(欧州連合)にいたる思考伝統があります。第二次大戦後ひたすら流動性から収益をあげるようになったアメリカという国を睨んだ、欧州の相互扶助的な連合構想の伝統です。むろんアンチ近代ではありません。
「近代化」は不可欠としつつも、やり方次第では「対米従属」してしまう。それは回避せねばならない。エネルギー安全保証、食糧安全保証、技術的安全保障──今日ではIT安全保障──、文化的安全保障などの観点から、ある種の「近代化」を回避し、別種の「近代化」を遂げねばならないとの発想が、長く抱かれてきています。
それらの伝統が、アメリカン・グロバリゼーションを背景に、九〇年代の末に噴出したわけです。そのことをもって、まさに日本人たる者は、そこに「亜細亜主義」の本義を見なければいけないという思いを私は抱いたんですが、そう思った人が他にもいるはず──思ったところが、どうやらオッチョコチョイな私だけだったようであります。
ところが最近、「亜細亜主義」関連のイベントが随所で開かれるようになりました。本日もまた然り。こういうイベントに私が呼ばれるようになったところを見ると、9・11からイラク攻撃に至るアメリカの行動ゆえに、皆さんがようやくヨーロッパに比べて数十年遅れで、「近代化」に対して単に「反近代」を掲げる「ノーテンキ左翼」を脱する機会がやってきたように感じて、感無量です。
すなわち、「近代化」のやり方次第ではヒドイことになるがゆえに、「近代化」のやり方を熟考しなければならないだという発想が出てくるようになった。確かにアメリカの野蛮な行動は、世界にとって不幸なことではあります。しかし、転んでもただでは起きず。不幸は最大限利用しなくてはならない。そういう観点からすれば、我々は新たなるステージに立つに至った、という風に私は思いたいんです。まさしく願望。I hope。
むろんどうなるかは分かりません。正直申し上げると、むしろ日本の民度はこれからどんどん下がるであろうというのが私の観測です。それは北一輝が、日本が新たなるステージに立ったと考えた『支那革命外史』から、国民の天皇が望んでおいでであるとの幻想を利用しようとする『日本改造法案大綱』に移行せざるを得なかった深いニヒリズムと、同種のものである可能性すらあります。
事実は、私は昨年『絶望から出発しよう』という本を上梓いたしました。そのタイトルは、実は、北一輝の──私は別に法華経の信徒ではないんですが──法華経的な「絶望を背景とした現世極楽浄土主義」になぞらえたものであります。などと言うと、抹香臭いヤツだと思われるでしょうから、やはり今の話は取り消しましょう。まあちょっとはヒントになったかなというくらいにしておきましょうか。
亜細亜主義の本義と多様な方向性
亜細亜主義をどう理解したらいいか。ここまでの話でご賢察の通りであります。「近代化」には幾つかの異なる方向性がありえます。その「オルタナティブな近代」を構想する思想が「亜細亜主義」であったというのが私の理解です。その理解によれば、亜細亜主義の本義なるものは恐らく三つあると思います。
第一に、日本は徹底的に「近代化」せねば欧米列強に屠られるより他ない。よって「近代化」を徹底すべし。第二に、しかし「単純欧化主義」を頼るのみでは、──先のスーザン・ジョージ思想の嚆矢と言える発想ですが──欧米に従属的たらざるをえなくなるばかりか、──岡倉天心に発し且つ三島由紀夫の文化防衛論にも通じる発想ですが──日本は「入れ替え可能な場所」になってしまう。ゆえに「単純欧化主義」たらざるべし。言い換えれば、近代化にもかかわらず護持すべきパトリがある、とする発想です。
ちなみにこのパトリたるや、岡倉天心のようにインドから西南アジアまで含むような構想もあれば、北一輝や宮崎滔天のように中国革命と日本革命を重ねる立場、中国を除いた極東アジアの連合を構想する立場、日本一国を構想する立場、藩レベルの範囲を志向する立場など、範囲は論者によって防縮自在であることに注意する必要があります。亜細亜主義という場合、パトリを一国範囲よりも広く取るというだけの話であります。
そして、亜細亜主義の本義の第三は、日本一国より大きく取られた範域で、欧米列強に屠られざるべく、あるいは「近代化」の一定のやり方から来る害悪を取り除くべく、軍事・経済・文化的なブロック化を志向するべし、というものです。私の書物にあるような現代的言い方では、国家を超える範囲にも国家より小さな範囲にも通底する「マルチレイヤー化した異主体システム」ということになるでありましょう。
金融・財政レイヤーは最大の行政単位、軍事・外交レイヤーはそれより小さな単位、エネルギー供給や食料供給レイヤーはもっと小さな単位、ゴミ処理レイヤーはさらに小さな単位、教育・文化レイヤーは最小単位という具合。要は、過剰な流動性を遮断して、多様性を護持するということです。近代に特有の流動性によって均一に塗り込められてしまわないうにしようというわけですね。
ご存じの通り、近代は流動性と多様性を共に上昇させてきました。すなわち流動性から収益をあげるべく、外国人労働者の流入や、帝国化──帝国主義化ではありません──に見るように、域内多様性を深化させて来ました。ところが、近代が一定の成熟度に達すると、流動性と多様性を共に上昇させることが困難になる。結果、流動性からの収奪を優先させるべく、ノイジーな多様性を粉砕しようという志向が強くなります。それが先進各国で80年代に生じたネオリベ化であり、それに引き続くネオコンの変質──多様性優位から流動性優位への──で、今日のアメリカン・グローバリゼーションにつながる。
つまり、亜細亜主義を嚆矢として今日のEUにも見出されるオルタナティブな近代化構想とは、一口で言えば、「流動性から多様性を護持する」あるいは「収益よりも共生を重視する」ものだと言えます。亜細亜主義というと、大陸侵略正当化思想という具合に思い込まれて、今ではいかにも聞こえが悪い。実際、そのように機能した歴史的事実もあろう。しかし、西郷隆盛に発する亜細亜主義の本義は、まさしく「流動性から多様性を護持」し、「収益よりも共生を重視」する、オルタナティブな近代構想にあると言えるのです。
政治思想史に詳しい向きは、七〇年代のアメリカでなされたリベラル対コミュニタリアンの論争以降の論争史を想起するべきです。当初リベラリズムは多様性を無視して流動性に加担する思想だとしてコミュニタリアニズムの側から攻撃されていました。もちんろ今では馬鹿を除いては両者が対立する思想だと思う者はいません。自由を利用して流動性ではなく多様性を選択する。自由を利用して収益価値ではなく共生価値を志向する。まさしくオルタナティブな近代と称しうる所以です。
こうした発想は社会学に馴染みやすい。なぜなら社会学には「あらゆるものには前提がある」とする思考伝統があるからです。「自由には、自由にならない前提がある」。かかる思考はヒュームの黙契思想に遡りますが、社会学ではデュルケームの「契約の前契約的前提」という概念に結実します。他方マンハイムの言うように、近代社会ではもはや伝統主義は「反省された伝統主義」──再帰的伝統主義──である他ない。伝統主義と言っても、伝統とされるものをあえて選択するという近代的な人為の営みがあるに過ぎない。
これを総じて、自由の護持には共同体的な前提が必要であり、共同体の護持には自由の護持が必要である、との循環が見出されます。自由と共同体は互いに前提を供給し合う関係にあるとするのが、前提を遡る使命を自らに課す社会学の見解であります。社会学では、これを「自由と秩序の問題」として議論して来ました。馬鹿は、自由が増えると秩序が減り、秩序が増えると自由が減ると見倣す「自由と秩序のゼロサム理論」をとります。これが全くの出鱈目であることは拙著『自由な新世紀・不自由なあなた』に詳述しました。
素人に分かりやすく言うと、「君が代斉唱」を強いる自称ナショナリストたちの振舞いがあるとする。しかしそれはいかにも脆弱な「ナショナリズムもどき」です。むしろ先生が「お前たち、無理に歌わなくても良いのだぞ」と呼びかけても、子供たちが「先生、私たちは歌います」とすっくと立ち上がるときにこそ、つまり自由なのにコミットメントするときにこそ、ナショナリズムは強固な実質を持つことになるのです。
この発想は、もちろん若き北一輝の『国体論、及び純正社会主義』に見出されるものです。ことほどさように、九〇年代に爆発したグロバリゼーションの中で、元来は別々のルーツや系譜を持つはずの、まったく別の時代、別の地域の、思想の流れや行動原理の流れが、皆さんの頭の中では接続可能になってきた──少なくとも私の頭の中では接続可能になってきた──わけです。だからこそ、今や亜細亜主義が見直されるべきであり、北一輝が見直されるべきなのであります。
近代には、多様性よりも流動性を優位させるアメリカンなタイプと、流動性よりも多様性を優位させる──収益よりも共生を重視する──オルタナティブなタイプがあると言いました。政治思想がどうたらこうたらということよりも、亜細亜主義の政治的実践者や、欧州主義の政治的実践者が、こうした対立を明確に念頭に置いていた歴史的事実を参照せよというのが近年の私の呼びかけです。
むろん一筋縄ではいかない。たとえ教養なき誤解曲解や、意図された誤用濫用があったにせよ、それを防遏できなかった責めの一部は、亜細亜主義者や欧州主義者に帰せられるべきであり、さらにそうした問題をはるかに超えた内在的弱点があることも事実です。それについては、リベラリズムの限界とも関わる論点でもあり、大問題ですので、機会を更めるとし、ここでは一つだけ本質的な補足を加えておきましょう。
それは、オルタナティブな近代が許容する「多様性」なるものには限界があるということです。要は近代というシステムに乗っかり得る限りでの「多様性」を許容するということ。近代内部の共生原理に合わないものは、いかに多様性が重要なりといえども、許容すべからず。これです。この一点において、文化的多元主義──近代と両立可能な多様性のみを許容する立場──と、多文化主義──近代と両立不可能な多様性をも許容する立場──とが分かれる。これはもはや周知の事実でありましょう。
私自身ははるか以前から主張してきたように、オルタナティブな近代を賞揚する「近代主義者」であります。よって、近代の枠組みと両立可能であるような「多様性」以外は根本的には認めません。と申しますと、「亜細亜主義とそんな宮台思想が両立するんか?」と思われるかもしれません。両立どころか、論理的に思考すればぴったり重なるんですね、これが。まあ、いずれ皆さんにもお分かり頂けるときが来るでありましょう。
「流動性」と「多様性」
さて、亜細亜主義を見直すに際して不可欠な事柄ですので、復習しておきます。一九七〇年代以降の政治哲学において、流動性と多様性のどちらを優先するのかということが最重要課題となりました。これは、どっちが論争的に強いかといったフニャケた話ではなく、体制選択──アメリカンな近代かオルタナティブな近代か、あるいは単純グローバリゼーション型近代か屈折グローバリゼーション型近代か、あるいは単純欧化主義か屈折欧化主義か──に直結する立場選択だということを、再確認しておきます。
日本には馬鹿が多いので、ネオリベラリズム(新自由主義)というと「小さな政府」とか「自助努力」といったクリシェしか想起できない輩で溢れています。そこから「自己決定論批判」などをホザク輩もいる。そんなことはどうでもいいんです。本質はむしろ、「社会政策の遂行」──再配分に象徴されるような──よりも、「法的意思の貫徹」──重罰化や排除──を優先させるオリエンテーションにこそあります。これを一気に縮めて表現すると、「流動性と両立不可能ならば多様性を抑圧せよ」という命令文となります。
だからこそ、ネオリベはある種の保守主義や共同体主義と結びつくのです。政府を小さくするから民間のセクターに頼らざるを得ないというだけでは、古典的な性別分業肯定や同性愛否定を説明できません。むしろ、社会内部の多様性の温存やそのための少数者への再配分こそが効率の妨げになり、かつこれらの排除こそが範域内部の同質性を健全に保ちうるという「一挙両得」的発想の然らしめるところです。範域を国内にとれば英国的なネオリベですが、範域を国際社会に取れば米国的な変質ネオコンとなる次第です。
これに対して、流動性よりも多様性を、収益価値よりも共生価値を優先する、オルタナティブな発想があります。この立場は私が取るところですが、「社会政策の遂行」と「法的意思の貫徹」のバランスを、飽くまで重視します。七〇年代ならばコミュニタリアン的と称されたであろうこの立場は、今日ではリバタリアン(自由至上主義者)を相手にリベラル(自由主義者)が取るべき立場であると考えられています。
憲法学者であり且つネットの公共性を担保しようとする『コード』『コモンズ』の著作を持つローレンス・レッシグに象徴的です。かつてインターネットに関わる者といえばサイバー・リバタリアンが相場だったのに、今やサイバー・リベラルとでも称すべきレッシグ的立場が影響力を持つに至っています。サイバー・リバタリアンは、かつての米国リバタリアンと同じく、フロンティアが無限に拡がっているという前提に立って、ネット空間を「公共財」──非排除的で非競合的な空間──だと見倣していました。
ところがフロンティアが限られた範域しか持たないことが明らかになるにつれ、ネット空間は非排除的ではあっても競合的な──誰かが取れば誰かが失う──「共有財(コモンズ)」だと見倣されるようになります。すなわち、自由至上主義的な価値を主張するだけでは、失う者は失うがままに放置され、共生(コンビビアリティ)と両立しないことがはっきりしてくる。
「市場の限界(飽和)」や「資源の限界(枯渇)」や「環境の限界(汚染)」がある中でヨリ多くの人々が自由であるためには、公共財視点から共有財視点への移行が──リバタリアン視点からリベラル視点への移行が、流動性優位から多様性優位への移行が、収益価値から共生価値への移行が──必要不可欠になります。
リベラリズムは、共生価値を担保する前提にコミットメントするべきだとの価値観を主張し、この価値観に基づいて自由至上主義的な行動への介入の必要を主張します。これは一つの価値的な立場選択です。先に近代が再帰的(反省的)たらざるを得ないがゆえに、伝統主義もまた再帰的(反省的)なのだと言いました。これを拳拳服膺すべし。近代(計画や人為)に対して伝統(自然や非人為)を対置できるという発想を排除するべきです。
分かりやすく言えば「為すも人為、為さざるも人為」。要は「伝統も選択、伝統破壊もまた選択」。「共同性もまた選択、共同性軽視もまた選択」。人為も不作為も横並び。伝統も伝統破壊も横並び。共同体主義も共同体軽視も横並び。いずれかが本来的で、余りが非本来的だ、などという素朴な潜入見を排除せねばなりません。各人が人為によって──すなわち自由を行使して──共同体(とされるもの)や伝統(とされるもの)を護持するか否かを、常に選択しているわけです。
亜細亜主義は、流動性よりも多様性を、収益よりも共生を重視する、近代思想です。いや、そういうもの「だった」んです。しかしある時期から全然違うものとして理解されるようになる。例えば、満州事変(昭和六年)以降の大陸進出で忸怩たる思いを抱いていた知識人らは、日米開戦(昭和一六年)で一転元気になります。当時の朝日新聞一面に中野正剛が勇ましい署名入り記事を書いていたりするのが典型です。
それまで大陸進出が亜細亜主義の大義に悖る──「アジアを列強から護持する」よりもむしろ「列強と競ってアジアを侵略する」──ように見えて困っていたところに、対米宣戦布告で、15年戦争の全体が「欧米列強からアジアを守る」亜細亜主義の大義に基づくと信じられるようになったというわけですね。開戦から随分時間が経って、ようやく重光葵外相の下で大東亜憲章が出され、大東亜戦争の目的が厳格に定義されたのと同じこと。
ことほどさように亜細亜主義は、体よく「跡づけの理由」に利用された。「中国大陸に侵略なんてしていいのか?」「いいのだ。これは亜細亜主義に基づくものなのだ」「ウソつけ、この野郎!」という感じですな。そういう次第で「亜細亜主義」なるものが、アジアの人々にとって、そして何より戦後の日本国民にとって、タブーの思想になってしまう。これはこれで当然なことなのであります。
加えてこういう事情もある。三一年の満州事変以降、まず「日支連合」の構想があり、それを日満支連合に拡げた「東亜新秩序」の構想があり、さらにそれに印度と東南アジアとオセアニアを加えた「大東亜共栄圏」の構想が生まれてくる。人呼んで亜細亜主義というと、まずもってこの流れが想起されてしまうわけですよ。「亜細亜主義」と「大亜細亜主義」という言葉が互換的に使われてしまうのも、そうした事情を背景とします。実際、多くの亜細亜主義者がかかる構想を支持した事実もある。
皆さん、私が「亜細亜主義を見直せ」と言うからといって、そんな事前的・事後的な正当化スキームを再評価するべきだ、なんて言うわけないじゃありませんか。くれぐれも誤解やご心配のないように。私が「亜細亜主義」という言葉で申し上げたいのは、本来の亜細亜主義者とは、「近代」と言いつつその実「欧米近代」に過ぎない実態を見抜いた上、オルタナティブな近代を構想する者の謂いだということです。今日の「マルクス主義者のなれの果て」に見るような稚拙な「反近代主義者」ではなかったということですよ。
「亜細亜主義の本義」について考えるにつけても問題になるのは、その都度の情勢判断です。アジアでいち早く「近代化」をとげた日本こそがアジア各国に近代革命を輸出すべきなのか。それとも近代化を遂げたと見えた日本が明治新政府の腐敗と堕落の渦の中に留まる以上、辛亥革命などを契機として大陸の革命を日本に輸入する方向で考えるべきなのか。むろん前期の北一輝は後者の線で考えたわけであります。後期の北になると、そうした革命輸入の可能性すらありえないほど日本の民度は低いという発想になっていきます。
遡れば、『脱亞論』の福沢諭吉のように、亜細亜主義なるものの本義はよく心得てはいるものの、日本以外のアジア諸国にはいかんせん近代化の芽すらなく、近代革命の輸出などにかかずらわっていては、単に足手まといになるだけ。ゆえに日本一国がまず欧米列強に屠られないレベルへと近代化を遂げるべし、と考える立場もありました。
実際に、アジアが欧米列強帝国主義の草刈り場となり果てる中、さてアジアがそもそもどういう状況にあり、その中で日本がどういうポジションにあるがゆえに、一体何を為しうるのか。そういうことについての情勢判断の分岐が、亜細亜主義者の内部で相当に鋭く、また一人の思想者の中でも大きく揺れたわけです。それが現実政治における闘争とも結びつき、重要な人間たちが処刑されていく歴史もありました。この対立軸を、今日もう一度きちんとなぞり直しておくことが必要だと思われますが、今日はスキップします。
抽象的な話に戻して、亜細亜主義の本義たるオルタナティブな近代構想、すなわち「流動性からの多様性の護持」「収益価値からの共生価値の護持」というとき、私が想起するのは、明治では西郷隆盛・岡倉天心の二名、昭和では北一輝・大川周明・石原完爾の三名です。北一輝については、思想というより、むしろその思想遍歴が参考になります。
北一輝はデビュー作から物凄い事を言っています。『国体論、及び純正社会主義』という早稲田大学の聴講生の時に書いた文章があります。要は、社会主義者たる輩が、なぜ自らの主張が国体論に抵触することを明確に言わず、あたかも社会主義と国体──天皇中心的な国家体制──とが両立するかのごとき欺瞞的メッセージを発しているかとコキおろす。そして、むろん北自身は、国体と両立せざる純正社会主義の立場を採ると言うんですね。
天皇についてはもっと面白いことを言う。「万世一系の皇室を奉戴するという日本歴史の結論はまったく誤謬。雄略がその臣下の妻を自己所有の権利において奪いし如き、武烈がその所有の経済物たる人民をほしいままに殺戮せし如き、後白河がその所有の土地を一たび与えたる武士より奪いその寵妾に与えし如く…うんぬん」。こんな、悪辣なことをする皇統のご先祖さまなるものは、日本人にとって戴くに足らずということを宣言している。
「もとより、吾人と言えども最古の歴史的記録たる『古事記』『日本書紀』の重要なる教典たることは決して拒まず…うんぬん」から始まる文章では何を言うかと思えば、神話のごとき非科学的な妄念によって天皇を正当化するなどとんでもないと言うのです。時間はないので朗読はやめますが──実は後で言うように朗読が大切なのですが──神話ならざる何によって天皇を正当化するのかというと、中大兄皇子によってだと言う。
要は、天皇が革命家天皇である限りにおいて──まあ辛うじてそういう歴史もあったりするんで──、国民は天皇を尊崇し、天皇自身は中大兄皇子をモデルとして行動すべきだと。天皇がそのように行動したときに限り、「国民の天皇」──これは『日本改造法案大綱』の中で使うようになる言葉ですが──でありうるのだと言う。
初期に北一輝が考えていたことは、当時日本の社会主義者が考えていたことを、圧倒的にラディカルにしたものであると言えるでしょう。例えば、彼は、暴力革命を否定し、投票主義を挙げています。プロ独だろうが何だろうが国家による強制を一切否定するかわりに、民衆によるある種の自治能力、これを強固に信頼するというわけです。
しかし、残念ながらと申しましょうか、初期の北一輝に存在するある種の「民衆ロマン主義」は、後期になると「崩れていく」ように見えるわけです。私自身は北一輝に実存的にコミットメントするところがあるので「崩れていく」とは思わないんです。私の読み込みと言ってもいいのですが、「民衆ロマン主義」の素朴さだけでは残念ながら本懐を遂げられないという風に考えるようになっていく。その本懐とは何かというところにこそ、北一輝の「亜細亜主義者」としての志を見出すことができるんです。
北一輝は孫文が大嫌いでした。なぜ嫌いか。理由は、西郷隆盛が大久保利通以下明治政府の重臣たちを批判して決起をする──というか決起をさせられてしまうんですが──経緯と、同一の問題に関係しています。つまりは孫文が「単純欧化主義者」だったからです。単純欧化主義者の明治政府重臣たちが、国粋とは名ばかりに権益にぶら下がる形で私腹を肥やす腐敗堕落ぶりを、西郷に倣って知っていた北一輝は、単に西欧産の「近代化」を目指すだけでは、この国は、アジアは、駄目になるという明確な意識を持っていました。
同じく、西欧近代の産物たるマルクス主義に単に従うことも、日本国民の魂の何たるかを心得ない振舞いだとして退ける。だからこそ「革命」ではなく「維新」だと言うのです。北によれば、「革命」は虐げられたる者どもの怨念がベースになるが、「維新」にはそれのみならず、革命によって保全されるべき入替え不可能な本質に対する意志がある。「革命」と「維新」が対立するのではなく、「革命」だけでは足りないと言うのです。
それは、「近代化」と「亜細亜主義」が対立するのでなく、「近代化」だけでは足りないという発想とパラレルです。単に「近代化」するだけでは、我が地は入替え可能な場所になる。同様に単に「革命」するだけでは、我が魂は損なわれる、と。この入替え不可能な本質、損壊を許さぬ魂を、ご都合主義的に実体化する辺りから、北の思想が馬鹿者どもに利用され、戦中国体論の翼賛思想だと思われていくのでありましょう。
「魂」を否定できるか?
しからば、この「魂」を単に否定すれば済むか。「宮台、とうとうおかしくなりゃがったな」などと思わないで下さい。分かりやすい例を出します。ついこの間、小泉総裁選の前々日でしたか「クローズアップ現代」が諫早湾の水門の問題を取上げました。番組では、諫早湾の水門を閉切ったことで湾内の水が澱み、なおかつ湾内の海苔養殖業者が使う海苔育成の薬品のために無酸素水塊が発達して二枚貝と在来魚種が死滅していくのだと言う。かくしてヘドロ化した有明の浜辺が写し出される。
皆さん、総裁選を前にNHKにしてはイイ線いってると思いましたか? 私は「ケッ」と思いました。「諫早湾を守れって」って、何を守れって言ってるんだよ。いいですか。水門を閉める前から有明海じゃ魚や貝が取れなくなったんで、多くの業者は海苔養殖業者に転業していた。海苔業者が使う薬でスゴイ勢いで有明海の生態系が変わってきたのは事実。そういう流れの中で水門を閉めたわけ。どこがいけないんですかあ? 有明の海が死滅する? じゃ全員で海苔業者になればあ? 誰も困らないだろうが。
琵琶湖のブラックバス問題はどうか。テレビ番組は「ブラックバサーのメッカになっている琵琶湖は、ブラックバスのせいで在来魚種が死滅しつつある。在来魚種を前提に在来漁法をしていた漁師さんたちは食えなくなりつつある」などという。はあ? どこがいけないの? だって、ブラックバスで回る経済──旅館とか釣具屋さんボート屋さんとか食べ物屋さんとか──の規模のほうが、在来魚を採る漁師さんの経済よりも大きいよ。だったら漁師さんにはブラックバス経済に鞍替えしていただいけりゃいいじゃあないか?
何なら、もう少し行きましょうか。私の愛する沖縄があります。毎月沖縄に出かけています。泡瀬干潟の開発問題でも、石垣新空港の開発問題でも、私としての私は大反対です。いわく「沖縄の美しい海を破壊してしまうと、貴重な観光資源が消えてしまうんだぞ」。すると「あのー、今でも観光資源あるんですけど、全然カネ落ちませんが」とマジで答えが返ってくる。だったら潰しちゃえばいい。どこがいけないんですかあ?
こう言うと必ず、どこからか自称エコロジストが出てきて言う。「いや、生態系を壊すと、五〇年後、百年後に何があるか分からない」。はい、確かにそうですね。温暖化していけば農作物の収量増大のようなイイコトさえ期待できるかもしれない。もちろんこれはウルリッヒ・ベックが言う「リスク社会論」と直結する問題ですよ。つまり「将来何が起こるかわからないことのために行政は金を使えない」。公共性に反するからです。それだったら誰もが今日や明日のオマンマのためにお金を使ってほしいと思うでしょう。
なんでこんな話をしているか分かりますか? こういう論法は何も奇をテラってるわけじゃない。実際、似たような主張を山形浩生のごときが大真面目でぶっている。一言(いちごん)にして言えば、「環境アクティビストたちの主張を合理性を欠いている」と。然り。ある意味ではその通り。でも、そんなこたぁ当たり前じゃあないか。今さら何を言ってるんだよ。
という台詞は、山形浩生に対して言っているんじゃありません。そんなのはどうでもいい。私は、自らの主張が万人が許容可能な合理性に還元できないということを自覚できない──いわば「魂」の問題であるということを自覚できない──オボコイ環境アクティビストたちに対して、物を言っているわけ。言っていることが分かりますか。分からないなら、もっと極端なことを言いましょうか。
ガイア主義者のいわく「人類が地球の主人公なのではない。地球こそが主人公だ。人類が主人公面をするせいで、それ自体が一つの生き物である地球生命圏(ガイア)が死滅し、人間以外の動植物が死滅する。許せない」。どうして? いいじゃん別に。誰が困るの?いわく「美しい動植物に触れることが出来ないのは困る」。大丈夫。ITが発達すりゃ、バーチャル・リアリティーの中で、望む時にいつでも過去に生存した動植物、小川のせせらぎ、オゾンの香り、全て体験可能。リアルじゃないってえならIT技術者に注文してね。
映画『ソイレント・グリーン』の世界ですな。いいですか皆さん。そういう風に皆さんが思うのかって聞いてるんですよ。さらに言えば、そう思わないとすれば理由は何なのかと聞いてるんです。その理由は経済合理性のような万人に説得可能な合理性ですか。そりゃありえないでしょう。さっきオルタナティブな近代の話をしましたね。流動性よりも多様性を優越させる。収益価値よりも共生価値を優越させる。徹底的に突き詰めるとこの価値観はまさしく価値観であって合理的根拠はない。まさしく「魂」の問題なんです。
合理性──百歩譲って「ある種の」合理性と言いましょう──の観点から言えば、別に他の動植物が死のうが、琵琶湖の在来魚が死滅しようが、食いぶちと健康さえ保たれれば、知ったことじゃないっていう立場もありうるってことです。「いやあ、それだと心が参っちゃうよ」。ほらね、「魂」じゃありませんか。むろん「オレは参らないから、それでも良い」と言う方々もいるでしょう。「それじゃ良くない」と言う方々は、合理主義的な説得によって「それでも良いよ」と言う人々を啓蒙することは、絶対に出来ない。
実はそこが大事なんですよ。私は〈右〉と〈左〉の定義をいろんなところで書いてきた。〈左〉とは「解放的関心を本義と心得る立場」。〈右〉とは「合理性のみで割り切れないと観じる立場」。ゆえに私は〈左〉でありかつ〈右〉だとずっと言ってきた。私がそういう立場がありうると初めて知ったのは、北一輝を通じてです。「不合理からの解放を希求する志向」と「合理性を弁証されざるものを護持しようとする志向」とが、北一輝の中ではみごとに両立しています。思想としては不完全でも、志向としては両立している。だから、さっき、思想としてよりも、実存としてモデルたりうるのだと申し上げたわけです。
「解放の志向」と「護持の志向」が北一輝の中では両立をしています。とりわけ初期にはそれが顕著です。それが北の魅力です。どちらを欠いても実につまらない。さきほど亜細亜主義には三つの本義があると言いました。徹底した近代化を主張する第一義が「解放の義」だとすれば、単に近代化するのみでは自らは自らでなくなるとする第二義は「護持の義」。この二つの義を両立させる手段が第三義の「ブロック化の義」。
難しい抽象的なロジックはどうでもいいが、北一輝の志向に第一義と第二義が見事に解け合い、第三義に近代革命を通じた日支連携が持ち出される。北一輝こそ紛うことなき亜細亜主義者となすべき所以であります。その意味でも、『国体論、及び純正社会主義』と『支那革命外史』に見られるような彼の非常にナイーブな、しかし後期のニヒリズムすらをも輝かせる力を持つ、ある完結した思考のベースを分かっていただきたいと思うのです。
北一輝の「転向」と現代的アクチュアリティ
皆さん、お疲れでしょうから、少し目先を変えましょう。北一輝の文章は擬古文でロマン主義的です。これを「完全口語訳」をする、なぜかまったく駄目なんですね。みなさん何でだろうと思いませんか? もちろん北一輝の文章が飛躍に満ちていることもある。でもことは亜細亜主義の本義──とりわけ第二義の「護持の義」──に関わっております。
簡単いうと、私たちは、口語体を喋るようになってから、本当はロジックじゃないものに感心してるくせに──つまりミメーシス(模倣・感染)を生じているくせに──「人はロジックよって説得されるのだ」などと出鱈目を思い込むようになりました。でもどうなのか。調子に乗る、雰囲気に酔う、意気に感じる、空気に染まる、アウラに感応するということが、人には往往にしてある。私の言い方では〈表現〉──メッセージ伝達の仕方──ではなく〈表出〉──エネルギー発露の仕方──に反応することがある。
皆さん、擬古文──森鴎外の『舞姫』でもいいですよ──で「声に出して読む日本語」をして下さい。何かこう、力が湧いてきませんか。気高い精神性が自らに宿ったかのごときミメーシスが生じませんか。「宮台、またおかしくなりゃがった」と思われるかもしれませんが、やってみてください。こういうことに免疫がないと、自分が〈表現〉に説得されているつもりが、実は〈表出〉に感応させられているだけなのだ、という勘違いが起こりえます。
実は、北一輝が擬古文であるがゆえに力を持つ事態と、亜細亜主義の本義を理解することの間には密接な関係があると思います。その論理的飛躍に満ちた文章は「現代口語訳」をすると話がつながらなくなってしまう。どうですか? ね?。北一輝の擬古文でミメーシスを生じる資質を、護持されるべき「私たちが私たちである所以」すなわち、私たちのヘリテージ(相続財産)だと考えることができます。ここで「私たち」の範囲をオープンにしておきますが、ここでは飽くまでイメージ・メイキングな話をしております。
だから今の若い人たちに北一輝を伝承するのは難しい。もちろん漢字も難しいので、ここに来ている若い人は読めません。輪をかけて擬古文だから意味が伝わらないでしょう。かといって平明訳をしたら「言葉の力」は伝わらない。「なあんだ、ロジックで伝わらないものなんか本質的じゃないぜ」と思われた若いあなた。そうじゃない。亜細亜主義の第二義=護持の義によれば、さっき説明したように「護持するべきものを万人に伝わるように合理的に説明するのは不可能」なのです。
そこで北一輝を今の若い人に読んでもらうために、いったいどうしたらいいだろうかと出版社の方と話し合いをしているところです。私もどうして良いのか分かりません。見開きの片側を現代口語訳で意味を掴んでもらい、もう片側をルビ付き擬古文として声に出して読んでもらう。これがいいのかも知れないが・・・。まぁ、そういう〈表現〉と〈表出〉の絡み合いがが北一輝の文体には見出され、そのこと自体が、亜細亜主義の第一義=解放の義(徹底した近代化)と第二義=護持の義の絡み合いを示していると思われます。
閑話休題。辛亥革命における孫文の動き、並びにそれに呼応する日本国内の動きに絶望し、そこから巷間「転向」視されるような動きを北一輝は示すことになります。第一の象徴的な変化が、選挙主義・投票主義を否定して、軍事革命主義・クーデター主義を表だって主張するようになることです。第二の象徴的変化が、天皇を蛮族の酋長扱いしていたのが、天皇親政を主張する2・26の青年隊付将校たちの主張するがごとき革命シンボルとなすようになることです。第一と第二の変化は、論理的に直結しています。
これ、全部が『日本改造法案大綱』──上海で五・四事件(一九〇四)直後に『国家改造案原理大綱』として書かれたものです──に記されていることです。それまでの「民主主義」すなわち「民は信頼できるものだ」とする見方から、「民本主義」すなわち「民は愚かなる存在ゆえに賢明な指導者が民を思って導くべし」とする見方へのぎゃ戻り。亜細亜主義の系譜で言えば「西郷隆盛への後戻り」です。むろんご承知のごとく西郷の場合には儒教的徳治主義ですが、そんなものは北一輝には微塵もない。いわば苦肉の策です。
北一輝は、澎湃として起こる中国革命の声に連動しえないどころか、腐敗した軍財閥の影響下これを弾圧にかかる日本政府に対して如何なる声も発しえない日本国民への絶望の果てに、かかる結論に達した。私の考えでは「二段階革命論」に達した。まず軍事革命を起してその先頭に天皇陛下に立って頂き、天皇陛下に中大兄皇子のごとく御振舞い願って君側の奸臣どもを取り除き、利権を漁る資本家的非国民どもを残らず溶鉱炉にぶち込む。然る後、軍事クーデターによって目覚めた国民が、二段階目の民主主義革命を起こす。
従って2・26の青年隊付将校らについては、二段階目の民主主義革命の展望に乏しきがゆえに、彼が本来これを積極的に支持しえたか否かは実の所はなはだ疑問です。いずれにせよ同じ図式が、『日本改造法案大綱』以降、国外にも適応される。いっときは軍事的拡張主義に見えるのも止むを得ない。むしろ然る後、諸国のナショナリズムが刺激され、民衆ナショナリズム運動の澎湃たる声が起こるのであれば、よいのであると。
これは凄い。こういう思想は凄いです。あの馬鹿ブッシュがそういうことを言い始めればなんでも出来ますよ。ナショナリズムのまだ確立していない、集団的自己像の確かならざる空間で、あえて主権への軍事的干渉を行なうことにより、民衆の下からの起ち上がりをもたらし、結果的には近代化を促進する、と。ここまでくると、皆さん、「北一輝、ちょっと狂っておるな」っていう気がするかもしれません。
しかし、私はそう思わない。なぜかというと、私も同じように思うからです、ちょっとくらいは。北一輝の悩んだ問題、北一輝の絶望は、とても悩ましい。同じ悩みを悩みつつ、あくまで民主主義革命の条件を国内的伝統の中に探ろうとした戦後の丸山真男などに比べて、こらえの効かない早漏気味の発想だと思うかも知れない。どうだろう。丸山真男の輝かしい業績の数々、ならびに六〇年安保前後の渾身のロビイングの数々によって、いささかなりとも日本国民は変わりえたのか。どうですか、皆さん。
「彼は右翼だ」などという杜撰な思考で片付けられるような簡単な問題じゃないのです。民衆の低すぎる民度に対する北一輝の絶望──ロマン主義者ゆえの絶望──は、亜細亜主義者や欧州主義者に倣って「オルタナティブな近代」を構想せんとする私たちにとっても、完全にアクチュアルな問題であると申すことができましょう。そこが北一輝のすごいところです。単に屈折した自意識を感じさせるに過ぎない三島由起夫ごときとは比べものなくすごいのです。
いいですか。思想が完成されているのがすごいとかじゃない。彼が何を悩んだかということがあまりにも本質的な悩みなのですごいのです。その悩みはすごすぎて、私たちの誰一人として、整合的な理論的解決を与えることが恐らく出来ないのです。だからこそ、北一輝を通じて亜細亜主義の本義と同時に本懐──すなわち実存──を見直し、かつそれを私たちの学びへと活かすべきなのです。 
 
皇道派と統制派

 

皇道派
大日本帝国陸軍内に存在した派閥。北一輝らの影響を受けて、天皇親政の下での国家改造(昭和維新)を目指し、対外的にはソビエト連邦との対決を志向した。
名前の由来は、理論的な指導者と目される荒木貞夫が日本軍を「皇軍」と呼び、政財界(皇道派の理屈では「君側の奸」)を排除して天皇親政による国家改造を説いたことによる。
皇道派は統制派と対立していたとされるが、統制派の中心人物であった永田鉄山によれば、陸軍には荒木貞夫と真崎を頭首とする「皇道派」があるのみで「統制派」なる派閥は存在しなかった、と主張している。
皇道派が全盛期の時代、つまり荒木が陸軍大臣に就任した犬養内閣時に陸軍内の主導権を握ると、三月事件、十月事件の首謀者、皇道派に反する者に対して露骨な派閥人事を行い、左遷されたり疎外された者らが団結したグループは反皇道派として中央から退けられたが、この処置が露骨な皇道派優遇人事として多くの中堅幕僚層の反発を招いた。同じく皇道派に敵対する永田が、自らの意志と関わりなく、周囲の人間から勝手に皇道派に対する統制派なる派閥の頭領にさせられていたのである。これら非皇道派の中堅幕僚層は、後に永田や東條英機を中心に統制派として纏まり、陸軍中枢部から皇道派は排除されていくことになる。
両派の路線対立はこの後も続くが、軍中央を押さえた統制派に対して、皇道派は若手将校による過激な暴発事件(相沢事件や二・二六事件など)を引き起こして衰退していくことになる。
皇道派のメンバーを上原勇作が支援していた経緯から、旧薩摩閥も多かったとされる。
誕生​
荒木が真崎甚三郎と共に、皇道派をつくりあげる基盤は、宇垣一成陸相の下で、いわゆる宇垣軍縮が実施された時期に生まれたと言える。
宇垣は永田鉄山を陸軍省動員課長に据え、地上兵力から4個師団約9万人を削減した。その浮いた予算で、航空機・戦車部隊を新設し、歩兵に軽機関銃・重機関銃・曲射砲を装備するなど軍の近代化を推し進めた。
永田は、第一次世界大戦の観戦武官として、ヨーロッパ諸国の軍事力のあり方や、物資の生産、資源などを組織的に戦争に集中する総力戦体制を目の当たりにし、日本の軍備や政治・経済体制の遅れを痛感した。宇垣軍縮は軍事予算の縮小を求める世論におされながら、この遅れを挽回しようとするものであった。統制派の考え方はこの流れをくむものである。
一方、宇垣が軍の実権を握っている間、荒木・真崎らは宇垣閥外の人物として冷遇されていた。荒木は1918年のシベリア出兵当時、シベリア派遣軍参謀であったが、この時に革命直後のロシアの混乱や後進性を見る一方で、赤軍の「鉄の規律」や勇敢さに驚かされた。そのため荒木は反ソ・反共の思想を固めただけでなく、ソヴィエトの軍事・経済建設が進む前にこれと戦い、シベリア周辺から撃退し、ここを日本の支配下に置くべきであるという、対ソ主戦論者となった。
折から、佐官・尉官クラスの青年将校の間に『国家改造』運動が広がってきた。その動機は、
ソビエトが1928年にはじまる第一次五ヶ年計画を成功させると、日本軍が満州を占領することも、対ソ攻撃を開始することも不可能になるので、一刻も早く対ソ攻撃の拠点として満州を確保しようとする焦り。
軍縮のため将校達の昇進が遅れ、待遇も以前と比べて悪化しそれに対する不平・不満が激化したこと。
農村の恐慌や不況のため、農民出身者の兵士の中に共産主義に共鳴する者が増加し、軍の規律が動揺するのではないかという危機感を将校達に与えたこと。
農村の指導層(地主・教師・社家・寺族・商家など)出身の青年将校の中には、幼馴染や部下の兵の実家・姉妹が零落したり「身売り」されたりするなど、農村の悲惨な実態を身近で見聞きしていた者が多かったため。
などである。
青年将校らは、このような状況を作り出しているのが、宇垣ら軍閥を始め、財閥・重臣・官僚閥であると考えたのである。
1931年12月、十月事件の圧力を背景に、犬養内閣で荒木が陸相に就任すると、真崎嫌いで知られる金谷範三参謀総長を軍事参議官に廻し、後任に閑院宮載仁親王を引き出す。ついで1932年1月に台湾軍司令官の真崎を参謀次長として呼び戻し、参謀本部の実権を握らせた。一方で杉山元、二宮治重らの宇垣側近を中央から遠ざけ、次官に柳川平助、軍務局長に山岡重厚を配する等、自派の勢力拡大を図った。人事局長の松浦淳六郎、軍事課長の山下奉文もこの系譜につながる。荒木は尉官クラスに官邸で連日のように酒を振る舞うなど、武力による「維新」を企てる青年将校らを鼓舞し、その支持を集めた。
荒木や真崎は、日露戦争時期を理想化し、日本をその状態に復帰させることが、軍の拡大強化や対ソ戦を早く決行できる所以だと考えた。ここから、「君側の奸」を討ち、「国体を明徴」にし、「天皇親政」を実現すべしという思想が引き出される。このような思想を抱く荒木らに対し、青年将校らは「無私誠忠の人格」として崇敬した。これが皇道派である。
行動​
この派は荒木・真崎をシンボルとし、前述の将官の他、1932年(昭和7年)2月に参謀本部第二課長(作戦担当)ついで第三部長(運輸・通信担当)となった小畑敏四郎、憲兵司令官ついで第二師団長となった秦真次、小畑の後任の作戦課長である鈴木率道、陸大教官の満井佐吉らが首脳部をなしていたが、省部の中堅将校からはほとんど孤立した存在であった。皇道派が「国家革新」の切り札と頼む武力発動の計画に当たったのは、村中孝次・磯部浅一ら尉官クラスの青年将校団である。
皇道派青年将校がクーデター計画に狂奔したのは、彼らが陸軍省部中央に近い統制派ほどに具体的な情勢判断と方針を持たず、互いに天皇への忠誠を誓い、結果を顧みずに「捨石」たらんとしたという思想的特質にもよる。
青年将校らは自分たちの行動を起こした後は、「陛下の下に一切を挙げておまかせすること」(※2・26事件の首謀者の一人、栗原安秀中尉の尋問調書より)に期待するのみであった。永田鉄山軍務局長を斬殺した相沢三郎中佐は、法廷で検察官の質問に答え「国家革新ということは絶対にない。いやしくも日本国民に革新はない。大御心に拠ってそのことを翼賛し奉ることである」と述べている。したがって彼等は「革命」「クーデター」という概念すら拒絶していた。
また、彼らの信頼を集めた荒木や真崎も、自分たちが首班となって内閣をつくることを予期するだけで、その後の計画も無く、各方面の強力な支持者もいなかった。とくに財閥や官僚には皇道派を危険視する空気が強く、彼らが政権を担当する条件そのものが欠落していたのである。
それだけに、成果の見込みの有無を問わず危険な行動に走るという特徴が表面に現れた。その特徴こそ、軍部・官僚・財閥のファッショ的支配を押し進める露払いの役割を果たしたのである。もともと荒木が陸相に就任したこと自体、三月事件・十月事件で政党首脳が恐怖を感じた結果であった。
真崎は教育総監時代、天皇機関説排斥運動の中心にあった。五・一五事件や相沢事件の公判では、排外主義、国粋主義の国民意識を利用して判決に介入させ、また政党政治は事実上このときに崩壊した。この直後に引き起こされた二・二六事件は更に準戦時体制へと途を開くのである。
凋落​
荒木は犬養内閣、さらに齋藤内閣において陸相をつとめたが、もともと軍令・教育畑が長く政治力に欠けるところがあり、高橋是清蔵相との陸軍予算折衝でも成果を挙げることが出来なかった。また側近の多くも軍政経験が乏しく、荒木を十分に補佐したとは言い難い。このため大臣末期には省部中堅の信を失い、青年将校からは突き上げを食うなど閉塞状況に陥った。
参謀本部においても、実務を切り回す真崎次長に閑院総長宮が不快感を募らせ、内部でも小畑敏四郎第三部長と永田鉄山第二部長が対ソ・支那戦略を巡り対立。後の皇道・統制両派の抗争の端緒となる。
荒木は1934年1月、酒を飲み過ぎて風邪をこじらせ、肺炎となり陸相を辞任する。荒木は後任陸相に真崎を推薦したが、真崎の独断に閉口していた閑院宮に反対され、林銑十郎教育総監が陸相となり、真崎はその後任に回った。柳川以下の皇道派幕僚も相次いで中央を去り、さらに同年11月には青年将校らによる士官学校事件が起こり、これを契機に統制派による真崎排除の機運が高まる。1935年7月、林と閑院宮は三長官会議において強引に真崎を更迭、後任に渡辺錠太郎を据えた。
荒木の辞職、真崎の更迭によって皇道派は中央での基盤を失い、8月の相沢事件を経て、1936年には青年将校を中心とした二・二六事件の暴発につながる。その後、翌年にかけての大規模な粛軍人事によって皇道派はほぼ壊滅した。現役に残ったのは山下奉文、鈴木率道ら少数の者に過ぎなかった。
なお大戦末期の1944年、昭和天皇に木戸内大臣を通じて、「戦争指導に行き詰まり、経済、社会の赤化に向う東條とその側近に代えて、予備役の皇道派将官を起用すべき」と奏した近衛文麿に対し、天皇は次のように論駁している。「第一、真崎は参謀次長の際、国内改革案のごときものを得意になりて示す。そのなかに国家社会主義ならざるべからずという字句がありて、訂正を求めたることあり。また彼の教育総監時代の方針により養成せられし者が、今日の共産主義的という中堅将校なり。第二、柳川は二・二六直前まで第1師団長たりしも、幕下将校の蠢動を遂に抑うこと能わざりき。ただ彼は良き参謀あれば仕事を為すを得べきも、力量は方面軍司令官迄の人物にあらざるか。第三、小畑は陸軍大学校長の折、満井佐吉をつかむことを得ず。作戦家として見るべきもの有るも、軍司令官程度の人物ならん。以上これらの点につき、近衛は研究しありや否や」(木戸幸一日記)。
統制派
大日本帝国陸軍内にかつて存在した派閥。当初は暴力革命的手段による国家革新を企図していたが、あくまでも国家改造のため直接行動も辞さなかった皇道派青年将校と異なり、その態度を一変し、陸軍大臣を通じて政治上の要望を実現するという合法的な形で列強に対抗し得る「高度国防国家」の建設を目指した。
皇道派は天皇親政の強化や財閥規制など政治への深い不満・関与を旗印に結成され、陸軍大学校(陸大)出身者はほとんどいなかった。
それに対して統制派は陸大出身者が主体で、軍内の規律統制の尊重という意味から統制派と呼ばれる。
皇道派の中心人物である荒木貞夫が陸軍大臣に就任した犬養内閣時に断行された露骨な皇道派優遇人事に反発した陸軍中堅層が結集した派閥とされる。
しかし、皇道派のような明確なリーダーや指導者はおらず、初期の中心人物と目される陸軍省軍事課長(後、軍務局長)の永田鉄山も軍内での派閥行動には否定的な考えをもっており、「非皇道派=統制派」が実態だとする考え方も存在する。ただ永田亡き後、統制派の中心人物とされた東條英機などの行動や主張が、そのまま統制派の主張とされることが多い。
統制派は反長州閥を掲げた一夕会から発生しているが、満州事変では旧長州閥系の宇垣閥の支援を受けており、宇垣閥は解散後に統制派に合流している。
軍閥として、皇道派は存在したが、統制派というまとまりは存在しなかったとの主張も多い。安倍源基は、皇道派青年将校が反感を抱いていた陸軍省と参謀本部(省部)における陸大出身者幕僚が漠然と統制派と呼ばれるようになっただけであると述べている。
皇道派、統制派といった名称は、大岸頼光が怪文書において使用した、憲兵将校の美座時成の作成した書類において使われたのが始まりであるとの諸説がある。いずれにせよ、それぞれの軍閥に所属したとされている当事者たちはこの名称を使用していない。
二・二六事件に失敗・挫折した皇道派の著しい勢力弱体化、世界の列強各国での集産主義台頭、他、世界恐慌に対し有効性を示したブロック経済への羨望が進むにつれ、当初の結成目的・本分から徐々に外れ、合法的に政府に圧力を加えたり、あるいは持論にそぐわない政府の外交政策に対し統帥権干犯を盾に公然と非協力な態度・行動をとったりサボタージュも厭わない軍閥へと変容していった。革新官僚とも繋がりを持つ軍内の「近代派」であり、近代的な軍備や産業機構の整備に基づく、総力戦に対応した高度国防国家を構想した。参謀本部、陸軍省の佐官クラスの幕僚将校を中心に支持されていた。中心人物は永田鉄山、東條英機。
永田の愛弟子で統制派の理論的指導者である池田純久が『陸軍当面の非常時政策』で「近代国家に於ける最大最強のオルガナイザーにして且つアジテーターはレーニンが力説し全世界の共産党員が実践して効果を煽動したるジャーナリズムなり、軍部はこのジャーナリズムの宣伝煽動の機能を計画的に効果的に利用すべし」と主張しているように、統制派は『太平洋五十年戦略方針』などの編集で細川嘉六や中西功、平野義太郎ら共産主義運動に詳しい人物を積極的に起用した。また、池田純久が『国防の本義と其強化の提唱』にて「われわれ統制派の最初に作成した国家革新案は、やはり一種の暴力革命的色彩があった」と述べているように、最初から合法性に依っていたわけではなかった。
中心人物の永田鉄山が皇道派の相沢三郎陸軍中佐に暗殺された(相沢事件)後、皇道派との対立を激化させる。この後、皇道派による二・二六事件が鎮圧されると、皇道派将校は予備役に追いやられた。さらに退役した皇道派の将校が陸軍大臣になることを阻むべく軍部大臣現役武官制を復活させ、これにより陸軍内での対立は統制派の勝利という形で一応の終息をみる。その後、陸軍内での勢力を急速に拡大し、軍部大臣現役武官制を利用して陸軍に非協力的な内閣を倒閣するなど政治色を増し、最終的に、永田鉄山の死後に統制派の首領となった東條英機の下で、全体主義色の強い東條内閣を成立させるに至る。
 
陸海軍歌 / 明治

 

   (以下、陸海軍・軍歌歌詞の一番を列記)
   明治1
宮さん宮さん (トンヤレ節・トコトンヤレ節・維新マーチ)
宮さん宮さんお馬の前に ひらひらするのは何じゃいな 
トコトンヤレ トンヤレナ
あれは朝敵征伐せよとの 錦の御旗じゃ知らないか 
トコトンヤレ トンヤレナ
   明治3
農兵節(ノーエ節・サイサイ節)
野毛の山から ノーエ 野毛の山から ノーエ
野毛の サイサイ 山から異人館を見れば
鉄砲担いで ノーエ 鉄砲担いで ノーエ
鉄砲 サイサイ 担いで並び足 
オッピキヒャラリコ ノーエ チイチガタカッテ ノーエ
チイチガサイサイ タカッテ オッピキヒャラリコ ノーエ
   明治10
西郷隆盛
夫を達人は大観す 城山蓋世の勇あるも
栄枯は夢か幻か 大隈山の狩倉に
真白き月の影清く 無念無想の観ずらん
軍人亀鑑の歌
御国の為に尽くしたる 益荒猛夫は多けれど
ここに我々軍人の 亀鑑とす可き大丈夫は
抑も佐賀の兵乱に 一兵卒の身をもって
熊本籠城
西も東も皆敵ぞ 南も北も皆敵ぞ
寄せ来る敵は不知火の 筑紫の果ての薩摩潟
世にも名高きますらおの 猛り狂いて攻め来たり
熊本の籠城
さても西郷隆盛は 過激の暴徒に推し尊れて
篠原桐野と諸共に 親政厚徳の旗を立て
意気揚々と繰出し 熊本さしてぞ押し来たる
   明治13
君が代
君が代は 千代に八千代に
細石の巌となりて 苔の生すまで
   明治14
見渡せば(進軍追撃)
見渡せば寄せて来る 敵の軍艦面白や
すわや戦い始まるぞ 出でや艦隊攻めかかれ
弾丸こめて撃ち払え 敵の軍艦打ち砕け
蛍の光
蛍の光窓の雪 書よむ月日重ねつつ
いつしか年も杉の戸を 開けてぞ今朝は別れ行く
吹きなす笛
吹きなす笛のその音も 捧ぐる旗のその色も
物の哀れを知り顔に 今日はものこそ哀しけれ
皇御国
皇御国のもののふは いかなる事をか努むべき
ただ身に持てる真心を 我が大君に尽くすまで
国の鎮め
国の鎮めの宮代と 斎奉らう神御霊
今日の祭りの賑わいを 天翔けりても見そなわせ
治まる御代を守りませ
   明治15
外交の歌
西に英吉利北に露西亜 油断なしせそ国の人
外表を結ぶ条約も 心の底からは測られず
万国公法ありとても いざ事あらば腕力の
軍人勅諭の歌
汝は朕が股肱ぞと 詔して畏くも
日本帝国軍人に 下し給いし五箇条の
大御訓に宣わく
   明治18
抜刀隊
我は官軍我が敵は 天地容れざる朝敵ぞ 
敵の大将たる者は 古今無双の英雄で 
これに従うつわものは 共に剽悍決死の士 
   明治19
近衛軍歌
二千五百有余万 皇統連綿万国の
上に秀ずる帝国の 誉れも高き近衛隊
頂く帽のその色に 赤き心を表しつ
扶桑歌
我が天皇の治めしる 我が日の本は万世も
八百万世も動かぬぞ 神の代世より神ながら
治め給えば永々久に 動かぬ御代ぞ変わらぬぞ
足曳
足曳の山辺どよもす銃の火の 煙の内にいちじるく
気負える旗は畏きや 我が大君の御手ずから
授け賜える御軍の 印の旗ぞ我が友の
   明治20
教導団の歌
皇御国のもののふは 生きては立てよ勲しを
死しては残せ芳しき 名を万世の末までも
月雪花と戯れて 回天旋地の大業を
扶桑歌
天皇尊の統御しる 我が日の本は千五百代も
一代のごとく神ながら 治め給えば大御稜威
猛く雄々しく平らけく 穏やかに安く在りとかや
その大神稜威朝宵に あやに畏に安国と
ホーヘンリンデンの夜襲
日ははや西に入り相いの 鐘は微かに聞こえつつ
ホーヘンリンデン村近き イーザー河の音高く
進軍歌
弾丸は霰と空に飛び 剣は野辺の稲妻か
雷疑う砲声に 吹き来る風も生臭く
我が魂の緒も打ち絶てん 今際の時ぞ勇ましく
行軍歌
我が日本の国体は 古き神代の頃よりも
神の御国と称え来て 五百海坂隔てたる
遠き戎夷が国までも 光り輝く旭子の
桜花
我が国守るもののふの 大和心を人問わば 
朝日に匂う山桜 咲くや霞も九重の 
左近の花に風吹かば 四方に起きてんもののふの 
守れ守れや鉾執りて 仇し群雲打ち払い 
軍旗の歌
二千五百年以来 光り輝く日本国
その国守る軍人よ 汝の仰ぐ大旗は
我が大君の御印ぞ 君の御言を畏みて
ノルマントン号沈没の歌
岸打つ波の音高く 夜半の嵐に夢覚めて 
青海原を眺めつつ 我が兄弟はいずこぞと
水漬く屍
水漬く屍と 身をも惜しまず
草生す屍と 命を捨てて
国の為に君の為に 尽くしし勲
高くもあるかな
   明治21
自由の歌
天には自由の鬼となり 地には自由の人ならん
自由よ自由やよ自由 汝と我(わ)れがその中は
天地自然の約束ぞ 千代も八千代も末かけて
護国の歌
汝等朕の股肱ぞと 最も皇き詔
義は山岳もただならず 死は鴻毛と覚悟して
護れや守れ軍人 皇国を護れ諸共に
皇国の守
来たれや来たれやいざ来たれ 御国を守れや諸共に 
寄せ来る敵は多くとも 恐るるなかれ恐るるな 
死すとも退く事なかれ 御国の為なり君の為
   明治22
憲法発布
月日の影かも隈なく照るは 恵の露かも漏らさずおくは
さしても譬えんものなき 御代ぞ今日より布きますこの大憲法
今日より布きますこの大憲法
三千余万
三千余万兄弟共よ 守りに守れ君が代を
剣に代わる火筒の響き 向かえる敵を打ち払え
鑑とするは多くの書物 古今に渡り照らし見よ
   明治23
我が海軍
朝日に輝く日の丸の旗 ひらめく皇国の軍艦共よ
千島の果てより沖縄までも 開闢この方異国の敵に
一度も今まで汚されざりし 尊き海岸守れや守れ
敵の軍艦幾百あるも 千尋の底へと沈めてしまえ
   明治24
福島中佐歓迎の歌
人は驚く旅路なり 人は危ぶむ旅地なり
過ぎ行く路は数千里 分け行く路は未開の地
福島中佐
北氷洋の探検と 阿弗利加内部の探検は
嘗て聞きつる事なるが
三千八百有余里の 長き行路とただ一人
馬に騎り苦を凌ぎ 独乙を出でて遥遥と
福島中佐
忠勇無断の振る舞いは 福島中佐の遠征よ
嘶く駒に鞭を揚げ 過ぎし行道は白露の
鳥も声せぬ峰続き
敵は幾万
敵は幾万ありとても 全て烏合の勢なるぞ 
烏合の勢にあらずとも 味方に正しき道理あり 
邪はそれ正に勝ち難く 直は曲にぞ勝栗の 
固き心の一徹は 石に矢の立つ例あり 
道は六百八十里
道は六百八十里 長門の浦を船出して 
早二年を故郷の 山を遥かに眺むれば 
曇りがちなる旅の空 晴らさにゃならぬ日の本の 
   明治25
ますらたけお
我等はいかなる国民ぞ 御国に生まれしもののふよ
勇みて守れや諸共に ますらたけおやよ
あらあら見るも嬉し あらあら聞くも楽し
御国を守れる武士の 友の勇ましさ
元寇
四百余州を挙る十万余騎の敵  国難ここに見る弘安四年夏の頃 
何ぞ恐れん我に鎌倉男児あり 正義武断の名一喝して世に示す 
凱旋
あな嬉し喜ばし戦い勝ちぬ 百々千々の敵は皆跡無くなりぬ
あな嬉し喜ばしこの勝ち戦 いざ歌えいざ祝えこの勝ち戦
   明治26
月下の陣
霜は軍営に満ち満ちて 秋気清しと詠じける
昔の事の偲ばるる 月の光のさやけきよ
郡司成忠
日本男児の誉れなる 郡司大尉の企れは
百と有余のつわものを 七艘のボートに乗り込ませ
千里の波濤を蹴破って 日本の北のその北の
郡司大尉の北海遠征を送る歌
寒潮流る北の海 敷千の島は羅列せり
朔風雪を巻いて吹き 激浪岸を打って鳴る
いと物凄き千島灘 これぞ北門鎖鑰なる
島は荒れ果て磯は寂し 漁民の状態はいと哀れ
勅語奉答
ああとうとしな大勅語 勅語の趣旨を心に刻りて
露もそむかじ朝夕に ああとうとしな大勅語
原始祭
天津日向の際限なく 天津璽の動きなく
年のはじめに皇神を 祭りますこそ畏けれ
代もの民草うち靡き 長閑けき空を打仰ぎ
豊栄のぼる日の御旗 建て祝わぬ家ぞなき
波瀾懐古(ポーランド懐古)
一日二日は晴れたれど 三日四日五日は雨に風
道の悪しさに乗る駒も 踏み煩いぬ野路山路
新嘗祭
民安かれと二月の 新年祭験あり
千町の小山に打ち靡く 垂穂の稲の美稲
御饌に作りて奉る 新嘗祭や尊しや
神嘗祭
五十鈴の宮の大前に 今年の秋の懸税
御酒御畠を奉り 祝ふ朝の朝日影
靡く御旗も輝きて 賑う御世こそ目出度けれ
勅語奉答
あやに畏き天皇の あやに尊き天皇の
あやに尊く畏くも 下し賜えり大勅語
これぞ目出度き日の本の 国の教えの基なる
これぞ目出度き日の本の 人の教えの鑑なる
天長節
今日の良き日は 大君の
生まれ給いし 良き日なり
今日の良き日は 御光の
射し出で給いし 吉き日なり
光遍き君が代を 祝え諸人諸共に
恵み遍き君が代を 祝え諸人諸共に
一月一日
年の始めの例とて 終わり無き世の目出度さを
松竹立てて門毎に 祝う今日こそ楽しけれ
欣舞節
日清談判破裂して 品川乗り出す吾妻艦
続いて金剛浪速艦 国旗堂々翻し
西郷死するも彼が為 大久保殺すも彼が為
紀元節
雲に聳ゆる高千穂の 高根颪に草も木も
靡き伏しけん大御世を 仰ぐ今日こそ楽しけれ
月下の陣
宵の篝火影失せて 木枯らし吹くや霜白く 
夜は更け沈む広野原 駒も蹄を寛ぎつ 
音なく冴ゆる冬の月 楯を褥のもののふは 
明日をも知らで草枕 夢はいずこを巡るらん 
軍艦 (軍艦行進曲)
守るも攻むるも黒鐵(くろがね)の
浮かべる城(しろ)ぞ頼(たの)みなる
浮かべるその城(しろ)日(ひ)の本(もと)の
皇國(みくに)の四方(よも)を守(まも)るべし
眞鐵(まがね)のその艦(ふね)日の本に
仇(あだ)なす國(くに)を攻(せ)めよかし
   明治27
赤城艦
トン数僅か六百の 小艦なれど乗り組みは
鬼神に恥じぬ勇者のみ 清国一の定遠と
外に数艘の大艦と 相手になして奮戦す
威海衛の絶対勝利
旅順落しにし先々の 戦は破れ渤海の
鎖鑰と頼める威海衛 烈しく攻むる日本の
戦の為に今ははや 風に瞬く燈火の
消ゆるを待たん外ぞせなし
栄城湾吉捷
遥か彼方の海の上に 輝く光の浮き沈み
夜目には定かに見えねども これぞ連合艦隊の
大連湾を船出して 栄城湾に舵を取り
向かえるものと知られたり
叡慮
それ此の度の戦は ただ朝鮮の為ならず
東洋前途の安寧を 図らせ給う叡慮なり
大鳥公使大院君を擁護す
国に事変のありつるは 人に疫病のある如し
彼の朝鮮の閔族は 秘かに清と意を通じ
清も好機と思いしに 日本はこれを看破なし
義心を以て責めしかば 国王殿下も御感あり
大鳥公使の談判
朝鮮古来わが国を 父とし母とし事えしに
彼の閔族は何故ぞ 我を差し置き他に向かい
縁故の薄き清国に 援助を請うも不審しく
牙山の陥落
昔豊公朝鮮を 攻め給いたるその折りに
明兵大挙二十万 我が兵僅か四五千騎
敵よ比べて九牛の 一毛だにも足らぬ兵
金州城攻撃の歌
浪音高き荒海を 蹴立てて進む軍艦
敵はそれとも不知火の 筑紫の洋を後に見て
八重の八潮の朝風に 旭日の御旗ひらめかし
攻め行く先は直隸峡 間近に寄せて上陸を
なさん物ぞと試みて 目指すは何処の堡塁か
九連城
空もしぐるる時雨月 木々の梢は紅葉して
唐紅の櫨楓 征衣に染めて故郷に
飾る錦をいとどなお 飾るも嬉しき鴨緑の
水は西にと流れるも 日に東天に輝きて
君の稜威を見せつやに 振りかざしたる連隊旗
真一文字に攻め寄する ここに名を負う九連城
玄武門
桜井特務曹長は 二十余りの部下と共
弾薬兵糧その外の 品を護衛し大估なる
営地に急ぐその途中 見るや林の中よりも
黄海海戦の歌
豊島以来尾を巻きて 逃げつ隠れつ潜み居る
卑怯未練の敵艦を 偵察なしで遇えば是非
微塵にせんと我が艦は 大同江を出発す
志摩大尉の忠死
雲か霞か凄まじや 砲煙海を閉ざしつつ
秋の日影も朧なり 入り乱れたる敵味方
合わせて二十八艦の 中にも目立つ松島は
定遠鎮遠打ち望み 真一文字に進みたり
艦の上にきっと立ち 剣打ち振り声限り
撃てや撃てよと令掛くる まだ年若き武士の
その名を聞けば志摩大尉 猛く雄々しき波とても
ものの哀れは知るなかれ
野垂の喇叭卒
あの成歡の戦いは さして大戦ならねども
知らぬ敵地は岩も樹も 皆死の伏せる所なり
我が進みたる一尺の 土地の命の値ぞや
草に置くなる露さえも 色紅に染めなせし
征清ヤンレ節
鍬を持つ手に鉄砲持って 花の仙台出たのは去年
長野逗留広島街で 欠伸交じりの小言も出たが
やがて船出は宇品の港 これが故郷の見納めなるぞ
船の中から首差し出せば 煙のようだが山々の影
征清軍歌
虎伏す韓山踏みならし 進みに進む我が兵士
見よや牙山の敵営は 見る間に潰えて跡もなし
大波逆巻く海越えて 進みに進む我が艦隊
見よや豊島の敵艦は 底の藻屑となり果てつ
帝国万歳
祝えよ祝え皆祝え 我が征清のますらおは
勢いは破竹も啻ならず 無人の境を行く如く
海に闘い艦を捕獲 陸に戦い陸を掠取
日々に広まる占領地 西にも東も新日本
四辺目映き旭の御旗 帝国万歳万々歳
東学党の奮起
朝鮮元来姑息にて 進取の気象更になく
文事武備とも衰えつ ただ浮き草の風任せ
中に閔氏金氏とて 二門の軋轢日に蒿じ
日清開戦の歌
進めや進め我が兵よ 今我が国の外交は
問題種々い分るれど 日韓事件に加ぞなき
そもそも韓国は我が国の 関門城壁外ならず
思えば神功皇后や 豊臣時代の昔より
関係深き国なるぞ 今この国の独立を
保護し置かずば将来に 国の大事や起るらん
鳳凰城占領
染むる木の葉も秋風に 散りて村々村時雨
来る初雁や声勇み 故郷遠く進みたる
我が軍隊は鬼神も 怖ずる計りの勇威にて
豊島の海戦
頃は七月末つ方 茜指す太陽に朝霧も
晴れて身に染む朝ぼらけ 我が帝国の軍艦は
朝鮮国の岸近き 豊島沖へ掛かりけり
牡丹台
釣瓶放しの弾丸は 夏の夕べの夕立か
小春の朝に降る雹か 山の端包む叢雲は
晴れても暗き玉煙 響く筒音凄まじく
山も崩るるばかりなり 砲煙弾雨のその中に
屹立なして剣を振り 士卒を励ます大将は
これぞ立見の少将と 聞きては怖ずる鬼神の
勇威をかねし良将ぞ 勇猛無比の将軍ぞ
それに従う兵士は 死をだも辞せぬ日本武士
金鵄章
国を出づる時 袂を縋る親同胞
務は重し干城の身 素より期す
生帰せざるを 死別又死別を兼ぬ
金鵄勲章
君の勅命を畏みて 仇なす戎夷討たんとて
外国指して渡り行き 勲を立てて帰り来ば
金鵄勲章賜りて 誉れは胸に輝かん
旅順口の戦
天時か地利かはた人和 その意に叶う日の本の
勇将の略は古今無く 目指すはいずれ旅順口
渤海呼吸の咽喉口 敵の勝敗ここにあり
守る敵将黄姜程 彼も必死の二万余騎
黄海の戦
太孤の沖には雷どよむ 海洋島にぞ群雲起こる
群雲起こるは火薬の煙 雷どよむは弾撃つ響き
玄武門
忠勇無双の我が兵は 大同江を押し渡り
さしもに多き敵軍を 平壌城に囲みたり
時こそ来つれいざ進め 勝つべき戦は今日なるぞ
平壌の大捷
大同江の激流も 大成山の峻坂も
難無く越えて進み行く 我が軍隊ぞ勇ましき
要塞堅固の敵城を 四方一時に攻め囲み
平城の戦
大砲小銃鬨の声 天や崩るる地は砕くる
あな目覚ましや面白や 大波返して突き入る皇軍
雪崩を打って乱るる清兵
成歓の戦
知らずや日に日に文は進み 武もまた輝く日本海
隔つる隣の国を救う 仁義の軍の勇ましさを
成歓役
頃は水無月初めより 京城内なる我が兵は
水原県を目指しつつ 朝日に輝く日の旗を
押し立て出ずる雄々しさは 敵の有無を探らんと
打てや懲らせや
打ちて懲らせや清国を 清は御国の仇なるぞ
東洋平和の仇なるぞ 討ちて正しき国とせよ
往け往け日本男子
往け往け日本男子 千載の一遇ぞ
開闢の昔より 鍛えたる我の腕
試すは今の時 失うなこの機会
神の敵人の敵 打ち殺せこの腕で
起てますらお往けますらお 往け往け天下に遍く
武雄を示せ
坂元少佐(赤城の奮戦)
煙か波かはた雲か 遥かに見ゆる薄煙
海原遠く眺むれば 嬉しや正に敵の艦
白神源次郎(勇敢なる喇叭手)
勝ち誇りたる軍隊は 蹄の音を後にして
はや影も無く進みけり 筒の響きも遠ざかり
煙ぞ濁り迷うなる
玄武門
大同江の水高は 深くもあるか蘆田鶴の
渡るを見れば深からず 牡丹の台の敵営は
高くもあるか秋の蝉 鳴くを聞きては高からず
平壌の大捷
大同江は広けれど 剣鶴山は高けれど
忠勇無双の我が軍は 苦もなく跨ぎて進みけり
平壌の戦
見るは今宵と昔より 言いにし三五の夜半の月
明日は捨てんと思う身を げにや今宵を限りにと
皇統
天地と共に限り無き 我が大君の高御座
高き御稜威は世々かけて 仰がぬ人も無かりけり
露営の夢(土城子の夢)
露営の夢を土城子に 結びもあえず夜の霜
解けかかりたる革帯を 締め直しつつ起ち上がり
明け残りたる月影に 前を臨めば水師営
砲塁高く山々を 連ねて待てる旅順兵
喇叭の響(安城の渡)
渡るに易き安城の 名はいたずらのものなるか
敵の撃ち出す弾丸に 波は怒りて水騒ぎ
黄海の大捷
頃は菊月半ば過ぎ 我が帝国の艦隊は
大同江を船出して 敵の在処を探りつつ
目指す所は大孤山 波を蹴立てて行く路に
海洋島のほとりにて 彼の北洋の艦隊を
見るより早く開戦し あるいは沈めまたは焼く
我が砲撃に彼の艦は 跡白波と消え失せり
豊島の戦
鶏の林に風立ちて 行き来の雲の脚早し
吉野浪速秋津島 探る牙山の道すがら
七月二十有五日 暁深く立つ霧の
仄かに見ゆる敵艦は 名に負う済遠広乙号
婦人従軍歌(火筒の響き)
火筒の響き遠ざかる 跡には虫も声立てず
吹き立つ風は生臭く 紅染めし草の色
   明治28
雨か霰か
雨か霰か弾丸は 雷か嵐か砲撃は
我等に続けや決死の士 誉れを挙げるはこの時ぞ
威海衛陥落
世に名高き威海衛 我にますらおに攻められて
逃ぐべき方も無きままに 早掲げたり白き旗
海城占領の歌
九連鳳凰乗っ取りて 進む第一軍隊は
舳巌析木城を取り なお敗兵を追撃し
進み進みて行く先は 敵の構えし海城よ
凱旋歌
皇御軍は去年の夏 安芸津島根を船出して
虎臥す高麗の荒野より 唐土指して攻め入りつ
鶏龍の上陸
見渡す海は緲々と 見渡す陸は茫々と
南洋得有の猛熱に 焼かれて炎威最と強き
中を苦とせず優々に 朝日に光る日の丸の
御旗を立てつ数十の 艦隊共に舳艫をば
並べて進む光景は これぞこれこれ帝国の
新版図にぞ属したる 台湾島を治めんと
総督始め部下の士が 鷄龍港へ向かわると
最も勇まし進軍ぞ
北白川宮
想い起すも涙かな 頃は明治の二十八
清国既に和を結び 台湾島は我が領と
成しを無智の土民共 龍車に向かう蟷螂の
それかあらぬか健気にも 弓矢を取りて立ちにける
京城の戦い
大院君に筒先を 向けるは賊か逆臣か
主君に手向かう人非人 不倶戴天はこやつなり
素より護衛の日本兵 何の猶予のあるべきぞ
西京丸
海洋島の波高く 岩に砕くる白波は
実に白龍の翻る 様に似たりの苔の露
ただ一艘の軍船を 取り巻く敵の大艦は
祝捷軍歌
祝え喜べ皆祝え 謝せよ国民感謝せよ
我が海陸の皇軍は 北に南に打ち勝ちて
あわれ北京の落城は 日影も待たぬ春の雪
新竹の陥落
先に逸早や台北を 占領をして勇名を
轟かさをし近衛兵 今や進んで新竹の
険を阻んで我が軍を
水雷艇
片割れ月の物凄く 嵐に落ちて露深し
浜の荒磯音絶えて 千鳥も眠る丑三つの
闇に紛れて水雷艇 走るやいずこ白波の
炬火行列の軍歌
渤海湾の要害は 旅順に並ぶ威海衛
これぞ関所の両扉 旅順は既に蹴破りて
残る一つの威海衛 清艦ここに逃げ篭り
台湾府の占領
頃しも秋月初め 秋とは言えど南洋の
炎威酷暑は火の如く 内地の夏にいや勝る
数十倍の猛熱に 肌や焼けて髪縮れ
牛荘の戦勝
弥生の五日牛荘の 城に迫きる日本兵
大島大迫旅団長 兵を指揮して進みしが
いとも劇しき戦いは 我に不利なる市街戦
筒の響きは絶えやらず 夜半の夢さえまどろまず
息をも吐かず止めけをば 敵も流石に支えかね
敗れて逃げて雲霞
澎湖島の陥落
澎湖島と呼びなすは 四十余里の大島ぞ
事を台湾全島に 挙げんと思うその時は
先ず手始めにこの島を 陥いれるこそ有利ぞや
昔名高き鄭成功 始めて事を台湾に
挙げて三代島王と その名世界に響きしも
その根據をば尋ぬれば 取りも直さずこの島ぞ
龍潭坡の激戦
愚鈍極まる台湾の 草賊奴等は頑迷の
無能無智なる土民等を 斯く招き無体にも
諸所の要地に陣と敷き 隙を窺い行軍の
東北男児
地の利占めたる要害も 東北男児に囲まれて
などか二夜と支うべき やがて傾く歩月楼
牛荘城の戦
さほどに広き支那の国 勇士も数多あるらんを
征する毎に撃ち破る 我が軍隊の雄々しさよ
雪夜の斥候
天の川波荒れ立ちて 音無き瀧や落ち来らん
林も森も野も山も 皆白妙になり果てて
降りしく深雪おやみなく 更けゆく夜半の風強し
樋口大尉(敵の孤児)
轟く砲の音凄く 黒雲迷う威海衛
木枯らし荒び雪打ち散りて 彼方此方に弾丸ぞ飛ぶ
大寺少将
雲居を凌ぐ摩天嶺 容易く鳥も越えかねる
地の利を占めし敵塁の 守りは実に堅固なり
士気の歌
陸に敗北海には沈んで 豚尾の軍勢
土地や軍艦占領われて それでも懲りずに敵対の
チョイト可笑しい空威張り
如何に狂風
如何に狂風吹き巻くも 如何に怒濤は逆巻くも 
たとえ戦艦多くとも 何恐れんや義勇の士 
大和魂充ち満つる 我等の眼中難事無し
水雷艇(水雷艇の夜襲)
月は隠れて海暗き 二月四日の夜の空
闇を標に探り入る 我が軍九隻の水雷艇
勇敢なる水兵
煙も見えず雲も無く 風も起こらず波立たず
鏡のごとき黄海は 曇り初めたり時の間に
黄海の戦
硝煙みるみる山をなし 砲弾あたかも電に似たり
波は激しく天を衝き 日光暗黒風咽ぶ
ああ恐ろしや凄まじや これぞ真の修羅の海
凱旋軍歌
我が日の本の軍人 強き敵とて何恐るべき
弱き敵とて侮りはせぬ 勝ちて驕らぬこの心ぞ
強きを挫くの力と知れや 強きを挫く力を持てば
弱きを助ける情もござる 我が日の本の軍人
千歳万歳万々歳 その名を世界に輝かせ
雪の進軍
雪の進軍氷を踏んで どこが河やら道さえ知れず
馬は倒れる捨てても置けず ここはいずこぞ皆敵の国
ままよ大胆一服やれば 頼み少なや煙草が二本
   明治29
輜重兵
険しき谷も踏みさくみ 鋭き川も打ち渡り
敵地に深く分け入りて 我等は兵糧を運ぶなり
三角湧
我も諸君も日の本の 人たる身には忘るべき
惨憺悲愴極まれる 三角湧の三十士
北白川宮能久親王殿下
踏む足灼くる夏の日も 吐く息凍る冬の夜も
憐れ兵士と諸共に 進みましけん野に山に
四条畷
吉野を出でて打ち向かう 飯盛山の松風に
靡くは雲か白旗か 響くは敵の鬨の声
ワシントン
天は許さじ良民の 自由を蔑する虐政を
十三州の血は迸り ここに立ちたるワシントン
金剛石
金剛石も磨かずば 珠の光は添わざらん
人も学びて後にこそ 真の徳は現るれ
時計の針の絶間なく 巡るがごとく時の間も
日影惜しみて励みなば いかなる業かならざらん
   明治30
我が陸軍
輝く朝日の旗押し立てて 繰り出す隊伍の喇叭の響き
さすがに整う我が陸軍の 光はたちまち海外までも
いや照り渡りて誉れはここに 新高山とぞ世に仰がるる
一朝国家に事ある時は 命を捧げて進めや兵士
千引の岩
千引の岩は重からず 国家に尽くす義は重し
事あるその日敵あるその日 降り来る矢玉のその中を
冒して進みて国の為 尽くせや男児の本分を
赤心を
四季の歌
春は嬉しや 一人しょんぼり歩哨に立てば
花見帰りの女学生 これに見とれて欠礼すりゃ
ちょいと三日の重営倉 ヒヤヒヤ
   明治31
小川少尉の歌
ああ夢の世や夢の世や 思えば三年のその昔 
ただ一人なる母刀自を 都の空に残し置き
星落秋風五丈原
祁山悲秋の風更けて 陣雲暗し五丈原
零露の文は茂くして 草枯れ馬は肥ゆれども
蜀軍の旗光無く 鼓角の音も今静か
丞相病あつかりき
   明治32
桜井の訣別
青葉繁れる桜井の 里の渡りの夕ま暮れ
木の下蔭に駒止めて 世の行末をつくづくと
偲ぶ鎧の袖の上に 散るは涙かはた露か
   明治33
へいたい
誉れの高い日本の兵士
良く気を付けて号令守り
進むを知りて逃げるを知らぬ
海国男子
逆巻く波を蹴破りて 怒れる波を突き切りて
車輪を万里に進むべし 新たに世界も開くべし
我が海国のますらおよ 事業は多しいざ行けや
   明治34
箱根八里
箱根の山は 天下の険  函谷関も物ならず
万丈の山 千仞の谷 前に聳え後に支う
雲は山をめぐり 霧は谷をとざす
昼猶闇き杉の並木 羊腸の小径は苔滑か
一夫関に当るや万夫も開くなし 天下に旅する剛毅の武士
大刀腰に足駄がけ 八里の岩ね踏み鳴らす
斯くこそありしか往時の武士
歩兵の本領(歩兵の歌)
万朶の桜か襟の色 花は吉野に嵐吹く
大和男子と生まれなば 散兵線の花と散れ
アムール河の流血や
アムール河の流血や 凍りて恨み結びけん
二十世紀の東洋は 怪雲空に蔓延りつ
軍人勅諭(海軍)
軍人たるの本分は 心は忠に気は勇み
義は山よりもなお重く 死をば軽しと覚悟せよ
   明治35
敷島艦の歌
隧道つきて顕わるる 横須賀港の深緑
潮に浮ぶ城郭は 名も香ばしき敷島艦
陸奥の吹雪
白雪深く降り積もる 八甲田山の麓原
吹くや喇叭の声までも 凍るばかりの朝風を
物ともせずに雄々しくも 進み出でたる一大隊
   明治36
日本艦
昇る旭の旗立てて 太平洋のその中に
四千余万の水夫乗する 海の国なる日本艦
広瀬中佐
一言一行潔く 日本帝国軍人の
鑑を人に示したる 広瀬中佐は死したるか
   明治37
旅順口攻撃
明治三九の年の冬 十一月の二十一
未だ明けやらぬ東雲に 仄かに見る椅子山は
敵の籠もれる砦にて
軍隊歓迎
遠音に響く伴の男達を 迎え祝う今日ぞ
鬼にも勝る丈夫達を 迎え歌う今ぞ
世の事には身を捧ぐ 勇ましや雄々しや
我等の後はさこそならめ 勇ましや雄々しや
軍神広瀬中佐
生きては敵を恐れしめ 死しては軍の神となる
広瀬中佐の功名は 武人の鑑国の花
広瀬中佐
神州男子数あれど 男の中の真男子
世界に示す鑑とは 広瀬中佐の事ならん
決死隊を送る歌
勇みて進め決死隊 旅順の港を閉塞し
敵の軍艦封鎖して 袋の鼠となせよかし
決死隊・七十七士の歌
闇にもしるき旅順口 黄金山の山陰に
微かにひらめく灯火は 敵の夜営か砲台か
軍国の女子
ああ世々照らす日の本の 三千年以来聞きも得ず
伝えも知らぬこの時に 生まれ逢う身ぞ何の幸
征夷歌
金石鋼鉄皆湯と溶かす 旭の輝く大旗飛びぬ
ああ民ああ友 ああ我が男児
起て起て十年臥薪の極み 無道の悪民懲らさん時ぞ
閉塞隊
我が日の本に一人咲く 桜の花より芳しき
誉れを世界に示したる 壮烈無双の閉塞隊
日露軍歌
露軍討つべし破るべし 我等同胞四千万
一つ喉より発したる 声は天地に響きけり
ウラルの彼方
ウラルの彼方風荒れて 東に翔ける鷲一羽
渺々遠きシベリアも はや時の間に飛び過ぎて
白菊の歌(高等商船学校校歌)
霞める御空に消え残る 朧月夜の秋の空
身に染み渡る夕風に 背広の服を靡かせつ
喇叭節
今鳴る時計は八時半 あれに遅れりゃ重営倉
今度の休みが無いじゃなし 放せ軍刀に錆が付く
トコトットットット
上村将軍
荒波吠ゆる風の夜も 大潮咽ぶ雨の夜も
対馬の沖を守りつつ 心を砕く人や誰
天運時を貸さずして 君幾度か謗られし
ああ浮薄なる人の声 君眠れりと言わば言え
夕日の影の沈む時 星の光の冴ゆる時
君海原を打ち眺め 偲ぶ無限の感いかに
決死隊
天皇と国とに尽くすべく 死地に就かんと希う
二千余人の其の中に 七十七士ぞ選ばるる
日本海軍
四面海もて囲まれし 我が「敷島」の「秋津洲」
外なる敵を防ぐには 陸に砲台海に艦
橘中佐
遼陽城頭夜は明けて 有明月の影凄く
霧立ち込むる高梁の 中なる塹壕声絶えて
目覚めがちなる敵兵の 胆驚かす秋の風
日本陸軍
天に代わりて不義を討つ 忠勇無双の我が兵は
歓呼の声に送られて 今ぞ出で立つ父母の国
勝たずば生きて帰らじと 誓う心の勇ましさ
   明治38
常陸丸
波穏やかに風絶えて 立つ霧暗き玄海の
波路遥かに差し掛かる 我が運送の常陸丸
勇士の歓迎
暴慢無礼の敵兵を 縦横無尽に打ち懲らし
万の国に日の本の 御稜威の光を隅も無く
凱旋・名誉の第二十連隊
今日の目出度き凱旋を 迎えん為に勇士等の
長く子孫に伝うべき 名誉を歌い数うべし
大山元帥
ああ我が大山元帥は もと鹿児島の藩士にて
英雄西郷隆盛と 血を引く従弟の間柄
露営の夢
夜風冷たく篝火揺れて 月は照らせり露営の臥所
血潮に塗れし靴をも脱がず 静かに眠れり数百の勇士
看護
世に文明の花と咲く 赤十字社の看護婦が
帰隊の勇士送りつつ 長い廊下の物語
遼陽占領
敵の要害遼陽城や 固き保塁八重にも築
二十余万の兵をば集め 蟻の通わん隙間もあらず
輜重輸卒
押せども押せども車は行かず 進まぬ荷馬労わりて
険しき坂道深き谷 道無き道を進み行く
蔚山沖の海戦
蔚山沖の沖遠く 棚引き渡る黒煙
南を指して進み来る かの三隻を見よや見よ
常陸丸
見よや見よや玄界灘に 対馬の瀬戸に仇波騒ぐ
現れ来たる敵艦数隻 常陸丸をば囲みて襲う
箱入娘
西施楊貴妃の生まれた親の 自慢娘の旅順じゃけれど
昔口説いてつい落ちたのを いつか忘れて養女に行って
今じゃロシアの箱入り娘 落ちぬ噂が世界に高い
ロシア征討の歌
討てや討て討てロシアを討てや 我が東洋の平和を乱す
敵ロシアを討て討て討てや 我が帝国の国利を侵す
敵ロシアを討て討て討てや
ブレドー旅団の襲撃
義を見て勇むますらおの 心の内ぞゆかしける
屍は野辺に晒すとも 玲瓏の月は清く照り
芳名長く後の世に 聞かずや高く歌わるる
ブレドー旅団の襲撃を
旅順陥落・祝捷歌
祝えや祝え 
敵将降りて要塞落ちぬ
一月一日目出度きこの日
白虎隊
霰の如く乱れ来る 敵の弾丸引き受けて 
命を塵と戦いし 三十七の勇少年 
これぞ会津の落城に その名聞えし白虎隊
海軍記念日の歌
我が皇国の興廃を この一戦に担いつつ
日本海上強敵を 砕き沈めて万代に
国の礎定めたる 輝く今日の記念日よ
奉天附近の会戦
三十五万四十万 沙河を中なる我と彼
築き立てたる堡塁は 蜿蜒たりや五十余里
凱旋
目出度く凱旋なされしか 御無事でお帰りなされしか
御国の為に長々と 御苦労様でありました
出征
父上母上いざさらば 私は戦に行きまする
隣家におった馬さえも 徴発されて行ったのに
   明治39
負傷
父上様か母様か おお妹もご一緒に
遠い所を遥々と ようこそお出で下さった
露営
背嚢枕に草の上 ごろり横になったれど
勇ましかりし戦いが まだちらついて眠られず
要塞砲兵(重砲兵の歌)
崩るる潮の渦巻きて 水路遥けき太平洋
西に浮べる列島は 東亜の地をば守らんと
二千余歳の勲を 載せて麗わし華彩国
水師営の会見
旅順開城約成りて 敵の将軍ステッセル
乃木大将と会見の 所はいずこ水師営
戦友
ここは御国を何百里 離れて遠き満州の
赤い夕日に照らされて 友は野末の石の下
   明治43
突貫
山に満ち溢れ 満目皆的
対峙する我が軍 士気燃ゆる如し
進軍の号令は待てども未だ下らず
嵐過ぎて天地ただ静か 見よ見よ日の御旗高く揚る
時は今ぞ 突貫 突貫 進めや御国の御為
われは海の子
我は海の子白浪の 騒ぐ磯部の松原に
煙棚引くとまやこそ 我が懐かしき住家なれ
   明治45
かぞえ歌
一つとや 人々忠義を第一に
仰げや高き君の恩 国の恩
二つとや 二人の親御を大切に
思えや深き父の愛 母の愛
三つとや 幹は一つの枝と枝
仲良く暮らせよ兄弟 姉妹
かがやく光
御弓の先に金色の鵄
輝く光きらきらぴかぴか
眼眩んで逃げ行く悪者  
 
陸海軍歌 / 大正

 

   (以下、陸海軍・軍歌歌詞の一番を列記)
   大正1
白頭山節
白頭御山に積りし雪は
溶けて流れてアリナレの
アア可愛い乙女の化粧の水
靖国神社
花は桜木人は武士 その桜木に囲まるる
世を靖国の御社よ 御国の為に潔く
花と散りにし人々の 魂はここにぞ鎮まれる
日の丸の旗
白地に赤く日の丸染めて ああ美しや日本の旗は
朝日の昇る勢い見せて ああ勇ましや日本の旗は
乃木大将の歌
夢より淡き三日月の 大内山にかぐろいて
先の帝御車は 果ての出でましあらせらる
広瀬中佐
轟く砲音飛び来る弾丸 荒波洗ふデッキの上に
闇を貫く中佐の叫び 「杉野は何処杉野は居ずや」
橘中佐(屍は積もりて山を築き)
屍は積もりて山を築き 血潮は流れて川をなす
修羅の港の向陽寺 雲間を漏るる月青し
   大正3
威海衛襲撃
要害無比の威海衛 あらゆる防御を施して
残れる堅艦潜めつつ 敵は必死と守るなり
討ち入りこれを沈めずば 再び生きて帰らじと
将士等しく誓いたる 勇敢決死の我が艦隊
日本海夜戦
龍虎互いに相打ちて 海若狂い波荒れし
絶大記念の日は暮れて 月無き宵の海暗し
日本海海戦
明治三十八の年 頃しも五月の末つ方
濛気も深き暁に 済州島の沖遙か
どこいとやせぬ
御国の為ならどこまでも 
兄弟や老いたる親に別れても 
何厭いやせぬ構やせぬ
艦船勤務
四面海なる帝国を 守る海軍軍人は
戦時平時の分かちなく 勇み励みて勉むべし
日本海海戦
海路一万五千余浬 万苦を忍び東洋に
最後の勝敗決せんと 寄せ来し敵こそ健気なれ
   大正4
新呉節
銃を立て天幕を張りて背嚢が枕
外套被りてチョイトすやすやと
妻子に逢うたるヨッコリャ夢を見たエ
憎やまた撃ち出す敵の弾丸チョイチョイ
青島節(ナッチョラン節)
青島良いとこと誰が言うた 後ろ禿げ山前は海
尾のない狐が出るそうな 僕も二三度騙された
ナッチョラン ナッチョラン
   大正6
のんき節
学校の先生は偉いもんじゃそうな 偉いから何でも教えるそうな
教えりや生徒は無邪気なもので それもそうかと思うげな
ア ノンキだね
日本海海戦
敵艦見えたり近付きたり 皇国の興廃ただこの一挙 
各員奮励努力せよと 旗艦の帆柱信号揚がる 
御空は晴るれど風立ちて 対馬の沖に波高し
   大正7
鴨緑江節
朝鮮と支那と境のあの鴨緑江
流す筏はアラ良けれどもヨイショ
雪や氷にヤッコラ閉ざされてヨ
思うマタ安東県に着きかねる
   大正10
江田島健児の歌(海軍兵学校校歌)
澎湃寄する海原の 大波砕け散るところ
常磐の松の緑濃き 秀麗の国秋津州
有史悠々数千載 皇謨仰げばいや高し
陸軍士官学校校歌
太平洋の波の上 昇る朝日に照り映えて
天そそり立つ富士ヶ峰の 永久に揺がぬ大八洲
君の御楯と選ばれて 集まり学ぶ身の幸よ
流浪の旅
流れ流れて落ち行く先は 北はシベリア南はジャバよ
いずこの土地を墓所と定めん いずこの土地の土と終わらん
   大正11
馬賊の歌
俺も行くから君も行け 狭い日本にゃ住み飽いた
海の彼方にゃ支那がある 支那にゃ四億の民が待つ
   大正13
手向けの喇叭
突撃に突撃に ドッと倒れて高梁を
朱に染めたる喇叭兵 オイッ君頼むこの喇叭
吹けと言われて無我夢中 俺は吹いたぞ進軍譜
ストトン節
ストトンストトンと通わせて 今更嫌とはあんまりな
嫌なら嫌と始めから 言えばストトンと通わせぬ   
ストトンストトン
   大正14
嗚呼第四十三潜水艦
外(そと)辺境に事繁(しげ)く 災禍の煙消えやらず
内(うち)凄愴(せいそう)の風吹きて 弥生の春も物寂し
ハート・ソング
私のスーチャン福知山 二十連隊初年兵
焦がるる私も福知山 高等女学校の四年生
晴れて添う日を楽しみに 辛抱しましょうねえ貴方  
 
陸海軍歌 / 昭和 1-11年

 

   (以下、陸海軍・軍歌歌詞の一番を列記)
   昭和3
鉾をおさめて
鉾を収めて日の丸揚げて
胸をドンと打ちゃ夜明けの風が
そよろそよろと身に染み渡る
明治節
亜細亜の東日出ずるところ 聖の君の現れまして
古き天地閉ざせる霧を 大御光に隈無く払い
教え遍く道明らけく 治め給える御世尊
朝鮮北境守備の歌(朝鮮国境警備の歌)
ここは朝鮮北端の
二百里余りの鴨緑江
渡れば広漠南満州
朝日に匂う桜花
朝日に匂う桜花 春や霞める大八州
紅葉色映え菊香る 秋空高く富士の山
昔ながらの御柱と 立ててぞ仰ぐ神の国
陸軍行進曲
旭日燦たる帝国の 万世不変の国光を
遮る雲は疾風と 払い除かん我が火砲
陸軍行進曲
思えば畏し神武の帝 御国を建てさせ賜いし時も
親しく諸軍を統べさせ給う 極東洋上日出ずる国を
万古に固むる男児の誉れ 我等は陸軍軍人ぞ 
   昭和4
四季の満州
春の満州に桜はないが 咲いた菜の花
町長が二つ 結び飛交う麗らかさ
恋に変わりはありません
満州前衛の歌
西は大陸欧路に続く 赤き太陽の落ち行く所
広獏果て無き南満州の 遼東半島は祖国の前衛
進軍の唄
日出ずる国のますらおが 今戦いに出でて行く
旗翻り血は湧きて 歓呼の声や喇叭の音
朝鮮国境守備の歌
千古の鎮護白頭の 東に流るる豆満江
西を隔つる鴨緑江 蜿蜒遥か三百里
国境守備の名誉負う ますらおここに数千人
独立守備隊の歌
ああ満州の大平野 亜細亜大陸東より
始まる所黄海の 波打つ岸に端開き
蜿蜒北に三百里 東亜の文化進め行く
南満州鉄道の 守備の任負う我が部隊
進軍
日出ずる国のますらをが 今戦いに出でてゆく
旗翻り血は湧きて 歓呼の声や喇叭の音
   昭和5
撃滅の歌
敵艦見ゆとの警報に 五月の夜の霧晴れて
朝日は昇る日本海 ああ肉と血は今躍る
時ぞ来たれり我が友よ いざや楽しき死を死なん
さらば故郷よ父母よ 丘よ小川よ森陰よ
青年日本の歌(昭和維新の歌)
汨羅の淵に波騒ぎ 巫山の雲は乱れ飛ぶ
混濁の世に我立てば 義憤に燃えて血潮湧く
酋長の娘
私のラバさん酋長の娘 色は黒いが南洋じゃ美人
赤道直下マーシャル群島 椰子の木陰でテクテク踊る
踊れ踊れ濁酒呑んで 明日は嬉しい首の祭り
   昭和6 
ああ南嶺
柳條溝の夜は更けて 星影空に冴ゆる時
静寂を破る銃声は 我に仇なす敵の兵
起てよ国民
天神怒り地祇恙る 咄何ものの暴虐ぞ
満蒙の空風暗く 翻る胡沙血に赤し
守れよ満州
私の兄さん満州で死んだ 僕の父さんも満州で死んだ
忠義な兵士のお墓の満州 守れや守れ我等の権利
走れトロイカ
走れトロイカもう日が暮れる 空に高鳴れ朱総の鞭よ
遠い町にはちらほら明かり 鐘が鳴ります中空で
噫、中村大尉
義勇奉公四つの文字 胸に刻みて鞭を揚ぐ
ますらお中村震太郎 行く手は遠し興安嶺
昭和の子供
昭和昭和昭和の子供よ僕達は
姿もきりり心もきりり 山山山なら富士の山
行こうよ行こうよ足並み揃え タラララ タララ タララララ
ラジオ体操の歌
躍る旭日の光を浴びて 
屈よ伸せよ我等が腕
ラジオは号ぶ一ニ三 
   昭和7
ああ倉本少佐
日露の役に名誉ある 戦死を遂げし父の子と
取り佩く太刀の束の間も 心の駒に靴をあて
文武の道に励みつつ 君軍人となりにけり
ああ上海
満蒙の暴戻飽き足らず 治安の都会上海へ
不逞の毒牙蔓延らす その名も憎し便衣隊
無法極まる排日に 上海居留の同胞や
凱旋行進曲
風雲去りて満蒙の 空は晴れたり大陸に
第二日本の別天地 祖国は勝てり建設の
今日の凱旋この良き日
輝く日本
見よ東海の君子国 麗らかなれや日輪に
繁る民草照り映えて 輝く日本新日本
建国歌
その神天地開けし初め げに萌え上がる葦禾なして
立たし神こそ 国之常立 いざ いざ仰げ起ち返り
かの若々し神の業
皇軍の歌
旭日煌々太平洋に 白雪千古不尽の嶺に
万世一系天佑渥き 我が皇室を我が国を
擁護し奉れる皇軍は 天皇自ら統率し給う
我が皇軍 我が皇軍は日本の誇り
国防の歌
広麥千里の満蒙は 
赤い夕日に照らされて
滴る血潮に燃ゆるなり
塹壕塹の夢
雪の満州の露営の床で とろり見ましたお前の夢を
可愛いお前に丸髷結わせ 二人楽しい故郷の生活
従軍記者の唄
満蒙風雲急を告げ 皇軍苦闘討伐の
砲煙弾雨戦績を 探り母国へ報道の
任務は重し身は軽し
一寸出てこい
一寸出て来い蔡廷楷 腰の軍刀が泣いている
物見遊山に海山越えて 出征したのじゃ無論ない
これでお前も日本へ帰りゃ 伝家の宝刀が収まらぬ
夜毎夜毎に荒れては困る 一寸出て来い蔡廷楷
トコ張さん
親の譲りの東三省を 灰にするのも天の罰
チョッカイ出したが身のつまり トコ張さん、どうしたね
肉弾三勇士の歌
昭和七年二月の 二十二日朝まだき
残月掛かる大空を 仰ぎて誓う三勇士
廟行鎮決死隊の歌
屍に代えん 廟行鎮 火網十字に隙もなく
暁近く霧込めて 士気こそ挙れ破壊班
便衣隊討伐の歌
正義を標榜皇軍の 進路を阻み良民の
姿借りて我を討つ 不逞の輩便衣隊
天に代わりていざ討たん
北大営の歌
晩秋九月十八日 柳条溝の夜は更けて
黒白も分かぬ真の闇 時しも起こる爆声は
満鉄線を打ち壊し 我に仇なす敵の兵
満州建国歌
天地の中に新満州はある
新満州は即ち之新天地なり
天を戴き地に立ちて苦なく憂いなし
満州青年義勇隊の歌
神代この方日の民が 御稜威の元に開きたる
土の栄えの業継ぎて 御霊は鎮む満州の
大地に鍬を振るう者 我等青年義勇隊
満州の歌
果て無き広野尽きぬ富 鎖せる雲の晴れやらで
眠りは永き満州に 今こそ響け新生の
黎明告ぐる鐘の声
満洲派遣軍の身の上を思いて
垂乳根の 立てし勲に はちぬまて
正しく守れ ますらおの友 国の為
雪と埃に 身を砕く ますらお思えば
夜も寝られず
満州ぶし
征こか満州里 戻ろか黒河 
私も貴方も広野の風よ
楽土満州で よいやさのさ
満州よいとこ
西は新京 東は東京 君が御稜威は日も夜も伸びる
国都祭りの大がかり 嬉し日本の風が吹く
満鉄社歌
東より光は来る 光を載せて 東亜の土に 使いす我等
我等が使命 見よ 北斗の星の著きが如く
輝くを 広野 広野 万里続ける 広野に
満蒙国家建設の歌
正義に刃向う刃なく 風雲去りて全満州
投与平和確立の 満蒙国家建設を
祝え諸人諸共に
満蒙建国歌
興安嶺の麓より 立ち昇りたる黒龍は
西へ西へと席巻し 欧州大陸戦けり
露営の夢
尖った月の空の下 郷里の便りを見てみれば
悩みに喘ぐ溜息か 流れて落つる血の涙
わが戦友
御国離れて何百里 雪や氷に閉ざされて
赤い夕陽の満州路 寒さは零下三十度
我らの満州
赤い夕陽は血潮の色よ 数度の合戦に我が同胞が
骨を埋めて固めた満州 永久の繁栄我が任務
護れ祖国の生命線
オリンピック
力込めて打て 輝かに戦え
日章の旗の下に 雄々しく進め
占めよ世界の玉座 挙げよ我が勝鬨
颯爽と往く者の 前に敵無し
月下の塹壕
胡沙吹く風に曝されて 夜毎の夢も凍ぶとも
守りは堅し鉄兜 屍は野辺に果てるとも
七度生きて尽くさばや 任務は重く身は軽し
青年の歌
明け行く空よ いざいざいざ 胸は躍る雲の光 あれこそ我等の
若き希望よ いざ! 真理を訪ねて 凱歌の旅路に
いざいざいざ 我等 若し
建国行進曲
月の大神が日の国を 始め給いし建国の
実作無窮の大詔 掲げて憲章の火ぞ明き
ああ大空に日は照れり 我等が道に光あり
建国行進曲
神の恵みの高千穂に 心の鏡愛の玉
正義の剣曇り無く 国の光は差し出でつ
艦隊行進曲
見よ東に星消えて 太平洋の朝ぼらけ
我が艦隊は縦陣の 威武堂々と航進す
肉弾三勇士の歌
敵の堅塁抜き難く 暫し躊躇う皇軍の
中に九州男子あり 満身これ肝これ神勇
さらば上海
胡弓鳴らせばランタン揺れる 揺れるランタン小さく赤く
末は夜霧で 末は夜霧で絶え絶えに
晴れの門出よネエあなた
波も静かな今宵の軍港 君と見たよな月明かり
出て行く艦の薄姿 晴れの門出よネエ貴方
私ゃ笑って送るのよ
陸戦隊の歌
白い脚絆に糧嚢背負って 風にペンネントがひらりと靡く
海が俺等の舞台じゃとても 陸の戦に勝つ手はあるさ
喇叭鳴る鳴る血は躍る
起てよ若人
起て起て若人意気高く 幾重の雲を払いつつ
双腕の力振り翳し 護れ我等が大満州
日本刀の歌
秋の霜夜の星の色 桜三月空の色
抜き放ちたる日本刀 匂う焼刃の美しさ
銃後の花
平和の世には母として 勤めを励む女等も
いざ戦いの日となれば 銃後の人よ諸共に
日本国民歌(国難突破)
吼えろ嵐恐れじ我等 見よ天皇の燦たる御稜威
遮る雲断じて徹る 遮る雲断じて徹る
空は青雲
空は青雲わしらは若い 岩に小鷹の仰ぐよだ
そうだそうだ巣立ちの若鷲だ 今に風切る鷹の羽だ
走れ大地を(第十回ロサンゼルスオリンピック応援歌)
走れ大地を力の限り 泳げ正々飛沫を上げて
君等の腕は君等の足は 我等が日本の
尊き日本の腕だ脚だ
肉弾三勇士
廟行鎮の夜は明けて 残月西に傾けば
時こそ今と決死隊 敵陣深く潜入す
空中艦隊の歌
仰げば雲の果て遠く 銀翼連ね轟々と
大鵬六機今日もまた 紅南指して邁進す
大空軍行進曲
見よ銀翼に日の丸は 空の王者か隼か
爆音一路敵陣へ おお我等が偵察機
勝利は君が上にあり
五・十五事件 昭和維新行進曲 陸軍の歌
若き陸生殉国の 時勢に勇む大和魂
昭和維新のその為に 起った決意の五・一五
肉弾三勇士の歌
戦友の屍を越えて 突撃す御国の為に
大君に捧し命 ああ忠烈肉弾三勇士
日本陸軍の歌
明治天皇御諭の 五条の教畏みて
永く祖国の守りたれ 旗も旭日の印なる
我が陸軍の健男児
兵隊さん
鉄砲担いだ兵隊さん 足並揃えて歩いてる
とっとことっとこ歩いてる 兵隊さんは綺麗だな
兵隊さんは大好きだ
討匪行
どこまで続く泥濘ぞ 三日二夜を食も無く 
雨降りしぶく鉄兜 雨降りしぶく鉄兜
爆弾三勇士
廟行鎮の敵の陣 我の友隊既に攻む
折から凍る如月の 二十二日の午前五時
満州行進曲
過ぎし日露の戦いに 勇士の骨を埋めたる
忠霊塔を仰ぎ見よ 赤き血潮に色染めし
夕陽を浴びて空高く 千里広野に聳えたり
   昭和8
亜細亜行進曲
有色の屈辱のもと 
喘ぐもの亜細亜 亜細亜
奪はれし吾等が亜細亜
軍港節
騒ぐ荒波 太平洋は 
男命の捨て所 捨て所
愛しあの娘の口元目元 
夜の軍港にゃ燈が紅い 燈が紅い
敵機襲来!
天日暗くサイレン叫び すわ襲来す敵機の群れよ
爆弾の雨降下の嵐 忽ち潰ゆ我等が帝都
日本青年団歌
彩雲輝き百鳥歌い 今こそ目覚めれ我等の天地
玲瓏曇らぬ我等が胸に 高鳴り燃えるは正義の血潮
いざ共に讃えん正義の血潮 いざ共に鍛えん若き力
なんですてましょ
何で捨てましょ
緋鹿子島田に 紅緒の素足
ブツリと切ったも国の為国の為
蒙古の娘
蒙古娘の二八の春は 空を仰いで涙する
長い黒髪を紫の根でつかね 額づく御堂に月が出る
蒙古娘の二八の春は 赤い刺繍の靴を縫う
常夏の島(海の生命線)
太平洋の青空に 紅映ゆる日章旗
白い珊瑚礁に躍る魚 渚々に鳥が鳴く
裏南洋の日は静か
カナカの娘
赤い太陽の照る渚 珊瑚礁に砕ける波の音
覚むれば闇に鳩は鳴き 酋長の娘の膝枕
椰子に抱かれた蒼い月
亜細亜は叫ぶ
支配の力地に落ちて 妖雲暗し旧世界
雷空に鳴るごとく 亜細亜は叫ぶ高らかに
大楠公の歌
千草の守り破れねど 南風既に競わざる
雲居の月の行く末を 血に泣く夜半の不如帰
我等の国旗
見よ八紘の果てまでも 輝き渡る日の御旗
我が建国の大理想 生まれて二千五百年
キャラバンの鈴
広い砂漠を遥々と 
駱駝に乗ってキャラバンは
雲を踏み踏み通うて来る
連盟よさらば
遂に来たれり現実と 正義の前に眼を閉じて
彼等が無恥と非礼なる 四十二票を投げし時
我が代表は席を蹴る
護れ大空
太平洋よ大陸よ 鵬翼万里敵を呑む
我が空軍の精鋭を 誰か侮る無敵国
護れ大空日本の空を 護れ大空日本の空を
連合艦隊行進曲
仰げ日の丸マストに高く 見よ天皇の御稜威は光る
天壌無窮断じて護れ 天壌無窮断じて護れ
殉国勇士を弔う歌
襟を正して厳かに 感謝捧げよ倒れたる
我が皇軍の同胞に 凱歌轟く今日にして
弔え殉国勇士の霊を
   昭和9
広野転戦
大詔畏みて 盟邦の闇払うべく 
昭和七年秋深く 兵馬三千海を越ゆ 
皇太子殿下お生まれになった
日の出だ日の出に 鳴った鳴ったポーオポーオ
サイレンサイレン ランランチンゴン
夜明けの鐘まで 天皇陛下のお喜び
皆々拍手 嬉しいな母さん
皇太子さまお生まれなすった
皇太子殿下御誕生祝歌
静かに明くる夜の帳 瑞雲籠むる大八州
朝日ただ射すこの国に 今歓びの声満ちて
日嗣の皇子は生まれましぬ
日嗣の皇子は生まれましぬ
東郷行進曲
「敵艦見ゆとの警報に接し 連合艦隊は直ちに出動
これを撃滅せんとす 本日、天気晴朗なれども 浪高し」
我が皇国の荒廃を この一戦に決せんと
誓いは堅し決死の覚悟 怒涛を蹴って奮進す
日本人はここにいる(ハルピン匪賊事件の歌)
暁寒き北満の 鉄路も暗き急行車
銃火浴びせて襲い来る さても小癪な匪賊共
砂漠の旅
遠い地の果て十字の星よ 何日まで続く砂漠の旅か
恋しい人の面影抱いて 今日も浮き寝の砂丘の蔭よ
躍進節
椰子の南洋千島の果てもよ
靡く旗風日章旗日章旗
躍進日本の意気示せ意気示せ
仮寝の夢
手を取りて 泣いたあの夜の
月明かり 今宵も同じ月明かり
知らぬ他国に流れ来て 仮寝の夢の寒々と
心に沁みる 月明かり
椰子の月
何をくよくよポナペの娘 沖のカヌーを見て暮らす
泣くな泣きゃるなまだ年ゃ若い バナナ祭りの火が招く
バナナ色付きゃおぼこも熟れる 赤い太陽の島娘
日満音頭
満州良い国朝日を受けて 靡く五色の旗の色
二世を結んで夫婦の絆 満州日本の生命線
空に聳える忠魂塔は おらが満州の守り神
御国はなれて
沼地百里にヨ吹雪が三日ナントショ
腰の剣は鳴るばかりリラリラ
奮って奮ってソレ進軍しょ
春の鴨緑江
遠い深山の根雪も解けて 春が来たかよちらほらと
流す筏に二ひら三ひら 散って零れる花便り
涯はどこやら
月の砂漠を昨日出て 今日は入日の街を行く
西よ東よ旅暮らし 果てはどこやら雲に問え
国境を越えて
躍り歩けば西東 夜は寂しい馬車の中
小窓に飾る宝玉は 北の御空の七つ星
急げ幌馬車
日暮れ悲しや荒野は遥か 急げ幌馬車鈴の音頼り
どうせ気紛れ流離い者よ 山は黄昏旅の空
俺は水兵
俺は水兵日本男児 
浪を蹴破る力と意気で
祖国日本の海原護る
大号令の歌
天照らす 三千年の穢れ無き
民族の血潮胸に燃ゆ 聖日本のますらおの道
義人村上(日本人は此処に在り)
どこへ引かるる人質ぞ 首や双手は縄からげ
二日二夕夜も休み無く 明けりゃジャンクの船の底
主は国境
主は国境霰か雪か 
今日の夜寒に立つ歩哨
ままよ時雨が身にしみる
広野を行く
赤い夕日に照らされて
今日も広野を流離いの
行方定めぬ一人旅
国境の町
橇の鈴さえ寂しく響く 雪の広野よ町の灯よ
一つ山越しゃ他国の星が 凍り付くよな国境
   昭和10
雲とつばさ
祖国を思う一筋を 愛機に載せて雲の上
つばさ つばさ 空行くつばさ
雲とつばさ 血潮に似たる夕陽も悲し
躍進太平洋
海は朝紅 緑の波に 艦旗颯爽と靡かせて
皇国の護りと翔けり行く 若き我等の太平洋
吹雪の高原
粉雪降り積む丘の上に 消えて行く行く橇の鈴
今宵別れていつまた逢える 君のマスラのララ紅の月
国を離れて
広野遥々暮れ行けば 馬も我が身も愛おしや
急げ幌馬車丘越えて 行けば懐かし灯が見える
銃執りて
御国の為に銃執りて 
出でて行方も何百里
守る我等の生命線
平和の戦士
銃は執らねど佩剣片手 守る祖国の治安線
私ゃ警官巷に咲いた 日本心の桜花
夕陽は落ちて
荒野の果てに日は落ちて 遥か瞬く一つ星
故郷捨てた旅ゆえに 愛しの黒馬よ寂しかろ
輝け少年日本(働く少年達の為に)
額に汗して荒野を拓く 僕の手君の手皆日本の手
きりり草鞋に黒土踏んで 日の出燃え立つ丘に出て
薩摩隼人の唄
燃えて火となれ男児の心 波に桜の咲く島は
薩摩隼人の意気で立つ そうれよかよか
軍艦音頭
目出度目出度の進水式よ
海の護りがまた増えたまた増えた
大きな国柱
名誉の信号旗
勇んで戦に行く人に 涙は不吉と堪えても
聞き分け無いは女気の 袂で隠す忍び泣き
躍進東京
街に巷に満ち渡る 雄飛日本の賑わいの音
聞かずや君よ大東京 湧きて溢るるこの力
若き東京躍進の都
春の満州
満州乙女のあの瞳 恋の血潮に燃える春
青い龍紋紅の紐 杏の花の仇情け
アリラン夜曲
日長日暮れて薄紅付けて アリランアラリヨ紅付けて
誰に逢おとの桃色上衣 呼べば月さえ片えくぼ
大楠公
星斗は回る六百年 武人の亀鑑国の華
讃えて仰げ楠木の 誉れも高し大楠公
初春ばやし
わしが国さで見せたいものは 大和心と富士の山
千両万両積んだとて ドッコイお金じゃ買われない
ペチカ燃えろよ
雪の降る夜は楽しいペチカ
ペチカ燃えろよお話しましょ
昔々よ燃えろよペチカ
吹雪を衝いて
寒や雪空吐息も凍る 白樺の林にゃ風が鳴る
恋のトロイカ思いは遥か 町の灯りはまだ遠い
北満警備の歌
立てや正義の令の下 懲らせや不逞の輩を
興亜を繋ぐ満蒙の 鉄路は炎る大和魂
北満警備の歌
ここは北満最北の 
流れは凍る九百余里
吹雪も暗き黒龍江
来たよ敵機が(我が家防空の歌)
来たよ敵機が魔の鳥が 灯り洩らすな油断するな
腕は鳴る鳴る血は躍る 皆張り切れ空襲だ
守れ断じて国の空
海国大日本
棚引け星雲躍れよ黒潮 行け行け同胞海国男児
夜明けだ輝く夜明けだ 海国大日本雄飛の時だ
大陸軍の歌
青雲の上に古く 仰げ皇祖
天皇の大陸軍 道あり統べて一なり
建国の理想ここに 万世
堂々の歩武を進む 精鋭我等
我等奮えり
満州皇帝奉迎の歌
満洲皇帝お出でになった 皆皆お待ちかね
ようこそようこそ 富士のお山も波止場の船も
あれあれあんなに輝き渡る
もずが枯れ木で
百舌が枯れ木で鳴いている おいらは藁を叩いてる
綿挽車はお婆さん コットン水車も回ってる
生命線ぶし
広漠千里満州の 
野末の雲の乱れをば
見つめて雄々し立ち姿
祖国の護り(大山元帥を讃える歌)
海涛天を衝く所 燃えて火を吐く桜島
薩摩が生める快男児 姓は大山名は巌
君は満州
君は満州で銃を執る 僕は故郷で鍬を執る
果たす務めは変われども 同じ御国の為じゃもの
陸軍記念日を祝う歌
奉天戦の勝鬨の 聞こゆる今日の記念日は
我が陸軍の誉れぞと 国民挙げて祝うなり
日露の役に誓いたる 挙国一致を偲びつつ
   昭和11
亜細亜の曙
ああ崑崙の峯の雲 今日紅の火と燃えよ
ああ渺々の揚子江 今ぞ血潮の色となれ
つわもの節
望み叶うて入営の 今日ぞ嬉しき御奉公
誠を誓うも君が為 タッテタッテチテタ
タッタトットター
吾らの空軍
大空に 高く爆音 ループを描き
空の王者よ我が物顔に 
見よや精鋭我等の空軍
国境ぶし
怖い所と聞いていたが 蘭の花咲く国境
オヤどうしたナ 赤い夕陽の満州は
暮れりゃ笑顔の チョイト月が出る
ハハほんとネ
母恋し
故郷の母恋し 朧月夜 哀れ果て無き 旅の空
思い出づ 爐の辺 我を侘びて いかにおわします
夜明けの歌
霧は晴れるよ夜が明ける 風は囁くマドロスに
起きよ船出だ帆を上げよ 海に真っ赤な日が昇る
上海航路
船は行く行く白波の 月のデッキの潮風に
胸の炎の消ゆるまで 語り明かした君と我
ああ懐かしの上海航路
興安吹雪
荒れる吹雪の興安嶺を 越えりゃ冷たい他国の空よ
橇を早めて広野を行けど 目指す街の灯まだ遠い
菊に思いを
慰問袋に優しい手紙 今は満州も菊の盛り
花に劣らぬ手柄を立てて 帰ります日を神頼み
満州の月
去年故郷で見た月を 今宵広野の空で見る
我等男児の心境は 晴れて輝く月に問え
起てよ若人
日出ずる御国の若人よ 聴け!鐘は鳴るオリンピア
鐘高鳴りて君等を招く 起てよ若人征きて闘え
御国の為にぞ協わせよ力
海洋警備の歌
意気で行こうよ赤道直下 海の日本の生命線
椰子の葉陰の曙に 仰げおいらの軍艦旗
国境節
どこで果てよと御国の為よ 
儘になるなら男なら
わしも行きたや国境警備
カチューシャの想い出
風が吹く吹く荒野は千里 雪のシベリア日が暮れる
行くに当て無い白樺林 カチューシャ可愛いやララ一人旅
興安颪
赤い夕陽に胡弓を抱いて 
北に広野を彷徨えば
風も遥かな空で泣く
北の国境線
落葉松林に日が落ちて 空に冷たや北斗星
風も他国の思いを乗せて 吹くか広野の国境
椰子の実
名も知らぬ遠き島より 流れ寄る椰子の実一つ
故郷の岸を離れて 汝はそも波に幾月
旧の木は生いや茂れる 枝はなお影をやなせる
満州吹雪(満州小唄)
命捧げて来た身じゃけれど
今日も昨日も吹雪の満州
空が曇れば気も暗い
護れ国境
見よや広野の国境は 燃ゆる夕陽の空の下
興安嶺の木枯らしも 北に流れて雲早し
防人の歌(国境連曲抄)
凍りて続く雪の原 ただ一色に国境は
絶えると見えて雲遠く 起き伏す丘の果てし無し
あの丘の影の辺り 共匪の何ぞ隠れたる
満州ぐらし
雪暮れて里恋し 遠い灯りがちらちらと
とぼとぼと雪の路 高梁花咲く満州の
故郷の歌悲し
愛国機
挙れ銀翼国民の 熱誠今や天を衝く
離陸颯爽鮮やかに 翔ける我等が愛国機
戦友の唄
ここは北満広漠千里
雨に晒され吹雪を衡いて
守る国境空高く揚げよ日の丸
守れ北満
群がる匪賊荒ぶ風 氷も雪も何のその
断じて護れ北満の 警備は重く身は軽し
防空音頭
鳴るはサイレン警報だ燈管 ヤットヤットナ
覚悟定めた 覚悟定めた心意気
ソレ撃って落として万歳!万歳!
どどんがどんと射てどんと落とせ
あげよ日の丸
あげよ飛沫の音高く あげよ誉れの技高く
君等が若き日の限り 陽は輝けり溌剌と
歓呼を浴びて往け選士 制覇を賭くる水の上
月の国境
月の国境小夜更けて 腰の軍刀冴ゆる時
秋水三尺露払う 知るや男子のこの心
満州おもえば
またも雪空夜風の寒さ 遠い満州が満州が気にかかる
思い出すとも出させちゃ済まぬ 命捧げた捧げた人じゃもの
空も心も未練じゃないが 満州想えば想えば曇りがち
ああわが戦友
満目百里雪白く 広袤山河風荒れて 
枯木に宿る鳥も無く ただ上弦の月蒼し
守備兵ぶし
雪の満州に夕日は落ちる 故郷じゃ父さん達者でいてか
匪賊退治に手柄を立てて 僕も上等兵になりました
関東軍の歌
暁雲の下見よ遥か 起伏果て無き幾山河
我が精鋭がその威武に 盟邦の民今安し
栄光に満つ関東軍  
 
陸海軍歌 / 昭和 12年

 

   (以下、陸海軍・軍歌歌詞の一番を列記)
亜欧記録大飛行声援歌
桜は匂う日東の 富士の高嶺をいざ越えて
希望羽ばたく朝ぼらけ 行けよ「神風」空遠く
草に眠る勇士
名も知れぬ草の葉の陰 弾に倒れた勇士の墓標
雨に晒され風に打たれ 墨の文字さえ消えそうな
九段の桜花
花は桜木人は武士 散りて輝くますらおの
勲は薫る九段坂 仰げば高し大鳥居
青年行進曲
空は晴れたり気は澄みて 雲を凌げる芙蓉峰
照る日に光る姿こそ これぞ我等の心意気
戦線夜曲
雲か煙か長城か 黄昏遠き幾山河
戦い止んで城壁に 今宵七日の月細し
日本青年の歌
日出づる所 沖つ浪打ち寄する島
我等は継げり おお若人 海神
盛り上ぐる力 気負い立つ心
剛く雄々しく いざいざ日本を
風雲の北支那
東洋平和の夢破れ 北支の空を眺むれば
戦雲低く垂れ込めて 今戦いの鯨波の声
雪の戦線
雪の戦線氷を踏んで 護る兵一万騎
すわや寄せ来る不逞の輩 乱れて弾の雨霰
馬は倒れる心は疾る 手綱持つ手は血の氷柱
ああ茅野記者
御国の為に御奉公 思う存分してくれと
父と弟と姉妹 揃って歌ったあの軍歌
過ぎしあの日のあの歌を 何で忘れてなるものか
愛の赤十字
白衣に君が印せるは 正義と愛の赤十字
轟く砲火その中で 情けも熱く看護する
勇士の母の立ち姿
神風だから
昇る朝日は東から 南コースを西南へ
神風だから それだから そよろ春風 さっと飛んだ
さっと飛んだ
感激の南京入城
大君の御稜威の限りなく 南京陥ちぬ首都陥ちぬ
万歳叫ぶ朝空に 染めし日の丸高々と
思わず咽ぶ男泣き
郷土軍髑髏隊
東亜の空に風荒れて 暴虐比なき民国を
庸懲の土は既に起つ 正義の剣は抜かれたり
空軍の威力
征空万里雄鳳の 海を払いて轟々と
目指すは敵の大艦隊 翼下に躍る太平洋
空爆千里
翔けれよ黒雲呼べよ嵐 台風圏内怒涛の中も
何を恐れん日本男児 邁進邁進向かうは敵地
国防婦人会の歌
勇士は練磨の銃を執り 身を切る風の砂を巻き
戦線万里何をか黙すべき 同じ日出づる国の子よ
国境想えば
主は満州広野の護りよ 凍る務めも国の為
故郷を離れて二歳余月 命捧げて皇国の護り
どうせ生きては帰らぬ覚悟 男命の捨て所
塹壕ぶし
シャベル握って塹壕掘って ちょいと一服一息すれば
何を寝ぼけた敵の弾丸 トンコトントン空を飛ぶ
上海凱旋歌
上海遂に陥落す 万歳の声こだまして
轟け凱歌日の丸の 旗打ち振りていざ祝え
我が一億の同胞よ
祝捷音頭
勝った勝ったよ 上海占領 ドンドドント 嬉しいね
ア トンヤレトンヤレ 嬉しいね
挙がる万歳 日の御旗 トコ 日本の大勝利 万歳や
ア 万歳や 万歳や
進軍第一歩
男児五尺の身に余る 誉れ背負って雄々しくも
小旗の波の中を行く 君の門出の晴れ姿
陣中の香月将軍
戦の塵か 白雲か 梢の端を睨みつつ
角木の柄を握りつつ 陣中香月将軍よ
赤誠銃後の歌
熱風炎々冀察ぞ燃ゆれ 皇軍長き隠忍の
艱苦の血潮滾る秋 銃後の守りいや固し
頼む御国の将兵よ
戦士の道
征けよ兄弟 頼んだぞ よし笑ったあの門出
今ぞ銃執るこの腕に 一億民の血が滾る
戦線日記
銃は煌く身は凍る 遠い北支の歩哨線
馬も嘶く朝風に 東洋守りの日の御旗
戦線は呼ぶ
戦線は呼ぶ君を呼ぶ 日頃勤しむ生業を
さらり離れて武者震い やってくるよとただ一語
戦地から故郷から
広野果て無き戦線に 
僕は元気で銃を執る
変わりは無いかよ 故郷の人
血染めの伝令
ここは北支那前線を 消える命の気を起こし
進む血染めの伝令の 雄々し姿に風が泣く
敵前上陸
闇に轟く手榴弾 苛立つ胸に波高く
左舷は遂に繋がれて 敵前上陸成し遂げたり
南京陥落大勝利
勝った勝った勝った日本勝った 上海太原蘇州を破り
目指す南京 どどんと陥として
勝った勝った勝った 大勝利この大勝利
爆弾二将校
炎熱灼ける七月の 二十九日の朝まだき
高梁隠れの南苑の 敵陣襲う我が部隊
囲めばもがく敵兵が 頼む城壁二十尺
ファスシストの歌
ああ英雄の国民 あ不滅の祖国 甦る同胞 理想の血湧きて
武士の勲し 先駆者の功績 ダンテのあの夢 心に光る
若人 若人 美し青春 人生の荒波越えて 翔ける汝が歌
風雲急なり
妖雲暗く地を覆い 天日暗き盧溝橋
ああ北平に風荒れん 正義漸く墜ちんとす
風雲急なり起てよいざ 報国一死君の為
ああ大道の仇敵を 討ち懲らさんは誰が任務
北支の空
深夜を破る銃声に 北支の空は暗澹と
風雲燃えて地に飛べば 壮心今か天を衝く
無言の凱旋
おお凱旋ぞ凱旋ぞ 声無き君が御霊こそ
語るに勝る語り草 御国を護る鬼神の
輝く勲 永遠に
空軍の花
密雲低く垂れ込めて 古都南京の暗き空
突如と起こる爆音は 我が海軍の爆撃隊
醒めよ蒋・張・王・陳・白
皇師百万應懲の 鉾執り起ちぬ敢然と
四百余州に立ち込むる 抗日の夢破るべく
醒めよ蒋・張・王・陳・白
兵隊さん節
弾丸に嫌われ生き残る 俺もお前も向こう見ず
見ずにいられぬ三月振り 可愛いあの娘のこの手紙
塹壕夜曲
国を出たのは花の春 戦する身の時知らず
進み進んで行く内に いつか戦地は秋の暮れ
日の出島
黒潮躍る太平洋に 海濤花と散る所
千古の巌緑して 御稜威燦たり日の出島
ああ決死隊
ああ暁の寒空に 大地を蹴って進み行く
雄々しき姿よ薫る勲よ これぞ栄えある祖国の決死隊
皇軍入城
雲間を破る陽を浴びて 凱歌を叫ぶ勝ち戦
軍靴も軽く銃剣を 担いて進む将兵の
歓喜は顔に溢れたり
さらば愛馬よ
敵の矢玉を身に浴びて 夕映え赤き野の果てに
今息絶えて我が駒は 哀れ冷たく花の蔭
さらば愛馬よ栗毛の駒よ 眠れよ眠れ安らかに
護国のハンカチ
荒天衝きて爆撃の 羅針は指しぬ南京府
十字砲火の洗礼に 敢然襲う敵陣地
お国の為にどこまでも
嬉し懐かしお便りを そっと袂に忍ばせて
海山千里遥々と 偲ぶ貴方の戦振り
愛国六人娘
燃え立つ血潮よ紅に 今日ぞ輝く祖国の御旗
銀の翼に彩りて いざ征け若人我等の戦士
陸戦隊の歌
無敵を誇る艦隊の 精鋭陸に陣を敷き
国難今と銃執りて 火線を連ね進撃す
誉れの号外
鈴の音響く街の角 求めて見れば号外に
名誉を立てた戦死者と 我が子の名前が書いてある
支那の兵隊さん
雨が降ります傘差して 韮を食べ食べ戦線へ
「支那手品なかなか上手いな 嘘吐く事またまた上手いな」
戦争するやらしないやら 支那の兵隊さんにゃ分かれやへん
銃後ぶし
貴方は御国の人柱 私も銃後に咲いた花
同じ赤誠を日の丸の 旗に染めては靡かせる
小楠公
菊水の旗風に泣き 暮れ行く空にとけい鳴く
父子訣別の駒止めし 桜井駅の夕まぐれ
ああ少楠公
白虎隊
戦雲暗く陽は落ちて 孤城に月の影悲し
誰が吹く笛か知らねども 今宵名残の白虎隊
空襲荒鷲艦隊
猛る翼に嵐を衝いて 来たぞ敵地の空の上
山も裂けよと爆弾投下 今ぞ手練の腕試し
皇国の妻
上海戦の華と散り 夫は護国の鬼となる
故国に残る妻が身に ありて甲斐無き黒髪よ
銃を抱えて
銃を抱えて草枕 苦労するのは厭わねど
御国に仇なす敵の奴 目に物見せなきゃ気が済まぬ
ああ戦友
あの国境の夜は更けて 吹雪ぞ募る丘の上
一人歩哨の銃執れば 我が身に熱き涙あり
進軍歌
黄塵万里風荒れて 征くや広漠幾山河
鉄の兜に身を固め 誰に別離の暇も無く
銃後の妻
雄々しい貴方のお覚悟を 今宵の手紙で知りました
愛し坊やと二人して 読みつ語りつ二度三度
男なりゃこそ
街のやくざの俺でさえ ニュース聞く度胸が躍る
男なりゃこそ銃執りて 早く征きたや北の空
北支の風雲
闇に鳴る鳴る銃声は あれは北支那盧溝橋
卑怯未練な支那兵が 闇討ちなどとは小癪なり
サッと抜いたる日本刀
振れば敵兵パイノパイノパイ
暁の進軍
雲は清けし暁の 吹く風衝いて堂々と
大地を鳴らす我が精鋭の 万死恐れぬ意気を見よ
満州しぐれ
泣いて別れて松花江越せば 風が身に沁む興安辺り
思い切る気が思い切る気が また鈍る
最後の血戦(児玉一等兵)
北四川路の生命線 月光淡きキュウキャンロ
我が鉄壁の陣を衝く 小癪な敵の大部隊
想いのこして
一目ちらりと見ただけで 忘れられない面影よ
どこの人やら名も知らぬ ほんに儚い縁かいな
国境の灯
空も遥々興安嶺の 
風に任せてどこまで行くか
山羊の鳴く夜のゴビの旅
夢の鉄兜
ああつわものを夢に見て 逝ける愛児の身代わりと
駒場の丘の朝まだき 点呼の列に並ぶ母
流浪の男
野越え山越え行き暮れて 細る我が身の影じゃやら
夕闇迫る国境の 空に瞬く一つ星
牡蠣の殻
牡蠣の殻なる牡蠣の身の かくも果て無き海にして
行きの命の味気無き その思いこそ悲しけれ
娘田草船
浮藻咲く咲く月夜の花よ 潮来島かや飛ぶ蛍
田草船やる少女が歌う 唄は嬉しい働き者よ
田植えするにも草取るも
ああ美青年
寄せては返す荒波の 磯辺に残る墓一つ
涙の花を捧げつつ 一人の乙女の語るよう
万里城に唄う
ゴビの砂漠の蜃気楼 空しく消えて国境の
戦場の跡弔えば 涙に濡れる星の色
希望の船
都大路は海も無き 人の港と謳われて
遠く故郷を来し人の 希望の船出するところ
我が家の唄
朝となれば群雀 軒端に吾児を呼ばうなり
起きよ起きよと呼ばうなり 炊の煙かそけくも
児等は手足の太やかに 三坪の庭にいじらしく
カンナの花も咲き出でぬ 楽し楽しああ我が家
別れの盃
泣いてくれるな未練が残る 国の鎮めに捧げたこの身
せめて今宵は心のままに 酌んで明かそか別れの酒を
アディユー上海
異国情緒な儚い夢が 淡くいざよう波の色
懐かしの港よ アディユー上海おお
涙混じりの狭霧に霞む 帆影寂しいジャンク船
出征の歌
祖国日本よいざさらば 
今宵別れの瀬戸の海
俺は覚悟の旅に立つ
田家の雪
飛んで寒かろ冬田の雀 
今日もちらちら藁家の恒
満州思わす思わす雪が降る
野営の夢
昨日は東今日は西 胡沙吹く風に梳り
篠衝く雨に湯浴みして 祖国の為に剣執る
剛勇無比のますらおも
開かぬパラシュート
十八歳の美少年 ニッコリ笑った魂は
どこに浮かぶあの雲は 開かなかったパラシュート
国境節
可愛いあの人初年兵 露満国境の警備隊
さぞや寒かろ冷たかろ 思えや満州の空恋し
坊やの父さま
坊やお聞きよ父さんは 一年前の春の朝
桜に別れ勇ましく 御国の為に満州へ
別れのトロイカ
さらば別れと一鞭当てて 心ならずも別れて来たが
手綱持つ手に涙が落ちる ああ吹雪く広野の日暮れ時
広野はるかに
行けども行けども遥かなものよ 草にさわさわただ風ばかり
空に連なる荒野の果てに 赤い血のよな陽が落ちる
青い空見りゃ
青い空見りゃあの雲恋し 雲の向こうのあの土が
吹けよ飛んでけ東風 風よ見つけろ我等が土を
笛や太鼓でお祭りしよと ここにゃ照る日ももう狭い
露営の満州
興安嶺下風鳴りて 
今宵露営の月細く
夢は妻子の上に飛ぶ
君は満州
愛しお方は北満警備 鉄の兜に銃執りて
守る御国の防衛線 トコサッサノ生命線
その火絶やすな
その火絶やすな清めの火なら 神に切火の御灯明を
祈れ武運を夜明けの雲に 国を挙げての戦は長い
忠烈山内中尉の母
空を翔け行く飛行機を 見ればお前を思い出す
御国の為によく死んだ 母は偉いと褒めてやる
山内中尉の母
君の為とて潔く よくぞ戦死をしてくれた
愛し我が子と言いながら 私の子じゃない皇国の子
勇敢なる航空兵
緑に澄める日の本の 空を心の故郷に
ああ戦に出でて行く 君は翼の航空兵
進軍譜
軍靴粛々踏み締めて 覚悟も堅き鉄兜
吹くや喇叭の音高く 進め皇軍堂々と
殊勲
殊勲あらわす連名に 倅が倅が倅の名
父母は喜び神棚に 急ぎて上げる新聞紙
壮烈空爆少年兵
凛々しき瞳頬染むるバラの色 勇ましき身は翔ける青き大空
輝く銀翼雲を切り 風を衝く火を吐く爆弾
凄まじの黒煙おお君行く所 敵陣は灰と化す
讃えよ碧き空の荒鷲
巷の千人針
夕べ市場の帰り道 荷物小脇に縫う針の
熱い手元に赤々と 戦地を偲ぶ陽が沈む
さらば僚機よ
荒天の下雲暗き 首都南京の空を衝く
見よ海軍の精鋭機 低空回転縦横に
怯ゆる敵を爆襲す 翼の威力限り無し
愛国ぶし
打てよ懲らせよ正義の敵を 腰の軍刀は伊達じゃない
ソレ来るなら来い来い 束になって来い
大和魂見せてやろ
僚機よさらば
僚機よさらばいざさらば 
我は南支の空に散る 
桜の花の散るごとく
山嶺の君が代
我が皇軍の征く所 断じて靡かぬ草も無し
暗雲低く立ち込めし 北支の空もひれ伏しぬ
月下の進軍
ここはいずこぞ月冴えて 鉄の兜の汗雫
今日も何キロ来たろうか まだ前線は程遠い
守れ生命線
聖戦万里皇軍の 意気高らかに衝くところ
靡かぬ草木更に無し 守れ我等の生命線
国境の旗風
風生臭き国境に 大和男子の意気高く
日の丸翳し駒進むれば 敵も影なし
涙の慰問袋
熱血燃ゆる河北の地 秋まだ早し胡沙の風
高梁畑に沈む陽の 落ち行く果てはいず方ぞ
北支前線の歌
盧溝橋畔血は燃えて 戦友の御霊に手向け草
逸る心の駒止めて 占むる陣地や一文字
動員令
覚悟はいいか皇軍に 断乎と下る動員令
嘶け軍馬銃剣を 持つ手は唸るこの待機
用意は既に我にあり
航空愛国の歌
今だいざ起て翼の日本 空だ翼だ時代の風だ
唸れプロペラ劈け雲を 空は黎明茜の沃野
翼翼讃えよ翼 翼翼日本の翼
声なき凱旋
轟く凱歌その中に 白木の棺と変わりたる
声なき戦友の凱旋を 迎える我は涙のみ
希望の乙女
日出ずる国の朝ぼらけ 紅き撫子色添えて
咲くよ匂うよ誇らしく 瞳を上げて輝かに
希望に燃ゆる我は乙女よ
皇国の春
昨日も吹雪今日も雪 暗い冷たい塹壕に
皇国思えば花の春 母が頼りの押し花は
咲いて散れとの謎かいな
「沈黙の凱旋」に寄す
これが別離ぞこの次に 見えん時は沈黙の
白木の棺よその折も 「万歳」頼むと笑いたる
祖国の勇士は今還る
決死のニュース
銃は執らねど戦線駆けて 征くは北支の空の上
僕も戦士だ従軍記者だ ペンを剣に敵を衝く
戦火の下に
曠茫大陸火と燃えて 戦雲赤く靡く見よ
今ぞ正義の鉾執りて 皇師やむなく起たざれば
亜細亜の護り誰かある
弾雨を衝いて
勇む愛馬よ鞘鳴る剣よ 曇る北支の空見れば
胸に正義の血が滾る 征けよつわもの弾雨を衝いて
軍国数え唄
一つと出た出たドンと出たホイ 
広い世界を驚かす
肉弾空爆飛行隊ソレ飛行隊
誉れの赤十字
風生臭き戦線に 祖国の栄えを身に負いて
敵を蹴散らし塁を抜く つわもの達の勇ましさ
ああ梅林中尉
荒天暗く雲低き 葉月半ばの朝まだき
怒涛逆巻く支那海を 勇みて越ゆる海軍機
遂げたり神風
遂げたり鵬程東の神風 西へと勢えば遮ぎる空無し
輝く銀翼轟く爆音 今こそ仰げや航空日本
享け享けこの声飯沼塚越 涙ぞどよめく同砲一億
海軍陸戦隊
江湾路上厳然と 空にひらめく軍艦旗
これぞ同胞三万の 命を護る陸戦隊
足柄行進曲
時これ昭和十二年 英帝晴れの御盛儀に
参列の命畏みて 船出せるこそ雄々しけれ

朝は再びここにあり 朝は我等と共にあり
埋れよ眠り行けよ夢 隠れよさらば小夜嵐
草に眠る勇士
名も知れぬ草の葉の陰 弾に倒れた勇士の墓標
雨に晒され風に打たれ 墨の文字さえ消えそうな
慰問袋を
花と散る気のますらおの 無事を祈るも国の為
千人針に真心を 込めて私は送るのよ
軍事郵便
元気でいるか我が戦友よ 国境護る俺は今
北満嵐を身に受けて 広野の果てに愛国の
胸の血潮を湧かせているぞ
お馬と兵隊さん
大きなお荷物重たかろ 泥濘歩いて疲れたろ
第一戦はもうすぐだ お馬よ頑張れはいどうどう
月下の吟詠
戦い止んで長城遥か 月は輝く穂草は靡く
露営のランプもいつしか消えて 軍馬の寝息もの微か
流沙の護り
男子度胸は鋼の味よ 伊達にゃ下げない腰の剣
抜けば最期だ命を懸けて 指も指させぬこの守り
黄昏の戦線
戦線暗く黄昏れて 砲声遠く絶えし頃
ああ我が戦友よ君もまだ 生きていたかと目に涙
南京爆撃隊
天地容れざる不義不仁 隠忍ここに幾年ぞ
皇軍今や支那兵に 「断」の一字を残すのみ
軍国の母
心置きなく祖国の為 名誉の戦死頼むぞと
涙も見せず励まして 我が子を送る朝の駅
祖国の柱
高梁流れて鳥鳴く 赤き夕陽の国境
思えば悲しつわものは 広野の露と消え果て
今は眠るかこの丘に
軍国子守唄
坊や泣かずにねんねしな 父さん強い兵隊さん
その子が何で泣きましょう 泣きはしませぬ遠い満州のお月様
海行かば
海行かば 水漬く屍
山行かば 草生す屍
大君の 辺にこそ死なめ
返り見はせじ
航空決死兵
払えど散らぬ黒雲の 東亜の空に吹き荒ぶ
世紀の嵐身に負いて 飛ぶよ航空決死兵
護れわが空
神代この方仰いだ空を 何で敵機に委さりょか
我等一億いざ一斉に 護れ我が空祖国の大空
男なら
男なら男なら 渡る世間は出たとこ勝負
元を正せば裸じゃないか 運否天賦は風任せ
男ならやってみな
露営の歌
勝って来るぞと勇ましく 誓って故郷を出たからは 
手柄立てずに死なりょうか 進軍喇叭聴く度に 
瞼に浮かぶ旗の波
進軍の歌
雲湧き上がるこの朝 旭日の下敢然と
正義に起てり大日本 執れ膺懲の銃と剣
 
陸海軍歌 / 昭和 13年

 

戦場吹雪
戦友はいずこか 黒白も分かぬ
広い戦場吹雪に暮れて 銃も凍れば手も凍る
大陸の花嫁
大陸が呼ぶよ花嫁 谺せよ春の乙女ら
呼ぶ声は鍬の戦士だ 青い空優しい心
招くのは鉄の腕だよ
帝国青年の歌
東海日出でて波打つ所 国あり日本我等の祖国
皇統連綿栄えに栄え 世界に類なき祖国の歴史
敵前上陸
揚子江畔闌けし夜の 天地に響き殷々と
我が艨艟が撃ち出す 砲火は裂けつ敵の陣
天兵の威烈
古巣突かれて影薄き 蒋介石ぞ無残なる
因果の車壊けつつ 南京鼠の憐れさよ
特別陸戦隊頌歌
海行かば水漬く屍を 陸にして銃執る兵ぞ
今、東洋の国際港 立ちたり日本海軍陸戦隊
蒙橿ぶし
俺が死んだら 三途の川でヨー
鬼を集めて 相撲とるヨー
ああ南郷少佐
炎熱驟雨 濁流越えて 渡航戦隊 堂々進む 
破れ残れる 敵空軍の 運命すでに 尽きし時 
空の至宝と 仰がれし 南郷少佐 今は亡し
愛馬の唄
闘い進む大陸に 真赤な夕陽を背に浴びて 
斃れし馬の手綱とり 涙に咽ぶ丈夫が
暁の凱歌
下弦の月は傾きて 隠るに早き夜戦場
銃声今や 治まりて ああ日章旗 翩飜と
城門高く 翻る
いとしの黒馬よ
今日も北支の空は吹雪に暮れる
愛しの黒馬の塚の上に 積もる雪憎し…
慰問日記
思い叶って戦場の 兵隊さんのお慰問に
遥々歌いに来たからは 大和心の花の歌
命を掛けて歌いましょ
江戸っ子部隊
ワッショイワッショイ ワッショイワッショイ
ワッショイワッショイ ワッショイワッショイ
ポンパカパン ポンパンポンパン
ポンパカパン ポンパン
支那のひょろひょろ弾 驚くもんけぇ
俺ら江戸っ子だ べらんめえ 俺は魚河岸 あいつは神田
ワッショイワッショイ 喧嘩早ぇは 生まれつき
男ひとたび
背嚢枕に露営の夢は 遠い故郷の波止場の夢か
男一度銃執るからは 燃える血もある意地もある
勝って兜の
どんと始めた総攻撃に 勝つと決まった戦でも
ここを先途の敵陣抜いて 目指す平和の菊日和
勝って兜の緒を締めて 占めろシャンシャン上海の
西へ南へ日の御旗
漢口だより
音信ありがとお母さん 僕も戦火にやつれたが
何の闘志が怯もうか これでも一個の男子です
君が代行進曲
千代に八千代に栄え行く 日本よい国花の国
歌いましょうよ君が代を 日の丸翳して讃えましょ
君を送りて
貴方を見送りしてから後は 丸髷壊して襷を掛けて
慣れる家業に玉の汗 これも皇国の
これも皇国の為じゃもの
軍国夫婦郵便
黄河の氷 今朝解けて 楊柳の青い芽も吹いた
春だ春だぞ内地では 皆元気でやっとるか
玄海の月
船が揺れるぞ玄界灘だヨー
今宵名残の月に哭けよ
国境だより
ここはソ満お国境 吹雪千里に日は暮れて
今日もおいらは国の為 歩哨勤務の銃を執る
佐渡なまり
旅の鳥なら伝えておくれ 雪の満州の守備隊へ
空を拝んで御無事を祈る 島の娘の佐渡なまり
出征歓送の歌
ぶっ懲らせぶっ懲らせ 不義の敵の敵ぶっ懲らせ
音に聞こえた陛下の赤子 日本に生まれ正義に生きて
今ぞ君往くこの門出
進軍スイング
どんと一発音がすりゃ 寝入りばなでもにっこりと
皆揃って起き上がるぞよ 起き上がる
そうれまた来たやっつけろ 木っ端微塵にやっつけろ
進軍ぶし
馬上 馬上ゆたかに 軍刀抜けば
響く喇叭に機関銃 天地轟く山砲野砲
続く突撃鬨の声 愉快だネ 素敵だネ
命捧げてドーントナァ
陣中だより
死に物狂いの敵兵に 決死の突撃した様は
筆にも書けない話せない 俺の手帳の端染めた
血潮がその日の覚書
陣中ぶし
戦も強いが心臓も 強いが自慢の部隊長
部下の手柄に男泣き 涙で濡らす鉄兜
しっかりやろうぜ国の為 しっかり銃後もやってくれ
戦線に陽は落ちて
ああ前線に陽は落ちて 嘶く駒の声悲し
平地山岳長城と 息も吐かせぬ追撃に
刃向う敵の影もなし
戦場子守唄
月は照る照る 戦地は更ける 故郷の坊やよ もう寝たか
たとえ父さん留守じゃとて 寝んね泣かずにするんだよ
戦線だより
今朝は遥々戦線便り 
読めば泣かねど涙で滲む
武勲を立てたの筆の跡
戦線百里
進軍進軍だ 野越え山越え進軍だ
トコテテ喇叭 吹いて戦線百里
赤い夕陽が沈むぞえ
転戦回顧
鉄の兜に弾丸の跡 数えて見れば感無量
大陸遥か西東 思えば転戦幾度ぞ
とことん節
支那で名高い 天下の険でも 大和魂がどんと
ぶつかりゃ何のその サテ 南口 居庸関に雁門で
チョイト太原も一跨ぎ ソレさあさ行け行け
とことんとんまで 挙国一致で暴支庸懲
暴支庸懲
夏草の新戦場
夏場繁る新戦場 小手を翳してもののふが
偲ぶは遠き故郷か いいやそじゃない去年の夏
ここに斃れし戦友よ
ニッポン勝った
ソラ日本勝ったまた勝った ソラまたまた大勝利
堪忍袋の緒を切れば 中にゃ 筋金 鉄兜
ソラ日本勝ったまた勝った ソラまたまた大勝利
万歳 万歳 万々歳
髭に未練はないけれど
髭に未練はないけれど 長い苦労を共にして
戦地で生やしたこの髭を ムザムザ剃るのは 情けない
と言うてこのまま置けもせず さてどうしたものかしら
兵隊床屋
硝煙の匂いも遠ざかり 前線部隊に春が来た
水も温んだ柳陰 兵隊床屋の開業だ
ジョキジョキチョッキン ゾーリゾリ
ジョキジョキチョッキン ゾーリゾリ
北支戦線の歌
北支の空を制したり 戦わずして陥したり
我等が無敵空軍の 空の戦士と地の勇士
心一つに羽ばたけば 四百余州はなお狭し
明朗通信
(母から…)
便りがないが如何しています
村は菜種の花が盛りです
(戦地から…)
戦友と二人で読みました
とっても元気でやってます
ソレトテチテラッパでこの通り
野球選手の兵隊さん
敵の陣から飛んで来た 物騒危険な手榴弾
拾って返す早技は 腕に覚えのストライク
野球選手は伊達じゃない
勇士は朗らか
朝は戦い夕べにゃ陥す 敵の陣地がその日の寝床
赤い夕陽に歌もおけさで 風呂を焚く
夕陽に吟ず
落ち行く夕陽 背に浴びて 眺むる敵のあの砦
明日は陥して見せるぞと 胸を叩けば血が躍る
露営の煙草
雪の戦線夜は更けて 月も片割れ二十日頃
色は冷たし風痛く 寒さ凌ぐに寒さ凌ぐに
火の気無し
我等は若き義勇軍
我等は若き義勇軍 祖国の為ぞ鍬執りて
万里果て無き野に立たん 今開拓の意気高し
今開拓の意気高し
ああ飯塚部隊長
戦線の夜は明け行きて 霧立ち込める黄浦江
重大任務を身に負える 飯田部隊の精鋭は
決死の意気も物凄く 小船に乗りて時を待つ
建国奉仕隊の歌
ああ緑濃き橿原に 太しく建てる宮柱
遠き御民が畏みし 今その上を仰ぎつつ
久遠の栄えを讃えなん 我等建国奉仕隊
防護団団歌
栄あり全員起て起て挙りて 帝都の防護は自ら任ぜん
畏しこの空この土この河 重責新たに我等に降れり
別れの君が代
暫く駐屯していたが 今日は別れだ僕達は
新戦場へ出でて行く 街よ民家よさようなら
海はふるさと
続く海原大波越えて 往けよ鍛えよ奮えよ立てよ
意気は溌剌希望は躍る 我等は軍児海の子供よ
出征子守唄
泣いてねんねをせぬ時は 雪の降る日も風の日も
ねんね良い子と背に負うて 幾度寝ぬ夜があったやら
傷病の勇士
雄叫び鋭く血潮浴びて 正義の戦に立てし勲
東亜の躍進平和の為に 勝鬨揚げたる永遠の誉れ
皇国を護りのますらおなれ
上海の踊り子
どこから来たのと優しい声で 尋ねられたら泣けるのよ
私の涙が告げている 遠い南の港から
上海上海私ゃ踊り子上海娘
弾雨の中から
泣くじゃない泣くじゃない 泣くんじゃないと
坊や抱いたら目が覚めた 皆変わりは無かろうな
俺も達者で弾丸の中
武漢陥つとも
我等は勝てり戦場に 戦線ここに二千キロ
将士の士気はいや揚がり 新政権の基礎なりて
建設戦は始まれり いざや尽くさん残る敵
武漢陥つとも道遠し
長江船唄
浮世離れて鼻唄混じり 俺等長江筏乗り
乗せて行きたやあの町までも 波を塒の浮寝鳥
街の感傷
街は黄昏柳も濡れて
雨になるやら霧さえ滲む
なぜか切ないああ別れ際
男一匹
永い浮世に短い命 男一匹国の為
散ればおいらの本望じゃないか 募る吹雪も懐かしや
戦線夜情
国境線に陽は落ちて 空にまたたく七つ星
今日も戦に疲れたる 身をば露営の仮枕
広東攻略の歌
ああ神速と言うならん 古今の戦史に比類無き
陸海空の協力と 奇覆挺進猛追の
好戦例は現れぬ
広東だより
落ちたぞ落ちたぞ落としたぞ ここが目指した広東だ
バイヤス湾からまだ十日 早いと言えど血と砂に
この軍服が裂けとるよ
上海航路
これから船出だ愉快な航海だ 夢に見たあの上海へ
南支那海度胸で渡る 泣くなチャルメラ夜霧の中で
鳴いて飛ぶのは阿呆鳥 紅い灯りが揺らめく招く
上海憧れの上海
漢口だより
漢口とうとう取りました 日毎夜毎の激戦に
どうせ明日は死ぬる身と 覚悟はすれど今日までも
僕は不思議に掠り傷
軍国綴方教室
年端も行かぬ教え子が 思い思いに書き綴る
片仮名交じりの綴り方 読むのを聞いて先生は
心打たれる事ばかり
最後の訓示
ああ忠勇の我が部下よ いよいよ起つべき時は来ぬ
天皇陛下の御為に 捧げ奉らんこの命
広野の夕陽
君に捧げた命なら 日本男児は誰も死ぬ
まして東洋永遠の 平和はかかる肩の上
駅頭の感激
駅に湧き立つ万歳の 声に門出の胸は鳴る
ああこの朝の感激に 我は戦地で応えなん
若い日本だよ
波の揺り篭飛沫に濡れて 白帆枕の夢から覚めりゃ
遥か鴎が笛を吹く サッサ合図だ錨を上げた
名さえ日本丸出船だ銅鑼だ 躍る舳先に血も躍る
空の戦友
雲より出でて雲に入る 敵地は広し揚子江
我が編隊は轟々と 爆音高く進撃す
皇軍慰問の歌
御国の為に身を捨つる 我が皇軍の皆様に
銃後の感謝送る為 越えて来ました二千キロ
風流部隊
風流部隊の朗らかさ 上州生まれの髭武者は
お国自慢の八木節と 来たよ来ました一踊り
純情月夜
皇国の為なら嬉しいけれど 今宵限りでお別れね
お月様さえ十三・七つ 乙女心を何としょう
みのり
都に遠き春なれど 汚れを知らぬ花の里
とく起き出でて耕せば 霞に高き揚雲雀
月明の広野
寂しき驢馬の嘶きに 遠く聞こゆる砲の音
守る保塁に銃執れば 凍る夜空の流れ星
大日本行進曲
雲に聳ゆる富士の嶺 朝日に匂う桜花
天地の正気澄むところ ああ美しき大日本
謳え我等のこの誇り
戦友いずこ(捧無名戦士者英霊)
誰が立てたか日の丸の 旗は名誉を語れども
見るに人無き大陸の 果ては祖国の空じゃ無い
熱砂の行軍
故郷出でて一年を
戦の庭に起き伏して
また襲われぬ熱地獄
大陸に唄う
男一度腹を決め 故郷離れて来たからにゃ
末はどうでも大陸の 露と消えたい心意気
陣営の笛
翳す御旗に敵影さえも 消えて音無き陣営に
今宵七日の月浴びて 誰が吹くやらあの笛よ
ガーデンブリッジの月
水に灯の点く上海に 君と遥々帰り来て
過ぎし戦の夜を偲ぶ ガーデンブリッジの
ああ青い月
軍旗の下に
やくざ気質をすっぱりと
砲煙弾雨に洗われて
ほんとの男になれました
上海超特急
青いシグナル夜霧を衝いて 走れ上海超特急
夢は明るし僕等は若し 走りゃ希望の夜が白む
武人の妻
どうせ一度は死ぬ身ゆえ 待ちし召集受けたるは
我が身の幸と喜びて 心置きなく潔く
元気で征って下さいね
夢の蘇州
鐘を鳴らすにゃ撞木はいらぬ 風が優しくまた叩く
夢の蘇州の 夢の蘇州の寒山寺
男の魂
恋は捨てても親恋しさに 帰る故郷の夜の家
強い男も子供のように 逢えば泣けますお母さん
ほまれの出征
妻よさよなら行って来る 行ったら必ず勝って来る
どうだ見てくれ筋金入りの 腕が鳴る鳴る血が躍る
銃剣日記
赤い夕陽の満州砂漠 驢馬に揺られて東に西に
男命を御国に捧げ 昼も夜も無い武者震い
凱旋前夜
ああ戦跡に草萌えて 氷も解けるクリークに
解けぬ無量のこの恨み 明日凱旋の胸の中
婦人愛国の歌
皇御国の日の本に 女と生まれ生い立ちし
乙女は妻はまた母は 皆一筋にますらおの
銃後を守り花と咲く
白衣の勇士
越えぬ覚悟の玄界灘を 無念や越えて故郷へ
白衣に包む熱血は あの日も今も変わらぬに
変わるこの身の悔しさよ
戦線みやげ
花の都へ帰って来たぞ これと言うよな土産は無いが
妻よ見てくれ日焼けの顔を 男誉れの刀傷
男と生まれて
口には出さねど二親も 軍服姿が見たいだろ
俺も日本の男ゆえ 花と散りたや御国の為に
戦場の葦
まだ見えないか援軍は
草を枕に露を飲み
今日で丸々二十日目だ
勇士の誓い
御国に捧げたこの体 たとえ五尺と言うけれど
胸を叩けば一億の 声が物言う大和魂
陣中手柄話
我輩は初陣に 敵の昼寝の真っ最中
こっそりと鉄砲を奪い チョイト味方にサ合図して
目覚めた頃はポカンと敵兵は 裸にされて間抜け面
思わぬ手柄の山どっさり抱え 威張ったものさ
初陣日記
静かな朝だ紫に 煙るかなたの敵の陣
奴等梟かこそ泥か 昼はひっそり音も無く
夜中になれば騒ぎ出す
南京の月
戦の嵐今過ぎて 昔恋しい南京の
空に輝く月の出を 涙で仰ごう支那娘
雁門嶺の決死隊
弦月冴えて地は凍り 四方鬼気迫る新戦場
中天摩する雁門嶺 仰ぎて送る決死隊
かちどきの跡
ああ勝鬨のその跡で 眼を閉じて佇めば
今なお聞こゆ突撃の 雄叫びいずこ戦友いずこ
胸に溢るは涙のみ
雪の戦線
夢を見た夢を見た 雄々し貴方の夢を見た
月の塹壕歩哨の務め にっこり笑った夢を見た
叫べ万歳
今こそ歌え高らかに 喉も裂けよと声限り
日本中の青空に 我等の声は跳ね返る
我等の声は跳ね返る
勝利のつばさ
雲を劈く荒鷲の 翼を染めて旭日は昇る
翼翼空征く翼 征空万里血潮は躍る
手向けの花
雪の広野を血に染めて 斃れし戦友の亡骸を
異郷の土に葬れば 風も夕陽にすすり泣く
殉国芸術家(ああ友田恭助伍長)
ああ江南の空遠く 舞台そのまま戦場に
友田が見せし演劇は 日本男児の祖国愛
八幡船
舳先の御旗は八幡菩薩 褌一本笹葉船任せ
背負えば短い三尺刃 故国も命も刀にかけて
エンヤ男の八幡船 エイヤレ漕げ漕げ
和寇の婿入り 南天竺唐オロシア
おいらが為には宝の山だよ
上海陸戦隊
江湾路上厳然と 空にひらめく軍艦旗
これぞ同胞三万の 命を護る陸戦隊
こよい出征
父さん母さん私は 今宵戦地に参ります
背に背嚢鉄兜 雄々しい兵士になりまする
戦勝の歌
天にそそりて立つ嶺や 高梁波打つ千星の野
背を呑む大河泥濘の 道踏み分けて敵陣に
今日も揚げたぞ日章旗
上海陥落万々歳
巨万の大敵打ち挙る 難攻不落の上海を
今ぞ陥とせる皇軍の 赫々たる武勲讃えよや
勝ったぞ勝ったぞ万々歳
勝利の乾杯
逃げ行く支那兵の影法師 見渡せばどこもかしこも日章旗
万歳乾杯ランララララ 勝利の月影新戦場
友よ踊ろうよ
長城行進曲
雲より出でて雲に入る 万里の長城天下の険
昔の夢を抱き締めて どこまで続くこの砦
X27号
街から街のキャバレーに 酔って踊って流れ行く
涙忘れた女でも 熱い祖国の血が燃える
倅でかした
行ったよ戦に俺がの倅 鍬を鉄砲に持ち替えて
どんと征け征けでかした倅 さあさ畑は俺が打つ
霧の上海
揺れるランタンちらちらと 遠く消え行く霧の中
歌も悲しい上海を 今宵見捨てて行く人よ
暁の斥候
暁寒き吹雪を衝いて 進み行く斥候兵
注ぐ弾雨も何のその 重き使命に血潮は燃えて
敵状探る頼もしさ
月明の渡河
波にいざよう月寒く 人馬は濡れて声も無し
ただ粛々と影黒く 渡る深夜の永定河
赤陽に嘆く
夕陽は赤く空を焼き 風は哀しく胸を打つ
夢に燃えつつ別れ来し 遠き故郷は今いかに
進軍の一夜
遠く火筒が消え残る 千里広野に陽は落ちて
仰ぎゃ寒答月の暈 軍馬も戦友もすやすやと
風に寝息が途切れがち
長江行進曲
鉄の兜に日の御旗 正義の剣打ち振って
敵の直中突き進む 幾百キロの山と河
長江の空果ても無し
部隊長と兵隊
微かに聞こゆる銃声は 敵か味方か夜は暗し
疲れちゃいるが頼むぞと 歩哨に出した我が部下の
安危はどうかと目が冴える
前進
敵にとっては関ヶ原 名立たる城塞目指しつつ
行く手睨んで砂噛んで 進む広野の強行軍
おじさんありがとう(傷痍の軍人に捧ぐ)
御国の為にお手柄立てて 敵の砦に日の丸を
立てたおじさんお傷はいかが おじさんおじさんありがとう
ああ飯塚部隊長
ああ思い出は去年の秋 雨降り続く江南に
加納部隊の後受けて 涙の渇く暇もなく
敵を一気に撃滅す
続露営の歌
戦火は続く大陸に 燃ゆる勝鬨挙げながら 
きらめき進む日章旗 戦闘帽に銃剣に 
滴る血潮誰か知る
遂げよ聖戦
皇国を挙る総力戦に 成果着々前途の光
蒋政権が瀕死の足掻き 他国の援助何するものぞ
断乎不抜の我等が決意 遂げよ聖戦長期庸懲
万歳ヒットラー・ユーゲント
燦たり輝くハーケン・クロイツ ようこそ遥々西なる盟友 
いざ今見えん朝日に迎えて 我等ぞ東亜の青年日本 
万歳ヒットラー・ユーゲント万歳ナチス
満蒙ぶし
猛る駿馬に一鞭くれて 飛ばす砂漠の夕陽の中で
どうせやるなら でっかい事なされ
テナ元気でオイ やろうじゃないか
広野の進軍
晴れりゃ焼土雨降りゃ泥沼 軍馬も喘ぐよ野はただ広い
さぞや辛かろ千里の彼方 燃えて真っ赤な夕陽が落ちる
軍国の乙女
熱血燃ゆる荒鷲の 両翼に染めし日の丸は
君が赤心か軍国の 乙女が寄せるこの手紙
軍神南郷大尉
紺碧和む南晶の 雲間を破る爆音に
空中戦は開かれぬ ああ指揮官ぞ南郷大尉
南京攻略
三軍迫る敵の首都 城壁今や指呼に入りて
御旗は高し紫金山 守備は空し中山陵
壮烈加納部隊長
滬北の広野密雲暗く 木魂に荒ぶ銃の音
壕に籠もりて待つ将士に 命令下る日暮れ時
「我が連隊の名誉に懸けて ウースンクリーク打ち渡れ」
月下の乾杯
乾せよ乾そうよ波々と 酒は金色月の色
鳴るぞ唸るぞ祖国の腕が 明日という日が待たれてならぬ
さあさ乾杯!いざ乾杯!
黄河を越えて
焼け付く大地水涸れて 麦穂は霞む地平線
砂塵濛々目に痛む 拭えば頬髯砂交じり
形見の日章旗
残敵払う銃声も 途切れ途切れの夕ま暮れ
隠しの底に手を入れりゃ 嬉し誉がただ一本
一口ずつだが分け合うて 喫めば元気が蘇る
日の丸万歳
遠い戦地の父さんが 攻めて落とした城の上
立てた日の丸この写真 ちゃんと座って母さんと
見つめていれば万歳の 声は広がる胸の中
ああ南郷大尉
ああ南昌の空中戦 壮烈砕く敵八機
逃ぐるを追いてまっしぐら 新手を目指す一刹那
黄塵を衝いて
どこまで続くか荒野路を ああまた荒ぶか黄塵よ
火を吐く矢玉にゃ泣かぬ身も 果て無き荒野にゃ泣けるぞや
月下の歩哨
今宵太湖の片畔
銃を片手に歩哨に立てば
月に故郷が偲ばれる
葉かげの墓標
高梁繁る広野の果てに 風に晒され雨に濡れ
墨の文字さえ薄れ行く 若き勇士の墓標
戦場の子守唄(軍装の天使)
ねんねんよい子じゃ寝てくれよ ねんねの親達どこへ行った
抱いて寝よにも戦場は 男ばかりで乳は無し
北京だより
坊や達者で待っとるか 第一線の父さんも
元気で再び懐かしい 北京のお城へ帰ったよ
ほがらか部隊
出征してから幾月を 便りも書かず文も見ず
命を捧げて来たからは 手紙なんぞに用は無い
殊勲をたてて
無事でいますかお父さん 故郷を出てから十ヶ月
僕も立派な殊勲を立てて 明日は凱旋致します
腰の太刀
紫電一閃骨まで切るか これさ長船頼むぞ明日は
明日は肉弾総攻撃だ 肌の曇りを拭いてやろ
白衣の戦士
白衣の窓の月影に 懐かし塹壕が目に浮かぶ
やったぞ戦友でかしたぞ ニュース湧かせる手柄だぞ
僕の父さん
僕の父さん南京を 陥した勇士だ嬉しいな
ニュース映画で見た時は 万歳唱えて泣きました
降魔の利剣
魔の手背後に働きて 侮日抗日高まれば 
遂に干戈をここに見る ああ無残なり盧溝橋
月の塹壕
月の塹壕に歩哨に立てば 離れて遠き故郷を
偲べと言いて啼いてゆく 遠い夜空の渡り鳥
紙上対面
出ました今朝の新聞に 愛し貴方の晴れ姿
思い掛けない対面に 私ゃ泣けます嬉し泣き
ひげの兵隊さん
御覧兵隊さんはお髭が自慢 戦地なりゃこそ伸び次第
伸びる筈だよ南支と北支に 立てた日の丸自慢じゃないか
軍国横町
どこもしがない暮らしの世帯 あだな長屋の横町だけれど
向こう三軒御国の為に 揃って誉れの勇士を出した
これを名付けて軍国横町
日本子供の歌
波はきらきら金の波 海の向こうに昇る日の
光を浴びて翻る 日の丸こそは世界一
僕等も旗になるならば 世界で一の旗になろう
どうせ往くなら
どうせ往くなら千里の広野 男命の捨て所
青い牧場は僕等の天地 赤い夕陽も懐かしや
草を枕に大空見れば 可愛い羊が子守唄
塹壕の中で
昨日今頃この壕は 頭隠して弾丸を撃つ
敵の塹壕であったのだ それが今ではどんなもんだ
並ぶ兵士の顔を見ろ 翳す日の丸仰ぎ見ろ
大君の御稜威はここまでも 伸びて来たのだまだ伸びる
明けゆく蒙古
若き青空高く春は緑も靡く
大陸遥か今ぞ明けゆく蒙古
自由独立の声馬上熱砂に響く
銃後だより
お便り嬉しく読みました 母は早速お手紙を
亡き父様のお位牌に 捧げて無言の御報告
私も側で泣きました
みくにの子供
お山に芽生えた椎の実が いつか大きくなるように
皇御国の子供等は 強く正しく伸びましょう
伸びましょう
南京陥落
我が皇軍の精鋭に 敵の命の頼みなる
南京遂に陥落す 祝えよランラララン
讃えよランラララン 凱歌高らかに
征けよますらお
征けよますらお凛然と 御旗も高き雄叫びに
空陸並び行く所 正義に向かう敵も無し
南京爆撃の歌
吼え立つ嵐荒ぶ霰 怒涛は天に逆巻きて
暗雲低く乱るれば 行く手は夜に異ならず
天津の神兵
北京南京極みまでも 軍旗と剣の向く限り
皇威に靡き敵消えて 民草潤む菊の露
国に誓う(国民精神作興歌)
我等空行く白知鳥 荒るる浪路を下に見て
登る朝日に迎えられ 雲間に求む神の顔
日の丸数え唄
一つと二つと三つとや
一つとや日の本日本の 朝風に朝風に
雄々しくひらめく日の御旗 日の御旗
二つとや不思議な力よ 感激よ感激よ
日の丸仰げば血が躍る 血が躍る
三つとや御空に日の丸翳して 進めや大陸目指して
いざ進めや進め いざ進めや進め
杭州小唄
杭洲良いとこ西湖の畔 蘇提白提風そよぐ
青葉茂れる霊屋の中は 宗の忠臣岳飛廟
秦檜張俊裏切者よ 鉄の身体でひざまづく
我は再び銃執らん
大命受けて菊の節 進軍喇叭嚠喨と
ああ感激のあの歓呼 永久忘れぬ旗の波
勇猛戦車隊に捧ぐる歌
大地も轟く鉄壁の 今ぞ祖国の楯として
闘志鬱勃火と熾り 征け征け戦車全日本号
命捧げて
生きて帰らぬ 覚悟を決めた
雄々し門出の 我が夫に
嬉し涙が嬉し涙がまたほろり
皇軍入城
正義に勇む皇軍の 赴くところ敵は無し
鉄壁誇る敵城も 御稜威に消ゆる朝の霜
上海派遣軍の歌
昭和十二の夏半ば 暴戻支那を懲さんと
暁暗き長江に 迫る上海派遣軍
ああ戦友よ眠れかし
戦闘済んで戦場の 草踏みしだき帰る道
ああ足元に見つけたる 友が血染の戦闘帽
愛馬の唄
闘い進む大陸に 真赤な夕陽を背に浴びて 
斃れし馬の手綱とり 涙に咽ぶ丈夫が
支那の夜
支那の夜支那の夜よ 港の灯り紫の夜に
上るジャンクの夢の船 ああ忘れられぬ胡弓の音
支那の夜夢の夜
西湖の月
鳴くは虫の音草枯れて 露は戎衣を濡らさねど
帰らぬ戦友は今いずこ 西湖の月よ答えかし
カタカナ忠義
戦友見てくれ倅の手紙 今年や一年アイウエオ
習い覚えたカタカナで 可愛いじゃないか
初の便りだ誉めてくれ
上海ブルース
涙ぐんでる上海の 夢の四馬路の街の灯
リラの花散る今宵は 君を思い出す
何も言わずに別れたね 君と僕
ガーデンブリッジ誰と見る青い月
満州娘
私十六満州娘 春よ三月雪解けに
迎春花が咲いたなら お嫁に行きます隣村
王さん待ってて頂戴ネ
霧の四馬路
霧の四馬路で別れた人は 無事に海峡越えたやら
忘りゃしませぬ御国の為に 命捧げた人じゃもの
母子船頭歌
利根のお月さん空の上 僕と母さん水の上
漕いで流して日が暮れる 船頭暮らしは寂しいな
音信はないか
月の露営に雁が鳴く 空を仰げば五羽六羽
音信は無いか故郷から 頼みはせぬか言伝を
チンライ節
手品やるアル皆来るヨロシ
上手く行こなら可愛がっておくれ
娘なかなか綺麗綺麗アルヨ
チンライ チンライ  チンライ チンライ チンライライ
上海の街角で
リラの花散るキャバレーで逢うて 今宵別れる街の角
紅の月さえ瞼に滲む 夢の四馬路が懐かしや
涯なき泥濘
行けども行けども果てし無く いつまで続く泥濘ぞ
銃執る我等は怯まねど 声無き愛馬が労しや
麦と兵隊
徐州徐州と人馬は進む 徐州い良いか住み良いか 
洒落た文句に振り返りゃ 御国訛りのおけさ節 
髭が微笑む麦畑
南京だより
母さんお手紙有難う 僕も負傷はしましたが
何のこれしき掠り傷 日本男児の名誉です
北満だより
銃後の友よ満州も いよいよ冬が来ましたが
ソ満国境警備する 若い僕等の殉血は
雪に輝く桜です
陣中髭くらべ
おいおい戦友おい戦友 貴様のちょび髭なっちょらんぞ
泥鰌が呆れて笑っとる 全くちょび髭なっちょらんぞ
血染の戦闘帽
誰を訪ねて蘇州河の ああ戦いの跡に来た
待っていたのか草陰の 土を忠義の血に染めて
泥に塗れた戦闘帽
湖上の尺八
名残の月の影淡く 今日も戦の夜は明けて
風肌寒き太湖上 遠く火砲の音を聞く
皇国の母
歓呼の声や旗の波 後は頼むのあの声よ
これが最後の戦地の便り 今日も遠くで喇叭の音
上海だより
拝啓御無沙汰しましたが 僕もますます元気です
上陸以来今日までの 鉄の兜の弾の痕
自慢じゃないが見せたいな
つわものの歌
俺は日本のつわものだ 選び出されて来たからにゃ
正義に向かう敵兵を 撃って懲らさにゃ二度とまた
御国の土は踏まないぞ
戦場投げ節
男なりゃこそ銃執りて 月に露営の草枕
捨てる命を惜しまねど 明日の手柄が気に掛かる
小国民愛国歌
国を思えば血が躍る 胸の印も日の丸の
我等は日本小国民 我等は日本小国民
駆けよ駆け駆け 走れよ走れ
愛国競争それ駆けよ
愛国の花
真白き富士の気高さを 心の強い楯として
御国に尽くす女等は 輝く御代の山桜
地に咲き匂う国の花
婦人愛国の歌
抱いた坊やの小さい手に 手を持ち添えて出征の
貴方に振った紙の旗 その旗蔭で日本の
妻の覚悟は出来ました
大日本の歌
雲湧けり雲湧けり 緑島山
潮満つる潮満つる 東の海に
この国ぞ 高光る天皇神ながら治しめす 
皇御国 ああ我等今ぞ讃えん声もとどろに
類なき古き国柄若き力を
日章旗の下に
青空高く翻り 白地は何と爽やかな
何の印のこの色か 汚れぬ者を現した
濁り無き世を現した げにこの御旗の下にして
者皆命栄えたり 昨日も今日も明日の日も
日の丸行進曲
母の背中に小さい手で 振ったあの日の日の丸の 
遠い仄かな思い出が 胸に燃えたつ愛国の 
血潮の中にまだ残る
千人針
橋の袂に街角に 並木の路に停車場に
千人針の人の数 心を込めて運ぶ針
愛国行進曲
見よ東海の空明けて 旭日高く輝けば
天地の正気溌剌と 希望は躍る大八洲
おお晴朗の朝雲に 聳ゆる富士の姿こそ
金甌無欠揺るぎなき 我が日本の誇りなれ
蒙橿節
俺が死んだら 三途の川でヨー
鬼を集めて 相撲とるヨー
憧れの荒鷲
我が憧れは空を行く 高く雄々しき荒鷲よ
遠き白雲見る毎に 君が姿を夢見ると
窓吹く風に言伝ん
荒鷲の歌
見たか銀翼この勇姿 日本男児が精込めて 
作って育てた我が愛機 空の護りは引受けた 
来るなら来てみろ赤蜻蛉 ブンブン荒鷲ブンと飛ぶぞ
皇軍大捷の歌
国を発つ日の万歳に 痺れる程の感激を 
込めて振ったもこの腕ぞ 今その腕に長城を 
越えてはためく日章旗
 
陸海軍歌 / 昭和 14年

 

叫ぶ蒙橿
高原千里の蒙彊を 見知らぬ国と言うなかれ
雲より出でて雲に入る 万里の長城越え行けば
果て無き大地限り無き 宝庫の扉は開けたり
ニッポン号の歌
国を埋めた日の丸の 歓呼の中に羽ばたいて
我がニッポンまっしぐら 六万キロの空を飛ぶ
空を飛ぶ
西住戦車隊長の歌
天下無敵の 戦車隊 
無限軌道の 歯車に 
嗅ぐや大地の 土煙 
げに奮迅の 勢いは 
豪放ついに 幾千里
慰問袋を有難う
慰問袋を有難う 縁も所縁も無い僕に
熱い情けの慰問品 裏に記したお名前を
僕は死んでも忘れません
海南島上陸の歌
五峯翠巒一碧の 南支の海にそそり立つ
常夏の島海南島 合作戦の機は熟し
如月十日 夜を籠めて 海陸併び進撃す
勝うさぎ
勝って兜を締めこのうさぎ 便り聞き耳はとびだんご
朝は日の山夜は山陰に ととんとんからこと杵の音
勝鬨三番叟
勝鬨の声高らかに
日の丸を頭に晴れの剣烏帽子
雄々しき今日の三番叟
カメラの戦士
銃や野砲をカメラに代えて 背嚢重く水も無し
昼に十二里 夜もまた 進む部隊と強行の
我等はニュースカメラマン
機関兵の手記
南南へ怒涛を蹴って 船足速めた我が船に
機関も俺らも張り切り通し 今度は日の丸どこに立つ
興亜奉公の歌
天に二つの太陽は照らず 理想の道は一つなり
築け東亜の新天地 勇者の歴史君を待つ
黄塵
月の暗さよ 戦野の広さ まして名ばかり 正太線
敵の弾丸 左手に受けて 右の腕で作業する
兵の難苦を誰が知る
新討匪行
燃ゆる闘志を弾雨に晒し 進み進んで幾百里
歌う軍歌も高らかに 軍馬と共に討匪行
戦場の幼な子
砲撃戦のその後で 拾った支那の幼子よ
慣れぬ手付きで抱き上げりゃ 懐く髭面不精面
戦線お国自慢
戦友踊ろよ月が出た 酩酊待つ間の暇潰し
島の訛りの佐渡おけさ 僕が唄うよササ皆踊れ
ああ慰問袋の便りは可愛いよ アリャアリャアリャサ
島の娘の顔見たや アリャアリャアリャサ
戦線春だより
花は咲いたか故国の友よ わしは元気で敵前暮らし
向かうトーチカ 日和を聞けば いずれここらも花盛り 花盛り
戦線夜更けて
広野千里に陽は落ちて 月影凍るよ歩哨線
偲ぶは戦友の面影よ 今際の万歳 響き来る
呼べど応えぬ ああ果て無き空の上
戦友の唄
君と僕とは二輪の桜 同じ部隊の枝に咲く
血肉分けたる仲ではないが なぜか気が合うて離れられぬ
大建設の歌
大陸に征戦進み 国内は結束固し
輝ける大日章旗 大御稜威 いやよ燦たり
いざや今 挙国の建設 おお建設 大建設
大地に歌う
故郷遠く大陸に 土を求めて来たものを
ただ広漠に胸打たれ 腕拱きぬ
ああ この大地我が命
大陸の快男児
村を出る時ゃ玉の肌 今じゃ弾傷刀傷
これが男の誇りじゃと 微笑む頬に弾の跡
父は九段の桜花
父さん僕です私です 菊の御紋のその中で
今朝は一際勲しに 輝き咲いた桜花
九段のお宮のお父さん
チョコレートと兵隊
前線続く戦線に 銃執る暇も子供等を
遥かに夢に偲んでは ようやく貯めたチョコレート
敵前掃海兵の唄
チェッコ機銃の霞の下に 機雷埋めた波の上
機雷掃いは男の男 辛苦するのはせんのない
水路開かにゃ死なれない 死なれない
白衣の勇士に捧ぐ
滾る濁流大黄河 眩ずる長城守防峰
延々千里強行と 破邪聖軍の行く所
御稜威遍く我が武威の 輝き渡らぬ隈もなし
母と征く
行けば泥濘胡沙の風 便り届かぬ進撃の
露営の夢に お母さん 坊や良い子だ強い子と
歌って下さい子守唄
兵隊甚句
ハァ ドントドントドント ドドントナ 打ち出す弾丸に
ヨーイヨーイノ ヨイヨイヨイサテ 
今日も勝鬨 日の御旗 日の御旗
サササ ヨーイヨーイノヨイヨイヨイ
留守部隊
手柄話を聞く度に 男五尺の血が滾る
実に辛いぞ留守部隊 腰の腰の軍刀が夜鳴きする
露営の星の下
藁を破って久方振りに 屋根の下だよ
嬉しじゃないか 壊れ窓からお月さんが覗く
敵の野砲が子守唄
建設戦記
日毎夜毎の敵襲に 戎衣解く間も無いけれど
明朗亜細亜建設の 希望に燃ゆるこの我等
何で辛かろ苦しかろ
職場の歌
森の小鳥の 囀り聞けば 昇る朝日に お早うと
心もいそいそ 乙女も嫁も 母も花咲く この丹精
タンセイ タンセイ ヨイコラセイ
空の父空の兄
召されて行った空の父 召されて行った空の兄
翼連ねて飛んで行く その爆音が闘魂が
今日も僕等を呼んでます 光湧き立つ空の中
大日本傷痍軍人歌
歓呼の波を押し分けて 勇躍門出したる日の
覚悟は今も変わらねど ああ我惜しや傷付けり
大日本海洋少年団団歌
神代ながらに日本を 巡る潮の歌聞けば
心も躍る身も踊る 海は御国の護りぞや
いざや立ていざ奮え 海に生き海に死す
我等は海洋少年団
ハルピン夜曲
夢に見るハルピン 紫の帳を垂れて橇の鈴の音
高く低く響くところ ペチカ焚いて踊るは幻の雪姫か
想い出の支那街
クーニャン嬉しアカシア並木 誰に逢うのか快々的
別れはアイヤー囁く瞼 花の想い出よ支那の街
黒髪部隊の歌
旗に湧き立つ万歳の 中で響いた君の声
後を頼むの一言を 何で忘れて良いものか
女ながらも日本の 黒髪部隊留守部隊
軍国夫婦愛
国に捧げた命ゆえ じっと堪えるこの負傷
白衣に包む赤誠を 可愛い女房に見せてやろ
国境吹雪
雪は降る降る戎衣は濡れる
ここはソ満の国境
護れ皇国の生命線
吹雪の歩哨線
雪や吹雪に晒されて ここ北満の空の果て
富士に別れも告げて来た 俺は国境警備兵
馬と兵隊
行けど行けど果てし無く 泥濘続く
黒馬よ辛かろこの悪路
明日は青草摘んでやろ 愛しの黒馬よ
漢口航路
霧も晴れ行く上海の 波止場離れりゃ潮風が
胸にそよりと吹いて来る 君と二人の楽しさも
ああ思い出の漢口航路
北満花嫁だより
祖国を離れて松花江越えて 遠くお嫁に来た頃は
赤い夕陽の荒野の丘に 匪賊が時々出ましたよ
月と兵隊
哨舎の屋根から月が出た 干した軍服夜風に揺らぐ
戦友も起きてか煙草が匂う 誰が歌うかおけさ節
国境を征く
熱い思いを振り捨てて 今日も越え行く国境
空にはためく日の丸よ 男涙に胸迫る
軍歌の都
舗道に並木の路に 響く万歳轟く軍歌
今日も湧き立つ旗の波 東京嬉しや軍歌の都
走れ黄包車
走れ黄包車燕のように 行くよ上海南京路
紅と緑の明るい店舗に 白いアカシアの花も散るよ
純情赤十字
紅い袂を脱ぎ捨てて 白衣に換えたあの日から
少女の胸の純情は 紅燃ゆる赤十字
真昼の陣営
真昼の陣営空高く 銃声遥か地平線
暫し昼寝の塹壕に 故郷で聞いた虫の声虫の声
支那の花嫁
紅の花興行列作り 支那の花嫁さん揺られて来るよ
高い城壁楊柳の影を 響くチャルメラ銅鑼も鳴る
守備兵日記
紅い夕陽に照らされて 広野を北に何百里
最前線に銃を執る 任務は重し警備兵
你来々
狭霧に滲んで街に紅い灯が点れば
心に浮かぶは忘あっれぬクーニャンの瞳よ
你来々你来々蘭の花香る窓に
你来々你来々今日も訪れを待つよ
大陸の町
紅い夕陽に熱砂を浴びて 駒は嘶く国境
鈴も途切れに行くキャラバンの 後姿が目に沁みる
霧の夜の町
霧が降る街を一人帰る夜は なぜか侘しい乙女の心
繻子の小靴に踏む足さえも いつかほろりと乱れがち
蘭花の夢
蘭の花咲くあの頃よ 皆昔の夢だけど
なぜか今でも忘られぬ 濡れた瞳に浮かぶのは
山の彼方の白い雲 恋し故郷アア
土と兵隊の歌
潮の速さに狭霧の暗さ 敵をまともに上陸したが
俺もお前も泥人形 良くぞやったと男泣き
上海夜曲
街の灯窓の灯瞬く蔭に 咲いて萎れるロマンスの
花につれない四馬路の霧よ ああ上海は夜もすがら
妖しく歌う夢の歌
白衣魂
国の情けに泣きながら 男死に場所戦線に
二度と立てない俺達が 着けた十字にゃ血が滲む
戦線はやり唄
昔ゃ鉱夫でよ炭鉱暮らし
今は広野でよどんと銃を執る
誉れじゃないか
花と兵隊
九州訛りや東北訛り 皆一つの輪になって
それさ八木節博多節 お国自慢の花が咲く
婦人従軍歌
火筒の嵐吹き荒れて 屍は山かまた河か
ああ戦いの跡なれば 紅染めし花の色
男召されて
故郷の便りを懐に 銃を抱き寝の仮の宿
父さん母さん無事な顔 夢に見るのも嬉しいね
上海波止場
雨が降る降る上海の波止場 濡れて霞んだ街灯り
あの日四馬路で別れた戦友を 乗せて誉れの看護船が出る
別れの手綱
峠三里を涙で越えりゃ 山の茨が袖を引く
泣いてくれるな愛しの黒馬よ 泣けば手綱がまた緩む
北満列車
果て無き広野北満の 山河を慕い遥々と
ああ憧れの 鉄路を急ぐ旅心
雨の上海
雨よ泣くな上海 暮れ行くガーデンブリッジ
柳蔭ジャンクのちらちら灯り 川面に映ればクーニャンの
青い眉愁いに煙る
浪曲だより
母さんお変わりないですか 僕はますます元気にて
今宵も例の浪花節 戦友達に囲まれて
一節唸ったところです
蒙橿の月
狂い来る叫び来る砂漠の夜風 突き進む駱駝を月が照らすよ
雲よ飛べ飛べジンギスカンの 昔哀しい空の色よ
印度の夜
印度恋しやガンジス河に 暮れて水汲む優しの乙女
唄を歌えば花さえ眠る 青い孔雀の夜が来る
水郷子守唄
父さん居なくもねえ坊や ねんねするのよねんねしな
青い真菰のその蔭で 小鳥もすやすやねんねする
軍港千鳥
今朝の別れに日の丸振った 軍港の蔭に来て見れば
軍艦は見えねど夕凪の 沖に鳴く鳴く磯千鳥
一杯の水
黄塵渦巻く荒野路を ひねもす続く強行軍
暫し木陰で休憩に 愛馬と分けて飲む
ああ一杯の水よ水
富士に別れて
富士に別れて感激の 涙で発ったつわものが
打ち振る旗や万歳に 応えて行ったあの笑顔
礼の言葉が言えなんだ
村の勇士
朝の峠を日の丸の 旗と幟に送られて
村の勇士は戦場へ 回る水車を振り返り
振り返り
暁の塹壕
思えば遥々来たものよ 上海戦のあれ以来
北よ南の三年越し 我が子の顔も見忘れる
霧の海南島
島の娘の歌声が 誰を呼ぶやら霧の海
晴れりゃジャンクの灯がちらり
揺れて仄かな夢となる
パラオの娘
踊れ踊れ椰子の葉陰 島は常夏パラオの浜で
踊る乙女の胸は楽し 月も出たよ椰子の梢
東京新地図
花の都の国策ルート 地下鉄可愛いや花盛り
東京新地図どこまで伸びる 空にゃ興亜のアドバルーン
ほめて下さい
その後は御無沙汰しましたが かけた願いが届いてか
国の柱になるような 日本男子を産みました
褒めて下さい見せたいわ
泣くな坊や
泣くなよ泣くなよにっこりと 笑った顔を見せてくれ
明日別れて父さんは 遠い戦地に発って行く
月のデッキで
霧の波止場でさよなら言うた 可愛いあの娘の泣きぼくろ
どんな思いで今夜の月に 好きな胡弓を弾いてやら
乙女の春
ここは山里都に遠い 都恋しと幾年月の
夢に夢見た明るい灯影 乙女心に悩んだよ
海南月夜
ジャンク来る来るあの人乗せて
南支那海越えて来る
島は常夏椰子の島
五人の特務兵
吹雪を衝いて暗闇に 炎の一閃銃声ぞ
すわ敵襲よ応戦と 班長既に刀抜く
想い出のパレホ
街の並木に霧は流れて 仄かに月の昇る頃
パレホの花は開くのよ クーニャンの
瞳のように開くのよ
ふるさとの
故郷の小野の木立に 笛の音の潤む月夜や
少女子は熱き心に そをば聞き涙流しき
花の亜細亜に春が来る
昨日貴方が戦火の中に 植えた若木の桜花
今日は蕾もふっくら咲いて やがて楽しい春が来る
花の亜細亜に春が来る
燃える東雲
希望に燃えて東雲が さっと射る矢の黄金色
微笑む大地踏み締めて 挙げた諸手の力瘤
大陸だより
内地の皆さんいかがです 慰問袋を有難う
空にも木にも河辺にも 見渡す限り生き生きと
春が来ました新天地
桜一枝
咲いた桜の一枝を 花瓶に生けてしみじみと
偲ぶ戦線今頃は 君も故郷を思うてか
国境線万里
蒙古颪に顔焼けて 服は破れる霜凍る
ああ草枕幾年ぞ 守る万里の国境線
国境の乗合馬車
荒野遥々鈴の音頼り 馬車は行く行く空の果て
沈む夕陽に乗り合い人の 侘し瞳がまた潤む
さらば放浪
父母眠る故郷の 土も踏めない流離いの
俺は浮き雲今までは 風に任せた旅暮らし
胡弓の哀歌
姉は東に妹は西に 父は戦に借り出され
ままよ私は流離い暮らし 胡弓鳴らして胡弓鳴らして
一人旅
北京覗き眼鏡
北京は良いとこ夢の街 さあさあ皆さんからくりの
覗き眼鏡で眺めましょ 心うきうきジャンジャン
好々的
二人の大地
空は青空緑の風に 開拓く大地の共稼ぎ
見交わす瞼微笑む二人 おお大陸に溢れる歓喜
朗らかな一日
お空は朗らかに晴れて 並木の緑に朝の風
私は会社のタイピスト タイプタイプタイプ
嬉しい コピーコピーコピー
好きだわ 私は働く事に決めた
お嫁の話なんかまだよ
脇坂部隊の歌(岸中隊南京一番乗り)
道は遥かに南京へ 行く手を急ぐつわものの
胸に刻んで忘られぬ あの日戦死の中隊長
父と頼んだ岸大尉 恨みは残る催家宅
戦線花咲けど
激戦果てし草山の 鉄条網は千切れ飛び
砲車も砕け散る蔭に 寂しき春を咲き匂う
ああ紅の花一つ
戦線月夜
見たよ故郷の初便り
嬉し涙が嬉し涙が
ほろり出た
母と兵隊
風も凍るか塹壕の 夜が冷たい月明かり
故郷じゃ今頃まだ寝ずに 母は繰るだろ糸車
若いチャイナさん
若いチャイナさん爾来々 黄包車頼むよ一走り
どこでもいいからチャッポロ辺り 下ろしておくれよ盛り場へ
煙草と兵隊
ただ一箱と言うけれど 笑うて済ませぬこのバット
東の空を後にして 今前線に進む身の
その手触りの柔らかさ
暁の決死隊
今朝から続く激戦に いよいよ迫る敵の陣
さらば一挙に破らんと 闇の流れを押し渡り
征くぞ熱血決死隊
戦線春だより
吹雪を衝いて幾月ぞ 嬉しや戦地に春が来て
ちらほら咲いた草の花 故郷の山河が懐かしや
日の丸音頭
立てて嬉しや 立てて嬉しや日本の旗は
赤く咲く大和心の おらが日本の旗印
振れ振れ日の御旗 空高く溌剌と
大陸節
往けよ君 支那や満州は隣じゃないか
チンギスハンの夢の跡 崑崙山の朝風に
駱駝縦隊日の御旗
楽しき伍長
国を出た時上等兵 今じゃ見てくれ伍長殿
初めて付いた金筋を 撫でて妹に見せたいな
ふるさとへ帰ろうよ
遥々と丘越えて 懐かしの九江へ帰ろうよ
岸の柳も日の丸の 旗も平和に靡くだろ
帰ろうよ愛しの故郷へ
篝火かこんで
激戦止んで日が暮れて 篝火囲むつわものは
慰問の酒を飯盒の 蓋に酌みつつ目に涙
吹雪の夢唄
白銀の道は果て無く 駆けて行くよ雪にトロイカ
山陰のあの町指して 鞭は鳴る鞭は鳴る
軍国花嫁人形
瞼に浮かぶ愛しい吾子の
せめて供養に結ばせた
母が情けの花嫁人形
戦場だより
昨日は敵が寝た家に 今宵一夜は父も寝る
戦後の市はひっそりと 車の軋る音ばかり
遺品の軍刀
戦死なされた父様の 形見の軍服と軍刀を
前に並べて母様が 読んで下さる父の遺書
戦場宵待草
待てど暮らせど来ぬ戦友を 呼べど薄の風ばかり
日暮れりゃ鳥も帰るのに ああ戦友は帰らぬか
一億の合唱
風爽やかな大空に なるよ我等が日章旗
固く唇噛み締めて 世紀の春が来るまでは
一人一人が国の楯
あこがれの北支那
若い命の憧れの 国を離れて何百里
遠い旅路を北支那の 明日を夢見る草枕
漢口―東京
春が来ました漢口に 靡く柳もなよなよと
妹達者か兄さんは 元気で入城済ましたよ
鉄火部隊
男なりゃこそ御国の為に 笑って死ねる身じゃないか
咲くも花なら散るのも花さ 散れば祖国の散れば祖国の人柱
軍国佐渡情話
来いと言うたとて 行かりょか佐渡へ
私ゃ翼の鳥じゃなし 佐渡は四十九里浜波の上
東亜の新天地より
紅より赤い陽が落ちて 今日も満州に日が暮れた
移民部落は中睦まじく 皆元気でやっちょるぞ
雪の密林
星も凍れば月さえ凍る 雪の密林ペチカを焚けば
燃える思いに燃える思いに ララ夜は更ける
鯨部隊の歌
南国土佐を後にして 中支へ来てから幾年ぞ
思い出します故郷の友が 門出に歌ったよさこい節を
土佐の高知のハリマヤ橋で 坊さん簪買うを見た
銃後の日本大丈夫
後を頼むとますらおが 召されて征ったあの日から
貴方の役はこの私 妻の務めに今朝もまた
強い力が溢れます 国の銃後は大丈夫大丈夫
世界一周大飛行の歌
国を埋めた日の丸の 歓呼の中に羽ばたいて
我がニッポンはまっしぐら 六万キロの空を飛ぶ空を飛ぶ
男のいのち
今宵限りの別れでも 涙見せるな男なら
故郷離れて大陸で 花を咲かせる身じゃないか
軍港小唄
春の横須賀霞に明けて 桜吹雪の散る散る港
艦の居る日は風さえそよぐ 靡くマストの軍艦旗
宵待草隊長
暮れるに早き国境の 蒙古の空を草原を
赤い夕陽が染めたなら 野末に咲くは人の花
宵待ち草の部隊長
征空行
霧の渦巻く支那海を 生死と共に越えてから
幾度潜る弾雨の中 撫でる翼に熱い手に
露が冷たい飛行場
月下の歩哨線
どこで撞くのか鐘の音が 夕餉の煙と共に鳴る
遠い故郷が偲ばれて 汲めども尽きぬ思い出が
護る歩哨の胸を突く
今日も勝ったぞ
弾丸がバリバリ飛んで来る 民家の壁のその中で
思い出しては書く手紙 故郷の弟よ兄さんの
燃ゆる心が分かるだろ
日本の妻
甘く優しい新婚の 夢よさよなら愛しの君を
戦に送る峠道 月よ輝けこの門出
戦場の母
門出の朝の母上の 勝って来いよのあの声を
砲煙万里火と燃える 広野の果てに今もなお
思うは一人我のみか
日の丸馬車
高原遠く沈む陽に 日の丸の旗ヒラヒラと
並木の風に靡かせて 角兵衛馬車は今帰る
雨の戦地で
風は揺すぶる雨は洩る 仮寝の哨舎にポタポタと
濡れた軍服乾せもせず 父さん坊やの真似をして
テルテル坊主ぶら下げた
愛国娘
若い黒髪きりりと結び 臙脂も付けずにエプロン姿
街お夜明けに工場の笛に 行くよ行きます愛国娘
日章旗を仰いで
青雲靡く大空に 光て著るき御旗こそ
万邦無比の国体の 千古を永遠に射貫く
御稜威の象徴日章旗
黎明勤労の歌
星屑淡く消え行けり 起きよ若人逸早く
今日も野に行け野の土に 血潮溢れる一団の
強き力を刻むべし
戦時市民の歌
雲乱れ飛ぶ大陸の 山河も揺らぐ戦闘に
正義一路のますらおが 命を花と散らす時
三百余万決然と 起てり力の大市民
母の歌
御覧よ坊やあの海を 沖は朝風お日様よ
坊や海の子すくすくと 潮の息吹で育つわね
ニッポンよかちょろ
春は曙忠義の色を 染めて日の丸染めて日の丸
ニッポンよかちょろ よかちょろな
締めて往け往け締めて往け
白衣の春雨
許しておくれよ妹よ 花も飾らぬ黒髪を
せめて命の桜花 散って飾るの約束も
無念傷付くこの体
軍神西住大尉
鉄牛一度血に吼えて 雄々しき君が名を呼べば
浙江江蘇の支那勢は 色蒼白めて潰走す
大尉西住名は小次郎
男海ゆく
男海行く荒波を 寄せて砕けて散る波に
時代の渦を乗り越えて 向けろ舳を南へ北へ
揃う舟歌道飛沫
従軍記者日記
生芋噛んで大別山を 部隊に付いて今日越えた
リュック枕の露営の夢は 編集局の友の顔
身代わり警備
雪の鴨緑江国境の空に 死ぬも生きるも二人連れ
今宵夫の身代わり警備 女ながらも銃を執る
大陸第一歩
船は港に希望は胸に 煙るマストの朧月
波止場娘の瞳も招く ああ花の大陸第一歩
黒龍千里
黒龍颪身に受けりゃ 駒は嘶き血は躍る
男度胸は鋼の意気と 胸を叩いて高笑い
吹雪の広野
日暮れ悲しや国境 雪の道雪の道果ても無い
辿る灯は吹雪に消えた 今宵いずこで仮寝の夢か
可愛いソーニャ
月に咽ぶか流浪に泣くか 更ける窓辺のバラライカ
可愛いソーニャはハルピン育ち 思い出す故郷あるじゃなし
麦と兵隊
昨日も広い麦畑 今日も遥かな麦畑
故郷離れて早十月 父母妻子をふと思う
土の匂いや赤い花
のぼる朝日に照る月に(銃後家庭強化の歌)
国に召された感激を 襷の赤に引き締めて
征った我が子は我が夫は どこの山河進むやら
風にはためく日の丸の 旗を仰げば気が勇む
白百合
夏は逝けども戦場に 白百合の花匂うなり
清き白衣の赤十字 姿優しく匂うなり
日本よい国
日本良い国東の空に 昇る朝日は
日の御旗日の御旗 大和心を一つに染めて
いつもほのぼの夜が明ける
英霊讃歌
大君の御楯となりて 出で立てる戦の庭に
散りましし御霊偲べば 尊さに頭は垂るる
永久に讃へ奉らん勲しを
艦隊入港
空は青空春風だ 見ろよ舳先の波までも
今日はひとしお跳ねるじゃないか そうだ艦隊入港だもの
ホームスピード気も躍る
興亜行進曲
東天高く澄み渡り 光も匂う新世紀
興亜の意気ぞ高らかに 民族我等日満支
締盟強く起たんかな 起たんかな
戦場花づくし
赤い襟章剣さげた 可愛い歩兵さんは芥子の花
ちらり見上げる立ち姿 チョイト 
粋な騎兵さんは百合の花
軍艦旗の歌
旭日光輝赫奕と 四海を照らす軍艦旗
見よ我が日本帝国の 威力の表徴皇艦の表徴
さくら進軍
日本桜の枝伸びて 花は亜細亜に乱れ咲く
意気で咲け桜花 揚る凱歌の朝ぼらけ
南支派遣軍の歌
波濤万里を蹴りて衝く 白耶土湾に月白く
時神無月十二日 奇襲上陸ここになる
青史に飾るこの朝 勲は永遠に薫るかな
ああ我等南支派遣軍
北支派遣軍の歌
御稜威の下にますらおが 一死を誓う皇軍の
堂々進む旗風に 威は中原を圧しつつ
厳たり北支派遣軍
土と兵隊
夜の深さに目を投げりゃ どれが道やら畑やら 
まして篠衝く雨の中 俺に続けと手を振る兵も 
三歩歩んで二歩滑る
山は呼ぶ野は呼ぶ海は呼ぶ
いざや起て鍛えよ 高鳴るこの腕
恐れじ寒暑も 行くべし凛々しく
山は呼ぶ野は呼ぶ海は呼ぶ
チャイナ・タンゴ
チャイナ・タンゴ夢の唄 紅の提灯ゆらゆらと
風に揺れ唄に揺れ 揺れて暮れ行く支那の街
チャイナ・タウン月の夜 チャイナ・タンゴ夢ほのぼのと
チャルメラも消えて行く 遠い赤い灯青い灯も
クーニャンの前髪の やるせなくなく夜は更ける
男一匹の歌
赤い夕陽は砂漠の果てに 旅を行く身は駱駝の背中に
男一匹未練心はさらさらないが なぜか寂しい日暮れの空よ
何日君再来
忘れられないあの面影よ 灯火揺れるこの霧の中 
二人並んで寄り添いながら 囁きも微笑みも 
楽しく溶け合い 過ごしたあの日 
ああ愛し君いつまた帰る 何日君再来
広東ブルース
丘の上からバンドを見れば 赤い灯青い灯夢の色
揺れて流れてどこへ行く フラワーボートの恋の歌
胡弓侘しや盲妹悲し 月の夜更けの広東ブルース
上海の花売り娘
紅いランタン仄かに揺れる 宵の上海花売り娘
誰の形見か可愛い耳輪 じっと見つめりゃ優しい瞳
ああ上海の花売り娘
九段の母
上野駅から 九段まで 勝手知らない じれったさ
杖をたよりに 一日がかり せがれ来たぞや 会いにきた
浪花節と兵隊
東を照らす宮柱 浜の松風音に聞く
清水港の次郎長と 月をば眺めて甕風呂で
唸る戦友名調子
ほんとにほんとに御苦労ね
楊柳芽を吹くクリークで 泥に塗れた軍服を
洗う姿の夢を見た 御国の為とは言いながら
ほんとにほんとに御苦労ね
国境の春
遠い故郷は早春なれど ここはソ満の国境
春と言うても名のみの春よ 今日も吹雪きに日が暮れて
流れは果て無きアムールよ
紀元二千六百年頌歌(紀元二千六百年奉祝会の歌)
遠皇の畏くも 創め給いし大大和
天津日嗣の次々に 御代しろしめす尊さよ
仰けば遠し皇国の 紀元は二千六百年
くろがねの力
清新の血は朝日と燃えて 見よ高らかに伸び行く日本
ああ我等皇国の楯ぞ 強き意志持て共に鍛えん
力 力 黒鉄の力
出征兵士を送る歌
我が大君に召されたる 生命栄えある朝ぼらけ 
讃えて送る一億の 歓呼は高く天を衝く 
いざ征けつわもの日本男児
兵隊さんよありがとう(皇軍将士に感謝の歌)
肩を並べて兄さんと 今日も学校へ行けるのは
兵隊さんの御蔭です 御国の為に御国の為に戦った
兵隊さんの御蔭です
父よあなたは強かった
父よ貴方は強かった 兜も焦がす炎熱を
敵の屍と共に寝て 泥水啜り草を噛み
荒れた山河を幾千里 よくこそ撃って下さった
軍隊小唄
嫌じゃありませんか軍隊は カネのお椀に竹の箸
仏様でもあるまいに 一膳飯とは情けなや
海の勇者
港を遠く幾千里 太平洋の中に出て 
逆巻く波と戦いつ 夜も日も守る軍艦旗 
仰げば熱い目が潤む
太平洋行進曲
海の民なら男なら 皆一度は憧れた 
太平洋の黒潮を 共に勇んで行ける日が 
来たぞ歓喜の血が燃える
愛馬行
行けど進めど夕空遠い 今日も露営か雪の原
黒馬よ頼むぞ今宵の夢も 俺とお前と日の丸だ
愛馬進軍歌
郷土を出てから幾月ぞ 共に死ぬ気でこの馬と 
攻めて進んだ山や河 執った手綱に血が通う
大陸行進曲
呼べよ日本一億の 生命溢れる足音に
地平も揺れよ大陸の 全てのものは今朝だ
戦車兵の歌
聖戦万里海を越え 朔風荒ぶ大陸に
我が精鋭の行くところ 常に先鋒戦車あり
旭旗燦たり皇軍の 清華我等は戦車兵
 
陸海軍歌 / 昭和 15年

 

行軍の歌
彼方に黒き砲塁や 此方に白き長江の
姿も今は眠りてか 身をば露営の仮枕
まどろむ夢は故郷へ 想いを乗せて今ぞ行く
満州帝国皇帝陛下奉迎国民歌
国を挙ぞり迎え奉れ 燦たり聖駕に
桜花渡れし 麗らよ今日の日
ひつべし ぜんり 日満親和 いよいよ厚し
慶び溢るる日本のこの歌 供え奉れ 高らかにいざ
山田一等兵
ここは北満大興の 白雪深き広野原
重き使命を身に負うて 進む三人の勇士あり
任務は難き斥候の 敵の陣地を探りつつ
雄々しく進む折柄に 俄に囲む支那の勢
古澤少尉は勇ましく 小銃執りて応戦し
火花を散らすその中に 声張り上げて叫ぶよう
ああ爾霊山
空翔ぶ鳥よ何を啼く 兵士共が夢の跡
過ぎし日露の戦いを 想えば胸に込み上げる
涙も熱き ああ爾霊山
九段の誉
春の九段に咲く花は 大和男子の心意気
秋の宮居の紅葉葉は 勇士の血潮あらたかに
日の本飾る綾錦
行軍の歌
友の遺骨を胸に抱き 野行き山行き川を越え
今日も昨日と変わりなく またも進むか敵の国
大陸列車
紅い灯火夜霧に消えて 別れ惜しんだあの娘の影が
胸に残るよ さらばよさらば 街を振り捨て広野の中を
夜行列車はただ一路
情熱の翼
世界制覇を翼に懸けて 固く誓った男と男
負けちゃなるまい この世の風に
負けりゃ寂しい 片翼
みんな背嚢につめて
頼むと言われて国を出た 一家での味胸の味
さあ苦しみも悩みもみんな 背嚢に軽く詰めて心は朗らか
元気で行こうぜ どこまでも
李さん王さん
隣の李さん起きたかね 今日も元気で仲良く皆して
元気で進む日軍の 鉄道工事の手伝いに
日の丸振って行こうかね
戦友の母
どなたでしょうと 不思議がり 
そろそろ開ける 雪の窓 
顔見合わせて 驚いて 
ただ言葉なく 涙ぐむ 
戦友間瀬の お母様
花咲く南洋
島は数々思いは一つ 同じ日本の旗の下
南洋良いとこ常夏島よ 千里黒潮風が吹く
南進女性
黒髪長き乙女の胸に 描く未来の空高く
雲よ輝け誠と愛を 捧げて行かん我が旅路
広東航路
港広東出る時にゃ 若い心に波飛沫
さらば別れの銅鑼の音よ 七つの海は我が住処
僕は船乗り気も弾む
北京娘
リラの色した小さいリボン アカシア咲いたらいそいそおいで
興亜の春よ綸子の服で 再来朋友北京の街の王府井
支那街
上海上海支那の街 ヤンチョで行けば赤や青
色美しい招牌に 横文字さえ招く街
世界をここに集めたような 支那の街
洋燈の下で
吹雪で今日も日が暮れる ここは国境北の町
燃ゆる暖炉の赤い火は なぜか故郷の夢揺する
一尺の土
今日激戦の跡に来て 我が戦友の名を呼べど
応えるものは秋の風 新たに出来た一尺の
土こそ君が遺品かよ
戦場撫子
昨日の白衣脱ぎ捨てて 貴方はまたも戦場へ
再び握る銃と剣 雄々し御姿鉄兜
支那の娘さん
風は微風柳の蔭で 支那の娘さんにっこり笑う
何か嬉しい優しの瞳 じっと見つめる夕陽空
光に立つ
恋も命も人の世の 儚き夜の夢覚めて
男栄えある赤襷 かけて光に立つは誰
おもいでの都
東山から紅染めて 昇る河原のお月さん
長い袂を抱き締めて 泣いて別れたあの晩に
加茂の柳も散りました
天から煙草が
天から降って来た巻煙草 吸わずにいらりょかこりゃ旨い
一口回しだスッと吸ってパ 何と翼の爽やかさおい
でかしたでかした海の鷲
再見上海
朝の出船の鴎の唄は 名残惜しむか上海の
霧の港で別れた宵は 涙ぐんでたあの街の灯よ
タリナイ・ソング
一人来な二人来な 三人来たら寄って来な
ワンツースリーフォー 四人寄ったらリズムに乗って
さあ皆さん 聞いて下さいタリナイ・ソング
南洋を讃う
世界の平和人類の 福祉を期して躍進す
不抜の力培うは 大潮咽ぶ海にあり
南洋南洋我が南洋 伸び行く日本の生命線
満州ブルース
楡の並木の夕月に 泣いたとて泣いたとて
花は花ゆえ風に散る 若い涙を胡弓に寄せて
今宵歌およ満州ブルース
乙女でも
紅の薔薇のような 私ゃ優しい乙女でも
でもいざという時にゃサアサア 
雨にも荒ぶ嵐も 恐れずに恐れずに
黒龍江の舟唄
夕月淡く国境暮れて 流す筏か旅行く船か
続く大陸アムール千里 今日も聞こえる舟歌が
蒙古の町
走る支那馬車寂しかないか 砂漠の旅は果てさえ知れず
曇る夕陽も瞼に濡れて 寒い風だよ鈴の音
南洋航路
赤い夕陽が波間に沈む 果てはいずこぞ水平線よ
今日も遥々南洋航路 男船乗り鴎鳥
支那むすめ
花の前髪月の眉 お嫁に行く日がもう近い
楊柳に燕が来るように その日の来るのを待ってるの
夫婦舟唄
可愛いお前と二人連れ 水棹片手に舟唄で
漕いで流して西東 船頭暮らしは楽しいね
若い戦友
雲焼け日焼けはしちゃいるが 俺もお前も花盛り
若い血潮のこの意気を 敵に存分見せてやろ
黄昏の南海
パパヤの実も甘く 波は囁く夢の島
宵の一時渚を行けば 南十字の星影淡く
月も飛沫に濡れて出る ああああ黄昏の南海よ
広東の踊り子
星の降る夜の薔薇の花 白い支那服月の眉
広東の踊り子は 意中意中よ吾意中
歌であの人呼んでいる
想兄譜
春は曙鶯鳴いて 覚めて嬉しい兄妹
母と添い寝の幼い夢よ 昔恋しや懐かしや
街の宝石
朝の駅から鈴懸樹の 青い舗道いそいそと
純な瞳よ小麦の肌よ 若い正気は溌剌光る
君は真珠か街の宝石 僕等の光
黄昏の駅で
街に灯の点く黄昏の 駅のベンチで汽車を待つ汽車を待つ
送り送られ故郷へ 暫し別れもまた楽し
蒙古の花嫁さん
可愛い淡紅ベールで隠し 嬉し恥ずかし蒙古の花嫁さん
駒の鬣真白に揺れて 空にきらめく金の鞍
燃ゆる人生
楡の木陰に駒止めて 一人仰いだ遠い空
若い命を大陸の 風に任せて今日も行く
ジャンク舟唄
月が昇ればランタン消して 暗いデッキで胡弓を鳴らす
若い身空をジャンクで暮らしゃ 更けた夜風が身に沁むる
ハルピン・ブルース
エルムの花散れど 見果てぬ夢の古巣
二人のキタイスカヤ 思い出抱いて別れる
今宵君よ泣くな また逢う日までハルピンよ
忘れぬ愛の誓い キャバレーの青い月に
血染の戦闘帽
戦い勝って戦場の 草踏みしだき帰る道
ああ足元に見つけたる 友が血染めの戦闘帽
軍都の乙女
胸に日の丸抱き締めて 熱い感謝の万歳を
叫んで送る兵隊さん ああ我等は軍都の乙女
俺も男だ
大陸を西へ東へ十余年 月日重ねて流離えど
忘れられない日本よ どこで吹くやら祖国の喇叭
浮かぶ涙に聞き惚れる
楊柳芽をふく頃
娘心にいそいそと 待てば来る来るニャンニャン祭り
李さん楊さん行きましょね 柳芽を吹く並木路
春の馬車の鈴が鳴る
桂木斯の花
思い出します雪解け頃の 春の満州になる度に
彩英クーニャンチャムスの奥で 一人寂しく咲いた花
ジャンクに乗って
俺は海の子島国育ち ここは支那海ジャンクに乗って
波を枕の船乗り暮らし 明日の港はいずこやら
支那のランタン
暮れる港の上海に 紅いランタン水に映れば
なぜか故郷の夢恋し ああ思い出の支那のランタンよ
雨の四馬路
夜の四馬路に降る雨は 海峡越えて去り行きし
君の便りが思い出か 灯火淡き窓に降る
北満ひとり旅
月も凍るか北満の 旅の一夜の侘しさよ
燃えろペチカ燃えろよペチカ 燃えりゃほのぼの
胸に情けの灯が点る
重い泥靴
雨に打たれてアカシアの 花が零れる泥濘を
思い泥靴踏み締めて 進む緑の戦線よ
想い出夜曲
思い出すのは故郷に 帰るあの日の朝の海
疲れ果てたる我が胸に 吹いた優しの吹いた優しの春の風
国境の春
流れ流れて松花江越えて 明日はハルピン北の町
胡弓一つに思いを乗せて 旅の馬車よどこへ行く
興亜音頭
妬いちゃいけない日本と支那は
昔ながらの昔ながらの仲じゃもの
手拍子合わせて興亜音頭の一囃し
ハルピン旅情
雪は降る降る嵐は募る 暮れて寂しや広野の果てを
涙隠して胡弓を抱いて 今日もとぼとぼ旅の空
南国の舟唄
男男命を板子に賭けて 広い望みは海の上
港出てから港出てから 荒波越えりゃ
ここは遥かな空の下
戦友よさらば
黄昏寒き丘の上 涙で建てた墓標
昨日に変わる戦友に 鳴いてくれるか草の虫
アリラン・ブルース
明日はお立ちか半島月夜 窓にアカシアほろり散る
誰が歌うか涙が滲む 遠いアリラン遠砧
南洋行進曲
東亜の盟主日本が 翳す正義の日の丸を
仰ぎて断乎進むのだ 守れ南の生命線
興せ南洋我が南洋
花の燈籠祭り
花の灯篭ほのぼの点りゃ 繻子の上衣の姉妹
青い耳輪が風に鳴ります夜の部屋 ゆらりゆらゆらアイヤ灯篭祭り
胡弓を抱いて
日本娘は富士山桜 いつも笑顔の薄霞
紅の袂に見果てぬ夢の 夢を数えて君を待つ君を待つ
金州城
赤い夕陽に駒止めて 金州城外見渡せば
風も泣くかよ縹緲と 乃木将軍の胸の内
離別了姑娘
可愛い耳輪を別れにくれて 君は咽ぶよバンドの霧に
離別了クーニャン 再び逢うのはいつの日
今宵は一人 心もしとど汽笛に嘆く
あのネ軍使
あのねオッサンどうじゃね 陣中風船敵陣へ
ふわりふわりとやって来た わしは軍使じゃお前はんの
へろへろ弾丸には当らへん へらへらへったらへらへらへ
ハルピン旅愁
宵のキャバレーの踊りの中で どこか寂しいの娘
青い菫かアカシアの花か 濡れて散るよなその瞳
石と兵隊
月影冴える前線で 慰問袋を開けてみりゃ
ころりと落ちた石一つ 幼い心が鉛筆で
添えた手紙が身に沁みる
旅出の唄
雲は流れる緑は煙る 遠い希望の陽は招く
何が哀しと咽ぶか心 明日は旅出と言うものを
桃の丘越え
春が来た来た飛んで来た 南の国から丘越えて
私ゃ嬉しいどうしましょう 花の簪紅付けて
馬車に揺られて嫁ぎます
乙女舟唄
兄が戦地へ門出の日から 私ゃ流れの渡し守
たとえか弱い乙女じゃとても 心きりりの紅襷
支那の一夜
カルタ遊びか真紅な酒か 風に途切れるジャンクの騒ぎ
雨の波止場はランタンばかり ああ支那の旅一夜
愛国子守唄
坊や良い子だねんねしな 坊やの父さんどこへ行った
あの山越えて海越えて 遠い戦地へ行きました
白蘭は咲けど
忘られぬ忘られぬ 忘れられない君ゆえに
胸に点す愛の灯よ 別れた後も思い出す
白く寂しき蘭の花
泣くなクーニャン
ここは大陸夕陽が沈む 霞む御空に二日月
銀の小櫛か引毛の眉か 影もか細い支那娘
前線の唄
雪の塹壕に星が降る 遠い祖国の人々よ
心安かれ前線は 断じて俺等が引き受ける
支那のランプ
支那のランプよその昔 どこの館でどんな娘が
夜毎灯影に泣いたのか 笠に涙の跡がある
涙の胡弓
流離いのクーニャンよ 今日もまたああ
涙の胡弓かき抱き 思い出のあの人
訪ねてか旅行く
都都逸と兵隊
国を出てから一年余り
覚えた支那語の都都逸だ
戦友よ一節聴いてくれ
大陸の歌声
城跡に若草萌えて 心にも花は開くよ
ああ春だ泣くなクーニャン 青空に陽は微笑むよ
用心づくし
スパイ匂いの御飯と見たら
食べなさるなよ
饐えている用心せ!用心せ!
たのしい満州
春の盛りは桜と蘭と 杏に代えて埋めた広野
五族仲良く手を取り結びゃ 空にゃ空にゃ希望の光
満州楽しや日に夜に 伸びる好楽土
起てよ一億
雲は飛ぶ飛ぶ太平洋 どんと乗り切るこの舳
起てよ一億日本の 勇武の民がこの剣
仇なす敵は破るのだ
空の船長
緑小鳥の故郷を 遥かに越ゆる雲の波
若き瞳の飛行服 空の船長憧れの
君が門出を言祝がん
国境千里
霧が流れる国境千里 鈴の音聞きゃしみじみと
思い出される故郷の山河 浮かぶ懐かし父や母
日本勤労の歌
御稜威遍き大御代に 清く正しく生い立ちし
御民我等が感激の この一鍬に一鎚に
これも興亜の大使命
みんな兵士だ弾丸だ
民は一億心は一つ 仰ぐ日の丸風に鳴る
鉄の覚悟で怒涛の意気で 進む興亜の決死隊
皆兵士だ弾丸だ
戦場ハーモニカ
慰問袋のハーモニカ 吹けば故郷の音が冴えて
歓呼の声や旗の波 晴れの門出を思い出す
戦友星
夕空遠く今日もまた 戦友星が出ているぞ
あの幻の鉄兜 還らぬ君は花と散り
護国の鬼となったのか
響け軍歌
君と手を組み心も朗ら ビルの青空口笛吹けば
風は春風あの窓この窓 響く軍歌よ懐かしのメロディー
防空の歌
朝だ真澄の青空だ 光は呼ぶぞ眉上げて
尊い国土の防衛に 競う一億鉄壁と
護る我等の大空を
妹よ
妹よ 便りを嬉しく思い候
兼ねて案じていた故に 無事で居るとのお便りを
兄は戦地の塹壕で 繰り返しつつ読み候
出征航路
海を越え行くますらおと 別れで振った日の丸の
熱い情けを偲ぶ時 デッキに誓う我が胸に
吹くは潮風南風
広野の開発
晴れたり今日も暁の 空遥々と明け行けば
胸を開きて吸う息の 千里の広野風渡る
光は正に東より
軍靴千里
大君に召されたその日から 履いて馴染んだこの靴よ
越えて来た山川よ町 思えや千里の戦線だ
いとしあの星
馬車が行く行く夕風に 青い柳に囁いて
愛しこの身はどこまでも 決めた心は変わりゃせぬ
回覧板
来たよ来た来た回覧板 隣の坊やの足の音
頭を撫でて御苦労さん 互いに見交わす笑い顔
機上の歌
男なりゃこそ五千尺空の 雲の上から地上を覗け
島の緑も懐かしい そこにゃ故郷も母もある
ふるさと通信
現地の友よ戦友よ 皆元気でやっとるか
弾丸に傷付き帰還された 僕も治って故郷に
今じゃ銃後の御奉公
皇国の妻
後を頼むと手を握り 門出の朝のあの言葉
忘りゃしませぬ引き受けました 可愛い坊やも姑様も
嗚呼北白川宮殿下
明くる亜細亜の大空を 護る銀翼励まして
大御光を天地に 輝かさんと征でましし
嗚呼若き参謀の宮殿下
ロッパ南へ行く
南へ南へ皆々南へ 蘭印仏印椰子の蔭
赤い花挿し可愛いあの娘 曾長の娘かしおらしや
『私のラバさん曾長の娘 色が黒いんで闇夜じゃ
何処に居るのか判らない』 南へ南へ皆々南へ
大日本国防婦人会会歌
世界に比なき日の本の 婦人の徳を身に締めて
国の守りの礎と 誓いは固し我が会
大日本行進曲
汝は日の本光の子 天津御神の裔なれば
世界を照らすは汝が使命 輝く日本大日本
金鵄仰ぎて(皇紀二千六百年奉祝国民歌)
光満つ 朝の山河を踏み鳴らし
畏み仰ぐ肇国の 猛き生吹は緑して
今ぞ我等の若き我等の 歓喜は滾る
乙女の戦士
青い空には希望の雲が 遊ぶ蝶々にゃ小ちゃな夢が
そうしてそうして 歌う乙女の心の中にゃ
誰も知らない可愛い秘密
荒鷲慕いて
若き乙女の憧れは 雲に羽ばたく銀の翼
眉美しきますらおが 正義に勇む飛行帽
雄々し荒鷲乙女の夢よ
台湾軍の歌
太平洋の空遠く 輝く南十字星
黒潮飛沫く椰子の島 荒波吼ゆる赤道を
睨みて起てる南の 護は吾等台湾軍
嗚呼厳として台湾軍
満州里小唄(雪の満州里)
積もる吹雪に暮れ行く街よ 渡り鳥なら伝えてておくれ
風のまにまにシベリア鴉 ここは雪国満州里
心のふるさと
南の国の故郷は オレンジの花咲く所
あの山陰の賎が家に 懐かし優し母の面影
別れ船
名残り尽きない果てしない 別れ出船の鐘が鳴る
思い直して諦めて 夢は潮路に捨てて行く
ああ大黄河
揚柳青く芽を吹きて 頬にそよ吹く春の風 
水の流れもゆるやかに 春訪れし大黄河
白蘭の歌
あの山かげにも川辺にも 尊き血潮は染みている
その血の中に咲いた花 芳し君は白蘭の花
熱砂の誓い(建設の歌)
喜び溢れる歌声に 輝け荒野の黄金雲
夜明けださあ夜明けだ大陸に 湧き立つ我等の建設の歌
紅い睡蓮
花の北京の灯点し頃を 私ゃ夢みる支那娘
芙蓉散れ散れ君待つ窓に 花は九つ
花は九つ願いは一つ
蘇州夜曲
君が御胸に抱かれて聴くは 夢の船歌恋の唄 
水の蘇州の花散る春を 惜しむか柳がすすり泣く
戦場初舞台
花の歌舞伎の子と生まれ 眉を染めたも昨日まで
今日は戦地で銃を執る 若い心の凛々しさよ
凛々しさよ
南京の花売り娘
緑の光よ黄昏よ 呼べば来る花籠下げて
純な瞳よ南京娘 花はいかが嬉しい花
楽しい花揺れて仄かに 涙ぐむよな花の命よ
上海の踊り子
霧の夜を月の夜を 踊るランタン踊る上海
夢を見るよな踊り子の 黒い瞳が濡れている
濡れている
僕の考え聞いとくれ
僕の考え聞いとくれ 日曜毎にシャベル持ち
庭に飛び出し穴を掘る 体は良くなる気は晴れる
やがては出来ます防空壕
広東の花売り娘
紅の雲黄金に輝く河港広東 碼頭を行くよ花売娘
可愛い前髪翡翠の耳輪 花を召しませ南国の甘い花よ
誰か故郷を想わざる
花摘む野辺に日は落ちて 皆で肩を組みながら
唄を歌った帰り道 幼馴染のあの友この友
ああ誰か故郷を想わざる
紀元二千六百年
金鵄輝く日本の 栄ある光身に受けて 
今こそ祝えこの朝 紀元は二千六百年 
ああ一億の胸は鳴る
燃ゆる大空
燃ゆる大空気流だ雲だ 挙がるぞ翔るぞ迅風のごとく
爆音正しく高度を持して 輝く翼よ光華と勢え
航空日本空行く我等
隣組
とんとんとんからりと隣組 格子を開ければ顔馴染み
回して頂戴回覧板 知らせられたり知らせたり
国民進軍歌
この陽この空この光 亜細亜は明ける厳かに
燃える希望の一億が 傷痍の勇士背に負って
今踏み締める第一歩 使命に挙る進軍だ
愛馬花嫁
主は召されて皇国の勇士 私ゃ銃後の花嫁御寮
主の形見の可愛い黒馬に 秣刈りましょ飼葉も煮ましょ
暁に祈る
あああの顔であの声で 手柄頼むと妻や子が 
千切れる程に振った旗 遠い雲間にまた浮かぶ
興亜行進曲
今ぞ世紀の朝ぼらけ 豊栄昇る旭日の
四海に燦と輝けば 興亜の使命双肩に
担い立てり民五億
靖国神社の歌
日の本の光に映えて 尽忠の雄魂祀る
宮柱太く燦たり ああ大君の御拝し給う
栄光の宮靖国神社 
航空日本の歌
無敵の誉れ銀色の 翼きりりとまっしぐら
前線遥か荒鷲の 大空翔けるその姿
月月火水木金金
朝だ夜明けだ潮の息吹き うんと吸い込む銅金色の 
胸に若さの漲る誇り 海の男の艦隊勤務 
月月火水木金金
空の勇士
恩賜の煙草を頂いて 明日は死ぬぞと決めた夜は
曠野の風も生臭く ぐっと睨んだ敵空に
星が瞬く二つ三つ  
 
陸海軍歌 / 昭和 16年

 

伊勢神宮にて
大神に告げ奉る 我が心
御国の為に 命捧げん
銀輪の歌
走る銀輪 希望を乗せて 今日も明るい空の色
力一杯働く胸に 香るそよ風そよ風
日もうらら
産業報国歌
雲に轟く新世紀 秋なりいざや我起たん
国運正に隆々と 東亜に臨む この朝
全産業の陣挙げて 仰げよ今ぞ日は昇る
産業 産業 産業報国
支那海越えて
南支那海 乗り越えりゃ 椰子とマンゴの熟れる国
男度胸の見せ所 俺も行きたや国の為
三味線軍歌
浮き立つ調べ 粋な音に 胸のすくよな撥捌き
声も弾んだ二上がりの さても勇まし三味線軍歌
戦闘帽に花さして
泥に塗れた戦闘帽に 摘んで翳した野の花ならば
仇に散るなよいつ迄薫れ 花と兵隊先陣だ 先陣だ
太平洋ぶし
ハァ北はシベリア 南はパラオ
中を取り持つ 中を取り持つ日の出島
ドンと来てネ パッと散るネ
海は水兵さんの心意気
母の背は
戦いに今日も暮れ行く 眠らんと草の葉敷きて
思い出づ 母の背は温かなりき
翼賛親子
貴方に服 買わしょ 父さんに服 買わしょ
真っ平御免よ 新体制だ 質素にしょ
そんなら服屋へなぜなぜ行った
あれはランラララン あれはランラララン
作りはしません ランララランと継ぎ当てに
ああ日の丸だ前進だ
長江遥か 陽は登り 戦線遠く 陽は沈む
昨日も今日も また明日も ああ逞しい 前進だ
憧れの銀翼
黒い瞳に 澄み渡る 晴れて切ない 青い空
爆音高く 天翔ける 翼仰げば 清々と
乙女心は 躍るのよ
海を渡る荒鷲
怒涛逆巻く大海の 空に轟く爆音は
東亜を護る荒鷲の 門出に勇む羽ばたきぞ
渡洋爆撃見よその勇姿 
ああ海越えて 精鋭の姿は進む
火線を征く
男召されて 銃執らば 散りて悔い無き 桜花
敵を撃つ身と 知ればこそ 決死の軍靴 響かせて
火線の中を 今日も行く
グライダー部隊
大和島根に生まれたら 皆翼だ荒鷲だ
今に見てくれ電撃の 秘策は腕にこの胸に
そうだ我等はグライダー部隊
示せ銃後の真心を
遠い戦地と 銃後の空を 結ぶ思いは 皆一つ
海の勇士へ 祖国の便り 何とこの胸 何とこの胸
送ろうか
青年進軍歌
雲湧き力溢れ大地萌ゆる限り 今ぞ挙がる青年の
意気新しく練成正に 堂々の歩武を進めん
青年 青年 青年 我等
対峙の夜
雨は降る降る 気紛れな 兵は塹壕で 息を呑む
雲の晴れ間に 砲列が 見えるじゃないか 戦車まで
じっと対峙で 夜は更ける
鉄の千人針
千人針は 妻や子の 心を込めた 布の楯
進み行く夜の 戦には 走るトーチカ 鉄の楯
さあさ あげましょう 捧げましょう 心も鉄の 千人針よ
届け銃後へこの心
吼ゆる海原 ただ黙々と 護る封鎖の 幾年ぞ
重い任務の 五尺の体 俺は銃後の 血で生きる
南進の歌
海は呼ぶ呼ぶ常夏の 島の緑が目に浮かぶ
今だ乗り出せ逞しく 南へ南へこの舳
ああ躍進の血は燃える
日本のあしおと
ザックザックザックザック ザックザックザック
兵隊さんの足音だ
ザックザックザックザック ザックザックザック
強い日本の足音だ
病院船の歌
皇軍人の疾病を 負傷を看取る看護婦と
召され出でし女子我等 腕に付けし赤十字
赤き至誠の色に燃ゆ
誉れの家族
誉の家と仰がれて 父を良人を愛し子を
御旗の下に捧げたる 誇りを何に例うべき
夕陽の新戦場
広野の丘に佇めば 戦の跡は荒涼と
霞む地平に霞む地平に 赤々と今大陸の陽が沈む
別れの尺八
秋が来たぞと雁が鳴く 月の露営の戦線に
白い野菊の花敷いて 戦友が静かに吹き鳴らす
ああ尺八の音が冴える
ヒノマル
青空高く日の丸揚げて ああ美しい日本の旗は
朝日の昇る勢い見せて ああ勇ましい日本の旗は
奥支那だより
幾山越えて河越えて 弾丸の戦野を何百里
草を枕に寝る今宵 凍る夢路に故郷の母
志願兵行進曲
銃を一度担いては 我も皇国の軍人ぞ
天皇陛下の御楯と 燃ゆる熱砂の道を踏み
堂々進む志願兵
よろこびの歌
遠い青い空の彼方へ 鳥になって飛んで行こうよ
真白な雲そよ吹く風心軽く 楊柳の笛を吹き鳴らし
共に歌え喜びの歌
別離傷心
雨に打たれて咲く花は 優し睡蓮支那娘
雲の晴れ間に濡れて立つ 星の瞳は何祈る
愛の灯かげ
雨晴れて 街の灯点る夕暮れよ
心も軽く吾子を待つ 我が家に急ぐ
ペダル進軍歌
甘いマンゴが香る 仏印碧い風
アンナン娘が日の丸振って 微笑むこの街白い路
脚に覚えのペダルを踏んで 朗らか進軍どこまで飛ばす
楽しい我が家
皆揃って飛び起きて 交わす笑顔も日曜日
そよぐ梢の一つ星 お庭の掃除草むしり
尊い汗が流れます
思い出の記
ああ馬の背に涙して 故郷出でて幾年ぞ
高倉山の白雲に 誓いし言葉仇ならず
飾る錦は誰ゆえに
覚悟はよいか
出た出たお月さんにっこりと 十五夜お月さん今晩は
俺が戦地で見ている月を 故郷で坊やも見てるだろ
月の軍馬
鞭声粛々夜河を 渡る愛馬と二人連れ
人目隠れて行くけれど 今宵忍ぶは伊達じゃない
北京の子守唄
青い屋根金の屋根 夢のお城に三日月が
ほんのりとかかる頃 赤い揺り籠揺れて
いつかアカシアの花のよに ねんねする子は楽しかろ
月下の胡弓
船は行く行く灯火揺れる 月に西湖の波の上
誰に聞かそか私の胡弓 せめて届けよあの船に
乙女の祈り
君知るや乙女の祈りを 紫暮れ行く夕べの丘の
花の香りに雲雀の唄に 祈る言葉の切なきを
ハルピンの夜は更けて
寝たか妹よ父母よ 淡い吐息に夜の風
ロシア更沙の壁掛けに 囁く小唄古時計
黄河の夢唄
月の黄河にジャンクは揺れて 風も優しく船端叩く
こんな晩には日本の 空が空が恋しくなるばかり
港つばめ
秋は南の空恋し 赤い木の実が実るやら
帰れ愛しの故郷へ 艶羽優しい燕
夢は国境線
しみじみとしみじみと 雨に冷たく更ける夜の
夢は遥かな国境線よ 護る兵隊さんの
ああ尊いあの姿
愉快な組長さん
卵を数えて計器に乗せて 目盛り見ながらそれ百匁
配る両手に朝日が弾む 向こう三軒両隣
元気で明るい組長さん とっても朗らか愉快だな
牡丹の曲
紅い牡丹の花びら染めた 踊り衣裳が涙に濡れる
泣いちゃいけない支那人形 春は優しくまた帰る
星の飛ぶ夜
星の飛ぶ夜は窓に寄り 白いマフラーを編みましょか
二度と内地の思い出に 若い心を編みましょか
花占い
北京娘の花占いは 耳輪ちゃらちゃら花びら数えて
一二三四五 赤い牡丹が一ひら残りゃ
お嫁に行く日が待ち遠い
松花江小唄
松花江の水は濁れど風清く 浮かぶボートに人の花人の花
松花江の岸辺に立てば眼も涼し ロシア乙女の片えくぼ
南海夜曲
囁く波に夢乗せて 南へ誘う月明かり
想い出にああ想い出に一人行く 椰子の実実る離れ島
ジャバ旅愁
馬車の鈴よりパゴタより 更沙織る娘の瞳より
霧に明け行くギョクジャの町も 遥かきらめく十字星
上陸の夜
上陸一歩今更に 瞼に沁みる思い出の
霧の波止場が懐かしい まして故郷の港町
さよなら小孩
虞美人草の乱れ咲く 街に未練は無けれども
心弱くもまた緩む 手綱引き締め別れを惜しみゃ
駒は嘶く朝風に
南進日本の歌
祖国の歌も高らかに 山なす怒涛乗り越えて
南を目指す若人の 血潮は躍る太平洋
いざ行けいざ行け南は招く
タイの夜夢の夜
綿の花蔭淡く月が匂う頃は パゴタ祭りの太鼓が響くよ
ムーム旅の心に優しく 踊る少女の瞳よ夢見る瞳よ
ああタイの夜
妹の歌
窓に揺れてる海棠の 香りに偲ぶ幼顔
あの花挿したその髪の お下げリボンが懐かしや
若鷲の歌
御空を征くよ若鷲の 目指すはいずこ重慶か
茜彩る雲の果て 故郷の歌を口ずさむ
愛の一家
雨にも風にも優しく咲く菫 咲く花愛こそ我等の宝
ああ咲けよああ香れ 愛こそ嬉しい我が家の命
花の鴨緑江
花の鴨緑江安東かけて 靡く楊柳の新義州
漕いで流して昔を偲ぶ 娘船頭は水鏡よ
大空の遺書
男子一度大君に 命捧げて空征かば
これぞ最後の走り書き 泣くな栄えある海鷲の
花の手柄は雲に問え
南国乙女
南の夢の国 椰子も濡れるよ青い月
心も濡れる カヌー漕ぐ手に星が降る
星が降る降る波の上 ああ南の夢の国夢の国
想い出のタイ
亜細亜の南古き国タイ 黄金に輝く甍の上に
夜の帳の降りる頃 麗し君の昔語り
雄々しき王者若かりき もう一度行きたい見たい逢いたい
懐かしのタイ
熱血の男
花が一夜に散るごとく 俺も散りたや旗風に
どうせ一度は捨てる身の 名こそ惜しめよ男なら
僕は班長
お知らせしますお母さん 僕は今日から伍長です
夢ではないかと暗がりで 肩章を見ました二度三度
白蓮のかおり
紅いランタン揺れる 夜霧の支那の街
蘇州通いのジャンクの上で 誰が弾くやら歌うやら
アイヤアイヤ胡弓の音 散る散る白い花
仄かな夢に包まれて 楽しく更ける支那の街
島の船出
朝だ日の出だ南は晴れだ 島は蓬莱海から明ける
椰子の葉陰の港を出れば 海の幸待つ富が待つ
海は揺り籠
強い皇国の子供なら 海は揺り籠揺すられて
何の荒波潮鳴りも 楽しい唄と聞きましょよ
夏草の夢
露葦繁き夏草に 虫の音悲し新戦場
思えばここは戦友が 屍山血河の夢の跡
黒き宝
深山桜の花蔭に 虚栄の町を遠く見て
赤誠一筋皇国の為に 君は掘る掘る黒き宝
雄々しく逞し懐かしの 山の戦士を讃えなん
南京娘
胡弓鳴らしてライライライバ 霧のランタン灯が潤む
茶館の小窓にしみじみと 歌う涙よ待ちぼうけ
陳さんライライカイライバ
兵は軍歌と共に行く
国を発つ時駅頭で 聞いた別れのあの軍歌
今敵陣を前にして 胸に仄かに蘇える
出征兵士を送る歌
大陸旅情
思い出すのは馬車の娘 赤い夕陽の街の角
風が優しく吹いていた 歌が楽しく流れてた
たそがれの北京
北京の街の黄昏に 繻子の支那服翡翠の耳輪
私ゃクーニャン胡弓を弾いて ああ口ずさむ双々燕
北京北京春の夜の北京
見たか鉄腕
見たか鉄腕祖国の為にゃ 切った啖呵も伊達じゃ無い
晴れた夜空に口笛澄んで 俺の心は月に聞け
桜咲く国
さあ咲いた咲いた勝鬨桜 昇る朝日に
ぱっとぱっとぱっとな 銃後頼もし大和一家の
花見歌花見歌
岬まわれば
シンガポール南の港 長い旅を終えて
またも見る港の灯り 岬廻れば日本の潮路
ああ思いは募る故国よ
大空に起つ 航空第二軍の歌
飛ぶよ思いは大空へ それぞ男の行くところ
燃え立つ血潮日の丸だ 翼に若さを捧げよう
ああつわものよ 我等は空の第二軍
陸軍記念日の歌 紀元二千六百年
雲に轟く奉天の 勝鬨偲ぶこの良き日
国の力と湧き上がる 大陸軍の栄光を
一億挙げて祝うなり 一億挙げて祝うなり
歌え元気に朗らかに
明るい顔でこの歌で 働け働けエッサッサ
お店工場お台所 皆笑顔で張り切って
持場職場で御奉公御奉公
戦線の夢
陽薪出でて五里余り 道無き山野を辿り来ぬ
戦線既に暮れ果てて 白黒も分かずなりにけり
七生報国
七度生まれ兄は征く これが最後のあの便り
忘れはせぬぞこの胸に 血潮で明かす書き綴る
ああ殉国の文字二つ
僕は初年兵
僕は今日から初年兵 暇は無いけど妹よ
兄さんますますこの元気 一二三四の担い銃
軍服姿を見せたいな
我が家の新体制
止めたぞ俺は晩酌を サラリと止めてこの頃は
新体制の毎晩だ 明日の元気がぐんと出る
輝け我が家の新体制
勤労おとめ
光漲る青空よ 命溢るる我が胸よ
清く雄々しく健やかに 呼べよ楽しき正午の憩い
輝く花よ勤労乙女
働こうぜ友よ
青空昇る朝日はあの街から 朗らかに電車に乗って元気で行くは
若い人心から希望溢れて 働こうぜ我が友よこの力
我が日本は楽し国よ輝く皇国よ 進めいざ
成吉思汗(チンギスハン)
父の血潮は砂漠を越えて 母の涙は裁くを濡らす
チンギスハンの思い出は 燃ゆる瞳に月蒼し
時代の乙女
幼馴染は遠い夢 我が身一つの世じゃないに
黒子愛しや来る日まで 待つも侘しき漁師町
若人出帆
沖は疾風だ試練の海だ どんと突き出せ船板踏んで
ぐっと握った時代の舵に 目指す港へエンヤ
我等の意気でよ
三国旗かざして 日独伊同盟の歌
朝の国起ちて唱えば 夜の国つれてこだまし
遂に来た秩序の夜明け 日の丸だハーケンクロイツだ
トリコロールだ さあ行こう肩を組んで誓いの友よ
舟唄人生
若い船頭さん水の上 泣くも笑うも水の上
聞いて下さいこの胸を 幼馴染のお月さん
満州祭り
満州祭りはニャンニャン祭り 馬車で行きましょあの山へ
楊柳の糸が散りかかる 夢見るような春風に
芝居の銅鑼も流れ来る
鴨緑江吹雪
まだ満州を支那と呼ぶ 古い昔の事だよと
防寒外套を脱ぎながら しみじみ語る同僚は
国境古参の警備兵
産報青年隊歌
鉄の腕轟く血潮 おお選ばれし者青年我等
興亜日本の理想を高く 掲げて明日の道を拓かん
若き戦士よいざ奮えいざいざ
南方の歌
南の海の輝く緑 分けつつ一路西南指せば
眩き雲の湧き起こるかなた 虹のごと波に浮かぶ
椰子繁る沃野
日輪兵舎
登る朝日に両手を合わせ 祈りゃ張り切る五尺の体
汗に塗れて大地に生きる 若い希望の目に燦と
空が呼ぶ呼ぶ日輪兵舎
軍港娘
丘の緑も朝日に映えて 港夜明けに喇叭が響く
歌も軍歌で颯爽行けば 波が呼ぶ呼ぶ鴎が歌う
ああ懐かし海は憧れ軍港娘
健歩の歌
張り切る意気で燃える血で 日本背負ったこの脚だ
練って鍛える健康の 輝く道を真っ直ぐに
歩け歩こう陽を浴びて 富士もにっこり笑ってる
明日の運命
夕焼け雲の影映す 流れの岸に語らえど
結ぶ術無き二つの心 ああ ああ
秋の上海鶉鳴く
陸上日本の歌
輝く旗のその下に 集いて鍛う若人我等
精鋭競い堂々と 必勝目指しいざ行かん
おお日本陸上日本
怒涛万里
燃える東雲揺り上げて 花と清しい波頭
艦は我が家よ海原と 広い庭だと楽しめば
仰ぐマストに日の丸も 晴れて希望の血が躍る
瑞穂踊り
早苗ナァ ハドッコイセ 早苗取る手も麦踏む足も
揃た揃たよ村中揃た 瑞穂踊りに コリャエ
トコドッコイ ドッコイサノセ
気も揃た コリャエ サテ
サッサ ヤレコノ トコドッコイセ
山西討伐行
露営の夢も秋草に 残して結ぶ鉄兜
幾山越えて討伐の 戦は続く今日もまた
国の幸
村は産土祖先が眠る 黄金花咲く尊い田畑
一穂一穂に心が籠もる さあさ働け拝んで今日も
土に仕える鍬仕事
日本子守唄
坊やねんねん ねんねしな ねんねのお夢に見る鳥は
遠い神代の金の鵄 ぴいひょろひょろろと
輪を描いて 夢のお空を飛びまする
雨の進軍
雨は降る降る泥濘が どこまで行ったら果てるやら
灯りも見えぬ闇の中 兵は行く行く黙々と
護れ太平洋
海国日本躍進日本 無敵の朦艟勝利の翼
波を押さえて揺るぎは見せじ 興亜の光差し来る朝
見よますらおの眦高し 今こそ護れ生命線
断固と護れ太平洋
皇国の星
一つ星二つ星 明日瞬く一つ星
皇国の勇士の額に光る 星も一つよあの星に
誓う心もまた一つ
元気で行こうよ
肩を組み組み口笛吹けば 足も揃うよ気も揃う
元気で行こうよ人生は いつも船出だ出発だ
朗らかな上等兵
国を出てから三年目 今じゃ支那語も上手いもの
宜撫工作買出しと 戦の暇には通訳で
上等兵大人忙しい
新家庭行進曲
裏の家でもお隣さんも 可愛い泣き声子宝部隊
心も晴れ晴れ僕と妻 産めよ増やせよ
愉快じゃないか 明るい笑いがホラ込み上げた
歓喜の前進
緑の朝風溌剌と 我等の空は日本晴れ
若さは光だ感激だ 行け行けぐんと行け
風に翼をぐんと張って 歓喜の前進高らかに
只今帰って参りました
ああ青空よ飛ぶ雲よ 恋し故郷の山川よ
思いは胸に溢れ来て 偲ぶ戦野の夢の跡
戦陣訓の歌
それ戦陣のつわものは ただ教勅を命とし
忠に魁義に勇み 大日本の花と咲け
戦陣訓の歌
天皇上に在しまし 神武の道いや尊し
一心一途忠誠の 至情に和して尽くすべし
皇軍の実ぞここにあり 一億民のああ戦陣訓
国民恤兵歌
雨の降る夜も泥濘も 進み戦うこの胸に
勝てよ 頼むと一億の 燃ゆる歓呼がまた響く
蘭の花咲く満州で
生まれ故郷を後にして 俺も遥々やって来た
蘭の花咲く満州で 男一匹腕試し
九段ざくら
家の父さん九段のさくら パッと咲きます開きます
花を見上げてお話したら ニコニコお顔が見えました
新体制家庭音頭
サッと来た サッと来たしょサッとね
人に好かれて明るく強く 大和一家の暮らし振り
繋いで輝く心と心ヨイトサノサ 家庭は小さな翼賛会
晴れの首途を
津軽良いとこ降る雪よりも 白い林檎の花が咲く
海の風吹く出湯の町で 聞いた軍国青森おぼこ
大和一家数え唄
明けた明けたと幕を上げ トトンと罷り出ましたは
一つ 日の出と共に起き 一二と体操お父さん
二つ 二人と無いお母さん 明けても暮れても割烹着
三つ 三日月お爺さん お髭を扱いて建設だ
大陸男児
波の花散る玄海越えて 男冥利を大陸へ
国を出る時峠に立って 高く叫んだ我が姿
男児立志出郷関 学若無成不死還
兵隊さんを思ったら
雷の日につけ風につけ もしや御苦労なさらぬか
まして吹雪の募る夜に 兵隊さんを思ったら
兵隊さんを思ったら 熱い感謝で泣けました
忠義ざくら
桜ほろ散る院の庄 遠き昔を偲ぶれば
幹を削りて高徳が 書いた至誠の詩形見
野戦郵便局
遠い銃後と前線を 繋ぐ僕等は命綱
ああ無事の一語のそが為に 銃は持たねど肉弾で
軍用行李を抱く身だ
泥まみれの軍歌
しっかりしなけりゃ駄目だぞと 励まし励まし泥の海
良くこそ越えたり生き来たり 夢さえあの世を巡りしが
火の用心
火の火の用心火の用心 出して消すより出さぬが手柄
火事は注意の隙間から マッチ吸殻火遊び火鉢
護れ心の火消壷
産業戦士の歌
銃は執らねどハンマー持って 俺等銃後の産業戦士
亜細亜興すその心は一つ どうだ兄弟やろうじゃないか
明日の日本は明日の日本は ソレ天下晴れソレ天下晴れ
日本婦人の歌
日本婦人の健気さは 雪を吹き巻く寒風の
荒ぶ明日を凛と咲き 霜凍る夜の闇にさえ
薫るは清き白梅か
国民協和の歌
世紀の空に光射す 大建設の朝ぼらけ
ああ血に結ぶ同胞の 鳴らす興亜の暁の鐘
暁の鐘
仏印だより
ここは西貢小巴里 安南娘誰も彼も
手に手に翳す日章旗 可憐な瞳見る度に
血の近さをば感じます
開墾花嫁の歌
朝の光に頬染めて 炊ぐ竈の火も匂う
新しい土地愛の土地 夢を見るよに嫁ぎ来し
愛し我が家の嬉しさよ
母と兵隊
戦の庭に銃執る胸に 薫る四度の春の風
桜見頃か故郷の空は 偲ぶ瞼に浮かぶ母
なんだ空襲
警報だ空襲だ それが何だよ備えは出来てるぞ
心一つの隣組 護る覚悟があるからは
何の敵機も蚊とんぼとんぼ 勝つぞ勝とうぞ
何が何だ空襲が 負けてたまるかどんとやるぞ
空襲なんぞ恐るべき
空襲何んぞ恐るべき 護る大空鉄の陣
老いも若きも今ぞ起つ 栄えある国土防衛の
誉れを我等担いたり 来たらば来たれ敵機いざ
南進男児の歌
君が剣の戦士なら 我は南の開拓士
共に明るい日本の 希望に燃える若き民
進めますらお我等こそ 南進日本の先駆者だ
曙に立つ
郭公が鳴くよ夜明けだ 郭公が鳴くよ夜明けだ
微風は草に囁き 胸躍る緑の目覚
おお我等曙の子だ はち切れるこの生命
若い命よ
君も行くかい僕も行く
胸に青雲棚引いて 空は明るい日本晴れ
君も行くかい僕も行く 皆揃って手を組めば
歌も胸から飛んで出る 行け行け銃後の進軍だ
出でよ少年航空兵
尊い血潮で塗り変えた 亜細亜の平和乱す敵
懲らす戦の勝鬨も 皇国の栄築くのも
空だ翼だねえ兄さん
国民学校の歌
皇御国に生まれ来た 感謝に燃えて一心に
学ぶ国民学校の 児童だ我ら朗らかに
輝く歴史受け継いで 共に進もう民の道
大きくなったら兵隊さん
十三道に湧き上る 歓呼の声に躍る胸
大きくなったら僕達も 皇国を護る兵隊さん
立派な手柄立てるのだ
小国民の歌
御国晴れた半島の 銃後を担って逞しく
汗と感謝に立ち上がる 進め我等は日本の
希望輝く少国民
日本
日本良い国 清い国 世界に一つの神の国
日本良い国 強い国 世界に輝く 偉い国
おもちゃの戦車
おもちゃの戦車 進めよ進め
積み木の塹壕 ずんずん越えて
ごうごうがらがら 進めよ進め
軍かん
行け行け軍艦
日本の国の周りは皆海
海の大波越えて行け
国引き
国来い 国来い えんやらや 神さま 綱引き お国引き
島来い 島来い えんやらや 八方 残らず 寄って来い
ヒカウキ
ヒカウキ ヒカウキ 早イナ 青イ 空ニ ギンノ ツバサ
ヒカウキ ヒカウキ 早イナ
飛行機飛行機早いな 青い空に銀の翼
飛行機飛行機早いな
兵タイゴッコ
カタカタカタカタ パンポンパンポン
兵タイゴッコ カタカタカタカタ
パンポンパンポン ボクラハツヨイ
ガクカウ
ミンナデベンキヤウウレシイナ
コクミンガクワウイチネンセイ
ゲンキデタイサウイチニッサン
コクミンガクワウイチネンセイ
皆で勉強嬉しいな 国民学校一年生
打倒米英
待ちに待ちたる時は来た 腕が鳴る鳴る血が躍る
さあ来いアメリカさあ来い英国
正義の旗の輝くところ ハワイの堅塁何者ぞ何者ぞ
総進軍の鐘は鳴る
大詔戴いて 涙溢れる感激よ
今こそ翳せ日本刀 太平洋の荒波に
仏印進駐の歌
針路は南一筋に 進む船団堂々と
決意に砕く激浪も 俄に晴れて朝凪の
右舷に望むカムラン湾 思いを馳する日露役
赤子の歌
今大君の御姿を 瞼に仰ぐ二重橋 
ああ感激の万歳も 涙で詰まるこの心
みんな揃って翼賛だ
進軍喇叭で一億が 揃って戦へ出た気持ち
戦死した気で大政翼賛 皆捧げろ国の為国の為ホイ
そうだその意気グンとやれ グンとやれやれグンとやれ

山は朝焼け青い空 さっと一鞭鬣振って ホイノホイ
駈ける彼方に陽が昇る ホーラ明日から軍馬だ軍馬だ
グンとグンと出ろよ
駐蒙軍の歌
黎明興亜の新天地 皇御戦の御旗の下に
瑞気漲る長城越えて 輝き進む駐豪軍
崑崙越えて
雲は行く行く遥かに 崑崙越えて 
夢の翼よ憧れだよ 希望だよ
いざ亜細亜の歌を歌おうよ
我等若き日の曙歌えいざ君
サヨンの鐘
嵐吹き巻く峰麓 流れ危うき丸木橋
渡るは誰ぞ麗し乙女 紅き唇ああサヨン
今ぞ召されて
晴れのお召しを受けたる朝は 月もまん丸気も朗ら
咲いた咲いたぞ男の花が 撫でて嬉しい力瘤
蘇州の夜
夢の実を摘む乙女の歌に 暮れてきらめく水色星よ
星を数えて河辺を行けば 黄昏の泊船
蘇州懐かし
泰の娘
タイの娘に振袖着せて 日本娘に仕立ててみたら
ちょいと似てますあの横顔が 故郷の妹に瓜二つ
花の広東航路
南国の青い空 赤い夕陽の珠江の流れ
進む汽船のデッキの上で 語るクーニャンまりほの匂い
銅鑼も鳴ります花の広東航路
パラオ恋しや
海で暮らすならパラオ島におじゃれ 北はマリアナ南はポナペ
島の夜風に椰子の葉揺れて 若いダイバーの船唄洩れる
めんこい仔馬
濡れた仔馬の鬣を 撫でりゃ両手に朝の露
呼べば答えてめんこいぞ オーラ駈けて行こかよ丘の道
ハイド ハイドウ 丘の道
ああ草枕幾度ぞ
ああ草枕幾度ぞ 捨てる命は惜しまねど
まだ尽きざるか荒野原 駒の吐息が気に掛かる
野菊の勇士
戦の名残も生々と 硝煙鼻衝く荒野原
砲車に踏まれて散りもせず 紫野菊がただ一つ
梅と兵隊
春まだ浅き戦線の 古城に香る梅の花
せめて一輪母上に 便りに秘めて
送ろじゃないか
夜霧の馬車
行け嘆きの馬車 赤い花散る港の夕
旅を行く我を送る 鐘の音さらばよ
愛しこの町君ゆえに 幾度振り返る
軍国舞扇
可愛い二八の花簪に ちらり咲かした心意気
見やれ今宵も加茂川辺り 皇国乙女の舞扇
吹雪の進軍歌
吹雪だ吹雪だ果ても無く 夜を日に継いだ進軍だ
逃げる敵奴を追う身には 雪の広野が癪の種
出せ一億の底力
出せ一億の底力 桜咲く国日の本の 
無敵の軍の前進に 歩調合わせよ 
一億いざ共に御陵威の下まっしぐら 
臣道一筋に行こうぞさあこれからだ
そうだその意気(国民総意の歌)
何にも言えず靖国の 宮の階ひれ伏せば
熱い涙がこみ上げる そうだ感謝のその気持ち
揃う揃う気持ちが国護る
大政翼賛の歌
両手を高く差し上げて 我等一億心から
叫ぶ皇国の大理想 今ぞ大政翼賛に
燃え立つ力合わせよう
世紀の若人
紅燃え立つ命の曙 血潮は滾るよ若人我等
いざ行け颯爽腕組み交わし 理想貫く世紀の朝だ
仰ぐ忠霊塔
晴れた青空薄の丘に 高く聳える忠霊塔
さらりさらさら風吹けば 草の葉陰に虫の声
歩くうた
歩け歩け歩け歩け 南へ北へ
歩け歩け東へ西へ 歩け歩け道ある道も
歩け歩け道無き道も 歩け歩け
海の進軍
あの日揚ったZ旗を 父が仰いだ波の上
今日はその子がその孫が 強く雄々しい血を継いで
八重の潮路を越えるのだ
精鋭なる我が海軍
太平洋上精鋭あり 世界に冠たる不抜の力
忠烈勇武ただ一誠 協力一心皇国守る
海軍海軍我が海軍 祖国の守り我が海軍
戦陣訓の歌
日本男児と生まれ来て 戦の場に立つからは 
名をこそ惜しめつわものよ 散るべき時に清く散り 
皇国に薫れ桜花  
 
陸海軍歌 / 昭和 17年

 

宣戦
宣戦の詔 勅は今や降れり
宣戦の詔 勅を今ぞ拝せり
今日よりは 大君の御楯となりて
進み行くなり 神の行く皇戦
任ろわぬ者を任ろわしむる 大御戦
荒鷲初だより
早いものですお母さん 大陸遠く羽ばたいて
二年三年もう五年 謎の北支もこの頃は…
馴染みです
空爆の歌
翼の日の丸朝日を受けて 進む雄々しい飛行隊
行けよいざ行け爆弾投下 空の勇士の意気を示せよ
凍る歩哨線
名も無き木立夕映えて 一時風も凪ぎる頃
熱帯締めて銃剣執れば 星さえ凍る歩哨線
神州正気の歌
神州男児起つからは 破邪顯正の剣あり
ソーレソーレ 日本刀の切れ味は
仇なす者を断じて討たん 正義に組する天の太刀
艦隊出動
頼むと叫ぶ一億の 興望を後に今ぞ立つ
巷に響く出動の 喇叭に勇む勇士が
仰ぐ檣の軍艦旗
元気で皆勤
君は兵士で太平洋 僕も戦死でこの職場
共に進んで日本の 国の力を見せてやろ
オイ 元気で皆勤嬉しいね
国民総出陣の歌
起てよ一億 総出陣だ 仰ぐ御稜威の旗風高く
征くぞ万里の怒涛越えて 断乎立てるぞ興亜の柱
勝利の大日本
正義の剣を 翳しつつ 進む無敵の 皇軍を
見たか世界に 轟く戦果 駆ける亜細亜の 朝空高く
挙げる勝鬨 ああこの凱歌
勝利の大日本
星港撃滅
マレーを南へ 馳せ下る 見よ堂々の 日章旗
シンガポールを 陥とさずば 再びは見じ 桜花
シンガポールだより
砲声只今絶えました シンガポールの要塞は
スコール晴れて青い空 挙がる歓呼に万歳に
今日章旗靡きます
世紀の凱歌
世紀の光 東より 七つの海に 照り映ゆる
決意の眉も 凛然と 総進軍の 大亜細亜
聞け聞け 聞けこの歩調
空の母さん
小鳥が雛鳥 育てるように 母は我が子に 良く諭す
強い翼は そなたの翼 空はそなたの 征く所
大殲滅の歌
兵は語らず 馬嘶かず ただ粛々と ひた押しに
大殲滅の 包囲陣 勝利は既に 我にあり
忠霊塔の歌
私の前に立っている 皆の前に多っている
計り知れない大きさで 高い雲間に聳え立ち
ああ頂は天を衝き 神の宮居に届いてる
神の御声を聞いている
日本男児ここにあり
山が崩りょと地が裂けようと 眉も動かぬ度胸骨
国に捧げる日が来たぞ 日本男児ここにあり
熱砂のいななき
敵の空だが 夕焼け空は 思い出さすよ 故郷を
そうだそうだと 戦友も 愛馬も見返る 海の果て
パゴダの鐘
鐘が鳴る鳴る 夕べの丘に 黄金煌く パゴダは暮れて
鐘を数えて 階段登る ああ何を祈るか ビルマの乙女
花のこころ
咲いた桜か 桃の花 薄く湛えた 紅の色
飽かぬ眺めも その筈よ 大和乙女の 胸の色 胸の色
ほまれの落下傘
手絡を立てる時は来た 命を捨てる時は来た
飛び出せ飛び出せ元気良く さっと開いた落下傘
ボルネオの娘
南の南のボルネオの 夜明けだ日の出だ娘さん
可愛いや楽しや朝が来た 椰子の実抱え微笑み交わし
覚えた言葉で「コンニチワ」「オハヨウ」
マレー沖の凱歌
敵艦見ゆの警報に すわやと勇み舞い上がる
我が荒鷲の編隊の 瞳に映る黒煙
ああ天佑のマレー沖
密林行
昼なお暗い密林の 道無き道を踏み越えて
日に夜を次いで進み行く 敵撃滅の鉄兜
密林の月
ジャングル踏み分け 行く我が胸に
浮かぶは何 その影は 過ぎし戦の日に
この森を越えし 我が勇士 南の南の 月は麗し
今宵あの日の事 語れよや一夜
緑の進軍
あの峰高く 目指しつつ 山の緑へ 登ろうよ
真澄の空に 届く峰輝きて 微笑み交わす 友の笑顔に
若葉は映える おお肩を並べて 手を組んで
緑緑へ 楽しく行こうよ
みなと東京
花の都風薫る 港東京の船の窓
富士も筑波も晴れ晴れと 覗くマストの旗は鳴る
御民の歌
御民我等大詔畏みて 雄心の貫け早や早や
常冬の雪山の雪の 深雪の岩が根をまで
子宝の歌
白金も 白金も 黄金も珠も
何せむに 優れる宝 子にしかめやも
優れる宝 子にしかめやも
つばさの力
翼翼きらめく翼 大空渡る火の鳥よつわものよ
海原越えて赤道越えて 戦う翼若き翼
血飛沫投げて命を懸けて 闇夜の島に夜明けの島に
敵撃ち砕く翼の力
新穀感謝のうた
あら尊 秋の実りの初穂をば
皇尊のみそなわし 遠津御親に神々に
奉る日よ今は来ぬ
雲に寄せる
海より昇る朝の日に 光輝よう水と空
南を指して行く雲よ 正しき治めに蘇える
異国人に日本の 古き歴史を告げよかし
胸を張って
青空仰いで大きな呼吸 皆揃ってこの胸張って
いつもいつも 朝の気持ちで歩こうよ
かどでの朝
朝雲の下連なる緑 故郷の山の親しさは
門出の朝の胸を打つ 振り返りまた振り返る
仕事の前に
朝の体操は楽しい体操 朝日を浴びて爽やかな
この身に溢れる力と若さ さあ元気一杯
今日の仕事に励もうよ
一日の汗をぬぐいて
一日の汗を拭いて 夕映えの丘に登れば
父母のいつも優しく 笑み給う空の彼方に
若い力
皆笑顔だ明るい朝だ 鍬も利鎌も揃って光る
山から野良から畑から 若い力が盛り上がる
どんと どどんと盛り上がる
連峰雲
大日本秋津島根は 永久の亜細亜の護り
東の洋の鎮めと 結建し神の瑞垣
垣なれや連なる峰を 注連なして巡る白雲
世界の果までも
世界の果ての果てまでも 光り輝く日の丸の
旋風満くいざ往かん 繁栄繁栄繁栄の国
日の本の民
首途の馬子唄
お召し来たぞえ可愛いの黒馬に
今朝は門出の晴れ姿 手柄頼むと鬣撫でりゃ
馬も嘶く勇み声 馬も嘶く勇み声
富士の白雪
富士の白雪や朝日に解ける 解けて流れて駿河の海へ
駿河良いとこ新茶の香り 男次郎長は伊達なもの
峠の夕陽
去年兄さん送った道を 今日は仰げと二人連れ
赤い夕陽の峠に立てば 遠い北支が目に浮かぶ
ササ目に浮かぶ
坊やお聞きよ
坊や美味いか特配の 砂糖で炊いた豆の味
これも皆々国からの 兵隊さんの贈り物
みくにの汽車
窓に富士山青い空 御国の汽車は昼も夜も
あの野この原越えて行く 明治の代から休み無く
今は三万五千キロ
大日本婦人会会歌
世界に比無き日の本の 女の徳を磨きつつ
皇国に尽くす真心を ここに結べる我等の集い
三条の橋(高山彦九郎の歌)
京の三条の橋の上に 荒れた皇居を伏し拝み
男泣きする彦九郎 胸に大義の火が燃える
南の進軍
日の丸だ日の丸だ 日の丸だ日の丸だ
椰子の梢に港の船に 戦友よ見たかよ日の丸だ
亜細亜を活かす不滅の旗だ 今振り翳し我等は進む
我等は進む
花の街
進め東京国民服の 雄々しや戦士が行き通う
柳散っても夢薫る 若い世紀の花の街
弘安の嵐(北条時宗の歌)
弘安四年の夏の頃 支那と蒙古と朝鮮の
勢を選るって十万余 来たよ筑紫の水城に
朝霧峠
一人息子と思うちゃ済まぬ 育て甲斐あるお召しの門出
せめて送ろと手綱を取れば 黒馬も嘶く峠道
祖国の祈り(印度人の唄)
アラーアラーアラー 神の使者は東の空に
ベンガル越えて荒海越えて 晴れた朝に光の翼
おおその日よその日こそ ヴァルシアよヴァルシア
ヴァルシアの民よ
誓いの港
祖国を離れて果て無い航路 陸に上がってジョンベラ抜けば
港横浜人情が絡む おいら水夫だ入船出船
泣いて笑って人生航路
隣組防空群の歌
隣組団結だ 大内山の深緑
咫尺に拝し畏くも 聖き帝都の防衛を
担う誉れに奮い立つ 我が隣組防空群
示せ皇国の底力
仰げ朝雲亜細亜は朝だ さあさ精出せ働く者の
上に陽は照る陽は招く そうだそうだよ
我等日の民興亜の力 二百三十億ぐんと乗り越えて
示せ皇国の底力
必勝の貯蓄兵
僕の貯金が債権が 増えるそれだけ逞しく
伸びる皇国の底力 ああ大戦果聞く度に
負けるものかの血が滾る
花の隣組
「来たぞ」と言えば 「よいしょ」と並んだ
モンペ姿の頼もしさ 靡く黒髪大空睨み
貴方は会社で働きなさい 楽しい我が家は女で護ろう
楽しきまどい
魚のように跳ね起きて 露に輝く芝の上
皆並んで体操だ 膨れ上がるぞ力瘤
故郷のたより
海に広野にまた空に 生死を飾るますらおが
辿る夢路の故郷は 堅く結んだ隣組
ロッキー越えて
氷に閉ざす北の門 アリューシャンの鉄扉
今打ち開けて飛び石に 軍靴は弾む朝ぼらけ
ああ九勇士
ラジオを聞いてお父様 膝を正して仰った
あの十二月八日の日 太平洋の真ん中で
大きな手柄を立てたのは 若い九人の勇士です
氷と艦隊
揺れる揺れるよ山また山と 氷の海は時化模様
艦も折れそな怒涛を蹴って 北の護りの哨海航
戦線愛馬の唄
昨日泥濘踏み踏み来たがよ
今日は越えます山の波
弾丸にゃ恐れぬ忠義じゃ負けぬよ
馬もおいらも変わりゃせぬ
バリ島の舞姫
黄金の夕陽よ揺れる花 若き香りの黒髪清く
明るい心楽しい心 春のバリ島
亜細亜の栄えを踊れよ乙女
昭南島の朝風
夜と夢とは新たに消えて ゴムの小枝に朝日が弾む
我等亜細亜の夜が明けた 昭南島の朝の風
見よ見よ靡く軍艦旗
涯なき南海
ゴムの林に続いた海よ 荒れてくれるな夜が深い
昼の戦闘に疲れた兵も 軍馬と添い寝の仮枕
マレーの虎
赤道直下の山野に吼える あれがマレーの虎王か
雲に雄叫ぶ瞼の裏じゃ 人の情けに泣く男
特別攻撃隊
撃ちてし止まんますらおに 何の機雷ぞ防潜網
あこの八日待ち侘びて 鍛え抜きたる晴れの技
示すは今ぞ真珠湾
我は海の子
千里の海原怒涛を越えて 国の御楯ぞ浮城は進む
腕も度胸も筋金入りだ 海の勇士の喇叭が響く
おおさどんと来い太平洋
真珠湾の華
七生報国殉忠の 大和魂火と燃えて
黙々励む大覚悟 果たさん時は遂に来ぬ
南進小原節
見えた見えたよ椰子の葉越しに
シンガポールの灯が見えた
背嚢枕にごろ寝の勇士
夢はいずこを走るやら
昭南島初だより
奇襲部隊に参加して 鉄のコタバルクワンタンや
錫で名高いペラク州 ゴムのジョホール乗り越えて
シンガポールへまっしぐら
忠烈白虎隊
砲煙天に渦巻きて ああ鶴ヶ城落ちたるか
心は千々に逸れども 折れたる剣をいかにせん
一億進軍の歌
起てよ起て さあ一億の進軍だ
神人共に許さざる 人類の敵を米英を
永久に葬る時は来ぬ
武士の道
君の為何か惜しまん若桜
散って甲斐ある命なりせば
靖国で逢う嬉しさや今朝の空
南海の護り
夢にまで見たジャバ島に 地図を広げて戦友と
随分遠く来たものと 空を見上げて高笑い
昭南島風景
椰子の葉陰で今日は ゴムの木陰で今日は
胸に真っ赤な日の丸付けて マレー娘のニッポン語
暗い悲しい夢の島 シンガポールよさようなら
今日は輝く晴れて輝く昭南島
海軍落下傘部隊の歌
ああ南海の空高く 今しも開く落下傘
セレベス富士を目の下に
勇士は降る敵の陣 勇士は降る敵の陣
つわもの日記
露営の夢も幾山河
越えて来たか泥濘の
道はどこまで続くやら
決意一番
決意一番断乎と起てば 止めて止まらぬ大和魂
ソレ侮日抗日容共の 息の根止めるそれまでは
ヨイショ見てくれ 四百余州の山河を染めて
光り輝く日の御旗日の御旗
働く力 国民皆労の歌
皇国の民と生まれ来て 清く正しく働ける
喜び溢る感謝から感謝から 今日も明るい日が昇る
働け働け一億の 働く力で国が建つ
南進ざくら
遠い祖国の匂いがするぞ 慰問袋の押し花の
桜一枝兜に付けて 今日も前進また南進
ハワイ海戦
宣戦布告の大詔 断乎と降る時すでに
極月八日の暁の空 嵐を衝いて電撃す
我が海鷲の覇気を見よ
海軍志願兵
波も嵐も竜巻も 越えて敵艦撃滅の
手柄に泣いた少年は 感激ここに新しく
起てり海軍志願兵
マレー沖海戦
我が荒鷲が猛爆避けて 旗艦プリンスオブウェールズに
続くレパルス白波蹴立て 来たぞ緑のマレー沖
感激の合唱
良くこそやった海の鷲 有難かったあのニュース
陸と海との勝鬨を 聞いて驚く大戦果
さすが日本のつわものだ
最後のほまれ
止むと見せてはまだ降り続く 雨に日の目も拝まずに
暮れて寂しやただ一本の 残り煙草の愛おしさ
頑張りどころだ
清く尊い血潮から 赤く花咲く亜細亜なら
勝たにゃならないこの戦 頑張り所だ今一息だ
皆働け 汗出しゃ挙がる凱歌が挙がる
別れ鳥
別れと思えば涙になるが 巣立つと思えば湧く力
便り無くとも達者でいると いつも思って暮らそうよ
東洋の舞姫
星の明かり窓に揺れる 懐かしアラビアの夜よ
あの町この夢瞼に潤み 遥けき思い出心に映える
麗し今夜偲びて踊るよ
希望の星座
胸に世紀の曙染めて 朝は朗らか行進歌
弾む心に口笛吹けば 今日も青空日本晴れ
若き日の感激
胸の光を仄かに秘めて 夜の巷に歌う我
仰ぐパパヤの梢の上に 心励ます青い星
海の豪族
波の花散る南の国へ 船は男の意気で征く
高い帆綱の血潮も勇む 潮の飛沫よ海原千里
白衣の進軍歌
波の花散る玄海を 越えて遥々戦場へ
進む白衣に火と燃ゆる 愛と正義の赤十字
貴方しっかり 満蒙開拓だより
海を渡れば北満州 畑に実る高梁の
波を掻き分け馬車は行く 貴方しっかりほい来たよ
肩を抱き寄せ手を取って 明日は着きます開拓地
さくら咲く国
松は緑に海青く 桜花咲く日本の
黒髪清きああああ 麗しの国よ乙女よ
比島派遣軍の歌
海の鳳陸の鷲 銀の翼を連ねつつ
飛ぶや南の大空へ 襲うニコラスニールソン
クラークフィールドたちまちに 敵機は消えて名にし負う
空の要塞今いずこ P40の影も無し
燦たり空の撃滅戦
生産街道
挙がる勝鬨職場で聞いて 嬉し涙の顔と顔
永の丹精で仕上げた甲斐よ 戦車天晴れこの戦果この戦果
海は日本晴
艦は出て行く煙は残る 残る煙を置き土産
故郷遥かに白波蹴立て 八重の潮路を出で発つ人に
振るう日の丸今朝の空
海の底さえ汽車はゆく
世紀の誉れだ雲に鳴る 汽笛の音も高らかに
挙げた勲だ日本の 誇りだ御国の大鉄路
皇御民の血に燃えて 海の底さえ汽車は行く
どうじゃね元気かね
どうじゃね元気かね しっかりしっかりやりなされ
今日も明るくまた明日も カララン笑って朗らかに
ガッチリリンと締めて行こ どうじゃね 
どうじゃね元気かね
南を指して
祖国離れて何百里 熱風渦巻く南海の
怒涛蹴立てて翩翻と 朝日に煌く軍艦旗
空征く日本
命令一下にっこりと 愛機を駆って一文字
疾風と競うつわものが 雄叫び上げる雲の海
撃滅の意気胸を打つ!
九段の父
戦友の戦友の 父を背負って九段坂
軽い背中にまた振り返り 父さん今日からこの僕が
貴方の倅になりますよ
宛なき手紙
誰が落して行ったやら 塹壕で拾ったこの手紙
封も貼らなきゃ宛名も書かぬ 泥に塗れた角封筒
南海の小島
星の降るよな南海の 月の小島に我は起つ
赤道直下も夜となれば 風に故郷の秋を知る
森の水車
緑の森の彼方から陽気な歌が聞えます
あれは水車の回る音耳を澄ましてお聞きなさい
コトコト コットン コトコト コットン
ファミレドシドレミファ コトコト コットン
コトコト コットン 仕事に励みましょう
コトコト コットン コトコト コットン
いつの日か楽しい春がやって来る
日の丸地図
戦況ニュースを聞く毎に ここにかしこに立てて行く
小さな紙の日の丸が 地図を彩る嬉しさよ
マレー攻略戦
雲か山かと見渡して マレーは今ぞ十字星 
萬里の潮乗り越えて 船は満ちたり輸送団 
怒濤の如き我が軍の 進撃を見よ電撃を
マニラの街角で
いつか見たこの夢嬉しい夢 今日は迎えて楽し我等の街よ
花のマニラの街青空高く 喜びは胸に満ち苦し夜は明け行く
花のマニラの街とく走れ小馬車 深緑 鐘は鳴る新しき朝だ
点数の歌
三十二点の国民服に 胸のハンカチただ一点
どこへ行くにも立派なもんだ 年より点数五点上
無駄にゃすまいぞ点数点数 大事に使うも国の為
村は土から
村は土から誠実から 明けて花咲く増産は
国の光だ日の丸仰ぎ 働き抜こう働いて
増やせ瑞穂の国の富
南へ進む日の御旗
南へ進む日の御旗 万里の雲を凌ぎつつ
襲うや敵地怒涛の如く 篠衝く征矢か内火艇
降り敷く花か落下傘 猛撃忽ち敵陣は砕く
進軍ぶし
国を出た朝ちらついた 路の小雪はどこへやら
赤道直下の進軍に 担う銃さえ汗みどろ
空は晴れたよ昭南島
晴れた朝だよどこまでも 丘を越え森を越え行こうよ行こう
ああ行こうよ行こう 花は紅マンゴは香る
亜細亜の十字路昭南島
真珠湾節
泣くな嘆くな必ず帰る
桐の小箱に錦着て
会いに来てくれ九段坂
感謝と感激
真珠湾の海の底 マレー沖の波の下
敵艦沈めし大戦果 これぞ血の出る猛訓練
ああ勝利の陰にこの困苦 ああただ感激と感謝のみ
十億の進軍
一度起てば電撃に 微塵と砕く真珠湾
香港破りマニラ抜き シンガポールの朝風に
今翻る日章旗
荒鷲ハワイだより
しっかりおやりと母上の あの日の声が聞こえます
嵐に明けた今日八日 ああ血が躍る朝でした
無敵潜水隊の歌
敵艦海を覆うとも ここに我あり潜水隊
篤き詔を畏みて 断乎の力腕ぞ鳴る
ジャングルと兵隊
幼心に描いた夢は 赤道直下の椰子の国
今日は遥かなマレーの奥地 翳す御旗もジャングルで
故郷へ届けの進軍だ
海の母
坊や大きくなっとくれ 撫でて擦って願掛けて
風の吹く日は袖屏風 抱いて寝かせた夜の鶴
ジャングル越えて
肉弾続く肉弾で ジャングル越えた河越えた
おお勝鬨を勝鬨を 挙げる緑の椰子の陰
還らぬ戦友も幾人ぞ
将軍と参謀と兵
兵は語らず馬嘶かず ただ粛々とひた押しに
大殲滅の包囲陣 勝利は既に我にあり
皇戦
征け戦闘ぞ皇兵よ 御稜威の旗の旭日影
御楯となりて大君の 辺にこそ死なめ永遠に
ああ輝かん皇戦
屠れ米英我等の敵だ
屠れ米英我等の敵だ 時こそ来たれ曉雲衝いて
荒鷲颯と羽ばたけば 太洋万里ハワイの空に
今ぞ轟くこの戦果 往け往け無敵の我が空軍
僕等の団結
楽しい時も苦しい時も 僕等の誇りは団結だ
僕等は互いに信じ合う 嬉しい事は分かち合い
苦しい時は助け合う いつでも明るく楽しい仲間
迎春花
窓を開ければアカシアの 青い芽を吹く春の風
ペチカ歌えよ 春が来る来る迎春花
進め一億火の玉だ
行くぞ行こうぞがんとやるぞ 大和魂伊達じゃない
見たか知ったか底力 堪え堪えた一億の
堪忍袋の緒が切れた
還らぬ白衣
つわもの達は銃を執り 君は担架と弾丸の中
愛の天使は赤十字 真白い腕血に染めて
憐れ黒髪還らぬ白衣
ほしがりませんかつまでは
どんな短い鉛筆も どんな小さい紙切れも
無駄にしないで使います そうです僕達私達
「欲しがりません勝つまでは」
やさしい親鷲
プロペラ廻せ進撃だ 真っ先翔けた親鷲が
見る見る内に五機六機 敵の飛行機撃ち落とし
元気な顔で帰ります
今年の燕
今年も村へやってきた 燕に一寸訊きたいな
南の海に堂々と 白波蹴立て進み行く
正しく強い日本の 軍艦一杯見たろうと
大日本青少年団歌
若き者朝日の如く新たなる 我等大日本青少年団
ああ御稜威遍きところ 空は晴れたり空は晴れたり
いざ共に聖恩の旗仰ぎつつ 勅語を胸に我等起たん
日本刀
霜夜に冴ゆる星影か 桜に映ゆる朝日子か
抜き放ちたる日本刀 匂う焼刃の美しさ
少年産業戦士
朝に頂く残の星影 夕べに踏み来る野道の月影
生産増産我等の勤めと 鍬執り鎌砥ぐ少年戦士
落下傘部隊
見よや眼下は敵地の野原 ここぞ狙いの目的地
降りよ一気に遅れるな 心は逸る落下傘部隊
肇国の歌
豊葦原の中つ国 行きて知らせよ栄えよと
宣らせ給えり大神 げに天壌と窮みなし
天津日嗣ぞ神ながら
白衣の勤め
白衣の勤め乙女にあれど
軍の庭に雄々しく出でて
勇士守らん御国の為に
特別攻撃隊
一挙に砕け敵主力 待ちしはこの日この時と
怒濤の底を矢のごとく 死地に乗り入る艇五隻
大東亜
椰子の葉に鳴る海の風 峯にきらめく山の雪
南十字と北斗星 連ねて広き大東亜
戦友
草生す屍大君の 醜の御楯と出で発ちて
鉄火の嵐弾の雨 潜りて進む君と我
忠霊塔
勇士等は生命を捧げたり 勇士等は戦に打ち勝てり
その御霊は微笑みて ここにあり今仰ぐ忠霊の塔高し
大八州
神生みませるこの国は 山川清き大八洲
海原遠く行く限り 御稜威遍し大東亜
無言のがいせん
雲山万里を駆け巡り
敵を破ったおじさんが
今日は無言で帰られた
少年戦車兵
来たぞ少年戦車兵
鉄の車に鉄兜
ごうごうごうごう ごうごうごう
きたへる足
大空晴れて深緑 心は一つ日はうらら
足並揃えぐんぐん歩け 皆元気で鍛える足だ
三勇士
大君の為国の為 笑って散った三勇士
鉄条網もトーチカも 何のものかわ破壊筒
その身は玉と砕けても 誉れは残る廟巷鎮
軍旗
軍旗軍旗 天皇陛下の御手ずから
お授け下さる尊い軍旗 我が陸軍の印の軍旗
田道間守
香りも高い橘を 積んだお船が今帰る
君の仰せを畏みて 万里の海をまっしぐら
今帰る田道間守田通間守
軍犬利根
行けの命令まっしぐら 可愛い軍犬まっしぐら
カタカタ カタカタ カタカタ ダンダンダン 弾の中
子ども八百屋
子供の車だ 八百屋の車だ
子供の買い出し 押せ押せ車を
よいしょ よいしょ
翼の凱歌
空を飛ぶ鷲隼が 風切る翼に力あり
断じてやるぞの魂は 胸に雲より湧き上がる
聞けよ爆音翼の凱歌
みたから音頭
ハー 今年ゃ目出度い日本男児
ハヨイショ 生めよ殖やせや花嫁御
ハコリャ 山羊は三つ仔で兎は八ツ仔
家にゃ子宝米俵 ソレ精出せ生み出せ作りだせ
御宝音頭でヨイヨイトナ
野末の十字架
緑のジャングル夕立晴れ行き 捧げし紅薔薇仄かに匂う
眠るは誰ぞや野末の十字架 潮風悲しきマレーの黄昏
印度の夜明け
港コロンボ朝風に ベンガル越えて来た便り
印度夜明けだ心が弾む 太鼓叩いて旗立てて
陸軍落下傘部隊の歌
万朶の桜散る姿こそ 我等が降下の姿なれ
真白く開き風孕む 落下傘こそ我が心
純忠至誠の我が心
ああ特別攻撃隊
敵の港に忍び寄り 潜む戦艦沈めんと
胸に秘めたる潜航艇 心血注ぐ幾年ぞ
壮烈特別攻撃隊
別れの酒は汲まねども 覚悟に胸は火と燃えて
乗り込む艇に月朧 ああ壮烈の真珠湾
ハワイ海戦
太平洋の只中に 再び仰ぐZ旗を
今日のこの日のある待ちて 鍛えに鍛えし我が力
ああ大君の大御為 敵を倒さで止むべしや
陥したぞシンガポール
溢れる胸の歓喜 シンガポール陥ちた陥ちた
おお朗らかな南の海揚がる日の丸 君も泣け僕も嬉し泣き
勇み躍る血潮 東亜の嵐呼ぶ黒雲晴れて
朝日は燦爛
シンガポール晴れの入城
暁告ぐる雲紅に 砲火も絶えたるシンガポールよ
捧ぐる軍旗厳かに 胸打つ歓喜の万歳高し
戦い抜こう大東亜戦
大詔を受けて皇軍が 太平洋に大陸に
世紀の凱歌挙げたのも 夜を日に次いで黙々と
蔭に血の出るこの練磨 月月火水木金金
皆今日から仲間入り 土曜日曜あるものか
断じて勝つぞ
君の為国の為 我が命捧げて
微笑みて働くは 限り無き名誉
剣を執る身もはたまた執らぬも 
断じて勝つぞ断じて勝つぞ
アメリカ爆撃
アメリカ本土爆撃 この日を待ちたる我等
祈りを上げながら聴け 鳴り出す警報を
あれはアメリカ弔う歌だ 喚き立つな最早遅い
我等は荒鷲
少年通信兵の歌
直く明るき若人は 流れぞ浄き浦安の
御垣の守りひたすらに 五彩の光胸に祕め
皇国に誓う忠誠を 永劫に変えまじ一筋に
空の軍神
夏雲白きベンガル湾 岸辺に立ちて眺むれば 
飛ぶ「隼」の陰影は無し ビルマの鬼と謳われし 
軍神加藤は死したるか
朝だ元気で
朝だ朝だよ朝日が昇る 燃ゆる大空陽が昇る
皆元気で元気で起てよ 朝は心をきりりと締めて
貴方も私も君等も僕も 一人残らずそら起て朝だ
南の花嫁さん
合歓の並木をお馬の背に ゆらゆらゆらと
花なら赤いカンナの花か 散りそで散らぬ花びら風情
隣の村へお嫁入り 「お土産はなあに」
「籠のオウム」 言葉もたった一つ
いついつまでも
バタビヤの夜は更けて
都バタビヤ運河も暮れて 燃える夜空の十字星
遥か祖国よあの日の旗よ 風に歓呼の声がする
南から南から
南から南から 飛んで来た来た渡り鳥
嬉しそに楽しそに 富士のお山を眺めてる
茜の空晴れやかに 昇る朝日勇ましや
その姿見た心 ちょっと一言聞かせてよ
ジャワのマンゴ売り
ラーラー ラーラー 火焔木の木陰に
更紗のサロンを靡かせて 笑顔も優しく呼び掛ける乙女よ
ああジャワのマンゴ売り
明日はお立ちか
明日はお発ちかお名残り惜しや 大和男児の晴れの旅
朝日を浴びて出立つ君よ 拝む心で送りたや
アジアの力
雲と湧く亜細亜の力 十億の自覚の上に
大いなる朝は明けたり 今ぞ起て若き亜細亜
東の空は燃えたり
ズンドコ節
汽車の窓から 手を握り 送ってくれた 人よりも
ホームの陰で 泣いていた 可愛いあの娘が 忘れられぬ
トコズンドコ ズンドコ
海行く日本
波を枕に嵐を歌に 海で育った日本男児
躍る黒潮輝く空に 仰ぐ無敵の軍艦旗
大東亜決戦の歌
起つやたちまち撃滅の 勝鬨挙がる太平洋 
東亜侵略百年の 野望をここに覆えす 
今決戦の時来たる
大東亜戦争海軍の歌
見よ檣頭に思い出の Z旗高く翻える
時こそ来たれ令一下 ああ十二月八日朝
星条旗先ず破れたり 巨艦裂けたり沈みたり
英国東洋艦隊潰滅
滅びたり滅びたり 敵東洋艦隊は 
マレー半島クワンタン沖に 今ぞ沈み行きぬ 
勲し赫たり海の荒鷲よ 沈むレパルス 
沈むプリンス・オブ・ウェールズ
ハワイ大海戦
天に二つの日は照らず 凌ぐは何ぞ星条旗 
大詔降る時正に この一戦と衝き進む 
疾風万里太平洋 目指すはハワイ真珠湾
軍神加藤少将
男子一度空征かば 空征かば 
雲を茜に染めて散る 覚悟は固き空の華 
軍神加藤少将の 落とせし敵機二百余機
勇む銀輪(自転車部隊に捧ぐ)
ぐんと踏めぐんと踏めぐんと踏めば 勇む銀輪この軽さ
胸に嬉しや微風受けて 越える赤道熱砂の道よ
空の神兵
藍より蒼き大空に 大空に たちまち開く百千の
真白き薔薇の花模様 見よ落下傘空に降り
見よ落下傘空を征く 見よ落下傘空を征く
大東亜戦争陸軍の歌
今こそ撃てと宣戦の 大詔に勇むつわものが
火蓋を切って押し渡る 時十二月その八日  
 
陸海軍歌 / 昭和 18年

 

アッツ進軍歌
あゝ北洋の 朝ぼらけ 
霧の雪山 眼の前に 
しっかと踏んだ この大地 
来たぞアッツだ アリューシャン
ああ山本元帥
大命奉じ颯爽と 旗艦に立ちしその日より
撃滅の意気天を衝き 忽ち砕く真珠湾
凱歌に覆うインド洋
暁の交換船
波路遥かに拝めば 涙に浮かぶ二重橋
ああ戦いの只中を 祖国の旗に護られて
堂々帰る交換船
アラカンの夜明け
アラカンの谷どよもして 夜明けを告げるあの喇叭
ああ南国の朝風に 若いビルマの陽が昇る
ありがとうさん
ありがとうさん ありがとうさん ありがとうさん
バスや電車に乗り降りするも 胸の底からありがとうさん
ありがとうさんから晴れて行く 村も都も野も丘も
学徒空の進軍
戦い今ぞ酣の 鉄血滾る決戦が
学窓深く響く時 ああ我征くと報国の
いや武心をいかにせん
風は海から
風は海から吹いて来る 沖のジャンクの帆を吹く風よ
情けあるなら教えておくれ 私の姉さんどこで待つ
航空決戦の歌
朝日と輝く 翼の日の丸 仰げば安けし 亜細亜の青空
鍛え鍛えて 揺るがぬ護り 空を制する力こそ
この決戦に勝つ力
里のおみな
森の鎮守の 拍手に 明ける日本の 青い空
力合わせた 力合わせた 鐘が鳴る
この土この幸 しっかりと 護る女の 護る女の 総襷
大亜細亜獅子吼の歌
東の日出ずる国の 日の皇子の御民ぞ我等
御鉾執り既に起ちたり 虐げて亜細亜を乱す
邪の夷を討つと
隊長殿のお言葉に
隊長殿の お言葉に 死んでもいいと 大粒の
涙が頬を 伝ったぞ こんな涙を 知っとるか
椰子の梢の お月さん
楽しい奉仕
お早う朝から 良い天気 鍬もシャベルも 担え銃
もんぺ鉢巻 にっこりと 楽しい奉仕だ さあ行こう
日本の母の歌
黄金も玉も何かせん 皇国の宝この子ぞと
命育む垂乳根の 深き情けの子守唄
熱砂の雄叫び
ベンガル湾の 朝風に 光は昇るよ 東より
夢の印度よ 今ぞ起て 正義亜細亜の 旗の下
走れ日の丸銀輪部隊
マレー戦線 炎の風に 赤いカンナの 花が咲く
汗に塗れて ペダルを踏んで 行くぞ進むぞ ジョホールへ
走れ走れ 走れ日の丸銀輪部隊
浜辺の歌
朝浜辺を 彷徨えば 昔の事ぞ 偲ばるる
風の音よ 雲の様よ 寄する波も 貝の色も
まごころの歌
旅の夜風と女の心 人に隠れてすすり泣く
清い愛の灯君ゆえ燃えて 捧げ奉らん 我が命
山本元帥につづけ
あの日あの朝万歳と 勝鬨挙げた真珠湾
その艦隊を指揮された 海の山本元帥に
そうだ僕等も続こうよ
私も勝ち抜く
明るい朝の窓開けて 笑顔に通う胸の内
足りない所は意地で足し 勝ち抜く決意示します
こいのぼり
菖蒲の花の咲く家に 矢車からから南風
菖蒲の花の咲く家に 伝わる昔の槍刀
常在戦場の歌
雲湧き光渦巻き 風無く静かなり
この空の果て無きかなた 決戦昼夜を措かず
皇軍奮然敵を破る
学徒進軍歌
足音も高らかに高らかに いざ征かん
初陣の朝は晴れたり 緑なす母校の森よ
懐かしの師よ友よ さらばさらば
勢え挙れ ああ光栄ある学徒ああ学徒
やすくにの
靖国の宮に御霊は 鎮まるも
折々帰れ 母の夢路に
勝ち抜き太鼓
村は豊作だよ穂に穂が咲いた どどんと波打つ稲の波
神代この方瑞穂の国よ 戦争の糧食なら引き受けた
トコドンドコ ドンドコナ トコドンドコ ドンドコナ
エーヤッコラ ドンドコドンと引き受けた
往くぞ空の決戦場
大詔を拝し畏みて 我等挙りて今ぞ起つ
境のこの日と鍛えたる 若き命の今開く
行くぞいざ行くぞ空の決戦場
御朱印船
風は追い風白波立てて 揃う帆桁に陽が昇る
天下御免の御朱印船だ 何の荒波大和魂
母に捧ぐ
我が子未だいとけなけれど 明日の日は君の御楯ぞ
とく伸びよ強く育てと 朝夕に母は祈れり
海の頌
御稜威広き国原に
潮の香高き幸倉よ
ああ海こそは御祖の恵み
落下傘部隊進撃の歌
轟々と雲に鳴る 翼翼大編隊
突き入るや敵の空 見る見る地平傾かば
用意忽ち将兵が 決死の瞳澄み渡る
密林行
昼なお暗い密林の 道無き道を踏み越えて
日に夜を次いで進み行く 敵撃滅の鉄兜
潜水艦の歌
荒潮の底乗り切って 日影仰がぬ幾千里
饐え行く空気忍びつつ 撃たずば止まじと日に夜に進む
これぞ帝国潜水艦
富士山の賦
大空に聳え立つ富士の高嶺 頂に雪のある良し
山の尾に雲のある良し いつ見ても気高き眺望
試練の時
風が大木に吹き当る 風が巷に吹き荒ぶ
屋根も垣根も看板も 皆試練に耐えている
明けた明日は明日は きっと素晴らしいお天気だ
木炭の歌
真っ赤に炭が怒ってる 総力戦の只中だ
木の魂も火になって 御国の大事を守るのだ
桜も楢も怒ってる 真っ赤になって怒ってる
帆綱は歌うよ
帆綱は歌うよ 捲け捲け碇を
目指すは南常夏の 港港に響くよ船歌
アリューシャンの勇士
氷の下に埋もれて 気温は零下四十度
吹雪の中に屯する 雄々しの勇士を忘るるな
感謝に燃えて伏し拝め ああアリューシャン アリューシャン
必勝の歌
肉を切らせて骨を断ち 骨を切らせて髄を断つ
尊いニュース聞く度に 大和心の血が躍る
撃たで止まじの血が躍る
玉砕山崎部隊
海涛逆巻く北洋の 霧氷花咲くアッツ島
祖国防衛一線に 重き使命を担いたる
我が精鋭の山崎隊
マニラの辻馬車
小風微風カルマタ走れ 緑輝く並木路
愛し子馬のその名はポニー 鈴の音さえいそいそと
支那の空支那の水
長江上る我が船の 上を流るる黄金の月に
若い瞳よ溢るる心 支那の空支那の水
赤いジャンクのランタンさえも 花の流れかああ懐かしや
陣中唄くらべ
さても陣中唄比べ 髭の軍曹さん信濃路の
浅間間近な村育ち 隊じゃ無敵の喉自慢
小諸出てみよ浅間の山によー
月夜の子守唄
北の護りに銃を執る 凛々しい貴方のお姿に
両手合わせて嬉しくも 励む日毎の針仕事
海軍魂
皮を斬らして肉を斬り 肉を斬らして骨を断つ
必殺の剣君知るか これだこの肝この捨て身
赤道戦線陽は落ちて
赤道越えた日はいつか 戎衣の染みも懐かしく
過ぎたあの日の激戦を 共に語れば陽が落ちる
ツンドラ節
沖の鴎に言伝しても 海は千里の北の果て
夢も通わぬ鳴神熱田 ハーツンドラツンドラ
ツンドラ踏んで ほんに兵隊さんは国の為
モンペさん
花ならたんぽぽ桜草 鳥なら雲雀か紅雀
乙女十九の朗らかさ 軍歌で勤しむモンペさん
僕等の戦友(少年戦士の歌)
肩を並べて寄宿の窓で 今朝も拝んだ故郷よ
共に誓って出て来たからにゃ 早くなりたい一人前の
産業戦士に腕前に
まだまだ出来る
一つとせ 一つ出来たよ火の玉燃える
熱い真心溢れて湧いて 滾る日本の底力
それまだまだ出来るまだ出来る
なつかしの蕃社
春は優しい緋桜が 赤く七つの峰染めて
谷はペタコの歌ばかり 思い出の思い出の
蕃社の村は懐かしや
サヨンの鐘
花を摘み摘み山から山を 歌い暮らして夜露に濡れる
私ゃ気侭な蕃社の娘 親は雲やら霧じゃやら
アリューシャンの春
春とは言えど名ばかりの ここは極北アリューシャン
見渡す限り雪の山 せめて来て鳴けロッペン鳥よ
マニラ新生曲
コマメラ花咲く並木路を 走れよカルマタ愛しの子馬よ
金の小鈴をチンカラチンと鳴らして とても明るいマニラは楽しい
アユチャの町
黄金の寺院よアユタヤの町よ 青い帳に暮れ行けば
夢は懐かし長政恋し 鎧姿も勇ましく
瞼に浮かぶ
乙女草刈唄
明けの山なら緑は晴れた 風も野の色露の色
朝の草刈り心も軽い まして磨鎌の切れの良さ
小隊長の日記
光は闇に目は土に はや暮れ佇む森隠れ
シンガポールは指呼の内 覚悟の待機銃と剣
沈黙に兵が意気猛し
北洋の護り
霧に夜明けて吹雪で暮れる 北は荒波アリューシャン
春が来たとて夏だとて 銃を構えて立つ勇士
緑の小径
燃える緑の丘越えて 雲の彼方へ元気で行こうよ
若い命を彩る空の 空の青さに歌が湧く
潜水艦日記
白い船足遥かに捨てて 基地を出てから幾日ぞ
赤い夕陽を波間に送りゃ 僕の見張りにゃ月が出る
若き日の夢
楽しき野道を彷徨い行けば 麗しの二羽の白鳩
青き空より 君が肩に我の肩に
舞い来ぬと見ぬ哀れ夢かや 夢かは知らねど思いは残る
かの日の楽しさ若き日の思い出
ああ南冥の空遠く
ああ南冥の空遠く 瞼を閉じて思い見よ
月照る夜も嵐の朝も 夜を日に次いで戦する
尊き兵のその辛苦
どうか仲間に(女子勤労報国隊の歌)
袖やお太鼓御国に預け モンペ纏うて装い軽く
敵に一発怒りを込めた 弾丸を撃ち込む心意気
どうか仲間に願います 産業戦士この陣地
南の大漁節
一つとせ一番大きな太平洋
勝って勝ち抜く大戦争
この大戦争
大詔奉戴の歌
天津日の光と仰ぐ大詔 押し戴いて一億が
手に手を取って感激の 涙と共に必勝を
誓ったこの日忘れまい
艦上機恙なし
ああ南海に日は暮れて 月明淡き波の面
還らぬ戦友を待ち侘びて 甲板に白き人の影
大陸の兄弟
男なりゃこそ海を越え 渡る希望の新天地
広い亜細亜の大陸で 花と咲くのだ二人して
夏子の歌
幼遊びの雛人形 並べ給いし面影の
優しき君も戦いに 春は巡りて桃が咲く
わが家の風
桜明るい日本の 民と生まれて伏し拝む
大内山の深緑 命楽しや大君の
御為に尽くす我が家の風
母は青空
思い出すのは幼い頃の 母の背中よ水色星よ
蛍飛ぶ飛ぶ畦道の 遠い祭りの笛太鼓
九段のさくら
富士と桜の日本に 良くぞ男と生まれたる
命捧げて勲功と咲いて 咲いて誉れの九段坂
ああ一片は我が父か 桜咲く咲く九段坂
孤島の雄叫び
孤島の丘の残雪に ああ戦いの勇士は
身を玉砕の花と散る 山崎隊長兵二千
この決意
今だ!忘れてなるものか
あの日の朝の感激を
そうだ!誓おう英霊に
頑張り抜いて勝ち抜くと
艦上日記
御先祖様から頂いた 日本男児のこの血潮
黒潮越えて行くからは 無駄にはしませんお母さん
待ってて下さい勝鬨を
母のたより
雲が流れる遠い空 湖畔の風に小休止
母の便りを紐解けば 筆に懐かし故郷訛り
マライの虎
南の天地肌に駆け 率いる部下は三千人
ハリマオハリマオ マライのハリマオ
フクちゃんと兵隊
(ビルマの巻)
「兵隊さん兵隊さんあれなあに」
「あれは鐘の音夕暮れの金のパゴダよ鐘の音よ」
「兵隊さん拝みましょう兵隊さん拝みましょう」
「そうだフクチャンビルマから御国を遥かに拝みましょう」
子を頌う
太郎よお前は良い子供 丈夫で大きく強くなれ
お前が大きくなる頃は 日本も大きくなっている
お前は私を越えて行け
御民われ
御民我 生ける験あり 
天地の 栄ゆる時に 
遇へらく 念へば
かちどき音頭
一年二年はまだ小手調べ 勝って勝ち抜く三年目
敵にゃ厄年百年目 止め刺すまで増産だ
守備隊月夜
砲弾飛交う前線へ 行きたい思いを噛み締めて
千里荒野の守備隊暮らし 赤い花咲きゃ血も躍る
少年戦車兵の歌
朝に仰ぐ富士が根や 御諭いたに畏みて
誓いも堅く意気高く 文武の道に鍛えなす
我等は少年戦車兵
富士に誓う
希望輝く東雲の 富士よ誓うて大和魂
桜の花と咲き誇り 明日は門出の鉄獅子か
不滅の勲立てようぞ
戦いの街に春が来る
たんぽぽ咲いた杏も咲いた 青い空には千切れ雲
小鳩が歌う平和の歌に 戦の街に春が来る春が来る
撃ちてし止まん
撃ちてし止まん快勝に この日勇躍精鋭の
巧緻巧まん堂々と 世紀は進む大東亜
撃ちてし止まん米英を
若鷲の母
緑の風よ白雲よ なぜにかくまで懐かしき
愛し我が子はこの朝 命光栄ある大君の
御楯となりて空を征く
学徒は今ぞ空へ征く
さらば別れぞ懐かしの 母校の森よ時計塔
決戦続く決戦続く 東亜の朝
学徒は今ぞ空へ行く
国民歌 山本元帥
ああ南溟の戦中 将帥の身を先駆けて
雲間に散るや兵のごと ただ一将の功なりて
万骨枯ると誰か言う
みなみのつわもの
宣戦布告この文字の 強く身に沁む感激が
この勲功を立てたのだ やっと出せるぞ故郷へ
晴れの便りが書けるのだ
戦果はラジオで
突撃の号令掛かった瞬間に やるぞと敵を睨め付けりゃ
瞼を掠めた母の顔 戦果はラジオで聴いてくれ
ヨホホーイヤッコラホーイ
海軍航空の歌
万里の雲や太洋の 空を圧して敵を呑む
堂々の意気この胸に 百練の技この腕に
衡けば必殺余すなし
大南方軍の歌
亜細亜の南緑なす 天賦の山河幾億の
共栄の民同胞と 皇道楽上建設の
威望に栄ゆる大使命 燦たり我等大南方軍
お使いは自転車に乗って
お使いは自転車で気軽に行きましょ 並木道そよ風明るい青空
お使いは自転車に乗って颯爽と あの町この道
チリリリリンリン
銃後の妻
南十字や北斗星 いずこで見るかますらおよ
戦の庭を偲びつつ 仰ぐ雲間の月蒼し
みたみわれ
御民我 生ける験あり 
天地の 栄ゆる時に 
遇えらく 念えば
女性進軍
赤い夕焼け見る度に あああの下で今日もまた
兵隊さんは戦うと 想えば千筋の黒髪に
大和乙女の血は躍る
シャンラン節
薫るジャスミンどなたがくれた パパヤ畑の月に問え問え
ツーツーレロレロツーレロ ツーレラツレトレシャン
ツレラレトレシャンランラン
可愛いスウチャン(初年兵哀歌)
御国の為とは言いながら 人の嫌がる軍隊に
召されて行く身の哀れさよ 可愛いスウチャンと泣き別れ
ダンチョネ節
沖の鴎と飛行機乗りは 
どこで散るやらネ
果てるやらダンチョネ
決戦の大空へ
決戦の空血潮に染めて 払えど屠れど数増す敵機
いざ行け若鷲翼を連ね 奮うは今ぞ土浦魂
若鷲の歌
若い血潮の予科練の 七つボタンは桜に錨 
今日も飛ぶ飛ぶ霞ヶ浦にゃ でかい希望の雲が湧く
海を征く歌(戦友別盃の歌)
君よ別れを言うまいぞ 口にはすまい生き死にを 
遠い海征くますらおが 何で涙を見せようぞ
戦友の遺骨を抱いて
一番乗りをやるんだと 力んで死んだ戦友の 
遺骨を抱いて今入る シンガポールの街の朝
アッツ島血戦勇士顕彰国民歌
刃も凍る北海の 御盾と立ちて二千余士
精鋭挙るアッツ島 山崎大佐指揮を執る
大空に祈る
風吹きゃ嵐にならぬよう 雨ふりゃさぞや御苦労と
飛び行く鳥の影にさえ 我が子を偲ぶこの日頃
祈る心はただ一つ 晴れの手柄を勲を
索敵行
日の丸鉢巻締め直し ぐっと握った操縦桿 
万里の怒濤何のその 往くぞロンドンワシントン 
空だ空こそ国懸けた 天下分け目の決戦場
加藤隼戦闘隊
エンジンの音轟々と 隼は征く雲の果て
翼に輝く日の丸と 胸に描きし赤鷲の
印は我等が戦闘機  
 
陸海軍歌 / 昭和 19年

 

兄は征く
丘の夕月 飛ぶ雁に 
母のやさしい 子守唄 
幼な心に 憧れの 
空の特幹 兄は征く
ああ山本五十六元帥
軍艦旗の下に召されては 念うは同じ桜花
散って皇国に尽くせよと 教えを垂れし軍神
ああ元帥は空に散る
亜細亜は晴れて
空は晴れて 聞こえるあの声 陸に海に 勝鬨挙がる
躍るよ若い血潮が 続こうあの声に
肉が裂けても それ行け増産
桜花に誓う(女子挺身隊の歌)
補給の船の日の丸に 万歳叫ぶ感激の
勇士の涙を知るならば いざいざ起て花の挺身隊
決戦ぶし
焦る敵なら手元に寄せて 一丁叩いて息の根止める
数で来るならどんと来い 束で来い
地獄見物させてやる
ジャワのあけくれ
南十字の 星影消えて
椰子の梢に 日の丸掲げ
仰ぐ銀翼 ジャワ娘
壮烈山崎軍神部隊
北斗の空に垂れ込めし 暗雲遥か望み見て
誰か泣かざる者やある 忘るるなかれこの悲壮
忘るるなかれこの至誠
南方節
マタハリヌ チンダラカヌシャマヨ
軍艦マーチに両手を合わせ サーヨイヨイ
坊やと見交わす 顔と顔
マタハリヌ チンダラカヌシャマヨ
ラバウル小唄
さらばラバウルよまた来るまでは 暫し別れの涙が滲む
恋し懐かしあの島見れば 椰子の葉蔭に十字星
必勝歌
今日よりは 返り見なくて大君の
醜の御楯と出で発つ我は ああ防人の昔より
御民我等の雄心は 皇国の護り富士ヶ嶺の
千古の雲と輝けり
すべてを空へ
空へ空へ全てを捨てて
今こそ打ち上げよ
燃え立つ憤激
日本の力
胸を張れ胸を張れ 明るい秋だ
空は青いぞおこまでも 田毎田毎に黄金色付く
黄金色付く稲穂の明かり 豊年だ豊年だ
ぐんと湧き上がる 日本の強さが
ぐんと湧き上がる
若獅子の歌
勇みに勇む若獅子を 富士が見守る日本晴れだ
裾野千里は野菊の花の 露も輝く希望に満ちて
海の勝鬨
どんと大波蹴散らせば 挙がる潮吹きに陽の光
砕けて裂けて虹と咲く 海だ!希望の八潮路を
果ての果てまで拓くのだ
沖に帆あげて
沖に帆上げて日の丸高く 行くは一筋青海原よ
追い風そよそよ南の風に 木の香新し初乗り船だ
戦う花
花も戦う御国の大事 結ぶ心の赤襷
長い袂に別れを告げて 大和撫子凛と咲く
撃滅の誓
御稜威輝く日の本に 尊畏む御民我
この決戦に勝たざれば 斃れて後もなお忌まじ
十億の団結
亜細亜にはためく六梳の旗は 正義の狼煙に集う旗だ
共に進んで繁栄を築く 固い誓いを貫く旗だ
海上日出
ゆららゆらら 風に動くは何の影ぞ
今一筋忽ちに 射し出づる光なり
新しき光なり 海の彼方 我等起てり
造れ送れ撃て
君は前線我等は職場 燃ゆる火の玉大和魂
今年こそはと見上げる空に それ散った貴様の声がする
造れ送れ撃て今だ頑張れ
戦闘帽の歌
勇士の被る戦闘帽 被れば胸の血が滾る
ああ大陸の曙に 門出の兄も被ってた
星の徽章の戦闘帽
船は我が家
湧き立つ潮高らかに 玉と砕ける波頭
神代ながらの日が昇る 海で鍛えた男なら
船は我が家だ故郷だ
カボチャの歌
カボチャ作ろうよ作ろうよカボチャ カボチャはゴロゴロ愛嬌者よ
がっちりしていてとぼけた姿 食べて美味いしお腹は張るし
何が何でもカボチャを カボチャを作ろう
君は船びと
乙女の夢はさ緑の 波路の果て行く白い船
海を命の若人が 星を眺める雄々しの瞳
宣候節
数を頼んで懲りずに来たか 来たかようそろ敵の艦
魚雷爆弾腹の中に抱いて 海の翼が殴り込み
ようそろようそろ殴り込み
若い母の歌
西と東の幾千里 遠く広がる雲の果て
指せばどこにと伸び上がる 可愛い坊やもひゃ五つ
留守をする子になりました
少年兵を送る歌
胸に付けたる紅の 若き誇りのこの章
今こそ我等国の為 命捧げる時ぞ来ぬ
征けや皇国の少年兵
若き誓い
いざ征かんかの大空へ うら若き我が憧れは
千早振る空の神々 国負いて男子の散るは
散るならじ花と咲くなり
僕等の空へ
空の勝利は御国の勝利 憧れの空広い空
僕等の希望は翼に光る 飛んでる飛んでるまた今日も
ブンブンあの音聞いてると 僕等の心は空へ飛ぶ
ビルマ派遣軍の歌
詔勅の下勇躍し 神兵ビルマの地を衝けば
首都ラングーンはたちまちに 我が手に陥ちて敵軍は
算を乱して潰えたり 宿敵老獪英国の
策謀ここに終焉す 燦たりビルマ派遣軍
祖国の花
花の香りにふと目が覚めて 窓を開けば垣根の小菊
拝む遥かな代々木の社 送りましょうか祖国の花を
愛し懐かし故郷の花を
月夜船
おおいそこ行く上り船 今夜は月夜だどこ行きだえ
船底一杯荷を積んで 釜石行きだよ 
追風だよ追風だよ
決戦むすめ
野辺の菫も都の花も 同じ皇国の決戦娘
今日も溌剌戦う瞳 夢と希望に燃えている
歓喜の港
エヒホーエヒホー 襲う火の雨炎の飛礫
抜けて潜って千里の波に 今ぞ堂々日の丸高く
帰る歓喜の輸送船
潜水艦の台所
海の底から 旨そな匂いするは
朝飯前の攻撃済んで 揚げるお芋の魚雷型
潜水艦の台所の歌は ジュウジュウジュウジュウ
ジュウジュウジュウジュウ ジュウジュウジュウジュウ
日本行軍歌
今日は大河の歌を聞き 今日はこの峰よじ登る
玉なす汗に吐く息に 男真鉄と打ち叩く
山に禊の御民我
ブーゲンビル島沖航空戦
ああ南海を轟かし 凱歌は高く挙がりたり
暮れるに早きソロモンの 落陽花と散る夕べ
決戦の海
潮のうねりは大きく高く 疾風含んでどこまでも
鳴るよ喇叭だ進軍だ 海国魂今ぞ飛ぶ
敵の集団撃滅だ
小国民決意の歌
敵は迫れり南に北に 今ぞ本土に近付けり
玉と砕けしますらおの 血潮の叫び身を灼く怒り
幼き者我等我等忘れじ
乙女の旅唄
涙流して忘れな草を 抱いた袂よ昔の夢よ
乙女心は勲の兄へ 今日は手向けの花を摘む
米英撃滅の歌
濤は哮る撃滅の時は今だ 空母戦艦断じて屠れ
海が彼奴等の墓場だ塚だ 海が彼奴等の墓場だ塚だ
空のふるさと
明日は明日はと憧れた 巣立ちの朝の楽しさよ
飛んで翔け行く大空の 行く手の雲は山川は
故郷だああそうだ夢じゃない
君こそ次の荒鷲だ
ああ誰ゆえに滾る血ぞ 若き誇りに国を負う
その純潔に生きん為 雲を劈く夢こそは
良く決戦を勝ち抜かん
アイウエオの歌
アイウエオ カキクケコ サシスセソ タチツテト
ナニヌネノ ハヒフヘホ マミムメモ ヤイユエヨ
ラリルレロ ワイウエオ ガギグゲゴ ザジズゼゾ
ダヂヅデド バビブベボ パピプペポ
フクちゃん部隊出撃の歌
出撃だ出撃だ フクちゃん部隊の出撃だ
空は青いよ日本晴れだ 日本一の良い子の部隊
フクちゃん部隊の出撃だ 行けよフクちゃんの潜水艦
北風の歌
波猛け怒るオホーツクの 骨を劈く風に立つ
健児十万血は湧る 決戦北に見よここに
エイエイホウ衝け吹雪 吹雪け北風どんと来い
雲のふるさと
常夏の椰子の木陰に 戎衣を解きて憩いつ
返り見る雲の遥けさ ますらおの我と言うとも
ゆえ知らず涙落つるを
あの旗を撃て
悲憤の涙戦友の 屍を越えて乗り越えて 
幾日幾夜の突撃に 恨み重なる星条旗 
今一息だ頑張りだ あの旗を撃てあの旗を
比島決戦の歌
決戦輝く亜細亜の曙 命惜しまぬ若桜 
今咲き競うフィリピン いざ来いニミッツマッカーサー 
出て来りゃ地獄へ逆落とし
フィリピン沖の決戦
逸る心の梓弓引き絞り 神機の至るを待ちし幾月
雄渾無比なる我が作戦の 火蓋は今ぞ遂に開かれぬ
復仇賊
隙に乗ずる敵の勢 千機万機を連ねたる
機動部隊を迎え撃つ サイパン島の鉄の陣
一億総進撃の歌
ああサイパンの防人よ 君が恨みを晴らすべき
君が同胞一億の 心構えを誰か知る
サイパンに誓う
海を圧する砲煙に 応える火砲既に無く
雲掻き乱す火の雨を 払う再起の指揮も無し
サイパン殉国の歌
泣け怒れ奮えよ撃てよ 夕映えの茜の雲や
血に咽ぶサイパンの島 皇国を死して護ると
つわもの等玉と砕けぬ
勝利は翼から(航空機「命倍」増産の歌)
日の丸染めた銀翼が 敵ニューヨークロンドンを
打ち砕くまでその日まで やるぞやるぞやるぞ
飛行機増産命倍命倍
この仇討たん
大和桜の散り際見せて 勇士の熱い血潮の飛沫
玉と砕けた山崎部隊 一億誓ってこの仇討たん
輝く黒髪(女子挺身隊の歌)
靡く黒髪きりりと結び 今朝も朗らに朝露踏んで
行けば迎える友の歌 ああ愛国の陽は燃える
我等乙女の挺身隊
体当たり精神
皇御国に生を受け 身過ぎ世を過ぐ三千年
仰向し血潮の忠誠は 大御戦に火と燃える
大御戦に火と燃える
若桜の歌(少年飛行兵の歌)
昭和の御世に育くまれ 碧に澄める大空に
若き命を捧げんと 小楠公の道を行く
清き姿の若桜
印度航空作戦の歌
歴史を拓く黎明の 精気凛たるますらおが
決然一度怒り起ち 奮う翼の輝きは
今こそ薫れ殉忠の 紅染むる東雲に
父母のこえ
太郎は父の故郷へ 花子は母の故郷へ
里で聞いたは何の声 山の頂雲に鳥
希望大きく育てよと 遠く離れた父の声
勝利の日まで
丘にはためくあの日の丸を 仰ぎ眺める我等の瞳 
いつか溢るる感謝の涙 燃えて来る来る心の炎 
我等は皆力の限り 勝利の日まで勝利の日まで
今ぞ決戦
男命の散るときは 香りゆかしき若桜
「今ぞ決戦」勇んで立てば 何の刃向う敵があろう
突撃喇叭鳴り渡る(一億総決起の歌 )
勝って逢おうと誓って征った 友の襟が目に沁みる 
俺も名もあるあの旗を 踏み躙らせてなるものか 
止むに止まれぬ総決起 突撃喇叭だどんと行け
ああ紅の血は燃ゆる(学徒動員の歌)
花も蕾の若桜 五尺の生命ひっさげて 
国の大事に殉ずるは 我等学徒の面目ぞ 
ああ紅の血は燃ゆる
大航空の歌
見よ見よ大空に荒鷲が 撃ちてし止まん翼もて
描く亜細亜の新歴史 世界は明け行く日本の
翼 翼 輝く翼 高く羽ばたく翼より
いさおを胸に
いろはのいの字は命のいの字 誰も忘れぬこの文字よ
一番勇まし勲を胸に いの字で行こうかその日その日
同期の桜
貴様と俺とは同期の桜 同じ兵学校の庭に咲く 
咲いた花なら散るのは覚悟 見事散りましょ国の為
敵白旗を揚げるまで
我が神兵が肉弾で 撃てど墜とせどその量を
誇る鬼畜の米英機 日本本土盲爆の
野望図太く迫り来る
僕は空へ君は海へ
仰ぎ眺めるこの空は 世界の空へ続いてる
小手を翳して見る海も 世界の海へ続いてる
行こう行こうぞきっと行くぞ 僕は空へ君は海へ
海軍予備錬の歌
神武の昔舟人が 帝を守り戈執りて
国を肇し勲しに 続くは我等予備練ぞ
忠誠心を固めよや 忠誠心を固めよや
海の初陣
海の男の初陣の 血潮高鳴る太平洋
見事撃滅し遂げねば 生きて戻らぬこの港
水兵さん
総員起しの喇叭が響きゃ 夢はそのまま釣床収め
澄んだ大気だ大きな息吹 沖じゃ鴎が飛んでいる
海底万里
逆巻く波を蹴散らして 万里の果てに敵を撃つ
雄叫び高し潜水艦 技は冴えたり轟沈の
凱歌に挙がる水柱
轟沈
可愛い魚雷と一緒に積んだ 青いバナナも黄色く熟れた
男世帯は気侭なものよ 髭も生えます
髭も生えます不精髭
雷撃隊隊歌
狂乱怒濤の飛沫浴び 海原低く突っ込めば
雨霰降る弾幕も 突撃肉迫雷撃隊
ラバウル海軍航空隊
銀翼連ねて南の前線 揺るがぬ守りの海鷲達が 
肉弾砕く敵の主力 栄えある我等ラバウル航空隊
敵の炎
憎き翼が汚す祖国の青空 怒り心に湧き立ち握る拳ぞ
見よ無礼な姿 敵の翼をば残らず折るぞ
近き日この敵を
特幹の歌
翼輝く日の丸の 燃える闘魂目にも見よ
今日も逆らう雲切れば 風も静まる太刀洗い
ああ特幹の太刀洗い 
 
陸海軍歌 / 昭和 20年

 

決戦の秋は来たれり
皇御国の興廃は 今日の戦に懸りたり
あこの戦勝たずんば 祖宗の国をいかにせん
起て一億 決戦の秋は来たれり
子宝節
ハァ あちらこちらに産声高く
春もうららな隣組 ソレ良い子のせっせと隣組
八・一五の歌
草木も鎮み風も止み ただ平伏して玉音を
涙で拝せし八月の 想いは滾る十五日
母も戦の庭に立つ
空に瞬くあの星は 母の瞳か眼差しか
膝に縋ったその折に 腕に抱かれたその度に
いつも仰いだ あの瞳
沖縄護郷隊隊歌
運命かけたる沖縄島に
我等召されて護郷の戦士
驕れる米兵撃ちてし止まん
国民義勇隊の歌
意気壮なり 大八洲 陛下の赤子挙り起つ
見よ悠久の富士潔く 断乎と護る父祖の土
我等は国民義勇隊
神風節
吹けよ吹け吹けメリケン嵐 どうせ浮雲迷い雲
大和島根は揺るがぬ島根 吹くぞ神風敵を呑む敵を呑む
エイ エイ エイ
勝ちぬく僕等小国民
勝ち抜く僕等少国民 天皇陛下の御為に
死ねと教えた父母の 赤い血潮を受け継いで
心に決死の白襷 掛けて勇んで突撃だ
台湾沖の凱歌
その日は来たれりその日は遂に来た 傲慢無礼なる敵艦隊捕え 
待ってたぞ今日の日を 拳を振り攻撃だ 
台湾東沖時十月十二日
かくて神風は吹く
海を圧して寄せ来る敵を 何で逃がしてなるものか 
今だ討ち取れ力を一に かくて吹くのだ神風が
嗚呼聖断は降りたり
噫呼聖断は降りたり 何の顔ありてこそ 
祖宗の霊に見えんや されど勅命の重ければ 
悲憤の涙拭うべし
里の秋
静かな静かな里の秋 お背戸に木の実の落ちる夜は 
ああ母さんとただ二人 栗の実煮てます囲炉裏端
お山の杉の子
昔々のその昔 椎の木林のすぐ側に
小さなお山が あったとさあったとさ
丸々坊主の禿山は いつでも皆の笑い者
「これこれ杉の子起きなさい」
お日様ニコニコ 声かけた声かけた
特攻隊節
燃料片道テンツルシャン 涙で積んで
行くは琉球死出の旅 エーエ 死出の旅
男散るなら
鉄砲玉とは俺等の事よ 待ちに待ってた門出ださらば
戦友よ笑って今夜の飯は 俺の分まで食ってくれ
来たらば来たれ
貴様も言うたぞ小父御も言うた 敵さんようこそござんなれ
鍛え鍛えた日頃の手並み ここが良いとこ見せ所
ソレ見せ所
嗚呼神風特別攻撃隊
無念の歯噛み堪えつつ 待ちに待ちたる決戦ぞ 
今こそ敵を屠らんと 奮い立ちたる若桜
雷撃隊出動
母艦よさらば撃滅の 翼に映える茜雲
返り見すれば遠ざかる 瞼に残る菊の花
異国の丘
今日も暮れ行く異国の丘に 友よ辛かろ切なかろ 
我慢だ待ってろ嵐が過ぎりゃ 帰る日も来る春が来る  
 
■靖国神社関連の軍歌 (上記からの抽出)

 

九段の桜花
花は桜木人は武士 散りて輝くますらおの
勲は薫る九段坂 仰げば高し大鳥居
父は九段の桜花
父さん僕です私です 菊の御紋のその中で
今朝は一際勲しに 輝き咲いた桜花
九段のお宮のお父さん
九段の母
上野駅から 九段まで 勝手知らない じれったさ
杖をたよりに 一日がかり せがれ来たぞや 会いにきた
九段の誉
春の九段に咲く花は 大和男子の心意気
秋の宮居の紅葉葉は 勇士の血潮あらたかに
日の本飾る綾錦
九段ざくら
家の父さん九段のさくら パッと咲きます開きます
花を見上げてお話したら ニコニコお顔が見えました
九段の父
戦友の戦友の 父を背負って九段坂
軽い背中にまた振り返り 父さん今日からこの僕が
貴方の倅になりますよ
真珠湾節
泣くな嘆くな必ず帰る
桐の小箱に錦着て
会いに来てくれ九段坂
九段のさくら
富士と桜の日本に 良くぞ男と生まれたる
命捧げて勲功と咲いて 咲いて誉れの九段坂
ああ一片は我が父か 桜咲く咲く九段坂
靖国神社
花は桜木人は武士 その桜木に囲まるる
世を靖国の御社よ 御国の為に潔く
花と散りにし人々の 魂はここにぞ鎮まれる
靖国神社の歌
日の本の光に映えて 尽忠の雄魂祀る
宮柱太く燦たり ああ大君の御拝し給う
栄光の宮靖国神社 
そうだその意気(国民総意の歌)
何にも言えず靖国の 宮の階ひれ伏せば
熱い涙がこみ上げる そうだ感謝のその気持ち
揃う揃う気持ちが国護る
武士の道
君の為何か惜しまん若桜
散って甲斐ある命なりせば
靖国で逢う嬉しさや今朝の空
やすくにの
靖国の宮に御霊は 鎮まるも
折々帰れ 母の夢路に  
 
「君が代」

 

日本の国歌。10世紀初頭における最初の勅撰和歌集である『古今和歌集』の「読人知らず」の和歌を初出としている。作詞者が世界で最も古いといわれている。当初は「祝福を受ける人の寿命」を歌ったものだが、転じて「天皇の治世」を奉祝する歌となった。1869年(明治2年)に薩摩琵琶の『蓬莱山』にある「君が代」を歌詞として選んだ歌が原型となっている。その後1880年(明治13年)に宮内省雅楽課が旋律を改めて付け直し、それをドイツ人の音楽教師フランツ・エッケルトが西洋和声により編曲したものが、1893年(明治26年)の文部省文部大臣井上毅の告示以降、儀式に使用され、1930年には国歌とされ、定着した。1999年(平成11年)に「国旗及び国歌に関する法律」で正式に日本の国歌として法制化された。世界で最も短い国歌である。
歌詞​
「君が代は千代に八千代にさざれ石の巌(いはほ)となりて苔のむすまで」は、10世紀に編纂された勅撰和歌集『古今和歌集』巻七「賀歌」巻頭に「読人知らず」として「我君は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」とある短歌を初出としている。これが私撰(紀貫之撰集)の『新撰和歌』や朗詠のために藤原公任が撰した『和漢朗詠集』(11世紀成立)などにも収められ、祝賀の歌とされ、朗詠にも供され、酒宴の際に歌われる歌ともされたものである。9世紀にあって光孝天皇が僧正遍昭の長寿を祝って「君が八千代」としているように、「君」は広く用いる言葉であって天皇を指すとは限らなかった。すなわち、「我が君」とは祝賀を受ける人を指しており、「君が代」は天皇にあっては「天皇の治世」を意味しているが、一般にあってはこの歌を受ける者の長寿を祝う意味であった。この歌が利用された範囲は、歴史的にみれば、物語、御伽草子、謡曲、小唄、浄瑠璃から歌舞伎、浮世草子、狂歌など多岐にわたり、また箏曲、長唄、常磐津、さらには碓挽歌、舟歌、盆踊り唄、祭礼歌、琵琶歌から乞食の門付など、きわめて広範囲に及んでいる。「君が代は千代に八千代に」の歌が、安土桃山時代の隆達にあっては恋の小唄であることは広く知られるところである。
国歌としては、1869年(明治2年)、軍楽隊教官だったイギリス人ジョン・ウィリアム・フェントンが日本に国歌がないのを残念に思い、練習生を介して作曲を申し出たことを始まりとしている。1880年(明治13年)、法律では定められなかったが、事実上の国歌として礼式曲「君が代」が採用された。そのテーマは皇統の永続性とされる。
日本の国歌の歌詞およびその表記は、「国旗及び国歌に関する法律」(国旗国歌法)別記第二では以下の通りである。
「 君が代は 千代に八千代に さざれ石の  いわおとなりて 苔のむすまで 」 — 君が代、日本の国歌
「さざれ石のいわおとなりてこけのむすまで」とは「小石が成長して大きな岩となり、それに苔がはえるまで」の意味で、限りない悠久の年月を可視的なイメージとして表現したものである。同様の表現は『梁塵秘抄』巻一巻頭の「長歌十首」祝に「そよ、君が代は千世(ちよ)に一度(ひとたび)ゐる塵(ちり)の白雲(しらくも)かゝる山となるまで」にもみえる。一方では、小石が成長して巨岩になるという古代の民間信仰にもとづいており、『古今和歌集』「真名序」にも「砂(いさご)長じて巌となる頌、洋洋として耳に満てり」とある。
イギリスの日本研究家バジル・ホール・チェンバレンは、この歌詞を英語に翻訳した。チェンバレンの訳を以下に引用する。
   A thousand years of happy life be thine!
   Live on, my Lord, till what are pebbles now,
   By age united, to great rocks shall grow,
   Whose venerable sides the moss doth line.
   汝(なんじ)の治世が幸せな数千年であるように
   われらが主よ、治めつづけたまえ、今は小石であるものが
   時代を経て、あつまりて大いなる岩となり
   神さびたその側面に苔が生(は)える日まで
香港日本占領時期には、「君が代」の公式漢訳「皇祚」があった。
   皇祚連綿兮久長
   萬世不變兮悠長
   小石凝結成巖兮
   更巖生国ロ之祥
礼式曲「君が代」制定までの歴史​
和歌としての君が代​
歌詞の出典は『古今和歌集』(古今和歌集巻七賀歌巻頭歌、題知らず、読人知らず、国歌大観番号343番)である。ただし、古今集のテキストにおいては初句を「我が君は」とし、現在の国歌の歌詞とは完全には一致していない。
   我が君は 千代にやちよに さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで
文献にみえる完全な一致は、朗詠のための秀句や和歌を集めた『和漢朗詠集』の鎌倉時代初期の一本に記すものが最古といわれる(巻下祝、国歌大観番号775番)。
『和漢朗詠集』においても古い写本は「我が君」となっているが、後世の版本は「君が代」が多い。この「我が君」から「君が代」への変遷については初句「我が君」の和歌が『古今和歌集』と『古今和歌六帖』以外にはほとんどみられず、以降の歌集においては初句「君が代」が圧倒的に多いことから時代の潮流で「我が君」という直接的な表現が「君が代」という間接的な表現に置き換わったのではないかという推測がある。千葉優子は、「我が君」から「君が代」への転換は平安時代末期ころに進んだとしている。朗詠は、西洋音楽やその影響を受けた現代日本音楽における、歌詞と旋律が密接に関ってできている詞歌一致体とは異なり、その歌唱から歌詞を聴きとることは至難である。
なお『古今和歌六帖』では上の句が「我が君は千代にましませ」となっており、『古今和歌集』も古い写本には「ましませ」となったものもある。また写本によっては「ちよにや ちよに」と「や」でとぎれているものもあるため、「千代にや、千代に」と反復であるとする説も生まれた。
解釈​
万葉集などでは「君が代」の言葉自体は「貴方(あるいは主君)の御寿命」から、長(いもの)にかかる言葉であり、転じて「わが君の御代」となる。『古今和歌集』収録の原歌では、上述したように「君」は「あなた」「主人」「君主」など広く用いる言葉であって天皇をさすとは限らない。『古今和歌集』巻七の賀歌22首のうち18首は特定の個人、松田武夫によれば光孝天皇、藤原基経、醍醐天皇の3人にゆかりの人々にかかわる具体的な祝いの場面に際しての歌である。その祝いの内容は、ほとんどが算賀であるが出生慶賀もある。これに対し、最初の4首は読人知らずで作歌年代も古いとみられ、歌が作られた事情もわからない。そのうちの1首で、冒頭に置かれたものが「君が代」の原歌である。したがってこの「君」は特定の個人をさすものではなく治世の君(『古今和歌集』の時代においては帝)の長寿を祝し、その御世によせる賛歌として収録されたものと理解することが可能である。
後世の注釈書では、この歌の「君」が天子を指すと明示するものもある。それが、『続群書類従』第十六輯に収められた堯智の『古今和歌集陰名作者次第』である。同書第1巻の刊行は、万治元年(1658年)のことであり、堯智は初句を「君か代ともいうなり」とし、「我が大君の天の下知しめす」と解説しており、これによれば、17世紀半ばの江戸時代前期において「天皇の御世を長かれ」と祝賀する歌だとの解釈が存在していたこととなる。
『古今和歌集』に限らず、勅撰集に収められた賀歌についてみるならば「君」の意味するところは時代がくだるにつれ天皇である場合がほとんどとなってくる。勅撰集の賀歌の有り様が変化し、算賀をはじめ現実に即した言祝ぎの歌がしだいに姿を消し、題詠歌と大嘗祭和歌になっていくからである。こういった傾向は院政期に入って顕著になってくるもので王朝が摂関政治の否定、そして武家勢力との対決へと向かうなかで勅撰集において天皇の存在を大きく打ち出していく必要があったのではないかとされている。
諸文芸・諸芸能と「君が代」​
「君が代」は朗詠に供されたほか、鎌倉時代以降急速に庶民に広まり、賀歌に限らない多様な用いられ方がなされるようになった。仏教の延年舞にはそのまま用いられているし、田楽・猿楽・謡曲などでは言葉をかえて引用された。一般には「宴会の最後の歌」「お開きの歌」「舞納め歌」として使われていたらしく、『曽我物語』(南北朝時代〜室町時代初期成立)では宴会の席で朝比奈三郎義秀が「君が代」を謡い舞う例、『義経記』(室町時代前期成立)でも静御前が源頼朝の前で賀歌「君が代」を舞う例を見ることができる。
「 曽我物語』巻第六「辯才天の御事」 / 「何とやらん、御座敷しづまりたり。うたゑや、殿ばら、はやせや、まはん」とて、すでに座敷を立ちければ、面々にこそはやしけれ。義秀、拍子をうちたてさせ、「君が代は千代に八千代にさゞれ石の」としおりあげて、「巌となりて苔のむすまで」と、ふみしかくまふてまはりしに… 」
「 『義経記』巻第六「静若宮八幡宮へ参詣の事」 / 静「君が代の」と上げたりければ、人々これを聞きて「情けなき祐経かな、今一折舞はせよかし」とぞ申しける。詮ずる所敵の前の舞ぞかし。思ふ事を歌はばやと思ひて、 しづやしづ賤のおだまき繰り返し 昔を今になすよしもがな吉野山 嶺の白雪踏み分けて 入りにし人のあとぞ恋しき 」
安土桃山時代から江戸時代の初期にかけては、性をも含意した「君が代は千代にやちよにさゞれ石の岩ほと成りて苔のむすまで」のかたちで隆達節の巻頭に載っており、同じ歌は米国ボストン美術館蔵「京都妓楼遊園図」[六曲一双、紙本着彩、17世紀後半、作者不詳]上にもみられる。祝いの歌や相手を思う歌として小唄、長唄、地歌、浄瑠璃、仮名草子、浮世草子、読本、祭礼歌、盆踊り、舟歌、薩摩琵琶、門付等に、あるときはそのままの形で、あるときは歌詞をかえて用いられ、この歌詞は庶民層にも広く普及した。
16世紀の薩摩国の戦国武将島津忠良(日新斎)は、家督をめぐる内紛を収めたのち、急増した家臣団を結束させるための精神教育に注力し、琵琶を改造して材料も改め、撥も大型化し、奏法もまったく変えて勇壮果敢な音の鳴る薩摩琵琶とした。そして、武士の倫理を歌った自作の47首に軍略の助言も求めた盲目の僧淵脇了公に曲をつけさせ、琵琶歌「いろは歌」として普及させた。島津日新斎作詞・淵脇了公作曲の琵琶歌「蓬莱山」の歌詞は、以下のようなものである。
「 蓬莱山  / 目出度やな 君が恵(めぐみ)は 久方の 光閑(のど)けき春の日に不老門を立ち出でて 四方(よも)の景色を眺むるに 峯の小松に舞鶴棲みて 谷の小川に亀遊ぶ君が代は 千代に 八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで命ながらえて 雨(あめ)塊(つちくれ)を破らず 風枝を鳴らさじといへばまた堯舜(ぎょうしゅん)の 御代も斯(か)くあらむ 斯ほどに治まる御代なれば千草万木 花咲き実り 五穀成熟して 上には金殿楼閣 甍を並べ下には民の竈を 厚うして 仁義正しき御代の春 蓬莱山とは是かとよ君が代の千歳の松も 常磐色 かわらぬ御代の例には 天長地久と国も豊かに治まりて 弓は袋に 剱は箱に蔵め置く 諫鼓(かんこ)苔深うして鳥もなかなか驚くようぞ なかりける 」
「君が代」を詠み込んだこの琵琶歌は、薩摩藩家中における慶賀の席ではつきものの曲として歌われ、郷中教育という一種の集団教育も相まって、この曲を歌えない薩摩藩士はほとんどいなかった。なかでも、大山弥助(のちの大山巌)の歌声は素晴らしかったといわれる。
「君が代」は、江戸城大奥で元旦早朝におこなわれる「おさざれ石」の儀式でも歌われた。これは、御台所(正室)が正七ツ(午前4時)に起床し、時間をかけて洗面・化粧・「おすべらかし」に髪型を結い、装束を身に付けて緋毛氈の敷かれた廊下を渡り、部屋に置かれた盥(たらい)のなかの3つの白い石にろうそくを灯し、中年寄が一礼して「君が代は千代に八千代にさざれ石の」と上の句を吟唱すると、御台所が「いはほとなりて苔のむすまで」と下の句を応え、御台所の右脇にいた中臈が石に水を注ぐという女性だけの「浄めの儀式」であった。盥には、小石3個のほかユズリハと裏白、田作りが丁重に飾られていた。
礼式曲「君が代」の成立​
1869年(明治2年)4月、イギリス公使ハリー・パークスよりエディンバラ公アルフレッド(ヴィクトリア女王次男)が7月に日本を訪問し、約1か月滞在する旨の通達があった。その接待掛に対しイギリス公使館護衛隊歩兵大隊の軍楽隊長ジョン・ウィリアム・フェントンが、日本に国歌がないのは遺憾であり、国歌あるいは儀礼音楽を設けるべきと進言し、みずから作曲を申し出た。
当時の薩摩藩砲兵大隊長であった大山弥助(のちの大山巌)は、大隊長野津鎮雄と鹿児島少参事大迫喜左衛門とはかり、薩摩琵琶歌の「蓬莱山」のなかにある「君が代」を歌詞に選び、2人ともこれに賛成して、フェントンに示した。こうしてフェントンによって作曲された初代礼式曲の「君が代」はフェントンみずから指揮し、イギリス軍楽隊によってエディンバラ公来日の際に演奏された。ただし澤鑑之丞が当時フェントンの接遇係の一人であった原田宗介から聞いた話では、軍上層部にフェントンの意見を問い合わせたところ、会議中で取り合ってもらえず、接遇係たちに対応が任された。この際、静岡藩士の乙骨太郎乙が大奥で行われた正月の儀式「おさざれ石」で使用された古歌を提案し、原田が『蓬莱山』と共通しているとしてこの歌をフェントンに伝えたという経緯となる。
同年10月、鹿児島から鼓笛隊の青少年が横浜に呼び寄せられ、薩摩バンド(薩摩藩軍楽隊)を設立する。フェントンから楽典と楽器の演奏を指導され、妙香寺で猛練習をおこなった。翌年1870年(明治3年)8月12日、横浜の山手公園音楽堂でフェントン指揮、薩摩バンドによる初めての演奏会で、初代礼式曲「君が代」は演奏される。同年9月8日、東京・越中島において天覧の陸軍観兵式の際に吹奏された。しかし、フェントン作曲の「君が代」は威厳を欠いていて楽長の鎌田真平はじめ不満の声が多かった。当時の人々が西洋的な旋律になじめなかったこともあって普及せず。
国歌 (national anthem) は近代西洋において生まれ、日本が開国した幕末の時点において外交儀礼上欠かせないものとなっていた。そういった国歌の必要性は、1876年(明治9年)に海軍楽長の中村祐庸が海軍省軍務局長宛に出した「君が代」楽譜を改訂する上申書「天皇陛下ヲ祝スル楽譜改訂之儀」の以下の部分でもうかがえる。
「(西洋諸国において)聘門往来などの盛儀大典あるときは、各国たがいに(国歌の)楽譜を謳奏し、以てその特立自立国たるの隆栄を表認し、その君主の威厳を発揮するの礼款において欠くべからざるの典となせり」。すなわち、国歌の必要性はまず何よりも外交儀礼の場においてなのであり、現在でも例えばスペイン国歌の「国王行進曲」のように歌詞のない国歌も存在する。当初は "national anthem" の訳語もなかったが、のちに「国歌」と訳された。ただし、従来「国歌」とは「和歌」と同義語で、漢詩に対するやまと言葉の歌(詩)という意味で使われていたため "national anthem" の意味するところはなかなか国民一般の理解するところとならなかった。
この意見にもとづき、宮中の詠唱する音節を尊重して改訂する方向で宮内省と検討に入り、フェントンの礼式曲は廃止された。翌年1877年に西南戦争が起こり、その間にフェントンは任期を終えて帰国した。
1880年(明治13年)7月、楽譜改訂委員として海軍楽長中村祐庸、陸軍楽長四元義豊、宮内省伶人長林廣守、前年来日したドイツ人で海軍軍楽教師のフランツ・エッケルトの4名が任命された。採用されたのは林廣守が雅楽の壱越調旋律の音階で作曲したものであり、これは、実際には、廣守の長男林広季と宮内省式部職雅樂課の伶人奥好義がつけた旋律をもとに廣守が曲を起こしたものとみとめられる。この曲に改訂委員のひとりフランツ・エッケルトが西洋風和声を付けて吹奏楽用に編曲した。
改訂版「君が代」は、明治13年10月25日に試演され、翌26日に軍務局長上申書である「陛下奉祝ノ楽譜改正相成度之儀ニ付上申」が施行され、礼式曲としての地位が定まった。同年11月3日の天長節には初めて宮中で伶人らによって演奏され、公に披露された。調子は、フラット(♭)2つの変ロ調であった。
海軍省所蔵の1880年(明治13年)の原譜に「国歌君が代云々」とあることから、エッケルト編曲した現行の「君が代」の成立時には「国歌」という訳語ができていたことが知られる。
1881年(明治14年)に最初の唱歌の教科書である『小学唱歌集 初編』が文部省音楽取調掛によって編集され、翌年、刊行された。ここでの「君が代」の歌詞は、現代の「君が代」とは若干異なり、また2番まであった。曲も英国人ウェッブ(英語版)が作曲した別曲で、小学校では当初こちらが教えられた。
「 第二十三 君が代
一 君が代は ちよにやちよに さゞれいしの巌となりて こけのむすまでうごきなく 常磐(ときは)かきはに かぎりもあらじ
二 君が代は千尋(ちひろ)の底の さゞれいしの鵜のゐる磯と あらはるゝまでかぎりな きみよの栄をほぎたてまつる 」
また、陸軍省もエッケルト編曲の「君が代」を国歌とは認めず、天皇行幸の際には「喇叭オーシャンヲ奏ス」と定めており、天覧の陸軍大調練には「オーシャン」が演奏されていた。1882年(明治15年)、音楽取調掛が文部省の命を受けて「君が代」の国歌選定に努めたが、実現しなかった。ウェッブの「君が代」はあまり普及しなかった。雅楽調のエッケルト編曲「君が代」は好評で、天皇礼式曲として主として海軍で演奏された。
1888年(明治21年)、海軍省が林廣守作曲、エッケルト編曲「君が代」の吹奏楽譜を印刷して「大日本礼式 Japanische Hymne (von F.Eckert))」として各官庁や各条約国に送付した。1889年(明治22年)の音楽取調掛編纂『中等唱歌』にはエッケルト編曲の礼式曲が掲載され、1889年12月29日「小学校ニ於テ祝日大祭日儀式ニ用フル歌詞及楽譜ノ件」では『小学唱歌集 初編』と『中等唱歌』の双方が挙げられた。ただし、当初は国内でそれを認めていた人は必ずしも多くなかった。
礼式曲「君が代」の普及は、1890年(明治23年)の『教育勅語』発布以降、学校教育を通じて強力に進められた。1891年(明治24年)、「小学校祝日大祭日儀式規定」が制定され、この儀式では祝祭当日にふさわしい歌を歌唱することが定められた。
1893年(明治26年)8月12日、文部省は「君が代」等を収めた「祝日大祭日歌詞竝樂譜」を官報に告示した。ここには、「君が代」のほか、「一月一日」(年のはじめの)、「紀元節」(雲に聳ゆる)、「天長節」(今日の佳き日は)など8曲を制定発表している。「君が代」は、作曲者は林廣守、詞については「古歌」と記され、調子は「大日本礼式」より一音高いハ調とされ、4分の4拍子であるが休符は使用されなかった。
「 官報第337号
文部省告示第三號 小學校ニ於テ祝日大祭日ノ儀式ヲ行フノ際唱歌用ニ供スル歌詞竝樂譜 別册ノ通撰定ス 明治二十六年八月十二日 文部大臣井上毅 」
1897年(明治30年)11月19日の陸軍省達第153号で「『君が代』ハ陛下及皇族ニ対シ奉ル時に用ユ」としており、ここにおいて「君が代」はようやくエッケルト編曲の現国歌に統一された。「君が代」は、学校儀式において国歌として扱われ、紀元節、天長節、一月一日には児童が学校に参集して斉唱され、また、日清戦争(1894年 - 1895年)・日露戦争(1904年 - 1905年)による国威発揚にともなって国民間に普及していった。1903年(明治36年)にドイツで行われた「世界国歌コンクール」では、「君が代」が一等を受賞している。ただし、明治時代にあっては、国歌制定の議は宮内省や文部省によって進められたものの、すべて失敗しており、法的には小学校用の祭日の歌にすぎなかった。
1912年(大正元年)8月9日、「儀制ニ關スル海軍軍樂譜」が制定され、1914年(大正3年)に施行された「海軍禮式令」では、海軍における「君が代」の扱いを定めている。
「 第一號 君カ代 天皇及皇族ニ對スル禮式及一月一日、紀元節、天長節、明治節ノ遙拜式竝ニ定時軍艦旗ヲ掲揚降下スルトキ 」
軍艦旗の掲揚降下とは、朝8時に掲揚し日没時に降下する、古くからの世界共通の慣習であり、海上自衛隊でも引き継がれている。軍楽隊が乗船している艦が外国の港湾に停泊している場合は、自国の国歌で掲揚降下をおこなったのち、訪問国の国歌を演奏する習わしとなっている。
国歌「君が代」の成立​
第二次世界大戦前​
「君が代」は、正式な国歌ではなかったものの、国際的な賓客の送迎やスポーツ関係などで国歌に準じて演奏・歌唱されることが多くなり、とくに昭和10年代に入るとこの傾向はいっそう顕著となった。小学校の国定修身教科書には「私たち臣民が『君が代』を歌ふときには、天皇陛下の万歳を祝ひ奉り、皇室の御栄を祈り奉る心で一ぱいになります。」(『小学修身書』巻四)と、また、1941年(昭和16年)に設立された国民学校の修身教科書でも「君が代の歌は、天皇陛下のお治めになる御代は千年も万年もつづいてお栄えになるように、という意味で、国民が心からお祝い申し上げる歌であります。」(国民学校4年用国定修身教科書『初等科修身二』)と記された。日中戦争から太平洋戦争にかけての時期には、大伴家持の和歌に1937年(昭和12年)に信時潔が曲をつけた「海行かば」も第二国歌のような扱いを受け、様々な場面で演奏・唱和された。
第二次世界大戦後​
第二次世界大戦後には、連合国軍総司令部(GHQ)が日本を占領し、日の丸掲揚禁止とともに、「君が代」斉唱を全面的に禁止した。その後GHQは厳しく制限しつつ、ごく特定の場合に掲揚・斉唱を認め、1946年(昭和21年)11月3日の日本国憲法公布記念式典で昭和天皇・香淳皇后臨席のもと「君が代」が斉唱された。しかし、半年後の1947年(昭和22年)5月3日に開催された憲法施行記念式典では「君が代」でなく憲法普及会が選定した国民歌「われらの日本」(作詞・土岐善麿、作曲・信時潔)が代用曲として演奏され、天皇退場の際には「星条旗よ永遠なれ」が演奏された。「君が代」の歌詞について、第二次世界大戦前に「国体」と呼ばれた天皇を中心とした体制を賛えたものとも解釈できることから、一部の国民から国歌にはふさわしくないとする主張がなされた。たとえば読売新聞は1948年(昭和23年)1月25日の社説において、「これまで儀式に唄ったというよりむしろ唄わせられた歌というものは、国家主義的な自己賛美や、神聖化された旧思想を内容にしているため、自然な心の迸りとして唄えない」とした上で「新国歌が作られなくてはならない」と主張した。
また、「君が代」に代わるものとして、1946年、毎日新聞社が文部省の後援と日本放送協会の協賛を受けて募集・制作した新憲法公布記念国民歌「新日本の歌」(土井一郎作詞、福沢真人作曲)がつくられ、1948年(昭和23年)には朝日新聞社と民主政治教育連盟が日本放送協会の後援を受けて募集・制作した国民愛唱の歌「こゝろの青空」(阿部勇作詞、東辰三作曲)がつくられた。前者は日本コロムビアより、後者は日本ビクターより、それぞれレコード化されるなどして普及が図られた。1951年1月、日本教職員組合(日教組)が「君が代」に代わる「新国歌」として公募・選定した国民歌として「緑の山河」(原泰子作詞、小杉誠治作曲)もつくられた。しかし、1951年(昭和26年)9月のサンフランシスコ平和条約以降は、礼式の際などに、再び「君が代」が国歌に準じて演奏されることが多くなった。
GHQ占領下の学校・教育現場では、1946年(昭和21年)の国民学校令施行規則から「君が代」合唱の部分が削除されていた。しかし、文部省の天野貞祐文部大臣による国民の祝日に関する「談話」などから、1950年(昭和25年)10月17日に「学校や家庭で日の丸掲揚、君が代斉唱することを推奨する」との通達が全国の教育委員会へ行われており、主権回復後の1958年(昭和33年)学習指導要領に「儀式など行う場合には国旗を掲揚し、君が代を斉唱することが望ましい」と記載されたことなどから、学校で再び日の丸掲揚・君が代斉唱が行われるようになり、これに反対する日本教職員組合等との対立が始まった。その後、学習指導要領は「国歌を斉唱することが望ましい(1978年)」、「入学式や卒業式などにおいては、その意義を踏まえ、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導するものとする(1989年)」と改訂され、現在は入学式・卒業式での掲揚・斉唱が義務付けられている。
「君が代」は事実上の国歌として長らく演奏されてきたが、法的に根拠がないことから法制化が進み、1999年(平成11年)8月9日、「国旗及び国歌に関する法律」(国旗国歌法)が成立し、13日に公布(号外第156号)され、即日施行された。日本国政府の公式見解は、国旗国歌法案が提出された際の平成11年6月11日の段階では「『君』とは、『大日本帝国憲法下では主権者である天皇を指していたと言われているが、日本国憲法下では、日本国及び日本国民統合の象徴である天皇と解釈するのが適当である。』(「君が代」の歌詞は、)『日本国憲法下では、天皇を日本国及び日本国民統合の象徴とする我が国の末永い繁栄と平和を祈念したものと理解することが適当である』」としたが、そのおよそ2週間後の6月29日に「(「君」とは)『日本国憲法下では、日本国及び日本国民統合の象徴であり、その地位が主権の存する国民の総意に基づく天皇のことを指す』『『代』は本来、時間的概念だが、転じて『国』を表す意味もある。『君が代』は、日本国民の総意に基づき天皇を日本国及び日本国民統合の象徴する我が国のこととなる』(君が代の歌詞を)『我が国の末永い繁栄と平和を祈念したものと解するのが適当』」と変更した。
なお、同法案は衆議院で賛成403、反対86(投票総数489)で平成11年7月22日に、参議院では賛成166、反対71(投票総数237)で平成11年8月9日に、それぞれ賛成多数で可決された。
「 国旗及び国歌に関する法律
第二条 国歌は、君が代とする。2,君が代の歌詞及び楽曲は、別記第二のとおりとする。 」
この「別記第二」として掲載されているハ調の「君が代」の楽譜には、テンポの指定や強弱記号がなく、また、本来6カ所あるべきスラーが付されていないなど、不完全なものであった。
現状​
「君が代」は、国旗国歌法によって公式に国歌とされている。法制定以前にも、1974年(昭和49年)12月に実施された内閣府・政府広報室の世論調査において、対象者の76.6パーセントが「君が代は日本の国歌(国の歌)としてふさわしい」と回答する一方で、「ふさわしくない」と回答したのは9.5パーセントだった。
なお、日本コロムビアから発売した「君が代」を収録したCDは1999年までの10年間に全種累計で約10万枚を売り上げ、キングレコードから発売した「君が代」を含むCD『世界の国歌』は改訂盤が発売されるごとに毎回1万数千枚を売り上げている(1999年時点)。
楽曲としての「君が代」​
拍子と調子​
拍子は4分の4拍子である。
調子は、雅楽の六調子のうち呂旋に属する壱越調である。現行「君が代」は、1880年(明治13年)の初演の際の楽譜(「大日本礼式」)では変ロ調であったが、1893年(明治26年)の「祝日大祭日歌詞竝樂譜」以降はハ調となっている。
テンポと演奏時間​
1888年(明治21年)のエッケルト編曲「大日本礼式」におけるテンポは、四分音符=70(1分間に四分音符70拍)と設定されていた。このテンポで演奏すると、演奏時間はだいたい37秒となる。1912年(大正元年)の「儀制ニ関スル海軍軍楽譜」別冊収載の「海軍儀制曲総譜」の「君が代」にはテンポ表示がなく、Larghetto(ややおそく)の速度標語が記載されている。1893年(明治26年)8月の文部省告示「祝日大祭日歌詞竝楽譜」では、四分音符=69であった。
四分音符=60で演奏した場合、1拍を1秒とすると44秒となる。旧海軍では軍艦旗を掲揚降下する際、信号ラッパ譜の「君が代」(国歌の「君が代」とは別の曲、#関連する楽曲節の楽譜とサウンドファイルを参照)を45秒で吹奏しており、同じ港湾に軍楽隊が乗り込んだ旗艦が停泊していた場合、国歌の「君が代」もラッパ譜の「君が代」と同じく45秒で演奏していた。これは、習慣となったものであり、明文化された資料等は確認されていない。なお、四分音符=50で演奏すると52秒かかり、NHKのテレビ・ラジオ放送終了時に演奏されるテンポとなる。
2016年リオデジャネイロオリンピックでは、試合終了後の表彰式での君が代演奏が1分20秒におよび、テンポがゆっくりすぎるという声があがって話題となったが、これは、2012年頃、国際オリンピック委員会(IOC)が、国旗掲揚のときに統一感を出すためにと演奏時間を60〜90秒に収めた国歌音源をIOCに提出するよう指示したことに対し、日本オリンピック委員会(JOC)が応えたことによっているという。
評価​
作曲家の團伊玖磨は晩年に、国歌の必要条件として、短い事、エスニックである事、好戦的でない事の3条件を挙げ、イギリス国歌、ドイツ国歌、「君が代」の3つが白眉であると評した。なお、「君が代」については同時に、「音楽として、歌曲としては変な曲だが国歌としては最適な曲である。」と記した。
中田喜直、水谷川忠俊ら多くの作曲家から、歌詞と旋律が一致していないことが指摘されている。
君が代に関する諸説​
「九州王朝」起源説による解釈​
九州王朝説を唱えた古田武彦は自ら邪馬壹国の領域と推定している糸島半島や近隣の博多湾一帯のフィールド調査から次のような「事実」を指摘している。
「君が代」は、金印(漢委奴国王印)が発見された福岡県・志賀島にある志賀海神社において、神功皇后の三韓出兵の際、志賀海神社の社伝によると、その食前において山誉の神事を奉仕したことにより、神功皇后よりこの神事を「志賀島に打ち寄せる波が絶えるまで伝えよ」 と庇護され今に伝承されている4月と11月の祭礼(山誉め祭)にて以下のような神楽歌として古くから伝わっている。(後述する『太平記』にも、この舞が神功皇后の三韓出兵以前より伝わる神事(舞い)と推察される記述が存在する。)
なお、この山誉め祭は、民俗学的に価値のある神事として、福岡県の県指定の有形民俗文化財に指定されている。
「 君が代だいは 千代に八千代に さざれいしの いわおとなりてこけのむすまで
あれはや あれこそは 我君のみふねかや うつろうがせ身み骸がいに命いのち 千せん歳ざいという
花こそ 咲いたる 沖の御おん津づの汐早にはえたらむ釣つる尾おにくわざらむ 鯛は沖のむれんだいほや
志賀の浜 長きを見れば 幾世経らなむ 香椎路に向いたるあの吹上の浜 千代に八千代まで
今宵夜半につき給う 御船こそ たが御船ありけるよ あれはや あれこそは 阿曇の君のめし給う 御船になりけるよ
いるかよ いるか 汐早のいるか 磯いそ良らが崎に 鯛釣るおきな — 山誉め祭、神楽歌 」
糸島・博多湾一帯には、千代の松原の「千代」、伊都国の王墓とされる平原遺跡の近隣に細石神社の「さざれ石」、細石神社の南側には「井原鑓溝遺跡」や「井原山」など地元住民が「いわら=(いわお)」と呼ぶ地名が点在し、また若宮神社には苔牟須売神(コケムスメ)が祀られ極めて狭い範囲に「ちよ」 「さざれいし」 「いわら」 「こけむすめ」と、「君が代」の歌詞そのものが神社、地名、祭神の4点セットとして全て揃っていること。
細石神社の祭神は「盤長姫(イワナガヒメ)」と妹の「木花咲耶姫(コノハナノサクヤビメ)」、若宮神社の祭神は「木花咲耶姫(コノハナノサクヤビメ)」と「苔牟須売神(コケムスメ)」であるが「盤長姫命(イワナガヒメ)」と妹の「木花咲耶姫(コノハナノサクヤビメ)」は日本神話における天孫降臨した瓊瓊杵尊(ニニギノ尊)の妃であり日本の神話とも深く結びついている。
上記の事から、「君が代」の誕生地は、糸島・博多湾岸であり「君が代」に歌われる「君」とは皇室ではなく山誉め祭神楽歌にある「安曇の君」(阿曇磯良)もしくは別名「筑紫の君」(九州王朝の君主)と推定。
『古今和歌集』の「君が代」については本来「君が代は」ではなく特定の君主に対して詩を詠んだ「我が君は」の形が原型と考えられるが、古今和歌集が醍醐天皇の勅命によって編まれた『勅撰和歌集』であり皇室から見ると「安曇の君」は朝敵にあたるため、後に有名な『平家物語』(巻七「忠度都落ち」)の場合のように“朝敵”となった平忠度の名を伏せて“読人しらず”として勅撰集(『千載和歌集』)に収録した「故郷花(ふるさとのはな)」のように、紀貫之は敢えてこれを隠し、「題知らず」「読人知らず」の形で掲載した。
糸島・博多湾一帯は参考資料」を見るように古くは海岸線が深く内陸に入り込んでおり、元来「君が代」とは「千代」→「八千代(=千代の複数形=千代一帯)」→「細石神社」→「井原、岩羅」と古くは海岸近くの各所・村々を訪ねて糸島半島の「若宮神社」に祀られている「苔牟須売神」へ「我が君」の長寿の祈願をする際の道中双六のような、当時の長寿祈願の遍路(四国遍路のような)の道筋のようなものを詠った民間信仰に根づいた詩ではないかと推定している。
なお、『太平記』には、「君が代」が奉納される山誉め祭の神楽とも関係する、阿曇磯良(阿度部(あどべ)の磯良)の出現について以下のように記述が存在する。
神功皇后は三韓出兵の際に諸神を招いたが、海底に住む阿度部の磯良だけは、顔にアワビやカキがついていて醜いのでそれを恥じて現れなかった。そこで住吉神は海中に舞台を構えて『磯良が好む舞を奏して誘い出すと』、それに応じて磯良が現れた。磯良は龍宮から潮を操る霊力を持つ潮盈珠・潮乾珠(日本神話の海幸山幸神話にも登場する)を借り受けて皇后に献上し、そのおかげで皇后は三韓出兵に成功したのだという。
海人族安雲氏の本拠である福岡県の志賀海神社の社伝でも、「神功皇后が三韓出兵の際に海路の安全を願って阿曇磯良に協力を求め、磯良は熟考の上で承諾して皇后を庇護した」とある。北九州市の関門海峡に面する和布刈神社は、三韓出兵からの帰途、磯良の奇魂・幸魂を速門に鎮めたのに始まると伝えられる。
作詞者について​
『古今和歌集』収載の賀歌「我が君は 千代に八千代に さゞれ石の 巌となりて 苔のむすまで」は「読人知らず」とされてきたが、その作者は文徳天皇の第一皇子惟喬親王に仕えていたとある木地師だったとする説がある。それによれば、当時は位が低かったために「読人知らず」として扱われたが、この詞が朝廷に認められたことから、詞の着想元となったさざれ石にちなみ「藤原朝臣石位左衛門」の名を賜ることとなったというものである。
また、上述の堯智『古今和歌集陰名作者次第』では、この歌の作者は橘清友ではないかとしている。
松永文相報告​
1985年(昭和60年)2月26日の閣議で松永光文部大臣は文部省の調査で「君が代」には3番まで歌詞があると報告している。それによれば、
「 君が代
一 君が代は 千代に八千代に さゞれ石の 巌となりて 苔の生すまで
二 君が代は 千尋の底の さゞれ石 鵜のゐる磯と あらはるるまで
三 君が代は 限りもあらじ 長浜の 砂の数は よみつくすとも 」
である。このうち二番は源頼政のよんだ歌、三番は光孝天皇の大嘗祭に奉られた歌である。  
 
古関裕而 ( こせきゆうじ 1909 - 1989 )

 

日本の作曲家。本名は古關 勇治(読み同じ)。妻は声楽家で詩人の古関金子。気品ある格式高い曲風で知られ、現在でも数多くの作品が愛されている。生涯で5千に及ぶ曲を作曲したとされ、また、楽器を一切使わずに頭の中だけで作曲を行い、同時に3つの曲を作っていたといわれる。
福島に生まれ、幼少期より音楽と作曲活動に親しみ、青年期には金須嘉之進に師事。1929年に国際現代音楽協会主催現代音楽祭作品公募のイギリス支部推薦作品として、自身の作品がノミネート。これを日本の新聞で「チェスター社主催作品公募入選二等」と報道されてしまったことをきっかけとし、それを機会に山田耕筰の推挙で東京の楽壇に進出。クラシック畑からポピュラー畑に転身、数多くの流行歌・歌謡曲や映画音楽、軍歌の作曲を手掛け、音丸の「船頭可愛や」、中野忠晴・伊藤久男らの「露営の歌」、伊藤久男の「暁に祈る」、霧島昇・波平暁男の「若鷲の歌」などを発表した。戦後は、ラジオドラマ「鐘の鳴る丘」の主題歌「とんがり帽子」や、二葉あき子の「フランチェスカの鐘」、藤山一郎の「長崎の鐘」、伊藤久男の「イヨマンテの夜」、織井茂子の「君の名は」、岡本敦郎の「高原列車は行く」ほか、数多くの大ヒット曲を生み出した。
他方で、早稲田大学第一応援歌「紺碧の空」、慶應義塾大学応援歌「我ぞ覇者」、中央大学応援歌「あゝ中央の若き日に」、東京農業大学応援歌「カレッジソング」、名城大学応援歌「真澄の空に」、三重県立四日市高等学校応援歌「希望の門」、 全国高等学校野球選手権大会の大会歌「栄冠は君に輝く」、阪神タイガースの球団歌「大阪(阪神)タイガースの歌(六甲おろし)」、読売ジャイアンツの球団歌「巨人軍の歌(闘魂こめて)」、中日ドラゴンズの初代球団歌「ドラゴンズの歌(青雲たかく)」、東京五輪の選手団入場行進曲「オリンピック・マーチ」、NHKスポーツ中継テーマ「スポーツショー行進曲」など、応援歌、行進曲の分野でも数多の作曲を手がけ、和製スーザと呼ばれた。巨人、阪神は試合が伝統の一戦と呼ばれる間柄だが、古関本人はスポーツが苦手で、プロ野球にもあまり興味がなかったため、球団関係を気にすることなく作曲を引き受けた。
また、母校である福島商業高等学校の校歌「若きこころ」を作曲している。
生涯​
幼少期​
福島県福島市大町にあった呉服店「喜多三(きたさん)」に長男として誕生。父親が音楽好きで、大正時代ではまだ珍しかった蓄音機を購入し、いつもレコードをかけていた。古関は幼少の頃から音楽の中で育ち、ほとんど独学で作曲の道を志していく。同じ大町の近所に鈴木喜八という5歳年上の少年が住んでおり、のちに野村俊夫(作詞家)となって古関とともに数々の曲を世に送り出すこととなる。
1916年(大正5年)、古関は7歳のときに福島県師範学校附属小学校(現福島大学附属小学校)へ入学した。担任の遠藤喜美治が音楽好きで、音楽の指導に力を入れていた。古関は10歳の頃には楽譜が読めるようになり、授業だけでは物足りなくなり、市販の妹尾楽譜などを買い求めるようになった。ますます作曲に夢中になり、次第にクラスメイトが詩を作って古関に作曲を依頼してくるようになる。こうして子供の頃から作曲に親しむこととなった。
青少年期​
1922年(大正11年)、旧制福島商業学校(現福島商業高等学校)に入学した。同校に進学したのは家業を継ぐためであったが、常にハーモニカを携帯し、学業より作曲に夢中だったという。妹尾楽譜や山田耕筰著の「作曲法」等を買い集め、独学での作曲法の勉強を続けていた、年に2回行われていた校内弁論大会にハーモニカで音楽をつけることになり、古関が書き溜めていた曲を合奏用に編曲して大勢で演奏することになった。初めて自分の作品が披露された出来事であった。しかし、在学中には家業の呉服店が倒産する事態にも遭った。
学校を卒業する頃、当時の日本では有数のハーモニカバンドであった福島ハーモニカーソサエティーに入団する。古関は作曲・編曲・指揮を担当し、地元の音楽仲間が主宰していた「火の鳥の会」が近代音楽家のレコードコンサートを開いていた。ここで初めて近代フランス、ロシアの音楽に出会い、衝撃を受ける。傾倒したのは、リムスキー=コルサコフの『シェヘラザード』とストラヴィンスキーの『火の鳥』、ドビュッシー、ムソルグスキーなどである。このレコードコンサートには頻繁に通っていたという。
1928年、福島商業学校を卒業後、母方の伯父に誘われ、伯父が頭取を務める川俣銀行(現東邦銀行川俣支店)に勤務した。町内の寄宿先である、母の生家(いとこの実家)から通勤する一方で、作曲の勉強を続けていた。この頃、学生時代から憧れていた山田耕筰の事務所へ楽譜を郵送し、何度か手紙のやり取りを行っている。古関は、当時発行される山田の楽譜はほとんど空で覚えていたという。福島ハーモニカーソサエティーとともに仙台中央放送局(現NHK仙台放送局)の記念番組に出演する。この頃、リムスキー=コルサコフの弟子で仙台に在住していた金須嘉之進に和声法を師事することになった。金須は正教徒で、正教の聖歌を学ぶため革命前のペテルブルクの聖歌学校に留学し、そのときリムスキー=コルサコフから管弦楽法を学んでいた。
コロムビア専属へ​
1929年(昭和4年)、イギリスロンドン市のチェスター社が発行する音楽雑誌『ザ・チェスターリアン』第10巻第77号に掲載された管弦楽作品の懸賞募集を見て、同年7月に管弦楽のための舞踊組曲『竹取物語』を含む5つの作品を応募した。同年12月に福島商業学校の恩師、丹治嘉市に「2等に5曲共入賞致しました。協会からは既に旅費、及びその他の費用として、£400の金が送金されて来ました。」と手紙で報告し、1930年(昭和5年)1月23日の福島民報新聞、福島民友新聞など各紙で入賞を大々的に報道された。これらを典拠として『竹取物語』を日本人初の国際的作曲コンクール入賞作品とする文献があるが、この作品が二等に入賞したとされる作曲懸賞募集の詳細は明らかになっていない。これは国際現代音楽協会主催現代音楽祭作品公募へのイギリス支部推薦を、古関が入賞と勘違いしたという説もある。日本人の国際作曲コンクールあるいは国際作品公募において、現在も日本初であることが記録されているのは外山道子の「やまとの声」である。
『竹取物語』は、色彩的で斬新なオーケストレーションがなされており、また、打楽器のみで演奏される楽章なども含まれていたといわれる。
この入賞の報道を読んだ、声楽家志望で愛知県豊橋市在住の内山金子(きんこ)が古関にファンレターを送り、その後も100通を超える熱烈な文通を経て1931年2月9日、古関21歳、金子18歳で入籍し、同年5月19日に結婚式を挙げた。古関はたいへんな愛妻家で、晩年までおしどり夫婦であったという。
この頃、古関は複数の交響曲やピアノ協奏曲、交響詩『ダイナミック・モーター』、弦楽四重奏曲など、膨大な作品群を完成させていたが、それらの楽譜は遺族が管理を怠り現在ほとんど行方不明になっている。『竹取物語』の所在も知れないという。
1930年9月、コロムビアの顧問山田耕筰の推薦でコロムビア専属の作曲家に迎え入れられ、夫婦で上京した。東京では菅原明朗に師事した。菅原とは同年9月から11月頃に出会い、童謡歌手の古筆愛子の自宅で開かれた勉強会で菅原からリムスキー=コルサコフ著『実用和声法』を教科書として学んだのち、1933年から1934年頃までの2年間、菅原から個人教授を受けた。菅原は『竹取物語』のスコアを読んで驚き、古関には深井史郎よりも才能があったと、後年まで称賛している。師と仰いだ菅原明朗のほかに、橋本國彦とも親交が厚かった。
しかし、古関は実家が経済的に破綻してからは一族を養わなくてはならず、次第にクラシックの作曲から離れざるをえなくなった。コロムビア入社も主に生活費のためであったと考えられる。古関本人は作曲の勉強のための洋行を希望していたが、自身の内気な性格と当時の不況などが重なりそれは叶わなかった。東京に移ってからのオーケストラ作品には、関東大震災を描いた交響詩『大地の反逆』がある。これはストラヴィンスキー的な音楽であるといわれている。また、無調的な歌曲『海を呼ぶ』なども作曲している。
1935年(昭和10年)7月、古関が25歳の頃、新民謡調の「船頭可愛や」(詩:高橋掬太郎、唄:音丸)が大ヒットし、人気作曲家の仲間入りを果たす。この歌は世界の舞台でも活躍したオペラ歌手・三浦環もレコードに吹き込んだ。
この頃、声楽家志望だった妻の金子は帝国音楽学校へ進んでいた。金子は後に声楽家のベルトラメリ能子(よしこ)及びその師のディーナ・ノタルジャコモの教えを受けた。また同時期に古関は同郷の伊藤久男と交流を持ち、伊藤久男も帝国音楽学校へ入学することになる。
太平洋戦争中から戦後​
太平洋戦争中の古関は数々の名作戦時歌謡を発表した。古関メロディーのベースであったクラシックと融合した作品は、哀愁をおびたせつない旋律のもの(「愛国の花」「暁に祈る」など)が多かったが、それが戦争で傷ついた大衆の心の奥底に響き、支持された。戦時歌謡を作るかたわら、ヴァイオリン協奏曲のスケッチを重ねていたが、完成に至らぬうちに譜面が散逸したという。古関自身、前線での悲惨な体験や目撃が「暁に祈る」や「露営の歌」に結びついたと証言している。また自らの作品で戦地に送られ、戦死した人への自責の念を持ち続けていた。
戦後は、暗く不安な日本を音楽によって明るくするための活動に力を注いだ。長崎だけにとどまらず日本全体に向けた壮大な鎮魂歌「長崎の鐘」。戦災孤児の救済がテーマのラジオドラマ『鐘の鳴る丘』の主題歌「とんがり帽子」。戦後日本の発展の象徴でもある1964年開催の東京オリンピックの開会式に鳴り響いた「オリンピック・マーチ」。現在も毎年夏の甲子園に流れている高校野球大会歌「栄冠は君に輝く」。その他にも「フランチェスカの鐘」「君の名は」「高原列車は行く」などの格調高い曲を数多く創作した。また、クラシックの香り溢れる流行歌や、勇壮で清潔感のあるスポーツ音楽が大衆の心をとらえた。
テノールの美しい音色と格調のあるドイツ歌曲の唱法を基礎にした「クルーン唱法」で歌唱する藤山一郎、叙情溢れるリリックなバリトンで熱唱する伊藤久男などの歌手にも恵まれた。
劇作家の菊田一夫と名コンビを組み、数々のラジオドラマ、テレビドラマ、映画、演劇、ミュージカルのヒット作品を世に送り出した。1961年に菊田と手がけた森光子主演の『放浪記』は長期公演舞台となった。また、戦後の古関は、クラシック音楽の作曲を完全に諦めていたわけではなく、菊田と共同したミュージカル『敦煌』から交響組曲『敦煌』を編んでいる。
また、NHKテレビラジオを通じて各音楽番組に出演。ラジオドラマ『君の名は』では放送中に、スタジオにハモンドオルガンを持ち込み、生演奏をして劇中伴奏を務め、他の番組でも時折生演奏を行った。
晩年と死後​
フジテレビ系の音楽番組『オールスター家族対抗歌合戦』の審査員を、1972年10月の放送開始から初代司会者の萩本欽一とともに1984年6月24日に降板するまで務めていた。
1977年、「栄冠は君に輝く」制定30周年を記念して夏の甲子園の開会式に招待された。大会旗掲揚に当たり、大会歌の大合唱が起こりその光景に感激したという。また、この大会では古関の母校である福島商業高校が甲子園初勝利を挙げ、自らが作曲した校歌を聴くことが出来た。
1979年には最初の福島市名誉市民に選ばれ、同地には1988年11月12日に「福島市古関裕而記念館」も建てられている。しかし古関はこの頃すでに入院生活を送っていたため、足を運ぶことは出来なかった。
傘寿の誕生日を迎えて1週間足らずの1989年(平成元年)8月18日午後9時30分、古関は脳梗塞のため聖マリアンナ医科大学病院で没した(享年80歳)。墓所は妻・金子と同じ神奈川県川崎市の春秋苑。古関家の墓がある福島市信夫山にも分骨された。同年の秋ごろ、古関への国民栄誉賞の授与が遺族に打診されるも古関の遺族はこれを辞退した。その理由について、古関の長男は「元気に活動している時ならともかく、亡くなったあとに授与することに意味があるのか」と没後追贈に疑問を持ったためとしている。なお、このタイミングでの国民栄誉賞受賞となれば、作曲家としては1978年(昭和53年)の古賀政男に次いで史上二人目となる予定であった。
1998年5月、レンガ通りに古関裕而生誕の地記念碑が建てられた。
2009年4月11日に生誕100年を記念し、JR福島駅の発車メロディーに古関の作品が採用されることになった。在来線ホームに「高原列車は行く」、新幹線ホームに「栄冠は君に輝く」が採用され、発車メロディー用に30秒間にアレンジされた曲が流れている。
同年8月11日、同じく生誕100年を記念しモニュメントが古関の地元・福島市の福島駅東口駅前広場に設置された。制作・施工費は約1500万円。30歳代後半の古関が愛用したオルガンを奏でる姿をかたどったデザインで、午前8時から午後8時までの1時間おきに、「栄冠は君に輝く」「長崎の鐘」などの古関が作曲したメロディーが流れる仕組みになっている。
2017年夏以降、出生地などで「野球殿堂」入りを応援する動きが活発になっている。
2020年春から、NHK連続テレビ小説として、古関をモデルとした「古山裕一」を主人公とする『エール』が、窪田正孝の主演(子供時代・石田星空)で放送されている。
2020年6月30日、「高原列車は行く」のモデルとなった磐梯急行電鉄(出典原文では「沼尻軽便鉄道」記載)の歴史をたどり猪苗代町住民有志が作製したDVDが古関の出身地・福島市に寄贈された。
太平洋戦争前 - 戦中期​ 作品​
1931年「紺碧の空 〜早稲田大学応援歌〜」(作詞:住治男)
1931年「福島行進曲」(作詞:野村俊夫、歌:天野喜久代)
1931年「福島夜曲(セレナーデ)」(作詞:竹久夢二、歌:阿部秀子)
1932年「恋の哀愁(エレジー)」(作詞:西岡水郎、歌:天野喜久代)
1934年「宮崎県民歌(初代)」(作詞:桑原節次、歌:中野忠晴、伊藤久男)
1934年「利根の舟唄」(作詞:高橋掬太郎、歌:松平晃)
1935年「船頭可愛や」(作詞:高橋掬太郎、歌:音丸)
1935年「東京農業大学応援歌 カレッジソング」(作詞:吉田精一)
1936年「ミス仙台」(作詞:西條八十、歌:二葉あき子)
1936年「大阪タイガースの歌(六甲颪)」(作詞:佐藤惣之助、歌:中野忠晴)
1936年「慰問袋を」(作詞:高橋掬太郎、歌:コロムビア合唱団)
1936年「大島くづし」(作詞:西條八十、歌:音丸)
1936年「串本そだち」(作詞:西岡水郎、歌:音丸)
1936年「米山三里」(作詞:高橋掬太郎、歌:音丸)
1936年「浜は九十九里」(作詞:高橋掬太郎、歌:音丸)
1937年「釜石市民歌」(作詞:広瀬喜志、歌:霧島昇)
1937年「田家の雪」(作詞:西條八十、歌:音丸)
1937年「彈雨を衝いて」(作詞:高橋掬太郎、歌:伊藤久男)
1937年「露營の歌」(作詞:薮内喜一郎、歌:中野忠晴、松平晃、伊藤久男、霧島昇
     、佐々木章)
1938年「愛國の花」(作詞:福田正夫、歌:渡辺はま子)
1938年「婦人愛國の歌」(作詞:仁科春子、歌:霧島昇、松原操)
1938年「憧れの荒鷲」(作詞:西條八十、歌:ミス・コロムビア、二葉あき子、松平晃)
1939年「巨人軍の歌(野球の王者)」(作詞:佐藤惣之助、歌:伊藤久男)
1939年「よくぞ送って下さった 斎藤大使遺骨礼送に対し米国へ寄せる感謝の歌」(作詞:西條八十、歌:瀬川伸)
1939年「荒鷲慕いて」(作詞:西條八十、歌:松平晃、松原操、二葉あき子、香取みほ子
     、渡辺はま子)
1939年「月のバルカローラ」(作詞:服部竜太郎、歌:三浦環)
1940年「暁に祈る」(作詞:野村俊夫、歌:伊藤久男)
1940年「嗚呼北白川宮殿下」(作詞:二荒芳徳、歌:伊藤武雄、二葉あき子)
1941年「海の進軍」(作詞:海老名正男、歌:伊藤久男、藤山一郎、二葉あき子)
1941年「宣戦布告」(作詞:野村俊夫、歌:不明)
1941年「英國東洋艦隊潰滅」(作詞:高橋掬太郎、歌:藤山一郎)
1941年「みんな揃って翼賛だ」(作詞:西條八十、歌:霧島昇、松原操、高橋裕子)
1941年「野口英世」(作詞:土井晩翠、歌:不明)
1942年「斷じて勝つぞ」(作詞:サトウハチロー、歌:藤山一郎)
1942年「皇軍の戦果輝く」(作詞:野村俊夫、歌:霧島昇)
1942年「防空監視の歌」(作詞:相馬御風、歌:藤山一郎、二葉あき子)
1942年「大東亞戰争陸軍の歌」(作詞:佐藤惣之助、歌:伊藤久男、黒田進(楠木繁夫)
     、酒井弘)
1942年「シンガポール晴れの入城」(作詞:野村俊夫、歌:伊藤久男)
1942年「アメリカ爆撃」(作詞:野村俊夫、歌:コロムビア合唱団)
1942年「空の軍神」(作詞:西條八十、歌:藤山一郎)
1943年「みなみのつわもの」(南方軍報道部選定、歌:伊藤久男)
1943年「大南方軍の歌」(南方軍制定歌、歌:霧島昇)
1943年「海を征く歌」(作詞:大木惇夫、歌:伊藤久男)
1943年「戰ふ東條首相」(作詞:小田俊與、歌:伊藤武雄)
1943年「あの旗を撃て」(作詞:大木惇夫、歌:伊藤久男)
1943年「かちどき音頭」(作詞:野村俊夫、歌:佐々木章、松原操、近江俊郎)
1943年「決戦の大空へ」(作詞:西條八十、歌:藤山一郎)
1943年「若鷲の歌(予科練の歌)」(作詞:西條八十、歌:霧島昇、波平暁男)
1943年「撃ちてし止まん」(作詞:小田俊與、歌:霧島昇)
1944年「ラバウル海軍航空隊」(作詞:佐伯孝夫、歌:灰田勝彦)
1944年「制空戰士」(作詞:大木惇夫、歌:波平暁男、酒井弘、奈良光枝)
1944年「雷撃隊出動の歌」(作詞:米山忠雄、歌:霧島昇、波平暁男)
1944年「臺灣沖の凱歌」(作詞:サトウハチロー、歌:近江俊郎、朝倉春子)
1944年「フィリピン沖の決戦」(作詞:藤浦洸、歌:伊藤武雄)
1944年「嗚呼神風特別攻撃隊」(作詞:野村俊夫、歌:伊藤武雄、安西愛子、伊藤久男)
1944年「比島決戦の歌」(作詞:西條八十、歌:酒井弘、朝倉春子)
1944年「アイウエオの歌」(作詞:サトウハチロー、歌:日蓄合唱団、演奏:大東亜交響
     楽団、松竹軽音楽団)
1945年「特別攻撃隊(斬込隊)」(作詞:勝承夫、歌:藍川由美)  
 

 

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■昭和の軍歌 

 

椰子の実   (昭和11年) 作詩/島崎藤村 作曲/大中寅二 
名も知らぬ 遠き島より 流れ寄る 椰子の実一つ
故郷(ふるさと)の岸を 離れて 汝(なれ)はそも 波に幾月(いくつき)
旧(もと)の木は 生(お)いや茂れる 枝はなお 影をやなせる
われもまた 渚(なぎさ)を枕 孤身(ひとりみ)の 浮寝(うきね)の旅ぞ
実をとりて 胸にあつれば 新(あらた)なり 流離(りゅうり)の憂(うれい)
海の日の 沈むを見れば 激(たぎ)り落つ 異郷(いきょう)の涙
思いやる 八重(やえ)の汐々(しおじお) いずれの日にか 国に帰らん
上海航路   (昭和11年) 作詞/佐藤惣之助 作曲/田村しげる
船は行く行く白波の 月のデッキの潮風に
胸の炎の消ゆるまで 語り明かした君と我
ああ懐かしの上海航路
   遠い故郷の思い出も 語り尽くしてその後は
   なぜに捨てたか散らしたか 白い涙のリラの花
   ああ懐かしの上海航路
紅い灯の点く四馬路の 角で逢うたり別れたり
若い命のある限り 踊り明かした君と我
ああ懐かしの上海航路  
露営の歌   (昭和12年) 作詞/薮内喜一郎 作曲/古関裕而
勝って来るぞと 勇ましく ちかって故郷(くに)を 出たからは
手柄たてずに 死なりょうか 進軍ラッパ 聴くたびに 
瞼に浮かぶ 旗の波
   土も草木も 火と燃える 果てなき曠野 踏みわけて
   進む日の丸 鉄兜 馬のたてがみ なでながら
   明日(あす)の命を 誰が知る
弾丸(たま)もタンクも 銃剣も しばし露営の 草まくら
夢に出てきた 父上に 死んで還(かえ)れと 励まされ
醒(さ)めて睨むは 敵の空
   思えば今日の 戦闘(たたかい)に 朱(あけ)に染まって にっこりと ・・・
戦(いくさ)する身は かねてから 捨てる覚悟で いるものを ・・・
海行かば   (昭和12年) 歌詞/大伴家持 作曲/信時潔
海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍
大君の 辺にこそ死なめ 返り見はせじ  
同期の桜   (昭和13年) 作詞/西條八十 作曲/大村能章
貴様と俺とは 同期の桜 同じ兵学校の 庭に咲く
咲いた花なら 散るのは覚悟 みごと散りましょ 国のため
   貴様と俺とは 同期の桜 同じ兵学校の 庭に咲く
   血肉分けたる 仲ではないが なぜか気が合うて 別れられぬ
・・・ 仰いだ夕焼け 南の空に 未だ還らぬ 一番機
   ・・・ あれほど誓った その日も待たず なぜに死んだか 散ったのか
貴様と俺とは 同期の桜 離れ離れに 散ろうとも
花の都の 靖国神社 春の梢に 咲いて会おう  
支那の夜   (昭和13年) 作詞/西条八十 作曲/竹岡信幸
支那の夜 支那の夜よ 港の灯り 紫の夜に
上るジャンクの 夢の船 ああ 忘られぬ 胡弓の音
支那の夜 夢の夜
   支那の夜 支那の夜よ 柳の窓に ランタンゆれて
   赤い鳥かご 支那娘 ああ やるせない 愛の歌 ・・・
支那の夜 支那の夜よ 君待つ宵は 欄干(おばしま)の雨に ・・・  
麦と兵隊   (昭和13年) 作詞/藤田まさと 作曲/大村能章
徐州徐州と 人馬は進む 徐州居よいか 住みよいか
洒落た文句に 振り返りゃ お国訛(なま)りの おけさ節
ひげがほほえむ 麦畠
   友を背にして 道なき道を 行けば戦野は 夜の雨
   「すまぬすまぬ」を 背中に聞けば 「馬鹿を云うな」と また進む
   兵の歩みの 頼もしさ
腕をたたいて 遥かな空を 仰ぐ眸(ひとみ)に 雲が飛ぶ ・・・
   行けど進めど 麦また麦の 波の深さよ 夜の寒さ ・・・ 
支那の夜   (昭和13年) 作詞/西条八十 作曲/竹岡信幸
支那の夜 支那の夜よ 
港の灯り 紫の夜に 上るジャンクの 夢の船 
ああ 忘られぬ 胡弓の音 支那の夜 夢の夜
   ・・・ 柳の窓に ランタンゆれて 赤い鳥かご 支那娘 
   ああ やるせない 愛の歌 ・・・
・・・ 君待つ宵は 欄干(おばしま)の雨に 花も散る散る 紅も散る 
ああ 別れても 忘らりょか ・・・  
九段の母   (昭和14年) 作詞/石松秋二 作曲/能代八郎
上野駅から 九段まで 勝手かって知らない じれったさ
杖つえをたよりに 一日がかり せがれ来たぞや 会いにきた
   空を衝つくよな 大鳥居おおとりい こんな立派な お社やしろに
   神と祀まつられ もったいなさよ 母は泣けます 嬉うれしさに
両手合あわせて ひざまずき 拝おがむ弾はずみの お念仏ねんぶつ
はっと気がつき うろたえました せがれ許ゆるせよ 田舎いなかもの
   鳶とびが鷹たかの子 産うんだよよな 今じゃ果報かほうが 身に余あまる
   金鵄勲章きんしくんしょうが 見せたいばかり 逢あいに来たぞや 九段坂
島育ち   (昭和14年) 作詞/有川邦彦 作曲/三界稔
赤い蘇鉄(そてつ)の 実も熟れる頃
加那(かな)も年頃 加那も年頃 大島育ち
   黒潮(くるしゅ)黒髪(くるかみ) 女身(うなぐみ)ぬかなしゃ
   想い真胸に 想い真胸に 織る島紬(つむぎ)
朝は西風 夜(よ)は南風
沖ぬ立神(たちがみゃ) 沖ぬ立神 又 片瀬波
   夜業(よなべ)おさおさ 織るおさの音
   せめて通わそ せめて通わそ 此の胸添えて  
出征兵士を送る歌   (昭和14年) 作詩/生田大三郎 作曲/林伊佐緒
わが大君に 召されたる 生命栄光(はえ)ある 朝ぼらけ
讃えて送る 一億の 歓呼は高く 天を衝く
いざ行け つわもの 日本男児!
   華と咲く身の 感激を 戍衣(じゅうい)の胸に 引き緊めて
   正義の軍(いくさ) 征くところ たれか阻まん その歩武を
   いざ行け つわもの 日本男児!
かがやく御旗 先立てて 越ゆる勝利の 幾山河
無敵日本の 武勲(いさおし)を 世界に示す ときぞ今
いざ行け つわもの 日本男児!
   守る銃後に 憂いなし 大和魂 ゆるぎなし
   国のかために 人の和に 大盤石の この備え
   いざ行け つわもの 日本男児!  
上海ブルース   (昭和14年) 作詞/北村雄三 作曲/大久保徳二郎
涙ぐんでる上海の 夢の四馬路(スマロ)の街の灯
リラの花散る今宵は 君を思い出す
何にも言わずに別れたね 君と僕
ガーデンブリッジ 誰と見る青い月
   甘く悲しいブルースに なぜか忘れぬ面影
   波よ荒れるな碼頭(はとば)の 月もエトランゼ ・・・  
上海の花売娘   (昭和14年) 作詞/川俣栄一 作曲/上原げんと
紅いランタン 仄かに揺れる 宵の上海 花売り娘
誰のかたみか 可愛い指輪 じっと見つめて 優しい瞳
ああ上海の 花売り娘
   霧の夕べも 小雨の宵も 港上海 花売り娘
   白い花籠 ピンクのリボン 繻子(しゅす)も懐かし 黄色の小靴
   ああ上海の 花売り娘
星も胡弓も 琥珀(こはく)の酒も 夢の上海 花売り娘
パイプくわえた マドロス達の ふかす煙りの 消えゆく影に
ああ上海の 花売り娘 
別れ船   (昭和15年) 作詞/清水みのる 作曲/倉若晴生
名残りつきない 果てしない 別れ出船の 銅鑼が鳴る
思いなおして あきらめて 夢は汐路に すてて行く
   さようならよの 一言は 男なりゃこそ 強く云う ・・・
希望はるかな 波の背に 誓う心も 君故さ ・・・ 
誰か故郷を想わざる   (昭和15年) 作詞/西條八十 作曲/古賀政男
花摘む野辺に日は落ちて みんなで肩を組みながら
唄をうたった帰りみち 幼馴染(おさななじみ)のあの友この友
ああ誰(たれ)か故郷を想わざる
   ひとりの姉が嫁ぐ夜に 小川の岸でさみしさに
   泣いた涙のなつかしさ 幼馴染のあの山この川 ・・・
都に雨の降る夜は 涙に胸もしめりがち ・・・ 
ズンドコ節 (海軍小唄)   作詞・作曲/不詳
汽車の窓から手をにぎり 送ってくれた人よりも
ホームの陰で泣いていた 可愛いあの娘(こ)が忘られぬ
トコズンドコ ズンドコ
   花は桜木人は武士 語ってくれた人よりも
   港のすみで泣いていた 可愛いあの娘が目に浮かぶ
   トコズンドコ ズンドコ
元気でいるかと言う便り 送ってくれた人よりも
涙のにじむ筆のあと いとしいあの娘が忘られぬ
トコズンドコ ズンドコ 
ダンチョネ節   作詞・作曲/不詳
沖の鴎と飛行機乗りは 
どこで散るやらネ 果てるやらダンチョネ
   俺が死ぬ時ハンカチ振って 
   友よ彼女よネ さようならダンチョネ
弾丸は飛び来るマストは折れる 
ここが命のネ 捨てどころダンチョネ
   俺が死んだら三途の川で 
   鬼を集めてネ 相撲とるダンチョネ
飛行機乗りには娘はやれぬ 
やれぬ娘がネ 行きたがるダンチョネ
   飛行機乗りには嫁には行けぬ 
   今日の花嫁ネ 明日の後家ダンチョネ
三浦岬でヨどんと打つ波ははネ 
可愛い男のサ 度胸試しダンチョネ
   泣いてくれるなヨ出船の時はネ 
   沖で櫓櫂もサ 手につかぬダンチョネ
逢いはせなんだかヨ館山沖でネ 
二本のマストのサ 大成丸ダンチョネ
   別れ船ならヨ夜更けに出しゃれネ 
   帆影見てさえサ 泣けてくるダンチョネ  
富士の白雪   (昭和17年) 作詞/佐伯孝夫 作曲/清水保雄
富士の白雪や朝日に解ける 解けて流れて駿河の海へ
駿河良いとこ新茶の香り 男次郎長は伊達なもの
   三保の松原寄せては返る 波に便りを貴方の見たや ・・・
慰問袋に新茶を添えて 思い出せとの謎ではないが ・・・
明日はお立ちか   (昭和17年) 作詞/佐伯孝夫 作曲/佐々木俊一
明日はお発ちかお名残り惜しや 大和男児の晴れの旅
朝日を浴びて出立つ君よ 拝む心で送りたや
   駒の手綱をしみじみとれば 胸にすがしい今朝の風 ・・・
時計見つめて今頃あたり 汽車を降りてか船の中 ・・・
若鷲の歌   (昭和18年) 作詞/西条八十 作曲/古関裕而
若い血潮の 予科練の 七つボタンは 桜に錨
今日も飛ぶ飛ぶ 霞ヶ浦にゃ でっかい希望の 雲が湧く
   燃える元気な 予科練の 腕はくろがね 心は火玉
   さっと巣立てば 荒海越えて 行くぞ敵陣 なぐり込み
仰ぐ先輩 予科練の 手柄聞くたび 血潮が疼く ・・・
   生命惜しまぬ 予科練の 意気の翼は 勝利の翼 ・・・ 
ラバウル小唄   (昭和19年) 作詞/若杉雄三郎 作曲/島口駒夫
さらばラバウルよ 又来るまでは しばし別れの 涙がにじむ
恋しなつかし あの島見れば 椰子の葉かげに 十字星
   船は出てゆく 港の沖へ 愛しあの娘の うちふるハンカチ
   声をしのんで 心で泣いて 両手合わせて ありがとう
波のしぶきで 眠れぬ夜は 語りあかそよ デッキの上で
星がまたたく あの星見れば くわえ煙草も ほろにがい
   赤い夕陽が 波間に沈む 果ては何処(いずこ)ぞ 水平線よ
   今日も遙々(はるばる) 南洋航路 男船乗り かもめ鳥
さすが男と あの娘は言うた 燃ゆる思いを マストに掲げ
揺れる心は あこがれ遥か 今日は赤道 椰子の島 
男散るなら   (昭和20年) 作詞:米山忠雄 作曲:鈴木静一
鉄砲玉とは俺いらのことよ 待ちに待つてた首途ださらば
戦友よ笑つて 今夜の飯は 俺の分まで食つてくれ
   でつかい魚雷を翼でかかへ 俺の得意は いざ体当り
   愉快ぢゃないか仇なす艦に あげる火柱 水柱
若い翼を茜に染めて 燃える地上に につこと笑や
それでいいのだ俺いらの一生 残す言葉も遺書もない
   生命は さくらの花よ 散つて九段で また咲き返る
   死んで生きるが 雷撃魂 死んで薫るが 大和魂 
嗚呼神風特別攻撃隊   (昭和20年) 作詞/野村俊夫 作曲/古関裕而
無念の歯噛み堪えつつ 待ちに待ちたる決戦ぞ
今こそ敵を屠らんと 奮い立ちたる若桜
   この一戦に勝たざれば 祖国の行く手いかならん
   撃滅せよの命受けし 神風特別攻撃隊
送るも行くも今生の 別れと知れど微笑みて
爆音高く基地を蹴る ああ神鷲の肉弾行
   大義の血潮雲染めて 必死必中体当り
   敵艦などて逃すべき 見よや不滅の大戦果
凱歌は高く轟けど 今は帰らぬますらおよ
千尋の海に沈みつつ なおも皇国の護り神
   熱涙伝う顔上げて 勲を偲ぶ国の民
   永久に忘れじその名こそ 神風特別攻撃隊
   神風特別攻撃隊  
 

 

リンゴの唄   (昭和21年) 作詞/サトウハチロー 作曲/万城目正
赤いリンゴに 口びるよせて だまってみている 青い空
リンゴはなんにも いわないけれど リンゴの気持は よくわかる
リンゴ可愛(かわ)いや可愛いやリンゴ
   あの娘(こ)よい子だ 気立てのよい娘 リンゴによく似た かわいい娘
   どなたが言ったか うれしいうわさ かるいクシャミも とんで出る
   リンゴ可愛いや可愛いやリンゴ
朝のあいさつ 夕べの別れ いとしいリンゴに ささやけば ・・・
   歌いましょうか リンゴの歌を 二人で歌えば なおたのし ・・・ 
引揚者を迎える歌    作詞/和田憲太郎 作曲/神原忠夫
昨日も今日も 浜辺に出ては 今か今かと お帰りを
待ってましたよ 少年おのこ等らは
   雪の降る日や 嵐の夜は 他国の空を 夢に見て
   あんじてましたよ 少女おとめ等らは
晴れた美空に 復員船が 見えた見えたと 胸おどる
願ってましたよ 童わらべ等らは
   今日は元気な 上陸姿 きっとこの日が 来るように
   祈ってましたよ 平校
今はとうとい 同胞愛で たがいにかたく 結ばれる
信じてましたよ このよき日  
引き揚げ船哀歌    作詞/橋永勇 作曲/市川龍之介
「昭和21年私がまだ5歳の時、一家で満州から引き揚げてきました。
途中船の中で幼い子が亡くなったり・・・長くそして辛い旅でした。」
風が身を切る 満州平野 屋根無し貨車が 夜通し揺れた
おふくろ妹 抱いてはあやし 親父俺の手 しっかと握る
引き揚げ船に 乗るまでは
   暗い波間に 汽笛が泣いて 甲板(デッキ)の隅で 水葬儀式
   故国の山川 もう直ぐなのに なぜに召される 幼い命
   両親(おやご)の嘆き 如何ばかり
生きて帰れた 安らぐ故郷 その後の貧乏 恨みもしたが
未だに帰らぬ 残留孤児は あの日あの時 わが身を捨てた
おふくろ親父 有難う! 
かえり船   (昭和21年) 作詞/清水みのる 作曲/倉若晴生
波の背の背に ゆられてゆれて 月の潮路の かえり船
霞(かす)む故国(ここく)よ 小島の沖じゃ 夢もわびしく よみがえる
   捨てた未練が 未練となって 今も昔の 切なさよ ・・・
熱い涙も 故国に着けば 嬉し涙と 変るだろ ・・・  
夜霧のブルース   (昭和22年) 作詞/島田磬也 作曲/大久保徳二郎
青い夜霧に灯影(ほかげ)が赤い どうせおいらは独り者
夢の四馬路(スマロ)か ホンキュの街か ああ 波の音にも血が騒ぐ
   可愛いあの子が夜霧の中へ 投げた涙のリラの花 ・・・
花のホールで踊っちゃいても 春を持たないエトランゼ ・・・  
星の流れに   (昭和22年) 作詞/清水みのる 作曲/利根一郎
星の流れに 身をうらなって どこをねぐらの 今日の宿
荒(すさ)む心で いるのじゃないが 泣けて涙も かれ果てた
こんな女に 誰がした
   煙草ふかして 口笛ふいて あてもない夜の さすらいに
   人は見返る わが身は細る ・・・
飢えて今頃 妹はどこに 一目逢いたい お母さん
ルージュ哀しや 唇かめば ・・・  
大連引き揚げの歌   (昭和22年) 作詞・作曲/不詳
耳を澄ませば故郷の 岸辺を洗う波の音
瞼の裏に浮かぶのは ああ!おちこちの山の色
船が来た来た懐かしい 祖国へ帰る船が来た
   山のありさま野の景色 昔のままにあるかしら
   僕が生まれたあの町は 冬の月照る焼野原
   この目で見よう戦争の あとの祖国の苦しみを
民主大連船出して 民主日本へ水脈引く
帰る祖国の山川が よし崩れてもやかれても
そこが我らの新天地 自由のための新天地 
シベリヤ・エレジー   (昭和23年) 作詩/野村俊夫 作曲/古賀政男
赤い夕陽が 野末に燃える ここはシベリア 北の国
雁が飛ぶ飛ぶ 日本の空へ 俺もなりたや あの鳥に
   月も寒そな 白樺かげで 誰が歌うか 故国(くに)の歌
   男泣きする 抑留暮らし いつの何時(いつ)まで 続くやら
春の花さえ 凋まぬうちに 風が変れば 冬が来る
ペチカ恋しい 吹雪の夜は 寝ても結べぬ 母の夢
   啼いてくれるな シベリア鴉 雲を見てさえ 泣けるのに
   せめて一言 故郷の妻へ 音便(たより)たのむぞ 渡り鳥  
男一匹の歌   (昭和23年) 作詞/夢虹二 作曲/佐藤長助
赤い夕陽は 砂漠のはてに
旅を行く身は 駱駝(らくだ)の背中(せな)に
男一匹未練心は さらさらないが
なぜかさびしい 日暮れの道よ
   昨日ラマ塔の 花咲くかげで
   ちらと見た娘(こ)の 似ている瞳 ・・・
月の出潮は 心がぬれる
吹くなモンゴーの 砂漠の風よ ・・・ 
異国の丘   (昭和23年) 作詩/増田幸治 作曲/吉田正
今日も暮れゆく異国の丘に 友よ辛かろ切なかろ
我慢だ待っていろ嵐が過ぎりゃ 帰る日も来る春も来る
   今日も更けゆく異国の丘に 夢も寒かろ冷たかろ ・・・
今日も昨日も異国の丘に 重い雪空日がうすい ・・・  
ハバロフスク小唄 (昭和24年) 作詞/野村俊夫 作曲/島田逸平
ハバロフスク ラララ ハバロフスク ラララ ハバロフスク
河のながれは ウスリー江 あのやまもこの谷も 故郷(ふるさと)を
想い出させる その姿
   母の顔 ラララ 母の顔 ラララ 母の顔
   浮かぶ夜空に 星が出る ・・・
元気でね ラララ 元気でね ラララ 元気でね
やがて帰れる その日まで ・・・  
玄海ブルース   (昭和24年) 作詞/大高ひさを 作曲/長津義司
情け知らずと 嘲笑(わら)わばわらえ ひとにゃ見せない 男の涙
どうせ俺らは 玄海灘の 波に浮き寝の かもめ鳥
   紅い灯(ほ)かげの グラスに浮ぶ 影が切ない 夜更けのキャバレー
   酔うて唄えど ・・・
嵐吹きまく 玄海越えて 男船乗り 往く道ゃひとつ
雲の切れ間に ・・・ 
悲しき口笛   (昭和24年) 作詞/藤浦洸 作曲/万城目正
丘のホテルの 赤い灯も 胸のあかりも 消えるころ
みなと小雨が 降るように ふしも悲しい 口笛が
恋の街角 露路(ろじ)の細道 ながれ行く
   いつかまた逢う 指切りで 笑いながらに 別れたが
   白い小指の いとしさが ・・・
夜のグラスの 酒よりも もゆる紅色 色さえた
恋の花ゆえ 口づけて ・・・ 
上海帰りのリル   (昭和26年) 作詞/東条寿三郎 作曲/渡久地政信
船を見つめていた ハマのキャバレーにいた
風の噂はリル 上海帰りのリル リル
あまい切ない 思い出だけを 胸にたぐって 探して歩く
リル リル 何処に居るのかリル だれかリルを 知らないか
   黒いドレスをみた 泣いていたのを見た ・・・
   夢の四馬路の 霧降る中で なにもいわずに 別れたひとみ ・・・
海を渡ってきた ひとりぼっちできた ・・・
暗き運命(さだめ)は 二人で分けて 共に暮らそう 昔のままで ・・・  
あゝモンテンルパの夜は更けて   (昭和27年) 作詞/代田銀太郎 作曲/伊藤正康
モンテンルパの 夜は更けて つのる思いに やるせない
遠い故郷 しのびつつ 涙に曇る 月影に
優しい母の 夢を見る
   燕はまたも 来たけれど 恋しわが子は いつ帰る
   母のこころは ひとすじに ・・・
モンテンルパに 朝が来りゃ 昇るこころの 太陽を
胸に抱いて 今日もまた ・・・  
ふるさとの燈台   (昭和27年) 作詞/清水みのる 作曲/長津義司
真帆片帆(まほかたほ) 歌をのせて通う
ふるさとの小島よ 燈台の岬よ
白砂に 残る思い出の いまも仄(ほの)かに
さざなみは さざなみは 胸をゆするよ
   漁火(いさりび)の 遠く近くゆるる
   はるかなる小島よ 燈台のわが家よ ・・・
歳ふりて 星に月にしのぶ
むらさきの小島よ 燈台のあかりよ ・・・ 
別れの磯千鳥   (昭和27年) 作詞/福山たか子 作曲/フランシス座波
逢うが別れの はじめとは 知らぬ私じゃ ないけれど
せつなく残る この思い 知っているのは 磯千鳥
   泣いてくれるな そよ風よ 希望抱いた あの人の ・・・
希望の船よ ドラの音に いとしあなたの 面影が ・・・  
岸壁の母   (昭和29年) 作詞/藤田まさと 作曲/平川浪竜
母は来ました 今日も来た この岸壁に 今日も来た
届かぬ願いと 知りながら もしやもしやに もしやもしやに ひかされて
   「又引き揚げ船が帰って来たに、今度もあの子は帰らない。
   この岸壁で待っているわしの姿が見えんのか ・・・。
   港の名前は舞鶴なのに何故 飛んで来てはくれぬのじゃ ・・・。
   帰れないなら大きな声で ・・・ お願い ・・・せめて、せめて一言 ・・・。」
呼んでください おがみます ああ おっ母さん よく来たと
海山千里と 云うけれど ・・・
   「あれから十年 ・・・。あの子はどうしているじゃろう。
   雪と風のシベリアは寒いじゃろう ・・・
   つらかったじゃろうと命の限り抱きしめて ・・・ この肌で温めてやりたい……。
   その日の来るまで死にはせん。 いつまでも待っている ・・・」
悲願十年 この祈り  神様だけが 知っている
流れる雲より 風よりも  ・・・
   「ああ風よ、心あらば伝えてよ。
   愛し子待ちて今日も又、怒濤砕くる岸壁に立つ母の姿を……」
瞼の母   (平成3年) 作詞/坂口ふみ緒 作曲/沢しげと
軒下三寸 借りうけまして 申しあげます おっ母さん
たった一言 忠太郎と 呼んでくだせぇ 呼んでくだせぇ たのみやす
   「おかみさん、今何とか言いなすったね 親子の名のりがしたかったら
   堅気の姿で尋ねて來いと言いなすったが 笑わしちゃいけねえぜ 
   親にはぐれた子雀が ぐれたを叱るは無理な話しよ 
   愚癡じゃねえ 未練じゃねえ おかみさん 俺らの言うことを よく聞きなせぇ 
   尋ね尋ねた母親に 倅と呼んでもらえぬような こんなやくざに 誰がしたんでぇ」
世間の噂が 気になるならば こんなやくざを なぜ生んだ
つれのうござんす ・・・
   「何を言ってやんでぇ 何が今更、忠太郎だ 何が倅でぇ
   俺にゃおっ母は、いねぇんでぇ おっ母さんは、俺の心の底に居るんだ
   上と下との瞼を合わせりゃ 逢わねぇ昔の やさしいおっ母の麵影が浮かんでくらぁ
   逢いたくなったら 逢いたくなったら 俺ァ瞼をつむるんでぇ」
逢わなきゃよかった 泣かずにすんだ これが浮世と いうものか
水熊丁は 遠燈り ・・・
   「おっ母さん」 
引き揚げ者の唄   (平成5年) 作詞/井上陽水 作曲/平井夏美
曼珠沙華の花 花びらは憂鬱
招かれざる客の帰り道
   船に乗ればすぐ ろうそく揺れて
   飯盒の味、桜味
雨の北京、夕暮れのマニラ 星の降る夜のニューギニア
お別れに 汽笛をただくり返し
   引き揚げ者の唄 誰にも言えぬ ・・・
踊るビギン ステージはラワン 夢の行方は急降下 ・・・
   曼珠沙華の花 花びらは憂鬱 ・・・ 
   
大正の軍歌  

 

靖国神社   (大正1年) 
花は桜木人は武士 その桜木に囲まるる
世を靖国の御社よ 御国の為に潔く
花と散りにし人々の 魂はここにぞ鎮まれる
   命は軽く義は重し その義を践みて大君に
   命捧げしますらおよ 銅の鳥居の奥深く
   神垣高く奉られて 誉れは世々に残るなり  
乃木大将の歌   (大正1年) 作詞/吉丸一昌 作曲/小松耕輔
夢より淡き三日月の 大内山にかぐろいて
先の帝御車は 果ての出でましあらせらる
   火砲の響き轟きて 宵闇破る一刹那
   乃木大将は御後を 慕い奉りて逝きにけり
忠勇義烈の大将は この世後の世変わり無く
天つ御国の大君の 御側離れず仕うらん
   遺言十条読みて見よ ただ責任を重んじて
   三十五年のその間 死処を求めて止まざりき
私財を家に蓄えず 名誉を一人貪らぬ
清き日頃の志し またこの内に見ずや人
   日露の戦平らぎて 勝鬨挙げて帰る日も
   陛下の赤子失いぬ 父老に恥ずと嘆きたり
国に尽くすは臣の道 何をか人に言うべきと
勲を誇らず謙る 気高き心見ずや人
   六十四年の生涯は 日本の武士の鑑にて
   終わる最期の輝きは 純美崇高極み無し
起てよもののふ武士道の 権化をここに認めずや
今し鋭心起こさずば 腰の剣に恥あらん
   我が帝国の同胞よ 鬼神涙に咽ぶべき
   この壮烈に勇まずば 汝の胸に血潮無し 
のんき節   (大正6年) 作詞・作曲/添田唖蝉坊
学校の先生は偉いもんじゃそうな 偉いから何でも教えるそうな
教えりや生徒は無邪気なもので それもそうかと思うげな
ア ノンキだね
   成金という火事ドロの幻燈など見せて 貧民学校の先生が
   正直に働きゃ皆この通り 成功するんだと教えてる
   ア ノンキだね
貧乏でこそあれ日本人は偉い それに第一辛抱強い
天井知らずに物価は上がっても 湯なり粥なり啜って生きている
ア ノンキだね
   洋服着よが靴を履こうが学問があろが 金が無きゃやっぱり貧乏だ
   貧乏だ貧乏だその貧乏が 貧乏でもないよな顏をする
   ア ノンキだね
貴婦人厚かましくもお花を召せと 路傍でお花の押し売りなさる
お目出度連はニコニコ者でお求めなさる 金持や自動車で知らん顔
ア ノンキだね
   お花売る貴婦人はお情け深うて 貧乏人を救うのがお好きなら
   河原乞食もお好きじゃそうな ほんに結構なお道楽
   ア ノンキだね
万物の霊長がマッチ箱見たよな ケチな巣に住んでいる威張ってる
暴風雨にブッ飛ばされても 津波を食らっても
「天災じゃ仕方がないさ」で済ましてる ア ノンキだね
   南京米を食らって南京虫に食われ 豚小屋みたいな家に住み
   選挙権さえ持たないくせに 日本の国民だと威張ってる
   ア ノンキだね
機械でドヤして血肉を絞り 五厘の「こうやく」はる温情主義
そのまた「こうやく」を漢字で書いて 「渋沢論語」と読ますげな
ア ノンキだね
   うんと絞り取って泣かせておいて 目薬程出すのを慈善と申すげな
   なるほど慈善家は慈善をするが あとは見ぬふり知らぬふり
   ア ノンキだね
我々は貧乏でもとにかく結構だよ 日本にお金の殖えたのは
さうだ!まつたくだ!と文無し共の 話がロハ台でモテている
ア ノンキだね
   二本ある腕は一本しかないが 金鵄勲章が胸にある
   名譽だ名譽だ日本一だ 桃から生れた桃太郎だ
   ア ノンキだね
議員も変なもの二千円貰うて 昼は日比谷でただガヤガヤと
訳の分からぬ寝言を並べ 夜はコソコソ烏森
ア ノンキだね
   膨脹する膨脹する国力が膨脹する 資本家の横暴が膨脹する
   俺のカカァのお腹が膨脹する いよいよ貧乏が膨脹する
   ア ノンキだね
生存競争の八街走る 電車の隅ッコに生酔い一人
ゆらりゆらりと酒飲む夢が 覚めりゃ終点で逆戻り
ア ノンキだね 
日本海海戦   (大正6年) 
敵艦見えたり近づきたり 皇国の興廃ただこの一挙
各員奮励努力せよと 旗艦のほばしら信号揚る
みそらは晴るれど風立ちて 対馬の沖に波高し
   主力艦隊前を抑え 巡洋艦隊後に迫り
   袋の鼠と囲み撃てば 見る見る敵艦乱れ散るを
   水雷艇隊駆逐隊 逃しはせじと追いて撃つ
東天赤らみ夜霧晴れて 旭日輝く日本海上
今はや遁るるすべもなくて 撃たれて沈むも降るもあり
敵国艦隊全滅す 帝国万歳万万歳 
鴨緑江節   (大正7年) 作詞/岡田三面子 作曲/不詳
朝鮮と、ヨイショ 支那の境のアノ鴨緑江
流す筏は、アラよけれども、ヨイショ 雪や氷にヤッコラ、閉ざされてヨ
明日も又、新義州に(或は「安東縣」に) 着きかねる、チョイチョイ
   朝鮮と、ヨイショ 支那の境のアノ鴨緑江
   架けし鐵橋はアラ東洋一、ヨイショ 十字に開けばヨ、アラ眞帆方帆ヨ
   行き交ふ又戎克じゃんくの 賑はしさ、チョイチョイ
朝鮮で、ヨイショ 一番高いはアノ白頭山
峰の白雪 アラ 解くるとも、ヨイショ 解けはせぬぞへ、アラわしが胸ヨ
あけくれ又 あなたの夢ばかり、チョイチョイ
   鳥ならば、ヨイショ 飛んで行きたや彼の家の屋根に
   木の實茅の實 アラ食べてでもヨイショ 駆れて泣く聲ヨ、アラ聞かせたらヨ
   よもや又 見捨てはなさるまい、チョイチョイ
新世帯、ヨイショ 駆れぬ竈かまに生薪くべて
セリフ甲「おい馬鹿に煙いぢゃないか」
セリフ乙「だって燃えないんですもの」
叱らず教へてアラ頂戴な、ヨイショ 三味線持つ手にヤッコラ火吹竹ヨ
ほんに又 あなたは罪な人 チョイチョイ
鴨緑江節 (筏節・恵山鎮節)  (大正〜昭和初期) 作詞・作曲/不詳
ちょうせんとーしなとの境の あの おーりょうーこー ヨイショ ヨイショ
流すー 筏は アリャ 良けれども ヨイショ
雪や氷によ コラ 閉ざされてよ 明日はまた チョイ チョイ
しんぎしゅうにーつきかねる チョーイ チョイ チョイヤナー チョイ チョイ
   朝鮮で一番高いのは あの白頭山 峰の白雪 とけるとも
   とけはすまいよ わしの胸は 明けくれまた 主さんのことばかり
十津川の 清き流れに 筏を下す 谷間の鶯 つれて鳴く
筏は矢のようによ 下りゆく 目ざすまた 新宮も近くなる
   筏節 歌いながら 荒瀬をこげば 鮎が招くよ 岩陰で
   空は晴れて 水はよし 竿さすまた その手に花が散る
筏節 歌いながら 荒瀬を下りゃ 可愛いあの子が 出て招く
筏とめたし 瀬は速し 心残して 熊野灘へ
   春ならば 桜さつきになつほととぎす 秋は鮎狩り 紅葉の錦
   谷間がくれに おしの鳥の 遊ぶ瀞峡の 冬景色
十津川の北は 山上岳 南は新宮 流す筏は 日本一
瀞の絶景 東洋一 玉置のまた霊山 世界一
   来て見れば 手のひら立てた 十津川なれど 好きなあの子が 居るからに
   山の十津川を 好きになり 生まれたまた故郷でも いやになる
泉水で泳いでいるのは ありゃ金魚 あの子の姿に よくにとる
姿よけれど 金魚では にてもまた焼いても 食ペられぬ
   もう泣くな ふけよ涙をこのハンカチで 今じゃこうして いるけれど
   やがて卒業の 暁にゃ 天下また晴れての 僕の妻筏 
鴨緑江節   作詞・作曲/星善四郎
此処は朝鮮北端の 二百里あまりの鴨緑江
わたれば広漠 南満州
   極寒零下三十度 卯月半ばに雪消えて
   夏は水沸く百度余ぞ
務むる吾等同胞の 安き夢だに結び得ぬ
警備の辛苦誰か知る
   河を渡りて襲い来る 不逞の輩の不意打ちに
   妻も銃とり応戦す
御国の為と思いなば 露よりもろき我が命
捨つるに何か惜しからん
   虎は死しても皮とどめ 人は死しても名を残す
   朝鮮警備のそが為に 
鴨緑江節   作詞/国境守備隊 作曲/市川鉄蔵
千古の鎮護白頭の 東に流るる豆満江
西を隔つる鴨緑江 蜿蜒遥か三百里
国境守備の名誉負ふ 武夫ここに数千人
   長白おろし荒むとき 氷雪四方を閉ぢこめて
   今宵も零下三十度 太刀佩く肌は裂くるとも
   銃とる双手は落つるとも 同胞まもる血は燃ゆる
高梁高く繁るとき 野山も里も水涸れて
日毎百度の炎熱に 照る日は頭を焦すとも
悪疫は骨身を溶かすとも 報国の士気弥振ふ
   平安の草青い春 咸鏡の月冴ゆる秋
   雄々し古今の勇者が 結びし夢の跡訪えば
   姿も変へぬ山河の 我を教ふる声すなり
野は縹渺の屯営に 朝畏む勅諭
夕に磨く剣太刀 故郷遠く出で立ちて
生死苦楽を誓ひたる 思ひ出深き団欒かな
   不逞仇なす輩の 来らば来れ試しみん
   日頃鍛へし我が腕 家守る妻子も諸共に
   などか後れん日本魂 武装して起つ健気さよ
戦雲極東を掩ふとき 常に正義の矛執りて
遂げん男子の本懐を 海山隔つ父母の
老いて壮なる激励に 感激の心高鳴るよ
   積る辛苦の効果ありて 御稜威輝く日の御旗
   鷄林遍く翻る 誇れ我が友眉揚げて
   励め我が友永へに 国境守備の勲功を 
満洲行進曲   作詞/大江素天 作曲/堀内敬三
過ぎし日露の戦いに 勇士の骨を埋めたる
忠霊塔を仰ぎ見よ 赤き血潮に色染めし
夕陽を浴びて空高く 千里曠野に聳えたり
   酷寒零下三十度 銃も剣も砲身も
   駒の蹄も凍るとき すはや近づく敵の影
   防寒服が重いぞと 互いに顔を見合わせる
しっかり被る鉄兜 忽ち作る散兵壕
我が連隊旗ひらひらと 見上げる空に日の丸の
銀翼光る爆撃機 弾に舞い立つ伝書鳩
   戦い止んで陣営の 輝き冴える星の下
   黄色い泥水汲み取って かしぐ飯盒に立つ湯気の
   ぬくみに探ぐる肌守り 故郷如何にと語り合う
面影さらぬ戦友の 遺髪の前にいまひらく
慰問袋のキャラメルを 捧げる心君知るや
背嚢枕に夜もすがら 眠れぬ朝の大吹雪
   東洋平和の為ならば 我等が命捨つるとも
   なにか惜しまん日本の 生命線はここにあり
   九千万の同胞と ともに守らん満洲を  
流浪の旅   (大正10年) 作詞/宮島郁芳 作曲/後藤紫雲
流れ流れて落ち行く先は 北はシベリア南はジャバよ
いずこの土地を墓所と定め いずこの土地の土と終わらん
   きのうは東今日は西と 流浪の旅はいつまで続く ・・・
思えば哀れ二八の春に 親のみ胸を離れ来てより ・・・
ストトン節   (大正13年) 作詞・作曲/添田さつき
ストトンストトンと通わせて 今更嫌とはあんまりな
嫌なら嫌と始めから 言えばストトンと通わせぬ   
ストトンストトン
   ストトンストトンと戸を叩く 胸もワクワク出てみれば
   空の風かよ騙されて 月に見られて恥ずかしや
   ストトンストトン
今日は会社の給料日 それに賞与も貰うたし
帯を買おうか下駄買おか 細君に相談して褒められた
ストトンストトン
   ストトンストトンと返事来た 貴方まだまだ初年兵
   私ゃ世帯の苦労中 増える子の数皺の数
   ストトンストトン
ストトンストトンと飛行機は 空を飛ぶもの偉いもの
宙返りするのも墜ちるのも 墜ちりゃブッ壊れてしまうもの
ストトンストトン
   スポポンスポポンと音がする 出て見りゃ兵隊さんの演習帰り
   特務曹長曹長軍曹伍長上等兵 新兵さん新兵さん 
明治の軍歌  

 

宮さん宮さん   (明治1年) 作詞/品川弥二郎 作曲/大村益次郎
宮さん宮さん お馬の前で ひらひらするのは 何じゃいな
トコトンヤレ トンヤレナ あれは朝敵 征伐せよとの
錦の御旗(みはた)じゃ 知らないか トコトンヤレ トンヤレナ
   一天万乗(いってんばんじょう)の 一天万乗の 帝王(みかど)に手向かい する奴を
   トコトンヤレ トンヤレナ ねらい外さず ねらい外さず
   どんどん撃ち出す 薩長土(さっちょうど) トコトンヤレ トンヤレナ
伏見 鳥羽 淀 伏見 鳥羽 淀 橋本 葛葉(くずは)の戦いは
トコトンヤレ トンヤレナ 薩長土肥(さっちょうどひ)の 薩長土肥の
合(お)うたる手際じゃ ないかいな トコトンヤレ トンヤレナ
   音に聞こえし 関東武士(さむらい) どっちへ逃げたと 問うたれば
   トコトンヤレ トンヤレナ 城も気概も 城も気概も
   捨てて吾妻(あづま)へ 逃げたげな トコトンヤレ トンヤレナ
国を追うのも 人を殺すも 誰も本意じゃ ないけれど
トコトンヤレ トンヤレナ 薩長土肥の 薩長土肥の
先手(さきて)に手向かい する故に トコトンヤレ トンヤレナ
   雨の降るような 雨の降るような 鉄砲の玉の 来る中に
   トコトンヤレ トンヤレナ 命惜しまず魁(さきがけ) するのも
   皆お主の 為故じゃ トコトンヤレ トンヤレナ  
農兵節   (明治3年) 
富士の白雪ゃノーエ 富士の白雪ゃノーエ 富士のサイサイ 
白雪ゃ朝日でとける (そりゃ)
とけて流れてノーエ とけて流れてノーエ とけてサイサイ 流れて三島にそそぐ 
三島女郎衆はノーエ 三島女郎衆はノーエ 三島サイサイ 
女郎衆はお化粧が長い (そりゃ)
お化粧長けりゃノーエ お化粧長けりゃノーエ お化粧サイサイ 長けりゃお客がこまる  
お客こまればノーエ お客こまればノーエ お客サイサイ 
こまれば石の地蔵さん (そりゃ)
石の地蔵さんはノーエ 石の地蔵さんはノーエ 石のサイサイ 地蔵さんは頭が丸い
頭丸けりゃノーエ 頭丸けりゃノーエ 頭サイサイ 
丸けりゃカラスがとまる (そりゃ)
カラスとまればノーエ カラスとまればノーエ カラスサイサイ とまれば娘島田
娘島田はノーエ 娘島田はノーエ 娘サイサイ 
島田は情でとける (そりゃ)
とけて流れてノーエ とけて流れてノーエ とけてサイサイ 流れて三島にそそぐ   
ノーエ節 (代官山節、野毛山節)   (文久年間-明治3年?)
代官山からノーエ 代官山からノーエ 代官サイサイ 山から異人館をみれば
ラシャメンと二人でノーエ ラシャメンと二人でノーエ 
ラシャメンサイサイ 抱えて赤いズボン
代官山からノーエ 代官山からノーエ 代官サイサイ 山から蒸気船をみれば
太い煙突ノーエ 黒い煙りがノーエ 
黒いサイサイ 煙りが横に出てる
秋の演習はノーエ 秋の演習はノーエ 秋のサイサイ 演習は白黒二軍
白黒二軍はノーエ 白黒二軍はノーエ 
白黒サイサイ 二軍は演習が終わる
野毛の山からノーエ 野毛の山からノーエ 野毛のサイサイ 山から異人館を見れば
鉄砲かついでノーエ 鉄砲かついでノーエ 
お鉄砲サイサイ かついで小隊進め
オッピキヒャラリコノーエ オッピキヒャラリコノーエ 
オッピキサイサイ ヒャラリコ小隊進め
チーチーガタガッテノーエ チーチーガタガッテノーエ 
チーチーガサイサイ ガタガッテ小隊進め  
野毛山節   (明治3年) 
野毛の山からノーエ 野毛の山からノーエ 
エエ野毛のサイサイ 山から異人館を見れば
お鉄砲かついでノーエ お鉄砲かついでノーエ 
エエお鉄砲サイサイ かついで小隊すすめ
天満橋からノーエ 天満橋からノーエ 
エエ天満サイサイ 橋から城の馬場を見れば
お鉄砲かついでノーエ お鉄砲かついでノーエ 
エエお鉄砲サイサイ かついで小隊すすめ
オッピコヒャラリコノーエ オッピコヒャラリコノーエ 
チーチがタイタイトトチチ オッピコヒャラリコノーエ  
螢の光    (明治14年) スコットランド民謡
ほたるの光 窓(まど)の雪 書(ふみ)よむ月日 重ねつつ
いつしか年も すぎの戸を 明けてぞけさは 別れゆく
   とまるも行くも 限りとて かたみに思う ちよろずの
   心のはしを 一言(ひとこと)に さきくとばかり 歌うなり
筑紫(つくし)のきわみ みちのおく 海山(うみやま)とおく へだつとも
その真心(まごころ)は へだてなく ひとつに尽くせ 国のため
   千島(ちしま)のおくも 沖縄(おきなわ)も 八洲(やしま)のうちの 守りなり
   至らんくにに いさおしく つとめよわがせ つつがなく  
軍人勅諭の歌    (明治15年) 作詞/大和田建樹 作曲/永井建子
汝は朕が股肱ぞと 詔して畏くも 日本帝国軍人に
下し給いし五箇条の 大御訓に宣わく
   日本帝国軍人は 忠烈国に報ゆべし 山嶽よりも義は重く
   我が本分を誤りて 不覚の汚名を取るなかれ
いかに隊伍は整いて 節制乱れずありとても 忠節存せぬ軍隊は
烏合の兵に異らず いかでか敵に当るべき
   国家の保護と国権の 維持とは兵の力なり 兵力奮いて国強し
   世論に惑わず軍人は ただ忠節を尽くすべし
日本帝国軍人は 互いに礼儀を正しくし 上を敬いよく務め
下を恵みて侮らず 上下一致し和諧せよ
   武勇は帝国臣民の 古来尚ぶところにて 殊に戦地に打ち臨み
   敵に当るの軍人は 片時もこれを忘るまじ
義理を弁え胆を練り 小敵たりとも侮らず 大敵たりとも恐れざる
心ぞ真の勇気なる 血気の勇は勇ならず
   重んずべきは信義なり もしその事の初めより 守らるまじと悟りなば
   それをば思い止まりて 諾せし事は履行せよ
順逆理非に踏み迷い 私情の信義に覇されて あたら汚名を後世に
遺す例も多ければ 深く慎み戒めよ
   文弱驕奢を退けて 旨とすべきは質素なり 質素一度敗れなば
   貪汚の風に陥りて 世に嫌わるるに至るべし
かかる悪習軍人の 間に一度び起りなば 士気も兵気も衰えん
汝等軍人なおざりに この訓戒をなすなかれ
   ああ我帝国軍人は 我が大君の御教えを 肝に銘じて進退し
   御稜威の元に帝国を 誓って保護せん諸共に  
抜刀隊    (明治18年) 
我は官軍我敵は 天地容れざる朝敵ぞ
敵の大將たる者は 古今無雙の英雄で 
之に從ふ兵(つはもの)は 共に慓悍决死の士
鬼神に恥ぬ勇あるも 天の許さぬ叛逆を 
起しゝ者は昔より 榮えし例あらざるぞ
敵の亡ぶる夫迄は 進めや進め諸共に 
玉ちる劔拔き連れて 死ぬる覺悟で進むべし
   皇國の風と武士の 其身を護る靈の
   維新このかた廢れたる 日本刀の今更に 
   又世に出づる身の譽 敵も身方も諸共に
   刃の下に死ぬべきぞ 大和魂ある者の 
   死ぬべき時は今なるぞ 人に後れて恥かくな
   敵の亡ぶる夫迄は 進めや進め諸共に 
   玉ちる劔拔き連れて 死ぬる覺悟で進むべし
前を望めば劔なり 右も左りも皆劔
劔の山に登らんは 未來の事と聞きつるに 
此世に於てまのあたり 劔の山に登るのも
我身のなせる罪業を 滅す爲にあらずして 
賊を征討するが爲 劔の山もなんのその
敵の亡ぶる夫迄は 進めや進め諸共に 
玉ちる劔拔き連れて 死ぬる覺悟で進むべし
   劔の光ひらめくは 雲間に見ゆる稻妻か
   四方に打出す砲聲は 天に轟く雷か 
   敵の刃に伏す者や 丸に碎けて玉の緒の
   絶えて墓なく失する身の 屍は積みて山をなし 
   其血は流れて川をなす 死地に入るのも君が爲
   敵の亡ぶる夫迄は 進めや進め諸共に 
   玉ちる劔拔き連れて 死ぬる覺悟で進むべし
彈丸雨飛の間にも 二つなき身を惜まずに
進む我身は野嵐に 吹かれて消ゆる白露の 
墓なき最期とぐるとも 忠義の爲に死ぬる身の
死(しに)て甲斐あるものならば 死ぬるも更に怨なし 
我と思はん人たちは 一歩も後へ引くなかれ
敵の亡ぶる夫迄は 進めや進め諸共に 
玉ちる劔拔き連れて 死ぬる覺悟で進むべし
   我今茲に死(しな)ん身は 君の爲なり國の爲
   捨つべきものは命なり 假令ひ屍は朽ちぬとも 
   忠義の爲に捨る身の 名は芳しく後の世に
   永く傳へて殘るらん 武士と生れた甲斐もなく 
   義もなき犬と云はるゝな 卑怯者となそしられそ
   敵の亡ぶる夫迄は 進めや進め諸共に 
   玉ちる劔拔き連れて 死ぬる覺悟で進むべし  
扶桑歌    (明治19年) 
わが天皇(おほきみ)の治めしる わが日の本は万世も
やほ万世も動かねど 神の万世(みよ)より神ながら
治めたまへばとことはに 動かぬ御代と変はらぬぞ
四方に輝く御稜威(みひかり)は 月日の如く照すなり
かかるめでたきわが国ぞ やよ国民よ朝夕に
天皇が恵に報はんと 心を合はせひたぶるに
尽せよや人ちからをも あはせて尽せ人々よ  
憲法発布の頌   (明治22年)
大和(やまと)の 御民(みたみ)よ 我国民(わがくにたみ)よ
いはへや いはへや この大御代(おほみよ)を
めぐみの春風 しずかにわたり かがやくみいつは あさひのごとく
八洲(やしま)の 内外(うちそと)を くまなくてらす
   丑(うし)どし 二月の十一日に
   しきたまはせたる 大憲法(おほみのり)こそ
   ためし しられぬ たまものなれや
   われらが孫子(まごこ)の みたからなれや
来たれや つどへや 我(わ)がはらからよ
つどひて 祝へや いざもろともに
明治の帝(みかど)の 千代(ちよ)よろづ代(よ)を ほぎたてまつれや
あめつちさへも とどろくばかりに ほぎたてまつれ  
憲法發布   (明治22年)   
月日の影かも 隈なく照るは めぐみの露かも 漏らさずおくは
さてしも比喩(たと)へん ものなき御代ぞ
今日より發布(しき)ます 此(この)大憲法(おおみのり)
   ますます榮えん わが日の本の 威光(みいつ)や世界に 耀(かがや)くはじめ
   やがても光の 功蹟(いさを)ぞ映(にほ)ふ 
   たふとき憲法(みのり)や かしこき憲法
いよいよ繁らん 青人草(あおびとぐさ)の 花さく時こそ 是より來(きた)れ
やがてその實の 結ぶは著明(しる)し
楽しきみのりや 嬉しきみのり  
敵は幾万   (明治24年) 作詞/山田美妙斎 作曲/小山作之助。
敵(てき)は幾万(いくまん)ありとても すべて烏合(うごう)の勢(せい)なるぞ
烏合の勢にあらずとも 味方(みかた)に正しき道理(どうり)あり
邪(じゃ)はそれ正(せい)に勝(か)ちがたく 直(ちょく)は曲(きょく)にぞ勝栗(かちぐり)の
堅き心(こころ)の一徹(いってつ)は 石(いし)に矢(や)の立(た)つためしあり
石に立つ矢のためしあり などて恐(おそ)るる事やある などて猶予(たゆた)う事やある
   風(かぜ)に閃(ひらめ)く連隊旗 記紋(しるし)は昇(のぼ)る朝日子(あさひこ)よ
   旗(はた)は飛びくる弾丸(だんがん)に 破るることこそ誉れ(ほまれ)なれ
   身は日の本(もと)の兵士(つわもの)よ 旗(はた)にな愧(は)じそ進め(すすめ)よや
   斃(たお)るるまでも進めよや 裂(さ)かるるまでも進めよや
   旗にな愧(は)じそ耻(は)じなせそ などて恐るる事やある などて猶予う事やある
破れて逃(に)ぐるは国(くに)の耻(はじ) 進みて死(し)ぬるは身(み)の誉(ほま)れ
瓦(かわら)となりて残る(のこる)より 玉(たま)となりつつ砕け(くだけ)よや
畳(たたみ)の上(うえ)にて死ぬことは 武士(ぶし)の為(な)すべき道(みち)ならず
骸(むくろ)を馬蹄(ばてい)にかけられつ 身(み)を野晒(のざらし)になしてこそ
世に武士(もののふ)の義(ぎ)といわめ などて恐るる事やある などて猶予う事やある 
軍艦   (明治26年) 作詞/鳥山啓 作曲/瀬戸口藤吉
守るも攻むるも黒鐵(くろがね)の
浮かべる城(しろ)ぞ頼(たの)みなる
浮かべるその城(しろ)日(ひ)の本(もと)の
皇國(みくに)の四方(よも)を守(まも)るべし
眞鐵(まがね)のその艦(ふね)日の本に
仇(あだ)なす國(くに)を攻(せ)めよかし
   石炭(いはき)の煙(けむり)は大洋(わだつみ)の
   龍(たつ)かとばかり靡(なび)くなり
   彈(たま)撃(う)つ響(ひび)きは雷(いかづち)の
   聲(こゑ)かとばかり響(どよ)むなり
   萬里(ばんり)の波濤(はたう)を乘り越えて
   皇國(みくに)の光(ひかり)輝かせ
日清開戦の歌   (明治27年) 
進めや進め我が兵よ 今我が国の外交は
問題種々い分るれど 日韓事件に加ぞなき
そもそも韓国は我が国の 関門城壁外ならず
思えば神功皇后や 豊臣時代の昔より
関係深き国なるぞ 今この国の独立を
保護し置かずば将来に 国の大事や起るらん
   見よや清国チャンチャンが 無名の兵を率い来り
   談判終に整わで ここに戦端開けたり
   進めや進め我が兵よ 海外諸国の大舞台
   出でて功名博するは これ千載の一遇ぞ
   この機失する事なかれ 年来久しく鍛えたる
   大和男子の日本刀 切れ味見するはこの時ぞ
名分正しきこの戦 正々堂々勇み立ち
天地に恥ずる事ぞなき 今に蛆虫チャンチャンを
千里の外に打ち払い 朝鮮国を盛り立てて
義気ある国と千歳の 下に誉れを流すのは
大戦するは始めてぞ 国の栄辱定むるも
日本の国威を八紘に 輝かすのもこの一挙
   進めや進めわが兵よ 山をも崩す大砲も
   我が戦勝の祝砲と 思えば大砲何のその
   弾丸飛びて雨をなし 鮮血流れて川なすも
   我が戦勝の血祭りと 思えば弾丸何のその
   進めや進め我が兵よ 敵の亡ぶるそれまでは
   死すとも退く事なかれ 御国の為なり君の為
   死すとも退く事なかれ  
旅順口の戦   (明治27年) 作詞/旗野十一郎 作曲/鈴木米次郎
天理か地理か はた人和(じんくわ) 天意にかなふ 日の本の
勇将の略は 古今無く 目指すはいづれ 旅順口
渤海 呼吸の咽頭(のんど)ぐち 支那の生死に 此處は在り
守るは敵将 黄姜程(くわうきゃうてい) 彼も必死の 二萬餘騎
   十一月の 二十一 日の出に進む 我兵は
   いきほいこめし 第二軍 首将は 山路師團長
   向ふ敵兵 蹴散らして 奪う白玉(はくぎょく) 黄金(わうごん)の
   山に颯然(さつぜん) 樹(た)てたるは 世界耀發(かがやく) 日の御旗  
雪の進軍   (明治28年) 作詞・作曲/永井建子 
雪ゆきの進軍シングン 氷こほりを踏ふんで 
何處どこが河かはやら 道みちさへ知しれず
馬うまは斃たふれる 捨すてゝもおけず 
此處こゝは何處いづこぞ 皆みな敵テキの國くに
儘まゝよ大膽ダイタン 一服イップクやれば 
頼たのみ少すくなや 煙草たばこが二本ニホン
   燒やかぬ乾魚ひものに 半ハン煮にえ飯めしに 
   なまじ生命いのちの ある其その内うちは
   堪こらへ切きれない 寒さむさの焚火たきび 
   煙けぶい筈はずだよ 生木なまきが燻いぶる
   澁しぶい顏かほして 功名コウミョウ談ばなし 
   「すい」と云いふのは 梅干うめぼし一ひとつ
着きのみ着きのまゝ 氣樂キラクな臥所ふしど 
背嚢ハイノウ枕まくらに 外套ガイトウかぶりや
背せなの温ぬくみで雪ゆき融とけかゝる 
夜具ヤグの黍殻きびがら シッポリ濡ぬれて
結むすびかねたる 露營ロエイの夢ゆめを 
月つきは冷つめたく顏かほ覗のぞきこむ
   命いのち捧さゝげて 出でてきた身みゆゑ 
   死しぬる覺悟カクゴで 突喊トッカンすれど
   武運拙つたなく 討うち死じにせねば 
   義理ギリに絡からめた 恤兵ジュッペイ眞緜まわた
   そろりそろりと 首くび締しめかゝる 
   どうせ生いかして 還かへさぬ積つもり 
四季の歌   (明治30年) 作詞・作曲/不知山人 
春は嬉しや 一人しょんぼり歩哨に立てば
花見帰りの女学生 これに見とれて欠礼すりゃ
ちょいと三日の重営倉 ヒヤヒヤ
   夏は嬉しや 機械体操や銃剣術で
   午後は午睡で床の中 気を付け喇叭で目を覚まし
   ちょいと行きますニューヨーク ヒヤヒヤ
秋は嬉しや 皆揃って秋期の演習
今日も一夜の仮の宿 田舎娘に惚れられて
ちょいと出された薩摩芋 ヒヤヒヤ
   冬は嬉しや 暖炉囲んで四方山話
   外じゃ初年兵の各個教練 足が上がらぬ手が延びぬ
   ちょっとビンタの右左 ヒヤヒヤ 
桜井の訣別   (明治32年) 作詞/落合直文 作曲/奥山朝恭
青葉茂れる桜井の 里のわたりの夕まぐれ
木(こ)の下蔭(したかげ)に駒とめて 世の行く末をつくづくと
忍ぶ鎧(よろい)の袖の上(え)に 散るは涙かはた露か
   正成(まさしげ)涙を打ち払い 我子正行(まさつら)呼び寄せて
   父は兵庫へ赴かん 彼方の浦にて討死せん
   汝(いまし)はここまで来つれども とくとく帰れ 故郷へ
父上いかにのたもうも 見捨てまつりて我一人
いかで帰らん 帰られん この正行は年こそは
いまだ若けれ もろともに 御供(おんとも)仕(つか)えん 死出の旅
   汝(いまし)をここより帰さんは わが私(わたくし)の為ならず
   己(おの)れ討死なさんには 世は尊氏(たかうじ)のままならん
   早く生い立ち 大君(おおきみ)に 仕えまつれよ 国のため
この一刀(ひとふり)は往(いに)し年 君の賜いし物なるぞ
この世の別れの形見にと 汝(いまし)にこれを贈りてん
行けよ 正行故郷へ 老いたる母の待ちまさん
   ともに見送り 見返りて 別れを惜む折からに
   またも降り来る五月雨(さみだれ)の 空に聞こゆる時鳥(ほととぎす)
   誰れか哀れと聞かざらん あわれ血に泣くその声を 
箱根八里   (明治34年) 作詞/鳥居忱 作曲/滝廉太郎
箱根の山は、天下の嶮(けん) 函谷關(かんこくかん)も ものならず
萬丈(ばんじょう)の山、千仞(せんじん)の谷 前に聳(そび)え、後方(しりへ)にささふ
雲は山を巡り、霧は谷を閉ざす 昼猶闇(ひるなほくら)き杉の並木
羊腸(ようちょう)の小徑(しょうけい)は苔(こけ)滑らか 一夫關に当たるや、萬夫も開くなし
天下に旅する剛氣の武士(もののふ) 大刀腰に足駄がけ
八里の碞根(いはね)踏みならす かくこそありしか、往時の武士
   箱根の山は天下の岨 蜀の桟道數ならず
   萬丈の山、千仞の谷 前に聳え、後方にささふ
   雲は山を巡り、霧は谷を閉ざす 昼猶闇(ひるなほくら)き杉の並木
   羊腸の小徑は、苔滑らか 一夫關にあたるや、萬夫も開くなし
   山野に狩りする剛毅のますらを(益荒男) 猟銃肩に草鞋(わらぢ)がけ
   八里の碞根踏み破る かくこそありけれ、近時のますらを 
旅順口攻撃   (明治37年) 
明治三九の年の冬 十一月の二十一
未だ明けやらぬ東雲に 仄かに見る椅子山は
敵の籠もれる砦にて
   夥多の旗を翻し 砲塁堅固に山険し 
   これぞ今日の天王山 この時見方の砲兵は
   左手の山の懐に
小松が原を楯にとり 威勢鋭く控えたり
やがて旭と諸共に 砲火の声も勇ましく
万雷一時に轟きて
   天地も為に震動し 空に漲る砲煙は
   霧か霞か白雪の 掛からぬ峯もなきかな
   逸り立てる東武士
後れはせじと争いつ 戦友互いに楯となり
仕官はこれを誘導し 剣の林弾の雨
その一弾に十余人
   又隊長の副馬まで 倒れるものを踏み越えて
   撃てども衝けども何のその 凝り固まりたる忠義心
   ただ一線を進み行く
折りしも優し上官は 一首の和歌を口吟み
静かに兵士を休憩し 再び伝うる号令に
喇叭の声も凄まじく
   登り登りて敵兵の 地の利を占めて人の和に
   加えは来たりし天の時 北風寒く吹き閉じて
   敵の妖気を払いつつ
椅子山落ちしと聞くからに 血気に逸る武夫の
勇むは心の春駒の 繋ぎ止めん故もをし
中にも勇気絶倫と
   音に響きし勇夫は 九州男児の名に恥じぬ
   混成部隊の一群ぞ この一群のものとぢか
   逸る心を押し静め
隊伍を揃え堂々と 歩調正しく進む行く
折しも敵の一弾は 先に進みし我が兵の
哀れ胸板射抜きたり
   深手に屈せぬ勇卒は 奢りの声を張り上げて
   我が隊長よこの仇を 言うにや及ぶその仇は
   今日のあたり報うべし
呼ばれる声と諸共に 斃れし屍飛び越えて
松樹二龍の敵兵を 蹄の塵になさんとて
勇む折りしも彼方にて
   忽ち天地を震動し 黒煙空に遡り
   あわや地雷に打たれぬと 見えしは心の迷いにて
   早晩敵の塁上に
我を迎える日の丸の 旗は凛々しく立ちにけり
ああこれ人為か天佑か 清国一と頼みてし
経営辛苦の旅順口
瞬く時間に乗っ取りし その勲やいかならん
その功績やいかならん  
日本海軍   (明治37年) 
四面海もて囲まれし 我が「敷島」の「秋津洲(あきつしま)」
外(ほか)なる敵を防ぐには 陸に砲台海に艦(ふね)
   屍(かばね)を浪(なみ)に沈めても 引かぬ忠義の丈夫(ますらお)が
   守る心の「甲鉄艦」 いかでたやすく破られん
名は様々に分かれても 建つる勲は「富士」の嶺の
雪に輝く「朝日」かげ 「扶桑」の空を照らすなり
   君の御稜威(みいつ)の「厳島」 「高千穂」「高雄」「高砂」と
   仰ぐ心に比べては 「新高」山もなお低し
「大和」魂一筋に 国に心を「筑波」山
「千歳」に残す芳名(ほうめい)は 「吉野」の花もよそならず
   「千代田」の城の千代かけて 色も「常磐」の「松島」は
   雪にも枯れぬ「橋立」の 松諸共に頼もしや
海国男児が「海門」を 守る心の「赤城」山
「天城」「葛城」「摩耶」「笠置(かさぎ)」 浮かべて安し我が国は
   「浪速(なにわ)」の梅の芳(かぐわ)しく 「龍田」の紅葉美しく
   なおも「和泉」の潔き 誉は「八島」の外までも
「朧」月夜は「春日」なる 「三笠」の山にさし出でて
「曙」降りし「春雨」の 霽(は)るる嬉しき朝心地
   「朝霧」晴れて「朝潮」の 満ちくる「音羽」「須磨」「明石」
   忘るなかかる風景も よそに優れし我が国を
事ある時は武士(もののふ)の 身も「不知火」の「筑紫」潟(がた)
尽せや共に「千早」ぶる 神の守りの我が国に
   「吾妻」に広き「武蔵」野も 「宮古」となりて栄えゆく
   我が「日進」の君が代は 「白雲」蹴立つる「天竜」か
大空高く舞い翔(かけ)る 「隼」「小鷹」「速鳥(はやとり)」の
迅(はや)き羽風(はかぜ)に掃(はら)われて 散る「薄雲」は跡もなし
   鳴る「雷」も「電」も ひと「村雨」の間にて
   「東雲(しののめ)」霽(は)るる「叢雲(むらくも)」に 交じる「浅間」の朝煙
今も「霞(かすみ)」の「八雲」たつ 「出雲」「八重山」「比叡」「愛宕」
「磐手(いわて)」「磐城(いわき)」「鳥海」山 それより堅き我が海軍
   「対馬」「金剛」「宇治」「初瀬」 みなわが歴史のあるところ
   「豊橋」かけて「大島」に 渡る利器こそこの船よ
敵艦近く現われば 「陽炎」よりも速やかに
水雷艇を突き入れて ただ「夕霧」と砕くべし
   「暁」寒き山颪(やまおろし) 「漣(さざなみ)」たてて「福竜」の
   群(むらが)る敵をしりぞけん 勲はすべて我にあり
護れや日本帝国を 万万歳の後までも
「鎮遠」「済遠(さいえん)」「平遠」艦 「鎮東」「鎮西」「鎮南」艦
   輝く国旗さしたてて 海外万里の外までも
   進めや「鎮北(ちんぼく)」「鎮中(ちんちゅう)」艦
   進めや「鎮辺(ちんべい)」「操江(そうこう)」艦 
日本陸軍   (明治37年) 作詞/大和田建樹 作曲/深沢登代吉
   出征
天に代わりて不義を討つ 忠勇無双の我が兵は
歓呼の声に送られて 今ぞ出で立つ父母の国
勝たずば生きて還(かえ)らじと 誓う心の勇ましさ
   斥候兵
或いは草に伏し隠れ 或いは水に飛び入りて
万死恐れず敵情を 視察し帰る斥候兵
肩に懸(かか)れる一軍の 安危はいかに重からん
   工兵
道なき方(かた)に道をつけ 敵の鉄道うち毀(こぼ)ち
雨と散りくる弾丸を 身に浴びながら橋かけて
我が軍渡す工兵の 功労何にか譬(たと)うべき
   砲兵
鍬(くわ)取る工兵助けつつ 銃(つつ)取る歩兵助けつつ
敵を沈黙せしめたる 我が軍隊の砲弾は
放つに当たらぬ方もなく その声天地に轟けり
   歩兵(歩行)
一斉射撃の銃(つつ)先に 敵の気力を怯(ひる)ませて
鉄条網もものかはと 躍り越えたる塁上に
立てし誉れの日章旗 みな我が歩兵の働きぞ
   騎兵
撃たれて逃げゆく八方の 敵を追い伏せ追い散らし
全軍残らずうち破る 騎兵の任の重ければ
我が乗る馬を子のごとく 労(いた)わる人もあるぞかし
   輜重兵
砲工歩騎の兵強く 連戦連捷せしことは
百難冒(おか)して輸送する 兵糧輜重(ひょうろうしちょう)のたまものぞ
忘るな一日遅れなば 一日たゆとう兵力を
   衛生兵
戦地に名誉の負傷して 収容せらるる将卒の
命と頼むは衛生隊 ひとり味方の兵のみか
敵をも隔てぬ同仁の 情けよ思えば君の恩
   凱旋
内には至仁の君いまし 外には忠武の兵ありて
我が手に握りし戦捷の 誉れは正義のかちどきぞ
謝せよ国民大呼(たいこ)して 我が陸軍の勲功(いさおし)を
   勝利(平和)
戦雲東におさまりて 昇る朝日と諸共に
輝く仁義の名も高く 知らるる亜細亜の日の出国(こく)
光めでたく仰がるる 時こそ来ぬれいざ励め 
出征   (明治38年) 作詞/真下飛泉 作曲/三善和気
父上母上いざさらば 私は戦に行きまする
隣家におった馬さえも 徴発されて行ったのに
   私は人と生まれ来て しかも男子とある者が
   御国の為の御奉公は いつであろうと待つ内に
昨日届いた赤襷 掛けて勇んで行きまする
行くは旅順か奉天か いずこの空か知らないが
   御天子様の為じゃもの 討ち死にするは当たり前
   父上母上いざさらば これがこの世の暇乞い
お二人様も妹も どうぞ御無事と声曇り
顔見合わせて一雫 さすがに涙が袖濡らす
   思えば永の御養育 いつの世にかは忘れましょ
   大きうなったこの体 よし孝行はせなんだが
御天子様へ御奉公 忠義をしたと一言葉
死んだ後でも私を 褒めて下され頼みます
   もしも運良う生き残り 御国へ帰る事あらば
   死んだに勝る手柄をば きっと御覧に入れまする
生きると死ぬは時の運 決して泣いて下さるな
父上貴方の御老体 山や畑のお仕事も
   どうぞ御無理をなさらずに 朝晩お休み願います
   母上貴方は病気がち 我慢なさらず御養生
おお妹よお二人を 大事に孝行頼むぞや
父上母上いざさらば 妹よさらばと立ち上がる
   門には村の人達が 旗や幟を差し立てて
   村一番の武夫殿 達者で戦争なされよと
手を振り上げて声揃え 万歳万歳万々歳 
戦友   (明治39年) 作詞/真下飛泉 作曲/三善和気
ここはお国を何百里(なんびゃくり) 離れて遠き満洲(まんしゅう)の
赤い夕日に照らされて 友は野末(のずえ)の石の下
   思えばかなし昨日(きのう)まで 真先(まっさき)かけて突進し
   敵を散々(さんざん)懲(こ)らしたる 勇士はここに眠れるか
ああ戦(たたかい)の最中(さいちゅう)に 隣りに居(お)ったこの友の
俄(にわ)かにはたと倒れしを 我はおもわず駈け寄って
   軍律きびしい中なれど  これが見捨てて置かりょうか
   「しっかりせよ」と抱き起し 仮繃帯(かりほうたい)も弾丸(たま)の中
折から起る突貫(とっかん)に 友はようよう顔あげて
「お国の為だかまわずに 後(おく)れてくれな」と目に涙
   あとに心は残れども 残しちゃならぬこの体(からだ)
   「それじゃ行くよ」と別れたが 永(なが)の別れとなったのか
戦(たたかい)すんで日が暮れて  さがしにもどる心では
どうぞ生きて居てくれよ  ものなと言えと願(ねご)うたに
   空(むな)しく冷えて魂(たましい)は 故郷(くに)へ帰ったポケットに
   時計ばかりがコチコチと 動いて居るのも情(なさけ)なや
思えば去年船出して お国が見えずなった時
玄海灘(げんかいなだ)で手を握り 名を名乗ったが始めにて
   それより後(のち)は一本の 煙草(たばこ)も二人わけてのみ
   ついた手紙も見せ合(お)うて 身の上ばなしくりかえし
肩を抱いては口ぐせに どうせ命(いのち)はないものよ
死んだら骨(こつ)を頼むぞと 言いかわしたる二人仲(ふたりなか)
   思いもよらず我一人 不思議に命ながらえて
   赤い夕日の満洲に 友の塚穴(つかあな)掘ろうとは
くまなく晴れた月今宵 心しみじみ筆とって
友の最期(さいご)をこまごまと 親御(おやご)へ送るこの手紙
   筆の運びはつたないが 行燈(あんど)のかげで親達の
   読まるる心おもいやり 思わずおとす一雫(ひとしずく) 
われは海の子   (明治43年) 
我は海の子白浪(しらなみ)の さわぐいそべの松原に
煙(けむり)たなびくとまやこそ 我がなつかしき住家(すみか)なれ
   生れてしおに浴(ゆあみ)して 浪(なみ)を子守の歌と聞き
   千里(せんり)寄せくる海の気(き)を 吸(す)いてわらべとなりにけり
高く鼻つくいその香(か)に 不断(ふだん)の花のかおりあり
なぎさの松に吹く風を いみじき楽(がく)と我は聞く
   丈余(じょうよ)のろかい操(あやつ)りて 行手(ゆくて)定めぬ浪まくら
   百尋(ももひろ)千尋(ちひろ)の海の底 遊びなれたる庭広し
幾年(いくとせ)ここにきたえたる 鉄より堅(かた)きかいなあり
吹く塩風(しおかぜ)に黒みたる はだは赤銅(しゃくどう)さながらに
   浪にただよう氷山(ひょうざん)も 来(きた)らば来(きた)れ恐れんや
   海まき上(あ)ぐるたつまきも 起(おこ)らば起れ驚(おどろ)かじ
いで大船(おおふね)に乗出して 我は拾わん海の富
いで軍艦(ぐんかん)に乗組みて 我は護(まも)らん海の国