臨済宗 [栄西] 法話

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雑学の世界・補考

臨済宗祖 栄西禅師の教え

栄西禅師は平安時代末期、1141(保延7・永治元)年4月20日、岡山県吉備津神社の神官の子としてお生まれになりました。幼少より、近くの天台宗安養寺の静心和尚につき天台密教の手ほどきを受け、14歳で京都比叡山にて受戒、正式に天台宗の僧侶となり、天台宗の宗風を大いに宣揚されたのです。
その後、栄西禅師は二度の入宋(中国渡航)を果たされます。最初の入宋は28歳、その目的は天台山に登り、天台教学を学ぶ事でした。しかし、この時、天台山は天台宗ではなく、臨済宗に変わっていたので、天台教学を学ぶ事ができず、わずか6ヵ月の滞在で帰国されます。そして47歳の時、二度目の入宋を果たし、陸路で天竺(インド)を目指すも、蒙古の影響により通行許可が得られず、一方海路では船が難破して吹き戻されてしまい、再度20年前に訪れた天台山万年寺に登られたのです。その万年寺で栄西禅師は宿縁の師である、臨済宗黄龍派の禅僧・虚庵懐敞(きあんえじょう)禅師と初めて会われた時に、一つの問答が交わされました。
虚庵禅師が栄西禅師に「天台密教の極意を一言で表わしてみよ」と問われ、栄西禅師は「初発心の時、即ち正覚を成じ、生死を動ぜずして、涅槃に至る」と答えられました。その意は、「お釈迦様の教えを学びたいと思い、善き師・善き友に出会い、正しい教えを学ぶ時、その時生きたままお覚り(成仏)を得る」となります。
この言葉には、遥か2600年前のお釈迦様の物語が関係しています。お釈迦様の弟子の阿難尊者がお釈迦様にたずねられます。「善き師・善き友に会うということはお覚りの半分を得たのと同じですか」。お釈迦様は答えられました。「善き師・善き友に会うということは、お覚りを得るのと同じことだ」と。
虚庵禅師、栄西禅師共に、このお釈迦様と阿難尊者の問答を知っておられたのでしょう。この一句を聞いた虚庵禅師は大きくうなずき、「見事なお答え。その一句は、わが禅宗の見解となんら変わるものではない」と天台密教僧としての力量を認められたのです。その後、虚庵禅師は栄西禅師より天台密教の灌頂の法を授かり弟子となり、栄西禅師は虚庵禅師より印可を授かり臨済宗黄龍派の法を嗣がれ、お互いを善き師、善き友であると認めあわれたのです。
天台宗、真言宗、浄土宗、臨済宗と多くの宗派があり、念仏を唱えたり、坐禅をしたり、色々な修行の方法はありますが、本来の仏道は宗派によらず、求めるところは、生きたまま成仏することではないでしょうか。どうか皆様も御縁を頂いた善き師、善き友と共に、仏道修行に励んで頂きたく存じます。「初発心の時、即ち正覚を成じ、生死を動ぜずして、涅槃に至る」。 
 

 


 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

■地獄極楽はこの世にあり
毎年8月16日になると思い出すことがあります。私の寺の近くに浄土宗のお寺があり、地獄の釜の蓋が開く日に「地獄極楽図」が御開帳されます。幼少の頃、母に連れられ、初めて見た衝撃は今でも深く残っています。おどろおどろしい地獄の様子は、灼熱によって苦を受ける八熱地獄や、餓鬼・畜生の世界がリアルに描かれていました。罪人が乾きのために水を飲もうとすると、水が火に変わり、食物を何一つ食べることができない餓鬼の世界や、鬼が舌をひっぱり抜くむごい描写などを見て、子供ながらに、悪いことや嘘をついたら地獄に落ちるのだと思い、閻魔さんに手をあわせ、「悪いことはしません。地獄に落ちませんように」と祈ったのを覚えています。炎天下のその帰りしなに、肩をすぼめ青ざめながら境内の参道を歩いて、足元にふと目をやると、そこには地獄図とは対照的に、極楽図にあった蓮が泥の中から見事に一輪の華を開かせ、ほのかに何とも言えない清らかな芳香を漂わせていたのを忘れることはありません。さて、連日目を覆いたくなるような悲惨な事件が跡を絶ちません。自分の利益のためなら、何をしてもかまわないということが横行し、他人のことを心から思いやるということが希薄になってきているのではないかと感じるのは私だけでしょうか。地獄と極楽についてあるお話があります。同じ条件で、地獄と極楽にいる人が大きなテーブルを囲んでそれぞれ食事をしています。机には御馳走が皿に並べられ、2メートルもあるスプーンが両手にひもで括り付けられています。地獄の人達はいつまでたってもわめき苦しみ、腹が減るばかりで食べることができません。かたや、極楽の人達は、楽しそうにおいしく食べています。もうみなさんもおわかりのことと思います。地獄の人の心は我利我利なので、俺が俺がで長いスプーンの柄を口にあてがうばかりで、ちっとも口に御馳走が入りません。それに対し、極楽の人の心は、利他利他ですから、まずあなたに御馳走をさしあげますよということで、2メートル先の相手にスプーンを差し伸べ、口に運んでいます。いかがでしょう。条件は同じなのに、こんなにも違いがあります。私たちの心も日々の生活の中で、地獄と極楽の繰り返しかもしれません。できるなら、極楽のようにみんなで仲良く明るく幸せに過ごせる社会を築きたいものです。そのためには、悪いことは誓ってせず、善いことを進んで行い、よい習慣として、心を浄くして、世のため人のために尽くしていくことが、私たちの使命ではないでしょうか。

■生命の花
曼珠沙華まんじゅしゃげは、ほぼ秋彼岸の中日頃に咲きます。それで彼岸花というのだそうです。「嫁のかんざし」「幽霊花」の他、英語名では「リコリス」「ハリケーンリリー」と、各地に400以上もの異名があるという、人間との付き合いの永い花です。土手に群生する鮮やかな色に、ハッとして眺めることもしばしば。なぜ彼岸花は土手やあぜ道に咲くのか、ふと疑問に思いました。辞書で彼岸花を引いてみると、根に毒性があり、モグラよけになるとありました。更には、毒抜きをして飢饉の際の食料にもなったのだとか。それで昔の人が、田畑の縁に植えたのでしょう。ちゃんと人の役に立ち、目も楽しませてくれていたのです。多くの人は、花を見て美しいと感じ、気持ちが癒されます。花はなぜ美しいのでしょう?私は「無心」に咲いているからだと聞きました。良く思われようとか、きれいに見られようという、余計な計らいがないから、ありのままの美しさがあるのだと。忘れてならないのは、そんな計らいのない美しさが、私たち一人ひとりに具わっていることです。その心根と、花の美しさが共鳴し、人は花に見入るのかも知れません。柴山全慶老師の詩です。  
花は黙って咲き黙って散ってゆく
そうして再び枝に帰らない
けれども その一時一処に
この世のすべてを託している
一輪の花の声であり
一枝の花の真である
永遠にほろびぬ生命の歓びが
悔いなくそこに輝いている
私たちはみんな、ご先祖さまから引き継がれた、命の花だと言えます。お互いに喜び合って生きていきたいものです。

■さわやかな秋風
9月になってもまだまだ暑い日が続いています。そんな残暑厳しい日の事でした。私のお寺の役員会を明日に控え、役員会用のお茶を買うために最寄りのコンビニへ行きました。20本のペットボトルを購入し、袋を両手に提げてコンビニを出ようとしました。扉が自動ではなく手動でしたから一瞬扉を開けるのをためらっていると、扉近くにいた小学生2、3人がさっと近づいて扉を開けてくれました。そして私の両手の荷物を見て、「うわー、和尚さんも大変ねぇ。お茶をたくさん買って」。「和尚さん、頑張ってね」と励ましの声までかけてくれたのです。突然の予期せぬ小学生の親切と励ましの言葉に思わず頬がゆるみ、うれしくなりました。「ありがとう。うん、頑張るよ」と答えて、足取りも軽くお寺へ帰りました。残暑の厳しさも忘れさせてくれた小学生の親切心と言葉でした。一足早いさわやかな秋風でした。そして、こんな詩を思い出させてくれました。詩の作者ははっきりせず不明なのですが、『一つの言葉』という詩です。
一つの言葉でけんかして
一つの言葉で仲直り
一つの言葉で頭が下がり
一つの言葉で心が痛む
一つの言葉で楽しく笑い
一つの言葉で泣かされる
一つの言葉はそれぞれに
一つの心をもっている
きれいな言葉はきれいな心
優しい言葉は優しい心
一つの言葉を大切に
一つの言葉を美しく
日常の思わぬ言葉、何気ない一言も、やはりその人の心がそこにくっついている。冷たい心からは冷たい言葉が、温かい心からは温かい言葉が生まれてくる。だから何気ない言葉も人を傷つけることもあれば、逆に人を温かくすることもあるのですよ、それぞれの心のあり方が大切なのですよ、と呼びかけている詩です。また、警句に『言葉は洗って使え』とあります。いずれにしても、日常使う言葉にもう少し気を使いなさい。なによりも心のあり方が大切ですよ、と教えています。小学生の親切心と言葉が、わたしの心に一陣のさわやかな秋風となって吹き抜け、自分自身を振り返るきっかけを作ってくれました。その日は家族に温かい言葉をかけたことはいうまでもありません。私たちの何気ない言葉も、人の心を幸せにするものであって欲しいですね。

■岸壁の母
母は来ました今日も来た、この岸壁に今日も来た、とどかぬ願いと知りながら、もしやもしやにもしやもしやに、ひかされて、また引揚船が帰ってきたのに……。『岸壁の母』
京都府舞鶴市にある舞鶴引揚記念館によると、終戦時大陸に残された日本人の内、約47万2千人がシベリアの収容所で拘留生活を強いられていました。政府は昭和20年10月7日から舞鶴港は政府指定引揚港のひとつとして、先の大戦において海外に取り残された660万人以上といわれる日本人の生命線としてその使命を果たしてきたそうです。以降13年間、66万4531人の引揚者と1万6269人の遺骨を受け入れました、引揚桟橋で未だ帰らぬ肉親を待つ家族の心痛とは、想像もできない苦しみであったのではないでしょうか。この引揚を待つ人ごみの中に一人のご婦人がおられました、この方の名前は端野いせさん、後に岸壁の母のモデルとされた方です。御自分の御子息の名前が引揚名簿に載っていなくても「もしや」と毎回引揚船が来航するたび、引揚桟橋にその姿を見せるのでした。『岸壁の母』を作詞した作詞家、藤田まさとさんは、端野いせさんのインタビューを聞いているうちに、母親の愛の執念への感動と、戦争へのいいようのない憤りを感じてすぐにペンを取り、高まる激情を抑えつつ詞を書き上げたと伝えられています。戦後の敗戦国日本という世間の事情に翻弄され、人々は大変な生活苦を持つことになった時代にあって、生きている事すら判らない子供を待つという母親の愛の執念、「私が待たなければ」という強い一念そのものになって、なりきって生きる端野いせさんであったからこそ、日本中の人々の心に響くことのできる音楽ができたのです。現代人は、「自分の求める処が満たされてこそ」という個々の主張ばかりを唱え、それが尊重されてこその自己の存在理由があり、価値もあるというのを当たり前のように考えがちでありますが、はたして本当にそうなのでしょうか。端野いせさんは残念ながら、御子息との再会はできませんでしたが「だめですよ、無理ですよ」という世間の声に付和雷同せず、子供の存在を信じ、自分の都合や自我というものから離れる瞬間がはっきりとあったからこそ、御自身のその根本的な存在理由を感じ、今しなければならない目の前の事に迷いもなく務められ、御自分の人生を見失う事なく生ききられたのではないでしょうか。考えて見てください。なんびとも子供がいないのに母になることはできません。また、生まれる前から自分のオムツの用意をしてお出ましになられた方は御座いません。頂いて頂いて存在する私だからこそ、我を捨てて他のこころと命の糧になろうとすること、施しの毎日を送る事が、本当の自分の人生をいきいきと生きていると言えるものと私は信じます。

■受け入れること
あるお寺の住職さんの話です。小さい時から厳格な禅僧であった父親が今、認知症によるだらしない様子を見せていてとても辛い。しかし、介護を続ける日々から少しずつそのことを受け容れられるようになってきた。そして、変わった父親の姿を見て「お父さん、ありがとう」と心から言えるようになったそうです。父として、禅僧として尊敬していただけに、その変わってしまった姿を受け容れられなかった気持ちがよく分かります。私達の日常でも、このように、受け容れ難い事が起きる事があります。その時に一時的であれ怒る事、つい、愚痴をこぼす事があるのも事実です。問題はさらに、そのことを背負いこむことにより、悩み・苦しまなければならなくなることです。その原因は「自分の思い」です。私達は物事を、自分に利があるように考え、そのことに期待を寄せる、という一面を持っています。「思い通りにならない」「気に入らない」などの思いはその現れなのです。仏の智慧は、この世の中のあらゆる出来事をそのまま受け入れ、それを活かしていく生き方を示します。しかし、簡単にはいかないのが現実です。「こうあるべき」のために「もっと頑張らねば」ということになる。私達のこだわりは、厄介なものなのです。私達の周りでは、生まれること、死ぬことをはじめ、自分の力の及ばないことが沢山あります。自分が何とかしたと思っていることさえ、周りや他からの働きかけによるものなのです。これを「仏の御いのち」ともいいます。そのおおいなる働きに全てを任せた時に、受け容れの態度が生まれるのです。先の住職さんも、日々の介護生活から、そのことに気付いたからこそ、認知症の父親を受け容れ、その姿に感謝する事ができたのでしょう。

■秋はもみじ葉
現在、生きている私たちを木の枝葉に例えますと、目には見えませんが、地中深く日々生き続け、枝葉を力強く支えている根は仏様といえましょう。そして、その根の養分を絶やさないことを供養と言っても過言ではありません。いや、絶やさないからこそ、枝葉が伸び、茂るのであります。ですから、根と枝葉は切っても切れない関係にあります。この木々を人生に例え、四季が移り変わってゆく様子を考えてみたいと思います。葉を落とした木の枝は、春になりますと芽吹きはじめます。人生で言うと誕生です。そして、目にさわやかな新緑の頃となります。「目に青葉 山ほととぎす 初かつお」(山口素堂)ではありませんが、すべてが新鮮です。人生で言う幼年期から少年期であります。夏、八月を葉月と申し、木の葉は青々と茂り太陽の光を思う存分吸収し、絶頂期を迎えます。人生で言う青年期と申せましょう。しかし、「秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ おどろかれぬる」『古今和歌集』と、藤原敏行が詠っているように、周囲のすべてが静かに落ち着きはらって、風の音にも寂しさを感じる秋になりますと、木々の葉も色づく頃となります。この色づいた錦織りを人々が「美しい」と賞賛いたします。人生で言うと、壮年期から老年期と言えましょう。もみじと同じように、人々から「深み・円熟・枯淡・いぶし銀」と言われる時期を迎えるのであります。壮年期から老年期は、青年期とは違った美しさが醸し出されてくるのであります。青年期が朝日であれば、壮年期から老年期は夕日です。温かみを含んだ優しさ・柔らかさ・厚みを感じさせられるものであります。花の蕾が少年期であれば、みごとに花を咲かせて実をつけるのが、壮年期から老年期でありましょう。ところが自然の摂理と言うものでしょうか。秋は冬をどうしても迎えなければなりません。もみじも枝から離れて地に帰って往く時がやってまいります。太陽が西の山向こうに沈む時がやってまいります。満開の花を散らす時がやってまいります。そこで、冬を迎えたからと言って、これで終わりでしょうか。冬が来ればその後には春がやってくるのは当たり前のことです。もみじが落葉すると、その後には新芽が顔を覗かせています。夕日が沈みますと、しばらくすると朝日が昇ります。花びらが散ると、その後には種を生み、その種が地に帰り新しい芽を出します。終わりでなく、始まり。つまり、始まりの連続であります。そうしますと、命は終わりなきもの。終わったかのように思いましても、形を変えて、永遠にあり続けるものと言えましょう。これを宗門では、「オミトフ(阿弥陀仏の唐韻読み)」と唱え、尊んでおります。

■遊び
時々「趣味は何ですか?」と尋ねられることがあります。だいたい無難なところで「読書ですかね」とか、「お茶を時々」と返しています。趣味とは専門と違う方面での楽しみとか娯楽をいうのでしょうが、遊びという意味合いもあろうかと思います。『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』に「遊びをせんとや生れけむ 戯れせんとや生れけん 遊ぶ子供の声きけば 我が身さえこそ動(ゆる)がるれ」の一文があります。「遊ぶために生まれて来たのだろうか、戯れるために生まれて来たのだろうか、遊んでいる子どもの声を聞いていると、感動のために私の身さえも動いてしまう」との内容です。遊びはやはり子どもが似合います。大人の遊びになるといろいろな意味合いが生じてきてしまいます。専門的になったり、あやしい(?)感じがしたりして。子どもの遊びは『梁塵秘抄』にいうように周りのものが感動させられたり、気づかさせられたり、心に響くものがあるように思います。子どもの感性、いうならば童心(わらべごころ)の自由自在さがそうさせるのでしょう。
布団乾燥機でふわふわになった布団に寝ころび、「あー あったかい ご飯の上の梅干しの気持ちがわかるよ」
シャボン玉遊びをしていて、「シャボン玉は 夢がいっぱいだね」
雲一つない青空を見上げ、「今日は あたらしい 空だね」   (『あのね・子どものつぶやき』)
などの童心はよくわかります。「我が身さえこそ動(ゆる)がるれ」の童心です。前述の『梁塵秘抄』を引き、北原白秋は次のように言います。
・・・・・・子供は遊ぶ。遊んで遊んで遊び惚(ほ)れる。子供が遊ぶ時には身も魂(たま)も遊びにうちこんで了(しま)ふ。・・・・・・心から遊び惚れてゐる子供を見てゐると、そこにはたゞ遊びそのものばかりしか見えない。そこには遊ぶ子供のいのちばかりが光物(ひかりもの)のやうに燃えあがるのみである。遊びの形なぞは目に入(い)らない。全く見てゐるひとの心までがうちゆらいでくる。・・・・・・ さうなると遊びも尊い。三昧とはこの遊びの妙境(みょうきょう)に澄み入ることである。 私心(わたくしごころ)を去るがよい、真(しん)に童のやうになってほれぼれとあそびほれたがよい。(『洗心雑話』)
辞書には、仏のように自由自在な境地を「遊戯三昧(ゆげざんまい)」というとありますが、童心をして学べばより身近な言葉になります。年末忙しい時期ではありますが、私心を去り、童心で楽しく一年を終えたいと思います。そして今度「趣味は何ですか?」と尋ねられたら「遊びです」と答えようと思います。

■霧とお経
霧 山間の村や盆地では、よく霧が出ます。自坊(じぼう=自分が住職しているお寺)は、標高約130メートル、京都府与謝野町にあり、鬼退治伝説の大江山が正面に見えます。ある朝、自坊で掃除を始めると、平地から霧が上ってきました。霧は、遠目には一様に見えます。が、上ってくる霧を立ち止まって見ると、そうではありません。流れる霧には、濃淡があります。自坊は東向き斜面にあるので、霧が朝日に光るのです。さて、仏教には、「お経」があります。釈尊の教えを文字にしたものです。釈尊の教えを「法」といいます。法とは「真理」を意味します。釈尊個人の考えではありません。釈尊は、森羅万象に流れる「ほんとうのこと」に気づいたのです。それを「悟り」といいます。釈尊は、言葉で「法」を語られました。ところが、言葉は、伝わった瞬間に消えてしまいます。人間の記憶は、いい加減なものです。皆さんも「言った、言わない」で喧嘩になった経験はありませんか?そこで、仏陀の教えを文字にしました。これがお経です。「経」とは、漢字で「縦糸」の意味です。時代が変わっても切れない、真理の言葉だからです。流れ来たる霧に、縦糸―お経を感じます。ところで、霧の流れの中にいると、霧は、一様ではないことがわかります。ムラがあるのです。時々刻々と変化しています。まるで、移り変わりの激しい現代社会のようです。この変化を、お経=縦糸に対し、毎日=横糸と見てみましょう。横糸は、漢字で、「緯」という字を使います。物事のいきさつを、「経緯」と書いたり、地図上の縦線を経線、横線を緯線と言ったりします。織物だって、縦糸と横糸が交わって布になるのでしょう。毎日色々なことがあるけれど、大事にすべきことは変わらない。横糸だけ見て縦糸を切ってはいけない。目先のことに目を奪われて、信仰を忘れてはいけない。と言えないでしょうか?さらに、霧の中にいると、皮膚や髪が濡れてくることに気づきます。昔、まだ髪を伸ばしていた頃、自転車に乗っていると、知らない間に濡れるのです、髪が。霧の正体は、小さな水粒なのですね。一つ一つの水粒は、私たち一人一人のようです。それが集まって、霧になる。人間が生まれて、社会を作るのに似ています。やがて、日が高く昇ると、霧は消えてゆきます。元気だった人も、やがては死に往きます。それは苦でしかないのでしょうか? お経には「そうとは限らない」という縦糸が張ってあります。「お経の意味がわからない。だからつまらない、役に立たない」と信者さんから言われます。確かに、わかりやすいお経は、必要です。でも、お経は縦糸でしたね。「服の縦糸が何本あるか数えるまで服を着ない」という人はいないでしょう。お経は真理の言葉です。一心にお唱えすること自体、人生の縦糸をしっかりさせることなのです。

■ゾッコン惚れる
「一人いちにん慶けい有れば四海しかい虞おそれ無く国に於いても家に於いても咸ことごとく瑞吉ずいきちを蒙こうむる(一人がお正月を御祝いすれば天下は怖いものなしになり、国家も人々も皆んな喜んで幸せになる)」これは明暦二年(西暦一六五六年)に大阪は富田の「慈雲山普門寺」で説法された隠元禅師の元旦法話の一節であります。四海は天下であります。人も自然も森羅萬象一切は、まこと真実の自己という永遠の壽いのちが具体的に現れたものであります。この永遠のいのちに生きない限り、肉体やそこに宿る心は、「憎む愛するとか、善い悪いとか、本当か嘘かとか、美しいか醜いかとか、生きるとか死ぬとか」、どうしても対立してしまう世界に生きて、年齢に随って衰えて終ついには何もかも消え失せてしまいますので是れを虞おそれと云われたのであります。慶は「行きて人を賀するなり也」と申しまして、誰にでも具わっている真実まことの自己という永遠の壽いのちをお正月に「オメデトウございます」と、お互いに賀するのであります。日本ではお節料理を囲んでお屠蘇を頂いて「今年も真実の自己に生きて元気一杯働こう」と決心して一年を開始するのがお正月であります。お正月は唯一残った季節の行事でありますが、海外旅行とか最近では連休の一つになってしまった感じであります。右の如くに一年を開始する人は次第に少なくなるのかと思うのであります。しかし「一人いちにん慶けい有れば......」でありまして、一人がお正月を御祝いすれば皆んな幸せになるのであります。これが大乗仏教の特長であります。大乗仏教はリーダーの宗教であり、ここでは慶有る一人がリーダーであります。出家はリーダーであります。出家はどうしても対立する世界を捨てて、一度はそこから抜け出してみることが必要なのであります。只々、真実の自己という永遠の壽に生きて、宗門に尽くしてお寺に尽くして生涯終わる、こうでなければ出家とは云えないのであります。どうしても対立してしまう世界、そこで生活する皆さん方は、対立する世界を抜け出した方に信奉する尊敬する或いは出家に遇ったら心の底から合掌すればよいのであります。「ゾッコン惚れる」のであります。ゾッコン惚れてしまえば、皆さん方在家の方々は、対立する世界から抜け出す必要はないのであります。昔、こういう話をしましたら「その出家が合掌する価値があるかどうか解ってからでないと合掌出来ない」と云った奴がいました。それでは駄目であります。出家に出遇ったら無条件に合掌する、その時皆さん方は「心中無一物」になっていて、「どうしても対立する世界を既に抜け出している」のであります。これでリ−ダ−と同じになれたのであります。ここな消息に於いて「咸ことごとく瑞吉ずいきちを蒙こうむった」のであります。

■カルタとり異聞
お正月の古典的な遊びにカルタとりがある。有名なイロハカルタに書かれていることばの最初、「い」はかつて江戸ものでは「犬も歩けば棒に当たる」だが、上方ものでは「一寸先は闇」という。中ほどの「ま」は同じく江戸では「負けるが勝ち」で上方は「まかぬ種は生えぬ」とのこと。いろいろと違うものだなあと思いながら、ふとこんなことを考えた。「ぶっぽう」・「ぶつどう」・「ぶっきょう」はそれぞれ「仏法」・「仏道」・「仏教」の読みであるが、それぞれ「ぶ」を「て」に変えてみると、「てっぽう」・「てつどう」・「てっきょう」となり、それ相応に意味は通る。「鉄砲」・「鉄道」・「鉄橋」である。故・盛永宗興老大師のお話の一部に「言葉というものは、長らく使っているとそれぞれに独特の匂いを持つようになってしまう」といった内容を拝聴した記憶がある。つまり仏法というと何かしら法律のような決まりごと、明文化されたイメージがあり、仏道というと柔道、剣道に代表される修行の道をイメージし、仏教というと書物、教えのイメージを持つようになるという御法話であったように記憶している。今、言葉のひとつとして「鉄砲」を考えてみると、銃を構えて自分の外に意識を集中させて弾を撃ちだし、命を奪い去ってしまうものが鉄砲であるが、「仏法」は自分の内に意識を集中させて凝り固まった我を打ち壊し、こうして脈打つ自らの命の尊さに気づくものであるとも言える。「鉄道」は沢山の荷物や人を乗せて走る列車の通り道になるものであるが、「仏道」は沢山の雑念や欲にふりまわされる日常を調えて、真っ直ぐに歩いていく道であるとも言える。更に「鉄橋」は主に列車を渡すための鉄の橋のことと説明されるが、橋であるという以上は離れた2ヶ所を結ぶ役割をするものである。「仏教」は般若心経に代表されるように此岸しがん(現実世界)から彼岸ひがん(理想卿)へ渉り、同時に此岸と彼岸とをひとつに結ぶものである。何だかよくわからないことは「お経のようだ」と、自分の知識の枠組みから外れて理解できない事柄を都合よく整理する際に使われることが多い仏さまの教えだが、こうして比べてみると案外身近に感じられることはないだろうか。結局、最終的に私たちは「今」いる「この場所」でいかにして精一杯生きていくか、ということに行き着くのだが、浮世に流されて自分を見失うと「思いもよらぬものにぶち当たって」しまい、「一寸先は闇」を痛感することになる。しかしそれとても、「まかぬ種は生えぬ」のだから、原因は自分にあるのだと、謙虚な気持ちを忘れなければ、一時いっときつまづいても「負けるが勝ち」と再び一歩前へ歩き出すこともできる。お正月の『初日の出』だけが特別なものではなく、目覚めた朝、差し込む光に対して奥底から湧き出る思いをもって感謝できたなら、きっとすばらしい一生になるのだろう。
門松は 冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし (伝・一休禅師) 
 

 

■梅花の咲くころ
本格的な冬が訪れ、お寺の池にも氷が張るようになりました。厳しい寒さが続く中、暖かな春の到来を待ちわびる毎日です。しかし、暦の上では、節分をさかいに、春の到来となります。この時期、境内を歩いておりますと、桜や紅葉など様々な草木のつぼみが目にとまります。厳しい寒さにも関わらず、春に美しい花を咲かせるため、一所懸命耐え忍ぶその姿に心励まされることが多々あります。そのような冬景色の中、だれよりもいち早くその花を咲かせようとする草木があります。それは冬の花、梅です。冬空の下、梅は桜のような華やかさはありませんが、その姿は、わたしたちの心を凛としてくれます。よく「梅花五福を開く」という掛軸を見かけます。わたしたちに具わる五つの智慧――すべてがありありと見える智慧・物事を平等にみる智慧・行動に現われる智慧・善悪を弁別して観察することができる智慧・すべて仏心のあらわれであるととらえることのできる智慧――を梅の花に喩えたものです。同じように「一華五葉いっかごようを開ひらき、結果けっか、自然じねんに成なる」という達磨大師が、弟子の慧可えかに与えた言葉があります。五智(五つの花弁)を合わせると、素晴らしい仏心(一華)が結実するということです。つまり、自らを磨いて、努力を積むことによって必ず華が咲き、自然に実をつけるようになるということでしょう。道元禅師の著した『正法眼蔵』の梅華の巻には、梅について「梅の開くのにつられて春も早くやってくる。春の功徳は全て梅のなかに詰まっている」と興味深いことが書いてあります。つまり、春が来たから梅が咲いたのではなく、梅が咲くから春が来ると云っているのです。ふつうは春が来たから、梅の花が咲くと考えます。なぜでしょうか。きっと春が訪れるのを待つのではなく、梅のように、厳しさの中にあっても耐え忍び、自らの華を咲かせることによってはじめて春をもたらすことができることを教えてくれているのでしょう。草木はつぼみに目一杯の命を充満させ、やがてそれを開花させ春をもたらします。とかくわたしたちは自分の素晴らしさ、内に秘められているものに気づきません。しかし、梅花のごとく、自らの可能性を信じ、その花を咲かせなければなりません。凛とした姿をみせる梅の木の下、「春よ、来い〜♪」と春の訪れを待ちわびるばかりの自分が恥ずかしくなります。

■トラにちなんで
さて本年は寅年です。虎は、鳥獣、ひいては人をも「とらえる」ため、トラと呼ばれるようになったという説があるそうです。虎だけでなく、私たちも日々何かをとらえながら生活しているわけですが、とらえると同じくらい重要なことが、実は「放す」ことです。どうしても、現代ではとらえる――手に入れることばかり重視されがちで、「放す」方はあまり顧みられることは無いように感じます。禅の言葉では「とらえる」ことを「把住はじゅう」と言い、「放す」ことを「放行ほうぎょう」と言います。空気を吐いて吸う呼吸のように、心の方でも「とらえた」ら「放す」、「放し」たら「とらえる」と、流れに随って、ありのままであればいいのですが、心が「とらえる」ことばかりにとらわれてしまっていたら、次の「放す」へのステップが踏めません。「とらえる」(把住)と「放す」(放行)は二つで一つのセットなのです。だから「とらえる」だけだと、世の中はどんどん流れていくのに、私たちの心は取り残されてしまう、取り残された心はますます孤独になる。「無縄自縛むじょうじばく」という言葉もあるように、本来ないはずの縄で、自分で自分の心を縛り上げて、自由が利かなくなる。そうした状況に終止符を打つには、「とらえる」だけでは駄目だということに気がつかなくてはなりません。石垣りんさんの『くらし』という詩があります。
  食らわずには生きてゆけない
  メシを  野菜を  肉を  空気を  光を
  水を  親を  きょうだいを  師を  金もこころも
  食らわずには生きてこれなかった
  ふくれた腹をかかえ  口をぬぐえば
  台所に散らばっている  にんじんのしっぽ
  鳥の骨   父のはらわた
  四十の日暮れ  私の目にはじめてあふれる獣の涙
石垣さんは、実母を四歳の時に亡くし、実父は三十七歳の時に亡くします。そして「四十の日暮れ」とありますから、父を亡くして四年たってこの詩を書いた。自分が暮らす――生活することは、肉親や先生までも「食らわずには」生きられない。虎のような猛獣と同じように、何もかも「とらえて」しか生きてこなかったことに気づいた時、石垣さんの目に涙があふれていた。心の眼が開き、「放す」ことに気づいたといえます。一旦「とらえた」ものを「放す」ことは大変なことですが、この「トラ」年にあやかって、そういった視点で生活を見つめ直すのはいかがでしょうか。

■何気ない挨拶から……
昨年十二月に佐賀県のお寺で「成道会」の法要に招かれて行って参りました。佐賀県には沢山の寺院がありますし、またご縁をいただいた寺院も数多くあります。日程的な都合もありましたが、折角でしたので今回伺うお寺の他に別のお寺も御参りさせていただくことにしました。十二月にしては暖かく、お寺までそれ程遠くはなかったので初めて訪れる土地でしたが地図を片手に歩いて行くことにしました。国道を渡り、運動公園の入り口付近から小さな川に沿ってサイクリングコースに突き当たります。その道をしばらく歩くと、駅に降り立ったときとは違う、自然豊かで懐かしさを感じるような景色へと移り変わります。それから更に歩いてお寺までもう少しのところで、前から赤いランドセルに黄色の帽子を被った女の子が一人で歩いてきました。ここに来るまでの数十分間、車の往来はありましたが、歩いてくる人に出会ったのは、この女の子が初めてでした。するとすれ違い様に「こんにちは」と大きな声で挨拶をしてくれました。そして、今度は小学一、二年生でしょう、数名の男の子たちの姿がみえました。ニコニコと笑顔で「こんにちは!」と、やはり元気に挨拶をしてくれました。正直、驚きました。それと同時にとても嬉しい気持ちと清々しい気持にもなりました。近頃では、「知らない人に声をかけられた」と予想もしない展開になることもあります。私の近辺をみても子供たちから挨拶をしてくる場面が非常に少なくなってしまったように感じます。本来、「挨拶」は仏教語であり、もとは禅宗のお坊さんたちの間で師が修行者の悟りを試すための問答に用いられたものです。「挨」は開く、「拶」は触れ合うの意味があり、お互いの心を開きあい触れ合うところに意味があります。そして、「挨拶」は日常生活の些細な部分でもあり、あたりまえのことかもしれませんが、「こんにちは」というたった一言で、人を笑顔にさせ、温かい気持ちと触れ合うこともできます。
「人々悉く道器なり」 ―伝光録―
瑩山紹瑾けいざんじょうきんの言葉です。「人は誰でも日常の生活の中に−人としての尊さ−を実践する力を備えている」ということです。あの時出逢った小学生たちの一言の挨拶によって、根本にある大切なものを改めて見つめなおすことができたと思います。

■彼岸に憶う
「暑さ寒さも彼岸まで」。寒い寒いと口癖のようにいっていたのも束の間で、いつの間にか、その寒さも和らぎ、草木の芽のふくらみも目立ち始めて、早や彼岸の季節である。大変古い話で、しかも私事で恐縮だが、彼岸が近づくといつも懐かしく思い出すことがある。もう四十数年も前のことになるが、当時、妙心寺の管長をしておられた古川大航老師が「特請授戒会」で拙寺にこられた時の話である。その時既に、95歳になっておられたが、大変お元気な御様子で、挨拶に参上した私に「新命さん、あんた嫁さんはおるのかね?」といわれるので、「はい、おります」と答えると、重ねて「そうか、じゃあ彼岸というのはどういう意味か知っているか?」と聞かれたが、咄嗟のことでもあり、言葉は知っていても詳しい意味などわからない私は、正直に「知りません」と答えた。すると、管長様は「お前さんが嫁さんの気持ちになり、嫁さんがお前さんの気持ちになる、それが彼岸ということだよ」といわれて、色紙に「転てん」という一字をその場で揮毫きごうして下さった。「転」とは、普通は「ころぶこと」「倒れること」という意味だが、仏教語としては、「何事でも、かたくなに自分の立場に固執することなく、ぐるりと廻って反対側の立場に立ってみる」という意味をもっている(これはずっとあとになって解ったことだが……)。こちら側から見てカッカと腹の立つ事柄でもぐるりと廻って相手の立場に立ってみれば、なるほどそうだったのかと笑って受けとれることも沢山あるし、対人関係の感情問題など全てそうだといっても過言ではない。仏教ではこの世の中を娑婆(思いどおりにならないところ)というように、悲しみや苦しさが人生の実相すがたといっていいが、それとても同じことで、自分の側からばかりみてそれに間違いないと思い込んでしまうから、やりきれない絶望に陥るわけで、それをひっくり返して考えれば、そのやりきれなさがそっくりそのままあかるい楽しさに変ずることもある。仏教では、そのようにひっくり返すことを「転」といい、それがわれわれの生活の中で極めて大切な生き方だと教えている。それを実際に生活の中に生かす道は、その「転」の作用は専ら信仰からでてくるすばらしい智慧の働きであることに気づかせていただくことにあるという。「転」をそこまで深めて受けとった時、悲しみや苦しさのすべてが広大無辺の仏の恩寵おんちょうとしてよろこべる世界が開けてくるのである。自分の中にある自分を「自己」、他人の中にある自分を「他己」という。おたがい、自分の中に他人を観、他人の中にも自分を観ていくという深い思いやりと、一度立場を変えてみるという眼まなこの方向転換が彼岸に到る道ということであろう。 
怨は怨を以て消すべからず。怨は怨まざるをもって消ゆるものなり  釈尊

■赤心片片
到来の赤福もちや伊勢の春   子規
平成25年の式年遷宮に向けての準備が進む伊勢神宮ですが、百年前伊勢参りができなかった子規は、到来の「赤福」を前にしてその喜びをこう詠みました。しかし、先年、「赤福」をはじめ老舗暖簾など食の安全に関する問題が多発し、創業時の精神がどこも大きく揺らぎました。こうした一連の問題が表面化したとき私は中国唐の太宗たいそうが「創業と守成といづれが難き」と訊ねた話を思い起しました。唐の太宗はあるとき二人の側近の者に、「国家の大業を始めるのと、既にでき上がった帝業を堅実に守って失わぬようにするのとではどちらが難しいと思うか」と訊ねました。そのとき玄齢げんれいという側近は、「天下がまだ定まらないときは、多くの英雄が互いに力を比べ争い勝ったほうが負けた者を臣下とするから、創業のほうが難しいと思います」と答えました。しかし、魏徴ぎちょうという側近は、「昔から、どの帝王でも、天下を艱難の中から得て、安楽無事のときに失う者が多くいるから、守成のほうが難しいと思います」と答えました。二人の意見を聞いて太宗の答えはそのときこういいました。「玄齢はわたしと一緒に力をあわせて天下を取った。幾度も危険なめにあいながらやっと生きのびてきた。だから、創業の難しいことを知っている。そして、魏徴はわたしと一緒に天下を治めてきた。常に、驕奢きょうしゃは富貴から生じ、世の乱れは物事をなおざりにすることから生じるということを恐れている。だから守成の難しいことを知っている。しかし、創業の困難はもうすでに過ぎ去った。守成の難しさはこれからの問題であるからみんなと心して戒めていこう」。この話は何も天下国家の話だけではないということはお分かりだと思います。ことを創める難しさもさることながらその老舗の暖簾を永く守り商いを成していくことがいかに難しいか、ということを唐の太宗のこの話は私たちに教えてくれています。禅の言葉に「赤心片片せきしんへんぺん」という言葉があります。これは相手に誠心誠意真心を尽くすというような意味ですが「赤心」とはいわば赤ちゃんのような純粋無垢な心をいいます。このことは例えば「聖書」にも「赤子のような心でなければ神のもとに召されない」とあります。「赤福」の創業は宝永4年(1707)という古い歴史があります。創業者の治兵衛さんは宇治橋のたもとで五十鈴川のせせらぎの波と川底の白い小石を模して餡子餅を参拝者へのご接待としました。そして、赤子のような無垢で嘘偽りのない真心でもって家族やひとさまの幸せを喜ぶという意味の「赤心慶福」という言葉からその餅を「赤福」と命名したのでした。誰もがあった赤ちゃんのときの心を人は忘れ去ります。いつの世でも一番先に忘れてしまう心がこの「赤心」ではないでしょうか。実は、禅の心はこの「赤心」に立ち返ることで、坐禅はその手段ともいえます。
旅は春 赤福餅の 門に立つ   虚子

■ある戦国武将と禅
ここ最近、戦国武将ブームと騒がれております。しかしどうも、そのいでたち格好良さという一面でしか語られていないように感じられます。何故なら戦国武将と禅の関わりについて、案外、知られていないからであります。下剋上という過酷な生存競争の中で、多くの武将たちは禅によって自らを鍛え、世の中の不条理に立ち向かっていったのです。禅に参ずるということは即ち、戦国武将の内面をより深く理解できるといっても過言ではありません。戦国時代には数多くの武勇に勝れた武将たちが登場しましたが、天下人豊臣秀吉をして「鬼」といわしめた武将の存在を知る人は少ないようであります。その武将の名は堀尾ほりお吉晴よしはる。彼は平生「仏」と親しまれるほど温厚で、また築城の名手として知られておりました。しかし、ひとたび戦場へ駆けると凄まじい勢いで敵を薙ぎ倒す歴戦の勇士へと変貌するのです。その姿を主君秀吉は、「仏ではない鬼である」と称えました。戦場の鬼と恐れられた吉晴でしたが、たいへんに優れた慈悲深い政治家でもありました。関ヶ原の合戦の功績により徳川家康から出雲と隠岐(現在の島根県)の太守へ任ぜられた後は、城下町・松江を開き地域の発展を促しました。今年(平成22年)は、その松江開府四百年の年にあたります。吉晴もまた禅に深く帰依しておりました。彼の参禅の師は仁孝天皇より「大光円照禅師」の称号を賜った春龍玄済禅師です。出雲と隠岐の太守に任ぜられた吉晴は、堀尾家の菩提寺として円成寺(臨済宗妙心寺派)を建立し、ご開山に春龍禅師を迎えました。その時春龍禅師は、当時正式な地名の付いていなかった松江の風景を見ながら、「この地は中国の淞江ずんこうと同じく鱸すずきや蓴菜じゅんさいがとれるので松江という名をつけた」と、『円成寺権輿』という書物の中に記されております。松という樹は、臨済禅にとってたいへんに意味を持つ樹であります。臨済宗の宗祖・臨済禅師がひとりで黙々と松を植えておりますと、なぜ松を植えているのかと臨済禅師の師である黄檗禅師から理由を尋ねられます。すると「一には山門の与(ため)に境致と作し、二には後人の与ために標榜と作なさん」といわれました。松は季節に関わらず青々とした葉を繁らせます。毀誉褒貶きよほうへんの中に生きる我々の真実の姿を映しているかのようであります。その松をひとつには美しい環境の為、そしてふたつには未来の人たちへの道しるべとして、臨済禅師は松を植えておられたのです。このように松の樹は禅を表わす樹であります。堀尾吉晴もまたこの臨済禅師の精神を春龍禅師から受け継ぎ、武将としても領主としても日々精進していたのであります。いかに禅が戦国武将と深く結び付き、現代の私たちの生活の場にも花開いているかを実感していただければ幸いに存じあげます。

■一如の声
禅宗ではよく「一如」ということが言われます。辞書には「純一、絶対平等」、「全く等しいことをいう」とあります。修行道場でも、「何をするにもそのものに成りきれ。そのものと一枚になれ」と指導されます。以前、ある寺で、和尚の読経の声に驚かされたことがあります。本堂から聞こえてきた、深く、それでいて明瞭な「その声」にハッと息を呑み、思わず襟を正していました。日が暮れて、人気のなくなった寺で夕食を戴きました。差し向かいのその和尚に、昼間の「声」の印象を素直に話すと、「自分はまだまだ未熟者ですから」と、私よりもかなり年長の和尚は、そのまま言葉を切られました。やがて、食事が終わる頃、和尚は初めてご自分のことを話されました。「周利槃特しゅりはんどくではないが、自分は子供の頃から物覚えが悪く、修行道場に入ってからも、まわりの方々に色々迷惑をかけました。ですから、せめてお経は誰にも負けないくらいよめるようになろうと……」。周利槃特は生来愚鈍で、自分の名前すら忘れてしまうため、弟の将来を心配した兄に次いでお釈迦様の弟子となりました。お釈迦様は彼に一本の箒を持たせて、一心に掃除をすることを命じ、それによりお悟りを得たという方です。暗くなった庭に目を向けられた和尚のご様子から、自分がお経をよむのか、お経が自分をよむのか、区別もつかなくなるほどの、真剣な精進が察せられました。「本当の読経とは、それを聞いた人が自ずから信心の道に入る読経である」と聞いたことがありますが、そういうことは確かにあるのだと納得しました。人はそれぞれ違った境遇の下に、様々な条件を持って生まれてきます。自分ができないことを悲しむのではなく、今できることに目を向け、そのことに精一杯打ち込む、精進する。これだけのことが、人にはたいそう難しいのですが、今でもあの日の読経は一如の声となって、私の背中を押してくれるのです。

■平常心是道 −不変のちから−
先日、自分のことを書き記した文章を見つけました。これは5年前の2005年に書いたもので、「ハッピー2010ストーリー」という題です。それにはこうあります。「2010年8月になったら、私は57歳になっている。一般の人ならば、第二の人生を考える時なんだろうが、職業柄、第二の人生にはならない。というのは私はお坊さんであるから。お坊さんは30、40は小僧っ子で、50でやっと芽が出て、60で一人前になると言われているので、2010年には第二の人生というより、第一の人生、すなわち一人前のお坊さんになれるよう、今以上に頑張っているのではないかと考える」とあります。その文章の続きには「僕の信念は、お坊さんというのは、人を幸せにする、しなければいけない仕事であるということ。きっとその年には、それに向かって走っている自分の姿が容易に想像できる」とあります。現代社会は、日々刻々と色々なものが変動しており、それこそ科学技術などは、今日のこの瞬間には素晴らしいものであっても、もう1時間も経てば、いや1分、1秒でそれは、古い理論となってしまうのです。そして時として、今までとは全くの逆説が現われ、学説がひっくり返ってしまうことも、数多く起こっています。そして情報は日々、膨大な量に及び、中には悪意に満ちたものまでたくさん出回り、人々のこころを蝕んでいます。そして、人間はその量に圧倒されて、その中から善意の情報を選別する能力さえ失ってしまっています。また、殺人、傷害などの暴力事件、窃盗や詐欺などの金銭にまつわる事件など、考えも及ばない事件が多発しております。それもこれもみんな、この社会が悪いということにしてしまえばそれまでです。しかし、人の文明の進歩と共に、我々人間のこころが壊れかけているのです。1961年、アメリカにおいて、若き獅子ケネディ大統領が誕生しました。彼はその就任演説の中で、「国家があなたの為に、何をしてくれるのかではなく、あなたが国家の為に何ができるかを考えよう」と民衆に訴えかけ、その場に集まった数十万の観衆のみならず、全米から拍手喝采を受けました。私は、悩める現代の人々に「社会があなたの為に何をしてくれるかではなく、あなた自身が社会の為に何ができるか」を、真剣に考えてもらいたい。そうすることによって、今の状況を打破して、古き良き精神と、新しい技術を持つ、新しくすばらしい日本という国、そしてそこに暮らす素晴らしい人々が、できてくると確信しております。こころの時代とよく言われます。まず人間としての基本は不変です。不変のもの、それは自分がこの社会を作っているのではなく、自分自身が他人にも優しくする事、すなわち慈悲のこころを常に忘れないということです。そして、今自分があるのは、父母そして先祖があってこそということを、こころに刻んで生活をしていくことです。こういった当たり前のことを、自然体で生活していける自分自身である事、つまり禅の言葉で「平常心へいじょうしん是道これどうといいます。当たり前のことを大切にして日々を歩んでいくということが、いかに大事かをよく考えて毎日を送りたいものです。

■落花流水を送る
人間関係にも落花と流水の関係が理想的ではないでしょうか
何年か前に、「お寺さんは広くて、電気の消費も大変でしょう。私どもの器具を取り付ければ、3割は電気代の節約になりますよ。」という電話がかかってきました。まあ、親切な案内と感謝し、検討してみますとその時は電話を切りました。そして数日後、テレビで実際はほとんど電気代の安くならない、ニセの器具を売り付けるサギにご注意と言うニュースが流れて、ビックリ仰天。危うくサギに引っ掛かるところでした。こう言うのを「小さな親切、大きな下心」と言うのでしょうか。とかくこの世は、頼みもしないものを売りつけたり、余計なおせっかいや、ゴリ押しが横行しています。その度に、人間関係は嫌なものだと思ってしまいます。「落花流水を送る」。花びらが川に舞い落ちると、流水がどこかに運んで行くという意味です。花びらは自然に散り、川もまた自然に流れているだけです。だから、この関係は美しいのです。花びらも流水も無心に自分の与えられた仕事をまっとうしているだけ。こんな関係を、人間にも求めたいものです。たとえ、それが商談であったり、仕事の依頼であってもです。家が壊れたら大工さんへ、魚が欲しければ魚屋さんへ、肉が欲しければ肉屋さんへ、坐禅がしたければ禅寺へです。何の思惑も下心もありません。お互いがお互いを生かし、生かされている関係は、花びらが川面を流れているごとく美しいものです。

■涅槃にいたる「捨」のこころ
ご本山・妙心寺では、毎年の恒例行事「新亡供養」が行われる時期になりました。涅槃という言葉がありますが、インドのニルヴァーナという言葉を漢音訳したものです。意味は、燃えているロウソクの火をふっと吹き消した状態、つまり、人間の本能から生じるさまざまな煩悩が消え、精神の動揺がなくなった状態を涅槃というのです。お釈迦さまは35歳の時に悟りを開かれ、精神的には動揺のまったくない、寂静の境地におられました。しかし、人間は生きている限りにおいて食べなければならないし、睡眠の時間も必要です。ですから、生きる最低の煩悩というもの、肉体を支えるために必要な煩悩は、必ずあるわけです。それはまだ、完全な涅槃とはいいません。ところが亡くなられますと、もう食べるものも睡眠も一切の事はいらないので、その状態を完全なる涅槃、ニルヴァーナというわけです。では、我々も死んだら一緒ではないか。死んだら食べたくもないし、あれが着たい、これが欲しいとは思いません。だから、お釈迦さまの涅槃と同じではないか。それで、死者を「仏さんになった」というようになったのだと思います。しかし、我々はきっと死の瞬間まで財産が気になり、こだわりを持ったまま死を迎えるでしょうから、肉体は滅びてもまだ迷っているような気がいたします。外見上は似ていても、その中身はどうも違うのではないでしょうか。そこで、ただ心の静かな状態を望むならば仏教でなくてもいいのですが、仏教はすべてを捨てることが根本であり、捨てることにより煩悩が取り除かれた涅槃の境地において、菩提(悟り)の智慧を得るのです。智慧を得たならば、その智慧を生かし、慈悲の心をもって人々を救う働きをしていきます。すなわち煩悩を転じ、慈悲の心を得て働くことが智慧の完成です。私はかれこれ、ぎっくり腰歴7回。その度に整形外科に通います。昨年10月の初旬、新型インフルエンザと共にぎっくり腰に見舞われ、二重苦の一週間でした。先生もカルテを見ながら「またやりましたね!」とつぶやくも、それどころではない腰の痛みです。待合室にあった、雑誌のぎっくり腰にきく「ヨガの死体のポーズ」の話が目に入りました。その太文字を追うのが精一杯でした。ヨガの死体のポーズとは、上を向いて寝て、全身の筋肉の力を抜き去り、何にもとらわれず、いわゆる捨て身のポーズです。私たち人間は、つい自分の地位や、財産や、プライドにこだわり、悩みます。とらわれて腹が立ちます。それを捨てたところに、安らかな心が得られるのではないかと、転じて思いました。涅槃にいたるために、即ち生きながらに「仏となる」ために捨てることを学びたいものです。 
 

 

■五戒
お釈迦さんの説かれた「仏遺教経」の中に、この様に記述しているところがます。「汝等比丘、我が滅後において、当に波羅提木叉はらだいもくしゃを、尊重し、珍敬ちんきょうすべし。暗に明に遇い、貧人の寶を得るが如し。当に知るべし此れは汝等が大師なり」。波羅提木叉とは戒律の戒であります。戒は他から強制される掟ではなくて、己の心の内から、そうせずにはおれないと考える、求道者の摺り上げた、究極の掟であります。それに対して、律とは集団或いは組織の規律を守る為、他律的に強制される掟であります。現代的に申せば、律が法律と考えると、戒は良心、或いは仏心を保つ為の内心の箍たがであると言えます。内心のことは他人に窺い知れないので、外目に装うこともできます。ここにどうしても宗教心の必要性が出て参ります。誰の心にも元来、仏心と邪心を両方持ち合わせております。これをお釈迦さんは、人は皆心の中に一匹の毒蛇を飼っていると表現されています。日本でも室町時代の古歌に、「傀儡師(かいらいし)首にかけたる人形箱仏を出そうと鬼を出そうと」とあります。どちらを出すかは、胸先三寸ですので、誰にでも凶暴な事件に繋がる要素は持っているという訳です。無宗教者と宣言する人がありますが、自分はブレーキの無い自動車のドライバーだと宣言しているようなものです。「戒」は人の道を歩く為の履物と言い換えることができます。その初歩の教えは「1.不殺生戒、2.不偸ふちゅう盗戒とうかい3.不邪淫戒、4.不妄語戒、5.不飲酒戒」であり、これを「五戒」ともうしております。出家得度する時に、師匠から授けられ、今日からお釈迦さんの弟子になるのだから、これを心して生活しなさいと諭されるわけです。何故か、日本では5番目が特に緩々ですが。“ごかい”無きように。

■にごらぬ心
今年も相変わらず暑いです。寺の庭では蝉たちが命の歌を唄っています。変わらぬ夏の声です。毎年、季節はめぐり夏が来ますが、その一方で私達の心は同じ場所に留まってはいないでしょうか。
うず巻いて にごらない 滝つぼの水
相田みつをさんの詩です。水は同じ所に留まると腐ってしまいます。しかし、滝から落ちた水は同じ所に留まらずクルクルとうず巻きながら流れている。私達の心も愚痴ばかり言って留まっていては、心まで腐ってしまいます。「にごらぬ心」で日々の生活に勤めなさいという教えなのです。雲門禅師は多くの弟子達にむかって問われました。「これまでの事はたずねないが、今これからどのように生きるか」、「今、これからをどう生きるか」という問いかけであります。すると弟子達は顔を見合わせて何も言えずにいる。そこで禅師はあの有名な一句を示されました。「日々是好日」。禅の言葉です。過去の事ばかり振り返らない、未来の事ばかり心配しない。すなわち今の自分に目を向けなさいという教えです。過去や未来にとらわれない「にごらぬ心で生きなさい」と説かれておられるのです。小学校3年生の宮本莉奈ちゃんの詩を紹介いたします。
「川さん」
川さん 川さん どこ行くの?  大きな海まで行くのかな?
クジラに会いに行くのかな?  川さん 川さん おこっているのかな?
ゴウゴウこわい音たてて  ゴミがいっぱい流れているからかな?
川さん 川さん 静かだね  小さなお魚さんと遊んでいるのかな?
川さん 川さん きれいだね  おひさま光って きれいだね
キラキラ ピチャピチャ 気持ちいい
いつも通る川沿いの通学路を見て書いた詩であります。時には学校へ行きたくない日もあったでしょう。時には嬉しいことがあって鼻歌を歌いながら通った日もあったでしょう。莉奈ちゃんの心が「川さん」で、「川さん」の姿が莉奈ちゃんの心なのです。毎日が同じ風景だと思っていた。実は毎日が違う風景であった。それは莉奈ちゃんが「にごらぬ心」で今を大切に生きていたからこそ、こんなに素敵な詩がかけたのでしょう。毎日同じリズムで時は流れます。しかし、同じ一日は過去にも未来にも何処にもないことを、私達は忘れて過ごしています。「日々是好日」今をみつめ、今の心を大切に二度とない人生を過ごしたいものです。今、鳴く蝉の声も愛おしく感じることではないでしょうか。

■猛暑日 ファイト!!
猛暑列島という言葉がぴったりな国になってしまいました。私の住む岐阜では連日35℃以上の猛暑日が続き、岐阜県多治見市では観測史上最高の39.4℃という記録が出たそうです。誰に会っても「今年は暑いですねー」と言っていれば反論する人は1人も居られません。年々暑さが増し、この先どうなっていくのか心配になってきますが、天候のことは、情けないかな、私たちではなんとすることも出来ません。暑い時には涼しいところ。寒いときには暖かいところにいたいものです。中国の曹洞宗の祖師、洞山良价という立派な禅僧に、ある修行僧が質問しています。
修行僧 「暑さ、寒さから逃れるのにはどうしたらいいですか?」
洞山  「暑くも、寒くも無い所へ行ったらいいじゃないか。」
修行僧 「その暑くも、寒くもない所はどこにありますか?」
洞山  「暑いときは暑さになりきり、寒いときは寒さになりきることだ。」
   『碧巖録 四十三則 洞山無寒暑』
と教えたという話しです。暑い、寒いのことだけを言いたかったのではないでしょうが。私たちは暑いときには「暑い暑い」、寒いときには「寒い寒い」と、言っても変わることがないことを口に出してしまうものです。言えば言うほど、その暑さ、寒さにとらわれ、ダラダラとしてやる気が失せるものです。暑さ、寒さになりきるといいますがどうするといいのでしょうか。昨年の夏の暑い日にお葬式での出来事です。そのお葬式の会場は田舎の公民館でエアコンなどはありません。数台の扇風機が回っていますが、時々生温い風が来るだけで全然涼しくありません。そんな中でお葬式が始まりました。私が導師で他三人の和尚さんとお経を読んでおりますと、隣の部屋からボソボソ、ボソボソと話し声が聞こえてきます。隣近所の方がお手伝いで裏方の仕事をして居られるようです。しだいに話し声は大きくなりお経の声を邪魔する位の大きさになってきました。そうしたら突然もっと大きな声で、「こんなに暑くてはやる気がなくなるなぁー」と聞こえてきました。司会者の方がしびれをきらして隣の部屋へ行き「皆さん、静かにして下さい。会場に丸聞こえですよ」と注意されました。その司会者の声も丸聞こえでしたが。そしたら隣の部屋の一人の方が、「俺たち今日は主役じゃないからなぁ」とまた、丸聞こえの大きな声で言われました。その方にとっては自分たちはお手伝いで裏方仕事だからということが言いたかったのでしょう。お葬式の主役って誰なのでしょうか?お棺の中の亡くなられた方なのか?喪主の方なのか?それとも導師や伴奏の和尚さんなのか?隣の部屋で裏方の仕事をしてくださる方なのか?弔問に来てくださったかたなのか?こう考えてみると分かったことがあります。それぞれが持ち場、持ち場でその時にしなければならないことがあるということです。ということはそれぞれが、その持ち場においては主役ということです。この持ち場で自分が今しなければならないことを精一杯にすることが、暑いの、寒いの、と言わずに、暑いときでも、寒いときでもなりきって、ダラダラせずに生活する方法ではないでしょうか。まだまだ暑さは続くようです。猛暑日にファイトといきましょう。

■盆と母の日
3年前の8月末、11年振りにベトナムに渡航しました。その時も同じ時期で、前回も今回も旧暦7月15日をベトナムで迎えました。偶然ではなく、それが目的の渡航でありました。ベトナムは臨済宗の寺院が多く、ベトナム戦争中、坐禅を組んだまま我が身に火を点け政府に抗議したのは、臨済宗ティエンムー寺の住職です。当時使用した車が展示してありました。お盆の日は夜中も多くの人が寺院へ行き、赤い花ないしは白い花を胸に付けて参拝するのです。以前、その有様を見ていると、女性が赤い花とは限らず、白い花を付けている人もいました。若い方が赤い花を付けるのかなと思って見てみても、白い花を付けた人もいる。赤、白両方を付けた人は無く、必ずどちらかの色を付けて参拝していました。一体何の規則で色分けをしているのか不明で、ガイドに尋ねた所、「お母さんが存命な人は赤い花を、お母さんが既に亡くなっている人は白い花を付けて参拝する。」と言う事でした。では、父親の生死はどうなるのか問うと、「父親は生きていても死んでいても胸に付ける花の色は関係ない。」というつれない返事でした。この話を聞いて、出兵した方が、太平洋戦争の戦地にて亡くなる前に 天皇陛下万歳 と言ってではなく「お母さん」と言って亡くなって行ったということが思い起こされました。国は違えど、母を慕う思いに変わりはありません。母は偉大なりと。約2500年前お釈迦さま在世の時、釈迦十大弟子の一人で神通力に秀でた目蓮尊者が、自身の神通力で亡き母の姿を見たところ、飢えて渇きの地獄世界に落ちており、何とか母を救う方法がないものなのかとお釈迦さまにお願いしたところ、7月15日に食物と水を供え有縁無縁に至るまで供養すれば救われるであろうと説かれ、その行いの功徳によって無事、目蓮尊者のお母さんは救われ、このことが今日の盂蘭盆(お盆)の始まりとされております。『父母恩重経』には、父母に十種の恩があることが説かれていますが、この多くが主に母の恩に当たるものです。その中の一つに <究竟憐愍くきょうれんみんの恩> というのがあります。生きている間は、子を護るためなら自らの命を捨ててもいいと念じ、死後にも、子の身を護ろうと願う。ベトナムにも日本と同様に、「母の日」「父の日」がそれぞれ5月第2日曜日、6月第3日曜日にあるそうですが、もう1日、「母の日」があるそうです。それが旧暦7月15日です。それ故に、皆胸に花を付け母の恩に感謝を込めて参拝するのだそうです。今年は8月24日の地蔵盆の日が旧暦7月15日となっております。母への思いを込めて盆を迎えるのも如何なものでしょうか。

■夕焼け小焼け
皆様方におかれましては、お盆の行事もおわり、無事にご先祖様を極楽へお見送りされたことと存じます。まだまだ残暑厳しい日が続いていますが、そんな夏もいつまでも続くわけではありません。やがて、秋の気配が感じられる頃になってまいります。そんな折り、夕方になると思い出す、一曲の歌があります。
夕焼け小焼けで日が暮れて 山のお寺の鐘が鳴る 
お手々つないで皆帰ろう 烏と一緒に帰りましょう
中村雨虹作詞、草川信作曲の、大正8年に発表された「夕焼け小焼け」です。童謡としては最も有名なものの一曲といえます。ところで、宗教学者の山折哲雄氏は、この「夕焼け小焼け」の歌詞の背景には、仏教の真髄、とりわけ『般若心経』の真言が訳されているとしています。
般若心経の最後の部分は
ぎゃーてい ぎゃーてい はーらーぎゃーてい 
はらそうぎゃーてい ぼーじーそわか
です。この部分が般若心経の一番大事な部分だと言われています。そこにはどんな意味が隠されているのでしょうか。昭和の名僧と呼ばれた山田無文老師はこの部分を、
着いた、着いた、彼岸へ着いた。
みんな彼岸へ着いた。ここがお浄土だった。
と訳されています。みんな同じなんだと。人はみんな同じところへ帰っていく。偉大なる母のふところへ、おおいなる命へ帰って行く。だからみんなひとりぼっちじゃない。寂しくなんてない。人もからすも、みんなで手をつないで一緒に帰りましょう。ここが帰るべき場所だったんだ。そしてみんな帰っていなくなったその後は、大きなお月様が、星が輝きはじめます。
子供が帰った 後からは まるい大きな お月さま
小鳥が夢を 見るころは 空にはきらきら 金の星
丸い月や明星は、執著を離れた悟りの境地を示すと言われます。「夕焼け小焼け」にはそんな深い意味がこめられているんだ、そう思うと、あらためて童謡の深い味わいに気付きます。「めざす場所はここだった」と、思いも新たに、口ずさんでみてはいかがでしょうか。

■私の彼岸は、何処に有る
平成7年1月17日に起きた阪神・淡路大震災。時が過ぎる程、私達の記憶が薄らいでしまう昨今であります。その薄らいでいく事を喜ぶべきか、悲しむべきかは、それぞれの人の心の中であります。地震が起きた直後、某老師様は付き人をつれて被災地へ向かわれました。その姿は、作務着に地下足袋、背中にリュックサック、そのリュックの中には乾パン、菓子パン、水などでした。京都から線路や枯れ木、コンクリートの破片が氾濫する道を歩き続けました。その途中、疲れと空腹で付き人が「お腹もすいた事でしょうから少し休みませんか」と言ったところ、老師は「被災地の人が今どんななのか……和つぁい達のお腹を満たす物があるのなら、まずその方々に差し上げるべきなのに…。お前さんは何を言うのだ! 私達は一日や二日食さなくても死にはしない」と厳しい口調でおっしゃったそうです。その状況の中での老師様の御言葉。それは、人が人としてあるべき姿、また人はそうでなければならないという教えではないでしょうか。これこそが「利他の行」であり、行ないの中に自分自身が生かされている事を御自分の行ないを通して示されたのではないでしょうか。“私達の彼岸”とは、何処にあるのでしょう……。ついつい私達は“彼の岸”に安楽を求めてしまいます。そうではなく自分の足元にある事にまず気付くべきではないでしょうか。そして行える事があるならば、それを実践すべきでしょう。なぜならば、お釈迦様が「私もあなたも仏様ですよ」と教えて下さっているからです。あなたは、あなた自身に合掌ができますか……。

■“無理会”でいきましょう
当寺は、臨済宗の大本山のひとつ「大徳寺」の開山、「大燈国師」の生誕地とされ、境内には国師産湯うぶゆの井戸も残されています。正式な建立は不明ですが、有縁の方々の御法愛に護られつつ今日まで細々とではありますが国師の法燈が伝えられています。知る人ぞ知る大燈国師、宗峰しゅうほう妙超みょうちょう禅師。一般的な知名度では決して高いとは言えないようです。特に当地では、同じく地元出身の詩人三木露風(「赤とんぼ」で有名)に遠く及ばないことを常日頃遺憾に思っておりますが、これも「天然の気宇きう、王の如ごとし。人の近傍する無し。」と評される国師の風格のなさしめるものなのかも知れません。近年臨済宗中興の祖、白隠禅師が最も尊崇された禅僧でもある大燈国師の教えは、「興禅大燈国師遺誡ゆいかい」に凝集され、全国各地の臨済宗専門道場において修行僧達によって綿々と読誦され続けています。その一節に、「無理会むりえの処ところに向かって究きわめ来り究め去るべし」とあります。「無理会」とは「理会」を超越した世界、理性的判断の届かない次元のこと。わかったようでわからない、何となくだまされた気になりそうですが、そうではありません。皆さんが「オギャー」と生まれたその時、今日が何年何月何日かも知らず、ここが地球上のどこかも知らず、父親の年収の多少も知らず、母親の容姿のよしあしも知らずに生まれてきたのです。自分が男か女かも知らず、自分の体重も身長も血液型も知らず、それどころかじぶんが生まれたということさえ知らずひたすら「オギャー」。私達は一人残らずこうして生まれてきた、そうです、「無理会」で生まれてきたのです。そして、本当は今日も「無理会」で生きている筈なのですが、ややもすれば有りもしない自分を勝手にあると思い込んで、ああでもない、こうでもないと右往左往、道に迷うのです。人間存在の原点である「オギャー」に返ること、それを国師は「無理会の処に向かって究め来り究め去るべし」と仰言おっしゃっておられるのです。そして、朝起きたら顔を洗って「おはようさん」、仕事先では「こんにちは、今日もよろしく」、夕方になれば「お疲れさま」というふうに「無理会」が臨機応変、融通無礙に働いてゆくのです。死んでから風になるのではない。即今、雨が降れば雨とひとつ、風が吹けば風とひとつ。雨降るもよし、風吹くもよし。柳は緑、花は紅、「無理会」の世界では、雨も風も柳も花も自分そのものなのです。

■人生のいい風
今年の夏は殊のほか暑く、うだるような日が続きました。それでも朝夕は心地よい秋風が肌を通り過ぎるようになりました。ある修行僧が雲門禅師に「樹凋み葉落つる時如何」と問います。雲門禅師は「体露金風」と答えます(『碧巌録』より)。秋になり、樹は凋み、落葉して、いかにも寂しく感じます。これをどのように受け止めればいいのでしょうか。思えば、まるで私たちの人生のようでもあります。老いを迎えて寂しさを感じておられる方も多いことと思います。雲門禅師は「体露金風」と教えます。体露とはありのままに露出されている。金風は秋風。年老いて若くなりたいと望んでも、所詮無理なことで、そのまま今の現実を受け止めて「いま、ここ」を大切に、丁寧に生き抜くことしかないのであります。“長い人生を一生懸命に生きてきた”という大きな財産を持って生きておられるお年寄りには、若いものにはない輝きがあり、人生の師としての風格があります。たとえ、樹は凋み葉は落ちようとも天に向かいスクーッと立ち、後から来る者たちを見守る力強さを感じます。私たち人間にも言葉では表現できない何とも言えない、まるで風のようにサーッと吹き、清涼感を与えてくれる人がいます。それは決して話す言葉ではない、そこに言葉はなく、ただ黙ってそばに居てくれるだけで安らぎを与える人であります。話す言葉は人をごまかすことができます。自分が自分で自分をごまかすこともありますが、この滲み出る全身から溢れ出る風格だけはごまかしがきかないのです。よく言います。「あの人は上手な年のとり方をしている」、「あの人のそばにいるだけで落ち着く」。どの方も、いい風を吹かせています。わたしたちも、このいい風を吹かせて人々に爽快にさせてあげられるように人生の時間を使いたいものです。

■調える
ことしの六月にわたしの住む岐阜県で全国豊かな海づくり大会が開催されました。岐阜県は海がありません。しかし、海を豊かにするためには河川の浄化が不可欠ですし、そのためには山林の手入れが大切です。世界をあげて今や自然環境の保全が急務となっていますが、しかし、自然は元来調っていたはずです。自然のバランスが保たれていたからこそわたしたち人類が共存できたのです。その自然を破壊しているのが人間であるとするならば、自然環境を調えていくのは当然のことです。と同時に、そのためにはまず自己を調えることが大切です。自分の生き方、あり方をしっかりと見つめ、調えてこそ自他共に調えられるのです。妙心寺派の生活信条に「一日一度は静かに坐って、からだと呼吸と心を調えましょう」とありますが、からだを調えるためには暴飲暴食を避け、睡眠を充分に取り、適当な運動を継続することが必要です。呼吸を調えることは全てを調えることであり、呼吸は健康のバロメーターです。「数息観(すそくかん)」という呼吸法は、息をはく時に心の中で数をかぞえる方法です。はき切ってこそ新しい息が自然に入り込み、気持ちもスッキリするのです。これは坐禅の呼吸法ですが、禅のこころは自分を調えることです。からだと呼吸が調わなければ心も調わず、また心配ごとや考えごとがありすぎて心が不安定であれば、からだや呼吸はなかなか調いません。慌ただしさから呼吸が乱れていれば、からだや心を調える余裕も持ちにくいでしょう。ですから「からだと呼吸と心」の三つは決して別々ではなく一つにならなくてはなりません。人と人とのつながりも自分のことも、一つに調えることが大事なことであり、調えることによって多くのつながりを感じることができるかと思います。坐禅の心とは、内と外を正しく見つめることです。内とは自分の内面を見つめることであり、外は社会の一員として自分があるという自覚をもつことです。決して私たちは個々にのみ生きているのではなく、孤独ではありません。自ら切り開いていく柔軟な対応によって自分を活かすことができるのです。柔軟な心で自分を正しく見つめ「随処に主となる」という気持ちで社会の一員として自信をもつことが、かけがえのない人生を送ることとなるでしょう。

■「曹源の一滴水」 ムダなものなど何一つない!
私の修行時代、平林僧堂の典座てんぞという食事の係りをしていた時の話。ある時、「春はタケノコづくしが好評だったなぁ。」と思い出し、カゴ一杯のナスを目の前に、「そうだ、一度ナスづくしの料理を出してやれ。」と実行しました。揚げナスの生姜醤油のおかずに、ナスのみそ汁にナスの漬物、そして思い切って御飯の中にもナスを入れて、“ナス御飯”を炊きました。また、ニンジンを大量に処理しなければならなくなった時、このニンジンを丸ごとゆがいて下味を付け、衣をつけて揚げて“ニンジンのコロッケ”を出したこともありました。円錐形のコロッケは珍しく、食べると中から丸ごと一本ニンジンが出てきて、驚かれました。それでもソースをかければなかなかの美味でした。また、風呂吹き大根の残り物を利用した“大根のコロッケ”を作ったこともありました。これらの涙ぐましい努力は、すべて『何一つムダにしない』という禅の精神から来ています。江戸末期から明治にかけての禅僧、滴水和尚が、岡山の曹源寺そうげんじに入門を許されたある夏の日、風呂焚たき当番になりました。入浴していた師匠の儀山ぎざん和尚が、「湯が少し熱い、水を汲んでこい。」と滴水に命じました。滴水は、桶おけに残っていた水を何気なくあたりに撒まいて、新しい水を汲みに行こうとしました。それを見た儀山は、「そんなことで修行ができるか!」と大喝一声。なぜ儀山は、わずかな水のことで怒ったのでしょうか。それは滴水が、残りの水をムダだと思ったからです。残り水も木の根にでもかけてやれば木も活いきるし、水も活きる。そして、その水を使う自分自身も活きてくるのです。儀山和尚の大喝は、これを説いていたのです。滴水はこの大喝にふれて、一滴の水の尊さを肝に銘ずるために『滴水』と号し、後に天龍寺の管長となられました。これが有名な『曹源の一滴水』の話です。物を大切にすることは、その物の命を活かし、使う人の命も活かすのです。私たちの身の回りには、何一つムダなものはないのです。 
 

 

■自分との対面
私達が日常さわやかで、すがすがしい生活をしていくためには、正しいものの見方、考え方が必要です。それには静かな落ちついた心が大切になります。ところが、私達には誰もが逃れられない苦しみがあります。その苦しみとは、「生老病死」の四苦であり、愛する人との別れの苦しみ、憎みあう人と暮らさなければならない苦しみ、欲しいものが得られない苦しみ、肉体が元気であるための苦しみがあります。これらの苦しみを四苦八苦といいます。ですから、私達は貧乏になったり、病気になったり、他人と争いになったり、親や子やつれあいの死にあったりすると苦しみ、心が不安になり信心を起こし、心の平安を願うようになります。苦しみを静かに見つめてみますと、苦しんでいるのは誰でもなく自分自身だということがわかります。誰かが私を罵倒したとします。すると私は怒り、傷つき苦しみます。苦しむのは罵倒した誰かではなく私自身なのです。たとえば、誰かがお釈迦さまを罵倒したとしますと、お釈迦さまは決して怒り、傷つき苦しんだりしないのです。そして「彼は、かわいそうな人だ。何か悩みがあるのでは」と心配するのです。相手が問題ではなく、私が苦しむのは私自身に問題があり、私自身が苦しむのであり、苦しみは私自身から起こるということを自覚しなければならないのです。したがって「苦しみ」の原因は、自分自身にあって他に求めるのではなく「自分自身」とは何かと自分自身に問うことで解決できるのです。私の友人に、おもしろい人がいます。彼は毎晩寝る前に鏡に向かって「ひとりごと」を言うそうです。「今日は松山さんに乱暴な言葉を使って悪かったな......。ごめんなさい」。「そうだそうだ、つまらぬことに腹をたてたりして悪かったなぁ。これからは気をつけるから許してくれよ」。こんなやりとりを毎日しているそうです。この自分との対面、つまり反省のひとときがすむと日記を書いて寝るそうですが、これを毎日の日課にしているといいます。「苦しみ」は、自分自身の内にあることを自覚したとき、私達は人をうらやんだり、憎んだりすることがなくなります。そして自分自身の心が「仏心」なのだと自覚することができるのです。

■感謝の念
現在の公立小・中学校では、一切の宗教教育はなされておりません。小学校の給食の時間には合掌して「いただきます」とは形式的には言いますが、それで終わりのようです。一歩突っ込んで、食事五観の偈の第一"功の多少を計り、彼の来処を量る"―食事を作ってくれた人と神仏に感謝する―この一つでも教えてもらえないものでしょうか。私の地域では中学校も給食はありますが、小学校のように一斉に合掌もなく、ばらばらに食事をとっています。合掌・礼拝・感謝の念を教えることが、宗教教育になるでしょうか。皆様方はどう思われますでしょうか。学校で教えられない事は、是非とも家庭で教えていただきたいと思います。私のごく親しい家庭では、代々食事の前には「いただきます。ありがとうございます」と幼い時から躾られています。そちらの子どもさんは三人とも羨ましいぐらい立派に成長されていますし、お父さんの弟・妹さん四人もそれぞれに立派な方ばかりです。お土産物などを持って行っても、必ず仏壇にお供えしてから夕方におさげして戴かれます。お孫さんがすぐ食べたくても、犬ではありませんが、「おあずけ」のかわりにお供えして来なさいといわれます。走ってお供えして、チンと磬かねを一つたたいて、すぐに持って来ます。微笑ましい光景です。最近、テレビや新聞では、いじめ・虐待・詐欺の報道が毎日のように伝えられます。私は、食事の作法、神仏の加護が、しっかり教えられていない日本の現状の顕れではなかろうかと思っております。先祖代々に感謝、父母に感謝の念を養うことは、子育てに一番大切なことではないでしょうか。白隠禅師坐禅和讃にある、"衆生本来仏なり"。子どもは無邪気、無欲で生まれて来ます。全く仏として生まれて来ます。だんだんと大人から悪知恵を伝授されて成長していきます。そうならないように、すべての大人の責任で大切に育てて行く為には、宗教心(仏心)が一番大切だと思っています。私は五年前咽頭癌のため、言葉を失った者ですが、それ以来特に本日述べましたことが気になる毎日です。毎朝、拙寺の門前で十五人の小学生が集合して学校へ行きます。声はかけられませんが手を振って集団登校を見送ります。午後も下校時刻には笑顔で迎えてやるのが日課の一つです。子供達は喋る事のできない私にいろいろと話しかけてくれます。ありがたい毎日です。子供達に感謝しながら......。

■師走に思う
暑くて長い夏がやっと終わりましたが、秋はあっという間に過ぎ去ってしまい時節は師走を迎えました。まさに光陰矢の如しです。私たちは毎日何かに追いまわされています。忙しいという字は心を亡くすと書きます。そしてさらに何か大切なものを忘れているのではないでしょうか。忘れるという字も心を亡くすということです。檀家のA子さんは八十歳を少し過ぎた方です。長年、夫婦で力を合わせて朝から晩まで家業に精を出し、仕事と子育てで毎日走りづめの連続だったようです。仕事からも離れ、子供達も各々独立して、老夫婦二人だけの静かな生活も束の間、旦那さんがあっという間に他界されてしまいました。生来、行動力のある方ですので趣味の歌やダンスで寂しさをまぎらわせ、明るく振舞っておられましたが、静かな時間を持ちたいと思われたのでしょうか、月に一度の写経会に参加されるようになりました。ある日、A子さんが玄関に書かれてある「照顧脚下」の木札を見て、「履きものを揃えましょう」という意味かと尋ねられました。今まで気付かなかった玄関の木札にも気付くようになられたようです。私は「はい、それでよいのですが、照顧とは『観照顧慮』を約つづめたもので『仏の智慧をもって物事の実相をとらえ、その仏の智慧の光で自分を照らし見よ』ということです」と付け加えました。A子さんは「仏の智慧の光で自分を照らす」ということが理解できずにいたようですが、ある日このようなことを話されました。「今までは忙しい、忙しいと言い続けてきましたが、ふと庭に目をやると四季折々に花が咲いていることに気付きました。出掛けるときに『庭の花』に『行ってきます』と挨拶をすると『行ってらっしゃい』と送り出してくれ、帰ってきたときに『ただいま』と言うと『お帰りなさい』と迎えてくれます」と…。A子さんにとっては庭の花に気付いたことがまさに「照顧脚下」となったのでしょう。十二月八日は釈尊成道の日です。ブッダガヤの菩提樹の下で坐禅を続けられた釈尊は暁の明星が燦然と輝くのを契機に「何という不思議な事実であろう。全てのものが如来の智慧徳相を具えもっているではないか」と悟りを開かれたのです。私たちの目は外を見るようになっていますが、その目を自分の内側に向けてみることも大切です。そうすれば一輪の花が教えてくれていることに気付くのです。咲いた花は必ず散ります。「落花は流水に随い、流水は落花を送る」が如く、師走の時節、ゆったりと立ち止まって二度とない「いま」を見つめていきましょう。

■廓然無聖
臨済宗の寺院では正月になりますと、床の間に達磨さんの画の軸を掛け、新年のお祝いをします。達磨さんが中国へ来たときに、梁りょうの武帝ぶていと会い、そして仏教について質問をしました。「仏法の根本義、一番大切な所は?」の質問に、梁の武帝は、自分の学の広いところを、ひとつ表現してみたのであります。すると、「廓然かくねん無聖むしょう」カラッとして、秋晴れの空のように雲一つない。と答えられました。達磨さんは何を言いたかったのでしょうか。例えば、素晴らしい仏様の前に座ったとします。ゆったりとした心境になり、思わず手を合わせたくなるでしょう。その時の心はどんな状態でしょうか?スカッと晴れ渡った秋空のようで、仏様と一つになったような心境だと思います。これを「廓然無聖」と言います。お布施を例に取りますと、一般的には、お寺へお包みする金銭と考えるでしょう。しかし元来は布を施すのです。二年ほど前、チベットを旅行したときに、お寺で信者さんがお坊さんに白い布を施していました。「あーこれがお布施だ」と思いました。我々はお参りをするとどうしても御利益(ごりやく)を求めてしまいます。受験シーズンになりますと、どうか希望する大学に、高校に受かりますように、また良い会社に入れますようにと神社やお寺に合格祈願をします。わらにもすがる思いの祈願でしょうから当然のことかもしれません。しかし、そこにある合格したいという自我が煩悩を招くのです。それを戒めているのが「廓然無聖」です。「廓然無聖」は無心になることです。「空」とも「無」とも置き換えられる言葉です。

■縁 −えにし−
昨年、住民票に記載されている百歳以上の方が、三百数十人も行方不明になっている事が大きな話題になりました。都会では、アパートやマンションや路傍で、独りで亡くなって永らく誰にも気付かれなかった方も多いと聞きます。また、ここ数年来、子供の虐待事件が毎日のように新聞やテレビで報道されます。痛ましいことです。勿論、それぞれにそれぞれの事情や原因があるのでしょうが、共通して言える事は「無関心」という事ではないでしょうか。お隣の老人が行方不明、独り暮らしの人の顔も知らない、近所の子供の泣き声はただうるさいだけ。そんな無関心な私たちがこのような社会を生み出したのではないでしょうか。無関心は人と人が関係無いとおもう事からきています。しかし、私たちの周りに無関係な人がいるでしょうか。近年、個人主義といいますか、「自分は自分、他人は他人。たとえ家族といえども他人の始まり。まして近所の人たちは勿論、知らない人などとはなるべく関わらない」、そんな考え方が新しいし正しいといわれてきました。お互いに迷惑を掛けないし、掛けられないようにしなければならない。そのためにはなるべく「他人」と関係を持たない。お互いに無関心で過ごす事が正しいとされてきたように思います。しかし、そうでしょうか。私たちは独りで生まれてきたのではありません。今まで独りで過ごしてきたのでもありません。多くの人たちとの関係で生まれ、そして過ごしてきたのです。その関係を「縁−えにし−」と言います。縁は自分に都合の良いことばかりではありません。迷惑な事もあるでしょう。また、迷惑を掛ける事もあります。「私は人に迷惑を掛けていない」と言う人がいますが、人に助けてもらわずお世話にもならない人はいません。自分独りの力だけでなく、多くの人たちのお力を頂いて生きている事に気付かなくてはなりません。「人の助けは要らない、世話にはならない」ではなく、助けて頂ける、お世話を頂ける関係、「縁」の大切さを今一度お互いに見直さなければいけない時です。「袖振れあうも他生の縁」という言葉があります。お互いの着物の袖が触れ合う、そんな小さな事にも「他生の縁」がある。今、この場に、この時に生きている私たちには知ることもできない深い縁があると言う事です。その縁が結ぶ絆こそが、私たちを守ってくれている事を忘れないで生きましょう。

■タイガーマスクが気付いた事
人は誰でも、程度の差こそあれ、成功して余裕のある生活をしたいと思っています。しかし、ひとたび成功して、金銭など物の面でも心の面でも余裕ができ始めたら、次に何を考えるか、人によって選択の分かれる所だと思います。もっと儲けたいと考える人、地位が欲しいと思う人、趣味を楽しみたいと考える人など様々です。昨年の暮れから今年にかけて、タイガーマスク運動とも呼ばれる社会の動きが話題となっています。文房具や金銭を、児童養護施設や市役所に届ける事が全国的に広がっています。これは梶原一騎原作の「タイガーマスク」という漫画の主人公“伊達直人”に影響を受けて広がった社会現象ですが、全国の多くの人達の善意が、ランドセルや鉛筆、金銭に姿を変えて、子供達に届けられるという事は全く頭の下がる行ないです。人に物を贈る事は私達の日常の行為ですが、今回のタイガーマスク運動は、何故多くの人々に感銘を与え、広がっていくのでしょうか。私達の禅宗では、困っている人にお金や物を与える行為を“布施”と言います。布施は三輪清浄といわれて、布施をする人、布施を受ける人、布施の物自体、三つともこだわりのないものである事が求められます。つまり与える側は何か特別の目的を持って与えるわけでもなく、受ける側も別に卑下することもない。そして布施された物自体も、正しく手に入れたものである。この三方向の清らかさが大切な事とされています。これは簡単なことのようにも見えますが、なかなか難しい事です。タイガーマスクの伊達直人氏も漫画の中で、最初は自分の育った児童養護施設の子達だけを喜ばせる目的で贈り物を届けていました。途中で、「世の中にはもっともっと自分を必要としている人がいる、そのために自分は何をすれば良いのか、自分は何と思い上がっていたのか……」と、真剣に気がつき始める場面があります。観音様の救いと同じような“仏の世界”の布施に気付いたという事でしょうか。だからこそ、今回の全国のタイガーマスクの善意が、素直に私達の心に入り、感銘を与えるのだと思います。ところで、感銘を受けたお前さんは一体どんな行動を起こすのかと聞かれそうですが……。何かしたいという気持ちは持っております。

■霜覆いの傳
世情は殺伐としている。児童虐待や弱者への暴力などで幼い子どもの命や年老いた命が次々と犠牲になっている。にも拘らず、そんな中で、“伊達直人”等の出現で福祉施設への善意の贈り物が相次いだ。一過性とはいえ、世の中まだまだ捨てたものではない。寒い冬の季節、凛とした空気の中で咲く一輪の椿の花。しかしその花は寒さを嫌い、雪や霜には弱く、すぐに花が散ってしまう。そんな椿を生花として床の間に生けるとき、次のような生け方がある。
椿に霜覆しもおおいの傳でんあり、其の意味は凡て椿は寒さを厭いとふもので特に霜に弱く一夜霜降れば開花も悉ことごとく痛みて色を變へんずる故に霜を除かんがため、十一月頃より自然に自葉を北方に廻して花を開くものなり。(中略)椿花は総じて天を受けて開く故に別して霜を嫌ふと在り、依って霜を除かんがために花の上に霜の降るまで自葉にて花を覆ふもので、この現實を以て椿花霜覆の傳といへり。(中略)此の取り成し方は、自木の葉にて覆ふも在り、或は他の枝の葉で覆ふも在り、寒前より寒明き頃まで椿花霜覆の傳として霜受葉を遣ふものなり。 (日本生花司松月堂古流・傳書 地の巻)
災難が降りかかるとき、親は身を挺して子どもを守ろうとする。それが親の持つ本能だからだ。椿でさえ必死になって葉を覆って花を守るのだ。それはあたかも賽さいの河原で父母のために積む石を鬼が蹴散らし、逃げ惑う子どもたちを、衣の袖に隠し守ろうとする地蔵菩薩に似ている。慈悲の心とは、「せずにはおれない」という、人間の心の内からの無意識な自発的な行ないである。椿の葉にその心を見た思いがする。

■即今・此処・自己の現実に生きる
即今いま・此処ここ・自己わたしの現実とは、今・ここ・私の経験内容です。経験内容とは、見ている姿形、聞いている音声、嗅いでいる香臭、味わっている辛甘塩酸、皮膚で感じている温暖痛痒、あるいは心に思っていることなどです。各自の見たり聞いたり感じたり思ったりしている経験内容が現実なのです。題目は、人々が一念一念に生滅している経験内容という現実に生きることに格別な意味がある、と表明するものです。経験内容は、わたしが注意を向け、関心を寄せた事です。わたしが注意を反らし関心を無くすと消滅します。注意や関心は刹那的に生滅するので、経験内容もまた刹那的に生滅します。仏教では、刹那に生滅する意や心を一念というので、経験内容という現実は、一念一念に生滅していると言い換え得るのです。注意を向け関心を寄せて何かを見る経験は、他の見えるものから、聞こえることから、感じることから、思えることから、注意を向け関心を寄せたものを選び出すことになります。従って、各自が見たり聞いたり感じたり思ったりしている経験内容は、各自がその都度選択したことだと言えます。この事実が判れば、現実は各自が選択している、ことが認められる筈です。各自が選択した現実であれば、その現実の取捨は各自に委ねられていると言えます。どのような現実を選択するかは、各自の自由であり、その現実の取捨も各自の自由の筈です。各自は自由に現実を取捨選択してそこに生きることができるのです。従って、各自は、生きている現実の主宰者です。生きている現実の主人公なのです。しかし、ごく普通の意味での現実は、欣喜悦楽よりも憂悲苦悩が多く、主人公になるどころか、その重みに耐えかね自分自身を見失うことも有り得ます。また、憂悲苦悩の多くは、わたしの意志とは関係なく、世の中がもたらしたのであって、それを自ら選択したとは思えないでしょう。たしかに、憂悲苦悩の契機は、世の中の事情によるものが多いでしょう。だがしかし、悲惨な状況に出会った時、必ず憂悲苦悩しなければならないのではなく、異なる心情を選ぶことも可能です。そのような心のゆとりが許されない状況であっても、少なくとも、憂悲苦悩することを自ら選択することができます。いや、実は知らず知らず憂悲苦悩することを自ら選択しているのです。自ら選択したのですから、憂悲苦悩は主人公の心情であって、世の中の事情ではありません。人は誰でも憂悲苦悩の主人公ですから、憂悲苦悩は自ら取捨できることなのです。どんなに深い憂悲苦悩であっても、一念一念に生滅しているのが事実ですから、取捨は自由にできる筈です。『臨済録』に「随処に主となれば、立処皆な真なり」(どこででも自己が主人公になれば、立っている所はすべて真実である)という語句がありますが、憂悲苦悩を欣喜悦楽に換えるような話ではなく、憂悲苦悩を自ら選択している現実に目覚め、その現実を自由に取捨して生きなさい、と促しているのです。

■高血圧症
昨年夏の暑いある日のことです。朝から頭がフラフラしますので、家で血圧を測ってみると下が115、上は175もあって驚きました。病院嫌いの私もさすがに心配になり、すぐに病院へ行き診察を受けました。診察の後で先生から「あなたは高血圧症です。今日から血圧を下げる薬を服んで下さい」と言われました。先生に「いつまで飲めばいいのですか」と尋ねると、「一生飲み続けて下さい」とのこと。私は現在50歳ですから、平均寿命から考えると向こう30年は飲み続けねばならない計算になります。これは面倒なことになったものだと思っていると、先生がついでだからこの際、他の検査も受けて行きなさいと言うので、検査をしたところ身長180センチで体重90キロ、ウエストサイズ95センチで立派なメタボ、しかも高脂血症であり、血糖値も高くすでに軽度の糖尿病であると告げられました。先生からは「このままでは近い将来、たくさんの薬を飲まなければならなくなります。まずは暴飲暴食を控え体重を10キロ以上落として下さい。食事は減塩、お酒も慎むように」と、きついお灸を据えられました。さて、仏教徒が守るべき基本的な戒めに五戒というものがあり、その中に不殺生戒と不飲酒戒があります。まず不殺生戒、これは「むやみに命を殺してはならない」という戒めです。私は多くの魚や肉を食べた結果としてメタボになったわけですが、「あの食べ物は私が殺したわけではないのだ、全部漁師さんやお肉屋さんが殺したのだ」と言い逃れをすると、それはヤクザの親分の言い分と同じことになります。そうではなく私は毎日毎日、大量の食事を摂ることによって、必要以上の命を奪っては不殺生戒を破っていたのです。もう一つの不飲酒戒、これは酒を飲み過ぎるなという戒めです。酒に飲まれない程度なら酒は百薬の長となり薬になりますので、これは「酒に飲まれてはいけない」との解釈でもよかろうと思いますが、私はこれも平気で犯していたのです。つまり私が高血圧症になり一生薬を服用することに到った原因、はひとえに不殺生戒と不飲酒戒を守らなかった報いであり、自業自得と言えます。五戒とは私たちが戒を守ることなのですが、逆に戒を守っていれば、いつの間にか戒に守られるという利点があると思います。どういうことかと言えば、私自身、病気になってつくづく思い知らされたのですが、日頃から仏教に生きるものとして不殺生戒や不飲酒戒を守り適度な飲食をしてさえいれば、こんなやっかいな病気にはかからず健康な生活を維持できたのにと思いました。つまり五戒を守っていると、逆に五戒が自分を守ってくれるという積極的な世界があるのだなと、遅ればせながら気づいた愚かな私でした。

■臓器移植と献体
年末も押し迫ったある日、ある檀家さんの荼毘法要を本堂で行った。実は亡くなったのは二年前で、本人の強い希望により医学献体となり、棺のない葬儀だけをしてあったのだ。当時奥さんは「主人は何で献体なんか申し出たんでしょう。私がちゃんとしてあげたかったのに」と、とまどいを隠せなかった。臓器移植法が改正され昨年から運用が始まった。移植の機会は大幅に増え、それによって救われた命がたくさんある。しかし移植はドナー(提供者)があってこそ。献体や臓器提供などで亡くなっていった命や救われた命の尊厳を、僧侶としてどのように考えるべきなのだろうか。仏教で言う布施行には三輪空寂さんりんくうじゃくという原則がある。施す者(ドナー)施される者(レシピエント)施す物(臓器)、それぞれに執着があってはならないということだ。しかし脳死、という「ある生命の終焉」が前提になる以上、移植を受けるレシピエントは誰かの死を待つことになる。「誰かが死ななければ、自分は助からない」という思いは想像以上に苦しいものだろう。「時は今 ところ足下あしもと そのことに 打ち込む命 永遠のみいのち」(椎尾弁匡元増上寺法主作)という歌がある。今、この瞬間を懸命に生きる姿こそ、人間の本来の尊厳であると言うことだ。臓器を摘出されるその瞬間、死を迎える瞬間まで「どのように生きたか」。命長らえることができる僥倖ぎょうこうを、その瞬間を「いかに生きるか」。双方の命の尊厳とは、手術前も手術後も変わらない「仏の命」を一所懸命に生きることだと思う。しかし一方は生き、一方は死んでゆく。だがその命の輝きは等しく美しいのだ。今、この瞬間をそれぞれが懸命に生きる姿が「いのち」の輝きであって、本当に尊ばれるべき人間の尊厳なのだ。人身のかけらを命そのものだと錯覚してはならない。父母から受け継いだだけでなく、我々は様々な命をリレーのように受け取って生きているではないか。教え、思い出、友情等々。移植術は科学によって可能になった新しい「命のリレー」だ。その受け継いだ命をいかに輝かせていくか。ドナーの臓器や献体で得られた成果を、一所懸命に生かしきることで、初めて三輪空寂が整うのではないだろうか。くだんの奥さんは二年遅れの荼毘回向だびえこうの後、「時間が経って考えました。夫が生前いかに人様のためになるように一所懸命生きていたか。最後の最後まで人様のために、と思い続けた主人の生き方を今は有難く、尊い物だと思います」。そういって、長い間お骨を抱きしめて、自分の手でお墓に納めた。一所懸命に生き、一所懸命に死んでいく。遺体や臓器が残る残らないではなく、その瞬間まで輝いた命を尊いと思う。家族の深い理解があってこそだが、さて自分自身にそういう最後を迎えられるだろうかとも思った。 
 

 

■桜が教えてくれるもの
4月に入り、皆さんお待ちかねの桜のシーズンが本格的にやってまいりました。この桜について、一休禅師は
桜木を砕きて見れば花もなし 花をば春の空ゆもちくる
と詠っておられます。
花が咲く前に、桜の木を切ってみても、その中に花の姿は見当たりません。しかし春という季節がやってくれば、その春という現象とぴったりひとつになって花が咲きます。こういう意味の歌ですが、このように聞きますと「なんだ、当たり前じゃないか」と思われるかも知れません。でもこの当たり前のことが、実はとても大切なのです。桜の木は人から褒められようがけなされようが関係なく、春がやってきたらその木なりに堂々と花を咲かせます。例えば、「去年は花見客のマナーが悪かったから、今年は咲くのやめてやろうか」なんて意地悪なことはしませんし、「去年は花見客に花がいまひとつだった、と言われた。自信がないから今年は咲きたくない」なんて卑屈なことも思いません。いつも無心で、春という現象が来れば堂々と、活き活きと花を咲かせます。また桜は、「みんながチヤホヤしてくれるから、いつまでも春だといいなぁ」などと思って春に執着することもありません。花が散る時がくれば花は散り、夏に向かって葉が青々と茂り、秋が来れば今度は葉が色づき、冬になれば葉が落ちて、誰に文句をいうこともなく一心に冬を越す。春夏秋冬、どこにもとどまらず、今という現象とぴったりひとつになって無心になすべき事をなす。これが花の当たり前の姿です。では私たち人間はどうでしょうか。いいことがあれば、それがずっと続くように願い、そのいい時が終わってしまえば、とても苦しい気持ちになります。また何かつらいことがあれば、「辛いなぁ、嫌だなぁ」という思いにとらわれてしまい、何日も暗い気持ちで過ごす、などということもしばしばあります。これでは「今」を活き活きと生きているとは、とても言えません。こう考えますと、春が来ても冬が来ても、一心になすべきことをなしている桜の木は、私たちがどのように生きたらいいかを無言で教えてくれているように思えます。もしも花のように、楽しいときも苦しいときも、その一瞬一瞬を無心に、一心に生きることができたなら、私たちが生きている当たり前の毎日が、本当に輝いたものになるのではないでしょうか。そんな人間の手本となるような花の姿を歌った、坂村真民さんの「今を生きる」という詩を最後に御紹介したいと思います。
咲くも無心 散るも無心 花は嘆かず 今を生きる 「今を生きる」坂村真民
花のように無心に、今この瞬間瞬間とひとつになって、毎日を活き活きとしたものにしてまいりましょう。

■幸せの「はひふへほ」
ある日、知り合いがやってきて、幸せの「はひふへほ」を教えてくれました。ごくやさしいことばなので、すぐ覚えられました。
幸せの「はひふへほ」
  は 半分でいい
  ひ 人並みでいい
  ふ 普通でいい
  へ 平凡でいい
  ほ 程々でいい
なるほどと思って友人に出典を尋ねたところ、わからないという答え。もしこの文を読まれて、出所をご存知の方がいらっしゃるなら、是非教えていただきたいと思います。それにしましても、幸せは半分でいいというのは思い切っています。腹八分とか欲八分とは聞いた事がありますが、半分とはずいぶん内輪です。しかし考え方を変えると、私たちの幸せは、自分で形作っているようでいて、そのほとんど他の人たちのお蔭であることが多いと思います。生きている方ばかりでなく、すでに亡くなった方からのプレゼントであることも沢山あります。してみると、生意気を言わず、半分でいいと考えるのが至当かもしれません。私には、どこからか「知足」ということばも聞こえてきます。“人並みでいい”と“普通でいい”は、同じようなことばですが、前の方は外側から見て、まわりと同じと述べているような気がします。後の方は私たちの心の内側から当たり前でいいと、つぶやいているような感じがします。“普通でいい”と言う時、私たちは実にリラックスして、ホッとしますから不思議です。平凡は非凡に通ずると言いますが、当たり前のことを心を込めてすることは、とても大切なことだと言えます。私たちの宗祖である臨済禅師は、「服を着ることにも、ご飯を食べることにも、トイレに行くことにも心をこめて行なうことが生きていく上の基本です。おろそかにしてはいけません」と述べていますが、平凡なことの中に真実が宿っているのではないでしょうか。最後は、中庸といいますか、程々です。気負うことなく、自然体で日を送りたいと思います。友人からもたらされた「はひふへほ」で、私の心も軽くなりました。

■五つの音色
この一ヶ月間、テレビの画面の前で、凍り付くような思いで現地の状況を見守ってきました。何か自分が畳の上に座っていることが申し訳ないような、一刻も早く現地でお手伝いしたいという気持ちにもなりました。しかし、ボランティアのノウハウも無く、現地の方々へ迷惑を掛けてしまうのではないだろうかと思いとどまり、何か自分のできることを探しています。こんなとき、僧侶の私に出来ることはお経を読むことです。遠く離れた土地から、現地に気持ちだけでも届けたい、そんな気持ちから観音経を読んでいます。この観音経の偈文の中に、こんな時だからこそ届けたい「五つの音色」があります。音色は私たちが発する「声」と読み替えて頂いても結構です。それらは、妙音・観世音・梵音・海潮音・勝彼世間音の五つです。妙音みょうおんは、苦難の人々を救おうという悲観から起こる声です。「だいじょうぶですか」という声があてはまります。 観世音かんぜおんは、相手と同じ立場になって発する声です。先日、妙心寺の管長さんである河野太通老大師を取材する機会がありました。神戸淡路大震災の被災者でもある老大師は、当時を振り返り「お見舞いに来られる人々は皆一様に『がんばれ』と言われた。しかし、これ以上どうがんばったら良いのか腹立たしい思いもした」と涙ながらに語られました。「がんばれ」は確かに、相手と同じ階段のステップを踏んでいません。同じ立場だったら「がんばりましょう」「がんばろう」という言葉に変わっていくはずです。梵音ぼんおん(または読み癖でぼんのん)は、さわやかな声、つまりあいさつの声です。どんな状態にあっても「こんにちは」「ありがとう」というさわやかな声を出していきたいものです。海潮音かいちょうおんは、潮騒です。何度も止むことなく繰り返し、そしていつも新たな気持ちで「何度でも来ます」「いつでもお手伝いできます」という、繰り返しの心がこもった声を言います。勝彼世間音しょうひせけんおんは、彼の世間つまり過去の世界よりも今日の方が良いんだという声です。昨日より今日、今日より明日に向かって良い世間を作って行くんだという復興と希望の声です。私たちは、今たいへんな時代に、おかげさまで命を頂いています。一人ひとりの人々が五つの音色を持った声を出し合って、力を合わせて行くのだと、観音経は励ましてくれます。

■あたりまえ
江戸時代文化文政の頃、筑前の国、現在の博多聖福寺に仙高ニ言われる和尚さんが住職しておられました。ある年のお正月、黒田藩の役人が聖福寺に年始に参り、仙高ノ「何かおめでたいことを書いて下さい」とお願いします。仙高ヘ「よしよし」と、すぐさま筆をとりますと、なんと「親死ぬ、子死ぬ、孫死ぬ」と書かれたのです。役人は顔をしかめて、「めでたいことをとお願いしたのに、これは何事ぞ。親死ぬ、子死ぬ、孫死ぬなど、縁起でもない」と怒り出します。すると仙高ヘ「そうかのう、孫死して子に先立たず、子死して親に先立たず、家に若死にが無いほどめでたいことがこの世にあるのかのう」と言われました。それを聞いた役人は、なるほどと充分にその意味を理解し、「その通り、これほどめでたいことはない」と喜んでその書を頂いて帰ったという逸話があります。私達は普段本当にめでたい有り難いことを見落として毎日を過ごしてはいないでしょうか。仙高ヘこの語を通して特別めでたいことなど言わなくとも、私達の身近にはめでたいことが存分にあるのだ、あたりまえのことこそが実は有り難いのだと教えて下さっているのではないでしょうか。今朝も目が覚めたことが有り難い、歩いていることが有り難い、話していることが有り難いのです。私達はこの有り難いことをついつい「そんなことあたりまえ」の一言でかたづけていませんでしょうか。あたりまえのことにじっくりと目を向けてみると、私達はすでに満ち溢れた毎日を生かされているということが必ず解るはずです。“有り難い”とは、難しいことが有るということです。難しいことが有るからこそ大いにめでたいのです。今、日本は東日本大震災という大きな地震、そして津波、福島原発の放射能漏れと何重もの災害で多くの犠牲者を出し、そして被災された方々は大変不自由な毎日を送っておられます。ご冥福を祈り、またお見舞い申し上げると共に普段あたりまえだと思っていたことは決してあたりまえのことではなく、実は特別なことであったのだと痛感させられました。私達は毎日特別なことをさせて頂いているということを忘れてはならないのです。身近なあたりまえが実は特別なことで、これほど有り難いことはないと思えてこそ人間は幸福であるのです。

■「死にともない!」今、精一杯の一言
江戸時代の終わり頃、九州は博多の聖福寺に、「仙高ウん」と呼ばれ、多くの人々に慕われた禅僧がおられました。晩年のこと、88歳の仙高ウんは、いよいよ臨終というまさにその時、「死にともない」とつぶやきました。それを枕元で聞いたお弟子さん達はビックリ仰天です。「え、いったい何を仰るのですか!」 「どうか有り難い末期の一句をお願いします」と、皆が詰め寄りました。すると仙高ウん、渾身の精気をふりしぼって、「ほんまに、ほんまに、死にともない!」と言って息を引き取られたのでした。この逸話、みなさんはどう思われましたか。「仙高ウんって、本当に親しみやすいお方だね」。「私たちと同じで、やっぱり死ぬのは嫌なんだよ」と、つい笑いがこぼれてしまいます。けれど、この「死にともない」の一言には、何かもっと深い真実が込められているのではないでしょうか。私たちは誰だって「死にたくない」と思っています。でも「人生」とは「生」と「死」がセットになっているものです。この世界に生まれて来たからには、いつかはこの世を去って行く日が来ることを、私たちは知っているはずです。「人生」はまるで「旅」のようなものと良く言われます。私は旅が大好きです。みなさんもきっと旅行はお好きだと思います。旅をしていると、色々な出来事が次々と起こりますよね。決して楽しいことばかりではなく、思ってもみないアクシデントに見舞われることもあります。出会いがあり、別れがあり……。嬉しいことがあって、悲しいことがあって……。でもそんな旅のすべてが、何かとてもワクワクする胸おどる楽しい時だと感じるのはどうしてなのでしょう。もし、この「人生」を「旅」として見ることができたなら、辛く苦しい出来事や嫌なことに対する見方も今までとは少し違ってくるかもしれません。すべては過ぎ去って行く旅の途中の出来事。思いがけない喜びや悲しみでさえも、ふいに訪れそして過ぎ去って行くことでしょう。私たちはそんな「人生」という「旅」をちゃんと楽しんでいるのでしょうか。人生の旅行者の多くは、せっかくの旅を楽しもうとしないで、不平や不満ばかりをこぼしているように思えます。それでも、「旅」の終わりの地である「死」という「人生」の目的地に、いつかは一人残らず辿り着くのです。私たちは大切な真実に気付かなくてはなりません。「これは、たった一度きりの限りある人生という私だけの特別な旅なんだ」と。

■共に生きる日本 −相利共生−
人間というのは元来弱い者であると、いつも私は考えています。それは、人は一人では決して生きられないからに他なりません。だから、自分の好む、好まざるに限らず、こうして社会を形成して、お互いに支え合いながら生きています。2011年3月11日は、忘れられない日となりました。地震と、それに伴った大津波が東北から関東を直撃、中でも岩手県、宮城県海岸部は壊滅的被害に襲われ、福島県は、原子力発電所の事故という天災プラス人災のダブルパンチで、今なお見えない恐怖と戦っている最中です。震災の体験といえば、私自身サンフランシスコ在住の時に、ヘイワードからサンフランシスコへ向かってベイブリッジを走行中、大きな橋が、まるで縄が揺れるように、大きく上下左右にゆれたのを覚えております。しかも、翌日の新聞で、少し前に走っていたオークランドのフリーウェイが倒壊したのを知って、心底、恐怖を感じて震えが止まりませんでした。この度の震災一週間後より、秋田経由で陸前高田の避難所に物資を送り、次いで宅急便が復活以降は宮城方面に直接物資を送っております。これは我々仏教の世界でいう布施という行為にあたります。大きな災害が起こるたびに思う事。その災害の規模が大きくなればなる程、人間とは、なんと強いものなんだろうと、驚嘆させられます。最初に私は、人間とはかくも弱いものなのかといいました。しかし、その弱い人間が一旦大きな災害に遭って団結すると、その力はかくも強い団結力で、共に生きるということを実践してくれるのです。東日本大震災では、死者行方不明者が2万5千人以上となっています。沿岸の町は津波で壊滅し、家も、仕事もなく、明日の希望さえ見出せません。そんな人達が、瓦礫の中から、自分はふるさとを決して棄てない、我々は復興の狼煙を上げるのだと頑張っている姿には、感動すら覚えます。そしてそれを後押しするのが、日本のみならず、世界中の人々から届く支援なのです。人間は一人では何も出来ない弱い存在かもしれませんが、世界中の人々が、被災した人達と共にあるということ、この思いによって、被災した人達も故郷復興を目指す強い気持ちを起こし、共に生きて行くというのが「相利共生」なのです。皆で手を把って、共に生きていこうではありませんか。

■卯年にちなんで
兎(卯)というと、か弱いイメージがありますが、実際には繁殖力が強く、「産み易し」の「う」が語源ともなっています(『日本語源大辞典』)。身近な動物ですから、仏教説話の中にも多く登場しますが、その中でも壮絶なものが、自分の身を老夫に捧げた兎王本生譚とおうほんじょうたんでしょう。この世の初めの頃、ある林に狐・猿・兎がおり、仲良くしていました。時に帝釈天がこの三匹の仲良しを試験しようとして、一人の老夫に姿を変えて現われ、こう言いました、「私はいま腹が減っています。何か食べ物を下さい」。三匹は「ちょっと待って下さい、いま探してきます」と言って食物を探しに行きました。しばらくすると、狐は魚を、猿は果物を持ってやって来ましたが、兎だけは手ぶらで帰ってきて、そこら辺を跳んで遊んでいます。老夫は「あなた方は本当に仲良しではありません。狐と猿は十分に食べ物をくれましたが、兎は何もしていません」と兎の悪口を言いました。それを聞いた兎は、狐と猿に「たくさん薪を集めて下さい。いま食べ物をご覧にいれましょう」と薪を集めさせて、それが堆うずたかく積み上がると火を点けさせました。兎は「ご老人、私はどうしても食べ物を探すことが出来ませんでした。どうか私のこの小さい身体をもって一度の食事に当てて下さい」と言い、火に飛び込みました。老夫は慌てて助け出しましたが、もう兎は生きてはいませんでした。老夫の身体から姿を変えた帝釈天は嘆息して、この事跡を滅ぼさないように月の中に兎を残しておいたといいます。そして、その兎は、釈尊がまだ世に出られる前に、兎となって修行をされていたお姿でした(『大唐西域記』)。この壮絶な話は何を伝えようとしているのでしょうか。いろいろ解釈はあるでしょうが、私達は、普段生活している時、何でも狐や猿のように他から探して持って来ようとしてはいないでしょうか。あれがない、これがないと自分の外に理由を求めてはいないでしょうか。「自分の幸福はどこにあるのか」と、外ばかり探してはいないでしょうか。兎はそれがどこを探しても無かったが為に、自分の身に既に具わっていることに気付いたのです。気付いた兎はもう慌てることはありません。だから手ぶら(空手くうしゅ)で、跳ねて遊んで(仏の行を“遊ぶ”とも表現する)いたのです。臨済禅師も、「什麼なにをか欠少かんしょうす」(『臨済録』示衆)―ブッダと比べても何も欠落しているものはない」と言われています。今年は兎に見習って、すべてが具わっている自分に改めて出会ってみたいと思いませんか。

■大震災……心に染みるエピソード
先ず、この度の東日本大震災において被災された皆様にお見舞を申し上げますとともに、残念ながらお亡くなりになられた方々のご冥福を衷心よりお祈り申し上げます。先日、中日新聞編集局デスクにこんなエピソードが紹介されました。
子どもがお菓子を持ってレジに並んでいたけれど、順番が近くなり、レジを見て考え込み、レジ横にあった募金箱にお金を入れて、お菓子を棚に戻して出て行きました。店員さんがその子どもの背中に向けてかけた「ありがとうございます」という声が、震えて居した。
この子の迷いをふっ切った勇気ある決断はすばらしいですし、更に、物を買わなかったお客さんに涙をこらえて深々とお礼の言葉をかけた店員さんも、またすばらしい。今できることを精一杯。二人の温かい気持ちに貰い泣きをしてしまいました。三ヶ月近くが経ち、いよいよ前向きに歩き始めた人々から、ようやくあの日の出来事が話されるようになりました。そのいろんなエピソードは知人にはもちろん、他人への思いやりに包まれていて、こんな時だからこそいつもの何杯も何杯も嬉しいのです。東日本大震災は跡形も無いほどに多くのものを奪っていきましたが、この日本の優しい人々から、思いやりの心までは奪えませんでした。むしろこの悲惨な体験をバネにして、さらに高い心のステージに立つ人々に感動し、すこしばかりの安堵を覚えています。
お釈迦様は、あらゆるものと向き合う方法として「四摂法ししょうぼう」の教えを説かれました。
布施摂法―みんなで幸せになれるよう、喜びを与えましょう
愛語摂法―みんなで幸せになれるよう、優しい言葉で語り合いましょう
利行摂法―みんなで幸せになれるよう、心のこもった助け合いをしましょう
同時摂法―みんなで幸せになれるよう、人の身になってつくしましょう
「闇は深ければ深いほど光は光る、光は光によって光る」と論されます。満たされていた時には気づかなかったもの、幸せな時には見えなかったものに、今、私たちは気づきました。今こそみんなで幸せになれるよう、お釈迦様の四摂法をポイントにこの大災害に向き合っていこうではありませんか。一日も早い復興を祈って……。

■心ひとつに
「お寺からわずか数キロ先の街が津波で大変な事になっている」。仙台市青葉区に住する私がこの事実を知ったのは、ようやく電気が復旧し、テレビを見られるようになった東日本大震災4日後の午後のことでした。震災から早くも百ヶ日が経過しましたが、津波の被害が特に激しい沿岸部周辺は、見る者の心を深く深く傷つける光景が未だにどこまでもどこまでも続いております。「天上天下唯我独尊てんじょうてんげゆいがどくそん」とは、お釈迦様がお生まれになられた時に発せられたお言葉でありまして、諸説はあるものの「一人一人は違うけれども、みんな違ってみんな素晴らしい。みんながそれぞれ尊い存在である」という釈尊の教えです。みんな違ってみんながそれぞれに素晴らしいのですが、「仏心」は皆同じ、皆ひとつでなければなりません。ここでは「仏心」は「他を思いやる気持ち」と言い換えさせていただきます。3月11日の震災後、テレビCMや新聞等の各メディアでは震災復興へ向けて、何処の誰の言葉かわかりませんが、「心ひとつに」と連日報じられております。また、街行く自動車、店先のポスター、避難所の掲示板等、私はありとあらゆる所でこの「心ひとつに」の文字を目にし、そしてこの言葉を耳にして参りました。震災復興への関わり方も天上天下唯我独尊、人それぞれ「各々が最善と思われる方法で行動すれば、それぞれがみんな違ってみんな素晴らしい」はずですが、「多くの亡くなられた方々、被災者を思う気持ち」は「ひとつ」、「みんな同じ」でなければならないのではないでしょうか。数多くのそれぞれの気持ちが、「ひとつ」、「同じ」になった時、震災で亡くなられた多くの方々のご冥福と、一日も早い復興が約束されるはずだと信じております。毎日、被災地の状況も変われば、被災者の胸の内も変化していきます。「心ひとつに」天上天下唯我独尊、みんなそれぞれ違うけれども、被災者の方々を思いやる気持ちを「ひとつに」、「同じに」する事が我々にできる最初の第一歩です。

■緑のカーテン
東日本大震災により、日本全国で節電が叫ばれる今年の夏、中でも電力を最も消費するのはエアコンであるとか……。その使用を控えるのに有効なのは、日光を遮ることです。よしずやすだれもいいけれど、中でも効果があるのは緑のカーテン、見た目の涼しさや日光を遮る「遮蔽作用」はもちろん、葉の裏から水蒸気を放出する「蒸散作用」などにより、室内温度の上昇を防ぐのです。緑のカーテンに利用されるのはゴーヤやヘチマなどの蔓植物ですが、私の近所のお宅に植えられたのは朝顔、今はまだ庇までの高さの半分をやっと超えたところですが、やがて一面緑に覆われることでしょう。一面の緑の中に咲く朝顔の花々が、今から楽しみです。詩人・金子みすゞさんの「朝顔のつる」という詩は、朝顔の成長を讃えるみすゞさんからの応援歌のようです。
垣がひくうて 朝顔は、どこへすがろと さがしてる。
西もひがしも みんなみて、さがしあぐねて かんがえる。
それでも お日さまこいしゅうて、きょうも一寸 またのびる。
のびろ、朝顔、 まっすぐに、 納屋のひさしが もう近い。
「西もひがしもみんなみて、さがしあぐねてかんがえる」、この朝顔が大震災被災者の方々の姿に重なります。大変な苦しみと悲しみの中で、それでも復興を目指して「きょうも一寸またのびる」被災者の方々、「のびろ、朝顔、まっすぐに」と応援せずにはいられません。いつの日か必ず一人ひとりが庇に到達し、やがて軒先が復興という緑のカーテンで覆われることをお祈りします。ところで、一面の緑のカーテン、表面からは見えないけれど、欠かせないものがあります。それはネットなどの支え。「水中塩味 色裏膠青しきりこうせい」。海水は塩辛いが、塩を見出すことは難しいし、また絵具に膠が混じっていることは確かだが、膠にかわを取出すことは難しい。けれど、水と塩がなければ海水とはならないし、顔料と膠がなければ絵の具とはなりません。同様に緑のカーテンも表面からネットを見出すのは難しいものです。けれど、ネットだけでは日光は遮れませんし、朝顔だけでは庇に到達できないのです。朝顔とネットがあって、はじめて緑のカーテンとなるのです。被災者の方々が朝顔ならば、私たちはそれを支えるネットとなりましょう。いつか必ず復興という緑のカーテンが、被災地のみならず、日本中を、いや世界中を覆いつくす日を信じて……。 
 

 

■中尊寺ハスが語る歴史
このたび、岩手県の“平泉”がユネスコの世界遺産に登録されることになりました。このことは、東日本大震災によって沈んだ心に、一筋の光明となるでしょう。平泉の中尊寺の金色堂には、藤原三代(清衡・基衡・秀衡)が祀られています。昭和初期の学術調査の折、秀衡の棺の脇に一個の首桶(四代目泰衡公)を見つけました。その中には80粒ほどの蓮の種が入っていたのです。中尊寺の僧は、何故首桶の中に蓮の種なのか疑問を抱いていた時、俳誌の中の一句が眼に留まったのです。
逆縁の 棺に母の 種袋   間渕うめ子
この「種袋」という言葉に釘付けになりました。この句の作者はどういう思いで種を棺に入れたのだろうか。早速、中尊寺より作品の背景を尋ねる手紙を送りました。間渕さんからの手紙には、「私は秋田の出身です。この地方ではたとえば美味しいかぼちゃが採れると、その種を袋に入れて柱に吊るしておく、という風習があり、咄嗟の思いでその種袋を、母より先に亡くなった兄の棺に入れてあげたのです。せめてあの世でこのかぼちゃの種を蒔き、後から逝く母を待っていてほしい。愛し子の棺におもちゃやお菓子を入れてあげるのと同じ気持ちで、母に成り代わって納めてあげたのです。」とのことでした。中尊寺の僧はその手紙を見るなり、首桶の中の蓮の種子の謎が解けたのでした。せめて西方浄土に往生させてあげたい。この蓮の種があれば…。「一蓮托生」の契りを願い、蓮の種を首桶の中に入れたに違いない。しばらくして再度間渕さんからの手紙。「ところで、母の一周忌の折、村の古老から昔の弔いのことを聞きました。それは大事な人の棺には必ず七種の種を入れて葬るのが古くからの例(ならわし)だったとのこと。私の行為は“祖霊の声”だったのです」。

■清波、透路無し―月をみるとは
今夏は猛暑とは言わないまでも、例年より長くなるとか……。記録的に早い梅雨明けと併せ、秋の涼しさを知る頃も遅れるようです。東日本大震災で被災された方々や、加えて節電と暑さに堪え喘ぐ私達の暮らしにも思いをめぐらせます。過日、復興の「お手伝いをするため」と、被災地に立ちました。テレビ越しに見る映像とは違い、これが巨大な津波に何もかも飲み込まれてしまった姿なのかと驚き、いつもはその恵みを与える青い海の水面が黒い波となって牙をむいた惨事を恨めしく感じるばかりでした。
「清波せいは、透路とうろ無し」
碧巌録三十九則に登場する雲門禅師の言葉です。禅師は、中国で五家七宗ごけしちしゅう※1と称される、臨済宗や曹洞宗と並ぶ禅宗の一派である雲門宗の開祖となった高僧です。ある僧が禅師に尋ねます。「仏法は水中の月の如し―仏法は水の中の月のようなものだ―といいますが、この通りでしょうか」。つまり、「真理というものは清らかな水面に映る月のようなもので、手に掬すくえば手の中にあり、水たまりができればその一つ一つに月が映る。それと同じように、随所に見届けられれば、立処皆な全て真理なのだといいますが、これでよろしいでしょうか」。といったような意味でしょう。禅師の答えは、「清波、透路なし―清らかな水であっても波が立てば、誰も入っていくこともできんわい」でした。水面に映る月の如しだからと、月を水面に探すのであれば、それは大きな誤り。波が立てば月が揺らいでしまうのと同じように、仏法もどこかへ消えてしまう。手に掬った水があるから月が映るのではなく、月があるから手に掬った水の中にも観ることができるもの。いまだ証拠せざる無位むいの真人しんにん(※2)が「清波、透路無し」。月を観るとは、同時に自己を観ることでなければならないのです。家屋家財ばかりか大勢の生命までもが失われ、荒涼とした状況ながらも、生活を調えんとする一点の陰りもない純粋な姿があります。そこに、我が過ちを知りました。「衆生本来仏なり、この身即ち仏なり」と言いますが、被災者のために行くからこそ尊いのだと思い込んでいた私は、「水の中で渇を叫ぶ」おこがましい偽仏だったようです。水にこそ月ありと、行くことに執着してしまった私こそ「清波透路なし」、黒い波の災いから復興を遂げんとする姿に導かれたのでした。
月や我 我や月とも分かぬまで 秋の心は空にぞ有りける(藤原季経)
波立てども映る月に、再びかの地を訪ねたいと思うこの頃です。
(※1)五家七宗…他に法眼宗、潙仰宗と臨済宗の黄竜派と楊岐派を含む。(※2)いまだ証拠せざる無位の真人…自己に仏心が備わっていると信じられない者。「赤肉団上に一無位の真人あり〜未だ証拠せざる者は、看よ、看よ」(臨済録)

■感謝の心を伝えたい
以前は、周りの人を少しでも幸せにしたい、だから修行しなければというのが、私の修行の原動力だったように思います。今は、私が他人を幸せにするんじゃない。一人一人が仏様の教えによって、自ら幸せになるんだから、そのお手伝いをするのが私の仕事なんだと思うようになりました。最近、新聞にこんな広告を見つけました。それは「宮崎中央新聞社」という新聞社から出ている書籍の広告でした。本のタイトルは『日本一心を揺るがす新聞の社説』です。私はタイトルがすっかり気に入ってしまいました。見出しには新聞の無料体験購読ができると書いてありました。書籍は一旦置いといて、新聞を一カ月体験購読することにしたのです。毎週一回送られてくるその新聞を、大変興味深く読ませて頂いているのですが、中でも私に大きな衝撃を与えたのは、“理念と経営・経営者の会”会長をなさっている木野親之氏の文章でした。その文章を見てみると、松下幸之助氏の言葉が沢山出てきます。その中からいくつか抜粋させて頂きます。
・「経営理念の確立」これが成功のための絶対条件です。
・経営理念に必要なものは―中略―「まず、錦の御旗のような、これだ!というものがあること」
・時代を超えた経営理念になっているかどうか。国境や民族を越えた経営理念になっているかどうか。
どうかこの「経営理念」のところを、「お寺の運営理念」にして読んで下さい。私達のお寺の理念はお釈迦様の教えである仏教です。でも、その教えとそれを教える方の僧侶と、教えてもらいたい人との間に、大きな隔たりがあるように感じていました。それは何なのでしょう。私は仏教を通じて、多くの人に幸せになってもらいたい。かけがえのない人生を歩んでほしい。では、なぜ仏教がそれを与えることができるのか。仏教を何の為に学んでほしいのか。今までそれがぼやけていたように思います。私のお寺の運営理念、それは「感謝の心」です。人は何かに頼って生かされている。そのことに気付いて感謝することで、初めて本当に人として生きることになるのではないでしょうか。一人だけで完結する「いのち」ではなく、縁によって結ばれている「いのち」だからこそ、そこにかけがえのない「私の人生」があるのです。そして、親や兄弟、周りの人、先祖、自然や水や空気やあらゆるものに生かされていることに感謝する行為から、供養の心も生まれてきたのでしょう。現代はボタン一つで、何でもできる時代になりました。私達は、その便利さと引き換えに、繋がりというものを失ってきたのではないかと思います。その繋がりを見つめ、感謝するきっかけを与えてくれるのが、仏様の教えなのです。今生の最後に、何か一言言えたなら「ありがとう」と言える生き方がしたいですね。

■私たちはどこから来たのか
「風はどこから吹いてくるの?」とはラジオの電話相談室に寄せられた子供の質問です。日本は季節感が豊かで、風向きによっても四季を感じることができます。今頃の秋の風は西から吹いてくる風です。冬になると北風。春は「東風こち吹かば…」と古歌にあるように、東寄りの風が特徴的です。そして夏は南風。禅語にも「薫風自南来くんぷうみなみよりきたる」とあります。いったいどこからの風が本当なのでしょうか。禅には、「お前さんはどこから来たのか?」という問いがあります。中国は唐の時代、六祖慧能禅師と、後に法を継ぐ南嶽懐譲禅師に問答がありました。「お前さんはどこから来たのか?」「はい、嵩山すうざんから参りました」。嵩山は、達磨大師が修行された山であり、また、この問いを受けた南嶽懐譲禅師が以前に修行をしていた場所です。「どこから来たのか?」という単純な質問に隠れた真意は、「私たちは本来何者であるか?」というところにあります。こういう捉え方をしてみるのも一法ではないでしょうか。即ち、私たちがどこから生まれたかを深く考えてみるのです。私たちは当然ですが、それぞれの両親から生まれて参りました。では、両親はどこから?と問えば、その両親、つまり私たちから見ればおじいさん、おばあさんからです。このような具合に、私たちの命の淵源を尋ねますと、人類の誕生、生命の誕生、そして地球や宇宙の誕生というところまで遡ることができましょう。そこまで思い至ったとき、「私」というちっぽけな存在は、実はとてつもなく大きな命に育まれているのだと気づきます。会社員時代に、思うように仕事が進まず悩んだことがあります。そんな時に、上司がこう諭してくれました。「君が悩むのもわかる。しかし落ち込んでいるばかりでは先へ進まないじゃないか」「いえ、そうおっしゃいますけれども、どうしたらよいのか……」「発想を転換したらどうか。一度宇宙へ行って、そこから自分自身を見つめ直してみると良い。きっと前へ進めるから」と。「宇宙へ行って」というのは、もちろん比喩ですが、大きな心で自分自身を見つめ直すということでしょう。この時は「大きな命に育まれているんだ」とまでは達しておりませんでしたが、何ともいえない自信が沸々と湧き、再び仕事に集中できるようになったことを思い出します。考えてみますと、「風」はこの地球に大気が発生して以来、ずっと吹き通しです。これからも吹き続けることでしょう。私たちの命も同じく、これまでも生き通しであったし、未来永劫つながり続ける大いなるものであると言えないでしょうか。ちっぽけな「私」という存在が、実は大いなる命に育まれ、ともにつながって生きている。そういう捉え方ができたとき、自分の想像を超えてずっと力強く歩むことができるように思います。

■秋彼岸 ― お塔婆におもう―
今から76年前の昭和9年9月21日 京都建仁寺で秋の彼岸法要の準備をしていた所に室戸台風が襲い、大方丈は空中に持ち上がり、地面に叩きつけられ見る影もなく、境内にある多くの松の木が薙ぎ倒されたそうです。この時、大方丈の下敷きになった雲水(修行僧)でのちに、臨済宗妙心寺派養賢寺専門道場師家になられた、立花光宗老師が居られました。老師は奇跡的に命を取り留められ、人間は皆、いつも死と隣り合わせに生かされているということを、身をもって教えられたようです。大自然の前では、人間の力など無力であり、大自然への畏敬の念と感謝の心を忘れてはいけないと、常に自らの心に留めています。さて、秋のお彼岸月になりましたので、「お塔婆」についてお話させていただきます。彼岸は、御先祖様への供養と共に、私たちが功徳を積ませて頂く期間で、彼岸の法要に大切なものに「お塔婆」があります。「お塔婆」は、正式には「卒塔婆」と言います。元は2500年前、お釈迦様が80歳でお亡くなりになられた時、その仏舎利を八つの国に分骨し、それぞれの国が五重の石の仏塔を建立したことにあります。この塔を五輪塔と言い、下から「地・水・火・風・空」を表し、これを仏教では五大思想と呼んでいます。「地」は地球、「水」は水、「火」は太陽、「風」は空気、そして「空」とは大宇宙すべてを包み込む無尽蔵のエネルギー源「大宇宙の命」です。これら五つの大いなる命により、我々は生かされているのです。仏塔のことを、サンスクリット語では「ストゥーパ」と言い、中国に渡り「ストゥーパ」が「卒塔婆」になり、日本に渡り「塔婆」という言葉になっております。ですから、塔婆と言えば、東寺や、八坂法観寺の五重の塔など、仏舎利を祭るお墓のことなのです。「造塔延命ぞうとうえんめい功徳経くどくきょう」というお経の中に、「卒塔婆」の功徳が書かれており、それによると、あと七日の寿命と告げられた波斯はし匿のく王が「童子がたわむれに自分の背丈ほどの土の塔を建てた功徳によって七年の寿命を得た」という因縁話をお釈迦様から聞いて大いに発心し、自ら多くの塔を建立して寿命を延ばしたことが説かれています。しかし、私達が仏舎利塔や五重の塔を建立することは大変です。それに代わって木の板で出来た板塔婆を建てるのです。板塔婆は上の部分がギザギザの模様になっております。これも五輪塔の「地・水・火・風・空」を表わしており、同じ功徳があると言われております。また、このお経の中には、「卒塔婆」を建てようと思っただけで地獄の苦しみから救われる、そして、この塔を建てた者は必ず仏の世界に生まれることができるであろう、と説いております。お彼岸の法要の時には、お塔婆建立を願いつつ、御先祖様とともに私達も大いなる功徳を積み、心安らかな秋を送りたいものです。
法事の時やお墓でよく見かける「板塔婆」、これには御先祖様に対する感謝のお手紙というもう一つの意味があります。「板塔婆」を見ていただければ、表にはご先祖様の戒名が書いてあります。これはお手紙で言えば宛名(宛先)です。そして、裏には大日如来を表す「バーン」という梵字が記されています。これは大宇宙どこまでも届く切手であります。その下に施主、皆様のお名前が書いてありますが、これは送り主にあたります。ですが、この板塔婆は封筒だと思ってください。封筒だけでは御先祖も寂しがられます。やはりお手紙を入れるのを忘れてはいけません。お手紙は、皆様方の菩提寺の法要時に和尚様のお経を聞きながら、御先祖様への感謝の気持ち、そして、皆様御家族や親族、御縁のある方々と仲良く元気に暮らしておりますと、心の中でお書きいただきたいと思います。同時に、自分も何時の日か、御先祖様がおられる世界に必ず行くということを忘れないでいただきたいのです。それは、今日かもしれないし、明日かもしれないし、また十年後、二十年後かもしれない。それは、誰にもわからないことであります。だからこそ、今日が最後の命であるという気持ちで、今日を、今を生きていただきたいのです。私も毎朝、お経を読ませていただいておりますが、いつも、もう明日はお経を読むことができない、今日が最後のお経であると思って、お経を読ませていただいております。禅の世界では「明日はもう命がないと思うて生きよ」と教えられます。皆様も今日一日を、今この瞬間を大切に生ききって、悔いのない人生を送っていただきたい。そして、感謝の心で今日を生ききる時、その瞬間が「彼岸」(仏の世界)なのであります。彼岸は御先祖様だけが行く所ではなく、今生かされている我々も行くことができるのです。それはどこにあるかと言えば、はるか遠くにあるのでは無く、今この瞬間ここにあるのです。「生きながらに彼岸に到り仏になる」それが二千五百年前にお釈迦様が伝えられた仏の教えであり、達磨大師の説かれた禅の教えであります。そして、この今日を大切に生ききることが、御先祖様への一番の供養になるのです。くれぐれも御先祖様へ感謝のお手紙を書くことをお忘れなきようにお願い申し上げます。

■死ぬる時節には死ぬがよく候
東日本大震災から半年以上経過しました。被災された方々に心よりお見舞とお悔やみを申し上げます。多くの被災された方々に区別はありませんが、特に突然、親を亡くした子供たちの心中を察すると涙が止まりません。越後の良寛さんは与板の山田杜皐(やまだとこう)という俳人と親友でありました。良寛さんの住む五合庵から与板まで行くには時間がかかりましたが、与板へ行けば杜皐さんの家に泊まり、話に花を咲かせるのが常でした。杜皐さんは造り酒屋でもあったので、良寛さんは大好きな酒を心ゆくまで飲ませてもらいました。良寛さんが71才の時、三条市を中心に大地震が起こりました。良寛さんの住んでいる地域は被害が少なく、与板の方は被害が甚大であったそうで、良寛さんは杜皐さんへ見舞の手紙を送っています。
災難に逢う時節には災難に逢うがよく候 死ぬる時節には死ぬがよく候 是はこれ災難をのがるゝ妙法にて候 かしこ
と、見舞の一文の中に書かれていました。その意味は、「災難にあったら慌てず騒がず災難を受け入れなさい。死ぬ時が来たら静かに死を受け入れなさい、これが災難にあわない秘訣です」ということです。聞きようによっては随分と冷たい言葉です。しかし、これほど相手のことを思っての見舞いの言葉があるでしょうか。「大変でしょうが、頑張ってください」とは誰でも言えます。「頑張って」の一言も書いていないのに、受けとった杜皐さんはきっと、「この災難の中で生き抜いていこう」と思われたに違いありません。私は出家する時、師匠から、「いろいろ出家の理由は有るだろうが、腹を決めなさい。腹さえ決まっていれば、どんな逆境の中でも坊さんをやっていられる」と言われました。腹を決める事は簡単なようでなかなか難しいことです。大相撲の八百長問題でも腹が決まっていないから、地位やお金にしがみつき、不正を働きます。良寛さんは、腹を決めて現実を見捉えることが、迷いから抜け出る最良の方法だと言いたかったのです。これほど慈愛に満ちた言葉はありません。この度の震災に遭われた多くの方々に腹を決めろとは、残酷で言い難いのですが、腹を決めなければ迷い続けます。「こまった、こまったこまどり姉妹。しまったしまった島倉千代子」と吉本の芸人さんのように言い続けても前には進みません。私の寺は道樹寺と言いますので最近は、「こまった、こまったこまどり姉妹。しまったしまった島倉千代子。どうする、どうする、ドウジユジ」と訪ねてくる人に問答を仕掛けています。ともあれ、「こまった、しまった、どうする」と迷い続けるよりは、しっかりと自分の腹を決めて生きることが災難を逃れる最良の策だと思いませんか。

■「二人三脚」こころひとつに
10月5日は禅の初祖の達磨大師の命日です。達磨大師の教えの中に「三種安楽の法門」があります。その三つとは、「徐緩」・(じょかん)「唯浄」・(ゆいじょう)「唯善」・(ゆいぜん)です。簡単に説明しますと、「徐緩」は、ゆっくり落ち着いて、あわてるなということ、「唯浄」は清浄心を自分の心とせよということ、「唯善」は、腹を立てるなということです。この三つを心がけることで、安楽、しあわせに近づけるという教えです。次のようなお話がありますので紹介します。
「昔ある国の王さまが、立派な住まいを建て、東西の白壁に国内でも有名な画家に壁画を描くように命じました。A画伯は、東側の壁にわき目もふらず描き始めました。B画伯は、絵具も持たず、絵筆も持たず、白布で西壁をただ黙々と磨き続けました。 王さまの決めた期日になり、王さまは期待に胸をふくらませ、まず東の壁の前に立ちました。A画伯が精魂込めた力作に膝を叩いて大満足で、A画伯をたたえました。次に西の壁に向かいました。A画伯に勝るとも劣らないといわれるB画伯です。必ず秀作を描いたのであろうと期待していましたが、王さまの期待に背いて、もとのままの白壁でした。王さまは怒りが先立ちB画伯の怠慢を責めました。B画伯は静かに頭を下げ、「王さまなにとぞここまでお越し下さい」と東西の両壁の間にある地点へ導きました。王さまがその地点に立ってBが指さす西壁を眺めます。なんと、丹念に磨き上げた壁面は、鏡とはまた違うつややかさで、東壁のA画伯の作品を深々と映して、えも言われぬ味わいが感じられるではありませんか。王さまは思わずうなって「よくぞ描いた、よくぞ磨いた」とたたえました。(松原泰道師寄稿文)」
この二人の画伯のように、描き磨いてお互いを生かし合う、二人三脚のように心ひとつに、あせらず、清らかな心で、決して争わなかった結果、素晴らしい壁画になったのでしょう。しあわせとは、自分だけのものではなく、他をしあわせにするところに意味があります。他がしあわせになるように、自分の生活を正しくするところ、その方法のひとつが、「三種安楽の法門」の教えです。秋の夜長、考えてみてはいかがでしょうか。

■布施なき経は・・・。
禅寺の日常生活の三要素は、「一に掃除、二に看経かんきん(お経を読む)、三に坐禅」といわれています。「掃除」と「坐禅」については、私ども「禅」を行ずる者によく語られるのですが、「看経」となるとあまり語られていないような気がします。そこで今月は「看経」について述べてみました。私どもはよく法話などで、「清浄しょうじょうな心をお供えしてください」とか「〜清浄な心が大切なのです」などと、「清浄な心」を簡単に説きがちです。しかし「清浄な心」って一体どんな心で、どんな時に生まれるのか分かりますか? 私はそのお答えに「看経」を例に挙げてお話することがあります。ご法事では、住職とご一緒に経本を手に声を出してお唱えしていらっしゃることと存じます。その時の「ただひたすら一心に字面を追う」。そういう状況状態が「清浄な心」を生み出していると思うのです。多分皆さんは、住職と一緒にお経を読む際、字面を追うのに必死で頭の中で「今日の夕食は何だろう……、昨日の野球の逆転負けは……、子供が……」などと、日常の多事多様なことをおそらく考えていないことでしょう。ただ一心に無心にお経を唱えているそのお心こそが、まさに「清浄な心」だと……。同じように、一心に「掃除」をしている時、また、身体と呼吸と心を調えて「坐禅」している時も「清浄な心」が生み出されている状態だと考えてもらって結構です。最後に表題の話を。二十年近く前ですが、どこかの席である和尚さんが、「松原泰道さんも言っていたが、わしは、お布施の無い経は読まんのや」と仰られているのを聞いた事があります。勿論、故松原泰道師はそんな事は仰っておりません。松原師の「布施無き経は読むべからず」の真意は、「和尚さんが読むお経は、人々に安心あんじん、安らぎを与える(布施する)ものでなければならない」という、私たち和尚側の心構えを説いたものなのです。本日もまた、皆様に安心を得てもらえるべく、しっかりと、「朝のおつとめ」から「看経」してまいります。

■笑顔の施し
寺の近所のお店には幼稚園に通っている子がいます。お絵描きが好きで、店の中にクレヨンで描いた道路標識が貼ってあり、小麦粉を買おうとしたら進入禁止になっていて驚くこともあります。時々、その子が長靴を履いて出てきてニコニコしながら「いらっしゃいませ」と言ってくれるのですが、清浄無垢な大変良い笑顔なのです。レジで見ているお母さんも、お店にいる近所の方も、私も、皆な笑わずにはいられない微笑ましい光景です。笑顔で人に接することは、仏教では他人に対する大事な施しです。和顔施と言い、たとえお金や物が無くても、誰でもすることができる立派な布施行(無財の七施)の一つなのです。言い換えれば、仏の清浄なる心の施しと言えるかもしれません。ところが、最近はパソコンや携帯電話が普及して、笑顔どころかお互いの顔も見ずに会話をすることが当たり前の様になりつつあります。以前よく流れていたファーストフードのCMに、こういうものがありました。客が店員に「スマイル下さい」といって、最後に「スマイル¥0」というキャッチコピーが出るのです。笑顔までも商品の一つになってしまった様な、笑顔が当たり前ではなくなっている現今の世相は、それだけ殺伐としているということでしょうか。この様な御時世だからこそ、私たちは清浄な、心からの笑顔にどれだけ心救われることでしょうか。
幼子の次第次第に知恵付きて 仏に遠くなるぞかなしき(詠み人知らず)
という句があります。私たちは成長するに従って、良い悪い、好き嫌い、欲しい欲しくない、色々な考えが生じ、本来持っている清浄心を見失いがちです。しかし、心からの笑顔に接した時、お互いが見失いかけた仏の心に気付くことができるのではないでしょうか。以前祖母が入院している時に、「椿の花が見たい」と言われました。私は翌日、庭にあった藪椿を一輪携えて病院へ行きました。ところが、丁度その日に人工呼吸器がつけられ、言葉を交わすことができなかったのです。しかし、持ってきた一輪の椿を差し出すと、苦しそうだった祖母がニコッと静かに微笑んだのです。私は、一輪の花に微笑んだ祖母を見た時、自分自身も救われる思いが致しました。どうか、皆様も多くの人に慈しみを持った、仏様の笑顔を施してあげて下さい。

■一歩を進む
今年もいよいよ残り僅かとなりましたが、一年を振り返ってみますと、本当に国内外を問わず大きな自然災害に見舞われた年でした。更に世界の人口は70億人を突破して、将来の食糧や資源の枯渇が危惧されていますし、欧州発端の経済危機で各企業も青息吐息です。本当に「一寸先は闇」という諺が、多くの方々にとって実感される、そんな一年だったと思うのですが、そんな時代を私達はどう生きていけば良いのでしょうか?元弘二年(1332)の冬至の夜、大燈国師に一人の僧が「昔、ある僧が百丈禅師に『如何なるか是れ奇特の事(この世で最も有難いものは何ですか)』と尋ねた所、百丈禅師は『独坐大雄峰(今ここで坐って居ることじゃ)』と答えられましたが、この答えは本当に正しいのですか」と尋ねました。この百丈禅師と僧のやりとりは『碧巌録』という書物に出てくる有名な問答です。ところが一人の僧が「この世で一番尊いことは、今自分が生命を頂いて生きていることだと百丈禅師は仰いましたが、本当にそうですか」と大燈国師に質問したのです。仏教詩人、坂村真民さんの詩にも「死のうと思う日はないが 生きてゆく力がなくなることがある」という一節がありますが、確かに人は夢も希望も失った時、「もう生きていても仕方ない」と絶望する時があります。或いは、自分の生命を賭しても守りたい、そんな生命よりも大切な家族や仕事を失った人々の悲しみは、他人の窺い知るところではありません。今風に言えば「生命が一番大切だといいますが、本当にそうですか」という問いは、この僧ならずとも思うことかも知れません。それに対し大燈国師は「要津を把定し、凡聖を通ぜず」とお答えになっています。直訳すれば「誰であろうと簡単には理解出来ないぞ」ということでしょうか。古人も「百尺竿頭に一歩を進めた者でないと、この境地は判らぬぞ」と言っています。高い竿を登ってやっとのことで頂上まで来ました。しかし更にそこから一歩進んだらどうなりますか。真っ逆さまに落ちてしまうかも知れません。しかし勇気を振り絞ってそこから一歩を踏みだした者でないと、「独坐大雄峰」という清々しい境地は味わい得ぬということです。確かに「一寸先は闇」であり、私達の人生には多くの苦難が待ち受けています。しかし、だからと言って歩みを止めてしまうのではなく、歩みは遅くとも勇気を振り絞って一歩を踏み出すことこそが大切ではないでしょうか。自分のベストを尽くすこと。それが生きている者に与えられた使命であり、先に亡くなられた方に対するご恩返しでもあると思います。共に新しい年に向かって一歩を進めて参りましょう。 
 

 

■いのちのかたち
「いのち」は生まれる前からあって、死のあとも無くなっていかないと考えています。たとえば、ボートで海にこぎ出し、船べりからコップ1杯の海水をくみ取ります。そのコップの海水が一人一人の「いのち」と考えます。コップに入った「いのち」は目で確認できます。コップの海水は何十年かしたらまた海に返します。コップに海水を汲んだときが命の誕生、海に戻した時が、死と考えます。誕生も死も“いのち”の節目であって、開始と終了ではありません。始まって終わるのは「形ある命」なのです。生まれる前の「いのち」は確認できませんが、死の後の「いのち」はたびたび確認できます。生まれる前からあった「いのち」が死んだあとも無くなっていかないので、生きていらっしゃる方と亡くなられた方を区別いたしません。今年(2011年)9月、あるランドセルメーカーが、2年半前の小学校入学時にランドセルを購入されたお客様に手紙を届けました。ランドセル購入時に、3年生になったお子様に向けて、お母さんに手紙を書いておいてもらい、それを2年半後の子供たちに届けるというものです。東日本大震災の津波でお母さんを亡くした小学3年生の女の子にも手紙が届きました。女の子は3人兄弟の末っ子です。お母さんは3人の子供たちそれぞれに手紙を書いていました。もちろん3人は大喜びです。その日の夜、小学3年生のお嬢さんは津波で亡くなったお母さんに手紙を書きました。その書き出しが、「お母さんお元気ですか?」で始まっているのです。誰が教えたわけでもないのに、このお嬢さんは“生まれる前からあったいのちが死んだ後も無くなっていかない”ことを直感で分かっていらっしゃるのですね。家族や親友、大切な人を失った悲しみは、これから生きてゆく気力を奪い去るように思えることがあります。しかし、故人と共に生きる智慧は、残されたわたくしたちを勇気づけてくださるように思えます。わたくしたちが故人の幸せ、「冥福」を祈る一方、故人も残された方々の幸せを願っていてくださるでしょう。逝った方も残されたわたくしたちもつながって生きているのです。

■命の絆 −龍国の教え−
昨年末、京都清水寺貫主が揮毫された、平成23年の世相を一字で表す漢字が“絆”。東日本大震災の大規模災害によって、家族や人と人との繋がりの大切さを改めて知ったことが選ばれた理由に挙げられています。“つなぎとめる紐”の意を持つ“絆”には、人と人との思いもあるが、命のつながりでもあるのです。「あなたは何歳ですか」と聞かれれば、生まれてからの年数を言います。しかし、命の年齢となればこの世に生物が誕生してから一度も途切れず今の私があるのですから、38億歳とも言えます。もっと突き詰めれば、地球や宇宙が誕生した時から命をつないで今日に至り、しかもこの命はこの世の全ての生き物ともつながり、相互依存によって今の私の命が保たれているのです。釈迦はこのことを、華厳経中の「インドラ(帝釈天)網の喩え」で、命の絆として説かれています。帝釈天の宮殿に掛かる無量の網の結び目の一つ一つに宝石が付いており、私達個々の命はその網の結び目にある宝石のようなもので、この結び目から四方に糸が張り、その先に結び目があり、またそこから四方に糸がつながっている。この私という結び目の一つが存在する為には他の多くの結び目の存在がなければならない訳で、この結び目の宝石を摘み上げると全ての結び目がつながってあがって来るというのです。昨秋ブータン国王夫妻が、東日本大震災の被災地を訪れ話題になりました。「やがて我が国も近代文明の発展をしていくことだろう。しかし物質的発展の名の下に、伝統文化や、自然環境が損なわれるならば、それはブータン人にとって最も不幸なことであり、そうした発展は是が非でも避けねばならない。大切なのはGNP(国民総生産量)ではなく、GNH(国民総幸福量)である」という先代国王が掲げた政治指針によって国民のほとんどが幸福と感じています。「生まれ変わり死に変わり姿を変え、生きとし生ける命はつながりあって存在している」という“輪廻転生”の教えを説くチベット仏教を根幹とする信仰は、現在もブータンの国政に活かされ続けていることを、以前渡航して幸せそうな人々の姿を目の当たりにして知りました。大震災で発生した原子力発電所の事故により、GNP(GDP)の向上を追求して得られた快適な生活は、必ずしも国民の幸福につながって行かないことに気づかされた日本人にとって、龍を国旗に描き、自らの国名をドゥルック・ユル(龍の国)と呼ぶヒマラヤの小さな国に学ばねばならない年(時)が来たのかもしれません。

■かきくけこのインド旅行
京都大学の大島名誉教授が、脳を活性化させる「かきくけこ運動」を提唱されています。
か・感動 き・興味 く・工夫 け・健康 こ・恋
私は昨年の八月末に、妙心寺派管長・河野太通老大師猊下と供に、インドを旅する機会に恵まれました。その旅とは“ナグプール・龍樹菩薩大寺参拝、コンダサヴァリ・RACK診療所視察の旅”でした。今回のインド旅行でこの「かきくけこ」はあったでしょうか。インドといえば、四大仏跡が中心となる“仏教遺跡の旅”となるでしょう。釈尊生誕の地であるルンビニー(これはインドとの国境、ネパール側ですが……)、成道をされたブッダガヤ、初転法輪で有名なサルナート、そして、最後の日をむかえたクシナガヤ。どの仏跡に巡拝しても、他国の僧、特にチベット僧が目立ちます。ただ、物売り、物乞いの多さには辟易します。そんな国に、はたして仏教は生きているのでしょうか。き・興味津々です。佐々井秀嶺上人という方が、40年以上の間、日本に帰国することなく、ナグプールを中心に仏教活動をされています。上人がある夜、夢枕に突如として現われた人物に、
・・・我は龍樹也。汝速やかに南天龍宮城へ行け。南天龍宮城は我が法城也。我が法城は汝が法城、汝が法城は我が法城。汝速やかに南天龍宮城へ行け。南天鉄塔 亦そこにあらむ乎。・・・
と告げられました。龍樹と名乗ったその人物は、告げ終えるなり忽然と姿を消したといわれます。龍樹とは大乗仏教の創始者で、2〜3世紀にインド中南部を中心に活動し、日本では「八宗之祖」と称されています。南天鉄塔とは龍樹が金剛薩埵から大乗経典を授かったといわれる場所です。上人はその場所がナグプール郊外にあると信じ、3年前にこのたび訪ねる龍樹菩薩大寺を建立、落慶されました。今回は高さ9メートルもある巨大な寺の門柱に管長猊下が寺号を揮毫され、その開眼法要と、アジアの友を支援するRACKの活動として上人を通じてのRACK診療所の視察が目的でした。け・健康だから私も同行できたのです。ちなみに、このナグプールは、1956年10月、アンベードカル博士によってヒンドゥー教から仏教への集団改宗式が行なわれた都市であり、インド仏教復興運動の拠点です。いまや日本の総人口より多い1億5千万人の仏教徒がいるといわれています。さて、佐々井上人ご一行は空港で私達を迎えると、なんとその場で頭を下げ跪き三拝をされたのです。そして上人が活動するナグプールの下町にあるインドラ寺、今回の龍樹菩薩大寺でも、大勢の老若男女の仏教徒が私達に頭を下げ跪き拝をし足に触れられたのです。驚きと恐縮と……。日本では絶対にありえません。か・感動しました。真の仏教がインドにはあります。上人のまわりには「バンテ・ジー(和尚さま)」と呼びかけながら跪く。その方々の笑顔は輝き、生きる力をいただいているのです。仏教巡拝で釈尊の歩まれた大地を踏むのもいいですが、今回の旅は、インドで“生きた仏教、他宗教と闘う仏教”を知る旅であり、これからの日本仏教のあり方を考える旅でもありました。く・工夫とは、これからの仏教のあり方です。こ・恋がなかったのでは? いいえ、あります。上人は龍樹に恋し、私達、仏教徒は仏教に恋しているのです。一月に当たり、辰年で龍樹の話です。そして、一年、「かきくけこ」で脳をリフレッシュ!

■−お正月− 永遠なる仏さまの願い
晦日のざわめきが静けさに変わり、年は改まりました。
なんとなく、今年は良い事あるごとし。元旦の日晴れて風無し  石川啄木
啄木ならずとも元旦の朝というのは、誰もがこう言いたくなります。風もなく空は晴れわたり、聞こえてくるのは静寂さだけ。家の中では、オトソを酌み交わしながら昨年の労を感謝しつつ、「おめでとう」と言葉を交わします。外に出れば皆なおめかしをしていました。華やかな朝を満喫しながら、年始の挨拶が始まりました。昨夜までの静寂さは、ざわめきに変わってゆくのに、晦日の慌ただしさはありません。とてもゆっくりとした穏やかな時が流れているのがわかります。そもそも一年の歪みを「修正」する「月」という意味合いで正月と呼びました。機械や道具が、長い月日のうちに自然と誤差が生じてくるように、人間も同じこと。ものの考え方など知らぬ間に、少しずつ正しい方向から、はずれがちになります。それを修正するのがお正月と言うのです。去年、私のお寺で本尊様の仏像調査がありました。普段、水引戸帳に隠された優しい尊顔に、スポットが初めて当てられたのです。専門家によると、音楽やファッションなどに流行があるように仏像のスタイルも、少しずつ違いがあるらしくその結果、この本尊様は900年前、平安末期に遡るというのです。歴史の深さに驚きながらも、時代を超えて露わになった姿に永遠なる命を感じてなりません。この現前に広がる一切のものは、一つとして同じ状態、姿をとどめません。どれも変化しています。どこを探しても永遠たるものは見当たらないのが現実です。それは仏教を開いたお釈迦さまも認めていました。けれど、この900年もの間、当地を優しく見守り続けた本尊さまに、そしてその本尊さまをしっかり守ってきた先人たちの願いにロマンを感じたのです。新年を迎え、私達は何を「修正」したら良いのでしょう。凝り固まった心を修正することは難しいかもしれません。それでも、しんとした元旦の気分は特別です。周りの雰囲気だけを見ても、心を一新させ修正させてくれる気がします。皆様もまた菩提寺にお参りし、御本尊さまに手を合わせる機会はあるでしょう。いつもなら自らの願う場としてあるのでしょうが、今回は御本尊さまに労いの言葉をかけてみてはどうでしょう。
「長い間、何を見てきたの?」 「じっとして退屈じゃないですか?」 「これからもこのお寺、この地区をずっと永遠にお守り下さい。」と。
そんな気持ちになれた時、古から不変に続く仏さまの心が私たちに具わって頂けるのではないでしょうか。そこに「修正」された私があるのです。
なんとなく 今年は良い事 あるごとし  皆様のご多幸をお祈り申し上げます。

■貪瞋痴について
懺悔文に「我等われらさきに造る所の諸もろもろの悪きわざは みな我等が避け難き貪むさぼりりと瞋いかりりと愚おろかさとに由るものなり 我等が身と言葉と意より起こるところ全て我等が今悉ことごとく懺悔し奉る」とある。先日、若いお母さん二人がこんな会話をしているのを耳にした。お母さんAが「どうしたん?」とお母さんBにたずねた。「うちの子バカやからこれから保健所へ行って頭みてもらうんや」と答えた。するとAが「しっかり脳みそみてもらいやあ」と答えた。親しいお母さん同士の会話だからと受け流していいものだろうかと思ってみた。Bの子供にとって、自分の母親の言葉はどう心にうつるだろうか。言葉の軽さというか乱れとも感じることが多くなってきた。若い年代に多い傾向のように思う。冗談だからと笑って受け流せない問題があるのではないか。何気ない言葉と思っていても、相手にとってひどい心の傷を受けることもある。受けたものだけが苦しみ、喋った本人は悪気もなく知らぬ顔である。相手に対して悪いことをしたという自覚が懺悔を喚起する。この自覚がなければどうしようもない。殺人を犯した少年に、罪の意識をたずねると「なぜ人を殺してはいけないのか」と真顔で答えたという。これは特殊な例かもしれないが、罪悪感が若年層で欠如しかけている証拠だろう。戦後の学校教育や家庭教育の欠如または仏教教化の堕落などが指摘されている。その指摘は正しいと思う。どうして行けばいいのか。それは国民一人一人がすべてこのことを自覚することである。人のせいにしたり社会のせいにしたりして、他へ責任転嫁しないことだ。私達が知らず知らずのうちに犯してきた過ちに気付き、国民皆なで正しい道に向かっていくことが将来の日本を背負っていく子供達への私達の義務だ。家庭教育の主役は父親と母親で、今はおじいさんとおばあさんの出る幕はほとんどと言っていいほどない。物ごとの善し悪しや道徳や、ちょっとした生きていく上での智恵などを孫に伝えることが出来なくなってきた。父親母親の身口意しんくいの乱れがそのまま子供に伝染していく。仏教を若い世代にどう生かしていくか。何が最低限私達に必要だろうか。個人主義に傾倒している日本の老若男女に今一度“おもいやり”を問い掛けてみる。相手へのおもいやり、自然へのおもいやり、これらはすべて私達の心の中にある物から流れでてくるものである。釈尊は、お悟りを開かれた時こう言われた。「奇なる哉 奇なる哉 一切衆生 悉く如来の智慧徳相を具有す」と。生きとし生ける物すべてに仏さまと寸分変わらぬ智慧を生まれながらに持っている。悔い改めることにより、光を失った智慧が輝きを取り戻す。私達の身と言葉と心より起こるところのものすべてを問い直して見る。そのことなくして、言葉の乱れや行ないの乱れ、心の乱れを直していく道はない。

■清らかな光
この二月は、暦(こよみ)のうえでは立春を迎えますが、信州はまだ寒く、冬の季節です。そんな晴れたある一日、天竜川を流れる川面に光がさして、きらきら輝いて見えました。その輝きを見て、心の中から言葉があふれでてきました。
   光の舞
冬の光は なぜこんなに澄んでいるのだろう
   流れる川面に反射する 光の姿は清らかで
   きらきら輝くそのさまは 天使のほほえみのようだ
白雪に舞う光たちも 喜びに満ちて
天の国の詩(うた)を歌っている 光の舞が
天の清らかな世界を この世に連れてきたのだ
   あの光のように 清らかな思いが
   私の心にも広がってゆけ
冬の光はとても澄んでいてきれいです。寒さがあたりを慎み深くさせているのでしょう。そして、その光が、流れる水にさまざまに反射している姿は、この世のものとは思えないほど美しく見えます。その反射する輝きが、私には天使のほほえみのように見えるのです。そういえば、朝降り積もったばかりの雪の上に朝日がさしているようすは、光の妖精が喜びの詩を歌っているように感じられます。このような世界を感じられるのは、自分の心にもそのような清らかな世界があるからだと確信します。それを昔の人は「清浄心」という難しい言葉で言い表してきました。この清らかな心が、私たちのほんとうの自分であり、それゆえにこの清らかさが分かるというのが真理です。さらに、その清らかさの奥にきらきら輝きを放っているものが、希望であり、勤勉であり、努力、報恩、平静心、柔和、責任感、祝福、智恵、向上、愛、慈悲、反省、謙虚、感謝、信心、優しさ、ほほえみなどであるといえます。心をいつも清らかにしていると、こんな思いがどこまでも広がっていって、自分自身も、家庭も、社会も、きらきら輝いた天のみ国のような世界になっていきます。そうあれと仏は、この光の世界をこの世に示したのだと思われます。清らかな心が、私の心にも、みんなの心にも広がっていくようにという祈りが、ある冬の一日、輝ける光の中に舞っていきました。

■百花春至って誰が為にか開く
立春の前日にあたる春の節分には、邪気を払う追儺(ついな)の行事として、各地の神社仏閣で豆まきが行なわれます。そもそも「儺(な)」とは、中国の除災によって招福を願う習俗で、我が国にも深く浸透しました。豆まきは、豆を「魔目」と書き、鬼の目を煎ることでその出没を拒んだことが始まりとされます。また、味噌、醤油の原料として日本人の生活に欠かせなかった大豆に霊力を与えて「魔滅」という字をあて、鬼を退治しようとしたとも伝えられています。禅語録の『碧巌録(へきがんろく)』第五則「雪峰盡大地」の頌に、「牛頭(ごず)没し、馬頭(めず)回(かえ)る。曹渓(そうけい)鏡裏(きょうり)、塵埃(じんない)を絶す。鼓を打って看せしめ来たれども君見ず。百花春至って、誰が為にか開く」とあります。牛頭は没し、馬頭は立ち去った。曹渓の心には一点の曇りもない。鼓を打って人を集め開眼させようとするが誰も悟ろうとしない。百花が春を迎えて開花するのは誰のためであろうか。牛頭と馬頭は亡者たちを責めたてる地獄の鬼たちです。曹渓こと禅宗六祖慧能(えのう)大鑑(だいかん)禅師のもとから鬼たちは立ち去りました。それは慧能禅師の無一物(むいちもつ)の心境によるものです。皆さんのためにこの大安心(たいあんじん)をお裾分けしようとするものの誰も関心を示しません。いろいろな花々は、春を迎えたままに輝き開き、誰のためでもなくただ咲いています。どこの家でも障子戸の生活をしていた頃、陽暮れが来れば雨戸を閉めなければなりません。建て付けが悪く、子供の背丈を越える雨戸は容易には動いてくれず、子供心にも難儀で面倒くさい陽暮れ時の私の日課でした。節分の晩に戸袋の一番近い雨戸を一枚だけ開けて「鬼は外」と暗闇に向けて豆を撒きました。鬼が反撃してくる前に雨戸を閉めなければなりません。早くしないと鬼が迫ってきそうな緊迫と焦りの中で、益々思うように動かない雨戸は、夜の静けさにガタビシと騒ぐだけでした。今にも闇から鬼がヌーッと顔を出しそうな恐ろしさの中で、思わず親の背中に逃れ隠れたことをなつかしく思い出します。そこには開け放たれた雨戸から吹き込む外気の冷たさをも厭わない家庭の団らんがあったように思います。私たちは何を以てしあわせとせねばならないのかと振り返ったとき、思い通りにならない煩わしさを避けるだけでは心は潤わないことを、無邪気な頃の日暮らしの一幕に知らされます。「牛頭は外、馬頭も外」と災難から逃れて得るしあわせはありません。牛頭も馬頭も認許して、それにもこだわらない「あって善し、なくて善し」という分別と我執に左右されることのなかった慧能禅師の安心(あんじん)は、春を迎えておのずと花を咲かす百花の姿に通じます。その花あかりが、鼓の音に無頓着な私をもあたたかく包んでいてくれことに気づけたとき、私の心も無一物です。昨日と同じ景色をそのままに見事に開花したときです。

■布施の心について
「布施」と聞けば、お寺への供養と思うのではないだろうか。お金、つまり財施である。しかし私は、最近この布施に関してあまり良い印象を持っていない。そこで今回、自己への戒めも込めて、布施の心というものを改めて考えてみたいと思う。本来「布施」は、雨の日や日差しが強い日に布一枚を施して、役に立ててもらおうとすることが語源と聞いている。雨で濡れた体に布一枚では役に立たず、また雨よけ、日よけには不十分である。しかし、大切なのは、相手を思う気持ち、やさしさなのである。これこそが、本来の「布施」の姿である。「布施」は大きく分けて「財施」「法施」「無畏施(むいせ)」の三つに分類できる。「財施」とは、物質的なものを他人に施すことだが、大切なのはやはり心で、ただ与えるだけでなく相手を思う気持ちなのである。『百丈清規(ひゃくじょうしんぎ)』の展鉢のときに唱える偈文には、「如来の応量器、我今敷展することを得たり。願わくは一切衆と共に、等しく三輪空寂ならん」とある。「如来から頂いたこの器をここに敷き展べて、これから食事を頂こうとしている。願わくは全ての人々と共に、布施する人、受ける人、布施物の三輪がこだわるところなく、清らかな心で行なわれますように」という意味である。私も修行時代、托鉢を経験した。網代笠を被り頭陀袋を提げ街を歩き、お金やお米などを頂いた。「三輪清浄」と言う言葉はこの時に理解できたと思う。「法施」とは、仏法を説いて聞かせることであり、僧侶の説教も布施になるのである。「無畏施」とは、人に対して畏れない状態を施すことである。北海道の工場街にある病院での話だが、そこに入院したイギリス人の老婦人は、日本語は上手だがいつも孤独だった。ところがある日、彼女は看護婦に「すみませんが、ベッドを外の見える窓際に移してください」と頼んだ。翌朝、彼女は半身を起こして窓の下の工場へ行き来する人に軽く手を振りながら、微笑みかけたのだった。それに気づいた人達は、思わず顔をほころばせ、手を振り返す人もいた。まったく見ず知らずの人ばかりだが、この挨拶は毎日朝夕続いた。老婦人は同室の人々に「私はここへ入院してから、自分の一生を振り返ってみたの。そうして、人のお世話ばかりなっていて、一度も人のお役に立ったことがない。今からでもいいから、少しでも皆さんのお役に立てることはできないかと考えて、工場へ通う人達に手を振り微笑みかけて励ますことなら、私にもできると気づいたのよ」と話した。彼女はこの後に亡くなったが、それを知った工場では従業員達がサイレンを鳴らし黙祷をして彼女の冥福を祈った。老婦人のこの心こそが「無畏施」であり、人々に安らぎを与えるこの行為が「布施」の心の原点だと考える。三島の龍澤僧堂の師家であられた山本玄峰老師は、「大いに心配をしなさい」、「心痛はいかんぞ。心を痛めるからな。でも、心配とは心を配ることだから千々に砕いて配らなくてはならない」と言われた。布施の心、是非実践したいものである。

■知足
「禅宗の修行は、天地とわれと同根どうこん、万物とわれと同一体となるための修行じゃ!」
……録音とは実にありがたいものです。昭和の名僧・山本玄峰老師が、五十年以上前に修行道場で雲水を導くために示された「提唱ていしょう」の一部が今に伝えられています。全身全霊、気迫をふりしぼっての絶唱からは、何としてでも雲水の修行を成就させたいという強い願いと、どこまでも大きな慈悲心が伝わってきて、半世紀を隔てた今の私の魂をも激しく揺さぶるのです。このテープの中に、こんな一節があります。「人間、始まりは実にいいものじゃった。ところが智慧の動物に生まれたものじゃから……物を利用して何から何まで一切自由に活かして使っていく智慧がある代わりに、人間ほど悪いことをする動物もない」。このテープを聞きながら、ふと「共命ぐみょうの鳥」という仏教説話を思い出しました。古いインドのお話です。その鳥は、一つの身に人間の顔を二つ持つという不思議な姿をしていました。たくさんの共命鳥が暮らす中、とりわけ声も姿も美しい一羽の共命鳥がいたそうです。それぞれの顔がひときわ美しいことから、ある時お互いに「自分こそ最も美しい」というこだわりが生まれて喧嘩になりました。やがて一方が「相手を殺せば自分が一番になれる」という企みを思いつき、とうとう毒を盛って殺してしまうのです。「これで自分がいちばん!」と喜んだのも束の間、毒は自分の頭にまで回り、命を落としてしまうというお話です。「何と愚かな……」と、この共命鳥の浅はかさを笑うことが果たして私たちにできるでしょうか。私たちは時として、自分の都合ばかりに目がいき、それを優先させようとして、他人を傷つけてしまうことがあります。傷つける相手は人間ばかりではありません。自然界のあまたの生き物や環境を破壊します。まさに「人間ほど悪いことをする動物はない」のです。東日本大震災から一年。震災による原発事故の影響で、自然界の多くの命がおびやかされています。そして未だに汚染された地域の自然がよみがえるめどは立っていません。私たちは自然界の一部であり、自然は私たちと同体です。すべての命はつながっていて、お互いに生かし生かされています。それなのに私たちは、まさに自らの体に毒を盛る愚をおかしてしまったのです。こんな私たちに何ができるのか。これ以上毒が回らないようにするにはどうしたらいのか。何から始めたらいいのか。昨年、臨済宗妙心寺派では原子力発電に頼らない社会の実現をめざし、お釈迦さまの教えである「知足ちそく」(足るを知る)をスローガンとして、節電・節水・節油など、私たちにできる活動を呼びかけ始めました。利便性や経済性のみを追求することなく、安心して自然界の多くの生命と共生できる持続可能な社会作りのために。あなたもぜひ、自分にできる小さな活動から、始めてみてはいかがでしょう。

■一期一会 −もう一人の調えられた本当の自分に出会うために−
三月は学校ならば卒業式、会社ならば人事異動や退職など、別れが多い時期です。別れと出会いを繰り返す私たちにとって、その意味にうなずけるもっともよく知られている禅語の一つに「一期一会」があります。この言葉は茶聖千利休の弟子、山上宗二の「一期に一度の会」が由来になっています。茶の湯における茶会は、庭や茶室、床の間の掛軸、活ける花、香や茶道具、亭主、客人のすべてが全く同じでもそれぞれが一回それきりと考えます。そのひと時、その場を同じくする茶会は二度とないため、すべてにおいて丹精を尽くします。禅においても一番のよりどころ確かなものは、過去という“かつて”でもなく、未来という“これから”でもない「即今いま、此処ここ、自己じぶん」であるといいます。二度と戻ってこないこの時間を一瞬一刹那として大事にして、その空間の感覚を研ぎ澄まして切に生きるということを心がけたいものです。さらに、「一期一会」にはもっと深い意味があるそうです。大大大先輩であり、百一才で遷化せんげ(高僧の死去)された松原泰道師(元龍源寺住職)のお言葉に出会いました(言葉に出会うのも一期一会です)。
絶体絶命に追い詰められた時、自分を救うのは、もう一人の自分
自分の心の中に潜んでいるもう一人の自分に出会うことが、一期一会の深い味わい方であるそうです。昨今、先行き不透明で何かと信じられない、時として心が折れそうになり窮してしまうことが多い時代です。そういう状況の中で、自ら命を断つ方が日本国内で十四年連続年間三万人を超えているという統計がでています。大変深刻な現代における問題です。ウーッとなった時、どうしようもなく苦しくて思いつめて行き詰まった時などに、もう一人の調えられた自分に出会うことが肝要です。調えられた自分に出会うためには、身体と呼吸と心が乱れていては遭遇できません。急がず、立ち止まり、一呼吸して、「ちょっとまてよ」という落ち着いた冷静な自分が正しい判断をしてくれます。「一期一会」の縁を大切にすることと併せて、静かに坐り、もう一人の本当の自分に出会ってみませんか。  
 

 

■ヤマモモの伝
方広寺(臨済宗方広寺派の本山・浜松市北区引佐町奥山)では、4月22日に末寺の住職方による荘厳な行事(開山忌)が執り行なわれます。毎年開山ご真前には、朱に染めたピンポン玉くらいの饅頭に「ヤマモモ」の枝を手折って添えたものをお供えするのが慣わしになっているのです。ある時、その係りになっている僧が、「何故こんなことをするのだろう。この饅頭の意味がわからない」と。時は2001年4月12日、方広寺として初めて開山禅師(後醍醐帝の皇子・無文元選禅師)のご修行の寺(中国福建省・高仰山大覚妙智寺)を訪れました。その歓迎ぶりは破格のものでした。テーブルの上には色とりどりの果物が所狭しと並んでいます。その中にまさしくピンポン玉にも引けをとらないヤマモモの実が盛ってあったのです。そして思わず叫んでしまったのです。「これだ!」と。胸の奥から込み上げてくる感動と同時に、今までの心のモヤモヤが払拭されました。「眼から鱗」とは正にこのことです。異国での血のにじむようなご修行より六百五十有余年の時を経て、今その供物の意味が実証されたのです。開山禅師は果物でも特にこの地で採れたヤマモモをこよなく愛したのでしょう。その朱饅頭が途切れずに口伝として伝わってきたそのことが尊いことなのです。今年もまた開山忌がやってまいります。禅師のご恩に報いるため、精進努力を誓うべく、朱饅頭にヤマモモの枝を添えて……。

■人生に花を咲かせる方法
桜の木を割って見ても、そこに桜の花はありません。花が咲く根拠は何か、なぜピンクの花びらなのか、その科学的な説明はお釈迦さまでも難しいでしょう。しかしこの和歌からは、「すべてには原因があって結果がある」という、お釈迦さまの教えを学ぶことができます。現在見聞きするすべての現象は、そのようになる原因があったのです。桜の花を咲かせるのは、春がもたらす気温の上昇です。人生に花を咲かせるのは、人間性、社会性の向上になりましょう。良い種まき(原因)をすれば、良い実(結果)が得られます。小説家の吉川英治氏は、「我以外みな我が師なり」と言われ、常に正しい自分のあり方を学ぶ姿勢を持たれました。どうすれば自分もみんなも幸せに暮らせるのか、一人ひとりが正しい方向性(原因)を追求したいものです。東日本大震災では、言葉に表現できないほど甚大な被害を受けてしまいました。二度とこのような悲劇が起きないよう、対策を講じなければなりません。今なおつらい思いをしておられる方々のために、私たちがどのような行動を取ったら良いのか、これも一人ひとりが考えて一歩前へ進む行動が必要です。私は以前、ご本山と岐阜の教区で3つの役職を受けていたため、毎日のように午前零時まで仕事をしていました。今から思えば、そんな生活を半年程過ごした頃、ウツ病になっていたと思います。自分ではそれほど負担に感じていませんでしたが、あたかも低温火傷のように脳が傷付いてしまったのです。何となく気分がすぐれないまま過ごし、やがて死を恐れなくなっていました。多くの人々が自死されてしまう現状を、少し垣間見たように思います。やはり無理をしてはいけませんね。無理とは「ことわりがない」と書きます。正しい方向性から、はずれて行動していることを示唆しています。無理をしなければならない立場の方もあるでしょうが、「無理をしている」という自覚があれば、桜の木を割らなくても、その中に桜花を観ることができるでしょう。過ごしやすい季節となり、お花見に出かけられる方もあると思います。気分の高揚は大変結構ですが、お酒の飲み過ぎは禁物です。車の方はスピードの出し過ぎなど無理のないよう、大切な生命を守っていただきたいものです。お花見に出かけられない方も、身体と呼吸を調えて良い結果が続くよう、人生の花が咲き続くよう、自身の内側を覗いていただければ有り難く存じます。

■見えない楔(くさび)
大学の秋入学が脚光を浴びていますが、依然として多くの人が新生活を始める4月。昨年春の出来事を思うと、何ものにも代え難い、決意と感謝の新年度を迎えた方も多いと存じます。先月、岐阜東教区へ巡教に伺った際、太多線の車窓から見える街並に「ここを托鉢で歩いたなあ」と、道場で修行していた頃を思い出していました。私を励まそうと、ある先輩雲水がしてくれた話と一緒に......。托鉢の日、一人の雲水が「ホォーッ」と声を出しながらある呉服屋の前に立った。なかなか出て来ない。立ち去りかけたら、玄関が開いた。「バサーッ」出てきたのは桶の水であった。濡れたままその雲水は深々と合掌礼拝して去った。また別の日、同じ雲水が呉服屋へ来た。今度は塩を投げられる。そんな調子で無視や罵倒など、拒絶の連続であったが、雲水は呉服屋へ足を運ぶのを止めなかった。双方の根比べがしばらく続いた。そして、ついに呉服屋の主人が雲水に問う。「わからんのか。うちにはもう来なくていい。そうまでして来るのはいったい、どういうことだ」と。何をされても唯黙って合掌礼拝して去っていた雲水が一言こういった。「逆縁(※1)もまた、縁ですから」この言葉に主人は一変した。この雲水の着物や足袋等、すべてお世話した。同じ道場の他の雲水にも同様に。そしてこの雲水が修行を仕上げ、老師様として然るお寺へ入られても、和装の設えや繕いなど自身が仕事を辞めるまでそれを続けたそうである。皆さん、楔(くさび)をご存じですね。X字形、または三角形の木片(金属片)で、相反する用途、目的をもっています。一つ隙間に打ち込み「物を割る」用途。もう一つは、物同士が離れぬよう圧迫し「接合部を強固にする」目的で使われます。分割と接合。一見正反対ですが、物を割るほど強く食い込む力があるからくっつき、離れぬほど密着するから、物を押し広げて割ることができます。別々に思われた用途は実はもう一方の性質で支えられ、繋がっていることに気づきます。「縁」もこの楔と似ていると思うのです。我々は悲しく辛い縁は拒み、善縁はないかいつも遠くを探しがちです。しかし、自らが心を二分するような別離の痛みに接して、はじめて他人様に寄り添って生活でき、自らも他を支え敬う謙虚さをもって、反対に支えられる有り難さを実感できます。苦楽は別々でなく表裏一体です。楔が接する箇所がないと利かぬように、人は理想の実現にやはり手掛りが要ります。その手掛りが私達の足元、その「今自らが接するご縁」なのではないでしょうか。禅宗の初祖達磨大師は「縁に随って行ずる(※2)」という実践行を示されました。喜悲に動ぜず、一度いまの環境や人間関係のご縁とぴったり一つになって行動してみるのもいかがでしょうか。あなたにとって苦手な人や境遇の中にも、道を切り開き、信頼をつなぐ「見えない楔」が潜んでいるかもしれません。※1逆縁・・・仏法を素直に信じない(縁に背く)こと。修行を妨げる因縁。仏を誹謗することがかえって菩薩の化益を蒙り、仏道に入る因縁となること。※2 随縁行:生活の中での四つの実践法の第二。達磨の事績言行をまとめた『二入四行論』にある。

■手間をかける
新緑が芽吹き、新茶の最盛期を迎えました。私が小学生であった30年程前、この時期になりますと、私どものお寺から小学校までの通学路は、新茶を揉む香りと、茶工場の機械の音が鳴り響いていました。しかし、近年では、町内で動いている茶工場はほとんど無くなり、お茶の香りも機械の音も、ほとんど感じられなくなってしまいました。自分たちでも、お茶を急須から入れる機会が少なくなりました。簡単にペットボトルなどに入ったお茶を購入することができるようになったからでしょう。 さて、豊臣秀吉に以下のお話があります。秀吉が鷹狩りを行ない、近くのお寺に立ち寄られ、お茶を所望しました。するとそこのお寺の小僧は、まず大きな茶碗で、七・八分目ほどのお茶をぬるま湯でお出しします。秀吉は、これを一気に飲み干し、お代わりをくれないかと頼まれます。すると、その小僧は、少し熱めにして、量は湯飲み半分以下にして、お出しします。すると、秀吉はこれも飲み干し、さらにもう一杯所望しました。そこで、その小僧は、小さな茶碗を用意し量を少なくして、先ほどよりもさらに熱くしたお茶をお出しします。このもてなしに深く感心された秀吉は、その小僧を連れて帰り家臣としました。その小僧こそ、後に五奉行の一人となる石田三成です。一杯目は、喉の渇きを潤すことに重点を置き、一気に飲んでもやけどしないようにとぬるま湯でお出しする。二杯目は、喉の渇きは潤されたので、落ち着いて本来のお茶の味を堪能できるように、少し熱めのお茶を先ほどより量を少なめにしてお出しする。三杯目は、心も喉も潤されたので、量もさらに少なくし、締めの一杯として熱めにお出しする。それら三杯には、お湯の温度の低い順から味わえる、甘さ、渋さ、苦さという点でも、もてなしたのではないでしょうか。現在、市販されているお茶の種類も様々です。色々な美味しさを味わうことができます。そして、人々は手間を惜しむ傾向にあります。しかし、急須から入れたお茶には、香り、味などの点で適いません。手間をかける分だけ、心をこめることになり、香りと味が合わさって心を和ましてくれるはずです。この時期だからこそ味わえる自然の恵みを、手間と時間をかけて、五感で味わってみませんか。

■鯉のぼりに思う 闇より光におもむく人になる
風薫る若葉の季節。この時期になると、鯉のぼりが風をいっぱいはらんで、空高く金鱗溌剌として泳いでいるのを目にします。この鯉のぼりには、鯉が龍になる伝説があるのをご存じでしょうか。中国は太古の昔、黄河の氾濫をしずめるために建設された、龍門山三段の滝には、毎年春になると、魚たちが黄河をさかのぼり群集し、競って瀑布を登ろうとしました。そのなかで登り切ることの出来た鯉が、龍になり天に昇っていきました。日本では、いつのころからか端午の節句に、神獣と称される龍のように強く育って欲しいという願いから、鯉のぼりがたてられるようになったそうです。龍といえば、昨年、ブータン国王夫婦が福島県相馬市の桜丘小学校を訪問し、生徒たちに龍の話をされました。「私たちひとり一人には、龍がすんでいて、その龍は自分の経験によって大きく強くなります。自分の龍を鍛錬し、感情をコントロールすることが大切です。人はどんな経験も糧にして強くなることができます」。 自分の中の龍とは、もう一人の自己のことで、心静かに自分と向き合うとき、この自己が見えてます。鈴木大拙博士の『禅と精神分析』という著書のに、次のような言葉があります。「ひとり静かに坐って自己の存在の深淵に沈潜するような時、……そこに何物か動くものがある。それが静かに低く低く語りかけてくる。お前のこうして生きているのは決して無駄ではないのだよ、と。……一度じっくりと真剣に自己の内面に向ってかえりみるがよい。すると自分はひとりぼっちでも、棄てられた者でも、天涯孤独でもない。かえって内面の領域には威風堂々たるただ一人の風光が厳然と存在し……」。病気や事故など予期せぬことに遭遇したとき、私たちは、心が乱れ、他に拠り所を求めてしまいがちですが、助言を得ることはできても解決の道にはいたらないのではないでしょうか。この威風堂々たる自己こそが拠り所であり、このものをおいて他に拠り所を求めるべきではありません。この世には四種類の人々がある、という釈尊のお言葉が「雑阿含経」にあります。
一つには、闇から闇にさ迷う人である。
二つには、闇より光におもむく人である。
三つには、光より闇にむかう人である。
四つには、光より光に進む人である。
闇も光も、実は自分の心であります。損得に迷い、思いが定まらない闇の自己。道理をわきまえ、迷いが吹っ切れた光の自己。どのように生きていくかは、私たちひとり一人が決めていくことです。自分の中にすんでいる龍を大きく強くして、思わぬ出来事に遭遇しても、苦難を乗り越えることのできる自分になりたいものです。

■ある朝の出来事
私が副住職をさせていただいておりますお寺の近所に、数年ほど前、一軒の“葬祭会館”ができました。最近では様々な事情でお寺の本堂で営まれる葬儀も少なくなり、地域全体を見回しても“葬祭会館”を利用するお寺がかなり増えたようです。この近所にできた“葬祭会館”、ある幼稚園の送迎バスの停留所になっているのです。毎朝午前9時すぎには火葬場へ向かう霊柩車やマイクロバスが駐車場に溢れるのですが、その中にいつも一台の幼稚園の送迎バスが並んでいるのです。喪服を着たご遺族様に混ざって、お母様方と手をつないだ多くの園児たちの姿がそこにはあるのです。言葉はあまり良くないのですが、ある種異様な光景です。もう何年も前からこの会館を利用させていただいているのですが、先日この会館の二階の控え室から表を眺めておりましたら、ちょうど火葬場へバスが出発するところで、合図のクラクションが鳴り響いておりました。その時、私は思いがけない光景を目にしたのです。幼い園児たちが火葬場へと出発する霊柩車とバスに向かって手を合わせているのです。私は一瞬、自分の目を信じることができませんでした。その日はたまたま居合わせたお孫さんを送りに来ていらっしゃる初老の女性とお話をすることができました。「“縁起が悪い”とか、“怖い”と多くのお母様方はおっしゃいますけどね、子供たちは毎年毎年みんないつの間にか自然と手を合わせる様になるんですよ」。そう彼女は私に教えてくれたのでした。毎朝一生懸命その小さなお手々を合わせる子どもたち、純粋な、素直なその気持ちをいつまでもなくさないように、我々大人も忘れかけているであろう純粋な素直なその気持ちを思い出し、そしてこのまだ幼いこの子たちをしっかりと見守っていかなければならないのだなと実感した、ある朝の出来事でした。

■インド仏跡巡礼
念願の天竺参りの機を得たる 僧我は仏のみ弟子なりけり 経をよみ礼拝の後座  禅組む今朝の幸せ釈迦成道の地で
お釈迦さまの後を慕って巡拝の旅をする機会に恵まれた時のこと。「現代禅」の牽引役者松原哲明師の呼びかけで集まった面々を見ると、三十代から四十代がほとんど。ついて行けるかどうか、かなりの不安を抱きながらも、八大聖地で経を読んで坐禅をするという目的の巡礼の旅は滅多にないので、仲間に入れていただくことにした。勿論、最も気をつかったのは体調の保持。(1)睡眠を十分に。(2)腹六分。(3)アルコールをセーブする。この三つを守ったおかげで、私が意外に元気だと多くの人が言ってくれた。今からおよそ2500年前、お釈迦さまがされた説法を、お経という形式で読んでいるのだという時間が改めて湧いてきて、目頭が熱くなるのを禁じ得なかった。たまたま韓国の観光客に出会った。彼等は、塔に向かって礼拝していた。額が地面につくまで丁寧に。これを見ながら「六方礼経(ろっぽうらいぎょう)」という短いお経を思い出した。その内容は次の通りである。」
ある早朝、お釈迦さまが托鉢にでると、ある家で一人の若者が顔を洗っているのが目に入った。その若者は顔を洗った後、東の方を向いて拝み、南の方を向いて拝む。次に西を向いて拝み北を向いて拝む。更に上を向いて拝み下を向いて拝んだ。お釈迦さまは側に近づいて若者に尋ねた。
「お前は毎朝そうして拝むのか」。「はい、毎朝こうして拝みます」。「東は誰を拝むのだ」。「わかりません」。「南は誰を、西北上下、どなたを拝むのだ」。「わかりません。親から聞いた通りにしています」。「そうか、それは残念。意味を知らないではつまらない。私がその意味を教えてあげよう。東を向いて拝む時は、自分を生んで育ててくれた両親のご恩を思って『ありがとうございます』と拝みなさい。西を向いて拝む時は、妻(夫)や子の恩を思って『ありがとう』と感謝するがよい。南を向いて拝む時は、学校の先生や習い事の先生など、教えてくれたすべての先生に感謝しなさい。北を向いて拝む時は、幼い頃からの友達や、職場や近所の友達のご恩を思って感謝しなさい。上を向いて拝む時は、神・仏の正しい道や倫理・道徳の正しい方向を教えてくれた人達に感謝しなさい。下を向いて拝む時は、目立たないけれど汗水たらして働いている人に『ご苦労様です』と感謝しなさい」。
これが「六法礼経」のあらすじである。インドの仏跡で坐禅しながら、お釈迦様の教えは徹底した人間尊重の教えだと改めて感じた。
釈尊の 初天法輪の丘に立ち 見上ぐるストーパ 輝きて見ゆ

■心ゆるやかに
昨年3月11日に発生しました“東日本大震災”。それを受けまして、岡山県内の臨済宗妙心寺派の僧侶も「何かひとつでもできることはないか」と思案致しましたところ、「義援托鉢を岡山県内で行ないたい」との提案がなされました。そこで、岡山県内臨済宗妙心寺派の有志和尚様方を募って、これまで月一回「東日本大震災義援托鉢」と称して岡山県内各地を托鉢させていただきました。おかげをもちまして、これまで多くの浄財を頂戴し、岡山県内の各市庁舎・新聞社や妙心寺に設置された義援金受付を通じて被災地へお届けさせていただくことができました。こうして托鉢させていただきますと、数々の出会いがありました。途中の休憩場所で色々な心細やかなお接待をしてくださった方、もったいなくもこちらに手を合わせて拝んでくださった方、元気のいい挨拶をしてくださる学生さん方。また、普段見慣れていると思っていた岡山県内の風景も、歩いて見ると「こんなところにお地蔵さんがある」、「この丘から見る風景は見晴らしがよくて気持ちいい」、「川のせせらぎの音や通り抜ける風が心地いい」といった出会いもありました。托鉢は、もちろん被災地に義援金を送らせていただくためにしていることですが、それと同時に私自身もこの貴重な出会いという“宝物”を沢山いただけたように思います。最近はすべての物事において「速い」、「効率のよい」ものが最優先され優遇される時代です。様々な情報の伝達速度・パソコンやスマートフォンの起動速度・バスや電車の移動時間・外食時の料理の待ち時間等々、周囲を見渡せば数限りなくあります。そういう中で生活している私達は逆に心休めることが難しくなってきているようにも感じます。パソコンやスマートフォンの不具合でイライラ、赤信号や予定到着時刻の遅れでイライラ、注文した料理が出てこなくてイライラ……、なかなか心休まるときがありません。私達人間一人一人に与えられた時間は、どれだけ急いでも効率をよくしてみても「一日24時間」、「一年365日」です。しかしいつの間にか「一日を少しでも多く自分のためだけに使いたい」、「一年を400日に感じられるように人生を充実させたい」といった思考回路に自分では気づかないうちに陥っているのではないでしょうか。托鉢は徒歩でゆっくりと時間をかけて一軒一軒まわっていきます。そうしますと、先程ご紹介したような素晴らしい出会いが沢山ありました。この急ぎ過ぎる現代社会だからこそ、ゆっくりと時間をかけること、焦らずに立ち止まってみることで見えてくるもの、感じられるものを忘れずに大切にしたいと、この托鉢を通じて私自身あらためて教えられました。

■わだかまりのない心で
金澤翔子さんという書家をご存知でしょうか。近年、マスコミ等でも多く取り上げられている方です。彼女は現在27歳。ダウン症というハンデを抱えながらも幼い頃よりお母様に書道の手ほどきを受けられ、書家として活躍をされています。小柄な彼女ですが、ひとたび筆を持たれますと驚くほど力強く、躍動感に溢れた作品を書かれます。建仁寺にも3年前に「風神雷神」の書を奉納して下さり、そのご縁で毎年個展を開いて頂いています。そんな翔子さんの作品の中に般若心経の一節「心無罣礙(しんむけげ)」から取った「無罣礙」という書があります。「罣礙」は「さえぎる、さまたげる」という意味ですから、「心に罣礙が無い」とは「心にわだかまりが一切ない」という境地をさします。彼女はまさしくそんなお心を持った方です。どの作品を見ても、線に一切の迷いや雑念はなく、自由で大らかに書き上げられています。また彼女は誰に対しても分け隔てなく慈愛に満ちた笑顔で接しておられ、その屈託のない笑顔には何のわだかまりもない清浄な仏の心が表われているかのようです。それに対して、日常の私たちの心はどうでしょうか。いつの間にか自己の中に芽生えた「自我」によって、あらゆるものを偏見で判断してはいないでしょうか。この偏見の事を「分別心(ふんべつしん)」といいます。これによって私たちは「好き・嫌い」「可愛い・憎い」などの二元対立の心を持ち、知らず知らずのうちに物事を選り好みしているのです。この「分別」という言葉は一般的には「物事の是非、道理をわきまえる」といったよい意味で使われていますが、仏教においては迷いや苦しみを生み出す原因とされているのです。現代社会においては人間関係での悩みを持たれている方も多いと思いますが、これも自らの分別心により人を判断し、優劣をつけてしまっていることが原因です。江戸時代の禅僧である良寛禅師は
いかなるが苦しきものと問うならば、人を隔(へだ)つる心と答えよ
という詩を残されています。「どのような事がつらいものであるかと人に聞かれたら、人を分け隔てて遠ざける心であると答えなさい」という意味です。とにかく人を差別することなく、心を一つにもって選り好みをしない事が肝要であり、それが良い人間関係をつくっていく上での基本となるのです。私たちは日々の中で次々と生まれてくるこの分別心をできるだけ取り去り、物事をありのままに受け入れていく事ができれば、人間誰しもが本来持っている清浄でわだかまりのない心を取り戻すことができるのです。そしてこれによって毎日心穏やかに過ごすことができ、人生がより豊かなものになってくるはずです。皆さんも建仁寺にお越しいただき、翔子さんの清浄な心が溢れた書を是非ご覧ください。

■御天道様が見てござる
先月の21日、多くの人の心を躍らせたのは金環日食です。今回のように日本列島の広範囲で見られたのは、なんと932年ぶりのことだそうです。新聞やテレビで、日食を見る時には目を傷めるので必ず専用のグラスで見るように……と注意を促していました。あわてて専用グラスを買いに行きましたが、どこのお店も売り切れで残念ながら手に入れることはできませんでした。当日、日食の時間になって外に出てみると、太陽が照り、絶好の観測日和です。一瞬太陽を見てみますが、まぶしいだけで何も見えません。あきらめて部屋に戻りテレビをつけると、美しい金環日食が映し出されていました。映像とはいえ、とても感動しました。今から三十年ほど前、夏目雅子さんが三蔵法師に扮した『西遊記』という番組が放映されておりました。その中のシーンで日食の日に三蔵法師が妖怪に捕らわれ、火あぶりにされる寸前に呪文を唱えると、太陽が欠け始め、段々と暗くなっていくシーンがありました。あわてた妖怪たちが太陽を返してくれと頼むと、三蔵法師がまた呪文を唱えて太陽を元に戻し、無事に助かったという場面を覚えています。不思議な妖術を使うといわれる妖怪にとっても、太陽は操ることのできない偉大な物のようです。太陽のことを別の呼び方で、御天道様(おてんとうさま)と呼びます。頭に御をつけ下には様をつけて、敬い親しんでよぶ呼び方です。子供のころ祖母から、「誰も見てないから悪いことをしても分からないと思っていても、お天道様が見てござるよ」とよく言われました。お天道様は私たちのことをすべてお見通しということでしょう。子供心に、何か神秘的で、そんなこと嘘だろうと思う反面、大変恐ろしい言葉でした。私たちの心にも太陽のような、大きくて、暖かくて、明るく光るものが入っているように思います。その太陽のような心を大いに出して生活をすれば、満足感のある一生が送れることは間違いありません。しかし、皆既日食の時のように何かに隠されて見えなかったり、金環日食のように周りだけが姿を現わしたり、部分日食のように一部分だけが見えたりと様々な日があります。また、日食のように他のものに隠されて見えなくなるだけではなく、自分のエゴに隠されて光を放てない時も多くあるように思います。そんな時はどこにいても「御天道様がみてござる」と戒めることも、満足感のある良き一生を送る近道ではないでしょうか。半信半疑な思いですが、本当にお天道様は何もかもお見通しかもしれませんよ!  
 

 

■震災避難所として
昨年の7月4日、東日本大震災で寺に避難していた人たちが仮設住宅へ引っ越していきました。あの日、大津波警報と共に着の身着のままで市の指定避難所である寺に避難してきて、その後大津波で、すべてを流されてしまい、帰りたくても帰るところのない人たちです。その人たちと4カ月間、寝食を共にしているうちに「家族」になっていて、出て行かれた時の淋しかったことを今でも忘れることができません。その淋しい思いから、皆さんはお世話になりましたと出て行かれたけれど、お世話になっていたのは、こちらだったということが判ったのです。元気いっぱいの子どもたち、いざという時に頼りになった男性たち、賄い一切を切り盛りしてくれた女性たち。自然に各々が役割分担して、兎も角この難局を乗り越えようと必死でした。おかげさまで沢山の支援を頂き、全員が救急車を呼ぶこともなく無事に仮設住宅へ引っ越してくれたことに安堵しました。仮設住宅へ移ってからも、数人の男性たちが、現在も欠かすことなく、震災後に建てた「やすらぎの家」という建物に集まり自分たちでお湯を沸かし、コーヒーを飲み、後に境内の掃き掃除をしてくれ仮設住宅へ帰っていきます。あまり無理しなくてもいいからと言うと「朝、海を見ないと落ち着かないから」、「ここに来ないと一日が始まらない」の言葉に有難さでいっぱいになるのです。この仮設住宅に住む人たちが安住の地に住めるまでは、まだ時間がかかると思いますが、こうやって寺がやすらぎの場になっていることが有難く、寺に避難していた人たちは「お寺は私たちの実家」と言ってくれ、玄関で「ただいまぁ」と訪れ「お帰り」と迎えます。遊ぶ場所もない子どもたち。境内で思いきり遊び、また仮設住宅へ帰っていきました。

■今、ここ、この私
死刑囚は、刑執行の当日朝7時にその事実を告げられるそうです。終身刑の受刑者は文字通り“終身”、残りの人生を所謂“塀の中”で過ごすのですが、所内での規則正しく忙しい毎日の生活の時間の流れは比較的ゆっくりと感じるそうです。しかし死刑囚はと申しますと、言ってみれば“明日”がないのです。“明日がある”と誰もが思っている、その“明日”がある日突然なくなるのです。ですから、「今日やり残した事はなかったか、今日を精一杯生き抜いたか」と常に自問自答し、誰に教わる訳でもなく“今、ここ、この私”に真剣に向かい合うようになれるそうです。人間はいつか死にます。絶対にいつか必ずこの世を去ります。ですが我々は、「自分はまだ死なないよ。後30年くらいは生きて……」と、自分に降り掛かる都合の悪いことは先延ばし……。昨年の3月11日午後2時46分17秒までは……。我々は一秒先の“生”に対してさえ、何の確約もないまま日々生活をしているにもかかわらず、“なるべく考えたくない”と多くの方々が思っているのもまた事実です。“先”のことを計画するのは大切なことです。“過去”のことを反省することも大切なことです。“今”にきちんと向き合うことも我々には必要だと思います。しかし、毎日毎日朝から晩まで”一秒先”のことを気にしていたら気が滅入ってしまいます。時々深呼吸して、ちょっとリフレッシュする時間が持てればいいですね。

■夏風邪と縁起
皆さま、暑い日々が続いていますが、体調を崩しておられないでしょうか。恥ずかしながら私は、先日突然高熱が出て、十日間程熱が下がらないということがありました。色々な病院で診て戴いたのですが、お医者様は、「うーん夏風邪かな。まあ、大丈夫でしょう」と、仰るばかりで、はっきりした原因は不明でした。原因が分からないと、より不安になります。「原因はなんだろう。なにが悪かったのだろう」と、その時は色々と思い悩みました。「原因があるから結果がある」。この考えを、私たちは日常で当たり前の事として受け入れています。これは、仏教の「縁起(因縁生起しょうき)」という教えに通じます。「縁起」というと、私達は普段、「縁起が良い」というように使いますが、元々の意味は違います。仏教の「縁起」とは、「物事には必ず原因(因)があり、色々な要因(縁)が組み合わさり、結果(果)が、生まれる」というものです。しかし、この「縁起」で重要なことは、「結果には、必ず原因がある。しかし、何が原因なのか、どのような要因が組み合わさっているのか、私達には複雑過ぎて完全には分からない」と、いうことです。一言で言えば、「原因はあるが、私達にはそれが分からないことがある」ということです。原因を追求することはとても大切なことであり、なんとしても究明しようと努力せねばならない時もあります。しかし、原因よりも目の前の結果をしっかりと見つめて対処するべき時もあります。そんな時は、「まず、原因を考えるよりも、今、ここで、自分が、何をすべきか」と、気持ちを切り替えることが大切です。私も、「高熱の原因は何だろう」と、思いを巡らし、不安を募らせていましたが、「あれこれ考えても分からない。まず、今はゆっくり休もう」と、思い直すと、少し心が楽になりました。原因は何だろうと思い悩んだ時、呼吸を整えて静かな時間を過ごし、「分からない事もあるんだ」と、気持ちを切り替え、「今すべきこと」を見つめることは、解決への道の一つではないでしょうか。

■困った時は稾をも掴むか
先日、鎌倉から横浜に向かう途中車のタイヤがパンクした。普段からタイヤに気をかけていなかった事の報いかと、天を仰ぐ気持ちであった。なんとかガソリンスタンドまで辿り着いたものの、タイヤが届くまで1時間以上かかると言われた。遠方の檀家さんとの約束があり、1時間後には空港に着かなければならない時間になっていた。時は刻々と過ぎていき、フライトの時間までとうとう30分を切ってしまった。もう、予定を変更せざるを得ない。檀家さんにお詫びの電話をすることにした。針のむしろに座っている様な気持ちになり、申し訳なさで頭が痛くなりそうだった。皆さんもこのような経験があると思う。人間誰でも予定通りとは行かないものだ。今から830年程前に頼朝は伊豆から挙兵して鎌倉を目指すが、途中石橋山を拠点にしようとして合戦を繰り返した。しかしながら戦えども負け続け、何度も命からがら逃げる様な有様だった。背後の追っ手を振り切り、道案内の土肥実平が箱根の山を抜けて海にたどり着いた時、皆の前で再起を祈って舞い謡った。それを見た頼朝はふさぎ込んでいた心を切り替えて、石橋山を諦めて千葉へ船で逃げ、千葉の介常胤の力を得て再起をはたしたのだった。禅の世界ではよく「窮即変、変即通(窮すれば即ち変ず、変ずれば即ち通ず)」(『易経』)と言われる。絶体絶命の時にこそ心や価値観、行動に変化が出てその場を無事通過することができるということである。私は約束を守らないのが嫌な人間なので、多少の無理はいつもの事なのだが、あの日は限界を超えていた。次の飛行機は2時間後で、それでは遅すぎると判断して行くのを諦めた。当然迷惑をかけた事は謝らねばならないが、タイヤの到着を待って無事帰ることができた。無理をしてスペアタイヤで高速道路を飛ばしていたら、もしかしたらもっと大きな後悔をしたかもしれない。掴んだ藁は、針のむしろの藁だったのかもしれない……と思う出来事だった。あわせて、日頃の人間関係が良好であるからこそ、済われる事が多い事と知った一日でもあった。

■知足の生活は、不便さを感じること
毎年毎年、殺人的といってよい夏がやってくる。地球温暖化が言われるようになってから、余計に暑くなったようだ。私の小学生のころ(約50年前)は、「今日は暑いな!30度を超えているんじゃなかろうか」という会話が交わされていた。夜も蚊帳だけで戸締りもせず開けっ放しで寝ていたものである。涼を求めるのに扇風機があれば御の字であり、もっぱらうちわが主流であった。 井戸水で冷やしたスイカやまくわうり等が夏の食べ物であった。近年、集中豪雨による被害が多発しその規模も広範囲となった。異常気象といわれるが、竜巻による被害など外国での出来事とばかり思っていた。確かに今の気象は、大きく変化したと感じる。夏の最高気温39度などもはや殺人的暑さである。原因として、化石燃料の使用や熱帯雨林の広範囲の伐採、都市のコンクリートによる砂漠化等々いわれる。それは、どれも人間がより豊かで便利で快適な生活を目指したことが原因だと思う。飛行機や車は、移動時間を短縮し、余った時間を他に振り向けたり又他の仕事を同時可能にした。食生活にしても、外国の熱帯雨林を切らせて養殖したものを食べている。エアコンは、暑い寒いを感じることなく快適な暮らしをすることができる。そういうことに反比例するかのように、地球は汚れ傷ついている。まだ50年くらい前は氷河の後退も温暖化ということばさえなかった。経済の発展とともに、それは後戻りを出来ぬようになっている。営利企業は大量生産大量消費をうたい、儲かればいいと思っている。私たちは、もう気付かなければならない。原子力発電の便利な電気は、制御できぬ大きな過ちを犯し郷里に住むことさえ不可能にした。お釈迦さまの教えに「知足」(足ることを知る)というのがある。もっともっとお金が欲しい、もっと美味しいものを、もっと快適に、そういう欲望が次第に瀕死の地球へと向かわせているのである。自分の時代に、資源を使いきってしまうのではなく、今からでも地球の汚れたところをきれいにして次の世代へ譲っていかねばならないと思う。ある程度の不便さを受け入れ、ぜいたくやものの豊かさばかりを求めず、地球や人への思いやりを持つことが「足ることを知る」生活である。

■暑い寒いも生きてる証拠
快川紹喜国師最期の偈に、皆さんもよく御存知の「安禅不必須山水 滅却心頭火自涼(安禅は必ずしも山水を須いず 心頭を滅却すれば火も自ずから涼し)」がありますが、それにひきかえ、八月に入れば蝉のうるさい声に朝の静寂を遮られ、「今日も暑いな......」と毎年繰り返す自分に嫌気のさすところです。先日、今年初めてのつくつく法師の声を聞き、ふと正岡子規の歌を思い出しました。
夕飯や つくつく法師 かしましき
鳴き声によりその名が付いたのでしょうが、別名法師蝉の薄くて透明な美しい羽根は、ちょうど夏袈裟のように涼しげで、「なるほどよくできているな......」と感心し、振り返って日本人の美的センスと思いやりについて考えさせられました。夏になりますと、お茶やお花の先生方が、絽や紗の着物をとても涼しげにお召しになっているのを見かけますが、夏袈裟同様、着ている本人は涼しいのかと言うと、実は暑い限りなのです。しかし見ている相手は涼しいと感じるものであり、"相手を涼しくする"という日本独特の美的共生センスと思いやりが含まれているのではないかと思うわけなのです。暑さ寒さも、わが身一人が避けられれば良いものではなく、「わたくしを忘れて、共に世にあらん」という心に、見た目のみならず根底にある美しさを感じるのではないでしょうか。地獄極楽の食事の時間、同じように長い匙が出てくるといいます。地獄にいる者は、必死になって誰よりも我先にと食べようとしますが、匙が長すぎて口に運ぶ事さえできません。極楽にいる者はというと、隣人にこそ食べさせてあげようと互いに与え合うため、難なく食事を頂いているというお話です。今日の世界においては、弱いとされる立場の者が強い者のために働く事が当然となり、立場的強者といえば、弱者のために働くでもなく、志もなく、他者を無視して自分自身のみの利を求め、共生するという事を知らないように見えます。私は死後の世界に行った事がありませんので、死んだ後の事は解りませんが、少なくとも、今極楽に居ないものが、どうして次に極楽の世になど行けましょうか。土中七年、鳴いては七日。毎年毎年聴いているこの蝉の声を、受け継がれた命いっぱいの声を聞くことができなくなっている事にふと気づいて自己を省みて、日々のあたりまえの事とは、永久不変ではない事、無常であるからこそ有難く尊いのだという事を知り、そこに気づけた時、生きる喜びと勇気が腹の底から湧いてくるような心地がしました。

■心の柱
今年の五月、東京スカイツリーが営業を開始しました。このスカイツリーは634メートルもの高さがあるわけですが、その耐震構造には日本古来から伝わる五重塔の技術が用いられているそうです。これまでに日本の五重塔は、地震による倒壊例がなく、その秘密は「心柱しんちゅう」と呼ばれる建物の中央の柱にあると推察されています。現代の最新技術と伝統的構法が出会い、心柱と外周部の塔体とを構造的に分離することによって免震するという新しい制震システムが用いられて、634メートルという超高層タワーが建築されたのです。この話を知った時に私は一つの禅語が頭に浮かびました。それは「応無所住おうむしょじゅう而生其心にしょうごしん」です。この句は『金剛経』というお経の眼目、つまりは一番大事なところで、お釈迦様が十大弟子の一人である須菩提に人生を軽快に生きるためのコツを説かれた句であり、また中国の名僧である六祖慧能禅師の禅門に入るきっかけとなった句でもあります。「応まさに住する所無くして、その心しんを生ずべし」と読むことができ、「住する」とは心がとらわれること、執着することをいいます。つまり「住するところが無い」とは「心は自由自在に働きながら、それでいて停滞する所が無い」ということです。人間は生きている以上、目で見たもの、耳で聞いたもの、鼻で嗅いだもの、舌で味わうもの、身体で感じるもの、心に思うもの、それらに惑わされてしまうことは仕方の無いことです。かといって何も見ない、何も聞かない、何も思わないでは人生面白くありません。つまり、入ってきた情報を拒絶するのではなく、しっかりと受け止めた上で執着して停滞することの無い様にしなければならないのです。私達の生活に置き換えれば、ご飯を食べる時は一所懸命ご飯を頂き、お茶を飲む時は一所懸命お茶を飲む。働く時は一所懸命働き、休む時は一所懸命休む。笑う時は一所懸命笑い、悲しむ時は一所懸命悲しむ。それでいて執着して次に引きずることの無いよう、前後を截断しなければなりません。東京スカイツリーや五重塔は、地震で揺れても、塔が揺れに任せてうまくきしみ、元に戻り何の跡形も残しません。もし揺れに対して頑なに動かなければ、どこかに無理がきてしまいます。私達も「心の柱」をしっかり持てば、全てのことに柔軟に対応できるはずです。日に新たに、日々に新たに、鶯の初音のように、ありとあらゆるものに感動して、そして何の跡形も残さない。それでこそ自由自在、臨機応変の働きができるのではないでしょうか。そしてこれこそお釈迦様がお示しになられた「応無所住而生其心」の心、人生を軽快に生きるコツではないでしょうか。

■美しい合掌
お彼岸が近くなってきますと、お墓参りの方々が本堂にも上がってお参りして行かれます。私のお寺のご本尊は如意輪観音ですが、多くの檀家さんは「ナンマンダ、ナンマンダ」と手を合わされます。それを見ながら、私は以前に師匠が話してくれたエピソードを思い出し、ちょっと微笑ましい気分になります。その話というのは、師匠がまだ京都の道場で修業中だった頃の出来事です。因みに私たち僧侶は道場での修行中、僧名の下の部分を取って呼び合いますので、私の場合は「圓俊」ですから「俊さん」となります。私の師匠は「石(せき)っさん」と呼ばれていました。その石っさん、ある時、縁故のお寺の行事に出席する老師さまのお供をしておりました。老師さまの荷物をかかえて琵琶湖の近くの田んぼ道を歩いておりますと、畦の脇にお地蔵さんが奉ってあり、その前で一人のお婆さんが一生懸命「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と唱えながら手を合わせています。それを見た石っさん、「おや?」っと思ったわけです。考えてみれば当然ですよね。お地蔵さんと阿弥陀さんは違います。山田さんに向かって、「ああ小林さん、小林さん、有り難たや〜」なんて言っているようなものですから。それで石っさん、老師さまにこう申しあげました。「あのう、老師、あのお婆さん、お地蔵さんに向かって『南無阿弥陀仏』と唱えているので、ちょっと行ってそれはお地蔵さんだから『南無地蔵願王菩薩』と唱えるか、または『オンカーカーカビサンマーエイソワカ』と御真言を唱えるのだよ、と教えてあげようかと思うのですが……」 そう言う石っさんの頭を老師さまはポカリ、と一発。「ばかもの!お前さんには、あのお婆さんが一心に合掌し拝んでいる、あの姿の美しさが目に入らないのか!ナンマンダでもアーメンでもソーメンでも、そんな事はどうでもよいのじゃ!この頭でっかちめ!」 そう言われたということです。心から手を合わせる時、もはや呼称もお題目も突き抜けてその想いは達している。ということでしょうか。我々の「宗門安心章」には、「至心に合掌して、篤く三宝を敬うべし」とあります。元は華厳経の一節ということですが、仏法僧の三宝を敬う基本的態度が合掌である。ということです。実際私たち僧侶の生活からしてそうですが、一日が合掌に始まって合掌に終る。そして合掌は世界中どんな国のどんな宗派の仏教にも共通したポーズです。そして確かに、尊敬できる和尚方の合掌はことごとく美しく感じるものです。「石っさん」時代の師匠の轍を踏まぬよう、私は、檀家さんがうちのご本尊に手を合わせて、ナムアミダブツ、ナムアミダブツとお唱えしても、「それは阿弥陀さんじゃないよ」とは言いません。もちろん機会があればその場に応じて「南無観世音菩薩」「南無釈迦牟尼佛」とか三帰戒の「南無帰依佛、南無帰依法、南無帰依僧」を唱えてみたらどうですか、とお話します。ともあれ要はその合掌が至心に行われているか、すなわち真心がこもっているかどうか、そういうことだと思います。至心に合掌する姿は美しい。私は先ほどの師匠のエピソードを思い出すたびに、それでは自分の合掌する姿は美しく見えているだろうか?とわが身を振り返るのです。

■知足
「知足の人は地上に臥(ふ)すと雖(いえど)も、なお安楽なりとす。不知足の者は、天堂に処(しょ)すと雖も亦意(またこころ)に称(かな)わず。不知足の者は、富めりと雖も而も貧し。」『仏遺教経(ぶつゆいきょうぎょう)』 足るを知る者は地べたに寝るような生活であっても幸せを実感できるが、 足るを知らない者は、天にある宮殿のような所に住んでいても満足できない。 足ることを知らない者はいくら裕福であっても心は貧しい。お彼岸をすぎると今までの暑さが嘘だったように爽やかな晴天が続きます。今年の夏は例年にない猛暑が続き、「節電」の掛け声もかしましく、一層暑苦しさを感じる夏でした。そんななか、私たちはあらためて「知足」という言葉の意味を考えさせられました。各家庭にクーラーが普及し始めたのはそれほど昔のことではありません。しかし今ではクーラーのない生活は考えられないほどに普及しています。そしてその設定温度に気をもむようになりました。より涼しくとの欲望が知らぬまに私たちを支配してしまっています。この世で、私たちは『もっと、もっと』と物理的・現世的な功利を求めて奔走するようになってしまってはいないでしょうか。江戸時代末期の歌人に橘曙覧(たちばな・あけみ 1812〜1868)という人がいます。彼は貧乏な暮らしの中で何一つ不平を言わずに家族愛に満ちた人生を実践した人です。その『独楽吟』52首のなかに、
たのしみは草のいほりの筵(むしろ)敷(しき)ひとりこゝろを静めをるとき
という歌があります。これこそ先にあげた『遺教経』の精神を体現した生き方でしょう。知足とは「あるものでがまんする」という意味ではなく「そこにある物の中に積極的に喜びを見いだす」という生き方でしょう。言ってみれば「知楽」楽しみを知る生活こそが「足るを知る者は富む」との本意でしょう。『独楽吟』には他に
たのしみは客人(まらうど)えたる折しもあれ瓢(ひさご)に酒のありあへる時
という歌もあります。秋の夜長、客人と清談するのも楽しみを見つけるよい方法のようです。

■宝石となった石ころ
だいぶ秋も深まって参りました。田んぼの稲穂も頭を垂れて、ちょうど今が刈り入れ時です。私が修行をさせて頂きました修行道場では、十月下旬に一週間の遠鉢(泊りがけで遠方まで托鉢に出ること)に出かけます。托鉢に出ると色々な物を頂きます。一円玉をインスタントコーヒーの空き瓶一杯に貯めたものや採れたての野菜を抱えきれないほど頂いたり、ときには日本酒の一升瓶を頂くということもありました。禅語に“三八九を明らめずんば境に対して所思多し”という言葉があります。自らの心を明らめる(調える)ことができなければ、煩悩の絶え間がないという意味です。禅の修行道場では1と6(或いは3と8)の付く日というように、定まった日に托鉢に出ます。あるとき托鉢に出ると、まだ幼いお孫さんの手を引いたお年寄りと出会いました。お年寄りは「お賽銭です」と言いながら小銭を差し出し、掌を合わせます。それを見ていたお孫さんも足下に転がっていた石ころを拾って、見よう見まねで同じように差し出し、掌を合わせます。私も合掌をして、素直に石ころを受け入れました。そこには何の悪意もなく、また不服もありません。ただお互いに合掌し、有難うという心があるのみです。子供は大人の真似をしながら成長していきます。大人がお米やお金を布施する姿を見て、何かをお坊さんにあげてみたくなる。これが仏心の芽生えとも言えるのではないでしょうか。そして、互いに合掌をして受け渡された石ころ自体もただの石ころではなく、仏の教えがしみこんだ宝石となります。「お年寄りに十円もらって有難う、子供らに石ころもらって有難う」という“貪りを離れた心”がお釈迦様と同じ心であり、布施する側も“執着する心”を離れる仏道修行となります。富に執着し、名誉利欲に執着し、悦楽に執着し、自分自身に執着することから苦しみ悩みが生まれます。結局は私たちの心から苦悩が生まれてくるのであり、悟りもまた私たちの心から生まれてくるのです。自分自身で心を調え、明らめていくことにより、実り多き人生を歩んでいくことができるでしょう。収穫前の稲穂を見ながら、我が身を省みる日々であります。  
 

 

■11月の絆
11月ともなりますと、霜月ともいいますように朝夕が冷え冷えとしてきます。昼夜の寒暖の温度差が進むに連れて、山々の木々の葉も色付いて黄葉、紅葉の錦模様となり、そして落葉の時節を迎えます。そんな季節の移り変わる中、ある人権の研修会がありました。講師の方がワークショップの一環として「バースデイチェーン」というコミュニケーションの取り方を示しました。「声を出さず話さずに誕生月の早い順に並んで下さい」ということで、会場はお互い身振り手振りで右往左往しながら、一月生まれから十二月生まれの順番に並びました。順番に誕生月日を言いますと、会話なしでも生まれ月の早い順に並ぶことができました。この一連のコミュニケーションは、自分と同じ誕生日の人や隣り合わせに並んだ人に親近感を覚え、会場内の雰囲気も和やかになりました。「袖振り合うも多生の縁」ともいいますが、とかく私たちは身近なことで共通点があると何かしら意識し、親しく共感を覚えることが多いのではないでしょうか。ところで11月11日は、妙心寺の開基さまである第95代天皇、花園法皇さまのご命日、"法皇忌"であります。"往年の御宸翰"といわれる法皇様のご遺言状の中で「報恩謝徳と仏法の興隆」を願われたご意志を学び感謝する日であります。妙心寺の歴史は花園法皇さま、お一人のご発願から始まります。弱冠12歳で皇位につかれ病弱なお身体でもあり、世の中の人心の乱れに悩まれて仏道に入られ、特に禅の教えを学ばれて安心を得た。この安らかな心を人々に伝えてもらいたいとの思いで妙心寺を創建されました。その末寺の住職として私はご縁を戴き、今自分の使命を確認しているところですが、この日は私の師父の誕生日でもあります。そして11月は祖父の祥月忌でもあり、私自身も11月が誕生月であります。秋深まるこの11月は特にご縁の重なった月でもあり、花園法皇さま、祖父、父と身近な人がなお一層に親しく思われ絆の深さを感じます。また余談ながら私の曽祖父、祖母の命日が11月であります。一人娘としてお寺に生を受けた祖母は35歳を一期として曽祖父と同じ月日になくなりました。父が10歳の時でした。曽祖父、祖母の命日の日が父の誕生日と同じ日という不思議な巡り合わせに驚くばかりです。「人身受け難し今すでに受く」。先祖から受け継いだ命を頂いて私たちは生きております。この生かされた命をまずは身近な人と育み明るく喜びのある日暮らしを送りたいものです。

■トイレで出会う仏様
「おい!雪隠掃除はしたか?」これは20年前の11月に亡くなった祖父が口を酸っぱくして言った言葉です。この「雪隠」は仏教用語でトイレの事を指しますが、一般的には「便所」、「厠」、修行道場では「東司」「西浄」等、色々な呼び方があります。中でも「雪隠」と聞くと、昔ながらのボットン便所をイメージされる方も多いのではないでしょうか。何故トイレを「雪隠」と呼ぶのかと申しますと、諸説ありますが、「雪」には「すすぐ」、「隠」には「不浄」という意味があり、不浄をすすぐ、つまり「排泄物をすすぐ」という事に由来しています。しかし、現在では「雪隠」と呼ぶ方も少なくなり、多くのトイレが見た目も綺麗な水洗便所に変わっております。トイレは、人が集まる場所には必ず必要で、トイレがないと本当に困ります。我々はご飯を食べたら必ず排泄しなければ生きていけません。しかし、私達はどんなに必要であると分かっていても、どんなに見た目が綺麗になっても「トイレは汚い・臭い」というイメージが強く、トイレ掃除を率先してする方は少ない様に感じます。しかし、禅寺ではトイレ掃除を非常に大事にしており、大切な修行の一つに挙げられます。「不浄の掃除は心の浄化」という言葉もあり、誰もやりたがらないトイレを掃除する事が、自分の心の掃除にもなり、私達が持つ煩悩や苦しみも一緒にすすぐ事が出来ると言われております。禅の修行の中で大切な禅問答の中に、「仏とは何ですか?」と問うものがあります。それに対し「乾屎橛」と答える所があります。この「乾屎橛かんしけつ」とは、「糞かきべら」または「糞(排泄物)」そのものを指しております。私達は「仏様」と聞くと、金ぴかに輝いた何だか素晴らしいものを想像してしまいます。しかし禅問答では、仏様を表わすのにみんなが不浄だと思っているものを持ってきているのです。つまり、仏様とはそんなキラキラと輝いているような素晴らしいものではなく、綺麗とか汚いとかそういう所を越えた、毎日繰り返される生きる営みそのものの中にあるんだ、という事なのです。そんなごく身近におられる仏様を、我々は「臭い・汚い」と言って敬遠してしまっているのです。自分自身では決して見る事の出来ない身体の中を通ってきた尊い仏様を、これからは感謝の心で向き合ってみては如何でしょうか。そして、その時サッとトイレの掃除もする。そうすれば、トイレに行く度に仏様に出会え、更には心の掃除までできます。この実践を日々の暮らしの中でする事が、祖父の供養にも繋がってくるのだと思います。皆様も今日からトイレに行く度に「仏様に出会う」という心を持ってみては如何でしょうか。

■徳を以てす
尖閣諸島の国有化に端を発し、日中間がぎくしゃくして、中国では日系企業が襲撃されました。日中国交再会の草創期、当時副首相だったケ小平氏が来日し、松下幸之助氏に「中国の近代化を手伝ってくれないか」と頼まれ、進出した企業までもが破壊行為の対象になったのです。毛沢東革命故事「水を飲む人は井戸を掘った人の恩を忘れない」の道徳は、一体どこへ行ったのかとも報道されました。第二次世界大戦(日中戦争)が終わって、蒋介石総統は、中華民国を代表して「怨みを報いるに徳を以てす」と孔子の言葉を引用して、戦争の責任を問わないと言い、いっさいの賠償を放棄しました。日本の陸軍士官学校で教育を受けて、まずははじめに徳を以て迎えられたのは、実は蒋介石氏の方であり、日本に恩があることも知っていました。根本博元陸軍中将の助けや多くの日本兵の協力があって、台湾で勢力を保てたことも織り込み済みだったのでしょう。
『論語』の原文は以下です。
或曰、「以徳報怨如何」。子曰、「何以報徳。以直報怨、以徳報徳」。
ある人が聞いた。「徳を以て怨みに報いるとはどういうことか」。孔子はこたえて、「それでは徳にはどうやって報いたらよいのか。率直な気持ちで怨みに報い、徳には徳で報いるようにしなければならない」と言っています。「直」と「徳」は漢字の上で凄く似ているものだという事ができます。旧字体を見れば、徳とは行人偏と直心を組み合わせた漢字だからです。11月は、建長寺建立を発願した開基北条時頼公の祥月(命日は22日)に当たりますが、この建長寺の開山大覚禅師(蘭渓道隆)は、当時モンゴル軍によって侵略されつつあった中国からの渡来僧でした。本格的な臨済禅が日本に伝来した草創期のギクシャクした状態を戒め、大覚禅師は遺戒五条を遺されました。「福山の各庵済洞を論ぜず和合を補弼(ほひつ)して仏祖の本宗をくらます事なかれ」と強く諭されています。その意味は、「建長寺のそれぞれの庵では、臨済宗だとか曹洞宗だとか細かいこだわりでいざこざがあってはいけない。みんなが本当に一つになることによってお釈迦様の悟りの道を誤らせないようにしなければいけません」ということでしょうか。「仏教は怨みを怨みで返すのではなくて、もう一つ大きな視野に立って物事を見るようにせよ」というのは、故・松原泰道師の法話集で塙保己一先生のお話の中の一節です。慌ただしさから少し離れて日頃の恨みつらみを思うときに、一切を徳に包んで、愚痴ばかりぼやかないようにしないといけませんね。結局は「徳を以てす」で足りてしまうのではないでしょうか。

■おかげさまの中で生きる
川柳に次のような句があった。
今日もまた 読みたくない記事を 読まされる
今日もまた 血圧あがる 記事を読む
まったくもう......という落胆とともに、なぜなのか......という悲嘆が口を撞いて出てくるニュースが多い。仏教では、世の中が乱れてくる事を「五濁ごじょく/RT>の世」と表わしている。その中に煩悩濁・衆生濁というのがある。人々が利己的となり、便利主義を追い求め、自らの欲望のほしいままに行動するがゆえに、他との協調性が失われてしまう。更に、真実語の会話が少なく、雑音語が独り歩きし、何を信じ、何を目標とするかが見えない世というのである。それ故、生命軽視の殺人や騙し騙されたという事件が起こってくるというのである。しかし、私たちは一度しかない人生をどう生きるかを考える必要がある。もし今、「あなたは幸せですか」という問いを受けた時、それに対する反応は、他人の持ち物に対して自分は、という事を判断材料としてしまうのではないか。また、今日は天気が良いですねという会話も、昔は、晴れなら洗濯ができる、布団が干せる。雨なら作物が育つ、おかげさまで......という言葉がその会話の中にはあった。それが今では、天気予報が良く当たるね、という現実回答が会話なのである。そこには生かされているという感謝のこころはなく、自らが生きているという自己中心的な考えが含まれているのではないか。会津八一先生は、自らの生命の活かし方を次のように説いています。
深く己の生を愛すべし 省みて己を知るべし 學を以て生を養うべし 日々真面目あるべし
私たちは、親を選ぶ事も家を選ぶ事もできない。親もまた子を選ぶ事はできないのである。まさに偶然な生命の誕生である。そして、その生命が他の生命によって支えられているのである。ここに「おかげさま」の心がある。この事実を自覚して生きる時、他を思いやる謙虚さが生まれ、共生きの真の日暮らしが生まれてくるのである。自己の存在を自覚して生きる事が、人生を生きてゆく上で必要不可欠な事なのである。

■除夜の鐘と三毒
今年も早いもので師走となり、間もなく大晦日を迎えます。この大晦日は一年の最後の日で、古い年を除き去り、新年を迎える日という意味から「除日じょじつ」といい、その夜は「除夜」といいます。この除夜に煩悩を祓うために打つ鐘を「除夜の鐘」ということは誰でもご存じで、その打つ回数百八回が煩悩の数に由来していることも、多くの方が知っています。その百八煩悩をさらに突き詰めていくと、貪瞑痴(とんじんち)の三毒に集約されます。すなわち、「貪欲とんよく」(むさぼり)、「瞋恚しんい」(いかり)、「愚痴」(おろかさ)の三毒です。この三毒こそが人の心を惑わせたり、悩ませ苦しめたりする心の働きで、これを少しでも取り除き、捨て去ることが安楽の道なのです。さて、私は在家からの出家で、元地方公務員の実父は現在八十四才になりますが、今から十九年前、六十五才の時に脳卒中で倒れ左半身不随となり、自宅介護となりました。この時の父はわがままで、「食事がまずい、もっと美味しいものが食べたい」とか、「あっちが痛い、これが気に入らない」とよく怒り、そして「左の手足が動かない、不便だ、もう死にたい」と愚痴ばかりこぼし、まさに三毒まみれの生活態度でした。そして四年前、母も病となり父の自宅での介護は難しくなり、老人介護施設に入居することになりました。父は八十年間住み慣れた家を離れる時、もうこの家には帰って来られないのだと覚ったのか、涙を流して自宅を後にしました。そして半年後、私が久し振りに見舞いに行くと、以前とは別人の様に、動く右手一本で、器用に車イスを操り、施設の廊下を行き来する、生き生きとした幸せそうな父がいました。私が「施設の食事はどう?」と尋ねると、「美味しい」と答える。昼間寝たきりにさせず、車イスで運動しているからお腹が空くのでしょう。「空腹こそ、一番のご馳走」とはよく言ったものだなと思いました。そして、「施設の生活はどう?」と尋ねると、「皆な親切で、ありがたい」と感謝の言葉を口にしました。さらに「寝たきりで全身麻痺の人もいるのに、自分は右手が動くのでありがたい」と、あれほど動かない左手に愚痴をこぼしていた父が、動く右手のありがたさに心の目が開いていたのです。驚きました。その時ハッと気がつきました。父は「自分の家、自分の妻、自分の動かない左半身」を捨て切っていたのです。自分のものという執着を捨てると苦しみがなくなり、心は安楽になるという仏教の真理に偽りはないと確信しました。『法句経』の第二七九番に、「すべての法は わがものにあらずと かくのごとく 智慧もて知らば 彼はそのくるしみを厭うべし これ清浄に入るの道なり」(友松圓諦訳)と、あります。これは、すべてのものは我がものではないと悟れば、だれでも苦しみのない、清らかな境地になれるという意味です。いくら財産をなしても、それは真の幸福や安楽ではありません。「自分のもの」など何一つないと悟れば、執着や苦しみを打ち破ることができ、これこそが真の安楽なのです。除夜の鐘を聞きながら、一つでも煩悩を取り除き、安楽な境地で良い年を迎えたいものです。

■新しい自分発見
早いもので師走を迎えました。今年も身勝手の極みとも言えるような事件、問題が相次ぎました。これは、決して他人事ではありません。平常心という教えがあるように、自然、あるがままの心を物差しにして自らを見つめ調える機会が少ないと、心身はバランスを欠いて平常では考え難い出来事に関わってしまうこともあるのです。新年を迎えるにあたり、慌しい世間の物差しだでけでなく、自然の摂理に照らして自分のありようを見つめることも大切だと思います。1年を振り返る時、約46億年の地球の歴史を1年に置き換えた例え話を思い出すことがあります。1月1日に地球が誕生したとするならば、現生人類のホモ・サピエンスの誕生は12月31日の23時37分頃の出来事。さらに人類の文明的な時代が始まるのは年越し目前の23時59分頃になります。人間の一生はまさに一瞬で、記録上で最も長寿だった122歳の人で0.8秒の人生にすぎません。こう考えると文明を謳歌して地球の主を気取る人類といえど宇宙や地球の歴史の中では一瞬の儚い存在でしかないと言えます。しかし、逆に宇宙の中で、地球が生まれ、途方も無い年月をかけて生命が誕生し、縁あって命を授かることは極めて奇跡的で尊いことにもなるのです。
『雑阿含経』に「盲亀浮木もうきふぼく」の教えがあります。大海の底に住んでいる目の不自由な亀が、百年ぶりに海面に顔を出そうとしました。すると、漂っていた浮木が流れてきて、偶然に浮木に空いていた小さな穴に顔が入ってしまったそうです。お釈迦様は、このような奇跡よりも尊いのが、人間として命を授かることだと説かれています。
私は、近くの研修施設からの依頼で子ども達に星空の楽しみを教えるボランティアをしたり、自坊で坐禅会と合わせて星空観察の会を開くことがあります。ある晩、数組の親子連れと満天の星空を眺めたことがあります。普段、じっくり星を見る機会は少ないようで、子ども以上に親御さん達が「綺麗!」「本物の天の川だよ!」などと夢中で感動しておられました。そこで、「美しく輝いている星も永遠ではなく、やがて散って、またそこから新しい星も誕生しているんですよ」と説明しながら、盲亀浮木の例え話も交えて話しました。後日、一人のお母さんから「宇宙や星も人間と同じなんですね。その数ある星の中で地球に人間として誕生できることは確かにすごいですね。星空を眺めていると新しい自分を探している気がしました」と感想を頂きました。大晦日や正月も自然や尊い命に生かされていることに感謝して新たな抱負を抱く節目です。華やかさや賑わいだけを求めるのではなく、少しの時間でも静かに心身を落ち着かせて普段は気付かず見過ごしている身近な自然や環境とも向き合ってみませんか。新たな不思議で尊い自分が発見できるかもしれません。
きのう知らなかったことを きょう知る喜び きのうは気づかなかったけど きょう見えてくるものがある 日々新しくなる世界 古代史の一部がまた塗り替えられる 過去でさえ新しくなる  「いま始まる新しいいま」(川崎洋・作)

■法演の四戒
新年明けましておめでとうございます。皆様方には心新たにされ、この一年がより良き年になるように願って、本年の心構えなどを考えられることと思います。そういう一年の出発に当たり、中国の宋の時代の高僧、法演(ほうえん)和尚様の四つの戒めの言葉、"法演の四戒"をお届致します。この四つの戒は、法演(ほうえん)和尚様が、その弟子の仏果(ぶっか)和尚様が、太平寺というお寺の住職になられる時に仏果和尚に示された言葉です。弟子の新たな出発に当たり、師匠として示された教えです。ご紹介致します。
"法演の四戒"
一、「勢い、使い尽くす可からず。勢い、もし使い尽くさば、禍い必ず至る」。勢いとは、相手を支配する力、権勢、時勢ということです。自分の勢いをすべて自分で得た力だと思って、傲慢になり行動すると、かえって周囲の反発を招き、禍を招くことになる。今の自分の勢いは、多くの人の支えのおかげと受け取る謙虚さを持つべし、ということでしょう。
ニ、「福、受け尽くす可からず。福、もし受け尽くさば、縁、必ず孤なり」。福とは神仏の助け、幸福、ということです。現在の幸福も、目に見えない大いなる神仏のご加護、良きご縁のたまものと感謝し、自分一人で受け尽くすのではなく、すこしでも人様にお分けする心を持つべし。そうでなかったら結局孤立してしまう、ということでしょう。
三、「規矩、行ない尽くす可からず。もし規矩、行ない尽くさば、人必ずこれを繁とす」。規矩とは規則、きまりのことです。規則もあまりに厳格に決めて、厳格に実行すると人は規則に縛られ息苦しくなり、ストレスを感じる。また、規則さえ守っていればよい、という消極的な考えになってしまう。やはり、人を信じて、多少の自由、余裕が必要ということでしょう。
四、「好語、説き尽くす可からず。もし説き尽くせば、人必ずこれを易んず」。好語とは、良い言葉、良き教えといったことでしょう。良い言葉、教えもあまりに微に入り細に入り詳細に説くと、聴く人も簡単にわかったような気持ちになり、その言葉、教えの深い意味、重みが感じられなくなる。あるいは、説く人の実践が伴わないで、言葉だけを説いても、人はあまり感服しないということでしょう。
以上の四つの戒めです。それぞれに含蓄のある言葉ですのでよく味わって頂き、新年の出発の心構えとして、ご参考にして戴ければ有り難いです。

■今年の目標
私も中年と呼ばれるような年齢になってまいりました。昨年は同世代の檀家さんの葬儀をつとめたり、家族が大病を患うという出来事があり、自分の健康や寿命というものが気になりだしました。しかしどんなに健康に気を使っても、事故や災害が身に降りかかることもあります。結果、今年からはその日その日を充実したものにすることに決めました。松尾芭蕉が晩年に病床にあった時、去来という門弟がたずねました。「昔から高名な方には、みな辞世があります。先生ほどの方に辞世がなかったのかと、世間で言われては残念です。ぜひ、一句お残し下さい。門弟達も満足いたします」。これに対して芭蕉は「昨日の発句は今日の辞世。今日の発句は明日の辞世。わが生涯に言い捨てし句々、一句として辞世ならざるはなし」と答えたそうです。「古池や蛙飛び込む水の音」などに代表される、素晴らしい俳句を数多く詠んでこられたのですが、その一句一句がすべてその時々の全身全霊を込めた一句であったのです。ですからいつ自分が死んだとしてもその前に詠んだ俳句が辞世だと言われたのです。それほどの覚悟を持った生き方をされたからこそ、俳聖と呼ばれるほど芭蕉の芸術が実を結んだのでしょう。禅語に「一期一会」というものがあります。「一期」とは一生涯、生まれてから死ぬまでのことです。「一会」とは一度の出会いということです。その時に出会う人や物事を、一生に一度の出会いだという気持ちで接しなさい、ということです。私たちの命は、あとどれくらいあるのでしょうか。正直なところ、あと一呼吸先、一秒先も確かではありません。そんな不確実な一瞬一瞬の積み重ねが一日であり、その一日一日の積み重ねが私たちの人生なのです。だとしたら、一瞬一瞬を精一杯、悔いの残らないように生きてみましょう。その積み重ねが、私たちの人生の充実感になっていくと思うのです。

■釈尊成道2600年に思う
お釈迦さまは、人として生まれ(降誕)人として亡くなられ(涅槃)ました。ただ私たちと違っていたのが、"大いなる覚さとり"を得られたか否かです。釈迦族の王子として何不自由のない生活であったにもかかわらず、29才の時出家をして6年間の難行苦行をされ、35才でお悟りを開かれ(成道)ました。以来45年間に亘り仏の教え(仏教)を説かれ80才でお亡くなりになられたと伝えられております。菩提樹下に坐られ、12月8日、明けの明星をご覧になり「奇なる哉、奇なる哉、一切の衆生悉く如来の智慧徳相を具有す」(不思議なことだ、不思議なことだ、自分が6 年かかってようやく悟った仏性を、みんな生まれた時から持っておるんだ。不思議じゃないか。全ての生きとし生けるものが、みんな仏性を持っておるんだ。みんなそのまま仏だ。〈山田無文老師著しんじん文庫「釈尊にかえれ」より抜粋〉)と、重ねて人間の尊厳と自由を宣言されたのが、釈尊の成道だったと思うのです。平成24年5月、妙心寺で行なわれた講習会に参加する機会を得て、霊雲院住職則竹秀南老師の提唱(法話)を拝聴致しました。そのお話の中で「この提唱後、今からタイのバンコクに行き、国王と王妃が丁度節目の年にあたりそのお祝いと、お釈迦さまが成道されて2600年のウエサカ祭に参列して来るのだ」とおっしゃいました。今年はタイの皇族が節目の年にあたるのと、お釈迦さまが悟りを開かれて2600年とは、うまく都合を合わせたのではないか......という思いを抱きながら半月間の講習会を終えたのでした。そこで改めて調べてみたところ、平成24年(2012年)は、全日本仏教会が採用している仏暦では、2555年になります。お釈迦さまは亡くなられる45年前にお悟りを開かれたわけですから、仏滅紀元元年としている仏暦に45年を加えると、計算するまでもなく2600年! 成道の年こそが仏教元年ともいえるのではないかと思うのですが、何ということか、この節目の年であることを知らずにいた自身の不明を恥じると共に、成道の地ブダガヤ行きを思い立ち、苦行の地である前正覚山の洞窟へも登らせて頂き、その地に祀られている釈迦苦行像にも参拝することが叶いました。平成25年1月19日は、旧暦12月8日にあたります。私たちには、生まれながらに仏の命と智慧が具わっているということを気づかせて下さったお釈迦さまに感謝しつつ、この尊い命の力を善い方向へと活かせるよう新たな年を過ごしてゆきたいものです。

■こころに効く般若札
新しい年を迎え、多くの菩提寺で大般若会を厳修し、般若札に心を込めます。しかしせっかく心を込めた般若札も、持つ人の信心が薄ければそれはただの紙切れでしかありません。なぜなら般若札とは、この世に効くのではなく、持つ人の心に効くのですから。般若札には以字点と呼ばれる阿吽を表わす四つの点が上部に書いてあります。阿と吽はそれぞれ言葉の最初と最後で、転じて言葉で表わせるもの全て、つまりこの世の全てを表わします。そしてこの世には必ず順境と逆境の両方があるのです。逆境のない順境だけの世界を般若札に願っても決して叶う事はありません。逆境と言えば東日本大震災を思い浮かべるかも知れませんが、大震災で被災された方々のお宅にだけ般若札が無かった訳ではないのです。また震災を機に、逆境があったからこそ順境の有難さが分かったと洩らす方も大勢いらっしゃいました。逆境があって初めて分かるのです。般若札は都合良く逆境を跳ね返してはくれません。それはどんなお札でもお守りでも同じです。人間には魔が差す瞬間があります。魔が差さない人間はおりません。魔が差すから事件が絶えないのです。せめてその魔が差す瞬間だけでも人間は抑えなくてはなりません。その為のお札なのです。逆境がある事は避け様がありません。しかし順境であっても慢心せず、逆境にあっても諦めない。常に自分の心に潜む魔をコントロールする為に般若札は存在するのです。結婚指輪も言ってみれば単なる金属です。そこに誓いという心を込めるからこそ美しいだけのただの金属ではなくなります。しかし、はめた人が常にその誓いと向き合わなければただの金属以上の働きはしてくれないのです。般若札も同じです。心を込めるからこそ般若札であり、心を込めなければただの紙切れに戻ってしまいます。出かける時に目につく玄関や普段過ごすお茶の間などに飾って、常に御自分の心をしっかり重ねて頂く。そうしなければ般若札は効き目がありません。心に効くのですから。持っているだけで効き目がある訳ではないのです。そして出来れば目線より高い所に飾って下さい。なぜなら人間は下を向きがちなのです。いつも見ていない所に気を向けさせるからこそ意味があります。是非、般若札を大切にして頂き、その般若札に皆さんの心を重ねて頂いて、そしてしっかりと皆さんの仏心、「ほとけごころ」を発揮して頂きます様にお願い致します。  
 

 

■すべてを活かす
数年前あたりから、給食費を支払わないという親御さんがいらっしゃるというニュースを耳にするようになりました。それとともに、給食費を払っている親御さんからは、「給食を食べ始める時に"いただきます"と言わせないでください。言わせるのなら給食費を払っている親に向かって言わせるのが筋でしょう」という話もありました。私たち人間はもちろん、あらゆる生物は他の生物の命をいただいて、自らの体に取り込まないと生命を維持することができません。つまり、「いただきます」という言葉は、「命をいただきます」という意味です。テレビ・新聞等でさえもこうして報道されていました。私たちは道徳の授業で、「人様に迷惑をかけないように」と教えられ続けてきましたが、わかってはいても、我々人間は完璧な存在ではありませんし、迷惑どころか他の命を頂いてしまわないと生き続けていくことができないのが事実なのです。ではもう一歩踏み込んで、我々はどのように生きるべきなのでしょうか?それは私たちが生きるためにせっかくいただいたその命を"活かす"ことではないでしょうか。それは、単に"食べた分だけ働いてお給料を持ってかえってくる"ことではありません。世の中には、様々な事情で働くこともできない方もいらっしゃいます。"活かす"とは"なるべく和やかな気持ちで日々を過ごす"ことではないかと考えてはいかがでしょう。一日の終わりに自己採点してみるといいのかもしれません。ただ、先ほど申し上げたように我々人間は完璧ではありません。ニコニコ和やかに腹をたてずに、毎日100点をとることは大変難しいと思います。そこで、足りなかった点数、ニコニコできなかった場合の採点を、ご先祖様にお任せしてみてはどうでしょう。ちょっと失礼な言い方かもしれませんが、ご先祖様さえも我々の体(心)に"命"としていただいて"活かす"と考えるのです。ご先祖様から脈々と受け継がれたこの我が身です。そうすれば、大切なご先祖様が益々身近に感じられることと思います。
 
■別れてからの供養とは
一月は「行く」、二月は「逃げる」、三月は「去る」と言うように、年明けての年度末はあっという間に過ぎてしまいます。年度末というと「卒業・進学・退職・就職」等、新しい社会に進んでいく時期と同時に、人と人との別れの時期でもあります。人との最大の別れは、やはり「死別」であります。仏教で言われる苦しみの一つに「愛別離苦」と言う、愛する人と別れなければいけない苦しみがあります。それは苦しみであって、決して「悪」ではありません。そんな時はどうしたらいいか。悲しみましょう。それが一番の供養です。勿論、悲しむばかりではいけませんが、今の悲しみは、今しかできない事です。しかし、決して故人を哀れだとか、可哀想だとかは思わないで下さい。それは故人を否定してしまう事になります。人には尊厳があります。その尊厳は人の「生」は勿論、「死」にもあるのです。その人にしかできない生き方があり、亡くなり方があるのです。勿論、「死」が決して自らが望む事、望んだ事とは限りません。しかし、「生」から「死」までを含めて、各人それぞれにしかできない事なのです。仏教では、人は皆、また人に限らず全ての物は観音様の化身であると説かれています。故人も観音様、故人の遺族・親族も観音様、故人と縁のある方々、皆が観音様で繋がっていると言えます。「命」とはこの世での生が終わっても、繋いでいく事ができるのです。それは「縁」であるとも言えます。そして「命」を「縁」を繋げていくには、故人の尊厳ある「生」と「死」を受けて、私達が今、なすべき事をなす事です。涅槃図、お釈迦様が亡くなられる時の状況を描いた絵をご覧になった事があると思います。横になられているお釈迦様を中心に、修行を積み、悟りを開いた多くのお弟子さん達も菩薩様も鬼神も動物も皆、お釈迦様とのこの世の別れを悲しんで泣いています。しかし、その後、お釈迦様はどうなったか。多くのお弟子さん達が頂いた教えを繋ぎ、二千五百年以上すぎた今も、仏の教えの中にお釈迦様はおられます。それはお釈迦様の「命」を「縁」を受けた方々がなすべき事をなして頂いたからです。仏教では、人は皆、人に限らず全ての物は観音様の化身であると申しましたが、その観音様を詠んだ歌があります。
ろうそくは 我が身を減らし 人照らす
別れた故人の光に、私達自身、私達の進む道が照らされ、私達の光が、故人を、故人の進む道を照らす事ができるのです。その事に感謝をし、その光を無駄にしない事が故人への供養ともなります。奈良時代の僧侶、行基菩薩が亡くなった父母を偲び詠んだ歌があります。  
山鳥の ほろほろと鳴く 声きかば 父かとぞ思う 母かとぞ思う
物理的な別れを超えて、そこから生まれる新しい「命」を「縁」を皆で繋いで参りましょう。宜しくお願い致します。

■火の用心
2月15日はお釈迦様がお亡くなりになられた、涅槃に入られた日であります。涅槃とは「吹き消した状態」という意味があり煩悩の火を吹き消した状態という事で、寂滅や寂静とも訳されます。お釈迦様は、「煩悩に振り回されてはならない」と教えられました。煩悩を火に例えられたのは、どちらも使い方を誤ると制御不能になるためです。火は大変便利でありますが、ひとたび火事になると消すことは難しく多くのものを焼き尽くし、失ってしまいます。小僧の頃に、弟弟子と年末のお墓掃除を命ぜられました。お墓と道路の間に斜面があり、枯草が覆っておりましたので、抜くよりも火を着けた方が手間を掛けずに綺麗になると思い火を着けました。上手く野焼きが出来ておりましたが、風が強く吹いた一瞬の間に急に炎が燃え広がりました。運悪く斜面の真ん中にあった木にも引火し、これはまずいと二人で必死に消すことになりました。偶然通りかかった、お墓詣りの方にも手伝ってもらい、何とか消火でき、大事には至りませんでしたが、今思い出してもゾッとする出来事でありました。他の動物とは違い、人間は火を使う事で文明を発達させてまいりました。人間の生活で火を使わないで生活をする事は無理な事です。その必要不可欠な火も、使い方を誤ったり、必要以上に使用すると火事になり、自らを傷つけ多くのものを失ってしまいます。煩悩も時には目標に向かってのエネルギーになり、私達が生きていくにあたって必要なものですが、大きくなりすぎた煩悩は自分自身を見失わせ多くのものを失ってしまいます。少し目を離したすきに風に煽られたりなどの様々な要因で火はあっという間に大きな炎となり消火することに多くの労力が必要になります。同じ様に私達の煩悩も目を離すと大きな欲望となり、自分で抑える事が難しくなってしまいます。煩悩の火が大きな炎となる前に自分でコントロールしていかねばなりません。その為には常に自分を見つめる事が必要です。お釈迦様は別れに臨んで弟子達に「私が亡くなっても、自らを拠り所とし、法を拠り所として生きていきなさい」と自灯明法灯明という事を教えられました。拠り所となる自分とは煩悩に振り回される自分ではなく、よく調えられた自分であります。灯明の火が静かに粛々と燃えるように、私達も自分の煩悩を上手に使っていきたいものです。寒さ厳しいこの時期にお釈迦様の御遺徳を偲び、静かに坐って自分を見つめ、身を正し、言葉を正し、心を調えて日々を過ごしてまいりましょう。

■精進 −仏教における努力とは−
がんばることは大切なことです。でも、がんばっても必ず結果が出るとは限りません。成績や結果ばかりにとらわれていては、大切なものを見落としてしまいます。昨今、学校の部活動やスポーツの世界における体罰が大きな社会問題となっています。これは現代社会における行き過ぎた「成果主義」が問題点としてあげられるのではないでしょうか。がんばること、努力することの意味を問い直してみましょう。みなさんは「ウサギとカメ」という昔話をご存知でしょうか。ウサギとカメが足の速さのことで言い争い、かけっこで競争するお話です。ウサギは生まれつき足が速いので、真剣に走らず、道からそれて居眠りをはじめてしまいます。カメは自分が遅いことを知っているので、休まず走り続け、ウサギが横になっているのを通り過ぎて勝利のゴールに到着しました。足の遅いカメでも努力を続けた結果、最後にはウサギに勝つことができた。才能よりも努力を続けることの大切さを説くお話でした。ところが成果主義の視点でいうと、「成果のない努力は価値のないもの」となってしまいかねません。なぜカメは勝てるはずのない勝負をウサギに挑んだのでしょうか。普通に競争したならば、カメがウサギに勝てる確率は万に一つもありません。ウサギが途中で居眠りすることも競争する前に予測はできません。もし仮に、私がカメの立場なら、自分の苦手なかけっこではなく、得意な泳ぎで勝負したことでしょう。それなら勝負に勝ってウサギを見返してやることは十分にできたはずです。しかし、カメは苦手なかけっこで勝負を挑んだのです。仏教に「精進(しょうじん)」という言葉があります。「仏道修行にはげむこと、一所懸命に努力すること」という意味です。他と比較して優劣をつけたり、勝ち負けに一喜一憂したりするのではなく、自分自身と向き合い、自分自身を見つめ、自分自身を高める努力を精進というのです。カメとウサギは同じ道を走ってはいましたが、他人との比較でしか自分自身を見つめられないウサギと、自分自身をまっすぐに見つめるカメの心の内には大きな隔たりがあったと思われます。お釈迦様の短い教えを集めた『法句経』の中に次のような一節があります。
おのれをととのえ なすところ つねにつつしみあり かく おのれに克つは すべて他の人々に かてるにまさる (『法句経』)
カメが選んだのはウサギに「勝つ」のではなく、己に「克つ」ことなのかもしれません。自暴自棄になったり、逃げたりするのではなくただウサギと競争したい。そこには楽しささえ感じられるのではないでしょうか。仏教の「精進」を通じて「己に克つ」仏さまの心で歩んで参りましょう。

■仰げば尊し
仰げば 尊し 我が師の恩 教の庭にも はや幾年
思えば いと疾し この年月 今こそ 別れめ いざさらば
「仰げば尊し」この季節、懐かしく思い返す人も多いのではないでしょうか。近年では様々な理由で卒業式に歌う学校が少なくなったと聞きますが、それは残念なことです。なぜならこの歌は、学校生活最後に贈られた宿題だと私は思うのです。私たちが「ありがとう」を贈るべき先生は、学校の中だけでなく毎日の暮らしの中に今もいます。その有り難さを「今、この時」こそ振り返れと促してくれるのです。ある一人のおばあさんがいました。出会った時は七十歳を超えた頃、早くにご主人を亡くされたこともあってか、お寺や仏さまにも真摯な人で、まめにお寺を訪ねてくれました。当時、修行道場から戻ってきたばかりの私にも常に深々と頭をさげられます。私はそれが嬉しくて色んなお話をしました。特に仏さまの話、禅の話はいつも静かにじっくりと聴いてくれて、最後には「おっさま、ありがとう」と喜んでくれる。だから私も一層調子に乗って、随分聴いてもらいました。そんなお付き合いを続けて数年、ある日突然この世を去ってしまわれました。二月の寒い日の朝のことでした。そして三月、テレビから聞こえる「仰げば尊し」を耳にしてふとおばあさんの姿が思い浮かびました。これまでの日々を思い返し、そして気が付いたんですね、おばあさんこそありがたい「我が師」だったのだと。よくよく考えれば、私よりもずっと長く仏さまと向き合って来られた方です。ほんの数年修行をした私の話など聴かずとも分かっておられたでしょう。それでも私を尊重して「ありがたい」と聞いて下さった。それが積み重なって自信に繋がり、おかげで今日の私があります。教えているつもりが逆に私が学ばせて頂いていたんですね。その有り難さに気づかぬままお別れしてしまったことを悔いるばかりです。法句経には「よき師に 終身学びて 学ばざるあり 匙の汁に浸りて 風味を知らざるに似たり」とあります。ついつい私たちは自分の事ばかり考えてしまい、周りにいる自分を支え導いてくれている人、その有り難さに気が付けません。そうならぬよう謙虚に「仰ぐ」、学ばせて頂いていると敬う心で見上げてみれば皆な有り難い師ばかりです。どうか皆さんもあらためて「仰げば尊し」と振り返り、周りの恩師を仰ぎ見て下さい。そして学ばせて頂ける喜びを噛みしめてくださればと願います。

■今、ここにある彼岸
「和尚さん、あの世ってあるんですか?」 もしかすると生きている人間が一番気になる事なのかも知れませんが、こればかりは実際に自分で死んでみないとわかりません。仏教では本来「無記」という、あるともないとも言わない立場を取ります。あの世を見たという人が、本気で言っているのか嘘をついているのかわかりませんし、本気で言っているとしても夢でも見たのかも知れません。私は幼い頃、二重の脳内出血で死にかけた事はありますが残念ながらあの世は見ていません。しかし私が見ていないからと言って無いとも言い切れません。単に見る能力に欠けているだけなのかも知れませんし忘れているのかも知れません。つまりどちらにしても推測でしかないのです。それで生き方を左右されるべきではないというのが仏教の考え方なのです。しかしこれはあくまでも魂と魂の行き先に関して、あるとも無いとも言えないという事です。一方で私には確信を持って言える死後の世界もあります。それは亡くなられた仏様は、この世から消滅するわけではないという事です。残された遺骨だけが仏様ではありません。灰となって煙突から飛んで行かれ、空に舞っているかも知れませんし、大地に降り注いで栄養となり、次の年に花を咲かせるかも知れません。人の体の六割が水分なら、蒸発された仏様は当然、海や川に溶け込んでいらっしゃるかも知れませんし、雨となって降っていらっしゃるのかも知れません。ひょっとしたら私達の体の中にも既におられるという事もあるでしょう。仏様は目には見えなくなったものの、この世界に溶け込んでおられるのは間違いないのです。問題はその事実に気付く事ができるかどうかなのです。
仏は常にいませども 現(うつつ)ならぬぞあはれなる 人の音せぬ暁に ほのかに夢に見え給ふ (梁塵秘抄)
目に見えないものと有りもしないものは、似ている様で全く違います。仏様は常にお傍にいらっしゃるのに、目に見えないのが残念ですが、目に見えないからこそ尊いのです。見方を変えれば、彼岸というのは遠く離れた特別な世界ではありません。既に私達は彼岸にいるのに、気付いていないだけなのです。

■〇△□
境内のソメイヨシノが見ごろをむかえ、建仁寺は多くの参拝者に御来山頂いております。その中で、「今年のNHK大河ドラマの主人公である新島八重さんが建仁寺で修行されていたのですか。」という質問を受けることがあります。八重さんは、キリスト教系の同志社大学を創立された新島襄氏の夫人で、クリスチャンでした。その八重さんが、建仁寺の五代前の管長、竹田黙雷老師について禅の修行をされておられたのです。八重さんが40歳から70歳までの30年間、毎日建仁寺に来られて坐禅とお茶の稽古をされていたといいます。ある時、黙雷老師と八重さんが高台寺で桜の花見をしておられた時、老師は『今日はヨーロッパの神様と花見じゃな』と言われたといいます。西洋の神様も東洋の神仏も皆平等に尊いのだということでしょう。この教えを禅の世界では『平等即差別』と申します。禅では"差別"を"しゃべつ"と読みます。分かり易く言えば 水は凍れば氷になり、蒸発すれば蒸気になりますが、形は変わっても、元は一つ、H2O 。しかし、この水の中に氷を入れて飲んでみてください。水だけで飲むよりも、氷だけで食べるよりも氷水で飲む方が皆様の乾いた喉を潤し、何倍もおいしく感じます。違うもの同士、お互いを認め融合し合う時、一足す一が二ではなく、何倍にもなる、これが『平等即差別』の世界であります。また、この教えについて、栄西禅師は〇△□の形で表したという伝承が残っています。形は違えども元は一つ、〇が臨済宗、△が天台宗、□が真言宗と解釈され、お釈迦様の尊い教えに変わりはないということです。今ここに禅師がおられたならば、○が仏教、△がキリスト教、□がイスラム教と説かれたかも知れませんね。世界中の人々が幸せになることを願ってやむことなく、お互い違ってそれでよし、皆、神仏より尊い命を授かり活かされているのですから。ここで禅問答!! 〇が黙雷老師、△が八重さん、では□は如何に。それは、あなたです。どうぞ、この『平等即差別』の教えを日常の生活で働かせてください。我が子や旦那様、奥様を誰かと比べることなく、それぞれの素晴らしいところを見つけましょう。最後に、来年は日本で臨済宗の本山を最初に開かれた建仁寺開山千光国師明庵栄西禅師が亡くなられて800回忌を迎えます。日本臨済宗祖への報恩感謝の御心でお参り頂きたく願っております。

■春風にのせて
春の陽気に誘われて外を歩けば、風に漂う花や草の香りに心が躍る季節を迎えました。お花見など行楽の盛んなこの時期、全国のお寺では時候にふさわしい「花まつり」という仏教行事が執り行なわれます。四月八日はお釈迦様ご生誕の日です。花を飾りつけた御堂にご誕生のお姿の像をお祀りし、甘茶をかけてお祝いをします。ご誕生の様子については古くからいろいろと不思議な話が伝えられています。その一つが、今から二千七百年前、お釈迦様は生まれてすぐに天と地を指差して「天上天下唯我独尊」とお唱えになられたという話です。どれほどお釈迦様が特別な存在だとしても事実とはとても考えられません。実際には私たちと同じく「オギャー」と泣かれたはずです。この説話の意味するところは、誰の産声にも言語を絶した命の響きがあり、人間性の尊さへの目覚めが何よりも先立つことを表わしています。字面から誤解を招きがちですが、「私が」「俺が」という我が儘を振りかざす言葉では決してありません。興味深いことに、後にお釈迦様は「天上天下唯我独尊」の続きとも考えられる教えを説かれています。お釈迦様存命の頃、インド北東部コーサラ国の王パセーナディはある時、妻であるマッリカー王妃に「自分自身よりもさらに愛しいものがあるか」と尋ねました。王妃はしばらく考えて「自分より愛しいものはありません。王さまはいかがでしょうか」と問い返すと、王もまた「そうだ」と答えました。二人は同じ考えに達したわけですが、その結論はどこか間違ってはいないかと不安になり、日頃から帰依を寄せていたお釈迦様のもとを訪れました。お釈迦様は王の言葉に耳を傾け、聞き終わると偈を説いて教えとしました。
人の思いはいずこへも赴(ゆ)くことをうる されど、いずこへゆくも自己よりもいとしきはあらじ それとおなじく、他の人々にも自己はこのうえもなくいとしい されば、自己のいとしきを知るものは、他を害してはならぬ (相応部経典三.八「末利」)
お釈迦様は自己の人間性の尊いことを根底として、他人の人間性もまた等しく尊いことを説かれました。自分の命の尊さに目覚めたならば、次は相手の立場になることで慈悲の心に目覚めてほしいという願いが込められています。それは人間社会に平和と幸福を実現するための基本理念ともいえる教えでした。今日でも仏の教えを学ぶ上での大切な項目として、特に妙心寺派においては『生活信条』の第二句で同じ内容の教えを檀信徒と一緒にお唱えしています。
一花開いて天下春なり
春が到来した歓喜を表わすこの禅語は、本来は悟りが開けたことを歌いあげたものです。しかしながら、お釈迦様ご生誕の日にこの語を唱えると、お釈迦様が咲かせた悟りの花が世界に遍く広がり、心地よい春風のように人々を安らぎへと導いて下さっていることに、喜びと感謝の念を抱かずにはいられません。皆さまの心にもお釈迦様の春風が届きますように......。

■佛通・大通両禅師の御遺戒
広島県三原市の山懐にある大本山佛通寺。その御開山、佛徳大通禅師(愚中周及ぐちゅうしゅうきゅう禅師)は元の国で修行され、佛通禅師(即休契了しっきゅうけいりょう禅師)の法を嗣がれました。大通禅師は晩年、75歳の時、現在の地に寺を開き、寺名を「佛通寺」としたことで、佛通禅師のお名前も永く後世に残ることとなりました。そのため佛通寺では、4月に佛通禅師、9月に大通禅師の、年2回の開山忌を修しております。大通禅師は19歳で元へ渡り、金山寺の佛通禅師の下で修行されました。お二人の間には初対面の時から、昔からの師匠と弟子のような親密な空気が流れていたと言います。9年の歳月が流れ、佛通禅師はご自分の健康状態の悪化に気づかれると、大通禅師に帰国を急がされ、その時こう言われました。「帰国しても、世に出て法を説くことなど考えずに、山に籠もって坐禅をし、ひたすら修行に励みなさい」。帰国した大通禅師はこの戒めを堅く守り、晩年、将軍足利義持に相見を求められた時も、誓いがあるからと、都の外で会われたほどの徹底ぶりでした。佛通禅師のお言葉「不要出世」「修行専一」を今流に噛み砕けば、人目につくこともなく、今現在の自分の立場、役割を一所懸命に勤め上げていく、ということでしょうか。一方、大通禅師には風変わりな頂相が遺されています。曲?に坐り、右手を頭上にかざして、掌で剃った頭に触れておられます。この頂相には様々な解釈がありますが、その一つに「識羞しきしゅう(羞を識る)」があります。剃った頭に触れる度、あの日の自分の決意は、今も揺るがず心の中にあるか。本来の道を見失ってはいないか、と常に己に問いかける。しかし、ことさら気負うこともなく、当たり前のことを当たり前として勤めていく。飽くまで飄々としたお姿は、世人のつまらぬ憶測など一笑に付されるようです。大通禅師のこの一風変わった頂相と、佛通禅師の戒めの言葉とは、師弟相和した御遺戒とも言えます。この二つは見事な対を為し、後世の私たちが仏弟子と呼ばれるに足る行いをしているかどうか、今も静かに問いかけられておられます。

■花まつりに寄て
桜前線はどこまで北上したでしょうか。東北の地も、また、美しく桜色に装われている頃かと思います。百花爛漫の春、4月8日は釈尊生誕の日。各寺院では、色とりどりの花で御堂を飾りお祝いをします。釈尊のご一生を思いますと、35歳でお悟りを開かれ、80歳でお亡くなりになるまで、45年の永きに亘り、一定の所に留まる事なく行脚をし、布教をされました。途中、ご病気になった事も、腰痛に苦しまれた事もおありであったと知りました。そして、最後のお供えを頂いた後に体調を壊され、その施主を恨む事もなく、安らぎのなか入滅されました。失礼を承知で申し上げるなら、釈尊は、大変謙虚で枯淡なお方であったと思います。「拈華微笑」は、迦葉尊者に法を伝えた時の様子を表わした語句ですが、私達に向けて、釈尊が花を示して下さったとします。それぞれがどのように解釈したらよろしいでしょうか。無心に咲く花のように、自らに与えられた使命を全うし、ご縁ある方々には、精一杯の気持ちで接するという事でしょうか。釈尊はこの世間を無常で、堅固でなく、実質のないものだと教えられたと弟子達は口をそろえています。わかりやすくいえば、世間は寄り合い、依(よ)り合い縁(よ)り合って成り立っているということです。生物であれ、無生物であれ、すべて依存して、つながり合って、それらが寄り集まっているところが世間です。世界は神が創造したと他宗教ではいいますが、釈尊は世間に存在するものはみな衆縁和合しているという道理を説かれ、みなかかわりと依存によって生滅しているから、形づくられたものはみな無常である(諸行無常)と説かれたのです。無常であるが故に、謙虚に我が身の一挙手一投足に気持ちを払い、縁ある方々には礼儀を尽して接してゆかねばなりません。大徳寺の開山、大燈国師の遺誡ゆいかいの中に、「光陰箭やの如し、謹んで雑用心ぞうようじんする事莫なかれ」とあります。矢は箭としるされておりますが、人生、最後まで、前へ前へと進まなければいけないよという教えではないでしょうか。大いなるものに抱かれあるという信心を持ちながら、「歩々清風を起こす」が如く日々暮らしてゆきましょう。  
 

 

■ひと息入れましょう
四月から新生活を始めた方にとって、五月病というのは実に厄介なものです。はじめは慣れない環境を乗り越えようと、必死に頑張る方も多いでしょう。ところが、ゴールデンウィークを過ぎた頃、脱力感や不安感に襲われて心身の不調を表わすことがあります。そんな時に「頑張れ」と声をかけられても、むしろ逆効果になるかもしれません。ここはひと息ついて、あるがままの自分を見つめてみてはいかがでしょうか。正しく自分自身を見つめるには、一旦立ち止まることが必要です。「正」という漢字は、「一」と「止」に分けられるのですから。禅において「ひと息つく」ということには特別な意味合いがあるのですが、それが誤解されていることも少なくありません。たとえば、禅の修行には「温石(おんじゃく)」という言葉があります。お釈迦さまの時代より修行僧の食事は、午前中だけと決められていました。そのため、夜になるとお腹が空き、体温が下がってきます。そこで、懐(ふところ)に温めた石を抱いて飢えや寒さをしのぎ、ひと息ついたのです。こうして修行に励んだことから、今日の「懐石」の語源になりました。もともと懐石料理は、一般にイメージされるような「高級な和食」という意味ではありませんでした。茶の湯(茶道)において、お腹を温めるくらいの料理のことで、お茶の味を楽しむための空腹しのぎに出されていたのです。それから「姑息(こそく)」という言葉も仏教からきた言葉です。「姑息だ」というと、多くの方が「ずるい」、「ひきょうだ」という意味で使っていますが、これは本来の意味ではありません。一説によると「小癪(こしゃく)」に音が似ていることから混同され、それが一般化していったといわれています。「姑息」はいくつかの経典に「一時しのぎをする」という意味で出てきます。この「姑」には「しばらく、とりあえず」という意味があります。つまり「姑息」というのは「ひと息つく」ことをいうのです。妙心寺の生活信条に「一日一度は静かに坐って 身と呼吸と心を調えましょう」とあります。腰にグッと力を入れて背筋を伸ばしてみてください。胸を張ってあごを少し引きますと、お腹を大きく使って息をすることができます。姿勢を正し、まず息を吐き切ります。すると、自然と大きく息を吸うことになります。そして、お腹の底から「ひとーつ」と、細く長く深く息を吐きます。この「息」という漢字は「自らの心」と書きます。身を調え、息を調えるというのは、即ち自ら心が調うということなのです。これは、何も坐禅をするときに限ったことではなく、日常生活の中で実践していただけることです。オフィスや学校の椅子に腰かけ、休憩時間に坐る。ほんの五分ぐらいの時間で行なうことができます。五月に入って、気分が落ち込んで体調が優れないという方は、坐禅の呼吸でひと息入れましょう。意外にもあっさりと五月病を吹き飛ばしてくれるかも知れませんよ。

■人の幸せを祈る心
五月下旬には、お寺の境内のヤマアジサイが開花いたします。このアジサイは日本原産の植物で、世界に紹介され様々な品種が生まれました。そのきっかけを作ったのは江戸時代に来日したドイツ人医師シーボルトでした。彼は、博物学者でもあり、日本の様々な植物を収集して、その中のホンアジサイに「おたくさ」と名前をつけます。この名前は彼が愛した日本人女性、お瀧さんから来ております。しかし、彼はシーボルト事件で国外追放処分となり、お瀧さんと幼い娘を残し帰国せねばなりませんでした。日本で収集した植物と共に帰国した彼は、「おたくさ」と名付けたアジサイをお瀧さんや娘のことのように懐かしんで大切に大切に育てたことでしょう。その彼の思いが通じたのか、三十年後に国外追放処分が解け再来日し、お瀧さんと娘と念願の再会を果たせました。これは、お寺の檀家さんのお話です。ある日、檀家さんがお寺に来られおっしゃいました。「両親は早くに亡くなりましたが、自分もようやく家庭を持つことができました。姉とは生き別れて二十年以上経ちましたが、あの時生き別れた姉のことが気にかかります。また姉と会いたい」。私が、「お姉さまがお寺に来られることがあれば、ご連絡が取れるのでしょうが......」と話しておりますと、母が一枚の新聞記事を持ってきてくれました。それはお寺の坐禅会が記事になった新聞の切り抜きでした。その記事には、その檀家さんがお母さまとお姉さまと一緒に坐禅をしているモノクロの写真がありました。三十年ほど前に家族一緒に坐禅会に来られていたのです。今は亡きお母さまと生き別れたお姉さまとの写真を見て檀家さんは大変懐かしんでおられました。「差し上げます」と言うと、大事に大事に持って帰られました。私は、いつかお姉さまと再会できますようにと念じながらお見送りいたしました。スッタニパータというお経にこのような言葉があります。
目に見えるものでも、見えないものでも、遠くにあるいは近くに住むものでもすでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。 (『ブッダのことば スッタニパータ』)
目に見えなくても幸せを祈ってくれている人がいます。遠くに住んでいても常に心配してくれている人がいます。今の私のこと、将来の私のことも気にかけてくれる人がいます。私達には幸せを祈ってくれている人がきっといるはずです。皆様は人の幸せを祈っていますか。人の幸せを祈る心、私達も育ててまいりましょう。

■真の学びとは −啐啄同時−
現代社会は、学校ではいじめが常態化し、スポーツにおいても体罰が当たり前のように行なわれ、さもそれが日本のスポーツの伝統と言わんばかりの言動が目に付いております。以前は、学校の先生やスポーツ指導者も、生徒や競技者を第一に考えた愛情という裏打ちがあって、共に考え、共に汗を流し、共に歩んでいったものでした。だからこそ、生徒や競技者が育ち、より良い後継者の育成にも繋がっていったのだと思います。今の世の中は拙速に、学校であれば、良い成績を残していかに優秀な上の学校に行けるか、競技者であれば、その努力の過程よりも成績だけが重視されるようになって、どれだけ勝てるか、を求めているようです。それゆえ、偏差値は上がったけれど、社会的には適応出来ない人間、競技者としての成績は優秀でも、後継者を育てる愛情を知らない指導者が多く見受けられるようになったのではないでしょうか。暴力や強制、体罰だけでは決して、人間としての精神自立は生まれません。我々、禅僧が学ぶ、『碧巌録』の中に「啐啄同時(そったくどうじ)」という言葉があります。これは卵から生まれようとする雛鳥が、殻を破ろうと内側からコツコツやるのを啐(そっ)といいます。また、親鳥が殻を破るのを助ける為に、外側からコツコツとやるのを啄(たく)といい、これが同時に行なわれてはじめて、無事に雛が誕生することを言います。指導者と競技者、先生と生徒、親と子など、他にも色々とあるでしょうが、「啐啄同時」。お互いが雛と親鳥のように、認めあっているからこそ、その時を見極める事が大切なのです。親は無理やり殻を破ってしまえば、雛は死んでしまうでしょう。雛も自分が卵の中で十分に育っていない時に、殻をコツコツしてしまえば、それもまた、死に繋がります。そのぎりぎりの所を捉えてこそ、最高の結果に繋がっていくのではないでしょうか。暴力や強制だけでは、養育とは言わず、教壊(きょうえ)と言い、無理やり押し付ける事によって、その人の良いところまで破壊してしまう事を言います。真の教育、人を育てる事は、互いの人格を認め合い、励まし合いそして、共に歩むという事によって成り立つのではないでしょうか。

■露に思う
近年、夏の訪れが早く、しかも長くなって、おまけに秋が短くなったとの印象を持ちます。6月に入梅すると、以前はしとしとと長雨が降っていたものです。それが今では集中豪雨か空梅雨か、ということになってしまいました。しかしそれでも雨が降る時には、露草の花弁の青が一層鮮やかに映えます。とりわけ雨後の露が露草の花弁に宿る時、日の光を受けてキラキラ輝くさまは本当に美しいですね。しかしその美しさは長く続きません。露のいのちがはかなく、すぐに蒸発して消えてしまうからです。弊寺は、同じ玉野市内にある禅寺・久昌寺の別院として平成元年にスタートし、同18年に寺院設立しました。その久昌寺の二十世であり、また弊寺開山住職でもあった豊岳明秀和尚は、「露」に関して平成7年に、「戦後五十年の節目に脳梗塞の発作に見舞われ、幸い軽微な症状ですみましたが、夢まぼろしの世の中に露のいのちをいとおしむ毎日が、これからあの世までずっと続くのだ、という諦観の明け暮れなのであります。」と言ったことがあります。また、お参りバスのご一行が予定より1時間以上遅れて到着されたことがありました。明秀和尚は山門の下でずっと待っていました。きっとお参りの方々の来訪を「露のいのちをいとおしむ」ような気持ちで待っていたのでしょう。笑顔を浮かべながら待っていた和尚を見たお参りのご一行は、大変びっくりされながらも大層喜ばれました。 また、「露」の字を含む禅語に「明歴々露堂々(めいれきれき ろどうどう)」があります。「明らかなことは歴然としていて、露(つゆ)が堂々としている」と受け取ってしまいがちですが、ちょっと待って下さい。冬、外気温が下がった時、窓の室内側には露(つゆ)が結びますね。空気中の目に見えない水分があらわれてきて結露します。露には「あらわれる」という意味があるのです。ですからこの禅語は「明白々赤裸々で一点かくす処なし。露はアラワレル意。(『禅林句集』)」ということなのです。この禅語に関して、次のような明秀和尚のエピソードがあります。平成20年10月26日、弊寺で行なわれた御詠歌の稽古の時、床の間にかけてある、自身が揮毫した掛軸の禅語「明歴々露堂々」を見て、破顔微笑しながらこう言いました。「めいれきれき、ろどうどう、かぁ。ありゃ、久昌明秀となっとりますなぁ。久昌明秀いうたら私のことですがぁ。桃栗三年柿八年、達磨は九年、わしゃぼけ通しですらぁ」これを聞いた一同は、思わずどっと笑いはじけました。明秀和尚はこの三ヶ月後に世壽八十八で遷化しました。自分の認知症の症状が進んできても、何も隠すことなく臆することもなしに、全てをさらけ出していました。そして時には自分を客観化し笑い飛ばすユーモアも発揮しました。このようにして人生の最晩年に、「明歴々露堂々」の境涯を周りの者たちに示しました。

■移ろいゆく心
梅雨です。紫陽花がとても綺麗に咲いています。雨の日などは特に鮮やかに見えます。色とりどりに咲く様は時に移ろいゆく人の心にも例えられ、花言葉は 「移り気」といいます。紫陽花の色は土壌のpH(酸性度)によって色が変わるそうで、同様に人の心も環境によって変化します。どちらもあるがままでとどま ることがありません。室町時代の禅僧、一休宗純禅師(1394〜1481)は、移ろいゆく心の真理を端的に示しています。
いずれの時か夢のうちにあらざる いずれの人か骸骨にあらざるべし  (『一休骸骨』)
人生はことごとく夢まぼろしである。私達の体も、ひと皮むけば骸骨でしかない。人生の真理を「骸骨」で表現し、どんなに着飾ってみても、ただひと時夢に酔って浮かれているにすぎない。心の本質は、あるがままでとどまることがないということです。臨済宗の修行道場では、夏は麻衣、冬は藍染めの綿衣を着て修行をします。衣は長年着ていると色褪せてきます。衣の色が浅ければ浅いほど修行年数が長いということです。僧堂に入りたての頃、濃紺の衣を着ていた私は先輩方の着る色褪せた衣に憧れていました。浅はかにも、無駄に洗濯を重ね色を落とそうとしたことさえあります。そんな衣を身にまとい、ハクがついたと満足していました。ところがある日、修行歴の長い先輩が、突然真新しい衣を着るようになりました。それを見た私はとても驚き、まるで新入りみたいだと思いました。真意をお聞きするとその先輩は「あまりにも古くなったので、新しい衣に替えたのだよ」と答えられました。その先輩には色褪せた衣に執着する心は全くなかったのです。自分が本当に憧れるべきものは、色褪せた衣ではなく、先輩のとらわれない修行姿そのものなのだと痛感させられました。恰好よく見えた色あせた衣。骸骨が被る皮。それらは一つの物でしかありません。本当に大切なのは真摯に修行する心であり、着飾ったり驕ったりせず、日々を 大切に過ごす事なのです。植えられる場所を選べない紫陽花とは違って、我々は己の環境を自分で変えることができるのです。鎌倉建長寺内の西来庵開山堂(拝観不可)には、ご開山蘭渓道隆禅師(大覚禅師)の示寂後間もない頃に作られた尊像があります。その飾らない姿は禅僧そのもので、今でも私達を厳しく見守ってくださっています。本年(平成25年)建長寺は、開基北条時頼公の750年遠諱を迎え、来年(平成26年)には、開山蘭渓道隆禅師の生誕800年を迎えます。その遺徳を偲びお参りいただければ幸いです。

■天下の人の与(ため)に蔭涼とならん
七月に入り、緑陰の涼しさが肌に心地良く感じられる季節となりました。掲題の禅語は、『臨済録』に収められております。臨済宗の宗祖である臨済禅師がまだ修行僧であった頃、厳しい修行を行なっているにもかかわらず、どうしても次の段階に進むことが出来なかったときに、心配した兄弟子である睦州和尚(ぼくしゅうおしょう)が、師匠である黄檗禅師に、「彼は必ず一株の大樹となって天下の人に、包み込むような緑陰の涼しさをもたらすでしょう。彼が辞めたいと言ってきてもどうかご指導をお願いします」と進言したという話にある言葉です。就職をし、2〜3年経った頃のことです。ふと縄文杉を見たいと思い立ち休日を利用して屋久島に向かいました。鹿児島から船に乗り、屋久島の港に着きました。宿泊先であるユースホステルに向かうバスの中で、港で手にした地図を広げ確認すると、宿から縄文杉への登山口まで大変な距離があることに気付きました。私は勝手に屋久島を小島と勘違いし、島のどこからでも縄文杉を見ることが出来ると思い込んでいたのです。乗客の方に質問をすると、やはり思った通りで、早朝は宿泊場所から登山口までの交通機関がありません。自らの軽率さを責め、せっかく来たのにどうしようと頭を抱えていると、その様子を察した一人の方が声を掛けてくださいました。「おじちゃんが明日の朝、車で迎えに来て登山口まで送ってあげるから、心配しないでいいよ」。翌日まだ夜も明けきらぬ頃、宿の前で待っていると、その方が真っ暗な闇を切り裂いて迎えに来てくださり、登山口へと送ってくださったのです。そして、何とか縄文杉をこの目にすることが出来たのです。迎えがなければ、その日の内に下山まで終えることは難しかったでしょう。長い年月を歩んできた大樹の包み込むような緑陰の涼しさとともに、木漏れ日のようなおじさんの優しさもまた私の心と身体に癒しをもたらしてくれたのです。私たちは木陰で和むとき、その涼しさにのみ心を奪われがちですが、ふと思いを巡らせますと、その一株の大樹が枝と葉を生い茂らせるまでに成長する過程で多くの物語があったことに気付かされます。改めて、掲題の禅語を味わってみますと、そこには臨済禅師が現在まで続く臨済宗の宗祖という一株の大樹となられるまでに、色々な方に支えられながら成長していった様子を窺い知ることが出来ます。世の人全てに緑陰の涼しさをもたらすことはなかなか出来る事ではありませんが、せめて目の前で困っている人だけにでも自分の出来る範囲で手を差し伸べたいものです。
咲いた花見て 喜ぶならば 咲かせた根っこの 恩を知れ (出典不詳)
緑陰の涼しさに一息ついた後は、その根にある温もりに思いを馳せるのも向暑ならではの楽しみではないでしょうか。

■「災害と向き合って」〜希望の灯火〜
釈尊には舎利弗と目犍連という高弟がおり、このお二人を跡継ぎにしたいとお考えだった。しかし目犍連は暴漢に襲われ、また舎利弗は突然の病によって急死する。釈尊のお悲しみは深く「今私は二人の思い出にのみによって生きている」とまで仰る。『大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)』
"親しい人を先に亡くす"という苦しみの中に生きていることにおいては、大いなる悟りを得た釈尊も我々と同じなのだ。ただ釈尊が違うのは、理不尽に襲いかかる悲しみの中にも、取り乱すことがなかったということだ。「まるで光を失い、真っ暗闇に落ちたようだ。そういう時でも、足下を照らし歩かねばならない。自分自身を灯明とし、他人ではなく、正しい教えのみを頼りに、生きなければならない」。心を常に正しく保ち、自分自身の力で生きていく。この教えは"自灯明法灯明(じとうみょうほうとうみょう)"と呼ばれ、仏教徒の希望の明かりとなっている。先の大震災で被害の大きかった南相馬市に「相馬野間追(そうまのまおい)」という祭がある。騎馬武者が町を駆け抜ける勇壮な祭だ。毎年祭に参加してきたKさんは、奥さんと長男一家を津波で失う。「自宅にいた私を皆が心配して探しに来てくれたんだ。それで波にのまれたとすれば、私が殺したようなものだ」と、生きる希望を失っていた。しかし自宅跡から掘り出した祭の旗印を手にした時、受けついだ行事を絶やしてはならないという思い、同じ悲しみを背負った沢山の人々の思い、そして家族の笑顔が胸に蘇る。やがて悲しみを振り切って、Kさんは祭に復帰する。「おとうさんはね、一人でもがんばるからね」。絶望で真っ暗だった心に、再び明かりが点ったのだ。涙をこらえることは出来ないが、失われた御命に恥じぬように生きていこうという決心。即今只今に生きる、強く美しい命の姿だ。震災から二年半。一度は消えてしまった被災者の心に、再び明かりを点すのは容易ではない。しかし心に希望の光がなければ、本当の復興にはならないのかもしれない。我々に出来ることはなんだろうか。それは、一度消えた蝋燭に、もう一方の蝋燭から移し火をするように、希望を吹き消された人々の心に、私達の心をぴったりとよりそわせ、再び希望を点してさしあげることだ。東北の悲しみを忘れずに、いつでも思いを致し、真摯に向き合い続けようとすることで実現する心の移し火を、私たちが望み、叶えようとし続けることだ。遠く離れた地からも受け渡されていく「心の灯明」は、いつの日かきっと被災地の方々の心に明るい光を与えるものになるはずだ。そのためには、常に私たち自身が「自灯明法灯明」を掲げ、いつも正しく釈尊の教えと共に元気で生きなければならない。己の心の明かりは輝いているか、毎日のお参りで確認しようと思う。それこそが未来へと受け継ぐべき、希望の灯火に相違ないのだから。

■亡き人を通して、自らをしる
お盆月になりました。全国的には、休暇や旧暦との関連で、月遅れの八月ですが、東京や静岡等では、新暦で行ないます。この季節になると、亡き 人が浮かんでまいります。病に倒れた後、障子の窓越しに天眼鏡で本や新聞の文字を拾っていた師父の姿が現われるのです。老いと病の中で、一日を懸命に生き ていたことが、その年齢を超えてみて、如実に伝わってきます。それまで"老人の医者通い"と揶揄して話してきたことが、他人事ではなくなりました。建物が 古くなると、配管等の設備が腐蝕して修理しなければならないように、身体の内部があちこち綻んできたことを身をもって知らされます。また、下り坂は、下る ほど、スピードが増しますから、踏ん張る気力が必要であることも......。それに引き換え、上り坂は違います。三才の孫が、旺盛な好奇心を 持って、「おじいちゃん!どうしてなの?」と質問を連発してきます。「ティーピーピーってなぁに?」。好きな乗り物のことかと思っていると、今話題 の"TPP"のことでした。勢いにまかせて坂を上っていく彼が、やがて人生には更に意欲と努力がいることを、師父の在りし日々を聞いて知らされることで しょう。足腰の衰えを急速に感じ、思い切って生活様式を変えることにしました。座る和式から、洋式の生活に住構造を転換することにしたのです。RC構造は、密閉性 にすぐれ、部屋が独立した空間になることはわかっていたのですが、隣の音が耳に入るホテル程度の感覚しか持ち合わせていませんでした。住んでみると、全く 違いました。外部の音は完璧に遮断されて、坐禅には最適かと思っていたのですが、何かしっくりしてこない。窓ガラスを一杯に開けて外の空気を入れ、ドアを 開け放してみて、かえって落ち着いてきました。考えてみれば、禅堂も障子を開け放して、自然に肌で触れているのです。プライベートには好都合で も、音も周囲も気にせずにいられますから、極端に言えば、自我が肥大しやすい構造です。それに対し、障子越しに自然や人の気配を察するのが、畳や障子の生 活です。人の息使いを感じ、樹木や花、風や雨などの微妙な変化を感受する力を自然に備えさせてくれます。「観音さまは、三十三身となって身を現ずる」と、「観音経」に説かれています。今、観音さまが観える自分であるか、自らを見つめます。夏の日射しに照らされた水面に輝く睡蓮に、はっとして、その感動に生きていることの喜びをかみしめています。孫が、祖父である我が生きざまを胸にしては、自らをしる心の眼と耳を磨ける豊かな日々を過ごしてくれるよう念じつつ。

■みんながなかよくなるために
「なんでお遊戯をするの?」 「みんなが仲良くなるためですよ。」 「なんで規則正しい生活をしなければいけないの?」 「みんなが仲良くなるためですよ。」 「なんで働かなくちゃならないのかわからない。」 「みんなが仲良くなるためですよ。」 「坐禅をする理由がわからない。」 「みんなが仲良くなるためですよ。」 
今年も家族が集まって お墓参りに来てみたら 出てくる出てくる いろんなお話し 楽しいことや嬉しいこと 悲しいことや辛いこと みんながみんなそれぞれの こころの内をお空の向こうへ そっとそっとお空の向こうへ おじいちゃんが教えてくれた おばあちゃんが教えてくれた 
「みんなが仲良くなるために」 「みんなが仲良くなるために」
昔は意味も分からずに 首を傾げていたけれど お墓の前ではなんとなく お空の下ではなんとなく 黙ってこの手を合わせたら なんだか分かる気がします 
「みんなが仲良くなるために」 「みんなが仲良くなるために」
合掌

■おもいやり
ここで問題。その昔、情け深き武将が用いた槍は、重かったか軽かったか、さて、どちらかな?答え、"情け深い"は、"おもいやり"に通ず。正解は、「重い槍」でした。なーんてネーー。
日本列島大移動の現象が起きる時節の一つに盆休みがある。車、車で道路が大渋滞、電車は混み、飛行機もまたしかり。観光地も人で溢れる。盆休みと云うが、お盆の意味はどこへやら、単に夏休み。日頃休みが取れない人たちがこの時ぞと出かけるのも解らなくはないが......。中には故郷へ、親元へ、そしてご先祖の墓参りを忘れない人もあろう。地方によっては、お盆に"精霊棚"を飾り先祖の御霊を迎え、先祖を偲ぶ風習がある。「お家はここですよ」と目印に迎え火を焚き、甘いぼた餅を供えるのは、長い旅の疲れを癒す心遣い。きゅうりを馬に見立て「一刻も早く我が家へおいでください」と早馬を用意。そうめんを供えるのは、一説に、子孫が細く長く栄える様にとの願いから。送り火を焚き、名残を惜しみゆっくりお帰りと、牛に見立てたナスを飾る。お供えするもの一つ一つに、思いが込められ、家族揃って掌を合わせる事が、知らず知らずの内に他を思いやる心を育ませている。忘れていませんか? 生かされて存る私達、祖先から受け継いでいる命を、そして、人間本来の「まごころ」を。マラソンでは、幾度か給水ポイントが設けられている。我々の人生のマラソンにも、時折それが必要であろう。さあ、一年の内の給水ポイント、このお盆。心に水分と潤いを、楽しい旅と共に!近年、他を思いやる心が薄らいで、自己中心人間が目に付きます。どうぞ、おもいやりの運転で道中お気を付けて......。  
 

 

■夏に涼風あり
八月は炎天三伏の候、私の在所である山梨県の甲府盆地は、連日三十五度を超える猛暑日。人間も草木も動物もグッタリしている酷暑の日々にあって、時折吹く涼風には、何とも言えない心地よさを覚えます。中国宋代の禅僧、無門慧開和尚は、その著『無門関』に次の言葉を残しておられます。
春に百花有り、秋に月有り、夏に涼風有り、冬に雪有り。もし閑事の心頭に挂(か)かる無くんば、便ち是れ人間の好時節。
春に咲く花の美しさ、夏の涼風など、四季のプラスの面を眺めれば、この世は極楽。反対にマイナス面だけを眺めれば、この世は地獄。しかし「プラスだのマイナスだのにとらわれることは、閑事(無駄ごと)である」と無門和尚は戒めます。数年前、Kさんという女性の葬儀のご縁を頂きました。Kさんは、20歳で結婚、4人の子供を授かりますが、夫と家族から執拗ないじめを受け、子供とともに家を追い出されるようにして離婚。わずかばかりの畑を朝から晩まで一所懸命耕し、4人の子供を女手ひとつで育てました。辛苦の多い生涯ながら愚痴は一切口にすることなく、そんな状況すらも楽しんで生活していたそうです。「母は離婚後、仏教と出会ってから特に、辛さも苦しみも正面から受け止め、その時に出来ることを精一杯やることで、心を養っていたのかも知れません」と、ご遺族がお話して下さいました。晩年は、少しでも人様のお役に立ちたいと東奔西走されますが、恩に着せることも自慢することもなく、人生の酷暑の真っ只中にいる方々にさっと手を差し伸べ、涼風を残して去っていく、そんな生き方をされたそうです。Kさんは、70年以上過ごした小さな住まいで、家に入りきれないほど多くの人に囲まれて97歳で静かに息を引き取られました。前述の無門和尚の言葉の「好時節」とは、決して不幸や苦しみと無縁の人生を指すのではないと私は考えます。古代文字の甲骨文等で「好」という漢字に、母が子を抱きしめる形が見られるように、人生における全ての縁を大切に抱きしめ、自分らしく受け止め、何かを学び、発見し、自分のものとしていく生き方を示唆する教えではないでしょうか。そんな生き方が自然に身についたその先に、その人の足元から清らかな風が起こるという禅の境地が生まれるのかも知れません。酷暑の今夏、熱中症の心配もありますので無理は禁物ですが、せめて夕方になったら外に出て、夏の涼風を感じてみたいものです。
よし(葦)あし(葦)の 葉をひっしひてし 夕涼み  白隠禅師
日常のよし(善)あし(悪)の出来事をひとまずは手放して、静かに夕涼み。そこにもまた、真実が存在するように思うのですが、いかがでしょうか。

■龍野の赤とんぼ
思わず「うるさぁい!」と叫びたくなるような蝉の声も、いつの間にか聞かれなくなりました。皆様いかがお過ごしでしょうか。私がお預りしております兵庫県たつの市(旧龍野市)にある宝林寺は、臨済宗大徳寺派本山、大徳寺の開山宗峰妙超禅師(興禅大燈国師・1282〜1337)の生誕地を記念して建立されたお寺です。大燈国師には、花園天皇の皇后をはじめとした女性の参禅帰依者も多くおられ、また大徳寺山内には、女性が開基に係わる塔頭(寺院)が点在しています。「天然の気宇王の如し、人の近傍する無し」と称せられる国師の剛毅、峻厳、枯淡な宗風の根底には、どこまでも懇切に説き来たり説き去る為人度生(いにんどしょう)の大誓願が流れていて、それが自然に女性を引きつける魅力となっているのかも知れません。そしてその源には、11歳の時にその元を離れた母、武将赤松円心の姉とも伝えられる慈母への思慕の情が少なからずあるのではないだろうかと、ひとり勝手な想像をたくましくしております。龍野は、大燈国師の故郷であるとともに、「赤とんぼ」の故郷でもあります。
夕焼、小焼の、山の空 負われて見たのは、まぼろしか  (1番の歌詞)
三木露風33歳の大正10年8月号の児童教育雑誌『樫の實』に「赤蜻蛉」と題し発表されましたが、同年12月に発行された童謡集『眞珠島』では、
夕焼、小焼の、あかとんぼ 負われて見たのは、いつの日か (1番の歌詞)
と改められています。露風は、播磨の小京都、龍野の出身で最近生家が整備公開されていますが、この詞は北海道のトラピスト修道院で文学の講師をしていた時に(この頃から詞に宗教色が強まっているそうです)、窓の外の赤とんぼを見て郷里の幼少期を思い出して作られたということです。「赤とんぼ」には、夕陽、郷愁、郷里の自然、そして母への思慕......、山田耕筰のあのメロディーと相俟って、私達の琴線に触れる要素が凝縮されているのです。日本の童謡人気ナンバーワンの座を保ち続けているというのも頷けます。日本人の心の故郷には、いつも赤とんぼが舞っているのかも知れません。
夕やけ、小やけの、赤とんぼ とまってゐるよ、竿の先   (4番の歌詞)
童心に返って、無心に口ずさむ時、私と赤とんぼはひとつになり、時間空間の束縛を脱して、永遠無限の光明に照らされて舞い上がり、そしてふと気がつけば明歴々露堂々と竿の先にとまっているのです。夢かまぼろしか。今、此処で、まさに大燈国師や露風が眺めた原風景の中に私も立っているかのような思いに駆られるのです。記録的な猛暑も和らぎ、秋彼岸の時節となりました。皆様呉々も御自愛の程お祈り申し上げます。

■大きな忘れもの −大いなるものへの畏怖−
私の寺の檀家に、おやっさんという明治の女性がいました。長寿日本一になり、14年前に114歳で天寿をまっとうされた方です。何を見ても「ありがたい、ありがたい」と掌を合わせ、「天知る、地知る、人が知る」が口ぐせでした。一昨年の夏、リトアニアで、彼女の口ぐせをかみしめる経験をしました。リトアニアは旧ソ連から独立して、バイオテクノロジーで経済成長し続けていますが、庶民の生活レベルはまだ苦しい国です。首都ヴィリニュスに滞在中、日に4、5本しかない列車で100キロ離れたカウナスに出かけた日のことです。ここは「命のビザ」で有名な杉原千畝の記念館がある街です。杉原は、第二次大戦中、ナチスに追われたユダヤ人たちの求めに応じ、本国の意向に反してまで手書きのビザを発行し続け、彼らを救った外交官です。一日カウナスで過ごし、帰りの列車に揺られていると、車掌さんがやってきて、こう尋ねました。「クレジットカードを持っているか」。なぜクレジットカードの有無を確認するんだろう。つい身構えてしまいました。それでも念のためショルダーバックを確かめると、中にはカードはおろか財布すらありません。駅までのタクシー代を支払った時には確かにあったのですが。事の次第はこうでした。「タクシーの運転手から連絡があり、客が後部座席に財布を見つけたとのこと。たぶんその前の客が落としたものだろう。前の客は東洋人の夫婦でヴィリニュスに戻ると言っていたから、この列車に乗っているであろう。往復のタクシー代を支払ってもらえるなら、ヴィリニュスまで届けるがそれを確かめてほしい」。私は二つ返事で頼みました。もう取りに戻る列車はなかったのです。ヴィリニュスに着くと、鉄道警察の方が「のどは渇かないか」、「お腹は空かないか」などと、細々と気を遣ってくれました。やがてタクシーが到着しました。初老の運転手は「きっと困っているだろうから飛ばして来たよ」とにこやかに、「財布の中身を確かめてほしい」と言いました。請求されたのは往復の料金だけ。チップも謝礼も受け取ろうとはせず、「客が"財布が落ちてるよ"って自分に渡してくれたから」と当たり前のことをしただけという感じです。何とか強引にお礼を渡して感謝の言葉を繰り返すのが私たちのできた精一杯でした。リトアニア人は8割がカトリック教徒で、人情がとても厚く、滞在中、胸熱くなる経験を重ねるにつけ、私が子供の頃の日本を思い出しました。40年前、インド留学中に、在駐の銀行マンに言われたことがありました。「日本人は大きなものを忘れてしまったね。ここにいるとそれがよくわかるんだ。君はお坊さんなんだから、頑張れよ」。日本人の忘れものはその当時よりさらに深刻になっています。リトアニアの旅はあらためてその忘れものに気づかせてくれた旅でした。当たり前のことを当たり前にする。おやっさんの口ぐせのありがたみに合掌です。

■こんなとこにも「尊いいのち」
暮れ時、トンボが本堂に紛れ込んできた。外に出たいのかバタバタしながら、あちこちに身体をぶつけている。私も助けたいと思うがうまくいかず戸窓を開けとくしかなかった......。今年の夏は暑い。それでもうるさいほど鳴いていた蝉がだいぶ落ち着き、夜にはコオロギやスズムシの声が聞こえだした。暦の上では白露。草に降りる露が寒さで白く見えるという。確かに暑さの中に秋を身近に感じることができる。夜明けも遅くにやってきて、目覚めから汗ばむこともなくなった。私を含め、森羅万象、ほっと一息ついているよう。物思い耽るには最適だ。あれは六月の初旬のことでした。富山県にある大本山国泰寺へ訪れ、管長様の虚室老大師にお会いする機会を得ました。緊張のあまり形ばかりの挨拶を済ませ頭を上げると、それを察してか管長様は気軽に声をかけて下さいました。「布教師さん、今日はお茶会も開いているので一服いただきに参りましょう。」と言われるままに裏手の茶室を尋ね、抹茶を頂きながらしばらく談笑していると、緊張も和らいできます。そんな気分の中、茶室をあとにし帰り際、管長様は参道の片隅に咲いている一輪の花に目を向けたのです。「おうおう、エサもやらんのに良く咲いてくれたなあ」と。その時は「えっ!」と一瞬思い、とてもお茶目で微笑ましい一言に感じられただけでした。でも、よくよく考えると、誰が道脇の名も知れない花に目を向けるのでしょう。現にお茶会に行き来する方達は誰も気がつかないでいました。それなのに管長様の一言はけなげに咲く花に労いと愛おしさを感じていたのです。また「エサもやらんのに」という言葉も、味わい深く、植物の「いのち」というより、もっと尊い「いのち」として花を見ていたにちがいありません。盛夏から残暑にかけて遠慮ない暑さにいらだちを感じていれば気づかないことも、ほんの一息つくだけで、素晴らしい教えがあったと気づけるのです。翌朝、本堂に行ってみると昨日のトンボは既に死んでいました。トンボの「いのち」を尊い「いのち」と感じることはまだまだ私にはできませんが、それでも「外に出たかったろう」と思いを馳せることはできました。これから秋を迎え、トンボどころか蝉やコオロギの声も聞こえなくなっていくでしょう。「虫たちのいのち」に尊い命と思えるような感傷的な気持ちになるのも秋さながらの風光と思いつつ、夏の疲れが出たのか、物思いに耽るのが飽きたのか、ウトウトと眠気が襲ってきました。これもまた秋の良き風光か?まだまだ私、修行が足りません。

■子供が遊ぶように...
「ぞうさん ぞうさん おはなが ながいのね〜」。童謡「ぞうさん」で知られる詩人のまどみちおさんが、その著書『いわずにおれない』でこんなことをおっしゃっていました。
この世の中には生きものがごまんといますが、みんなそれぞれに違っている。もし同じだったらつまらないし、なんの進歩も発展もないでしょう? 違うから素晴らしいんですよね。(中略)人と比べて自分のほうが偉いように思ったり、逆にダメなように感じて人をうらやんだり、人のマネをしたりするのは、一生懸命でない証拠なんじゃないかなぁ。小さな子どもは遊ぶとき、それに没頭して無心で遊びます。あんなふうに、自分の目の前のことに一生懸命取り組んでおれば、つまらんこと考えとる暇はないと思うんです。
思わずドキッとしました。自分の人生を振り返ってみると、思い当たることがたくさんあって・・・・・・。
老いぞとて 心ゆるすな 名ぞ立たん 我が住む処(いお)は 姥懐(うばがふところ)
こちらは臨済宗の御本山の一つ、方広寺を開かれた無文元選禅師がお詠みになった和歌です。奥山流御詠歌教典の解説によれば「老齢になったけれど、名をけがさぬよう、心を引きしめて日をおくろう。私の最後の処世(世わたり)は姥懐」という意味になります。ちなみにこの歌に出て来る「姥懐」とは、禅師が晩年を過ごされた方広寺がある、浜松市引佐町奥山付近の古い呼び名であります。しかしこの和歌が示す「姥懐」とは、実は単に土地の名前を歌っているだけではないのです。おばあさん(姥)の懐に抱かれ安らかに過ごすのは誰でしょうか。それは赤ちゃんです。赤ちゃんには大人のような分別はありません。無心に泣き、無心に笑い、無心におっぱいを飲む。自分と他人を比較して悩んだり、過去の失敗を引きずったり、未来のことについて不安に思ったりしません。いつもただ「今」を一心に生きています。しかし、私たちは大人になるにつれ、「勝った、負けた」「損した、得した」「自分と他人」といった分別を身につけ、いつのまにかその分別にとらわれるようになります。その結果、自分よりも良い環境にある人を羨んでみたり、自分よりも成績の悪い人を低くみたりすることもあるでしょう。また過去の失敗をいつまでも悔やんだり、未来への不安に押しつぶされてしまったり、ということもあるでしょう。そんな失敗をしがちな私たちに「成長してから覚えた分別にしばられないようにしなさい、赤子のように、無心に『今』を生きなさい」ということを開山様はこの和歌を通してお伝えになられたのです。さて、今日の私は子供が無心で遊ぶように、いま目の前にあることに一所懸命取り組んでいるでしょうか。赤ちゃんのように『今』を一心に生きているでしょうか。時々は一息ついて、自分は「今を生きているか」、見つめなおしてみませんか?

■いのちは時間
猛暑の夏も去り、朝夕と肌寒く感じる今日この頃、日増しに秋も深まってまいりました。ついこの間お盆を迎えたと思ったら、いつの間にかお彼岸も過ぎ、早や10月。月日が経つのは本当に早いものです。禅語に「生死事大 光陰可惜 無常迅速 時不待人」とあります。生死は事大、あっという間に時間は過ぎ去って行く、全ての事は移ろいゆく、 時は人を待ってはくれない、そのような意味です。私は今年で40歳を迎えました。このごろは一日一日が、瞬く間に過ぎていきます。ボヤっとしていると、いつの間にか人生の終焉を迎えてしまいそうです。人生時間というのをご存じでしょうか。人生を1日の24時間であらわし、長い人生を短い時間に置き換える考え方です。自分の歳を3で割ってみると、自分の今、生きている人生の時間がわかるといいます。私は今40歳ですから、3で割ると、13.333・・・・・・です。ちょうど、午後1時を回ったところです。そう考えてみますと、自分の残された人生の時間をどう使っていこうかと真剣に考えます。10月4日に満歳を迎える現役の医師で、聖路加国際病院理事長の日野原重明先生という方がおられます。先生は、全国の子どもたちに命の大切さを教える「いのちの授業」をされています。その授業では、実際に聴診器を使って、お友だち同士で心臓の鼓動の音を確認させます。その後に先生が生徒たちに問いかけます。「皆さんのいのちは、どこにあると思いますか」子どもたちは、みなそろって、「心臓がいのちです」と答えます。「心臓というのは、命を保つために血液を全身に送りだすポンプに過ぎない、心臓がいのちそのものではありませんよ」と先生は答えます。では、いのちの実態とは何でしょうか。目に見えない、形がない、いのちとは、自分の使える時間のことだと先生はおっしゃいます。なるほど。そう考えてみれば、私たちはオギャーと生まれてから、刻一刻と死に向かって生きています。1日生きれば、1日死ぬということ。まさに、「生死は事大 光陰(時間)惜しむべし 無常は迅速 時、人を待たず」。いのちは時間だといえます。その時間は、皆に平等に与えられています。その時間をどう使うかは、私自身です。まだまだと思っている間に、時は過ぎ去っていきます。時間に使われるのか、自分が時間を使っていくのか、過ぎ去る日々を前に思いをめぐらせます。今、このときを大切に。

■素顔の心で
11月に入り、めっきり秋らしくなってまいりました。過ごしやすい気候の中で、ご自身の趣味などに打ち込まれるには絶好の時期ではないでしょうか。さて、秋の訪れとともに建仁寺に拝観に来られる方の中で、写経を希望される方が増えてまいりました。写経とは文字通りお経の一文字一文字を浄書することによって、自らの心に「仏のおこころ」を写していただくというひとつの「行」です。『六祖壇経』というお経の中に「常行一直心」(常に一直心を行ず)という言葉が出てまいります。「直心」とは素直で嘘偽りのないまっすぐな心をさします。すなわち「常に純粋でまっすぐな心をもって何事にもあたりなさい」という意味です。昨年、私が住職をするお寺の檀家様で、幼いお子さんを亡くされた方がおられました。葬儀を終えた後も、その方は大切な我が子を亡くされたショックで非常に憔悴しきったご様子でした。そんな彼女に対して私は「亡くなられた子供さんの御供養のためにも、是非お書き下さい」と申し上げ、写経用紙をお渡ししました。写経と聞いて最初は難色を示されていた彼女も、薄く書いてある経文をなぞるだけでよいということを聞き、お持ち帰りになられました。そして翌月の四十九日法要の際に彼女は再び来山され、写経用紙を持ってこられました。先月来られた時よりは幾分表情もやわらかくなってはおられましたが、写経を見せて頂きますと、文字をなぞることも困難な様子で、枠からはみ出した字も多く見受けられました。それから、彼女はお子さんの月命日には必ずお寺にお参りされるようになり、その都度お写経も奉納されるようになりました。すると、お会いするたびに彼女の表情が明るくなり、何よりも写経が以前とは比べ物にならないほど美しくなっていました。あれだけ枠からはみ出していた文字も美しく整い、字の太さも均一に書かれるようになっていました。彼女は、「一字一字心を込めて書かせて頂いているうちに、不思議と心が静かで穏やかになってくるのがわかりました。今思えば私は家族、親戚、友人、恩師等多くの方々から心を配ってもらい、支えられていました。今はそんな方々に対して何か恩返しがしたい」と言われていました。彼女は写経という「行」をひたすら続けていかれる中で、お経の一文字一文字を「仏のおこころ」と信じて、ご自分の心に写していかれたのです。そして、自らの心に一筋の光を灯され、自らの「仏のこころ」に気付かれたのではないでしょうか。そして、苦しんでいる自分自身を親身になって支えてくれた方々への感謝の念が自然と心から湧き出でてきたのです。彼女のこの心こそ嘘偽りのない純粋でまっすぐな心、「直心」に他ならないのです。皆様も機会があれば、心静かにお写経をして頂き、自らの素直でまっすぐな「直心」を見つめて頂ければと思います。

■おかげさま
今月は"感謝"の月です。それは勤労に対する感謝であったり、農作物の収穫を終えての感謝であったりします。私共の寺でも開山忌に合わせて、ご先祖に対する報恩の供養をお檀家の皆さんと行なう月でもあります。私たちは生まれてから今日まで、多くの方々とのご縁や自然の恵みの中で生かされています。この事実を心で本当に感じる時、「おかげさまで・・・・・・」と自然に言えるのだと思います。御陰様という言葉には必ず、「自分以外の何かによって、自分に幸せをいただいている」という事が含まれています。そこに気づいてこそ「おかげさまで」、「ありがとう」という感謝の気持ちが言葉で表現できるのです。ある新聞の読者コーナーに「感謝」というテーマで19歳の若者が投書していました。「感謝というものは、親や他人に強要されるものではない。自分が納得してこそ感謝の気持ちになれるものである」。なるほど、そうだなぁと思っていましたら、数日たったある日、今度は別の20歳の若者が投書の中で反論をしていました。「いつだったか、感謝の強要は感謝でないとありましたが僕は違うと思います。親や他人はわけもなく感謝を強要しますか?・・・・・・すなおに受けるべきです」。この二人の若者はたった一歳しか違わないのに、その考えがまったく違うのです。なぜでしょうか。人間の心は本当に不可思議なものです。生まれた時は誰しも真っ白で純粋な心であったのに、いつの間にか、その考え方が違ってきます。その原因はどこにあるのでしょうか。心とはいったい何でしょうか。『般若心経』というお経は、こうした心を「無」とか「空」と表現しています。もともと心は生まれたり滅したりしない。増えたり減ったりしない。しかし長い間に色々な心がつきまとってしまい、本来の心が見えなくなってしまうことを説いています。般若心経では、そこを「とらわれない心、こだわらない心、すなおな心」と教えています。人間誰しも欲にキリがありません。しかし、「あっ!足りている」と思えば、そこに「ありがたい」と素直に言えるのです。私たちは、日常生活の中で、ただ利便性だけを求める生活から、たとえ不便であっても自然の中で、その恵みに感謝できる「知足」のくらしをつづけたいものです。
かんしゃくの 苦(く)の字を取りて 暮らしなば  いかにこの世が 楽しかるらん

■予期せぬ出会い
いつも利用している某ホテルのフロントで、係の男性が「失礼ですが、ご住職様でしょうか」と問われるので「そうですよ」とお答えしますと、「私の祖母は方広寺派の末寺の檀家ですが、禅が好きで坐禅会やお寺でのお話があれば喜んで出かけていました。私などにも臨済禅師の"無位の真人"の話や祖録の話をしてくれました」とおっしゃるのです。ホテルのフロントのカウンター越しに、若い係員と誰がどこから見ても僧侶にしかみえない二人の会話は、周りの人たちの注目を浴びていました。改めて臨済禅師の偉大さと、平成28年に迎える遠忌の意義を深く感じました。来客も少ないようなので、私も彼に話を続けたのです。この間 長男がトルコを旅行してきました。お土産はカッパドキアのイラストが描かれたTシャツと、13世紀に実在したナスレッディン・ホジャさんの逸話集でした。Tシャツは、誰もが心では可笑しいと思っていても、口では可愛いとかセンスが良いと言ってくれるので、素直に喜んで着ていたのです。そんな折、女子大生二人が殺傷されるという事件が起こり、以後着用を自粛したまま今日を迎えています。一方、ホジャさんの逸話集は、一目通して大変興味を引かれ、感動さえ覚えたのです。達人は宗教宗派を問いません。ホジャさんはイスラム教の説教師であり指導者です。お話を紹介しますと例えばこんな風です。ホジャさんが招かれたお家にいつもの粗末な服装で出かけたところ、応対がよくなく、急いで帰ってこの上ない外套を着て出直した所、主人が出迎えて広間の上席に案内され、スープが出てきたのです。ホジャさんは外套の袖をスープに浸し、外套に「どうぞ召し上がれ」と言ったそうです。見かけで値打ちをはかることへの戒めですが、同じ様な話が『一休ばなし』にも見られます。他にも、2人の奥さんに「自分たちの乗った船が沈んだらどちらを助けるか」と問われ、年寄りの方にむかって「あなたは泳げるんだったね」と返した当意即妙のやりとりなど、わが国の妙好人といわれた人などに匹敵するものなのです。フロントの彼は、さらにお祖母さんから教えられた祖録の難解さを語り、共にこのようなご縁を作ってくださったお祖母さんに感謝の意を捧げながらカウンターを離れたという、つい最近の出来事でした。人は見た目で人を量ってしまいがちです。先月のニュースに、父娘が同乗の車で踏切に差し掛かったところ、踏切内で倒れている人を見つけた娘さんが、「助けなきゃ」の一声、傍らのお父さんの制止を振り切って救助に向かい、男性を救助し、娘さんは亡くなられました。「助けなきゃ」。その人が誰であれ、レッテルを見てではなく、助けずにはいられまいという心に、菩薩の姿を見せられ、手を合わさずにはいられませんでした。

■今より若い歳はない
「今より若い歳はない」。ある和尚さんとの会話中、耳にした言葉です。その和尚さんがいうには、檀家のお爺さんの口ぐせだそうです。たしかにどんな人でも今より若い年はないのです。「今をおざなりにして、いつするか」という心意気は常にもちたいものです。京都・清水寺の貫主であられた大西良慶師は、109歳という長寿を授かり、また山下頼充さんの五つ子の名づけ親としても知られています。師が百歳を迎えられたお祝いの席で、ある外国人からこんな質問をされます。「和尚さん、あなたの百年の人生でいつが一番幸せでしたか」と。その時、傍におられた弟子の森清範師(現貫主)は、「師匠はおそらく体力的にも自由がきいた六、七十代の頃でしょう」と答えるに違いないと想像しました。しかし師は即座に「今がいいね、今が一番幸せだ」と答えたというのです。目もうすくなっている。耳も遠くなっている。食物にもいろんな制限を受けている師匠が「今が一番幸せだ」と即答されて、森師は大変感動したといいます。「師匠がいかに真剣に己のいのちと向き合い、どのような姿勢で生きておられるのか、冷や水を浴びる思いをしました」と述べておられます。森師は自著の中でこう語ります。
今という時を生きる。今の時を喜ぶ。こうした中にこそ、私は永遠の生命があるように思います。体は時間が経てば老いていきます。体の自由も若い時に比べればきかなくなりますが、変えることのできない過去にとらわれるのではなく、この「今」という瞬間に全てをかけて生きる姿こそが、何ものにも揺るぐことがない、心の安らぎをもたらすものであると思うのです。  

 

 

■母を想う
『心地観経』というお経に、私達がこの世で受ける四種の恩が説かれています。即ち「父母の恩」「国土の恩」「衆生の恩」「三宝の恩」の四つで、これを「四恩」といいます。その中の「父母の恩」について今回は考えてみたいと思います。何故なら、今の世の中で、このことがとかく疎かにされている気がしてならないからです。いうまでもなく、私達は皆な一人残らず宿業を因とし、父母を縁としてこの世に生を受けています。先祖あっての父母、父母あっての今の自分があるわけです。あたり前のことながら、このことをしっかり認識することが重要です。仏の教えそのものは、まず自分の命をみつめることから入らないと、本当のことは判らないと思うからです。私事で恐縮ですが、この秋に母の五十回忌の法要を営みました。母は昭和39年に49歳で、私が27歳の時に、この世を去りました。あまりにも早い旅立ちでした。しかし、親とは不思議なもので、亡くなった当初よりも、自分が歳をとればとるほど、親の歳に近づけば近づくほど、懐かしく感じられるものです。母が早逝したせいか、私には余計に生前の苦言やきびしさが、そう感じられるのです。
母という字を書いてごらんなさい
母という字を書いてごらんなさい やさしいように見えてむずかしい字です
格好のとれない字です やせすぎたり 太りすぎたり ゆがんだり
泣きくずれたり 笑ってしまったり お母さんにはないしょですがほんとうです 
サトウ ハチロウ
三島の龍澤寺の山本玄峰老師は、母という字を書くたびに涙を流されたという話を聞いたことがあります。父母を敬慕し、先祖あっての自分であり、この親にしてこの子があることを身をもって痛感されたからでしょう。
親思ふ 心にまさる 親心 けふのおとづれ なにと聞くらむ
幕末の志士、萩の松下村塾塾頭・吉田松陰の辞世の句です。安政の大獄で処刑される直前に歌ったものですが、処刑の知らせはすぐに親元にもとどくだろうが、その知らせを聞いて親はどんな気持ちがするだろうかと、先立つ不孝を詫びた歌でもあります。『父母恩重経(ふぼおんじゅうきょう)』(父母の恩をわかり易く説いたお経)に、「父母の恩重きこと天の極り無きが如し」また、「己れ生ある間は、子の身に代らんことを念(おも)い、己れ死に去りて後には、子の身を護らんことを願う」とあります。自分が生きている間は、子供のためには自分の身の危険をも顧みない、この世を去ってから後も子供を護りたいと願うという、正に、命をかけた無償の愛、それが親心なのです。私の母は確かに50年前亡くなりましたが、姿は見えずとも、今も私の中に生き続けて見守っていてくれていると信じて疑いません。

■仏教徒の覚悟
12月8日は、お釈迦様が悟りを開かれた事を記念する日、「成道会(じょうどうえ)」です。勿論その事自体がとても素晴らしく、尊い事ではあるのですが、一方で、ごく普通の人間である私たちからすれば、「悟り」などというものはどこか遠く感じられ、何となく他人事の様になってしまっているのではないでしょうか。しかし「成道」とは、到達できる人とできない人とを分け隔てる"終着点"の事ではありません。「悟りを開く」などと言うと、最終的な結果を得たのだろうと勝手に勘違いしてしまいそうですが、進むべき「道を成した」のですからその先もまだ道は続いていくのです。仏教というのは、お釈迦様が切り拓かれた人間の生き方の道標の様なものです。そしてお釈迦様ご自身も、そこからその道標を頼りに歩まれたのだという事に違いはないのです。仏道とは、お釈迦様の後にできた道ではなく、前に向けて開けた道なのではないでしょうか。「奇なるかな、奇なるかな、一切衆生悉く皆な如来の智慧徳相を具有す。ただ妄想執着あるがゆえに証得せず」 これはお釈迦様が悟りを開かれた後に発せられた言葉です。 「思いがけず素晴らしい事だ。生きとし生けるものは皆な、生き方というものを知っている。ただ人間は自分の心に取り付かれ、この世からの借り物を自分のものだと思い込んでしまうから生き方が分からなくなってしまうのだ」  「宝の持ち腐れ」ということわざがあります。せっかく役に立つものを持ちながら、活用しないまま無駄にしまっておく事です。私達人間は皆、生き方、つまり「悟り」を知ってはいるのです。しかし心の霧がそれを邪魔します。その見えない霧の中に仏道という「悟り」に通じる生き方の道標が照らし出されています。それを利用するかしないか、生かすも殺すも私達次第なのです。 得体の知れない、ほとんどの人が近付く事も出来ない境地が「悟り」なのではなく、日々自分自身の心と向き合い仏教徒としての「覚悟」を深めて行く事こそ「悟り」を実現する道、「仏道」なのです。「成道会」に際して仏教徒が為すべき事は、今一度仏教徒としての「覚悟」を決める事にこそあります。「覚」も「悟」も共に「さとり」という読み方を持ち合わせています。つまり覚悟を決める事が「悟りに目覚める」事なのです。

■"一"から始まるこの一年
大晦日を迎えると、一幅の掛軸を書院に掛けて正月支度をします。この軸には"一"と一文字だけ力強くしたためてあり、前妙心寺派管長を務められた東海大光老大師にお書き頂いたものです。この"一"の持つ意味はなかなか難解ですが、茶の湯の大成者である千利休の言葉として、「稽古とは一より習い十を知り、十よりかへる元のその一」と伝わるように、何事も其の本を大切に一から一年を始め、一年の終わりにはまた一に帰るとの思いで掛けています。釈尊が、弟子たちを導くためにお説きになられた話の一つです。とある金持ちが、大工に三階建ての家を作るよう命じます。そこで、大工は最初に地ならしをして基礎を築き、一階から二階へと建てて行こうとします。すると、金持ちは「一階も二階もいらないから、早く三階を作れ」と命じたと言われています。譬え話は、聞き手の力量で色々と解釈されるものですが、ここでは平易に考え、一階や二階のない三階建てはあり得ないとすると、物事には順番があって、順番を無視してしまっては物事がうまく運ぶことはないと取れるのではないでしょうか。私が修行道場を下山した二十歳代後半。茶の湯の稽古を再開したばかりのときのこと。師匠は厳しくも懐の深い、強さと優しさをあわせ持たれた、人物の大きい方でした。夏の終わりの稽古場での出来事です。朝、お稽古に上がりますと、弟子仲間が集まり始めていました。稽古場では師匠と他の弟子達が会話中です。私は会話に割り込んだら失礼になると思い、いつでも挨拶のできる場所に控えて座っていました。すると、不意に「吉富くん、なんで挨拶せんのかな。師匠の前に出たらすぐに挨拶をせな。これはな、稽古以前の問題やで」と、厳しくもありがたい注意を受けたことがありました。私は、挨拶に始まり挨拶で終わるという、茶の湯の持つ和敬の精神と順番を忘れていたのです。これでは物事は進んでいきません。挨拶が、茶の湯における其の本の一つであると、改めて勉強させて頂いたことでした。また、これは茶の湯に限った話ではないと思います。何事も"一"という其の本に気づき、将棋の歩の駒のように一歩一歩目標に向かって前進していくしかないのです。年頭にあたり、「おめでとう」と挨拶をしたら、自分がやることをしっかりとなし、一歩一歩と前進してまいりましょう。そして、一年の終わりには「有難う、おかげさまで」と言える一年にしていきたいものですね。

■心とかたち−躾−
だいぶ前のテレビでのことです。街頭にてボードに「躾」という字を書いて通行人にインタビューしていました。読める人、読めない人。赤ちゃんを抱っこした若いお母さんが「ダイエット」と読みました。このお母さんは読めたのです。「型にはめて育てたくない」というコメントが付きました。「身」が「美しい」即ち「ダイエット」となったのでしょう。「躾(しつけ)」とは、「型に填める」ことです。しかし、ただ単に「型に填める」事ではありません。型の中に心が込められています。「型」を身に付ける事によって「心」が身に付くのです。文武両道にわたって「型」を大切にするのが日本の文化です。代表的なものに「茶道」があります。「お点前」という「型」を身に付ける事によって、お点前に込められている心が身に付つくのです。行儀作法、食事作法、礼儀作法等々です。「作法」とは、1「事を行なう方法」2「起居、動作の正しい法式」(『広辞苑』)です。今日、食事作法、礼儀作法が乱れています。「頂きます」「ご馳走様」を作法として厳粛に行じている家庭がどれほどあるのでしょうか。「食事作法」に込められている、「いのちの尊さ」「感謝の心」「祈りの心」が身に付いていないのが実情ではないでしょうか。「礼儀作法」で挨拶の形は、正座して、両手をハの字に膝の前につき、頭(額)を付ける形です。この形は、己を一番小さく、頭を低くした姿かたちです。相手を尊ぶ心、敬う心、謙譲の心を現わしています。今、躾の場が無くなりつつあります。所帯の構成で、一位は「親子」、二位は「独居」。老人や未婚の一人住まいですが、十年もすれば逆転するといわれています。「躾」によって日本の文化、日本人が支えられています。「大和心」の危機です。亀井勝一郎さんの言葉に、「愛情とは、凝視することである」とあります。目を逸らさない、見て見ぬ振りをしない、ということです。少々波風が立っても、言うべき事ははっきりと言うことです。檀家の金子家は、六人姉妹です。全員長崎県内に住んでおられます。お父さんが急に亡くなられました。葬儀が終わり火葬場での事です。孫の一人が、放心状態で、「おじいちゃん」と叫びながら号泣し始めました。すると、十人程居た孫たちが一斉に「おじいちゃん」と叫びながら、泣き始めました。異様な光景でした。若い夫人が泣き崩れる姿に出会ったことはありましたが、孫が、おじいちゃんのために号泣する姿に出会ったのは、初めてのことでした。優しいおじいちゃんでしたが、優しいだけではなく、躾厳しい、おじいちゃんでした。何時の日かわかってもらえるのです。愛情込めて、厳しく躾けねばならないと思います。「躾」を通じて「日本の文化」「日本の心」を守り、育ててまいりましょう。
不是一番寒徹骨  是れ一番寒骨に徹せずんば
争得梅花撲鼻香  争(いか)でか梅花の鼻を撲(う)って香しきを得ん  (『中峰広録』)

■本物の御馳走をいただきましょう
明けましておめでとうございます。本年も皆さまが御健勝であられる様、祈念申し上げます。「言葉は生き物」と言われる事がありますが、毎年、様々な言葉が生まれます。昨年も色々な言葉が生まれ、流行りました。中には「言葉の乱れ」と感じるものもありますが、一概にはそうは言えません。何故なら私達が普段使っている言葉にも元の意味から変化し、生まれてきたものがあるからです。今、NHKで『ごちそうさん』が放映されておりますが、皆さんは『御馳走』と聞いてどういった物を思い浮かべますか。一般的には高価で豪勢な料理や自分の大好物等を指します。勿論、そういう使い方でも間違いではないのですが、辞書には「客の為に奔走して材料を集め、食事を出してもてなす事」とあります。そして、この馳走という言葉、実は元の生まれは仏教用語なのです。仏教用語としての意味は「他人の為に奔走し、功徳を施して救う事」です。他人への施しが食べ物である場合が多かった為、御馳走=食べ物、との認識が強くなったのでしょう。注目すべき点はどちらも「他人の為」である事、「物」ではなく「行ない」を指している事です。ですから本物の御馳走とは自分一人では決して得られないのです。他人を思い、功徳を施す事こそが御馳走であり、またその施された功徳、御馳走に心から感謝の思いを持ち、それらに対して「御馳走様」と言える事で初めて本物の御馳走を両者が頂けるのです。ある御夫妻が結婚の報告で経済的に少し貧しい家を訪問されました。するとそこの御主人が非常に喜ばれ、精一杯もてなそうと、物が無い中でもお茶とお菓子を振る舞ってくれました。しかし出された物を見ると、お世辞にも綺麗とはいえない茶碗に注がれたお茶となんだか干涸びた様なお菓子でした。それを前に妻の方は「これを口にするのか...」と躊躇しました。しかし夫の方は美味しそうにそのお茶とお菓子を頂き「御馳走様です」と笑顔で言いました。するともてなしてくれた御主人もさらに嬉しそうな笑顔になりました。出されたお茶とお菓子にはお目出度い報告に来てくれた客をどうにかもてなそうという御主人の心が詰まった物でした。夫の方はその心に感謝し、「御馳走様です」と言ったのです。それを横で見ていた妻はその二人の姿に感動し、「この人と結婚して良かった。」と心の底から思ったそうです。本物の御馳走(功徳)には、施した人、施された人、その周りの人、皆なを幸せに出来る程の力があるのです。どうぞ皆さまも、時に御馳走(功徳)を施す側で、また時に施される側で、本物の御馳走を味わい、周りの人を和やかにする幸せを感じて参りましょう。

■こどもの眼に映るもの
幼な子の 次第次第に 知恵付きて 仏に遠くなるぞ 悲しき (古歌)
赤ちゃんはお乳を欲しいと泣き、満腹になったら眠ります。明日の分まで要求したり、嘘をついたりしません。今この時を無心に生きています。この清浄な心を「仏心」といいます。誰でも仏心をいただいて生まれていますが、次第に身につく知恵や分別が、時にそれを見失わせてしまいます。私共のお預かりしている寺の隣に、小学校がございます。授業中に境内で写生した絵を寺に下さったので、本堂に掲示しました。いただいたばかりの作品を見ていて、「この絵の屋根瓦の形は、なぜか三角形だ。こっちの屋根瓦の色、こういう色だったかな。やはり子供の絵だな」などと私は思いました。ところが、です。作品を見た直後に、実物の建物をじっくりと観察して驚きました。確かに瓦が三角形に見える角度があるのです。そして、この色ではないと思い込んでいた屋根も、遠くから見ると描かれた通りの色に見えるのです。私の思い込みが本来の色、形を見えなくさせていたのです。子供の絵だ、などと私が思ったのは大変な失礼でした。また、他のある絵は建物の軒下から見上げた構図でしたが、その位置からは見えない大きな屋根瓦も描かれていました。二か所の別の部分が、一枚の絵に描かれているのです。しかしこの絵が実に魅力的なのです。力強く描かれた瓦は、絵から飛び出すような躍動感に満ち溢れています。「この位置ではこう見えるはずだ」というような先入観にとらわれていません。自分で見て、いいなあと思った通り、心のままに描いてあります。「お坊さん、一面しか見てないだろう。偏ってるなあ」。まるでそう言われているようです。驚きは恥ずかしさに変わってゆきました。これは絵に限った話ではありません。例えば、無口な人や社交的な人の外面だけを見て人柄がわかったつもりでいると、その人が元々持っているたくさんの魅力に気付けないままになってしまうことがあります。他人と比較して不満や自己嫌悪を感じるのも、私たちが身に付けた分別のせいでしょう。ありのままの清浄無垢な心、仏心。私たち人間はみな、この仏心をいただいて生まれています。しかし、知恵や分別のせいで見失っていませんか。せっかく目の前に素晴らしいものがあっても、心の眼が曇っていると見逃してしまいます。今日の「私」は仏心から遠くなっていないでしょうか。一日一度は心静かに、ご自分の心のありようを点検してみませんか。

■向嶽寺開山・抜隊得勝禅師の教え
「耳に声をきき響を知る主は、さて是れ何物ぞ」(『塩山仮名法語』)
山梨県甲州市にある向嶽寺は、抜隊得勝(ばっすいとくしょう)禅師によって、南北朝時代に開かれました。その抜隊禅師の教えに「耳に声をきき響を知る主は、さて是れ何物ぞ」というものがあります。「耳で声を聞いてその音の響きを知る本当の主は、誰なのか?」という問いかけです。その問いかけに対して、現代の私達が答えるとすれば、もちろん「自分」ということになるでしょう。しかしその「自分」というものを、私たちはどれだけ知っているでしょうか?
「海とかもめ」 金子みすゞ
海は青いとおもってた、かもめは白いと思ってた。だのに、今見る、この海も、かもめの翅も、ねずみ色。みんな知ってるとおもってた、だけどもそれはうそでした。空は青いと知ってます、雪は白いと知ってます。みんな見てます、知ってます、けれどもそれもうそか知ら。
よく、自分のことは自分が一番よく知っているといいますが、この金子さんの詩を「自分」に当てはめてみると本当によく知っているかどうかあやしくなります。実は私たちは、思っているほど自分のことをよく知らないというのが本当のところではないでしょうか。自分を知らないということは、自分にどんな"すばらしいはたらき"があるか?を知らないということです。同じく金子みすゞさんの「はすとにわとり」という詩があります。
どろのなかから はすがさく。それをするのは はすじゃない。たまごのなかから とりがでる。それをするのは とりじゃない。それにわたしは 気がついた。それもわたしの せいじゃない。
泥の中の蓮が咲く、卵が孵化してひよこが出るのは、蓮やひよこの力だけではない。何か大きないろんな力がそうさせる。それに作者の金子さんは「気がついた」と言っています。そしてその「気がつく」ということも、自分自身の力ではなく、何か大きな力によるものだと気づくことが「自分を知る」ということです。何でもない日常、私たちが生きているということも、気がつけば、自分の力だけではなく、何か大きないろんな力によって生かされているということがわかります。私たちにはそんな、"すばらしいはたらき"が生まれつき具わっていると、ブッダは言われました。にもかかわらず、私たちは、あれがない、これがないと、ないないづくしで不満を抱えている。せっかく具わった"すばらしいはたらき"を活かそうともせずに。そんな私たちを戒めるのが、抜隊禅師の「耳に声をきき響を知る主は、さて是れ何物ぞ」の教えです。

■禅、成り切る
拙寺に於きましては先住職の時代(昭和40年〜60年頃)、高校生を中心にして30名程が毎月一度、金、土、日曜日の2泊3日、寺へ泊まり込み、盛んに坐禅会が行なわれていました。私はまだ小学生でしたが、坐禅会の日がくると一緒に坐っていたというか、坐らされていたというのが正直なところで、大変苦痛でありました。最終日の日曜日になると粥座後の作務で坐禅会が終了ということになるのですが、今になって考えてみますとまだまだ16、17、18歳の高校生です。修行僧のように徹底して作務に集中することなどできません。ただ箒を持って突っ立っている者、うろうろしている者、草を引いているのか喋っているのかわからない者、雑巾を濡らしているだけの者、さまざまであったように思います。そういう時によく先住職が大声で学生に言っていた言葉が、"成り切れ"ということでした。「箒を持てば箒に成り切れ、雑巾を持てば雑巾に成り切れ、成り切れんから喋るんじゃ、掃けんのじゃ、拭けんのじゃ」と、作務に成り切れということでした。ある日、野球部の学生が悩みを相談したことがあります。それは試合になるとどうしても打てないということでした。私もその頃少年ソフトボール部に入っており、何となく興味があり二人の会話を聞いていましたので今でもよく憶えています。先住職は「おまえさんバットで打とうと思うとるじゃろ。バットを持ってこのバットで打とうと思うとるから打てんのじゃ、おまえさん自身がバットにならにゃいかん、自分とバットが別々だから打てんのじゃ。バットを持てば自分がバット、バットが自分となって、ピタッと一つになったら打てる」と答えを出しました。その後この学生が打てるようになったかは知りませんがこれも"成り切れ"ということであったと思います。"成り切る"とは、物と心が一つになるということです。人馬一体などといわれますが、人と馬が一つになってこそ良い結果が生まれてきます。車と一つになればこそ安全な運転ができるのです。靴と一つになればこそ、脱いだ瞬間無意識に玄関の履物は揃っていることでしょう。服を脱げばきちんと片付けられているでしょう。そういう日々を送っていきたいものです。それが禅的な生活(くらし)ではないでしょうか。

■祈り
仏教では、この世の中は"一切皆苦(いっさいかいく/すべてのものは苦しみである)"と表わします。ここでは"苦"とは「自分の思い通りにならないこと」と訳すことにします。我々は生まれて来て、やがて歳を重ね、場合によっては病に倒れ、そしていつか必ずこの世を去らなければなりません。この"生老病死(しょうろうびょうし) "は、「自分の思い通りにならないこと」の代表格です。我々はこの"生老病死"という"苦"から逃れることは不可能なのです。どうにもならない我々はどうしたら良いのでしょうか。東日本大震災から今月の11日で3年の月日が経過します。この3年間"復興""再生""鎮魂""絆"......様々な言葉が叫ばれ続けてきました。その叫ばれ続けてきた言葉の中の一つに"祈り"があります。苦しみが多いこの世の中ですが、明るい話題がありました。昨年11月3日、プロ野球被災地球団の東北楽天ゴールデンイーグルスが初の日本一の栄冠を勝ち取ったのです。震災直後から楽天の選手達は毎週の様に避難所等を訪れ、現地の方々との交流を深めてきました。過酷な生活環境の中、被災地の方々が選手からどれだけ未来への望みを受け取ったのかは、優勝の瞬間の被災地の喜び様を見れば一目瞭然でした。市内中心部を通行止めにして行なわれた優勝パレードでは、「優勝おめでとう!」の言葉を上回る「ありがとう!」というファンからの感謝の声援が沿道に響き渡りました。被災地の方々は楽天の選手達に希望の光を見て、祈っていたのではないでしょうか。「野球を続けたいという息子にプレゼントしてくれたグローブのこと、まだ〇〇選手は絶対に覚えてくれているはず」。「これからも一緒に頑張っていこう!と今でも思ってくれているはず」。そんな"希望"や"祈り"があったのです。神仏に対してだけではない、そんな祈りが、まだまだ思い通りにならない復興の原動力になっているのです。被災地での不自由な生活の中で、多くの感動と、そして生きていく希望を我々に与え続けてくれた被災地球団。選手を身近に感じ、復興を信じ、どんなに離れていても、どんなに時間が経っていても、あるいは先が見えなくても、そんな"祈り"や"希望"を持ち続け、"祈り"は届くと信じることができれば、苦しみは苦しみでなくなり、我々は前へとその歩みを進めることができるのではないでしょうか。"祈り"とは苦しくて思い通りにならないこの世の中で生きていかなければならない我々の"こころの拠り所"なのかもしれません。

■えんま祭り
三寒四温と言いますが一月末の暖かさは続かず、いつも通り寒が戻り、豪雪に各地苦しんでいます。そんな中、宇和島は雪と無縁で春を告げる「えんま祭り」が始まります。今年は少し早いのですが、花壇作りに精を出しています。崖下のスペースの石を運び出し、昨年来落葉を鋤き込んで作った土を運び入れ汗を流していると、その周りでは一昨年植えた花木の花芽が膨らんでいました。坂村真民さんの詩に「病が又 一つの世界をひらいてくれた 桃咲く」と、桃は厳しい寒さの中で蕾を膨らませ、一斉に咲き花を終えると枝をぐんと伸ばします。寒さは美しい花を咲かせる為には必要なのです。「えんま祭り」は勧善懲悪を説き、心の成長を願う春待ちのお祭です。本堂の中には八畳もある閻魔様の軸を筆頭に所狭しと地獄極楽絵図がかけられます。親は「嘘をつくと舌を抜かれるよ! 悪い子は地獄の修行が待っているよ!」と地獄絵図を見せていきます。一昔前は泣く子供が大勢いましたが、最近では少なくなっています。なぜかと思い本堂を見渡すと、躾の場として「えんま祭り」を利用する親の姿が少ないようです。最近では保母さんが引率し、ガイドのお姉さんが説明をしています。そこには鬼のような形相がありません。やはり絵だけでは泣けないのです。親の真剣な思い、恐い顔が子供に地獄を感じさせていたのではないかと思うのです。「えんま祭り」は人格形成に大きな役割を果たすことがあります。線香を売っていると、一人の茶髪の青年が声をかけてきました。思いを巡らすと酒場で知り合った青年達の一人でした。昔ガキ大将だったことを自慢していました。「珍しいな。えんま様に来るなんてどういう風の吹き回しだ。酒を飲んで与太ばかり飛ばすと地獄行きだぜ」。「俺、与太は言うけど騙さないよ、親にえんま様の教育をされたからな。そう言えば母ちゃんに連れてこられた時は泣かなかったけど、ばあちゃんに連れてこられた時は怖くて泣いたな」。「え・・・なんで!?」。「ばあちゃんは毎朝30分ぐらい仏壇の前でぶつぶつ言ってる。母ちゃんはご飯を供えチンチンでおわり。その姿を見ながら、ばあちゃんは死んだ人と話ができると子供の頃思ってた。だから、ばあちゃんがえんま様の前で掌を合わせていると、告げ口をされている様で恐くて」。祖母の後ろ姿は、子供に地獄を信じさせる尊いものだったのです。身なりは不良の様でも、嘘が嫌いで仲間を大切にする青年に育てたのです。「えんま祭」は死後極楽行きを祈願する祭ではありません。地獄絵図を前に自分の善悪の心と真っ直ぐ向かい合う時、深い信心を生むのです。「禅の修行とは懺悔と礼拝である。礼拝とは懺悔と感謝であって、人の心が正しく育つのはこの心です」と、故藤井虎山老師(前佛通寺派管長)は言われたそうですが、仏壇の前で手をあわせ心静かに礼拝する日常は、自分の心だけでなく周りの人の心も変えていたのです。合掌の心を引き継ぐ時、自分の心に花を咲かせ、その輝きは人の心に信の種をまいているのです。  
 

 

■大いなる命の中に
気象や動植物の様子によって季節をあらわす「七十二候」によると、雀が巣を構え、桜の花が咲き、遠くで雷が鳴る頃を「春分」と呼ぶそうです。「国民の祝日に関する法律」では、3月下旬の「春分の日」を「自然をたたえ、生物をいつくしむ日」と定めています。新たな命が芽吹く素晴らしい季節がやって来ました。
天地与我同根、万物与我一体  (天地われと同根、万物われと一体)
『碧巌録』にある雪竇(せっちょう)禅師の言葉です。分別や執着を離れて無心になれば、自分と他人を分け隔てるものはなく、相手の気持ちになり切ることができます。この素直で清浄な心こそ、私たちが本来備えている仏の心です。自分と他人だけでなく、他のあらゆる命や天地宇宙の大自然も、分け隔てのないひとつの大いなる命であると自覚するのが、天地われと同根、万物われと一体の心境であります。生命誌研究者である中村桂子さんは、著書の中で「人間は生き物であり、自然の一部である」と繰り返し提唱しておられます。「ひとつひとつの命が独立して存在しているのではなく、人間も含めたあらゆる生き物が、大きな関係性の中で互いにつながって生きている」と・・・・・・。このような考え方は「天地われと同根、万物われと一体」の心にぴったり重なります。最先端の生命科学が仏教の智慧と見事に一致しているという事実は、大変興味深いものであります。自分の事ばかり考えて、他人を犠牲にしてはいませんか? いつの間にか自己中心的な態度になったりしていないでしょうか? そんな時は何事も行き詰まってしまうものです。自分の事ばかり考えていると、余計に自分が成り立たないのです。自他を分け隔てせず、敬意や感謝の気持ちを忘れずに、互いの幸せと調和を願うおおらかな心で生活したいものです。「春分の日」を真ん中にして前後の三日間を含めた計七日間は、春のお彼岸です。山河大地の恩恵に感謝し、この命を授けて下さった父母やご先祖に感謝し、この大いなる命の中で生かされていることに感謝。春の青空のようにおおらかな心で、お彼岸を過ごしましょう。
 
■松も竹も、あなたもわたしも
新緑が鮮やかな季節になりました。皆さんの近所でも、草木がすくすくと伸びているでしょう。そこで今回は、こんな言葉を紹介したいと思います。
松無古今色 竹有上下節  (松に古今の色無く 竹に上下の節あり)
松も竹も、縁起物としてよくお寺などに植えられています。「松竹梅」という呼称もありますね。一方で、松と竹には色々な違いもあります。成長する早さが極端に違いますし、中空の節になっているのも竹独特の特徴です。冒頭の句は松と竹それぞれの特色を表した物ですが、あえて意訳するなら、「変わらない物も変わる物も、それぞれに特徴がありますよ」とでも言えるでしょうか。当たり前のように聞こえますが、実はこれこそが、禅の考え方なのです。同じ植物であっても、それぞれに備わった様相があり、それぞれに異なった美しさがあります。「個性」と言い換えてもよいかもしれません。「松と竹、私とあなた、それぞれの特徴を理解し、ありのままに受け入れることが大切ですよ」と、この言葉は教えてくれます。ですが、ただ単に「違いを知れ」というだけの話ではありません。昔々のこと、ある偉いお坊さんがいらっしゃいました。その噂を聞きつけた領主が、お寺を建ててお坊さんを招こうとしました。が、お坊さんは行こうとしません。領主があきらめていたところに、ひょっこりと例のお坊さんが現われ、「今日はたまたま来る気になった」と言って、そのままそのお寺に住み着いてしまいました。何とも気まぐれなお坊さんですが、京都の天龍寺を開かれた夢窓国師はこうおっしゃいました。「このお坊さんの真意こそ、『松無古今色、竹有上下節』である」。すなわち、昨日と今日が常に同じだと思ってはならない、割り切って別々に考えよ、と警告を発しているのです。例のお坊さんはおそらく、この考えを身を以て示されたのでしょう。全ての物事は、同じであり違ってもいます。この真理をありのままに受け入れられたなら、この世の中は何と美しいことでしょう。そこには好きや嫌いといった感情も、悩みや苦しみといった要素もありません。誤解を恐れずに言えば、悩み苦しみは全て、この言葉にあるとおり、物事を受け入れられないために起こるのです。「何で私の理想は松なのに、現実は竹なのか」と悩む前に、ちょっとだけ落ち着いて考えてみて下さい。あなたを悩ませている松と竹はどう違いますか。それはひょっとして、同じものではありませんか。そして、あなたは違う点にとらわれすぎていませんか。そんな時にはこの言葉を思い出して頂ければ幸いです。

■桜がつないだ「絆」
今年も桜の季節がやってきました。短期間しか咲かない花なのに、その美しさは喩えようが無く、この花にまつわる思い出や逸話は限りありません。中でも、あの「一切経版木」六万枚を作ったとされる鉄眼道光禅師(黄檗宗・1630〜1682)の桜に関する逸話は忘れられません。人の絆、縁というものの不思議さを教えてくれる話として、是非とも知っていただきたいことですから、お話ししましょう。鉄眼禅師は、多くの経典をいちいち書写している内、この煩わしさがなくなるよう、また経典を流布するためにとの想いから、一切経(正式には大蔵経)の版木製作を決意しました。しかし、版木を彫ったり印刷するための彫師や摺師への賃金、版木材料の板や印刷用紙の購入をするために莫大な経費が必要です。そこで勧進のために全国を行脚することとし、その第一歩を京都三条大橋の上で始めました。ちょうど、馬に乗った武士がやってきたので、彼は自分の願心を述べ、募金をお願いしました。しかし、武士は素知らぬ風です。最初に出会ったこの武士から募金が受けられないなら、自分の大願は決して成就しないと鉄眼は必死です。断る武士に必死について行く内、いつしか二つの峠を越え大津まで来ていました。茶店で休んでいる武士に、鉄眼は今一度とお願いをしました。ついに彼は、腹をたてながら一文銭を路上に投げ出しました。彼は名を溝口源左衛門信勝といい、その後吉野山の桜を守る代官に出世していました。版木には堅くて摩耗しにくい桜材が欠かせません。それには吉野山の桜が最適です。鉄眼は、代官に何とか協力してほしいと頼みにいきます。代官は、鉄眼を一目見るなり驚きました。なんと、あの一文銭を投げ出したときの僧が眼前にいるではありませんか。彼は鉄眼との不思議な因縁を感ぜずにはおれません。いつしか鉄眼のために自分ができることは何か、一所懸命考えていました。「そうだ!自分の使命は吉野桜を守ることだが、その桜を活かすことも使命であるのだ」。溝口の必死の嘆願により幕府は、ついに桜の樹の伐採を許可しました。たくさんの桜の板が、黄檗にいる鉄眼の元に送り届けられました。今も黄檗山宝蔵院では、六万枚の吉野のヤマザクラ材で作られた版木で経典が刷られています。人と人の結びつき、縁、絆を大事にしたいものです。

■花を褒める
散りゆく桜を惜しみながら眺めていると、池の表面に浮かぶ花びらが愛おしく感じられます。咲いて散るまでの数日間、宴に賑わう人々をここぞとばかりに集めて、桜の花は一体何を語りかけてくれるでしょう。詩人のまどみちおさんは詠います。
「さくら」 
さくらの つぼみが ふくらんできた
と おもっているうちに もう まんかいに なっている
きれいだなあ きれいだなあ 
と おもっているうちに もう ちりつくしてしまう
まいねんの ことだけれど また おもう
いちどでも いい ほめてあげられたらなあ...と
さくらの ことばで さくらに そのまんかいを...
この詩に触れると、桜そのものにも「いのち」が宿っているのだと気づかされます。そんな桜のいのち、花びら一枚の息吹を、私たちは本当に観ているでしょうか。まどみちおさんのように「さくらのことば」を使って褒めてあげたいと思える人が、果たしてどれだけいるでしょうか。同様に私たちは、目の前の人に対して、一体どう感じてどんな言葉を使っているでしょう。私たちの周りには、いつも誰かがいてくれます。その人は、じっとこっちに向かって綺麗な花を満開に咲かせてくれています。その沈黙の愛情の中に包まれて、花満開の下で私たちは生かされています。だとしたら、その愛情に目を向けなければならない筈です。その人と心ひとつになって喜びも悲しみも分かち合っていけるなら、この場はいつでも楽しい花見の真っ只中のはずです。風に吹かれ散りゆく桜の花びらは、どことなく憂いを感じさせます。そんな中、池に浮かんで漂う姿を眺めていると、その瞬間でさえも、最後まで懸命にいのちを生かしているように思えます。散りゆく桜のように、人だって儚いいのちです。でも今は、既に満開に咲き誇っていることを知るべきなのです。美しく咲き続ける時間は今しかありません。お互いに花の美しさを感じたなら、一度でも目の前の人に感謝を込めて褒めてみたいと思いませんか。だって私たちは、伝えたいと思ったことを伝えることができる「人のことば」を具えているのですから。

■日本臨済宗祖 栄西禅師の教え
平成26年4月1日から6月5日まで、京都建仁寺開山・栄西禅師八百年大遠諱の慶讃行事が執り行なわれています。栄西禅師は平安時代末期、1141(保延7・永治元)年4月20日、岡山県吉備津神社の神官の子としてお生まれになりました。幼少より、近くの天台宗安養寺の静心和尚につき天台密教の手ほどきを受け、14歳で京都比叡山にて受戒、正式に天台宗の僧侶となり、天台宗の宗風を大いに宣揚されたのです。その後、栄西禅師は二度の入宋(中国渡航)を果たされます。最初の入宋は28歳、その目的は天台山に登り、天台教学を学ぶ事でした。しかし、この時、天台山は天台宗ではなく、臨済宗に変わっていたので、天台教学を学ぶ事ができず、わずか6ヵ月の滞在で帰国されます。そして47歳の時、二度目の入宋を果たし、陸路で天竺(インド)を目指すも、蒙古の影響により通行許可が得られず、一方海路では船が難破して吹き戻されてしまい、再度20年前に訪れた天台山万年寺に登られたのです。その万年寺で栄西禅師は宿縁の師である、臨済宗黄龍派の禅僧・虚庵懐敞(きあんえじょう)禅師と初めて会われた時に、一つの問答が交わされました。虚庵禅師が栄西禅師に「天台密教の極意を一言で表わしてみよ」と問われ、栄西禅師は「初発心の時、即ち正覚を成じ、生死を動ぜずして、涅槃に至る」と答えられました。その意は、「お釈迦様の教えを学びたいと思い、善き師・善き友に出会い、正しい教えを学ぶ時、その時生きたままお覚り(成仏)を得る」となります。この言葉には、遥か2600年前のお釈迦様の物語が関係しています。お釈迦様の弟子の阿難尊者がお釈迦様にたずねられます。「善き師・善き友に会うということはお覚りの半分を得たのと同じですか」。お釈迦様は答えられました。「善き師・善き友に会うということは、お覚りを得るのと同じことだ」と。虚庵禅師、栄西禅師共に、このお釈迦様と阿難尊者の問答を知っておられたのでしょう。この一句を聞いた虚庵禅師は大きくうなずき、「見事なお答え。その一句は、わが禅宗の見解となんら変わるものではない」と天台密教僧としての力量を認められたのです。その後、虚庵禅師は栄西禅師より天台密教の灌頂の法を授かり弟子となり、栄西禅師は虚庵禅師より印可を授かり臨済宗黄龍派の法を嗣がれ、お互いを善き師、善き友であると認めあわれたのです。天台宗、真言宗、浄土宗、臨済宗と多くの宗派があり、念仏を唱えたり、坐禅をしたり、色々な修行の方法はありますが、本来の仏道は宗派によらず、求めるところは、生きたまま成仏することではないでしょうか。どうか皆様も御縁を頂いた善き師、善き友と共に、仏道修行に励んで頂きたく存じます。「初発心の時、即ち正覚を成じ、生死を動ぜずして、涅槃に至る」。

■人生は報恩行
人間は一人で暮らすことはできても、生きていくことはできないものです。現代の世の中、物であふれていますが、人と人との絆を保たなければ、人生は歩んではいけません。私達は日々「大いなる恵み」を授かりながらお互いが生かされていることに気づき、そのことに感謝の念を抱くことが大切なのです。
生かされている自分を感謝し 報恩の行を積みましょう  (生活信条第三)
恩という時は「因」の下に「心」と書きます。恩を知るとは、自分が今ここにこうして存在している事実の原因を知ることです。すなわち自分を生かしている大いなる恵みに気づくことです。山々は若葉萌し新緑鮮やかで、私達の心を癒してくれます。私達はこのように眼に映るものには敏感に反応しますが、心の眼を閉じているがために、大いなる恩恵を受けていることに気がつかないのです。新芽をつけている木々は、根からエネルギーを一枚一枚の葉に到るまで与え、成長してやがて大木となっていくのです。「この木は立派な枝ぶりで見事である」、「梅の花の香りは何とも言えないやさしい香りである」、「桜のつぼみが沢山ついているから多くの美しい花が咲くであろう」ということはよく理解できるのですが、眼に見えない根っこがしっかりと培っているからだということを忘れてしまっているのです。眼に見えない陰の力「おかげさま」に目覚めれば、生かされ生きている自分に気づき、大いなる恩恵に対して感謝の念が湧き、悦びが心底より感じられます。そこに尽きることのない「いつくしみの心」が現われてくるのです。今日までの人生には、多くの人達から、自然から、数えきれない程の恩恵を得て生かされ、今の自分が生きているのです。生きていくということは、その借りを返す報恩行なのです。
大いなる 恵の中ぞ悦びは 尽きずただただ 掌を合わすかな  (生活信条 御詠歌)

■こいのぼりの願い
今年もこいのぼりを上げる季節がまいりました。大きな口を開けて、風をはらんで空の大海原を泳ぐこいのぼりは好時節を告げる象徴でもあります。先日、息子と一緒にこいのぼりの上げ下ろしをしていると、「お父さん、あれ何や?」と聞かれました。見ると、吹き流しを指さしています。黒の真鯉がお父さん、赤い緋鯉がお母さん、青や緑は子供たち。ところがその上の吹き流しはなんなのか。その時はきちんと答えることができなかったので、後で調べてみたところ、いろんなことが分かりました。まず鯉のぼりの吹き流しの色は、言うなれば魔除けの色なのだそうです。それから、最近の吹き流しには龍が描かれていることもありますけれども、あれはやはり、鯉が滝をぐんぐん登っていって、やがて龍となって天に昇るという「鯉の滝のぼり」の中国の逸話から、子供たちの成長と出世を願う意味が込められているようです。本山級の大きなお寺に参りますと、仏法の教義を講じる「法堂(はっとう)」と呼ばれる大きなお堂の天井に龍が描かれていることがあります。あの龍は仏法を守る守護龍としてお堂に住んでいます。「八方睨み」と呼ばれることもあり、私達がどこにいても、見守ってくださっています。吹き流しに描かれた龍もきっと、仏弟子である私たちを見守って下さっているんだと、以来そんなつもりで、こいのぼりの上げ下ろしをするようになりました。お釈迦様は、「今この三界は皆これ我が有なり、その中の衆生は悉くこれ我が子なり」(『法華経』譬喩品)、つまり「今、この世界のすべては私の家であり、その中に住む生きとし生けるものは私の子供だ」とおっしゃられました。行くところ全てが自分の家であり、我が子だけでなく、全ての人が自分の子供だと思えるならば、そこから大きな慈悲、愛情が生まれてくるのではないかと思います。それが、最も高い人生観といえるのではないかと思います。こいのぼりが地域の子供たちの成長を見守るように。法堂の龍が仏教に帰依する方々を見守るように。私がこいのぼりとなって、あるいは私が守護龍となって、人生で出会う有縁の方々の幸せを祈り、一度も出会うことのない無縁の方々の幸せを願って生きていく。お互いがお互いの幸せを願いあうことができたなら、この世はもっと素晴らしくなるのではないかと思います。皆様、どうかお幸せに。

■人生の航海
人生を船の航海にたとえてみましょう。生まれたその日が港を出港する日です。日本人の平均寿命は80歳ぐらいですから、多くのみなさんは80年の長きにわたる航海となります。中には100年以上航海がつづく船もあれば、嵐や不慮の事故で思いがけず短い航海となる船もあることでしょう。航海の期間が長い、短いというのは他と比較しての話であって、自分で自分の航海日数を決めることは誰にもできません。航海の日数を自分で決めることはできませんが、どのように航海していくのかはある程度自分で決めることができます。自分の船を装飾して豪華客船やクルーザーとして航海する船もあれば、ヨットで風の向くままに航海する船もあるでしょう。貨物船やタンカーとなって一所懸命働く船も、魚を狙って追いかける漁船もあります。禅の言葉に「万法一に帰す(ばんぽういつにきす)」という言葉があります。「この世界に森羅万象様々に違いを見せる天地万物全て、その根本は一つである」という意味です。「この人生の航海は人それぞれ違いがあるけれども、その根本にある一番大切なことは皆なに共通している」というのです。どんなに大きくて立派に見える船も、広大な海の上では木の葉のように小さな存在です。自分の船が小さくて弱いことに気づけば気づくほど、船を支えてくれる様々なご縁に感謝せずにはいられません。どの船もちっぽけな存在であるからこそ、お互いに困った時は助け合って航海を続けていくのです。このような広く大きな心、仏さまのような心を「仏心(ぶっしん)」といいます。この仏心こそが人生の航海で一番大切なものなのです。普段、私たちは外に向かって幸せや楽しみを求めがちですが、仏心は最初(出港する前)から私たちに備わっています。月が雲で隠されるように、自己中心的な考えに埋もれやすいものですが、仏心は決してなくなることはありません。皆様の航海がこれからも有意義なものとなりますよう心よりお祈り申し上げます。

■変わりゆく中で
「好きな植物は何ですか?」と尋ねられると、わたしは決まって「紫陽花」と答えます。なぜなら、紫陽花は白、薄青、淡紅、紫といったように同じ花でありながらさまざまな色をたのしむことができるからです。植物には、花言葉といわれるその花のイメージをあらわす言葉がつけられています。紫陽花の花言葉は何かというと、「移り気、心変わり」です。また、紫陽花は、花の色が変わっていくことから、別名「七変化」とも呼ばれています。若山牧水は「紫陽花の その水いろのかなしみの 滴るゆふべ 蜩のなく」と歌い、雨に濡れる紫陽花に喩えて、初夏から梅雨への季節の移り変わりと、少女が大人の女性に成長していく様を表現しました。紫陽花の花、そこから浮かんでくるのはやはり失恋といった悲しい言葉が多いようです。では、紫陽花を仏教の言葉に喩えるとどういう言葉があてはまるでしょうか。わたしは「無常」という言葉がしっくりとくるような気がします。『平家物語』の「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」に代表されるように、すべてのものは移ろいゆくもの。「無常」という考え方は仏教をならうものの基本となる教えです。縁あって、鎌倉の建長寺派管長であります吉田正道老大師のお話を聞かせていただくことがありました。その中で、とても印象に残ったお話があります。老大師は坐禅、托鉢、作務など種々の修行があるけれど、やはり禅者たるもの坐禅を修行の眼目としなければならない。そして、雲水という言葉があるように、やはり禅を修めるものは、流れゆく川や雲のようでなければならないとのことでした。さらに昔を思い出され、「自分の頭をなでてみなさい」という師である竹田益州老師の言葉を紹介されながら、坊主頭をなでることによって、自らが出家者であること、そして仏教をならうものであることに気づかされるとお話になったのが印象的でした。そのような老大師のお言葉に「おまえさん、流れに逆らって苦しんでないか」と無常の中であがいている自らを見透かされたような気がしました。考えてみますと、自分の思い通りにならないことに苦しむのが私たちです。そして、世の流れ、時の流れを思い通りにできる人は誰もいません。帰り道、まだつぼみの紫陽花に囲まれた参道を歩きながら、禅語の「行到水窮処 坐看雲起時(行いては到る水の窮するところ 坐しては看る雲の起きるとき)」が頭に浮かんできました。自然の中に身をおき、水の流れに身をたくし、流れゆく雲のように。坊主頭をなでながら、建長寺をあとにしました。

■温故知新
「温故知新」といいますが、現在の家庭を考えます時、この言葉を噛みしめずにはおれません。お互いの家庭は、先祖代々伝承されたものであります。新家だ、別れ(分家)だといっても親あればこその存在ですから、伝来の家庭であるわけです。ところが伝来、伝統あっての現在を忘れて・・・・・・と言えば言いすぎかもしれませんが、古きを軽視して、未来を重視する傾向が日々の生活の上にあるように思うのです。私のお寺では、各種の先祖代々供養の行事があります。お参りをすすめる案内を各戸に配りまして、それなりの準備をして行なうのですが、参加者は役員と詠歌部会員と、常に寺の行事に参加される何人かの人たちなのです。ところが、小・中学校の学校行事で行なわれる坐禅会では、本堂が親と子で満員になるのです。住職としての私の布教の未熟さもあるのでしょうが考えさせられることです。時代が時代だとはいえ、親の子に対する思いというのでしょうか、子供のためならば、親はほぼ全員集まるのですが、亡き親のことや今日をあらしめた先祖代々に対する感謝の供養には、少数のお参りしかないのです。これが親と子の世界なのでしょうか、あまりにも目先の現実のみにとらわれていないでしょうか。仏壇は家庭の中心をなすものであり、先祖代々の位牌をまつり、その家の象徴でもあります。朝夕のお勤めは、亡き人の声なき声を聞きとりあっての一日の感謝の挨拶と報告でありましょう。亡き人の声なき声を、どうやって聞くのかと思われる人もあるかと思いますが、たしかにこの耳で聞くことは、できないでしょう。しかし、お互いは命あっての存在ですから、その命を考えれば、誰しも先祖代々の凝り固まりのような存在です。我とするもの何一つない存在なのです。そうしたことが自覚されるなら、親と子は別ならず、親こそ実は自分の前世であり、子こそ自分の来世なのです。親として子に願っている心、言いたい事、そうした声なき声こそ、亡き親が私たちに願っている"声なき声"といえないでしょうか。親の血を受けつぎ、親の生きざまによって、いつしか自分なるものを形成してきたお互いです。親の意志こそ、わが意志にもつながるものでありますし、子もまた、これをもって今を生きているはずであります。 
 

 

■栄西禅師800年遠諱を迎えて
7月を迎え、建仁寺があります京都市内も盆地特有の蒸し暑さが増してまいりました。今から799年前の建保(けんぽ)3年(1215)、7月5日、この地において建仁寺開山栄西禅師は静かに示寂(じじゃく)されました。本年は禅師示寂よりちょうど800回目の大遠諱(おんき)にあたります。禅師は中国宋の国で臨済禅を学ばれましたが、その宗祖である臨済義玄(ぎげん)禅師の語録『臨済録』に次のような言葉がございます。「心法形無うして十方に通貫す(しんぽうかたちのうしてじっぽうにつうかんす)」。心法とは仏様のような心、すなわち仏心をさします。仏心には決まった形がないからこそ自由自在に働き、時間と空間を超越し、大宇宙の隅々にまで行き渡ることができるという意味です。これは禅師が建仁寺を創建されて間もない頃のエピソードです。建仁寺は鴨川の東側の土地に創建されましたが、往時の鴨川の河原は現在よりもずっと広く、建仁寺は河原の端に在るのと同じような状態でした。そこで、ある人が「建仁寺は鴨川の河原に近いから、いずれ水難に遭う危険がありますよ」と忠告したといいます。すると禅師は「お寺が水難で流れてしまっては困るなどと、私は考えたこともありません。インドの祇園精舎でさえ、わずかの時間で消えてしまいました。けれどもあの地に精舎を建てた功徳は今に至っても消えることはないのです。この建仁寺の伽藍がたとえ水難で流れたとしても、私が伝えた仏法が消えてしまうことはないのです」と静かに答えられたといいます。禅師はまさに命を賭して宋の国に2度お渡りになり、禅の教えを初めて我が国に伝えられました。禅宗は別名「仏心宗」とも言われるように、お釈迦様が開かれたお悟りの心を、師から弟子へと直接伝えていく教えです。この仏心とは大いなる慈悲にあふれた心であり、全ての悩み苦しむ人々に救いの手を差し伸べていく心です。禅師は非常に戒律に厳しいお方でしたが、その大いなる慈悲心によって多くの民衆をお救いになられました。そのお心は目に見える形はありませんが、着実に我が国に根付き、人々の心に仏心を芽生えさせたのです。ですからお寺の伽藍がたとえ水難で流されようとも、自らがお伝えになられた禅の教えは決して消えることはなく、時間と空間を超越し、この地で永遠に生き続けていくのだと禅師は断言されたのです。以後、この禅師のお心は800年の時を超え、今日まで脈々と受け継がれてまいりました。禅師がお手植えされたという開山堂前の菩提樹も今もなお、青々と葉を茂らせております。これからもこの教えが十方世界の隅々にまで広がっていくことを心より願いながら日々精進をしてまいりたいと思います。

■ブルドッグの夏
4年前の10月、突然、ほんとうに突然、静岡に住んでいる大学の先輩からマスクメロンが送ってきました。奇麗な箱入りで2個も頂戴しました。「物をくれる人は良い人だ」と私は思っているので、「後輩には厳しい先輩だったが、本当は良い人なんだなあ」と昔を思い出しながら、有り難く賞味しました。丁寧に礼状を出しマスクメロンのこともとっくに忘れ12月も押し迫った頃、その先輩から電話がかかってきました。「おい、元気でやっとるか。あのな、わしは犬を飼い始めたんだが、ちょっと事情があって飼えなくなってなあ。お前さん引き取ってくれ」。電話を聞きながらタダほど高い物はないという因縁めいた言葉が頭の中をぐるぐる回っていました。早速、菓子折り持参で静岡まで車を走らせました。なんと頂戴する犬はブルドッグでした。先輩が優しい言葉で、「この犬は飼い方がとっても難しいからよく勉強して飼うんだよ。夏はエアコンの効いた部屋で飼わないと死んでしまうからな」と・・・・・・。帰路、本屋に立ち寄り、ブルドッグに関係する入門書から専門書まで数冊を買い占めました。飼う事にはすぐに慣れましたが、散歩をしていると田舎の事ですから近所のオバちゃん達が、「なんとブサイクな犬やなあ、太り過ぎと違うの、和尚さんとそっくりやわ、キャハハハ!」と犬以上にブサイクな笑い方をなさいます。しかし、ここで負けていては只の人。お坊さんの本領を発揮しなければなりません。「この犬もね、親や兄弟やご先祖があるんですよ。オバちゃんたちもまったく一緒ですよ。DNAの最先端にいるのがオバちゃんやこの犬で、同じように足下に咲いている花も、樹木も猫も杓子もみんな遠い過去から一度も途切れたことのない生命なんですよ。オバちゃんもどこかで途切れていたらここに居ないんですよ。私たちの眼に見えるものはすべて一度も途切れたことのない永遠に生き続けている生命なんですよ。だからね、ゴキブリ一匹を殺すにも、あ〜これらにも親や兄弟がいるんだな〜、と思いを寄せる事が大事なんですよ。『法句経』に、"人の生を受くるは難く やがて死すべきものの いま命あるは有り難し"とありますが、人に限らず他の生命を嘲笑(わら)ってばかりいるとやがて自分が嘲笑(わら)われるようになりますよ。だからね、今の私の生命に感謝し、ご先祖様に感謝し、お互いにDNAの最先端に生きるもの同士は嘲笑(わら)ったり、上に見たり、下に見たりしないで今の生命を有り難く生きましょうね。うちのお寺も7月のお盆、8月のお施餓鬼とご先祖様の行事が続くので、今まで一度も途切れなかった私の生命に感謝するためにも、夏休みになるからお孫さんや子供と一緒にお寺にお参りに来てちょうだいね」。と、お伝えしておきました。ブサイクな犬も三日飼うと可愛くて可愛くていとおしくなります。

■仏教的食育
最近、様々なところで食育が推奨されています。明治時代の医師(薬剤師)石塚左玄は、著作(『化学的食養長寿論』、『通俗食物養生法』)で「体育知育才育は即ち食育なり」と説いています。食育とは、食に対する心構えや栄養学を学び伝統的な食文化を体験し身につけることで、子供の心身を養うというものだそうです。お寺には食前にお唱えするというお経がありますが、それを元に作られた「食前の言葉」(『こころのともしび』建長寺発刊/現在は廃刊)をご紹介します。
天地一切衆生の恩徳を思い 己が行いを省み 貪りの心を離れ 心静かに良く噛みて 道業を成就せんがために この食を戴きます
食べ物全ては天地(あめつち)の恵みからくるもので、感謝の心を忘れてはいけない。そして、この食事を戴くに値する行ないを果たせているのかを見つめ直し、食欲を満たす為ではなく道業(仏道)を成就するために戴くのだと戒めています。あるお寺の閑栖和尚が遷化される数ヶ月前の話です。体調不良のため入院されたと聞いたので、息子さんにお見舞いを申し上げ、様子を伺いました。するとこんな話をしてくださいました。皆の心配をよそに、頑固で困っています。体調が悪化し流動食をとるようになり、医師からは「誤嚥を防ぐ為に横向きに寝ながら食べてください」と指導を受け ました。ところが翌日、起き上がって食べていたので先生から注意されました。しかし「そんな行儀の悪い食べ方はできません」と言って聞く耳を持たなかった そうです。閑栖和尚が、病床にあって姿勢を正したのはなぜでしょうか。それは、たとえ流動食に代わっても命をつないでくれている食べ物に対する感謝の心を忘れてはいけないという強い思いがあったからです。最後まで仏の教えを信じて貫き通したのは、道業を成就する為であったのです。人は自らの命をつなぐ為に食事をします。生きる事とは、食べる事です。そして食べ物は尊い命であり、数えきれない人の手を経て己の前にあります。都市化が 進み子供のみならず我々大人も食の生産や流通の現場に触れにくい環境にあり、さらに飽食に慣れ食に感謝する気持ちを忘れてしまいがちです。農業体験や収穫 体験、実際の調理といった経験も有効ですが、そこに食前の言葉を付け加えることで、さらに真理に近い食育が出来るのです。最後に、「食後の言葉」(『こころのともしび』)もご紹介します。合掌して大きな声で唱えましょう。
衆生馳走のたまもの 今すでに受く 願わくばこの力をいたずらに 消すことなからん

■語ることのむつかしさ
2001年9月11日、ニューヨークで起きた「同時多発テロ」の後、世界中で多くの論評がなされましたが、日本の片田舎の一介の坊さんにすぎない私も、あちこちでぼそぼそと思いを語ったり書いたりしました。その時引用したのが『法句経』(ダンマパダ)の中の言葉でした。
まこと、怨みごころは いかなるすべをもつとも 怨みをいだくその日まで この地上にはやみがたし ただうらみなきによりてこそ このうらみは息む これ易(かわ)りなき真理(まこと)ぞ  (友松圓諦訳)
ブッシュ大統領や小泉首相への批判の気持ちもありましたが、語る前からやせ犬の遠吠えで空しいことはわかっていました。2011年3月11日、東日本大震災の衝撃はとてつもなく重く大きなものでした。さまざまな報道を見、関連する雑誌や本を読み、私なりに考えてきました。しかし私の思いを語ろうとしても言葉の無力感が先にきて何も語れなくなりました。そんな時、ある人の文章を読んで説教師としての自分と重なって白白しい気持ちになりました。そこに引かれていたのがよく知られた良寛さんの言葉でした。
災難に逢ふ時には、災難に逢ふがよく候。死ぬる時節には、死ぬがよく候。是はこれ、災難をのがるる妙法にて候。
こんなこととても言えません。現状を吾が事としてみるならばこのような千代紙のような言葉には何の力もありません。それにしても今の安倍政権の暴走には心が痛みます。原発再稼働を進めて被災地の苦しみのことなどすっかり忘れています。良寛さんは、新潟の三条を襲った大地震の時に親戚にあてた手紙の中で先の言葉を書いているのですが、その時こんな感想も残しています。
世の風潮が軽はずみになること馳せるがごとくだった。久しく太平無事であったのになれて人の心はゆるみきってしまった。おのれを傲慢にし他人を欺瞞するものを世渡り上手だと心得るようになった。こんな有様だから、こんどのような災いを受けたのももっともなことだ。お互いに身を慎んで、けっして悪事にくみしてはなるまいぞ。
良寛さんは「生きとし生ける者に申すが」と言っているけれど、私は安倍首相にこそ、このことを強く言いたいと思います。やはり馬の耳に念仏でしょうが。

■秋茄子は嫁に食わすな
スポーツ、読書、紅葉......、秋から連想されることは多くありますが、日本人にとってはとりわけ食欲の秋だとか。秋刀魚、栗、松茸‥‥、考えるだけで楽しみですね。秋ナスもそんな食材の一つ。
鮎はあれど鰻はあれど秋茄子
正岡子規もこんな句を残していますね。さて、秋ナスといえば、「秋茄子は嫁に食わすな」。夏野菜のナスは、八月のお盆の頃には樹勢が一旦収穫を終えますが、そこで枝をバッサリ落としておくと、九月には再び新しい枝が伸びて実をつけます。けれど涼しくなる季節ですから、夏のように沢山は生りませんし、大きくなると種が目立って美味しくないので、小さめで収穫するのがコツ。でも、小ぶりで数も少なければ、美味しい秋ナスも沢山は口にできません。そこで、憎らしい嫁にはもったいない、嫁いびり常套句の代表のように定着したのだとか......。一方で、ナスをはじめとする夏野菜には、人の代謝を落とし、体を冷やす効果があるそうで、涼しくなった秋には、秋ナスは体を冷やすから、大事な嫁には食べさせるなという意味が正しいとの説もあるようです。同じ言葉でも、まるで意味は逆、面白いですね。でも、当事者であるお嫁さんとお姑さんにとっては大問題、家族を巻き込んでの一大事に発展することもあるでしょう。では、その問題の根本は何でしょう?江戸時代の禅僧・盤珪永琢禅師に次のようなおしえがあります。
嫁が憎いの、姑が憎いのと、よくいわっしゃるが、嫁は憎いものではないぞ、姑も憎いものではないぞ。嫁があの時ああいうた、この時こんなきついことをいわしゃった、あの時あんな意地の悪いことをしなさったという、記憶が憎いのじゃ。記憶さえ捨ててしまえば、嫁は憎いものではないぞ。姑も憎うはないぞ。
私たちは、これまでの経験や知識を記憶し、それに現実を照らし合わせて物事を判断します。それ故、記憶は私たちが生きるために必要不可欠なものです。けれど、その記憶が「嫁が憎い」、「姑が憎い」と憎しみを生み、その憎しみが新たな憎しみを生むことに......。そこで盤珪禅師は、記憶を捨てよといわれます。記憶を捨てるとは、すなわち記憶に囚われるなということ。囚われなければ、その記憶が憎しみを生むこともありませんよね。記憶に囚われた自分から、囚われない自分へと、お嫁さんがそう変われたならば、以前は嫁いびりに聞こえた「秋茄子は嫁に食わすな」という言葉も、嫁への労わりと聞こえるのかもしれませんね。その変化は、やがて必ずやお姑さんの心にも届くことでしょう。そう、「私が変われば世界が変わる」(前妙心寺派管長・河野太通老大師)。それにつけても、秋刀魚、栗、松茸、そして秋茄子よと、美味しい記憶に囚われずにはいられない今日この頃です。

■お彼岸です ご先祖様に感謝しましょう
長崎のチャンポン麺の発祥の由来をご存知でしょうか。明治25年、陳平順(ちんへいじゅん)さんという19歳の若者が福建省から渡航してきました。最初はリヤカーで行商をしていたそうです。日清戦争の影響で中国人である彼に世間の風当たりは強く、大変苦労をされたそうですが、来日の7年後に「四海楼(しかいろう)」という中華料理屋兼旅館をオープンさせたのでした。この四海楼で生まれたのが長崎のチャンポン麺です。平順さんは中国から長崎に渡って来る貧しい留学生に、具材が豊富で栄養価の高い中国風のうどんを振舞ったのだそうです。「自分も苦労しながら周りの人に助けられて、ここまでこられたのだ。今度は私が貧しい若者を助け、恩返しをする番だ」。平順さんは留学生の若者を見ると決まって「吃飯了嗎(シャンポンラマ)」(日本語で「ご飯は食べたか」)と聞いたそうです。この言葉がいつしか平順さんの作る中国風うどんの名前になったのだそうです。お彼岸は今ある自分のいのちに対し、先祖に感謝する大切な行事です。お寺や先祖のお墓にお参りし、感謝の気持ちで手を合わせましょう。それは、自分自身の生き方を大切にしていることにもなるのです。なぜなら、ご自身の命は先祖から脈々と続いてきた命に他ならないのですから。先日、ある年配女性がお寺に来られました。お参りご苦労様ですねと話しかけると、「私も80歳までは頑張ってお寺に来ようと思います」と言われるのです。私は「じゃあ元気なうちに息子さんやお嫁さんに、仏様のことを引き継いでおいて頂いたら安心ですよ」とお話しすると、びっくりされたお顔で、「とんでもない、息子も嫁も仕事が忙しくて、お参りに来られませんよ」と言われるのです。ご自分も前の世代から、仏様に手を合わせる心を、引き継いできたのですから、その恩を次の世代に返していかなければならないと思うのです。平順さんが今あるのは頂いた恩のお蔭。今度は自分が恩を返す番であると、貧しい留学生にチャンポン麺を振舞ったように。今年のお彼岸は、家族そろってお参りに行きましょう。それがご先祖様への恩返しです。

■棚経で出会う
7月8月のお盆、臨済宗では棚経という習慣が有ります。お坊さんが檀家さんの家を回って、お盆の為に飾り付けられたご先祖様や、有縁無縁の諸霊位を祀る祭壇にお経をあげるのです。最近は檀家数も増えてやむを得ず、新盆のお宅だけ回るお寺も有るようですが私が住職しているお寺は、三日も回れば市内の檀家さんを全て回わることができるので有り難い事だと思っています。お盆はご先祖様が帰って来られるので、お迎えにいったり、迎え火を焚いたり、その家独特の風習があったりします。そういった風習には理屈では説明できない事も多く有ります。私どもの地域では、初日には茄子と胡瓜でつくる牛と馬(ご先祖様が冥土からの往復に使われる乗り物)の手綱となる素麺を茹でてお供えし、二日目は、ご先祖様が冥土の友人にお土産を買いに出かけるときのお弁当として、牡丹餅を作ったりお赤飯を作ったりしておられます。送り火は15日という家もあれば、16日というところもあって様々です。そこには両親や祖父母から言い聞かされた伝統(家風)が、脈々と受け継がれているようで微笑ましい気持ちになります。今年の棚経で檀家さんを回っている時、小さいお子さんが居られる家にお参りしました。このお宅はお墓もうちの寺には無く、ご先祖もご実家がご供養されているのですが、子供にしっかりとお盆の事を見せておきたいとお考えになり、お子様ができてから初めて私の寺の檀家さんになられたお宅でした。だいぶ待っていてくれたようで、3歳の女の子は恥ずかしがったり、興味があったりで落ち着かない様子です。お経が終わって食事を頂いている時に、迎え火を焚いたときのお話を聞かせていただきました。「この火を目印にご先祖様は、うちに帰って来てくれるのよ」と言うと「うん」と納得した様子だったようです。しばらくして「明日は和尚さんが来るからね」というと、その子はすかさず「その人は目に見えるの?」と聞きただしたというのです。見えないご先祖様と見える和尚さん。理屈を超えた存在に改めて気が付き、感謝の気持ちを捧げましょう。

■不動のこころ、変わらないということ
「不動」という字を紐解きますと、天龍寺の法堂にも安置されており、大方丈にも上間の間にも掲げてあります不動明王が目に浮かびます。歌舞伎の世界でも不動明王は登場します。歌舞伎十八番の中に、1600年代後期、江戸中村座において、後の二代目市川団十郎になる初代市川九蔵が「兵根元曾我」(つわものこんげんそが)の一幕がそれで、大詰に役者が不動明王に扮して登場するもので、市川宗家の成田信仰に由来します。そして、この成田山新勝寺の本尊こそ、不動明王なのです。不動明王は真言密教の根本尊である大日如来の化身であり、内証といって内心の決意を表わす仏様といわれており、私も含めて私達、凡夫の煩悩や迷いをいさめ、さまざまな困難や障害を打ち払う為に、怒りの形相をしておられます。右手にはお悟りを表わす利剣を持ち、あらゆる迷いを断ち切ってくれます。左手には策(なわ)持って、仏教の教えに背く者を、この縄で自分自身の手元に手繰りよせ、正しい教えの元に導いてくれるのです。今から2600年ほど前、釈迦は安楽な王子の座を棄て、生老病死の苦しみから救われるにはどうしたら良いのかと修行の道に入られました。最後の修行、坐禅をされる前に釈迦は「我、悟りを開くまでは、この場を立たず」と決意され、坐禅を始められると、世界中の煩悩や妄想が釈迦を挫折させようとして押し寄せます。しかし釈迦は微動だにせず、降魔の印を結ばれて、煩悩や妄想を打ち払われました。不動明王はこの時のお釈迦様の内証(内心の強い決意)だったともいわれています。私自身も坐禅の修行中、いろんな妄想が湧き出て、自分自身のやる気を無くそうとしたのを思い出します。人間は肉体よりも精神的に、自分自身を追い込まれてしまう方が弱いようです。そこで一番重要になるのが、ゆるぎない精神力、すなわち不動のこころを極めていく事こそが、釈迦が悟りを開かれた修行の実践であり、人間として生きていく上での最善の方法だと信じております。現代社会というのは、日々刻々、いろんなものが変動しております。特に科学技術などは、今この時は最先端でも、次の瞬間には過去のものとなってしまいます。そして、時としてその論理が逆転してしまって、まったく逆の理論になることも数多くあります。情報は日々、膨大な量に及び、中には個人を中傷した悪意に満ちたものまで一般に出回り、人々のこころを蝕んでおります。そんな中で無差別殺人やストーカー殺人、金属バットによる親殺し、幼い子供の虐待事件など、悲惨な事件が頻発しております。人間は、自分に向かってくる膨大なデータを処理しきれなくなって、物の善悪を図る能力を失いつつあります。私の住む京都には、年間5000万人もの観光客が訪れます。どうしてそんなに大勢の人がこぞって京都を訪れるのか。そこには自然と調和した春夏秋冬の特色をみせてくれる大自然があり、京都という街全体が何百年も続いた文化や伝統を見せてくれ、生きた歴史がそこには必ずあるということです。現代は「こころの時代」とよくいわれますが、人間の基本は不変であり、不動です。不変なものとは、自分がこの社会を作っているのではなく、自分はこの社会によって生かされているという事です。その事に感謝し、慈悲の心で他人にも優しく、父母や先祖を敬う気持ちを持ち続けることによって、自然と融和した人間社会が形成されるのではないでしょうか。

■答えは体験から生まれる
阪神・淡路大震災、東日本大震災・大津波、広島土砂災害、その他各地で次々に起こる悲劇。災難にあわれた方々には、お掛けする言葉が見あたりません。それでも、「あえて一言お願いします」と言われたら、皆様はどのように語られますか。言葉がみつからないのに話さなくてはならない、つい最近そんな状況に遭遇しました。以前から病気療養中だったFさんが、52歳という若さで亡くなられたのです。二人の子どもさんも二十代前半という若さですので、通夜式には今まで体験したことが無い程多くの若い方々が参列され、満席のホールは約三百名のお参りがありました。そんな中、通夜式では必ずお話をさせていただいている私は、「今日はできない」と逃げるわけにはいかないのです。さんざん悩んだ後、次の話を致しました。
『きけ わだつみのこえ』という、戦没学生の手記がつづられた本があります。序文にフランスの詩人、ジャン・タルジューという方の詩があります。「死んだ人々は、還ってこない以上、生き残った人々は、何が判ればいい?」。亡くなられた方々は還っては来られません。では生き残った私たちは、何が判ったら良いのでしょうか・・・・・・。私は、「現実を知る」ことが大切だと思います。それは、「この世は無常だから、若い方が亡くなられることもある」という意味ではありません。現実を正しく認識できれば、その現実に対して正しく対応できるからです。―中略  私は若くしてこのような体験をしたことはありません。しかし、ご家族、ご親族の皆様は、この三年間、真剣に「現実」と向き合ってこられました。自分の現実問題としてとらえられた方々だけにしかわからないこの体験は、必ず素晴らしい智慧を育んで、これからの人生を支える糧となってくれると思います。
『今、ブッダならどうする』(フランツ・メトカルフ著/2000年/主婦の友社)という本があります。苦しい時、悲しい時、ブッダならどのように行動されるか、という内容です。最後のページに、「ブッダならどうするかを知るために、ブッダならどうする?」という項目がありました。そこには、『増一阿含経』の引用から、「ほんとうの答えは自分にしか見つけられない」とありました。どのような名言・名句であっても、それらをすべて受け止めるのは難しいでしょう。なぜなら、自分自身の経験によって知った時に、初めてそれらの言葉が真実味を帯び始めるからです。

■秋の月明りのもとの曳山囃子
毎年10月の午後8時ぐらいになると山門前のお稲荷さんから聞きなじんだ音色が響いてきます。「ドンドンドド ドンドンドン」と太鼓と笛と鉦(しょう)を奏で、毎晩唐津くんち(おまつり)に向けて、小さな子から大人まで町衆が集い囃子の練習をしています。今日の唐津くんちの形態になったのは、一番曳山(ひきやま)の「赤獅子」が文政2年(1819年)唐津神社に奉納されてからのことであります。以後、明治9年(1876年)までに、漆の一閑張りと呼ばれる技法で制作された14台(当初15台ありましたが、1台消失)の巨大な曳山が、囃子にあわせ、法被姿の曳子(ひきこ)たちが「エンヤー、エンヤー」「ヨイサー、ヨイサー」の掛け声とともに、11月2、3、4日の三日間、唐津市内の旧城下町を練り歩きます。幼少の頃からこの時期になるとわくわく、ソワソワします。唐津っ子は、このおまつりを中心に一年が動いているといってもおかしくありません。弊寺の門前の町の曳山は七宝丸といい、明治9年10月に製作され、龍頭と赤い火焔が印象的な船型の曳山です。私は15台の勇壮華麗な曳山の中で一番好きなのがこの七宝丸です。それが確固たるものになったのは、曳子の背に描かれている肉襦袢が雲龍の絵柄で、本山である妙心寺法堂の雲龍図に似ているからです。私の勝手な憶測ですが、おそらく約140年前に門前近くの当時の檀家さんがお伊勢参りの道中に本山である妙心寺にお参りし、法堂天井の八方睨みの龍を見たのがもとになっているのではないかと...。秋が深まり空気の澄みきった月明りの下で、曳山囃子を聞きながら、本山妙心寺とのつながりを感じ、空想に耽るのでした。 
今人(いまのひと)は見ず古時(こじ)の月。今月(このつき)は會(かつ)て古人(こじん)を照らす。  李白
今の世の人は、古い世の月を見たことはないが、今の世の月はかつて古い世の人々を照らしています。三島龍澤寺の中川宋淵老師にも 
たらちねの 生れぬさきの 月明かり
の名句を残されています。父母が生まれる以前の月明かりに思いを馳せる。なされてきたことを知り、感じてみましょう。皎々(こうこう)と輝く月の光は、不変であります。今宵もやさしく私たちを照らして下さるお月さまのもとで、各町の人達は繰り返し情緒を添えて囃子を演奏しています。唐津くんちの本番の前には、曳子は曳山を曳ける歓びに感謝し、怪我が無いように無事に曳けますようにと、仏壇の前で手を合わせてから家を出ます。「エンヤー」「ヨイサー」と勇ましく声を上げ、唐津の町は熱気に包まれ一番の賑わいを見せます。 
 

 

■自然の力に畏敬と感謝をしよう
今年は豪雨による土砂災害、御嶽山の噴火と自然災害が多く発生しました。火山国日本は、限られた国土を山と海に囲まれて生活をしています。それ故、自然に対する畏敬の念と感謝の心を、信仰という形を通して学んできました。今から2500年前、お釈迦様は「山川草木悉皆成仏」(山も川も草も木も、皆、生き物を生かしてくれる仏様だ)と宣言されました。森林と呼ばれる大きな山でなくても、地方には「里山」と呼ばれる生活に密着した山がありました。コナラやクヌギ等の落葉樹を中心とし、林、森と竹林で構成されていました。この様な樹木は、概ね30年周期で伐採し、薪や炭、シイタケ栽培。落ち葉や枯れ木は燃料に使用され、竹は、竹炭や日常生活に必要な竹製品の作製に使用され、持続可能な循環型として利用されてきました。ところが、昭和30年代から始まった高度経済政策によるサラリーマン化、エネルギー革命(電気ガス)や化学製品の登場により、里山の持つ経済的価値が低くなり、多くの里山が放置されてきました。私のお寺の裏山も1万坪程の里山が放置され、竹林化していました。縁あって、2000年にボランテア団体「山法師の会」を結成し、里山整備に協力していただいています。そのおかげで、竹炭窯、陶芸窯をつくり、四季さくら、銀杏を植樹、300種程の椿を植え、椿街道を整地し、多くの人に自然の素晴らしさを楽しんでもらっています。村内の農地も耕地整理が進み、耕作には大変便利になりました。その中に「清水の神」という水の神が祀ってありました。日本は古来より、山の神、海の神、風神、雷神、水の神、荒神様、お月様にお天道様と、八百万の神を崇拝してきました。古老に聞くと「百姓にとって水は、いのちより大事なもの、ため池を作ったり水瓶を置いたりして、水を確保し耕作したものだ。水の大切さを確認する為に、農民はこの清水の神を祀り、お参りしてきたのだ。今では愛知用水ができ、各田畑はバルブをひねればいくらでも水は出る、ありがたいことだ。しかし、忙しいのか1日中出しっぱなしの所がある。勿体ないことだ」と言われました。そこで、耕地整理後、「清水の神」を復元し、「自然の恵みに感謝しよう」と記念碑に刻みました。人間はあまりにも傲慢に成り過ぎたのではないでしょうか。自然の力に畏敬の念と、自然の恵みに感謝する心を養うことが、大切であることを再認識いたしましょう。

■全米オープンの風
テニスの全米オープン決勝まで進んだ錦織圭選手は、私の寺のある松江市の出身であります。決勝戦当日は松江市民が、山陰から熱いエールを送っておりました。この試合の数日前、わたしは南禅寺派第十教区寺院の御檀家さん40名を引率して、本山参拝旅行に行っておりました。ある京都市内のおみやげ屋さんで、「勝つまでやるから勝つ」というセリフの入ったシャツをみつけました。この名言は吉野屋の社長さんのお言葉だと後で知りましたが、野球少年と化している息子にぴったりのシャツであると思い、お土産にしました。錦織圭選手の子供の頃、大人相手のゲームで自身が負けたりすると、大変に大泣きをして悔しがったという話は松江では有名です。勝負の世界の厳しさ、辛さ、そして楽しさ。子供だからこそ純粋に入り込めるのかもしれません。だからこそ、勝ちを得るまで突き進むことができます。この度の全米オープン試合後に錦織選手は、「ここまで硬くなったのは久しぶり。試合に入りこめなかった」と話しました。 惜しくも準優勝に甘んじた錦織選手だけでなく、目標に手が届くことができなかったすべての方々へ、禅の立場からエールを送りたいと思います。
八風吹けども動ぜず (『寒山詩』)
八風とは利益、衰退、陰口、名誉、賞賛、悪口、苦、楽という人の心を揺さぶるものを風に例えたものです。「どんな毀誉褒貶(きよほうへん)にも犯されない、動じない心を既に私たちは具えていますよ」と説いた禅語です。禅の見方から、勝ち負け損得を唱えるとヤボになります。人生には、理由も原因も突き止められない難事が、不定期に訪れ得る。その場に立った時、動揺せずに受け止められるかどうか。動揺の止まぬその心と涙を拭いて、次の希望に繋げて頂きたいと思うのです。山陰には山中鹿介という郷土の英雄もいます。『我に七難八苦を与え給え』と、月に祈ったとされるその姿を重ね合わせ、勝敗だけを見るのではない、その人の勝負の世界に投影した、ひたむきな心に、輝きがあるのです。人の心を揺さぶるのは、どのような勝敗でも、観客が立ち尽くすような名勝負でしょう。松江に吹いた全米オープンの風。市内に設けられたパブリックビューは、朝の報道番組に盛んに取り上げられましたが、敗退後十五分で観客は立ち去りました。これより先に吹くであろう、賞賛と衰退などという風をものともせず、人々を魅了する名勝負を期待しております。

■両親の願い
「父にあらざれば生ぜず、母にあらざれば育たず」。父母恩重経に出てくる一節です。私たちは、父母の出会いの縁によりこの世に生まれることができました。両親の養育のおかげにより様々なことを学び、体験できました。私の両親は健在ですが、亡くされた方もあるでしょう。両親の存在は永遠に変わるものではありません。両親の願いもまた同じです。 「それでは行ってまいります」。「ハンカチ、ちり紙は持ったかえ。忘れ物は無いかえ。人様に迷惑かけないように。お酒も飲みすぎないように。身体に気をつけて」。これは、私が寺を留守にする時の母と私のいつもの会話です。私は「もう、わかったわかった」と言って出かけます。この母とのやり取りを私の子どもたちは「お父さん小学生みたい」とバカにして見送ってくれます。私も今年50歳になりますが、80歳を過ぎた母には子どもがいくつになってもまだまだはなたれ小僧のままなのでしょう。せめて、「ちり紙」を今風に「ティシュ」と言い換えてもらいたいのですが...そこは良しとしましょう。若かりし頃は幾度も手を焼かせました。時には厳しく、時には優しく導いてくれたのはやはり両親でした。親の子どもを思う気持ちは、私も子どもを持って知りました。子どもがいくつになっても変わらないものなのです。「たらちね」(垂乳根)という言葉があります。母や親にかかる枕言葉です。垂れる乳の根っこです。母は自分の血液を乳に変え、大切に抱きかかえ、赤子に分け与えます。赤子は栄養と共に母のぬくもりや優しさを感じ、それが私たちの根っこになっているのです。生まれてすぐ私たちは親から立派な名前をいただきました。名前には両親の願いが込められています。この名前に泥を塗らないように生活することが私たちの務めではないでしょうか。 秋の夜長、両親の願いを考えてみてはいかがでしょうか。因みに出かけるとき父は「うん。」の一言だけですがね。これもまた威厳があってよいものですよ。

■妖怪のハナシ
錦秋の候となりました。皆様にはますます御清安のことお慶び申し上げますと申し上げたいところでありますが、残念ながら今年も国内各地で大きな自然災害や事件、事故、国外ではエボラ熱等々色々と大変な思いをされている方も多いことと存じます。心よりお見舞い申し上げますとともに、一日も早く平穏無事な日々が訪れますようお祈り申し上げます。先日、松江市の友人に誘われて鳥取県の境港へ観光に行きました。ここは「ゲゲゲの鬼太郎」の水木しげるさんの出身地ということで、JRの駅は「鬼太郎駅」、駅前交番は「鬼太郎交番」、空港は「米子鬼太郎空港」。そして、駅から水木しげる記念館までの約800メートルの「水木しげるロード」の両側には多種多様な妖怪関連商品を陳列した商店が軒を並べていて、ひやかしながらぶらぶらするのが何とも楽しいです。「妖怪もバカにできんなあ、なかなか奥が深いもんだなあ」などと思いながら歩いているうちに、私は大変なことに気がついてしまったのです。鬼太郎の着ぐるみに群がる子供達、向こうから歩いて来る思い思いの色々な格好の若者達、ソフトクリームを舐めながら笑う茶髪、赤頬、長まつげの女子達、大丈夫かと思うほどのメタボの中年男性達。「何だ、これは。みんな妖怪みたいじゃないか。人間らしいのは俺だけだ」と思いながらショーウィンドウに映った姿は、だぶだぶの作務衣にぼろ頭陀袋を首からぶら下げ、坊主頭に麦わら帽子、「ああ、俺もやっぱり妖怪だ」。そうです、私達はみんな得体の知れない妖怪なのです。あれも欲しい、これも欲しい。もっと便利に、もっと快適に。確かに科学技術の発展は私達に限りない恩恵を与えてくれています。しかしながら、世の中がこんなに便利になっても日々の暮らしは一向に平安にならないばかりか、人々の不安、不平,不満はますます大きくなっているのではないでしょうか。私達は便利さや快適さと引き換えに、とても大きな大切な何かを失っているのではないでしょうか。「今日はいい天気だ」。ほんとにそうでしょうか。良い悪いを決めるのは私です。本当は「今日は私にとって都合のいい天気だ」です。自分の都合で決める以上、毎日いい天気になることは絶対にあり得ません。不安、不平、不満が無くなることはありません。自分の都合や欲望にとらわれないこと、仏教はこれに尽きるのです。何より恐ろしいのは自分という妖怪なのです。何とかして、この妖怪を手なずけて、飼い馴らして、自分と仲良く、みんなと仲良く今日一日を暮らしてゆきたいものだと思います。来年こそ本当に平穏無事な一年でありますように心よりお祈り申し上げます。南無妖怪大菩薩。

■まっさらないのちで
先日、義理の母が危篤状態になりました。病院に駆けつけて、かろうじて意識のある状態で面会ができました。その時は二日以内を覚悟してください、と医師に言われましたが、少し持ち直して現在は小康状態が続いています。ですがもう意識はありません。眠り続けています。後は衰弱するのみなので、予断を許さない状態は続いているわけです。明日かもしれませんし三週間後かもしれませんが、遠からずその日はやってくるのです。実の母の命の火が日に日に小さくなってゆく、そんな日々に妻の精神も揺らいでいます。何をどう考えてもどうにもならないのは分かっています。ですがあれこれと考えてしまい、妻は不眠に陥っています。どんな慰めの言葉も先人の名言も今の彼女の心には響きません。私は妻に「一緒に坐禅をしよう」と提案しました。専門道場ではちょうど臘八大接心、七日七晩寝ずの坐禅修行が始まっています。今年は道場の接心に参加できる状態ではないから、本堂で時間がある限り坐ろうと思っていましたので、私はあまり乗り気ではない妻も一緒に単布団に坐らせました。妻は坐禅中も母親のことが頭から離れず、考えるのを止めようとして止められず、こう言いました。「坐禅をしてお釈迦様のようにお悟りを開いたら、こんな苦しい気持ちから一生解放されるのかなあ」。私は言葉に詰まりました。確かに釈尊のお悟りに近づくために私たちは坐禅をしてきました。ですが「悟ったらどうなるのか」は私に答えることはできません。私は小林大二さんという方がスッタニパータの文章をを元にして書いた詩の一節を思い出し、それを妻に伝えました。「坐禅とは 蛇が龍になることではありません 蛇が脱皮して、また脱皮して、いつもまっさらないのちでいるのです」(『いのちのうた―坐禅讃歌』〈龍源社発行〉より)。まっさらないのち、素晴らしい言葉だと思います。「まっさらないのち」ねえ......妻は妻なりに何か思うところがあったようで、また単布団の上に腰を下ろしました。明確な答えなど出なくてもいいのです。静かに坐って体と呼吸と心を整える。一寸坐れば一寸の仏と言いますが、逆に坐らなければ何も得られないのが坐禅です。五日ほど坐ったでしょうか、妻は 「今、私がお母さんのことを考えてしまうのはしょうがないんだと思う」。さらりと言いました。坐禅の効果ばかりではないでしょうが、いろいろなことを受け入れる用意ができてきたようです。お釈迦様が成道なさったこの時期、私もしっかり坐って、まっさらないのちを見つめたいと思います。

■時間は、いのち
年をとるにつけ時間の経つのを速く感じるようになります。子どもの頃は、お正月やお盆、夏休みなど、まだかまだかと待っていましたが、最近は、もう正月が来るのかと思うこの頃です。この時期になると喪中欠礼のはがきが届きます。今まで親しくしていた方が鬼籍に入られ、もう二度と会うことができないのかと大変さびしくなります。しかし、誰もがそうなることは分かっていながら、つい目先のことに追われ日々を送っているのです。この世に自分で希望して生まれてくることはできません。気が付いた時には、すでに生まれていたのです。そうして、自分が男であるとか、女であるとかそういうことも全く自分の意思は入っていないのです。これを宿命といいましょうか。しかし、成長するにつれて、学校や仕事、また配偶者など自分自身で選んで決めることができるものも多くなります。運命とは命を運ぶと書きますが、自分のいのちをどういう方向へ運んでいくのかということが、人生ではないでしょうか。生まれてから年を経ていく。その中に学校、仕事、結婚などの生きている上の出来事を織り交ぜながら人生を完成させていくのです。『法句経』というお経の中に、「頭髪が白くなったからとて長老なのではない。ただ年をとっただけならば"空しく老いぼれた人"と言われる」(『真理のことば』中村元訳・岩波文庫)とあります。つまり大事なことは、どれだけ長生きするかではなくどういう生き方をしたかです。杉山平一さんに『生』という詩があります。
ものをとりに部屋へ入って 何をとりにきたか忘れて もどることがある
もどる途中でハタと 思い出すことがあるが そのときはすばらしい
身体がさきにこの世へ出てきてしまったのである その用事は何であったのか 
いつの日か思い当たるときのある人は 幸せである 
思い出せぬマゝ 僕はすごすごとあの世へもどる
今一度、自分がこの世に生まれ出て、生きている、それは何をするためなのか。そして、それを実現するためには「どういう生き方をするのか」を真剣に考え生きていかなければなりません。ただ何となくという日々を送っていたのでは、老いぼれと呼ばれるだけでしょう。フランクリンは、「人生を大切に思うといわれるのか。それならば、時間をむだ遣いなさらぬがよろしい。時間こそ、人生を形作る材料なのだから」と書いています。時間とは即「いのち」のことです。今日も、今年も大したこともなく終わったということでなく、毎日が、今が、充実している生き方が大切です。すでによく言われるように、時間の後戻りは決してありません。自分の人生の持ち時間は刻一刻と短くなっているのです。来年こそはと思っている人は、また「来年こそは」という年になります。もうこの日しかないという気持ちで時間の無駄使いを止め、与えられている時間(与生)を使い切っていきましょう。生きているということは、ただ単に呼吸をしている、心臓が動いているということではありません。あなたの"いのち"が光り輝いているかどうかということです。

■為すべき事、それが修行
十二月というと、仏教では何と言っても成道会です。お釈迦様は八日、明けの明星を見てお悟りを開かれ、それにより様々な苦から解き放たれました。お釈迦様がお悟りを開かれたおかげで、2500年以上たった今でも私達が仏教を感じ、学べるのです。しかし最初、お釈迦様は己の悟り、仏教を他の人々に伝えようとはされませんでした。それは「この悟りを説いても世間の人々は悟りの境地を知ることはできないだろう。語ったところで徒労に終わるだけだろう」と考えられたからです。しかしその姿を天上から見ていた梵天(インドの神様)が三度もお釈迦様に「どうかその悟りを人々に説いて下さい。きっと救われる人がいます」と頼みます。それを受けてお釈迦様は最初の考えを変えられ、「たとえ徒労に終わったとしても、己の悟りを伝えることで救われる人がいるかも知れないならば、伝えることが為すべき事なのだ」との慈悲心により、45年にも及ぶ伝道を行なわれ、今現在に至るまで多くの人々を救っておられます。私が住んでおります有田という地は焼き物の産地です。400年の歴史の中で景気の良い時も悪い時もありました。最も危機に瀕した時は明治維新の時です。それまでスポンサーであった鍋島藩が無くなったからです。それまでは多くの窯元が藩から注文を受け、焼き物を作っていました。つまり間違いなく売れる品物を作っていたのです。それが作っても売れるかどうか分からない時代になったのです。収入が激減していく苦境の中でも多くの人が「窯を残そう」、「多くの先人が伝えてくれた技術を残そう」、「きっとこの焼き物を必要とする人が出てくるはずだ」、「伝える事が私達が今、為すべき事だ」、と必死になって窯を、技術を残してくれました。そのおかげで世界でも名の通る焼き物の産地として今も続いております。私達は何か事を行なおうという時、これはできそうだからやろう、あれはできなさそうだからやめておこうと、つい打算をしてしまいます。必ず結果がついてくるから行なう、結果がでないと無駄骨だ、という考えではいけません。物事を行なう時はできる、できないを超えた心で、その時に己が為すべき事を行なうのです。その心があれば何を行なってもそれは仏教であり、"修行"になります。幕末の三舟といわれ、深く禅を学ばれた山岡鉄舟居士はこういう句を残されています。
蝸牛 登らば登れ 富士の山
目の前に富士山があるならば、蝸牛であってもただただ一心に登る事が大切だと、つい打算をしてしまう心を戒めています。年末に際して改めて、己が今、何を為すべきなのかを見極め、しっかりと行なって参りましょう。

■おせっかいは慈悲の始まり
新年、おめでとうございます。新しい年の始まりです。毎年、今年こそはと色々思い廻らす正月ですが、今年は小さな親切運動、"おせっかい"について考えてみようと思い立ちました。正月ですので、ちょっとゲームを楽しんでみましょう。特に、小学生、中学生の子供さんであればクラス全員の名前を一度フルネームで言ってみましょう。クラス全員の名前がスラスラ出てきて、ほとんどのクラスメートと会話経験のあるお子さんなら、かなり社会性のある明るい性格と言えます。最近、世の中不幸な事件が多くなったせいか、人間関係が極端に希薄になってきたように思えてなりません。寒い雨の日に、近くの学校から小学生がびしょ濡れで帰っていたら、傘を貸してあげたくなります。しかし、これはなかなか勇気のいる事で、小学生の側でも人から親切を受けるよりは、むしろ人とのかかわりを作らない方が良いと指導されている場合の方が多いという話も聞きます。確かに、事件にまき込まれないためには、誰ともかかわらない方が良いとの考えもあります。同時に、ある程度子供が成長してきたら、人を観る眼を育てていく事も大切なのではないでしょうか。私達の生活は、人からのおせっかいを嫌う場合もありますが、一方でおせっかいを必要としている場面も多くあります。おせっかいを見直してみましょう。お寺へ行くと、本堂やお堂の中に、仏様の像が安置されてあります。仏像のお姿は慈悲の姿そのものです。たくさんの手で人を救おうとされたり、姿を色々変えて、私達の悩みを受け止めるのに一番ふさわしい姿をされています。どこかのお寺へ行って、仏様の像の前で手を合わすと、ほんとうに落ち着いた気持ちになります。ところで、私達禅宗の立場から見れば、「どこそこの観音様は願いをよく聞き届けて下さるからお参りする」というだけでは、少しもの足りません。自分が、観音様になる必要があります。観音様の心を持つ事が大切であるという事です。私達がお寺へお参りして、何かを"して下さい"と思って手を合わすのと、人のために何かを"させて下さい"と思って手を合わすのでは、自分自身の生活そのものが、全く異なります。おせっかい、大いに結構。「さわらぬ神に祟り無し」から一歩進めて、今年は、「おせっかいは慈悲の始まり」という気持ちで、新しい一歩を踏み出しましょう。

■羊頭を懸けて狗肉を売る
明けましておめでとうございます。2015年は、乙未(きのとひつじ)の年に当たり、ひつじ年のもつ「安泰」に、乙の「未来の成長・発展」という意味が重なった、縁起のいい年回りだそうです。また、未は「祥」という字の古体ともいわれますから、素直に「めでたい、さいわいな年」と受けとめて、是非とも、そのような年であるように祈りたいものです。さて、表題の語は、『無門関(むもんかん)』という禅の書物の中に出てくる語でありますが、年頭にあたりこの語から、私たちの「生き方」について反省し、「人間のあるべき姿」を学びたいと思います。羊の頭を看板に出しながら、実際には狗(いぬ)の肉を売ることから、見かけは立派だが実質がこれに伴わないことを意味します。世の中には、いわゆる「言行不一致」で、表面と腹の内がまるで反対の「似非人間」、「まやかし人間」がいるようです。昨年NHKのドラマで話題になった秀吉の知恵袋といわれた、黒田如水(官兵衛孝高)の詩に、
人多き 人の中にも人ぞなき人となれ人 人となせ人
ある時、秀吉が如水に「この世の中で最も多いものは何か?」と問うと、如水は「殿下、それは人でございます」と答え、「それでは最も少ないものは何か?」と問うと、「それも人でございます」と答えたといいます。「人ある中に人なし」――世の中に人間は沢山いるが、真に役立つ立派な人間は少ないということでしょう。今年こそは「羊頭」という甘い看板をかかげて、「狗の肉」という偽物を売るごまかしを洞察できる力を養い、自らも正直に「本物人間」を目指して精進したいものです。
人間の姿、形をしているということと、人間であるということとは全く別のこと。せめて人間の役を果たしたい  (掲示伝道より)

■羊と盛り塩
神道では塩で清める為、祭の前に海や川で禊をして身体を清めます。神前にも盛り塩をして供えています。大相撲は神事なので、土俵に盛り塩して清め、力士は取り組みの前にお互い塩を撒いて清めています。一般に塩は清める為のものだと思われています。2015年の今年は乙未(きのとひつじ)年で、古来、羊はめでたい動物と言われています。その由来は次のとおりです。4世紀ごろの中国は漢が滅亡して晋の時代。武帝は羊を歩かせ、止まった部屋の側室と一夜を共にする事とした。王様の子供を産めば自身の出世は勿論の事、一族の出世にもなるので、何とか王様に来て頂くため後宮の側室達は心を配った。近頃、王様は何時も同じ部屋に泊まっているが何故か......、注意していると夕方部屋の軒に笹をぶら下げているのである。羊はその笹を食べるためにその部屋の前で止まる事がわかったので、各部屋でもそれ以来、みな笹をぶら下げた。暫くするとまた、羊は同じ部屋の前で立ち止まるようになった。不思議に思い、みな気を付けて見ているが、とくべつ変わった事はしていない。ただ、夕方部屋の前に水を撒いているだけなので、他の部屋も同じように水を撒いたが、羊は相変わらず同じ部屋の前に止まった。実はただの水ではなく、塩水を撒いていたのだ。「羊は祥なり」、羊は福と富を招く。昔は「吉に羊」で吉祥と言ったそうです。塩盛りとは、羊を招く為に塩を用いたという故事から来ているのです。年の初め台所の竈に盛り塩したり、水商売のお店の門に盛り塩しているのは、羊が人を乗せて店に来てくれますように、福と富をもたらしますようにという思いからです。塩は清めるだけではなかったのです。ちなみに臨済宗の大般若祈祷では、塩盛り、洗米等をお供えします。これも清めとともに、福をもたらす意味をこめての事であろう。  
 

 

■自灯明 法灯明 〜自分と向き合い 心を修めていく〜
まだまだ肌寒い2月、立春を迎える月ではありますが、春の陽気を感じるにはもう少し時間がかかりそうです。さて、2月15日は、釈尊がお亡くなりになった日であります。釈尊は、入滅される前に「自らを灯火とし、自らを拠り所としなさい、他をたよりとしてはならない。法の教えを灯火とし、拠り所にしなさい、他の教えを拠り所としてはならない。教えのかなめは心を修めることです」と、悲しまれるお弟子たちに最後の法話をされました。自らを灯火とするとは、自分と向き合うことです。人任せの人生も、物任せの人生もありません。自分の人生は、自分自身で歩むもの、誰も代わってくれるものはありません。そして、釈尊が「法(教え)のかなめは心を修めること」と説かれているように、欲に任せて自分を見失わず、辛いことから逃避せずに向き合う、そして、正しく心を観察することで、常に幸いに満たされると説かれたのです。しかし、簡単には、そのような心境に至れないのが私達でもあります。どうしても自分の都合で物事を考えて、腹を立て、不平不満をこぼしてしまいます。また、迷い苦しみ逃げ出したくなる時もあります。昨年、お寺の世話役であったお檀家のご主人が、癌を患い68歳という若さでこの世を去りました。癌を宣告されたのは2年前です。しかし、宣告された後もお寺の仕事は毎日のように務めて下さいました。私が「無理をなさらないで下さいね」と申しても「大丈夫、大丈夫」と仕事に黙々と打ち込む姿を私は忘れられません。そんなある日、ご主人が私に「和尚さん、私はやっと覚悟が決まったよ。もう後悔は無い、迎えが来ることも怖くない。今できることを、ただ感謝を持って遣り抜くだけだ。やっとね......。やっとその心構えができたんだ。だから和尚さん、最後まで手伝わせておくれ」その強い覚悟の言葉に触れ、私はただ深く「宜しくお願いします」とお辞儀で返すことしかできませんでした。そして、その言葉通り、それからもお亡くなりになる数日前まで、お寺に尽力下さいました。ご主人の苦しみは、ご主人にしか解りません。しかし、ご主人は、闘病生活の苦悩から逃げずに、自分の命と向き合う日々を送られたのだと思います。それは、並々ならぬ辛労だったはずです。しかし、「今できることを、ただ感謝を持って遣り抜くだけだ。」と自分の心を修める心境にまで自分自身で到達された、そして、その修めた心を自分の拠り所となる灯火とし、最後まで誇りをもって生き抜くその姿こそ、釈尊の教えそのものだったように私は思います。お寺には、ご主人の仕事の手の跡が、あらゆるところに遺っています。境内の竹垣、書院の縁の下の束の修理、仏具修理など、挙げればきりがありません。その仕事は、人の目のつかない様な所でも丁寧にされています。ご主人の「今できることを」遣り切った跡が、その心が、亡くなった後も今なおこのお寺を支えてくれているのです。

■久しき昔
卒業式シーズンの3月。卒業生の皆さんはそれぞれに別れを惜しみつつ、新しい門出に期待と不安でいっぱいのことでしょう。そんな私も学校を卒業して早やウン十年。卒業式の定番ソング『蛍の光』を歌ったかどうかは記憶にございませんが、なぜかアルバイトをしていたパチンコ店の閉店間際に流れていた、あの悲しげな旋律がついこないだのことのように思い出されます。日本では『蛍の光』は別れの曲として知られていますが、原曲が伝わるスコットランドでは『オールド・ラング・サイン(久しき昔)』と呼ばれ、主に年の始めや誕生日、結婚披露宴などのお祝いの席で歌われるそうです。今から230年ほど前に書かれた歌詞は、旧い友人と再会し、思い出話をしつつ酒を酌み交わすといった内容になっています。禅語にもこれに似た言葉がみられます。『碧巌録』第五十三則頌の中に「話り尽す山雲海月の情」という言葉があり、難しい解釈はさて置き、親しい者同士が久々に会って、互いに四方山話や思いの丈を語り合う様子が思い浮かびます。私もたまに学生時代の友人や修行道場の仲間と会うことがあるものの、腹をわって話せる親友となると案外少ないものです。「得難きは時、会い難きは友」といったところでしょうか。ところで、昨年の2月頃から地元の高校の野球部員が20数名、毎月坐禅に通ってくるようになりました。ある日のこと、1時間の坐禅の後に、ある学生が「メンタルを強くするにはどうすればいいですか?」と質問してきました。そこで私は、ダルマさんの話などを引用するけれども、イマイチ伝わらない様子。そこから私のメンタルトレーナーの勉強が始まりました。全5回にわたって、メンタルについて話をしました。その中で最終的に行き着いたのは、やはり感謝の心でした。私たちの周りには、すばらしいサポーターがいます。恩師や先輩たち、支えてくれる家族、夢を語り合い、ときに励ましてくれる友人たち。たくさんの人々との出会い、その助力があって、今ここに私たちがいます。卒業間近の3年生は夏の甲子園大会の予選を最後に引退し、進学や就職を控えています。彼らは残念ながら甲子園大会出場の夢は叶いませんでしたが、1、2年生が昨秋、地元の大会で優勝してくれました。卒業後、またいつの日か恩師やチームメイトと再会し、思い出を語り合うことでしょう。最後に、お釈迦様は親しむべき友とはどういう人であるかを四種に分けて示されました。
一、本当に助けになる人
二、苦楽をともにする人
三、忠言を惜しまない人
四、同情心の深い人    (『六方礼経』)
このようなすばらしい友人を持つことは容易ではありませんが、これまでも、またこれからも本当に信頼できる良い友人を得ることができれば、人生はさらに豊かなものになるでしょう。そして、大切なのは自分自身が親しまれる友人になるよう心がけていかなければならないということです。

■春彼岸
豊かなる 念(おも)ひに通ふ 母の笑み 言葉なくして 見守られつつ  照井親資
お母さんと赤ちゃんの微笑ましい姿が詩に描写されています。"豊かなるおもい"。それは、悲しいときも苦しいときも、どのような逆境にあっても、ひねくれたり寂しがったりせずに、柔軟に全てを受け入れていくこころのことではないでしょうか。そして、それは自分だけでなく、ふれあう人々にもきっと、こころ暖まる思いを呼び起こさせるものです。詩の中で、子は母に見守られています。赤ちゃんは、誰かにみてもらわないと決して生きてはゆけません。親から頂いたもので大きくなります。つまり、私たちは一人で生きてはゆけません。多くの縁によって生かされています。名前にしても、親につけていただいて、それを私達は名乗り、コミュニケーションをとって社会の中で生きています。「生かされている自分を感謝し、報恩の行を積みましょう」。人は決して一人で生きてはゆけないから、誰かにお世話になって、そのお世話になった恩返しをしたいと思うわけです。しかし、報恩という恩返しをしたくても、なかなか、本当の意味での恩返しをすることは難しいようです。そこで、詩に描写される、母と子の間の言葉もいらないくらいの豊かなおもいを、普段私たちがこころの中に持つだけでも、報恩という恩返しになるのではないでしょうか。やさしい眼差(まなざ)しで接すること。にこやかな顔で接すること。やさしい言葉で接すること。自分の身体でできることを奉仕すること。他のために心を配ること。困っている人に、席や場所を譲ること。困っている人に自分の家を提供すること。これら七つは、豊かなるおもいから流れ出る「ねがい」であり、決してお金のかからない、誰もができる無財の七施という布施行です。お彼岸というと、とかく亡き人の冥福を弔う事だけに止(とど)められがちですが、お中日をはさんだ前後三日間は、自分を見つめ直し、一人一人が身近なところから七つのことを実践してみてはいかがでしょうか。
 
■アリストテレスとジョギング
最近、5qマラソンに挑戦する友人に連れ添って、ジョギングをしています。その友人いわく、「走り終えた後の水がおいしい。その水を飲むために走っているようなものだ」。ジョギングを終えた後、コンビニによって私はコーヒーを求めました。何気に買った缶コーヒーに、アリストテレスの「忍耐は苦い。しかしその果実は甘い」の格言が書いてあり、思わずふたりで笑いながら帰りました。気付けば十年以上も経ちますが、私もかつて似たような経験があります。修行道場にまだ身を置いていた頃、そのお寺で大きな行事がありました。朝から晩までめまぐるしく働いて、最後にささやかな打ち上げになりました。会下和尚とよばれる、かつて修行道場に居られた先輩の和尚さんから、この度の行事についての反省会と御垂訓を頂くのです。どこの会社組織、地域活動にも見られる忍耐のお時間です。すると横に座られた会下和尚から、スッとお茶碗を手渡されて、「お疲れ様でした。まあ飲みなさい」と促されました。頂きますと会釈してそのまま口に含むと、何ともいえないような甘い水でした。「あっ、これ般若湯(お酒)じゃないですか」。私は目をまるくした覚えがあります。よほど疲れ切っていたのか、あの時に頂いた般若湯ほど、甘くて美味しいものは未だ口にしたことがありません。味ばかりでなく世の中の価値さえも、その人の置かれた状況によって変わってきます。ジョギング後の水も、修行時代にスッと手渡されたあの般若湯も、飲む前に別に味付けを上乗せされたものではありません。その人の為した労苦が、おのずからその味をつくりあげたものなのでしょう。禅の言葉に、
刻苦光明必ず盛大なり  『禅関策進』
の語があります。刻まれた労苦には、必ず光り輝く喜悦がはね返ってくる。慈明和尚という方が、厳しい坐禅修行の合い間の睡魔を、自ら自身の腿に錐を突き刺して奮い立たせた故事から生まれた言葉です。鑿や錐で石を彫る際、打つ度に火花が飛ぶように、私たちが日常の中で刻んでいく経験や苦労には、それに見合った成果がある。厳しい修行もその真心を尽くせば、必ず報われる。人の為に尽くす心を持ち合せて接していけば、必ずその心は通じるものです。反対に、人に対して向き合う姿勢を見せなければ、それに応じたはね返りを受けることになります。肥えてきたお腹を抱えながら、必死でジョギングする自分の影に、刻苦光明と勤しんでいる今日この頃であります。

■いま生命(いのち)あるは有難し
今から約2500年前の4月8日、お釈迦さまは誕生されました。そのお釈迦さまの教えに、
人間に生まるること難し やがて死すべきものの いま生命(いのち)あるは有難し (法句経 182)
とあります。お釈迦様はある時、大地の土を爪の上にのせ、阿難尊者に「大地の土と爪の上端における土、いずれが多いか」と問われました。阿難尊者は、「大地の土の方がはるかに多いです」と。お釈迦様は、「そうだその通りだ。生きとし生けるものは、大地の土の如く無量無数だけれど、人間として生を受けるということは、爪の上端における土の如く、ごくごく稀である。かけがえのない生命を大切にし、二度とない人生を悔いのないように励みなさい」と、さとされました。その受け難き人身もやがては滅します。そのいつの日か滅する生命が、今日もまだ亡くならずに日暮らしができている。これ程有難いことはありません。先年、千葉の女高生が「幸せのはひふへほ」を、ある新聞に投稿していました。
「幸せのはひふへほ」
は...半分でいい ひ...人並みでいい ふ...普通でいい へ...平凡でいい ほ...ほんの少しでいい
幸せって人それぞれです 私はいま生きている それだけで幸せです お父さんお母さん、私を生んで育ててくれてありがとう  
「もっとキレイになりたい。もう少しお小遣いがほしい」。と言いかねない年頃の女の子達の中で、17歳の彼女は「生きているだけで幸せ」と言っています。そして、生きとし生けるものの中で、人間として生をさずけてくれた両親に、「私を生み、そして育ててくれてありがとう」と、感謝の気持ちをあらわしています。私は彼女の投書に心打たれました。かけがえのないこの尊い「いのち」。どう生きたらよいのでしょう。道元禅師の言葉に
勤むべきの一日は 尊ぶべきの一日なり 勤めざるの百年は 恨むべきの百年なり
とあります。一所懸命生きた一日はすばらしい一日です。逆に百年の齢を重ねることができても、社会やまわりの人々に迷惑をかけ通しの百年ならば、お祝いどころか恨むべきの百年です。どう生きるか。一日一日一所懸命生きることが大切です。まわりの人に比べると、多少長い短いはあるでしょうが、たとえそのお方の人生が二十年でも、一所懸命生きた人生は、すばらしい人生です。

■花祭りに思う
4月に入り、待ちに待った暖かい春がやってきました。春は始まりの季節、入学や就職など新生活を迎える人は、草花の芽のように期待に胸をふくらませていることでしょう。実は、仏教の世界においても、4月は大きな始まりを意味しています。4月8日は降誕会(ごうたんえ)といって、お釈迦さまがお生まれになった日であります。降誕会は、仏生会(ぶっしょうえ)、灌仏会(かんぶつえ)とも呼ばれていますが、やはり一番なじみがあるのは、花祭りという呼び名ではないでしょうか。各地の寺院では、春の草花で屋根が飾られた小さなお堂・花御堂(はなみどう)が置かれ、その中に誕生仏である小さな仏さまをお祀りいたします。花祭りでお参りする際、仏さまに甘茶を注ぎかけて手を合わせます。また、昔からいただいた甘茶で習字の墨をすれば字が上達すると言われていました。このように仏さまに甘茶をかけてお参りするというのは、お釈迦さまのご誕生を天が祝福し、産湯として甘露の雨を降らせたというお話がもとになっています。正岡子規は花祭りに次のような歌を詠みました。
げんげんも つつじも時と 咲きいでて 佛(ほとけ)生るる 日に逢はんとや
〈げんげん(レンゲソウ)もつつじも一斉に咲き出した。お釈迦さまのお生まれになった日に出逢おうとして咲いたのだろうか〉
これらの花は自らの命をいっぱいに使って、花御堂の屋根をきれいに飾っていたのでした。子規は、34歳の若さで亡くなるまでの7年間、結核と戦っていました。「子規」という雅号(本名以外につける風雅な名前)は、ホトトギスの別名といわれています。結核を患って吐血する自分自身の姿を、血を吐くまで鳴き続けると言われるホトトギスに喩えたものだったのです。その中で、仏教に出会えたよろこびを感じていました。そして、儚くも美しい花の命と自らのこころを重ね合わせて、この歌を詠んだのでしょう。自然の大きな命のつながりの中で、私たちは生かされています。花祭りには、春に咲く草花の命を感じ、お釈迦さまのご生誕をお祝いしましょう。そして、生かされている自分を感謝し、あらゆる命の尊さに思いを致す日にしたいものです。

■夢の大切さ、学ぶことへの感謝
天龍寺は、足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うために、夢窓国師にお願いして建てられました。夢窓国師はその生涯を通して、人々の幸せを願っておられました。ですから、天龍寺を建てられたほか、日本各地に68もの安国寺を建てられました。当時は戦乱が続き、人々のこころには何の希望もなく、なげやりになっておりました。そんな人々に、夢のある未来を作ろうとしたに他なりません。私が中学生の頃、大きな夢がありました。それは、アメリカに行って広告デザインの勉強をすることでした。大学4年生の時、一度向こうへ行ってみましたが、英語が全く通じませんでした。これでは駄目だと感じ、満を持して、25歳の時にアメリカへ渡り、サンフランシスコのアカデミーアートカレッジを2年半かけて卒業しました。その年の9月にはアメリカの中堅広告会社に入社いたしました。いよいよ念願かなって、アメリカの広告会社で働き始めます。しかし、異なった文化の中で働くということは大変なことでした。まず私がやった事は、日本人であるということを一度捨てることです。アメリカ人の心になりきること。そしてもう一度自分のルーツ、日本人であるということを再確認し、バイリンガルに徹する事です。この"バイリンガル"とは、「言葉のバイリンガルではなく文化のバイリンガルになる」ということです。一つの考えより、二つ三つと、より多くの他面的な物の見方、考え方ができた方が、より良いものを創造する力があるということです。アメリカ人社会の中で、インテルやヒューレット・パッカードなどのコンピューター関係や、ピーターベルトというトラックやトレーラー、コマツの大型工事車両など、多くの広告を手掛けました。その広告会社で、日本人は私一人でした。アメリカ人の中で、自由闊達な考え方で文化のバイリンガルを遺憾なく発揮し、2年を過ぎた頃には、ニューヨークで広告の賞を頂くまでになりました。私自身、自分ひとりの力でこのような賞を取ったとは考えておりません。支えてくれた父や母、姉達の理解があったからこそです。そして自分がどうしても諦めなかった夢があったからに他なりません。禅のことばに、「人人悉ク道器ナリ」(にんにんことごとくどうきなり/瑩山紹瑾『伝光録』より)というのがあります。これは、「この世に生まれてきた人は誰でも、仏道を極める可能性を兼ね備えている」という、努力する事によって、もともと備わっている可能性が開かれるということです。自分は特別の人ではありません。皆さんもそうです。しかしどんな人にも、生まれながらに夢を成し遂げる力があるということです。自分自身に自信を持ちなさい。道は必ず開けます。ある人はお医者様になる夢、ある人は消防士、ある人は先生になろうと夢を見ています。また、私のように外国に行って働きたいと思っているかもしれません。その夢は努力によって現実となって、自分のものとなるのです。今、世界はたいへんな時代を迎えています。環境では地球温暖化で南極や北極の氷が溶け出して、動植物の世界に異変が起こり、ツバルという島国は水に飲み込まれようとしています。中東においては、イスラエルとパレスチナは未だに暗く長いトンネルの中におります。経済では、度々起こる世界同時経済恐慌。リーマンブラザーズから始まって、日本においても多くの企業が倒産の憂き目に遭い、やっと回復の兆しが見えてきたに過ぎません。こんな環境の中で、我々人間は本来持っている優しい心、人を思いやる気持ちを忘れて、ただ自分さえ良ければ人には無関心という人が増えているのではないでしょうか。仏教の世界。それも我々大乗仏教の世界観というのは、自分も済われ、そして自分の周りの人達も済おうというものです。この基本に立ち返り、自分がこの社会、そして他の人から何かをしてもらうのではなく、自分自身がこの社会に何をしてあげられるか、そして自分の周りの人に、何をしてあげられるのかを考えて下さい。自分があってこの社会があるのではなく、「この社会に自分が生かされている。周りの人々によって自分が生かされている」と考えてください。夢は無限に広がりますが、そのために自分がこの社会に今、貢献できることといえば、これからの夢を現実にする為に、学ぶことです。世界には、学びたくても学ぶことができない10歳未満の就学児童が、200万人以上いるといわれています。幸いなことに、私達は自由に学ぶことができる日本という国におります。その事に感謝しなくてはなりません。他人を思いやる気持ち、そして感謝の心を持って人に接するならば、人は感謝の念を持ってあなた達に接してくれます。この輪がどんどん広がってゆけば、この世界は平和の輪で包まれるのではないでしょうか。
 
■陽にも留まらず、陰にも留まらず
五月晴れの空に青葉若葉が鮮やかに萌える時節となりました。咲き誇っていたさくらの花も散り、その姿は薄紅色から緑色へ、季節は晩春から初夏へたすきがつながれました。お寺からほど近いさくら並木を歩いていると、ついひと月ほど前まで大勢の人が花見を楽しんでいたこの場所で、さくらは爽やかな風と太陽の光を浴びて、何とも気持ちよさそうに枝をたなびかせていました。花見の頃には、レジャーシートを広げてお手製のお弁当を頬張る家族、のんびりと歩いては立ち止まり、優美な景色に感嘆の吐息を洩らす人々、そして静かに着地した花びらを拾い集めては舞い下ろし、花吹雪を楽しむ子どもたちであふれ返ります。そんな世間の賑わいとは裏腹に、私は体調を崩して花見ができず、布団の上でさくら並木を思い浮かべては、世間から置き去りにされて、取り残されたような気分になりました 『槐安国語』という禅の書物に、「陰陽不到の処、一片の好風光」という言葉があります。陰と陽を相比べることなく、どちらにも偏ることがなければ、すばらしい景色となるということです。私たちは「陰と陽」「悪と善」「損と得」などと物事を二元的にとらえては迷い、そしてそのどちらかを選り好みすることによって迷いは一層深くなります。 平生の日暮らしの中で、自分にとって都合のいいことも悪いこともあります。前者を陽、後者を陰とすれば、世間から置き去りにされて取り残されたような気分となった私は、陰に心を留めていたのでした。詩人の高田敏子さんに、「樹の心」という作品があります。
花の季節を愛でられて 花を散らしたあとは 忘れられている さくら
忘れられて 静かに過ごす樹の心を 学ばなければならない
忘れられているときが 自分を見つめ 充実させるときであることを 樹は知っている
さくらの花びらがハラハラとはかなく散るその光景は、花見のあとの寂しさを一層漂わせます。そして、つぼみが再び膨らみ始める日まで世間から忘れられるさくらは、一見すると老木のように見えます。しかし、そうではなかったのです。さくらは人から愛でられても忘れられても、陽にも陰にも留まることなく、自分を見つめ、充実させていたのでした。陽に心を留めれば奢りとなり、さりとて陰に心を留めれば負い目となります。注目されても奢ることなく、忘れられても負い目を感じることのないさくらは、自分を見つめて充実させて、再び花を咲かせる準備をしていたのです。花の季節だけではなく、人々から置き去りにされても腐ることなく、さくらはいつでも私たちに好風光を届けてくれるのでした。どんな環境にあっても心を留めないさくらの「樹の心」は、陰に心を留めていた私の心をそっとほどいてくれました。陽にも陰にも留まらないさくらが、来春に見事な花を咲かせるように、私たちも人生の陰陽に留まることなく、自分を見つめて充実させて花を咲かせたいものです。

■柳は緑、花は紅、真面目(しんめんもく)
「柳は緑、花は紅、真面目(しんめんもく)」という言葉を、中国の宋代の詩人蘇東坡居士が残したとされています。草木が芽吹く季節になりました。草木は、天候や自らの置かれた環境に不満を抱くことなく、精一杯生命を輝かせています。柳は緑色で花は紅色、と当たり前に思える風景こそが仏国土の風景なのだということです。ありふれた日常の風景を美しいと感じ、かけがえのない人やものに支えられて生きていると感謝して生きることができたら、これほどの幸せはありません。しかし私たちは「柳が緑色は当たり前、花が紅いのは当たり前」と決めつけて、ありのままの美しさに気付く機会を見逃しがちです。それは、学校や家庭・職場でたくさんの知識や常識・習慣を身につけ、「◯◯したら後々こうなる」とか「◯◯というのが当たり前」と考えるようになることが原因です。とても便利で、効率的なようにも思えますが、自分の考え方から外れた人を見れば、勝手に「非常識な人だ」と判断し、精一杯生命を輝かせる草木も「あたりまえの日常」として見過ごしてしまうのです。これを仏教では「執着心」と呼びます。さて五月に入ると、東京では夏祭りの季節です。私が生まれ育った浅草は五月中旬に三社祭が催行され、延べ150万人もの神輿の担ぎ手と見物客で賑わいます。祭礼中は町会ごとに揃えた半纏や女性の見物客の華やかな浴衣などで、普段でも賑やかな浅草が、一層賑わいを増します。神輿の担ぎ手は、住んでいる町会は同じですが、仕事も年代も性別も違う人たちです。属する社会が違えば考え方も違い、お互い苛立つことがあります。しかし苛立った人たちも、重たい神輿を、初夏の暑さの中で一心に担ぐと、「あの人は好き、嫌い」という執着心から、ひととき離れることができるのです。あれやこれやと余計な考えをせず、一心に「いま」の自分に打ち込むことで、執着心から離れることができ、築き上げた常識やプライドは単なる虚構にしかすぎないことがわかります。江戸時代、埋立地だった浅草に人々が移り住みました。出自も経歴も違う人たちが和合を保つ為、重い神輿を威勢よく担ぎ、お互い支えあい生きていることを実感したのではないかと想像されます。普段は、「柳は緑、花が紅いのは当たり前」と決めつけて、ありのままの美しさに気づくことはなかなかありません。けれど、坐禅をして心を調え、一心に一つの作業に打ち込むことで、執着心からひととき離れることができます。その時、目の前に広がる普段の風景こそ仏国土であり、ありのままに見る自らの心を「仏心」と呼ぶのです。ありふれた日常の中で、「いま」の自分に精一杯打ち込む草木や花のように、初夏の空の下、与えられた生命を輝かせていきたいものです。

■花を弄すれば香り衣に満つ
先般、名古屋の徳源寺では先代の瑞雲軒松山萬密老大師の13回忌の法要が勤められました。私も出頭しお参りをさせていただきました。私のお寺には、瑞雲軒老大師が揮毫された表題の墨蹟があります。昭和59年11月、当山の中興開山300年遠諱に導師としてお越しいただいたご縁でこの墨蹟をいただいたのです。当時、瑞雲軒老大師は妙心寺派管長でもありました。さて、この語でありますが、中国は唐の時代、于良史の『春山夜月』(しゅんざんやげつ)と題する詩の一節です。「水を掬すれば月手に在り」の句と対句になっています。花を弄(もてあそ)んでいると、花の中に身を置いることになり、その花の香りがいつの間にか着物にしみつくように、人もよき友、よき環境の中に身を置いていれば、いつの間にかよくなるものだ、という意味です。朱に交われば赤くなる、という諺にもある通り、人というものは交わる環境や愛玩するものに、いつとはなしに影響されてゆくものであるから、つとめてよき師、よき教え、よき友やよき環境に身を置けというのです。『華厳経』という経典の中にも"薫習"(香りがしみ込むの意味)ということについて、こんなお話が伝えられています。ある日、お釈迦様は数人の弟子を連れて町を歩いておられた。道に一本の縄きれが落ちているのに気付いたお釈迦様は、弟子の一人に振り返り、こう言われた。「その縄を拾ってごらん。どんなにおいがするかね」。縄を拾って、においを嗅いだ弟子は「お釈迦様、大変いやなにおいがいたします」と答えました。またしばらく歩いていると、今度は一枚の紙切れが落ちていました。お釈迦様は、さっきの弟子に振り返り「その紙を拾ってごらん。どんなにおいがするかね」とお尋ねになられました。紙切れを拾って、においを嗅いだ弟子は「お釈迦様、大変よいにおいがいたします」と答えました。お釈迦様はそこで立ち止まり、静かにおおせられました。「弟子たちよ、縄も初めからいやなにおいがしていたわけではなかろう。いやなにおいのものをしばったために、縄まで人に嫌われるようになってしまった。紙切れも、初めは何のにおいもないものが、よいにおいのお香か何かを包んだおかげで、みんなに喜ばれる紙になることができた。お前たちも、つとめてよき友を持たなければならない」 お釈迦様は"対機説法"の名手で、まことに臨機応変。とても、わかりやすいお話だと思います。実は、当山の遠諱を終えた約一ヵ月後、私の姉が亡くなりました。脳腫瘍という病で27歳の若さで死んでいったのです。私たち家族は、しばらく悲しみの毎日でした。ふと気付けば、師父と母の悲しみは想像を超えたものでした。しかし、厳しく近寄りがたい存在である師父の泣き崩れる姿を目の当たりにし、私にとって大きな転機となりました。だんだんと年老いてゆく両親への想い。そして、私は当時大学の4年生で、振り返れば毎日がその日暮しで人生について考えた事もなく、生命の事なんてなおさらです。見方を変えれば、姉の死は、やがてなろうとする宗教家への道の性根を叩き込まれた縁であり、大学を卒業したら専門道場へ掛搭し、寺を継ぐ事の決心がついた時でもありました。「花を弄すれば香り衣に満つ」という語は、これから人生を正しく生きてゆけよ、という姉の声なき声であるとともに、瑞雲軒老大師のお慈悲であると受け止めた、有難く尊いご縁でありました。  
 

 

■草木を活かし、自分を活かす
雨が降ってきたので庭掃除を中断して部屋に戻ってきました。窓から眺める境内のアジサイは濡れて色かがやき、水瓶の中では目が覚めたように開き始めたハスの花が実に鮮やかです。木陰ではアゲハチョウが雨宿りしながら静かにツツジの蜜を吸い、遠くからはカエルの合唱が聞こえてきます。
雨のおとがきこえる 雨がふっていたのだ
あのおとのようにそっと世のためにはたらいていよう
雨があがるようにしずかに死んでゆこう  八木重吉さん『雨』
雨は分け隔てなくあらゆるものを潤し、汚れを落としてくれます。『ブッダのことば―スッタニパータ』(岩波文庫・中村元訳)には「いかなる生物生類であっても、怯えているものでも強剛なものでも、悉く、長いものでも、大きいものでも、中ぐらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、粗大なものでも、目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでもすでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ」とあります。まさに雨は一切のものに幸せを与えてくれる存在です。けれどもみんなの心が安らぐように務める僧侶である私自身は、僧堂から自坊に戻って和尚となっても毎日やるのは掃除と作務だけ、内心「こんなことばかりしていていいんだろうか。もっと世の中のためにしなきゃならないことがあるんじゃないか」と焦りや不甲斐なさもあって掃除にも身が入らず、ダラダラおこなっているようなありさまでした。そんなある日、寺に用があって来られた檀家のおじさんが掃き掃除をしている私を見つけて「若和尚さん、この庭は清々していて来るたびに心が洗われるよ。それに落ち葉も根っこに集めてもらえてうれしそうだ。葉っぱは生きてるときも死んでからも役に立とうとするから本当に偉いよな」と言われました。葉っぱは光合成をおこない、枯れれば土に還って肥料になるということは知識としては知っていましたが、葉っぱが偉いなんて思ったことはありませんでした。しかしそう思って葉っぱを見ると、確かに一枚一枚精一杯生きた充実感のようなものがにじみ出ていて、「ご苦労さまでした。次の場所でもがんばってください」という気持ちが自然にわいてきました。そして私自身も「掃除をすれば人も葉っぱも木も喜んでくれる、だから私は一所懸命掃除をすればいい、お互いに活き活かしていけばいいんだ」と思うようになり、それからは掃除が楽しくなりました。どうやら雨があがったようです。参道のあちこちに濡れた葉っぱが落ちています。水たまりをよけながら掃除再開です。できるだけきれいに、他のいのちを傷つけず、活かすように、そっと。

■でんでんむしのかなしみ
「この世において、どんな人にもなしとげられないことが五つある。一つには老いゆく身でありながら老いないということ。二つには病む身でありながら、病まないということ。三つには、死すべきで身でありながら、死なないということ。四つには、滅ぶべきでありながら、滅びないということ。五つには、尽きるべきものでありながら、尽きないということである」(仏教聖典より)。私たちは、生まれることからしても、男性に、女性にと願いが叶って生まれた人はいるのでしょうか。歳を取りたくない、いつまでも若く。病気もしたくない、挙句の果てには、できたら死にたくない。何もかも嫌だ、嫌だと、100%思い通りにならないことを思い通りにしようとすると、そこへジワジワと苦しみが押し寄せてきます。生まれる時も「おまかせ」、老いていくのも「おまかせ」、健康を損ねた時も「おまかせ」、そして、命の使用期限が切れるのも「おまかせ」・・・・・・と、どうにもならないことは「おまかせ」するしかありません。このどうにもならないことはとても悲しいことでもあります。しかし、この世に生を受けた以上は背負って生きていかなければならないのです。あのカタツムリが殻を一生背負って生きていくように。新美南吉作「でんでんむしのかなしみ」のあらすじです。
ある日、でんでんむしは「自分の殻の中には悲しみしか詰まっていない」ということにうっかり気付き「もう生きていけない」と嘆く。そこで別のでんでんむしにその話をするが「私の殻も悲しみしか詰まっていない」と言い、また別のでんでんむしも同じことを言った。そして最初のでんでんむしは「悲しみは誰でも持っている。自分の悲しみは自分で堪えていくしかない」と嘆くのをやめた。
そうです、悲しみ、苦しみ、悩みは誰もが背負っています。その荷を軽く感じるか重く感じるかは自分次第です。出来るだけ荷を軽くして一度限りの人生を楽しみましょう。

■白隠禅師のこころ 「心の草取り」
臨済宗中興の祖と称された白隠禅師の著書に「草取唄(くさとりうた)」という道歌集があります。当時の文字が読めない人々にも禅をわかりやすく口伝えするために作られたのでありましょう。軽妙な唄の中に禅の教えが易しく書かれています。草取唄は今この時を一心に生きることの尊さ、そして人の行ないはそのまま仏道であり、その人自身が仏さまだ、と教えてくれます。
つねに心をとり離しやるな、(中略)坐禅しぶりに胸焦がしやるな、とらずもとめず 坐禅をしやれ ・・・ (意訳)何事にも一心に取り組もう。坐禅を渋りあれこれと思い煩いなさるな。様々な思いや欲にとらわれず一心に取り組みなさい。
ここでいう坐禅とは、禅の修行の坐禅ばかりを指すのではありません。人それぞれに仕事や環境は違うでしょうが、一心不乱に目の前のことに取り組む、その真剣な行ないそのものが坐禅をしているのと同じなのだというのです。 「とらず もとめず 坐禅をしやれ」とあります。私たちの心は思い込みや欲望などに振り回されやすいものです。さらにそれが正しい見方や正しい行ないを妨げます。これは言ってみれば心の雑草なのです。心が雑草だらけになれば、心の庭にもともと咲いているきれいな花も見えなくなります。ですから草取唄では欲や不満、愚かな言動などの心の雑草を抜いて、一心に自分の行ないに取り組み、本来の自分(自分が仏であること)に立ち返ることを勧めるのです。松下電器産業の創始者・松下幸之助さんのお話です。まだ松下さんの会社が小さな電球を少しずつ作っていたころ、ある工員に松下さんが聞きました。「仕事は楽しいかね」。するとその工員は、「毎日電球を磨く退屈な仕事です」。と下を向きました。そこで松下さんはこう励ましたのです。「君の仕事は素晴らしい仕事や。君の磨いた電球のおかげで夜でも子供たちが勉強できる。あんたの磨いているのは電球やない。子供の夢を磨いているんや。電球が夜暗い道を照らせば、人は安心して夜道を歩ける。あんたは物を作ってるんやなくてその先にある笑顔を作ってるんや」。人と比べ自分のほうが恵まれていないのではと、つい不満になるのが私たち人間の悪い癖です。それが正しい見方や行ないを妨げ、もともと自分が持っている良いものも見えなくなるものです。心に雑草が増えると心の庭のきれいな花も見えなくなるのです。そこでこの草取唄の「とらず もとめず 坐禅をしやれ」の通り、欲や不満、愚かな言動など、心に生えた雑草を抜いてみましょう。そして一心不乱に物事に取り組むとき、その行ないはそのまま仏道であり、その姿は仏さまなのです。さらにその目で周りを見回してみると、私たちは実にたくさんの仏さまに支えられて生きているのだと、思わず手を合わせずにいられなくなることと思います。どうか心の雑草を取り、すがすがしい皆さま自身の本来の姿、仏さまの姿を見つめていただきたいと思います。

■この泥が あればこそ咲け 蓮の花
今年もお盆が近付いてまいりました。この一年の間にご家族ご親族を亡くされた方もいらっしゃることと思いますが、きっと今までとは違ったお気持ちでお盆をお迎えのことと存じます。お釈迦様の説かれた「八苦」の中に、愛別離苦―私たち人間には誰にも愛する大切な人達がいるけれども、いつの日にか必ずそういう人達とも別れていかなければならない苦しみ―があります。当山のお檀家さんにも大変に仲睦まじい御夫婦がいらっしゃいました。いつもお二人で散歩をされたり、お寺やお墓へお参りにお見えになりましたが、昨年ご主人がご病気で他界されました。奥様は大変肩を落とされて、四十九日のお勤めが終わった後も、お寺へお見えになっては「家にいると悲しくて悲しくて涙が止まらないので、こうやってお邪魔させてもらってるんです」とよくお話しされていました。当山には蓮が数鉢あるのですが、毎年春に蓮の植え替えをしております。丁度その時に奥様がお見えになって、「お寺の蓮は毎年主人と二人で楽しみにしていたんですよ。本当に綺麗で見てるだけで心が安らぐし、私もやってみようかしら」とおっしゃるので、一緒に植え替えを手伝っていただくことにしました。蓮の植え替えはなかなか大変で、特にこの泥がなかなかの曲者であります。服に跳ねるとこびりついてなかなか落ちませんし、素手で触れれば爪の間に入りこんで、匂いもなかなか落ちません。やっと作業が終わって手を洗ってから、ふと奥様が実に清々しい顔でご自分の手を見ながら話されました。「この泥は私の悲しみと一緒ですね。洗っても洗っても全然落ちない。私は主人が亡くなって本当にずっと悲しくて、こんなに辛い思いをするくらいなら、いっそ出会わなければ良かったと思う時もありました。でもやっぱり私は主人に出会えて幸せでしたし、これだけ悲しくて辛いのは、主人の事をそれだけ大切に思っているからなんだなって気付けたように思います。そしてこの気持ちはとても温かいんです。蓮だってこの泥があるから綺麗な花を咲かせるんですよね」。「この泥があればこそ咲け蓮の花」という言葉があります。蓮は水に浸けるだけでそこから花を付けることは絶対にありません。私達も同じで、愛別離苦という泥があるからこそ、蓮の花のように綺麗な故人への想いに改めて気づいていく事ができるのでしょう。奥様も消えない悲しみの中に故人への大切な想いを再認識されたのです。今境内では奥様と植え替えた蓮の花が綺麗に咲いております。たとえ愛別離苦の中にいても、かけがえのない人達へのその想いを大切にして、皆様にとって良いお盆をお迎え頂ければと心よりお祈り申し上げます。

■手を把って共に行く
7月の雨上がり、運転しながらラジオを聞いていると、「私の作文コンクール」の優秀作品の朗読が流れてきました。なんとなしに聞いていますと大変感銘を受けて心に響いてまいりました。玖珠中学校3年繁田実奈さんの「希望を有難う」という作文です。
「絶対できん」これは私の口癖。でも今は、その口癖の回数も減りました。今までの私は何に対してもマイナス思考。その理由は私の左手。私の左手は皆と同じように動きません。14年間、何度も障害のことを嫌だと思ってきました。障害を持っていることで周囲の目を気にしていました。中学生になってからは、その思いが更に大きくなって障害を持っている自分が嫌いでした。障害があることで皆と同じことができないということを受け入れたくありませんでした。「生まれつきの障害」だけど、友だちに混じって思いっ切りやりたい事があるのに、それができない辛さは、私にはとても大きな悩みでした。左手を使うたびに左手に八つ当たりして自分を責めました。そんな時は何に対しても「絶対できん」とつい言ってしまうのです。本当は、誰かにこの苦しさから救って欲しいと心の中では思っているのに諦めている自分がいました。14年間、左手が治ると信じてやっていたリハビリが、実はやっても「治る可能性は少ない」ということを私は最近知りました。きついリハビリにも耐え、身体の左側に打たれる何本もの注射にも耐え、少しでも治るように私は本当に歯を食いしばって頑張ってきました。だけど、やっても治らないという事を宣言された時、私は自分の将来に希望が持てなくなりました。今でもできない自分に腹が立ち、自分を責めてきたのに、たったひとすじの希望も消え、這い上がれないどん底に突き落とされた気分でした。そんな気分の中、私は職場体験に行かなければなりませんでした。職場体験当日、私はそこで、ある人に出会いました。「私、障害者なんです」と笑顔で私に自己紹介してくれたその人は、病気で倒れて左手と左足が動かなくなったそうです。(中略) 私より重い障害なのに、その人は「片手だけでもやれることはやる」と言っていました。大変だけれど今の自分を受け入れて「やろう」という強い意志を感じました。でも自分にはそれができていません。障害を持っている自分が嫌だとか、できない自分が嫌だとか、できない事ばかりに目を向けてできる事を考えようとしていませんでした。でもその人の明るい笑顔に私も無理とかやりたくないとか思わずにダメでいいから何でもやってみようと思いました。このときから、私の世界が変わったように感じました。(中略) 人との出会いによってマイナスの考えでもプラスに変えることができる。自分から何かをしたいという気持ちも芽生える。私の荒れた心を耕し、私を変えてくれた職場体験の出会いを私は心の支えとして生きていきたいと思います。「私、障害者なんです」といつか私も笑顔で言えるように。
人との出会いによって考えが変わり人生も変わってきます。禅の言葉に「手を把って共に行く」という言葉がありますが、地域は組織でのボランティア活動も盛んになりました。健常者や高齢者、障害者が共に生活できる生活環境をいろんな方々のご縁を頂きながら共に助け合って生きていく。私一人では生きてはいけない世の中です。自分のできる事で何か社会のために尽くしてみませんか。

■おもてなし
ほおずきの 色づくころや 盆ちかし
自然の営みが、お盆の近いことを教えてくれます。お盆の準備がはじまります。
盆ちかし 一人ひとりの 位牌ふく
一柱一柱のお位牌を拭き清めていると、亡きお方のお一人お一人の心が伝わってくるようで心が温まります。ご先祖さまをお招きするお盆。
迎え火は おいでませとの おもてなし
お墓参りをして、ご先祖さまをお迎えします。地域によっては、山や川より里に通じる道の草刈りをする所もあるとか。これは故人が、山や川にいるということで、お帰りになるご先祖さまが、通りやすいようにとの"おもてなし"ではないでしょうか。何年か前のお盆のこと、車で走っていますとラジオからこんな話が流れてきました。小学校三年生の男子生徒、この子は恐ろしい程の悪ガキいたずら坊主でした。一年生の頃から、女の子の髪をハサミでバサッと摘み切ったり、スカートをスパッと切ったり、お腹を蹴られた男の子は長らく入院し、授業中に歩き回って友達の頭を叩いて回る。先生に「掃除しなさい」と言われても全然しない。「君は掃除しなくていいから、じゃまにならんようにしておれ」と言われると、意地になってする。その度ごとに先生に叱られる。草が伸びると草と草を結んで輪差を作り、大人たちがその輪差にひっかかって転ぶのを見て手を叩いて喜ぶ。大人たちに怒鳴られ怒られる。こういう調子で学校はおろか、村中で評判のやんちゃ者でした。その年のお盆も近づいた頃、この少年は何を思ったのか自分の家からお墓まで、草を引き、窪みには土を入れ、大きな石やゴミをどけ、誰もが安心して通れる道に何日も何日もかけて直したというのです。これが評判に評判を呼び、学校の知るところとなりました。担任の先生が、問い質(ただ)すのですが、彼は黙って下を向いたきりです。一向に埒(らち)が明かない。それならばということで、校長先生が話をしてみると、彼は小声でボソッと
「父ちゃんが......」 「父ちゃんが......どうした?」 「うん、校長先生、ぼく、おじさん、おばさんが話しているのを聞いた」 「何て言うとった?」 「うん、お盆になったら、お盆になったら死んだ人が、帰ってくるって」
実はこの少年、幼稚園の時、お父さんを亡くしていたのです。
「そうか、それでお父さんが帰ってこられる時、気持ち良く帰ってこられるように、キレイにしとったんか」
校長先生はさっそく全校集会を開いてみんなの前でこの話をされ、最後に「この学校で、この村で彼は一番、優しい親思いの生徒です」と褒められました。それからの少年の態度が一変したのは言うまでもありません。父親に「叱られたい」、「怒鳴られたい」、「怒られたい」幼心が彼に悪さをさせていたのでしょう。ところがお父さんに会いたい一心でしたことが、彼の心を一変させました。 つまり亡き人は、生きている者の心の支えになっているのです。お盆とはご先祖さまの大きな大きな"いのち"の中に、自分の"いのち"が包まれてあることを知る機会であり、それを実感できたならば、私の申し上げたい"おもてなし"に他なりません。亡き人と共に、より良く生きてゆきますという誓いと祈りをこめて
送り火に たくす思いは また来てね
    
■受け容れていく心
さて、『碧巌録』という禅語録に「洞山無寒暑(洞山に寒暑無し)」という話がでてきます。ある時、洞山(とうざん)禅師に僧侶が質問します。「寒い時暑い時が来たら、どう回避しますか」。洞山禅師は「寒さ暑さのない世界に行ったらよい」と答えます。それを聞いた僧侶は「その世界は一体どこにあるのですか」と聞きました。すると、洞山禅師はこう答えられました。「寒い時は寒さで自分を殺し、暑い時には暑さで自分を殺す」。暑さ寒さのない世界に行くには、「暑さ寒さで自分を殺しなさい」というのです。この「自分を殺す」とはどういうことでしょうか。私が修行道場で修行していた頃の話です。暑い中でのお盆参り。檀家さんはクーラーや扇風機をつけて下さっていました。しかし、何もつけられていないお宅もございました。私が汗を流しながらお経を読んでいると、暑いなぁという思いが大きくなりました。お経の後、檀家さんはこうおっしゃいました。 「暑い夏もまたいいものですよ。私は四季を感じられるように、この部屋にはエアコンをつけていないんです。時おり入ってくる風も心地よいじゃないですか」。私はハッといたしました。私には涼しい部屋でお参りしたいという思いがあったのです。暑い夏をそのまま受け入れていない自分の至らなさに気づかされました。するとその時、縁側から涼風が入ってきました。私の心にあった"暑い"という思いも飛んでいきました。その後のお盆参りは暑くても清々しい気持ちでお参りさせていただくことができました。無門関という禅語録にこういう言葉がございます。
春に百花有り、秋に月有り。夏に涼風有り、冬に雪有り。若し閑事の心頭にかかる無くんば便ち是れ人間の好時節。春は様々な花が咲き誇り、秋は月が美しい。夏は猛暑の中の涼風が心地よく、冬は雪景色が美しい。もしつまらぬことをあれこれ考えて心煩うことがなければ、いつでも人間にとって好時節である。
暑い夏をそのまま受け止める人はどの季節もすばらしい季節と感じられるのでしょうね。最初にご紹介した禅問答の「自分を殺す」とは余計な事を考える自分を無くしてその時に徹していくことです。そうすればいつでもすばらしい時になります。自分を殺すことが自分を活かすことになります。暑さ寒さだけではありません。様々な苦しみに直面した時、あれこれ思い悩む自分を無にして苦しみと一つとなって受け入れ生きていくことが、自分を活かすことになるのではないでしょうか。私達が悩んだ時は、「あれこれ求めすぎないことが、幸せにつながっていく」と自ら言い聞かせ、心を軽くして過ごしていきたいものです。

■廬山は煙雨、浙江は潮
暑さも増してくるこの頃、お盆休みの季節となりました。ふとした時、生まれ故郷を改めて慕う気持ちが出てくるのもこの時期でしょうか。 
廬山(ろざん)は煙雨(えんう)、浙江(せっこう)は潮 未だ到らざれば千般恨み消せず 到り得て帰り来たれば別事無し 廬山は煙雨、浙江は潮
これは宋代の詩人蘇東坡の詩とされています。廬山とは江西省にある山で、煙のような霧雨がたつ景色は絶景だといわれています。浙江は高潮で有名でこれももまた素晴らしいところだと讃えられています。そして、観ないうちはどんな素晴らしいところだろうと、寝ても覚めてもその思いは消えなかった。けれども、自分でそこに行って眺めて帰ってくると、別だん何のことはなかった。廬山は煙雨、浙江は潮だったということです。最初の「廬山は煙雨浙江は潮」は、日常生活の場で物事をありのままに観る以前に、思い込みや一般常識など色々と持ち込んで見ているところ。ところがひとたび行って物事の本当の姿を観て帰ってきた時に、やはり「廬山は煙雨浙江は潮」という同じ言葉ですが、それを受け取る精神の次元がかなり違っているということを痛感して、しかもなんら異なったところでないということが現わされています。私達にしてみれば、郷里を離れ高みを目指して諸国を渡り歩き、巡り巡ってふるさとへ帰ってきたが、そこはいつもと変わらない里山や家々がある。つまり、元いた自分から出て、高いものを目指しそこまで到達して振り返ってみると、形はちっとも変わっていないし自分の身体も少しも変わっていない。やはり元の自分がここにあるということなのです。私事ですが、私は昔から両親とぶつかることが多い人間でした。なぜ自分のことをわかってくれないのか、どうしてそんな態度なんだ、時代が違うからだなどと事あるごとに反発していました。そんな私も二年前子供が生まれ一児の父親となりました。そして生まれ出てきた我が子を見た時、感動したと同時に、自分の両親への気持ちが溢れ出てきたのです。親の気持ちがわかるというよりも、「両親と私は一緒じゃないか」と感じたのです。喩えるならば、自分はワタシという葉っぱでいるつもりだったけど、父という葉も母という葉も妻も子も、生えているのは同じ一本の木からなのではないのか。そう思うと、とても嬉しくて充実した心持ちになったのです。しかし、その後両親とぶつかることは全く減っておりません。別事無しです。葉っぱは葉っぱです。けれども、ぶつかっても以前のように悩む事は少なくなりました。諸国を渡り歩き、元いた自分と全く別ものになったのに、ふるさとの山は相変わらず青々として、畑ではカラスがトマトをつついている。一日でガラッと変わったはずなのに、やっている事はいつも通り。さて久々のふるさとはどうでしょうか。

■臨済禅師のこころ 「あたりまえだと思っていたことが...」
以前、北陸のあるお寺で法話をさせていただく機会がありました。そのお寺の掲示板に、ご住職の字で、次のような言葉が書いてありました。
あたりまえだと思っていたことが 有難いものだと気づいたら 最高に幸せ
私たちはついつい「こうなったら幸せ」、「あれが手に入ったら幸せ」などと、今、目の前にないものを求めるくせがあります。それが故に、今すでにいただいている、有難いものごとに気がつくことができないのではないでしょうか。私たち臨済宗の宗祖・臨済禅師は「もし求むること有れば皆苦なり」と説かれています。求めているものが手に入らないと、人間は苦しみを感じます。もし仮に求めているものが手に入ったとしても、すぐに新しく求めるものが出てきてしまいます。こんなことを繰り返していたら、いつまでたっても幸せを感じることはできません。童謡「手のひらを太陽に」の作詞や、絵本作家で『アンパンマン』の作者として知られる、やなせたかしさん。彼は戦争体験や不遇な漫画家生活を過ごした経験から、「人間の幸せ」というものを常々考え、それは後の作品にも大きな影響を与えてきました。そんなやなせさんが、生前こんなことをおっしゃっていたそうです。
幸福とはなんだろう。幸福の正体はよくわからない。お腹をすかせて一杯のラーメンがとてもおいしければ、それは本物の幸福だ。(中略)健康でスタスタ歩いているときには気がつかないのに、病気になってみると、当たり前に歩けることが、どんなに幸福だったのかと気づく。幸福は本当はすぐそばにあって、気づいてくれるのを待っているものなのだ。(『やなせたかし 明日をひらく言葉』)
すぐそばにある幸せに気づくことができるか否か。それは私たちの心にかかっているのです。まもなくお盆休みの季節になります。せっかくのお休みですから、幸せを外に求めることも、お休みしてみませんか。そして、今・ここにこうして生きている、「あたりまえ」だと思っていたことの尊さ、有難さを感じながら、ご先祖様方をお迎えいたしましょう。

■蓮の花
いつかは蓮の花を咲かせたいと念じていたら、信者さんから株分けをして頂いた。睡蓮鉢に泥を詰め細い蓮根株を埋め込み、球肥を施して水を張り、五鉢の蓮池ができた。ひと月ほどで芽を出し、黄緑色の葉が開いた。同時に数本の茎が空に伸び、日に日に葉を広げていく。雨の季節には、濃い緑の葉の中心に雨滴が集まり、それはまるで直径3センチほどの水晶玉のように透明に輝いている。その頃、小指の先ほどの蕾を持った茎もまっすぐに伸びてくる。梅雨の中に、薄桃色の蕾が幼子の合掌のように膨らみ、やがて花開く。花色は次第に白くなり、先端だけに赤味を残す。その姿は、ほんのり酔ったお妃の顔のように例えられる。花は早朝に開き午後3時頃には閉じる。それを3回ほどくり返すと、4日目には散り始める。お香のような香りがし、西方浄土の極楽には色とりどりの蓮池があると信じられている。『阿弥陀経(あみだきょう)』には、極楽の池には車輪のごとき蓮花の花咲き、青き花は青く光り、黄色き花は黄色く光り、赤き花は赤く光り、白き花は白く光る。とある。また、『維摩経(ゆいまきょう)』には、高原の陸地には蓮花は生えない。汚泥の中からこそ蓮花は咲く。とある(どちらも意訳)。娑婆に咲く蓮花が汚泥の中から美しい花を咲かせるように、汚濁に満ちた我が心の中ではあるけれど、それを肥やしとして見事な花を咲かせたい。この私の煩悩を錬磨して、心中に安楽地を得たいと念じる。蓮の花を見ていると、素直にそう思うのである。  
 

 

■ミミズ「おい、どうなんだ」
夏が終わり、そろそろ冬野菜に備えて畑の準備をする時季になりました。 私の住む寺には小さな畑があります。ところが、私は畑を耕す作業が苦手です。土の中からミミズが何十匹と出てくるからです。といっても虫が嫌いだから苦手というわけではありません。土を掘り起こしていると、鍬(くわ)でミミズを引っ掛けてしまうからです。二つに切れたミミズは全身を激しく動かして悶え苦しみ、やがて力尽きて死んでしまいます。畑を耕して野菜を作るには殺生を避けられないと感じる場面です。仏教徒が守らねばならない戒に「不殺生(殺してはならない)」があります。肉魚を食べてはいけないといわれる根拠でもあります。しかし、畑を耕す話からもわかるように、肉魚を避けて野菜だけを食べていても戒を守っているとは必ずしも言い切れません。そうかといって殺生を避けていては食べられる食材は一つも無くなってしまいます。殺生をしたのが直接なのか間接なのか、野菜は例外とするのか、どこかで殺生の線引きをしようとすると、どうしても自分の勝手な解釈を持ち出さなければなりません。いっそのこと線を引くのを諦めて、人間の営みは殺生の上に成り立っていると自覚した方がいいのではないか、悶え苦しむミミズたちが「おい、どうなんだ」と私に問いかけます。また「不偸盗(ふちゅうとう・盗んではならない)」という戒があります。野菜の栽培では、日当たりを工夫し、水や堆肥を与えるなど自然の恵みを活用します。ところが、活用と言えば良い意味に聞こえますが、自然は本来人間だけのものではありません。自然の活用とは人間の立場から見た都合の良い解釈であり、見る立場を変えれば自然を盗んでいるともいえます。「盗んではならない」という戒とは裏腹に、盗んで成り立っているのが人の暮らしの現実ではないでしょうか。畑を世話していると、仏教の不殺生や不偸盗の戒は単に社会のルールではなく、人のあり方を省みる問いかけであると気づかされます。禅寺で食事の前に読まれる「五観文」というお経に次の一節があります。
己が徳行の全闕(ぜんけつ)を忖(はか)って供(く)に応ず
「全闕を忖る」とは、全(まっとうした)か闕(欠けている)かを推し量ること。要するに、目の前の食事を頂くに相応しい生活を送っているかどうかを自問しなさい、という意味です。修行寺で初めてこの一節を知った時、このような発想で食事をした経験の無かったことを恥じました。同時に食材の命の重みを考えるきっかけとなりました。残念なことに、未だに食事を頂くに相応しい生活を全うしていると感じることはありません。しかしながら、「欠けている、殺生している、盗んでいる」という自覚は生活のあり方を省みるきっかけになります。もしも自覚と反省がなければ、感謝に裏付けられた慎み深い暮らしはなく、また感謝と慎みがなければ、自然の命を生かして活用する「不殺生、不偸盗」の生き方を見出すこともできないのではないか。「おい、どうなんだ」と土の中からミミズが顔を出しては今日も私に問いかけるのです。

■月落不離天
熱帯夜続きだった暑い日々にも、すこしずつ秋の風が吹きはじめる9月は、お月見の季節でもあります。月の優しい光を感じられる好時節、わたしも月にまつわる墨蹟を床の間に掛けて、中秋の風情を味わいながら禅語に触れる機会にしています。「月落不離天(月落ちて天を離れず)」という禅語があります。これは『五灯会元』という中国禅僧の伝記といえる書物の巻16、福厳守初(ふくごん・しゅしょ)禅師という方の項に「悟り(ほとけ)はどこから得られるのか」という福厳禅師からの弟子への問いに、自身でこの言葉を答えられたというお話が出典になっております。月は西に沈み地へと落ちる。けれどそれは天を離れたわけではなく、ただ目に見える範囲から外れただけに過ぎません。月自身は変わらず天にあります。悟りもなにか特別な場所にあるものではなくて、どこもかしこも悟りと離れない、つまり「月も自分もあらゆるところがほとけであるぞ、気づくのだぞ」と弟子を案内している言葉がこの「月落不離天」です。先頃、私の妹の同級生が急病のため亡くなり、当山にて葬儀が行われました。36歳。生来の難病を抱えておられましたが、子供たちに学ぶことの楽しさを教える塾の講師をされていたなかでの急逝、誰もが悲しみを禁じえず、通夜、葬儀には多くの方が参列されました。その方と長年ともに仕事をされてきたご友人が弔辞を述べられました。「君は子供達が好きだった。その子供達を見つめる、親御さんやご家族が好きだった。それだけではなく、学校の先生達や僕達のような塾の講師達、ひいては子供に携わる全ての人たちが好きだった。僕は皆なを見つめる君の笑顔が大好きだった。棺の君を見た時、君は微笑んでいるようだった。それで僕はわかったんだ。君は今も僕達を大好きなんだという事を。君の姿は見えなくなるけど、君のこころは僕達の中にあるんだという事を。僕達は君からの大好きを抱きしめて、君のようにみんなを笑顔にできるような人になるために精一杯生きていくよ。短い間だったけど、本当にありがとう」。その方の姿かたちは見えなくなっても、「みんなが大好きだよ」というそのこころはいまもしっかりと輝いて、遺された方々を抱きしめ、その歩みに優しく光を照らしています。わたしたちもまた、お釈迦様や多くのご先祖様、社会や自然のあらゆるところからの優しい光に照らされて今を生きています。そのことに感謝し、歩み行く日々こそ「月落不離天」という片時もほとけさまと離れぬ、いわば今度はわたし自身がほとけとして輝いて行く世界なのだと思うのです。夜長の季節、お月様を見つめながら、自分自身をも見つめる尊いお時間をお過ごし頂けましたら幸いです。

■自浄其意−じじょうごい−
コンビニエンスストアのトイレで「いつも綺麗に使って頂いてありがとうございます」という貼り紙をよく目にします。ただ「綺麗に使って下さい」と書かれるよりも、綺麗に使わなければならない気がします。
仏教では釈尊以前からの普遍の真理を示した七仏通戒偈があります。
諸悪莫作(しょあくまくさ)(すべて悪いことはやめましょう)
衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)(善行につとめましょう)
自浄其意(じじょうごい)(自ら心を清らかにたもちましょう)
是諸仏教(ぜしょぶっきょう)(これが諸仏の教えです)
唐代の詩人白居易に仏法の大意を問われた鳥窠(ちょうか)和尚は「諸悪莫作、衆善奉行」と答えられました。「そんなことは三歳の童子でも解る」という白居易に対して和尚は「三歳の童子でも言えるが、八十歳の老人でも行じ難い」と言われたのです。七仏通戒偈に見るように、自浄其意に努め本来の清浄心に立ち返れば、その行いは自ずと善行であり、悪いことなどできるはずもありません。ある公衆トイレに入った時の話です。そこは小さなパーキングエリアでトイレも一カ所のみ。立ち寄った時にはたまたま清掃中でしたが、我慢できずに入りましたら他にも一人。その人は掃除のおばさんに「掃除している側からすみません」と一言。するとおばさんは「皆さん黙って使っていく中、声をかけてくれて有り難う」と掃除の手を止めて嬉しそうに振り返りました。何かホッとさせられる光景でした。私たちは公衆トイレを使えて当たり前だと思っていないでしょうか。清掃中のトイレでよく目にする光景は、周りから掃除を急かされるような雰囲気です。「なんで掃除中なんだ」と言わんばかりの人。掃除している方も「掃除中になぜ使うんだ」という気になるでしょう。しかし、声を掛けられたおばさんが黙々と掃除している姿は、仕事の報酬も忘れて無心に働く尊さがありました。その姿に、思わず声を掛けずにいられなかったのでしょうか。私たちは生きていくために、多くの命を体の中に通過させていきます。食べることばかりでなく、出て行く先までしっかりと見届ける(トイレに不浄を残さず流し切る)ことが人としての当たり前の姿なのです。その当たり前のことすら他人にさせる=他人への迷惑ということに気付くことが大切です。禅寺では人知れずトイレ掃除することが、最も大切な修行だとされています。御不浄と言われるトイレを綺麗にすることは他人の為だけでなく、自分にとっても不浄と思う心の垢も取り除く自浄其意の行なのです。「いつも綺麗に使って頂いて......」という貼り紙は、トイレだけでなく私たち自身が本来の清浄心でいるか問いかけられている気がします。
にごりなき心の水にすむ月は 波も砕けて光とぞなる  夢窓国師
トイレ掃除のおばさんの黄ばんだゴム手袋も輝いて見えたのは、その人の清々しい心に接したからかも知れません

■ダルマ心と秋の空
10月の5日は「達磨忌(だるまき)」といって、達磨大師のご命日といわれています。禅宗の僧侶になるためには厳しい修行が求められますが、道場では、この日は夏の麻衣から木綿衣に着替える「衣替え」の日でした。木綿衣に袖を通すと、不安と緊張しかなかった道場への入門の日を、その匂いから不思議と思い出したものでした。達磨大師といえば、禅をインドから中国へ伝えたことにより、禅宗の初祖と呼ばれる高僧であることはいうまでもありません。そして、寺院の床の間に飾られた、何とも威厳があり、迫力満点の「達磨図」をご覧になったことがあるのではないでしょうか。「達磨図」はそもそも、法要で使う道具として絵画専門の僧が描いていたそうですが、ある時から、「不立文字(ふりゅうもんじ)」といわれる「言葉では言い表わせない禅の教え」を表現する手段として用いられるようになりました。特長的な「達磨図」を描く禅僧に、江戸時代に活躍した白隠(はくいん)がいます。それまで、礼拝の対象としての崇高な画であったものを、白隠は一般民衆へ禅の教えをひろめるための「禅画」として描き、現在もたくさんのものが残されています。先日、テレビの鑑定番組で白隠禅師の「達磨図」が紹介されていました。その画に題して余白に添え書かれた句には、
このつらを祖師の面と見るならば 鼠を捕らぬ猫と知るべし
と記されていました。直訳するならば、「この顔を、初祖達磨大師とみるならば、その人は役立たずの人間だ」でしょうか。厳しい眼光を放つ、まさに達磨大師のお姿を、どうして祖師の面としてはならないのか。実はここに、深い禅の教えが示されているのです。この教えを紐解くのに、よく達磨図に記されている「直指人心、見性成仏(じきしにんしん、けんしょうじょうぶつ)」という言葉を深めてみましょう。言葉を解説すれば、「直指」とは直接的に指し示すこと。「人心」とは「ほとけのこころ(仏性)」、言い換えるならば、人間の心に秘在する「本当の自分」となるでしょうか。「見性」とは、その「こころ」を徹見して、仏陀(悟った者)になること、つまり「成仏」となります。全体の意味として、「自分の心の中にある『こころ』を見つめて、真の自分になること」となります。私も坐禅会をさせて頂いておりますが、当初は「禅の教えを伝える」ことが目的でした。しかし、回数を重ねるごとに説明する話術に気をとられ、坐禅の技術と作法に重きを置き始めている自分がいました。坐禅で一番大切なのは、参加者の方が一人一人、直接自分自身に問いかけて、苦しみながらも自ら答えを出すことであったはず。坐禅の作法はもちろん大切ですが、あくまで「成仏」を目的とした手段でしかないということを忘れてしまっていたのです。これこそ、達磨大師の姿を崇拝することにとらわれて、一番大切な達磨大師の教えをおろそかにしてしまっていることにほかなりません。白隠禅師の達磨図の句、「このつらを祖師の面と見るならば 鼠を捕らぬ猫と知るべし」の意味に立ち返ってみましょう。師を拝むことにばかりとらわれて、教えをおろそかにしてしまっては本末転倒。「ほとけのこころ」は、何も立派な掛け軸の中にあるのではなく、私たち一人一人の心の中にあることを、白隠禅師は教えてくださっているのです。秋空が高く澄みわたる衣替えの季節。襟を正して「初心」を再確認するには、もってこいの時節ではないでしょうか。

■白隠禅師のこころ 「自然は自然」
臨済宗のお寺では「白隠禅師坐禅和讃(はくいんぜんじざぜんわさん)」というお経がよく読まれます。日本臨済宗中興の祖、白隠慧鶴禅師の著したお経です。このお経は「衆生本来仏なり」で始まり「此の身即ち仏なり」で締めくくられます。小さなお子さんにもわかるように言い換えるならば「この世で生きる私たちは、そのまま仏さまです」となるでしょう。しかし「私たちは仏さま」と言われても、お子さんどころか大人でさえも理解に苦しむのではないでしょうか。白隠禅師は私たちに何を伝えたかったのでしょうか。「今年の夏は暑くて大変でしたね」「去年は雪が少なかったけど、寒い冬でした」など我々は自然界の中で生きています。どんなに便利な都会で暮らしていても、天候には、大自然には逆らえません。「西から昇った太陽が東の方角に沈む」ことがあったとしても、猫が「ワン!」と鳴いたとしても、「想定外」と呼ばれる自然災害が発生したとしても、それらも勿論自然の一部。自然界はどこまでいっても全てが自然であり、自然界に「不自然」は存在しません。むしろ見方を変えれば、大自然の中で、大宇宙の法則の中で生かされているにもかかわらず「正しい」「悪い」、「好き」「嫌い」、「美しい」「汚い」と個々人の都合を最優先しようとする我々人間の方がよほど「不自然」な存在かもしれません。
「正しい」「悪い」は人間が人間の都合で決めたこと。
「好き」「嫌い」は人間が人間の都合で決めたこと。
「美しい」「汚い」は人間が人間の都合で決めたこと。
「この世で不自然なのは我々人間だけである」とも言えるでしょう。自然の流れに任せていれば良いことなのに、人間がその都合にこだわり過ぎるとそこから「迷い」が生じます。やがてその「迷い」が「欲望」へと変化し、そして「こうでなければいけないのだ!」という「執着(しゅうじゃく)」を生み、ついには気付かぬうちに「苦しみ」となって我々を悩ませるでしょう。自然に逆らうといつまで経ってもこの繰り返しです。
「衆生本来仏なり」「此の身即ち仏なり」「私たちはそのまま仏さまです」
我々が生まれながらにして具(そな)え持っている「自然なこころ」が「仏さまのような素直な純粋なこころだよ」と白隠禅師は仰っているのではないでしょうか。「個人の勝手な都合で自然界や大宇宙の法則に逆らうことなく、自然なこころ、仏さまのような素直なこころに逆らうことなく、晴れの日は晴れなりに、雨の日は雨なりに、自然なこころに従って日々暮らしていければ、それだけで十分幸せですね」という、大変ありがたいお教えであると考えることができないでしょうか。何かと忙しく慌ただしい現代社会ですが「自然に生きてみよう」「仏さまの気持ちになって生きてみよう」と考えるだけで、ほんの少し楽な生き方ができるかもしれませんね。 平成29年には白隠禅師250年の大遠諱が厳修されます。遠諱とは没後50回忌以降、50年毎に行なわれる大法要です。普段忘れがちな「自然なこころ」「仏さまのこころ」を、この機会にもう一度改めて考え直してみることも、我々仏教徒にとって大切なことではないでしょうか。

■菊残なわれて 猶お霜に傲る枝有り
秋も深まり、山や庭の木々が赤や黄色に色づきはじめ、私達の目を楽しませくれる時期になりました。同時に徐々に葉を散らす木々の姿に、自身の姿を重ねて老いを迎えることに寂しさを感じる方もおられるのではないでしょうか。中国宋代の詩人蘇東坡が友人に宛てたとされる詩の中に、
荷尽きて已に雨をフ(ささ)ぐる蓋(かさ)無く 菊残(そこ)なわれて猶お霜に傲る枝有り
という一節があります。荷というのは蓮を意味します。鮮やかに咲いていた蓮の花も散ってしまい、雨を受けていた葉も落ちてしまった。菊の花は萎(しお)れたが枝は凛として霜に耐えている。どちらも花や葉の鮮やかさはありませんが、花が散り葉が落ちて茎だけになっても、あるがままを受け入れてすっと立つ光景は、ひっそりと静かな美しさがある事を詠ったものです。この詩を私達の身に置き換えてみれば、若くありたいと老いを嫌って望むよりも、ありのままに老いを受け入れる美しさを教えてくれていると受け取れます。お寺の坐禅会に毎回参加してくださるAさんは、そのさっぱりとした口調と性格から、一見悩みとは無縁のように見える方です。そんなAさんの表情が、昨年の夏ごろから参加されるたびに硬くなり、口数も減ってきていました。訳をお聞きすると、その年の秋に定年退職を迎え、退職した後はどうなるのか不安を感じ、ご自身の老いを認められないという事でした。秋になり坐禅会が終わった後、「和尚さん。桜が気持ちよさそうですね」とAさんが教えてくれます。そう言われて見てみると、すっかり葉を落として寂しくなったお寺の枝垂桜が、秋風に揺られて気持ちよさそうに見えます。「桜は花が散ったら終わりだと思ってましたけど、こうして気持ちよさそうにしているのを見ると、咲いてる時だけが桜じゃないんだって思えますね。私も定年を迎えたら終わりだなんて思ってましたけど、そんなことはないし、年をとるのは当たり前なんだと思えてきました」とカラッとした表情を浮かべてお帰りになられました。その次の坐禅会に来られたAさんの表情は実に晴れやかで、坐禅を組みすっと伸びた姿勢は、先の詩で詠われる蓮や菊の茎のようにひっそりと静かで美しく見えました。ありのままを受け入れると言っても、何もしない訳ではありません。何もしないでいては枯れる前に腐ってしまいます。蓮も菊も一瞬一瞬を精一杯生きているからこそ、すっと伸びた茎が残るのだと思います。Aさんも家族や会社の為にと精一杯力を尽くして過ごされ、そしてご自身の老いをどう受け止めるか精一杯思い悩んで、それでも逃れられない現実を受け入れられたからこそ、ひっそりと静かで美しく見えた坐禅を組む姿に繋がったのではないでしょうか。誰もが迎える老いをAさんのような心境で受け入れられるよう、毎日を精一杯に過ごしていきたいものです。

■残心
お茶の道は仏道に通じており、仏教の教えを伝えることにもなると私は思いますので、お寺でも茶道の真似事をしています。その茶道に「残心(ざんしん)」という教えがあります。「残心」とは心を残すと書きます。利休の師である武野紹鴎(たけのじょうおう)に
なにしても 道具置きつけ 帰る手は 恋しき人に 別るると知れ
という教えがあります。私も若い頃、師匠に稽古をつけてもらっている時によく言われたものでもあります。棗(なつめ)でも茶入れでも、それを点前の中で清めるのですが、大切なものでありますから粗相(そそう)があってはなりません。誰でも自分の手の中にある時は慎重にそれを扱うのです。しかし、清め終わって所定の位置に戻す時、つい終わったという安堵から気が抜けてしまい、次の行動にと気が急いでしまう。そうすると点前に緊張感が無くなり、席中の雰囲気も台無しになるのです。そこで紹鴎は道具を置いたその手は正に恋人と別れを惜しむが如く、心をそこに残せと教えるのです。これが「残心」であります。一会の茶会を催す時、亭主は迎える客の為に誠心誠意尽くします。正に「おもてなしの心」であります。道具は元より、玄関先から庭周り全てにこの心を尽くします。それはまぎれもなく思いやりの心であり、慈悲の心でもあります。そして、会が終わり客を見送った亭主は一人茶室に戻り、今日の茶会を見つめなおし、一服のお茶を喫して客に思いを馳(は)せるのです。その心もまた「残心」であり、一期一会の心であります。私たちは日頃忙しく、自分のことばかりで、他を思いやることなどあまり無いかもしれません。しかし、他を思いやる心を私たちは当然のように持っております。その心をこの「残心」という教えから思いだして頂きたいと思います。

■報恩謝徳
11月11日は花園法皇忌であります。花園法皇忌とは、自らの別荘地であります離宮を妙心寺としてお開きになった、第九十五代天皇の花園天皇がお亡くなりになられた日であります。花園天皇は、大徳寺の開山である大燈国師のもとで仏の道に精進されました。13年の後、お悟りを開かれ花園法皇となられました。花園法皇がお亡くなりになられる前年に妙心寺の開山、関山慧玄禅師に残されたお手紙があります。法皇自らお書きになったお手紙ですので、御宸翰といいます。御宸翰に「報恩謝徳」というお言葉が、出てきます。「報恩謝徳」とは恩に報い徳に感謝するということです。「恩」には四つの「恩」があります。「四恩」といいます。「徳」には「めぐむ」という意味がありますので、四つの「恩」から得ている「めぐみ」に感謝し、報いていくということではないでしょうか。「四恩」の一つに「父母の恩」があります。父と母がいるからこそ、私たちはいまここに命をいただいているのです。当たり前のことのようですが、父と母にも両親があり誰かがいなければ私たちは存在することができなかったのです。先日、私の叔父の四十九日が執り行なわれました。近頃ではまだ若いほうだと思われます、63歳で亡くなってしまったのです。私のいとこにあたるその子供はやっと大学を卒業し、働き始めたばかりです。「これから両親に恩返しをしていきたい」と言っていた矢先のことでしたので、その落胆は大変なもので、通夜葬儀の後も悲しみに暮れるばかりでどうしていいのかわからない様子でした。しかし四十九日の法要後、お墓参りに行って手を合わせておりますと、「小さい頃、お父さんとお墓詣りに来て手を合わせていた頃のことを想い出すことができるようになってきた。お墓に行ったら手をあわせる。こんなことが自然にできるようになったのは、小さい頃からお父さんのその姿を見ていたかなんだろうな。」そのように言っていました。自分が小さい頃は気が付かなった事もあるかもしれない。しかし、親の恩を自分が知らないうちに頂いていることもあるからこそ、今の自分があるんだということに気づいたということです。私たちのお父さんと、お母さんが生きている間には、照れくさいときもありますがまだご恩返しができます。残念ながら亡くなってしまった方に対しましてはお墓に手を合わせたり、御供養していくことで御恩返しをしていくことができます。父と母から頂いた「めぐみ」に御恩返しをしていくことが、報恩ということになっていくのです。報恩謝徳の思いをもって日々を過ごしていきたいものであります。

■臨済禅師のこころ 病は不自信の処に在り
皆様は、自分に自信をお持ちでしょうか。よく「自分に自信を持て」と言いますが、そんなに簡単には自信を持つことはできませんよね。そもそも自信とは何でしょうか。自信は目に見えませんし、他人にあげたり、もらったりということもできません。しかし、自信の大切さはよくお分かりでしょう。自信がなければ何もできませんし、自信さえあれば、何でもできそうな気がします。これを禅的な言い回しで表現しますと、自信を持つとは、自分の心の中に仏様を求めることです。「仏」というと何だか難しそうですが、ここでは悩みの解決法とお考えください。臨済宗の宗祖、臨済禅師は「病は不自信の処に在り」と説かれています。ここでいう「病」とは病気ではなく、心の迷いのことです。問題は「自分の心が迷い、自分自身を信じきれないことだ」と言ってもよいでしょう。臨済禅師はさらに「近頃の修行者たちの何が問題かと言うと、自分への信が足りないことである。自分を信じることができないから外に答えを求め、自分の外の世界に振り回されてしまう。自分の外に答えを求めることをやめれば、それこそ仏と異ならない」とも説いています。以前、ある家庭から相談を受けたことがあります。その家の中学生のお子さんが非行に走り、高校生の不良グループとつきあうようになってしまったのです。お母さんがあれこれ注意しても子どもは言うことを聞きません。色々と問題を起こしたあげく、ついには万引きで警察に捕まってしまいました。お母さんは「何を言っても無駄だから」とあきらめています。そして、私たちの前で、「あいつなんて少年院に行けばいいんだ」と言い放ったのです。私たちはこれではいけないと思い、手を尽くして説得しました。「ただ単に遊ぶ金ほしさではなく、母親の気を引きたかったのかもしれない。原因は子どもにばかりあるとは限らない。母親が信じてあげなくてどうするの」そう言って説得しました。お母さんは最初、「あいつが悪い、何を言っても聞かないから悪い」と言っていたのですが、しばらくしてぽつりと、「下の子の世話が忙しくて、あんまり話ができなかったかもしれない」と話しはじめました。子どもが非行に走る原因を自分の外にばかり求めていたお母さんが、自分を見つめ直すことができた結果、お母さんは子どもと向き合い、きちんと子どもを叱ることができました。「うちの子は必ず更生できる」と子供を信じること。そして何よりも「私がこの子の母親である」という自信をもつこと。親子が一緒になって成長していくことが大切なのではないでしょうか。「私も周りに振り回されてなかなか自信が持てない」という方もいらっしゃるでしょう。「私は大丈夫」と自信をもって言える方もおありでしょう。自信を持つのは大変結構ですが、独りよがりになってしまうことも多々あります。独りよがりの自信は過信にすぎません。これも自信がないのと同様に、「病」となります。どちらにせよ、たまにはゆっくりと落ち着いて、自分を見つめる余裕が欲しいものです。

■師走に調える
早いもので今年も残り僅か1ヶ月を残すのみとなりました。12月は旧暦で「師走」(しわす)と呼ばれ、その語源は、年末は僧侶がお経をあげるため、街中を走り回っていたからという説や、為果つ(しはつ:なしおえるの意味)などの言葉が変化したという説など、明らかではないようです。しかしながら、明治時代を代表する詩人・正岡子規が「忙しく 時計の動く 師走哉」と詠んだように、年末に何かと気忙しさを覚えるのは、昔も今も変わらないのかもしれません。何故、師走は時計が忙しく動くように感じるかといえば、今年やり残したことがないように行なういわば「今年の総決算」と、新しい年を清々しく迎えることが出来るように行なう「来年の準備」を同時に行なうからではないでしょうか。妙心寺派には、日々の生活を送る上での努力目標ともいえる「生活信条」があります。その一つに「一日一度は静かに坐(すわ)って 身(からだ)と呼吸(こきゅう)と心(こころ)を調(ととの)えましょう」とあります。日本三景の一つ、宮城県松島にある国宝瑞巌寺では、大晦日に「火鈴様(こうりんさま)」と呼ばれる、七百年近く続いている火伏せの行事が行なわれます。首に大きな鈴を掛け、白装束に身を包んだ住職名代の僧侶がその鈴を振り、般若心経を繰り返しお唱えしながら、一晩中松島町を歩くのです。修行僧の頃、師匠である瑞巌寺住職・起雲軒老大師の名代として、火鈴様に指名されたときのことです。歩を進める反動を利用し、首から下げた大きな鈴を腹部に打ち付けることで鳴らす鈴の音を魚鱗(木魚)代わりに、般若心経をお唱えします。始めは慣れぬことに戸惑いもあったものの、やがて身(歩)と呼吸(鈴の音)が調うことで、自然と心は般若心経をお唱えすることに集中してゆきました。しかしながら深夜も二時、三時を過ぎますと、途中小休止を挟むとはいえ、声は枯れ、寒さと疲労で身(からだ)の感覚も少しずつ失われてゆきました。少しだけ気が緩んだ次の瞬間、突然今まで何時間もお唱えし続けてきた般若心経の次の言葉を見失ってしまったのです。「今はどの部分をお唱えしていただろうか。次はどの言葉であったろうか」と考えれば考えるほど、分からなくなりました。そこでとにかく初心に帰ろうと、改めて姿勢を正し、一歩一歩としっかりと歩を進め、そして次にリズムを正し、鈴の音を鳴らすことにいたしました。すると、頭の中でバラバラとなっていた般若心経が、元に戻り口から自然と出てきたのです。恐らく非常に短い時間であったと思うのですが、私にはその身(からだ)と呼吸(こきゅう)と心(こころ)の歯車が狂った時間が大変長く感じられました。「一日一度は静かに坐(すわ)って 身(からだ)と呼吸(こきゅう)と心(こころ)を調(ととの)えましょう」。忙しく時計の動く師走にこそ、少し立ち止まって、身(からだ)と呼吸(こきゅう)と心(こころ)の足並みを揃えたいものです。 
 

 

■看よ看よ臘月尽く
月日の経つのは速いもので、もう師走となりました。この時期にぴったりの「看よ看よ臘(ろう)月尽く」という禅語があります。臘月とは、12月のことで「今年もあっという間に過ぎ去ってしまうぞ」という意味です。それどころか、グズグズしていると、自分の一生も尽きてしまうことでしょう。"譬喩経(ひゆきょう)"という経典の中に「黒白二鼠(こくびゃくにそ)」というお話があります。一人の旅人が、広い荒野で恐ろしい象に出くわしました。逃げ隠れする場所も無く、幸いにも古い井戸を見つけると、木の根っこが蔓(つる)となって下がっていました。それを伝って井戸の中に降りていくと、井戸の底には大きな龍が口をあけて待ちかまえているのが見えました。おどろいてあたりを見ると、そこにも4匹の毒蛇がいて、旅人をねらっています。命綱は、この一本のつるしかありません。ところが、そのつるも、黒白のネズミが交代でその根をかじっているではありませんか。まさに絶体絶命、もはやこれまでかと思ったその時、ふと顔をあげると木の上の蜂の巣から甘い蜜がポタリポタリと旅人の口へ滴り落ちてきました。すると旅人は、死の恐怖も忘れて、蜜を貪り続けました。荒野とは、迷いの多いこの人生。旅人とは、私たち自身。恐ろしい象とは、無常の風であり、流れる時間です。井戸とは、生死つまり生き死にです。木の根とは、寿命です。底にうごめく龍は、死の恐怖です。4匹の毒蛇は、私たちの体を構成する4つの元素(地水火風)です。黒白のネズミとは、刻々と繰り返す夜と昼です。したたり落ちてくる密とは、色声香味触の五感に執着しておこる五欲です。私事ではありますが、今年、私は親の歳を越えました。私の父は満49歳で亡くなりましたが、父の命日を迎えた時、3ヶ月ほどですが父の年齢を越えていることに気が付いたのです。すると、この一日一日が、とても大切な一日に思えます。何気なく見上げる空の景色も周りの人の声や物音、風や草の匂いまで、とても愛しく感じるようになりました。誰の言葉でしたか、「あなたが無駄に過ごした今日一日は、昨日死んだ人が生きたいと切実に願った一日」という言葉を思い出しました。まさしく、私が無駄に過ごした今日という日が父にとっては、生きたいと切実に願った一日でした。
待ったなし やり直しなしに 木葉散る
という句(出典未詳)がありますが、私たちの人生は、まさに待ったなし、やり直しなしに過ぎていってしまいます。どうか皆様、ご用心くださいませ。

■無事なる人
新春のお慶びを申し上げます。新たな年を迎え「今年こそは」と心機一転。見慣れた庭の木々に差す陽の光が、いつになくまぶしく伺えるのはお正月だからでしょうか。この一年の無事なる日々を願うばかりです。上田敏(うえだびん)の訳詩「春の朝(はるのあした)」には「事も無し」の安堵感が綴られています。彼は師匠にあたる小泉八雲から「一万人に一人の英語力」とも太鼓判を押された明治の文学者、翻訳家です。「春の朝」は英国ヴィクトリア朝の詩人ロバート・ブラウニングの詩を訳しました。
"春の朝"
時は春、日は朝(あした)、朝(あした)は七時、片岡に露みちて、揚雲雀(あげひばり)なのりいで、蝸牛(かたつむり)枝に這(は)い、神、そらに知ろしめす。すべて世は事も無し。
春の朝、小さな丘にあますところなくしっとりと露は濡らす。空高くには点となった雲雀がその存在感を誇示するかのようにしきりに羽ばたきかん高くさえずる。目前では蝸牛が枝上をゆっくりと慎重に進みつつある。そうした森羅万象の営みを空からは神さまが見守るようにご覧になっておられる。その安堵感を上田敏は「事も無し」と表現しました。臨済宗の宗祖、臨済義玄禅師は「ほとけ」を人格化した中国唐代の禅の祖師です。ほとけと耳にすれば近寄りがたい神々しさをイメージしてしまい、お釈迦さまの真意から益々遠ざかり分別心に迷う弟子たちに向けて禅師は「仏に逢(お)うては仏を殺し」とまで一喝して目を覚まさせようとされています。 あるとき禅師が弟子たちに「無事是貴人(ぶじこれきにん)」と示されました。無事なる人が貴い人だ。心に執着妄想(しゅうぢゃくもうぞう)を形造ってはならん。そもそも心に「形は無い」。「形無い」が故に十方に通貫し目前にあらわれる。天地の営みも「形無い心地」より生まれ出でる、との戒めの言葉が『臨済録』にみられます。禅師の言われた無事とは、ことなかれのことではなく、森羅万象のいちいちの営みを鏡のように何ものもダイレクトに映し出す心地を讃えた言葉です。ヒバリが空高くに羽ばたきさえずるその声が耳に届き、蝸牛が静かにゆっくりと這うその姿を目に映せる心地が無事なるほとけなのです。こうした天地一杯の営みに神さまのご加護をみた上田敏でしが、彼自身がそれらの営みを見逃さず聞き逃さなかったことが何よりの安堵感に繋がったはずです。この一年を無事なるほとけに近くあるためには、自分の都合で生じた分別心や執着妄想のしこりを日々の仏道で繰り返しほどいていきたいと思います。こうしてしこりがほどけた「形無い心地」には、途切れなく展開される天地の営みがいつも新鮮に鮮明に映え、それは感動、歓び、驚きのある日々へと繋げてくれようことと思うからです。

■寒梅のこころ
寒梅は、まだ寒い春先に咲きます。迎春といって、1月になれば春を迎えるといいますから、早い所では、もう咲いている所もあります。私は静岡で修行致しましたが、信州と違い、3年ほどの修行期間で、雪の降ったのを見たのは一度くらいで、しかも降るというよりは風に舞っている感じで、とてもあたたかな所でした。僧堂の本堂の裏手に寒梅があって、1月には赤い花を咲かせていました。厳しい修行の最中にそんな花を見ると、なんだかこの世のものとは思えず、つい立ち止まってその美しさに我を忘れる、そんな気持ちになりました。人間の人生でいえば寒さは人生の厳しさであり、苦しみかもしれません。そんな中でも赤いきれいな花を咲かせる。そんな優れた生き方を、あの寒梅の花に重ね合わすことができます。今年1年、おそらく、さまざまなことが起きるでしょう。それは幸せであったり成功であったり、また苦しみや悲しみの出来事もあるかもしれません。しかし、どんなことが起こったとしても、その場で、その時に、自分の花を咲かせることができます。苦しいときに咲く自分の花は、あの寒梅の花のように、人を立ち止まらせてきれいと言わせるほど、人生の尊い花ではないかと思います。その花を咲かせるのは大変かもしれません。でも心の内に、必ず幸せの花が咲くと念じていれば、その自分という花のつぼみが少しずつ膨らんでいることになります。そして負けず強く生きていけば、必ず困難を乗り越え、幸せの花を咲かせるときがきます。寒梅は常に、大地から栄養を取り、太陽の光を受けて自分を大きくし、花を咲かそうとしています。そのように、私たちも適度な運動と食事をいただき、この体を健康に保つとともに、教えという光を常に受け、心も健康で力強く生きていけるように、人としての学びを怠らないことです。健康な体と健康な心を作り、どんなことがあっても、自分という花を咲かせられると念じ、前向きに生きていくのです。きっと、寒梅のような美しい花が咲きます。

■臨済禅師のこころ 「臨済義玄禅師」
我が宗祖、臨済義玄(りんざいぎげん)禅師はとても親切なお方です。
「一無位の真人(いちむいのしんにん)」 「無事是れ貴人(ぶじこれきにん)」
ありったけの工夫を凝らして、活き活きと弟子を導くその姿は、理想のお師匠様。もし自分が弟子ならどんなお言葉を下さるだろう、ついそんな想像をしてしまいます。思えば、寺で生まれ育った私は、物心つく前から「跡取り息子」と言われ、檀家衆の「立派なお坊さんになるんだよ」、そんな言葉を真に受けて育ちました。しかし成長するにつけて気が付いてしまうのですね。「あれ、オカシイナ。俺はそんなに立派な人間じゃ無いぞ」腹を立てて喧嘩をしたり、人の成功が妬(ねた)ましかったり。だんだん「立派なお坊様」とはかけ離れてゆく心。自分には足りないものが多すぎる。コンナハズジャナイ。理想と現実の大きなズレに苦しむ、そんな青春時代でありました。その苦しみを解決できないまま、大人になった私がいます。臨済禅師だったらなんと仰るでしょう。「道流(どうる)、大丈夫児(だいじょうぶじ)、今日方(まさ)に知る本来無事なることを」(おい、一男子として元々なんの不足の無いことに気がつけよ)「祇(た)だ你(なんじ)の信不及(しんふぎゅう)なるが為に、念念馳求(ねんねんちぐ)して、頭(こうべ)を捨て頭を覓(もと)め、自ら歇(や)むこと能(あた)わざるのみ」(ただオマエが自己を信じ切れないから、自分の外に答えを探して、結局見つけられず焦ってばかりなのだ) 臨済禅師にガーンと一発食らったようです。そういえば、あるとき我が子が言いました。「父さんは、父さんだから大好きなんだよ」。私に向けられた無邪気で揺るがない信頼。この一言は、「父とはこうあるべきだ」などという小賢(こざか)しさを吹き飛ばし、同時になんとも言えない幸福感となって私を包みました。唯々父である、それだけで良いのだと、私は心底、安堵(あんど)することができたのです。そうか。お師匠様、探し回ってはいけないのですね。私が私を心から信頼してやる、それ以上である必要は無いのですね。怒らない心も妬まない寛容さも、どこかで身に付けるものだと思い違いをしておりました。何も足りなくなどなかった。私という命が生きている。唯々私であれ、それで良かったのですね。ああ、なんだかホッとしました。「自分」を信頼し切る。そこに現われる清浄な心こそ、確固たる本来の自己であります。一瞬一瞬に懸命に生きるならば、そして「信及(しんおよ)」びさえすれば、誰でも「一無位真人」、「無事是貴人」であることができる。つまりそれは圧倒的絶対的な人間性の大肯定です。衆生(しゅじょう)本来仏なり。この大安心。これこそが臨済義玄禅師の教えであり、臨済宗の本旨なのです。しかしいつしか再び「信不及」になって、不安になって、ウロウロキョロキョロ。これもまた人情であります。ちょうど今年は臨済禅師の御遠諱(ごおんき)。1150年の時を超え、またいつでもガーンと一発、食らわせてもらえます。みなさんもぜひ、どうぞ。効きますヨ。

■最後までできる事
自分が嫌いだと言っても、自分から逃げることはできない。つまり自分と付き合う以外に生きる道はないのである。そうであれば、自分と仲良くするしかない。自分を無条件に好きになるしかない。自分は世界で二人といない、たった一人の欠け換えのない存在ではないか。どんな自分であろうと、自分で自分を受け入れることである。
自分は何者になりたいのか。自分のしたい事は何なのか。自分という人格をどう完成したいのか。
どうしたところで、人間最後には結局、自分に頼るしかなくなる。その場合に頼りがいのない自分だったら、終わりではないか。そうならない為に、心身ともに鍛え上げ、強い自分を作ることが、最も大切なことなのだ。と、釈尊からのメッセージである。孤独とは自己を知ること、孤独こそ究極の自由で、自己の尊厳を自覚し、それを楽しむ高度な生き方の一つである。人との付き合いを減らせば、もめごとも減る。口数を減らせば、非難を受ける恐れが減る。分別を減らせば、心が疲れなくなる。知恵を減らせば、素直に自分を出せる。何かちょっとでも減らせば、その分だけ俗世間から抜け出すことができる。それだけ気持ちが楽になるのである。つまり、増やすことばかりを考える人間は、自分の手で自分自身の人生をがんじがらめにしていることになる。こんな生き方もあるのだ。「腹式深呼吸」これは百一歳で遷化(せんげ)された老僧が、必ず伝えてくれと言われた遺言である。「何れ足は歩けなくなる。耳は聞こえなくなる。目は見えなくなる。しかし、まだ口は使える」。毎回帰る時には「ありがとう、おたっしゃで」と、最後の日まで言ってらした。また、「腹式深呼吸」は自分でできる唯一の楽しみだとも。それから食事はできなくなる。水も飲めなくなる。呼吸もできなくなる。心臓も止まる。その後も脳は2時間動き停止。寿命を生き切った老僧の静かな最期であった。私に「最後までできること」は何かと言うと、第1に自己の本心・魂に忠実に生きることが最後までできる。人マネや横並び意識で何となく生きるのではなく、自分が理想と思っている人間像を描きつつ進み、何のためにするのか、目的を明確にすることができる。第2に夢・志・生きがいをしっかり画いて生きることが最後までできる。単なる夢想や空想ではなく、目標自体が日常生活の実践に組み込まれている。目標のある生き方を企画し、長期・中期・短期・今日の実行計画を立てて行なうことができる。第3に自分を信じて生きることが最後までできる。自信とは自らを信じること、自分すら信じていない人間を他の誰が信じてくれようか。自分との約束を守る生き方が、自分を生きる出発点とすることができる。第4に学んで能力を磨いて生きることが最後までできる。鍛練とは、「鍛」が千日の精進努力、「練」が万日の稽古や訓練をいう。日々の努力を通して自らの潜在能力を引き出す生き方をすることができる。第5に今を大切に生きることが最後までできる。良い習慣を身につける。仕事は段取り八割でスムーズになる。過去の事や未来の事に時間を割かないで、目の前の人を大切にし、目の前の仕事をニコヤカに行う生き方ができる。「志立たざれば、舵(かじ)なき舟、轡(くつわ)なき馬の如し」と諺にあるように、年を取ってから暖まりたい者は、若いうちに暖炉を作っておかねばならない。心の底から好きなことだけにエネルギーを集中すればよい。それで飽きたら、また好きなことを探して打ち込めばよい。何もかも実験なのだから、その結果がどうであろうと、打ち込んだことだけは必ず身に付いているので無駄にはならない。賢き者は「生きているうちに何をしようか」としか考えないのである。

■白隠禅師のこころ 「六文銭 人生の主」
本年の大河ドラマの主人公・真田信繁(幸村)と臨済宗は、因縁浅からぬ繋がりがございます。日本臨済宗中興の祖と仰がれる白隠慧鶴(はくいんえかく)禅師は、真田信繁の兄・信之の庶子とされる道鏡慧端(どうきょうえたん)禅師から、禅の奥義を受け継がれました。奇しくも今年は白隠禅師の250年遠諱法要にあたり、宗門挙げて白隠禅師の御遺徳を顕す催しが成されます。さて、真田信繁といえば稀代の策略家とされますが、『名将言行録』にこのような逸話が残されております。家中で作戦の判断等が二つに分かれた場合、クジ引きで進退を決めたそうです。しかし、何事も簡単にクジ引きで決めたのではありません。詮議つくされた上での事。祖父の位牌、像の前に香華灯を献じて謹んで礼拝し、クジを引く。信繁はこう言い切ります。「このようにクジで決めると、たとえ作戦や計画が失敗しても、特定の人間の責任にならぬという徳がある。時代の流れや人間が代わっても、良将の心は同じ。近頃の禄と名誉を追い求める学者にはわからぬことだ」。禄と名誉を追い求める学者とは、成功や失敗という成果のみを気にする人たちの姿を表わしています。作戦や判断の失敗よりも、人間を大事にとらえた真田信繁。生死や喜怒哀楽が渦巻く戦乱の中、さすがは名将と称えられるべき慧眼を持ち合わせていたと言えるでしょう。この世を生き抜くには、チョッとやソッとで動じてはなりません。知識や度胸、経済、科学、心理戦で優位に立つ。臨機応変、融通無碍に判断し、渡り歩かねばなりません。そこに戦国時代と現代の違いはありません。物事を判断する根っこの事を、仏教では「六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)」と言い表わします。この感覚器官から私たちは、多くの情報を受け取ります。ここで、白隠禅師のお言葉をご紹介いたします。
己が心の喜怒哀楽、起こる源是れ何ぞ、眼耳鼻舌身使ふ主  『寝惚之眼覚』
眼耳鼻舌身から得た情報で、物事を見極めようとする私たち。しかし逆に判断に迷い、湧き上がる感情に振り回されるのも人間です。大切なのは、白隠禅師が示された「主」。私たちの自己です。自己との向き合いを懺悔(さんげ)とも言い表わします。判断や結果が思い通りにならなくとも、「人生の主」が自分だと気づき、わが身をふり返ることで、人は今一度歩き出せるのです。只今の自己をみつめる。それが臨済宗の説く御教えであります。最後に、真田信繁といえば六文銭ですが、真田の旗の六文銭は何を示しているのでしょうか。あの世の三途の川を渡るための冥銭と一般に知られますが、何故六文銭なのでしょうか。「六」という字は象形文字の家屋から成り立っています。それもただの家屋を指すのでなく、神を祀った幕舎とも言われます。日本人は神仏ばかりでなく、真田信繁が祖父の位牌、像を祀ったように、御先祖様への思いをも大切につなげて参りました。その習慣から、神仏先祖へ供える文銭が「六文銭」という名称になったのではと考えるのであります。日本人が我が風土で培った、御先祖様へ手を合わせる姿は、紛れもなく自己をみつめる礼拝であります。テレビの中で靡く六文銭。その度に、白隠禅師との因縁と、「人生の主」に気づく機会になればと存じます。

■逆境の時こそ
暖冬の影響でしょうか、今年の梅はいつもより早いようです。タイミングは違いますけれども、年々歳々梅の香りが春の訪れを予感させてくれることに変わりはありません。その梅で思い浮かべる菅原道真の歌があります。
東風(こち)吹かば匂ひおこせよ梅の花 主(あるじ)なしとて春を忘るな  『拾遺和歌集』
「春の風が吹いたら梅の花よ、お前の香りを送ってよこしておくれ。私はこうしていなくなってしまうけれども、春を忘れることがないように」。延暦元年(西暦901年)2月1日、道真公が京の都を離れ、遠く九州の大宰府へ旅立つ日に庭の梅との別れを惜しんで詠んだ歌とされます。よく知られますようにこの人事は左遷でしたので、道真公は思わぬ逆境に立たされた格好になります。いったい春を忘れてはならないのは梅の花だったのでしょうか? 私には道真公が梅に自らを託したように思われてなりません。誰だって花のように咲き誇る時もあれば、人生の悲哀を味わうこともあります。順境もあり、逆境もある。山あり谷あり、それが人生の無常というものでしょう。春が来れば梅が咲くように、たとえどんな境遇にあったとしても、それぞれの花を咲かせたいものです。作家の城山三郎氏の随筆に次のような話がありました。
たとえば、上海競馬のある騎手。中国人とスコットランド人との間の混血児であるため、これはという馬に乗せてもらえず、毎度のレースでどん尻続き。ところが、彼はくさりもせず、むしろ逆転の発想で生きる。どん尻続きであることが、「素晴らしいことでした。私にはレースの全貌が見えたのです」と。つまり、一番後ろから眺めることを重ねたおかげで、レース展開が読め、ライバル全員の行動がわかるようになった、というのである。そうした彼を買う人も出てきて、あるとき、いい馬に乗せてもらうと、十二レース中、十レース優勝してしまい、英雄になる。そして、戦後は香港に移り、第二の人生もまた成功する。人生、不遇続きの中でもくじけることなく、何か心掛けてさえいれば、いつか、一直線に駆け抜ける日が来る―というわけである。
春は人生の岐路に立つ場面の多い季節でもあります。順境なら言うことはありませんが、そうはいかないこともあります。思い通りにならなかった時、逆境の時にこそ素晴らしい花を咲かせるチャンスがある。そう信じて歩んでいけたらと願います。

■柳不緑花不紅
2月になりましたが、まだまだ寒い日が続き、春を待ちわびておられる方も多いのではないでしょうか。先月、あるお寺様にお邪魔させて頂いた時、「柳緑花紅」(柳は緑、花は紅)という禅語の書かれた軸が掛かっておりました。この語は、見ての通り自然の美しい情景を表わし、「春」を連想させる語です。真冬のこの時期に何故春の語を掛けておられるのか不思議に思い、その理由を尋ねてみました。すると、和尚様は、「わしは寒いのが苦手でのぉ、早く春が来んかと願いを込めてこの掛け軸を敢えて掛けておるんじゃ」とおっしゃいました。この時ふと、学生の頃、この禅語をテーマとした法話のテストがあり、大変に苦心したことを思い出しました。当時、色々と調べた結果、「ありのままの自然の妙景にこそ悟りの境地がある」というところまでは辿り着いたのですが、どう考えてもその境地に繋がる自分の体験談が出てこないのです。禅宗坊主の卵として、皆様の為に何か良いお話ができないか、そんな体験談がないか、と必死に考えました。しかし、全く浮かんできません。悩みに悩んでいると、どんどん自分の到らなさが情けなくてどうしようもなくなってしまいました。困り果てた私は、ふと知り合いの和尚さんにこの事について相談してみました。すると、「体験談がないことは悪いことでも悲しいことでもない。大事なのは、自分のそういう到らなさに気付いて、しっかりと情けない自分を見つめてやる事だ。そうやってしっかりと悩めるところが尊いことなんだ。その悩んでいるところを法話にすれば良い」と教えて頂きました。私はこれを聞いてハッとしたのを今でも鮮明に覚えています。当時の私は、「柳は緑、花は紅」そのままに、人生生きていれば色々と辛いことや悲しいことがあって悩み苦しむけれど、何とかそれを見ないようにして、素晴らしくて美しい部分、つまり楽しいことや幸せなことばかりを追い求めていました。そして、そういう中にこそ素晴らしい世界や悟りがあるのだと思っていました。しかし、それは全く逆で、人は悩み苦しむそれ自体が尊い事であり、そこにこそ人の命の輝きがあるのだということに気付いたのです。皆さんも少し自分に立ち返って見て下さい。この原稿に向き合っておられる方々の中で、私は一切の悩みや苦しみがない、病気も老いも死ぬことさえも何も恐れてはいない、今までの人生もこれからの人生も一点の悔いもなく過ごせるんだ、という方がどれほどおられるでしょうか。恐らく皆様それぞれに色々なことについて悩み苦しみ、不安を抱き後悔を重ねていらっしゃる事と拝察致します。かく言う私もそうです。しかし、人は皆そうやって悩み苦しむけれど、「まぁしゃーない」と言ってその苦しみをしっかり背負って、苦しいなりに生きていけることが尊いことなのです。よくよく考えてみれば、一年を通して柳が緑で花が紅である期間なんてほんの数日の事です。それ以外はずっと柳は緑でなく花も紅でありません。我々の人生も一緒ですね。人生の春と思える時間など、悲しいかな人生全体から見ればほんの一瞬なのです。悩み苦しみながら「まぁしゃーない」と言って生きている時間の方が圧倒的に長いのです。ここの処を「柳緑花紅」を踏まえて言い表わすとするならば、「柳不緑花不紅」(柳は緑ならず、花は紅ならず)といったところになりますね。今回「柳緑花紅」という禅語を通じ、確かにありのままの自然の妙景も素晴らしいけれど、「柳不緑花不紅」として、色々なことに思い悩む情けない自分にもキラリと輝く瞬間があるんだ、という事を少しでも心にとめて頂ければ嬉しく思います。冒頭でご紹介した和尚様の「願い」にも実はこういうところが含まれており、真冬にこそ相応しい禅語と言えるのかもしれませんね。そう思って玄関をくぐれば、いつもの世界がまたキラリと輝いて見えるのではないでしょうか。

■菩提の種
厳しい寒さも日毎に和らいで、水温み草木の花綻ぶ心地よい季節になってきました。
今日彼岸 菩提の種を 蒔く日かな
毎年お彼岸の時候になると各地の寺院で見聞きする、松尾芭蕉の句とされる俳句です。「菩提」の意味、解釈には様々ありますが、ここでは「安らぎの境地」、「穏やかな心境」ということでありましょう。この世の中はいつの時代も、何一つとして自分の思い通りになることも自分の都合よく進むこともありません(=「1一切皆苦」)。しかし私達人間は、この世の中は自分の思い通りになる、都合よく進むことになっている、と錯覚し生活しています。その錯覚を生じさせる原因は、この世の中の「利便性」、「進歩」です。「利便性」、「進歩」は日常生活において切っても切れない必要不可欠なものです。しかし、そこに軸足を傾けていった先には好悪、優劣、黒白といった自他を分別した思考、「結果さえよければいい」、「自分さえよければいい」というような自己中心的なはたらきしか生じず、「一切皆苦」の根本的解決には至りません。仏教は決して自己中心的な結果ありきの教えではありません。「一切皆苦」を前提、出発点として捉え、そこから本物の力強い一歩を踏み出すための教えなのです。では、なぜこの世の中は「一切皆苦」なのでしょうか。「罰(ばち)が当たる」、「オバケ」、「祟り」、「不吉」......といった人の力の及ばない、人智では超越することができないものを私達は畏れます。そういった畏れの根底には、この世のすべては移ろいゆく現象であり一瞬たりともその姿かたちを留められるものはない(=「2諸行無常」)、という不変の真理が流れています。この真理の中に存在している私達は、誰一人として決して明日の命を約束することができないように、すべて自分の思い通りにはならないのです。その厳しい「諸行無常」の真理の中にありながら、私達一人一人は家族、友人をはじめとした多くの人々とのつながりによる恩恵、また太陽、空気、水、動植物などからいただく恩恵、そういった数多の「恩」をいただいて、今この「我(私)」という存在を生きることができています。この「恩」によって私達一人一人が今を生きていることを如実に知るならば、「我」のことは差し置いてでもこの「我」を取り囲むすべての存在が明日あることを願い行動せずにはいられないのです(=「3諸法無我」)。「利便性」、「進歩」も、この「諸法無我」が根底にあり、それぞれその時代に沿って形を成し現前しているものに他なりません。そして、すべての人々がお互いに「諸法無我」であることを自覚し生活していくところに「安らぎの境地」、「穏やかな心境」......いわゆる「菩提」が生まれていくのです(「=4涅槃寂静」)。「菩提の種を蒔く」とは「恩に報いる生活をする」ということです。「利便性」・「進歩」に囲まれた生活の中で常に「報恩」の基軸を育んでいくことが、仏教の説く「中道」の実践行へとつながっていきます。私達一人一人に与えられたかけがえのない一瞬一瞬が本当に良きものとなるよう、日々数多の「恩」に感謝し「報恩」に務めていきたいものです。 ※「四法印」......仏教教理のひとつ。悟りへの境地を1一切皆苦、2諸行無常、3諸法無我、4涅槃寂静の4段階に分けたもの。

■臨済禅師のこころ 「恩を知って恩を報ずる」
お正月を迎えたと思っていたら、早くも2ヵ月が過ぎました。今年はこんな1年にしようと目標を掲げられた方も多いかと思います。今年は臨済宗の宗祖である臨済義玄禅師の1150年遠諱を迎えます。この遠諱を迎えるにあたって、私は今年の目標を「報恩」と掲げましたが、年始からの慌ただしい生活を理由にして、結局何もできないまま2ヵ月が過ぎてしまいました。臨済禅師の語録に、「恩を知って方(まさ)に恩を報ずることを解(げ)す」とあります。私たちは互いに関係して成り立ち、また互いによりあって存在しておりますので、一人で生きていくことはできません。誰かのお世話にならなければならない以上、そこに恩というものが生じます。臨済禅師はこの恩を知ることが、そのまま恩を報ずることであるとおっしゃっています。では恩を知って恩を報ずるということはどういうことなのでしょうか。
詩人の高田敏子さんは若い頃、孤独感から自殺を図ろうとしました。その時のことをこう述懐します。 ・・・お風呂に入って身体を清め、肌着も下着も全部取り替えて、そして最後の化粧をするために鏡に向かいました。フッと気がつくと、この間切ったばかりの髪の毛がもう伸びている。爪が伸びている。私の心は死のうと思っているのに、髪の毛が伸び、爪が伸びて、私の身体を寒さや外敵から守ろうとしてくれている。その髪や爪は私が作ったのでも、買ったものでもない。父の、母の、そしてまた先祖の願いが髪の毛となり、爪となって私を守っていてくれるんだということを感じ、あらためて鏡の中に映る自分の顔を見て、ああ、よかったと思いました。
そもそも私たちの身体、髪、皮膚、ありとあらゆるものは、両親をはじめ、遠いご先祖から連綿と受け継がれてきたものです。髪の毛一本、爪一枚、自分のものではありません。さらに、起きているときだけではなく、寝ているときも呼吸し、心臓は動き、そして体温を保ってくれています。自分の父の願いが、母の願いが、いやご先祖の願いが、互いに寄り合って自分の中に宿っているのです。死のうと思ったけれど、鏡の前に向かうと、自分の都合に留まることのない、今こうしていのちあること、生きて生かされているというありのままの様子が映った。そして生きている人だけでなく、目に見えない亡くなった方も含めて、多くの恩をいただいて生きているということにお気づきになったのでしょう。高田さんはその後、一つ年上の少女に見せられた少女向けの文芸誌をきっかけに詩や短歌を書き始め、74才で亡くなるまで詩作を続けました。あの自殺を図った出来事によって、ご両親とご先祖の恩を知ることができた。そしてその心をそのままに、多くの優れた作品を残されたのではないでしょうか。自分が救われることによって、周りをも救うことができるのだ。まさに自分の都合から離れて恩を知ることで、自ずと恩を報ずることができたのです。関わり合いの中で私たちは目に見える人やものから、目に見えないそれらにいたるまで、多くの恩をいただいています。いまここに自分がいることに、いったいどれだけ多くの方々が関わってくれたことでしょう。目標のある無しにかかわらず、慌ただしい生活を理由にすることもなく、自分の都合に留まることのない生活をしていきます。その心で、いまここ自分が周りの力によって生かされて生きているというありのままの様子を知り得たとき、自ずと周りをも生かしている、そんな生き方をしていきたいものです。 
 

 

■唯一無二のほとけごころ
幸せに成りたい。"不幸で無い事"を求め、悩むあまりに、"幸せ"とは何なのかがもはやわからなくなり、「世の中に生きる灯火を見つけられない」と嘆く方が多いのではないでしょうか。私たちは何をもって"幸せ"と、生きていけば良いのでしょうか。仏教では、物質的な満足感や、差別的な優越感を幸福とする資本主義社会的な幸せを良しとはしません。また、禅の世界観においては、思考熟慮による正義や分別さえ、夢幻の事とされています。我われ凡夫の求める幸せの定義は、不幸せと比べての幸せであり、利己的な幸せを求める心は、限りある生に在りながら永遠を求めるという矛盾を抱え、いつ何時も満たされる事なく餓え渇いているのです。何も現世利益を求めるのが悪いという事ではないのです。ご自身の"求めるこころ"に、いつの間にか支配されてはいませんか、とお伝えしたいのです。約2500年前にお釈迦様がお亡くなりになられる際、「自灯明、法灯明」との御言葉を残されたと伝わっております。「自灯明」は私自身の存在そのもの、「法灯明」はお釈迦様の説かれた無常論ではじまる仏法そのものといえます。決してどこか他に答えがあるのではなく、自らに具わっている"今、ここ、わたし"が何者であるかと見つめ直すことによって、灯とは何であるかを知るのが、禅の教えであります。何もかも(我われの人生も含め)が常では無いという、変化しつづける世にあって、世間一般の価値観によって作られた思考を刷り込まれ、形の決められた幸せを求めるあまり、それらを手に入れようが入れまいが、もはや自己のこころといのちを見つめる事などなく、不満不足の念に囚われ、虚しく日々を過ごしているのが我われの現状であります。よくよく私のこころといのちを顧みれば、全ては御用意いただいたものと気づく瞬間が訪れます。人としての生を受け継いだ我々は、貴重な時間を、世間体や、世間の価値観の為に使われる事にならぬようにせねばなりません。受け難い人身を受けて、生かされた己のいのちとこころをもって、周りのいのちとこころを活かす事こそ、この世と共に生きる自然な姿、「生活」であり、人の自然本来の姿ではないでしょうか。私が生まれる前から受け継いだやさしいこころは、私の用意できる唯一無二のほとけごころ。幸せを願うならば、まず、沢山のいのちとこころに支えられた福そのものである私自身に気付くことが大切でなのです。「おかげさま」と、いただいた御恩に報いるために我欲のない生活をし、お供えできる自分自身を発見することで、楽しい時も悲しい時もめいっぱいにそのいのちを生きられるようになり、実りある人生になってゆくのではないでしょうか。

■白隠禅師のこころ 「衆生本来仏なり」
近ごろ我が国の宇宙航空研究開発機構(JAXA)による、エックス線天文衛星「アストロH」を載せたH2Aロケットの打ち上げが無事成功しました。科学技術の発達によって今まで見えなかったものが見えるようになり、今までできなかったことができるようになることは誠にすばらしいことです。心よりお慶び申し上げたいところではありますが、つい最近、どこかの国で世界中の非難を浴びた「事実上の長距離弾道ミサイル」と同じ様に見える気がするのは、生粋の文系人間である私だけなのでしょうか。牛が飲めば水が乳となり、蛇が飲めば水が毒となると申しますが、何とかして、皆んな仲良く「衆生本来仏なり」という平和な世界を実現する道はないものかとお祈り申し上げるばかりです。話は変わりますが、何年か前のNHKの朝のドラマ「梅ちゃん先生」の中で、ドーナツの穴はドーナツか?という話がありました。ドーナツには穴がある、穴がなければドーナツではない(最近は例外もあるそうですが、それはこの際無視します)穴はドーナツにとって必要不可欠なものであり、ドーナツの穴はドーナツの一部だ。ここまではよろしいでしょうか。では、ドーナツの外はどうなるのか、ドーナツの穴と外はつながっている。ドーナツの外はドーナツにとって必要不可欠なものであり、ドーナツの外もドーナツの一部だ。ではここで問題です。ドーナツの外はどこまでがドーナツの一部なのでしょう。1ミリか1センチか1メートルか、正解は宇宙の果てまで。びっくりぽんや、ドーナツは宇宙の果てまでつながっていたのだ。何百億円もかけて人工衛星を打ち上げてブラックホールを観測しなくても、私たちは誰でもどこでも、百円のドーナツひとつで宇宙の果てまでつまんで食べることができるのです。色とりどり、味もいろいろ、大きくても小さくても、うまくてもまずくても、皆んなひとつ残らず宇宙の果てまで繋がっているのです。
「あれっ、ドーナツがない!」。「えっ、何だって?全部食べちゃったって?」。「まあいいか。最初から無かったと思えばいいのだ」。「衆生本来仏なり、これでいいのだ」。

■花が繋ぐ
花が咲き誇る季節となり、私たちの目を楽しませてくれています。アメリカの首都・ワシントンD.C.のポトマック河沿いでも、この時期桜が満開となり、在留邦人だけでなく、多くの人々の目を楽しませているそうです。それらは、来日したことのあるアメリカ人の学者や作家が当時のタフト大統領婦人に桜の美しさを伝えたところ大変興味を示され、日米友好を願い贈られました。しかし、その場所に運ばれるまでには、多数の困難がありました。約2千本あまりの桜の苗木が運ばれましたが、運搬途中で害虫被害に遭い、全部を焼却せざるをえなくなりました。その失敗を受けて、病気や害虫が発生しない畑を探し、そこで1年育てた元気な苗木を送ることにしました。さらに、荷造り前にはガス薫蒸し、6040本の桜の苗木が横浜港から運ばれました。ワシントンD.C.に運ばれた時、病気にかかっている苗木は1本もありませんでした。そして、三千本はワシントンD.C.に、残りはニューヨークのハドソン河開発300年の記念式に贈られました。このお返しにアメリカから日本に贈られたのがハナミズキです。ハナミズキはアメリカで最も愛されている花です。アメリカでのハナミズキの花言葉に「永続・耐久性」などの意味があり、イエス・キリストが磔の刑に処せられた際の十字架に使用されたのがハナミズキであったことから、二度とその悲劇を繰り返さないようにと、日米友好の永続の願いも込められていました。しかし、両国間は太平洋戦争で戦火を交えることになり、日本では街路樹として植えられたハナミズキが、戦時中に反米の象徴として伐採されたこともあったそうです。しかしながら、今日ではハナミズキ通りがあるように、日本の街路樹としてハナミズキをあちらこちらで見かけることができるようになりました。ハナミズキには、「rebirth(再生・復活)」という意味もあり、戦後の日本復興の願いなども込められていたのではないでしょうか。桜がアメリカに贈られたのが1912年、ハナミズキが日本に贈られて昨年がちょうど百年の節目の年でした。そして、アメリカから贈られたハナミズキの原木1本が、百年経った今でも東京都立園芸高校に生き続けています。現在、日米両国の間に戦火を交えていないのは、先人たちが花に託した友好の願いが実を結んでいるからでしょう。世界を見渡すと、力には力で、報復には報復でという、憎悪の連鎖が続いています。お釈迦様は花を拈じ、摩訶迦葉尊者がそれに対して微笑みで返して仏教の真髄が伝わり、二千五百年経た今まで脈々と伝わりました。唐の国の霊雲志勤禅師は、桃の花を見てお悟りを得ました。ある殺人を犯した加害者は、その現場に多くの献花があるのを見て、自責の念に駆られたそうです。花は何も言いませんが黙って咲き、花の前では怒りの感情なども芽生えないはずです。花を見て楽しむだけでなく、その花が植えられた経緯に思いをはせ、私たち自身もまた種を撒く(木を植える)人でありたいものです。

■白隠禅師のこころ 「幸と辛・タンポポから学ぶ幸せ」
どんな人でも幸せを求めない人はいません。求めるということは、不幸だという思いがあるからでしょう。そんな私たちに警鐘を鳴らすかのように、白隠禅師は「遠く求むるはかなさよ」(求めていくほどむなしいものは無い)(『坐禅和讃』)と説かれました。「幸せ」は元来「仕合わせ」と書きました。「仕合わせ」とは、良いも悪いも得するも損するも、巡り合わせに順って受け入れるということです。今、幸せをそのような元の意味でとる人はまれで、むしろ自分に都合の良い事が起こることを、幸せと呼んでいるように思います。そんな幸せはいくら求めても実現するはずがありません。
幸いの中の人知れぬ辛さ そして時に 辛さを忘れてもいる幸い。何が満たされて幸いになり 何が足らなくて辛いのか。
吉野弘さんの「漢字喜遊曲」という詩の一節です。「幸せ」と「辛さ」の関係を詠んでいます。吉野さんはまた、「普通、幸という字を見て、その中に含まれている辛に気付く人は殆どいない」(『現代詩入門』)とも指摘しています。これらを併せて読み解いていくと、どうも幸せというのは、求めていくものではなく、また辛さ・苦しみをその中に包み含んでいるもの、であるようです。そういえば「辛抱」という言葉もありますね。私たちが幸せを求め、辛さを避けようとすることは、実はほんとうの幸せから最も遠ざかってしまう方法なのです。しかし辛さ・苦しみを受け入れるといっても、そう簡単には受け入れられません。そんな時どうしたら良いのか? その答えをタンポポの習性に学ぶことができます。タンポポといっても、よく見かける外来種のセイヨウタンポポではなく、もともと日本に自生しているニホンタンポポです。セイヨウタンポポの極めて強い繁殖力に比べ、ニホンタンポポは分が悪く分布地を追われていますが、ニホンタンポポにしかない戦略をとることで生き残っています。それは日本の四季をうまく受け入れるということです。ニホンタンポポは春にしか花をつけません。それはまだ他の植物が伸びきらないうちに実をつけて飛ばしてしまうためです。そして他の植物が成長する夏になると、自ら葉を枯らして根だけ残して冬眠ならぬ「夏眠(かみん)」をします。過酷な暑さや他の植物と競争して疲弊するよりも、それらをやり過ごして、他の植物が枯れる秋になると、また葉を出し冬を越し春に備えます。四季の気候や、他の植物との競合という辛さをうまく受け入れた上でのニホンタンポポの生き方は、私たちの幸せにつながる生き方として大いに学ぶところがあると思います。私たちも辛さが受け入れられない時には無理をせず、タンポポの「夏眠」のように、しばらくやり過ごす、そういう受け入れ方もあるのです。タンポポに見習って暮らしているうちに次第に心が落ち着いて、辛さをも忘れている幸いに行き着けるのかもしれませんね。

■マル住職
新年度が始まってひと月が経ち、新しい生活にすでに慣れて来た方もいらっしゃれば、まだまだご苦労されている方もいらっしゃることと思います。私事ですが、この時期になると修行道場へ入門した時の緊張した日々を過ごし、初めて公案を与えられたことを思い出します。私が修行した道場では無門関の第1則「趙州狗子」が最初の公案でありました。犬に仏性が有るのか無いのかを問われた趙州禅師が「無」と答えられた有名な公案であります。答えはさておき、犬を飼っているお寺は多くあります。私が修行した道場にも紀州犬の子犬がやって来ました。"マル"と名付けられたその犬は、修行僧に癒しを与えてくれる存在でありましたが、道場の生活の中では構ってあげる時間が少なく窮屈な思いをしていたのでしょう、成長すると夜な夜な道場を抜け出すことがありました。3年程道場で暮らしたマルですが、このまま道場にいても不憫だということで、縁有って山口県のお寺へといく事になりました。そのお寺で住職という肩書をもらったマルは一躍人気者として脚光を浴びる事になりました。テレビや雑誌などで多数紹介され"マル住職"に会うためお寺にお参りに来られる方もおられるようです。人気者になったからといって今までと変わらず人に愛想を振る事はありません。共に過ごしたマルが人気者として多くの人に受け入れられている事に嬉しい気持ちになる反面、正直、住職とは少しやりすぎではないかとも思いました。一昨年、そのお寺での晋山式があり、お手伝いに伺うと何とマルにも袈裟が用意されていました。聞けば、檀家の方から、新住職の袈裟と同じ様に寄進されたものでありました。当日、お寺の本堂までの行列に新住職の後に続いて真新しい袈裟を着けて立派にマルが歩く姿に、寄進された檀家さんも涙を流し喜ばれているのを拝見。地域の方々に"マル住職"として安らぎを与え、お寺に調和しているのを目の当たりにし、私の「やりすぎでは......」という思いは、「犬を住職にするなんて不謹慎では」という固定観念に捉われているという事を気付かせてくれました。趙州禅師の答えられた「無」は犬に仏性が有るのか無いのかと問う僧の分別心を断ち切る「無」であります。そのため禅門では仮名の「ムー」に置き換えよともいわれます。こためでなければという思いが強すぎると、その思いから外れてしまった時に受け入れることができず、悩みや苦しみとなります。四角四面で物事を見る事も時に必要ではありますが、有無・善悪といった今までの分別心や執着心を払うことで、悩みや苦しみから円満な生き方へと変わっていくのではないでしょうか。こんなはずではなかった、なぜ自分ばかりと思い悩む時「ムー」と一呼吸してみませんか。

■臨済禅師のこころ 「こころに向き合う」
臨済宗の宗祖、臨済義玄禅師の教えは『臨済録』という語録に記されています。私達はその教えを理解し実践することで「こころに向き合う」ことができます。『臨済録』には、
赤肉団上に一無位の真人あり 常に汝等諸人の面門より出入す 未だ証拠せざる者は 看よ看よ
という一節があります。山田無文老師の『無文全集 第五巻 臨済録』(禅文化研究所)では
赤肉団上に一無位の真人あり / 肉団はお互いの肉体のことだ。無位の真人有りだ。何とも相場のつけようのない、価値判断のつけようのない、一人のまことの人間、真人がおる。仏がある。皆の体の中に一人一人、無位の真人という、生まれたまま、そのままで結構じゃという立派な主体性がある。
常に汝等諸人の面門より出入す / その主人公が、その主体性が皆の面門より、五感を通して出たり入ったりしておる。外へ飛び出して、きれいな花となって咲きもするし、美しい鳥となってさえずりもする。虫が鳴けば虫の中に真人がおる。山を見れば山が真人だ。川を見れば川が真人だ。全宇宙、お互いの感覚の届くところはどこへでも行く。主観も客観もぶち抜いて、そこに一人の真人がはたらくのである。こういう立派な真人が、仏が、皆の体の中にちゃんと一人ずつござるのじゃ。
未だ証拠せざる者は、看よ、看よ / この無位の真人を見ていくのが禅というものじゃ。
と解説しています。無文老師が説かれたように、私達には生まれながらに「一無位の真人」という主体性が備わっています。その仏の心を自ら発見するが臨済禅の根本です。それは、その時その場で精一杯生きる己の「こころに向き合う」ということです。平成27年5月11日TBS朝の情報番組で紹介されたお話です。島根県出雲市では2007年から毎年5月5日のこどもの日に花火大会が開催されています。花火師の多々納恒宏さんは数年前、ある病院の看護師長から「病院には長期にわたり闘病し、外出もままならず、明日の命さえ危うい子供がたくさんいる」と聞かされ、「それなら病室から見える場所で、花火をあげよう」と決意したそうです。花火を見る子供たちは、とても楽しそうな笑顔を見せてくれました。多々納さんは「花火を見た瞬間だけでも、病の痛みや苦しみを忘れることが出来ればと思う」と話されていました。その花火大会は、「子供達のために今、自分ができることをしてあげたい」という己の心に向き合っている人達の「一無位の真人」だと、私は感じました。そして、無文老師が語られたように、花火の美しさに魅せられ、例え一時でも病の痛みや苦しみから解放され喜ぶ子供たちは、まさに真人そのものでした。多々納さんの花火と子供たちの笑顔には、生きる喜びが満ち溢れていました。臨済宗が最も大切にしていることは、人の「こころ」です。目に見えない心をあの手この手で理解して生きようとするのが臨済宗です。迷いや悩みの原因は、すべて自分の内側にあると自覚して、なぜ人は苦しむのか、その原因はなんであるのか、生きるとはどういうことなのか、人間とは何か、自分の本当の心とは何か、という自己本来の「心に向き合う」ことなのです。常にどう生きるかを意識し、自らの内側に臨済禅師と相違ない「一無位の真人」を発見していくのです。つまり、私達ひとりひとりが臨済禅師そのものであるということなのです。自己の主体性に目覚め、今あるものの尊さを知り感謝する。己の本当の「こころに向き合う」こと、それが「禅―いまを生きる」ということです。

■白隠禅師のこころ 「片手の音」
高校生の時、アメリカの小説家サリンジャーの『九つの物語』という短編集を読み、その扉にこんな文句がありました。
「両手の鳴る音は知る。片手の鳴る音はいかに?」―禅の公案より―
在家に生まれ、禅に親しむ機会もなかった当時の私は、この言葉が臨済宗中興の祖、白隠慧鶴(はくいんえかく)禅師の創案による「隻手音声(せきしゅのおんじょう)」の公案であることを知るよしもありませんでした。それから数年のちの正月、近隣の町に住む叔母といとこ兄妹が、本家であるわが家へ年始に訪れました。当時、いとこ達は兄の方が中学生、妹は小学校に上がったばかりでした。学生だった私はたまたま、例の「隻手」の公案を思い出し、二人にとんち問題のつもりで質問しました。
「両手をたたくと音が出るけど、片手で鳴る音はどんな音?」 兄妹はしばらくひそひそと相談していましたが、やがて答えが出たようでした。二人して向き合うと、兄が右手の掌を上にして差し出しました。すると、妹が得意満面といった表情で、自分の右手を勢いよく兄の手に打ちつけました。「ペチャッ」という可愛い音がしました。私は彼らの機転に感心するばかりでした。時は流れ、兄が27歳、妹が20歳の年に、叔母は頭部の内頸動脈の末端がつまる難病に倒れ、まもなく植物状態となりました。当初は兄妹二人が自宅で母親を看病し、その後施設へ入所してからは、二人とも仕事が終わると、母親の元に通う生活が始まりました。やがて妹は結婚しましたが、兄はその後も独身のまま過ごしました。昨年の暮れ、その叔母が亡くなりました。病に倒れてから、ちょうど20年の歳月が流れていました。叔母には1年前に治療不能の癌が見つかっていて、医者から余命1年の宣告も受けていました。枕経を終えた私に、兄の方が静かに言いました。「母は僕らを支えるために、今日まで生きてくれたのだと思います。たぶん、そろそろ大丈夫だろう、と僕らのことを認めてくれたんじゃないかな......」。この何気ない言葉の重さに打たれました。この20年のあいだ、いつか母親の完全な回復の望みは失われたかもしれませんが、この親子の心の交流はずっと続いていたのです。叔母は言葉も発せず、身動きもしませんでしたが、この兄妹は母親のほんの僅かの変化も見逃さず、無言の言葉を交わして、対話を続けていたのでした。いとこ達にとって20年間、ひとときも絶えることなく母親は在り続け、彼らを励ましてきたのでした。聞こうとしない者には何も聞こえず、見ようとしない者には何も見えない。すぐ目の前にある「隻手の音声」に、まったく気づかずにきた己の愚かしさに、叔母といとこ達は身を以て気づかせてくれたのです。白隠禅師の没後、遠く250年が隔たった今も、相変わらず「隻手」は音を発し続けています。「自分、自分」と己のことで一杯になった頭では何ひとつ、見えも聞こえもするはずはなく、ただ我執を離れ、対象と一体になった時にのみ、姿を現わす不可思議な音を。

■幸せの提供者
春から初夏に向けて四国の山々は緑鮮やか、あぜ道にはお遍路さんが連なります。丁度この頃、大安の日に札所を巡ると、結婚式を控えた花嫁の「前撮り」に遭遇することがあります。6月といえばジューンブライド。白無垢姿の花嫁は、札所境内の荘厳な雰囲気と合わさり、美しさと清らかさが一層引き立っています。その空気に触れたお遍路さんは、疲れた身体にひと時の安らぎを与えられるのです。「幸せなる人」は、自分ばかりか同時に周りの人まで救ってくれるのかも知れません。有名な金子みすゞさんの詩に「花屋の爺さん」があります。
花屋の爺さん花売りに、お花は町でみな売れた。花屋の爺さんさびしいな、育てたお花がみな売れた。花屋の爺さん日が暮れりゃ、ぽっつり一人で小舎のなか。花屋の爺さん夢に見る、売ったお花のしあわせを。
花屋のお爺さんが丹精込めて育てた花。当然、思い入れもあるでしょう。売れた花がこの先どうなるのか、どことなく寂しげでありながら、花の幸せを心から願うお爺さんの姿が眼に浮かびます。お爺さんの夢見る「幸せ」、それは花を買った人がその花によって喜びを感じていくことなのでしょう。それが花にとっても幸せなのだと、おそらくお爺さんは感じているからです。私はこの詩に触れるとき、育てた「お花」が「花嫁(娘)」のように感じてならないのです。夫たる人の幸せは、大事に育てた娘によって生じるもの。そしてその幸せはそのまま娘の幸せでもあり、更には自分の幸せでもあるのだと......。たった一人の「幸せ」は、同時に多くの人の「幸せ」でもあるのでしょう。もしかしたら、お爺さんが売っていたのは花ではなくて、「幸せ」そのものだったのかも知れません。意外にも、幸せの提供者のことを、仏教では「仏さま」と呼びます。花屋のお爺さん同様、私たちは皆、誰かに幸福を授ける仏さまばかりなのです。禅は、自分の中に仏のこころ(仏性)が宿ると説きます。そしてその仏性に目覚めることを見性成仏といいます。ただし、仏に成りたい、悟りを開きたいと追い求めてなれるものではありません。修行を積んで「仏に成った」のではなくて、私たちは皆「本来仏だった」ことに気付かなければならないのです。きっと「幸せ」もそうなのでしょう。「幸せになりたい」と願ってもなれない筈です。元々ずっと「幸せに生かされていた」からこそ、機が熟して初めて気付いていけるのではないでしょうか。花嫁さんにそう気付かせてくれたのが夫たる人だったら、こんなに素敵な出逢いはありません。その粋な計らいは、もしかしたら私たちに潜んだ「幸せの提供者」なる、仏さまの仕業なのかも知れません。私たちは皆、既に幸せに生かされています。そう信じれば、あなたの目の前にいる人だって、きっと喜んでくれている筈です。だってそうでしょう。あなたの幸せは皆の幸せなのですから......。

■臨済禅師のこころ 「病、不自信の処に在り」
皆さんは「自分とはいったい何だろう」と不安に思ったことはありませんか。私たちは普段、自分の過去の経験を基準に物事を考えて生活しています。常に変化する世界の中で、何の問題なく順風満帆であればよいのですが、時に自分では受け止めきれないような大きな変化に直面することもあります。臨済禅師のお言葉をまとめた『臨済録』に「病、不自信の処に在り」というお言葉があります。「病」とは、「自分とはいったいなんだろう」と不安に思うことです。その「病」の原因は、自分で自分自身を信じられないことだというのです。ただし臨済禅師の説かれる「自分」とは、私たちが自分だと思い込んでいる喜怒哀楽の感情や外に求める欲望のことではありません。私たちの心の奥底で変化の波に左右されることのない、心の「根っこ」の部分のことです。この「根っこ」に気づくためには、外に向かって働く心を内に転じることが必要になります。詩人の星野富弘さんは、詩を読むことと身体を動かすことが好きで、中学校の体育の先生になりました。ところが先生になった年のクラブ活動の指導中、事故で体の運動機能を失ってしまったのです。入院中の星野さんは絶望を味わいました。「私は母の胎内から出た時のように素っ裸になってしまった。何一つ持ち合わせていなかった」。星野さんにとって、不安で眠れない夜が恐怖になりました。ある時、暗誦している詩がいくつかあるのを思い出しました。そこで、心を内に転じて、憶えている限りの詩を片っぱしから、何回も飽きることなく繰り返しました。すると、いつの間にか穏やかな眠りにつくことができたのです。星野さんの作品の中に「はなきりん」という詩があります。
「はなきりん」
動ける人が 動かないでいるのには 忍耐が必要だ
私のように 動けない者が 動けないでいるのに 忍耐など 必要だろうか
そう気づいた時 私の体をギリギリに縛りつけていた
忍耐という 棘(とげ)のはえた縄が "フッ"と解けたような 気がした
星野さんにとって忍耐とは、動けないことを耐え忍ぶことです。動けないというありのままの自分を受け入れることができれば、もう何も耐え忍ぶことはありません。今まで外に向かっていた心を内に転じることができたからこそ、新しい世界が開けてきたのです(そういえば、はなきりんの花言葉には「逆境に耐える」などがありました)。星野さんの著作に、「過去の苦しみが後になって楽しく思い出せるように、人の心には仕掛けがしてあるようです」。という言葉がありますが、この「仕掛け」こそ心の「根っこ」の働きではないかと思います。どんなことがあっても、変わることのない自分自身の心の「根っこ」を信じられるかどうか。臨済禅師の「病、不自信の処に在り」というお言葉を拠り所に自分を見つめ直してみてはいかがでしょうか。

■餓鬼仏さまと食平等
皆さまは"餓鬼仏(がきぼとけ)さま"って聞いたことがありますか?「"餓鬼"は聞いたことがあるし、"仏さま"も知っています。でも二つを合わせた"餓鬼仏さま"ということばは初めて聞きます」。こんなお答えが返ってきそうですね。子供の頃、悪いことをした時などに「このガキ!」などと近所のおじさんに怒鳴られた経験のある方もいらっしゃるでしょう。子供心にも"餓鬼"はあまり良い響きのことばではなかったのではないでしょうか。餓鬼は、インドのことばで「プレータ」(preta)といって、もともとは「先に逝った人」とか「死者」を意味することばでした。それが、だんだん「貪る心をもった死者の霊」の意味をもつようになりました。そして、その果てに、死者だけでなく、比喩的に「貪りの心をもつ人」にも使われるようになったのです。「餓鬼道」ということばも聞いたことがあると思いますが、これは「生前中に貪りの心をもった人が死後赴くところ」です。実際にあるかないかはともかく、死者が行く六つの世界の下から2番目にあるとされています。これからお盆を迎えますが、お盆には、よくお施餓鬼(せがき)の法要が併せて行なわれます。もともとお盆とお施餓鬼は全く異なるルーツをもちますが、「餓鬼に供養する」ということで一緒に行なうことが多いのです。お寺には大きな施餓鬼棚(せがきだな)が設けられ、その上に「三界万霊(さんがいばんれい)」と書かれた位牌や五色の施餓鬼旗(せがきばた)が置かれ、餓鬼飯(がきめし)と呼ばれるお膳と水、山海の珍味や新鮮な野菜や果物などが供えられます。ご家庭でも仏壇の前に新ゴザを敷いた机を置いて、お寺と同じように飾ります。私の住む地方では、多くのご家庭で、その机の下に別にお盆が置かれ、そこにもお膳が供えられます。これは餓鬼仏さま用です。"餓鬼仏さま"とは、"餓鬼"と"仏さま"との熟語ではなく、"餓鬼"を仏として崇めて、"さま"を付けたことばと考えられます。無縁仏もそうですが、日本では亡くなった人を"ほとけ"と呼ぶ習慣があります。供養をいつも受けているご先祖さま方と違って、供養を受けることのない無縁仏の霊は、お腹が空いて仕方ありません。せっかくご先祖さま方に供養をしても、お腹を空かせた霊が指をくわえて周りで見ていたら、ご先祖さまも落ち着いて召し上がることはできません。私たちだって、もしそういう状況に置かれたら、せっかくのご馳走も味わうことができませんよね。それで、ご先祖さま方に差し上げるように、餓鬼仏さまたちにも供養をして差し上げるのです。子供の頃から、寺では「食平等(じきびょうどう)」ということをよく聞かされました。「自分だけが美味しいものを食べられればよい」、「自分だけがよい思いをしたい」というのは餓鬼のはじまりです。「美味しいものはみんなで仲良く平等に」という食平等の優しさを教えてくれるのも、餓鬼仏さまを供養するお施餓鬼の大事な意味だと思います。ぜひ皆さまも、お盆には餓鬼仏さまへのお膳もご用意下さい。 
 

 

■亡き人はどこに
お盆が近づくと、ひとしお、亡き人のことがあれこれと偲ばれます。故人の在りし日の思い出、共に過ごした楽しかった思い出に、懐かしさや寂しさを感じられる方も多いのではないでしょうか。亡き人を祀る心として、「祀ること在すが如く」という言葉があります。「亡き人が、そこにおいでになるように」との心です。まだ、私が修行時代のことです。厳しい修行の日々の中にも、弁事といって、ささやかながら月に一回程度、外出許可をいただける日がありました。衣を着たままの外出ですから、行くところも限られております。そんなとき、必ずお邪魔する信者さんのお宅がありました。その家のご主人は八十歳を超えたおじいさんでしたが、奥さんを病気で亡くされて十年が経ちます。私がお邪魔すると、話相手が来てくれてうれしいと喜んでくれ、いつもお茶を出してくださいました。何回かお宅にお邪魔させていただいたときに気づいたのですが、私とその方と二人なのに、なぜかいつも湯呑みがひとつ多いのです。「いよいよこのおじいさんも、一人暮らしが長いせいか、ボケが始まったのかなぁ......」と思いつつも、「湯呑み、ひとつ多いけど......」と、申し上げました。ご主人はすべてのお茶を注ぎ終わったあと、何も言わずに、照れくさそうな顔をして、「そっと」仏壇にお供えされたのです。ボケたなんてとんでもない事でした。一言申し上げた私のほうが恥ずかしくなりました。ご主人はいつもそうされていたのでしょう。「祀ること在すが如く」。亡くなった方が今ここにおられるつもりで、お供えをする。生きていた時と同じように「あれもしてあげよう」「こうすれば喜んでくれる」そういうお気持ちで接することが供養の心でもあります。亡き人はいつも私と共にあって、私と離れることはありません。
みほとけは どこにおわすと 尋ぬるに 尋ぬる人の 胸のあたりに  (古歌)
胸に手をあててみましょう。亡き人は、私たちの胸の中、心の中、亡き人を偲ぶ、その思いを馳せるところにおいでになるのです。

■臨済禅師のこころ 「金屑貴しと雖も眼に落つれば翳と成る」
今年もお盆の時期となりました。みなさんもまもなくお墓参りなど、ご先祖さまをお迎えする準備に取り掛かられることと思います。お盆の行事は「盂蘭盆経(うらぼんきょう)」というお経に出てくるお釈迦さまの弟子である目連尊者(もくれんそんじゃ)のお話がもとになっています。詳しくはこちらをご覧下さい。目連尊者が餓鬼道に堕ちた母親をなんとかして救おうと、お釈迦さまに教えを請うお話なのですが、そもそもなぜ目連尊者の母親が餓鬼道に堕ちてしまったかというと、あまりの我が子可愛さに、我が子さえ良ければと、他人に対しては施しの心を忘れて、飢えに苦しむ人たちを見捨ててしまったからです。我が子を思う心は、大変尊いものですが、そこにとらわれてしまっては、その善い心も悪い心になってしまいます。現代でいうモンスターペアレントも目連尊者の母親と同じなのかもしれません。臨済禅師の言行録『臨済録』に「金屑(きんせつ)貴しと雖(いえど)も眼に落つれば翳(えい)と成る」という言葉があります。臨済禅師が住職をしていた臨済院に、その地方の知事であった王常侍(おうじょうじ)という人物が訪ねて来て、このように問いました。「このお寺の修行僧たちは看経(かんきん・お経を読むこと)や坐禅をしているのですか?」。臨済禅師は「看経もしないし、坐禅もしない。仏になるのだ」と答えます。禅の修行道場ですので、看経も坐禅もしないはずがないのですが、とにかく臨済禅師はそう答えたのです。それに対する王常侍の言葉がこの「金屑貴しと雖も眼に落つれば翳と成る」です。「金の細片は貴重なものだが眼に入ってしまっては害にしかならない」、つまり王常侍は「看経や坐禅もそれにとらわれてはかえって仏になる妨げになってしまう」と言ったのです。臨済禅師はこの時、王常侍のこの言葉に納得して「わかっているではないか」と応えています。江戸時代初期の大名で板倉重矩(いたくらしげのり)という人物がいます。板倉家には家宝の弓があったのですが、重矩の留守中に小姓がその弓を引いて遊んでいたところ、ポキリと折れてしまいました。小姓は打ち首も覚悟して重矩の沙汰を待ったのですが、帰ってそのことを聞いた重矩は「常にこの弓を傍に置いて万が一に備えていたが、小姓が引いても折れるくらいの弓ならば、自分が引いても必ずや折れて危機に陥っていたであろう。むしろ事前にそれを知ることができたのは幸いである」と言って笑って許したということです。重矩は優れた機知によって小姓を救ったのです。壊れた弓をなおも大切なものと見ていたのであれば、それはまさに眼に入った金屑となっていたことでしょう。しかし、重矩はそこにとらわれることなく、壊れた弓より大切なものがあるということに気づいていました。「金屑貴しと雖も眼に落つれば翳と成る」。臨済禅師のこの教えは、自分自身をしっかりと見つめなおして、大切なものは何なのかはっきりと見定めよ、ということです。お盆は、ご先祖さまやあらゆるものたちに供養する行事ですが、また同時に、その結びつきの中で、自分自身のことを振り返り、反省する日でもあります。

■しゃぼん玉に思う
まったく同じ光景を見ても、その受け取り方は人それぞれだと思います。その人の心の状態がどんな風であるかによって、同じことがらであっても、楽しく見えたり、悲しく見えたりすることがあると思います。もう100年ほど前の話ですが、ある日、村の子供達が楽しそうに遊んでいました。その子供たちは、しゃぼん玉遊びをしていました。その様子をみて、ある人は、とても楽しい気持ちになりました。けれど、ある人は、また違う思いを抱いて、詩にしたためた。そんな童謡があります。
しゃぼん玉  野口雨情作詞(大正11年)
しゃぼん玉飛んだ 屋根まで飛んだ
屋根まで飛んで こわれて消えた
   しゃぼん玉消えた 飛ばずに消えた
   産まれてすぐに こわれて消えた
風、風、吹くな シャボン玉飛ばそ
できてすぐ消えるものもあるし、空高くとんでいくものもあります。いずれにせよ必ず消えていく。それがいつなのか、いつ消えるかもわからないしゃぼん玉は、私たちの命のようでもあります。昔、白隠禅師の時代に庵原の平四郎という人がいたそうです。あるとき、山中の滝の水が流れ落ちて滝壺に泡ができる。見ていると、ある泡は1尺ぐらい流れてポッと消える。しばらく流れる泡があっても、2間〜3間流れて必ずポッと消えてゆく。その泡を平四郎さんは見て、「いったい、私はどの泡だろう」と思った。命というのは、ちょうどこの泡のようなものだと感じたのです。恐ろしくなって、もう居ても立ってもいられなくなりました。帰り道に、たまたま人が
勇猛の衆生のためには成仏一念にあり、懈怠の衆生のためには涅槃三祇に亙る
という沢水和尚の法語を読むのを聞きました。勇ましく、心を奮い立たせた人のためには、成仏はこの一念にある。しかし、怠け者には、永遠に安心の境地は得られない。という意味です。それを聞いて平四郎さんは、
「今やらないで、いつやるんだ。私がやらないで、誰がやるんだ。」 と心を奮い立たせ、三日間の坐禅の後、大安心を得、白隠禅師に認められました。
これを思うに、まずこの世の「無常を感じ取る」という感性が大事だと思うのであります。無常を感じ、それを恐ろしいと思う心がバネとなり、安らぎを求める強いエネルギーとなります。「窮すれば通ず」。困った時ほどチャンスだと思って、乗り切ってゆきたいと思います。安らぎは、もうすぐそこに。

■臨済禅師のこころ 「随所に主となる」
「この世の中でもっとも簡単なことは? もっとも困難なことは?」という質問を受けて、古代ギリシャの哲学者タレスは「もっとも簡単なことは人に忠告すること、もっとも困難なことは自分を知ること」と答えています。なるほど人のこと、人の至らなさは良く分かるもの。しかし、分かっているようで実は分かっていないのが自分の事。ましてや、自分を知りどのように生きていけば良いのか、誠に困難な問題であります。宗という字には、おおもととか根本という意味があります。宗教とはつまり、人として生きてゆく上での根本的な教えということになります。如何に自分を知り、如何に生きていけば良いのかを示して下さったのが、中国の唐末期に活躍された臨済宗の宗祖・臨済義玄禅師です。臨済禅師は、別名臨済将軍とも呼ばれ、喝という言葉を使い修行僧を叱咤し、厳しい修行を課したと言われています。臨済禅師を描いた画像を見ると、目を怒らせ、拳を突き立てた恐ろしい風貌の寄りつき難い作品が多く見られます。しかし、実際は厳しいだけでなく、立ち居振る舞いは誠実であり、綿密であったとも言われています。心と体は連動していますから、坐禅する姿はもとより、歩く姿、食べる姿、全ての振る舞いにまで雑念無く純一に行ずる事が臨済禅師の教えなのでありましょう。臨済禅師の残された語録の中に「随所に主となれば 立処皆な真なり」という言葉があります。主となるとは、主体性を持って生きる事に他なりません。では主体性を持って生きるとはどういうことでしょうか。ある小学校で、文房具が無くて困っているネパールの小学生に鉛筆を送る事を企画し、生徒に一人二本の鉛筆を持ってきてくれるように募ったそうです。すると、ある生徒が新品の鉛筆をわざわざ削ってもって来たとのこと。なぜ鉛筆を削ってきたのか先生が尋ねると、その生徒は「鉛筆がないのだから、鉛筆削りもないと思ったから」と答えたのだそうです。この生徒は、主となって生きています。主体性を持って生きることができれば、臨機応変、自由自在な働きが湧き出てきます。主体性を持って生きることができれば、相手を想い、相手の立場になって物事を考えることができるのです。随所をそのまま訳せば、いつでも、どこでもとなりますが、我々の置かれている時間と場所は、常に今、ココしかありません。そして、禅の教えも常に今、ココで自分はどう生きるのかがテーマなのです。「随所に主となる」とは、今、目の前の事に主体性を持って生きることに他ならないのです。 今、目の前の事に主体性を持って生きることで、「立処皆な真なり」、そこが自分の真実の場所となるということを、臨済禅師は教えて下さっているのです。今年は、臨済禅師がお亡くなりになって1150年になります。いくら時間が経過しても、今もなお色褪せる事のない教えを生きる糧にしたいものです

■寂室禅師のこころ 「大自然を師となす孤高の禅僧」
滋賀県の永源寺は、私が生まれた東近江市にある臨済宗永源寺派の大本山で、母の実家にほど近い所にある。しかも、その永源僧堂の修行僧(雲水)が、近年まで母の実家(桝田家)に托鉢の折に点心(昼食)の接待を受けていたという。その因縁が私を在家から出家へと導いたというのが、母の口癖になっている。さて、その永源寺の開山、寂室元光(じゃくしつげんこう)禅師は鎌倉時代後期、美作(みまさか/岡山)生まれで、出家後に当時の高僧・約翁徳倹(やくおうとくけん)禅師に師事し、その法を受け嗣ぐ。そして、31歳の時に中国・元に渡り、純粋禅を標榜している中峰明本(ちゅうほうみんぽん)禅師につき参禅弁道、さらに禅道を究める。しかし、寂室は37歳の帰国の船中で、この師である中峰より授かった印可の証である親筆の偈頌(げじゅ/偈の書かれた墨蹟)や、中国の高僧より賜った送別の漢詩までも他人にくれてしまう。これは、どういうことであろうか。禅語に「没蹤跡(もっしょうせき)」という言葉がある。これは、何事も無心に行ない、心に跡をとどめず、執着しないことを意味する。例えば、自分は素晴らしい資格を取ったという思いがあると、その思いが痕跡となり、心にこだわりが生まれ、増上慢を起こす。この慢心を寂室は徹底的に嫌った。そういう思いが、師から授かった印可状にすら、執着しなかったのである。その後の人生でも、名利を離れ一所不住の生活を続けた。そして71歳の時、近江の守護・佐々木氏頼(うじより)の要請で永源寺の開山となる。そして、この山深い風光明媚の地で晩年を迎えるが、その徳風を慕って多いときには2000人もの修行僧が集ったという。しかし、この永源寺開山の任は、佐々木氏の懇願を辞退しきれず、やむなく従ったもので、寂室の本望ではなかった。京都華厳院の黙翁に送った書状には、「思慮なくこの院に臨んだ」と、深く考えずに永源寺に住持したことの後悔の念を吐露している。やはり、寂室の本心は世俗を離れ、大自然を師として枯淡に生きたかったのである。寂室の遷化に先立って残された遺誡(ゆいかい)には、自分の遺体の後始末の仕方を具体的に指示し、次いで佐々木氏より寄進された寺領を返還すること、さらに永源寺を地元の高野郷(たかのごう)の長老に譲り、弟子は解散して山中や人里離れたところで修行するよう厳命している。解説文を書かれた入矢義高氏は、この寂室の遺誡を「これほど厳粛で清冽な遺誡は、日本の禅僧では他に比類を見ない」と称賛している。まったく、永源寺開山という地位や名誉、そして永源寺自体にも執着がない。この枯淡な寂室の境涯をよく表わした詩偈に、次のようなものがある。「老来ことに覚ゆ 山中の好(よ)きを 死して巌根に在らば 骨もまた清し」(年老いてからひとしお山住まいが好ましい。岩の根もとで死ねば骨もすがすがしい)。この詩からも、寂室が自然と共に生き、自然に溶け込んでいる様子が伝わってくる。昭和46年の夏、私が小学校6年の時に、当時の課外授業で「永源寺キャンプ」というものがあり、同級生の生徒全員約100名が永源寺の本堂に雑魚寝(ざこね)をして、一夜を過ごした。その永源寺の門前には大きな川が流れていて、その清冽さに、心が洗われた想い出がある。今でも、このすがすがしい川を見ると「落花流水に随う(らっかりゅうすいにしたがう)」という句が思い起こされる。この句は、花びらが川に舞い落ちると、流れのままに身を任せて流れていく。花びらは自然に散り、川もまた自然に流れているだけ。なんのはからいもない、無心そのものの表われを意味している。おそらく、寂室も花びらが川面を流れていくがごとく、生死を悟り、大自然にこの身を任せようという心情であったろう。この大自然を師となした孤高の禅僧・寂室の禅風こそ、物質文明に汚染された、現代に求められているものではないだろうか。

■合言葉は「おいあくま」
9月1日は防災の日。避難訓練に参加したり、ご家庭の非常持ち出し袋などを確認されたりしたことでしょう。避難訓練と聞けば思い出されるのが「おかし」という合い言葉。これは「押さない、駆けない、しゃべらない」という避難時の約束を分かり易くまとめた標語ですね。初めて耳にした時から30年以上過ぎましたが、今もしっかり心に刻まれています。それは避難という大事の時に「おかし(お菓子)」というかわいらしい言葉を合い言葉にする可笑しさに加え、何よりも単純で覚え易い言葉であったからだろうと思うのです。旧住友銀行の頭取を長年務められた堀田庄三氏は自身が戒めとしていた信条を社員たちへ機会があれば話していたそうです。それが、
おこるな(怒るな) いばるな(威張るな) あせるな(焦るな) くさるな(腐るな) まけるな(負けるな)
の5つです。繰り返すうちに社員たちに浸透し、それぞれの言葉の頭文字を取った「おいあくま」が一つの合い言葉になりました。この「おいあくま」も大切なことを覚えやすい上に実に分かり易く示してくれています。それは私たちが日々穏やかに、そして活気を持って過ごす方法です。いわばこころの防災につながる合い言葉なんですね。悪魔といえば人を惑わし苦しめるものですが、その正体はなんでしょう? それは他でもない自分自身です。自分の思い通りにしたいという願望、自分の思い通りにならないという不満、自分が自分がというこころが悪魔となるのです。私の中にも悪魔が時折現われます。今こうして原稿用紙に向かっていても上手く書けないことに焦りますし、他の人と比べて自分はダメだと腐ります。しだいにイライラしてきて「もう辞めてしまおうか...」なんて考えもしました。それでも「おいあくま」と粘り強く自分自身をたしなめれば、こうした機会をいただけるのは有り難いことだと反省できます。自分にできることを頑張ろうと前向きな気持ちも自然と湧いてくるんです。「おいあくま」と自分に呼びかけて「はい」と返事をしてみましょう。「おいあくま」と自分に呼びかけて「さようなら」と別れを告げてみましょう。自分の損得にこだわる「私」を認めて消していくことで見えてくるのが感謝と謙虚なこころ。これこそ仏さまのこころです。そんな自分の内の仏さまのこころにも気がつける合い言葉でもあるんですね。9月1日は防災の日。自然災害や思わぬ事故に備えることは大切ですが、ぜひ「おいあくま」を合言葉にこころの防災にも努めるきっかけにいたしましょう。

■一人の生命は地球よりも重い
9月の声を聞くと、思い出す大事件があります。39年前の1977年、日航機がハイジャックされ、バングラデシュのダッカ空港に強制着陸させられました。犯人は、日本政府に拘置・服役中のメンバーの釈放と高額な身代金を要求しました。拒否すれば、人質となった乗員、乗客を殺害すると。苦渋の決断を迫られた政府は、超法規的措置をとり、要求に応じたのでした。その時、当時の福田首相がつぶやいた一言が、「人の生命は地球よりも重い」でした。実はこの言葉は、敗戦直後の新憲法のもとで、死刑の是非が争点となった最高裁判決の冒頭部分にも「生命は尊貴である 一人の生命は、全地球よりも重い」と使われています。判決文を書いた真野毅判事は、明治の多くの人々が愛読した『西国立志編』(中村正直著)の序文から引用したと、後に明かしています。「一人の命は全地球よりも重い」は、明治以来ずっと、日本人の心の中でこだまし、問いかけてきた言葉なのです。殺(サツ)の時代とまで言われる今日、私たちはこの言葉を問い直し、日常の生き方にどう関わるか考えてみたいものです。炎暑真っ盛りの早朝のことでした。朝から喧しい蝉の鳴き声が、室内までも響きます。妻が玄関を開けて、一歩踏み出した途端、グシャリとした感覚が足に伝わりました。その瞬間、鳴き声がピタリと止まったのです。庭木に留まって鳴いているとばかり思っていた蝉が、三和土(たたき)の上に見るも無惨な姿となって潰れていました。永年月の地中生活から出て、地上で生を謳歌しようとしたであろう蝉の生命を断ってしまった悔恨の念が、妻から離れません。人間は勿論、動物も虫も植物もかけがえのない生命を生きています。生命を奪うことは、それぞれが自分を躍動させていくであろう可能性を断つことであり、今、自分に来ている生命の集積、更に次へ継承する生命の連鎖を閉ざすことになります。予期せぬこととはいえ、妻の後悔の大きさがわかろうものです。
盛永宗興老師は、命について次のように示しておられます。 ・・・限られた個体が存在し続けている間が生命なのではなく、明滅しながら、生まれ変わり死に変わり、色々な形に変化し、雲となり、水となり、空気となり、(中略)木となり、草となり、人間となり、猿となり、ありとあらゆる現象として現われながら、その〈命〉がずっと動いている。
一つの生命を通して命の根源を見つめると、生命を生命たらしめている"大いなるいのち"に気づきます。この大いなるいのちにめざめ、すべてのものを生きとし生けるものと拝むことができる日常底こそ、一人の生命の重さを実感して生きることであろうと思うのです。

■水は方円の器に随う
水から学ぶことは多いのですが、その一つをお話ししたいと思います。「水は方円(ほうえん)の器に随う」という偈があります。水は柔軟な物の典型として方形の器であろうと円形の器であろうとその形に随って形を変えて寄り添うということであります。人で言うなら心の柔らかさ、柔軟心(にゅうなんしん)の大切さを教えています。その水も綺麗な真水がいいと思っていました。言い換えると、白分がきれいでないと他の汚れは洗えないと思っていました。しかし、経験された方もあるかも知れませんが、洪水で泥水が家宅に浸水し、家具が泥だらけになったとき、泥で汚れた家具をきれいな水で洗ったら、しみが残ります。泥で汚れたものは、一度、泥水で洗ってからきれいな水で洗わなければならないのです。平成25年に滋賀のわが市も洪水の被害に遭い、重機を使う復興は早く終えましたが、戸々の後片付けに大変な時間がかかりました。人間関係もやはりそのようです。自分が「規則を厳守し、曲がったことが嫌い」という生き方の人は褒められこそすれ、少しも悪いことではないのですが、やりたくてもできない人の性格の弱さ、経済力の無さが理解できず、助けることが出来ないのです。きれいな水の人なのです。「自分が汚れなければ、他の汚れを洗うこともできない」と思えるようになって初めて、清濁合わせ飲める度量ができるのだと思います。非常時には、身近な存在の水に「光と希望」を見ることがあります。「水・パン・もうふ」「SOS」と、道幅いっぱいに白い粉で書かれた文字が並んでいました。被災地をヘリコプターが空撮した写真に写っていたものです。書いた人の悲痛な声が聞こえました。「水、パン」の水は命の水です。寒さ募る避難所には、心身を暖める「水」があります。お風呂や温かいみそ汁です。被災地に冷たい雨が降りつづき地盤が緩めば、余震が新たな土砂災害につながります。絶望で濡らす非情な水もあります。目、耳、口の自由を2歳で失ったヘレン・ケラーが最初に覚えた言葉は「水」であったといいます。サリバン先生がヘレンの左手に井戸水をかけ、右の手のひらに指で「W-A-T-E-R」と書いた。それが、「私の手を流れる、すばらしい、冷たい何か」についた名前であることを知ります。水が魂を目覚めさせ、「光と希望」を与えてくれたと、自伝で回想されています。水は一滴々々が集まり、岩をも、山をも砕く荒々しい試練を与える働きから、人の気持ちに寄り添える優しさまでを持っているのです。

■月に手を伸ばせ!?
秋に月あり! 満月の夜は、その美しさに思わず月に手を伸ばしてみたくなります。かつて、イギリスのロック歌手ジョー・ストラマーが「月に手を伸ばせってのが俺の信条だ!」という言葉を残しました。この言葉にロック少年だった私は、ときめきを覚えたものです。しかし、手を伸ばす「月」を間違えると、大変なことになるようです。昔、波羅奈(はらな)という城に、猿が五百匹住んでいました。ある月の夜、大きな樹の下にある井戸の水面に美しい月が映ります。猿たちは、この月を手に入れたいと、樹の枝を掴み、手と尻尾を掴み合って水面に手を伸ばしますが、樹の枝が折れて、みんな水の中に落ちて死んでしまいます。まやかし(水面の月)を真理(本物の月)と思って求めることを戒める、仏教に伝わる逸話です。さて、私たち人類はどうでしょうか。例えば、自然に対する姿勢一つをとっても、環境保護が声高に叫ばれているにも関わらず、利便性・経済性重視の開発は留まる気配がありません。物質的な豊かさへのとらわれを手放せずに、相変わらず水面の月に手を伸ばそうとしています。北極の気温上昇による氷の減少の話、深刻な環境汚染で水没の危機にある島国「ツバル」の話などを聞くと、人類もいつか水中に落ちた猿と同じ運命を辿るのではないか?。そんなことを考えていた時、ある高名な和尚様が僧侶への戒めとして書いた文章を目にしました。「じっと手を合わせて拝む信者さんの美しい姿を、その方の心を忘れないで欲しい。私たちは手を合わせて施しをして下さる方のおかげで修行が出来ている。硬貨一枚に手を合わせて拝む心を忘れてはならない。手を合わせて下さる信者さんの心を傷つけるようなことがあってはならない。」 私は自戒を込めて、この文章を何度となく読み返しました。そして、読み返すうちに、私を取り巻く全ての環境に対しても、この戒めを忘れてはいけないと感じました。美しい大自然の中で、様々な恩恵のおかげで生かされていること忘れ、空気や水の存在が当たり前であることに慣れ、謙虚な気持ちと敬意をはらう気持ちを忘れ、大自然に傷をつけてばかりで「今のままで本当に良いのですか?」と突きつけられた気がします。口先だけの懺悔は何の意味もなしません。禅の教えの懺悔は「生涯を通じて犯さぬこと(懺)」と「これまでの過ちを知ること(悔)」です。過去の過ちを心に刻み、二度と同じ過ちを繰り返さないと誓うこと、ここを出発点にしないと、人類は水面の月に手を伸ばし続けることになりかねません。地球の危機的状況に、今後、何をした方が良いのか、何をしない方が良いのか。懺悔をすることで、謙虚な気持ちと全てに敬意をはらう気持ちを思い出せば、私たちの行動は自然と定まっていくはずです。また、その姿勢を保つことこそ、一番近い場所にある、本物の月の再発見への近道であると信じます。

■寂室禅師のこころ 「韜晦の家風」
本年は日本臨済宗を挙げて慶讃すべき宗祖臨済禅師、および日本臨済禅中興の祖、白隠禅師の遠年諱に正当します。折しも時を同じくして、わが永源寺派に於きましても、開山寂室元光禅師(正燈国師)650年遠諱を迎え得たことは、一派挙げての一大慶事であります。永源寺開山寂室元光禅師は、正応3(1290)年、美作の国(現在の岡山県真庭市)のお生まれで、藤原氏一門の末裔として生を享けられ、13歳にして両親の願いにより出家し、京都東福寺第七世住持、無為昭元禅師に就いて祝髪されました。後、鎌倉におられた約翁徳倹禅師に参禅し、その印可を得て「元光」の諱を得、さらに31歳にして元の国に渡り、西天目山に登って中峰明本禅師の室を究め、中峰禅師より「寂室」の道号を授けられたのであります。ようやく帰国された37歳の寂室禅師は、中峰禅師に倣って都を遠ざけ、韜晦(とうかい)すること実に35年、主として故郷に近い中国地方の茅庵や、摂津、近江、美濃、甲斐などの山谷を行脚されたのであります。禅師の禅心を示す多くの詩の中でも、特に小衲が平素より心に刻んでいるものがあります。
   山居
不求名利不憂貧 隠処山深遠俗塵 歳晩天寒誰是友 梅花帯月一枝新
名利を求めず 貧を憂えず 隠るる処山深うして 俗塵を遠ざく 歳晩れ天寒うして 誰か是れ友 梅花月を帯びて 一枝新たなり
   金蔵山の壁に書す 
風撹飛泉送冷声 前峰月上竹窓明 老來殊覚山中好 死在巌根骨也清
風 飛泉を撹いて 冷声を送る 前峰に月上って 竹窓明らかなり 老來殊に覚ゆ 山中の好きことを 死して巌根に在らば 骨也た清し
71歳にして近江の桑実寺(現在の近江八幡市安土町)に逗留中、土地の守護職佐々木氏頼と出会い、氏の篤い帰依を受けて、72歳の時、近江の雷渓(現在の東近江市永源寺)の地に一茅舎を造り、これを晩年の地と定められたのであります。これが今日の大本山永源寺の基いとなったのであります。もっとも禅師が永源寺に留まられた後もなお、一処定住を嫌われたことは、弟子に対する『遺誡』において、次のように述べられていることに、よく示されていると思います。意訳しておきます。私がこの世を去った後は、林下に韜晦して一生を終えよ。これは釈尊最後の慈訓である。命果てたならば、私の遺骸は他の人に見せず、すぐに埋葬せよ。土をかけ、その上に石を載せ、楞厳呪一巻を読めばよい。寄進された熊原の地は、佐々木氏頼公に返還し、住んでいる茅庵は、高野村の父老に与えて、各自散じ去れ。もし父老たちが固辞したときは、老成の僧を庵主に迎え、安禅弁道の処とするもよい。この他に言うことはない。寂室禅師は多くの偈頌をもって、悟りの境地を示されており、われわれ寂室派下は、禅師の示されたこれらの詩によって自己を顧みる鑑としております。因みに禅師入寂の10年後に編まれた『寂室和尚語録』には、晋山法語のような公式的なものは一切含まれず、もっぱら詩文の形で述べられた偈頌や仏祖賛、あるいは散文の法語のみであります。このような開山禅師のご遺誡にも関わらず、今日、永源寺は大本山として130の末寺があり、一派を挙げて禅師の遺徳を讃えるとともに、堂宇伽藍の維持に努めてまいりました。このたび禅師の寂後650年に当たり、大遠諱を厳修することが、果たして禅師の心に沿うものかどうか、内心忸怩たるものがありますが、この大遠諱を契機として一派の僧俗が、こぞって禅師の韜晦の精神を思い起こす機会となれば、われわれにとって50年に一度の好き機会になると思います。因みに、開山寂室禅師に対する報恩の大遠諱は、11月1日から7日まで、執り行うことになっております。願わくば開山禅師、定中昭鑑あらんことを。
 

 

■清らかな心のままに
秋の深まりを感じる季節になりました。澄んだ青空は心地良いものです。私事ですが、今年の夏、4月に発生した熊本地震で被害の大きかった益城町へ地元の青壮年メンバーと一緒に炊き出しボランティアに行きました。メンバーの一人から「妙心寺派の檀家として被災地へ炊き出しに行くのだから、片付けや修繕の手伝いも兼ねて投宿させてもらえる御寺院様はないでしょうか」と相談を受けたのがきっかけでした。現地に詳しい和尚様にも相談しながら調整した結果、熊本市内の被災された御寺院様が投宿を受けて下さいました。投宿させていただいた御寺院様は庫裏や墓地を中心に被害を受けられ、当分の間、片付けや修理に追われていたそうです。一段落されていたものの大変な状況の中、ボランティア一行を受け入れて下さったことに感謝せざるを得ませんでした。本堂で就寝、早朝三時に起床し荘厳な雰囲気の中での読経を勤める体験はメンバーの多くが初めてであり、感激で身心が引き締まり、炊き出しに向かう気持ちはより一層高まった気がしました。炊き出しメニューは、朝食に出雲の宍道湖特産のシジミ汁、昼食は焼きそばと餃子など。大量に調理して振舞うため、巨大な鉄鍋や釜戸、鉄板など数多くの道具や物資を中型バスとクレーンの付いたユニックトラック2台に積み込んでの大移動。避難所には、未だ250名ほどの方々が避難されていましたが、早朝からの物々しい訪問に驚かれたようでした。私は、果たして短時間に準備、調理をして振舞えるのだろうかと心配したのですが、中越、東日本大震災で炊き出しを含めたボランティアを体験されていたメンバーの手際の良さは圧倒されるほど見事で、瞬く間に準備を整え、調理、配膳が完了しました。朝食と昼食の炊き出しが終わると、今度は片付け、清掃を徹底し、素早く撤収する潔い姿は、禅僧のあるべき姿に通じるものがありました。妙心寺開山、関山慧玄禅師の生きざまは「没蹤跡(もっしょうせき)」と讃えられています。今、自分がやるべきことを淡々と行じてゆく。地位や名声、功績にこだわらない、執着しない生きざまを示した言葉です。今回のボランティア活動を通じて、困った人がいればこだわりなく手を差し伸べ、自他の区別はなくおかげさま、お互い様の心で一つに重なり合ってゆく。欠けることのない円満な心の働きの尊さを改めて学んだ気がしました。同時に、たとえ現地へ行けなくても他人事ではなく、自らの命に感謝し、その清らかな心のままに相手を思いやるならば、雲一つない秋空のようにいつしか社会を調え、被災地を支える広がりになってゆくことでしょう。

■菩薩泉の水
私たちは日常の在り方を振り返ってみる時に、いろいろなものにとらわれ左右され、振り回される事により自分というものを見失い、道に迷っているのが現実の姿ではないかと思います。よく考えて見ると世の中は思い通りにならない事が多いのです。「心静かに生きていることができない根本の理由は、執着心を持ち続けている事である」とお釈迦様は説かれています。執着とは、かたよる事、こだわる事、とらわれる事であり一番可愛い自分の為になるものにはしがみつき、反対に都合の悪いものは遠ざけて、それ自体が正に悩み苦しむという事なのです。
掃けば散り 払えばまたも 塵積る 庭の落葉も 人のこころも  (道歌)
執着・妄想という塵や垢は、放っておくと際限なく心に降り積もり、本来の心を曇らせてしまうのです。"塵も積もれば山となる"という諺の通り、わずかな塵のような汚れもどんどん積もればいつの間にか大山となり、どうしようもなくなるのです。だから、常に心が汚れない様に、その塵を掃除しなくてはならないのです。10年程前に、墓地の共同清掃を始めました。時期はお盆の前、7月下旬の土曜日に実施しています。場所が裏山の中腹にあるため、周辺には春から夏にかけて草や竹や雑木が、それはよく茂ります。事前に刈払機を駆使して草刈りをし、道も含め、当日そのゴミを参加者の方に収集清掃をして頂いております。幸い熱中症にかかる方もなく、約1時間半くらいで作業は終了です。きれいになった墓地の上を、清風がサッと吹き過ぎたような気がしました。皆な大汗をかかれているので、早速、下の観音堂横の井戸で顔や手を洗ってもらいます。この井戸は年間通して水温が約18度で、冬は温かく夏は冷たいのでとても心地よく、またお墓参りの水にも使われています。そして、当山十境の第七「菩薩泉(ぼさつせん)」という名称が伝えられています。
水の滴(しずく) したたりて 水瓶(みずがめ)をみたすがごとく 心ある人は ついに善をみたすなり  (『法句経』)
六波羅密(ろっぱらみつ・菩薩の六つの修行徳目)第四の「精進(しょうじん)」は、善を行ない、悪を行なわないという事です。善い行ないは心を清め、悪い行ないは怠ける心となります。わがままな心、怠け心を起こす事なく善い事を行なうよう「精進」(精一杯進む)していきたいと思います。そして作務の後はこの井戸水を頂き、顔や手を洗わせてもらいたいと思うのであります。

■寂室禅師のこころ 「鉄牛を鋳る なんでそうなるのっ!」
「宗教」とは何か? この問いかけを一番よく理解してくれるのは、子どもたちです。たとえ一人ぼっちになっても、お父さんお母さんが傍にいなくても、良い子にして居れる事が「宗教」であるからです。両親よりも理屈で勝り、ひとり自分の殻に閉じこもり、人様が見ていようが見ていまいが、お構いなしの大人が増えているこの現代。「宗教」への理解を私たちは日々見つめていく必要があります。たった一人になっても、良い子にしていられるかどうか。大人は「良い子」の定義から注文をつけます。学識経験は、子どもに比べるまでもなく身につけているというのにです。先日、車でコンビニの駐車場に入った際、そこに真新しい高級外車が停まっているのが目に入りました。すると運転席側のドアが開いて、足元の地面に飲み終えた空き缶が捨て置かれました。拍子が合ったのか、またタイミングよくその方と目が合ってしまいました。分別ありそうな中年の男性でした。目が合った瞬間の男性の一瞬歪んだ表情が、何ともいえませんでした。車はすぐに走り去りましたが、入れ違いに駐車した私は降りて、空き缶を片づけようと手にすると、それはビール缶でした。永源寺開山寂室元光禅師は、南北朝という動乱の中、人心惑わす世情を見極め、次の世代に純然なる禅を伝えるため、都市部を離れ深山幽谷の地を好んで道場を開かれました。本年は禅師の650年の遠諱が厳修されます。周囲が騒ごうが騒ぐまいが、自己をしっかりと保つ。禅師の伝道に尽くされた御生涯に、今日も尚、多くの人々が敬慕の念を抱かれております。禅師の御言葉に、
錯(あやま)って黄金を把(と)って鉄牛を鋳(い)る
現代語訳「とんでもないことだ。黄金で鉄牛を鋳てしまった。」
(暦応辛巳七月六日暁 偶夢将死写偈 覚而記之云)
という語があります。禅師が52歳の頃、御自身が死ぬ臨終の夢を見た後に記された偈頌の一節であります。瞑目したと思ったら夢であった。夢と現実、迷悟一如に己と向き合う姿を説いておられます。禅師の崇高なる境涯を未熟者がうかがい知るべくもございませんが、表面的な意味においても、示唆に富んだお言葉であります。私達は生まれながらに、黄金と全く変わらない価値を持つ心の宝を具えています。しかし、とんでもないことに、いつの間にかそれが毒になり凶器になったりもする。私なりの表現をお許し頂けるなら、「なんでそうなるのっ!」であります。先述した綺麗な高級外車の運転手。せっかく大金叩いて求めたものを、飲酒して乗ればそれは恐ろしい鉄の凶器です。禅師のように道心堅固な鉄牛を鋳れば永遠の尊崇を得られますが、鉄の凶器を走らせればどうなるのか論ずるまでもないことです。私はコンビニの入り口近くにあるゴミ入れへ、やるせない思いで空き缶を手にしながら近づくと、ゴミ袋の交換に出てきた女性の店員さんと目が合いました。ふたりの間に言うに言われぬ空気が流れました。店員さんの視線に、鉄牛ならぬ鈍牛の如く耐えながら、私はビールの缶をゴミ入れの穴へ落としたのです。「なんでそうなるのっ!」

■「食い物の恨み」 と 「下化衆生」
「食い物の恨みは怖い」と言いますが、実際に修行時代の思い出には食べ物に関わる事柄が少なくありません。夏の炎天下、汗だくで作業をしている日の斎座(昼食)に、よく冷えた茄子汁を出していただいて生き返るような心地だったこと。逆に、雪の日に托鉢に出て、手も足も凍りつくような状態で道場に帰り着き、やっと寒さに震える体を温めてくれる食事をいただける、と思ったはずが味噌汁もご飯も冷え切っていた、あの時の、これ以上ないがっかりした気分と腹立たしさ。とある道場である日、斎座が大変まずかったそうで知客さん(修行僧の行動を管理する高位の役寮)が「こんなまずいもの出したらいかんじゃないか」と典座(食事係)を叱ったところ、「私たちは修行しているのですから、美味いとか不味いとか不平不満を言ってはいけないんじゃないですか?」と言い返されたそうです。するとそこに老師さまが来られて「おいおい! 道場での楽しみなんて、食べること以外には何もないのだから、心づくし美味いものを作ってやらんといかんのだ!」と一喝されたということです。「上求菩提、下化衆生」――簡単に言えば、自らは悟りを目指してひたすら修行しながら、同時に自分以外の人はひたすら救っていこう、ということでこれは大乗仏教のモットーと言っていいと思います。私達の「禅」は一般的には専一に坐禅をして自己を見つめ、いつか大悟徹底するのが目的だ、という「上求菩提」の方が前面に来るイメージですが、修行が進めば進むほど、やはり「下化衆生」が大切なんだな、とわかってきます。坐禅のしかたについて丁寧に述べられている『坐禅儀』にも冒頭に「それ学般若の菩薩は、まずまさに大悲心を起こし、弘誓願を発し」と書かれています。すなわち仏の叡智に近づこうとする修行者はまず一切の衆生を救ってゆくぞ、という誓願が必要だということです。坐禅をするのも人のため、決して独りよがりの悟りを目指すものではないし、逆に修行なのだから自分も他人もきついのが当たり前、ではないのです。先日、久留米の梅林寺僧堂で羅山老師百五十年、三生軒老師百年遠諱の報恩大摂心がありました。全国から50名ほどの雲水さんたちが集まり4日間の坐禅三昧です。梅林寺出身の古参OBの和尚さんたちも裏方でしっかり汗をかきました。3日目の薬石(夕食)の時、たっぷり作ったはずの食事が一番座であっという間になくなり、持ち回りで一番座のお給仕をする参加者の雲水さん数名と裏方の和尚さんたちが一緒に食べる二番座の食事が少し足らないだろう、という事態になりました。その時、ご意見番の最古参OB和尚が一声「お給仕の雲水さんたちが食べる分には十分あるから、二番座は雲水さんだけで食べてもらえ。わしら裏方の和尚はお昼の残飯を雑炊にして食べるぞ〜」。ああ、これだよな、と私は自分の空腹も忘れて清々しい気持ちでした。「自未得度先度他」、自分が得るより先に他人を度す。この菩薩の心こそしっかり坐禅修行をした者の証だと思いました。私がその古参和尚に「いやあ、大乗仏教って本当にいいですよね! 改めてそう思いました」と言うと、和尚は「ハァ?」と首をかしげました。これですよこれ!どこまで修行しても釈尊にはほど遠い私たち、ならばこそ「下化衆生」に大きな意味が見えてきます。自分のしたことで人の笑顔が見られた時の喜びを大切にできれば、すでに「上求菩提」にも通じているのではないか、と私は思うのです。

■伝えると伝わる
「天高く馬肥ゆる秋」となりました。さて、皆様この言葉の意味はご存じでしょうか?空は澄み切り天高く、実りの秋・収穫の秋で馬も十分に肥え、秋は良き季節ですね。ではないのです。本当の意味は、漢書の「秋至れば馬肥え、弓が勁(つよ)く、即ち塞(さい)に入る」が語源の故事で「中国では、馬が肥える頃(秋)になると、北の遊牧民が作物を狙って争いが起こる時期になるので、国民は戒めて防戦の準備をせよ」という警告だったのです。時候の挨拶に使われる言葉として、広く知れ渡っておりますが、言葉に込められた意味を正しく理解しておられた方はどれ程おられるでしょうか?このように私達は、言葉を伝え聞いた時に、相手が伝えたかった内容・意味をそのままに聞く事は大変難しい事なのであります。ある幼稚園での事です。今まで長かった髪の毛をバッサリと切り落とした女の子、その子が通園し友達と遊んでいる所へやって来た男の子、「Aちゃんの頭おかしい」と。それを聞いたAちゃんは泣いて先生の所へ。男の子は今まで長かった髪の毛に見慣れていたので、短くなったAちゃんの髪型を見て、「Aちゃんの髪型おかしい」と言う意味で「頭おかしい」と言ったのですが、Aちゃんは「頭脳がおかしい」と受け取ったので、泣いて先生の所に行ったのでした。これは決して幼い子供の「言葉足らず」が原因で起こった話ではありません。伝える側の経験・認識、受け取る側の経験・認識が違う故に起こる事でありますので、老若男女問わず、他人に何かを伝えようとしても、自分の思いがそのまま伝わる事は非常に難しいことなのであります。「如来一音演説法衆生随類各得解」 お釈迦様の説法は「手を打てばハイと答える。鳥逃げる。鯉は寄ってくる猿沢の池」と言われるように、音(法)を聞いたモノは其々に理解し納得できたのです。しかし、気を付けないと、有名な先生の講演会でのお話でも誰しもAちゃんみたいに自分なりの解釈をしてしまいます。ですから、私たちは、他人に伝えたい事は、よほど注意し、解り易く伝えませんと「寄っておいで」と伝えたはずが「逃げてしまう」かもしれませんよ。皆様ご用心、ご用心。

■十夜ヶ橋(とよがはし)
大洲市は今も古い町並みが残っている城下町です。今から約1100年前、弘法大師は衆生済度のため四国の各地を行脚されましたが、この大洲の町外れにも弘法大師ゆかりの番外札所十夜ヶ橋大師堂が祀られています。これは私が小学校の頃の話です。遠足でその十夜ヶ橋を訪れたことがあり、そこで担任の先生が十夜ヶ橋の説明をしてくれたのですが、おおむねこのような内容でした。弘法大師が大洲を訪れた際、途中で日が暮れたので、その辺の民家を一軒一軒廻って一夜の宿を乞われたのだが、お大師さまを泊めてくれる家が一軒もなかった。そこで仕方なく大寒の日にもかかわらず橋の下で野宿をしたところ、その晩は寒さとひもじさのためにまんじりともできなかった。一夜とはいえ夜明けまでが十夜の長さに感じられたということからこの橋を「十夜ヶ橋」と名付けられた。そのことから他所の人に、お大師さまほどの偉い人を泊めなかった大洲の人たちは薄情だとからかわれることがあるが、先生も知らない人を家に泊めると怖いから泊めないなぁ、と。また、この橋の下には弘法大師が横たわって休んでいる野宿像が祀られているのですが、そこで先生は、この橋の上を通る時には、睡眠不足のために疲れて眠っているお大師さんを起こさないよう靴を脱いで裸足で歩き、杖はついてはいけない。そうしないとお大師さまの罰が当たると、先生は子ども達を退屈させないようジョークを交えながら面白おかしく話されたので、子どもたちもゲラゲラ笑って聞いていました。実を言うと私は大人になるまでその話を信じていたのですが、ある時、大学の友人が県外からはるばる訪ねてくれて、どこかへ案内してくれと言うので、十夜ヶ橋へ連れて行ってやりました。私も十夜ヶ橋を訪れるのは小学校以来のことであり実に10年ぶりです。友人と橋のたもとを歩いていると、ふと橋のたもとの句碑に目がゆきました。そこに刻まれていたのは、この橋の下で弘法大師が詠まれた歌であると知りました。
ゆきなやむ 浮き世の人を 渡さずば 一夜も十夜の 橋と思ほゆ
その時私は、初めて弘法大師の真意を知ることができました。実はお大師さんは寒さや空腹のために眠れなかったわけではなかったのです。旅の出家に一晩の宿を貸すことも惜しむ人達の心はどんなにか貧しかろう。この村人の心を明るく温かくできる方法はないものだろうか。いかにすれば皆が助けあい、与えあっていけるような生き方を伝えて、仏心の素晴らしさを分かってもらえるだろうか。もしこの冷たい村人達を救わずして、この場所を立ち去るならば、これほど申し訳ないことはないと一晩中思案していたら、一夜がまるで十夜ほどの長さに感じられたという、お大師さまの情け深い御心を表わすお歌だったのです。このことに私は大学生ながら感動しました。それと同時に、橋の上ではどうして履き物を脱いで、杖をついてはいけないという本当の理由も理解することができたのでした。

■臨済禅師のこころ 「松を栽えれば」
平成28年は臨済宗の宗祖、臨済禅師の1150年遠諱にあたります。そこで臨済禅師のエピソードをご紹介したいと思います。ある時、臨済禅師が境内に松の木を植えていると、師匠の黄檗禅師が来て言いました。「こんな山奥に松を植えて、どうするつもりか」。臨済禅師は、「第一には寺の境内の景観をよくするため。第二には後の修行者がこの松を見て、松を植えた私の心を感じて、自分の生き方の糧としてくれたら」。と返答して、鍬で土を三度掘り起こしました。そこで黄檗禅師は追い打ちをかけます。「なるほど、そういうことか。だが境内に松など植えたところで、それがどうだというのだ」。しかし、臨済禅師の態度は変らず、また鍬を三度振り下ろすと大きく息を吐きました。黄檗禅師は、鍬をとって黙々と仕事に励む臨済禅師の姿を見て、「我が宗門は、おまえの代で大いに興隆するだろう」。と言い残されたそうです。このエピソードから1000年以上の時を超えて、平成28年春彼岸に出雲大社の参道に一本の松が植えられました。この松は東日本大震災復興のシンボルとなった陸前高田市の「奇跡の一本松」から接ぎ木をして、大切に育てられた2本の苗木のうちの1本です。震災前、およそ350年にわたって植林されてきた7万本の松原のうち、津波に耐えて生き残った「奇跡の一本松」。震災後に、この松を守ろうと地元の人々が立ち上がり延命作業を続けるうちに一本松の枝を拾って接ぎ木していたのです。残念ながら一本松自体は枯死してしまいましたが、その命は小さな苗木によって受け継がれました。出雲大社に奉納された苗木には、『アンパンマン』の生みの親として知られる故やなせたかし氏によって「ケナゲ」と名付けられました。「ケナゲ」は漢字にすると「健気」と書きます。健気とは、女性や子供などの弱い者が困難なことに立ち向かっていく様子や、その心掛けが立派であることを表わしています。臨済禅師の松の木も、出雲大社の松の木もそこに込められたメッセージは誰に向けて発信されたものでしょうか。それは「今、ここ」に生きる私たちに対してのメッセージだと私は思います。私たちは「ケナゲ」な存在であることを自覚してこそ、大切なものが見えてくるのです。近年、お葬式やお墓を無用とする風潮が一部でもてはやされているようですが、本当に大切なものは目で見ることはできません。でも「目から消えてしまったものは心からも消えてしまうのではないか」と臨済禅師の遠諱を機に想うところであります。

■年末の反省文
今年も残すところあと僅か。思い返されるのは失敗ばかりです。色々な失敗がありました。思わぬことで人を怒らせてしまったこと。忘れ物は数知れず。この原稿も勘違いから締切りを過ぎてしまいました。挙げればきりがありません。坐禅をしていて何たることか、と歎きたくなる時もあります(人格を高めるために坐禅をしているわけではありませんが)。しかしながら、近年そんな私を励ましてくれる言葉が世間には溢れています。「あなたは、あなたのままで、そのままで良い」「ありのままの自分でいよう」数年前には、歌詞もそのまま「ありの〜ままの〜♪」という歌が巷に流れておりました。「こんな失敗ばかりの私でも肯定してくれる」と確かに勇気づけられます。臨済禅師をはじめ、禅の祖師たちの言葉は、修行者に向けてのものですが、日々の生活にも応用ができます。臨済禅師も、「自分で自分を信じ切れない自信不及(じしんふきゅう)から、悟りへ至らないのだ」と仰いました。ありのままの自分を信じ切れないからこそ、迷うのだと受けとることも可能でしょう。でも、「こんなに失敗ばかりの自分が、そのままで良いと言われても、変わらなくてよいのだろうか」と少し引っかかります。同じ「そのまま、ありのまま」であっても、「ありのままの自分を認めて」そこから前に進むことと、努力で変わることができるのに、「何もしないありのまま、自分を認めてもらおう」というただのワガママとは、大きな違いがあるでしょう。毎年この季節になると檀家様から大根をいただくことがあります。無農薬で丹精込めて作られた大根は、とてもおいしいです。しかし、「そのまま、ありのまま」一本丸々、生で食べることはありません。ふろふき大根、みそ汁の具、漬け物、大根の天ぷら......、「調理」という努力をして、より一層おいしい大根としていただきます。人間と大根は違いますが、努力は必要です。禅の教えでは、「努力しなくてよい」とは言いません。ありのままの自己を肯定する臨済禅師も、「かあさんが生んでくれたときから分かっていたのではない、身体をもって心を究明してある日、悟ったのである〔娘生下(じょうしょうげ)にして便(すなわ)ち会(え)するに不是(あらず)、還是(かえ)って体究練磨して一朝に、自ら省(さと)れり〕」と仰います。ありのままの自分を認めながらも、そこから何が出来るのか。今日より明日、今より一秒後、失敗ばかりの私ですが、来年からと言わず、今この時から謙虚に努力してまいります。どうぞ皆さまもご油断なきよう。

■白隠禅師のこころ 「四番目の猿」
平成28年は申(さる)年でしたが、猿といえば白隠禅師の著作『八重葎(やえむぐら)』巻之二にある和歌が思い出されます。
見ざる聞かざる云(い)わざる猿の三つよりもかまわざるこそまざる猿なり
この和歌は慈恵大師の「七猿歌」から引用されたものと思われますが、禅の教えがわかりやすく説かれた和歌といえるでしょう。「見ざる」「聞かざる」「云わざる」といえば「自分に都合の悪いこと、相手の欠点や過ちを、見ない、聞かない、言わない」という意味だといわれています。私たちは普段から、自分に都合の悪いことからは目を背け、相手の欠点や過ちはどうしても目についてしまいます。でも、それではいけないというのです。この三匹の猿だけでもありがたい教えですが、白隠禅師はさらに四番目の「かまわざる」こそ優れた教えであると紹介しています。「かまわざる」とは「とらわれない」ということです。「とらわれない」とは、自分勝手な考えや行動を慎み、他人に対しては寛大であることではないでしょうか。徳川家康が岡崎城にいたころのお話です。岡崎城では朝廷からの勅使や他国の要人をもてなすために、食材として鯉を飼っていました。ある時、鈴木久三郎という侍が、「家康公からお許しが出た」と言って、大切な鯉や織田信長から拝領した上等なお酒を勝手に持ち出して皆に振る舞ってしまいました。当然、家康は烈火の如く怒り、自ら長刀を手に久三郎を呼びつけます。すると久三郎は抵抗することもなく、家康をにらみつけると「魚や鳥を人間に替えてもよいのですか。そんなお心では天下をお取りになることもかなわないでしょう。私を成敗されたいのならばどうぞ」と凄みました。これには家康も心を打たれてしまいます。冷静になって考えてみると、最近自分の狩り場で鳥や魚を捕った足軽たちを牢屋に入れてあったのを思い出したのです。目先の小事にとらわれてばかりでは大切なことを見落としてしまいます。何が自分にとって一番大切なことなのか。「とらわれざる」という四番目の猿の視点から自分自身を見つめ直すように、白隠禅師はこの和歌を紹介されたのでしょう。最近の世相を見ていると実に身勝手な人たちによる悲惨な事件や事故が後を絶ちません。四番目の猿の教えは、白隠禅師の250年遠諱を迎えた今日でも必要とされているのではないでしょうか。

■お正月
松は千年の翠 竹は上下の節 梅は清い香り
桜満開の春。はたまた紅葉が美しい秋。京都の街の色彩は変化に富んでなおかつ美しい。その中で、大本山妙心寺の境内は異彩を放っているといってもいいでしょう。すなわち緑、翠、ミドリ。そう感心するほどに松の"みどり"しかありません。その四季変わらぬ凛とした美しさに、いつも惚れ惚れとしています。さて宗祖臨済禅師に、次のような逸話が『臨済録』に見られます。禅師が修行の地である黄檗山に松を栽えていますと、師匠の黄檗禅師が「こんな山奥にそんな松を栽えてどうするつもりか」と問いました。すると禅師は「一つにはお寺の境内に風致を添えたいと思い、もう一つには後世の人ために修行の標榜にしたいのです」と。黄檗山に、そして妙心寺に天高くそびえる松は、「禅の教えがここにあるぞ!」という清々しいまでの宣誓と、やさしい導きを感じます。時代や場所を超えて、常に"みどり"を保っている松の放つ輝きは、言うなれば「禅」の輝きともいえるでしょう。そしてもう一点。臨済禅師の松を栽えた行ないに、自分の為という思いは微塵もないということ。禅者は常に他の為に行ずるということを忘れてはなりません。では表題の言葉を、それぞれ禅語に置き換えて述べてみましょう。まずは「松樹千年翠」。正月の床の間を飾ることの多い禅語です。いつまでも変わらぬ松の"みどり"に託して、長寿や多幸を自らのみではなく他の為にも祈りましょう。次に「竹有上下節」。竹には節があります。あの節があるゆえに竹はしなやかで折れない強さを持っているのです。節とはまさしく仏の教えです。しなやかで折れない自分づくりには欠かせない仏の教え。生活に節操を持たせる一年に致しましょう。最後に「一点梅花蘂 三千世界香」。私たちにはもともと清き香り(仏心)が具わっています。しかし磨きださなければ清き香りも埋もれたまま。香ってはきません。日々の暮らしを調えて香らせましょう。松、竹、梅、三点セットで良き年に。 
 

 

■偉大なる自分
私たちは、自分自身の真実の姿にほとんど気がついていません。たとえば、たった今、自分が呼吸をしているのは、自分が頑張ってそうしているからなのでしょうか。心臓が動いているのは、自分が動かそうと思ったからでしょうか。そんなことはないはずです。ただ、心臓は、黙々と自分の役割を果たしてくれています。何故なのでしょうか。自分の考えや思いを超えたところの自分が、そうさせているのです。自分には、自分が普段思っている自分を遥かに超えた自分があります。自分が思っているより、それは遥かに崇高で偉大な自分です。けれども私たちは、自分のことをあまりにもちっぽけで、取るに足らないどうでもいい存在だと思っていたりするのです。私たちは自分の本当の偉大さというものを忘れてしまっています。自分の偉大さとは、いったい何だったのでしょうか。偉大さとは、「永遠で、不滅なるいのち」です。それは、お釈迦様が教えてくださった「いのちの真実」です。生まれて、老いてゆき、やがて病となり、死に至る。そう思い込んでいた私たちの「いのち」が、生きる、死ぬなどと分けることなどできない、完全で何の制限もない「偉大なるいのち」だということ。大宇宙と同じ「いのち」を自分が生きているということ。だから、自分が偉大でなかった瞬間は、片時もありません。自分がどんなに大きな失態を犯した時も。自分がどんなに意地悪な行ないをしてしまった時も。自分がどんなに深い悲しみのどん底に落ち込んだ時も。自分はつねに偉大であり続けていました。「偉大ないのち」がこの自分を通して、人生を経験しています。どんな経験にも、そこには必ず何かしらの意味があります。目的もあるはずです。「偉大な自分」が、何かを知るために、何かを習得するために、この人生を経験しているのです。私たちは誰しも、できれば困難な人生ではなく、平穏な毎日を望んでいることでしょう。出来るだけ何事もないようにと、そう思ってはいないでしょうか。でも、そう思うのは、実は私たちが自分の偉大さから遠く離れてしまっているからです。何事もない人生を、「偉大ないのち」が望むでしょうか。「偉大な自分」は、何をしにこの世界にやって来たのでしょうか。退屈しにやって来たのでしょうか。そんなはずはない。私たちは「偉大ないのち」としての自分が、自分自身の偉大さを発揮したいからこそ、今、ここに生きているのです。それなのに、私たちが自分の可能性に飛び込み、挑戦し、経験しないのなら、たとえ自分がつねに偉大であったとしても、その偉大さを発揮することはないでしょう。今、自分はどんな人生を選んでいるでしょうか。自分の「偉大ないのち」の望みを本当に理解して生きているだろうか。自分の偉大さを引き受けるという、その決断が出来ているだろうか。本当の自分は「どこまでも偉大な自分」なのです。だから、力がある。勇気がある。優しさがある。何もかも、すべて持っている。さあ、あとはそれを使うだけです。「偉大なる自分」としての今を、精一杯に生きていきましょう。

■白隠禅師のこころ 「耳で見る 目で聞く」
幼いころ、嫌いなものが食卓に並び、食べずに残していると、「残さず食べなさい」と叱られて、仕方なく口に運びました。如何に味わわずに飲み込むか。子供ながらに工夫した結果、渋い顔をして鼻をつまみながら食べていたものです。そうすると、わずかながら味がわからなくなるから。以前、ある料理人の方と話を交わしていたときに、教えられたことがありました。私たちが物を食べて美味しい、美味しくないと感じる。その味覚は舌で味わっていると考えがちです。しかし、鼻をつまむと味が少しわからなくなるのは先の通り。同様に両目を塞いでも、また両耳を塞いでも、味が少しわからなくなる。実は、私たちが物を食べるとき、五感を全て使って全身で味わっているのだと。とても示唆に富んだお話でした。北大路魯山人は「数の子は音を食うもの」だとして、音や食感の大切さに言及しています。「口中に魚卵の弾丸のように炸裂する交響楽によって、数の子の真味を発揮しているのである」(『魯山人味道』)とは、現代の食レポも真っ青の表現です。なるほど考えてみれば、「味」というよりは、音や香り、食感があって初めて美味しいと思う料理はたくさんあることに改めて気付かされます。目で味わう、耳で味わう、鼻で味わう、肌で味わう世界もあるということです。白隠禅師の『草取唄』の中にこんな一節があります。
耳で見分けて、目で聞かしやれよ、夫(そ)れで聖(ひじり)の身なるぞや
耳で見る・目で聞くとは、一見理解できない表現です。それは私たちが、目で物を見る、耳で音を聞く、鼻で香りを嗅ぐ、舌で味を味わう、肌に触れて感じる、と考えているから。しかし本来、五感というものは、それぞれ独立した単純な世界ではないのです。禅には「聴雪」という言葉があります。くしくも、魯山人の絶筆の書も「聴雪」だと云われています。雪を聴くとは、どういうことなのか。耳で聞く雪の音は、あまり感じられないかもしれません。しかし、静かな自然の中に佇んで雪降る景色を眺めるとき、目や耳、鼻や肌を通して全身で自然を感じているはずなのです。日本語には数えきれないほどのオノマトペ(擬音)があります。音のない雪も、「しんしんと降る」などと表現してきました。そんな古(いにしえ)からの日本人の感性に、「耳で見る、目で聞く」ことのヒントがあるように思います。そう考えていくと、例えば芭蕉の「蛙飛びこむ水の音」だって、白隠禅師の「隻手(せきしゅ)の音声(おんじょう)」だって、単なる耳で聞く音ではないのでしょう。そんな心に触れるためには、どうしたらいいのか。まずは、物を見よう、音を聞こう、香りを嗅ごうとするのではなく、心を静かにしていくこと。そして、静寂の中で自ずから見えてくる、聞こえてくる、香ってくる世界を大切にしていきたいのです。そよぐ風や小鳥のさえずりといった何気ない自然に小さな気付きを得ることが、禅への大きな一歩になるのだと思います。

■初春の味
古来、小正月には小豆粥を食べる風習があり、妙心寺の塔頭でも毎年行われています。健康で長生きしたい、長生きしないまでも寝込んで家族に迷惑を掛けたくは無い、というのは誰もが願うところでありますが、現代のように医療が発達していなかった時代には、今以上にそうした願いが切実だったことでしょう。だからこそ一年の健康を願って食べる小豆粥など、かつては季節毎の伝統行事がありました。それらの根底に流れているのは家族の健康を願う祈りの心であり、大自然の恵みや神仏の加護など、様々な「おかげさま」への感謝の心ではなかったかと思います。ところが現代は科学技術が発達し、私達の暮らしも随分と豊かになりました。その一方で小豆粥に限らず、家族の健康や長寿を願う行事はだんだんと廃れてきた様な気も致します。しかし昨今の相次ぐ自然災害を鑑みますと、大自然の前では人間は非力です。今一度豊かさが当たり前の生活を見直す必要があるのではないでしょうか。さて小豆粥はよく初春の味と言われますが、初春の味とは一体どんな味でしょうか?そんなにハッキリした美味しさではないですね。例えば雪の下から芽を出したふきのとうとか、地味な味のイメージがあります。実は初春とは未だ春になっていない頃ですから冬なんです。厳寒の中で微かな春の兆しを感じる味、これが初春の味じゃないかと思います。ということは、初春の味は冬の寒さや厳しさを知らない人には味わうことが出来ない味です。年がら年中、春真っ盛りとか、或いは真夏のような陽気で過ごしている人には、初春の味を味わうことは出来ないのです。これは人生も同様だと思うのです。私達の人生にも春夏秋冬、移ろいというものがあります。これを仏教的に言えば「無常」と言いますが、中国唐代の詩人、劉希夷の詩の一節に、大変有名な「年々歳々花相似たり、歳々年々人同じからず」という句があります。春になれば花は同じ様に咲くけれども、去年居た人が今年はもう居ない、と言うことです。この「今という時間はもう二度と無いかけがえのないものである」という気づきが、人生を豊かに、味わい深いものにしてくれるのではないでしょうか。皆様もそれぞれに自分の人生を振り返ってみると、良い時もあれば悪い時もあり、様々なご苦労を重ねてこられたことと思います。ひょっとしたら今も悩みは尽きないのかも知れません。それでも今年もお正月を迎えることが出来ました。先ずはそのことの喜びを、是非味わって頂きたいのです。お正月にはあたり前のように、「明けましておめでとうございます」と挨拶しますけれども、何がめでたいのかと言えば、それはお互いに今年も無事にお正月を迎える事が出来たことに他ならないのです。そしてそれはけっしてあたり前のことではありません。あれが無い、これが無いと嘆く前に、今あるささやかな幸せに感謝できる心。これが幸せに生きる秘訣です。是非小正月には小豆粥を召し上がって頂き、今年一年を元気に大切にお過ごし頂くことを念願致します。

■法句経
2月15日はお釈迦様が亡くなられた日、涅槃に入られた日で、全国のお寺で涅槃会が行なわれます。お釈迦様はご生涯で「8万4千の法門」と言われる沢山の教えを遺されていますが、直接お釈迦様が本当にお説きになったとわかるお経は案外少ないそうです。法句経は、その少ないお経の一つと言われていて、お釈迦様が身の回りにおられた人にお説きになった短いお言葉を伝えています。その中に、
おのれ 悪しきを作さば おのれ穢る おのれ 悪しきを作さざれば おのれ清し 穢れと清浄とは すなわちおのれにあり いかなる人も 他人をば清むる能わず  (法句経 第十二品「自己」)
と有ります。私たちは、何かしら思うようにいかない不満をいつも持っています。その不満を「自分は悪くない」、他の人のせいだと考えると、誰かを非難するようになります。皆がお互いを非難し、争い、傷つき、傷つけることに成ります。そんな世界を修羅の世界と言いますが、そこには苦痛と苦悩しかなく、解決の道は無いのです。お釈迦様は解決の道は自分自身にあると示されています。人を責めるのでなく、自身の中に原因を探して、改めていくことが唯一の解決の道だと示されています。「自業自得」と言うと、自分がした悪い行ないが自分に返ってくることと思われていますが、悪いことだけでなく良い行ないの結果が返ってくることも「自業自得」なのです。私たちは、良いことは自分の手柄と考え、悪いことは人のせいだと考えます。しかしそうでは有りません。良いことも悪いことも、全てが自分の行ないの結果だと気付けば、他人を責めなくて済みます。今の苦しい状態が自分の行ないの結果だと認めることはいやなことです。でも、それを他人のせいにしていても苦しみは無くなりません。むしろ、他人を責めるという新しい苦しみが増えるだけです。私事ですが、10年前に大きな事故に有って、今でも脚が痛くて困っています。この事故が相手のせいだったら脚の痛みだけでなく、相手を憎み心まで痛いでしょうが、たまたま自分の不注意が原因なので「自業自得」と納得するしか有りません。そう考えると痛いのは脚だけで、むしろ有難く思っています。身体の痛みは癒す方法がありますが、心の痛みは癒す方法がありません。「いかなる人も他人をば清むる能わず」と言われたように自分で癒すしかないのです。近頃は世界中で、不満を他人のせいにして、お互いを非難し合う風潮が見られます。しかし、それは本当の癒し、本当の幸せに結び付くのでしょうか。他人を責めるのでなく、もう一度自分を見つめ直してみようではありませんか。

■寂室禅師のこころ 「金蔵山の壁に書す」
寂室禅師の生き方を見ますと、そのルーツは元国で師事した中峰明本禅師にあるようです。中峰禅師こそ隠逸の禅人だったからです。中峰禅師に次のような逸話が残されています。中峰禅師がある所で庵を結ぶと、師の道風を慕って多くの学人が集まってきました。師はこれを拒みましたが、いよいよ多くの学人が集まってしまいます。そこで師は半夜ひそかに庵を出てしまいます。あまりの学人の多さに困って夜逃げをしたのです。これも一度や二度ではなく、三年も一ヶ所に留まることがなかったと言われています。中峰禅師のこのような生き方は、そのまま寂室禅師に引き継がれたのでしょう。中央政府の外護する官寺に住持することを嫌い、政治の中心地である京都や鎌倉から離れて山間に草庵を結び、そこに住む庶民と共に坐禅を修めた禅僧たちは当時「幻住派」と呼ばれていました。さて寂室禅師の「金蔵山の壁に書す」と題する詩を味わいましょう。
風 飛泉を攪(みだ)して 冷声を送る
前峰 月上って 竹窓明らかなり
老来 殊に覚ゆ 山中の好きことを
死して 巌根に在らば 骨また清し
〈現代語訳〉  滝に風が当たって冷たい音を響かせている 前の峰を見ると、月が昇っていて、竹林にあるわが庵の窓を照らしている 老いたこの身に、山中の生活は良いものだとこの頃つくづく思う 死んだとて、この山中に埋められるのなら、骨もまた清かろう
禅師の詩の中でもとりわけ有名なものです。この詩の直筆が残されているということもあるのでしょう。隠遁(いんとん)の心境を楽しんでいるように見える詩ですが、私は禅師の反骨を感じるのです。具体的に言いますと、
〈起句(一行目)〉 「今まさに世は下克上である。武家は権謀術数の限りを尽くして天下を取ろうと血眼になっている。そうした世に、僧たるものまでが出世を願って種々の画策を弄している。人間本来のすばらしい命のあることに気づかずに、いたずらに我が身を傷め攪(かきみだ)して、東奔西走している。何ということだ」
〈承句(二行目)〉 「とはいえ、月の光は誰れ彼れの隔てなく、等しく一切にそそがれている。見よこの窓辺を」
〈転句(三行目)〉 「若いときは本気になって厳しく世を批判したものだ。しかし、この頃ようやくその若気が抜けてきたようだ」
〈結句(四行目)〉 「どうか私が死んでも格別な葬儀などしてくれるな。いいか、王侯貴族などを呼んではならぬぞ。葬儀が済んだらさっさと山中に埋めてしまえ。そうでなければ我等の使命である修行が攪(かきみだ)されるぞ」
我が身が朽ちることを思うと、都から骨を分骨していただきたいと使者が来るやも知れぬ。そうなると残った弟子たちは巻き添えを食らうに違いない。わが児孫にそんなことをさせてはならぬ。往年の反骨精神がふと沸き起こった感慨が詩外にあふれているようです。

■涅槃会に想う
暦の上では立春といいつつも、まだまだ春は遠く、冷え込みの厳しい中、お寺では正月の後片づけを済ませた途端、涅槃会の準備に取り掛かります。この時季の2月15日、お釈迦さまは80歳で亡くなられました。それにちなんで、涅槃図を飾ります。全ての生き物を慈しんだお釈迦さまは、クシナガラの地で頭を北に向け死を迎えていく。弟子の阿難尊者を始め菩薩や信者、動物や虫たちが嘆き悲しむ姿、そして、悲しみのあまり沙羅双樹の木が2月というのに花を咲かせ、やがて枯れていく様子が描かれています。そして、それを見ようとたくさんの方々がお寺にお参りに来られるのです。 
座る余地まだ涅槃図の中にあり   平畑静塔
この絵を私たちは、第三者として観るのではなく、その絵の中に座って、共に悲しんで慈しみを感じている。絵の中の世界と一つになって共にお釈迦さま入滅を偲ぶと詩います。かれこれ20年近く前に、ある講習会で故松原哲明師にその当時の様子を話していただきました。「お釈迦さまは頭を北に向け、顔を西に向け何を見て亡くなったんだろうね。ほんとはどこに行きたかったのか。お釈迦さまが見ていた80キロ先には、母である摩耶夫人の生まれたラーマグラーマ村があったんだ。母の故郷に行きたかったんだ。日数にしてあと3日でした。あと3日、頑張れば最後の旅は完成されていました。でも行けなかった。お釈迦様もやはり私たちと一緒で人間だったんだなと思います」と。それを聞いた時、私は背筋が凍りつき言葉にならない感動を覚えました。日頃、お釈迦さまのことを本で読んだりしてある程度のことは理解していたのですが、心の中に人間的な思いは感じ取れなかったからです。そんな私に、故松原師は人間味のある姿を教えてくれた気がします。ですが、この母の故郷に行きたかったということは完全に証明されてはいません。「そんなことあるわけない。お悟りを開いて何十年も旅をし続けたお釈迦さまは、やはり最後の旅も、そんなおセンチ(感傷的)な思いはなかった。死ぬまで求道の旅を続けたのだ」と否定的な言葉で返した方もいました。私はどちらが正しいのかわかりません。でも、私は全ての物に慈しみを注いだお釈迦さまは最後の最後に母に慈しみを注いだと信じたいのです。以来、松原師とは、インド、中国、各地での研修に同行させて頂きました。その都度、「あなたたちは誰について行くんですか? 私はお坊さんだからお釈迦さまについて行くんです」と言われました。私たち僧侶はどうしても、葬儀や法事といった法務を中心に生活してしまいます。それはそれで構いません。ですが、お釈迦さまの思いや生き様を心の中に持ち続けながら法務を勤めていかなければならないな、といつもこの涅槃の時期に感じるのです。そんな思いで涅槃図を眺めていると、まだまだその絵の中には私も座る場所がありました。

■大安寺掲示伝道より
拙寺の掲示伝道には十数年来に渡り花園会のカレンダー「花園の心」等の墨跡を掲示するとともに、感想とも解釈とも言えそうな、なるべく読みやすい言葉による七五調四行詩での説明を添えております。
「寿山万丈高」(平成28年1月)
日々の勤めを 励みつつ 生きたる証(あかし)今此処に 聳ゆる如く 揺るぎなき 豊かな心 福禄寿
「君たち何してるんだい 云々(誘三猿図)」(平成28年2月)
見ざる聞かざる 言わざるは 我が浄らかさ 護る道 良き師と友に 誘(いざな)われ 歩み出(い)ずれば 幸(さち)多し
「春風吹又生」(平成28年3月)
風は梢に 吹きすさび 雪は野山を 覆えども 季節が廻り 移ろえば 力むことなく 芽は萌える
「幽鳥弄真如」(平成28年4月)
樹々のみどりや 鳥の声 それぞれにある 麗しさ 計らいの無い その中に 天地自然の 恩を知る
「能為万象主 逐四時不凋」(平成28年5月)
天地自然の ことわりと 人の為すべき 道歩み 報恩感謝の 暮らしなら 迷いわずらう 事は無い
「青山不動」(平成28年6月)
春夏秋冬 それぞれに 変わる眺めは 仮のもの 真の姿に 変わりなし 人の心も 斯くあらむ
「聴涛」(平成28年7月)
四季折々に 打ち寄せて 止むことの無き 涛(なみ)の音 ただひたすらに 聴くうちに いつかこころも 洗われる
「風吹南岸柳」(平成28年8月)
北風(ならい)東風(こち)南風(はえ) そして西風(にし) 違いは人の 呼び名にて 岸辺に繁る 草や木は ただゆらゆらと 揺れている
「風吹不動天辺月」(平成28年9月)
喜び怒り 哀しみも 楽しみ悩み 恨みさえ 所詮うわべに かかる雲 心の月は ゆらぎ無し
「閑中日月長」(平成28年10月)
喜怒哀楽に 急(せ)かされず 稔りの秋を 味わえば 時の流れも 夢の中(うち) 心は閑(しず)かに 充たされる
「紅葉舞碧空」(平成28年11月)
白雲浮かぶ 碧空(あおぞら)に 光を浴びて 紅葉(もみじば)が 風に舞い散る 輝きは ことばを超えし 鮮やかさ
「無尽蔵」(平成28年12月)
あれもこれもと 積みこんで ゆとりが無いと 思うなら 無理(むり)・無駄(むだ)・斑(むら)を 大掃除 捨てれば入る いくらでも

■知足 〜今あるものを生かしきる大切さ〜
人は誰しも自分が可愛いものです。しかし、これは人間だけに限りません。他の動物、植物すべて、自覚するか無自覚は別として、みな自分のために少しでも都合の良いことを求めます。これは善悪を超えた真実の営みなのでしょう。自分が生きるために、他の生物を食べることは避けられないことです。しかし、ライオンは、空腹のときは他の動物を捕獲して食べるが、いったん満腹になればもう他の動物を捕獲しようとはしないそうです。実際ライオンのそばで、小動物が草を食べているシーンを見ることがあります。ところが人間はそうはいきません。あってもあってもまだ欲しいという心を起こします。私たちの持つ欲望は果てしないものです。そして、求めたものが得られずに苦しみ、求めたものが得られれば、また別のものが欲しくなりそこでまた苦しむことになります。漂泊の俳人として知られた種田山頭火(1882〜1940)には、多くの逸話があります。山頭火と無二の親友である大山澄太さん(1899〜1994)が、はじめて山口県小郡に、山頭火の住む其中庵(ごちゅうあん)を訪ねたときのことです。山頭火の生活ぶりについて、かねてからその貧しさを聞いていた大山さんもびっくりします。山頭火は、ゆがんだたった一個の鍋で米をとぎ、そのとぎ汁で茶わんを洗い、雑巾をかけ、最後にその水を、裏の狭い畑のわずかな野菜にかけてやるのです。二人が食べる米をとぐ鍋も、掃除用のバケツも同じモノです。彼の句に「一つあれば事足りる鍋の米をとぐ」があります。大山さんによると、山頭火はこの句のように、ときにはバケツの代わりに、一つ鍋で米をとぎ、その鍋で飯を炊き、食べ終わると鍋は洗い桶(おけ)に代わるのです。きれいも汚いもありません。何回目かの訪問のときの、山頭火と大山さんの対話を紹介しましょう。
「勤めも儲けもせず、無論財産のないわしは、人から与えられたものと、棄てられてあるものを拾ってゆくほかない。この鍋は山口の病院の裏に投げてあった。この七輪は小郡の掃溜(はきだめ)にあったのだよ」と、山頭火。「それはひどいね、汚いものでわしに食べさすんだなあ」と、私。すると山頭火は、「君がそう言うであろうと思って、灰をつけてよく洗ったうえで、日光消毒しているから安心したまえ」。それが、良いとか悪いとか言うのではないが、あってもあっても足らぬ足らぬで不平の出やすい私は、何かしらどしんと叩かれたような気がした。  (『俳人山頭火の生涯』大山澄太著)
知足という禅の言葉があります。読んで字のごとく、足ることを知るということです。しかしこれは、現状に満足するという後ろ向きな意味ではありません。今、あるものを生かし切って生きて行くという前向きな言葉なのです。「あってもあっても足らぬ」。人間の欲望には際限はありません。巷には、物があふれ、それを生かし切ることなく、使い捨ててしまう時代です。そんな時代だからこそ、今、あるものを生かし切って生きてゆきたいものだと思います。

■新年度を迎えて
年年歳歳 花相い似たり 歳歳年年人同じからず  『唐詩選』
副題にあるこの言葉は、中国・初唐の詩人、劉希夷(りゅうきい)の「代悲白頭翁(白頭を悲しむ翁に代わる)」という詩の一節で、「年ごとに花は同じく、年ごとに見る人は変わってゆく」という意味です。年々新たに繰り返す自然と、年ごとに衰えていく人間を対比させ、年を経る感傷を詠っています。私のお寺に樹齢200年は経つだろうと思われる大きな楠の木があります。亡くなった祖父や父もこの木に登ったことでしょうし、私自身も幼い時には友達と一緒に遊んでおりました。関東大震災、太平洋戦争の時もこの木は今と同じようにそびえ立ち、祖父や父の葬儀の日にはまるで人生の旅立ちを見守っているかのように感じられたものです。楠の木は、一年一年葉を落としては、また同じように葉をつけます。それを200年このかた、ずっと行なっているのです。毎年、新たに芽吹く若葉が変わりゆく時節の中で、その役目をまっとうしてくれたからこそ、楠の木は今もしっかりと根を下ろし、堂々と立っていられるのです。その意味で、私たちも楠の木の姿と同じく、人生の与えられた区間を一所懸命走り抜き、私の人生を生ききってリレーのバトンのように次の世代に渡していきたいものです。皆さまの日常のお仕事の中に、それぞれ学びがあると思います。入社して間もないときは、道具の名前も機械の名前も知らないが、それをひとつひとつ覚え、全く未知の世界を長い時間かけて一人前になったとします。一人前になったら、今度は次に続く後輩に仕事を教えなければなりません。私も多くの先輩から多くのことを教えていただきました。後輩に教える立場に立った時、例えば5つのことを教えようとすると5つを知っているだけでは、後輩には何も伝わりません。ですから人に教えようとすると自分もまた勉強することになり、学びはずっと続くのです。4月になりますと、新入社員が入社してきます。今まで学び受け継いだことを後輩に継承していくことが、多くのことを教えてくれた先輩への恩返しであり使命ではないでしょうか。これまでに数え切れないほどの「年年歳歳」があったからこそ、私たちは今、ここにいるのです。

■臨済禅師のこころ 『臨済禅師が説く生きがいのある人生』
「禅」を辞書で調べると、「心を安定させ、統一すること。また、そのことによって宗教的叡智(えいち)に達しようとする修行法」等々の解説が出てきます。また、この「禅」の類義語として「三昧(さんまい)」を挙げています。三昧とは、心を一つの対象に集中することで、例えば「読書三昧」「温泉三昧」などと表現し、その三昧の王様ともいえる表記に「三昧王三昧(さんまいおうざんまい)」という言葉があります。その「三昧王三昧」をさらに調べると、「坐禅三昧のこと」とあります。なるほど、数ある三昧の境地の中で、その三昧の王様は「坐禅三昧」であることに感心しました。現代人はこのような心を一つのことに集中する「三昧」の境地になることが少ないように思います。その原因の一端に携帯電話のメールチェックがあります。イギリスのラフバラー大学のジャクソン教授が、30人の国家公務員を対象に、血圧、心拍数、ストレスホルモンの数値の変化を、1日の中で調査したところ、メールを読んで返信するまでの過程が最も高い数値を示し、「かなり興奮した状態」であったというのです。現代人、特に中高生の女子では、数分以内にメールをチェックし、返信しないと相手から嫌われるという話を聞いたことがあります。こうなると、授業中や食事中までメールチェックで神経がすり減り、ストレスがたまるような気がします。とても、勉強三昧、食事三昧とはいきません。さて、禅の専門道場では、あらゆる場面で「三昧」になることを修行の眼目とします。朝は三時に起床してから読経三昧、坐禅三昧。その後は作務(さむ)三昧に、托鉢三昧とその場その場で一つの物事に集中して修行三昧になりきります。そんな僧堂時代に、私が一番「三昧」になりきったのが、作務の薪割(まきわり)でした。当時の僧堂では晩秋から初冬にかけて飯炊(めした)きや風呂焚(た)き用の薪を雲水が割るのです。この薪割は、斧を振り下ろすだけの単調な労働ですが、寒い時期に体の芯から温まってきて、いつの間にか薪がうず高く積みあがってくる喜びがあり、薪割三昧になりきって集中すると、とてもやりがいがあり、楽しいものでした。臨済禅師は「随所(ずいしょ)に主となれば、立処(りっしょ)皆な真なり」と言われました。これは、「いついかなる場所でも、何ものにもとらわれず、常に主体性をもって行動すれば、真に生きがいのある人生を生きていける」という意味です。残念ながら、現代人は外界のおびただしい数の情報や、先端技術の影響で、とても自分自身の人生に主体性をもって生きているとは言えません。できれば携帯電話に振り回されず、勉強三昧に、食事三昧に、作務三昧や坐禅三昧になる時間をつくってもらいたいものです。「禅」とは、特別なものではなく、日常のあらゆる場面で三昧になりきることです。そのことが、真実の生きがいのある人生だと、臨済禅師は説かれるのです。 
 

 

■新たな私のはじまり
4月は新たなはじまりを感じさせる季節です。ランドセルがとても大きく見える子、ダブダブの学生服を着て少し緊張の面持ちの中学生や制服が変わった高校生、真新しいスーツを着て会社に向かう新社会人の姿を見かけると、新たな環境に戸惑い、出来の悪さに悩んだ昔の自分と重なって、「がんばれ!」と思わず声をかけたくなります。
失禁したあとの 言葉無き優しさ 屈辱と 申し訳なさとを そっと包む
これは3歳の時に筋ジストロフィー症を発症した岩崎航(いわさきわたる)さんの詩です。岩崎さんは20歳の時には人工呼吸器と鼻から管を入れての経管栄養無しでは生きていけない生活になりました。何年も吐き気が止まらず苦しみ、そして仲間は楽しい学生生活を送って社会に躍り出ていくのに、既に余生のような生き方をしなければならない自分に絶望してしまったそうです。しかしある時、苦しみ続ける自分のその背中を黙ってさすり続けている父母の存在に気がつきます。自分と一緒に苦しみ続けながら支えてくださった父母の慈しみに気がついた時、岩崎さんの中でパチンと何かが弾けます。そして「何でもいい、自分にもできることをしたい」と赤裸々な自分の思いを五行詩に託すようになりました。
自分なりの 春夏秋冬を 生きる 季節外れの 服を脱ぎ捨て
春の温かさを 知るための 冬であったと 言い切ることに 臆するな
私たちは「自我」という心の壁を自分で作ることによってそれを自分と思い込み、壁によって周りが見えなくなることから不安や怒りを作り出してしまいます。けれども岩崎さんのように、その壁がパチンと壊れてしまえば「あなた」と「私」を隔てない世界があるのです。あなたの「くるしい」は私の「くるしい」、あなたの「うれしい」は私の「うれしい」と共に分かち合う世界、「仏の世界」が今ここにあったのだと気づくのです。
若い衆や 死ぬが嫌なら 今死にゃれ 一度死ねば もう死なぬぞや
臨済宗中興の祖、白隠禅師の道歌に出てくる「若い衆」とは年齢の若い人だけでなく、この世界の真実がわからないので緊張しながら人生をビクビク歩いている私たちのことです。つまりこの道歌は 「勝手にこしらえた『自分』なんか壊してしまえ。壊せば過去現在未来あらゆるものと一つ、恐れることは何もないのだ」 世界の真実に気づいて欲しいと願い続ける白隠禅師からの応援メッセージなのです。4月は新たなはじまりを感じさせる季節です。「いつも仏様やご先祖様、あらゆる方から応援してくださっている」、そう信じて、真実の日々を歩みはじめてください。

■修学旅行生から学ぶ
私が現在奉職させていただいている妙心寺退蔵院では、毎年5月になると全国から沢山の修学旅行生が坐禅体験にやってきます。私はその坐禅指導をする立場にあるので、毎回学生達に坐禅の坐り方を教え、実際に坐ってもらうのですが、いつも思うことがあります。それは「自分が中学生の時だったら」ということです。修学旅行といえば、学生時代の一大イベントといってもよい楽しい行事です。毎日共に勉強や部活に励む同級生と、いつもとは違う土地に行き、普段の学校生活では得られない様々なことを体験し、学ぶことが修学旅行ですから、坐禅体験はまさにその意図に沿った得難い体験であることは間違いありません。しかし当の学生にしてみれば、「京都といえば、いろんな美味しいものや楽しい所があって、綺麗なものや珍しいものも見ることができるのに、何でわざわざお寺で坐禅なんかしなければいけないんだ」と思っていたとしても何ら不思議ではありません。私が中学生の頃だったら間違いなくそう思っていたはずです。実際、坐禅体験でお寺にやってきた学生にはまず始めに、「ここは皆の家でもなければ学校でもありません。お参りをしている方も大勢おられますから、帰るまでは私語を謹んで静かにするように」と告げると、中には素直に頷いてくれる生徒もいますが、「とんでもないところに来てしまった」という顔をする生徒が大半です。ところが、実際に坐り方や呼吸の仕方、坐禅の意味を説明し、いざ坐り終わると生徒達の表情は、始まる前とは打って変わり穏やかになります。それどころか、帰り際にはあんなに顔を強張らせていた生徒達の多くが、にこやかに感想や御礼を言って帰っていきます。もちろん、坐禅が終わった安堵感もあるでしょうが、「足も痛かったし難しかったけど楽しかったです」、「帰ってからも続けてみようと思います」と言って帰っていく彼らの心の内には、それ以上の気付きがあったのだろうと思い、毎回私も彼らから気付きを貰います。禅といわず、この世は冷暖自知です。熱いか冷たいかは触れてみなければわからないのと同様で、何事もやってみなくてはわかりません。今日というこの日は、誰もが生まれて初めて体験する1日です。初めて迎える今日だからこそ、やってみなくてはわかりません。4月からまた新たな年度となり早ひと月が過ぎました。新しい環境に慣れ始めた今、今一度やってみようという気持ちを大切に、心新たに過ごす1日となりますよう祈念しております。

■一日不作、一日不食
百丈懐海(ひゃくじょうえかい)禅師の言葉で「一日(いちじつ)作(な)さざれば、一日食(くら)わず」と読みます。ある時、弟子達は百丈和尚が高齢なので体を心配して、畑道具を隠してしまいました。百丈和尚、道具が無ければ畑にも出られず、室内で書物を見ていると、弟子が食事を運んで来ましたが、食べようとしません。翌日もまた同じようにお食べにならない。今度は弟子たちが根負けして「どうして食べていただけないのですか?」と尋ねると、「一日不作、一日不食」と言ったとあります。弟子たちが畑道具を元に戻したのは言うまでもありません。一日畑仕事をしなかった時には、その日は食事を取るに値しないということです。自分が世の中に生かされている戒めであります。一日、仕事に頑張って充実した日には、食事が美味しい、逆に仕事もしないでブラブラしている日は、食が進まない。やはり充実した毎日を送りたいものです。お釈迦様が最初に作られた原始仏教においては、律によって「僧侶は布施によってのみ生きよ」とされていますので、労働は一切してはならない、すべての時間を仏教の習得に費やせ、という事です。しかし、中国に渡った仏教は、寺を山の上や人里離れた所に造りましたので、托鉢に行けません。多くの修行僧を抱えているので、自然、畑を作って自活するようになりました。ですからこの教えは、大乗仏教にのみ言えることなのです。私の自坊である永明院の先代住職、憲道和尚の知己で、大徳寺の如意庵に立花大亀和尚がおられました。大亀和尚は大徳寺の管長代務者や花園大学の学長を歴任されて、世寿105歳で平成17年にお亡くなりになりました。平成9年に憲道和尚が亡くなってからも、夏と暮れには必ずご挨拶に伺っておりました。それは今でも続いておりますが、ご自坊の如意庵には裏に畑があり、私が訪ねて行きますと、100歳ぐらいまでは、お元気で畑仕事をされていたのが印象的でした。玄関で声を掛けて、どなたも出てこられない時は、大抵裏に廻って畑に行くと、そこで一鍬、一鍬、丁寧に土と会話をされるように過ごされておられました。まさに、「一日不作、一日不食」そのままの生活であった気がいたします。大徳寺は天龍寺ができる30年程前、1315年に大燈国師によって創建されました。京都中が火の海になった応仁の乱によって荒廃し、一休和尚によって復興されました。山門も一階部分は一休和尚によって再興され、千利休居士が二階部分を増築しました。これが物議を醸し、最後は切腹に至るわけで、茶道千家流の始祖である茶聖千利休とは大変縁があり、茶道の世界では別格の聖地です。立花大亀和尚も茶道に関わる多くの茶掛けや半切など、書き物をされておりました。お聞きした話ですが、お亡くなりになった時、遺産のほとんどは寄付をされ、ご自身が長年提唱をされておりました「碧厳録提唱」を本にし、多くの前途ある若い僧に無料で配布されました。我々がいつでも勉強できるようにと、ご高配いただいたのだと感謝し、今も活用させていただいております。このように禅僧は、「日常底(にちじょうてい)」ということをよく言われます。日々のありのままの姿こそが、禅において一番大切であることから、日々の研鑚を怠ってはいけないということです。日々の積み重ねの中から、やがて花咲く日が訪れるのです。日々の研鑚無くしては、何も生まれてこないでしょう。食事が「一日不作、一日不食」であるならば、禅僧としては、一日仏教を学ばなければ、禅僧としての一日は有り得ない「一日不学、一日不成」ではないでしょうか。

■子供の日
爽やかな風薫る5月。カレンダーには休日を示す赤い文字が並びます。子供の頃はなぜかウキウキした気持ちになった気がします。特に5月5日の子供の日は特別です。私の地元では、近くを流れる河原にロープが張られ、沢山の鯉のぼり達が気持ちよさそうに風の中を泳ぎ、公園では花まつりが開かれます。花まつりはお釈迦様の誕生を祝う仏事で、4月8日に行なう地域や、月遅れの5月に行なう地域もあるようです。お釈迦様のご誕生には様々な逸話が伝わっています。お釈迦様は今から2500年ほど前に、インド北部のルンビニーの花園でお生まれになりました。天の龍王はお釈迦様のご誕生を祝して甘露の雨を降らせて、そのお体を清められたと伝えられています。そして経典では、お生まれになったお釈迦様はすぐに東西南北の四方に七歩ずつ歩いて、右手で天を指し、左手で地を指し、「天上天下唯我独尊」と仰ったと伝えています。「天上天下唯我独尊」とは、「天にも地にも我ひとり尊し」という意味になりますが、この世で自分だけが尊いのだといった意味合いに誤解されることもしばしばあるようです。この「我」とはお釈迦様の事であり、私の事であり、あなたの事です。つまり、生きとし生けるもの全てがそれぞれに大切なかけがえのない命をいただいているという事です。誰しもがお釈迦様と同じ仏の心、仏心をいただいて生まれるのです。
雲晴れて後の光と思うなよ もとより空に有明の月
この古歌にあるように、私たちは誰もが尊い仏心をいただいて生まれながら、大人になるにつれ知らず知らずのうちに、煩悩や妄想の雲に覆われてしまい、仏心を見失ってしまいがちです。しかし、その雲を払ってしまえばそこには変わらずに仏心があると気づくはずです。子供の日は、子供だけのものではありません。誰しもがかつては子供でした。お釈迦様から観れば、おじいさんもおばあさんも、お父さんもお母さんも、誰しもがかわいい我が子であると仰るはずです。子供の日には、いつしか心にかかった雲を払いのけ、それぞれがいただいた有り難い仏心に感謝をし、清々しい5月の風の中、雲一つない青空を泳ぐ鯉のぼりのように、生きていきたいものです。

■白隠禅師のこころ 「三顧摩」
本年は臨済宗中興の祖であります白隠禅師の250年遠諱にあたります。
駿河には 過ぎたるものが 二つ有り 富士のお山に 原の白隠
と謳われ、白隠禅師は一般の方々にも分かりやすく禅を説かれました。白隠禅師は、幼名を岩次郎といい、地獄が怖くて15歳の時に出家をします。師匠の単嶺和尚は、少年に「慧鶴」の名を与え、「ぼんさま、たしなまんせ」と言われました。そして居合わせた隣寺の東芳和尚が、「三顧摩」ということを教えたのです。「三顧摩」とは、一日三度は頭を撫でて自己を省みなさいということです。まず第一に頭に手を置いて、「何のために自分は頭を剃ったのか」 二回目は、「いったん頭を剃った以上は、禅僧として何をなすべきか」 三回目は、「一体何ができたならば、出家としての生涯を全うしたことになるのか」という反省です。私が生まれ育った沼津市西浦江梨は、伊豆半島の付け根にあり、駿河湾の向こうには、世界遺産となった霊峰富士がそびえます。この江梨という村の杉山家から原の長沢家に養子に入り、その子として生まれた方が後の白隠禅師です。私は、この村の海蔵寺で生を享けました。海蔵寺の門前に杉山家はあり、杉山家のお婆さんから手作りの着物、襦袢、脚絆をいただいて禅の修行に旅立ちました。修行に入って間もない頃、杉山家のお爺さんが亡くなり、お経をあげにお参りさせていただいた時のことです。お仏壇の前で経本を忘れたことに気が付きました。「まあ、いいか」この思い上がりがとんでもないことになるのです。般若心経と本尊回向はなんとか済ませ、『白隠禅師坐禅和讃』の中程まで進んだとき、はたと止まってしまいました。次の文句が出てこないのです。焦れば焦るほど頭の中は真っ白です。脇の下、背中から冷や汗がとめどなく流れます。最後は為す術もなく、お婆さんに頭を下げて帰ったようでした。そのくらい記憶にありません。しかし、後からお婆さんがお布施を届けてくれました。その時に誓いました。「しっかり修行しなければ...」と。12世紀の頃、中国・五祖山の法演禅師は「吾、参ずること二十年、今まさに羞(はじ)を識(し)る」と言われました。「永いこと坐禅をしてきて何がわかったか。只、自分に恥じ入るばかりだ」というのです。「坐禅をすればするほど、自分のいたらなさに気付く。真剣に打ち込めば打ち込むほど、自分の愚かさがはっきりしてきます。そういう経験を通してはじめて人の弱さや痛みに気がつき、慈悲の心に目覚めるのです」と円覚寺の横田南嶺老師も仰っています。今までの自分を振り返り、とても羞かしい気持ちで一杯ですが、この「三顧摩」や「羞を識る」の反省をふまえ、あくまでも謙虚に、さらに周りに引き回されることなく、自分の主体性だけはしっかり持って、さらなる精進を誓う次第です。

■碧巌(へきがん/緑色のごつごつした岩)
瀬戸内海に面した岡山県玉野市沿岸の山沿いには、大きな岩がごろごろしています。JR岡山駅から瀬戸大橋線、宇野みなと線を経由してJR宇野駅まで来ると、駅の手前の左側の小高い山の頂上付近に大きな岩がにょっきりと立っており、初めてご覧になる人はびっくりします。「あの岩は落ちそうですが、落ちてはきませんか?」「確かに見ていて怖いですよね。でも岩の根っこにはコンクリートが蒔いてあるので、  大丈夫と思いますよ。」と言った会話が、お客さんと地元の人の間で、よく交わされます。自坊の豊昌寺はJR宇野駅から歩いて20分ほどの距離です。寺の裏山にも、ご多分に漏れず、大きな岩があります。その岩の一つは地上部分が幅約10メートル、高さ約3メートルほどの大きさで、露出した面は切り立っており、長年雨水がしみこんだ影響でしょう、表面には青緑の結晶が浮いてきており、雨に濡れると、ことのほか美しく照り映えます。緑色の岩、碧巌に次の禅語があります。
ある僧が、夾山善会(かっさんぜんね)禅師に問いかけ、それに禅師が応答されます。 (『景コ伝灯録』巻15)
問う、「如何なるか是れ夾山の境(きょう)。」 師曰く、「猿は子を抱いて青嶂(せいしょう)の後(しりえ)に帰り、鳥は花を啣(ふく)んで碧巌の前に落つ。」
僧は夾山禅師の悟りの境涯を真正面から鋭く尋ねています。それに対して禅師は、目の前に見える景観を美しく描写して応答します。「(夕方になると)猿は子を抱いて青くて高く険しい山の奥に帰って行くし、鳥は花をくわえて碧巌の前にすぃーっと飛んできて舞い降りるね。」 注)「子」は木の実のことである、と柴山全慶老大師編の『禅林句集』にあります。この場合には、「猿は木の実をかか抱えて〜」ということになりましょうか。さらに、『禅林句集』は禅師が応答された言葉を「本分現成の妙景」と評しています。猿にしても鳥にしても、無心にして自ずからなる動きをしています。これが則ち禅師の悟りの境地なのでしょうか。6月のある週末に、嫁に行った娘が孫たちを連れて遊びに来ました。あいにく終日雨が降っていたのですが、夕方近くなると雨脚が衰えてきて日が差し始め、雨は細く長い糸のようにお天道様からまっすぐに降ってきました。お家の中での遊びに飽きた2歳の孫に促されて、私も部屋から廊下に出ました。廊下は少し肌寒く、孫をだっこしました。向かいのお山からは、「けきょけきょけきょけきょ ほーほけっきょ」とウグイスが鳴き始めました。孫は「ほーほけきょうが鳴いたねぇ」と言いました。私は「そうだねぇ」と答えました。しばらく雨見(雪を見る雪見も風流ですが、細い雨が降ってくる様子を見るのもいいものです)をしておりますと、ツバメが一羽飛んできて電線に止まり、「ちくちくちくちくぴーちくちく」と賑やかにさえずり始めました。孫は「お父さんツバメが来たねぇ」と言いました。私は「そうだねぇ」と答えました。その直後、ツバメは電線からぱっと飛び立ち、寺の裏山にある緑色の岩=碧巌の前をつーっと横切り、尾根を超えて飛んで行きました。と同時にもう一羽のツバメが後を追うように電線に止まったかと思うと、先程のツバメの飛行コースをなぞるようにつーっと飛んで行きました。孫は「お母さんツバメも飛んで行ったねぇ」と言いました。私は「そうだねぇ。お母さんツバメがお父さんツバメの後について飛んで行ったねぇ」と答えました。こうしてしばらく雨見を続けました。夾山禅師はご自身の境涯を、「猿は子を抱き青き山の奥に帰る 鳥は花をくわえて碧色の岩の前に舞い降りる」と詠じられました。そこには、天地万物は何の計らいもなくただ無心に自ずから然るべく動いているのだ、とのお示しが見て取れます。夾山禅師のお示しでは、夕方になると猿は子を抱いて山に帰って行き、鳥は花をくわえて碧巌の前に舞い降ります。私は夕方、孫を抱いて廊下にたたずみ、孫は無心に鳴くウグイスの声を聞き、無心に碧巌の前を飛んで行くツバメを見送りました。雨は細く柔らかく糸のように降り、日が差してきて空は明るくなっていき、ウグイスはさえずり、ツバメはつーっと飛んで行く。万物は無心にして自ずから然るべく動いていきます。その有様を、孫は無心にして受け止めるのでした。

■白隠禅師のこころ 「小さな花のお供え」
「財施は衆生の身苦を除き、法施は衆生の心苦を除く」  白隠禅師『八重葎』巻之三「高山勇吉物語」
布施というのはお釈迦様が定めた悟りに至るための6つの修行項目(六波羅蜜)のひとつです。「お布施」といいますと金品を包んで僧侶に渡すものというイメージがあるかもしれませんが本来の意味はもっと広く、互いに「施し」を与えあう「布施行」という修行なのです。財施も法施も布施行の種類の一つで財施は自分の持っている金品を施すこと、法施はお釈迦様の説かれた教え(仏法)を施すことです。財施は衆生の身苦を除く。これはイメージがしやすいですね。おなかが空いている人に食べ物を施してその「おなかが空いた」という苦しみを取り除いてあげる。頭が痛い人に頭痛薬を施してその「頭が痛い」という苦しみを取り除いてあげる。苦しみが目に見えるものであったり自覚のあるものであったりするならば、施しによってそれを取り除くことは比較的容易であるといえます。しかし私たちの「苦しみ」というのはその正体が分かっているものばかりではありません。心の苦しみというのはその最たるものであるともいえるでしょう。わけもなく心が晴れなくて、なんとなく気分が落ち込む。理由が分かっているならまだしも、その原因が分からないからよりいっそう苦しみが深くなってしまう。こういった心の苦しみを取り除くのが「法施」、つまり仏法の施しであると白隠禅師は説かれました。もちろんお経を読むことや仏様に手を合わせることも仏法ですが、それだけではなく、もっと私たちの日常に近いところにも仏法はあります。例えば、きれいに咲いている花は私たちの目を楽しませようとして咲いているわけではありません。しかし、その無心に輝く姿に私たちの心は動かされ、自然と晴れ晴れとした気持ちにさせてくれることもあります。そういった無心の姿に触れることも一つの「法施」だといえるのです。先日とある檀家さんの法事をさせていただいた時の話です。お経が終わってその後にお墓参りに向かいました。お仏壇にお供えしていたお花や果物などをお墓に供えてお経を読み始めようとしていた時のことです。その檀家さんには3、4歳ほどの孫娘がいました。皆ながご先祖様のお墓にお供え物をする様子を見ていて自分も真似したくなったのでしょう、道すがらに摘んでいた小さな白い花を持って「これもお供えしていい?」と私に向かって尋ねて来るのです。私がどうぞ、と促すとその女の子は自慢気に、手に持っていた小さなお花をお供えしてご先祖様に手を合わせました。その様子を見て周りにいる人も皆な思わず笑顔になり、その場に和やかな空気が流れました。女の子が施したのは小さな白い花という、一見すれば取るに足らないようなものでしたが、その花を無心にお供えする女の子の心が法施となって私たちに降り注ぎ、私たちを笑顔にしたわけです。このように仏法とは日常の至る所にありふれているものなのです。あとは私たちがそれを法施として有り難く頂戴することのできるかが問われているのだと思います。冒頭に述べたように「布施行」とは施しを与えあう修行、つまり施すと同時に施される修行なのです。純粋な心で与えられた施しを今度は純粋な心で有り難く頂戴する。布施行とはそういった心と心の関わり合いの中にある仏縁に目覚めるためにある大切な修行なのです。

■梅雨の日に想う
ポツリ・・・ ポツリ・・・ 梅雨に入り、今日も雨が降っています。先日ニュースを見ていると、お天気キャスターさんからこんな言葉が。「数日は天気が悪い日が続きそうです。じめじめして気分も憂鬱になりますが、皆さん健康にお過ごしください。」 ここでは「雨=悪い天気、憂鬱の原因」と捉えられていて、どうもそれが世間の大方の人が持っているイメージのような気がします。しかしこれを聞き、私は少し違和感を覚えました。なぜかと言えば、私は昔から雨が好きだからです。雨の日には嫌いな体育の授業はなくなるし、お気に入りの傘はさせるし、何より雨が上がった後の澄んだ空気が心地よい。色んな考え方があると思いますが、皆さんはどうでしょうか?仏教には「一水四見(いっすいしけん)」という言葉があります。「同じ水でも、4つの立場によってそれぞれ捉え方が異なる」という意味です。4つの立場というのは次の通り。
人間にとって→無くてはならない飲み物
魚にとって →自らの住みか
天人にとって→歩くことができる水晶の床
餓鬼にとって→飲もうとした瞬間火に変わる、苦しみの源
このように、同じ水でも命の源になったり、苦しみの原因になったりするのです。この「一水四見」の意味をもう少し広げれば、「同じ物事でも、立場や見方が変われば違った景色が見えてくる」と解釈できるのではないでしょうか。先ほどの雨を例にとると、今から出かけようとしている人には「足元を悪くさせる障害」であり、時には洪水や土砂崩れなどを引き起こす「災害の原因」です。一方で、農業をしている人には「作物を育てる恵みの雨」にもなり得ますし、梅雨自体は夏を迎えるにあたって水を貯える準備期間ととらえることもできます。ですから、雨降りだからといって一概に「悪い」とも言えませんし、反対に「良い」とも言えません。私たちの身の回りにあるものや出来事は、見方一つ、心持ち一つで多様な姿を見せてくれます。禅では「良い⇔悪い」であるとか「美しい⇔醜い」などといった対立的な考え方を嫌います。世の中の事象はあるがままで変わらないはずなのに、私たちの心が「良い」とか「悪い」という区別をつけて、優劣や差別を図りたがる。その結果、迷いや苦しみの原因になり得るからです。古歌に、
よしあしと 思う心を振り捨てて 只何となく 住めば住吉
とあるように、価値判断を加えずに物事のあるがままの姿を観ていくことが安穏な生活につながっていくのだろうと思います。しかし「あるがままを観る」というのは難しいこともまた事実。ですから、その前段階として、「自分が良いと思っている行為は、実は誰かにとっての不利益かもしれない」「今辛いと思っていることも、実は幸福な側面が隠れているかもしれない」と少し視野を広げることで、私たちの身の回りの出来事がより豊かに見えてくるのではないでしょうか。ポツリ・・・ ポツリ・・・ 今日も自然の赴くままに、雨が降っています。

■おもてなしのこころを届ける
「お供え物をよろしくお願いいたします」。ご先祖様へ向けたお供え物を「お盆」に載せて運ぶお檀家様の姿から、大切な人を想う「おもてなしのこころ」を改めて感じます。私たちの日常生活においても、大切なものを大切な人へ運ぶ際に使用する「お盆の習慣」から、そのこころは自ずと根付いています。そして、お盆休みに帰省をしてご先祖様をお参りする姿からも、大切な人を敬うおもてなしのこころを感じることができるのではないでしょうか。そんなお盆の時期には、多くのお寺で施餓鬼(せがき)の法要が行なわれますが、これはお釈迦様のお弟子さんである阿難尊者の逸話に由来します。阿難尊者が坐禅をしていると、突然目の前に餓鬼が現われました。餓鬼とは生前に嫉妬深かったり貪る行為をした人の赴く先であり、常に飢えや乾きに苦しんでいる存在です。そんな餓鬼が「3日以内にあなたは死に、そして私のような醜い餓鬼となるだろう」と阿難尊者に告げました。阿難尊者は驚き、お釈迦様に相談すると「海や山の食物を供え法要を営みなさい。お経によって供物は無量に増し、多くの餓鬼に施され救われる。そうすればあなたも餓鬼の道に堕ちず、仏の道を悟ることができるでしょう」とお答えになりました。こうして、阿難尊者が餓鬼に施し供養をしたのが、施餓鬼の始まりだとされています。(『仏説救抜焔口餓鬼陀羅尼経』) この教えから施餓鬼会では、専用の棚を設えて海や山の食物をお供えし、お米やお水を餓鬼に施す法要が行なわれます。それと同時に各ご家庭でも「お盆棚」「精霊棚」といったお盆飾りを設え、茣蓙を敷き笹竹を飾り、盆提灯やホオヅキで彩り、夏野菜である胡瓜や茄子をお供えします。ご先祖様に早く来て欲しいために胡瓜を足の速い馬に見立て、また別れが名残惜しいため、茄子をゆっくりと帰る牛に見立てることに由来します。棚の前でお参りをする棚経の際、飛行機の玩具が棚にお供えされている家がありました。施主様に尋ねると、胡瓜の馬と茄子の牛の由来を知った小さなお孫さんが、それならじいじに早く会えるよう、また快適な空の旅を楽しめるようにとお供えしたものでした。まさに小さなお孫さんが祖父を想う「おもてなしのこころ」を垣間見た瞬間でした。ご先祖様を敬うことは、自らのこころを育むことである。近年では日本においても、利己主義の発達や格差社会の問題が紙面を騒がせています。「自分だけ良ければいい」「目に見えないものは必要ない」。利益や利便性を追求するあまり、大切なものを見失っているのかもしれません。そんな時代だからこそ、和を以て貴しと為し、絆を重んじる日本人にとって、暑いお盆の季節に少しだけ手間と苦労をかけ、ご先祖様をお迎えすることに大いなる意味があるのではないでしょうか。おもてなしのこころを大切な人へと届けるために。

■安心
安心とは一般に、心が落ち着き心配のないことをいいます。仏教では、信仰や実践により到達する心の安らぎ、或いは不動の境地を意味します。元は阿弥陀仏の救いを信じて往生を願う心の意味で用いられたものでした。「うやむや」という言葉があります。ぼんやりしていてはっきりしない様子をあらわす言葉です。私たちは兎角すべての物事に対して明確にしようとする傾向があります。それは「わからない」ものに対する不安があり、それを払拭するために、無理矢理すべてを明確にしてしまっているのです。しかし、世の中には、はっきりと決めつけることのできないものが沢山あります。いや、わかったつもりでいるだけで、ほとんどのことをわかっていないのかも知れません。その一つに私たちが亡くなった後、どうなるのか、どこへ行くのか、そんなことはいくら考えてもわかることはないでしょう。そこで、私たちが死んだ後、「必ず死後の世界が存在する」と決めつける考え方と、「亡くなれば全てが終わる。死後の世界なんて存在しない」と決めつける考え方、このような「どちらか偏った考え方、見方をしてはいけませんよ」と仏教では説かれているのです。そのような偏見から迷いや不安が生じ、人との争いも生まれてくるのです。わからないものはわからないで良いのです。有るとか無いとかに囚われてはいけない。これを「有耶無耶(うやむや)」というのです。京都清水寺の貫主としてお勤めになっておられた大西良慶和上さんという方がいらっしゃいました。ある日、その和上さんのところに、大学の先生がこんな質問をしに来られました。「貫主さん、極楽って本当にあるんですか」。すると和上さんは、「それはなあ、例えば小僧が『お風呂沸きました』と言うて来たとき、わしはその言葉を信じて寒い風呂にいくのや。裸になって、戸を開けて、突っ込むまで、その湯が熱いんか、ぬるいんか、わからんわけや。そやけど『沸きました』という言葉を信じんことには、わしは寒いところで裸になれんやないか。そやから法然さんや親鸞さんが『南無阿弥陀仏と唱えたら必ず極楽に往生する』と言えば、それを信じんとあかんのや。極楽があるとかないとかと言う世界と違う」。とこう答えられたというのです。あるとかないとかを考え、決めつけるのではなく、「信」を得ることが大切なのです。信じて止まない心を養うのです。猫を見て「あれは猫だと信じている」とは言いません。知っているものには「信」を使わないのです。また、「明日は晴れると知っている」とは言いません。いくら天気予報で晴れと言われていても、その日にならなければわからないのです。しかし、わからないだけではそこに不安が生じます。その不安を乗り越える力が「信」なのです。明日は晴れると信じている。ただそう受け止めるだけで大いなる「安心」を得ることができるのです。信じて迷わず疑わず、教えの通りに仏道を歩めば良いのです。仏の教えを信じ、自らの心を信じ、信の心を養いながら、私たちも日々の生活の中で、「安心」を得てゆるぎない心、確固たる心を得ていきたいものであります。 
 

 

■いのちの絆
ご先祖様がお帰りになるお盆の季節になりました。お盆になると、日頃は忙しさにかまけて、なかなか仏様を顧みないような方も、故郷に帰って墓参りをしたり、お仏壇にお土産を供えて手を合わせたりと、結構殊勝な気持ちになるものです。これもご先祖様のおぼしめしなのでしょうか。お盆のおこりは「盂蘭盆」、即ち梵語の「ウランヴァーナ」の音写であり、「倒懸」(逆さまに吊り下げられた苦しみ)の意味である、と伝えられています。自分の逆さまの考えによって右往左往して起きる苦悩に気付く、ご先祖様をとおして我が身を振り返る大切な行事なのです。お仏壇を掃除し、そして野菜やご飯と共にキュウリの馬と、ナスの牛をお供えします。そんな飾り付けをしてご先祖様をお迎えし、ご供養するのですが、もう一つ大事な事は、普段は会うことが難しい親子や家族、親戚などが一堂に会する御縁をいただける、ということではないでしょうか。そこで「亡くなったお祖父ちゃんによく似てきて...」とか「この煮物の味付け、お祖母ちゃんの懐かしい味だね」などとさり気ない思い出話に花を咲かせながら、「確かにつながっている」という絆を感じ取っていく大切な時間でもあるのです。以前こんな話を新聞で拝見したことがあります。ある男性が、画家に油彩で肖像を描いてもらったのですが、絵が完成するまでの間にとても不思議な事がおきたそうです。描いている途中のキャンバスには、まず祖父にそっくりな人が浮かび上がり、やがてセピア色の写真に残る様々なご先祖さまたちの面差しにもなっていったそうです。もちろん描いている画家は、それらの人々を知るよしもありません。画家として凝視するうちに、モデルの男性の今の顔貌を形作っている地層のようなものを探り当てたのでしょうか。出来上がった肖像画は深みがあって、見るたびにご先祖様たちとの絆を感じさせてくれるいい作品となったそうです。私たちは、それぞれ亡き人たちの姿や振舞いを、知らないうちにいのち≠ニして背負って生きているのです。お盆はご先祖様をお迎えし、ご供養すると同時に、その一度も絶えたことのない大きないのち≠フ流れとの絆を、あらためて感じさせてくれるありがたい季節の仏事なのです。

■「求不得苦」〜有難いと思う心〜
お釈迦様は、人間には大きく分けて8つの苦しみがあるとお説きになりました。生・老・病・死(生きていくこと・老いること・病になること・死ぬこと)、これを四苦といいます。そして愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦(愛する人と別れること・恨み憎んでいる者に会うこと・求めるものが得られないこと・人間の肉体と精神が思いどおりにならないこと)、この4つを加えて八苦といいます。これを合わせて、四苦八苦となりますが、このなかでも、求めるものが得られない苦しみ「求不得苦(ぐふとっく)」について取りあげてみたいと思います。何かを求める心、人間は留まることを知りません。仮にその何かを得られたとしても、次々とまた何かを求めてしまいます。それは、物欲ばかりとは限りません。私たち臨済宗のお坊さんには、約3年以上の修行期間があります。修行期間は睡眠時間が短く、私が新人の時は1日に2時間程度でした。普段は布団に入るのが待ち遠しくて、どんなに暑かろうが寒かろうが、布団に入った途端に寝てしまいました。しかし、年に1度、いつまでも寝てよい日があります。「丸一日だって寝ていられる!」と思っていましたが、なんと朝5時には目が覚めてしまうのです。二度寝しようと思うのですが、いつもは気にならない枕の高さがどうも気になります。「もうちょっと背の高い枕はないか、足元が寒い、もっと毛布がほしい、お腹がすいてきた、食べるものはないか」と睡眠欲が満たされた瞬間に、次々と他の欲が湧いてくるではありませんか。ひとたび気になりだすとそればかり考えてしまって悶々としてしまいました。皆さんの日常で考えてみますと、ずっと欲しかった服を買ってウキウキと家に帰ってくる。家でいそいそと試着をする。「この服に似合う靴はあったかな? これに合うバッグを持っていないわ」と、欲が際限なく出てきてしまうことはありませんか?人間は欲しいものが手に入った途端、その欲しかったものが手元にあることが「当たり前」になってしまいます。これは、服だけに限りません。いま住んでいる家があるのが当たり前、今日ご飯が食べられることが当たり前、そして今、自分が生きていることが当たり前。そうなってしまってはいけないと思います。当たり前には対語があります。それは、「いま有ることが難しい」ということ、「有難い」。日々、身近にあるものに対して、当たり前にあるのではなく「有難い」と思える心、これこそが重要だと考えます。それは物だけではなく、人間に対しても同じことがいえるでしょう。私たちも、自分では気が付かないところで、様々な人に支えられて生きています。当たり前のように近くにいる人に支えられていることに気付く。それにより、自然と感謝の気持ちが湧いてくるのではないでしょうか。外に何かを求めるのではなく、当たり前のことにありがとう、と思える気持ち、その気持ちを積極的に表に出していきましょう! これこそが、現代に少し欠けているのではないかと思います。

■白隠禅師のこころ 「心の工夫」
今年、250年遠諱を迎えた白隠慧鶴禅師は、江戸時代中期に駿河国原宿(現在の静岡県沼津市原)に生まれ、厳しい修行の後、臨済宗中興の祖とまで称されました。武士から農民まで広く教えを説くため、多くの書画や著書を残したことでも知られています。『遠羅天釜(おらてがま)』は仮名の法語で書かれ『夜船閑話(やせんかんな)』と並び、最もよく読まれた著書の一つです。『遠羅天釜』の中に「動中の工夫は静中に勝ること百千億倍す」という言葉があります。禅宗の修行道場では、坐禅修行の他に作務(さむ)と呼ばれる農作業や掃除、雑務等のいわゆる日常生活の修行があり、この場合「静中」は坐禅、「動中」は作務といえます。「工夫」とは、修行に精進することを意味し、そのまま訳すと、作務中の工夫は坐禅の百千億倍になります。私が修行道場にいた頃、坐禅のような修行こそ道場に来た意味があると、雑務等の作務を軽視し、坐禅中に眠くならないように体を動かす作業の手を抜くことも度々ありました。坐禅中の居眠りもさることながら、作務中の手抜きは諸先輩の叱責をひどく喰らいます。摂心(せっしん)という坐禅三昧の修行に入る前、修行の手本、模範が書かれている亀鑑(きかん)が読み上げられ、「動中の工夫は静中に勝ること百千億倍す」を聞き、作務の大切さに気付かされました。ただし、わざと静中の工夫をやめて動中に入れという意味や、坐禅より作務の方に価値があるなどという意味ではありません。『遠羅天釜』の「動中の工夫は静中に勝ること百千億倍す」の前文にはこう書かれています。
只動静の二境を嫌はず取らず、密々に進修しもて行く事第一の行持に侍り
動中と静中どちらかを好んでするのではなく、どちらも同じように励むのが一番大切だと白隠禅師は説いています。つまり、禅宗における静中(坐禅)の工夫に偏りがちな修行者への戒めとも捉えられます。我々の生活に於いて、例えば大事な仕事が「静中」、それ以外の雑務が「動中」。あるいは、一日の中で仕事など重要としている事柄が「静中」、家事などが「動中」ではないでしょうか。私たちはついどちらかに優劣をつけ、片方をないがしろにしがちです。しかし、雑務や家事を疎かにすると仕事や重要としている事柄も共に上手くいかないものです。普段の生活が乱れていては良い仕事はできないでしょう。一日の中で自分のなすべきことに優劣をつけずに、どちらも純一に励む。これが白隠禅師の説く「心の工夫」ではないでしょうか。

■煩悩の激流から離れる第一歩 〜お彼岸の心〜
春分と秋分の日を中日として前後3日、計7日間を「お彼岸」といいます。「彼岸」は煩悩の激流を修行によって渡り切った向こう岸であり、目指す理想の境地や、悟りの世界と表現されます。お彼岸の季節は悟りの世界に到達するためにより一層の修行をする期間と言われています。修行には様々なものがあり、秋のお彼岸に「おはぎ」を作ってお供えすることも立派な修行のひとつです。ここで、お彼岸と「おはぎ」とおばあちゃんの実際にあったお話を紹介します。ある所に、おばあちゃんのことが大好きな女の子がいました。おばあちゃんは秋のお彼岸には必ず「おはぎ」を作り、女の子もおばあちゃんが作ってくれる「おはぎ」が大好きでした。やがて女の子は大きくなり結婚をし、おばあちゃんと離れて暮らすことになりました。女の子は離れていてもお彼岸になると「おはぎ」を作りました。しかし、おばあちゃんの「おはぎ」とは何かが違うと感じていました。ある日、「おばあちゃんが病気になって、長くは生きられない」と連絡があり、お見舞いに持って行くため、女の子は「おはぎ」を作ってみました。しかし、「おばあちゃんのおはぎ」とは何かが違うのです。そこで女の子はおばあちゃんに作り方を教えてもらうことにしました。おばあちゃんは、病気にも係わらず台所に立ってあんこの炊き方、ご飯のつぶし方などを丁寧に教えてくれました。おばあちゃんは病気の影響で沢山は食べられませんでしたが、みんなで一緒に食べることができました。数日後、おばあちゃんは入院し、亡くなりました。葬儀が終わりしばらくすると、女の子はもう一度「おはぎ」を作り、お供えをしました。完成した「おはぎ」は「おばあちゃんのおはぎ」であり、一緒に作った思い出や、おばあちゃんが亡くなった悲しみなど様々な感情が押し寄せてきました。「おはぎ」におばあちゃんとの繋がりを感じ、おばあちゃんだけでなく、ご先祖様と自分のいのちが繋がっていることを実感できたそうです。昔から「亡き人の 美しい心を 受け継ぐことが 供養である」と言われてきました。おばあちゃんに「おはぎ」をお供えした女の子の姿そのものが、亡き人・ご先祖様の美しい心を受け継いだ姿であるといえます。お参りを通じて亡きご先祖様へ、今を生きる私たちが受け継いだ「美しい心と生き方」をお供えすることが、煩悩の激流という私たちが生きている世界から抜け出し、理想の境地へと渡る第一歩となるのかもしれません。

■命は形見
お盆の時期になると精霊棚を作りナスの牛やキュウリの馬・お膳などを備えたり、迎え火、盆踊り、灯籠流をしたりとご先祖様をご供養する様々な習わしが各地で行なわれます。
ひとの生をうくるはかたく やがて死すべきものの いま生命あるはありがたし
と法句経にあります。ご先祖様の一人でも欠けていたら今の自分は存在しません。そのご先祖様から代々繋がっている命を今、私たちが生きています。だから私たちの命は有難いものなのですというみ教えであります。ご先祖様をご供養するとともに、今ある自分の命を有難いと感謝をもって生きていく心を養う行事がお盆ではないかと思うのです。自坊がある福島市では、毎年8月17日に阿武隈川河畔において万灯供養をしています。去年の万灯供養でも、私は法要の準備や灯籠の御戒名書きの手伝いをさせていただきまた。真夏の夜、人いきれの中で、蒸し暑さにどっと汗が噴き出てきました。長い時間が経ち少々疲れを感じ始めた頃、灯籠を並べる場所を私に聞いてきた親子がいました。私がその場所を教えると、女の子が「これ、おばあちゃんに作ってもらったの」と言って折り紙のチューリップを見せてくれました。そして、こう言ったのです。「遊んでくれてありがとう、ってとうろうを並べるんだ」。その言葉に、はっとしました。私の心の中に祖父との思い出がよみがえってきたのです。手先の器用な祖父に小学生の頃、やじろべえを作ってもらい、一緒に遊んでいたことを思い出しました。やがて、法要になり、約7000に及ぶ灯籠が並んでいるのを見ると、灯籠一つ一つに家族があり、それぞれに多くのご先祖様がいるということに改めて気付かされました。そして、灯籠を丁寧に並べている姿を見ておりますと、今は亡き大切な人への感謝の思いを感じました。
垂乳根(たらちね)の 親の遺(のこ)せし 形見なり いや慎しまん 我が身ひとつを
という詠み人知らずの歌があります。形見とは何でしょうか? 女の子が大事に持っていた折り紙のチューリップや私にとってのやじろべえのような物としての形見もあります。しかし、女の子や私たち自身も亡き方の大切な形見であると言えるでしょう。そう思えばこそ、今あることを感謝して自分の命を大切に生きようと思えるのではないでしょうか。お盆に際しまして、感謝をもって生きていく心を養っていきたいものです。

■縁起 〜生かされているいのち〜
昨今は若い世代の方が「縁結び」の御利益があるといわれる寺社へ参拝されることが一種のブームとなっており、良縁を結ぼうと建仁寺にほど近い安井金比羅宮には連日多くの方がお参りされています。この「縁」というものですが、私たちは自らにとって都合の良い縁を良縁、都合の悪い縁を悪縁という使い方をすることが多いのではないでしょうか。すなわち自らのものさしや価値観だけで「縁」を判断しているといえます。「縁」とはお釈迦様がお説きになられた「縁起の法」からきています。「縁起」とは「縁(よ)りて起こる」と読むことができ、この世で起こる全ての事柄には、それが生じる原因があり、そこに無数の縁(条件)が重なり、最終的に結果が生じています。例えば花の種を蒔けば芽は出ますが、そこから大輪の花を咲かせるためには水、肥料、太陽光など様々な縁が良い方向に重ならなければなりません。私たちのいのちも単独で存在しているのではなく、縁が重なることによって奇跡的に生まれ、お互いに関係し合いながら支え合い「生かされている」ということがいえます。また人生の中で起こる全ての出来事は自らの言動や行ないに対して無数の縁が重なった結果、生み出されることであり、覚悟を決めてその全てを受け入れ、そこで精一杯生きていかなければなりません。渡部成俊(わたべ しげとし)さんをご存知でしょうか? 渡部さんは1945年生まれ。10歳で父親を亡くし、家計を助けるために中学卒業後は様々な職に就きながら、26歳で婦人服のプレス業を開業。また会社経営の傍ら教育支援事業にも携わり、地域活動にも精力的に参加。多忙でありながらも充実した日々を送っておられました。そんな最中、渡部さんは受診した健康診断ですい臓ガンが発見され、翌年大手術を受けられます。その後仕事復帰を果たされるも、転移性肺ガンを再発、医師より余命1年半の宣告を受けられます。まさに絶望の淵に立たされた渡部さんは何度も自殺を考えられましたが、そんな時に心の支えとなったのが長年連れ添った奥様の存在でした。そして、その後の闘病生活の中で自らを静かに見つめた時、がむしゃらに生きてきた過去には見えなかった「生きる意味」を自覚されたのです。渡部さんは限られた時間の中で、地域の子供たちに自らの思いを伝えるため、講演活動「いのちの授業」を始められます。その中で「生きていく上で決して忘れてはならないのは、全てのものに感謝し、人のために尽くすことである」と強く訴えておられます。渡部さんは今回の病を契機に、網の目のように無数の縁が重なり合い、支え合って奇跡的に自らのいのちが存在していることを自然と感じられました。そして、今まで多くのお蔭様によって生きてこられたことへの感謝の気持ちが湧き起こってきたのです。その後渡部さんは、惜しまれながらも63歳という若さでお亡くなりになりますが、氏が残された魂のメッセージは多くの子供たちの心に刻み込まれたことでしょう。私たちも慌ただしい生活を送る中で、つい見失いがちな、「縁によって生かされている奇跡、有難さ」を今一度かみしめながら、日々を大切に過ごしてまいりたいものです。

■明月来リテ相照ラス
昼間の残暑はまだまだ厳しい季節ですが、朝晩のひんやりとした風や、表を歩いて草露に濡れる足元は確かに、秋の訪れを感じさせてくれます。空を眺めれば暑かった夏とは様子が異なり、もこもことした鱗雲が現われます。そんな秋の空に、夜になるとぽっかりと浮かぶのが「月」です。そうです。「仲秋の名月」の時節到来です。満月は毎月のようにありますが、秋の澄んだ夜空に特に美しく浮かぶこの日は、昔から願いを込めて祝い事や、行事がなされてきました。「月」は古来から別世界の象徴でした。現世の苦悩が大きければ大きいほど、その憧れは一層増します。それと同時に、清く、さやけく、冷たく澄んでいる月が返って濁り厚き人の世をなつかしく思わせます。争いの耐えない人の世。ねたみや憂い、喜怒哀楽に満ちた世の中。そんな世を、月の光は優しく照らします。月明かりの夜は、色という色が消え、変化します。それが一体なんなのか見分けがつかないくらい。確かに、小学生だった頃、満月の夜に近所の子供たちで集まって、紙に色マジックで線を引き、色当てゲームをして楽しんだ記憶があります。今でこそそれは視覚器官の錯覚だと言うこともできますが、すべてのものが同じ光で包み込まれ、お互いがいつもと違って見えると、全ての垣根が薄くなっていくような、そんな感覚を満月の夜は感じさせてくれました。あたり一面月の色、隣の子の顔も向かい側のおじちゃんも、紙もマジックも、カエルも虫も、そしてもちろん月も私も。燃えたぎる感情や、冷え切った感覚まで、月の光がみんなを一つにしてくれます。
ある月夜ことごとく籠の虫を放つ  正岡子規
これは明治29年の秋の句です。子規は結核を患い36歳で亡くなります。この年はその結核が悪化し、菌が脊椎を巣食ってカリエスという病にかかった時です。籠の中から放たれていく虫たち。「ことごとく」という言葉から虫は、様々たくさんいることがわかります。飛び跳ねる虫、這い回る虫、大きい虫、小さい虫...。病が悪化し、臥床の日々が多くなり、せめて外にいる虫を籠に入れて眺めていたのでしょう。しかしその虫たちもいずれ放たなければなりません。それが月夜の晩だったのです。すべてのものが同じ光で包み込まれる日、子規は月の光に照らされた虫を眺めながら、そして自分も照らされながら、自分と虫を重ねていったのでしょうか。虫たちそれぞれの解放は自分の苦しみからの解放を願ってのことかもしれません。虫たちとの隔たりが淡くなった子規もまた、月のような光を放っています。月は遍く全てのものを照らしてくれます。男も女も老いも若きも、恋するあの人も、憎きアイツも。暑さも過ぎ去った月のきれいなこの季節、静かに空を見上げて、全てを照らすその姿に自分を見つけてみてはいかがでしょうか。

■秋晴の空のように
今年も暑いお盆が終わり9月になりもうお彼岸です。お彼岸とは日本特有の仏教行事です。私たちは、お彼岸に六つの実践徳目である六波羅蜜を修めることによって此岸から彼岸に渡っていきたいと考えられているのです。私たち一人ひとりは生まれながらに仏様と同じ心を持っていると信じられています。私たちの中に六波羅蜜はすでにあり、六波羅蜜は私たちが気づいていかなければいけないものではないでしょうか。六波羅蜜の中の一つに智慧波羅蜜があります。こちらの知恵は後から本を読んだり勉強したりして付けたものであり、智慧波羅蜜の智慧は、ものごとをありのままにあるがままに、素直に受け入れていける生まれながらに備えている心です。
晴れてよし曇りてもよし富士の山 もとの姿は変わらざりけり
幕末から明治にかけて活躍されました、山岡鉄舟が読んだと伝えられている詩です。この詩にある富士の山が智慧ならば、私たちの中には智慧という富士の山があるにもかかわらず、見えなくなってしまっていることがあるのです。そんな見えなくさせている雲こそ私たちの後からついてきた知恵によって付けた、自分はあれが欲しい、自分はこうしたいという煩悩や執着というものなのです。以前私が修行道場にいたころ、托鉢に出ていた時の話です。托鉢は「ホーッ」と声を出しながら道行く人や、各お宅からお金や、食べ物を頂くといった修行の一つです。まだまだ残暑厳しい9月の初旬でしたので道行く人も少なく、なかなか何も頂くことができませんでした。私は、暑い中歩いているのに、どうして何も頂くことができないのか、心の中で少し不満に思っていました。しかしお釈迦様の時代なら、この托鉢で頂いたものによって生計をたてていたことを思うと、このままでは帰れないという気持ちもあり、時間を忘れて歩き続けていたのです。こんなに青い空にギラギラ輝く太陽を恨めしく思ったことはありませんでした。暫くして公園の木陰で休んでいると、「お坊さーん、お坊さーん」と遠くから声が聞こえてきました。顔を上げてみると、小さい手で水を入れた紙コップを持った幼児が立っていました。「これを飲んでください」。差し出してくれた水はなんとも冷たく、おいしいものでした。聞けば向かいの幼稚園児ということでした。私は水を飲みながら、子供たちのキラキラした丸い目の中に空に輝く太陽と同じ光を感じたのです。先ほどの私は、暑い太陽のせいで今日は托鉢がはかどらないという自分勝手な思いにとらわれて「ギラギラした太陽」と思い、私たちにたくさんの恵みを与えてくれている存在である「キラキラした太陽」の光であることに気付かなかったのです。私自身の中にある雲が、目の前のあるがままを素直に受け入れることができなかったのです。お彼岸を通して、私たちの心はいつも秋晴れの空のように一点の曇りもなく、晴れ渡っていきたいものであります。

■寂室禅師のこころ 「友人を憶う」
寂室禅師の生涯を見ますと、京都や鎌倉の大きなお寺の住職にお呼びがかかっても拒み続け、山中にひっそりと住んで坐禅に明け暮れました。言ってみれば大学教授の任を蹴って、山間僻地に診療所を開いたようなものです。そうしてめったに診療所を空けなかったのです。山奥でわずかの人たちを診療するかたわら、時には近くの山に登って静寂を楽しみ、ある時は小川のせせらぎに我が身を濯(そそ)がれました。禅師は何を求めていたのでしょうか。禅師をそこまでさせたものはいったい何だったのでしょうか。禅師は常に修行僧にこう示されました。「生死まさに切なるべし」と。「今日一日きりの命であるぞ」とのご垂戒(すいかい)なのです。寂室禅師の詩の中でも「友人を憶う」という題の詩は、とりわけ隠逸の趣が深いものです。
山院 春深くして 客来たらず  空庭 花落ちて 蒼苔(そうたい)を没す
流景を留めんと欲すれども 策なきをおそれ  猶お佳人をまちて 念未だつきず
身は老いてもっとも宜し 世外に居るに  雲は閑にしてただまさに 巌隈(がんわい)に臥すべし
午眠 一たび覚む 茶三椀  千峰を望断し 闥(たつ)※を推し開く  ※闥...小さな門
〈現代語訳〉 春も半ばを過ぎた山中の風光は言い尽くせない趣に満ちている。真実を求める道人(客)が今来てくれるならば、まことに結構なことであるのに、その気配はない。燃えるが如く鮮やかに咲いていた花はすでに散って一面の苔を覆っている。緑が日ごとに深まるこの光景を留めておくことはできず、やはり早くこの時期に君に来て欲しいものだ。私は歳老いた。世俗の外に住んでいるのにはもってこいだ。のびやかな雲は巌のあたりにこそ漂うべきであるように昼のうたた寝から覚めてお茶をごくりと飲む。外を眺めると幾重にも重なる山並みが果てしなく広がる。さても君が来ないものかと庭先に出て木戸を開けて門外に出てみた。
禅師にしても人が恋しい。ことさらに世俗を避けて山中深き庵で我が身を修めながらも、やはり友と話がしたいのです。五合庵に住んでいた良寛禅師が、淋しくなると里に下りて子供たちと遊んだことを思い浮かべます。隠者が人を慕うとは矛盾するのではないかと言われそうですが、知音(ちいん)同士だからこそ話があるのです。世を捨てても後生を案ずるが故に詩を詠み書簡を道友に与えるのです。

■不思議
「不思議」という言葉には「世界の七不思議」とか「不思議な話」など、何か謎めいたもの、時には怪しいものの様な印象を受けるでしょう。不思議とは不可思議、思いはかることも言いあらわすこともできないということ。仏法の尊さを示しています。大徳寺開山、大燈国師が花園天皇と交わされた有名な問答があります。天皇は仏教への信奉篤い方でしたので、ある日国師をお召しになり仏教のことを聞かれました。その時遣いの者が国師に対し、道服を着け天皇から一段隔てた席からお話しされるよう伝えましたが、国師はそれを喜ばなかった。袈裟を着けて天皇と対座させてもらうよう再三求めたところ、天皇はこれをお許しになったのです。そこで、その通りに国師が参上すると天皇が曰く「仏法不思議、王法と対座す」と。すぐに国師はこれに応じ「王法不思議、仏法と対座す」と返されたということです。王法は王を中心とする秩序、すなわち俗世間の常識、慣習であります。世の習いではいかに徳の高い僧といえども、天皇と対等に向き合うことなど考えられないことである。しかし国師からすれば、どんな位階の人間でもすべて仏法の真理の中に生きている。これこそ人間の思慮の及ばぬ不思議なことであり、それ程に仏法は尊いものだということです。 大燈国師といえば、師の法を嗣いだ後、二十年乞食行に徹せられた方ですが、天皇にしても飢えに苦しむ民衆にしても、自分の立場を選んで生まれてくる者は一人もいない。「其れ人間の身を受けてこの世に生まれ来ることは爪の上端に置ける土」と菩提和讃にあるように、人として生を受けることこそ、まさに思い計らいを超えた不思議なのであります。近頃は頻発する自然災害に「想定外」という言葉が使われますが、そもそも大自然の中にあって時々刻々、私たちの生活すべてが想定外の連続なのであります。それでも今日一日過ごせることが有り難く不思議なことなのです。親鸞聖人は「いつつの不思議を説くなかに 仏法不思議にしくぞなき 仏法不思議といふことは 弥陀の誓願になづけたり」と言われています。親鸞聖人のいわれる弥陀の誓願とは、仏が人々を救おうとする心であります。寺の六地蔵に熱心にお参りされる檀家さんがいらっしゃいます。数年前の正月、そのご夫婦は境内で事故を起こしました。その日は総代さんが集まり、御祈祷の法要を始めようとしていたところ、突然ガシャンと大きな音。急いで外へ出てみると、山門の前で車が真横になっていました。アクセルとブレーキの踏み間違えで、手前の石垣にぶつかり、横倒しに止まったのです。車内の二人は動けそうでしたので、外から窓を割って救出しました。車は廃車にする程壊れている中で、幸い大した怪我もなく骨一つ折らずに済んだのです。境内は高台ですが、車は山門と階段の僅かな隙間に留まっていました。階段下の方へ落ちていたら命を落としていたであろう事故。ふと見ると、車が飛ばしたと思われる石垣の玉石が、側にある六地蔵の目前に転がっていました。私は「ああ、お地蔵様が救ってくださったのだ」と心の底から思いました。その場に居合わせた誰もが「お地蔵様のお陰だ」と皆な手を合わせていました。これこそ不思議としか言い様がない仏の力を感じたのです。勿論お地蔵様が念力で車を止めたという、いわゆる超常現象ではありません。車が反対に倒れなかったのも、飛ばされた石が六地蔵の目前で止まったことも偶々そうなったことでしょう。しかし、その偶然は、当然私たちの意志ではどうにもならなかったことです。どうにもならぬところで生かされている。その生かしているものは何かと問うた処に仏の不思議な力があるのでしょう。そう気付けた時に、私たちは真に慎ましい日々を送れるのではないでしょうか。お地蔵様の前で救われたご夫婦がそこで手を合わせている姿は、向き合う石像に対してのみならず、その日も無事にお参りが出来たことへの感謝が滲み出ています。その謙虚な表情に仏の姿を見ている様な気がします。 
 

 

■スポーツの秋〜第3レース
10月といえば...体育の日!? スポーツの秋の到来です。全国各地で運動会やスポーツ大会が開催されることでしょう。私が小学生の頃の運動会の思い出といえば、毎年のように雨で順延になることでした。その原因として噂されていたのが、元々、小学校の校舎や運動場があった場所が墓地だったため、「呪われている」というものでした(笑)。これはおそらく都市伝説に違いありませんが、6年間のうちの半分くらいは雨で順延になったことは確かです。私は幼い頃から、かけっこが得意なほうでした。お寺の住職になってからも度々、校区の運動会のリレーやムカデ競争に引っぱり出されますが、40歳を過ぎると思うように脚が前に出ません。ところで、夏休み中に小学生の坐禅会を行なった際、「ウサギとカメ」のお話をしました。昔話では、ウサギに歩みの遅さをバカにされたカメが山の麓までのかけっこを挑みます。スタートするや否や、一目散に駆けていったウサギですが、途中で余裕綽々と居眠りをしてしまい、マイペースで進むカメに勝利を奪われてしまいます。このお話の教訓は、過信して思い上がり、油断をすると物事を逃してしまう。また、能力が弱く歩みが遅くとも、脇道にそれず着実に真っすぐ進むことで、最終的に成果を得ることができるというものです。では、同じ条件で第2レースを行なうとします。今度はウサギとカメのどちらが勝つでしょう? おそらく同じ失敗を繰り返さない限り、ウサギが勝つのは明白です。しかし、そもそも不利なかけっこで、ハンデもなしに勝負を挑むカメはあまりにも無謀です。そこで第3レースを行ないます。今度は途中までのコースは同じですが、池の中に浮かぶ小島がゴールです。果たしてウサギとカメのどちらが勝つでしょうか? ちなみにウサギは水が大の苦手です。さて、真っ先に池に辿り着いたのはウサギ。しかし、水が苦手なウサギは途方に暮れています。そこへ後から遅れてやってきたカメ。カメは困っているウサギを背に乗せると、スイスイと泳いで池を渡っていきます。そして、ウサギとカメが仲良く手をつないでゴールイン! お互いの違いや個性を認め合い、活かすことで、みんなが幸せに暮らせるようになるはずです。無門関の第一則に見られる「把手共行」という禅語は、手をとって共に行くと読みます。自他が協力し合うだけでなく、自己に内在する仏(慈悲心)と一つになるということでもあります。もしも、カメが自分だけ泳いで渡ったとしたら? もしも、ウサギがラストスパートとばかりに抜け駆けしたら? おそらく、どちらも後世の笑い者になってしまうでしょうね。

■白隠禅師のこころ 「吉野龍田の紅葉も花も 外を尋ねる事ではないぞ」
ちはやぶる 神代(かみよ)もきかず 龍田川 からくれなゐに 水くくるとは
ご存知の方も多いでしょう。百人一首にも収められている龍田川の紅葉の美しさを詠んだ歌です。平安時代の歌人、在原業平の作で、業平は六歌仙の一人でもあります。「神代の昔にも聞いたことがない。龍田川が真っ赤に水をしぼり染めにするとは」 一面に紅葉が浮いて、鮮やかな紅色に染まっている龍田川。そんな幻想的な光景が脳裏に浮かんできます。さて、もう一つ龍田川の紅葉を詠んだ歌を紹介します。
討つ敵は 龍田の川の 紅葉かな
戦国時代に九州一円を征服した薩摩の大名である島津義久は、天正6(1578)年、耳川にて豊後の大友宗麟との決戦に臨みます。決戦前夜、義久は龍田川に紅葉が流れる光景を夢に見ました。その時に詠んだ歌が、この歌であると言われています。翌日、島津軍は大勝利を収めますが、当時、耳川は大敗した大友軍兵士の死体で覆い尽くされていたと言います。はたして義久は夢の中で龍田川に何を見ていたのでしょうか? 三つ目の歌です。
吉野龍田の紅葉も花も 外を尋ねる事ではないぞ
臨済宗中興の祖と称えられる江戸中期の禅僧、白隠禅師の歌です。「日本一の桜の名所と謳われる吉野山の桜も、龍田川の紅葉も、『外』に尋ねて行って見るものではないぞ」と詠んでいます。それでは、どこを尋ねるのでしょうか? それは「外」でなければ「内」ということになります。では「内」とはどこか? それは他でもない私たち自身の「心の内」です。白隠禅師の言う、この「外」や「内」とは、外出するとか、家の中にいるとかいう意味ではありません。自分の心の「外」か「内」か、ということです。自然の光景というものは、誰が見ても同じように瞳に映ると思いがちですが、実はそうではありません。心次第でいかようにも変わってきます。なぜなら、心は光景を映す鏡そのものだからです。それは、先ほどの業平と義久の歌を思い出していただければわかるのではないでしょうか。熊本県の南阿蘇村に「一心行の大桜」という名木があります。樹齢430年、枝張りは東西21m、南北26mにも及び、まさに大桜の名にふさわしい威容を誇っています。春もたけなわの時節、ある60代の女性が母親を連れて、その大桜を訪れました。道すがら、車窓からあちこちに満開の桜が目につきます。楽しみにしながら車を走らせるのですが、いざ到着して大桜を目の前にするとがっかりしました。大桜は、まだ二分咲き程度で満開には程遠かったのです。「残念だったね」と声を掛けると、母が一言、「歳を取ると何でも遅くなるからね」。その言葉を聞いた瞬間、「見ている光景が変わった」のです。「歳を取ると何でも遅くなる」。確かにその通りです。樹齢430年の大桜、歳を取るなどという言葉では言い表わせないほどの年月を生きてきました。それでも、今年も大きく伸びた枝の先まで、数え切れないほどのつぼみをびっしりとつけています。きっと大桜は、自身の持てるエネルギーを、その隅々まで行き渡らせるのに、とても時間がかかるのでしょう。「ゆっくりでいいよ。頑張れ!」と、心の中で呼びかけました。この女性は比喩でも何でもなく、本当に見ている光景が変わったのです。なぜなら「心のありよう」が変わったからです。落胆の心で見れば、この世界は落胆の世界になり、慈(いつく)しみの心で見れば、たちまち慈しみの世界へと変わります。物見遊山だけでなく、何事においても大切なのは「心のありよう」です。仏さまの心でこの世界を見れば、この世界はそのまま仏さまの世界になります。行楽の好時節となりましたが、みなさん、くれぐれも仏さまの心を持って秋の風景を楽しんで下さい。間違っても怒りや憎しみの心など起こさぬように......。

■根なし草の心
白隠禅師、晩年の作に『草取り唄』があります。七・五調の形式で作られており、煩悩を草に置き換え、煩悩の草を根っ子から取りのぞき、本来の心一つで生きていくことの大切さを口当たりのいい唄でもって説いているものです。
草を取るなら、根をよく取りやれ  またと意根をはやしやるな  意根なきよに根をきりおけば  水に花さく根なし草
『草取り唄』の冒頭です。私たちの修行道場でも除草の時は、口酸っぱく根っ子から取ることを指導されます。私たちの心も同じく、煩悩の草を取りやるにも、表面だけを取り繕っても駄目で根っ子が肝心です。またその「意根」を「遺恨」と言い変えれば、「恨み、妬み、憎しみ」を育てるなとも聞こえます。例えば、自分にとって忌み嫌う人と決めつけた人の言動行動は、全て「何か裏がある」と疑い、嫉妬し疎ましく思ってしまいます。それは自分の心根が「そういう人間だ」と決めつけている、わがままな心が原因です。反対に根なし草とは、地中に根を張らず、水に浮いている草で「浮き草」の事を指します。一ヶ所に生活の場を定めないことを「浮き草暮らし」と言いますが、一般的には定住や根を下す生活を理想とします。しかし、白隠禅師の根っ子とは「煩悩」つまり自分勝手な思い込みや恨みなどに囚われている状態を言い表しています。ですから大事なのは、「意恨なきよに根をきりおけば 水に花さく根なし草」とあるように、物事に執着するわがままな心である根っ子を取りやり、根なし草のようにとどまらない心で日々を送ることの重要性を説いています。福井の幕末の歌人に橘曙覧がいます。有名なエピソードとして、親交のあった福井藩主松平春嶽公より仕官の命令が下った時も、地位や名声を選ばず、曙覧は清貧の中で自分の心に忠実に生きる自由自在の暮らしを選び断わりました。また禅の教えに深く傾倒する曙覧の歌には、自然とその教えが反映されているようにも感じます。
たのしみは 庭にうゑたる春秋の 花のさかりにあへる時々 (歌集『独楽吟』)
何でもない庭に咲く季節の草花が咲き誇る姿に出会えた時の喜びをあるがままに歌っています。歌集『独楽吟』の特徴は全て「たのしみは」から始まる短歌のみで、日常生活のほんの些細な事さえも心から喜ぶ曙覧の姿が歌から感じ取ることができます。また曙覧は「うそいうな、ものほしがるな、からだだわるな」(「だわるな」は福井の方言でだらけるなの意)と子供に遺訓としてこの言葉を伝えています。つまり、どれだけ貧しかろうが心の根っ子は常に「素直」であれということです。貧しければ貧しい、お金が無ければお金が無い、それらを恥と思う心が恥であると読み取れます。「地位」「名声」といった私たちの生活に優劣をつける心、つまり執着という根を取りやり、どんな環境や状況であろうと「根なし草の心」の暮らしを曙覧は生涯大切にしていたと言えます。
曙覧は歌い続けます。 ・・・ たのしみは 草のいほりの筵敷き ひとりこころを静めをるとき (前掲) ・・・ 花咲くことを我が事のように喜べるのも、どんな処も安住の地に成り得るのか問題はいつでも私自身の根っ子に有るのです。

■紅葉に思う
段々、紅葉が美しく色づく季節になりました。私が修行した埼玉県新座市の平林寺は紅葉が綺麗なところです。紅葉の下で今年は色がいい、今年は遅いなどとお話しされている観光客を見て、確かにそうだと思い季節の移ろいを噛み締めながら、終わりのない落ち葉掃きに汗を流していたことを思い出します。寒い風を肌で感じ、青空に舞う落ち葉を眺めていると、これから始まる冬の厳しい修行を想像して急に寂しくなったり、またやるしかないのだと決心し直したり、紅葉を見ると情が動かされるものです。修行から帰ると平林寺に倣って紅葉の寺にしたいと思い立ち、カエデを庭に植えました。しかし、自坊のある浅草は飲食店や自動車の排気により寒暖差がないためか、綺麗に紅葉することなく不満に思っていました。ある行事の折に紅葉真っ盛りの平林寺を訪れ、赤く染まった木々を見ていると、ふと紅葉はなぜ起こるのであろうかと疑問に思いました。自坊のカエデが紅葉しないと憤慨し澱んだ心に、鮮やかな気付きがありました。事典などを調べると、思いがけず温かい心持ちがしましたのでご紹介いたします。紅葉のメカニズムはいまだわかっていないことも多く諸説あるとのことですが、ひとつの説を取り上げてお話し致します。春に芽吹いた葉は、夏に一所懸命に光合成をして幹に栄養を送る仕事をします。しかし秋になると日差しが段々弱くなり、光合成をして得られるエネルギーが少なくなります。そうすると、緑の葉を維持するのに必要なエネルギーが、光合成により得られるエネルギーより多くなります。収入と支出のバランスで言えば赤字の状態に陥ります。この状態を放置すると、夏までせっかく幹に貯めたエネルギーがすべて無くなってしまいます。そこで、樹木は落葉することを決断します。その時、葉は自らに残ったエネルギーを保全するために赤い色素を出し、エネルギーをすべて幹に送ってから、枯れて落ちるのだそうです。その保全のための色素のおかげで鮮やかな紅葉にある訳です。綺麗だなと思ったり、もののあはれにて感傷的になったりしながら見上げる鮮やかな紅葉の中では、自分がどうなってもこの子だけは守りたいという親心のような無数の葉のドラマがあります。さて私は5年前に大病をしました。あと2週間病院に行くことが遅かったら死んでいたであろうと医師から告げられるほどでした。一生付き合わなければいけない病気になったと知り、両親が涙ぐみながら、ベッドに横たわる私を見ていました。大きな図体になった息子にここまで心を寄せてくれるとはありがたいなぁと、しみじみ思っていました。時が過ぎ親になった今、私がどうなってもこの子だけは守りたいという気持ちを切実に感じるようになりました。こうした誰でも持っている温かい心は、親から躾けられたわけでもなく、学校で習うものでもありません。血が繋がっていなくても、幼いものや自分より弱い人に手を差し伸べる心です。きっとこの温かい心で、地球上に生命が誕生してから現在まで、大切に生命が繋がってきたのだと思います。そう思うと、自分一人で生きているのではなく、大きな生命の流れの中で、様々な人やもののおかげで生きていることに改めて気づかされ、自分だけ良ければなどという心の澱みが流れ去り、澄んだ心でおかげさまと周りの方々に素直に感謝して、おかげさまとご先祖さまにも自然と掌を合わせることができるのです。紅葉が綺麗ではないとか、見頃はまだだったと不満に思うことなく、カエデの幹や葉のドラマから、万物が支え合って生きていることに改めて感謝したいものです。

■現代における「和合」の大切さ
現代で一番の問題になっているのが「争い」ではないかと思います。「人と人」「人と国」「人と自然」「人と宗教」等、様々な問題があります。「人」といっても、親子、親類、友人、師弟、等々の「争い」があります。それでは「争い」をなくすにはどのようにすればよいのでしょうか。大切なことは「和合」だと私は考えています。人がお互いに思いやり、解りあえればよいのです。誰もが簡単に理解でき、実行できるはずなのにできない。それは、自分に我があり、それによって、すべてが自由になると思いこんでいるためです。『仏説阿弥陀経』には「共命(ぐみょう)の鳥」という鳥のことが書かれています。頭が二つに胴体が一つの、この世のものとは思えない美しい姿と声で鳴いている鳥の話です。二つの頭はその美しい声と姿が自慢でした。ある日、一方の頭の鳥が「もし、もう一方の頭の鳥がいなくなれば、正真正銘この世で一番美しい歌い手になることができる」と考えました。そこで、一方の頭が、もう一方の頭の鳥に毒の実を食べさせ殺してしまいます。残った頭の鳥がこの世で一番の姿と鳴き声になりました。しかし、死んだ方の頭が段々腐り、ついに胴体まで腐って最後には残った頭の鳥も死んでしまったという話です。二つの頭に共通の胴体。一方が死ねば、やがて両方が死んでしまう。これは、私たちの今の姿を現わし、将来の姿を暗示しています。自分の欲望のままに行動し、他人や、自然を支配してしまう。しかしそれは、いずれ、自分の破滅を招く結果を迎えてしまうのです。仏教では「人は生かされている」という基本理念があります。「生かされている」というのは言い換えれば「和合している」と言ってもよいと思います。働いてお金を稼ぎ、それでものを買い、生活をする。一見、自分自身だけが、誰にも迷惑を掛けずに生きているように見えますが、実は違います。毎日食べているご飯でも食べるまでには多くの人を通して、食卓に上がっているのです。お米を作る農家の方、流通の方、炊飯器を作る人、ご飯を炊く人の手間等々。さらには、お米の出来を左右する自然。米一粒とってもこれだけのものが係わっているのです。社会の中でも、警察、病院、学校、交通など自分たちの世の中に貢献している人は沢山いて、この人たちの御蔭で平穏な生活が送られるのです。ですから人間は自然や多くの人々に感謝をして生きていかなくてはいけないし、いつも共に歩むということを考えなくてはいけません。「人間は昔に比べ利口になったのか?」と問われると「いいえ」と言わざるを得ません。知識も生活も豊かになったがその反面、未だに仏教の「和合」の教えを理解できていません。どうぞ皆さん、今一度身近な人間関係から「和合」というものを考え直してみてください。人と人とが理解できれば、それがきっと大きな和合になって、さらには人から大きな国や自然や宗教に対しても和合することができ、より良い環境ができていくと私は確信しています。

■小さなものに目を向ける
私事ではありますが、先の10月29日は12年前に私が晋山式をさせていただいた日であります。今振り返ってみると、この12年間は本当に多くの事があり、目まぐるしくも我ながらよくやってこられたものだなぁと思います。奇しくもその先月には私が大変お世話になった平林寺専門道場の野々村玄龍老大師の7回忌法要がございました。僧堂を出て何年経っても僧堂へ足を運べば色々なことを思い出しますし、老師の言葉も頭の中で蘇ってまいります。当時、作務中に老師から「あんたは学校でどんなことを勉強しとったんだ?」と尋ねられたことがあって、私が「ミジンコの研究をしておりました」と答えると「おぉ、ミジンコか。そうかそうか、それは面白そうだなぁ」と興味深そうに聞いてくださいました。それを覚えてくださっていて、私の晋山式の時にご垂訓の中で「...この新命和尚は学生時代ミジンコの研究をやっていたと聞いたことがあって、私はそれを聴いてとても嬉しかった。私たちが普段気付かない、無視しているような小さな生命体に光を当てていく。とても禅僧らしい」。そういう言葉を思い出しました。小さなものに目を向ける、とはどういうことでしょうか。「一葉落ちて知る天下の秋」という禅語があります。赤々と紅葉した山々を見れば、あぁ秋だなぁと誰もが感じることでしょう。でも1枚の葉っぱがひらりと落ちてきただけでは、気にも留めずに通り過ぎていってしまう。でも本当は、その葉からその向こうにある天下に広がる秋を感じ取ることができるし、そこに目を向けていくことが小さなものに目を向けることなのかと思います。しかし今の自分にそれができているのか。カレンダーを見て、あぁ12年経ったなぁ、いろいろ大変だったなぁと思い返すのは簡単です。ですが本当は流れていく毎日の中で、自分を支えてくれた何気ないひとつひとつの事、それは綺麗に洗って畳まれた洗濯物や、日に3度食卓に並ぶ料理、食器棚に並べられたお皿、温かいお風呂、あるいは境内のお地蔵さんや墓石にいつでもお供えされている花々。そんな何気ない風景に目を向けて、そこの向こう側にある12年という月日の有難さに気付いていかなければならなかったのだと、反省をしております。「小さい秋みつけた」というサトウハチローさん作詞の童謡があります。
誰かさんがみつけた 小さい秋見つけた 目かくしおにさん手のなる方へ
澄ましたお耳に かすかにしみた 呼んでる口笛 もずの声
耳にかすかに聞こえてきた小さい秋の声を聴いて、外に広がる大きな秋を感じる。私たちは普段気にも留めない小さなものからでも、その後ろに広がる大きなものに気付いていくことができるのです。小さな秋の声を感じるように毎日の風景の中の小さなものに目を向けてそのうしろにある大きな「おかげさま」を見つけていきましょう。

■師走 時不待人
早いもので今年もあと、ひと月となりました。12月を師走と呼ぶ由来に、師(僧侶)がお経をあげるために、東西を走り回る月と解釈するのでこの名が起きたという説があります。僧侶だけでなく、12月を迎え忙しく走り回られている方もおられることと思います。私自身は年内にしなければならない用事に追われ、もっと早くから準備をすればと自責の念に駆られています。古人が「無常迅速 時人を待たず」と示されているように時間の経過は人の都合に関係なく流れていきます。師が走るということで、先日、私事ですが地元のマラソン大会に出場いたしました。友人に誘われ渋々、人生で初のフルマラソンに臨みました。5月にエントリーを済ませていたのですが、まさか本当に出場するとは思わず、練習をする気が起きないまま夏を迎え、暑いから涼しくなってからと自分に言い訳をし、練習を始めたのは秋の御彼岸が明けた頃からと、約1ヶ月だけ練習をしました。本番当日、制限時間内に完走という目標を立てスタートしました。20qまでは快調に進みましたが、そんなに甘くはありません。少しずつ脚が痛くなり、足取りが重く、走る速度が遅くなり、快調に走っている時には気にならなかったチェックポイントでの制限時間を示す時計が気になりだします。30分以上あった貯金も少しずつ無くなり、疲れと足の痛みでフォームが崩れていくばかり。頭の中で、こんなことならもっと早い時期から練習をすれば良かったという反省と、もうリタイアしたいという思いが駆け巡ります。それでも共に走る友人や沿道の方々の声援を受け、足を前へと進めます。37qを過ぎ足の痛みも限界を迎えて、呼吸も乱れ、制限時間が迫り、気持ちが焦り、心が折れそうな私を見かねて、友人から「少し呼吸を調えよう」と提案されました。少し立ち止まり、屈伸などをして体を調え、大きく深呼吸をし、背筋を伸ばして呼吸を意識しながら歩いてみました。時間を気にせず、姿勢と呼吸を意識しながら1qほど歩き身体と呼吸を調え、再び走りだし、おかげさまで制限時間内に完走することができました。時は常に進んでいます。人の都合を待ってはくれません。考えてみれば私たちは常に時間に追われているように思います。仕事や用事などの人が定めた制限時間もあれば、いつ訪れるか分からない生命の終わりにも追われています。流れ行く限りある時間の中で、もっとこうしておけばと過ぎ去った時間を後悔し、まだ来ぬ制限時間が気になり、今を苦しみ悩む時、また何かと用事に追われ気忙しくなる師走のこの時期に、静かに坐って身体と呼吸と心を調えてみてはいかがでしょうか。

■時人を待たず
今年も残すところあと僅かとなりました。喜びの年であった人、悲しみの年であった人、悲喜交々の年の暮れを迎え、大晦日には除夜の鐘を撞いて「来年こそは」と思いを馳せる人も少なくないのではないでしょうか。禅語に「生死事大 無常迅速 時人を待たず 慎んで放逸なるなかれ」の語があります。世の中の移り変わりは極めて速いものです。歳月は待ってはくれません。一度限りの尊い人生を勝手気ままな日々として迂闊に送ることはできません。ところで私たちの本山妙心寺には1319年前、698年に鋳造された日本最古の名鐘、国宝の黄鐘調の梵鐘がありますが、自坊にも太平洋戦争で供出した梵鐘の代わりに昭和36年に鋳造して釣り下げた梵鐘があります。以来、祖父、父、私と引き継ぎ毎朝夏の季節には5時に、冬の季節には6時に鐘を撞いて地域に時を知らせています。その朝の鐘撞きを父と交代するときの出来事です。生来、正直で生真面目な性格の父は毎朝の鐘撞きを頑として欠かしたことはありませんでした。私はというと、師匠である父に甘えて我儘ばかり、お寺に生まれながらも何となくお寺が嫌で、仕方なく寺の跡を継いだ私でありました。そんな私でも住職を交代したからにはと「よし、これからしっかりお寺を守ろう」と意欲に満ちた時期でもありました。まずは、朝の鐘撞きからと早朝、鐘を撞こうとすると父がいつの間にかもう起きて鐘撞き堂に立っています。それではと私が父よりも先に起きて、父が来るのを待って撞くと、父はそのまま黙って帰っていくのですが、また次の朝には鐘撞き堂の前で待機しています。このようなことが何回も続くので「こちらは折角やる気を出して真面目にお勤めしようと思っているのに、子の心親知らずじゃ。もう楽をしてやれ」と私は自分に都合のいい言い訳で、朝早く起きるのを止めました。気ままな生活に戻り、元の木阿弥となりました。やはり朝は早く起きないと生活は乱れます。しかし、ある時これではいけないと思い直して、けじめとして朝の鐘撞きから始めようと父に「明日から私が鐘を撞きます」と宣言しますと、父は何も言わずに翌日から撞くことはありませんでした。あれから10数年、朝早く起きて毎日鐘を撞くことは大変辛いことです。時には寝忘れもしますが、それでも1日の始まり、澄み切った爽やかな空気や朝露の清らかさ、虫の鳴き声、月や星の美しさ、お天道様を拝む清々しさ、冬の寒さや冷たさ眠たさを体感しながら、50年間ただ黙々と毎日のように勤め上げてきた、父の日常に頭の下がる思いがします。昨年、遷化した父を偲び朝の鐘を「ゴーン、ゴーン」と撞くたびに正に「子に勝る親心」であったとしみじみと感じ、父に感謝し反省する日々です。道歌に「耳に聞き心に思い身に修せばやがて菩提に入り合いの鐘」という歌がありますが、時は待ってはくれません。「聞思修」の3つの智慧を活かし働かせ、心に鐘を鳴らし続けて残り少ない年の瀬の日々を乗り切りましょう。

■白隠禅師のこころ 「情けは人のためならず」
「情けは人のためならず」とは、よく耳にする諺でありますが、よく意味を勘違いしている人が多い諺としても知られています。「情けをかけることは、結局その人のためにならないので、すべきではない」という解釈と「情けは人のためではなく、いずれ巡って自分に恩恵が返ってくるのだから、誰にでも親切にせよ」という全く正反対の2つの解釈が成り立つというのです。平成22年に行なわれた文化庁の「国語に関する世論調査」ではどちらの回答も45%という結果が出ているそうです。今年、平成29年に250年の遠諱を迎えた白隠慧鶴禅師の「善悪種蒔鏡和讃(ぜんあくたねまきかがみわさん)」『白隠禅師法語全集 第十三冊』の中に
「情けは人のためならず、即ち孫子のためとしれ」
という一節があります。白隠禅師は江戸時代初めの禅僧ですので、「情けは人のためならず」という諺は少なくとも江戸時代には一般に使われていたようです。ここで白隠禅師は後半部分に「即ち孫子のためとしれ」という句を続けています。これが白隠禅師の作によるものなのかは定かではありませんが、後半部分から察するに「情けは相手のためだけではなく、自分の子孫に恩恵が返ってくると思って誰にでも親切にせよ」という意味になります。人に情けをかけるのに「子孫のためと思ってしなさい」というのは「見返りを求めてはいけない」という白隠禅師の思いが込められているのではないでしょうか。「情けをかける」ことを仏教の用語に置き換えるとするならば「布施(ふせ)」という言葉が適当ではないかと思います。「布施」というとお坊さんへの御礼のことだと思われるかもしれませんが、大乗仏教の修行徳目の1つで「施し与える」ことを表わしています。この布施で最も優れているのは「三輪空寂(さんりんくうじゃく)」といって、施す者も、施しを受ける者も、施される物に対しても何の執着もないのが理想だとされています。「見返りを求める心」が少しでも残っていると「恩を仇で返された」とか「恩知らず」などと「恩着せがましい心」を生じかねないからです。白隠禅師が22歳の頃、伊予松山の正宗寺において逸禅和尚の下で修行していた時の出来事です。ある日、松山藩の家臣から正宗寺に優秀な修行僧がいるということで、白隠も含めて5人の修行僧がお斎に招かれました。互いに挨拶をすませると、主人は数十本の掛け軸を出してみせました。その中に錦の袋に包まれ、二重箱に入った一軸が皆なの目にとまります。恐る恐る開けて拝見すると、あまり見栄えのしない軸でありました。白隠はがっかりしながらも、よくよく見てみると、それは高名な禅僧、大愚宗築(たいぐそうちく)によって書かれたものでありました。あまり上手な筆跡ではなく、文句もありきたりであるにもかかわらず、このように尊重されるのは、すべて大愚和尚の人徳であり、人間性である。それが優れているからこそ、このように大切に秘蔵されてきたのであろう。人が尊ぶものは大愚和尚の徳そのものであって、決して筆跡の良し悪しや理屈ではないと白隠はその時に悟り、一層修行に努めたといわれています。白隠禅師は「情けは人のためならず、即ち孫子のためとしれ」と一般庶民にもわかりやすく、見返りを求めずに善行を積むことを説かれました。でも白隠禅師の本当のねらいは、「情けは人のためならず、即ち自分の修行のためとしれ」と、私たちが少しでも仏さまの心に近づくことではないでしょうか。

■敬天愛犬
明治初め、とある鰻屋に犬を連れた男が立ち寄り、鰻丼を注文します。店の主人が一杯持ってくると、男は店の庭に繋いだ犬に鰻をあげました。そして又一杯、更にもう一杯と鰻丼を頼み、犬に食べさせました。それほど犬を愛したこの人物こそ西郷隆盛です。彼ほど「犬(戌)」としっくりくる人物はいません。東京上野公園の愛犬を連れる銅像は、私たちに払拭できない西郷隆盛のイメージを与えております。しかも、この銅像が完成した除幕式が、明治31年戌年です。更に彼が生涯を閉じることになった西南戦争。その発端となった、鹿児島における私学校設立も明治7年の戌年であります。また言うまでもなく本年戌年の大河ドラマは「西郷どん」です。西郷隆盛の好んだ言葉に「敬天愛人」があります。万物生成の源たる天。大自然とも宇宙とも置き換える事ができます。その存在を敬う。敬うとは真心を行動で示す事です。行動とは言葉遣い・立ち居振る舞いです。真心を尽くし人をいつくしむ。敬天愛人の説く処は実に深淵です。西郷が好んだ敬天愛人。墨跡としても大変珍重されていますが、実際本人が揮毫したものは十幅だけだそうで、それらは明治7年戌年後半から9ヶ月という僅かな期間に書かれたとされます。やっぱりここでも、犬(戌)がついてまいります。そんな西郷にあやかって、犬にまつわる禅の教え「狗子仏性(くすぶっしょう)」(『趙州録』)をご紹介いたします。中国は唐時代の禅僧、趙州禅師の禅問答です。
修行僧が禅師に問いかけます。「狗子に還って仏性有りや無しや(犬にも仏様の性質がありますか?)」。禅師は「無い」と応じます。その言葉に、「上は諸々の仏様から下は蟻にまで全てに仏性が有ります。なぜ犬に無いのですか」。と修行僧が尋ねると、禅師はこう答えました。「業識性(ごっしきしょう)があるからだ」。
東福寺派管長であられた福島慶道老大師は、「業識性は迷いだ。だからこれは、『犬に迷いがあるからや』。迷いのあるものは、それは仏性を具せる当体とはいえない」(『趙州録提唱』)。と示され、この問答の傍に犬がいたと推察されておられます。もしかしたらワンワン吠えていたのかも知れません。先述した敬天愛人に含まれる「愛」の字ですが、漢字の成り立ちからして、ほのかにひっそりと歩く意、とされます。相対する人と歩調をあわせるためには、自身の心を穏やかに、そして迷うことなく、飾ることなく自然体で向き合わねばなりません。犬にも感情があります。遊んでくれ、餌をくれ、こっちに来るな、と吠える犬には仏性は無い。これは人間も同じではないでしょうか。逆に犬との散歩の途中に転んだ時、犬が立ち止まって傷を舐めようとします。心配してくれているからです。犬も真心を行動で示し、寄り添って歩いてくれることがあるのです。冒頭の西郷の逸話には続きがあります。合わせて3枚の鰻を犬に食べさせた西郷ですが、面白くないのは店の主人です。丹精込めた鰻を犬に食べさせる訳ですから。西郷が更に注文しようとすると、鰻はもう無いと断ります。すると西郷は、そっと包み紙を置いて犬を連れて店を出ます。店の主人が包み紙を開けると金5円(現在の凡そ10万円)が入っていました。驚いた店の主人は後から、この人物が西郷だと気づき納得したといいます。平生、真心を尽くす心掛けを修養したとされる西郷ならではの逸話であります。相対する人に歩調を合わせること。西郷のような偉人だけが得られるのではなく、散歩中の犬にだって迷いなく表わせる、誰しもが持つ真心の働きです。本来具せる私たちの真心で、年頭の一歩を踏み出していただきたいと存じます。 
 

 

■精出せば凍る間もなし水車
新たに年を迎えると今年はどんな年になるのだろうかと思うより、去年は何があったか思い返します。個人的に良い事も悪い事もありましたが、すべて過去のこと。周囲が去年ではなく今年の話題で盛り上がるのを見ると、冬の寒さにも似た寂しさを感じます。
精出せば凍る間もなし水車(みずぐるま)
という江戸中期の俳人 松木珪琳の句が『禅林世語集』に収められています。滔々と流れる水に沿って回る水車は厳冬の中にあっても凍る事がないとされます。水車を私達の心だとすると、水の流れはお釈迦様が説かれた、すべては移ろい変化するという教え、「無常」の流れといえます。句の冒頭に「精出せば」とありますが、水車がいくら精出して回ろうにも水の流れがなければ回れません。精を出すのは回る事ではなくて水の流れに沿うこと。しかし、私たちは過去の経験や体験から「こうでなければ」という思いを持ちだして流れに沿えずに心を凍らせてしまいます。珪琳の句は季節も時代も人も刻々と変化する流れの中で、私たちも心をそれに沿って行く事で、自然と凍ることなく自分の務めを果たせると教えてくれているのではないでしょうか。「和尚さんこういうの知ってるかい?」 そういって見せられたスマートフォンの画面には某SNSサイトに投稿された写真が映っています。見せてくれたのは私の住む町の区長会長、自治会の理事など数々の公職を今も務められる70歳を過ぎた男性のMさん。驚く私を前にMさんはご自分が他に利用しているSNSを次々と教えてくれます。「いやぁ、時代は変わるもんだね。俺が子どもの頃はこんな風になるとは思ってなかったよ。でも、その時代時代にあった生き方があって、その中で自分がやることをやるしかないね」 そう言ってMさんは数々のSNSを通じて自治体の広報活動をしたり、他の自治体との交流を図っていることを溌剌とした表情で教えてくれました。年齢を問わず、時代や物の変化の流れについていけずに、それまでの経験から「こうでなければ」と思う事は誰にでもあるかと思います。しかし、時代の流れに沿って楽しみながら公職の務めを果たすMさんの姿に、私は初めの句にある水車を重ねました。今年一年、良い事も悪い事も含めて色々な事があると思います。常に移ろい変化していく流れの中で、「こうでなければ」という自分の思いで心を凍らせるのではなく、流れに沿って務めを果たす水車やMさんのように、溌剌と日々を過ごしていきたいものです。

■歩歩是道場
大学生時分、茶道を学んでいた頃、初釜の茶会に伺うとよく見かけた禅語に「歩歩是道場」というものがありました。1月の床の間にはこの禅語の掛軸を掛け、ひと時向かい合います。妙心寺派布教師であられる故松原泰道師の「禅語百選」にはこの言葉の解説として「私たちの一歩一歩、言動のひとつひとつがみな修行であり、真理のど真ん中で生活している(ことに気づくこと)」「今日、ただ今、ここに一所懸命になること」と、この禅語を味わうためのヒントを記して下さっています。先代住職が京都の大本山妙心寺で修行したからという理由で、大学卒業後の4月に妙心僧堂に入門を決意し、少なくとも5年、いや、道を究めるまでは仙台へは帰らないと、檀家総代さんらの前で啖呵を切ったものの、現住職の体調不良と法務過多によりわずか3年半で修行を一旦切り上げる事となり、「ただでは帰れない(涙目)」と思っていた折、「そうだ、歩いて帰ろう」と、かの有名なキャッチコピーみたいなものが浮かび、これなら総代さん達も許してくれるだろうという安易な思いから、わずかな着替えと、腰に草鞋を5足程むすんで、仙台への一歩を踏みだしました。京都駅すぐの京都タワーが見えているうちから「やっぱりやめて新幹線で帰ろう」と、立ち止まって休んではそう思いました。そのたびに、檀家さんの姿やお寺で待つ住職や祖母、道場の師匠や同輩たちの姿などが脳裏に浮かび「情けないまま帰れない。頑張ろう」とまた一歩。道中、駅のところを歩くたび「ここでやめて電車で新幹線のある駅まで」と、駅のホームで休みながら「嫌でもここまで来たから頑張ろう」とまた一歩。事あるごとに「やめよう、いや頑張ろう」を繰り返しながら、ときに道を間違えたり、立ち寄ったりしたお寺さん等の助けを「存分に」お借りしながらも歩く事をやめず、気が付けば、歩き始めて43日目、どうにか仙台へと辿りついたのであります。今、この歩みのことを思い出すと、辛かったこと苦しかったこと迷ったことがまず真っ先に出てきますが、その時の弱い心も情けない心も、いまの一歩を見つめるための、ある意味丁度いいひと呼吸になっていたと感じます。一歩一歩も、一呼吸一呼吸も、これまでの沢山のご縁への感謝と、これからの目標に向かって行こうという思いを強くする、いわば自分を見つめる大事な瞬間だったと感じます。道場とは「修行の場」という意味もありますが、お釈迦様がお悟りを開かれた菩提樹下の座の事をも指します。一歩、一呼吸に自分を見つめる瞬間は、お釈迦様が静かに坐られた菩提樹の下と変わらぬ境地と言えましょう。皆様の1年の無事息災と、これからの歩みが安らかなものとなります事を祈り、また自分自身も今年の目標に向けてしっかりと歩めるように、この「歩歩是道場」という禅語を座右として参りたいと存じます。

■大用国師のこころ 「縁にしたがって」
円覚寺では今年、元管長・釋宗演禅師(1860〜1919)の100年遠諱、そして来年は円覚寺中興開山である大用国師(だいゆうこくし)誠拙周樗(せいせつしゅうちょ)禅師(1745〜1820)の200年遠諱を迎えます。遠諱とは50年ごとに営まれる法要のことですから、この法縁に巡り合うことは決して容易なことではありません。誠拙禅師は現在の愛媛県宇和島市の生まれで、円覚寺の山門の建立や専門道場を開くなど、当時荒廃していた円覚寺を再興しました。誠拙禅師が3歳の時に父が他界。間もなく母は再婚をして子が生まれ、禅師は7歳にして宇和島の佛海寺霊印和尚に預けられ出家しました。小僧時代のことです。宇和島藩主伊達公がお見えになり、参勤交代の折りに江戸へ行くので法衣を買ってくるという約束をしました。後日、伊達公が法衣のことをすっかり忘れていたことを知ると、「武士に似合わぬ二言のやつめ」と伊達公の頭を叩いたのです。慌てて必死に低頭する師匠の霊印和尚でしたが、伊達公は「この子はきっと大物になるであろう。大事に育てよ」とおっしゃったのでした。このようにやんちゃな小僧さんでしたので、お寺からお母さんが呼ばれることも珍しくなかったようです。後に誠拙禅師はこんな歌を残されています。
おとずれて いさめたまいし 言の葉の 深き恵みをくみて 泣きけり
幼少の頃からお寺へ預けられ、母から慈愛を注がれることなく、不幸な人生だと思っていたけれど、我が子と離れ離れに暮らさねばならなかった母の気持ち、さらにはお寺までの約20kmを歩いてきては、いさめてくれた母の言葉、その一つ一つが実は母からの慈愛であったと思っては涙があふれてくるというのです。寺に預けられた当初は、自分だけの価値観、独りよがりの気持ちしかなかったけれども、母も自分と同じように悲しんでいたのだ。そう思うと、心に留まるものがなくなっていったのです。誠拙禅師は27歳の時、当時師事していた月船禅慧禅師(1702〜1781)の勧めによって円覚寺へ出世します。しかし当時の円覚寺は伽藍も僧侶も荒廃しており、幻滅した誠拙禅師は月船禅師のもとへ戻ります。ところが月船禅師の「見損ないましたかね」の一言で発奮、見事に復興させたのでした。月船禅師はそんな荒廃したところだからこそ、力量ある誠拙禅師を送り出したのです。日常生活を振り返ってみますと、私たちは都合の悪いことに背を向けたり、天秤にかけたり、分別したりしがちであります。そして、しこりやわだかまりといった自分の価値観に執着して、それを放そうとしないことが往々にしてあります。私たちが生きていくということは、ご縁をいただいていくということです。その一つ一つのご縁には自分にとってよいご縁もあれば悪いご縁もあります。しかし元々はたった一つのご縁なのです。それを私たちはつい、自分の都合で価値判断を添えてしまうのです。外から関わってくるご縁に、自分の都合によって分別心が生じても、この分別心を断って、どこにも留まらない、たった一つのご縁とそのまま向き合っていくことが自分を救い、そして周りにも安らぎを与えるのだ。どんな環境でも縁にしたがって心を留まらせてはいけないのだと、誠拙禅師のご生涯から教えていただきました。誠拙禅師は76歳で遷化されるまで、縁にしたがって現在の八王子市山田に廣園僧堂、京都に相国僧堂を開かれるなど東奔西走、各地でその教えを広められました。遠諱を迎えるにあたり、一人でも多くの方に禅師の教えに触れていただきたく、仏縁を結んでいただきたいと思います。

■身近な言葉から学ぶ仏教 〜挨拶〜
日本語の熟語には仏教由来のものが多くあり、そのひとつに「挨拶」があります。国語辞典には「人に会った時や別れる時などに取り交わす、礼にかなった動作や言葉」と書かれています。現在、行なわれている挨拶としての意味です。しかし仏教語辞典によると、本来の仏教語としての意味は「師匠が弟子の悟りを推し量る事」と書かれています。又、それぞれの漢字の意味を調べると「挨」は軽く押すこと、「拶」は強く迫ることです。師匠が弟子の悟りを推し量るために、弟子に軽く問題を出し、それに弟子が自分の悟りを示そうと、精一杯の力で師匠の問題に応える。つまり「挨拶」とは禅問答です。今も修行道場では師匠と弟子が禅問答を行なっています。勿論、私も行ないました。はっきり言って師匠の前に行きたくないなぁと思ったことは一度や二度ではありません。師匠の問いかけに生半可な答えをしてしまうとたちまち見透かされ、師匠から厳しい叱責が飛んできます。禅問答は師匠と弟子の真剣勝負なのです。問題を出す師匠も弟子を見極め、応えられるギリギリのレベルの問題を出し、それを精一杯の力で弟子が応える、こういう問答を繰り返して、師匠は弟子を深い悟りへと導くのです。そして私たちが普段の挨拶もきちんと行なえば、禅問答に劣らぬ仏道修行になります。状況や相手を見極め、その場に応じた言葉を出す、または自分に向けられた言葉に精一杯応えることで禅問答と同じ「挨拶」になるのです。私が高校生の時に通っていた英語塾の先生は挨拶を非常に重視する方でした。挨拶をしない、言葉を略す、そういうことをすると厳しく叱られました。そして叱った後は必ず「お前たちは大事な時間とお金を使って、何を学びに来ている? 英語か? 違う、人と繋がるための言葉を学びに来ているのだ。そうして学んだ言葉を使って多くの人と繋がり、縁を広げ、自分自身を大きく広げるために学んでいるのだろう。初めて教えた英語はHALLOじゃなかったか? 日本語だろうが、まずは挨拶だ。そこから人と人の縁は結ばれて、成長していくのだ。挨拶を真剣にできない者は他のことも真剣にはできないぞ!」と幾度となく挨拶の大切さを教えていただきました。禅問答と聞くと特殊なことで、特別な所でなければできない、自分たちの生活とは程遠いものだと感じるかもしれませんが、普段の挨拶という身近なことで同じことができるのです。伊万里市の圓通寺におられた森永湛堂老師はこんな句を残しておられます。
仏縁を 結びて 春を待ちにけり
お互いの縁を結んでこそ、春(良い結果)がやってくると諭しておられます。どうぞ、これからもお互いに禅問答、つまり正しい挨拶を行なって深い悟りへと進んで参りましょう。

■雪に耐えて梅花麗し
厳しい寒さが続きますが、2月も半ばになると、境内の梅が開花します。梅の花は厳しい寒さの後の春の訪れを感じさせてくれます。この梅に因んだ言葉に「雪に耐えて梅花麗し」があります。これは、地元野球チーム、広島カープで活躍した黒田博樹投手が座右の銘とした、西郷隆盛の言葉です。西郷隆盛は、江戸幕末、薩摩藩の下級武士で、藩主島津斉彬公の目にとまり登用されますが、斉彬公の急死で失脚し、奄美大島に流されます。その後、復職し、薩長同盟の成立や江戸無血開城など大きな成果をあげ、明治政府では重要な役職に任命されました。そんな西郷隆盛がイギリス留学する甥へ書いた手紙の中の言葉が「雪に耐えて梅花麗し」です。厳しい雪の寒さに耐えてこそ、梅の花は美しく咲く。人間も、多くの困難を経験してこそ、大きなことを成し遂げられる。これは甥の成長を願う激励といえましょう。黒田投手は高校の授業でこの言葉を知り、感銘を受けてそれ以来、座右の銘としました。実は黒田投手は高校の3年間、控え投手だったために公式戦で一球も投げられずにいました。しかし大学進学後、トレーニングの成果が出始め、卒業後はカープに入団しエースとして活躍します。その後、アメリカのメジャーリーグでも活躍し、再びカープに復帰すると、現役最後の2016年、日米通算200勝を達成。カープ25年ぶりのリーグ優勝に貢献し有終の美を飾りました。偉人の言葉には、時代を越えて、多くの人を励ます力があります。私は、右も左も分からず入った修行道場で3年間お世話になりました。その後、自坊に戻り副住職となりましたが、そこからはまた、一からのスタートでした。副住職として檀家さんとのお付き合いが始まり、法事や通夜での法話も手探りで始めます。しかし、心遣いが足りなかったと反省したり、なかなか思うようにいかず、落ち込むことがあります。そんな時、禅の先人方の書物を読み、その言葉に力をいただくことがあるのです。その中にも登場した西郷隆盛は、禅の修行をした禅の達人でもありました。難しいと諦めてしまえば成長できない、困難な時も精一杯頑張っていく、その積み重ねが将来の自分として表われてくると信じ、精進精進と思う毎日です。仏教詩人といわれた坂村真民(さかむら しんみん)さんの詩に「生きることは」という詩があります。
生きることは 自分の花を咲かせること 風雪に耐え 寒暑に耐え だれのものでもない 自分の花を咲かせよう
人生で壁にぶち当たっても、目をそらさず精一杯やっていくと、得るものが必ずあります。そのすべてが私たちの肥やしとなり、いつか花を咲かせる時がくるでしょう。皆さまの周りにも素晴らしい花を咲かせている方がいらっしゃるのではないですか。私たち自身も美しい花を咲かせたいものですね。

■二人のご縁
昨年、JR京都駅から山陰本線の列車に乗った時のことです。向かい合わせの4人掛けの座席には、私の他に齢80代後半と思しきおじいさんと、就学前の男の子を連れた母親とが座っていました。京都駅を出発し、鉄道博物館で知られる梅小路公園の横を通りかかると、男の子が窓の外を指さして「D51だ、DE10形ディーゼル機関車だ」と言いました。するとおじいさんは「坊やは機関車の名前をよく知っているね」と話し、カバンの中から1冊の分厚いファイルを取り出して男の子に見せました。横から眺めると、それは蒸気機関車が日本全国を走っていた頃の古い鉄道の写真をスクラップブックに貼り付けて、撮影場所や機関車の型式等を書き入れた、おじいさん自作の鉄道写真集でした。男の子は目を輝かせながらページを繰り、写真一つ一つに感想を述べていました。最後まで見終わりファイルをおじいさんに返すと、今度は自分のリュックサックから何やら取り出しました。それは画用紙に色を塗って切り貼りして作った新幹線でした。裏には覚えたての文字で名前や型式が書かれていました。おじいさんはそれを手に取り「よくできているね」と感心し、さらに話は尽きません。年齢差が80歳はあろうかという二人のやり取りを私は最後まで見たいと思いましたが、下車する駅に到着してしまいました。おそらくその後も会話は弾み、男の子にとってもおじいさんにとっても忘れがたい時間になっただろうと思います。私は二人を見ていると不思議な気持ちになりました。おじいさんは昭和初期の生まれと思われます。当時はまだ、江戸時代生まれの幕末の記憶が鮮明な方がご健在で、彼らから鉄道の無い時代の暮らしぶりを聞いただろうと思います。一方、平成20年代に生まれた男の子にとって、自分が老人になる頃に直接話をする子供たちは22世紀の後半まで生きます。彼らはリニアモーターカーよりも世代の進んだ鉄道に乗っていることでしょう。私の目の前で、二人を通じて300年の時間が繋がっている、そういう不思議な気持ちになりました。一人の人間の生涯は80年ほどですが、ご縁を通してそれ以上の繋がりが一生の中に詰め込まれています。現在を生きる私たちが"22世紀を生きる人たちが幸せに暮らしてほしい"と思うように、"21世紀を生きる人たちが幸せに暮らしてほしい"と思っていた19世紀の人の未来を私たちは生きています。男の子がおじいさんになった時に、「そういえば、小さい頃に電車で偶然出会ったおじいさんが蒸気機関車の写真を見せてくれたことがあったなあ」と懐かしく思い出して、子どもたちに話を聞かせることがあるかもしれません。人のご縁は面白いものだと思います。

■釋宗演禅師のこころ 「百年遠諱に寄せて」
今日、米国における禅道場数は臨済宗曹洞宗あわせて200ヶ所を超える。駒澤大学教授、石井清純先生によれば米国の仏教徒数は300万人で、仏教の影響を受けた人は2500万人。禅は彼らにとって自己の可能性を最大限に認める教えとして魅力なのだそうだ。米国だけではない、中南米からヨーロッパ各地にも多くの禅道場があり、多くの信者や出家者たちが坐禅や作務に励んでいる。そのきっかけとなったのは釋宗演禅師の米国布教であるといって間違いない。禅師は福沢諭吉の勧めで、1892年にシカゴで開催された万国宗教大会に出席され、それに際し禅師は自らの思いを込めて次の偈を作られた。
釈尊孔聖及耶蘇  釈尊孔聖(孔子)耶蘇(キリスト)に及ぶ。
大海胸量絶有無  大海の胸量(人格)は有無を絶す。
一堂把手識何事  一堂、手をとって何の事をしらん。
笑殺人間小丈夫  人間(世間)の小丈夫(ちいさい者)を笑殺せん。
1906年、禅師は鈴木大拙(1870〜1966)を通訳に伴ない渡米する。これより禅師の米国における禅指導が始まった。その後、鈴木大拙博士のコロンビア大学での禅講座があり、博士の紹介で柴山全慶老師(1894〜1974)の米国布教に繋がった。今日、欧米の宗教関係者で鈴木大拙博士と柴山全慶老師の名を知らない人はいない。その元をたどれば釋宗演禅師の種まきがあればこそである。曹洞宗でも同時期に米国布教がなされた。1903年より同胞慰問使が米国派遣され、1913年にはホノルルに正法寺が創建された。1959年に鈴木俊隆師がサンフランシスコに桑港寺を開いたことはよく知られている。最後に『釈宗演全集』(昭和4年)「禅師逸話」の中から沼津の東方寺住職、天岫接三師が禅師の人柄について述べておられるのでここに紹介する。禅師の百年遠諱にあたり私たちへの訓戒としたい。
一 決して他を誹謗しなかった事。
一 講演などの場合よく前講者の論説を聴取せられた事。
一 他に向かって寄付や喜捨等を請わなかった事。
一 他に対して通信応酬は迅速だった事。
一 公私如何なる場合にも、言動共に紳士的であった事。
一 極めて人情に厚く同情に富んでおられ、人に接するに厳格にして且つ温和。
  人をして永く忘るる能わざらしむ引力を有せられし事。
一 更に特筆すべきは、一生を通じて精力主義であった事。

■釋宗演禅師のこころ 「供養とは」
なき親の残しし園の花折りてまつるこころに神いますなり  『楞伽窟歌集』
釋宗演禅師(1858-1919)は若狭国高浜(現福井県大飯郡高浜町)に生まれ、1870年に得度。1878年に円覚寺の今北洪川老師の元で修行を始め、「宗演禅士は観音の再来」と師匠に言わしめるほど、自分のことを抜きにして徹底的に人々のために尽くされた素晴らしい禅僧でありました。冒頭の句は釋宗演禅師の歌集、『楞伽窟歌集』にある一句です。今は亡き両親が遺した庭に咲く花を、在りし日の面影を思い浮かべながら墓前に手向け、心静かに手を合わせる。そんな姿を目にして思わず頭の下がる思いがする...。「ある人に」と添えられたこの歌は釋宗演禅師の考える供養のあるべき姿を示しているようにも感じられます。釋宗演禅師は12歳で出家して親元を離れているので、親子の関係にはよりいっそう特別な思いを抱いていたのかもしれません。供養という言葉は分解すると「供える」、「養う」の二語となります。ご先祖さまの供養をする、親の供養をする、などというと供えることで親やご先祖さまを養っているように感じますが、養っているのは私たちの心であるともいえます。冒頭の歌の「ある人」も、在りし日の両親を思い浮かべながら墓前に花を手向けたとき、そこには確かに親子の縁、絆が感じられたはずです。「いつでも両親は自分のことを見守ってくれているのだ」という感覚。日本伝統の言い回わしをするならば「草葉の陰」でしょうか。そういった感覚は自分自身の心の安心に繋がります。「ある人」は、両親に供養をすることで知らず知らずのうちに両親からも供養されていたのです。誰かのためを思って一所懸命にしたことが知らず知らずのうちに自分の安心に繋がっていく。ここに供養をすることの大切な意味があるのです。当たり前のようですが、「お供えをする」という行為はお供えをする対象がいないと成立しません。私たちが仏さまやご先祖さまに向けてお供えをするとき、そこに私たちとのご縁があるということです。私たちはそういった数え切れないくらいたくさんのご縁に育まれて今、ここに生きているのですが、普段忙しく毎日を過ごす中ではしばしばそのことを忘れてしまいます。だからこそ、現代では忙しい日常から離れてご先祖さまに心静かに手を合わせる時間は、よりいっそう貴重なご縁なのだと思います。お供えをすることによってご先祖さまと私たちのご縁を結び、私たちが今ここにあることの有り難さ、不思議さに気づく。供養を通じて私たちが今、ここに生きていることの不思議に気づいていく。そして私たちがまた明日からの一日一日をしっかりと生きていく機縁になる。これが供養のあるべき姿なのだと私は信じています。

■左手の親指と四指の間にかけるものは何?
それは数珠です。念珠とも言います。最近使ったのはいつですか?仏壇に向かって合掌した時でしょうか。お墓参りや、法事、通夜、葬儀の時に数珠は必携です。仏前結婚式では、新郎と新婦で指輪交換ならぬ寿珠交換も行なわれます。近年は様々な素材の腕輪念珠を身につけている方もよく目にします。僧侶も数珠を身につけていないと格好がつきません。かくいう私も法事の時にうっかり看経(かんきん)念珠を忘れた時は、覚悟を決めて目立たないようにしています。『仏説木槵子経(もくけんしきょう)』によると、お釈迦さまが霊鷲山(りょうじゅせん)に滞在されていた頃に、ハルリ国の使者がお釈迦さまに問われました。「わたしの国は小さい国で、しきりに盗賊に脅かされ、悪病が流行して、国民の困苦は口ではとうてい言い表わすことはできない状況です。国王も心を痛められ国を治めることができません。皆を救うにはどうしたらよろしいでしょうか」と。するとお釈迦さまは、「木槵子※1(ムクロジの種子)を百八顆(か)つないで、行住坐臥いつでも手にして、心を込めて三宝(仏・法・僧)の御名(みな)を念じて怠らなかったならば、煩悩による苦しみがなくなり、無上の果徳を得ることができるであろう」とお示しになり、国王が木槵子の念珠を千具作り、身内から分かち与えてそのように行動したところ、その功徳広大であったと讃歎したということが念珠の起源です。正式の数珠は玉が百八個あり、お釈迦さまは、人には百八つの煩悩があるといわれました。それを断ちきるために至心に「南無帰依仏・南無帰依法・南無帰依僧」の三宝をとなえながら百八の数珠を爪繰(つまぐ)り数えれば、心の中の塵(ちり)や埃(ほこり)が次第になくなり、清らかな思いが積み重なり、仏さまのご加護がいただけるとされるのです。しかし、禅宗における修行道場の雲水(修行僧)は念珠を扱いません。念珠で仏名を数えるのではなく、「出入(しゅつにゅう)の息を以って、念珠となす」(『念仏三昧宝王論』)とあるように、身体を正し、呼吸をゆっくり数えます(数息観)。そして、内なる心を調えて坐禅に専念するからと思われます。言わば念珠にとらわれることなく、出入の息を調えて、心を乱さないようにして体究練磨(たいきゅうれんま)すれば、念珠を用いずとも勝るのが禅の教えです。一呼吸、一呼吸ゆっくり深く数えてみませんか。内なる自分の清浄なる心にきっと出会えるはずです。
磨いたら磨いただけの光あり 根性玉(こんじょうだま)でも何の玉でも   山本玄峰老師
何の玉でも数珠の玉でも磨けば磨くほど光を放つように、静かに坐り、根性玉※2(根本的な自分の心)を磨き、自身の心を清浄にして輝いてみましょう。しかも、目立たぬように、際立たないように。
※1 「木槵子」は、羽子板の羽子についている重し、黒い堅い玉。 ※2 「根性玉」は「性根玉」と書かれる場合がありますが、山本玄峰老師を看取られた中川球童老師の言葉をもとに「根性玉」を採択しました。

■釋宗演禅師のこころ 「致良知」
平成30年は大本山円覚寺・釋宗演禅師の遠諱であります。それに因んで禅師の次の一首を紹介していただきます。
心より やがてこころに伝ふれば さく花となり 鳴く鳥となる
「大切な教えを人から人へ、心から心へ伝えていけば、それは必ず花となって開くだろう、鳴く鳥となって現われるであろうというのです。教えは伝えていかねばなりません」という解説文も付いておりました。確かに教えを伝えていくことは大切です。平成29年の春の彼岸に滋賀県へお話に伺うご縁をいただきました。高島市のお寺でお話が終わりますと、和尚さんが「近江聖人中江藤樹記念館」に連れて行ってくださいました。皆さま方も昔、学校の教科書で記憶にあるかもしれません。中江藤樹は陽明学者であり哲学者です。その教えは身分を越え、広く民衆の間に浸透していきました。江戸時代の「士農工商」という歴然とした階級社会の中において、藤樹が説く「心の学問」は多くの人の共感を得ました。その教えの中に「良知にいたる」があります。藤樹は言います。
人は誰でも「良知」という美しい心を持って生まれています。この美しい心は誰とでも仲良く親しみ合い、尊敬し合い認め合う心です。ところが人々は次第に憎み、色々な欲望が起きて、つい良知を曇らせてしまいます。私たちは自分の欲望に打ち克って、良知を鏡のように磨き、その良知に従い、行ないを正しくするように努力することが大切です。
私はこれを「藤樹記念館」で読んだ時、これはまさに仏教で説く仏心・仏性であると思いました。釈尊はお悟りを開かれたとき、生きとし生けるものすべてに「仏心・仏性」「仏の心」が具わっていると言われました。それは藤樹の説く「良知」に他なりません。仏教も儒教も陽明学も真理は一つであるということを確信いたしました。それと同時にこの教えを現在までこのように伝える大切さを有難いことだと思いました。ただ、禅はそこからもう一歩踏み込みます。つまり、心の鏡を磨くということは綺麗・汚いの世界であり、それを「二元の対立」といいます。今、この世は正に二元の対立の中で成立しています。しかし、釈尊はその二元の対立を破り人間としての真の安心を得たのです。私たちはまず藤樹の「良知」という教えを自らの生活の中で実践していくことが大切であると思います。実践をしていき、私たちの我が儘で身勝手で傲慢な心が少しづつ調えられていくのです。それを冒頭に紹介した、宗演老師の歌がお示しになられた仏道であると私は思います。「心」とは我が儘で身勝手で傲慢な心、「こころ」とは「良知」であり「仏心・仏性」です。氷のような堅い冷たい凡夫の心が、仏の教え、仏の慈悲に触れて、やがて氷が溶けて融通無礙なる水となる。そこが「こころ」であり、我執を離れた仏の世界であり無心の境地であるといわれるのです。花も無心、鳥も無心であり、無心に生きるということを、大自然はいつも私たちに教示してくれているのです。問題は私たちの心の鏡が曇ってはいないかということです。仏教に「聞・思・修」があります。「聞」とは聞く、教えをまず素直な心で聞く。そして、「思」とは「思う」。つまり考える。それも深く深く考える。最後に「修」は修行、実践です。この3つが合い揃って仏教であり仏道であります。そのためには仏縁を大切にしていかねばならないと思うのです。 
 

 

■大井際断老師を偲ぶ
東風(こち)吹かば にほひおこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ
菅原道真が梅の木に別れを告げたこの歌のように、私どもの本山であります方広寺にも、主なき梅の花が満開を迎えております。去る2月27日、方広寺派管長の大井際断老師が満103歳でお亡くなりになりました。老師は27年間にわたり方広寺派の管長をお勤めになる傍ら、僧堂師家として雲水(修行僧)の育成にも尽力されました。私が修行しておりました頃は既に90歳を越えておられましたが、矍鑠(かくしゃく)として摂心(修行の大事な期間、いわば修行僧にとってのテスト週間)の行事にも欠かさず臨んでおられました。摂心の折りには毎回、老師から禅の書物についての講義を受けます。老師はかつて西洋哲学の教授として教鞭をとっておられましたので、講義でもよく、西洋哲学の視点から見た仏教について論じてくださいました。犬儒ディオゲネス、名医アスクレピオスなどの哲学者やギリシャ神話の話は、私たち雲水にとっては新鮮な驚きでした。また色紙や香語(法要の時にお唱えする漢詩)に、「エリュシオン」(ギリシャ神話における浄土)や「エルドラド」(南米の神話における桃源郷)という耳慣れない言葉を使われ、それについても解説してくださいました。老師の教えを一言で表わすならば、「我々現代の仏教徒が持つ宗教観・死生観は特別なものではなく、国や時代に関係なく全人類に共通する普遍的思想である」といえるでしょう。また老師は、講義でよく「今日我々は、この則(公案集の一節)について解き明かしていくわけであるけれども...」とおっしゃいました。雲水に課題を出される際には必ず「あなた方は」ではなく「我々は」という表現をお使いになり、常にご自身に対しても課題を課しておられました。生涯をかけて、孫くらい歳の離れた弟子と共に仏法を追究してこられたその謙虚なお姿こそ、私たち弟子に示された最大の教えであります。昨年の秋、ひょんなことから老師に色紙をいただく機会がありました。それには一字、「夢」と書かれています。それは平敦盛や荘子のように、人生の儚さを表わした言葉でしょうか。それとも、上求菩提下化衆生(自らの修行を完成させつつ、他者を救済する)という大井老師ご自身の夢を説かれたものでしょうか。今となってはその意味を知る由もございませんが、この色紙を眺めていると、老師がいつものように人差し指を立て、目を細めてこうおっしゃっているお姿が目に浮かぶようです。「これ、次の課題よ? ――我々はこの夢という言葉に、一生涯をかけて取り組んでいかねばならん」

■春の贈り物
春になりました。季節を分ける「節分」は1年に4回あるはずですが、現在まで色濃く残っているのは豆をまく2月の節分のみ。冬と春との分かれ目になります。春夏秋冬の言葉通り、春は季節のはじまりです。そんな春にはたくさんの花が、冬枯れの枝から咲き誇ります。寒く地味な冬から一転してパッと華やぐのは景色だけではなく、人間の心も同じです。
年年歳歳花相似、歳歳年年人不同 年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず。
中国の唐代の詩です。毎年同じように咲く、いつか二人で眺めた美しい花を眺めている。残念ながら、今年は隣にあなたの姿はありません。たった1人で花を愛でながら、時の流れの残酷さをかみしめる。自然の悠久さと、人の命のはかなさを対比させた詩となっています。ここには、必ず死を迎えなければならない人間の悲しい現実が込められています。形あるものは壊れ、命あるものは滅びてしまうという、仏教でいうところの諸行無常をあらわし、いつかは尽きる命だからこそ、今この瞬間を大切に生きていくことを説いているのです。しかし、単純に悲しい現実だと理解して、見落としてはいけません。春になると当たり前のよう見ることができる花も、当たり前のことですが、去年と同じものではないのです。たとえば、桜も毎年同じように咲いてくれますが、もちろん毎年毎年同じ花ではありません。暑い夏や寒い冬を耐え、台風や大雪を乗り越えて、何年間も休むことなく、やっとの思いで咲いているのです。そして一週間も経たないうちに散ってしまうのです。
花が咲いている 精一杯咲いている 私たちも精一杯生きよう
臨済禅の僧侶、松原泰道師の言葉です。私たちはここで、精一杯咲いている花を見て、当たり前なことなど何一つないことに気が付かなくてはならないのです。いつか尽きてしまう命だからこそ、いつか死んでしまうわが身だからこそ、そのことを悲観している暇はあってはならないはずです。私たちも、一所懸命に美しく咲く花と同じように、精一杯生きているのであろうかと、自分自身に向き合って真剣に考えることが肝要なのです。そのことを、春という季節は綺麗に咲き誇る花をもって、無言で教えてくれるのです。

■「一期一会」〜出会いを大切に〜
4月は多くの学校や企業が新年度を迎えます。進学や進級、或いは就職や人事異動などにより毎日の生活の中で身近な顔ぶれが、がらりと変わる可能性のある出会いの季節といえましょう。幕末の大老・井伊直弼は、茶人としても知られ、著書「茶湯一会集」に次のように記しています。
そもそも、茶湯の交会は、一期一会といいて、たとえば幾度おなじ主客交会するとも、今日の会にふたたびかえらざる事を思えば、実に我一生一度の会なり。去(然)るにより、主人は万事に心を配り、聊かも麁末なきよう深切実意を尽し、客にもこの会にまた逢いがたきことを弁え、亭主の趣向、何壱つもおろかならぬを感心し、実意を以て交わるべきなり、これを一期一会という、必々主客とも等閑には一服をも催すまじき筈の事、即ち一会集の極意なり。・・・ 意訳 / たとえ同じ顔ぶれで茶会を再び催したとしても、今日の会は決して繰り返すことのない一生に一度の会です。お互いに相手を粗略に扱う事も、何ひとつ疎かにすることもなく、実意をもって一服のお茶を頂くことが、茶湯一会集の極意です。
直弼は同著の中で、「客が見えなくなるまで見送った後は、すぐに片づけを行なうのではなく、心静かに茶室に戻り、自分のために点てたお茶をいただきながら立ち去った客を偲ぶことが一会の極意です。」(意訳)とも記しています。毎日顔を合わせる人との出会いも、一期一会です。一瞬一瞬を大切にするということは、その場限りを大切にすればいいわけではありません。勉強も予習や復習があるからこそ、学習効果が高まります。そしてそれは人と人との出会い以外にも同じことがいえるのではないでしょうか。以前ホテルマンとしてオーストリアの首都ウィーンで勤務をしていました。当時、隣のハンガリーと日本を結ぶ直行便はなく、日本へ帰国する際はどこかの都市を経由し、時には宿泊する必要がありました。少しでも利用者を増やすために、ハンガリーに支社を持つ日本企業の方たちが首都ブタペストで会議をする場で、プレゼンテーションを行なう時間を作っていただきました。ところが当日、居並ぶ支社長の方たちを目の前にした時、私は頭が真っ白になり、まともに話すこともできず時間を終えました。その場をセッティングできたことに満足し、ホテルの紹介はいつものことだから大丈夫と気を緩め、簡単なメモだけを用意してその場に臨んだのです。きちんと原稿を準備していれば、棒読みするくらいはできたでしょう。自分ではどんなに相手と真剣に向き合っているつもりだとしても、予習や復習を怠れば、その出会いを大切にしているとはいえません。僧侶となった今も人前で話す機会をいただいた際は、その瞬間を思い出さずにはいられません。私自身、今後もこの苦い経験との出会いを「一期一会」としてまいりたいと存じます。出会うものすべてに対して心を込めて触れ合い、丁寧に向き合うことで「一期一会」を大切にすることを積み重ねていきたいものです。

■釋宗演禅師のこころ 「菩提達磨 ー 釈宗演、シカゴの地に降り立って」
天龍寺庫裏(くり)玄関には、前管長平田精耕老師の描かれた大きな菩提達磨(ぼだいだるま)の絵を掲げております。毎朝本山に出勤して玄関を入ると、この絵が、お前の事はすべて見透かしているぞと言わんばかりです。やはり、観光客の人たちも入口を上がると、そこでじっくりと眺めたり、一緒に写真を撮ったりして、朱色の達磨と共に時を過ごします。菩提達磨といえば、お釈迦さまから数えて28代目にあたり、インドから中国に禅を伝えた人として広く知られ、禅宗の初祖といわれております。菩提達磨は中国に着くと、梁の武帝に会います。武帝は達磨に「寺を建て、僧を育て、仏教にこれほど貢献している私に、どれほどの功徳があるのか」と聞きます。こんな武帝の横柄な態度には、達磨も絶望したのではないでしょうか。それは達磨が武帝に言い放った「廓然無聖」(がらんとして聖なるものなど何もない)という言葉にも表われています。本来の禅とは、謙虚に慈悲心と菩提心をもって自らを律して生きる宗教で、陰徳を積むことこそ大切なのです。先日、アメリカはシカゴに行ってまいりました。私自身シカゴに降り立つのは何年ぶりでしょうか。最後にシカゴに来たのは、ただ乗り換えで空港に降りて、大きな空港の中を次の飛行機に乗るために、500m近く走ったのを覚えているだけです。そんなシカゴに降り立って、ホテルのあるダウンタウンに地下鉄で向かいました。初めての場所で公共交通機関に乗るのは、不安でいっぱいですが嬉しくもあり、初めて乗る地下鉄の車窓からの風景にはワクワクしました。地下鉄の中は人種のるつぼです。聞いたこともないような言葉で話す人がたくさん乗ってきたり、降りたりして本当にここがアメリカだとは考えられないほどでした。ダウンタウンに着いてホテルに向かうまでも、多くの観光客や街の人たちに会いましたが、西海岸とはまったく違った雰囲気です。歴史的にも西海岸より80年以上も前からあった街で、アメリカに編入される1783年以前から入植者が入り、栄えていた街です。実はこのシカゴでは1893年に万国博覧会が開催され、その中での世界宗教者会議に、日本から3名の代表団がシカゴ入りし、仏教についての講演をしました。中でもアメリカ人が一番興味を持ったのが、鎌倉円覚寺派管長、釈宗演老師の講演です。釈宗演老師は日本の禅について大いに語り、それに興味を持った出版社からの依頼で、4年後には鈴木大拙氏が海を渡ります。アメリカに渡った鈴木大拙氏は各地で講演を行ない、数々の本を翻訳し、その後30数年に渡って禅をアメリカやヨーロッパに布教伝道していったのです。その時のご縁がなければ、これほど欧米に禅は拡がっていなかったでしょう。シカゴの地に降り立った日本代表団が、当時の最先端技術を駆使して造られた多くのビルを見上げながら、度肝を抜かれたことは容易に想像できます。大きな白人に囲まれて釈宗演老師はいかに堂々と自分の考えを主張し、日本の禅というものを欧米の人々に知らしめたのか。その講演で感銘を与え、その後鈴木大拙氏を送り込むことになったのか。シカゴから欧米への禅の伝道が始まったことを考えると、同じ街に降り立った私は身震いするほどの感動を覚えました。禅は、菩提達磨がインドから中国に伝え、その後多くの日本からの留学僧や中国僧が荒波を渡り、血のにじむような苦労をして、日本へ伝わりました。それは何の見返りを求めるものではなく、禅の正法をきちんとした形で後世に残すための布教伝道です。禅の本質とは一人一人が何のために生まれ、何のために生きているかを知って、慈悲心、菩提心を持って、自らを律して生きていくことです。今や仏教はアメリカを始めヨーロッパにまで広がり、仏教とはゆうに300万人を超え、坐禅をする欧米人はその3倍とも4倍とも言われております。このようにアジアだけではなく、世界中の人々が惹きつけられ、自らを奮い立たせる魅力が禅にはあるのです。

■大用国師のこころ 「罪ある人も 罪なき人も」
静岡県浜松市の久留米木(くるめき)に「竜宮小僧の伝説」というものがあります。その伝説とは、次のようなものです。
昔、久留女木の川に竜宮に通じているといわれた淵がありました。村人が田植えに忙しくしていたり、急な雨で困っていたりすると、その淵から小僧が出てきては、村人を助けてくれました。その小僧はいつしか竜宮小僧と呼ばれるようになりました。ある日、村人が感謝をこめて、竜宮小僧を食事に招きました。ところが、間違って竜宮小僧には毒となる「たで汁」を出してしまい、これを飲んだ小僧は死んでしまいました。村人たちはひどく悲しみ、泣く泣く竜宮小僧の亡骸を、榎木の下に葬ります。するとその木の根元から、こんこんと水が湧き出しました。村人はその水を利用して、たくさんの田んぼを作りました。それが今も残る、久留女木の棚田であり、竜宮小僧の湧水は、いまも棚田を潤し続けています。
この昔話を聞いたある人が、こう言いました。「村人のミスで自分は死ぬことになったのに、なぜ竜宮小僧は村人たちのために湧水を出したのですか? 普通なら、間違ったことをした村人にバチが当たるという話になると思うのですが」。この言葉に、私は「うーん...」とうなってしまいました。善い行ないをした人が報われ、間違った行ないをした人は罰を受ける、これが社会の当たり前なのかもしれません。しかし自分自身の生活を振り返ってみるとどうでしょうか。法を犯したことはなくとも、「間違ったことなど一度もしたことはない」と胸をはって言える人はどれだけいるでしょうか。
鎌倉・円覚寺の中興の祖といわれる、大用国師(誠拙周樗禅師)は次のような句を詠んでおられます。
つみあるも罪なき人もほとけぞと しれはすなはち仏なりけり
罪を犯した人も、そうでない人も、皆な生まれたときから仏さまと同じ心をいただいている、そう思える人が仏である、とおっしゃっているのです。では、この仏さまの心とはどんなものか。それは「慈悲心」です。どんな人でも生まれながらにして、この大いなる慈悲の心をいただいております。人のために何かをしたとき、お礼をいただかなくても、「ああ、良かったな」と爽やかな気持ちに誰もがなる、これが「生まれながらにして」仏さまの心をいただいている何よりの証拠です。間違った行ないをした人をことさらに責めるのではなく、さらに一歩踏み込んでその人を慈悲の心で包んでしまう、これがこの昔話の肝なのではないか、と私は思うのです。竜宮小僧は村人のミスが原因で亡くなったのですが、死してなお、村人のために水を提供してくれた。竜宮小僧の慈悲心に溢れた行ないは、まさに「仏なりけり」です。そしてその行ないに触れた人々もまた、仏の心に目覚めていくのです。現在も久留米木の棚田は竜宮小僧の湧水の恩恵を受けています。そこで耕作している「久留米木竜宮小僧の会」の方々は、勤めながら休日に農作業をしている人が多いため、時間が十分に取れず、作業途中で家に帰らなくてはならないことも度々あるそうです。ある日も、田植えの途中で日が暮れてしまい、家に帰りました。そして次に作業に行くと、不思議なことに田植えがすべて終わっていたといいます。近隣に住む農家さんに「誰がやってくれたのでしょうか」と尋ねると、皆さん口をそろえて「竜宮小僧がやってくれた」と言ってニコニコしているのだそうです。おそらくは近隣の農家さんの誰かがやってくれたのでしょうが、彼らは決して「自分がやった」とは言いません。竜宮小僧が身をもって示した慈悲の心=仏の心は、今なお久留米木の人々に受け継がれているのです。私たちは、正しく生きているつもりでも、ついうっかりと間違った行ないをする時があります。それにも関わらず、自分のことは棚に上げ、他人の間違った行ないに対し必要以上に目くじらを立てていませんか。「つみあるも罪なき人もほとけぞと しれはすなはち仏なりけり」の言葉の通り、お互いがお互いを許し合い、慈悲の心で付き合うことができたなら、仏さまのような穏やかな心で日々を暮らせるのではないでしょうか。

■登竜門 −龍吟ずれば雲起こる−
この季節、気持ち良さそうに鯉のぼりが泳いでいる姿を目にします。昔ほど大きな鯉のぼりは見かけなくなったような気がしますが、庭先やベランダなどに掲げられている光景に子の健やかな成長を願う節句としてだけでなく、家族団らんの温もりが、優しい陽射しと共に心を温めてくれます。そんな光景に、つい口ずさむ童謡「こいのぼり」ですが、この曲が生まれる以前は「鯉のぼり」という別の歌が大正の頃まで親しまれていたようです。
百瀬の滝を登りなば 忽ち竜になりぬべき
と、中国の登竜門の伝説になぞらえた歌詞となっています。登竜門とは、『後漢書』に、「中国の黄河上流にある竜門という激流を登った鯉は竜になる」と伝わります。また竜は仏法の守護神でもあり、天より仏法の雨を降らせ、大地を雨の恵みで潤すように、広く私たちを救済してくださる存在です。各派本山の法堂天井画を始めとして随処に見られるのはそういった理由からですが、同時に、そんな竜の如く自らに対しては惜しまず精進を重ね、他に向かっては苦しみや困難から救うためにことごとく施していく「自利利他」の仏法護持者としての姿勢が思い出されます。名古屋にある徳源寺という修行道場の師家として後進の指導に当たり、妙心寺でも管長を務められた松山萬密老師という方がいらっしゃいました。晩年は重度の白内障とほとんど聞こえない聴力と、おぼつかない足取りで道場生活はおろか日常の生活も難儀であったろうと想像いたします。半ば介護のようなことが必要な生活であっても、毎朝のお勤めと坐禅は欠かすことなく、時には付き人であった私にも教えを与えてくださり、或いは作法を指導してくださることもありました。修行から逃げ出したいと思った私を救ってくれたのは、そんな松山老師の姿であったように思います。ある日のこと、付き人をしていた私に「三八九(サパク)じゃ」と一言おっしゃいました。意味が分からず続きを待っておりますと「足せば分かる。しっかりと拈提してきなさい」と、帰されてしまいました。結局答えも分からず随分前に亡くなられてしまいました。最近になって思い出し、後を継がれた嶺興嶽老師に教えを請うと「足したら二十。ニャン(禅宗僧侶が通常用いる呉の時代の読み方)。ニャンは念("念"も同じ読み方をする)だ」と助け船をいただきました。目を落とされる間際まで『懺悔文』という我が身を振り返る内容のお経を唱えながら、息を引き取られたことを思い出しました。常に我が身を振り返り、今、この瞬間をどのように生きるべきかという心が、在りし日の後ろ姿に重なって感じられます。即今。今この瞬間に何をすべきか? この繰り返しが登竜門そのものです。竜の如く即今に吟ずれば、雲のごとく大いなる恵みがもたらされるものなのです。

■初心忘るべからず
「初心忘るべからず」この有名な言葉は、学校、職場、家庭、様々な場所で使われていると思います。室町時代に能を大成させた世阿弥の言葉です。2008年4月の法話記事も合わせてご覧ください。私はこの言葉を平成30年3月1日に御遷化された萬仭軒(ばんじんけん)老師より、自身の結婚式の祝辞としていただきました。萬仭軒老師は私の修行時代よりの師匠で岐阜県多治見市永保寺の住職であり、虎渓僧堂の師家を務められていた方です。結婚式の時は慌ただしく、また日々の雑務に追われて自身の結婚式を振り返ることはなかったのですが、御遷化の報に触れ、改めて式のビデオを見直しました。そこにはあの優しく、じろりと人を見抜く眼差しの老師が映っており、
初心忘るべからず 時々の初心忘るべからず
老師が良く使われていたこの言葉をいただいておりました。「初心」とはいったい何でしょうか? 修行時代、老師より、この言葉を初めて聞いた時は初志貫徹、初めの志(こころざし)に腹を据えて、一度思った事を何がなんでもやりきり、貫いていくことと思っていました。しかし、老師は、「人生には様々な波があり、波に臨む時、人間は本来の面目、素直に純粋な気持ちになる。何かある時、向き合った時に初めて起こる心、その素直な純粋な気持ちを『初心』と呼び、その事を忘れてはいけない」、そう話されていました。素直で純粋な気持ちで、物事に、人生の波に向き合う。私が修行した虎渓山は広く、掃除一つするにも大変な場所です。我々がつい掃除に追われて、一つ一つの仕事が雑になりかけた時に、老師は折りをみて、よく「初心忘るべからず」この言葉を使われていました。老師は自己主張をほとんどされず、常に謙虚で頭を下げられていた方でした。修行時代の恥ずかしい思い上がりで、「とにかく自分たちで何とかしなければ。自分たちが居るから、ここはキレイに保たれている。こんなに忙しい自分たちが掃除してやっているんだぞ。だから少しくらい雑でも仕方ないだろう」という驕った自己主張を、老師はあの優しくもじろりと人を見抜く眼差しで、修行僧を諫め、それでも老師は大きく口出しすることはなく、修行僧の自主性を大切に見守ってくださいました。慢心、驕る気持ち、「私が、私が」という気持ちを諫めている言葉が、「初心忘るべからず」であると現在では受け取っています。皆さまはいかがでしょうか? 仕事や家庭でも慣れが生む「私が、私が」という驕りをもったままだと、どこか軋轢を生んでしまうかもしれません。仕事では、経験があるからといって油断することなく、初めの気持ちを忘れず時々に勤めていく。家庭では、長く連れ添っているからといって驕ることなく、初めの気持ちを忘れずに連れ添ってゆく。事の起こりに我々の中に浮かぶ、素直で純粋な気持ちを大切にできれば、人生のどんな波にも向き合っていけると願っております。

■釋宗演禅師のこころ 「座右の銘」
寺院では50年に一度「遠諱」(おんき)と呼ばれる祖師への法要が行われます。それによって祖師の法灯(教え)が絶えず継承されている事を確認するのです。平成30年は禅を世界に広めたことで知られる釋宗演老師の百年遠諱にあたります。釋宗演老師は安政6年に福井県にお生まれになり、臨済宗の大本山の一つである鎌倉円覚寺の今北洪川老師について参禅。25歳の時に悟りを得て洪川老師の法を嗣ぎました。その後も慶應義塾大学にて福沢諭吉翁の下で英語と洋学を学び、34歳で円覚寺派管長、さらには建長寺派の管長も兼務されました。広く民衆に禅の教えを説き、アメリカの地にはじめて禅を伝えました。また、夏目漱石や仏教学者である鈴木大拙が宗演老師に参禅したことでも知られています。釋宗演老師の座右の銘の一つに、
客に接するは独り処(お)るが如く 独り処るは客に接するが如し
とあります。誰でも自分一人で居るときは気持ちが楽で警戒や緊張などはしません。この開放的な気持ちで他の人に接するなら、相手も緊張をせずに済むのではないでしょうか。一方で目の前に見知らぬ他人が居ると思うと警戒や緊張は必然です。この引き締まった気持ちで一人の時間を過ごすならば修養上もっとも大切な、慎独(自分一人で居る時の自分の言動を大事にする)の徳を積むことができるのです。私は毎週日曜日の夜になりますと、必ず一人でじっくりと大河ドラマを観賞します。しかしただノンビリと観て楽しむのではありません。できる限り姿勢を正して向き合います。役者たちの役作りの苦労を通して映像の向こうに覗く先人たちの想いを感じながら、如何にして今のこの国の平和があるのかと感謝の思いを馳(は)せるのです。この引き締まった気持ちで一人の時間を過ごし、逆に他人と話をするときには開放的で楽な気持ちで相手と向き合うことを心掛けております。以前の私は人前で話をするときは「堂々と上手に話をしなくては」という思いから声が強く高圧的になってしまいました。話し方が不自然で聴衆も警戒を解くことができない様子が目に見えて分かりました。元アメリカ大統領のビル・クリントン氏の演説があまりに上手なので、どうしてそんなにも上手にスピーチができるのか?と尋ねた記者がいたそうです。するとクリントン氏は「僕はいつもリビングで家族に話しかけるようにスピーチをしているんだ」と答えられたそうです。以来、私はどんなシーンにおいても他の人に対して開放的で楽な気持ちで「リビングで家族に話しかけるように」相手と向き合うことを心掛けております。すると私の中に釋宗演老師が座右の銘とされた、
客に接するは独り処るが如く 独り処るは客に接するが如し
の一句が少しずつ染み込んでくるように感じてなりません。老師の徳を偲び、法灯が絶えず継承されているのを確認しながら百年の遠諱に臨みたいものです。

■歿蹤跡
庭の花壇の草取りをしていた時のこと。勢いよく伸びた萩の根元の雑草を見分けながら引いていくと、ふっと青ジソが香り立ちました。おそらく、知らないうちに葉に触れたのでしょう。向暑の中、不意に訪れた一服の涼に「ありがたいなぁ」と心が安らぎました。しばし手を休めて香りを満喫。さぁもう少しがんばるぞ!と、さらに草取りを続けていると、今度はハーブの一種であるレモンバームに触れたようです。柑橘系のさわやかな香りが周囲に漂います。どちらの香りもほんの一瞬で、あとには何の香りも残らないのですが、草の勢いにいささかうんざりしていた私の心には何よりのご褒美として香り、そして速やかに私の心を通り過ぎていきました。こんなささやかな出会いから、私はふっと「歿蹤跡(もっしょうせき)」(没蹤跡)という禅語を思い浮かべました。残された跡形が全くないという意味です。分別や執着を離れた、かたよらない・こだわらない・とらわれない生き方のできる人が無心に行じるさまをいい、禅僧の生き方のひとつのモデルといえます。そして、この禅語といつもセットで思い起こすのが西行法師の言葉とされるこんな一文です。
紅虹(こうこう)たなびけば虚空(こくう)いろどれるに似たり。白日(はくじつ)かゞやけば虚空明(あき)らかなるに似たり。然(しか)れども虚空は本(もと)明らかなるものにもあらず、又色どれるにもあらず。我(われ)また此(こ)の虚空の如くなる心の上において、種々の風情をいろどると雖(いえど)も さらに蹤跡(しようせき)なし
きれいな虹がたなびけば、空は一瞬にして彩られます。また太陽が昇り輝きだせば、闇夜は移り空が白々と明るくなってきます。空をキャンバスに、さまざまな景色が展開しますが、それは私たちの目に映っているだけのこと。永遠に消えない色や模様として、空に刻み込まれているわけではありません。空は、何を描かれても文句は言いません。そして空に描かれたものはやがて跡形もなく消えます。空はすごいですね。こんなふうにスパッスパッと切り替えて生きられたらどんなに素敵でしょう。でもこうはいかないのが私たちの「心のキャンバス」です。さまざまな思いが次々に表われては消え、消えては表われますが、私たちの場合は虚空のようにスッパリと消せないのが現実でしょう。さまざまな思いに引き回され、引きずられるのではないでしょうか。私もそうです。だからこそ、あこがれの境地、めざす姿として「歿蹤跡」がたとえられるのです。実はこの理想は理想として、私は、この語を別の意味で大事にしています。消えてしまうからこそ、その一瞬一瞬の風情を彩ることを精一杯楽しみたい!と思っているのです。出会う人、起きるできごと、揺れ動く心......ひとつひとつをすべて出会いと受け止め、いとおしんでいきたいと思うのです。そしてできたら、私に出会ってくれた人の心にシソやレモンバームのような一時の清香を感じていただければ幸せだと思います。世に名を残すような、生き方はしなくてもいい。お金も名誉も結果も残さなくていい。大事なのは、そういうことなのではないかと、最近とみに思うのです。

■大用国師のこころ 「無功徳・馬鹿者」
ダルマさんこと達磨大師が、インドから3年かけて中国へ渡ってこられた時のことです。時の梁の武帝は自ら大師をお迎えになり、都の金陵の宮殿に招き、さっそく質問します。古来からの道教を捨て仏教信者となった武帝は、自他共に認める篤い信仰をもった人でした。「私は多くの寺を建てたり、写経をしたり、お坊さんを養成したりと、仏教のために尽くしてきた功績は計り知れません。莫大なお金を使いました。私はどれほどの功徳が得られましょうか」と。大師は一言、「無功徳(功徳なし)」の三字でした。あまりにもそっけなく「無功徳」といわれて呆然とする武帝を残して、達磨大師は揚子江を渡り、北へと去って行かれました。また江戸時代の末期、日本の高僧で、鎌倉円覚寺の誠拙禅師(大用国師)にもこんな逸話が残されています。ある時、円覚寺で山門改築のため、募財をしたところ誠拙禅師の信者であった深川のある材木商が五百両の金を懐にして、誠拙禅師に「わずかですが、五百両を寄進させていただきます」と申し出ました。ところが誠拙禅師は「ああ、そうかい」と気のない返事をしただけでした。深川の材木商は、「これはきっと"五百両"が聞こえなかったのだ」と思って、再度、「"五百両"を寄進させていただきます」と言いました。しかし、それでも禅師は「ああ、そうかい」と言っただけで「ありがとう」とも言わなかったのです。たまりかねた深川の材木商は、「禅師にとっては、この程度の金と思われるかもしれませんが、私にとっては大変な思いをした寄進です。しかるに禅師は一言のお礼もくださらぬとはいかがなものか」。すると誠拙禅師は「馬鹿者」と一喝されたという逸話です。達磨大師・誠拙禅師に言わせれば、功徳欲しさに、お礼を目当てにするならば、せっかくの善行をフイにするばかりか、マイナスにしてしまう。エゴ心を満たす行為の醜さを「無功徳・馬鹿者」と戒めているのではないでしょうか。誰にも知られずに功徳を積む、いわゆる陰徳を積むということです。ともすると見返りを求める私たちです。「無功徳・馬鹿者」の真意を今一度、噛みしめて味わってください。
いかほどの 施しをしても 恩にきせれば おかげなし  
 

 

■釋宗演禅師のこころ 「刹那と永遠」
釋宗演禅師は、弱冠23歳にして今北洪川老師の元で修行を仕上げられ、32歳の若さで円覚寺派管長に就任。翌年、シカゴで開催された万国宗教大会に日本仏教代表として講演し、これが海外への禅の発信・普及の嚆矢(こうし)となりました。そしてこの講演が機縁となり、宗演禅師のもとで参禅していた鈴木大拙居士が、禅師の推薦により渡米。ここに大拙居士の世界的な禅思想家としてのキャリアが始まります。約10歳年長の宗演禅師を師と仰ぎ、兄と慕い、友の如くに親しんだと語る大拙ですが、師の死を悼む小文に次のようなエピソードを書き残しています。それは密葬の日の朝、禅師の住職された東慶寺へ向かう玄関先で、妻ベアトリス夫人と幼い息子さんの交わした会話です。
―Are we going to see Kwancho-San now ? (これから管長さんのところに行くの?) ―You won't see him any more. He's gone away to Buddha. (管長さんにはもう御目にかかれない、仏様のところへいらっしゃったので。) ―Has he gone away to meditate with Buddha ? (仏様のところへ坐禅しにいらっしゃったの?) ―Yes, my dear Child. (そう。) これを聞いた彼は「おう」と言うた、そうして全く満足したように見えた。
言葉にならない淋しさと悲しさに涙しながら、深い親愛の情と感謝の念の故に、その涙にも師の温かみを覚えるようで、「不思議に悲しいのである」と大拙は胸の内を語ります。生あるものの死という自明を、むしろ幼い我が子の方が素直に受けとめていると感じ、母子の何気ない会話に、大拙はかつて師と交わした問答を想起したのかもしれません。四十九日も済み、御堂に位牌を納めた後もなお、あんな暗い寒いところではなく、きっと老師は暖かな陽だまりへ出て、吾らと一緒に日向ぼっこをしているに違いない。庭の松の枝が動くのにも、ふと老師の面影がちらつき、その声音に触れる気がしてならない。生きたとか死んだとか言って、法要を営むのさえ可笑しな気がする、と心情を吐露しています。一周忌に寄せた別の文章でもやはり、老師がまだ生きているような心地がしてならないと、彼は心に問うてみるのです。事実、老師が亡くなってあっという間に一年が過ぎたが、こうして時は流れ、いつか他人も自分も、皆ことごとく、永遠というものの裡(うち)に吸い込まれていくのだろう。人生は儚(はかな)い。けれども、「永遠」を「刹那(せつな)」に見ていけば、瞬間瞬間に無限が現われているのかもしれない。それでも刹那が、瞬間瞬間、水泡のように消滅していくのであれば、永遠もまた、儚いものなのかもしれない。主の居ない東慶寺の境内に、室内に、禅師の面影を偲び、慈愛に満ちた師の言葉と思い出を懐かしく認めながら、大拙はこう結んでいます。
老師の残骸は松丘の上、楓樹の下に埋められても、その精神は宇宙に磅礴※(ほうはく)して居るのである。この点から見れば、吾も亦(また)この儘(まま)でその精神の上に働いて居るのであろう。(中略)何かはわからぬが、吾と彼と何れも同じもののうちに居て、そうして吾は吾、彼は彼、泣いたり、喜んだり、刹那を永遠にして、永遠を刹那にする。   ※磅礴...まじりあって一つになる、みち広がる。
宗演禅師に、こんな歌があります。
咲くも夢 にほふも夢の 世の中を ちるや櫻の まことなるらむ
生もゆめ 死も夢ゆめも やがてゆめ たゞ一枝の 花をながめて
生と死、夢と現の果てで、相対の世界を超えたところで、はからいなく、確かに、明らかに咲いている、一枝の花。散る花の儚さこそが、花のまことであるとしても、言葉も思いも寄せ付けぬ、ただ明らかな花の刹那の眺めに、人は永遠の風情を生きるのかもしれません。今日では、世界各地の道場で禅が学ばれ、実践されています。その淵源の一つは確かに、旺盛かつ先進的であった宗演禅師と、師の導きと支えのもと、禅の道を探求した大拙との出会いに他なりません。禅に対する現代の世界的な関心にとって、それはまさに運命的、決定的なご縁であったと言ってよいでしょう。釋宗演禅師と鈴木大拙居士。このご縁のもとに禅は世界へ花開き、そしてこの法縁は尽きることなく、今もまた結ばれ続けています。

■変わりつづける世の中
今年1月、自坊の総会で、ある檀家さんから「和尚さん、本堂の洋式トイレの数を増やしてくれませんか」という声が出ました。よく話を聞いてみると、洋式トイレは行列ができているにもかかわらず、和式トイレを使う人が1人もいないというのです。25年前の本堂改修工事の時には、「洋式トイレはあまり使わないだろうから1つだけでいいだろう」という考えのもとに和式3、洋式1という配分で設置したのですが、完全に裏目に出てしまい、ここ数年誰も和式トイレを使う人がいなくなっていたのです。これは、私にとって時代の変化を感じさせる出来事でした。今回は、変化と整理整頓についての例え話を踏まえながら、幸福度の高い生活に欠かせない習慣についてご紹介しようと思います。変化を語る上で有名な「ゆでガエル」という話があります。2匹のカエルを用意して、一方は熱湯に入れ、もう一方は水に入れてゆっくり温めていく。すると、熱湯に入れたカエルは「あっちっち」といって跳び出して生き延びるけれど、ゆっくり温度を上げた方は、いつの間にか茹で上がって死んでしまうというものです。「19世紀頃、カエルを熱湯に入れる実験が行なわれた」とインターネットに掲載されていました。実際にカエルを熱湯に入れると、跳び出す前に死んでしまい、水をゆっくり温めると、ある程度の温度になると逃げだしたそうです。しかしながら、この「ゆでガエル」は作り話であるにもかかわらず、「ゆでガエルの法則」という名前までついて広く浸透しているのは何故かというと、誰にも思い当たる事があるからだと思います。つまり、急激な変化には即座に対応しようとするものの、ゆっくりとした変化には、段々それに慣れてしまい対応するタイミングを逃しやすいということです。また、あるテレビ番組で「エントロピー増大の法則というのがあります。形あるものは必ず壊れるという宇宙の大原則です。すべてのものは乱雑になろうとする。放っておいたら机の上が乱雑になる。乱雑になった机の上が自然に整理整頓された状態にはならないのです」という内容の放送がありました。現状を維持しようとするだけでは自然に、言葉は乱れ、服装は乱れ、心が乱れるということを表わしています。取り返しのつかないほど乱雑にならないよう、どのようなことにも整理整頓を心掛け、誠実にこなしていく事が大切だと思います。時代の変化を感じる昨今ですが、まわりの変化に素早く対応することでタイミングを逃さず、日々の整理整頓を忘れず、誠実に物事に向き合うことができる人間がいつの世にも求められる人材といえるのかもしれません。心の整理整頓をする手段として、日々努力するあなたを支える精神性を養うために、少なくとも一日一回、仏壇に手を合わせ、ご先祖様に感謝の合掌をし、心を調える習慣を親から子へ、子から孫へと、受け継いでもらいたいと思います。家に仏壇のない方は、一日一回、姿勢、呼吸を調える習慣を身につけ、感謝の心を育んでいきましょう。それを続けることが幸福度の高い生活へとつながっていくのです。

■草抜きの願い
お寺というところは、本当によく草が生えます。梅雨時期など、草はまことに元気です。ところが、多くの方はお寺に「美しい庭」をお求めです。従って、寺に住まう者は草抜きが大事な仕事になります。なかなかきれいになりませんが。時には、草が「憎らしい」と思うこともあります。しかし、草に「憎らしい」という意味は、ついていません。そういう思いを、自分が勝手に抱いているだけです。そもそも「草」「雑草」という名前の植物は、ないと思います。それぞれ、生物学的には学名があるのでしょう。きれいな花なら名前を調べ金で買いもしますが、雑草は名前も調べず引っこ抜いてポイ。それどころか「数日すればまた生えてくる。この野郎」と、将来まで呪う気持ちが生まれてきます。お店では除草剤に手が伸びそうです。しかし、草抜きを一所懸命しておりますと、ふとした時に草たちも一所懸命に生きていることが感じられます。さて、「草も生きている」ということから、「草抜きも殺生ではないか?」と疑問に思うことはありませんか? 「植物は細かくいうと心がないから引いても殺生ではない」と習った覚えはありますが、釈然としないものがあります。むしろ、心がないはずの草に「憎らしい」と意味づけして乱暴に引き捨てたり、「また生える」と将来まで呪ったり、除草剤を撒いたりするのは僧侶としては殺生だと感じます。草を抜く時に自分の心がどうあるのか、これが問題のようですね。これまでみてきましたように、草を憎んだり呪ったりするのは自分の心がそうするのでしたね。雑草が生えているのは、自分の心の方ではないですか?従って、草引きは第一に「憎らしい」といった自分の「心の雑草」を抜くために行ないます。また、寺に住まう者はお参りいただく方の心のために、一心に草を抜かせていただくという面もあります。やはり、来た時よりも美しい心になってお寺を後にしていただきたい。そして密かに、お参りいただいた皆様の心の雑草が抜けているように祈りつつ、お見送りしているのです。

■大用国師のこころ 「小さな縁 〜誠拙和尚のご遠諱を前に〜」
思い掛けず、宇和島市内にある茶道具店に掛けられていた誠拙和尚の「達磨図画賛」の掛け軸が手に入った。二百年遠諱を控え、この僥倖(ぎょうこう)が円覚寺との小さな縁を結んでくれた偶然に、日々感謝の念に満たされている。気が向くと墨蹟の前に坐し、遠い時間の流れの中に誠拙和尚を心象しているのである。和尚の人柄や境界を物語る逸話は多く、その一つを尋ねてみる。誠拙和尚は伊予宇和島の人で、3歳で父を亡くし、7歳で宇和島藩主伊達候の菩提寺である佛海寺に預けられる。13歳の時、藩主伊達候が佛海寺を訪ね、住職と閑談の末、誠拙小僧に肩をたたかせながら、「小僧、そのほうの打ち方はなかなかよく効くぞ。今度江戸から帰る時は、いい法衣を買ってきてやろう」と約束した。その後、参勤交代から帰った候は、また佛海寺に来て住職と語り、例によって誠拙小僧に肩たたきを命じた。すると誠拙は、「お殿様はこの前、江戸から帰る時は、きっといい法衣を買ってきてくださると約束されましたが、法衣はどうなりましたか」と肩をたたきながらたずねました。すると候は、「おお、そうであったな。すっかり忘れておったわ」と答えた。これを聞いた誠拙小僧は大いに怒って、「嘘つきめ!武士に似合わぬ二枚舌だ」と思い切り候の頭を殴って行ってしまった。驚いたのは師匠の住職である。殿様の頭を殴ったのだから、その場でお手討ちになってもいたしかたのないところだ。しかし、候は怒るどころか、にこにこ笑って、「いやいや、なかなか見どころのある小僧じゃ。この宇和島で予の頭に手をあげるのはこの小僧だけだ。和尚、これからも目をかけてやれ。末頼もしいやつじゃ」実に痛快で溌剌(はつらつ)とした、誠拙和尚の天性が面目躍如たる話である。多年刻苦精励して仏道を究め、円覚寺僧堂を建立し、ご開山仏光国師の再来なりと称せられたのである。昨年、佛海寺閑栖和尚の密葬において、横田南嶺現管長からの弔電が披露された。以前、佛海寺で誠拙和尚の話を聴かれたときの感謝のお言葉であった。それは参列者の心の琴線に触れ、誠拙和尚から二百年の時を超える閑栖和尚への意志の伝播であったと観じている。ご遠諱を前に、誠拙和尚の痛快で溌剌とした仏法を「法即以心伝心、法即以語伝心」と戴き、小さな縁の延長を祈るのである。

■尊厳なる命 〜生かされて今ある命〜
我々はご縁あって両親の下に生を受け、数多の命と係わり、その命を頂戴して今日の生活が成り立っています。地球上に存在する全生命は、約175万種といわれ、哺乳類が約6,000種、鳥類が約9,000種、昆虫が約95万種、植物(葉や葉脈のある植物)が約27万種、これで約123万5,000種。その他両生類、魚貝類等の水生生物を加えれば約175万〜200万種以上かもしれません。更に、微生物や菌類等を加えると3,000万種ともいわれます。ある時、お釈迦様は爪に土をのせ、弟子の阿難尊者(あなんそんじゃ)に尋ねました。「大地の土と爪の上の土、何れが多いと思うか」 阿難尊者は「世尊、大地の土の方が多く御座います」と答えました。するとお釈迦様は「阿難よ、その通りである」と仰られました。生けとし生けるものは大地の土ほど多いが、人として生を受けるのは爪の土ほどでしかないのです。私は平成9年に神戸の修行道場へ入門しました。当時の神戸はいまだ震災の傷跡深く、市内各所に仮設住宅が立ち並び、少しずつ復興に向け整備されている頃でした。道場の先輩から震災のことを伺いますと、震災当日は夏末大摂心(げまつおおぜっしん)という一年の締め括りの時期で、朝7時からの師匠による禅語録のお話を聴く準備の最中でした。突然、大地は大きく揺れ、壁は剥がれ落ち、建物は傾き、お寺の山門も崩れ落ちました。薄暗がりのなか慌てて外に出ると、各地で煙が上がり、やがて火の手も上がり瞬く間に街が赤く染まったそうです。その後、被害の大きさが徐々にわかり、檀家さんの訃報連絡が入り始めました。震災後、道場での生活は一変し、先輩方は朝の坐禅とお勤めの後、数人ずつに分かれ檀家さん宅や、近くの家の瓦礫撤去、避難所への炊き出し、避難所の掃除など朝から晩までボランティアに出掛けたそうです。そんな中、殿司寮(でんすりょう)というお参りを専門に担当する先輩は皆ながボランティアに出掛ける中、亡くなった檀家さん宅へお参りに行くためにお寺に残り、電話が鳴るたびに檀家さん宅とお寺を往復する日々だったそうです。皆なが避難所で汗を流す間、自分はただ檀家さんからの訃報連絡を待っている。今すぐにでも皆なと同じように被災者の救済に行きたいのに、訃報の連絡がないと動けない、動くことができない自分の立場が一番辛かったと話されていました。お釈迦様が説かれた「法句経」(友松円諦訳)に
「人の生(しょう)をうくるはかたく やがて死すべきものの いま生命(いのち)あるはありがたし 正法(みのり)を耳にするはかたく 諸仏(みほとけ)の世に出づるも ありがたし」
という一節があります。人として生を受けることは誠に得難いことだ。生まれたからにはいずれ死ぬ無常の命ではあるが、今、生かされていることは有難い。優れた教えを聴くことも得難いのに、諸仏の在世に出会えることはさらに有難いことです。この世界には、人類以外に多くの命が存在し、その多くの命に生かされた命を頂戴しているからこそ日々の生活があります。そして、自分一人だけで生きていけるものは存在しません。我々は多くの動植物の大いなる命によって生かされている、支えられている。生きていたくても、病気や怪我・天変地異等でその命を奪われてしまう。折角ご縁あって数多く存在する命の中で、この世に人として生を受けた以上は、自分を支えてくれる多くの命に感謝して驕(おご)ることなく、またその命を粗末にすることなく「ありがとう」と感謝しながら生活をしていただきたいと思います。

■頑張れ
謹んで西日本豪雨災害により被害をうけられた皆さまにお見舞い申し上げます。7月5日から西日本では雨が降り続いていました。私は5日から7日まで京都、妙心寺に兵庫教区の本山団参奉仕団として出かけていました。自坊の明石の寺を出る時から大きな雨が降っていました。午後からの本山での奉仕ですが、大雨のため、掃除ができずに、写経と法話の時間になりました。写経、法話中、各自の携帯電話に緊急避難情報メールが入り鳴り続けました。幸いにも避難場は私たちのいる花園会館でした。翌日も朝から雨の中、団参、仏殿掃除。豪雨のため7日は中止となり帰山することになりました。お昼をいただき、車で出発しました。いつもでしたら高速道路を使えば2時間たらずで自坊に帰れます。当然、高速道路は通行止め。一般道でも5、6時間で帰れると思いました。大々渋滞、神戸あたりから進みません。自坊に到着したのは翌日の夜中。なんと12時間かかりました。もし、そんなに時間がかかるならば、もう一泊したのにと後悔するばかりでした。でも、事故なく無事に到着したのでよかったです。さて、災害に遭うのがわかっていれば、避難場に逃げているのにと。でも、危険がわからないから大勢の方が犠牲になるのです。7年前の東日本大震災のおりに元妙心寺派管長、河野太通老大師が新聞のインタビューでこんなことを言っておられます。
「頑張れ」と言われると、被災された人は腹立たしい気持ちになるでしょう。阪神淡路大震災の時の私がそうでした。その私が「頑張れ」と言っています。体験から十分わかった上で「頑張って」と言うよりほかありません。それはいのちに向けた祈りの言葉です。悲しい縁に出会って亡くなった人がいる。同じ悲しい縁に出会いながら生きている自分がいる。どうしてかと問われても、人間の知恵ではとうてい説明できないものです。今回の震災に遭わなかったとしても、人は誰でも老い、病になり、必ず死にます。仏教の説く「四苦」です。誤解しないでいただきたい。「だから人生は空しい」と悲観論をしゃべっているのではありません。いのちには限りがあるからこそ、いま生かされているいのちを精いっぱい生きなくてはいけません。それが「頑張る」ことですし、亡き人の縁をよいものにしていくことになるのです。
老大師は『頑張れ』とはいのちに向けた祈りの言葉であると言われます。私たちは明日のこともわかりません。もし、災害に遭い避難情報を知ったならば、「自分は大丈夫だ、今まで一度もそんなことなかった」と思わずに逃げましょう。限りあるいのちです。精いっぱい生きようではありませんか。一日も早い復興を心よりお祈り申し上げます。

■進歩と調和
1970年、今から48年前に大阪万国博覧会が開催され、私は、その前年に仏門に入り、開催の年に花園大学に入学しました。折しも学生運動が終わろうとしていた時期であったものの、新学年の授業が始まったのは、確か5月か6月であったように記憶しています。そのお陰で、博覧会会場には何度か足を運びました。当時の先端技術を展示するパビリオンが建ち並び、そこには未来の都市空間がありました。当時、花園大学入学式において、山田無文学長の新入生に向けたお言葉は、万博を引用したものでした。 
「大阪万国博覧会のテーマが『人類の進歩と調和』である。現代社会のどこに調和があるというのか、確かに科学技術は進歩したけれども、人の心の問題は置き去りにされている。これから花園大学で学ぼうとしている諸君には、この調和実現のために精進してもらいたい」
という要旨であったと記憶しています。あれから半世紀近く経った現在、科学技術は心の豊かさに資すために進歩しなければならないものが、逆に機械のために人間が存在するかのような錯覚さえ起きているようにも感じ、まさに人間疎外の時代です。「急緩節を得べし」とは、禅の修行道場において食事の供給をする者の心構えとして、徹底たたき込まれる所作です。食事は飯台座といって、食堂(じきどう)という簡素な飯台とゴザがあるだけの部屋で、物音ひとつ立てることも許されない緊張のなかで行なわれます。入門当初は、慣れないこともあって叱られることばかりであったものの、先輩の所作を見よう見まねでやっているうちに、この言葉がストーンと腑に落ちることがありました。節をわきまえることは、生きるうえにおいて必要なことです。たとえば、仕事と余暇など、今国会では、働き方改革法案について審議されていますが、静かでゆっくりした時間をつくり、心の喜びと充足を大切にしてこその人生であり、そこから明日への希望と活力が生まれてくるのではないでしょうか。

■大用国師のこころ 「亡き母に供え、己の心を養う人」
「禅は、虚無主義とどう違うのですか?」 5年ほど前、禅を学ぶアメリカ人男性にそう問われたことがあります。虚無主義とは、真理、価値、目的、権威などに、人間自身が与える意義以外に根拠がない、つまり虚無であることを理由に、それらを否定する立場のことです。それと「無」や「空」を説く禅は混同されることがあります。例えば世間一般で言われる「悟りきったような」という形容には、よい意味だけでなく皮肉を込めた冷たい意味も加わるものです。そのような誤解は世の中に蔓延しているといっても過言ではありません。さて私はその時、「情け容赦のない虚無という現実を知った上で、投げやりになるのではなく、改めて人間らしく前向きに正しく生きること」と応えました。人は事実を明らかにしたくらいでのぼせ上がって、それが結論だと思いがちですが、それは禅を10段階で表わせばまだ8番目、道半ばです。いわば登山に行ったはずが麓で満足して、登らずに帰って来てしまうようなものでしょうか。人の生き方を説く禅には肝心のその先があるのです。京都、相国寺の修行道場を再興したことでも知られる大用国師は、卓越した禅者でありながら非常に人間らしい人物であったともいわれます。一方では「鉄閻魔(てつえんま)」と称されるほどの厳しさを持ちながら、他方では村の人々にその人柄が大変愛されたそうです。また自分を捨てたと一度は恨みかけた母親のその時の悲しみを常に想い感謝し、亡くなった時その菩提を供養する為に70歳の身で観音様を祀(まつ)る西国三十三所を参拝して歩かれました。思えば閻魔とは、慈悲深い地蔵菩薩の化身でもあるのです。それはこの世が虚無であったとしても、心あればこそやるべきことがあるという、大用国師の禅的な生き方なのです。人の心とは誠に不思議。それが決定的に何かを変えてしまうほどの力を持ちます。人の姿をしていても、人と称されるかは別です。人の心を失った者を、私達は「人でなし」と呼び、「鬼」と呼びます。一方で人ではないもの、生物や自然、人間の生み出した人形や機械に人の心を見ることもあるかもしれません。人は死んだらお終(しま)い。極端な人は、死体は物だと感じるようですが、戦時中やいじめの構図など、人は生きている相手さえも物扱いすることがあるのではないでしょうか。ものが物にしか見えなくなったら、それはもう心を失う危険な徴候なのかもしれません。
たらちねの 長き別れの 手向(たむ)けには いやつつしまん 我身(わがみ)ひとつを ・・・ (我が亡き母に何を供養するのか。慎み深く生きることこそが、一番の母への供養である)
これは大用国師が亡き母に誓い詠んだ歌です。供養という言葉は「供える」と「養う」でできています。供えるのは亡き人に供えるのですが、養うのは一体何であるのか。いくら供えても亡き人を養うことなどできはしません。本当の意味で養うものとは、自分の心しかないのです。事実を明らかにしても問われるのは生き方です。そして生き方を左右するのは己の心に他なりません。例えば北方領土への墓参が毎年ニュースで流れますが、それが一つの証明であるように、どんなに困難な道程であろうと墓参する人は墓参するし、どんなに近くてもしない人はしません。遺骨も、邪魔になるからと処分を願う人もいれば、災害等で何年も行方不明のままで、せめて遺骨だけでも戻って来て欲しいと願う人もいます。どちらが正しいなどという話ではなく、人間とはそういう生き物であり、第三者から見れば、心は生き方に表われているということです。

■大用国師のこころ 「孝心〜いにしへの親につかへし人の名を」
奈良県葛城市南今市という所に本朝二十四孝の一人として知られる伊麻を称えた孝子(こうし)の碑があります。伊麻は、江戸時代に実在した女性です。家が貧しい上に幼くして母を失いましたが、よく働き親につかえて孝養をつくし、父の喜ぶ顔を見ては唯一の楽しみとしていました。ある年の夏、疫病が流行り多くの人が亡くなりました。伊麻の父も疫病にかかり、危篤におちいりました。この時、鰻を食べれば治るとある人から聞いて、川をくまなく探しましたが、鰻を得ることができませんでした。その夜のこと、台所の水瓶の中で水の跳ねる音がしたので、灯を手にあやしんで水瓶の中を覗いてみると、大きな鰻が躍っていました。伊麻は、大いによろこび、調理して父にすすめたところ、不思議にも父の病はみるみるうちに治りました。これを聞いた村人たちも、その残りの鰻をもらって食べ多くの人が助かりました。人びとは、伊麻の孝心(親孝行をしようとする心)が天に通じたのだと感心しました。この話が世に広まり、俳人の松尾芭蕉もわざわざ伊麻に会いに訪れて、その孝心を称賛しました。やがて、父が亡くなった後、伊麻は供養のために尼僧となり、81歳まで長生きしたということです。鎌倉の円覚寺を復興した、大用国師(誠拙周樗禅師)も、とても孝心の深い方でした。父母の菩提を弔うために『金剛経』や『観音経』を写経するのを常としておられました。伊麻の碑を訪れた時には
いにしへの 親につかへし 人の名を 今につたへて くむなかれかな
と歌を詠まれています。禅師は、父母に孝養を務めた昔の人の名前をどうか今に伝えてくださいとおっしゃっています。9月23日はお彼岸のお中日です。この秋分の日は「祖先を敬い、亡くなった人をしのぶ日」です。誠拙禅師は、厳しい禅の修行を極めた高僧ですが、とても慈愛の深い方でした。禅師の隠居された、横浜の玉泉寺には「天真自性居士・心光浄安大姉」と自書したご両親のお位牌が今もおまつりされています。 禅師の教えだけでなく、そのお心も受け継いでまいりたいと思います。

■明歴々露堂々
うだるような暑さも少しずつ和らぎ、秋の趣が日ごとに増してきています。9月の楽しみの一つといえば、中秋の名月。私は毎年この時期になると、一つの禅語を思い出します。それは「明歴々露堂々(めいれきれきろどうどう)」という禅語です。日本史学者であり、また禅の老師でもある芳賀幸四郎師はこの語を次のように解説されています。「明歴々露堂々」とは、「歴々と明らかに、堂々と露(あら)わる」という意味で、「明らかにはっきりあらわれていて、少しも覆(おお)い隠すところがない」ということです。換言すれば、「世の真理と呼ばれるものはどこかに隠れているわけではなく、最初からありのままに現われていて、それに気付く心こそが大切である」ということになるでしょう。中秋の名月の時期になると、この語にまつわる、とある檀家さまとの会話が思い出されるのです。その方はKさんといい、プロの写真家です。Kさんのお宅には月参りに伺っているのですが、お参りの後によくお話をします。3年前の9月のこと。いつものように月参りを終え、出していただいたお茶をいただきながら私はKさんに、「今月は中秋の名月ですが、綺麗な月が撮れるといいですね」と話かけました。するとKさんからは思いもよらないこたえが。「月が出ているかは問題ではないですよ」。これを聞いた私は少々面くらいました。「月が出ていなければ、撮る甲斐がないのでは?」そう言いかけた私の表情を察してか、Kさんはこのように続けます。「禅の言葉に、『明歴々露堂々』というものがあるでしょう。僕はこの言葉を写真家としての座右の銘にしているんです。写真とは『真実を写す』と書きますが、例えば月が出て目に見えているときだけがいわゆる真実ではないと思うんですよ。雲に覆われていても月はその裏側にあるし、お昼間だって目に見えないだけで確かに存在している。目に見えるものだけではなく、見えないけれど確かにあるはずの真実に目を向けていくことでより良い写真が撮れる気がするんです」。この考えはおそらく、Kさんの写真家としての矜持なのでしょう。更におっしゃるには、「『真実』と言うと大げさに聞こえるかもしれませんが、本当は私たちの身の回りの当たり前のことひとつひとつが『真実』なんでしょうね」。この一言で、月が出ていなければ写真映えしないではないかと思っていた先ほどまでの自分の考えが打ち砕かれました。月が輝いているのも、雲が出ているのも、あるいは私たちがこうしてお互いに生きているということさえも、それ自体が尊い真実に他なりません。とかく私たちは雲に隠れた月を見ようと、ままならないことに躍起になったり、月を隠す雲を疎んじたりしてしまいがちです。時には自分自身を綺麗にカッコよく映えるように、着飾ったり虚勢を張ることもあるでしょう。しかしちょっと「明歴々露堂々」という禅語を思い出して立ち止まってみると、自然そのまま、ありのままがすでに尊く有り難いことだと気づかされます。中秋の名月に臨み、一度私たちの周りの「当たり前なこと」に目を向けてみませんか?  
 

 

■心頭滅却
今年は本当に暑い夏でした。お盆の週間天気予報を見て、気温32度で涼しいと感じたのは今年が初めてです。まだまだ残暑厳しく、寝苦しい夜もありますが、澄んだ夜空と冴える月が秋の気配を感じさせる今日この頃です。禅の言葉に「心頭滅却すれば、火自ずから涼し」という言葉がございます。この句は元々、中国の詩人・杜筍鶴の詩にみられますが、日本で広く知られるきっかけとなったのは、臨済宗妙心寺派の禅僧、快川紹喜禅師の逸話にあります。快川禅師は戦国時代、甲斐の武田信玄に招かれ恵林寺に入寺し、武田家の相談役も務めた名僧です。しかし、武田軍を攻めた織田軍によって恵林寺は焼き討ちに遭います。快川禅師は山門の上に逃げ集まった弟子たちに対して、「この機に臨んでどう法輪を転ずるか、一句言ってみよ」と投げかけ、弟子たちはそれに応えます。そして、いよいよ炎が迫った中で、最後に快川禅師が「安禅は必ずしも山水をもちいず。心頭滅却すれば、火自ずから涼し」と唱えて、燃えさかる炎の中に身を投じたと伝えられています。「心頭滅却」の「頭」と「却」はともに助字で意味を持ちません。つまり「心」を「滅」するということです。心を滅するとは、心をなくしてしまう事ではなく、心を整えるということです。自分自身の心を整えていくことによって、暑い時は暑いに徹して、自然と受け入れていくということです。そしてここでいう「火」や「暑さ」は、広義に捉えれば「煩悩」と言い換えられます。煩悩は常にありますが、それをどう捉えていくのか、どう向き合っていくのかということです。向き合うのは外側ではなく、内側の自分自身。自分の心と向き合い、心を整えていくことが大切だということです。ちなみに、恵林寺の火攻めを命じた織田信長自身も、本能寺で火に囲まれます。その際、家臣から明智光秀が謀反を起こしたという知らせを受け、「是非に及ばず」と言ったと伝えられています。是でも非でもない、仕方のないことだと。戦国の世の道理や、生き死にの道理をしっかりと受け入れ、心を整えて放った言葉のように感じます。しかしながら、私たちはついつい暑さ寒さにばかりとらわれてしまいます。空に浮かぶ雲のように煩悩は次から次へと湧いてきます。夜空には明るい月が照らしているにもかかわらず、煩悩の雲を浮かべては、その光に照らされている事を忘れてしまいがちです。
月かげの いたらぬ里は なけれども ながむる人の 心にぞすむ  (法然上人)
秋の寝苦しい夜長には、心頭滅却し澄んだ月を眺めながら、ゆっくりと心を整え、自分の心を澄ましてみては如何でしょうか。

■知るということ
実は知っているようでいて、知らないこと、恥ずかしながら私は山のようにございます。皆さまはいかがでしょうか? 昔から「論語読みの論語知らず」という言葉がございますが、書物に書いてあることや情報といったものを知識として理解するだけで、それを活かし切れていない人の例えであります。「知る」の意味は皆さまもよくご存じのとおりでございます。物事の存在・発生などを確かにそうだと把握する。認識する。気づく。感じとる。さとる。体験して身につける。学んで、また、慣れて覚える。等々であります。今更ながら、私自身、知識としてだけでなく、体得し、活かすことが「知る」ことの大切なところだと気づく次第であります。現代は新聞や雑誌、テレビにインターネット等、様々なメディアによって、自分が知りたいことを数多の情報より簡単に素早く知り得ることができますが、私たち自身は果たしてどれだけ実感を持って知り得ているといえるのでしょうか? 禅門には「冷暖自知(れいだんじち)」という言葉がございます。自身が直接的に冷たい、暖かいということを体験し、実感する。また、その体験した実のところは他者に伝えることができない」という意味でございます。例えば、ここに冷蔵庫で冷やされた水と40℃のお湯をお湯のみに入れてお二方の前に出したと致します。それを眺めながら、「こっちがお湯で、あっちが冷水」いや「こっちが冷水で、あっちがお湯だ」と互いが互いに検証し合ったところで無駄に時間が過ぎてしまうだけでしょう。理屈で証明できないことはありませんが、明確でしかも早いのはそれぞれのお湯のみの中身を飲んでしまうことではないでしょうか。一口飲めば、冷水かお湯かは人から面倒な理屈で説明されるまでもなく、どのくらい冷たい水なのか、どのくらい温かいお湯なのかを私自身が実感を伴って知り得るのです。人からどんなに事細かに教えられたとしても、実感を伴って私自身が知り得ることはありません。この実感を伴って知り得ることが大切なのであります。また、「冷暖自知」だからこそ、安易に知り得ていると思い込まず、そのとき一所懸命に実感を伴って知り得ようとする姿勢であり続けることが大切なのであります。気安く知り得ていると思い込まない。謙虚に知り得ようとする姿勢であり続けることで、より様々な体験・経験を積み重ね、気づき、当たり前のことが実は有ることが難しいこと、すなわち有り難いことに気づいていく。そうなりますと、今まで見えていた風景も違ってくるのではないでしょうか。私が毎月、お参りに伺うご高齢のお檀家さんがいらっしゃいました。そのお檀家さんとの何気ない会話の中で「80は80なりの、90は90にならなければ知り得ないところがある」といわれました。若かったときの様々な苦労や楽しかったことを積み重ね、そして今、身体の老いや親しい友人がいなくなるといった様々な苦しみや寂しさを味わっている中だからこそ、あのときは見えなかったものが、今では少し見えてくるようになり、目に見える風景も随分と変化するものだと教えて下さいました。自らが自らの体験・経験によって実感として知り、気づき、会得することが「禅」では大切であります。だからこそ、安易に知り得ていると思い込まず、私自身が知り得ようとする姿勢であり続けることが肝要であります。それが「知るということ」ではないでしょうか。私自身、改めて実感として知り得ることを積み重ね、気づき、会得できるように、日々私なりの風景が見えるように、努力精進を積み重ねなければと思う次第です。誠に僭越(せんえつ)ながら、縁あってこの法話をお読み下さった皆様方におかれましても、日々皆様なりの風景を見ていただく手助けになりますれば幸いです。

■典座ってなーに?
今から約40年前(こう書いている自分もびっくりするくらい時間が経ってしまいましたが)、私は妙心寺専門道場に入門していました。2年目の夏になり、道場の行事の流れが少しずつ分かるようになっていました。このころ、良い経験をしました。8月になると雨安居(5月〜7月の修行期間のこと)が終わり、束の間の制間(せいかん)となります。雨安居と雪安居(10月〜2月の修業期間)の間を制間というのでしょう、道場においては少しホッとする時期です。妙心寺専門道場では半年ごとに役目の交代があり、私は8月から典座(てんぞ)になりました。修行は大勢の若い僧が一緒に生活しながら行ないます。そこで交代でいろんな役を受け持ちます。たとえば隠侍(いんじ)は指導して下さる老師の身の回りの世話をします。殿司(でんす)はお経を読むときに必要な係、侍者寮は禅堂で坐る修行僧の世話役、といった具合に。永平寺の開山様である道元禅師は『典座教訓』という本を出され、典座がいかに大事な役目かということを述べておられます。典座、つまり台所で料理を作る人のことです。家庭では家族の口に入る食事をお母さん(ときにお父さん)が作ってくれますね。テレビではいつも子供たちやお父さん(ときにお母さん)が、「おいしい!」とどんな場面でも笑顔いっぱいで食卓を囲んでいます。家庭には母の味というものがあって、いくつになってもそれがなつかしく思い出されます。ところが、道場はそんなほのぼのとした環境ではありません。典座、それは戦場のような場所でした。私の居たころ、道場には30人くらいの修行僧がともに寝起きしていました。典座は2人体制でこの修行僧たちの食事を作っていました。2人いますが毎日交代制です。一日おきに当番です。朝はお茶を沸かし、お粥(かゆ)をつくるだけなので慣れれば簡単です。昼は大量の具材を包丁できざんでみそ汁つくり、皆ご飯もみそ汁も3杯は食べるので大変でした。2ヵ月くらいが過ぎ、10月になりました。典座に少しは慣れたころ、大きな茄子をたくさん信者さんからもらい、だるま煮を作ることになりました。茄子のヘタを取り、丸ごと油でいためて火が通れば醤油をかけて蒸す。すり生姜をかけて食べるという、きわめてシンプルでおいしいおかずなのですが、いまいち自信が無かったのです。そこで先輩に聞きました。
「茄子のだるま煮はどうやって作ったらいいんですか?」 「お前、食べたこと無いの?」 「ありますが...」 「じゃあわかるだろう」
さあ大変、30人×2本の茄子=60本の茄子を大鍋に放り込んで、大汗をかきかきだるま煮を作りました。食事の時間には間に合わなかったものの、これは良い経験になりました。それからはひとつひとつの料理のレシピを作り、いつでも困らないように気をつけました。これも先輩が突き放してくれたおかげなのです。料理に心を込めるというのは、段取りから何から自分で考え自分で経験していくその先にあると思います。先輩に感謝です。

■西日本豪雨に際して
2018年は過去に類を見ない災害の年になってしまいました。まず初めに本年7月に起きた西日本豪雨をはじめとする種々の自然災害において被災された方々には心よりお見舞申し上げます。私が住職をしております報恩寺はさきの西日本豪雨において甚大な被害のありました岡山県倉敷市真備町にあります。西日本豪雨以降には各方面より多くの心配の声をいただきまして大変有難く、この場をお借りいたしまして深く感謝申し上げます。真備町の現状はおおよそ報道にて伝えられている通りですが、報恩寺は幸運なことに被害を免れることができました。しかしながら檀家さんの中には浸水被害に遭われた方も多くありますし、寺として「被害が無かったから良かった」とは単純に言えるはずもない現状があります。自分の慣れ親しんだ地域がある日突然「被災地」と呼ばれることに対する言いようのない違和感や息苦しさに初めて気付かされました。復興に向けてなかなか事は前に進んでいかないのが現状ですが、寺としてこれからもできる限りの支援をしていきたいと思っています。さて、そんな大変な状況の中でも感心させられた出来事がありました。ある檀家さんは避難指示が発令されて、避難をする時に一通りの貴重品をまとめ、その次に仏壇の中のお位牌と本尊さまを持ち出されていたそうです。いわゆる緊急事態の中であっても仏さまとご先祖さまを大切にする心を決して忘れていなかったのだと、私は深く頭の下がる思いがいたしました。これは普段からの信心のたまものではないかと思います。普段からお供え物をして手を合わせて、ご先祖さまや仏さまとのご縁に感謝し、拝んでいるからこそ、自然とそれを大切にすることができるのだと思いました。そして、この大切に持ち出したご先祖さまや本尊さまは、きっとこの檀家さんの心のよりどころとなったであろうと私は信じています。三島の龍澤寺に住した近代の禅僧である山本玄峰老師の言葉に、「心痛はしてならぬ。が、心配は大いにせよ」というものがあります。災害に遭ってから改めてこの言葉が思い出されました。被災地の一日も早い復興に向けて、それぞれができることについて心を配り、そして少しずつでもそれを実行していく。きっと誰にでもできることであると信じています。昨今の災害において被害に遭われた方には改めて心よりお見舞申し上げ、皆様が一日でも早く元の生活を取り戻すことができるよう祈念申し上げ、結びとさせていただきます。

■釋宗演禅師のこころ 「青は藍より出で〜宗演禅師と臨済宗大学〜」
釈宗演老師(1859〜1919)は大正3(1914)年9月、花園大学の前身臨済宗大学の第2代学長に就任、56歳の年でした。それは初代学長を勤められた阪上真浄老師(1843〜1914)の突然の遷化によるものでした。実は真浄老師がかつて滋賀県土山(現在の甲賀市)の永雲寺(大徳寺派)に住職していた頃、それは宗演老師が17、8歳の頃のことですが、近江三井寺で天台教学を学んでいたことがありました。この時の宗演老師の学習能力は相当高いものであったそうで、三井寺の講師から天台宗に改宗を勧められたほどでした。この三井寺での勉学中に1年ほど真浄老師の寺に滞在していました。その頃の永雲寺は明治政府の学校令で小学校の仮校舎に当てられていて、真浄老師も教壇に立ち、自身も大津師範学校(現滋賀大学教育学部)に学んでいました。三井寺と大津は近い距離にありましたので、お互いそこで行き来して交遊ができました。何れにしてもこうした真浄老師の広い教養を身につけた禅僧としての姿に、宗演老師は少年時代に接し新鮮な影響を受けたと思われます。面白い話として、永雲寺の真浄老師に接したとき宗演老師は「あなたの傍にはきっとご夫人がいると思っておりましたが、そうでなく禅僧として独り身のままで活動しておられるのを知り驚きました」と語っています。宗演老師は妻帯していない禅僧としての真浄老師の姿に魅了されたのでした。そして、宗演老師もまた周知のように、後年修行を終えてから26歳で慶應義塾に3年間修学します。そして、32歳の若さで円覚寺管長になった後も国内外へ布教活動を精力的に行ない、禅の近代化に多大な功績を残しました。真浄老師が臨済宗大学の初代の学長になり遷化後、大学から要請があった時に宗演老師が学長職を受けたのも、この真浄老師の後任ならば、という強い思いがあったからだと思います。学長職には大正6年3月まで3年間就任しましたが、この間に「臨済大学に就いて」という大学教育の必要性を述べた一文があります。「今日の仏教、今日の禅宗は、その内容において何等進捗の跡を見ぬ。"禅宗大学"を設けて、僧堂へ入るべき学僧を、精神の上に、思想の上に、見識の上に、充分の教育を施すべきは、目下の急務であると予は思う」と述べ、「予の理想はまだ此上にある。即ち仏教大学の建設である」とも述べています。この宗演老師の百余年前の言葉は今日の宗門大学への警鐘でもあり、将に炯眼(けいがん)ともいえます。こうした真浄老師と宗演老師の関係に私は『虚堂録』にある「青は藍より出て藍より青く、冰(こおり)は水より生じて水より寒し」の言を想起し、徳富蘇峰が「宗演老漢」で述べた「その人自身が進歩の本体たりし也」の一句は、宗演老師の面目をよく表わした言葉だと共感します。

■壺中日月長し
秋も深まり、山々は紅葉に彩ります。赤や黄色は水面にも映え、眺める人のこころに安らぎを与えます。思わず時間を忘れ別天地を味わうとき、その境地を「壺中日月長し」と禅は讃えます。「壺中」とは壺の中の別世界。悟りの妙境を意味します。「日月長し」は時間に追われることなく悠々と人生を送る消息です。私たちには生まれながらに清浄なこころが具わり、喩えて「鏡のようなこころ」と呼ばれます。曇りひとつない鏡は、映ったものをありのままに映し出します。けれども、いつの間にかこころは執着に覆われて曇ってしまいます。執着の雲を消し去れば、ありのままに世界を観じることができるのでしょう。そういえば、「悟りとは、自然と自我との融合」と道中に記したのが、俳人・種田山頭火でありました。山頭火の人生は、苦難の連続でした。母の自殺、実家の倒産、妻との離婚、そして孤独......。挫折のどん底で酒に溺れながらも、あるとき禅寺で出家し、「生きる意味」と真剣に向き合い、一所不住の漂白の旅に出るのです。生涯、こころの浄化を誓った山頭火は、機会があれば読書にも夢中でした。愛読書は多数で、吉田兼好の『徒然草』・道元の『正法眼蔵』、芭蕉・西行・良寛に至るまで関心を深めていきました。昭和十年の道中記句集『柿の葉』の冒頭には、「この一年間に於いて私は十年老いたことを感じる」とあります。一見、苦労の表現に見えますが、「日月長し」とも思えるような悟境にも聞こえます。更に山頭火は、古人の足跡をたどりながらこう書いています。芭蕉は芭蕉、良寛は良寛である。芭蕉にならうとしても芭蕉にはなりきれないし、良寛の真似をしたところで初まらない。私は私である。山頭火は山頭火である。芭蕉にならうとは思はないし、また、なれるものでもない。良寛でないものが良寛らしく装ふことは良寛を汚し、同時に自分を害ふ。私は山頭火になりきればよろしいのである。自分を自分の自分として活かせば、それが私の道である。山頭火は、自分の見える世界を、自分の見方で歩いたのだろうと思います。ただ只ありのままに世界を観じ、自然との融合を試みたのでしょう。実は壺中とは、決して悟りの世界などではなく、今自分が立っている足元を指します。苦しみの絶えないこの世界は、こころ次第で桃源郷に変じることを教えてくれているのです。秋が奏でる彩りは、瞬時にこころに染まります。世界とこころが同化するとき、私たちは知らずと壺中に入り込み、「日月長し」の妙境に戯れているのかも知れません。

■釋宗演禅師のこころ 「人情の禅」
ラオスやスリランカ、ミャンマーなどの国々を訪問するたびに、超然とした僧侶の威厳と、あまりにも敬虔な仏教徒の姿に感銘を受け、日本とは大きく異なる「仏教国」のあり方に圧倒されます。インドから南方の国々に伝わった「上座部仏教」の僧侶は、お釈迦様が定めた戒律を忠実に守りながら、一般社会から隔絶した僧団の中で、悟りを求めて生涯を修行に捧げます。出家できない一般の人々は、僧侶に布施することで来世のために功徳を積みます。つまり「修行によって悟りを開いた僧侶」だけが救われるという教えです。これに対して、主流派から分裂して中国や日本に伝わった仏教は「大乗仏教」と呼ばれ、自分ひとりの救済(自利)よりも先に、他のあらゆる人々を救うこと(利他)を誓願して生きる教えです。僧侶も一般の人々も、全ての人々が共に救われる、慈悲に満ちた教えなのです。今年百年遠忌を迎える鎌倉円覚寺派元管長の釋宗演老師と、明治を代表する名僧の一人である雲照律師との間に、この大乗仏教を理解する上で、とても興味深いエピソードが残されています。

雲照律師(釋雲照師)は真言密教の高僧で、上座部と同じように戒律を厳格に守る「戒律復興運動」によって、明治期の日本仏教の改革を目指しました。若き日の宗演老師が上座部仏教を学ぶためにセイロン(当時のスリランカ)へ留学する際に、紹介状を書いて下さった恩人でもあります。ある時、宗演老師が雲照律師と出会い、開口一番にこう尋ねました。「あなたはウナギと刺身のどちらがお好きですか?子供は何人おられますか?」 雲照律師は渋い顔をして横を向いてしまい、同行していた信者さんが「律師は肉食はもちろん、女性と関係を持つなど、そのような穢れたことは一切なさいません」と応じました。それを聞いた宗演老師は「それは失礼しました」と大笑いして、さらに尋ねます。「ところで、あなたは修行中の弟子が女性と会ったことを理由に破門にされたそうですが、あなた方の教えは、そのような者は信じてはならぬのですか。我々の教えは、どのような人でも支障はございません」 これに対して律師は、「信じてはならぬということはないが、僧侶が肉食妻帯をすれば修行の妨げとなるので、一切禁じておる」と答えました。すると、宗演老師はこう仰いました。「肉食や妻帯のせいで修行が乱れるような意志の弱い者に、それを禁止すれば、さらに心が乱れるだけでしょう。腹が減ったままでは、何か食べたいという思いに心を奪われて、せっかくの修行も身に付きません。それに、世の中の男性と女性を隔離して会えなくしたら、人々は気がおかしくなるに違いありません。天下の泰平も五穀の豊穣も、人々の和合と欲求の満足なしではあり得ません。欲求は人間の本能です。初めから聖人君子であれというのは無理な注文です。われわれ僧侶とて、やはり同じ人間に過ぎません。戒律で何もかも禁じるより、まずは人間本来の欲求というものに対する理解を深めさせ、それに溺れてしまわないような工夫を教えてあげてはいかがでしょう。あなたの立派な生活姿勢には心から敬服しますが、残念ながら、あなたは人情というものを理解していません」 これに対して、律師は一言も返せなかったそうです。

言うまでもなく、私たち仏教徒にとって教義や戒律を守ることはとても大切です。しかし宗演老師は、それだけでは十分ではない、「人情」がなければ人を救うことは出来ないと仰います。なぜでしょうか。私たちは誰もが、弱く不完全な存在です。善良でありたいと願っていても、人は時に欲に溺れ、道に迷い、間違いを犯します。そして、悩み苦しむ人も、その人に救いの手を差し伸べる人も、同じように悩み苦しむひとりの人間に過ぎないのです。痛みや挫折を経験し、自分自身の弱さを知る人こそ、他人の苦悩を我がことのように受け容れることができるのではないでしょうか。立派な聖人君子でなくてもいい。人間というものの弱さを自覚し、悩み苦しむ世の人々に寄り添って、共に救いを目指してゆくような、血の通った人間性。それが宗演老師が言われる「人情」であり、大乗仏教の本質ではないかと思うのであります。仏教には慈しみや思いやりをあらわす「慈悲」という言葉がありますが、あえて「人情」と表現されたところに、宗演老師の人間味を感じられるような気がします。若き日の宗演老師は、「この世で苦しむ人々を救うために自分はどう在るべきか」と葛藤されます。やがて「寺の中にとどまっていたら人を救うことは出来ぬ」と確信し、師匠の猛反対を押し切って慶應義塾大学に進学、さらには仏教の源流を探るために遙かセイロン島へと赴き、学識と見聞を深めます。この時、無一文の宗演老師を援助し、無謀にも思える挑戦を支えてくれたのは、熱意溢れる一人の青年僧を信じ、「迷える世の人々を導く立派な禅僧になってほしい」と願う人々の、温かい人情でした。多くの人の情けによって自分が救われ、生かされていることに、老師ご自身が深く感謝しておられたに違いありません。その後、円覚寺派管長として多くの人々を教え導き、さらには世界に向けて禅を布衍されるという偉業を成し遂げた宗演老師の激動の生涯の中に、大乗仏教のあるべき姿を見るような気がします。

■釋宗演禅師のこころ 「釋宗演禅師の願い」
先日、とある動物園へ行き、バスの中から動物にエサを与えるという、いわば「サファリバス」なるものに乗りました。窓ガラスは無く、遮るものは金網のみ。そこからライオンやクマ、シカなどにエサを与えることができるというものです。いよいよ終わりに近づいたとき係員が、「ここからのゾーンは肉食動物よりももっと凶暴な生き物のゾーンです。皆さま、くれぐれもお気を付けください」と説明します。厳重なゲートが開くと、そこは出口でした。「凶暴な生き物」というのは、我々人間のことだったのです。思わず笑ってしまいましたが、笑って済ますわけにはいきません。考えてみれば、人間ほど恐ろしく、残酷な生物はいません。自分の行為を正当化し、自分の都合によって動物の大小は問わず、同じ人間まで殺してしまう。それが国レベルの衝突となれば、戦争にもなりかねません。私たち人間は、赤子を抱いたその手でミサイル発射のボタンを押し、我が子にプレゼントを渡すその手で銃の引き金を引き、我が子の頭を撫でたその手でナイフを持つのです。戦争や暴力が悲惨な結果を招くことは知っていても、それをやめられないのが人間です。禅の教えを世界へ広めるきっかけを作った元円覚寺派管長の釋宗演禅師。1893年、宗演禅師はシカゴで開催された第1回万国宗教会議に出席し、そこで「仏教の要旨並びに因果法」「戦ふに代ふるに和を以てす」という2つの演説を行ないました。とりわけ2つ目の演説は、人類にとっての普遍の真理を説いて、宗教が戦争を避けるために果たすべき役割を問い、普遍的な人類愛にもとづいた家族的な共同体を、この地上に作り上げること。その普遍的な人類愛の実現は慈悲と寛容の源である宗教の役目であると訴えました。
言うまでもなく、戦争は、絶対に許されるものではありません。戦争は一部の野望に燃える人々が、人類の平和を脅かし、世界の秩序を覆そうとして、普遍の真理の実現に向かおうとする、歴史の大きな流れに逆らおうとするものに過ぎないのです。(中略) そもそも、戦争が私たちに何をもたらしてくれるというのでしょう?何も、もたらしてはくれません。戦争とは、弱い者が、強い者に虐げられることに過ぎないのです。戦争とは、兄弟同士が争い、血を流し合うことに他ならないのです。戦争とは、強い者が、結局何も得るものがない一方で、弱い者がすべてを失うことなのです。 
これは、かつて師の今北洪川老師の反対を押し切って留学したセイロンで、英国の奴隷と化した植民地の現状を目にしたことから発せられた宗演禅師の切実な思いでしょう。征服された者は征服した者を怨み続け、終わりのない争いは、双方が苦しみあうだけであり、何ももたらすものなどないのです。
存在するものすべての相依相関の真理に目覚め、たがいに協力する時、はじめてわれわれは栄えるのだという事実を、まず自覚しようではないか。そして、力と征服の考えに死して、一切を抱擁し、一切を許す愛の永遠の創造によみがえろうではないか。愛は実在をあるがままに正しく見ることから流れ出る。
宗演禅師に参じ、禅師の紹介で渡米し、多くの禅の書物を英訳した鈴木大拙居士は、こう述べます。人種、文化、思想や信条、信仰や宗派の違いはあろうとも、一人一人の命は平等で尊いものです。その輝ける命の一人一人が互いに関わり合って成り立ち、互いによりあって存在しているのです。それが普遍の真理、相依相関の真理というものでしょう。だからこそ、自分の都合に沿わなくても、互いを認め許し、互いに理解を深め、互いを敬い、愛すという慈悲と寛容をもって普遍的な人類愛を実現せねばなりません。今年の11月1日に釋宗演禅師の100年遠諱を迎えました。残念ながら現在も戦火が絶えることはありません。しかし、できないからやらないと言っては、いつまで経っても争いは止むことはありません。戦争を起こすのが人間であれば、戦争を起こさない、起こさせないのも人間です。宗演禅師が掲げた「普遍的な人類愛と恒久の平和という崇高な願いの実現」のために、まず私たちは互いによりあって生きていることを自覚することから始めませんか。そして慈悲と寛容をもって、物事をそのままに、自分の都合を離れてよく見極めてみませんか。そこに宗演禅師の願う普遍的な人類愛の実現への一歩が踏み出されるのです。

■釋宗演禅師のこころ 「頭が下がる人」
本年はスポーツ界における「パワハラ」がたびたびクローズアップされておりましたが、スポーツ界に限らず、会社や団体などあらゆる組織の中での人間関係において軋轢(あつれき)が生じることは少なからずあります。特に今は組織における指導者と呼ばれる立場の人間の品格・資質が厳しく問われている時代といえるのではないでしょうか。『観音経』というお経の中に「慈眼視衆生(じげんじしゅじょう)」という一節があります。観音様は生きとし生けるものを平等に慈愛の眼をもって見守って下さるという意味です。一切の物事を差別することなく平等に見ることは、現実的にはなかなかできることではありません。私達は知らず知らずのうちに自分の価値観、ものさしによって偏ったものの見方をしてしまいます。しかし仏教では、そんな私達の心にも観音様のような大いなる慈悲心が本来具わっていると説きます。時には自分の心を静かに見つめなおし、心の余計なわだかまりを洗い流してその素晴らしい心の存在を信じて日々を送ることが必要なのではないでしょうか。さて、本年は若干32歳にて鎌倉円覚寺派の管長に就任され、明治・大正時代にご活躍された釋宗演禅師の百年遠諱にあたります。これは宗演禅師の少年時代のエピソードです。
宗演禅師は15歳から17歳までの間、建仁寺の塔頭寺院である両足院(りょうそくいん)において修行をされていました。当時両足院は「群玉林(ぐんぎょくりん)」とよばれ、10歳から18歳位の大勢の小僧さんが千葉俊(しゅんがい)禅師の下で日々研鑚を積んでおりました。夏のある日のこと、俊国T師が所用で外出されることになりました。小僧さん達は「鬼の居ぬ間に洗濯」、ここぞとばかりに昼寝を始め、宗演禅師も師匠の部屋に通じる渡り廊下に布団を敷いて眠りにつこうとしました。その時、思いがけず俊国T師が帰って来られました。宗演禅師も異変に気付き、急いで起きようとされますが間に合わず、腹を決めて狸寝入りを始めました。すると俊国T師は廊下で寝ている宗演禅師を見つけると怒鳴ることもなく、宗演禅師の足元を「ごめんなされや」と小声でつぶやきながら手を合わせ、そっとまたがれたそうです。
後に管長になられた宗演禅師は、「わしはこの時に人の師となる人物の心掛けの一端を見た」と高座で涙を流しながらお話しになられました。「実るほど頭(こうべ)を垂れる稲穂(いなほ)かな」という言葉があります。学問や徳行が深くなればなるほど、より謙虚になるという意味です。俊国T師はまさに自然と頭が下がる人物でした。「頭を下げる」と「頭が下がる」では意味合いが全く異なります。「頭を下げる」は自分にとって利益がある場合など自分の都合で意識的に頭を下げており、心が伴っていない場合があります。しかし、「頭が下がる」は自分の中に周囲への感謝の心、尊敬の心がなければ自然と頭は下がりません。稲穂と同じで心が十分に実っていなければ頭は下がらないのです。俊国T師は大いなる観音様の慈愛の眼差しで宗演禅師をご覧になられ、心の中の仏様に自然に頭を下げて手を合わされたのです。組織の指導者たる人間は厳しさももちろん必要ですが、観音様のような海のように広大な心と慈愛の眼で一人一人を見守っていく俊国T師のような人物が現代社会には求められているのではないでしょうか。

■お坊さんの頭は何でツルピカ?
いつの法事だったか忘れてしまったが、あるご法事でこれからお経が始まろうかという時に、背中の方から子供がひそひそ声で「お坊さんはどうして髪が無いん? 何でツルピカなん?」と言うのが聞こえた。以前は、「法事は孫の正月」という言い方がありその言葉が示すとおり、法事の席に子供たちが何人もいるのが当たり前だったが、最近はそんな光景は少数派になってきている。だから「お坊さんはなぜ髪がない?」というような素朴な子供の疑問は、とても貴重だと思ったので、お経のお勤めの後そのことについての話をした。もしかしたら子供だけではなく大人でも疑問に思っている人がいるかもしれないし。「お坊さんの頭がツルピカなのには大きくいって二つの理由があります......。今から2千5百年も前のインドで、お釈迦様が出家修行をなさっていだ時、お釈迦様は髪の毛を剃ったお姿でした。亡くなられる時は違っていましたが、いわゆる「ツルピカ」の頭がお釈迦様のトレードマークだったのです。ですからそのお釈迦様と同じような姿をしていれば、少しでも「お釈迦様のさとり」に近づけるのではないかと考えて、現代のお坊さんが頭を剃っているというのがひとつめの理由です。もう一つは、髪の毛は煩悩(ぼんのう)の象徴、という意昧があるということです。煩悩とは、たとえば「あれが欲しい、これはいらない、あれが好き、これは嫌い」という欲望です。そういった欲望の気持ちは、断ち切ってしまうことはなかなか離しいし、たとえいったん断ち切ったとしても、再びそんな気持ちがむくむくと湧いてくるのです。髪の毛もそれとよく似ています。煩悩を断ち切ろうという願いをもって、お坊さんたちは髪の毛を剃って頭をツルツルにして出家しますが、時聞が経つとまた伸びてきてしまいます。どうしたらよいでしょうか? 伸びたら剃るしかありません。伸びたらまた剃る、伸びたらまた剃るの繰り返しの姿が、お坊さんのツルピカの姿なのです。お坊さんのツルピカの姿は、次々と湧いてくる(生えてくる?)煩悩と戦っている姿だと理解してください。その戦いに勝利するのはなかなか難しいですが、その困難に立ち向かっている姿勢は尊いものです」。 
 

 

■好きと嫌いと
ご本山からの命で布教の旅に出ました。32日間という1ヶ月を超える長丁場でした。初日のお寺で、昼食を頂いている時、奥さんに「何がお好きですか」。と尋ねられました。咄嗟のことでまごつきましたが、お皿の上にカツオのお刺身が載っているのを見て、「カツオが好きです」。と答えました。奥さんは「それは良かったですね」。と言い、話はそれで途切れました。次の日、別のお寺に参りましたが、昼にカツオのお刺身が出ました。今日もカツオが食べられると思い嬉しくなりました。3日目も4日目もカツオのお刺身がつきました。さすがにこの辺で考えるようになりました。お寺の奥さんの連絡網があって、前のお寺に次のお寺の奥さんが、「何をお出ししたら喜ぶんでしょうか」と情報を教えてもらっているのではないかと。それからも、5日目も6日目もお昼にカツオのお刺身が出ました。なんと最後の日まで出たのです。だんだん見るのも嫌になりました。最後は苦行のように、やっと飲み込みました。自分のお寺に戻ってしばらくは、カツオを含めお刺身には箸が伸びませんでした。カツオのお刺身が脳裏から少し薄らいだ頃『臨済録』を読んでいて、次の一節に出会いました。
「嫌う底の法勿(な)し」
好きだと一つのもの、一人の人にこだわると、それが苦しみの原因になるのでは......。どんなものでも好き嫌いしなければ、そのままみんな好きになるーー 360度好しとなります。それ以来、私の杖ことばのひとつが「嫌う底の法勿し」です。食べ物だけでなく、苦手な人と会う時も「嫌う底の法勿し」です。

■釋宗演禅師のこころ 「宗通説通の人」
明治25年3月、釋宗演禅師は32歳にして鎌倉の円覚寺派管長に就任されました。また同年10月には京都の建仁寺にて39歳の竹田黙雷禅師が管長に就任され、二人の若き禅僧が指導者としての門出を迎えました。お二人の出会いは、おそらく明治3年から5年の間、共にまだ十代のころ妙心寺天授院の越渓老師の下で修行されていた時であると思われます。その後、それぞれ仏道修行の道を歩み始めますが、黙雷禅師は岐阜の正眼寺にて修行中に病をえて、京都で静養することになりました。一方の宗演禅師は建仁寺の学寮である群玉林の千葉俊(ちばしゅんがい)禅師の下で内外の仏典を学んでおりました。明治7年には宗演禅師の勧めによって黙雷禅師も群玉林に加わり、お二人は建仁寺で共に学ぶことになりました。この頃の出来事として黙雷禅師の著書『禅の殺活』に次のような逸話が残されています。
玄沙師備(げんしゃしび)禅師が、或る僧からの手紙の返事に、白紙三枚を封じ込んで送られたさうなが、白紙の返事とは面白いナ。この白紙の手紙が読めんやうぢや、宇宙の活書を読むことは出来んぞ。(中略) 亡くなった宗演和尚が十七歳、衲(わし)が二十歳、まだ二人とも雛僧時代ぢやつた。或時、衲は、師備禅師の真似をして、宗演に白紙の手紙をやつたことがある。當時、その白紙の手紙の読めなかった宗演も、なかなか豪(えら)い者になつて死んだ。
お互いに修行僧として切磋琢磨する中で、昔の禅僧の故事から宗演禅師に白紙の手紙を送られたという黙雷禅師。その胸中は推察することしかできませんが、白紙の手紙でも自分の思いが理解してもらえるだろうというほどに、お二人の友情は厚いものだったのではないでしょうか。黙雷禅師の語録『暗号密令』には、大正8年宗演禅師が61歳で遷化された時の心境が「宗演和尚を悼(いた)む二首」という題で残されています。
万壑の秋風夢を驚かす頻(しきり)なり 轉(うた)た伝ふ師友遽(にわか)に真に帰すと 無常の鬼使何ぞ残忍なる 此の宗説兼ね通ずるの人を奪ふ
正に是れ秋光揺落の辰(とき) 又驚く老友の忽(たちま)ち真に帰するを 風饕(ふうとう※)霜虐(そうぎゃく)無情甚だし 宗に通じ説に通ずるの人を惜せず  ※風饕(フウトウ)=風に吹きさらされる。外に辛苦する。
二首の漢詩に共通する言葉が2つあります。「真に帰す」と「宗通説通の人」という言葉です。「真に帰す」とは、本来の心に帰る、仏教で死のことをいいます。また「宗通」とは修行によって宗旨に通達すること。「説通」とはその通達した宗旨を自由に説示することです。東嶺和尚が『宗門無尽灯論』の中で
「吾が宗の重んずる所の者は惟(た)だ宗通説通にあり」
と示されておりますが、「宗通説通の人」とは黙雷禅師から宗演禅師への禅僧として最大の賛辞ではないでしょうか。

■釋宗演禅師のこころ 「私の四弘誓願」
明けましておめでとうございます。いよいよ5月には改元、10連休。来年は平和の祭典東京五輪。2025年には悲願の大阪万博。皆さまにとって、必ずや夢と希望に満ちた輝く未来が待っていることとお慶び申し上げます。それはさておき、我が宗門では、今から125年前、シカゴでの万国宗教会議で釋宗演老師が「真の宗教の目的は普遍的人類愛と永遠の世界平和の実現である」と高らかに宣言され、愛弟子の鈴木大拙居士は、世界の禅者、人類の教師として老師の精神をさらに発展させました。これこそ、現代社会の人間救済の光明として、世界の各地で称讃されている「ZEN」の根源であり、四弘誓願(しぐせいがん)の精神そのものなのではないでしょうか。
衆生は限りなけれども 誓ってみちびかんことを願う 煩悩は尽くることなけれども 誓って絶ちきらんことを願う 法門は無量なれども 誓って学ばんことを願う 仏道は極め難けれども 誓って成しとげんことを願う
宗演老師が16歳の時、師匠の留守中に本堂の縁側でつい居眠り、戻られた師匠は、老師の足の方へ廻って「ごめんなされや」と片手で一礼して通って行かれた。それを夢うつつで見た老師は深く感じ入るものがあったそうです。いつでもどこでも誰にでも「ごめんなされや、ああ有難い、もったいない」と一礼させる心こそ、まさに仏心そのものなのではないでしょうか。ある日本人から「外国人に禅なんてわかりますか」と言われた大拙先生、「お前さん、わかるのか」と。また、「先生の見性とはどういうものですか」という質問には、「そうだな、衆生無辺誓願度がわしの見性だな」と。私事で恐縮の上に、正月早々縁起でもないと叱られそうですが、一昨年の12月、医師より「スキルス性胃ガン。リンパ節と肝臓に転移。ステージ4。放置すればあと3、4ヶ月」という診断を受けました。私は思わずひとこと「やめます」と。誤解されては困ります。「(良寛禅師の)死ぬる時には死ぬるがよかろうと言うのを、やめます」です。その後、抗ガン剤治療のため入院。夜中にひとり淋しくベッドで坐禅をしておりました。「ああ、俺ももう長くないのか。諸行無常ってこういうことだったのか。やっぱりお釈迦さまは本当のことを言ってるな。しかたがない。明日のことはわからない。でも、今は生きてる。これは絶対間違いない。じゃあ、この今日をどう生きるか」。その時、心に浮んだのは円覚寺派管長、横田南嶺老師のお言葉でした。
明日はどうなるかわからないけれど 今日一日は笑顔でいよう。つらいことは多いけれど 今日一日は明るい心でいよう。いやなこともあるけれど 今日一日は優しい言葉をかけていこう。
私のような者が、世界平和や人間救済を弄するなどとは誠におこがましい限りですが、新春の初笑いに免じておゆるし下さい。題しまして、「私の四弘誓願」。
いろんなひとがいるけれども 今日一日 やさしい心でいよう いろんなことがあるけれども 今日一日 あかるい心でいよう この道は遠いけれども 今日一日 一歩すすもう 何があっても大丈夫 今日一日 笑顔でいよう
おあとがよろしいようで。皆さまどうぞお元気で。本年も何卒よろしくお願い申し上げます。

■いま生命あるは有難し
お釈迦さまのお言葉を集めたお経に「法句経」があります。その中に、次の教えがあります。
人間に生まるること難し やがて死すべきものの いま生命あるは有難し  「法句経一八二」
生きとし生けるものの多い中で、人間として生を受けるということはなかなか稀なることであります。その受け難き人身を受けましても、この肉体の生命には限りがあります。今日「人生百年」といわれていますが、いくら長生きをされても、いつか必ず死がおとずれます。そのやがて死すべき生命が、今日まだ亡くならずに日暮らしができている。これほど有難いことはありません。数年前、毎日新聞に読者の投稿がありました。
「幸せのはひふへほ」
は...半分でいい ひ...人並みでいい ふ...普通でいい へ...平凡でいい ほ...ほんの少しでいい
幸せって、人それぞれです。私は「今生きている」それだけで幸せです。お父さんお母さん、私を産んでくれて育ててくれて、ありがとう。  (17歳女高生)
幸せは人それぞれです。立派な家に住んでいても、幸せと思わない人もいます。小さな家に住んでも、幸せを感じる人もいます。彼女は「今生きている。それだけで幸せです」といっています。それから、受け難き人身を授けてくれた両親に「私を産んでくれて、育ててくれて、ありがとう」と、17歳の女高生が感謝をしているのです。今ある生命を大切にして、一日一日一所懸命生きることが大切です。

■釋宗演禅師のこころ 「まごころの中」
年末の大掃除、一年の汚れを落とす大切な行事です。普段できていない部分を掃除して新年を迎えるために一所懸命に掃除致します。私が預かっている小さなお寺でも寺族一同が集まって掃除をいたします。しかし、昨年は日程の調整が上手くいかず、多くの人が集まって一斉に、という形にはいきませんでした。少し困ってしまって何とか一日で終わらせよう!と考えていた矢先、場所と日程をこまめに分けて行なおう、という他の声が上がり、無理なく丁寧に各場所の掃除ができて新年を迎えられることとなりました。掃除をする中で「至誠(しせい)」という言葉に触れた時のことを思い出しました。「至誠」とは、この上なく誠実なこと、まごころを表わします。この言葉は釋宗演老師の著書『禅海一瀾講話』の第四十二講、第十五則に出てきます。『禅海一瀾講話』とは釋宗演老師の師匠である今北洪川(いまきたこうせん)老師の『禅海一瀾』を講義されたものです。宗演老師は洪川老師を一言で表わすと「至誠の人」と語られています。私がこの「至誠」という言葉を聞いたのは臨済会主催の「禅をならう集い」に参加し、現円覚寺派管長猊下、横田南嶺老師に提唱いただいた時でした。様々なご縁を持って我々は生きていて、生きている中でまごころの中にいる事に気付ければ一人で力みすぎる事無く、無理のない精進努力ができるのではないか。という教えが印象的でした。ではまごころとはどの様なものでしょう? 辞書を引くと他人のために尽くそうという純粋な気持ち、偽りや飾りのない心と言われています。釋宗演老師の半生を描いた『ZEN 釋宗演』という漫画があります。そのなかにこの様なお話があります。若き雲水であった釋宗演老師は円覚寺の前で、死んだ犬を抱えた幼い兄弟と出会います。そこで、共に穴を掘って、犬のお墓を作って弔ってやろうとします。その時、一人の僧侶が現われ、門前ではいかんと、寺の境内の中に一緒に犬の墓を共に作ります。その僧侶が後に師となる当時の円覚寺派管長の今北洪川老師でした。このお話がとても好きで、まごころとは何か、伝えてくれているような気がいたします。幼い兄弟は死んだ犬を思いやり、お墓を作り、宗演老師は素直な気持ちで共に弔い、洪川老師も素直な心でそれを手伝う。どなたも他者に対して無理しているこころが無いのです。自分のできうる範囲を無理せず全うすることが、まごころと共にある生き方となるのではないでしょうか? 私は大掃除を進める中で、無理なく丁寧に行なう方法を提案して貰い、「至誠」を感じました。我々はまごころの中に居る。そう思うと、何となく毎日が過ごしやすくなる気がいたします。皆さまにも「至誠」が感じられる日々となりますように。

■釋宗演禅師のこころ 「他人の悪口を言わず」
節分は、各季節の始まりの日の前日のことで、江戸時代以降は特に立春(2月4日頃)の前日、つまり2月3日を指す場合が多くなりました。元来は宮中で「鬼は外、福は内」と声を出しながら福豆を撒いて厄除けを祈願する神道行事でしたが、いつしか仏教寺院でもこの節分会が行なわれるようになりました。仏教ではこの「鬼は外」の鬼とは、心の鬼のことを指します。心の鬼とは煩悩のことで、例えば口で犯す煩悩に「悪口」や「嘘」があります。この心の鬼を退治することは、なかなか容易ではありません。さて、昨年は臨済宗円覚寺派元管長の釈宗演禅師の百回忌でした。釈宗演禅師は、満32歳という若さで管長に就任し、その翌年米国シカゴで開かれた万国宗教会議に日本の宗教者代表4人の一人として参加。この歴史上初めての会議には、キリスト教の優位を示す狙いがありましたが、そのことを知りながら、釈宗演禅師は「禅」を世界に拡める千載一遇の好機ととらえて参加されました。この時の禅師の講演は禅仏教の根本である「悟り」を説き、約6000人の聴衆から拍手喝采を受け、「禅は現在の科学、哲学と密合する」ことを提示されました。まさに、世界のひのき舞台で禅を講じられ、禅を拡められた最初の僧侶となられたのでした。この舞台に立つ下地は、禅師が管長に就任する前に、師である今北洪川老師の反対を押し切って、慶応義塾で福沢諭吉らの碩学に学ばれたことや、セイロン(現スリランカ)で2年半、原始仏教の根本精神の戒律について学ばれた経験が大きく関与しています。釈宗演禅師の人となりは、後に禅師のもとに参禅した夏目漱石が小説『門』で、主人公の宗助にこのように語らせています。「彼の眼には、普通の人間に到底見るべからざる一種の精彩が閃めいた。宗助が始めてその視線に接した時は、暗中に卒然として白刃を見る思いがあった」 峻厳な禅師の風貌が偲ばれます。また、徳富蘇峰は『宗演老漢』で次のように追想しています 「敬服すべきは未だかつて第三者に対して、他の長短を謂(い)わざりし事也」 つまり、他人の「悪口を言わなかった」というのです。大乗仏教における十種の戒に「十重禁戒(じゅうじゅうきんかい) 」があり、その6番目と7番目に「他人の過ちを言いふらすことなかれ」、「己(おのれ)を誇り他を悪(あ)しざまに言うことなかれ」とあります。まさに、この僧侶としての「戒」を守り、心の鬼を退治した釈宗演禅師の生きざまは、僧侶の鑑だと思います。なかなか凡人には及ぶところではありませんが、節分に際して、少しでも禅師からこの正しい生き方を学びたいと思います。

■山河並大地全露法王身 〔山河並びに大地全く法王身を露わす〕
私の住まいするみちのくの山寺は、太平洋岸とは言え、東北百景の七ツ森山麓に位置して雪深い。日本海からの風は山形県境を超え、船形颪(ふながたおろし)として吹きすさび、地吹雪をもたらす。夜中に降り積もった雪は膝上まで達する。朝日が当たり溶け出す前に、朝のお勤めを終え、雪掻きに取り掛からねばならぬ。純白の新雪は陽光に映えて、眩しいばかりに光り輝いている。本堂を突き抜けるかの樹齢四百余年の榧ノ木は、裏山の木々を背景に、一面銀世界の君主然として聳え立っている。自然の織り成す景観は、魂を鷲掴みにして離さぬ。どこを見ても摩訶不思議な絶妙のバランスと造形美に満ち溢れ、見るものを圧倒する。しかし一体何がこの全体宇宙をつかさどっているのか? 目に見えぬミクロの世界から、この我が身の生命体の小宇宙、地球、宇宙に至る森羅万象は、摩訶不思議な秩序を保ちつつ、ひとつの摂理を成している。普段私たちは、日常の瑣事に追われ、分単位、秒単位に切り刻まれて、やらねばならぬ外の事情に振り回され、浮足立っている。臨済録に「演若達多頭を失脚す(えんにゃだったこうべをしっきゃくす)」の逸話がある。昔、演若達多という美貌の青年が、毎日鏡を見て化粧をしておったが、ある日鏡を見ると頭がない! きっと寝ているうちに頭を盗られたに違いないと、街中に出て人々に聞いて回った。するとその尋ねているのが、お前の頭と口だと笑われた。手を頭にやると確かにある。その日の朝は、たまたま鏡の裏を見てうろたえていたそうな。「忙しい」とは、こころが亡(ほろ)ぶと書く。こころ此処になければ、目の前にあっても見えず、見ても見えぬ道理である。せわしない日常の一瞬、立ち止まって心静かに身辺のありさまを、ありのまま、そのままに眺め、受け入れることができれば、そこかしこに新鮮な驚きと不思議な感動が満ち溢れているに違いない。その生まれながらに身に備わった「気付く」力と、宇宙の摂理はいずれどこかで繋がっている。だからこそ、この眼前世界が絶え間なく、包み隠さず説き尽くしている姿に、人は心揺さぶられるのであろう。白隠禅師曰く「動中の工夫静中に勝ること百千億倍す(*注)」と心得て、心静かに雪掻きに専念する。

■大用国師のこころ 「涅槃会〜姿に迷う人ぞかなしき〜」
お釈迦さまは、拘尸那羅(くしなーら)の城外跋提河(ばつだいが)の畔の沙羅双樹の間にお休みになり、最後の説法をされました。枕元の弟子たちに「質問はないか」と3度尋ねられるも、悲しみのあまり誰も声を発することはありませんでした。長老の阿那律(あなりつ)尊者が「師よ、誰一人疑いを持つ者はないと存じます」と申し上げると、釈尊は「あの河の流れが聞こえるか」と問われました。耳を澄ますと、抜提河の流れが「サラサラ」と聞こえてきます。「はい聞こえます」と答えると、「あの河の流れのように常に移りゆく、水の流れがやがて石に穴を穿(うが)つように精進努力するがよい」、この言葉を最後に釈尊が入滅されたのが2月15日、涅槃会(ねはんえ)です。満月の夜のことでした。この涅槃会に江戸時代の禅僧で、誠拙周樗(せいせつしゅうちょ・大用国師)・(1745〜1820)は次の詩を詠まれました。
けふはなし きのふはありと みほとけの すかたにまよふ 人そかなしき
私たちは愛しい人、親しい人を亡くすと、昨日まで居た人が今日はもう居ない、と嘆き悲しみます。それはお釈迦さまの入滅に会った多くの弟子たちや、信者も同じであります。しかし、お釈迦さまは弟子たちや信者のために次のように説かれました。
汝等(おんみら)よ、今わがやすらいに入るを見て、正法とわに絶えたりと思うこと勿れ。われ已(すで)に汝等の為に戒を誨(おし)えまた法を説けり。わが亡き後は、これを重んじこれを尊ぶこと、闇(くら)きにありて明(ひかり)にあい、貧しき人の宝を得るが如くなるべし。これこそ汝等の生きたる師なればなり。汝等よ、吾が終わりすでに近づき、とわの別れ目前に逼(せま)れり。されどいたずらに悲しむことを止めよ。滅びるものは壊身(えしん)に外ならず、真(まこと)の仏はさとりの智慧にして、永久(とわ)に生き存(ながら)えん。吾が壊身を見るものは吾れを見るものに非ず、正法(さとり)に目醒(めざ)むるものこそ、つねに吾れを見るものなり。  『送喪儀(そうそうぎ)』遺教経抜粋
お釈迦さまは「この身は滅んでも正法は決して滅びることはない。本当の師匠は私の身体ではなく教えである」と言われたのです。さらに「滅びるものはこの肉体だけであり、本当の釈尊・仏陀は悟りの智慧であり、それは永久に生き続けるのだ。故に釈尊の肉体だけを見ている者は本当の釈尊を見てはいないのだ」と。この教えを、大用国師は「姿に迷う人ぞかなしき」と説いておられます。この世は「生者必滅・会者定離」、誰もが愛しい人、親・兄弟とも別れの時がやってきます。しかし、お釈迦さまや歴代の祖師方は勿論、祖父母、両親、恩人等々、貴方の大切な人々からの教えや思い出は、その人亡きあとに姿は見えずとも貴方が生きている間はずっと心の中に、傍に居るのです。

■把手共行 ―同じ目線になって―
把手共行(はしゅきょうこう)。「手をとって共に行く」という意味の禅語です。愛する人や家族と手をつないで歩くと、嬉しくて心がウキウキしますよね。一人では歩けないような不安な時でも、誰かが手をさしだしてくれたら、それだけで心強いものです。とてもわかりやすい禅語ですが、大事なことは「相手と同じ目線になる」ということではないでしょうか。例えば、自分自身は苦しみのないような高い所にいながら、困っている人に手をさしだしたとしたらどうでしょう? それでは相手の心には届きません。そうではなく、その人と同じ場所に立って、同じ目線になって手をさしだしていく。手をつないで歩きますから、お互いが向き合ったままではなく、同じ方向の目標を目指しながら一緒に歩くことになります。歩くスピードも歩幅も相手とまったく一緒です。共に歩むその道は、まさしく人生そのものです。私たちはこの世に生まれ、老い、病にかかり、やがて旅立っていきます。そんな世の中を、共に喜び共に悲しんでいく。自分と相手との間に隔たりがありません。私があなたで、あなたが私。まさに一体となった素晴らしい生き方です。詩人金子みすゞさんの遺稿を見つけ出したことで知られる矢崎節夫さんのお話です。山口市のある小学校のクラスが、ネパールの小学校建設基金に協力してくれたお礼として、矢崎さんはその学校を訪問しました。その前日、担任の先生はクラスの子に「明日は使っていない鉛筆で、もしネパールの小学生にプレゼントしていい鉛筆があったら、持ってきてください。ネパールの小学生は、鉛筆を持っていない子もいるのです」と伝えました。次の日、クラスの子たちはそれぞれ鉛筆を持ってきました。ところが、ある少女が持ってきた2本の鉛筆をよく見ると、2本ともきれいに削ってあったのです。「使っていない鉛筆を持ってこなかったのは、どうしてかな?」と先生が聞くと、その少女は目を輝かせて「ネパールの子が鉛筆を持っていないのなら、鉛筆削りも持っていないと思って削ってきたの」と答えたのです。担任の先生も、その話を聞いた矢崎さんも、驚きと感動で胸がいっぱいになりました。少女は鉛筆をあげる側から、鉛筆をもらう側のネパールの小学生と同じ目線になっているからこそ、鉛筆を削ることを思いついたのです。ネパールの子たちと心の手をつないで歩いているのです。あなたは、誰と手をつないで歩いていきますか? 相手の目線になってそっと寄り添えば、その思いはきっと相手の心に届きます。これからも共に歩んでいきましょう。

■お彼岸のこころ
3月にはお彼岸があります。お彼岸には、皆さまがお墓参りやお寺参りをなさり、ご先祖様の供養をつとめられ、お経を読まれ、お釈迦さまの教えに触れられることも多いと存じます。仏教では「到彼岸(パーラミター)」といって、迷いの此岸から悟りの彼岸に至ること、と教えてあります。お釈迦さまの教えを学び実践していくことで、私たちは迷い苦しみの多い心の世界から、真実の安らぎの心の世界へ到ることができるのです。お彼岸の期間1週間だけでなく、毎日の生活の中でお釈迦さまの教えを心にいただき、少しでも実践していくことが大切なのです。臨済宗妙心寺派では、そうした実践の道標として「生活信条」三ヶ条が示してあり、その一つに「生かされている自分を感謝し報恩の行を積みましょう」とあります。私たちは一人では生きていけません。多くの支えによって生かされて生きているのです。このことをしっかりと自覚して、感謝の心を忘れず、日々報恩の行を積んでまいりましょう、と示してあります。いただいている多くのご恩に報いるということは、難しいことですが、まずは身近な小さい事で良いと思います。何か人様のお役に立てることがあれば、と心掛けていく日々の暮らしが、報恩の行を積んでいくことにつながると信じています。仏教詩人坂村真民先生の詩「小さな教え」をご紹介します。
見知らぬ人でもいい 雨に濡れていたら 走っていって 傘に入れておやり
バスから降りるときは 疲れた車掌さんに ありがとうと言っておやり
道ですれちがう おばあさんたちには 幸せを祈っておやり
目の見えない人が歩いていたら おっ母さんになったつもりで 手をひいておやり
ねがえりもできず ねている人があったら こおろぎのように そっと片隅で 愛のうたをうたっておやり
小さいことでいいのです あなたのむねのともしびを 相手の人にうつしておやり
彼岸のこころという灯火が多くの人の心に灯っていくことを願っています。  
 

 

■釋宗演禅師のこころ 「花のありかは〜心の目を覚ます」
年毎に 咲くや吉野の 山桜 木を割りて見よ 花のありかは
明治時代の禅僧、釋宗演禅師はこの和歌を引用して、次のように説かれています。「冬枯の桜の木の中に、チアーンと美しい花が包まれてあるかといふに、何(な)んの跡も形もありませぬ。世人は形の見えないものは、真実でないと思ふているが、恁(そ)ういふことは、仏教では『真空』といひ、『妙有(みょうゆう)』といひます。真実は、空(くう)なると同時に又、有であります」 「花」は目に見えますが、「花の命」は目に見えないものです。しかし、それが確かにあるということは、誰もが認めることでしょう。釋宗演禅師は、その「花の命」に例えて、目に見えないものを見ようとする大切さを伝えようとしているのです。それでは、どのようにすれば見えないものを見ることができるのでしょうか? ......それは「心の目」を覚ますことです。思いやりの心を忘れずに、真剣に身の周りのものに心を傾けると、自ずと見えないものが見えてきます。失われてしまった命や、本来、命を持たないモノの命すら見ることができるのです。新聞に「おばあちゃんの目」という投稿記事がありました。
私が幼かった頃「この鉛筆、もうちびたけ(すり減ったから)、使えん」って捨てようとしたら「そんなに粗末にしたらいけんよ。目がつぶれるよ。ばあちゃんに持っておいで」と言ったね。私が「どうすると? なんで目がつぶれると?」って聞くと、「何にでも命があると。この鉛筆にもあると。ちびたけっち捨てたら悲しむよ。ちびて使いにくいなら紙を巻いて長くしたら使いやすくなるやろ」と、長くした鉛筆を渡しながらこう話してくれたね。「この鉛筆も元は木やろ。切られんかったらどんだけ大きい木になったやろうね。切られとうなかったろうね。けど、切られて鉛筆になってくれたおかげで字も絵もかけるね。大木になれんかった木の命が鉛筆の命になったんやけ、大切に使わせてもらわなね。目がつぶれるいうんは、何でも粗末にしよったら、命が見えんくなるっちこと。命が見えんっちことは本当のことが見えんくなるっちことよ。何でも粗末にしよったら、自分も粗末になるっちことよ」って。
この方は、はじめは「命」が見えていませんでした。しかし、おばあちゃんの言葉で、失われた「木の命」に気づくことができました。そして、その瞬間、鉛筆の中にも確かに「命」が宿ったのです。おばあちゃんの「粗末にしたら、命が見えなくなる。命が見えなくなると、本当のことが見えなくなる」という言葉は、私たち現代人の心に、ことさらに響くのではないでしょうか。釋宗演禅師は、このことを、ただ「無い」とか「有る」とかではなく、「真空」であり「妙有」である、と説かれました。「真」とは、本当のことであるということ、「妙」とは、言葉では言い表わせないほど素晴らしいものであるということです。そこには、私たちが生きるべき人生の道しるべが示されています。「心の目」を覚ませば、きっと今まで見えなかった「花の命」が見えてくるはずです。みなさんもどうか、慈しみの目を持って周りのものを見渡して、豊かな心で毎日をお過ごしになってください。

■仏教徒のオシャレ
「一着の服装をするということは、社会に対する自分の意識を表現することです」。ある服飾デザイナーの言葉です。春という季節、思いを新たに臨みたいものです。あるいは、より若々しく美しくありたい、他人に好かれたい。その思いを表現する一つとしての「服」ですが、『法華経』の一節にこのようにあります。
如来の衣とは柔和忍辱(にゅうわにんにく)の心是(こ)れなり
仏さまの衣服とは、優しく穏やかで、辛いことにもことさらに動じずに耐え忍ぶ心であると説いております。やたらと刺々しく、すぐに怒る。優しさのない冷たい態度。そのような方が、いくら素敵な洋服を着ていても、そこに美しさはありませんし、人に好かれることもないでしょう。また、この「服」について、『仏遺教経』には「恥を恥と知るという服は諸々の飾りの中でもっとも美しい」とあります。どんなにお洒落をして着飾っていても、自分勝手な振る舞いをして、慎み深さや礼儀正しさを欠いていては、本当の美しさはないのかもしれません。むしろ、人としての素朴さや謙虚さに、美しさや清々しさを感じ、そこに私たちは心惹かれ、人としてそのようになりたいと思うものです。衣服とは本来、自分の身を守るためのものです。そのような生き方が自分を守る、とも言えると思います。さらに言えば、より良い身近な社会の実現に繋がるのではないでしょうか。つい自分基準の振る舞いをしてしまいがちな私たちですが、今一度この「社会に対する自分の意識」を考えたいものです。先日「身だしなみとオシャレ」について書かれた記事が目に入りました。身だしなみとはマイナスから基本の0地点にまで持ってくること、オシャレとは0地点からプラスにしていくこと。そのような内容でした。この「身だしなみとオシャレ」は服の他に「お化粧」も当てはまると思います。まずは基本を整えて、その上から少しずつ足していく。その「お化粧」について、カトリックのシスターでノートルダム清心学園理事長であった渡辺和子さんは、次のようにおっしゃっています。
1 いつもにっこり笑うこと  2 人の身になって思うこと  3 自分の顔を恥じないこと  この3つの化粧品は、お金がいらない、使っても減らない、使えば使うほど質がよくなる、どこへでも持っていける。そしてアンチエイジング、つまり、年をとらないために、とても大事な化粧品だと思います。
外見ばかりにとらわれず、あたたかで思いやりのある振る舞いに気をつけることが、基本の基礎化粧品。そして、自分勝手な態度を慎みながら日々を重ねていくこと、それが心の衰えない内から滲み出る最高の美しさの秘訣。そのようにおっしゃっているのではないでしょうか。先ほどの経典(『法華経』・『仏遺教経』)の一節に通ずるものがあろうかと思います。「衣服」や「お化粧」という見た目ももちろん大切なことです。しかし、心がけや習慣も同じように見た目として表われてしまうものです。「お金がいらない、使っても減らない、どこへでも持っていける」。つまり、本来の自分が具え持っているもの、もう一度その姿に立ち返ってみましょう、禅や仏教ではそのように説きます。「衣服」「お化粧」「オシャレ」とは楽しくて心がウキウキするものです。いつも柔和で人を思いやる生き方、この「仏教徒のオシャレ」も、きっと同じ。この春、心新たに善き船出ができますよう祈念申し上げます。

■春風吹いてまた生ず
唐の詩人白居易の「古原草を賦し得て別を送る」詩に「野火焼けども尽きず、春風吹いて又た生ず」という句があります。白居易が都の、長安で活躍するようになれた端緒ともなった有名な句です。その首聯「離離(りり)たり原上(げんじょう)の草。一歳(いちざい)に一(ひと)たび枯栄(こえい)す」に続きます。「はなればなれになる日、この野原の草も年々枯れたり生えたりする。冬になって枯れた草を野火が焼き尽くしても草は根まで燃え尽きることはなく、春風が吹いて来るとまた芽生えてくる」という意味です。一般に、この句は春の息吹を如実に示した、「いのち」の再生に対する讃歌としてとらえられているようです。木々の芽吹きを見るとき、本格的な春の到来を感じます。固い冬芽がだんだんとふくらみ、潤いを帯びた春の空気に芽を出す。これこそが春の到来でしょう。冬枯れの野も、緑の若草に覆われ、いのちの息吹を感じさせてくれる春。そんな季節を私たちは待つのです。春は万物のいのちの再生と活動の再開を端的に教えてくれる季節です。しかし、禅語ではこの句に別の解釈を与えます。そえは「生ずる」ものを何と捉えるかの違いです。禅語では、「修行によって心をすっかり浄化させ、焼き尽くしたと思い、煩悩がなくなったように見えても、その根源には焼き尽くすことのできない煩悩がしっかりと残っている。ゆえに、不断の努力なしには煩悩の滅除は困難である」との解釈です。ここには、因果律を見据えた仏教ならではの発想があるようです。宋代の詩人であり、禅に対する造詣も深かった蘇東坡が書いた『地獄図』の跋文に、「その造業の因を見ずにして、その受罪の状を見る。悲しいかな。悲しいかな」と記し、続けてこの対句を引いていることからも推測されます。ところで、白居易自身の意は何処にあったのでしょうか。「一歳に一たび枯栄す」との表現から見れば、上の2つの解釈はともに少しく深読みしているようです。白居易は自然の摂理としての遷移を述べているだけで、そこにこれといった寓意は込められていないのではないでしょうか。「一種の春風両般あり」という言葉もあるように両般のあるなしに拘りすぎると、せっかくの本意を見誤ってしまうこともありそうです。このように、中国の古典から引かれる言葉にも、それを解釈する人と、視点の相違によって、全く異なったものとなる場合があります。そして禅語ではあえて一般とは異なった視点を提起する場合が多いのも事実です。大切なことは、それらの解釈を固定化せずに、自身の見解を求め続けることではないでしょうか。以下は参考です。
「賦得古原草送別」  白居易
離離原上草 一歳一枯栄 野火焼不尽 春風吹又生
遠芳侵古道 晴翠接荒城 又送王孫去 萋萋満別情
「太平広記」  顧況
尚書白居易応挙。初至京。以詩謁著作顧況。況覩姓名。熟視白公曰。米価方貴。居亦弗易。乃披巻。道篇曰。離離原上草。一歳一枯栄。野火焼不尽。春風吹又生。却嗟賞曰。道得箇語。居即易矣。因為之延誉。声名大振。出〈幽闌ロ吹〉。
「蘇軾文集」  跋呉道子地獄変相
道子、画聖也。出新意於法度之内、寄妙理於豪放之外、蓋所謂游刃余地、運斤成風者耶。観《地獄変相》、不見其造業之因、而見其受罪之状、悲哉。悲哉。能於此間一念清浄、豈無脱理、但恐如路傍草、野火焼不尽、春風吹又生耳。元豊六年七月十日、斉安臨皐亭借観。

■こんにちは さようなら
朝夕の寒さも穏やかになった今日この頃、花のたよりも聞かれるようになりました。春の花といえば何よりも桜の花が思い浮かびますが、桜の花見も運よく満開の時に出来るとは限りません。「ちょっと早かったなあ」とか「少し遅かったなあ」と言いながら、そんなことも忘れて宴を盛り上げるのもいいものです。またこの時期は入学式、入社式と、新しい人との出会いが始まる時期でもあります。いい人と出会ったなあ、とか、あの人は苦手だなあとか様々な考えがうかぶことでしょう。しかし出会った人とこの先、一緒にやっていかなければなりません。歌にもあるように 「♪さよならは別れの 言葉じゃなくて 再び逢うまでの 遠い約束♪」だそうです。この歌詞を反対にしますと、「♪こんにちはは出会いの言葉じゃなくて 再び別れるまでの 遠い約束♪」となります。そうです、私たちは、この人は良い人だから一生一緒にいようと思っていても、いつか必ず別れが訪れるのです。その苦しみを仏教では四苦八苦の一つに数え『愛別離苦』と言います。小生、先日、孫に恵まれました。孫は子どもより可愛いと他人から聞いたことがあります。確かにそのとおり、大声で泣いても涎を垂らしても、くしゃみをして鼻を垂らしても、怒ることなど、さらさらありません。後でニコッと笑ってくれるものなら嬉しくてたまりません。こんな可愛い孫とも別れなければならないことは確かです。別れなければならないことが分かっているのならば別れる前にできることを精一杯していかなければなりません。そうです、今やらなければならないことを今精一杯していくことが大切です。永遠ということはありません。今、この時にやらなければならないことを精一杯することが、この先自分の人生を、より良い人生にすることにつながるでしょう。

■いただきます
私たちはご飯をいただく前に「いただきます」と言いますが、これはその素材や材料の命をいただく、その食事を作ってくれた方々への感謝の思いを伝えるといった意味がございます。私は修行中に、延べ1年半の間、典座(てんぞ)という食事係を仰せつかりました。典座は修行僧の食を支える、いわゆる修行における縁の下の力持ち的存在です。毎日20人以上の食事の用意に明け暮れておりました。それこそ大変な毎日だったのを思い出します。しかしそんな経験があるおかげで、料理を作る人の気持ちがよくわかるようになりました。今でも出された食事は温かいものは温かいうちに、冷たいものは冷たいうちに、作ってくださった方の思いを無駄にしないようにできるだけおいしく頂戴することを心掛けています。それはたった今、目の前の食事に集中するということです。禅僧の修行中は私語が許されません。食事の際もただ黙々と食事をいただくのです。これはこの現代社会における食事中の会話を否定するものではありませんが、いつも会話を楽しみながら食事をされている方々も、たまには黙って食事に集中してみてはいかがでしょうか。今まで感じなかった美味しさを感じることができるかもしれません。「いただきます」という言葉の感謝の意味を再認識できるきっかけにもなるでしょうし、またひとつ人生の喜びが増えるかもしれないのです。修行はなにも修行道場にいなければできないものではありません。家にいながらにしてできることだって沢山あります。目の前の事柄に集中するということ、それもまた立派な修行といえるでしょう。掃除に一所懸命。歩くことに一所懸命。運転することに一所懸命。食事を作ることに一所懸命、食べることに一所懸命。いろんな一所懸命にチャレンジしてみてください。「心頭滅却すれば火もまた涼し」という慣用句があります。そのことに集中していれば暑さ寒さも忘れてあっという間に時間が過ぎ去ってしまうことがある。精神の鍛練ができているから暑さ寒さを感じないのではなく、一所懸命集中しているからこそ、心が要らぬことに囚われなくなっているという意味です。目の前にある物事に集中し、邪魔なことに気を囚われないことで、一日一日は変わります。まさに日々の心掛けひとつで私たちの生活はどんどん変わるのです。毎日「いただきます」という度に、その言葉の意味をかみしめることができますように私たちと共に心掛けていきましょう。

■令和元年の初夏
5月1日より元号は「令和」。特に私などは頭の切り替えが必要です。しかし季節には元号がありません。季節は頭で考えるものではなく感じることが大切だと思います。
目には青葉 山ほととぎす 初鰹
山口素堂(1642〜1716)の有名な句です。素堂は松尾芭蕉と同門で親交があり、蕉風の確立に影響を与えた俳人です。俳句には季語というものがありますが、この句には「青葉」「ほととぎす」「初鰹」と夏の季語が3つも使われています。しかしながら初夏を代表する風物をあえて調子よく、リズミカルに読み込むことによって多くの人に親しまれているようです。私はさらにこの句から心が生き生きと働いている様子をくみ取れるのではないかと考えます。『臨済録』に「道流、心法は形無くして、十方に通貫す。眼に在っては見と曰い、耳に在っては聞と曰い、鼻に在っては香を嗅ぎ、口に在っては論談し、手に在っては執捉(しっそく)し、足に在っては運奔(うんぽん)す。本と是れ一精明(せいめい)。分かれて六和合と為る」とあるからです。意訳してみます。「皆さん、心は形がないですが生き生きと働いています。見ること、聞くこと、匂うこと、しゃべること、手を動かすことがそれです。全部心の働きなんです」。眼で見ているから「目には青葉」、耳で聞いているから「山ほととぎす」なんです。「初鰹」はどうでしょうか。「初鰹」は食べ物です。お店で食べたのか自分で調理したのか分かりませんが、食べるまでには手足、つまり体を動かしているはずです。そして味わい、「美味しい」と発する。ですから「目には青葉 山ほととぎす 初鰹」の句は、臨済禅師がいう、「心法は形無くして、十方に通貫す」る姿が読み込まれていると鑑賞できはしないでしょうか。令和元年の初夏。心を生き生きと働かせ過ごしたいものです。

■あなたにめぐり逢えて ほんとうによかった
新緑のまぶしい好時節を迎えました。新年度がスタートして1ヶ月が過ぎ、環境が変わり新生活にもだんだんと慣れてきたことでしょう。私たちは日々の生活の中で多くの人と出会っています。新しい環境で新たな出会いがあり、また懐かしい知人との再会もあることでしょう。人との出会いは緊張感もありますが、楽しみのひとつでもあります。私たちは、普段何気ない生活の中で、行き帰りの道でただすれ違う人、同じ電車に乗りあわせたり、同じ時間スーパーで買い物をしたりする人など、仮に1日1000人の人と何らかの形ですれ違うと仮定しましょう。そうしますと、1ヶ月で約3万人の人とどこかですれ違う計算になります。あくまでも計算上ですが、そうすると1年で約36万人、10年で約360万人、日本人の平均寿命が80歳だと仮定しますと、この一生でどこかで出会ったり、すれ違ったりする人の人数が、延べ約2880万人となります。この数字、多いですか? 少ないですか?数字だけ聞くと、「ええ〜そんなに〜」と思うかもしれません。日本の人口は現在約1億2800万人です。ということは、私たちが普通に生活していましたら、どう頑張っても、あと1億人の人は、すれ違うことすらできない人達なのです。では一生のうちに、話したり、一緒に遊んだり、仕事で同じ時間を共有したりする人、また友達と呼べるほど深い付き合いができる人はどれくらいいるのでしょう。一生のうちに本当の意味で出会うことができる人は、ほんの一握りだけなのです。こう考えると、皆さんが今この瞬間に出会い、共に学び、会話をし、涙を流し、笑い合い、共に成長し、一緒に同じ時間を過ごすということは、ものすごく貴重なことなのです。奇跡としか言いようがありません。そして、出会いというのは永遠のものではありません。いつかは別れなければならない儚いものなのです。だからこそ、出会えた喜びを大切にしてください。書家の相田みつをさんの詩に「めぐりあい」という詩があります。その詩の書き出しが「あなたにめぐり逢えて ほんとうによかった」から始まります。皆さまにも、人生の中で、そう心から言える人との出会いがあったことでしょう。人生そのものを根底から変えてくれた人、進むべき道を示してくださった人、困っているときに手を差し伸べてくれた人...。その時の思いを大切にしたいですね。これからも「あなたにめぐり逢えて ほんとうによかった」と心から言える出会いがありますように。

■釋宗演禅師のこころ 「光り輝く心」
達磨大師が印度から中国に伝えた仏教は、やがて「禅」と呼ばれるようになりました。そして、そのまたの名を「仏心宗」とも言います。それは、禅の教えの要が「仏心」に目覚めることを目的としているからです。「仏心」は大乗経典の『涅槃経』に「一切衆生悉有仏性」とあるように、すべての生きとし生けるものに本来具わっている仏としての心を表わしています。また、「仏心」「仏性」には「自性清浄心」「光り輝く心」という同体異名もあります。「私たちの心は本来清らかなものである」という仏教の思想は原始仏典の『増支部経典』の中にも見ることができます。
比丘よ、この心は光り輝くものである。しかしそれは偶然的な煩悩によって汚されている。......そして、その光り輝く心は、偶然的な煩悩から離脱している。......
一体、「仏心」とはどのような心なのでしょうか。釋宗演禅師は『菜根譚講話』の中で「仏心」を次のように表現されました。
本来の心体は、日月の玲瓏(れいろう)として光り輝けるが如く、まことに明らかなるものであるが、それが雑念妄想のために本来の光を覆い隠されて終わっている。若し本来の光を失わず、それに一点の曇りがなかったならば、暗黒の窟中に在っても、青天白日の中に居るのと同じである。
私たちの本来の心体、つまり「仏心」は、太陽が光り輝くどこまでも澄み渡った青空のようなものだというのです。けれども、澄みきった青空も時として雲に覆われ嵐となることだってあるはずです。私たちの心には、常に様々な思いが雲のようにたなびいては消えていきます。ところが、ある思いに囚われ続ければ、やがて思いは心を埋め尽くします。青空が暗雲に覆われてついには台風となって荒れ狂うように、心は激しくかき乱されてしまうのです。そんな時、真っ暗な嵐の世界の中に在っても、台風の目と呼ばれる雲一つない無風状態の穏やかな世界が必ずあるということを思い出してください。私たちの本来の心は光り輝く青空として常にそこにあります。たとえどれほど大きな台風に巻き込まれても、常に自分が台風の中心にいるとしたらどうでしょうか......。心がかき乱されてしまった時には、そっと静かに自分の心の中心に意識を向けてみましょう。そこにはいつであっても不動の光り輝く心があるはずです。そこは、思慮分別を離れた世界、何の思いも言葉さえも無い清らかで静かな場所です。その光り輝く心にいつも気付いていることができたなら、たとえどの様な心の状態であったとしても、私たちは本来の心である「仏心」と一つになって生きているのではないでしょうか。

■忍辱 ー樹木が教えてくれたことー
自坊の東側の道路の道幅が広がることになり、その工事前に道路になってしまう部分の樹木何本かを別所に移植することになりました。樹木の根が無事に付くかどうか心配しましたが、次の春、思いがけないことが起こりました。梅にしても桜にしても、移植した木々の方が移植しなかった木々より明らかに美しく鮮やかに花を咲かせたのです。移植をお願いした植木職人によれば、それは「種(しゅ)の保存」ということでした。根を起こされ、グルグルに締め付けられ、やがて新しい地面に下ろされて、一所懸命根を張る、それらの一連の移植の流れは樹木にとってかなりのストレスになります。しかしそのように「根をイジメる」と、逆に種を残そうと懸命により美しく咲くのだそうです。私たち人間はどうでしょう。仏教詩人 坂村真民先生の詩がその深い世界を示しています。
病が また一つの世界を ひらいてくれた 桃 咲く  ー坂村眞民詩集ー
坂村真民先生は死ぬほどの大病に何度もおかされ、失明同然にもなりかけた方です。しかし先生はその病を恨むどころか、その苦しみがあったからこそ今まで気づかなかった世界に気づけた、見えていなかった世界が見えるようになった。有難いと、病気に対しても南無〜と手を合わせておられます。病気に限らず、不幸・事故・困難・障害などマイナスの事柄に遭うことが避けられないのが私たちの人生。そんな私たちだからこそ、あきらめず、へこたれず、前を向いて、自分なりの花を、たとえ小さくても美しい花を、咲かせようではありませんか。自然の摂理を信じ、歩んでいきたいものです。

■大現禅師650年遠忌に因み
平成から令和へと改元をされた本年は、大徳寺一世であります大現国師(徹翁義亨禅師・てっとうぎこうぜんじ)の650年遠忌を迎える年でもございます。その語録、『徹翁和尚語録』の中で
東風吹散梅梢雪 一夜挽回天下春 ―東風吹き散ず梅梢の雪 一夜挽回す天下の春  (とうふうふきさんずばいしょうのゆき いちやばんかいすてんかのはる)
という一節がございます。これは、中国は南宋時代の白玉蟾(はくぎょくせん)が立春を詠んだ漢詩の一節です。春一番が梅の梢に残った雪を吹き飛ばすと、一夜にして春がやって来たことを詠んだものですが、これをもう少し掘り下げますと、雪と氷に閉ざされたような厳しい修行や下積みを一所懸命に積み重ね続け、ご縁を得、機が熟すことで、実は目の前に仏の世界が広がっていたことに気づくことをあらわしております。昔から「若いときの苦労は買ってでもせよ」ということわざは皆さま方もよくご存じのことだと思いますが、昨今なかなか聞かれることが少なくなったように感じます。インターネット等の情報を活用し、効率的に簡単に知識として得ることができてしまう現代社会において、身を以て経験し、苦労をして体得することは時代遅れ、非効率、無駄なものとされているように感じるからでしょうか。そんな現代だからこそ、より一層大切なことに思います。利休居士の訓(おしえ)をわかりやすくまとめた『利休道歌』に
規矩(きく)作法  守りつくして 破るとも 離るるとても 本(もと)を忘るな
と記されております。まずは師から教わった型を徹底的に真似て、学び、「守る」ところから修業や鍛錬といった下積みが始まります。そうして師の教えに従って、修業・鍛錬を積み重ね、その「型」を体得致します。その後、師の「型」をはじめ、他の「型」も自身と照らし合わせ、工夫し、悩み、もがき、苦しみを乗り越えることで、自分らしい「型」を模索し、はじめて既存の型を「破る」ことができるのであります。さらに修業・鍛錬を積み重ね、かつて教わった師の「型」と自分自身で見出した「型」の双方に精通することで、既存の型にとらわれない「型」から「離れ」、自在となることができるのです。しかし、「本を忘るな」とある通り、「型」を破り離れたとしても、その奥深くにある根本の「本」を見失ってはならないのです。まして、基本の「型」を会得しないままにいきなり個性や独創性を求めることは、いわゆる「形無し」なのです。十八代目中村勘三郎さんの座右の銘「型があるから型破り、型が無ければ形無し」といわれる所以です。どの世界でも同じだと思いますが、厳しい修行や鍛錬といった下積みをし、「本」を忘れずに、悩み、もがき、苦しみを乗り越えて、破り、離れ、得られたものだからこそ、実は目の前に仏の世界が広がっていたことに気づき、その時、その場で、自由自在に春を謳歌することができるのではないでしょうか。平成に引き続き令和でも、私自身の心が春を謳歌できるように、日々の行ないを修めること、即ち修行を一所懸命積み重ね続けなければと、650年遠忌に際して改めて思うところであります。誠に僭越ながら、縁あってこの話をお読み下さった皆さま方におかれましては、この話が何かの手助けになりますれば幸いです。 
 

 

■看脚下
梅雨入りをしている所も多いと思います。つゆを黴雨、カビの雨とも書くように、しとしとと降る長雨は、食品を腐らせ部屋にカビを発生させ、体に害を及ぼすので私は嫌っていました。しかし近頃は、いつもより多くの雨が降ります。いつもの倍ほどの雨が降る季節になったから梅雨と感じ、倍雨を「つゆ」と考える皮肉な人もいるでしょう。湿度の上がるこの季節、雨は降りますが室内はエアコンなどで調整され、長雨に不快さを感じません。この快適さが気候変動や豪雨をもたらしているのかもしれません。禅の教えは、今ここで自分が何をするか...... それを気づかせたいが為に、お寺に入ると玄関に看脚下と書かれた板などがあります。「履物をそろえましょう」と......。これは、五祖法演禅師と弟子3人が歓談し、部屋を出ると一陣の風に灯りが消え、暗闇になってしまいました。そこで師匠が今の思いを示せと......。先の2人が、動揺のない心境を示したのに対し、3人目の圜悟克勤禅師が「看脚下」と云われたのです。この答えを師匠は良しとされました。外に求めず、まず足下を看なさいと......。そこから次の一歩が始まるのです。昨年の梅雨明け頃、宇和島は豪雨災害に見舞われました。被災者が頑張り、周りが手をさしのべ、土砂崩れの被害がひどかったミカン農家も着実に復興をなしています。テレビでは被害の甚大さを訴えていましたが、私が住んでいる地域は線上降水帯から少しずれていたため被害は軽微で、現状を実感できないでいたのです。そんな時、社会福祉協議会に勤める友人がボランティアの受け入れと派遣先の調整に右往左往している話を聞き、やっと重い腰を上げボランティアに行きました。知らない人たちとグループ組がなされ、被災者宅へ派遣されました。そこは自衛隊も入っている地域で、私たちは床下いっぱいに流れ込んだ泥を出す作業を行なったのです。休憩になると被災者がミカン片手に挨拶に......。話していると「私の園地は表彰されたこともあるんだよ、今年もおいしいミカンを届けるから」と......。避難所から通い、家の復興もままならない人が、もうミカンの未来、地域の将来を考えていたのです。被災した当初、お先真っ暗だった人が前を向いている。まさに「看脚下」。今ここで自分ができることを考え、心定まったからに違いありません。昔と気候が変わりつつある今、災害が起こりにくい社会にするために、私たちは自己を振り返り、地球環境に優しいことに一歩を踏み出したいものです。

■こちらこそ、ありがとう
「子供ができたから親になれるんじゃないよ。これからしっかりしなさいよ」。今から19年前、私と妻の間に初めての子どもが誕生しました。退院してしばらく経った頃、親子3人で普段お世話になっているお寺にご挨拶にまわりました。その際あるお寺の奥様が「おめでとう」の言葉の後に私に向かって言われたのがこの言葉でした。しかしながらこれを聞いた私は、「いやいや、子どもができたら親でしょ」と思っていました。この言葉の真意を理解することなく。「親の心子知らず」という言葉があります。親が自分の子を思う深い愛情に気付かず、子はわがまま勝手な振る舞いをするという意味です。それなら子はいつ親の思いに気付けるのでしょう。気付かないまま親になってしまうとそんな思いを持てないと思うのですが。「父母恩重経(ぶもおんじゅうきょう)」というお経は、子が親から受ける恩について説かれています。その中に「父に慈恩あり、母に悲恩あり」という一文があります。親は子の喜びを自分のこととして共に喜び、悲しみや苦しみを共に悲しみ苦しむ。そんな深い慈しみと思いやりの心で育てているということです。この「慈」と「悲」を合わせると「慈悲」となり、仏様の心となります。親の子を思う心は、自分のことのように他者に心を向ける仏様の心と同じ尊いものなのです。それではいつそんな心が持てるのでしょうか。持てるという言い方は適当ではないかもしれません。というのも、私たちには生まれながらにして仏様の心が具わっているのですから。ただ「自分が、自分が」という我(が)の心に隠されているだけで......。親となるということは、その我の心を取り払う良いきっかけなのです。その心は、子と過ごす様々な経験を通じてだんだんと気付き、育まれていくのでしょう。子を授かって初めて親も生まれます。親も0歳。右も左も分からない真っ白な状態からのスタートです。そこから子と一緒に成長していく。「自分が、自分が」から「自分も、あなたも」と思えるようになっていく。そう考えると「子ができたから親になれるんじゃないよ」という言葉の意味が少し分かったような気がしました。あれから19年。長男は大学に進学し将来を模索しながらも楽しくやっているようです(私には連絡はありませんが)。翌年に生まれた長女は兄に刺激されたのか進学を目指して頑張っているようです。二人とも随分と成長しました。おそらく私よりもずっと多くの経験を積んだ妻も心身共にたくましくなりました。私だけが...体力は衰え、生え際は後退し、存在感は薄れ、少しは成長できたのかどうか。来年は親としての成人式を迎えます。「しっかりしなさいよ」と激励(?)してくれた奥様に、成長したかどうか聞いてみようと思っています。多分「まだまだやね」と言われるのでしょうけれども。今月の16日は父の日です。「お父さんありがとう」と言ってもらえたら私もこう答えようと思っています。「こちらこそ、ありがとう」と。

■「令和」の時代へ向けて
「猛暑日」「熱中症」「避暑対策」といった声を多く耳にする季節になりました。毎年少しずつ陽射しが強くなり平均気温が上昇しているように感じるのは、いわゆる「地球温暖化」の表われでしょうか、それとも年齢を重ねるごとに体力や免疫が落ちてきているからでしょうか、それとも「心頭滅却すれば......」ではありませんが気の持ちようが足りないからでしょうか......? 何はともあれ、どうか体調管理には十分気を配り御自愛いただきたいと思います。さて、今年5月より「平成」が幕を閉じ「令和」の時代へと移行しました。この「令和」は日本最古の歌集『万葉集』の梅花の歌序文の一節、「時に、初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やはら)ぐ」からの引用ということで世間に広く知られるところとなりました。私がこの一節から受けた第一印象は「梅花咲く初春の優雅で穏やかな情景」です。もちろん「令和」の時代は自然も人心も華やか穏やかであり続ける時代であってほしいと思います。しかし、『万葉集』にはそんな歌ばかりがあるわけではありません。その根幹を成す歌の中には「挽歌」(人の死を悼む歌)もあります。言葉にできない悲しみや声にならない苦しみ、そういった思いを後世に残し伝えるため敢えて言葉や詩歌にして綴ったものもあることを私たちは知っておかなくてはなりません。それは『万葉集』を沢山の言葉を集めて表に出た「葉」と例えるならば、その裏には人々が抱く「種」や「根」といった言葉にならないほどの強い思いが必ずそこにあって今日まで残り伝えられてきた、ということではないでしょうか。私たち人間はよくその存在や物事の表面的な部分や自分にとって都合のよい部分だけを切り取り、あたかもその全体を把握し理解してしまったような錯覚に陥ることがあります。その錯覚はともすれば自分にとって満足感や幸福感や優越感を与えてくれるものであるようにも感じるでしょう。ですが、これほど単なる自己満足や自己中心でしかなく、かえってたった一度きりしかないこの人生を浅く無味乾燥なものにし枯れ朽ちらせてしまうものはないのです。私たち一人一人も『万葉集』と同じく例えるならば一枚の「葉」としての存在、であるならばその中心や裏には必ず「種」や「根」があり、それを育み続けてこられたからであればこその今日です。この自分に通じている数多の先人方々は決して自己満足や自己中心の生活をするためではなく、そこから先へと未来へと連なっていく「種」や「根」を育むことにその一生をかけて務めてこられた、その確たる「証明」が今を生きる私たち一人一人の存在そのものであることを忘れてはなりません。禅語のひとつに「不立文字 教外別伝」があります。「禅」や「悟り」は言葉や文章で表現伝達できないもの、そこには『万葉集』に込められた「種」や「根」のような強い思いが根底に流れているようにも感じます。言葉にならない悲しみや声にできない苦しみ、それはこの世の真理が「諸行無常」である以上、いつの時代であっても変わることなく厳然と存在しています。だからこそ、今この平和で豊かな恵まれた時代に生きていることを、必然当然の如くあたりまえに過ごすのではなく、先人方々の思いを受け継ぎ感動と感謝の気持ちをもって生活することが大切だと思うのです。「令和」という元号に込められた「種」や「根」を決して忘れることなく、今このかけがえのない日々を大切に過ごしさらに次代へ向けて育んでいっていただきたい、そう願います。
―汝等請う其の本を務めよ。〜(中略)〜誤って葉を摘み枝を尋ぬること莫(な)くんば好し。―

■三法印
東京大学の名誉教授である勝俣鎮夫氏が2007年に『日本歴史』にて発表した「バックトゥザフューチャー」という論文によりますと、日本語表現において未来のことを「アト」、過去のことを「サキ」と表現する場合、「後回しにする」といった言葉は未来を表わし、「先程は」といった表現は過去を表わす言葉となります。逆に過去のことを「アト」、未来のことを「サキ」と表現するならば、「先送り」と言うと「サキ」は未来の事で、「跡をたどる」と言うと「アト」は過去を表わす表現になります。ところが戦国時代までは「サキ」は過去、「アト」は未来と決まっていたそうです。現代人は未来の方向を指差す時必ず前の方向を指しますが、戦国時代は背中の方を指差していました。江戸時代になって平和が訪れ、人々は「明日も同じように暮らすことができる」という自信を得て、「未来は私たちの前に広がっているのだ」という思いを持つようになったからではないかと論じられています。では現代人はどうでしょう? 日々変わりゆく先行き不透明な時代、将来への希望が持てないと騒ぎ立てる世の中。明日はどうなるか分からないという不安の中でどう生き抜いていくことができるのでしょう。しかし、それは今に始まった事でしょうか? 未来は本来不透明なのではなく「全く見えない」ものであって、元々私たちは未来を見る事などできません。人生は思い通りにならないものなのです。お釈迦様は不条理な世の中を幸せに生きるための教えを説かれました。「人生は苦である」という考えから、苦を克服する方法はないかと考え答えを導き出します。一つには「諸行無常」です。すべてのものごとは絶えず変化し、一時として留まることはありません。形あるものはいつか壊れ、命あるものはやがて尽きるということです。二つには「諸法無我」。あらゆるものは因縁によって生じたものであり、何一つとして独立して存在するものはない。自分一人で生きているということはなく、他の因縁によって生かされているということです。三つには「涅槃寂静」。その事をよく理解し物事の道理が解かれば、執着から解放され安らかに過ごすことができる。この三つの教えこそがこの世の真理なのです。私たちの苦悩の原因は思い通りにしたいと執着することにあり、苦悩はすべて自分自身が生み出しているということです。その上で、明治から昭和にかけての哲学者西田幾多郎先生が14歳の娘さんを亡くした時に書いた気持ちを読んでみましょう。
「亡きわが子が可愛いというのは何の理由もない。ただ訳もなく可愛いのである。ここまで育てて惜しかろうという人もあるが、親にとって損得ではない。悲しんでいる人は大勢いるのだから忘れなさいよと言ってくれる人がいるが、これは親にとって堪え難いことである。せめて自分だけは一生思い出していてやりたいというのが親の心である。この悲しみは苦痛といえば苦痛だが、しかし親はこの苦痛のなくなるのを望まない。人生の無常、儚さという道理は充分承知しているのだが、ただ訳もなく悲しくて、それでいてこの悲しみを大切にしていきたい。」
と、このように綴っております。これが真理に目覚めてしかも悲しみを大切にしていく、本当の愛というものでしょう。西田先生は「諸行無常」と「諸法無我」の儚さを十分に腹底に落とした上で、わが子を亡くした悲しみを噛み締めているように感じます。だからこそ「涅槃寂静」の心境に到れたのでしょう。私たちは思いを膨らませれば記憶は過去に遡ることもできますし、未来を想像し夢を描くことも可能です。しかし実際にはこの瞬間を生きる事しかできません。だからこそ与えられたこの瞬間をしっかりと生きる。それが先行きの見えないと言われている現代を力強く生きていく鍵なのです。人生は思い通りにはなりません。先行きの見えないこの時代、西田先生のように縁を大切にし、無常を受け止め、その上であたたかな寂静に到りたいものです。仏教ではこれを「三法印」と申します。

■願いのこころ
毎年7月7日、七夕の日には、子供たちが短冊に願い事を書き込み、竹の笹に楽しそうに結んでいます。長男の昨年の願い事は、「おじいちゃんとおばあちゃんが長生きしますように!」でした。今年はどんな願い事にするのかと尋ねると「昨年と同じ」とのことでした。実に子供らしく、祖父祖母は泣いて喜ぶ願い事だなぁと心がほのぼのとし、また私自身もその願いが叶うといいなぁと思った次第です。この「願い」というところですが、実は禅宗では非常に大事な心となっております。この願いを根底に置いたお経に「四弘誓願」があり、自坊でも朝課や法事などお参りの度ごとにお唱えしており、一度は読んだり聞いたりされたことがある方も多いのではないかと思います。では、「願いが大事だ」とはいうけれど、その具体的な願いとは一体なんなのでしょうか。これを簡単にいうと「みんな(=自分を含めた全ての生きとし生きるもの)が幸せでありますように」ということです。実はこの願いこそが我々修行僧、また在家信者の皆様方全てが共通して、日常を生きていく中で心の底に持っておかなければならない大事な心なのです。そしてこの心こそ、相手のことを常に慈しみ、その悲しみや苦しみを同じ目線で同調していける仏教の大事な心である「慈悲心」に繋がってくるのです。しかし、我々が何かを願う時、利己的な願いも多く、それが「叶う」とか「叶わない」とか結果・結論を求めることが多いかと思います。例えば、子供が願った「祖父母が長生きしますように」という時、長生きすれば「良かった」となるが、そうでなかった時、「あぁ、願って損した...」とか、「結局願い事をしたって無駄だ...」など悲観的になってしまいます。こうなっては折角の願いが結果次第で意味をなさなくなってしまい、願いの芽を摘んでしまいます。また、願いに対して「慈悲心から出る願いは良くて、利己的な願いは悪い」という考え方もあります。利己的な願いとは、「あれが欲しい、こうしたい」など、煩悩とも言える願いのことです。しかし私は、たとえ利己的な願いであっても、それが結果的に自分や周りの方々が幸せになることに繋がるのであれば、願いに良いも悪いもないのだと思います。だからこそ、願いそのものに無限の可能性を見出せるのです。ですから、願いが叶うとか叶わないとか、良し悪しやという未来のことは一端置いておいて、この瞬間に「みんなが幸せでありますように」とただただ願う、「私がこう願ったところで結果はそう何も変わらないのかも知れないけれど、今私はこう願ってやまないのです」という心が大事なのです。これが、願いが叶う・叶わない、良い・悪いという二元相対を超えたところの願いであり、そこに気付いていながら願うことが、仏教徒として大切な心なのです。小さな子供が短冊にしたためた大きな願い、叶うか叶わないかは分からない、けれど「叶って欲しい」という密かな願いを込めつつ、「やっぱり願わずにはいられない」というところ。そう願う子供の心に癒されつつ、私自身が今のこの瞬間も「みんなが幸せでありますように」と願わずにはいられないのです。

■大用国師のこころ 「大用国師二百年遠諱〜願いに生きる〜」
鎌倉の円覚寺は、弘安5年(1282年)8代執権北条時宗公が南宋杭州から招聘した仏光国師(無学祖元禅師)を開山として創建されました。父時頼公と共に参禅した建長寺開山大覚禅師(蘭渓道隆禅師)が亡くなった後、新しい参禅の師として招かれたのが仏光国師です。時宗公は一心に仏光国師に師事し、それにより元寇(弘安の役)という国難に立ち向かい、みごと勝利したのです。その時の教えは「莫煩悩(まくぼんのう)」(妄想する事なかれ)でした。不安や恐怖に怯えうろたえるのは、妄想や煩悩に振り回される事であり、それを断ち切るためには、敵の襲来という現実を直視して国難に当たれ、という教えでありました。江戸時代後期、円覚寺中興の祖と称された方が大用国師(誠拙周樗禅師)(だいゆうこくし・せいせつしゅうちょぜんじ)です。本年が大用国師の200年大遠忌に正当いたします。四国宇和島の出身で藩主伊達家菩提寺の霊印不昧和尚の元で出家しました。その後歴参を重ね、20歳の時、武蔵国永田宝林寺の月船禅慧禅師に参じ修行され、その法を嗣がれました。師が27歳の時、月船禅師の命により円覚寺に入られ、疲弊していた修行道場を10年かけて再興され、その務めを果たされました。その後諸堂を新築され、1785年には、開山仏光国師の500年大遠諱を厳修されたのでした。64歳で席を譲り伝宗庵に隠棲されたのですが、京都の相国寺に招かれ、更には天龍寺に招かれ、修行僧の指導にあたりました。その後1819年、再び相国寺に入り禅堂を開きますが、翌年、病のため亡くなります。大用国師はまさに一生をかけて、修行道場の再興に尽力されたのでした。大用国師の逸話があります。ある時山門の普請にあたり、一人でも多くの人達に仏縁を分かち合いたいとの思いで、広く一般から寄進を募ることとなりました。ある日、江戸蔵前の札差を営む梅津伝兵衛という商人が円覚寺を訪れ、大用国師に面会し五百両の寄進を申し込んだところ、「ああさようか」と言ったきりでお礼の一言もありません。不満に思った伝兵衛は「この五百両という大金を寄進するのに、お礼の一言も無いのはいかがなものか」と文句を言います。すると大用国師は「寄進とは他人の為にすることではなく、自分の為に福田を植えること、そして自分が積んだ功徳はみな自分のところに還っていく、それなのになぜわしが礼を言わねばならん」と窘められたのです。誰にも知られず功徳を積むことが大事である、という教えです。
佛曰く、吾が法は無念の念を念とし、無行の行を行とし、無言の言を言とし、無修の修を修とす。  『佛説四十二章経』
釈尊は、何事も心を集中し、直向きに行ずる"一心一向"であれ、と示されています。自分は修行したとか、修行したから功徳を積んだとか、分別妄想によってそれを口に出してはならない、というお言葉です。大用国師は正に"一心一向"に修行され、仏法により人の為に尽くすという事を生涯の務めとし、その願いに生きてこられた方でありました。今、その御徳を偲んで参りたいと思います。
よしあしの こころたえても 救ふらん かきりなき世に かきりなき人

■心涼しき夏の思い出
七月に入り、梅雨が明けるといよいよ夏本番。日中の蒸し暑さや強い日差しも、夕方になると幾分かは和らいで、吹き抜ける風を心地よく感じられる季節がやってきます。大学時代の夏休み、私は、子供たちをキャンプに連れて行くボランティアに初めて参加しました。湖のほとりまで数キロの道のりを歩いていき、林の中でテントを張ろうとした時のことです。テントは、ロープで引っ張り、ペグ(引っかかりのついた杭)を地面に打って固定するのですが、荷物のどこを探してもペグが見当たりません。私は「引き返すには3時間もかかる。子供たちがいるのに、どうすればいいのだろう」と、あれやこれや考えました。そして、「ペグを忘れてしまったようです」と、先輩のリーダーに声をかけました。すると先輩は笑って言いました。「最初から持ってきていませんよ。その辺に落ちている木の枝を拾ってきて、ロープを巻きつけて地面に刺せばいいのだから」と答えたのです。肩を押されるように、子供たちと木の枝を夢中で探しました。テントを張るのに適した形状と堅さの枝を見つけると、宝物を発見したように心が弾みます。自分の力でテントを張り終えた子供たちはとても誇らしげで、私もそれを見て嬉しくなりました。気付けば汗だくでくたくた、すっかり日が暮れていました。ほっとひと息ついた時、労をねぎらうように、爽やかな風が私たちの体を撫でていったのです。キャンプで感じたこの風の涼しさは、今も忘れることはありません。禅語には、
心静かなれば即(すなわ)ち身も涼し  (白居易)・・・(心が静かであれば、自ずから身体も涼しくなる。)
とあります。これは、心身がひとつになった境地であります。身も心も軽く、静かで落ち着いていなければ、かすかな涼しさを感じる余裕がなくなってしまうでしょう。今では、エアコンのリモコンを手に取れば、一瞬にして涼をとることができます。昨今の命にかかわるような暑さの中で、それを捨てるわけにはいきません。しかし時として、便利なものに頼らず、心に涼を感じるというのも大切なのではないでしょうか。

■死を覚悟してこの一日を生きん
私たちは普通に生きていると、ただただ流されるままに日々が過ぎてゆきがちではないでしょうか?何に流されるかというと、さまざまな欲望にも流されますし、周りの状況や流行りなどにも流されますし、流されがちなまま惰性で過ごしがちなのが、私を含め多くの普通の人の陥りがちなあり方かと思います。私自身、欲望や環境に流されがちなクセは、死ぬまで無くならないクセではないかと思いはじめているくらいです。このようなあり方を救ってくれる薬のようなものはあるのでしょうか? この人生の根本問題に対する良薬は、命が限られたものであること、今日死ぬかもしれないことを、絶えず心に新たにすることではないかと思います。アップル社を作ったスティーブ・ジョブズが有名な講演の中で、17歳の時に次の言葉に出会ったと語っています。「毎日を人生最後の日だと思って生きよう。いつか本当にそうなる日が来る」。彼は17歳の時から、死ぬまで、毎朝、鏡の前に立ち、この言葉を自分自身に向かって投げかけました。「今日が最後の日だとして、お前がやろうとしていることは、それで良いのか?」と毎日、自分に問いかけたとのことです。「今日が人生の最後の日」ということは、必ず当たる日が来ます。その日がいつかは、前もってははっきりとはわかりません。一番早ければ今日かもしれませんし、数十年後かもしれません。ですが、「平均年齢から考えると、あとウン十年くらいは生きるだろう」などと思って生きていると、だらだらと時を過ごしてしまいがちです。「今日が最後の日だとして生きる」ことで、ウカウカ生きるあり方を脱し、本当に大事なものに向かって生きる可能性が開けると思います。禅の修行においてもこれは基本中の基本です。『禅関策進』という禅の修行者にとっての座右の本においても、同様の叱咤激励が繰り返されています。「大晦日(人生最後の日)になって、あわてふためいても遅いぞ!」 「喉が渇いてから、井戸を掘るようなことをしていて、どうする?」 今日死ぬとしても、あわてふためいても仕方ないことです。今日死ぬとしても最も大事なことは何かを深く見つめ、自分が為すべきこと、大事なことを行なっていくよりほかにないわけです。一度きりの命を、今現に生きているわけですし、与えられた命という恵みに感謝し、生かしてくれている周りの人や環境に感謝し、せっかくの恵みをできるだけ無駄にせぬよう、持前を発揮して生きていくよりありません。哲学者・教育者である森信三(もり しんぞう)先生は、「わたくしの宗教観として一番しっくりするのは、『念々死を覚悟してはじめて真の生となる』の一語であります」と語っています。私自身も宗教のギリギリのところはここにあると思っています。森先生は、人から色紙に何か書くことを求められると、最晩年は次の一語を書きました。「死を覚悟してこの一日を生きん」 この言葉を、毎日、いや時々刻々心に新たにしていきたいと思います。この心の姿勢を失わずに生きることで、初めて真に生きる道が開けると思うからです。

■お盆の心
夏を代表する行事の一つにお盆があります。お盆は正式には『孟蘭盆』といい、逆さ吊りの苦しみという意味です。孟蘭盆のもとになるお話は、お釈迦様の十大弟子の一人で神通力第一といわれた目連尊者が餓鬼の世界に堕ちた母親を救う方法を説いた物語です。目連尊者は亡き母親のようすを神通力を使って見渡すと、母親は餓鬼界で苦しんでいました。嘆き悲しんだ目連尊者はお釈迦様に相談します。お釈迦様は「あなたの母親の罪は深く、あなた一人の力で助けることはできない。多くの僧に供養するならば、その功徳によって母親は救われるだろう」とお示しになりました。そして目連尊者はその通りに実践し、母親を餓鬼界より救うことができたのです。目連尊者ほどの聖人の母親でも我が子を優先して小さな罪業を積み重ねてしまうこともあります。言わば母親が本能的に自分の子どもの幸せを願う深い愛情ゆえの罪業です。しかし、この話は私たちが自分の都合を優先しすぎて大切なことを見失うと、母親の罪とは比較にならないほど多くの罪業を積み重ねていることへの警鐘ともとれるのです。私は、以前に宿泊施設に勤務していたことがあります。夏休みに都会から自然体験学習と称して先生に引率された数名の高校生が連泊しました。ある日の夕方、生徒達がバケツ一杯に魚や磯の生物を捕まえて帰ってきました。尋ねると魚を解剖して生体を観察するとのこと。しかし、さほど時間も経たないうちに先生がバケツを持って部屋から出てきました。見ると数匹の魚が解剖されていたのですが、大半の生き物は手付かずのまま息絶えていました。先生は、私に「解剖しなかった魚も暑さで傷んで食べれそうにないので、すみませんが生ゴミで処分して下さい」と言いました。お客様ゆえに言われるがまま受け取ったものの、これでよいのだろうかと考え込んでしまいました。すると宿泊していた別の家族の女の子が「お魚さん、可哀そう」とバケツを見て呟きました。その言葉に、ハッと気付かされた私は、先生に提案し、翌朝、土に埋めて生徒みんなで線香を立てて手を合わせました。数日経って、先生から手紙が届き、「命の大切さを理解していたつもりなのに、心の底から命に感謝して思いやることを忘れていたことに気付かされました」と書いてありました。「爪の上端に置ける土」という教えがあります。大地の土をこの世の全ての命と例えるならば、その中から人として命を授かることは爪先に置いた土ほどしかないという意味で、この世に人として命を授かること、多くのつながりに支えられて今、ここに生かされていることの尊さが説かれているのです。そのことに気付かず感謝を忘れてしまうのであれば、物や情報が溢れる世の中で豊かさを享受したとしても、無限に貪り苦しむ餓鬼の心になってしまうのです。お盆は父母やご先祖様の恩や徳を偲ぶだけでなく、私たちが日々の生活の中で積み重ねている罪業に気付いて反省し、命のつながりに感謝して思いやりの功徳を積むことを誓う行事でもあるのです。

■大用国師のこころ 「暑さ寒さも彼岸まで」
鎌倉円覚寺の中興開山である誠拙周樗禅師(大用国師)は、多くの和歌や逸話があり、その中の一つに、
夏の日の あつさはいかて しのふへき 野山のくさも もゆるはかりを
と言う歌があります。山々の草木も燃える様な暑い夏の日は、どうやって過ごそうか。この世の全ての現象は、川の水が流れる様に留まる事は無い。常に移り行き、豪雨や地震、猛暑も大雪も全て無常の習い、どうする事もできません。暑い時には暑いように、寒い時には寒いようにしかなりません。杉原千亜紀さん(広島県世羅町)42歳の思い出「よっちゃんお盆がきたよ」に、
従兄のよっちゃんは5歳の時に母を亡くし、私の家には、分骨した叔母の骨壺があった。小学校低学年のよっちゃんが、泊りに来た夏休みのある晩、ふと彼を見ると、遺影の前に正座し、団扇で骨壺を扇いでいた。「お母ちゃん、暑いじゃろ」と話しかけながら、一生懸命小さな手を動かしていた。私は当時5歳位だったが、今でもあの光景を覚えている。・・・
よっちゃんは遺骨になった母に対しても、夏は暑かろうと云う親を思う子の心情がいじらしい。誠拙禅師にも似た様な逸話がございます。禅師晩年の冬、京へ上ろうと駕籠に乗り、一面の大雪に覆われた箱根山で、身を裂く様な寒風に手足も凍えそうになる中、大名行列がやって来ました。その大名は「公」(松平不昧)と聞き、駕籠を路傍に止め待っていた。先方もまた禅師と知り、駕籠をすれすれに寄せ雑談を始め、やがて禅師はこう言われた。「どうも歳は取りたくない、若い頃は素足に草鞋で雪の中も平気だったが、この歳になると、駕籠の中でも寒くて凍えるようだ」「それは、やはりお歳のせいでしょう。ところで、和尚はこういう物を持っておられぬようですな」 不昧公は、今まで自分が手を温めていた銀の手炙りを見せた。すると禅師は、「なるほど、これは調法な物ですな、さぞ温かかろう。暫く、お借りします」と言って自分の駕籠に移し、手を温めながら雑談していたが、急に、「これ、駕籠を出せ。さ、早く、早く」と借りた手炙りを持ったまま、さようならとも、有り難うとも言わず、駕籠屋を促しスタスタと西の方へ行ってしまった。あまりの突飛さに不昧公はどうする事も出来ず、愚痴をこぼしこぼし寒さに震えながら江戸へ帰ったというお話です。寒中の箱根越えをする年老いた誠拙禅師には、これほど有難いものは無い。手炙りは貴重な品だが、不昧公ならまた手に入ると思われたのでしょう。こうして禅師もまた、寒い冬は寒いなりの接し方をした訳です。この世の中は無常なのであります。常に移り行き、ただ一度として同じ時は存在しません。無常だからこそ、有難い事なのです。無常でなければ、貧乏な人はお金持ちに成れません。貧乏な人がお金持ちになるのは、無常なるが故に、お金持ちにもなれる。久し振りに会う子供を見て「大きくなったね」と言うのは無常。何時まで経っても生まれたままでは、それは無常ではないのです。人は歳を取ると、変わらない事を喜びます。「何時見ても、お変わりございませんね」と言われれば、「お陰様で」と喜びます。反対に、「暫くお目に掛かりませんでしたが、随分老けましたな」と言われると、「他人事の様に言うな。あんたの方がより、老けとるではないか」と言い返されてしまいます。ものごとは常に移り変わるが故に、人は変わるわけです。何事も変わらなければ、貧乏から抜け出す事も、成長し老いていく事もありません。夏の暑さも冬の寒さも、無上なるが故であります。日本には、春に百花、夏に涼風、秋に月、冬に雪とそれぞれの好時節が在ります。四季折々を人間の好時節と生きていけば、暑い夏も寒い冬も何時かは、秋となり春となり過ごし易くなります。移り行くこの世界で、二度と過ごす事の出来ないその時その時を大事にして頂き、暑い時には暑いように、寒い時には寒いように、人生の好時節をお過ごし頂ければ幸いに存じます。 
 

 

■惻隠の情 〜父を撃たなかったイギリス兵〜
もう10年ほど前になりますが、今は亡き父である師匠の米寿のお祝いをしました。当日、家族が集ったところで何か話してくれと頼むと父は、「今日はありがとう」といって話をはじめました。それは戦争の話でした。父は昭和15年3月、19才のとき、京都の妙心僧堂に入門しました。戦争も激しくなった昭和17年4月、僧堂に赤紙(召集令状)が届きました。戦争は人殺しをしないといけないので召集を拒否したかったのですが、行かねば僧堂に迷惑がかかります。仕方なく父は道を求めるための墨染めの雲水法衣から、人殺しをするための軍服に着替え、激戦の地、ビルマ(今のミャンマー)へ出征しました。終戦間近になると戦況は悪化の一途をたどり、後方支援が完全に断たれ、武器や食料が底をつきました。着替えもなくボロボロの軍服を身にまとい、マラリアと悪性下痢にかかって痩せこけた父は、弾が一発も込められていない銃剣を下げ、重い背嚢にフラフラしつつ逃げまわりながら、こんな無謀な戦争を誰が始めたのかと考えました。食べ物に困った父は、何か食べられるものはないかとキョロキョロして歩いていたら、道ばたにマンゴーの木があり美味しそうな赤い実を付けていました。その実を取ろうとして木によじ登ったところ、人の気配に緊張しました。木の下にいた背が高くがっちりした体格の三十年配のイギリス兵と目が合いました。その敵兵は銃口を父に向けています。丸腰の父は自分はここで死ぬのだと覚悟を決めたそうです。その銃の引き金を引けば父を簡単に射落とせたであろうに、何を思ったのかその敵兵は銃を収めてその場を立ち去ってしまったのです。その敵兵がどういう人かは全く知りようもありませんでした。あのとき、私が撃たれて死んでいたら、自分と私の子供3人、孫9人とひ孫7人。全員あわせると20人もの私と私の血筋を引いていたものが、今の状態では生まれていなかったわけだ。つまりあのイギリス軍の敵兵が、みすぼらしい私の姿を見て、こいつを撃つのは可哀相だから撃たないでおこうという惻隠の情を起こしてくれたために、私のいのちが救われたのだ。そのおかげで今の私たち家族の人生がある。あの人がちょっと引き金に掛けておる指を動かすか動かさなかっただけで、私たちの運命が大きく変わってきていたかと思うと何か不思議な気持ちがする。本当ならここにはなかったはずの、かけがえのないいのちを私も、そしてお前たちも戴いているのだから、自分のいのちを大切にして、みんな仲良くしなさいよと話してくれました。この父の話と同じように、私たちの有り様はちょっとした揺れによって大きく変わるものです。そういう中にあって私は今ここに確かに生かされている...。考えてみると、これは実に不思議なことです。この事実に驚きの心を持ち、そこから感謝の心を深めることができれば、それは立派な悟りです。

■蒔かぬ種は生えぬ
私が小学2年の時、先々代である祖父と一緒に町内のお盆の棚経に廻ることを勧め、私の為に衣を縫ってくれた祖母。その祖母が昨年102歳の天寿を全うしました。それに合わせて、ある古くなった座布団を処分しようとしたところ、祖母の実の娘である母がこれだけは捨てたくないと言うのです。いつも見慣れていた座布団でしたが、よく見てみると隅っこに先々代の字で小さく、「寒行記念 昭和三十一年度」の文字が記入されていることに私自身初めて気がつきました。先々代が托鉢を行ない、その頂いた喜捨(浄財)で祖母が縫い上げたものでした。祖母が生まれたのは、大正5年、日本統治下にあった朝鮮においてでした。資産家であり事業のため家族で朝鮮に渡った祖母の父は妙心寺別院が建立されるにあたり寄進を行ない、祖母は古川大航老師(後の妙心寺派管長)の命により赴任していた祖父とその時に知り合い、結婚をして、しばらく朝鮮に暮らしました。終戦となり、二人の娘を連れて命からがら朝鮮より引き揚げて、生まれて初めて日本の地を踏んだ祖母たちは、当初沼津の寺院で暮らしましたが、いま私が住職をしています寺の住職〈当時〉が遷化(逝去)されたのを機に、昭和28年に入寺いたしました。当時、私どものお寺には湯飲み茶碗一つですらもなかったそうです。また、祖母は先々代と花園流御詠歌の普及に努めました。その当時、私どものお寺のある地域では、別の流派の御詠歌がすでに流布していたそうで、祖母たちが就寝中、ある者がいきなり押し込んできて、「花園流御詠歌など辞めろ!!」と言って、寝ていた布団をはぎ取られるといった、嫌がらせを受けたこともあったそうです。さらに、後に会員となってくださる何人かは祖母よりも歳上の方が多く、年長者の意見が尊重される田舎にあって、花園流御詠歌の普及には大変な苦労があったようです。しかし、祖母たちは、「花園流御詠歌は良いものだ」と普及に努めました。その努力が実を結び、平成17年には私どもの支部である花園会女性部の会員数は100名を超え、今や大幅に人数は減ったものの、各支部が解散をしていく中、それでも約60名の会員数を誇っています。お寺も湯呑み茶碗はもとより、仏具が充実し、檀家様の数も先々代たちが入寺した当時の3倍にまで増加しました。今あるのは、先々代たちが、しっかりと種を蒔いてきたからです。それだけではありません。私の娘二人が幼きときより御詠歌を習い、昨年には本山で得度を受け、二人の和尚様たちと一緒に町内の棚経を廻り始めました。新しい芽が育ち始め、祖母はそれらを見届けて逝きました。何を始めるにも困難はつきものです。困難の度に諦めては、物事は進みません。今後、私が護寺をする上でも困難と感じることは幾度となくあると思います。しかし、先々代たちの思いの詰まった座布団を見る時、その困難は大したものではなくなるでしょう。

■大用国師のこころ 「不思善、不思悪」
本年、二百年大遠諱を迎えた大用国師『誠拙禅師歌集』に、「西山善峯寺にて」と題する歌があります。
よしあしの こころたえても 救ふらん かきりなき世に かきりなき人
これは六祖慧能と明上座(みょうじょうざ)との問答を意識してのことと思われます。達磨大師から数えて6代目の法を嗣いだ慧能ですが、師匠は他の弟子達に妬まれることを心配して、深夜こっそりと寺から逃がします。ところが明上座という兄弟子が追いついて伝法の証しである衣鉢(えはつ)を返すよう迫りました。慧能は「好きにしろ」といって衣鉢を石の上に置きますが、なぜか明上座は受け取りません。衣鉢が伝法の「象徴」であって、法そのものではないことに気がついたからです。そこで慧能は明上座に対し、「不思善、不思悪、お前の生来の本性は何か」と問いかけました。不思善、不思悪とは善にも悪にも囚われないという意味です。私たちは普段、好きと嫌い、利と害、優と劣、長と短など、物事を2つに分けて考えています。これを分別心といいます。一般的に「分別がある」というのは、善悪の判断や物事の道理がわかるといった良い意味で使われる言葉ですが、禅では「無分別」ということが言われます。物事を分けて考える時、その基準はいったい何でしょうか。自分の経験や価値観、世間の常識、社会のルールなど様々な基準が考えられますが、それらが不要だというわけではありません。そういったものに執着しすぎると、迷いや悩み、苦しみを生じて私たちに本来そなわっている純粋な心、仏さまの心を覆い隠してしまうということではないでしょうか。先日、新聞に「日本で最も○○が少ない町」という見出しの記事がありました。「何の話だろう」と思って記事を読んでみると、この記事は統計数理研究所の岡檀(おか まゆみ)先生が、日本で最も自殺が少ないとされる徳島県海部(かいべ)町(現:海陽町)を調査・研究された内容が紹介されている記事でした。つまり「○○」に入る文字は「自殺」だったのです。岡先生は海部町が他の地域と何が違うのかを調査した結果、海部町にはいくつかの特徴があることがわかりました。そのなかの1つとして海部町には知的・身体的障がい児をサポートする「特別支援学級」がないことがあげられていました。かつて海部町の近隣でも、こういったものを作ろうという話がでた時、海部町だけが反対しました。その理由は「いろんな人がいたほうがいい」だったそうです。海部町の人たちは「人とちょっと違うからといって、その人を違う枠で囲ってしまうのはどうも気にかかる。それより、小さい頃から『世の中にはいろんな人がいる』ということをクラスの中で体験しておいたほうがよっぽどいい」と考えたからなのです。岡先生によると、海部町の自殺率の低さは、自殺を予防した結果ではなく、「どうやったら自分たちがこの町で気持ちよく生きていけるのか」を考えながら生きてきた結果ではないかとのことでした。これこそ分けて考えない「無分別」の心なのではないでしょうか。大用国師の歌にあるように、限りなき世の中に、限りない人たちを救っていこうという仏さまの願いには、善悪など分別の心ではなく無分別の心、仏さまの心でもってこそ救っていけるのではないでしょうか。そこにはもはや「救う者」と「救われる者」という分別すらないのかもしれません。

■小さな葉っぱの大きなお知らせ
朝晩は随分涼しく、秋たけなわの好時節となりました。私の住んでいる田舎寺は山の中にあります。この季節になると私は「ちいさい秋みつけた」を口ずさみながらよく境内を掃除します。そうすると、車に乗って移動する時には分からない様々な動きがあることに気づきます。
一葉落ちて天下の秋を知る  『淮南子』「説山訓」
目の前に落ち葉がはらりと落ちる。それは小さな、なにげない自然の一風景です。忙しくて慌ただしい日常を過ごしていると、つい気づかずに通り過ぎてしまうような、かすかな自然の動きです。心を落ち着けて、ゆったりとした気持ちでいれば、葉っぱが一枚はらりと落ちた、そこに大きな大きな、世界一杯の、天地一杯の秋を感じる心があります。
「大いなるかな心や」
本来の心とは何と広大なものであろうか。天空の高さはきわまりないが、本来の心はその高さを超えている。大地の厚さは測ることができないが、本来の心はその厚さを越えている。太陽や月の光明より優れるものはないが、本来の心の輝きはその光明をも凌いでいる。宇宙は果てしないものだが、本来の心は宇宙を越えて無限である。  『興禅護国論序』
おおきな心を持てば、時間を超え、空間を超えて自由自在にこの世をかけめぐることができます。子どもに会えば子どもの気持ちになれます。お年寄りに会えばお年寄りの心に寄り添ってゆけます。最近は移動や買い物、日常生活の多くの場面においてスピードが重んじられる時代です。情報も同じ。より速く。それは一見合理的に思えますが、「一得一失」、失っているもの、見えなくなっているものも多いような気がします。時にはゆっくりと歩きながら、はらりと落ちた葉っぱに世界の秋を知る、そんな豊かでスケールの大きい心で過ごしてみたいものです。見るもの聞くもの、すべてが自分の庭であり、大自然に同化して、すべてのものに祝福されていることに気づく。それが幸せということではないかと思います。

■からっとした秋空のように
秋たけなわ、空は澄みわたり清々しい季節となりました。
「廓然無聖(かくねんむしょう)」という禅語があります。武帝(仏心天子とうたわれた梁(りょう)の皇帝)が「如何なるか是れ聖諦(しょうたい)第一義(この上ない仏法とはどんなものか?)」と達磨大師に問うたのに対して、大師が答えた語です。「廓然」は「心が大空のように晴れて、わだかまりがなく広いさま」という意味を表わしますから、「秋空のようにからっとして聖なんてものは無い」と訳すことができましょう。でも、本当に「聖は無い」という理解でよいのでしょうか? 湯川秀樹博士に次いで、日本で二番目にノーベル賞(物理学賞)を受賞された朝永振一郎博士(1906〜1979)の生き方に学びたいと思います。
お前は物理が心から好きなのだろうという質問をよく受ける。考えてみると、大学を出てから30年以上も物理で飯を食ってきたわけだから、きらいだったとは言えないかもしれない。しかし、寝食を忘れてそれにぼっとうしたとか、研究に一生の情熱をささげたとかいった、えらい学者を形容するおきまりの文句はおよそ使えないように思われる。(中略) 仕事がうまくいったときのよろこびも、考えてみれば、純粋な真理追求のよろこびではなかったようだ。そこには功名心という雑念が入っている。また、本当に学問自身にうち込んで、真理自体を知ることに幸福を見出すのなら、誰のやった発見でも、それを学ぶことに無上のよろこびを感じるはずである。ところが実際はそうなっていない。今だから白状するが、湯川理論ができたときには、してやられたな、という感情をおさえることができなかったし、その成功に一種の羨望の念を禁じ得なかったことも正直のところ事実である。ほんとうのえらい学者はこんな雑念になやまされることはないはずだ。それにくらべて、まるで邪念妄想のかたまりのような自分の何とつまらない者であることよ、こんなことをくりかえしくりかえし考えたものである。 ・・・朝永振一郎『見える光、見えない光』
朝永博士のからっとした、わだかまりのない生き方が見えてきます。研究者に対する「聖」のイメージは「寝食を忘れて研究に没頭する」「研究に一生をささげる」というようなものでしょう。博士は「自分はそうではなかった」と打ち明けています。もとより「聖」で生きることは、理想であり、また正しいことです。しかし「聖」にこだわり、しがみつくのは、逆に「聖」から離れてしまうのだと感じました。実は武帝がそうだったのではないでしょうか。「聖」なる生き方をしたいと願いつつも、雑念に悩んだり邪念や妄想が湧くのが人間です。博士のように、自分自身をよく見つめ、聖も自分、凡も自分、成功もよし、失敗もよし、どちらも尊いものであると見て、人生を歩んでいく。そうすればノーベル賞とまではいかないにしても、秋空のように広々とした心で生きられることでしょう。

■釈宗演禅師のこころ 「受け継がれるこころ」
心より やがてこころに 伝ふれば さく花となり 鳴く鳥となる  『楞伽窟歌集』 ・・・大意 / 大切な教えを人から人へ、心から心へと伝えていけば、それは必ず花となって咲くだろう、鳴く鳥となって現われるだろう
釈宗演禅師(1860〜1919)は明治、大正期の禅僧で円覚寺派管長、建長寺派管長を歴任され、その後はアメリカに禅の教えを伝えるための活動に尽力された方として知られています。冒頭の句は釈宗演禅師の残された有名な和歌で、禅師が「伝える」ということをどのようにとらえていたのかが垣間見える一句であると言えるでしょう。「大切な教え」とは端的に言えば禅の悟りの境地ということですが、これの持つ一面をわかりやすく言い換えるならば、「あらゆるものの有り難さを有り難く受け取ることのできる心」ではないかと私は思っています。花が咲くことも鳥が鳴くことも一見特別なことではありませんが、その特別でないことの中に有り難さを見い出せるとき、私たちのこころは調っていると言うのだと思います。花は無心に咲き、鳥は無心に鳴いている。その日常の風景に目を向けて改めて気付くことは実はたくさんあるのです。報恩寺では現在数名の檀家さんとともに御詠歌をしております。御詠歌とは仏教の教えを旋律に乗せて唱える歌のことです。報恩寺の御詠歌会は私が先住職である祖父より報恩寺の住職を引き継ぐまで、講員さんの高齢化、減少等の影響により休会状態にありました。私が住職を引き継いだ6年前にいい機会だからということで檀家さんの方から声をかけていただき、新しい講員さんをお迎えして報恩寺御詠歌会を再開することができました。新しい講員さんと言ってもその多くが親の世代から御詠歌を続けてくださっており、かつてお姑さんが使っていたお道具を今度はお嫁さんたちが使ってお稽古に励んでくださっております。御詠歌を再開する中で一つ感心させられたお話があります。とある講員さんが御詠歌を始めるということでかつてお姑さんが使っていた御詠歌のお道具を出してくると、お道具と一緒に書き込みだらけの古い御詠歌の楽譜が出てきたそうです。ああ、おばあさんもこうやって御詠歌のお稽古をしたのだなと思いがけず先人の努力の跡、そしてこれから自分が始める御詠歌というものが果たしてきた役割を知るきっかけになったと聞きました。お姑さんは決してお嫁さんに教えを伝えるために楽譜に書き込みを入れたわけではありません。自分自身の研鑚のために一所懸命にしていたことです。しかし、その「無心の努力の跡」は確かに教えとなってお嫁さんの心に受け継がれています。その有り難さを受け取れるようにお嫁さんの心が調えられていたというのもとても素晴らしいことだと思いました。「大切な教えを伝える」ことに、決まった形や作法があるわけではありません。しかし、その有り難さは私たちの生活の中のふとした瞬間にあるものです。あとは、私たちの心が大切な教えを有り難く頂戴できるように普段の生活の中からこころを調えていくということが重要です。これを私たちは「修行」と呼ぶのです。当たり前で平凡な生活の中にでも有り難い気付きはたくさんあるはずです。その一つ一つに目を向けていく、気付いていく努力をすることが私たちが明日からの一日をよりよく生きるための方法の一つであると私は信じています。

■足るを知る ー七福神の思いー
澄み渡る青空に白い雲が浮かび、紅葉とのコントラスト、まさに爽やかな日本の秋ですね。暑い暑い夏を越え、やがて冬来たる間の、しのぎよいホッとできる季節です。ところで、平成から令和へと改元の今年、私の小寺に、「七福神」石彫り像が建立されました。来たりし人々に福徳あらんことを願いて。七福神とは、次のような福徳をもたらす神のことです。
太鼓腹の「布袋和尚」平和を願い福を呼ぶ。えびす顔の「恵比寿天」商売繁盛益々栄え。木槌ふりふり「大黒天」五穀豊穣・開運金運財宝を。りりしいお顔は「毘沙門天」勇気を与え、ふるいたつ。琵琶を奏でる「弁財天」智慧・才知を養い、音楽芸能に力を加え。鹿を伴う「福禄寿」延命安泰を。長い頭の「寿老人」健康長寿大いに願い。
さて、あなたは七福神にどんな願いをされるでしょうか?私たちには様々な欲望があり、きりがありません。願いは人それぞれでしょうが、幸せを求める心の表われでもありましょう。物や心の満足を求めて――。しかし、神様には表と裏が一体であると聞きました。即ち、幸せ神には反幸せ神がくっついているとか・・・。それは、私たちが自分の欲望に凝り固まったものを戒める教えと思います。他の人への思いやり、他の人の幸せを思える心を養うために......。知足(足るを知る)という教えがあります。七福神は宝船に乗っていらっしゃいます。建立した石彫り像には"宝"字の所に、"※吾唯知足(われただたるをしる)"を絵文字風にしたものをはめこみました。あまり欲張るなよ、足りてあることを知りましょう。有形無形に恵まれている事に気付かせてもらえたら――。「笑う門には福来たる」「三門くぐれば七福ほほ笑む」。和やかな笑顔で、秋を楽しみましょう。

■たよらないのが仏さま 〜法皇忌〜
「世界の平和と人類の発展」、これは天皇陛下のお言葉ですが、我々現代人はすぐに言葉に色付けし、そこに人格を見ようとする癖がいつの間にか身に付いてしまっているようです。我々は、願いという言葉の在り方、こころの在り方を素直に拝受し、各々の世界の平和と人類という共同和合の存在がいっそう盛んな段階になる働きに努めることが大切ではないでしょうか。NHKの番組でイジメについてある先生がこのようなお話をされてました。「小学校、幼稚園、もっと前からこう教えてこられたと思う、明るく元気で友達いっぱいが良い事であると。この反対に静かで大人しく友達が多くない者は何か奇異の目でみられますが、そんなに悪いことなのでしょうか」。勇気ある発言だなと思い、私自身の正しいと思う心を今一度素直に見直すきっかけをいただきました。誰しも状況を安んじるため、己れの正当性を求め、論理や社会性、通念的な正義感、若しくは征服感の虜なのであります。全てとは思いませんが、どうやら大人になると人は己れの都合のいい、扱い易いような人を集め従えて自己責任から逃げる事で、いつまでも満足できない自分を誤魔化している様です。人間は大人になると子供のこころを忘れてしまうのでしょうか。純粋であり愚かでもある非力な自己を支えるのは、取ってつけたような正義でも、他人を陥れてできる正当性でも無い。自他の分別に頼って我が人生から逃げている臆病な心にたよる奴隷には、私は救われないと骨身に沁みる思いをしてきた筈であるのに。誰しも自他の分別から脱却し素直なこころの安定がなければ、我執による差別から離れ、頂いた仮和合の「いま、ここ、わたし」という本当の尊く限りある命を、おかげさまでと大切にする願いは叶わないのであります。私の師匠は無口で一々指導をする様な事を言わない方でしたが、幼い頃からよく「優しい男になれ」と諭されました。今思えば、己れに対しての厳さ、自分一人ではない有り難さを知ることなくして、他人を認めて優しくなれる筈もないのであります。それは私達自身が頂き受け継いだ沢山のいのちと厳しくも優しいこころは、私を含めたこの世そのものであり、時代や状況に分別左右されるものではないからです。この国に仏法を、臨済禅の安心の御教えを、という法皇様の自他の分別から離れた願いは、個の願いではなく我々の共に願う平和と発展への道がそこにあるのでしょう。

■釈宗演禅師のこころ 「行動する禅者」
プロフェッショナルと言われる人の中にあって、更に天才と称されるような活躍をする人がいます。芭蕉や、夏目、太宰などの文豪たち。信長ら戦国武将。最近では野球のイチロー選手や、将棋の藤井聡太七段。日本中の誰もがその活躍を知るような方たちです。禅の世界にもそう言った圧倒的な行跡を残す宗教的天才たちがいました。幼いながら清浄なる心を喝破して師をうならせた達磨大師。米つき小僧の時に悟りの境涯を明らかにした六祖慧能。風狂と言われながら生きることの素晴らしさを示した一休。近代においては、明治時代、卓越した行動力で禅の真髄を体現された釋宗演禅師もまた、その一人です。釈宗演禅師は明治3年に12歳で御出家、故郷若狭を出られ、各地で厳しい雲水修行の後、なんと慶應義塾大学に入学、師の今北洪川老師の厳しい反対を押し切って27歳で単身セイロン(現在のスリランカ)ヘ留学しておられます。何という行動力。貧困と孤独にあえぎながら苦学する中で当地の仏教界を見てこう述べられています。
此ノ土ノ僧ハ(中略)吾門ノ所謂無中ニ道アリ塵埃ヲ出ヅルガ如キ活境界ハ夢ニダモ知ラズ(中略)法戦場中ニ試ミントスルガ如キ気概ハ毛頭モ胸間ニ浮カビ来ラズ  『西遊日記』 ・・・ (戒律や経典を奉じて安閑としているのみで、せっかくの仏法を生き生きと行じないで、いったいなんの意味があるのか)
夏目漱石の代表作『門』のなかに実は宗演禅師が登場しています。実際に漱石は明治27年頃に円覚寺派管長となった宗演禅師に参禅していて、その体験に基づいて書かれたものだそうです。作中主人公宗助は、参禅の後、山を下りるときにこう述べています。
(心の)門を開けて貰いに来た。けれども門番は扉の向側にいて、敲(たた)いてもついに顔さえ出してくれなかった。ただ、「敲いても駄目だ。独りで開けて入れ」と云う声が聞こえただけであった。
ふらふらと定まらない自分の心の弱いところをグサリと刺されて、かえって宗助は生きる力を得ていくのです。一人で開けて入れ。なんと厳しく、温かい言葉でしょう。自らの足で入って歩んでこそ、意味のある人生になるということでしょう。冷暖自知の言葉通り、世の中は実際に自分で体験しなければわからない事だらけです。しかし現代社会の莫大な情報の中で、我々は体験もせずにあたかも色々知った気になってはいないでしょうか。私も住職になってまもなく10年、葬儀法要の多様化のなかで、寺院維持の難しさに直面し、その中で知る様々な方のお手助けに感激することもしばしばです。書物やモニターを通してでは決して得られない貴重な体験をしている真っ最中です。己の人生を切り開く本当の力は、仏法を頂き、一人自ら行動し、体験して開けて入ることでしか得られないのだ、若き宗演禅師は遠いセイロンの地で、強くそのことをお感じになられたのでは無いでしょうか。原始経典を修めて帰国して後、管長となられた宗演禅師が世界に向けて表明された「洗練された日本の禅」は、その後も禅と共に行動し続けた御生涯そのものに表わされています。そしてその膝下から、偉大な弟子たちがたくさん続き、我々現代の禅宗徒につながっているのです。釈尊の御教えを、五感を総動員して観じ、それに従って自ら行なうことこそが、我々が目指す禅の生き方であります。釋宗演禅師の御生涯に触れるとき、ナカナカ天才にはなれないので、そのお姿を素直な気持ちでチョコッとでも真似てみようと思えてきます。禅の門は実は閂(かんぬき)がかかっていないのですから。

■「幸せ」ってなんだっけ、なんだっけ
私は出家前の本職から縁が切れず、ここ10年ほどラジオのレギュラー番組を持っています。メールでリクエストが来る昨今ですが、時々こんな質問があります。「和尚さんのお寺は、パワースポットですか?」「ご朱印をプレゼントでもらえますか?」みたいなことです。パワースポットに、または御朱印に一体何を望んでおられるのかな? そう私が尋ねますと、「幸せになるように」「良い事があるように」「願い事が叶うように」、大体そんな答えが返って参ります。なるほど、では幸せとは? 良いこととは?恋愛成就、商売繁盛、病気平癒、子孫繁栄、受験合格等々、確かに世間的にはいろいろな願いがあり、それが達成されればその瞬間はきっと幸せなのだと思います。しかし、そんな刹那な喜びのためだけに宗教があるのかと言えば、ちょっと違うのではないでしょうか。では仏教的に言って、幸せとは本来どういう状態のことを言うのでしょうか。お釈迦様の十大弟子のひとり、阿那律尊者は目が見えなかったので、日常生活には色々と不便があったようです。ある時に、衣の修繕をしようとして針の穴に糸を通すのに苦心していた尊者は、「誰か功徳を積んで幸せになりたい人が居られたら、どうか私のためにこの針に糸を通してもらえないだろうか」、そう言われました。すると、お釈迦様が真っ先に歩み寄り、「私が功徳を積ませていただきましょう」と言われたそうです。驚いた阿那律尊者は、「道を極め覚者となった釈尊には、もう功徳を積む必要はないのではないでしょうか」と言いました。するとお釈迦様は、「世間の中で幸せを求める心の強さで私に勝るものはいないでしょう」と言われました。では、覚者となったお釈迦様が、なおもお求めになっていた「幸せ」とは一体どういうものだったのでしょうか?お釈迦様は約2500年前の12月8日の暁の明星を見てお悟りを開かれました。その時に「奇なるかな、奇なるかな。一切の衆生ことごとく如来の智慧徳相を具有す。ただ妄想、執着あるによってこれを正得せず」と言われました。つまりお釈迦様が願った「幸せ」、それは一切衆生の「幸せ」、しかも妄想、執着を払拭して得られる「安心」という「幸せ」だったのではないでしょうか。その点では私もまだまだ本当の「幸せ」にはほど遠いな、と思います。私のいるお寺がパワースポットだったら、どんなことをお願いする?と尋ねたら、ある人が「和尚さんを見れば、和尚さんのお寺がパワースポットではないことくらいすぐに分かります」と言いました。中々見る目があるな、と思いました。 
 

 

■ノーサイドと怨親平等
本年は第9回目となるラグビーワールドカップが日本で開催されました。テレビで中継されたこともあってご覧になった方も多いのではないでしょうか。私は、今までラグビーのルールすら知らなかったのですが、テレビで観戦するうちにすっかり即席のラグビーファンとなってしまいました。試合の解説がとても丁寧で分かりやすかったのですが、なかでも興味深く感じられたのはノーサイドという言葉でした。ノーサイドとはラグビーの用語で試合終了のことです。現在では、あまり使われなくなった古い表現とのことですが、試合が終われば敵の側(サイド)も味方の側(サイド)もない(ノー)というところから試合終了を意味するようになったようです。ラグビーは接触プレーも多い、集団格闘技のようなスポーツではありますが、熱くなりやすい競技であるからこそ、紳士的な精神を大切にしているのではないかと思います。このノーサイドという言葉を聞いて私の脳裏をよぎったのは、仏教の怨親平等(おんしんびょうどう)という言葉でした。怨親平等とは『禅学大辞典』には、
怨憎する人々に対しても、親愛する人々に対しても、差別することなく、慈悲愛護の念をもって接すること
と記載されています。怨(うら)みや憎しみの対象となる「敵」であっても、親しみや愛情の対象となる「味方」であっても、仏教の根本精神である慈悲の心、仏様の眼から見ればどちらも平等にいつくしみ憐(あわ)れむべきであるというのです。対立や争いの絶えない現実を目の前にする時、絶望的と思われるかもしれませんが、最終的に目指すべき到達点は怨親平等であると仏教はいうのです。怨親平等の精神を具現化した一例として、鎌倉に円覚寺という臨済宗のご本山がございます。円覚寺は弘安5年(1282)に鎌倉幕府の執権であった北条時宗が、中国・宋より招いた無学祖元禅師によって開山されました。国家鎮護や禅の教えを広めるだけでなく、蒙古襲来によって亡くなった人々を、敵味方の区別なく平等に弔うために建立されたお寺です。戦争という不幸な出来事によって亡くなった人々に、もともと敵味方の区別はありません。立場の相異はあるにしても、一つしかない命を失ったことに違いはないのです。私たちは敵味方というお互いを分ける立場にばかり執着をしていると大切なものを見失ってしまいかねません。この「分ける」ということに関して鈴木大拙は次のような指摘をしています。
分けると、分けられたものの間に争いの起こるのは当然だ。すなわち、力の世界がそこから開けてくる。力とは勝負である。制するか制せられるかの、二元的世界である。高い山が自分の面前に突っ立っている、そうすると、その山に登りたいとの気が動く。いろいろと工夫して、その絶頂をきわめる。そうすると、山を征服したという。〔中略〕この征服欲が力、すなわち各種のインペリアリズム(侵略主義)の実現となる。  『新編 東洋的な見方』
大拙はこの「分けて」考えることを基底にもつ西洋の思想を必ずしも否定しているわけではありませんが、長所も短所も含めて検討してみる必要があるのではないでしょうか。ラグビーは西洋発祥のスポーツではありますが、ノーサイドという言葉から東洋的な叡智、仏教の智慧を感じた次第です。

■「しか」と「も」
夕焼け小焼けで日が暮れて〜♪ 私が住んでいる地域では、冬期は夕方5時に子供の帰宅を促すメロディーが公民館から流れます。数年前、午後4時半過ぎに近所の子供たちがお寺に遊びに来ました。5時まであと少し、そこで私が、「あと20分しか遊べないよ」と言うと、「ちがうよ、あと20分も遊べるよ!」と、子供たちは答えるではありませんか。同じ「あと20分」でも、「しか」と「も」では全く違います。私にとっては不充分でも、子供たちには充分だったのです。「それは、大人と子供の時間感覚が違うから......」などと、それらしい説明もできるでしょう。はたしてそれだけでしょうか? 宗祖、臨済禅師の師である黄檗希運禅師は、説法の中で時間について次のように言います。
一瞬一瞬、何ものにも囚われず、過去、現在、未来について相手にせぬことだ(時時、念念一切の相を見ず、前後三際を認むること莫かれ)  『伝心法要』
黄檗禅師は、「時間なんか忘れて、好き勝手に生きろ!」と言っているわけではありません。私たちは生活するにあたり、色々な尺度を使っています。時間で言えば多くの国では、本来カタチのない時間を一日24時間、一年365日という枠にはめ込んで使っています。生活するにあたり、共通の尺度があった方が便利です。しかし、私たちは日々、「時間がない」と言って、時間に追われ仕事をし、遊び、生きていないでしょうか。生活を便利にするための尺度であったはずの時間に、追われ囚われ縛られてしまうのです。これは、時間だけのことではありません。もちろん、自主的に自分を追い込むことによって効率よく物事が運ぶ場合もあります。しかし、様々なことに追われ、がんじがらめで息苦しいと感じることはありませんか。黄檗禅師は先の語の前に、次のようにも言っています。
オレがオレがという拘りなく、一日なすべきことをしながら、しかも何ものにも惑わされない、それこそが「自在の人」だ(......人我等の相無く、終日一切の事を離れずして、諸の境に惑せられざるを、方に自在人と名づく)  『伝心法要』
囚われ惑わされることなく、なすべきことをする。「それは理想であって、すべきことがあり過ぎて時間がないのが現実だ」と仰るかも知れません。しかし、すべきことが山積みでも、心までも追い立てられ縛られる必要はないはずです。お寺に遊びに来た子供たちも、黄檗禅師が言うような境地に常にあるわけではないでしょう。しかし少なくとも、「20分では何もできない」という囚われに惑わされていた私に比べ、「20分もあれば色々できる!」と考えたあの時の子供たちは、主体的に時間を使う「自在の人」に近かったのではないでしょうか。12月に入りました。残すところ「あと数日しかない」のか「あと数日もある」のか、皆様はどちらでしょうか?

■初詣のこころがまえ
新しい一年が始まろうとしています。皆々様も初詣へといらっしゃるでしょう。ご家族やご友人との初詣は気分を一新させ、新年が希望にみちたうつくしいものだと信じさせてくれます。今年一年の無事と平穏、受験合格、家内安全......。様々な願いごとを神仏にいのる初詣は、私たちの心にふかく根付いた大事な行事です。初詣にいらっしゃる皆さまを見ていると、思い出すことがあります。私の恩師の、こんな言葉です。「神仏にはお願いばかりしてはいけないよ。ありがとうと感謝をすることが大事だよ。」 ありがとうの語源は「有ること難し」です。今、ここに生きてあることは容易ならぬこと、めったにない、稀有(稀である)という意味です。いまを生きる私たちは、生きていることが「当たり前」と思ってしまうことがあります。けれど、私という命は、父と母、どちらが欠けてもこの世に生を受けることはできませんでした。その父と母にもそれぞれの父と母があります。両親の両親と遡っていきますと、10代前には1024人の先祖がおり、30代前には1,073,741,824人の先祖がおります。50代前......となると数えるのがこわくなるほどの膨大さです。そんな途方もない数の命のすえに、私たちは生きています。数え切れることのできない命の、たった一人でも欠けていれば、今の私はおりません。沢山の嘆き、哀しみ、喜びの果てにうまれた、私というたったひとつの命。記録にも、記憶にも残らず顔も知らないけれども、私という命には深く根付いているご先祖様たち。そのつながりの中でいただいた私のいのち。そして今、ここに私がこうして生きていると思えば、「なんと有り難し......」と神仏に感謝するほかありません。初詣となれば、願いごともあるでしょう。受験や手術を控え、人生の転機を迎える方も多いと思われます。だからこそ、願い事と一緒に、神さま仏さまへの感謝を忘れずに持っていていただければと思います。「こうして新しい年を無事に迎えられました。ありがとうございます。この上にお願いとは憚られますが、今年一年の家内安全をどうかお願い申し上げます。」 このようにお伝えいただけるとよろしいのではないでしょうか。人は、そもそも何かに感謝するとき、自己肯定感も増します。神さま仏さまに感謝することは、結果としてその人の心が安らぎます。より気持ちよく生きていくためにも、この命への感謝を忘れずにいきたいものです。あたらしい一年が始まっても、皆様同様、感謝の心で努めてまいりたいと思います。

■これまでと、これからと
新年あけましておめでとうございます。お正月を迎え、あらためてこの一年をかえりみれば、あっという間の出来事に感じられ、時の流れの速さに慄くばかりです。ただ一方で実に忙しくまた楽しい、充実した一年であったからこその速さとも感じます。
門松やおもへば一夜三十年
江戸時代の俳人・松尾桃青三十四歳の句です。新たな年を迎え振り返ってみれば、一年どころか三十年、物心ついてからこれまでの人生はまるで一夜の夢のようだ......。この頃、桃青は一人前の立派な俳諧師として独り立ちの目途がつきました。故郷を離れ、句で身を立てようと夢中で駆けた三十年、その思いをついに叶えた自分を誇らしく思う気持ちが表われているようです。「三十年」というのは一つの区切り、世代の変わり目です。言うなればその人を表わす期間になるでしょうか。何者かになろうと願うのならば、人生をかけて挑まなければなりません。苦労のかいあって目的に達したといえど、禅は更なる向上を求めます。「更に参ぜよ三十年」。もっともっと貴方は素晴らしいのだ、と。俳諧のお師匠さんとなった桃青はそこで止まりませんでした。研鑽に研鑽を重ね、自分自身の俳諧を求めて各地を旅して巡ります。五十一歳の生涯を終えるその瞬間までより良い句を追求し、そして歴史に名を遺す無二の人となりました。それが松尾桃青、後の俳聖・松尾芭蕉です。自分は芭蕉のような特別な人ではない、と思う人もいるかもしれません。しかし誰もが決して二人とはいない人であり、人生という道を歩み続けています。その道を歩み切る、生き尽すことを望まれているのです。平成という三十年が終わりました。自然災害など幾つもの困難を乗り越えて日々を重ね、今日こうして令和初のお正月を迎えられました。誰もが振り返ってみれば一夜の夢のようだと感じるのではないでしょうか。そしてまた新しい日々が始まります。これまでと、これからとをよくよく見つめて、まずまた三十年、皆様と共に一日一日を積み重ねていけることを願います。

■いつでも心にほとけさまを
明けましておめでとうございます。令和初めてのお正月を無事に迎えられたことに感謝し、今年も皆様の心に残るような法話をお届けできるよう精進させていただきたく思います。「禅」という言葉には「心を調える」という意味があります。この心を調えるという目的に向かって私たちは日々いろいろな仏道修行をしていく訳なのですが、今回は「心が調った状態」とは何だろうか、ということについて考えていけたらと思っています。令和元年十月に長野県の飯田市という所へ修行道場の後輩の晋山式に伺わせていただきました。晋山式というのはお寺に新しい住職が就任する時に行なわれる式で、同じ修行道場で修行した仲間が集まり、みんなで新住職の誕生をお祝いする、とてもおめでたい行事です。当日の天気予報は残念ながら雨で、朝からしとしとと小雨の降るような空模様でした。ところが晋山式の時間が近づくにつれて雨は上がり、開式時刻の頃には晴れ間も見えるような天気まで回復しました。その様子を見ていた近くの檀家さんがぼそっと、「ほとけさまが見ていてくださってるんじゃな」と笑顔をうかべながら言われていたのが、何気ない風景でありながらとても印象に残っています。この檀家さんの心にはいつもほとけさまがいらっしゃるのだと思います。何かいいことがあった時には「ほとけさまのおかげである」と素直に手を合わせたり頭を下げることができる。逆に何か悪いことや自分にとって良くないことが降りかかってきたとしても「きっとほとけさまが見ていてくださる」と心を乱されたりすることなく泰然自若としていられる。これは日頃からの信心のたまものであろうと大いに感心させられました。禅の教えでは「因果一如」を説きます。原因と結果は一緒に起きているというのです。例えば、何か良いことをしたからと言って必ずそれが良い結果に結びつくとは限りません。それでもふてくされたり不平不満を言うのではなく、ただひたすらに自分の信じる善いことを積み重ねていくということに価値があるのです。これは逆もまた然りであって、悪いことをしてもそれが必ず悪い結果に結びつくとは限りません。だからといって人に隠れて悪いことをし続けていると、知らず知らずのうちに自分の心はどんどん貧しくなっていきます。「ほとけさまを信じる」という行ないそれ自体が何か目に見える劇的な結果をもたらすわけではありません。しかし、私たちが「今日も一日心にほとけさまを信じて穏やかに一日を終えることができた」ならば、それに勝る有り難いことは無いのではないかと思っています。目に見える対価や見返りばかりを追い求めていくのではなく、いつも心にほとけさまを信じて日々を過ごしていく。それが「心を調えていく」ということではないかと思います。この新年の節目に是非皆さんと一緒に「心にほとけさまを信じていく」事について考え、この一年をよりよく過ごしていければ何よりと思っております。

■四十二章経の教え 「変わる世に変わらぬものを見にゃならぬ」
次のように釈尊は説かれた。
天地を見て非常と想い、山や川を見て非常と想い、万物の盛んな躍動を見て非常と想い、そのことによって、執着する心をもたなければ、早いうちに悟りの境地を得るであろう。  『四十二章経』第十六章
この第十六章を読んで私は慈雲尊者著の『十善法語』にある次の言葉を思い起こしました。振り仮名以外は原典のまま掲載します。原典を読むことも大切だからです。
日月(にちげつ)星辰(せいしん)の行度(ぎょうと)を見て、古今に条理の乱れぬことを知る。山崩れ、川竭(つく)るを見て、成壊(じょうえ)の数(しゅ)あることを知る。雷(らい)震(ふる)ひ地(ち)動くを見て、常と変と相依ることを知る。月盈(みつ)れば虧(か)く、物盛んなれば衰ふを見て、世相の当然を知る。鳥獣の羽毛(うぼう)具(そなわ)るを見て、此の身あれば、此の服あることを知る。蚯蚓(みみず)の土を食(じき)とし、蝶の花を吸ふを見て、此の口あれば此の食あることを知る。蜂が巣を営むを見て、此の衆あれば此の屋宅城邑(おくたくじょうは)あることを知る。蜘蛛(くも)が蜂の毒に中(あた)りて芋畑(いもばた)に走るを見て、此の病あれば此の薬あることを知る。条理の乱れぬことを知れば道を守りて疑はぬ。貧に処して富を羨まぬ、賤に処して貴を望まぬ、盈虚(えいこ)の数あることを知れば、得失是非に心を動ぜぬ。足(た)りて奢(おご)らぬ。闕(か)けて愁へぬ。常と変と相依ることを知れば、事々にふれて恐れなく。難に処して自ら安んじ、常に処して遠く慮(おもんぱか)る。世相の当然を知れば、分限を守りて過さぬ。飲食衣服(おんじきえふく)屋宅医薬の具(そなわ)ることを知れば、外事(がいじ)に使はれぬぢゃ。  『十善法語』
古歌に「変わる世に変わらぬものを見にゃならぬ」とあります。万物は絶え間ない流転の中にあり、人間も例外ではありません。しかし人はその中にあって移ろわないものに目覚めることができる。その事実を詠んでいます。「第十六章」にしても慈雲尊者のお言葉にしてもこの一大事があるんだよ、と静かに、深く、丁寧に諭して下さっています。私の師も「今ここ」と題して幾度となく話された言葉があります。その内容は尊者と同様に一大事因縁があることを喚起しています。
「いまここに在るはこの事を知らんがためなり。いまここに在るはこの事を行ぜんがためなり、いまここに在るはこの事を喜ばんがためなり」 
※慈雲飲光(じうんおんこう)1718〜1804 真言宗の僧。一般に慈雲尊者と呼ばれています。宗派に拘ることを避け釈尊在世の戒律を遵守するのが僧伽であることを唱えて実践しました。尊者はことのほか臨済禅師を尊崇し、臨済録、無門関など多くの禅書も提唱しています。東嶺禅師は白隠禅師の元を去った(無量寺出奔)のち、尊者に度々参じています。山岡鉄舟居士は尊者の行状を「小釈迦」として崇めています。

■是非におよばず
二月十五日は涅槃会です。昔からお釈迦さまが亡くなられた命日と定めて法要を営みます。涅槃とは、迷いがなくなるという意味ですが、迷いなく死んでいくことは、なかなかできないことです。しかしできないと片づけては本当にできません。せめて二月十五日が来たら、そのことについて深く考えることが大切であると思います。私は山本夏彦翁の文章を敬愛し愛読しています。翁が亡くなって十七年が経ちましたが、数多くの著作がいまも書店に並んでいます。全てを読んだのかと聞かれればもちろん、それらの全てを私は持ってはいます。その著作の中に『死ぬの大好き』という一冊があります。その中に、
インタビュアーが来た。聞けばナニ生涯現役みたいな欄だ。「死ぬの大好き」と私はまっさきに言った。ー中略ー これを言わずに死なれよかと思った人がみんな恨みをのんで死ぬのである。自分だけ恨みを晴らした上で死ぬなんてわがままである。だから「死ぬの大好き」、このごろプールに行って足腰をきたえているが、これも死ぬためだ。
という一文があります。最近、六十そこそこで亡くなられた方がいます。ガンでステージ4だったから、死期が近かったことは確かですが、前日まで父親と一緒に食事に出かけ明日の約束もして別れました。翌朝、父親が車で迎えに行ったら亡くなっていたということです。父親は息子さんが亡くなる前、「あいつも末期のガンだから、できれば私が丈夫なうちに送ってやりたいけど、こればかりは自分が先になるか、息子が先になるか判らんからなあ。私が代わってやると言っても、それは絶対にできない事だし。まあ、天にお任せするよりしょうがない。なるようになるわい。」と言っておられました。はたして息子さんが先に亡くなられてしまいました。父親は息子さんの葬儀の時にも達観しているというのか、生死を超えているというのか、取り乱すこともなく、「よかった、よかった。これで私も安心して死ねるなあ。息子と良い時間を一緒に過ごせてよかったなあ。あれは孝行息子だったよ。」と言っておられました。一ノ谷の戦いで熊谷直実は数え年十六歳の敦盛(あつもり)の首(こうべ)をためらいながらも討ち取った。後に直実は世をはかなみ出家しました。それを謡った、『幸若舞(こうわかまい)』の「敦盛」の一節に、
一度生を享け 滅せぬもののあるべきか これを菩提の種と思ひ定めざらんは 口惜しかりき次第ぞ
とあります。死というのは考えたくないというのが通常の考えです。しかし、この世に生まれてくる生きとし生けるものは百パーセント、滅していくのが真実の姿です。生まれた瞬間から死への旅が始まります。はずれのない「もれなく」です。この事をはっきりと理解して生きる事が大切です。ぬるま湯で屁をこいたような顔をして、どれだけ生きていても、口惜しかりき次第です。幸若舞が好きで、ことに「敦盛」を戦(いくさ)の前に舞ったといわれる織田信長も本能寺で死を覚悟すると、「是非におよばず」と、ためらう事なく死に臨みました。これは、「死ぬの大好き」に通ずるところがあります。件の父親も、わが息子の死に際し、「是非におよばず」という立派な態度でした。まさに生死は「是非におよばず」です。

■それでも生きていく
箱根駅伝観戦が、私の年始の恒例行事。快調なペースで思い通りの走りをする選手がいる反面、予期せぬ天候の影響で、思い描いた走りができない選手もいます。それでも「少しでも前へ」と、もがき、フラフラになりながらも懸命に自分の区間を走り抜け、倒れ込むように中継点で襷を繋ぐ選手の姿から、毎年、大切なことを学ばせて頂いております。昔、趙州さんという名の高僧に、弟子が質問をしました。「道とはどういうものですか」と。趙州さんは、「道なら垣根の外(毎日歩いている道)にある」と答えます。弟子は「そんなことは聞いていません。私が歩むべき大道(仏の道)のことです」と言い返すと、趙州さんは「大道なら長安に通じている」と答えたとの逸話が伝わっています。どんな道であろうと、すべての道が長安(私たちの目指すべきゴール)に繋がっている、今生きているこの現実以外に、私たちの歩むべき道(仏の道)はないという意味に理解しています。今、自分が置かれている現実と向き合い、脚、実地を踏む――地に足をつけて、真摯に生きていく姿勢こそが大切だと、私なりに、この逸話を味わってもいます。昨年11月、台風で甚大な浸水被害のあった被災地域でのボランティア活動に参加させて頂きました。活動で伺がった被災者宅は、自宅1階が壊滅状態。そして、敷地内には、粘土の如く硬く固まった土砂の山。硬くて重い土砂の塊を土嚢袋に詰めるボランティア作業は、想像以上に難儀なものでした。作業も1時間を過ぎる頃には、腰や肩に痛みが走り、昼食を迎えた頃の私は、早くもグロッキー状態。台風の日から1ヶ月もの間、こんな過酷な作業の毎日だったのかと思うと、被災者の方々の心労は、想像に難くありませんでした。休憩時間、ボランティア活動先のお宅のご主人が、敷地内の土砂の山を指差しながら「1ヶ月近く、こんな作業ばかりで、正直もうウンザリだよ。でも、今は、この作業をやり続けていくしかないんだよね。先は見えないけど、少しずつでも前に進んで、生きていくしかないよね」と話して下さいました。住み慣れた自宅が一瞬にして壊滅状態になった現実と向き合うこと、その現実を受け入れること、自分が同じ立場であったら、それすらできないかも知れないと思いました。そんな過酷な状況下でも、1歩でも半歩でも前に進もうとする、苦悩と共に、それでも生きていこうとされるご主人に、この先の人生を生きて行く上でのあるべき姿を、示して頂けたように思います。今年の箱根駅伝も、記録づくめの素晴らしい大会でしたが、思い通りの走りができない中でも、懸命に自分の区間を走り抜けた選手達にこそ、心からの拍手を送りたいと思います。そして、この先の自分の人生で、どんな状況に直面したとしても、現実と真摯に向き合い、地に足を付けて生きていけるように、日々精進したいと思います。最後まで、自分の区間を走り抜いた選手たちに負けないように。

■四十二章経の教え 「節分に合掌」
二月三日は、邪気を払い一年の無病息災を願う節分です。鬼は外、福は内と、豆撒きをして、その豆を歳の数だけ食べ、厄を除け福を招きます。鬼を追い出し、福を呼び込む。さて、この節分を鬼の立場で考えてみたら、どうでしょうか。鬼は鬼の本分を全うしているだけ。ちょっと人間と相入れないところがあるだけ。逆に鬼からしてみれば人間こそが鬼、桃太郎こそが鬼なのです。ゴキブリという昆虫がいます。何の気なしにヒョイと顔を出してみたら。チョイと散歩に出てみたら。悲鳴とともに叩き潰される。不憫以外に言葉がありません。一人暮らしをしていたとき、よくゴキブリが出てきたものです。当時、そんな話をすると友人から、「ゴキブリが出ないようにしなきゃね」、そう言われました。ゴキブリが出ないように、鬼が出ないように、丁寧な生活を心がけること。ある意味で、これが真理かも知れません。お釈迦さまがいらっしゃった時代より遥か遠い昔、迦葉仏(かしょうぶつ)という仏さまがいらっしゃいました。その仏さまは、このようなお言葉を遺されています。
欲が生じるもとは、こころであるということを私は知った。こころのはたらきは、思いと想像から生まれる。私が思ったり想像したりしなければ、欲は生まれることはない。  『四十二章経』
自分勝手で妄りな思いや想像、ことさらな期待や選り好み。それが欲のもとであり、苦しみのもとなのです。妙な考えや、よこしまな心を正せば、欲に苛まれることもないのかも知れません。鬼が心に入り込まないように、誤った判断や行動のないように。坐禅で心を調えたり、普段の生活を見つめ直したりと、そんな生き方に努めることも一つの手段でしょう。節分とは、改めて心を修める覚悟や信念を培う、大切な節目の日なのです。しかし、そのように努めていても、見たくないものはヒョイとチョイと現れてくるものです。念仏詩人と呼ばれた浅田正作さんという方が、「節分」という詩を遺されています。
福はうち 鬼はそと 待ってください 待ってください 
その二人は 絶対別れられないのです 
その豆は 福だけを欲しがる この私に投げてください  『骨道を行く』
欲してばかり、たがってばかり。それでいて、臭い物には蓋をするような、見て見ないふりをするような、独り善がりで一時しのぎに取り繕って放ったらかしの生き方を戒めるような詩です。生きていれば色んなことがあります。福と鬼。楽と苦。良いことと悪いこと。これらは、背中合わせの表裏にそこにあるものです。私の幸せが、相手の不幸せになることだってあります。逆も然りです。幸も不幸も両の手でしっかりと頂くこと、ままならない人生をしっかりと頂くこと。禅や仏教とは、そんな心を養う宗教です。良いことばかりを追い求めてしまう。あるいはついつい魔が差してしまう。そして欲をかいて自らを苦しめてしまうのが人間です。思いに任せぬ不自由なのが人の道です。そんな、ままならない人生を頂く姿、それが合掌ではないでしょうか。
求めすぎて失敗したなら、謙虚な反省の合掌。どうしようもない苦しみには、真摯な祈りの合掌。思いがけない幸福に出会えば、素直な感謝の合掌。
頂き難いものを頂いて生きていく、生かされていく。鬼も福も、有り難く頂く。そんな合掌ができた時、私たちは仏さまに成れるのではないでしょうか。
人のため 身を惜しまぬは 仏なり 楽をしたがる もとはこれ鬼  (道歌)
春はもうすぐそこ、皆さま方のさらなるご精進を祈念申し上げます。  
 

 

 
 

 


 

 

 
臨済宗15本山

 

臨済宗 正法山 妙心寺   京都市右京区花園妙心寺町
黄檗宗 黄檗山 萬福寺   京都府宇治市五ケ庄3番割
臨済宗 瑞龍山 南禅寺   京都市左京区南禅寺福地町
臨済宗 巨福山 建長寺   神奈川県鎌倉市山ノ内
臨済宗 慧日山 東福寺   京都市東山区本町
臨済宗 瑞鹿山 円覚寺   神奈川県鎌倉市山ノ内
臨済宗 龍宝山 大徳寺   京都市北区紫野大徳寺町
臨済宗 深奥山 方広寺   静岡県浜松市引佐町奥山
臨済宗 瑞石山 永源寺   滋賀県東近江市永源寺高野
臨済宗 霊亀山 天龍寺   京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町
臨済宗 万年山 相国寺   京都市上京区相国寺門前町
臨済宗 東山 建仁寺   京都市東山区小松町
臨済宗 塩山 向嶽寺   山梨県塩山市上於曽
臨済宗 御許山 佛通寺   広島県三原市高坂町許山
臨済宗 摩頂山 国泰寺   富山県高岡市太田  
 
正法山妙心寺

 

概略・歴史
花園法皇は宗峰妙超に参禅し、印可(弟子が悟りを得たことを師が認可すること)されています。関山慧玄も宗峰妙超の法を嗣がれます。宗峰妙超は、大燈国師で知られる紫野大徳寺の開山です。
建武4年(1337)、宗峰妙超は、病に伏し重態となられますが、花園法皇の求めに応じて、宗峰妙超没後に花園法皇が師とされる禅僧に、弟子の関山慧玄を推挙され、また、花園法皇が花園の離宮を禅寺とされるにつき、その山号寺号を正法山妙心寺と命名されます。その年の12月22日、宗峰妙超は亡くなられました。妙心寺では、この建武四年を妙心寺開創の年としています。
花園法皇は、妙心寺のそばに玉鳳院を建てられ、そこから関山慧玄に参禅されます。暦応5年(1342)になりますと、花園法皇は仁和寺花園御所跡を関山慧玄にまかせられます。これで妙心寺の寺基が定まるのです。
貞和3年(1347)7月22日、花園法皇は妙心寺に寄せる熱い思いを「往年の宸翰」にしたためられ、翌貞和4年11月11日、世を去られます。五十二歳の生涯でした。
花園法皇が世を去られて三年、関山慧玄は、雲水の指導に専念されますが、延文5年(1360)12月12日に亡くなられます。風水泉わきの老樹の下が、息をひきとられた場所です。装いは行脚の旅姿であったと伝えられます。遺骸が葬られた処、それが開山堂微笑庵の地です。
やがて、妙心寺は、寺号を龍雲寺と改名されます。妙心寺の寺名が消えるのです。妙心寺開創50年を経た頃のことで、開山没後わずか39年後の事です。没収されて34年、その間の事は不明です。龍雲寺と名をかえた妙心寺は、永享4年(1432)春に返されてきます。尾張犬山の瑞泉寺から上京した日峰宗舜が、荒れた開山塔の地を整え開山堂を建てます。ここに妙心寺の中興がなるのです。
戦国期の妙心寺は、発展への大きな転機を迎える時代です。妙心寺の境内地が今日のように広くなるのは、永正6年(1509)のことです。利貞尼という人が、仁和寺領の土地を買い求め、妙心寺に寄進されたからです。
そこには、やがて七堂伽藍が建てられます。また、塔頭も創建されていきます。とくに、塔頭では、龍泉庵、東海庵に加え、大永3年(1523)に聖澤院、大永6年(1526)には霊雲院が創建されます。これで、四派四本庵による妙心寺の運営体制が確立するのです。四派とは、龍泉派・東海派・霊雲派・聖澤派をいいます。四本庵は龍泉庵・東海庵・霊雲院・聖澤院のことです。
明治元年(1868)、神仏分離令が発布されます。各地で廃仏毀釈が起こり、寺院の取り壊し、仏像、経典などが破棄されます。妙心寺もその影響を受けますが、この明治期は、宗議会など今日に至る妙心寺の運営体制の基礎が出来ます。また妙心寺専門道場が設けられたり、今日の花園大学、花園高等学校の前身となる般若林が開設されます。
大正を経て昭和10年(1935)、妙心寺は開創六百年となります。その後の昭和・平成期の妙心寺は、開創七百年への歴史を刻む時代です。
この期には、禅の大衆化や教化活動の促進がはかられ、各地での坐禅会開催、「生活信条」や「信心のことば」の制定、おかげさま運動も起こされます。また、僧風の刷新にもとりくまれます。これらは、記憶に新しい事です。
もう一つ、この期には、防災や諸堂の保存修理など文化保護の事業も進められます。
今日、勅使門、三門、仏殿、法堂、庫裡、開山堂、大方丈、小方丈、浴室、経蔵、塔頭天球院の玄関・方丈、衡梅院方丈、霊雲院書院などをはじめ多くの重要文化財の指定建造物、玉鳳院、東海庵、退蔵院、霊雲院、桂春院などの史跡・名勝指定の庭園などがよく保存されています。また、史跡・特別名勝の指定をうける龍安寺が、ユネスコ世界文化遺産に登録されてもいます。
このように、妙心寺は、関山禅の伝灯を堅持し、臨済宗最大の大本山として展開し、且つ美しい寺観を呈している禅寺なのです。
開山
関山慧玄(無相大師)
関山慧玄(1277〜1360年)は信濃の人で、建治3年、信濃源氏の流れを汲む高梨家に生まれました。高梨家は信仰心の厚い家で、とくに禅に心をよせた家柄でありました。鎌倉に出て仏門に入り、徳治2(1307)年建長寺で大応国師(南浦紹明)に相見し、慧眼という僧名を授けられました。大応国師は翌延慶元(1308)年に示寂しましたが、その示寂後も鎌倉にとどまって修行に専念しました。嘉暦2(1327)年建長寺開山大覚禅師(蘭渓道隆)の50年忌法要が建長寺の西来院で営まれ、関山も列席し、隣席の僧から「今日天下叢林中、明眼の宗師は宗峰和尚(大燈国師)である」と聞き、そのまま鎌倉を去って、霧眠草宿、一路京都に向かい、紫野大徳寺の宗峰和尚に相見し、門弟として入門しました。
大燈国師に相見し、ただちに「如何なるか、これ宗門向上のこと」と門法し、国師が"関字"を答えましたが、国師は関山の態度を見て「作家の禅客、天然自在」と称えたといいます。作家とは禅を手に入れ、自由な創造性をもつ力量ある禅者のことであり、それが天然にそなわっているというのです。修行三昧であった関山はついに"関字"をさとり、その見解を国師に呈したところ、国師はおおいに悦び、"関字"を透過したことを証明し、「関山」の号を授け、また諱の慧眼を慧玄と改めました。「関山号」は国宝として、妙心寺に所蔵されています。
関山の示寂は延文5(1360)年12月12日であり、世寿84歳でありました。遺骸を艮(北東)隅に葬り、塔を建てて微笑塔といい、のち堂を造って、微笑庵と称しました。これが開山堂で、堂に掲げる「微笑庵」という扁額は雪江の筆であります。
死寂に際しては、授翁を召し行脚に出るといい、二人相たずさえて、風水泉の大樹のもとにいたり、関山が承けつぐ仏法の由来を語り、関山が花園法皇の勅請でこの寺を創開したが、たとえ後世関山を忘却することがあっても、この応・燈二祖の深恩を忘却するなら、わが児孫ではない。「汝等請う其の本を務めよ」と遺誡し、立ちながら亡くなったといわれています。  
黄檗山萬福寺

 

概略・歴史
黄檗宗は、中国・明時代の高僧隠元隆g禅師が1654年に日本に来られ、伝え、広めた禅宗の一派です。臨済宗の流れをくんでいるのですが、四代将軍家綱より許可を得て、宇治に黄檗山萬福寺を開くことにより、正式に黄檗宗が認められたのです。
萬福寺は中国明朝の伽藍様式を取り入れて、他の宗派にはない中国風な香りを感じることができる寺院です。
総門の屋根の上には摩伽羅(まから)という像があります。摩伽羅とはガンジス河の女神の乗り物で、そこに生息しているワニをさす言葉です。アジアでは、聖域結界となる入り口の門・屋根・仏像等の装飾に使われています。
天王殿正面には、中国で弥勒菩薩(みろくぼさつ)の化身だと言われている布袋さんが弥勒浄土の兜卒天(とそつてん)に椅坐(いざ)された姿で祀られています。すべての不平・不満を笑い飛ばすかのような福徳円満の相をしておられるので、諸縁吉祥、縁結びの神とされています。また、袋の中には財宝が入っているということから、布袋さんの行く所には幸せがもたらされるとされています。 布袋さんと背中合わせには韋駄天(いだてん)をお祀りしてあります。中国では、韋駄天はお釈迦さまをお守りする護法善神(ごぼうぜんしん)の一つです。
萬福寺では本堂を大雄宝殿(だいゆうほうでん)と呼びます。正面には釈迦如来。その両脇には迦葉尊者(かしょうそんじゃ)・阿難尊者(あなんそんじゃ)というお釈迦さまの十大弟子のお二人が祀られています。左右の壁面には十八羅漢が安置されています。日本のお寺では十六羅漢が一般的ですが、萬福寺では「慶友尊者(けいゆうそんじゃ)」「賓頭廬尊者(びんずるそんじゃ)」が加わって十八羅漢」となっています。
その他にも、木魚の原型だといわれている魚梛(ぎょはん・・・開梛〈かいぱん〉)・卍崩の勾蘭(こうらん)などがあります。
また、黄檗僧がもたらした中国風の精進料理である普茶料理もご賞味して頂けます。
ご開山である隠元禅師が日本に伝えた食べ物としては、皆さんがよく知っているインゲンマメ・筍の木の芽あえ等としてよく食べる孟宗竹・夏によく食べるスイカがあり、寒天の名付けの親でもあります。
開山
隠元隆g(大光普照国師)
禅師は、中国明代末期の臨済宗を代表する費隠通容禅師の法を受け継ぎ、臨済正伝32世となられた高僧で、中国福建省福州府福清県の黄檗山萬福寺(古黄檗)の住持でした。
日本からの度重なる招請に応じて、承応3年(1654)、63歳の時に弟子20人他を伴って来朝。のちに禅師の弟子となる妙心寺住持の龍渓禅師や後水尾法皇そして徳川幕府の崇敬を得て、宇治大和田に約9万坪の寺地を賜り、寛文元年(1661)に禅寺を創建。古黄檗(中国福清県)に模し、黄檗山萬福寺と名付けて晋山されることになりました。
禅師の道風は大いに隆盛を極め、道俗を超えて多くの帰依者を得られました。禅師は「弘戒法儀」を著し、「黄檗清規」を刊行して叢林の規則を一変されるなど、停滞していた日本の禅宗の隆興に偉大な功績を残されたことにより日本禅宗中興の祖師といえるでしょう。爾来、禅師のかかげられた臨済正宗の大法は、永々脈々と受け継がれ今日に至っています。
そしてまた、行と徳を積まれた禅師は、ご在世中、物心両面にわたり、日本文化の発展に貢献され、時の皇室より国師号または大師号を宣下されています。  
瑞龍山南禅寺

 

「南禅寺」は臨済宗南禅寺派の大本山であり、正式名称を「瑞龍山 太平興国南禅禅寺」という。南禅寺の歴史は、鎌倉後期の正応4年(1291)に無関普門を開山とし、東山にある開基亀山法皇の離宮を禅寺に改めた事から始まる。天皇として最初に禅僧となられた法皇は、発願文『禅林禅寺起願事』をしたためられ、その中で「日本で最も優れた禅僧」を南禅寺の住持とするよう定められた。つまり「南禅寺住持」は法系・派を超えた最高の禅僧の代名詞であり、夢窓疎石・虎関師錬・春屋妙葩などの名僧が代々住持に任ぜられる事となる。伽藍は明徳4年(1393)の大火・文安4年(1447)の失火や応仁の乱(1467)等によって荒廃したが、江戸初期に見事再興された。今も建っている三門の楼上からは京都市内が一望できる。しかし、南禅寺は徳川幕府との深い関係の中で再興・興隆しており、楼上からの眺望内に御所が見える構造は何か意図があるように感じられる。
そんな歴史的背景を考えつつも、境内を見れば、勅使門から法堂まで一直線に道がのびている。この道は「禅」に続いている。 
巨福山建長寺

 

概略・歴史
由比ヶ浜を背に八幡宮の社を右手に巨福呂坂の切り通しを抜けると建長寺である。
当寺は臨済宗建長寺派の大本山であり、鎌倉五山の第一位に位する。建長五年(1253)後深草天皇の勅を奉じ、北条時頼(鎌倉幕府五代執権)が国の興隆と北条家の菩提の為に中国より名僧蘭渓道隆を招き建立した。
創建当初は中国宋の時代の禅宗様式七堂伽藍に四十九院の塔頭を有し厳然たる天下の禅林であった。また、建長寺は日本で初めて純粋禅の道場を開き、往時は千人を越す雲水が修行していたと伝えられるわが国最初の禅寺である。
皇帝の万歳、将軍家及び重臣の千秋、天下太平を祈り、源氏三代・政子並びに北条一族の死没者の冥福をとぶらうこと。
建長五年には丈六の地蔵菩薩を本尊とし、千体の地蔵菩薩像を安置した。
建長寺のある谷は地獄谷と呼ばれ、処刑場であって伽羅陀山心平寺という寺があり、当時は地蔵堂が残っていたという。仏殿の本尊が地蔵菩薩であるのはこの因縁による。そして本尊の胎内には、霊験のあった済田地蔵という小像を収めた。済田地蔵は現在は別に安置している。
開山
蘭渓道隆(大覚禅師)
開山大覚禅師は中国西蜀淅江省に生まれた。名は道隆、蘭渓と号した。
十三歳のとき中国中央部にある成都大慈寺に入って出家、修行のため諸々を遊学した。のちに陽山にいたり、臨済宗松源派の無明惠性禅師について嗣法した。そのころ中国に修行に来ていた月翁智鏡と出会い、日本の事情を聞いてからは日本に渡る志を強くしたという。禅師は淳祐六年(1246)筑前博多に着き、知友智鏡をたよって泉涌寺来迎院に入ったが、智鏡の勧めもあって鎌倉の地を踏むことになった。
鎌倉に来た禅師はまず、寿福寺におもむき大歇禅師に参じた。これを知った執権北条時頼は禅師の居を大船常楽寺にうつし、軍務の暇を見ては禅師の元を訪れ道を問うのだった。そして、「常楽寺有一百来僧」というように多くの僧侶が禅師のもとに参じるようになる。
そして時頼は建長五年(1253)禅師を請して開山説法を乞うた。開堂説法には関東の学徒が多く集まり佇聴したという。こうして、純粋な禅宗をもとに大禅院がかまえられたが、その功績は主として大覚禅師に負っているといえる。入寺した禅師は、禅林としてのきびしい規式をもうけ、作法を厳重にして門弟をいましめた。開山みずから書いた規則(法語規則)はいまも国宝としてのこっている。
禅師はのち弘安元年(1278)七月、衆に偈を示して示寂した。ときに六十六歳。
偈 用翳晴術 三十余年 打翻筋斗 地転天旋
後世におくり名された大覚禅師の号は、わが国で最初の禅師号である。 
慧日山東福寺

 

概略・歴史
東福寺は、京都東山月輪山麓に、渓谷美を抱く広々とした寺域を擁しています。
臨済宗東福寺派の大本山として、また、京都五山の一つとして750年の法灯を連綿としてつたえ、360余ヶ寺の末寺を統括し信仰の中心となっています。
東山を背景に国宝三門を始め重要文化財に指定されている大伽藍が甍を並べ、その壮観は古くから東福寺の伽藍面といわれています。
慧日山東福寺は摂政関白九条道家公の「浩基を東大に亜ぎ、盛業を興福に取る」との発願によって創建された大道場です。南都東大寺・興福寺に比肩する大寺院ということで、両寺から各一字をとって東福寺と名付けられました。それは嘉禎2年(1236)より建長7年(1255)まで実に19年を費やして完成し、時の仏殿本尊の釈迦仏像は15米、左右の観音弥勒両菩薩像は7.5米で、新大仏寺と呼ばれていました。
工事半ばの寛元元年(1243)には聖一国師を開山に仰ぎ、天台・真言・禅の各宗兼学の堂塔を完備しましたが、元応元年(1319)建武元年(1334)延元元年(1336)と相次ぐ火災の為に大部分を焼失しました。
延元元年8月、被災後4ヶ月目には復興に着手し、貞和3年(1346)6月には前関白一条経通により仏殿の上棟が行われ、火災後20余年を経て再建され偉容を取り戻しました。その後、足利義持、豊臣秀吉、徳川家康らによって保護修理が加えられ、永く京都最大の禅苑としての面目を伝えましたが、明治14年12月に仏殿、法堂、方丈、庫裡を焼失しました。
明治23年に方丈、同43年に庫裡を再建し、大正6年より本堂(仏殿兼法堂)の再建に着手して昭和9年4月に落成、鎌倉、室町時代からの重要な古建築に伍して、現代木造建築の精粋を発揮しています。
開山
円爾弁円(聖一国師)
東福寺開山聖一国師(円爾弁円)は建仁2年(1202)10月15日駿河国(静岡県)栃沢の米澤家(現存)に生まれました。三井園城寺の学徒として天台の教学を究め、後、栄西の高弟行勇・栄朝ついて禅戒を受けました。
嘉貞元年(1235)33歳で宋に渡り杭州径山万寿寺の無準師範(佛鑑禅師)の膝下にあること六年、無準禅師の法を嗣ぎ、仁治2年(1241)7月帰朝されました。
先ず、筑紫に崇福・承天二寺を建てて法を説き、寛元元年(1243)には九条道家に迎えられて禅観密戒を授けました。次いで東福寺開山に仰がれ、山内の普門院を贈られて常住しました。その後、後嵯峨天皇に『宗鏡録』を進講し、また後深草・亀山両天皇も菩薩戒を授ける等、朝廷・幕府の帰信を次第に深めていかれました。
建仁寺の再建を委ねられ入寺、岡崎尊勝寺、大阪四天王寺、奈良東大寺等の大寺院を監閲し再建復興にも尽力されました。更に延暦寺の天台座主慈源や東大寺の円照らを教導したので、学徳は国中に讃えられました。
弘安3年(1280)10月17日79歳で入定、「利生方便 七十九年 欲知端的 佛祖不傳」の遺偈を残します。これは現存する遺偈としては我国最古のものです。
応長元年(1311)花園天皇より聖一国師と諡されたが、我が国での国師号の初例です。またその後、安永9年(1780)後桃圓天皇より大寶鑑廣照国師と加諡され、さらに昭和5年(1930)「神光」と加号されました。
国師は宋より帰朝の際、一千余の典籍を持ち帰り文教の興隆に多大の貢献をされました。又水力をもって製粉する器械の構造図を伝えて製麺を興し、静岡茶の原種を伝え、博多織の創製、博多焼(博多人形)、博多素麺、博多祇園祭の山、栴檀の木、通天楓、伏見人形の将来等、その遺芳は枚挙に遑がありません。また国師の高弟東福寺第三世大明国師(無関普門)は南禅寺の開山に迎えられ、国師の偉徳を更に顕現しました。 
瑞鹿山円覚寺

 

1282年(弘安5年)、鎌倉時代後期 北條時宗が中国より無学祖元禅師を招いて創建されました。
時宗公は18歳で執権職につき、不安な武家政治の中で心の支えとして、無学祖元禅師を師として深く禅宗に帰依されていました。
時宗公は禅を弘めたいという願いと蒙古襲来による殉死者を(敵味方区別なく、冤親平等に)弔うために円覚寺建立を発願されました。
円覚寺の名前の由来は建立の際、大乗経典の「円覚経」が出土したことから、また、瑞鹿山、山号の由来は開山国師(無学祖元禅師)が佛殿開堂落慶の折、法話を聞こうとして白鹿が集まったという奇瑞から瑞鹿山(めでたい鹿のおやま)とつけられたといわれます。
開山国師(無学祖元禅師)の法灯は高峰顕日、夢窓疎石と受け継がれその流れは室町時代に日本の禅の中心的存在となり、五山文学や室町文化に大きな影響を与えました。
円覚寺は創建以来、北条氏をはじめ朝廷や幕府の篤い帰依を受け、寺領の寄進などにより経済的基盤を整え、鎌倉時代末期には伽藍が整備されました。
室町から江戸時代幾たびかの火災に遭い、衰微したこともありましたが、江戸末期(天明年間)に大用国師(誠拙周樗)が僧堂・山門等の伽藍を復興され、修行者に対し峻厳をもって接しられ、宗風の刷新を図り今日の円覚寺の基礎を築かれました。
明治以降今北洪川老師・釈宗演老師の師弟のもとに雲衲や居士が参集し、多くの人材を輩出しました。今日に至ってもさまざまな坐禅会が行われています。
静寂な今日の伽藍は創建以来の七堂伽藍の形式が伝わっており、山門,佛殿,方丈と一直線に並び、(法堂はありませんが)その両脇に右側、浴室,東司跡、左側、禅堂(選佛場)があります。  
龍寶山大徳寺

 

臨済宗大徳寺派の大本山で龍寶山と号する。
鎌倉時代末期の正和4年(1315)に大燈国師宗峰妙超禅師が開創。室町時代には応仁の乱で荒廃したが、一休和尚が復興。桃山時代には豊臣秀吉が織田信長の葬儀を営み、信長の菩提を弔うために総見院を建立、併せて寺領を寄進、それを契機に戦国武将の塔頭建立が相次ぎ隆盛を極めた。
勅使門から山門、仏殿、法堂(いずれも重文)、方丈(国宝)と南北に並び、その他いわゆる七堂伽藍が完備する。山門は、二階部分が、千利休居士によって増築され、金毛閣と称し、利休居士の像を安置したことから秀吉の怒りをかい利休居士自決の原因となった話は有名。本坊の方丈庭園(特別名勝・史跡)は江戸時代初期を代表する枯山水。方丈の正面に聚楽第から移築した唐門(国宝)がある。方丈内の襖絵八十余面(重文)はすべて狩野探幽筆である。什宝には牧谿筆観音猿鶴図(国宝)、絹本着色大燈国師頂相(国宝)他墨跡多数が残されている。(10月第二日曜日公開)現在境内には、別院2ヶ寺、塔頭22ヶ寺が甍を連ね、それぞれに貴重な、建築、庭園、美術工芸品が多数残されている。 
深奥山方広寺

 

概略・歴史
臨済宗方広寺派の大本山。静岡県引佐郡引佐町奥山に所在する。
至徳元年(西暦1384年、南朝元中元年)、後醍醐天皇の皇子無文元選禅師によって開かれた。
当地の豪族、奥山六郎次郎朝藤が自分の所領の一部を寄進して堂宇を建立し、無文元選禅師を招いたのである。
末寺170カ寺を擁し、その大部分は静岡県西部地方に所在する。
境内に修行道場である方広寺専門道場がある。
開山
無文元選禅師
方広寺を開山する。元亨3年(1323)後醍醐天皇の皇子として京都に生まれる。
後醍醐天皇が崩御された翌年暦応3年(1340、南朝興国元年)、京都建仁寺において出家し、可翁宗然禅師、雪村友梅禅師について修行する。後に、康永2年(1343、南朝興国4年)、元代の中国に渡って禅の修行をすることを志して、九州博多に行く。当地聖福寺に住職をしておられた無隠元晦禅師に謁して、中国へ渡る意志を告げ、その指示を仰ぐ。やがて、船に乗り、数ヶ月をかけて中国漸江省の温州に着く。福建省の建寧府にある大覚明智寺に古梅正友(こばいしようゆう)禅師を訪ねて参禅修行して大悟する。後に諸方を行脚して天台山方広寺に行く。
元の至正10年、日本の観応元年(1350、南朝正平5年)、帰国する。京都岩倉に帰休庵を結び、やがて美濃(岐阜県)に了義寺、三河(愛知県)に広沢庵を結ぶ。この広沢庵に遠江(静岡県)奥山の豪族奥山六郎次郎朝藤(ろくろうじろうともふじ)が参禅する。至徳元年(西暦1384年、南朝元中元年)、朝藤は禅師の父後醍醐天皇の追善供養と、禅師の師恩に酬いるために、所有する山林の中から50町余りを寄進して、堂宇を建立して禅師を招く。禅師はその招きに応じて当地に移り、その光景が天台山方広寺に似ていることから、この寺を方広寺と名付ける。
以来、師の下に、多数の弟子が集まって参禅弁道する。
康応2年(1390、南朝元中7年)閏3月22日、当寺において遷化(せんげ、亡くなること)する。 
瑞石山永源寺

 

概略・歴史
南北町時代の康安元年(1361)、近江国の領守佐々木氏頼が、この地に伽藍を建て、寂室元光禅師を迎えて開山され、瑞石山永源寺と号した。
禅師が遷化された後の、応安2年(1369)後光厳天皇は禅師を追崇され円応禅師の諡号をおくられ、さらに昭和3年(1928)4月には正燈国師の称号がおくられている。応仁の乱には、京都五山の名僧がこの地に難を避け修行し、"文教の地近江に移る"といわれるほど隆盛をきわめた。
明応(1492)永禄(1563)とたび重なる兵火にかかり、本山をはじめ、山上の寺院悉く焼失。寛永年間一絲文守禅師(仏頂国師)が住山し、後水尾天皇の帰依を受け再興された。明治以来、臨済宗永源寺派の本山となり、百数十の末寺を統轄し、坐禅研讃、天下泰平、万民安穏を祈る道場となっている。
開山
寂室元光禅師
禅師は正応3年(1290)岡山県勝山の藤原家に生まれ、5歳で教典を暗誦するほどの神童で、13歳で出家。京都東福寺の大智海禅師のもとで修行し、15歳の時仏燈国師に仕え、18歳で国師の一掌下に大悟された。元応2年(1320)31歳から7年間、中国天目山の中峰和尚につき修行。帰国されたのちも自然を友に詩や和歌を賦し、生涯行脚説法の旅を続けられた。そして、康安元年(1361)72歳で永源寺に入寺し開山された。山紫水明な仙境をことのほか愛され、貞治6年(1367)78歳で遷化されるまで修行僧の教化に専念された。芳玉禅師、夫一関禅師といった名僧をはじめ、師の高徳を慕って全国から集まった修行僧は二千人もあったといわれている。 
霊亀山天龍寺

 

概略・歴史
天龍寺は、京都の観光地・嵐山の、桂川中ノ島から渡月橋を渡って北へ向かう観光客で賑やかな通りに面して門を構える。嵐山・亀山を借景に緑豊かな境内が広がる。観光名所の渡月橋や天龍寺北側の亀山公園なども、かつては天龍寺の境内地であったという。
天龍寺の開基は足利尊氏である。暦応2年(1339)8月、後醍醐天皇が崩御したが、その菩提を弔うため、夢窓疎石が足利尊氏に進言し、光厳上皇の院宣を受けて開創されることになった。その後、堂宇の建築が進められ、康永4年(1345)秋、疎石を開山に迎えて後醍醐天皇七回忌法要を兼ねて盛大に落慶法要が営まれた。初め暦応資聖禅寺と号したが、比叡山が暦応の年号を寺号とすることに反対し、抗議したため、幕府は天龍資聖禅寺と改めた。
天龍寺の地は、檀林皇后が創建した檀林寺の跡地で、檀林寺が廃絶した後、建長年中に後嵯峨上皇が新たに仙洞御所を造営し、次に亀山上皇が仮御所としていた地である。暦応4年(1341)7月、地鎮祭を行い、疎石や尊氏が自ら土を担いで造営を手伝ったという。
足利尊氏は、天龍寺造営のために備後国、日向国、阿波国、山城国などの土地を寄進し、光厳上皇も丹波国弓削庄を施入している。しかし造営の資金には足りず、それを補うため、尊氏の弟直義は疎石と相談し、元寇以来絶えていた元との貿易を結び、天龍寺造営の資金に充てる計画を立てた。いわゆる天龍寺船の派遣である。疎石は、博多の商人至本を綱司に推挙し、至本は、「商売の好悪」にかかわらず五千貫を納める約束をし、一方幕府は、この船を当時瀬戸内海に横行していた海賊などから保護する責任を負った。
こうして、康永元年(1342)には五山の第二位に位置づけられ、翌2年には仏殿、法堂、山門などが完成し、3年には霊庇廟(後醍醐天皇霊廟)も落成した。この完成により、翌康永4年(1345)8月に、光厳上皇と光明天皇の臨幸を仰いで、落慶法要と後醍醐天皇七回忌法要を行おうとした。しかしこれを見た延暦寺の僧侶が妬み、疎石の流罪と天龍寺の破却を強訴したため、上皇と天皇は法要当日の行幸を取りやめ、翌日に行幸にて疎石の説法を聴聞したという。
この法要にあたり、朝廷からは金襴衣、紫袍、錦帛、水晶念珠などが下賜され、尊氏からは銅銭三百万、鞍馬三十頭が施入された。さらに観応2年(1351)、疎石は千人収容可能な広大な僧堂を造営している。尊氏は子孫一族家人など、末代に至るまで天龍寺への帰依の志が変わることがないことを誓い、また光厳、光明の両院など、朝廷からも天龍寺は篤い帰依を受けている。
天龍寺の五山十刹の位置づけは、創建当初の五山第二位に始まる。次に至徳3年(1386)に京都五山第一位となり、鎌倉建長寺と同格と位置づけられたが、応永8年(1401)の改定では相国寺を第一位とし、天龍寺は第二位(鎌倉円覚寺と同格)に格下げされた。しかし応永17年(1410)にはまた第一位に戻っている。
天龍寺は創建後、たびたび火災に遭っている。まず延文3年(1358)、雲居庵などを除いて焼失したため、春屋妙葩が再建し、貞治6年(1367)の火災後も妙葩が請われて修復している。応安6年(1373)にもまた炎上し、翌年再建を始めている。さら康暦2年(1380)には公文書の多くが焼失する火災に遭っている。文安四年(1447)、雲居庵を除いてことごとく焼失。応仁2年(1468)には、応仁の乱の戦火に巻き込まれ、焼失している。
この応仁の乱以後、しばらくは火災も少なくなり、復興事業が進められている。しかし、数度にわたる火災の被害は甚大で、天正13年(1585)に豊臣秀吉の寄進を受けるまでは復興はままならなかったようである。秀吉は嵯峨、北山など一七二〇石の朱印を天龍寺に寄進し、この寄進によって本格的な再建が進められた。さらに慶長19年(1614)、元和元年(1615)、寛永10年(1633)にも朱印が寄進されている。
その後文化12年(1815)になって火災に遭い、翌年から再建が始まるが、元治元年(1864)七月には「蛤御門の変」で長州兵の陣所となり、天龍寺は兵火のためにまたも焼けている。
明治に入り、9年9月、他の臨済宗各派と共に独立して天龍寺派を公称し、天龍寺はその大本山となった。また、上地令を受けて、境内地など所有地が上地されている。そんな中、復興事業も始まり、明治32年に法堂、大方丈、庫裡、大正13年に小方丈、昭和9年に多宝殿などが再建された。
開山
夢窓疎石
建治元年(1275)11月1日、伊勢国(三重県)に生まれた。父は源氏の流れをくみ宇多天皇の九世の孫という佐々木朝綱、母は平氏の出身である。疎石四歳の時、一家は甲斐国(山梨県)に移住したが、この年の8月に母を亡くしている。しかし、母によって信仰的に薫育された疎石は、仏像を見れば拝み、お経を唱えていたという。弘安6年(1283)九歳の疎石は父に連れられて平塩山の空阿を訪れた。疎石は空阿のもとで仏典や孔子・老子の典籍などを学び、10歳の時には七日で「法華経」を読誦して母の冥福を祈り、人々はその非凡さを嘆じた。
正応五年(1292)18歳で奈良に行き、東大寺戒壇院の慈観律師に従って受戒した。その後さらに遊学してより深く仏教の教学を学んだが、天台教学の講師が死に臨んで苦しみ、醜態をさらすのを見て、学問的研究だけでは生死の問題を解決することはできないと悟り、禅の教えに傾倒していった。そんなある日、疎石は夢の中で中国の疎山・石頭を訪れ、そこでであった僧から達磨大師の像を預かり、「これを大切にするように」と言われる。目覚めた疎石は自分が禅宗に縁があると考え疎山・石頭から一文字ずつとって疎石と名乗り、夢の縁から夢窓と号したという。
20歳になった疎石は京都に上がり、建仁寺の無隠円範について禅の修行に入った。翌年10月には鎌倉にて高僧に歴参し、いずれの師にもその聡明さを賞賛された。永仁5年(1297)京都建仁寺の無隠に再び侍すが、8月、一山一寧が来日すると、すぐに教えを受けている。正安元年(1299)、一山が鎌倉建長寺に住することになると、疎石も従い、諸家の語録を学び修行を重ねていった。
正安2年(1300)秋、疎石は出羽国に旧知の人を訪ねようとしたが、その人の訃報を聞き、途中にある松島寺にとどまった。当時この地に天台止観を理路整然と講じる一人の僧がおり、疎石もこれを聴講して悟るところがあったが、それはそれまでに聞き学んだ教えが開発されただけで、真実の悟りはやはり禅によるべきであると考えるに至った。
嘉元3年(1305)、疎石は常陸国臼庭に行き、小庵で坐禅三昧の生活を始めた。ある夜、疎石は長時間の坐禅から立ち上がり壁にもたれようとしたが、暗かったために壁のないところにもたれてしまい転倒し、その拍子にすっきりと悟りを得ることができた。すぐに疎石は鎌倉の高峰顕日のもとへ向かい悟ったところを提示すると、顕日は「達磨の意をあなたは得た。よく護持するように」と讃えたという。
正中2年(1325)春、後醍醐天皇が京都南禅寺の住持に疎石を招くが翌年には鎌倉へ赴きその後2年間円覚寺に住した。長年荒廃していた円覚寺は疎石によって復興している。元弘3年(1333)後醍醐天皇の詔により京都臨川寺開山、また南禅寺住持に再任され建武2年(1335)には夢窓国師の号を下賜されるなど、天皇の疎石への崇敬はますます深くなっていった。この頃、足利尊氏が疎石に対して弟子の礼を執り、疎石は尊氏を悔悟させるため怨親平等を説き、安国寺利生塔の建立を勧めた。
暦応2年(1339)8月に後醍醐天皇が崩じると、尊氏は疎石の進言を受け天龍寺の開創事業が始まり、康永4年(1345)には後醍醐天皇七回忌法要を兼ねて盛大に落慶法要が営まれた。観応2年(1351)には僧堂が落成し、疎石は一度は雲居庵に退いたが弟子の教化に当たっている。同年8月の後醍醐天皇十三回忌法要の翌日、疎石は病の兆候を見せて臨川寺に退去し、9月30日、衆生に親しく別れを告げて示寂した。77才であった。疎石の教化を受けた者は13045人いたと伝わり、朝廷からも篤く帰依され、歴朝は疎石の徳を尊び、夢窓・正覚・心宗・普済・玄猷・仏統・大円の七つの国師号を下賜している。 
万年山相国寺

 

概略・歴史
相国寺(しょうこくじ)は正式名称を萬年山相国承天禅寺と称し、足利三代将軍義満が、後小松天皇の勅命をうけ、約10年の歳月を費やして明徳3年(1392)に完成した一大禅苑で、夢窓国師を勧請開山とし、五山の上位に列せられる夢窓派の中心禅林であった。その後応仁の乱の兵火により諸堂宇は灰燼に帰したが度重なる災禍にもかかわらず当山は禅宗行政の中心地として多くの高僧を輩出し、室町時代の禅文化の興隆に貢献した。後に豊臣氏の外護を受けて、慶長10年(1605)豊臣秀頼が現在の法堂を建立し、慶長14年には徳川家康も三門を寄進した。また後水尾天皇は皇子穏仁親王追善の為、宮殿を下賜して開山塔とした。他の堂塔も再建したが天明8年(1788)の大火で法堂・浴室・塔頭9院のほかは焼失。文化4年(1807)に至って、桃園天皇皇后恭礼門院旧殿の下賜を受けて開山塔として建立され、方丈・庫裏も完備されて漸く壮大な旧観を復するに至った。現在は金閣・銀閣両寺をはじめ九十余カ寺を数える末寺を擁する臨済宗相国寺派の大本山である。
法堂(重文)は桃山時代の遺構でわが国最古の法堂、一重裳階付入母屋造りの唐様建築で本尊釈迦如来および脇侍は運慶作。天井の蟠龍図は狩野光信(永徳嫡子)筆。法堂北の方丈は勝れた襖絵を有し、裏庭は京都市指定名勝となっている。開山塔内には開山夢窓国師像を安置。開山塔庭園は山水の庭と枯山水平庭が連繋する独特の作庭である。その他に寺宝として多数の美術品を蔵している。
開山
夢窓疎石
九歳にして得度して天台宗に学び、後、禅宗に帰依。高峰顕日に参じその法を継ぐ。正中二年(1325)後醍醐天皇の勅によって、南禅寺に住し、更に鎌倉の浄智寺、円覚寺に歴住し、甲斐の恵林寺、京都の臨川寺を開いた。歴応二年(1339)足利尊氏が後醍醐天皇を弔うために天龍寺を建立すると、開山として招かれ第一祖となり、また、国師は争乱の戦死者のために、尊氏に勧めて全国に安国寺と利生塔を創設した。夢窓は門弟の養成に才能がありその数一万人を超えたといわれる。無極志玄、春屋妙葩、義堂周信、絶海中津、龍湫周沢、などの禅傑が輩出し、後の五山文学の興隆を生み出し、西芳寺庭園・天龍寺庭園なども彼の作庭であり、造園芸術にも才があり巧みであった。また天龍寺造営資金の捻出のため天龍寺船による中国(元)との貿易も促進した。後醍醐天皇をはじめ七人の天皇から、夢窓、正覚、心宗、普済、玄猷、仏統、大円国師とし諡号され、「七朝帝師」と称され尊崇された。 
東山建仁寺

 

概略・歴史
心安らぐ、名刹の情景。東には東山山麓の緑が映え、西に歩けば鴨の流れ…。祇園の花街の中にあっては静けさに満ち、数々の宝物に包まれた荘厳な佇まい。ここは、日本最古の禅寺「建仁寺」。八百年の歴史と禅の心に、悠久の想いを馳せる…。
日本最古の禅宗本山寺院―建仁寺
臨済宗建仁寺派の大本山。開山は栄西禅師。開基は源頼家。鎌倉時代の建仁2年(1202)の開創で、寺名は当時の年号から名づけられています。山号は東山(とうざん)。諸堂は中国の百丈山を模して建立されました。創建当時は天台・密教・禅の三宗兼学でしたが、第十一世蘭渓道隆の時から純粋な臨済禅の道場となりました。800年の時を経て、今も禅の道場として広く人々の心のよりどころとなっています。
開山
明庵栄西 禅の心と茶の徳を伝える―開山 栄西禅師
開山の栄西という読み方は、寺伝では「ようさい」といいますが、一般には「えいさい」読まれています。字は明庵(みんなん)号は千光(せんこう)葉上(ようじょう)。栄西禅師は永治元年(1141)、備中(岡山県)吉備津宮の社家、賀陽(かや)氏の子として生まれました。14歳で落髪、比叡山で天台密教を修め、その後二度の入宋を果たし、日本に禅を伝えました。また、中国から茶種を持ち帰って、日本で栽培することを奨励し、喫茶の法を普及した「茶祖」としても知られています。 
塩山向嶽寺

 

概略
向嶽寺は山号を「塩山(えんざん)」と称します。山梨県塩山市に所在し、甲府盆地の東北部に 、こんもりと突き出た小高い山の南麓に抱かれるようにたたずんでいます。
この山を『志ほの山 さしでの磯に すむ千鳥 君が御代をば 八千代とぞなく』と古今和歌集に歌われた塩山市の象徴「塩の山」と言い、塩山市と言われる地名はこの山の名に因んでいます。
中門と築地塀 JR中央線塩山駅から住宅街を通り、15分程歩くと寺の外門に到ります。外門を通り抜けると、両側を杉木立ちに覆われ100メートル程まっすぐな参道が続きます。正面には中門と称される総門が行く手を遮ります。室町時代の建造物で、向嶽寺は開創以来幾度もの火災に遭遇し、山内のほとんどの伽藍を消失していますが、この中門だけが残って、室町時代の禅宗様四脚門の代表的遺構として国の重要文化財の指定を受けています。檜皮葺き(ひわだぶき)で彩色や装飾要素がなく切妻屋根の簡素な造りです。また、この門の東西には漆喰(しっくい)製、瓦屋根の築地塀(ついじべい)が配されています。由来によれば、この付近の岩塩から「にがり」をつくり、漆喰に混ぜて築地を強化したと伝えられ、「塩築地」とも称されています。主要建物が南北一直線上に配置されている伽藍の配置上、見透かしを避けるために設けられたものと考えられ33.5mあります。
放生池 この中門は通常開かれることはありませんので、塩築地の東端にある通用門より境内に入ることになります。赤松や杉、檜の木に囲まれた放生池(ほうじょういけ)が目に入ります。瓢箪(ひょうたん)のような形をしていてその丁度くびれの部分に木の橋が架かり、その先に三門跡の礎石が残り、仏殿に到ります。この仏殿は天明6年(1786)の大火災後の再建建造物で「由緒記」によれば、「合棟仏殿開山堂、号して祥雲閣」と記されています。「合棟」つまり仏殿と開山堂を合わせ建てているものです。通例の禅宗仏殿とは異なった意匠による複合建築と言えます。
この仏殿・開山堂の東側に昭和42年(1967)再建成った庫裡。そして仏殿と庫裡の間を進むと再び閉ざされた門・方丈前門(仮称)に到ります。この門をくぐると平成9年(1997)向嶽寺一派の悲願の成就した方丈、書院を目の当りにすることができます。
新築なった方丈を目にしたならば、是非とも方丈裏手に足を運んで頂きましょう。
塩の山南麓斜面に作庭されている庭園です。平成2年(1990)に発掘調査が行われる前まではほとんど埋没した庭園で手を入れられていなかったために、ほぼ原形に近い状態で発掘、修復工事が行われました。平成6年(1994)国の名勝に指定されました。
庭園は方丈からの眺めを主目的に造られ、庭園正面上部の高さ2mを超す「三尊石(さんぞんせき)」をはじめ、上段池泉に注ぐ二ヵ所の滝石組、下段池泉の滝石組など、優れた景観を呈しています。つまり、かつては石に沿って水が流れていたのです。
山梨県に残る古庭園の典型として、さらに発掘調査の成果を基盤とした日本の伝統的庭園の歴史を伝える学術資料としても重要視されています。
開山・歴史
抜隊得勝(慧光大円禅師)
向嶽寺の開山は抜隊得勝(ばっすいとくしょう)禅師〔慧光大円禅師〕です。禅師は鎌倉幕府が滅亡する直前の嘉暦2年(1327)10月6日、相模国中村(神奈川県足柄上郡中井町)に生まれました。父の姓は藤氏と伝わります。禅師は4歳の時に父を失いますが、その三回忌に供物を供えるのを見て、亡くなった父はどうしてこの供物を食べるのだろうと素朴な疑問を抱いたと言われます。このことについて後年抜隊禅師は、「少年より一つうたがいおこりて候ひし。そもそもこの身を成敗(裁くこと)して誰そと問えば我と答えるものはこれ何物ぞ。」(『塩山仮名法語』)と疑ったと述べられています。
この疑いが深くなるにつれて出家しようとの志が深まり、ついに正平10年(1355)29歳の正月「衆生を度し尽くして後に正覚を成ずべし。」と決意されます。この決意は阿弥陀如来の前身である法蔵菩薩の大願と同じで極めて注目すべきことです。
出家された抜隊禅師は中国僧・明極楚俊(みんきそしゅん)の高弟(特に優れた弟子)で出世を嫌って山中に庵居していた得瓊(とっけい)を訪ね、自己の心境を披瀝(ひれき)し同じく山居修行を続け、やがてさらに心境が深まるにつれその究めたところをしかるべき師に証明してもらおうと、鎌倉・建長寺に肯山聞悟(こうざんもんご)を、常陸に復庵宗己(ふくあんそうこ)をというように各地を遍歴し正平12年再び得瓊の下に帰ります。13年得瓊の勧めで出雲・雲樹寺に孤峯覚明(こほうかくみょう)を訪ね修行を始めましたが、僅かに60日、その悟りの境地が認められついにその印可を得ることになります。孤峯は千挙を群といい万挙を隊というとして禅師に「抜隊」の道号を授けました。孤峯の法を嗣(つ)いだ抜隊禅師は近江の永源寺に寂室元光(じゃくしつげんこう)を、また能登の曹洞宗・総持寺に峨山紹碩(がさんじょうせき)を訪ねるなど各地を遍しました。その後も伊豆・相模の山中に庵居され、永和2年(1376)には武蔵横山(現八王子市)に移り、さらに永和4年(1378)には以前から志していた甲斐に入り高森(塩山市竹森)に庵居することになります。高森には禅師を慕って800人にも及ぶ僧俗が参集したといいます。ところで、昌秀庵主という人がいて、深く禅師の徳風を慕っていました。昌秀庵主は抜隊禅師の住む庵が風当たりが強く、山道が険しい所にあったため、教えを受ける者たちが苦労しているのを見て、時の領主・武田信成(のぶしげ)に要請して、塩山の地を寄進させ、康暦2年(1380)正月に「塩の山」の麓に庵を創建し抜隊禅師を招き入れています。抜隊禅師54歳の時でした。この庵は、かつて抜隊禅師が近江にいた頃、夢に富士山を見、今、塩山にいて目の前に富士山を眺めていることにちなんで「向嶽庵」と称されました。寺号をつけなかったのは抜隊禅師が道行のすたれることを心配し、修行を専一にという考えによります。
抜隊禅師は初発心時のお考えのごとく、まさに泥まみれになって僧俗の教化に努められました。至徳3年(1386)に上梓された『和泥合水集』は衆生を教化救済するためには、泥まみれ、びしょぬれになることをいとわないことを書名としています。また遠隔の地の人々からの質問に手紙で懇切に答えられた『塩山仮名法語』もあります禅師は至徳4年(1387)2月20日、端座して周りの弟子たちに向かって、「端的(たんてき)是(こ)れ什麼(なん)ぞと看(み)よ、什麼(いんも)に看ば必ず相い錯(あやま)らざらん」と2回にわたって声高に告げ、灯火が消えていくかのごとくに寂したといいます。61歳でした。
その後、天文16年(1547)6月、甲斐の実権を握った守護・武田信玄の朝廷への働きかけによって抜隊禅師に「慧光大円禅師」の諡号(しごう)を賜ることになります。 
御許山佛通寺

 

概略・歴史
佛通寺は、應永4年(1397年)小早川春平公が愚中周及(佛徳大通禅師)を迎え創建した臨済宗の禅刹である。
佛通寺の名称は、愚中周及の師である即休契了を勧請開山とし、彼の論号(佛通禅師)を寺名にしたことを起因とする。小早川家―族の帰依を受けて瞬く間に寺勢は隆昌し、最盛期には山内の塔中88ヵ寺、西日本に末寺約3千カ寺を数えるに到った。
しかし、応仁の乱の後に荒廃にむかい、小早川隆景の治世になってやや再興したものの、福島家そして続いて浅野家と権力者が変わるにつれて、しだいに当時の面影を失ったのである。しかし、明治期に入ると一転して法灯は大いに挽回され明治38年、参禅道場をもつ西日本唯―の大本山として今日に到っている。
開山
愚中周及(佛徳大通禅師)
美濃(岐阜県)で生まれ、13歳の時に夢窓疎石禅師(天龍寺の開山)の下で修行し、後に春屋妙葩禅師の下で修行した。19歳の時に中国(元の時代)に渡り、金山寺(中国)の住職であった即休契了(彿通禅師)の下で7年間修行に励まれた。
中国から帰国後(1351)、京都の五山叢林を嫌い、京都福知山の天寧寺において多くの弟子の育成を行った。春平の要望に応えて佛通寺を創建(1397)するとともに弟子の育成にあたった。応永16年(1409年)87歳天寧寺(京都府福知山)にて示寂し、佛徳大通禅師と論号された。  
摩頂山国泰寺

 

当寺は臨済宗国泰寺派の総本山である。慈雲妙意(清泉禅師慧日聖光国師)を開山とする。
慈雲妙意は、はじめ、当寺南方の二上山中の草庵で独り坐禅に励んでいたが、たまたま、行脚中の孤峰覚明のすゝめにより、紀伊由良の興国寺の法燈国師に参じて豁然大悟、その印記を受けた。慈雲、時に24才。後、再び、二上山へ帰り聖胎長養。正安年間(1300年頃)摩項山東松寺を創開。その禅風を慕って全国から集る雲水、その数を知らず。其の後、後醍醐天皇の帰依を受け、嘉暦2年(1327)には『清泉禅師』の号を賜り、翌年には「護国摩頂巨山国泰仁王萬年禅寺』の勅額を下賜され、東松寺を改めて国泰寺と称すると同時に、「北陸鎮護第一禅刹特進出世之大道場」として京都南禅寺と同格の勅願所となった。
更に、北朝の光明天皇も慈雲妙意に深く帰依され、全国に安国寺を建立された際には、当寺をもって、越中国の安国寺と定められ、将軍足利尊氏も尊崇の念を表し、伽藍の修理、土地の寄進などをした。貞和元年(1345年)6月3日、慈雲は『天に月あり、地に泉あり』の末後の句を残して、72才で示寂。光明天皇より「慧日聖光国師』の論号を受けた。
その後、守護代神保氏の崇信を得ていたが、応仁(1470頃)から天文(1550頃)年間にかけての戦乱、特に上杉勢の越中侵攻によって当寺は荒廃した。しかし、雪庭和尚は後奈良天皇の綸旨を受けて再興し、天正年間(1580頃)には二上山より現在地に移っていたようである。江戸時代に入り貞亨3年(1686)には現在の大方丈が建立され、将軍綱吉は当寺をもって法燈派総本山とし、亨保年間(1720頃)には高壑和尚等によって伽藍の大整備が行なわれ、(現在の法堂は当時のもの)ほゞ現在の形になった。明治維新になると排仏毀釈の余波を受けたが、越受・雪門両和尚は山岡鉄舟の尽力を得て、天皇殿の再建をはじめ諸堂宇の修造に努めた。また、日本を代表する思想家西田幾多郎や鈴木大拙が、若き日に、雪門に参じたことはあまり知られていない事実である。昭和11年には現在の庫裡を再建、42年に観音堂の建立、49年には月泉庭並に龍渕池(放生池)が完成、更に50年に台所。宿泊所を増築し現在の風趣を呈するに至った。
今日も北鎮第一禅刹の名に背かず、雨・雪安居の禅堂規矩を遵守しながら、大衆のために禅堂を開放して団体の坐禅、個人の指導にも一山をあげて努めている。参禅を希望する者、聞法を願う人はお申し出下さい。 
 

 

 
正法山妙心寺・法話

 

 
 

 

■いただいた私のいのち 尊いいのち
「燼」 見慣れない文字ですね。この文字との出合いは三十年くらい前になるでしょうか。東井義雄先生の紙上講演の演題が縁なのです。講演の中味を要約しましょう。
同級生から一冊の文集が送られてきた、その文集の名前が「燼」。へんな名前をつけたものだなぁ......と思いながら表紙をめくってみると「燼の私」という文章が載っていた。「私はきょう五十六歳になった。一日二十四時間に自分の歳をあてはめてみた。するとなんと午後七時二分になる。もうすでに日が暮れてしまっている。私の人生はすでに日暮れだ。大事なところは燃えつきてしまってわずかばかりの『燼』が残っているにすぎない。今までのような人生の過し方でいいのだろうか。そこで心を新にして『燼』の人生を大事にしよう、と思い文集を作った」と書いてあった。私も大急ぎで計算してみると、やはり午後の七時、まさに「燼」 私の人生も日暮れ。彼は「燼」の人生を大事にしよう、と思い文集を作ったというが、「燼」の人生を大事にするということはどうすることなのか、壁にぶち当ってしまったのです。答えを探しました。答えてくれそうな本を手当り次第読みました。すると本があったのです。その本は、若くして逝った大島みち子の『若きいのちの日記』でございました......。
みち子さんは書いています。「病院の外に、健康な日を三日ください。一日目、私はとんで故郷に帰りましょう。そしておじいちゃんの肩をたたいてあげて、母と台所に立ちましょう。父に熱カンを一本つけてあげて、おいしいサラダを作って妹たちと楽しい食卓を囲みましょう。二日目、私はとんであなたのところに行きたい、あなたと遊びたいなんていいません。お部屋のお掃除してあげて、ワイシャツにアイロンかけてあげて、おいしいお料理を作ってあげたいの。そのかわり、お別れのときやさしくキスしてね。三日目、私はひとりぼっちで思い出と遊びましょう。そして静かに一日がすぎたら、三日間の健康ありがとうと笑って永遠の眠りにつくでしょう」 「燼」を大事にするということは、どうすることなのか、私が求めていた「燼」の我人生を歩く道は......探していた答えはこれなんだ......。特別なことをすることではない、いのちのあることの重大さ、死すべきいのちの今あることの尊さを、「今」を大切にする、いのちのある「この場を」大切にする。これ以外なかった。私は、大島みち子に教えられた、と。
私の庭先の盆栽が寒さのせいでしょうか、元気をなくしてしまいました。最近までは青々して枝葉は美しい姿を見せていましたのに......。鉢から引き抜いて調べてみると、根っこが完全にいたんでいました。あたりまえのことですが、根によって生きていることを忘れていたのです。ご開山さまのおっしゃったことば、即ち其の本を務めよをいつの間にか忘れてしまっていたのです。目に見えない地下茎のことなど、森の木も、盆栽も、私たちもみな、根によって生かされて生きていることを忘れてはならないのです。私は薪で焚いたお風呂を毎日いただいています。時々忙しい時など「燼」になってしまうことがあります。しかしそんな時、竈の中へ押し込めばまた燃えてくれます。でも肝心なことは火の気があるということです。
私も古稀を迎えました。日は暮れ真夜中、時計の針は午前零時をさしています。竈の中の燼が燃える如く、燼の人生を歩いてゆかねばなりません。生かされて生きる自らのいのちの尊さに目ざめてこそ、他のすべてのいのちの尊さに気づくのです、と多くの人たちの導きを信じ、其の本を務めよ のみ心に向って歩きつづけるのです。把手共行 手をとって共に歩みつづけたいものです。きょうも、あしたも、命をいただいている限り。 ありがとうございました。東井先生ありがとうございました。

■永遠のいのち
うちかざられし 王車も古び  この身また 老いに至らん されど心ある人の法は 老ゆることなし 心ある人はまた 心ある人につたうればなり (法句経)
この世は無常であります。すべてのものに永遠なものはなく、いつかは滅びていくものだとお釈迦様はお説きになられました。どんなに豪華絢爛な王様の車であっても、いつか古びて使い物にならなくなりますし、私たちの体も老いて死を迎えることになります。
なんのために 生まれて なにをして 生きるのか こたえられないなんて そんなのは いやだ! (アンパンマンのマーチ)
子供たちに人気のアニメ番組、『それいけ アンパンマン』のオープニング曲の歌詞の一節です。作詞はアニメの原作者でもある、やなせたかし氏です。私が初めてこの歌詞を聞いた時、大人として胸の痛いところを突かれて恥ずかしい思いを感じました。何のためにこの世に生まれ、何をして生きるのか。これは私たちが避けて通ってはいけない人生の命題であります。しかもこの世は無常迅速です。うかうかしていたら答えが見つかる前に旅立ちの日が来るかもしれません。残念ながら未熟者の私には、まだその命題に答えられるものがありませんが、その与えられたいのちを使い世の中に何かご恩がえしができればと願っています。
花のたましい
ちったお花のたましいは みほとけさまの花ぞのに ひとつのこらずうまれるの だって お花はやさしくて おてんとさまがよぶときに ぱっとひらいて ほほえんで ちょうちょにあまいみつをやり 人にゃにおいをみなくれて 風がおいでとよぶときに やはりすなおについてゆき なきがらさえも ままごとの ごはんになってくれるから (金子みすゞ)
私のお寺は山を背負い自然がまだ残っている場所にあります。四季の移り変わりによる木々の変化や草花を見て暮らしています。そのせいでしょうか、私はこの詩の花のような人間になりたいと思っています。この詩は花を通して、私たちがどう生きることが仏様の願いにかなうのか教えてくれます。
・優しくあること。 ・自然の摂理に従うこと。 ・誰にでも微笑むこと。 ・惜しむことなく与えること。
そして花のいのちは短いですが、今、ここに精一杯生きた花のいのちは「みほとけさまの花ぞの」で永遠のいのちを頂くのです。この世は無常でありますが「されど心ある人の法は 老ゆることなし 心ある人はまた 心ある人につたうればなり」と法句経にあるように、お釈迦様の真理の教えは二千数百年、開山様の法も六百五十年伝えられ私たちの中に生き続けています。私たちも今、日々の暮らしの中で周りの人々や世の中に、何かしら与えた貢献は時を越え静かに伝わっていくと思います。それは人から人へと連鎖して、百年よりも先に及ばすこともできると思うのです。例えば誰かに優しさをもらったら、次の誰かにその優しさを伝えていく。その優しさがまた次の誰かへと伝わっていく。どんどんと広がっていきます。そして世代を超えて未来へも......自分の名は世間に残るわけではありませんが、未来へ何らかの貢献ができればよいと願っています。この世に永遠のものはありませんが、私のいのちが死後もつながっていくと思えるのです。

■折々にいのちは輝いて
この拙文が読者各位に届くのは、当地の梅雨入り時分かもしれません(近畿の梅雨入りは平年で六月六日頃)。でも、原稿を書いている今は、お彼岸明けの頃です。季節は別々です。「暑さ寒さも彼岸まで」とはよく言ったもので、三月に入って低かった気温も、お彼岸明けとともに上がってきました。皆さんは、季節の移り変わりを、何で感じられますか。温度ですか、花ですか。私は風です。三月二十六日の朝だったでしょうか。出勤前(兼職しています)外に出た時、その風を感じました。温かくて、潤いがあって、柔らかい毛布のような、何とも言えない質感の風。毎年、冬中待ち望んでいるあの風。春一番以来、冬と春の間で行きつ戻りつしていた季節が、春だけに向かって弾ける風です。暖冬の今年も、自然は覚えていてくれました。ふと庭を見ると、桜のつぼみがふくらんでいます。春鳥の鳴き声も聞こえます。私の全身全霊が雪解けして春色に染まります。
春風春水一時に来たる(白居易) ああ、私も彼等と同じいのちを活きているのだな実感する瞬間です。
四月--桜の季節です。当地では、降誕会(はなまつり)の時期に桜が咲きます。あの風が吹いた後、私達に気をもませる時間をうまく計って、葉よりも早く一気に花開き、そして散ります。はなまつり、入・進学、人事異動など、生活の節目と相まって、新たな鼓動が感じられます。一つ一つの出来事に、重なり合ういのちがあります。桜は、冬を耐えて花開きます。辛い時を過ごしておられる方には、このことを忘れないで頂きたいのです。花開くために冬は必要ですし、終わらない冬はありません。開花したら、少し低めの気温の方が、花が長持ちするようです。春は甘いだけではありません。私達も禅宗信者なら、一日一度は静かに坐って、身と呼吸と心を調えたいものです。(生活信条第一)
五月--薫風南より来たり、殿閣微涼を生ず (さわやかな初夏の南風がやってきて、自然な涼しさを感じた)
五月晴れの言葉通り、当地では初夏を感じる晴天が続きます。雨・雪や曇りが多い日本海側の当地では、数少ない安定した季節です。金剛寺の正面に、鬼退治伝説で有名な大江山があります。新緑が、その大江山を湧き立つように登ります。五月の風と新緑に、私自身も薫風になるかのようです。薫風と新緑と私は同じ。大切なのは、それで、私自身も爽やかな存在になるということ。
六月--梅雨(梅雨のない地方の方には申し訳ありません。) 鬱陶しい気持ちで過ごされる方もいらっしゃるでしょう。梅雨なんか無ければいいのに、そう思うこともありますね。でも、雨雪は豊年の瑞。雨は、いのちを育む瑞兆(良い前ぶれ)でもあります。梅雨の雨は、春に芽吹いたいのちを養い、日照りが続く真夏を支えます。真夏の太陽を存分に浴びた草木は、次に実りの秋を迎え、その果実は人や動物のいのちに充ち、やがて静かな冬に......。季節は別々に見えて、実は繋がり合い、春は夏のために準備します。夏はそれを受け取り、足りないところを補い、秋の準備までして、「したよ」とも言わず秋に席を譲ります。秋・冬も同じことをするでしょう。風・花・雨・気温など、表れ方は違っても、役割は同じです。季節が輝く瞬間をとらえ、そのメッセージが聞こえたなら、私達も、彼等と同じいのちで輝けることでしょう。

■心のふるさと
6月26・27・30日と7月1・2日は、新亡供養が行われます。その際にご参拝予定の方もおられることと存じます。掃き清められた境内に歩を進めると、縁の松は色冴え、七堂伽藍がそびえる静寂そのものの聖地こそ、わが大本山妙心寺です。その開創は、第九十五代花園天皇の発願によります。天皇は譲位後、仏門に入られ、特に禅の教えに深く帰依されました。さらに当時の乱世を憂いて離宮を禅寺とし、無相大師を招いて開山とされました。これが正法山妙心寺の起こりです。幾多の風雪に堪えてきた大伽藍をしみじみと仰ぎみるとき、花園天皇の「報恩謝徳、興隆仏法」の切なる願いが思い出されてなりません。遥かインドから伝えられてきた仏教が、歴代の祖師方やご先祖に護られて今日まで途切れることなく伝わってきたことの尊さ、有り難さを感ぜずにはおられません。山内の霊雲院には哲学者西田幾多郎先生のお墓がありますが、先生の歌に ・・・ わが心深き底あり 喜びも憂いの波もとどかじと思う ・・・ とあります。私たちは常に何かにとらわれて、右往左往しています。その一方でそうした心を冷静に見つめて正していく、心のふるさと=仏心をもっています。この仏心に目覚めて、家庭や社会をなごやかにしていくことこそ、禅の教えに他なりません。
南門を入ると左手に放生池があります。生きものの生命を奪わず、すべてのものに思いやりの心をむけていこうという教えがあるのです。この放生地には石橋がかかっています。古来から妙心寺の住職はこの石橋を渡ることによって、こころのふるさと=仏心を自覚し、仏法の興隆に生涯を捧げてこられました。私たちも妙心寺参拝をご縁に、お釈迦さまや祖師方のみ教えに触れて、自身の内にある真実の心、心のふるさとに里帰りをしてまいりましょう。

■生死一如
仏教では、「生」と「死」を別のものとして分けてとらえることはしません。二つをひっくるめて「生死(しょうじ)」といい、生死の差別を超えることを説いています。 つまり、生があるから死がある。生の中に死があり、死の中に生があるのです。したがって、人間は、死にたくなくても、いつかは死ななければなりません。だからこそ、命ある限り精一杯生き、そして死んでいくのです。江戸時代後期、博多・聖福寺に仙腰a尚という高僧がおみえでした。亡くなる間際に檀信徒や弟子たちから、辞世の言葉を求められたのでした。すると仙和尚は「死にとうない」という一言だったのです。名僧の最期の言葉がこれでは困ると思い、弟子たちがもう一度うながすと、やはり「死にとうない」という言葉が返ってきます。 あわてた弟子たちが、「いえ、ご冗談ではなく、どうか本当のお言葉を......」と、さらにしつこく念を押すと、仙和尚は、繰り返し「ほんまに、ほんまに死にとうない」と言ったという逸話が残されております。これを、この世に未練をもつあまり、死にたくないという気持ちにこだわりをもった、名僧らしからぬ言葉だと、短絡的に解釈してはいけないと思います。 確かに、死が怖いあるいは死にたくない、というのが人間の本音です。しかし人間は、この世に生まれてきた以上、必ず死ななければなりません。だから、死にたくないけれども、そのことにこだわらず、現世を懸命に生き抜いて、死んでいく。そして、いざ死を迎えるその時には、死に方にもこだわらない。苦しい時は、苦しんで死ねばいい。立派な死に方をしようと、格好をつける必要はいのです。死に方よりも、むしろ死を迎えるまでの生き方が問題なのです。
人間は、自分の意思で生まれてきたのではないのと同じように、自分で死に方を選ぶことはできません。いつ、どんな死に方をするかは、誰にもわかりません。だからこそ、誰にとっても、生き方が大切なのです。どんな生き方をするかが勝負なのです。それでは、どう生きたらいいのでしょうか。なかなか、人に聞いてもわかるものではありません。自分でみつけようとする心を常に念頭に置いて、生活をしたいものです。安土桃山時代に、黒田孝高(官兵衛)という武将がいました。如水という号をもち、孝高が作ったといわれる『水五訓』が今に残されています。
一、自ら活動して他を動かしむるは、水なり 二、常に己の進路を求めてやまざるは、水なり 三、障害に遭つて激しくその勢力を百倍し得るは、水なり 四、自ら潔うして他の汚濁を洗い、清濁併せ容るる量あるは、水なり 五、洋々として大海を満たし、発しては霧となり、雨雪と変じ、霰と化す、凍っては玲瓏たる鏡となり、しかしその性を失わざるは、水なり
その場、その時に応じて変化する水の諸相をとらえ、それを自分の生き方に反映させようとしたのでしょう。水のように自由で自然で柔らかい心を仏心といい、柔軟心ともいいます。私たちは仏の教えに合えば合うほど柔らかくほぐれて素直になっていくものです。私たちの尊い人生の一瞬一瞬を油断することなく、自己を丹精に育てていくこと。ここに人間完成の基盤があり、人生を荘厳にできる関門が開かれていると思います。 自然のお恵みをいただき、梅雨空を見上げながら思う今日この頃です。

■無一物中無尽蔵
私の住む地域では、八月十三日から十六日までの四日間がお盆です。お盆とは盂蘭盆といい、その語源はインドのサンスクリット語「ウランバーナ」からきており「逆さ吊りの苦しみ」を意味する言葉です。逆さ吊りの苦しみとは、わが身かわいさゆえの苦しみです。自らをかわいいと思うとらわれが、一番かわいいはずの自分自身を苦しめてしまうのです。中国の詩人、蘇東坡は心の安らぎを「無一物中無尽蔵(むいちもつちゅうむじんぞう) 花有り月有り楼台有り」と詠まれました。私に何もとらわれがなくなったとき、すべてがありのままに輝く和合の世界であったことに気づける。以前、私のお寺に四国八十八ヶ所のお遍路さんに投宿していただいたことがありました。その方は、奥さんを亡くされた絶望の淵で、さらには、自分の良心に反して会社の利を追わなければならない。大切な人との別れだけではなく、自分の思いを通すことが許されなかった現実に嫌気がさし、遍路生活をはじめたとのことでした。私たちもまた、そういう中にいます。自分の言葉と心。人から受ける言葉と行為。それらに矛盾を感じ、苦しまねばならないときもあるでしょう。世の中が嫌になり、無意味に思えてしまうこともあるかもしれません。しかし、このお遍路さんは旅の中で学ばれたそうです。すべてが無意味に思えていたけれど、一度しがらみから離れてみると、今まで見向きもしなかった花や月や楼台が語りかけてきて、人の心も暖かく感じることができた。共に生かされていることがわかった。そして、心も癒されていったそうです。お盆には普段のしがらみを離れ、ゆっくり我が家のお墓にお参りしてみてはいかがでしょうか。いつもの風景の中にも、昨日とはまるで違う輝きがあることに気づくでしょう。

■千の風になって
「千の風になって」 ―この肉体は借りもので、いずれは皆、死を迎えますが、たとえ愛しい姿が見えなくなっても、優しい声が聞こえなくなっても、姿を変え、場所を変えて、たくさん(千)の風となって、あなたや家族を見守っているのです。 それに、あなたは気が付いていますか? どうか気が付いてほしいと、この詩は問いかけているように思えます。
妙心寺の管長になられた山田無文老大師は大学生の頃、肺結核になってしまわれました。当時の事ですから、結核は死の病で医者にもさじを投げられ、失意と余命を数える体で故郷の実家に帰られました。 実家の離れに隔離されて、死を待っているような時のある朝、離れの縁側に出てみると、そよそよと風が吹いています。はっと、無文老大師は気が付きました。もうだめか、もうだめかと毎日過ごしていたけれど、こんな目に見えないものに囲まれて、守られて生かされていたじゃないか。そう気が付くと、泣けてしかたが無かったそうです。 その時に作られた歌が 「大いなるものに いだかれあることを けさふく風の すずしさにしる」です。 こう気が付かれてからは、生きていくことに力が出て、病気に立ち向かう事ができたと生前、よくお話をされていました。 目には見えないけれど「大いなるいのち」があることに気づき、今の自分や周りに感謝して生きる―それが仏教の一番大切な点です。 手を合わせ、念じる時に、亡くなった最愛の人も御先祖様もつねに自分を見守り、いつもそばにいてくださるのです。 そしてやがては、自分も愛しい人を見守る「大いなるいのち」―仏さまの元に帰っていきます。 この尊い「大いなるいのち」は、森羅万象すべてのものにつながる「いのち」なのです。一見、自分と他人は違うように考えますが、実は自分につながる同じ「いのち」なのです。体や寿命の命も含んだ、「大いなるいのち」につながっている事に気付きたいものです。
今日も太陽は輝き、風が吹いています。 み仏やご先祖様は、千の風になって、大きな空を吹き渡っています。禅の教えに心素直に耳を傾ける時、私たちは色々な事に気付き、色々な事から教えを受ける事が出来ます。そして、実り多き人生を生きることが出来るのではないでしょうか。

■金屑貴しといえども......写経のすすめ
お寺の本堂にお参りをすると、大小の鐘や大きな木魚に、大きな太鼓などを目にすると思います。法要の始まりの合図に鐘が鳴らされ、太鼓が打ち鳴らされ、読経の声とともに木魚の音が堂内に満ちます。このように禅寺の法要は、様々な鳴らし物で厳粛に執り行われます。 世の中、クイズ番組が流行っていますから、ここで問題です。「お寺の鳴らし物は、どうしていい音がするのでしょうか」。答えは、どれも中が空洞で、空っぽだからです。 あるとき、読経を始めようと経机の鈴を鳴らすと、ビリビリと耳慣れない音がしました。よく見ると、中に木の枝が入っていました。おそらく、幼稚園の子どもか誰かが入れたのでしょう。たかが小さな枯れ枝ですが、それがあることでなんと不快な音がするのでしょう。
禅のことばに、「金屑貴しといえども、眼に落ちて翳と成る」とあります。「金」は小さな破片でも高価なものですが、金箔のかけらが目に入ったら視界をさえぎるゴミにしかならない、というのです。子どもにとって小枝は後でアリと遊ぶための大切な道具だったかもしれません。でも、鈴の中にあったのでは、せっかくいい音がする鈴も不快な音しか出せなくなってしまいます。 私たちが生活していくうえで、パソコンとか英語とか、知識はとても大切なものです。また、子どもの成長とともに教育費もかかるし、年金があてにならなければ老後の資金も考え直さなければ、と財産も大切です。仕事で営業に回るにはある程度の肩書きも必要でしょう。そんな知識・財産・地位なども、間違えたら「眼に落ちて翳と成る」のです。 自らに照らしてみると、人から不快なことを言われて、貴重な忠告だと受け取れずに、「何をっ」と憤ったり、自分の至らなさを棚に上げて、「あいつのせいだ」と言うのは、こころの中の金屑が言わせているのです。また、生老病死という私たちのいのちの四つの相は、自分の力ではどうしても避けることができないのに、抗っては悩みや苦しみの種にしてしまうのも、心の中の金屑のせいです。そんな金屑を心の中から取り去ってしまえば、他人のことばも忠告と聞き入れることができるでしょうし、悩みや苦しみの種を除くことができるにちがいありません。
開山無相大師の六百五十年の遠諱にあたり、本山では写経運動が盛んです。菩提寺様で写経のポスターを目にされたり、写経のパンフレットを手にされたりしていらっしゃるのではないかと思います。 写経の大切なことの一つは、字が上手になるといった知識ではなく、一字一字を素直に写すこと、つまりは一字一字を受け入れていくことです。般若心経二百六十二文字の中には、得意な字もあれば、形を整えるのが苦手な字もあります。書き終えた字を見ると、上手に書こうと力の入った字、集中力が散漫になって書いた字などが目に付くこともあります。それでも、書き終えるにはどんな字も書き進めていかなければいけません。 私たちの一生も、気の合う人だけとの出会いで送れるはずもありません。苦手な人とも一緒に仕事もしなければなりません。避けては通れないわけですから、私たちは受け入れていかなければいけません。そのとき、自らの金屑である知識や地位をこころに翳しているとストレスがたまってしまうでしょう。ここは一つ、写経のように好きも嫌いもそのまま受け入れていかなければなりません。そのために写経の一字は一人、さまざまな人との出会いと置き換えたらどうでしょう。一字一人です。 どのような人との出会いも素直に受け入れることができる人は、相手のいのちの貴さにも気づくことができるに違いありません。

■ある日 ある所で ある人との会話
「あのう、すみません。和尚さんは、何宗の方ですか?」 「わたしは臨済宗妙心寺派の住職ですよ」 「ちょっと、お時間があれば教えていただきたいことがあるんですが」 「いいですよ。原稿用紙四枚ほどの時間しかありませんが......」 「わたしは、今年、母を亡くしたのですが、それまでは死ということをあまり考えたことはありませんでした。しかし、死は大変なことだし、自分もいつかは死ななければならないと思うと仕事もできないほど不安です。どうしたらいいんでしょうか」 「わぁ、大変な質問ですね。そうですね。生あるものは、いつかは必ず、死んでいかなければならない宿命をもっています。残念ながらこの原則にはまったく例外はありません。 どうしてわたしたちは、生まれ、年を取り、病気をして、死んでいくのか。 お釈迦さまはここに大きな疑問をもたれ、出家をされ、難行苦行の末、お悟りを開かれてこの仏教が始まったわけです。 この生老病死は四苦といいますが、我々にとっても大きな問題なのです」 「お釈迦さまの人生は苦なりという教えの苦は、すべてのものは自分の思い通りにはならないのだという教えでもあります。何事も自分の思い通りにしようとすると、苦しみ、悩みが生じてきます。 勿論、生まれることも、死ぬことも思い通りにはなりません。できたら、男性に、女性に、ハンサムに、ベッピンにと思い、その通りに誕生できましたか。 年取らずにいつまでも少年少女のまんま、病気一つせずに健康で、極めつけはいつまでも死なないでなんて不老不死の極意を得ることができるでしょうか」 「回りの人々は順調に年を重ね、順調に亡くなっていく。同級生たちが年を取り、亡くなっていくのに自分だけ取り残されるのも嫌なものではないでしょうか。 思い通りにならないことを、どうにかしようとするから苦しみ悩むのです。すべてを素直に受け止める。過去のことも、現在のことも、未来のことも。 なんともならないことに抵抗しても苦しいだけですから、目の前に起こる現象を淡々と受け止める。 それと、私は思うのですが、みんな生きることは苦しいのです。それぞれ悩み、苦しみを背負いながら生きているのです。決して自分だけではない。ともかく一回限りの人生ですから、すべてのことを受け入れて、できる限り明るく、楽しく、この命を使わせていただいたほうがいいと思いますね」
「あの世に行って戻って来た人はいませんが、いつかあちらに行った時に、亡くなられたお母さまと会えると思われて、いま、いまを大事に一生懸命に生きられたほうがお母さまも喜ばれるだろうし、なにはともあれ、死に恐れおののいて暮らしているわが子の姿をご覧になられたお母さまは、どれだけ心配されるか」 「そうですね。思い通りにならないことを思い通りにしようとするから苦しむのですね。 なんとなく、気持ちが軽くなったような気がします。でも、また、不安になった時はどうしたらいいでしょうか」 「そういう時は、お墓参りしてお母さまとお話ししてください。きっと、なにか、アドバイスしてくれると思いますよ。 それと、お寺に行って和尚さんとお話ししてみてください。お寺はそもそも、生きている私たちの人生の学校なのですから。 ちなみに妙心寺派のお寺は全国に三千四百カ寺あり、人生の勉強ができます。是非、お訪ねください。そして、元気に、明るく、生きてください。これが一番、お母さんが喜んでくれることです。よかったら、うちのお寺にもお茶飲みに来てください」全国の皆さん。

■いまあるものを生かしきる ―こころの闇を照らす― (少欲知足)
暗闇はなくならない 蛍光灯をつければ、漆黒の夜も昼のように明るくなります。太古から、当然のようにあった暗闇は、わたしたちの身のまわりにはあまり見あたらなくなりました。そのかわり、夜の世界で居所をなくした暗闇は、こころの中に住みつくようになりました。心の闇は、貪りや、いかりとなって、とうてい理解しがたい、悲しい争いを増加させ、明るかった昼の営みを蝕んでいます。しかし、闇があるからこそ、明かりのありがたさに気づけるのです。その暗闇の存在に気づいていかねばなりません。「水はよく船を浮かべ、また船をくつがえす。薬よく病を療し、また身命を害す。万般ことごとくしかなり。」―慈雲尊者(1718〜1804)『人となる道』。水の上には船を浮かべることができるが、水はまたその船を転覆させる。薬も病を療ずることができる半面、命を損なうこともある。すべてのものはことごとくそのようなものである。わたしたちは、便利であることを当たり前のように享受しています。しかしその裏で、限りある資源が底をつき始め、自然の営みがバランスを崩し始めているのです。すべての事象は表裏一体であるから、そのことをよく認識して生活しなさい、と慈雲尊者はおっしゃるのです。
<先人の願いをおもう> そこで、この豊かな時代を少しでも長く引き継いでゆくために、どのような心がけが必要なのでしょうか。それはまず、文明の進歩に貢献してきた先人たちの「皆が少しでも幸せに暮らせるように」という願いをおもうことです。生活用品すべてに、簡単には捨てられないほどの願いがつまっているのです。そして地球上のあらゆるものが、身を削ってその願いに協力してくれていることにも気づかなければなりません。電球一つに流れる電気にも、先人の願いと、宇宙に生きる地球のはたらきがつまっている、だからこそ大切に使ってあげないといけないのです。
<工夫するということ> 「ものには命が宿る」といいます。すべてのものに、先人の願いと地球の恩恵が宿っています。そして次に「あなたのこころ」が宿ります。他人と同じものを持っていても、どこか風合いが違うように感じるのは、その人の色にものが染まるからです。簡単にものを捨てることは、自分のこころを捨てているのと同じです。ものを大事にできる人は、人も大事にできる人です。ものを工夫して使いきれる人は、与えられた仕事も工夫できる人です。便利すぎて、ものがありすぎて、こころが真っ暗闇になっていませんか。使いきろうと工夫する、智慧の光でそのこころを照らしてみてはいかがでしょうか。 
 

 

■肉親の死を見つめて
平成十九年もすでに十一月、私たちの本山妙心寺、開山無相大師さまの六百五十年ご遠諱もいよいよ近づいてまいりました。ご遠諱という行事は一般家庭でいえば、六百五十年の法要ということになりますが、宗門あげてのこの大行事、成功裡に終わることを祈るばかりです。本山のご遠諱は、単に本山で行われる一行事だけのことではなく、私たち全国花園会員の一人一人にとりましても、日ごろ、ともすれば無関心になったり、忘れかけている宗教的なこと、信仰に基づいた生活について見つめ直すいい機会でもあります。今回のご遠諱が花園会員の方たちに形式的な行事以上のご縁になるようにと、各年度ごとにご遠諱のテーマが設けられています。
平成十九年度のテーマは、―あなたもわたしも 同じいのち―です。最近「いのち」という言葉が本山からのポスターやパンフレットによく使われていますが、これは一般に生命と書いて表現する個々の寿命とは異なります。仏教的には普通ひら仮名で「いのち」と書いて、もう少し大きな意味、すなわち`一人一人の生命のもとaのような意味を表現します。私たちが今存在しているのは両親がいてこそ。その両親にもまた両親がいる、そのまた両親の両親にも......というふうに先祖をたどっていけばきりがありません。そんなふうに次々と生命を生み出す働きがあることがわかります。この生と滅を永遠に続かせる力、働きを仏教では「いのち」といっているわけです。
もともと「いのち」という言葉は、「あらゆる物に仏のいのちが宿っている」とか「自己に内在する仏性」などの難しい内容をやさしく説明するために使われ始めた言葉で、「いのち」=「ほとけ」と置き換えて言っても意味は全く同じです。仏のいのちが私たちの一人一人に宿り、また元に帰っていくことを永久に繰り返しているということなら何代も前の先祖のいのちも、今私のいのちも全く同じということになります。このことを単なる言葉だけでなく実感として悟ることができたら、開山大師の言われるとおり、生死の悩みは解決することになります。
私事ですが、私は二年前に母を見送りました。好奇心のかたまりのような人柄でしたから亡くなる前数年間は本人の望む所どこへでも助手席に乗せてドライブしました。一度は愛媛を出発して京都市内まで行ったこともあります。最後は近くの宇和島市立病院で息を引き取りましたが、最後の時、隣の産科病棟から赤ちゃんの産声が聞こえてきたのがなんとも印象的でした。母は九十一歳で、本人の満足のいく老後を過ごし、静かな最後でしたから、世間的には大往生だったかもしれません。しかし親の死は悲しい現実です。受け容れなければなりません。
親の死をどう受け容れるか、また、自分の死にどうたち向うか...
最近「千の風になって」という歌が評判になっています。自分の寿命は終わっても、今度は別のいのちになってあなたたちを見守っているという内容は、仏教でいうところの仏のいのちと同じ見方に立っています。こんな内容の歌が爆発的にヒットするということは、多くの人が、心の内に仏のいのちが宿っていることを潜在的に気付いているからではないでしょうか。 いのちに対する潜在的な理解を確信にいたらせるためには、私たちはそのための修行を始めなければなりません。身近にある仏教行事・坐禅会・写経会などに積極的に参加しましょう。仏様に会うための妙手はありません。結局、日常の小さい精進の積み重ねが、信心の気持ちを生み、育てていくことになるのではないでしょうか。そうすれば、日常のちょっと苦しいことにも少しは楽になれると確信しています。

■一周忌
世の中は 何にたとえん水鳥の 嘴ふる露に宿る月影 (道元禅師)
人生はまことに無常なものであります。早いもので、もう年経ってしまいました。
二度とない人生だから つゆぐさのつゆにも めぐり合いの不思議を思い 足をとどめてみつめてゆこう 二度とない人生だから まず一番身近な人たちに できるだけのことをしよう 貧しいけれど心ゆたかに接してゆこう
坂村真民にこんな詩があります。生前どんなに孝養を尽されてもなおかつ、孝行のしたい時分に親はなし、なのではありますまいか。尽せども尽し切れないところに追善供養先祖供養のおこりがあろうと存じます。ところで、本日の一周忌は小祥忌とも言い俗にむかわりとも申します。すでに営まれた百ヶ日忌(卒哭忌)明年迎える三周忌(大祥忌)と共に需教の礼法に做ったものです。大祥忌に次いで、現在では一般に七年、十三年、十七年、二十三年、二十七年、三十三年の法要が営まれております。しかし、需教に做ったからといって、決して借物ではありません。インドから中国へと伝った仏教は中国において、さまざまな文化、思想を吸収して日本に伝わって来ましたちそして、日本の祖先崇拝の思想と相俟って現在の年回法要の習慣となったのであります。すなわち、これは日本仏教のすばらしい営みなのです。さて、ここで振り返ってみたいことは、年回法要などにおけるおまつりの心がまえであります。お茶湯、お花、お線香、果物、お霊供、お灯明などをお供えするのですが、どのいづれを取りましても真心がこもっていることが肝要です。
姑よりも 恵まれし今 墓に詣で 合わす掌に 詫びも含めて (妙澄)
来し方を振り返りつつ、敬虔な気持で霊前に額衝く時、自と清浄になるのであります。どうやら、法要は亡の霊に供養するのみならず、同時に私どもが仏様に導かれる一大因縁でありましょう。廻向文に「願くは、この功徳をもって、普く一切に及ぼし、我らと、衆生と皆共に仏道を成ぜんことを」とお唱えします。仏様を拝み、開山さまを拝み、祖先をお祀りし、年回法要を営むのは、他でもありません。「どうか、この功徳が、一切の仏様、一切の先亡の霊、一切の人々に及んで、すべての人々や一切の先立の霊と今日弔う霊と私達とみんなともに仏様の道を成就いたしましょう」という願いであり、誓いなのであります。最後に皆さんご一緒にお唱えして、本日○○○○大姉一周忌法要のご廻向をいたします。

■「いのち賛歌」
昭和54年1月、私は今は亡き自春見老大師を団長とするインド仏跡巡拝団に参加し、お釈迦さまがお悟りを開かれた成道の地などを巡る機会を得ました。お釈迦さまは今を去ること2500年前、ブッダガヤの菩提樹の下で坐禅を組まれ、12月8日早朝、光り輝く明の明星を見てお悟りをお開きになられ「山川草木国土悉皆成仏」(山も川も草木もみんなおんなじ仏のいのちでつながりあっている)と驚きの声を上げられたと伝えられております。私たちは大塔の二階で報恩の暁天坐を行いましたが、夜明けの空にお釈迦さまが仰ぎ見たであろう明の明星が光り輝いていたあの時が今も鮮やかに思い起されます。
大いなるものに抱かれあることを 今朝吹く風の涼しさに知る これは元花園大学の学長で、大本山妙心寺の管長を務められた山田無文老大師が、若い頃結核を患い死に直面した時に頬なでるそよ吹く風に、心開けた感激を詠んだよく知られた歌であります。(以下、通仙洞太室無文老師『わが精神のふるさと』より抜粋) 気持ちのいい涼しい風が、病弱のわたくしをいたわるようにそよそよとわたくしの頬をなでてくれた。そんな風に吹かれたのは幾年ぶりであろうと思った。そしてふと「風とは何だったかな」と考えた。風は空気が動いているのだ、と思ったときわたくしは鉄の棒でゴツンとなぐられたような衝撃を受けた。「そうだ、空気というものがあったなあ」ときがついたのである。生まれてから二十年ものながい間、この空気に育てられながら空気のあることに気がつかなかったのである。わたくしの方は空気とも思わないのに空気の方は寝ても覚めても休み無く自分を抱きしめておってくれたのである。と気がついたときわたくしは泣けて泣けてしかたがなかった。 「おれは一人じゃないぞ。孤独じゃないぞ。おれの後には生きよ、生きよとおれを育ててくれる大きな力があるんだ。おれはなおるぞ」と思った。人間は生きるのじゃなくて生かされておるのだということをしみじみ味わわされたのである。わたくしの心は明るく開けた。 と述べられております。 生き往く道筋はお釈迦さまのお教えの通り四苦八苦の世界で、そこから逃れ抜け出ようと誰しもが苦悩するのですが、その苦悩はわたくしを真にわたくしたらしめようとする本心本性のいのちの働きに他ありません。 それは「生きよ、生きよ」、「よくなれ、よくなれ」といつでもどこでも見て御座るそのものの応援歌であり、本心本性のいのちがすべての人に等しく備わっている、ということの証明でありましょう。 人は大きな力に生かされていることを知ったとき本当に生きられるのです。 長い人生にはなあ どんなに避けようとしても どうしても通らなければならぬ道--てものがあるんだな そんなときはその道を黙って歩くことだな...... 愚痴や弱音を吐かないでな 黙って歩くんだよ ただ黙って 涙なんか見せちゃダメだぜ! そしてなあ その時なんだよ  人間としてのいのちの根が ふかくなるのは......。 相田みつを『一生感動一生青春』より いのちの真実を自覚し、このいのちをどう生かすか、真のわたくしを生きるためにその本を務め、いのちの根を深くしてまいりたいものであります。

■食べ物の幸せ
ある方が、お寺の講演でこう話されました。「私は、食事の時のナイフとフォークがどうもなじめません。ナイフは食べ物を切り刻む道具でしょ? フォークは食べ物を突き刺す道具でしょ。それに比べて日本人の使う『箸』は、なんて食べ物にやさしいのだろうと思います。ほぐす、はさむ、運ぶ...。日本人は長いこと、こうして食事をしてきたのです」箸が食べ物にやさしい、というこの感覚は、私には感動にも似た新鮮な驚きでした。『ミカン』という詩にこんな一節があります。「つややかな/つぎめひとつない/きんのかわを/ひきむきながらおもう/こんなにぞんざいに/ミカンをひきむいてしまって...と」いかがでしょう。
ミカンを見て「つぎめひとつない きんのかわ」と、とらえたのは、『ぞうさん』の詩人、まど・みちおさんです。こんなふうに見つめられて掌に乗り、思いやられて食べてもらえたら、ミカンだってやっぱり幸せだろうと思うのです。食べ物への慈しみが伝わるお二人の感性にふれ、こういう感覚は、日本人の宝物なのかもしれないなと思いました。思えば、食事をする時の「いただきます」という挨拶も、物を頭上にかかげて頂戴する「いただく」という、へりくだった態度からきています。食べ物の命をいただくという、謙虚さと、相手への感謝の気持ちがこめられているのです。禅の修行僧が使う食器を持鉢といいます。重ねるときれいにひとまとまりになる大小五つ組みの黒椀のセットですが、この持鉢を使うにあたって、大変な決まりがあります。信じられないかもしれませんが、それは、「洗ってはいけない」というルールなのです。ところが、この決まりを守りながら修行していても、お腹をこわすことはありません。なぜでしょう? それは、食べながら持鉢の中をきれいにしてしまうからです。修行道場では、食べ残しは許されません。持鉢に付いた一粒のお米さえも残しません。それどころか、食後に熱湯を注ぎ、たくあんを使って御飯のかけらをていねいに落とし、最後にはお湯と一緒に飲んでしまうのです。そして、最後の仕上げに清潔な布巾で拭き上げれば、持鉢は、洗う必要がないほどきれいになります。洗う必要がないということは、捨てる残飯がないということです。食べ物のかけらさえ、無駄にならないということです。この持鉢の扱いでおわかりのように、私たち宗門では、食事を「命をいただく儀式」ととらえ、大切にしています。修行道場で食事の前に上げるお経は、食べ物に対する感謝の言葉であり、食事を口にするに値する生き方を自分がしているかの反省の言葉であり、貪らない・好き嫌いをしない誓いであり...命をいただく以上は、私が責任を持って活かします、という強い決意が込められています。
食事中は、会話厳禁です。持鉢の音をカチャカチャさせることも、たくあんを噛む音さえも遠慮します。それは、わたしたちの前に、尊い尊い命を投げ出してくれた、お米や野菜を思いやってのことなのです。お釈迦さまは、「一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安楽であれ、平安であれ」と説かれました。さらには、「母が、命の限りおのが一人子を護るように、そのように一切の生きとし生けるものに対して、無量の慈しみの心を起こすべし」とも。(田辺和子訳スッタニパータ『慈経』) 私たちの回りは、「生きとし生けるもの」にあふれています。日頃より体を調え呼吸を調え、そうすることによって次第に調っていく心、こだわりやとらわれのない心で、相手の立場にわが身を置いていく。たとえそれが、食べ物の命に対してであろうとも、です。私達はみんなが幸せになれる「同事」の教えを、こうしてまず毎日の食事の場でも、実践することができるのです。

■見えないところが大切
みなさん、おはようございます。今日は、「目に見えないところが大切です。毎日、感謝の心で暮らしましょう」というお話をさせていただきたいと思います。お釈迦さまは、人は生れによって立派な人や、愚かな人になるのではなく、行いによって人は優れた人になり、劣った人にもなると教えて下さいました。まず今日は、この行いということについて、お話しさせていただきたいと思うのですが、いわゆる三つの行い(三業)ということであります。行いには、三つの種類があるというのです。身体の行い(身業)  口の行い(口業)  こころの行い(意業) ・・・ この三つの行いが私たちの人生を作ってゆく。これが仏さまのみ教えであります。順番に考えていきましょう。
第一 身体の行い(身業) これはとてもよくわかります。この身体を使って歩いたり食事をしたり、一生懸命働いたり、すべてこれは身体の行いであります。普通、行いというのはこの身体の行い(身業)のことでありましょう。
第二 口の行い(口業) これは私たちが話している言葉であります。「おはようございます」という挨拶、「ありがとうございます」という感謝の言葉、その他その他。そのひとつひとつが口の行い(口業)であります。さて、この身体の行いと言葉は、目で見ることができるし、耳で聞くことができます。世間は普通、この二つの行いによって人を判断します。あの人はいい人だとか悪い人だとか。そして、それでいい気持ちになったり反発したり。でも行いはこの二つだけではないとお釈迦さまはお示しになりました。身体の行いや言葉よりも、もっと大切なもの、それは、
第三 こころの行い(意業) あまり聞きなれない言葉ですけれど、こころの行いというのはどういうことでしょうか。例えは少し悪いのですが、私がどうしてもゆるせない人があって「あの野郎殺してやりたい殺してやりたい」と千回、一万回こころの中で想っても、毎日毎日それを想い続けても、警察は私をつかまえることはできません。心の想いは法律上の罪ではありません。法律上の罪ではありませんが、その「殺してやりたい」という想いが、真理の立場から見たら行いであり、それが見えないところで私たちの人生を作っている。これがお釈迦さまのみ教えであります。お釈迦さまは、身体の行いや言葉よりも、このこころの行いが最も大切であると、お示しになっているのです。
私どもは、人の見ているところでは、そう悪いことはしません。でも、人の見ていないところが大切なのです。人の見ていないところ、こころの中で、毎日どのような生活をしているのか。ここがまさに幸福と不幸の分かれ道なのだと思います。妙心寺の生活信条に「生かされている自分を感謝し、報恩の行を積みましょう」と教えていただいております。人の見ていない、こころの中で、いつも「ありがとうございます」という感謝の想いをもって、光の心で暮らすことをお互い練習してゆきたいと思うのです。朝目覚めたら、ふとんの中で数分間「ありがとうございます」と心の中で、感謝の祈りをしましょう。ありがとうございます、ありがとうございますとしばらく唱えていますと、心の中に明りが灯ります。その光の心で毎日ふとんを出ることを、習慣にしていただきたいと思います。そして一日の生活のいろいろな場面で、この「ありがとうございます」をこころの中で唱えていただきたい。夜は「ありがとうございます」を想いながら眠りにつく。目に見えないところを大切に、感謝で始まり感謝で終る一日。それが幸福への一番の近道であると私は信じます。

■春彼岸 いま、ここを生きる
春の彼岸の頃に咲く花の一つに薺(なずな)があります。2ミリぐらいの白い花が20個ぐらい固まって咲いているのですが、それを薺の花だと知っている人は少ないでしょう。この花を有名にしたのは芭蕉の次の一句です。
よく見れば薺花咲く垣根かな ・・・ この句について、今栄蔵氏は、「ふだんは気にも止めぬ垣根の根元に、よく見ると薺の花が目立たずひっそりと咲いている」と解いています。堀信夫氏は、「薺のはなのさまはあまり見ばえのするものではないが、しかし、その路傍の雑草にまであまねくゆきわたった春色を見れば、万物皆造化の端緒として、自足していると考えざるを得ない。彼(芭蕉)は自分自身が自得することによって、そのような造化の機微に触れることができると考えていた」と注し、中国北宋中期の学者程明道の「万物を静観するに皆自得す」という詩句を引用し、「よく見れば」は、明道の「静観」の翻訳であろうと記しています。
薺の花に限らず、ありとあらゆる物が、その時と処を得て自足自得しているさまを静観すれば、彼岸(悟りの世界)は即今(いま)此処(ここ)の此岸(迷いの世界)に実現していることを悟る筈です。だから、この芭蕉の一句は、いま、ここを生きることが彼岸に到る道であることを示唆していると思います。即今(いま)此処(ここ)に生きることを唱っている曲としては、かつて世界中の若者を熱狂させたビートルズのヒット曲に一つに「イマジン(Imagine)」があります。作詞者のジョン・レノン(John Lennon)の名言として世に知られている「いま、ここを生きる(be Here Now) 」を踏まえて「現在を生きている」と訳しています。浄土を彼岸、地獄を此岸、全ての人々を薺の花に読み替えると、芭蕉の一句になることを想像して見て下さい。「いま、ここを生きる」薺の花は、咲いている場所や周囲の状況について好き嫌いを分別しないので自足自得していると言われるのです。全ての人々があらゆる状況について好き嫌いを分別しないで自足自得することができれば、それは彼岸に到った仏に他なりません。だから、いま、ここを生きる人は憂悲苦悩を嫌いません。憂いに出会えば憂える仏、悲しみに出会えば悲しむ仏、苦しみに出会えば苦しむ仏、悩みに出会えば悩む仏になって何時も安らいだ心境でいられるのです。そこが彼岸です。

■同事
『禅 自らを調え 生活を調えましょう』というテーマは、本年で四年目を迎えます。すべてが安直で移ろいやすい現代に、四年間かけて、一つのテーマを温めて追究することは、とても大切なことだと思います。とくに、私たちにとって、坐禅は肝心なことです。静かに坐って、自分自身を見つめることが私たちの基本だとすれば、これほど単純な教えは他にないと言えます。よく真宗(浄土宗)を「易行」(やさしい教え)と言いますが、果たしてそうでしょうか。「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えるにも、私たちは口を開かなければなりません。また、日蓮上人はお題目をを唱えることを教えられましたが、それも口を開きます。してみると、静かに坐るだけでいいというのは、実にシンプルであることがわかります。しかも、ただ坐っているだけで、しだいに心が清くなってきますから、これ程ありがたいことはありません。私がはじめて修行にはいった頃、よく老師様から「一つになれ」と言われました。坐禅をする時、他のことを考えずに、坐禅三昧になりなさいという教えですが、中々その境地に到達することはできませんでした。しかし、この頃こう考えるようになりました。静かに自分自身を見つめていますと、自分と他人との垣根がだんだん低くなり、やがて境界がなくなります。自分と自然の対立がなくなります。「一つになる」ことは、自他の対立を越えることに、ほかならないような気がします。
「生活信条」の二に 「人間の尊さにめざめ 自分の生活も他人の生活も大切にしましょう」 とありますが、自らを調えることの次に、このことばが続くのは実に絶妙な気がします。さて、過去三年のテーマに、年ごとに三つのサブテーマが設けられ、実践してきました。復習をかねて掲げてみますと、順に
一、みんなで幸せになれるよう 喜びを与えましょう(布施) 二、みんなで幸せになれるよう 優しい言葉で語り合いましょう(愛語) 三、みんなで幸せになれるよう 心のこもった助け合いをしましょう(利行) そして、本年のサブテーマは、四、みんなで幸せになれるよう 人の身になって尽くしましょう(同事) です。
これらの四つのテーマは、『四摂事』という教えによっています。『岩波仏教辞典』によると「摂」は引き寄せてまとめるという意味で、人々を引きつけて救うとあります。それでは、本年のサブテーマについて考えてみたいと思います。ご本山妙心寺のご開山無相大師様は、実に質素な方だったようです。お客様が来られた時にお盆が無くて硯箱の蓋にお菓子を載せて出されたぐらいです。そんな日常ですから、ある日雨が降って室に雨漏りし始めました。「雨漏りだ、何か持って来い」と開山様が言うと、みんなあわてて器を探します。息をきって最初に飛び込んで来たお弟子さんが、持って来たのは笊でした。ご開山様は、このお弟子さんを大変褒められました。落語のような話ですが、大変なことを教えているような気がします。雨漏りという声を聞いて、雨を受けるものをと、目の前にあった笊を持って駆けつけます。このお弟子さんは、雨が漏って開山様が困っておられる、何とかしなければという純粋な心だけです。ですから、ご開山様は良しとされたのだと思います。
「人の身になって尽くしましょう」ということは、自分と他の人との間に、垣根がないということです。このお弟子さんのように自分の心が、そのまま他の人の思いやりにつながっていることにほかなりません。「自らを調え 生活を調えましょう」という静かなゆったりとした心があって、そこから自然に働き出すものが、布施・愛語・利行・同事の「四摂事」なのではないでしょうか。

■食事作法 「あたりまえに感謝」
私たちの生活の中でのあたりまえのこととは何でしょう。あたりまえとは特別に意識をしなくても誰もが自然に行っていることです。ご飯が食べられること、呼吸ができること、眠ること、元気で過ごせることなどたくさんあると思います。その中のひとつの食事。自分の命を生かすために他のたくさんの命を食材として頂いている食事は、食事があたりまえに出来る環境に生かされていることは何よりも幸せで感謝すべきことだと思います。ところが豊かになりお金を出せば好きな物を手に入れることができるようになった日本では、食事ができることはあたりまえすぎて幸せだとは思えなくなっているのかもしれません。グルメ番組や美食などの雑誌は相変わらず人気ですが、それは食事の大切さを示すものではなく他人より珍しく、美味しい物をたくさん食べるかということに関心を向けているように思えます。日本で1年間に発生する生ゴミは1,940万トンで、その内で家庭から出る生ゴミは1,000万トンだそうです。つまり食べ残しなどをふくめた生ゴミの半分は日々の生活の中から発生しているのです。残念なことに飽食の日本では自分の欲求を満たせば他の食べ物は捨ててしまい必要以上に命を無駄にしているのです。
仏教に「小欲知足」という教えがあります。あまり欲ばらないで、少し足らなくても満足し、感謝することを知りなさいという教えです。欲求を満たすためだけでは、物を大切にするどころか、いつになっても本当に満足することはできません。だからといって、欲求や現代の食事のあり方の全て否定してしまうことはできません。やはり日々の生活の中で自分が主体性を持ってどのような気持ちで生きるかが大事ではないでしょうか。環境分野で初のノーベル平和賞を受賞したケニア副環境相ワンガリ・マータイさんが国連本部で「世界的に『もったいない』キャンペーンを展開したい」と演説したのは有名です。世界規模で環境問題が叫ばれる中でワンガリ・マータイさんは日本語の「もったいない」が物を大切にするといったあたりまえのことに気付くための一番ぴったりする言葉で、他の国にはない言葉であると語っています。「もったいない」は「小欲知足」の教えそのものであり、その実践の一つに大切な食事を頂く作法もあると思います。
『食事の五つの誓い』  一つ、すべてのものに感謝してこの食事をいただきます。  二つ、自分の日々の行いを反省してこの食事をいただきます。  三つ、欲張ったり残したりしないでこの食事をいただきます。  四つ、身体と心の健康のためにこの食事をいただきます。  五つ、みんなが幸せになるためにこの食事をいただきます。  合掌、いただきます。
禅の食事作法の教えである食事五観文(*)を子ども達にも分かりやすいよう簡略した誓いの言葉です。そして五つの誓いの言葉を象徴する形が両手を合わせる合掌の姿でもあります。姿勢を整え、音を出さないで静かに頂く禅の修行の作法も大事ですが、一般的にはあまり難しく考えるのではなく、命を頂きありがとうと素直に合掌し、出された食材に感謝して美味しく頂くことが大切です。もし誰もが他人事ではなく自分のこととして家庭、学校給食、レストラン、飲み会などどのような場所でもあたりまえに合掌を実践し食事を頂くようになれば「もったいない」の精神は自然に受け止められるはずです。さらに、そのような姿は必ず周囲の人々の心を動かし「感謝」「命の尊さ」など今日求められている人としての正しい心のあり方が伝わると思います。生きる基本である食事などのあたりまえのことに感謝し、合掌などの作法を通じて心を調えることは心豊かな社会を築く土台にもなるのです。
食事五観文  一つには、功の多少を計り彼の来処を量るる  二つには、己が徳行の全けつを忖って供に応ず  三つには、心を防ぎ、過貧等を離るるを宗とす  四つには、正に良薬を事とするは形枯を療ぜんが為なり  五つには、道業を成ぜんが為に、この食を受くべし

■共に生きるために
今年も新緑の季節になりました。田畑の上を草や土の匂いが混じった風に運ばれるかのように蝶が花を求めて舞う光景は昔ながらの日本の風景の一つであると思います。昔から日本人は移ろいゆく四季の中で暮らし、自然から多くのことを学んできました。
花は無心に蝶を招き 蝶は無心に花を尋ぬ 花開く時蝶来り 蝶来る時花開く 吾も亦人を知らず 人も亦吾を知らず 知らずとも帝則に従う
この詩は江戸時代後半の禅僧、良寛さんが自然の姿を通じて、私達の人生のあり方を歌ったものです。花は無心に蝶をまねき、蝶も無心に花をたずねて飛んでいます。花が開けば蝶が来て、蝶が来ると花が開きます。私も他人を知らないし、他人も私を知らない。しかし、すべてが大いなる自然の摂理に従っているという意味です。花や蝶の無心の姿に人生を生きる本当の意味があり、さらに全てのものがお互いの立場に応じた役割でつながり、調和を保つことの大切さも教えてくれるように思います。
今年度の本派の教化推進テーマは「同事」です。これは、誰もが分け隔てなく心を通わし、みんなで幸せな社会を築けるよう人の身になって尽くし合うことを説いた教えです。近年、ボランティア活動などに取り組む人々が増えていることは本当に素晴らしく、尊い同事行の一つでありましょう。しかし、特別な事をするだけが同事行ではありません。良寛さんの詩のように日本人の心には自然や他人、社会と調和する精神が刻み込まれているはずです。その心に気付き日々の生活の中で優しい笑顔、思いやりの言葉、親切な行いを実践していくことが大切ではないかと思います。ところが、多くの物質や情報に振り回されることの多い現代人は、なかなか自分の心に目を向けることができず、乱れた心のままで他に幸せの形を求めて迷い、悩むことが多いのが現状ではないでしょうか。
これから迎える夏は多くの人々が海や山へ繰り出す季節です。特に最近は自然派志向で各地に自然体験の施設などが作られています。昨年の夏、私も家族でオートキャンプをしました。これは自動車でキャンプ場内の指定された場所まで乗りつけ、テントを設営し寝泊りをするものです。キャンプ場に着くと多くの家族連れが夕食の準備などをしていました。眼に飛び込んできたのは大きなテントにキッチンセット、テーブルにイス......そして残された多くのゴミ......。まるで都会の生活をそのまま運んできたかのようです。登山感覚で、出来るだけ荷物を持たず、自然にある物を活用すれば良いと考え、板とビニールシートで食事をしていた私達は、周囲の豪華な雰囲気との違いに何か場違いな所にいるようでした。又、近くを通りかかって挨拶をしても、ほとんど返事がなく、すぐ隣にいながらみんなが別々の方向を向いているようで寂しい気がしました。自分達の都合で調和を乱すような立ち振る舞いをしていたのでは、せっかく自然の懐にいたとしても心の安らぎは得られるはずもなく、これも人間の一方的な欲望を満たすためのバランスを崩した文化、思想の弊害ではないかと思います。
紛争、環境問題等、国内外で人類が抱える問題は山積みですが、原因の根本には自分中心のかたよった心があります。お釈迦様はかたよらない調った心を「自性清浄心」と説かれています。鏡のように物事を正しく、ありのままに映し、相手の心と通じ合う優しく大きな仏の心です。その心は生まれながら誰もがいただいているのです。私達はまず心を調え欲を整理して自分自身にも仏様と同じ心が備わっていることを自覚しなくてはなりません。そのためにも自然の姿に学び、仏教の教えに照らし、多くの人々のつながりの中で生かされているといった当たり前のことに感謝して、今を精一杯生きることが大切ではないでしょうか。そして自然や人と調和した本当に心豊かな社会を築くことが共に生きるための同事行であると思うのです。

■母に向き合って
平成十六年六月二十五日の早朝、母が、五年余りの痴呆介護老人生活のはてに、苦悶の跡もない穏やかな寝顔を残して、九十一歳の生涯を閉じました。日々の生活、身のまわりのことを小まめに、几帳面に淡淡とやる堅気な人だった。その母が転んで軽くおでこをうったことが原因で一カ月半入院することになった。これが母の変貌のはじまりでした。この時から、私はこれまでの人生ではじめて、身近に、直接に母という人間と向きあうことになった。戦後まもなく、勤め人だった父が死に、たった一人の弟を八歳で失い、結局母一人子一人の身の上となって、坊さんだった母の父の田舎の寺で、私は十五歳まで育ててもらった。母の苦しみや悲しみ、また喜びを心でも肌でも感じることも少なく、全く頓着なくかって気ままな生活をしてきた親不孝の息子だった。母は、一カ月半の入院で、かえって足腰も弱くなり、痴呆も進んですっかり病人になってしまったようで、退院後は、話すことがだんだんちぐはぐになり、記憶も曖昧で、大きな声でひとり言をしゃべり続ける母を怒鳴ったり、またいとおしくなったり、四六時中怒りと優しさとの葛藤だった。急ぎの用事もなくゆったりした気持ちで母の側にいる時には、とりとめのないことを話しかけたりして、私は、母の過去を思いながら、自分のこれまでの人生を悔恨とともにふり返っている自分に気がつきました。失敗や絶望そして時には喜びのくり返しの人生は、無数の人や物とのかかわりと機縁の中で生かされ導かれてきたんだと思われました。黙々と働いて日暮らしをしてきた母が、私の人生の縁起の根っこのところにいつもいたことに気がつきました。母が死んであれこれと反省と悔恨ばかりではあるけれど母により添い、かみさんと協力し、ヘルパーさん達の助けを借りながら介護にあたってきた中で、お釈迦さまのいう「縁起の理」のことが多少なりとも実感できたことは確かであると思っています。そして、平成十四年から四年間の本山の教化推進テーマが 「四摂事」と定められて、私はこのテーマの実践研修を母の介護に向けていました。
原始仏典のひとつ『シンガーラへの教え』の中にはこう述べられている。 「 一、布施--施し与えること 二、愛語--親愛の言葉を語ること 三、利行--この世でひとのためにつくすこと 四、同事--あれこれの事がらについて協同すること これらが世の中における愛護である。あたかも回転する車の轄のごとくである」  今年はその四番目、「同事」がテーマです。「人の身になって尽くしましょう」と示されています。言葉で示せば簡単でやさしいことのようですが、いざ実行できるかというとなかなかむつかしい。介護にしても、毎日のこととなると母の身になって、優しい気持ち、言葉をもって尽くしましょう、とわかっていても続かない。ともあれ、いろいろあって、いろいろ学んだような気がしています。死の床の母をみて、みんなが「きれいだね。仏さまみたいね」と言ってくれた。かみさんがボソッと言った。「おばあちゃんは、いつも『ありがとう』と言ってたね。きっと、ありがとうと言って旅立っていったと思うよ」  現実の〈ホトケ〉は縁起と慈悲の中にある。その〈ホトケ〉は自分を見つめ、他人と向かいあうところに現れる。そんなことを母が教えてくれたような気がしています。 
 

 

■ハート クリーン クリーン
今日、諸外国におきましても「禅」が「ZEN」に字を変えて定着しつつあります。禅のすばらしさがよその国でも認められた証でしょう。私が修行道場に入門した二十年ほど前にも、禅に興味のある外国人の方が、多く来られ、私たち修行僧と似た生活を送っておられました。そのころ、日本へ来たばかりの白人男性が老師様に片言の日本語で「坐禅をするとどうなるのですか」と尋ねました。私にとっても非常に興味深い質問でどう答えられるか楽しみでした。老師様はその質問に対して、身振り手振りで、胸のあたりを撫でながら「ハート、クリーン、クリーン」と答えられました。私は老師様の動作と言葉で「心の掃除」と思い浮かべました。
私の寺にご先祖のお墓があるおばあちゃんのOさんという方がおられます。年齢は八十歳代でたいへん小柄な方ですが毎朝三キロほどある道のりを手押し車を押して来られます。ご先祖のお参りをすませ、次は周りのお墓の掃除やら草取り、また、花が枯れていれば焼却炉へ捨てにいかれます。まさに自他の区別なく尽くすお方です。このように、毎日世話をして下さるので周りの人も大喜びです。私も感謝して「他のお墓までありがとうございます」とお礼を言うと「仏様は同じですから」と言われました。このOさんにとって「仏様は同じ」と思われる気持ちこそ、自他の区別なく隔てのない行動ができるのだと思います。自分も他人も、皆が幸せを感じる世の中を築いていくためには、まず自分の心の中の二人の調和が大切です。この二人が調和した時、初めて他人の幸せを願えるのです。それぞれの人が、それぞれの方法で、老師様の言われる「ハート、クリーン、クリーン」をみつけて下さい。そうしてお互いが尽くしあえる、住みよい幸せな世の中を築きましょう。

■禅塾の三日間
暑い夏がやってきました。妙心寺派で運営している高校大学生寮である花園禅塾も、長い夏休みに入りました。学生たちはそれぞれの故郷に帰っていき、ここ京都花園界隈もしばらくはセミの声ばかりになります。やっと前期の学校から解放された学生たちは、あわせて禅塾の規則正しい生活からも解放されて、うれしそうに帰っていきました。指導する私たちもほっと一息ついて、この休み中に自坊へ帰り、夏の行事をこなします。思えばこの四カ月間いろいろなことが起きました。それでも過ぎてみれば楽しい思い出です。今の大学二回生たちは一年前には何人かは辞めたいなどと言って指導員や私を困らせてくれましたが、今はすっかり落ちついて兄貴風を吹かせています。時間と環境が彼らを立派な先輩にしてくれます。今年の本派のテーマは「みんなで幸せになれるよう人の身になって尽くしましょう」ですが、共同生活をしている塾生達にはそのままあてはまるテーマです。しかし、人の身になるということは、そんなに易しいことではありません。不生禅で有名な江戸時代の禅僧、盤珪禅師にはこんな逸話が残っています。ある夏、お寺で使っていた味噌がいたんでしまったのです。大梁というお弟子さんが、捨てるわけにもいかないので皆で使うことは構わないが、盤珪禅師は高齢で病気がちだからと、禅師にだけ新しい味噌を使ったのです。ところがそれを知った禅師は、自分だけ新しい味噌を食べる訳にはいかないと言って大梁を叱り、断食をしてしまいます。その部屋の外で弟子の大梁も断食して禅師と共に痩せていきます。このままでは二人とも死んでしまうと弟子たちが必死でお願いして、やっと七日間の断食が終わりました。
本当に人の師ともなるような人は、けっして自分だけいい思いをしてはならないことを、もっとも信頼していた弟子の大梁に教えたのです。言葉だけでなく、本当にみんなで幸せになろう、ともに生きようということを、厳しく教えたのではないでしょうか。そして、禅師は他人が悲しんでいるときには心の底から一緒に悲しみ、喜んでいるときは心の底から共に喜んだと伝えられています。しかし人間の心というものは眼には見えません。誰でも「よかったね」と言いながら、心からそう思っているかは分かりません。「大変だったね」と言いながら、相手が嫌いな人だったりすると、「いい気味だ」と思うことだってあるでしょう。それがいけないと言うのではありません、自然な感情としては当たり前ですね。ところが盤珪さんは、個人的な好き嫌いが無かったのか、誰にでも同じ心で接したのです。そのような心はどこにあるのでしょう。誰にでも優しい心、ときには嫌いな人にだって尽くせる心、そんな心があればどんなに幸せに穏やかに生きられるでしょう。つい昔の人はえらいなあと思ってしまいますね。四月二日、花園大学の入学式の朝、いつものように禅塾の指導員と茶礼をしていました。新入生達は、新しい環境と慣れない生活で、よく体調を壊します。「どうですか彼らの様子は?調子の悪い子はいませんか?」「一回生は大丈夫ですね。ただ二回生がみんな疲労困憊しています。」
三月三十一日、この日までに新入生の荷物が沢山禅塾に届いていました。そこへ新入生が到着します。毎年のことですが、上級生たるものかわいい後輩の世話をしなければなりません。部屋への荷物の運び込みから始まって、必要なものがあるかどうか一緒に調べてあげたり、無ければ手配したりします。夜になるととりあえず明日の入塾式のことを教えます。四月一日、上級生である二回生の世話で、入塾式は無事に終わりました。今度は日常の禅塾行事や大学のことをいろいろ教えます。私や指導員も忙しいのですが、今年も二回生がずいぶん丁寧に、おそろしく親切に動き回ってるなあと思っていました。なにせ見たところほとんどつきっきりで世話を焼いているのです。まるで子離れできないママみたいだと(お母さんごめんなさい)思うほど。そして入学式の朝、二回生ママ三日目にして、世話疲れで疲労困憊したと言うのです。「情けないね、上級生のくせに」「まあそれだけ一生懸命やったということでしょうね」それを聞いてハッとしました。慣れない新入生ならともかく、二回生が三日でくたくたになった。きっと自分を忘れた三日間だったんだろうなあと。夏の雲を眺めながら、今ごろ学生たちはどこで汗をかいているのだろうと、ふと思います。

■同じ事をする時間
子供のころから寺で育った私は、お正月やお盆が来るたびに、他所の子はいいなあと思っていました。お正月は、早朝から起こされ、力一杯ナフタリンの利いたセーターやズボンを着けてもらい毎年のように何もかも小さくなってしまったと体が大きくなったことを喜ぶよりも服が小さくなったことを悔まれたものです。父は、寺の本堂をはじめ、諸堂を巡ってお勤めの真っ最中、上間の間という日常は使わない部屋にこれまたナフタリンの臭いのする座布団の上に坐って父の勤行が済むのを待ちます。この日ばかりは、長時間も坐っていると船酔いしそうな厚さの座布団ですから落ちつきません。姉たちも同様で、神妙な顔つきで似合わない服で坐っています。父が来て、正面のダルマさんの画像に頭を何度も下げ、こちらを向いて坐ると母がやって来ます。父は冗談で嬶登場と言っていました。父から順に上等の湯呑茶碗に入った梅干しと砂糖入りの湯に割りばしの片割れを付けて配ります。最後に母が自席に着き少しすると、父がいつもの「勉強したか」という声とは違った重みのある声で、「新年、明けましておめでとうございます。今年も家族一丸となって元気でしっかり励みましょう」といったことをもう少し難解な言葉で話し、一斉に「おめでとうございます」とあいさつをして元旦祭が終わります。友だちにこんなことをするか尋ねても誰一人としてしている家はありませんでした。この後の朝食も、家族それぞれの箱膳を出して、お雑煮やお煮しめをついでもらって食べたことを思い出します。思えば昔から私たちの子供のころまでずっと続いていたのでしょう。大人も子供も家族がみんな同じことをすることによって、一致団結、心を一つにするということの大切さを教えられていたのです。
また、母は、夕食の時など世間のどちらでもいい話を次から次へとしてくれました。どこそこに牛どろぼうが入ったとか、誰かさんの娘が東京へ行きたいというのを都会は危ないといって家族や親類が止めているけど聞かないとか。そうした中でも、ケガや病気の話では、「まあちょっと、誰それさんのおばあちゃんがひっくり返って顔をすりむいて腰の骨を折ったって、痛かったやろうなあ。我が身やないけどぞっとするわ」と。他人のケガや病気、さらに不幸な話には、必ず「我が身じゃないけど」と呪文を唱えてでも感情移入して、その状況によっては涙を流していました。思いやりや優しい心は、他人が転んだりケガをした時でも、痛かったやろなあとか、辛いやろなあといった心を動かす日ごろの生活が育てるのでしょう。同事というのは、相手や他人の立場に立って思い考えられるということです。さて、さらに一歩を進めてみますと、だからどうするということになってくるでしょう。自らを調えるということは、自分を調えるということでしょう。私たちの呼吸は、精神と肉体とをつなぐものだといわれます。簡単に言いますと、血圧や脈拍もそれ自体は変えられなくても、呼吸の多少や強弱で、血圧や脈拍数が変わるというのです。それによって心も落ち着き、安心が得られるのですから、呼吸によって心身が調うといわれるのです。生活の乱れは、家庭や家族の乱れに通じます。食事の時間や家風の乱れが、親子や兄弟の間にも大きな溝を作っています。兄弟姉妹の仲たがいの元凶は、両親の兄弟姉妹の比較や不平等な扱いが大きな理由なのでしょう。個々が自分勝手を通してきた結果が、家庭を集合場所でしかないものにしたのです。同事というのは違わない事、せめて家族だけでも同じ事をする時間や行事を多く持てるようにすべきなのです。お兄ちゃん思いの弟、妹思いの姉の姿は、両親の他人を思う心の投影でしょう。さらに一歩を進めて、他人のために他人が喜んでくれる行いを実践するという、両親が他人のために何かをしている姿が、やさしい思いやりのある子供や人を作るのです。

■自らも成り切る
平成十四年度からの〈禅 自らを調え、生活を調えましょう〉というテーマも今年度で四年目を迎え、いよいよ最後の年となりました。過去三年間のサブテーマとして、みんなで幸せになれるよう、喜びを与えましょう(布施)・優しい言葉で語り合いましょう(愛語)・心のこもった助け合いをしましょう(利行)というテーマを通して、自らを調え、生活を調えられてこそ、人間はみんなで幸福になれるということを追究してきました。そして今年はその集大成となり、最後のサブテーマとしては、〈みんなで幸せになれるよう、人の身になって尽くしましょう〉ということです。これは〈同事〉ということになります。同事とは、他人と協力すること、形を変えて人々に近づき行動を共にする、等しく行動をする。あるいは同じ仕事にいそしむとあります。しかし、ただ他人と行動を共にすればよいということではありません。悪いことをする人たちに協力してはなりませんし、また、そういう人たちと等しく行動をしてしまっては、それは同事にはなりません。悪の道に迷っている人がいたならば、その道から救ってあげられてこそ同事という行いになるのです。迷える人々、救いを求める人々に自らも成り切り、その迷いを断ち切るという、菩薩様が一切衆生に成り切って、迷える人々を救って下さるという菩薩行、これこそが同事ということではないでしょうか。
ここ数年、世界中ではたいへんな災害が多く発生しています。スマトラ沖地震による津波。テレビの映像を見ているだけで身が震える思いでした。国内でも何度も上陸する大型台風による被害、新潟中越地震、福岡県西方沖地震等大災害が発生しました。各被災地へは多くのボランティアのグループが出向き、被災をされた方々のために一生懸命に活動をされたようです。こういう活動はたいへんすばらしく、これこそ同事であると一見思われるのですが、そうでない所もあるのではないでしょうか。私は阪神大震災の時、本山からのボランティアに参加させていただきました。拙寺の檀家が灘区にあり、当然のこと被災されていました。そのお見舞いにも行きたく、ぜひ参加させていただきたいと思ったのです。神戸の各被災地へは各地から多くのボランティアのグループが懸命に活動をされています。私たちは祥福僧堂へ投宿させていただき、兵庫駅前にテントを張り、うどん等の炊き出しをしました。被災者の方々にはたいへん喜んでいただき、私は本当に来てよかったと感じていました。昼間になるとテントの中はいっぱいになり、慌ただしくなります。被災者の方々の待ち時間も長くなってきました。その時、「早ようしてや、さっきから待ってるやん」という声が聞こえたのです。その言葉を聞いた時、私の心が変化しました。顔はきつくなり、言葉も少し乱暴になってきたのです。私はボランティアに参加させていただきながら、もっとも大切な、同事ということを忘れていたのです。救いを求める人々に成り切るということを完全に忘れていました。一生懸命のつもりが心のどこかで「させていただいている」という思いではなく、「してやっている」という被災者の方々と同じ立場ではなく、自分の方が強い立場にあるという気持ちがあったように思えてなりません。同事とは自らも成り切るということです。自分も同じ立場に成り切ってこそ真実なる同事という行いが生じてくるのです。そのためには四年間追究してきました。
「禅 自らを調え、生活を調えましょう」ということを充分に理解していくことが大切であると思います。自らを調え、生活を調えられてこそ喜びを与える布施。優しい言葉で語り合える愛語、人々に利益を与える利行。そして人の身になって尽くすという同事という行いができるのではないでしょうか。みんなで幸せになれるよう日々の生活の中でぜひ実践していきたいものです。

■とっても青い、月
今日も慌ただしく一日を終えて、ふと空を見上げると、そこには驚くほどに青い月が煌々と輝いていました。そのまん丸い月が、あたり一面を明るく照らし出している。その光景が、何か不思議な心持ちへと誘ってくれたのです。懐かしく思い出されたのは、十七年前の秋に亡くした祖母のことと、当時の大学の学長、盛永宗興老師のことでした。入学と同時に、僧侶になることを目指すために厳しい規則の掲げられた学生寮に入らねばならなかった私は、それまでの甘い生活とかけ離れた寮生活に大変な苦痛を感じていたのです。今すぐにでも寮を出たい、という思いを電話の向こうの家族にいつも愚痴をこぼしてばかりいたものでした。それでも何とか、二年間の寮生活を無事に終え、四回生になるころには悠々自適な学生生活を謳歌していました。ところがその年の秋、いつも可愛がってくれた祖母が息を引き取ったとの連絡が突然入ったのです。祖母は寝たきりの晩年を送っていました。あわてて家路に就いたものの、祖母の最期を看取ることは叶いませんでした。その枕元を囲んで家族から聞かされたことは、一人京都に住む私のことを「京都での生活は大丈夫なのか」と、来る日も来る日も心配ばかりしていた祖母のことでした。今日まで、亡き祖母の「心配せずにはいられない、見守ってあげたい」という祖母に支えられていたのだと、このときはじめて気づかされたものです。
時を同じくして、当時の学長、盛永宗興老師から、いつも「こころ」の大切さを教示されていました。厳しさの中にも常に笑顔を絶やすことのない老師は大学での最終講演の中で、「君たち学生が、陰で何をしているかわからん。とんでもない悪いことをしているんだろうけど、ワシは君らのことが可愛いくて、可愛いくて仕方がない。もう会うこともないかもしれない。これからの人生、どんなことがあっても、絶望してはならんぞ。君たちには裸のこころがある」と仰られたことが私にとって最後の言葉となり、またその言葉はそのまま祖母からの願いでもあったように思われました。お釈迦さまは、私たちには本来生まれながらに、清らかな澄み切ったこころ、仏心があると諭されました。また、そのこころは、思いやり慈しみに満ち溢れ、他を温かくするこころであるとも説かれました。私たちの心は、様々な状況によって喜怒哀楽に揺れ動きますが、それは自分の都合と立場に振り回された迷いの心です。老師の言わんとされた「裸のこころ」こそ、私にも具わるとお釈迦さまが諭された清らかなこころ、仏心のことでありましょう。
吾が心、秋月に似たり 碧潭清うして皎潔たり ・・・ と、中国の詩人「寒山」も詠います。本来のこころは、すっきりとした秋の月のように、また青々とした清らかな深い水のように、どこまでも清浄無垢で清らかだ。寒山の詠う清浄無垢なこころとは、老師の言われた裸のこころと相違ありません。その裸のこころを持つために、私は自らを調えていかねばならないのです。自らを調えるとは、自らの清浄無垢な裸のこころを信じ、自分と他人の隔たりの中にあるからこそ、自らの都合や立場だけに振り回されないように努めていく行を修めていくことだと思います。さて今夜も、とっても青い秋の月が、祖母となり老師となって私を戒めてくれているのです。

■笑顔って素晴らしい
その人の笑顔を見なくなって、幾月過ぎたでしょう。その人の子供達は独立し、ご夫婦二人だけでの生活でした。ご主人が定年で退職し、自由な時間を持つことができるようになり、二人で旅行したり、畑や花を作って、楽しい日々を送ろうと話していた矢先、ご主人が脳溢血で倒れられて入院されました。それからその人は、家を畑を守り、一日一回は車で四十分はかかる病院へ行かれる日々が続きました。そうしますと、徐々に心に余裕がなくなり、自然と顔つきも険しくなり、化粧もせず、心身共にお疲れの様子が窺えました。月に一度、お家にお参りに行っていたのですが、それからは愚痴の聞き役です。何もそんな状況にあるのは、貴女だけじゃない、もっともっと大変な方もおられると、例をあげて話をしたり、仏教の話もするのですが、まるで耳に入らないのです。ただうなずくばかりで、自分の不幸をわかってもらいたい一心のごとく、とうとうと話すのです。このままではその人も倒れてしまう。何とかできないものか。教え説いても一向に効果ありません。本人が気づく以外ないのだろうか。そうして半年が過ぎて行きました。お参りに行くのも何となく気後れしがちでした。
ところが、ある日お参りに行くというと、その人はきれいに化粧しておられるのです。身体の調子が良いのか、良いことがあったのかニコニコして迎えてくれるのです。話をしていて私が冗談を言うと(それまではあまり通じなかったのですが)ニッコリと微笑み、笑われたのです。あっ誌ホ顔が戻った。無邪気な笑顔、非常に素敵で美しく感動すら覚えました。「奥さん、奥さんの笑顔って、ものすごく美しいですね。」と、思わず言うと、「和尚さん、またお上手言って。」と、余計笑われるのです。そして真顔になり言われました。「和尚さん有難うございました。いろいろ教えてもらいましたが、それはすべて他人ごとだから言えるんだ。当事者になればそれどころではない。これから二人で人生を楽しもうと思っていた矢先、こんなことになり、毎日毎日その日を送るのがやっとでした。余裕なんてありません。なぜこんなことになったのだろう。何も悪いことなどしていないのにと、身の不運を嘆くばかりでした。ところが先日、病室の花を換えようと洗面所に行き何げなく鏡に映る自分の顔を見てビックリしました。化粧もせず、こんなきつい顔をして毎日主人のところへ来ていたのかと、愕然としました。和尚さんが言われていた『化粧もお布施ですよ』の言葉を思いだし、昨日は久しぶりに化粧を念入りにして主人のところへ行ってきました。そしたら和尚さん、主人が『お前、今日は綺麗だね。』って、充分に言えない口で、笑顔をつくって言うのです。
病院で寝たきりの主人の方が、もっともっと辛い思いをしているのだと気づきました。本当に自分のことばかり考え、心が歪むところでした。主人の笑顔を見た時、ホッ獅ニしました。それで和尚さんがよく教えてくれていた、お金がなくても、この身体さえあればできるお布施(無財の七施)を書いて下さい。主人にもその教えを知ってもらいたいのです。」さっそく無財の七施(和顔悦色施・眼施・言辞施・身施・心施・牀座施・房舎施)と、解説を書き、お渡ししました。御主人もリハビリに励んでおられ、お二人で旅行に行かれるのも遠いことではないでしょう。その人が思っておられた人生の楽しみを経験できるでしょう。しかし、後々になって自分をふり返り、自分の幸福な時っていつだっただろうと考えた時、きっと、ご主人が病に倒れ、完治を願いなりふりかまわず過ごした日々、苦しく大変だったけれど、幸福だったと気づかれると私は願い思っています。笑顔って、雪を融かす春の日差しのごとく、かたくなな心を解かしてくれます。
私に下さい、あなたの笑顔を、そして上げて下さい、まわりの人達に。

■悟りとは何か?
明けましておめでとうございます。〈悟りって一体何だろう?〉と思っておられる方には、さらにおめでたい朗報です。西片義保管長さまは、この疑問にズバリ答えて下さいました。
悟り(サトリ)とは何か? それは差(サ)を取り(トリ)去ることだ ・・・ 私は、身体に電気が走るような感動を覚えました。語呂合わせだけではなく、「悟り」を見事に言い当てていらっしゃると思ったからです。私は、身体に電気が走るような感動を覚えました。語呂合わせだけではなく、「悟り」を見事に言い当てていらっしゃると思ったからです。「差を取り去る」とは、自分の思いをカラッポにして、状況や相手の気持ちをそのまま受け止めることです。実は、これが今年度のサブテーマ、「同事」の教えなのです。状況や相手の気持ちをそのまま受け止められれば、それらに対して正しく対処できます。正しく対処できるとは、すなわち人の身になって尽くせるということにつながります。
「苦しい時の神だのみ」とはよく言われますが、神様は休業の日もあるでしょうから、そんな時は「苦しい時の差取り」と覚えていただきますと、ご利益があると思います。私が瑞龍寺専門道場へ入門して一か月ごろのことです。あわただしい毎日のくり返しで、少しイヤ気がさしていました。その日も、午後三時になると風呂を焚き付け、本堂に向かいました。香炉の灰を直すためです。香炉は、朝のお勤めの時、老師が焼香をされるので毎日よごれます。ですから、毎日清掃しなければなりません。香炉の灰は、ちょうど富士山のように円く盛り上げ、上部を平らにして炭を置けるようにします。これをバターナイフのようなもので整えるのです。時間が過ぎ去っていくので焦ります。すると形が崩れます。〈面倒くさいなあ〉と思いつつも、自分の納得できる形に整えると、台所に戻って夕飯の支度を手伝っていました。
夕方、老師が風呂から出られて、「出たよ」と声をかけられたので、「はい」と返事をしました。すると、前方から副司(会計)さんが通りかかったので、老師が声をかけられました。「あっ、副司さん、今香炉を直しておるのは誰かな?」 「はいっ、秀ソです。今度新しく入ってきた雲水です。」 副司さんが答えると、「そうかな」と言われて部屋へ帰って行かれました。全く信じられないような会話でした。副司さんの言う「秀ソ」とは私のことなのです。 〈老師は見ていて下さったんだ!〉私は全身が熱くなるのを感じました。副司さんへの問いかけではありましたが、明らかに私へのメッセージでした。おかげでイヤ気がさしてきた作業も、前向きに取り組めるようになったのです。
老師は禅問答の時、自ら叫んで答えを言ってしまわれることもありました。また、緊張感がないと見て取ると、何も悪くないのに叱ったり、逆に失敗しても本人が反省していると見れば、注意をされませんでした。ご自身も修行され、相手との差を取り去ることによって適確な指導をされたのだと、今は思い返されます。まさに生まれようとする雛鳥が卵の内側をつつく時、外側からつついてカラを割る親鳥のような、そんな「同事」の方でした。老師をお手本に生きるには、「差を取り去ることだ」と知りました。職場や家庭で意見が異なりますと、自己主張をし合って平行線をたどることがあったのです。しかし、心の引き出しから管長さまのお言葉を取り出しますと、「考えは違って当然なんだ、相手はそう思っているんだ」と差が縮まって、口論にならず解決の糸口が見い出せそうです。皆様のご家庭では、食事や子どものしつけ、生活習慣の違いなどで、意見が異なることはありませんか? 年頭に当たり、「悟りとは差を取り去ることだ」と心の引き出しに納めておいて下さい。きっと老師のように良いアドバイスができ、良い一年になると思います。

■食べ物の幸せ
ある方が、お寺の講演でこう話されました。「私は、食事の時のナイフとフォークがどうもなじめません。ナイフは食べ物を切り刻む道具でしょ? フォークは食べ物を突き刺す道具でしょ。それに比べて日本人の使う『箸』は、なんて食べ物にやさしいのだろうと思います。ほぐす、はさむ、運ぶ...。日本人は長いこと、こうして食事をしてきたのです」 箸が食べ物にやさしい、というこの感覚は、私には感動にも似た新鮮な驚きでした。『ミカン』という詩にこんな一節があります。「つややかな/つぎめひとつない/きんのかわを/ひきむきながらおもう/こんなにぞんざいに/ミカンをひきむいてしまって...と」いかがでしょう。ミカンを見て「つぎめひとつない きんのかわ」と、とらえたのは、『ぞうさん』の詩人、まど・みちおさんです。こんなふうに見つめられて掌に乗り、思いやられて食べてもらえたら、ミカンだってやっぱり幸せだろうと思うのです。食べ物への慈しみが伝わるお二人の感性にふれ、こういう感覚は、日本人の宝物なのかもしれないなと思いました。思えば、食事をする時の「いただきます」という挨拶も、物を頭上にかかげて頂戴する「いただく」という、へりくだった態度からきています。食べ物の命をいただくという、謙虚さと、相手への感謝の気持ちがこめられているのです。禅の修行僧が使う食器を持鉢といいます。重ねるときれいにひとまとまりになる大小五つ組みの黒椀のセットですが、この持鉢を使うにあたって、大変な決まりがあります。信じられないかもしれませんが、それは、「洗ってはいけない」というルールなのです。ところが、この決まりを守りながら修行していても、お腹をこわすことはありません。なぜでしょう? それは、食べながら持鉢の中をきれいにしてしまうからです。
修行道場では、食べ残しは許されません。持鉢に付いた一粒のお米さえも残しません。それどころか、食後に熱湯を注ぎ、たくあんを使って御飯のかけらをていねいに落とし、最後にはお湯と一緒に飲んでしまうのです。そして、最後の仕上げに清潔な布巾で拭き上げれば、持鉢は、洗う必要がないほどきれいになります。洗う必要がないということは、捨てる残飯がないということです。食べ物のかけらさえ、無駄にならないということです。この持鉢の扱いでおわかりのように、私たち宗門では、食事を「命をいただく儀式」ととらえ、大切にしています。修行道場で食事の前に上げるお経は、食べ物に対する感謝の言葉であり、食事を口にするに値する生き方を自分がしているかの反省の言葉であり、貪らない・好き嫌いをしない誓いであり...命をいただく以上は、私が責任を持って活かします、という強い決意が込められています。食事中は、会話厳禁です。持鉢の音をカチャカチャさせることも、たくあんを噛む音さえも遠慮します。それは、わたしたちの前に、尊い尊い命を投げ出してくれた、お米や野菜を思いやってのことなのです。お釈迦さまは、「一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安楽であれ、平安であれ」と説かれました。さらには、「母が、命の限りおのが一人子を護るように、そのように一切の生きとし生けるものに対して、無量の慈しみの心を起こすべし」とも。(田辺和子訳スッタニパータ『慈経』) 私たちの回りは、「生きとし生けるもの」にあふれています。日頃より体を調え呼吸を調え、そうすることによって次第に調っていく心、こだわりやとらわれのない心で、相手の立場にわが身を置いていく。たとえそれが、食べ物の命に対してであろうとも、です。私達はみんなが幸せになれる「同事」の教えを、こうしてまず毎日の食事の場でも、実践することができるのです。

■見えないところが大切 三つの行いの話
みなさん、おはようございます。今日は、「目に見えないところが大切です。毎日、感謝の心で暮らしましょう」というお話をさせていただきたいと思います。お釈迦さまは、人は生れによって立派な人や、愚かな人になるのではなく、行いによって人は優れた人になり、劣った人にもなると教えて下さいました。まず今日は、この行いということについて、お話しさせていただきたいと思うのですが、いわゆる三つの行い(三業)ということであります。行いには、三つの種類があるというのです。身体の行い(身業)  口の行い(口業)  こころの行い(意業) ・・・ この三つの行いが私たちの人生を作ってゆく。これが仏さまのみ教えであります。順番に考えていきましょう。
第一 身体の行い(身業) これはとてもよくわかります。この身体を使って歩いたり食事をしたり、一生懸命働いたり、すべてこれは身体の行いであります。普通、行いというのはこの身体の行い(身業)のことでありましょう。
第二 口の行い(口業) これは私たちが話している言葉であります。「おはようございます」という挨拶、「ありがとうございます」という感謝の言葉、その他その他。そのひとつひとつが口の行い(口業)であります。さて、この身体の行いと言葉は、目で見ることができるし、耳で聞くことができます。世間は普通、この二つの行いによって人を判断します。あの人はいい人だとか悪い人だとか。そして、それでいい気持ちになったり反発したり。でも行いはこの二つだけではないとお釈迦さまはお示しになりました。身体の行いや言葉よりも、もっと大切なもの、それは、
第三 こころの行い(意業) あまり聞きなれない言葉ですけれど、こころの行いというのはどういうことでしょうか。例えは少し悪いのですが、私がどうしてもゆるせない人があって「あの野郎殺してやりたい殺してやりたい」と千回、一万回こころの中で想っても、毎日毎日それを想い続けても、警察は私をつかまえることはできません。心の想いは法律上の罪ではありません。法律上の罪ではありませんが、その「殺してやりたい」という想いが、真理の立場から見たら行いであり、それが見えないところで私たちの人生を作っている。これがお釈迦さまのみ教えであります。お釈迦さまは、身体の行いや言葉よりも、このこころの行いが最も大切であると、お示しになっているのです。
私どもは、人の見ているところでは、そう悪いことはしません。でも、人の見ていないところが大切なのです。人の見ていないところ、こころの中で、毎日どのような生活をしているのか。ここがまさに幸福と不幸の分かれ道なのだと思います。妙心寺の生活信条に「生かされている自分を感謝し、報恩の行を積みましょう」と教えていただいております。人の見ていない、こころの中で、いつも「ありがとうございます」という感謝の想いをもって、光の心で暮らすことをお互い練習してゆきたいと思うのです。朝目覚めたら、ふとんの中で数分間「ありがとうございます」と心の中で、感謝の祈りをしましょう。ありがとうございます、ありがとうございますとしばらく唱えていますと、心の中に明りが灯ります。その光の心で毎日ふとんを出ることを、習慣にしていただきたいと思います。そして一日の生活のいろいろな場面で、この「ありがとうございます」をこころの中で唱えていただきたい。夜は「ありがとうございます」を想いながら眠りにつく。目に見えないところを大切に、感謝で始まり感謝で終る一日。それが幸福への一番の近道であると私は信じます。

■唯我独尊
四月八日は、お釈迦さまがお生まれになった日です。私たち、いや全人類にこの上ない尊い教えを下さった、お釈迦さまの誕生日をお祝いする花祭りに、誕生仏をお祀りし、甘茶を灌いでお供養します。お釈迦さまは、お生まれになるとすぐ、両手で天と地を指さし「天上天下唯我独尊」と称えられたといわれています。それを形に現わしたのが、花祭りでお祀りする誕生仏です。それでは「天上天下唯我独尊」とは、一体私たちに何を教えていただいたお言葉なのでしょうか。昨年、ある老人会でお話をする機会をいただきました。そこにはいわゆる老人の方々と、お世話をなさる中年の方々が居られます。第二次大戦が終って今年で五十八年になりますが、終戦前後の何も無い苦しい時代から今日に至るまでには、いろいろと便利なものが出て来て、ずいぶん暮らしも楽になってきました。自分のお家で、何が使えるようになった時が嬉しかったでしょう?と聞いてみました。すると、女性方は洗濯機が第一でした。そして、電動ミシン・冷蔵庫・テレビそれもカラーテレビ・温水器・ガスレンジ。男性は自家用車・コンバイン・携帯電話・パソコンと出てきました。まだまだここには書ききれない程、多くの物が生活を支えてくれるようになってきたことに、みんな改めて気づかされたのでした。そこで、五十余年の間にこれ程豊かになったのだから、皆さん方はさぞ幸福を感じながらお暮らしでしょうね?と問いかけますと、一瞬にして皆さんの顔つきが変わり、お互いの顔を見合わせ、「いや昔の方が幸せでした、今は幸福という実感が薄くなった」と......。これはある老人会での一コマですが、このようなことは、読者の皆さんも大なり小なり感じておられることでしょう。
戦後の苦しい頃は、石けんで洗濯板を使って家族みんなの洗濯をしていた、田んぼは牛を使って耕し、家族総出で稲を刈った。苦しかったけれども、今より喜びがありました。自分の体を動かして、何でもこなしていたのに、自分の代わりに機械やエネルギーがやってくれるようになって、結果的には人間の能力がそれだけ低下してしまいました。人間は機械やエネルギーだけでなく、他の人に依存して生きるように変わってきたのです。また、情報化した社会では、体験を通して得た実感が乏しくなり、情報によりかかって生きる度合いが高くなってきています。近代化という言葉には、何か明るい方向に変わっていくようなイメージが持たれています。けれども、私たちをとり巻く環境は、決していい方向に変わっているとばかりは言えないようです。他の人間や、道具や、エネルギーに寄りかかり、情報に流されて、自分の手応えで喜びを感じることが難しくなってきています。原点にたち帰って、自分を見つめ直すことがどうしても必要です。
おのれこそ おのれの救主 おのれこそ おのれの帰依 されば まこと商侶の よき馬を  ととのうるがごとく おのれを制えよ (法句経三八〇・友松圓諦訳)
このように、ととのえられた自分以外に何ひとつ頼りになるものはありません。欲望、我執をはなれて自らをととのえていれば、他に依存することもなく、失望することもなく、生かされている自分を喜び、感謝し、報恩の日々を送ることができるでしょう。それには、現代の世相に毒されないように、日々静かに、己をととのえる時間を持ちたいものです。お釈迦さまが天地を指さされているお姿は、欲望、我執にまみれた一人ひとりの中に、何ものにも優る尊いものをいただいていることをお教え下さっているのです。 
 

 

■こころの平和
五月五日は、端午の節句の日です。この日はまた、日本が世界に誇る大医学者で、またたいへん親孝行で有名な、野口英世博士が、北アフリカで黄熱病原を研究中、同病に感染して亡くなった日です。第一次世界大戦が始まったのは、大正三年で、彼が三十八歳の時です。その当時、彼が知人にあてた手紙が残っています。今それを読んでみると非常に感慨深いものがあるので、彼の命日に当る今日みなさまと共に読んでみましょう。
今回の欧州大戦争は......世界人類の大禍災にこれあり、いまさら人生の浅ましさをさとらせ申し候。日本もついに引きこまれ、内には民力を捐じ、外には敵をつくるのやむなきに至るならんかと思われ候......平和の方法にて同一の目的を達するは、戦争によれるよりも非常の偉功と思われ候
だれしも「平和」を口にしますが、野口英世博士からこの語を聞くと、とくに強い感動を受けるのは、彼の人格とひたむきな学究の精神によるものでしょう。一人ひとりの心が平和にならなければ、真実の世界平和はないaとユネスコ憲章が明言するところです。私達は、外に向って「平和」を叫ぶと共に、自分の心も平和であるように努めましょう。たまたま、五月一日はメーデーであると共に、中国の十七世紀の思想の書『菜根譚』が世に出た日でもあります。この書は、儒教の思想を中心に道教や禅学を織りこんだ処生哲学書です。その中に、他を責めるときの心得があります。他を批難するとき、とかく昂奮して平静を欠くことを戒めるのです。その一例を口語訳してご紹介いたします。
人の悪を責めるのに、ひどく厳しくしてはならない。その人が受けとって背負うことができる程度にするように考える必要がある。(前編二三則)
叱責する者は、つねに心が平穏である必要を説くのです。オーバーな叱責は相手にとって過重になるからです。叱責も度が過ぎると心の武器になります。また同書は、他に善をすすめるのにその人が必ず実行できるように、愛情をもってせよ、と説いています。悪をするからと怒って暴力を振うのは論外です。『法句経』に「おのれを調えよ」と説かれるゆえんです。端午の節句に当り、私はとくにこの思いを深くいたします。

■生き場所がここにもあった 屋根の草
屋根の草......屋根に生えた雑草はえらいものです。あんな瓦の狭い隙間に根を下ろし、その命の枯れるまで不平不満をいうでもなく、ただ一所懸命に生きております。これが私たち人間だったらどうでしょうか。さぞかし「ここは狭くてかなわん」「夏は暑くてたまらん、冬は寒い」といった具合に文句や不平不満が絶えないのではのではないでしょうか。この屋根の草のように、どんな生活や境遇にあっても、周りにとらわれない自由な自分自身で、常に主体性を持った生き方を、禅では「随処に主と作る」と言います。私の寺の檀家さんで、ガンに冒され、やがてやって来る「死」という苦しい随処に立たされながらも、その辛さから逃げずに、最後まで自分を決して見失わず、冷静にそれを迎え入れることができた方のお話を紹介します。この方は大門重一というおじいさんで、いつでも「自分のことより、まず、みんなのために」がモットーの、実に気持ちのいい方でしたので、子供からお年寄りまで、たくさんの方々から慕われておりました。このおじいさんは数年前にガンで亡くなられましたが、亡くなる二年前、八十三才の時に医者からガンの告知を受けました。その時おじいさんは、自分の家族に「心配はするな。自分は今までにやりたいことは全てやった、思い残すことは何もない。それにワシは、あのお釈迦さまや父親よりも長生きさせてもろうた、有り難いことだ。これからは残された一日一日を仏らしく生きたいと思う」と静かに話したそうです。
もともと深いご信心の持ち主でしたが、それからも抗癌剤の投与を受けながら、お寺の法要などの行事には欠かさず出席されました。しかもなんとガンでありながら高齢者大学へ通い始められたのです。そして一年後、その卒業式で、おじいさんが大学の学長から表彰をされている様子がテレビで大きく映し出されたのですが、それを見ていた周囲の人たちはとても驚いたそうです。年をとってガンに冒され、肉体的にも精神的にも難儀だったろうに、それでもなお学ぼうとする前向きな姿勢。自分で自分の生き方を決めて、それを実行する。この生きざまに脱帽せざるをえませんでした。その後、おじいさんは入院されました。おじいさんにはガンの激しい痛みがあったのですが、面会に訪れた人には、愚痴や苦情は一言ももらさず、いつも笑顔だったそうです。そして面会の人が帰る時には、必ず合掌して「さようなら」と拝むのでした。そうして最後は、家族に見取られながら人生の幕を閉じられました。それは、お釈迦さまがお悟りになられた成道会(十二月八日)の早朝、まさに最後まで仏らしい生き方でした。
おじいさんは、残されたご自分の寿命というものを極めて冷静な目で見つめ、残された人生の一日一日を投げやりではなく、最後の一日まで精一杯に生き抜こうとされたのです。すなわち、ガンという、まるで死を宣告されたような重い病の中にあっても、決して自分を失わず、最後の最後まで随処に主と作って、ガンという病気に振り回されるどころか、逆にガンと言う病気を縁として自分の人生を主体的に自由自在に操られたのでございます。禅では「今、ここ、わたし」と言って、今、この場所から、己のなすべきことに私事を挟まずただ淡々とやって行く、これが皆さまの日常の修行なのです。省みれば日々過ちの多いお互いではございますが、今の自分に何ができるのかを考え、それに向かって努力しようと思った今、そこが禅の入り口であり、私が立っている所、坐っている所を除いて他に真実はありません。私たちも、いずこにおいてもどんな逆境に立たされようとも、活き活きと生きて行けるようにしっかり精進して参りましょう。

■おかげさま
日本人にはもう「みんなが幸せになれるような心のこもった助け合いをしよう」という精神がないのではないかと危惧していました。しかし、阪神淡路大震災の折には、現地に大量の救援物資が集まり、大勢のボランティアが復興支援をして、人々に善意や誠意というような人情が豊かに具わっていることを証明しました。時が経つにつれてその記憶がうすれていきますが、人々の善意は、例えば「小さな親切」運動というような目立たないところで生きづいています。「小さな親切」運動は、「できる親切はみんなでしよう、それが社会の習慣となるように」をスローガンに、昭和38年6月13日に発足しました。会員によって推薦され「小さな親切」実行章を受章した人は、平成15年11月現在、437万人を超えたとのことです。助け合いの心は薄れていないことを実感します。
この運動は、1朝夕のあいさつをかならずしましょう。  2はっきりした声で返事をしましょう。  3他人からの親切を心からうけいれ、「ありがとう」といいましょう。  4人から「ありがとう」といわれたら、「どういたしまして」といいましょう。  5紙くずなどをやたらにすてないようにしましょう。  6電車やバスの中でお年寄りや、赤ちゃんをだいたおかあさんには席をゆずりましう。  7人が困っているのを見たら、手つだってあげましょう。  8他人のめいわくになることはやめましょう。  という八か条を掲げ、誰でもいつでもどこでもできることから始めようと呼びかけています。この中の「他人のめいわくになることをやめましょう」という呼びかけは、一見消極的ではありますが、助け合い精神の根本だと思います。私は、これに「他人のめいわくになることをしてしまった時は素直に『ごめんなさい』と言いましょう」というのを加えたいと思います。先日、いつも入れている引き出しに爪切りが見あたらないので、てっきり妻が使って元の場所に返さなかったと思い込み詰問したところ、「自分でテレビの上に置いたんでしょ。ボケたんじゃないの」と斬り返され、ついカッとなって口論がエスカレートしてしまいました。
最初に自分の思い込みの非を認めて素直に「ごめん」と言えば無事に済んだのですが、「ボケたんじゃないの」の一言が謝らずに我を張る後押しをしたのでした。しかし、あらぬ疑いをかけて不快な思いを起こさせたのが私の思い込みであったことは確かで、それをスッカリ忘れていたのですから、やはりボケてるのですね。『論語』に「過ちては則ち改むるに憚(はばか)ることなかれ」という語がありますが、私にとっては過ちを改める以前に、相手に迷惑をかけたという過ちを過ちと素直に認めることが必要だったのです。もし素直に「ごめんなさい」と言えたら争いは少なくなるでしょう。そのような素直な心で世の中を見ると、自分一人の力で生きているのではないと気付き、「おかげさま」という気持ちが生まれるでしょう。そのような気持ちがあれば、人が困っていればきっと手伝うでしょうし、みんなが幸せになれるよう心のこもった助け合える住みよい社会をつくることができるでしょう。そこで花園会員の皆様には、あらためて「おかげさま」運動の推進を提案したいと思います。

■世界の平和を祈ります
鳩の死体がお寺の庭に落ちていました。火ばさみで掴んで動物の塚に埋めて、お葬式をしてあげました。そのころ小学2年生でありました孫の女の子が、じっと様子を見ていて、みみずやごきぶりはどうして拝んであげないのと言うのです。それを聞いたとたん、私ははっと胸を突かれた気がしました。この子はなんて無邪気で素直で思いやりの深いよい子なのだろうとびっくりしてしまいました。さて私たちはお互いにかけがえのない尊い生命をいただいています。世界に何十億人もの人々がいますが、その中に誰一人として私に代わって、おしっこもうんこもしてはくれません。代理はきかないのです。ですからあらん限りの注意を払ってこの生命を育て養い全うしたいと思います。さらに考えを押し進めていきますと、これは人間だけに限ったことではありません。動物も植物もさらに無生物さえも皆かけがえのない生命の持ち主なのです。お釈迦様がお悟りを開かれました時、力強いお言葉で「一切衆生悉(ことごと)く仏性あり国土草木悉く皆成仏す」と申されたと伝えられています。すべてありとあらゆる生き物が仏様の心を持っており、石ころも土くれも草も木もみんな仏様のお姿だということであります。死んでいた鳩もみみずもごきぶりも、物を言いませんから、拝んであげても、どんな気持ちなのか聞くことができませんが、きっとああ有難いことだと感謝していることでしょう。いやきっと感謝しているはずだと思えばひとりでに心が和んできます。ひとりでに思いやりの心が深まる感じになります。この心を深める道を考えていきましょう。
ご本山では"生活信条"と"信心のことば"それぞれ三ヶ条を定めてその徹底に努めていますが、その生活信条の第一に「一日一度は静かに坐って身(からだ)と呼吸と心を調えましょう」と示されています。心を調えることが一番の目標で、そのための工夫について条文に従ってお話を進めていきましょう。一日一度といえば短い時間ですから、訳なく作れそうなものですが、やはりその気にならなければなかなか難しいものです。でもお仏壇の前に坐るぐらいはできそうです。「静かに坐って」もかなり難しそうですね。静かは音を立てない、おしゃべりしないことですものね。そして坐るのがこれまたたいへん。今の生活は、椅子に腰掛けるのが当たり前ですから、坐ったらすぐしびれが切れて立てない人がたくさんいます。それに比べて、身体と呼吸は楽ですね。身体は飛んだり跳ねたり、走ったり歩いたりできますし、呼吸は生きている限りは続いているのですからね。息をしている間は生きていますから、息はそのまま生きに通じます。昔から息の長いは長生きのしるしなどど言って、大きな深い呼吸を推奨してきました。そして目標の、心を調えるところにつながらなければいけませんので「静かに」を振り返りましょう。わいわいがやがや騒ぐのをやめて、静かになろうと決心しましょう。
ここで不思議なことが起ります。自分が静かになるにつれて、物音がたいへんよく聞こえてくるのです。雨だれの音、風の音、ガラス窓のがたがた鳴る音、虫の声、鳥の鳴き声、遠くを走る電車の音等々、実によく聞こえてくるので驚いてしまいます。音が聞こえるのはその心も判ることになります。雨の心、風の心、虫の心、鳥の心、電車の心、それと自分の心が通い合うのです。こうなれば心はずいぶん調ってきたことになります。調って和やかになります。合わせて調和ですね。思いやりの心の泉になるのです。それにしてもどうして戦争はなくならないのでしょうか。人は平和を求め仲良くなろうと望んでいるのに、その一方で憎み合い殺し合い、そのための兵器の開発をやめようともしません。私たちはただ祈ることしかありません。真心こめてひたすら世界の平和と安全を祈っていきましょう。

■丸い心
9月はお彼岸の月です。このお彼岸の行事は聖徳太子さまの頃から、春、秋のお中日をはさんで1週間ずつ行われています。他の仏教国には彼岸(悟りの世界)に渡るための教えはありますが、その特別な修行の期間はありません。四季のはっきりした日本ならではの仏教行事です。お中日には太陽が真東からのぼり、真西に沈みます。昼と夜の長さが同じで、暑くもなく寒くもなく、天地自然が穏やかで調和のとれた時期です。日頃、仕事や家事などに振り回されてあわただしい毎日を送っている私たちも、せめてこの1週間は大自然のように調和のとれた、穏やかな心で暮らしましょうという、いわば仏教の実践週間ともいえるのがこのお彼岸の行事です。私の町にある缶詰会社に、中国から大勢の若い女性たちが働きに来ています。その中の1人、Sさんは毎月私のお寺で行われる写経会に参加しています。写経した般若心経をご本尊様に納経したあと、いつも5分くらいじっと手を合わせて一心に何かをお願いしています。多分遠く離れた家族のことや、異国で働く自身の健康などをお祈りしているのだろうと想像していましたが、ある時「Sさん、いつも長い時間何をお願いしているの?」と聞くと意外にも 「何もお願いしてません。心が丸くなるからです。」という答えが返ってきました。心が丸くなる!彼女の未熟な日本語のせいかも知れませんが、心が丸くなるという表現に驚き、また感心させられました。ある老師様の書かれた「この丸は月か団子か桶の輪か、カドのとれたる人の心ぞ」という一円相の墨蹟が思い浮かびました。私たちは仏様を拝むとき、つい自分や家族の幸せをお願いしてしまいます。仏様に幸せをお願いするのも悪いことではありません。しかし考えてみれば幸、不幸は自分自身の心が決めることなのです。心の持ち方次第、行い次第で私たちは幸せにも不幸にもなるのです。まさにー極楽も地獄もつくるは己がこころなりーです。Sさんはお願い事より、自分自身の心を丸くするために拝むというのです。私たちは日頃欲をかいたり、つまらないことに腹をたてたり、他人の悪口を言ったりしながら、貪・瞋・痴(とん・じん・ち)の三毒にまみれた、カドのある心で毎日を送っています。せっかく満月のような、まん丸い仏様の心でこの世に生まれてきたのに、いつの間にかあちらこちらへ角の出た、とがった心で暮らすようになってしまいました。こんな心ではどんなに仏様にお願いをしても幸せにはなれません。大切なのはまず自らを調え、丸い心になるということです。
ご本山では平成14年から4年間、「禅・自らを調え生活を調えましょう。」を花園会員の実践目標にしています。自らを調えるということは、わがままで自分勝手な自己ではなく、かたよらない、とらわれない、思いやりのある丸い心の自己をつくるということです。ではどのようにしたら心を丸く、自分自身を調えられたものにしていくことができるのでしょうか。宗派によって異なりますが、私たちの臨済宗では坐禅によって心を調えます。ご本山の生活信条にも「一日一度は静かに坐って身と呼吸と心を調えましょう」とあります。坐禅は心を調えるのに大変効果があります。正式な坐禅でなくても静かに坐るだけで心が落ち着いてきます。この時大切なのが呼吸の仕方です。なるべく長くゆっくり、特に吐く息を長くすることです。白隠禅師も「長息は長生きなり」と長い息は心を平安に保ち、ひいては健康長寿に通じると教えています。最近書店へ行くと、この呼吸による健康法、ストレスの解消法などに関する本が目につきます。明治大学の斎藤孝教授は最近の著書『呼吸入門』の中で、「呼吸を考える上で大切なのは、吸うことではなく、吐くことです。息をゆるく吐き続けることで、攻撃衝動を抑える神経系が働き出す。内容がわからなくても読経の声を聴くと心が癒されるのは、ずっと吐き続ける呼吸法で読まれる読経の息とリズムによる。」と、心と呼吸とは密接な関係にあり、特に吐く息の呼吸の大切さを説いています。多くのスポーツ選手も試合などの前に呼吸を調えることによって平常心を保つことを実行しているそうです。生活信条の第一に心を調える方法として、静かに坐って、身体と呼吸を調えることの大切さが唱えられているゆえんです。お彼岸こそ日頃の自分自身を静かに振り返り、静かに坐って呼吸を調え、心を調えるのに最もふさわしい時ではないでしょうか。年間の仏教行事を通じて、丸い心、調えられた自己をつくることを実践していきましょう。

■晋山式
さわやかな秋ともなれば、お寺で晋山式(しんざんしき)という盛大な法要が営まれることがあります。晋山式(しんざんしき)とは新任の和尚様がお寺に住職するための儀式です。晋山式の「晋」は、進むという意味です。お釈迦様、お祖師様が示された教えの道を進んでいくのです。「山」とは寺のことです。寺は、教えを学び仏心を受け嗣ぐ人間形成の道場であり、ご先祖の霊場です。ですから、新住職はもちろん、檀信徒の皆様と共に仏祖の御恩に報い仏法を弘めていく誓いをする大切な式が晋山式です。さて中国(宋)の高僧、五祖法演(ごそほうえん)禅師は、弟子の仏鑑慧懃(ぶっかんえごん)の晋山に当り、住職として己を律する四つの戒めを示されました。仏鑑禅師は師を拝し、この語を胸に刻みつけて生涯の戒めとしました。この教えは、寺に住職するものだけでなく、今を生きていく私たち一人ひとりにとっても大切な教えです。現代人こそ心掛けるべきポイントがずばりと指摘されています。この四つの戒めを一つひとつご紹介しながら私たちの生活に則して考えてみましょう。
【第一、勢(いきお)い使(つか)い尽(つ)くすべからず】  例えば、バブルのこのご時世に勢いに奢(おご)りきっていた我々に不況の禍(わざわ)いがやって来ました。与えられた力を得意になって振り回していたら必ず失敗するものです。順風の時も逆風の時も、淡々(たんたん)と努めていきましょう。
【第二、福(ふく)受(う)け尽(つ)くすべからず】  一人ひとりの命は、天地自然の恵み、社会の皆様のお陰、ご先祖の御恩を被(こうむ)って初めて成り立っています。それが最大の福です。それを忘れて福を貪(むさぼ)り尽くせば、自らを滅ぼすことになるのです。自分を生かしている恵みに感謝して、少しでもご恩返しをしていきましょう。
【第三、規矩(きく)行(おこな)い尽(つ)くすべからず】  規矩とは、守るべき規律です。しかし規律を作り過ぎるとかえって弊害がでます。マニュアルどおりの教育がかえって強制となり、子供たちの自主性を奪いがちとなります。規則を守らせるにも他者への慈悲が根底になくてはなりません。
【第四、好語(こうご)説(と)き尽(つ)くすべからず】  好い言葉を十分に解説されると分かったような気になって慢心します。しかし言葉の本当の意味は、実行して体得して初めて古人の深い英知がしみじみと感じられましょう。
以上、法演禅師の教えの要点のみ記しました。私たち一人一人が、禅師の教えを我が戒めとしてかみしめ、新住職様と共に、新しき修行への出発(たびだち)の日としたいものです。

■心のプレゼント
「世界の中心で、愛をさけぶ」この小説が爆発的に売れ、映画・ドラマと話題です。多くの人が撮影地巡りをしています。その地に立ち自ら何を感じるか確認したいのでしょう。私は原作が書かれた宇和島市の在住故、原作の名場面巡りをしました。小説の「対岸の小さな明かりは?石応か小池だろう・・・」この会話を頼りに夢島と思われる島に渡ると、作者が見た明かりは私の寺のある岬の灯台だと観じ、なんだか嬉しくなりました。十七歳の時、最愛の恋人を亡くした主人公、純粋さ故の深い悲しみに、心の扉を閉ざし毎日を虚無的に生きている。そんな時、新しい恋人と出逢い、再出発には心の整理が大切なことに気づく。思い出の後片づけにより自らの心の曇がとれ、多くの願いに出逢い、今すべき事を見つける。この姿に私は共感したのです。原作では「世界の中心」がどこかは明示されていませんが、「世界の中心=それぞれの心の中」「愛をさけぶ=思いを伝える」と考えると、映画を見て涙する多くの人達に、感動のプレゼントは届いたようです。十七歳の頃、両親を亡くした私は、未熟故、父母の死と向き合わず、自らの将来の不安で、故人の願いなど顧みる余裕がなく何時しか年月が過ぎていました。ある時、相田みつを博物館でこの詩に出逢ったのです。「つまずいたり ころんだりしたおかげで 物事を深く考えるようになりました。 あやまちや失敗をくり返したおかげで すこしずつだが人のやることを 暖かい目で見られるようになりました。 何回も追いつめられたおかげで 人間としての自分の弱さとだらしなさを いやというほど知りました。 だまされたり裏切られたりしたおかげで 馬鹿正直で親切な人間の暖かさも知りました。 そして...身近な人の死に逢うたびに 人のいのちのはかなさと いま ここに 生きていることの尊さを 骨身にしみて味わいました。 人のいのちの尊さを 骨身にしみて味わったおかげで 人のいのちをほんとうに大切にする ほんものの人間に裸で逢うことができました。 一人のほんものの人間に めぐり逢えたおかげで それが縁となり 次々に沢山のよい人たちに めぐり逢うことができました。 だから わたしのまわりにいる人たちは みんな よい人ばかりなんです。」  読み終えた時、大粒の涙を流す自分がいました。自分の未熟さを顧み、今の自分を見つめる時、父母の死が私を導き、不思議な縁を与え、育んでいた事を実感したのです。故藤井虎山老師が「禅の修行は懺悔と礼拝である。礼拝の内容は懺悔と感謝であって、人間の心が正しく育つのはこの心です」とお説きです。懺悔と感謝を実感する時、心が調い、多くの縁を活かせるのです。
先日一人の少女に出会いました。ほとんど満席のバスの中、金髪、ピアスが目立つ個性的な少女、その隣だけ空席です。是幸いと私は座りました。少女が鞄の中を探す仕草に、私は降りるものと席を立つと予想に反して降車ボタンを押しません。しかし、バス停に着いた女の子は席を離れたのです。ふと車外を見るとお年寄りが・・・少女は二つ先のバス停で降りたのですが。さりげなく席を譲った少女の心優しさの片鱗に気づき、色眼鏡で見ていた自分を反省したのです。私達は外見でとかく判断して心に壁を作り、人との触れあいを避ける傾向が見受けられます。少女も声を掛けずに席を立った姿に私は少し拘りを感じます、派手に外見を飾るのは、周囲と一線を引く心の鎧に見えたのです。多くの人が何かに拘り素直に行動できないでいます。「どうぞ」と席を譲る教育も大切だが「有り難う・ごめんね」と受け取ってあげる素直な心遣いこそ、今大切なのです。仏教は思いやる心を慈悲と言い、キリスト教は愛です。「愛するということは我らが互いに見つめ合う事ではなく、共に同じ方向を見つめること」の言葉をサン・テグジュベリが残しています。見えないものを見る目・知る心を持ち、一人でないと感じるとき、心の鎧がとれ、周囲と共に手を取り、今此処にいない人達とも心を繋いで歩む、大きな世界観を得るのです。

■迷走の報酬
十二月八日は「成道会(じょうどうえ)」法要を各寺院で厳修する、釈尊三仏忌の中の一つであります。この成道の日に更に強く仏道を菩薩道を歩むという気持ちを持つきっかけとしたいものです。表題のテーマは、四摂事の利行の実践であります。この実践行が菩薩道を歩むということでしょう。「他の人の支えになるように、他の人のためになるように生きなさい、人の役に立つ人生を送ることができる時、始めて、生かされて、生かして生きるという目的が生まれるのです」と以前インドに行った時、ヒンズー教の高僧に教わりました。その対象は人々だけでなく、生きとし生けるもの全てに対してであります。考えてみれば、努力をすれば自ずと好結果を得ることができるとか、情けは人のためならず、必ずや困っている時、あなたは誰かに助けられるとか、善いことをすれば、功徳がもらえるとかよく言われますが、はたして本当にそうでしょうか。「悪い奴ほど良く眠る」とか申しまして、世間は、そんなに都合良く理屈どおりに回っていくとは限りません。努力と結果が結びつかないところに、順風と逆風のないまぜに吹くところに厚みのある人生、味わいのある世界になっていると思えるのです。この世で多くのことが、理屈どおりになったり、善因善果であったりするのは、まれでありましょう。そして、ここにこそ、無私の慈悲の姿「利行」の大切さが輝いて見えるのです。以前、大切な一人息子さんを交通事故で亡くされたご夫婦が、自分たちより先に、若い息子が亡くなるという悲しみの中から、あるNPO(非営利団体)の福祉の会に、保険金の一部を寄付されました。将来結婚するだろうその家族のために使ってもらおうという予定の上での保険であった筈です。思いやりのある善意でしたことが、運命のいたずらか、計画は完全に逆目に出ます。まだ見ぬ未来の、みんなの笑顔まで想像して、やってきたことが結果は無惨です。お母さんは一年間はショックから立ち上がれませんでした。でも二年後の三回忌の時に決意を述べられました。「交通事故遺児、交通安全協会等々と保険金の行先を考えましたけれど、私たちは老人福祉の方に決めました」と。私が携わっている団体のNPOの会です。悲しみを充分に受け入れ、なおかつ、そこから他の人の幸せを願うというのは、なかなかできることではありませんが、現実に私の身近にこのことをなさったご夫婦がいらっしゃる。私にどれほどのものが与えられたかは言うまでもありません。ほんとうに有り難いことで、深く感謝し合掌するのみであります。もちろん「会」の運営事務の職員は大きな喜びと勇気もいただきました。活発な活動は今も展開し続けていますが、少なくともこの件が強いインパクトであったことは確かです。予定調和とはいかないこの世で私たちのヤルベキことの一つの指針が示されていると思います。
人が見ておろうが、おるまいが、ヤルベキことをやり、調えるべきことを調える、陰徳を積み、私の行為全てをゆるがせにしないという気持ちを持って日常生活を送る、但し「車」の遊び(ハンドルやブレーキの遊び)にも似た余裕を持つという前提条件があって。これが今推進テーマにされているもので、このテーマの中から幸せを求める実践行が必要とされるのです。冬というには少し早い、ある暖かい昼前、久し振りに、家族六人で小旅行に出かけた時のことです。車ではない交通機関を使っての旅というのも良いものです。岐阜の焼物の街へ行きました。食事を予約していたけれど、その前に有名な陶磁器展示会館に寄ってからにしようということになり、駅前の店で、会館の場所をたずねて、歩き始めました。「真直ぐ道を行って、コンビニAのある交差点を左に折れて、真直ぐ......」私たちはそのとおりに歩きました。話もはずみ楽しく歩く、十五分歩いても目当ての会館の影すら見えない、おかしいなあと気付く、車でなら十分くらいでも歩くとなると数十分ということに気付くのに手間はかからない、「しまった、私たちを車で来た人と思って教えてくれたのか」と、その時、後から走って来た白い乗用車の人が追い抜き、前に車を停めて、声をかけてくれた。「乗せて行きましょう。もう一台すぐに来ますから」なぜ私たちが陶器会館へ行くのを知っているのか、道を少しそれて歩いていたことをもだ。娘が「あの人、さっき道を聞いた店にいた人だよ」と言った。おかげ様で私たちは、拝観もできて、無事に食事にも間に合いました。迷走している私たちを見るに見かねて助け船を出してくれたに違いないのです。さわやかな青年たちでありました。母が言った「世の中捨てたもんじゃないねえ」そこここに菩薩道はあり菩薩様はおわします、そこここに四摂事の行はあまた多く見受けます。願わくばその実践者の一人でありたいものです。一日が短くなり夜が長くなるこのごろ、ゆっくりと、心のこもった助け合いをすることを考え、そして実践していきましょう。

■おかげさまを知る
明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。皆様方のご多幸を心よりお祈り申し上げます。
暮れの慌ただしさに比べて、新年を迎えられますと、新幹線から鈍行列車に乗り換えたような気持ちになれます。差し迫った期日があるのとないのとでは、人の心の持ち方が一日変るだけでこれほど違うのも、お正月ならではなかろうかと思います。このほっとした幸せを感じる心は、どこから来るのでしょう。幸せとは、一生懸命何かを行なった後の実感でもあります。よくお年寄りの方が「今は幸せです。」と言われますが、それも若い時、いろいろな苦しい体験をされて今日を迎えられているからだと思います。また、「昔はよかった。」とも言われます。一見矛盾しているようですが、苦しい中にもお互い助け合うやさしい心を言われるのだと思います。ですから、よかったことと幸せとは、苦しくても、助け、助けられて、心が満たされよかったから、今日の幸せを実感できていると思います。この幸せを皆で分かち合えるようにしたいものです。新年を迎えられ、正月気分でゆったりされる方、実家への帰省、除夜の鐘から初詣とお正月は決まった行事を行なう方、海外に出かけられる方、等々といろいろ過されるようです。正月の正の字は、(一を止める)一切を止めて新たな始まりの月とも言われます。ウキウキと過ごすのもいいですが、なぜ一切を止めるのか、それは、一度ふり返って見ることも大事であることを正月の字から教えられます。昨年は、新潟県中越地震を始め、十個の台風の上陸によって、水害、崖崩れ等災害が多発しました。被災されました方々には、心から御見舞い申し上げます。そんな時、一番頼りになるのは、ご近所の方々の助け合いではなかろうかと思います。ライフラインの寸断によって不自由な生活や道路の通行不能によって脱出できない困難さは、計り知れません。遠くの親戚より近くの他人と言われるが如くご近所の方々とのおつきあいが大切に感じます。
私も二十年前に、水害にあいました。夕方の五時頃から、川が増水していると聞き、川沿いのお寺さんまでお手伝いに行きました。そうしたら「毎年、一度や二度は、このあたりまで水が来ますから。そんなに心配はいりません。お手伝いはいいです。」と言われ帰りながら、その途中ふと後ろをふり返ると、何と水が迫ってきて、もう戻れません。慌てて自坊へ帰って来ました。大昔には水害にあっているとはいえ、果してどれだけ水位が上がるかわかりません。不安ながらも、庫裡の二階へいろいろな物をほうり投げ、座卓の上に畳を重ね上げました。母は何を思ったのか、まず、御飯を炊かねばとお米を洗い始めました。水が部屋に入り始めても必死で上に上にと部屋中を走り回りました。教訓として絨毯は部屋いっぱいに敷くものではない、貴重な物は、上に置くことを学びました。台所の御飯が炊けて、水の中を塩と釜を持って、庫裡より階段三つ高い本堂へ行きました。そこには避難されている方が五、六人みえました。寺の隣には、五階建ての公民館がありますので、いざとなればと思いつつも、五十メートルを泳ぐということはできません。炊いたばかりの御飯をおにぎりにして配りつつ、一人ではない安堵感に励まされながら有難かったことを覚えています。緊張感と心配と恐ろしさから一睡もできませんでした。水が引き出した午前三時過ぎ、暗い中に何やら動き回る人影に誰かと思えば、近所のガス屋さんが、我々同様一睡もしていないにもかかわらず、ボンベの倒れを直し、元栓を締めて歩いて回ってみえました。見えない所で多勢の方々のお世話になり本当に有難かったです。お釈迦様より二十八代目の達磨大師は、インドから中国に禅を伝えられました。その教えに四摂事(ししょうじ:四つのなすべきこと)があります。その中の一つが、利行(りぎょう)、よいことをしましょうという教えです。簡単なことです。人助けをするということは、勇気や安心をいただいて助けられること、助けられることは、感謝して有難いこと、有難いことは幸せなことだと思います。年の初めに誰しも家内安全を願われます。幸せになれるよう、この過程に進む第一歩を踏み出しましょう。この助け合いの中に、『ギブアンドテイク』の心が少しでも入っていたならば、それは幸せとはほど遠いものになってしまうことを気づかいながら......。

■あたたかさ
「梅一りん 一りん程の あたたかさ」 暦の上では春をむかえましたが、まだまだ寒さの厳しい早春でございます。冒頭の句は江戸中期の俳人服部嵐雪(一七〇七没)の「玄峰集」に出ている俳句でございます。厳しい寒さの早春の中で梅の花が一輪咲いています。その花をながめていると、わずかではありますが、春の気配が感じられるという味わい深い俳句であります。この句を読んでいますと、今の世の中の様子と一致するようでもあります。社会の中では色々と問題が生じていますが、その中であたたかい活動をしている人もいるからです。「おはよう」「忘れ物ないか」「今日も元気やなあー」登校する子供たちを毎日はげましている交通指導のおじさんの声です。私の町では毎朝見慣れた光景です。この交通指導のおじさんは、私が小学生の頃からですので、かれこれ三十年の間続けています。私の家では親子二代お世話になっています。この交差点は車の通りが多く、かつて登校中に事故がありました。その悲しい思いを二度と起こさないようにと交通指導を始めたそうです。始めた当初はただただ事故のないようにという願いから、ふざけている子供を叱ったこともあったそうです。おじさんは「子供は素直だなあ」こちらが叱ると、すぐに来て「おじさんごめんね。」と謝ってくる。その時は「おじさんもしかってゴメンね。危ないからもうしちゃだめだよ」と言うと、「うん」と言って笑顔で学校に行くそうです。こうした交通指導を続けていくうちにおじさんは、子供の大切な命を守るという責任の重さに気づき、夜も早く休むようになったそうです。仕事でいやなことがあった次の朝などは、行くのをやめようと思うこともあるそうですが、朝が来ると横断歩道に行ってしまう。そして、元気な子供の「おいちゃんおはよう」の声を聞くと、それまでのもやもやが何だったのかと反省するそうです。「本来ならば私が子供の見本にならないといけないのに、逆に子供から今元気をもらっているのですよ。」と、笑顔で教えてくれました。仏教で大切にされている実践の一つに「利行」があります。この「利行」は身体や言葉の善い行いで、人のために損得を離れ、みんなが少しでも幸せになれるよう心のこもった助け合いをすることを言います。
法句経 五四 友松圓諦訳 ・・・ 華の香は 風にさからいては行かず (中略)  されど 善人の香は 風にさからいつつもゆく 善き士(ひと)の徳(ちから)は すべての方に薫る
美しい花の香りは、風の吹く逆方向にはただよっては行きません。しかし、善い行いは風の向きに関わらず誰でも感じ取ることが出来るのです。難しいことは何もありません。施しても減らない「やさしい言葉」「明るい笑顔」、この二つはどんなに忙しい人でも、子供でも、お年寄でも、病気で床についている人でも、微笑を見せることにより相手にやさしい心を伝えることが出来ます。わずか小さな行いでも、その行いを受ける人には心のあたたかさが伝わってまいります。私たちの生活(くらし)は多くの方のおかげで成り立っています。その方々やすべてのものへの感謝の気持ちを忘れず、私たちの一輪のあたたかさを伝えてまいりましょう。 
 

 

■温かい心
それは朝から小雨の降る肌寒い日のことでした。今日はN市の檀家様の石塔開眼法要の日です。N市迄は車で二時間ほど。その檀家様から頂いていた住所を頼りに車を走らせました。もう着いてもよさそうなのですが霊園が見えてきません。やはりはじめての所は地理が分かりづらい。それに私は大の方向音痴なのです。約束の時間が迫り、お参りのお方を雨の中に長くお待たせしては申し訳ないと思い、焦(あせ)ってきます。こうなれば聞くしかありません。車を止めて近くのおじさんに、霊園の住所を示して尋ねました。おじさんは 「口で説明してもわかりにくい所だから。私が先導するからついて来なさい。」  と言って、仕事の手を休めて、ものかげに停めてあったバイクにまたがり、走り出しました。確かにわかりにくい道でした。すぐ近くかと思っていましたら、かなりの距離でした。やがて、おじさんはバイクを止め、指をさして霊園入口の看板を教えてくれました。仕事中にもかかわらず、しかも小雨の中、道案内をして下さったおじさんの親切に深く感謝しました。「おじさん助かりました。本当にご親切に有り難うございました。」 油代にでもしていただこうかと、心ばかりの御礼をしようとしていると 「和尚さんそんな気づかいは無用ですよ。今度和尚さんが困った人に出会った時、その人を助けてあげて下さい。そうして下さい。」 と言って、帰って行かれました。おじさんの温かい心とすばらしい言葉に出会い、私の心まで温かくなりました。その日一日は小雨が降り続く肌寒い日でしたが、私の心は温かく幸せな気分の一日となりました。思わぬところで幸せを頂きました。
中国の詩人 載益が 尽日(じんじつ)春を尋ねて春を見ず 芒鞋(ぼうあい)踏んで遍(あまね)し隴頭(ろうとう)の雲 帰り来たり適々に過ぐ梅花の下 春は枝頭(しとう)に在って已(すで)に十分 ・・・ と詠んでいます。春はどこに来ているかと一日中探し回り、くたびれて自分の家に帰ってみたら自分の庭の梅の木に花が美しく咲いていた。あまりに身近で気がつかなかった。なんと探していた春は私の庭にしっかりと訪(おとず)れていた。思わぬ所に春を見つけ、心が満たされていく思いを詠んだのでしょう。求めていたものは実に足もとにあったのです。わたしたちは裕福に暮らすことが幸せ、高い地位につくことが幸せ、などなど日常の生活を離れ遠くに幸せを求めるあまり、ついつい日常の生活がおろそかになってはいないでしょうか。禅語に「照顧脚下(しょうこきゃっか)」という言葉があります。自分の足もと、自分の心をしっかり見つめなさい。大切なのはあなた自身の心のあり方、普段の毎日の生活にあるのですよ。そう教えています。足もとがおろそかになると転んでけがをします。毎日の生活を心をこめて、心を調えて過ごすことの大切さを教えています。日々を大切に暮らして行くところに、助け合う温かい心が生まれ、その温かい心が人を幸せにしてくれるのです。仏教詩人坂村真民さんの詩にこうあります。 ・・・ 小さな事でいいのです あなたのむねのともしびを 相手の人にうつしておやり ・・・ テーマ【みんなで幸せになれるよう心のこもった助け合いをしましょう】の実践により、たくさんのともしびがともっていくことを願っています。

■入学そして卒業
四月は桜咲く中、入学式・入社式があり、それぞれの新しい段階のはじまりである。特に小学校の入学式は、お母さんにとって待ちに待ったものであり、我が子共々この幸せをいついつまでも歩みつづけていきたいものと祈る気持ちで一杯のはず。親が惜しみない愛情を注いで育ててきた我が子と手をつないで向かうそれは、まさに至福の時であろう。然しながら、無常迅速、時人を待たずで、その若いお母さんもやがて年老い婆となっていく。生老病死、人生の卒業式が近づく。この頃になると不平、愚痴の声も聞こえてくる。『育ててあげたのに。欲しいものを買ってあげたのに。大学にも行かせてあげたのに。近頃は嫁の言うことは聞いても、親の頼みは一つも聞かん。親孝行の真似ごとでもたまにはしてもらいたいものだ......』 確かに親孝行は、人間にしかない報恩行であるが、それ以上に襟を正して親子のあるべき姿を検証する必要がある。メスの鮭は秋から冬にかけて日本の河川に海から卵を産みにのぼってくる。そして、自分の身を削りながら最後の力をふりしぼって何十キロも上流の清らかな川底に卵を産み落とし、そのまま力尽きて死んでいく。オスの虎は自分で獲物を取れなくなり、もらう立場になると上座から下座に席を移り、しばらくすると家族から離れていく。象もまた死期を悟ると一人群から脱けて、墓場に向かう。カマキリに至っては、子を育てるためにメスがオスを食べてしまう。それぞれが父親としての、あるいは母親としての、その場その場で与えられた役割を全とうし、決して見返りを求めることなく、その一生を終えていく。
娘や嫁と花咲いて 嬶としぼんで婆と散りゆく
我々人間も与えられた立場、父として母として各々が為すべきことを為し、務むべきを努めて天命を待つべきであろう。迎えが来たら死んでゆくのも務めである。もし不死が実現したら地球は人であふれ人類は滅亡する。自然が種を守るための生老病死である。私の母は亡くなって七年経つが、晩年はお茶お花のお弟子さんに『茶の十徳』を紹介していた。
『茶の十徳』  一、諸神は加護す。  一、五臓を調和す。  一、睡眠を消除す。  一、煩悩を消滅す。  一、父母に孝養す。  一、息災にして安穏なり。  一、天魔を遠離す。  一、諸人を愛敬す。  一、寿命は長遠なり。  一、臨終を乱さず。
特に最後の「臨終を乱さず」に時間を多くさいた。従容として死を受け入れるには、普段から心掛けなければならない。決して一朝一夕に到達できるものではないと、自分に言い聞かせるように心を込めて説いていた。その母が「やっぱり家がええ」と言って入院先の国立病院から帰ってきたのが十二月の半ばであった。孫に囲まれ年の瀬を送り、正月を迎えた。新年は、年始の人と見舞いの人で賑わった。母にとってそれぞれに楽しい一時一時を持つことが出来たと思う。松の内が明ける頃から声がかすれるようになった。そんなある日、毎日声をかけて、手を握り、背中をさする師匠に母が突然『おっさま、一寸私を抱いて』とつぶやいた。師匠もそれに応じ母の上半身を起こし、肩に手をまわすと、『おっさま、ありがとう。もうこれでいいわ』と師匠の胸に顔を埋めた。そしてその時を境にして、二度と言葉を発することなく、次の朝、皆が見守る中臨終を迎えた。あの時の母のことば、夫婦相和した姿は今もはっきりと脳裡に焼きついている。平生より勤むべきを勤めた母にしてはじめて成し得た卒業式と思う。
勤むべきの一日は、尊ぶべきの一日なり 懈怠の百年は、恨むべきの百年なり

■心に残る言葉
社会にあって自分をコントロールできない人間が増えているように思えます。「キレル」とか「プッツン」というような、あまり聞きたくないような言葉もよく耳にします。一人の人間が社会の中で生きていくとき、もちろん「キレ」そうになる場面もあるでしょうが、「キレル」前に自分の周りを虚心に見つめ直してみるならば、いろいろな「おしえ」を受けている場合もありそうです。たとえば、自分の過失を他人に注意されるのも、ありがたいお導きに他ならないし、また、誉め言葉や激励の言葉全てが、おのれを磨くための機縁となり得るのです。しかし、気持ちが乱れ頭に血が上っていては、何も感じることはできないでしょう。落ち着いて考えることのできるよう、気持ちをぜひととのえたいものです。三十数年前のこと。「えろなれよ、えろなれよ(偉くなれよ。偉くなれよ)」と祖父は繰り返し言いました。私の頭をさすりながら繰り返しました。当時、孫の私はまだ小かったのですが、先代住職の臨終に立ち会わせたのです。「偉くなれよ」とは、はたして自分がどうなればよいのかわかりませんでした。そればかりか、小さい頃からいたずらをして父に叱られるたびに、「じいちゃんがえろなれと言ったのを忘れたか!」と言われ、嫌な言葉となっていました。
時がたち、私も修行道場に入りました。お盆の手伝いで、しばらく郷里の寺に帰省していたときに、一人のお客さんがありました。祖父が生前に懇意にしていたお友だちで、城園さんというおじいさんです。ご高齢で入院なさっておられましたが、久しぶりに墓前にお参りしたいと、外出してお寺に来られたのです。祖母や、両親を交えてしばらくお茶を飲み、お帰りになるときには、私が鞄を持ってバス停までお送りしました。私の知るかぎりでは寡黙な方で、とくに会話もなくバスを待ち、バスが出るときには合掌してお見送りしたことでした。
後日、お礼のハガキが二通届きました。一つはお寺に宛てたもの、もう一つは私宛てで、「坊ちゃん有り難う。修行は辛いでしょうが頑張って下さい」とあり、一句添えられていました。 ひだまりに 別れの合掌 もたいなや ・・・ 人に句を賜るということは初めてのことで、パーと胸が熱くなるような、照れくさいような、むず痒いような感じがして、私の方が却ってもったいない気分になりました。まだ頼りない私を敢えて励まして頂いたと思うのですが、修行に入りたての私の合掌を、「もったいない」と言って下さったことは、自分というものを見つめ直すとてもよい機縁となりました。「自分は本当に人に喜んでもらえるような人間だろうか?」という疑問を多少なりとも感じることができたからです。禅とは、古代インド語の「ディヤーナ」を音写したもので「静慮」と訳されます。落ち着いて静かに(自分を)慮(おもんばか)ることです。まず自分自身を調えることができたとき、今まで気付かなかったことが見えてくるでしょう。
今、一僧侶として布教に携わっていると、祖父の残した言葉の意味が、なんとなくわかってきたような気がします。おそらく、「人さまに喜んでもらえる人」になることが「偉くなる」につながっていくのだと思います。同時に、私にとって「えろなれよ」という「嫌な言葉」は、慈愛に満ちた優しい言葉「愛語」となりました。落ち着いて考えてみれば、普段私たちは、そんな「愛語」に囲まれて生活しているのではないでしょうか。人の言葉に救われることがあります。優しい言葉で語り合えたなら、どんなにか素敵な生活になることでしょう。みんな偉くなることのできる人なのです。

■愛語 やさしさ
仏さまは、一切衆生に対して和らぎのある顔、慈愛のこもった言葉で接することの大切さを説かれています。日本では昔から茶道・華道・剣道など「道」の字のつく芸能やスポーツがあります。これはただお茶をどのように点てるか、お花をどのようにいけるか、という技術だけを学ぶものではありません。お茶やお花を学ぶ事を通して、人格を向上させ、仏の道を実践する事も含まれています。仏の道を実践するという事は、己の心を調える事であります。調えられた状態から、和らぎのある姿が生まれ、慈愛にみちた言葉が発せられるのです。仏さまは、私たちに日々の在り方として、財がなくても施す事のできる七つの姿を教えて下さっています。これを「無財の七施」といい、その中に和願施・言辞施があります。和願施とは、字の如くにこやかな顔で人に接する事で、言辞施とは、思いやりのある温かい言葉で人に接する事です。『無量寿経』にある和願愛語は、この顔の施しと言葉の施しなのです。私たちは心が乱れますと、怒った顔になったり、言葉も荒々しくなります。心が調うと自然ににこやかな顔になり、和らかで親しみのある言葉で会話ができます。そしてこの顔と言(ことば)は通じる所があって、怒った顔をしたら、言葉も荒々しくなる。笑った顔をすれば、和やかで親しみのある言葉で話せます。さて、私たちの日々の生活の中で必ず人と人との出会いがあります。本当の出会いはよい言葉を交わし、その意味を理解しただけでは不十分で、その言わんとする事の奥深いところで、心がひとつになるものでなければなりません。それを信頼というのでしょうか。出会った人の心が奥床しくて、仏様の心に通じるような本心から出た言葉でないと、思いやりのある優しいものとはならないでしょう。口から出まかせの人からは、到底愛語は得られません。仏の心に徹するとは心が清らかなことなのです。「心浄ければ佛土清し」という言葉があります。佛土とは家庭であり、職場であり、地域社会であり、国であります。社会を構成している一人一人が心を浄くして善い因縁を作れば浄らかとなります。
総理府の「社会意識に関する調査」で、日本人の約半数は、自分のことしか考えず、社会に役立つこと、社会の人々が和やかに暮らすことなど一切考えていないという統計がでていますが、これでは社会は到底良くなりません。私の檀家さんで百三歳でなくなったおばあさんは、いつもニコニコと私のお参りを待ってくださいました。そのお婆さんは家の中では百歳を過ぎても、中心的な存在で、その微笑を絶やした事がなかったそうです。お嫁さんにはいつも「ありがとう」「ありがとう」と言って、手を合わされ、「すみませんね」と、頭を下げていらっしゃった。夜になるとお嫁さんに「疲れたでしょう。先にお休み」と優しい言葉をかけられたと言うことです。
つまり、この三つの言葉  「ありがとう」  「すみません」  「お先にどうぞ」を毎日言われていたのでした。私は、その心の大きさ、お嫁さんや家族全員に対する優しさというものを、しみじみ感じました。更に素晴らしいことは、そのお嫁さんを呼ぶときに「おかあさん」と言われるのです。若い時には、○○と、名前を呼び捨てにされたでしょう。又、うちの嫁はと言われたでしょうが、九十歳を過ぎてからは「おかあさん」です。なんと丸みの出たといいますか、お嫁さんを信頼しているというのか、これ以上の心からの信頼と愛情に満ちた優しい言葉はないと思います。これが愛語と言うのでしょう。このお婆さんこそ、和願愛語を、終身一日一日、積み重ねた仏様であったと、今も私は思っています。そして、この愛語によって人は、人間関係、信頼を深めるとともに、自分自身をも向上させるのです。

■挨拶の力
最近私達の身近にある機械がよくしゃべるようになりました。先日も銀行のATMで振込をしていますと、「最初からやり直して下さい」と機械から注意を受けました。自動車に乗れば、『カーナビ』と呼ばれる機械が実によくしゃべり、道案内をしてくれ、目的地へと誘導してくれます。逆にお寺に戻って来た時には、「自宅に到着しました。御疲れ様でした」とねぎらいの言葉までかけてくれます。それに比べて、人間のほうがだんだんとしゃべらなくなってきているのではありませんか?実に無愛想な人に出会うことがあります。挨拶を返してくれなかったり、必要最低限の単語しか話さない人があります。人はお互い声をかけあい、意見を交換し、良い言葉をたくさん使うところに、人間らしさ、価値があると思うのです。皆さんはどうでしょうか、人に出会ったときに挨拶をしたり、真心のこもった言葉をかけたりすることを、だんだんとしなくなってきていませんか?仏教には『愛語』という言葉があります。これは「人に対して、親しみのある心のこもった言葉をかけなさい」という教えです。また道元禅師は『愛語』について「愛語よく廻天のちからあることを学すべきなり」と言われております。これは「心から愛情に満ちた言葉は、天をも引き回す程の力があるのだから、聞く人の一生を左右するという事を深く考えなさい」ということです。このように愛情に満ちた心のこもった言葉を使う事は、大切な教えの実践であり、それによって自分も相手も正しい道へ進ませるほどの大きな力があるものです。私は『愛語』のなかで一番大切であり、身近に実践できる事は挨拶だと思います。私は毎朝、境内を掃除していて出会う人とニッコリ笑って挨拶を交わすようにしています。朝の澄んだ空気に、さわやかな挨拶、とても素晴らしい一日の始まりをさせていただいております。とても良い気持ちになれます。「おはよう」「こんにちは」だけでなく、失敗をしてしまった時には「ごめんなさい」と素直に謝り、何か人にしていただいたときには、心から「ありがとう」と感謝の気持ちを表す。そういう言葉が、人と人とが暮らしていく上で大切な事だと思うのです。
ある中学校で生徒たちが、明るい笑顔のあふれる学校にしようとみんなで話し合い、そして笑顔は挨拶からと、全校で『あいさつ運動』を始めました。そしてそれから約三ヶ月後、この学校に一通の手紙が届きました。「私は、そちらの中学校の通学路沿いに住む七十二才のおばあちゃんです。十年前に主人に先立たれてから、いつになったらお迎えが来てくれるかと日々過ごしてきました。そうしたら数ヶ月前から、朝、私が家の前を掃除していると、そちらのたくさんの生徒さん達が、『おばあちゃん、おはよう』と声をかけてくれるようになりました。そして多くの生徒さん達とお友達になれました。孫が一度にたくさんできたようで、私の心にたくさんの花が咲きました。生徒さん達に咲かせていただいた心の中のお花を、少しでもお返しできればと、この春、お庭にたくさんの花の種をまきました。夏になってお花が咲きましたら、お届けします。ぜひ教室に飾ってください」という内容でした。人に出会ったときに挨拶をする。小さな小さな言葉の施しです。しかしその『愛語』によって学校全体が、それどころかその地域を明るくし、笑顔と喜びを生み出したのです。挨拶という小さな慈しみの行為が、多くの中学生の心の中に、そしておばあさんの心の中に大きな花を咲かせたのでした。物は人にあげるとなくなってしまいます。しかし、優しい心や愛情のこもった言葉は人にあげてもなくなりません。そして相手に喜んでもらうことによって、優しい心は増えていくのです。

■言葉の力
胸の奥底から出た真実の言葉は、人生を百八十度変える力があります。それを仏教では「愛語(あいご)」といいます。私の幼なじみで、たった一言の温かい言葉で励まされ、厳しい修業の辛(つら)さから逃げずに、人生を前向きに生きることのできた友人の話を紹介します。彼は勉強が大嫌いで成績も悪く、小中学校でおちこぼれていました。高校進学を希望したのですが、入れる高校がありませんでした。そこで彼は「俺は勉強ができないが、俺のやれることは何かなあ」と考え、中学を卒業後、十六才で、大阪へ寿司屋の修業に行きました。寿司屋は、今でも厳しい徒弟制度があります。彼が行った寿司屋の大将も厳しい人でした。寿司屋の修業は手取り足取り、「飯の炊き方、酢の加減はこうだよ、寿司の握り方はこう、こうすれば美味しい寿司ができるよ」という教え方ではありません。最初の三年間は、包丁を持たせてくれません。ただひたすら汚れた食器の洗い方や店の掃除、衣服の洗濯、物の運搬等、下積みの毎日です。しかも上下関係が厳しいところで、怖い顔をした大将はじめ、意地の悪い兄弟子達から代わり番こにこづかれます。朝は一番早く出勤をして開店の準備、そして夜は片付けや掃除をして店を出れるのは夜遅くなります。最初、彼は正直やめたいと思いました。町を眺(なが)めると、自分と同じ年頃の高校生が楽しそうに学校に通っています。ある日、とうとう彼は我慢できなくなり、追い出されることを覚悟で大将に言いました。「僕は皿洗いや掃除の修業をするために来たのではありません。うまい寿司を握るために来たのです。寿司の握り方を教えて下さい」と。しかし、大将は彼を叱りませんでした。
「確かに寿司を握るだけなら三月(みつき)もあれば誰でも覚えられるが、要は心がこもるかどうかだ。寿司が握れても心がこもってなければ客は来ない。寿司は心で握るのだ。その深いところが分からないと一人前の寿司職人にはなれない。今は寿司を握ることよりも、まず周(まわ)りのことを覚えることが先だ。それが分からんうちは先へ行かすわけにはいかない」といって静かに彼を諭(さと)されたそうです。その大将の言葉に彼は深く頷(うなず)き、それからもその言葉を信じ真面目に修業を続けました。しばらくすると接客係を言いつけられました。客が来ると、お茶やおしぼりを出す仕事です。それが慣れてくると今度はイカの皮むきでした。来る日も来る日もイカの皮むきです。イカの皮が山のように出ます。そのあとは飯炊(めした)きです。特に酢の混ぜ具合が微妙で難しいのです。そうして入門してから三年後、やっと包丁を持たせてもらうことができました。包丁といっても最初は大根のかつらむきです。それからも無我夢中で修業して、気がつくと彼は二十一才になっていました。ある日のこと、彼は大将から店に出て客に寿司を握るよう命じられました。彼にとって初めてです。しかも大阪は食い道楽で、みんな舌が肥えています。彼は大変緊張しました。一生懸命に握って客に差し出しました。するとその客は「君の握る寿司はとてもうまい。おかげで一日の疲れがとれるよ」と、にっこり笑顔でほめてもらったそうです。彼は今まで、叱られたり咎(とが)められることはあっても、人にほめられたことなど一度もありませんでした。彼には、その客の顔が仏様に見えたそうです。その時、彼は「俺は勉強ができなかったけれども、この道を選んで本当に良かった。六年間の下積みは辛く、途中で何度もやめたいと思ったけど、あのお客さんの一言に救われた」と言っていました。その後、彼は大将に認められて暖簾(のれん)分けをしてもらい自分の店を持つことができました。彼は四十二才、今も大阪で元気に寿司職人として幸せに生きています。大阪へ出た当初は、修業の辛さに幾度もくじけそうになった彼でしたが、厳しさの中にも常に弟子を思いやる大将や客の、温もりのある言葉に勇気づけられたのです。「愛語」に生かされた人生がここにもありました。

■忘れぬ母の言葉 『人の物を盗むな』
最近、人間関係を構築できずに悩み、登校拒否になる子供や、ひきこもりになる大人が増えていると聞きます。また壁の落書きや、空きカンの投げ捨てなどを見るにつけ、他人の迷惑を考えない愚かな行為に、いきどおりを感じます。仏教では他人に接する時の基本的態度を教えるため「四摂法(ししょうぼう)」という教えがあります。鎌倉時代の高僧、明恵上人(みょうえしょうにん)も『明恵上人遺訓(ゆいくん)』の中で、「ほんの少しの親切や温かな思いやりが、すなわち菩薩の布施、愛語、利行、同事の四摂法であり、菩薩行である」と説かれ、その実践をすすめています。
布施 喜びを与えましょう。 愛語 優しい言葉で語り合いましょう。 利行 心のこもった助け合いをしましょう。 同事 人の身になって尽くしましょう。 ・・・ 「四摂法」とは、この四つをおさめた教えという意味があります。ですから愛語といえば 人に希望と喜びを与える優しい言葉(布施)  人を励ましちからづける優しい言葉(利行)  人の身になって思いやる優しい言葉(同事)  となりたいへん意味が深いのです。道元禅師は『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』の中で、「愛語は愛心よりおこる。愛心は慈心を種子とせり、愛語よく廻天の力あることを学すべきなり」と申しております。つまり、「心に響くような愛語は、天帝の命令をも一礼するほどの力を持っているものだ」と言っているのです。慈愛のこころをもって、優しい言葉で語りかけるのも愛語であれば、時にはその人の行く末を思いやっての諌言(かんげん)や叱咤激励も立派な愛語なのです。ところで、生活が豊になり「やさしさ」が人間関係の主流になってきますと、子供への接し方として、どの様な時に叱り、どの様な時にほめたらよいのか分からない、あるいはどの様にして厳しさに耐える事を教えていったら良いのか分からない、という親が最近ふえております。私は子供に善悪の判断と共に正しい生き方を教えていくのも、親としての大切なつとめではないかと思っています。
先日、静岡に住んでいらっしゃるSさんが、懐かしそうにこんな話をしてくれました。終戦後、小学校低学年だったSさんの家では、静岡の特産品である下駄の塗装業を細々と営んでいました。しかし、当時は収入が非常に不安定で、五人の子供を抱えた母親は安倍川の砂利振るいに雇われました。砂利振るいとは、採取業者から大きな振るいと振るいを転がす台を借り受け、河床の土砂をスコップで掘っては振るいにかけ小砂利を選別するという典型的な肉体労働でした。Sさんは学校の授業が終わると母恋しさに安倍川にとんで行き、広い河川敷から母親の姿を見つけると、その周りをまつわりつき、仕事の終わるのを待ちました。やがて、日が暮れて辺りの物が見えなくなるまで振るい続けた母親と、やっと家路を急ぐ日課でした。そんなある日、母親の隣で振るっていたおじさんの砂利山を、トラックが集めに来ました。川床の砂利ゆえ、業者もなめるようにはすくっていきません。トラックが走り去った後、Sさんは散乱したこの砂利をかき集めては小さな手ですくって、母親が集めていた砂利山へ投げ入れていました。するとそれを見ていた母親が言った言葉を、半世紀が過ぎた今でも鮮明に覚えているそうです。
『ひとさまの物に手を出すんではない』 Sさんは中学校を卒業すると、今の会社に就職し四十五年、無事定年を迎えることができました。「この会社一筋に勤めさせていただけたのも、あの時の母の言葉があったればこそです」としみじみ語ってくれました。Sさんの母親はこの時、理屈ではなく道理を教えたのです。「ひとさまの物に手を出すんではない」という、たった一言のおかげでSさんはその後の人生を踏み外すことがなかったのでした。これこそまさに愛語なのです。昨今、政界を揺るがすような贈収賄事件で、あたら有為な人材が失脚してゆくのを見るにつけ、残念でなりません。混迷する現代こそ「四摂法」そして愛語に学びたいものです。

■呼吸によって自らを調える ー生き方は息の仕方からー
こんな見出しの新聞記事がありました。自分を見つめ直したい ーそのきっかけを、坐禅に求める人たちがいるー ・・・ JR京都駅のすぐ北側に立つキャンパスプラザ京都。照明を落としたホールで、学生が椅子に坐り坐禅をしています。京都の大学・短大の連携組織が開いている「坐禅入門講座」には、四十人の定員にいつも倍以上の受講希望者があるそうです。これにヒントを得て、数年前に開院した新倉敷駅前の「倉敷・光クリニック」で毎月一度の坐禅会を行っています。院長の柴田高志先生は、代替医療を中心にした診療所を開設されました。そこの二階板間に畳を敷き、仏像を安置して坐禅が出来るようにしてくださったのです。参加者と診療所のスタッフに私たち僧侶が、自らの呼吸に意識を集中して、ひと時を一緒に坐ります。坐禅の後、呼吸についての話をしたところ、参加者の若い女性が、家事の合間などに、肩の力を抜いてゆっくりと息をはく呼吸をしてみたそうです。当然、思うようにはいかなかったのですが、そこに新たな世界を見つけた楽しみを感じているようでした。仏教詩人、坂村真民さんの詩に『息の仕方』があります。
生き方とは 息の仕方とも言える どんな息をするか それによって 幸も不幸も生まれてくる 病気もおきてくる 人間の一生もきまる (後略)
生き方が様々あるように、息の仕方もいろいろあります。天台大師の『小止観(しょうしかん)』には「風(ふう)・喘(ぜん)・気(き)・息(そく)」と四つの呼吸が説かれています。はじめの三つは、喘(あえ)いだり、長短、緩急極端にかたより乱れた呼吸です。四つ目の息(そく)は、出入の境がないほど静かな、綿々として尽きることのない調(ととの)えられた呼吸です。緊張や不安という心の状態が呼吸にあらわれるように、心と呼吸は深く関係しています。呼吸を調えることによって心が調い、安らかな心境を得ることが出来ます。七十九才で亡くなられたMさんは、胃の不調を感じて診察を受けたところ、その日のうちに入院を指示され、まもなく胃をすべて摘出されました。それからの一年間、ご主人は奥さんの病床に付き添われ、時々自宅に帰った時も、風呂は浴槽に入らずシャワーを浴びるだけにして、家では横になることもされませんでした。しかしMさんにとっては突然の出来事であり、しかも体力は日に日に衰え、症状も良くなる気配は感じられず、病気の本当のことを伝えようとしない病院や、周囲の人々に対して不信感が生じ、とりわけご主人にはつらく当たられていたようです。入院されてちょうど一年後にこの世を去られました。その後、Mさん愛用の懐紙入れから、病院とご主人への言葉が書かれた懐紙が見つかりました。
大変お世話になりました 勝手なことばかり申し上げまして 恐縮に存じております でも心がとても安まりました
意識がなくなるときまで、「家に帰りたい」と言われ続けていたMさん、いつこのようなことを書かれたのかはわかりません。焦燥感のため思い切り悪態をついても、淡々と受け止められるご主人によって、心が次第に落ち着き調えられ、つらい現実もあるがままに受け入れ、周囲の人たちの懐かしい気持ちを正しく受け止めることが出来たのでしょう。何事においても、正しく見て、そのままに受け止めることは容易ではありませんが、よく調えられたおのれにあってこそ、可能なのではないでしょうか、忙しい毎日ではありますが、時間を工夫して、呼吸を調えることをはじめてみませんか。

■秋は喨々(りょうりょう)と・・・
ある夏の日、うるさいほど鳴いていた蝉が知らぬ間に聞こえなくなり、だいぶ静かになりました。と同時に、ひんやりとした秋風が私たちの体に伝わります。耳を澄ませば、コオロギやスズムシが鳴き、回りの山々は次第に紅葉し、その彩りの美しさにしばし目を奪われてしまいます。なんとなく、私たちの心はしみじみとした静かな気持ちになってゆくのがわかります。それは切なくもあり、優しくもあり......。「感傷の秋」とはよく言ったものです。昔、中国の有名な詩人で蘇東坡(そとうば・1036~1101)がこのような詩を残してくれました。渓声便ち是れ広長舌(けいせいすなわちこれこうちょうぜつ) 山色豈に清浄身に非ざらんや(さんしょくあにしょうじょうしんにあらざらんや) 現代風に言えば、「谷川のせせらぎは、お釈迦さまの親切な教え。山々の美しい姿は、お釈迦さまの姿。山や川だけでなくて、風も、そして風によって葉っぱが落ちる姿も、蝉が鳴くのも、スズムシが鳴くのも、私たちの目に入るもの、肌で感じる全てのものがお釈迦さまの教え」と言うのです。確か、お釈迦さまの教えというのは、回りに目を向け、慈(いつく)しみや思いやりに気付かせて頂くための教えだったはずです。それなのに、今の私たちはどうでしょう。目先のことだけにとらわれ、回りの物の美しさに目を向けたり、耳を傾けたり、肌で感じたりすることを忘れがちになってしまっています。春は春の、秋は秋の美しい姿や、素晴らしい旋律があるはずです。それを、純粋に観じて慈しみの心をあらためて気付かせて頂くのです。お寺の下の学校のグラウンドから、マーチが流れ、子供たちの歓声が響き渡ってきます。運動会が始まっているのでしょう。その音につられ、足を運んでみると、子供たちは行進し校庭にきれいに並んでいました。私も子供たちに合わせて準備体操をした後、校舎の上にある、万国旗の向こうに映る、碧く高い秋の空を見上げながら、ゆっくりと深呼吸してみました。すると、今まで味わうことのない、清々しい気分になった自分がいたのです。そして、我が子といっしょに、子供の時に戻ったように運動会を楽しんでしまいました。
秋は喨々(りょうりょう)と空に鳴り 空は水色 鳥は飛び 魂いななき 清浄の水こころに流れ こころ眼をあけ 童子(どうじ)となる (以下略)   高村光太郎「秋の祈」
「喨々と」は音が明るくほがらかに響きわたるということです。ここでは空の澄み切った様子を鋭く感じさせています。ほがらかな音を奏(かな)でる澄んだ秋空の下、光太郎の心も、空のごとく、みずのごとく、自らの心が清浄となり、純真無垢な子供の心になってゆくと詩(うた)っているというのです。光太郎にとって、自然界の様々な音や姿が自らの心を癒すためのお釈迦さまの教えになったのです。そう思えば、私たちもまた、子供たちの歓声や、自然界にある全ての奏でる音が優しい教え(愛語)に感じられます。耳を澄ませば、たくさんの音が聞こえてきます。しかし、私自身がざわついてる時は、決して耳に入りませんし、物の美しさも目に入りません。心が静かな気持ちになって始めて、日常の些細(ささい)なことを受け止め、何でもないことが優しい教え(愛語)に繋がります。そして、その教えは自らの心を優しくさせ、言葉自体も優しくなれるし、しぐさひとつとっても優しさが滲(にじ)みでてくるような気さえします。これこそが蘇東坡の言われた「清浄身」や、光太郎の言われた「童子となる」ことであり、 つまりはお釈迦さまのお姿そのものではないでしょうか。そして私たちもまた......。さあ、秋本番です。この秋の美しさをどう観じるか。それは、私たちの心次第であるのです。

■心に残る言葉 「本当の愛語とは」
「打って打って打ちまくれ」 まるで野球の応援か解説者の絶叫のようですが、これは臘八大接心(ろうはつおおぜっしん=十二月一日から八日までのまるまる一週間、不眠不休で坐禅を組み通す、専門道場最強の修行)での直日(じきじつ=禅堂の取締役)さんの言葉で、私達修行者にとっては身の毛もよだつような言葉でした。現代は妙に気を遣った過保護な言葉使いばかり、その中で家庭から大学まで育ってきた現代人の私にとって、道場に入った途端にこうした驚くような言葉があたりまえ、まさに晴天の霹靂(へきれき)、もっとすごい言葉では「お前らは人間じゃない」などがありました。本当に驚きそして戸惑いました。けれども後々こうした言葉が「愛語」と普通に言われている言葉の何倍何十倍の意味をもって、自分自身の人生にかかわってくるものだと知ることになったのですから不思議なものです。私が修行中、僧堂の閑栖(かんせい=隠居の身になった老僧)である、暮雲軒(ぼうんけん)老師のお世話をする"隠侍(いんじ)"という係りになった時のことです。ある日廊下を掃除していると老師が、「おーい、おーい」と呼びます。行ってみると老師がなにやら窓の外を指差しています。見ると野良猫が一匹山のほうに逃げていきます。ぼやっと立っていると、「馬鹿もん」と一喝、「そんなことだから何も見えんのじゃ」と老師、首をひねっていると、「猫を見ろ、お前は猫以下ということじゃ」と一言、また「この大馬鹿もんが」とどなりながら隠寮(いんりょう=老師の部屋)のほうに引き上げていかれました。鈍感な私はさっぱり分かりません、しかしこれからが大変、何も分からないままではすまないと、ああでもないこでもないと考えた挙句、次のようなことを考えつきました。
野良猫は生きるために常に五感(見る、聞く、嗅(か)ぐ、味わう、触れるの五つの感覚)を働かせ、一目見ただけで、老人である老師を見たときは動かず。若者である私を見たときは、すばやく逃げ出したのです。そのように常に周りに気を配り、油断なく修行せよ。と言うことなのかと・・・・・・。後日そのことを老師に申し上げると「ふん」と鼻で笑われてしまいましたが、日常のなにげない、そうした事象の数々が、五感のすべてを研ぎ澄ますことのできる修行であると分からせてもらったのです。先に出てきた、「打って打って打ちまくれ」は警策(けいさく=励ましたり、気合を入れるための樫の棒)で打つときの言葉ですが、その後「鉄は熱いうちに打て」と言われてはじめて、その痛い痛い一発いっぱつが、なまくらな自分を打ち直し新しいしっかりとした自分を作るんだということが分かり。「お前らは人間じゃない」は、修行を重ねてはじめて人間らしい人間となれる、最初から一人前の人間だと思ったら大間違いだ。という風に、時間がたてば、その恐ろしい言葉も、自分達を育ててくれる滋養分なのだと受け取れるようになったのです。臨済禅師という臨済宗の名のもとになった中国の祖師も、黄檗(おうばく)禅師に痛打されてはじめて歴史に残る禅僧になられたし、山本玄峰(げんぽう)老師という名僧も道場でメッタメッタに打ち据えられてはじめて目が開けたと聞きます。甘いあんこにシロップをかけるような、「愛語?と過剰保護」がはやる現代社会、こういった説明のない厳しい禅の「本当の愛語」や「心からの痛打」という修行方法は誤解を生み、なかなか理解されないかも知れませんが、少なくとも私にとっては「甘いあんことシロップ」の親切よりは、はるかに自分のためであったと今では深く感謝しています。玄峰老師が次の言葉を残されています、「法に深切(しんせつ)・他人に親接(しんせつ)・自分に辛節(しんせつ)」と。まさにご苦労なされた老師ならではの言葉ではないでしょうか。その後、南禅寺の塩澤大定(しおざわだいじょう)管長さまから絡子(らくす=首からかける略袈裟)を頂いたのですが、その後ろにはまるで私のために書いて下さったかのように、墨痕(ぼっこん)鮮やかに「朝打三千・墓打八百」(ちょうださんぜん・ぼだはっぴゃく=打って打って打ちまくれの意味)としたためられていました。それを首にかけるたび臘八大接心の堂内の声がなつかしく心に響いてきます。 
 

 

■日々是好日
毎年のことながら、お正月を迎えると物も心も、洗い清められたような、すがすがしい気分になります。このすがすがしい気分を調えることによって人は、美しい心、美しい生き方、美しい姿をして生活することができるのです。心を調えて、美しい思いやりの心で生活していますと、周囲の人々も思いやりの心で、接してくれます。一人の思いやりの心が周囲の何十人という人々に自然に伝わります。そして、いつのまにか、その人の周りの人々が思いやりの心で生活するようになり、優しい言葉で語り合うようになります。禅語に『日々是好日(にちにちこれこうにち)』という句があります。「毎日、毎日、人生最良の日」ということです。しかし毎日毎日が好いこと、楽しいことばかりという人生には無理があります。憂き世とか、苦の娑婆というように、喜びや楽しみよりも、苦しみや悲しみが多いのが人生の現実であります。結婚式の挨拶でよく聞く言葉に、長い人生は決して平坦なものではなく、山あり谷あり、喜びもあれば悲しみもある。それを二人の門出に、この甘い幸福の喜びのみが、いつまでも続く人生ではないと諭されます。私たちにとって意義ある人生とは、幸福だけに包まれ、喜びのみに満たされる人生だけではなく、悲しみや苦しみや失敗をしながら、毎日毎日を人生最良の日として生きることにあります。しかし私たちは、日時や方角の吉凶にこだわり、周囲の環境に動かされて一喜一憂して生きています。
吉田兼好は、『徒然草』の中で「吉日に悪をなすに必ず凶なり、悪日に善を行うは必ず吉なり、吉凶は人によりて日によらず」と言っています。お釈迦さまは「吉凶占相(きっきょうせんそう)、星宿仰観(せいしゅくごうかん)」をしてはならないと言われています。吉だの凶だの、星占いなど、そういうものにとらわれてはいけないのです。ある日お米屋さんの家に育ったOさんが、お店の番をおばあさんに頼みました。その頃は、物乞いをする人がよく店にきたそうです。夕方のことです。「ごめんください」と人が店に入ってきました。「ハイ、いらっしゃい」見るとお客様とは思えない、汚れた身なりをした人です。Oさんは、この人は「物乞い」だなと思って、小銭を渡して帰ってもらおうとした時、「あのー、麦を一升売ってください」と言われます。「ハイ」意外なことに驚いたOさん、なれない手つきで麦を一升桝に入れ、きちんと一升にするために木の棒で桝の面を平らにして袋に入れようとします。その時「O、何という計り方をするの。こうやって計るものです」と、おばあさんが奥から出てきて、Oさんの見ている前で、一升桝に麦を山盛りにして袋に入れて「ありがとうございます。またどうぞ」といって渡しました。汚れた身なりのその人は、何度も何度もお礼を言って帰っていきました。「O、家は米屋です。でも、何でも売ればいいという商売はしてはいけません。困っているような人から儲けようなどとは考えていません。商売は、やさしい思いやりの心でしなくては、立派な商人にはなれませんよ」と言っておばあさんは奥に入ってしまいます。Oさんは、今でも思いやりの心で商売をし、いつも「おかげさま、もったいない、ありがたい」と言っていたおばあさんを思い出しては、自分が仕事に行き詰まった時の心の支えにしているということです。新年は、人生の再出発をするのにふさわしい日です。山あり谷あり、喜びもあれば悲しみもあるのが人生です。美しい思いやりの心で"毎日、毎日、人生最良の日"と受けとって、優しい言葉で語り合い、「あー、自分の一生は幸せだった」と言えるような人生を送りたいものです。

■心のブレーキ
私が住んでいる近くの道路に、交通安全を呼びかけるこんな看板があります。「運転は、出せるスピード、出さない勇気」 車を運転していると、ついつい誘惑に負けてしまい、スピードを出してしまうという方も多いと思います。頭の中では、危険だとか安全運転しなければと、分かってはいるのですが......。そのような自己中心的な運転は、他の車や歩行者に迷惑をかけるだけでなく、交通事故を引き起こす原因となることも、決して少なくありません。どんな状況でもしっかりと自分の心にブレーキをかけて、周囲に対する思いやりや、優しさを持つといった、安全運転に心がけることの大切さを、この看板は教えてくれています。この「自分の心にブレーキをかける」ということは、車の運転に限らず日常生活においても大切なことです。私たちは、ともすれば自分の思いのままに生きたい、好きなように行動したいと考えがちです。しかし、そんな心をそっと抑えて周囲に目を向けてみると、自分が今まで気付かなかったものに出会えるかもしれません。私も先日、車を運転していた時に、幸運にも優しい心に出会うことができました。その日はあいにくの雨模様、そして夕方という時間帯でもあり、道路は大変混雑していました。私は車がなかなかスムーズに進まないことに、とてもいらだっていました。そんな時、私の走っていた車線の反対側のスーパーの駐車場から、一台の車が私の入る車線に入ろうと、ウインカーを出しているのに気付きました。しかし、なかなか道を譲ってもらえず入れません。私もいらいらしていたこともあり、恥ずかしながら車を止めて道を譲ろうという気はまったくありませんでした。その時、対向車線を走っていた一台の車がすっと止まり、その車に道を譲ったのです。その車はちょうど私の前方の車だったので、私も止まれば、待っていた車は車線に入れます。私は一瞬「このまま進もうか。後ろの車が止まるだろう」とも思ったのですが、その待っていた車に渋々進路を譲りました。にもかかわらず、その車を運転していた人は、不機嫌そうな顔で私の前へと入ってきました。
クラクションを鳴らすことも、頭を下げることもなく。そんな態度に私のいらだちはピークに達しました。「せっかく入れてやったのに挨拶もなしか」 などと車内でぶつぶつ一人文句を言いながら、ふと窓の外に目をやると、先に止まった車の運転手さんが優しい笑顔で私にむかって頭を下げておられたのです。「プッ」というクラクションの音とともに。それを見た私は、嬉しいやら気恥ずかしいやら......。その運転手さんの思いやり、優しい心に触れた喜びと、世間体だけ考えて嫌々車を止め、苛立ちだけを募らせてっしまっていた自分の心の狭さ、思いやりのなさを痛感したのです。私も同じように挨拶を返して、車はすれちがって行ったのですが、その後はそれまでの苛立ちがだんだん消えていき、なんだかいい気分で運転することができました。もしこの時私が車を止めて道を譲っていなかったら、このような優しい心には触れることができなかったでしょう。動機は不純ではありましたが自分の心を抑えて車を止めたおかげで、忘れかけていた大切な心に気付かせて頂けたのです。それはとても有難いことでした。お釈迦様は、私たち一人ひとりが他者を思いやることのできる優しい心を持っていると教えて下さっています。どんなときでも その心を忘れずに、自己中心的な気持ちをそっと抑えることができたなら、私たちの生活は、今よりもっと優しい笑顔や言葉に満たされた温かなものになるのではないでしょうか。さあ始めてみませんか、まずは家庭からそして社会へと。

■遺言
春、三月。春休みのこの季節を迎えると、子供の頃、電車で八時間ほどかけて遊びに行った、父方の親戚のことを思いだします。桃の花の咲き乱れる山で花見をし、従兄たちと日の暮れるまで遊び、叔父や叔母に可愛がられて過ごした頃のことが、春の風を身体いっぱいに受けると浮かんでくるのです。昨年の暮れ、そんな叔父のひとりが亡くなりました。臨終を前に戒名を頼まれた父と私は、あの優しく、いろいろと良くしてくれたその姿を名前に残したいと『温良』の二文字を入れました。お葬式の翌日、戒名に盛り込んだその思いを従兄弟やその子供たちに話すと、みな一様に"キョトン"とした表情をしてかえします。よくよく聞いてみると、普段の叔父は意外と厳しく、言いだしたら聞かない頑固一徹なところを持った人であったようです。私たちは、生活をしていくなかで、様々な状況や場面に出合い、自分を色々な姿に変えて暮らしています。こういう私も住職としての姿はもちろんのこと、説教師や茶の湯の数寄者(すきしゃ)の姿、家庭にあっては、夫、父親としての姿や子供としての一面もあります。そして、お経をよんだり、掃除をしたり、参拝者への応答も日常の姿です。また、お酒を飲んであまり人に見せられない酔った姿など、いろいろな面を見せて暮らしています。そう考えると、遠く離れていたとはいえ、叔父の持つ多くの姿の、ほんの一面しか見ることができなかった自分がそこにありました。これら一つ一つの姿は、その時その時の心の動きが形になったものですから、私たちの心のありようこそが、生きていく上で大きな意味を持つことになります。
NHKの大河ドラマ『武蔵』に登場し、歴史の中では、将軍指南役の柳生但馬の守(やぎゅうたじまのかみ)に『不動智神妙録』という著書を授け、仏法を通して剣を説き、人が人として生きるにはどうあるべきかを説いた禅僧に、沢庵(たくあん)禅師がいます。この『不動智神妙録』の結びは、 ・・・ 心こそ 心迷わす 心なれ 心に心 心ゆるすな ・・・ という古歌で締めくくられています。その意は「妄心(もうしん)こそが、清浄な本心を迷わせる心です。本心よ、自ら妄心に心を許してはなりませんよ」と、いうことになります。また、禅師は「本心とは、一つ所に止まらず、身体全体にのび広がった心。妄心とは、何かを思いつめて、一つ所に固まり集まった心」と、同じ書の中に示されています。この歌は、古い時代のものに違いありませんが、現代の私たちに、自らの心を日頃から調えていくことの大切さを、今なお訴えかけています。さて、叔父の葬儀が始まる前のことです。お棺の中で、ただ寝ているような叔父の顔を静かに、自分でも不思議なくらい心静かに眺めていると、生前、叔父が最後に投げかけた言葉を突然思い出しました。それは、叔父が亡くなる一年前。父が吐血をし、緊急入院したのを見舞いに来てくれた時のことです。自らも肺ガンに冒されながら、身体の状態をかえりみず、十時間余りの道のりを車に乗ってやって来ました。その帰り際、叔父は一言『お父さんを大事にしろよ』と言い残して、車中の人となったのです。この『父を大事に』という一言、そのときは、単に「身体をいたわってやれ」というくらいにしか受け止めていませんでしたが、叔父の死に顔を静かに眺めていたとき、「お父さんがしっかりと守ってきたお寺を、お前も伝えていくんだぞ。ご先祖さまやお父さんにドロを塗るようなことをしたら許さんぞ。しっかりやれよ、弘道」と、言葉にはしなかった内容が含まれていたのではと気付くことができました。この体験は、私にとって何ものにも替え難い叔父からの遺言となり、素晴らしい"愛語"の宝物となっています。私は今、人と接し、語り合うとき、雑念に振り回されることがないよう、心を落ちつけ、静かに調えて、人の話を聞く耳を持ち、語る口を備えたいと願わずにはおられません。それは、素晴らしい"愛語"に、また出合いたいと思っているからです。

■三五二万人と六七〇億円 ー布施の行ー
標題二つの数字は、なにを意味しているか。横浜市の人口は今、三四七万人といいます。私の街は、三六万人。それらを上回る三五二万人とは、わが国の失業率5.5%の実数。そして、六七〇億円(五億ドル:2002年当時の為替レート)は、アフガニスタン支援日本負担額です。失業率5.5%といわれても比率感覚に弱いものにはなかなかピンときませんが、実際の人口数で示されると、おどろきます。横浜市の赤ちゃんから高齢者にいたるまですべての人々が、また、私の街でいうなら全市民のみならずはるかにこえてその十倍もの人が職を失い、求めても得られない事態。両極に位置する世代は職についていないとしても、あまりの膨大な数に言葉を失います。このような社会の負的な背景は、何やかやの悩ましい事象をひきおこす引き金になり、混沌(こんとん)たる世情をかもしだしかねません。かくて、心中に蠢(うごめ)くものがある。「日本自身が失業で困っているのだから、六七〇億円を対策費としてそちらへまわせばいいではないか」 うん、なるほど。それもひとつの手法だ......。とのうなずきが生じます。が、また別のところに、「われわれもしんどいが、わが国とくらべる以前の問題だ。『私の国は戦争と荒廃の他なにもない国』とカルザイ議長に慨嘆(がいたん)せしめ、さらなる混沌の渦中にある、アフガンの人々の力にならないわけにいかない」 と、諭し示す動きがでてきます。「そうだ。日本人としてあの悲惨な状態におかれている人たちに手をさしのべずにはいられない。支えよう。しかし、その見返りとして私たちは、かの国の平和と安定の実現を期待するところ大なるものがあるだけに、思想信条、民族の対立を避け、国民のひとりひとりの生活の襞(ひだ)にしみいるようなお金の使い方をしてほしいと求めようではないか」 内戦などで乱れに乱れ収拾がつかない状況では、援助の金品が権力者の手にわたり、もっとも必要とする民衆のもとにとどけられないといったニュースをよく耳にしますから、こうした条件をつけたくなるのも無理はありません。
ここで再び別の声がある。「"日本人として"のところを"仏教徒として"とおきかえてみたら?」 仏法では、菩薩行といい、日常の行為として「布施の行」を説きます。「利他行」といってもいい。私は相手のためになる、とうぜん、感謝していただけるような何ごとかをしてさしあげました。しかし、反応はまったくなかった。無視された私は、三毒にまみれて怒ります。しかし、布施の行は、自らの行為についてなんの衒(てら)いもなく、微塵の見返りも求めないもの。のみならず、行ったその行為自体、心中に保持しつづけることなく、ただちにさらりと忘れさるものだという。とらわれないものだという。すごい行ではありませんか。さすれば、アフガニスタンへの仏教徒の姿勢は定まってきます。支援条件を付すべきではない。いや、つけるつけないの吟味すらすでに布施行に悖(もと)りますから、ただただ、支えればよろしいのであります。そうした利他行の根には、相手への宗教性に根ざした深い信頼がおかれています。つまり、「仏性」をみています。再再度の声、「その見方は平和ボケの結果。国際関係は甘くない。ニューヨークでのテロ事件、北朝鮮の武装船事件を見よ」 これを聞き、あれを耳にし、戸惑いながらも仏教徒は決意しなければならない。どうあろうとも布施のこころで支え、どうあろうとも怨みは怨みで返しはしまいと。まさに峻烈(しゅんれつ)な教えの実践ではあります。
注)このお話は、平成十四年に執筆されたものです。従って数字に多少の違いが生じていますが、主旨を妨げるものではないとの判断から当時のままで変更していません。因みに平成二十四年現在の横浜市の人口は三六九万人、日本の失業率は4.5%で失業者数二九二万人となっています。但し、この数字には異論もあり、実際の失業率は5.5%とも8%とも言われているようです。

■小人を防ぐの道は、己を正すを先と為す
皆様の中にも、兜や鯉のぼりを飾られているご家庭があると存じます。端午の節句は、元々中国では厄除けの風習で、菖蒲などの薬草を軒先に飾っていたようです。我が国には奈良時代頃伝わり、無病息災を願う行事として、宮中を中心に行われていました。それが江戸時代以降に男子の厄除けを願う日となり、武家から民衆に広まっていったようです。今日の我が国では、医療の発達などのお陰で乳幼児の死亡率も低くなりました、しかしつい数十年前までは、病気や怪我で亡くなるお子さんも決して珍しくはありませんでした。折角、得難い生命をこの世に受けても、順調に育つとは限らなかったのです。ですから、かつての端午の節句には、我が子の成長を祈る親の願いと、無事にこの日を迎えられた喜びが、今にもまして込められていたに違いありません。しかし、いくら時代が移っても、子供の幸福を願う親の心に違いはありません。高浜虚子の句に「ふるさとや むかしながらの 粽(ちまき)かな」とあるように、私達自身、今があるのは親の願いに育まれてこそ、と言うことを忘れてはならないと思います。
さて、昨年、本派四国布教師会が中心となり、青少年の健全育成と教化を目的に、小学校高学年から十八才までの青少年と保護者を対象としたアンケート調査を行い、それぞれ五百数十件の回答を頂きました。その結果を見ると、履物を揃え、食事の際「いただきます」「ごちそうさま」と声に出しているご家庭では、「生かされている」と感じている保護者が多く、また親子共に宗教に対する正しい理解がうかがえます。一方、履物を揃えなかったり、食事の挨拶をしないご家庭では、「生かされているのではなく、自分の力で生きている」とお考えの保護者が多く、お子さんのモラル意識も低い傾向が見られました。また宗教についても「何の為にあるのかわからない」という回答が増加するようです。これらの事から想像できるのは、人生観や宗教観は日常の生活習慣に大きく左右されるのではないか、という事です。確かに近年、日本の社会は自己責任や自立性が問われ、競争が激化しています。しかしながら、ただちに「自分の力で生きている」と考えるのは早計であり、物事を表面的にしか見ていない考えではないでしょうか。
「恩」を知るとは、「因」を知る「心」だと言います。客観的に見るならば、現在の自分が存在する為には、様々な要因が必要不可欠である事に気付きます。けれども、いくら野球の理論を勉強しても、それだけで野球が上手にならないのと同様に、いくら正しい教えを学び、頭では理解したつもりでも、身に付かない事はたくさんあります。やはり豊かな人間性を養い、人格を調えていく為には、日頃の生活から調えなくてはなりません。タイトルは、中国・宋時代に書かれた『近思録(きんしろく)』という朱子学書に出て来る言葉です。意味は「一般の人々に過ちのない生活をさせる為には、まず上の者が自らを正さなければならない」と言うことです。小人とは、君子に対する庶民の意味でありますが、子供と解釈しても意味は通じます。「子供に過ちのない生活をさせる為には、まず親が自らを正さなければならない」 私達には昔、それぞれ数え切れないほど大勢の親達が居ます。その無数の親達の願いを受けて、私達は生きているのです。そのご恩に報う為にも「最近の若い人は」と言う前に、まず自分自身を見つめ直し、普段の生活を見直してはいかがでしょうか。私達が親から受け継いだものをしっかりと次の世代にも伝えていくこと、それが親達の願いではないのでしょうか。

■おむすびの行方
師父の兄、祥道伯父さんが亡くなってもう八年になります。神戸の南禅寺派の和尚でした。伯父は小学生の頃、岡山の妙心寺派の名刹國清寺(こくせいじ)で小僧生活を送っています。縁あって、その國清寺さまにこの春の定期巡教で法話をさせて頂く事になりました。そのことを伯母に報告したところ、「そうですか、精一杯お話ししてきて下さいね」そして、「國清寺の門前には小学校があって、その同級生に『亀山浩四郎』という方がおいでたの。主人がよく『亀山君には世話になってなあ』と話していたのよ」 と感慨深げに話しを続けられました。私が、「どんなお世話になったのですか?」と尋ねると、「あの頃は、戦時中で食べ物が無い時代でしょ。主人も学校に持っていくお弁当に苦労したらしく、よく國清寺の朝のお粥さんを弁当箱に詰めて持っていったらしいのよ。それを知った亀山さんが、お寺での修行も大変なうえに、愛媛から親元を離れて暮らしている主人を不憫に思ったのでしょうね。時々おむすびを主人に持ってきてくださったらしいの」 「そうですか。有り難いことですね」 「本当にね。でもそれだけではないの。この話しにはこんな続きがあるの」 「・・・・・・・」 「主人が亡くなって一年ぐらい後に、亀山さんがお参りに来てくださったの。その時、おむすびのことを思い出してお礼を言ったら、亀山さんが 『祥道君は私からもらったあのおむすびをどうしていたと思います?私には分からないようにお弁当を、持ってこられない他の同級生に分けてあげていたんですよ。彼はそういう温かい奴だったんですよ』と。その話を聞いて私、主人のことを思い出してこらえ切れなくなってね、ポロポロッと......」
六十年後にも届くおむすびの思い。その思いとは、頂いたおむすびだけど自分だけでなく他の人にも分けてあげたい。しかし、亀山さんの好意も大事にしなければいけない。だから亀山さんには分からないように他の同級生に分け与えていた伯父の思いであり、またそのことを知っていて言わなかった、亀山さんの思いでもあります。伯父も亀山さんも共に黙っていた"おむすびの行方" あのおむすびが六十年経って伯母に、そして伯母を通して私に、どこか私たちが忘れていたものを思い起こさせてくれました。何か大切な温かいものを......。ところで、私たちが『忘れていた温かいもの』とは何でしょうか?それは、誰もが本来持っていながら、隠れてしまってなかなか見えてこないもの、つまり「思いやりの心」であり、「施しの心」ではないでしょうか。その心を現す方法が『生活(くらし)』の中にあります。例えば伯父の行い。その基になっいるのは日常の掃除、食事といった禅寺での徹底した小僧生活です。この「禅の生活(くらし)」が、伯父の本来あるべき姿を見せてくれたのです。貴重なおむすびを自分だけのものとせず、みんなに分け与えるという布施行をする伯父の姿となって。禅の教えを意識しながら生活することが、自らを調え本来の自分を現すことにつながるのです。「心は形によって現れる、形によって心が調えられる」と言いますが、繰り返し形を行ずることにより、心が静かに落ち着いてまいります。仏の教えにかなった行いを生活の中で習慣づけたいものです。お互いの心をしっかりと結ぶ、伯父と亀山さんのおむすびの話しから、そんなことに気付かせて頂いたことでした。

■百点満点
それは、よく晴れた初夏のある朝の出来事でした。中庭のわきを通りかかって、ふとモクレンの木の根もとに見るともなく視線をやると、朝食前に見かけた一匹の雨蛙が、先ほどと同じ場所で同じポーズのまま、しっとりと湿った地面に座ってこちらを見つめています。なんとなく心惹かれるものを感じて、蛙の傍らにしゃがみこんでしばらくジット眺めていました。雨蛙は身じろぎひとつ、いえ、瞬きひとつしません。息をしているのかどうか、その気配さえも感じられないほどに静かです。「うーん。お坊さんの禅定もマッツァオだなー」 と、わざと声に出して言ってみました。いたずら心がムクムクとわいてきて、雨蛙の目の前で手を振ったり、がぶりとかみつくような仕草をしてみたりといろいろ試してみました。ところが彼は全く動じる様子もなく、あいかわらずピクリともしません。ふと私は、この蛙がほんとに息をしているのかなあと心配になりました。そこで蛙のお腹のほうを覗いてみますと、一生懸命のど元をトックトックとさせています。「ちゃーんと息してるじゃないか」 とひと安心です。「それにしてもなー。雨蛙の坐禅はタイシタモンヤ」 雨蛙の、目から脇腹へと流れる筋模様や、後ろ足の縞模様に前足の斑点、どこを見ても美しいその姿に小さな感動を覚えて、私は自分の鼻の中を掃除しながら、なおしばらくみとれていました。新しい赤土に生えてきたスギゴケ。一本二本と身の丈二寸ほどの名は知らないけれどいつもの見慣れた雑草が、大きく成長したそのときと同じ姿で凛と立ち、四方にすうっと葉を伸ばしています。そして、雨蛙のそばでは小さな蟻が数匹歩きまわっていました。
何げなく私の掃除滓をハラハラト散らすと、一匹の蟻がその一つをさも大切そうにかかえて、えっちらおっちらと歩いていきました。やったぞとばかりにそれを右に左に振りながら、きっと巣へと帰っていくであろうその小さな蟻が、いかにも誇らしげで大きく見えたのは、私の贔屓目でしょうか。「いやー、エコサイクルだなー」と、感動の連続で思わずわけのワカラヌことを口にすると、近くで洗濯物を干していた細君が、「なに、それ?」と、不思議そうに笑って訊ねるので、すっかり風通しの良くなった鼻を「ふふん」と鳴らしてかるくやり過ごし、「私の鼻○も結構世の中のためになるもんだ。鼻○ひとつとっても無駄なものなんかこの世にはないんや」と、ひとり納得していたのです。視線をあげると、そこには一人前の顔をした若葉がモクレンの幹から一つ二つと直に生えていました。細君のいつものジャージ姿も朝日に照らされて輝いているようです。「あっちもこっちもみんな一生懸命やん。みんな100パーセントやで」と、つぶやいたとたん、その言葉にふっと『世界初の鶏』の悲しげな目を思い出して、はっとしました。それに比べて私たち人間のなんと愚かしく悲しいことか、と。その鶏は、『食肉改良の基礎研究として役に立つのでは』というコメントとともに、『三種類の細胞を混ぜ合わせて作った「キメラ」の鶏のふ化に成功』と、新聞に写真入りで大きく紹介されていたのです。自らの欲望を満たすためには、生命をも操るという人間の愚かさと、『世界初』という名誉を担わされた鶏の深い悲しみを想います。あれは十年前の授戒会のことでした。「みんな百点満点、百二十点満点の素晴らしい仏さまなんだぞ」と、満堂の戒徒に向かって高らかに宣言された春見文勝元管長様のお言葉が、講座台から身を乗り出すようにして話されたその元気なお姿とともに想い出されて、なぜか目頭が熱くなるのをおさえることができませんでした。

■○を見ている。○も見ている。
先日、中央に大きな耳の写真と、その右に少し小さめに心という字がレイアウトされたポスターを目にしました。何か惹かれるものがあって、そのポスターを眺めているうちに「耳に心。そうか、これは恥という字になっている。しかもこのポスターが伝えようとする恥は、自分自身のいたらなさ、愚かさを知る恥を伝えたいに違いない」と、そう思えてきたのです。私たちの一番基本的な心構えの中に『自浄其意(じじょうごい=自ら心を浄むる)』があります。知らず知らずのうちに自分勝手で傲慢(ごうまん)になっている自分に気付く大切な教えなのです。自分を省み、心の声を聞き、いたらなさ、愚かさを知ることで覚える恥ずかしいという思いが、心を洗って浄めて素直にしてくれるのです。この春先、庫裏の裏手にあった桜を伐採しました。百五十年以上の歴史を持った老木で、畑に芋を植え始める頃に花が咲き誇るこの桜は、地域の人たちからも『芋植桜』と呼ばれ親しまれ、通りすがりの人たちの足すら止めて、改めてカメラを携えて訪れるほどに美しいものでした。今年もこの美しい桜は、みごとな花を咲かせましたが、その花を見納めに伐採することにしたのです。今年の冬はいつにない大雪で、二日間で1m40cm積もりました。一度にこれだけの積雪をみるのは珍しく、三十時間にも及ぶ停電に生活も不便を兆し、杉の木がパッカーンと割れ裂ける音が山のあちらこちらから響いていました。お寺の裏山にも杉の木が迫っていて、建物めがけて倒れてきそうでおちおち寝てもいられません。大変危険だということで、裏山に迫る杉と共にこの芋植桜も今年の花を最後に切り倒すことになったのです。ちょうど八分咲きの頃、記念に写真に収めようと、いろいろなアングルからシャッターをきりました。いつもは下から見るだけだった桜を、裏山に上って桜と同じ高さから写真を撮ろうとしたとき、私の目に映ったものは桜の先にあるお寺の屋根と地域全体を見下ろす風景でした。桜の目線と同じところに立った今、この桜はこの地域の人々の暮らしをどれくらい見守ってきたのだろうか。と、そんな思いに駆られたのです。
いよいよ大型クレーンを使って桜を切り出す日が来ました。狭いところでのその作業は、慎重を極めましたが、作業も無事に済み「和尚さん、これで今日から枕を高くして眠れるね」と言われ相槌を打ちながらも、なんとなくすっきりしないものが心に残ったのです。再び裏山に登ると、桜の切り株には、ただ黙って私たちを見守りつづけてきてくれた使命が年輪となって残されていました。昨日までそこにあった桜の方向を望むと、お寺の屋根と地域の風景は変わらぬものの、何か大切なものを失った、何か物足りない、何か頼りない淋しさがこみあげてきたのです。芸術家の河井寛次郎さんは「花を見ている。花も見ている」と言われています。花を見ている一方通行な自分が、花もまた見ていると、そういう相手の思いに気づけたとき、人は素直になれることを言われたのでしょう。自分たちの勝手な都合だけで、桜の老木を切り倒してしまった私たちは「花を見ている」ばかりだったことを恥ずかしく思わねばなりません。見慣れた桜が空しい空間となった今「花も見ていた」ことに気づかされ、「ごめんなさい」と言葉が出てきたのです。切った桜の老木は、いずれ何らかのかたちに変えて活かしていきたいと考えています。「花を見ている。花も見ている」ただ花を見ているだけではなく、花も見ていると気づいたとき、我が恥を知り、素直に自身を省みることができることを、桜の老木からの最後のメッセージとして頂いたような思いがします。"○を見ている。○も見ている"花に限らず、○の中にあなたは、さて何を入れるでしょうか?

■笑顔の配達人になろう
浜の友人から わかめ の宅配便が届きました。青い磯の香りの中に「お前にどうしても食べさせたい」と書かれたメモが同封してありました。宅配便は楽しみです。何が入っているのだろうかという期待と、温かな心のぬくもりが込められているからです。ある評判のよい一流レストランに一人の老婆が訪れました。メニューを眺めて、笑顔のウエイトレスに、二,三品のものを注文いたしました。料理が届けられると、その中の一つが間違いであることが指摘されました。メモ用紙を示しながら、笑顔で説明しておりましたが、老婆は自分の考えを主張し、だんだん興奮してきて声も大きくなってきました。まわりのお客さんの目も時々このテーブルに向けられていました。その時、黒い服を着た支配人と覚しき人がそのテーブルに近づき、「大変失礼いたしました。当方の不注意でご迷惑をおかけいたしました。ご注文の品をすぐお持ちいたしますので、しばらくお待ち下さいませ」 と、厨房の方へ向かいました。しばらくすると、先程のウエイトレスが、料理を持参し、「先程は、とんだあやまりをいたしましてお許しください。どうぞ、ごゆっくりお召しあがり下さいませ」 と、笑顔で頭をさげました。一時はどうなる事かと心配していたまわりの人たちは、「さすが一流レストラン」と安心し感動しました。一人の客が洗面所の鏡の前に立った時、その鏡の横に何か文字が書かれていました。
「笑顔製造機」の五文字でした。一流レストランと呼ばれる原因はここにあったのです。鏡って何だろう......と改めて考えさせられました。身だしなみ・化粧の必需品です。もっと大切なことがあったのだ。己事究明(こじきゅうめい)といって、鏡は自分と向きあう道具であり、それは人生の大事な修行(業)なのです。人間は、顔を赤らめる(懺悔)ことのできる唯一の動物であり、又、赤らめることを必要とする唯一の動物であるともいいます。
鏡の前で、自分と向きあって、自分の心を調え 心の方向転換し 心の汚れを取り去り 修行し 心の化粧をした時が 笑顔なのです
国には、記念日・祝日があります。私達にも、誕生日・卒業・就職・結婚等の記念日がそれぞれあります。もう一つ加えて頂きたい記念日があります。
いつでも どこでも 誰にでも できる笑顔 今を 今日を 笑顔記念日にしよう そして 笑顔の配達人になろう
"咲く"さくとよみますが、"わらう"とも読みます。花の開くことが咲くで、それは花がわらっている一番すばらしい美しい時なのです。社会不安の中に、笑顔の宅急便をおくり、世の中に花の絨毯(じゅうたん)を敷きつめ心の花園にしたいものです。笑顔の花弁と芳香を撒き広めようではありませんか。
極楽も 地獄も 己が身にありて 鬼も 仏も 心なりけり 此の世は、自分を探しにきた処  此の世は、自分を観に来た処   (河井寛次郎)
蝸牛角上(かぎゅうかくじょう) 何事ヲカ争ウ 石火光中(せっかこうちゅう) 此ノ身ヲ寄ス 富ニ随イ貧に随イテ 且(しばら)ク歓楽セン 口ヲ開キテ笑ワザルハ 是(これ)痴人(ちじん)   (白楽天)

■秋彼岸〜仏さまと向きあう季節
ちちははの 忌(き)もおこたりて 働けど やすらぎ給(たま)へ よき子とならん
作家吉川英治さんの有名な歌です。お彼岸になると、日ごろの仕事に追われている人たちも、手桶を持ってお墓参りに出かけます。そして、私は確かに見守られている、ということが感じられる大切な時でもあります。長男がまだ二歳半くらいの頃です。奈良の薬師寺さんへお参りに出かけました。受付へと行きますと「お坊さんですか。どうぞ」と、とてもにこやかに迎え入れてくださいました。息子にも「ちゃんとお礼を言って」と言いますと、手を合わせて「いつもすまんねぇ」と言うのでみんな大爆笑です。これはどうやらおばあちゃんの口癖(くちぐせ)を覚えたようです。金堂(こんどう)に入りますと大きな仏さまがおられます。以下は私たちがお参りした時のやりとりです。
「大きいねぇ」「おおきいねぇ」 「立派だねぇ」「りっぱだねぇ」おうむ返しの連続です。「のんのんさんお顔、みえるかなぁ?」 「うん、みえる」 「のんのんさんも慎(しん)ちゃんのお顔が見えるの」 「ふ〜ん」 「後(うし)ろ向いてごらん。のんのんさん見える?」 「みえん」 「でもね、のんのんさんにはちゃんと見えるの」 「・・・・・?」 「慎ちゃんが泣いていても、笑っていても、おこっている時も、寝ている時でも、いっつも見ててくださるの」 「ふ〜ん」 「のんのんさんは大変なの」 「だからねぇ。ちゃーんとのんのんさんにお礼を言って」 「いつもすまんねぇ」「☆◇○△□・・?」
相田みつをさんの詩に ・・・ かんのんさまがみている ほとけさまがみている みんなみている ちゃんとみている ・・・ というのがあります。本当に解ってくれたかどうかはわかりませんが、これを聞かせたつもりだったのです。秋彼岸のこの季節。手を合わせながら、私たち自身の中におられる仏さまの声に静かに耳を傾けたいものですね。 
 

 

■もうちょっと、やれませんか?
三十歳そこそこの恋愛結婚されたご夫婦です。ご両親は早くに亡くなられ、お子さん方も小学校に入られました。御主人は月給袋を奥さんに渡され、必要な度にお小遣いを出して貰います。時間を持て余した奥さんは、ご自分もパートに出ておられます。まあまあ満足できる生活でしょう。ただ奥さんは家計管理はうまくないようで家計簿を付けることも、支出計画を立てたことも無い。別に遊び歩いたりはしないけれど預金はゼロ、ゆとりはないようです。御飯は炊けるがおかずが苦手な為、御主人に文句を言われるので、なるべくなら出来合いで済ませ、楽なことばかり考えてしまいます。休みの日のお昼は子供の食事も菓子パンとジュースなどで終わりにし、御主人には夕食に刺身を多めに付けて口封じ。御主人の方は建設業社員。飲みに出ることも結構多く、休日には遊技場へ。その度にン千円のお小遣いを請求します。今日は我慢してと云うとご機嫌斜めで、やりくりするのが務めだと一晩中文句を言う。やりきれなくて奥さんが子供の学校納金でも取りあえず渡せば「探せばあるじゃないか」と又一言。苦しくなった奥さんは実家にSOS。二人とも、もうちょっとなんとかやれないものでしょうか。
こちらは六十を迎えられる奥さんです。十年前に御主人が亡くなられた時は、下は六歳まで五人の子供と八十歳のお母様を抱えていました。お商売の方は周りの人々に助けられ規模を小さくしながら何とか続け、その内に、息子さんも一人前になって家業を継いだし、娘さんは嫁がせたし、小さかった子供も高校生になったし、少しゆとりが出来ました。娘の頃に習いたかった書道を、毎日三十分だけ朝早く起きて始め、段をお取りになり、次は画や大正琴も習いたいと。家庭の方達は趣味が出来てよかったねと、驚くやら喜ぶやら。「まだまだ、元気な内にあれもこれもと欲が出てきます」と笑っておられます。結婚したのは二十歳前、昔気質のご両親がご健在で、「我が家の味」が出せるまで大変だったそうです。「それから四十年、毎朝味噌汁を作り続けましたが、実はお味噌は余り好きではなかったのですよ。私はもう沢山ですから、できればお澄ましにして下さいな、と嫁に云ったら、よく今まで我慢なさったことと少し呆れていました。あれも親孝行でしたわ」よくおやりになられた方です。
次は明治生まれの御婆様の話です。娘時代に片眼を失明。七十代でもう一方も白内障になり手術なさる時、「一眼だから半額、と云われたので、高いけれど二十年保証のレンズにしましたわ」 九十近くまで矍鑠(かくしゃく)としておられましたが、発病して入院される時、とても歩けないので救急車がきました。担架が運び込まれて救急隊員に「動かしても良いですか」と聞かれ「大丈夫です!」というなり、自分で担架によじ登ってしまわれました。その後、ベッドから離れることは出来ませんでしたが、出来るだけ他人の世話にはならぬようにと云う、調えられた気骨を感じました。「私には出来ないから」と思って楽な方を取るのも、「そうするのが当たり前だから」と思って、我慢するのも意地を見せるのも、その方なりの生活の調え方です。しかし、私達がその暮らし方を聞いて感動し、自分でもそうありたいと思うような生活は「他人のお世話にならぬよう、他人のお世話はするように、そして報いを求めぬよう」にご自分を戒めながら調えられた生活でありましょう。「自らを調える」といい「生活を調える」といっても、別に改まって大きな目標を立てることではありません。普段の暮らしの中でもうちょっと、心がけることの積み重ねが、「調えること」に他なりません。あなたも、もうちょっとやってみませんか。
もうちょっと、周りを綺麗にするようにしてみよう。もうちょっと、喜んで貰えるように努めてみよう。もうちょっと、役に立つことをやってみよう。もうちょっと、大事にしてあげよう。

■「愛」と「布施」
達磨(だるま)さんと武帝(ぶてい)の問答にある「無功徳(むくどく)」有名な言葉です。その達磨さんの示された本来の功徳を考えるとき、マザー・テレサの「愛と祈りのことば」のお話しを思い出します。それは、ある時、マザー・テレサは極限までお腹を空(す)かしている、八人の子供を抱えたヒンズー教徒に、一食分のお米を持って行きました。母親はテレサからお米を受け取ると、それを半分に分けて家から出て行きました。しばらくして、戻って来た母親に「どこに行ってきたのですか、何をしてきたのですか」と尋ねました。母親から「彼らもお腹をすかしているのです」という答えが返ってきました。「彼ら」というのは、隣に住んでいるイスラム教徒の家族のことです。そこにも同じ八人の子供がいて、食べるものがなかったのです。母親にとっては、一粒でも多く我が子に食べさせたい大事なお米です。それを同じ状況にある他人に、躊躇(ちゅうちょ)なく分け合っているのです。それは、僅かなものでも、隣人と分け合う喜びを、心から感じていたから出来た行為であります。
分かち合う「愛」と「勇気」の行い、この行いは、なんら「見返り」を期待したものではなかったでしょう。仏教では、このような行いを「布施(ふせ)」と言い、それが本来の「功徳(くどく)」となるのであります。現在、我々は何が得で何が損かとか、どうすればいい思いが出来るかと、結果ばかりを先に考え判断し行動しています。そして、見返り・結果を求めすぎるため、その行いがたとえ良い行いであっても、裏切られたり求められないとき、腹が立ったりガッカリしたりするのです。見返りを求めない、素直で一途(いちず)な「愛」・「布施」の実践こそが「功徳」であり、今、我々にとって考え直さなくてはいけない、一番大切なことではないでしょうか。

■坐禅の生活
一つの心を心として築きあげるとき くらべるものなきまでに高めるとき 私はいつも偉(おほ)きな安心を感じた 心にゆるみをもち 小さく譲り合ってゐるときの私は寂しかった 私は高きに昇る心を養ひ始めた 心を心として あくまでも自由にそだてることは いつも私を大きくした   〈室生犀星 ー心ー〉
「自らを調える」ことにぴったりの詩です。そして「いつも私を大きく」していく生活を実践していきたいものです。しかし今の時代、幼児虐待、テロ行為、少年犯罪など新聞に取り上げられない日はありません。物質的には非常に豊かになりましたが、精神的には非常に不安定な時代ともいえましょう。おのれの感情のなすままに、つまり、貪(むさぼ)り・怒り・愚かさに犯された我々の姿がそこにあります。仏教では貪り・怒り・愚かさのことを三毒といいます。その三毒に打ち勝つためには調えること、つまり坐禅が大切になってくるのです。一言で坐禅といいますが、六祖壇経(ろくそだんきょう)に「外(ほか)一切の善悪の境界(きょうがい)に於(お)いて心念(しんねん)起こらざるを名(なづ)けて坐となし、内(うち)自性(じしょう)を見て動ぜざるを名(なづ)けて禅となす」と説かれています。周囲のあらゆる出来事に左右されず、しっかりと自分を見失わないことが大切であるとの教えなのです。スワルという形をもって、つまり身体が坐ることによって、心をも坐らせていくことが大切なのです。毎日の生活の中で、様々な出来事に対してそれをしっかりと受け入れ、その中から本当の自分を見つけ、さらに見失わないで生きていくこと、坐禅の生活といえませんか。
本『種まく子供たち』に加藤祐子さんの〈私の運命〉という闘病記が掲載されています。十三歳の時、加藤さんに急性骨髄性白血病の診断が下ります。周囲は、はじめのうちは告知しませんでしたが、本人はうすうす感じていたようでした。高校一年の再入院を機に、告知を受け、その後、彼氏や友人に打ち明けたり、悩みを聞いてもらったりして、自分自身を取り戻してゆくのです。「病気のことをいっしょに話したり、悩みを聞いてもらったりして、はじめてきちんと病気と向きあえた気がします。彼や友だちのおかげでがんばることができました。私は告知を受けてから自分の闘病記『私の運命』を書くことができました。自分の気持ちを見つめることができました」と。加藤さんにとって病気を受け入れることが「坐」であり、そんな自分をしっかりと見つめてゆくことが「禅」であったのではないでしょうか。加藤さんは調えることができたのです。さらに、「......だって私は十八歳です。私だって病気のことなんて気にしないで、思い切り青春したいです......。でも私は、人は一人で生きているのではなく、たくさんの人に生かされているんだと実感できるようになりました。これからも明るく前向きに生きようと思います。そうすればきっと何かがはじまって、なにかを見つけることができると思います。私を応援してくださるみなさま、本当にありがとうございます。」と闘病記は続きます。「前向きに生きよう」「本当にありがとうございます」と、加藤さんは調った自分をもって、成すべきことを実践していこうとするのです。加藤さんのその姿は、感謝という喜びに満ちた姿なのです。思うようにならない境遇、不運な境遇を逆境。環境や経済的条件などに恵まれ、物事が具合よく進んでいる境遇を順境といい、相反するものです。しかし、調えること、坐禅によってそれらをすべて今の自分の境遇として、しっかりと受け止めていくことが大切なのです。そしてそこを出発点として、感謝という喜びが感じられる日暮らしこそが「坐禅の生活」と言えるのではないでしょうか。

■成道会 〜鏡のような心
迷いとは 心が二つになること 悟りとは 心がひとつになること
私たちが、毎朝顔を映す鏡、この鏡にも色々な種類がありますが、どんな鏡でも、山に向ければその山を映し、川や湖に向ければそれをそのまま映しだします。しかし、それは鏡の前に映し出される物があるからであり、物がなければ映らないのです。また、鏡はその前に来た姿を素直に映し出します。自分の姿を映したとき他人の姿が映ることはないでしょう。これは、鏡が、自分の決まった顔というものを持たないからであり、鏡にとって、映った物それぞれがすべて自分の顔だからです。このように、映ったすべての物を自分として受け入れ、自分と他人の区別なく、清らかで、大らかな鏡のような心を、人、一人ひとりが、持つことが大切なのです。あなたの中にも、自分の姿を映す鏡をお持ちのはずです。
十二月八日は成道会 お釈迦さまは、シャカ族の王子の位を捨て出家されて以来、六年もの間厳しい修行をなされたのちの、十二月八日の明方、光り輝く曉の明星を見てお悟りをお開きになられました。これを成道(じょうどう)といいます。この仏教誕生と言うべき日を記念して、毎歳十二月八日に、各寺院で厳修(ごんしゅう)される仏事を成道会(じょうどうえ)といいます。
真実の姿 お釈迦さまが、お悟りを開かれた時、「奇(き)ナル哉、奇(き)ナル哉、一切衆生悉(いっさいしゅじょうことごと)ク皆、如来(にょらい)ノ智慧徳相(ちえとくそう)ヲ具有(ぐゆう)ス。但ダ妄想執着(もうそうしゅうじゃく)アルヲ以テノ故ニ証得(しょうとく)セズ」といわれました。奇ナル哉奇ナル哉とは、「不思議だ、不思議だ」という驚嘆の声であり、長い修行の末得られた法の喜びを表現したものです。では一体何が不思議なのでしょう。それは、すべてのものが真実の姿を備え、光り輝いているということであり、私たちの心の真実の姿は不生不滅の仏性で、智慧と慈悲の心であるということなのです。つまり、「お釈迦さまの仏性そのまま、私たちの仏性」なのです。
心のコントロールを お釈迦さまは続けて、「但ダ妄想執着アルヲ云々」と言われ、人間は、煩悩(ぼんのう)や妄念(もうねん)の虜(とりこ)になっているから、仏性に気づかないのだと教えられました。お釈迦さまは、この煩悩や妄念という悪魔を退(しりぞ)け、仏性に目覚められたお方なのです。では、私たちも、仏性に目覚めることが出来るのでしょうか。よく、坐禅を組めば、修行をすれば、煩悩をなくし、悪魔を退けられると考えますが、煩悩という悪魔は、私たちが生きている限りなくなるものではありません。逆にいえば、煩悩があるから生きていると言えないこともないのです。だから、煩悩を無理に滅ぼそうと間違った努力をすると、逆に苦しい負担(ふたん)がかかり、最後には負けてしまいます。私たちは、煩悩をなくすることは出来ません。しかし、それを整理し、調整しながら使いこなすことは出来るのです。人間の心は、常に二つの顔が現れたり隠れたりしているのではないでしょうか。一つは、自分にとって都合(つごう)の悪いことや、嫌(きら)いなことは徹底的(てっていてき)に排除(はいじょ)してしまい、「俺が・私は」といった自分中心的な我欲執着(がよくしゅうじゃく)の心。もう一つは、相手の立場になって相手を理解し、それを受け入れて自他ともに、一体となろうとする、我欲執着に捕らわれない心です。私たちは、この自分中心的な、我欲執着に支配される煩悩に捕らわれることなく、常に相手の立場になってものごとを考え、行動すればよいのです。

■精進の人
『......Yさん、あなたの突然の訃報を聞き、私をはじめ多くの農業者仲間のおどろきと悲しみは大変なものでした。......(中略)...... Yさん、あなたは若い頃から農業一筋に生き、農事研究の熱心さは人一倍で、私たちは多くの農業技術をあなたから学びました。あなたこそ、まさに、"精進の人"として生涯を貫いたことを、多くの農業者が知るところであります......』 右の文章は、今年の六月九日に亡くなられた私の寺の檀信徒Yさんの葬儀で友人代表が述べた弔辞の一部です。このYさんは昨年の定期健診で、胃の腫瘍を発見され、更に精密検査では、食道と胃に悪性腫瘍有りと診断され、即日入院でした。手術後は順調で、今年三月上旬に退院し、自宅静養することになったが、生来の働き者故、今年の農事のしたくに取りかかり始めたのです。そんな三月のある日、墓参りのついでに寺を訪れ、久しぶりに茶飲み話をしました。そこで私は「退院後の静養が大切なので無理をしないで下さい」と話すと、笑顔を浮かべ「心配かけてすみません。でも、もう大丈夫です。日頃の癖で、田畑仕事をしていないと落ち着かなくてね......」と話していました。この短い会話から、Yさんの日頃の精進ぶりを強く感じさせられました。その三ヶ月後、病状が急変し、間もなく亡くなられたのです。弔辞にあった"精進の人"という言葉からお釈迦様の述べられた偈を思い出しました。
人もし生くること 百年ならんとも おこたりにふけり はげみ少なければ かたき精進に ふるいたつものの 一日生くるにも およばざるなり   (法句経112)
どんなに長生きしようと、漫然と日暮しするものよりも、自分の仕事に打ち込んで生きるものこそ、たとえ短い人生であってもすばらしい人生を生きることだとお釈迦様が教えられているのではないでしょうか。その教えを裏付けるようにYさんの生き方を、実の弟Sさんから聞く機会があったのでその話を紹介してみたいと思います。「私の兄は、終戦後の混乱期に新制中学を卒業し、農業高校進学の夢を持っていました。しかし、農家の長男ということもあり、父親の指示で高校進学を断念し、農業に従事するようになったのです。それでも、自分の夢は捨て切れず、農閑期を利用して上京し、日本の植物学者として有名であった牧野富太郎博士を訪れ、植物の生態や分類について博士から教えを受けたようです。更には、北海道大学の農学研究室に足を運び、農業技術の研究成果も学んできたようです。兄の農業に対する打ち込みは、真剣そのものであったように思います。とくに、雑穀(あわ・ひえ・きび・もろこし等)の栽培に力を入れ、これからの食料には、雑穀が欠かせないもので、人の健康増進に役立つことを熱心に話してくれました。しかも雑穀がとれると毎年私に送ってくれ、必ず調理法のメモも忘れずに添えていました。あまり長い人生ではなかったが、兄なりに精一杯生きたのではないかと思います」 静かな口調で話してくれた弟さんの目に涙が浮かんでいたのは印象的でした。自らを知り、自分の仕事に最後まで精一杯の努力・精進したYさんの精神力は、現代に生きる人々に大きな教訓を与えてくれるものと思います。"精進の人"として生きたYさん。宴席で好きなお酒を嗜(たしな)み、農事の苦労話を生き生きと話してくれたありし日のYさん。"かたき精進にふるいたつもの"こそ、「自らを調え、生活を調えていく」ことが出来るのではないでしょうか。

■くずれてしまったバランス
明けましておめでとうございます。本年も皆様のご多幸をご祈念申し上げます。
生存を 確認し合う 年賀状 ・・・ お正月 子供の方が お金持ち ・・・ 父ちゃんの 小遣い減らす 子の携帯 ・・・ これらの川柳は、某会社がある年に募集した優秀作であります。因みに過去の最優秀作品の中から二,三ご紹介いたします。 ・・・ いい家内 十年経ったら おっ家内 ・・・ 我が家では 子供ポケモン パパノケモン ・・・ プロポーズ あの日にかえって 断りたい ・・・ 親孝行 したい時には 職は無し ・・・ 等々、ピリッと風刺が効いてて、思わずうなずいたり、共感したり、そして、じんわりと哀愁が漂ってまいります。この頃自然との関係も、人間関係も少しおかしくなってきました。心と身体のバランスも悪く、栄養のバランスも悪くなり、現代病という病気が流行してまいりました。
「この手は何の為に付いているか知っているかい」 私は、小さい頃お爺ちゃん子お婆ちゃん子で過ごしました。特にお爺ちゃんには、かわいがってもらい、よく一緒に風呂に入っていました。その時、お爺ちゃんはいつも、手ぬぐいで私の手を拭いてくれました。ふきながら「この手は何の為に付いているのか知っているかい」と話しかけるのです。「この手はなあー、働くために付いているのだよ」と言って拭いてくれました。次に耳を拭きながら「この耳はなあー、いろんな事を聞くために付いているんだよ。いろんな事を聞いて勉強せいよ」そして、顔を拭きながら「いい顔になるんだよ。いい顔になれよ」と言って拭いてくれました。その思い出は、いまでも心の中にはっきりと残っています。この年になって、お爺さんの言葉の意味が解ってまいりました。この頃、共生・調和・バランスという言葉をよく耳にします。「働く」とは、「傍(はた)を楽(らく)にすること」と、聞きました。二本の手や足は、「一本は、自分のしあわせの為に使っていいよ。でももう一本は、他人のしあわせの為に使いなさい」二つの耳や目は、「一方は、自分のために、もう一方は他人様の話をよく聞いたり、見たりしてあげなさい。その為にバランスよく左右同じように二つついているのだよ」と言う、お爺ちゃんの声が聞こえてきます。
そして、その中心には、今生きている「現在のいのち」の象徴である口と鼻。お腹には「過去のいのち」の象徴であるおへそ。その下には、「未来のいのち」の象徴がついています。人のいのちのつながりと尊さが、上から下へとまっすぐ通っているのです。この「いのちのつながりと尊さ」を軸(中心)とし、自と他の係わりの中で、二つのものをバランスよく使っていく為に、左右対称についているのだと思います。人間としての正しい生き方を、我々の身体は表しているのです。しかし、私達は、「自分の願い」という欲望が、いつしか増殖し癌となり、心も身体もバランスを崩し、病に冒されている事に気付かないでいるのではないでしょうか。人間は、一人で生きては行けません。人間関係や食べ物、自然という、自分を取り巻く「他」との関係を無視することは出来ません。人の心も環境も病んでいる今日、様々なバランスのくずれを、早期発見・早期治療することが大切だと思います。今まで使っていた、二本の手や足、二つの耳や目の一方を、是非まわりの人や環境にむけていただきたいと思います。その実践が、自然とバランスを調え「自らの心を調え、生活を調える」ことにつながると信じます。

■本当の自分が見えますか
二月十五日は、お釈迦様の亡くなられた日です。この日を『涅槃会(ねはんえ)』と言います。この『涅槃会』を、お寺の行事として終わらせてしまうのではなく、私達にとって本当の仏事にしてゆく事が大切です。その為にも、今一度お釈迦様のお言葉を心に深く味わって頂きたいと思うのです。
おのれこそ おのれのよるべ  おのれを措(お)きて 誰によるべぞ  よくととのえし おのれにこそ  まことえがたき よるべをぞ獲(え)ん ・・・ というお言葉を、『法句経』というお経の中に見ることができます。これは、「自分の中にこそ本当の拠り所があるのだ。自分以外に何を拠り所とするのだろう。よくととのえられた自分こそが、本当に求めていた拠り所となるのである」という教えです。確かに私達は、自分の救いを他人任せにするから大概が、当てが外れてしまいます。今度は物に求めるから、どれだけ集めても満足できません。どこまでいっても、「こんなはずじゃなかったのに」と言って生きていかなければならなくなります。ですから、お釈迦様は私達に「自分の中にこそ、真の拠り所があるのだ」と示されたのです。但、それには条件があります。その条件とは、「よくととのえしおのれ」であるという事です。この「ととのえる」というのはどういう事なのでしょうか。それは、自分自身の姿がはっきりと見えるという事です。例えば、食事をした後に口の周りが食べカスで汚れていたとします。そして、そのまま鏡の前へ立てば当然汚れた顔の私がそこに映ります。鏡は何の細工もしないで、そのまんまの私を映し出します。汚れた顔の私も、お化粧した私もどちらも本当の私なのだと受けとめてゆく事が、自分をととのえてゆくという事なのです。
私は日頃、お寺の事以外に実家の電気工事の仕事を手伝っております。私はこの電気工事の仕事が嫌でたまりませんでした。町内の同じ道を歩くのも、僧衣の時は堂々と歩き、作業服の時は下を向いて歩く。「自分は本当は坊さんなのに、今は仕方なく作業服を着ているんだ。言わば、これは仮の姿なのだ」と、いつも思っておりました。ある日、いつもの様に汚れた作業服姿で仕事から帰って参りますと、寺の近所に住む子供にこんなことを言われました。「おっさまってすごいんだね、お経も読めるし、電気も直しちゃうんだね......」って。この子の言葉に一瞬、頭を殴られた様な気がしました。そうでした。僧衣姿の私も、作業服姿の私も、どちらも本当の私でした。私が勝手に「こっちが好き」「こっちが嫌い」と思って苦しんでいただけで、どちらも同じように私を私にしてくれていた大切な存在だったのです。考えてみますと、私には三人の兄弟がいますが、今それぞれの道を歩んでゆけているのも、父が昼となく夜となく電気工事の仕事をしていてくれたからこそでした。自分がはっきり見えるというのは、私を私にしてくれているすべての存在に頭が下がる。「ありがたい」と心から感謝して、生きてゆけるという事なのです。仏教は決して、痩せ我慢して良い人ぶって生きてゆけと教えるのではありません。自分を偽るのではなく、着飾るものでもなく、本当の自分を見つめる為の法(おしえ)です。本当の私の姿が見えた時に、それが私の法となってゆく。私の法となるから、私の生き方が変わってゆくのです。これが「自らを調え、生活を調える」という事なのです。涅槃会を前に「何故、私が私で在るのか」という問い掛けをご自身になさってみて下さい。しかし、仏様に尋ねられてもきっと何も答えては下さらないと思います。なぜなら、私自身が気づくから、初めて私の法となって私の中に活きてゆくからです。ここをお釈迦様は、「おのれこそ、おのれのよるべ」なのだと、私達に示されたのではないでしょうか。

■さとうきび畑
何気なくテレビをつけ、机の上の仕事をしているときハッとした。心に染み入るような歌が流れてきた。それはまるで天空から降り潅(そそ)いでくるような美声であった。身が震えるような感動が湧き起こった。このうたは何という歌だろう?この歌を歌っているのは誰だろう?画面に釘付けにされた。五十歳前後の全盲の歌手だった。彼は沖縄県出身で生まれたとき不慮の事故で失明した。ラテン系アメリカ軍人の父は、戦後離婚し母国に帰った。母は彼を捨てて失踪してしまった。天涯孤独となってしまった彼が、筆舌に尽くしがたい逆境の中で常に思っていたことは、「自分のような人間は、人生の悪いくじをいっぱい引いて生まれてきた。視覚障害ということ、混血と言うこと、そして親にほうり出されてきたこと、そんないろいろなことを考えると、すべてがもうマイナスに見えて、まさにコンプレックス劣等感のかたまりだった」と言い、更に両親を探し出して、殺したいと思い続けた少年時代であったと言う。
ある日、彼は自殺をはかった。その時ある宗教家の家族と知り合うこととなった。彼にとってはそれはまさしく一期一会のよい出会いであった。そのことによって自分の人生というのが無意味でないのだ、価値があるのだ、自分は自分でいいのだと考えることができるようになった。そんな彼を支え続けてきたものが『歌』であった。県立盲学校から西南学院大学を卒業し、更に武蔵野音楽大学声楽科に入学、大学院を修了して後、世界的に有名なマリオデルモナコを育てた神戸在住の、ボイストレーナーのA・バーランドーニ氏を尋ねた。先生は彼の歌を聞き終わると言った。「この声は日本人離れした声だ、日本人にはない何か明るいラテン的な匂いのする、オペラを歌うような音色がある。この声は人々のために神様からいただいたものです」 彼は大変うれしくなって、この神様からいただいた声を、しっかりみがいていこうと決心した。だから彼は「いい出会い、自分の人生が影響を受けるような出会いを、どれだけ持つことができるかが、その人の人生を価値あるものに変えていくのだ」という。彼の名は"新垣 勉(あらがき つとむ)"といい、私が聞いたあの歌は『さとうきび畑』であった。彼の歌声は多くの人々に勇気と感動と喜びを与え、想像を絶する苦難の中にあって常に明るく取り組んできたすばらしい生き方に、その多くの人々は尊敬の念と、惜しみない拍手を送り続けている。現在、全国各地の学校・教会・寺院・施設から病院、家庭に至るまで、年間百五十回に及ぶコンサートが開催されている。そのコンサートの中での話しを紹介します。
「私たちは生身の人間ですから、どうしても利害、打算、損得、そういう世界に生きていまいがちなんです。人と比べて生きる、人を気にしていく、しかしほんとうは全く比べる必要はなく、比べようとするからねたみだとか、嫉妬だとか、そんなものがいろいろ起こってくるのです。自分があるがままの自分でいいんだ、あるがままの自分を受け入れることが大切だと思います」 「自信を持つということは、自分は自分でしかないこと。それをしっかり持っていれば、どんなことがあっても乗り越えていけるんじゃないでしょうか」 中国の偉大な禅僧が門下の修行者たちに、次のような教えを示した。「お前たち、自己が本来の自己であることが最も貴いのだ。絶対に計らいをしてはいけない。ただあるがままでよい」 この教えはその人自身が体得しなければ分からない深い意味を含んでいますが、新垣勉さんの今日の姿は、なぜかこの偉大な禅僧のことばがぴったりあてはまっているように思えてならない。彼は最後に淡々として言った。・・・・・・・人生無駄なものは何一つありません。今は両親を愛しています。父は行方不明ですが、すばらしい美声をもらったことに感謝し、かなうことならその父の前で精いっぱい歌いたいと夢見ています・・・・・・・と。

■春彼岸〜花のように
お彼岸(ひがん)とは春分・秋分の日を中日(ちゅうにち)とした七日間を言います。このお彼岸には、日頃無事に日暮らしさせていただいていることを感謝し、ご先祖のお墓やお寺にお参りいたします。またこの期間には、仏さまの教えに照らして私たちの普段の生活を省(かえり)みるとともに、その教えを実践(じっせん)していく機縁(きえん)とする時でもあります。現代風に言いますならば、『仏道実践週間』と名付けることもできます。『仏道実践』といっても難(むずか)しく考えないで下さい。例えば、自分が他人からしていただくと嬉(うれ)しいことを、誰かにしてさしあげれば良いのです。人の為(ため)にお返し続けることを《利行(りぎょう)》と言います。
    花のたましい   (金子みすゞ)
 ちったお花のたましいは、みほとけさまの花ぞのに、ひとつのこらずうまれるの。
 だって、お花はやさしくて、おてんとさまがよぶときに、ぱっとひらいて、ほほえんで、
 ちょうちょにあまいみつをやり、人にゃにおいをみなくれて、
 風がおいでとよぶときに、やはりすなおについてゆき、
 なきがらさえも、ままごとの ごはんになってくれるから。
この詩はは花を通して、私たちがどう生きることが仏さまの願いにかなうのか教えてくれているのです。優(やさ)しくあること。自然の摂理(せつり)に従(したが)うこと。誰にでも微笑(ほほえ)むこと。惜(お)しむことなく与(あた)えること。 ・・・ これから暖(あたた)かくなると皆さんの周(まわ)りにもいろいろな花が咲(さ)くことでしょう。そんな身近(みぢか)な花たちも、私たちにさまざまなことを教えてくれています。皆に喜ばれるようなことが実践できたら素晴(すば)らしいですね。そして花は短い命を精(せい)いっぱい生きてやがて実を結びます。私達も人に喜ばれるように精いっぱい生きてゆくことができれば、それはいのちを生かす実践行であり、そこから素晴らしい、良い人生の果実(かじつ)が得られることでしょう。

■ささえあって花ひらく
祈りの形
「合掌」は古来よりインドで行われてきた礼法です。仏さまの前で両手の指をそろえ、掌(たなごころ)を合せて一心に祈る姿は、誠に美しく清らかなものです。またお互いが合掌して拝みあうならば、そこには敬愛の念が生まれ和が広がります。合掌は誰にもできて大きな力を持つ仏教徒の大切な作法です。戦争中、宗教が禁じられ、祈ることが許されない国に連行され、重労働を余儀なくさせられたという老人は、「祈りたくても祈り方を忘れてしまった。つらいことがあっても祈ることが出来なかった」と、述懐していました。祈りの形があるからこそ、私達は苦しみ悲しみの中を、生き抜く力を得られるのではないでしょうか。もし、私達に合掌という祈りの形がなかったとしたらどうなるでしょうか。この方の言葉からあらためて合掌の作法がある有難さを確認しました。
祈りの心
「右仏 左衆生と拝む手の 中ぞゆかしき 南無の一声」(禅林世語集) 私達は、無心なる「仏」の心で生まれてきました。ところが成長するにしたがって、仏の心を見失い「衆生」となって迷っているのです。仏の手と衆生の手をぴたりと合せることで「私達一人一人は、生まれながらにして仏のいのちをいただいている尊い存在」であることを思い起こしたいものです。私達は、エゴに執われ、自らが作った三毒(貧り・瞋り・愚痴)によって、自らを苦しめ他を傷つけ争いあいます。そして何を信じたら良いのか分からなくなるのです。それを救う道は仏の心に帰ることです。「あなたの中に仏があり、私の中にも仏がある。だから信じ合えるのだ」と手を合わせていくことです。
信じあい支えあい拝みあう
Kさんは、家業に精励するかたわら、戦後の荒廃した時代に、地域の青年団のリーダーとして、文化活動や奉仕に活躍しました。その活動の一環である演劇に非凡な才能を発揮して、戦後の荒廃した人々の心に少しでも希望をと、演劇の上演に打ち込んできました。そこで奥様のMさんと知り合い結婚しました。定年を過ぎ、また昔の仲間で再び公演をやろうとシナリオを書いた矢先、病を患ってしまったのです。奥さんは付きっ切りで看病され、病気が治るようにと、ご先祖様や仏様にお祈りしました。Kさんも奥さんに励まされ、回復するように努力しましたが、残念ながら亡くなられました。四十九日忌の法要の後、奥さんが小さな手帳を見せてくれました。それはKさんが病院のベットの上で書いた日記でした。最後のぺージを見ると字がギザギザに震えていて、残る力を振絞って書いたのが分かります。「手術が成功して早く良くなりたい。しかし、これ以上悪くなるならもうあっちへ行く方がいい」とありました。病気の苦しみや不安がひしひしと伝わってきて、さぞ辛かったろうと思いました。そして私は、最後の行に目を奪われました。
「みんなに迷惑をかけた。ありがとう」 「特に、Mには本当にありがとうございました」 そう書いて日記は終っていました。私達は思い通りにならぬと、不平不満や愚痴や恨み事をいうのが常であります。病気の苦しみの中、Kさんの心も荒れたに違いないと思うのです。その苦しみの中にあって「ありがとう」と感謝の心一つになられたのです。Kさんは、ご自身の内なる仏としっかり手をとっておられたのだと思いました。奥さんは言いました。「この手帳は私の宝です。つらい時にはいつも開いて見るんです。主人が励ましてくれ、生きる勇気をもらっています」このお二人に、支えあって心が花ひらくことを教わりました。種は天地自然の恵みに支えられて、芽を出し花ひらくのです。私たちもまた、信じあい支えあい拝みあうところに、お互いの仏心が花ひらくのではないでしょうか。 
 

 

■心の灯
信じあい
禅の教えを印度から中国にはじめて伝えられました達磨(だるま)大師は、「人間が心安らかに生きる道は、すべての人々が、同じく真実な尊い人格を具えていることを底ぬけに信じることである」と、 (入道多途なれど......深く凡聖同一真性なることを信ず)
現在の私達の不安は、未曾有の物の豊かさの中に生きながら、信ずべき心の依り処がない虚無感、自己を見失った喪失感と人間相互の不信感であります。多様な価値観の中に翻弄されて人生の真の依り処、指針を見失っていることであります。真の自己の依り処を発見し、信じあう人間関係を築くことが、現在の心の病根を癒す最も大切な処方せんであります。自らを忘れて、外に向って依り処を求めるのではなくして、自らの人間性に、清らかな、とらわれない、かたよらない、広く大いなる、空(くう)の心を発見することです。坐禅は、この空の心を発見する方法です。
わが身をこのまま空なりと観じて静かに坐りましょう   (信心のことば)
私達の心は、常に際限のない物欲の貧(むさぼ)りや、嗔(いか)りや、道理にくらい愚痴(ぐち)、自分さえよければよいという利己心に悩まされています。この心の迷雲を払い、碧天の大空のような自己に覚(めざ)めることが坐禅であります。大いなる空の心を信じて、身と呼吸と心を調えることです。乱れた心を調(ととの)える調御心が、仏心(ぶっしん)です。調えられた清き日暮しが、私達の信心の生活です。
水の流も住滞(よどみ)なく 諸法を無我と白雲や 去来のままに澄み渡る 際涯(はこし)も見えぬ大空の 静けき心いみじけれ   禅忠禅師(空華萬行章)
水の流れ、行く雲の如く柔軟な自由な心、澄み渡りたる大空の如く静かな清き心こそが、すべての人々に具わっている仏心であり、信じ合う心であります。
支えあい
真実の自己に覚めるとは、自己の生存が唯ひとりで生きているのではない、無限のご縁によって、生かされていることに覚めることであります。「生かされて生きるや今日のこのいのち」であります。これを因縁所生の理といいます。因は私達の生命で、縁は私達の生命を支えている無限の恩恵であります。
1生けとし生きるものを支えている天地自然の恩恵。  2生命(いのち)を頂いたご先祖さまや父母の恩恵。  3人間完成の道を教えられた三宝(仏。法・僧)の恩恵。  4多くの人々の集いの力によって生かされている衆生の恩恵。 ・・・ であります。所生とは、生かされていることの発見です。人間の『人』の字は、丿と乀の支えあい、助けあいで出来ております。支えあい助けあって生きて行く間がらが人間です。夫婦、家族、隣人、社会、地域、広くは国家、世界と人間社会は拡大しますが、一切衆生は処々世々の父母兄弟である人類同朋の心をもって支えあい、助けあうことが二十一世紀に生きる大切な心であります。花園法皇さまの報恩謝徳の教えは、私達を支えている無限の御恩に対する感謝と奉仕、支えあい、助けあう生活であります。
拝みあう
法華経(ほっけきょう)に常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)さまのお話があります。この菩薩さまは常に村や町の路上に立って、子供に老人に、男に女に、貧しき人、富める人、すべての人々に心から合掌して「我、常に汝を軽んぜず、汝当に作仏すべし」(私はあなたを尊敬します。あなたは仏さまになられる人だ)と、云ってすべての人々を拝まれました。この常不軽菩薩こそ釈尊前世のご修行のお姿であると伝えられております。人間性や人格の尊重は今に始まったことではありません。釈尊は、み教えの中にすべての人々に平等に尊い仏性を発見し、これを拝んでゆくことを教えられました。諸仏とは諸人なり、み仏とは隣人、すべての人々であります。この隣人に対する深い思いやり、拝みあう心こそ社会を「心の花園」とする和合の心です。 ・・・ 有情非情(うじょうひじょう)の隔(へだ)てなく まことに敬護(けいご)せざらんや 忍苦柔和(にんくにゅうわ)の心根(こころね)に 和顔愛語(わげんあいご)の花咲きて 常寂光土(じょうじゃくこうど)たのしけれ

■「サンキュウ ブッダ」
戦後、時は目まぐるしく流れ、我々の生活は大変豊かになりました。しかし、その豊かさは人類が大切にしてきた自然環境を破壊し、又、祖先が築きあげた素晴らしい『習慣や風習』を崩壊させているように感じます。
ところで、昨年、次のようなお話しを聞きました。それは、学校での事であります。学校給食について、ある親が、「給食費を払っているのに、なぜ"いただきます"と言わなければいけないのか」 と、言ったそうです。『いただきます』という言葉は、食事の前に必ず言うべき言葉として教えられ、身についていた習慣であります。その習慣を否定するような発言を、どのような考えでこの親がしたのか、ハッキリとしたことは解りません。しかし、日常生活の中で『いただきます』という習慣が、失われつつあるのかと思わざるを得ない話であります。本来、我々が口にする食べ物は、誰が作ったとしても、大自然の恵みを受けた食材が、色々な人々の手をへて、始めてここに食事として出されたものであります。実際お金を出して、それを購入するにしても、又、それぞれの過程が職業であっても、食事をいただけることに対して、我々は素直に感謝の意味を込めて、『いただきます』と言ってきたのであります。もっと深く考えるならば、我々人間は生きるために物を口にする。つまり、生きる為にはどうしても他の生き物の《いのち》を犠牲にしなければならないという事であります。だからこそ、手を合わせ『いただきます』と言うのであり、食事が終われば『ごちそうさまでした』というのであります。手を合わす姿《合掌》これは仏教徒にとってもっとも大切な行為であり、仏教の教えの根源を成すものであると言っても過言ではないでしょう。
この《合掌》の意味を素直に表現したお話しがあります。それは花山勝友氏が、かつてアメリカの大学で教鞭をとりながら、住職としてサンデースクール(日曜学校)を開いておられた時のことです。その学校には、幼稚園児から小学校の子供まで数十人集まっていたそうです。その日曜学校で、先生は、「じゃあ、このように手を合わせて『なむあみだぶつ』というんですよ」 というと、子供たちはみな、『なむあみだぶつ』と言っていたそうです。こんなことを四年間毎週繰り返しておられました。いよいよ日本に帰る最後の日曜学校のとき、先生は子供たちに向かって、「ひとつだけ心配なことがあります、それは、毎週毎週手を合わせ『なむあみだぶつ』といわせてきたけれども、この『なむあみだぶつ』の意味がわかっているかどうかです。誰か、その意味がわかりますか」 と、尋ねたそうです。そうすると、一番前に座っていた、まだ三つの男の子が、「せんせい」といって手をあげました。そして、「なむあみだぶつ"ミーンズ・サンキュー・ブッダ"」 と、いったそうです。なんて素敵で素晴らしい答えでしょう。まさに『ありがとう 仏さま』であります。
手を合わせて『仏さまの称名』をお唱えする姿は『ありがとう 仏さま』であり、手を合わせて『いただきます』と言う姿は、『ありがとう 皆さん』と言う事であります。そして、この二つの姿にはなんら違いはないのではないでしょうか?手を合わすという素晴らしい仏教的日常習慣を大切にし、その心を継承する事こそ、今の我々に必要な事ではないかと思います。

■「三種の仏器」
三種の神器  三種の神器(じんぎ)といえば、ご存知のように「鏡(かがみ)・剣(つるぎ)・曲玉(まがたま)」で、これを持っていることが天皇の証とされ、歴代の天皇に伝えられているものです。身近なところでは、昭和三十年ごろ、家庭の電化が進み、電気製品で家庭をランク付けしました。これは家電の三種の神器といわれ、「電気冷蔵庫・電気洗濯機・テレビ」を持っているのがステータスでした。それが、十年もすると「三C時代」といわれ、「カー・クーラー・カラーテレビ」が神器の座につきます。
三種の仏器 「日本は『神の国』」発言もありましたが、現実には『神仏の国』神器に並ぶ「仏器(ぶっき)」があるはずです。これを見れば、「ああ、この人は『仏教徒』だ」とわかるものです。お葬式やご法事にお参りに行かれるときのことを思い出してみてください。まず、手には「数珠」そして、お参りの時には「お香」を供えて「合掌」をされるでしょう。この「数珠・お香・合掌」が「三種の仏器」です。その中でも、「合掌」はなにもなくてもできる一番の仏器、仏教徒の旗印と言えます。
ことばの要らないコミュニケーション 先日、タイに行く機会ができ、せめてタイ語であいさつぐらいと思い、会話集を買ってようやく覚えたことばが、オハヨウ、コンニチハなど何にでも使える「サワッディ・カップ」行く先々で、「サワッディ・カップ」を言う機会を伺っては連発していました。ところが、タイは国民の九割が仏教徒という仏教国。こちらが得意げに「サワッディ・カップ」と言えば、すかさず合掌を返してくれます。次第に、わかりました。タイでは、ことばを必要としないコミュニケーションの方法として、「合掌」が生きているのだと......。
すべてを受け入れる合掌  作家の角田光代さんは、「外国の、はじめて足を踏み入れた町で、どうしようもなく不安をおぼえることがよくある。そんなとき、その町の、私とは全然違う言葉で話し、全然違う生活習慣を持った人々が、私とまったく同じに、笑っていたり怒っていたり、ごはんをおいしそうに食べていたりするのを目にすると、いつのまにか不安は消える」とおっしゃっています。ましてや、外国で「合掌」に出会う安堵感。ことばは通じなくも、私はあなたのすべてを受け入れましょう。私はあなたを信じていますよ、と言ってくれています。
合掌のある生活  しかし、私たちはなかなか相手のすべてを受け入れることができません。人の行いを見れば欠点ばかりに目が行き、自分の至らなさを棚に上げて人のせいにしがちです。あげくの果てに、子どもを育てれば自分の思うようにならないといっては感情的に手を振り上げる親も出てくる始末です。それでは、いつまでたっても私たちのこころは、穏やかであろうはずがありません。お寺の本堂の木魚が好い音を響かせるのは、中が空洞だからです。中に砂や泥が詰まっていたり、削り方が足りなかったりすると決して好い音はでません。私たちのこころにも、自分中心の「我(が)」という砂や泥がたまっていないでしょうか。合掌は、私たちのこころの中をきれいにし、すべてを受け入れる柔軟性を取り戻させてくれる三種の仏器の第一であり、仏教徒のステータスシンボルなのです。そして、それは、亡くなった人のためだけに向けられるものではなく、自分のために、お互いのために合わせるものなのです。すべてを受け入れる合掌のこころでお読みいただけましたでしょうか。ぜひ、今日から合掌のある生活をお送りいただければ幸いです。

■おかげさま
一流会社勤務の彼は、様々な要因で鬱病になり、以来自己破壊のことばかり考え続けていました。そんなある日、『仏様の供養をするべきだ』との助言を受け、彼は仏様や御先祖様の位牌に、熱心に手を合せました。すると知らず知らず悩み等が薄れていき、気付いたら病は癒えていたということです。以前は、会社、家庭、親子兄弟のことを自分中心に考えていたけれども、家族や両親友達そして仏様がちゃんといるんだということに気付き、頼ることが出来る。おまかせする。そう思うと気が楽になり、家庭円満で仕事は順調に進み、兄弟とも仲良くなったということです。実際に"過去の病気、悩み、荒んだ心情も今は昔ですわ"と呵々大笑され、口グセの「お互さま」「お陰さま」を連発されています。信じてもらえぬ不満は、自分が信じ且つ優しく温かな気持で包みこむことを忘れているのを棚に上げて、要求ばかりしていることから起こるのです。又、他から支えてもらうことのみを期待し、自分が支えてあげることを忘れているのです。先ず自分が信じ、支えるという姿勢を示してこそ、相手も自然に優しく接してくれて、信じ支えあう生活が出来ると思うのであります。
寒い冬の夜、暗い夕食が終った時、高校三年生の二男が「お父さん、高校だけは卒業させて下さい。大学は迷惑をかけず、自分の力でやっていきます。大変でしょうが、どうか僕のわがままを聞いて下さい」と訴えたそうです。これを聞き彼は、妻は家計の為パートに、長男は学費の為にアルバイトをしている。俺が頑張らねば。俺が支えなければ。病気なんかいっておれないんだ。と張っていた気持がふっと弛んだそうです。そうなんだ、家族は夫という土台の上に成り立っているのではなく、落ちる心配のない大地の上に、手をつないだチームとして各々の脚で立っているのだ。互が互を支え合い、信じ合って生かされ生きているのだ。そう思った時、何か懸物(つきもの)が落ち、重たい暗い感情も、薄皮がはがれていくように徐々に消えていったそうです。これもひとえに仏様を拝むようになったおかげだということです。
禅の言葉に「松に古今の色無く、竹に上下の節有り」というのがあります。松の緑は、百年千年春夏秋冬同じ緑です。即ち永遠のいのちの象徴です。始まりも終りもない全てを包むもの、あらゆるものに平等に行き渡っていることと同時に、真理は永遠に不変であるということです。その条件の一つでも欠けたら、物事はあり得ない。この条件という縁に支えられて私達は喜んだり怒ったり悲しんだり笑ったり、そして信頼し合ったりしているのです。竹の節は、独立個性の象徴です。他は他、己は己、夫、妻、友達、各々が独立した立場で精一杯生きている。支配されない自主性を持っている。しかしそれでいて互に違ったもの同志が調和し、秩序をもって支え合い、助け合って家庭を作り、社会を作り、宇宙を作っているわけです。松は古い葉と新しい葉が交替していますが、表面的には千年の常緑を保っています。竹は逆に節で表面には差異がありますが、裏面は同じ竹という平等面を持っています。先に「なし」を強調して個性、差異無しを主張し、後に「あり」を強調し、独立自尊、各々が自己を生き抜くことを主張しています。つまり今日只今、自己の勝手な要求は出来ないということを知り、はじめて自分のいのちを「あり」とみて生きることが出来るわけです。人に差異をつけ競争し、学歴肩書き等の偏見のメガネで見る社会を永遠の平等な真理に照らし、その上で自由ないのちの輝きによって、天上天下唯我独尊で生きてゆく事に仏教の救いがあるのではないでしょうか。平等の裏の差別、差別の裏の平等。表裏一体、何ら心配することのない大いなるいのちの流れの表面に出てくる個々のいのち、安らぎの中に生かされている私達は、信じ合い、支え合い、拝み合う日々を「おかげさま」の気持で精一杯に生きていきましょう。

■残心のこころを学ぶ
釈尊は、調えられた生き方をするために、三つのものを信じ、それに帰依する事が大切であると説かれました。それを「帰依三宝」すなわち「仏法僧の三宝に帰依せよ」と示されたのです。仏法僧の三つを宝物のように大切にして生きていく。即ちこの三つのものを、無条件に底抜けに信じていくというのです。仏とは、仏陀(ブッダ)の略。つまり真理の体得者であり、転じて偉大な師、優れた指導者と理解したいのです。法とは、仏の教え、真理をいいます。僧というと、一般にお坊さんと理解されていますが、本来は、法を求める人々の集いをいいます。つまり学びの友といえましょう。このように、よき師、よき法(教え)、よき友に出会い、かつ敬うことが肝要であり、その事が私たちの人生に大きな意味を与えてくれるものになると教えるのです。私は、禅の修行を名古屋の徳源寺という修行道場でいたしました。修行道場とは、師家という指導者のもとへ全国から僧が集まり、お互いに切磋琢磨し、禅の境涯を体得するために精進を重ねる場所です。私が修行をして、自坊(自分が生まれ育った寺)へ帰ってきた、ある年の事です。
お盆の棚経を、同夏(どうげ:修行の同期生)であるZさんが手伝いに来てくれました。そして棚経を終え、最寄り駅まで車で送って行った時の事でした。先程まではお互いに冗談を言い合っていたのですが、Zさんは車から降りると深々と私に頭を下げて、別れの挨拶をしたのです。そればかりか、車を走らせたバックミラーには、私の車が消えるまでその場から立ち去ろうともしないZさんの姿がありました。そういえば、修行の師である徳源寺の江松軒(こうしょうけん)老大師は、お客様をお見送りする時には、必ず車が曲がり角を過ぎるまで玄関先で門送されていました。そして、その方の姿が見えなくなると、最後の一礼をし、隠寮(いんりょう:老大師のお部屋)へ戻られるのです。きっとZさんも修行が長いので、老大師の後ろ姿を日々拝見し、身のこなしが自然と具わったのだと思います。この事は私にとって、よき教えとなり、人にはそのように接するべきだ、と改めて学ばさせていただいた出来事でした。
時には、学びの友がよき師となり、よき教えを示していただける事もあるのです。『残心』という言葉があります。辞書によりますと、〔心残り・未練〕と思い切りの悪い心情を表わします。他には、武道にて度々用います、〔心構え・緊張の持続〕と言った心情を表わしますが、また、細心、綿密の意味合いもあります。それは、他者との別れのときの、温かい豊かな心情に通じるものです。騒々しい日常生活をしている私たちにあっては、互いに心を残しあう言動、後味のよさを与えあい、出会いや触れ合いを大切にして「さようなら」を告げた後も、なお心中に脈動する残心がほしいものです。「一期一会」という言葉があります。「今」の出会いは一回きりということです。一生にただ一度の出会いと「今」を受け取るならば、何事を行うにも、心を込めて一生懸命に行えるはずです。お互いに信じあい、お互いに支えあって、お互いを拝みあって行動する事が、殺伐とした今の時代に、灯を投げかける道だと思います。

■達磨忌によせて
達磨忌の十月五日は、気候的にも、「白秋」のことばがぴったりするすがすがしい季節です。達磨忌がめぐってくると、私はダルマさん(達磨大師)と梁(りょう)の武帝(ぶてい)の対話を思い出します。武帝がダルマさんに尋ねます。「私は多くの寺院を建立し、お坊さんに供養しました。どんな功徳がありましょうか」すると、ダルマさんはさらりと答えます。「そんな功徳なんか、ありません」 おそらく、武帝はダルマさんがほめてくれて、「これだけの善行に務めたのだから、必ずそれなりの功徳があります」「あなたの人生は順風満帆です」と保証してくれることを期待していたにちがいありません。ところがダルマさんはにべもない返事をしました。なぜでしょうか。もしダルマさんに、「この男が自分にとってよいスポンサーになってくれたら、これからの生活も安定するだろうし、禅の教えを広めるにもすごく役立つだろう」という下心が働いていたら、こんな返事をしなかったはずです。ダルマさんにはそういう計算はみじんもありませんでした。それにもし、武帝が、「善行をこれだけしたのになにもならなかった。仏教なんか信仰しても価値がない」と思い込んでしまったら、逆に仏教を批判し、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)さえしてしまったかもしれません。武帝のように、宗教を現世利益をかなえてくれるものとしてのみ信じ、求めているなら、結局、その結果にいつまでたっても一喜一憂を繰り返すだけです。それにあいかわらず、いつまでたっても人生で起こる不可避的な苦悩に振り回されてしまうだけです。台風に襲われたとき、いつも去るまでじっと静かに我慢しているだけでは、全く人間としての成長がないことになります。ダルマさんが「功徳なし」といったのは、そういう武帝の考えをバッサリ断ち切ってやろうというダルマさんの武帝への温かい思いやりがあったと思います。この秋の澄み切った空のように、今なすべきことを無心になすことが、ダルマさんの教えのような気がします。

■三脚梯子
三願   鳥のように 一途に 飛んでゆこう 水のように 素直に 流れてゆこう 雲のように 身軽に 生きてゆこう ・・・ 上掲の詩は、坂村真民さんの詩でございます。沢山の詩を読ませて頂き、私は多くのことを学ばせて貰いました。短い詩ではございますが、とてもすきな詩でございます。
梯子(はしご)にはいろいろの種類がございます。梯子車、梯子段、縄梯子等々であります。普通私達は二本の長い材に横木を何本も渡して足がかりとする梯子を、梯子と言っているのでありますが、最近は脚立にも、梯子にもなるという変りものもあります。三脚梯子を手にいれました。これは剪定用の梯子であります。随分前のことでありますが、見よう見まねで造ったことがあります。寺の裏山で細い丸太を切り出し、その丸太と竹とを材料として造りました。不器用な私ですのでうまく出来ませんでしたが、随分長い間私の手元で働いてくれました。「和尚さん、それ誰が造ったや」「わしが造ったんや」「あんまり上手に出来ておらんな......」そう言われるほどの代物でした。それもいまは私の前から姿を消してしまいました。壊れてしまったのです。三脚梯子は私にとっては必要な物なのでございました。いかに便利な物であるかよく知っていましたので、どうしても手に入れたい、欲しくてたまりませんでした。ところが、あるお店の前を通りかっかた時、大小さまざまの三脚梯子が並んでいるのに目がとまったのです。もうさっそく私は愛用の軽トラックで一時間程かけて買いにいったのでございます。私は店の軒先で剪定場面をイメージし考え、七段と九段の三脚梯子を買ってまいりました。帰りの車の中は、鼻歌の出る程気分は良好。時にはご詠歌を口ずさむ程......。ところが、寺に到着するや「和尚さん、二脚も買ったの」と少々不満顔をした私の奥様、「欲しいから買ったんやない、必要だから買ったんや」少しばかり説教じみた言葉を残し、軽トラックから三脚を降ろしにかかると「和尚さん、そんなに軽いの......」とびっくりした様子でございました。
三脚は素材がアルミです。ですから力のない私でも持ち運びするのには丁度都合のよいものでありますし、背のあまり高くない私には九段梯子は高い木の枝の剪定も出来るので、またまたうれしくて休むこともなく早速仕事にかかったのでございます。三脚梯子は教えてくれました。この梯子は何故たおれないのか? 答えは極めて簡単でございます。それは脚が三本あるから。二本の脚は固定されていますが、他の一本は支柱としての役目をしているのです。更に、その一本の脚は傾斜地でも安全であるように伸び縮みの出来るようになっているのでございます。脚元は開いているのですが、梯子の上は頭をよせ合っているような格好をしていて、実に調和がとれていますので、見ていて楽しさを感じるものでございます。仕事も一段落し休憩しながら暫く見とれておりました。大石順教尼は小鳥を「我が師にてありけり」と、吉川英治さんは、「我れ以外皆吾が師なり」とおっしゃったと言います。坂村真民さんは「鳥のように、水のように、雲のように」と三願をうたわれました。たかが梯子といわれるかもしれませんが、三脚梯子は教えてくれました。私達の三本の脚を信じなさい。支え合っていますから、安心して私の上で仕事して下さい。あなたの安全を祈っていますよ......。

■何故!うちの子が?
檀家のMさんは、奥さん、大学四年の長男、大学一年の長女の四人家族で、仕事も順調で傍目(はため)にも平穏(へいおん)な日々を送っておられました。その一家に突然不孝がおとずれたのです。六月十二日、Mさんから「和尚さん、息子が死んでしまいました」との電話。この一瞬、一切の思考がストップしてしまいました。その後、これは夢で、夢の中でMさんが冗談で言っているのかという気になったものです。それというのも、数日前Mさんの母親の三回忌のお参りをし、色々お話しをした中で私がパソコンを購入したが、使い方がよく解らないと言うと、息子さんが、「僕が和尚さんに教えてあげる」と、言ってくれて、近々来てもらうことになっていたからです。亡くなった理由を聞きますと、大学近くのコンビニで友人二人と買物をし、一足早く店を出て、店の前のベンチで座っていたところ、ブレーキとアクセルを踏み間違えた車が真正面から突っ込んできて、ほとんど即死状態だったそうです。枕経(まくらぎょう)に行きましても、慰(なぐさ)める言葉も無く、唯泣けるのみでした。どうにか終り外へ出ると、飼い犬がねそべり、頭を垂れてじっとしているのです。やはり犬にもわかるのかと、さらに涙しました。葬儀も終り、七日七日のお参りの時には、少しでも心を癒(いや)せればと色々お話しをし、Mさんの心情も聞かせてもらいました。「諸行無常(しょぎょうむじょう)」を「存在」としてわかっていても、実際に心をはたらかせる「実践(じっせん)」までは、なかなか到着出来ないものです。Mさんも「人さまが事故や事件で亡くなったと新聞で知っても、またかと他人事でしたが、今ではその身内の方々のどこへももっていきようのない怒り、くやしさ、悲しみが、ようくわかります」と、心情を吐露されておられます。
尽日(じんじつ)春を尋(たず)ねて春を見ず 芒鞋(ぼうあい)踏み遍(あまね)うす隴頭(ろうとう)の雲  帰来(きらい)却(かえ)って梅花の下を過ぐれば 春は枝頭(しとう)に在って已(すで)に十分   〈宋の戴益(さいえき)の詩〉
外へ外へと春(答え)を尋ねて探し歩くが、どこにも見つからず、結局は自分自身の心中にあった。味わい深い詩と思います。非情のようでありますが、立ち直るには、自分で答を出さなくてはなりません。しかし、私は住職という立場で、どの様な手助けが出来るのであろうかと、思いを巡らせておりますと、一陣の涼風が頬(ほお)を撫(な)で去りました。その時ふと、山田無文(やまだむもん)元管長さまの、「大いなるものにいだかれあることを、今朝吹く風の涼しさに知る」 という詩を思い出しました。
今年の実践目標は、― 信じあい、支え合い、拝みあう ― であります。しかし、Mさん一家にすれば、この世には神も仏も無い。何を信じ、どう支えあい、拝んで何になるのかと、おそらくは思われた事でしょう。この「大いなるもの」それは妻であり、夫であり、家族であり、親戚、知人、地域の人達、或は大自然等に置き換えてもいいと思います。Mさん一家が、心が癒され、立ち直り、この「大いなるもの」を信じあい、支えあい拝みあっていける日が必ず来るよう、住職として手伝っていき、見守っていくのが勤(つと)めと心しております。昨今、多くの幼い命、尊い命が、理不尽(りふじん)に奪(うば)われております。身内の方々は、その不合理な死に怒り、悩み、苦しみ、悲しみの日々を過しておられます。「何故(なぜ)!うちの子が?」 答は出ません。唯、僧侶として私にできることは、「観音経(かんのんぎょう)」の初めにある「合掌向仏(がっしょうこうぶつ)」悲しみは悲しみのままに、それでも尚、仏に手を合わせることだけです。

■祖父からの贈り物
私たち臨済宗の檀信徒が信心のよるべとし、毎日の生活の指針として明文化され公布された『宗門安心章』の第三章「行事仏道」の中に、「家庭はこれ敬愛の場にして、子女養育の道場なり。これを乱すに忍びんや」とあります。家庭というものは、敬いと愛の場所であって、子供たちを育てる道場です。どうしてこれを乱すことができようかと、その大切さが示されております。私たちの文化は、子供を育て、人間としての形成をはかる場として、「家庭」を最良の場として歴史をつくってきました。「日本一短い家族への手紙」(角川文庫)という本に次のような一文がありました。
ありがとう。ごめんなさい。大好き。大嫌い。愛していたり憎んでいたり、一緒に住んでいても、離れて住んでいても、もう二度とあえなくても、それでもどこかでちゃんとつながっている。ふだんは空気のようだけど、いつもは不満だらけだけれど、帰って来るのはここしかないね。
みんな一つ屋根の下で生活を共にし、朝起きて顔を洗い挨拶を交わし、食事し、働きに出掛け、夕方になればここに帰り眠ることを毎日繰り返しているのが「家庭」であります。これは釈尊の時代から今日まで何千年来、いかに世の中が進み、便利になってもその役割は何ら変わってはいないのです。日本の家庭では、みんなの暮らすお家の中心にお仏壇を置き、お仏壇の無いところでも床の間を造り、心落ち着ける空間をしつらえて、朝な夕なに手をあわせ、喜びにつけ悲しみにつけ、祈る場がありました。そこは「仏と、その教えと、その仲間」を宝とし、敬いと感謝を行ずる所でありました。父母、祖父母のそうした姿はみ教えとなって、子や孫の宗教的素養を育んできたのです。何年か前になりますが、東仙台の善應寺で早坂さんというお宅のおじいさんの葬儀の時でしたが、孫の敬ちゃんが述べた「お別れの言葉」に参列者みんなが涙しました。亡くなったお祖父ちゃんはもちろんのこと、早坂家は代々信心の篤いお宅です。その人の立ち居振る舞い、日々の暮らしに見る人間性は、その人が亡き人となった時、生きていた時以上に浮かび上がってくるものです。
敬ちゃんの「お別れの言葉」を紹介しましょう。「じいちゃん、覚悟は決めていたつもりだけど、その時がこんなに早くやってくるとは思ってもいませんでした。早板家はずっと六人家族なのだと思っていました。大きくなってからの私は、じいちゃんに口答えばかりする孫だったかもしれません。今はじいちゃんにもっとやってあげられることがあったのではないかと、自分を責めたい気持ちでいっぱいです。-略- 『垂れ下る稲穂に祖父の頬ゆるむ』自分の作ったお米に誇りをもっていたじいちゃんを書いたんだよ。胃の手術を受けてから入退院の繰り返し、その度にじいちゃんの好きなものが一つずつ奪われて行ったよね、バイク、タバコ、庭の手入れ、そして生きがいであった田圃の作業までも......。-略- じいちゃんは頑固で口も悪かったけれど、とても人思いでやさしい人でしたね。じいちゃんは病気になって辛かっただろうけど、じいちゃんが病気になってから家族の絆が強まった気がします。協力することの大切さを知りました。-略- じいちゃん、十六年間本当にお世話になりました。じいちゃんとの思い出を胸に刻み、家族五人、力を合わせて頑張っていきます。ばあちゃんもじいちゃんの分まで大切にします。だからずっとずっと私たちを見守っていて下さいね」 家の歴史であり、家族の柱であった祖父との別れの悲しみの中で、敬ちゃんは大切な教えを祖父からの贈り物としてしっかり受け止めているのです。参列者を感動させた孫のお別れの言葉は、このお家代々の当主が「子女養育の道場」としての家庭を育んできたからであります。
山田無文老師の短文「水の如くに」の中に 「流れる水は凍らぬとか、流れる水は腐らぬとか。それが生きておるということであろう。田畑をうるおし、草木を養い、魚を育てながら、決して高きを望まず、砥いほうへ低いほうへ水の流れる如く、わたしも流れたい」 とありますが、先祖というはるかな流れの中に今ある「いのち」は、「仏と、その教えと、その仲間」を宝として「水流れる如くに」暮らしの中に行じていくことによって、「信じあい、支えあい、拝みあう」敬愛の場としての家庭をうるおし、養い、育てていくのです。

■道心の中に衣食あり 衣食の中に道心なし
これは天台宗伝教大師最澄の『伝述一心戒文(でんじゅついっしんかいもん)』の中のお言葉であります。道心とは、仏教を学び実践する心をいい、衣食とは、衣食住の生活環境のことです。道を求めて努力を重ねる向上心があれば、その目的を達成するのに必要な衣食住は、十分とはいえないまでも、おのずとついてくる、一方いくら生活に恵まれていても、その生活の中からは、むしろ安逸に流されて、道を求め、自分を高めようとする心は起きてこないということです。現在の私たちの生活は、物質的に大変豊かになりました。不景気、不景気といわれながら、巷には物が溢れています。にもかかわらず不安感が漂っています。政治、経済、教育、医療、治安などに対する様々な不信が渦巻いています。さらに、科学技術の進歩は多くの利便性を私たちにもたらした反面、人々から想像力を奪い、人を思いやる心を著しく低下させてしまいました。不安に駆られ、自己中心で感謝の心を失った人間が増え、思い通りにならないとその不満を、他人への怨みに転化させます。 次々と起きる凶悪な事件の背景には、人格を養う教育が軽視されてきたことがあるからではないしょうか。自分の中に確固たる「信」をもたないことが、現代不安の大きな要因の一つに上げられます。物に囲まれて便利に生きることが、本当に人間らしく生きることなのか、考えなおすときにきています。
宗祖臨済禅師が「病、不自信の処に在り」といわれたのも、正にこのことでしょう。仏教は、いうまでもなく三宝に帰依し、三宝を実現する教えであります。三宝とは、仏(覚者)、法(真理とその教え)、僧(その教えを学び、行ずる人々とその和合の集団)のことで、この三つの宝といわれる理由は、世間に得がたく、この上なく清らかで、勝れており、不思議な力をもち、時代や世界をこえて、かけがえのない価値をもっているからであります。この三宝に帰依することこそ、真実に生きる出発点であり、自分の本当の姿を知る第一歩なのです。又、この帰依を形に表わしたものが合掌であります。合掌とは、仏と一体になることであり、自分の内にひそむ仏性(誰でも仏になれる性質)を拝むことであり、私たちが時間的にも空間的にも、いろいろなものの恩恵によって「生かされている」ことへの感謝の祈りでもあります。所詮、人間は決して一人では生きられない弱い存在です。だからこそ「支えあい」が大切であり必要です。この「支えあい」の心のあり方を説いた教えに「四無量心」があります。四無量心とは「慈・悲・喜・捨」の四つの心を特定の人に限らず、だれにでも、際限なくはたらかせることです。即ち
慈無量心―友愛の心、慈しみの心をかぎりなくはたらかせること。悲無量心―ひとに対する同情とおもいやりの心をかぎりなくはたらかせること。喜無量心―ひとをしあわせにすることを喜び、また、人の喜びを自分の喜びとする、この喜ぶ心を限りなくはたらかせること。捨無量心―執われを捨て、分けへだてなく接する心、それを限りなくはたらかせること。この四つの心を共にあゆむ人びとにふりむけることによって、和合の世界がもたらされるのです。仏の教えは、私たち人間の生きる杖であり、支えであります。仏の教えを学び、仏の教えに生きる一人になり、同じ道を歩む人々と一緒になって、共に歩む仏国土の実現をめざしたいものです。 
 

 

■ありがたい ありがとう
近隣の町へ月参りに出かけた日のことです。その道中で、見知らぬおばあさんが、「和尚さん、うちの孫の結婚が決まりまして、これ、どうぞお受け取りください。いつもありがとうございます」と、財布から百円玉を取り出し、戸惑うわたしにそっと手渡すと、雑踏の中に消えてゆかれました。「どこかでお出会いした方だろうか。いや、顔見知りの誰かと勘違いされたのだろう」その時点では、あまり気に留めることもなく、お参りの施主家へと向かいました。お参り先のお宅には、白血病と闘病中の娘さんがおられます。ご先祖様への供養の読経・回向が終ると、ご両親は「お参りに来ていただくだけで、心が和む」といって喜んでくださり、一進一退の病状に苦しむ娘さんまでも、手をあわせて「ありがとうございます。また明日からがんばります」とお礼を述べられます。一生懸命読経したところで、娘さんの病気が好転するわけでもありません。あげくの果てに、ご両親の「心が和む」という言葉も、むしろ、何もできない、わたしへの慰めのように思えてきて、お参りの回数を重ねるたびに、何とも情けなく、むなしくなってゆきました。とうとう我慢しきれなくなって、「いつもお礼の言葉を頂戴するたびに、心苦しくなります。何もして差し上げられなくて、本当に申し訳ございません」というと、お父様が少し残念そうに、「和尚さん、あなただけにお礼をいっているわけではないのですよ。妻や、病気の娘、わたしたちに関わってくださるみなさん、ご先祖のみなさん、仏様に、あなたを通してお礼申し上げているのですよ」「お気持ちはありがたいですが、仏様の代理として、みなさんの代理として、和尚さんはお参りにいらっしゃるのですから、堂々とお参りにいらしてください」とおっしゃいました。そして最後に「和尚さんはいつも、わたしたちがお礼をいうと必ず、『こちらこそ、ありがとうございます』とお返ししてくださるでしょう。その言葉だけでも、わたしたちは救われたような気がするのですよ。普段、まわりにご迷惑ばかりお掛けしているわたしたちも、『ありがとう』の一言で、『自分たちのことで毎日精一杯だけれど、それでも、多少なりとも、誰かのお役に立っているにちがいない』と喜ぶことができるのです。どうか、次回はいつもの元気な和尚さんでいらしてください」と、しょげかえるわたしを玄関まで送り出してくださったのです。
その帰り道、ふと、お参りに向かう途中で出会ったおばあさんのことを思い出し、はっと我に返りました。「見ず知らずのわたしに、『ありがとう』とおっしゃったのは、ひと間違いなどではなかった。おばあさんは、わたしと出会い、語りかけることによって、彼女自身をとりまくすべての『ご縁』に感謝されていたのだ」そう気づくと、何かが吹っ切れたような暖かい心持ちになって、合掌せずにはおれなくなったのです。そしてそっとつぶやきました。「おばあさん、こちらこそありがとう」と。 ・・・ 願わくばこの功徳をもってあまねく一切に及ぼしわれらと衆生とみなともに仏道を成ぜんことを  (普回向) ・・・ これは法華経のなかにある、仏教徒としての願いの言葉です。その願いとは、一人がすべての人に、すべての人が一人に、功徳を及ぼし、支えあうことなのです。「あまねく一切に及ぼす功徳」とは、ただ「ありがたい」と感謝できる真心です。「仏道をみなともに成ずる」とは、心から「ありがとう」、「こちらこそ」と感謝の言葉をかけあえる関係を育むことです。 ・・・ 葱買(ねぎかう)て枯木(かれき)の中を歸(かえ)りけり  (蕪村) ・・・ 心も凍るような寒さのなか、葱の葉はその水気を凍らすことなく、青々と育ちます。この日、わたしは寒空の中、「ありがとう」という言葉の葱を、抱えきれないほど、たくさんいただいて帰ったのでした。

■『いただきます』と 『ごちそうさま』
今から十年ほど前のことです。一才だった二番目の娘がある時、おなかの病気になって、お医者さんから食べ物に制限を受けてしまいました。その制限の中に長女の大好物のスパゲティーがはいっていました。妹がお医者さんから止められてるんだからと言い聞かされて、当時三歳だった長女は、好きなスパゲティーを「お母ちゃん作って!」とせがむことも無くじっと我慢していました。しかし二ヶ月経っても、まだ『スパゲティー解禁』にはなりません。長女がよく辛抱しているのが分かっていたので、外出した時にいっぺん食堂で食べさせてやろうと思い、連れていきました。お店へ入ると娘は迷わずスパゲティーを注文し、間もなくそれが目の前に運ばれて来ました。その瞬間、娘は目を輝かせて大声で言ったのです。「わあーおいしそう、いっただっきまーす」その声がお店じゅうに響き渡って、いっぺんにお店の人や他のお客さんたちの笑顔を誘い、注目を集めることになりました。それからは一口食べるごとに「おいしいね、おいしいね」を繰り返し、年齢にも似合わず一人前を全部平らげてしまいました。そして食べ終わると、またひときわ大きな声で「あーおいしかった、ごちそうさま!」その声がまた響き渡り、まわりの人達は思わず大爆笑、お店の人は「そう言って貰えておばちゃんもうれしいわ!」と言ってくれました。
『いただきます』と『ごちそうさま』に関する私の一番の思い出です。食事をするということは、動物や魚、そして野菜や果物の命を『いただく』大事な儀式です。動物や魚に『命』があることはすぐわかります。しかし、野菜や果物には命がない、などと錯覚している人がいますが、そうではありません。野菜や果物にも勿論いのちがあります。命があるからこそ、成長し、葉を茂らせたり実を付けたりするのです。そういうすべての命を『いただき』ながら我々自身の命が支えられ、生かされているのです。いわば私たちのこの体は『いのちのかたまり』と言えるでしょう。『いのちのかたまり』であるこの体をどう使えば良いか、私たちにはそれを考える使命があると思います。『使命』という字は『いのちを使う』という字を書きますよね......。『ごちそうさま』は漢字では『ご馳走様』です。『馳』も『走』も食べる物を準備する為に忙しく動き回ることを意味します。それらの文字に『様』をつけて、食事を終えた人が感謝の気持ちを表す言葉、それが『ごちそうさま」です。両手を合わせて合掌して、みんなが、食事の前に「いただきます」、食事の後に「ごちそうさま(でした)」を忘れずに言うようにしてもらいたいものですが、ちょっと気になっていることがあります。誰でも『いただきます』と『ごちそうさま』はワン・セットだと思っています。食事の前に「いただきます」と言ったなら、食事が終われば必ず「ごちそうさま」をいうに違いないと考えがちですが、本当にそうでしょうか。
TVドラマや何かで出演者が食事をとるシーンがありますと、『いただきます』は時々見ますが、『ごちそうさま』はまず見ることがありません。それにならっているのかどうか、普段の我々の生活でも、本来ワン・セットであるはずの『いただきます』と『ごちそうさま』との間に、大きな差があるように思えてなりません。忘すれられがちの「ごちそうさま」ではありますが、決して忘れるわけにはゆきません。私たちの『いのち」を支えるために、動物や魚や野菜や果物が、いのちを提供してくれているのだ、ということを思いださせてくれる「いただきます」と、私たちの食事を準備するための、様々なご苦労に対する感謝を表す「ごちそうさま」、二つで一組です。そしてそれらはどちらも両手を合わせて合掌した姿で言うのを忘れないようにしましょう。 
 

 

 
摩頂山国泰寺・法話

 

 
 

 

■禅とは? 禅語とは?
禅の考えがもっとも大事にするところは、まず「自分」ということになります。逆に言えば「自分とは何か?」を明らかにすることが禅ということが出来ます。
私たちは他人のことだったら根掘り葉掘り知りたがるくせに、自分のことになるとほとんど知ろうとしないということが多々あります。自分にどんな可能性があるのかを知ろうともせず、簡単に見切りをつけて、自分が幸せでない理由を自分の外、つまり他人や環境に見つけようとする。これではいつまで経っても悩みの糸口がつかめず、幸せがわからないままです。
また他人や環境を変えていくことは、一人の人間がなしえるには非常に難しいものです。それよりもまず自分を変えていくほうが簡単です 。
それならどう自分を変えていくのがいいのか?それはまず心の中の「怒りっぽい私」「悲観的な私」「わがままな私」「神経質な私」などの、「〜な私」と向き合うことです。向き合うということは「〜な私」を自覚することです。病気を治すにも自分が病気であるという自覚がないと治せないのと同じことです。病院に行けば、お医者様が診断してくれるように、自分で自分の心を、自分の都合を一切入れずに診断して見る。でもなかなかいきなりは難しいかもしれません。
そこで、その難しい自分を見ることを、少しだけ手助けしてくれるのが禅語になります。禅語には、必ず表面の意味と込められた意味がそれぞれあります。一見すると「〜な私」と全く関係のない短い言葉ですが、その中に「〜な私」をどうすればいいかが込められているのです。解説文にも一応説明はありますが、ご自分でもどこが「〜な私」を解決するキーワードなのかを考えてみてもいいでしょう。禅語の解釈は一つではありません。
そうすることで、「〜な私」がすべて本当の自分ではないことに気付くと思います。本当の自分は「〜な私」に、すべて向き合った後に自然に現れます。そしてそれは何か特別な力が具わった超人ではなく、「〜な私」と向き合う前の自分と何も変わりません。ただあらゆる人や物が違って見える、あれほど自分を悩ませていた人や物でさえも、という心境になるはずです。  
そんな風に、あなたの心の救いに、禅がなっていくことを切に願います。

■平常心是れ道 −平常の心が肝心である−
人間というのは自分の都合で、地位も給料も評判も高い方がいい、低いのは困る、と、物事に高い低い(優劣)をつけて、よりよい方を得ることに馴れきって、そうすることに何の疑問も持っていません。
それに対して、平常の「平」は高低が無いということ。本来物事には高い低いという価値は無いということです。あくまで価値というのは、人間が使うのに都合がいいようにつけたものです。
しかしその価値も人それぞれ。人同士がぶつかるとその価値観もぶつかり合います。ぶつかった時に怒りっぽい自分が首をもたげ、人を傷つけてでも、あくまで自分の価値観を押し通そうとする。そんな時、人間が使うためにつくった価値観に、あべこべに人間が使われているのではないでしょうか。なぜなら「怒」は「奴隷の心」と書くからです。
そうやって主を失った怒の心が、さらに自分自身を傷つけるということをご存じでしょうか。今から六五〇年ほど前の夢窓国師という禅僧が、「たとえ他人から叱られようと罵られようと、それだけで自分が地獄に落ちることはない。しかし、それに腹を立てて怒ることが、自分を地獄に落としてしまう。自分を害する大元は他人ではなく、それはただ自分の心なのだ」といっています 。
ですから、私たちが自分の心を活かそうと思えば、心を「平」という本来価値観が無いところに「常」に置き戻す必要があります。それを平常心といいます。 平常心が怒の心を離れて、自分の心を活かし、他人も活かすということにつながるのです。

■禅のこころ
禅はインドの達磨大師が中国に伝え、唐代(西暦618-907年)になり大いに栄え、宋代(西暦960-1279年)に至り日本に伝えられた仏教です。
学校教育においては、日本に最初に禅を伝えたのは、建仁寺の御開山の明庵栄西禅師(1141-1215年)と永平寺御開山の道元禅師(1200-1253年)ということになっております。 
じつはそれ以前にも、奈良の飛鳥寺(元興寺の前身、蘇我馬子開基)の禅院に住されたと伝えられる道昭師(629-700年)によって、初期の禅が日本に伝えられていたと思われます。元興寺にはその禅室が現存しております。
道昭師は中国に渡り、玄奘三蔵より法相宗の教えを受け、禅宗第二祖の慧可禅師の弟子である慧満より禅法を授かったと言われております。
また天台宗の開祖である伝教大師最澄(767-822年)は、師の行表禅師より北宗禅系の禅を授かっておりました。 
このように、日本に禅が伝えられたのは奈良時代の昔でありましたが、その時代の仏教の主流は学問仏教である法相宗や華厳宗などであり、鎌倉時代に至って日本禅の祖師方が布教を開始されるまでは、広く知られることがなかったのです。 
禅の初祖菩提達磨(ボダイダルマ)禅師と、その弟子たちの言葉を記録したものとされている『二入四行論長巻子』という書物が現存しております。 
この内容を読むと、初期の禅ではどのような教えが説かれていたのかを垣間見ることができます。 その中にこのような言葉があります。
「 道を修むる法は、文字の中に依って解を得るものは、気力弱きも、 若し事上より解を得るものは、気力盛んなり。 」  (道を修める方法として、書かれた本の文字の中から理解を得るものは、力が弱い。 もし、具体的な事実に即して理解を得るものは、力が強い)
ここに明らかなように、禅はその最初より、現実の世界に向き合い、現実の世界に関わることを重視していたのです。 
いかに理論の精細を極め、言葉の中に真実を求めようとしても、それは「月を指差す指」です。「言葉」はそれを聞いて、何かが自らの心に生まれなければ意味がありません。 
例えば、「この世界は無常である」という釈尊のお言葉を聞いた場合、それは誰でも知識としては知っております。 しかし、そのお言葉を体得し、その指し示している「真実そのもの」に至るのは容易なことではありません。 
言葉というものは、実際に現実の世界の中で、自ら検証して初めて身にしみるものであり、決して頭だけの理解では真に「理解した」とは言えないのであります。それを「ほんとうに」体得しようというのが「禅のこころ」そのものではないでしょうか。常に目覚めた心で、激しく変化するこの世の中の、現実そのものに対応しなければなりません。禅の行は、坐禅だけに止まりません。日常の現実そのものが、「禅の行」なのです。

■白隠禅師の『草取歌』で自他をすくう
『さしもぐさ』『へびいちご』『おにあざみ』『やえむぐら』『いつまでぐさ』、白隠禅師の著書の名です。植物、とりわけ雑草の類いの名称がつけられていることに特徴があります。
その意味は、雑草ですから、本来は無い方がいい“要らざる言”として自著をへりくだっているためといわれています。
そのように自著を雑草にたとえる白隠禅師、晩年には『草取歌』というものを著します。これは私たちの心にむくむくと沸き起こる煩悩・妄想を、田んぼに生えるいくら取ってもまた出てくる雑草にたとえて、その雑草を抜き、人間本来の生き方をするよう勧めるといった内容のものです。
「草を取るなら根をよく取りやれ またと意根をはやしゃるな」、『草取歌』の冒頭の一節です。
よく見ると「思う」という字にも、田んぼがあります。私たちはたしかに、心に思うことで心の田んぼに草を生やしてしまっているようです。
また「意根」という言葉は「遺恨」に通じます。心に張った草の深い“根”がそのうち“恨”みに転じていく。そんなときには、その根をよく取って二度と生えないようにしなければいけない。
草を取るための道具として古来より鎌があります。地面の草を鎌で根こそぎ取るように、心の煩悩の草を鎌の刃で取る。刃の心と書いて“忍”です。
忍は単に、たえしのぶことではなく、言偏(ごんべん)をつけると“認”となるように、認めていく、受け入れていくということです。それが刃の心で、自ずと心の草が取れていくということになります。
ノートルダム清心学園理事長を勤められた渡辺和子さん(1927〜2016)の言葉に ・・・ もし あなたが 誰かに期待した  ほほえみが得られなかったら  不愉快になる代わりに むしろ  あなたから ほほえんでごらんなさい  実際 ほほえみを忘れた人ほど  あなたからのそれを  必要としている人はいないのだから ・・・ というものがあります。他人に無愛想にされるとき自分の機嫌も悪くなる、誰でも心当たりのあることだと思いますが、そんなときどうするか?
それは、自分の心に生えた不愉快という草を根っこから取るしかありません。取るということは、刃の心で草を取って、認めていくことと申しましたが、渡辺さんの文章では、それは「あなたから ほほえんでごらんなさい」となります。また「忍ぶ」は「偲ぶ」です。人を思うことにつながります。
不愉快という草を、こちらから微笑むということで転換していく、そうして自分も活かし、周りも活かしていく。うちのお寺の周辺にも田んぼが広がっていますが、草の生えていない田んぼはそれを見るだけで清々しい気持ちになります。それと同じく、本当に自分の心の草取りをしている人を見るならば、その人の顔や姿を見ただけで、救われていくのだと思います。皆さんも私もお互いに、そんな心の草取りのできる人になれるよう日々勤めたいものです。

■ 「仏壇のある生活」
■忘れがちな感謝
どんな時もご先祖への感謝を忘れないためにも、仏壇へは毎日お参りしたいものです。ですが、日々生活に追われていますと、どうもこの感謝ということを、つい忘れてしまいがちです。なぜ率直に感謝できないのかといえば、私たちが本当の意味で感謝ということを、わかっていないからではないでしょうか。
■感謝は「感」から
本当の感謝をするための第一歩が、「感じる」ということです。感謝の感とは、分解しますと「咸」+「心」となります。「咸」という字は、「心を一つにする」という意味があります。ですから「感じる」とは、「心と心が一つになっていくこと」といえます。似た字で「惑」というものがあります。「まどう」という字です。これは、先ほどの「感」と正反対の意味で、まず「或」という字は、「区切る」という意味を持ちます。「域」や「國」は、その意味が反映された漢字です。ですから「惑」は「区切られた心」ということができます。区切ってしまったら、一つになることはできません。同じ「心」でも、上に乗るものが「咸」か、「或」かで、感じるか、惑うかが違ってくるのです。私たちの日常をみるにつけ、どちらかといえば、心を一つにして感じていくことよりも、自分を優先するために、自分と他人を区切っていくことの方が多いのではないでしょうか。それなら感謝できないのは当たり前です。
■「感」か「惑」か
そのことをよく教えてくれる、三重県の伊勢青少年研修センターに勤められた中山靖雄さん(1940〜2015)という方の、お母様との逸話があります。中山さんのお母様は、八十二歳で脳梗塞になって倒れてそれ以来、自宅で寝たきりの生活を送っていました。しかし、中山さんが講演に出かける時は必ず「今日はどこに行くんだ?」と聞いてきます。中山さんが「どこどこへ行く」と答えると、お母様は「気をつけて行ってこいよ」と対応する。中山さんは「わかった。ありがとう」と答えてから、講演の仕事に向かうことが常だったそうです。しかし、中山さんがもう家を出ようかという忙しい時に、さらにお母様は「何時から何時まで話すのか?」と聞いてくる。すると、中山さんは、つい自分の親だから出てしまうのですが、「そんなの聞いてどうするの?」とか「人のこと心配せんと自分のこと心配しなさい」とか、どうも冷たい物言いになってしまうのだそうです。さらに、中山さんが「寝たきりだから、みんなに好かれる老人にならなあかんよ」と言いながら講演時間を答えると、お母様は「みんなに喜んでもらえるようにしっかり頑張ってこいよ」と言って、ベッドの上から見送ってくれるのでした。そのあと、中山さんは家を出てから、もっと優しい言葉をかけてあげればよかったなあと、後悔の思いでいっぱいになるのだそうです。
そのお母様も九十歳で亡くなり、お葬式を済ませた後で、中山さんの奥さんがふとこう言いました、「お父さん、心配して下さる方が一人減ってさみしいね」。その時、中山さんは、改めてお母様の言葉を思い出して、「おふくろが毎回行き先を聞いてきたのはわかるけども、なんで時間まで聞いたんだろうね」と奥さんに問いました。すると奥さんは「絶対お父さんには言わんで、って、お母さんは言っていたけど、時効だからもう話してもいいかな」と、こんな話をしてくれたそうです。中山さんの講演が始まる頃になると、お母様は奥さんを呼び「講演が始まる時間だから悪いけどベッド半分起こして」と言って、ベッドの前の神棚に向かってじっと手を合わせるのです。寝たきりできちんとは座れませんが、腰と枕と毛布に体を当てて支えながら、なんとか座って講演の時間中、中山さんの無事をじっと祈っているのだそうです。お母様が講演時間をしつこく聞いたのはそのためだったのです。中山さんはこの話を聞いた時、頭をガーンと殴られたようだ、と言われています。
自分が幾度となく講演に行って、今日も聴いて下さる方々と素晴らしい出会いを頂く、そのかげで、実はお母様が自分の無事を祈ってくれている。そんなことも知らずに、講演会が成功したのは、自分だけが頑張ってなし得たことだ、という気持ちになっていたことに、大いに自分を省みて、自分以上に自分を祈ってくれる世界があることを思い知ったそうです。先ほどの「感」と「惑」の話でいえば、中山さんは、いつのまにか自分とお母様の関係を区切っていた。自分の講演のことは母親には関係ない、と心のどこかで思ってしまっていたのです。しかし、お母様はそんな中山さんと心を一つにするがごとく、講演の無事を祈り続けていたのです。心を区切ってしまうと、自分が一体どんなものに支えられながら生きているのか、ということがわからなくなってきます。つまり本当の感謝ができないということです。本当の感謝をするには、まず私たちが心の区切りを取ることです。
■仏壇に向き合う
その心の区切りを取るための行いとして、仏壇にお参りしてみてはいかがでしょうか。心の区切りをとれば、自ずと本当の感謝ができるようになります。仏壇にお参りする時には、仏壇と向き合います。仏壇の荘(かざ)りつけとして、基本となる三つのものがあります。それは燭台と香炉と花立です。もっとも明るく目を引くのはロウソクの灯明ではないでしょうか。それによって、まず自分の心をご先祖と一つになっていくように照らし見ていく。香炉は線香を立てて、その場の空気を清めます。最後に花立ですが、そこに生けられる花は供花ですから、本来は仏さまの方を向いているものですが、そうではなく、こちらを向いています。これはなぜかというと、私たちが仏さまにお供えした花を、仏さまがこちら側に向けて下さっているからだ、と以前知り合いの和尚さんから教わったことがあります。花をこちらに向けて下さるということは、いつでも見守って下さっているということに他なりません。中山さんのお母様の話を彷彿とさせます。結局、仏壇をお参りするということは、仏壇に向き合っている、仏さまに向き合っていると同時に、いかに多くの力によって、自分が支えられているかが、どこまで感じとれているかという、自分の心と向き合うということです。自分の心が今どうなっているか、区切る心なら惑う、一つになっているなら感謝ができる、向き合って確認してみるという、仏壇のお参りもやってみられてはいかがでしょうか。
■仏壇という無言の啓示
歌人の九條武子さん(1887〜1928)に「無言の啓示」(随筆『帰命』に所収)という文章があります。狭い路の入口に、一基の警札が立てられていた。「しずかにお通り下さい。」 恐しい勢いで奔(はし)ってきた自動車は、しかし速力を緩めようともしない。突然に現れたこの粗暴な闖(ちん)入者に、子供は驚き叫び、老人は逃げまどい、小路の平和はたちまちにして破られた。小路の平安をまもる厳かな警札も、自らの威力を誇るがごとく逸走し去る自動車の前には、一片の空文のように見えるのであった。自動車は小路を通りぬけて、今しも広い大道に出でようとしたときに、そこにまた一基の立札が認められた。「ありがとう。」 しずかに与えられた感謝のことばに、自動車を運転する人は、言いしれぬ愧(はず)かしさを覚えた。恵みのことばに値しない醜い自分が、そこに省りみられた。やがて第二の小路が現われた。入口に立てられた警札は、なつかしき啓示をもって、自動車を迎え入れた。「しずかにお通り下さい。」 諭しのままに進む自動車に、小路はもはやその平和を乱さなかった。小路の幸福は、また自動車を運転する者の幸福であった。「ありがとう。」 小路のつきるときに、喚(よ)びかけられたこのめぐみの語(ことば)は、導きのままに生くるもののみに聴かれる、朗らかな祝福の声であった。祝福された心のよろこびをもつものは、無言の啓示の前に、何の愁いもなく、ただ虔(つつま)しき報謝の心をささぐるのみである。
この文章に登場する自動車の運転手は、まさに生活にせき立てられて、汲々(きゅうきゅう)としている私たちの姿です。狭い小路にも、猛スピードで突っ込んでいくようなことを、私たちは知らず知らずの間に、やってしまっています。そこに現れる無言の啓示・立札、いわば、これが仏壇ではないでしょうか。その啓示も、スピードを出して先を急ぐ運転手には、一向に目に入りません。とすれば、仏壇も、折角お家に具わっていても、私たちの気持ちが急いていれば、宝の持ち腐れということになります。しかし、そんな運転手にも、気づきの時が訪れます。小道を出る時の「ありがとう」という立札を見た時です。先ほど、仏さまは花を私たちに向けて下さっている、ということを申しましたが、この「ありがとう」という言葉も同じ意味です。小道を乱暴に通過しても、静かに通過しても、この「ありがとう」という立札が変わることはありません。だからこの「ありがとう」の立札は、私たちがどのように生きていても、見て下さっている仏さま・ご先祖と同じです。そのことを感じ取ったのか、運転手は自分の行為を恥じ入ります。私たちも仏壇に向かう時、自分を支えてくれているいろんな恵みに相値(あいお)う生き方ができているだろうか、と恥じる自分がいなければ嘘になります。その慙愧(ざんき)の念が本当の感謝への第一歩なのです。そして運転手の目の前に、再び「しずかにお通り下さい」の立札が現れます。もう運転手は、その立札を見逃すことはありません。静かに進む自動車。平穏を取り戻した小道は、そのまま運転手の心中だといってもいいでしょう。このとき、立札と運転手の心が、まさに一つになったのです。立て札と一つになった運転手の前に、見覚えのある立札が見えてきます。その「ありがとう」という立札を目にした時、運転手には何の愁いもなく、感謝の気持ちでいっぱいになったようです。それと同じように、仏壇にお参りをして、祀られているご先祖と私たちが心を一つにしていくことによって、私たちの心にも本当に平穏が訪れ、率直に感謝できるようになるのです。このことは、私たち生きている者にとって、必ず大きな力になっていきます。そんな心の癒やしの場が、各家庭にすでに具わっているのです。それは誠に素晴らしいことだと思います。どうか仏壇のお参りをしていただきますよう、心からお願い申し上げます。 
 

 

■西郷隆盛の悲しみ
国泰寺の一室に額に入れられた書簡が掲げてあった。以前より気になっていたが、書いた人の名前を見ると、今年の大河ドラマの主人公「西郷どん」こと「西郷吉之助」となっており、更に一体何が書かれているのか気になり始めた。達筆な字で書かれているので臆していたが、昨年十一月の法燈忌のおりに時間があったので、思い切ってない頭を絞り読んでみた。帰京してから念のため図書館で調べてみると、なんと昭和二年(一九二七)発行の『大西郷全集』第二巻にすでに翻刻されていた。原史料と照らし合わせてみると微妙に相違点もあるようだが、余り細かい事にはこだわらずにその内容を紹介してみたいと思う。
まずは宛名について。宛名が「藤長様」とあるが、『大西郷全集』によれば、「藤長」は名前で、姓を「得」といい、奄美大島、龍郷村嘉渡の人だという。西郷隆盛が謫居していた時からの知り合いで、その際は「間切横目」(今でいう警察官)であったという。その後、「與人」(村長格)に昇進し士族に列せられている。本書簡は、この得藤長に明治二年(一八六九)三月二十日付で送られたものである。内容は、西郷自身の状況報告が主で、具体的には、戊辰戦争で江戸へ進軍した時より書簡が記された明治二年三月に至るまでの自身の境遇を知らせたものである。
それでは、内容を見ていこう。(書簡文は、読みやすいように適宜書き下す等改変した)まずは次のような挨拶文から始まっている。
「一筆啓達いたし候、いよいよ御障り無く勤務の筈、珍重に存じ申し候、毎々書状並びに着物御贈り給わり忝く存じ申し候」 これによれば、得は西郷によく書状と着物を送っていたようである。後で出てくるが西郷が島に残した子供の世話もしており、親しい間柄であった事を伺わせる。そして次からが総督府の参謀として江戸へ向かった以降の状況を述べたものである。少しずつ区切りながら順次紹介してみたい。
「拙者も昨春より江戸表へ出隊致し、その後越後表へも差し越し候處、兵隊中の憤戦を以て全く御勝利相成り、御蔭をもって命を給わり帰り、昨年霜月初旬に着致し申し候、御安慮給わるべく候、」 まず「昨春より江戸表へ出隊致し」とあるが、実はこの時に江戸城が何の戦乱もなく明け渡されたのであった。本年は明治維新百五十年で、同時に江戸無血開城百五十年にも当たる記念の年である。当庵開基・山岡鉄舟居士は、この江戸無血開城にあたって、静岡まで進軍してきた西郷の元へ危険を冒して訪れ談判をし、その道筋をつけた大功労者である。その後、西郷は一旦鹿児島へ戻るものの北陸の戦況が思わしくないため、明治元年(一八六八)八月に鹿児島を出立し北陸へ向かった。その結果、無事に勝利を収めて同年十一月初旬には鹿児島へ戻ったのであった。では戻ってからの西郷の様子を見てみよう。
「もうこの節は御暇願い上げ隠居の筈にて、暫時御許容相成り居り候處、又々是非に相勤める旨御沙汰あり承知仕り、よんどころ無く去月二十五日、参政仰せ付けられ候間、一両年相勤めず候ては相済みまじく、当春は其許に下島致すべき筈の處、案外の仕合せ如何とも致し方これ無く候、遺子共へは始終御丁寧成り給わり候由、御礼申し入れ候」 鹿児島へ戻ってからは、北陸へ行く以前より体調を崩していたこともあり、暇乞いをして隠居のような状態でいた。しかし、藩主の島津忠義からの要請で、仕方なく年が明けた明治二年二月二十五日より「参政」として勤め始めた。そのためこの春には大島へ行こうと考えていたが、それも出来なくなりどうしようもないとボヤキ気味である。大島には、島で娶った愛加那との間に生まれた菊次郎と菊草がまだ居り、会えなくなった事は残念であったろう。ただ得藤長はじめ地元の人達が世話をしており、その御礼を述べている。
以下書簡本文は、末尾の挨拶、日付、西郷の署名、宛名の「藤長様」と続き、さらにその後に追伸文が書かれている。本文が、島へ行けない事を除き、淡々と江戸への進軍から一年余りの事を述べているのに対して、追伸文では、この間に起こったある事柄について西郷が悲嘆に暮れている様子がまざまざと記されている。
「尚々御家中へも宜しく御伝声給わるべく候、追って故友の方々へは御序に宜しく御鶴声給わるべく候、将又、愚弟吉次郎には越後表において戦死いたし、残念此の事に御座候、外の両弟は皆々難なく罷り帰り仕合せの次第に候、拙者第一先に戦死致すべき處、小弟を先立たせ涕泣いたすのみに御座候、御悲しみ察し給わるべく候、」 西郷隆盛には弟が三人いた。上から吉次郎、従道、小兵衛である。従道と小兵衛(文中の「両弟」のこと)は生き長らえたが、吉次郎は、戊辰戦争における北陸道での戦いのさなか新潟において戦死した。墓所も越後高田にあるという。西郷は吉次郎の死を「残念此の事に御座候」と述べ、自分こそがまず初めに戦死すべきなのに弟を先立たせしまい「涕泣いたすのみ」と嘆いているのであった。
以上が本書簡の内容である。文中、大島時代に御世話になった島の人達・家族に会いに行けなくなった悲しみ、戊辰戦争で弟を亡くした悲しみを率直に語っており、読んでいて当時の西郷の気持ちがよく感じられる書簡といえよう。

■ 「安心(あんじん)」とは?
毎年仏跡を訪ねて中国に行くのですが、中国の地名には「安」という字がやたらと使われています。それは土地を開いたときに、この土地が安らかで不安が無い地であるように、という願いを込めて「安」という字を使って名付けられるからだそうです。『広辞苑』を見ると、安心とは「不安、心配がなくて、心が安らぐこと。」とあります。安心を願う、求めることは日本も中国も同じであるようです。
しかしいくら願っても、不安が無くなることはありません。一つの不安が解決すれば、また別の不安が出てくるように、モグラたたきのようにきりがありません。ですから、心を安らかにということであれば、不安を無くすという方法ではいつまでたっても安心にはならないのです。
安心は本来「あんじん」です。この「あんじん」という読みが、本当の「安心」ということを教えてくれています。ポイントは濁音が入っているということです。濁という字は、元は「水の中にイモムシが入っている様子」を表しています。だれでもこれから飲もうとする水にイモムシが入っていたなら不快・不安な気分になります。ですから濁という字自体が、私たちの心の不安を示しています。
濁音に対して清音といいますが、「あんしん」という読みはすべて清音です。濁りが無い、つまり不安が無いという『広辞苑』の安心の解釈と重なります。ですが先述したように不安を無くすという方法ではいつまでたっても安心にならない。「あんじん」という濁音を含む読みは、心の中の不安を遠ざけるのではなく、不安と向き合って不安を受け入れることによって初めて本当の安心を得られるということを示しているのではないでしょうか。
江戸時代に活躍した白隠慧鶴禅師の墨跡の中に「南無地獄大菩薩」と一行大書したものがあります。「地獄」というと、これほど「安心」とかけ離れているものはないでしょう。その地獄を白隠禅師は「南無地獄大菩薩」とされた、これは一体どういうことでしょうか。大本山南禅寺の管長をつとめられた柴山全慶老師の著書『人生禅話』に「南無地獄大菩薩」のこのような話がありました。
A氏とB氏という二人の、俳句を通じた深い交遊は二十年に及んでいました。ところがそのB氏がふとした手違いから事業に失敗し、万事休してA氏に金策を頼みました。A氏は「大金です。私の手もとにもそれだけの金はありません。困りましたね」と言ったきり沈黙しました。そしてしばらくして、「明日九時にご足労願います。そのときご返事させていただきます」と言いました。翌日B氏はA氏宅の茶室へ行きました。すると床の間の一軸が白隠禅師の「南無地獄大菩薩」の墨跡でありました。心の底に奈落の毒気を浴びせかけるかのような、うす気味悪い「南無地獄大菩薩」の軸。見たくないと思いながら、それでいて何か惹きつけられる一軸。B氏の心を占めている「破産」、「自殺」という思い。それが「南無地獄大菩薩」と重なって、耐えがたい苦汁となって胃の腑を突き上げたそうです。 にもかかわらず、B氏はいつの間にか、その軸の前に座して「南無地獄大菩薩、南無地獄大菩薩」と声にならない声で唱えていました。地獄を嫌い極楽を望むのが人間です。かといって嫌いな地獄に墜ちることなく、極楽にばかり住む人間がこの世に一人でもいるでしょうか。生きている限り、苦も無く、悲しみも無く、痛みも無いということはありえません。大小の差こそあれ、誰しも苦しみ・悲しみ・痛みを抱いて生きている。極楽の喜びはあるにはあるが、それはちらほら散見されるだけで、やがて地獄のどん底にたたき込まれることが多いのが人間というものではないでしょうか。
しかし、その地獄を避けようとすればするほど、地獄は盛大となる、だったら、この厭わしい地獄に対して、そのまま南無と依り処とし、大菩薩と合掌礼拝したら一体どういうことになるのだろうか、とB氏は思い立ちました。
「逃げられるような地獄なら、それはまだ本当の地獄ではない、地獄というものは絶対に逃げられないのだ、逃げられないのなら、どこまでもその地獄を背負っていくほかはない。背負うのなら、南無地獄大菩薩、ありがたいご縁だ、とことんまで一緒に参りましょうと腹を据えるほかはない。そうだ、地獄の中で、自分の能力の限りを尽くして死ぬまでやるのだ。」と一念発起したそのとき、B氏は今まで経験したことのないような一条の光を見出したそうです。
地獄に体当たりをしようと決意したB氏は、改めて資金融通の願いを取り下げてA氏邸を辞去しました。予期せぬ苦境に立たされたB氏。ですがその解決法は苦境を何とかして避けることではなく、背負っていくことだったのです。「あんじん」という読みもそのことを教えてくれています。「あんしん」で解決しないなら「あんじん」という方法もあるということを私たちは知っておく必要があるようです。

■『禅−いまを生きる−』 “いま・ここ・わたし”
人は仕事や生活がうまくいっているときには、日常の些細な問題も気になりませんが、うまくいかなくなると途端に、その原因を見つけたくなります。そしてその原因を他人にもとめることはあっても、なかなか自分を省みるということはできないもの。そんな時こそ、やはり他人ではなく、自分の生き方を問うべきだと思います。 
人間としてどう生きたらいいのか?を問うことは、言い換えれば「いま」をどうとらえるかにつきます。「いま」を問うことは生きている者にしかできないことだからです。 ですから、私たちは誰もがそのままで、過去でもなく、未来でもなく、「いま」を生きています。だから「いまを生きる」というのは、すでにみなさんがそうであります。ですが本当の意味で「いまを生きて」いるかが問題です。 
今から一一五〇年前に亡くなられた臨済宗の祖・臨済義玄禅師は「いまを生きる」ことを「即今目前聴法底の人」(『臨済録』示衆)と示されました。 
「いまを生きる」ということは、「まさに今、私の目前で説法を聴いている人」であることに他ならない、もっと簡単な言葉で言い換えると「即今」は「いま」、「目前」は「ここ」、「聴法底の人」は「わたし」となります。ですから「いま」をとらえるということは、必ず「ここ」と「わたし」も同時にとらえるということです。 
私たちが生きているのは、「わたしがいまここにいる」以外に無いと気付くことだといえます。  
詩人・まどみちおさん(一九〇九〜二〇一四)の詩で「ぼくが ここに」があります。  
ぼくが ここに いるとき   ほかの どんなものも   ぼくに かさなって   ここに いることは できない   もしも ゾウが ここに いるならば   そのゾウだけ   マメが いるならば   その一つぶの マメだけ  しか   ここに いることは できない   ああ このちきゅうの うえでは   こんなに だいじに   まもられているのだ   どんなものが どんなところに   いるときにも   その「いること」こそが   なににも まして   すばらしいこと として  
まどさんはこの詩のなかで、「わたしがいまここにいる」ことの有り難さ、すばらしさを謳います。「ほかのどんなものも、ぼくにかさなって、ここにいることはできない」ことは、「わたしがいまここにいる」ことについて、交換がきかない、比較ができない、ということです。誰もがその人の替わりはできない。その人と比べることはできない、それを「かけ替えの無い」ともいいます。 
そんなかけ替えのない存在は、わたしだけでなく、ゾウでも一つぶのマメでも同じだということです。わたしというものが、かけ替えがない存在だと気付けば、それと同じように、わたし以外のもののかけ替えの無さにも、気付くはずです。 
そしてまた有り難いことに「どんなものが、どんなところに、いるときにも」「こんなにだいじにまもられている」という私たちであります。そうやって私たちが「いること」がすばらしくない訳がありません。 
「わたしがいまここにいる」が本当にわかる人は、自分と同じように「いまどこかにいるだれか」を大切にできる生き方ができるのです。それが「いまを生きる」という人間の生き方ではないでしょうか。 
詩人・高田敏子さん(1914〜1989)の「雨の日の花」という詩があります。
雨がふっている   花は咲いている   花の上に落ちる雨   悲しんでいるのは   雨だった   花をよけて   雨はふることはできない   花は咲いている   雨の心をいたわり   うけとめて   花びらに   花の心を光らせて   花は   咲いている  
雨は精一杯降っている、だから余力がなく花をよけられない。同じように花も精一杯咲いている、だから雨をよけられない。だけど雨と花はけんかをするのではなく、雨は花を思いやり、花は雨を思いやり、お互いに精一杯いまを生きているからこそ、お互いのかけ替えの無さが感じられる。大切に思いやる生き方ができることを、この詩は教えてくれているようです。 
茶道を大成した千利休居士の孫に千宗旦という人がいます。豊臣秀吉に千家が取りつぶされた後、その難しい千家の再興を成し遂げたのがこの宗旦居士です。 ある日、宗旦居士と親交のある京都のあるお寺の和尚さんが、寺の庭に咲いた珍しい椿の花を一枝、小僧さんに持たせて宗旦居士の元に届けさせました。 
椿の花は落ちやすいもの。小僧さんは道中気をつけていたものの、途中で花を落としてしまいました。小僧さんは正直にそのことを宗旦居士に伝えて自分の失敗を詫びました。すると宗旦居士はにこやかに笑って、それを許し、その小僧さんを茶席に招きました。 
宗旦居士はあらかじめ準備していた床の間の掛け軸を外して、代わりに竹の筒の花入れに小僧さんが落としてしまった椿を投げ入れ、その花入れの下に落ちた椿の花を置いて、抹茶を点て、「ご苦労様でした」と小僧さんの労をねぎらって、寺へ帰したということです。(井伊直弼『閑夜茶話』) 
精一杯生きて花をつけた椿、その椿を精一杯運んだ小僧さん、どちらも「いまを生きて」いる交換のきかないものです。だからこそ、その椿も小僧さんも大切にして活かしきった宗旦居士。こんな話が残っている宗旦居士という方は、やはり「いまを生きる」ことが本当にわかっていた方ではないかと思います。 
是非私たちもこんな話のような生き方をしてみたいとは思いませんか。 
白隠慧鶴禅師は「わたしがいまここにいる」ことを「当処即ち蓮華国 此の身即ち仏なり」と『坐禅和讃』で説かれています。本当に「いま」に気がつけば、「ここ」はお浄土、「わたし」は仏ですよ、と見ることができます。その「いま・ここ・わたし」をこの臨済・白隠両祖師の遠諱を機に見直してみるのはいかがでしょうか。

■お彼岸の供養とは?
■お彼岸は種まきの日  
冬の厳しい寒さを乗り越えると、春のお彼岸を迎えられたというありがたさもひとしおです。こうして迎えることができたお彼岸に皆さんは何をされるでしょうか?
けふ彼岸 菩提の種をまく日かな(松尾芭蕉)
という俳句があります。彼岸という今日を迎えた芭蕉は自分に問いかけました、「なにをすべき日だろうか?」と。そこで出た答えが「菩提の種をまく」ということでした。菩提とは「気づく」ということです。その気づきの種・きっかけをつくるのが彼岸だということです。気づきの「気」とは、空気、元気など見えないものを指します。ですから私たちが生活していて普段見えていないものを発見する、それが気づきです。いつもは見えない、目立たないが、いざとなったら助けてくれているもの、私たちは数多くのそういったものに生かされているといえます。  
■有り難い月明かり
私が高校生の頃、今から二〇年以上前の話です。山奥の寺に帰る道は、途中から街灯など明かりが一切無くなります。そんな片道十四キロほどの通学路を自転車で毎日通っていました。私は道のりの遠さと街灯が無いことに、当初は文句ばかり言っていました。 しかし実際通ってみると、街灯が無いと暗くて見えないかというと、そうではありませんでした。その時、夜道を帰る私を助けてくれたのは、月の明かりでした。普段はなんとも思わなかった月の明かりは、暗い夜道では非常に明るいのです。その明るさに、暗いと文句を言っていた自分が恥ずかしくなりました。街灯が沢山ある町中なら、月の明かりなどたかが知れています。月明かりを頼りにすることもないでしょう。ですが、逆に街灯が無いという不便さが、かえって月明かりのありがたさを私に気づかせてくれたように思います。このように普段は目立たないが、いつも私たちを支えてくれているものは、身近なところにたくさんあるのです。 
■見えないけれど必ずある  
金子みすゞ 「星とたんぽぽ」
青いお空の底ふかく、海の小石のそのやうに、夜がくるまで沈んでる、 昼のお星は眼にみえぬ。見えぬけれどもあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ。   散ってすがれたたんぽぽの、瓦のすきに、だァまって、春のくるまでかくれてる、   つよいその根は眼にみえぬ。見えぬけれどもあるんだよ。見えぬものでもあるんだよ。
この金子みすゞさんの詩も、見えないけれど必ずあるもののことを謳っています。昼の星や、枯れたタンポポの根は確かに見えませんが、いざという時はちゃんと役割を果たすのです。皆さんが、それぞれに自分にとって、見えないけれども支えてくれているものは何だろうか?と、ふと立ち止まって考えてみる、というのが芭蕉のいう「菩提の種をまく」ということです。  
■供養ということ  
そうやって種をまいてみると、菩提の芽が出てくることになります。芽を出すために必要な養分が「供養」という行いです。供養とは、一般には神仏やご先祖に供物を捧げることと理解されていますが、今回はもう少し掘り下げてみましょう。供養は、もとは供給資養(くきゅうしよう)という言葉を略したものです。供給とは文字通りお供えをすること、資養とは資(元手)を養うことです。このうち供給の意味が、供養という言葉のイメージを強く表していますが、忘れられがちなのが資養ということです。では、私たち人間の資・元手とは何でしょう? それは「心・こころ」に他なりません。私たちのすべての行動のもとは心だからです。ですから資養とは、言い換えれば心を養うことです。供養をするとき、どうもお供えをすることばかり気をとられて、その行いのもとである自分の心を養うということが、いい加減になってはいないでしょうか?供養とは、供給と資養、お供えすることと心を養うことが、二つそろって初めて行われるのです。  
■初なりのスイカ  
ある村のお百姓さんの畑に、初なりのスイカができました。お百姓さんはそのスイカを仏様にお供えするために村のお寺に向かいました。しばらく行くと、道の途中で腹を空かせた子供に会いました。お百姓さんはその子供がかわいそうだったので、持っていた初なりのスイカをあげてしまいました。初なりというからには一つしかありません。仕方がないのでお百姓さんはそのままお寺に行き、和尚さんに訳を話しました。すると和尚さんはこう言いました、「仏様が本当に召し上がりたいのは、初なりのスイカそのものではない。スイカを指し出したお前さんのその心なのだよ。今日はその心をお供えして帰りなさい」と。このお百姓さんが、スイカをお供えすることだけにこだわっていたら、腹を空かせている子供も目に入ることはなく、無視してそのままお寺に向かったでしょう。しかしかわいそうな子供を見たことで、お百姓さんの心が養なわれたのです。そのおかげで、まことの供養を行うことができました。そして本当にお供えしなければならないのは、養われた心だということを知ることができました。
■ご先祖の供養  
皆さんももちろんお彼岸中には、ご先祖の供養をされることでしょう。その時にぜひこの初なりのスイカの話を思い出してください。まことの供養をすることは、亡くなった人のためばかりでなく、心を養うことで生きている私たちの力にもなります。そしてそうすることは、人知れず私たちを支えてくれているご先祖のねがいでもあります。 詩人の坂村真民さんに「ねがい」という詩があります。見えない 根たちのねがいがこもってあのように 美しい花となるのだこの詩のごとく、亡くなられたご先祖は見えない根のように、必ず私たちをしっかりと支えてくれています。そして私たちにねがいを託しています。美しい花となってほしい、と。美しい花をさかせることも一粒の種をまくことから始まります。お彼岸には、気づきという種をまいて、供養という養分で育て、皆さんも私もそれぞれの心の中に美しい花を咲かせていくようにつとめたいものです。

■坐禅を学ぶ
まず、禅とは何か?というところからですが、もとはインドの「ジャーナ」という古い言葉から来ています。「ジャーナ」の意味は、心を静かに保つということです。ジャーナという言葉が、仏教が中国にわたった時、「禅那(ぜんな)」となり、さらに意訳され「禅定(ぜんじょう)」あるいは「禅」となりました。言葉は大幅に変わりましたが、言葉の意味は変わっておらず、禅とは、心を静かに保つということです。なぜ心を静かに保つ必要があるのかというと、例えばコップの中に泥水が入っています。泥水はかき混ぜると泥が舞い上がって濁ってなにも見えません。しかししばらく静かに置いておくとだんだん泥が沈殿して透き通ってきます。透き通った水はコップの向こう側までよく見えます。私たちの心も同じことが言えます。忙しさに心はかき乱され、濁った泥水のようになっていないでしょうか?なっているなあと感じたら、心の中の舞い上がった泥を沈めてみませんか。どうやって沈めたらいいのか?ということで、禅では坐禅をするのです。ここで大事なのは、坐禅は瞑想とは違うということです。瞑想は、目を閉じ外界を遮断して、心を内側に集中させ、心身統一を図りますが、坐禅はあくまでも眼を開けたままで、つまり目覚めた状態で心を調えることに留意します。外界を遮断せず、眼に見えるものも、耳に聞こえるものも、匂いも、五感で感じるものはすべて感じ取って受け入れていくのが、坐禅です。坐禅の「坐」の字も、「座」ではなく「坐」で、これは屋根のない場所(自然と隔てるものを設けず、天地一体となる)で坐ることを意味します。また、坐禅をすると健康に良いという話もあるようですが、結果的にそうなっただけの話で、坐禅とは健康法ではありません。ただ自分の心を静めるというだけのことです。では、実際に坐ってみましょう。
坐禅をするには、まず足を組みますが、足を反対の太ももに両方上げる結跏趺坐(けっかふざ)と片方だけ上げる半跏趺坐(はんかふざ)があります。結跏趺坐のほうが坐りは安定しますが、足の関節の硬い人は組むことが難しいです。対して半跏趺坐のほうは、坐りは少し不安定ですが、片方だけ上げるので比較的簡単です。まず初めての人には半跏趺坐を推奨します。それから背筋を伸ばしますが、これも頭のてっぺんに糸を付けて、それを上から引っぱられているような感じで伸ばせ、とよく言われます。あごは少し引き気味、目線は自分の1,5メートル先あたりに落とします。手の組み方も色々ありますが、まず最も知られているのが法界定印という、右手を下、左手を上にして重ね、親指の腹を合わせる組み方です。手を組んだら下腹部の辺りに置きます。これで姿勢は調いました。次は呼吸を調えます。坐禅時の呼吸は数息観といって、息の数を数えることをします。息を吐くときにできるだけゆっくり吐くのですが、そのときに心の中で「ひとーつ」、二回目吐くとき「ふたーつ」と数えます。「三つ、四つ」と数え「十」までいったら、「一つ」に戻ります。途中で数が分からなくなっても「一つ」に帰ってまたやり直せば大丈夫です。さあ坐ってみましょう。合図の鳴らしものが鳴ったらいよいよ始まりです。坐禅は調身・調息・調心といいます。身を調え、息を調えることで、心が調う、静まるということです。
坐禅してみてどうだったでしょうか?足が痛かった、息がうまく数えることができなかった、呼吸がゆっくりとできなかった、などいろいろ感想が聞こえてきそうですが、最初からうまく坐れたなどという人はまずいないのですから、気にすることはありません。むしろ自分の体なのに、なぜこんなに思い通りにならないのだろうと感じることが大事です。じっとしてることぐらい簡単だと思っても、これがなかなかふらふらとして定まらない、そんなことは普段生活していれば全く感じないことでしょう。日常気がつかないことを気づく、坐禅を通して心が透き通る・静まれば、だんだんそうなっていきます。ただいきなりなんでもかんでも気づくというわけではなく、やはり坐禅も訓練が大事である程度時間的にも坐れるようにならないと難しいでしょう。毎日少しずつ坐る時間を長くしたり、半跏趺坐に慣れてきたら結跏趺坐に挑戦してみたりして、坐りがこなれるまでは、ねばり強く坐り続けることが大事です。一日の中に少しでもいいので、坐禅の時間を取り入れてみたらいかがでしょうか?心が調えば、身体も調う。自分が調えば周りも調います。 
 

 

■開山禅師の教え
鎌倉時代の末期、正安元(1299)年に、国泰寺は慈雲妙意(じうんみょうい)禅師によって開かれました。その開山禅師の教えとは、「己事究明」(自分自身のことを知れ)というものです。
禅師は信濃の某所でお生まれになっていますが、詳しいことはわかりません。それは人に聞かれても答えず、そればかりか聞く人にこう切り返したそうです、「あんた方は、他人のことばかり気にしすぎる。他人がどこで生まれようと、そんなことを気にしている暇があったら、もっと自分自身のことを勉強しなさい。何時誰の身の上にどういうことが起こるかわからんぞ。いつ自分の身の上に一大事が出来ても心配のない、心の眼を開かなくてはならん。あんた等の心の眼が開けたら、その時は儂(わし)の生まれた場所も両親の名前も教えよう」(稲葉心田老師著『心眼をひらく』)。
開山禅師が指摘されるように、現代の私たちは幅広くいろんな事を家庭や学校や会社で教わりますが、自分自身のことを勉強したかと言われると、私も含めて自信を持って返事をできる人はなかなかいない。他人のことなら気になりますが、自分自身のことには疎いのが現代の私たちです。
自分を知らないということは、自分にどんな“すばらしいはたらき”があるか?を知らないということです。
金子みすゞさんの「はすとにわとり」という詩があります。
どろのなかから/はすがさく。/それをするのは/はすじゃない。/たまごのなかから/とりがでる。/それをするのは/とりじゃない。/それにわたしは/気がついた。/それもわたしの/せいじゃない。/
泥の中の蓮が咲く、卵が孵化してひよこが出るのは、蓮やひよこの力だけではない。何か大きないろんな力がそうさせる。それに作者の金子さんは「気がついた」と言っています。そしてその「気がつく」ということも、自分自身の力ではない、何か大きな力によると、気づくことが「自分自身のことを知る」ということです。何でもない日常の光景、私たちが生きているということも、気がつけば、自分の力だけではなく、何か大きないろんな力によって生かされているということが分かります。
私たちにはそんな、“すばらしいはたらき”が生まれつき具わっていると、ブッダは言われました。にもかかわらず、私たちは、他人を気にして、あれがない、これがないと、ないないづくしで不満を抱え、日々文句を言っている。そこから抜け出すのが、開山禅師の「己事究明」(自分自身のことを知れ)の教えです。まず自分自身を知り、生かされていることに気づき、自分を活かすように行動する。私たちも日々の生活を、開山禅師が言われる通り、「己事究明」(自分自身のことを知れ)に勤めましょう

■死・無心に生きる
人間がどうしても避けることのできない「死」。なぜ不可避かというと、私たちは生きているからです。死に向かって生きているかぎり、「死」の命題はつきまとう。私たちは常にその生死の問題の最中に身を置いています。ですが、常に最中に身を置いている割には、生死の問題を気にする時としない時があるのではないでしょうか。それも自分の勝手な都合で、生死を意識して、それに引きずられて、ただ苦しい時間を過ごしてしまう。
空気の中にいるから 空気を意識しない/歩くときに 足を意識しない(相田みつを)  というこの詩のように、私たちが、空気を吸うとき歩くときは下手に意識せず自然にやっています。これがいちいち意識して考えながらだったら難しい。空気の中にいるのと同じように、私たちは生死の中に常にいるのですから、そこで生死を意識しないという生き方はどうでしょうか。生死を意識して生きることも難しいはずです。死ぬことを意識すれば、反対の生きることも意識しなければならない。魚がどうやって水中で呼吸しているのかを考え出した途端、溺れて死んでしまうという昔話がありますが、私たちが生死を意識しすぎて考えすぎることが、生きることがものすごく辛くなる原因なのです。 ならば、もっと自然に空気を吸うように生きるにはどうすればいいのでしょうか。
意識をするのは心です。その心とは、本来動き続けて決まった形の無いものです。臨済宗の開祖、臨済義玄禅師はそのことを ・・・ 心法形無うして十方に通貫す。(『臨済録』) ・・・ と示されました。心は常に動き続ける形の無いものである、だからいろいろなことに心が応じられるのだ、と。私たちが、普段の生活の中でいろんな出来事に応じていけるのも、心が動き続けて応じているからなのです。それを“無心”といいます。その無心は私たちが生まれながらに既に持っているものです。空気の中で空気を意識しない、歩くときに足を意識しない、そして生死の中にいて生死を意識しないという生き方が出来るのも、この無心のはたらきです。ところが私たちは無心のはたらきを持ってはいますが、使い方を完全にマスターしているわけではありません。だから無心が働く時と働かない時が出来てしまいます。
そうならないように、たとえば飛行機が着陸した後にちゃんと整備をして、各部の点検をして、燃料を入れて、いつでも飛び立てる状態になって、また飛んでいくように、私たちの心もよく整備していつでも飛び立てるような、動けるような無心の状態にしてあるか確かめる。その訓練が坐禅になります。坐禅で、ちゃんと動けるかを他人ではなく、自分で確かめるのです。
心が動いて無心でさえいれば、私たちはどんな一大事でも大丈夫です。一旦生死を意識して心が止まってしまっても、自分でまた動かせばいいのです。心が動ける状態ならばいつでも動かせるのですから。そうやって無心に生きることを心がけることが、死をうまく受け入れる生き方です。

■安らかに生きるとは
長い間咲いていた、寺の庭にある百日紅の花が、ようやく終わりを迎えています。それは、今年も、夏が終わり秋を迎えたことを意味し、冬に向かっていくということです。そうやって季節は止まらず変わっていきますが、人間が変わらずに願うことというのは、安らかに生きたいということでしょう。しかし実際は物事のなりゆきに障害や不安があって、そうはいかない。しかもその不安というのは自分の外の世界で起こっていることで、「あの人がああしてくれれば解決するのに」と思っている方も多いでしょう。要するに自分の外的状況に対して、不安を無くして安らかになることを求めています。
安らかという言葉の語源の一つに、「休む」あるいは「止す(よす)」から来ているというものがあります(『日本語源大辞典』)。休むことも止すことも活動を一旦休止して立ち止まってみるということですが、禅宗の禅とはこのことをいいます。坐禅の奨励について書かれた『普勧坐禅儀』にも「万事を休息して」とあり、坐って休む、というのが坐禅です。臨済宗の祖、臨済義玄禅師の語録『臨済録』には「求心歇(や)む処即ち無事」という言葉があります。「歇む」とは「休む」ということで、求めるということが止んだ、休んだ処の心が、物事にとらわれない無事という安らかさである、という意味です。
普段の生活をしていると、とにかく私達は求めることをしています。求めるということは、物事を二つに見るということです。自分と何かという二分化をして、お金を求める、名誉を求める、健康を求める、安全を求めるなど、このような求めることを全て含める形で、最終的には安らかさを求めています。しかし「安らか」の語源である「休む」「止す」や、「求心歇む処即ち無事」の語にもあるように、安らかさというのは、求めるものではないのです。求める心が休まる・止む時が、本当の安らかで生きるということです。求める根っこは自分の心にあるのですから、その心の根っこのところが解って、求めるということを一旦休んでしまう。安らかという言葉の語源が「休む」「止す」から来ているということは、実はそのヒントであったのです。
山際淳司さんの「たった一人のオリンピック」(『スローカーブを、もう一球』)という小説にこんな文章があります。 ・・・ 「使い古しの、すっかり薄く丸くなってしまった石鹸を見て、ちょっと待ってくれという気分になってみたりすることが、多分、だれにでもあるはずだ。日々、こすられ削られていくうちに、新しくフレッシュであった時の姿はみるみる失われていく。まるで−と、そこで思ってもらってもいい。これじゃまるで自分のようではないか、と。日常的にあまりに日常的に日々を生きすぎてしまうなかで、ぼくらはおどろくほど丸くなり、うすっぺらくなっている。使い古しの石鹸のようになって、そのことのおぞましいまでのおそろしさにふと気づき」。 ・・・ 当たり前に思っていることでも「ちょっと待ってくれ、それでいいのか」と休んで止まってみることで、今までと変わらない日常の生活の中に、安らかさがあることに気づくはずです。

■とらえるだけでは…
虎は、鳥獣、ひいては人をも「とらえる」ため、トラと呼ばれるようになったという説があるそうです。虎だけでなく、私たちも日々いろんなものをとらえようと生活しているわけですが、とらえると同じくらい重要なことが、実は「放す」ことです。どうしても、現代ではとらえる・手に入れることばかり、重視されがちで、「放す」方はあまり顧みられることは無いように感じます。
禅の言葉では「とらえる」ことを「把住(はじゅう)」と言い、「放す」ことを「放行(ほうぎょう)」と言います。国泰寺にも「把住 放行」と書かれた額がかけられています。空気を吐いて吸う呼吸のように、心の方でも「とらえた」ら「放す」、「放し」たら「とらえる」と、流れに随って、ありのままであればいいのですが、心が「とらえる」ことばかりにとらわれてしまっていたら、次の「放す」へのステップが踏めません。「とらえる」・把住と「放す」・放行は二つで一つのセットなのです。だから「とらえる」だけだと、世の中はどんどん流れていくのに、私たちの心は取り残されてしまう、取り残された心はますます孤独になる。「無縄自縛(むじょうじばく)」という言葉もあるように、本来無いはずの縄で、自分で自分の心を縛り上げて、自由が利かなくなる。そうした状況に終止符を打つには、「とらえる」だけでは駄目だということに気がつかなくてはなりません。
石垣りんさんの「くらし」という詩があります。 ・・・ 食らわずには生きてゆけない。/メシを/野菜を/肉を/空気を/光を/水を/親を/きょうだいを/師を/金もこころも/食らわずには生きてこれなかった。/ふくれた腹をかかえ/口をぬぐえば/台所に散らばっている/にんじんのしっぽ/鳥の骨/父のはらわた/四十の日暮れ/私の目にはじめてあふれる獣の涙。 ・・・ 石垣さんは、実母は四歳の時に亡くし、実父は三十七歳の時に亡くします。そして「四十の日暮れ」とありますから、父を亡くして四年たってこの詩を書いた。
自分が暮らす・生活することは、肉親や先生までも「食らわずには」生きられない、虎のような猛獣と同じように、何もかも「とらえて」しか生きてこなかったことに気づいた時、石垣さんの目には涙があふれていた、心の眼が開き、「放す」ことに気付いたといえます。一旦「とらえた」ものを「放す」ことは、大変なことですが、そういった視点で生活を見直すのはいかがでしょうか。

■月の兎にまなぶ
月が美しくみえる季節になりました。古来より月には兎が住むといいます。実際に月を望遠鏡などでよく見ると、表面の模様が兎に見えてきます。兎はお釈迦様の時代から身近な動物なので、仏教説話の中にも多く登場します。その説話の中に、兎が月に住むきっかけになったお話があります。
この世の初めの頃、ある林に狐・猿・兎がおり、仲良くしていました。時に帝釈天がこの三匹の仲良しを試験しようとして、一人の老夫に姿を変え現れ、こう言いました、「私はいま腹が減っています。何か食べ物を下さい」。三匹は「ちょっと待って下さい、いま探してきます」と言って食物を探しに行きました。しばらくすると、狐は魚を、猿は果物を持ってやって来ましたが、兎だけは手ぶらで帰ってきて、そこら辺を跳んで遊んでいます。老夫は「あなた方は本当に仲良しではありません。狐と猿は十分に食べ物をくれましたが、兎は何もしていません。」と兎の悪口を言いました。それを聞いた兎は、狐と猿に「たくさん薪を集めて下さい。いま食べ物をご覧にいれましょう」と薪を集めさせて、それが堆く積み上がると火を点けさせました。兎は「ご老人、私はどうしても食べ物を探すことが出来ませんでした。どうか私のこの小さい身体をもって一度の食事に当てて下さい」と言い、火に飛び込みました。老夫は慌てて助け出しましたが、もう兎は生きてはいませんでした。老夫の身体から姿を変えた帝釈天は嘆息して、この事跡を滅ぼさないように月の中に兎を残しておいたといいます。そして、その兎は、釈尊がまだ世に出られる前に、兎となって修行をされていたお姿でした。(『大唐西域記』)
この壮絶な話は何を伝えようとしているのでしょうか?いろいろ解釈はあるでしょうが、私達は、普段生活している時、何でも狐や猿のように他から探して持って来ようとしていないでしょうか。あれがない、これがないと自分の外に理由を求めていないでしょうか。自分の幸福はどこにあるのか、と外ばかり探してはいないでしょうか。兎はそれがどこを探しても無かったが為に、自分の身に既に具わっていることに気付いたのです。気付いた兎はもう慌てることはありません。だから手ぶら(空手・くうしゅ)で、跳ねて遊んで(仏の行を“遊ぶ”とも表現する)いたのです。臨済禅師も「什麼をか欠少す(なにをかかんしょうす)」(『臨済録』)・ブッダと比べても何も欠落しているものはない、と言われています。月を見る時は兎に習って、すべてが具わっている自分に出会うため、生活を見直してみませんか。 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
正法山妙心寺

 

■妙心寺 1
京都市右京区花園にある臨済宗妙心寺派大本山の寺院。山号を正法山と称する。本尊は釈迦如来。開基(創立者)は花園天皇。開山(初代住職)は関山慧玄(無相大師)。寺紋は花園紋(妙心寺八つ藤)。日本にある臨済宗寺院約6,000か寺のうち、約3,500か寺を妙心寺派で占める。近世に再建された三門、仏殿、法堂(はっとう)などの中心伽藍の周囲には多くの塔頭が建ち並び、一大寺院群を形成している。平安京範囲内で北西の12町を占め自然も多いため、京都市民からは西の御所と呼ばれ親しまれている。
京都の禅寺は、五山十刹(ござんじっさつ)に代表される、室町幕府の庇護と統制下にあった一派と、それとは一線を画す在野の寺院とがあった。前者を「禅林」または「叢林(そうりん)」、後者を「林下(りんか)」といった。妙心寺は、大徳寺(龍寶山大コ禪寺)とともに、修行を重んじる厳しい禅風を特色とする「林下」の代表的寺院である。
平安京の北西部を占める風光明媚な妙心寺の地には、花園上皇の花園御所(離宮萩原殿)があった。花園上皇は、建武2年(1335年)落飾して法皇となり、花園御所(離宮萩原殿)を禅寺に改めることを発願した。法皇の禅の上での師は大徳寺開山の宗峰妙超(大燈国師)であった。宗峰は建武4年(1337年)12月没するが、臨終間近の宗峰に花園法皇が「師の亡き後、自分は誰に法を問えばよいか」と尋ねたところ、宗峰は高弟の関山慧玄を推挙した。その頃、美濃(岐阜県)の伊深(美濃加茂市伊深町)で修行に明け暮れていた関山は、都に戻ることを渋っていたが、師僧・宗峰の遺命と花園法皇の院宣があっては辞去するわけにはいかず、暦応5年/康永元年(1342年)、妙心寺の開山となった。なお、「正法山妙心寺」の山号寺号は宗峰が命名したもので、釈尊が嗣法の弟子・摩訶迦葉(まかかしょう)に向かって述べた「正法眼蔵涅槃妙心」(「最高の悟り」というほどの意味)という句から取ったものである。
関山慧玄の禅風は厳格で、その生活は質素をきわめたという。関山には他の高僧のような「語録」はなく、生前に描かれた肖像もなく、遺筆も弟子の授翁宗弼に書き与えた印可状(師匠の法を受け継いだ証明書)の他、ほとんど残されていない。
妙心寺では開山関山慧玄以降、二祖授翁宗弼、三祖無因宗因、四祖日峰宗舜、五祖義天玄承、六祖雪江宗深までを「六祖」と呼んで尊崇している。なお、この初祖から六祖は法系を指すものであって、妙心寺の住持として何世目であるかを指すものではない。住持の世代としては日峰宗舜、義天玄承、雪江宗深がそれぞれ七世、八世、九世にあたる。
妙心寺 6世住持の拙堂宗朴(せつどうそうぼく)は、足利氏に反旗をひるがえした大内義弘と関係が深かったため、将軍足利義満の怒りを買った。応永6年(1399年)、義満は妙心寺の寺領を没収して青蓮院の義円(後の足利義教)に与え、拙堂宗朴は大内義弘に連座して青蓮院に幽閉の身となった。義円は没収した寺領をさらに南禅寺の廷用宗器に与え、廷用は寺号を「龍雲寺」と改めた。こうして妙心寺は一時中絶することとなった。 妙心寺が復活するのは永享4年(1432年)のことである。同年、廷用は微笑塔(開山関山慧玄の塔所)の敷地をその頃南禅寺にいた根外宗利に与えた。関山慧玄の流れを汲んでいた根外は、犬山青龍山瑞泉寺から日峰宗舜を迎えて妙心寺を復興させた。このため日峰は妙心寺中興の祖とされている。
妙心寺は応仁の乱(1467年 – 1477年)で伽藍を焼失したが六祖雪江宗深の尽力により復興する。雪江宗深は住持の期間を3年と定め、その4人の法嗣、景川宗隆、悟渓宗頓、特芳禅傑および東陽英朝は師亡き後交代で妙心寺の住持を務めてそれぞれ妙心寺四派の龍泉派、東海派、霊雲派及び聖澤派の祖となった。各々の派は現在まで続いており、妙心寺派の寺院は全て四派のいずれかに属している。永正6年(1509年)、後柏原天皇から紫衣勅許の綸旨を得る。この勅許状には大徳寺と位が等しい旨が記されており、これをもって妙心寺は大徳寺から独立したとみなされている。12月には悟渓宗頓に帰依していた利貞尼が仁和寺領の土地を購入して妙心寺に寄進し、境内が拡張された。利貞尼は関白一条兼良女、美濃加納城主斎藤利国の室である。永禄年間希菴玄密により、住持の期間が3年から1年に改められる。天正6年(1578年)には南化玄興や快川紹喜、虎哉宗乙ら三十六師連名で妙心寺壁書(規則)を定めた。
その後の妙心寺は戦国武将などの有力者の援護を得て、近世には大いに栄えた。江戸時代に隠元隆gが訪日すると、龍渓性潜らが臨済宗の正統を継ぐ師の到来として妙心寺へ迎えようとしたが、当時の重鎮愚堂東寔によってその案は峻拒された。明治4年(1871年)に管長職を設け、名古屋徳源寺の鰲巓道契が妙心寺派初代管長となっている。
■妙心寺 2
双ヶ丘の東、京都市右京区には「花園」という地があります。昔、この地域には公卿の邸があり、お花畑があって、四季折々に美しい花が咲き乱れ、いつしか「花園」と呼ばれるようになっていました。
この地をこよなく愛し、ここに離宮を構えて禅の奥義を究めるとともに、常に世の中の平和を願われた法皇さま、そのお方が第95代天皇、花園法皇さまです。法皇は、この花園の離宮を改めて禅寺にされました。
これが、臨済宗妙心寺派の大本山である妙心寺のはじまりです。山号は正法山(しょうぼうざん)と称します。開山は関山慧玄(かんざんえげん)、開基は花園法皇です。
現在の妙心寺は、塔頭46ヶ寺、末寺は日本をはじめ世界各国にわたり3,400ヶ寺余り、在籍僧数は約7千人を数えます。関連機関としては花園大学、花園高校、花園中学校、洛西花園幼稚園などがあります。
歴史
南北朝
建武4年 1337 花園法皇は、大燈国師(だいとうこくし)で知られる大徳寺を開かれた宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)禅師に参禅し、印可(いんか/弟子が悟りを得たことを師匠が認可すること)されています。
宗峰妙超禅師は病に伏し重態となられ、花園法皇の求めに応じて、弟子の関山慧玄(かんざんえげん)禅師を師とするよう推挙されました。そして、花園法皇は花園の離宮を禅寺にし、宗峰妙超禅師が正法山妙心寺と命名されました。
12月22日、宗峰妙超禅師が亡くなられましたが、妙心寺では、この建武4年を開創の年としています。
北朝
暦応元年 1338 花園法皇は、玉鳳院(ぎょくほういん)を建てられ、関山慧玄禅師に参禅されます。
貞和3年 1347 花園法皇は、妙心寺に寄せる熱い思いを「往年の宸翰」(おうねんのしんかん)にしたためられました。
貞和4年 1348 花園法皇崩御、52歳。
延文5年 1360 関山慧玄禅師示寂、84歳(本有円成国師、無相大師)
康安元年 1361 関山慧玄禅師の弟子、授翁宗弼(じゅおうそうひつ)禅師が妙心寺の住持となります。
康暦2年 1380 授翁宗弼禅師示寂、85歳(円鑑国師、微妙大師)
室町
応永6年 1399 応永の乱が起こり、足利義満が妙心寺を没収。妙心寺第6世の拙堂宗朴(せつどうそうぼく)禅師は青蓮院に幽閉され、妙心寺は龍雲寺と改名させられ、中絶します。
永享4年 1432 妙心寺が返され、日峰宗舜(にっぽうそうしゅん)禅師が妙心寺を中興します。
応仁元年 1467 応仁の乱が起こり、妙心寺、竜安寺ともに焼失します。
文明9年 1477 雪江宗深(せっこうそうしん)禅師が後土御門院(ごつちみかどいん)から妙心寺再興の論旨を得て再興します。
永正6年 1509 利貞尼(りていに)という人が、仁和寺領の土地を買い求め、妙心寺に寄進され、妙心寺の境内地が今日のように広くなりました。やがて七堂伽藍(しちどうがらん)が建てられ、塔頭(山内の小院)が創建されていきます。
江戸
元和元年 1615 江戸幕府が寺院法度を出す。
寛永6年 1629 妙心寺と大徳寺の禅僧が江戸幕府の寺院法度に抗議しますが、単伝士印(たんでんしいん)禅師や沢庵宗彭(たくあんそうほう)禅師など4人の僧が処罰を受けます。これが紫衣事件です。
明治
明治元年 1868 神仏分離令が発布され、各地で廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)が起こり、寺院の取り壊し、仏像や経典などが破棄され、妙心寺もその影響を受けます。しかし、この明治期は、宗議会など今日に至る妙心寺の運営体制の基礎ができ、妙心寺専門道場が設けられたり、今日の花園大学、花園高等学校の前身となる般若林が開設されます。
禅とは
禅とは心の別名です。ひとつの相にこだわらない無相。一処にとどまらない無住。ひとつの思いにかたよらない無念の心境を禅定と呼び、ほとけの心のことです。私たちの心は、もとより清浄な「ほとけ」であるにも関わらず、他の存在と自分とを違えて、対象化しながら距離と境界を築き、自らの都合や立場を守ろうとする我欲によって、曇りを生じさせてしまいます。
世の中、意のままにならないものですが、正確には我欲のままにならないということです。禅語の「如意」は意の如くと、思いのままになることを言いますが「如意」の「意」は我欲のことではなく、自他の境界と距離を超えた森羅万象に共通するほとけの心のことを指しています。
この「ほとけ」の心の働きには「智慧」と「慈悲」があり、それは認許とも言い換えられます。自分とは違う相手を許し認め、自分とひとつとする「不生不滅・不垢不浄・不増不減」の空の価値観に立つおおらかな心のことです。
自他の距離と境界を越えるには、自分自身を空しくすることです。禅とは、雀の啼き声を耳にしても障りなく、花の香りの中にあっても妨げにならず一如となれる、そういう自由自在な心のことです。
妙心寺について
正法山妙心寺は臨済宗妙心寺派の大本山です。インドの達磨大師さまから中国の臨済禅師さまを経て、妙心寺開山無相大師さまへと受け嗣がれてきた一流の禅を宗旨・教義としています。1337年、95代の花園法皇さまの勅願によって創建された妙心寺の開山、無相大師さまの法流は四派に分かれ、全国3400ヵ寺に広がっています。お釈迦さまを大恩教主と尊崇し、その教えを心にいただく禅の安心を求めます。
開山無相大師さまの最期の教え「請う、其の本を務めよ」と開基花園法皇さまの「報恩謝徳」の聖旨による仏法興隆を実践します。自身仏を信じて坐禅に励み、足下を照顧しながら生かされている自分を感謝して、社会を心の花園と念じ和やかな人生を目指します。
妙心寺派の教え
生活信条 ・・・ 一日一度は静かに坐って 身と呼吸と心を調えましょう。人間の尊さにめざめ 自分の生活も他人の生活も大切にしましょう。生かされている自分を感謝し 報恩の行を積みましょう。
信心のことば ・・・ わが身をこのまま空なりと観じて、静かに坐りましょう。衆生は本来仏なりと信じて、拝んでゆきましょう。社会を心の花園と念じて、和やかに生きましょう。 
 
 

 

 
 

 

 
黄檗山萬福寺

 

■萬福寺 1
萬福寺と黄檗宗
黄檗山萬福寺は1661年に中国僧「隠元隆g(いんげんりゅうき)禅師」によって開創されました。禅師は中国明朝時代の臨済宗を代表する僧で、中国福建省福州府福清県にある黄檗山萬福寺のご住職をされていました。その当時、日本からの度重なる招請に応じ、63歳の時に弟子20名を伴って1654年に来朝されました。宇治の地でお寺を開くにあたり、隠元和尚は寺名を中国の自坊と同じ「黄檗山萬福寺(おうばくざんまんぷくじ)」と名付けました。当初「臨済宗黄檗派」などと称していましたが幕府の政策等により、明治9年、一宗として独立し「黄檗宗」を公称するようになりました。日本でいう「禅宗」は、臨済宗、曹洞宗、黄檗宗の三宗に分類されています。他の2つの禅宗と黄檗宗が大きく違う点として、中国的な特徴を色濃く残しているということが挙げられます。江戸初期から中頃にかけて、黄檗宗の総本山・黄檗山萬福寺(京都府宇治市)の住職は、殆どが中国から渡来した僧侶でした。朝夕のお勤めをはじめ儀式作法や法式・梵唄(太鼓や銅鑼など様々な鳴り物を使い読まれる、黄檗宗独特の節のあるお経)にはその伝統が受け継がれており、今日の中国・台湾・東南アジアにある中国寺院で執り行われている仏教儀礼と共通する部分が数多く見られます。
宗祖 隠元禅師
隠元隆g禅師は、中国明代末期の臨済宗を代表する費隠通容(ひいんつうよう)禅師の法を受け継ぎ、臨済正伝32世となられた高僧で、中国福建省福州府福清県の黄檗山萬福寺(古黄檗)の住持でした。日本からの度重なる招請に応じて、承応3年(1654)、63歳の時に弟子20人他を伴って来朝。のちに禅師の弟子となる妙心寺住持の龍渓禅師や後水尾法皇そして徳川幕府の崇敬を得て、宇治大和田に約9万坪の寺地を賜り、寛文元年(1661)に禅寺を創建。古黄檗(中国福清県)に模し、黄檗山萬福寺と名付けて晋山されることになりました。禅師の道風は大いに隆盛を極め、道俗を超えて多くの帰依者を得られました。禅師は「弘戒法儀」を著し、「黄檗清規」を刊行して叢林の規則を一変されるなど、停滞していた日本の禅宗の隆興に偉大な功績を残されたことにより日本禅宗中興の祖師といえるでしょう。爾来、禅師のかかげられた臨済正宗の大法は、永々脈々と受け継がれ今日に至っています。そして行と徳を積まれた禅師は、ご在世中、物心両面にわたり、日本文化の発展に貢献され、時の皇室より国師号または大師号を宣下されています。また禅師の将来された文物は、美術、医術、建築、音楽、史学、文学、印刷、煎茶、普茶料理等広汎にわたり、宗教界だけにとどまらず、広く江戸時代の文化全般に影響を及ぼしました。この他、隠元豆(いんげんまめ)・西瓜(すいか)・蓮根(れんこん)・孟宗竹(たけのこ)・木魚なども禅師の請来によるものです。
明朝様式の伽藍建築と黄檗文化
黄檗山の建造物は中国の明朝様式を取り入れた伽藍配置です。正面一間を吹放しとした主要伽藍を中心軸上に置き、同じ大きさの諸堂が左右対称に配されています。「卍字くずし」のデザインによる勾欄、「黄檗天井」と呼ばれるアーチ形の天井、円形の窓、扉に彫られた「桃符」と呼ばれる桃の実形の飾りなど、日本の他の寺院ではあまり見かけないデザインや技法が多用されているのが特徴的です。このように創建当初の姿のままを今日に伝える寺院は、日本では他に例が無く、代表的禅宗伽藍建築群として、主要建物23棟、回廊、額、聯などが国の重要文化財に指定されています。そういった建築物・美術・印刷以外にも、隠元豆(いんげんまめ)・西瓜(すいか)・蓮根(れんこん)・孟宗竹(たけのこ)・木魚なども隠元禅師から日本にもたらされたものであり、当時江戸時代の文化全般に影響を与えたといわれています。中でも中国風精進料理である「普茶料理」は日本の精進料理(禅僧が日常食する質素な食事)とイメージが異なっています。見た目も美しく盛りつけられる料理の数々は、高タンパク・低カロリーで栄養面にも優れ、席を共にする人たちと楽しく感謝して料理を頂く事に普茶料理の意味が込められています。
梵唄(ぼんばい)
黄檗宗では、法式(儀式作法など)やお経もすべて中国で行われていたものを忠実に継承しています。特にお経は独特で、唐音とよばれる中国語を基本とする読みをします。たとえば一般的によく詠まれる般若心経でいうと「まかはんにゃはらみたしんぎょう・・・」と唱えるところが「ポゼポロミトシンキン・・・」という具合になります。さらに黄檗のお経の中には「梵唄(ぼんばい)」と呼ばれるものがあります。これは字にも表わされているとおり、歌のようなお経です。声明などとはまた違い、4拍子を基本とするリズムを刻みながら節の付いたお経を詠んでいくとても音楽的なお経です。法要ではこれに、いろいろな鐘や太鼓などの鳴物を合わせて音楽を演奏するかのように読経が行われます。
黄檗宗の教え「唯心」
黄檗宗では、人は生まれつき悟りを持っているとされる「正法眼蔵」という考えがあります。その真理にたどり着くためには、自分自身の心に向き合うことであるというのが黄檗宗の教えです。黄檗宗を含む禅宗は、自分の心の中に存在している阿弥陀仏に気づくことが根本的な目的で、そのために必要なのが「坐禅」だとされています。また黄檗宗では「この世の中に存在するのは心だけで、目で見えるすべての物事や起こる現象は、心の働きがもたらしたもの」という「唯心」の教えを大切にしています。そのため、私たちの心の中にこそ阿弥陀様がおられ、極楽浄土を見出せるとされています。隠元禅師の御諱誡(後世に残された訓戒)の中にも、「己躬下の事を究明するを務めとせよ」とあります。これは要約すると、自己の究明に務め、昼夜たゆまぬ修行をしなさいという意味です。自己の究明、つまり人として生まれてきて自分はいったいどう生きるのかということです。人の為ではなく、まず自身の解決が肝要であると説いたのです。
■萬福寺 2
京都府宇治市にある黄檗宗大本山の寺院。日本の近世以前の仏教各派の中では最も遅れて開宗した黄檗宗の中心寺院で、中国・明出身の僧隠元を開山に請じて建てられた。建物や仏像の様式、儀式作法から精進料理に至るまで中国風で、日本の一般的な仏教寺院とは異なった景観を有する。
黄檗宗と日本文化
黄檗宗大本山である萬福寺の建築、仏像などは中国様式(明時代末期頃の様式)でつくられ、境内は日本の多くの寺院とは異なった空間を形成している。寺内で使われる言葉、儀式の作法なども明朝風に行われるため、現在でも中国色が色濃く残っている。本寺の精進料理は普茶料理と呼ばれる中国風のもので、植物油を多く使い、大皿に盛って取り分けて食べるのが特色である。萬福寺は煎茶道の祖・売茶翁ゆかりの寺としても知られる。隠元と弟子の木庵性瑫、即非如一はいずれも書道の達人で、これら3名を「黄檗の三筆」と称する。このように、隠元の来日と萬福寺の開創によって、新しい禅がもたらされただけでなく、さまざまな中国文化が日本にもたらされた。隠元の名に由来するインゲンマメのほか、孟宗竹、スイカ、レンコンなどをもたらしたのも隠元だといわれている。
歴史
開山・隠元隆gは中国明時代の万暦20年(1592年)、福建省福州府に生まれた。29歳で仏門に入り、46歳の時、故郷の黄檗山萬福寺の住職となる。隠元は当時中国においても高名な僧で、その名声は日本にも届いていた。
隠元が招かれて来日するのは1654年(順治11年、承応3年)、63歳の時である。当時の日本は鎖国政策を取り、海外との行き来は非常に限られていたが、長崎の港のみは開かれ、明人が居住し、崇福寺、興福寺のような唐寺(中国式の寺院)が建てられていた。隠元は長崎・興福寺の僧・逸然性融らの招きに応じて来日したものである。はじめ、逸然が招いた僧は、隠元の弟子である也嬾性圭(やらんしょうけい)という僧であったが、也嬾の乗った船は遭難し、彼は帰らぬ人となってしまった。そこで逸然は也嬾の師であり、日本でも名の知られていた隠元を招くこととした。隠元は高齢を理由に最初は渡日を辞退したが、日本側からたびたび招請があり、また、志半ばで亡くなった弟子・也嬾性圭の遺志を果たしたいとの思いもあり、ついに渡日を決意する。
承応3年(1654年)、30名の弟子とともに来日した隠元は、はじめ長崎の興福寺、次いで摂津富田(現・大阪府高槻市)の普門寺に住した。隠元は中国に残してきた弟子たちには「3年後には帰国する」という約束をしていた。来日3年目になると、中国の弟子や支援者たちから隠元の帰国を要請する手紙が多数届き、隠元本人も帰国を希望したが、元妙心寺住持の龍渓性潜をはじめとする日本側の信奉者たちは、隠元が日本に留まることを強く希望し、その旨を幕府にも働きかけている。万治元年(1658年)、隠元は江戸へおもむき、将軍徳川家綱に拝謁している。家綱も隠元に帰依し、翌万治3年(1660年)には幕府によって山城国宇治に土地が与えられ、隠元のために新しい寺が建てられることになった。ここに至って隠元も日本に留まることを決意し、当初3年間の滞在で帰国するはずであったのが、結局日本に骨を埋めることとなった。
寺は故郷福州の寺と同名の黄檗山萬福寺と名付けられ、寛文元年(1661年)に開創され、造営工事は将軍や諸大名の援助を受けて延宝7年(1679年)頃にほぼ完成した。
■萬福寺 3
京都府宇治市にある萬福寺(まんぷくじ)は、正式名を黄檗山萬福寺(おうばくざん まんぷくじ)といい、臨済宗、曹洞宗と並ぶ禅宗の一宗派黄檗宗(おうばくしゅう)の大本山です。開山は、中国の禅僧隠元禅師です。
隠元は、中国福建省に生まれ(1592年)、29歳で福建省の黄檗山萬福寺で出家しました。その後いくつかの寺を渡り歩き、46歳にして、自分が出家した萬福寺の住職となり、寺の復興に尽力したといいます。承応3年(1654)、隠元63歳の時、先に日本に渡っていた明僧らの強い招請により、弟子20人を伴って日本に渡ってきました。長崎や摂津などで活動していましたが、来日から4年後に、江戸で第四代将軍徳川家綱に謁見する機会を得ました。すると家綱は、隠元を信頼し彼に帰依(きえ)するようになりました。そして、宇治に寺地を確保され、隠元のために寺院が建設されました。これを受けて隠元は、日本に骨をうずめる覚悟を決めたといわれます。新しい寺院は、寛文元年(1661)に開創され、伽藍(がらん)が整ったのは、延宝7年(1679)頃でした。寺名は、中国で住職をしていた寺の名そのままに、黄檗山萬福寺としました。隠元禅師の教えは多くの人に共鳴を与え、たくさんの帰依者が隠元のもとに集まりました。停滞していた日本の禅宗の隆興に多大な功績を残したとされ、日本禅宗中興の祖師とも呼ばれています。
萬福寺の建物や仏像は、中国様式(明代末期)で造られており、寺院内で使われる言葉や儀礼作法も中国式といわれます。お経も、唐音とよばれる中国語を基本として読まれます。さらには、「梵唄(ぼんばい)」と呼ばれるものがあります。これは歌のようなお経で、4拍子のリズムを刻みながら節の付いたお経を詠んでいくというものです。法要ではこれに、鐘や太鼓などの鳴物を合わせて読経するそうです。萬福寺の公式ホームページで本物を聞くことが出来ます。
黄檗宗は、もともと明代の臨済宗として日本に伝わりましたが、以上のように、鎌倉時代から続いてきた日本の臨済宗とは異なる部分が多いため、明治9年、一宗として独立し「黄檗宗」を公称するようになったといいます。ここに、禅宗三宗派がそろったことになります。
また、隠元禅師が中国から持ち込んだ技術や文化は、美術、医術、建築、史学、文学など広範囲に及び、宗教界だけでなく、江戸時代の文化に大きな影響を与えたといわれます。隠元豆、西瓜、蓮根、孟宗竹(タケノコ)、木魚なども隠元禅師が伝えたものだそうです。また、萬福寺の精進料理は普茶(ふちゃ)料理と呼ばれる中国風で、植物油を多く使い、大皿に盛って取り分けて食べるのが特徴だそうです。あらかじめ予約をすれば、食べることが出来ます。  
 
 

 

 
 

 

 
瑞龍山南禅寺

 

■南禅寺 1
京都市左京区にある臨済宗南禅寺派大本山の寺院。山号は瑞龍山、寺号は詳しくは太平興国南禅禅寺(たいへいこうこくなんぜんぜんじ)と称する。開山は無関普門(大明国師)。開基は亀山法皇。日本最初の勅願禅寺であり、京都五山および鎌倉五山の上におかれる別格扱いの寺院で、日本の全ての禅寺のなかで最も高い格式をもつ。
南禅寺の建立以前、この地には、後嵯峨天皇が文永元年(1264年)に造営した離宮の禅林寺殿(ぜんりんじどの)があった。「禅林寺殿」の名は、南禅寺の北に現存する浄土宗西山禅林寺派総本山の禅林寺(永観堂)に由来する。この離宮は「上の御所」と「下の御所」に分かれ、うち「上の御所」に建設された持仏堂を「南禅院」と称した。現存する南禅寺の別院・南禅院はその後身である。
亀山上皇は正応2年(1289年)、40歳の時に落飾(出家)して法皇となった。2年後の正応4年(1291年)、法皇は禅林寺殿を寺にあらため、当時80歳の無関普門を開山として、これを龍安山禅林禅寺と名づけた。伝承によれば、この頃禅林寺殿に夜な夜な妖怪変化が出没して亀山法皇やお付きの官人たちを悩ませたが、無関普門が弟子を引き連れて禅林寺殿に入り、静かに座禅をしただけで妖怪変化は退散したので、亀山法皇は無関を開山に請じたという。
無関普門は、信濃国の出身。東福寺開山の円爾に師事した後、40歳で宋に留学、10年以上も修行した後、弘長2年(1262年)帰国。70歳になるまで自分の寺を持たず修行に専念していたが、師の円爾の死をうけて弘安4年(1281年)に東福寺の住持となった。その10年後の正応4年(1291年)に南禅寺の開山として招かれるが、間もなく死去する。開山の無関の死去に伴い、南禅寺伽藍の建設は実質的には二世住職の規庵祖円(南院国師)が指揮し、永仁7年(1299年)頃に寺観が整った。当初の「龍安山禅林禅寺」を「太平興国南禅禅寺」という寺号に改めたのは正安年間(1299 - 1302年)のことという。一山一寧が正和2年(1313年)には後宇多上皇の懇請に応じ、上洛して南禅寺3世となった。正中2年(1325年)には夢窓疎石が当寺に住している。
建武元年(1334年)、後醍醐天皇は南禅寺を五山の第一としたが、至徳3年(1385年)に足利義満は自らの建立した相国寺を五山の第一とするために南禅寺を「別格」として五山のさらに上に位置づけ、京都五山と鎌倉五山に分割した。
室町時代には旧仏教勢力の延暦寺や三井寺と対立して政治問題に発展、管領の細川頼之が調停に乗り出している。
明徳4年(1393年)と文安4年(1447年)に火災に見舞われ、主要伽藍を焼失したがほどなく再建。しかし応仁元年(1467年)の乱(応仁の乱)における市街戦で伽藍をことごとく焼失してからは再建も思うにまかせなかった。
南禅寺の復興が進んだのは、江戸時代になって慶長10年(1605年)以心崇伝が入寺してからである。崇伝は徳川家康の側近として外交や寺社政策に携わり、「黒衣の宰相」と呼ばれた政治家でもあった。また、幕府から「僧録」という地位を与えられた。これは日本全国の臨済宗の寺院を統括する役職である。
明治維新後に建設された、当寺の境内を通る琵琶湖疏水水路閣は田辺朔郎の設計によるもので、テレビドラマの撮影に使われるなど、今や京都の風景として定着している。建設当時は古都の景観を破壊するとして反対の声もあがった一方で、南禅寺の三門には見物人が殺到したという。維新直後には政府の上地に遭い寺領の多くを失ったため廃絶に追い込まれた塔頭も少なくなかったが、その跡地は邸宅地として再開発され、そこには植治こと小川治兵衛により疎水から引き込んだ水流を主景とする数々の名庭園が造られ、いまなお貴重な空間として残っている。
明治8年(1875年)、境内に日本初の公立精神科病院「京都府療病院付属癲狂院」(現・川越病院)が設立された。 
1937年、将棋の阪田三吉・木村義雄の対局の舞台となった。
なお南禅寺境内は平成17年(2005年)に国の史跡に指定されている。
■南禅寺 2
宗旨
釈迦牟尼世尊の正法眼蔵を拈提し、参禅弁道によって仏祖的伝の心印を究明し、正法を伝授することを本派の宗旨とする。  (南禅寺派宗制第三条)
人生苦の根本である生・老・病・死の苦は、いつの時代でも、人が人として生きていくために解決しなければならない最大の課題でありましょう。
今からおよそ2500年の昔、「苦悩の全てを離れた境地」に達したいという、大いなる願いのもとに出家した、北インド釈迦族の悉達多(シッダルタ)太子は6年間の苦行ののち、菩提樹下に坐禅すること8日目の早暁、天空に輝く明の明星を仰いだ刹那、星と一つになって光り輝く我が心を感得し、ついに悟りを開かれました。
「奇なる哉、奇なる哉、一切衆生悉く如来の智慧徳相を具有す」(不思議だ、ふしぎだ、この世に存在する全てのもの、仏でないものは何もない)という大歓喜の叫びをあげられ、ここに「有情非情同時成道、草木国土悉皆成仏」の大安心(だいあんじん)が確立されたのでした。時に太子35歳の12月8日のことでした。この日を成道の日とし、以後太子は仏陀(ぶっだ---覚れる者)・如来・釈迦牟尼(釈迦族出身の聖者)・釈尊などと呼ばれることになります。このように釈尊(仏陀)の坐禅による悟り=正覚・仏心を根本として説かれた教えが仏教です。
釈尊の悟りとその法門は、以後代々の祖師方が並々ならぬ苦修によって、一つの器の水をそっくりそのまま次の器に移すように伝えられてきました。第28祖(釈尊より正法を付嘱された摩訶迦葉尊者を第1祖として)菩提達磨大師に到って、インドから中国へ伝えられました。  当時、中国の仏教は儀礼が中心で、形式に流れやすく、釈尊の正覚(悟り)に直参するという仏教の真髄が忘れられていました。この状況の中で、「不立文字(ふりゅうもんじ)・教外別伝(きょうげべつでん)」を標榜して、中国における禅宗の基礎を築いたのが達磨大師です。
釈尊の正覚は文字言句では伝えきれない、直接体験を通して、心から心へと伝える以外に方法は無いというのです。水を冷たいといっても、言葉ではどのくらい冷たいのか判りません。それを飲んでみて初めて真の冷たさが判るのと同じです。 静かに坐り、自己の本心本性をみつめ、その導く清浄なることに気づいたとき、自分をとりまく全ての人や物も導く有難い存在として心に響いてくるのです。これこそ他人(ひと)には言葉で説明することのできない体験と言えましょう。 達磨大師より11代目の祖師は唐の臨済慧照禅師です。禅師は「我々の生きた肉体の中に真の仏があり、それは目で見、耳で聞き、口で語るといかたちで、常に我々のからだを出たり入ったりしている。それをはっきり自覚せよ。」と強調しています。自己のうちにある仏心を呼び起こせということでありましょう。
このように「自性を証する」という体験から出るはたらきを日常生活に生かしていくところに、臨済の禅の特質があります。この法流を臨済宗といいます。因みに禅宗という呼称は、坐禅を生命とする宗旨の意味を強調した表現です。また仏心に参ずることから仏心宗ともいいます。
宗派
わたくしたちの宗派の名前は、臨済宗といいます。また黄檗山萬福寺を本山とする場合は、黄檗宗と呼んでいます。一般に禅宗という呼びかたは、坐禅を生命とする宗派の意味であり、臨済宗・黄檗宗・曹洞宗の三宗の総称です。臨済宗・黄檗宗には15の本山があり、南禅寺はそのうちの一つで、南禅寺派の大本山です。
歴史
南禅寺は今から710年あまり昔の正応4年(1291年)、亀山法皇が無関普門禅師(大明国師)を開山に迎えて開創されました。
亀山法皇は建長元年(1249年)、後嵯峨上皇の皇子として誕生され、10歳にして皇位に就かれました(第90代亀山天皇)。しかしご在位の頃より東アジアの情勢が緊迫し、上皇になられてからは蒙古来襲という国難に立ち向かわれました。この頃、上皇は父である後嵯峨天皇が帰依されていた圓爾辧圓(えんにべんねん)禅師(無関禅師の師・聖一国師)に受戒・問法し、不動の心を持って危機に対処されたのでした。
国難去った正応2年(1289年)、上皇は離宮禅林寺殿で落飾(出家)され、法皇になられました。諱(法名)を金剛眼と申されます。「文応皇帝外紀」によれば、まもなく離宮に妖怪な事が起こりましたが、無関禅師は雲衲(修行僧)と共に離宮に留まり、坐禅・掃除・勤行と、禅堂そのままの生活を送られただけで妖怪な事は終息してしまいました。
法皇は禅師の徳をたたえて深く帰依され、正応4年離宮を禅寺とされました。
法皇と無関普門禅師の出会いはもっと早い時期にあったとも考えられています。開山に迎えられた無関禅師は、その年の12月に遷化(死去)されてしまいました。そこで翌正応5年、法皇は第2世として規庵祖圓禅師(南院国師)を選任されました。
禅寺といっても、離宮には伽藍として機能するものは一つもありませんでした。従ってその建立が規庵禅師に課せられたわけですが、入寺からおよそ15年の歳月を費やし、暫くその完成をみるに到ったのでした。規庵禅師が創建開山と呼ばれる理由です。伽藍のほぼ完成した嘉元3年(1305)9月15日、亀山法皇は嵯峨の亀山殿で御歳57歳をもって崩御されました。御陵は亀山殿の跡地に建立された天龍寺境内にあります。
開山大明国師
無関普門禅師(大明国師)は建暦2年(1212)、今の長野市若穂の保科の地でお生まれになりました。幼ない時から新潟県菅名庄の正円寺に住していた伯父の寂円のもとへ預けられ、13歳で得度されました。その後勉学のため諸方を尋ねたのち、群馬県世良田の長楽寺にいた釈円栄朝につき指導を受けられました。
栄朝は栄西の法を嗣いだ方でしたので、無関禅師はここで初めて禅を学ばれました。その頃、宋から帰国して、藤原氏の帰依を受け、その菩提寺東福寺の開山に迎えられていた円爾弁円禅師の門に入り、苦修の年月を重ねられました。
建長3年(1251)、40歳の時、更に向上の道を求めて宋に渡り、浄慈寺(じんずじ)の断橋妙倫(だんきょうみょうりん)に参禅することになりました。ここに留まること10年余、禅の深興に達し、断橋禅師の法を嗣いで弘長2年(1262)、帰国されました。
帰国後の禅師は新潟県の正円寺に帰り、静かに坐禅三昧の時を過していましたが、弘安3年(1280)、師の東福寺円爾禅師が病気であることを知り、70歳の老躯をいとわず、はるばるお見舞いに上洛されました。同年10月17日、円爾禅師は遷化、その後継の第2代住持が数ヶ月で退任したあと、無関禅師は衆望によって東福寺第3代住持に迎えられました。
70歳までの生涯を専ら修行に終始した無関禅師は初めて住持に就住し、 11年後の正応4年(1291)12月12日、東福寺龍吟庵で遷化されました。
晩年亀山法皇の帰依を受けて南禅寺の開山となられたのは遷化の年でした。後に、後二条天皇より仏心禅師、後醍醐天皇より大明国師の謚号を賜りました。塔所は南禅寺山内の天授庵です。  
 
 

 

 
 

 

 
巨福山建長寺

 

■建長寺 1
寺の開創
建長7年(1255)2月に造られた梵鐘(国宝)に「建長禅寺」とあるように、当寺はわが国で最初に”禅寺”と称した中国宋朝風の臨済禅だけを修行する専門道場である。およそ、中世を通じての寺院は、1か寺で天台宗と真言宗・浄土宗などを兼ねている例が多かったから、建長寺のような1寺1宗という浄刹はたいへん珍しかったといえる。しかし、寺が建てられる前の寺域は、地獄谷とよばれた罪人の処刑場になっていたと伝えられていた。この谷に地蔵菩薩を本尊とする伽羅陀山心平寺という仏堂が建っていたが、建長寺を開創するにさいし、時頼によって堂は巨福呂坂に移され、現在は横浜三渓園に移設されている。その本尊と伝える地蔵菩薩坐像が、千体地蔵にかこまれて建長寺仏殿内に安置されている。
開山の周辺
開山蘭渓道隆禅師は、寛元4年(1246)33歳で来朝しているから建長寺入山は40歳頃と思われる。師は中国宋朝の禅風をそのまま導入し、大変な意気込みで百人余に及ぶ修行僧たちを指導している。自筆の国宝「法語規則」により、厳しい修行の内容が知ることができる。弘長2年(1262)師は京都建仁寺に移り、そのあとに中国僧兀庵普寧が2世に迎えられたが翌年開基時頼公が没すると二年後の文永2年母国宋へ帰ってしまった。これにより開山禅師は再び建長寺に住することとなった。いわゆる蒙古襲来の折には間諜の疑いを持たれたらしく2度にわたり甲斐等に流されることもあった。弘安元年(1278)には三度建長寺に住したが、同年7月24日、開山は建長寺で示寂する。大覚禅師を思慕した北条時宗が、中国から無学祖元(仏光国師)を招請して円覚寺を建立したのは建長寺開創から29年後のことである。無学和尚の活躍で鎌倉禅は一層の発展をみたのであった。
諸堂の整備
建長寺は建長5年に落慶され、建長7年には梵鐘が鋳造されたが大規模な伽藍の整備にはさらに長期の歳月が必要とされた。例えば総門と法堂の創建は仏殿建立から20年後、当初から計画されていたとされる三門は、仏殿造営から28年後の弘安4年(1281)と考えられている。この往古の荘厳な姿を今に偲ばせているのが元弘元年(1331)につくられた「建長寺指図」(設計図)の写しである。総門・三門・仏殿・法堂などの主要な建物がほぼ直線上にならび、庫院(庫裏)と僧堂(修行道場)とが三門から仏殿に達する回廊の左右にあり、浴室と西浄(東司)も三門前の左右に造られるなど、左右対称の大陸的な配置法であったことはわかる。中国杭州にある五山第一の径山万寿禅寺を模して、これを鎌倉の地に写しだそうという伽藍配置だったのである。ただし、現在の諸堂の配置は創建当初の姿をそのまま伝えておらず、堂の位置が変わったり縮小されたりした形跡が最近の発掘調査でも確認されるところである。
災害と復興、そして近現代
建長寺の開創は、鎌倉時代の鎌倉を、禅宗の創立と禅宗文化の発進の地として、最もさかんで活気に満ちあふれた町を現出することになった。因みに、建長寺が最も盛んだったころの様子は僧侶約1000人、寺領も膨大で末寺も400以上、塔頭49院を数えた。しかし荘厳な伽藍をかまえた建長寺も、永い歴史を刻む間、たびたびの罹災で古い建物はことごとく焼失した。それでも建長寺は数多くの被災に見舞われながらも鎌倉幕府の強力な支援のもとに相応の復興をみていたが、大檀那である北条氏(鎌倉幕府)が元弘3年(1333)に滅亡すると大きな痛手となった。それでも室町幕府の鎌倉府がそれなりに機能を果たしていた室町初期頃は再興するだけの余力を残していたが、室町末期には伽藍の復興もできなかったようである。天正19年(1591)徳川家康は寺領約400石を寄進したが、その額は円覚寺・東慶寺などよりも少なく、最盛期の建長寺の状態とはもはや比較することができなくなっていた。それでも江戸幕府の禅宗政策は室町幕府の施策を踏襲したこと、家康に重用された金地院の以心崇伝(本光国師)が大覚禅師の法系につらなる僧であり、また建長寺の住山に入ったこともあって江戸幕府の保護のもと五山第一の寺格にふさわしい景観がいじされた。そして、再嶽元良・海門元東・万拙碩宜・真浄元苗ら諸師を始めとする江戸時代に建長寺住持に任じられた多くの禅僧たちの努力も特筆されるものである。現在の大本山建長寺は平成に入り大庫裏・得月楼、そして僧堂大徹堂などの再興を果たし、その姿を今に伝えている。(冊子 建長寺より)
建長寺開山大覚禅師
開山大覚禅師は中国西蜀淅江省に生まれた。名は道隆、蘭渓と号した。十三歳のとき中国中央部にある成都大慈寺に入って出家、修行のため 諸々を遊学した。のちに陽山にいたり、臨済宗松源派の無明惠性禅師について嗣法した。そのころ中国に修行に来ていた月翁智鏡と出会い、日本の事情を聞いて からは日本に渡る志を強くしたという。禅師は淳祐六年(1246)筑前博多に着き、一旦同地の円覚寺にとどまり、翌宝治元年に知友智鏡をたよって泉涌寺来 迎院に入った。智鏡は旧仏教で固められている京都では禅師の活躍の場が少ないと考えたのであろう、鎌倉へ下向するよう勧めた。こうして禅師は鎌倉の地を踏 むことになった。日本に来てから三年後のことと思われる。時に三十六歳。
鎌倉に来た禅師はまず、寿福寺におもむき大歇禅師に参じた。これを知った執権北条時頼は禅師の居を大船常楽寺にうつし、軍務の暇を見ては禅師の元を訪れ道を問うのだった。そして、「常楽寺有一百来僧」というように多くの僧侶が禅師のもとに参じるようになる。
そして時頼は建長五年 (1253)禅師を請して開山説法を乞うた。開堂説法には関東の学徒が多く集まり佇聴したという。こうして、純粋な禅宗をもとに大禅院がかまえられたが、 その功績は主として大覚禅師に負っているといえる。入寺した禅師は、禅林としてのきびしい規式をもうけ、作法を厳重にして門弟をいましめた。開山みずから 書いた規則(法語規則)はいまも国宝としてのこっている。 禅師は鎌倉に十三年いて、弘長二年(1262)京都建仁寺にうつり、その後また鎌倉に戻ったが 叡山僧徒の反抗にあって二回にわたり甲斐に配流されたりした。
禅師はのち弘安元年(1278)四月、建長寺に再住、そして七月二十四日、衆に偈を示して示寂した。ときに六十六歳。偈 用翳晴術 三十余年 打翻筋斗 地転天旋 ・・・ 後世におくり名された大覚禅師の号は、わが国で最初の禅師号である。
無限の清風
鎌倉にある建長寺を開山された大覚禅師が好んだ言葉 「福山は揮(すべ)て松関を掩(と)じず 無限の清風来たりて未だ已(や)まず」 ・・・ 一切の制「限」を「無」くし ただ「清」らかな「風」のみを感じれば 心は開放される 修行者にも一般の人にも 老若男女 あらゆる人に対して 福山はいつでも門戸を開いている ・・・ という意味です
来るものは拒まず 去るものは追わず たとえ「自分には合わない」と去る者がいても引き留めることはしません
私たちの周りにも この「無限の清風」が吹いています それは偶然の出会いや出来事となって 現れます でも 心の窓を閉じると入って来ません 大切なご縁も気づかずに通り過ぎてしまいます
幸せは開かれた心にのみ舞い降ります  今の世の中 メール SNS 携帯電話 コンピューター ヘッドフォン など 心は常に何かに集中しています
時には必要かもしれませんが 「集中」が「囚われ」や「依存」に 陥りやすくなります 閉ざされた心に無限の清風は入れません
現代では意識して依存から離れ 囚われた心を解き放つ時間が必要です 自分の心を開放し 多くを受け止められる人になりたい 心の窓を開いて「無限の清風」を 感じてみては如何でしょうか
禅について
そもそも「禅」という言葉はサンスクリット語のディヤーナの音を漢字にして「禅那」としたものから那がとれて禅と呼ぶようになりました。要するに静かに坐って深く思慮することといわれていて、お釈迦様が到達された悟りの境地に達するための修行のことをいいます。少しやさしく言うとそれぞれの人が本来持っている清らかな心、本当の自分を見つけ出すことです。禅の雲水(修行僧)たちはそれを究めていくために目の前のことをひたすら一生懸命行ないます。お経を誦むときは誦むことに一生懸命、境内を掃くときには一心に掃きます。それらを繰り返すと余分なことを考える間がなくなり、心が研ぎ澄まされていきとらわれのない心になっていきます。雲水たちの托鉢や作務、坐禅といったことはそのための修行です。現在でも各地の僧堂(道場)では厳しい修行が行なわれています。そこからそれぞれのお寺に入った和尚たちによってその宗風は受け継がれています。
坐禅のすすめ
気持ちと姿勢をまっすぐにして静かに坐る。ただ坐るだけではありますが、実際にやってみると気分がすがすがしくなっていることを感じるのではないでしょうか?坐禅は禅宗の基本的な修行でお釈迦様も坐禅(禅定)を実践し悟りに至ったといわれています。いきなり高度なレベルを目指すことは困難ですが、静かに坐ることは可能であると思います。皆さんは世間にいると様々に忙しく動き回って何が何だかわからなくなっていることがないでしょうか?そういうときに1度止まって(坐って)、自分を見つめ直してみてはいかがでしょう。日常では感情的に流されている自分を客観的にとらえ、奥にいる自己の存在も見つかられるのではないかと思います。難しいことを考えず、まずは坐ってみましょう。
建長寺開基北条時頼公
時頼は時氏の次男、泰時の孫にあたる。安貞元年(1227年)5月14日誕生。母は安達景盛の娘で松下禅尼といった。時頼は祖父泰時の善政を受けて、よく政を治めたので、名君のほまれが高い。建長4年8月には今の長谷に全銅の大仏を鋳造し始め、そして翌5年(1253年)11月には、建長寺を創建して供養を行った。それらの事績は今に伝えられている。建長寺の供養が終わって3年後(1256年)の11月、時頼は執権職を重時の子長時に譲って出家し最明寺入道と称した。このとき、子・時宗はまだ 7歳。そしてこれより7年後の弘長3年(1263年)11月22日、時頼は最明寺の北亭で世を去った。まだ37歳の若さであった。
建長寺物語
   開山と乙護童子
大覚禅師が常楽寺にいたころ、開山の給仕役として乙護童子(おとごどうじ)なる少年がつかえていた。開山に忠実につかえる少年の姿、それをうけいれる開山の人柄……。この様子をつぶさにみていた江ノ島弁財天は、すっかり感心し、やきもちの意味をこめて乙護童子を女身に変えてしまう。弁財天がいたずらしたわけである。女身に変えられたことを知らない童子は、いつものように開山に仕えていた。はた目には、ちょうど、開山が美女を寵愛しているように見えるのだった。土地の人びとの口はうるさくなり、美女と開山の話でもちきりとなった。そこで童子は、自分の身の潔白を示そうと、にわかに白蛇と化して常楽寺の銀杏樹を七巻半めぐり、仏殿のかたわらにある無熱池(むねっち)の底を尾でたたいたというのである。
   時頼と鉢ノ木
ひとりの旅僧が信濃国(長野県)から鎌倉へおもむく途中、上野国(群馬県)佐野のあたりで大雪に見舞われた。おり悪しく夜のとばりもおりようとしていた。とある田舎家に一夜の宿を乞うと、貧相な老夫婦は何のうたがいもなくうけいれ、その旅僧をあつくもてなすのだった。炉火はかろうじて余命を保っているようである。が、戸外の寒気はそのまま屋内をつつんでしまう。老の主は、ためらいもなく秘蔵していた鉢植の梅・桜・松などを炉にくべ、暖をとってくれた。
旅僧(実は時頼)はあるじの素性をたずねると、もとは佐野荘の領主であった佐野源左衛門尉常世というもので、一族のために土地をうばわれ、今はこのように落ちぶれているのだと答える。しかし、鎌倉に、いざ鎌倉!という一大事がおきたときは、老骨にむちうち、一番にはせ参じて忠勤をはげむ覚悟だとも語る。
やがて旅僧は一宿の恩義を感じながら、その田舎家を辞した。それからいくばくもたたないある日、鎌倉への軍勢召集がかかった。これを耳にした常世は、やせ馬にむちうってイザ鎌倉とはせ参じた。ときの執権北条時頼は、なみいる軍勢の前で、自分は姿を旅僧にやつし諸国をめぐってきた。そのおり、とある田舎家で一宿一飯の恩義をうけた旅僧はおのれである、と身分をあかした。そして常世がそのときの言葉にたがわず、鎌倉に一番のりしたことをほめたたえ、雪の夜のもてなしにちなんで、梅田・桜井・松枝の各荘の領地を常世にあたえたというのである。鉢ノ木伝説は下野国(栃木県)葛生などにもある。
   三門建立とたぬき和尚 - たぬき物語1 -
建長寺の谷奥に棲み、寺の残飯などをもらって生きていた古狸が、建長寺の三門(現在のもの)再興という大事業の話をきき、これまで世話になったお礼にと、建長寺のお坊さんに姿をかえ、浄財勧進に旅立った。
めぼしい宿々や村々をめぐって中山道板橋の宿に泊ることがあった、たまたま旅籠の主人が廊下を通ったとき、坊さんが泊っている部屋の障子に、あんどんの光をうけて狸の姿がうつっている。一瞬自分の目をうたがったが、気をとりなおして坊さんに御用うかがいをたてる。障子をひいてみるとやはり座敷に坐っているのは建長寺の坊さんであった。
翌日、坊さんが練馬の宿に泊って風呂に入っているとき、風呂場の前をとおりかかった女中が戸のすきまからみると、なんと坊さんの尻にシッポがあり、それを湯桶にいれて洗っている光景がみえた。びっくりした女中はこのことをおかみに話したが、おかみは口止めしてしまう。
あくる日、タヌキ和尚は駕籠にのって青梅街道をすすんでいたが、そのころ、世間には狸和尚のうわさがひろまっていた。駕籠かきは自分たちがかついでいるこの和尚は、もしかしたら狸ではないかとあやしみ、そっと一匹の犬をけしかける。犬はしばらく匂をかいでいたが、やにわに駕籠の戸をやぶって和尚の衣のすそをくわえ、引きずりだし、そしてかみ殺してしまった。皆はやっぱり狸がばけていたのだな、と思うのだが、いつまでたってもその正体はあらわれなかった。
駕籠かきは青ざめた。坊主殺しという大罪をおかしたと思い役人のところへ自首する。ところが三日目になり古狸が正体を現わしたため、駕籠かきは無罪放免となった。駕籠の中には狸和尚があつめた金三十両と銭五貫二百文があったので、それを建長寺へ送りとどけたという。
   三門建立とたぬき和尚 - たぬき物語2 -
これに似た話はまだある。たとえば犬ぎらいな建長寺和尚の話として、和尚の外出先に犬がいると必ずつながせ、飯をたべるときは四方に屏風をたて回し、給仕女も近づかせなかった。怪しんだ村人が和尚の食事のとき天井裏にしのびこんでみると、和尚は四つんばいになり、膳の上に飯と汁と菜をごちゃまぜにして食べていた、という話。
『伊豆の番頭』という本には、狸の書いた書画という題でつぎの伝説を紹介している。
天明のころ、建長寺貫主の巡錫というふれこみで、多くの寺僧を供に伊豆の村々を巡歴したことがあった。村の旧家や庄家など、由緒ある家へ泊っては、その御礼にと絵や墨跡を一枚づつ書き残していった。
しかし不思議にも、和尚はどこへ泊っても六枚屏風の陰で食事をし、物を食べるところを決して人に見せなかった。また、極度に犬を嫌い、ことに津の国の金平きんぴら小僧という白犬がこわい、決して近寄せるでない、と口癖のようにいうのだった。しかし、伊豆から鎌倉へ帰る途中、藤沢の渡しにかかったとき、どこから現われたのか金平小僧という白犬のため咬み殺されてしまった。すると、その死体は忽ち一匹の古狸に化してしまったという。
そうなると、伊豆の諸家にのこされた書画は、狸がかいたということになり、本当の貫主のかいたものより、なお珍しいことになった。その遺品のひとつが奈良小学校前の大田二千氏方に秘蔵されていて墨痕もあざやかに「空晴青山露 無庵」とあるという。
いずれにせよ、現存の三門再建には相当の苦労がともなった。当寺の浄財勧募の総代は当山二〇一世万拙ばんせつ和尚であるから、かれは、おそらく東奔西走の態で勧募に努力したことであろう。そうした和尚の熱意にもとづく行為は、神わざとも禽獣のわざともみえたにちがいない。いつしかタヌキ和尚の伝説が生まれたのであろう。
■建長寺 2
神奈川県鎌倉市山ノ内にある禅宗の寺院で、臨済宗建長寺派の大本山。山号を巨福山(こふくさん)と称し、寺号は正式には建長興国禅寺(けんちょうこうこくぜんじ)と称する。鎌倉時代の建長5年(1253年)の創建で、本尊は地蔵菩薩。開基(創立者)は鎌倉幕府第5代執権・北条時頼、開山(初代住職)は南宋の禅僧・蘭渓道隆で、第二世は同じく南宋の兀庵普寧である。鎌倉五山の第一位。境内は「建長寺境内」として国の史跡に指定。
建長寺は鎌倉幕府第5代執権・北条時頼によって創建された禅宗寺院で、建長5年(1253年)に落慶供養が営まれている。開山(初代住職)は南宋からの渡来僧・蘭渓道隆(大覚禅師)であった。当時の日本は、承久の乱(1221年)を経て北条氏の権力基盤が安定していた。京都にある朝廷の全国支配力は弱まり、政治的には鎌倉が事実上、日本の首府となっていた時代であった。北条時頼は熱心な仏教信者であり、禅宗に深く帰依していた。
創建の時期については、鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』には建長3年(1251年)から造営が始められ、同5年(1253年)に落慶供養が行われたとある。造営開始時期については建長元年(1249年)ないし2年からとする異説もあるが、おおむね建長元年(1249年)頃から造営の準備がなされ、同5年(1253年)に完成したとされる。建長寺が所在する山ノ内は、幕府のある鎌倉の中心部からは山一つ隔てた所に位置し、鎌倉の北の出入口の護りに当たる要衝の地であって、北条氏の本拠地でもあった。建長寺の境内が広がる谷(鎌倉では「やつ」と読む)は、元は「地獄ヶ谷」と呼ばれる処刑場で、地蔵菩薩を本尊とする伽羅陀山心平寺という寺が建っていた。建長寺の本尊が禅宗寺院の本尊として一般的な釈迦如来ではなく地蔵菩薩であるのは、こうした因縁によるものである。また、心平寺の旧本尊と伝える地蔵菩薩像は今も建長寺に伝来している。
開山の蘭渓道隆は中国・宋末の禅僧で、寛元4年(1246年)、33歳で来日した。はじめ筑前国博多に着き、京都に一時住んだ後、宝治2年(1248年)に鎌倉入りした。建長寺が創建されるまでは常楽寺(鎌倉市大船に現存)に住した。当時の日本には、すでに半世紀以上前に建立された建仁寺(京都)や寿福寺(鎌倉)などの禅宗系寺院があったが、当時これらの寺院は禅宗と他宗との兼学であり、純粋禅の道場としては建長寺は、聖福寺(北九州)などに次ぐ古さを誇るとされている。伽藍配置は中国式であり、寺内では日常的に中国語が使われていたという。蘭渓道隆の禅風は中国宋時代の純粋禅を受け継いだ厳格なものであった。道隆は弘長2年(1262年)京都の建仁寺に移ったが2年後に鎌倉に戻って建長寺住持に復帰。その後、文永の役の際には中国側のスパイと疑われたためか、甲斐国(山梨県)に流されたこともあったが、のちに許されて鎌倉に戻り、弘安元年(1278年)4月、建長寺住持に再度復帰。同じ年の7月、異国日本で生涯を閉じた。66歳であった。
その後の建長寺は正応6年(1293年)4月12日に発生した鎌倉大地震により建造物の大半が倒壊、炎上。元から来日した一山一寧を第十世に任じて再建にあたらせる。だが、続いて正和4年(1315年)、応永23年(1416年)をはじめとするたびたびの火災で創建当初の建物を失った。鎌倉時代末期には修復費用獲得のため、幕府公認で元へ貿易船(寺社造営料唐船)が派遣され、「建長寺船」と呼ばれた。江戸時代には徳川家の援助で主要な建物が新築または他所から移築されたが、1923年の関東大震災でも大きな被害を受けている。  
 
 

 

 
 

 

 
慧日山東福寺

 

■東福寺 1
京都市東山区本町十五丁目にある臨済宗東福寺派大本山の寺院。山号は慧日山(えにちさん)。京都五山の第四位の禅寺として中世、近世を通じて栄えた。明治の廃仏毀釈で規模が縮小されたとはいえ、今なお25か寺の塔頭(山内寺院)を有する大寺院である。
東福寺は京都市東山区の東南端、伏見区と境を接するあたりにある。この地には延長2年(924年)に藤原忠平によって建てられた藤原氏の氏寺・法性寺の巨大な伽藍があった。(法性寺は、JR・京阪東福寺駅近くに小寺院として存続している)嘉禎2年(1236年)、九条道家(摂政)は、この地に高さ5丈(約15メートル)の釈迦像を安置する大寺院を建立することを発願、寺名は奈良の東大寺、興福寺の二大寺から1字ずつ取って「東福寺」とした。5丈の釈迦像を安置する仏殿の建設工事は延応元年(1239年)から始めて、完成したのは建長7年(1255年)であった。高さ5丈の本尊釈迦像は元応元年(1319年)の火災で焼失、14世紀半ば頃に再興されるが、1881年(明治14年)の火災で再び焼失している。なお、東福寺には巨大な「仏手」(現存部分の長さ2メートル)が保管されており、旧本尊像の左手部分のみが明治の火災の際に救い出されたものと推定されている。これは創建時の本尊ではなく、14世紀に再興された本尊像の遺物であるが、本尊の「高さ5丈」というのはあながち誇張ではなかったことがわかる。
九条道家は開山(初代住職)として、当時宋での修行を終えて帰国していた禅僧・円爾を迎えた。円爾は駿河国栃沢(現・静岡市葵区)の人で、嘉禎元年(1235年)、宋に渡って径山(きんざん)興聖万寿禅寺の高僧・無準師範に入門。印可(師匠の法を受け継いだというお墨付き)を得て仁治2年(1241年)、日本へ帰国した。円爾ははじめ九州博多の承天寺に住したが、同寺が天台宗徒の迫害を受けて焼き討ちされたため、九条道家の援助で上洛、東福寺の開山に迎えられた。
東福寺の建設工事は30年以上に亘って続き、法堂(顕教寺院の「講堂」にあたる)が完成したのは文永10年(1273年)であった。その後、元応元年(1319年)の火災をはじめたびたび焼失するが、九条家、鎌倉幕府、足利家、徳川家などの援助で再建されてきた。1976年(昭和51年)韓国の全羅南道新安郡智島邑道徳島沖の海底から、大量の荷を積んだジャンク船が発見、引き揚げられた(新安沈船)が、積荷木簡の中には「東福寺」「十貫公用」などの字が見られることから、この船は焼失した東福寺の造営料を名目として、鎌倉幕府公認で派遣された唐船(寺社造営料唐船)であることが推測されている。近代に入って1881年(明治14年)の大火で、仏殿、法堂、方丈、庫裏などが焼失した。現在の本堂、方丈、庫裏などは明治以降の再建だが、国宝の三門をはじめ、東司(便所)、浴室、禅堂などは焼け残り、中世の建物が現存している。
東福寺からは歴代多くの名僧を輩出しており、『元亨釈書』の著者である虎関師錬、室町時代に画僧として活躍し、その後の仏画や水墨画に多大な影響を及ぼした吉山明兆などが著名である。
■東福寺 2
摂政九條道家が、奈良における最大の寺院である東大寺に比べ、また奈良で最も盛大を極めた興福寺になぞらえようとの念願で、「東」と「福」の字を取り、京都最大の大伽藍を造営したのが慧日(えにち)山東福寺です。嘉禎2年 (1236年)より建長7年(1255年)まで実に19年を費やして完成しました。
工事半ばの寛元元年(1243年)には聖一(しょういち)国師を開山に仰ぎ、まず天台・真言・禅の各宗兼学の堂塔を完備しましたが、元応元年(1319年)、建武元年(1334年)、延元元年(1336年)と相次ぐ火災のために大部分を焼失しました。
延元元年8月の被災後4ヶ月目には早くも復興に着手し、貞和3年(1346年)6月には前関白一条経道により仏殿の上棟が行われ、延元の火災以降実に20余年を経て、再び偉観を誇ることになりました。建武被災の直前にはすでに京都五山の中に列せられていましたから、再建後の東福寺は完全な禅宗寺院としての寺観を整えることとなりました。
仏殿本尊の釈迦仏像は15m、左右の観音・弥勒両菩薩像は7.5mで、新大仏寺の名で喧伝され、足利義持・豊臣秀吉・徳川家康らによって保護修理も加えられ、東福寺は永く京都最大の禅苑としての面目を伝え、兵火を受けることなく明治に至りました。
明治14年12月に、惜しくも仏殿・法堂(はっとう)、方丈、庫裡(くり)を焼失しました。その後、大正6年(1917年)より本堂(仏殿兼法堂)の再建に着工、昭和9年(1934年)に落成。明治23年(1890年)に方丈、同43(1910)年に庫裡も再建され、鎌倉・室町時代からの重要な古建築に伍して、現代木造建築物の精粋を遺憾なく発揮しています。また、開山国師の頂相、画聖兆殿司(ちょうでんす、明兆)筆の禅画など、鎌倉・室町期の国宝・重要文化財は夥しい数にのぼっています。
聖一国師
円爾弁円(えんにべんえん)といい、三井園城寺の学徒として天台の教学を究め、のち、栄西(建仁寺開山)の高弟行勇・栄朝について禅戒を受け、嘉禎元年(1235年)34歳で宋に渡り、在宋6年、杭州径山の無準の法を嗣ぎ、仁治2年(1241年)7月に帰朝しました。
まず筑紫に崇福・承天二寺を建てて法を説き、名声は次第に国内に及んで寛元元年(1243年)には藤原(九條)道家に迎えられて入京、道家に禅観密戒を授けました。次いで東福寺開山に仰がれ、同4年(1246年)2月には山内の普門寺を贈られて常住しました。
その後、宮中に宗鏡録を進講し、後深草天皇の勅を奉じて、京都岡崎の尊勝寺、大阪四天王寺、奈良東大寺などの大寺院を観閲し、また時には延暦寺の天台座主慈源や東大寺の円照らを教導したので、学徳は国中に讃えられ、遂に建長6年(1254年)には幕府執権北条時頼に招かれて、鎌倉の寿福寺に住することとなりました。
翌7年6月、一条実経の東福寺落慶供養にあたり帰山、爾来東福寺に住し、弘安3年(1280年)10月17日79歳で入定(にゅうじょう)しました。聖一国師の号は花園天皇より贈られたもので、日本禅僧最初の賜号です。
中国(宋)より帰朝にあたっては多くの文献を伝え、文教の興隆に多大の貢献をしましたが、また水力をもって製粉する器械の構造図を伝えて製麺を興し、今日、わが国最大のお茶の生産地となった静岡茶の原種を伝えたことも見逃せない功業です。  
 
 

 

 
 

 

 
瑞鹿山円覚寺

 

■円覚寺 1
神奈川県鎌倉市山ノ内にある寺院。山号を瑞鹿山(ずいろくさん)と称し、正式には瑞鹿山 円覚興聖禅寺(ずいろくさんえんがくこうしょうぜんじ)と号する。臨済宗円覚寺派の大本山であり、鎌倉五山第二位に列せられる。本尊は宝冠釈迦如来、開基は北条時宗、開山は無学祖元である。なお、寺名は「えんがくじ」と濁音で読むのが正式である。 鎌倉時代の弘安5年(1282年)に鎌倉幕府執権・北条時宗が元寇の戦没者追悼のため中国僧の無学祖元を招いて創建した。北条得宗の祈祷寺となるなど、鎌倉時代を通じて北条氏に保護された。JR北鎌倉駅の駅前に円覚寺の総門がある。境内には現在も禅僧が修行をしている道場があり、毎週土曜日・日曜日には、一般の人も参加できる土日坐禅会が実施されている。かつて夏目漱石や島崎藤村、三木清もここに参禅したことが知られる。
鎌倉幕府8代執権北条時宗(1251年 - 1284年)は、国家鎮護のためと文永の役の戦没者の菩提を弔うため、円覚寺創建を発願した。寺は弘安4年(1281年)から建立が始められ、翌弘安5年(1282年)に無学祖元(仏光国師)を開山(初代住持)に迎えて開堂供養が行われた。時宗は当時鎌倉にいた中国出身の高僧蘭渓道隆(建長寺初代住職)を師として禅の修行に励んでいたが、その蘭渓が弘安元年(1278年)7月に没してしまったため、時宗は代わりとなる高僧を捜すべく、建長寺の僧2名を宋に派遣した。これに応じて弘安2年(1279年)に来日したのが無学祖元である。鎌倉にはすでに時宗の父・北条時頼が創建した禅寺の建長寺が存在していたが、官寺的性格の強い同寺に対し、当初の円覚寺は北条氏の私寺であった。また、円覚寺の創建については、中国に帰国しようとしていた無学祖元を引き止めようとしたという事情もあったと言われる。
山号の「瑞鹿山」は、円覚寺開堂の儀式の際、白鹿の群れが現われ、説法を聴聞したという故事によるものとされ(『元亨釈書』等による)、今も境内にはその鹿の群れが飛び出してきた穴と称する「白鹿洞」がある。また寺号の「円覚」は、時宗と蘭渓道隆とが寺を建てる場所を探している際、現在の円覚寺がある場所に至り地面を掘ったところ、地中から石櫃(いしびつ)に入った円覚経という経典が発掘されたことによるという(『本朝高僧伝』等による)。
当寺では元寇で戦死した日本の武士と元軍(モンゴル・高麗等)の戦士が、分け隔てなく供養されている。
円覚寺は弘安10年(1287年)以降たびたび火災に遭っている。中でも応安7年(1374年)の大火、大永6年(1526年)の里見義豊の兵火、永禄6年(1563年)の大火、元禄16年(1703年)の震災などの被害は大きく、1923年(大正12年)の関東大震災でも仏殿などが倒壊する被害を受けている。
■円覚寺 2
開山
鎌倉時代後半の弘安5年(1282)、ときの執権北条時宗が中国・宋より招いた無学祖元禅師により、円覚寺は開山されました。開基である時宗公は18歳で執権職につき、無学祖元禅師を師として深く禅宗に帰依されていました。国家の鎮護、禅を弘めたいという願い、そして蒙古襲来による殉死者を、敵味方の区別なく平等に弔うため、円覚寺の建立を発願されました。
名前の由来
円覚寺の寺名の由来は、建立の際、大乗経典の「円覚経(えんがくきょう)」が出土したことからといわれます。また山号である「瑞鹿山(ずいろくさん)(めでたい鹿のおやま)」は、仏殿開堂落慶の折、開山・無学祖元禅師の法話を聞こうとして白鹿が集まったという逸話からつけられたといわれます。無学祖元禅師の法灯は高峰顕日(こうほうけんにち)禅師、夢窓疎石(むそうそせき)禅師と受け継がれ、その法脈は室町時代に日本の禅の中心的存在となり、 五山文学や室町文化に大きな影響を与えました。
歴史
円覚寺は創建以来、北条氏をはじめ朝廷や幕府からの篤い帰依を受け、寺領の寄進などにより経済的基盤を整え、鎌倉時代末期には伽藍が整備されました。室町時代から江戸時代にかけて、いくたびかの火災に遭い、衰微したこともありましたが、江戸時代後期(天明年間)に大用国師(だいゆうこくし)が僧堂・山門等の伽藍を復興され、宗風の刷新を図り今日の円覚寺の基礎を築かれました。明治時代以降、今北洪川(いまきたこうせん)老師・釈宗演(しゃくそうえん)老師の師弟のもとに雲水や居士が参集し、多くの人材を輩出しました。今日の静寂な伽藍は、創建以来の七堂伽藍の形式を伝えており、現在もさまざまな坐禅会が行われています。  
 
 

 

 
 

 

 
龍寶山大徳寺

 

■大徳寺 1
(旧字体:大コ寺) 京都府京都市北区紫野大徳寺町にある寺院で、臨済宗大徳寺派の大本山である。山号は龍宝山(りゅうほうざん)。本尊は釈迦如来。開基(創立者)は大燈国師宗峰妙超で、正中2年(1325年)に正式に創立されている。京都でも有数の規模を有する禅宗寺院で、境内には仏殿や法堂(はっとう)をはじめとする中心伽藍のほか、20か寺を超える塔頭が立ち並び、近世寺院の雰囲気を残している。大徳寺は多くの名僧を輩出し、茶の湯文化とも縁が深く、日本の文化に多大な影響を与え続けてきた寺院である。本坊および塔頭寺院には、建造物・庭園・障壁画・茶道具・中国伝来の書画など、多くの文化財を残している。なお、大徳寺本坊は一般には非公開であり、塔頭も非公開のところが多い。
大徳寺の開祖である禅僧・宗峰妙超は、弘安5年(1282年)、播磨国(兵庫県)に、同国守護・赤松氏の家臣・浦上氏の子として生まれた。11歳の時、地元の大寺院である書写山圓教寺に入り、天台宗を学ぶが、のち禅宗にめざめ、鎌倉の高峰顕日、京の南浦紹明に参禅。南浦紹明が鎌倉の建長寺に移るに従って宗峰も鎌倉入りし、徳治2年(1307年)に師から印可を得た。
その後数年京都東山で修行を続けていた宗峰妙超は、正和4年(1315年)ないし元応元年(1319年)に同郷の赤松円心の帰依を受け、洛北紫野の地に小堂を建立した。これが大徳寺の起源という。花園上皇は宗峰に帰依し、正中2年(1325年)に大徳寺を祈願所とする院宣を発している。寺院としての形態が整うのはこの頃からと考えられる。
後醍醐天皇も当寺を保護し、建武元年(1334年)には大徳寺を京都五山のさらに上位に位置づけるとする綸旨を発している。
しかし建武の新政が瓦解して足利政権が成立すると、後醍醐天皇と関係の深かった大徳寺は足利将軍家から軽んじられ、五山から除かれてしまった。至徳3年(1386年)には、十刹の最下位に近い第9位となっている。このため第二十六世養叟宗頤は、永享3年(1432年)足利政権の庇護と統制下にあって世俗化しつつあった五山十刹から離脱し、座禅修行に専心するという独自の道をとった。五山十刹の寺院を「叢林」(そうりん)と称するのに対し、同じ臨済宗寺院でも、大徳寺や妙心寺のような在野的立場にある寺院を「林下」(りんか)という。
その後の大徳寺は、貴族・大名・商人・文化人など幅広い層の保護や支持を受けて栄え、室町時代以降は一休宗純をはじめとする名僧を輩出した。侘び茶を創始した村田珠光などの東山文化を担う者たちが一休に参禅して以来、大徳寺は茶の湯の世界とも縁が深く、武野紹鴎・千利休・小堀遠州をはじめ多くの茶人が大徳寺と関係をもっている。また国宝の塔頭龍光院密庵(みったん)など文化財に指定された茶室も多く残る。このため京童からは「妙心寺の算盤面」「東福寺の伽藍面」「建仁寺の学問面」などと並んで「大徳寺の茶面(ちゃづら)」と皮肉られた。
享徳2年(1453年)の火災と応仁の乱(1467–77年)で当初の伽藍を焼失したが、一休宗純が堺の豪商らの協力を得て復興。近世以降も豊臣秀吉や諸大名の帰依を受けた。
江戸時代初期に幕府の統制を受け、元住持の高僧・沢庵宗彭が紫衣事件で流罪の圧迫を受けたが、三代将軍家光が沢庵に帰依したこともあって幕府との関係ものちに回復した。近世には「二十四塔頭、六十寮舎・子庵」あるいは「二十四塔頭、准塔頭五十九宇(「六十五宇」とも)」などと呼ばれ、末寺は25ヶ国280余寺、末寺の塔頭130余院を数えるほど栄え、朱印地は2011石余を有した。この広大な寺領が大徳寺の経済的基盤であったが、明治維新後の上知令によって多くを失ってしまう。なんとか堂宇を維持するため明治11年(1878年)、塔頭13寺を合併(事実上廃絶)、4寺を切縮、20寺を永続塔頭とする縮小を行うものの、寺運は栄え今日に至っている。
■大徳寺 2
大徳寺とは京都府京都市北区紫野大徳寺町にある臨済宗大徳寺派の大本山です。山号を竜宝山(龍寶山)といいます。開山は宗峰妙超(大燈国師)です。
1315(正和4)年に宗峰は赤松則村の帰依を受けて紫野に小堂を建立しました。これが大徳寺の起源です。
1325(正中2)年に花園上皇の院宣、後醍醐天皇の綸旨が下されて大徳寺は両皇統の祈願所になっています。
1326(嘉暦元)年に勅使を迎えて開堂儀式を挙行し、寺地や寺領が相次いで寄進されて寺基が確立されました。
1333(元弘3・正慶2)年に朝廷より宗峰門徒の一流相承が認められると共に五山に列せられ、1334(建武元)年には南禅寺と同格の五山第一位と寺格が定められました。
建武の新政が瓦解して足利政権が成立すると、後醍醐天皇と関係の深かった大徳寺の寺格も十刹第九位に落とされ、1431(永享3)年に十刹からの辞退を願い出る事になります。
1453(享徳2)年の火災で諸堂を始めて焼失し、応仁の乱(1467〜77)で再び罹災しましたが、一休宗純が堺の豪商達の協力を得て復興させました。
侘び茶を創始した村田珠光が一休に参禅して以後、武野紹鷗、千利休、小堀遠州を始めとする多くの茶人が大徳寺と深い関係を持っています。
応仁の乱後に五山派寺院が衰退する中、大徳寺は独自の禅風を保持して新興武将や商人の帰依を受けて発展しました。
1582(天正10)年には豊臣秀吉が織田信長の葬儀を行い、菩提寺となる総見院を創建しました。
その後、秀吉や有力武将によって塔頭が次々に新設されて境内が飛躍的に拡大しました。
1589(天正17)年に三門が完成して以降は本坊伽藍の整備も次第に進展し、1636(寛永13)年の宗峰三百回忌を機に仏殿と法堂の兼用を取り止めて法堂を新築しました。
1665(寛文5)年に仏殿を造替して現在の伽藍景観が成立しました。
1627(寛永4)年の紫衣事件で沢庵宗彭が流罪となる圧迫を受けましたが、3代将軍・徳川家光が沢庵に帰依した事もあって幕府との関係も後に回復しました。
明治維新後は多くの塔頭が廃絶して建築や什器を失いましたが、現在も別院2院と塔頭22院を有し、其々に貴重な建築、庭園、文化財が残されています。
■大徳寺 3
一休さんとゆかりが深い・大徳寺
京都市内の北部にある大徳寺は、臨済宗大徳寺派の大本山です。1325年の創建で、宗峰妙超により開基されました。京都は数多くの戦乱が起こった場所でもあるため、応仁の乱の際にに大徳寺の建物も消失してしまいました。しかし「一休さん」のモデルとして知られる千利休こと一休宗純が、豪商の協力を得て立て直した歴史があるとか。豊臣秀吉など諸大名も多くの寄付を行い、江戸時代初期頃には現在の形になりました。
悲しい事件を背負う・山門(三門)
大徳寺の境内には20余りの建物がありますが、見学できるものは限られています。まず大徳寺に入って見逃せないのが山門(三門)です。桃山時代に造られた重要文化財建造物で、1526年に初層が、1589年に上層が完成しました。本瓦葺きの唐様建築で、東福寺の三門に次ぐ古さとなっています。しかしこの山門建設にあたり、それまで少しずつ溝ができていた豊臣秀吉と千利休の亀裂が決定的となり、秀吉は千利休に切腹を言い渡しました。美しい山門に秘められた悲しい出来事を感じながら眺めると、さまざまな想いが込み上げてくるようですね。
天下一の鳴き龍が棲む・法堂
法堂は江戸時代に造られた重要文化財で、仏殿の北にあります。1636年に小田原城主だった稲葉正勝の遺言によって寄進されました。普段拝観できるのは外観のみで、特別公開時には内部を拝観することができます。法堂の天井には狩野探幽によって描かれた「雲龍図」があり、堂内で拍を打つとまるで龍が鳴いたかのような不思議な音が響きます。「天下一の鳴き龍」と呼ばれる鳴き声をぜひ聞いてみましょう。
キリシタン大名の庭・瑞峰院
1535年に九州の戦国大名だった大友宗麟が建てた塔頭です。宗麟はここを自分の菩提寺とし、法名を使って瑞峰院と名付けました。宗麟はキリスト教の洗礼を受けた「キリシタン大名」だったため、瑞峯院の庭には7個の石で十字架が形作られています。純和風の建物の中に上手に十字架が融合する姿は、不思議な趣が感じられますね。
枯山水の名園・大仙院
1509年に大徳寺の大聖国師古岳宗亘が開きました。大徳寺にある塔頭の中で、真珠庵や龍泉庵、龍源院と併せて大徳寺4派の一つとして栄えたのが大仙院です。大仙院の見どころと言えば枯山水。昔から枯山水の名園として広く知られ、その美しさは現代にも引き継がれています。この庭は国宝の方丈にも面していて、方丈と庭園の一体感ある風景は、建築当時の趣を残す貴重な資料です。
苔むす静かな庭園・高桐院
大徳寺の塔頭の内、常に公開されている人気の塔頭です。竹林や木々が生い茂る静な佇まいの中、楓と緑の苔むす50mの参道は有名監督も絶賛し話題となりました。もう一つ高桐院の中で必見なのが「楓の庭」です。灯籠がひとつ置かれたシンプルな庭ですが、長い年月を感じさせる木々たちと美しい苔の競演がたまりません。またここには千利休ゆかりの書院である「意北軒」もあり、質素なわびさびの心を大切にした千利休の人柄が垣間見れますよ。 
 
 

 

 
 

 

 
深奥山方広寺

 

■方広寺 1
静岡県浜松市北区にある寺院で臨済宗方広寺派の大本山である。山号は深奥山(じんのうざん)、寺号は詳しくは方広萬寿禅寺と称する。別称、奥山半僧坊。本尊は釈迦如来。
1371年(建徳2年)遠江(静岡県)の豪族井伊家の一族である奥山六郎次郎朝藤是栄居士こと、奥山朝藤の開基である。奥山朝藤は後醍醐天皇の11番目の皇子であった無文元選(生没 1323-1390)に深く帰依していたので、無文元選を開山として創建された寺である。 無文元選は博多聖福寺の後、元に渡って福州大覚寺で古梅正友に参じて嗣法した。その後日本に帰り、三河の広沢庵にいた時に無文元選は、奥山朝藤の招きに応じて方広寺に移った。無文元選はここの景観が中国天台山方広寺を髣髴させたので、寺を「深奥山方広万寿禅寺」と名付けた。
そして何度も火災に遭うなどして、寺勢は衰退していった。度重なる火災により記録が失われ、室町時代末期までの詳しい状況は判然としない。その後1568年(永禄11年)12月、徳川家康が方広寺を訪れその状況を見て、復興に力を注いだ。徳川家康の奏上により、後陽成天皇から「出世職勅許の綸旨」が下された。また1587年(天正15年)には豊臣秀吉から約50石の朱印と境内山林が寄進され、同じ年に勅願所となった。 江戸時代の1786年(天明6年)には、光格天皇から開山の無文元選に対して「大慈普応禅師」の号が下賜された。
明治に入り、明治政府の廃仏毀釈の宗教政策により境内地以外の寺領が上地となって、方広寺は経済基盤を失うことになった。 1877年(明治10年)、当時の今井東明は鎮守である半僧坊の再建事業など寺存続の立て直しに尽力した。 方広寺は廃仏毀釈後、臨済宗各派が独立した頃には南禅寺派に属していたが、1903年(明治36年)独立して臨済宗方広寺派の本山となった。また同年、明治天皇から無文元選に「聖鑑国師」の号が下賜された。
なお、この寺に祀られる半僧坊権現は開山の無文が中国の元から帰国する際、悪天候の中、無文の乗った船を守護したとされる。後年、無文元選が方広寺に入寺した時、この神がまた現れて、無文元選に対して教えを被り、法を守ることを誓った。それで方広寺の鎮守となったと伝わる。
■方広寺 2
山号は深奥山(じんのうざん)と称し、静岡県浜松市北区引佐町奥山に所在します。禅宗のうち、臨済宗方広寺派を構成し、その大本山として厚い信仰を集めています。また、かつては癩(らい)患者のための病院施設を開き地域の福祉に貢献しました。さらに、明治14年の山林大火の際に類焼に遭うも開山円明大師の御墓所と七尊菩薩堂、開山様本像、そして半僧坊真殿が焼け残ったことから、方広寺の鎮守の神である半僧坊の信仰も全国に広がっています。
方広寺(ほうこうじ)の歴史と由来
1371年、無文元選禅師(むもんげんせんぜんじ)は、当地を治めていた豪族奥山六郎次郎朝藤(おくやまろくろうじろうともふじ)の招きにより、奥山家の治めていた所領のうちから60町歩の土地と建物を寄進され、ここに方広寺を開かれました。
無文元選禅師を御開山と称し、奥山六郎次郎朝藤を開基と称します。
元選禅師は、この地が、かつて訪れたことがある中国の天台山方広寺の風景に似ていることから、この寺を方広寺と名付けられました。
幾度となく火災にあって伽藍は消失しましたが、明治14年(1881)の大火の後、復興を遂げ、現在、大本堂、半僧坊真殿、開山堂、三重の塔など多数の建物を擁しています。
境内各所には五百羅漢の石像が安置されております。これは拙巌(せつがん)和尚が、大蔵経(だいぞうきょう)を読んでいるとき、五百人の羅漢さまが仏法を護り、伝えるという記述を読み、御開山無文元選禅師が、かつて中国の天台山方広寺を訪れたとき、石橋(しゃっきょう)にお茶を献じられたとき羅漢さまが姿を現されたという故事にちなみ、当山に五百羅漢の石像を安置することを発願(ほつがん)されました。多数の方に寄進を願い、明和(めいわ)7年(1770)、500体の羅漢さまが安置されました。
また現在、平成の五百羅漢を皆様に御寄進いただきながら、安置を進めております。
無文元選禅師(むもんげんせんぜんじ/1323〜1390)
元亨(げんこう)3年(1323)2月15日、後醍醐天皇の皇子として、京都において誕生されました。母は昭慶門院と称されます。
7歳の時、乳母が亡くなった事をことのほか悲しまれたと伝えられております。父後醍醐天皇が崩御(ほうぎょ、亡くなること)された翌年、暦応(りゃくおう)3年(1340)、18歳の時、京都の建仁寺において出家されました。
貞和(ていわ)元年(1345)、元王朝末期の中国に渡られ、大覚妙智寺に古梅正友(こばいしょうゆう)禅師を訪ね、ここで修行を積み重ね、大悟して、正友禅師の法を継がれました。
観応(かんおう)元年(1350)秋、日本に帰国され、応安(おうあん)4年(1371)、奥山六郎次郎朝藤の招きにより、方広寺を開かれました。
禅師のもとには、その名を聞いて、多くの修行僧が集まり、日夜修行に励んだと伝えられております。
明徳(めいとく)元年(1390)、閏(うるう)3月22日、方広寺で亡くなられました。68歳でした。
嗣法(しほう)の弟子に 東隠院開基の悦翁建ァ(えつおうけんぎん)、臥雲院開基の空谷建幢(くうこくけんどう)、三生院開基の在徳建頴(ざいとくけんえい)、蔵龍院開基の仲翁建澄(ちゅうおうけんちょう)、虎洞院開基の休卜守仲(きゅうぼくしゅちゅう)の5人がおられます。
奥山半僧坊大権現(おくやまはんそうぼうだいごんげん)
方広寺の鎮守さま。伝えによると、無文元選禅師が中国より船に乗船して帰国の折、東シナ海において台風に遭遇されました。風は帆柱を折れよとばかりに吹き荒れ、雨は滝のごとく落ち、波は逆巻いて禅師のお乗りになっている船をいまにも飲み込もうとする勢いでありました。大きく揺れる船のなかで、禅師は一心に観音経をおよみになっておられました。そこに法衣を着て袈裟をまとった、鼻の高い一人の異人が現れて、「わたしは禅師が正法を伝え弘められるために、無事に故国に送り申します」と叫び、船頭を指揮し、水夫を励まして無事に嵐の海を渡って博多の港に導いたのでした。そして、ここでお姿を消されたといわれます。
禅師がこの方広寺を開かれたとき、再びその一異人が姿を現し、「禅師の弟子にしていただきたい」と願い出ました。弟子になることを許され、禅師の身の回りにお仕えしながら修行に励んでおりましたが、禅師が亡くなられた後、「わたしはこの山を護り、このお寺を護り、世の人々の苦しみや災難を除きましょう」といって姿を消したのでした。以来、この方広寺を護る鎮守さまとして祀られ、世の人々の苦しみや災難を除く権現さまとして、ご信仰をあつめております。
毎年10月に御大祭がおこなわれております。
■方広寺 3 「方広寺の半僧杉」
方広寺は、正式名を深奥山方広萬寿禅寺といい、臨済宗方広寺派の本山。後醍醐天皇の皇子であった聖鑑国師無文元選(むもんげんせん)が、建徳2年(1371)に開山した名刹。無文は京都・建仁寺で雪村友梅師らに参じたのち、21歳のときに元(中国)に渡った。帰国後、三河・遠江を行脚した際に、地頭奥山氏の帰依を受け、この地に寺を開いた。寺号の方広寺は、このあたりの地形が、元の天台山方広寺に似ていたためと伝えている。一派の本山に相応しく、境内には多数の大伽藍が建ち並ぶが、いずれも新しい。これは、明治14年(1881)の山火事で、殆どの伽藍を焼失してしまったからである。
山火事の際、当時の住職東明禅師が、半僧坊神殿に籠もり、一心に祈願したところ、黒煙中に鈴の音が響き渡り、火焔を左右に切りさばく半僧坊の姿が見えたとの伝承がある。残念ながら、寺も類焼の被害に遭ったが、半僧坊と七尊菩薩堂だけが焼失を免れた。幸い大杉も火災を免れたため、以来、「半僧杉」と呼ばれるようになった。その半僧杉は、「羅漢坂」を上ったところ、宿坊円明閣の前に立っている。すらっと背が高く、樹勢も良さそうだ。巨木を目当てにわざわざ訪れたのだから、半僧杉の凛々しい姿に見入ったことはもちろんだが、参道に点在する羅漢像にも心を奪われた。
実に表情がいい。半僧杉の半僧とは半僧半俗、つまり、まだ俗世間の煩悩を少し引きずっているような立場と理解するが、羅漢さんの表情にも同様な存在が感じられるように思う。いわゆる仏像のように、悟りきった表情でないのがいい。仏教の教えと異なるかも知れないが、「俗より出て、俗に還る」というのも、また一つの境地ではあるまいか。

静岡県浜松市北区引佐(いなさ)町奥山にある臨済(りんざい)宗方広寺派大本山。深奥山(じんのうざん)と号し、通称は奥山半僧坊(おくやまはんそうぼう)。本尊は釈迦牟尼如来(しゃかむににょらい)。1371年(応安4)(1384年(元中1・至徳1)の説もある)奥山六郎次郎朝藤(ちょうとう)が土地を寄進し、後醍醐(ごだいご)天皇の遺児といわれる無文元選(むもんげんせん)(聖鑑(しょうかん)国師)を第1世にしたと伝える。1903年(明治36)南禅寺派より独立して末寺180余寺をもつ大本山となった。境内は中国天台山方広寺に似せて造営されたといわれるが、たび重なる火災でおもな堂塔は焼失、現在の本堂、開山堂などは明治以降の建造で、七尊菩薩(ぼさつ)堂(国重要文化財)だけが室町時代初期のものである。寺宝には木造釈迦如来および両脇侍(きょうじ)像3躯(く)、絹本着色無文元選像(以上、県文化財)などがある。また境内の半僧坊権現(ごんげん)社は火伏せの霊験で名高い。

建長寺半僧坊・御祭神 半僧坊権現  御由緒
建長寺の境内のもっとも奥、山の中腹にある、建長寺の鎮守である。ここに祀られる半僧坊権現は1890年(明治23年)に当時の住持であった霄(おおぞら)貫道禅師が静岡県引佐郡奥山(現・浜松市)の方広寺から勧請した神で、火除けや招福に利益があるという。半僧坊権現とは、後醍醐天皇皇子の無文元選禅師(前述の方広寺開山)の元に忽然と現われ、無理やり弟子入りした白髪の老人で、神通力を持っており、無文禅師が死去するとその老人も姿を消したという。  
 
 

 

 
 

 

 
瑞石山永源寺

 

■永源寺 1
滋賀県東近江市にある臨済宗永源寺派の大本山。山号は瑞石山。紅葉の美しさで知られる。開山忌が、毎年10月1日に行われる。
康安元年(1361年)、近江守護佐々木氏頼(六角氏頼)が寂室元光(正灯国師)に帰依し、自ら開基となって寂室元光を開山として創建した。
最盛期には寂室元光を慕って2千人の僧が入寺し、56坊もの坊院があった。寂室元光の死後はその4人の高弟が当寺を守った。応仁の乱が始まると、京都から横川景三などの禅僧が当寺に避難してくるなどした。しかし、明応元年(1492年)、次いで永禄6年(1563年)と二度も大きな戦火を受けて全山焼失し、衰亡した。
江戸時代に入り、妙心寺の別峰紹印とその弟子で永源寺第79世となった空子元普が再興運動を始めると、寛永20年(1643年)、高名な一糸文守(仏頂国師)を招く。これにより、後水尾天皇や東福門院、彦根藩の帰依を受けて、伽藍が再興された。1873年(明治6年)に明治政府の政策により臨済宗東福寺派に属したが、1880年(明治13年)に永源寺派として独立した。
鈴鹿山脈を挟んで東側の三重県いなべ市にも永源寺の一部があったといわれ、永源寺跡と呼ばれる場所がある。三重県いなべ市の伝承では、永禄年間(1558年 - 1570年)織田信長家臣である滝川一益の軍勢が、北伊勢地方の寺を焼き払いながら迫って来たため、三重県側の永源寺の僧は兵火を逃れるため、寺の宝物などを持ち一夜にして竜ヶ岳の南側にある鈴鹿山脈の石榑峠を越えて、近江の永源寺へ逃れたとされているが、永源寺側の記録には一切ふれられていない。三重県いなべ市の永源寺の建物は滝川一益の軍勢によって焼き払われたが、水田周辺に石垣の一部が残されている。
本尊は、子がなかった六角満高が熱心に祈願していると、ついに嫡子となる六角満綱が誕生したことに由来を持つ秘仏、世継観世音菩薩である。寺内には彦根藩主井伊直興の墓所がある。
東近江市永源寺地区は、永源寺コンニャクや政所茶の産地であり、惟喬親王ゆかりの木地師発祥の地として知られる。また付近からは2010年(平成22年)に国内最古級・1万3千年前の土偶が発掘された。
■永源寺 2
歴史
当山は、南北朝時代の康安元年(1361)に、時の近江守護職、佐々木六角氏頼公が、入唐求法の高僧、寂室元光禅師(正燈国師)に帰依し、領内の土地を寄進して伽藍を創建したことが始まりです。
禅師が入寺、開山されると、その高徳を慕って二千人あまりの修行僧が集い、山中には五十六坊の末庵を有したと記されています。
師の滅後も、四人の高弟が教えを守り永源寺を受け継ぎました。応仁の乱の頃には、横川景三といった京都五山の名だたる僧達が、この地に戦難を避けて修行をされました。
しかし、明応(1492)永禄(1563)と続く戦乱によって、当地も兵火の及ぶところとなります。伽藍や山内の幾多の寺院は全て焼け落ち、以後寺運は衰退してゆきました。
江戸時代中期になり、妙心寺の僧、別峰紹印禅師は、永源寺が往時の面影も無く荒れはてていることに嘆き、嘆願書をしたため、自らも石を曳いて復興のために尽力いたしました。弟子の空子和尚も永源寺第七十九世として住職され、彼らの懸命の働きによって、やがて名声高き一絲文守禅師(仏頂国師)を迎えることとなりました。これにより後水尾天皇をはじめ、東福門院(徳川和子)や彦根藩(井伊家)の帰依をうけて伽藍が再興され、ここに再び法燈が輝いたのであります。
明治になり、政府の指導によって、はじめ臨済宗東福寺派に属しましたが、後に永源寺派として独立し、坐禅研鑽、天下泰平、万民和楽を祈る道場として、全国百有余の末寺を統轄する一派大本山となり、今に至っています。
御本尊(よつぎかんのん)
永源寺の山門をくぐって少し歩くと、鐘楼の左正面、大きなヨシ葺き屋根の方丈があり、ここには当山の御本尊、「世継観世音菩薩」をお祀りいたします。秘仏として厨子の扉の奥に鎮座され、御開帳はおよそ四半世紀に一度、普段直接お姿を拝むことはできません。この仏様には、当山の開山様にまつわる次のようなご縁起があります。
むかし、開山寂室禅師が、三十七歳にて中国への留学を終えられ、船に乗ってご帰朝の折に、海上大きな嵐にみまわれました。船上の皆生きた心地なく、最早海の藻屑かと思うとき、禅師が静かに祈りを捧げられると、不思議にも海上に白衣の観世音菩薩が顕れ、ほど無くして濤風は鎮まり、ご一行は無事に祖国の土を踏むことを得ました。月日は流れ、寂室禅師が永源寺に住まわれると、夜毎にお寺の東の峰から光明が放たれ、禅師がそこをお訪ねになると、大きな石の上に丈一寸八分(約5cm)の小さな観世音菩薩の像がありました。禅師は「これはかつて海上で難をお救い下さった観音様に違いない」と深く感嘆され、わざわざ中国から仏師をお招きし、かつて修行された中国の土でもって観音像を作らせ、その像の額の宝冠の中に、件の小さな霊像を納めて御本尊とされました。のちに近江守護職佐々木氏頼公の子、満高公が跡取りに恵まれず、この観音に毎夜一心に祈願をされたところ、夢にお告げがあり、やがて世継をお授かりになりました。この事が伝わると、だれが言うともなく「世継観世音(よつぎかんぜおん)」と呼び讃えられるようになったのであります。以来、一心に念ずれば善き跡継ぎに恵まれ、子孫は安楽、会社は繁栄、功徳無量の霊験あらたかな仏様として、篤い信仰を集めております。六百年の月日が流れたいまも「観音さんにお参りしたら、子供や孫に恵まれました」と、お礼参りにみえる方々はあとがたえません。
開山寂室禅師(正燈国師)
当山の開山、寂室元光禅師は、正応3年(1290)5月15日、岡山県真庭市に生まれました。生家は藤原実頼(小野宮)の流れをくむと伝えられています。
5歳にして経典を暗誦され、また友人たちと捕まえた魚の命を憐れみ放流されるなど、生来の明晰な頭脳と篤い帰敬の念をお持ちになり、13歳で出家、京都東福寺で修行をされた後に、鎌倉の約翁徳倹禅師につき17歳で大悟されました。その後も様々な師のもとで研鑽を積み、31歳で渡元(中国)、幻住派の祖と名高い天目山の中峰明本禅師にまみえ薫陶を受けます。権門に属さず、天目山中深く隠棲して俗塵を遠ざけ、ひたすら僧とはどうあるべきかを問い続けられる和尚の禅風は、寂室禅師に大きな影響を与えたといいます。
元(中国)の各地を行脚し、37歳で帰国された後は、中峰和尚にならって、朝廷や幕府の拝請を悉く固辞され、72歳まで諸国を巡り行脚説法を続けられました。
72歳のとき、近江に滞在の折、守護職佐々木氏頼公に請われ、永源寺に入寺、開山されました。伝えによれば、永源寺の深山と幽渓がかつての天目山を思い起こさせ、禅師にこの地に留まる決心をさせた、といいます。
永源寺に入山ののちは修行僧の教化に努められ、後に当山四派の開祖となる、弥天、松嶺、霊仲、越渓の四人の高弟を輩出されます。彼らに後を託し、貞治6年(1367)9月1日、78歳で示寂されました。墓所を大寂塔(開山堂)と呼んでいます。
応安2年(1368)朝廷より円応禅師、昭和3年には昭和天皇より正燈国師の称号を賜りました。禅師の詩・偈・墨跡は特にすぐれ、重要文化財に指定されています。  
 
 

 

 
   
 
霊亀山天龍寺

 

■天龍寺 1
京都府京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町(すすきのばばちょう)にある、臨済宗天龍寺派大本山の寺院。山号は霊亀山(れいぎざん)。寺号は正しくは霊亀山天龍資聖禅寺(れいぎざんてんりゅうしせいぜんじ)と称する。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は足利尊氏、開山(初代住職)は夢窓疎石である。足利将軍家と後醍醐天皇ゆかりの禅寺として京都五山の第一位とされてきた。「古都京都の文化財」としてユネスコ世界遺産に登録されている。
天龍寺の地には平安時代初期、嵯峨天皇の皇后橘嘉智子が開いた檀林寺があった。その後約4世紀を経て荒廃していた檀林寺の地に後嵯峨天皇(在位1242年 – 1246年)とその皇子である亀山天皇(在位1259年 – 1274年)は離宮を営み、「亀山殿」と称した。「亀山」とは、天龍寺の西方にあり紅葉の名所として知られた小倉山のことで、山の姿が亀の甲に似ていることから、この名がある。天龍寺の山号「霊亀山」もこれにちなむ。
足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うため、大覚寺統(亀山天皇の系統)の離宮であった亀山殿を寺に改めたのが天龍寺である。尊氏は暦応元年/延元3年(1338年)、征夷大将軍となった。後醍醐天皇が吉野で崩御したのは、その翌年の暦応2年/延元4年(1339年)である。足利尊氏は、後醍醐天皇の始めた建武の新政に反発して天皇に反旗をひるがえした人物であり、対する天皇は尊氏追討の命を出している。いわば「かたき」である後醍醐天皇の崩御に際して、その菩提を弔う寺院の建立を尊氏に強く勧めたのは、当時、武家からも尊崇を受けていた禅僧・夢窓疎石であった。寺号は、当初は年号をとって「暦応資聖禅寺」と称する予定であったが、尊氏の弟・足利直義が、寺の南の大堰川(保津川)に金龍の舞う夢を見たことから「天龍資聖禅寺」と改めたという。寺の建設資金調達のため、天龍寺船という貿易船(寺社造営料唐船)が仕立てられたことは著名である。落慶供養は後醍醐天皇七回忌の康永4年(1345年)に行われた。
天龍寺は京都五山の第一として栄え、寺域は約950万平方メートル、現在の嵐電帷子ノ辻駅あたりにまで及ぶ広大なもので、子院150か寺を数えたという。しかし、その後のたびたびの火災により、創建当時の建物はことごとく失われた。中世には延文3年(1358年)、貞治6年(1367年)、応安6年(1373年)、康暦2年(1380年)、文安4年(1447年)、応仁元年(1467年)と、6回も火災に遭っている。応仁の乱による焼失・再建後、文禄5年(1596年)慶長伏見地震にて倒壊。その後しばらくは安泰であったが、江戸時代の文化12年(1815年)にも焼失、さらに幕末の元治元年(1864年)、禁門の変(蛤御門の変)で大打撃を受け、現存伽藍の大部分は明治時代後半以降のものである。なお、方丈の西側にある夢窓疎石作の庭園(特別名勝・史跡)にわずかに当初の面影がうかがえる。
また、2500点余りの天龍寺文書と呼ばれる文書群を所蔵しているが、中世のものは度々の火災で原本を失ったものが多く(案文・重書案などの副本の形で残されている)、後に関係の深い臨川寺の文書が天龍寺に多数移されたこともあって、「一般に天龍寺文書といわれるが、現実には臨川寺文書が多数を占める」とまで言われている。これに対して近世のものは寺の日記である「年中記録」などの貴重な文書が伝えられている。ともに、中世・近世の京都寺院の状況を知る上では貴重な史料である。
方丈の北側には、宮内庁管理の亀山天皇陵と後嵯峨天皇陵がある。
■天龍寺 2
天龍寺の沿革
天龍寺は京都屈指の観光地嵯峨嵐山、に建つ臨済宗の禅刹。名勝嵐山や渡月橋、天龍寺の西側に広がる亀山公園などもかつては境内地であった。この地はその昔、檀林皇后と称された嵯峨天皇の皇后橘嘉智子が開創した禅寺・檀林寺の跡地で、檀林寺が廃絶した後、後嵯峨上皇が仙洞御所を造営し、さらに亀山上皇が仮の御所を営んだ。
歴史
創建と興隆  その地に足利尊氏を開基とし、夢窓疎石を開山として開かれたのが天龍寺で、その目的は後醍醐天皇の菩提を弔うため暦応2年(1339)に創建された。造営に際して尊氏や光厳上皇が荘園を寄進したが、なお造営費用には足りず、直義は夢窓と相談の上、元冦以来途絶えていた元との貿易を再開することとし、その利益を造営費用に充てることを計画した。これが「天龍寺船」の始まり。造営費の捻出に成功した天龍寺は康永4年(1345)に落慶した。南禅寺を五山の上として天龍寺を五山の第一位に、この位置づけは以後長く続いた。
火災と兵火  かつて広大な寺域と壮麗な伽藍を誇った天龍寺は度重なる火災に見舞われた。大きなものだけで延文3年(1358)、貞治6年(1367)、応安6年(1373)、康暦2年(1380)、文安4年(1447)、応仁2年(1468)、文化12年(1815)、元治元年(1864)の8回となる。この文安の火災と応仁の乱による被害は大きく、天正13年(1585)に豊臣秀吉の寄進を受けるまで復興できなかった。その後秀吉の朱印を受けて順調に復興するが、文化年間に被災、この再建途中の元治元年、蛤御門の変に際して長州軍の陣営となり、兵火のために再び伽藍は焼失した。以後は歴代の住持の尽力により順次旧に復し、明治9年には臨済宗天龍寺派大本山となった。しかし翌明治10年(1877)には上地令により嵐山53町歩を始め(このうち蔵王堂境内175坪をのぞく)亀山全山、嵯峨の平坦部4キロ四方の境内はほとんど上地することとなった。その結果現在の境内地はかつての10分の1、3万坪を残すこととなっている。
復興と再建  こうした逆境の中、天龍寺は復興を続け、明治32年には法堂、大方丈、庫裏が完成、大正13年には小方丈(書院)が再建されている。昭和9年には多宝殿が再建、同時に茶席祥雲閣が表千家の残月亭写しとし、小間席の甘雨亭とともに建築された。翌10年(1935)には元冦600年記念として多宝殿の奥殿、廊下などが建立されほぼ現在の寺観となった。なお塔頭の松巌寺、慈済院、弘源寺の3か寺は元治の兵火を逃れたため、室町様式あるいは徳川期のものが残る。後嵯峨、亀山両帝の御陵も元治の兵火に全焼したが、東西本願寺がいち早く再建し、方形造の廟堂は周囲の陵地とともに宮内省管轄となっている。 
 
 

 

 
   
 
万年山相国寺

 

■相国寺 1
京都市上京区にある臨済宗相国寺派大本山の寺院。山号は萬年山(まんねんざん)。足利将軍家や伏見宮家および桂宮家ゆかりの禅寺であり、京都五山の第二位に列せられている。相国寺は五山文学の中心地であり、画僧の周文や雪舟は相国寺の出身である。また、京都の観光名所として著名な鹿苑寺(金閣寺)、慈照寺(銀閣寺)は、相国寺の山外塔頭(さんがいたっちゅう)である。
永徳2年(1382年)、室町幕府3代将軍・足利義満は、花の御所の隣接地に一大禅宗伽藍を建立することを発願。竣工したのは10年後の明徳3年(1392年)であった。
義満は、禅の師であった春屋妙葩に開山となることを要請したが、妙葩はこれを固辞。妙葩の師夢窓疎石を開山とするなら、自分は喜んで2世住職になると返したため、疎石が開山となった。尤も、2世住職・妙葩も相国寺伽藍の完成を見ずに嘉慶2年(1388年)に没している。3世住職にはもう1人の禅の師である義堂周信の推挙によって空谷明応が任じられた。空谷明応は3度住持を務め、伽藍完成から2年後の応永元年(1394年)の火災で伽藍の大半が焼失した際も義満に乞われて住職に復帰して再建にあたっている。
火災はその後も多々起こり、応永32年(1425年)にも再度全焼している。応仁元年(1467年)には相国寺が応仁の乱の細川方の陣地となったあおりで焼失(相国寺の戦い)。天文20年(1551年)にも細川晴元と三好長慶の争いに巻き込まれて焼失(相国寺の戦い)、ここまでで都合4回焼失している。天正12年(1584年)、相国寺の中興の祖とされる西笑承兌が住職となり、復興を進めた。現存する法堂はこの時期に建立されたものである。その後も元和6年(1620年)に火災があり、天明8年(1788年)の「天明の大火」で法堂以外のほとんどの堂宇を焼失した。現存の伽藍の大部分は19世紀はじめの文化年間の再建である。
また、義満によって応永6年(1399年)に建てられた七重大塔も、応永10年(1403年)に落雷で焼失したが、七重大塔は全高(尖塔高)109.1m(360尺。比較資料:1 E2 m)を誇り、史上最も高かった日本様式の仏塔である。大正3年(1914年)の日立鉱山の煙突(高さ155.7m)竣工までのおよそ515年間、高さ歴代日本一の構築物の記録は破られなかった。七重大塔は北山山荘(後の鹿苑寺)内に塔を移して再建された(北山大塔)が義満没後の応永23年(1416年)に再び落雷で焼失、その後、足利義持の意向で相国寺の元の場所にて再建された3代目の塔も文明2年(1470年)にまたもや落雷で焼失している。
■相国寺 2
臨済宗相国寺派の大本山
相国寺は、京都五山第二位に列せられる名刹です。正式名称は萬年山相國承天禅寺。十四世紀末、室町幕府三代将軍の足利義満により創建されました。幾度も焼失と復興の歴史を繰り返しましたが、現存する法堂は日本最古の法堂建築として一六〇五年に再建された物を今に伝えています。夢窓疎石を開山とし、創建当時は室町一条あたりに総門があったといわれ、北は上御霊神社の森、東は寺町通、西は大宮通にわたり、約百四十四万坪の壮大な敷地に五十あまりの塔頭寺院があったと伝えられています。
相国寺の名前の由来
「相」は「しょう」と読みます。顔の相、人相など、形を意味するときは「そう」と発音しますが、宰相、首相等という時は「しょう」と発音します。「相国」とは国をたすける、治めるという意味です。中国からきた名称ですが日本でも左大臣の位を相国と呼んでいました。相国寺を創建した義満は左大臣であり、相国であることから、義満のお寺は相国寺と名付けられました。また義満の時代は中国では明の時代でしたが、このとき、中国の開封に大相国寺という中国における五山制度の始まりのお寺がありました。この大相国寺の寺号を頂いて「相国寺」と名付けられたのです。中国、開封市の「大相国寺」は現在も存在しており、相国寺とは友好寺院の締結をしています。両寺院には友好の碑があります。
相国寺のあゆみ
京都駅の前にのび、京都の真中を縦貫する大通り、烏丸通りを北上すると、ほぼ京都の中心あたりに京都御所があります。京都御所の北の門、今出川御門の前の通りを北上すると相国寺があります。この地はもと、伝教大師開創の出雲寺、源空上人の神宮寺(後の百万遍知恩寺)、安聖寺の旧跡にまたがっています。創立当時の相国寺は南は室町一条あたりに総門があったといわれ、北は上御霊神社の森、東は寺町、西は大宮通にわたり、約百四十四万坪の寺域がありました。現在でも東門前には「塔之段」という町名が残っており、かつての七層宝塔の旧跡といわれています。「毘沙門町」は毘沙門堂址であると言われています。現在は相国寺の南には同志社大学、北には京都産業大学附属中学・高校がありますが、これら学校の敷地の大部分は天明の大火以後復興できなかった寺院や、明治維新後廃合した寺院の址地です。幕末に諸堂が再建され旧観を復するにいたったのですが、現在の寺域は約四万坪あります。境内には本山相国寺をはじめ、十三の塔頭寺院があり、山外塔頭に鹿苑寺(金閣寺)、慈照寺(銀閣寺)、真如寺があります。また全国に百カ寺の末寺を擁しています。
   将軍足利義満
義満は延文三年(1358)足利二代将軍義詮(ヨシアキラ)を父に、石清水八幡宮検校通清の娘良子を母として生まれ、幼名を春王と呼ばれました。南北両朝の抗争が相次ぐ康安元年、義満三歳の時、楠正儀、細川清氏らに大挙して京都を攻められ、将軍義詮は近江へ逃れました。義満は従者に抱かれ建仁寺の蘭洲良芳のもとに逃れましたが、良芳和尚は義満に僧衣をかぶせて五日間かくまい、ひそかに播州白旗城の赤松則祐のもとに送り届けました。そして翌年義満は無事京都に帰還しています。貞治六年(1367)義満は天龍寺において時の住持春屋妙葩より受衣しています。そしてこの春屋妙葩とその弟弟子義堂周信は義満にとって終生の変わらぬ精神的支えとなったのです。この年父義詮は病没し、翌年義満は十一歳で将軍職を継ぎますが、父の遺言により、管領細川頼之が補佐役として幼君を助け、義満を立派な将軍に育て上げるとともに、幕府の権威の向上に努めました。十一才で将軍職を継いだ義満は細川頼之の補佐を受けながら、地方の有力な守護大名を制御して将軍としての地位を確立していきました。そして応安四年(1371)室町北小路に造営中の室町第を完成させ、ここに幕府を移します。そこは大きな池を掘って鴨川の水を引き、庭には四季の花を植え、それらの花が爛漫と咲き乱れたといいます。その様を見て人々は「花の御所」と呼びました。この時まだ南北両朝の分裂は続いており、細川頼之らの努力でようやく統一の兆しが見え始めていた頃でもありました。
   寺号
義満は将軍としての地位を固めるとともに、一方その精神的支柱として師と仰ぐ春屋妙葩について参禅弁道に励みました。そして自らの禅的賛仰の発現として一寺の建立を思い立ったのです。永徳二年(1382)九月、嵯峨の三会院において夢窓国師の法要が営まれた際、参詣した義満は、春屋妙葩、義堂周信を招きよせ「一寺を建立して道心堅固な僧侶五十名ないし百名を止住させ、自らもまた何時となく道服を着けて寺に入り、皆とともに参禅修行をしたいのだがどうか」と相談しています。二人の賛意を得て、同年十月再び二人を招き天皇の勅許を仰ぐ意向と寺号について相談をしています。春屋は「あなたはいま左大臣の位にいます。左大臣は中国では相国と言いますゆえ、相国寺と名づけてはいかがか」と答えています。また義堂周信は「中国にも大相国寺という寺があり大いに結構、天皇に勅許をいただくなら、承天相国寺としてはどうか」と助言しています。義満は二人に励まされ大伽藍の創立を決意したのです。※中国の相国寺は現在も河南省開封市にあり姉妹寺院として交流しています。
   義満と相国寺
義満は当時、室町幕府「花の御所」と呼ばれた室町第(現在の室町通り上立売あたり)にいましたが、新寺はその近くに建てるべく、幕府の東隣にあたる安聖寺付近と定め、家屋の移転がはじめられました。当時は御所に仕える公家たちの屋敷が立ち並んでいたのですが貴賎によらずみな他所へ移され、そのありさまは、まさに平家の福原遷都にもにた、強引なものであったようです。永徳二年(1382)十月には早くも法堂、仏殿の立柱が行われ春屋妙葩が最高責任者として指揮をとり、義満も工事の視察をしています。また伊予の河野族は材木を搬し、天下の諸侯に課して工役に服せしめています。同年十二月春屋妙葩が住持として入寺、至徳元年(1384)大仏殿立柱、この時寺号を万年山相国承天禅寺と定めています。至徳三年(1386)には三門の立柱上棟を行っていますが、この時、春屋妙葩は七十六歳の高齢で、法灯を空谷明応にゆずって退職されました。明徳三年(1392)ついに完成をみた相国寺は、勅旨により慶讃大法会が修せられています。その後相国寺第六世絶海中津は七層の大宝塔の建立計画を進めました。
   焼失と再建
草創まもない相国寺は応永元年(1394)、寮舎からの出火で、堂塔伽藍全部を焼失。当時住持を退き等持院にいた相国寺第六世の絶海中津は、義満に「ぜひ復興を」と、励ましました。義満はそのとき三十七歳でした。翌年には仏殿、開山堂が立柱、応永三年(1396)には法堂が再建されています。応永六年に大塔が完成し、高さ三百六十尺(百九m)といわれ、天下の壮観なりと言われましたが、応永十年、落雷によって焼失しました。こうして応永十四年(1407)頃相国寺は旧観に復興しました。翌年義満が五十一才で逝去しています。しかし応永三十二年(1425)の出火でまたも全焼、そして当時の住持誠中中と四代将軍義持、その後六代将軍義教によって再建の努力がされました。また足利義政によって再建が進められ、寛正四年(1463)法界門などが完成し再び大禅刹が出現したのです。 しかし応仁元年(1467)一月十八日に火ぶたを切った応仁の乱、天文十八年(1549)の天文の乱でまたもや相国寺は全焼してしまったのです。このように内部からの失火で二回、兵火で二回全焼してしまった相国寺の本格的な復興が始められたのは、天正十二年(1584)、第九十二世西笑承兌が入寺してからです。西笑承兌は、千利休らと共に秀吉に仕え、外交文書の作成を行ない、秀吉の有力なブレーンとして重く用いられました。そして、秀吉亡き後は、家康に仕え黒衣の宰相と呼ばれた人です。この西笑承兌によって相国寺再建の資金が集められ、豊臣秀頼の寄進により慶長十年(1605)、法堂が完成し、慶讃大法会が行われました。西笑承兌は、相国寺を再興した中興の祖といわれています。
   焼失と再建
この時建てられた法堂は現存し、現在では、日本最古の法堂として、桃山時代にできた禅宗様建築としては、最大最優秀作といわれています。法堂は松林に囲まれ、その威風堂々たる伽藍建築は、重要文化財に指定されています。その後、1788年に天明の大火の惨禍にみまわれましたが、この法堂は、かろうじて難を逃れました。その後、第百三世梅荘顕常、第百五世維明周奎らによって再建が進められ、文化四年(1807)恭礼門院(桃園天皇皇后)の旧殿を賜り、開山堂として再建、方丈、庫裏等が再建されています。現在のものはいずれもこのときのものです。
   明治時代
明治時代になってから、明治政府の廃仏毀釈により、全国の寺院は苦境に立つことになりました。当時の教部省に信教の自由を認めるよう抗議したのが、相国寺第百二十六世独園承珠でした。独園承珠は、明治政府の廃仏毀釈に対して、全仏教界からの信頼を一身に負い、大教正となり、仏教の信仰の自由を取り戻しただけでなく、廃仏毀釈によって危機に瀕した相国寺の財政の再建にも尽くしました。
臨済宗相国寺派
相国寺は臨済宗相国寺派の禅寺です。初祖達磨大師が中国に伝えた、いわゆる禅宗を起源とする一派で、日本に伝わったものは臨済宗をはじめ曹洞宗、黄檗宗などがあります。臨済宗は、正法とされるお釈迦さまの正しい教えを受け継ぎ、宗祖臨済禅師をはじめ、禅を日本に伝来された祖師方、そして日本臨済禅中興の祖・白隠禅師から今日にいたるまで、師から弟子へ連綿と伝法された一流の正法を教えとしています。そして本来備わる純粋な人間性を、坐禅を通して自覚し悟ることを宗旨とする宗派です。宗祖である臨済禅師の言葉に「赤肉団上に一無位の真人あり。常に汝等諸人の面門より出入す。未だ証拠せざる者は、看よ看よ」というのがあります。我々に本来備わる、この一無位の真人を自覚することがまさに臨済宗の宗旨なのです。
教化活動と坐禅会
現在相国寺では、幅広い様々な活動を行っています。毎月二回開かれている在家を対象にした坐禅会である「維摩会」は、明治時代、初代管長である獨園禅師が始められた由緒ある坐禅会です。また最近では東京維摩会として、東京別院での坐禅会も開催しています。平成十一年からは、激しく変化する現代社会に起こる様々な問題に対し、広い宗教的視野に立って適切に対処する能力を失わないため「教化活動委員会」を立ち上げ、宗教界のみならず様々な分野の諸先生方のご協力のもと、定期的な研修会の開催やその講義録の出版などを行っています。また京都仏教会の役員として、宗教と政治の問題や、現代社会の様々な問題にも取り組み、宗教者として、発言し活動を行っています。
歴史的文化財との出会い
相国寺はたびたび火災に遭い創建当時のものは残っていませんが、慶長十年(一六〇五)に豊臣秀頼の寄進により再建された法堂は最古の法堂として重要文化財に指定されています。また現在の方丈、庫裡、開山堂、勅使門、総門、浴室、鐘楼、蔵経塔、弁天社は京都府指定有形文化財となっています。その他、相国寺、鹿苑寺、慈照寺の宝物は承天閣美術館に収蔵され、定期的に公開されています。鹿苑寺書院にあった伊藤若冲による襖絵や、長谷川等伯による竹林猿猴図、円山応挙の諸作品やその他多くの国宝、重要文化財等と承天閣美術館において出会うことができます。
相国寺の境内塔頭
金閣寺、銀閣寺がともに相国寺の塔頭寺院であることは、あまり一般に知られていないのではないでしょうか。相国寺は室町幕府三代将軍足利義満により創建され、金閣寺もほぼ時を同じくして義満により創建されました。銀閣寺はその後年、同じく室町幕府八代将軍である足利義政により創建されています。足利歴代将軍が創建した禅宗寺院として、本山である相国寺の塔頭寺院となり今に至っています。そして現在においては、相国寺の山外塔頭として相国寺僧侶が任期制をもって相国寺とともに金閣寺、銀閣寺の運営と後世への継承にあたっています。  
 
 

 

 
   
 
東山建仁寺

 

■建仁寺 1
京都府京都市東山区にある臨済宗建仁寺派大本山の寺院。山号を東山(とうざん)と号する。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は源頼家、開山は栄西である。京都五山の第3位に列せられている。俵屋宗達の「風神雷神図」、海北友松の襖絵などの文化財を豊富に伝える。山内の塔頭としては、桃山時代の池泉回遊式庭園で有名であり、貴重な古籍や、漢籍・朝鮮本などの文化財も多数所蔵していることで知られる両足院などが見られる。また、豊臣秀吉を祀る高台寺や、「八坂の塔」のある法観寺は建仁寺の末寺である。寺号は「けんにんじ」と読むが、地元では「けんねんさん」の名で親しまれている。なお、しばしば日本最初の禅寺と言われるが、これは間違いで博多の聖福寺が最初の禅寺である。
日本に臨済宗を正式に伝えたのは栄西がはじめとされている。栄西は永治元年(1141年)、備中国(岡山県)に生まれた。13歳で比叡山に上り翌年得度(出家)。仁安3年(1168年)と文治3年(1187年)の2回、南宋に渡航した。1度目の渡宋はわずか半年であったが、2度目の渡宋の際、臨済宗黄龍派(おうりょうは)の虚庵懐敞(きあんえじょう)に参禅した。建久2年(1191年)、虚庵から印可(師匠の法を嗣いだという証明)を得て、帰国する。当時、京都では比叡山延暦寺の勢力が強大で、禅寺を開くことは困難であった。栄西ははじめ九州博多に聖福寺を建て、のち鎌倉に移り、北条政子の援助で正治2年(1200年)に建立された寿福寺の開山となる。
その2年後の建仁2年(1202年)、鎌倉幕府2代将軍・源頼家の援助を得て、元号を寺号として、京都における臨済宗の拠点として建立されたのが建仁寺である。伽藍は宋の百丈山に擬して造営された。
創建当時の建仁寺は天台、真言、禅の3宗並立であった。これは当時の京都では真言、天台の既存宗派の勢力が強大だったことが背景にある。創建から半世紀以上経た正元元年(1259年)には宋僧の蘭渓道隆が11世住職として入寺し、この頃から純粋禅の寺院となる。
建仁寺は、応仁の乱による焼失のほか、応永4年(1397年)、文明13年(1481年)などたびたび火災にあっており、創建当時の建物は残っていない。 天正年間(1573〜92)に安国寺恵瓊が復興に努め、江戸時代にも修理が継続して行われた。
■建仁寺 2
建仁寺は建仁2年(1202年)将軍源頼家が寺域を寄進し栄西禅師を開山として宋国百丈山を模して建立されました。元号を寺号とし、山号を東山(とうざん)と称します。創建時は真言・止観の二院を構え天台・密教・禅の三宗兼学の道場として当時の情勢に対応していました。その後、寛元・康元年間の火災等で境内は荒廃するも、正嘉元年(1258年)東福寺開山円爾弁円(えんにべんえん)が当山に入寺し境内を復興、禅も盛んとなりました。
正元元年(1259年)宋の禅僧、建長寺開山蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が入寺してからは禅の作法、規矩(禅院の規則)が厳格に行われ純粋に禅の道場となりました。やがて室町幕府により中国の制度にならった京都五山が制定され、その第三位として厚い保護を受け大いに栄えますが、戦乱と幕府の衰退により再び荒廃します。
ようやく天正年間(1573−1592年)に安国寺恵瓊(あんこくじえけい)が方丈や仏殿を移築しその復興が始まり、徳川幕府の保護のもと堂塔が再建修築され制度や学問が整備されます。
明治に入り政府の宗教政策等により臨済宗建仁寺派としての分派独立、建仁寺はその大本山となります。また廃仏毀釈、神仏分離の法難により塔頭の統廃合が行われ、余った土地を政府に上納、境内が半分近く縮小され現在にいたります。
開山栄西禅師
開山千光祖師明庵栄西(みんなんようさい)禅師。永治元年(1141年)4月20日、備中(岡山県)吉備津宮の社家、賀陽(かや)氏の子として誕生しました。11歳で地元安養寺の静心(じょうしん)和尚に師事し、13歳で比叡山延暦寺に登り翌年得度、天台・密教を修学します。 そののち、宋での禅宗の盛んなることを知り、28歳と47歳に二度の渡宋を果たします。2回目の入宋においてはインドへの巡蹟を目指すも果たせず、天台山に登り、万年寺の住持虚庵懐敞(きあんえじょう)のもとで臨済宗黄龍派の禅を5年に亘り修行、その法を受け継いで建久2年(1191)に帰国しました。
都での禅の布教は困難を極めたが、建久6年(1195年)博多の聖福寺(しょうふくじ)を開き、「興禅護国論(こうぜんごこくろん)」を著すなどしてその教えの正統を説きました。また、鎌倉に出向き将軍源頼家の庇護のもと正治2年(1200年)寿福寺が建立、住持に請ぜられます。
その2年後、建仁寺の創建により師の大願が果たされることになりました。その後、建保3年(1215年)7月5日、75歳、建仁寺で示寂。護国院にその塔所があります。また師は在宋中、茶を喫しその効用と作法を研究、茶種を持ち帰り栽培し、「喫茶養生記(きっさようじょうき)」を著すなどして普及と奨励に勤め、日本の茶祖としても尊崇されています。
禅の教え
最小限、最低限のもので生活していくというのが私たちのやり方ですね。贅沢というものは煩悩、妄想であって、それを外すというのが私たちの大きな目標です。眠るのも最低限。寝る場所も畳一畳。寝て一畳、起きて半畳といいますから。修行道場の禅堂では、みなの生活するところは本当に畳一枚が自分の場所として与えられ、就寝も食事も座禅もそこで行います。持ち物は体にくっつけられるものだけ。余分なものは持たない。それでじゅうぶん、生活できるんです。我慢しているわけではない。不自由ではないんですね。
簡素に生きる。これがいちばんの贅沢だと思います。なかなかできないかもしれませんが、やってみると一番の贅沢だということがわかると思います。満足の上限をおさえれば、心穏やかでいられます。寒い時に寒くなる。当り前のことです。でも、暖房を入れたら、少しでは満足できない。暑い時にも中途半端な涼しさでは満足できない。いっそのこと暑いときには暑い生活をしてしまえばいいんです。庭に水をうつ。それで涼が得られたんですからね。
茶祖
建仁寺開山・栄西禅師が、中国から茶種を持ち帰って日本において栽培を奨励し、喫茶の法を普及された事はあまりにも有名です。開山以前、我が国に茶樹がなかったわけでも、喫茶の風がなかったわけでもありません。我が国に茶の種が入ったのは、古く奈良朝時代と思われます。下って平安時代には、貴族・僧侶の上流社会の間に喫茶の風が愛用されました。
開山が少年時代を過ごされた叡山にも、伝教大師以来、古くから茶との結びつきがありました。この伝統の影響を受けられた開山が、茶種の招来、喫茶の奨励、いままでごく一部の上流社会だけに限られていた茶を、広く一般社会にまで拡大されたということができます。
喫茶の法の普及と禅宗の伝来とは深い関係がありました。禅宗僧侶の集団修道生活の規則は、すでに中国において唐代に確立し、これを清規といいます。「清規」とは清浄なる衆僧の規則という意味で、その清規の中に茶礼・点茶・煎茶や茶についての儀式が多くあります。特に座禅の際行う茶礼は、眠気覚ましには特効薬的意味もあって、修道にはなくてはならない行事です。
また座禅修行者に限らず、一般の人に対して茶は保健上から良薬であると、茶徳を讃得たのが開山の『喫茶養生記』です。上下二巻にわたり、喫茶の法、茶樹の栽培、薬効等茶に関する総合的著述になっています。そして「茶は養生の仙薬・延齢の妙術である」という巻頭語の所以を詳述しました。
開山は再入宋後、茶種を持ち帰り、筑前の背振山に植えられました。 これが「岩上茶」のおこりだといわれます。 また、開山が栂尾の明恵上人に茶種を贈られたことも有名で、「栂尾茶」の始まりといわています。宇治の茶は、この栂尾から移されたものです。茶は今日では日本人の日常生活に欠くことのできない飲料であるばかりでなく、茶道の興隆と共に、東洋的精神の宣揚にも役立っています。 建仁寺開山・栄西禅師が日本の茶祖として尊崇されるのはそのためです。
わだかまりのない心で
本年はNHK大河ドラマ「平清盛」が放映されており、その影響もあってか、平家ゆかりの地はどこも多くの観光客で賑わっているようです。建仁寺にも平清盛の嫡男である重盛の館門の遺構とされる勅使門があり、わざわざ遠方より訪ねて来られる方もいらっしゃいます。
さて、その大河ドラマの冒頭に出てまいります「平清盛」という題字を書かれている方が書家の金澤翔子さんです。近年、マスコミ等でも多く取り上げられている方ですので、ご存じの方も多いと思います。
彼女は現在二十七歳。ダウン症というハンデを抱えながらも幼い頃よりお母様に書道の手ほどきを受けられ、書家として活躍をされています。小柄な彼女ですが、ひとたび筆を持たれますと驚くほど力強く、躍動感に溢れた作品を書かれます。建仁寺にも今から四年前に鎌倉建長寺様より翔子さんをご紹介いただき、「風神雷神」の書を奉納して下さいました。この有難いご縁によりまして毎年当山にて個展を開いて頂いております。
そんな翔子さんの作品の中に般若心経の一節「心無礙」から取った「無礙」という書があります。「礙」は「さえぎる、さまたげる」という意味ですから、「心に礙が無い」とは「心にわだかまりが一切ない」という境地をさします。
彼女はまさしくそんなお心を持った方です。どの作品を見ても、線に一切の迷いや雑念はなく、自由で大らかに書き上げられています。また彼女は誰に対しても分け隔てなく慈愛に満ちた笑顔で接しておられ、その屈託のない笑顔には何のわだかまりもない清浄な仏の心が表れているかのようです。
それに対して、日常の私たちの心はどうでしょうか。いつの間にか自己の中に芽生えた「自我」によって、あらゆるものを偏見で判断してはいないでしょうか。この偏見の事を「分別心」といいます。これによって私たちは「好き・嫌い」「可愛い・憎い」などの二元対立の心を持ち、知らず知らずのうちに物事を選り好みしているのです。この「分別」という言葉は一般的には「物事の是非、道理をわきまえる」といったよい意味で使われていますが、仏教においては迷いや苦しみを生み出す原因とされているのです。
現代社会においては人間関係での悩みを持たれている方も多いと思いますが、これも自らの分別心という「ものさし」によって人を判断し、優劣をつけてしまっていることが原因です。
江戸時代の禅僧である良寛禅師は「いかなるが苦しきものと問うならば、人を隔つる心と答えよ。」という詩を残されています。「どのような事がつらいものであるかと人に聞かれたら、人を分け隔てて遠ざける心であると答えなさい。」という意味です。やはりいかなる場面においても人を分け隔てすることなく、心を一つにもって選り好みをしない事が肝要であり、それが良い人間関係をつくっていく上での基本となるのではないでしょうか。
私たちは日々の中で次々と生まれてくるこの分別心をできる限り取り去り、物事をありのままに受け入れていく事ができれば、人間誰しもが本来持っている清浄でわだかまりのない心を取り戻すことができるのです。そしてこれによって毎日心穏やかに過ごすことができ、ご自身の人生がより豊かなものになってくるはずです。 
 
 

 

 
   
 
塩山向嶽寺

 

■向嶽寺 1
山梨県甲州市にある禅寺で臨済宗向嶽寺派の大本山。山号は塩山。本尊は釈迦如来。非公開寺院のため建物内部や庭園は原則的に拝観不可である。
甲斐国では鎌倉時代に臨済宗が広がるが、向嶽寺は南北朝時代の1378年(永和4年)に、晩年の抜隊得勝(ばっすいとくしょう)が塩山高森(甲州市塩山竹森)に建てたことに草庵に始まる。抜隊は相模国を拠点に活動を行っていたが、かねてから甲斐への移住を希望していたという。
同所の不便のため弟子の宝珠寺(山梨市の)の住持・松嶺昌秀(しゅうれいしょうしゅう)が周旋し、1380年(康暦2年)正月20日に甲斐国守護武田信成から寄進された塩ノ山へ移り、向嶽庵と号した。信成は絵図を作成して寺領を確定し、本尊の釈迦如来像を寄進したという。また、抜隊の死後に供養を行っている。「嶽」は富士山を意味し、抜隊がかつて霊夢を見たことに因む。
南朝方との関わりが深く、後亀山天皇の勅願寺となったという。武田氏の保護もあり多くの塔頭・末寺を有した。
室町時代後期の明応年間には甲斐守護・武田信昌の子である信縄と油川信恵間で抗争が発生し、「向嶽寺文書」によれば、都留郡の国衆・小山田信長がこれに乗じて都留郡田原(都留市田原)の向嶽寺領・田原郷を横領した。明応7年(1498年)に信縄・信恵間で和睦が成立すると、翌明応8年(1499年)9月24日に信長は横領文を還付している。
江戸時代中期には末寺離れが相次いだ。また、度々火災に遭っているが、その都度復興されている。明治に入り京都南禅寺に属していたが、1908年(明治41年)に独立して臨済宗向嶽寺派の大本山となった。
■向嶽寺 2
向嶽寺は山号を塩山と称し、塩ノ山南麓に所在する。臨済宗向嶽寺派の大本山で、開山は抜隊得勝禅師(恵光大円禅師)、開基はときの守護武田刑部大輔信成である。
抜隊禅師は永和4(1378)年に甲斐に入り、はじめ市内竹森の地に草庵を結んだが、康暦2(1380)年、武田信成から寺地の寄進を受け、向嶽庵を命名し創建した。寺名は「富嶽に向かう」からきている。
禅師の門下には俊英が輩出し、武田家歴代、特に晴信の厚い保護を受け、寺領が安堵され法度・禁制が出された。
江戸時代に入るとたびたび火災に遭い、天明6(1786)年の大火で仏殿以下を焼失。近年では大正15年に天明の大火以降再建された大方丈を焼失しているが、復旧事業によりかつての隆盛が甦りつつある。
明治5(1872)年に輪番住職制を改め独住制となり、京都南禅寺の所轄となったが、同41年管長を置いて名実ともに別派独立の大本山となった。創建以来600年の歴史を持つ当山の有する文化財は国宝以下24件を数える。
塩ノ山について
塩ノ山は塩山市街地の中央に位置する孤山で、標高554.7メートル、塩山温泉街からの比高143メートルを測る。
名前の由来については諸説あるが、平地にポツリとあるので「四方からみえる山:しほうのやま」からきていると云われている。さらに康歴2(1380)年抜隊得勝禅師が向嶽寺(当時は向嶽庵)を開山した際、「しほのやま」に「塩山」の字を充て、音読みである「えんざん」を山号とした。現在、重要文化財向嶽寺中門に架かる扁額に、抜隊禅師書の「塩山」を見ることができる。
『古今和歌集』に「志ほの山差出の磯にすむ千鳥君が御代をば八千代とそなく」という歌がある。この歌は「賀部」に含まれ、めでたい歌としてよく知られていた。そのため、宮廷歌人にとって塩ノ山と差出の磯(山梨市)は「桃源郷」のような理想郷のごとく扱われ、多くの歌人が好んで引用した地名となりその後の賀部の和歌にたびたび登場することとなった。さらに室町時代になると、京都から遠く離れたまだ見ぬ理想郷の風景を空想・具現化し、「塩山蒔絵」のように美術工芸品の意匠にまで発展した。この意匠では、差出の磯は荒波が立つ海辺、塩ノ山は海上に突き出す急峻な岩として表現されている。
全山を覆っているアカマツは天然のもので、学術上価値が高いものである。このアカマツ林をぬってハイキングコースが設けられており、四季折々の風景を楽しめる場となっている。
■向嶽寺 3
臨済宗向嶽寺派の大本山「向嶽寺」。そのまま読めば「山に向かって立つ寺」いう意味です。仏殿、いくつかの門、参道を一直線に結ぶ方向に、富士山があるから、それで「向嶽寺」というのです。境内の北側は、塩山の地名の由来ともなった「塩ノ山」があります。後ろに山を背負い、富士に向かうというロケーションにあるお寺なのです。
数ある建造物の中で「塩ノ山」にいちばん近い建物が「方丈」です。ここは本尊が安置されている寺院ではなく、僧侶が修行を営んだり、執務をしたり、檀家や客人と応接したりするより人間寄りの建物です。この方丈から見える塩ノ山の山裾の一帯が、塩ノ山を借景とする庭園となっています。
長いこと荒れ果て、大半が土の堆積に埋没していたこの庭園を復元し、庭を望む方丈の再建が成った平成6年(1994年)6月6日に、それまで山梨県指定の名勝であったのが、国の名勝庭園に格上げとなるまでに整備したのが、向嶽寺派の当代管長の宮本鉄心大峰です。
宮本管長は、管長として就任された当初から、方丈と庭園の再建を志し、その端緒として平成2年(1990年)より2年間に及ぶ発掘調査を実施。その成果として、この庭園が桃山から江戸初期の作であることや、その石組みや池や滝を配した構造が判明。長く枯山水と思われていましたがそうではなく、当初は塩ノ山から水を引き入れていたことも分かりました。
調査結果を基にした庭園の復元に続いて、元の姿を取り戻した庭園を望む形で、方丈の新築工事が行われました。工事を監修したのが、管長と親交のあった、田中文男棟梁です。「向嶽寺」のロケーションの中でのこの方丈のあるべき位置ということにとことんこだわって建物を考えられていたということが印象的でしたね。建物そのものではなく、そこから見える世界を作られたのです。ですから、新築になった方丈の最高の場所とされる書院に座して外を眺めた時に、この庭が最高によく見えるのです。
三尊石と呼ばれる大きな岩。その下段にある石組み。そして、四季折々の自然が変化する、塩ノ山の美しい景色。禅の庭は仏教的な世界観を体現するものと言いますが、そこのところは、私には理解はできません。それでも、畳に座っていながらにして、庭全体がパノラミックに展開する美しさ、雄大さ、迫力は十分に伝わってきます。
田中文男さんは、その建築への純粋な情熱にあふれた方でした。時として、その情熱ゆえのこだわりが、計画を時間どおりに遂行させるのを難しくすることもありました。そんな時には、きまって、工事責任者である私が「慌てるんじゃねえ。せかしたところで、いい結果は出ねえよ」と一喝されることになります。棟梁と施主である檀家衆との板挟みで胃が切れるような場面もありましたが、出来上がった方丈とそこからの庭園や山の眺めに、その苦労も報われる気持ちがいたします。
向嶽寺は、後ろに「塩の山」を控え、正面に富士山を臨むというロケーションに立つ、臨済宗の大本山のひとつです。表から見ると、まず総門があり、うっそうとした木立の中に続く道が、左右に築地塀を従えた中門にまで至ります。中門を入ると、ひょうたん形の放生池、そこに掛かる太鼓橋を渡ると、正面に、塩の山を背景に堂々とそびえる仏殿(開山堂付き)に至ります。総門から仏殿まで、向嶽寺という名前の通り、富士山に向かって真南にほぼ一直線上に並んでいます。
中門は室町時代の作です。なかなか中世の甲州らしい、豪壮な形をしています。通常、こうした門は、屋根を見上げた時に細身の垂木が数多く繊細に並ぶ様を見せるものですが、ここでは、力強く太い蝦虹梁と同様に、たいへん太い反りのある垂木が五本で重たい屋根を支えています。シンプルで飾り気のない、構造が即、意匠になった形です。虹梁に刻まれた唐草模様も、装飾的ではなく、ごく単純な美しい円形をしています。
中門の右手の通用門から境内に入ってみましょう。池の向こうに見える仏殿は、いかにも大きくて立派です。まずは正面の二層になった屋根の美しい曲線が見えていますが、近づくにつれ、だんだんに地垂木と飛檐垂木とが重層する軒裏が見えてくるのが、ドラマティックです。肘木や斗組みが積み重なりながら、大きな屋根を支えている姿がアップで迫ってくるのは、力強く、豪壮です。真正面に立つと一層目の屋根の下端がきれいに水平に見えるのも、隅から見上げた時に屋根の先端が禅宗様式の特徴でキュッと反り上がっているのも、たいへん美しいです。
建物の中に入ると黒い敷石が斜め張りされたほの昏い空間の中央に、高くお釈迦様の像が安置されています。その周囲を、上層の高い屋根を支える太い欅の丸柱が林立しています。寺院の中に居ながら古い森に迷い込んだようです。
建物の奥は抜粋禅師を祀る開山堂です。実はこの建物、仏殿の後ろに開山堂が合体した形になっているのです。建物の外に出て側面にまわると、正面の姿から想像する以上に奥行きがあって驚きます。側面に沿って歩くと、下の層の屋根を支える欅の丸太柱が等間隔で並んでいるのが、リズミカルでおおらかな感じです。
この建物は、甲州市の指定文化財になっています。約200年前にこれを造ったのは弊社の先祖で石川源三郎、大正年間に屋根の上層部分が火事で焼けたのを復元したのが私の曾祖父の石川孝重であります。弊社が身延町の下山に本拠を持ちながらも、遠く塩山の地でも事業を継続しているのは、こんな因縁があるからに他なりません。 
 
 

 

 
   
 
御許山佛通寺

 

■佛通寺 1
広島県三原市にある寺院で、臨済宗佛通寺派の本山。山号は御許山。本尊は釈迦如来。中国三十三観音霊場第十二番札所、山陽花の寺二十四か寺第二十一番札所。紅葉時期の景観はすばらしく、県内屈指の紅葉の名所として多くの参拝者や観光客が訪れている。御詠歌 / わがつみを お許しうけて 今日よりは 仏にかよう こころうれしき。
佛通寺は、1397年(応永4年)小早川春平の開基、愚中周及の開山により創建された。春平は奉公衆として京都で足利将軍家に仕えており、同僚の那珂宗泰と親しかった。春平は宗泰から、那珂氏の所領にある天寧寺にいる愚中の名声を聞き及び、彼を招いて氏寺を建立することで、南北朝時代の動乱のさなか自立性を強めた一族内の結束を図ろうとした。佛通寺の名は、愚中周及の師である即休契了を勧請開山とし、その諡号「仏通禅師」から取られており、場所は佳き山水の地を選んで建立された。1409年(応永16年)には後小松天皇から紫衣の着用が許されたが、同年愚中は示寂、以後弟子たちは愚中派として臨済宗の中で一派を形成した。1441年(嘉吉元年)足利将軍家の祈願所となり、小早川氏のほか毛利氏の保護も受けの帰依を受けて、最盛期には塔頭88、西日本に末寺約3000寺に上ったという。しかし、応仁の乱以降寺勢は衰え、小早川隆景の代でやや盛り返すも、その後の権力者の変転の中で取り残されていった。明治に入ると法灯は盛り返し、1876年(明治9年)一時天龍寺派に属するも、1905年(明治38年)には天龍寺から独立して臨済宗佛通寺派を称し、その本山となった。
■佛通寺 2
水墨画によくある中国の風景に似た岩山肌の山間道を、曲りくねった渓流に沿って山中に入ること、山陽道より約8キロ、うっそうと樹木の繁る佛通寺の門前に至る。巨大な千年杉の林立、あたり一帯厳しい禅刹の気魄が漂う。
御開山大通禅師お手植と伝えられる、羅漢槙の大樹の傍の巨蟒橋(きょもうきょう)を渡ると佛通寺山門。巨蟒橋はその名の通り、聖地の結界に巨大なうわばみが横たわり、仏法を守護せんとしているもの。この橋を渡ることで、偏(ひとえ)に身も心も清浄無垢になり、仏殿に修行を誓う解脱の門に等しい橋となる。
山門を入ると、仏殿が厳然と鎮まる。碧巌古松(へきがんこしょう)の参禅道場として600年の法灯の歴史を刻む、臨済宗の大本山である。
千年杉が亭々と林立する石径を上ると多宝塔と石仏の群、開山禅師の塔所・含暉院(たっしょ・がんきいん)は開創当時のただずまいを今に伝える。堂中には佛通禅師と大通禅師、両開山禅師の尊像が尚居ますが、如くに端坐して佛通寺の今日をじっと見守って居られる。
■佛通寺 3 仏通寺のイヌマキ
樹種 イヌマキ / 樹高 20m / 目通り幹囲 3.5m / 推定樹齢 伝承600年(このイヌマキは仏通寺開山である愚中周及のお手植と伝えられているらしい。寺の創設から経過した年数を数えると、およそこれくらいになる) / 広島県三原市高坂町許山
山陽自動車道三原久井インターチェンジの西南西約2.5m。仏通寺川の谷に、臨済宗仏通寺派大本山御許山仏通寺がある。応永4年(1397)、小早川春平(こばやかわはるひら)が愚中周及(ぐちゅうしゅうきゅう、佛徳大通禅師)を迎えて創建。勧請開山は愚中の師即休契了(しっきゅうかいりょう)。師の諡号(佛通禅師)を寺の名前とした。標記のイヌマキは、山門の手前に架かる屋根付き橋「巨蟒橋(きょもうきょう)」の袂に立っている。途中で大きく2幹に分かれ、その上部で多くの大枝に分かれている。普通、主幹は高い位置ほど細くなるものだが、このイヌマキの場合、大枝の分岐点に向かって高くなるほど、むしろ太くなってゆく。いかにも勢いに満ちた感じ。広島県から天然記念物指定を受けたのは、今から50年以上も前だ。それでもこの勢いである。さらに50年後はどうなっているのだろうか。

佛通寺の創建は、今から約600年の昔、応永4年(1397)にさかのぼる。当時、本郷(現在の広島県豊田郡本郷町)の城主であった小早川春平が、名僧愚中周及(佛徳大通禅師)に帰依して、山陽道沿いの幽邃の勝境である当地を選んで禅刹を営んだのがはじまりとされる。
開山として迎えられた愚中和尚は、かつて修行時代、中国(元朝)に渡って禅を学び、その法を嗣いだ師匠である金山寺の即休(しっきゅう)和尚(佛通禅師)の徳を慕って、寺名を「佛通寺」と定めた。
以後、小早川隆景ら歴代の小早川氏の庇護のもと、堂塔伽藍が次々と整い、宗門の勢いも西日本を中心として拡大し、最盛期には末寺3,000ヶ寺、山内の塔頭は約80ヶ寺を数えたという。
しかし、時代が下って大名が交替すると、対佛通寺政策も弾圧を極めた過酷な時代が続き、やがて末寺も50ヶ寺そこそこに縮小し、ついには明治政府の方針で、京都の天龍寺派下に吸収されてしまった。
明治38年(1905)、傑僧香川寛量和尚の尽力により、佛通寺は大本山として再び独立を果たし、寛量和尚は初代管長に就任、以来、小派ながらも法灯は歴代管長住職によって受け継がれ、今日なお老杉ゆかしき碧巖古松の参禅道場として、国内はもとより、海外からも数多くの人々が修行や参拝に訪れている。(佛通寺パンフレットより)
平成9年9月に佛通寺開創600年、開山佛通禅師650年遠忌大法会が盛大に営まれた。 
 
 

 

 
   
 
摩頂山国泰寺

 

■国泰寺 1
富山県高岡市にある禅寺で臨済宗国泰寺派の本山。山号は摩頂山。本尊は釈迦如来。
この寺は、1296年(永仁2年)慈雲妙意が二上山に立てた草庵に始まるとされる。その後、妙意は草庵を訪れた孤峰覚明の勧めを受け、覚明の師で普化宗の祖心地覚心に師事した。1299年(正安元年)二上山に戻り草庵を寺として摩頂山東松寺と号した。
1328年(嘉暦3年)後醍醐天皇から護国摩頂巨山国泰仁王万年禅寺の号が下賜されたと伝える。戦国時代には、二上山に築かれた守山城をめぐる兵火により焼失したが、神保氏の支援により復興された。
戦国時代末期の1585年(天正13年)閏8月に前田利家の命で方丈が没収され守山城の書院に転用された。江戸時代に入ると5代将軍徳川綱吉はこの寺を法燈派の本山に指定したという。
明治初年には普化宗の解体などにより衰退して臨済宗相国寺派に統合されたが、1905年(明治38年)に臨済宗国泰寺派として独立した。廃仏毀釈の余波を受けたが、山岡鉄舟の尽力で、天皇殿の再建をはじめ諸堂宇の修造に努めた。
近年は、哲学者の鈴木大拙や西田幾太郎らが禅の修行をしている。
■国泰寺 2
開山について
国泰寺は北陸路には数少ない臨済禅の道場で、臨済宗国泰寺派の大本山である。開山の慈雲妙意禅師(1274−1345)は、行脚の時、二上山の幽玄の境にひかれて、山中の草庵で独り坐禅に励まれていた。たまたま通りかかった孤峯覚明禅師(島根県雲樹寺の御開山。三光国師)に誘われて、紀伊由良の西方寺(現 興国寺)の無本覚心禅師(法灯国師)に参じて大悟されたが、まもなく師の遷化(せんげ。お亡くなりになること)に遭い、二上山に戻られ、悟後の修行に励まれた。やがてその禅風を慕って雲水が集まり、嘉元2年(1304)には摩頂山東松寺を開創された。嘉暦2年(1327)には宮中に参内されて後醍醐天皇に法要をお説きになり、 「清泉禅師」の号を賜られた。翌年には「護国摩頂巨山国泰仁王万年禅寺」の勅額を下賜され、勅願寺となった。康永4年(1345)6月3日、「天に月あり。地に泉あり」の遺偈を残して、72歳をもって示寂された。北朝の光明天皇より「慧日聖光国師」の諡号を受けられた。塔を「正脈」と号し、室を「大円」という。その後、天正13年(1585)現在地に移った。
江戸時代の大修復
江戸時代になって、貞亨3年(1686)に現在の大方丈が建立され、当時の将軍綱吉は国泰寺を「法灯派大本山」と定め、享保年間には萬叡禅師等によって伽藍の大整備が行われてほぼ現在の形になった。
明治時代の再興
明治維新では廃仏毀釈の余波を受けたが、越叟・雪門両禅師は山岡鉄舟居士の尽力を受けて、修復を果たした。
西田幾多郎、鈴木大拙居士の参禅
若き日の西田幾多郎や鈴木大拙は、雪門玄松禅師に参じた。
稲葉心田管長と利生塔
先住稲葉心田管長は「人命尊重」を祈願されて利生塔の建立や堂宇の整備に尽力された。また、大衆のために広く禅堂を開放して、団体・個人の坐禅指導に当たられた。御開山のお言葉を奉じて、現在も大衆に開かれた禅道場をめざして励んでいる。
西田幾多郎と国泰寺
   日本の哲学
西田幾多郎(1870−1945)は、日本の哲学を創始した人物である。それ以前の日本は哲学という形での思想体系を持たず、文化という形でしか日本の「思想」は海外に紹介されていなかった。人文科学としての「哲学」は、西洋中心の学問分野である。ギリシャ、ローマの哲学を基本とし、キリスト教文化の中で培われた「哲学」は時として西洋中心の価値観を正当化し、他の文化の価値を低く見なしがちであった。このような状況にたいし、「日本にも哲学がある」ことを示したのが西田幾多郎の業績である。西田は日本の思想の根幹に「禅」を見いだした。もっとも日本的なるもの、それこそが「禅」だったのである。「純粋経験」の語は、あらゆる価値判断を排した、直接的な経験のことであり、西田が主著の『善の研究』で繰り返し用いている言葉である。そしてその「純粋経験」から出発し、西洋の哲学をとらえ直し、論じている。この「純粋経験」を極める為に、西田は当時国泰寺を退かれ、金沢の卯辰山の洗心庵に住居しておられた、雪門玄松禅師に参じられることになる。国泰寺を退かれる前、雪門禅師は非常に貧窮の極みにあった国泰寺を修復し、天皇殿を重建された。西田は熱心に洗心庵で坐禅を行った。「寸心日記」には、明治30年ごろから、そのことが頻繁に出てくる。
   世界の禅
西田幾多郎が金沢の雪門禅師に参じられる以前、鈴木貞太郎(大拙)は国泰寺に直接雪門禅師を訪ねた。そのときの模様は以下のようなものであったという。「国泰寺に行くのに金沢から1日かかったかな、以上だったかな、折角行ったものの、そういう具合に馬鹿に叱られて追い返された。文字の意味がどうのこうのと聞くより、坐禅をしておれというわけだ。」(「私の履歴書」より) 禅は体験することでしかない、文字や理屈ではない、そういうことを雪門禅師は鈴木大拙に教えようとされた様子が伺える。その後鈴木は禅を世界に広めることに尽力した。
禅とは
   「禅は東洋の心である」
禅という言葉は、国泰寺の雪門禅師に参じられた事もある鈴木大拙(1870−1966)によって、世界に紹介された。鈴木大拙は禅について以下のように述べている。「禅は東洋の心である。キリスト教を軸として、西欧中心に考えられてきたこれまでの世界史は、今や修正をせまられている。人類の将来に、禅仏教の果たす役割は大きい」
   「禅」という言葉の意味
歴史的に言うと、インド禅があり、中国禅があり、日本禅がある。今日国際的関心をよんでいるヨーガもまたインド禅のひとつである。もともと禅という言葉は、瞑想を意味する古代インドのディヤーナ(dhiyāna)を中国の漢字で音写したときに生まれた。牛に軛(くびき)をくくり付けるように、心をしっかりとした一つの対象に集中して、その安定をはかる訓練のことである。今日禅仏教とよばれ、禅の思想とよばれるものは、西域の僧菩提達磨を初祖とする禅宗のことである。
   「禅」の実践
雪の朝、黒衣のすそを高くかかげて、草履履きで街をゆく若い托鉢僧を見ると、人々はそこになおインド以来の出家生活の伝統が生きて続いているのに驚く。禅の専門道場の生活は、毎朝なお暗い時にはじまる。人知れずに禅堂の内外を清め、黙々と陰徳を積むのである。「足下をみよ」(照顧脚下)というのは禅の生活の第一歩である。陰徳とは、他人の指示や自らの道徳的な判断を持たぬ自発的善行のことである。やむにやまれぬ行為である。「全て自己の胸襟より出ずる」ようにするのが禅堂の生活のモットーである。臥せば一畳、座せば半畳が生活の場所であり、朝は粥、昼食は飯を食うが、夜は雑炊で飢えをしのぐ。一切の遊芸、詩文、文学、学問などはもちろん、禅の本を読むことすら禁じられる。厳しい戒律の中で、ひたすら「己とは何か」と問うのである。
   「まあ坐れ」
禅は、あたまで考える事じゃない、おのれのからだで味わうものだ、そうした見方がある。禅寺を訪ねて、禅の話を聞こうとするとき、最初にあびせられるのは「まあ坐れ」の一言である。
開山慧日聖光国師について
   御出生
開山慧日聖光国師慈雲妙意禅師は、文永11年(1274)、信濃国(長野県)に生を受けられた。幼くして両親を亡くし、そのこともあって憐れみ深い性格であられたと言われ、また幼少から才知に優れられていた。
   出家と弁道
弘安8年(1285)、12歳で越後の五智山にて剃髪された。その後上野国(群馬県)の日光山で天台教学を中心に学び、さらに禅の教えに関心を寄せられ、各地を遍歴された。その途中、永仁4年(1296)に越中関野(富山県高岡市)の二上山権現の祠の前に庵を結ばれた。そこで一切の俗事から離れて、修行に励むことにされたのである。
   無本覚心禅師に参ぜられる
翌年永仁5年の秋になって、孤峯覚明禅師がこの草庵を訪れられた。覚明禅師から、その師の無本覚心禅師(1207−1298)の禅風を聞かれた御開山は、覚明禅師に伴われて紀伊由良(和歌山県)の興国寺に行かれ、参じられることとなったのである。ある日、 覚心禅師に対して、「心即是佛、如如としていにしえにわたり、今にわたると言われるが、古今にわたらないものが、あるでしょうか」と質問されたところ、覚心禅師は手に持っていた茶碗を投げつけられ、茶碗は粉々に砕けた。その瞬間、御開山は大悟されたと伝えられる。覚心禅師は御開山に菩薩戒を授け、宋の無門慧開より授かった法系図、達摩大師絵図、七葉図、『無門関』、払子、如意などを授けられた。その後御開山は覚心禅師の元を辞し、孤峯覚明禅師の開かれた出雲の雲樹寺へ行かれ、さらに修行を積まれ、印可を受けられた。
   後醍醐天皇より国泰寺の号を賜る
その後正安元年(1299)に二上山に帰り、再び修行に励まれたが、御開山を慕う地元の領主が、荘園を寄進して、嘉元2年(1304)に、摩頂山東松寺を創建し、開山とされたのである。その徳風はやがて遠く都の後醍醐天皇の耳にも届くようになり、嘉暦2年(1327)天皇は御開山を宮中に召して禅の教えを受け、それに満足した天皇は、御開山に「清泉禅師」の号と、紫衣、七条袈裟、肉付払子、勅詠一首などを下賜なさった。後醍醐天皇からはその翌年「護国摩頂巨山国泰仁王万年禅寺」の勅額が下賜されたため、東松寺を改めて国泰寺と号し、国泰寺は朝廷の敕願寺となった。また康永3年(1344)に北朝の光明天皇からも、禅のおしえに関する質問を受けられた。この時もお答えに満足した光明天皇から、紫衣と栴檀香が下賜された。
   示寂
貞和元年(1345)6月2日、御開山は弟子らを集めて訓戒を述べ、その翌日の6月3日、遺偈をしたためた後、示寂された。72歳の御生涯であった。弟子らは御遺骨を国泰寺境内に塔を建てて納め、その上に室を構えて「大円」の扁額を掲げた。この塔には光明天皇より「正脈塔」の号が下賜されている。さらに翌貞和2年には御開山に対して「慧日聖光国師」の号が贈られたのである。 
 
 

 

 
 

 

 
 

 

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