真言宗 [空海・弘法大師] 法話

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雑学の世界・補考

那須波切不動尊金乗院・法話

弘法大師の教え
真言宗の宗祖・弘法大師が伝えてきたものは、ご存じのとおり「密教」の教えです。この「密教」の教えとは何でしょうか。弘法大師は、その特徴を密教以外の仏教すなわち「顕教」と対比することにより明確にしています。その中で、最も分かりやすい特色が、悟りに至る考え方です。つまり「顕教」では悟りに到達するまでに、何代にも渡って生まれ変わり、気の遠くなるような時間を要するとしているのに対して、「密教」では今ある肉身のままで直ちに悟りに至ることができるとしています。 ここでは、こうした弘法大師・空海が説かれた「真言密教」の教えについてご紹介します。
この身このままで仏になる---即身成仏
私たちは死者に対して「迷わず成仏してください」と祈ります。この「成仏」とは文字どおり「仏に成る」ことです。では、「仏に成る」とはどういうことかといえば、迷いのない心で真理を知ること、つまり悟りの境地に達することであり、その境地に達した仏がいるという安楽の世界、即ち極楽浄土に往くことをいいます。当然のことながら、成仏することは難しく、顕教の場合は何代にも渡って生まれ変わり死に変わりながら、無限ともいえるような歳月を費やして修行することが必要としている程です。 しかし、弘法大師は、全ての人間がもともと仏と同じように悟りの境地に達する資質を内に秘めており、修行によって本来の姿にたち返るなら、肉身のまま即時に成仏することができると説いています。これが真言密教の根幹ともいえる「即身成仏」説です。
真理をそのまま人格化した法身・大日如来の教え---法身説法
「顕教」も「密教」も元は同じ仏教ですから、例えば「成仏」という考え方に代表されるように、教えそのものに相違があるわけではありません。ただ、対象とする仏教の教説が同一でも、これをどのように受け止めるかによって大きく異なり、一説では教説を表面的に捉えたのが「顕教」であり、さらに一歩踏み込んで教説の本質を捉えたのが「密教」であるとしています。「即身成仏」の「即身」は、 まさに一歩踏み込んだ姿勢を表すものといえますが、この大胆ともいえる教えを、弘法大師はどうして説くことができたのでしょうか。それは「顕教」が、応化身(おうげしん)すなわち歴史的人物である釈尊の説いた教えであるのに対して、「密教」は、法身(ほっしん)すなわち普遍的な真理である法を、そのまま人格化した大日如来の直接の説法であるとしたところにあります。つまり、弘法大師は釈尊の教えを超え、釈尊の悟りを成り立たせる真理そのものを仏(法身)として、教えの主体にしたわけです。
身体・言葉・心を仏と一体化する---三密加持
真言密教の修行を「三密」の行といい、修行が目指すものを「加持」といいます。 この「三密」についてですが、仏教では、生命現象はすべて身(身体)、口(言葉)、意(心)という三つのはたらきで成り立っていると説いています。顕教では、人間のこれら三つのはたらきは、煩悩に覆われ汚れているということで三業(ごう)と呼んでいます。ところが、法身である大日如来を宇宙の根源的な生命力とみなし、森羅万象を大日如来の現れと説く密教では、人間の三つのはたらきも大日如来の現れであるから、本質的には人間も大日如来と同じであるとしています。ただ、大日如来のはたらきは通常の人間の思考では計り知れないということから、密なるものという意味で「三密」と呼んでいます。また、「加持」については『即身成仏義』の中で、次のように記されています。「加持とは如来の大悲と衆生の信心とをあらわす。仏日の影、衆生の心水に現ずるを加といい、行者の心水、よく仏日を感ずるを持と名づく。」つまり、「加持」とは、人々の苦を憐れみ救おうとする大日如来の慈悲と、人々の信心とを表しており、あたかも太陽の光のような仏の力が、人々の心の水に映じ現れるのを「加」といい、修行者の心の水が、その仏の日を感じ取ることを「持」といっています。このことから「三密加持」とは、自らの身体、言葉、心という三つのはたらきを、仏様の三密に合致させ、大日如来と一体になることであり、具体的には、手に仏の象徴である印を結び(身密)、口に仏の言葉である真言を唱え(口密)、心を仏の境地に置くこと(意密)によって、仏様と一体になる努力をしていくことをいいます。弘法大師は、 この修行によって授かる功徳の力と、大日如来の加護の力(加持力)が同時にはたらいて互いに応じ合う時、即身成仏が可能になると説いています。
あるがままに自らの心を知る---如実知自心
弘法大師は、悟りとは何かという点についても説き明かしています。経典である「大日経」の中には「云何(いかん)が菩提とならば、いわく、実の如く自心を知るなり」と記されており、「悟りとは何であるかというならば、あるがままに自分の心を知ることである(語訳)」と説いています。私たちは、悟りといえば、 ごく限られた者だけが到達することのできる遠い彼方を想像しがちですが、弘法大師は、自らの心をあるがままに知ることであると教えているのです。人は、ともすると弱者を思いやることを忘れ、自らを戒めることもなく、耐え忍ぶことを知らず、怠惰に過ごし、その結果として悩み、迷っています。弘法大師は、自らの心に目を向け、汚れた心を知り、省みることが大切であるといっているのです。 これが、真言密教の「如実知自心」という教えです。因みに「如」という字は大日如来の「如」と同じ意味であり、「如来」とは、「あるがままに、あるが如く、世の中を見る仏の世界から来る」仏様という意味です。

弘法大師は、「六大」すなわち「地大」「水大」「火大」「風大」「空大」「識大」という、六つの根源的なものが宇宙の万物を構成しており、仏も人間も本質的な差はないと説いています。 また私たちが眼にしている現実の世界は、法身である大日如来の現れであるから、現実はそのまま絶対であるとも説いています。つまり、仏も人間も根源的なものは同じであり分かちがたいものであるから、大日如来の慈悲を固く信じ、悟りを求める心をもって仏と一体化できるよう努力をすれば、迷いから脱して真理を知ることができると教えています。
真言宗
殆どの方が「真言宗」は、弘法大師空海が開かれたと理解されているならば喜ばしい事だが、義務教育では宗教教育を避けてとおる為か、その教えも徹底はなく、「空海も最澄も知らない」という嘆かわしい結果で、お坊さんになるために、仏教大学で学んで初めて空海を識るという、現実もある。
この「ちょっといい話」も50回も越えたので、そろそろ本来の真言坊主にかえって、時折「真言宗」や「密教」の話も伝えたい。
ただ「ちょっといい(?)」だけだから、随筆風に漫然と書きたい所だが、真言宗や密教の奥義を易しく語るとなると、きわめて困難で、始めにお断りすれば、密教辞典を始め諸先生のご研究やご高説を拝借すること頗る多しで、一々参照の資料として挙げないが、諸先生にはお許し願いたい。
「真言」とは、究極の境地や絶対の淵に立たされた時、言葉にならない真の叫びがあるように、胸中というか、全人格の心根から発する「真実語」を言うとされる。
この語が、インドにおいてバラモン教の「神に対する祈り」として唱えられ、「帰依や祈願や鑚仰における聖句」として成りたち、人々の願いと救いの祈りとなった。
時を経て、「陀羅尼」や「明呪」が完成し、大日如来の声による「森羅万象の絶対者の能力」の言説として、「一字一句に無量の教法の義理がある」と教理が熟成し、呪法や教義も整理され、真言宗が成立する。
真言宗は「密教」である。
密教は、瓶に水を溢れるばかりに満たし、その水を一滴も余す事なく他の瓶に移すように法を伝える事を本義とする。
奥義や法則を、師から弟子へ余す事なく伝えることを相承(そうじょう)というが、真言宗の伝法灌頂(でんぼうかんじょう)は、現在も尚、法を伝える最高儀式として、極めて秘密裡に、嫡々に伝承され、受法した者は皆伝し、阿闍梨と尊称される。
それで「密教」というのだが、弘法大師空海祖師も、やはり一千二百年の昔、遣唐使として唐に渡り、往時の国際都市長安の青龍寺において、恵果阿闍梨より親しく受法し、真言宗の八番目の祖となられるのである。
「密教」は、「神秘性・象徴性・儀礼性の三つの要素が一定の体系をもって組織されている」ことを特色として、インドにおいて発達し、「呪術的性格が教義的・実践的に全く純化」し、呪法や呪文が神秘的な働きを促し、除災招福への祈りとなり、仏教にはなかった呪法が「教化の方便」として摂取され、約6〜7世紀に「組織的な経典や儀軌が整理」され、8世紀前後に一体系的な密教経典の大日経や金剛頂経などが成立」したとされる。
密教が、仏教として純化するのは、祖師方の嫡々子相承の奥義の秘密伝承と、偏に弘法大師の真言宗開教の教義の著作のお陰である。
真言宗は密教であることは承知しているが、なぜ密教か、密教とは何かと問われると、にわかに説明できる者は極めて少ない。
教学的で申し訳ないが、仏教はこの世に実在されたシッダルダ(釈迦)がお悟りを開いて覚者となり釈尊と崇められ、ついには仏身として礼拝され、そのお説きになられた不滅の法も法身(ほっしん)として教主に成り、仏陀観として完成し、諸宗派の基本的仏身観として定着する。
しかし密教では、極めて宇宙的スケールで大日如来が存在し、自らが教主となって説法する。すなわち法身大日如来がさまざまな姿に身を変じ、ある時は本来のお姿で、又ある時は菩薩に変化して説法し、時には凡夫や教化するものと同等の姿に自在に変化して、一切のものすべてに説法し救済する。
説明の為に、「鶴の恩返し」の話をする。
雪の夜傷ついた鶴が男に助けられ、その受けた心情に絆され、妻(お通)となって夫を助け、決して覗かぬことを誓わせて、自分の(本当は鶴)羽をもって、機を織り見事な反物を仕上げる。夫はその収入で幸せを得るが、ある日禁を破り、妻が本当はご鶴である「秘密」を知り、短い幸福を失う物語である。
この鶴が未だ達せぬ者には本来の姿を見せない、教化を受けるものに相応した姿(お通)に変化して説法する大日如来である。
法身は、理解する者に変化応現する。
理解できぬ者には、「秘」密教である訳です。  
 
 

 

■故人の霊は何処に
最近、『千の風になって』という歌が話題になっています。といっても、実は、つい最近知ったような次第で、どんな歌なのか調べてみると次のような歌詞でした。
「私のお墓の前で 泣かないでください そこに私はいません 眠ってなんかいません 千の風に 千の風になって あの大きな空を 吹きわたっています ・・・(以下略)・・・ 」
なるほど、この歌詞を読むと、故人の霊が「お墓に眠っている暇もないくらい、清々しい気持ちで修行をしているので悲しまないでください」と語りかけているようで、新仏を出したばかりで、まだ悲しみの癒えないご家族や人々にとって、たいへん慰めになるのではないかと思います。ただ、世の中にはいろいろな受け止め方があるもので、先日ある席で「そこに私はいません」という一節が話題になり、「墓にいなのなら、墓参りに行く意味がない」とか「墓参りに行ってない人にとって言い訳になる・・・」といった意味合いの冗談話に花が咲いていました。
実は、この話には必ずしも冗談といえない面があり、さまざまな法要の後に壇家様や出席者とお話をさせて頂いていると、時折、「故人の霊は、普段、何処にいるのでしょうか?」といったお尋ねがあります。例えば「故人の霊は、お盆にあの世から帰って来るといいますが、お盆でない普段は、お墓にいないのでしょうか?」というのです。
真言宗では、故人が戒名を授かると、仏弟子として御本尊である大日如来の世界に導かれ、悟りに至るための修行が始まると説いています。 その修行の程は、現世に生きる私たちの受け止め方にもよりますが、ある意味で厳しく、例えば「あの人は仏様のような人だ」といわれ、生前は慎ましく穏やかに生きた方でも、慎ましくするあまりに施しの心を疎かにしていたら、修行を要するというのが真言宗の考え方です。 ですから普段は済世利人(さいせいりにん:世のため人のため)・衆生済度(しゅじょうさいど:人間をはじめ生あるものすべてを救済し悟りを得させること)の誓願のもと、仏様の使いとしてお役に立てるように厳しい修行をしているというのが本来の姿です。
このように述べると「やっぱり、お墓には居ないんだ!」と思われる方がいるかも知れませんが、故人の霊はお墓にも居ます。現世に生きる私たちの感覚では、「あそこに居るなら、ここには居ない」とか、「仕事中(修行中)だから、話をすることができない」などと考えがちですが、仏様の世界は物質的なものとして把握するものではありませんから、故人の霊は冥界にも、お墓にも居ることができるし、お墓参りをすれば修行中でもお話をすることができるのです。
もっと分かりやすくいえば、例えば、当山のように不動明王を御本尊としている寺院は他にもたくさんありますが、どの寺院にも不動明王はいらっしゃいますし、また、それぞれ独立して家庭を持つ兄弟が親の供養をしたいということで、二体の位牌を作り開眼供養をすれば同じ二体の仏様が誕生し、そのどちらにも親の霊がいらっしゃることになります。
このように、故人の霊は、普段から冥界にも、お墓にも、菩提寺にも、お位牌にも居るので、お墓やお仏壇に線香を供え、心に想うことで、いつでもお参りする人の心に現れることができるのです。そうした意味では、お盆というのは特別で、先の「あの世から帰ってくる・・・」というお尋ねに対して、「冥界での修行がお休みに入り、ご家族と共に過ごしたいという霊の心を表したもので、帰ってきたから冥界には居ないかというと、そうではなく冥界にも居るとお考えください」とお答えしています。「迎え盆」や「送り盆」の日に故人の精霊をお迎えしたり、お送りしたりする時も同じことがいえます。
弘法大師は、私達人間は大日如来から分かれた存在であり、 大日如来と心を通わせる努力をすれば「成仏」できると説いています。つまり、すべては心の問題であり、大日如来の慈悲を信じ、故人の霊を供養する気持ちがあれば、霊はいつでも側にいて見守ってくださるということです。 

■お不動様を知ると誰もが心強くなれる
今年もゴールデン ・ウイークには多くのご参拝を頂きましたが、初めて当山に来られた方とお話をさせて頂いていると、境内奥にある滝(金色願叶龍神が祀られている不動の滝)をバックにお立ちの波切不動尊には、一様に驚かれたようです。何しろ一枚岩で造られた波切不動尊としては日本で最大の仏様ですから、その大きさに圧倒されたようで、「お不動様を、こんなにじっくりと拝見したことはない」という方も少なくなく改めてお不動様について様々なお尋ねがあります。そこで、このお不動様についてお話をしてみたいと思います。
お不動様は、弘法大師によって中国よりもたらされた仏様です。正式には「不動明王」 あるいは「不動尊」といい、サンスクリット語の「アチャラ(動かない)・ナータ(守本尊)」に由来しております。当山の本堂にも御本尊である不動明王の立像が安置されておりますが、真っ黒なお姿をしているので、なかなか細部にわたって観られることは少なく、それだけに、波切不動尊との出会いは仏様に関心を持つ良いきっかけになったようです。
波切不動尊については、弘法大師が唐での修行を終えてご帰朝の際、暴風雨に遭われたので、不動尊に祈念したところ波を鎮めてくださったことに由来します。 そのお姿は、当サイトのトップページをご覧になっても分かるとおり、青黒で粗末な衣を着ています。これは奴僕(ぬぼく)といって、インドの奴隷階級の姿で、どんなことがあっても衆生である私たちを救おうという大悲を本願とした捨身行の表れに他なりません。もちろん奴隷の姿といっても位は高く、密教の中心仏である大日如来がどんな人でも救おうと変化された仏様です。
自ら火生三昧の禅定に入られたお不動様は、背中に大火炎を背負っています。これは迦楼羅(カルラ)焔(えん)といい、毒をもつ動物を食べるという伝説上の鳥 ・カルラの姿をした炎のことで、私たち衆生の煩悩や障りといった、毒になるものを焼き尽くしてくださることを表しています。右手頭上にかかげる剣は、悟りを開くための智慧を表す利剣といい、正しい仏教の智慧で、誤った行いや煩悩、迷いや邪悪な心など、一切の諸難を断ち切ることを表し、併せて人生の荒波を切って下さるという有り難い仏様です。 また、左手の綱は羂索(けんさく)といい、人々の脆弱な心を強力に繋ぎ止め、悪い心を縛り、正しい教えの道に導き、一度祈念した者があれば、願いが成就するまで放さないという、強い意志を表しています。
さて、お不動様は、様々な仏様が蓮台(蓮の花の台座)の上に居られるのと違い、大きな岩の上に居られます。この岩は磐石(ばんじゃく)といって、迷いのない安定した心を表しています。もちろん、お不動様も蓮台を持たれていますがどこにあるかというと、実は自身の頭の上にお持ちなのです。この時注意して観ると分かりますが、お不動様には垂れた髪(おさげ)があります。これは、私たち衆生を髪で救い上げ頭上の蓮台に載せて、自分はしもべとなって導こうという利他行の最高の自覚の表れなのです。
お顔は憤怒の相といって怒っているように見えます。これは恐ろしい怒りの姿で、諸々の魔障を彼方へ退けるためでもありますが、本当は世の中の苦しんでいる人のことを思うと、どうして普通の顔でいることができようかという悲しみのお顔なのです。お不動様は信じる人の心に住み、私たちが一心にお祈りしますと、何人たりとも救わずにはおかないとする強い意志によって、一切の悪行を消除せしめ、諸願を成就してくださる有り難い仏様です。因みに、ご真言は「のうまくさんまんだ ばざら だん せんだまかろしゃだ そわたや うんたらた かんまん」ですから、ご真言を唱えながらお祈りをすると、願いを受け入れてくださることでしょう。
毎月28日はこのお不動様のご縁日です。当山では毎年6月28日に、お不動様の大祭として、全国的にも知られる「火まつり」が盛大に行われます。皆さんも、当山の波切不動尊との出会いを機に、是非、お不動様とご縁を結んで「不動の心」を修得して頂きたいと思います。  

■何事も度を過ぎてはいけない・・・「中道」のすすめ
法事の席でお話をさせて頂いていると、よく 「私がこんなに尽くしている(努力している)のに、分かって貰えない(結果が出ない)」といった愚痴を耳にします。そんなとき私は「努力に対する結果を求め過ぎていませんか?早く結果を求めるあまりに、度の過ぎた努力をしていませんか?」と逆にお尋ねしています。 こうした傾向は前向きな人ほど強いようで、まだ愚痴としていえる方は良いのですが、人知れず悩んでいる方も多いと思いますので、今回は、お釈迦様が同じように悩んでいた弟子を導いたお話をしてみます。
お釈迦様の十大弟子の一人に迦旃延(かせんねん)尊者がおられます。パーリ語でカッチャーナと呼ばれるこの方は、他の宗教との対論を担当したり、聖典の中で主に哲学的論議を多くしていたので「論議第一」と称せられ、「阿含経の一部は、お釈迦様に代わってカッチャーナが説いた教典」といわれる程、佛教の考え方に精通していました。
このカッチャーナに憧れて侍者となった青年がいました。裕福な家庭に生まれた青年は、外に出て歩くことがなかったので、見た目に弱々しく手のひらや足の裏に軟毛が生えていたといいます。しかし聡明で一途であった青年は、しばらく在家信者のままでしたが、その後出家したいと思うようになり、お釈迦様の弟子になりました。弟子になった青年は、過去世において辟支仏(びゃくしぶつ : 師なくして独自に悟りを開いた人)を供養した功徳によって、全身が黄金のように輝き柔軟であったのでソーナ(黄金)と呼ばれていました。
そんなソーナが禅定(心を統一して瞑想し、真理を観察すること)に入った時のことです。彼は、坐を組んで禅定に入りましたが、疲れると歩行(経行)を繰り返しながら、熱心に修行を続けました。 その修行は、凄まじい程に激しいもので、歩行すると柔らかい足の裏の皮が破れて血が飛び散る程でした。ソーナは、必死になってそうした修行を続けましたが、どうしても心の平安を得ることができなかったので次のように考えました。
「釈尊の弟子の中で、私ほど熱心に修行するものはいないであろう。 それなのに私は未だに執着を離れ、煩悩の束縛から離れることが出来ずにいる。私の生家には豊かな財宝があるのだから、むしろ家に戻って在家の信者として財宝を楽しみながら信仰し、布施行を行う方がよいのではないのだろうか」このようなソーナの思いを特別な認識力で知ったお釈迦様は語り掛けました。
お釈迦様: 「ソーナよ、お前が家に在ったころには、たいへん琴を弾くことが上手であったと聞いているが、そうであるか」
ソーナ: 「はい、いささか琴を弾くことを心得ていました」
お釈迦様: 「それでは、ソーナよ、よく知っているだろう。一体、琴を弾くには、あまり絃を強く張っては、良い音が出ぬのではないのか」
ソーナ: 「さようでございます」
お釈迦様: 「といって、絃の張り方が弱すぎたら、やはり、良い音は出ないだろう」
ソーナ: 「その通りでございます」
お釈迦様: 「では、どうすれば、良い音を出すことができるか」
ソーナ: 「それは、あまりに強からず、あまりに弱からず、調子にかなうように整えることが大事でありまして、それでなくては、良い音を出すことはできません」
お釈迦様: 「ソーナよ、仏道の修行も、まさに、それと同じであると承知するがよい。刻苦に過ぎては、心高ぶって静かなること不能(あたわず:できない)。弛緩に過ぎれば、また、懈怠(けだい:なまけること)におもむく。ソーナよ、ここでも、また、お前はその中をとらねばならない」
このように、お釈迦様は、極端を避け、暖急ちょうどいい修行が、より効果があるとする中道を説かれたのです。
般若心経の最後に、「掲諦脚掲諦 波羅掲諦 波羅僧掲諦」という真言の一節があり、「行こう 行こうみんなで修行して彼の岸(悟りの世界)へ一緒に行こう」と訳されます。この中の「諦」は「諦(あきら)める」と読むことができ、現代では「仕方がないから諦める」というように、マイナスイメージで使われがちですが、もともとは仏教用語で「物事の真理を悟り、明らかにする」というのが語源です。
そうした意味では、何事も度の過ぎない「諦」の心境が大切で、 物事をたとえ中途半端で諦めたとしても、その努力した過程は、必ず人生の糧になっていると考えられるゆとりが欲しいものです。 お釈迦様の導きによって、上のステージに進むことができたソーナの場合もまた、「諦める」ことの本当の意味を理解することにあったといえます。つまり、普段から仏縁を強く結び、仏様の加護を得ながら努力してこそ、本当の中道を体得することができるのです。    

■「信念を持って生きる」は密教の教えに通じる
「信念」という言葉があります。手元の辞書を引くと「信じて疑わない心、信仰心」とあります。さらに、それぞれの文字についても辞書を引くと 「信:誠、嘘を言わないこと、言行の一致すること、疑わない(相手を信じて疑わない、自分を信じて疑わない)、信仰する」とあり、「念:思う、思い、常に心の中に留めている思い、気をつける、注意する、深く思う、心に堅く覚えて忘れない、常に覚えていて心から離れない、詠む、口に唱える、望み、希望」となっています。そこでそれぞれの文字を分解して見ると「信」は人偏つまり「人」と「言」に、「念」は「今」と「心」に分けることができます。
密教では身(身体)、口(言葉)、意(心)を三密(密教以外の顕教では三業)といい、この三つの要素が互いに相応しておのおの調和が保たれた時、即身成仏が可能になると説いています。その意味では、「信念」の「信」は、「人」即ち「身」と、「言」即ち「口」を、そして「念」は、「今」この身このままの「心」即ち「意」を表しており、まさに密教の精神を表している言葉といえます。
この「信念」を持つことの大切さについて、弘法大師が自ら体現された話があります。 それは、 弘法大師が、それまで日本に一部しか伝えられていなかった密教を真に学ぶべく唐に渡られた時のことです。唐にはインドから伝えられた正統な密教を受け継ぐ恵果和尚(恵果阿闍梨)が青龍寺に居られました。弘法大師が西明寺の志明、談勝ら老僧を含む5、6人の僧に伴われて恵果和尚を訪ねると、余命少ないことを自覚し、 その付法の適任者の出現を待望していた恵果和尚は、 ただならぬ意気込みをもって受法を願い出た弘法大師を一目見て、その才能を見抜かれたのでしょう。
恵果和尚は、無名の僧であった弘法大師に、微笑みながら「我れ先より汝が来ることを知りて相待つこと久し、今日相見ること大いに好し、大いに好し(私は、以前からあなたが長安に来ていることを知っていて訪れるのを心待ちにしていました、今日こうして会えたことは本当に素晴らしく好いことです)」といわれ、まるで以前からの知り合いのように語りかけられたといいます。こうして弘法大師は受法に入り、恵果和尚は自らの持つ密教の秘法をことごとく授けられました。その受法の様子は「あたかも瓶に入った水をすべて別の瓶に移しかえるが如し」と伝えられ、驚くほど速やかに行われたといいます。本来なら何十年もかけて授かる密教の奥儀を、6月から8月にかけての、わずか3カ月間で伝授されたといいますから、如何に濃密な受法であったかがうかがえます。
密教の受法には漢語や梵語が不可欠であることはもちろん、身体全体で体得することができなければなりません。24歳から約7年間、大自然に密教を学び修行してきた弘法大師にしてみれば、既に漢語はもちろん受法のための資質が備わっていたものと考えられます。しかし、真の密教を学ぶべく信念を持って唐に渡られた弘法大師は、恵果和尚から授かる法の一語たりとも漏らすまいと考えておられたのでしょう。 すぐに恵果和尚を訪ねることなく、醴泉寺のインド僧・般若三蔵に師事して梵語をはじめとする受法のための更なる準備をしたようです。 もし、この姿勢がなければ如何に弘法大師といえども、わずか3カ月で体得することは叶わなかったことでしょう。信念を持つということは、まさにこのことであり、弘法大師が密教の素晴らしさを堅く信じ、 もし受法のチャンスがあれば一語一刻たりとも無駄にできないから、そのための準備は万全にしておこうという考え方に達することができたといえます。
弘法大師が恵果和尚から密教のすべてを伝授され、 「早く日本へ帰り、密教を広めるように」と勧められたのは大師31歳の夏でした。 恵果和尚がその年の12月15日に遷化されたことを考えると、弘法大師の密教に対する信念がいかに強く、大日如来の三密と感応していたかがうかがえます。
「信念を持って生きる」ことは、なかなか容易なことではありません。それは、私達が現代社会のしがらみの中で生きている限り、さまざまな時代の風潮に影響され、ともすれば自分を見失いかねないからです。自分を見失うと迷い、その結果、例えば形式にこだわり、心の無い生き方を選択しても気付くことができません。しかし、信念の無い生き方はどんなに正しそうに見えても、どこか心許ないものが付きまとい、真の実をかち取ることはできません。逆に、どんなに無意味な生き方のように見えても、 そこに信念があれば、たとえ時間がかかっても自ずと道は開けるものです。価値観が多様化している現代社会だからこそ、さまざまな見せかけの価値観に惑わされることなく、「信念」を持って、身、口、意の三密の調和のとれた生き方を目指して修養していきたいものです。

■自らを省みる「先祖供養」に終わりはない
先日、お寺にお参りに来られた方から、ある宗教関係の人に「先祖が浮かばれていないから、不幸なことが起こるんだ!先祖供養をした方がいい」と高額なお布施による供養を勧められたと伺いました。仏教を正しく理解して、供養とは何かを知っていれば、このように人の恐怖心を煽る形での供養などは有り得ないと判断できるのですが、どうしてこのような話が絶えないのでしょうか。
とかく人間は自己中心的で、例えば物事がうまく行っている時は、自分の能力であり、努力の結果であると考えがちです。ところが何事も「山あり谷あり」で、うまく行っている時はともかく、少しでも不都合なことがあると、自らを省みることなく、周りのさまざまなものに原因を求めがちです。実はここに心の落とし穴があり、もし、うまく行かない原因を他に求めているところに、先のような話があると、そう思い込んでしまうことがあるのかも知れません。
そこで、供養についてお話をしてみたいと思います。葬儀や法要などの仏教行事は、もちろん故人の魂への菩提回向として大切なものです。しかし、供養は死者の為だけにあるのではなく、お経の中にも説かれているように、 生きている者が自らを省みて仏様の功徳を授かる儀式でもあります。 この「自らを省みる」とは、自らの心や真の姿に目を向けることであり、気付く(あるいは目覚める)ことで、 これこそが供養行事を通じて説く仏教の教えなのです。
大切な事ですから、もう少しこのことについて考えてみましょう。例えば毎年、お彼岸やお盆にお墓参りをしているという方は多いと思います。でも、花や線香を供えお墓の前で合掌しているご自身の心の奥底に目を向けると、お墓参りを単なる儀礼として受け止めていたり、お墓参りをすることで「先祖を大切にしている」という自己満足に陥っているご自身の姿に気付くことはありませんか。 また「ご先祖様ありがとうございます」と祈っているご自身の心の奥底に目を向けたとき、「成仏して祟らないでください」とか「物事がうまく行きますようにお願いします」と願っているご自身に気付くことはありませんか。
もし、そうしたご自身の姿が少しでも垣間見えたとしたら、 感謝の心をもって敬うべき先祖に対して、あまりにも無関心であったり、祟りの対象にまでおとしめているご自身に気付いていないといえます。もちろん僧侶に頼んで先祖を供養し、成仏して貰おうとする行為そのものは大変結構なことですが、そこに自らを省みることなく、ただ今の苦しみから逃れたいが為の本心があるなら、不都合な出来事をすべて霊のせいにしてしまう恐れがあり、真の供養とはいえません。
供養行事は、現世に生きる者が自らを見つめ直し、正しい生き方を考える場であり、その機会を与えて下さったのが身近な故人でありご先祖様です。このように考えると、先祖供養が一生かけて努力しても「これでもう大丈夫」などと、終わりのあるものでないことはお分かり頂けるはずです。
ご先祖様は、感謝の心をもって敬うべきと述べましたが、 ご自身のご先祖様が何人いるのか考えてみたことはありますか。ご自身を基準に1人が2人(父母)、2人が4人(祖父母)というように、ネズミ算式にさかのぼっていくと、僅か二十七代で今の日本の人口を超える1億3421万7728人のご先祖様が全ての人に等しく存在することになります。因みに現代より若くして子供を授かった時代を考慮し、一代が25年とすると675年、30年としても810年で二十七代となりますが、 この間に、もし1億3421万7728人のご先祖様のたった一人が欠けただけでも、 私達はこの世に生を受けることができなかったことになるのです。
お釈迦様はお生まれになった直後に、天地を指して「天上天下、唯我独尊」といわれました。 これは決して「自分だけが一人尊い」とおっしゃったものではなく、 全ての人間ひとり一人が「天上天下、唯我独尊」即ち、人間がこの世に命を授かるということは奇跡であり、 それだけに人間はひとり一人がかけがえのない存在であり、その命は途方もなく尊いものであるとおっしゃっているのです。
お線香とロウソク、お花とお供物を供え、お経によって回向をすることは大切な供養です。しかし、今日の自分が存在するのは、ご先祖様が血と汗、涙と笑いの中で生きた証であると考えれば、自らが今生において精一杯正しく生きて、魂を磨き輝かすことこそが本来の先祖供養といえます。今月は、お盆の月です。どうか、より一層の心を込めてご先祖様をご供養して頂きたいと思います。 
 

 

■悲しみは悲しみ抜いてこそ「生きる力」となる
先月の法話で、人には多くのご先祖様が存在しており、僅か二十七代さかのぼっただけで現在の日本の人口を超える1億3421万7728人のご先祖様が全ての人に等しく存在すると述べました。こうしたご先祖様の中には、当然のことながら生前から徳を積み、没後も修行に励んで仏への道を歩んでおられるご先祖様もいれば、決してそうではないご先祖様もいると考えられます。 盆行事の由来として、お釈迦様の十大弟子のひとり目連尊者が、飢餓道に堕ちて飢えと渇きに苦しんでいた母親を布施行によって救ったという話(参照)もあるくらいですから、 ご先祖様の中には、ご本人が気付かないうちに生前何らかの戒めを守りきれずに、厳しい修行を求められている方がいると考えるのが自然といえます。
問題は、なぜ厳しい修行をしなければならなくなったのか、亡くなったご本人も、その子孫として現世に生きる私たちも気付かないというケースです。因果という言葉があるように、戒めを守ることができなかったという原因があって、厳しい修行という結果があるわけですが、その原因が分からなければ仏への道を進むことができません。その結果、いつまでも成仏できないという原因を残したままとなり、これが過去世やご先祖様からの因縁として、現世に生きる私たちに超えるべき課題を様々な形で提示しているといわれます。超えるべき課題とは、いうまでもなくご先祖様が成仏できるように、ご先祖様と共に行う善行・修行であり、回向です。仏教では、ここに今世の意味を見出し、私達が、修行によって因縁を切る努力・行為こそが解脱への道に他ならないとしています。
現世に生きる私たちは、時として大きな悲しみに遭遇します。宗教的な観点からいえば、無常の真理を理解し、これを超えてこそ解脱があるということになります。しかし、こうした悲しみも、過去世やご先祖様からの因縁として提示される課題として捉えるなら、とことん悲しみ抜くことをせずして本当に超えたといえるでしょうか。 この点について、弘法大師の悲しみに対する処し方が分かる著書として 『亡弟子智泉が為の達しん文』があります。 ここに出てくる智泉とは、弘法大師の十大弟子のひとり智泉大徳のことで、母が弘法大師の実姉ですから甥にあたります。早くから弟子として活動していた智泉大徳は、法を受け継ぐ者として期待され、京都の密教の拠点にしていた高雄山寺の三綱の一人としても活躍され、高野山の開創事業に当たっておられましたが、37歳という若さで高野山にて入滅されてしまいます。時に弘法大師は52歳でした。先の著書は弘法大師が、少年の頃から24年間影の如く随って離れなかった愛弟子の死に際して、その死を悼み供養する文として書き記されたものです。
その中で弘法大師は、まず、文頭において人の死はいかに無常であること、この仏の説いた無常の真理を理解しないで迷い苦しむことは、愚かさであることを繰り返し、言葉を替えて説いておられます。しかし、その人自身のことを語る段になると、「哀れなるかな、哀れなるかな、哀れが中の哀れなり。悲しいかな、悲しみが中の悲しみなり」と、悲痛なまでにその悲しみを他に憚ることなく吐露しています。智泉大徳が密教の極意を得ていたこと、仏の言葉をよく知っていたこと、他人の過失をいわなかったことを取り上げ、その優れた人格を、聖人孔子の最愛の弟子であった顔淵に比較して、怒りを移さず、過ちを再びしなかったのは顔淵だけでなく、智泉もまた同様であったと述べています。そしてさらに、述壊に続けて「覚りの朝に夢虎なく、悟りの日には幻象なしと云う雖も、然れどもなお夢夜の別れ不覚の涙に忍びず・・・・・悲しいかな、悲しいかな、重ねて悲しいかな」と強い悲しみを再び吐露され、愛弟子智泉の死もまた夢の夜の仮初めの別れであり、それに涙するのは覚らない者のすることと分かっていても、やはり私には涙が流れて留めようもないと嘆かれたです。
弘法大師でさえも本当の悲しみに際し、己を抑えることをせずに吐露されているのです。悲しみは、悲しみ抜いてこそ、初めて生きることの力を己れに蓄えることが出来ます。生死の定めの中でこそ、過去世・現世・来世を貫く菩薩の魂が輝きを増すのです。悲しんで、悲しんで、悲しみ抜いて、その上でやがて自らの心を思いっきり切り替えることです。それでこそ悲しみが力になるのです。

■「師」に巡り会う為にも「出会い」を大切にしたい
先日、お参りに来られた若いご夫婦とお話をさせて頂いていた時、 ご夫婦の馴れ初めの話から 「人が一生に出会う人の数は何人いるのだろうか?」という話題になりました。 ご主人によると 「何かの本で読んだが、およそ1万人から3万人と書いてあった」そうですが、奥様は自らの実感として「どんなに多くても、せいぜい2000人、いやもっと少ないかも・・・」ということでした。 アメリカ合衆国統計局の推計によると、世界の人口は2007年7月現在の推計で約66億人だそうですから、例えば3万人と出会ったとしても、その一人ひとりが22万人に1人という、途方もない確率の出会いということになります。仏教では、これを「縁(えにし)」といい、茶道では「一期一会」といって、人との出会いは 「一生に一度かぎりである」というくらいの思いを込めて、相手に対して誠心誠意、真剣に対峙すべきである、と出会いの大切さを教えています。
こうした出会いは私たち僧にとっても重要で、僧侶になる上で最も大切なことは、どのような師僧に巡り会えるか、にあるといっても過言ではありません。何故なら如何に本人に素質があったとしても、それを磨き輝かす方法を教える師の存在なくして魂を修練するのは困難であるからです。 そのことは恵果阿闍梨と弘法大師の師弟関係からも、うかがうことができます。阿闍梨(あじゃり、アーチャーリャ)とは、サンスクリットで「軌範」を意味し、密教では衆僧の規範となる高僧の称号で、法を正式に受け、それを弟子に授ける資格をもつ師僧のことをいいます。
さて、密教の秘法を授けられる資格というものは、長年の学習や修行を重ねても、そのまま認められるというものではありません。受ける弟子の素質と、弟子がそれまでに積んできた行の質が問題となるからです。阿闍梨は、弟子を一目見ただけで、その人が受法する資格を持つかどうかを見抜く力を備えています。そうした阿闍梨・恵果和尚の遷化(せんげ)に際し、弘法大師が全弟子を代表して撰した「碑文(ひもん)」の中で、師との出会いを弘法大師は「私は、東海の東の国から、幾多の艱難を乗り越えて恵果阿闍梨の許にやって参りました。ここまでやって来れたのは私の力ではありません。 帰ろうとするのも私の志とは言えません。 私は大きな宿命の鉤でもって招かれ、索でもって引き寄せられるように、師の許にやって来たのです」と師弟の間にめぐらされた宿縁の強さを述懐されています。
恵果阿闍梨は幾千人を数える弟子、それも、東アジア全域から集まってきていた大勢の弟子の中から最後に入門を許された弘法大師を密教の法灯を受け継ぐ継承者に選ばれました。 そして「あなたが来るのを前から私は知って待っていた。会えてよかった。 よかった。私が受け持してきた密教を、伝えるべき人材に恵まれなかった。あなたにそれを早速授けたい」と出会って半年あまりでインド伝来の両部(胎臓法と金剛界法)の秘法を、灌頂の儀式を通じて授けたのです。 それから4ヶ月もしない内に恵果阿闍梨は逝去されました。まさに、奇跡とも言うべき師弟関係ですが、法の強い縁によって結ばれていた二人にとっては必然であったといえます。
また、密教では、人との出会いは法との出会いをも意味しています。最高の教えであるインド伝来の密教との出会いを、弘法大師は 「冒地の得難きにあらず。この法に遭うことの易からざるなり」と感激をもって述べています。つまり、恵果という阿闍梨を通じて密教の法に出会ったことに比べると、悟りを得るとか得ないとかは問題ではない、この一人の阿闍梨に出会えたことこそすべてに値する・・・・と弘法大師にして、ここまで言い切らせているのですから、いかに密教にとって師僧が大切かを如実に物語っています。
こうした師と弟子との関係は僧侶にかぎらず、どの道でも大切な出会いです。 もし、深い前世からの宿縁で出会えた師匠がいるなら、また、これから出会えたとしたら、そのことの大切さを心より噛みしめて自分が今世に生かされている意味を、もう一度強く心に受け止めて頂きたいと思います。

■人と人の結び付きは「家族」を見つめることから・・・
秋も深まり、当山の裏山(稲荷山)を歩くと木の実の降る音が聞こえるようになりました。 そんな季節の移ろいを感じながら、思い出したのが宮沢賢治の童話集「注文の多い料理店」にある「どんぐりと山猫」のお話です。内容は、誰が一番偉いのかについて、頭の「尖っているのが偉い」「丸いのが偉い」「大きなのが偉い」・・・・ と言い争いになり裁判になったドングリ達に対して、山猫の依頼を受けた少年が「この中で一番ダメで、滅茶苦茶で、まるでなっていないようなのが一番偉い」と判決したところ、言い争っていたドングリ達は シンとしてしまい裁判が解決したという話です。 もちろんこの話は、ただダメなドングリが一番偉いといっているのではなく、「団栗の背くらべ」という表現もあるように、 もともと僅かな違いしかないドングリが言い争っているのは愚かな事であるという諭しが含まれています。
考えてみれば、私たち人間の世界は大小さまざまに争い事が絶えません。どうすればというか、どのような視点に立てば、争い事のない世界を生きることができるのでしょうか。仏教では、人間同士の理想の世界を「インダラ網」という大きな網に喩えることがあります。 インダラ(因陀羅)とは帝釈天のことでインドの帝釈天の宮殿にある網は、ひとつ一つの結び目に宝珠がちりばめられ、 宝珠が互いに光り合い映じ合う様は得もいわれぬ美しさといいます。この網のひとつ一つの結び目はひとり一人の人間であり、光り輝く宝珠はひとり一人の仏性であるとし、 仏性が磨きあげられ、 各人がそれぞれの特性をもって輝き合い映じ合った世界こそ、仏の理想の世界であると考えられました。この世界では、自分の結び目が解けていたら、網全体は不完全なものになってしまって役に立ちません。もちろん宝珠は反射し合っているため、 一つでも割れたり、ヒビが入っていたり、汚れてしまっていてはダメだということになります。 正しく他人の喜びは自分の喜びであり、他人の悲しみは自分の悲しみであるとする大慈大悲の世界です。
こうした人と人の結び付きは、大きな木にも喩えられます。何千何万という葉がついている木でも、全く同じ葉は一枚もありません。一枚一枚がどんなに似ていても、僅かですが違っています。しかも、これらの木の葉は何千という小さな枝、何百という大きな枝につながり、ついには一本の幹、 そして根へとつながっています。 この喩えは、人間もひとり一人は顔、容姿、性別、土地、国と違いがあっても、その根源は皆同じであるということを意味しています。 そしてもし、このような考え方に立つなら、やがて自分以外の人たちは根を同じくする同胞であり、また、助け、育み生かしてくれた恩人であるという考え方が生まれてきます。確かに、永遠の視点に立ってみると、他人と自分は同じ大いなる命によって生かされており、長い歴史の中で生まれ変わり死に変わりながら、 時には夫婦、兄弟、姉妹、友人、恋人と必ず何らかの縁でつながっているといえます。
インダラの網が教示しているように、 人はひとり一人がつながっており、 決して一人で生きているわけでなく、事実、一人で生きてゆくことはできません。 当然のことながら、 もし一人でも人との結び付きを疎かにする者がいれば健全な社会は成立しません。 しかし実際には、この世に誰一人として同じ人間は存在しないし、それぞれの個性が異なる訳ですから、 互いにバランスを保つ努力が無ければ、やがてはドングリのように争いが起こることになります。ここに、大きな木の喩えのように、ひとり一人がその根元に目を向け、同胞意識と感謝の念に目覚めることの意味があるといえます。
今の時代、地球規模では未だに紛争地域があり、「世界平和」が声高に叫ばれています。まさに大きな木の枝と枝との間にバランスを欠いている状態ですが、 もし、これを脱するために私たちが出来ることがあるとすれば、まずは枝の先にある葉、即ち家族の中での調和を保つことではないでしょうか。親が子を殺め、子が親を殺める今という時代は、家族の間が壊れてしまっているように見受けられます。家族が集い、共同生活をしていく家庭は、ただ寄り添い合い慰め合うだけの場ではなく、時には調和を保つために互いに修正し合い、助け合いながら発展していく道場でもあります。調和のとれた「世界」を子孫に伝えるためにも、まずは、人と人のつながりの原点ともいうべき家族が、 互いに魂を磨き合い、尊重し合い、補い合いながら調和のとれた関係を目指すべきでしょう。そのためにも今一度、大切な家族に目を向けて頂きたいと思います。  

■人が本来持つ清らかな心を知る「悟り」への道
先日、 某テレビ番組で女性アナウンサーが、アフリカの貧しい国で生活するというドキュメンタリー企画を観ました。電気の普及率が5パーセントという国での生活は如何にも不便そうで、最初は女性アナウンサーも不安を隠しきれないようでしたが、番組の進行に伴って、次第に現地の生活に慣れていく様子が手に取るように伝わりました。女性アナウンサー自身も、この体験を通して何かを感じたようで、最終的に 「私達の生活は確かに便利だが、本当に豊かなのだろうか。この国の人々は底抜けに明るく笑いと愛情の中で手を取り合って生きている。 これこそが人間の本来あるべき姿ではないのだろうか」と思ったそうです。 そして、人間として生きていく上で一番大切なことは「如何に人がつながり合って生きるかだ!」とも述べていました。
当山にお参りに来られた方とお話をさせて頂いていると、時折 「悟るとはどういうことでしょうか?」というお尋ねがあります。弘法大師の教えとしては「如実知自心」、つまり「本当の自分を真実の心で知ること」とあり、「決して高ぶることなく、また卑下することもなく己を見つめ、今、生かされている本当の自分を知ることでしょうか」といったお答えをしています。その意味では、先の女性アナウンサーが体験を通して感じた事こそ、まさに悟りの入口であったといえます。 テレビも、洗濯機も、エアコンも、携帯電話もない世界に、 いきなり放り込まれたアナウンサーは、シンプルに生きる中で心にまとっていた鎧が取れ人と人との絆の中で生きている自分に気付いたのです。
とかく私たちは、悟りについて難しく考えがちです。そして、難しく考えれば、考えるほど、例えば眼を閉じて自らの心を知ろうとしても、雑念を払拭して煩悩から離れることが出来ず、その結果、やはり悟りはごく限られた者だけが目指すものであり、得られるものであると結論づけてしまいがちです。 しかし、弘法大師は「あるがままに自分の心を知ることである」と説いているのです。つまり、瞑想をすることもなく先のアナウンサーのように素直な気持ちを持って、何事にも真摯に向き合っていけば、それはあたかも新たな視点や考え方に到達したように見えますが、実は、誰もが本来持っている心に気付くことが出来るということです。
そんな悟りについて語る時、よく「密教とは何か」というお尋ねがあります。昨今は、密教ブームとかで、一部の世代では注目されているようですが、「密」という語から来るイメージのせいか、何やら秘密めいた宗教のように捉えられている節もあるようです。そこで、お話をしてみたいと思いますが、密教は仏教です。 というより仏教は、顕教と密教に分けられます。 この中で顕教とは、教えの違いから密教と分けるために呼ばれるようになった従来からの仏教であり、文字通り顕かになった教えを説く仏教です。例えていうなら、表面にたまった塵を払い、本来ある美しさを見出すといった教えです。これに対して密教は、表面の美しさを見出し、さらに内側の本質的な理解を得るために、自らの身体を動かして体得するといった性格を有しています。
この顕教と密教の違いを端的に表すものとして「成仏」に対する考え方があります。「成仏」とは文字どおり「仏に成る」即ち悟りの境地に達することであり、 その境地に達した仏がいる安楽の世界に往くことをいいます。顕教では長い間の修行を経て、善い行いをたくさん積んでこそ成仏できると説かれてきました。ここでは「お釈迦様は、前世でたくさんの徳行を積んできたので現世で成仏できたが、私達は、とてもお釈迦様のように優れていないので、この世で成仏することは無理であろう。 だが、何度も生まれ変わり成仏しよう」という考えが主流でした。そんな仏教に対する民衆のジレンマの中から「今、この世において成仏せずして、一体いつ成仏するのか」と、 現世における成仏を体系的に完成した教えが密教であるといえます。
密教の即身成仏思想とは、「この身このまま、この世のおいて成仏する」という教えであり、即身成仏とは、己の天命を悟り、今世において精一杯自分の魂を輝かすことをいいます。弘法大師が、「仏法遥かにあらず、心中にして即ち近し」と説かれているように、 己が心の中に仏様は存在するのです。 だから自らの心の中にお堂をつくり、仏様に棲んで頂くことが大切です。 その為には三密行といい、身体に仏の御心にかなった間違いのない働き、言葉においても真実の言葉、己が心も真実の仏心と日々仏様を念じて精進することが大切です。 難しいお経を憶えたり、僧侶と同じ修行をする必要はありません。 日常の生活の中で三密行を正しく行っていれば、自ずと悟りへの道は開け、自らの心を知ることができるようになり、清らかな心を通じて仏と一体になった生活が出来るようになります。 師走に入り、何かと忙しい日々が続きますが、そんな時節だからこそ魂を磨いて新たな年を迎えたいものです。

■正月にお墓参りをすると、より清々しい気持ちに・・・
「昇天」という言葉がありますが、 古来、日本では人が亡くなると、 霊魂となって天に昇ると考えられてきました。しかも、いきなり天に昇るのでなく、時間をかけて子孫の供養を受けながら、魂が浄化されるのに伴って、ゆっくりと昇っていくと考えられてきました。天に近い山は、そんな霊魂が集まる所(山中他界観)とされ、やがては最も身近な浄土(山中浄土観)と考えられるようになりました。高い山を「霊山」「霊峰」と呼び、 こうした山で修行した僧侶が、人々の魂を導く道場として建立したのが寺院の始まりといえます。○○山◇◇寺というように、寺院名に山の名称(山号)が付けられているのもそのためです。さて、先祖の霊が「お盆」になると子孫の元に帰って来ることはご存知の通りです。始まりは、目連尊者の話<参照>に由来するといわれますが、 行事として定着した理由は、江戸時代から「藪入り」といって商家の奉公人が店を休んで実家に帰ることが出来たこの時期、家族が顔を揃えるのを機会に、ご先祖様をお迎えして共に過ごし、供養しようとしたところにあります。「藪入り」は、一年にお盆と正月の2回あったことから、古くは「お正月」もご先祖様を迎えて供養していました。そこで今年は「もっと先祖供養をして頂きたい」という願いを込めて、お参りについて話をしてみたいと思います。
昨年は世相を表す漢字として 「偽」が選ばれ、「食」「嘘」「疑」「謝」「変」「政」などが候補漢字の上位にランクされたように、不安と不信感が増大した観のある年でした。それだけに、新たな年を迎えて「今年こそは・・・・」と決意も新たにしている方が多いのではないでしょうか。そんな決意の表れか、毎年の事とはいえ、人々は正月になると初詣といって、特に熱心な信仰者でなくても神社や仏閣に行って手を合わせ一年の所願成就を祈ります。 それは、いつの時代でも世の中に背を向けたように見える若者も同様で、 神社や仏閣を訪れるのは初詣の時くらいであろうと想われる若者が合掌している姿を見ていると、日本人のDNAの中にある古来からの習慣がそうさせている観さえ感じられます。
神社でも仏閣でも、思い起こして頂くと分かると思いますが、お参りした後は実に清々しい気持ちになります。 これは、合掌しながら目を閉じて祈念するという行為そのものが、一瞬とはいえ、人が本来の素直な心を取り戻す時間であるからです。信仰心の有る無しに関わらず、仮にレジャー感覚でお参りされたとしても、自分の為あるいは身近な人の為に祈念する瞬間だけは、少なくとも自分という人間の力を超えた何かに対して畏敬の念を抱いていることになり、裏を返せば傲りを捨て、伏して一心に祈念する素直な人間に立ち帰ったことになるからです。
実は、ここにお参りの本質があり、人は知らず知らずのうちに清々しい気持ちを求め、一瞬でも本来の心を取り戻すためにお参りをしているといえます。その意味では、先の若者が年に一度とはいえ、初詣で神社・仏閣を訪れ、お参りすることは大変結構なことだと思います。もし、ご子息の心が荒んでいるようでしたら、どんな動機でも結構ですからお参りに行くことを勧めてみてください。そしてもし、ご家族揃って初詣に行く習慣があるようでしたら、正月にお墓参りに行くことをお勧めします。
お盆と同じようにお墓参りに行って、お供物、お線香、お花を供え、手を合わせると、 より一層清々しい気持ちになります。初詣のように願い事をしてはいけませんが、新たな年を迎え、自分が今日生かされているのは、 ご先祖様が汗と涙と共に一生懸命生きた証であることに思いを馳せ、感謝の気持ちを再確認することが出来れば、これ以上のお参りはありません。 初詣をして「無病息災」「身体健全」を祈念することも結構ですが、お墓参りをして、ご先祖様に対する感謝の気持ちを新たにすることが出来ればごく自然に自らの身体を大切にするようになり、 今世における魂の拠り所として健全な身体を与えられた喜びを噛み締めることが出来ます。
数年前、「黄泉がえり」という映画がヒットして話題になりました。 九州の阿蘇地方を舞台にしたこの映画は、 この世を去った人が、ある日突然、最愛の夫、恋人、兄弟として自分の事を想い続けてくれた人の前に死んだ当時の姿のまま現れ、残して来た思いを伝えるというものです。 この映画が何故ヒットしたのか考えてみると、人間はこの世を去ると魂の世界ではつながることが出来ても、やはり会いたい、会って話がしたいと思うものです。しかし、そんな大切な事が生きている間は当たり前になってしまっていて、亡くなった時に初めて気付くということを描いた点にあるようです。
この映画が伝えるように人が人を想う気持ちは、亡くなってからも変わるものではありません。正月は、お盆と同じように子孫が集う時ですから、故人の霊が一緒に過ごしたいと思うのは当然のことです。 ですから神棚だけでなく、仏壇も清掃して綺麗に整え、お花やお節料理を供えて先祖や身近な故人の霊をお迎えしてください。そして、できれば家族揃ってお墓参りをして、ご先祖様に手を合わせ、今世で生活している大切な人たちと共に、精一杯の努力をもって生きることを誓って頂きたいと思います。
皆様にとって、今年が明るく心豊かな年となりますように・・・・。  
 

 

■何故、節分の日には星供養をするのか
仏教では、悟りを開いた仏様が住む所を浄土といい、例えば、観音様の補陀落浄土、薬師如来の浄瑠璃浄土、お釈迦様の霊山浄土というように、仏様の数だけ浄土があるといいます。そんな浄土の中でも最もよく知られているのが阿弥陀様の住む極楽浄土です。極楽浄土は西の方へ十万億の仏の国土を過ぎた所にあるとされ、『阿弥陀経』によれば、「国土は黄金・宝石がちりばめられ、底一面に黄金が敷き詰められた池の中には、大きな蓮の花が美しい光に輝きながら芳しい香りを放っている。また黄金の大地の天上には常に音楽が奏でられ、色とりどりの美しい鳥が優雅な声で鳴いている。 そして爽やかな風が眩いばかりの並木を揺るがせながら、妙なる音楽を作り出している」とされています。
以前、そんな仏教の世界観からすると、「大宇宙という科学的なイメージは、なかなか結び付かない」と知人から言われたことがあります。なるほど、スペースシャトルが象徴する先進の科学技術や、宇宙空間を飛び交い地球を通り抜けてしまう素粒子として知られるようになったニュートリノの話などを思い起こせば、知人の話も分かるような気がします。しかし大宇宙のイメージといっても、例えばスペースシャトルは宇宙工学、ニュートリノは地球物理学というように様々な分野に分かれており、これらの原点ともいうべき「天文学」の歴史をさかのぼれば、古代の人々が夜空を彩る星の位置や運行に注目し、農作物の生産に有効な季節の移り変わりを予測しようとした時代に到達し、やがて説明の出来ない星の存在と動きの不思議が信仰に結び付いたことは容易に想像することが出来ます。
そうした人々の心をバックボーンに発展してきた神社や仏閣が、例えば厄除・開運のように星の動きをもとに人々を導いているのもそのためです。 むろん今日では、古代の人々が抱いた星の不思議もかなり解明され、例えば地球上の全ての生命は宇宙から来る光によってエネルギーを得て生かされているという話についても、地球が最も影響を受けている恒星・太陽は原子力発電所と同じであり、太陽が発する毎秒4兆個の原爆に相当するエネルギーの一部、1000個分だけが地球上に達することによって生命は維持されていると説明できます。しかし、全天の八十八星座で、1等星から6等星まで肉眼で見ることができる星の数は4000〜6000個あり、太陽系の10個足らずの惑星の外は全て遠距離にある太陽のような星であることを知れば、改めて私達人間は太陽をはじめとする様々な星の光に包まれた存在であり、 光を吸収することによって生かされていることを覚り、星と光が信仰の対象になるのは当然の成り行きとして理解できます。
そこで星の話を掘り下げてみたいと思います。まず、古代の人々も真っ先に注目したであろう北斗七星は、北極星の周りを規則正しく回る七つの星の一団として常に照らし続けているため、私達の生命に最も大きな影響力を与えるとされています。この七つの星(貧狼星、巨門星、禄存星、文曲星、廉貞星、武曲星、破軍星)には、それぞれ干支が割り振られ、各人の生まれた年によって定まるため、宿命の星とも呼ばれ「本命星」といいます。これに対して、九曜(日曜星、月曜星、木曜星、水曜星、木曜星、金曜星、土曜星、羅ごう星、計都星)という毎年巡ってくる星があります。日曜星は太陽、月曜星は月、水木金土は惑星、羅ごう星は光らない星(宇宙には明星より暗黒星の方が多いとされている)、計都星はハレー彗星など彗星のことですが、 その年の吉凶を表す星として毎年変わるため「当年星」といいます。また、生まれた月によって定まる星座もあり、十二宮(天文学では十二星座という)といい「本命宮」として位置づけられています。 さらに生まれた日によって定まる星として、スバル星やオリオン座など著名な星から、小さい星ばかりの集団で未だ所在が確定しない星まで、古来インド人によって割り振られた様々な星を二十八宿といい「本命宿」としています。
毎年、 節分(今年は2月3日で、太陽の運行をもとにした暦では立春から新年とされ立春を元旦、その前日である節分は大晦日ということで、新年を迎えるにあたっての様々な行事が行われる)には、「星祭」「星供養」といい、日本全国の真言宗寺院では、願主それぞれに縁のある星を供養し、新年の災厄を消除し、所願成就を祈る儀式が執り行われます。密教における「星供養」は、 インドの「宿曜経」に基づき、大日如来が光明三昧を表した姿である金輪仏頂尊を中心に北斗七星、九曜、十二宮、二十八宿が祀られ、北斗曼荼羅を本尊として修されます。当山でも午前11時と午後2時から特別護摩祈願を厳修し、厄除け、方位除け、さらには諸祈願を成就すべく仏様に一心に祈りを捧げます。 この日は境内に祀られている明運星も利益が倍増し、一心に祈りながらくぐって頂くと運が開けますので、弘法大師によって招来され確立された「星祭」に参加して、宇宙からの光のエネルギーを心身に吸収して頂ければと思います。

■弘法大師の御縁日を前に想う
北京オリンピックの日本代表選考が佳境を迎える中、 中国ではオリンピックが雨で台無しにならないように、科学者が集まり空の雲を「消す」プロジェクトが進められているとか。 ロケット弾を使ってヨウ化銀という物質を上空に散布して雨雲を作り、 開会式会場以外で雨を降らせてしまおうという発想のようですが、先日、同じ中国の秘境に住むある民族が、自由自在に雨を降らせる事ができるということで、某テレビ番組のスタッフが「雨乞い」の様子を確かめに行くというドキュメント企画を観ました。「雨乞い」は標高4000m以上という山頂付近で始まり、村人が鐘や太鼓を叩くと雨雲が発生し、 見事に雨が降り出したのです。その様子を観ながら、「そういえば、弘法大師にも雨乞いにまつわる話があったな!」と思いましたので、今回はこの話をしてみたいと思います。
時は平安時代初期の天長元年夏のことです。その年は、長期間に渡って雨が降らず大干ばつとなったようで、民の苦しみを案じた淳和天皇は、東寺(京都市南区)の弘法大師・空海と、西寺(平安京の造営に際して、東寺と共に二大官寺の一つとして創建された寺)の守敏大師に雨乞いの祈祷を命じました。先に祈祷をしたのは守敏大師で、17日間も雨乞いの祈祷を続けましたが、雨は降りませんでした。次は弘法大師の番です。もしこれで雨が降れば守敏大師の面目は丸潰れとなります。これを恐れた守敏大師は、雨の源(龍神)を封じ込める祈祷をして対抗しました。 しかし弘法大師は、天竺の無熱池に棲む善女龍王を勧請して雨乞いの祈祷を行い、三日三晩に渡って雨を降り続けさせたといいます。話はこれで終わらず、面目を潰された守敏大師は、 弘法大師に恨みを抱くようになり、ある日待ち伏せをして後ろから矢を放ちました。 その時、何処からともなく一人の黒衣の僧が現れ、身代わりとなって守敏大師の矢を右肩に受け、弘法大師を難から救いました。実は、弘法大師の身代わりになった僧は地蔵尊だったといわれ、その後「矢取地蔵」と呼ばれるようになりました。
こうした弘法大師の法力にまつわる伝説は津々浦々にありますが、当山が位置する栃木県内でも数多く、例えば『昔、蛇尾川河岸の農家に弘法大師が来られて、一杯の水を求めた。 しかし機を織っていた農婦は面倒だったので「水は無い」と嘘をいったところ、以来、蛇尾川はその辺りだけ流れなくなってしまった(旧西那須野町)』という話や、他にも『弘法大師が、畑でイモ掘りをしていた老婆にイモを所望したところ「これは畑の石だ」と断られた。それ以来、この地方のイモはすべて石のようになり「大師芋」と呼ばれるようになった(旧西那須野町)』という話、また 『弘法大師が八溝山の麓を通過された際、美しい谷川が流れ、香気を放っていることに気づいた。大師がこの水を両手ですくうと、水の中に梵字が浮かび上がり、それを見て川上の八溝山が霊山であると悟った大師は、登頂しようとしたが、村人に止められ、人々を悩ます怪物「大猛丸」の存在を知る。それを聞くや否や、大師が虚空に「般若」と梵字で書くと、さすがの怪物も八溝山から退散した(旧黒羽町)』など様々にあります。
そんな弘法大師と当山の御縁は、大師が奥羽巡錫のおり、当地に留まり修行していた時、霊夢に地蔵尊が現れたので、一夜のうちに尊像を彫られて霊地と定められたという開山の話に始まり、それだけに当山を語る上で、地蔵尊と地蔵堂は格別の意味を有しています。現在の奥の院地蔵堂は、明治から昭和初期まで当山の住職を勤められた釈信浄律師によって建立されたものです。信浄律師は高僧釈雲照和尚の高弟で、東京目白の雲照寺で修行し、那須塩原市の雲照寺を経て金乘院の住職になられました。信浄律師は、夢枕に弘法大師が立たれたのを機に、当時古びた小さなお堂であった地蔵堂の新たなる建立を決意されたといいます。身長190センチの巨漢であった信浄律師は、 自ら率先して近くの河原から石を運んで石垣を作り、厳しい戒律を守りながら実に十年の歳月をかけて地蔵堂を建立しました。堂の内外を飾る彫り物は、福島県の二本松から来られた親子四人の仏師が、丸二年住み込んで彫り上げた傑作で、特に堂内の「弘法大師一代記」は目を見張るものがあり、最高の寺院を建立しようとした信浄律師の情熱が強く感じられます。
3月21日は、弘法大師が弟子達への遺言を済ませ、高野山奥の院にて静かに入定を果たされた日で「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願いも尽きなん」・・・この世のある限り、救いを求める人がいる限り、悟りの世界がある限り、私は仏の教えを説き続ける、という永遠の誓いを立てた弘法大師の御縁日です。毎年、お彼岸の期間中に迎えるため知らず知らずの内にお参りされる方もおられるようですが、今年は、是非、弘法大師の誓いを噛み締め、大師のお導きにより正法護持を貫いた信浄律師の魂ともいえる当山の奥の院地蔵堂をゆっくりとご参拝ください。

■無常の中の生と死
「諸行無常」という語があります。 仏教の基本的な考え方を表す真理の一つで、「諸行」即ち「この世にある一切の現象」は、「無常」即ち「常に変化して少しの間も不変はない」という意味になります。『平家物語』の冒頭に 「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり・・・」という有名な一節があるので、ご存知の方も多いと思います。 この一文の語意としては、「祇園精舎(というお寺)にある鐘の音は、この世の全てのものは流転しており不変ではないといっているように聞こえる・・・」になりますが、「諸行無常」を理解する上で参考になりますので、もう少し文の背景を紹介してみたいと思います。
祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)とは、インドにあった精舎すなわち寺院や僧院のことで、祇樹給孤独園(ぎじゅぎっこどくおん)と呼ばれていた地に建立された寺院や僧院であったので、略して「祇園精舎」と称されました。 この祇園精舎には「無常堂」という御堂があり、精舎で修行を続ける僧が人生を全うし、いよいよ命が尽きるという頃になると「無常堂」に移って無常を観じたそうです。鐘の声とは、御堂の四隅に吊り下げられた玻璃(はり:ガラスまたは水晶)の鐘のことであり、僧が臨終を迎える時になると鳴り出し、「無常偈」即ち「諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽(全てのものは無常にして、生じては滅びる性質なり、生じては滅びるが終わりて、静まり止むことこそ安楽なり)という四句の偈(げ:仏の教えや仏・菩薩の徳を称える韻文)」を説いて僧を極楽浄土へ導いたといいます。
さて現実に目を転じれば、季節は今「無常」を象徴するかのように移り変わり、例えば本格的な春の訪れを告げる桜前線が日本列島を北上しています。そして前線の下では美しく咲き揃った桜が人々の心を魅了しています。梶井基次郎は『桜の木の下には』の中で「桜の花があんなに見事に咲くのは、桜の木の下には屍体が埋まっているからだ」 と評していますが、 確かに黒々とした幹や枝に薄紅色の蕾が膨らんだかと思えば、真っ白な花を一斉に咲かせ、 間もなく散ってゆく桜の花びらを想うと、その営みは儚く正に無常の美しさがあります。
そんな花びらのように、この世に存在する全ての生物は必ず死を迎えます。もちろん現世を生きる私達も例外ではなく100年後には、ほとんどの人があの世へと旅立っていることになります。 この点は誰もが分かっている事ですが、いざ自分の事となると怖ろしくもあり、 また縁ある人がこの世から存在しなくなることを想えば哀しくもあるというのが現実です。弘法大師は「生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終わりに冥し」という一節を、「秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)」の中に残されています。人は何度生き死にを繰り返しても、なぜ生まれるのか、なぜ死ぬのかを知らない--- この言葉は、生あるものの永遠の嘆きを指摘したものですが、同時に輪廻の流転を繰り返す私達は無常の存在であることを知るべきであると述べておられるように思います。つまり万物は流転しており、人が死ぬのも無常であることを理解すれば、先の「祇園精舎の鐘の声」ではありませんが、死に対する不安や哀しみが軽減され、その結果、限りある生命を大切にしながら一刻一刻を有意義に生きる事が出来るということではないでしょうか。
何年か前、二十代の女性が母親と一緒に護摩祈願に来られたことがあります。人伝えに当山の存在を知り、救いを求めて来られたのですが、彼女は進行性の悪性スキルス癌を患っていました。とても人懐っこそうで純粋な目をしていた女性でしたが、護摩祈願を受け、お経本を持って帰られてから数年後に残念ながらこの世を去られました。その後、母親が「彼女の闘病の記録を本として出版した」とのことで持って来てくださいました。話を聞くと彼女はいつも明るく前向きに闘病していて、どんな辛い治療も我慢し、最後まで生きることを諦めなかったそうです。同じ病気で苦しんでいる人を励ましながら、もう一度元気な身体に戻ることを願っていましたが、死期を覚ると縁のある人を病室に招き「ありがとう」とひとり一人にお礼をいって目を閉じ、静かにあの世へと旅立ったそうです。病院の先生は、「彼女のような最後は珍しい!」といって、とても感動していたそうです。
またある時、 某病院の先生とお話する機会があり「最も印象に残っている人の最後」についてお聞きしたことがあります。その人は信仰熱心な方で末期がんを患っていたそうですが、いよいよ自らの死期を覚ると、自宅の布団に身体を横たえ、枕元に妻を呼び寄せ「おい題目を唱えろ!」といい、 そのまま静かに息を引き取ったそうです。 先生によると、今の老人は足腰が動かなくなることにより、寝たきりになり、やがて認知性になり、食べることも出来なくなってしまうそうです。 しかし「胃ろう」といってお腹に小さな口を作り、そこから管を通して直接胃に栄養を送ると、肌の血色がとても良くなり、 そのまま生を続けることになるそうです。 様々な人の死に立ち会って来られた先生は、これが人の最後の在り方として本当に相応しいのかとも語ってくださいました。
こうしてみると人の命は長い短いの問題ではないことがよく分かります。 つまりは人の死が無常であれば、生もまた無常であるということです。そんな生と死の無常の中に存在する私達がすべきは、無常の人生を全うし先にあの世へと旅だった人の思いを受け継ぎ、命の大切さと生きることの意味を、次の世代に伝えることです。そのためにも現世を生きる智恵として「無常」の本質を理解したいものです。

■再認識したい「心の力」
人の心を目で見ることはできませんが、人に心があることは誰もが自覚できます。しかも、そうした心が大きな力を持っていることは、「××の一念、岩をも通す」といった表現があり、古くから様々なシーンで使われてきたことでも分かります。「××の・・・」としたのは、この「××」の部分が実に様々で、例えば「人の一念」や「思う一念」といったものから、「女の一念」「男の一念」さらには「乙女の一念」まで、そして変わったところでは「猿の一念」や「猫の一念」まであるからです。 いずれにしても、様々な時代を生きた先人達が心の力を信じてきた証といえます。
ところで、この表現の原型は「虚仮(こけ)の一念、岩をも通す」という諺です。虚仮とは「虚仮にする」といって「馬鹿にする」という意味で使われます。元々は仏教用語で、「内心と外見が一致しないこと」「真実でないこと」という意味から、「物事の本質に明るくない人」「実の伴わない人」ということになります。つまり「どんなに未熟で実のない人間に見えても、一心に念じる心があれば、その思いが通じる時が来る」という諺です。 この言ってみれば精神世界の話に対して、同じような意味を持つ物質世界の話として「雨垂れ石を穿(うが)つ」という諺もあり、一定の場所に落ちる雨垂れは、長い間に下の石に穴を開けるという意味から、小さな力でも根気よく続ければ成功することができるという諺になります。
どちらも岩や石に穴を開ける程の力があるという「心」と「雨垂れ(水)」----もちろん別次元での話ですが、考えてみれば、私達が住む地球は「水の惑星」と呼ばれるように、表面積5億995万kuのうち海洋の面積が3億6106万kuあり、全体の約70%が水で覆われています。そしてこの水があることにより、地球上の生物が命を繋いでいるといえます。特に人間は、この水から生まれたといっても良く、例えば母親の胎内に命の一歩ともいえる受精卵が誕生した時点での水分は、95%以上といわれています。それが、やがて臓器や骨格、皮膚といった組織として形成され成長するのに伴って、水分の割合も少なくなり、新生児で約75%、子供で約70%、成人した時点で60〜65%になるとされています。
そんな水分で形成された人間の身体の中を、神経伝達という形で心や意識が伝わっていることを想えば、水が如何に大きな影響力を持っているかが分かります。この事について面白い話があります。サボテンは本体の90%以上が水分といわれますが、工学博士の橋本健先生がサボテンにウソ発見機をつけて実験したところ、 サボテンを可愛がっている奥さんが声をかけると機器の針が大きく振れて返事をしている様子だったので、電位の変化を音に換えてみると子供たちの合唱に合わせて「ピューピュー」と歌っていることが分かったそうです。 そこで色々とサボテンに質問をしてみると音で答えるようになったというから驚きです。因みにサボテンは、非常に人見知りをするみたいで人の心も読むそうです。
まさに水は心の鏡であることを物語るような話ですが、こうした水の不思議として、よく仏様やご先祖様にお供えした仏飯(お茶・お水・御飯)やお供え物を頂くと万病に効能があるというのも、祈る心がエネルギーとしてお供え物に備わるからに他なりません。 (当山の朝虹の滝や霊水薬師如来の水も霊験あらたかです。ペットボトルなどを持参して自由にお持ち帰りください)
このことから私達は心の大切さを悟らなくてはいけません。心は、言葉や行動を媒介にして他に影響を及ぼします。 たとえ言葉や行動に出さなくても、心で思うだけで相手にそれが伝わることは、先の水の話でもお分かりの通りです。「言霊」といい、昔から言葉には魂が宿ると考えられてきました。悪意に満ちた言葉は、時として本人の意識、無意識に関わらず人を死に至らしめる事さえあります。その反対に愛に満ちた言葉は、周りを幸せにする力を秘めています。だからといって、ただ美辞麗句を並べれば良い訳ではありません。そこに真心がなければ人の心には伝わらないからです。 その意味では相手に対して厳しい言葉であっても、 愛に満ちた真心から発せられた言葉であれば必ず伝わるものです。冒頭で述べた「虚仮の一念」ではありませんが、 仮に100人の人がいて、内99人が選んだ道があったとしても、もし自らの心の鏡に照らして正しいと信じられる道が他にあるなら、勇気をもってその道を選べる心の強さを持てるよう精進したいものです。 

■真っ直ぐな心
人は皆、平等であるといいます。そして人には皆、公平に自らの人生を切り開くチャンスがあるといいます。しかしながらこれは「平等であるべきだ!」「公平であるべきだ!」という考え方に基づく理想であって、実際の社会は必ずしも平等ではなく、人生のチャンスも公平とはいえない面が多々あります。 そこで今回は、平等でも公平でもない実状に直面して、自らの人生の不幸を嘆く前に考えるべき事、すべき事について、参考になるお話をしてみたいと思います。
まず、釈尊の時代のお話です。階級制度が明確に存在したこの時代に、ある一組の男女が、身分の差を越えて結婚するために駆け落ちをして、二人の子供を授かりました。子供は、道端(パンダカ)で生まれたので、兄はマハー・パンダカ、弟はチューダ・パンダカと名付けられました。
その後、 時は流れて、兄が十代後半になると釈尊に弟子入りすることになり、これを機に弟も弟子入りしました。さて、兄のマハー・パンダカは利発で、釈尊の教えも一字一句を暗誦し、修得して直ぐに悟りを得るまでになりました。一方、弟のチューダ・パンダカは愚か者でした。兄が、釈尊の教えを解りやすいようにと、短い言葉にするなど工夫して弟に教えても、直ぐに忘れてしまうといった有様です。仲間の弟子たちは、その愚かさを罵り軽蔑していました。兄は、そんな弟の為を思い「お前には出家は勤まらないから」と追い出してしまいました。
街角で、自分の愚かさに悔しんで泣いているチューダ・パンダカの姿を見つけた釈尊は、精舎へと連れて帰りました。そして次のように諭しました。「お前は、自分が愚かであると嘆いているが、真に愚かであるものは自分が愚かであることを知らないものだ。 お前は、自分が愚かであることを知っているので愚かではない」といい、「お前に布と箒を与えるから、聖者らが精舎に戻った時は、その聖者の足の泥を拭い、精舎を常に掃き清めよ。 そして、行為を行う時は、常に『垢を除かん、塵を除かん』と唱えなさい」と続けました。この釈尊の教えを忠実に守ったチューダ・パンダカは、「掃除とは我が心を磨くことである。自身の煩悩欲の垢や塵は、常に心を磨くことによって取り除くことができる」と悟り、他の笑ったり罵っていた仲間を凌ぎ、悟りを得ることができました。
次は、日本における現代のお話です。三味線を弾き、唄を唱い、門付けをして歩く女性を瞽女(ごぜ)といいます。彼女たちの多くは、早くから目が見えないというハンデを負っており、そのハンデの中で自立するために、旅先で一夜の宿を請い、雨風を凌ぎながら旅をするという生活をしていました。彼女たちが身繕いをする時は皆、見えない目で鏡に向かったといいます。今度生まれて来るときは、目が見えるようにという願いからだそうです。
そんな瞽女の一人に、小林ハルさんという方がおられました。生後まもなく失明したことから、意地の悪い師匠に伴われて9歳で旅に出たそうです。その生活は凄惨で、村人に唄を褒められると「いい気になりおって!」と罰を受け、食事の時もイジメに似た差別を受けながらの旅だったといいます。理由も告げられずに夜中、山中に置き去りにされたこともあるそうです。
「私が明るい目を貰って来れなかったのは前の世で悪い事をして来たからなんだ。だから今、どんな苦しい勤めをしても、次の世には虫になってもいい、明るい目さえ貰って来れればそれでいい・・・・そう思って勤め通して来た」と語るハルさんは、26歳の時に独り立ちをして、人に求められるまま唄い、自分が苦労してきたことは他の者にはさせられないと、どんな者でも拒まずに弟子を引き取りました。「目が見えない者が生きるには、人に与え尽くせ」という、祖父と母の教えから「人の上になろうと思えば間違い、人の下になっていれば間違いない」と、自分から面倒な事を買って出たそうです。
73歳で瞽女の仕事を辞めることを決意し、たまたま最後の門付けをしているハルさんの様子がテレビで放映された時のことでした。研究者たちは、未だに瞽女文化が死んでないこと、さらにはハルさんが昔の唄を克明に記憶していることに驚きました。このことから1978年に瞽女文化継承者として無形文化財「人間国宝」に選ばれました。これをきっかけに再び三味線を取り、活動を再開することになったハルさんは1979年に黄綬褒章、2002年には吉川英治文化章に選ばれ、2005年4月に105歳でこの世を去りました。
世の中には、才能に任せてアレやコレやと生命力を分散し、結局は何も成らずに一生を終わってしまう人が少なくありません。そして、そんな人に限って冒頭でも述べたように、自らの人生の不運・不幸を嘆いている事が多いように思います。そんな人たちに、チューダ・パンダカのように自分の愚かさを自覚し心の傲りを取り除いて愚直に一心に自らの心を磨くことの大切を、 さらには「働くとは、端を楽にすること」という信念をもって、歪むことのない真っ直ぐな人生を送られた小林ハルさんの生き方を、学んで頂きたいと思います。
 

 

■「うつ」という心の病
先頃、警察庁がまとめた昨年(2007年)の自殺者統計が発表され、 全国の自殺者は3万3093人となり、1998年から10年連続で3万人を超えたことが明らかになりました。原因・動機について特定できたものを統計した結果によると、最も多いのが「健康問題」で、中でも「うつ病」が目立って多いことが分かりました。その他の原因としては30代で「多重債務」「仕事疲れ」「職場の人間関係」などが、また60歳以上では「生活苦」「多重債務」「介護 ・看病疲れ」などがあり、 お金を第一主義とする現代社会と高齢社会の問題が浮き彫りになっているようです。
最多の原因となった「うつ病」について調べてみると、「何をやっても楽しくない」という日が1カ月近く続いたら「うつ病」だそうです。この病気にかかる人は、真面目で几帳面で責任感が強く、他人に気を使う人が多いそうです。考えてみれば、これらは私たち日本人が人格の規範として目指し、誇りとしてきた性質であり、その意味では最も「うつ病」にかかりやすい人種なのかも知れません。世界屈指の経済大国であるにも関わらず、自殺率が世界でも1位というところに、人間疎外の物質文明に押し潰されそうな日本人の姿があるように思います。
とはいえ「この世で成仏せずして一体いつ成仏するのか」と説いた弘法大師の教えからすると、何時いかなる時代でも、今世における自らの魂の修行を全うするのが私たちの使命です。 では厳しい今世をどのように生きれば良いのでしょうか。心と遺伝子の研究の第一人者として著名な筑波大学名誉教授の村上和雄先生によると、私たちの遺伝子は97%が眠っていて、残りの3%だけで生活しているそうです。従ってもし眠っている遺伝子をオンにすることが出来れば、新しい自分自身に出会うことが可能になり、思いも寄らない生命力を発揮できるといいます。 それには「明るい心」や「楽しい心」、特に「笑い」がとてもいいそうです。
こんな話を聞いたことがあります。ある方が「うつ病」にかかり、毎日、自らの暗い心と戦う中で、疲れ果て、いよいよ死を選ぶ決意を固めた時のこと、いざ死のうとした瞬間にふと今までにない静かな時が訪れたそうです。 その瞬間、今、死のうとしている自分とは対照的に心臓の拍ち続ける鼓動を感じたといいます。「ああ、自分は今、死のうとしているのに身体はそんな時でも一生懸命生きているんだなあ!」という思いが心をよぎり、急に自分自身の身体が愛おしくなり、ふと生きようと決意したそうです。
私たちの身体は、酸素、炭素、水素、窒素など、全て地球上の元素から成り立っています。地球上の元素を無機質の形で植物が摂取し、その植物を草食動物が食べる。そして、私たち人間はその動植物を食べて生命を維持していることを思えば、私たちの身体は全て地球に由来し、地球から一時的に「借りている」と言えなくもありません。つまり、私たち人間は無常の中で身体を地球からレンタルし、死という期限と同時に返却している訳ですが、できれば自殺という形ではなく、「貸し手」である地球に喜ばれるような生き方をして、この身体を返したいものです。
無常といえば、私たちの身体を構成する細胞は4カ月で全て入れ代わるといいます。それだけ、自分といえる私たちの身体は無常ということですが、その無常な身体を維持して、心と身体をつなぐ人間存在の核となるものが魂といえます。とすれば、魂すなわち心も一つの臓器といえます。このことは、肺や胃腸、肝臓などと異なり、なかなか認識し難い面がありますが、「うつ病」による自殺を考えると、心という臓器の病も不治の病と同じように死に至ることがあることを認識し、身体の病と同じように治療しなくてはなりません。
「うつ病」を患っている人に、「元気を出して!」「明るくしよう!」「頑張って!」などと励ますのは逆効果であるといいます。それ程、「うつ病」の人にとって前向きに明るく生きることは難しいようですが、もし、出来るようでしたら、朝、まず起きたら太陽を仏様と思い、手を合わせお参りしてみてください。 これが出来たら急ぐ必要は全くありませんから、夕方、日が沈む時に「今日一日ありがとうございました」と感謝の気持ちで祈ってみてください。 こうした行為を続けている内に、自身の中に眠っている生命力に目が向けられ、必ず自分自身に変化が生まれて来るはずです。

■プラス思考で生きる
全国高額納税者番付で毎年のように上位にランクされ、累積納税額日本一として知られる斎藤一人氏(銀座まるかん[元・日本漢方研究所]創業者)の著書を読みました。さまざまな職を経験し、実務を通じて培った独特の経営哲学で事業を成功に導いた方だけに、氏ならではの人生観と見識を持っておられるようで、例えば悩みについても、悩みというものは「どうにもならないから悩んでいる」ことが多いのが特徴だといいます。1年前に悩んでいたことが、1年後の今も続いているかといえば、大抵が(解決したのではなく)勝手に無くなっていることが多いというのです。 つまり、悩みの解決には時間が大きく関係してくるので、大切なことは時間を味方に付ける事だともいっています。
氏は、その具体的な方法として「ツイてる、ツイてる」と一日に何回も唱える事と述べています。言葉には「言霊」といって強い力があり、肯定的な言葉を発していると身体にエネルギーがみなぎってくるそうで、そのエネルギーによって他も良くなっていくといいます。つまり、この世の中にはツイてる波動とツイてない波動があって、悩みながら溜め息をついた後でも必ず言葉の最後に「ツイてる」というと、ツイてる波動がドンドン入ってきて運勢が開けてくるというのです。単に悩みが消え去るのを待つのではなく、時間を味方にしたプラス思考の生き方をすれば必ず悩みは早期解決に向かうそうです。
斎藤氏は、また「過去は変えられるけど、未来は変えられない」といいます。一般的には「終わった事は変えられないから、今からの未来を変えるしかないんだ!」と考えますが、どんなに辛い過去や思い出も、もう一度やり直すことはできないが、その思い出があったからこそ(辛い過去に比べれば)幸せな今があるんだと思い、プラスの思い出に変えることが出来るという意味で心が本当に救われるというのです。そして、未来に起こる事は、すべて起こるべくして起こるのであり、それをしっかりと受け止めてプラスの波動で乗り越えてゆくことが大切であると述べています。
弘法大師の言葉の中に「心暗きときは、即ち遇うところ悉(ことごと)く禍なり。眼(まなこ)明らかなるときは、途に觸れて皆宝なり」という一節があります。心の状態によって、現前の世界が禍にもなり、宝にもなるという意味ですが、斎藤氏もいうように私達の心の在り方は、生きる運勢に大きく関わってくるといえます。もちろん、こうした教えや考え方は頭では分かっていても、悩み落ち込んでいる人が、プラス思考で生きる事はそう簡単なことではありません。
その難しさについては、有名な逸話があります。仏様が語り伝えた事は普遍的な教えであるとする「七仏通戒の偈」といい「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教」という有名な句があります。 「悪い事はしない 善い事をする すると心は清らかになる これが仏様の教えなり」という意味ですが、唐の時代の有名な詩人・白楽天が、道林禅師に「仏法の大意はどういうものか」と問うと、禅師は「悪い事をせず、善い事をしなさい」と答えたそうです。白楽天が「そんなことなら三歳の童子でもそういうでしょう」というと、禅師は「たとえ三歳の童子が言い得ても、八十の翁でも実践することは難しい」と答え、白楽天は深く礼拝して去ったといいます。
もっと分かりやすい例としては、日々の生き方を戒める語として「おいあくま」という言葉があります。 これは、怒るな、威張るな、焦るな、腐るな、負けるな、の頭文字を取って造られた言葉ですが、これを自らの日常に照らしてみれば、簡単なようで、なかなか実践するのは難しいのがお分かりでしょう。冒頭で紹介した、時間を味方に付けて運勢を開く方法として、「ツイてる、ツイてる」と日々唱える事、それによってツイてる波動を取り込むということも、簡単なようでかなり努力を要するといえます。
第三者の目には、どんなに幸せそうに見えても、人それぞれに悩みは尽きません。まさに、人生に苦悩はつきものですが、苦悩に直面した時こそ、その人の心の在り方が問われる時といえます。そんな事を意識しなければ、おそらくマイナス思考に陥って、暗い苦悩の日々を送ることになるのでしょう。それ程マイナス思考になることは簡単ですから、 そうならないためにも、まず気持ちで負けないこと事が大切です。 そして自分自身の力を信じることです。
医療関係の方から、 こんな話を聞いたことがあります。 同じ病気になった患者でも、助かる人と助からない人には明確な違いがあり、「先生お願いです。どんなことでもしますから助けてください」という人より、自分自身で「どんなことをしても助かるんだ」と強く思っている人の方が、 助かる確率が高いそうです。 まさに、心の在り方で運勢が決まることを実証するような話ですが、 もし、苦悩に直面した時は「もう無理だ!」と限界の壁を作るのでなく、逆に、運勢を変えるチャンスと捉え、プラス思考で一歩一歩進む事を試みてください。そうすれば、必ずや苦悩の壁を乗り越えられると信じます。
今月はお盆の月です。ご先祖様をお迎えして、共に過ごしながら、是非、ご家族が揃って元気に、前向きにプラス思考で頑張っている事をお伝えしてあげてください。何よりのご供養になると思います。

■「まごころ」という魂
来年(平成21年)5月から裁判員制度がスタートします。私たち一般市民の中から選ばれた者が、裁判員として刑事事件の裁判に参加し、裁判官や他の裁判員と共に、被告人が有罪かどうか、有罪の場合はどのような刑にするのか、などを決めていくことになります。それがどういう事なのか、まだスタートしていないのでピンと来ない方が多いようですが、少なくともこれまで他人事であった事件の生々しい経過と向き合い、犯罪と、犯罪を犯した者について、人が人を裁くとはどういうことなのかも含めて真剣に考える機会が増えてくることだけは確かなようです。
そこでというわけでもありませんが、今月は、ある死刑囚の話をしてみたいと思います。彼の名は中村覚(さとる:後に獄中で養子縁組をして千葉姓になる)というより、歌集「遺愛集(いあいしゅう)」で知られ、短歌を詠む死刑囚として米「TIME(タイム)」誌に紹介されたことがあるので、歌人・島秋人(しまあきと)といった方が分かりやすいかも知れません。
彼は昭和9年に朝鮮で生まれました。父親が警察官という仕事の関係で家は裕福でしたが、幼い頃から朝鮮や満州を転々としたようです。終戦とともに、弟妹を含む彼の一家は、故郷である新潟に引き揚げて来ます。ところが父親が公職追放となり、家はたちまち貧しくなります。元々病弱であった彼はカリエス、中耳炎、蓄膿症などを患い、様々な障害を持っていました。 その為か集中力や根気に欠け学校での成績は常に最下位という状態が続きます。やがて周りの人間から疎んじられ、差別されるようになった彼は、肺結核を患っていた母親が過労で亡くなったことも重なって、性格が荒み、非行や犯罪に手を染めるようになり、少年院と刑務所暮らしも経験します。
昭和34年4月の雨の夜、飢えに耐えかねた彼は、ある農家に押し入り、金槌で主人を殴って重傷を負わせ、止めに入った妻をタオルで絞め殺し、家にあった現金2千円と時計を奪うという強盗殺人事件を起こしてしまいます。直ぐに逮捕され、昭和35年に新潟地裁で死刑判決、同36年に東京高裁で控訴棄却、翌37年には最高裁で上告が棄却され死刑が確定、 それから5年後の昭和42年11月に刑が執行されました。享年33歳でした。
一審での死刑判決後、自分の人生を振り返った彼は、人生でたった一度だけ自分を褒めてくれた先生を思い出します。中学校の美術の時間、その先生に「お前は絵が下手だが、構図は上手だ」といってもらえたのです。彼は「もう一度、童心に還りたい」という願いから、児童画を見たい旨の手紙を拘置所から先生に出しました。 すると先生からの驚きと厚意ある返書には、 児童画の他に先生の奥さんが詠んだ短歌三首が添えられていました。これに感銘を受けた彼は短歌を詠み始めるようになり、奥さんの適切な指導もあってめきめきと上達します。そして、新聞の歌壇に投稿するようになると間もなく入選を果たし、その後も入選を繰り返すようになります。
  わが罪に貧しく父は老いたまひ 久しき文の切手さかさなる
これは、彼が貧困・疾患・差別の中で自暴自棄になり、理性のない心のままに、強盗殺人事件を起こしてから僅か2年半余り後の昭和36年12月に『毎日歌壇』で入選した歌です。「五・七・五・七・七」という31文字の中に、自らの心情を詠むことを知った彼は、その後も次々と歌を詠んでいます。
  ほめられし事をくり返し覚ひつつ 身に幸多き死囚と悟りぬ
  うす赤き夕日が壁をはふ 死刑に耐へて一日生きたり
  助からぬ生命(いのち)と思へば一日の ちひさなよろこび大切にせむ
  たまはりし処刑日までのいのちなり 心素直に生きねばならぬ
彼は、短歌を通して自らを見詰める中で改心し、生きている有り難さ、自分の罪に対する反省、遺族への謝罪、周囲の人への感謝が心の中に満ち、澄んだ歌をたくさん遺すに至ったのです。死刑執行の前夜に書いた被害者への手紙で、彼は次のように語っています。
「長い間お詫びも申し上げず過ごしていました。 申し訳ありません。 本日処刑を受けることになり、ここに深く罪をお詫びいたします。最後まで犯した罪を悔いておりました。 (中略) 私は詫びても詫びても足りず、ひたすら悔いを深めるのみでございます。死によっていくらかでもお心の癒されますことをお願い申し上げます。 申し訳ないことでありました。 ここに記し、お詫びのことに代えます。皆様のご幸福をお祈りいたします」
彼は、命の尊さと、心から懺悔することによる人として大切な真心を最後に得ることが出来ました。もちろん人を殺めておいて、改心も真心も無いだろうという方もいることでしょう。しかし、現世を生きる私たちの中には、 たとえ五体満足で財に恵まれていても、真心を得られないでいる人が少なくないことも事実です。心をないがしろにして、利潤ばかりを求める現代社会では、真心をもって生きること自体が難しいのかも知れませんが、 その結果として今、何が起きているかといえば、例えば食料自給率が他国に比べて極端に低い私たちの国が、 この恒久的な問題を経済力でカバーするために開発途上国への配慮も忘れ、多くの国の資源を貪り、無駄遣いしているという罪深い現実です。
原油の高騰に端を発した生活必需品の狂乱的な物価高騰も、そうした私たちの国に突き付けられた一つの警告でしょうが、今こそ、私たちは現世で生きているだけの価値観から、魂としての永遠の価値観に移行しなければ、先人から受け継いだ教えを次の世代に伝えることが出来ず、子孫の存続すら危ういのではないでしょうか。 そんな事にならないよう、この世に生きていることが本当に有り難いと感じられる心を持ち、私達を生かしてくださる全てのモノに心から感謝しながら、一日一日を大切に生きていきたいものです。

■中身の大切さ
今年3月の法話の中でも紹介させて頂いた当山の『奥の院地蔵堂』では、 現在、基礎地盤の強化を主体とする改修工事(来年3月末完了予定)が進められております。大正7年(1918年)から十年の歳月をかけて完成されたといいますから、建立から約80年が経過したことになりますが、改めて堂の造りを観察すると、木組みをはじめ実にしっかりとした構造になっており、古くから受け継がれて来たであろう宮大工の技術と智恵に驚くばかりです。
法隆寺や薬師寺など世界に誇るさまざまな建造物を建築し、修理してきた宮大工の棟梁 ・西岡常一さんが興味深い話をしています。 大きな日本建築物を造る時は、材木屋に行くのではなく山に行き、そこに生えている木を全部買うというのです。そして、切り出す前に一本一本の木について、山の東西南北のどんな斜面に生えてきた木なのかを克明に記録するそうです。 その理由は、山の南側に生えている木はお堂の南側に、北側の木はお堂の北側に最適とされ、南側の木は太陽に多く当たって硬いから柱に、南側と東側の木は軸部に、西側に生えている木は大人しいから造作物に向いている、というように木にはそれぞれの役割があるからだそうです。
また、木には弱い木と強い木があり、それを同時に扱う事は出来ないので、この点を踏まえてそれぞれの木が、目一杯、持てる力を発揮できるようにしなくてはならないといいます。 もちろんこれらは寺院や仏閣の建築に携わって来た先人から受け継いだ智恵で、事実、古代建築を見ていると曲がった木は曲がったなりに、反った木は反ったなりに組まれており、決して木に無理をさせないという考え方を貫くことで千数百年の風雪に耐えられる木の力を引き出しているそうです。正に日本が誇る古代建築は、こうした先人の知恵が正しく受け継がれ、守られて来たからこそ千数百年もの耐久力というか、命を実現しているのだろうといいます。ただ時代の流れか、室町以降の建築物は、南側に生えた木はどうしても節が多いので、見えない裏の方に使おうという見栄え重視の建築に変わった為、五、六百年で修理が必要になるそうです。
西岡さんは、これらの事を踏まえて現代の人間と社会にも警鐘を鳴らしています。速さと効率が重視される現代社会では、形が優先されるため中身が疎かになってしまいがちですが、 これは建物と同じであまり外観に捕らわれてしまうと、やがて中の構造に矛盾が出て来るそうです。だから、建物の場合は中の構造を重要視して、外側はいつでも修理しやすいようにしているといいます。その意味では社会も人それぞれの個性が十分に発揮されるようでなくてはならず、人間もしっかりと基本を身に付け、人としての中身を充実させるよう努力しなければ、何処かで歪みが出るのではないかといいます。
宮大工の口伝に次の一節があるそうです。 『塔組みは木組み 木組みは木のくせ組み 木のくせ組みは人組み 人組みは人の心組み 人の心組みは棟梁の工人への思いやり 工人の非を責めず己れの不徳を思え』-----何事も中身が大切であることをいった、先人の教えといえます。
中身といえば、友人から聞いた笑うに笑えない話があります。 ある日、電車の中で人目を気にすることもなく平然と化粧をする二人の若い女性を見かけたそうです。電車は朝の通勤時間帯を過ぎたとはいえ所々に空席が目立つ程度で、並んで喋りながら化粧をする二人の女性は、当然、他の乗客の注目を集めていたといいます。友人も、「ああ、これが噂の人前で化粧をする女性か」と思って本を読んでいると、聞くつもりでなくても耳に入って来る二人の会話の中に「やっぱり、男は外見より中身よねぇ」という声が聞こえて来たそうです。
座席から転げ落ちそうになったという友人は、「本来、化粧は、寝間着を着替えるのと同じくらい人前でするものではなく、恥ずべき行為であるはず-----それを教えてあげる親はどうしたのだろう、アドバイスをしてあげる友人はいなかったのだろうか」と嘆いていましたが、こうした若い女性の例に限らず、最近モラルの低下を感じる事が少なくありません。これも、社会における人間関係が壊れ、人間関係の原点ともいうべき家族関係までもが壊れた結果、先人の知恵や教えを受け継ぐ糸がプッツリと切れてしまったからのような気がします。
私達の世界で悟りを得ることを神通力を得るといいます。この神通力は神仏に通ずる力と書きますが、またの意味を人通力と書き、人に通ずる力という意味をも有しています。人の心を汲み、人に通じる事で和が出来、和が出来る事で、千数百年も保たれる建築物が造られるように、先人達の智恵が幾重にも重なって正しく受け継がれた社会が築かれます。この事を考えるなら、今世を生きる私達には先人の知恵を受け継ぎ、子孫に正しく伝えていく責任があります。 その責任を果たすためにも、先ず自らが中身のしっかりした人間になれるよう努めて頂きたいと思います。

■安易に苦から逃げずに努力(精進)を
昔話をしてみたいと思います。ある所に千万長者(現代風にいうとゼロが幾つも付く億万長者ということになるのでしょうか)がいました。ところが長者には子供がいませんでした。そこで、何とかして跡取りを得たいと思い、「親孝行したい子供を求める!試験に合格した者には家の財産すべてを与える」という触れを出しました。すると財産目当てに沢山の少年が集まって来ましたが、試験をしてみると次々と不合格になってしまいました。最後に、親孝行をしたいと思いながらも、既に両親を亡くしたという少年が現れました。「親孝行をさせて貰えるというのはこちらですか?」
長者の主人が「そうだ、何故もっと早く来なかったのか」と尋ねると、少年は「私のような貧乏人が、こんな立派な家で親孝行できるかどうか心配でした。悩みに悩んだ末、今日は決心して参りました。 どうか親孝行させてください」といいました。主人は「親孝行というのは大変難しいことだが、出来るかね」といい、少年を井戸端に連れて行きました。そこには大きな樽があり、主人は、樽を指しながら「明日の朝、一番鶏が鳴くまでに、このつるべで樽一杯に水を汲み入れなさい」といいました。
少年が井戸のつるべをよく見ると底がありません。 試験に不合格となった少年たちも、同じ事をいわれたのですが、皆が皆「そんな馬鹿な事が出来るものか」といって自ら立ち去ったのでした。ところがこの少年は、こんな易しい事で親孝行が出来るとばかりに、一心不乱に汲み始めました。 底のないつるべといえども僅かな水滴が付いてきます。 それを樽に振るい落としながら、一番鶏の鳴くのも知らずに汲み続けました。
翌朝、黙々と汲み続ける少年は、 主人が出て来て声を掛けても分からず、背中を叩かれ「オイ!」といわれて初めて気付きました。樽を見ると、一杯に水が溢れ、辺り一面にこぼれ出ていました。その光景に、少年は「ああ、水が汲めた、親孝行できた」と大喜びでしたが、それにも増して喜んだのは主人でした。そしてこの少年は千万長者の跡取りになりました。
実は、この話は色々な形で全国各地方に伝わっているようで、 例えば少年が嫁いだはかりの花嫁さんで、長者の主人が嫁いだ先のお姑さんや隣のお婆さんに替わり、努力や辛抱する気持ちの大切さを教えています。よく、人は「若い時の苦労は買ってでもしろ!」といいます。 もちろんここでいう「苦労」とは「色々な経験」といった類の意味でしょうが、仏様は、「しなくてもいい苦労はせずに、すべき苦労をしなさい」といわれます。 この物語にあるように、僅かな水でも一晩中汲み続ければ樽に水を溜めることが出来ることから「すべき苦労」となりますが、 もし樽の底が抜けていれば、いくら汲み続けても水が溜まることはなく「しなくてもいい苦労」ということになります。
つまり物事はよく考えて、もし努力の結果が僅かでも得られるという期待が持てるのであれば努力すべきであるということです。 ところがこれが難しく、先の話で財産目当てに集まり、底のないつるべを見るや退散してしまった多くの少年のように、努力する価値を見い出せず、その結果何をしたら良いのか分からずに悩みの淵に落ちてしまっている人たちが世の中には沢山います。そこで、その難しさを克服して、見事、修験道の開祖とまでいわれるようになった人物のお話を紹介します。
日本七霊山の一つとして数えられる四国の石鎚山は、 今から1300年の昔、役小角(えんのおづぬ)により開山された修験道の霊山です。この石鎚山の中腹には「成就社」という神社があります。どうして「成就社」と名付けられたかは後で分かりますが、役小角が、心身を清め山頂を目指していた時の事です。 どうしても神意を感得することが出来ず、力尽きて下山しようとしたところ、ある神社の境内で一人の白髪の老人に出会いました。見たところ樵(きこり)でもないその老人は、ひたすらに斧(おの)を研いでいます。不思議に思って訳を尋ねてみると「この斧を研いで針にする」とのことでした。 この言葉に感銘した役小角は、再び行を続け、めでたく西日本最高峰の石鎚山を開山することが出来ました。実はこの時の老人が石鎚山の神であったといわれ、心願叶った役小角が、改めて山頂を見返し「わが願い成就せり」と拝したことから「成就社」と名付けられました。
仏教には「一切皆苦(いっさいかいく)」という言葉があり、世の中の全てのものは苦しみであると説いています。ここでいう「苦」とは「自分の思い通りにならない」という意味で、生まれて来る事、老いる事、病気になる事、死ぬ事を、誰も避けられない「生老病死」の四苦としています。そして愛別離苦(あいべつりく:愛する人と別れる苦しみ)、怨憎会苦(おんぞうえく:怨み憎む人と出会う苦しみ)、求不得苦(ぐふとくく:求めるものが得られない苦しみ)、五蘊盛苦(ごうんじょうく:心身の機能が活発なために起こる苦しみ)を加えて八苦ともしています。
心静かに平穏に生きようと思っていても、これだけの苦があるのが人生です。そんな苦から少しでも解放されたいと願うなら、先ず努力する価値を疑うことなく「どうか仏様、私はいくらでも努力をしますから導いてくださいますようお願いします」と心から祈ることです。 もちろん、努力する(仏教では精進するといいます)ことを心に固く誓って祈ってください。努力できるか出来ないかの違いは決心の強さにあると考えます。 一人でも多くの人が法の力による仏様の加護を得て導かれることを心より願っています。 
 

 

■太陽と人と日本人
「まんだら」という語があります。何処かで聞いたことがあると思いますが、古代インドから伝わった梵語(サンスクリット語)で「曼荼羅(または曼陀羅)」と書き記されます。手元の辞書によると、仏教(特に密教)において悟りの境地や仏の教え、 さらには世界観を表すために、諸仏、諸菩薩、シンボルなどを一定の形式に従って描かれた図絵とあります。語源の持つ意味としては「本質をもつもの」となりますが、曼荼羅は、その形態や内容、また宗派によって様々な種類があります。
当山が帰属する真言宗の曼荼羅は「両界曼荼羅」といい、「金剛界曼荼羅」と「胎蔵界曼荼羅(大悲胎蔵生曼荼羅ともいう)」から成り立っています。 両方の曼荼羅とも大日如来が中心の仏様として描かれており、金剛界曼荼羅は、修行や仏の救済の段階を渦巻き状に表しています。それは、ちょうど大日如来の智慧により、大きなエネルギーが世界を創造していく様を表しており、中央から右回りに回転しながら、大日如来が現実世界に近づいて来るように見えます。
逆に胎蔵界曼荼羅は、宇宙がビックバンによって誕生したかのように、 中央の大日如来から外へ外へと様々な仏様が描かれ、人間も人を食べる夜叉や鬼の類も、全て大日如来を母として生み出されたものとして描かれています。これは大日如来の慈悲が、聖なる宇宙を創り出していることを意味しており大悲胎蔵生曼荼羅と呼ばれるのもそのためです。
さて、この曼荼羅の中心仏として描かれている大日如来は、法身すなわち普遍的な真理である法をそのまま人格化した仏様であり、よって 密教では大日如来を宇宙の根源的な生命力とみなし、森羅万象を大日如来の現れと説いています。大日如来が、宇宙の根源的な生命力を象徴するものとして私たち人間に最も身近な太陽を、 それも陰が出来ないように全ての方向から降り注ぐ光を放つ太陽を表した仏様といわれる所以です。
境野勝悟氏の『日本のこころの教育』という本を読みました。それによると、まだ仮説の段階ですが、人間の心臓を動かしているのは太陽電池であり、太陽のエネルギーを体内に取り込むレーダーのような働きをする物質があるのではないかという研究がされているそうです。そして古代の人々は、この事を感覚的に知っていたというか、太陽のお蔭で自分たちが生かされていると考えていたようだとも述べています。「太陽」のことを「お蔭様」といっていた事からも、自分たち人間の命の源は太陽であり、太陽の恵みによって生きていると自覚していた節が窺えるといいます。
話はさらに展開して、「日本」のことを「日の本」ともいいますが、 「日の本」の「の」は格助詞であるから「日が本」となり、つまり「私たちの命は太陽が元」といっている事になると述べています。 ここから日本人とは?に触れ、私たちの命の元は太陽であると知って、太陽の恵みに感謝して、太陽のように丸く明るく、元気に豊かに生きる人々であり、全ての人が、共通の太陽のエネルギーによって生きているのだから、 それぞれの特質や個性を活かし合って行こうという「和」の心を大切にしている人々ではないかと述べています。
確かに日本人は古来から毎日、朝日を拝んできました。 最近では元旦に見られるだけの光景となりましたが、戦前くらいまでは確実に習慣として残っていました。 アメリカの雑誌記者として来日し、その後島根県で英語教師として出雲の松江に住んでいたラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が、次のようなエピソードを残しています。 ある日、自宅の垣根の外がガヤガヤと騒がしいので気になり、外を覗いて見ると村の人々が川堀でうがいをし、顔を洗っていたそうです。そして、山から太陽が昇るのを見ると、パチパチと手を打ってお祈りをしていたといいます。この光景を見たハーンは、「世界にこんな素晴らしい国民はいない」と感動し、小泉八雲という名で帰化する決心をしたともいわれています。
そういえば日本の国旗も太陽を意味しているといいます。 幕末の頃、自国の船に正式な国旗を掲げなければ攻撃されるため、薩摩藩主・島津斉彬が桜島にあがる太陽を見て「あの爽やかな輝き出ずる太陽の光をもって鎖国の夢から覚めなくてはならぬ。日本の将来は古代から日本人が命の恩として愛してきた輝く太陽のようでなくてはならぬ」といって、白地に朱の日の丸を染め出したものを、日本の船旗として幕府に申請したのが始まりとされています。
日本人と太陽の結び付きを表す話は、 これに止まらず例えば母親のことを「おかみさん」といいますがこれは「お日身(カミ)さん」と書き、「カ」は太陽がカアカアと燃える様をいったもので、太陽の身体という意味を有しているといいます。また、挨拶でいう「今日は」の「今日」は、太陽のことであり、「やあ!太陽さん」といった意味合いがあり、今でも太陽のことを「今日様」と呼ぶ地方が沢山あるそうです。さらに「お元気ですか?」の「元気」は、元のエネルギー即ち太陽エネルギーの意味であり「今日はお元気ですか?」は、「太陽さんと一緒に元気で生活してますか?」という意味になるそうです。つまり、国名も国旗も、母親の呼び名も挨拶も、太陽に由来しているというのです。
インドから中国(唐)へと渡った正統の密教が、弘法大師により日本にもたらされましたが、時代を重ねてゆく中で深く日本人の生活に結び付き、思想・文化に強い影響を及ぼしています。太陽を信仰して来た日本人が、太陽を表す大日如来を中心とした密教思想を受け入れ発展させたのも、ある意味で当然の事なのかも知れません。
今年も残すところ、ひと月足らずとなりました。 元旦の日の出に祈り、初詣に出掛ける方も多いことでしょう。そこで合掌する際の知識を一つ紹介します。冒頭で紹介した金剛界は智慧の世界を表し、私たちの両手でいうと右手になり「父の手」といいます。また、胎蔵界は慈悲の世界を表し、両手でいうと左手になり「母の手」といいます。真言宗では、この両手を合わせることによって互いに異なる世界が新たな調和を生む世界を作り出すとしています。合掌をすると、ほんの一瞬ですが私たちは無になることが出来ます。それが心安らぐ調和の世界です。どうぞ、良い年をお迎えください。

■苦境の時こそ問われる「共に」の心
一般に修行僧を指導する立場にある者を師家(しけ)といい、修行僧が悟りを開くための課題として師家から与えられる問題のことを公案(こうあん)といいます。「何をいっているのか分からない」ことを「禅問答のようだ」と評したりしますが、「禅問答」とは、師家が提示する公案に対して、修行僧が答えてゆくことを指したものです。公案は修行僧にとって修行の成果が試される試験問題のようなものですから、一般の方からみると「何をいっているのか分からない」のも当然で、古くから伝わる公案を見ても、修行僧を悩み苦しませてきたという程、難解な問題ばかりです。
そんな公案の一つで、特に難しいとされているものに「婆子焼庵(ばすしょうあん)」という禅の公案があります。果たしてどんな問題なのか、紹介してみたいと思います。
昔、あるところに一人のお婆さんがいました。 ある日、街で托鉢をしている僧を見かけたお婆さんは「これは見所がある!」と思い、その僧を自分の屋敷に招き、庵を造って修行させました。 そして二十年もの間、寝食の世話をし、修行を見守って来ました(仏教では、こうした行為も「供養」といいます)。
ある日のことです。「僧もかなり修行が出来たであろう」ということで、お婆さんは、世話を続けて来た娘さんに「今日、給仕が済んだら、あのお坊さんに抱きついてみなさい。 そして『こんな時はどんな気持ちがしますか』と聞いて来なさい」といい付けました。娘さんは言われた通りに朝の給仕が済むと、僧に寄り添い「こんな時はどんなお気持ちがしますか」と尋ねたのです。
すると僧は、「枯木寒巌に倚って、三冬暖気無し(枯木が寒さに凍てついた岩に寄り添ったようなもの、真冬の最中に暖気など在るわけがないように、私には色気など全く無い)」と答えました。つまり、「貴女は燃えたぎる温かい体で私に抱きついたと思うであろうが、また、私を一人の男性と思ったかも知れないが、私は寒中の巌のようなもので、貴女を枯木としか思いませんし、 私の心は動きません」と返したのです。
恥じらいながら戻って来た娘さんからの報告で、これを知ったお婆さんは、烈火のごとく怒って「二十年もこんな馬鹿坊主に只飯を食わしたのか」と僧を叩き出し、僧が修行していた庵までも「汚らわしい!」といって焼き払ってしまったというのです。
普通に考えると、この僧の答えは正解のように思われます。 それを何故、お婆さんは怒ったのでしょうか。仮に僧が娘の誘惑にのって抱いたとしたら、お婆さんは怒らなかったのでしょうか。いやいや、それこそ「未熟者め!」といわれて叩き出されたことでしょう。娘を抱かないのは不正解、かといって娘を抱くのも不正解という難しい設定ですが、さて貴方ならどうしますか?というのがこの公案です。
確かに古い仏教の教えの中には「人間の煩悩は、煩悩を宿す肉体に起因しているので、修行によって肉体を枯木のように生気を無くし、思考を止めることこそ理想である」とした考え方もあります。先の僧が実践したのも、この教えであったといえます。 しかし「婆子焼庵」の公案では、人間の本能を絶とうとする修行を否定しています。そして真の修行は、人間の本能を絶つことではなく、本能を否定せずに整理することであるとしているのです。
ここから導き出される公案の正解は「愛欲という本能を否定するのではなく、さばいてゆくこと」になります。何となく分かったようで分からないと思いますが、頭で考えて答えを導き出せるような問題ではありませんから当然です。事実、修行を重ねた僧でも、実際にどう対処すれば良いのかとなると、悩みが尽きないようで、次に紹介する阿闍梨と弟子のやり取りからも、その様子が分かります。
それは十三世紀前半のことですが、高野山の著名な学匠であった道範阿闍梨の弟子に対する手紙が残っています。「密教の観法をする時、雑念が生じて困っています。 どうしたらよろしいでしょうか?」という弟子からの質問であったようです。それに対して道範阿闍梨は、「あなたもそうなのか、実は私もそうなのだ」という返事を出しています。そして、「あなたは雑念が悪であるから、それを極力取り除き、無念無想の純粋な境地に至らなればならぬと考えているに違いない。 だが、雑念は悪で、純粋は善だと一方的に判断するから困惑するのだ。雑も純も、正も邪も、善も悪も、美も醜も、実は同じことだ」というように道理を懇々と説き聞かせています。
真言宗の常用経典として代表的な「理趣経」でも、人間の持つ欲望のエネルギーを肯定しており、その上で悟りへ向かう真心の在り方を説いています。先の公案のように己一人の悦びだけでなく、自も他も共に幸せであることを目指すことこそ、 人間を生かす根本のエネルギーである大宇宙の法則に適っているといえるのではないでしょうか。
昨年の後半から一気に拡大した世界的な金融危機に端を発した不況の荒波は、まだ始まったばかりといいます。「企業は人なり」の精神も何処かに吹っ飛び、防衛本能とはいえ企業が人を切り捨てるニュースが連日のように報じられています。その意味では、今年ほど「共に」の精神が問われる年は無いように思われます。本年が、皆様にとって少しでも良い年となりますように・・・。

■今こそ人間は我欲を捨て、大欲に目覚める時
2月15日は、お釈迦様が入滅(にゅうめつ)された日です。入滅とは、涅槃(ねはん)すなわち煩悩の炎を吹き消した状態に入ることをいい、魂の輪廻という束縛から解き放たれ、永遠の安らぎの境地を得るという意味での解脱(げだつ)することをいいます。むろん、完全なる解脱は肉体の消滅、即ち「死」によって完結することから、宗教的に目覚めた人が死去することを意味しています。
ところで人が亡くなると「成仏してください」と手を合わせる方がいますが、人は亡くなると直ぐに仏に成れる、つまり涅槃に入れる訳ではありません。涅槃は弛み無い修行の先に見えて来るもので、しかも修行を続ける中で、ある日突然到達できるというものではありません。それは例えば煩悩の炎をひとつ一つ吹き消すように、一歩一歩近づいていくものです。修行は、その歩を進めるための行為ですから、煩悩に覆われた現世はもとより、亡くなったあの世でも魂の修行は続きます。
もちろん修行といっても、一般の方が出来ないような事を強いる訳ではありません。とかく信仰は、教理に傾き過ぎると形式のみが優先され、ともすると本質である心の在り方を見失いがちです。仏教は、非日常的な修行のみをもって悟りの境地、即ち涅槃を目指そうというものではありません。事実、お釈迦様が開いた仏教には、 教えを解釈したものをはじめ、修行法や戒律について記したものなど膨大な経典がありますが、その教えは決して難しいことが説かれている訳でなく、 ただ「涅槃に入る」ことを第一目標とし、この目標に向けて修行することの大切さを説いています。
このように涅槃への道は容易なものではありませんが、例えば修行の過程でひとつの煩悩が消えればその分だけ心が解き放たれ、安らぎを得ることが出来るのですから、現世を生きる私たちは、いつしか得られるであろう涅槃の境地を信じて、 ひとり一人がそれぞれの日常の中で悟りを求め続ける心が大切であるということです。
鎌倉時代の高僧で、月を詠んだ歌が多かったことから「月の歌人」とも呼ばれた明恵上人は次のような一節を残しています。「人は阿留辺畿夜宇和(あるべきようは)の七文字を持(たも)つべきなり。僧は僧のあるべきよう、俗は俗のあるべきようなり。 乃至(ないし)帝王は帝王のあるべきよう、臣下は臣下のあるべきようなり。このあるべきようを背くゆえに一切悪しきなり」---ここに出てくる「あるべきようは」とは、何でも受け入れる「あるがままに」と異なり、 人は時によって、場所によって、さらには事によって、それぞれが本来あるべき姿を自らに問いかけ、その答えを探りながら生きてゆくことこそが大切であると、日々の行と心の在り方を説いたものです。
人が悟りを求める心をもって生きるようになれば、仏様の慈悲を観じられるようになり、やがて生きる悦びとなります。そして、この世は人だけでなく、草木から虫や動物に至るまで、地球上に生を受けた生きとし生けるもの全てが、大自然の恩恵を受けながら生きている事に改めて気付かされます。 私たちは地球の長い歴史の中の一瞬を生きている生物に過ぎず、夜空に輝く星の瞬きのようなものです。
先日あるテレビ番組で、 もし地球上から人類がいなくなったら地球はどう変わっていくかをコンピュータでシミュレーションし、映像化していました。それによると、人類がいなくなると、直ぐにアスファルトには草が生え、動物たちが街をうろつき始めます。やがて道路は殆どが草木で覆われ、様々な動物が生息するようになります。そして最終的には高層ビルや大きな橋も崩壊し、都市もジャングルと化して、それ迄そこに人類が生息していた形跡すらない地球の姿に戻っていました。
その地球の今を考えると、100年前には15億だった人口が60億を超える迄になり、この人口増加に伴い地球上の森林面積は100年間で半分以上が消滅したといいます。 そうした影響もあってか、オゾン層の破壊や地球の温暖化が進み、世界各地で異常気象が頻繁に見られるようになりました。 にも拘わらず世界の経済大国は、つい最近まで「自国さえ発展すれば良い」という我欲を丸出しに、 限られた資源を貪り合い、例えば二酸化炭素の削減にも消極的でした。
それが、ここに来てようやく「エコロジー」というスローガンのもとに「地球に優しい」活動を模索するようになり、「心の時代」とまでいわれるようになりました。折しも昨年の後半から始まった100年に一度といわれる金融危機と世界同時不況によって、おそらくこの流れは否応なく進展することでしょう。 ただ、これで「物の時代」は終わり、次は「心の時代」とする単純な発想では、人口がここまで増加した現実を考えるまでもなく、本当の「心の時代」を求めるのは難しいでしょう。
密教では「物」と「心」のどちらにも片寄ることなく、両方とも大事に取り扱うべきと教えています。この考え方を示すものとして、弘法大師が恵果阿闍梨の人柄を偲ばせるものとして「碑文」の中で記した言葉に次のような一節があります。「貧を済うに、財をもってし、愚を導くには、法をもってす。財を積まざるをもって心とし、法を惜しまざるをもって性とす」・・・・つまり「物」に象徴される諸々の社会活動と、活動の根底にある「心」とは、切り離して考えられるものではないとしているのです。
この考え方を踏まえるなら、私たち人間は、正に今という時代を、地球と環境で、危機という事に対して如何に在るべきかを真剣に考えなければならないといえます。その向かうべき方向の手掛かりとして、密教では、欲望を否定することなく、 むしろ「欲」という人間が本来持つエネルギーを肯定し、その奥にある悟りを求める欲「大欲」こそが、現世を生きる人間にとって大切であると説いています。その大欲をもって人類は、地球上の生きとし生けるもの全てが生かされていることを肝に銘じながら、何十年、何百年、何千年と時代が移っても、地球が大宇宙のなかで輝く素晴らしい星であり続ける為にどうすべきかを考えなくてはいけません。 

■広げていきたい「和」の精神
古来、私たちの祖先は人が亡くなると霊魂として山に行き、やがて山頂から霊界に昇天するという山中他界観、山中浄土観をもって生活してきました。そのため山は神聖な場所とされ、山そのものが神仏として畏れ多い存在に位置付けられ、山で修行することは、神仏と一体になり超自然的な能力を身につけることが出来るとされました。山岳修行を第一とした修験道は、ここに端を発しています。
弘法大師の足跡を記した年表を見ると、 大師が唐に留学する前の7年間というものは空白で、消息が明らかになっていませんが、 おそらく、この間に全国の山々や霊場で修行し、己の仏心を磨いていたと考えられます。唐において恵果阿闍梨から正式に密教の伝授を受けられたとき、数十年の修行が必要とされる両部の大法を僅か数ヶ月で満行したのも、厳しい荒行の中で、密教の極意である大宇宙や大自然と一体となる行を既に修めていたからと考えられます。
大師が、それまでの印度・中国密教とは異なり、「即心成仏」という言葉を「即身成仏」としたのも、観想のみでなく、身体全体で悟るという日本人の「神人合一思想」に基づいているといえます。このように神仏の御心に己の心身を委ねて手足となり、生活する思想は、自と他の区別なく、自然と調和して生きるように心掛けてきた日本人ならではの思想といえるでしょう。
日本人は、四方を海に囲まれた国土と温暖な気候、豊富な食料に恵まれたこともあって、古くから争い事を嫌い、「和」の精神を大切にしてきた民族です。ここでいう「和」とは互いが譲り合い、馴れ合うのではなく、「自然の理」「宇宙の理」に沿った、より高い次元の調和を意味しています。大陸思想に基づいた国の中には、例えば国王が替わる度に対立する民族を滅ぼし、「共存共栄」など考えられないというような歴史を繰り返してきた国が少なくありません。しかし、日本では政敵や逆賊であっても殺されることが少なく、許し合い、共存してきた歴史があります。
このように私たちの国は世界に誇れる歴史と文化を持っていますが、世界の中で日本が果たすべき役割を考えた場合、本当の意味で世界に貢献しているとはいえません。大陸から輸入された文化を自国の思想に合ったものとして成熟させ、発展させてきた日本です。これからは、もっと自信をもって自分たちの文化を世界に発信して、和の精神を広げていくべきでしょう。

■仏の救い・癒しを想う
六十才で肺がんの手術をした母親が、五年後メニエル病を併発し救急車で病院に運ばれました。診察の結果、治療も出来ない末期のガン。病院のベットで、未だ独身の次男の行く末を思い「一人前の家庭を築く姿を見たかった」と、他家に嫁いだ娘にふと漏らしたそうです。それを聞いた娘さんは、家事の合間を縫って毎日毎日、 時には台風の夜でさえ一回も欠かさず寺へ詣で、滝に流れるお不動様の水と、お薬師様の薬壷から出る霊水を届けました。
それから二ヵ月後、主治医によると、「治ってない訳ではないが、何度検査してもどうしてか、不思議に進行もしてない、このままでしたら本人の意志ですが退院されても良いですよ」。後での話しですが、母親は入院した時、二度と生きてこの病院を出ることは出来ないだろうと覚悟したそうです。しかし、一週間、半月、一ヶ月と、一日も欠かさず必死で仏様の「命の水」を届けてくれる娘の思いに「治りたい」、こんなにも私を思ってくれる我が子の為に、何としてでも「治りたい」少しでも良くならなければと。 そして七十五日目、晴れて退院なさったのです。
これは正に、 子が親を思う美しい姿に、救ってあげたい、 と仏様の慈悲の御手をさしのべてくださった証しでしょう。 「念ずれば花開く」 それは自分の為でなく、見返りを求めず無償で祈る「即身成仏」の姿そのものであったのです。 それから五年後、次男も結婚し、子供も授かり、独立して家も建て、 家族誰でも納得する静かな最後を迎えられました。 主治医は、「あのお体でよくぞ今日まで。医者には分からない何かがあるんでしょうね」と、奇跡と言わんばかりに感心されたそうです。
四国八十八ヶ所の番外札所である愛媛県大洲市に、昔、お大師様がこの地を巡錫された折、貧しさの余り、宿を貸すものが一人としていなく、橋の下で一夜を明かされた「十夜が橋」という橋があります。「行きなやむ浮世の人を渡さずば一夜も十夜の橋と思ほゆ」 この人達をどうしたら救ってあげれるだろうと考えていたら、時のたつのを忘れてしまったと詠んでいらっしゃいます。
よく最近「癒し」という言葉をを耳にしますが、 殆どの人が、「誰かに癒されたい」という意味で使っています。 何時から人は、「癒したい」 他の為になにかをしたいという思いを大きく後回しにする様になったのでしょうか。貧しくとも、心豊かであった先人の時代からすると「癒し」が、一字違いの「卑しい」と聞こえてしまう時もあるのではないでしょうか。
六千名以上の貴い命が奪われた阪神大震災から十四年目の、一月十七日、被災された方々はどんな思いでこの時を迎えられたのでしょう。 ある二十才の大学生の柩の蓋に母への最後の言葉「孝行一つ出来ず、ごめんな、ごめんな、ごめんな」と記してありました。 その人達の相(すがた)と心を想い、どうか仏様、お大師様、来世と現世で行きなやむ人達を癒して救ってあげて下さいと、心静かに、 一緒に祈りましょう。  
 

 

 
 

 

 
 

 

 
遍照山光明院・法話

 

縁起
光明院の縁起についてはつまびらかではありませんが、室町時代、深津村字市場に無量寺という庵寺があり、それが起源といわれています。
そして徳川の時代に入り、正保2年(1645年)当時の深津郡りに、藩主水野勝成が新田の造成を計画。俗にいうところの千間土手(せんげんどて)を作り堤防工事を始めました。
正保4年(1647年)、勝成は新開地造成の潮止めのために千間堤の工事を始めましたが、これが難工事で、いくらやっても土手が崩れるため、半ばあきらめていました。そのようなとき、土地の庄屋が「この浜辺には塩崎大明神という小さな社があって、本地は不動尊だが霊験あらたかだからこれへ祈願してみてはどうか」と言うのです。そこで勝成は工事の関係者と一緒にこのお社に参拝祈願を行いました。
すると、土手が閉まって壊れなくなったのです。塩崎神社は、そのお社として現在の社殿に建て直したといわれています。そして、深津村市場にあった無量寺の庵主に、その社務を行わせることになりました。10月、引野村梶嶋山から深津村王子山をつなぐ大潮止堤防が完成しました。「千間土手」といわれる大築堤防工事でした。
時代は翌正保5年2月より慶安元年(1648年)と改称されます。
勝成公は深津村の塩崎明神社へ社領として田地3反歩を寄進し、ついで深津村字市場の無量寺庵を再興して「遍照山光明院」と改称しし、塩崎神社の別当寺としました。これが現在の光明院の始まりといわれています。現存する過去帳はその頃のものから保存されています。それ以前のものは虫に喰われボロボロで判明し難いものとなっています。
本尊は上品上生阿弥陀如来像。元和2年4月俊澄上人が勧請されたといわれています。そのほか仏像として、弘法大師像(元禄7年)、不動明王像(元禄11年)、地蔵菩薩(元禄11年)、阿弥陀如来像(元禄11年)いずれも俊澄上人が勧請されています。 
 
 

 

■おかげさま
人の世の業の身に沁む風花に濡れ濡れて咲くこの木瓜(ぼけ)の緋(ひ)は
仏教では、身、口、意の三つの働きを重んじております。
唯今も、お授けしました「懺悔」の文に
我昔所造諸悪業 皆由無始貪瞋痴 從身語意之所生 一切我今皆懺悔
(がしゃくしょぞうしょあくごう かいゆむしとんじんち じゅうしんごいししょしょう いっさいがこんかいさんげ)
とあります。わかりやすく申しましょう。
無始よりこのかた貪瞋痴の煩悩にまつわれ身と口と意とに造るところの、もろもろのつみとがを、みな悉く懺悔したてまつる
となりますが、特に口の働きを重視しております。
三匙(さんぴ)の偈(げ)というものがあります。
一口為断一切悪 二口為修一切善 三口為度諸衆生 皆共成仏道
(いっくいだんいっさいあく にくいしゅういっさいぜん さんくいどしょしゅじょう かいくじょうぶつどう)
という偈であります。つまり一口食べては一切の悪をしないように心がけ、二口食べては一切の善を進んで行い、三口食べては諸衆生、即ち、大勢の人のために奉仕し、皆共々に仏道を成ずるように努めようというのであります。
この三匙の偈は食事に際しての偈であります。しかし、食事のことに限らず、一口開いては悪口を言わないように、二口開いては善いことを言うように心がけたいものであります。
わが真言宗ではこの「口業」(くごう)即ち口の働きを「口密」(くみつ)と読んでおります。口密というのは仏様の言葉を語ることであります。仏様の言葉を真言というのであります。真言は仏様のお名前であり、誓い、願いの言葉であります。詠歌にいうところの「仏の誓いただ頼むなり」であります。
この仏の誓いは「すべての人をみな救う。きわまりのない福徳と智恵を身に積む。はかり知れぬ仏法を学ぶ。数限りなき多くの仏に仕える。たぐいなき仏道を行ずる。」の五大願に展開されます。過去、現在、未来の三世三千の諸仏とその名は多いのですが、その誓願は一つに帰します。
「万人の救われんことを、全人が仏にならんことを」であります。そして、この誓願の象徴が合掌であります。
千手千願の観音さまは数あるおん手を持っておられます。その数あるおん手の中で、中央の両手は合掌をされておられます。“早くほとけになれよ、めざめてくれよ”とのお頼みです。みほとけが手を合わして拝まれる戸疎い仏の心を、だれ一人の例外なく万人がそれぞれに自分の心中に有しているのです。このこころがほとけのいのち(仏心)です。仏様の合掌に応えて、自己が合掌するのは、そのまま自分に合掌するのであります。すると、自分がほんとうの自分になるのです。人間の中にふかぶかとしたものが生まれてきます。人間の心の底、奥深い所を、地下水のように根源的に埋めこめられてあるものが感得されます。存在しながら自覚できなかった仏心がよみがえるのです。それと同時に他の人も人間の本心(仏心)にめざめさせようという願いがわいて参ります。
仏さまの言葉である真言を唱えることによって仏さまの力を加持されるのであります。
この事をお大師さまは「仏の力を借らねば悪い心を除いて真理をさとることは出来ない」(秘蔵記)を言われております。
南無大師遍照金剛と唱えます。御宝号と言っておりますが、この御宝号も真言であります。お慈悲を垂れ下さって有り難うございますという感謝の気持ちがこめられております。御宝号を唱えてもおかげさまでありがとうございますという感謝の言葉が花開かないようでは駄目であります。真言の基本は感謝の言葉であります。合掌ができ、感謝の言葉が言えるようになった時、私たちは真の仏さまになれたのです。
南無大師遍照金剛  合掌

■露団団
真昼間の闇を照らすかドクダミの白十字の花雨に咲きをり
歌詠みの蛙の鳴声が早朝の枕許に聞こえて参ります。
蛙といえば小野道風を憶いだします。道風は蛙が柳にとびつくのを見て、「人間は努力しなければならない」と目ざめたといわれます。蛙は道風に真理をわからせようと意識して柳の枝に飛びついたのではないでしょう。蛙は蛙なりに無心にしているだけであります。その何でもない動作や景観の中に真理を感じるのは、人間の中に深い「心のはたらき」があるからだと思います。このはたらきが「ほとけの智慧」であります。
蛙の声にめざめたように、ドクダミがあちこちに繁茂して、四枚の花弁状をした苞片に淡黄色の小花をつけ、沈黙の説法をしております。そのドクダミの葉の上に結んだ露が光っていて、露団団(つゆだんだん)、楚にして艶の境地です。
露には露の詩(ポエム)があり、神秘があります。はかなしとする人もあれば、華やかなりとする人もあり、人の心の明暗強弱を物語る一つの象徴でしょう。
「夢を見る心の蓋を閉ずるなかれ」との言葉をもらって旅に出ました。どこというあてもありません。奥丹後の「伊根の舟屋の里」と決めたのは京都に着いてからでした。
雨のそぼ降る京都を発ったのは昼すぎでした。タンゴディスカバリーの車窓に映る緑の渦が旅愁を慰めてくれます。天橋立で下車します。路線バスに乗りかえ、烟雨(えんう)の橋立に心ひかれながら伊根温泉郷に向かいました。
約一時間の乗車で雨の烟(けむ)る海辺の秘境を目にしました。民家は山と海との間の狭い平地にかたまり、わずかな耕地は千枚田となって横たわっており、古い漁港は穏やかな湾のほとりを、一階は舟置場、二階は住居という舟宿がぎっしりと埋めつくしておりました。
舟屋の里めぐりは明日ということにして、宿の温泉で汗を流し、雨上がりの庭に出て見ますと、楚々として咲いている山法師の白い花が雨露をこぼしております。
伊根はよいとこ    後は山で
前で鰤(ぶり)とる   鯨とる
   伊根のなかでも   耳鼻(にび)の谷地獄
   入るくじらを      みな殺す
押せや押せ押せ   甲崎までも
空が冴えたら     みさきまで
   岬 みさきは      七みさきあるが
   さても恐ろし      経ヶ岬(きょうがみさき)は
海の民の祈りのうた「伊根の投げ節」が伊根の浦風とともに夜の泉郷を流れておりました。

■百日紅の花
ひぐらしの声にせかれてほろほろとわびこぼれをり百日紅(さるすべり)の花
古風な屋根、門のすぐ脇に大きな百日紅の木が茂って日盛りの道に深い陰をこしらえていた。
門の屋根裏に巣をしている燕が田圃から帰って来てまた出て行くのを甚兵衞は煙管をくわえて感心したように眺めていたが「燕位感心な鳥はまず、いないね」と前置きをしてこんな話を始めた。
村のある旧家に燕が昔から巣をつくっていたが、或る日、家の主人が燕に「お前には永年うちで宿を借しているが、時には土産の一つも持って来たらどうだ」と戯れて言った事があった。そしたら翌年燕が帰って来た時、主人の膳の上へ飛んで来て小さな木の実を一粒落した。主人はなんの気なしにそれを庭へすてた。まもなく其処から奇妙な樹が生えた。誰も見た事もなければ、聞いた事もない不思議な気であった。その樹が生長すると枝にも葉にも一面に毛虫がついて、見るからに気味が悪かったので主人は此の樹を引き抜いて風呂の焚きつけにしてしまった。其の時丁度町の医者が通りかかって、それは惜しい事をしたと嘆息する。どうしてかと聞いてみると、それは我が国では得難い麝香(じゃこう)というものであったそうな。
ここまで、甚兵衞は一人でしゃべった。黙って聞いていた藤作は「その麝香というのはその樹の事かい、それとも虫かい」と聞くと「ウーン、そりゃその麝香にもいろいろ種類があるそうで……」とどちらともわからぬ事を言うので藤作は強いて聞こうともしない。
百日紅の花がほろほろとこぼれる。

■心の師
ふくらみて梅の莟(つぼみ)の言ふとせぬくれなゐはあれ冴え返る朝
早朝ウォーキングのために家を出ます。白っぽい早春の光が流れて、枕草子の「春はあけぼの、やうやう白くなりゆく、紫だちたる雲の………」の冒頭の一句が口をついて出て参ります。
大地の奥深くで息をこらし待ち続けていた春のいのちが、光の呼びかけに応じて、ほとばしるように根を張り、幹を走り、枝を走っていっております。耳をすましますと、そのわきあがる歓声がきこえるようです。
春のいのちはまず梅の枝に姿をあらわし、一輪、一輪とわずかずつ花をつけてゆき、コブシ、ケヤキ、クヌギといった木々の芽をふくらませております。
梅の花で思うのは、
「不見西湖林処士(みずやせいこりんしょし)、一生受用只梅花(いっしょうじゅようただばいか)」
と賞嘆される、中国北宋の詩人林和靖(りんなせい)です。彼は梅を妻とし、鶴を子として生涯を終ったといわれています。
芭蕉の句に「梅白しきのふや鶴をぬすまれし」と吟じたのがありますが、林和靖の故事を念頭においての事であります。
水辺に、青い竹林か何かを背景にして、白梅の匂っている眺めは東洋の詩の味(あじわ)いであります。
梅の頃に雪が降って、その白い雪の中に花がいじけてよごれたように見えた寒さも忘れられません。梅は清高の隱士です。昼夜をわかたず仏音を流しております。
雑阿含経(ぞうあごんきょう)の中に、譬(たと)えをあげて言っております。或る人の所に召使がおりました。すべてする事が満足できて、何一つ欠ける所がありませんでした。だから主人はひたすらこの召使を頼りに思って、朝夕かわいがり面倒を見ました。
彼が好み望むことは、着るもの、食べものを始めとして、ちょっとしたつまらない遊びに至るまで、すべて叶(かな)えました。乏(とぼ)しい思いをさせまいと、一生懸命にすることよりほかありませんでした。
こんなによくしたのに、この召使は、長年の敵が謀(はか)って付けた者だったので、どうして、主人の厚い志を感謝しましょうか。隙(ひま)を見て、すぐに主人を殺して、立ち去って行きました。
この召使というのは自分の身であります。主人というのは心であります。心が愚かですから、仇敵(あだかたき)である身を知らないで、前世での善根によって得た命をうしない、悪道に堕ちるのであります。
釈尊の教えられた「心の師とは成るとも、心を師とすることなかれ」とはこのことを言ったものでありましょう。
もう一つ別の生き方を夢としてあらあらかしこふうせんかづら
夜の風に凛々として匂ひくる逢ふには遠い白梅の声

■ふうせんかづら
バランスをくづせば悪玉になってゆくお前もさうか雨の石蕗
白昼夢見てゐるやうな石蕗の黄の色彩犬も鼻鳴らす
枯れ葉色の風の説法にもこもこと染まりてゆくかエノコログサの穂
瞳にはナナカマドの赤染みてくる光耀(かがよ)ふ吾娘(あこ)の生まれし日
色(しき)は空(くう)空は色なりあかあかと入り日背にして裸木の欅
なんといふこのあどけなさ天(そら)めざすひとかたまりの裸樹の垂直
懺悔の呪唱へと言ふや雪消えの朝を南天の実の光(て)り映ゆる
虚と実をなひまぜながらチューリップの莟の見するさまざまな顔
ふくみ笑ひしてゐるやうなアマリリスわが日常の一つの異変
心の奥深いところでエロスなる息ひそめるや夜の紫陽花
真昼間の闇を照らせよドクダミの白十字の花雨に咲きをり
気が付けば純綿(めん)の肌触りに似たる風ありて欅の青き渦立ち
口ぐせに先に逝ってと言ふ妻のシャワー浴ぶる音ひぐらしの啼く
五年後の扉の向うにある姿見えず揺れゐるふうせんかづら
もう一つ別の生き方を夢としてあらあらかしこふうせんかづら
 

 

■リンゴの気持ち
人の世の業(ごう)の身に沁む風花(かざはな)に濡れ濡れて咲くこの木瓜(ぼけ)の緋(ひ)は
毎朝の食事を終えるとデザートに林檎を食べるのが習慣になっている昨今です。その林檎を食べながら、十数年前の事を想い出しました。長野県の巡回布教先でリンゴ園を拝見させていただいた想い出です。見事なリンゴ園でしたが、紙袋をかけているもの、かけていないものがありました。リンゴ、梨、ブドウ等は虫の害から守るために袋をかけるのが常識のように思っておりましたのでその理由を尋ねますと、園の主人は次のように言われました。
「できれば全部に袋なんかはかけたくないのですが…」「袋をかけなかったら虫の害を受けるでしょう」と言いますと、「紙袋は虫の害からリンゴを守るためでしたが、今は農薬が発達していますから袋をかけなくても虫はつきません。それどころか、袋をかけないほうがよいのです。農薬が雨に流され、日光に消毒されてよいのです」と。
「では、なぜ今でも紙袋をかけられるのですか」と尋ねます。すると、「袋をかけたほうがリンゴの膚(はだ)が外見的に美しくなり、しかも、形もよく、店に並べた時にそのほうがよく売れるのです。しかし、味のほうは紙袋をかけていないほうです。膚の色はきたなく、ざらざらしていて、形も美しいとは言えないのですが、消費者向けに袋をかけているのです」という答えが返って参りました。
私達は外見上の美しさのために高いリンゴを買っていることになります。
考えてみますと、質よりも外見を優先させているのです。リンゴだけのことではありません。先ずは、「リンゴの気持ち」をよく理解したいものであります。
リンゴの気持ちはなかなか理解し得ないのでありますが、人の心の中はどうでしょうか。
「発心集」の中に次のような話があります。
唐の国に帝がおられました。夜もかなり更けて燈を壁の向うにやり、寝所に入って横になられた時に、火の影にゆらめくものがありました。不審に思って寝入ったように見せかけて、ご覧になると盗人らしいのです。あちこち歩いて、宝物(ほうもつ)や衣(ころも)などを取って大きな袋に入れていました。息を凝(こ)らしていらっしゃると、この盗人は、帝の傍らに、薬を調合しようとして、灰をおいておかれてあったのを見つけ、ためらうことなくつかみ食いました。不思議なことをするものだとご覧になっていらっしゃると、しばらくして、考え込み、袋につめこんだものを取り出して、皆もとのように置いて出て行こうとしました。その時、帝はとんと納得がいかないことだと思われて、『お前は何者か 人のものを取りながら、またどういう気持ちで返して置くのか』とおっしゃった。盗人が答えて言うには、『私は某大臣の子であります。幼い時 父に死なれましてから、世を渡る手段もなく 命をつなぐ方法もありませんので盗みをしようと思いつきました。しかし、一般の人のものは、自分が取ってしまったら、その人の嘆きはきっと深く、首尾よく盗み出しましても、自分の気持ちもすっきりしないだろうと思い、恐れ多いことながらこのように参りまして、まず食べれるものが欲しかったので、灰が置かれてありましたものを 食べ物と思って食べてしまいました。もの欲しさがなくなってから、はじめてそれが灰であったことがわかりました。いざとなればこのようなものまで食べられる。盗みをしようなど、けしからぬ考えを発(おこ)してしまったなあと、悔(くや)しく思いまして…』と答えました。
帝は涙を流され、『お前は盗人ではあるが賢者である。心の底に汚れがない。私は王位にはあっても愚者といわなければならぬ。うっかりして忠臣の跡を忘れていた。早く帰っておれ。明日呼び出して、父大臣の跡を継がせよう』とおっしゃった。
その後、望み通り帝にお仕えし、父の跡目を継いだということであります。
すべて人の心の中は、よそからは簡単にはわからないものであります。
荘子秋水篇(そうじしゅうすいへん)に、恵子(けいし)曰(いわ)く、「子(し)は魚(うお)にあらず。いづくんぞ魚の楽しみを知らん」とあります。

■仏法遙かにあらず
言葉なき命の歌が聞こえくる青い花の穂エノコログサの揺れ
立秋が過ぎましたが猛暑の日が続いています。サルスベリが、枝先にびっしりついた堅いつぼみを一気にふりほどいて咲いています。今年は百日紅(さるすべり)の咲き具合がいいのでしょうか、近所の園に十本ほどの百日紅があって、後から後から、もこもこと花を咲かせています。くれない、薄紅、白と三種類の花が重なり合って咲いているのを見ますと、巨大な氷いちごが並んでいるように見えます。極暑に色を添えてくれているだけでもありがたいと思わなくては………
跡地ではエノコログサの一群が、青い花の穂を風になびかせています。風が光って、ここには秋が何の予告もなく、無造作にやってきています。サンゴジュの実のきらめきにも鋭いものが加わっております。
光明院檀信徒の藤井和子さんが立山にて撮影されました。
私達はとかく自分の事を棚に上げて、人の事をあげつらいがちであります。
昔、二匹の蛙が天王山の麓でたまたま出会いました。それぞれが自分の住んでいる町を自慢しあい、片方が「俺の町は国中で一番大きく美しい」と誇り高く言いますと、もう一方は「俺の町こそ一番である」と自分の町を自負し、相手の町をこきおろしました。
らちがあかないのでそれでは天王山頂に登って、どちらの町が、立派か見比べて決着をつけようと蛙達は一気にかけ登りました。小さな二本足で立ち上がり、それぞれの相手の町を眺めて「それ見ろ、お前の町は小さくてきたないではないか」と言い合ったのです。
おわかりでしょうか。落ちを申しますと、蛙の目は頭の後についておりますので、実際に蛙達が眺めたのは相手の町ではなく、自分の町だったのです。
この小話には笑ってすまされないものがあります。
わが真言宗では、口の働きを「口密」と呼んでおります。口密というのは仏さまの言葉を語ることであります。仏さまの言葉を真言というのであります。
真言は仏さまのお名前であり、誓い、願いの言葉であります。御詠歌に言うところの「仏の誓いただ頼むなり」であります。過去・現在・未来の三世三千の諸仏とその名は多いのですが、その誓願は一つに帰します。
「万人の救われんことを、全人が仏にならんことを」であります。そしてこの誓願の象徴が合掌であります。
千手千眼の観音様は数あるおん手を持っておられます。その数あるおん手の中で中央の両手は合掌されておられます。“早く仏になれよ、めざめておくれよ”とのお頼みです。みほとけ、が手を合わして拝まれる尊い仏の心を、だれ一人の例外なく万人がそれぞれに自分の心中に有しているのです。このこころがほとけのいのち(仏心(ぶっしん))です。仏さまの合掌に応えて、自己が合掌するのは、そのまま自分に合掌するのであります。
すると、自分がほんとうの自分になるのです。存在しながら自覚できなかった仏心がよみがえってくるのであります。それと同時に他の人も人間の本心(仏心)にめざめさせようという願いがわいて参ります。
願以此功徳 普及於一切 我等与衆生 皆共成仏道

■一期一会
秋冷の命分泌(ぶんぴ)して心模様(うらもよう)訴へてゐる黄の石蕗(つわぶき)
自分自身の顔を見るためには何かに自分の顔を映してみるほかはありません。澄み切った静かな水面は、影を映します。おそらく古代人は水鏡を見て自分の顔を見ることを知ったのではないでしょうか。
やがて人間は銅鏡のようなものを作る智恵と技術を覚えたのでしょう。
昔、釈尊の弟子の一人に愚かな者がいました。初めて鏡というものを見まして、自分の顔がそこに映っているのに驚きました。2004年12月31日朝、光明院にてところが何かのはずみでその鏡がこわれました。たちまち映っていた自分の顔がなくなってしまったのです。驚いたのはその弟子であります。自分の顔がなくなってしまったと思いました。
さて、昔話であってもまさかこうした話が事実あったと思う人はないでしょう。ただ、どうかするとこれに似たような馬鹿馬鹿しいことに気づかないことだってあり得るものです。自分というものを本当に知っていませんと、自分は自分であるつもりでいましても、自分を見失うことが時々おこって参ります。
秋も十一月、何処へ行っても、蕭條(しょうじょう)の秋景色に、思い浮かぶこと、みな一抹の哀愁にいろどられる季節です。
一木一草の紅葉も美しいのですが、一山一渓を極彩色で埋めつくすスケールの大きいのが紅葉風景の素晴らしさであります。山も渓谷も見わたす限り満目紅葉、黄葉に映えているのを見ていますと、唐の詩人、杜牧(とぼく)の「山行(さんこう)」の一句、「霜葉(そうよう)は二月の花よりも紅なり」が思い出されてきます。
謡曲に「紅葉狩」があります。主人公平維茂(これもち)が信州の戸隠山で「時雨を急ぐ紅葉狩り」の道すがら、やんごとなき上臈(じょうろう)(貴婦人)が林間に幕をうち回し、屏風(びょうぶ)を立て酒宴を催しているのに出会い、美女に酒を飲まされ、あわやお化けの鬼女に殺されようとするのをやっとのことで助かるのです。
深山幽谷の紅葉ぶりは鬼気迫るほどの物凄いもので、維茂が化性(けしょう)のものにたぶらかされるのも無理はないのです。それほど奥山の紅葉は魔の世界なのです。
落葉樹は常緑樹とちがって晩秋のころ、葉をふるい落して裸木となり、冬眠に入ります。その一期一会(さよなら)の挨拶のドラマとして紅葉という色彩の大饗宴を開いて最期のひとときを飾っているのでしょう。ひと冬を葉のない裸でふるえて暮らす落葉樹を神さま、仏さまは哀れだと思われ、ほんのひととき豪華なゴブラン織り(パリ市ゴブラン工場で作られる壁掛用の厚い織物)の衣裳をまとわせておられるのかもしれません。いのちの輝きであります。
願以此功徳 普及於一切

■賽の河原の地蔵和讃
冷やかななまめき秘めて懶(ものう)げに人待ち顔の藍(あい)の紫陽花
梅雨に入ってから、葉の上に毎朝、露をむすんでいます。この露が光ります。葉に触れている部分の底部から白く光っています。真上から見下ろしますと白光は消えて見えませんが、離れてよく見ますと美と力との豊満が示されています。これが露の詩(ポエム)でしょう。
言うまでもなく露はいろいろなものの上にやどります。石垣の上に、屋根の上に、土の上に板べいの上に。けれども石や土や木の上は、まことに流れやすく、消えやすいのです。光明院檀信徒・藤井和子さんによる、くじゅう山での写真の一つやはり人間が、その性格の適する所に生活をしようとするのにも似ています。露もその最も落ち着きやすい所に長く落ち着こうとします。露の、もっとも美しくおちついて宿っているところ葉の上です。木の葉の上、草の葉の上…。
露が、農家の竹やぶや、生垣や、又は少し荒れた軒から椿の木の枝等にかけわたしている蜘蛛の巣の上で光っているのですが、風が吹いて来たりしますと、まるで魔術のようにどこか散り失せてしまっています。はらはらと草の上に落ちても、落ちました時にはもうその形はないのですから。
私達は露のもろくも散り失せることよりも露の白、或は黄金(こがね)色に輝きをもちつつ、その形を与えられ保(たも)たれている間の「時」を充実させている相(すがた)により多くの感動をうけます。
生きよ、清く生きよ、美しく生きよ、生きてかがやけよ、これが露の詩魂ではないでしょうか。
「一つ積んでは父のため、二重積んでは母のため、三重積んでは古里の…」と哀愁的な賽の河原の地蔵和讃(空也上人作)を唱えていますと、父に叱られた日のこと、母の胸にすがりついた日の少年時代が走馬灯のようによみがえって来ます。
さて、このお地蔵さんには特定の浄土がありません。六道能化(のうけ)の地蔵尊と言われるように、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上という六道すべての世界で様々な姿に身をかえて、苦悩にあえぐ我々に代わってその苦しみを取り除いてくださるのです。この六道と「代受苦」の慈悲のために多くの人々の信仰を得て来たのであります。
地蔵信仰はインドに生まれ、中国に伝えられ、日本で盛んになったのであります。その代表的なものが六地蔵信仰です。文献上で平安時代の「今昔物語」に登場しております。
周防国(すおうのくに)(山口県)の神官で、常に地蔵菩薩の称名口唱(しょうみょうこうしょう)を日課としていた惟高(これたか)という人が、長徳四年の四月の頃、身に病を受けて、六日ばかりして死んでしまったのです。彼は広い野原にさまよい出て、道に迷って東西を失い、涙を流して泣いておりますと、六人の比丘(びく)が現れました。一人は手に香炉を、一人は掌(て)を合わせ、一人は宝珠(ほうしゅ)を、一人は錫杖(しゃくじょう)を、一人は花筥(はなかご)を、一人は念珠を持っていましたが、香炉をもった比丘が「われ等は六道の衆生のために六種の形をして身を現している。汝は神官の末葉であるが、年ごろわが誓いを信じて殊勝(しゅしょう)である。本国に帰してやるから、六躯(ろっく)の形を顕(あらわ)して造って、恭敬(くぎょう)すべし、わが住居は南方なり」と言うや否や、夢の覚めるように惟高は蘇生したのですが、この間三日を経ていました。
その後、彼は三間四面の草堂を造り、六地蔵の等身の綵色(さいしき)の像を造って堂に安置し、法会を設けて開眼供養をしたのであります。
この六地蔵の形は、かの冥土で見た通りの姿を模写しておりまして、遠近により道俗男女集まり来たってこの供養に結縁しました。その後、彼はいよいよこの地蔵菩薩を礼拝恭敬(らいはいくぎょう)したということであります。(「今昔物語」巻十七)
お地蔵さまは地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天の六道のどこにもおられる。いつでも、どこでも、だれにでも苦しみを見守り、救って下さる、というのが、この六地蔵信仰の根拠であり、それはまた同時に、六対のお姿をとろうと、とるまいと、お地蔵様の本来の願いなのであります。
オン カカカ ビサンマエイ ソワカ

■ハスの花
「花果同時」というように、ハスは花が咲いた時には、花の中に既に実が稔っている、といいます。また、ハスは泥沼から生えて栄養を摂取しながら、泥に染まらぬ清らかな花を開きます。「われらが生涯、またかくの如く」と仏教ではこのハスの花を、大いなる理想としてきました。
観音様の中には片方の手に蕾のハスの花を持って、もう一つの手でそれを開こうとしているお姿のものがあります。衆生の仏心を開花させようとする慈悲を物語っているのです。
ハスの花が開く季節に、お盆がやってきます。 
 

 

■秋風蕭蕭(しょうしょう)
地を這ってくる風のありさわさわと聞こえてくるのはエノコロ草の声
もう陽のない空ではありますが、光はしたたるように匂っています。少し黄(き)いろく、そして白く広いその夕空の反映が、庭土(にわつち)を明るく染めています。静かに暮れて行く秋の夕べです。芙蓉の花がしずかにねむっています。その紅の花片は女性の唇のように巻かれてしまっております。そのため心も安らぎます。今はすべてのものの「秋夕夢」です。
蔦(つた)の葉が汚くなりました。色あせてきて、半分黄(き)いろくなってしまいました。伸びようとする蔓(つる)にも、もうさしたる力がありません。飽(あ)くこともなく伸びに伸びたこの蔓でした。すがりつけるかぎりのものには、すがりついてのぼっていました。行けるところまでは行こうと努力したこの蔓ではありましたが、上高地の田代池。藤井和子さん撮影今はもう内部から空虚がやって来ました。「見果てぬ夢」のなくなってしまいました人間の心のように、自然にしぼんでいく姿を見せております。仕方がありません。いずれにしましても枯れてしまうのです。これを完成と見なしますか、それとも敗北と見なしますか。
九月二十日は彼岸の入りです。彼岸は梵語(ぼんご)の波羅蜜多の訳語で、かなたにある理想の世界、あるいは悟りの境地に行きつくのが波羅蜜多です。波羅蜜と言うのは行(ぎょう)であります。波羅蜜の行であります。波羅蜜の行には六つありそれを六波羅蜜と言い、その完成された世界が波羅蜜多の世界です。また、理想の世界を彼岸とも言い、私たちのいる現実の世界を此岸(しがん)とも言います。
さて、波羅蜜の行(菩薩行)の母体は「布施行」であります。布施とは与えること、施(ほどこ)すことです。道元禅師は「布施というのは不貪(ふどん)なり。不貪というのは、むさぼらざるなり。むさぼらざるというのは、世の中に言うへつらわざるなり。」(正法眼蔵=しょうほうげんぞう)と示しています。即ち心にもないおべっかをつかったりしてはいけない。よく思われたいという、むさぼりの心がまる見えだというのです。ですから与える時の心と、与えるものが問題なのです。「鮎は瀬に住み、鳥は木に止まり、人は情けの下に住む(「山家鳥虫歌」)という言葉があります。人は自分にさりげなく思いやりをかけてくれる人に、尽くさずにはおれなくなります。「布施」には情けを施すことが大事なのであります。
布施におきましては「三輪清浄の布施」と言いまして、三つのもの――施者の心・受者の心・施物(せぶつ)――が清浄でなければならないとされています。俺がおまえに恵んでやるんだぞ、といった気持ちが施しを受けて義理を感じたり、卑屈になってはいけません。それに施物も清浄でなければなりませんし、自分に不要になった物を施しても、それは真の布施ではありません。それでも布施は利他行でしょうか…
曼珠沙華木もれ日浴びてきりきりと火花吐きをり真紅の痙攣(けいれん)

■別事無し
黄(き)の時間耐えて待ちゐるつはぶきに秋の陽ざしの飲食(おんじき)の息
秋も末、十一月のことです。「まあ… 突っついて食べているわ」
こういう声が路地の向うの方から聞こえて来ます。出てみますと、柿の木の赤い実を、渡り鳥が飛んで来て、とまっていかにもおいしそうに啄(ついば)んでいるのでした。何とうらやましい空中の昼餐(ちゅうさん)よ。私は、その時、心から鳥のような生活がうらやましく思われました。身も心もかるげに、その梢の、小枝のささげている赤い実に、くちばしをいくたびもいくたびもさし入れては、次には首を上に向けては、のみこんでいるのです。絵にしたいようなその風情でした。
やがて、ぱっと秋の陽ざしの中を、どこへともなくその鳥はとび去りました。私は、ほほえまずにはいられませんでした。
秋のたびのかずかずの思い出――秋の山、秋の河、また、秋の湖、秋の海、いろいろな時に見たここかしこの秋の陽ざしは、今、秋の心の中に寂しく照っております。
さて、中国、「宋」の詩人蘇東波(そとうば)の詩に、
廬山烟雨浙江潮(ろざんのえんうせっこうのちょう)
未到千般愁不消(いまだいたらざればせんぱんうれいしょうせず)
到得帰来無別事(いたりえかえりきたってべつじなし)
廬山烟雨浙江潮(ろざんのえんうせっこうのちょう)
私はこの七言絶句がすきです。久恋(きゅうれん)の地、思慕(しぼ)の地へ、ようようの事で探勝(たんしょう)の旅を果たし得ても、家に帰り着いた時には、やはり、「到得(いたりえ)、帰り来たって別事無し」の感を覚えるでしょう。
どんなに美しい風景でも、親しく眺め得た後には、やはり何でもないものになってしまいます。そして、それは、単に山水に限らず、人生の百般についても、言い得られると思います。すべては見ぬうちが花です。あこがれ望んでいるうちが、幸福なのでしょう。
「未だ到らざれば千般愁い消せず。到り得、帰り来たって別事無し」
私達はいろいろな欲望を持っております。その欲望を果たすまでは、絶えず内から駆り立てられるようで一刻も心が安まりません。千般愁い消せずです。しかし、一旦その欲望が満たされると何だか、がっかりちたような気ぬけしたような心持で、あんなに熱望していたものも、結局何でもなかった事を感ぜずにはいられません。これは人生のあらゆる事において、私達の経験するところですが、私達がまた人生の終局に立って、その一生をふりかえって見た時にも、多分、おなじく別事無しの感があるでしょう。これが人生なのでしょう。人間の一生は、これだけのものに過ぎないのかも知れません。しかし、その別事無きところは、みずからその境地に行かなければ分からないのです。
私は死の一瞬を鮮烈に生きて来ました。いや、生きてきたのではなく、生かされて来たのであります。生かされている不思議、生かされている重さを深く味あいながら六十年がたちました。日が暮れてから道は始まるとか。別事無き菩提の境地はまだまだです。
夕暮れはまだまだ遠い老残(ろうざん)の面(おも)をうちくるひぐらしの声

■負い目
あの二人はどうしているだろうか、民家まで行きついたのだろうか。負傷した私を励まして肩をかしてくれていた二人は? 私は昼間樹海の中のさまよいを思い出し始めていた。
もう一昼夜が過ぎている。時の刻む音に調子を合わせながらすべての人生が過ぎ去って行くのだ。私は今にしてわかった。二十四年という僅かな時の間に生きる人間であることが。あの世、冥界では死亡閻魔帳に七時十五分死亡、沖縄慶良間近海と登録されるはずであった。志望者多数のために、エスカレーターに乗せて貰えなかったにすぎない。受取証済みなのだ。朝刊の新聞には“南西諸島、特攻機の戦果多大、吾が方の損害軽微”、戦死者としての私の名前が隅に小さく載っているだろう。私の時計が七時十五分かっきり、完全に停止してしまったので人生の調子が狂い始めているようであった。
それでよいのだ。本当のことを知らずにすめばよい。特攻機の一員として南方海上に於て戦死したものと思わせておきたい。半眼失明の状態で、苦しみながら戦死したことを知ったらどうだろう……。
ああ苦しめないでくれ。傷の痛み以上に苦しい。私は右眼をあける。眼に入ってくるのはうっそうとした林で、昼の木もれ陽を受けているのが昨日と違って見えるだけであった。やり場のない孤独感と咽喉の渇きが襲ってくる。
この私がどうしたと言うのだ。エンジンが不調でさえなかったら……、雲の流れるあの崖で笑っていることだろう。なにも聞こえず、傷の痛みもなく、ひとりぼっちのやるせなさもなく、咽喉の渇きも知らずに済むのだ。何の業の報いなのだろうか。運命の手のゆるみがうらめしくさえあった。
生きているという事に対して感謝も感激もなかった。まだまだという気分と駄目かも知れないという気持ちが相半ばし始めて来た。顔の辺りがむくんでくる。どうも重ぐるしい。半分閉じたままの眼にうつる手足にも紫斑がぽつぽつ出ている。渇きと餓えのために、健康的な人間の感覚は完全に消えてしまった。じっとして死を待つ事が恐ろしかった。生きたいという本能だけで這うように歩いた。樹木の端や笹が頬につきささってももう何も感じなかった。ふと私の視野に樹木を透かして遥か遠くに砂浜が入ってきた。蜃気楼?……、確かに見える。潅木の茂った急勾配を前にしてさえも、私は躊躇しなかった。
最後の気力をふりしぼって気を伝って下り始めた。岩や樹は容赦なく私にパンチを与える。眼前に青い海が大きな口をあけているのを見た時唯、茫然とするのみであった。
白い砂の上には灼熱の太陽が照りつけていた。木片を杖に、さまよえるオランダ人のように砂浜を北に向かって歩いた。しかし、数歩も歩かぬうちに意識を失って倒れた。
数十人のものが喚声をあげて走って来ておった。その安堵のためであったかも知れない。
死ぬるはずの私が今日まで生きている。私は当時を回想しながら、自分を守ってくれた見えない力に心から感謝し、心から合唱せざるにはおられない。と同時に、その合掌の心の中には、私が生を得たかわりに、その帳尻を合わすために、同期生の一人を死に追いやったかも知れないという消えることのない汚名がまつわりついてくるのである。なにはともあれ、若くして南冥に散華していった同期生への、私の負い目の感情、それは私に死が訪れる日まで払拭できないのかもしれないと思っている。
"帽振れ"に送られし身の来し方がおいでおいでするドアの向こうで
出撃は六十一年前死すべかりし身は生きて今鳳仙花の種まく

■露の法音
与へられたる「時」の記憶か馬鈴薯の葉に輝ける白露団々
梅雨のせいでしょうか、馬鈴薯の葉の上に毎朝、露をむすんでおります。その露が白く光っていて、真上から見下ろしますと白光は消えて見えませんが、はなれて見ますと白露団々、楚にして艶、美と力との豊満を示しております。
露には露の詩があります。神秘があります。これをかなしとするも、華やかなりとするも、人の心の明暗強弱を語る一つの象徴となるのであります。
いうまでもなく、露はいろいろなものの上にやどります。石垣の上、屋根の上、土の上、板べいの上にやどります。けれども、石や土や木の上は、まことに流れやすく、消えやすいのです。露の最も美しくおちついて宿っているところは葉の上です。木の葉のうえ、草の葉のうえ……。
池など蓮の葉の上にたまる露は、かなり大きい玉に結ばれるのが普通です。従って、陽がかなり高くなるまで光っています。おどけものの蛙が出て来て葉によじのぼり、撮影:藤井和子さん(光明院檀信徒)その大きい丸い葉のまん中にくぼみをつくりますと、露はするするとそこへ走り落ちて来て蛙の足に真珠の飾りをつけます。しかし、蛙は何の気もないのです。プイと蛙が池の中に飛び込みますと、それと同時に露もまた水の中に……。そしてもう跡形もありません。
露が、農家の竹やぶや、生垣や、または少し荒れた軒から椿の木の枝などにかけわたしている蜘蛛の巣に、幾粒となくむすびついて光っているのですが、風が吹いてきますと、まるで魔術のようにどこへか散り失せてしまいます。
露の散り消えるのはその行方がわかりません。はらはらと草の上から土の上に落ちても、落ちたときにはもうその形はないのですから。
形というものが、ごく束の間のものであるということ、光り輝いている美しさが清く美しいものであればあるだけ、それを人間の生死の上に、世の中の無常ということに結びつけて悲しんで来ました。
今の私達は、露のもろくも散り失せることよりも、露の白くも、黄金色にも輝きを持ちつつ、その形を与えられ、保たれている間の「時」を充実させている相に心を廻らしたいものです。
生きよ、清く、美しく、生きて輝けよ。これが露の法音ではないでしょうか。
金子大栄師は「仏教とは死を問いとしてそれに応える生き方である」と言っておられます。"さようなら"を言う日のために、今、生かされていることの有り難さを法縁として体で受けとめていきたいものであります。
お大師さまは「仏道遠からず、廻心すなわち是れなり」(一切経開題)と説かれております。廻心とは心をめぐらすことです。生かされてあるわがいのちを、生かしているすべてのものにふり向けてゆくことであります。そのためには、私たちの心のカメラの角度をかえる、それによって美しい世界が発見できます。それぞ功徳であります。
願わくは、この功徳をもって、あまねく一切に及ぼさん
とお大師さまへの報恩行に生きる喜びを確証していただきたいものです。

■くちなしの花
一茶に、
そこふむなゆうべ蛍のゐたあたり
と詠んだ句があります。一茶は御存知のように逆境に育ち、多くの愛児を失っております。植物はもとよりのこと、蛍、ハエ、蛙、閑古鳥等に対しまして、命のふれあいを実感し、彼等を己の分身、愛児の分身とみているのです。同情や愛情を超えたそのものになりきっての詠歎であります。生命の空しさを体験した一茶が般若の知恵の眼に照らされ、精一杯生きている、或は、生きたいという生きものの願いを肌で詠んでおるように思われます。
「存在するものはみな空なり」との教えを知らされ、生命の尊さが愛児との死別によって肌に痛いほどしみとおっていたからこそ、アイロニカルにまたユーモア的に詠歎し得たのでしょう。
「殺生」という言葉があります。辞書を引いてみますと、「殺すことと活かすこと」「生きものを殺すこと」と書いてあります。私は「殺して活かすこと」と読みたいのです。ものを殺すことによって人間を活かすことであります。仏教では殺生戒というのがありまして、何でも命あるものを殺してはならないと教えられています。
スリランカでは、蚊も殺さず、そっとうちわで払いのけるというようにきびしい戒律を守り続けているそうです。僧侶たちは、昔から水を汲む時、木綿の布をはった杓で水をこして汲みます。水の中にいる眼に見えない微生物を飲んでしまっては可愛いそうだと言うのであります。そして、動物の生命をとるのは殺生戒だと言って菜食をしていると言うことです。魚や鳥を殺すだけが殺生ではありません。米も野菜も水も皆生きています。だまってとられ、だまって切りきざまれている葉っぱや、大根や、米粒の中にも、命は黙って生きています。
"一粒の麦、地に落ちて死なずば"という言葉があります。一粒の米が地にまかれたら、どれだけ多くの米を生じるでしょうか。一粒の米の中に潜んでいる命の強さ、尊さを私達は考えてみようともせずに口に入れ、歯で噛みくだき、自分の血や肉に消化しきってしまっております。それも殺生戒です。
生きるためには何かを食べなければなりませんから、其の時には両手を合わせて、犠牲になっていただくのだという感謝の気持ちを自分の生活に取り入れてゆくことが大切であります。
米を洗うとき、一粒でも流しに米をこぼしますと、としよりが口やかましく注意したものです。「一粒の中にも仏様がいらっしゃる。粗末にすると罰が当たるぞ」と。米粒の中の仏とは、ものの命の尊さをあらわしたものでありましょう。
草木国土、すべてのうちに仏性が宿り、すべてのものが成仏することができるという仏教の教えも、せんじつめますと、この世にあるすべてのものに、命が宿っているということの尊さと不思議さを言いあらわしているのではないでしょうか。
夕べの庭にくちなしの花が匂っております。心の奥底にあるものを呼びさますような香りであります。じっと見ていますと、この花にも、自然のはからいがなされているのだなあと思わず手を合わせ、拝まずにはいられません。私達の忘れ物は多いのですが、その多い忘れ物を思い出してくださいと言っているように思われます。
忘れものはないかと言ふやう追ってくる路地の往還くちなしの花

■私達の忘れ物
"智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。" これは人口に膾炙(かいしゃ)されている夏目漱石の『草枕』の中にある言葉であります。
特攻隊出撃、不時着水、奇しくも死の風景を見るだけで幕が下り、生を得ました。その帳尻を合わすために、私のかわりに誰かが冥界に行っているのです。
「生きていることが窮屈です。父さん、この気持ちわかりますか」と言いますと、父はそれには応えずに次のように言いました。
「窮屈だ、窮屈だとぼやいていると、よからぬ味つけを心に重ねるようになるぞ」と。
「それは何ですか」と尋ねますと、「よからぬ味つけとは、それは、ねた味、そね味、ひが味、やっか味、うら味の五つの味つけだよ」と教えられました。
この味つけは、父が亡くなり、老いを迎えた今日も毎日おうかがいをたてに来ているのです。
部屋に、「柳は緑、花は紅(くれない)」と言った禅語の掛け軸がかけてありますが、さらさらと水の流れるように、無心に、素直に生きる人間に程遠い私をもう一人の私が悲しそうにいつも見つめております。
つつましいほど華麗と言ふべけれ路地の隙間に吾亦紅(われもこう)覗(のぞ)く
"一粒の麦、地に落ちて死なずば"という言葉がありますが、一粒の米が地にまかれたら、どれだけ多くの米を生じるでしょうか。一粒の米の中に潜んでいるいのちの強さ、尊さを私達は考えてみようともせずに口に入れ、歯でかみくだき、自分の血や肉に消化しきってしまっています。物の生命を大切にしなければならぬことはよく知っていても、他者を犠牲にして初めて私達の生命は保たれるのです。これが人間の姿であります。その事を十二分に肯定しながらも、人間の不可解さ怖さを知らされます。それと同時に、これを超えようとするのも人間なのであると、人間をいとおしむ気持ちにもなれるのであります。
生きるためには何かを食べなければなりませんから、其の時には両手を合わせて、犠牲になっていただくのだ、食べさせていただく飲ませていただくという感謝の気持ちを自分の生活にとり入れてゆくことが大切であります。
米を洗う時、一粒でもながしに米をこぼしますと、としよりが口やかましく注意したものです。「一粒の中にも仏様がいらっしゃる。粗末にすると罰が当たるぞ」と。米粒の中の仏とは、ものの命の尊さをあらわしたものでありましょう。
草木国土、すべてのうちに仏性が宿り、すべてのものが成仏することができるという仏教の教えも、せんじつめますと、この世にあるすべてのものに、いのちが宿っているということの尊さと不思議さを言いあらわしているのではないでしょうか。
夕べの庭にさざんかの花が匂っております。心の奥底にあるものを呼びさますような香りであります。じっと見ていますと、この花にも、自然のはからいがなされているのだなあと思わず手を合わせ、拝まずにはいられません。私達の忘れ物は多いのでございますが、その忘れ物を思い出して下さいと言っているように思われます。
御大師様は「仏道遠からず、廻心すなわち是れなり」(一切経開題)と説かれています。廻心とは、心をめぐらすことです。生かされているわが命を、生かしているすべてのものにふり向けて行きたいものです。そのことによって、お大師さまへの報恩行に生きている喜びが確証できるでしょう。
忘れものはないかと言ふや追ってくる路地の往還さざんかの花  
 

 

 
 

 

 
真言宗青年会・法話

 

 
 

 

■受け継ぐ
平成27年がスタートいたしました。皆さまはいったいどんな年末年始をお過ごしだったでしょうか?
私は昨年末に地元自治会のもちつき大会に参加いたしました。消防団の一員として参加し、身の回りの警戒が主な役割…のはずでしたが、「自治会に若いのがいないからもちをついてくれ」とのこと。予想外の要請にとまどいましたが、せっかくなのでつかせていただきました。もちをつくぐらい簡単にできるものかと思ったらこれが意外と難しい!杵の重さとおもちの弾力、合いの手とのタイミング、コツをつかむまでなかなか難しかった。変な力の入れ方をしたのか後日激しい筋肉痛になりました。恥ずかしながら人生30年にして初めてのもちつき体験でした。
他にもお米を炊いたり、ついたおもちを分けていったりといろんな役割があった。
今回参加して気になったのは、もちつきを受け継ぐ人がいるのか?ということ。思った以上に自治会の高齢化が進んでいるなという印象だった。たかがもちつきだけど、いろいろな経験や技術がつまっている。地方独特の風習もある。どうやってこれを次の世代へと繋げていくのか。
先日とある方がお話されていた。
長年、サラリーマンとして働きに出て、地元のことから遠ざかっていると、いざ地元に戻ってきてもブランクが長すぎて、なかなか馴染むことができない…だから地元の付き合いをしない人が増えている。悪く言えば、“個人”のことだけを考えている人が増えた。
そんなお話を聞いた。
誰ひとりとして一人で生きてきた人はいません。少なからず地域の中で生かされてきました。でもそんな意識が薄れてきているように感じます。心の片隅でいいから、そういったものへの感謝の気持ちを持ち続けてほしい。そしていつか恩返しをする。そんなふうに思ってもらえたらいいなと思っている。
これから先、若い人はどんどん外へ出ていくのは避けられないでしょう。でもいつか戻ってきたときのための受け皿を用意しておくことは大事なことだと思います。
我々、真言宗では「師々相承(ししそうじょう)」ということを重んじます。師匠から弟子へと教えをつないでいく。そこで重要なのは直に教わることである。経典によって伝えられることもたくさんあるが、肝心かなめの部分は口伝えのみで伝えられている。これを「口伝(くでん)」と呼んでいます。こういった形で脈々と教えが伝えられているのである。
若い世代が積極的に教えを乞うことも必要であるが、上の世代も積極的に下へと伝えていただきたい。
「もっと聞いておけばよかった…」 なんて言葉をよく耳にする。
「もっといろいろ伝えておけばよかった…」 と後悔している故人もいるかもしれない。
各ご家庭でもそうである。お正月、お盆など、家族で集まるそのときには、親から子へいろいろなことを「口伝」してほしい。今はその重要性が分からずともいつかきっと役に立つ日がくるから。
あなたが伝えたい、伝えてほしいものは何ですか?後悔する日がくるその前に…

■何事も日々の小さな積み重ね
子供のころから変わらないこと、それは本が好きなことです。
幼稚園や小学校低学年の頃はやんちゃなお姫さまが主人公の物語に夢中になり、高学年では一転、偉人の伝記を読み漁りました。中学生になると自分で選ぶだけでは飽き足らず、図書室の司書の先生にまとわりついてはいろいろな本を選んでもらう毎日でした。高校時代は村上春樹作品と運命の出会いを果たし、大学生活の中では歌集や詩集などを手に取るようになり読書の幅が広がりました。
私は実家のお寺と並行して、国語の非常勤講師として高校に勤務しています。学年末の今、授業もほとんど終わりに近づいているので、2月3月は授業の始めに「オススメの一冊」の紹介(という名目の雑談)をしています。高校2年生の女子生徒が特に興味を示したのが、俵万智『恋する伊勢物語』(古典文学エッセイ)、中田永一『くちびるに歌を』(小説)、河野裕子『蝉声』(歌集)、マンガ版『源氏物語』(マンガ)など。これらの本の共通点がみつからず、次回の授業ではどんな本を紹介しようか……と悩んでいます。
今回は法話ではなく、私の「オススメの一冊」を紹介します。こちらです。
『紙の月』角田光代(ハルキ文庫)
主人公は梅澤梨花、41歳。専業主婦から銀行にパート勤務するようになり、真面目な働きぶりから契約社員となる。しかし些細なことから銀行のお金に手をつけてしまい、いつしか横領した総額は1億円に……。
ドラマ化や映画化もされたので、ご存知の方もいらっしゃるかもしれません。
主人公の梅澤梨花は美しいけれども派手ではなく、ごくごく普通の女性です。それが、ささいなことがきっかけになって道を踏み外し、向こう側へ行ってしまう。それもあっけなく。
道を踏み外さないように、と意識まではしなくても、自分はまっとうな道を歩いているつもりでいる。けれどもそれは幻想で、もしかしたら小さなきっかけ一つで梅澤梨花と同じように、簡単に向こう側の世界に転んでしまうのではないか。そんな気持ちが、物語に夢中になっている時に、ポッと湧き出てくるのです。その時の不安感といったらたまりません。
彼女の危うさが私を息苦しくさせ、他人事と割り切って読むことのできない恐ろしさをもたらすのです。
私には恩師がいます。高校3年間の担任の先生です。教育実習の時も、ホームルームの指導教諭としてお世話になりました。
「何事も小さな積み重ねである。巨大なダムの崩壊もほんの小さな穴から始まる。日々の小さな注意の積み重ねが安定感につながる。」
教育実習中に頂いた言葉です。あれから10年近く経ちますが、教壇に立つときはもちろん、日々の生活においても支えとなっています。
一年に一度、恩師へ年賀状を出す時に自問自答して確認することがあります。これまでの一年、恩師に胸を張って報告できるように過ごしてきたか、これからの一年、いつ恩師に会ってもその顔をまっすぐ見られるように過ごしていけるか。
今のところ、私が梅澤梨花のようにならないでいられるのは、恩師のおかげかもしれません。

■大切なもの
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。」平家物語の始まりである。
祇園精舎の鐘の音には、すべてのものは常に変化し、同じところにとどまることはないという響きがある。沙羅双樹の花の色は、盛んな者も必ず衰えるという道理を表している。
「諸行無常」は仏教の根本思想である。
この世の中で不変であるものはなく、常に変化していくのである。それを理解できないがゆえに我々は苦しむのである。と、頭では分かっているつもりだけれども、そうもいかないこともある。
ご自身で大切にしているものはありますか?もしそれがなくなってしまったとしたらどうしますか?
先日、私はこんなことがあった。雨の日、傘を持って出かけた。お店に入り、傘立てに置いて店内に入った。数時間後、帰る時には自分の傘はなくなっていた。とても大切にしていた傘で、とてもショックだった。帰りながら、落ち込む自分に「諸行無常」の言葉が頭に浮かぶ。
大切なものでもいつかはなくなるのだと納得しようとしている自分と、せっかく大切にしていたものなのにと気落ちする自分とがせめぎ合う。 大切にするがゆえに愛着がわき、失う苦しみが生まれるのであれば、いっそ大切にしなければよいのか。それも違うような気がする。
今の私は、こう理解することにした。ものを大切にする、愛着がわくことは人として生きる上で不可欠なことである。そして失う苦しみも不可欠である。 もし失う苦しみが大きければ、それだけ大切にしていたということである。これはとても大事なことだと思う。今回の私で言えば、傘である。この傘にはいろんな思い出が詰まっていた。失って悲しい思いもしたが、今ではいろんな思い出をありがとうという感謝の気持ちでいる。
矛盾するようだが、諸行無常であるからこそ、一瞬一瞬を大事にしていくことに意義があるのだと思う。今身近にある当たり前のように存在するもの全てがかけがえのないものである。
むしろ当たり前のように存在するものの中に、ご自身にとって大切なものがあるのかもしれない。

■まんじゅうの話
はじめまして。安晝(あんびる)といいます。いきなりですが、このおまんじゅうにどんなイメージをしますか?甘くておいしそう?あんこがどれくらい入ってるかな?白以外のもあるのかな?色々な思いや感情がでると思います。
このおまんじゅう、実は高野山開創1200年の記念事業法会で伽藍金堂の本尊様にお供えされたおまんじゅうなんです。
その日は全国から青年僧侶が600人以上集まり伽藍諸堂で法要を行うものでした。
法要も高野山真言宗のお坊さんだけでなく、色々な会派のお坊さんが集まり盛大に法要が行われました。
法要中は金堂内に大きな読経の声が響き、とても清浄な空間になっていました。なかなか600人ものお坊さんが集まる機会もなく、宗派が違うと高野山のお堂で拝ませていただく機会にすごく感動しました。
法要後600人の移動もあり時間があり、内拝をさせていただき帰る時におまんじゅうをご参拝の方におさがりでお配りしてましたので、私も一つ分けていただいたという経緯で手元に。
改めて、おまんじゅうをみるとどうですかね?とてもおいしそう。いやいや、有難いおまんじゅうにみえませんか?
たくさんのお坊さんが拝み、特別にご開帳されてるご本尊様にお供えされたおまんじゅう。すごく有難い物です。
少し話は変わりますが、このおまんじゅうだけではなく、普段の日常のお食事これをとっても、すごく軌跡的な偶然で私たちは食べ物、飲み物をいただいてると思います。
例えで、お昼ご飯のコンビニのおにぎり一個をとってみましょう。
コンビニに並ぶまででもたくさんの方や経緯があっておにぎりになってるんだと思います。
お米を作る人、お釜を作る人、電気を作る人、水を管理する人、ご飯を炊く人。コンビニまで運ぶ人。まだまだ考えるとたくさんの方の手が加わってます。
豊山派の青少年研修の手帳に食事前の言葉にこんな言葉があります。
一粒の米にも万人の力が加わってます
一滴の水にも天地の恵みがこもっています
ありがたくいただきましょう
普段の日常で当たり前に食べてるものでもたくさんの方の手が加わってます。たまには経緯を考えながら、お食事をいただいてみるといつも以上に味わい深いものになるとおもいます。
話を元に戻しましておまんじゅうですが、家族でわけていただきました。
古くから初物を食べると75日寿命が延びると言われますが、高野山のお供えのおまんじゅうもご利益ありそう。一年は延びたかな?と家族で話ながら有難くいただきました。
最後に、今年は開創1200年の記念年です。ぜひご参拝に行っていただき、お大師様とのご縁を結んでいただければ幸いでございます。
最後まで目を通していただきありがとうございました。  

■こだわる
2013年、和食が世界無形文化遺産に登録されました。味や栄養・伝統文化としての側面だけではなく、季節の表現や盛り付けの美しさも魅力の和食。料亭などで出される料理を見ると、料理人の食に対する妥協しない思いが、全体にあらわれているような気がします。
さて、こうした料理人の思いのように、妥協しないで何かを追求することを、よく「こだわり」という言葉で表現することがあります。「こだわりの逸品」というように。こう聞くと、なんとなく素晴らしいもののような気がしてならないのですが、仏教ではこの「こだわり」を無くしなさいと教えているのです。なぜ???ためしに、国語辞典で「こだわる」を調べてみると、次のように書かれています。
1. ちょっとしたことを必要以上に気にする。気持ちがとらわれる。
2. つかえたりひっかかったりする。
3. 難癖をつける。けちをつける。
1の「何か一つのことに気持ちがとらわれる」ということから転じて、「妥協しないで一つの物事を徹底的に追求する」というように、肯定的な意味として使われるようになったのが、「こだわりの逸品」などの表現なのでしょうね。一つの物事に集中して取り組む姿勢は、とても素晴らしいことだとわたし自身も思います。
一方、「こだわり」を純粋に1の意味としてみた場合、結果的にもたらされるのは「苦」であると仏教は言います。たとえば「杞憂」という言葉は、中国古代の杞国の人が、天が崩れ落ちてきはしないかと心配したという故事からきていますが、これも必要以上に気持ちがとらわれた結果、不安で不安でたまらなくなってしまったわけですね。わたし自身は小学生の頃、ノートに文字をきれいに書くことにこだわりすぎて、授業中まったくノートを取れずに困ったことがあります(書いては消し書いては消しの繰り返しで、かえって汚くなってしまいました…)。本当に大事なのは、字ではなく内容のはずですが、今思うと、自分の思い通りの文字で書いたノートにこだわっていたため、そんなことには気づかなかったのでしょう。毎回、字をノートに書くことが苦痛だった記憶があります。「こだわり」を無くしなさいとは、思い通りにならないこともあるのだから、もっと肩の力を抜いて、「楽」な気持ちで生活しましょうということなのかもしれません。
この「こだわり」に対して、仏教の教えの中には「中道」という言葉があります。「零か百か」といった極端なものの見方や行動にとらわれずに、「真ん中」のちょうどよいところをいきましょうといったところでしょうか。お釈迦様はさとりを得るための修行をしていたとき、極端な苦しいだけの修行ではさとりの境地から離れていってしまうことが分かり、「中道」の重要性に気づきましたが、「適当な(=ちょうどよい)」ところで落ち着くのが、物事を長続きさせるコツかもしれないですね。まったくやらなければ何も始まらないし、やり過ぎたり気持ちがとらわれ過ぎたりしては苦痛になることもある。「いい加減」という言葉もありますが、まさしく、何事もちょうどよい具合に処理できれば、イライラしたり不安に感じることも少なくなるはずです。
このようなわけで、仏教では「こだわり」を無くすことを説いていますが、冒頭で見たように、言葉はそれを使う人たちや時代によって、意味が少しずつ変わったり転じたりする場合もあるもの。したがって、「いろいろなことにこだわる(=必要以上に気持ちがとらわれる)ことなく、仕事や趣味にはこだわって(=妥協しない、とことん追求する姿勢で)生活しています」という文章、言い回しは少し変ですが、こだわりを無くして読んでみると、間違ってはいない…かもしれませんね。
 

 

■うるう年〜夢の叶え方〜
今年(平成28年)はうるう年です。うるう年といえば?そう、オリンピックの年です。
ブラジルのリオデジャネイロにてオリンピック、そしてパラリンピックが開催されました。ブラジルは日本からすると地球の裏側。睡魔と闘いながら応援していた方も多いのではないでしょうか。しかし本当にどの競技も素晴らしかったですね。オリンピックのメダルは史上最多の41個!パラリンピックでは24個!おおいに盛り上がりました。歓喜の涙あれば悔し涙もあり。なにより選手の一生懸命頑張る姿は本当に美しく、感動と元気をもらいました。
うるう年といえばオリンピックの年ですが、私のようなお四国の人間にとってはそれだけではございません。うるう年といえば、逆打ちの年なのです。
逆打ちとは、四国八十八ヶ所霊場を88番から1番へと逆に巡拝していく参拝方法です。うるう年に逆打ちすると御利益が何倍もある!といわれており、うるう年は団体で参拝されるお遍路さんも、ほとんどが逆打ちといっても過言ではないほど多くの方が逆打ちのお参りをされます。
突然ですが、皆さんは衛門三郎という方をご存知でしょうか?
お遍路の元祖となる男性で、「逆打ち」の始まりとなった伝説の主人公でもあります。
今の愛媛県松山市に位置する、荏原(えばら)の荘の大長者だった衛門三郎。お大師さまが立ち寄られた際の自らの非礼を詫びるため、お大師さまを追いかけるようにお遍路に出たのですが、なかなかお大師さまに追いつくことができませんでした。お遍路を20回まわったところで「そうだ!追いかけてもダメなら、逆にまわってお遍路をしてみよう。どこかでお大師さまに出会えるはず!」と、霊場をさかのぼるように逆にお参りをすると、無事お大師さまに会うことができた。このような伝説が、お四国では未だ根強く信仰されています。
衛門三郎が逆打ちでお大師さまに出会うことができた。伝承ではその年がうるう年であったとの説があり、うるう年に逆打ちをすればお大師さまにお会いできるほどの御利益をいただけると信じられるようになったのです。
お大師さまの言葉に、「遐か(はるか)なるを渉る(わたる)には邇き(ちかき)よりす」とございます。遠大な目標も、身近なところからはじまる、という意味です。
オリンピック選手は金メダルを。衛門三郎はお大師さまに会うことを。それぞれ夢のような目標をかかげてもそれだけでは終わらせなかった。ここが、普通の人と違うところですね。毎日コツコツ、何年も何年も。厳しく辛いと思う時も決して歩みをやめなかったことが、はるか彼方にある夢をたぐりよせたのでしょう。
継続は力なり。この言葉を聞くと、飽き症の私は「そりゃーわかっちゃいるけれど、なかなかできないよ!」とついアレルギー反応をおこしてしまいます。でもお大師さまのお言葉をヒントに見方を変えれば、小さな一歩でもいいから前へと歩んでいれば、いつか大きな目標へとたどり着くということですよね。そうとらえれば、私達にも夢のある話ではないでしょうか。
大きな目標は、小さな今日の一歩から。私は、少しお休みしていた楽器の習い事でもまたはじめてみましょうか。夢は発表会で弾くこと!でも皆さん、大切なことは積み重ね。私のお得意の三日坊主にはくれぐれもお気をつけ下さいね。

■お寺で心のお手入れを
ウルグアイ元大統領であるホセ・ムヒカ氏。“世界で一番貧しい大統領”は世界に本質的な問いを投げかけます。ムヒカ氏の言葉一つ一つは、「幸せとは何か?」を考えさせられます。
先日亡くなられたタイのプミポン国王。国王が掲げた「足るを知る経済」の理念は、“人々の幸せは心の豊かさ”に大きく依るものだという仏道のメッセージが多分に託されたものです。
幸せとは何か、豊かさとは何か。いかに、幸せや豊かさを感じることが出来るのか。どうすれば心豊かに歩めるのか。
皆様、どのようにお考えでしょうか。
日本はストレス社会であるといわれます。社会環境がめまぐるしく変化する中で伴う不安・せめぎあう価値観・感じにくい生き甲斐。挙げれば切りがありませんが、とにかくストレスを感じやすい世の中だそうです。
本来ストレスは、外敵からの危険を避けるため、一時的に緊張感を高めるもので、人間のみならず動物が生きて行く上で必要なものだそうです。しかし、現代社会において問題視されているのは、多くの方が“断続的に”ストレスにさらされているということです。常に“危険な状態”に自身が置かれていると脳が認識し、常に緊張状態にある方が多いとされるストレス社会。命を脅かす過度なストレスを意味するキラーストレスという言葉まで一般化してきたようにも感じます。
仏道において、私たちの活動は身体・言葉・心の 3つそれぞれがそれぞれに深く関係していると考えます。ことに心のあり方を深くかつ丁寧に見つめられます。怒りを感じている時、ついつい言葉も振る舞いも角が立ってしまうものです。悲しい時、ついつい言葉も振る舞いも力なくなりがちです。上機嫌な時、ついつい調子の良いことを言ったりやったりしてしまうものです。
その時その時の心のあり方は、自身の言動のあり方と相関関係にあります。心が穏やかで、気持ちにゆとりがあれば、自ずと自身の言動も柔らかく優しいものになります。
今の世にあって、いかに心豊かな歩みを進めることが出来るのか。仏道は、時代や場所に関係なく、心豊かな歩みを進めるための指南に富んでおります。現代においても個々人の幸せの手がかりとなるメッセージに仏道は富んでおります。
蓮の花。それは仏道を象徴する花でもあります。蓮は綺麗な水ではなく、泥の中でしか生きることが出来ません。泥は我々の生きる世界と重ねられます。我々の世界を娑婆といい、耐え忍ぶ世界を意味します。向き合わなければならない現実を自身の糧としながら歩みを進め、その先に花を咲かせましょうという優しいメッセージを蓮の花は担っております。耐え忍ぶといっても、ひたすら我慢しなさいということではありません。しっかりと向き合うということです。しっかり向き合うためには、向き合うための視点が問われます。向き合うものは自身の捉え方一つで薬にも毒にもなります。とはいえ、何でもかんでも自身の視点に責任を負わせてしまっては、かえって自身にストレスをかけてしまいかねません。自身の環境を少し離れ、客観的に自身を見つめ、心身を安らげることがとても大切かと思います。
現代において心静かに自身を省みることが出来る場所として、お寺が最適ではないかと感じております。お寺は全国に多数ありますが、日常から少しおいとまして、心身を安らげるにはもってこいの空間です。
お寺の空間は、仏道のみ教えそのものでもあります。お寺は古くから沢山の方が集い、祈りを捧げ、語らった場所です。それぞれの地域にてたたずむお寺に、流れる静かな時間に、その身を置くことは良いものです。思いをはせながらお寺をお参りすることで、心休まる方が多いかと思います。お寺にもよりますが、写経や写仏、ご詠歌など、様々な催しをされている所も多い昨今です。そのような催事に参加され、仏道に触れて頂くことも心のお手入れとなるかと思います。
現代社会において心豊かに歩みを進める一助として、ご縁のあるお寺にしばしば足を運ばれてみてはいかがでしょうか。

■かけだし父ちゃんの、仏教的子育て鼻先思案
二人の息子を抱える新米父ちゃんの筆者(僧侶)が、かつてつぶやいた自分のツイートを引用しつつ、子育ての現場から感じた仏さまの教えを綴って参ります。「鼻先思案」とは、まあ、「ちょいと思ったこと」ぐらいでお取り下さい。
お釈迦さまも子育てで悩まれた?
釈迦には一人息子がいて名をラーフラと言った。ラーフラとは一説には「障碍・束縛」を意味するが、それは釈迦の修行の妨げとなっていたからだ。小さな子供が二人いるとなかなか自分の事ができないと痛切に感じる今日この頃。それでも釈迦は結局自分の息子を愛弟子として可愛がった。私もそうする。ラーフラという名前の意味については諸説定まっていないのですが、一族の長となる身でありながら家族を捨て出家得度を選んだ若き日のお釈迦さまにとって、子どもの誕生が心をざわつかせるものであったことは想像に難くありません。それでも、お釈迦さまは最終的にその一人息子を愛弟子として迎えます。きっと親としての愛情もあったはずで、『スッタニパータ』というお経には、開祖の実子であることで思い上がったラーフラを、お釈迦さまがいさめる記述も見られます。そんなお釈迦さまの葛藤に、恐れ多くも同じ一人の親として親近感が湧いてしまいました。
迷惑かけてないからいいじゃん!
「諸悪莫作・衆善奉行−悪い事をしない、善い事をする」。仏の教えを突き詰めるとこうなるが「迷惑をかけてはいけません」という発想は「迷惑かけてないからいいじゃん」に繋がるので、私はできるだけ「善い事をする」方に注力するようにしている。子供にもそう教えたい。「諸悪莫作 衆善奉行」は仏教の基本です。ただ、「悪いことをしない」ことばかりに目が向きすぎると「他人様に迷惑をかけてはいけません!」という発想に固執しかねないので気をつけたいと思っています。だって、私がそう注意されたら「迷惑をかけなければ良いんでしょ!」って言い返しますもん。我が子には「悪いことをしない」ことを根っこに置きながらも「善いことをする」ことを進んで実践できる人間になってもらいたいな〜。
親は我が子の専門家
子供が巻き込まれる事件・事故が多発している。その度にカウンセラーが派遣されるが、ある心理学者の「心の専門家ではなく、そんな時こそ親御さんがお子さんを抱きしめて下さい。」という言葉が印象に残っている。心の専門家や教育の専門家は沢山いるが、我が子の専門家はその親にしか成る事はできない。子育てを続けていけば多くの困難に直面します。自信を失うこともあるでしょう。そんな時、専門家の意見はとてもためになりますが、それは絶対ではありません。だから私は最終的には自分を頼りたいと考えています。それが、お釈迦さまが遺された「自灯明・法灯明」(「自分」と「仏法」とをともしびとせよ)という教えの実践つながると信じているからです。

さてさて、育児をしていると子どもから学ぶことがたくさんあります。そんな時は素直に「ありがとう息子たちよ!」なんて気持ちになります。
相互供養
真言宗では、人を含めあらゆる動植物、水や石や火などの無機物、爽やかな風や暖かな太陽など万物が悉く仏であり、それらが関係し合って世界が構成されると考える。子供二人の世話に追われる毎日なのだが、面倒を見ている子らに教わる事も少なくない。互いに力を注ぎ合う、「相互供養」を実感する瞬間です。「この世界の全ての存在は、そのままにしてすでに仏である。」お大師さまの教えで最も特徴的な考え方です。来世で浄土に生まれ変わるのではなく、今を生きるこの世界で仏に成る。まさにこの世はたくさんの仏さまが描かれた曼荼羅世界のようなもので、私たちは互いに互いを供養し合っています。少し難しい言葉でこれを「相互供養」と言います。世話をする側、される側という上下関係で捉えられがちな親子の間柄ですが、育児をしていると逆に教えてもらっていると感じることもたくさんあります。親子関係とは正に「相互供養」の関係なのですね。
子どもはいつも新鮮気分!
病み上がりの息子と一日一緒に過ごす。しかし何がそんなに面白いのかというぐらい子供というのはいつも楽しそうなのだが、それは接するもの全てが新鮮に映るからなのだろう。私達の毎日はそう大きく変化している訳ではないけれど、子供が持つ新鮮さを感じる心は常に自分の底の部分に置いていたい。子どもは、おもちゃやテレビ、食べ物飲み物、あらゆる動植物、様々な色かたちの車や電車、すれ違う人々や犬や猫。何でも好奇心の対象にしているようです。それはきっと、出会うもの全てが「初めて」だからなのでしょう。私たちの日常だってそう変わらないとしても、全く同じ1日はありません。だから私も小さな子どもと同じように、毎日が初体験の気持ちで日々を送りたいと思います。
一歩一歩
歩行期の赤ちゃんを観察した研究によると、この時期の乳児は一日14000歩歩き、100回以上転ぶらしい。やがて段々に転ぶ回数は減り、一度に歩ける距離は伸びていく。七転び八起きを繰り返す次男の様子を見て、その歩みの一つ一つに、積み重ねることの尊さを教えてもらっている。大人であれば1万歩歩くのだって大変なのに、あの拙い歩みで14000歩とはびっくりです。コツコツと努力を重ねることは、頭では分かっていてもなかなか実践できません。でも、実は目の前にこんな良い見本がいたのですね。ちなみに歩きはじめの赤ちゃんは、どんな環境でも常に歩きたがっているのだそうです。専門家は、「歩くこと自体を楽しんでいるのだろう。」と分析していますが、努力を楽しむことができたら最高だなー。

日常のなかで、当たり前にそこにある真実にふと気がつくときがありますが、子育てにどっぷりつかるようになってからその頻度が増したように感じます。
子育ては「南無大師遍照金剛」
子供を保育園に預けた後は、その一帯を護る鎮守様に挨拶をしていく。それは、自然や人や人が作った全てのものへの感謝の気持ちから。神仏に手を合わすということはこの世の全存在に敬意を表すことに他ならないのだと、親になって強くそう思ようになりました。
子どもの通う保育園の近くに神社があるので、送り迎えのときに挨拶をしています。子育てをするようになって、様々な存在に助けられているなあという思いが強くなり、その気持ちを鎮守さまに伝えるためです。
真言宗では、人間を含むこの世界の全ての生き物、命をもたないような水や火、風などあらゆる存在を、大日如来という仏の王様が変化した姿であると考え、それらが起こすあらゆる現象は大日如来の活動だとみなします。仏という正体をもつ私たち全員が、区別・分別をなくして互いに互いを尊び合って日々を過ごせたらみんな幸せですよね。
とはいえ、私たちの日常には会いたくない人もいれば、やりたくない仕事もあります。全てが仏だとはなかなか思うことはできません。そんなときに改めて、この世界が仏で満ちあふれていることを意識するためにお唱えするのが真言宗で最も多く声に出されることの多いお経、「南無大師遍照金剛」だと私は思っています。
「南無」はインドの「ナマステ」という挨拶言葉と同じ語源を持ち、「あなたを尊敬しています。」という意味です。「大師」は真言宗の開祖である弘法大師空海上人。そして「遍照金剛」は大日如来の別名ですが、お大師さまが灌頂という儀式の際に「遍照金剛」という大日如来と同じお名前を頂いたので「一般的に「南無大師遍照金剛」はお大師さまを讃えるために唱えられます。四国八十八カ所霊場の寺院や真言宗のお寺に「南無大師遍照金剛」の幟がたっているのはその為です。もちろん私もお大師さまを拝むためにこれを唱えますが、それと同時に遍照金剛(大日如来)、ひいては、大日如来が姿を変えた「この世界の全存在」に敬意を表するようにしています。
私たちの毎日には多くの困難が待ち受けています。子育てだって楽しいことばかりではありません。だからこそ、その困難を仏ととらえ、自らに勇気を起こさせるためのお経である「南無大師遍照金剛」を私は常に胸においておきたいと考えています。 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
霊松山歓喜院金剛寺・法話

 

由緒
開山は承安年間(1171〜1175)赤城山大通庵に創建し、山号を霊松山、院号を歓喜院と号した。次いで寺山と呼ばれる地に移り、慶長、元和の頃(1596〜1624)第4世円義上人の代になり、現在地に建立されたと伝えられる。宝暦年間火災の為灰燼に帰したが、7世智海阿闍梨和尚再建現堂宇は当時のものである。創建時は京都醍醐寺派報恩院末寺であったが、明治になって奈良県長谷寺の末寺になった。円義上人は、衆生つまり生きとし生ける者に仏の加護あれと願い、施無畏尊像(観世音菩薩)を刻もうとして、創建時の大通竜跡の松を採って材料としたところが、其の根に霊芝が生えてきてその形が尊像になったと伝えられる。本堂格天井の花鳥図は、前橋藩士であり又御抱画師、森東渓の次男、森霞巌の筆になるもので、実に美事でその写実の妙、巧微な染筆は貴重なものがある。欄間彫刻もほぼ同年代のものと思われ作者は「武江公儀御彫物棟染関東彫物大工」の肩書きを持つ彫刻師・関口文次郎(現勢多郡黒保根村上田沢)他4名の作である。桜並木の参道には歴代住職の墓碑が並び、その中程に六地蔵石塔がある。灯籠の形で火袋の変わりに六地蔵を刻んだ塔身を入れ、竿部に輪廻車孔を持っている石塔で、塔身部は三面を一面各々二体づつ地蔵を配し他の一面は弥陀三尊像を刻し輪廻孔左右に銘文が刻まれている。  
宗派名 真言宗豊山派  
 
 

 

■天知る地知る我知る人知る
私達が、人の道にそむいた行動(行為)をした時、誰も見ていまい知るまいと 思っていても天や地は知っているし、誰かは見ていたり知っている。不正や悪事 は、いつかは解ってしまうものであります。人間は常に自分にきびしく不正、悪事を犯すことなく正直、誠実に生きなけれ ばならない事を教える言葉です。人は時には、うまい話や甘い誘惑に誘われやすい生きものです。そんな時私達 が人の道をあやまらない為に又、自分自身を見失わない為に、冷静に自分自身を 見る姿勢が大切なのです。仏教を知るという事は、いかなる時でも自分を客観的に見る『もう一つの眼』を養うことではないでしょうか。

■光あるものは光あるものを友とす
この言葉は、同じ性格のものは自然に集まってくるとの意味ですが、同じ意味を持つ言葉に「類は友を呼ぶ」が有ります。人が生きる上で人対人の交際を大切にしなさいとの意味と感じられます。人間は、生まれつき人間ではなく人間との交わりのなかで、人間として育てられ成長していくものです。仏教とは仏が説いた教えと、仏になるために説かれた教えであります。良い人生を歩む為には善き友、善き仲間、善き師を求める事であり、お釈迦さまも『善き友善き仲間とともにおることは聖なる道のすべてである』と説かれておられます。

■浅き川も深く渡れ
人が生きるについては、日頃常に注意を払い、心して生きなさいとの教えです。人生での失敗の要因は、心の浅さにあることが多いと言われております。私達は日々の暮らしのなかで、心の奥底に知らず知らずに、垢や塵が多くためている事に気がつかずに生きている状況です。時々その垢や塵を掃除をし取り除く努力をしなければなりません。教典の中に『深心(じんしん)』という言葉があります。垢や塵をとりはらう努 力のなかに他人の命や小さな命に愛情をそそぎこめる優しさや、思いやりのある心 がはぐくまれるのではないでしょうか。  加賀の千代(1775年没)の作『朝顔に つるべ取られて もらい水』をいま 一度鑑賞なされたらと思います。

■行雲流水(こうんりゅすい)
どこへ 行くのか白い雲 流れる水に 聞くがよい
一所にとどまらずに各地を行脚する僧侶のことを雲水(うんすい)といいます。行雲流水という言葉、空に浮かんで行く雲と野を流れる水という、いかにも のんびりした風景をあらわす言葉です。転じて、少しの執着もなく淡々として成り行きに身を任せる生き方を 意味する言葉です。どんなにしがみついても、離したくないと思っていても、全てのものは 移ろいゆくと説く佛教の教えです。

■心の蔵
心の蔵を 開くには 仏の知恵の 鍵が要る
心とは不思議なものです。姿も形もありません。しかし心こそ人として 大切なものはありません。ところが、見えなくても私たちの在るところ、どこにでも付いて はなれることのないのが、この心です。この心は時にはいろいろな問題を起こします。欲という魔物に よく従いトラブルを起こします。ゆえに人は時として『無心になれ』といいます。 欲を離れて、心の在るべき姿を時には見つめてみようということです。 決して「心を失え」ということではありません。

■念仏詩人
福本栄一さんの詩 『ぞうきん』を味わって下さい
ぞうきんは 他のよごれを いっしょうけんめい拭いて 自分はよごれにまみれている

■乳母日傘おんばひがさ
問題を抱える青少年の多くは、いわゆる『愛情不足』が原因と考えられます。しかし、有り過ぎても困る愛(溺愛・過保護等)も有ります。それがこの『乳母日傘』です。経典に『愛より憂いは生じ、愛より恐れは生ず』との言葉があります。 人は愛する故に悩み、苦しむ生物だと考えられますが、愛情をなくしては生きら れない生物です。子育てにおいて、優しさと厳しさを認識し『情を包んで理で諭 す』子育てをしていきたいものです。

■不自惜身命(ふじしゃくしんみょう)
真理を求めるためには、自ら身も命をも惜しまないとの意味ですが、何事もやる気が大切です。その気持ちがあればこそ苦が苦で無くなるのです。前向きにプラス思考で積極的に生きてこそ明日が開けます。身体は動かすために、心は感動するためにあるのです。

■人生は一息
釈尊(釈迦)の弟子の一人が、釈尊に人生は何年ですか? と 問いかけました、しかし答えは返ってきませんでした。さらに弟子は問いかけた。人生の長さを、60年、50年、20年、10年、5年、1年と、さらに1日ですかと、釈尊は答えず黙想したままでした。弟子は更に問いかけようと一息ついたその時に釈尊は答えられた。『人生はその一息』と仰せになりました。釈尊は私達に、一日をいや一瞬を大切に生きてこそ価値ある人生が送れる事をお教えになられたのです。『人生は一息』心して噛み締めたい言葉ではありませんか?

■作者不詳ですが是非お読みいただきたくて
私がわたしになるために 人生の失敗も必要でした 無駄な苦心も骨折りも 悲しみも すべて必要でした 私がわたしになれたのは みんなあなたのおかげです 
 

 

■三界は客舎かくしゃのごとし一心はこれ本居ほんこなり
私たちはこの世のことだけを考えるだけではたりない。過去・現在・未来の三世にわたる長い視野を持って生きよう。この世のことは単なる通過点に過ぎない、三世を貫く人生の主役は自分自身の思いだけなのだ。この気持ちが持てれば、大日如来は眼前にあらわれる。

■服せずんば何ぞ寮せん
薬の効能書きをいくら読んでみても知識が増えるだけで病気は良くならない。薬は実際に飲んでみなければ効き目はあらわれない。これ真言密教の極意である。

■能く誦し能く言うことは鸚鵡(おうむ)もよく為す。言って行わずんば猩猩(しょうじょう)に異ならん。
よく読み、よく言うだけなら、オウムでもよくまねしているところだ、大切なことは言ったことを実行するにある。口に言うだけで実行しないなら、ただうろうろしている猩猩とかわりがない。

■水上勉の詩
挫折も絶望も 病も老いも 新たな活路を踏み出すための 生命の扉だ

■父の恩は山より高く 母の徳は海より深し
父と母による養育の恩徳が如何に大きいか示す言葉。『大乗本生心地観経』の中に 「慈父の恩の高きことは山王の如く、慈母の恩の深きことは大海の如し」とあります。昨今は実母が実子を殺めたり、子が親を殺めたり背筋が凍るような事件がマスコミで報道される度に、この言葉を思い出します。

■多ければ即すなわち迷まどう
これは『老子』の言葉です。「少なければ即ち得、多ければ即ち惑う」 わかり易く言えば、持ち物(所有物)の少ない人は、得る喜び楽しみを持つが、多くの物を持っていると新しい物を得ても特別な喜びを観じない。人間の欲は限りがなく膨張するものです。
知足(たることをしる)の人は貧しいといえども、しかも富めり。 『遺教経』
良寛さんの『炊くほどに風がもてくる落葉かな』 自分一人のためにわずかな米を炊くには、吹き寄せた枯葉で充分であるとの意。

■読書三到(さんとう)
この言葉は中国宋代の朱憙(1200年没)の言葉。書物を良く理解するのは眼読・口読・心読が大切だと言う言葉。眼読(げんどく)=眼でよく見ること / 口読(くどく) =口で朗読すること / 心読(しんどく)=心によく会得(えとく)して読むこと。

■野口国蘭の詩
そんなに 急いで どこに行くのですか なぜ もっと大地を 踏みしめて 歩かないのですか

■独生(どくしょう) 独死(どくし) 独去(どっこ) 独来(どくらい)
「ひとり生まれ、ひとり死し、ひとり去り、ひとり来る」と読み、人間は元来もともと孤独な生き物としてこの世に生を受けて生まれてきた何時の日にか『死』を迎えなければならない存在です。人間とは、正に『ひとり生まれ、ひとり死す』ものです。しかし孤独であるとは、そばに誰もいないことではないのです。親や友人・知人等と多くの人達に囲まれて日々生活をおくっていても所詮人は孤独の存在であるということです。誰が自分の人生を代わってくれますか、故に人は独生・独死なのです。咲いた花は散り、梢の果実は必ず落ちるのです。この言葉は、人間の存在の厳しさを表しています。

■諸行無常(しょぎょうむじょう) 是生滅法(ぜしょうめっぽう) 生滅々已(しょうめつめつい) 寂滅為楽(じゃくめついらく)
この文は「諸行は無常なり、是れ生滅の法なり、 生滅を滅し已れば、寂滅を楽と為す」と読みます。どのような意味かと考えれば一切の存在は、無常にして、常に止まることなく川の流れのごとく変化するものである。この婆婆世界は、そういう原理に基づいて成り立っているとの意味である。無常感を悟るなら、おのずと心おだやかな、寂静な生活がおくれるということです。『色は歌』の歌こそ、上記の文の意味を的確に表現したものです。【色は匂へど散りぬるを、我が世誰ぞ常ならむ、有為の奥山今日越えて、浅き夢見し酔ひもせず。】 
 

 

■あやまちを ただす勇気が 親の愛
この標語は、青少年国民会議運動20周年を記念し、公募された時に応募し佳作に入選した標語です。小生は、「群馬県警察少年補導ケースワーカー」を委嘱され、多くの問題行動にはしった青少年達と保護者に出会った体験を通して、学校、家庭、社会の連携を痛感し、青少年の健全育成こそ明るい社会を築く礎となると考察し、『金剛寺青少年相談所』を開設し、多くの青少年と保護者の相談活動を進めているところです。又、保護司として更生活動に力を注いでいます。これらの体験を通して言える事は、親や地域の大人達が『あやまちをただす勇気』を持ち、善悪の『けじめ』をしっかり教える事こそ、今必要なことだと思うのです。
つらいな くるしいな かなしいな さびしいな でも でも 生きなければ 明日を信じて

■うらを見せ おもてを見せて ちるもみじ
無邪気に子どもたちと遊びながら、書や詩歌をたくさん残した江戸時代の良寛さんの一句です。良寛さん74歳の句といわれております。不治の病にかかり『死』を悟った良寛さんに、最後まで看病に当たった貞心尼様が「生き死にの 界はなれて 住む身にも さらぬ別れのあるぞかなしき」と歌を詠まれたのに対して、お返しになったものと言われております。貞心尼様は、仏の世界でまた会える教えの中で、日々過ごしていても『別れ』は悲しく辛く寂しいものだと嘆いたのではないでしょうか。良寛様の自然体の生きざまを表現された一句です。

■心の正しい素直な人になろう
教えを尊び、心の正しい素直な人は、木石にも瑠璃の光りを見るといっています。仏心のある人は「ありがとう」「おかげさま」と生きる言葉(心)をもっています。だからこそ、日々の生活の中に『生きる喜び』を感じております。人が生きていくには、辛く悲し事が山のごとくあります。でも生きていかなければならないのです。現実を直視し生きる価値を見出して生きていく態度(姿勢)が重要です。
花はなぜ美しいのか ひとすじの気持ちで 咲いているからだ   八木重吉
この詩のように、ひとすじに素直に懸命に感謝の心で生きていきたいですね。

■人を先にし自分を後にす
仏教では『仏法僧』の三宝と言います。あの聖徳太子が17条の憲法を制定されて、その第1条に篤く三宝を敬え、三宝とは「仏法僧」なりといわれております。仏宝とは「めざめたもの・さとれるもの」との意味で、釈尊をさすと同時に各宗の信仰対象である『仏』を指します。真言宗では大日如来、浄土真は宗阿弥陀仏です。法宝とは「仏の教えを指し、釈尊によって説かれた教え」をさし、具体的には『教典』です。僧宝とは「釈尊の説かれた教えを学び、仏道を修業する集まり」を指します。これら三宝がそろって仏教がなりたつのです。この僧宝の中に仏道を学ぶために大切な約束事が有り、其の中の一つに『人を先にし自分を後にす』とあります。どうしても、自分中心に考えがちですが、『おめでとう・よかったね』と他人の幸福を余裕をもって声をかける『ゆとり』と『誠実』さが大切です。

■叱られた 恩を忘れず 墓参り
これは古い川柳です。人間関係が希薄になり、世知辛い世の中になって久しいと言われる昨今ですが、この川柳は私は生きていると確信しております。この川柳を読んだ時に、愚僧もこの年になるまで多くの人達(先生・師僧・先輩・父母・檀信徒)に何度となく叱られたか、そして悔しい思いや腹がたった経験が脳裏(のうり)に浮かんできました。…子供でした。これらの経験が人生にとって、どれ程大切なものか、叱ってくれた多くの人達に感謝する日々です。

■それ仏法遙かに非ず心中にして即ち近し。真如外に非ず。身を棄てて何くんか求めん。
孟子曰く「道は邇に在りて、而るに諸を遠きに求む」、人が行うべき道はごく身近にある。それなのに、わざわざ遠い所にこれを求めている人が多い。私達は、日頃『人として大切な生き方』を遠くに探し続けている事が多い。決して遠くに在るのではなく心(仏性)にあるのだ。その事を知らしめるのが仏教のお教えだと釈尊(しゃくそん)は説いておれる。正に『空海』の言われておられる事なのです。

■真言宗豊山派しんごんしゅうぶざんはについて
真言宗の教えは、弘法大師(空海)によって完成されました。その教えは、自分自身が本来持っている「仏心」「限りない人格」「さとりの世界」を「今このとき」に呼び起こす即身成仏にあります。それは、自分自身を深く見つめながら、『仏のような心で』『仏のように語り』『仏のように行う』という生き方(教え)です。真言宗のお経は「大日経(だいにちきょう)」「金剛頂経(こんごうちょうきょう)」「般若理趣経(はんにゃりしゅきょう)」「般若心経」「観音経(かんのんきょう)」さらに、特徴として『光明真言』に代表される真言陀羅尼(しんごんだらに)を唱えます。
『光明真言』
オン アボキャ ベイロシャノウ マカボグラ マニハンドマ ジンバラ ハラバリタヤ ウン

■六道・四生みなこれ父母
宇宙の生きとし生けるものは、すべてみなこれ父であり母である。空海(弘法大師)は、生きとし生けるものはみな父であり母であるとの考えを示されておられます。なんと広大な心、大きな考えではありませんか。私達も良く考えれば、親のいない人はいないはずです。父母が居ればこそ今生かされているのです。しかし、現代の世相を直視するときにこの大師のお考えは非常に難しい生き方であると思われます。「親が子を殺し子が親を殺める」自分の親を親とも考えない、子を子とも考えない世相に弘法大師の優しいお心を理解する事は至難のわざかもしれません。しかし、これで良いわけはありません。何故このような世相になったのか、その原因・理由を私達(大人)が考えてみる事こそ、今求められるのではないでしょうか。

■共命鳥(ぐみょうちょう)(命命鳥)の教え
佛説阿弥陀経(ぶっせつあみだきょう)
佛説阿弥陀経という経典の中に六羽の鳥の名前が出てきます。その一羽が共命鳥(命命鳥)と言われる鳥です。その鳥は、胴体が一つで首から上は二つあるという鳥です。二つの頭があるのですから、心も二つあるという事になり、考えることも好みもそれぞれ異なっており、何時も意見の相達でけんかがたえませんでした。ある時片方が我慢できなくなり、「こいつさえいなければ本当にいいのに」と考え、相手を困らせるつもりで毒の実を食べたのですが、たしかに片方の頭は生き絶え絶えとなり苦しみ出しました。いいきみだと思っていたら自分まで苦しくなり、気がついた時にはすでに手後れ、一つの胴体しかない共命鳥(命命鳥)は死んでしまったのです。仏教が共命鳥(命命鳥)を通して教えようとする事は、共に生きているにもかかわらず、自己中心に生きている人達に対して、「別々に見える命もお互いに共有された命なのだ」と言う事を教えて下さっているのではないでしょうか。時には、私達は『生かされている』ことを考えてみたら如何ですか?

■今を生きる
空海(弘法大師様)は、宇宙的な視野でとらえ、深い洞察(とうさつ)を加えていくという大きな世界観をもって、人々の幸福のために、今も私達を見守ってくださっております。お大師様を人生の目標とし、同行二人(お大師様といつも一緒)という生活をおくることが、真言宗における安心(あんじん)のかなめとなります。お大師様と共に力強く「今」を生きてまいりましょう。 
 

 

■その人を知らざればその友をみよ
この言葉は、中国の雲鷹大師どんらんだいしの著者の中で言われておられる言葉です。仲間や友達を見れば、その人の大体の人柄や人間性や考え方が、理解できるのでは無いでしょうか?「類は類を呼ぶ」とも言われ、良い友と交わる事は人生にとって大い に大切な事だと思われます。「我いがい全て師」と言われた、作家(吉川英治氏)の言葉を思い起 こし、この様な気持ちを持って、多くの人と触れ合って生きていければ 素晴らしいと思うのですが。自分に都合

■ものみなすべて無常なり
往生論註(おうじょうろんちゅう)
この無常と言う言葉は、良く使われたり又耳にしますので、御存知の方も多いと思います。私達は、『無常』の言葉を考える時に、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」(平家物語)の文句が頭を過ぎります。諸行とは、ものみなすべてを指し、仏教語では『有為』と言います。『有為』とは、縁と原因よってつく られた全てのものを意味します。無常とは不変では無く、常に移り変わる全ての事象を表現した言葉である。私達は、この無常感を悲哀感と同意語としてとらえてはいないだろうか。減び行く さまだけが無常ではなく、育ち行く過程もまた無常だと思いませんか。例えば、桜の花が散る様は無常ではある。しかし、咲く までも1年間も過程も、移り変わりの無常ではないでしょうか。私達が生きていく時にこの無常を生かせるとしたら、日々を大切に感謝の心で『精一杯生きる』事が、『無常』を理解した生き方と言えるのです。時には方丈記・平家物語などをお読みになる事をお薦め致します。

■百花誰が為にか開く
花は なぜ美しいのか ひとすじの気持ちで 咲いているからだ   八木重吉
花は咲く だれが見ていなくても 花のいのちを美しく咲くために 
人は人であるそのために 生きているのかしら   高田敏子
百花繚乱ひゃっかりょうらんと表現される様に、春になると多くの花々が色とりどりに美しい花を咲かせますが、一体誰の為に咲くのでしょうか?もちろん花自身の存続の為で有る事は誰でも理解出来ます。私達は、八木重吉・高田敏子さんの詩のように、「ひとすじの気持ちで咲いている」又「だれが見ていなくても」を共感出来れば、人として精一杯生きて行 く事の大切さを素晴らしさを『花』から学び取る事が出釆ると思うのですが、 如何ですか?

■実践しなければ
口でお祈りを唱えても、心がこもっていなければ、頭が有って尾がないようなものである。始めがあって、終わりのないようなもので、口で言っても実践(実行)がともなわないなら、信仰しているようでも信心がないのと同じである。最近、私たち大人(親)は、言う事とやる事がちぐはぐな生活、いわゆる「言行不一致」な行動を青少年達に見せてはないだろうか。すべての大人(親)が行動や発言に注意し、青少年達の為に実践(行動)しなければと思います。

■道は人に遠からず
子曰く、道は人に遠からず。人の道を為して人に遠きは、もって道と為す可からず。『道』とは、人間が人間になる道で、ここで述べる『道』は道徳又は倫理をさします。孔子は、道は人間とともにあるものだと言われ、人情と離れていては、真の道ではないと教えておられます。孟子も「道はちかくにあり」と、又、弘法大師(空海)さまは『般若心経秘鍵』の著で「それ 仏法は遙かにあらず 心中にして即ち近し」とおおせになられております。このことは仏様の教えは遠くにあるのではなく、私達の心にあり真理もまた心にあるのです。『正に道は人に遠からず』なのに、私達はいたずらに遠くに道(道徳)を求め、さまよっていないだろうか。

■子供でも分かっていること
釈尊は、「悪い事はしてはいけない。善い事をしなさい。」とお教えになられましたが、易しくて難しいことです。中国の名僧と呼ばれる道林和尚は、普段木の上で生活し修行をされておりました。そこに大詩人の白楽天が訪れ、仏の道を尋ねました。その時、道林和尚は『諸々の悪をなすことなかれ、多くの善いことを行いなさい。』と答えられた。白楽天は思わず、そんなことは、3歳の子供でもわかっていることではないですかと憤慨し反論しました。道林和尚は白楽天にむかって『3歳のこどもが知っていることでも、老人にさえなかなかできる事ではない。』と言い放しました。白楽天もは深く頭をたれ帰って行ったとのことです。『実践しなければ』の法話の中で述べましたように、言うことと行うことの間には、大きな隔たりがあります。いわゆる言行不一致です。悪い事をしてはならないことを十分理解している人が出来ないとは真に恥ずかしい事です。

■命の尊さ(1)
私は命の尊さについて思う時、何時も脳裏をかすめる歌があります。その歌は、33歳で刑場の露と消えた青年の歌です。
刑場のつゆと消えはつ身をおしみ 虫になりても生きたしとおもう
死刑が確定し、今日か明日かと執行日(死)を待たなければならない身にとって、せめてハエなどの虫になっても生きたい。その思い願望に胸迫るものを感じます。私達は、今を生きています。いや生かされている事にどれほど感謝をして日々を過ごしているのかを心静かに考える事が今必要だと思うのですが。彼(島秋人)は、さらに言います、『短い人生でも仏法に遭わせていただいたことによって人生に光明を得た事は何よりも幸福でした』と。

■第命の尊さ(2)
椎尾辨匡師の作らえた歌に、『時は今、心あしもとそのことに、打ち込む生命、とわのみ生命』があります。この歌は、限られた人生(生命)をしっかり生きなさいとのメッセージだと思います。与えられた命、限られた生命を大切にし、自然に逆らう事も無く「いかされている自分」に感謝してこそ『命の尊さ』を理解している事になるのではないでしょうか。

■命の尊さ(3)
新聞・テレビ等のマスコミで連日のように、自殺関係のニュースが報道されております。ネットによる自殺希望者の呼びかけに応じる若者達又、年間3万人に及ぶ自殺者の報道に愕然とさせられる日々です。なにがそうさせるのですか?生命をどのように考えておられるのか私にはどうしても理解できません。生命は、自分自身で得たものではないはずです。又、得ようとして得られるものでは無いはずです。『生命は授かったものです。与えられたものです。』だから大切にし、次の世代におゆずりしなければいけないのです。決して自分の命は、自分のものと考えてはいけないと思うのです。自分の命は、自分のものとの考え違いから、『自殺』に走るとしたら、それは大間違いなのです。今、青少年達に『生命』の尊さを学ばせる場が必要とされています。親は家庭で、教育者は学校で、企業は社会で、宗教家は本堂(布教)で、それぞれの立場と役割のなかで、生命の尊さを学ばせる場作りこそ今求められると思うのですが、皆様はどのようにお考えになりますか。

■仰(あお)いで天に愧(は)じず
愧の漢字を辞典からひもといてみました。はずかしくて気がひけるとの意味がかかれています。恥じる・愧じる・羞じる・慙じると様々な漢字が有りますが、意味は天地に少しも恥じることのない生き方をあらわした字です。マスコミ報道によると企業のトップの倫理観・道徳観の薄さが大きな社会問題になっている今日、『仰いで天に愧じず』の精神を常に忘れることなく、日々の生活を過ごすことの大切さを忘れないでほしいものです。 
 

 

■弘法大師空海(こうぼうだいしくうかい)
多くの皆様からお大師様と呼ばれ、親しまれおられる『お大師様』について考えてみたいと思います。真言宗の開祖で宗派を越えて尊敬を受けた優れた僧侶です。例えば、大師の尊称は、伝教大師・慈覚大師等多くの僧侶に贈られておりますが、大師といえば弘法大師と言われるほどです。18歳の時に大学に入り道教・儒教等を学びましたが、それでは飽きたらず仏教の教えに、そして仏教こそ求める教えであると考えられ、遣唐使の一員として中国西安の都にわたり、 青龍寺の恵果阿闍利より真言密教を授かり、帰国し高野山に金剛峯寺を開山し、真言密教の聖地としました。又、教育・社会事業・土木事業等に幅広く活動されました。さらには、大師(空海)は書においても非凡な才能を発揮し、嵯峨天皇・橘逸勢の二人と並んで「三筆」と呼ばれました。

■梅一輪 一輪程のあたたかさ
この俳句は、江戸時代の俳人服部嵐雪の作品で余りにも有名な句です。私は、長年この句を間違って解釈をしておりました。梅の花が一輪一輪咲く(開く)ので暖かくなる、つまり春が来ると理解していたのですが、ある書物ではこの句を「きびしい寒さの中で梅が一輪咲き、それを見るとほんのわずかではあるが、一輪ほどの暖かさが感じられる」との意味であると解釈されておりました。梅の花が厳しい寒さの中で開花するさまは、人生にたとえられると思います。私たちは、苦しい時、悲しい時、寂しい時に厳しい寒さの中に咲く「梅一輪」のけなげさと暖かさを感じていただければと思います。

■仏法遙かにあらず 心中にして即ち近し
空海(弘法大師様)著作の「般若心経秘鍵」のなかで、この「仏法遥かにあらず、心中にして即ち近し」と述べておられます。仏教の教えは、遠いところにあるのではなく、私達の心の中に あり、真理もまた心の外には無いのだと説いておられます。仏教の教えは、人間釈尊が得られた『道』であり『教え』です。 それを実践する様々な方法が考えられますが、最終的には人そ れぞれの心の有り方や処し方ではないでしようか。 『正に道は人に遠からず』

■禅定三昧(ぜんじょうざんまい)
心を静かに落ち着かせることを仏教的な言葉で禅定三昧と言います。この考え方は、釈専がお生まれになる前からあったインドの考え方であったと言われており、精神統一することによって「宇宙の真理」を得ようとしていたと思われます。「心をおちつけ静かに聞こう天地が語る声なき声を」 この殺伐とした社会にあって、時には、自然界の音に耳をかたむけ、「禅定三昧」の時間を日々の生活の中に生かされたらと思います。

■悪をとどめ善をすすめよう
常に家庭、社会が幸せで平和で有る為には、私達一人一人が悪をなさず善行に努める事が肝心である。しかし、日常生活では、なかなか実行出来ないのが現実では無いだろうか。悪いことをするな、善いことをしなさい、心を清らかにしなさい。 この教えが仏教の真髄なのです。最近のマスコミ報道を見ると、大 手企業・公務員等の方々の、倫理観・道徳観の欠如に唯々驚くばか りです。悪いことをするな、善いことをしなさい。心を清らかにし なさい。この事は、子供でも出来そうな事ですが、高齢になっても中 々実践する事が難しいのが現実ではないだろうか。この言葉を今一度心して噛み締めて見る必要が有ると思うのだが。

■涅槃会(ねはんえ)
2月15日は釈尊(お釈迦様)が亡くなられた日です。紀元前486年インドの国の沙羅又樹の木の元で、弟子達のかこまれ最後の説法し、80年のご生涯でお亡くなりになりました。釈尊(お釈迦様)のその生き方は、多難で壮絶の一生だと考えられます。諸行の無常を悟られ、説かれた人生そのもだと考えられます。皆様も菩提寺へ行かれ、ご住職様に『涅槃図絵』の御説明をしていただき釈尊(お釈迦様)に近付かれたら如何ですか。

■万物の霊長(ばんぶつのれいちょう)
誰から教えられたのか、誰が言われたのか分かりませんが、昔から人間は『万物の霊長』と言われております。しかしながら、お金の為ならなりふりをかまわない一流企業や経営者・公務員等のモラルの欠如、親が子を殺害し子が親を殺めたりする事件等が、連日のようにマスコミ等で騒がせる今日本当に、人類は万物の霊長だと言えるのでしょうか?人間が他の生物の頂点に君臨しているとの錯覚や奢り自惚れが、万物の霊長と思わせてはいないだろうか。ある意味では、他の多くの生物を犠牲にし、迷惑をかけて生きて生きているのが、人間だと言う認識と謙虚さを忘れた証しではないでしょうか。私たちがもし『万物の霊長』とし、その存在価値を認めるならば、なによりも『考える葦』となる事であり、『信仰』をもつ事である。とりわけ釈尊(お釈迦様)の説かれた『仏教』に近付かれる事で有ると思うのだが、如何お考えになりますか。

■ほほえみ
微笑みは、心をなごませる最高の贈り物だと私は考えます。特に、子供達の微笑みには自然にこちらも笑顔がこぼれ、暖かい気持にさせられるます。詠み人はわかりませんが『ほほえみはほほえみを呼ぶ春の風』という歌がありますが、皆様は最近微笑みを浮かべた事がありますか。微笑みを返た事が有りますか?・・・忘れてはいませんでしたか?。殺伐とした世の中で、微笑など作っていられるかとの声が聞こえそうですが、こんな世の中だから『笑顔』や『微笑』が大切な事を知っていただきたいのです。他人の『笑顔』や『微笑』を持っていないで、自分からほほえむ事を是非実行して頂きたいのです。特に、未来を担う子供達の前で。 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
金剛峯寺 高野山真言宗総本山

 

高野山は、平安時代のはじめに弘法大師によって、開かれた日本仏教の聖地です。「金剛峯寺」という名称は、お大師さまが『金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経(こんごうぶろうかくいっさいゆがゆぎきょう)』というお経より名付けられたと伝えられています。東西60m、南北約70mの主殿(本坊)をはじめとした様々な建物を備え境内総坪数48,295坪の広大さと優雅さを有しています。
高野山開創の物語
弘法大師が都遥かに都を離れ、しかも約1000mの高峰であるこの高野山を発見されたことには古くから伝えられる物語があります。それは、弘法大師が2カ年の入唐留学を終え、唐の明州の浜より帰国の途につかれようとしていた時、伽藍建立の地を示し給えと念じ、持っていた三鈷(さんこ)を投げられた。その三鈷は空中を飛行して現在の壇上伽藍の建つ壇上に落ちていたという。弘法大師はこの三鈷を求め、今の大和の宇智郡に入られた時そこで異様な姿をした一人の猟師にあった。手に弓と矢を持ち黒と白の二匹の犬を連れていた。弘法大師はその犬に導かれ、紀の川を渡り嶮しい山中に入ると、そこでまた一人の女性に出会い「わたしはこの山の主です。あなたに協力致しましょう」と語られ、さらに山中深くに進んでいくと、そこに忽然と幽邃な大地があった。そして、そこの1本の松の木に明州の浜から投げた三鈷がかかっているのを見つけこの地こそ真言密教にふさわしい地であると判断しこの山を開くことを決意されました。
一山境内地とは
総本山金剛峯寺という場合、金剛峯寺だけではなく高野山全体を指します。普通、お寺といえば一つの建造物を思い浮かべ、その敷地内を境内といいますが、高野山は「一山境内地」と称し、高野山の至る所がお寺の境内地であり、高野山全体がお寺なのです。「では、本堂はどこ?」という疑問がわいてくるでしょう。高野山の本堂は、大伽藍にそびえる「金堂」が一山の総本堂になります。高野山の重要行事のほとんどは、この金堂にて執り行われます。山内に点在するお寺は、塔頭寺院(たっちゅうじいん)といいます。お大師さまの徳を慕い、高野山全体を大寺(だいじ 総本山金剛峯寺)に見立て、山内に建てられた子院のことです。現在では117ヶ寺が存在し、そのうち52ヶ寺は宿坊として、高野山を訪れる参詣者へ宿を提供しています。  
真言宗の歴史

 

仏教から密教へ
仏教は、今から2500年ほど前にインドで釈尊仏陀(ガウタマ・シッダールタ)が悟りを開かれたことを出発点とした「釈尊仏陀の教え」であり、キリスト教やイスラム教と並んで世界三大宗教に数えられています。仏陀(Buddha)とは「目覚めた人」という意味であり、心の豊かさについて、どうやって心の悩みや苦しみをなくすか、どうやって完全な人格を作るかという方法を教えました。「仏教は人間学だ」と表現されている先生もいらっしゃいます。まさしく理にかなったお言葉と思います。当時の仏教は無神教(むしんきょう)といったほうがよく、神の崇拝や釈尊仏陀自身を仏として崇拝することを許しませんでした。
さて、仏教では戒律を遵守する、禅定する、智慧を獲得するという三項目を「三学」と呼び、ことさら「実践する、実行してみる」ことが重要とされました。初期の教学では三法印(四法印)や十二縁起、四諦八正道(したいはっしょうどう)が、大乗仏教時代になると波羅蜜(はらみつ)、仏性・如来蔵思想などが展開していきました。
インドで生まれた仏教は、やがて、中央アジアを通って、中国、モンゴルなどに伝わり(これを北伝仏教といいます)、その後、朝鮮半島を経由して6世紀頃日本に伝来したとされています。またインドからセイロン(現スリランカ)を経由した仏教は、11世紀にはビルマ(現ミヤンマー)やタイへと伝わりました(これを南伝仏教といいます)。
このように仏教は世界各地へ広がりますが、弘法大師・空海(くうかい)によって開かれた真言宗は、仏教の中でも比較的中期から後期にかけて展開された「密教」であるといわれます。
密教と真言宗
真言宗は、弘法大師空海が平安時代初期に大成した真言密教の教えを教義とする教団です。真言密教の「真言」とは、仏の真実の「ことば」を意味していますが、この「ことば」は、人間の言語活動では表現できない、この世界やさまざまな事象の深い意味、すなわち隠された秘密の意味を明らかにしています。弘法大師は、この隠された深い意味こそ真実の意味であり、それを知ることのできる教えこそが「密教」であると述べています。それに対して、世界や現象の表面にあらわれている意味を真実と理解している教えを「顕教(けんぎょう)」と呼んでいます。「顕教」とは、声聞(しょうもん)・縁覚(えんがく)の教え(二乗)と法相宗、三論宗さらに天台宗、華厳宗などの大乗仏教を指しています。
密教と顕教の違いは、いくつか指摘できますが、もっとも根本的な違いは、この隠された秘密の意味を知る修行のあり方(修法・しゅほう)にあります。真言密教の修法を三密加持(さんみつかじ)とか三密瑜伽(さんみつゆが)などと言いますが、精神を一点に集中する瞑想(三摩地・さんまじ)のことです。特徴としては、仏(本尊)の身(み)と口(くち)と意(こころ)の秘密のはたらき(三密)と行者の身と口と意のはたらきとが互いに感応(三密加持)し、仏(本尊)と行者の区別が消えて一体となる境地に安住する瞑想を言います。弘法大師は、このあり方を仏が我に入り我が仏に入る、という意味で「入我我入(にゅうががにゅう)」と呼んでいます。弘法大師は、顕教にはこの入我我入とも言うべき瞑想が欠けていると述べています。もっとも、平安時代後期から鎌倉時代にかけて登場する新仏教については、真言密教の教学や修法の影響を受けていると考えられますので、一概に顕教には瞑想が欠けているとは言えません。 もう一つ顕教との違いをあげると、仏や菩薩についての理解があります。顕教の仏や菩薩などは、さとりを開いたり、さとりを求める「人」ですが、密教の仏や菩薩たちは、宇宙(法界)の真理そのもの(法)です。その「法」が身体的イメージとしてとらえられているのが仏や菩薩なのです。密教の仏や菩薩たちを法身仏(ほっしんぶつ)と呼ぶのはそのためです。
弘法大師は、この法身仏つまり法界の真理そのものが、わたしたちに直接真理の智慧(ちえ)を説いているあり方を「法身説法(ほっしんせっぽう)」と述べています。この智慧の説法を聞く時空が三密加持(入我我入)の境地ということになります。その意味で、真言宗とは、仏と法界が衆生(しゅじょう)に加えている不可思議な力(加持力・かじりき)を前提とする修法を基本とし、それによって仏(本尊)の智慧をさとり、自分に功徳を積み、衆生を救済し幸せにすること(利他行・りたぎょう)を考える実践的な宗派と言えます。 
さまざまな大師信仰

 

入定信仰(にゅうじょうしんこう)
921年、醍醐天皇はお大師さまに「弘法大師」の諡号(しごう)を贈られました。この時、東寺長者の観賢(かんげん)はその報告のため高野山へ登られました。奥之院の廟窟を開かれたところ、禅定に入ったままのお大師さまに出会われ、その姿は普段と変わりなく生き生きとされていたと伝えられています。この伝説からお大師さまは、今も奥之院に生き続け、世の中の平和と人々の幸福を願っているという入定信仰が生まれました。この入定信仰は、1027年に藤原道長(ふじわらみちなが)が高野山に登山してから急速に広がったとされています。その情景を「有りがたや、高野の山の岩蔭に大師はいまだ在(おわ)しますなる」と詠んだ歌が今も伝えられています。なお、高野山では毎月21日にお大師さまの御廟へ参拝する「廟参日」として、報恩の法会・儀式はもちろんのこと、たくさんの方々が御廟前へお参りされます。
遍路巡拝と同行二人(どうぎょうににん)
四国各地の、お大師さまの旧蹟を尋ねて、遍路修行を行うことです。昔は、お寺に札所番号はなく、大師ゆかりの史跡を巡り、木札や金のお札をお寺の建物に打ちつけて、お参りの証にしていたそうです。したがって現在でも、札所を巡ることを「打つ」と呼ばれる方もいます。近世になって、八十八ケ所の番号と札所が固定しました。全行程約1,450キロメートル、徳島県を発心の地、高知県を修行の地、愛媛県を菩提の地、香川県を涅槃(ねはん)の地として、四国を一周する遍路巡拝は、一人で巡拝するのであっても、お大師さまと共に心身をみがき、いつもお大師さまと共にあるという「同行二人」の精神が培われました。そのありさまは「あなうれし、行くも帰るもとどまるも、我は大師と二人連れなり」と詠われています。
四国遍路のはじまりは、愛媛県荏原の郷に住む衛門三郎という人物であると伝えられています。衛門三郎は大変裕福な長者でしたが、非常に強欲非道な人物として有名でした。そこへ一人の薄汚れた修行僧が喜捨を乞いにやって来ました。誰であろう、その人はお大師さまでした。ところが、再三喜捨を乞いに訪れたお大師さまを、口汚くののしり、しまいにはお持ちになっていた鉄鉢(てっぱつ)を取り上げて、叩き割ってしまいました。それ以降、その修行僧はぷっつりと姿を見せなくなりました。しかし、しばらくたちますと衛門三郎の8人の子供たちが次々に不幸に襲われ、亡くなってしまいます。そして、「この前、喜捨を乞うた修行僧は四国を巡って修行している空海(くうかい)さまではないか」とのお話を耳にします。その時、衛門三郎は「自分自身が強欲非道で喜捨をしようとせず、さらには空海さまの鉄鉢を叩き割ってしまった。子供たちが不幸にあったのも、自分の犯した罪への天罰にちがいない」と悟ったのでした。そして、お大師さまにお会いしてお詫びをするため、財産を様々な人達へ喜捨し、自らはお大師さまの後を慕って、四国を巡拝したというのが始まりなのだそうです。
九度山町石道(くどやまちょういしみち)
古くから高野山へ向かう道は幾本もありました。それらの道は山に近付くにつれて合流し、七つの道に集約されていきました。これを高野(こうや)七口と呼んでいます。この七口のうち、九度山の慈尊院から山上の大門へ通じる参道を「町石道(ちょういしみち)」といい、お大師さまが高野山を開創された折、木製の卒塔婆を建てて道標とした道とされています。また、慈尊院にはお大師さまの御母公がお住みになっており、御母公へ会うために月に9回はこの道を通って下山しておられたことから、慈尊院周辺地域の地名が「九度山」となったともいわれています。
時代が経つにつれ木製の塔婆の損壊は激しくなり、鎌倉時代に高野山遍照光院の第九阿闍梨、覚きょう僧正(かくきょうそうじょう)が再建を訴え、後嵯峨上皇や北条時宗(ときむね)などの権力者による援助を受けて、朽ちはてた木にかわって石造りの五輪塔婆形(ごりんとうばがた)の町石が一町(約109メートル)ごとに建てられるようになりました。この町石は根本大塔を起点として慈尊院まで180町石が建立されて胎蔵界曼荼羅の百八十尊を表し、更に大塔から奥之院まで36町石が建立されて金剛界曼荼羅三十七尊として両界曼荼羅の世界を象徴し、さらに36町ごとに里石(4本)も建てられ、約20年の歳月をかけて完成されたと伝わっています。また、各時代の天皇、上皇さまの御行幸をはじめ、多くの信者さまが一町ごとに合掌しながら登山され、信仰の道として親しまれました。 
弘法大師略年譜

 

宝亀五年(774年) 一歳 この年、讃岐国多度郡(さぬきのくにたどのごおり)に生まれる。幼名真魚(まお)。父は佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)。母は阿刀(あと)氏。
延暦七年(788年) 十五歳 この頃、叔父阿刀大足(あとのおおたり)について、論語・孝経・史伝・文章等を学ぶ。一説にこの年長岡京に上がる。
延暦十年(791年) 十八歳 この年、大学明経科に入学し、岡田博士らについて「毛詩」「尚書」「春秋左氏伝」等を学ぶ。この頃、一人の沙門(一説に勤操 ごんぞう)から虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじのほう)を授けられ、以後阿波国大瀧ガ嶽(あわのくにたいりゅうがだけ)、土佐国室戸崎(とさのくにむろとのさき)などで勤念(ごんねん)修行をする。
延暦十六年(797年) 二十四歳 十二月一日、「聾瞽指帰(ろうこしいき)」一巻を著し、儒教・道教・仏教の優劣を論ず。のちに「三教指帰(さんごうしいき)」と改題する。
延暦二十三年(804年) 三十一歳
  四月七日、出家得度する。
  五月十二日、遣唐大使藤原葛野麻呂(ふじわらのかどのまろ)と同船して難波を出帆する。
  十二月二十三日、長安に到着する。
延暦二十四年(805年) 三十二歳
  二月十一日、空海、西明寺に移る。
  六月〜八月、青龍寺(しょうりゅうじ)東塔院灌頂(かんじょう)道場において恵果和尚(けいかかしょう)から胎蔵・金剛界・伝法阿闍梨位(でんぽうあじゃりい)の灌頂を受け、遍照金剛(へんじょうこんごう)の灌頂名を受ける。
  十二月十五日、恵和和尚、入寂、年六十。
延暦二十五年(806年) 大同元年[五月改元] 三十三歳
  八月、明州を出発し、帰国の途につく。
  十月二十二日、高階遠成(たかしなのとおなり)に託して留学の報告書「御請来目録(ごしょうらいもくろく)」を朝廷に提出する。
大同四年(809年) 三十六歳
  七月十六日、平安京に入る許可が下がる。
  八月二十四日、最澄、密教教典十二部の借覧を願う。
弘仁元年(810年) 三十七歳 十月二十七日、高雄山寺(たかおさんじ)において鎮護国家のために修法せんことを請う。
弘仁三年(812年) 三十九歳 十一月・十二月、高雄山寺において、金剛界・胎蔵結縁灌頂を最澄らに授ける。
弘仁四年(813年) 四十歳 十一月、最澄の「理趣釈経(りしゅしゃっきょう)」借覧の求めに対して、断りの答書を送る。
弘仁六年(815年) 四十二歳 四月一日、弟子康守(こうしゅ)、安行(あんぎょう)らを東国の徳一、広智(こうち)らのもとに遣わし、密教教典の書写を依頼する。
弘仁七年(816年) 四十三歳
  六月十九日、修禅の道場建立のために高野山の下賜を請う。
  七月、高野山の地を賜う。
弘仁九年(818年) 四十五歳 一説に、悪疫流行により、「般若心経秘鍵(はんにゃしんぎょうひけん)」を表す。
弘仁十一年(820年) 四十七歳 十月二十日、伝灯大法師位(でんとうだいほっしい)に叙せられ、内供奉十禅師(ないぐぶじゅうぜんし)に任ぜられる。
弘仁十二年(821年) 四十八歳 五月二十七日、讃岐国満濃池(まんのういけ)の修築別当(しゅうちくべっとう)に任ぜられる。
弘仁十三年(822年) 四十九歳 二月十一日、東大寺に灌頂道場(真言院)を建立すべき勅が下がる。
弘仁十四年(823年) 五十歳 一月十九日、一説に、東寺を給預される。
天長元年(824年) 五十一歳
  三月二十六日、少僧都(しょうそうず)に任ぜられる。
  六月十六日、造東寺別当(ぞうとうじべっとう)に任ぜられる。
天長二年(825年) 五十二歳 四月二十日、東寺講堂の建立に着手する。
天長四年(827年) 五十四歳
  五月二十六日、内裏において祈雨法(きうほう)を修する。
  五月二十八日、大僧都(だいそうず)に任ぜられる。
天長五年(828年) 五十五歳 十二月十五日、庶民のために綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)を創立する。
天長七年(830年) 五十七歳 この年、諸宗に宗義の大綱を提出させる。「秘密曼荼羅十住心論(ひみつまんだらじゅうじゅうしんろん)」十巻、「秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)」三巻を撰述する。
天長九年(832年) 五十九歳 八月二十二日、高野山において、万灯万華会(まんどうまんげえ)を修する。
承和元年(834年) 六十一歳 十二月二十九日、御七日御修法(ごしちにちみしほ)の勅許下る。
承和二年(835年) 六十二歳
  一月二十二日、真言宗に年分度(ねんぶんどしゃ)者三人を賜う。
  二月三十日、金剛峯寺が定額寺(じょうがくじ)となる。
  三月二十一日、高野山においてご入定(にゅうじょう)、年六十二、臈(ろう)三十一。
延喜二十一年(921年) 六十二歳 十月二十七日、観賢(かんげん)の奏請により、弘法大師の諡号(しごう)を賜う。  
弘法大師行状絵図 

 

御誕生(ごたんじょう)
真魚(まお)さまは、宝亀五年(774年)六月十五日、讃岐国の屏風ガ浦(香川県善通寺市)でお生れになりました。讃岐の郡司の家系に生まれたお父さまは佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)、お母さまは玉依御前(たまよりごぜん)といいます。その家は信仰心の厚い家柄でした。ある日のこと、お父さまとお母さまが、「天竺(インド)のお坊さんが紫色に輝く雲に乗って、お母さまのふところに入られる」という夢を同時にみられ、真魚さまがお生れになりました。この真魚さまが後の空海上人(くうかいしょうにん)、弘法大師さまです。真言宗では、このお生まれになった六月十五日を「青葉まつり」と称して、お大師さまのお誕生をお祝いしています。
捨身誓願(しゃしんせいがん)
幼年期の真魚さまの遊びは、土で仏さまを作り、草や木を集めてお堂を作ったりして、仏さまを拝むことでした。七歳の時、近くの捨身ガ嶽(しゃしんが だけ)に登り「私は大きくなりましたら、世の中の困ってる人々をお救いしたい。私にその力があるならば、命をながらえさせてください」と仏さまに祈り、谷 底めがけてとびおりました。すると、どこからともなく美しい音楽とともに天女が現われ、真魚さまをしっかりとうけとめました。真魚さまは大変喜んで一層勉強にはげまれました。
都での御勉強(みやこでのごべんきょう)
み仏を拝むのがお好きな真魚さまは、またお勉強もよくできました。十四歳まで讃岐で勉強されましたが、十五歳の時、都(長岡)に出て、叔父さんの儒学者阿刀大足(あとのおおたり)について文章などを学び、十八歳で大学に入られました。しかし、大学で習う儒学を中心とする学問は、出世を目的とするものであり、世の中の困っている人を救うものではなかったので、次第に仏教に興味をも つようになりました。そして、度々奈良の石淵寺(いわぶちでら)の勤操大徳(ごんぞうだいとく)を訪れて、み仏についての尊いお話をお聞きになりました。
御出家(ごしゅっけ)
世のため、人のために一生を捧げようとして、み仏の道の修行を始められた真魚さまは、まもなく大学を去って、大峯山(おおみねさん)や阿波(徳島 県)の大瀧ガ嶽(たいりゅうがだけ)、あるいは土佐(高知県)の室戸崎(むろとのさき)などの霊所を求めて修行を続けられました。そうして、ついに親戚の反対を押し切って出家することを決心、二十歳の時、和泉国(大阪府)槙尾山寺(まきのおさんじ)において勤操大徳を師として 剃髪・得度し、名を教海(きょうかい)とされたといわれています。のちに如空(にょくう)とあらため、身も心もみ仏のお弟子となられました。
大日経の感得(だいにちきょうのかんとく)
二十二歳の時、名を空海(くうかい)とあらためられたお大師さまは、当時の名僧高僧にみ仏の教えを聞きましたが、どうしても満足することができませんでした。そこで奈良の東大寺大仏殿にて「この空海に、最高の教えをお示しください」と祈願されました。すると、満願の二十一日目に「大和高市郡(やまとたけちのごおり)の久米寺東塔の中に、汝の求めている教法がある」という夢のおつげにより、大日経 を発見しました。ところが、その大日経にはどうしても理解できないところがありましたが、たずねて教えをこう人は、この日本には一人もいませんでした。そこでついにお大師さまは、唐(中国)に渡る決心をなされました。
入唐求法(にっとうぐほう)
唐(中国)に名僧のおられることを聞いたお大師さまは、三十一歳の延暦二十三年(804年)七月六日、留学僧として遣唐使の一行と共に、肥前(長崎県)松浦郡田浦(たのうら)から唐へ出帆されました。天台宗を開かれた最澄(さいちょう)さまも、このとき唐に渡られました。今日とちがって船も小さく、いくたびか暴風雨にあったすえの八月十日、九死に一生をえて福州赤岸鎮(ふくしゅうせきがんちん)に漂着しました。大使 が手紙を書きましたが、唐の役人は一行をあやしんで、上陸させてくれません。そこでお大師さまは大使にかわって州の長官に手紙を書きました。長官はその文 章と書の立派なことにおどろかれ、「これはただの人ではない」と早速上陸を許されました。その後、皇帝からの使者とともに長安(ちょうあん)の都に上られました。
恵果和尚に師事(けいかかしょうにしじ)
長安の都に入られたお大師さまは、青龍寺東塔院(しょうりゅうじとうとういん)の恵果和尚に会いに行かれました。恵果和尚は、正統の真言密教を継がれた第七祖で、唐では右にならぶ者のない名僧でした。恵果和尚はお大師さまに会われるや「我、さきより汝のくるのを知り、待つこと久し」と大層喜ばれ、ただちに灌頂壇(かんじょうだん)に入ることを勧められました。延暦二十四年(805年)六・七・八月と三回にわたり灌頂を受法したお大師さまは、遍照金剛(へんじょうこんごう)の法号を授けられ、真言密教の第八祖となられました。恵果和尚はお大師さまに、「真言密教の教法(みおしえ)は、すべて授けた。早く日本に帰って真言のみ法(のり)を広めよ」と遺言なされ、同年十二月十五日、大勢のお弟子にみまもられて、お亡くなりになりました。
五筆和尚の称号(ごひつわじょうのしょうごう)
亡くなられた恵果和尚の生涯をたたえる碑を建てることになり、弟子四千人の中から、特にお大師さまが選ばれて、その碑文を撰び、書かれました。この ことが唐全土に知れわたり、ついに皇帝のお耳に入り、以前王義之(おうぎし)の書があった宮殿の壁に書をしたためるよう、お大師さまに命ぜられました。お大師さまは、五本の筆を両手・両足・口にはさみ、一気に五行の書を書き上げました。その文字の見事なことに深く感心された皇帝は、お大師さまに「五筆和尚」の称号をお贈りになりました。
御帰朝と飛行の三鈷(ごきちょうとひぎょうのさんこ)
恵果和尚について、真言密教の教法を余すところなく受けついだお大師さまは、大同元年(806年)八月、明州(みんしゅう)から日本に帰ることになりました。お大師さまは明州の浜辺に立たれ、「私が受けついだ、教法を広めるのによい土地があったら、先に帰って示したまえ」と祈り、手にもった「三鈷」を、空中に投げあげました。三鈷は五色の雲にのって、日本に向って飛んで行きました。この三鈷が、高野山の御影堂(みえどう)前の松の枝に留っていたので、これを「三鈷の松」とあがめ、この時の三鈷を「飛行の三鈷」と称しています。
立教開宗(りっきょうかいしゅう)
真言密教の教法を日本国中に広めるために、明州から船に乗ったお大師さまは、途中何度も嵐にあって、今にも船が沈まんとした時、右手に不動明王の剣印、左手に索印を結び、口に真言を唱えて波をしずめ、大同元年(806年)十月、無事九州の博多に帰りつきました。帰朝の御挨拶と共に、「真言密教を日本全国に広めることを、お許し願いたい」という上表文を天皇陛下におくりました。大同四年(809年)、都へ 上ったお大師さまは、翌弘仁元年(810年)、時の帝嵯峨天皇(さがてんのう)に書を奉り、「真言宗」という宗旨を開くお許しを得て、いよいよ真言密教を 日本に広め、世の中の迷える人、苦しむ人の救済と、社会の浄化におつくしくださることになりました。
神泉苑の雨乞い(しんぜんえんのあまごい)
天長元年(824年)二月、日本中が大日照りとなり、穀物はもとより、野山の草木もみな枯れはてて、農民は勿論のこと、人々の苦しみは大変なものでした。この時、お大師さまは淳和天皇(じゅんなてんのう)の詔により、八人の弟子と共に、宮中の神泉苑で雨乞いの御祈祷をされました。すると、善女竜王 (ぜんにょりゅうおう)が現れ、今まで雲一つなく照り続いた大空は、たちまちに曇り、三日三晩甘露の雨を降らせたので、生物はよみがえり、草木は生色をと りもどしました。人々は喜ばれ、お大師さまのお徳を讃え、その法力をあがめられました。
般若心経を講義(はんにゃしんぎょうをこうぎ)
弘仁九年(818年)の春、日本中に悪い病気が流行し、老人も若人も病気になり、国中が火の消えたように、暗い気持につつまれました。時の帝、嵯峨天皇はとても御心配になり、お大師さまを宮中にお召しになって、御祈祷を命ぜられました。人々を救うために、天皇は般若心経一巻を金字で写経して仏前にお供えされ、心経の講釈をお大師さまに命ぜられました。一心に、御祈祷なされると、今まではびこっていた病気はたちまちおさまり、苦しんでいた人たちは元気になって、お大師さまの御徳はいよいよ高くなりました。この時講義なされた内容が、有名な「般若心経秘鍵(はんにゃしんぎょうひけん)」といわれています。
八宗論、大日如来のいわれ(はっしゅうろん、だいにちにょらいのいわれ)
弘仁四年(813年)正月、嵯峨天皇はお大師さまをはじめ、仏教各宗の高僧を宮中へ招き、仏教のお話を聞かれました。当時の奈良の仏教では「長い間修行しないと仏様にはなれない」といってきましたが、お大師さまは「人はだれでもこの身このままで仏様になることができる(即身成仏 そくしんじょうぶつ)」と説かれました。奈良の高僧は即身成仏の教法を信じなかったので、お大師さまは、手に印を結び、口に真言を唱え、心に大日如来を念じました。すると、たちまちそのお体からは五色の光明が輝き、頭上に五智の宝冠を頂き、金色の蓮台に坐した大日如来となられました。今まで非難していた高僧もお大師さまを拝まれ、天皇さまの信仰もいよいよ厚くなりました。
綜芸種智院といろは歌(しゅげいしゅちいんといろはうた)
お大師さまの当時、貴族の学校はありましたが、一般の人たちが勉強する学校はありませんでした。お大師さまは、だれでも勉強できるように、天長五年(828年)十二月、京都に綜芸種智院という学校をお創りになられました。また、当時学校で習う文字は、ほとんど漢字で小さい子供たちには、読み書きはむずかしかったので、お大師さまは、子供たちにもわかるやさしい言葉 で、お釈迦さまの「四句の偈(しくのげ)」を、四十八文字の仮名文字にして教えられました。有名な「いろは歌」がそれですが、お大師さまがお作りになった と長く語りつがれてきました。
四国八十八ヵ所の開創(しこくはちじゅうはちかしょのかいそう)
お大師さまは若い頃、阿波(徳島県)の大瀧ガ嶽や、土佐(高知県)の室戸崎で御修行されました。その因縁で四十二歳の時、阿波、土佐、伊予(愛媛 県)、讃岐(香川県)の四カ国を御遍歴になり、各地でいろいろな奇蹟、霊験をお残しになり、お寺やお堂を建立されて、四国八十八ヵ所の霊場が開かれまし た。お大師さまの同行二人(どうぎょうににん)の御誓願を体し、御遺跡をしたって、お四国詣りをする人々が今は、年々数十万人にものぼり、悩み苦しむ人々が御利益をいただいておられます。
満濃の池完成の事(まんのうのいけかんせいのこと)
讃岐国(香川県)に、周囲16キロメートルに及ぶ満濃の池があり、雨の少ない讃岐では、田畑をうるおすのに大切な池でありますが、国の役人や、技師 が何千人という人を使って何度改築しても、ちょっと雨が降ったり、風が吹くと堤防が決壊するので、農民たちは困っておりました。弘仁十二年(821年)天皇は太政官符(だじょうかんぷ)を下し、土木技術にも秀れていたお大師さまに、満濃の池改築の責任者を依頼されました。お 大師さまが讃岐へ着任されると、そのお徳をしたって多勢の人々が改築工事に加わり、僅か三ヶ月程で難工事は完成し、大風雨にも決壊しなくなりました。今でも、この地方の人はこのお蔭を喜んでおります。
東寺御下賜(とうじごかし)
お大師さまは大同四年(809年)年から高雄山寺(たかおさんじ)に住まわれ、真言密教を弘められました。しかし、高雄山寺では不便なことも多く、また、狭く感じるようになりました。お大師さまは弘仁十四年(823年)正月、嵯峨天皇から京都の東寺を給預されました。お大師さまは、この御恩に応えるため、東寺を「教王護国寺(きょうおうごこくじ)」と称して、皇室の安泰を祈願され、また真言密教の弘通に努められました。
応天門の額(おうてんもんのがく)
ある時、宮中諸門の額の字を書くよう命令が出されました。お大師さまは「応天門」という字を書いて額を掲げました。かけおわって下から額をみますと、「応」という字の第一の点がぬけております。いまさら額をおろすのも大変だし、登って書くこともできず、皆困りはてました。しかし、お大師さまは少しもあわてず、下から墨をつけた筆を投げられたところ「応」の第一点のところに命中し、立派な点が打たれたので、皆その神技に感心した、といわれています。「弘法も筆のあやまり」という諺があります。まさか、お大師さまが文字の最初の点を忘れることは考えられませんが、「弘法は筆を選ばず」などと共に、お大師さまの書芸のすばらしさを讃えた話の一つでしょう。
御修法(みしほ)
お大師さまはつねづね天皇陛下の御健康と、国民一人一人が幸せになり、世の中が平和になるようにと、祈念しておられました。このことを末永く伝えるため、正月八日から七日間、御修法という御祈祷会を修され、結願の日(けちがんのひ)には、お大師さまが親しく、天皇陛下の御玉体(ごぎょくたい)に加持香水をそそがれました。この尊い法会は承和二年(835年)正月からはじめられ、お大師さま御入定(ごにゅうじょう)後も、毎年かかさず続けられております。
高野山御開創1(こうやさんごかいそう1)
お大師さまは真言密教を広める根本道場を開くために、適当な場所を求めて、各地を巡錫(じゅんしゃく)しておられました。ある日大和国(奈良県)宇智郡(五條付近)で、白黒二匹の犬をつれた狩人に出会い「どこに、行かれる」とたずねられました。そこでお大師さまは「伽 藍を建てるのにふさわしい場所を求めて歩いています」と答えられました。すると狩人は、「ここから少し南の紀州(和歌山県)の山中に、あなたの求めている よい場所があります。この犬に案内させましょう」といって、そのまま姿がみえなくなりました。この狩人が、今日高野山におまつりされている狩場明神(かりばみょうじん)であるといわれています。
高野山御開創2(こうやさんごかいそう2)
お大師さまは、白黒二匹の犬に案内されて高野山に登る途中、丹生明神(にゅうみょうじん)のお社のところまで来られました。すると、明神さまが姿を現わされて、お大師さまをお迎えし、「今菩薩がこの山にこられたのは全く私の幸せです。南は南海、北は紀ノ川、西は応神山の谷、東は大和国(奈良県)を境とするこの土地をあなたに永久に献上します」とつげられました。お大師さまは、この丹生明神と、さきの狩場明神の御心持に報いるために、二柱の神を高野山の地主の神様としておまつりになりました。今の伽藍のお社がそれであります。
高野山御開創3(こうやさんごかいそう3)
高野山に登られたお大師さまは、「山の上とは思われない広い野原があり、周囲の山々はまるで蓮の花びらのようにそびえ、これこそ真言密教を広めるのに適したところだ」とお喜びになられました。しかも、お大師さまが唐(中国)で御勉強の後、帰国に際して、明州の浜辺から投げられた三鈷が、この高野山の松の枝にかかっていました。お大師さまはこの場所こそ私が求めていた土地だと、早速、真言密教の根本道場に定められました。弘仁七年(816年)、朝廷に上表して、嵯峨天皇からも許可を賜り、多勢のお弟子や職人と共に、木を切り、山を拓いて、堂塔を建て、伽藍を造られました。
御遺告(ごゆいごう)
お大師さまは、高野山を真言密教の根本道場と定められ、約二十年の間御苦心され、高野山を中心に、全国に教法を広められ、上は天皇をはじめ、老若男女の苦しめる者、悩める者に救いの法益を施されました。お大師さまは、早くから限りある肉身で生きるよりも、永遠の金剛定(こんごうじょう)に入って、未来永遠に迷える者、苦しめる者を救うために、御入定をお考えになり、承和元年(834年)、多勢のお弟子を集めて御諭しをされました。
御入定(ごにゅうじょう)
お大師さまは、六十二歳の承和二年(835年)三月二十一日、寅の刻を御入定のときと決め、のちのちのことを弟子たちにのべつくされました。御入定 の一週間前から御住房中院(ごじゅうぼうちゅういん)の一室を浄め、一切の穀物をたち、身体を香水で浄めて結跏趺坐(けっかふざ)し、手に大日如来の定印 を結び、弥勒菩薩の三昧に入られました。御入定から五十日目に、お弟子たちはお大師さま御自身がお定めになった、奥之院の霊窟にその御定身を納められました。お大師さまは、天長九年(832年)の万灯・万華会の願文に「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願いも尽きん」と記されています。つまり、 「この宇宙の生きとし生けるものすべてが解脱をえて仏となり、涅槃を求めるものがいなくなったとき、私の願いは終る」との大誓願を立てられました。
諡号奉賛(しごうほうさん)
お大師さまが御入定されてから八十三年後の延喜十八年(918年)、寛平法皇(かんぴょうほうおう)は、醍醐天皇に「お大師さまに大師号を賜りたい」と願い出られ、さらに観賢僧正(かんげんそうじょう)も上表されましたが、勅許されませんでした。延喜二十一年(921年)十月二十一日の夜、天皇の夢枕にお大師さまがお立ちになり、「吾が衣弊くちはてり、願わくは宸恵(しんけい)を賜らんことを請う」といわれました。すなわち、「衣が破れているので、新しい御衣をいただきたい」とおつげになったのです。そこで、桧皮色の御衣を賜ると同時に、「弘法大師」という諡号(おくりな)を賜りました。十月二十七日、勅使少納言平維助卿(ちょくししょうなごんたいらのこれすけきょう)が登山し、御廟前(ごびょうぜん)にて、詔勅奉告(しょうちょくほうこく)の式が執行われました。
御衣替(おころもがえ)
観賢僧正は、「弘法大師」の諡号をいただいたのち、天皇から御下賜の御衣を奉るため、高野山に登られました。そうして、御廟前に跪いて礼拝し、弟子の淳祐(しゅんにゅう)に御衣を捧げさせて、御廟の扉を開きましたが、お大師さまの御姿を拝することができませんでした。観賢僧正はご自分の不徳をなげき、一心に祈られました。すると、立ちこめた霧が晴れるようにお大師さまが御姿を現わされ、御衣をお取りかえ申し上げることができました。これ以来、今日にいたるまで毎年三月二十一日、御衣替の儀式が行われております。 
 

 

 
 

 

 
高野山金剛三昧院・法話

 

高野山真言宗の総本山、金剛峯寺の塔頭寺院です。塔頭寺院とは総本山の境内(昔は高野山の山全体を金剛峯寺と称していた)にある寺院で、住居や隠居した僧侶の僧房として建てられた子院のことです。
高野山金剛三昧院は、建暦元年(西暦1211年)、鎌倉幕府初代将軍・源頼朝公の菩提を弔うために、その妻で尼将軍としても名高い、鎌倉二位禅尼・北条政子が創建しました。始めは禅定院と称しており、落慶法会には、日本臨済宗の開祖である、明庵栄西禅師を請じ入れ、開山第一世としました。
承久元年(1219年)、三代将軍実朝公の逝去にともない、その遺骨を納め、禅定院を金剛三昧院と改めました。かくして、幕府の重臣安達景盛が建立奉行となって堂塔の増建を進め、大日堂・観音堂・東西二基の多宝塔・護摩堂二宇・経蔵・僧堂など、一大伽藍を造営し、数多くの子院を建立しました。
天福二年(1234年)、初代の長老に、栄西禅師の高弟で鎌倉将軍家の優れた僧であった、退耕行勇(たいこうぎょうゆう)上人が任ぜられ、密教・禅・律の三宗兼学の道場となりました。そして後には浄土教も兼学し、一山において特殊とも言える教学を宣揚しました。以後十二代住職である實融上人までは、禅宗系の住持が長老を務めてきました。
当院を作った奉行の一人、願性(俗名葛山景倫)は、安貞元(1227)年に興国寺(和歌山県由良町)を創建、そして住職、心地覚心(法燈国師)のもとに下山し、臨済宗妙心寺派であるこの寺に、禅宗の機能を移しました。
それ以降、当院は高野山真言宗の寺院として続いています。
嘉禎四年(一二三八)、足利義氏は政子の十三回忌にあたり、当院に大仏殿を建立し、丈六の大日如来像を奉安して、政子と実朝公の遺骨を納めました。
弘安四年(一二八一)、北条時宗は秋田城介安達泰盛を奉行に任じ、院内に勧学院・勧修院の二院を造営、僧侶の学道研鑽の道場としました。勧学院は、文保二年(一三一八)、後宇多法皇の院宣により、伽藍蓮池の東隣に移建されましたが、ここで執り行われた勧学会は高野山学道の中心となり、今日に至るまで連綿と伝持されています。
その後も、幕府の手厚い保護を受け、源家の他、北条・足利・安達等の有力な武家の帰依がことのほか篤く、各氏の菩提寺となり、事実上,山内諸寺院を統轄する有力な寺院に発展しましiた。
寺領も山内寺院中最も多く、河内国讃良(ささら)荘、筑前国粥田(かいた)荘、美作国大原保、紀伊国由良荘、和泉国横山荘など、諸国の荘園は一五ヵ所・十万余石に達しました。また、醍醐天皇の御臨幸(天皇陛下にご同行して、その場に向かうこと)を始め、皇族・公家の参籠、武将の来院も多く、高野山内格式随一といわれ、第五十六世長老の現在に至っています。
当院は、他の寺院とはやや離れた小田原谷の最南部の山腹に位置するため、山内の大火のたびにも類焼を免れ、創建当時の多宝塔や経蔵等、山内でも数少ない鎌倉時代の遺構が現存しています。 
 
 

 

■ご挨拶
このたび、金剛三昧院のホームページをリニューアルすることになり、僕副住職、時には住職が「法話」という堅苦しいものではなく、今の高野山のことや高野山の歴史、宝塔や仏像の説明、お祈りの意味などをわかりやすくお話ししていこうと思っています。こういった文章を読むことによって、高野山という街への関心、金剛三昧院への興味を持っていただければ…と思っています。不景気の昨今、折りしも仏像ブームや戦国武将ブームと相まって、歴史に接する人や時間が多くなっています。それだけ今を生き抜く人たちは、「癒し」・「和み」といったゆったりとした時間や「勇猛」・「決断力」といった先進性を望んでいるのかもしれません。高野山は平成16年に「紀伊山地の霊場と参詣道」という名で世界遺産に登録され、海外からの来客も増えました。今までのように檀家さんや信者さんの来山だけでなく、歴史ファンや海外の方々が来られる、開かれた宗教都市としての在り方が問われるようになってきているのかもしれません。僕が見る「高野山」という街は歴史と神聖さを重んじ、新たなる改革やホスピタリティーを来られる方に与えきれていない部分があると思っています。開かれた宗教都市というのも、僧侶と参拝客の接する「距離を近づける」だけで解決されるものではなく、一番大事なのは参拝客の思いや願い、悩みを聞いてあげられる「距離を近づける」を実践することによって、より高野山への愛着を深めてもらえるのではないでしょうか?こういった文章でも、高野山の僧侶という存在を身近に感じ取ってもらえるかもしれません。頻繁に更新はできないかもしれませんが、少しでも距離感を縮めていければ…と思っています。よろしくお願いします。

■宗祖降誕祭(青葉祭)
高野山という場所を語るにあたり、この僧侶の事をお話しをしないわけにはいけません。高野山真言宗の開祖 弘法大師です。一般の方には「空海」という名前のほうが聞き馴染みがあると思います。四国のお遍路をされる方たちには「お大師さん」という風に親しみを込めて呼ばれることもあります。弘法大師空海は宝亀5(774)年、讃岐国多度郡(現在の香川県多度津町)あたりで生まれたと言われています。地方豪族であった佐伯氏の出自で、裕福な家庭に生まれたようです。その後、官僚や大臣といった中央官庁で職を持ってほしいという家族の願いとたがい、仏教の世界に没頭していくのです。弘法大師空海の細かい説明は省略しますが、一般に生まれた日が6月15日ということになっています。ホントは師である恵果和尚が入滅した日で、その生まれ変わりという意味を込めて6月15日生まれとしているのです。高野山では弘法大師空海が降誕された日ということで、毎年6月15日は町を挙げてお祝いをするのです。行事としては前日夜、高野町青年会が中心となってねぷたを練り歩きます。当日朝9時から大師教会内大講堂で祝賀法会を、高野山内塔頭寺院住職が参集し行います。午後からは高野山幼稚園児の稚児行列、高野山小学校生徒の鼓笛隊、全国のご詠歌隊によるご詠歌唱和、高野山内若手住職などによる町内練り歩きパレードが行われます。パレードの道中では散花(さんげ)と言われる蓮華の花の形をしたものを放り、仏縁の功徳を与えてます。高野山の一大イベント 青葉祭 ぜひ一度足を運んでご覧になってみませんか?ちなみに僕も出仕してます。

■お墓参り
職業柄、多くの方のお墓にお参りする機会が多い。大げさな言い方ではないがお墓を見ていると、亡くなった方がどのような存在だったか、また残された家族がどれくらい忘れずにいてくれるかというのが見えてくる。僧侶が着く前に早めにやってきて打ち水をし、新しい花を生け、お墓を懸命に磨く方…亡くなった方にいまだ変わらず愛情をそそぎ込む姿は清々しい気持ちにさせてもらえる。お墓は自分の今の家と同じ、先の世界でずっと住み続ける新たな「家」しかし、亡くなった方は自分で掃除ができない。残ったものが思い出とともにキレイにしてあげるのが、亡くなった方とともに先祖代々への「感謝」へと繋がるのだろう。先日、プライベートでお墓参りをした。中学時代の同級生 亡くなって10年になる。葬式に駆け付けたが、その後親御さんを含め、お墓参りすることすらできていなかった。友人の一人が「そろそろ、顔を見に行ってやろうか」その一言が僕たちの足を動かした。亡くなった彼の両親は自分たちの両親と同じで、10年分の年齢を重ねていた。もちろん僕たちも10年の年を重ね、みんな平日の昼に時間がとれる位に成長していた。お母さんは10年間、遺影以外の写真を見ていなかったという。お父さんは10年間、教え子たちをわが子のように見ていたという。友人のお墓は、昨日作られたのかというくらいキレイにされていた。久しぶりに会った僕たちは、会いに来れなかった10年分の思い出を墓前で報告。雨男だった彼は読経の間、土砂降りの雨とともに帰ってきてくれていた。誰しも忘れられない人がいる。忘れてしまった人もいる。お盆やお彼岸だけじゃなく、たまにはお墓に行って顔を見せてあげてみてはどうですか?

■内談義(うちだんぎ)と御最勝講(みさいしょうこう)
旧暦の6月9,10の両日朝、金剛峯寺大広間で行われる内談義は、同10,11日の夜から翌朝に向けて行われる御最勝講に先立って行われる談義で、この年の左学頭(さがくとう)と右学頭(うがくとう)という僧の学位の最高位に就いている2人の僧が、講士と呼ばれる先生方と、問者と呼ばれる生徒方が行う問講(もんこう)というやりとりを行う場であります。香の火取りと呼ばれる司会進行役、前年度学会初年目修了者のうち、上座2名による講士、本年度学会初年目受者のうち、上座4名による問者、両学頭による御領解(おりょうげ)という解説、学道僧が高野山内の諸住職の前で問講を披露する場であります。続いて行われる御最勝講は、まず夕方に出仕した諸衆とともに金剛峯寺大広間で御法楽を行ったのち、法印御房、両学頭を壇上伽藍の中にある山王院という建物の前までお見送りします。そののち、山王院にて朝座、夕座に分けて論議を行います。内談義というのが内輪で行う談義に対して、御最勝講は公儀として行われる論議です。法印御房による御領解、講士と讀士(どくし 講士の合わせ鏡のように同じ動作をする)による登壇、請僧(しょうぞう)による読経、講士と問者による問講。諸法会が執り行われる高野山においても講経論談の厳儀として、もっとも古い伝統の行事の一つであり、この行事が終わると両学頭は上剛(じょうごう)という、高野山の僧侶の中でも上座に列する立場になられます。上剛になると、黒塗の下駄、黒塗の杖、黒中啓(扇子の様な物)、平衣(常用の着物)に羽二重帽子を着用することができます。今年の内談義・御最勝講は内談義が7月20,21日 御最勝講は同21,22日に開催されます。内談義は午前10時ごろから金剛峯寺で 御最勝講は夕方6時ごろに山内住職が壇上伽藍に練り歩く様子がご覧になれます。

■盂蘭盆会…お盆って?
一年で最も暑いこのころ、同じようにお坊さんも檀家参りが最も多い時期に入ります。そう。お盆があるからです。でも、正直お盆って何をするものなのか、どういった意味があるのかなど知らない部分が多いと思います。「ご先祖さんが帰ってくるんでしょ?」と、漠然と知っている程度じゃないでしょうか?もちろんそれも正解です。でも、なぜこの時期にするのかなど分からない方が多いでしょう。お盆とは正式名を盂蘭盆会(うらぼんえ)といい、サンスクリット語でullambanaと表記し、ひっくりかえるや転がっている苦しみから解放されるというような意味があります。日本に仏教が入ってくる以前、インドでは毎年夏の一番暑い時期に行われる安居会(あんごえ)と言われる勉強会を終えた僧が、諸々の食べ物を供養する行事のことでしたが、祖先、先祖崇拝といったものを行う精霊会(しょうりょうえ)という供養をする習慣に変わったものと言われています。今の日本では東日本や都会を中心に7月に行う「新盆」と、西日本で多くみられる8月に行う「旧盆」とに分けられます。お盆の時には部屋をきれいにし、窓を開け放ち、おいしいものを用意して、御先祖様が家に帰ってきてくれる環境を作ります。亡くなった方は騒がしい(賑やかな)状況が好きなので、多くの人が集まっているほうがより喜んで帰ってくるでしょう。お彼岸で墓前にお参りすることはあっても、自宅に帰ってくるのはお盆だけです。家族揃って、迎えてあげましょう。高野山では8月13日夜、奥の院で萬燈供養会(まんどうくようえ)という行事を行います。奥の院の参道にろうそくを置き、その明りの中を弘法大師空海が眠る御廟まで歩くもので、別名ろうそくまつりと言われています。高野山の夏の盛りはこの日まで。高野山で御先祖様との時間を過ごしてみませんか? 
 

 

■「生きる」ということ
ようやくお盆が終わりました。世間の方からすると休みが終わってしまったという感じでしょうが、我々僧侶からすると忙しく過ごした時期が終わったという感じで、ひと段落つけるところです。御先祖様に帰ってきていただくという意味を持つお盆 それだけじゃなく、日ごろから元気に過ごしていることや順調にいっていることの報告、人によっては困窮していることをお願いする場合もあるでしょう。先日、こんな話を聞きました。「うちの工場で働いていたベトナムから来た従業員が、不法就労者ということで摘発を受け強制帰国させられたんだよ。不法就労者が違法ということは分かっているが、母国に仕送りをするため必死に働いてくれる彼らは大きな戦力だったんだよ。単純労働で昼夜、休日問わず働いてくれる日本人なんていったいどれだけいる?日本は裕福になった代償に、労働意欲を金銭で推し量るようになったんだよ」 確かに今、若い人を中心に都会では職がないという理由でいつまでも親の脛をかじっている人が増えているという。逆に地方に行けば、後継者問題を筆頭に第一次産業と言われた農業、漁業、林業に従事する者の数は圧倒的に少ない。昨年、とある講演会で島田洋七氏がこのように話していたのを思い出した。「やりたい仕事がないからって親に甘えるのは、大人として恥ずべき行為や。親に迷惑をかけず、自力で生きていくためにやりたい仕事を探しながらでも欲張らずにアルバイトはできるじゃないか!たとえ一日3000円のアルバイト代しか出なくても、その給料で今日から1カ月分の米が買える、翌日の3000円で味噌、醤油が買える、そして3日目には職場で友人が出来る、4日目には職場で信頼が出来る、5日目には人間としての自信を持つことが出来る、体を動かすことにより健康になり、労働の後に一杯の酒を美味しく味わうことができる、それだけで人は生きているという実感を持てるのだから」 自分に合った仕事なんてやってみないとわからない。やってみることなく「いや、無理だよ」と投げ出してしまう今の若者たちを御先祖様はどう思っているのだろうか?そして、いつまでも甘やかせている親をどう思っているのだろうか?お盆で御先祖様にお会いすることが出来た。これを機に、働いて収入を得、生きていくということを見直すべきじゃないだろうか?

■お彼岸
みなさん、お彼岸って何だか知っていますか?すぐに浮かぶのは「3月末の春分の日と9月末の秋分の日あたりにある休み」ってことと、「お墓参りをするもの」と漠然に思っている程度かと思います。そのお彼岸という日を極力分かりやすく説明します。まず、お彼岸の「彼岸」という言葉の由来から。彼岸とはサンスクリット語の「波羅密多(はらみった)」からきたもので、煩悩ある人間が六波羅密(ろくはらみつ)= 1布施(ふせ)…あたえること / 2持戒(じかい)…戒律を守ること / 3忍辱(にんにく)…苦難に耐え忍ぶこと / 4精進(しょうじん)…たゆまず実践すること / 5禅定(ぜんじょう)…精神を統一すること / 6般若(はんにゃ)…真実の知恵を知ることの6つの教えを修行し、此岸(しがん)=現世の事 から悟りを開いて彼岸=浄土の事へ到達するためのことです。その浄土の世界を彼岸を言うのですが、無事に浄土の世界にたどり着きたいという願いを込めて先祖供養をするのです。
ではなぜ、春分の日と秋分の日あたりに先祖供養をするのか?それは、昼夜の時間が一緒になるからです。「陽」の日中、「陰」の夜中で此岸と彼岸を現わしており、現世で行ったこと、浄土で行っていることの両方を祈願できるこの時を「彼岸」と呼ぶようになったのです。現在ではお彼岸の中日を挟み前後3日…計7日間をお彼岸の期間中と呼んでおり、その期間中に先祖供養することで極楽浄土へ達することが出来ると言われております。また「暑さ寒さも彼岸まで」という言葉があるように、暑かった夏も寒かった冬もこの日で終わり 新しい季節が始まりますよという心の入れ替えにも使われます。今年に限っては…という風に思っておりましたが、高野山もだんだん涼しくなり、秋の気配が訪れてきました。夜など一枚羽織らないと寒く感じられるかもしれません。一足先に涼しくなった高野山で、御先祖様の顔を見に来ませんか?

■結縁潅頂
結縁潅頂…聞きなれない言葉だと思います。読み方は「けちえんかんじょう」と言います。いったい、何のことでしょうか? 結縁潅頂の結縁とは、仏道との縁を結ぶことで、僧侶になるために行う得度や、亡くなるとき成仏するための因縁を作ることです。結縁によって真言の教えに接する者を結縁機と称します。結縁潅頂の潅頂とは字の通り、頂上に水を潅ぐ(そそぐ)意味で、もともとは国王が即位する際、四大海の水を汲んで王の頭上に潅いで掌握(しょうあく)したという意味をなした儀式でありました。後に密教では密教を学んだという資格、その才を継承するという意味に転じて、重要な儀式になりました。潅頂には多くの種類があり、その中でも一般の方々が受けることが出来る潅頂がこの、結縁潅頂です。結縁潅頂は老若男女、身分の上下など関係なく広く多くの人に仏縁を結ばせることを目的としています。行い方は受者は両目を覆い隠し、印明(いんみょう=「印」は身、「明」は語を表し、この両方を唱えること)を授けられ、その印の先に華をはさみ、これを壇上の敷曼荼羅(しきまんだら)の上で投げ、その華が落ちた諸仏を有縁の尊とする(=投華得仏)ものです。広く一般の方にも受けることができ、仏様との縁が強くなることで人気がある潅頂です。高野山では毎年春と秋に開壇しており春は胎蔵界、秋は金剛界の曼荼羅の上で行われております。
春は毎年5月3,4,5日、秋は毎年10月1,2,3日、伽藍の中にある金堂で朝8時から夕方4時半までに入壇できます。開催中は入壇希望者が多く、伽藍内特設受付や各寺院などで入壇引換証を購入し、その後時間が書かれた入壇証を持って入壇することが出来ます。特に10月1日の朝は高野山内の僧侶による庭儀三昧耶戒(ていぎさんまやかい)という法会で、きらびやかに着飾った僧侶の伽藍内をお練りしている姿が見られ、山内外から多くの方が拝観しに来られます。高野山の秋を迎える行事で避暑がてら足を延ばしてご覧になるもよし、仏様との御縁を結ぶため結縁潅頂に入壇してもよし、高野山を満喫してみませんか?

■毘張講(びちょうこう)
聞きなれない名前だとおもいます。高野山内でもこの名前をご存じの方は少ないと思います。しかし、当院にとっては非常に重要なことなんです。戦国時代、高野山も戦火の恐れと紙一重の時代がありました。天正年間、当院の第33世住職 空算能印房の時代、豊臣秀吉が高野山攻めを起こそうとした時の話です。真言宗の聖地、中心地である高野山を守ろうとする僧侶たちは、その姿を武士のように変え「僧兵」と言われる戦闘集団になっていました。高野山は防衛のために僧兵を配置していましたが、戦乱の世の中のため、僧兵を構えているだけで十分に攻撃目標になりました。それ以外にも各所に寺領を配し、多くの信者を有する高野山は、全国統一を望む秀吉にとって目の上のたんこぶだったのは間違いないでしょう。高野山麓の根来寺なども落とされ、いよいよ攻め込むといった時、当院の境内の中央部に立つ杉の木の上に天狗様が降りてまいりました。その天狗様が言うには「高野山の僧侶として、最も大切なことは何か?」 「戦うことではなく、仏の教えを広めることではないか!」と、老僧や僧兵に説いて回り、秀吉からの条件を飲み、戦乱に見舞われることがなくなったのです。高野山は秀吉からの攻撃を免れ、多くの寺領を安堵されたという逸話があるのです。その後高野山は秀吉の保護を受け、秀吉も高野山内に青嚴寺を建立、高野山もその地位を落とすことなく現在に至っております。ちなみに秀吉が建立した青嚴寺は、今は便宜上金剛峯寺と名前を変え、日本全国から多くの信者がお参りなさっております。高野山を戦火から防いだ天狗様…その名を毘張尊師と申します。毘張尊師の功績を奉るお祭りとして、当院では毎年10月10日前後に祈念法会を執行いたしております。午後3時ごろから大広間にて大般若転読法会を行い、そのあと境内でお餅投げを行います。法会、お餅投げともに参詣自由です。僧侶が行う経本の転読法会、ぜひご覧下さいませ。

■南無(なむ)から始まるお参り
皆様はお寺に行くと、本尊様に向かってまず手を合わせると思います。手を合わせること、それは仏様と自分の距離を近づけることでもあるのです。インドなどでは今でも、右手は清浄の手 左手は不浄の手という風に言われ、食事をしたりするときは左手を使わないと言われています。右手は仏様を表し、左手は煩悩=自分を表します。手を合わせることによって、自分が仏様と一体になることが出来るというわけです。手を合わせたら次はお参りをすると思います。その際、何という言葉を発する・唱えますか?テレビで、「手と手のしわとしわを合わせて、南無ぅー」と、小さい子が言っているCMをご覧になった方もいらっしゃると思います。この「南無」から始まる言葉を唱えるのが一般的なんです。南無とは帰依するとか敬う(うやまう)といった意味があります。私ども真言宗では、宗祖弘法大師空海を帰依するという意味で「南無大師遍照金剛」(なむだいしへんじょうこんごう)とお唱えします。大師とはもちろん弘法大師空海の事を指し、遍照金剛とは空海が唐に渡った際、仏教の修法を教えて下さった師である恵果和尚から頂いた号であり、金剛=ダイアモンドの様な明るさで周辺を照らすような人物と言う意味があります。同じ真言宗でも大師を省いて「南無遍照金剛」と唱える派もございます。
浄土宗・浄土真宗では「南無阿弥陀仏」(なむあみだぶつ)と唱えます。宗派が違うので細かい説明は省きますが、阿弥陀様という仏様に帰依すると、生前どんなに悪いことをしていても死後極楽浄土にたどり着けると言った意味を持っています。
日蓮宗では「南無妙法蓮華経」(なむみょうほうれんげきょう)と唱えます。同じく宗派が違うので異説もあるかもしれませんが、妙法蓮華経という経本を読み唱えることによって功徳を得られると言った意味でしょう。
他にも禅宗などでは「南無釈迦牟尼如来」(なむしゃかむににょらい)と唱えたりします。
近くの神社や祠(ほこら)、お寺などで、「南無観世音菩薩」 「南無金毘羅大権現」 「南無八幡大菩薩」 「南無先師尊霊」というような幟(のぼり)がかかっているのをご覧になることもあるでしょう。
つまり、南無という言葉は仏様や経本だけじゃなく、神様やご先祖に対しても帰依していますよという意味を込めて使われているのです。
最近の方はあまり使わないかもしれないですが、身近な言葉では「ナムサン」と、大事な物事を行う前に気合を入れる意味を込めて言う人もいらっしゃるでしょう。この「ナムサン」は漢字で書くと「南無三」となり、「南無三宝」(なむさんぼう)の略なのです。三宝とは仏 法 僧の3つを指しており、それぞれ
仏…仏様
法…仏様の教え
僧…仏様に帰依するもの
のことであり、いろんな方から力を授かって、苦難を乗り越えたいということが分かります。
このように「南無」という言葉の意味を知っていると、お寺などにお参りに行った際、お寺の宗派だとか何を祀っているのかを知る目安にもなります。私どものお寺では先日お話しした「毘張尊師」(びちょうそんし)を奉り、南無毘張尊師と唱えることもあります。一度、火災盗難除けの毘張尊師様をお参りに来ませんか? 
 

 

■周忌(しゅうき)と回忌(かいき)
良く聞かれる質問で、「昨年一周忌を終えたのに、どうして今年は三回忌なんですか?」というのがある。一の次に三になるというのはなぜ? 周忌と回忌って何が違うの?一周忌は、御命日から一年巡ってきたときの忌日(きじつ)という意味があり、つまり満一年忌という意味になります。三回忌は、三回目の忌日となります。要するに一周忌=二回忌となるんです。さらに言うなら、三回忌=二周忌とも言えます。一回忌という言葉を使うのであれば、その日は命日にあたります。その命日には、お葬式という法要を営み、旅立つ人を供養するのです。一般の方でも三回忌、七回忌、十三回忌、十七回忌、三十三回忌、五十回忌あたりは節目で法要を開くことがあるでしょう。基本的に「三」と「七」が付く年がご法事年に当たりますが、それ以外にも二十一回忌、二十五回忌なども行ってもよいでしょう。五十回忌が過ぎれば勤めを果たしたという言われ方をします。五十回忌だとだいたい孫が覚えていてくれて法要をしてくれる限界 ひ孫の世代になると縁遠くなってしまうので、先祖代々に組み込まれ、他の方の回忌に合わせてお参りするというようになるのが一般的です。もちろん、回忌を気にせずに法要をする信心深い方もいらっしゃいます。私どもは仕事柄、平成二十年だと三回忌だなとか、昭和五十三年だから三十三回忌だなというのが自然と分かってきます。ご先祖様の事を思い出した時が回忌 何かのきっかけで思い出してはお参りすると、多くの功徳を得られるでしょう。

■仏様に供えるものって?
どなた様の家でも仏壇はあるでしょう。いや、仏教徒じゃなくても何らかの形で、ご先祖様を供養する物を祀っているでしょう。亡くなった方をお参りする…いつまで経っても忘れないという気持ちと、新たに起こることに対するお願いなど、手を合わせることは自然に、そしてもっとも簡単に行うことが出来る「感謝」なのです。手を合わせることによって安らかな気持ちになり、新たな活力となるでしょう。さて、そのさい御先祖様に対してお供えするものがいくつかあります。まずはお香、自宅などですと線香が一般的です。なぜお香をたくか、お香は気持ちを落ち着けるのと同時にわざわざ来られた方の汗などを控える意味があります。もちろん迎える側の匂いも清浄なるものにしておくためです。次にお花、香りによってお迎えするのはもちろん、色彩鮮やかな花の色で目を和ませたり休ませる意味があります。次は明り…ろうそくなどです。遠くから来る人は明るい場所を目印にやってきます。明りは希望でもあり、災厄(さいあく)から身を守るという意味もあります。次は水…飲み物です。遠くから来られた人はノドが乾いています。仏様も来世で常にノドを乾かせております。飲み物を用意することによって、良い声の御経を聞くこともできるのです。最後に供物(くもつ)…食べ物です。おなかを減らせているという意味ではないですが、やはり食べ物が有るのと無いのではまったく違います。外出から帰ってきて家に温かい料理があったら…あとは言うまでもないですね。自分がされて嬉しいと思うことは、相手や御先祖様も喜ばない理由がありません。気持ちを込めて接すると、自分にも道が開けてくるということです。

■数珠って?
みなさんは一本くらい、数珠を持っているでしょうか?大体の人は、「一本持ってるけど、不幸事があった時しか使わないなぁ」とか、「お遍路さんやお寺に行ったり、お墓参りをするから日常的に使ってるよ」と言われる方もいらっしゃるでしょう。でも、数珠って何のために使うのって疑問に思ったことはないですか? 数珠…私たちの業界では念珠(ねんじゅ)といい、お釈迦様が教示(きょうじ=教え示すこと)されて持するようになったと言われております。僧侶が持つ数珠の珠(たま)の数は108箇(こ)ついております。一片の房の所から数えて7つ目を超えたところと21箇目を超えたところに小さい珠が付いており、正確には112箇という風に言われるかもしれませんが、この小さい珠は数を数えるための目安ですので、通常数えません。お経や真言を唱えるとき、7遍や21遍唱えることが多いので、分かりやすく標(しるし)をつけているのです。108箇と書くとすぐに「煩悩の数だ!」と気づかれる方もいらっしゃるでしょう。陀羅尼集経(だらにじっきょう)の中に、「百八煩悩を断じ五逆の罪を滅す」と書いており、また片方に54箇の珠があることについては、「十地十信十住十行十回向四善根を表す」と書かれております。五逆とは五種類の罪悪で、例えば親族を殺めたりすること。十地とは菩薩の修行の段階を十段階に整理したもの。十信とは必ず悟りを得るための信の十義を解いたもの。十住とは十種類の心の在り方。十行とは十種類の行うべき在り方。十回向とは十種類の施しを与えること。四善根とは安楽な果報を招く為の良い行いのこと。十地〜四善根を足すと54となり、それを持することにより一切の悪が身に付かず福徳が現れると言われています。僧侶が持つ数珠は108箇の正式なもので、一般の方は半分の54箇や27箇の数珠を持つことが多いです。
数珠を首からかけていらっしゃる方もいますが、私ども高野山真言宗では首からかけることはございません。
仏様を拝む時や左腕にかける時は一匝(そう)、左手に持つ時は二匝、仏前に置くときは三匝にするという決まりごとは覚えておきましょう。
更に数珠は必ず左手で持つということも決まっております。これもお釈迦様の時代に遡りますが、インドでは今でも行われている「左手は不浄の手」というのを清浄なる手に換えるために持つのです。お寺に行く機会が多い方も少ない方も、数珠を持参して行くと違った気分を味わえるでしょう。数珠は不幸事に使うためだけじゃないですよ。

■日常で使われる「仏教用語」 1
我々は普段の生活の中で、気づかないうちに仏教と縁深い言葉を使ってます。その意味が同じ物もあれば、まったく違った意味として使われているものもあります。そういったものを知っておくと、言葉の意味も違って見えるかもしれないでしょう。現代での意味 / 仏教的な意味を記載します。なお、現代の意味は広辞苑から引用しています。
行脚…諸国を旅すること / 僧侶が諸国をめぐって修行すること
安心…心配事がなく、心が安らぐこと / 仏教では「あんじん」と読む 仏の教えから心の平安を得ること
因縁…きっかけや由来、ゆかり / 直接の原因が「因」、そこから結果に至る間接の原因が「縁」
有頂天…物事に熱中して我を忘れること / 最も高い「天」の名前 得意の絶頂にある様子
えこ(依怙)…かたよってひいきすること 私利 / 法華経の中になる「能為作依怙」から、よく頼むこと
縁起…事物の起源、沿革 吉凶の前兆 / 因縁正起(いんねんしょうき)のこと 「因」と「縁」が集まって成立すること
往生…死ぬこと 諦めてじっとしていること / 仏の世界に生まれ変わること
お釈迦…作りそこなうこと 不良品 / 他の仏様を掘ろうとして、間違って掘ってしまった仏様のこと
お陀仏…物事がだめになること / 禅宗などでよく唱えられる「南無阿弥陀仏」を唱えて往生すること
戒……いましめること さとること / 僧侶が道を誤ることないようにと守るべき規則
覚悟…知ること 記憶すること 心構え / 迷いから目覚めて悟ること
果報…めぐりあわせがいいこと 幸運 / 自分が行った「業」により受ける苦楽のこと
甘露…美味なもの 煎茶の上等なもの / 甘い神の飲み物 仏の説法のこと
喜捨…貧しい人に施しを与えること / 寺社に進んで財を施すこと
空……そら 何もない所 から(っぽ) むなしいこと / 梵語でsunya すべてのものは縁起により成立しているが、本質や実体がないということ
功徳…果報をもたらすことになる善行 / 現在や未来に果報をもたらす善い行い 善行をした結果与えられる恵み
愚痴…言っても仕方がないことを言って嘆くこと / 知恵がないので正しい判断がつかないこと
決定…はっきりと決めること / 「けつじょう」と読む 仏教を信じて動じないこと
下界…高い所から見た地上のこと / 人間の世界のこと
解脱…束縛から離れて自由になること / 煩悩から解き放たれた、悟りの境地に入ること
玄関…建物の正面に設けられた出入り口 / 寺院の表向き 公な人が入る門
根性…その人の根本的な性質 しょうね / 「根」は気力のもと 「性」は善悪の習慣のこと
極楽…極めて安楽な場所 境遇 / 浄土信仰で言う、阿弥陀様の居所 憂い(うれい)や苦しみのない社会

■日本人の「宗教(観)」って?
高野山に来られる人のすべてが、先祖の供養をしに来るわけではございません。観光で現れる人もいれば、お大師様にお力を授かりに来る人、癒しや和みを求めに来る人、おいしい精進料理を求めてくる人と千差万別です。私どものお寺に来られた方の中に、先祖供養をご案内しても「うちは先祖いないので結構です」とか「無宗教ですから」と、言われる方がいる。もちろん先祖供養は強制的ではないが、そのように言う人の話を聞いているとつい首をかしげてしまう。「先祖がいない?」 「無宗教?」あなたはどうやって生まれてきたんですか?あなたは親族が亡くなった時、どのようにお別れするんですか? 文部科学省の宗教統計調査によると、神道系…1億0700万人 / 仏教系…8900万人 / キリスト教系…300万人 / その他…1000万人、すべて合わせると2億900万人となる。日本の人口が現在およそ1億2500万人、その差8400万人…どういうこと? 特に神道系や仏教系では、一家の施主(代表者)が信者だとそのまま家族も同じ宗派という風にとらえることが多い。その差が数字として表れているのだろう。日本には昔から「八百万の神」という言い方があるくらい、神様、仏様というものを受け入れやすい人種と言われている。おかしな話お釈迦さまもイエス・キリストさまも、日本にやってきたら神々の一人になってしまうのです。この柔軟さ…その証拠に僕はよく、年末年始の行事を挙げるようにしています。12月25日のクリスマス / 12月31日の大みそか / 1月1日のお正月、この3つ、どの宗教の行事か分かるでしょうか?クリスマスは誰でもわかる、イエス・キリストの降誕祭(誕生日)、大みそかとお正月は初詣に行くから…仏教行事と思われがちですが、実は大みそかは仏教行事でお正月は神道、つまり神社にお参りする行事です。神社では除夜の鐘をつきません。お寺でつく108つの煩悩を追払うために叩く梵鐘(ぼんしょう)は、1年の良かったこと、悪かったことを鐘の音とともに置いていくという意味があります。最後の108つめを日が変わる時間に合わせて鳴らすようにしているので、紅白を見ながらゴ―ンなんて聞いた経験もあるでしょう。お正月に初詣に神社に行くのも、先述の八百万の神様に新たな1年を無事に過ごせますようにとお願いするためです。なぜ、神道系と仏教系が同じような感じになり、混乱してしまうのか?それは、お寺の境内に神社や鳥居といった建立物が多いからです。私どものお寺にも「四所明神社」、「天満大自在天神社」、「毘張尊社」とあります。そういったことを知って、神社仏閣巡りをするのも面白いかもしれませんね。高野山では新年1日〜3日、朝9時から奥の院と伽藍の金堂で修正会(しゅしょうえ)という新年祈祷会が行われます。5日には伽藍の大塔でも同様の修正会が朝9時から行われます。暖房も入っていない寒いお堂の中での法要ですが、大勢の僧侶が参列して行われる行事で、新年を迎えてみてはいかがでしょうか? 
 

 

■星供養のススメ
新年を迎え正月が過ぎると、高野山の街は一層深まる雪とともにお参りに訪れる方はぐっと少なくなります。一日中氷点下という日が続くこの時期、高野山の僧侶は寺に籠り御札を作る作業に追われます。では、どのような御札を作成しているのか?この御札祈祷は星供(ほしく)とか星供養(ほしくよう)と呼ばれており、星祭りというところもあります。星というのはその方の生まれた年によって定まる 「本命星」もしくはその方の本年の廻り星である 「当年星」それらをお祭りして供養することにより、災いを避け福を招くことを祈念する行事です。星供養の行事の歴史は古く、真言宗の良く用いられる「大日経疏」という経典では阿闍梨を決めるのに吉日を選び良人を選ぶ占星術として行われていました。この星は吉凶を司る星を供養することで、「凶」の方は禍を転じて福となす「転禍為福」の御祈りを行い、「吉」の方は福をより多くと「福寿増長」の御祈りを為す密教の法による御祈祷方法の一つなのです。密教の占星術では、北斗七星の七つの星のうち一つを、その人の生まれ星として本命星と定め、運命を司る星としています。その七星は 貧狼・巨門・禄存・文曲・廉貞・武曲・破軍 の七つで、それぞれ北斗七星に準じております。星供養では北斗七星と九曜(くよう)と呼ばれる、インドの占星術などで用いられる九つの天体を神格化したものを用いています。九曜は現在の七曜日に活用されているものが多い。さらにその曜日を仏様のお姿に表しております。
日曜…千手観音 / 月曜…勢至菩薩 / 火曜…虚空蔵菩薩 / 水曜…弥勒菩薩 / 木曜…薬師如来 / 金曜…阿弥陀如来 / 土曜…聖観世音菩薩 / 羅睺…不動明王 / 計都…釈迦如来
この北斗七星と九曜をその方の生まれた年に合わせて、星供養の「星」を表しております。一年ごとに巡ってくる「当年星」と呼ばれるものを供養し、その個人の一年間の幸福を祈り災いを除く護摩祈祷法要を、立春に行っております。立春(2月3日)までまだ少し時間があります。御自分の星を知りたい方、星を知ってて供養をして頂きたい方は当院の方まで御質問下さいませ。

■常楽会(じょうらくえ)
常楽会とはお釈迦さまが入滅された2月15日にその徳を偲び感謝をささげる法要で、別名涅槃会(ねはんえ)と呼ばれています。常楽会の名前の元となった「常」と「楽」の文字は、煩悩を滅し涅槃を得たお釈迦様の特性を表す四徳(常・楽・我・浄)から取られており、常…永遠に変わらないこと、楽…苦悩がなく安らかなこと、といった意味を持っています。高野山では前日14日の午後10時過ぎに金剛峯寺に出仕して、まずは腹ごしらえでうどんをいただきます。(このうどんは一般参詣の方も召し上がることが出来ます) そして、午後11時頃大広間に入り、導師様をお迎えするのです。導師は高野山の住職が担当します。40歳前後の住職(副住職)が行うもので、読む巻物を早くから準備し、練習を重ねて行う「披露の場」となるのです。大広間で法会をするのは、専修学院と言われる高野山の僧侶を目指す学校に通う修行僧たちです。常楽会では大きく分けて4つの「講」と言われるお経(物語形式の講話)を唱えます。まずは涅槃(ねはん)講、涅槃の名の如く、お釈迦さまをお慕いしていたことと、涅槃の世界に入られたことを悲しむ心を語っています。続いて羅漢(らかん)講、高野山では十六羅漢(お釈迦さまから命を受けて、衆生を済度する役割を受けた16人の弟子・聖者)のことを指します。お釈迦さまが残された尊い教えを広く伝えて、その恩や徳を語っています。涅槃講が始まるのが午前1時前 羅漢講は午前3時半過ぎから唱え始めるため2つの講が終わると朝方になり、僧侶たちは一度朝食を取る時間が入ります。(一般参詣の方はこの時間を利用して、宿泊している寺院に帰り朝食を召し上がります) 朝7時くらいになると高野山内の各住職も来集し、更に高野山高校宗教科の学生たちも加わり、さらに多人数となり法要の迫力を増していきます。そして遺跡(ゆいせき)講、お釈迦さまにまつわる聖地(遺跡)を慕い、その思いを偲ばせることを語っています。最後に舎利(しゃり)講、お釈迦様の舎利(一般的に遺骨)を崇め奉る心を語っています。高野山で最も長い法要の一つ。導師を務める山内住職の静かながら胸に響く声や、専修学院の元気な若い僧侶の読経を聞いて、お釈迦さまへの思いを偲ばせるのも貴重な体験になるでしょう。バレンタインで愛を確かめるのもいいですが、お釈迦さまへ感謝を捧げる法要、ぜひご覧になりませんか?

■日常で使われる「仏教用語」 2
賽銭(さいせん)…神仏に感謝して、金銭などの気持ちを捧げること / 祈願成就のお礼という意味も
三昧(ざんまい)…心を平静にして、集中した状態 / 三摩地(さんまち)ともいい、定・等持などと訳される安定した状態や、一心不乱の状態
声明(しょうみょう)…せいめいとも読み、良い評判や名声を得ていること / 法要などで経典を音階的に唱えること
舎利(しゃり)…米粒、米の飯などお寿司屋さんのすし飯のこと / 仏陀または聖者の遺骨 火葬した遺骨
娑婆(しゃば)…自由を制限されている場所と対比して、自由に過ごせる場所 / 我慢すべき世界のこと 人が住む世界 この世
精進(しょうじん)…一生懸命努力すること / 修行に励むこと 菜食すること
食堂(じきどう)…食事をするところ / 僧侶が食事をするお堂
出世(しゅっせ)…社会的地位が上がること / 如来(諸仏)がこの世に現れること 仏門に入ること
ずぼら…するべきことをせず、だらしがないこと / 真面目じゃない僧侶をバカにしていた「ずぼう」という呼び方が変化したもの
世間(せけん)…社会や世の中の人々 / 現在・過去・未来(有情)に生活する境界
醍醐味(だいごみ)…深い味わいやその面白さ / 牛乳の五味のうち最上のもの 最上の食べ物
檀那・旦那(だんな)…御主人 目上の方への呼び方 / 寺や仏事に対して財物を施してくれる信者のこと お布施 
大衆(だいしゅ)…大勢の人のこと / 大勢の僧侶のこと
智恵(ちえ)…物事の理を悟り、適切に処理する力 / 梵語でprajna 般若 悟りを開く状態
畜生(ちくしょう)…すべての生き物の総称 / 地獄、餓鬼とともに三悪道のひとつ
長老(ちょうろう)…年老いたものの敬称 / 高僧のこと
点心(てんしん)…中国料理で食事代わりの軽食 お茶菓子 / 食事と食事の間に取る簡単な食べ物
奈落(ならく)…物事のどんぞこ 劇場の舞台の下の地下室 / 梵語でnaraka 地獄のこと
入堂(にゅうどう)…寺院のお堂に入ること / 師に教えを問うこと 仏門に入ること
馬鹿(ばか)…愚かなこと 役に立たないこと / 梵語のmoha(慕何) 無知が転じたもの漢字は当て字である
変化(へんげ)…形が変わって違うものが現れること / 仏様が人間の姿になって現れること
冥利(みょうり)…自然に受ける恩恵や幸福 / 仏様に対して善い行いをした報いで得られる利益
無我(むが)…無心なこと 私心がないこと / 変わらないものはないという実体のこと 存在を否定すること
利益(りやく)…儲け 得をすること ためになること / 仏様の力によって恩恵を与えること 仏様から得られる利やご加護 

■春の高野山
世間では三寒四温の通り、徐々に暖かくなってきている頃と思われますが、高野山はまだ朝の気温が氷点下の日が続いております。それでも日中は日差しに春の柔らかさを感じられ、残っている雪なども溶け始め、少しずつながら春の足音が聞こえ始めております。高野山の春を最初に知らせる行事は、3月の第1日曜日に行われる「高野の火まつり」でしょう。柴燈大護摩供(さいとうだいごまく)と呼ばれる護摩供養を行い、高野山の霊場を開くという意味と招福厄除のお祈りをする意味を持っています。柴燈とは、神仏への燈明として焚く柴のことで、高野山では僧侶が山伏の姿になり皆様の祈祷を供養するものです。次に春を感じることが出来るのは、今年は3月11日に行われる「法印転衣式(ほういんてんねしき)」です。法印とは、弘法大師空海の身替りとなって高野山で行われる法会、法儀の最高位を司る立場になる人のことで、高野山での高僧として1年間任ぜられるものです。金剛峯寺の大広間で山内外住職や大勢の招待客の前で、それまで身に着けていた襲精好(かさねせいご)という衣を、緋衣緋紋白(ひごろもひもんじろ)という、法印様しか着れない衣に着替え、松三宝(まつさんぼう)と言われるお祝いの席で執り行われる儀式をしたのち、招待された方へお斎(おとき=食事)を振る舞うのです。弘法大師空海の身替りとして過ごす一年間は、翌年2月に成満(じょうまん=終了すること)するまで山内で過ごさねばならないという決まりはありますが、何よりも名誉なことであります。そして時侯的にも、一番春を感じられるのは伽藍内金堂で行われる彼岸会でしょう。その名の通り春のお彼岸の時期(今年は3月20〜22日)に行われ、昼1時から行われる行事は、参拝客も金堂内に入り拝観することが出来ます。さすがに3月の下旬になると高野山にも春らしさがやってきて、大勢の参拝客もやってきます。ぜひ今のうちに高野山に来られる計画を立ててみてはいかがですか?

■今、僧侶として出来ること
3月11日に起こった東日本大震災の惨事により、御家族や御親戚、御友人を亡くされた方に哀悼の意を捧げるとともに、無事に生還された方々の生活が一日でも早く安堵し、平穏を取り戻せるようにお祈り申し上げます。災害から1週間が経ち、国だけではなく都市単位の行政からの援助物資などが徐々に被災地に届くという報道を見られるようになり、少しずつ落ち着きを取り戻しているように見受けられます。私どももすぐに出来ることとして、12日に伽藍において哀悼の意を込めた法要をあげるとともに、毎月21日に行っている托鉢(たくはつ)行で御協力して戴いたものを少しでもお役にたてらればいいと思っております。阪神大震災の時は高野山からの距離も近かったこともあるので、多くの僧侶が災害地に入りボランティアに加わったことを記憶しておりますが、今回は遠く離れた東北・北関東の地ということと、現地における食料品などの物資、ガソリンや灯油といった燃料が不足しているという状況を見ると、軽率な行動を控えるのが賢明という判断をいたしております。では、我々僧侶にはどういったことが出来るんでしょうか?多くの人々が亡くなった被災地では、葬儀をあげることが出来ない方がたくさんいらっしゃるでしょう。そこに我々が行って来世へのお導きをすればよいのか?それもきっと、足手まといになってしまうだけでしょう。私の寺にいる若い僧侶がこう言いました「居ても立ってもいられません。休みを頂いて被災地に飛んでいってもいいでしょうか?」 彼の気持ちはもっともです。いや、人としても立派な考え方でしょう。でも私は彼を気持ちを汲みながら、このように諭しました。「今君が被災地に行くことによって何が出来る? 生存者を捜索するだけの装備を持っている自衛隊やレスキュー隊の方々でも難航しているのに、君が出来ることは少ないでしょう。」  「さらに現地では生活するものが不足している。君は最低でも往復のガソリン、個人を守るための食料や寝具や服装を持参して行かなければ何の意味もないんだよ。」 「我々僧侶にとって今できること それは無事を祈ることと亡くなった方を追悼するお経を読むことと、托鉢などをして募金をつのることだよ。」 人によっては冷たいと感じる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、少しずつでも復興していく人々の手助けの一片を担うことは、なにも現地で行うだけじゃないんです。そして人々に落ち着きが見え始めたら、そこで僧侶としての出番がやってきます。それは何か? ホスピタリティ(=温かくもてなす誠意)です。困難な目に遭った方の話を聞き、気持ちを落ち着かせてあげることや不安を取り除いてあげることが出来る仕事。今では精神科を代表する医者が行う場合が多いが、元来そういった安らぎを与えることは僧侶がその力を最も生かせるところではないでしょうか? 僕の周りにも被災に遭った友人や知人がいます。そういった方が今回の震災のトラウマを忘れられるような、またショックを軽減させてあげられるような活動も、これからの僧侶に求められていく姿ではないでしょうか。そしてさらに、物資が滞ってしまうことも危険な状態の一つです。自分の幸せだけを考えるのではなく、全ての人の幸せを考えることが出来る。それが、この災害の時に世界の人々に日本の偉大さ、底力の強さを見せつけるときでもあるのかもしれません。こんな時こそ、「絆」や「繋がり」を大事にして生きていきましょう。きっとまた、幸福は訪れます。 
 

 

■春の高野山 2
今年は春の訪れが遅かったですが、ようやく桜も咲いてきたことでしょう。でも高野山は、まだ梅のつぼみが開き始めたばかり。春を知らせるみそさざえのさえずりが心地よくなってきました。高野山の梅は来週中、さくらは今月下旬頃、そして、当院のシャクナゲはゴールデンウイーク後半から咲き始めるでしょう。先月の頭にも書きましたが、春の高野山には多くの法要がいとなわれます。そのいくつかを紹介していきましょう。まずは4月8日 仏生会(ぶっしょうえ)これはみなさんご存知、お釈迦さまがお生まれになった日をお祝いする日です。高野山では朝9時から山内住職が総本山金剛峯寺に出仕して法会を行います。20センチほどのお釈迦様のお姿に甘茶をかけるのです。その後、一般の方々も同様のことが体験できます。そして4月10日、朝9時から伽藍の中の金堂において、庭儀大曼荼羅供(ていぎだいまんだらく)という法会が行われます。庭儀とは、大曼荼羅供や潅頂といった法会を行う際に、集会所(しゅえしょ=集合場所)の大会堂(だいえどう)から行列して道場に入る儀式であり、山内住職がそれぞれきらびやかな衣を身にまとい、金堂まで練り歩くのです。大曼荼羅供とは金剛、胎蔵界の両曼荼羅(両部大曼荼羅と言います)を供養するものです。一般の方々はまず大会堂〜金堂までの練り歩きをご覧になったのち、金堂にて法会を拝観することが出来ます。次は4月21日、朝9時から奥の院燈籠堂において、萬燈会(まんどうえ)という法会が行われます。この萬燈会は法印御房様のお導師で、燈籠堂で中曲理趣三昧(ちゅうきょくりしゅざんまい=お経を唱えながら堂内を行道する法会)をおこないます。この法会も集会所から燈籠堂までの練り歩きもあわせてご覧になれます。そして春の一大イベントは4月22日と23日の旧正御影供(きゅうしょうみえく)です。22日の夜のお逮夜(おたいや=前夜祭の様な意味合い)法会と、23日の旧正御影供法会の2つに分けられます。陰暦の3月20日(今年は4月22日)午後6時から伽藍で万燈万華会という、全国から集まった方によるご詠歌や舞踊が行われたのち、8時から御影堂でお逮夜法会を行います。この法会が終わると、御影堂の中を一般開放されます。午後6時半過ぎからは伽藍内の諸堂が開かれ、行法が執行されます。また、午後8時から11時までは大塔の中で御宝号念誦法会(ごほうごうねんじゅほうえ)が行われ、弘法大師空海と一体になるために「南無大師遍照金剛」の宝号をお唱えいたします。陰暦の翌日3月21日(今年は4月23日)は、午前9時から奥の院燈籠堂で、萬燈会と同様の法会が行われます。そして午後1時からは伽藍内御影堂で法会が行われます。総本山金剛峯寺に集まった山内住職は、薦(こも)の道を御影堂まで練り歩き、御影堂で法会を行います。障子や御簾(みす)も取り払い、外からでも中で行われる法会の様子が見えるようになります。法会の途中、僧侶が堂内を行道しますが、その際散華(さんげ)というお経の時にまかれるお花は、大変おめでたいものとして観光客の方々に喜ばれております。法会終了後も裏千家による献茶・華道高野山による献花など、さまざまな催しがございます。
4月上旬は梅が、下旬は桜が咲き始めるころの高野山で行われる多くの行事、今年は週末と重なっていますのでぜひお越しになってはいかがですか?

■家での「お勤め」って?
最近、また家に御仏壇がある家が増えてきているらしい。私もそうだったが、一人暮らしをしている人の家に御仏壇があることはあまりない。都会でマンション暮らしをしている家庭にも、御仏壇を置くスペースというのは設計されていない場合が多い。そういった環境なのに、御仏壇がある家が増えてきているというのは、ひとえに信仰心の高まりという言葉だけで片づけられるものではない。御仏壇メーカーも努力をして、オシャレなものやマンションに合うサイズのものを作るようになったのも要因であるが、やはり祖先を自分の近くで、毎日お唱えしてあげたいという気持ちが芽生えているのだろう。そのような人が増えるにつれ、やはり僧侶が唱えるようなお経を自宅でも唱えたいいう方も増えてきている。僧侶の様な…というのはさすがに簡単に行えるものではないが、行うに際しての方法を聞かれることが多いのでここで挙げておきましょう。まず、御仏壇には毎朝新しいお水を供えてあげましょう。起きたら最初に自分の口に運ぶ前に、供えてあげるのが理想的です。水を供えたら時間を見つけて仏前に座り、ロウソクと線香を灯します。線香は宗旨宗派によって本数が変わりますが、真言宗では2本灯すことが普通です。たまにはお供え物としてお菓子やお花、故人が好きだったものを供えてあげるのもいいでしょう。故人は来世で生きてらっしゃるという気持ちでいることが大事なのです。
お祈りするに当たり必要なもの数珠と日常経典です。日常の経典を持っていない方もいらっしゃるでしょう。持ってなくても手を合わせる気持ちがこもっていればいいのです。持っている方は般若心経や諸真言とともに、故人の戒名を呼んであげましょう。数珠は大きな音を鳴らして擦り合わせるものではありません。擦るときは控えめにしましょう。お祈りが終わったら話しかけてあげましょう。どのようにするかというと、まず一番最初に故人の様子をうかがいます。「今朝は寒かったけど体調崩してませんか?」といった具合に故人への気遣いをします。そしてその後、自分の様子や家族の様子、周りに起こった出来事などを伝えましょう。故人はいつも現世のことを気にしています。教えてあげてください。その次にお願い事があればお願いして下さい。お願いがあるときだけ信心深くなっても、都合がいい時だけ…という風に思われてしまいます。常日頃から御先祖様を大切にしておきましょう。お祈り終わったらロウソクを消します。線香は自然に消えるので、ムリに消さない方がいいです。例えば朝起きてすぐ、例えば朝ご飯を食べた後、例えば仕事から帰ってきたときと、毎日時間を決めて行えば忘れることもないでしょう。これからゴールデンウイークなどの休みが続きます。御先祖様と過ごした休みを思い出してみてはいかがですか?

■「死」というものに対する癒し
平成23年3月11日、未曾有の大震災が東北・関東地方を襲い、死者・行方不明者合わせておよそ25000名という莫大な被害をもたらしました。震災からおよそ2カ月、自粛ムードはゴールデンウィークの存在もあって少しずつ解消されてきています。また、休みを利用して多くの方が被災地に入りボランティアを行うという、心温かい光景が見られるようになってきました。1か月ほどまでは生活の基盤を再構築するのが中心になっていたと思いますが、2か月も経ってくると徐々に現実を考えられることが増えてきます。自分の親族や友人はもちろん、近所に住んでいた方の不幸を捉えられるようになったり、改めて自分が生き残ったことに対する感謝の気持ちが現れてくる頃でしょう。そして、自分が生きていることに対して「ありがとう」と感謝出来ることもあれば、「なぜ生き残ったの」という風に否定的に考えてしまう方が現れるのもこの時期かもしれません。「生き残った自分は何が出来るんだろう」 「何をすればいいのだろう」 「自分はどんな役に立つんだろう」と、自問自答し始める時かもしれません。手を伸ばすことが出来る人が行えるケアの中には、・メディカルケア(医療による世話・介護)と ・スピリチュアルケア(精神的治療による世話・介護)と、大きく二つに分けることが出来ると思います。私たち僧侶に行えるのは後者、精神的な部分をケアしてあげることです。現在では精神科医だとか心療内科医といった方が行っていることが多いですが、もともとそのようなケアは僧侶が行っていたものであり、仏教の教えと癒しという関連を見つめなおす機会なのかもしれません。そもそも仏教において癒しというのは、「救い」や「救済」という言葉におきかえられるものがあります。宗教と癒しは生死の問題と密接な関係にあります。宗教では、「人はなぜ生きるのか」 「人はなぜ死ぬのか」といったことを問うものが多いのです。生きている方にはどのような言葉をかけてあげればいいのか?亡くなった方に対してはどのような別れ方をしてあげればいいのか?優しく諭してあげる場合もあれば、前向きに生きなさいと後押ししてあげる場合もあるでしょう。その状態を見極めるのに必要なのが対話です。親身になって相手の気持ちをくみ取ってあげて、相手が思うことすべてを受け取ってあげるのが、理想的な宗教的癒しではないでしょうか?壊れてしまった家は一日では直りません。同じように傷ついた心は一日では治りません。少しでも被災された方の役に立つように、私たちが手助けしてあげるのが大事なんです。小さいこと、大きいことと拘らず、自分をも見直す機会として今を生きてみませんか? 

■高野山の初夏の行事
世間では梅雨に入り、日に日に暑さを感じられるようになる6月ですが、高野山は朝晩を中心にまだひんやりと寒さを感じる日が続きます。6月に入ると衣替えをするという習慣はずいぶん薄れてきましたが僧侶はきちんと守っており、薄くなった着物じゃ寒いので中旬にならないと下に着込んだりする日もあります。梅雨らしい雨の天気は続くけれど、気温が上がるのにはもう少し時間がかかりそうです。6月に行う高野山の行事と言えば、15日の宗祖降誕祭(青葉祭り)ですが、その内容は昨年の「宗祖降誕祭」の欄に掲載しているのでそちらを見ていただきたいと思います。今回は旧暦の関係で今年は6月に行われることになった山王院夏季祈(さんのういんかきいのり)と、竪精(りっせい)をご説明させていただきましょう。夏季祈りというのは旧暦の5月1日、2日に高野山の南院(なんいん)の波切不動明王を勧請(かんじょう=請じて迎え入れること)して、天皇陛下の御安泰と天下泰平や五穀豊穣を祈願するものです。もともと波切不動明王は山王院に安置されていたものですが、今は南院に安置されております。この夏季祈りの時だけ山王院に勧請されることになっております。今年は6月2日、3日 朝9時から伽藍内山王院で法要が行われます。そして同旧暦5月3日には、伽藍内山王院にて竪精という行事が行われます。竪精とは竪義(りつぎ)明神と精義(せいぎ)明神という2人の奉祀者が行う法要で、高野山で最も長い時間を有する法要の一つです。3日夕方から前講 午後6時に総本山金剛峯寺で御法楽を行った後、一般参詣客に見送られて竪義の僧侶は山王院へ 精義の僧侶は御影堂へと入り、その後精義の僧侶も山王院へ移り、一から五の問による問答を繰り返し行うものです。翌朝4時くらいに終わったのち5時から後講をおこない、竪精が終了となります。竪精の僧侶の竪義に当たっていた寺院では午前6時からお斎(おとき)と言われる祝い膳をお出しして祝うのが習わしとなっています。今年は6月4日 夕方6時ごろに伽藍へ入っていく竪精の両明神様のお姿を見ることが出来ます。一般の方は夜中行われている法要を山王院の外側から拝見することが出来ます。何度か高野山にお越しの方は、一般の方があまり見る機会が少ない法要を見てみるのもいいのではないでしょうか?もちろん、6月15日の宗祖降誕祭も前夜のねぶた巡行など、華やかな催しが行われます。平日でお越しになりにくいかと思いますが、ぜひご覧くださいませ。

■今見直される 「癒し」 の環境
人は困ったり悩んだり自分の力だけではどうにもならないと思った時、誰かに頼りたくなるものです。相談相手は家族や恋人・友人といった近しい人から、ちまたで人気の占い師といったプロなど千差万別です。昔、お寺というところはその地域の役所であり、冠婚葬祭式場であり、病院であり、集会所でした。現在、一般の方が思い描くお寺という場所は、お別れをするところという印象が強いでしょう。実際、僕が僧侶の恰好をして友人の結婚パーティに出た時 「なに縁起悪い恰好してるんだよ」と言われたことがありました。また、結婚式を仏前式で行ったと言えば 「お祝い事をすることってあるんだ」と言われました。そのように捉えられるのは、今のお寺の在り方がお別れをする場所という印象が強いからです。高野山のお寺というのは観光地ということもあり、宿泊することが出来るお寺(宿坊)であり、建造物や仏様のお姿を見られるところと位置付けされることが多いです。もちろん、弘法大師空海のお膝下で一緒に来世を過ごしたいという方が、納骨に訪れる所でもあります。お寺の中身、僧侶とのつながりを得ることは希薄している部分があります。最近…特に震災以降変わってきたのは、「癒し」を求めてくる方が増えたことです。大きな地震があったのに、自分は何もできない / 自分の存在価値が分からない / こういう時世だからこそ仏様にすがりたい、 など、お寺や僧侶という場所を見直される時期なのかもしれません。僕はお寺という場所が持つ本来の意味の一つである、人の気持ちを落ち着けるということを一足早く行っております。一つは写経という、般若心経の262文字をひたすら気持ちを込めて書き続けることにより、集中力はもちろん、精神的な安定をもたらすことが出来るもの。もう一つは阿字観という、梵字の「阿」という文字を見ながら呼吸を整え瞑想に入ることが出来るものです。写経体験できる場所は多いですが、阿字観という瞑想法を行えるところが少ないので問い合わせが多く徐々に求めに来られる方が増えています。困っている、悩んでいる方への手助けをすることが出来る昔のお寺の形を、今また改めて出来るようになってきた時代に離されないようにするのも、これからのお寺と僧侶の在り方でしょう。もっと気軽にお寺にお越しになって、「癒し」の瞑想に触れてみてはいかがですか?今こそ、自分の方向性が見いだせるかもしれませんよ。 
 

 

■戒名もいらない?
新盆が近いこの季節、お墓参りなどすることによって故人のことを思い出す機会も増えると思います。亡くなった個人のことを想うのであれば、毎月の月命日にお参りに行ってあげたり、近隣の僧侶に読経してもらうのが何よりの供養になることでしょうが、日常生活ではあまりそのような時間を取ることが出来ない方が多いでしょう。そんな中、せめてお盆やお彼岸の時くらい供養をしてあげるのが、現世に残っている人が行う「最低限の」ルールかもしれません。お墓に行って募石を見ると、生前の名前以外に「戒名(かいみょう)」というものが書かれているのが分かると思います。戒名とは簡単に言うと、来世に向かう故人に付けられる名前で、もともとは出家する僧侶につけられるものでしたが、一般の方に付けられるようになったのは平安時代末期〜鎌倉時代初期頃と言われております。真言宗においては6文字、9文字、11文字戒名というのがが一般的で、故人が残した功績や残された家族からの配慮などによって文字数が変わってきます。〇〇院という風に院号が付いたりして文字数が多いほど徳が高いというわけではないですが、故人のことを想って戒名を長くする方も少なくありません。僕が付けたことある中では最高13文字、信者様の戒名で拝見した中では17文字というのもありました。戒名というものはだいたい、檀那寺(檀家になっている寺のこと)の御住職が付けてくれることが多いです。最初に来る〇〇院のところ(院号といいます)には、檀那寺に対する寄進や報恩、社会に貢献した方に付けられることが多いです。(つかない場合もあります) 次に来る二文字が道号といい、個人の趣味や人柄を反映した文字が生かされます。そして戒名と言われる、生前の名前(俗名)や経典にちなんで付けられる文字が入ります。その下に来るに文字が位号といい、男女や老若によって変わります。最近では地方にある檀那寺との付き合いが減ってしまい、お寺に戒名をつけていただく意義がないと思われる人が増えています。ここ数年の家族体系で連絡を取らなくなってしまった方もいらっしゃるでしょうが、檀那寺というのはずっと昔からその故人の家庭や環境、先祖のことも供養してきた、いわば保証人のようなものなのです。代々お世話になってきたお寺から来世に行くときの名前を付けてもらわないことで、先祖たちはどう感じるでしょうか? 先祖の気持ちを抜きにして戒名をつけることは感謝の気持ちを怠ることにつながる気がします。来世に旅立つ故人の、来世での名前にもなる戒名 ずっと知ってくれている僧侶に付けてもらうのが何よりの供養になることでしょう。先祖の為にも、一番の功徳を積んであげましょう。

■葬式も、お墓もいらない?
前回、戒名の意味と必要性を説いたが、今度はお墓の必要性を話したいと思います。まず、お墓と言うのは何かと言うと、1死者の遺骸や遺骨を葬った場所。 つか。 おくつき。 墳墓。 2墓碑。 墓石。とあります。お墓というのは宗派、宗旨、地域、果てには檀那寺、故人によって作り方やお骨の納め方など、千差万別です。最近ではお墓の意義と言うのを問われることが多いです。なぜならば…核家族化が進んでいるからという理由も否めないものです。戦後、若くて元気な働き手を「金の卵」のような扱いで都会に呼びだし、日本は大いなる経済発展を遂げることが出来ました。しかしその代償に、田舎に残された親は、家業の後継者など多くの問題が残されました。そのうち田舎に住む親が亡くなり、その親が代々持っていたお墓をどうするかということになってきます。若くして田舎を離れた人に田舎への魅力はなく、お墓参りに来る回数はぐっと減るでしょう。今自分が住んでいるところの近くに檀那寺を作りお墓を移すという方もいるでしょうが、多くの方が行えるわけではありません。お墓を預かっているお寺も、檀家さんがお参りに来ることを見越して、命日やお彼岸、お盆が近づくとキレイに清掃したりしますが、やはりお墓参りに来られないお墓というのは自然と廃れてしまうものであります。お墓とは亡くなった後来世に向かうための「家」であり、お盆などの時は現世に帰ってくるための「玄関」です。また、核家族となって別々に住んでいた者たちが、ずっと一緒に住むための場所でもあるんです。僧侶が言うのはおかしいかもしれないですが、今の都会のお墓の金額は高すぎます。高すぎるから都会に移り住んだ人は、近くにお墓を購入できません。かといってしょっちゅう田舎に帰ることも出来ない…。自然とお墓が遠のいていくのはしょうがないかもしれません。しかし、それを正当化してしまうのも違っていると思います。小さいときからお参りに行く親の姿を見て育った子供は、遠くにいてもお墓参りを欠かさない人が多いです。自分を育ててくれた親や祖父、祖母 遡ると御先祖様はいつも近くで見守ってくれています。簡単に行けないときは手を合わすだけでも構いません。(本当は喜んでくれないかもしれないけど)自分が困っているときだけでも、お墓参りに行くことで御先祖様は優しく見守ってくれているはずです。お墓というもの、現世を生きている人にも、来世に旅立った人にも居心地の良い場所であるように、日頃から行きやすい場所にしておきましょう。

■お墓はいらない?
お盆が近づいてまいりました。最近じゃ、関東地方や都会を中心に7月15日頃に行う「新盆」が多くなってきていますが、やはり8月の半ばに行うというところも数多く残っています。高野山にも週末を中心に多くのお参り客が訪れ、奥の院や当院に祀っているお位牌に手を合わし、御先祖が帰ってくるのを心待ちにしていらっしゃいます。亡くなった方は来世に行くと言いますが、お墓はその玄関口であり、さらに亡くなった後の住居でもあります。お墓参りの時にお水とぞうきん、ほうきを持って墓石やその回りをキレイにします。キレイにする気持ち、それは今住んでいる住居をキレイにするのと同じです。都会に住んでいると土地が高かったりしてお墓を買うこともままならないでしょう。また、田舎に墓地があっても、簡単に帰省できるというものでもないでしょう。そういった状況から、最近ではお墓を持つのではなく、納骨堂のようなものを代わりにしている場合も増えています。また、散骨といった形で海に撒いたり、ロケットに積み込み宇宙で撒くと言うこともあるようです。もちろん、先祖を敬う気持ちというものを形であらわすことはできませんが、やはり将来のことを考えてもお墓はあった方がいいでしょう。「墓」という字は「莫」という字と「土」という字が合わさって出来ています。これは土で覆い隠す、お骨を土に還すという意味があります。必ずしもお墓を持たなければならないという法律はありませんが、やはり御先祖様のことを思えば、帰ってこれる場所があった方がいいのは必然でしょう。我々真言宗では、三密行(=さんみつぎょう 手(身)に印を結び、口に真言を唱え、心(意)に御本尊様を観想すること)を行えば、即身成仏出来ると言われております。浄土宗や浄土真宗のように、「南無阿弥陀仏」と唱えることで極楽浄土に行けるという教えもあります。お墓をキレイにして御先祖様に手を合わせる。そのお墓を代々守り続ける。祖先を守り続けることによって、自分にも功徳を積むことが出来ます。もうすぐやってくるお盆、自分がここにいるにはどのような歴史があったか、また、どのような祖先によって自分が築かれたかを再確認するのも、いい時期かもしれませんよ。

■手を合わせるということ
お寺に行ったりお墓参りをすると、必ず手を合わせます。でも、なぜ手を合わせるのかということは、あまり知られていないと思います。仏教だけではなく、神社に行った時も柏手を叩いた後、手を合わせます。キリスト教でも、指を重ね合わせますが合掌のような姿勢をとります。また、タイなど東南アジアの国に行けば、挨拶として使われます。仏教の世界では、一般的に右手が清らかなる手、左手は不浄の手と言われています。今でもインドなどヒンドゥー教徒が多い地域では、食事など左手では取らないというルールがあります。右手が清らかなる手であるために、左手で行った不浄のことを清浄なるものにするという意味としてとらえるのが一般的です。しかし、左手が不浄という意味だけではありません。右手と左手、もちろんその役割というものは清浄、不浄というものだけではありません。左手が不浄のものなら、食事の時など食器を持ち上げるのも躊躇いますよね。合掌はその人の心を清浄なものとし、色々な動きをする両手を合わせて胸の前、または顔の前で合わせるのは人間が行う行為を投げ打って、神仏に帰依してすべてを任せるというという無我の心を現わすものです。御先祖様に帰依するという気持ちを行うこと、それがなによりの行為とすると、手を合わせるのは全ての物に対して感謝の意を表しているからです。そう思うからこそ、人は仏壇で手を合わせ、お寺やお墓で手を合わせ、食事の前にも手を合わせるのでしょう。自分にとって都合のいい時だけ神仏にお願いをするのではなく、日常から神仏に手を合わせてお祈りをすることで、より帰依するという気持ちが強くなります。手を合わせる…ただそれだけの行為ですが、気持ちを込めて両手を合わせてお参りしましょう。

■「上品」と「下品」
前に日常生活で使われる仏教の用語と言うのを書いたことがありますが、この言葉もよく使う機会が多い単語だと思います。使い方としては「あの人は上品な人ですね」「そんな下品な言葉遣いはよしなさい」といったところでしょうか。一般的に使われる場合は、その人に備わっている「品」というものの優劣や出来栄えといった表し方ですが、仏教的な意味合いもあるのです。「品」には2つの意味があり、一つ目はサンスクリット語vargaの訳で「同類のまとまり、段落」の意。二つ目はサンスクリット語prakaraの訳で「種類」を意味します。まとまっているとか種類という意味は、「品目(ひんもく)」だとか「数品(すうしな)」など近いものもありますが、現在日常で使われている「品」とは多少違った意味合いが見られますね。「上品」「下品」という言葉の由来は、極楽浄土に往生する人を生前に積んだ功徳の違いに応じて9種類に分類しており(これらを総称して「九品(くほん)」と言います)、最上級に値する上品上生(=深く往生を願う心を持つ人)から、最下級に値する下品下生(=人殺し、盗みなどの悪さをした人)から引用したものです。ここで「品」という言葉は「等級」だとか「位」を表しているが、その違いが転じて一般に使われるようになったのです。「上品」な人は尊敬や羨望のまなざしを受ける人、「下品」な人は軽蔑のまなざしを受ける人。皆様はどちらになりたいですか?
 

 

■友人への羨望と嫉妬
中学以来の友人がいる。と言ってもその彼とは高校の途中で海外に転校してしまい、ずっと連絡を取っていなかった関係。昨年の夏、別の友人が道で偶然出会ったのがきっかけでまた交流を持つようになった。そして、前述のお墓参り(2010.7.2 お墓参り)にも一緒に行き、更に友情が増すことになった。先日、日本経済新聞に彼の活躍の記事が掲載された。彼の父親は200年の歴史を持つ業界でもトップクラスの会社の社長だったが、彼が9歳の時に他界してしまっていた。彼の母親がその会社を継いだが、伝統的な物を扱っている職種だったため業績は徐々に右肩下がり 経営は困窮し規模を大きく縮小せざるを得ないところまで陥った。その後、大学を卒業した彼は他の企業に勤めるが、代々続いている会社を再建したいという気持ちが強く退社し、再建に臨み始める。彼の持つ個性的なキャラクターとその行動力、カリスマ性を持って彼の会社は徐々に再建への道を歩み始める。時には自社ビルの屋上に会社が扱っているものを活かしたプランターを作りエコ活動を行ったり、地方のラジオ局ではタレント顔負けのトークを繰り広げるなど、地道にその存在を大きくしていった。中学時代に憧れていた人物と一緒にイベントを行ったり、アニメのキャラクターを用いて商品を展開させたり…。最近ではニューヨークで仕事をしたり、材料を買い付けにネパールに行ったり…。家族サービスもしっかりしており、先に書いたネパールに子供を連れていき見聞を広めさせてあげたり、四国88か所のお遍路も一緒に歩き、親子のコミュニケーションも忘れていない。それはまるで、理想とする人物像を地で歩いてるような姿。思わず憧れてしまう自分がいた。それとともに彼に出来で僕にできないはずがないという嫉妬心が強くわき起こる気持ちがあるのも否めない。人間というのはひとりで生きているわけではない。必ず誰かの助けを得て、誰かを助けて生きているものです。自分と似た生活を送っていた人には負けたくないというライバル心を持つのは必定。ライバルを持つことによって人間というのは成長するものでもあります。素直に相手を褒めてあげる、相手の失敗を訂正してあげられる人になることが、人の目指す道の一つではないでしょうか?

■卒塔婆とは?
卒塔婆、漢字で書くと見慣れないし聞き慣れないかもしれませんが、「そとうば」というふうに書けばピンと来る方も多いんじゃないでしょうか?省略して「そとば」や「とうば」という場所、場合もあるので、そちらの方が聞き馴染みがある方も多いかもしれませんね。「とうば」は、元はサンスクリット語のSTUPA(ストゥーパ)という言葉が語源となっており、仏塔など塔を表す意味を持っています。金剛三昧院に有る多宝塔も意味合い的には同じストゥーパですが、インドなどではお骨などを収める塔だったのに対し、当院の多宝塔は五体の如来像(五智如来像)を安置しており、形式的には違うものになります。多宝塔のことは置いておき、今の時代で言う卒塔婆はお墓の墓石の後ろに立てている平たい棒というものというのが一般の方々の御存知のものだと思います。特徴的な形にも意味があり、地面に近い所から四角、円形、三角、逆半円形、宝珠と決まっています。一番下の四角は「地」、その上の円形は「水」、真ん中の三角は「火」、上から二番目の逆半円形は「風」、一番上の宝珠は「空」を表しております。「空」のところにはア字、「風」のところにはバ字など、決まった文字を入れる時もあれば、ア字を大きく表記するところもあります。他宗では真言を用いないので戒名や俗名(生前の名前)、命日、享年などを書くところもあるようです。亡くなった時は墓石に名を刻みますが、1周忌、3回忌、7回忌などで法事を行うときに檀家寺や菩提寺に行き、供養してもらうために卒塔婆を書いてもらうのが一般的です。回忌ごとに書いてもらった卒塔婆は新しくするというところも、古いものも一緒に並べるというところと種々あり、決まりはないのかもしれません。最近ではコンピューターからプリントアウトできる機械もあるようですが、地方ではお盆に備え数百から数千本書かないとならないところがあると聞きます。賛否両論あれど、読経などをする気持ちがこもっていれば重要なことじゃないのかもしれませんね。お盆やお彼岸が終わり、お墓参りに行く機会も翌年のお彼岸までないという方もいるかもしれません。御先祖様も心地よく新年を迎えたいと思っているかもしれません。忙しい師走ではなく、11月中に行ってキレイにしておくのも何よりの供養になるんじゃないでしょうか?

■手を合わせるということ
年もおしせまり、大掃除をしたりお正月の準備をしたりと忙しい日々が続くころになりました。よく日本人は無宗教と言われます。前に法話で日本人の宗教観について記載したことがありましたが、年末が近づいてくるとその無宗教さが顕著に現れてきます。12月24,25日はイエス・キリストの生誕を祝うクリスマス、12月31日は一年の締めくくりの日、大みそかに一年の煩悩を振り払う108つの除夜の鐘を聞きにお寺に、1月1日は新年の無事を祈念する為に神社へ初もうで、さらに最近では10月末にハロウィンというお祭りまで楽しむようになってきております。日本はもともと土着の神さまをお参りする慣習があります。御神体は「木」であったり「石」であったり、時には「海」や「山」という場合もあります。キリストの教会に行って手を合わす人はあまりいないでしょうが、お寺や神社に行くとほとんどの人が手を合わせます。仏様もたくさんいらっしゃいますし、神社で祭られている神さまもたくさんいらっしゃいます。お寺や神社に出かけて手を合わせることはありますが、ご家庭で手を合わせる機会は少なくなってきています。その理由の一つに、自宅に仏壇などを供えていない家庭が多いからです。マンションやアパートの構造上や一人暮らしの家庭が増えたのと、住宅様式に似合わないという理由が多いようです。お彼岸やお盆にはお墓参りに行く方が増えるのと同じで、年末年始に実家に行くという方も増えると思います。久々に両親や祖父母、兄弟の顔を見るのとともに、実家の仏壇に手を合わせ、ご先祖様にご挨拶をするのもいい機会でしょう。大変な災害があった今年、来年はいい年になりますように。良い年越しをお過ごしください。

■「絆」という言葉
激動の2011年が終わり、新たな年が始まりました。旧年は九州の宮崎と鹿児島の県境にある新燃岳の噴火、東日本大震災、台風12号による紀伊半島への被害など、生涯忘れられないほどの大きな災害に見舞われた年でした。そんな中、年末恒例の「今年の一文字」に選ばれたのは「絆」という文字でした。ちなみに2位は「災」、3位は「震」だそうです。言葉に流行り廃りというものもあると思いますが、確かに昨年ほど、絆という言葉を聞いた年はなかったかもしれません。絆という言葉を東日本大震災復興の合言葉とするために、与党の当時首相が使い始めると、筆頭野党の総裁が「私がずっと使ってきた言葉を気軽に使うな」と発言したり、年末に与党から離脱した議員が新しく作った政党にも「絆」という言葉が入れられていました。「絆」を辞書で調べてみると、1馬・犬・鷹など、動物をつなぎとめる綱。2断つにしのびない恩愛。 離れがたい情実。 ほだし。 係塁。 繋縛。主に使われていたのは2の意味でしょう。断つことのできない人との別れ、そういった方と離れるつらさが絆という文字に現れています。別れてしまった方との思い出を捨てずに、新たに生きていくことでまた新たな絆ができるのも事実です。僕は、昨年SNS(ソーシャルネットワークサービス)を本格的に行い始めました。その中でも実名による登録と、出身校など自分の履歴を載せることが出来るフェイスブックというものが一番性に合いました。それにより学生時代から一度も会っていなかった友人と食事をする機会が持てたり、お互いが利益になるような仕事が出来たこともありました。この、SNSというものも絆の一つではないでしょうか? 現代人は人と人との繋がりが下手、苦手と言われておりますが、新しいツールを使うことによって人と人との繋がりを再認識する機会が持てるようになりました。私たちはひとりで生きることはできません。誰かの助けを得て生きているのです。その私たちも誰かへの助けを行いながら生きています。「絆」という文字を多く使った昨年、近隣の方だけではなく遠くの方ともコミュニケーションをとることができる「元年」にするのもいいんじゃないでしょうか?

■宿坊に泊まってみよう!
昨今、個人で旅行する人が増えてきています。これはやはり、インターネットなどで手軽に予約ができるようになったのが一番大きいでしょう。高野山もその昔は団体旅行で大型バスに乗ってお越しになる方が多かったですが、やはり自由時間に制約があったりするので減ってきているようです。高野山には117件の寺院があり、そのうち宿坊を行っている寺院がおよそ50件あります。50件のうち、寺院と関係のある方のみの宿泊しかできないお寺を除くと、一般の方が気軽に泊まることができるお寺はだいたい30件ほどになります。宿泊できる部屋数を減らして高級旅館のような風情を見せるお寺 / 独自に温泉を準備し特色を見せるお寺 / やっぱり旅は食事ということで特色のある精進料理をお出しするお寺 / 小さいけどアットホームに過ごせるお寺 ・・・。私ども金剛三昧院は、高野山の宿坊の中でも最も多くの部屋数を有している、非常に昔ながらの宿坊です。多くの部屋の広さはだいたい10畳ほどが多いのですが、これは一部屋に8名から10名といった多人数が泊まることができるからです。高野山はご存じのとおり、四国の八十八か所お遍路を巡礼された方が、弘法大師空海のもとにお礼参りに来るお遍路巡礼の終点です。お遍路さんは多人数でも一つの部屋に泊まるということが多かったので、当院の部屋は比較的広いタイプが多いのです。お寺に泊まられる方というのは、そのお寺に納骨や先祖供養をしている方 / 歴史を知るためや御本尊様を見るため / 精進料理を食べたい、写経や阿字観などの体験をしたいという方 ・・・が多いです。もちろん旅行会社が企画したツアーの宿泊先がお寺というときもあります。季節的に冬場、12月から3月半ばごろまではあまり宿泊客が来られません。宿泊客が多くないから冬期は休業しているお寺もあります。3月から6月はまだ少し肌寒いときがありますが、多くの行事があったり花が咲いたりと、比較的多くの方がお越しになります。当院のシャクナゲも5月の半ばごろ満開になり、境内を鮮やかにしてくれます。7月8月はお盆だけじゃなく、避暑に来られる方も増えます。9月以降は半袖では寒い日が徐々に多くなり、10月下旬からは紅葉が始まります。当院としては5月のシャクナゲのころ、夏休み、11月の紅葉のころが一番観光客が多いです。初めて来られる方にはこの時期をお勧めしますが、何度か来られたことある方には早春や晩秋(雪の降り始めるころ)などをお勧めします。宿坊は旅館やホテルに比べサービスが行きとどかないところは多々あると思いますが、静かな部屋で窓の景色を見ながら気持ちを安らげたり、境内の建立物を見て回ったり写経や阿字観といった体験もできるお寺におひとりで来られる女性客も増えてきています。これから先、旅行を検討されている方も、宿坊に泊まるという選択肢を入れてみるのもいかがでしょうか?  
 

 

■縋る(すがる)ということ
およそ2万人という多数の犠牲者、行方不明者を出した東日本大震災からもうすぐ1年が経とうとしている。もうそんなになるのと言う人よりも、あっという間だったと思う人の方が多いのではないでしょうか?以後、いざと言うときに備えて非常用食料を確保する人、緊急避難場所を確認する人、外出先から自宅へのルートを調べなおす人など、多くの方が色々と見なおしたことでしょう。震災以後、何かにすがりたいと思う人が増えたような気がします。お寺にやってきて悩み事を相談する人 / (僕が行っている)阿字観と言う瞑想法を継続的に受けにくる人 / 人との付き合い、つながりをより深く感じるようになった人 ・・・それほどまで人々の中に大きな記憶を残した災害だったのでしょう。先日、当院の信者さんからこんな相談を持ちかけられました。「今住んでいる家から近々引っ越すことになったんですけど、今の家に引っ越した時トイレに違和感を感じたことをお世話になっている人に話したら、これを置きなさいと石をいただきました。その石をトイレに置いておくようになり、違和感を感じなくなりました。新しく引っ越す家に、この石は持って行った方がいいのでしょうか?」  持って行った方がいいですよと言うのがいいのか、置いて行った方がいいですよと言った方がいいのか…正直、返事に悩みました。その人にとって僕の言葉・判断がその人の家庭に幾許かの影響を及ぼすことになると思ったからです。僕は僧侶となってまだ15年弱、 人前で法話や説法をすることはあっても、自分の言葉を説いて人を救うことができるほど修行を積んだとは思っていません。それでも僧侶として生を得る今現在、そのような中途半端な気持ちではいけないと思い、その信者さんに自分の意見でこう答えました。「新しい家には新しい環境があります。そこに持っていくべきではなく、置いておきましょう。」  先日来、人気女性芸人が霊能者に洗脳されたというニュースをマスコミで見かける。人と言うのは自分が辛い時、苦しいとき、不幸だと思った時など、誰かにすがりたいと思う気持ちが現れます。弱みに付け込んで私腹を肥やそうとする人がいる限り、すがりつきたいという気持ちは怪しいものと聞こえてしまいます。日頃から見極めができる「眼」と「経験」を養うことが大事でしょう。僧侶として、自分の存在を新たに確認させられる春になりそうです。

■高野山の楽しみ方
毎日少しずつですが暖かくなっていくこの季節、高野山も長かった雪景色とようやくお別れしウグイスやミソサザエといった鳥たちの鳴き声が大きくなってきました。それでも梅が咲くのは4月半ば、桜は4月下旬、当院自慢のシャクナゲは5月のゴールデンウィーク明け頃が見頃だと思うと、もう少し厚着の日々は続くでしょう。先日、知人と話す機会があり、ぜひ高野山においでよと誘ったところ「高野山ってお墓とお寺しかないんでしょ?」という答えが返ってきました。また、僕が今東京の銀座と二子玉川、大阪の天王寺で行っている阿字観を受けに来て下さっている方と話をした時も同様に「高野山でどんな楽しみ方があるの?」と、同じような答えが返ってきました。僕ら高野山に住んでいるものは高野山の魅力、過ごし方、見どころや食事といったものを知った上でいい所と思っていますが、やはり一般の方にはどのような場所なのか分からないというのが当然の答えのようです。確かに僕も出張などで色々なところに行くときは、その土地の名物料理だとか観光地、お寺などを調べて足を運ぼうと思う事があるのと同様、もっと高野山のことを分かる情報源があってもいいのではないかと思いました。だから今回は法話という形ではなく高野山の紹介をしつつ、当院のことも改めて紹介していきたいと思います。高野山は弘法大師空海がおよそ1200年前にお開きになった真言宗の聖地で、総本山金剛峯寺を始め伽藍、奥の院、大門、徳川家霊台といった世界遺産にも登録されている名所旧跡は多くの方も訪れていることでしょう。高野山はお寺が多い街ということもあり、お寺で使うお茶菓子をまかなう店がたくさんあり、また繊細な味わいのものが多いと評判です。また、一つ一つの金額もあまり高くなく、和のスイーツを食べ歩くのも楽しみの一つとなるでしょう。精進料理もお寺だけではなく、街の中にあるお食事どころで食べることができます。お肉や魚、においの強い野菜を使っていなくても滋味あふれる味わいを醸し出す精進料理は、高野山に来る目的の一つとして捉えることもできます。高野山に来られて街の中を散策されると、おそらくお寺の多さを感じるはずでしょう。門は開いておりますので境内に入ることはできます(ほとんどのお寺は拝観料を頂いておりません)が、建物の中や本尊様を見せていただくということはほぼ不可能でしょう。私ども金剛三昧院も数多くある塔頭(たっちゅう 総本山金剛峯寺の子院のこと)寺院の一つですが、一般的に建物の中や本尊様の拝観はいたしておりません。しかし、境内を拝観に来られるだけでも十分に楽しんで頂ける建立物を備えております。国宝の多宝塔や重要文化財の経蔵などの説明はその説明のところを呼んでいただくとして、本尊の愛染明王は、基本的には当院にて先祖供養や納骨といったお参りに来られた方にしか拝見いただいておりませんが、本堂の正面の障子は開け放しており、外からでも見えるようになっております。愛染明王はその名の通り愛を染める仏様であり、恋愛成就や安産祈願、その他女性の方の悩みや不調を整えてくれる仏様でもありますがあまり知られていません。ご宿泊された方の前で愛染明王の効果を話させていただくと、改めて手を合わせることによって良い御縁を頂いたとか無事に子供を出産することができたというご報告を頂くことがあります。そういったご希望のある方、ぜひ一度愛染明王様のお顔を拝見しに来られませんか? また境内の真ん中あたりにある大きな杉の木 当院では毘張杉(びちょうすぎ)や六本杉といっております。この杉の木が数年前に流行った言葉でいえば、パワースポットとしても知られているもので、木々によってそのご利益が分かれているのです。多宝塔に近い木は金運アップとか、経蔵に近い木は出会い運アップとか、そういったご利益を持っております。詳しいことはお寺に来て、僧侶に聞いて下さいね。長い冬が終わった高野山は一番過ごしやすい季節を迎えます。ぜひ遊びにお越しくださいませ。

■日本人の価値観って?
最近、僕は日本人としての自覚というか認識というか、世間とのギャップを感じている。もちろん僕なんかが言うことじゃないのだと思うが、これから先のこの国のことを考えると心配になることがありのは確かである。昨年の東日本大震災以降、少なくなっていた外国人観光客の姿が少しずつ増えてきた。外国人の観光客は日本人と違い、先祖供養や納骨はもちろん、身体健全といった御祈祷も行わない。信心深いものがあってもそれを深く理解できないからだと思う。それでも外国人観光客が戻ってきたのは、日本にしかない文化、情報、歴史、価値などを見聞したいという気持ちがあるからに違いない。例えばお寺を拝観したり仏像を見たり、他の国では味わえないものを得ようと思っているからだと思う。それなのに日本の国を挙げて日本の文化を残していこうという気概が感じられないことが多い。先日中学生に必修授業の一つとしてダンスの時間が加わったというニュースを見た。リズム感を養うことによって異国の方とのコミュニケーションを高められるようにする…といった説明がなされていたが、その前に教えないといけないものがあるんじゃないか? 例えば今の日本人に「能」を舞ってくれ、「歌舞伎」を説明してくれと言って出来る人はどれくらいいるだろうか? さらに食文化の衰退も如実に表れていると思う。先日、1人当たり10000円ほどする高級鉄板焼き屋さんに連れて行ってもらう機会があった。お肉は神戸牛の最高級、ご飯も新潟産の最高級という紹介を受けた後に出てきたお漬物は人工添加物が多くかけられた市販のもの。食などは特にどこに価値を置くかというのが大きく分かれてくると思う。お隣の韓国では、キムチを漬ける時期を日本の桜前線のようにテレビで案内するらしい。日本の今の家庭でお漬物を漬けている人がどれくらいいるだろうか? 便利になっていくにつれ人は怠惰になっていく。関西地方はこの夏、節電をしないと過ごせないという報道が出ているが、この便利な生活を捨てることは出来るのだろうか?数年前から聞かれるようになった言葉だが、「断捨離(だんしゃり)」という言葉がある。断行(だんぎょう) 捨行(しゃぎょう) 離行(りぎょう) というヨガに伝わってきた言葉の造語であるが、今まさに行うべき大事のひとつ。日本の文化を再認識するとともにこれからの日本の行く末を考えるにおいて、最も大事なターニングポイントを迎えているのではないでしょうか?人を癒す心、祖先を敬う心、人を尊う心を持ち合わせること。日本画残すべき文化、情報、歴史、価値観を忘れないこと。今こそ見つめなおす時期に来ています。

■歩いて回る高野山
梅雨に入り雨が多くなってきました。ジメジメとする天気にじっとしていても汗がにじんでくる、不快な日々が数日続きます。そんなときに中休み、天気がいい日があるとついお出かけしたくなるものです。でもまだそんなに暑くはないとはいえ、やはり30度近い気温だと散歩程度のもので終わってしまいがちになります。高野山は標高が850メートルくらいの場所にある山上都市のため、この季節朝はだいたい12〜15℃、日中でも22〜24℃くらいと、5月くらいの気候です。そして15日に行われた宗祖降誕会を過ぎた今日、大きい行事はございません。(僧侶としては山王院夏季祈りや竪精(りっせ)という行事があります) こんなとき、高野山をぶらぶらと歩いてみるのはいかがでしょうか?高野山は南北2キロ、東西4キロとあまり広くなく、中心南部にある当院から一の橋(奥の院の入口)までおよそ30分、大門までおよそ25分ほどで行けます。まだアジサイは咲いていませんが、シャクナゲなど花が散った後の新芽・新葉が開き、緑を見るだけで心が洗われます。そして何より歩くことによって、今までは見ることのなかったお寺の境内やおみやげ物を見つけることも出来るはずです。当院のように表通りに面していないお寺も多くあります。そういったお寺に立ち寄るのも魅力の一つでしょう。(高野山の塔頭寺院の多くは、建物内の拝観をしていないところが多いです あくまでも境内の拝観になります) もう高野山には何度か行って、主だった観光スポットは見歩いたという方は歴史的な古道を歩いてみるのもいいと思います。古道と言って今一番人気なのは世界遺産に登録された熊野古道の一つ、小辺路(こへぢ)でしょう。全長はおよそ70キロメートル、和歌山県南部の本宮町にある熊野本宮大社まで続く山道ですが、世界遺産に登録された直後の平成17年に私が歩いた時に比べ道も整備され、歩きやすくなったと聞いております。もちろん一日で歩ける距離じゃないうえ、世界遺産に登録された熊野古道の道の中でも通行する人が少ないため、もっとも古の良さを残している道です。最初の峠である薄峠まで当院からおよそ3キロ 片道1時間程の散歩が楽しめるでしょう。(ある程度登山向けの靴、服装をご用意ください) そしてもう一つ、同じく世界遺産に登録された高野山町石道も人気です。こちらは全長22キロメートル、高野山の麓にある九度山町の慈尊院から丹生官省符神社、丹生都比売神社という世界遺産に登録された寺社を拝観できるルートです。道中町石と言われる石卒塔婆の目印が1町ごと180基が目印のように建てられておりますが、ずっと坂を登って高野山に向かうというルートなので体力が必要です。電車の駅が近くを通る区間もありますので、体力とうまく相談して歩くのもいいでしょう。(ある程度登山向けの靴、服装をご用意ください) 最後にもう一つ、女人道(にょにんみち)というのをご紹介します。高野山を取り囲む尾根道のことであり、全行程はおよそ18キロメートル。現存する、しない含めて高野山への入口であった7つの道(高野七口)を合わせた道です。高野山は明治の初めまで、女性が立ち入ることができない場所でした。高野山にお参りに来たがる人はもちろん、自分の子が出家しその姿を一目見たいと願う母親などが歩いていたといわれています。当院の近くには七口の一つ、大滝口があります。前述小辺路を熊野方面から歩いてくるとある、一番南側の入口です。尾根づたいを歩くコースのためアップダウンは比較的少ないので、歩きやすい場所が多いです。ただ、狭い場所があるのでご注意を。気軽に体を動かせる高野山内を歩くコースから、高野山の歴史を感じるしっかりと歩くコース。どちらでも新たな高野山を見つけることができるのではないでしょうか?

■高野山の食事
僧侶になって20年近く経ちますが、今でも参拝客にもっとも多く聞かれることは「お坊さんってお肉って食べないんですか?」という質問です。やはり高野山という場所柄、俗世と離れた生活をしていると肉などを食べていないのではないかと思うのが普通のようです。他宗のことは詳しく述べられませんが、高野山においての修行「加行(けぎょう)」の間は、肉(牛、豚、羊など一般的に四つ足で歩くもの、鶏)、魚、卵といった動物を食べることは禁じられています。その他「五辛」と言われる辛みや臭気の強い野菜(大蒜ニンニク・韮ニラ・葱ネギ・辣韮ラッキョウ・野蒜ノビル)も取るべきではないと言われております。辛さが強いから、ニオイが強いからと言うだけではなく、精力がつきすぎてしまうからという理由もあるようです。加行僧侶や高野山の宿坊に泊まられる方が食べるのは一般的に「精進料理」と言う食事です。加行中は日本人の生活の中には欠かせない鰹だしを使うことができません。主に昆布とシイタケのだしを取ったもので料理を作るので、たんぱくと言うかアッサリと言う味わいになるものです。さらに加行中の僧侶は、午後に食事をしてはいけないという規律があります。朝6時ごろに朝食、午前11時半頃に昼食と言う生活ですが、実際行を行っている僧侶からすれば、午前中の二食だけでは食事の量が足りません。そこで、薬食(やくじき)と言われる夕食を取るのです。と言ってもこの食事ももちろん精進ですから、好きな物を食べられるというわけではないです。しかし、鶏肉に似た見た目と食感を楽しめる大豆でできたから揚げとか、お肉の代わりに見た目は油揚げ、食感はこんにゃくで代用されたカレーライスなども食べることができました。加行中はカレーの香辛料は五辛に入らないの?なんて話をみんなでしながら食べていたのを思い出します。高野山にお越しになる方で、宿坊に泊まられる方にも精進料理をご提供しております。上記に書いたとおり、精進料理って色々と制限があって味もおいしくないんじゃないかと思われるかもしれません。僕は小さいときから、宿泊客のお出しするお食事を食べて育ってきました。その当時僕が一番好きだったおかずに、ニンジンのてんぷらと山芋の蒲焼きがあります。ニンジンを笹がきのように切ってかき揚げのように揚げたもので、ニンジンは甘いものという印象が強く残ったものでした。山芋の蒲焼きはすりおろした山芋に醤油を塗ったのち海苔を貼り油で素揚げしたものですが、見た目がウナギの蒲焼きに似ており喜んで食べたものです。「精進料理」という枠組みは、新しい野菜が入ってくるにつれて年々広がっている気がします。今ではとうもろこしを使ったスープ…コーンポタージュのようなものや刺身に似せて大根のツマに乗せられているこんにゃく、焼きナスをステーキのようにして提供することもあります。京都の料亭などで懐石料理を食べているのと、何ら差がない(ちょっと言いすぎかもしれませんが)料理を召し上がれるのです。「お肉やお魚がなくても十分おなかいっぱいになりました」 「野菜ばかりなのに満足感は高いですね」 これから秋になるにつれ、高野山の精進料理は多くの食材のおかげで華やかなものになります。ぜひ高野山で、精進料理を味わってみてください。  
 

 

■本当の親切って?
先日、僕の友人が彼のブログにこのような文章を載せていました。ドリンク自販機の下の奥深くに100円玉を落とした長女が泣きじゃくりました。昨日の夕方、○○店内での話です。近くにいたパートタイマーらしきおばさんがすぐに駆けつけてきたので事情を話すとその人は間髪入れずにしゃがみ込み、猛然と硬貨に手を伸ばしはじめました。床は湿っていて、かつ行き交う人たちの靴の汚れで黒く濁っていました。周囲は何事かと注目しています。たまらず「いやいや、いいですよぉ」と制するように声をかけるも彼女の耳に届きません。おばさんの顔面と肩の一部はしばらく自販機の底と床のあいだに食い込んでいました。私は困惑するばかりでしたが、ついに取り出すことに成功したそのパートさんは「ごめんね〜」といって一旦引き下がり、拾った100円玉を綺麗に拭いて娘に返してくれました。私はこのお方に完全にノックアウトされました。○○店のパートさんに幸あれ。名前きいとけばよかった・・・ この文章に対して多くの方がイイ話だなぁと賞賛しておりました。人によっては「次からはその店で買う」とか、「テレビ番組に投稿してもイイ話で賞金もらえるよ」といった具合に…。100円玉を自動販売機の下に落とした娘さんの気持ちを汲み取り、すぐに助けてくれたパートのおばさん。汚れていようがお構いなしに、顔の一部まで汚して100円玉を取り出してくださったそうです。そして、100円玉が自動販売機の奥深くまで入り込んでしまって泣いている子供に対して「ごめんね」と声をかける優しさ。娘さんがうっかりお金を落としてしまったことが発端です。これは幼い子供だとしょうがないことです。ここで父親としては泣きじゃくる娘を制して、・・・ 自分の手を突っ込んで拾う / 娘にお金の大切さを教えるために拾わせる / しょうがないと諦める / 誰か拾ってくれる人が来るのを期待する(今回のパターン) ・・・さて、どれが娘さんにとって一番将来につながる答えだったでしょうか?もちろん落とした娘さんが拾うのが一番適当でしょうが、子供の手では届かない場合もあります。だったら父親が手助けしてあげるのが答えでしょう。父親も父としての威厳も保てるし、何よりお金の大切さを教えることができますから。あまり綺麗じゃない場所だったらしく、諦めてしまうのもわかります。.ただその際、泣きじゃくる娘さんにどのように説明をするか? 「大事なお金だけど汚いところに入ってしまったから諦めよう」だと、教えとしては娘さんの将来に不安を感じてしまいます。誰かが拾ってくれるのを待つのも、店の店員さんなら来てくれるだろうと思うのも間違っていないかもしれません。実際レストランなどではうっかり落としたフォークなどは自分で拾わないというのがマナーとして成り立っています。拾ってくれたパートのおばさんは、とても優しく気遣いができる方だったんでしょう。「ごめんね」という言葉とともに、綺麗に拭いて娘さんに渡しています。人として最も尊敬できる行為を行っています。ただ、僕がショックだったのは、友人が「パートさんに幸あれ。 名前を聞いとけばよかった…」というところでした。これで終わってしまえば、娘さんは「何かあった時やイヤな役は、誰かがしてくれる」という気持ちになるに違いない。そのような親切をしてくださった方に対してきちんとお礼をすることによって、感謝する気持ちと自分で行う大事さを理解できるはずです。彼はその後そのお店に電話をしてパートのおばさんの名前を聞き、娘さんと一緒にお礼に行ったそうです。娘さんにはすぐにその意味がわからないかもしれませんが、その行為に対する感謝を知る日が来るでしょう。仏教用語で言えば、これも一期一会です。お金を落としたことがきっかけで、お金の大事さ、人の親切というものを知ることができたことは、きっと忘れないでしょう。

■久しぶりにて
忙しさにかまけてしばらく、法話を休んでおりました。楽しみにしていた方にはお詫びを申し上げるとともに、読んだことがない方には、これを機にご覧になっていただければと思います。改めて宜しくお願い致します。節分も終わり、本来なら高野山も少しずつ暖かくなり始める頃ですが、今年は立春が過ぎてからの方が多くの雪が降り積もりました。特に2月14日〜15日にかけて行われる常楽会(じょうらくえ)の時は、一晩で1m近く積もる大雪になりました。常楽会はお釈迦様がご入滅された日を偲んで、お釈迦様が遺された功績、仏教の悟りなどを声明(しょうみょう)というお経とは少し違う独特な節回しにて講式を唱える法要です。他宗では涅槃会(ねはんえ)という呼び方で行っているところもあります。お釈迦様が悟られお開きになった仏教というものは、簡単に言うと現世の世界というのは迷いの世界であって、迷うことで人は生きる快楽を得、生を全うした後死後の世界で次の生を得るために善業を積み、次に生を得た際により迷いの少ない人生を歩むことができるといった教えが基本となっております。実際日常の生活を過ごしていても、皆良いこともあれば悪いこともあります。いいことが続くときはこの状態が日常なのだと慢心し、悪いことが起きれば自分がどんな悪いことをしたのか、なぜ不幸が続くのかと神仏にすがったりすることがあります。日常の生活で特別な変化がない時こそ実は一番幸せな時であり、そのように過ごすことが最も難しいことなんです。毎日同じような日々を過ごしているとたまには旅行をしたい、外食をしたいなど「浴」を感じる時がありますが、そう思うことこそ人として生きているという「証(あかし)」なのです。自分が幸せだと周りの人も幸せを感じるようになります。笑門来福ではないですが、笑って過ごして寒い冬を乗り切り、暖かい春が来るのを心待ちにいたしましょう。もうすぐそこまで近づいてきていますよ。

■お仏壇のあれこれ
お仏壇… 一般の方々が、最も身近でなおかつ最も身近にご先祖様のことを感じられるものではないでしょうか?そうは言っても昨今では核家族化の影響でマンション暮らしの方が多く、スタイリッシュな部屋にお仏壇が似合う部屋が無いといった理由で準備していない家族も多いと思います。僕ら僧侶も檀家参りでマンションのお宅に行く機会もありますが、やはりお仏壇を置くには似つかわしくない場所に置いているご家庭もあります。似つかわしくない場所…って書きましたけど、そもそもお仏壇ってどこにどのように設置すればいいのか?なんてあまり知られていないですよね。お仏壇を設置するに適した場所は、静かな部屋というのが一番理想です。そうなると和室という選択肢がいいと言われますが、お客様をお通しする客間(応接室)はあまり向いてません。ご先祖様は普段は静かな方がいいけど、家族が集まって賑やかなところが好きという矛盾に聞こえる場所がお好きなようです。離れてしまったとはいえ、やっぱり家族の元気な声や会話は聞きたいからでしょう。あとは日当たりが良く(お仏壇に当たらぬよう)て風通しの良い部屋もいいです。お仏壇を設置する位置、向きもどうすればいいのか分からないと言われる方が多いです。一般的に言われるのは3種類あります。
・南面北座 / 本尊様が南を向くように設置する方法 / 一般的に南向きに向けておけば間違いないと言われます。
・東面西座 / お寺と同じ方角に設置するという方法 / お寺の本堂は、本尊様が東を向くように安置してあります。(例外・諸説アリ)
・本山中心 / ご家庭で信仰している宗派の本山がある方向に向ける / (自分がお参りするときは本尊様の方角を向く 例えば本山が北にある場合は本尊様が南を向く) 常に本山側を向いて信仰しているという意味
どれがいいという決まりはありません。ご家庭の環境というものもありますので、ご参考になさってください。お仏壇のあれこれ  その二ではお供えするもの、準備するものなどを記載します。

■開創1200年の一年を振り返って
高野山にとって平成27(2015)年は特別な年でした。高野山がお大師様によって開かれて1200年 唐に渡り長安の恵果和尚から真言密教を体得した後、日本に帰る前に法具のひとつである三鈷を手に取り「真言密教を広めるための場所に導き給え」と言いながら投げたと言われております。その後高野山で三鈷を見つけ、道場を造営したのが始まりです。4月2日から5月21日まで「高野山開創1200年記念大法会」と銘打って行われた大法会は、予想を大幅に上回る60万人もの方がご来山されました。高野山の本堂である金堂の本尊様である薬師如来像、金剛峯寺の持佛に安置されている弘法大師空海坐像を御開帳も話題となりました。年間を通しても常に多くの方がお参りにこられ、街が大変賑わいました。当院のことで言うと、2月に長老が法印様になり、10月には住職が明神様をお迎えになりました。明神様についてはまた話す機会を設けます。11月には鎮守様である四所明神社の屋根を葺替えしました。四所明神社の屋根をぜひご覧頂き、そして今当院にてお預かりしている明神様のことを思い偲ばせてみてください。より強いご縁を感じられると思います。また、3月から拝観料をいただくようになりました。塔頭寺院なのに拝観料をいただくのはどうかと思われましたが、国宝多宝塔や重要文化財の修復や宿坊の維持管理など、来られる方に迷惑をかけない設備を準備することを考えると、やむを得ない決断でした。拝観料をいただくことでお叱りを受けたこともありましたし、入口で拝観料が必要とわかると境内に入らず帰られる方もいらっしゃいましたが、概ね好意的に受け入れられました。当院でも開創法会期間中と9月の連休中、10月一ヶ月間と長い期間にわたり、国宝の多宝塔を御開帳して皆様に楽しんでもらいました。今年も別の特別拝観を検討しております。楽しみにしておいてください。大きな法会があり賑やかだった去年を思うと、今年は来山される方が間違いなく減ると思います。例年と同じ落ち着いた高野山になると思います。ぜひ、お越しになる機会をおつくりくださいませ。  
 

 

 
 

 

 
 

 

 
智積院・五百佛山根来寺

 

智積院 1 
智積院(ちしゃくいん)は真言宗智山派の総本山であり、京都市東山七条にあります。私たちの宗団は、成田山新勝寺、川崎大師平間寺、高尾山薬王院の大本山を始め、東京都の高幡山金剛寺、名古屋市の大須観音寶生院を別格本山として全国に3000余りの寺院教会を擁し、総本山智積院は全国約30万人にのぼる檀信徒の信仰のよりどころとして総菩提所、総祈願所と位置付けられています。
歴史
高野山から根来山へ
真言宗の宗祖(しゅうそ)である弘法大師空海が高野山でご入定(にゅうじょう)されたのは、承和2年(835)3月21日でした。長承元年(1132)、興教大師(こうぎょうだいし)覚鑁(かくばん)が高野山に大伝法院(だいでんぼういん)[真言宗の教えを伝えるための最も重要なお堂]を建て、荒廃した高野山の復興と真言宗教学の振興におおいに活躍されました。それゆえに興教大師は「中興の祖」とあおがれています。その後、保延6年(1140)には、修行の場を高野山から、同じ和歌山県内の根来山(ねごろさん)へと移し、ここを根本道場としました。新たな道場建設の槌音の響く中、2年後の康治2年(1143)12月12日、興教大師覚鑁は、多くの弟子が見守る中、49才の生涯を閉じられました。
根来山から京都東山へ
鎌倉時代の中頃に、頼瑜(らいゆ)僧正が出て、大伝法院を高野山から根来山へ移しました。 これにより、根来山は、学問の面でもおおいに栄え、最盛時には、2900もの坊舎[根来山で勉学にはげむ僧侶の寮]と、約6000人の学僧を擁するようになります。智積院は、その数多く建てられた塔頭(たっちゅう)寺院のなかの学頭寺院[僧侶に学問を授ける最高指導者]でした。しかし、巨大な勢力をもつに至ったため、豊臣秀吉と対立することとなり、天正13年(1585)、秀吉の軍勢により、根来山内の堂塔のほとんどが灰燼に帰してしまいました。その時、智積院の住職であった玄宥(げんゆう)僧正は、難を高野山に逃れ、苦心のすえ、豊臣秀吉が亡くなった慶長3年(1598)に、智積院の再興の第一歩を京都東山にしるしました。
そして慶長6年(1601)、徳川家康公の恩命により、玄宥僧正に東山の豊国神社境内の坊舎と土地が与えられ、名実ともに智積院が再興されました。その後、秀吉公が夭折した棄丸(すてまる)の菩提を弔うために建立した祥雲禅寺を拝領し、さらに境内伽藍が拡充されました。再興された智積院の正式の名称は、「五百仏山(いおぶさん)根来寺智積院」といいます。こうして智積院は、弘法大師から脈々と伝わってきた真言教学の正統な学風を伝える寺院となるとともに、江戸時代前期には運敞(うんしょう)僧正が宗学をきわめ、智山教学を確立しました。こうして、智積院は学侶が多く集まるようになり、学山智山と称され多くの学僧を生み出しました。
智山派から総本山へ
しかし、幕末から明治維新になると、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく=明治初期におこった仏教排斥運動)の波を受け、困難な時代をむかえます。明治2年(1869)には、土佐藩の陣所となっていた教学研鑚の根本道場の勧学院が爆発炎上、明治15年(1882)には一山の象徴である金堂を焼失してしまいます。こうして困難な時代を経て、やがて明治33年(1900)に智積院を中心に活動していた全国の約3000の寺院が結集し、智積院を総本山と定めました。
戦後から
終戦後の世相の混乱をのりこえ、徐々にその拡充整備がなされました。昭和41年(1966)には智山派全檀信徒のご浄財を得て、宿泊施設として智積院会館が建設されます。昭和50年(1975)には、宗祖弘法大師ご誕生1200年の記念事業として新金堂を建立し、本尊大日如来の尊像も造顕され、焼失以来の宗団の悲願を達成しました。そして、平成7年(1995)には興教大師850年御遠忌記念事業として、講堂(方丈殿)が再建されました。こうして伝統ある智積院は、いまや真言宗の教えのよりどころとして老若男女を問わず多くの信仰を集め、日々参拝者が絶えません。
智山派の歴史
仏教と真言宗
仏教は、今から2500年ほど前にインドでお釈迦さまが悟りを開かれ仏陀となられたことを出発点としています。ですから仏教とは、その「仏陀の教え」ということになります。またその教えは、修行によって人間の苦しみを解決する教えでもあります。その意味では、仏教とは「仏陀になるための教え」でもあります。インドで生まれた仏教は、やがて中央アジアを通って中国・モンゴルなどに伝わり(北伝仏教)、その後、朝鮮半島を経由して6世紀頃日本に伝来しました。またインドからセイロン(現スリランカ)に伝わった仏教は、11世紀にはビルマ(現ミヤンマー)やタイへ伝わるようになります(南伝仏教)。このように仏教は世界各地へ広がりますが、弘法大師(こうぼうだいし)・空海(くうかい)によって開かれた真言宗は、仏教の中でも特に密教であるといわれます。密教とは「仏さまの秘密の教えを明らかにした教え」という意味ですが、この教えはお釈迦さま在世時代のインドにすでに存在し、それが7世紀ごろに段々と体系化され、8世紀には中国やチベットに伝わったといわれます。そしてこの教えが弘法大師により日本に伝えられ、真言宗となるのです。
真言宗と宗祖・弘法大師
弘法大師・空海(774-835)は、宝亀(ほうき)5年6月15日、現在の香川県善通寺市にお生まれになりました。15歳で都に上り、18歳の時に大学に入学します。大学では中国の哲学、思想を学びますが、やがて立身出世を目的とした大学の学問に疑問を感じるようになりました。そして24歳の時、「仏教こそが最高の教えである」という考えをまとめた『三教指帰(さんごうしいき)』を著すと、山野を巡り修行する出家修行者となり、各地で厳しい修行を重ねました。そしてある夜、大和国久米寺の東塔の下に仏教の究極の教えである密教を説いたお経、『大毘盧遮那成仏神変加持経』(だいびるしゃなじょうぶつじんぺんかじきょう=略称は『大日経』)があることを夢で知り、この地を訪ね『大日経』にめぐりあいました。.しかし『大日経』を読んでもその意味は十分にわからず、かといって、その疑問に答えてくれる師は日本にはいません。そこで師を求め、唐(現在の中国)の都・長安へ留学することを決心したのです。延暦23年(804)7月、31歳のお大師さまは九州長崎の松浦郡田の浦から遣唐使船に乗り長安をめざします。海上での暴風雨、長い陸路の旅など幾多の苦難に遭遇しますが、出帆して半年後、やっと唐の都・長安に到着します。
長安では密教の師を求めて諸寺を歴訪し、ついに正統な密教を受け継ぐ唯一の僧侶、青龍寺(しょうりゅうじ)の恵果阿闍梨(けいかあじゃり)に巡りあいます。恵果阿闍梨は自らが受け継いだすべての教え、そして密教の奥義を余すところなくお大師さまに伝え、ここにお大師さまは密教の正統な後継者となるのでした。すべてを伝えた恵果和尚は「一刻も早く日本に帰り、密教を広め人々を幸福にするように」とお大師さまにすすめます。そこでお大師さまは20年間の留学僧としての勤めを2年足らずで切り上げ帰朝するのです。 帰朝後は、恵果阿闍梨の教えどおり真言宗を立教開宗し、京都の教王護国寺(東寺)、和歌山の高野山を拠点として活躍します。その活動は、宗教活動はもとより、社会活動や文芸活動、書など多岐にわたり、偉大な足跡を残されたのでした。そして承和(じょうわ)2年(835)3月21日、高野山で62歳のご生涯を終え、入定されるのです。
真言宗と中興の祖・興教大師
弘法大師が入定(にゅうじょう)されてから約300年後、高野山が活力を失いつつある時、その状況を憂い、弘法大師の教えを再興するために様々な改革をしたのが、興教大師覚鑁上人(こうぎょうだいしかくばんしょうにん)(1095-1143)です。興教大師は嘉保(かほう)2年(1095)6月17日、現在の佐賀県鹿島市に生まれました。16歳で得度(お坊さんになること)した興教大師は、やがて高野山に上り、大治(だいじ)5年(1126)、弘法大師の教えを学び、議論する学問所、伝法院(でんぼういん)を創建されました。こうして高野山は、多くの学匠の輩出とともに、昔の活気を取り戻していきます。しかし、長承(ちょうしょう)3年(1134)、興教大師が高野山金剛峯寺の座主になると、このような興教大師の改革を良く思わない一部の僧侶の激しい反対にあい騒動が起こるようになります。やがてこの争いは大きくなり、ついに興教大師は座主を降り、保延(ほうえん)6年(1140)、かつて寄進を受けた地、根来山(和歌山県)に移られてしまいます。その後、根来山の整備をすすめますが、根来に移ったその3年後、康治(こうじ)2年(1143)12月12日、49歳で入滅されたのでした。
興教大師覚鑁上人は、弘法大師の教えを再興するとともに、学徒を養成し、後に「新義」といわれる真言宗の教学を確立しました。このため、真言宗中興の祖とお呼びします。真言宗智山派の寺院で、宗祖・弘法大師と中興の祖・興教大師の両祖大師の御尊像をお祀りし、「南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)」、「南無興教大師(なむこうぎょうだいし)」とお唱えするのはそのためです。
真言宗智山派と総本山智積院
私たちの総本山は智積院(ちしゃくいん)といい、京都の東山七条(ひがしやましちじょう)にあります。智積院は足利時代の中頃、興教大師ゆかりの根来山内の寺院の一つとして、長盛法印により創建された寺院でした。
興教大師亡き後の根来山は、学徳に秀でた頼瑜僧正(らいゆそうじょう 1226−1304)により大伝法院(だいでんぼういん)や密厳院(みつごんいん)が高野山から移築されいよいよ発展し、天正(てんしょう 1573〜)年間には坊舎が2000余も立ち並んだといわれ、政治的にも経済的にも大勢力となります。しかし、この勢力に目をつけたのが豊臣秀吉でした。秀吉は、天正13年(1585)、根来山を攻めると、山内の堂塔伽藍を灰燼に帰してしまいます。この時、智積院の能化であった玄宥(げんゆう)僧正は弟子とともに難を逃れますが、安住の地が見つからないまま、智積院再興の志をもちながら各地を流転したのでした。やっと安住の地を得たのはその16年後のこと。 慶長(けいちょう)6年(1601)、徳川家康により現在の京都東山に寺院を寄進され、五百佛山根来寺智積院(いおぶさんねごろじちしゃくいん)を再興したのでした。
智積院は根来時代の伝統を踏まえ、特に「学山」として教学の研鑚や修行などを厳しく行い、また、他宗の僧侶や一般の学徒にも開放された「学問寺」としての性格を持つ寺として、江戸時代には多くの学匠を輩出するようになります。しかし明治時代になると、新政府の神仏分離政策により土地を没収され、また、明治15年(1882)には金堂が焼失するなどの不幸にみまわれます。しかしこれらの困難を乗り越え、明治33年(1900)、真言宗智山派の総本山となったのです。山号を五百佛山(いおぶさん)寺号を根来寺(ねごろじ)といいます。
こうして弘法大師の教えは高野山から興教大師の根来山に、そして智積院へと脈々と伝えられ、現在、智積院は全国3000の末寺を擁する真言宗智山派の総本山であり、檀信徒の皆さまの総菩提所、総祈願所となっています。
私たちの宗団 真言宗智山派
叡智そのものであり、根源の光そのものである大日如来は、太陽の光のようにあらゆる時代、場所にさまざまな姿で現われて、すべての生き物を救うために説法をしています。宇宙間のすべて花鳥風月草木に至るまで大日如来の説法です。そして弘法大師は、本来成仏している自己の発見を「即身成仏」という言葉で表しました。すなわち、密教以外の教えは「三劫成仏」(さんごうじょうぶつ)といい、無限に長い間の修行によらなければ成仏できないとしますが、弘法大師は、この身このまま「即身」に「成仏」が実現するとしました。なぜなら、私たちと大日如来は本来同じであるからです。
ご本尊
大日如来を始めとする曼荼羅(まんだら)諸尊
総本山智積院 金剛界曼荼羅 / 総本山智積院 ご本尊 大日如来 / 総本山智積院 胎蔵界曼荼羅
教え
叡智そのものであり、根源の光そのものである大日如来は、太陽の光のようにあらゆる時代、場所にさまざまな姿で現われて、すべての生き物を救うために説法をしています。宇宙間のすべて花鳥風月草木に至るまで大日如来の説法です。そして弘法大師は、本来成仏している自己の発見を「即身成仏」という言葉で表しました。すなわち密教以外の教えは「三劫成仏」(さんごうじょうぶつ)といい、無限に長い間の修行によらなければ成仏できないとしますが、弘法大師は、この身このまま「即身」に「成仏」が実現するとしました。なぜなら、私たちと大日如来は本来同じであるからです。
根本経典
『大日経(だいにちきょう)』 / 『金剛頂経(こんごうちょうぎょう)』
読誦経典
『般若理趣経(はんにゃりしゅきょう)』 / 『般若心経(はんにゃしんぎょう)』 / 『観音経(かんのんぎょう)』などの経典 / 光明真言(こうみょうしんごん)」などの諸真言・陀羅尼(だらに)他
ご宝号
「南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)」(弘法大師のご宝号) / 「南無興教大師(なむこうぎょうだいし)」(興教大師のご宝号)
詠歌・和讃号
密厳流(密厳流遍照講)
別院
真福寺(しんぷくじ) 東京都港区愛宕 山号:摩尼珠山(まにしゅざん) 院号:寶光院(ほうこういん)
大本山
成田山 新勝寺 成田市成田 / 川崎大師 平間寺 川崎市川崎区大師町 / 高尾山 薬王院 八王子市高尾町
別格本山
高幡山 金剛寺 日野市高幡 / 大須観音 寶生院 名古屋市中区大須
宗立教育機関
大正大学(豊島区西巣鴨) / 智山専修学院(総本山智積院内)
宗内教育機関
成田山勧学院(大本山成田山新勝寺内)  
智積院 2 

 

京都市東山区にある真言宗智山派総本山の寺院である。山号を五百佛山(いおぶさん)、寺号を根来寺(ねごろじ)という。本尊は金剛界大日如来、開基は玄宥である。智山派の大本山寺院としては、千葉県成田市の成田山新勝寺(成田不動)、神奈川県川崎市の川崎大師平間寺及び東京都八王子市の高尾山薬王院がある。寺紋は桔梗紋。
智積院の歴史は複雑で、紀州にあった大伝法院と、豊臣秀吉が、3歳で死去した愛児鶴松のために建てた祥雲寺という2つの寺が関係している。
智積院は、もともと紀州根来山(ねごろさん、現在の和歌山県岩出市)大伝法院(根来寺)の塔頭であった。大伝法院は真言宗の僧覚鑁が大治5年(1130年)、高野山に創建した寺院だが、教義上の対立から覚鑁は高野山を去り、保延6年(1140年)、大伝法院を根来山に移して新義真言宗を打ち立てた。智積院は南北朝時代、この大伝法院の塔頭として、真憲坊長盛という僧が建立したもので、根来山内の学問所であった。
近世に入って、根来山大伝法院は豊臣秀吉と対立し、天正13年(1585年)の根来攻めで、全山炎上した。当時の根来山には2,000もの堂舎があったという。当時、智積院の住職であった玄宥は、根来攻めの始まる前に弟子たちを引きつれて寺を出、高野山に逃れた。玄宥は、新義真言宗の法灯を守るため智積院の再興を志したが、念願がかなわないまま十数年が過ぎた。
関ヶ原の戦いで徳川家康方が勝利した翌年の慶長6年(1601年)、家康は東山の豊国神社(豊臣秀吉が死後「豊国大明神」として祀られた神社)の付属寺院の土地建物を玄宥に与え、智積院はようやく復興した。さらに、三代目住職日誉の代、元和元年(1615年)に豊臣氏が滅び、隣接地にあった豊臣家ゆかりの禅寺・祥雲寺の寺地を与えられてさらに規模を拡大し、山号を現在も根来に名を残す山「五百佛山」、復興後の智積院の寺号を「根来寺」とした。
祥雲寺は、豊臣秀吉が、3歳で死去した愛児鶴松(棄丸)の菩提のため、天正19年(1591年)、妙心寺の僧・南化玄興を開山に招いて建立した寺であった。現在、智積院の所蔵で国宝に指定されている長谷川等伯一派の障壁画は、この祥雲寺の客殿を飾っていたものであった。
この客殿は天和2年(1682年)の火災で全焼しているが、障壁画は大部分が助け出され、現存している。現存の障壁画の一部に不自然な継ぎ目があるのは、火災から救出されて残った画面を継ぎ合わせたためと推定されている。
近代に入って1947年にも火災があり、当時国宝に指定されていた宸殿の障壁画のうち16面が焼失した。この時焼けた講堂は1995年に再建された。講堂再建に先だって、1992年に発掘調査が実施されたが、その結果、祥雲寺客殿の遺構が検出され、日本でも最大規模の壮大な客殿建築であったことがあらためて裏付けられた。  
智積院 3 
1 京都市東山区にある真言宗智山派の総本山。仏頭山と号す。元は和歌山県根来 (ねごろ) 山大伝法院内にあり,学頭坊であった。天正 13 (1585) 年に豊臣秀吉に焼かれたが,慶長5 (1600) 年に徳川家康によって現在地に再建され,大伝法院の玄宥を住職としたので,玄宥が中興の祖とされる。明治になって独立し智山派と称した。大書院などに残る障壁画 (25面) は国宝に指定されている。
2 京都市東山区にある真言宗智山派の総本山。山号は五百仏頂山。南北朝時代、紀州(和歌山県)根来山大伝法院の一院として開かれたが、豊臣秀吉の兵によって焼失。慶長5年(1600)難を逃れた玄宥が徳川家康から寺地を得て中興。大書院に桃山時代障壁画の傑作が残る。
3 京都市東山区にある真言宗智山派の総本山。本尊大日如来。もと根来(ねごろ)の大伝法院の一院で,豊臣秀吉に焼かれたのを徳川家康が現地に再興した。江戸時代には新義真言宗の学問の中心となった。長谷川等伯の《楓図》をはじめ桃山障壁画の傑作が多い。庭園(名勝)は自然の地形を利用した桃山式のもの。
4 京都市東山区にある真言宗智山派の総本山。五百仏頂山と号する。当寺は新義真言宗の拠点紀州根来(ねごろ)寺を再興した寺である。すなわち,根来寺は1585年(天正13)豊臣秀吉により全山が焼討ちにあった。根来大伝法院内学頭坊の能化(のうげ)(住持)だった玄宥は,根来再興を徳川家康に願い出で,秀吉没後の1600年(慶長5),家康から豊国社の坊舎の一部と寺領200石を与えられ,現在地に再興した。これが智積院であり,玄宥は同院中興とされる。
5 京都市東山区にある真言宗智山派の総本山。山号は仏頭山。もと紀伊(和歌山県)根来寺大伝法院の一院であったが、1585年豊臣秀吉に焼かれて京都に移り、1600年徳川家康によって秀吉建立の祥雲寺を下付され、再興された。大書院や庭園、長谷川等伯とその子久蔵の筆になる豪華な障壁画は、桃山文化の代表的なもの。
6 京都市東山区東瓦(ひがしかわら)町にある真言(しんごん)宗智山派の総本山。五百仏頂山(ぶっちょうざん)と号する。本尊は大日如来(だいにちにょらい)。智積院はもと紀州(和歌山県)大伝法院(根来寺(ねごろじ))の一院であったが、1585年(天正13)に豊臣(とよとみ)秀吉の兵により焼失。学頭職(しき)であった玄宥(げんゆう)は難を逃れて京都の北野に布教していたとき徳川家康に根来寺再興を願い出、1600年(慶長5)豊国(とよくに)社の坊舎の一部と寺領200石を与えられた。その後さらに、秀吉が愛児棄丸(すてまる)の菩提(ぼだい)を弔うために建てた祥雲寺を与えられて、玄宥は智積院を再興、中興第1世とされる。以来、諸堂塔がしだいに建立され、多くの優れた学匠が集まった。ことに第7世運敞(うんしょう)は学徳ともに高く、多くの学徒を教導してその門下3000といわれ、また諸堂を造営して寺門が繁栄した。1682年(天和2)金堂、方丈などを焼失したが、第8世信盛(しんせい)は諸堂を復興し、第9世宥鑁(ゆうばん)は伝法大会を再興し、第10世専戒(せんかい)は金堂を再建した。また、第11世覚眼(かくがん)は智山能化(のうけ)として初めて大僧正(だいそうじょう)に任ぜられ、第22世動潮(どうちょう)は講学伝授に努めて智山第一の事相家といわれた。第32世海応(かいおう)は倶舎(くしゃ)学に通じ、第37世信海(しんかい)、第39世隆栄(りゅうえい)も倶舎学の講学に努め、その学門の伝統は智山の性相(しょうそう)学として高く評価された。明治初年に勧学院が炎上し、学寮も荒廃したが、1872年(明治5)豊山長谷寺(ぶざんはせでら)(奈良県)とともに新義真言宗総本山となった。1885年、豊山とともに真言宗新義派を称したが、1900年(明治33)豊山派と分離して智山派を称した。
寺宝   1682年、金堂を焼失、また1947年(昭和22)に宸殿(しんでん)から出火して障壁画16面を焼失したが、いまも豪放華麗な桃山時代の襖絵(ふすまえ)「松に草花図」「桜楓図」「松に梅図」など25面がある。これらは長谷川等伯(はせがわとうはく)はじめ一門の者が描いたとみられ、一括して国宝に指定されている。そのほか、「松に草花図」屏風(びょうぶ)、『金剛経(こんごうきょう)』(中国宋(そう)代、張即之(ちょうそくし)筆)などの国宝、絹本着色「孔雀明王(くじゃくみょうおう)像」、絹本墨画「滝図」などの国重要文化財を蔵する。書院前の庭園は国指定名勝。『山根有三著『智積院』(1964・中央公論美術出版) ▽水尾比呂志著「智積院」(『障壁画全集 第1巻』1966・美術出版社)』 .
7 京都市東山区東瓦町にある真言宗智山派の総本山。山号は五百仏頂山。仏頭山、一乗山とも号する。もと紀伊国(和歌山県)根来(ねごろ)の大伝法院の一院であったが、天正一三年(一五八五)豊臣秀吉の兵火により焼失。慶長五年(一六〇〇)徳川家康が現在地に再興。所蔵する「松に草花図」「桜楓図」「松に梅図」など二五面の襖(ふすま)絵や「松に草花図」屏風(びょうぶ)、張即之筆の金剛経が国宝に指定されている。
8 京都市東山区にある新義真言宗智山派の総本山。豊臣秀吉がその子棄丸 (すてまる) を弔うために建てた祥雲寺のあとに,秀吉に滅ぼされた紀伊根来寺の智積院を,徳川家康の援助で再興した。桃山時代の障壁画の代表作『桜楓 (おうふう) 図』などがある。
9 …また秀吉が愛児棄丸の菩提を弔って1593年(文禄2)に造営した祥雲寺客殿は,天瑞寺にまさる豪壮なものであった。その建物は残らないが,長谷川等伯とその一門による四季の樹木と草花を画題とした金碧障壁画は現在智積院に残り,永徳の巨大樹表現にやまと絵草花図の優美さを加えて,自然への親和の感情を示している。自然美のなかに浄土のイメージを見る日本の伝統的自然観が,現世肯定の時代精神と結びついて,このような単なる室内装飾の域をこえた時代精神の表現となっているのである。… 
 

 

 
 

 

 
金剛山金乗院平間寺 (川崎大師)

 

もろもろの災厄をことごとく消除する厄除大師として、霊験あらたかなことはむかしから有名で、「厄除けのお大師さま」として親しまれ、関東近県はもとより全国から篤い信仰を集めています。総本山は京都東山七条にある智積院。成田山新勝寺(千葉県成田市)、尾山薬王院(東京都八王子市)とともに、真言宗智山派の大本山の寺院です。
御本尊   厄除弘法大師(やくよけこうぼうだいし)
宗派    真言宗 智山派(しんごんしゅう ちさんは)
開創    大治3年(1128)
名称    金剛山 金乗院 平間寺(こんごうさん きんじょういん へいけんじ)
開基/創建功徳主   尊賢上人(そんけんしょうにん)/ 平間兼乗氏(ひらまかねのり)
通称    厄除弘法大師(やくよけこうぼうだいし)または川崎大師
歴史
縁起
今を去る890年前、崇徳天皇の御代、平間兼乗(ひらまかねのり)という武士が、無実の罪により生国尾張を追われ、諸国を流浪したあげく、ようやくこの川崎の地に住みつき、漁猟をなりわいとして、貧しい暮らしを立てていました。兼乗は深く仏法に帰依し、とくに弘法大師を崇信していましたが、わが身の不運な回り合せをかえりみ、また当時42歳の厄年に当たりましたので、日夜厄除けの祈願をつづけていました。
ある夜、ひとりの高僧が、兼乗の夢まくらに立ち、「我むかし唐に在りしころ、わが像を刻み、海上に放ちしことあり。以来未(いま)だ有縁の人を得ず。いま、汝速かに網し、これを供養し、功徳を諸人に及ぼさば、汝が災厄変じて福徳となり、諸願もまた満足すべし」と告げられました。兼乗は海に出て、光り輝いている場所に網を投じますと一躰の木像が引き揚げられました。それは、大師の尊いお像でした。兼乗は随喜してこのお像を浄め、ささやかな草庵をむすんで、朝夕香花を捧げ、供養を怠りませんでした。
その頃、高野山の尊賢上人が諸国遊化の途上たまたま兼乗のもとに立ち寄られ、尊いお像と、これにまつわる霊験奇瑞に感泣し、兼乗と力をあわせ、ここに、大治3年(1128)一寺を建立しました。そして、兼乗の姓・平間をもって平間寺(へいけんじ)と号し、御本尊を厄除弘法大師と称し奉りました。これが、今日の大本山川崎大師平間寺のおこりであります。
法灯をかかげて、悠久ここに890年、御本尊のご誓願宣揚と正法興隆を目指す根本道場として、川崎大師平間寺は、今、十方信徒の心からなる帰依をあつめています。
御本尊弘法大師とご誓願
川崎大師に奉安する御本尊は、弘法大師空海上人の御尊像です。
お大師さまは、今から1,240余年前にご誕生になり、日本に真言密教の教えを広められた偉大な聖人であります。その一生は、国家安穏・済世利人のために不惜身命の努カを尽くされ、様々な方面に大きな足跡を遺されたことから、日本仏教の柱、日本文化の父とも仰がれております。そして、ご入定後 1,180余年の今もなお、私たちの心の、また生活のよりどころとして仰がれ慕われています。
お大師さまの教え(真言密教)は、私たち一人一人の人間が現世の迷いから「心の目」を開き、現実生活の中に仏(目覚めた人間)となることを説かれた「即身成仏」の教えです。お大師さまは、そのご誓願の中で、「我が後生の門徒、たとい我が現相を見ずといえども、我が形相を見るごとに真に我に逢えりと思い、我が教えを聞くごとに真に我が言音を聞くと思わば、我定恵の力を以って摂取して捨てず」と仰せられています。 
法話板 

 

物を観てその人を想う
この言葉は、弘仁十年(八一九)下野国太守からの贈り物に対し、お大師さまがしたためられた礼状の一節です。贈り物をするとき、その人のことを想い温かな気持ちを抱くことができます。贈り物をいただいたとき、贈り主の心遣いに思いを馳せ、感謝の気持ちが湧き上がります。贈り物のような特別な事はもちろん、普段の生活での目くばり、気くばりに気づいたとき、気づかれた時も感謝の気持ち、温かな気持ちが湧いてきます。核家族化や近所付き合いの減少など、人間関係の希薄化が叫ばれて久しい現代。お祝い事や季節のご挨拶等、古くからの慣習さえも薄れてきてしまっている現代。大切な人へ贈る心、思いやる心、大切な人から贈られる心、想われる心は忘れずにいたいものです。
冬の凍春に遇えば即ちそそぎ流る
私たちは人生の中で順調な時、行き詰まる時等、様々な状況を迎えます。特に行き詰まって物事の展望が見えない時、私たちは何とも言えないもどかしさを感じます。何とか乗り越えたいと真剣に考え、努力したとしても、状況を変える事や気持ちを切り替える事が難しい場合もあるでしょう。ただ何かをきっかけに変化が起こり、展望が開けてくることもあります。それは人との出会いや情報かもしれません。また仏さまの教えを学び、祈ることも前に進む一助となるでしょう。これから様々な出会いがあるかと思います。多くのご縁を大切にし、仏さまにお祈りしましょう。
長兄は寛仁を以て衆を調え 幼弟は恭順を以て道を問え 賤貴を謂うことを得ざれ
最近「ハラスメント」という言葉をよく耳にします。「ハラスメント」は「嫌がらせ」・「相手を困らせる」などの意味があります。先日、小学校の教員が同僚に対して酷いイジメをするという事件がありました。未来がある子供達に学問・道徳を教える立場の教員が起こした悲しい出来事です。どのような立場でも、「ハラスメント」を行うことが問題なのです。自分がされて嫌なことは相手にもしてはいけないのです。どんな世界・環境でも、年長者は年少者を導く存在であり、また、導かれる側も年長者の言葉を素直に受け入れられれば、うまくコミュニケーションがとれるでしょう。そこに差別や偏見などを込めてはいけないのです。お大師様は多くの弟子や人々を導いてきました。また、その人々も素直に受け止め仏道を学んだ結果、今私たちにお大師様の教えが伝わっているのです。様々な教え・経験を私たちが未来に伝えていきましょう。
心は境を逐って移る 境閑なるときは即ち心朗なり
先日、仲良さそうに下校する小学生達を見かけました。楽しそうに会話をする中、不意にそのうちの一人が、自動販売機の横に落ちていたペットボトルをゴミ箱に入れました。そして友人達とリサイクルやプラスチックストローについて話し、さらにはゴミ箱(護美箱)を「美しさを護る箱なんだよ」と話していました。私は、この小学生の言葉に感心し、とても晴れやかな気持ちになりました。同時に少しの親切や行動が、環境を整え、心を温めてくれるのだと改めて実感しました。現在、日本をはじめ世界中では海洋投棄や医療廃棄物、最終処分場等、ゴミに関する事だけでも多くの問題を抱えています。どんなに生活が便利でも、ゴミであふれる世界を良い環境と言えるでしょうか。このような問題が一向に改善されなければ、環境だけでなく「心」にも悪影響を及ぼすことでしょう。まさに今、積極的な関心・活動が求められています。次の世代に胸を張れる、そして心の豊かさを育める環境作りに取り組んでいきましょう。
善人の用心は 他を先とし 己を後とす
このところ、自動車の「あおり運転」がニュース等でとりあげられ、大きな問題となっています。日頃からハンドルを握る人はもちろん、車に乗る機会がある人であれば、自分が被害に遭わないかと、不安を抱いたことではないでしょうか。加害者がそのような危険行為に及んでしまう原因は様々でしょうが、どのような理由があったにせよ、許されることではありません。警察庁のホームページにはこの件に関連して、「思いやりの気持ちを持って、ゆずり合いの運転をすることが大切です。」と掲載されています。これは日常生活に置き換えても、同じことが言えます。車を運転する人も、そうでない人も、日頃からゆずり合いの精神で相手を思いやり、「お先にどうぞ」と言える心のゆとりを持ちたいものですね。
三有六途は皆悉く四恩なり
お釈迦さまは、私たちに悟りへの正しい道を示されました。その教えには多くの功徳があります。しかし、伝える人がいなければ世に広まることはありません。歴史を顧みると、インド発祥の仏教は、中国、朝鮮半島を経て日本へ伝わりました。その道のりは、考えただけでも大変長く険しいものです。道中には、山や川、砂漠、海があり、それを乗り越えて行かねばならなかったのです。同様に、お大師さまも遣唐使船に乗り幾多の困難を越えて、密教を日本に持ち帰られたのです。今、私たちがお釈迦さまやお大師さまの教えを学び『般若心経』やご真言をお唱えできるのは、先人たちが強い想いで仏教を伝え広めてくれたおかげなのです。私たちも仏の教えを学び、実践し、伝えていくことでその教えが生きつづけるのです。
孤雲定まれる処無し本より高峰を愛す 人里の日を知らず月を観て青松に臥せり
お大師さまは、大自然と共に生きる生活を理想としていました。このお言葉からも、自然に溶け込み、親しむことを喜びとする気持ちが伝わってきます。また、山中で暮らす楽しさを次のようにも詠まれています。
春の花  秋の菊  笑って我に向かい 暁あかつきの月  朝あしたの風  情塵せいぢんを洗う (情塵とは心の汚れのこと)
古来、自然は、脅威でもあり、恩恵をもたらすものでもありました。台風のように、猛威を振るう途方もない力の場合もあれば、漁労、稲作などに豊かな恵みをもたらすものでもありました。 自然を人間のために利用すると言うよりも、人間が自然に親しみ、敬い、共に力強く生きてきたのです。例えば、日本の言葉には「お月さま」 「お山」 「お花」というように自然に対して親しみの感情を込める場合が多く見受けられます。また、日本の伝統的な庭園では木々や、せせらぎなどを、あるがままに近い状態で取り込んできました。たとい災害に見舞われても、そのつど力強く復興し、治山治水に辛抱強く取り組んできたのです。台風のみならず、集中豪雨、地震や津波など、自然の脅威に絶えず直面する環境の中で私たちは生きています。改めて自然に親しみ、敬い、共存する力強い姿勢を見失わないよう心がけたいものです。
人身受け難し 今既に受く
人間や動物や植物等、生きとし生けるものに等しく与えられる「いのち」 。それは数多の生物が様々に関わり合って連綿と受け継がれてきました。その「いのち」の連鎖の中で、人として生を受けられたことはなんと尊く、ありがたいことでしょうか。本年5月、将来への希望に溢れる小学生の女の子と、海外交流に尽力し、一家の大黒柱だった男性が、突然、理不尽にいのちを奪われ、犯人の男も直後に自らいのちを絶つという痛ましい事件が起きました。私たちは、み仏さまの教えに照らされて、今を生きる喜びを感じ、 皆が尊重されるような社会を作っていかなければなりません。「いのち」を軽んじるような事件が起こらない社会を。
五嶽足を載すれども 迷えること羊の目に似たり
新元号「令和」を迎え、新たな時代となりました。日々、最新技術が開発され続ける「令和」はどのような時代になるのでしょうか。一方で、「昭和・平成」の時代も大きな発展を遂げたことは事実です。その目覚ましいスピードで変化していく時代の中でも変化しない事はあるのでしょうか。これは、仏様とのある会話です。
仏様 あなたがご両親から頂いた最も大切なものは何ですか? / 人間 この家です。 / 仏様 違いませんか? / 人間 お金かな? / 仏様 違います。あなたの、その命です。
つまりこの教えは、命の大切さを考えずに、その人生を温かく豊かなものにすることは出来ないということを説いています。すなわち、どの様に時代が発展しても、すべては頂いた「命」があってこその出来事なのです。今後も未来に向けて、延命医療など様々な最新技術が発明されるでしょう。しかし、それもすべてご両親、更にはご先祖様から受け継いだ「命」あっての技術なのです。「令和」の時代に移ろうとも、本当に大切なもの、その本質を見失うことなく、新しい技術を生かして過ごすことが、その時代の幸せを創り出してくれるのです。
縁に遇うときは すなわち庸愚も大道を庶幾い 教に順ずるときは すなわち凡夫も 賢聖に斉しからんと思う
人は仏の心を持って生まれてきます。しかし、持っているだけでは意味がありません。例えば、花は、種に水を与え太陽の光を浴びせることで綺麗に咲きます。同様に私たちも、持って生まれた仏の心の種に教えという水を与え、その教えを信じ願うという光によって仏の心が開花するのです。自分自身が仏となる種を有していることを知らない人、仏の教えに出会えていない人も多くいます。ありがたいことに私たちは縁あって仏さま、お大師さまの教えに出会うことができました。もし何かに迷ったり、間違いをしてしまった時には、仏さま、お大師さまの教えを信じ願いましょう。そうすることで、自分の中にある仏の心が芽生え花咲くのです。
凡人の心は合蓮華の如く 仏心は満月の如し
桜の蕾が開花に向けて膨らむように、多くの生命が育まれる、あたたかい季節となりました。仏教では、我々の心を蓮華に喩えます。人生の中で、我々は悲しみや怒り、物欲等、多くの煩悩にとらわれます。それはあたかも蓮華が泥にまみれている様です。しかし蓮華は、やがて美しい花を咲かせます。我々誰もが本来は清らかな心を備えているのです。今は煩悩によって愚かな行いを続ける人も、いつか自身の中にある清浄な満月(仏心)に気づくことができるでしょう。その方法の一つとして「月輪観」という修行があります。この修行は仏様と一体となる瞑想で、それにより自身の心が本来清浄な満月のようであると観じることができるのです。春は新しい事を始めるには、ふさわしい季節です。修行の最初の一歩を踏み出してみてはいかがでしょう。
鴻沢に報ぜんと欲するに一の珍奇無し 唯麤衲の袈裟雑宝の手鑢のみ有り 以て丹誠を表す
唐に渡った留学僧空海は密教の秘法を求め、青龍寺の恵果和尚に師事し、和尚より無上の教えを授かりました。空海は和尚より受けた恩を、身を粉にしても応えることは叶わないほど大きいとし、贈り物にふさわしいような宝物は持ち合わせていないが、せめて袈裟と柄香炉を献上することで誠意を示すとしました。3月21日はお大師さまが高野山奥の院に入定された日です。恵果和尚が若き日の空海を教え導いたように、お大師さまは奥の院より今も私たちをお見守り下さっています。みなさまも感謝を込めてお大師さまのご宝号、 「南無大師遍照金剛」(なむだいしへんじょうこんごう)とお唱えいたしましょう。 
 

 

 
 

 

 
成田山新勝寺

 

「成田山のお不動さま」とは
弘法大使空海が一刀三礼の祈りをこめ、自ら敬刻開眼された不動明王
成田山新勝寺の御本尊不動明王は、真言宗の開祖、弘法大師空海が自ら一刀三礼(ひと彫りごとに三度礼拝する)の祈りをこめて敬刻開眼された御尊像です。成田山では、この霊験あらたかな御本尊不動明王の御加護で、千年以上もの間、御護摩の火を絶やすことなく、皆さまの心願成就を祈願してきました。御護摩では、お不動さまの御力と僧侶の祈り、そして皆さまの祈りが一体となり清浄な願いとなって現れます。現在も、「成田山のお不動さま」として数多くの人びとの信仰を集めています。
人々の一切の煩悩と迷いを断ち、すべての人を救うお不動さま
当山の御本尊不動明王は、真言密教の最高仏と位置づけられる大日如来の成り代わった御姿です。お不動さまは、私たちの心の迷い・煩悩を取り除き、全ての人を救うため、忿怒のお顔を示されています。また、ご奉仕をする心の大切さを私たちに教えるため、奴僕の姿になっています。右手に握っておられる利剣は「悟りの智慧」を象徴し、心の迷いを断ち切ってくださいます。そして左手に持っておられる羂索の縄で、煩悩を縛って封じ、正しい教えの道へと導いてくださいます。お不動さまがお座りになる磐石は、全ての人を救うため、あらゆる苦難に耐える決意を表しています。お不動さまの広大無辺の慈悲に感謝して、日々お祈りしましょう。
お不動さまは忿怒の表情で、全ての人を救おうとされます。
1 右手には心のあらゆる迷いを断ち切る利剣を握っています。
2 左手には物事を正しい方へ導くための羂索という縄を持っています。
3 お不動さまがお座りになっている磐石という大きな岩は、堅固な御心を表しています。
4 お不動さまは、あらゆる障害を焼き尽くす火焔を背負っています。
お不動さまの御真言 「祈るところ必ず霊験あり」
御真言とは、インドの古語サンスクリット語で書かれた仏の言葉を音写したものです。弘法大師が、「御真言というものは不思議である。御本尊を観想しながら唱えれば、根源的な無知の闇は除かれる。わずか一字のなかに多くの道理が含まれ、それによって、この身のままに、悟ることができる」と説かれたように、この短い御真言に多くの道理が込められています。成田山では、御護摩祈祷の際、皆さまと共に「不動明王御真言」をお唱えして、心願成就を祈念しております。「祈るところ必ず霊験あり」の目標に向かって一心に努力し、成功を祈願される皆さまには、お不動さまは必ずご利益を授けてくださいます。日々この御真言をお唱えいただき、御霊験をお受けください。
お不動さまの御教え
お不動さまの御教えを日々実践する
成田山ではお不動さまの御教えを「私たちの誓い」として、不動尊信仰者の実践行としています。お不動さまの大慈悲心(いつくしみのみこころ)に感謝し、日常生活へ活かしていくことで歩むべき道を知る事ができます。
ご本尊さまの奴僕の行にしたがい すべての人びとに奉仕いたします。
奴僕とは召使を意味する言葉で、献身的に他者に奉仕する者を指します。お不動さまは、あらゆる人びとを苦しみから悟りの世界へ救い導くために、青黒色の肌をした奴僕の御姿となって、私たちを御加護くださっています。
ご本尊さまの羂索のおさとしにより つくし合いの生活をおくります。
お不動さまは、左手にお持ちになっている羂索という縄で、人びとが悪い方向へ向かいそうな時に、縛り上げてでも正しい道へ導いてくださいます。お互いに助け合う気持ちを大切にしましょう。
ご本尊さまの磐石の決意をもって あらゆる苦難に耐えしのびます。
磐石とは、重い大きな石のこと。お不動さまは、磐石の上にどっしりとお座りになって、全ての人を救い導くという決意を示しています。煩悩に迷うことなく、何事にも屈しない忍耐力を育みなさいという御教えです。
ご本尊さまの燃えさかる火炎のように ひたすら精進努力いたします。
お不動さまは、一瞬たりとも弱まることのない燃えさかる火焔の中に住しています。この御姿を通して、日頃の努力を怠らず、積み重ねていくことで道が開かれることを示しています。
ご本尊さまのゆるぎなきみ心を体し 精神の統一につとめます。
お不動さまの磐石に座す御姿は、悟りを求める心が堅固不動の境地にあることを示しています。自分の力を存分に発揮するために、どのような事が起きても冷静に受け止め、何事にも動ぜず対処できる不動心を身につけましょう。
ご本尊さまの利剣の智慧をもって 正しく判断し、真実の自己にめざめます。
お不動さまの右手の利剣は、物事の善悪を見極める正しい判断を象徴しています。怒り、貪り、愚かさという私たちの心の迷いを断ち切り、真実の自己にめざめるという、深い洞察力を体得しましょう。
ご本尊さまの加持力をいただき 平等の利益にあずかることを祈念いたします。
加持力とは、仏さまが慈悲の心で私たちをお守りくださる力と、それを受けとめようとする私たちの信心を表しています。仏の大慈悲はいかなる時も、私たちに注がれています。仏の慈悲の力と私たちの信心とが相応じあう時、はじめて加持力が発揮されるのです。
成田山のはじまり(開山縁起)
寛朝大僧正かんちょうだいそうじょう 弘法大師こうぼうだいし 空海くうかいみずから開眼した不動明王と共に関東の地へ
平安時代、平将門の乱が起こり 不安と混乱に満ちた世の中
939(天慶2)年関東の武将・平将門が新皇と名乗り朝廷と敵対、平将門の乱が勃発します。乱世の中で人びとは、不安と混乱の中で生活していました。
朱雀天皇の勅命を受けた寛朝大僧正 不動明王の御尊像と共に関東の地へ
寛朝大僧正は、弘法大師空海みずからが敬刻開眼した不動明王を捧持して京の都を出発。大坂から船に乗り、房総半島の尾垂ヶ浜に上陸します。
関東を守る霊場として成田山が開山 「新たに勝つ」新勝寺の寺号を賜る
成田の地にて御護摩祈祷を厳修 結願の日に将門の乱が終息
寛朝大僧正は、成田の地に御尊像を奉安し、御護摩を焚いて乱の21日間戦乱が鎮まるようにと祈願します。祈願最後の日、平将門が敗北して関東の地に再び平和が訪れます。
不動明王のお告げにより、成田の地に留まり人びとを救うため、成田山新勝寺が開山
寛朝大僧正が都へ帰ろうとしたところ、御尊像が磐石のごとく動かず、この地に留まるよう告げます。ここに成田山新勝寺が開山されたのです。
民衆の絶大な信仰を集める
源頼朝、水戸光圀、二宮尊徳、そして市川團十郎 といった多くの著名人が成田山を信仰
歌舞伎役者の市川團十郎丈が成田不動に帰依し成田屋の屋号を名乗り、不動明王が登場する芝居を打ったこともあいまって、成田不動は庶民の信仰を集めました。
今の時代に続く「成田山のお不動さま」への信仰
現代においても、十二代目市川團十郎丈や市川海老蔵丈が成田山の不動明王に深く帰依し、昔と変わらず成田屋の屋号を名乗って、伝統芸能である歌舞伎の技を守り続けています。
寛朝大僧正(かんちょうだいそうじょう)
寛朝大僧正は、宇多天皇の孫にあたります。916(延喜16)年に敦実親王の第二子として生まれ、11歳の時に出家されました。仁和寺・東大寺・西寺の別当、東寺の長者を歴任され、986(寛和2)年に行基菩薩・慈恵大師良源上人に次いで日本で3人目の、真言宗では初の大僧正になられました。また、寛朝大僧正は声明の第一人者でもありました。声明とは仏典に節をつけて唱え、儀式に用いられる伝統音楽です。
成田山の歴史
平安時代
 794 平安遷都
 810 薬子の変
810 弘仁元年 弘法大師、嵯峨天皇の勅願により御本尊不動明王を敬刻開眼
939 天慶二年 寛朝大僧正、朱雀天皇より平将門の乱平定の平和祈願の密勅 / 天国の宝剣を賜り高雄山護摩堂の不動明王を捧持して下総に下る
 939〜941 承平・天慶の乱
940 天慶三年 成田山開山 / 寛朝大僧正、平将門の乱(天慶の乱)平定の平和祈願のため成田公津ヶ原にて護摩供を奉修 / 乱平定後、朱雀天皇より神護新勝寺の寺号を賜り勅願所となる
 1051〜1062 前九年の役
1063 康平六年 源頼義、本堂を再建
1114 天養元年 この頃、文覚上人、那智の滝にて御本尊不動明王の奇瑞を受ける
 1156 保元の乱
 1159 平治の乱
 1180 源頼朝、平氏追討挙兵
1180 治承四年 源頼朝、平家追討を当山に祈願
 1185 壇ノ浦の合戦 平氏滅亡
1188 文治四年 千葉常胤、本堂を再建
室町時代
1336 延元元年 奧之院の板碑成る
    南北朝対立
1544 天文十三年 増上寺の道誉上人、当山にて参籠断食修行して奇瑞を受ける
 1543 鉄砲伝来
1566 永禄九年 寺台城主 海保甲斐守三吉、諸堂を再建
 1568 織田信長が足利義昭を奉じて入京
江戸時代
1636 寛永十三年 照禅上人仁王尊造立、梵鐘鋳造
1649 慶安二年 増上寺の祐天上人、当山にて参籠修行し明智を授かる
 1649 慶安の御触書
1655 明暦元年 本堂を再建する(現薬師堂)
 1657 明暦の大火
1674 延宝二年 水戸黄門徳川光圀参詣
 1685 初代團十郎、荒事を創始
 1687 生類憐みの令
 1689 松尾芭蕉、奥の細道へ
1688 元禄元年 初代市川團十郎、御本尊の霊徳により一子久蔵(二代目團十郎)を授かる
1690 元禄三年 徳川将軍家より秘仏不動明王、二童子を賜る
1700 元禄十三年 照範上人、成田山中興第一世貫首となる
1701 元禄十四年 本堂(現光明堂)を再建 / 鐘楼、弁天堂、山門などの諸堂を建立
 1702 赤穂浪士討ち入り
1703 元禄十六年 江戸深川永代寺にて最初の出開帳 / この間、江戸城三之丸で桂昌院、御本尊に参詣する / 成田山旅宿創設 深川不動堂(東京別院)の端緒
1704 宝永元年 佐倉藩主稲葉正通、出世稲荷の尊像を寄進
1705 宝永二年 佐倉藩主稲葉正通、黒印地囲護台50石を寄進し、寺領となる
1707 宝永四年 京都嵯峨大覚寺直末となり、金剛王院院室兼帯の令旨を受け成田山金剛王院新勝寺と称す / 常法談林の寺格を得る
 1707 宝永の大地震 富士山噴火相次いで起こる
1712 正徳二年 三重塔を建立
 1716 8代将軍吉宗 亭保の改革
 1721 目安箱を設置
 1722 小石川養生所設立
1722 亭保七年 一切経蔵を建立
1732 亭保十七年 清瀧権現堂を建立
1821 文政四年 七代目市川團十郎、金一千両をもって額堂(三升の額堂)を寄進
 1821 伊能忠敬大日本沿海興地全図
1829 文政十二年 二宮尊徳、断食参籠修行 / 客殿再建
1831 天保二年 仁王門を再建
 1832 七代目團十郎歌舞伎十八番判定
1842 天保十三年 天保の改革により七代目團十郎、成田山延命院に寓居
 1841 天保の革命
1853 喜永六年 川越別院を開創
 1853 黒船来航
1858 安政五年 本堂(現釈迦堂)を再建する  
 1860 桜田門外の変
1861 文久元年 第二額堂(現額堂)を建立する
1867 慶応三年 原口照輪上人、中興第十三世貫首となる
 1867 大政奉還
明治・大正
1870 明治三年 横浜別院を開創する
 1871 廃藩置県
1877 明治十年 成田山花園(現成田山公園の前身)を開園
 1877 西南戦争
1879 明治十二年 大覚寺直末を離れ、智積院の直末になる
1881 明治十四年 明治天皇の行幸を仰ぎ、行在所となる
1882 明治十五年 明治天皇の再度の行幸を仰ぐ
 1882 日本銀行営業開始
1883 明治十六年 三池照鳳上人、中興第十四世貫首となる
1885 明治十八年 札幌別院を開創する
 1885 内閣制度発足 初代総理 伊藤博文
1888 明治二十一年 千葉感化院(成田学園)を経営
 1888 会津磐梯山噴火
 1890 教育勅語発布
 1894 日清戦争
1894 明治二十七年 石川照勤上人、中興第十五世貫首となる
1896 明治二十九年 函館別院を開創する
 1897 アメリカ・ハワイ併合条約調印
1898 明治三十一年 成田中学(後の成田高等学校)を開設 / 新義真言宗智山派の別格本山となる
1901 明治三十四年 成田図書館(後の成田山仏教図書館)を開設
 1902 八甲田山雪中行軍
 1904 日露戦争
1905 明治三十八年 成田幼稚園を開設
1908 明治四十一年 成田女学校(後に成田高等女学校)を開設
 1923年 関東大震災
1924 大正十三年 荒木照定上人、中興第十八世貫首となる
昭和
1928 昭和三年 成田山公園を竣工 /  成田山新更会を設立
 1932 満州国建国
1934 昭和九年 大阪別院を開創
1936 昭和十一年 奥殿、内仏殿を建立
 1936 2・26事件
1938 昭和十三年 成田山開基1000年祭記念大開帳を奉修する / 開山堂を再建する
 1939 ノモンハン事件
1946 昭和二十一年 真言宗智山派の大本山となる
 1941〜1945 太平洋戦争
1947 昭和二十二年 成田山霊光館を設立
1950 昭和二十五年 成田山勧学寮(後の勧学院)を開設
1953 昭和二十八年 名古屋別院を開創
1965 昭和四十年 松田照應上人、中興第十九世貫首となる / 三升の額堂焼失 / 福井別院を開創
1967 昭和四十二年 成田高等学校付属中学校を開設
1968 昭和四十三年 大本堂落慶記念大開帳を奉修
1973 昭和四十八年 はぼたん幼稚園を開設 / 成田高等学校付属小学校を開設
1975 昭和五十年 光輪閣落慶記念大開帳を奉修
1980 昭和五十五年 光明堂、釈迦堂、三重塔、仁王門、額堂が国の重要文化財に指定される
1984 昭和五十九年 弘法大師1150年御遠忌 / 平和大塔落慶建立記念大開帳を奉修
1985 昭和六十年 十二代目市川團十郎襲名奉告の御練り参拝
1986 昭和六十一年 鶴見照碩上人、中興第二十世貫首となる
1988 昭和六十三年 成田山開基1050年祭記念大開帳を奉修 /  交通安全祈祷殿を建立 / 成田山仏教図書館・成田山仏教研究所が竣工
平成
1992 平成四年 興教大師850年御遠忌記念大祭を奉修 / 聖徳太子堂を建立 / 成田山書道美術館を竣工 / 成田高校講堂、全天候グラウンド、男子・女子寮を竣工
1994 平成六年 平和大塔建立10周年記念大祭を奉修 / 成田山世界平和宣言を制定
1996 平成八年 先師墓地に慰霊堂を建立
1998 平成十年 成田山開基1060年並びに開山寛朝大僧正1000年御遠忌記念大開帳を奉修 / 真言祖師行状図絵・平成大曼荼羅が完成 / 成田山公園大修復が竣工 / 御本尊上陸聖地整備(浪切り不動尊像建立)
2002 平成十四年 橋本照稔師、中興第二十一世貫首となる
2004 平成十六年 十一代目市川海老蔵襲名奉告の御練り参拝 / 平和大塔建立20周年記念大祭を奉修
2007 平成十九年 総門落慶、総門を建立する
2008 平成二十年 成田山開基1070年祭記念大開帳を奉修
2017 平成二十九年 醫王殿を建立
2018 平成三十年 成田山開基1080年祭記念大開帳を奉修
全国の成田山
真言宗智山派の大本山 不動尊信仰の総府
成田山新勝寺は、真言宗智山派の大本山のひとつで、弘法大師空海が敬刻開眼した不動明王の御尊像を御本尊として開山された不動尊信仰の総府です。古来より、お不動さまの御霊験ご利益りやくは数限りなく、数多の信仰を集めてきました。今日では、毎年1000万人を超えるご参詣者をお迎えしております。全国有数の広大な敷地を誇る境内には、車の祈祷をする交通安全祈祷殿、自然豊かな公園、書道美術館や仏教図書館など多くの施設を有しております。開山以来1070年余、一日も絶えることのない御護摩の火で、皆さまの心願成就をお祈りしています。
総本山 智積院 (京都市東山区東山七条)
大本山 成田山新勝寺    
     川崎大師平間寺 (川崎市川崎区)    
     高尾山薬王院 (八王子市高尾町)
別院
東京別院 (成田山深川不動堂)
川越別院 (成田山本行院)
札幌別院 (成田山新栄寺)
横浜別院 (成田山延命院)
函館別院 (成田山函館寺)
大阪別院 (成田山明王院)
名古屋別院 (成田山大聖寺)
福井別院 (成田山九頭龍寺)
弘法大師と興教大師
真言密教の開祖、弘法大師空海
弘法大師の足跡 弘法大師空海は、宝亀5(774)年現在の香川県善通寺市にお生まれになりました。留学僧として唐(現在の中国)に入国し、青龍寺の恵果和尚より真言密教の教えを授かりました。帰国された後、真言宗を開かれ高野山の開創や東寺での教宣活動のほか、日本初となる庶民のための学校「綜芸院種智院」を創設し、社会活動を積極的に行いました。
成田山とのご縁 成田山の御本尊である不動明王は、真言宗の祖である弘法大師空海が自ら祈りをこめて敬刻開眼された御尊像です。成田山では弘法大師が中国より伝来された真言密教の教えにより、千年以上、御護摩祈祷を続けています。
真言宗中興の祖、興教大師
興教大師の足跡 興教大師覚鑁は、嘉保2(1095)年、現在の佐賀県鹿島市にお生まれになりました。20歳の時に高野山に登られた興教大師は、鳥羽上皇の支援を受けて高野山を整備、弘法大師の教えを再興するとともに、学徒を養成し、「新義」といわれる教学を確立しました。これが真言宗中興の祖と呼ばれるゆえんです。その後、高野山の座主にまでなりますが、権力の争いを避けるため、その座を降り、根来山(和歌山県)に移られます。この地の整備をすすめていましたが、3年後に49歳で入滅されました。
成田山とのご縁 興教大師は高野山から根来に移り真言教学を再興させ、後に真言宗中興の祖と仰がれます。成田山は興教大師の教えを受け継ぐ真言宗智山派の寺院です。
「成田山のお不動さま」と縁の人々
源頼朝 1147〜1198
本格的な武家政権である幕府を開いた武士。源頼朝の祖父である源頼義が、成田山新勝寺の本堂を再建していることから、源氏と当山の関係は深いものがあります。1180(治承4)年、後白河法皇の皇子である以仁王が平氏追討を命じると、源頼朝は挙兵を決意し当山に平家討伐を祈願します。その後、平氏を滅ぼした頼朝は鎌倉幕府を開き、征夷大将軍に任命されます。日本の三大仇討ちの一つである「曽我物語」で有名な曽我兄弟の図が成田山霊光館に所蔵されていますが、この兄弟を捕えて罰したのも源頼朝です。
道誉上人 1515〜1574
徳川家の菩提寺として有名な増上寺の第九世住職。道誉上人が当山で行ったとされる100日に及ぶ断食修行の図が成田山霊光館に所蔵されています。満願成就の日、上人の前にお不動さまが現れ、剣をふるって上人の喉を破るのですが、この日を境に上人は数万の経文を一瞬で暗記できるようになります。この剣は、お不動さまが右手に持つ利剣で、智慧の象徴です。道誉上人は、その後、増上寺の第九世住職になり人々から名僧と慕われました。
海保甲斐守三吉 生年没年不明
江戸時代初期の武将で成田にあった寺台城の城主。海保甲斐守三吉は、諸堂伽藍の建立や絵馬堂の奉納、またかつて白木造りだった当山の2つの仁王像を、所願成就のお礼として、朱塗りにして仁王門に奉安したというほど、非常に信仰の深かった人物です。合戦の最中に刀で刺された海保甲斐守三吉の前に、お不動さまの脇におられる制咤迦童子が現れ、蘇生させたという霊験記が残っています。
徳川光圀 1628〜1700
水戸黄門で有名な徳川御三家の一つ水戸藩の第二代藩主。徳川光圀が房総地方を旅行した際の「甲寅紀行」には、光圀が成田山新勝寺を参詣したという記事があり、御本尊不動明王の御尊像に対して「極めて奇なる」と表現した記載もあります。また、当山中興の祖である照範上人が徳川光圀の子息だったのではないかとする伝承など、水戸藩と当山とが幕末まで非常に親密な関係を続けた理由について、散見する事ができます。
二宮尊徳 1787〜1856
江戸時代後期の思想家、主に農民たちの生活向上につとめた。二宮尊徳は、1787(天明7)年に相模国、現在の小田原市に生まれました。利根川水路の建設工事の立案など、生涯をかけて農業政策に取り組んだ人物です。尊徳は、成田山新勝寺のお不動さまを深く信仰した人物です。世の貧しい人びとを救いたい一心で、当山の21日間に及ぶ断食修行を成就させ、その後、農民たちの生活向上のため、多くの疲弊した農村の復興に寄与しました。
山内容堂 1827〜1872
江戸時代後期の土佐藩主、幕末の四賢侯と呼ばれ活躍した大名。成田のお不動さまを深く信仰した山内容堂公は、毎年1・5・9月に祈願し大護摩を修行い、代理の方を通じてお札を山内家に持参させていました。山内家の家宝の中から大変貴重な多数の能面と能衣装を寄進され、当山で今も宝物として所蔵しております。明治の時代になり病床につかれた際、当山の7日間に及ぶ平癒祈願のご祈祷の結果、快方に向かったという御霊験が伝わっております。
山岡鉄舟 1836〜1888
幕末の三舟と称される明治維新の功労者、無刀流を創始した剣の達人。明治天皇の側近として仕えた山岡鉄舟は、天皇からの信任を厚く受けていました。1882年(明治15年)に明治天皇が、当山に行幸され、ご宿泊された際にも、宮内少輔として随行しました。書家としても第一級であり、今でも成田山の明治天皇行在所の傍室に掲げてある「不動心」と書かれた書は、見る者の心を打つ迫力ある筆跡です。
倉田百三 1891〜1943
大正、昭和初期に活躍した文学者、小説家、評論家。1891(明治24)年に生まれた倉田百三は、若いころから病身で、入退院を繰り返しながら創作活動をつづけます。人気作家になってからも、作った短歌にお不動さまへの熱烈な信仰を吐露しており、病身の肉体的苦痛が大きな悩みになり、救いを求めていた事が窺えます。この悩みに打ち勝つため、百三は病弱な体であえて、21日間の断食水行を行い、その後の超人的な創作活動の原動力を作りました。 
成田山 Q&A

 

御護摩札のおまつりの仕方を教えてください
自宅ではどのような場所が適しているのか、御護摩札と一緒にいただいた御神酒や御供物は、どのようにするのが良いのか、教えてください。
 御護摩札は、お不動さまの尊い御霊徳を宿した御分身です。自宅や事業所におまつりするということは御本尊不動明王をお迎えすることにほかなりません。成田山から離れていても、いつもお不動さまが近くで見守り、御加護くださるのです。お祭りする場所は、ご質問のように仏壇でも、神棚でも構いません。また、お詣りする時に見下ろすことのない清浄な場所など、御護摩札が南か東に向くよう、おまつりください。御護摩札をおまつりしたら、御神酒や御供物、灯明、花、水、香炉などを荘厳します。自宅で用意できるものだけで結構ですので、写真に紹介している例を参考に荘厳してください。お受けになった御護摩札には、あなたのお願い事が込められています。毎日朝に夕に手を合わせ、不動明王御真言や御宝号「南無大日大聖不動明王」を読誦して、お願い事の成就をお祈りください。お不動さまが心願成就を叶かなえてくださいます。心に不安や迷いが生じた時は御護摩札に手を合わせて、お不動さまに安らかな心へと導いていただきましょう。御護摩札は、およそ一年を目安に成田山へ納め、新たな御護摩札をお受けください。また、お願い事が成就した時は、成田山へ参詣して、お不動さまに成就の報告と感謝をお伝えすることをおすすめします。
護摩木って何ですか?
大本堂に「添護摩木のご案内」という看板がありましたが、詳しく教えてください。
 護摩木は、御護摩祈祷で用いる特別な薪のことです。御護摩祈祷とは御本尊不動明王の前に壇を設け、護摩木という薪を焚いて、心願成就を祈念する真言密教の修法です。成田山では、ご参拝の皆さまに、護摩木にお願いごとを書いてお不動さまに捧げる「添護摩木祈願」をおすすめしています。
御火加持(おひかじ)について教えてください
心に期するところがあって御護摩祈願を申し込み、大本堂におまいりしました。その際、多くの方が持ち物を御護摩の炎にあててもらっていました。これはどのようなものなのでしょうか。
 御護摩祈願のとき、御護摩札や御守、おまいりした皆さまの輪袈裟や念珠、バッグ、財布など、身の回りの物を御護摩の炎にあてることを「御火加持」といいます。御護摩は、真言宗の宗祖、弘法大師が日本に伝えられた真言密教の秘法です。大本堂中央の護摩壇にて、ご信徒のお願い事が書かれた「護摩木」という特別な薪を焚き、炎でその願いを清浄な願いとしてお不動さまにお伝えする、祈りの儀式です。御護摩の炎は、私たちの心の迷いや苦しみの原因である煩悩(ぼんのう)を焼き浄め、清浄なさとりの種を芽生えさせてくださる、お不動さまの智慧の象徴です。この智慧の浄火による加持のことを「御火加持」といいます。加持とは、お不動さまの御心を私たちの信仰心で受け止めることによっていただける不思議な力をいいます。弘法大師は、加持について「仏日の影、衆生の心水に現ずるを加と言い、行者の心水よく仏日を感ずるを持と名づく」と説かれました。お不動さまは、太陽の光(仏日)のように降り注ぐ慈悲心で、私たちを御加護くださっています。その慈悲心を「加」といいます。そして、慈悲心を信仰という心のアンテナ(心水)で感じ取ることを「持」といいます。つまり、お不動さまの慈悲心を強い信仰心で感じ取ることで御加護を受けられるということです。「御火加持」を受けるということは、お不動さまの智慧の浄火によって煩悩を焼き浄め、加持のはたらきによってお不動さまの尊い御ご霊徳を宿すということです。これによって、その物が本来、持っている役割を発揮させたり、御加護を受けたりすることができるのです。成田山では毎日、大本堂で御護摩祈願を厳修しています。おまいりの際は、この「御火加持」を受け、お不動さまの御加護をお祈りください。
朝護摩について教えてください
暁天講座の案内にある「朝護摩」について教えてください。
 成田山では、毎日、国土安穏、東日本大震災被災地復興、ご信徒の皆さまのお願い事の成就を願い、大本堂で、御護摩祈願を厳修しています。御護摩祈願の厳修は一日数回に及びますが、そのうち早朝に行われる御護摩祈願を「朝護摩」と呼称しています。時間は、4月〜9月が午前5時30分から、10月〜3月が午前6時から、となっています。どなたでもご自由に大本堂に上がり参詣いただけます。暑さ厳しい7月、8月は、朝護摩にお詣りして、涼気あふれる境内を散策すれば、身も心も爽やかになります。
御護摩札を新しくする時期と古い御護摩札の納め方について
今年の正月に家族で成田山へおまいりして「家内安全」の御護摩札をいただきました。御蔭で、家庭円満に過ごすことができ、お不動さまには大変感謝しております。この御護摩札は、いつ新しい御札に代えればいいのでしょうか。また、古い御札はどうしたらいいでしょうか。
 新しい御札に代えなければならない期日、期間は決まっていません。毎年の初詣の際に、古い御札を納めて新しい御札を受けて帰るというように、概ね一年を目処に新しくしていただければ結構です。初詣の他、正五九詣りや、祇園会、秋詣など、年間に何度も参詣される方の中には、おまいりの度に古い御札を納めて新しい御札を受けられる方もいらっしゃいます。受験や就職試験の合格祈願や心願成就など、お不動さまの御加護によって目標が成就した時には、時期を問わず御礼まいりをして、その御札を納めるのがよいでしょう。古い御札は、その御札を受けたところに納めるのが通例です。それまでの御加護に感謝し、境内の納札所へ古い御札を納めてください。  
絵馬の図柄はいろいろあるの?
成田山にお詣りした時、お不動さまが描かれた絵馬がありました。絵馬には馬が描かれていると思っていましたが、特別なものなのでしょうか?
 絵馬というと、その名前から馬が描かれていると連想しがちですが、実際は様々な図柄の絵馬が存在します。もともとは生きた馬を奉納していましたが、平安時代より馬の絵を額におさめるようになり、その後、祈願の内容により様々な図柄が描かれるようになりました。お不動さまが描かれた絵馬は、お不動さまの御尊像を奉納して開運成就や心願成就を祈るという意味が込められています。
お初まいりについて教えてください
成田山で安産の御守をいただいて、6月10日、無事に赤ちゃんを出産することができました。おかげさまで母子ともに順調に過ごしています。先日、両親から「この子のお初まいりは成田山に行こう」という提案がありました。しかし、初めてのことですので、いつ頃お詣りして、どのようなことをするのかなど、分からないことばかりです。成田山のお初まいりについて、教えてください。
 無事に出産され、母子ともに順調とのこと大変めでたく、ご家族の皆さまもお喜びのことと存じます。日本では、古くから子どもが生まれると命名の儀式「お七夜」に始まり、「お初まいり」や生後百日目を祝う「お食い初め」、「初節句」に「七五三」など、多くの儀式を行います。食料が不足し、医療が未発達であった時代、生まれてきた子どもは、「七つまでは神のうち」と言われ、いつまた神さまの元へ帰ってしまうか分からないと考えられていました。ですから、子どもの健やかな成長への思いは切実であり、節目ごとに成長を祝い、神仏の御加護に感謝してきました。お初まいりは、生後31日から32、3日頃の赤ちゃんが家から出て行う初めてのお祝い事です。古くは、「産土神まいり」と言われ、各家の氏神さまとなっている地元の神社におまいりする儀式でした。しかし、現在では、ご両親やご家族にとって身近な神社仏閣におまいりすることが増えてきています。成田山でも毎年、多くの皆さまが、お初まいりに参詣しています。成田山のお初まいりは、赤ちゃんが御本尊不動明王と御縁を結んで、その御加護により、健やかに成長するよう祈る儀式です。大本堂内のお不動さま御宝前で、はじめに赤ちゃんと参列された皆さまの身体と心をお清めする洒水加持を行い、額に不動明王御印紋を授与する儀式、身体健全と無病息災を祈願する法楽をとり行います(写真)。両家に限らず、親戚や有縁の皆さま、どなたでも堂内にお入りいただけます。どうぞご一緒に参列し、健やかな成長をお祈りください。法楽後、お初まいり祝祷の御護摩札と身代御守を授与します。どちらも御本尊不動明王の御分身です。御護摩札は、ご自宅の仏壇や神棚、あるいは浄らかな場所におまつりして、お子さまの身体健全をお祈りください。また、御守は、いつも御加護いただけるように、お子さまの近くに置いてください。成田山のお初まいりでお不動さまの大いなる御加護をいただき、ご家族皆さまのあたたかい愛情に育まれて、お子さまが健やかに成長されますよう、お祈りいたします。
星供養って何ですか?
毎年2月に母から「思わぬ災難に遭わぬように」と成田山の星供養の紙札が送られてきます。星供養ってなんですか?
 星供養は、弘法大師が日本に伝えられた真言密教の修法で災難消除と招福をお願いするものです。『宿曜経』などの経典によると、私たちの運勢は天体の運行と密接な関係があるとされています。生まれ年により定められる各人の当たり星が年ごとにあり、その星回りで1年の運勢が変わってきます。星供養は、その年のあたり星を供養することにより1年の幸せを祈願するものです。
正五九詣りについて教えてください
 正月、五月、九月に寺院に参詣することを正五九詣りといいます。より良い功徳を得られるとして、多くの方が成田山正五九詣りを続けています。一説によるとこの風習はインドから伝わったもので、正五九月に仏さまが、善悪を視察に来られるという伝承から、僧侶は特に精進して功徳を積むために、さまざまな修行を行ったといいます。一般の仏教徒は、不殺生(生き物を殺さない)、不偸盗(盗みをしない)、不邪淫(みだらな行為をしない)など、八斎戒と呼ばれる八つの戒律を守り、身を慎んで生活することが主でした。これが日本に伝わって寺院への参詣という形になり、正五九詣りとなったのです。正五九詣りをすれば普段の月よりも御利益を得ることができるといわれていますが、そのほかの月に参詣すると御利益が少ないというわけではありません。古くから日本では、年明けの正月には一年の平安を祈り、田植えの五月には豊作を祈り、収穫時期の九月には自然の恵みに感謝を捧げてきました。正五九月は、たくさんの御利益が得られる月というよりも、仏さまへたくさんの祈りを捧げる月なのです。私たちは、安定した生活が続くと、仏さまの御加護や自然の恵みなど、目には見えない大きな恩恵をいただいていることを忘れてしまいがちです。正五九月を迎えましたら、仏さま、大自然、そして、多くの人に支えられて自分が生かされているということを改めて思い返し、感謝と慈しみの心で、すべての生命の幸福を祈りましょう。是非、成田山へ参詣し、大本堂に上がって、御本尊不動明王に熱心な祈りを捧げてください。お不動さまに感謝の心で敬虔な祈りを捧げるならば、いつもよりたくさんの御利益を感じとることができます。そして、お不動さまの御加護のもと心豊かな毎日を送ることができるのです。
成田山喪中の初詣について教えてください
先月、身内に不幸がありました。毎年、成田山に初詣していますが、喪に服している間は、初詣に行ってはいけないと親戚の人から言われました。来年の初詣は控えたほうがよいのでしょうか。
 人が亡くなったとき、近親者が一定の期間、喪に服して、死を悼いたみ、慎つつしむことを「忌中」や「喪中」といいます。現在、とらえられている概念は、神道や仏教の考え方が神仏習合によって一体となって世間に浸透したものが一般的ですが、元来そのとらえ方はまったく違ったものです。日本固有の伝統的宗教観と祭祀を説く神道では人の死を穢けがれと考えます。この穢れを他に及ぼさないように身を祓はらい清めて慎むことを忌中といいます。故に、忌中の間は、神聖なる神社や神棚への参拝、お祭り、お祝い事への参加などを遠慮します。一方、仏教では、人の死は穢れとみなさず、苦しみや迷いといった煩ぼんのう悩から離れた安らかな境地である仏の世界への旅立ちと解釈します。ですから仏教寺院では、故人の御霊に法名や戒を授け、仏の世界へ引導する葬儀や故人を供養する法要を営みます。故人に哀悼の気持ちを表す期間を喪中といいます。その期間は、時代や地域によってさまざまです。明治七年の太政官布告『忌き服令』(昭和二十二年に廃止)では、忌中と喪中の期間をそれぞれ等親ごとに細かく定めています。それによると、父母の忌中が五十日間、喪中が十三カ月間と最長で、いとこ、甥・姪の忌中が三日間、喪中が七日間と最短になっています。仏教では、宗派によって多少の違いがありますが、『梵網経』というお経に説かれる中陰を概ね喪に服する期間としています。中陰の教えでは、人は死後、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道をさまようといい、生前、悪行を重ねた人でも、遺族が七日ごとに追善供養を重ねれば、死者もその功徳を受け、よりよい世界に転生するとされています。遺族は、初七日から四十九日まで七日ごとに故人のための追善供養を営み、最後の四十九日で満願を迎えて、喪が明けます。 誰もが公私ともに忙しい毎日を送る現代では、忌中、喪中の期間が昔よりずいぶんと短縮され、肉親が亡くなった場合でも忌中は初七日まで、喪中は四十九日までというのが一般的になってきました。それでも、喪中の間や死後一年間は、慶事への出席はもちろんのこと、初詣や正月飾り、年賀状の挨拶などといった新年の行事を控えることが、しきたりとして続いています。
「初詣に行ってはいけない」という親戚の方の言葉も、そうしたものに由来しているのでしょう。しかし、成田山の御本尊不動明王は、燃えさかる火炎をもって、私たちの穢れや罪障を浄めてくださいます。すなわち、お不動さまにおまいりすることで、身も心も清浄になるのです。また、お不動さまが亡き人を初七日まで御守護、御導きくださるといいます。むしろ、喪に服している時こそ、亡き人の追善供養のため、お不動さまにおまいりください。成田山の初詣は、お不動さまに年頭の誓いをたて、一年の御加護と幸せを祈願するという大切な年中行事です。亡き人のご冥福を祈り、悲しみを乗り越えて気持ち新たに新年を迎えるためにも、ご遺族一同でお不動さまにおまいりされますことをおすすめいたします。 
なぜ灯明を奉納するのでしょうか
成田山におまいりした際、信徒がろうそくに火をともして奉納する姿を目にして、私も深く考えずに家族の人数分を献灯しました。仏さまに献灯するということは、どのような意味があるのでしょうか。
 仏教発祥の地インドでは、古来、聖者に灯明(とうみょう)をささげることが徳のある行為として尊ばれ、お釈迦さまの説法の際にも多くの灯明が捧げられたといいます。仏前に灯明を捧げるということは、仏さまに帰依(きえ)しその御教えを称え、自らの心に光をいただくという意味があります。これは、太陽の光を浴びて植物が成長するように、仏さまの智慧の光に導かれて、私たちの心も正しく養われることを願うものでもあります。真言密教では、閼伽(あか)〔清らかな水〕、塗香(ずこう)〔身体に塗る香)、華鬘(けまん)〔花〕、焼香(しょうこう)〔焚く香〕、飲食(おんじき)、灯明の六つを仏さまに供養します。それぞれの供養には、六波羅蜜(ろくはらみつ)〔布施(ふせ)、 持戒(じかい)、忍辱(にんにく)、精進(しょうじん)、禅定(ぜんじょう)、智慧(ちえ)〕という仏教の六つの徳目が込められていて、灯明は智慧を表しています。その智慧で心の闇を照らし、正しい道へ導くことを「除闇遍明(じょあんへんみょう)」〔闇を除いて遍あまねく明るくする〕といいます。暗闇の中で灯明をつけた時、その光が周囲を明るく照らし出すように、仏さまの智慧があらゆる人びとの心を等しく照らし導いてくださるのです。また、その光は、貪りや怒り、無知といった煩悩を鎮め、私たちを常に正しい道へと導いてくださいます。
成田山では、大本堂の正面や堂内をはじめ、釈迦堂、光明堂、平和大塔などに献灯台を設置しています。おまいりの際には、どうぞ大本堂の御本尊不動明王をはじめ、各堂の仏菩薩に灯明をお供えして、日々の御加護をお祈りください。なお、本年7月7日から12日まで奉修する成田山祇園会では、期間中特別開扉する奥之院にて御本尊大日如来に献灯することができます。 献灯したろうそくは、祈りを捧げた後、お持ち帰りいただけます。ご自宅の仏壇やお不動さまの御分身御分霊である御護摩札にお供えして、ご家族皆さまの幸せをお祈りください。
薬師如来について教えてください
 薬師如来は、「東方浄瑠璃(じょうるり)界」の教主で、正式には東方薬師瑠璃光如来といい、お薬師さまと呼ばれ親しまれています。阿弥陀如来が「西方極楽浄土」で安らぎを与えてくださるのに対し、薬師如来は、この世の私たちの苦しみを除き、安らぎを与えてくださる現世利益(げんぜりやく)の仏さまとして、遠く飛鳥時代から信仰されてきました。中国唐代の高僧・玄奘三蔵が訳した『薬師瑠璃光如来本願功徳経』によると、お薬師さまは、修行中の菩薩の時、人びとを苦しみから救済するために、十二の誓願を立てられました。第一願光明普照(こうみょうふしょう) 遍く世界を照らし、人びとをさとりに導く第二願随意成弁(ずいいじょうべん)意のままに人びとの事業を成就させる第三願施無尽物(せむじんぶつ)仏の教えに従うものに生活必需品を施す第四願安心大乗(あんじんだいじょう)皆ともに救済される道へと導く第五願具戒清浄(ぐかいしょうじょう)人びとに戒律を与え浄らかな生活を送らせる第六願諸根具足(しょこんぐそく)病気の苦しみを癒やして健全な身体を与える第七願除病安楽(じょびょうあんらく)医薬がきかない病から救済する第八願転女得仏(てんにょとくぶつ)仏道を歩む上で性差別をなくす第九願安心正見(あんじんしょうけん)さとりの妨げとなる煩悩を除き正しい判断ができるようにする第十願苦悩解脱(くのうげだつ)自然災害などこの世の苦しみから人びとを救う第十一願飲食安楽(おんじきあんらく)飢えや渇きからの苦しみから人びとを救う第十二願美衣満足(みえまんぞく)人びとに衣服を施す これら十二の願を成就した結果、さとりを開いて如来となられました。この時、十二誓願の成就を阻止しようとする魔障(苦しみの原因となる誘惑や心の迷い)と戦った十二尊の護法善神が十二神将です。
お薬師さまは、十二誓願のもと、私たちをあらゆる苦しみから救ってくださる仏さまで特に病気を治し心に法薬を与える医薬の仏さまということで深く信仰されてきました。左手に持つ薬壺(上写真)の中には、どのような病気も治す霊薬が入っているといい、人びとの苦しみにあわせて救いの手を差しのべてくださいます。明るい光を放って遍く世界を照らし、人びとをあらゆる苦しみから救ってくださる仏さまが薬師如来です。
お不動さまはなぜ怒っているの?
ほかの仏さまはみな優しいお顔なのに、どうしてお不動さまは怒っているのでしょうか?
 お不動さまの怒りの表情を「忿怒の相(ふんぬのそう)」といいます。お不動さまの怒りのお顔は、子供が良い行いをした時には褒めてあげて、悪い行いをした時には厳しく叱るという、親の愛情にたとえられます。お不動さまは私たちに深い愛情を持って、あえてはげしい怒りの表情をされて、私たちの心の中にある迷いや愚かさを滅ぼし、正しい道へと導いてくださっているのです。
両童子について教えてください
 成田山の境内に奉安してある大きな剣は、お不動さまが右手にお持ちになっている利剣で、さとりの智慧を表しています。また、両側の童子(両童子)は、向かって右側を矜羯羅(こんがら)童子、左側を制多迦(せいたか)童子といいます。生きとし生けるものすべてを救済しようという、お不動さまの誓願に従って私たちを御守護くださる眷属です。矜羯羅童子は、穏やかな顔つきで手に蓮華を持ち、お不動さまの慈悲をあらわしています。矜羯羅は梵語「キンカラ」の音写語で「指示に従って行動する者」という意味です。常にお不動さまの側で「お不動さま、何をいたしましょうか」とお伺いをたてています。制多迦童子は、厳しいお顔で金剛棒を持ち、お不動さまが私たちを救済するためにこうじる方便(手段)をあらわす童子です。制多迦は梵語「チエータカ」の音写語で「召使い」を意味します。お不動さまの奴僕行を体して、手となり足となって私たちを御加護くださいます。矜羯羅童子と制多迦童子の心持ちや果たす役割を要約すれば「堅い信仰心をもってお不動さまに帰依し、慈悲の心をもって人々に奉仕します」となり、他者を利するために働く菩薩行の大切さをお示しになっています。
仏典には、お不動さまの眷属として、矜羯羅、制旺迦を含む三十六尊の童子がいると説かれています。また、その童子一尊一尊には各々一千万尊の童子が付き従っていて、お不動さまのご誓願に従って、日夜休むことなく私たちを御加護くださっているといいます。童子は、お不動さまの衆生救済のご誓願をわが心としています。言い換えれば、お不動さまを信じ、その御教えの実践に励む私たち不動尊信仰者も、童子と同じ存在であるといえましょう。お不動さまに付き従う両童子の御姿を胸にとどめ、お不動さまの眷属の一員であるということを自覚し、他者を思いやる心をもって人々のためになるに行いに励んでまいりましょう。
成田山に響く鐘の音について教えてください
毎日響く鐘の音はどこで鳴らしているのでしょうか?
 大本堂の手前にあります鐘楼(しょうろう)にて朝・昼・夕刻の3回、毎日成田山の僧侶が鐘を撞きます。この鐘楼は1701(元禄14)年に建立されたといわれており、成田市指定文化財に登録されています。鐘本体であります梵鐘(ぼんしょう)は、1636(寛永13)年に鋳造され、その後、戦時中の供出により消失したといわれています。現在の梵鐘は1968(昭和43)年の大本堂建立を記念して人間国宝に認定された香取正彦氏により鋳造されました。 
五色の幕について教えてください。
正月に成田山へおまいりした時、大本堂や各御堂に緑・黄・赤・白・紫のあざやかな五色の幕が掛けられていました。この幕にはどのような意味があるのでしょうか。
 幕の名称は五色幕といいます。基本的に青、黄、赤、白、黒の五色が用いられますが、世界仏教徒会議で決められた国際仏旗のように黒色の代わりに樺色が使われたり、紫色が使われる場合があります。また、青色を緑色で表す場合もあり、成田山の五色幕も、ご質問のように緑色と紫色の入った幕を用いています。五色は、インドの五大(地・水・火・風・空)の思想や中国の五行(木・火・土・金・水)の思想に由来しています。 仏教では一般的に、お釈迦さまの御体や御教えを象徴的に表すものとして次のように解釈されています。青=毛髪の色。心乱れず穏やかな状態の「禅定」を表す黄=身体の色。豊かな姿で確固とした揺るぎない「金剛」を表す赤=血液の色。人びとを救済しようとする慈悲心が止むことのない「精進」を表す白=歯の色。さまざまな悪業や煩悩を浄める「清浄」を表す黒=袈裟の色。侮辱や迫害に怒りを抑えて耐え忍ぶ「忍辱」を表す。
弘法大師が伝えられた真言密教における五色は、五仏、五智、五方などを表すものとして、成田山では御堂の荘厳などにも用いられています。五仏は、大日如来と、その智徳を具体的に表した仏さまである阿閦如来、宝生如来、阿弥陀如来、不空成就如来。五智は、それぞれの仏さまが表す智徳です。五方は、中央と東、西、南、北で五仏が配されている方位になります。このように、真言密教での五色は大日如来そのものを表していますから、大日如来を本地仏とする不動明王であるともいえるのです。成田山では、お不動さまと参詣の皆さまとの御縁が深まるよう、正月や年中行事の時などに五色幕を掛けています。
成田山の豆まきで、「鬼は外」を言わない理由を教えてください
 立秋、立冬それぞれの前日を意味しますが、現在では特に立春の前日(2月3日頃)を指します。古くから節分には鬼が横行して疫病や災厄をもたらすと考えられ、平安時代には朝廷で、鬼を追い払う「追儺」という儀式が行われていました。戦国時代からしばらくの間は衰退しますが、江戸時代に民間の習俗と結びついて復興したといわれています。現在の節分で広く行われているのが、「福は内」「鬼は外」の掛け声に合わせて大豆をまいて、邪を祓い招福を願う豆まきです。しかし、成田山では「福は内」だけで「鬼は外」は唱えません。成田山御本尊不動明王は、広大無辺な慈悲の御心で、この世の生きとし生けるものすべてに等しく救いの手を差し伸べてくださいます。人びとから恐れられる鬼であっても例外ではなく、お不動さまの御加護によって改心し、仏の道へと導かれます。よって、「鬼は外」と唱えることはお不動さまの御心にそぐわないことになりますから、「福は内」とだけ唱えるのです。
成田山の節分会では、御本尊不動明王の御宝前で特別に御加持した大豆と落花生を福豆としてまきます。大豆は、荒地でも生育できる強靱な生命力が邪気を祓うと考えられました。弥生時代に中国大陸から伝来し、肉に匹敵するタンパク源として日本人の命を支えてきました。大豆を食すことで体内の邪を祓い、健康な肉体と生きる力を得ることができます。また、千葉県名産の落花生も、栄養価の高い食物で、さまざまな生活習慣病を予防し、記憶力の増加や血管年齢を若返らせる働きがあるといわれています。福豆に加えて、ご信徒皆さまの一年の平安と福徳を願い、1回の特別追儺豆まき式につき365体の福御守を一緒にまきます。福御守は、お不動さまの持つ利剣をかたどった開運招福の御守です。財布などに入れて、福が訪れるようにお祈りください。特別追儺豆まき式は、11時、13時30分、16時から大本堂前で厳修します。
なお、当日申し込みで参加できる開運豆まきを9時30分、12時30分、15時から大本堂内で行います。参加者には記念品として、芳名を浄書した御護摩札と福御守、福升付きの御福豆を授与します(左写真)。ご希望の方は大本堂ロビーでお申し込みください。福豆と福御守は、境内の各御守受場でもお受けいただけます。また、節分当日に御護摩祈願を受けられた方には、御護摩札と一緒に福豆を授与します。立春を迎えるにあたり、成田山の節分会(32ページに詳細を掲載)に参加して、お不動さまの御加護のもと一年の健康と幸福をお祈りしましょう。
施餓鬼会(せがきえ)について教えてください
今年に入って両親が相次いで亡くなり、夏に新盆を迎えます。先日、お寺から施餓鬼会の案内状がきました。初めてのことですので施餓鬼会とはどのようなものなのか、教えてください。
 施餓鬼会(お施餓鬼、または施食会ともいう)は、文字どおり「餓鬼に施す法会」で、飢えと渇きに苦しんでいる餓鬼に水や食べ物をお供えして供養する法会です。宗派によって異なりますので、成田山の施餓鬼会についてお答えします。成田山においては八月、盂蘭盆会に続いて大施餓鬼会を厳修しています。新盆を迎えた檀徒が参列し、僧侶の読経に合わせて至心に焼香を手向け、亡き人を供養します。また、子どもの成長と御加護を祈る地蔵盆施餓鬼会も厳修しています。
弘法大師が中国から請来した『仏説救抜焔口餓鬼陀羅尼経(ぶっせつぐばつえんくがきだらにきょう)』という経典に施餓鬼の由来が次のように説かれています。お釈迦さまの弟子、阿難が静かな場所で瞑想していると、焔口という餓鬼が現れました。その姿は醜く、身体は枯れ木のように痩せこけ、口の中で火が燃え、喉は針の先のように細く、頭髪は乱れ、爪と歯は長く鋭く、とても恐ろしいものでした。焔口は阿難に「あなたの寿命はあと三日で尽きる。そして餓鬼道に落ちるだろう」と告げました。阿難が「どうしたら、その苦をのがれることができますか」と尋ねると、「明日、無数の餓鬼に多くの食物を与え、私のために三宝(さんぼう・仏、法、僧)に供養すれば、その功徳によってあなたの寿命は延び、私は餓鬼の苦を離れ、天上に生まれ変わることができるだろう」と言いました。阿難は恐れに震えながら、お釈迦さまに「どうしたら、それほどたくさんの食物を用意できますか」と助けを求めました。するとお釈迦さまは、観音さまと阿弥陀さまから授かったという陀羅尼を示し、「この呪文を唱えながら餓鬼に食物を布施すれば、わずかな食物でも、たちまちにたくさんのおいしい食べ物になり、無数の餓鬼を満足させることができるだろう」と教えました。阿難は、この教えに従って餓鬼に食物を布施して三宝を供養し、寿命を延ばすことができました。
餓鬼は、足ることを知らない自分さえ良ければ良いという、飽くなき欲望の持ち主とされています。『仏説救抜焔口餓鬼陀羅尼経』のお話は、施餓鬼の由来とともに、過剰な欲望を戒め、分かち合うことの大切さを知り、布施の心を持つようにという、お釈迦さまの御教えを説いているのです。施餓鬼会では、ご先祖はもちろん、餓鬼だけでなく無縁仏、戦争や災害で犠牲となった方など、あらゆる精霊を供養します。すべての精霊に隔てなく布施を行うことで善根(ぜんこん)を積むことができ、その功徳が先祖に廻って、この上ない供養となるのです。どうぞ施餓鬼会に参列してお釈迦さまの御教えに触れ、助け合いの心をもって尊い功徳を積んで、亡きご両親の仏果増進(ぶっかぞうしん)をお祈りください。
五百羅漢について
成田山釈迦堂の五百羅漢に亡き人の顔を探すと供養になるという話を聞きました。五百羅漢について教えてください。
 羅漢とは阿羅漢の略称で「尊敬される人」や「施しを受けるに値する人」という意味を持ち、主にお釈迦さまの高弟や最高位に達した修行者を指します。お釈迦さまの入滅後、尊い教えを正しく後世に残そうと、各地の阿羅漢が集められて、「結集」と呼ばれる仏典編集が行われました。最初に行われた結集を第一結集といい、その際、五百人の阿羅漢が集まったといわれ、後に五百羅漢と尊称されるようになりました。厳しい修行を積んだ阿羅漢には、さまざまな神通力が備わっていると伝えられ、人びとの信仰を集めるようになったのです。成田山の五百羅漢は、江戸時代末期に建立された旧本堂(現釈迦堂)の建立に際し制作されました。江戸仏師三名工と称された松本良山が狩野一信の下絵を基に彫刻したもので、近世の名作といわれています。表情豊かな五百羅漢の中には、亡き人を思わせる顔立ちの羅漢さまが必ずいるといわれます。そのことから「五百羅漢をお詣りすると亡き人に会える」「供養につながる」という信仰が生まれ、人びとの間に広がっていきました。釈迦堂の五百羅漢に亡き人の面影を偲び、追善供養の祈りを込めてお詣りください。 
 
 

 

 
 

 

 
高尾山薬王院有喜寺

 

高尾山と天狗様
高尾山について
東京中心部から西へ約50キロのところに位置し、江戸時代から信仰の霊山として、また都民、近県の行楽地として広く知られています。標高600メートルの山中には山岳信仰の飯縄大権現を奉る薬王院の諸堂が点在し自然林のなかに深遠な山容を形成しています。紅葉の山、杉の山として親しまれ、鳥や草木の種類が豊富なことで大自然の宝庫といわれています。
豊かな自然に恵まれているのは、高尾山が暖帯系の常緑広葉樹林と温帯系の落葉広葉樹林の境目にあたり植物の種類が多い事。また浄心門の近くに「殺生禁断」の碑があるように、あらゆる殺生を厳しく戒めるなど宗教的に保護され、さらに戦国時代は八王子城を最北の防衛線とする小田原北条氏、江戸時代は徳川幕府によって保護され、明治時代は御料林、戦後は国有林となり、最近では明治の森高尾国定公園に指定されるなど、時の権力者や政府によってさまざまな形で保護されてきました。山頂への手段としては、徒歩かケーブルカー、リフトがあり登山は容易で、年間の登山者は日本一に輝きました。東海自然歩道の東京側起点でもあります。
レストランや観光地の格付けで有名なフランスのミシュランが初の日本版旅行ガイドブックを発行し、山では高尾山が富士山と共に三つ星の観光地として選ばれました。「大都市近郊にもかかわらず豊かな自然に溢れている」ということが理由だそうです。山頂からは東京の素晴らしい眺めを楽しむことができ、天候に恵まれれば富士山を臨むことができます。
高尾山薬王院について
正式名称「高尾山薬王院有喜寺」は今から1260余年前の天平16年(744)に、聖武天皇の勅令により東国鎮守の祈願寺として、高僧行基菩薩により開山されました。薬王院の名は創建当初、薬師如来をご本尊とした事に由来します。現在は真言宗智山派の大本山として「成田山新勝寺」「川崎大師平間寺」「高尾山薬王院」が三大本山として知られております。
南北朝時代の永和年間(1375)には京都醍醐山より俊源大徳が入山し八千枚の護摩供養秘法の後、今のご本尊「飯縄大権現(いづなだいごんげん)」を奉祀し中興されました。戦国期、飯縄大権現は戦国武将の守護神として崇敬され、上杉謙信や武田信玄の兜表にも奉られ、また北条家の手厚い保護も受け江戸期に入ると徳川家(特に紀州家)との仏縁により隆盛をむかえます。
古来、高尾山は修験道のお山といわれております。修験道を修める人のことを山に臥し野に臥しながら修行することから「山伏」と呼ぶようになりました。高尾山には、今もなお「琵琶滝」と「蛇滝」の二つの滝を擁し、滝修業の道場として、一般の方にも門戸を開いております。
高尾山と天狗様
天狗様は飯縄大権現様の眷属(随身)として、除災開運、災厄消除、招福万来など、衆生救済の利益を施す力を持ち、古来より神通力をもつとされ、多くの天狗伝説や天狗信仰があり、神格化されています。この様に高尾山は、飯縄信仰と共に天狗信仰の霊山としても知られております。
また、高尾山は修験道根本道場として知られており、山伏修行が随時行われ、昔は山伏が深山幽谷に籠もって難行苦行を重ね、やがて高尾山の霊気と融合して、呪力、験力を体得して大先達となり、山伏の姿が天狗と同一視されることも多いのであります。
御本尊
御本尊イメージ行基菩薩開山以来「薬師如来」を本尊として奉祀してきた高尾山は、俊源大徳の祈請によって「飯縄大権現」を勧請し、爾来これを本尊として奉安している。
「飯縄大権現」は、その信仰の起こりとしては、信州善光寺の北にそびえる飯綱山、戸隠山一帯に淵源を発する。この地方は善光寺の起こりと共に仏教の歴史も古く、戸隠、飯綱の山岳信仰も古い修験道の歴史を伝えている。
飯綱山は、戸隠山と共に我が国修験道の始祖、役(えん)の行者神変大菩薩(ぎょうじゃじんぺんだいぼさつ)によって山岳修験道場の基礎が開かれた。その後嘉祥三年(八五〇)学問行者が飯綱山から戸隠山に入り、役の行者の跡を再興して、初めて戸隠山の別当職に就き両山を治めた。やがて、戸隠山は天台派修験道の道場として栄え、鎌倉時代初期には延暦寺の末寺となり、一山八十二坊を数えた。一方、真言派の修験の寺も西光寺を中心に、道場を飯綱山方に占めて、次第に勢力を伸ばして行った。
飯綱山は、初め飯綱大明神と称し、天皇足穂命が降臨した所として崇められていたが、天福元年(一二三三)水内郡萩野城主、伊藤兵部太夫忠縄が山頂に飯縄大権現を祀り、修行の後、神通力を得て、百才以上の長寿を得たという。その子、次郎太夫盛縄もこの山に入り修行、霊験を得て妖術「飯縄法(いづなほう)」を編み出し、「千日太夫」を名乗った。以後、子孫が千日太夫を世襲して、この妖術を世に広めた。
「飯縄法」とは、管狐と呼ばれる鼠ほどの小動物を飯綱山から得て、長さ四、五寸の管に入れて養い、常に懐中して、この小動物の霊能を用いて術を行ったという。伝説では、この管狐は著しい霊能力を持ち、変幻出没自在で、予言をなし、人になつき、飼い主には非常な利益をもたらすものと信じられ、恐れられた。
殊に戦国時代の世に武将の間で、優れた妖術として熱い信仰を集め、武田信玄は、飯縄大権現の小像を懐中して、守護神としたと語られ、山形県上杉神社に遺される上杉謙信の兜の前立には、飯縄大権現の尊像が祀られているのである。
元来、飯綱山の麓、長野県上水内郡、下水内郡の辺りでは、飯綱山の残雪を「種蒔き爺(じ)っさ」と視て取って、苗代の籾播きをする慣わしが在り、農耕を司る守護神として山を崇めてきた。
こうして農耕神としてあった飯縄大権現が時代の趨勢に伴って戦神として崇められ、戦国武将の熱い信仰を寄せられた。時代が降って、徳川幕府の天下平定による平和な時代の訪れと共に、「飯縄法」の妖術は「邪教」の烙印を押され、厳しい禁制の下でその使命を終わる事となった。
高尾山もこうした時代背景の下に、戦国武将の移動に導かれるようにして「飯縄大権現奉祀の霊場」としての発展を遂げるのであるが、妖術「飯縄法」が本地仏を勝軍地蔵とするのに対して、高尾山の飯縄大権現は不動明王の変化身であるとして「飯縄不動尊」などと呼ばれた時代もあり、今日でも、不動明王に準じた供養、祈祷が勤められているのである。
薬王院の成り立ち
其の壱 開山行基菩薩、中興の祖、醍醐山 他
   開山行基菩薩
開山行基菩薩法相宗、法興寺(飛鳥寺)の昭道上人の弟子と言われる「行基菩薩」は、師の教えを受け華厳菩薩行を実修実証し、橋を架けたり、溜め池を築いたり、施薬院、施粥庵などを開いて窮乏疾病の人に慈悲を示し、大衆と共に生き、大衆の力を集め、多くの社会事業を興し、仏の教える慈悲の大業を実現された救済の菩薩と崇められ、1250年にも及ぶ時空を超えて、今日に至るまで篤い畏敬を集めている。全国各地に行基開山を伝える寺は数えきれない程であるが、その多くが薬師如来を本尊としている。これは、大仏造立を始め、国分寺、国分尼寺の建立のために全国から多くの人々が徭役に集められ、重い労役に従事した中で、心の支えになったのが行基菩薩の慈悲行であったこと、「医王の目には途に触れて皆楽なり、解寶の人は礦石を寶と見る(弘法大師=般若心経秘鍵)」の喩えのように、慧眼を持った行基菩薩が人材を登用して職能集団を形成していったことが、病苦に対する施薬のように、苦役に従う大衆の救いであった。薬師の子としての出生で薬事に精通していたことなどが要因となって「行基菩薩=薬師如来の応化身」という思想が高まったという。
   中興の祖、俊源大徳
中興の祖、俊源大徳南北朝後期、後円融天皇の永和年間、一休禅師の登場にやや先立つ頃、京、山城の国醍醐山より俊源大徳高尾山に来たり、この地の仏法興隆を祈って、山中の滝に垢漓をとり、炊き谷に庵を結び、不動明王八千枚護摩供秘法という難行に挑み、精進の甲斐あって飯縄大権現を感得せられたのである。
   高尾山の法流
高尾山薬王院に伝えられる真言密教の教えは、師資相承と言って、瓶から瓶に水を移すように(瀉瓶)師僧から弟子へ面授、伝授相承されるという方法で今日に至っている。これが「法流」と呼ばれるのであるが、我が高尾山薬王院の法流は、中興の祖俊源大徳(永和4年=1375=10月4日寂)にまで遡る事が出来る。俊源の師僧は山城の国醍醐山無量壽院の「俊(しゅん)盛(ぜい)」と伝えられ、師の俊盛から俊源に授けられた「清滝権現の印(いん)真(じん)許可書(こかしょ)」(清滝権現を本尊として祈請するときに用いる手印(しゅいん)=印相(いんぞう)と真言=陀羅尼(だらに)を正しく伝えた旨の証明書)が今日まで高尾山文書として遺されている。
   醍醐山
京都市伏見区醍醐町に位置する真言宗醍醐派の総本山である。醍醐山、醍醐寺は一山の総称で、三寶院門跡を主院とする。清和天皇の貞観16年(874)弘法大師空海上人の法孫、小野流始祖「聖(しょう)寶(ぼう)理源(りげん)大師(だいし)」の開基に拠る。清和、醍醐、村上の三帝相次いでこの寺の興隆に力を注ぎ、皇族の尊信篤く、降って永久3年(1115)三寶院が建立され、康治2年(1143)鳥羽法皇詔(みことのり)してこれを御願寺(ぎょがんじ)と定められるや、これより伝法の巨匠碩徳続出し、山下に金剛王院(聖賢)・理性院(賢覚)・無量壽院〔松橋〕(元海)・山上に報恩院(成賢)・地蔵院(道教)が興り、それぞれ一派の法流を樹立し、三寶院流と併せて醍醐六流と言われる伝法の流派が成立した。こうして三寶院・理性院・報恩院・無量壽院・金剛王院の五箇院は皆門跡に列せられ、世に醍醐五門跡と称せられた。
特に足利尊氏、豊臣秀吉の尊信は篤く、尊氏は、南北朝の争いに頽廃した伽藍を六万石の食邑をもって再興に充て、秀吉は、應仁・文明の乱に荒廃した堂塔伽藍を再建造営し、聚楽第の庭石を移して林泉を構築、「醍醐の花見」と語り伝えられるように一山の美観を整え、以来明治維新に至るまで皇族公卿歴代董席して門跡となり、山上には八十余りの坊舎周備し、山下には四十九箇院がそびえ立ち、法流の本所、勅願の道場としてその盛観を持続し、寺領三千九百余石、山林四百余町、末寺四千箇寺を領有して来た。
   八千枚護摩供
高尾山中興の祖、俊源大徳は「不動明王八千枚護摩供」と言う秘法をもって「飯縄大権現」を感得し、その霊異をもって中興の偉業を成し遂げたと伝えられる。この「八千枚護摩供」とは、不空三蔵訳の「立印軌」即ち「金剛手光明灌頂経最勝立印聖無動尊大威怒王念誦儀軌法品」に典拠が求められる。曰く、
「復た無比力の聖者無動心、能く一切の事業を成辦する法門を説く、菜食して念誦を作し、数、十萬遍を満ぜよ、断食すると一昼夜、方に大供養を設けて、護摩の事業を作せ。應に苦練木を以て、両の頭を酥にさして焼くべし、八千枚を限りとす。己に初行満ずることを成せば、心に願い求むる所の者、皆悉く成就することを得。発言咸く意に随い、攝召する所即ち至る。験法の成ぜんとする者は、能く樹枝を摧折し、能く飛鳥を堕落し、河水を能く竭せしめ、陂池を枯渇せしめ、能く水を逆流せしめ、能く山を移し及び動ぜしめ、諸の外道の呪術力を制止して行わざらしむ」
かしき谷園地 この行法は実に厳しい大法であり、今日に伝えられる最も簡潔な次第においても、前行として、斎食二七日間、一日三座の五段護摩、正行として、菜食一七日間には、一日三座の五段護摩、都合十萬遍の真言念誦、結願の日は断食で、一座の護摩に八千枚の乳(にゅう)木(ぼく)を焼き尽くす、という内容を課している。殊に前行については行者の機根に随うとして、一千日、一百日、七七日、五七日、三七日の間などと記され、特に室町時代後期には一千日の前行護摩供が実際に行じられていた。さらに、一日三度の入道場の折には身器を浄め、気力を養うために沐浴を欠かす事が出来ないと言うのである。勇猛(ゆうみょう)精進(しょうじん)の師、俊源大徳が蛇滝、或は琵琶滝に斎戒沐浴し、八千枚の護摩供秘法を修したと言うのは、こうした事である。これより、高尾山においては「八千枚護摩供」がひとつの法流として伝法され、江戸時代に紀州徳川家の求めに応じて「八千枚護摩供」が勤修されていた事が、薬王院に残される「紀州家文書」によって知る事が出来る。
其の弐 外護の勢力、伽藍の造営
   外護の勢力
「飯縄大権現様は不動明王の所変にして、慈悲救生の霊尊なり、諸障衆魔を祓い、所願速成を示し給い、如意満足を与え給う」と室町時代末期より戦国の時代に入り、武甲の境界近く要衝を成す高尾山は、多くの武将の信仰を集めると共に、進出の目標となった。特に小田原の後北条氏の尊信は篤いものがあった。「北条記」(巻六)によれば、
「駿河富士山は 甲州 駿河 豆州三ヶ国の境に有 半は甲州 半は駿河 少し伊豆国に懸り 駿河大宮の浅間を表とし 甲州吉田の浅間を裏とす 諸国の参詣此の二国を第一とす 然るに此五十余年 甲州武州乱国と成 国境に関をすへ 彼山に参詣の路塞がりければ 渡世すべき様なくて 色々工夫をめくらし 武蔵国八王子に高尾山とて山あり 行基菩薩開山の薬師如来本尊也是へ富士山の浅間大菩薩を勧請し奉る 吉田の禰宜とも悉く武州八王子へ移り 富士浅間高尾山へとび給ふ由を披露す 奥常陸 出羽 上野下野 上総 安房より 多年関所に被支て 参詣さぜりし道者共 是を聞きて悉く参詣し 八王子高尾山忽ち繁昌す」
とある。高尾山奥之院裏の「浅間社」の濫觴(らんしょう)である。天文年間に北条氏康によって富士山信仰と高尾山が結び付けられているのである。この事は、後に江戸時代の富士講の隆盛と共に高尾山が大きな発展を遂げる要因となっている。更に氏康は、永禄三年(一五六〇)十二月二十八日付の寄進状を残している。
「為高尾山薬師堂修理 於武州一所寄進可申候 不断勤行本意祈念可有之者也仍如件。  永禄三年十二月二十八日 氏康(花押)」
これは、山内の薬師堂の修理資金としての寺領地の寄進状である。この年五月、古河(こが)公方(くぼう)足利晴氏の没後、相続が紛糾し、長尾影虎(上杉謙信)は翌四年二月、厩橋城から小田原北条氏を攻撃するに当たり、高尾山周辺の小仏谷・椚田谷・案内谷に制札を出して、「関・越・斐諸軍勢濫妨狼藉堅く之を停止」または「甲乙人等濫妨狼藉の事、右に至り違犯輩者罪科に処すべき」と、高尾山の霊域に対して軍勢の乱暴を禁じて、戦火の及ぶ事を恐れたのである。その後、失地を回復した北条氏康・氏照親子は、再び永禄十二年(一五六九)十月、甲斐の武田信玄の攻撃を受け、山麓に、居城に、合戦を展開(廿里(とどり)、滝山の合戦)。これを打ち破り、戦勝の御礼に元亀元年(一五七〇)三月、「唐銅製五重の塔」を寄進している。これは後に江戸時代、享保二年正月大風の災害に遭い倒壊し失われた。氏康の二男、八王子城主北条氏照は、父の篤い信仰を受け継いで、高尾山の外護に力を尽くしている。天正三年(1575)三月二日の寄進状は、「於椚田三千疋寄進申可被抽精誠事肝要候恐々敬白     三月二日  氏照  高尾山」 とあり、この寺領地に付いては、先の氏康の「武州一所」を高尾山領地として確定したものであり、後の江戸幕府にも引き継がれ朱印地として安堵され、明治維新に至るまでの高尾山の基盤を成したのである。更に同年十一月二十一日付けの制札に、「右就干被開当山本尊之御戸貴賎上下参詣之輩於彼堂場押買狼藉喧嘩口論等之横合被停止畢令違背之族任大法可処罪科状仍如件 天正三年乙亥霜月廿一日 氏照(花押)」
これは、高尾山御本尊の御開帳の折、山内の違法行為を細かく規制した制札である。また、豊臣秀吉の小田原攻撃が切迫した天正十八年二月、「制札 八王子御根小屋ニ候之間 自薬師山内之竹木きるニ付而ハ可為曲事旨 其時分被仰付之処ニことごとく山をきり候自今日して竹木之儀ハ不申及 下草成共かく二付而ハ 従類共にくびを可被為切 見合ニからめとり滝山へ可為引たきぎをばむさし野へ罷出 可取之旨被仰出者也 仍如件 寅(=天正十八年)二月十日(朱印)薬師山別当」 として、高尾山の山林を厳しく保護して八王子城の防備を図っているが、これは高尾山に寄せる篤い信仰と共に、後々まで高尾山の山林に対する統治者の姿勢として継承され、寺域の尊厳を育んで来たのである。
天正十八年(一五九〇)六月二十三日堅塁を誇った八王子城が豊臣方の激しい包囲攻撃の中に落城した。これによって小田原城に篭城していた北条軍は大きな衝撃の内に十日後には開城を決意、七月五日城を出て降伏、氏照は兄氏政と共に十一日自決して果てたのである。年令五十一才であった。同年八月一日徳川家康の関東入り、江戸城入城を迎えて、八王子城は廃城となり、八王子横山十五宿に中心を移し、小門(おかど)陣屋(じんや)に於て八王子千人同心と関東十八代官による支配が行われた。徳川氏の八王子周辺支配の基礎を固めたのは代官頭大久保長安である。「高尾山八王子近辺に候間 誰人成共みだりに竹木切取候ハハ 前々より法度の地に候間 八王子へめしつれられべき者也」 とあり、徳川氏関東入国後の八王子周辺の支配は、八王子総奉行大久保長安によって北条氏康・氏照の政策が引き継がれる形で展開されたと言える。
高尾山薬王院有喜寺の寺領地については、「武蔵名勝図絵」によれば、「往昔、北条氏康より境内七十五石余寄付ありて、その後また氏照より七十五石椚田村に於て寄付、合わせ百五十石の寺領なりけるが、天正十八年(一五九〇)北条氏終に滅亡ありて、地方(じかた)七十五石は上地(あがりち)となり、その後、慶安年中(一六四八〜五二)改めて御朱印を賜い、境内山林七十五石‥‥‥」 とある。代官頭伊奈熊蔵忠次・大久保十兵衛長安・彦坂小刑部元正等によって領国一帯の検地が実施され、改めて朱印状を下付して、没収した寺領を安堵している。先の氏康の「武州一所」は、七十五貫文。氏照の「椚田三千疋」は、一疋が二十五文に当る銭の単位であるから、三千疋とは七十五貫文に当る。都合百五十貫文ということになるが、正保四年(一五四七)三月十五日八王子代官岡上甚石衛門景親の書状によれば、「武州高尾山薬王院山林前々より持来り候、先規には山林を高拾五貫に結び、地方拾五貫、合三拾貫、北城(条)家より付置候、御入国依頼、地方は上がり、山林は今に持来り候罷成儀ニ御座候者、山林之分此度御朱印罷出候様二仰せ奉り候」 とある。その結果、「当院領武蔵国多麻(摩)郡横山庄椚田村之内、高尾山境内七十五石事、任先規寄付之訖、全可収納併山林・竹木・諸役等免除有来、永可有相違者也 仍如件 慶安元年(一六四八)八月十七日 薬王院」 として、徳川氏の関東入国以来、約六十年を経て七十五石の朱印状が与えられたのである。この事は、逆に中世以来の高尾山の寺勢と伝統が、徳川氏の領内への介入を許さなかったと見てよいであろう。ともあれ、七十五石の広大な朱印地は、実に高尾山薬王院が関東に屈指の名刹であった事を示している。
   伽藍の造営
徳川氏の関東支配も三代家光の世になると江戸の町の経営も愈々盛んになり、庶民の暮らしにも活気が出てきた。高尾山も多くの人々の参詣を受け賑わいを見せ、寛永年間、中興第十世堯秀が薬師堂・大日堂・護摩堂・仁王門などの四堂宇を建立して境内の整備に力を尽くしている。薬師堂も大日堂も北条時代の再建であるが、薬師堂は仁王門と共に延宝五年焼失している。大日堂は間口三間、奥行三間、宝形造りの芧葺であり、現在の大師堂がこれで、護摩堂は、ほぼ同様の結構で、現在の奥之院不動堂がこれに当る。鐘楼は二間四方の芧葺きで、梵鐘は経が三尺、高さが五尺で、鐘銘には、「…寛永八年襲集未秋九月、住持沙門法印堯秀」 かくして高尾山は隆盛期を迎え、九世源恵・十一世祐清の代には「盗賊耳付きの板」・「寺法七度(ななたび)返(がえ)りの刀」等の伝説が伝えられている。醍醐山無量寿院松橋の法流を汲む高尾山薬王院は、第十三世賢俊の元禄十五年(一七〇二)学山智積院の教学論議の流れを汲んで、「智山(ちざん)常(じょう)法談(ほうだん)林(りん)」として多摩地方に於ける学法(がくほう)灌頂(かんぢょう)道場(どうじょう)という、謂わば仏教研修センターに定められたのである。享保十四・十五年(一七二九〜三〇)に掛けては、十六世秀憲によって飯縄権現堂が建立され、元文三年(一七三八)には飯縄大権現の出開帳(でかいちょう)が江戸の町で行われ、次いで宝暦三年(一七五三)第十七世秀興によって飯縄権現堂の拝殿、弊殿が再建され、更に安永年間(一七七二〜八〇)書院、庫裏が建立されている。
其の参 高尾山と富士山信仰
   高尾山と富士山信仰
先に北条氏康によって天文年間(一五三二〜一五五四)高尾山に富士浅間(せんげん)大菩薩(だいぼさつ)が勧請された事を記した。現在、奥之院不動堂(明治中期、旧薬師堂脇の護摩堂を移築)の裏に奉安される富士浅間社がこれである。今の社殿は大正十五年に再建されたものであるが、この小社こそかつての高尾山奥之院そのものであったと伝えられる。山内の伝承によれば、山頂を過ぎて紅葉台、一丁平に至る手前南側に「富士見台」と呼ばれる小さな頂があり、かつてここに一つの御堂が構えられ、拝殿の奥の扉が開かれると御神体の富士山が一幅の絵のように拝されたという。今日でも奥之院から山頂に向かう道筋を「富士道」と言い習わしているのである。往時は、この道筋を白装束の富士道者の一行がチリン、チリンと腰の鈴を鳴らしながら賑やかに行き交うのが夏の風物詩であったという。さて、「北条記」の記述に戻れば、富士浅間社の高尾山勧請に伴って富士吉田の「禰宜(ねぎ)(御師)達が悉く武州八王子に移り…」とある。俊源大徳の中興以来醍醐山三寶院の当山派(とうざんは)真言修験道の法流を汲む高尾山に、修験開祖神変大菩薩と縁の深い富士浅間大菩薩が祀られる事となったのである。ここに登場の禰宜等は、高尾山修験先達集団と渾然となって、高尾山参詣と富士詣でとを広めていった事と推察される。
江戸時代になって関東の修験道勢力は、幕府の強大な力を背景に、日光男体山を主な行場とする天台本山派(ほんざんは)の二荒山(ふたらさん)修験に収斂(しゅうれん)されて行く中で、高尾山修験道が関東地方には珍しく孤高を保ち、当山派真言修験の旗幟を護って来た要因として、隣国相模の国御岳大山、雨降山大山寺不動寺の修験行者との往来と共に、この富士山修験道の勢力を無視する事が出来ない。
江戸時代中期以後に「江戸八百講」と謳われる繁栄を示す富士講は、永禄三年(一五六〇)庚申の御縁年、修験行者長谷川武邦が富士山麓に修行の場を求め来り、人穴に籠もり千日の立行を成就して「角(かく)行(ぎょう)東覚(とうかく)」を名乗り、「おふせぎ」という守札を書き、「御身抜(おみぬき)」という創作文字を以て書いた掛け軸を信徒に与え、病気災難を払うという呪術を行とし、多くの教義を創り伝えて、正保三年(一六四六)百六才の長寿を全うするまで、人穴に住み富士登山を行い各地を行脚した。角行を開祖とする富士信仰は江戸に根を下ろし、約六十年後、享保年間(一七一六)二人の偉大な行者を生み出す。一方は「大名(村上)光晴」、もう一方は「乞食(食(じき)行(ぎょう))身(み)禄(ろく)」と呼ばれる対照的な二人であった。
村上光晴は諸大名、豪商などの裕福な檀(だん)越(のつ)を抱え、北口浅間神社の社殿が大破した際、一人の力で資金を勧化(かんげ)し、今日の諸社殿を新築する大工事を成就している。
食行身禄は一介の油の行商人である。江戸町人のただ中にあって庶民感情に通じ、若くして修行に入った身禄は、世の中を冷静に観察する眼力を養っていた。幕府の経済政策の失策から享保十八年(一七三三)一月二十六日に起こった米騒動を深く憂いて、悲しみと怒りをもって庶民救済、世直しを祈念して、享保十八年六月十三日、富士山吉田口七合五勺の烏帽子岩(えぼしいわ)の岩穴に入って断食行を始め、七月十三日に入滅する。定(じょう)に入って一ヵ月間、食行身禄は吉田御師田辺十郎右衛門の世話を受けつつ、「お決定(けつじょう)の巻」・「御添書之巻(おそえがきのまき)」・「三十一日乃御伝」の三巻の書物を口述している。庶民の立場からの透徹した世界観を打ち立てたこれらの書物は、武家政治を厳しく批判し、四民平等の思想を謳い、中庸を得た内容で、江戸の町民を引き付けて、爆発的な富士講の隆盛発展の糧となった。
富士山道中の道筋の取り方は、江戸を中心に、埼玉、千葉、神奈川から八王子に出て高尾山に参拝、小仏峠を越えて甲斐路を辿り、大月、都留、吉田に入り北口浅間神社に詣で、登山、頂上のお鉢を巡り、須走口、御殿場口へ下り、足柄峠を越えて、最乗寺へ道了尊詣で、更に簑毛から雨降山に登り石尊権現に詣で、下って大山寺不動尊に詣で、厚木、上鶴間を経て府中、あるいは世田谷に通じる大山街道を、または、伊勢原から藤沢に道を取り東海道を登り江戸に帰るのが主だった道筋であったようだ。
この道中に於て、我が高尾山は富士山の「前立ち」、大山が「後立ち」であるとする信仰が在ったと伝えられる。高尾山浅間社から富士道を通って小仏峠に至ると、「身禄茶屋」(現小仏茶屋)と呼ばれる茶屋があり、食行身禄行者の木像と身禄が用いた笠が宝物として安置されていた。像は体長十五センチ。宝殿造りの厨子に収められ、側面には「天保辛卯(二)年(一八三一)六月二十二日 千住天王前 先達家根屋松三郎」と記される。小仏村の谷合家に移されていたが、昭和八年身禄二百年忌に、練馬区江古田の祓講(はらいこう)が譲り受け、同地小竹町の浅間神社に納められ、茶屋の幟(のぼり)と共に現存する。
昭和四年、高尾山の本坊、客殿が焼失するまで、毎年夏の訪れと共に多くの富士道者の集団が次々と登山して、「蟻の熊野詣で」もかくやと思われる事だったと語り伝えられている。いずれにせよ、近世高尾山の興隆発展は、富士山信仰との深い縁に導かれての事であった事は銘記して置くべきであろう。こうした縁で、高尾山修験道の修行団体「高尾山秀峰会」は、「富士山登拝修行」を年中行事として八年目を迎える。富士吉田の食行身禄ゆかりの御師の宿を足場に北口本宮浅間神社の開山祭に参列。翌早朝、広大な裾野を一歩一歩山頂を目指す登拝(とはい)禅定(ぜんじょう)は、正しく世間の垢をすっかり洗い浄める「慚愧(ざんぎ)懺悔(さんげつ)六根(ろっこん)清浄(しょじょう)」の修行である。
其の四 高尾山紀州家文書、明治維新の嵐
   高尾山紀州家文書
高尾山古文書の中に、紀州徳川家から寄せられた書状が相当数存在する。これらは徳川幕府第八代将軍紀伊大納言吉宗がその職に就いた享保元年(一七一六)〜延享二年(一七四五)を機に交渉が始まっている。徳川幕府の治世も爛熟期を迎え、町人文化の発展、経済活動の活性化と目まぐるしい難問山積の中で、享保の改革という政治、経済改革を推し進めるに当り高尾山御本尊飯縄大権現の加護が期待され、しばしば「八千枚護摩」の大法を依頼され、大願を懸けているのである。
元文二年(一七三七)五月には、竹姫から浮月院比丘尼が遣わされ、「葵紋緞子水引」が寄進され、翌年には、記録の上では初めて江戸の町に、飯縄大権現の出開帳が行われている。更に元文五年(一七四〇)十二月、将軍家北の政所一位大夫人から「葵紋白地幸菱戸帳」「葵紋紺地綿銀杏葉牡丹織水引」が奉納されている。降って、宝暦三年(一七五三)御本社飯縄権現堂の拝殿、弊殿が四天王流の棟梁、須永織江源信安によって再建されており、宝暦五年二月には、紀伊徳川家宗直より「葵紋紺地金襴戸帳」「葵紋紺地綿水引」「葵紋提灯」などが奉納されている。
高尾山中興十五世賢秀・十六世秀憲・十七世秀興の代の事である。先の富士講における庶民信仰と紀州徳川家の篤い外護といい、江戸時代中期の高尾山は目覚ましい発展を遂げた。
安永年間に至って書院、庫裏が造営され、寛政年間には山内塔頭の浄土院が建立されて、同三年(一七九一)三月十五日飯縄大権現は、江戸湯島天神で六十日間に及ぶ出開帳を催している。八年には、唐銅寶筐印塔(ほうきょういんとう)が荏原郡甲賀村飯田氏によって奉納され、十年には、当山十八世秀神の代となり、御本堂、奥之院、黒門、山麓の高尾山一之華表、御本社前の高尾山二之華表などが建立されている。
文化二年(一八〇五)江戸赤坂の油屋清八の寄進によって権現堂が再建され、この時に現在の権現造りの結構が完成されたものと推察される。清八は文化九年にも北条氏康の唐堂五重塔を再建し、自宅の赤坂から内藤新宿を通って甲州街道を下る尾参拝の道筋に一里塚を建て、江戸町民の参拝の道標とした。油屋を名乗っているが、当時屈指の豪商で、富士信仰に篤い人だったのか、身禄行者の職に肖(あやか)ってそう名乗ったとの言い伝えが残っている。
幕末期は、火災、台風に相次いで見舞われ、その都度出開帳を催し広く江戸町民の浄財を仰いで再建の事を図っている。高尾山は、多摩、相模の平野に面していきなり立ち上がった山塊を成しているために風雨の災害を受ける事が多い。その都度復興に多くの経費を費やす事となるが、北条氏康の「薬師堂修理のため…」の寺領寄進は、これを援助するためのものである。忘れた頃にやって来る天災の備えとして、建築用材確保の為の山林経営は高尾山の護持の上で必須の作業(ざごう)であった。これを支えて来たのが心願成就御礼の「お杉苗奉納」の御信助である。
奉納杉苗の事と言えば、特筆すべきは「江川杉」の事がある。高尾山頂から北西に走る山稜一帯に樹齢百三十年を越える植栽林が広がる。これが「江川杉」と呼ばれるのであるが、天領伊豆韮山代官、韮山反射炉、江川屋敷等で有名な「江川太郎左衛門」が、元禄十三年(一七〇〇)頃、天領武州多摩秋山郷支配の代官を勤めている。江戸幕府の直参として銃砲火薬類の製造管理を受け持つ江川家は、この秋川の地に火薬製造の技術を伝え、その伝統が今日に継承されて、「株式会社細谷火工」と言う大手の火薬製造会社に発展し、今日、両国の花火大会を彩る二者の内の一翼を担っている。会長の細谷政夫氏は高尾山に寄せる信仰篤く、「秋川栄山講」を組織して、毎年節分会歳男を勤めておられる。
代々「太郎左衛門」を襲名して、天保年間相模の国小山村を支配した代官江川氏は、高尾山薬王院末寺、天縛山蓮乗院惣代、豪農原清兵衛光保から天保十一年(一八四〇)願い出のあった、小山地先の相模野二百町歩開発の事を、天保十四年(一八四三)九月に許可。近郷近在の百姓の二、三男を集め、入植農民とし、五組四十九戸を建設して、農具その他一切を与え、開拓を進めた。この開拓地の鎮守として高尾山飯縄大権現が勧請され、後に明治の神仏分離令によって、高尾山麓の地主神「氷川神社」が祀られるようになったと伝えられる。今日の相模原市氷川町の「氷川神社」がこれである。
開墾地は、安政三年(一八五六)検地を受け、清兵衛新田四百二十石余が村に加えられた。この事業の完成を感謝して、開墾奉行代官江川太郎左衛門は、高尾山に大量の杉苗奉納をした。これが、先の「江川杉」で、今日では、参道「大杉原」の樹齢七、八百年の神杉に次ぐ大木に育っている。
   明治維新の嵐
江戸幕府による大政奉還、錦の御旗の関東制圧をもって徳川三百年、鎌倉幕府以来六百七十余年の武家支配が終わりを告げた。この事は直ちに神人天皇の直接統治という神政絶対主義国家の樹立を内容とする宗教改革を推し進める事となった。その第一が「神仏分離令」である。
この機運をいち早く察知した当時の住職二十三世尾秀融は、明治三年八月、山麓不動院にあった「一之鳥居」、山上御本社前にあった「二之鳥居」を一夜にして押し倒し、その跡にそれぞれ一対の石灯篭を建立している。神仏分離、廃仏棄釈の嵐に揉まれて、多くの山岳霊場寺院が神社に姿を変えたりしたその後の経過を見るに、同時発令された、「修験道廃止」の事もあって、山内を二分するような騒動に決着を付ける意味でも「一夜にして…」の事は想像に難く無いのである。
更に、明治四年には、寺領地七百二十余町歩の内、境内約十町歩ばかりを残して上地。帝室御料林とされ、現在は国有林となって林野庁の管理下にある。
そして明治十二年の「宗教団体令」によって、中興以来、京都醍醐山無量寿院の末寺として来たところを、教学相承の流れを汲んで、智積院の末寺に転じている。行法作法を厳しく重んずる醍醐山であるが、神仏分離、修験道廃止の混乱の覚めやらぬ時期の事、近代化の風潮の中で、学問、論議の流れを汲む智山に就いたのも頷く事が出来る。
多摩地方には自由民権運動の盛んな頃、明治十九年には、台風による豪雨のため護摩堂薬師堂が崩壊し、翌々年深川で五十日間の出開帳を催し、再建の資としている。また、この明治二十一年は、現在の国道二十号線、新甲州街道が開通した。
以後、近代国家建設の大業が推し進められる中で、高尾山薬王院は密教寺院本来の伝統を守りながら、大衆の平等抜済、諸願成就の祈願道場として、大衆と共に刻々の歩みを重ねて来た。なおこの間の経過については本書歴史年表を参照されたい。
が、高尾山御本堂外陣正面に掲げられた彰仁親王御宸筆の、韓国釜山信徒中奉納による「高尾山」の扁額を拝するにつけ、先の大戦を含む隣国との間の不幸な歴史が残念でならない。
ここに改めて仏教本来の平等々々の観念に立って、生命の尊厳、世界平和を祈念しつつ擱筆する。なお参考資料とした数々の書物を残してくれた先賢先徳、今日まで御指導下さった師匠御山主様を初め歴代先師、法縁諸大徳、同行諸師に深々の感謝をもって本稿を捧げる。
高尾山修験道 

 

修験道とは
やまぶしイメージ 修験道とは、我が日本民族独自の精神文化に体系づけた日本国独特の宗教であり、顕密両経の妙味を自在に消化し、自ら独自の教えを形成し、その心を産み出した教えであります。
また神変大菩薩をもって、この修験道の開祖と仰ぐのでありますが、その根底にある精神と申しますか、教えとは、その当時学問的仏教が主体であるにもかかわらず、神変大菩薩は国家の政策とする律令に反し、大衆の救いとなる宗教の実践に生涯を尽くされたことであります。大衆の為に祈り、庶民の救いとなる、実践の道を選ばれた神変大菩薩の大乗菩薩道に立つその実像に、当時、官許の僧団からはみ出した私度僧たちは、宗教の真理を彼に見出し、「本有の仏性」である所の人間が、生まれながらにして本来心に宿しているその仏性をもって、庶民の為の信仰を集約し、さらには聖宝・理源大師により、真言密教の法味が加えられ、事教二相にわたりこれらを体系づけられ、「生活の中の仏教」として、多くの大先達によって完成されたものであります。
この修験道の行者を山伏といい、彼らは大自然の中に仏を見出し、自然との対話の中で、声なき声に法身説法の音声を聞き、上求菩薩、下化衆生の精神をもって、山林とそう修行を行じているのであります。この山伏が山に入り修行する際、身につける衣帯、装具を見ますと、身にまとう装束は勿論、上は頭襟から下は八目の草鞋に至るまで、ことごとく意義付けがなされ、あたかも教法を身にまとい、これを以って仏の教えを示しているのであります。
修験十二道具 並びに十六道具
山伏独特の修験十六道具は、それぞれ不二の世界・十界・不動明王・母胎などを象徴し、これらを身にまとい修行することにより、修験者はその力をみにつけることができるのです。
修験十二道具
   頭襟 - ときん -
頭襟 行者自身が仏であるから何を頭につけなけらばならないかと言えば宝冠である。即ち大日如来の宝冠を表すのである。本来は宝形の頭襟にして、頭の頂上に着けるのが本義である。我々が常の如く着ける頭襟は黒色にして十二の溝がある頭襟であるが、これは無明(煩悩)を表すから黒色であり、十二の溝は十二因縁を表し、一つへこみがあるのは十二因縁を結集する意味である。また、左の六つの溝は六道衆生の流転を表し、右の六つの溝は六道衆生の減滅を表す。つまり、頭襟を着けることにより迷いから悟りへとの意を表しているのである。また、着ける場所は前八分と言い、顎より上、八分であり、これは不動明王の八葉蓮華を表すのである。(不動明王の蓮華の位置は覚体であるが故に頂に蓮華を収める)またこの他にも包み頭襟、又は、長頭襟といい五尺の黒色の布を頭に巻く頭襟もある。
   斑蓋(桧笠) - はんがい -
斑蓋(桧笠) 雨や日差しから身をまもるだけの物では無く、行者がかぶる時は行者自身が仏であるから、天蓋と感じなければならない。形が丸いのは、金剛界の月輪を表し、頂上の三角は胎蔵界の八葉蓮華を表す事により、金胎不二の天蓋の下に仏である行者がいる事を表す。
   鈴懸 - すずかけ -
鈴懸 修験行者入峰修行の法衣の全ての名であり、金胎不二の法衣である。また全ての鈴懸は上は九枚の布ででき、これは金剛界九界を表し、下の袴は八枚の布、胎蔵界八葉を表す。また袴の後ろ三つのひだは、三悪(地獄・餓鬼・畜生)前のひだ六つは六波羅蜜を表す。つまり三悪道を背中に覆い、六波羅蜜の修行に赴くという事なのです。この鈴懸は、種々ありますが二、三例を出せば、
1. 柿衣・・・・・・これは柿の渋で染めた衣で赤色無紋であります。これは母の胎内に住する姿であり、これは無欲、不苦、不楽を表している姿であり、母なる山の中で修行をし、佛果を得るという事であり、山を下る時は、黒い衣に着替え、出る慣わしになっております。これは、得た佛果は何物にも染まらぬということであります。
2. 摺衣・・・・・・これは衣に石畳を刷り込むという事で、不動明王の磐石に住し修行をする事を表しております。その色は青か黒であり、不動の青黒を表し、現在では主に、羽黒修験の行者達が着ているものであります。
3. 浄衣・・・・・・白衣の事で白色無紋の衣と言います。是は仏が光を和らげて、衆生と同ずるということを表しており、これを着ける行者は仏前で拝むだけの行者で、まだ入峰修行が終っていない行者が着る鈴懸であり、入峰修行が終った行者は着れないのであります。
この他にも上位の山伏が着る、紫衣とか懸衣等が在ります。
   結袈裟 - ゆいげさ -
結袈裟 十界具足の結袈裟、或いは不動袈裟とも呼ばれております。これは九條袈裟を折りたたんで出来た袈裟で、山中で修行をするのに便利なように簡素化した修験独自の袈裟であります。十界具足の結袈裟とは、行者はすでに仏であるが故に九條袈裟であるところの九界の衆生を結んで仏である行者に懸けて十界具足の結袈裟となるのです。また修験心鑑書によれば、神変大菩薩が修行のため山中に住しておられた時、その荒行の為、見る影も無く破損していた九條袈裟を、一匹の老猿が神変大菩薩の元に現れ、その袈裟をたたんで葛の蔦で結び、神変大菩薩の肩に修めたのでありますが、この時、その行動を賛嘆して、神変大菩薩が言いました「おまえは猿の姿をしているが、心は人間と変わる所が無い、畜生と呼ばれる猿ではあるが今のように菩提心を起して善行を積むならば必ず人間界に生を受ける事が出来よう。さあ、人となれ 人となるのだ」と、教示されたのであります。この事は輪廻道を断じ、阿字門に帰入する為の比喩として味わうべき言葉であると思います。また当山派修験のみが用いる袈裟に磨紫金袈裟というものがありますが、これは九條袈裟を折りたたんで、脇に二本の紐を結んでいるのですが、これは神変大菩薩が修行中にお母さんが現れ、臍の緒を懸けてくれたという説であります。つまり、母の胎内に居る様にこの袈裟を懸けれは諸の災いを防ぐ事が出来るという事なのです。
   法螺 - ほら -
法螺 釈迦如来の説法でありこの音を聞くものは煩悩を滅し悟りを得るのである。また法螺の音は獅子吼とも呼ばれ、百獣の王の声であり全ての動物を服従せしめる威力を持つということから、これを仏の説法であるとするのである。吹き方は立螺秘巻を参考されたし。
   最多角念珠 - いらたかねんじゅ -
最多角念珠 最(いら)とは、最上(これより上は無し)であり、多(た)は煩悩が多い事、角(か)は煩悩を打ち砕くという意味であり、その形は智剣を表すのである。また念珠の念は、念念続き起される煩悩という意味であり、念珠の珠とは、祈念即法界というように念ずる事により法界に通ずるという意味であります。つまり、念珠とは煩悩即菩提を表しているのです。また母珠を以て仏界とし、緒止めを以て衆生界とするのです。
   錫杖(声杖・鳴杖) - しゃくじょう -
錫杖 一法界の総体であり衆生が悟りの道に赴く所の智慧の杖であります。またこの錫杖には、三種ありその功徳を説いています。
一. 声聞の錫杖‐二股四環・苦・集・滅・道の四諦を表す。
二. 縁覚の錫杖‐四股十二環・十二因縁を表す。
三. 菩薩の錫杖‐二股六環・檀・戒・忍・進・禅・慧の六波羅蜜を表す。
当山派の行者は、菩薩の錫杖を用い、これを振ることにより、六道輪廻の眠りを覚まし、一仏界に帰入する(仏の元へ帰る)としているのです。
   笈 - おい -
笈 修験行者が入峰の際用いる法具等を入れる箱である。先達は、不動尊の八種の法具を納める。教理的には一切衆生の悲母の体相を表す。笈には二つの形式がある。正先達が用いるのを縁笈といい、新客が用いるのを横笈という。縁笈は長さ一尺八寸【十八界】横一尺二寸【十二因縁】で笈板の周囲を皮でふさぎ縦一尺三寸【胎蔵界十三大院】横九寸【金剛会九会】の背板をあてる。笈は峰中十界修行に於いて行者【胎児】を抱く母の母胎で、入峰者が笈を背負う事は母胎に住する事を示すといわれる。横笈は人の皮膚、板は骨、箱の中の五穀は肉、笈の紐は血管を示す、更に笈に被せる斑蓋は母胎の衣那で、貝の緒はへその緒であり、これで母子を結ぶといわれる。
   肩箱 - かたばこ -
笈の上に乗せる木の箱にして肩に付ける故に、肩箱というのである。長さ一尺八寸、行者の十八界を表示し、横六寸は、六大を表し高さ五寸は、金剛会の五智を表し、白色の索は衆生バン字の脈水自性不染の蓮糸に像る上を蓮葉に絡む事は即ち蓮華合掌の形にして染浄不二色心実相を表したものであります。また、箱の中には峰中勧請に用いる道具等を入れるのである。肩箱は一切衆生の慈父の体相即ち金剛会バン字の形にして修験法門の秘函である。金剛会智門の中、真言秘密三摩地の法文に接在することを表す。肩箱とは定慧不二、二バン和合の実体で虚心合掌の形である。また肩箱を担って入峰修行をする行者は、一切の諸法を修せずしてこれを修す。
   金剛杖 - こんごうづえ -
金剛杖 修行に用いる杖であると同時に法界塔婆である。即ち、金剛杖は大日如来を表すと共に行者の法身を表すものであるからこの杖を持つ事は我即大日を示しているのであります。またこの杖の長さは決まりが無く、行者の身長に合わせて作るのであります。この杖には三種の杖があり、新客の持つ杖を擔杖(閼伽水などをこの杖で担ぐ)度衆が持つ金剛杖・正先達が持つ桧杖(火の木)火は智慧の火である。智慧の木を持つのが正先達(材料は桧)などがあるのです。また金剛杖は歩行を助けて転倒を防ぐ物であり、力弱き者の支えでもあるのです。この意味からして、仏道を求める者に対する助けの杖であり、修行に励む行者の心の支えとなる智慧の杖でもあるのです。
   引敷 - ひっしき -
引敷 入峰修行の際の座具であるところの腰に当てる敷き皮のことである。またこの引敷は何の動物の物であっても獅子の毛皮であると観念するのであります。何故なら畜類は無明に例えられ、その畜類の王の上に座すという事で行者は仏であるから凡聖不二(煩悩即菩提)の極地を表しているのであります。また引敷の引くとは、衆生を法界に引導するという意味も含まれております。修験でいう所の獅子とは、鹿の事であり、これは縁覚の乗り物だからです。
   脚半 - きゃはん -
脚半には三種の別があります。まず春の峯(胎蔵界)である順の峯に用いる脚半は筒脚半と言い、その形は四角で地大を表しているのです。五大を分けれは、地大は阿字であり、胎蔵界大日の種子となるのです。そしていつの頃からかは分かりませんが今の脚半は白色になってしまっておりますが、本来脚半は黒色であるのです。何故に黒色かと言えば、五大を分ければ風大の色は黒色であります。即ち風輪ウン字に住し大空位(悟りの世)を歩くという意味で脚半は黒色になるのであります。そして結ぶ紐は上方は上結びにして上求菩提、下方は下結びにして下化衆生をあらわすのです。脚半を着ける時には順の峯であるから、順にこれを巻いて着けるのであります。次に秋の峯(金剛界)である逆の峯に用いられる黒色脚半は剣先脚半と言いその形は剣先の形で表しているのです。これは金剛界の智門を表し八角の智剣を八幅輪宝として八邪の無明を断じて八正道にいたらしむという事なのです。この時の脚半の巻き方は、逆の峯であるからして今度は逆に脚半を巻いて着けるという事が慣わしとなっているのであります。次に、夏の峯(不二の峰)の時の脚半は金剛界の脚半を着け、胎蔵界の結び方をするのです。つまり金剛界の剣先脚半を順に巻いて着けるのです。今ではほとんどの行者がこの不二の脚半を着けているのです。
修験十六道具
上記十二道具に下記の4つを加えたものが、修験十六道具となります。
   桧扇 - ひせん -
桧扇 外儀ではこの扇で護摩の火を扇ぎその火力を増すのであるが、実を取れば自性の智火に解脱の慧風(智慧)を加え、煩悩に見立てた薪を焼き尽くす事を以て内観とするのです。また山伏が峯入りする時の正装である持ち物の一つであり、願文などを読む時などは、扇を腰に差し、その扇の上に包み紙や念珠等を掛けるのであります。
   柴打 - しばうち -
理源大師が宇多天皇より頂いた刀で大峰山中で護摩を焚く時その護摩の木を打ち切った事により、柴打というのです。また新客も刀を持つ事がありますが、これは柴打とは呼ばず、小木取りと呼ばれております。またこの他にも宝剣という刀があり、これは柴燈護摩などの時に修する悪魔降伏の作法に用いる剣で、不動明王の利剣と感じ修する刀であります。
   走縄 - はしりなわ -
行者入峰の際の補助的な物であるが、今は修行者の無明を縛する不動明王の剣索の意とされております。新客は十六尺、度衆は二十一尺、先達は三十七尺である。これを左の腰に束ねてぶら下げるのであります。
   草鞋(八目草鞋) - そうかい -
今ではほとんど地下足袋ですが、本来行者の履物は八目草鞋といい草鞋の周囲に八つの結び目が有る草鞋を履いて入峰をするのです。これは行者は八葉蓮華の台に乗って修行に赴くという事を表しているのであります。 このように修験装束を身に付け入峰をすると言う事は行者即仏という事であり、大峰山という曼荼羅世界の中に仏として加わるということであります。
その他
このほかにも修験行者が山に入る際に身に付けるものに、「貝の緒(かいのお)」があります。
   貝の緒 - かいのお -
修験者が峰入りの際に腰の周囲に巻く二本の赤、又は黄色の長い麻のより綱。法螺と併せてその付属物として説明されることが多いですが、本来法螺と関係無く、山中の岩場などを登る際、ザイル代わりとして用いられていました。「修練秘要義」では腰の右に巻く十六尺の緒を貝の緒とし、左に巻く二十一尺の緒を曳周【ひきまわし】と呼んだこの両者はそれぞれに右緒【貝の緒】金剛会・智・父・陽・慧・十六大菩薩・新客 左緒【ひきまわし】胎蔵界・理・母・陰・定・二十一尊・度衆 金胎一致・不二・子・三十七尊・先達を示している。その故にこの両緒を結ぶことによって修験者が金胎一致、理智不二、定慧不二となり、成仏しうること、及び父母を陰陽和合の結果、赤子として誕生する事を表すとしている。貝の緒は本来修験十二道具並十六道具には含まれないが、現在では行者入峰の際常用としているので、ここに記す。
以上のように山伏が所持する物には悉く教義が記されており、あたかも護身法の被甲護身の如く如来の大慈大悲の甲冑をよろうが如くに行者は教法そのものを身に纏い、内外の魔障を遠離すると共に少しの懈怠も許されぬのであります。
富士登拝練行
高尾山内に御祭りされております富士浅間社は、天文年間(四百五十年前)に北条氏康により建立され、その後、寛政10年と大正15年に再建されました。
江戸時代に於いては富士・信仰が、その隆盛を極め、江戸八百講と呼ばれる程、富士信仰が民衆の生活に浸透し、多くの人たちが富士山を目指してその歩みを進め富士道が確立されました。
高尾山内の富士浅間社は、その富士道の重要な拠点であり、富士登拝が出来ない人々はその思いを先達に託し高尾山にて富士浅間社を拝み、その御利益を頂いていたのです。 その後、時代と共に幾多の衰微を繰り返し、現代に於いては富士道を歩む人々の姿が見られなくなった現状を、当山、御貫首の発願により、北条氏康が富士浅間社を建立してから、四百五十年目に当たる平成19年6月末より7月上旬の十日間に渡り、昔ながらの富士道を徒歩による富士登拝修行の再興を成されたのです。
そしてこの富士道を徒歩による富士登拝修行は毎年、高尾山修験道により行われて行きます。
富士登拝徒歩練行代参守のご案内
富士登拝徒歩練行代参守平成30年で十二度目となる徒歩練行の執行にあたり、富士登拝の代参守を授与致します。
この代参守は、高尾山御本尊飯縄大権現様から続く祈りの道を、修験者によって歩いて運ばれ、各参拝所の宝前に供え法楽と共に祈り、霊峰富士の法楽にて申込者のご芳名を読み上げ、高尾山麓・成満柴燈護摩供の御加持の後、参拝所に納められる碑伝と一緒にお授けされます。
古式に則り歩いて参拝する、富士詣『霊峰富士登拝徒歩練行』の代参守、本年一年の、諸縁吉祥・諸願円満の為に、おすすめ致します。
尚、代参守は高所運搬が伴うため、数量に限りがあることをご了承下さい。
修験道の活動
醍醐・高尾徒歩練行500km 〜櫻の御山から紅葉の御山へ〜
平成17年は、弘法大師渡唐一千二百年・行基菩薩高尾山開山一千二百六十年・俊源大徳高尾山中興六百三十年に當り、記念事業として大天狗・小天狗像が建立され、4月21日の飯縄様御縁日に行われた両御尊像開眼法要にあわせ、平成17年4月2日より21日の二十日間、京都醍醐山から東京高尾山まで徒歩練行が執行されました。
この徒歩練行は、弘法大師(真言宗開祖)行基菩薩(高尾山開山)俊源大徳(高尾山中興)の教え、精神、気質を、身をもって行じるものでありました。
京都醍醐山・傳法学院にて、お守りされている三祖の法燈で柴燈護摩を一厳修賜り、護摩の燈火を戴き、その燈火を法の浄火として、カンテラに燈しながら高尾山まで、二十日間かけて練行をし、その尊い浄火により世界平和・験門繁栄を祈念し高尾山上にて柴燈護摩を勤修し、高尾山御本尊の御前に奉じて、常燈不消の浄火として燈されております。
永和年間に俊源大徳が京都醍醐山より高尾山へ入山、高尾山興隆を祈念し飯縄権現を感得され高尾山を中興された縁起にならうものであります。
大山登拝修行
高尾山では毎年恒例の霊峰富士登拝徒歩練行の行程にあわせ、平成22年度より相州大山登拝修行を執り行っております。 高尾山からの大山参拝の歴史は古く、江戸時代には、高尾から富士山山頂をめざし登拝修行の後、大山山頂までの登拝参拝が行われていました。大山と冨士山のご縁は深く、高尾山が富士の前立ち、大山が後ろ立ちの信仰があり、関東近辺の富士講のよりどころとなりました。江戸中期以降庶民の間に大山信仰が流行し、参拝者の増加に連れて大山道は重要な道となり、今でも関東近辺、又高尾山中にも「大山道」の石柱がみられ、大山信仰の痕跡が残っています。
大山詣りとは、はるか縄文の昔から霊山として信仰を集め、別名を「あふり(雨降り、阿夫利)やま」といい、相模湾から吹きつける海風が大山にぶつかり、雲となって雨を降らすため、こう呼ばれてきました。農民には恵みの雨をもたらし、漁民には標となる護りの山として崇められ、山頂には「大山阿夫利神社」、中腹には「雨降山大山寺」があり、大山は神仏習合の聖域であるために、江戸時代には、庶民の間で大山参拝が大流行し、成田山・高幡不動と共に関東の三大不動の一つとされ、今でも多くの方々の信仰を集めています。
大山登拝修行を通し、昨今の殺伐とした社会情勢の中、世の人々が祈るという意識を忘れかけた現代に、信仰の道を山伏装束を整える行者が歩み、祈る姿勢を示し、理屈では無い、尊い存在を信じる心を持つことの大切さを呼びかける行事であります。
修行最終日には富士山山頂までを登拝修行した高尾山修験道山伏と富士山五合目小御嶽神社で合流し、その後、北口本宮富士浅間神社にて正式参拝。高尾山麓にて柴燈護摩随喜という行程を予定しております。
東日本大震災復興合同祈願祭
平成19年に、当山貫首により「富士参拝道再興」が発願され、富士登拝徒歩練行が執行され、平成23年に第五箇度目を迎えることとなりました。この節目の年に、古来より富士信仰を通じてご縁の深い、北口本宮冨士浅間神社様と合同での行事を執り行おうといたしました所、ご承知の通り、平成23年3月11日に起こりました、東日本大震災により、被災地では、沢山の人々が犠牲となり、未だ行方不明の方々や避難所生活にて、困難な生活を余儀なくされていらっしゃる方々が大勢おいでになります。こうした国難に際し、北口本宮冨士浅間神社様と当山と合同で復興祈願の法要を執り行う運びとなりました。
平成23年7月4日に高尾山御本尊・飯縄大権現様から続く祈りの道を出発し、7月9日霊峰富士山頂にての法楽の後、北口本宮冨士浅間神社様と合同で「東日本大震災復興合同祈願祭」が執り行われ、同年9月7日には、高尾山飯縄大権現様の御宝前にて「東日本大震災復興祈願合同法要」が執り行われ、神仏融合の祈りの中、日本の復興を祈る尊いひとときとなりました。
「祈りの大護摩供」出仕  〜奈良・吉野・金峯山寺修験道大結集〜
平成17年5月24日、奈良県吉野郡にある金峯山修験本宗総本山金峯山寺の蔵王堂御宝前において修験道大集結「祈りの大護摩供」を厳修した。
修験道祈りの大護摩供とは、平成16年7月1日に「紀伊山地の霊場(吉野・大峯・熊野三山・高野山)と、参詣道(大峯奥駈道・熊野参詣道・高野山町石道)」がユネスコ本部によって世界人類共有の財産として世界文化遺産に登録されたことの記念事業として、平成16年7月から平成17年の6月まで1年間かけて日本全国の修験者が集まり、吉野金峯山寺蔵王堂御宝前において、護摩供を厳修し、地球経平穏並びに世界平和を祈念している。
当日は快晴の中、御信徒の皆様、御詠歌講の方々、総勢百名で法螺の音と御詠歌を共に宿坊である竹林院から練行し、吉野金峯山寺蔵王堂において御法楽。つづいて柴燈護摩道場において、総本山金峯山寺・五条順教管領猊下、真言宗醍醐派総本山醍醐寺・田村教学部長の御随喜を得て、当山御貫首・大山隆玄猊下大祇師の許、参拝者と共に世界平和を一心に祈念いたしました。 
高尾山薬王院 2

 

東京都八王子市の高尾山にある寺院。真言宗智山派の関東三大本山のひとつである。 正式な寺名は高尾山薬王院有喜寺だが、一般には単に「高尾山」あるいは「高尾山薬王院」と呼ばれる。薬王院と参道のスギ並木は八王子八十八景に選ばれている。
天平16年(744年)に聖武天皇の勅命により東国鎮護の祈願寺として、行基菩薩により開山されたと伝えられている。その際、本尊として薬師如来が安置されたことから薬王院と称する。永和年間(1375年 - 1379年)に京都の醍醐寺から俊源大徳が入り、飯縄権現を守護神として奉ったことから、飯縄信仰の霊山であるとともに修験道の道場として繁栄することとなる。寺に伝わる北条氏照文書に拠れば、戦国期に高尾山は後北条氏当主氏政の弟氏照が高尾山一帯に広がる椚田郷を寄進したという。江戸時代には氏照文書を根拠に境内である高尾山を朱印地とする運動を起こす。  
 
 

 

 
法栄山大師寺・法話

 

高野山金剛峯寺を総本山とし、高野山真言宗に属します。御本尊様はお大師様、脇佛はタイで鋳造された御釈迦様と、日本で彫られた十一面観音菩薩様をお奉りしております。 兵庫県神戸市西区  
 
 

 

■こころに合掌
お寺にお参りした時、仏さまご本尊さまを拝むとき、私達は身を正し、心を正し、手を合わせてお祈りを捧げます。このように手を合わすことを合掌と云うのは皆様もご存じの通りです。日常の生活の中でも、嬉しい時有り難い時手を合わせて感謝の気持ちを表します。失敗をしたり悪いことをして謝る時もやはり手を合わます。また、無理なお願い事を頼む時も手を合わせます。インドやタイ、東南アジアの国々へ行くと挨拶を交わす時、合掌してお互いを拝み合います。とても美しい挨拶です。 皆様も胸の前に右の手と左の手を合わせて合掌をしてみて下さい。右手は仏さま、お釈迦さま、観音さま、阿弥陀さま、大日さま。私達を救って下さる悟り開かれた仏さま 菩薩さまを表します。左手は凡夫、まだまだ悟りに至っていない迷いと苦しみの世界に生きる私達を表します。仏さまを表す右手と私達凡夫を表す左手を合わせて、仏さまにご加護とお導きをいただきまた私達も仏さまの位まで上がらせていただくと、心に思い浮かべながら合掌をするのです。次に少し手の力を抜いてみて下さい。あなたの合掌してる手が少し膨らみましたね、これは花の蕾です。蓮の花の蕾です。蓮の花は仏教ではとても大切にされる花です。皆様が拝まれている御本尊様、仏さまは何の上に座られたり、立たれたり、されているでしょうか。そうですね、仏さまは蓮台の上、蓮の花の上に座られたり立たれたりされています。
蓮の花は、日本ではお盆の頃に成長しあの美しい、きれいな姿をあらわし私達の心を和ましてくれます。また、お仏壇、仏さまのお供えのお花として、大きな葉っぱはお盆の供物のお皿として使われます。収穫の頃になると、栽培している人たちがドロドロになりながら蓮田や蓮池の中から泥まみれの蓮根を収穫する姿が見られます。蓮根は砂地のようなきれいな所では成長しません。蓮根はドロドロした土の中でのみ育ち、その泥の中から養分を吸収し成長します。お花はそんな蓮根とは異なり、きれいな汚れの無い姿を、水面にあらわすのです。私達の生きているこの人間社会、娑婆の世界は人をだましたり、だまされたり、妬みと怒りに満ちあふれた弱肉強食のドロドロした世界ですが、そんな娑婆の泥に染まらず、それを肥料にして蓮の花のように美しい花を咲かす、そんな蓮の花を手本にしたいものです。皆さんは、お大師さまがいらっしゃる高野のお山が、蓮の花が咲いている地形になっているのはご存じですか。蓮の花はそれ自体、仏の座、仏の世界お浄土をあらわします。高野山に参拝されるのは、お大師さまのいまします、お浄土に登り娑婆に生きる私達の苦しみや悩みをお聞きいただくと共に、身も心も楽にしていただき菩薩の道へとお導き下さるのです。      
胸の前に合掌をして蓮の花の蕾が我が胸の前に有りと想い、心の中にそのつぼみを移します。今一度、心の中に蓮の蕾が有りと想い、その蓮の花を大きくを咲かせるのです。その上には御本尊さま、お大師さまが座っていらっしゃるのです。お大師さまは、自らの著作「秘蔵記」の中で「凡夫の心は合蓮華の如く、聖人の心は開蓮華に似たり」と、私達迷い苦しんでいる者の心は蕾の蓮であるが、悟られた方の心は大きく咲いた蓮の花のようである、と述べられています胸の前で合掌をして自身の心にある蕾の蓮を大きな花に咲かせ、お大師さまにお座りいただき、お大師さまと同行二人の信仰の日暮らしをいたしましょう。                

■菩薩への道 1
今回は十善戒に説かれている中の口に関したもの、口からでる声、言葉の修行についてお話を進めて参ります。言葉の修行には四つが示されています。
不妄語 人をだまし、うそ、偽りを言ってはいけません。
不綺語 人にへつらい、胡麻をするような飾り立てた言葉お世辞を言ってはいけません。
不悪口 人を傷つけその人の欠点ばかりの悪口を言ってはいけません。
不両舌 人と人をけんかさせるような二枚舌を使ってはいけません。
このように口から出る、いいえ口から出す声、言葉を四つの戒めに分けて説いております。 日常生活の中でも何気なしに使われている言葉ですが、その言葉にはとてもとても大きな力が秘められているのです。赤ちゃんへの母親の子守歌、あやす声は生命の安全、安心を与え。子供や生徒への先生の声は新しい知識を授け。恋人達のささやきは未来への幸せへと。病人へのお医者様、看護婦さんの声は健康と励ましを与え。迷える人への僧侶の声は悟りと、苦しみからの解放へと導く。私達は一人では生きていけません。多くの人との関わり支え合いによって社会があり私があるのです。そっれには言葉による意志疎通が不可欠です。言葉を使う私達はその重要さに気がついていないのです。
人を見る時、皆さんは相手の良いところ長所から見ますか。それとも悪い所、欠点短所からみますか。相手の人の悪いと所から見てしまいそれを声、言葉に出して言ってしまうと悪口となりますが、良い所長所を見いだして誉めて上げるとどうでしょうか。話す方は何気なしに言った悪口でも、それを聞いた人達は、その話題にされている本人は気分の良いものではありません。喧嘩が起こっても仲良く出来ることは有りません。ところが誉められると、誉められた本人も自分の長所をもっと伸ばそうとして益々努力していくでしょうし、誉めてくれた人とも仲良くやっていけるでしょう。喧嘩をしたり喧嘩をさせたり人を陥れたりだましたり、苦しめたりするのは悪い言葉の働き。元気づけたり励ましてあげたり、個性を伸ばし眠れる能力、才能を引き出してあげるのは良い言葉の働き。
先日、本堂を掃除しておりますと五才の娘ですが「お手伝いしようか」とやってきました。たいしたことは出来ませんが、仏具を拭いたり小さな物を運んだりしてくれました。「助かったは、さっちゃんが手伝ってくれたので早く終わった。ありがとう」と誉めてあげると「またお手伝いするから言ってね」と笑顔でお母さんにお手伝いの報告に行きました。言葉の力の偉大さに感心させられます。真言宗「まことの言葉の宗」と書きますが文字通り、まことの言葉を大切にする宗旨なのです。菩薩への道、しあわせを求める人はしあわせの種をまき。うそ偽り、かだりたてたお世辞、悪口、二枚舌を使う人は、苦しみの種をまき自らの言葉で自らが苦しんでいくのです。菩薩への道を願い修行する人は言葉を大切にしお大師さまの説かれる密厳浄土の実現の為に善なる言葉の修行の信仰生活をおすすめいたします。

■菩薩への道 2
今回は十善戒に説かれているなかの、心に関する修行についてお話を進めて参ります。心の貪 貪欲になってはいけません。あれも欲しい、これも欲しい見る物見る物が欲しい欲張ってはいけません。
不瞋恚 腹を立てたりイライラ怒ったりしてはいけません。
不邪見 正しい見方をせずに独断と偏見で物事を判断したり、曲がった考え方をしてはいけません。
私達の心はとてもやっかいです。感情に支配されやすく、冷静に判断するのもままなりません。私達は欲望のままに日々を送っているのです。喉が渇いた時その渇きを癒す為にコップの水を一気に飲み干します。それでも喉の渇きはなかなか癒せません。人間の欲望も終わることを知らず次から次へとわいてきます。「腹八分目」と言葉があります、自分の好きな物を美味しいからと言って食べ過ぎるとお腹をこわして病気になってしまいます。私達が生きていくには、欲も無くてはいけませんが度を超すと、かえって身を滅ぼす元になってしまいます。自分のことだけしか考えられないという生き方を変え、自分の周りの人達への慈悲、優しさの心を持ちたいものです。 現在の社会はストレス社会と言われます。
家を一歩出れば大人も子供もストレスに身も心もさらされるのです、なかには自分の家の中でもストレスから解放されることがないと言う人も少なくないようです。イライラしたり短気を起こしたりカッと頭に血が上り自分の心が自分の心で無くなったり、取り乱した言葉を出したり行動を取ってしまい、取り返しのつかない失敗となります。最近若い人達の口から「ムカツク」という言葉をよく聞きます、何をそんなにイライラしているのしょうか。”忍耐”耐えると言うことを忘れ欲望のままに生きる現在人を表しているのでしょうか。大きな深呼吸をして心を落ち着かせて、御宝号をお唱えして怒りに耐え、怒りを耐える修行によって菩薩へと近づくのです。
人は外見で判断をしてはいけないと言います。ところが多くの人達は、その人の着ている物や人の噂話によって作られた色眼鏡で見てしまい判断してしいます。物事でも一方的な見方しか出来ずその真実の姿を見ようとはしないのです。私達は、その人の本当の姿、その真意を見るように理解出来るように努力が必要です。相手の立場になって物を考える、他の視点から観察してみる、そういう柔らかい心が必要なのです。偏見を捨てた正しい見方、考え方が私達の未来を救うのです。あなたはどんな人と友達になりたいですか、仲良くしたいですか。もし、こんな人がいたらどうでしょう。 いつも欲張りで、怒りぽく、ひがんだ物の見方しかできない人。残念ながら、こんな人は友達も出来そうに有りませんね。
菩薩への道、しあわせを求める人は、しあわせの種まき、貪欲を捨てて施しの心を持ち、むやみに腹を立てず穏やかな心を持ち、正直な正しい見方の出来る心、意識を持つことによって菩薩へ近づき、このこころの修行によってお大師さまの理想この世をお浄土にする密厳国土の建設みんなが幸せに仲良く暮らせる社会の実現に一歩前進するのです。菩薩への道として三回に分けてお話をすすめてきました。身体、言葉、こころにまつわる菩薩行です。毎日これらの修行を振り返って反省を繰り返し菩薩の道を進みたいものですね。

■密厳浄土へのボランティア 
ご宝号念誦運動のお願い
白銀の参道に足形を残しながら樹齢数百年の杉木立の間をくぐり一の橋から約く2q。世界でも類を見ない数と大小さまざまな石塔を通り抜けて奥の院、御廟へと続く。御廟橋を渡ると、そこは特別な聖域、奥の院。お大師さまが御入定されている御廟の前にはお大師さまに祈りを捧げる人達の姿、絶えることのない御燈明の光と、御線香のけむり。数年前アメリカのカリフォルニア大学ロサンゼルス校の医学部の教授で心身医学、カウンセリングが専門のリバ−マン博士ご夫妻を高野山へご案内させていただいた時のことである。
博士は東京大学と九州の大学で御講演なされその途中どうしても高野山にお参りをしたいと言う達ての願いで、御縁をいただいて私が高野山までお供をしたのです。最近日本でも「カウンセリング」と言う言葉をよく耳にするようになりました。アメリカでは日常の生活、学校や会社、人間関係や病気ストレスなど私達の心の問題について相談や医学的治療として携わるカウンセラ−が大活躍しています。現在のようなストレス社会には無くてはならない仕事です。日本でも昨今、注目を集めています。リバ−マン博士からのお礼状には、高野山で移した写真と高野山での感動が書かれていたのは言うまでも有りませんが、友人にも高野山への参拝を勧めているので、また案内をお願いしたいとのことでした。お大師さまが高野山を開き奥の院に入定なされていらっしゃるのはなぜなんでしょうか。お大師さまを慕って、たくさんの人達が日本のみならず世界の各地から高野山にお参りされるのはなぜなんでしょうか。
お大師さまには「密厳浄土の建設」(私達の生きているこの世界、社会をお浄土にする)という理想を掲げられ高野山を開きその実現へと弟子の勉学、修行、修禅の道場とし、 大師自らの御入定の聖地となされ今も奥の院で深い禅定の境地に入られ、生きながら日本の人々いや世界の人々の幸せを、救いを与え下さっているのです。現在高野山真言宗では、お大師さまが説かれた理想の実現に向け、そしてお大師さまへの報恩感謝として「南無大師遍照金剛」と御宝号をお唱えしつつ、理想社会、密厳浄土の実現に向けた色々な福祉活動をするために 御宝号念誦寄金を設けて皆様方からの尊い浄財、喜捨の受付をしております。この福祉活動をするための浄財、喜捨を募る運動を御宝号念誦運動と申しております。海外での教育、福祉活動、国内では高齢者の方々への活動、自然災害への援助、盲導犬、身体の不自由な方々への諸活動等々、高い実績を上げております。
平成七年には阪神淡路大震災が発生しました。未だあの未曾有の大震災のことは脳裏から離れませんし、その苦労、苦心がまだ癒されていない方も少なく有りません。この時も本山からこの寄金の捻出をいただき宗派を越えた活動、飲料水、炊き出し、その他の救援活動に役立てることが出来ました。これも皆様方のあたたかいお心、御協力、御支援のたまものです。御協力本当に有り難う御座います。これからも、あなたのお誕生日や、特別な記念日に、また個々へのお返し物もこの寄金への御喜捨、ご寄付にかえられるなど引き続きましての御支援をお願いしまします。お大師さまは、秘蔵宝鑰の中で「菩薩の用心はみな慈悲をもって本とし利他をもって先きとす」と述べられております。お大師さまを信仰する私達は菩薩の修行をしなくてはいけません。菩薩とは慈悲の心をもって人々を救う活動をなさるのです。お大師さまのご加護をいただきながら菩薩の修行の実践として御宝号念誦運動への参加と御協力と御支援に感謝申し上げます。
お大師さまの理想実現と皆様の幸せをお祈りして  南無大師遍照金剛

■祈りのこころ
皆さんは、御本尊様の前でお経を唱えたり拝むとき、どんな心持ちで、どういうふうに拝まれますか、お祈りされますか。お寺参りをしたとき、お寺の入り口にはきれいなお水が用意され手を洗ったり、口を濯いだりして身も心も洗い清め、清浄な身と心になって本堂へと参りす。このように、御本尊様にお詣りする前手には身も心も清らかにする、懺悔の祈り、自らの反省の祈りをします。お大師さまは自らの書、三教指帰下の中に「各々、我レハ是ナリト謂イ、並ビニ彼ハ非ナリト謂ウ」つまり、人は皆自分が正しく、他人が間違っていると思いこんでいる、と述べられています。私達の目は、外を見る為についています。そのためか、私達は人の短所は目に入りやすく批判、批評はお手の物です。でも人の良いところ長所を発見して誉めて上げればどうでしょうか、その人の能力、才能を伸ばし仲良く出来ます。友達も増えていきますね。自分を見るには鏡の前に立ってその姿を写すしか方法は有りません。ニキビが増えてきたな、髪の毛に白いのが目立ってきたな、しわが目立つきたな、と自分の外見の変化は鏡を通して見ることが出来ます。ところが、自分自身のすべてを見ているわけでは有りません、鏡にも映らない自分のすべてを振り返ってみる、心の中を見つめ直す懺悔、反省の祈りが身も心も清らかにし、幸せな人生を求める人には新たな前進となる大切な祈りです。 
次には感謝の祈り、有り難うの祈りです。阪神淡路大震災の記憶も世間では薄れてきたようですが。被災地に住む人達にとっては生涯忘れられ事が出来ません。またその中からいろんな事を体験し、学びました。苦しんで困っている人への援助活動、人々の助け合い、ライフラインの破壊による不自由な生活。蛇口を捻るとお水が出ます。平素はそれが当たり前えなのですが、やかん一杯のお水をもらうのに2時間3時間5時間と並ばなくてはもらえない苦労をして1ヶ月2ヶ月後に蛇口から水が出た喜びは、生涯忘れることの無いほどの感謝の気持ちがわいてきましたね、とお話しすると「そうだったな」と苦渋する方もいらっしゃると思います。病気になって病院のベッドに寝てはじめて健康のありがたさがわかる。不足して、無くし失ってみてはじめてわかる、ありがたさです。皆さんご自身はどうですか、家の中、友達、会社、そして私達の日常生活の中でも気がつかない事が多いのではありませんか。
これらを見出し、ありがとうの感謝の心を持ちたいものですね。私達は地球の、宇宙の、大自然の恵みと脅威の調和の中で日暮らしさせていただき、生かされていることに「ありがとう」の感謝の祈りを忘れてはいけません。そして、希望の祈りです。御本尊様へのお願いです。四国を巡礼するお遍路さんも、霊場を巡拝したり高野山にお参りされる方々も、何かの祈願、願いの成就を念じながらお参りされているのです。子供さんには野球、サッカ−、ピアノが上手になりたい、学生さんには勉強、志望校への入学、大人は仕事、家庭、そして健康、老人の方は寝込まないように、健やかな余生など、それぞれの願い、希望が有ると思います。人間として生き、人生の道を歩むのには目標、希望が無くては進めません。お大師さまは「虚空尽キ、衆生尽キ、涅槃尽キナバ我が願イモ尽キン」と万燈会願文で申されております。世の中の人がみんな苦しみから解放され、本当の幸せが得られるまで私の願いは尽きることがないと、いうのがお大師様の目標、希望なのです。高野山真言宗では、私達が日々の生活の苦しみ、願いを仏さま、お大師様におすがりしなさいと教えます。私達の人生を実り多いものにするためにも、幸せなものにするためにも前向きに生きる、目標、希望の祈りを大切にしていきましょう。反省の心、感謝の心、希望の心を持って日々の礼拝怠ることなく真の幸せを求めて、祈りの信仰生活に精進しましょう。 
 

 

■南無大師遍照金剛
四国八十八ヶ所を巡礼する人をお遍路さんといいます。昔は歩いて一ヶ月も二ヶ月もかかってお参りをしたそうです。現在はバスや自動車などを使う方が多いようですが、十日から十二日は必要だそうです。それでも、昔のように歩いて巡礼される方もいらっしゃるようです、とても大変ですが、その苦労の分すばらしい信仰体験をつまれるのです。お遍路さんの白衣の後ろには「南無大師遍照金剛」と書いて有りますね。また道中、心の中で南無大師遍照金剛と御宝号を唱えながら修行されるのです。
南無大師遍照金剛にはどんな意味が含まれているのでしょうか。一緒に考えていきましょう。「南無」はインド語のナモ、ナマス、ナマッハを音写つまり発音の音に近い文字で作った当て字です。意味は帰命、帰依する、永遠に、心から信じお従い申しますという信仰の誓いを表します。「大師」は偉大なる師、という意味で日本では大師号として朝廷から徳の高いお坊さまに贈られました。お大師さまは空海と言う僧名ですが弘法大師という大師号を九二一年朝廷から給わりました。日本では二十数名の高僧に贈られていますが、「大師は弘法にとられ太閤は秀吉に取られ」と言われるよう大師と言えば弘法大師、お大師さまのこと表すのです。「遍照金剛」はお大師さまの灌頂名です。大日如来と言う仏さまの別名なのです。奈良の大仏さまは正式にはルシャナ仏ですが、その別名は大日如来さまなのです。お大師さまが中国に渡り真言密教の教えを授かったとき、最後の仕上げとして灌頂と言う儀式を受けられました。目隠しをして合掌した手にはお花を持ち、仏さま、如来さま、菩薩さまの書かれた曼荼羅の上にその花を投げるのです。仏さまとの縁結びとでも言いましょうか、お大師様の花は大日如来の上に投げられたそうです。二回して二回とも同じ場所に投げられたそうです。この不思議に驚かれた恵果和尚はお大師さまに大日如来の別名遍照金剛を灌頂名として授けらたのです。
「遍照」とは仏さまの慈悲の光明で照らされていると言うことです。夜に街を歩いても街灯が有れば明るくて安全です、営業時間の終わったお店でも店内には電灯が灯されて防犯灯の役目をしています。暗闇では犯罪が起こりやすく悪がはびこりますが、明るいと安心出来ますし、悪ははびこることが出来ません、善の世界になるのです。太陽でも、電灯でも物に当たれば影が出来ますが、仏さまの私達を救おうとする慈悲の優しい光は影を作ることなく世界の隅々まで照らされているのです。「金剛」ダイヤモンドです。ダイヤモンドは最も強くて堅い物質です。またその原石を磨けばその輝きは素晴らしいものになります。私達凡夫をこの苦しみから救ってあげるんだと言う仏さまの堅い決心と不滅永遠の徳を表しています。遍照金剛、大日如来さまは全ての神仏の根本の仏さまであり、その大日如来の一徳一徳を表すと各々の仏になるのです。寿命を表すと阿弥陀さま、優しさを表すと観音さまと言う具合です。南無大師遍照金剛とお唱えになるのは弘法大師お大師さまを拝み、その後ろには大日如来さまが控えられ、また全ての神仏へとつながっているのです。御宝号の深い意味を噛み締めながら「南無」と信じるこころを開いて、「大師」お大師さまに守られて、「遍照」他人に対しても優しさ思いやりを持って「金剛」自分自身に厳しく、そういう修行の日暮らし信仰を持ち、お大師さまと同行二人の人生の道を、幸せに向かって一歩一歩精進して参りましょう。   

■六道のこころ
「死後の世界はどうなっているの」とよく質問されます。仏教の死生観も輪廻転生と言うインドの死生観から大きな影響を受けています。車輪のように、生まれ変わり死に変わりしてその輪廻転生の輪から抜け出て、解脱することを仏になる、悟りを開くと言います。我々仏教徒はこの仏になること悟りを開くことを究極の目標に掲げているのです。子供の頃、お寺で地獄絵などを見られた方も多いと思いますが、自分の行い、悪いことをしたら地獄に堕ち、良いことをしたら極楽に行ける、だから悪事を働かず、善行を行いなさいと諭されたのではないでしょうか。それではその迷いの世界である六道についてお話を進めてまいります。 
六道とは地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天、の六つの世界を言います。
地獄 針の山が有ったり、血だらけの大きな池があったり、嘘を言った人は鬼に舌を抜かれたり見るも無惨な苦しみの世界です。人殺しや、詐欺や、罪を起こした人達が罪の償いするかのような怖い世界です。
餓鬼 この世界に墜ちると餓鬼の姿になります。餓鬼は喉に火があり喉が渇いてお水を飲んでも喉の火のため蒸発して渇きを潤すことが出来ません。お腹が空いてご飯を食べても喉の火のためお腹までいきません、いつもお腹が空いた状態です、そのためお腹は大きく飛び出しています。人に施しをしなかった貪欲な人が墜ちる飢えに苦しむ世界です。
畜生 犬、猫などの動物の世界です。愚かな人間より賢い動物もいますが。本能のままに生き、親子でも食べ合いをする弱肉強食の動物の世界です。自分の欲望のままに本能のままに生きる人達、我慢をすることを忘れ、やりたい放題に生きる人達の墜ちる世界です。
修羅 喧嘩や、争いをする魔類の世界です。世界の至る所では、文化や、宗教を背景に争いが絶えません。殺し合いによって暴力によって何が解決するのでしょうか。私達は平和な安全な国で暮らすことが出来ます。この平和がどういった犠牲の上に有るか感謝を忘れてはいけません。
人間 生、老、病、死のある諸行無常の娑婆の世界、私達人間の世界です。他の世界よりはましですが、まだまだ苦しみの世界です。
天 天界は快適な世界です。然し、まだまだ輪廻転生の中ですので、人間よりは長生きですが寿命が尽きると生まれ変わりが有るまだ迷いの世界です。 
このように六道世界の一面は死後に対しての生前、今の生き方を戒めて、悪い行い悪業をつむなと教え、良い行い善なる行い善業をつめと勧めているのです。日常の世界に目を移してみましょう。  夏場によく経験してしまうのですが、夕食の時のビ−ルの味が忘れられず寝る前にもう一杯、次の日の朝頭が重い、体調が悪い。そんな経験は有りませんか。腹八分目で我慢すれば良かったものを欲の心を出してしまったのが悪かったのです。餓鬼の心です。社会的リ−ダ−になるべき人達の事件や犯罪が目につきます。また、離婚や不倫と言ったことも社会問題となってきました。自分本位な本能のまま、やりたい放題の過った生き方、理性を捨てた愚かな心がそんな事件を起こしているのです。畜生の心です。阪神淡路大震災の時、あのテレビの映像を見て「何かお手伝い出来る事が有れば」と駆けつけてくれた人はまさに天使のような心の持ち主でしょう。
六道は死後の世界に対する生き方を戒めている一方、私達の心の一瞬一瞬の世界を表しているのです。苦しみも幸せも、迷いも悟りも我が心の中にあるのです。お大師さまは、「仏法 遥かに非ず 心中にして即ち近し」と仰せになられているようにこの身体この心で悟りを開き苦しみから解放され幸せになれると、さとされています。自らの生き方、心の持ち方を真剣に考えながら菩薩への信仰の日暮らしをしましょう。 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
西福寺・法話

 

真言宗豊山派
千葉県船橋市  
 

 

■第1話 おもいやり 1
私は八人兄姉の末っ子である。過日、老境著しい兄姉と揃って温泉旅行に出かけた。興に乗り「何がしたかった?」の問いに、間を置かず、異口同音に「一人暮らしッ」の答えがかえってきた。そういえば、朝から晩まで、夜さえ一人ではなかった。日常茶飯事の通り、「ご飯よッ」の声に、素早くお膳に就く事から始まり、遊びも、おふろも一緒、夜も布団に二人ずつ納まって寝た。テレビだって一緒に観たから、チャンネル争いなんて、その頃の社会問題も誘発した。見事に、一日中、一年中みんな一緒の生活の中で育った。それは私の家だけの事情かというと、そうではない。日本国中が当たり前の生活様式であって、貧しいとか、悲惨という問題ではなく、ごく普通の環境がこれであった。この常に皆一緒の生活は、実は重要な心を育む精神道場であった気がしてならない。一緒ということは、自分の事だけを考えるのではなく、我慢もするし、相手にも優しい心も配る。ここに、他を思い、通い合う、いたわりの気配りの心が培われるのだ。古人や先輩は、生活が貧しくとも、不自由でも、見事に毎日の生活の中に「共生」をさせ、こころの修養を育ませて来た。新世紀は、無意識の気配りや、いたわり、「おもいやり」を、再度根付かせて、生かし生かされ生きたいものである。

■第2話 おもいやり 2
かたわらの小さな漢字辞典を取って、何げなく「おもう」という言葉を引いてみた。あるある「思・念・惟・想・意・憶・懐・情」これみんな「おもう」という事で、大きな辞書を開けばもっとあるに違いない。これには少なからず驚かされ、うっかり使ってきた言葉の大事さを、しみじみと感じた。「思」は「思案・思考・思想・思慮」― 心におもんばかるの義、「念」は「念願・念書・念慮」で― 常に思い、心にかける―こと、「惟」は「惟々・惟思」― ひろくおもうこと、「想」は「想思・想起・想憶」― こいねがうおもい、「意」は― こころばせ、考え、おもむき―で「意気・意見・意思」、「憶」はきおくするの義「憶念・記憶・追憶」、「懐」は― なつかしむ、心にいだく・しのぶ・いたむ「懐古・懐中・懐慕」のこと。そういえば「情人(おもいびと)」なんて言葉もある。外国語には一つの単語で、さまざまな心の動きの微妙さと、その意味の違いを表現することはできないと思うが、日本語の「おもい」にはその一言に、とても複雑で、奥深く、気配りや、いたわり、通いあう心、加えて情愛と値千金の価値がある。現代は自分が「おもわない」から、「おもわれていない」と信じている事がおおい。苦しさ、つらさ、悲しみ、泣きたい時。楽しさ、うれしさ、喜び、微笑みの時。いつも傍らに「おもい合う」方が居てくれたら、なんて幸せだろう。

■第3話 二者択一
1997年(平成9年)7月に公布され、その年の10月16日に施行された「臓器の移植に関する法律」は、人間の死を法律で定めたことで多くの議論を呼び、現在も脳死の判定基準や、臓器の提供者本人の意思確認ということに、納得できない倫理の不徹底さへの疑問を、投げかける者も多い。私もその一人ではあるが、違った見解ももっている。このごろの日本は変である。それは「二者択一」という、マークシート方式のままの、「良いか悪いか」「認めるか認めないか」「するかしないか」のような、予め設定された答えから選んで判断する、客観的な考え方が主流であるということである。入学試験や統計調査で、その集計の至便を図るために取り入れられたものが、今日では身近な事にも及んでいる。しかし、試験や統計のように、学力を試したり、大勢の平均を知る場合はよいが、「いのち」に拘わる大事は、さまざまな選択肢から、自分だけの判断があるべきではないだろうか。人は十人いれば十の、百人には百の、千人には千のさまざまな個々の「いのち」があり、「死」もある。だから、癌の告知や脳死や臓器移植の認知を、二者択一で判断してはならないし、法律で決めることもない。自分の「いのち」は、自分自身のもの。他によって左右されることもない。生涯を決定する大事に、自分を知り、自身で判断する覚悟を持ちたいものである。

■第4話 寿命
ホテルの名フロントマンとは、いかに空部屋をなくすかにあるという。だから、キャパシティ100室のホテルでは、予めキャンセルが生じるのを予想して、105室とか107室の予約を受けて、当日読みどおり5〜7人の取り消しがあり、100室が一室の無駄も無く、満室となるようにしなければならない。その日一室でも空部屋がでれば、生涯売り残しとして記録されるという厳しさである。一日々々に売り残せない、また過剰に予約も取れない。こんな緊張と非情の商売も、あまり例をみまい。それに比べると、毎日は何と長閑かで、退屈な一日であろうか。今日という日は、特段昨日と変わりはない。朝起きて夜寝るまで、仕事も家庭生活も変化はなく、精々誘われてたまに一杯やるくらいが変化である。漫然と一日が過ぎても、必ず朝はやってくる。今日一日・一時間を無駄にはできないなんて悲壮感はないし、短い生涯の一日を、売り残してしまったなんて感覚はない。「寿命」という言葉がある。「平均寿命」なんて語感から、命の長短をいうと思われているが、長生きするから「寿命」ではない。その命は短くとも、生きがいをもって、意義深い、質の高い生活を送ることこそ「寿命」である。今、一分一秒も無駄なく、生き抜きたいと願う方もいる。そんな方に送る言葉こそ、輝く命、「寿命」であろう。

■第5話 こころの洗濯
お寺や神社で賽銭箱に向かって、コインを投げ入れ、思いつくだけの願い事をしている人がいる。あれは本当に効き目があって、願い事も叶うのだろうか?チャリンと一個投げ入れて、すぐに願いが叶うとしたら、本当の所安すぎるし、本尊様も真剣に聴きゃしまい。じゃァ、なぜ仏様を拝むのだろうか。私達は格別に汚れていなくとも、毎朝きまって昨日の汚れ物を洗濯機に入れ、部屋に掃除機をかけ、庭の落ち葉を箒で掃く。同じように心も、一日の汚れをきれいに洗い落とす必要があるのではないだろうか。「こころ」の汚れはどうしたら、きれいに落とすことができるのか。人間には三毒「貪・瞋・痴」はあるという。自分のことばっかり考えたり、ささいな事に腹を立てたり、つまらないことにくよくよしたりする事をいう。この三毒は、一度犯せば、ずっと澱のように心の底に汚れとして溜まる。溜まった汚れは、どこかで浄化し清めなければならない。その浄化作用が、寺参りやお仏壇で、仏様に掌を合わせて拝む事なのです。昨日、吝薔(ケチったり)、怒ったり、愚かさで心を汚した者は、朝仏様を拝みなさい。仏様に掌を合わせて拝めば、たちどころに浄化され、清々しい気持ちになる。「こころ」が洗われるんです。「仏壇(賽銭箱)は、心を洗うランドリ」なんです。

■第6話 おかげさま 1
お釈迦様によって説かれた仏教のうち、殊にシルクロードを渡り中国・朝鮮半島を経て、日本にもたらされた北伝仏教は、大乗仏教と称され、大きく花開き、その国の生活そのままが仏教的な教義に結び付くという、その国の民族性となって、定着し展開した。例えば、「慈悲」は「南無(帰依する)」に変化し、「おかげさま」として、和製の言葉としても、実践行としても定着した。「おかげさま」という言葉は、日常茶飯事に耳にし、誰もが何げなく使っているが、日本に仏教がもたらされて以後、この言葉ほど、仏教思想が定着し、完全に消化され、そして純日本的に完成したものはないと思う。「おかげさま」は自分一人では生きられない。必ず自分以外の他によって、生かされていることに感謝し、更に他の存在そのものが、自分の価値観を向上し、人間性を高めていることに気づき、「おかげ」であることに、敬称の「さま」も付けて尊ぶのである。仮に介護を受ける老人がいる。その介護に携わる人は、この老人が自分の前にいる「おかげ」で、介護という尊い行為ができるわけで、「介護させていただく」という謙虚なこころが自然と芽生える。この「させていたただく」行為の積み重ねが、菩薩道を歩くことにつながり、仏への完成が約束されるのである。だから「おかげさま」こそ、仏教の主張「慈悲」なのである。

■第7話 おかげさま 2
1995年(平成7年)は、日本におけるボランティア元年という方がいる。あの恐ろしくも痛ましい、阪神大地震災害の起こった年である。あの日を境に、全国より被災地に対する援助の手がさしのべられ、たくさんの方々が現地へ駆けつけ、現在もなお、奉仕活動を続けている方もいらっしゃる。それを裏付けるように、その後起こった災害へは、いち早く救済のために、身を呈して、多くの方が奉仕活動をなさった。その素晴らしい活躍を非難する気持ちは毛頭ないが、ボランティアという奉仕が国外からもたらされて、日本に定着した活動ように思われていることに、異議を唱えたい。キリスト圏において、ボランティアやホスピスなどの救済や医療活動が確立するのは、実に1800年代の後半から、20世紀初頭の事で、開教後もずっと後で、そんなに歴史はないと認識しているが、「愛」の行為には奉仕という意味合いはあるが、その行為が奉仕者に撥ねかえって、奉仕者自身を向上させ、神格への手立ての証しと考えが至るのは、前述の如くずっと後なのである。一方仏教では、「慈悲」のなかには、まず奉仕があり、その対象者の「おかげ」で仏に至る、菩薩の道(成仏)が拓けるのである。即ち、「慈悲」は、させて戴くという、見返りを考えない「ボランティア」である。「おかげさま」を日常とする日本は、ずっと昔から「ボランティア」の国なのである。

■第8話 おかげさま 3
世界の宗教は数に限りは無いが、身近な宗教で対照的に言われるのは、やはり「仏教」と「キリスト教」であろう。どちらも会派はこれまた限りが無いくらいだが、二教の、その根本的教義によって立つべきことと、めざす心構えを、一言で述べろと言われれば、「慈悲」と「愛」になる。このことは、先刻誰も承知の事だが、甚だ雑なお方は、簡単に「慈悲も愛」も同じ、表裏一体のようなものだ、なんてことを言うことがあるが、絶対にそうではない。二つの宗教のスタンスが同じなら、同じ宗教になってしまうし、「慈悲」と「愛」が違うからこそ、教義が成り立つのである。これだけの字数で二教をいい表すことは不可能にちかいが、キリスト教における神は絶対神であって、原罪を負う人間は、神には成り得ないし、究極おそばに召されるのである。だから、「愛」の善行を為して、懺悔し、少しでも罪を軽く、お許し戴くのであろう。仏教における「慈悲」は、悟りをえるための、手立てであり、菩薩へむかう発心の表れである。即ち仏教は悟れば、成仏し、仏様に誰でも成れるのである。だから与えるだけの「愛」と、仏を目指す「慈悲」は根本的に異なり、他に向かう姿勢も、難儀な方に奉仕を「してやる」と、その方のお陰で「させていただく」の違いになる。「おかげさま」は慈悲の実践であり、この精神こそ、二十一世紀への提言である。

■第9話 知識と智恵[慧] 1
戦後半世紀を過ぎた今、教育の現場では、教育基本法の見直しやら、教育のあり方、教師の資質に至る問題が提起され、文部省が音頭を取って、その方策が論じられている。現代日本の近代化と文明の発展は、文化、経済、科学等全てを含めて、教育のおかげだといい切ることに、誰も異論は挟むまい。しかし、反面において、心の荒廃が叫ばれ、さまざまな社会問題が惹起され、その起因は教育の歪みだともいわれている。その一番の要因は知識教育のみが先行し、智恵(慧)の学習が忘れられた結果である。「智恵」とは、般若と同義に用いられ、仏教が目指す重要な実践体系の究極である。知識は、極めて客観的であり、一元的かつ相対的で理論派であるのに対し、智恵は主観的で、多元的でかつ主体的実践派である。子育でも、「知識」まず膨大な書物を紐解いて、その目的と理論を把握した上で、更に充分なシュミレーションをして、乳を与え、その効果を確認する。一方「知恵」は、まず子供を掌に抱き、温もりと愛おしさを持って、よく観察し、その都度、状況によって対処し、結果は考えない。瞭然、マニュアル文化からは、人間的な個性は育たず、芳醇で豊かな人生も望めない。戦後の教育から、宗教が消えたこと即ち、「智恵」の学習が忘失され、実社会の中で学ぶ(まねる)こころが失われ、結果、社会問題が山積し、現代があるのだ。

■第10話 知識と智恵[慧] 2
最近、車に同乗させていただくと、必ずカーナビゲーションシステム(カーナビ)が設置されていて、どんなに遠くても、かなりの小路も的確に情報が与えられて、誠に便利なものができたものだと驚かざるを得ない。しかし、何度か乗り合わせているうちに、おやおやと思うことも間々ある。やっと目的地の周辺にたどり着くと、非情にも道案内を突然に打ち切られ、結局そばまで来て、迷って予定時間に着かないなんて、笑えない話もあるし、勝手に運転者が自分の知ってる道を行こうものなら、再三に際しその補正に努め、しきりに是正を求める。このこと、知識と知恵を説明するのに持ってこいの譬えである。まさしくカーナビの道案内が知識で、自分自身の経験と感を頼りに、的確な判断で目的地へたどり着くことが智恵である。確実に地理を熟知したマニュアルがあっても、工事や事故のアクシデントに巻き込まれたり、途端にその道路が使用不可能になれば停車せざるを得ない。一方、自分の体験に任せる方は、臨機応変に判断して、難なく目的地へたどり着く。小学校へも入学しない幼児が、親と別々に目的地に向かい、早く到着する場合がある。親の常識より、子供の遊び慣れた智恵が、庭を横切り、垣根破れを潜って早さで勝つ。知識は多いほど、気持ちが豊かになれる。しかし、毎日の生活や行動は知恵なのである。 
 

 

■第11話 知識と智恵[慧] 3
「毒箭(どくせん)を抜かずして空(むな)しく来処を問わざれ」この言葉は、弘法大師が比叡山の最澄上人(伝教大師)から『理趣釈経』という密教経典の借用を書面で依頼されたのに対し、断りの返書をしたためた中で述べられたものである。もともと中阿含経にあるお釈迦さまのお逸話で、「毒矢が体に突き刺さったならば、先ず矢を抜くことが肝心で、この矢はだれが射て、どんな弓か、何処から飛んで来たかを解明することではない」 密教の受法もおなじで、書物を借りて読んで理屈によって会得できるものではない。ひたすら心を虚しくして、他心なく法を受ける事が肝心なのである。即ち、文字では法は悟れない。身を捨てて体験する中で、真の生きざまの中に、本当の生きがいが生まれてくるのだ。このことは、マニュアル文化と言われる昨今の事情と似ている。子育てや老人の介護がそうである。今、書店の棚には四畳半が埋まるほど、関係書物が書かれ、販売されている。全てを読破して、子育てや介護ができるだろうか。又、そうして欲しいと望むだろうか。それより、おんぶに抱っこの温もりの抱擁と、慈しみの思いやりが大事なのだ。勿論、知識は大事で、背中のカバンにたくさん詰まっている人程、人生は豊かである。しかし実生活では、先人や先輩の智恵を借りて、真似(学)ていく、これが理想だ。

■第12話 相互互助
仏教の教義が普遍し、実生活の中に生かされ、日本人の生き方の実践的知慧として、日常で定着したものに「互助」がある。これは共生する者が考えた、合理的な精神に支えられた、頼りがいのある知慧である。しかし近ごろの社会生活において、「互助」が姿を消しつつあるから心配である。かって、祝祭や仏事は相互の「互助」に支えられて、成り立った。即ち、隣人に祝い事や難儀が生じた場合、いつかは必ず自分自身にもそれがもたらされる事をきちんと受け止めて、他への祝いや苦しみに駆けつけて、互いに助け合って、共に喜び或いは悲しみを乗り越えたのである。殊に「生老病死」の四苦は、どんなものにも平等に忍び寄る苦しみであり、この苦を乗り切るために、人間は一人ではどうにもならないことに気づき、自然に「互助」という助け合いの精神が生まれた。だが、最近はお葬式などもホールで執行したり、介護なども近所の親しい手を借りることもなくなった。たまたま、自宅葬や家庭介護を余儀なくされると、狭い、汚い、駐車場もない、人の出入りが煩わしいなどと、隣から非難をあびる始末であるという。人生至上の時、やり切れない失意の刻、傍らに共に喜び、悲しむ方がいてくれたら、悦びは倍増し、悲嘆はきっと半減するだろう。あぁ日本人はいつから互助精神を忘失し、尊大になり、利己主義になったのだろうか。

■第13話 互助 四苦八苦
お釈迦様はカピラ城の王子様として生まれましたが、ある日、城の門から街に出られ(『四門出遊』という良く知られた話)、人間には四つの苦しみがあることを知ります。この世に生を享けるという事、老いる事、病に冒される事、死が訪れることの四つは、誰にでも平等に訪れて、避けることのできない「四苦(しく)」だと気づきます。最初の「生まれ」が何故苦かということは、あまり日本人には解らないかと思いますが、自分では親を選べないと云うこと、貧富のはげしいインドでは、生まれた境遇に人生そのものが約束されるから、苦なのです。更にお釈迦様は、人間にはもう四つの苦しみがあることに気づきます。どんな愛おしい人とも別れなくてはならない事『愛別離苦(あいべつりく)』、逆にどんな嫌な人とも会わなくてはならない事『怨憎会苦(おんぞうえく)』、求めても求め切れない事、『求不得苦(ぐふとっく)』、体が盛んになり、年齢とともに、それぞれの場で出会う困難な事『五蘊盛苦(ごおんじょうく)』の四つです。「四苦」にこのあとの四つの苦しみを加えて「四苦八苦」といいます。人生「四苦八苦」といいますが、この苦しみを克服することに、お釈迦様はいどまれ、難行苦行の末、お悟りを開かれました。一人では苦は克服できない。仏教の共に分かち合う互助精神こそ、真の人生の安らぎを共生する、苦滅の祈りなのです。

■第14話 互助 香奠
お葬式になると必ず、お悔やみの印として「香奠=典(こうでん)」を、先様に持参することになるが、今日では香奠の意味も目的も理解しない方が多いと思う。香奠は、もともとインドにおいては、遺体の腐臭を消すために、香木を焚きこめることが転じて、「良い香りを供える」「香しい匂いを供えるしきたり」になり、清らかな香を供える資に変じた物であろうと思われる。だから香奠の本義は、お葬式に係る費用の相互の負担であり、緊急の一人では賄えない扶けとして供えられるものなのである。以前はどこの家でも「香奠帖」を管理して、知人にご不幸があれば、先ず香奠帖を開いて確認し、戴いた相手ならば必ずお悔やみに参上し、香奠をお届けした。また香奠帖に記載がなければ、知人でも告別式のみにお邪魔し、焼香だけでお悔やみを済ませた。昨今は、お悔やみに伺う方が全てお香奠を持参するのが当たり前で、家族がそれぞれお香奠を持って行く場合も間々ある程で、焼香もしない他人の香資を預かり、返品のお茶を3個も5個も下げて帰る人もいる。だから、やれ通夜・葬儀・四十九日忌までは「御霊前」で、それ以降は「御仏前」などと、真顔で説明する人もでてくる。ちなみに「御香奠」が正しく、「御香資」「御芳資」と書くも良い。急な物入りを扶けあう、先人の素晴らしい相互互助の智恵が「香奠」なのである。

■第15話 互助 布施 1
最近の社会問題の一つに、仏教界の戒名問題があり、全日本仏教会は「戒名(法名)料という表現・呼称は用いない」と、発表した。このことは、真面目に寺院運営をなさっている住職にとっては、当然の事で、いまさらと言う感じだが、私見を述べたい。もともと「戒名料」も「お経料」もない。寺への御礼は、その基本は奉納であり、布施(ふせ)といわれ、原語は「ダーナ」、本義は「ほどこし」で喜捨(きしゃ)といい、貧しい方や仏教修行者に、見返りを考えない奉仕を財で与える事をいいます。ダーナは、「檀那」と音写され、「檀」は仏教にとって極めて重要な、菩薩への六つの基本的な実践行の一つとされています。実は「檀那様」は、奥様のものではなく、お寺のものなのです。寺の運営は、もともと営利を目的としたものではありませんから、利益の追求もしません。だから寺の経営は、すべてこの見返りを考えない「布施」によって賄われます。仮に百軒の檀家(寺へ施しをする家)を持つ寺が、百万円を必要とするとする。民主的に考えれば一軒当たり一万円の負担になるが、十万円を用立てる家が三軒、五万円の家が四軒あれば、残り五十万円は九十三軒で用立て、一軒の負担は五千余円と軽くなる。護寺をして戴くのは、民主的な計算では平等では無く、檀家さんが共に補い合って寺を守る。布施が互助という証しです。

■第16話 互助 布施 2
NHKの番組クローズアップ現代で、「戒名料」を取り上げたプロデューサーが、番組俎上は戒名料は宗教の現代問題なのだといい、ある評論家は消費者問題だと言及した。これは端的に、今の仏教事情を言い表していて、宗教そのものが現代問題なのだから、言い訳のしようもない。戒名の仏教教義は別にしても、寺側にも責任はあるが、寺と信徒の相互関係も十分に理解し認識してほしい。日本における仏教主と信者の関係は、死者儀礼が確立して後、堂宇の回りに墓所を建立したため(逆もあろうか)、参詣の至便とお堂の管理面からも、檀家制度が発達し、寺と家という実に緊密な関係が芽生え、僧侶と信者という個々の信仰関係が薄れた。この家々と寺の関係の檀家制度は、保証された宗教の自由という、個人の基本的人権上では、甚だ人権無視の制度ではあるが、寺を経営するものにとっては、誠に都合の良い習慣となって今日に至っている。即ち、不特定の個々の布施(喜捨)によって成り立つ運営が、家という予めに約束された、特定の信者集団によって支えられているのだから、これほど強固な護持はないのである。これは先人の、物を共有し維持するための、労力や財の負担を軽く分配するという、卓越した知恵の結晶であろう。だから、分限の違いによって、公平にそれぞれが負担し、互いに扶け会う強固な護寺制度が確立した。ここに布施が、互助という根拠がある。

■第17話 互助 檀家
先述のとおり、日本仏教は寺の維持管理や堂宇の造立には、普請(ふしん:建設の仏教語で、広く寄進を集めてお堂等を造営すること)の語が示すように、檀家制度という特定の組織によって、その賄いや経費が集められ経営されてきた。このことは、より密接な寺檀の関係を確立し、自分たちの寺意識が芽生え、組織としての秩序や相互の役割も分担された。しかしその負担は、極めて民主的に平均に分割されたかといえば、そうではなく、合理的な分限による負担によって、自然になすがままの、極めて複雑多岐な、逆に極めて素朴で簡素な方式でなされた。町を維持する町会費の負担などにも、その習慣は残されている。これに対して寺側は、檀家という特定の信者の組織を大事に扱い、決して差別ではなく、個々にその分限による(これ又極めて複雑多岐な、逆に極めて素朴で簡素な)方式で、寺と檀家の関係を営んでいった。戒名等もそうで、本来各宗の教義に則った各々の意義はあるが、相互互助的発想からいえば、分限による温かい喜捨への、寺側からの御礼的な行為であり、「諡名(おくりな)」という所以である。だから、檀家外には戒名は授けないし、生前に戒名を授かった方は、檀家として登録され、菩提寺との約束がなされるのです。菩提寺を持たない家は、当然「相互互助」からは外れるのです。

■第18話 「空(からっぽ)」という事
インドで開かれ北伝した大乗仏教は、シルクロードを経て中国へ、更に朝鮮半島を進んで日本に根付くが、その教えをたった一言で説明すると「空」ということになる。私たちが、常々存在していると思っているものは、勝手に自分で思っているだけで、本当は何もなくて、からっぽなんだといこと、それを「空」という言葉で表現する。だから何も無いことに、何時迄もこだわらずに、心をからっぽにして拘りを捨てれば、悟りの境地に達することができる。「般若心経」というお経は、わずか二百六十二字で「空」の教義を簡潔に説いた、極めて稀な重要経典である。多いと少ない、きれいと汚いは、どこまでが多くて、どこまでが少ないか、きれいと汚いはどこで区別をつけるのか、色だって本当の赤や緑は誰も解らない。ただ見たり聞いたり感じたまま、自分で思い込み、その思い込みに拘って、汚いとかきれいと思い、多いとか少ないとかで一喜一憂する。人間同士もそうで、ちょっとのお付き合いで、一生の友と断じて裏切られて恨んだり、ほんの少しの欠点をあげつらって、その方の全ての人格を評価したりは日常茶飯事である。人間って、けちだったり、大酒飲みだったり、ギャンブルが大好きでも、好人物はいる。真面目人間でも悪人はいるものです。一面のみに拘らず、心を空っぽに、大らかに構えると、大事が見えるものなんです。

■第19話 「空(からっぽ)」 2
良寛和尚の偉大さというか名僧たる所以は、子供に愛され、大らかな生き方と、その残された書の素晴らしさは言うに及ばずながら、実は大乗仏教の「空」の教えを、見事に体得し実践された方だということにある。和尚は、新潟県の西蒲原郡分水町の国上の山麓に五合庵を結んで、里の人々と穏やかで、一方で人間臭い人生を謳歌された。その生活は質素で、一つの鍋で顔を洗い、手足を濯ぎ、煮炊きをして、回りの人々を驚かせた。このことは有名な話なので、誰でもが知っている事だが、良寛和尚は貧しくて一つの鍋で、生活したのではない。汚いとか奇麗には、どこまでが汚くて、奇麗かなんて区別も境もない。仮に貴方が喉が渇いたとき、私がトイレの手洗いの水をコップに差し出したら、喜んでおいしく飲めるだろうか。きっと怒って払いのけるに違いない。でも水を汲むところを見ないで差し出されれば、きっと甘露の慈水と飲み干すだろう。日本ではトイレも台所も同じ水である。飲めないのはトイレの水は汚いという、拘りがあるからで、そんなものは取るに足らない。だから洗ってしまえば、鍋は何の汚れも無く、煮炊きしても一向にお構いなし。「本来無一物(ほんらいむいちもつ)」「無一物中無盡蔵(むいちもつちゅうむじんぞう)」この教えを、何のてらい無く実践したから、良寛和尚は名僧なんです。

■第20話 バーミヤンの大仏破壊
世界的な文化遺産であるアフガニスタンのバーミヤンにある仏教遺跡が破壊された。その模様はテレビや写真でしか伺い知れないが、砂ぼこりを巻き上げた爆破の瞬間は、眼を覆う有り様で、大石仏は全壊と言ってよいほどに無残に腰から下を失っていた。イスラム原理主義タリバーンが心酔し絶対法と信じて止まないコーランの偶像崇拝禁止を実践したことによる、愚行・蛮行である。このことは、俄に日本の仏教徒には解り得ないが、イスラムにおける偶像崇拝禁止は、彼らが信じる神は、絶対であり唯一(仏教以外はすべての宗教がそうであるが)で、その神と契約することが信仰であることから、自分自身が全く偶像を崇拝しないだけでなく、他の宗教の崇拝対象の偶像の存在も容認できないという、極めて排他的な主張により破壊が実行されるのである。しかしこの事実は、ことタリバーンだけの愚行では無い。今世界の各地に勃発する民族紛争(何故マスコミが 宗教紛争 と報道しないのか不思議である。)全てが、同次元の野蛮で愚かな争いなのだ。東西の冷戦が終わり、社会主義が崩壊して尚、いまだ争いが治まらないは、キリスト教やイスラム教、ロシア正教、ユダヤ教などの、絶対唯一の神を信奉する、排他的な狂信の対立に他ならない。絶対神をもたない仏教は、大らかで包容力に富み、他と調和し融合しあい、唯一争いを求めない、平和主義の宗教だと断言できる。 
 

 

■第21話 映像の嘘 1
終戦間際の誕生の私(と言うことは、映画産業の一番華やかな昭和三十年代を、青春時代と共に送った)にとって、映画程心ときめかせたものはないし、文化もファッションも憧れも、情報全ての収集源であったから、月平均10本の割りで、劇場へ出かけて見ていた程の熱狂的な「映画おたく」であった。時代劇は勿論、現代劇や空想の科学物など、殊に洋画はまだ見ぬ世界の国々の街角や、その織り成す情景にしびれ、粋なギャングの仕草にも胸をときめかせ、文化を盗んでは、早熟な青春を謳歌し、映像と共に駆け抜けた。しかし、この時代に映画に魅せられたことは、映画の本質をきちんと認識した点で、極めて有意義なことであったと、見続ける現在においても感じている。それは、映画はあくまでも虚構だと言うことである。脚本も俳優も演技も背景も全てが虚構で、アングルやカット、照明、トリミングで編集し創り仕上げた、実在しない世界なのだ。しかし、1969年のアポロ11号月面着陸成功とコンピュータ・グラフィックの科学の進歩と普及は、映画の虚構性を根本的に変え、技術的に稚拙にしか表現できなかった虚構では満足できず、本物以上に本物だという虚構を、提供せざるを得ない現実となった。嘘だと認識して見る映画と、現実を越えた嘘を、映像で体感して、知らずに虚構を現実として肯定して、本当と信じてしまう。今、映像は重大な現代問題を誘発している。

■第22話 映像の嘘 2
先章の映像の重大な社会問題とは、創られた嘘の事象を、あたかも本物の如く思い込むという事にある。そんなことは現代では当たり前で、別に重大なことではないように思われがちだが、そのものが嘘だとわかって、嘘を楽しむ分には良い。しかし、嘘だとわからずに、初めから実在するものと信じるところに問題が生じる。恋愛劇や時代物は良い。しかし、空想物や戦争、暴力や破壊や傷害は、見る者にとって極めて現実味溢れる映像は、いやが上にも臨場感を煽るが、暴力や破壊や傷害の、痛みや血しぶき、つらさや悲しみは傍観する第三者には直接肌には伝わらず、その事象だけが現実のごとく残像し、本当に思えてくる。曾て60年代迄の映画は、SF(サイエンス・フィクション)物や活劇では、宇宙科学も、壊れる家もビルも、崖から落ちる車も、稚拙な「特殊撮影(トクサツ)」技術を最大限に駆使して、本物らしく破壊されて、見る者も嘘と心得て、本当の事のように納得した。68年「2001年宇宙の旅」、75年スティーブン・スピルバーグ監督の「ジョーズ」は、本格的SFX(スペシャル・エフェックス)の幕開けとなり、90年代の「ジュラシック・パーク」「インディペンデンス・デイ」「タイタニック」「マトリックス」は、愈々CG(コンピュータ・グラフィックス)の登場で、本物以上の創り物が画面を席巻した。映像は嘘。嘘を本当と信じない事である。

■第23話 映像の嘘 3
スティーブン・スピルバーグの「ジュラシック・パーク」や、「ゴジラ」をご覧になっただろうか?SFXを駆使する90年代の映画産業は、ハイテク技術革新の企業戦争と言われ、80年代後半から発達したデジタル技術により、CG(コンピュータ・グラフィックス)作品が軒を連ね、ドラマ作品「フォレスト・ガンプ」にも使用されるようにもなった。このことは、映画産業のみに止まらず、玩具やゲームにも取り入れられ、世を挙げてCG時代の幕開けとなった。テレビゲーム等も、極めて精巧で実際的な、効果の高い成果を上げ、プラティカル・エフェクトといわれる、迫力と凄みを、より求めるようになった。こうなると、映像を見る側にとっては、どれが本物で創りものかは、判断する事は容易ではなく、誕生と同時にその映像画面にだけ慣れ親しんだ者にとっては、全てが本物という実感が湧いてくる。ここに映像の嘘を、本当と思い込む故の非情な悲劇が生まれる。所謂「十七才の犯罪」の病巣である。映像の嘘を本当と思い込む妄想は、現実と空想の境がなく、両方の世界が同時に進行し、あたかも実存するごとく、日常に現れる。人を殺しても、傷つけても、痛みや血で汚れる事もなく、破壊音さえ効果音に聞こえる。暗い部屋で映像を凝視する眼は、妄想と現実を惑わせて、人間とは別の人格を創るのだろうか。

■第24話 死後の決定権
1992年、「サザエさん」で有名な漫画家長谷川町子さんが亡くなった時、個人の遺言で35日間公表を伏せたことが始めてのように記憶するが、その後有名な方では柴又の寅さんの渥美清さんが、1996年「死んだ顔を見せるな。家族で送り、骨にしてから公表しろ」と、世を去った。同じ年、名女優で、素敵な随筆家であった沢村貞子さんが、「葬式の自由をすすめる会(会長安田睦彦)」に入会、先亡の映画評論家のご主人大橋恭彦さんの遺骨を納骨せずに安置なされていて、共に自宅から望める神奈川県相模灘に散灰(自由葬)された。どなたも、大騒ぎせずに、自分らしく世を去りたい、私人としての矜持をお持ちで、清々しくて、とても人間性が感じられた。勿論、法的にも規制が無いわけで、法務省刑事局や厚生省も、節度や、国民の意識、宗教的感情の動向を見守る、コメントをした。しかし、宗教家の端くれには、何とも寂しく、事後を無心に託する、人間関係への甘え(全てを残されたものへ託す)があっても良いのでは無いのかと、忸怩たるものがあった。曾て、死後は託すもので、死んだ後のことまで、自分で決めることは無かった。それでも、残された遺族は供養をし続け、33年後の回忌もきちんと勤めた。普段、他を思っていないと、思われなくていい、「自分の事は自分」なのだろうか。ファンあっての生業だから、一層感じた。

■第25話 散骨
1991年10月5日「葬送の自由をすすめる会」が、神奈川県相模灘の外洋で、遺骨を海へ撒くという、自由葬「散骨」を実施した。このことは、戦後50年余りを経た現在も、遠く戦地に残された戦死者の遺骨を、何としても祖国へ持ちかえりたいと切に想う日本人の情感に、全く異質の民族性が突如芽生えたかのような、違和感を投げかけた。古来、遺骨は必ずお墓に納めるもので、お墓以外に収まるところは無く、だからこそ遠く外地へ赴き、無名の遺骨であっても遺品と共に収集し、せめて日本の地に埋葬してあげたいと誰しもが願い、合葬されたそのことだけでも、故人の無念を晴らした事として、想いを偲んだ。そんな日本人の情感とは異質の行為は、驚きと侮蔑の眼で迎えられると直感したが、思い過ごしで、一部では歓迎され、極めて好意的にマスコミに取り上げられ、後に続く人もふえた。早速、法務省刑事局は「刑法190条の規定は社会的習俗としての宗教的感情などを保護するのが目的だから、葬送のための祭祀で節度をもって行なわれる限り問題は無い」とし、厚生省も現行の墓地埋葬法には抵触はせず「国民の意識、宗教的感情の動向を注意深く見守って行きたい」という見解を示した。今、日本人の生死の行方は、自由という権利主張で変質し、寄り添い、助け合い、託しあう、共生の瓦解がはじまっているのだ。 (注)刑法190条 【死体遺棄等】 死体、遺骨、遺髪又は棺内に蔵置したるものを損壊、又は領得したる者は3年以下の懲役に処す

■第26話 豊かさのうらがわ
このごろすこし変で、折角物が豊かにあって、生活水準が上がったと思うのに、自分だけ良いように考えて、他の人は無視するか、差別するばかりです。子供のころ、物が一つしか無いのはあたりまえで、ラジオも一つ、テレビも一台、ごはんのおかずだって、兄弟が沢山いるのに、一つのお皿や丼に一緒盛でした。そりゃァ、チャンネル争いや、兄や姉に御菜をとられるたびに喧嘩もしました。でも、喧嘩をしながらも、自分だけが良い思いをするなんて、利己的な考えはありません。部屋だって、布団も一つだったんです。だから、暑い時はなんとか涼しく、寒いときは体を付けあって、ワイワイと寝ました。お互いにいつも相手のことを考え、相手のいいように、自分だけ得をしようなんて思わなかったんです。今、学校へ通うと、いじめや暴力や差別が始まります。不思議でなりません。学校はみんな仲良くする所です。どうも、いまの世の中、なんでも豊富で、生まれたときから全部自分ひとりの物が多すぎて、相手が素敵な物を持っていたり、自分より劣っていたりすると、すぐに妬んだり、ばかにしたり、いじめたり、暴力を使って自分の思いどおりするのではないでしょうか。子供の時から一人部屋、豊富で、侵されない生活は、思いやりのない、協調性に欠けた自己中心的な人格を創りあげるようです。

■第27話 冥界の鏡
世の中、人知れず隠れて犯した罪や社会悪を、一体誰が明快に裁くのだろう。例えば、戦後の幾つかの疑獄事件である。完全に有罪でありながら、その金銭の受け渡しが、確かな犯罪としての証拠を提供できない場合は、彼らに有罪の判決は下されない。また、現代社会の歪んだ構造や、教育の荒廃が生んだ、ひそかで陰湿に繰り返される情報機器の犯罪や、校内の暴力や蔑視である。腹立たしい限るであるが、その露見はほんの一部で、結果が死を招く大罪なのである。では、この彼らの厚顔さが、法の裏側でまかり通ったとき、いったい誰が悪を裁くのか。「浄頗梨(じょうはり)の鏡」。冥界で亡者の一々の罪業を映しだす鏡。「お前の行き先は地獄!」。よく冗談で口にする言葉である。実は、この言葉の中に、千金に値する生活規範が隠れている。曾て、人々は自分の生涯が「冥界の鏡」に、克明に映し出される事を信じ、恐れ、恥じ、懸命に忠実に生き、来世に苦しみ、科の無いことを祈りながら生活した。「それは単なる迷信」と、嘲笑するもよく、信ずるもまた良である。しかし、21世紀の現代こそ、本能に赴くまま振る舞うのではなく、これだけは守ろうという「冥界の鏡」を、一人一人が必ず持ちたいものである。

■第28話 新幹線症候群 1
「新幹線症候群」は、尊敬する先輩吉田生而先生の造語である。症候群は、普通はカタカナ語でシンドロームと表現され、もとは医学用語で身体に同時に発生した一連の症状というが、今日では「……の傾向」とか「……的性向」という意味に用いられると辞書にある。だから、「新幹線症候群」は、新幹線に乗ったお客が同じような思考状態に陥るように、社会においても同傾向の思考性癖をもつ症状が表れると言うことであろう。昭和38年新幹線が初めて、東京〜新大阪間が開通したとき、わずか6時間という早さは異例中の驚愕で、朝一番で出掛け、会議をすませ最終で帰るというフットワークの軽さは、出来るビジネスマンの誇りであった。しかも、現在は新幹線網も九州、北陸、東北まで延び、東京と新大阪間は最短2時間半、飛行機の搭乗手続きや空港までのアクセスを考えると、航空機よりも明らかに迅速である。しかし、新幹線の使命は、安全にいかに早く目的地に到着することにあるとすれば、乗車即目的地に到着が理想である。近頃は、途中停車の多い号車に乗り合わせると、時間の無駄をしたように感じる。この乗車即目的地下車の「結果オーライ的傾向感覚」が症候群の兆しで、教育、スポーツ、人生など、全ての社会行動にある。乗る前から降りることを考える「新幹線症候群」は、ゆとりと潤いのない、無粋で非情な社会の、異常症状といえる。

■第29話 新幹線症候群 2
吉田先生から「新幹線症候群」の話を聴いたのは、10年以上も前の気がする。真言宗の教理を説くために新幹線の話をなされ、乗ったら降りる式の結果だけを重視して、悟りのみを求めるのではなく、一つずつ積み上げる修行の果てに悟りに達するように、その修行の過程が大事だと力説された。今、教育もスポーツも、日頃の多忙を癒す旅行さえも、その過程は誰もあまり大事にせず、結果オーライ主義が蔓延している。教育は試験地獄が示す通り、幼児教育においてさえ、いい小学校、より親の見栄を満足させる中学校へ入学するための幼稚園であり、子供の資質や能力、やがての将来を考えて、いかに学園生活を過ごし、よい友人に恵まれるかは、選択肢には無い。スポーツも結果ばかりで、オリンピックも金・金・金でうんざりするし、サッカーもイチローも結果ばかり、だからtotoなんて馬鹿な賭けに夢中になるし、連続安打中断に真顔で嘆く。スポーツは汗を流し、その技や気力、競い合い、そこに白熱する瞬時と友情とスポーツマンシップに酔いしれるのだ。海外旅行だって、着いたら又その先へ飛び回り、土地々々の機微に触れる余裕も無い。人生さえも、やれ「散骨」だ「死後の決定」だと、「新幹線症候群」に冒され始めた。余生は鈍行に乗って、駅弁をひろげ、回りの景色を楽しみ、ゆっくり行けば良い。終着駅を考えたら、おしまいでしょう。

■第30話 新幹線症候群 3
医師や看護婦さん、ソーシャルワーカー、主婦の方と結成した「生と死を考える会」の執行部を10年目で退任させて戴いた。理由は、ふと思いついて始めた、新聞の切り抜きが原因である。その年の1月元旦より、ニュースやノンフィクションは別にして、「死」という言葉が、どのくらい紙面に載るかを、スクラップしてみた。あるある。曰く「死を看取る」「死を考える」「よりよい死を」「死の準備」「死後の処し方」「安楽死」「尊厳死」「老いと死を」「死の医学」「脳死」「生と死を問う」等など、死のオンパレードである。その内容は他人事で、死を体験し、死後を見たかのようで慄然とする。日本人はいつから、死ぬことばかりを考え、語るようになったのか?半月で、スクラップは一冊になった。重く心に残り、「生と死を考える会」を主催する自分も、その仕掛け人の一人と気が付いたとき、これはいけないと思った。大まじめで、時代の先を歩く一人として、「死の準備」の啓蒙には、かなり早くから参加して来たし、自信もあった。「辞めよう」と思った。死は誰にも語れないし、語る必要もない。命は人それぞれ、命あるかぎりの「安楽生」や、「尊厳生」ならばあると断言できる。「安楽死」や「尊厳死」があるはずがない。途中下車より、無心に生涯を翔るべきだ。 
 

 

■第31話 新幹線症候群 4
「十四無記(じゅうしむき)」という釈尊の教えがある。仏教語大辞典によれば、「無答記ともいう。他の諸宗教諸学派から向けられた十四の形而上学的質問に対して、釈尊が黙して答えを与えなかったこと(『倶舎論』)」とされ、釈尊が異教徒から「世界は常であるか、無常であるか。有辺か無辺か。如来は死後存するか、存しないか。」等の十四の問題に全く答えなかった事を言うとある。「無記」の教えは、解らない事を、ことさら問題にしても意義もないことで、「善でも悪でもない。果報をもたらさないこと」は、「記録」にも値しない「訳のない」ことで、全く答える必要すらないという事であろう。今、現代社会はこの「記録」にも値しない「訳のない」ことに、何と無駄な時間と労力を注いでいるか、実感としてある。科学の進歩が、多大なる社会の文明化と恩恵をもたらしたことには、感謝と賞賛は惜しまないが、反面すべてをあからさまにしなければ、文化では無いような風潮がはびこり始めて来ている事には、不審を抱く。死後や死に対する命の問題もまさしくこれで、釈尊さえ黙して答えなかった事を、大問題のごとく口角泡を飛ばして論じる者の、口車に乗らないことが賢明である。クォリティー・オブ・ライフ。これさえもメディアの誘いには乗らず、自分を如実に知り、自身の価値ある生活を工夫し、今の刻を無駄なく生き抜くことであろう。

■第32話 崩壊した人間関係
現代の社会問題の起因は「こころの荒廃」であると叫ばれて久しい。多分に被害妄想狂の類い過多で申し訳ないが、この荒廃ぶりは、単に政治や社会、教育の在り方の政策の欠陥を因とするきめつけは、あながち外れではないが、もっと根本的な原点を探れば、1945年8月15日に有ると確信に近い思いをもっている。それは占領政策の結果がもたらしたものということで、政策すべてに日本の民族性や国民性、生活様式、習慣、依ってきたる人生観、生死観というものを含めて破壊し、新生日本人を創りだすことに目的が有ったと、盲信を抱いているからである。だから、戦後の政策や教育の制度は、その政策が結実すればするほど、かつての日本人らしさを失う結果になるといえる。このことは、日本のこころであった「より良い人間関係」が、完全に崩壊した現実が事実を証明している。「親と子」「教師と生徒」「医師と患者」「家族と老人」「寺と檀家」「男性と女性」など壊れた関係は枚挙に暇ない。より良い人間関系の崩壊は、個人の尊重という美名に隠れて、問題を惹起しているのだ。かって、日本の心であった、より良い人間関係は、同志の絆がよく回転して、社会問題として、惹起される前に、単純な家庭問題として、周囲の者の手によって、摘み取られ、大らかに解決して来た。今、その実態すらも見えず、解決策もない。

■第33話 消える美学
毎日漫然と過ごしていると、緊張感というか、感覚や反応も鈍くなって、物事をなおざりにしたり、明日に持ち越したりは当たり前で、近頃の便利さが、今という時の大切さを、忘れさせるように仕向けるのか、一々記憶する煩わしさの逃避をも増長させるらしい。コンピューターやビデオ、コピー、携帯電話、事務機器、など全てが、今を記録保存してくれるから、対峙する緊張感も薄れる。仕事や情報は、まこと至便でありがたいが、現代社会の文化や生活の分野に、要らぬ記録が及んでくると警告を発しざるをえない。今、テレビ番組は食べ物と温泉旅館で構成されて幾久しいが、辟易としているのは誰も同じと思うが、固定した視聴率を稼ぐから成り立っている訳で、文句は言えない。しかし、食感や体感は、自分の舌や皮膚の感覚で味わうもので、人様が「美味しい!」なんて貧しい語彙で表現したり、浸かりもしない温泉の熱さや、もてなしの感激を伝えても、うっかり信用しないことである。本来、食や芸は瞬間に消えていくもので、人に依って去来し、瞬間の出逢いが、極めて重要な要点で、記録や評価は無用である。瞬間は一度しかないし、職人や芸人との一瞬の機微や駆け引きが肝心で、大層な事だが、今やこの刻は二度とない覚悟が肝心である。味覚や聴覚、視覚は、再びまみえないから、常に作り手との適度な緊張感と、研ぎ澄ました自分の繊細な感覚が大事なのである。

■第34話 瞬時の邂逅
今更、食通や芸通を気取って、粋人ぶったりはしないが、日本人だけがもつ味覚や視覚、聴覚は、格別のものだと自負をしている。しかしこの頃の、安直で、マスコミや情報過多に踊らされている風潮に苦言を呈したい。やたら高額なものに(得てして店の思惑通りにはまって)妙に感激して悦に入ったり、ラーメンなんて大衆食にも(これが又、妙にこだわる店主や客がいて)、したり顔で能書きをいう輩もいる。曾て吾が先輩には、今のテレビや食のガイドブックのようではなく、本物飲みがもつ世界や心意気、主人との駆け引きを、その遊びの中でさりげなく伝授して下されたものが多く、忘れられない感動と共に、味覚や聴覚を磨く習練になってきていた。食や芸は出逢いに瞬時に消えてゆき、二度の逢瀬はない。自分の体の調子や食への期待、食材の時期と鮮度、作り手と素材との戦い、職人の技量、その上に主人と客の意気と間合い等、その日の味覚の全ての条件が揃うことは絶対にありえない。だから、消えゆく刻のさりげない緊張が感動を呼び、心に残る。食通の方の本を読んでも、味覚は伝わらない。それは、その場の雰囲気や食材、それにも増して主人と客との出逢いや親しみが、味にこもるからで、味それよりも瞬時の邂逅に賭ける駆け引きが表現されるからなのだ。日本人の味覚は、「一期一会」。昔から誰もが知っていることである。

■第35話 季節の行方
山形から畏友から、ルビーのような見事なサクランボが届いた。年々早くなる贈り物に、家内総出で戴き、季節を満喫した。サクランボは早生というわけでもないのに、四月には店頭に並ぶし、今年も桃や梨、蜜柑だって出ている。蜜柑と言えば、まだ高校生の頃、初めて詣でたお盆の棚経で、仏壇のお飾りに、青々とした蜜柑が供えられていたのを、鮮明に覚えている。今日では青い蜜柑や林檎の方が珍しいし、柿は春に地球の裏から来るという。今や食べ物には、季節は皆無と嘆いていたら、和菓子には、まだ季節があるらしい。多分、茶の湯の関係か、桜餅や葛桜、柏餅、椿餅、きちんと季節を主張している。仏壇のお供えも、ご先祖様や先亡の諸精霊へ、最高の物を供えるという心使いからか、旬や走りの物が多く、季節感が表れる。余談だが、お葬式の山盛りのご飯は、白米が最高のご馳走であった頃の名残りである。お彼岸のぼた餅もおはぎも、何故供えるのかは答えに窮するが、多分ご飯に甘い餡(白米に甘み)をまぶすという事が最大級のご馳走で(地方では四十九日忌に必ず作る)あるためで、同じ物なのに春は「牡丹餅」、秋は「お萩」とゆかしいし、葬儀の饅頭はしのぶの葉を焼押して故人を「偲ぶ饅頭」だし、お稲荷さんも必ず、裏表2種類作る。古人の知恵は、お供えものや施物にも、季節を意識していて、雅味豊かで美しい。

■第36話 伝承
日本の文化の伝承というものは、極一部のものを除いては、古来より血族意識と秘密性に守られて、器の水を一滴も残さず別の器に移すようにして伝わった。その型は多分お大師様が、密教を正嫡の弟子へ師資相承したあたりが因と思われるが、実に巧妙に確かな方法で、技や仕草が職方や芸人の家や人に、血統の字句が示すとうり継承された。これは伝承の差別性ではなく、ものを伝え絶やさないという前提の上に、技を練磨し、さらに向上させるためであったと推測する。即ち、数多の弟子に技を競わせ、技量がそれに達せねば、継承はされないし、技の向上が伝承の将来を約束し、継ぐからである。この事は、古典と言われるもの全てに当てはまるし、市井に隠れた名もない職方の技や、華やかに脚光を浴びる主役を陰で支える裏方にも、脈々と流れて受け継がれて来た。しかし、昨今ではこの伝承方法が、極めて難しくなりつつある。きちんと社会の認定を受けて、文化財として登録された家柄や古典の諸芸はまだしも、職人や商家のように将来を約束されない伝承は、風前の灯火のようなものもある。原因は、将来を案じたり、苦労の報われなさを嘆いたり、継承者自らも他の仕事に憧れたりもすることにもあるが、実の所は、これらを育て養う、伝承を見守る、妥協を許さぬ、洗練された旦那衆の、厳しい眼力と批評が薄れたせいなのである。

■第37話 本物を識る
ブランド・ブームといわれて久しい。東京銀座の街は、外国の一流店が団体で越して来たようで、つい先日もフランスの老舗が開店し、マスコミが大挙し、さながらスーパーのバーゲンセールのごとき感で、大方の識者の顰蹙(ひんしゅく)をかった。何時、大層なブランド嗜好になったのか?急に日本人の感覚が洗練されて、本物が持つ良質さとセンス、更に繊細なエレガンスを会得し、身につけたかはどうも怪しい。円高とバブルの余波で、金銭と見栄で買い漁っているのが本音かもしれない。しかし、反面では自分の物として手に持つということは、手段は別でも、本物を知るというか、本物が持つ質感や仕事振り認識する上では、実に意義ある賢明な事と言える。ならば、最大の愛着を持って、至便に臆せず使いこなすことである。市井の名もない職方の、洗練された手仕事や技術というか味や手触りの伝承は、使い手は充分に理解し納得し、使いこなし、使い抜いて、更に高度なさりげない批評眼を持っていることが極めて重要である。使い手がずぼらで、本質の良さを理解しないと、職方は一人よがりで技が荒れたり、細工の上に更に細かい気配りの気負いと身上が覇気を失い、つい疎かにされてしまう。現代はまさしくその危機の時代で、ブランドの嗜好だけに終わらず、本質を見極める事が人気の究極で、価値観も高まるものだ。

■第38話 今を生きる 1
今様に表現すると、トレンドと言うらしいが、高校生やそれに準ずる若者の行動には、とても危ういものを感じる。殊にもう一昔前からの流行か、あのルーズソックスというのも、自分を主張するために、ほんの少数や個人がファッションとしてするのは、とても可愛さがあって良いと思うが、日本国中の女子高生が全て同じでは、異様さを感じざるを得ない。曾て、先輩たちは「太陽族」であったし、僕らの時代も「六本木族」「みゆき族」があったが、群れてはいたが、あくまでも個々のファッションを披瀝していたし、逆に他を自分に取り込もうという主張があった。だから歴然としたポリシーが有り、無いものは仲間として群れる事もできなかった。今、彼らを観察すると、あの群れとファッションは、個性の主張よりも仲間意識の確認で、制服と同じに思える。とにかく同じ格好をしていれば、仲間として認める、仲間外れにしないという仲間意識の基本で、所謂ポリシーも無く、ファッションよりトレンドもシンドロームに近いといえる。流行の携帯電話も全く同じで、今別れた相手に掛けるのは、一人になった不安から、とりあえず友達だという確認を、片時もしなくてはいられないのだ。独りで育った者が、友を得て、認めあい、思いやりのなかで人間関係を育み、最上の親友を得る、難しい時代なのだろうか?

■第39話 今を生きる 2
戦後の生活環境と所得の向上は、個々に持ち家に住むという願望を実現し、大家族から核家族へという社会現象が生まれ、家族がこれまた個々に部屋を持つという文化に発展し、間取りに合わせたのか、少子化という現実が起こった。それに伴い、子供達は生まれた瞬間から、私室を持ち、他に犯されない自分だけの空間を所有する、恵まれた環境に育つ。この高い文化の状況は、偏に様々な発展のお陰だが、冷静に視すると、このことによる社会問題や弊害も提起され、時代が進むにつれて、重大で看過できない事象の、起因となっていることに気が付く。青少年の今様も、彼らの文化観やトレンド(傾向)も、この辺の視点から俯瞰してみると、やはり起因は同じで見逃せない。独りで育つ環境は、極めて快適である。自分の周りを囲む空間は、他に気兼ねは要らないし、鍵も掛かる。好きな時に何でもできるし、嫌いなことはする必要もない。他を意識しない長い時間は個を育み、個人主義なら救われるが、利己主義が培養される。しかし一度、学校の共同生活を強いられると、独りの才覚では共生もできない。仕方なく力ある者は腕力で自分(利己)の空間に従わせ、弱い者も群れて仲間意識をことさら強制して徒党を組む。仲間外れの者は、悪質で悲惨な苛めに遇う。この理屈当たっていると思う。

■第40話 今を生きる 3
高校生達が良く使う「シカト」という言葉は、無視するという事だが、もとは賭博用語で、花札の十月札が紅葉に鹿の絵柄で、鹿がそっぽを向いて紅葉を見ないことから、知ってて知らぬ振りをすることを、「しかとお(鹿と十月札)」と言った事が語源らしい。若者にとって、ともかく「シカト」は極めて重大な行為で、相手にしない、相手にされないの軽いものではなく、仲間外れを宣告されたのと同じで、悪質で陰湿ないじめの手口の始まりの宣言なのである。「シカト」は、無視だけではない。その子の個性さえ抹殺する。即ち、劣っていたり、優れていたり、良家、貧しい、容姿、強い弱いに拘わらず、平均的(皆と一緒でない)でないもの全てに及ぶ。自分だけ違う事は、拙いことなのである。別に仲間にされなくても支障はないように感じるが、前話で記述のように、独りっきりで育つ環境は、勿論独りが大好きなのだが、大衆の中にほうり出されると、為す術を失い、うろたえて、身の置き所さえ解らず、途方にくれてしまうのである。だから親から登校を強制されて、独り苛めに耐えていたり、登校拒否で抵抗する、現代の教育問題を喚起しているのだ。皆一緒のルーズソックスには、青少年の言えぬ苦しみが隠れているように思える。 
 

 

■第41話 今を生きる 4
群れて街を謳歌する若者や、疎外されたり、独りに閉じこもって、自分だけの部屋でこの時を生きている若者の危うい青春は、それぞれに今を過ごしているわけだが、二度とないとても大切な時を無駄にして、極めて狭い社会でもがいているように感じる。青少年の心は荒廃し、その生きざまや思考には、大人には理解できないと決めつけるのは簡単な事だが、この先未来の日本を背負って行くのは彼らしかないわけで、今何を彼らに託すのか真剣に考えてみたい。特定の擬似仲良し仲間(?)や、独り部屋のテレビ・ゲームやインターネットの狭い社会に生きる彼らに、夢の有る広い世界に目覚めてもらうにはどうしたら良いだろうか? ・・・ 本を読み、価値観や叡知を耕すこと。 旅をして、未知の体験と発見をすること。 映画で、総合芸術と創作の魔術に浸ること。 美術館や画廊で雅味の本質を見抜くこと。 博物館で古人の傑作や凄さを歴史に学ぶ事。 職人技魅せられ、本物を盗み、識ること。 最良の師、先輩、友人に出会うこと。二度ない人生を、常に祈念し、緊張感を忘れず、瞬時も無駄なく、貪欲に生きる。 感激し感動し感涙をすること。 感銘し感心し感化すること。 感得し感受し感応すること。 感懐し感傷し感謝すること。 感性を磨くこと。 難しいことなのかな?

■第42話 環境保全
我が街F市は、東京駅へ快速で25分、通勤には至便な近郊都市であるために、早くからベッドタウン化し、公団や住宅が林や畑を整地して建設され、都市計画も杜撰だったのか、駅ビルの屋上から眺望すると、中心部の駅周辺の繁雑化はもとより、調整地区の区域を除いては、緑は全く望めない。辛うじて乱立し始めたビルの間からこんもり見える緑は、神社と当寺の有る杜である。自坊は狭いながら、境内には数十種の樹木が生い茂り、手入れも間々ならぬが、中でもふた抱え以上は優にある楠の大木が二本、庭中を覆いつくし、自然のありがたさと煩わしさを感じながら共生している。楠樹は、春若葉をを萌やすと、一斉に昨年の旧葉が落ち始める。掃いても掃いても執拗と言う程に、屋根に溜まり樋を詰まらせ、何処彼処に散りつづける。伐採したらどんなに楽だろう。毎年思うことは同じである。しかし、春が過ぎて、暑い夏がくると、楠の大木は嘘のように苦労を忘れさせる。庭を覆いつくす濃い緑は、葉末から涼風を運び、木陰は訪れる参詣者の憩いの場となるし、本堂も大寄せの時以外は空調も点けない。お墓も落ち葉がいっぱい。蚊は湧くし蛇や鳥もいる。自然との共生には、非文明的生活も強いられる。しかし苦情は多い。環境保全には、自然の豊かさの陰に、文化拒否の我慢と不自由を満喫するという、価値観の違う摂理も認識して欲しいものだ。

■第43話 理解できない「日本人」の変
昨年の夏から常勤職を得て、朝食をかっ込み、自転車に飛び乗り(自坊からJRの駅までの道のりには私鉄の踏切を2回渡るため)回り路で駅に捷り、ラッシュに揺られている。家を飛び出した瞬間から「何だ!?」と、腹が立ち始める。小学生が危険な車道を歩く、歩道いっぱいに駐車する車。横一列で怖い者無し女子高生の集団。絶対に避けないおば様の立ち話。自分の大事な(?)荷物には無神経で、背負ったり、脇に抱える、網棚に乗せない迷惑千万の大包み。相変わらずの携帯好き。注意にも「個人の権利」と言うわけか?傍らの百科事典によれば、個人主義とは『フランス革命以後に用いられた語で、個々の人間存在はそれ自体何事にも勝る価値をもつと云うことと、自己決定ないしは自律は、個人が周囲に依存しないで一人で熟慮し意思決定を行なうという、人間の尊重と自己決定二つの要素の価値観をもつ主義』を云うのであって、『自己の欲望の充足や利益の追求を専ら年頭において行動し、それが他者や社会一般に及ぼす迷惑を考慮に入れない』のは、自分勝手な利己主義に過ぎない。でも解せないのは、回りの目や誰かがするとすぐ真似て、消える自己主張だ。エスカレーターの、滑稽な程に守っている、危険な右側(関西は左側)の駆け登り降り。こういう時こそ、世論を無視し、他も気にせず、権利を主張して居直って欲しい。

■第44話 「安楽死」を是認するのか 1
朝日新聞紙上独自の事だが、本年の8月26日の朝刊に『父を「安楽死」させた・・・医師告白』が掲載され、話題を呼んでいる。内容は、17年前、ある内科の勤務医(兄も医師)の父親(病院長69歳)が、末期の肝臓がんで、激痛「ひざを抱えながら、もんどり打っていた。手で胸をかきむしっている」に悩み、「今度、苦しんだら麻薬を打ちたい」という父親の予ての希望通り、兄、母、祖母と相談し、「衰弱している末期がん患者に初めて使う量としては、危険な量」モルヒネ2アンプル(20mg)を「投与した」後、「3分、4分。父のみけんのしわが消えて」、「10分後」に逝去されたと云うもの。この告白の動機は、「末期で死を懇願する患者を前に、悩み続ける」ことと、「死を唯一の救いとする患者に、医師はどこまで延命を考えるべきか」に医師自身が「いまも直面して悩むことがある」とされている。今まで紙上に3回の特集が組まれ、2日間で150通の意見や感想が寄せられ、「安楽死」を容認する意見は6割に達したという。しかし、事後を即時に世に問わず、何故17年後の今告白したのか。死を判断し、法律的に決定できる(死亡診断書の作成)立場の医師は自分の価値観のみで判断し、個人の考えを行使してよいのか。医療麻酔の知識と技術であったのか等、疑問は残る。17年の月日は、疼痛緩和と医療技術の進歩に隔世の感がある。

■第45話 「安楽死」を是認するのか 2
もとより「安楽死」など無いという立場で発言をしている者として、死の瞬間に安楽は有るかも無いかも知れないが、死に至る過程は「生」であって、生きがいに強烈な痛みであったり、苦しみであっても、生きるための死との苛烈な戦いが「生」そのものであって、看取る者にとって「見るに忍びない」「早く楽にさせたい」という個人的判断で、積極的に命を断つことは、絶対に是認できない。ましてや、その積極的な行為を医師が執行するとしたら、明らかに治療の美名に隠された、行き過ぎた行為であると言える。先述のY医師の父親は、確かに終末期で衰弱した容体でも「もんどり打って、手で胸をかきむしって」いたほどの状態である。今、死を迎えつつある瞬間だとは紙面の表現では感じられない。しかも、「末期がん患者に初めて使う量としては、危険な量」を注射し、「3分、4分みけんのしわが消え」「脈が止まった。10分後の事だった。」と記述していることから、明らかに死を意識して、死なせるために「モルヒネ2アンプル」を父に注射したのだ。果たして、Y医師には正しくモルヒネを扱い、疼痛を緩和する技術があったのだろうかの疑問も沸く。何故いきなり致死量なのか?医師は治療を放棄し、積極的に死を招いた。今も「死を懇願され、直面して悩む」という。悩んだ結果を、死亡診断書に何という病名で記載するのだろうか?

■第46話 米国多発テロ
9月11日午前8時45分(現地時間)、丁度午後の10時前後のテレビのニュースを眺めていると、世界貿易センタービルが噴煙をあげる光景が映り始めた。手元のリモコンに触れて、映画に画面が変わったと思った。実はあってはならない大型飛行機の、ビル衝突の大事故の惨事であった。惨劇を目の当たりにして、画面に食い入ると、続いて二棟目のビルにも旅客機が吸い込まれるように接近し、激突し炎と共に燃え、爆発した。さらに約一時間後同じ画面に、遠くワシントンのペンタゴンへの激突、その30分後にはペンシルバニアのピッツバーグ郊外へと、まさに眼を覆う衝撃の大惨事の映像は、世界にリアルタイムに発信され、テロという悪行と悲劇だと知れたとき、不謹慎な表現だが、震撼といいしれぬ感嘆を覚えた。行方不明者六千余名、確認される死者も日に日に増えて行く。犠牲になられた方々に、心から冥福を捧げます。誠に人の命の尊厳を踏みにじる蛮行は慚愧に耐えない。多発テロと表明後直ちに、ブッシュ米国大統領はテレビを通じて全米国民に団結を訴え、「新しい種類の戦争だ」とし、軍事行動による報復の対決姿勢を示した。背景には、宗教が見え隠れする。軍事報復が、愈々始まった。報復に報復を重ねて、世界平和はあるのだろうか。尊い命を、平和への踏み台としてはならない。

■第47話 軍事報復
米国のブッシュ大統領は、今回の卑劣極まりない衝撃の大惨事を、イスラム過激派による同時多発テロと確認し、国内外に表明後、直ちに世界各国の理解と協力を求め、無差別テロの撲滅へ軍事報復の対決姿勢を示した。それは、「新しい種類の戦争だ」として、「テロ支援国家が判明すれば、徹底した代償を支払わせる」と言う、極めて徹底した過激な発言で、戦争に発展する可能性をほのめかしたものといえる。我々は、米国民の痛みと悲しみの慟哭と忿怒は察してあまりあるし、犠牲となられた方への慰霊は心から捧げるが、二十一世紀の今に「眼には眼を」「やられたら、やり返す」のような過激な判断で、報復に報復を重ねず、犠牲となられた尊い命と怒りを、平和を促す提言と祈りに昇華すべきと願う。もとより世界の平和を希う気持ちは誰もが一緒だが、ソ連の共産主義が崩壊後、東西の冷戦は大きな平和への光明をもたらしたかに見えた、つかの間、ヘルツゴビナ、東チモール等、世界の民族間の紛争は絶え間ない。そして背景には必ず宗教や貧困が見え隠れする。宗教や貧困がなぜ紛争を呼び起こすのか。不思議でならない。宗教と貧困の陰に、戦争による多大な裏ビジネスがあって、紛争でかねを儲ける輩があざ嗤っているようにも思える。米国は、尊い幾多の命を報復の口実にせず、争いの無い世界平和への礎として欲しい。

■第48話 平和への祈り
米国の、テロ組織やタリバン政権に対する軍事報復は、依然として過激に続いている。被害も続出し、兵士は勿論一般民衆にも及んでいるらしい。兵士も国民も、人間同士なのだから命の尊さには変わりは無い。それは攻める側の米国も同じで、無差別なテロに遇われた無くなった方も、今兵士として兵器のボタンや、引き金に指をかけている者も、同じに尊い命の保持者である。21世紀を迎え、素晴らしい文明文化の発達、科学万能の現代で、宗教や民族が異なるだけで(外にも原因はあるが)、殺し合う醜さは、おろかで悲しくて、これこそ神の加護は無いのだろうか。「信ぜよ、信じるもののみが救われる」と、他の神の存在を認めず。神の名において宗教対立を繰り返す。よく考え、真実を見いだし、自分で結論もださぬまま、戦地へ駆り出され、年端のいかぬ子供まで洗脳し、疑いさえも持たぬまま、尊い命を失わせる愚行を、教主自らが発信し、世界規模で種をまいている。幾千の犠牲となった方々の尊い命を、世界平和の発信の糧に、米国が呼びかけたら、素晴らしい平和への未来は拓ける。米国にも、京都議定書離脱や世界人種差別反対会議ボイコットなど、一国主義的外交への批判はある。恩讐越えた赦しは、必ず宗教にはある。寛大な神の御名の呼びかけに期待しつつ、世界平和の道を祈りたい。

■第49話 「安楽死」を是認するのか 3
拙稿の第3話「二者択一」でも述べたが、命を左右する大事の決定は、「右か左」「良いか悪い」「認める・認めない」「是か否」の二つの選択肢からは、答えは選べない。だから、自分以外の他の人に対し、こちらを選択するべきだとの示唆や積極的なアドバイスも、要らぬお世話と言える。ましてや、宗教家や医師のように、いのちの根幹に直接携わる職域にある者は、「生」へのさまざまな教えや励ましや叱声は為すべき重要な仕事といえるが、「死」へのかかわりに対して、消極的・積極的をとわず、他者への働きかけや行使は無用で、むしろ虚言や邪道というべき行為だと思っている。具体的に言えば、「脳死」や「臓器移植」に直面した患者や家族から、その意志決定を求められとき、釈尊の例え話(仏教説話)を以て、経典にはこう説かれているから、こうすべきであるとか、或いはこうすべきで無いと、積極的にしろ、消極的にしろ、自分自身の未熟な価値観で判断して二者択一して示唆した場合、宗教者の奢りへの疑問は残る。却って謙虚に「解らない」とし、「命」の決定には、多くの選択肢から、個人の意思決定を尊重するように、教え諭す必要がある。多者から択一するのは、個人の意志であり、結果は正しい選択肢なのである。Y氏は医師であり、職域は治療にあった。患者が望んでも、治療を放棄し、困惑し、自らが積極的な死を選択してはならない。

■第50話 仏教の主張
『アメリカ同時多発テロについて』 「(略)テロは、自由と民主主義の敵であり、力を合わせてその再発を防止したいと願っておりますが、このたびのテロの根底にある宗教的信念が見え隠れしている報道に接し、問題の深さを感じます。私たち仏教徒は、釈尊の寛容さの精神と弘法大師のマンダラ思想を基本に置いて、異文化や他宗教と共存できる道を探り続けなければならないと、切に考えております。犠牲者各位のご冥福を祈り、同時にこれ以上の対立の拡大の無きことを願って止みません。」 この文は、私の寺を包括する真言宗豊山派が、この度の震撼の大惨事が同時多発テロと表明された時点で、時を置かず代表名で発信したものである。短文だが、瞬時の対応としては、仏教者の見解と立場を明確にし、無益な対立を戒め、寛容な共存を強調する等、正鵠を得ている。「信ぜよ!信ずる者のみ救われる」は、イスラムもキリストも同じで、洗脳され、武器を持ち高声に批判し罵る少年の姿も、敵を憎悪し報復を煽る者も同じ次元で、宗教指導者に対する、震える程の怒りを覚える。釈尊の神話の神をもたぬ仏教は、「まず明らかに見よう、そして真実の道を進もう」と、まず考えること、正しく見る事を主張され、盲信や狂信を戒め、自我の滅却による対立を無くす、平和と自由への道を示された。又弘法大師は、全てを融合し包括する共存のマンダラ思想を主張され、平和を希った。 
 

 

■第51話 「安楽死」を是認するのか 4
「死」の決定は個人の意志によると明言したが、個人が自ら死を求めたら、医師は意志を尊重して、実行するのだろうか?そんなに軽い判断をする医師は、勿論絶対にいるはずはないが、医師と患者の基本的な相互理解『インフォームド・コンセント』は、重要且つ不可欠といえる。この医師と患者間の、説明 ・ 理解 ・ 同意の相互関係は、常に傍らに居て看取るという医師の覚悟なくしてはなく、両者に絶対の信頼と合意があれば、肉体的な疼痛や、懊悩や不安といった心の痛みも和らげ、生きる希望と励ましをも与え、医師自らが患者のたっての望みとはいえ、治療を放棄して、死を促すこともできまい。では医師と患者が親子であり、患者も医師であり、家族にも医師がいるという構成では、共に医学を極め、治療の過程で重篤が更に進み、結果も予想できると患者自身も納得している場合は、終末期において、積極的な行動をしても良いか?答えは「NO!」である。医師が幾ら大勢いても、医師(それも家族の)だけの科学的判断は危険である。「命」の尊厳は、不可思議な課題なのだ。又、日本における親子の関係は、時として傲慢になり、親は子を、子は親の「命」を、自分の「命」の如く決定づける。「命」守る上には、親子の情愛や医師の価値観には決定権はなく、遺漏なき真摯な医療行為と、「生」への祈りがあるのみである。

■第52話 黒白二鼠の譬え 1
仏教は凡夫を、どう捉えるのか?茫々として、見渡す限り何一つない荒野を、疲れた空腹の旅人がさ迷い歩き続ける。すると突如どこから現れたか、群れを離れ凶暴と化した巨像が、旅人を見つけ、襲いかかる。旅人は荒野を逃げに逃げ、足ももつれ根も果て、もはや此れまでと観念したとき、目の前に空井戸が穿かれているのに気づく。巧いことに藤蔓も垂れ、それに捕まって井戸穴に下りれば、巨像も去って行くだろうと、先ずは安心して、井戸底へスルスルと降りると、妙な殺気を感じ、見れば今時遅しと、大口を空けた大蛇が待ち構えている。アッと進退窮まり、身を縮めて逃れ、丁度の塩梅で中間にぶら下がっていれば、ひと先ず安心と回りを見ると、逃げ込めそうな横穴が四つも穿いている。しめたと思い、身を揺すり、横穴に飛び込もうと勢いをつけたら、今まさに飛びかからんばかりに、四匹の毒蛇がシャーッと狙っている。しかしまだ藤蔓に捕まっているうちは安心と一息入れると、カリカリと上で音がする。見れば何と黒白二匹の鼠が藤蔓を噛んでいる。終に命は風前の灯火と、観念したとき、藤蔓に咲くきれいな花から、一滴の甘い露が滴り落ち、旅人の唇にポタリッと落ちた。「何と甘い蜜だろう」 旅人は、巨像も大蛇も毒蛇も二匹の鼠の事も忘れ、甘い露の落ちるのを、待ち望んだ。永劫、凡夫は欲望の虜である。

■第53話 黒白二鼠の譬え 2
前回「白黒二鼠の譬え」の解説を加えたい。先ず茫々とした荒野は、「人生の荒波」。巨像は「不可抗力な自然の力」。迷える旅人は「凡夫(人間)」、井戸穴は「安住の場所、幸せな家庭生活」。藤蔓は「生命の糸(余命)」、大蛇は「死の影の接近」。四匹の毒蛇は「肉体の病苦」、白黒の鼠は「昼夜の時」。そして最後の甘い蜜の滴りは、いついかなる時も訪れる「人間の五欲(煩悩)」。この譬え話は、我々凡夫の真の姿を言い当てていて楽しい。荒野のような人生の荒波を、命を賭して生き抜くが、巨像のような自然の力や不可抗力が突然襲い、あわてて逃れたりする。逃れた家庭という安住の地に居て、安らぎを求めていれば幸せはある。だが安住は続かない。必ず命には限りがあり、どんな者にも平等に、病や老い、死の恐怖は訪れる。刻々と時は過ぎ、今日という日は帰らない。瞬時も無駄にできない時と、避けられない苦しみがあるのに、暢気に今を過ごしている。どんな謹厳実直な方も、一度煩悩の風が吹けば、もろく崩れ、我を忘れて欲望に身を任せてしまうものなのだ。人間なんてこんなにも脆い。さまざまな欲望ほど、身を滅ぼすものはない。心して身と生活を律しなさい。という、譬え話です。「煩悩(欲望)の風」に逆らい、身を修め、自己を律する、何事にも動じない安心が、釈尊の開かれた『仏教』の教えです。

■第54話 真言宗 1
殆どの方が「真言宗」は、弘法大師空海が開かれたと理解されているならば喜ばしい事だが、義務教育では宗教教育を避けてとおる為か、その教えも徹底はなく、「空海も最澄も知らない」という嘆かわしい結果で、お坊さんになるために、仏教大学で学んで初めて空海を識るという、現実もある。この「ちょっといい話」も50回も越えたので、そろそろ本来の真言坊主にかえって、時折「真言宗」や「密教」の話も伝えたい。ただ「ちょっといい(?)」だけだから、随筆風に漫然と書きたい所だが、真言宗や密教の奥義を易しく語るとなると、きわめて困難で、始めにお断りすれば、密教辞典を始め諸先生のご研究やご高説を拝借すること頗る多しで、一々参照の資料として挙げないが、諸先生にはお許し願いたい。「真言」とは、究極の境地や絶対の淵に立たされた時、言葉にならない真の叫びがあるように、胸中というか、全人格の心根から発する「真実語」を言うとされる。この語が、インドにおいてバラモン教の「神に対する祈り」として唱えられ、「帰依や祈願や鑚仰における聖句」として成りたち、人々の願いと救いの祈りとなった。時を経て、「陀羅尼」や「明呪」が完成し、大日如来の声による「森羅万象の絶対者の能力」の言説として、「一字一句に無量の教法の義理がある」と教理が熟成し、呪法や教義も整理され、真言宗が成立する。

■第55話 真言宗 2
真言宗は「密教」である。密教は、瓶に水を溢れるばかりに満たし、その水を一滴も余す事なく他の瓶に移すように法を伝える事を本義とする。奥義や法則を、師から弟子へ余す事なく伝えることを相承(そうじょう)というが、真言宗の伝法灌頂(でんぼうかんじょう)は、現在も尚、法を伝える最高儀式として、極めて秘密裡に、嫡々に伝承され、受法した者は皆伝し、阿闍梨と尊称される。それで「密教」というのだが、弘法大師空海祖師も、やはり一千二百年の昔、遣唐使として唐に渡り、往時の国際都市長安の青龍寺において、恵果阿闍梨より親しく受法し、真言宗の八番目の祖となられるのである。「密教」は、「神秘性・象徴性・儀礼性の三つの要素が一定の体系をもって組織されている」ことを特色として、インドにおいて発達し、「呪術的性格が教義的・実践的に全く純化」し、呪法や呪文が神秘的な働きを促し、除災招福への祈りとなり、仏教にはなかった呪法が「教化の方便」として摂取され、約6〜7世紀に「組織的な経典や儀軌が整理」され、8世紀前後に一体系的な密教経典の大日経や金剛頂経などが成立」したとされる。密教が、仏教として純化するのは、祖師方の嫡々子相承の奥義の秘密伝承と、偏に弘法大師の真言宗開教の教義の著作のお陰である。

■第56話 密教
真言宗は密教であることは承知しているが、なぜ密教か、密教とは何かと問われると、にわかに説明できる者は極めて少ない。教学的で申し訳ないが、仏教はこの世に実在されたシッダルダ(釈迦)がお悟りを開いて覚者となり釈尊と崇められ、ついには仏身として礼拝され、そのお説きになられた不滅の法も法身(ほっしん)として教主に成り、仏陀観として完成し、諸宗派の基本的仏身観として定着する。しかし密教では、極めて宇宙的スケールで大日如来が存在し、自らが教主となって説法する。すなわち法身大日如来がさまざまな姿に身を変じ、ある時は本来のお姿で、又ある時は菩薩に変化して説法し、時には凡夫や教化するものと同等の姿に自在に変化して、一切のものすべてに説法し救済する。説明の為に、「鶴の恩返し」の話をする。雪の夜傷ついた鶴が男に助けられ、その受けた心情に絆され、妻(お通)となって夫を助け、決して覗かぬことを誓わせて、自分の(本当は鶴)羽をもって、機を織り見事な反物を仕上げる。夫はその収入で幸せを得るが、ある日禁を破り、妻が本当はご鶴である「秘密」を知り、短い幸福を失う物語である。この鶴が未だ達せぬ者には本来の姿を見せない、教化を受けるものに相応した姿(お通)に変化して説法する大日如来である。法身は、理解する者に変化応現する。理解できぬ者には、「秘」密教である訳です。

■第57話 曼荼羅(マンダラ) 1
便宜上カタカナでマンダラと表記する。マンダラは、密教の中でも、殊に真言密教では重要な法具で、弘法大師も遣唐使として長安(西安市)で受法されて後、日本に帰国し、唐より持ち帰ったお経や密教法具を朝廷に報告する文「御請来目録(ごしょうらいもくろく)」の中で、『(略)密蔵深玄(みつぞうしんげん)にして翰墨(かんぼく)に載(の)せがたし。さらに図画を仮りて悟らざるに開示(かいじ)す。』と述べる。即ち、「密教の教えは、深遠で玄妙な奥義であるので、なかなか文章には表しにくい。そこで絵画の手法をもちいて、絵によって、まだ悟りに達しないものに、分かりやすく解き明かす。」と言うことで、マンダラはまさしく「図画を仮りて」真言密教の教えを表したものである。マンダラは両界と言い、真言宗の重要経典の「大日経」を所依(よりどころ)とする胎蔵曼荼羅と、「金剛頂経」を所依とする金剛界曼荼羅があり、どちらも真ん中に中尊大日如来が描かれ、法身である大日如来が変化応現する様々な諸仏諸菩薩・明王・天部が幾何学的に、しかも華麗に配置されている。マンダラには、「大曼荼羅」「三味耶曼荼羅」「法(種字)曼荼羅」「羯磨(かつま)曼荼羅」の四種曼荼羅がある。巷間、「…曼荼羅」というが、本来は四種以外はありえないものです。

■第58話 曼荼羅 2
マンダラは、密教辞典によると「輪円具足・極無比味・無過上味・聚集・発生・壇・道場」とされ、欠けることの無い、すべてに円満な成就された境地(輪円具足)をいい、或いは五味(乳・酪・生酥・熟酥・醍醐)の内の醍醐で、比較する味がない最も上味のもの(極無比味・無過上味)であり、菩提を得るための不可欠な要素である計り知れない三密(身・口・意)の発生するところであり、全ての仏果の徳を集めた<聚集>もの、又は悟りを得、全てを成就する修業の場所(壇・道場)でもあるとされている。即ち、全ての自然の法則の根源として存在し、その姿も宏大にして、欠けることの無い円満なものであり、他に比較すべきものが無い大宇宙そのものでもあり、密教では大日如来そのものの姿の具現である。四種曼荼羅があり、又辞書に頼るが、機会をみて真言宗のお寺で、実物を参拝願いたい。大曼荼羅様々な色彩により、諸尊を彩画し、形像にして仏徳を表して大画面に構成したもの三味耶曼荼羅諸尊の持ち物や三味耶形(三形と略)で仏徳を表したもの法(種字)曼荼羅仏菩薩の徳を表示した梵字の一字(種字=一字で仏の教えや徳をもって表したもの)で描かれたもの羯磨曼荼羅木造、鋳造、朔造などで立体的に構成されたもの

■第59話 成仏への道 1
先ず「真言宗」「密教」「曼荼羅」と三つ並べたのは、真言宗の特色というか教義の要点を、理解して戴きたいからである。また「顕教」という表記があるが、これは密教(日本では真言宗・天台宗)以外の宗派や教義を指す言葉だが、「顕教」一語で必ずしも全ての宗派や教義を表せないし、密教の反対語でもなく、密教と区別するために便宜上使用されたようである。筆者をこれに習う。さて、密教と顕教では、同じ仏教なのに、悟りに至る過程は必ずしも一致はしない。この辺りが密教たる所以で、前述の三要点を思い出しつつ、お読み願いたい。仏教は、釈尊によって開教され、インドよりシルクロードを経て東漸され、中国、朝鮮、日本へと三国伝統して帰結するが、教えは学問として高僧達に受け継がれ、時代性や教義の理解の仕方で思想体系も確立し、小乗から大乗、次いで密教へと仏陀観も大らかに拡がり、成仏思想も変化し、成仏への高踏な存在の覚者釈尊はもとより、様々な仏の出現により、より身近な成仏課程が発祥した。凡夫は自覚が無いが、本来仏陀と同質であり、誰でも仏菩薩の種子を具備しているので、迷いを滅却して、究めれば成仏に至る。更に密教では、菩薩道の遠い道程も短縮され、身と口と心を活写すれば、「速疾に」大日如来と同体となり、煩悩多きこの身のままで、成仏に到達すると云うのである。

■第60話 成仏への道 2
私たちは、全く自覚は無いが、本来誰でも仏に成る資質というか、まだ磨かれない原石と云えばよいか、仏の核或いは種子が備わっていて、凡夫であるために気が付かずにいるだけである。だから自覚さえすれば、成仏することは可能である。このような考え方を、「如来思想」とか「本覚思想」という。この考え方は、身を収め戒律を守りとおし、いつ至るとも知れない、菩薩道への長く険しい道を、釈尊への憧憬と成仏への無心な修行を修めて、始めて実現が可能に成るという気の遠くなるような過程とは違い、自分が仏であることを自覚し、目覚めれば成仏が叶うという、きわめて時間的にも短縮された、誰でもが平等に成仏を得る機会があるという身近なものへと発祥した。更に密教は、早さは瞬時というべき程に究極され、その身そのままが菩薩であり、発心すれば「速疾」に菩提を得て即身に成仏するというのである。即ち本尊大日如来は、遠くの彼方に存在するものではなく、貴方自身が大日如来なのだと説くからで、全ての存在は大宇宙の中の小宇宙のごとく、全てが大日如来に融合し包括される。そのこと即ち成仏だと説くのが密教である。然れば、密教は善人だろうが悪人だろうが、平等に菩提を得るのだろうか?否である。密教の扉を開く鍵は、その「身・口・意」が如何に研ぎ澄まされ『密』と成りえたか、そこにこそ「速疾」があるのである。 
 

 

■第61話 成仏への道 3
密教おける成仏とは、「身・口・意」が如何に研ぎ澄まされて『密』となりえるか、一途にここに拘わってくる。この「身・口・意」の三つは、身体の働き、言葉の働き、心の働きをいうが、この三つの働きの範囲は我々の生活の全てと云ってよい。これを我々凡夫の場合は「三業」といい、仏の場合は「三密」という。即ち、三業は我々凡夫にとってのものだけではなく、仏が我々を救済する場合も全く同じ働きで、身・口・意は「密」の範囲であるという。そこで凡夫は三業を「密」に到達させ、三密で「速疾」に成仏せねばならない。それには、如来と我と法界が持つ、三つの扶けというか護りと云うべきか、所謂計り知れない力に因って、三業を三密として昇華させ、まるで帝釈天の首飾りのように重なり、網のように彩なして光り輝くように働き合えば、「速疾」に成仏するというのである。これは凡夫の世界ではありえない。まさしく菩薩の境地である。法身大日如来は、他化自在天の大摩尼殿の宮中で、菩薩に説法して救済するという。そこは様々な鈴や鐸や絹の旗や幡が、そよ風に揺すられ触れ合って微妙な音楽を奏で、珠や環もキラキラ輝き、満月や三日月の形の鏡も照り映えて、吉祥を称嘆しているという。密教の成仏は、凡夫が悟るのではなく、自分が菩薩だと目覚めた者が悟るから「速疾」なのである。

■第62話 成仏への道 4
真言密教では、「身・口・意」の三業をいかに研ぎ澄ませて「三密」と成りえて、成仏に至るのか。いまだ菩薩として目覚めぬ者は、いかにして「速疾」に悟りに至るのか。その秘訣は、自分の心を知ることだと、明解する。即ち真言宗の根本の経典である大日経には、「如実知自心(あるがままの我が心を知るべし)」が説かれ、鏡のように我が心を自在に映しだしたときこそ、自ずから「三密」に到達し、「速疾」に成仏すると解き明かす。では、我がこころを知る手段は何か?それは、三毒を焼き盡くすことだと説く。三毒とは「貪・瞋・痴(とん・じん・ち)」この三つの心の動きをいい『自分の物は舌を出すのも嫌という吝ん坊で、自分だけに利益が集まり貪り欲っする自己中心的なこと。ささいな事でイライラして、赤くなったり青筋を立てて怒り瞋ること。正しい事の見極めもできず、つまらぬことにくよくよして、思い悩む愚かなこと。』この三つを指す。何方からの受け売りの譬えで恐縮だが、それはナベの中の澄んだ水に顔を映すのと似て、もし水がドロドロに濁っていたり、グラグラ煮えたっていたり、塵芥や腐った葉で覆われていたら、顔を映すことができない。心も貪ったり、瞋ったり、愚かに悩んだりして毒で汚れていると、真実の我が心を知ることは不可能で、そこで「三毒」を、悉く焼き盡くす事が先決だと明言するのである。

■第63話 成仏への道 5
真実の自身の心を知る「如実知自心」を体解し、「速疾」に成仏するには、「身・口・意」の三業を研ぎ澄まし、「三密」に浄化する努力をしなければならない。そこで身体と言葉と心の働きを、自らよい方向へ導くために、普段から心掛けて、更に十の善行を実践して、心身を堅く決定しなければならない。『十善』といわれ、身体をもって行う善行に「生きるものの命をうばわない。他の物を盗まない。異性を求める欲望を正し、淫らな情欲に耽らない。」、言葉の善行には「嘘をつかない。おべんちゃらや甘言などの飾り言葉を慎む。悪口を言わない。都合に合わせて二枚舌を使わない。」、こころでの善行に「自己中心的で貪らず吝嗇をしない。イライラしてむやみに怒ったり瞋ったりしない。物事を正視して、正しく理解する。」がある。このことは、行住坐臥日常の生活そのままで、日々の生き様の全ての働きが、どこまでで善行に極まるのか、結果も無く、難解で、延いては真実の自心を知ることにある。しかし、この難しそうな働きも、大日如来の働きそのもので、永遠不変の真理の本体であり、法身といわれる真仏だから、日常の生きざまの「身・口・意」の働きをより完成すること即ち、大日如来の身を変えた姿と確信すれば、「速疾」に成仏することになる。だからこそ「身・口・意」は、三密と成り得て「速疾」に成仏に至ると言える。

■第64話 成仏への道 6
真言密教における成仏は、「速疾」にあると再三述べたが、大乗仏教においては密教以外の諸教も本来仏の資質を内在している「本覚思想」に立脚するので、同じように速やかに成仏に至るはずであるが、至らないのは、何故なのだろうか。実は今一度確認すれば、真言密教では、大日如来は全ての存在を宇宙的宏大さで包み込み、凡夫である我々もそのまま(煩悩を抱えたまま)の姿で同一体となり、まさしく大日如来の姿を変えた存在(法身=ほっしん)であると説くのである。即ち、この身は大日如来であり、他の何者でも無いと確認できたとき、その刹那に成仏するのである。ところが密教以外の諸教においては、本来内在する菩薩が大願をおこし、気の遠くなる修行と時間の果てに成就し、その報いとして成仏(報身=ほうじん)したり、衆生を救済するには、その求めというか状況に対応するため、成仏の過程でその者の内在する機根(きこん=能力や性質)に応じて様々な姿に身を変えて示現(応身=おうじん)して成仏するのである。このため煩悩を滅却した極めて高い透明な境地と、長い修行の積み重ねの様々な過程求めれられ、結果で成仏に至るため、時間的には速疾は無いのである。ましてや、凡夫では菩薩と同じ修行や時間を経ても、成仏に至る保証もない。ここに真言密教の法身大日如来という「速疾」する仏陀観の、偉大さと特質がある。

■第65話 密教の仏 不動明王 1
密教の身近な13の仏(初7日から49日忌の七仏と百ヶ日忌から33回忌に至る六仏)を本や辞書の受け売りで紹介する。因に、一般的に「ほとけ」と呼ばれるものには、「仏=如来」「菩薩」「天=毘沙門や帝釈など」や、仏弟子や祖師などがあり、変化身や忿怒身の、仏教の教えを守る神々「明王」も、礼拝の対象として崇められた。不動明王は原語を直訳すれば「不動威怒明王(ふどういぬみょうおう)」という。常に一切動かぬ、揺るぎない堅い悟りへの決意(不動)と、威力あふれる徳と激しい怒りの相(威怒)をもち、ダラニ(明=みょう)を唱えると、たちどころに霊験ご現れるという仏さま(明王)という義であろう。名前の示すとおり、怒りの姿を表した忿怒身で、人間のもつ怒りや憎しみの感情を、無理に押さえ付けずオープンにして肯定し、社会悪や邪まな心を正義の怒りへと転化して、どんな人もすべて、正道へ導いてくれる、限りない慈悲心の現れの姿とされる。燃える炎は怒りと煩悩を焼尽くす智慧を、岩盤は不動。童形と七つに結んだ髻(もとどり)は、忠実な使者の奉仕の七代に亘る姿、左肩のおさげ髪と頂上の蓮華は、この髪を掴めば忽ちに蓮華座(菩薩)にたどり、右の剣は智慧、左の索(さく)は慈悲。額のしわは生死を憂い悲しみ、左眼を閉じて邪道を隠し、上下の牙は上昇思考と救済を表すという。大日如来の慈悲心を、具現した姿と言える。

■第66話 密教の仏 不動明王 2
不動明王は、初七日忌の本尊さまである。亡くなった日を入れて、七日目に修する。近年、何故か葬儀より大事で、当然の如く「住職、初七日は?」と、葬儀直後や葬儀中に修するように頼まれるが、当方が「?」である。四十九日間は「中陰」とか「中有」といい、仏界へ摂入するための準備と修行の期間であるが、七日ごとの法要は遺族の悲嘆を和らげる手助けをする日々でもある。親族や友人が霊前へ赴き、励まし、辛さを克服する、分かち合いの重要な一刻と思いたい。最初の七日目の不動明王は、大日如来の命により、衆生を教化済度するために遣わされた使者である。その身は「教令輪身(きょうりょうりんしん)」といわれ、「済度し難がたい衆生にたいして、忿怒の姿で折伏して尊法させる」、恐ろしい怒りの姿で、諸々の魔障を彼方へ退けて降伏させ、妄念を離れて、心を集中させ、静かな正思に安定させる。更に左右の剣と索(なわ)の智慧と慈悲で、悟りに向かわない者の煩悩を断ち切り、垂れた髪(おさげ)で救い上げ、頭上の蓮華に載せて、誰でもが具備している仏の資質を見いださせて、輝く大日如来を自覚させる。即ち初七日は、それぞれが生前において、「身・口・意」の三業によって、知らずに犯した所の三毒や十の戒めを、不動明王の忿怒と火炎で、焼き尽くし、併せて仏の慈悲と知恵を活写させて仏果を得て、本来具備された仏「大日如来」を確認する日である。

■第67話 密教の仏 釈迦如来 1
仏教をお開きになられたゴータマ・シッダールタ、釈迦牟尼(釈迦族出身の聖者)、又は釈尊、仏陀と尊称され、説かれた法が経典となり、御身も釈迦如来として祀られ、聖地や誕生日、成道の日、入滅日も礼拝される。始めは菩提樹や転法輪で象徴的に表現されたが、人間の姿で登場するのは紀元初年の後半で、東西文化の交流により、ギリシャ彫刻の技術や表現方法が伝えられ、ガンダーラやマトッラーに仏伝中の登場人物として立体化されて出現した。その後、如来像として独立し、形式も完成され礼拝の対象になった。仏像は、インドにおいて転輪聖王(理想的な帝王)の特相を、如来像に転用したといわれる三十二相と八十種好(二次的特徴)を備える(曼荼羅に描かれても同じ)。幾つかを列挙すれば、頭上の肉髻(髷のような盛り上がり)、右旋の毛髪や体毛、眉間の白毫、白く輝く四十本の平らな歯ならび、手が長い、手足の指の水掻き、手足の輪のしるし、皮膚が金色で獅子のように威風堂々として何事にも恐れない等である。密教においては、「密号を寂静金剛。生身の釈尊とは異体で、大日経には変化法身と説かれ」衆生を教化する。金剛界では「不空成就如来(すべての迷いや煩悩を断ち、悟りの境地で、一切を円満に成就する)」で現身し、胎蔵界では釈迦院の主尊で金色身で説法印(吉祥)を結び、或いは天鼓雷音仏(てんくらいおんぶつ)として北方に配される。

■第68話 密教の仏 釈迦如来 2
釈迦如来は二七日忌(十四日目に修する)の本尊である。金剛不壊(こんごうふえ)といわれ、ダイヤモンドのように堅固で崇高な誓願で、煩悩や迷いが襲っても、一切揺るがない、破壊されない精神を保ち続ける如来である。二七日忌の本尊が釈迦如来というのも、成仏に至るための修行に、最高の師を得て、正しい道を指し示して戴くためであろう。お姿は正しい道へ導くために、常に説法を続けるの印(転法輪)を結ばれている。基本的な教えは、[三宝印]「四諦(したい)」「八正道」で、三宝印は[諸行無常(すべての物は変化し移り変わる)」「諸法無我(すべての物には根源・実体が無い)」「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう すべての実体を悟ると透明で静謐な境地が開ける)」。四諦は「苦・集・滅・道」で、世の四つの真理をいい、生死は苦しみであり、迷いや苦しみは何時いかなる時も襲い、それを克服(滅)する事が生きることであり、そのために道(八正道)を修めなければならない。八正道とは正しい「見かた、思い、言葉、行い、生活、努力、安心、精神」で、捏槃(さとり)を得るための修行である。密教では、法身生身の応化身と説き、秘密を易しく説法し、修行に立ち向かわせる尊師であるとし、沢山の経典を説いて、成仏を祈願し、我が子の如く、すべての悪行を除去して、悉くを救済して導くという。

■第69話 密教の仏 文殊菩薩 1
「文殊の智慧」の言葉が示すように、大乗仏教の代表的な般若経典では「むしろ仏に代わるほどさかんに活躍し、般若=智慧を完全にそなえて説法を行う」菩薩である。文殊師利(もんじゅしり)といい、結集(経典の編集)にかかわり、経典にも対告衆(釈尊の呼びかけ者や質問者)として度々登場することから実在したとされる。一般的には、お釈迦様の脇侍仏として、普賢菩薩と共に在って釈迦三尊として仏教請来より礼拝され、諸仏諸菩薩の母といわれ、智慧を特性として信仰された。一尊の場合も多く、お姿は、僧形や左右のお手を上下させたものもあるが、手に青蓮華や剣や如意をもち、お経(梵篋)を乗せ、獅子の背に座しているものが多い。密教においては、密号を吉祥金剛、般若金剛等といい、金色身で頂の髻をさまざまな数に結い、殊に右手の智剣はお大師様も「文殊の利剣は諸戯(しょけ)を絶つ」と説かれ、文殊菩薩の利剣(金剛剣)は誤った考えをすべて絶するものだと強調なされている。左手には青蓮華(諸法に染着されない)を持ち、蓮花弁の上に梵篋(経)を乗せる。髪(髻=もとどり)に特徴があり、その数によって智慧の本誓を表し、一髻(増益=幸せの増進)、五髻(愛敬=和合・親睦)、六髻(調伏=魔障や怨敵の摧破)、八髻(息災=災難や障りを除く) の文殊といわれ、無執無我の般若の妙慧で、説法して人々を救済する。

■第70話 密教の仏 文殊菩薩 2
文殊菩薩は三七日忌の本尊である。不動尊と釈迦如来により、魔障や煩悩を退けて、成仏を自覚し、更に正しい道の修行に導かれた精霊は、愈々仏としての智慧を修めるべく、文殊菩薩の道場に入ります。文殊菩薩の陀羅尼(真言)の功徳は、一遍唱えれば修行者の苦難を除き、二遍で死に代わりの重罪を滅除し、三遍で仏の境地が現前し、四遍で憶いを堅持して忘れず、五遍で無上の菩提を成就し、正しい智慧の三密の説法を聴聞することを得るという。正しく、文殊の智慧は成仏なのである。そこで最近まで絶対にしなかった行為を、敢えて実行していることを報告したい。密教の本堂の諸設備(荘厳具)は、その全てをある水準で整えると、建物と同じ位に高価なものであるから、むやみに檀信徒の方々に触ったり、使用させない寺院が多い。拙寺もそうで、特に鳴り物は磬や鐘や木魚など、打ち方で簡単に割れることもあったりするし、塗り物も粉蒔の大壇等は新米の坊さんにも触らせない。しかし今節は、法事に生意気そうな子供が来ていると、ちょっとおいでと誘い、鐘や木魚を思いきり打たせる事にしている。テレビゲームで育ち、映像を通した音声を全て本物と信じる怖さを感じるからで、自分で鳴らした実音を体感させたいからである。知識では悟りは得ない。智慧こそ成仏への手立てだから、文殊は尊いのである。 
 

 

■第71話 密教の仏 普賢菩薩 1
普賢菩薩も文殊菩薩同様、釈迦如来の脇侍仏として釈迦三尊として祀られ、白象に乗る姿で表される場合が多い。文殊菩薩は智慧、普賢菩薩はその智慧の実践、修行を促し、成仏へ導く。良く知られる「華厳経」は、この世の全ての凡夫の三業の行いや煩悩が、消滅するまで願うことをやめないという、普賢菩薩の十の大誓願が教えとして説かれたものである。十大願とは 1.礼敬諸仏(諸仏を敬い礼拝する) 2.称賛如来(如来を称賛する) 3.広修供養(諸仏にあらゆる供養を惜しまない) 4.懺悔業障(過去の罪科を悔い改め、仏に告白する) 5.随喜功徳(功徳を共に喜ぶ) 6.請転法輪(諸仏の説法を請い願う) 7.請仏住世(諸仏が常にこの世に住して導いてくれることを願う) 8.常随仏学(常に諸仏に学ぶ) 9.恒順衆生(恒に諸衆を敬う) 10.普皆回廻(全ての功徳をあまねく振り分ける) で、諸々の罪障を滅し、成仏に至る功徳で人々を救済する。密教においては、本来有している菩提心(成仏の境地の心)を総括する菩薩で、大日如来の眷属で、金剛薩埵と同視される。密号を善摂・真如・如意金剛。異名を一切平等建立如来、一切義成就菩薩という。身体は白肉色で、宝冠を載せ、左手の親指と人指し指で蓮華を持ち、花上に火炎の剣、右手は印を結んでいる。又、法華経には六本の牙の白象に乗り、行者を守護し、修行を助ける姿で登場する。

■第72話 密教の仏 普賢菩薩 2
普賢菩薩は、四七日忌(亡くなって二十八日目に修する)の本尊である。精霊は、先に釈迦如来によって、正しい修行の道を示され、文殊菩薩の道場に入り、成仏に至る知慧を学び、愈々名前の示すように、普く賢い(全ての徳と吉祥を具備した)ものに成就するため、以下の普賢菩薩十大誓願を立て、厳しい修行に勤しむ事になる。1.様々な仏様を敬い、五体投地三礼(身体を地に投げ打つように全身で三度礼拝する)をして、礼拝行を怠らない。 2.如来(覚者)を褒め称え、唱名する。 3.如来に供物(六種の供養.浄水・塗香・生花・薫香・飯食・灯明)を惜しまず、欠かさず供養する。 4.過去の罪科を告白し、悔い改める。 5.為された善行と功徳を共に悦ぶ。 6.常に機会あるごとの仏の説法を求める。 7.いつの世も仏の正道が続く事を願う。 8.いかなる時も、仏の説法を聞き、仏道を学ぶことを誓う。 9.自分を取り巻く全てを師と敬う。 10.自分を取り巻く全てと功徳を分かち合う。 更に、長寿延命の仏としても汎く信仰され、普賢延命菩薩として礼拝される。殊に密教では、この普賢菩薩の浄菩提(成仏の境地)を求める心の行願は、極めて重視され、真言伝承八祖の第ニ祖一金剛薩埵と同格視され、大日如来の説法の全てを受け継ぐ、修行者として位置付けされる。

■第73話 密教の仏 地蔵菩薩 1
地蔵菩薩ほど、伝来(奈良時代)以来、延命、子育てなど、様々に呼称され、社会や大衆に支えられ続けている仏はいまい。もともと菩薩なので菩薩界に住する仏であるが、釈尊入滅後、次の未来仏(弥勒菩薩)の成仏までの無仏の時(五十六億七千万年後…ちなみに釈尊滅後現在で約二千五百年)に声聞界に在って、迷えるものを(衆生)済度する役目があり、寺院の門前や町の辻々に剃髪の比丘(僧形)で、宝珠と鍚杖(錫杖)を持つ、可愛い姿を見かけると思う。また、六道能化地蔵願王菩薩と呼ばれて、衆生が生まれながらに備わった生活活動によって生死を繰り返す、迷いや苦しみの世界を六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)というが、それぞれの道に在って難儀する者を教化し救済する意で、「六地蔵尊」と呼ばれ、六対並んで建立されるのも常である。原名はクシティガルバで、「大地」を「蔵(胎)」するという義で、大地のような頑固な菩提心で、諸々の苦しみを受けても破壊されない、尽きることの無い徳を有すという。又、衆生に代わって苦しみを受ける「代受苦」の十二の誓いをもつという。密教では密号を、悲願金剛・悲愍金剛・与願金剛と称し、宝珠と幢、鍚杖を持つ。胎蔵曼荼羅に現される尊形は、体は肉色で、右手を挙げて日輪(宝珠、月輪)を持ち、左手は拳を腰に当て、蓮華(先端に宝幢幡がひるがえる)の茎を持ち、赤い蓮華座に坐す。

■第74話 密教の仏 地蔵菩薩 2
地蔵菩薩は三十五日忌の本尊である。地蔵菩薩は閻魔尊とも同体(本地垂迹説=仏が衆生救済に際し、先ず仮に神となって現れる事)で、インドにおいては地蔵菩薩(本地=ほんじ)だが中国・日本では閻魔王(垂迹=すいじゃく)として、鎌倉時代以後、民間信仰に支えられて、きわめて異様(?)な、又畏敬を持って礼拝されて来た。五七日忌は、仏前仏後の中間であり、「閻魔法王の断罪の庭、新亡精霊昇沈の境なり」といわれ、新精霊が閻魔王の前に呼ばれ、傍らの浄玻璃の鏡(じょうはりのかがみ=冥界の鏡)に一生涯が克明に映しだされ、その結果で天界(極楽)への入場券が支給されるのである。勿論、逆方向の場合もある。天界でないほうの券を支給されたものは、どうしたら良いのか?前言通りである。閻魔尊と地蔵尊は同じ仏であり、生死を繰り返す、迷いと苦しみの六道の全てに在って救済する役目が在ると言うことも述べた。地蔵尊の慈悲で全て救済されるのである。近年は、何故か五七忌は修されない。果たして無事極楽へ辿り着けるだろうか。又、親より先に亡くなる不幸で、子供は賽(さい)の河原をさ迷うといわれ、地蔵尊は河原に居て、子供を見つけては袈裟で隠し包み救い続ける。だから親は、亡き我が子をいち早く地蔵尊に発見されるよう、生前身につけた(子供の匂いがついた)よだれ掛けや帽子を、地蔵尊に着せるのである。

■第75話 密教の仏 弥勒菩薩 1
弥勒菩薩の梵名マイトレーヤは「友愛」で、「慈から生まれた者」という意で、「慈氏」「慈尊」とも訳され、人天を問わず、全ての人々を慈悲心をもって救済するという誓願を持ち、インドを始め、中国でも、我が国に伝来されても、極めて篤い信仰に支えられ、全土に弥勒菩薩が建立された。弥勒菩薩は、菩薩としては修行も成就し、後一生で成仏される位に達していて、兜率天(とそつてん)という浄土の内院に居て、衆生を救済している。そこで「弥勒上生(みろくじょうしょう=弥勒菩薩が常に説法を続ける兜率天へ往生を願う)」の信仰が芽生えた。宗祖弘法大師も弥勒信仰の一人であった。また、弥勒菩薩は、釈尊が入滅した後、次にこの世に現れる将来仏とされ、五十六億七千万年の後(釈尊入滅後現在約二千五百年)に、「弥勒下生(みろくげしょう=人間界に降りて、生まれ現れる)」をされ、華林園と云うところの竜華樹(りゅうげじゅ=ブンナーガ樹)の下で菩薩から如来(成仏)となられ、三会(さんね=三会場)の説法で、それぞれ第一会では九十六億人、第二会では九十四億人、第三会では九十二億人を、釈尊の遺弟(遺された弟子)として、釈尊の遺された法を伝えて、教化するという。密教では密号を迅疾金剛。経軌で持物や印相も異なるが、身は肉色、冠中に率覩波(そとば)(塔)があり、蓮華座に座り、左手は施無畏の印、右手の花上に智慧の瓶を載せた蓮華を持つ。

■第76話 密教の仏 弥勒菩薩 2
弥勒菩薩は六七日忌の本尊である。京都太秦の名刹広隆寺(国宝第一号)や、奈良斑鳩の里 中宮寺の弥勒菩薩は、そのお顔と頬にあてる細やかな指先、たおやかで類を見ない容姿の美しさに、信仰と美的価値を求めて、終日訪れる人が絶えない。弥勒菩薩が刻され祀られる義は、世の中が乱世であったり、飢餓や飢饉、疫病などの流行で、一番の弱者である一般民衆が仏の救いを求めて、一日も早く弥勒菩薩に下生し如来に成仏し、釈迦如来に代わってこの世を浄化し、安心の世の中が続く事への、祈願と救済を懇請するからであろう。弥勒菩薩は、名前の示す通り慈悲の尊者といわれるが、仏教の最も基本とする二大徳目は、「慈悲」と「智慧」である。慈悲は、『他者に利益や安楽を与え[与楽]慈しみを与える慈[友愛と友]と、他者の苦に同情し、これを救済しようとする[抜苦]思いやりをあらわす悲の両語を併挙したもの(仏教辞典)』を言い、苦を除き安楽を与える「抜苦与楽(ばっくよらく)」は、弥勒菩薩の大願である。その大願を弥勒菩薩より預かる精霊は、「智慧・慈悲」を得て、愈々成仏への完成を深め、盡七日(四十九日)へと至ります。又、成仏した後も、しばらく浄土に止まるか、再生し懐かしい家族のもとへ、弥勒菩薩と共に必ず帰る、或いは帰って欲しいと願う弥勒信仰も、見逃せまい。

■第77話 密教の仏 薬師如来 1
薬師如来は、名前の通り人々の病気や苦悩を救済する仏で、原語の直訳は「薬・治療の医師」で、「薬師瑠璃光如来」「大医王仏」「医王善逝」とも呼ばれる。阿弥陀仏の西方浄土(来世の世界)に対し、「東方の瑠璃光浄土に住して、衆生の現世利益を司る仏」とされ、本来は釈迦如来の別称で、救済活動を具体的に表すため、衆生の苦悩を治療する、医師に変じて教化をなす。もと菩薩として修行にある時、十二の大願(後述)を誓われ、その行願の結願により、薬の蓋を開いて薬を与え、諸病を即疾に除くことを得たという。お姿は、右手を揚げ、左手は施無畏印(与願印)を結ぶ形のものや、右手を施無畏印にし、左手に薬の壷を持つのが一般的で、この形も釈迦如来と同様で、前述を肯定している。又、密教の経軌では脇侍仏として、日光・月光の両菩薩を左右に居して、十二神将(十二大願を十二時、十二月=十二支に護持する守護神)という。 1.宮毘羅(ぐぴら)=子 2.伐折羅(ばさら)=丑 3.迷企羅(めいきら)=寅 4.安底羅(あんちら)=卯 5.末儞羅(まにら)=辰 6.珊底羅(さんちら)=巳 7.因達羅(いんだら)=午 8.婆夷羅(ばいら)=未 9.摩虎羅(まこら)=申 10.真達羅(しんだら)=酉 11.招杜羅(しょうとら)=戌 12.毘羯羅(びから)=亥 を前後に従え、八万四千の夜叉が常に守護するとされる。

■第78話 密教の仏 薬師如来 2
四十九日忌は、薬師如来を本尊として修す。盡七日忌は、「立ち日」或いは「家の棟を離れる」といい、仏界への旅立ちを表す。又、薬師経の昼夜四十九編の読誦は、大病も克服する事から四十九日の本尊の説もある。精霊は初七日よりの六仏により、生前の三毒や破戒律を焼盡した後に、大日如来を確認し、修行の正道を示され、智慧を修めます。次に智慧の実践業の行願を決意し、仏界への迷いのない導きを得て、更に仏教の大徳目の慈悲を修めて、成仏への完成を更に高め、成仏の暁にはいずれ帰る日も約束され、愈々仏界への旅立ちを薬師如来に請願する。薬師如来は、我々の遠方への旅立ち同様に、生水の節制や、不意の病での難儀のための施薬を調合し、仏界への旅立ちを教化する。更には十二大願 1.相好具足(光明を普く注ぎ全てを完成する) 2.光明照被(瑠璃の光明が覆い全てが成就する) 3.所具満足(智慧と方便で活動を無盡にする) 4.安立大乗(邪道を捨て大乗に安住する) 5.持戒清浄(戒律を保ち悪業に溺れない) 6.諸根完具(妨げ災いを取り除き全てを円満にする) 7.除病安楽(難病や諸病を即疾に除く) 8.転女成男(希望すれば女性も丈夫として成仏する) 9.去邪趣正(煩悩に犯される者を正見させ成仏させる) 10.息災離苦(権力や悪政から救い苦悩を除く) 11.飢渇飽満(飢えている者に充分な食物を与えて安楽にする) 12.壮具豊満(衣類の無い者に衣装を与え、心身を豊かにする) を授けて、確かな成仏へ旅立ちを促す。

■第79話 密教の仏 観音菩薩 1
仏像も、広く成仏を希う仏、慕われる仏、誰でも知っている仏、頼られる仏等様々だが、観音様ほど篤く信仰をあつめる仏はない。名前はサンスクリット原典により、「観自在菩薩(世界を自在に観察する)」といい、入竺沙門の訳者の鳩摩羅什(くまらじゅう)は、『妙法蓮華経』の翻訳に際し「観世音菩薩(世界の全ての音・願いを、観=聞き入れる)」とし、一般には「かんのんさま」と親しまれ、信仰をあつめている。真言宗では代表的な姿から、聖観音(天平の観音に対し、密教独自の平安以降の観音)、千手千眼観音(千の慈眼で衆生を見つめ、千の慈手で救済する)、馬頭観音(馬頭を頭上に戴き、猛威と忿怒で、魔障を降伏する)、十一面観音(十一の仏顔を頭上に戴き、諸魔を除き利益を潤す)、如意輪観音(意のままに宝・財産・智慧・富・勢力を授ける)、准胝観音(三世諸仏の母=世母と称し、心性の清らかを備える)の六体を、六観音と称す。又、他に不空羂索観音(計り知れない功徳と霊験を持つ)を加える場合もある。更に、先述の『妙法蓮華経』の観世音菩薩普門品二十五(功徳を説く経)には、観音の救いを求める衆生の姿に合わせて、様々な変身(応現身)が説かれ、実に三十三に変化することから、三十三観音(西国霊場)が発生し、西国・坂東・秩父の三霊場を百観音霊場と称して、霊場ブームを巻き起こし、現代も篤い信仰の善男善女の巡拝が絶えない。

■第80話 密教の仏 観音菩薩 2
観世音菩薩は、百ヶ日忌の本尊である。百ヶ日忌は、卒哭忌(そっこくき)といわれ、涙の乾く日という意味で、故人への想いや嘆きや慟哭も、重ねる日々が癒してくれて、胸の内に深く沈んでいくからであろう。何故百日目に修すのかは、解らない。多分神道の百日祭祀か、百観音の由来からと想像するが、一心の南無観世音菩薩の唱名は、数え切れない妙智力の救いを得る。この祈願への救いの多さを百に譬(たと)え、仏界へ旅立つ精霊の百日を越える節の日とを、重ね合わせたのではないかとも思える。「みる」という漢字には、「見=人と目の合字で、みる事が転じて<あらわれる>や<会う>という義」や、「看=手と目で、手をかざして遠くを<みる>や、額に手をあてて熱を<はかる>」などがあるが、観音様の「観・觀」は、諦視即ち「明らかに良く視る」「つまびらかに見る」の事で、目の前や近隣、遠くても自眼で見える範囲という狭義では無く、世の全てを見通す、内面をも透視してしまうほどの観察力をいうのであって、「世の中を自在に」「世の音(救いを求める声)を聞き漏らす事なく」知見するのである。衆生の生業とする全ての姿に応じて変身して現身し、様々な願いや懇請にも即時対応できる、民衆救済に徹した仏といえる。又、仏には性別は問わないが、容姿から「慈母」と慕われ、母胎に包まれる安心が、成仏へ導く大らかな慈愛を育むのである。 
 

 

■第81話 密教の仏 勢至菩薩 1
勢至菩薩は、通常では計りきれない大きな功徳を表す「得大(とくだい)勢至菩薩」といわれ、大勢志・大精進とも呼ばれる。名前の如く、得大な智慧の勢いをもって、直路(真っすぐな路)を示して、極楽浄土へ至らしめるという徳目を備える。浄土教では一尊で祀られることは稀で、前項の観世音菩薩と一対で、阿弥陀如来の脇侍仏として、合掌したお姿で左右に在り、往生思想に反映されて信仰され、全土に阿弥陀三尊として祀られた。又、常に観世音菩薩とは対向して信仰され、その徳目も観音様は慈母の恵愛と寿命無量を、勢至様は慈父の尊厳を慕われて光明無量を、前者が大慈大悲で大衆を教化するのに対し、勢至菩薩は智慧の光明をもって、普く衆生を済度するという如くである。「觀無量寿経」には、「知恵の光をもって、普く一切を照らし三塗(さんず)を離れ無上の力を得る」と説かれ、苦しみや迷いの世界に在る者を、三世に亙って広遠に続く悲願と、十方自在に巡らす神力を駆使して、智慧(釈尊の教えの理論や道理で、世の全て見通す、或いは理解して認識する賢さ)の光で包み、衆生を抱きかかえて成仏を促すという。密号を持輪金剛・持光金剛・転輪金剛・空生金剛。お姿は、身体は肉色。頭は五つに髷を結い、冠を付け、左手に蓮華花(或いは未敷蓮華)を持ち、右手は胸で印を結び、赤い蓮華座に坐す。

■第82話 密教の仏 勢至菩薩 2
一周忌は、大勢至菩薩を本尊として修す。前項で述べたように、阿弥陀如来の脇侍仏として、観世音菩薩と共に極楽浄土への往生を促すことを徳目とする。ちなみに観世音菩薩は百ヶ日忌の本尊であり、慈母として慕われ、四十九日忌に仏界へ旅立たれた(旅立ちをして既に五十日も過ぎると、旅馴れし、極楽へ向かうこともしばし忘れる)精霊を、大慈大悲の大らかな慈愛で包み、寄り道したり、迷路へ迷い込まないように、優しく促し、正しい路を指し示すのである。勢至菩薩は慈父である。観音さまのように慈しみと優しさは、表に現れない。旅立ちをして一年も経ち、慣れきった(初めてパスポートを得て海外へ行き、不安と臆病で添乗員から離れなかった者が、二度三度と出掛けるうちに度胸が付くのか、自分勝手な行動をとり始めるのと似る)極楽への旅行者を、厳父のごとく諌め、智慧溢れる道理で諭して、輝く光明に照らされた極楽への真っすぐな路を、力と勢いを持って導くのである。仏教者の願いと祈りは、精霊が極楽へ往生することにある。後を振り返ったり、寄り道は成仏の妨げである。この万人の願いは、顕密を問わず共通である。一日も早い、成仏を願うのである。勢至菩薩の祥月日は、旧暦毎月二十三日である。この日の月の出は明け方であることから、全国津々浦々で講が立ち、月の出を待って寺に篭もる「月待ち篭り」が流行した。

■第83話 密教の仏 阿弥陀如来 1
阿弥陀如来ほど、一般社会に認知され、成仏への手立てとして頼られる仏はあるまい。「南無阿弥陀仏」の唱名も「ナンマンダブ」が「ナマンダブ」に短縮され、浄土教等の宗派色や阿弥陀仏が本尊でなくとも、全国規模でこだわり無く唱えられ、今に至る。これは平安末より鎌倉時代に至る動乱と混乱の社会不安(飢餓・飢饉・疫病・政情不安・武士の台頭)を、西方極楽浄土に往生するという、一縷の光明に縋るという民衆の切なる願いと、仏の功徳が一体となった為と言える。阿弥陀如来は、「無量寿如来」「無量光如来」とも別称され、時間的と空間的な無限の徳を表す言葉で銘々されている。「無量寿経」には、前世においては比丘であり、二百十億に及ぶ仏国に遊び、全ての善悪を見て大願を興し、気の遠くなるような時間を経て、更に更に長考を重ねて四十八の誓願を成就させ、阿弥陀仏として成仏し、今もなお西方極楽浄土にあって、衆生を救済する説法を続けているという。四十八の誓願の主なものは、「住正定聚願=全ての人や神が悟りを得なければ仏とは成らない」「光明・寿命無量願=光明や寿命に限りがあるならば仏と成らない」がある。又尚且つ、至心に阿弥陀仏を褒めたたえ、阿弥陀仏の浄土に成仏(往生)することを願い、一心に念仏(南無阿弥陀仏)すれば、十声の称名(御十念)で、成仏必至という。顕密二教にとって、重要な仏なのである。

■第84話 密教の仏 阿弥陀如来 2
阿弥陀如来は、三回忌(亡くなった年を入れて数える。満二年)の本尊である。全ての仏教徒なら等しく願う、極楽浄土へ成仏する日である。過ぎる月日は早く、月を重ねて二十四回、日を積んで七百余日、花を手向け香を焚いても、精霊は還らないし、過日は遠くなっても、別離の悲しみは、綿々として昨日のようである。そこで精霊には、最も縁の深かった極楽浄土の教主である阿弥陀仏のお導きにより、四十八の誓願を興して、修行や徳業の浅深により三種に類別されるという機根(きこん=能力や性質)に乗じて、浄土へ赴き、過去世において知らずに犯した諸々の罪科を、一心に「南無阿弥陀仏」を称名することや、真言を誦することによって滅して頂きたい。そうすれば、真言行者として心から目覚めて修行し、大日如来の智慧(全ての衆生の悩みや疑念を絶って、その願いを全て聞きとどける)を体得し、極楽浄土の輝く五色の蓮の花台に乗り、本性から清らかであることを確信し、必ず成仏を遂げるであろう。因みに浄土とは、仏菩薩が住む清淨な国土で、仏界・仏国・淨界等と同義で、仏によって住む場所も異なり、阿弥陀仏は西方に住し極楽浄土といい、東方には薬師如来の淨瑠璃浄土や、弥勒菩薩の兜卒天が在り、大日如来は十方如来の浄土を含有する密厳仏国に住す。密号は、清淨・大慈金剛。別称を観自在王仏(妙観することが自在)・甘露王如来。

■第85話 密教の仏 阿閦如来 1
阿閦(あしゅく)如来には、悟りを得るための発心が極めて強く、戒を律する事も堅く、何時も心が乱れ揺れることが無い事から不動・無動如来とも呼ばれたり、或いは、絶対に怒りの心を起こさないという義の無瞋恚(むしんに)如来という別称がある。その名の由来は、過去に向かって、東方の千仏刹(釈迦を初めとする千に及ぶ仏国土)を越えた処に阿比羅提国世界があり、その浄土で大目如来が六度に亙(わた)って無極(仏の境地=ニルヴァーナ)の行を説法した時、一人の比丘が祈願して、至上の悟りを求める心(菩提心)を発し、瞋恚(怒り)を断ち、淫欲に溺れないことを誓って精進を宣言し、悟りを得て成仏し、師の大目如来よりその徳目を大いに称えられ、阿閦(瞋恚)如来の名号を得たものである。そこで成仏の後の今も、東方の浄土(妙喜世界=快善)に残り説法を続けている。密教では、金剛界においては五智如来(大日・阿閦・宝生・阿弥陀・不空成就)の四方四仏の一つで、東方にあって、大日如来の万象を映す、円かで明るい清らかで汚れの無い鏡のような智と菩提心の堅固さを現し、胎蔵界の宝憧如来と同体である。後には、大日如来に代わって、五仏の中尊ともなる。密号を不動金剛・怖畏金剛。身は青色で左手の五指で衣の端を掴んで胸にあて、右手は指を伸ばして右膝に伏せて置き、指先が地に触れる、不動を表す触地印を結ぶ。

■第86話 密教の仏 阿閦如来 2
仏教においては、何人も極楽へ往生することを願うわけであるが、既に三回忌には阿弥陀仏のもとへ赴き、大願を果たしているのに、何故七回忌を迎え、さらに追善を重ねるのか、疑問を持つ方も多いと思う。実は、釈尊を本仏として成仏を願う、同質の仏教を信仰する上で、頂上は同じでも、そこへ至る登山口(宗派)が違うと、自ずから修行の過程も違い、殊に日本仏教ではその宗派の発生の時代性により、仏陀観や本尊観も変化し、華竟浄土(成仏)思想も異なる。先述のごとく浄土思想は、平安末から鎌倉時代に台頭したもので、只阿弥陀一仏を持って願いを達成する為に、追善というより、いつの日も阿弥陀仏と共に極楽に在り、その本願を得て、成仏に至るのを待つのである。しかし、真言密教では、弥陀の浄土は別徳の少しく止まる世界であり、ちょうど末広がりの螺旋階段を登るように、段々高く段々広く、更なる成仏を求めなければならない。そこで精霊は、恒に厳しく戒を律して、怒り(瞋恚)を断ち、煩悩(淫欲)に溺れない阿閦如来に従って、智慧の鏡を磨き、心を堅固に修行を積み、無上菩提を求めるのである。宮坂宥洪師は、七回忌は丁度六才(満六年)の就学年齢、仏の世界も同じで、大日小学校に入学して担任の阿閦先生について、智慧の学習を始める日と説教されたが、筆者もこの考えを支持している。

■第87話 密教の仏 大日如来 1
大日如来は、真言密教の絶対本尊で、いわゆる仏陀(法身)である。梵名を摩訶毘盧遮那如来といい、遍照如来(大いなる智慧と光明であまねく世を照らし、救いたもう仏)と訳され、宇宙そのものというか、全てを抱合する真理を具現する教理を表し、仏菩薩の中心に在る最高本尊である、その発祥は、異なる二つの経典「大日経」と「金剛頂経」にその教理と働きが説かれ、それぞれの経を所依として、曼荼羅の中尊として「大日経=胎蔵大日」「金剛頂経=金剛界大日」の二つの姿に描かれ、胎蔵大日は法界定印(両の手の平を結跏趺坐の上で丸く組合わせ、親指の先同士を触れる)を結び慈悲を、金剛界大日は智挙印(両手の拳を右上左下に合わせ、左人差し指を立て右手で握りこむ)を結び智慧を表す。又、そのお姿は、如来でありながら菩薩の徳も備えるため、髷を結い上げ、宝冠を戴き、上腕や手首や胸には金環を巻き、金色に光り輝き、蓮台に座す、菩薩像を成す。密教辞典には、大日如来所依の大日経の解説書の大日経蔬には、「その智慧の光明は除暗遍明であり、昼夜・方処の別ある日の神とは比較にならない大光明が、遍く一切処に及び、慈悲の活動が活発で不滅永遠であるところから特に大を加えて〔大日〕と称する」と記され、更に「大日如来は、宇宙の実相を法身として捉えたもので、すべての諸仏諸菩薩はこの如来より出生し、すべての働きもこの如来の徳の顕現とされる」という。

■第88話 密教の仏 大日如来 2
精霊去って既に壱拾三年、馨音絶えて茲に四千余日を重ねた十三回忌(満十二年)は、金剛界大日如来を本尊として修す。密教辞典に頼るので、難しくなって恐縮だが、金剛界大日如来は、密教の根本経典である「金剛頂経(金剛頂一切如来真実摂大乗現証大教王経)」を所依として発祥する。内容は釈尊(一切義成就菩薩)の質問に対して、大日如来が自ら仏(如来)であることを悟り、更に仏身(永遠の仏陀)として成就した修行方法の「五相成身観(ごそうじょうしんかん)=本尊の仏身を修行者の現実の身上に完成させると観じさせるための五つの密教の観行」を説き、実践させる経典である。即ち、密教の観行の最高の境地に、大日如来と共に釈尊も住して、あまた菩薩に説法を講じ、潅頂を授け、諸菩薩を実際に同じ境地の仏心に任せしむる。その諸菩薩の悟りへの境地を、順に九会の図画の展開によって示したものが金剛界曼荼羅である。金剛界大日如来は、「智の面の表現として、衆生の菩薩心と仏智の実相を示す」という。金剛界曼荼羅は、顕教の四智「大円鏡智・平等性智・妙観察知・成所作(じょうそ)智」に「法界体性智」を加えた五智(真言行者が菩薩心を興し、修行して、成就させて、体得した智 大日如来の智)を説く。精霊は、密教の永遠の仏陀である大日如来の「智慧」を得て、いよいよに成仏に向かって熟成し、完成されていきます。

■第89話 密教の仏 大日如来 3
十七回忌は、十三仏の追善供養の法要には含まれないが、金剛界大日と共に両部として、極めて重要な本尊である胎蔵界大日如来を本仏として営まれるので、ここに記す。胎蔵大日(本来「界」は付けない)は、大日経(大毘盧遮那成仏神変加持経)を所依として説かれ、胎蔵曼荼羅の真ん中に五色線に囲まれ、八枚の蓮弁を台座にして四仏四菩薩が描かれる「中台八葉院」の中心に、法界定印(両の掌を結跏趺坐の上で丸く組み合わせ、親指の先どおしを触れる)組み、金色に光り輝く身で、髷を結い宝冠を戴き、胸や腕や手首に金環を巻き蓮台に座す。大日経は、三句の法門「菩提心(仏を目指す発心)を因とし、大悲(慈悲心)を根とし、方便(目的に近づく方法)を究竟(くきょう)とする」を徳目とし、この「自ら成仏を求め目指す心の発露を重大な核として、自分と他を区別することのない大らかな救済への慈悲のあふれる根源を持ち、飽くことの無い究極の悟り(成仏)を求め続ける過程」が、実は大日如来そのものの心であると説く。又、その過程を真摯に求めるには、誰もが有する菩提心を、「如実知自心=にょじつちじしん(自分の心のように自在に観察し、解き明かし、知ること)」に獲得すれば、即疾に仏果(成仏)を得るという。年重ねて壱拾七年(満十六年)、精霊は胎蔵大日に大悲大慈を説かれ、全てを救済され、愈々本覚を得て、菩提へ至るのである。

■第90話 密教の仏 虚空蔵菩薩 1
愈々十三の「密教の仏」も、最後の虚空蔵菩薩を説くに至った。深遠な世界を、巧く伝達できたかが心配であるが、祖先から自分への尊い命の受け継ぎを感謝し、先亡諸精霊への追善供養に実践して戴ければ幸いである。扠て虚空蔵菩薩は、八十億の菩薩の中で最も上主をなすと言われ、「宇宙の総てのものを含蔵し、無量の福徳・智慧を具え、常に衆生に与えて諸願を成就させる菩薩」で、「大日如来の福智二徳を本誓とする故に、同体」であるとも説かれ、身の丈は二十五由旬(一由旬は約7km=仏教辞典)で、真実の大身を現ずるときは、虚空(一切のものを包み込んだ空間=宇宙)と同じであるという。そこで「虚空蔵」と号され、如意満願・悉地成就の優れた徳目で衆生を救済する。虚空蔵菩薩は、奈良時代に既に盛んに修された「求聞持法(ぐもんじほう)」の本尊で、明けの明星が輝くとき、この菩薩の真言「ノウボ アキャシャ キャラバヤ ヲン アリ キャマリ ボリ ソワカ」を壱百万遍繰り返し、法の如く誦すれば、「一切の教法を暗誦し得る」とされ、弘法大師様も四国室戸岬で修行し、その成就の暁には、輝く明星が眼前に飛来し、口に入ったという驚くべき体験談が、自著に記されている。密教の代表的な本尊で、「肉身に白衣、天冠に五仏(三十五仏)あり、右手に火炎のついた剣を持ち、左手は腰に当て宝珠を乗せた蓮華をもち、蓮華座に坐す。 
 

 

■第91話 密教の仏 虚空蔵菩薩 2
虚空蔵菩薩は、三十三回忌の本尊である。三十三回忌は、俗に「留め」の法事とも言われ、虚空菩薩より上主の菩薩がいないことから、残された者の最後の勤めで、総てを立派に供養し尽くした意味からか、地方によっては半ばおめでたい法要として営まれる。例えば、筆者の地区でも曾ては、赤飯を炊いたり、尾頭付きの魚が飾られ、塔婆供養も杉の立ち木を削って面を平らにして書き、頂点には茂る葉を残したまま建立したりした。それは三十三年も脈々営々としてその家が続いている(立派に法要を営める)証しでもあり、長寿の現代とは違って、先亡の精霊と早く(自分が幼いうちに)別れるか、長寿を得ているかであり、とにかく夢のように長い月日(一万二千日)が経過している訳で、その篤い「おもい」の尊さに頭が下がる。虚空蔵菩薩は、前項でも述べたように、日本には早くからその経典がもたらされ、山岳の修行者にとって、極めて重要な仏であり、その真言を日々三十五遍、二十一日乃至四十九日間誦すると、全宇宙的能力を有すること(すべてのお経や法を暗記する)を得るとされ、篤い信仰の対象であった。虚空蔵菩薩の経には、様々な異名があり、「能満諸願大悲、福智円満、悉地成就、如意満足、平等一切、護国群家、天地明鏡、無病延命、不思議誓願、自在円満如意、随願如意、法界自在、依誦得法忍、依経得自在」等、列挙すると、その徳目の多さに目を見張る。

■第92話 密教の色彩 1
仏教のもつ色調は、本来は彩色豊かで、金色や銀色に輝く美しい世界を持つ。殊に密教(真言宗)は、宇宙のあるがままを素直に肯定するため、極彩色の世界にその教えをあますことなく包み込み(様々な色彩も全て仏慧=教えとして肯定する)表現する。例えば、法事や祈願のおりの僧の色衣がそうで、緋、紫、萌葱(もえぎ=薄緑)、黄色(おうしき)、浅葱(あさぎ=薄水色)等、更にその上に着けるお袈裟は、一段と華麗で荘厳なもので、金襴の金糸銀糸の織りや刺繍は、あでやかで美しく、王朝絵巻の世界に身を投じているような気さえする。真言宗では根本とする二つの経典(大日経・金剛頂経)によって教えを説くが、それぞれに幾何学的に図案化されて、極彩色絵画として二つの世界(大日経所依は『胎蔵曼荼羅』、金剛頂経所依は『金剛界曼荼羅』)で表現され、その教義は曼荼羅として展開される。密教の色彩は、この曼荼羅にあますことなく描きだされ、極彩色の世界は、宇宙を凝縮した大日如来(大いなる生命)の「大原理=理」と、大いなる生命を生き抜くための信仰生活の「智慧=智」を、汚れない「白」とし、共に蓮台に住す四仏(胎蔵四仏=宝憧如来・開敷華王如来・無量壽如来・天鼓雷音如来 金剛界四仏=阿閦如来・宝生如来・阿彌陀如来・不空成就如来)を、「赤・黄・青・黒」で表し、その教えや意義を五色に託して展開していくのです。

■第93話 密教の色彩 2
密教の真理の教えは、「大日如来」によって八十億の菩薩に説かれ、その教えを受けて展開する代表の仏が、金胎四仏(※括弧は胎蔵)で「阿閦如来(宝憧如来)、宝生如来(開敷華王如来)、阿彌陀如来(無量壽如来)、不空成就如来(天鼓雷音如来=釈迦)」である。金胎両部の四仏は、共に大日如来を「白」として頂き、順に「白、赤、黄、青、黒」、或いは「白、黄、赤、黒、青」の五色に真言密教の教義を顕して、様々な仏菩薩に関連し、影響し合いながら展開し、宇宙を凝縮した大原「理」と、大いなる生命を生き抜くための生活の「智」慧が二面に構成されて、二つが重なり合い、或いは不二(一体)となり、宇宙のあるがままを肯定し、極彩色の世界にあますことなく表現されて、つつみこむ。四仏は又、順に「東西南北」、「朝夕昼夜」、「春夏秋冬」、「少青壮老」の自然の変化と、現象の動いていく原理を説いて、宇宙の生命の動き「大いなる生命」の躍動を顕し、それぞれに「赤」は朝日の昇る様、「黄」は昼間の明るい太陽、「青」は夕方の空を、「黒」は太陽の沈んだ夜を顕し、修行の過程を説くという。真言宗の寺の本堂中心には、五色の糸(壇線)の張られた大壇が安置され、壇の中心と四隅に必ず、大日如来と四仏が鮮やかな五色の蓮花となって、荘厳されている。密教の「極彩色の世界」は、総てを肯定し、科学をものみこむ、自然色なのである。

■第94話 現代葬儀事情 1
多分反論もあろうと思うが、葬儀についての事情を申し述べる。今世紀の半ばには、3人に1人は65才以上という。ということは、廻り中(私を含めて)年寄りだらけ、どんなに長生きしたって、極近にはみぃ〜んな彼方へ逝くわけで、葬祭業はここ何十年かは成長企業で、どんなに美辞麗句(保険の勧誘に似て)を重ねても、死という商品を扱う商売なのである。それが証拠に、今だに我が市では、投資に見合う確かな利益が計上できるからか、葬祭ホール(市営と併せて十ヶ所もあるのに)が新設されている。何宗にも対応する寺や、いいかげんな坊主(果たして経が読めるだけで坊主といえるのか?)が横行し、葬祭業者と組んで、まるで商品を扱うように、葬儀をこなしている。多分私のように、檀家や業者に対しても、自説は曲げないし、自分ではインフォムドコンセント(説明・理解・承諾)のつもりから、一々うるさく言う者は、頼んでも煩わしいだけで、嫌われるらしい。結局葬儀業者主導で日程は決まるし、要らぬ料理は残るし、大枚の経費はかかるしで、布施まで盗られたような気になるらしい。葬儀が終わっても、ほっとしている暇なく、関連の業者(仏具屋・石屋・香典返しの業者・墓地の斡旋)の電話やメールは頻繁で、お金で始まり終わるのが現代葬儀なのである。宗教は、消費者問題といわれる所以である。

■第95話 現代葬儀事情 2
現代の社会問題の要因は、全てとは言えないが、かなりの比重で本来の姿が「見えなくなった」ことにあると思っている。葬儀もそうで、「葬式仏教」という嘲笑も含めた、問題視される昨今のお寺を取り巻く風評も、葬儀の正しい姿が「見えなくなった」ためと思われる。その起因は、一に寺側の責任であるのは明白だが、言い訳で恐縮ながら、〔寺と密接でない、寺を信じえない、信仰を持たない〕側にも、いわゆる説明不足と疎遠がそうさせるのか、かなりの身勝手さがあるといえる。近ごろは、インターネットを検索すれば、たちどころに「弔問のマナー」「香典の金額」「挨拶の仕方」「費用の内訳」などに、Q&Aを加えたページは即座に開けるし、分厚い豪華な写真入り、イラスト有りの冠婚葬祭の本は、書店の書架をうずめている。葬祭マニュアルの氾濫で、どうも裏側には関連商品販売の魂胆が隠れているようで、本来の葬儀の意義を逸脱して、このとおりに実施したら、あれも必要これも要るで、商品カタログを見るようでもある。通夜の儀の、あの有り余るご馳走は何なのだろう。読経中でも、飲んだり食ったりはあたりまえ。昔から取り込み中の先様での飲食は、失礼な事と誰でも知っていた。通夜、葬儀、告別式、知っているようで知らない、本当が「見えなくなって」、みんなマニュアルの嘘に踊らされているのだ。

■第96話 現代葬儀事情 3
葬儀に、ご馳走を振舞うようになったのは、いつ頃からだろう。多分、住宅事情が変わって、一戸建てのマイホームを持てるようになった頃で、個人尊重(プライバシー)を理由に、家族も自分一人の部屋を持つ事が、当たり前になった時代であると推察する。曾ての日本の家屋は、生涯に何度かある大寄せの祭事を見越して、必ず部屋には個々でも、仕切りの襖や障子を外せば、見事に大部屋(そんなにも広いとはいえない)が出現し、大方の人寄せを捌いた。しかし、一人部屋の出現は、自分以外の他(家族)からの接触を拒否するため、簡易な仕切りは強固な壁に、何処からでも入れた引き戸は、鍵の掛かる無情な扉になった。畢竟、臨時の大部屋は拵えようにも、出来ない事情ができた。そこで大寄せの祭事は、町会会館やホールや催し場を借りて、執行することになった。時代を察知するプロには、素人は適わない。大進出が始まり、斎場やホールが建ち並び、忽ち業者主導となった。葬儀の経費であの飲み食いは馬鹿にならない。逆に業者は儲かる。思い出してください。以前、他家の葬儀のお悔やみで、飲み食いしましたか?遺族や親族はしても、会葬者はしません。葬儀では食事をしない、礼儀なのです。親族の食事は、取り込み中で支度がままならないから、近隣が互助で急拵えで有り合わせるのです。絶対、ご馳走なんて食べません。

■第97話 現代葬儀事情 4
親族や同朋や近隣が、相互互助の分かち合いの精神で営まれていた祭事は、業者と呼ばれる商売の専門家によって運営されるようになり、本来の姿を見えなくするほどにその意識や形式は、過激に変化を遂げた。元々業者は存在したが、彼等は慎ましく葬家の補佐として陰に徹し、急な取り込みを支え、檀家と寺の要望を見事に捌いた。しかし、現代の業者は、全くの葬儀そのものの仕組みを知らずに、儀式のカタカナ語「セレモニー」的発想で、ただのお別れ式(元からの業者も遅ればせながら変身をしたが)を商売に優先し、業界に侵入し始めた。このことは、寺院や葬家中心型の葬儀形態を、根本から覆し、業者指導型へと変身させ、その根底にあった大事な宗教心や仏教の法儀を無視する結果となった。一つの例は、遺体を安置する霊棺である。曾て自宅葬が執行されていた時は、部屋が狭い場合でも、柩は祭壇の後方に安置された。この場合は廻りに供花や供物をおくと、一旦設けた祭壇を解かないかぎり、遺体には対面はできないという欠点はあったが、何故祭壇を飾るかの意義があった。しかし、ホールの式次は葬儀終了後即夕べには他家の通夜執行のため、祭壇を解く必要を時間と合理性を重要視し取りやめ、祭壇の前に柩を安置するという不思議に変わった。同時に、医療の進歩が臨終の形態も変え、親族が遺体と対面する場が通夜葬儀の会場に変わり、霊棺の蓋に窓が空いた。

■第98話 現代葬儀事情 5
科学や文明の発達は、生活や習慣をより良く変えたが、時には残酷な様も呈する。臨終の有り様もそうで、死の瞬間は肉親や親族の励ましと慟哭の看取り場であったが、蘇生を重視する現代医学では、最後まで治療を施し、馬乗りになる人工呼吸や切開しての心臓マッサージなど、到底肉親には正視できない、別れが出現するに至った。当然、死の瞬間(握る手の温もりの変化を感じつつ)の別れも無く、無残な物言わぬ遺体との対面は、死の確認の場となった。仏教は死して尚、霊魂と肉体は一体とする立場で、臨終は生死観(しょうじかん)を確認する重要な場で、生命体と死体(物体)の別れ(物心二分)の場という、科学や医学の死とは根本的に論を異とする。この臨終時の変化が、死の概念を根底から覆し、葬儀の仏教的意義を崩壊させ、ただの事務的な「別れ」を生んだと言える。更に再言及すれば、葬祭業者は営利が目的で、仏教の教義は必要としない。「葬儀」なんて言い方は坊さんだけで、葬儀屋さんもとっくに姿を消してしまった。代わりに葬祭式典業が起業され、「メモリアル」式の、セレモニー(式典)を流行させ、昨今の「友人葬」「偲ぶ会」「お別れ会」を企画し、一方文化人と称する発信者が、これまた業者と組んで「自然葬」「散骨」「樹木葬」など、人間関係を否定する、寒々しい無宗教(?)式を演出し、儲かる葬儀の現代事情は止まることを知らない。

■第99話 神仏を崇めぬ者 1
現代の日本は、何処か変である。それが此処だと具体的に指摘できないほど、社会の全ての分野に及び、畢竟民族性の主張の「あいまい」さにその因が伺える。予てより、昭和20(1945)年8月15日が、日本人の心を失った日として注目をしているが、この日を堺にして「あいまい」さが、更に増長されたと思っている。今次の対戦が終結し、民主国家がアメリカの統治に依って設立、憲法が制定され、その憲法を順守させる為に教育基本法が整い、強烈な占領政策が打ち出された。「一億総懺悔」して自己の理性を失った全ての大人達は、最初は新体制に抵抗するが、生来のやじ馬性と寛容な協調性をくすぐられて懐柔され、まず自称文化人が簡単に自国への帰属意識を失いアメリカナイズされ、マスコミがそれに悪乗りして拍車をかけて、西洋文化に酔いしれ、見事に民族制を「あいまい」にしていった。占領政策が極めて老獪であったと断言できるのはこの点で、何故アメリカは自国の企業を日本に導入して、労力を駆り立て、利益を搾取する政策を執らなかったのか?民主的思想と眩しく華やかな異文化の、いわば軟派な政策で日本を籠絡したのか。占領政策の目的は、一途に日本の持つ民族性(軍国主義を産んだ、天皇制と血族重視の気味悪さ)の破壊にあったといえる。戦後57年、目的は達成されつつある。

■第100話 神仏を崇めぬ者 2
統計によると、無宗教と応える者が60%であるという。多分この答えの大半の者は、自らの宗教無知から自分は「無宗教主義者」と思い込んでいるに過ぎないと思う。得てして、自称文化人に多く、宗教を持たないことが文化であると思い込み、同時多発テロを、したり顔で評論したり、海外へ出ても公然と「無宗教」と答えて、本来の「無宗教者」を慌てさせる、恥かしい輩もいる。何故、斯くも宗教無知になったのか?仏教は多元的で、総括的で、寛容で、調和を主張する特性を持つが、どうも起因は前項で述べた、占領政策のなせる技に思える。つまり、教育基本法に編り込まれた占領政策の目的を、ご都合で解釈した歪んだ宗教教育(実は宗教教育は無かった)のせいで、宗教とりわけ仏教は教育の中で嫌われ、日本人の帰属意識は破壊されていった。その一番の因は、この100話で繰り返し述べた、より良い人間関係が培った先人の智慧を崩壊させ、知識教育のみに拘った結果がもたらしたマニュアル文化の弊害といえる。かつて日本人は、等しく正信を求め、神仏に恥じぬ生活を営む事を信条とし、正信を守っては喜び、破っては恐れ、罪科を悔いた。宗教の大事は畏敬である。「現代日本の何処か変?」は、結局政界も財界も役人も教育者も文化人の大半が、神仏を崇めぬ、悦びも畏れも知らぬ、身勝手な厚顔と無知の者だからである。 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
本命山密蔵院明光寺・法話

 

東京都江戸川区鹿骨にある真言宗豊山派の寺院。山号は本命山。本尊は不動明王。 境内のいちょうの木は江戸川区の保護樹に指定されている。
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もっとい不動密蔵院は、本名を「本命山 密蔵院 明光寺」といいます。本堂の横には、大きないちょうの木がそびえ立っています。いちょうの木は、江戸川区の保護樹に指定されています。密蔵院の創建は江戸時代中期。もともと独立していた寺院でしたが、明治期に小岩善養寺の境外仏堂となりました。住職がいない気軽さからか、地元のお年寄りが孫をおんぶして集い、青年団の寄り合い所として機能しつつ、地域の寺として地元の人々によって、昭和まで維持されてきました。平成2年に現行の法律に従った宗教法人となりました。
密蔵院は仏教のテーマパーク。“ただそこに在る寺”から“生きている寺”をめざして、真言宗豊山派でありつつ、皆の衆(宗)行動派として、モゾモゾ、モゴモゴと動き始めています。ご本尊さまは、「不動明王さま」です。宝暦2年(1753年)9月にできました。不動明王の右腕には元結(もとゆい)と呼ばれる細い紐がかけられています。不動明王鹿骨では、むかしからお正月のお飾り作りが盛んで、藁を縒って起こる腱鞘炎(硬手・こうで)も一つの職業病でした。人々は腱鞘炎になるとお不動さまの手にかかっている元結を一本いただいて、手首に縛りつけて、症状が回復すると、元結を一束奉納する信仰が今に続いています。現在でも、喉や首が痛ければネックレス代わりに首に巻き、腰が痛ければ数本つないで腰に巻くなど、元結をもらいに来る人がいます。この元結が変化して「もっとい」となりました。
〇元結(もとゆい、もとい、もっとい) 日本髪を結うとき髪の根もとを束ねるのに使う紐。昔公家や武家の間では松書けや鶴亀など美しい色絵の紐の飾り元結もあったが、庶民はこより、わらなども用いた。こより(水引・こよりを糊でかためたもの)が大勢を占めるようになったのは寛文年間(1661〜73)といわれる。
密蔵院の入り口には「えんま大王さま」がいます。以下、えんま大王さまからのコメントです。えんま大王『この大王、人類史上初の死者なり。よってあの世の大王となる。他に九人の王たちを従え、死者を裁く権限を有する。私たちは死んでのち三十五日目には、この王の前に立ち、生前についた数々の嘘を調べられる。この場においても凝りもせず虚言すれば、ただちに舌を根こそぎ抜かれる。なぜ嘘が見抜けるかといえば、この王、死者の生前の善行悪行がもれなく記載されている「えんま帳」を持つがゆえである。嘘をついても屁と思わず、否それをも正当化しようとする昨今の風潮にいたく立腹され、このたび憤怒の姿をこの地にあらわされた。心からの反省の念をもって水をかけ、願うべし。「どうか私のついた嘘を水にながしてください」と。』
〇密蔵院のある町・鹿骨(ししぼね) 昔、常陸国の鹿島大神が大和国奈良の春日大社へお移りになった時、この地を通られたおり、大神の杖となっていた神鹿が病気でたおれてしまいました。里の人はこの鹿をていねいに葬ってこの地に祀りました(現在鹿見塚として残っています)。もともと鹿骨は六百年前の文書にも地名の登場する古い土地で、鹿見塚を古墳ではないかとする説もあります。  
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真言宗豊山派寺院の密蔵院は、本命山明光寺と号します。密蔵院の創建年代は不詳ですが、新編武蔵風土記稿には「同宗(新義真言宗)、下小岩村善養寺門徒、本尊不動」とあり、江戸時代中期の創建と伝えられます。明治期に小岩善養寺の境外仏堂となったものの、平成2年に宗教法人となりました。  
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もっとい不動密蔵院は、本名を「本命山 密蔵院 明光寺」といいます。創建は江戸時代中期。もともと独立していた寺院でしたが、明治期に小岩善養寺の外仏堂となりました。住職がいない気軽さからか、地元のお年寄りが孫をおんぶして集い、青年団の寄り合い所として機能しつつ、地域の寺として地元の人々によって、昭和まで維持されてきました。平成2年に現行の法律に従った宗教法人となりました。  
 

 

■第1話 銀杏ってなんて読むか?
お寺や神社には、よくイチョウがありますよね(銀杏はイチョウとも、ギンナンともよむのでカタカナで書きます) 密蔵院にも夫婦のイチョウがあります。ギンナンがなるのは妻の方で、夫の方は花が咲きます(「オット、ツマンナイ」なんて親父ギャグの練習してる暇はありません)。 ところで、このイチョウって、自然には生えてこないのだそうです。誰かが植えないとだめなんだって。だから、密蔵院のイチョウも人の手で植えられたんです。その理由は――火伏せ。イチョウは幹も枝も葉も、すごく水分があるんです。どの家もお寺も木造だったころ、他から飛んできた火の粉で火事にならないように、火の粉も消してしまうイチョウが寺に植えられました。 さて、イチョウの葉が落ちる時期になりました。約二カ月にわたって落ち続けるイチョウの葉たち――道路までたくさん飛ばされた「このイチョウは、昔の人が、お寺が火事にならないように」と植えた、火伏せのイチョウ。古人と葉たちのおかげで今があります。

■第2話 森じゃジュウタン、町じゃゴミってな〜んだ?
2か月間にわたって落ち続ける、密蔵院の夫婦イチョウの葉は、総量は45リットルのゴミ袋で、20〜30袋。足を使ってギュウギュウに詰めてですよ。 で、これは家庭用のゴミとしては出せません。産業廃棄物なんだって。だからシールを貼って出します。釈然としないまま……(「釈然」は「お釈迦さまだって全然納得できない」という意味ではないと思います。) もちろんダイオキシン問題以降、都内では焼却炉使用禁止ですから燃せません。無理に燃せば、その水分のため、白煙であたり一帯まっ白け。五分の一里霧中状態となり、通行人はぶつかり合い、犬は吠え合い、役所に苦情電話は殺到するわ、消防車は来るわ、上へ下への大騒ぎになること必定です。こんな、人間のご都合によって、やっかい者扱いされる秋のイチョウの葉ですけど、掃除しながら思い浮かんだナゾナゾを掲示板に書くことがあります。「ナゾナゾ 森じゃジュウタン、町じゃゴミ、いったい何でしょう?」 毎朝、黄色いジュウタンが敷かれるお寺です。ゴミが散らかっているんじゃありません。

■第3話 もともとの色
『オズの魔法使い』という映画があります。主人公の女の子ドロシーが、黄色のブロックの道(イエロー ブリック ロード)を歩いて、魔法の国オズに行く話です。主題歌の「オーバー ザ レインボー」も有名で、私が仲間と声明(しょうみょう)のライブをやっている新小岩のジャズスポット、チピーというお店でもよく演奏されています。ところで、イチョウやモミジに代表される落葉樹は、秋になって葉緑素の活動が弱ってくると、葉のもともとの色が出てくるのだそうです。葉の緑色が、変色するのではなく、本当の色が出現しただけなんですって。これって、とても仏教的だと思います。よく仏教では、普通の人(悩み多き人 ex.他人に何か言われると、気になって、夜も寝られずに、寝られないから昼間眠くなっちゃう人)が、修行をすると仏に変身する、みたいに思っている人がいますが、これって違うんです。私たちはもともと仏と同じなんです。だから色々な見栄やら、欲だけを脱色しちゃえばいいんです。そうすればもともとの仏がちゃんと現れるというのです。もとに戻った姿をみせてくれている、密蔵院境内のイエローブリックロードならぬ、イチョウの黄色いジュウタン――悟りの国にも通じていそうです。

■第4話 May 元気 be with you!(元気とともにあらんことを)
密蔵院の玄関には、フリーマーケット布教(略してフリマ布教。フリルのついたマントで布教することではありません)用の、額がたくさん飾ってあります。先日のこと、近所に住む、密教好きのアメリカ人、サラさんがお茶のみにやってきました。帰りがけに、玄関で、彼女はある額を手にとって「これ、欲しいです」と言いました。「元々 ある気 元気」という額でした。「へ〜っ、こんなのがいいの?」 「はい、この『元気』って、いいです」 で、聞いてみた。「英語で、元気ってなんて言うんだろうね?」 残念ながら、この「元々ある気」というニュアンスを含んだ英語はないそうです。「元気がない」という言い方をよくしますが、私はそんなことはないだろうと思ってます。元気はあるんです。仏教でいえば法界力でしょう。宇宙に満ち満ちている力です。スターウォーズでいえばフォースです。「元気がない」というのは、「元気はあるけど、その出し方が分からない」ということだと思います。 では、どうやってその元気を出すか…… 1つの方法は「私は生んでもらったんだ」ということをもう一度思い出してみることです。つまり「おかげ」を意識することです。

■第5話 「おかげ」話のカラクリ
リクエストをいただいたので、「おかげ」でいきます(ウレシイ……)。私たちは、色々な人や物から色々な影響を受けてますよね。仏教では縁とも言いますけど。さて、この影響(縁)のうち、今の自分に良い影響のことを、私たちの先祖は「おかげ」という言葉で表現してきました。この「今の自分にとって」というのが重要度★★★★★くらいすごいことなんだ、と最近思っています。「私はいま幸せなんだ」⇒どうしてだ?⇒「そりゃ、こういう良い縁(影響)があったからだ」という理論的(?)カラクリがあります。逆から言えば、「おかげ」を意識すると、それが「な〜んだ、私って幸せなんだ」と現在進行形の私の状態に、気がつけるということです。これに気がついて欲しので、お坊さんたちは、もう皆さんが耳にタコができるくらい「おかげ」の話を、手を変え、品を代えてするんです(このコーナーだって、「おかげ」だけで百回はいけますよ。きっと……)。何が起こるか分からないのが世の常です。特に親しい方が急逝された時に、時間がたってから無理にさし上げる「言いたい放題写仏」にこんな言葉があります。人は「まさか!」という坂をなかなか越えられません。でも、そんな時には自分の足元の「おかげ」という影を追っていくんです。そうすると「まさか」が越えられます。

■第6話 未来投資型の自業自得論
ハンドルネームtabasaさんから「業」ついて教えてというリクエストいただきました。そう言えば、半年程前に檀家さんから「ある人にあんたは業が深いからねって言われたんだけど」と相談がありました。ひどいことを言う人がいるもんです。「業が深い」なんて絶対に人に言うべきことじゃないですよ。業というのは、梵語のカルマの訳語で、行為とか在りよう、という意味です。これに、「結果には必ず原因がある」という「因果の法則」が組み合わされます。つまりある行為をすると、それが原因になって結果が導きだされるということ。自業自得の業です。千代田区の路上でたばこを吸えば(因)、罰金を取られる(果)、ということ。当たり前のことです。問題なのは、それを不幸な境遇であること(結果)の原因を、過去の行為、それも自分ではあずかり知らぬ前世にやった行為とか、先祖の行為とかに求めることなんです(そんなのわかりっこないのにね)。言い換えれば、現在の状態を過去の業(行為)の結果として納得、あるいは説得する方法論が問題なんです。本来、業というのは、悟りに憧れる人が、今何をすべきかということをはっきりさせるための未来投資型の理論なんです。業については霊感商法とも関係があるので、また書かなくちゃと思っています。

■第7話 私は宇宙と同い年
映画『スターウォーズ』は、未来の話かと思ったら、ある銀河で、はるか昔という設定なんですね。宇宙の話はいいですね。時空のとらえ方が仏教の世界観と通じます。さて、お題をリクエストしてくれた方に、差し上げる私の「言いたい放題写仏」に『私は宇宙と 同い年』というのがあります。先日、法事に来た小学生4年生が、手に取ったのもこれでした。「意味わかる?」と聞いたら、「何となく」だって。で、こんなことをいいました。「君の身体の約80パーセントは水分だよね。その水分は、昨日はどこにあった?」 「昨日飲んだ牛乳…」 「じゃその牛乳は三日前どこに?」 「牛のおっぱい…」 「さらに一週間前は?」 「牛が食べた草の水分かも…」 「その草の水分はどこから?」 「雨…」 「雨はどこから?」 「雲…」 「雲は?」 「海や川の水が蒸発して…」 「そうたどっていくと、水はどこにも消えてないし、生じてもこない。この地球ができた時からある。それだけでも50億年だ。その地球の水だって、この宇宙のどこかにあった水だ。つまり、君の身体の水分は宇宙と同じ時代を過ごしてきた。骨のカルシウムだって同じ。君の身体は宇宙と同い年なんだ。スゲぇクない?」 すると隣のお母さんが目を輝かせて言った。「すごいですねぇ」

■第8話 物事への関心度がわかるゲーム
密蔵院では、月に1回「話の寺子屋」を開催しています。講師は元ニッポン放送パーソナリティの村上正行さん。78歳の大ベテランです。この話し方教室は、言葉は心の現れだから、心をみがかないと、人を動かす話はできないということに重点が置かれています。どんなみがき方をすると、どんな会話になるのか、そんな具体例が2時間にぎゅーぎゅー詰めになっています(抽象的でスミマセン……)。この会で、とても面白いゲームをやったので、ご紹介しましょう。お正月に家族で、仲間の新年会でやってみたらいかがでしょう。まずお題を出します。「お正月」にしましょうか(なんでもいいんです)。そこから連想ゲームです。その場にいる人が順番に「お正月」から思いつく言葉を一つづつ言います。前に誰かが言ったものはダメ。5人でやれば5つの言葉が出てきます。それを10周くらいやるんです。つまり一人が10個の言葉を出すことになります。全部で50のお正月関連の言葉がでます。これで、自分が普段どのくらい物事に関心を持っているかわかるし、どれほど自分の関心が、かたよっているかもわかります。仏教の悟りは「自分自身(心)を知ること」でもあります。まずは自分の現状を知る。ちょっと勇気がいりますけど、反省するから新年の抱負も出てくるんだと思います。

■第9話 お題拝借の裏事情
今回は皆さんからお題をいただくことにした裏事情―仏教加減乗除の秘密―について書きます。私の師僧が、晩年言っていた言葉に 「どんなことだって仏教という教えで割ってみれば、余りはでないはずだよ」 というのがあります。なるほど、先人たちは、鐘の音にさえ「諸行無常」を感じました。[鐘の音÷仏教=諸行無常の教え]なんです。[鶯の声÷仏教=法華経の大切さ]なんです。音や鳴き声なんか、ただの音波だ、教えなんか無いよ、と言ってしまえば、仏教では扱えない範疇があることになります。でも、そんなはずはないだろうと思います(一種のロマンですかねえ……)。一方で、仏教は私たちの生活に根ざしたものでないと困ります。そうでなければ、私もお坊さんになっていません。諸行無常の教えが私たちと遊離していては「何、それ?」でオワリです。つまり、どんなことだって、足しても、引いても、かけても、割っても仏教なら大丈夫だと思うわけです。つまり、加減乗除の秘密です。法話のお題というと、難しく考えがちですが、何でもいいんです。餅、ファイアーウォール、赤、禁煙でもいいんです。どうだ、このお題で書いてみろ的ノリでOKです。本音を言いますと、タイトル考えるの、大変なんです。

■第10話 苦−ご都合通り−
暖かい日の翌日、急に気温が下がると 「住職さん。こう急に寒くなったんじゃ、かなわねえよな」 と玄関で言うオヤジさんがいます。その時にはこう返します。「そりゃ、旦那のご都合通りにはいかないよ」 仏教は、私たちがどうやって生きてたら、「苦しみ」のない、心安らかな暮らしができるだろうか――というのがスタートだし、ゴールでもあります。で、考えた結果、まず苦の定義をしっかりしましょう、ということになり、「考えてみればさ、おれ達が苦と感じるのは自分のご都合通りにならないことだよね」と、そりゃそうだ、としか言えないところへ行き着きました。つまり「苦」=「ご都合通りにならないこと」なんです。そう考えるから、四苦(生老病死)の中に生(生まれる方です。生きる方じゃありません)が入るんです。どんな親の間に、いつの時代、何番目の子として、男か女に生まれることは、私たちのご都合以前のことだからです。世の中には自分の努力や人の助けを借りて、ご都合通りになることもありますが、天気や、生理現象などは私のご都合以前のこと。ご都合通りという道ばかり歩ける筈がないのに、腹を立てたりする人(腹が出ている意ではない)がいますが、何だか余計なエネルギーを使ってるなという気がします。 
 

 

■第11話 関係ねえよ!
地下鉄でホームを下りたら、ジベタリアンと呼ばれる種族の一人に出会った。服装が女子高校生だからコギャルのジベタリアンである。さぞやお尻が冷たかろうと思うと、昨今毛糸のパンツやら、紺パンと呼ばれる短パンもはいているのだそうだ。ヨカッタ。でも、若い女の子が、ホームの地べたに座ってケイタイしているのは、どうもおかしいから言ってあげようと思った。「お嬢さん、そんな格好でいるの、ヘンだよ」 思っただけで、結局、言わなかった。「ぅるせーな!あんたに関係ねえだろ!」 とたしなめられそうだったからだ(何だか今回はオジサンっぽいな……)。しかし、その後で思った。世の中に、関係ない、なんてことはないというのが、坊さんたる私が持っているべき世界観ではなかったか。帝釈天が住む世界には、空に巨大な網が張りめぐらされている。その網の結び目はパチンコ球のようなものでできている。だから、一つの球には、その世界全てが写っているし、その球も他の球に写っている(これを帝網重々−たいもうじゅうじゅう−の世界と言います)。私たちの世界も帝網重々なのだ。冒頭の女の子とは、同じ時刻にホームにいたという関係がある。否、同じ時代に生きている、人間同士という関係だってあるのだ。「関係ねえ」なんて言わせないぞ!

■第12話 一人前 ――子供が居ても居なくても――
好きな話にこういうのがあります。社会学の学者、儒教の先生、和尚に質問をした。「母親と、自分の連れ合い(夫or妻)が溺れていたら、あなたはどちらから助けるか?」 ◇社会学の先生は「社会では家族が一番元の単位だから、連れ合いを助ける」 ◇儒教の学者は「孝行こそ人の道、生んでくれた母親を助けるのじゃ」 ◇黙っているお坊さんに2人は聞く、和尚はどう考えるのかと。すると……和尚は言った。「私なら、手近な方から助ける」 さて、子供を授かれなくて悩んでいる人が大勢います。じつは今回のお題もそんな方からいただきました。結婚すれば子供ができるのは当然だと思っている人は結構多いのかもしれませんね。だから中には「子供を持たなきゃ、人として一人前じゃない」くらいのことを言ってのける人もいるでしょう(それを言う人のほうが一人前じゃない気もします)。寿司の出前じゃあるまいし、一人前の必要はないんじゃないかと思います。だって、子供がいる幸せと、子供がいない幸せは、どっちが幸せかなんて比べられませんよねえ。子供がいるゆえの不幸と、持たないがゆえの不幸を比べられないように……。一人前になることが本当に幸福なんでしょうか。半人前でいいじゃないですか!半人前の私が、縁をいただいた条件の中で、どのくらい素敵な人になれるのか――それを考えていきませんか?

■第13話 北枕のナゾ
この週末2月15日はお釈迦さまが亡くなった日、涅槃会(ねはんえ)です。お釈迦さまは、80歳になったある時、いよいよ自分の臨終が近いことを知ります。そしてお弟子さんたちは沙羅の林の中に床をしつらえます。とにかく身体がしんどいから、楽な姿勢がいい。心臓に負担をかけないように右腹を下にして、そして、身体を南北に横たえた。地球は大きな磁石ですからね、その磁気の流れに沿って寝ころがった方がいいんです(これ、又聞きなので、お医者さんが読んでいたら真偽を教えてください)。身体を休めて、お釈迦さまは最期の説法をします。「もうみんなには、伝えることは伝えたよ。あとは私が伝えたことと、お前さんたち自身を拠り所としていけばいいんだよ。全てのことはドンドン移り変わっていくからね、怠けないで心を磨いていくんだよ。じゃあね、サヨナラ……」 そのまま亡くなったので、日本の仏教ではそれにならって亡くなった人を北枕にします。でも、お釈迦さまは楽な姿勢で休んでいたんですよ。だから、縁起が悪いとかの問題じゃないんです。昔聞いたナゾナゾを思い出しませんか? 風邪で入院した病院のベッドから外を見ると、牛がモオーと啼き、チョウチョウが飛んできました。さてこの人はどんな病気で入院したんでしょう?

■第14話 入室禁止−愛語−
お寺というのは、パブリックスペースとプライベートスペースの区別がついていません。ですから、檀家さんが 「こんにちは、いるかい?」 とガラリと開けるのは、玄関にあらず、廊下を歩いてきた突き当たりにある台所の戸なんです。でも、それじゃ困ります。そこで、多くのお寺では「この先、ご遠慮ください」と紙を貼ってあります。開けてもらいたくない、中がヒッチャカメッチャカ(乱雑な状態を表す言葉。江戸川区だけに通用か?)になっている倉庫のドアにも「勝手に開けないでください」と書いてあります。こういうのって、よく会社や役所、病院にもありますよね。「関係者以外出入り禁止」とか「STAFF ONLY」なんて。私はどうも、こういう「禁止」の表現がトゲトゲしくって嫌なんです。関西ではゴミを捨てられそうな場所に「あんたがいらんもんは、わしもいらん」って書いてあるんだそうです。密蔵院もそんな茶目っ気を出して、張り紙が用意してあります。「この先危ないですから入らないほうがいいです。熊が出ることがあります」 「この中、トラが寝ています。開けない方がいいです」 「この部屋、昨年の節分で各家から追い出された鬼が非難しています。そっとしておいてあげてください」 などなど。読んだ人は皆ニヤッとして、開けないでいてくれます。

■第15話 かわかない心
秋田のカニさん(もちろんペンネーム)からお題「渇かない心」をいただきました。ありがたいことです。そこで、第8話でご紹介したパーソナリティの村上正行さん(78)の忘れられない一言というのをご披露します。村上さんがまだNHKのアナウンサーの時、当時朝日新聞にいたジャーナリストの渡辺紳一郎さんからこう言われたんだそうです。「村上君、君も放送局にいるんだからジャーナリストの端くれだ。だとしたら、いいか。銀座の柳に息を吹きかける気持ちを忘れるなよ」 最初は何のことだかわからなかったそうですが、数年して気がついたそうです。―――例えば、銀座四丁目の交差点から隣の新橋の駅まで歩いていく。目的は新橋の駅に行くことです。歩いていると、銀座通りの柳の枝が、風にふかれて自分の目の前にたれてきた。その時に、自分とその柳の出合いに関心を持ち、その枝をひょいとつまんで、フッと息を吹きかけるくらいの気持ちを忘れるなということだったんです――― ものごとへの関心と心の余裕、そして、ちょっとした茶目っ気(もう死語ですかねえ?)をいつでも持っているということです。「渇かない心」というのはまさに、それだと思います。カニさん、書いてみタラバ、けっこう書けました。どうですカニ?

■第16話 自慢話
natsuさんから「自慢話は醜いですか」って質問をいただきました。自慢話が醜く感じられる時は、自慢するものが間違っている場合が多いんじゃないでしょうか。学生時代、友達に「俺の車、時速200キロ、馬力は180馬力なんだぜ」と言われたことがあります。その時に私は冷たく言い放ったんです。「その車ってさ、誰がアクセル踏んでも200キロ出るんだろ。お前が自分の足で時速200キロで走れて(これって秒速55メートルですよ!)、馬180頭分の力があるんならすごいと思うけどな」 すると、友達はしょんぼりと言いました。「お前って、嫌な奴だな……」 ホント嫌な奴でした。その車を自己資金で買った彼の努力は評価されるべきだと思いますが、車の性能と彼とは別ですものね。自慢するものが違ってますよ。前回もご紹介した村上さんにこの自慢について伺ったら、人前で話さない方がいいことが二つあるんだって。一つが愚痴。もう一つが自慢話だそうです。でも、その自慢話の中で、二つやっていい自慢話がある。それは、親(友達、先生など)の自慢と故郷自慢。なるほどそういう話は聞いていて耳にやさしいものです。

■第17話 ぼた餅
来週はもうお彼岸です。そこでリクエストがあったのにアップしなかった、小学生の"みみな"さんからの質問「なぜお彼岸に、おはぎを食べるのですか」でいきます。さて、オハギのリクエストに「ぼた餅」の題で、この文章を書くのには理由があります。それは、同じものを、春と秋で違った呼び方をするからです。紫色のあんこが、牡丹の花のように見えたり、萩の花がたくさん咲いているように見えるので、それぞれの季節に応じて呼び方を変えたようです(コシアン、ツブアンによって違うという説も……)。では、なぜお彼岸に食べるのか……あれって、じつは私達が食べるために用意されたものじゃないんだ。ご先祖さまや、仏さまに食べてもらおうと作るのが最初の目的なんだよ。仏壇にぼた餅をおそなえしたあとに、私達が食べるんだ。みみなさんは、ご先祖さまや仏さまの食べた残がいを食べるわけ(見た目は減ってないけどね)。では、なぜもち米とあんこのコンビネーション・フーズをおそなえするかというと……昔には、はなかなか食べられないもち米(ゴチソウだ)と大切な砂糖を使ったアンコ(これは大ゴチソウ)を、合わせた食べ物(貴重なもの)を、ご先祖への感謝としてそなえたんです。ほかにもその年に初めて食べる、ハツモノは、まず仏壇にそなえてからいただくんだよ。

■第18話 やることやった
今回は、ちょっと身内の話を書きます。父は72歳で7年前に亡くなりました。肝臓ガンでした。亡くなる3年ほど前のこと、体調が良くなかった父がボソッと私に言いました。「俺は、お前達(兄と私のこと)に認めてもらえないと、死ぬに死ねないんだよなあ」 「認める?そりゃ、認めてたって、そんなこと恥ずかしくて本人になんか言えないよ」  父は「そうかなあ」とみずからを納得させるようにつぶやきました。翌朝、体調不良のためベッドに横になって、新聞を読んでいる父に言いました。「昨日言われたから言うわけじゃないけどね、お父さんは立派だと思うよ。住職としても、父としても、やることやってきたしさ」 私にすれば勇気のいる発言でした。すると、バサリッと新聞を布団の上においた父は、なかばツッケンドンに言いました。「お前ね、病人に向かってそういうことを言うもんじゃないよ。その言い方じゃ、まるであんたはやることやったから、もういつ死んでもいいよって聞こえるんだよ。嗚呼、がっかりした……」 病気になった人の心理の複雑さを痛感した時でした。 父はただ、自分がやってきたことをほめてもらいたかったのです。それも一番身近な人に。周囲からは気さくな大僧正だと思われていた父の一面でした。

■第19話 わたし、えらい?
前回の父の発言と同じ頃――今年中学二年の娘が3歳のことです。ある日の夕飯、まだ小さかった娘が食べ終わったのは、いつものように、家族の中で最後でした。家内はすでに洗い物を開始。私はお茶を飲みながら、娘の行動をウォッチングしてました。彼女は食べ終わって、小さな手を合わせて「ごちそうさま」と言うと、自分の食器を重ねて、流しに運びました。次に、食卓に残っていたお兄ちゃん達の分もふくめて、空いた食器を器用に重ねて、家内のところに運びました。そして家内を見上げていいました。「おかあさん、あたし、えらい?」 その、間髪いれず返された返事を聞いて、母親ってたいしたものだと思いました。「えらいわね。ありがとう」だって。私にはこういうことはなかなか言えません。私なら「褒められたくてするんなら、やらなくたっていいよ」くらいの、子供心を傷つけることを平気で言ってしまいそうでした。人には誰でも「四つの願い」があると言われています。 1.ほめられたい  2.認められたい  3.愛されたい(注意が向いていること)  4.役にたちたい ・・・ です。このうち一つでも叶えば人は自殺しないと言われています。3歳の娘と69歳の大僧正も(実は私も)、これで生きているんだなと思います。 でも、ここに問題が……

■第20話 四つのお願い
他の人からほめられ、認められ、愛され、そして人の役にたちたいという人の根源的とも思える四つの願い――。私がこのコーナーお受けしたのも、考えて見れば、この四つの欲求を満たせてくれるに充分なものだったからでしょう。ところが、実際は、なかなかそうはいきません。だからこそ、人は自慢したくなるのだと思います。否、自慢する意識はなくても、自分に注意を向けてもらい、認め、ほめてもらいたいという思いが、人に対して自分をアピールする言動につながっていく気がします。しかし、認め、ほめてくれるのは、生身の人間だけとは限りません。多くの人が、自分の両親のお墓参りをして、すがすがしい気分になります(なんだか英語の直訳風だな……)。それはお墓の前で「お前はよくやってるよ。これからも、その調子で頑張りなよ」という、親や先祖からの、自分を大肯定してくれている、声なきメッセージを受け取っているからだろうと思います(お坊さんの場合は、その他に仏さまという頼もしい存在があります)。「四つのお願い」は社会心理学の研究成果だそうです。自分を中心に考えればそう言えるでしょう。しかし本当は、自分の「四つの願い」ばかりを求めず、自分以外の人の「四つの願い」を叶えてあげましょうという、仏教の教えのような気がしてなりません。 
 

 

■第21話 いい人
リクエストになかなかお応えできなくてすみませんでした。そこで、ここ数回はいただいたお題でいきます(今週はお釈迦さまの誕生日の週なので、後ろ髪引かれますが、坊主頭だから引ける髪もない……)。今回の「いい人」では、いまだに結論が出てない思い出があるんです。私たちは親から「自分がしてもらって嬉しかったことは人にもしてあげなさい」と育てられました。そして同時に「自分がされて嫌なことは、他の人にもしてはいけない」とも。これは「相手の立場にたって考えてごらん」という仏教の同事(どうじ)という教えそのままです。それは分かっているんです。ところが…… 5年ほど前、私は、自分の頭の中の99パーセントが「これをしたら人は喜ぶだろうな」ってことで埋まってることに気がついたんです。その反作用でしょうか、「これをしたら人は嫌がるだろうな」とは考えが及びません(この傾向は今でも続いています)。「そりゃ、布教するお坊さんなら仕方がないよ」と慰めてくれる方はいます。でも、世の中で「いい人」って言われる人って「人を喜ばせること」よりも「人の嫌がることをしない」ことに、より重点を置いている人のような気がしてならないです。

■第22話 モラルの原点
森さんから「モラルの原点とは」のリクエストが来た。日本語辞典で調べたら「道徳」とでた。さらに英英辞典には「行為の善悪の基準となる原理」だって(原文略)……ますます、難しい。悪の代表とされる殺人にしても、チャップリンが『殺人狂時代』の中で言ったように「人ひとり殺せば犯罪者だが、100万殺せば英雄だ。殺した数が罪を浄化する」というのがありますからね。善悪の判断はとても難しいです。お坊さんは道徳(モラル)の問題を考える時があります。仏教と同じようなことを言っている場合がありますからね。そこで、良く言われる宗教と道徳の違いは 「無人島に1人で暮らしている時に必要なのが宗教、必要ないのが道徳だ」 です。仏教に限らず、宗教は多かれ少なかれ「私」という個人の問題を扱います。ですから性別、場所(国籍)、人種、時代なんかには左右されないんです。でも、モラルはあくまで「対人」ということを念頭に置いているんじゃないでしょうか。で、あるとすれば、前回のお題「いい人」の趣旨と同じことになってしまうかもしれません。言い換えれば「我が身をつねって人の痛さを知れ」。これが、モラルの原子核のような気がするんです。でも、なるべく「善」を考えて、それを追いかけていたいです。

■第23話 価値観
今回のリクエストをくれたショウザンさんは、私とご詠歌(仏教讃歌)を猛勉強(?)している、目の端にヤンチャな光を残している凛々しい青年僧。その題が「価値観」です。「現代は価値観が多様化している」 なんてよく言いますが、昔から価値観は多様化してましタヨ〜ネ。人には人の、猫には猫の価値観があるもの。それを、どのくらい知っているかというのが大切なんだと思います。色々な人と出会い、話をして「へえ、そんな考え方もあるのか」と知ることだと思います。そうしないと他(人)を理解できない。その価値観に同意しなくてもいいんです。日本人にはなかなか難しいんですが、英語には I understand, but I don't agree.(理解はするけど、同意しない) という言い方があります。その中で、どんな状況でも「行きづまらない」価値観を持てたらいいと思います。でも、今回のお題を調べるのに「価値観」を新潮現代国語辞典でみたら、とても面白い解説をしているので、ビックリしました。「人間が世界や万物に対して行う評価の根本的な考え方」ですって。こうなると、価値観というのは、世界観というか宇宙観ですよ。第7話をもう一度読んでみてください。なるべく広い視野にたって物事を見ていく。仏教の大事な大事な考え方です。仏と人とはひとつもの、あの世もこの世も本来ひとつ。

■第24話 立って半畳、寝て一畳
これは、ひと一人が必要な面積です。ひいては、所詮立っても半畳分、寝たって一畳分の面積しか占有できないのだから、大きな家が欲しいとか、あまり背伸びをしなさんなという意味で使われます。ここまで読んで「まったくだ、どうせ人間なんてそんなもんだ」なんて、人間を過小評価しないでくださいよ。今回言いたいのはそんなことじゃないんです。人間の大きさを、実際の体積だけで計算するのは変じゃないかと思うんです。確かに占有面積 or 容積にしてみれば、私たちの身体は、部屋一つの大きさや、野外の大空間に比べて小さなものかもしれません。しかし、その身体は、笑顔で「おはよう」と挨拶し相手も笑顔にさせ、友達と肩をたたきあいながら笑い、共に悲しみの涙を流し、新緑の緑を抜けてきた風に心地よさを感じることができる身体でもあります。そんなふうに考えているので、私は「一寸の虫にも五分の魂」っていう言葉も好きじゃありません。いや、正直に言えば嫌いです(なんだか、ひろさちやさんの文章みたいだ……)。「一寸の虫にも無限大の魂」の筈ですよ。「立って半畳、寝て一畳。収まりきらないこの心!」――春の空を見上げて、そんなことを考えてみませんか。

■第25話 「維摩(ゆいま)の部屋」その1
「維摩経(ゆいまきょう)」というお経があります。お坊さんではないのに仏教に精通し、それを実践している維摩という人が主人公なんですが、この維摩を『仏教教典散策』中村元編著(東書選書37)で、小気味よく紹介をしてくれているので、まず、紹介しますね。「(維摩)は比類のないほど財産を持った資産家である。俗衣をまとい、家庭生活を営み、飲食を享受し、賭事やばくちをする場所にも出入りし、遊びに通じ、色街にも通い、酒場にも足をはこぶことも多いのである。仏教以外の教えにも耳を傾け、それらの書籍を読み、政治・法律にも詳しく、街の治安にも協力し、学校にも顔を出す。いろんな会合にも招かれれば喜んで出席する。そのような彼を資産家たちも、在家信者たちも、バラモンや、王族や、町人なども、さらに諸天でさえ尊敬するのである。なぜかというと、彼は自ら処するところにおいて、彼の周りの人々をいつの間にか正しい道に導いているからである。――中略―― 金持といっても金銭に執着していない、学識があるかと学者ぶるのでもない。世間では悪の巣窟だといわれるところでも、そこを避けて通るわけでもない。彼は人間それぞれ生きざまをさらけだしている生活する場にはすべて立ち寄り、そこで人間の正しい生き方を教えているのである。」 ――結婚もして、守るべきお寺もある、在家のような私も、こんなふうになれたらいいなと思います。

■第26話 えんま大王縁起
密蔵院前の歩道は幅2mもある。バス停もある(「バス停徒歩5歩」だ)。近くの赤信号ではお寺の前まで車の列がつながる。大勢の人が通るから、この地の利をいかさない手はない。でも、一般の人は境内になかなか入ってこない。それならいっそ、こちらから出ていこうと、塀の一部を壊して、歩道からしか拝めない迫力満点のえんま大王に姿を現してもらうことにした。王を囲む溶岩には、以下の大王出現縁起の文がはめ込まれる。 ・・・ この王、人類史上初の死者なり。よってあの世の大王となる。他に九人の王たちを従え、死者を裁く権限を有する。私たちは死んでのち三十五日目には、この王の前に立ち、生前についた数々の嘘を調べられる。この場においても凝りもせず虚言すれば、ただちに舌を根こそぎ抜かれる。なぜ嘘が見抜けるかといえば、この王、死者の生前の善行悪行がもれなく記載されている「えんま帳」を持つがゆえである。嘘をついても屁とも思わず、否それをも正当化しようとする昨今の風潮にいたく立腹され、このたび憤怒の姿をこの地にあらわされた。心からの反省の念をもって王に水をかけ、願うべし。「どうか私のついた嘘を水に流してください」と。 ・・・ 5月17日に手作り限定のフリマと合わせて開眼供養だ。

■第27話 「維摩(ゆいま)の部屋」その2
さて、前々回紹介した、仏教に精通し、大金持ちでありながら、それに執着することもなく、どんな場所にも出入りをして、周囲の人々を良い方向へ導いていってしまう維摩さん。その彼が病気との噂がお釈迦さまの耳に。そこでお釈迦さま、お弟子たちに告げて言うには「誰かお見舞いに行っておいで」。ところが、普通の生活しながらも、仏教の極意のような生活している維摩さんは、お弟子たちも叱られてしまうほど覚者。だから皆、しり込み、腕組み、粗大ゴミ。「私が行きます」などと勇気ある者とてなし。そこへすっくと立ち上がるは誰あろう、おお、十大弟子の中でも、智恵第一の誉れ名高き、文殊菩薩その人でありましたー。ベ、ベン、ベンベン…… さて、お見舞いに参じた智恵の文殊さん。迎えるは、これまた仏教の達人維摩さん。いったいどんな会話がなされるか……じつはこの時、その部屋や周囲には何万という菩薩、天たちが2人の会話の行方に耳をそばだてていたというのです(野次馬ですな)。立って半畳、寝て一畳の私たちの身体については、前回お話しましたが、あなたの部屋も、私の部屋も、維摩さんの部屋同様、ラジオ、テレビの電波は言うに及ばず、電話線もきているし本もある、中身はすごいことになってます。ウキウキするくらいです。

■第28話 神田正輝さんと昭和新山
テレビ番組に、有名人の旅モノがありますよね。かなり前に神田正輝さんが北海道の昭和新山を登る番組がありました。昭和18年からとつぜん畑に出現し、2年かけて標高407mに成長した火山です。まだ水蒸気をあげ、溶岩の熱気を残しているこの火山に、息をはずませて登り、頂上についた神田さんは、番組の最後で次のようなことを言いました。「この山を歩いて登ってみると、こんな山をつくりだした自然のエネルギーのすごさと、人間の小ささを感じますね」 私はテレビに向かって独りごとは言わないんですが、この時ばかりは画面の神田さんに言いました。「違うよ、神田さん。その山を出現させたエネルギーと、同じエネルギーがあなたの中にもあるんだよ」 頼んでもいないのに死ぬまで脈打つ心臓の筋肉。酸素が23%しかない空気(75%が窒素です)を吸いながら、その酸素だけを吸収してくれる肺機能。40億年の生物進化の過程をお母さんのお腹の中で、たった40週でこなしてきた私たち。食べるだけで、24時間、体温を35、6度に保ってくれる働き――驚きに満ちてますよ。すごいぞ!人間!

■第29話 誕生日
ディズニー映画『不思議の国のアリス』で、私のお気に入りは「お茶会」のシーン。めったやたらとお茶をついでは飲み、こぼしてはつぐ、いかれ帽子屋の2人。「おめでとう!」と乾杯に力が入り過ぎて、カップをガチャンと割り、また、次のカップにお茶をそそぐ。不思議に思ったアリスが「今日は誰かの誕生日?」と聞くと 「いや。なんでもない日。だから、なんでもない日、おめでとう!」と再びカップをガッシャーンと割る。でも、そのシーンを見て思ったんです。どんな日だって、きっと誰かの誕生日のはずだ。だとすればあの帽子屋の2人は「だれかの誕生日、おめでとう!」と乾杯すればいいのに、って。ウチの子供たちは、誕生日前になると「今年は何をプレゼントしてもらおうかな」と言い始めます。そんな時、ここ3、4年はこう言います。「あのね、誕生日はプレゼントをもらう日じゃないよ。お母さんにごちそうする日だよ。生まれたんじゃない。生んでもらったんだから。スーパーの前で売ってるたこ焼きでもいい。生んでくれてありがとうって、ごちそうする日だよ」 「えっ?お父さんはいらないの?」 「うん、お父さんは少ししか協力してないから……」

■第30話 梅雨
世の中は、点のあるなしで大違い。ハケに毛があり、ハゲに毛がなし……私もこの間まで頭だったところがおでこになりました。他にも点々のあるなしで、気分が違うものに、梅雨時の形容があります。ジトジトとシトシト……。ねっ!違うでしょう。童謡の♪雨、雨、ふれ、ふれ。母さんが、蛇の目でお迎え嬉しいな♪の女の子(男の子?)は、雨の日が待ち遠しかったんです。それがいつの間にか、年を重ねると、雨の日がうっとうしくて、嫌な日に変わってきちゃうんですよね。去年のことですが、テレビで傘職人のレポート番組がありました。二代目のご主人が初代だったお父さんの言葉としてこんなことを言ってました。「買ってくれた人が、雨の日が楽しくなるような傘を作りたい」。いい言葉ですよね。素敵な傘があれば、雨の日が嫌でなくなりますよ。でも、この話をしたら、多くの女性が「お気に入りの傘って、すぐになくすから……」だって。ちょっと待ってくださいよ。なくしたらなくしたで「これで、ちがった可愛い傘を買える」って喜べばいいじゃないですか。雨がふっていてもそれを楽しんじゃう。曇った空を見ないで、その上に輝いているはずのお日さまを、心の目(想像力)で見られたらいいですよね。「名取さん。アンタ、考えがアメーよ」なんて言わないで……。 
 

 

■第31話 雨の音
サトウハチロウさんの文章に次のような書き出しで始まる、「明治の音」と題されたものがあります。「どの町にも、しっとりとした落ちつきがあった。雑音などというおかしなものがなかった。だから、もの売りの声や、笛や、音が、そのまま、すなおな響きで、つたわってきた」 フーリンの音や、車井戸のきしむ音などの音の情景が述べられる中で、傘の音についての記述があります。「雨が降る。雨が降れば傘だ。その傘に雨の音がする。こうもり傘は布の傘。こいつはあんまり音がしない。布が雨をすいこむからだ。番傘、蛇の目、奴蛇の目。竹と紙の傘だ。雨の音は、番傘がいちばん大きい。蛇の目がいちばん小さい。雨の音を髪の毛に、しみこませながら、よくお使いにいった。昔の音は、よく話しかけてくれたような気がする」 この文はこの欄で何度も紹介しているアナウンサーの村上正行さんが、日常生活の中にある音のレコード「明治の音」を作った時に、そのインナーノートとしてハチロウさんにお願いして書いてもらったそうです(だから作品集には出ていないと思いますよ)。お気に入りの傘を買って、そこに当たるポンポン、パンパン、ポポポンパンなんて雨音を楽しみましょうよ。

■第32話 マトリックスの仏教仕立て
映画マトリックスの第2弾が封切られて2週間(私はまだ見てません)。第1作ではジャンプした人間が空中で静止しているのにカメラがグルリとその周囲を回るカメラワークに度肝を抜かれ、エージェントの「人間は増殖し他の場所を浸食していくんだ。それと同じものがある。ヴィールスだよ」の台詞に、ハッとした方も多かっただろう。この第1作の最後で、主人公のネオがコンピューターによって描かれている世界に目覚める場面がある。壁、天井、人間など周囲のすべてのものが、データに見える瞬間だ。この場面を見た時に「ウッヒョー!」と、歓喜と共感の感嘆詞が口からもれそうになった。ネオが見たデータのかわりに、それが全部仏に見えたら、それが覚醒、つまり悟りだと思ったからだ。仏教では、この世の中にあるものは、見る人によってはどんなものだって、仏さまや、仏さまの声だといいます。あなたが見ているこのディスプレイも、マウスも、それを使うあなただって、仏さまなんだ。仏を、現実とか真実と言ってもいいです。真実(真理)のことを仏ともいいますから。私は、葉っぱを濡らす雨や、洗濯物を揺らす風を「へえ、たいしたもんだな」と感じることが年に5回くらいあります。洗濯物を干してくれている家内を「たいしたもんだな」と思うことは年に3回くらいあります。早く、どんなものにでも「たいしたもんだな」と合掌できる人になりたいと思います。

■第33話 道徳をどう説く?
この1カ月の間に、4つの小学校で大人に話す機会がありました。道徳の公開講座として「心をどう育てる」という全然ウキウキしないメインタイトルでした。石原都知事が「心の東京改革」なるプランを出して、家庭、学校、地域で正義感、倫理観、思いやりを育てるという取り組みを受けてのものなんだそうです(詳しくは東京都生活文化局「心の東京改革」HPへ)。公立学校では坊さんの肩書じゃダメなので、元PTA会長として呼んでくれました。第22話で「モラルの原点」を書きましたけど、2分で皆さんに読んでいただいた内容を45分の話にするなんて至難の技。つまるところは自分の体験談を話してきました。資料のタイトルは「後悔講座」。私自身が道徳という「人の道」に関しては、後悔の連続ですから。外食してレジで「ごちそうさま」は言えても、食べた魚や牛に対して合掌して「ごちそうさま」が言えないこともしばしばの私。「今日は疲れて、頭がなかなかまわらない」という人に対して「じゃ疲れてない時は、どのくらい頭がまわるの?」なんて、相手の頭がまわっていれば冗談で済むところを、それを考えないで方言(読み方同じで、ワタシは芳彦)したり……

■第34話 上手な断り方
私は、道徳の公開講座「心をどう育てる」の講演の前に、4年生の公開授業を見学した。 どの授業を見学しても良かったのだが、「上手な断り方」というタイトルが印象に残ったからだ。何故か?私の親は「お前は言い方も態度もぶっきらぼうだ」と言っていた(私自身もそう思う)し、最近では「たまには断るということをしてもいいんじゃない?」と言われるほど、頼まれたことは何でも受けてしまうからだ。とてもためになる授業だった。友だちから「あーそぼ」と誘われた時、具体的に自分がどう断っているかを、先生が次々に引き出す。黒板いっぱいに書かれていく「今日は駄目なんだ」「用事があるから」等の言葉。その中から、おのずと相手を思いやった素敵な断り方が導きだされた。まず、せっかく誘ってくれた友達に謝る。「ごめんね」と。そして、はっきりと遊べないことを告げる。「今日は遊べないんだ」って。次に理由を具体的に言う。「これから、塾があるから」「お母さんと買い物の約束してるから」などなど。最後に相手を思いやって言う。「また、誘ってね」。スゴイと思った。私もそうしようと本気で思った。でも、一つ疑問が残った。もし、遊びたくない相手から誘われたら……

■第35話 分からないとしておく勇気
とっても切なく、やりきれない内容のメールをいただきました。飲酒運転の青年が起こした事故で14歳のお子さんを亡くされた、お母さんからです。運転していた青年も電柱に衝突して亡くなったそうです。事故から1年7カ月。固く、冷たくなった卵のような閉ざされた心に、やっと小さな穴があいて、そこからもれたであろう言葉で綴られています。「自分の命を呪いました」とあります。わが子を不条理な死によって亡くす運命……「なぜ?私の息子が…」という疑問に答えてくれる人は、残念ながらいませんものね。辛かったでしょう。そして、「怒りのぶつけ所がなく…」とも。たとえ相手が生きていたとしても、怒りをぶつけることによって、おそらく心が晴れることはなかったでしょう。仏教の考え方の中に「わからないことを、わからないとしておく勇気」というのがあります。私はこの考え方はとても大切だと思います。「なぜ私は女に生まれたのか」「なぜこの時代に生まれたのか?」「なぜ、自分の息子が…」このような疑問は「とりあえず、分からん!」としておきましょう。仏教では「問題ごと仏にあずける(お任せする)」ということになるでしょう。「わからないけど、こんな時、仏さまならどうするだろう…」なるべくそんなことを考えていければいいなと思います。このお母さんは今、飲酒運転撲滅の運動に参加しようとしていらっしゃいます。目には見えないけど、亡くなった息子さんと二人三脚の活動ですね。

■第36話 後悔
今回は16歳の出流さんからリクエスト「後悔」でいきます。「他人のせいにすることにかけては天才だ」みたいな人が多くなってきたと言われるのに、16歳で今回のお題をくれた出流さんはとてもいい人なんだろうなと思います。読んで字のごとく「後になって悔やむ」というのが後悔。どんなことだって、先には悔やめませんよね。先に悔やむのを「先悔」なんて聞いたこともありません(関西の人なら「後悔せんかい!」なんてこと言うことがあるかも……)さて、仏教では後悔している人への対応について、5つの決まりがあるんです。1.慈心をもって語る(どうしてそんなことをしたんだ!なんて自分の感情丸出しにしちゃだめよ)。2.本人のためになるように語る(だからあの時注意したのに、それを聞かないからそういう目にあったのだ、なんてますます本人がヘコムようなことは言わないで)。3.柔軟に語る(柔らかく諭してあげましょう)。4.真実をもってする(自分が思ってもいないようなことを、したり顔で言わないで)。5.時に応じて語る(その時には何も言わないでおくことも必要ですよ)。後悔している人へ、こんな対応ができれば、その人は後悔をバネにジャンプできるんじゃないでしょうか。勇気がいるけど、後悔を反省に変えていければ、いいと思います。

■第37話 悩みを解決しようとする人よりも
今回も頂戴したお題をもとに話を進めていきます。8年ほどまえに、お坊さん向けの「ウツ病」の勉強会に出たことがあります。社会でウツ病が問題になり始めた頃でした。そうでないと、ウツ病の人を単に「暗い性格」くらいに思って、「もっと明るくしましょうよ!」なんて、ウルトラ(とっても、の意)無責任な言い方をするお坊さんが出現するからです。何でもない人が楽しくテレビを見て過ごす一時間は、ご本人にとって、自己嫌悪と、無気力感にさいなまれ続ける苦悩の60×60秒。そのことを周囲の人が理解をしてあげることがとても大切なことだといいます。私の好きな言葉に「悩みをなくそうと努力する人は多いが、悩んでいけるようになりましたと言える人に心ひかれるものがある」というのがあります。悩んでいる今の自分をそのまま受け入れる勇気と、それを表現できる心の素直さに心ひかれるということでしょう。私はまだ45年しか生きてませんが、自分を分かろうとしてくれている人がいる……それだけで、生きる勇気が出てきます。私もいつか、悩んでいる人にそんな勇気を出してもらえるような人になれればいいな、と思います(相当な思い上がりですね)。ちなみに先の講習会で「私は二日酔いの朝、自己嫌悪にさいなまれてウツになるのですが……」と言ったら、講師のお医者さんは笑いながら「ああ、それは正常です」だって。

■第38話 お経料って書かないで!
「住職さん、この包みには何て書けばいいんですか?お布施ですか、お経料ですか?」 「お布施がいいですよ。」 「お経料じゃダメ?」 「ダメです。料っていう字は、はかるっていう意味ですよ。坊さんの読経をはかるなんて変じゃないですか。アンタのお経の読み方は○○円だってことになる。」 「そんなつもりじゃないんですけど……。」 「それに、ふつう料金というのは、もらう方が金額を決めるんです。バス代だって、ハンバーガーの料金だって、お客さんが決めるなんて聞いたことないよ。」 「なるほど……。」 「もしお経料って書いて、このお寺ではあなたの提示した料金では3分の読経です、って言われても何もいえないよ。だって自分で料って書いちゃったんだから。」 「やっぱりお布施か……」 「そう、お布施なら見返りを求めないってことだから、いくら包んでもらっても、な〜に仮に包んでもらわなくたって、読むべきお経は読みますよ。」 ・・・ お寺によってはお経の「料金表」がある場合があります。詳しくは各菩提寺にお尋ねください。

■第39話 神の国の国境
今回は、ずいぶん前に佐賀の蒼龍林さんからいただいていたお題です。どの宗教でも他の宗教を勧めるものはない、自分の教えが絶対と思っている……一体、それぞれの神や仏の世界ではどういうことになっているんだろう、という疑問からのお題です。申し訳ないんですが、今の私にはこの問題を楽しく書ける力がないので、大正大学の加藤精一先生(お坊さんです)の文章を引用させていただいて、次週につなぎます。――いまから約2500年も前にインドに出生されたお釈迦さま(釈尊)は、当時のインドの内部抗争の原因が神話の神にあることをいち早く気付いて、そうした神話を棄てて、限り無く高い人格に帰依していく道を示されました。これが仏教なのです。ですから釈尊は、神話の神から人々の心を開放してくれた、いわばルネッサンスの旗手なのです。――中略――神話を持たない仏教は、他の神を信じる必要もありませんし、他の神を否定する必要もありません。異なった宗教を信じながらお互いに理解し合って平和に過ごすことができるのです。この生き方は、寛容の精神とも呼ばれ、わが国の聖徳太子の「和の精神」に引き継がれ、弘法大師の「マンダラ思想」に続いていると思われます。正しい仏教は、このように、異文化や他宗教を深く理解する平和主義を内包しているのであります。――

■第40話 悟りの岸に渡るには……
どうも、仏教では「悟り」の定義ってこれというのは無いんじゃないかと思うんです。曰く「実の如く自分の心を知ること」「無我」「空」「絶対の心の安らぎの境地」とかね、いろいろです。その世界は言葉では言い得ないので「言説不可得(ごんぜつふかとく)」なんて言われたりもします。でも、その悟りの世界は、私たちの日常の心の状態とは違うので、まるで川の向こう岸みたいなので、彼岸って言います。ちなみに、彼岸のことを昔のインドの言葉でパーラム、渡る、至ることをイターって言います。“パーラム”へ“イター”するので、パーラムイター。ムとイが変化して、パーラミター。これがそのまま音写されて波羅蜜多(はらみった)になります。そのために必要な偉大な(マハー⇒摩訶)智恵(これはパンニャー⇒般若)についてのお経が、マハー・パンニャー・パーラミターで、摩訶般若波羅蜜多なんです。仏教は宗派を問わず、彼岸に渡ることを目的にしている筈です。その方法が違うんです。弘法大師は、遅速の問題って言ってます。帆掛け舟もあれば、手漕ぎボートもある、大型船もあれば、ジェットボートもあるって。禅宗のように、自分を無にしていく方法もあれば、真言宗みたいに自分を宇宙大まで拡大していく方法もある……その人によって、向き不向きがある。でも、悟りの岸に渡ってしまえば乗り物は必要ないですよね。 
 

 

■第41話 言霊
言葉がもつ不思議な霊力のことをコトダマ(言霊って書きます)、英語で言うと"the miraculous power of language"だ。かつて森で水滴のレンズ作用か、あるいは乾燥した葉どうしの摩擦か、自然発火がおこった。そこに遭遇した私たちの遠い先祖は思わず悲鳴をあげた。フィーッ!それが火という言葉となり、英語のfireのfiになったらしい。ヒエーッ、知らなかった…… カミナリが鳴り始めると「クワバラ、クワバラ」と言う。これも「桑原」という土地にはカミナリが落ちたことがないので、「ここは、桑原だ」とウソをつく。すると雷さまは「そっか。じゃ落とすわけにはいかないな」というカラクリだ。雷さまもお人好しだ。離婚したければ「私はあなたが嫌いです」と3日間言いつづければいい、というのをどこかで読んだことがある。内容もダイレクトすぎるし、文章も直訳っぽいから外国のものだろうが、おそろしい話だ。あまりにもおそろしいので今でも覚えている。ありがとう、という言葉もいい言霊をそなえてる。年に二度くらいこの言葉の語源に感動する20代のお坊さんに会う。「有り難うって、そんなことはなかなか起こらない、有ること難いって言葉なんですよね」 それ以後、この言葉の霊力に気付いた若者は"thank you"と「有り難う」を区別して使うようになる(私もその一人です)。

■第42話 元気な理由−愛語I−
前回言葉の話題がでたので、今回は愛語(その2)でいきます。久しぶりに会った人に「やあ、元気だった?」と聞かれたら何と答えるだろう。「はい」とだけ答えてはいけない。仏教徒は、というより日本人は「はい、おかげさまで」って答えるんです。ド・ウ・シ・テ・カ……これはまったく、全てのものはリンクしているという仏教の考え方の影響です(伜の夏休みの英語の宿題を手伝っていたら、こんなへんな日本語を書くようになってしまった……)。私が元気である要因の一つに、ひょっとしたらあなたのおかげがあるかもしれない。言われてみりゃ、そりゃ、そうでしょう。相手が近所のおばさんだったとします。ずっと前にそのおばさんが母親に「子供には、いろいろなものを食べさせてあげなよ」と言ってくれたおかげで、あなたの健康体の基礎ができたかもしれないのだ。そして………驚くなかれ!そのおばさんが近所で、あなたの悪口を散々言いふらさなかったというおかげもある。もし悪口を言われていたら、あなたはきっとノイローゼになって、とても元気どころではなかったろう。 だから「はい、おかげさまで」って言うんです。ちなみに「おかげ」というのは“今の自分にとっていい影響”のことを言い、“今の自分にとって悪い影響”のことを「○○のせいで」と言います。

■第43話 心の暗号解読表
テレビで、業界初のペーパーフィルターで抽出した缶コーヒーのCMをやっている。で、コーヒー好きの私は思った。「へぇ、それじゃ今までは何を使ってドリップしてたんだろう?でも、きっと味が何か違うんだろうな」 お坊さんとコーヒーは似合わないと思ってはいけません。昔アラブの偉いお坊さんだってコーヒー専門家だったのヨ(ここはルンバのリズムでよんで下さい)…… さて、問題はこのフィルターなんです。例えば、「満月」があなたの心のフィルターを通すと、どんな物や、思いが出てきますか?ススキ・秋風・マイケルジャクソン・「愛は互いを見つめ合うことじゃない、同じものを見ていることなんだって。僕と一緒にあの月のような素晴らしい人生を見ていこうよ」とプロポーズしたかったあの日(ちなみに私はプロのボーズ)・暗い中で輝く欠けるところがない仏の智恵と慈悲。人によっていろいろなものが出てきますよね。中には「ツマンナイ……」なんていうのもあるかも。自分がどんなフィルターを持っているのか、言い換えれば「心の暗号解読表」を持っているのか、他の人と比較してもいいから、知っておくとためになります。なるべく心豊かな解読表にしていきたいなと思います。

■第44話 駄目、駄目、レンズの目
この春、幼稚園をやっている先輩のお坊さんから、なるほどと唸る話を聞いた。「運動会で、ビデオカメラでわが子を撮る親がいるけどね。」 「ええ、私も場所取りできないで、家内に怒られた……。」 「自分の子供が競争している時に、わが子のゴールの瞬間を必死に撮影してるんだよ。」 「そりゃそうですよ」 「でもね、思い出してごらんよ。自分がかけっこでゴールした時、まっ先に見るのは親の顔なんだ。」 私は小学校の運動会の自分を思い出した。確かに「よくがんばったね」という親の顔が、そこにはあった。「ところが今は、一生懸命走ってゴールした時に、親の顔を見ようとしたら、そこにあるのは無機質なレンズなんだ。子供の心が少しだけど、大きくなるのは、その時に親と目を合わせる、アイコンタクトができるからだと思うんだよ。」 本当にそうだと思った。レンズに「よくがんばったね」という表情はない。自分の子供の時だけは他の人にカメラを頼めばいいんだよ、と先輩は加えた。この秋、一人でも多くの方が、モニターやレンズ越しでない、自分の目で子供達の精一杯を見てあげてくれればと思う。

■第45話 出会い 1
今回は、南アルプス市のreikoさんのリクエストです。「堅いお話から色っぽいものまで、お好きな範囲で結構です」だって。ありがたい話です。でもねえ〜、色っぽいといわれても“色で導き、情けで教え、恋を菩提の橋となし、渡して救う観世音(曾根崎心中)”のような訳にはいきません。そこで、せめてイラストは色っぽいものにしてもらいました。さて、私たちは一生の間にどれくらいの人と出会えるんでしょうか。 “袖触れ合うも他生(多少じゃありません。前世でのという意味)の縁”ですからね。だれでも数万から数十万の人とは出会っているでしょう。その中でどんな出会いを、自分のものにしていくか、そこが大切なところだと思います。あの人のこんな一言で、私もこうするようになった……あるいは、しないようになったというのもありますよね。この人のあんな仕種を見て、私もこうするようになったorしないようになったというのもあるでしょう。それもなるべく今の自分にとっていいことを思い出していけるといいなと思います(実はこれ、私が法事のお経の前に話してること)。せっかく産んでもらったんですから、出会った人たちとの縁を大切に、心をなるべく大きくしていきたいと思います。

■第46話 出会い 2
えーと、最初にことわっておきますけど、このページは「出会い」とは銘打ってありますが、いわゆる「出会い系サイト」とは全然関係ありません(こうして文字数を無駄にしてるんだ……)。しかし、その手のサイトを利用したい人にこそ、第1話からお読みいただきたいのです。で、「もう大変、四苦八苦だよ」なんて言い方がありますが、もともと苦には八つあるんだというのがお釈迦さまの説。それが八苦。このうち “生老病死”を四苦と言います。残りの四つは “愛別離苦”(あいべつりく)愛するものと離れなければならない苦、ex.緑の黒髪やスベスベお肌もこれに入ります。“求不得苦”(ぐふとっく)求めても得られない苦、ex.財産とか巨人優勝なんかも。“五陰盛苦”(ごおんじょうく)色受想行識の五つが集まっているための苦、たとえば……お手上げです。そして “怨憎会苦”(おんぞうえく)怨み憎んでいるものと出会わなければならない苦です。これらの苦しみを無くすためには、その原因である愛や求める心や憎しみ、怨みを小さく、あるいは無くしていけばいいのだというのが仏教の基本的な考え方です。愛や求める心の土台になっている“執着”に気がつきなさいというのです……と理屈は分かっているのですが、私自身正直なところどうにもなりません。そんな私ですが、人や社会を憎んだり恨んだりする心のエネルギーと、それを許していくエネルギーはほぼ同量のような気がするんです。同じエネルギーなら許すほうに使おうと思ってます。

■第47話 奇跡と運命
平成6年秋にポルトガルで太鼓の林英哲(はやし えいてつ)さんと一緒に声明(しょうみょう)公演をやった。坊さん80人。3000人収容の会場は満員で、入れなくて文句を言う人が外に1000人いたらしい。夜10時にスタートした公演は11時半、大喝采のうちに幕。片づけをおえて、ホテルに向かうタクシーに乗ったのは午前2時だった。助手席にのった私を見て、リスボンのタクシードライバーは言った。 (以下英語の会話を私流に訳します) 「あんた、仏教の坊さんかい?」 「うん」 「へえ。聞きたいんだけど、仏教に“奇跡”ってあるかい?」 「えーとね、キリスト教のような意味での奇跡じゃないかもしれないけど、あるよ」 「どんな奇跡?」 「考えてごらんよ。日本の坊さんが、こんな夜中に、他の誰でもない、あなたの車の助手席に乗って、英語でしゃべってる、それだけでも奇跡だよ。おまけに私がポルトガルに来られたのは、飛行機が落ちなかった、家族の中に病人がいなかった、他に何千何万という条件が整ったからだよ。これが奇跡じゃなくて、何なのさ」 「いいや、それは奇跡じゃない」 「奇跡じゃない?」 「ああ、それは“運命”って言うんだよ。神さまがそうさせたんだよ」 「……」

■第48話 引導を渡してやる!
さて、待ちに待ってたリクエストがきたので、今月はそれにお応えしてまいります。まずは白雪さんからの"引導を渡してやる!"です。この言葉は「誘引化導」の略で、もともとは「仏の道へ誘い、引き込み、導いて、いい人に変化させる」ということ(おお、なんだか科学反応みたいだ……)。つまり仏の教えを聞かせたり、教えたり、それを紙に書いて渡したりすること。20代の頃はお葬式で引導を渡すことに自信が持てなかった……本当に私が引導を渡して成仏してくれるんだろうかって(故人や遺族のほうがもっと不安だったに違いありません……)。そしたら先輩が言ってくれました。「そんなんじゃ駄目だ。自信を持て。お前が成仏させるなんて考えなくていいんだよ。お前が渡した"仏の教え"によって成仏するんだから、お前は何も心配はいらないんだよ」 それからです。いくらか自信をもって伝えられるようになったのは。――あなたは本来仏と同じなんだ。だからそれに気づいていく智恵と慈悲を持ってください。私もできる限りあなたと同じようにがんばっていきますから、この教えを拠り所にしていきましょう――って。本当は引導というのは、師匠が弟子に渡すんですが、これじゃ師匠っぽくない?でもいいんです。私は仏道修行の仲間だと思ってるから。私にとって引導は"渡してやる!"ものではなく、"渡させてもらう"ものです。

■第49話 ラッキーナンバー7 〔1〕
BDさんから「どうして三回忌の次は七回忌なんですか?」って質問的リクエストがきました。故人を偲んで、縁ある人が集まって、お坊さんにお経を読んでもらうことを法事と言います(かなり大雑把な言い方だな……)。その法事は1周年(一周忌)、2周年(ここから亡くなった年をいれて三回忌)、6周年(七回忌)、以後十三、十七、二十三、二十七、三十三回忌と営まれていきます。さて、先に質問に答えておきましょう。法事って毎年やってもいいんです。実際そうしているお宅もあります。でも、一般的には三回忌の次は七回忌です。 どうもこれは素数信仰からきているみたいです。素数なんて久しぶりに聞く言葉ですが、1とその数でしか割り切れない数。1、3、5、7、11、13などです。とても不思議な数なので、世界的に素数信仰と言われているようです。このうち日常生活の中で使われる1桁の数で、最初に安定する数は3なんです。三本足のテーブルがあるでしょう。一本でも二本でも倒れちゃう。でも三本にすると安定する。だからこの三を基本にしたものも不思議な(言い換えれば神聖な)数になります。……そう、結婚式の三三九度は、この三の倍数なんです(散々苦労するなんて読んじゃいけません)。他にも子供の身体がいくらか安定してくるのが数え三つ、五つ、七つくらい。そこまで生きてきたぞという感謝の祭りが七五三。不思議で神聖な数なんです。しめ縄も七五三縄って書きます。

■第50話 ラッキーナンバー7 〔2〕
数には素数という、その数と1でしか割り切れないものがある。その中で最初に安定する数が3。その数に不思議さと神聖さを感じるのことを素数信仰……というのが前回の話(なんだ、こんな簡単なことに600字も使ったのか……)。そして、一桁の中で一番大きな素数が7なんです。だから色々な伝説にも使われます。お釈迦さまが生まれた時に”天上天下唯我独尊!”って、「人は誰でもかけがえのない命を生きていくんでチュ」 って宣言したのは知ってるでしょうけど、これには「生まれると七歩あるいて」という前置きがあります。この七歩は、インドの神は七歩で全世界を渡り切るという表現から使われた言葉です。つまり世界に通用することをお釈迦さまはおっしゃったという意味があります。キリスト教でも神は世界を七日間で創ったんですよね? この7が土台になって、法事では七回忌が営まれます。故人にとっても、遺族にとっても功徳が増す年なんですよ、きっと。そして、この七回忌から数えて7年目が(親指から折って”1”じゃなく、”7、8、9…”と7回指を折ると、ほら、13になるでしょう)十三回忌になります。次の十七回忌は、7つながり。そしてまた7を足して二十三回忌になります。私的には、1人、2人、3人、4人、6人、12人でも分けられるようにと、心がとても優しい人が考え出した12(ダース)が好きだ〜す。 
 

 

■第51話 手相
ハンドルネーム、スーパーチビスマ主婦さんから「手相」で一席、とメールをいただきました(○○してそう、○○やってそう、なんてオヤジギャグは今回はやりません)。今までに手相を見てもらったのは一回。それも10年前の35歳の時。高校時代の友達と宴会でほろ酔い加減上々、いざ二次会会場へ!の道すがらのこと。シャッター閉めた銀行前、人気ない歩道の暗がりに、ほんのり灯るは"手相見"の行灯……。その明かりに照らされた少し寂しげな女の子。友人曰く。"手相見てもらったことある?""ないよ"で、手相を見てもらった。何でも良かったのだが金銭運をきいた。「お金で問題がおこるかもしれませんね」 「問題ってどんな?」 「はい、貸し借りには気をつけたほうがいいですよ」 あまりの当たり前さにちょっと呆れて、彼女に質問した。「仮に問題が起こったとして、それは私にとっていい事、悪い事?」 彼女は黙ってしまった。悩みがあって訪れるお客さんとは勝手が違ったのだろう。今回のお題で手相のサイトを見たら、手相が統計学であることを踏まえた上で、脳神経と掌の筋の関係について触れていました。好奇心旺盛な気質であれば、それが感情線などに現れることもあるでしょう。でもそれは結果論です。手相に左右されず、自分がここにいる数々の良い条件(おかげ)を思い、精一杯に相手のことを考えて生きていけば(とても勇気がいりますが)、占いはイラナイと今は思ってます。

■第52話 墓相
「住職さん。親戚の人に、お墓に大きくなる木を植えると、その家の幸運が吸い取られるって聞いたけど本当ですか?」 「嘘です。でも、本当です」 「?」 「確かに、お墓を覆い隠すような大きな木があるお宅はあまり繁栄はしていません。世間付き合いもあまりしないし、お墓参りも来ない、法事もほとんどやらないですね」 「じゃ、やっぱりそうなんだ」 「あのね、考え方が逆なんですよ。かつてはちゃんと木の剪定してたんです。だから木は大きくならなかったんです。それが、色々な事情で先祖のことを考える心の余裕がなくなっちゃうことがあるんです。お墓参りに来るどころじゃない、自分の生活で一杯一杯になっちゃう。来なければ木はどんどん大きくなるでしょ。たったそれだけの話です。木のせいにしちゃいけません。木が気の毒です……(もちろんここはボソッとつぶやいた)」 いるんですよね、物知り顔で迷信を語って人を、混乱させる人が。そんな時は「どうして?」って質問するんです。たいがい「知らない」って答え。無責任も甚だしい。そういうことにはっきり答えてこなかったお坊さんたちの責任もありますね。迷信のご質問もお受けしますよ。

■第53話 どうして人は歌うのか
『日本音楽の再発見』は作曲家團伊玖麿さんと、東京芸大の小泉文夫さんの対談集。ありとあらゆる分野から音楽文化を語っていて、とても面白い本です。この中で、月に一回の声明(節付きのお経や讃)ライブで、必ず引用する話が出てきます。“ルバング島で小野田少尉が見つかった時、30年も一人で暮らしてきたのに日本語がとても流暢だった。新聞記者がそのわけをたずねると、「だって歌っていましたもの」と答えている。孤独だからいつも歌を歌っていた、だから言葉はちっとも退歩しなかった、というのです。だれに聞かせるものでもなく、おそらく自分の魂を慰めるために、生きていくために歌は彼にとって必要だった。その結果日本語を忘れなかったのですよ。” “歌のコミュニケーションというのは日常の言語を越えたなにかでしょう。” “通常のコミュニケーションというと言語によるわけですから、言語が否定される環境で歌が生まれてくる、ということかもしれません。” 普通の言葉では通じないと思われる相手――仏や死者や、目の前にいない恋人。そのために声明、鎮魂歌、挽歌、ラブソングが生まれてきた。メロディーをつけると自分の想いが相手に通じそうだと感じたに違いない(だから、恋人の目の前でラブソングを歌うなんて無粋なことしないように……)。 そんな意味で、お坊さんが称えるお経も音楽として聞いてみてください。“退屈な”お経が違って聞こえてくる筈です。

■第54話 本当のお坊さん
先月の15、16日に、東京ビッグサイトで行われた「デザインフェスタ」に参加した。密蔵院にはそれなりに、大勢の方が来てくれるのだが、それがなかなか広がっていかない。それならば、こちらから出てみようという単純な発想だ。坊さんのデリバリーサービスだ。世に「仏教はむずかしい」「お坊さんと話すのは苦手」と思っている人が、いや、それ以前に、お坊さんと話したことがない人が、いかに多いことか……誘った若い仲間にも、作務衣で行こうと声をかけておいた。うち2人は白い鼻緒の下駄を履いてきてくれた。こちらとしては、どう見たってお坊さんの一群に見える筈だった。ところが、多くの来場者は私たちの作品の前を"ふむふむ"なんて顔をして通りすぎるばかり。どうも私たちはお坊さんだとは思われていないようだ。仲間が持ってきた木彫りの観音さまを見て、かろうじて 「えっ?お坊さんなんですか?」 と声をかけてくる人がいる程度だ。たしかに、作務衣すがたで短髪の人は、居酒屋へ行けばたくさん働いている。そこで、持っていた紙に筆ペンで書いた。"妙な言い方ですが、本当のお坊さんたちです" それも4枚も書いて、ブースのあちこちに貼った。すると、人の流れが止まった。多くの人が 「へえ、お坊さんですか」 と立ち止まってくれるようになったのだ。"へえ"という感嘆詞の前には、明らかに"こんなところに"という語が省略されている。 「こんなところに参加しているお坊さんなら、面白そうだ」 というのだ。私はそういうところから、仏教の考え方とつながりを持ってもらえればいいと思っている。"そういえば、阿弥陀さまって本当にいるの?"とか"お坊さんは丸儲けなの?"とか。それにしても、 "本当のお坊さん"という張り紙は、どこか変な気がする……。

■第55話 ジョークかくあるべし
はやしゆうさんとの出会いは、ありがたい縁だと思う。デザイン・フェスタで通路を挟んで向こう側にいたのだ。彼女の作品はご覧の通り。形容の仕方がよく分からない。オヤジギャグをここまで昇華させれば、作品がメッセージ性を持ち、もう立派な芸術だ。もともとデザイン・フェスタは、デザインというよりアート・フェスタに近い。私などには、ほとんど理解不可能な、脳味噌型の財布だの、鼻を垂らした人形だの、エロ・グロ・ナンセンス系の作品も多い。その中で、ゆうさんの作品に顕れる感性は、あたたかな人柄がにじみでていて、とても好きだ。さて、自分でいうのも変だが、私は大の恥ずかしがり屋。それを隠すために、私はよく冗談を言う(冗談しか言わないとも言われる)。そこで、大正大学のK教授(弘法大師の研究者というより信者に近い)に聞いた。「先生!お聞きしたいことがあるんですが」 「なんだ?君か。嫌だな。君の質問はいつも変なのばかりだからな」 「まあ、そう言わずに。お釈迦さまや弘法大師は、冗談を言いましたかね?」 K先生は即答した。「そりゃ、言ったと思うよ。文献には出てこないけどね。冗談を言うくらいの人間としての幅がなければ、あそこまで人はついて来なかっただろうな」 私は右のげんこつで、左の手の平を叩いた。先生の前ではさすがに「ヤッター!」とは叫べなかった。思慮不足のために(いや、きっと人柄が悪いのだ。だから坊さんとして修行しているのだ)、私の冗談はよく人を傷つける。お釈迦さまや弘法大師の冗談は、人の心をあたたかく、なごませたはずだ。

■第56話 小学生に供養をどう説明する?
久しぶりに森さんからリクエストが来ました。「供養ってなに?誰のためにするの?先祖?自分?」というコメントが付されています。そこで、まず供養から。両親とおばあちゃんと、お墓参りにきた3年生の男の子が、いきなり私に言いました。「お坊さん、供養ってなに?」 私はその子の隣にいた大人たちを見た。そして思った。――自分で答えられなかったから、こっちへ回したな――。そして、私はあらためてギクリ!としました。俺は、小学生に分かるように“供養”を説明できないじゃないか! 「……ちょっと、待っててね」 と言い残し、あわてて住職室の本棚へ。とりあえず手にとった辞書を見て、どれ程、身の程、なーるほど。“供養とはもてなすこと”と見つけたり! 玄関にもどりながら、大きな声で言った(怒鳴るとは違います)。「あのね、供養って、おもてなしっていうことだよ」 男の子はポカンとした。シマッタ!“おもてなし”でも小学生には分からないじゃないか! 「お友達が遊びに来るでしょ。その時に、飲み物は何にしようか、お菓子はどうしようか、部屋は片づいているか、へんな匂いはしないかって考えるでしょ。そのお友達のために」 「うん」 「それを“もてなし”っていうんだ。ふつう相手がいるから、丁寧に“お”をつけるんだけど、仏さまや、ご先祖さまにおもてなしをすることを供養っていうんだよ。君はこれから、お墓へ行ってお線香あげるだろ。つまり、いい香りをおもてなしするんだ。それから、僕も一生懸命がんばりますって報告する、それも心のおもてなしになるんだよ」 その子は、隣にいたお母さんを見上げて言った。「そうなんだって、お母さん」 するとお母さんはニヤリとしながら言った。「ありがとうございます」 とても愉快なひとときだった。

■第57話 たがために経は読む?
どう聞いても意味のわからないお坊さんのお経(へたをすると読んでいる方にも分からなかったりして……)だもの、いったい誰のために読んでるの?と言いたくなりますよね。だから、森さんや白雪さんからのリクエストの添え書きにあったように、「亡き人のため?生きている人のため?」ということになるんだろうと思います。じつは、お経を読む相手には、皆さんが考えもおよばないであろう、もう一人の対象者がいるんです。それは、仏さま!お坊さんが読むお経は、多くの場合、仏さま(死者ではありません)をもてなす(供養する)のに読まれるんです。そうすると仏さまはそれを楽しむので "法楽のために読誦したてまつる般若心経……" なんて言い方をします。皆さんが遭遇する読経の多く(法事や法要で唱えられるお経)は、この仏さまに楽しんでもらうためのお経です。お坊さんに仏さまを供養してもらう――それを「今回は誰々のために特にお願いする」のが法事です。他にも、お葬式なんかでは、亡き人が仏さまの弟子になるために、チベット死者の書みたいに、その人に聞かせるつもりで読む場合もあります。つまりこの場合は亡き人のため。もちろん、お経には "世の中の現象の根底に流れている諸行無常" について説かれたものや"全てのものはそのままでとても清浄なのだ"といった宇宙観を説いたものなどがあります。その意味では、生きている私たちの為に説かれた教えです。でも、漢文をそのまま読まれても聞いている人には内容はチンプンカンプンですよね。だから書き下しにしたり、日本語訳して読めばいいじゃないかと思われるかもしれません。そういうお経(「父母恩重経」や「仏遺教経」など、ネットで検索できますよ)もありますが、どうも格調が低くなってしまうお経が多いんです。般若心経の一部の「色即是空、空即是色」は、"色"や"空"の概念を勉強してればかなりダイレクトで右脳に届きます。しかし、「色は即ち、是れ空・空は即ち、是れ色なり」になるとちょっと混線。さらに「形あるものは、すなわち、もろもろの条件によって全てが変化し続ける法則性そのままであり……」なんて言われ続けたら頭がガンガンしてきます。今回のリクエストで分かったんですが、もうちょっとお坊さんが読経の方向性について皆さんに言わないと勿体ないですね。おっと、前回の大事な質問に答えてなかった…… 「供養は仏(この場合は亡き人も入ります)のためのみ、あらず」 というのは父の弁。私もそう思います。

■第58話 聞け!物どもの声
先日、家内(結婚20年になり偉くなったので最近は"お"をつけて、オッカナイと呼んでいる)の前で、これまた二十数年前に父が教えてくれたことを話す機会があった。ある時、私は父にたのまれて本尊さまにご飯をあげた。用事をすませ本堂から長い廊下をもどり住職室の前を通ると、中から父の 「本尊さまの前のお花、下げたか?」 という声が聞こえた。「えっ?だって、ご飯をあげてこいって言ったんじゃないの?」 と私は住職室に入った。「なんだ。相変わらず、言われたことしかやらないのか」 「……」 「本尊さまの前にある花の声が聞こえなかったか?」 「花の声?花が話すなんて、シャレにもならないよ」 「違うよ。あの花が"私はもうしおれてきたから、ここからさげてちょうだい"って言ってるのが聞こえなかったか、って聞いてるんだよ」 「ゼンゼン聞こえなかった」 「もう一回本堂へ行ってこい!」 本堂へ行ってみると、なるほどさっきは気づかなかったが、花はかなりしおれていた。そばに耳を寄せてみたが、何も聞こえなかった。当たり前である。こういうのは、心の耳で聞かないとだめなのだ。それ以後私は、色々なものの声が聞こえるようになった。廊下に落ちている糸くずが懇願する。「掃除機じゃ取れないのよ。指でつまんでごみ箱へ入れてちょうだい」 なぜかいつも女性言葉だ…… 塀の上に酔っぱらいが置いていった空き缶がぼやく。「ここじゃ、アカン、アカン!空き缶入れに入れておくれやす」 どうしても妙な関西弁になる…… 気になるということは、その物が私に何かを語りかけていることなのだ。その真意をしっかり汲んでいけるようになりたいと思う。さて、上記のような話を(オッ)家内にしてから数時間がたった。パソコンの前で原稿を書いている私に家内がコーヒーを持ってきてくれて、住職室を見回して言った。「あなた、この部屋にいて、散らかった紙や、広げたままの辞書や、半分開いてる引き出しの声が聞こえないの?」 「えっ?ああ。あのね、他にも、あんまり沢山のものが、同時に話すから何を言っているのかよく分からないんだよ」 ……それから2週間たった現在、まだ大掃除はしていない。

■第59話 世間では、一般的に……
順司さんから「一般的に、社会的に、世間では」にどこまで信憑性があるんだろう……というリクエストがきました。自分では一般的な世間の常識を心得ているつもりで、つい「まあ、一般的に厄年は節分までですよ」なんて言うくせに、逆に「普通、人さまの家に行く時は、手ぶらじゃ行かないでしょ!」なんて注意されると、馬鹿にされたような気になって、「普通ってどういう意味さ!」なんて、逆ギレしたくなる時がある(これに似たのに“有名”があります。「これって有名だよ。知らないの?みんな知ってるよ」「俺が知らないんだから、有名じゃないんだよ」的会話もよくやります)。さて、時には“さま”がつくほど権威がある“世間”という言葉ですが、これがなんと、仏教語なんです。そして、もともとの意味ではサマがつくほど立派なものじゃない。“世”は流れる、移り変わること、“間”は中という意味で、流れてとどまらない現象世界のことなんです。刻一刻と変化して止まないのに、何かに執着してしまう煩悩の世界だから、迷いの世界のことでもあります。だから、一般的にはとか、世間じゃという言葉に(自分が社会の成員である一人として、ある程度考慮する必要はあるにせよ)、絶対の信憑性(信頼性)があるとは思えません。ちなみに、出世は、もともと出世間という言葉で、悟りを開いた仏さまが世間に出て、人びとを救うことをいいます。他人を蹴落として役職が上がることじゃありません。今回は、いい題をいただいた。今年は「一般的には」と言いたくなったら「一般的には××ですが、本当は……」と言うようにしよぉ〜と!

■第60話 何であなたがやらなきゃならないの!
世に、人から何か頼まれたら、なかなかイヤと言えない人は多い。頼めば引き受けてくれるから、そういう人のところへは、多くの仕事が来ることになる。なぜ引き受けてしまうかといえば、依頼に対して、NO!と拒否することに罪悪感を覚える人もいるし、他人から良く見られたくて引き受ける場合もある。どちらの場合も、その責任感から一生懸命やる。それも、ヘトヘトになるくらいやる。失敗なんか恐れない。そんな人を見て、周囲の人は言う。「そんなにまでして、することないじゃないか」と。その周囲の人の中で、迷惑を受けている人の場合は、次の句が継がれる。「だいたいどうして、あなたがやらなくちゃいけないの!他にやる人いくらでもいるでしょうに!」 偏差値教育の中で、同学力の人たちと学生時代を過ごす。社会に出れば、教える方も教わるほうも楽だからマニュアルで仕事を覚える。つまり”お前の代わり”がいくらでもいる時代である。だからこそ現在“かけがえのない自分探し”をする若者が増えている。――そんなことを、文化人類学者の上田紀行先生が『宗教クライシス』(岩波書店)の中でおっしゃっている。するどい分析だ。他の誰でもない、この自分が頼まれた用事――“かけがえのない自分”を認めてくれた人がいて、それを実証できるチャンスである。だから、頼まれたら「はい、喜んで」と、つい答えてしまうのだ。(もとより、何もしなくたって、自分はかけがえのない存在で、それだけで尊いのだが、なかなか“I am O.K.”が出せないんだよねえ。) もし、あなたの近くに何でも引き受けちゃう人がいたら”どうしてあなたがやらなきゃならないの!」なんて責めないで、言っていただきたい。「あなたならできるよ。がんばって!」と。 
 

 

■第61話 ショートケーキを二人でどうやって分ける?
仏教についてとてもわかりやすく解説してくれている人に、ひろさちやさんがいる。そのひろさんの講演で、10年前に聞いた話からスタートです。ここにジュースのビンと空のコップがある。さて、このジュースをABの2人で文句無く分けるには、どうしたらいいか?計量カップなどはない。ひろさんの話だと、この娑婆しゃばで一番いいのは、次の方法だという。まずAさんが自分で半分と思うだけ、ジュースをコップに注ぐ。そしてBさんに言う。「お好きなほうをどうぞ」と。――――これで文句は出ないはずだ。普通私たちは“2人で分ける”というだけで2等分にこだわってしまう。まずこの“こだわらない智恵”を持たなきゃダメよ!というわけだ。“ところがです”とひろさんは続けた。これはやはり娑婆の智恵なんだそうだ。仏の智恵じゃない。なぜかというと、自分の好きなほうを取ったBさんは思う。“Aはトリックを使って私が少ない方を取るようにしたんじゃないか……」と。一方、残ったほうを取ったAさんは思う。「シマッタ!Bが取ったほうが多かったかもしれない……」って。なるほど、世の中、つまり娑婆というのはそんなものだろうと思います。この話を聞いて数週間後のこと。我が家の冷蔵庫にショートケーキが1個残っていたことがあった。私はジュースより面白そうだと思って、小学生の長男と幼稚園に通ってた次男がいたので、長男に言った。「お前が半分だと思うように切ってごらん。そして、弟に先に選んでもらうから」 彼は1分以上も考えあぐねた。そりゃそうだ。イチゴがネックなのだ(バースデイケーキで板チョコなんかが入るとますます面白いことになる)。結局、彼は自分が取りたいほうを弟に取られてしまった。しかし、それ以来面白いことが起こった。何か平等に分けられないものが残った時、長男は弟と妹に「どうぞ」と笑顔で身を引くようになったのだ。

■第62話 智恵(ちえ)と智慧(ちえ)
今回はまず、知と智、恵と慧、の違いから。漢和辞典によると“知”と区別して、おもにすぐれた知力の場合に使われるのが“智”だとあります。そして“恵”と“慧”は、“恵”が文字通り、ものをいつくしんだり、めぐむ力なのに対して、“慧”は仏教語で、ものごとの真実の姿を見極める力という深い意味を持っています。だから、お坊さんは特に、知恵と智慧を使いわけて書く人が多いんです(折衷案みたいな“智恵”と書く人は、私以外あまりいないのでは……)。さて、前回紹介した、ジュースを2人で文句無く分ける方法。もう1本ジュースを買ってくるなんていうのは知恵。 これが娑婆しゃばの智恵だと――Aがまず自分が半分だと思うだけをコップに移し、Bが好きな方を取る。――ここまでが前回の話。続けて、ひろさんは、仏の智慧ならどう分けるか、と次のような心温まる分配方法を紹介してくれました。AはBに、どうぞ好きなだけ飲んでくださいとジュースを渡す。もちろんBはAのために半分以上残して、もう充分ですから後はAさんどうぞと返す。でも、Aは飲み干すようなことはせずに、私ももう充分ですからとBさんに渡す。つまり、相手を思いやる心(慈悲)が仏の智慧の土台になっているということです。智慧と慈悲は二つで一つなんです。この話をずいぶん色々なところで使わせてもらいました。最初はあまりに理想的な話なので“まあ、なかなかそんな仏さまのような分け方はできませんがね”とフォローしていたのですが、ある時気がつきました。愛し合っている者同士ならきっとできるだろうと(これも理想的過ぎ?)。ひいて言えば「同じ地球に生きている者同士じゃないか」という一体感があれば、仏さまのような分け方ができる筈なんですよね。今回のリクエストの原題は「知識と智恵はどちらが役にたつ?」でした。このことを大学1年生の長男に聞いたら「やっぱ智恵でしょ」と即答。今回はこの若者(時々、バカモノ)の直感から出た言葉を結論にしようと思います。

■第63話 お尻に電気コードついてる?
冬になると密蔵院では、本堂の檀家さんが座る椅子の足元に細長いホットカーペットを敷く(6枚まで連結できるスグレモノである)。エアコンよりずっと温かく感じるからだ。設定温度はダニをやっつけると書いてあるレッドゾーンの“高温”より、すこし低い温度だ。それでも足を載せ続けるとけっこう熱い。だから法事の始まる前には必ず言うことにしている。「熱かったら温度を下げてください。やりかたが分からない人は、時々足を持ち上げてください」 で、先週の法事での話である。小学生の男の子が法事に参列していた。お経を終えてクルリと向きを変えて彼に言った。「君、最後に手を合わせてもらったけど、自分の手の温度、分かった?」 「うん」 「そうか。で、足元はどうだった?温かい?」 「うん、ホットカーペットがあったら」 「そうか。でもどうしてカーペットは温かなんだろうね」 「電気コードでつながっているからだよ」と彼は、コードを指さした。「そうだよね。電気の力でずっと温かになってるんだよね。だけどさ、君には電気コードついてないよね。お尻とかについてる?」 彼はお尻をさわりながら後ろを振り向いた。もちろんコードは……ない。「電気もないのに、君の体温って一日中36度くらいになってるんだよね。これって、すごいよ。ご飯を一日三回、ちゃんと食べれば、一年中36度に温めつづけて くれるんだもの。そんな君を生んでくれたお母さんやお父さんに、後でいいから、ありがとうって言ってね」 なんと押しつけがましい話だろうか……と思いつつ、冬の法話の定番になっている。読者の皆さま、ホットカーペットに座る時にはコンセントを見ながら、どうかお尻(自分のですヨ!)を触ってみてください。

■第64話 ニクダイワニ?
中学3年生になる娘とスーパーに買い物に行った。カゴを下げて通路をブラブラ。どこでもそうだが、特売品は棚にのせずに、通路に箱を積み上げて、派手なポップ字が踊っている。私はあまり缶詰は食べない(“鮭の中骨”は除く)。だから、どんな特売をしていようと、缶詰売り場はいつも素通りなのだ が、この日は、娘が私の袖を引っぱった。「ねえ、お父さん。ニクダイワニって何?」 45年間、聞いたことがない日本語である。つまり初めて聞いた言葉だった。「えっ?ニク……なに?」 「ニク、ダイ、ワ、ニって書いてあるよ」 彼女の視線の先を追っていくと、特売品のまだ封を切っていない4段重ねの箱の上にその中身とおぼしき缶詰が山積みされている。いったいニクダイワニなる食べ物の正体は何だろうかと、一つ手に取ってみた。見れば、缶の蓋に印刷されているのは肉の煮物の写真だった。でも、なんでこれがニクダイワニ?……歳をとった私にとって、茶色の筆文字で書かれていた品名は、これまた茶色のドロドロ汁にまみれる肉の写真に混じり合って判別できなかった。そこで、下にあった段ボールの横を見た。書かれてある字を見て、驚いた!そこには確かに娘のいう「肉・大・和・煮」と書かれているではないか!それから数秒後、堪えきれぬほどの笑いがこみ上げてきたのは言うまでもない。店を出るまで顔を真っ赤にした親子連れを、周囲の人はいぶかしげに振り返っていた。私は店を出てから娘に言った。「一休さんの“このはし、渡るべからず”って話があるだろ。あれは、“はし”という言葉を自由自在に読み替えできる柔軟な発想を持ちなさいっていうことを教えてるんだよ。だから、お前はすごいんだよ!それにしても、ニクダイワニは……ギャハギャハギャハ」 娘は「絶対に人には言わないでよ」と言った。私は“言わないよ”と言った。が、書かないとは言わなかったもんね〜。

■第65話 採用最終合格の基準
2年前から毎月1回、密蔵院で、午後7時からやっている「村上正行さんの話の寺子屋」――この村上さんはNHKからニッポン放送(現在フジサンケイグループの親玉)開局と同時に移籍。以後ニッポン放送で定年まで過ごされて、今年80歳になられる。数ある村上さんのいい話は折にふれご紹介させていただいているが、今回は新人アナウンサーの最終合格の秘密を暴露させていただくことにする。何千人もの応募の中から、書類選考で選ばれ、筆記試験に挑み、数がどんどん絞られていくアナウンサー志望の人々。最終選考に残る人たちは、もうほとんど実力的には誰を採用しても変わりはない。それなら、ここからは運が左右する世界と思われるかもしれないが、ところがどっこい、そうはいかない。最終の面接で、選考員は何を見るか?それは、失敗した時なのだそうだ。原稿読みでも、質問に対する答えでもいい、人は間違いや失敗した時に、本性が出る。そこを見逃さない、というより、そこばかりを見ているのだそうだ。ニュース原稿を読み間違える……その時にふとかいま見せる人を寄せつけない冷たく険しい表情。こういう人は落ちる。合格するのは、失敗した時でも、周囲を明るくしてしまう若さと明るさを持っている人だ。NG特集でやっているアナウンサーのハプニング集も、そんな最終選考を通った人だから、視聴者は明るく笑えるのだろう。 “人は、話の内容よりも、話し手の人柄を、話し方や内容でみているんです”という村上さん。なるほど、どこの局でもやっている天気予報は、キャスターの人柄でチャンネルを合わせている自分に気づく。生んでもらった、そしていま地球の大勢の人、生き物と一緒に、助け、助けられながら生きている……まずはそのデッカイ広がりと、あるがままの幸せの上にドッカと腰を据えて、本性は仏と同じなんだと気づきたいものです。

■第66話 暗い話し方の裏側
密蔵院で「話の寺子屋」の講師をしている村上正行アナは、心のあり方から掘り起こして、参加者の心と話し方をブラッシュ・アップしてくれる。世にあふれている話し方教室は、広告で “人前で話せない人が、数千人の前でも堂々と話せるようになる!” と謳い、街頭で大声の発声練習で羞恥心をなくさせたり、何度も人前で自己紹介の練習をさせて話し方でもっともいけない慣れを教え込む。そんなことは絶対にしちゃいけないと村上さんはおっしゃる。その村上さんが、話し方を勉強しに来た人に“話し方が暗いです”とか“話し方が冷たいです”と言うことがあるそうだ。 だいたいの人はムッとした顔をして 「そんなことはありません。私だって、仲のいい人たちと食事する時には、笑顔で明るくしゃべっています」 と返答するらしい。実はそこが大事なところなのだと村上さんは言う。“どんな人だって、気の合った仲間としゃべっている時に笑顔でいるなんて当たり前。誰だってできる。問題はそうじゃない。まだ北風が?も凍るくらい冷たく、それも真っ向から吹いている時に笑顔でいられるかどうかなんですよ。” “話というのは、心のキャッチボールです。相手のとりやすい球を放るのが基本ですよ。「あなたの話し方は、まるで雨がシトシト降ってる夕方に、駅前の公衆便所に、はだしで入っていくみたいで、その気持ち悪さと暗いところが好きだ」なんていう人は、金輪際、いませんよ。” 村上さんの話は、人と接する時の心のあり方そのままをおっしゃっている気がする。 嫌なこともたくさんある人生ですけど、せめて人と話す時には、表情も含めて相手に不愉快な思いはさせたくないものだと思います。

■第67話 食べ物の好き嫌いと人の好き嫌い
和という漢字は、穀物を表す禾偏(のぎへん)と、食べることを意味する口からできている。つまり、なごやかなのはご飯を食べてる時なのよ、と中国人は知っていた。だから、ご飯はなるべく家族そろって食べましょう!さて、人には食べ物の好き嫌いがある。親は子供に好き嫌いなく食べるよう育てる。栄養のバランスが取れて健康な身体を作るからだ。「ニンジンも食べなさい。目にいいんだから!」 と言われて嫌々食べた人も多いだろう(実は、こういう育てられ方をした人に限ってサプリメントオタクになっているような気がしてならない。親が食べ物を食事でなく、栄養物として物を食べさせた弊害だと思うが、如何?)。そして、もうひとつは、食生活が豊かになり、ひいては人生が豊かになるからだろう。 福神漬けやラッキョウのおかげで、カレーライスがどれほどおいしくなるかはご承知のとおりである。一時期、不思議にも私の周囲に食べ物の好き嫌いが多い人が集まったことがあった。PTAの仲間である。食事中に「これ、嫌いだからあげる」「こんなの良く食べれるね」などとかしましいことこの上ない。でもそれはそれで、和やかではあった。しかし、ある時、ハッとした。食べ物の好き嫌いが激しい人は、ほとんど例外なく「私、人の好き嫌いは、ハッキリしてるんです」と公言して憚らない人でもあったのだ。 八方美人の優柔不断さに対して、人の好き嫌いがハッキリしていることで判断の明確さを自慢したいのだろうが、果たしてそれが自慢になるか疑問だ。親が子供に何でも食べなさいと言っている理由と同じで、いろいろな人と接していると、心の栄養バランスが取れるようになるだろうし、ひいては人生が豊かになるだろうと思う。 好きな物しか食べず、好きな人とか付き合わない……なんだかずいぶん狭い人生街道を歩いているような気がしてならないのだが……。

■第68話 道がつくには……
今回は俳句の根本先生との会話からスタートです。根本さんはあちこちの会で200人くらいのお弟子さんがいる。私が昔通っていた喫茶店の常連さんの一人だった。ある時カウンターにいた私に、根本さんがコーヒーカップを手にして言った。「お花は華道だし、お茶は茶道っていう。仏教も仏道って言うでしょう。でもね、私のやってる俳句は俳句道とも俳道ともいわないんですよ。なんだか悔しくってね……」 そんなことは考えたこともなかった私は「はあ。そういえばそうですね」と、例によってこれ以上話が続かないような受け方をした(この頃の私は今以上にツマラナイ奴で、お前と話していると会話が続かないとよく言われた)。根本さんは私の反応にめげることもなく、カップを置くと気を取り直したように、先週帰ってきたばかりだという先生たちの研修会の話をしてくれた。全国から400人の俳句の先生たちが、1泊2日の研修会に冬の新潟に集まった。初日に海岸へ出た。冬の新潟ならば、荒れる厳寒の日本海が定番。そこで参加者が2首ずつ詠んだ。翌日、提出された800首の句を詠んだ講師の先生は、研修会の壇上にあがって開口一番、語気を荒らげてこう言った。「仮にも全国で先生と呼ばれている皆さんが、こんな句しか詠めないとは、私は情けない」と。聞くと、すべての句が荒れる冬の日本海を詠んでいたそうだ。ところがさすが講師の先生は違っていた。海を詠まずして日本海を想像させる句だったというのだ。「脱帽でしたよ」と根元さんは再びコーヒーに手をのばしながら言った。どんなものを見るにも、固定観念にこだわらず、しかし基本は押さえて、感性豊かに幅広いとらえ方をするということだろう。私はその話を聞いて、それなら立派な俳句道じゃないか思い、素直にそう伝えた。ある一つのことをやっていくうちに心が練れて、人生の歩み方が自然に身についてくる。それが○○道(どう)と呼ばれる。柔道、剣道、仏道に限らず、主婦道、OL道、学生道、大工道などいろいろ道があるはずだ。さて、私は仏道を歩いているんだろうか。

■第69話 辿りついてみたら……
世界は無数の宇宙が関係しあって存在している。マクロでは全宇宙大、ミクロでは私たちの細胞一つ一つの中にも宇宙が存在し、すべてが関係を保ちながら、全体で一つである――そんな宇宙観をもっているお経がある。華厳経だ(奈良の大仏の東大寺が、今も昔も華厳宗の総本山)。その壮大さから、華厳の滝の名称もうまれている。このお経の最終章に「入法界にゅうほっかい」とよばれる物語がある。善財童子という少年が、文殊菩薩の教えに感激し、悟りに憧れて、すぐれた智恵をもつ53人の人たちのもとで修行の旅を続けて、ついに修行を完成するという話である(これがもとになって、東海道53次ができたらしい)。善財童子の修行を最後に完成させてくれるのは普賢菩薩。彼は、今では多くの智恵を身につけ、すばらしい人格者(菩薩)になった善財童子に、修行の旅をはじめた頃の姿を見せる。自分では何の修行もできていなかったと思っていた頃の姿を、まるでタイムマシンにのったかのように観察した善財童子は、そこで唖然とする。“私は出発した時に、すでに菩薩であったのか……”と。(私は、このなんとも深みのあるエンディングが大好き!)。人生では、どんなことでも、ある所に辿りついて、かつての我が身を振り返った時、すでにその出発時点で現在の自分の姿がダブって見えることがある。右往左往しながらも辿った道のりには何の無駄もなく、現在の自分につながっている。かつての自分が今の自分をすでに内蔵し、今の自分がかつての自分を包括している……。これに気がつくと勇気100倍! 華厳経では最後に、普賢菩薩が善財童子に励ましの言葉を送る。「分かったかい。さあ、修行を続けていきなさい」 人生修行にも完成はないだろう。私たちは、この身体と心に、すべての可能性を内蔵しているんだから、あとは精一杯努力し、怠け、笑い、泣いていけば、大丈夫なんだと思う。先週のフォローのつもりで書いたのに、かえって抽象的になってごめんなさい。

■第70話 ヤバイもん見ちゃったなぁ〜
昨年のデザイン・フェスタに出品した言葉の一つ、「好きなことしてるんなら 嫌な顔しなさんな」に共感してくれたことが縁で、自主制作のCDまでくれた5人組のバンド『輪』。調度品と化していた私のギターを差し上げることになり、取りにきたついでにお寺の客殿で一緒に酒を煽り、歌を一緒に歌い、私の下手なブルースハープも入れてセッションをしてくれた、20代後半の武者たちです。ボーカルをつとめる敦志君が、2月の聲明ライブに来てくれました。そして、その夜帰宅した敦志君が、輪のホームページの掲示板にその感想を述べてくれました。一部を原文のまま転載します。“いや、ほんとはね、今日の声明ライブの報告をね、したいわけさ、俺はね。てか、素晴らしい!の一言ですわ!あれはまたヤバイもん見ちゃったなぁ〜って感じ。すごいんだよ、なんかさ。1人で「ウワ〜」って始まったなと思ったらさ、きたぜ、きたぜ、グワー!ってさ!?聞いてておもったのはなんかホーメイの感じににてるな〜って思った。微妙に違う音を出す3人がうま〜いこと合わさってあ〜って感じ。また、独特な音階がたまらんし。こっから日本の歌が始まったのかと思うとスゲーよ、ホント。考えてみればさ、何百年とか何千年とかかけてさ、今の日本の現代音楽になったんだろうけど今の音楽、てか今の日本の歌ってどうなんだろう?ってチョッピリ考えるな〜。まあ、いいものはやっぱいいけどね。とにかくやばいんだって!” ―――聲明を聞いた心象風景をここまで的確に描写した文章にはお目にかかったことがありません。敦志君のヤバイという表現は、坊さんが唱えている聲明を聞くと、今までの自分がどこか変わってしまう……ということです。これまで聲明をヤバイ!と表現した人に出会ったことがなかった私には大変嬉しいショックでした。よぉ〜し!これからもどんどん“ヤバいもの”を提供するぞ! 
 

 

■第71話 言いたいことが後に来る……
世に言われる……“奴は酒は飲むが、仕事はできる”なら使おうと思うが“仕事はできるが、酒を飲む”だと使う気にならぬ……と。これは単に、言葉の順序が大切だというだけでなく、私たちは、本当に言いたいことは最後に言うという習性をもっているということだ。実はこれは、―私がお寺の玄関で、身近な人を亡くした人が、どれだけその人のことを吹っ切れたかを知る大切な手がかりになっている―と書くと驚かれるだろうか。まだ、亡き人を“本当に死んでしまったのだ”と心底納得していない遺族は、次のような言い方をされる。「住職さん、うちのお父さんはこんなこともありました。あんなこともあったんですよ。……でも、死んじゃいましたけどね」 これが、亡き人を“亡き人”としてあきらめられた方は「うちの死んじゃったお父さんはね」と口火を切り、次に「あんなこともありました。こんなこともありました」と続いていく。こうなればしめたもの。あとは亡き人へ思いを、これからの自分の人生に活かしていく準備が整ったということでもある。お坊さんとして20年の経験から、この言葉の順序が変化する目安は、だいたい3回忌、つまり亡くなって丸2年くらいのようだ。さて、言葉の最後に言いたいことが残るというのは、言うほうだけでなく、言われるほうにも言える。最後に言われた言葉が心に残るのだ。子供が“お前はやさしいけど、勉強ができないね”と言われれば「そうか、僕は勉強ができないことを非難されているのだ」という屈辱感にも似た思いが残る。逆に“勉強はできないけど、優しいものね”と言われれば、うれしい気分に満たされるという具合である。これを踏まえて、心に余裕がある時には、相手を勇気づけるような言葉の順序で(無理やりにでも)話したいものだと思う。さて、今回は“言いたいことは分かるけど、うまく書けてない”か、“うまく書けてないけど、言いたいことは分かる”か、どちらでしょう?

■第72話 風のいどころ
はらはらと散りゆく桜の花びら。あるものは地面に落ち、あるものは春風にクルリン、クルリンとどこかへ運ばれていく。そして、ふと思う――明日、あの桜を運んだ風はどこで何を揺らしているんだろう……(昔の少女漫画みたいで、少しテレルけど、ホントだから仕方ない) 数年に一度くらい、感性ともいうべきアンテナに何かひっかかることがある。理屈じゃなく、感じるのだ。トイレで用をたしていたら、小さな虫が私の目の前の壁をよじ登っていた。だから、その虫に 「お前、名前はなんつ〜だ?」 と声をかけた。もちろん虫は答えない。そんなことは百も承知だ。しかし、自然に出た言葉だった。自分でもにが笑いした。今思えば、同じ時、同じ場所で生きているもの同士だという、共通性を感じたからだろうと思う。それと同じことを、風に感じることがある。正確に言えば風ではなく空気だ。私の頬をなでる空気は、6時間後どこの木の葉を揺らしているだろうと考えることがある。自分勝手だから、きっと自然豊かな森か林(この“森か林”は声に出して読んでください。モリカアヤシに聞こえるようならダレテイル証拠です)の若葉を揺らしている風景を想像する。近所の公園の公衆便所の隅によどんでいる空気になっているなんて夢にも思わない。そして、私の短い髪の毛の間を抜けていくこの空気は、昨日はどこにいたんだだろうとも思う。太平洋の波の上を小さなさざ波を作り、そのしぶきを受けた風だったかもしれない……。そんなわけで、私の“言いたい放題写仏”に添えている言葉にこんなのがある。 ・・・ 草の葉ゆらす その空気(かぜ)よ  昨日の今頃 どこにいた  明日の今頃 どこにいる  草の葉ぬらす その雨(みず)よ  昨日の今頃 どこにいた  明日の今頃 どこにいる ・・・ こうして、自分とかかわりをもっているものに思いを馳せると、毎日の生活が心豊かなものになっていきます。

■第73話 クチ下手
正直なところ、私は知らない人と一緒にいるのが、とても苦手である。何を話したらいいのかわからないからだ。つまり口下手である。周囲の人は、あんなにしゃべっているくせによく言うよ!と言うのだが、それは物事の本質を見ていない発言だ。確かに、しゃべっていることは事実だ。本来私は無口なのだがと言うと、お前のムクチは六口だと嘲笑されるくらいしゃべる。しかし、私にとっては大変な苦労と、悲壮なまでの努力を続けているがゆえの、オシャベリなのである。ここまで読んで、そんなに嫌ならそういう場へ行かなければいいじゃないかと思う人もいるだろうし、実際にそういう場に行かない人もいるだろう。 しかし、今回は、行かなきゃならない時の話だし、実際に行ってみると結構愉快になるという話の展開になる(はずなのだ)。さて、私の苦労と努力が何かと言えば、相手との共通点を探す苦労と、それに関心を持つ努力だ。どんな人とも共通する話題は、天気。今日はいいお天気ですね、と言うやつだ。でもこれでは当たり障りが無さ過ぎて話が続かない。仕事、趣味、家族構成……(なんだかお見合いの履歴書みたいだナ)。このくらいまでは突っ込んでいかないと、こちらの関心事に引っかかってこない。そんなことを聞くのは失礼だと思っていたのだが、案外そうでもない。“差し障りがあったらごめんなさい。でも、独身でいらっしゃいますか”と切り出せば怒る人はいない。他にも“つかぬことを伺いますが、お仕事は何ですか”とやってもいい。なるべくなら、「私は今年46歳になりますが、おいくつになられます」などと、こちらの情報を先に伝えるほうが望ましい。そのほうが相手が心を開いてくれるからだ。タクシーに乗ると「運転手さんは、仕事で一番遠くはどこまでお客さんを運んだことありますか」と聞く。少し親しくなった人と話題がとぎれたら「あなたにとって、生まれてから最初の記憶って何ですか」なんかはおすすめだ。ねっ、大変な苦労と努力でしょ!こんな思いをしなくちゃならないのは、ひとえに私が口下手だからなのです。

■第74話 皆に好かれる人よりも…
4月1日に、東京のお寺さんが経営している幼稚園、保育園の新任の先生たちの研修会で、講演と写仏実技の講師を勤めた。写仏というのは、仏さまを和紙にトレースするひとつの修行だ。しっかりしたものを描こうとすれば、普通で2時間かかる。つまり2時間も一つのこと(線をなぞること)に集中していられる。写し終わる頃には心の中に描いた仏さまがインプットされて、皆優しい眼になる。しかし、当日はそんな時間はないし、描いた紙を家に持って帰っても始末にこまる。そこで簡単な可愛い仏さまを描いてもらって、額に入れてお土産がわりにしてもらう企画をした。どんな完成品になるかを見てもらうために、30種類ほどを描いて額に入れて部屋の隅に陳列した(その多くが、このコーナーでお題をいただいた方に差し上げているような言葉入だ)。研修会では“私の字でよければ、お好きな言葉を皆さんの写仏に書きますヨ”と恥ずかしげもなく言った。そうしたら、80名の参加者のうち70名くらいの方が、筆を持つ私の前に行列。終了時間が30分ものびる結果となってしまった。言葉のリクエストで最も多かったのが “皆に好かれる 人よりも 皆を好きに なれる人” だった(20人ほどの人が、この言葉がいいと言った)。実はこの言葉は、外国の童話からいただいたものだ。あるお母さんに子供が生まれた。お母さんは神さまにお願いする。「どうか、この子が誰からも好かれる子になりますように」と。そして、神はそれを聞き届ける。しかし、何をしても皆から好かれる子供は、どんどん我が儘になっていく。ある時、母は気づく。「私の願いが間違っていました。どうか、この子が誰をも好きになれる人にしてやってください」と。その子はそれから、みんなを好きになれる素晴らしい人になったという話である。他からどう見られるか気にする人は多い。そのために、自分をいつわる人もいる。そんなことをせずに、こちらが心を開いてしまえばいいのだと思う。開け、心の 曼荼羅だ!

■第75話 勘違い親孝行その1
大学卒業後にすぐ、栃木県の私立の商業高校の英語の教師を1年やった(1年だからやったうちには入らないけどね)。ヤンチャな子供たちに人間への不信感をつのらせ、父の具合も良くなかった(肝硬変だった)ので、お寺の仕事を手伝うために東京に戻った。辞めることがきまった時、40歳くらいの同僚の先生が 「あんた、その若さで東京へ戻って、若住職さんとか言われるんだろうけど、一つ言っておきたいことがあるんだ」 と、こんな話をしてくれた。その先生は栃木県の出身。大学は東京の中央大学だった。上京して、自由な学生生活をエンジョイしていた2年生の時、電報がきた。「チチ キトク スグ カエレ。ハハ」 何が何だかわからぬまま、東北線にとびのり、宇都宮でバスに乗り換えて実家へたどり着く。 すでに親戚があつまり、お通夜の段取りなどが相談されていた。呆然としている間に準備が進み、お通夜の日になった。年取ったお坊さんがお経をおえて座敷にもどり、食事をしてもらっている所へ行って、まだ20歳だったその先生は泣きながら言ったそうだ。「お坊さん、俺は、親父になんの親孝行もしてないんです。それが悔しくて、悔しくして……」 するとその老僧は答えた。「そうか。悔しいか……。でもな、君は、大変な勘違いをしてるぞ」 「……?」 「いいか。君がこの世に無事に生まれてきた――そのことだけで、もう親孝行の8割は済んでいるんだよ」 少しうつむきがちに自分の体験談を話した先生は、私に向き直って言った。「名取さんよ。いいか。俺は、その言葉でずいぶん肩の荷がおりたんだよ。できれば、そういうことが言える坊さんになれよな。俺がいいたのはそれだけだ」 当時23歳で、新任数カ月で辞表を書くハメになった私には“何となくいい話だな”程度の認識だった。 事実、話の内容よりも、教育の現場から逃げて東京へ帰るような形になった若者への「頑張れよ」という励ましの言葉として受け取ったにすぎなかった。まさか4年後に思い出すとは夢にも思っていなかった……(

■第76話 勘違い親孝行その2
高校のヤンチャな生徒相手に翻弄され、ある意味で挫折し、23歳で東京の実家に戻った私は、ルンルン気分だった。ガールフレンドといつでも会えるようになったからだ。その彼女と25歳で結婚した。彼女の歳は書かないでおく(ヒントは私と同級生デアル)。結婚してすぐに、ツワリが始まった。もちろん私ではなく、家内に、である。明治以降120年も住職不在の寺に入った私たち新夫婦は、檀家さんには興味津々だったようだ。色々な人から、お腹が横に出てるから女の子ですよとか、奥さんの顔がきつくなったからきっと男の子ですよ、などとお節介なことこの上ない。“最初は女の子のほうが育てやすいから、女の子のほうがいいですよ”もあれば、“跡取り考えれば男の子がいいわね”と近所中が、姑状態だった。 それに対して私も、男の子なら一緒にカレーを食べたら勇ましいだろうなとか、女の子なら洗濯物がカラフルでいいな、などと夢想していた。そうして40週がすぎた1月20日の夕方、破水。急いで産科へ連れていく。分娩室に入る家内を廊下で見送った私は、さて……と、することがない。待合室の女性雑誌は全部読み終え、人気のないのを確かめて、部屋の隅あったシリコンでできた乳ガンのシコリ発見用のおっぱいをフニャッとつかんでみたりする。それほどやることが無いのだ。やがて、看護婦さんが陣痛の間隔が短くなったことを知らせに来てくれる。その時には、生まれてくる子が男とか女なんて、どうでも良かった。母子ともに無事であればそれで良かった。数時間後、一つの命が呱々の産声をあげた。元気な男の子ですよ、お母さんも元気ですという看護婦さんの言葉を聞いて、私は4年前に聞いた、同僚の先生が老僧から言われた言葉をまったく突然に思い出した。君が無事に生まれただけで、親孝行の8割は済んでいる…… 本当にそうだと思った。残りの2割は、自分がどのように生きていくかで返すしかないだろうと思う。ちなみに、自分の親に向かって“私は生まれただけで、親孝行の8割は済んでるはずだからね”なんて、親孝行を帳消しにするようなことは言っちゃダメです。

■第77話 トラウマを克服する ―ジャンケン編―
ジャズボーカリストのお豆さんからお題をいただいた。いわく「トラウマを克服する」である。お酒の席で同じことを尋ねられたら“トラは一休さんに、ウマは武豊さんに頼めば克服できますよ”と茶化すにちがいない…… さて、この題をいただいてから、お医者さんと会ったので「トラウマって何ですか?」ときいたら「心の後遺症のことです」と、分かりやすく説明してくれた。ある事がきっかけで、それが心の中でギュッと握ったゲンコツみたいに固まって、後々の考え方や行動に悪い影響を与えるということだ。幼児期の虐待や、身近な人の不条理な死、あるいは屈辱感や挫折感などもきっかけになっていく。私たちの考え方や行動は、どうしたって過去の経験が土台になっているから、トラウマがない人はいないだろう。問題は、拳(ジャンケンのグー)になっている心のゲンコツをどう開いて、パーにするかだ。方法はいくつかあるが、私が実際にやっている方法がある。まず、心のタイムマシンを使って、トラウマのきっかけになった事件が起こった日に戻る。そこには、心が傷ついた昔の自分がいる。その昔の自分に、現在の自分はどんな慰めの言葉をかけてあげられるかを考えるのである。それができた時、グーがチョキになり、やがてパーになっていくことが多い。

■第78話 トラウマを克服する ―オセロ編―
私の嫌いなゲームのひとつに、オセロがある。なぜ嫌いかというと、先を考えないと、次々にどんでん返しになって負けてしまうからだ。今この時を、より良く生きることに全精力をついやしている坊さんだから、あまり先のことは考えない。せいぜい三日先までがいいところである(ここから三日坊主という言葉が生まれた―――というのは嘘である)。前回からのお題「トラウマ」というのは、心の中のオセロゲームのような気がする。白い石(正式名称は知らない)の中に黒石が所々にポツンとのこっていたり、ほとんど一列全部が黒になっている所もある。問題はこれをどうやって、白にひっくり返すかだ。ここから筆者の都合で文体が変化します―― 仏教には「悟りとは、実のごとく(ありのままの)自心を知ること」という言葉があります。トラウマというのは、現在の悪い事態の原因です。だから、時間と思考を逆行させていくことで、最初のきっかけにたどり着けます。どうして私はこんな考え方をするんだろう、なぜこんなことしてしまうのだろう、と“なぜ”を重ねていく。この作業はとても勇気と元気がいりますけど、親から生んでもらっただけで両方は持っているはずです。とことん自分を見つめていって、突き当たったところの自分にOKを出す。I'm O.K.です。そうすると過去から現在までの自分を大肯定できるはずなんです。オセロでいえば、全部が白い石になっちゃう。ただし、心を落ち着けないとダメなので、近所のお寺で「お線香1本が燃えるだけ、座らせてください」って頼んでみたら。

■第79話 いつか言ってみたい一言
歳相応の色気 / 今月はじめ、奈良の長谷寺で、30分の法話を6回やった。次の出番で待っていたつくば市一乗院のご住職、鈴木暁仁僧正が、控室に戻った私に 「名取さん、あんたの話は江戸風の歯切れの良さと、何より歳相応の色気があって、じつにいいよ」 と言ってくれた。私はこういう“何を言っているか良くわからないけど、なんとなく説得力のある人”が大好きだ。おまけに、「歳相応の話の色気」という表現は、初めて聞くものだったし、尊敬する鈴木僧正のやさしい眼差しとともに発せられたので、説教坊主冥利につきると感激した。いつか、だれかに同じ言葉を言おうと思った。ピンチヒッター / 私は頼まれたことは、たいがいのことは引き受けしまう。講習会などで講師がドタキャンになって、代役をたのまれることもある。5年ほど前にそんなことが続いたことがあった。すると風の便りに“どうして名取ばかり使われるんだ……”というヤッカミが私の耳に届いた。心苦しかった私は、担当の係の人に、私ばかりじゃまずいんじゃないですか?と言った。するとこんな答えが返ってきた。あのね。ピンチヒッターっていうのは、ヒットかホームランを打ってくれる人しか出せないんだよ――代役というのはそういうことなのかと思った。嬉しかった。私の代役を誰かに頼む時には、この言葉を添えようと思った。生んでくれてありがとう / これは聞いた話である。大阪にいる小学生の孫2人が埼玉のおばあちゃんの家に遊びにきた。3日後おばあちゃんは子供たちを東京駅まで送っていった。新幹線に乗り込む前に、4年生のお姉ちゃんがおばあちゃんに言った。“おばあちゃん、お母さんを生んでくれてありがとうね” と。自分が幸せだと思えないと言えない言葉だ。いつか、私の子供たちにも、おじいちゃん、おばあちゃんに言ってもらいたい一言だ。

■第80話 オシャカとオダブツ
久しぶりにみみなちゃんからリクエストがきた(もう中学生だっけ?)。「オシャカになるって仏教語ですか?」というものだ。これは、物づくりをする人たちのあいだで使われていた言葉です。不良品やこわれちゃったものを「オシャカになった」と言います。なぜかというと……怪しい説と、そうでない説があります。まずは怪しいけど、おもしろい説から。お釈迦さまの誕生日は4月8日、読みはシガツヨウカです。もともと陶器をやっている人たちが、火が強すぎて不良品になってしまった時の言葉が、“シマッタ!火が強かった”。ここからヒとシがうまく言えなくて、しがツヨカッタ⇒シガツヨウカ⇒4月8日となって、それがお釈迦さんの誕生日。よってオシャカだ!ガハハハハハ……というもの。オヤジギャグのひとひねりバージョンなので、私はこの説が大好き(ただし信憑性は薄い)!そして、もう一つの説。人は死んじゃうとあらゆる束縛から開放される(ちょっとムズイ?)んだよね。それは仏さまになったお釈迦さまと同じ心の状態でもあるんだ。だから亡くなった人のことを“ホトケ”って呼ぶことがあります。他にも、もう私たち人間の手にはおえない所へ行ってしまったので、あとは阿弥陀仏にお願いするしかないというので、亡くなることを、アミダブツを略してオダブツ(オは丁寧語)って言うこともあります。そんなわけで、この世のものではなくなること、表面上は役にたたなくなったものを称して、“オシャカになる”とか“オダブツだ”なんて言います。仏さまたちにちょっと失礼な言い方だけど、みなさんも、みみなちゃんみたいに、こんな言葉から仏教に興味をもってくれたらウレシイッス。でもね、失敗した焼き物なら、割られて再びもとの土にかえるし、金物なら溶かされてもとの金属にもどるんだよね。 
 

 

■第81話 南京玉簾的仏教
今回お題をいただいた都鳥さんは、ご詠歌を勉強している方です。歌をうたいながら仏教の勉強ができるというスグレモノのご詠歌の中には、数字のつく仏教語がたくさん出てきます(二利にり、四恩しおん、六波羅蜜ろくはらみつ、八正道はっしょうどうなどなど)。そこで都鳥さんは思いました。“この数字って何か意味があるんだろうか”と。さて、興味があって、デパートの手品用品売り場で南京玉簾を買ったのは、もう30年近く前のこと。玉簾を手渡す時に店員さんは大学生だった私に言った。“米びつの米をこれでかき回すんだよ。そうするとヌカの油でよく滑るようになるからね”と。おかげで、わが家のご飯は数週間にわたって、崩れた形のお米を食べるはめになったことがある。丸くしごかれた竹をたこ糸でつなげた束の南京玉簾は、演じ手の軽妙な歌とヘンテコリンなダンスに合わせて、二本の国旗や釣り竿に変化する。そして、変化した形を ♪お目にとまれば、元へとかえす♪ と歌いながら元の太めの竹ヒゴの束にもどす。本格的なお坊さんになって、久しぶりにこの玉簾を練習して気がついた。“これって、仏教的だな……” 形は変化するのだが、それは収めていくとちゃんと元にもどるのである。たとえば煩悩の数といわれる108という数がある。これは、迷いの根源とされる三毒(むさぼり、いかり、おろかさ)を展開した数だろう。108は3でちゃんと割れる。この三毒も実は“無明むみょう”を三つに展開したものだ。“智恵”と“慈悲”に変化したものは、元へ戻すと「仏の徳」という一つに収まる。父母を一つに戻すと親になるのと同じだ。都鳥さんがふと思った仏教語に数字が多いわけは、このように、元があって、それをより具体的な教えに変化させていった先人たちの努力の賜物だ。布施(無条件で何かをさせてもらうこと)や精進(がんばる!)などの仏教の具体的な教えも、心安らかになるという大目標達成のための具体的な方法である。今回は仏教理解のための周縁についての話になってしまいました。でも、初めて聞いた“ナンキンタマスダレ(片仮名で書くとなおさら変だけど)”の響きの呪縛から逃れられないんです。ごめんなさい。

■第82話 霊のしわざ(霊感商法の手口)
「私の友達がへんな宗教に入ってしまって……」と相談を受けることが年に何度もある。この場合の相談というのは、入信した本人を普通の世界に連れ戻したいというよりも、その友達のことをどう理解したらよいのかというものだ。そこで、霊感商法と呼ばれる詐欺まがいの手法の共通点をご紹介しておこうと思う。キーワードは“自分のご都合”だ。私たちは何か自分のご都合通りにならないことがおきると、そのツジツマ合わせがしたくなる。「どうしてこんなに太ってしまったのだろう……食べすぎで、運動不足のせいだ」「どうしてガンになったのだろう……環境ホルモンの影響である」などなど。このあたりで止まっていればいいのだが、それが“他でもない自分の身に、どうして”となった時がクセモノだ。「他の人はやせているのに、どうして自分は太ってしまうのだろう」 「どうして私がガンにならなればいけないのか」 わからないことを、わからない!としておく勇気と、それならば今何をすべきか、という発想と行動力が必要なのに、自我が絡んでくると尚更ツジツマを合わせたくなるのだ。  そこに登場するのが霊である。霊感商法では“あなたが太っているのは水子の祟りです”“ガンになったのは先祖の供養が足りないからです”となる。―――これでツジツマが合っちゃうのだ。しかし、冷静(仏教では禅定といいます)に考えていただきたい。霊感商法ではその導入として“ご都合通りにならないことだけ”を霊のしわざで説明するのだ。普通の起こっていることを霊のせいにはしない。朝食にパンを食べることを霊のせいにする人がいるだろうか。“私はご飯が食べたかったのに……”という人にとっては、ご都合通りではないから、霊感商法で言えば“それはあなたの守護霊の力が弱っているから、パンになってしまったのです”となる。自分のご都合の裏返しとして“霊”をもちだしてはいないだろうか……そう思える心の強さを日頃から養っていたいものです。

■第83話 超ラッキー!
高1の娘に何かの拍子に「これってスゲクない?」と若者言葉っぽく言ったら、高3と大2の伜が「お父さんのは、ただの茨城弁だよ」と言われて落ち込んだ……。私にはどこが違うのかわからないのだ。さて、その子供たちが小学生の時のことだ。友人が遊びに来て子供たちにお小遣いをくれたことがあった。2,000円を3人では分けられないので、私が100円足して、700円づつ分配した(200円を私がいただいて、600円づつ分けるなんてことはしない)。そして、夕飯の席……娘「今日は超ラッキーだったよね。700円ももらっちゃって」 父「ちょっと待てよ。お父さんがあのおじさんの家に行った時にも、あの家の子供たちにお小遣いをあげたんだ。だから、ラッキーじゃなくて、“おとうさんのおかげさま”って言うんだよ」 母「そういうのは“おたがいさま”って言うんでしょ」 私は、家内の思わぬツッコミにしどろもどろしながら「でもな、お前たちもお墓のゴミ箱掃除を手伝ったりするから、本尊さまのご利益かもしれないな」と言った。英語のラッキーという言葉は、キリスト教が土台になっているはずだから、“神の配慮”とか“神のおかげ”という裏打ちがあるはずである。ところが、現在日本語としてつかわれているラッキーは、そんな裏側はない。何の苦労をすることもなく得られた果報を単に喜ぶ言葉だ。同じような意味で使われる“濡れ手に粟”ならば、粟を手につけるために手を濡らす作業がある。“棚からぼたもち”なら誰かがぼたもちを作り、棚の上に置いたという工程が無条件でふくまれている。ところがラッキーという日本語には、そんな裏側がなんにもない薄っぺらな表現に思えてならない。ラッキーは、おかげさま、おたがいさま、ご利益など、色々な厚みのある言葉で表現できるはずだ。そういう言葉を使えないのならともかく(知っていても使わない言葉もあるものです)、なるべくならそういう言葉を使っていきたいと思う。

■第84話 なんか変だよなあ
中学3年の受験勉強でよく深夜放送を聞いていた。学生でデビューしたてのユーミン(荒井由美)がゲストにでて、30分マイクを任されて、生で初々しくベルベット・イースターなんかを歌ってくれた(新橋のヤクルトホールで観客が四分の一しか埋まらなかった最初のコンサートをやる2カ月ほど前のことである)。時間を5分ちかく持て余してしまった彼女は「おととい聞いた不可解な話なんですけど」と前置きして、こんなナゾナゾを出題した。3人の学生が旅館に泊まった。翌日3人は一人1000円の宿代を支払った。しかし宿屋の女将は、学生だからまけてやろうと、仲居に500円を学生に返すように言った。しかし、500円では3人では分けられないだろうと、200円ネコババして300円を学生に返した。ここからがこの話の不可解なところである。さて、300円返された3人の学生は、一人100円ずつもどってきたわけだから、結局一人900円支払ったことになる。3人で2700円だ。これに仲居がネコババした200円を足すと……あれ?2900円!あとの100円はどこへ行ってしまったのでしょう?その時は、ユーミンも答えを知らなかった。「皆さんも考えてください」と言ってスタジオを出てしまった。以来私は3カ月もこの問題に悩まされた。このナゾナゾは「この理論はここがおかしいではないか」という答え方をしなくてはならないので、文系の思考回路しか持ち合わせていない私には容易でなかった。「なんか変だよなあ」というのが精一杯だ。考えてみると、30年たった今でもこの「なんか変だよなあ」的会話を耳にすることがある。第11話で書いた「あなたには関係ないでしょ」とか「私の勝手じゃいないか」とか「他人に迷惑かけてないでしょ」なんていう言葉がそうだ。そういう時には「うまく言えないけど、あなたの理論は何か変だよ」と相手に伝えるべきだと思う。なんか変だと思っていると、ちゃんとした答えが眼前に現れることもある。

■第85話 一蓮托生
阿弥陀さまの世界のことを極楽浄土といいます。ここはとってもいい所(酒も旨いし、ねえちゃんもきれいかどうかは知らない)なので、なかなか思うようにならないこの世じゃ修行もできないから、来世では極楽世界へ行きたいと願うのが浄土思想です。さて、その極楽にはたくさんの蓮がある。極楽浄土に行った人はその中の、どこかの蓮の花の上に生まれて、阿弥陀さまの慈悲のもとに、素晴らしい環境の中で思う存分修行することができる。人の情けの中で生きている私たちであれば、あの世へ行ってもそばにいたいと思う人がいても当然です。そこで、あの世へ行っても同じ一つの蓮の上に生まれようね……という思いが“一蓮托生”という言葉になりました(相手に“嫌です!”なんて言われないようにしたいものですな……)。ここから、良きにつけ悪しきにつけものごとに協同してあたり運命を共にする、という日本語の用法に転化していきました。さて、仏教ではどうして蓮が大切に扱われているのか、ここで勉強しておいてください。理由は主に3つ。その1!まず、水の中に生えているのに、水に濡れないんです。葉っぱの上の水なんかコロコロ転がってしまいます。毅然とした心でしっかり生きていくことを勧めてくれてる。その2!泥水の中で育っているのに、花は泥色に染まることはありません。自分の悪いところを周囲のせいにしちゃダメだよと教えてくれてる。 その3!ツボミのうちから、花の中に実があるんです。だれでも、仏さまという実を、もともと持っているんだよと励ましてくれてる。だから、仏さまはだいだい蓮の上に載っているんです。この蓮が象徴するものをしっかりわかっていれば、私たちだって、蓮をイメージしただけで心がきよらかになっていきます。

■第86話 イキイキした目
入院しているアナウンサーのMさんを見舞った。今年80歳である(第8、15、16、65、66話に登場してくれている方です)。軽い黄疸が出たので検査したら、即入院になってしまったらしい。入院の知らせを受けて3週間後、アポなしで見舞った時、Mさんは6人部屋の窓際のベッドで枕にカバーをつけているところだった。声のでかい坊さんとアナウンサーなので、他の患者さんに迷惑だろうと、面会用の談話室へ移動して話をした。「なんだ、元気そうじゃないですか。」 「入院してるのに、元気もなにもないんですけどね。自覚症状がないもんだから。」 「で、どうです?経験したことない入院生活は。」 「いや、もう最初の3、4日は嫌になっちゃいましたよ。」 「どうして?」 「だって、考えてもごらんなさい。ここにいるのは、私の大嫌いな、医者と年寄りしかいないんですよ。」 「そりゃ、そうかも。」 Mさんは50年のニッポン放送在職時代も、健康診断は受けたことがない程医者嫌いだ。「おまけにね、聞いてくださいな。その年寄りがね、自分の病気の事、自分のことしか考えてない目をしてるんですよ。」 私は10年前に父が入院していた時のことを思い出した。兄や姉と交代で付き添いをしていた時期があったのだが、私が少し遅れて行くと「何してたんだ?お姉ちゃんはもう2時間も前に帰っちゃったのに。」とグチを漏らすことがしばしばあった。こちらにも子供のお風呂や仕事の段取りがあって、遅れてしまうのだが、病人である父はそんなことに想いはめぐらないようだった。そんな病人の心の様子を、自分の病気のこと、自分のことしか考えない目をしていると観察したのは、Mさんらしいと思った。Mさんは私たちが元気のない時こんなことを言う。「人のイキイキした目を見たければ、デパートの大食堂へ行くんです。あそこに料理のサンプルケースがあるでしょ。その裏へまわって、何を食べようかと選んでいる人の目を見てごらんなさい。世の中でこんなイキイキした目をした人にはお目にかかれませんよ。私たちはいつだってあの時の目をしてなきゃ駄目なんです。」

■第87話 病院の暗さ
Mさんを見舞って、病院の自動ドアから外に出て、私はふと思った。どんなに病院が近代的なデザインを取り入れた内装をほどこしても、食事を選べるようになっても、看護婦さんたちがハキハキしていても、病院、特に病室は独特の暗さを持っている。その原因の大部分をしめているのが、Mさんが言った“ここにいる病人は、自分の病気のこと、自分のことしか考えていない”ことに起因しているのではないだろうか…… そういえば、Mさんの6人部屋の病室に入った時、Mさん以外のベッドはカーテンが閉じられていて、その隙間からチラチラとテレビの画面が映っていた。それはまるで心を閉じているかのようだった。偉そうなことを書いている私だが、入院経験のない私が入院生活をする羽目になった時、レストランで何を食べようか選んでいる、あのイキイキした目をしている自信は微塵もない。おそらく自分の病気のこと、今後のことなど、自分中心の思考を堂々巡りさせ、伏目がちな、ため息ばかりつく自己優先患者になるだろう。しかし、Mさんの話を聞いたおかげで、すくなくとも“おっ、いかん、いかん。俺は自分のことしか考えていない心の病気になりつつなるぞ”と気がつけるキッカケをもらえたと思う。実際に、知り合いの中には、入院中にナースステーションへ行って“すみませんが、タオルたたみでも、トイレ掃除でも、何でもいいから、私に手伝えることをやらせてください”と頼んだ人もいる。こういう患者さんが増えると病院はずっと明るくなるだろう。病気になると考え方が自己中心的になる。そして、自分しか見ていない(見ようとしない)表情が、その空間の雰囲気となって全体を覆いはじめる。なんだか、今の日本の姿のような気がしないでもありません。Mさんのお見舞いで、もう一つ印象に残ったのは「芳彦さん。私はね、ここに入院している間、自分の病気のことしか考えない人たちの目を、たくさん観察しようと思ってるんですよ」と話す茶目っ気のある目でした。

■第88話 雑巾がけと、ハタキかけ
群馬県の赤城山の麓に金剛寺というお寺がある。住職の志田洋遠さんは子供会を30年近くもやっている。5年前、この住職から面白い話を聞いた。夏なのに、冬休みの話で恐縮だが、冬休みの子供会は、まず本堂の掃除からはじまるそうだ。赤城おろしとよばれる冷たい風が吹く土地でもあり、まさに凍てつく寒さの中での仕事である。何人もの子が、それぞれ掃除道具を持ち、白い息を吐きながらせっせと掃除をするのだが、この道具選びが面白いらしい。小学校高学年の子はまずハタキを取るそうだ。なぜかというと、ハタキは、服の袖をのばせば手を露出せずにすむ(まるで、ピーターパンのキャプテンフックのカギ手状態である)。もう一方の手はポケットにいれておけば、寒さ対策は万全だ。けっきょく、小さな子がバケツの凍るような水をつかった雑巾がけになることが多いそうだ。志田さんは言う。“まずハタキを取っていた子が、自分からすすんで雑巾がけをするようになるまでに、3年から5年かかるんだよ” この話を聞いたとき、子供会というのは、そういう素晴らしい人間教育ができるところのかと感心したことを覚えている。それから5年…… 先日、お風呂に入っていて、ありゃりゃ!と気がついた。あの話は、子供の話ではないのだ。大人のことを言っているのだ。この夏、私は100円ショップで買いまくったウチワの裏に、可愛いホトケさまとちょっとしたジョークを書きまくり、配りまくっているのだが、これを配る時「お好きなのをどうぞ」と言ったことがあった。20人ほどの集まりだったのだが、エライことになったのだ。“アタシが先に見つけたのよ!” “でも、私が先に取ったのよ!” “あなたはもう好きなの取ったんだから、他のは見なくてもいいじゃないの!” なんて具合である。あまりの恐ろしい光景に、その次からは、年齢の多い方からどうぞ、と言うようにしたくらいである。3年から5年で、雑巾がけをする子がいるのに、30年たっても50年たってもハタキを持ちたがる大人がいるのだ。仏教には「自未得度、先度他じみとくど、せんどた」という言葉がある。自分よりも、まず他の人を悟りの岸に渡すという菩薩の心意気を言った言葉である。いい言葉だと思う。

■第89話 20年の重さ
今回は朝、塔婆を書いていてふと思ったことを書きます。明治以来120年間住職がいなかった密蔵院に夫婦で入って今年で20年になる。そして、57歳で母が亡くなって来年で20年になる。20年前、密蔵院には広間として8畳が2室だった。今は15畳が3室ある。法事以外なにもやっていなかった密蔵院は、現在、ご詠歌、写仏、話の寺子屋、読経の会をやっている。80件だった檀家が250件になった。その間子供も3人生まれた。いろいろなことがあった20年だが、自分が関わってきたことが多いので、一枚の布を家内や周囲の人たちと織り上げてきたというのが実感だ。しかし、20年かかって織り上げてきたその布を母は知らない。母が生きていれば77歳になる。“小さなお寺でやっていけるのかしら”という心配をしながら亡くなった。母は栃木のお寺の生まれだが、自分の父親が僧侶として納得できなかったらしく、自ら尼さんの道を選んだ。しかし、理想の世界を夢見て入った寺にも、どろどろした人間関係があり、嫌になって還俗して、当時童話作家でもあった父と結婚した。3人姉兄の末っ子の私をとても可愛がってくれた。「早く寝ないと朝起きられないわよ」とか「勉強しておかないとテストでいい点をとれないわよ」とか、もと尼さんだけに100パーセント正しいことを言うのが得意で、加えて、靴の踵をつぶして履いたりすると「そんなことはおかしいわよ。誰にでも聞いてごらんなさい」と世間体をとても気にする母だった。私のこの20年は、100パーセント正しいことをしてきたわけでもないし、世間体が良くないこともしてきた。母が生きていたら、どれほど怒られ、呆れられ、涙をながさせたことだろうと思う。かつて友人が寺の掲示板用にいいですよ、と教えてくれた言葉にこんなのがある。“あなたがダラダラ生きている今日は、昨日亡くなった人が生きたかった一日” 亡くなった人を土台にした経過時間は、生きている自分にとって「やることやったか?」という後ろを向いて確かめる自問の時間になる。一方で、生きている自分を土台にした経過時間は、前だけを見て、布を織り上げてきた時間でもある。私の場合、20年という時間を重さにたとえてみると、母のことを思った時は20kgの鉄であり、自分を中心にした時には20kgの綿くらいの違いがある。最初にことわっておいたように、ふと思ったことなのでこれ以上うまく書けません。ごめんなさい。

■第90話 お盆が2回のわけ
みみなさんから「どうしてお盆は、7月と8月の2回あるんですか」という質問的お題をいただきました。多くの大人は何となくしかわかっていないと思えるので、いい機会だからここで一回書いておきます。でも、これには3つのポイントがあるので、それを最初に頭にボヤーッといれておいてください。【1】インドでのお盆の由来。【2】日本の先祖の考え方。【3】季節感の調節。【1】お釈迦さまのお弟子で、神通力第一といわれた目蓮さんが、その力を使って亡くなったお母さんのことを思ってみたら、お母さんがとても苦しんでいる様子(逆さづりの苦しみのことを昔のインドの言葉で、ウランバーナといいます。それが盂蘭盆うらぼんの語源)……そこで、お釈迦さまに相談すると、こんな答えが返ってきました。“目連、お母さんを救う方法があるよ。インドはこの通り暑い国だから、お坊さんたちは毎年7月1日から15日までは、涼しい建物の中で勉強をしているだろ(これを夏安居げあんごといいます)。その7月15日、勉強を終えて、再び布教の旅に出かけるお坊さんたちに、ご馳走するんだ。そうすれば、その功徳で、お母さんだけでなく、君の先祖で苦しんでいる人はみんな楽になるんだ” ここでのキーワードは、7月15日に、先祖のことを思った目連さんが、ご馳走したということです。では次! 【2】日本では仏教が伝えられる前から、人が亡くなるとどうなるかを、こんなふうに考えていました。亡くなった人の魂は、まず家のそばの草葉の陰の宿る。その後に、時間をかけて魂は山へ戻り、山の神となる。その山の神は年に二度、正月と中元(7月15日のこと)に、山からなつかしいわが家に3日間返ってくる(まあ、これ以上長くいられても迷惑かもね)。そこで子孫はご先祖をもてなすために、ご馳走をふるまい、踊りを踊る(これが盆踊りだ)。ここでのキーワードは、7月15日に帰ってきた先祖にご馳走するということ! ここまでをこう計算します。【1】+【2】−(お坊さんにご馳走する)=7月15日に、帰ってきた先祖にご馳走などのお持てなしをすると、先祖が喜ぶ。では最後! 【3】だから、日本ではお盆は7月15日にやってました。日本では明治の最初までは旧暦を使っていたので、農作業も一段落したこの暑い時期にやっていました。ところが、明治になって太陽暦が採用されてからからは、7月15日というのは、季節的にお盆らしくない(約一カ月違いますから)。そこで、旧暦ではなく、15日にこだわって1カ月遅れで8月にお盆をやっているところが多いんです。私的には、もしあの世へ行ったら、やはりお盆には、子孫たちが私を迎える段取りができたところへ、二泊か三泊で帰ってきたいと思っています。 
 

 

■第91話 このお経いつ終わるんだろう(小説風)
このお経はいつ終わるんだろう……わが家の仏間に正座した親戚、家族の誰もが、そう思っていた。すでに、お坊さんのお経が始まって2分ほど経過していた。わが家は今年の夏、新盆をむかえた。"わしが初代の先祖になるんだ"と満足気だった父が今年の初めに亡くなったのだ。父は三男坊で東京に出てきて結婚をした。田舎の実家に墓はあるがそこは長兄が跡を取っているから、父は東京にお墓を用意しなければならなかった。親戚の冠婚葬祭は今まで全部父と母がやっていたので、私たち若夫婦はお寺のことは何も知らない。住職の本名はおろか、実家のお寺や檀家になったお寺が何宗なのかも知らない。それでも、母が“今年は新盆だから、お坊さんにお経をあげてもらうように、お寺で頼んできたからね”と言った時には、そういうものかと思った程度だった。こういう時には親戚にも声をかけるものだと知り合いに教えられたので、父の兄弟たちに声をかけた。お坊さんが来るのは11時だというのに、親戚は10時には集まっていた。葬儀以来の顔合わせで近況報告やら昔話に花が咲いていた。やがて、汗だくになったお坊さんが“おあつーございます”とやってきた。タオル地の大きめのハンドタオルで首から上をグリグリゴシゴシと拭いた。タオルにはクリスチャン・ディオールのマークがついていた。仏間に案内すると、お坊さんは何かムニャムニャ言いながら座った。ろうそくに灯を点け、お線香を立て、鐘をチーンとやる姿はさすがにキマッテいた。しばらくして私は腕時計を見た。だが、お経が始まってまだ4分。お尻の下で足を組み直すと、チーンと音がして数珠をこする音がした。“ご無礼しました” とお坊さんが向き直って頭を下げた。えっ?もう終わり……?と一同が少し呆気に取られているとお坊さんが言った。“すみませんでしたね。拝んでいたら、亡くなったお父さんが「住職さん、後ろで座っている人たちには、お経がどれくらいで終わるかわからないから、ヤキモキしてる。できれば、何分くらいので終わるのか言っておいてくれるといいんだがな」という声が聞こえたんです。最初に5分のお経ですって言えば良かったですね” 次のお宅からは最初に言うことにします、と言いながらお坊さんは帰っていった。その後、みんなで食事をしながら、本当に父がそうお坊さんに伝えたのか、それとも私たちの思いが通じたのかの議論でしばらく盛り上がった。いい新盆だった。今回はこの夏、実際にあった話を施主の目から見て、ちょっと(かなり?)脚色して書かせてもらいました。

■第92話 井戸の蛙と、笑わば、笑え!
一年間の教師生活をしたといえども、な〜んにもできないで辞めてしまったから、寺に生まれ、育った私は言わばお坊さんの純粋培養みたいなもの。そんな私でも、宗派の布教誌の編集や、ご詠歌を一生懸命、もうやり過ぎじゃない?と揶揄されるほどやってきた。数年前のこと。宗務所(宗派の事務所のこと、業界ではムショなどと略して言わないことになっている)で、敬愛している先輩のお坊さん(誰とは言わないが、このコーナーの前任者で、兄みたいな人)と行きあった。“最近ずいぶんがんばっているみたいだな” “そうでも無いッスよ” “でもな、お前さんなんか、まだ井の中の蛙だからな。世の中広いぞ” 噂では自分のお寺を抵当にいれて「空海」の映画を作ってしまった人だし、船橋市で宗教と医療を考える会を立ち上げた人だから、はなたれ小僧のこちとら、ぐうの音もでねえ。心の中で舌打ちしたのを覚えている。それから数週間。“呼べば応える”とか“偶然というのは準備していた人だけに訪れる”とはよく言ったもの。何気なく本棚にあった昭和4年、大日本雄弁会講談社(現在の講談社)発行の『修養全集・金言名句人生画訓3』を読んでいたら、頼山陽作と書かれた歌にハタと手を打って小躍りした。再び先輩のお坊さんと宗務所で出会ったのは、それから1週間後のことだ。私は彼を呼び止めた。“ねえねえ。この間、俺のこと“井戸の蛙だ”って言ったでしょ。覚えてる?” “ああ、覚えてるよ。それがどうした?” “頼山陽の歌に、こういのあるの、知ってます?「井戸の蛙と笑わば笑え、花も散り込む月もさす」ってえの” 井戸の中とはいえ、それなりに完結している世界なのだ。私の言葉を聞いて、さすがにそのお坊さんは、ギョッとした顔をして、一瞬ひるんだ。私はニンマリした。すると、何事か考えているかのように、自分の足元を見ていた先輩は、“ふーん”と言いながら顔をあげてこう言った。“その井戸、ずいぶん浅いんだな” “……” この浅いという言葉が、私の考えが浅いということにかけてあることに気づいたのは最近のことだ。菅野秀浩師とのバトルは現在も続いている。

■第93話 無視できない虫
調べ物のために数年間開いていなかった本をあけたりすると、体長一ミリにもみたないベージュ色の虫の姿が歩いていることがある。塔婆の上でも見かけたことがあるから、きっと木の繊維を食べる虫なんだと思う(名前をご存じの方は教えて!)。頭も足も判別できないくらいチッポケな虫だが、私にはどうしてもつぶすことができない。結局はフッと吹き飛ばすか、それ以上読む必要がない場合は、そっと本を閉じることにしている。こうなったのは、十年ほど前に読んだある文章がきっかけだ。夏目漱石の弟子で、昭和になってからユーモラスな作風で才能を開花させた内田百 けん 門構えに月。東京大空襲で焼け出された彼が、鴨長明にならって自分の暮らしを率直に描いた作品に『新方丈記』(福武文庫 う0115)がある。焼け出されて立てた小屋は三畳の広さ。まさに一畳四方の方丈の暮らし。この本の中で、彼の小屋にやってくる虫について書いた一節が、私に影響を与えた。 ――虫には大きいもの小さいものもある事は承知しているが、鰐や錦蛇をこの小屋に入れて想像する事は適当でない。小さいのは又ケシ粒をいくつにも割った位のもいる。あまり小さいのでどんな恰好をしているのかよく解らないが、動き出すところをみると、自分が行こうと思う方向もあるらしい。よく見れば頭もある。従って顔もあるに違いない。机の上などを這い出すと見えない所へ行ってしまう迄目を離すことが出来ない。そう云う小さな生命には却って威厳の様なものがあって、指先で潰したり、なしくったり(こすりつけるの意。名取注)する気にはなれない。―― この虫が、きっと本の中にいる虫だと思う。百 けん 門構えに月は“自分が行こうと思う方向もあるらしい”と書いている。いったいこの虫にどれくらいの脳味噌があるのかわからないが、確かに意志をもって進んでいるのだ。アンパンマンの作者、やなせたかしさんが、私が小学生のころ熱唱していた♪手のひらを太陽に♪の作者でもあることを知ったのは、ちょうどこの本を読んだ直後だった。そうだ!そうだ!そうなのだ!みみずたって、おけらだって、アメンボだって、生きているのだ。友達なのだ(なんだか天才バカボンのパパみたいな語調でおわることになった……)!

■第94話 僕がヒーローだった頃の「敵」
小学生のころ、戦隊もののヒーローになるのが得意だった。敵はブラック××やダーク△△だ。一人で悪役のセリフまでこなしながら、他の人には見えないであろう宿敵と立ち向かい、見事に戦い、そして勝利したものだ(あたりまえだ。負けるはずがない)。ある夏休みのこと。一人で公園に行ったら、誰の目にもあきらかな悪者が何やら不穏な動きをみせていた。普通に見れば、それは熱い地面を歩く蟻の行列にしか見えなかったはずだ。しかし、僕はすぐにそれが悪の軍団ブラックアリーだと直感し、へんてこりんなポーズと共にヒーローに変身した(なぜかこういう時には、ロボット戦隊になる)。まず、敵の先頭集団とおぼしきあたりを右足で撃破。地面でペシャンコになった数十匹のブラックアリー。サンダルの裏にも数匹ついていたはずだ。つづいて敵の指揮系統を分断するために、列の中程をひと踏み。ガッシャーンという効果音も忘れない。あわてて逃げまどう悪党どもも一匹ずつ狙いをつけて踏みつぶす。その時だ。肩をやさしくたたかれた。「ねえ、きみ」。見るとお坊さんが隣に立っていた。黒い着物をきていたので僕の脳裏には「こいつの名前は……、ええと、ブラック……」。ヒーローらしく毅然とした顔をしていると、お坊さんが言った。「いま君が踏んだ蟻にも、家で待ってるお父さんやお母さんがいるんだよ。兄弟だっているかもしれない」 地面を見た僕の目に映ったのは、敵ではなく、何も悪いことをしていない、そして二度と家族のもとに帰ることができない蟻たちの殺された姿だった。その時、僕はヒーローではあり得なかった。僕は泣いた。悪者は、僕自身だった……。今でも、僕は敵キャラを殺すゲームが好きじゃない。ギャッとうめき声をあげて死んでいく敵キャラも、かわいいペットが家で待っているかもしれない。もしかしたら来週、友だちと会う約束をして、それを楽しみにしている奴かもしれない――そう思ってしまうからだ。そんな僕を、友だちのAは感情移入しすぎだとバカにする。なるほど、家で蚊やゴキブリを叩く時、僕はごめんと言うけど、Aの家に遊びに行った時、彼はざまあみろと言い捨てる。正直言って、僕にはAがいい奴だとは思えない。

■第95話 旦那とドネーション
仏教で、心がやすらかになる方法の一つが布施。坊さんの私が言うと“ナンダ…、またカネの話か”なんて思われそうですが、それはまた別の機会に書くことにします(コッチにだって、言いたいことあるんだからね!)。さて、気を取り直して……。布施の布という字には、“広げる”とか“ゆきわたる”“散らす”という意味があります。つまり、施しをバラまくのが、布施ということ。でも、仏教の布施は「見返りなどを求めない無条件の施し」という条件がつきます(無条件という条件……?)。“これだけ愛してるんだから、あなたも私を愛してよ”などは言うに及ばす、“お手伝いしたら、お小遣いあげるよ”なんて言われてやるお手伝いは布施じゃない(こういうのは取引だ。キブ アンド テイクだ。贈収賄だ)。布施は、昔のインドの言葉でダーナって言います(すでに知ってる人がいそうダーナ……)。この言葉が中国で、旦那(檀那)と音写されました。本当はこの先の展開は、世の奥さまがた(特にうちの家内)には読んでほしくないのだが、話の流れだから仕方がない。ヤブヘビ覚悟で続けます。だから、無条件でなにかをする(というより本人にとってはさせてもらうという意識を持っている)人のことを、ダンナっていうわけです。自分の欲を捨てて、喜んで施す人のことです。ギブ アンド テイクじゃなく、あげるばかりのギブ ギブです。檀家というのも、檀那+家で布施をする家という意味です。一方、danaがインド以西に広がって、英語の(公共のための)寄付の意であるドネーション(donation)の語幹になったそうです。仏教では、お金や物の布施の他に、席を譲ることも、相手に笑顔で接するもの大切な布施の行と考えています。もう少し突っ込むと、布施する側も、される側も布施の意識があってはいけないんだそうで、自分が何かをしてあげたと思うのもダメなら、相手が何かをしてもらったと感じることも、真の布施にはならないということらしい。こうなると、難しいけど、親子関係なんかは、それに入るかもしれない。

■第96話 面倒をみたんだから面倒みろよ
家族で車にのって、夕飯に出かけた。後部座席には、私より背が高くなった長男、90kgの私より体重で巨大化した次男、身長157cmの母より背も態度もデカイ娘が、肩を交差させながら乗車した。こうなると、ルームミラーでは後方確認がほとんど不可能である。しかし、いつもの習慣で、ルームミラーを見る。すると娘と目があった。娘はボソッと言った。「ねえ、お父さんとお母さんが寝たきりになったら、誰が面倒みるの?」 正直、ドキッとした。自分では寝たきりになったらどうしようか、何をしようか…と考えることはあっても、まさかわが子がそんなことを考えているとは思わなかったからだ。で、私は言った。「そりゃ、お前たち三人が面倒をみるに決まってるじゃないか」 すると後部座席の三人は声をそろえて、エ〜ッ?と言った。私はあわてた。「おいおい、冗談じゃないよ。お前たちは覚えていないかも知れないけど、お前たちは生まれてから少なくとも六カ月は寝たきりだったんだぞ。食べ物だって一人じゃ食べられない、シモの世話だって、みんなお父さんとお母さんがやってたんだぞ」 ここまで言って、今度は別な意味で、あわてて隣の家内を見た。ジロリと睨まれた。その目は“あなたは、ほとんどやってないじゃない!”と怒っていた。目のやり場に困った私は正面を見て運転しながら、後ろの子どもたちに言った。「だもん、お父さんとお母さんが寝たりきりになったら、お前たちが面倒をみるの、当たり前じゃないか」 言ってからシマッタと思った。もし、子どもたちがこう言ったらどうしよう…… “わかったよ。六カ月は面倒みるよ” すぐにラーメン屋に到着したので、子どもたちから条件付きの介護保証の話はなかった……。仏教の布施というのは、無条件でなにかをさせてもらうということだ。なんらかの見返りを求めた行為は、結局どこかで行き詰まることを思い知った夕方だった。

■第97話 ビデオで撮るのは子どもばっか?
運動会で、子どもがゴールした時に見るのが親の目じゃなく、レンズの目なんてぇのはマズイッスヨというのは第44話でした。誕生から、お宮参り、七五三、入学式、家族旅行など、おりにふれて撮られる映像は、成長したわが子の披露宴で、幸せな新郎新婦、愛の軌跡として会場で映し出されることだろう。先日、八十七歳で亡くなったおばあちゃんの一周忌の法事があった。子ども5人、孫が13人、曾孫が4人だ。親戚、縁者をあわせて参加者50名の法事だった。私たち家族は、このおばあちゃんと10年ちかく一緒に暮らした。私が結婚して密蔵院に入る以前から、留守番として居てくれた人だった。私たちには馴染のない場所でもあり、このおばあちゃんの檀家さんの情報量は驚くほどで、新所帯の私たちには頼りになる人だった(うちの子どもたちは、このおばあちゃんから、花札の柄の綺麗さや、働き者のゴツイ手や、つまむと2センチものびる手の皮なんかを無言のうちに教えてもらった)。法事がすんで、客殿で食事が始まった。おばあちゃんにとっての初孫が献杯の発声をするという施主の粋な演出だった。親類、縁者はそれぞれ、思い思いにおばあちゃんの思い出話をしていた。その中で、唯一話に加わらずに遊んでいたのは2歳〜3歳の曾孫たちだった。私は親戚のオヤジさんたちと酒を酌み交わしながら、遊んでいる子どもたちを見て思った。“この子たちが大きくなった時、おそらくこのおばあちゃんのことは覚えていないだろう。その声はもちろん、名前だって思い出せないにちがいない(4人のひいおばあちゃんの名前を全部言える人は読者の中にもそういないはずだ)” わが子の成長の記録としてビデオを撮る親御さんは、是非とも今生きている先祖の生の映像と音声を残しておくことをお勧めする。子孫への素敵なプレゼントになるはずだ。

■第98話 花束贈呈の謎
私は覚えていないけど、どうやら私の母は、私を口から先に生んでくれたようで、司会をさせてもらった結婚披露宴は10をこえる。多くは、来賓の肩書で専門用語が多いお坊さんの披露宴だ(来賓の中で、黒の洋服で来るお坊さんが多い時、ロビーはかなりヤバイ雰囲気になる)。披露宴スケジュールの打ち合わせをすると、だいたい最後に両親への花束贈呈がある。これをテレルからとか、お涙頂戴見え見えという理由で、できればやめたいという新郎新婦がいる。そんな時私は、まるでプロの司会者のようにこう言う。“披露宴がお開きになったら、新郎新婦、両親、仲人はドアの外で、皆さんをお送りするでしょ。そのために、雛壇にいる新郎新婦を出口の方へ移動させなくちゃいけないわけ。主役の二人を何の芸もなく、みんなの注目の中を下がらせるわけにはいかないでしょ。だから、花束贈呈という理由にかこつけて、二人を移動させるわけ。両親はもともと出口のそばの席だし、お仲人さんは会場が暗くなっている間に移動してもらえばいいんだから。だから、やろうよ」 こう言えばほとんどの新郎新婦は“まあ、そういうことなら……”と承諾してくれる。加えて私は“それでね。家で両親を前にお礼なんか言えないだろうから、両親へのメッセージを書いておいてよ。花束贈呈の時に読むからさ”と言う。不思議といえば不思議。当たり前と言えば当たり前なのだが、このメッセージ、言葉の違いはあるが、だれもが同じことを書く。そしてそれが仏教と同じなのだといったら驚かれるだろうか。メッセージの概要は次のようなものだ。まず、自分を生んでくれたことを感謝する。そして、素敵な伴侶にめぐり合ったことの縁に感謝。最後に、伴侶の親も自分の親と思って大切にし、楽しい家庭を築いていきます、と宣言する。この内容は、私が月に15回もやっているご詠歌の会で、全員で読むご信条と呼ばれる最初の文章と同じだ。“受うけ難がたき人身じんしんを受うけ (多くの生命の中で人の身に生まれた!)、逢あい難がたき如来にょらいの教おしえに値遇ちぐうせし (時代や場所が違っていたら出会えなかった仏教に出会えた!)、因縁いんねんを感謝かんしゃし (そんな諸々の原因と条件に感謝!)、父母祖先ふぼそせんの恩おんを報ほうぜん (この命をつないでくれたお父さん、お母さんやご先祖さまの恩に報いるようにちゃんと生活していきますよ!)” 自分の人生を真剣に考えた時、みんな同じようなことを考えるのだと思う。仏教は難しいものではなく、当たり前のことを言っているのだと、花束贈呈の時の両親へのメッセージで、いつも思う私である。

■第99話 お元気の裏側 −七五三−
ありがたいことに、この秋も月に2、3回はお話を頼まれているのだが、司会者の、穴があったら入りたいような紹介の後、皆さんの前にでて私は開口一番“聞いて極楽、見て地獄、名取でございます”と言う(ご婦人が少なければ“破れ猿股、お寺の窓よ、坊主が時々顔を出す。というわけで……名取でございます”と言う場合もある。下品ナ挨拶ダ……)。その後に“皆さん、お元気そうですね”と加え、ボソッと本音をつぶやく“まあ、元気だからここにいるんでしょうけど……。” こんなミョウチキリンな言い方をするようになったのは、アフリカへ旅行した日本人の話を聞いてからだ。その日本人、アフリカの草原で元気に走り回る子どもたちを見て、現地のガイドにこう言った。「やはり、アフリカの子どもたちは、自然の中でそだっているだけあって、元気ですね」 するとガイドが言った。「ここでは、元気な子どもしか生き残れないのです」 「……」 お寺には過去帳という大切なものがある。檀家さんたちの亡くなった年月日と俗名、戒名が記されている(お寺が火事になったら、本尊さまとこの過去帳だけは持ち出せといわれるくらい大切なものだ)。この過去帳に記載されている三分の一近くが、子どもの戒名だ。この割合は200年以上の歴史があるお寺ならほぼ同じはずである。日本でも、少し前まで、それほど子どもが無事に成長することが困難な時代だったのだ。病気、栄養失調、事故、自然災害は言うに及ばず、間引きしなければならないという悲しい時代がついこの間まで続いていた。医療や、食生活などが発達したおかげはあっても、乳幼児検診の必要性は子どもが弱いことを物語っているし、小児科の待合室はいつも満員だ。身体に抵抗力がついて、異物を飲み込んだり(私の長男は私の不注意で吸殻を二度飲み込み、苦しい胃の洗浄を二度受けた)、危険を回避できるようになっていくステップが、数え歳の3歳、5歳、7歳というのは今も代わりがないだろう。逆にいえば、その歳まで生きられなかった子どもたちがたくさんいるのである。だからこそ、どうにか3歳まできた、やっと5歳まで育った、ようやく7歳まで成長してきた我が子の命を祝うのである。七五三の行事はこんな裏側がある。祖父母や親戚への格好つけのためにやるのではないのだ……。

■第100話 ほら、あなたの隣にも
おお、記念すべき、100回目だぁ!そこで、今回はみなさんのおかげでここまできたので、質問に答える形で進めます。福岡の高鍋さんから「仏教で33って数字をよく見るけど、どんな意味があるの?」という質問をいただきました。では、始まり、始まりィ〜。日本で、宗派に関係なく、よく読まれるお経に般若心経と観音経があります。33という数字の答えは、後者の観音経にあるんです。この中で、無尽意むじんに菩薩が、お釈迦さまに尋ねます。“お釈迦さま、観音さまは一体どうやって私たちの世界で、説法し、人々を悟りへ導いてくれるのですか?” お釈迦さまは答えます。“それはね。仏さまの姿がいい場合は仏さまの姿になるし、修行者の姿が最適だと思えばその姿で説法する。他にもね……” この例が、仏さまに準ずる姿が3種。帝釈天などの神さまが6種。王さまやお坊さん、子どもなど人間が15種。龍などの仏教を守る生き物が8種。そして、仁王さまの姿。……で、合計33の姿にヘンシ〜ン!して人々を救ってくれるんだよ、というクダリがあります。考えてみれば、2桁の数字で最初の素数は11。そして1桁の中で、最初のものごとが安定する数が3(よく3大メーカーとか、3大名所なんて言うでしょ)。両方とも不思議な数字として(おそらく世界的に)考えられているので、これをかけ算した11×3=33はパワーがありそうな数ということになるんだねえ(日本語の語呂合わせで“散々”なんてぇのは、この際、無視します)。ここから、観音さまのまつられているお寺をまわる数が33になって、西国三十三観音霊場になり、西国に対して関東で板東三十三観音霊場が制定され、きりのいいところで、100にしようと、秩父に三十四観音霊場ができた(これをまわることを百観音と言います)。また、観音さまの大きさも3丈3尺のものなど33にちなんだ寸法で作られ、それにちなんで、三十三間堂みたいにお堂の長さも33間にしよう!と観音さまのご利益を顕現化する方法がとられることと、相成ります……ベ、ベン、ベンベン…… もとより、33というのは、たくさんということ。私は、今の自分にとっていい影響を与えてくれた人(いい人だけじゃない、ああいう人にはなるのはよそうと私に思わせてくれた人も含めて)を、“あの人は今日の私にとって、観音さまだったな”と思うことが年に20回くらいあります。本当は毎日、何人もの観音さまが隣にいるはずなのにねえ、それにこちらが気がつかない。ああ、情けない……。南無観世音菩薩。 
 

 

■第101話 101回目のプロ坊主
さて、いよいよ、第二ステージの開幕、101回目だ!腕によりかけて、プロの坊主が身体にしなをつくって、始まりでございます。そこで、今回は伊東市の“きよ”さんからの「親の躾と学校教育」というお題を土台にまいります。むずかしいタイトルなので、“おやのしつけとがっこうきょういく”とキーボードをたたいて、音を入れ換えたら“結構親が行く京都の室”なんて言葉になりました。他にも“決死の強行!と、矢が追いつく”“結局牛の口蓋とおやつ”なんていうもの(暇な坊さんのやりそうなことですナ……)。実は私も小学校のPTAをやっていた時に、ずいぶんこのタイトルの研修会に参加した覚えがあります。でも正直言って、あまりぴんと来なかった。親は学校がしっかり教育をせよと言い、学校は親が子供の躾をせぇ!と言う。この、オーディオでいえば右と左のスピーカーの役割は違うはずであるというステレオタイプ思考になじむことができませんでした。親も学校の先生も、やれることをやればいいのだと思います。親が、産後の女性をいたわりなさいとしつける一方で、珊瑚は動物であると教える。学校では三五は十五であると教えつつ、メシ・フロ・ネルなんていう三語族になるなと絶叫してもいい。親と学校の役割を区別する必要はないのだと思います。個人的には、教育は好奇心を持たせることだし、躾は親のするように育つということを信じながら毎日やってます。

■第102話 さようなら、またね……のあと
密蔵院では、アナウンサーの村上正行さんをむかえて『話の寺子屋』が月一回開かれます。その会で、先月すごくショックなことがあったので、今回はそれをご紹介します。だいたい勉強会とか研修会なんかは、出席しただけで“できるような気”になってしまうものですが、そこで終わっては、結局勉強する前と何も変わっていないんです。村上さんは言います。「友達なんかと別れる時に、さようなら、またねって言うでしょう。でもそこで終わっちゃダメなんですよ。そのあとに、きょうは楽しかったとか、気分がすっかり良くなったよっていう言葉が加わらなきゃ。その日その人と一緒にいたんだから、それによって自分はどう思ったか言えるでしょ。言えないようじゃ、時間を無駄に過ごしたことになっちゃう」 この話では何度も聞いているし、ホントだなと思っていました。でも、先月気がついたのです。私は人と別れる時“またね”としか言えてない。結局のところ、別れの挨拶をする時には、どうやって帰ろうかとか、帰ったら何しようと、自分のことかしか考えてないじゃん! 想像してみてください。さようならの後に“きょうは本当に君といて楽しかった”“おかげで元気になったよ”“とても勉強になりました”なんて言われたら、いい余韻が残りますよ。人と時間を過ごした時、その日の感想をまとめる作業は、おかげでどうにか滑りだしました。今日はわざわざお読みいただいて、ありがとうございました。

■第103話 天井の穴
猛暑の昨年8月のことだった。本堂へ行くと頭上の天井裏から、カチャ、カチャと不安げな足音と、ピィ、ピィと泣く(「鳴く」ではない。それほど悲痛にひびいていた)声がした。本堂の屋根の隙間から鳩が出入りしていることは知っていたので、鳩であることはすぐわかった。きっと小鳩が巣から出て迷子になったのだから、親鳩が助け出すだろうと放っておいた。しかし、翌日も、その翌日になっても、私の出す咳払いや鐘の音に反応しては泣き、トボトボと私の頭上の天井裏を歩いていた。日に日に鳴き声が弱くなっていく。仕方なく、天井の点検口に脚立をかけて、懐中電灯で天井裏をのぞいて驚いた。わずか10センチにもみたない二重に張られている天井の隙間にその姿があったからだ。本堂の中央部分でもあり、親鳩が出入りしている穴から外の光はとどかない。真っ暗闇の中である。これではダメだと、救出作戦を決行することにした。作戦とか決行とか大仰な書き方をしたのには訳がある。小鳩の声がする場所は、手も届かないし、他の部分より5センチほど下がった場所だったのだ。生まれて間もない鳩がよじ登れる高さではない。つまり、下から天井を壊して助ける以外にすべがないのだ。午前10時、既に本堂天井付近の気温は30度というサウナ状態の中、作戦(というより作業だが)を開始。石膏ボードの天井を、鳩をぶちのめさないように、木槌で壊していく。穴からの光に、小鳩はひっきりなしに鳴き続ける。ガンガンガン・ピィピィピィ、ガンピィガンピィ……。ついに、鳩が開いた穴からひょいと首を出した。つづく……

■第104話 鳩の頸
前回読んでいない方は、まず前回をお読みください。でないと、何だか分かりません。ヒョイと首をのぞかせた鳩を見て、脚立を支えていた家内の「あなた、顔を出したわ。ああ、やっぱり鳩よ」などと呑気な会話に付き合ってはいられぬ。坊主頭というのは、髪がないぶん保水能力は極端に低く、吹き出した汗はそのまま目に流れこむ。目が痛いのだ。おまけに石膏ボードのかけらや粉はもちろん、天井裏の積年の埃も一緒に落ちてくるのだ。頻繁に下をのぞきこむ鳩の顔(というより頸)を、タイミング良くヒョイとつかんだ。細くて、たよりない。しかし、まだ穴は鳩の胴体を引きずり出せる大きさにはなっていない。とりあえず、頸だけをひっつかんではいるものの、相手が小鳩だから逃げないように力をいれれば、頸だけが取れてしまうかもしれない。そんなことになったら、エライことである。想像するだけでもおぞましい光景だ。細心の注意をはらいながら、穴の縁を叩いて大きくする。直径約20cmの穴が開いた。充分胴体も出る大きさだと思ったので、鳩をひっぱりおろした。用意してあった段ボールに入れようと家内に渡そうとすると、気持ちが悪いなどと、自分の旦那がまるで泥とおしろいで化粧して、目にタバスコを差したような状況がわかっていない発言……。鳩を箱に収め、床に落ちた天井の残骸を片づけるまでに、開始からすでに90分が経過していた。ホッとしたのも束の間。黒々と開いた天井の穴を見て、この穴をどうやってふさごうか思案にくれた。板を貼るにも、石膏ボードは下からの釘ではすぐ抜けて効果がない。両面テープも切らしていたのだ。

■第105話 ケンタは食べられない
第103話からの続きです。まずそちらをお読みください。両面テープがないことに気づいた時、私のココアと小麦粉をまぶしたような顔。充血した目。汗の重みで垂れ下がったTシャツ。右手は木槌を離しても握った形のままだった。その姿でホームセンターに両面テープを買いに行けば、嫌悪の視線を浴びること必定である。どうせ浴びるなら――と、シャワーを浴びてから出かけることにした。ついでに昼食を作れなかった事情もあり、店近くのケンタでランチボックスでも買ってくるからと言い残して浴室に入った。しかし、汗と汚れを落しながら思った。“小鳩を助けて、ケンタを食べたんじゃシャレにならない” ――そこで、おそばでも茹でておいてよと言って出かけた。その後一カ月半、ピィちゃんと名付けられた鳩は、私が親になった。餌も自分で食べるようになり、寺の庭で遊び、私の姿を見るとどこからかギシギシと羽音をさせて飛来し、私の頭や肩にとまるまでになった。しかし、ついに洗濯物へのフンの被害が甚大となった10月半ば、20キロはなれた鳩仲間が大勢いるお寺で離した。寂しかったが、今日まで戻ってこないところをみると、きっと仲間ができたのだろう。でも私は夢みている――数年後、玄関のチャイムがなる。対応に出ると可愛らしい女性が立っている。彼女は笑顔で言う。「昔たいへんお世話になった者です。ご恩返しに何かお手伝いさせてください」 と。――なに?彼女の胸?そりゃ、もちろん、鳩胸ですよ。

■第106話 大往生って言わないで
70歳の男性が亡くなった。その一年ほど前から身体の具合が悪く入院したことは知っていた。しかしその間、家族が先祖の墓参り来た時に「お父さんの調子いかがですか」とは、聞けなかった。お坊さんがそんなことを尋ねれば“死ぬ時期を知りたいのか”と思われてしまう可能性があるからだ(当方の思い上がりかもしれない)。で、結局訃報を聞いてとりいそぎ、枕経まくらぎょう(亡くなって早い時期に枕のそばで唱えるお経のこと)をあげに行った。お経をあげた後、親戚のいる中でお茶をいただきながら、差し障りがない程度で、最期についての話がでた。聞くと、数日前まで話もできたが、最期は眠るように逝ったとのことだった。私は「そうですか。それでは大往生でしたね」と言った。これが今思えば、僧侶という立場を利用した傲慢な発言だった。生死の専門家のような人間が“大往生でした”というお墨付きをあげることで、身近な人の死を遺族が安心して受け入れられるだろうという判断があったからだ。やがて、49日の法要。後座で清宴がはじまり30分ほどたった時だった。故人の弟さんが私の席にやってきて、こう言った。「兄貴が亡くなった日、住職さんは大往生だったって言ってくれたけどね。兄貴が家族や兄弟に、それまでどんなことをしたか知っていたら、あんな結果良ければ全て良しみたいなことは言えなかったと思うよ」 以来、私は自分から「大往生でしたね」とは言えなくなった。

■第107話 頑張ってって言わないで
うつ病の人に“がんばって”と言ってはいけない。回復しようと一所懸命になって頑張っていて、それ以上は無理なのに、そんなことを言われれば、精神的負担が増し症状が悪化することがあるからだ。身近な人を亡くして間もない人にも“元気出して”は禁句だ。元気など出るはずもないのに、励ましの言葉だけが空回りして、大切な人の死を受容するステップをふまずに、無理して明るい顔で振る舞うことは精神的に良くないからだ。他にも、気にするなとか、忘れてしまえばいいのにという助言は、当事者にとってほとんど役にたたない。気になってしまうから困っているのであり、忘れられないから厄介なのだ。では、そんな時どうすればいいのかというと、必要なのは相手への共感ということになっている。それは大変でしょう、おつらいでしょうね、本当に悲しいことですね、などの言葉がけでいいのだ。これらは臨床心理の分野から提言されていることで、最近よく聞く話だ。さて、前回の「大往生でしたね」も遺族のさまざまな事情を知らぬまま、末期の看取りだけを取り上げて放言してしまった私の苦い失敗談だった。しかし、どうだろう……。だれでも、つらい状況になった時 “がんばって” “元気出して” という励ましの一言に勇気づけられた経験があるだろう。応援してくれている人がいることがわかっただけで、千人の味方を得たような思いがするのも事実だ。発せられた言葉がどうでも、その人がこちらを気づかい、いたわる気持ちを持っていることに「ありがとう」と言える素直さは持っていたいと思う。

■第108話 人生スカラカチャンといきたいね
まずもって、このタイトルの“スカラカチャン”だが、ほんとうは“スチャラカチャン” で、なんでも阿保陀羅経の調子のことらしい。そのアホダラ経とは――経文の訓読の真似をして作ったこっけいな俗謡。俗語で時事などを風刺した文句を、小型の木魚二つを打ち合わせ調子をとりながらうたう。江戸時代の中ごろに流行した(広辞林)――とのこと。乞食坊主の格好でやる一つの芸らしいのだが、浪曲がもともと坊さんの節談ふしだん説教からきていることから考えても、もとは坊さんがギター侍みたいに世俗の矛盾を軽妙な調子で風刺したものだったのではないか、つまり元祖パーカッション坊主だ(…とこれは、坊主が屏風に上手に自由な発想かつ推論です)。現在でも歌舞伎や落語の中で聞くことができるらしいが、私は聞いたことがないのでゴメンナサイである。しかし、その解説とスチャラカチャンという語調から、何でも、楽しんじゃえ的軽いノリなんだろうなと思う。加えて今回お題をくれた“都鳥さん”は「人生、楽しくいきたいもんですよね」というメッセージを込めてのリクエストだと拝察。そこで ・・・ 何を食べよか相談すれば わたしゃ何でもいただきますと 決めておでんはいかがと問えば それはちょっと……としかめ面 何でもいいと言ったじゃないか   寒い時には寒いとグチる そういうあなたは 梅雨あけ早々 誰より早く 暑い!とこぼす どんなことにもグチばかり   しあわせは いつも三月花の頃 お前十九でわしゃ二十歳 死なぬ子三人親孝行 使って減らぬ金百両 死んでも命がありますように (古歌より) ・・・ 以上、わがままではスチャカラチャンとは生きていけないという一席であります。

■第109話 石橋の向う側
石橋の向う側へ行きたい人にいくつかのパターンがある。その1、石橋が丈夫かどうか棒で叩きながら注意深く渡る人。⇒夜が明けてしまう。その2、石橋の丈夫さを確かめるために、叩きすぎて石橋を壊してしまう人。⇒用心もほどほどが良いことを学んだので次回は渡れるでしょう。その3、石橋を叩いた結果、丈夫だと分かったのに、それでも危ないと疑って渡らない人。⇒疑心暗鬼で何もできない。その4、石橋を叩かないで渡りはじめ、案の定途中で橋が壊れて渡れない人。⇒周囲から「だから言わんこっちゃない。ざまぁ見ろ」と侮蔑される。でも、恥じることはない。その5、石橋を叩かないで渡ってしまう人。⇒自分の力だけじゃありません。自分の努力が一割、橋を丈夫につくってくれた人などの他のおかげが9割ですよ。思いつくままにあげただけで5つだ。もっとあるに違いない。他人に叩かせて、安全が確認されたら自分が先に渡るなんていうのもありそうだ。いずれにせよ、問題は石橋の向う側に何があるかということだ。プロジェクトXでとりあげられるような事業であったり、ホワイトデー間近の恋愛であったり、心やすらぐ悟りの境地だったりする。で、私は思うのだ――いい人(はなはだ抽象的でスミマセン)になろうとするならば、何の躊躇も要りません。自分の魂にとっていいと思うことは、ドンドンやってみればいい。密蔵院の掲示板には先週までこんなことを書いて貼った。『石橋の向う側へ行きたければ、行かなければならないのなら、叩かないで渡っちゃえ』

■第110話 そこのけ、そこのけ、個性が通る
今回は埼玉の蒲生の小僧さんからのメールに反応してまいります。メールはこんな内容――子供たちは小さい頃は正義のヒーローをかっこいいと真似をするけど、中学生頃になると不良っぽい漫画などの主人公にあこがれる。女の子の好きなタイプも、子供の頃はスポーツと勉強がでる子がもてるのに、大人になると、ちょっとクールな感じの人がいいとか、良く聞きます。これはどうしてだろうか…… うーん、なるほど。わが身を振り返ってもそういう傾向はあったように思います。勉強でも運動でもキッチリしていることへの反発なんでしょうか。大雑把なとらえ方をしてしまえば、思春期という言葉に代表される現象なんでしょう。この思春期特有の現象や考え方、対処法は、小児科医の北島晴夫先生がやっている「あいあいキッズクリニック」HPの“思春期ブルー研究所”がとても分かりやすく、丁寧に説明してくれていますので、子育て真っ最中の方は是非ご一読を。さて、他の人とは違うという自我に目覚め、個性が出てくる。ここ20年くらいはこの個性をのばす教育が声高に叫ばれていますけど、なんでも“個性”で許すのは問題があります。人の迷惑を考えないのがこの子の個性だとか、すぐにいじけて開き直るのがうちの子の個性なんていうのは、軌道修正すべき悪い個性だと思います。大人だって他の人と違ったことをして自分をアピールする場合があります(何を隠そう、私が周囲からそう言われます)。しかし、他と比較して変わった格好や面白いことをしても、本心から納得などできるものではありません。いわんや他の人を納得などさせられないでしょう。毎度精神論になって恐縮ですが、精神的にどんな人になりたいのか、志をもって、自分のやりたいことを、やらなきゃいけないことをやっていけば大丈夫ですよ。但しこれらを考える時には、心を静かにすると効果絶大であります。仏教でも智恵を得るには心静めろと説きます。 
 

 

■第111話 困ってるんです
今年の1月下旬のことである。知り合いのお寺から、ウキウキするような相談があった。32歳の女性ダンサーのTさんが、京都でお坊さんのお経を聞いて鳥肌がたつほど感激。しかれば、そのお経で踊ってみたい!すでに京都で2回の公演を終えている由。近日東京の吉祥寺のライブハウスで東京公演をしたいのだが、ダンスと一緒にお経をやってくれるお坊さんはおらんかねえ?とのことで、白羽の矢がたったのが、毎月聲明しょうみょうライブをやっている私だったのだ。「相談にのってあげて欲しいのですが」との言葉に“うん、いいよ”と軽い返事。じつはこの軽さが後々エライことというか、人生模様の機微を体験することになろうとは、お釈迦さましかご存じなかっただろう。ダンサーのTさんが密蔵院にやってきたのが1月31日だった。事前に今回の企画書と彼女のHPを拝見。思わず、ほうと目玉を丸くした。じつは彼女は女優で、それがこうじてダンサーに、さらに発展してヌードダンサーとして活躍しながら、独自のパフォーマンスを展開中なのだ。訪れた彼女を応接間にお通しして話をうかがった。家内がお茶を入れてくれて、お茶菓子を運んできてくれている中、Tさんは熱っぽく、生の読経に満ち満ちている人間の根源的なエネルギーと発散について語ってくれた。そして、彼女がテーブルに出してくれたのは、過去2回の京都公演のチラシと、東京公演のチラシだった。2月11日吉祥寺STAR PINE'S CAFEとある。そこで、聞いた。「お経を唱えてくれるお坊さんを探してるらしいけど、ひょっとしてこの来週のこと?」 「ええ、ゆくゆくは、京都とヨーロッパで、25人のお坊さんにお経を唱えてもらってやりたいんですけど、目下の所は、この来週なんですよ。ほんとうに困ってるんです」 京都でやってくれたお坊さんは?という私の問いに、彼女の驚愕の答えは……

■第112話 まあイヤラシイ
この話は第111話からの続きです。まずそちらを読んでください。ヌードダンサーでもあるTさんは言った。「私は脱ぐことにこだわっているんです」 こんな書き方をすると誤解をする人がいるかもしれないが、坊さんの私には彼女のこだわりがよく理解できた。服を脱いでいくということは、自分の飾りを脱ぎ捨てていくという人としてのあるべき姿の投影にほかならないだろう。ましてや誰だって裸で生まれてきたし、エロスなくして私達は生まれてこなかった。人の心を探っていけば、どうしても避けて通れないのが性の世界であるし、ヌードも性もけっしてイヤラシイものではない。それをイヤラシイと思う方が余程イヤラシイのだ。仏教(たぶん禅宗)の話にこんなのがある。ある老僧が二人の小僧を従えて歩いていると、行く手に大きな水たまりがあった。そばでは若い女性が立ち往生して困っている様子だった。そこで老僧は近寄って「私がおぶってあげよう」と言って、彼女を背負うとジャブジャブ水たまりを渡って、無事に彼女をおろした。再び弟子と一緒に歩きはじめてしばらく行くと、老僧の後ろで二人の小僧が何やらモゾモゾしている。どうしたのかと尋ねると弟子の一人が言いにくそうに言った。「和尚さま。僧侶たるもの、女性に近づくことはもちろん、肌にさわることなどもっての他と存じますが、さきほどお師匠さまは、こともあろうに若い女性をおんぶされました。私どもは、そのような邪淫はいかがなことかと案じておりますが……」 すると、老僧は呆れ顔で言った。「なんじゃ、お前たち。まだあの娘のことを背負っておったのか。わしはとっくにおろしたぞ」

■第113話 キャンセルの理由
(この話は第111話からの続きです。まずそちらを読んでください。) お経でダンスを踊りたいというTさんは、2月11日建国記念日のライブに、京都でやってくれたお坊さんがどうしてキャンセルになったかを話してくれた。「それが、ですね。そのお坊さんはですね、じつはですね……」と、彼女は家内をチラリと見て続けた。「そのお坊さんは奥さんに“これ以上ヌードダンサーと一緒にお経をやるのなら離婚してもらいます”って言われたんだそうです。私も夫婦離婚の原因にはなりたくありませんから」 すると家内が「うーん、私はその奥さんの気持ちは良くわかるわ。だって、ヌードとお経が、一緒のステージに上がる必然性はないと思うもの」と言った。私にはその必然性が充分に理解できた。不謹慎かもしれないが、面白い!とさえ思った(くれぐれも言っておきますが、私は彼女のヌードが見たいわけではありませんから!――こんな書き方するとかえって誤解されるかな)。それにしても、Tさんが密蔵院に来たのは、1月31日(月)である。チラシも配って宣伝している公演は翌週の2月11日(金)である。二週間足らずである。にもかかわらず、もっとも大切な共演してくれるお坊さんがいないのだ。リハーサルだって2回はしたいというのが彼女の希望だった。だとしたら、あまりにも時間がない。そこで言った。「そんなに困ってるんなら、来週の公演は、私がやりましょうか」 彼女は勢いよく立ち上がると、天に向かってガッツポーズをして“やったー”と叫んだ。考えてみれば、こんな安請け合いをしてしまう私の方がガッツ坊主である。するとガッツ主婦が私をにらみながらきっぱり言った。「あなたが、そういうところへ出るのなら、このお寺を出ていって、く・だ・さ・い」 彼女は“ここもかぁ”と言ってへなへなとソファに崩れ落ちた……

■第114話 だって困ってるんでしょ
(この話は第111話からの続きです。まずそちらを読んでください。) 家内にしてみれば、私のやろうとすることは無謀以外の何ものでもなかった。どんなステージになるかも分からない。宗派に属している私がヌードダンサーと共演することで、私だけでなく、宗派や仏教界に迷惑がかかるかもしれないのだ。相談に来た初対面のダンサーと2時間足らず話しただけで、ハイヨとOKを出せるほどたやすいことではない。私にもそのことが分かったので、他をあたってみるよと言った。夕方、Tさんが帰ってから、私は一緒に聲明しょうみょうライブをしてくれている独身のS君に電話した。 生のお経に感激して、どうしてもお経で踊りたいという女性ダンサーがいること。しかしながら、彼女はダンスをしながらヌードになること。それはストリップのような男性の性欲をかき立てるようなものではないが、どんなステージになるは分からないから、今後のお坊さんの活動に支障をきたすおそれが皆無ではないこと。この話を最初に受けたお坊さんはこれが原因で離婚の危機を迎え、そしてついさっき私は寺を追い出される苦境に立ったこと。そして、そのステージは12日後であることなどを告げた。S君は電話の向こうで言った。「僕、やりますよ」 「えっ?やってくれるの?でも、今言ったように、S君の今後の立場のこともあるんだよ」 私の言葉にS君が間髪入れずに答えた。「やりますよ。だって名取さん、その人、困ってるんでしょ?」 坊主だけに大袈裟だと思われるかもしれないが、私は彼の言葉に涙がにじんだ。問題が解決したから感激したのではない。目の前に困っている人がいる……だったら手伝いますよと、一瞬の間もなくS君が答えてくれたことに対する感涙だった。これぞ坊さんだ!と思った。S君に今回の企画書と彼女のプロフィールをファックスで送ってから、当のTさんに電話をした。「やってくれる人が見つかったよ!」 との私の言葉に彼女は狂喜した。

■第115話 オンナの敵は……
いよいよ今回は第111話からの話の決着を迎えます。“裸”という、私達人間にしてみれば当たり前であり、飾りのない姿で何かを表現したい女性ダンサーと、人間や宇宙のあり方の根源をもとめる仏教のお経によるコラボレーション。ライブの差し迫った状況に“だってその人、困ってるんでしょ”と快諾してくれたS君。苦境から救われたダンサーのTさんは、私からの電話に大喜びした。もちろん、私が感激したS君の僧侶らしい返事の経緯も伝えた。細かいことはS君と相談して欲しいと連絡先を教えた。ホッとため息をついて受話器を置いてから2分後電話が鳴った。S君からだった。「名取さん。さっき送ってくださった彼女の企画書とプロフィールを、一応母に見せて話をしたら“そんなことをするのなら、お坊さんをやめて、このお寺から出ていきなさい!”と言われてしまいました。今も“動悸がとまらない”と言いながら夕飯を作ってます……」 良識派であり、保守的な考え方をもっているからこそ、お寺の奥さんは檀家さんと対応できるのである。私はS君に親子関係にひびを入れかねない種を蒔いてしまったことを詫びて電話を切った。そして、すぐ受話器をあげてTさんの電話番号を押した。「……なんだか、今日はぬか喜びばかりさせてしまってごめんね。でも、そういうわけで、S君もお母さんからストップがかかっちゃんたんだ」 Tさんは、そうですかと残念そうに言うと、独り言のようにつぶやいた。「そうなんだよ。そう。オンナの敵はいつもオンナなんだ……」 経験の浅い私には良く分からないが、なんだかとても深い深い意味があるように思えた。2月11日、吉祥寺STAR PINE'S CAFEは300人近い観客で満員だった。若い女性のほうが多かった。Tさんプロデュースの一夜。オカマちゃんの歌、ハードなロック、活弁映画、そして彼女のパフォーマンスに全員が酔いしれた。彼女と一緒にやってくれたのは、みごとな声の浄土真宗のお坊さんだった。3時間に及ぶステージを観て、楽しかったねと家内と店を出たのは午後11時近かった。吉祥寺裏通りを歩きながら私はふがいなくも言った。「あれなら、俺がやればよかったな」 家内は無言でフーッと大きく息をついた。

■第116話 余生
高崎市のやまちゃんから“老いて 楽書き 落書き”というリクエストをいただきました。どういう意味だろうと思っていたら、その一週間後に高崎のお寺でお話させていただいた時、ご本人が会場にいらっしゃっていて、ビックリ!70歳というお歳にはとても見えないので二度目のビックリ!でした。そこでお話を聞いて納得しました。 ――テレビで書き取りの問題をやっていて、ラクガキが出題された時に、小学生の珍解答の中に“楽書き”があった。常識のない子だと思っていたけど、考えてみたら“楽しく書く”のほうが落書きの真意を伝えているかもしれない。私はもう歳だけど“落書き”を“楽書き”と書けるような心の若さを持っていたい―― というのです。もうここまで聞けば、すごい!と握手したくなります。私の母は20年前に亡くなりました。57歳でした。残された父はかなり寂しかったようです。母の新盆を迎えた時、父は檀家さんにもお世話になったからと、玄関から見える部屋にお盆のしつらえをしました。たくさんの檀家さんが自分の家のお墓参りに来たついでに、部屋にあがって母にお線香をあげてくれました。そのうちの一人が、帰りがけに父に励ましをしてくれました(この時私は玄関の隣の部屋にいて、何気なく話を聞いていました)。「住職さんもお寂しいでしょうけど、お子さんたちも大きくなられたんだから、余生を大切に楽しんでくださいよ」 この言葉に、父はそれまでの会話の口調をあらためて、かなり大きな声で言いました。「あんたな(父の口癖)。人の人生に“余った人生”なんて、ないんだよ」 特別操縦見習士官(特攻隊)4期生に志願した父は、いざ飛行機に乗ろうとしたら肝心の飛行機がなくなってしまった経験を持つ。そして、最愛の連れ合いを亡くした。余生という言葉をどれほど考えたことだろう。その結果が「余生なんて言うのはよせィ!」である。私も世間から老境といわれる歳になったら、やまちゃんみたいになろうと思う。

■第117話 粋な浮気と野暮な浮気
“般若のお面の般若って、仏教に関係あるんですか?”と時々きかれることがある。般若心経を唱えている人ならば、般若が智恵(ちえ)という意味(パーリ語のパンニャの音写語)だということは知っている。だとすると、どうしてその智恵が、あのツノを持ち、見るからに恐ろしい形相の能面になるのだろうとお考えになるのは当然だ。じつは般若の面の般若は、あのお面を作った般若坊という人の名前なのである。だから智恵とは関係はない。しかし、あまりの出来の良さに制作者の名前をとって“般若の面”と呼ばれるようになったらしい。そして、その制作のコンセプトは……嫉妬に狂った女の形相!ということらしい。ギャー!である。布団かぶって寝てしまおう。さて本題。浮気は相手にバレなきゃいいじゃん、という御仁がいらっしゃるようだが、そもそも相手をだましているという点で、イイジャンでは済まされぬ。嘘の上の信頼関係はそう長続きするものではないし、だまされていることを知らない人の不幸の上に成り立つ幸福など、どう考えてもあり得ないと思う(ようになった)。浮気している本人は、これはもう“浮”という字が示しているように、フワフワ浮(うわ)ついているわけだから、我田引水、農業用水、泥酔、胃下垂、全身麻酔である。知らぬが仏などという仏教歪曲用語(?)を引き合いに、相手も知らないほうが幸せ、自分はもとより浮き浮きシvアvワvセvなどと、身勝手ここに極まれりである。 ……とここまで書いてきて、ここは仏教のページであることを思い出した。仏教では、基本的に愛=執着だぞ、と教えている。愛すれば、最初のうちはいいが、すぐに独り占めしたくなる。失うのがこわくなる。心のマイナス要因が増えていくというのだ。なるほどなあと思ったのは、ちゃんとした大人になってからのことだ。ただ、愛することのエネルギーは否定しない。それが愛染明王などの仏像の姿になっていく。お題にもどると、粋な浮気があるとすれば、それは“あこがれ”レベルにとどまっている場合なんだろうと思う。それを越えた時、勝ち負けだけに生きているといわれる阿修羅の世界、修羅場が待ってる…… だいだい、どこまでが「浮気」とするかは、人によってまちまちで、尋ねてみると、怒った顔で答える人は「許さん!派」、他人事のような顔をして答える人は「人のことは無関心派」か「チャンスさえあれば…派」のようだ。何?私?私は答えないも〜ん。

■第118話 ひたむき
伝え聞く所によると、今回のリクエスト「徳を積むって、どんな生き方?」をくれたsaichanは、大手CD制作会社にいたものの、無性に歩いて四国遍路がしたくなったらしい。そこでなんと、思い切って会社を辞めてしまい、遍路修行を成満じようまん(達成の意)。そのまま遍路や巡拝の仕事をしている旅行会社に就職したという可愛い娘らしい。お坊さんと一緒に旅をすることが多いだけに、巡拝の中で何気なく使われる“徳を積む”という言葉が気になっているようだ。さて、言葉からいえば“徳=善い行い”ということ。そして、この善を積み重ねて得られるものが功徳ということになっています。ところがこの功徳がちょっとクセモノで、こういう話があります。昔、中国の皇帝が達磨大師に聞いた。「わしは、即位してから、お寺を造ったり、写経したり、お坊さんの数を増やす政策をしてきたが、いったいどんな功徳があるかのぉ?」 すると達磨は答えた。「そんなもん、何の功徳もありゃしません」 「へっ?」 「お寺をつくれた事、写経できること自体が功徳。他に期待なんかしなくていいのです」 さて、あなたの一日の生活の中で、何の打算もなく、人のために過ごしている時間がありませんか?それが“徳”なんだと思います。家族のための食事作り。乗客のことだけを考えてする安全運転。あなたと会えて嬉しいと思って発せられる“おはよう”の一言。私が「この人、徳を積んでるな」と思う時、ほとんどが“自分のご都合を離れた、だれかのためのひたむきさ”が、その人全身を包んでいることに気づいたことがあります(宮崎駿作品のテーマが同じであると知っているのは私だけではないだろう……)。徳を積んでいる人は、自分が徳を積んでいるという意識は、殆どないでしょう。今回のお題をいただいて、徳とは不思議なものだとつくづく思いました。

■第119話 人の為と書いて偽?!
偽善の偽である。“いつわり”だ。人の為というこの漢字を作った人も、その使用を認めた人も、世の中の「人のためと言いながら、自分の利益ばかり考えているニセモノ」をずいぶん見聞き、そして体験したんだろうなあと思う。私にはそんな洞察力がないので、この造語能力に、ただただ感心するばかりである。20代の頃に『おかげさん』(相田みつを著・ダイヤモンド社)に収録されている言葉“人の為と書いていつわりと読むんだねえ”に出合って、我が意を得たりとばかりに、何度か得意になって受け売りしたことがあった。小さい頃から母に注意されるたびに、母が「あなたのために言っているのよ」とつけ加え、そのたびに心の中で「そうじゃない。お母さんは事あるごとに、あなたがそんなことをすればお母さんが笑われるのよと、言ってるじゃないか。つまり自分のために僕を叱っているんだ」という思いを口に出さずにいたからかもしれない。しかし、30歳をすぎてからは、ほとんど吹聴することがなくなった。誰かのために一生懸命やっている人の、深層心理なんかをほじくり返すことより、そのまま認めていくほうがずっと人間らしいと思うようになったからだ。「人のためにする」という無味乾燥な言葉に“思い”を味付けして「人のためにせずにはいられない、したくなってしまう」とすればどうだろう。「人のため」でOKではないか。「人の為って書いていつわりって読むんだよ」などと吹聴し、人の心に傷を追わせてそのまま逃げるような人には言ってみたいものだ。人のためでもいいから、やれるものならやってごらんなさい。人のためとか、慈悲なんていうのは、言い換えればお節介です。でも、いいじゃないですか。お節介できない人になるよりも、できるほうが! えーと、今回は「人のために生きることが大切なのだ」的に、自発的な生き方ばかりに言及していますけど、仏教がそんな道徳的かつ教条的なものとは思わないでください。たとえば、寝たきりになってしまった人は、どうやって人のために生きられるの?という落とし穴があるからです。寝たきりになっても、それで家族の絆が強くなることもあるし、やっと親へのご恩返しができるとしみじみと思う場合もあるはずです。

■第120話 早期癌で良かった…
22年前に、母の膵臓癌が見つかった。自分自身のことであるのに、母は自分の病名を知らず、私たち家族は母を1年半だまし続け、母はだまされた振りをしてくれて逝った。そのことがきっかけで、当時仏教情報センターが月一回、築地本願寺を会場に開催していた“癌患者・家族と語り合う集い”に、僧侶兼家族の立場で参加するようになった。毎回さまざまな立場からの講演を聞いた後、10名ほどのグループに分かれて各人が抱えている問題を話し合う会だ。参加者は、医師、看護士、僧侶、患者、患者の家族などである。この会で講演してくれた一人の看護婦さん(当時私より2つくらい上の29歳くらいだったと思う)に、私は、自分の思慮の浅薄さを思い知らされたことがある。彼女は癌センター勤務だった。ある時胸のシコリに気がついて、自分の病院で検査。幸か不幸か彼女は自分のカルテを見ることができる立場にあった。彼女が自分のカルテで目にした検査結果には、ドイツ語で早期乳ガンとあったそうだ。私は、会に参加していたおかげで、癌は早期であれば治るし、乳ガンの術後5年生存率が8割を越えていることを知っていた。だから、その話を聞いた時、心の中で「早期の発見で良かったじゃん」と手をたたいた。ところが、彼女はそのあと、私が想像だにしないことを話しはじめた……。「病院でカルテを見た日、私は家に帰ってからタンスの引き出しを全部引き抜きました。乳房切除の手術(最近では温存手術が多いそうだが、当時はこれが一般的だった)をしたら、片方の胸がなくなります。私は、翌朝までかかって、胸が片方になっては着られなくなる水着やワンピース、ブラウスを一枚一枚、泣きながらハサミで切り続けました」 聞いていて、私はいたたまれなかった。自分の思慮の無さに嫌気がさし、後のグループワークでも殆ど何も話せなかった。命があるだけでいいじゃないですか、と“命”の一言で“こころ”を無視する傲慢な僧侶がそこにいた。正しい見解や、正しい思いは、仏教では正見しょうけん、正思惟しょうしゆいという簡単な言葉だが、私がこの心にたどり着くまでに、あとどれほどの時間と経験が必要なのだろう……。 
 

 

■第121話 バカは死ななきゃ…
京都堀川病院の元院長の早川一光先生が講演の中で、西陣の街の二人のおばあちゃんの死を紹介しておられる。“一人のおばあちゃんは、若い時にご主人を亡くした。お金に苦労することも多く、仕方なく親戚にお金を借りにいったこともあった。最初のうちは機嫌よく貸してくれていた親類も度重なる借金に、こんな時だけ親戚面づらしないでちょうだい、の一言。それ以後おばあちゃんは、頼れるものは自分とお金だと思い、来る日も来る日も機織りをして金を稼ぎ、子供を育てあげた。やがて病床に伏したおばあちゃんは意識が混濁する中で、無意識に何かを触ろうとしている。子供たちが手を握ると、違う、違うと振り払う。そして臨終の時、おばあちゃんは手を自分の枕の下に差し込み、息を引き取った。枕の下で彼女がしっかりと握っていたものは、なんと郵便貯金の通帳だった” “もう一人のおばあちゃんは、いよいよ最期を迎える時、ベッドで意識が朦朧とする中でやはり何かに触ろうと手をのばす。集まっていた子供たちが自分を探しているのではないかと手を握る。長女が握ると、お前じゃないと払いのけた。次女も同様に握ってもらえず、末娘の手も拒否。そして最後に、散々言い争いをしてきた嫁が手を出すと、しっかりと手を握り、世話になったなと言って息を引き取った” 早川先生はこの二人の話を紹介した後に、次のようにおっしゃる。人は、意識が朦朧としたり、無意識になった時に、その人の本性が出てしまうものです。恐いことです。いくら元気な時に、こんな言葉を残して、こういうふうに死んでやろうと思っていたってダメ。どう生きてきたかが全部出てしまう。通帳を握って死ぬような生き方はせんといてくれ! ちなみに、先生は通帳を握ったおばあちゃんは悪くないとおっしゃいます。仕方のないことだったと。しかし、自分が40年以上も主治医でありながら、そういう生き方の方向性を変えてあげられなかったのが、とても悔しいのだと、ご自分の反省に置きかえていらっしゃいます。私はこの講演のビデオを巡拝の時に持っていき、バスの中でみんなに見てもらうことにしています。何回見ても、この二つの話が印象に残ります。残り過ぎて、ついに昨年暮れに夢を見ました。臆病な人は認知症になっても臆病か、几帳面な性格は認知症になっても残るのか、バカは死んでも治らないのかという夢です。この夢が発端となって、仏教を改めて見直すことになりました。

■第122話 それを修行っていうんでしょ
意識が朦朧とした時に人の本性が出てしまう、とお年寄りの治療をしてきた早川先生(第121話「バカは死ななきゃ…」参照)は言う。だとしたら、このサイトで120回にもわたってエラソ〜なことを書き続けている私は、病気になって意識が混濁すれば、ひた隠しにしている(?)傲慢な部分や、周囲の目を人一倍気にしてオドオドしている自分を露呈する羽目になる。エライことである。で、私が実際に見た夢のテーマは「人は認知症になってもその人の性格が残るか」だ。読者の方も薄々お分かりだと思う。人の性格について良く言うではないか「あれは、あの人の性格だからなおらないよ」と。しかし、私としてはそれでは困るのである。このままいって認知症になったら、私は世にも恐ろしく、おぞましい姿を世間にさらすことになる。そこで、医大の助教授を退職してから仏教に興味があって、良く密蔵院に仏教の質問をしに来る斎木さんというお医者さんに質問した。「先生、認知症になっても、その人の性格は残りますか。ボケてしまえば、几帳面な人は几帳面さも惚けてしまうと思うんですけどね。グチっぽい人は、何でも不満に思う心も惚けてしまうことはないんですか」 先生の一言で、私の淡い期待は打ち砕かれた。「残るでしょうねえ」 「つまり、暴力団はぼけても凶暴性を残す?」 「はい、気に入らないことがあればすぐキレます」 「つまり、良く言う“性格はなおらない”ということですか」 「まあ、そういうことです。性格というのは脳のかなり奥のほうで作られている要素ですから、認知症くらいじゃそこまではボケないんですよ」 「エエッ!じゃあ、やっぱり、性格は絶対なおらない?」 「……いや、直せるでしょう」 「ハァ?」 意外な話の展開に私は、ビックリした。そして、斎木さんは言った。「だって、住職さん。それを仏教で修行って言うんでショ」 この日、私はとても嬉しかった。仏教のいう“修行”の意味が、やっとはっきりと分かったからだ。心の掘り起こしだ!傲慢な自分に気がついたら、自分が人を見下す正当な理由はあるのかを心の奥底まで掘りかえしてみるのだ。心の底のほうまで、耕して、豊かな土壌にしていくこと、それが修行なんだと思います。

■第123話 いい・かげん
さて、今回は掛川市の“ひじき”さんからのリクエストのお題をそのままイッタダッキマ〜ス。今年大学に入った次男が小学校5年生の時のことだ。次男だから、親からかまわれなかった反動で無鉄砲なところもあるのだが、兄の失敗を見聞きしているおかげで慎重なところもある。特に、子供時代は、権威ある人からの指示はかなり厳守する傾向があった(私も次男なのでよくわかる)。さて、この次男が高熱で学校を休んだ。友だちの元気な登校姿を複雑な表情で見ながら、学校のそばのお医者さんへ私と行った。診察後、看護婦さんは次男に薬の袋をわたしながらやさしく言った。「この袋の裏に、24時間時計のハンコを押したからね。これからお家に帰ったら、すぐ薬を飲んでね。そしたら、この時計で8時間後と16時間後に印をつけて、その時間がきたら、またお薬を飲んでね」 次男は、一言も聞き漏らさじと真剣な表情で、看護婦さんという医療の権威者の指示を聞いていた。家に着いてすぐに彼は薬を飲んで、自分の部屋で寝た。そう、風邪には睡眠が一番だ。夕方になると、何やらドタドタと大急ぎで次男が階段をおりてきた。“何だ?寝てたんじゃないのか?”とビックリ眼の父を横目に、台所へ駆け込むと、あわてて水道の蛇口を全開にしてコップに水を充たすと、薬を飲んだ。ほとんど息をしていなかったようで、飲み終わると大きくため息をついて「アブナカッタ……」と言った。「どっ、どうしたんだ?」と私は尋ねた。「薬の時間だったんだよ」 「えっ?だって、お前さっきまで寝てたじゃないか」 「だって、看護婦さんがこの時間にちゃんと薬を飲むように言ったんだモン。だからちゃんと起きられるように、目覚まし時計をかけておいたんだ。もうちょっとで遅れるところだったんだ。あぶなかったけど、間に合った」 私は呆れて言った。「そんなもん、お前。風邪には薬飲むより睡眠のほうがずっといいんだぞ」 「だって、看護婦さんが……」

■第124話 いい・加減
(「第123話 いい・かげん」からの続きです) せっかく風邪で眠っていたのに、看護婦さんに言われた“8時間おきに薬を飲むこと”を至上命令かのごとく思い込み、目覚まし時計まで使って起きて、わざわざ薬を飲む小学5年生の次男。私の“薬なんか飲むより眠ってるんなら、そのほうがいいんだ”という言葉に反論して言った。「そんないい加減な飲み方じゃ、薬が効かないかもしれないじゃないか」 「そんなこたぁ、ないよ。それに今、お前“いい加減”って言ったけどね。いい加減っていう意味知ってるか?いい加減って言うのは、お風呂なんかに入っていて“湯加減どうですか?”“ああ、いい加減だよ”って、“ちょうどいい”っていう意味なんだぞ」 それを聞いて、隣の部屋にいた中学1年だった長男が台所に入ってきながら弟を援護した。「まったく、お父さんはいつもそうやって話をテキトウにしちゃうんだから……」 援軍に私は少しタジタジした。しかし、ここで負けてはおられぬ。もう次男の熱なんかはどうでもいい、こっちが熱くなっているのだ。今度は長男に向かって言った。「あっ、お前。いまテキトウって言ったけどね。テキトウって漢字でどう書くか知ってるのか?“適するに当たる”って書くんだゾ!つまり、ちょうどいいって意味なんだぞ!」 こちとら、正当なことを言っているのに、非難されているようで、半泣き状態である。すると長男は、呆れたようにニヤリとしながら、やけに冷静に言った。「お父さんは、何だか言うことがアバウトなとこあるからなあ……」 「あっ?あ〜っ!お前、今アバウトって言ったな。何か買う時に“2、3個ください”ってアバウトな言い方するだろ。あれはな、3つください言って2つしかなかったら相手に恥をかかせることになるんだ。だから、あえて数をアバウトにして、相手に裁量権、つまり、えーと、なんだ、裁量権なんて言葉は分からないだろうけどな――つまり、お店のおじさんのことを思いやった、素晴らしい言い方なんだぞ。だからアバウトってえのは、いいことなんだ」 気がつくと、次男はもう台所にはいなかった。自室に戻ったらしい。私が、アレッ?という顔をしていると、今度は長男が、首をふりながら隣の部屋へテレビの続きを見に行ってしまった。 ……家族の者は誰も本気にしてくれていないが、私は今でも“いい・加減”というのは、心の幅のことだと思っている。ハンドルやブレーキのアソビの幅だと思っている。坊さん的に言えば、どう考えても、仏さまが四角四面の、余裕のない考え方をするとは思えないのだ。

■第125話 病の流れ流れて行くところ?
今回の“都鳥”さんからのお題は、最後の?マークが、じつに深いです。病をかかえている方の心の揺らぎがそのまま出ているような気がします。幸いなことに私は、入院はおろか、通院するような病気にもなったことがありません(そんなDNAを私まで引き継いでくれた両親や先祖に感謝である)。だから、病気の人の心理もわかりようもありません。そこで、今回は、50代から初期胃ガンで胃を半分切除し⇒顔面痙攣で頭蓋骨に穴をあけて神経と血管の間に石綿を挟むブロック療法をし⇒最初の胃ガンの手術の輸血がもとでC型肝炎から肝硬変⇒食道静脈瘤をモグラ叩きのように硬化療法で潰し⇒肝臓ガンで72歳で逝っちゃった父(フーッ長っ!)が、晩年に色紙に書いた言葉の一部をご紹介します。まずは、体調がすぐれない時に「もうダメだ」と言っては、家族を困らせた父的言い訳。 ・・・ 死ぬ死ぬと 言う人に限り 長生きと だから私ハ 死ぬという ・・・ 「そろそろ死んじゃうかも」と言われる家族はその言葉にどう対応してよいか分かりません。他にも次の言葉があります。 ・・・ 死ぬ死ぬと 言いつつ 生きる お年寄り ・・・ さて、身体のあちこちが痛んでいた父は、その痛みは何のためかを考えたようです。そこで書いた言葉。 ・・・ 痛み苦しみ支払い手形 しょせん帰りの片道切符  払えるうちに払っておけば いざという時ゃ フリーパス ・・・ 次の言葉は、父の好きだった古河メロディ♪人生劇場♪の節で歌えるようにと作った“お別れ説教うた”の一節から。 ・・・ 世話をやかせるつもりじゃないが そこははがゆい病の仕業  ありがたいとは思っていても ついついわがまま先に立つ ・・・ そして、死について、父のひとつの悟りを歌ったもの。“次生のうた”と題されています。 ・・・ 死んでとぎれるいのちじゃないよ 限り果てない大きな世界  用意支度は何もいらぬ またたき一つでもうあの世 ・・・ 最後に私の一番好きな詩を一つ。自分の人生を振り返って、父は“密厳風光”と題した詩を書き残しました。密厳というのは、大日如来の浄土のことで、私たちの世界も自然も丸ごと包まれた世界のことです。 ・・・ 夕陽の暮れた 光りの川で鬼ごっこ  朝日の昇る いのちの森でかくれんぼ ・・・ 

■第126話 ソウルメイト
ペンネームwitchさんから、ボランティア活動で知り合ったすごくいい人から、かなり影響を受けて自分の生き方まで変化したみたいだが、そんな運命の人的お題で書いてごらんなさいませ、とリクエストをいただいた。ご自身もそんな人のことをソウルメイトと言うのだろうか……と感じていらっしゃるようだ。人との出会いは、時に運命的なものに感じることがある。どんなささいな出会いでも何か縁があるというのを、諺で「袖すり(触れ)合うも他生の縁」と言ったりする(“多少”は間違いですヨ)。すれ違った程度の相手だって、現在の生ではなく、生まれる前の世界で何かしらの縁があった結果としてすれ違ったのだ――ということだ。じつは、ここ十年くらい似たような感覚を持つことがよくある。明らかに初対面なのだが、5分ほども話していると「この人とはどこかで会ったことがある。それも、かなり近い間柄だった筈だ」と思えてくるのだ。他生の縁を感じる時である。もちろん、全ての人がwitchさんの言うような魂レベルの友人(ソウルメイト)に思えるわけではない。私は今でもどこかで心を開ききれないところがあって、ソウルメイトと呼べる人に、仏さまを除いて、出会っていない(あるいは会っていても気がつかない状態か……)。ラジオの周波数がピタリと合うように、相手の気持ちや言葉に、私が同調したり、共感することはあっても、ソウルメイトというほど心の奥底でつながっていると実感することはないのだ。その点、witchさんの出会いは素晴らしいと思う。“自分は孤独ではない”を実感できるくらいの存在感のある人がそばに(そばでなくても)いらっしゃるのだから。あとは、良い生き方に導いてくれた人に敬意を払いつつ、自分が他の人にも同じように温かく対応していこうとすればいいと思う(できなかったら、マダマダ駄目ダナ……と思えばよろしい)。自分が前に向かって、どう人に接していくかが大切だと思う。前世の縁が来世(未来)の縁への架け橋となっていく筈だ。ちなみに、上智大学のデーケン先生は“出るから会える”という意味の“出会い”という日本語はとても意味が深く、素晴らしいとおっしゃっている。同感である。ウチ(内・家)にこもっていては出会いはないのである。

■第127話 盲目の尊敬
森鴎外の短編に、破天荒な言動をする二人の僧侶と、その二人が文殊菩薩と普賢菩薩の生まれ変わりだと聞かされて会いに行く人物を、ユーモラスに描いた『寒山拾得』がある。鴎外はこの作品の中で、物語をあえて中断して、話の流れをスムーズにするために、解説を書いている箇所がある。世の人々を“道”に関わる三種の態度で分類しているのだ。少々長いが引用してしまおう。 ・・・ 全体世の中の人の、道とか宗教とかいうものに対する態度に三通りある。自分の職業に気を取られて、ただ営々役々えきえきと年月を送っている人は、道というものを顧みない。これは読書人でも同じ事である。もちろん書を読んで深く考えたら、道に到達せずにはいられまい。しかしそうまで考えないでも、日々の務つとめだけは弁じて行かれよう。これは全まつたく無頓着むとんちやくな人である。次に著意して道を求める人がある。専念に道を求めて、万事を抛なげうつこともあれば、日々の務つとめは怠らずに、断えず道に志していることもある。儒学に入っても、道教に入っても、仏法に入っても基督教にはいっても同じ事である。こういう人が深く這入り込むと日々の務つとめがすなわち道そのものになってしまう。約つづめて言えばこれは皆みな道を求める人である。この無頓着な人と、道を求める人との中間に、道というものの存在を客観的に認めていて、それに対して全く無頓着だというわけでもなく、さればといって自ら進んで道を求めるでもなく、自分をば道に疎遠そえんな人だと諦念あきらめ、別に道に親密な人がいるように思って、それを尊敬する人がある。尊敬はどの種類の人にもあるが、単に同じ対象を尊敬する場合を顧慮して云ってみると、道を求める人なら遅れているものが進んでいるものを尊敬することになり、ここにいう中間人物なら、自分のわからぬもの、会得することの出来ぬものを尊敬することになる。そこに盲目の尊敬が生ずる。盲目の尊敬では、たまたまそれをさし向ける対象が正鵠せいこくを得ていても、なんにもならぬのである。 ・・・ 超能力者やら占い師を、自分にはない能力があるだけで、むやみに尊敬する人が時々いるものだが、その能力があるからといって、その人物が人格者とは限らない。一方その能力を身につけたいので真言宗の勉強をしたいと、若者が電話をかけてくる時がある。私は「座ったまま跳び上がりたいなら、体育大学へ行ってアクロバットチームに入りなさい。手を使わずに物を動かしたいなら、Mr.マリックに弟子入りしなさい。人の心理を知りたいなら、小説をたくさんお読みなさい」と答える。問題は何のために普通の人が持っていない超能力を使えるようになりたいかということのはずだ。特別意識など、百害あって一利なしである。

■第128話 何のための超能力
お寺の本堂へ行くと、お堂の軒下や、廊下に座っている、頭がツルツルのお坊さんの像と出くわすことがある。通称“なで仏”“お賓頭廬びんずるさん”として親しまれている。この方は、お釈迦さまの弟子の一人、つまりインド人で、正式名をビンズル・ハラダという。日系二世みたいな名前だ。さて、昔々のインドでのこと。ビンズルさんが街を歩いていると、大きな象の周りに人だかりができている。何だろうと近寄ってみると、象の頭の上にたいそう立派な木でできた鉢が載っている。象の持ち主いわく。「さあ、お立ち合いの皆々さま。象の頭の上の鉢を、手を使わずに取った方には、無料で進呈しますぞ」 鉢をもって托鉢しながら生活するビンズルさん、そのみごとな鉢が欲しくてたまりません。そこで、修行で得た超能力を使って、その鉢を象の頭上から、自分の手元へと空中移動させて、まんまと手に入れました。これで得意になったビンズルさんは、お釈迦さまに事の次第を報告。がっかりしたのはお釈迦さま。残念そうに、ビンズルさんに申し渡します。「お前の気持ちは分かるが同意できない。お前のその超能力はいったい何のためにあるものなのだ。自らを律し、悟りを得るための修行する者が、どうして、人前でその力を見せびらかし、自らの物欲をかなえようとするのか。そのような者は、我が集団に置いておくわけにはいかぬ。残念だが、破門である」 その言葉に、ビンズルさんは自分の至らなさを心底痛感します。そして誓いを立てます。「まったく馬鹿げたことをしてしまいました。私は今日より以後、悟りを目指して修行する仲間がいるお堂の中には入りません。いや、入ることなどどうしてできましょうか。私はお堂の外で、人々の苦しみを救うことに専念いたします」 こういうわけで、どうにか破門を許されたおビンズルさんは、今でもお堂の外にいます。人々は、自分の手足などの痛い所をなでては、おビンズルさん身体の同じ箇所をなで、再び自分の身体をなでます(現在日本では、保健所から、そういうことは衛生上イケマセン!とお達しが出てます)。超能力とケジメと人々のため、というお話でした。

■第129話 アブナイおばさんの装い
西国観音霊場第三十番の札所は、琵琶湖に浮かぶ竹生島の宝厳寺。ご住職の峰覚雄さんは、私のお友達。今回ご紹介するのは、彼から十年ほど前にきいた話です。その年の春先のこと。彼はいつものように、船でやってくるお参りの方々を、納経所で待っていました。お寺では、写経を収めたり、お堂で読経した人に、その証として朱印を押します。これを集めて持ってあの世へ行くと、極楽へフリーパスになります。その朱印を押すところが納経所です。船が着く時間になって、船着場からやってくるお参りの方々の中に、彼は異様な格好のご婦人を見つけました。歳は七十に近いはずなのに、歳不相応な赤い派手なワンピースをまとい、首からのネックレスの数も尋常ではありません。春先にはこういうアブナイ人が時々来るらしいのですが、うまく対応する自信がない彼は、そのまま本堂へ行ってほしいと、彼女と目を合わせまいと必至でした。が、彼女は彼の待つ納経所へ一直線。そして言いました。「これから本堂でお参りをさせていただきますので、ご朱印を頂戴できませんでしょうか。帰りにお寄りいたしますので」 納経帳面を差しだした彼女の両手の指には、これ以上はめられない程の指輪が…… やがて帰ってきたご婦人は、どことなくおどおどしている彼にこう切りだしました。「お坊さん。私のこと変なおばさんだと思っておいででしょう」 「い、いえ、そんなことはありません」 「私が、年甲斐もなく、こんな格好をしているのには、わけがあるんです」 彼女はその理由を話はじめました。「私は女学校の時に、広島で被爆しました。幸い命は助かったのですが、大勢の友達はその後も後遺症で入院いているんです。そのお友達が亡くなったという知らせを受けると、ご遺族にお願いして友達の身につけていたものを、形見として一つづつもらいます。このワンピースも、ネックレスも指輪も、どれもそのお友達の形見なんです。私は、こうして身につけて、お友達みんなと一緒に観音さまにお参りさせていただいて、みんなの冥福と世界の平和をお祈りしてるんです」 私はこの話を聞いて、人は外見で判断しちゃ駄目!以上のものをズッシリと背負った気になりました。物見遊山でお寺まわりをして、スタンプ帳のつもりで朱印を集めている人がいるもの事実。しかし、そうではない方々も大勢います。そのやるせない思いを聞き届けてきた仏さまが、ほら、あなたの近所のお寺にもいらっしゃいます。

■第130話 子は親の鏡?
reikoさんからのお題に、私が勝手に「?」をつけました。さて、広辞苑の【鏡】(キョウ)には、手本になるものという意味があります。だからこそ “親は子供の手本となるべき存在ですよ”なる意味で、親は子供の鏡といわれたりするわけですが……。だとすると、今回のお題は“子供こそ実は、親の手本じゃないか”という意味かというと、そうでもありません。一方で、鏡は、ありのままを写す性質を持っていますから、子供が何か悪いことをしでかすと“親の顔が見たいモンダ……”と揶揄やゆする言葉と同義語として使われることもあります。子供の姿に、自分の投影された姿を見ることは、間々ありますからね。そこでご紹介したいのが『アメリカインディアンの教え』の中の言葉。 ・・・ 批判ばかり受けて育った子は 非難ばかりします  ひやかしを受けて育った子は はにかみ屋になります  敵意にみちた中で育った子は だれとでも戦います  ねたみを受けて育った子は いつも悪いことをしているような気持ちになります  心が寛大な人の中で育った子は がまん強くなります  はげましを受けて育った子は 自信を持ちます  ほめられる中で育った子は いつも感謝することを知ります  人に認めてもらえる中で育った子は 自分を大事にします  思いやりのある中で育った子は 信仰心を持ちます  仲間の愛の中で育った子は 世界に愛をみつけます  公明正大な中で育った子は 正義心を持ちます ・・・ どれも「……だよなあ」と思いませんか。育った環境そのままを写す鏡のように子供たちは大きくなっていきます。だからこそ、こころ寛大で公明正大、思いやりを持ち、人(特に子供)を、褒め、励ましていける大人になれたらいいなあと思います。そうすれば、最初の意味で親が子供の鏡になれるはずです。そのために、にっこり笑いながら“わたしゃ、まだまだだなぁ”と反省し、周りの人を“同じ日に、同じ地球に生きている者同士じゃないか”と気づくこと、これが“初めのい〜っぽ”になりそうです。 
 

 

■第131話 魔法のメガネでみえるもの
アメリカのテレビドラマ(たぶん“トワイライト・ゾーン”)の中に、次のようなギャッ!という一話があるらしい。ある男が道路でメガネを拾った。ところが、このメガネ、ただのメガネではなかった。なんと、ものごとの真の姿が見えてしまう魔法のメガネだったのだ。男は、好奇心満々で、このメガネをかけて人々を見た。街を歩く絶世の美女が、メガネをとおしてみると、自信過剰で、わがままで、冷たい表情の、鼻がやたらと高い高慢な顔つきをしている。ぼんやりとベンチに座っているお年寄りを、メガネをかけて見てみると、純真無垢な天使の姿をしている、といった具合である。人は見かけによらないもの、姿と心は裏腹だと、最初は哲学的思考をしていた男も、次第に、自分だけが真実を知っているのだと、傲慢さが見え隠れしてくる。そんな時、彼は決して見てはいけないものを見てしまった。ある夜、洗面台の鏡の前に立った彼は、そこで魔法のメガネをかけてしまったのだ。そこに映った姿は、この世のものとは思えない、口が耳まで裂け、これ以上大きくならないほどひらいた目は赤く、悪魔のそれであり、世に言うところの身の毛もよだつ化け物の姿だった。彼はショックのあまり死んでしまった。ドタッ…… ねっ、恐い話でしょ。でも、もし、本当の姿が見えるメガネだったら、誰を見ても、虫でも、草木でも、み〜んな仏さまに見える筈なんです。仮に中途半端な魔法のメガネでも、一枚の紙を見たら、そこに木や雨や雲や太陽の光が見えないとおかしいんです。仏教者がこのドラマを作ったら、きっとそうなる筈だったと思います。

■第132話 丸ごとOK
ここに、自分の過去を否定し、現在の自分も否定している私がいる。私は、お寺になんか生まれた(過去を否定)から、友だちから「医者と坊主は丸儲けー」などといじめられるのだ(現在がイヤ)。私は天然パーマになんかで生まれた(過去を否定)から、みんなに「タワシ頭〜」なんて言われてしまうのだ(現在がイヤ)。そして、ここに自分の過去は否定しつつも、現在を肯定している私がいる。私は頼みもしないのにお寺になんか生まれた(過去を否定)けど、お坊さんにはならないで自分の好きなことをやっていくのだ。その自由はある筈なのだ(現在の自分にとりあえず満足)。私の髪は天然パーマでイヤだけど(過去を否定)、友だちはわざわざ高いお金を出してパーマをかけている。これなら天然パーマもまんざら悪くないかも……(他人と比べて現状を是認)。そんでもって、ここに、過去を肯定し、現在も肯定している私がいる。父の優勢遺伝で、私の髪は天然パーマ。おかげで、髪が固いので風で髪形もみだれることはなく、クシを持ち運ぶ手間もいらない。だいたいお寺に生まれたおかげでいろいろあったけど、お坊さんになれた。加えて髪を短くしているので、天然パーマも気にならない。今回は心理学を勉強しているお坊さんに聞いた、心のあり方の三つのパターンの話である。○○だったせいで、こんなになってしまった。○○だったけど、こんなになれた。○○だったおかげで、こうなれた。多くの人がいう“そのままでいいですよ” “Let it be” “丸ごとOKだよ”とは、第三のパターンのことでしょう。なるべく早く気がつきたいなと思います。

■第133話 Stay out of it
今回はミケさんからの「ギャンブルで何か」というリクエストをうけて綴ってまいります。ギャンブルと言えば、私にとってはパチンコ。大学生の頃、三時間ほど早めに家を出てパチンコ屋に入り、結局学校に行かなかったことは、一度や二度ではない。たぶん10回くらいはあったろう。宇都宮で高校の先生をやっていた時も、日曜日は朝からパチンコ三昧だった。きっとそのままだったら、ギャンブル依存症になっていたかもしれない(今回は“病的賭博”と呼ばれる依存症については書きません。“そんなものは甘えだ”と言い放ってしまいたくなる方は、ネットで検索してみてください。我が身の情報不足に、きっとギャッと言いたくなります。私はギャ、ギェ、ギィ、ギュ、ギェ、ギョ、ギャ、ギョ!と目を目張りました)。最近では、年に2回くらい、近頃のパチンコ台のカラクリはどんなものかという好奇心で、待ち合わせの時間に余裕がある時に、3,000円くらいやって終わるようになった。時間は30分が限度だ。それくらいやっていると“俺はここで時間をつぶすより、他にやることがある筈だ”と思い、“そうだ!本屋へ行こう!”と席を立つ。残った玉は隣の人に「使ってください」とあげてしまう。こうなるとギャンブルではない。しかし、ギャンブルが原因で社会的に破滅してしまう人、家族の笑顔を奪ってしまう人はそうとうな数にのぼるはずだ。その為のギャンブルから脱却するグループワークもあちこちで行われている。自分の心のためにならない、魂に悪そうなことに関して、仏教では、そこから遠ざかっていなさいと教える。英語で言うと今回のタイトルだ(たぶん)。殺生するようなところからはなるべく遠ざかっていなさいが“不殺生”という戒になる。なるべく二枚舌を使うことから遠ざかっていなさいが、不両舌ふりょうぜつという戒になる。ギャンブルが自分の心をむしばむと思うなら、パンチコ屋に近づかず、競馬場にも近づかず、麻雀やろうと誘われても断わる。その場に近づかないことを心がけていくことが第一歩のようだ。パチンコするな!と言われるより、パチンコから距離をおけ!のほうが、自分に甘い人にはずっと即効性があるような気がするのだが、いかがだろう。

■第134話 地球洗隊エコレンジャー
20代後半の3人の若者が、ゴー!ゴー!的ノリで、5月5日(ゴーゴーである)に北海道の稚内から歩きはじめた。向かう先は沖縄である。到着予定日は今年の大晦日だ。その彼らの持ち物はリヤカー(持てない……ので引くんですけどね)に積んだ寝袋などの当座の生活用品と、チラシである。チラシには、こうある ――地球自足。北海道から沖縄まで歩きながらアルミ缶、プルタブをひろっていきます。集めたアルミ缶とプルタブは車椅子に変えて、支援がおくれているというミャンマーへ届けます―― 新手の新興宗教か、はたまた政治結社か、過激な環境保護団体か? いえいえ、そんなつもりは彼らにはありません。何とかしようぜ、この地球…そのために俺にできることは何だ?そんな思いだけで、リヤカーをひっぱって、道に落ちているアルミ缶を拾い、旅をつづけているのです。このように、自分の利益を考えずに、他の人のためや、環境のために、笑いながら実際に行動をおこしている人のことを、最近では最高の賛辞として「アホ」と言います。  ……というわけで、アホな彼らの名前が地球洗隊エコレンジャー。今回、彼らが勝手に決めたアルミ缶拾いの任務を担当するのはレッド、ブラック、グリーンの3隊員。他にも文字通り色々なカラーの名前のエコレンジャーがいるらしいです。興味のある方は彼らのHP(→地球洗隊エコレンジャーHP)からネットサーフィン(死語?)してみるといいです。基本的には野宿しながら、とにかく歩く、歩く(時々走ったりもするらしいが、リヤカーを引いて2分以上走れるのは、元自衛隊のブラックだけなんだそうだ)。歩いている途中で、彼らのアホな目的に賛同した人たちが「よかったらうちに泊まっていきなよ」と言う人が、全国に、まあ、いること、いること。というわけで、ブラックとレッドが一泊、グリーンは10日間、密蔵院に逗留してくれました。旅をしながら自分の心を磨き、私利私欲を捨て、おのれ以外の物(者)のために、まず動いてみる……彼らの考え方と行動力に、仏教者の一つの理想の姿を見るのは、私だけではないでしょう。

■第135話 「動けば変わる」の土台
この夏、密蔵院に泊まってくれて、色々な話をしてくれた若者合計10人……。「動けば変わる」と言う言葉が彼らには、ぴったりです。家庭で二酸化炭素削減をはじめましょう――と、家計簿で見直してもらおう!と100日かけて、鹿児島から徒歩で家計簿を配って歩いた若者がいる。楽歩隊を名乗る哲也くんだ。仕事は路上詩人。奥さんとお子さんが車でバックアップしながら歩ききった。“あなたを見て、インスピレーションで詩を書きます”と旅をしながら活動している若者もいる。彼も路上詩人、隆策くんだ。路上から世界を変える!と静かに燃えている。精神保健福祉士の仕事のかたわらに、自閉症の人たちが、地域の中で暮らしていけるように立ち上げられたNPO“わーいんぐ”の事務局長をしている若者がいる。田村くんだ。もともとその土地にあった植生を利用して、里山、鎮守の森の再生、さらに海外でも「宮脇式」と呼ばれる植林をしていらっしゃる宮脇昭先生のお弟子さん、リョウさんがいる。密蔵院の緑増やそう計画に、一役買ってくれるそうである。無償で、エコレンジャーのマネージャー役をつとめているニックネーム、ジューシーがいる。若者の間で、多大な共感をあびているテンツクマン(彼の好きな言葉が「動けば変わる」です)のスタッフである。そして、前回ご紹介した地球洗隊エコレンジャーの3人。よくもまあ、こんなに行動力のある(称賛としての)アホな若者がそろったものだ。類は友を呼ぶとはこのことだ。……ということは、私も同類?……なら嬉しい限りです。グリーンこと学くんの密蔵院での10日間の逗留中、ちょうど写仏の会があった。「一緒にやろうよ」と学くんを誘い、参加者の方に次のように彼を紹介した。“人はいろいろなことを考えます。そして、その考えがしっかりと固まった時、不動という言葉で表わします。密蔵院の本尊さまもお不動さまです。不動だから動かないかというと、実はそうではないんです。心が不動になったら、次はもう動かざるを得ない。お不動さまの筋骨隆々の身体は、行動力を象徴しているんです。他の人のために、地球のために、具体的に行動をおこしている学くんの中に、私はお不動さまを見る思いがします。皆さん、井戸端会議で盛り上がってばかりいないで、動いてみましょうよ”

■第136話 どっちを選ぶ?
今回は、仏教を少し勉強した人なら知っている(?)こんな問題からスタートです。<問>あなたの目の前で、奥さん(or旦那)と、自分の親(父or母)が溺れていたとします。あなたはどちらを先に助けますか?この問題に、社会学者はこう答えた。社会の最小単位は夫婦であり、それが壊れると社会が駄目になる。したがって、奥さんを先に助けるべきである。続いて、儒教の学者がこう言った。何をバカな……。自分が、ここに、こうしているのは、生んで育ててくれた親あってのことでしょう。自分の親を先に助けずして、誰を先に助けるというのですか。二人の学者の論争を、目を閉じて黙って聞いているのは一人のお坊さん。ついに論争している二人は気がついて言った。 “坊さん、あんたはさっきから私たちの言い合いをただ聞いているだけで、何も言わない。ずるいじゃないですか。あなたなら、否、いっそのこと、仏さまならどちらを先に助けるか、お聞かせいただけませんかな” すると、目を静かに開けて坊さんが笑いながら言った……ハハハハハ。仏さまなら、そりゃ、手近なほうから助けます。私は20代後半でこの話に出合い、それまでの仏教観が変わった思い出があります。仏教って面白いんだなって。さて、実際には、私は二者択一(一瞬一瞬、その選択をしながら生きていると言っても過言ではありませんけどね)をせまられた時に考えることがいくつかあります。その1、今しかできないことを優先する。時間的な判断です。元気だからこそ、学生だからこそ、あるいは今の職場の地位だからできることなどです。私の場合、大学の授業の後に、毎晩通った英会話学校がこれにあたります。今じゃとても時間的に無理…… その2、やれそうなことよりも、一生懸命になれそうなことを優先する。精神的な判断です。何かを頼まれた時、やれるかな?よりも、楽しめそうかな?を優先します。この法話を書き続けている理由の一つです。その3、どっちを選んでも、いやいや、どちらかを選ばなければならないのなら、結果としてどちらを選ぼうと、自分がした選択に間違いはないのだ。二者択一不可能な場合です。重病になった時、意識を保って死期を早めるか、植物状態でも延命を選ぶか。お寿司を食べる時、好きなものを先に食べるか、後に食べるか。仏さまはどちらをえらんでも“そう、それで良かったのだよ”と言ってくれるはずです。

■第137話 縁起担ぎ?
学校の運動会の日に雨がふりそうだった。当時PTA会長だった私を含めて、来賓たちはとりあえず学校に集合。会議室に集まった。校長が入ってきて、恐縮しながら「どうも、私のふだんの行いが悪いものですから、こんな天気になってしまいまして……」 もちろん、本気でそうだと思う人はいない。しかし、私たちは、結果には必ず原因があることを知っている。あやしい雲行きになったのは、ひょっとしたら校長の日頃の生活態度の悪さなのかもしれない。だから、良い結果を得るために、その種をまいておこうというのが“縁起担ぎ”だ。で、今の日本でもっとも縁起担ぎがおこなわれている現場が、前話の最後でふれたお節料理だろうと思う(とはいえ、そう思うようになったのは今年のお正月からです)。子孫繁栄を願う数の子、八頭(やつがしら)に代表されるお芋。ダジャレの元祖みたいな鯛(めでタイ)、昆布(よろコブ!)。色形でなかば強引に連想づける紅白のかまぼこ、ナマス、海老(腰がまがるまで長生きしたい)、ハス(先が見とおせるように)。もともと、新年にやって来る神さまをもてなすために作られた料理だそうだが、とくに江戸時代になって平和が続いて、人々に洒落を楽しむ気風が育ち、それがお節料理にまで浸透したらしい。だから、これはもう半ば遊びの精神といってもいいだろう。さて、伝統を重んじるお寺としても、その遊び心で今年のお正月、我が家は有名ホテルの洋風お節を注文してみた。初の試みだ。しかし、結果は思わしくなかった。見た目は豪勢だが、ローストビーフやロブスターは三日間食べ続けられる味ではなかった。一食たべればもう結構です……そんな感じだった。正月だけでも豪勢に!という気風より、日本人の文化として、その年一年が良き年になりますようにと願いが込められていないと新年の料理としてはふさわしく感じられないことに気がついた。せめて洋風お節も、ウッシウッシ(牛牛)と笑え、ギューッ(牛)といいことが詰め込まれる、悪いことはロスト(無く)されるローストビーフはいかが?スターになれるロブスターはどう?などと語呂合わせをしてみたらどうかと思う。最後に“縁起”の正しい仏教的知識をお伝えします。この言葉は、どんなことでも原因があり、条件が加わり、結果が生じるという、至極あたり前のこと(まあ言い換えれば宇宙の法則みたいなもんです)を言っています。気をつけたいのは、この縁起に良いとか悪いという固有の性質はないということです。したがって、吉兆や凶兆を気にし過ぎるような縁起の担ぎ方はしないほうがいいです。何が良いか、悪いかというのは人によって違いますからね。

■第138話 ホンコン風が吹いた
娘の高校の姉妹校(オーストラリア)から、10日間(9/17〜26)の日程で交換留学生が11人きた。一週間前になっても2人分の受け入れ家庭(ホストファミリー)が決まらなくて、我が家に白羽の矢がたった。我が家の子供3人はきわめて英語の学力が高くなく(かなり彼らに気をつかった表現をしております)、家内も英語からはなれて30年を経過……。そんな家庭で10日間も日本語を喋れない子を預かれるの?加えてカレンダーを見ると忙しいお彼岸の一週間がバッチリ重なってる。しかし、ものは考えようで彼岸中なら私はだいたい寺にいる。その私はまあ日常会話くらいなら英語が話せる。“面白そうだから受けようよ!”といつもの私の軽いノリで決定。アニー(16才、一人っ子)という子を成田空港まで迎えに行った。空港ロビーに出てきた子は全員中国系の女の子たち。アニーも、香港生まれの香港育ち。二年前両親と共にオーストラリアへ移住したという。両親は上海生まれで、47才のお父さん(私と同い年)は香港でマーケティングの仕事をしていたらしい。“していた”というのは、つまりもう引退しているという意味でもある。現在は何もしていないそうだ。察するにお金は充分すぎるくらいあるのだろう。娘は空港で早速アニーとのツーショット写真を撮って、携帯電話で兄にその写真を送った。でないと、家でアニーを迎える二人の兄たちの心の準備ができないのだそうだ。娘はアニーに何を言っていいのか分からずモジモジ……。家内は単語羅列型英語と猛烈型日本語で、早くも食べ物の好き嫌いなどを聞きまくる。ところが英語と日本語の語順が逆になることなどとっくの昔に忘れているものだから、“天ぷら?イート(eat)?!”(天ぷらが食べます)とか、“ジェット?タイアード?”(本人は飛行機の長旅で疲れたでしょ?と言いたかったのだが、ジェットが疲労した?と航空会社の社員のセリフになってしまう)など、隣で英語の通訳を英語でするという不思議な体験をした。初めての日本。アニーにとっては習慣の違いを生で体験する貴重な場である。家の玄関で靴を脱ぎ揃える。家を出る時には、いってきます。帰ってきたら、ただいま。ご飯の前には合掌して、いただきます。そして、ごちそうさま。加えて我が家の習慣もある。洗濯物はちゃんと籠に入れておく。飼っている犬にはしっかり声をかけてやる等々。ところが彼女が滞在して4日目になって気がついた。緊張しているのはアニーだけではく、我が家の誰もが緊張しているのだ。否、アニーという香港からの風が、我が家のよどんでいた空気を新鮮なものにしてくれていた。家族みんながアニーのお手本になるように靴を揃えて脱ぐようになり、洗濯物をしっかり籠に入れるようになった。アニーになるべく声をかけることも忘れない。家の中でもやるべき人への気づかい……。16才の若い風が大切なものを運んで来てくれたのだ。アニーを引き受けて良かったと思った。

■第139話 分かりあうための言葉
(この話は第138話 ホンコン風が吹いたからの続きです) 10日間の交換留学生の受け入れ。学校側は、オーストラリアの姉妹校からやってくる高校生達をお客さん扱いはしなくていいですと言ってくれた。しかし、たった10日間、そうはいかないのが日本人だ。すき焼き、天ぷら、手巻き寿司、焼き肉、インド料理など、この10日間、我が家の夕飯はスサマジイものになった。16才のアニーはどれも、ヤミー(yummy = 美味しい)と言って食べた。タッキーの大ファンの彼女は、日本でしか手に入らないCDや本をお小遣いの限りをつくして買った。NHKの“義経”も言葉がわからないのに瞳にハートマークを100個くらい点灯させて見入っていた。さて、9月20日。彼女がやってきてから4日目の晩のことである。土曜にやってきたアニーは、日曜と敬老の日を過ごして、初めての日本の高校への通学日だ。彼岸の入りで家内も私もお線香つけでクタクタ。上の二人の兄たちは用事があって出かけていたので、4人で近所の焼肉レストランへ行った。娘もバドミントンの部活があって、みんな疲れていたようだった。食事をしていると娘が私に言った。「今日学校へ行ったら友だちに“よく交換留学生を引き受けたね”って言われたんだよ」 この友だちの疑問はまことに正しい。なぜなら、娘は英語が大の苦手なのだ。おまけにアニーは滞在中、娘と同室である。ほとんど英語が話せない娘とぜんぜん日本語が話せないアニー。私はアニーに英語で言った。「あのね、この子が言うには、今日学校へ行ったら友だちに、そんなに英語ができないのによく交換留学生を引き受けたねって言われたんだって」 するとアニーは日本語で「オオ、ダイジョウブ」と答えてから、英語で私に言った。「私は彼女と一緒にこの3日間、毎晩遅くまでタッキーのこと、音楽のこと、そのほかにもたくさんのことを話してるんです。確かに言葉はなかなか通じないかもしれないけど、私は彼女に英語を教えるために来たのでもないし、彼女は私に日本語を教えるためにいるのでもありません。言葉の目的って、お互いの心を通じ合わせることでしょ。だとしたら、言葉なんかカタコトでも、私たちはもう充分、お互いが分かりあえているんです。だから、ぜんぜん問題ありません」 まさか高校一年生の女の子から、こんなしっかりした考えを聞こうとは思ってもみなかった。私はオドロイタ。娘と家内にアニーが言ったことを伝えると、二人とも目玉を丸くした。焼肉を食べ終わるころ、不思議なことに4人とも元気になっていた。翌日、私はアニーが言ったことを反芻して思った。 ・・・ オレ ハ マイニチ コトバ ヲ シャベッテ イナガラ、ナント アイテ ノ ココロ ヲ ワカロウト シテ イナイノダロウ ・・・ 

■第140話 二股大根、八百屋の隅に捨ててある
それにしても、今回の兵庫の山口さんからのお題は、妙にイメージしやすいですね。どこかで見たことあるような……でも、一般の八百屋さんではあえて二股大根の仕入れはしないでしょうから、見ている筈はないわけです。私の想像力過多かな?農家の方によると、二股になるのは、根を二つに分けて強風で倒れないように、雨で流されないようにという、大根の涙ぐましい心意気なのだそうですが、まがったキュウリが消費者に人気がないように、二股大根も売り物にはならないそうです(私は気にしませんがねえ……)。さて、この八百屋さんでは売り物にならない二股大根を、売り物にしている場所があります。それは大黒さまと聖天(しょうでん)さま。まず大黒さまですが、この神さまを祀っているお寺では、二股大根が奉納されることがあります。それはこの大根が女性の下半身をイメージさせることから、えーと、コマッタナ……つまり子供が生まれる場所を想像させるところから、子孫繁栄を祈るためなんです(ちなみに大黒頭巾をかぶったその姿は、男性の象徴として考えられると言われています)。そしてもう一つの聖天さま。各地に“○○の聖天さま”と呼ばれている霊験あらたかなお寺があります。頭が象、身体が人間のこの仏さま(厳密には天だから神さまと言ったほうがいいですけど)の別名は歓喜天(かんぎてん)。その像は一人だったり、二人が抱き合っていたりしていて、密教の仏さまです。密教では人間の欲望の根源的な力をフルに発揮させて悟りの世界に至る方法があります。ですから性欲も肯定する場合があります(考えてみれば否定なんかできませんよね。先祖代々の性欲があるから私たちは生まれてきたんですから)。これを象徴したのが歓喜天です。この仏さまの供養は、密教の厳密な方法でしかできないために一般の家で祀られることはありません。男女和合の姿をした仏さまだけに、そこに供えられるものも二股大根で、それをさらに二本交差させた形が聖天さまのお寺の紋になっている場合もあります。このように二股大根には、独特の意味もあるんです。ですから、どうして、どうして、二股大根って、なかなか捨てたもんじゃないですね。今回は、ただの解説になってシマッタ……。 
 

 

■第141話 天寿って何?
『広辞苑』によると天寿とは“天から授けられた寿命”とあります。しかれば、天とは何だ?……と調べてみれば、空や空模様などに続いて “[4]天地万物の主宰者。創造主。帝。神。また、大自然の力。「天命」「天然」” とあり、[5]では “自然に定まった運命的なもの。うまれつき。「天性」「先天的」” とあります。つまり、天にしても、天寿にしても、私たちのご都合以前ということです。私が男(女)であり、いつの時代に、誰を親として、何番目の子供として、どのくらい生きるかということは、私たちには決められないことです。仏教では我が身や他の人のこういう状況を「仏の命を生きている」と言います。分からないことを、仏さまに丸ごと受け取ってもらうと思うことです。とても勇気がいりますが、分からないことを分からないとしておく勇気はとても大切だと思います。そうでないと、自分の運命が誰か(神さまや、霊)の仕業だと考えたくなってしまいます。これでは、自主性がなくなってしまいます。言い換えれば考える力(智慧)が働かなくなってしまいます。繰り返しになりますが、分からないことを分からないとしておくもの智慧(ちえ)なんです。今回のお題をくださった方は、生後25日のお子さんを亡くされた方です。せっかく生まれてきたのに、どうして、どうして、どうして……お医者さんから原因の説明はあったにせよ、ほとんど気休めにもならなかったことでしょう。同様に、私がここで「どうしてお子さんがなくなったかについては、分からないとしておいたらいかがですか」と書いても、おそらく納得できるものではないでしょう。だからこそ、私たちの先祖は「不条理な死(もともと死は当たり前とはいえ、私たちのご都合通りではありません)」を、人間の意思を超えた天が定めた「天寿」という考え方で納得しようとしてきました。最近では、もっと具体的な考え方で、早世した子や障害児の親になったことを納得していく人の話を聞きます。今の私にはこの考え方がとても納得のいくものなのでご紹介します。「この子の親には誰になってもらおうか、と神さまたちは考えたに違いない。“この人ならこの子の命を、早く世を去らなければならなくても、障害を持っていても、しっかりと受け止めてくれる筈だ。” こうして、私はこの子の親に選ばれたのだ」 早くそう考えられるようになることを、心からお祈りします。合掌

■第142話 皆に待たれて逝ゆく人は
芸能界では、人気絶頂の時に引退する人が時々います。山口百恵、キャンディーズなど、ファンならずとも「まだ続ければいいのに」と引退を惜しみました。さらに引退ではなく、尾崎豊、X-JAPANのhideたちのように人気絶頂で亡くなる場合は、大勢のファンが葬儀にかけつけて、その死を悼みます。葬儀の現場にいる者として、時々耳にする次の言葉があります。「住職さん。こうやって大勢の人に惜しまれているうちが華だね。誰もお参りに来てくれないようなお葬式は寂しいものね」 さて、今回のタイトルは10年前に亡くなった父が書き残した言葉の一部です。全文は ・・・ “皆から待たれて逝ゆく人は 皆から惜しまれて逝ゆく人より 幸せなのです” ・・・ というもの。つまり「あの人まだ死なないの?と死を待たれるような人は、えっ?まさか?あの人が?亡くなったの?と言われる人よりも幸せなのだ」と書いたのです。父がこの言葉を書いたのは、57才で母が亡くなってからしばらく経ってからのことでした。母が亡くなった時、父は61才でした。妻を亡くしてから肝硬変が発覚。それからは入退院をくりかえしていました。本当なら最も気の置けない(安心できる)妻が看病してくれる筈が、先に逝いってしまった。体調が悪い時、寺のこともできずに入院している時には“自分はひょっとしたら皆から死を待たれている者なのかもしれない”と思ったかも……。そんなふうに滅入っていた時に、きっと母のことを思いだしたに違いありません。まだまだ旅行もしたかった、孫たちとも遊びたかった、思い残すことがたくさんあっただろう妻……それに比べたら、“なんだかんだ言っても、57才で死んでしまった女房よりも、こうして生きている自分のほうがずっと幸せじゃないか”と。みなさん、まだ死なないの?と言われるくらい、うーんと、長生きしましょ!

■第143話 堂々人生
今週は七五三です。すでに文化の日あたりから街のあちこちで晴れ着の子供たちを目にしていますが、11月15日が正式な日。朝から綺麗にお粧めかしして、写真撮影、お参り、親類縁者へご挨拶…“おかげさまでこんなに立派になりました”と親が言い、子供がペコリとあたまを下げる。皆からの御祝儀やおひねりは、もちろん親の懐に入ります。子供は「私がもらったのに」と怪訝な目つきをしますが、世の中そんな簡単じゃない。どこでお祝いをもらうかわからないから、内祝いのお赤飯や千歳飴は多めに用意しなくてはなりません。親は喜びもひとしおの一方で、心遣いも大変です。さて、先週、檀家さんの子供が七五三で、夕方になってお墓参りにやってきました。お墓にはいっているおじいちゃんに挨拶していないことに気がついて、あわててお母さんとおばあちゃんと一緒にやってきたそうです。さすがに一日着物で過ごした女の子は、疲れ気味のようでした(足袋でツルツルした草履を長時間履くのはホント疲れるんです)。髪の毛がいくらかほつれていたものの、しっかりと着付けされたためでしょう、襟元はきれいにそろっていました。私は玄関でお線香をお点つけして、お墓に向かう三世代揃い踏みの親子の後ろ姿を見送ってハッとしました。おばあちゃんはつい5年程前までは“孫におばあちゃんなんて呼ばせない派”。そしてお母さんになった彼女はつい5年前までは、ういういしいお嫁さんだった。それが今や堂々たるおばあちゃん姿、頼もしいお母さんの言動になっているのです。子供の成長を祝う七五三ですが、この儀式はその子の周囲の大人たちが、その子を中心にした役割をしっかり務めることができるようになったお祝いでもあるかも……。結果論ですが、私は考えました。私は今、3人の子供の親らしくなっているのだろうか。結婚22年たった夫らしい雰囲気をもっているのだろうか。お坊さん歴(仏さまみたいになりたいなと思ってから)25年の僧侶っぽくなっているのだろうか。そして、10年後の自分はどうなっているんだろうか。いやいや、10年後などはどうでもいい。毎日を楽しく、しっかりと生きていくぞ!その積み重ねしかないのだ!ふり返れば結果論、今やることをやっていく、それが堂々人生だ。スミマセン、今回はイキオイで書きました。

■第144話 ザケンナ!
“他人を恨むエネルギーと許すエネルギーはだいたい同じである”という言葉に出合ったのは30歳代前半だっただろうか。何となく気になる言葉だったので、今でもしっかり脳裏にインプットされている(仏教者が言った言葉かどうははっきりしません)。なるほど、怒りや恨みなどのマイナス感情は心と身体をヘトヘトにする。同じ量のエネルギーならば、許すというプラス方向に使ったほうがずっといい。心も身体も元気になる。8年ほど前、駅のそばでPTA仲間との忘年会をした。さて帰ろうと駅のロータリーでタクシーを待っていると、二人の若者が酩酊気味で並んでいた自転車を倒してそのまま立ち去ろうとした。「えっ、そのまま行っちゃうの?」とつぶやくと、二人は私に向き直って首(というより顎)を前に出し、頭を約15度傾けて「なんだテメエ、文句あんのかぁ」とスゴんだ。幸い駅前交番のお巡りさんがすぐに出てきてくれて、彼らを交番へ連れて行こうとした。連行されながら彼らは私たちに「テメエら。おぼえてろよ」と叫んだ。ここで私は言わなければいいことを言ってしまった。「粋がってるんじゃないよ」――この一言で、彼らは再びブチギレ!である。お巡りさんの手を振りほどいて私に突進してきた。私は無抵抗を決め込んでいたので、胸ぐらを掴まれても何もしなかった。そして再びお巡りさんが捕まえると、今度はお巡りさん相手にケンカである。こうなると公務執行妨害だから、注意をして帰すというわけには行かない。調書作成の関係上、私も帰れなくなった。警察署までパトカーで行き(生まれて初めてパトカーに乗れた。嬉しかった)、すでに虎箱で寝ているという彼らに憤りを覚えながら調書に捺印し、午前2時にパトカーで送ってもらった。この話を4歳年上の兄に話したら「そりゃお前、一生懸命イキがっている人に“粋がってるんじゃないよ”と言えば怒るよ」と言われた。それを聞いて「ナルホド……」と思った。それと同時に不思議に彼らへの怒りも消えていた。それにしてもああいう若者は何とかしたいと思うのだが、昨年の成人式会場で乱暴狼藉をはたらいた若者たちに対して、コメントを求められた北野武は“自分で気がつくまで仕方がないでしょう”と言った。彼らが気づく材料は、マスコミからの批判はもとより仲間同士の会話など周囲に沢山あるはずだ。あとは彼らがそれに気づくかどうかである。できれば、腹を割った仲の友だちや家族が注意(意を注そそぐって書くんですねえ。初めて気がついた)をしてあげられれば、気づくまでの時間は短くてすむだろうと思う。

■第145話 後ろ髪、引くに引かれぬ坊主の頭
ここ5年ほどで、以前は頭だったところが額になってきた。これだけ私がお茶目な表現をしているのに、檀家さんは「住職もずいぶんはげ上がってきたなあ」とストレートに冷やかす。短くても髪の毛があるから、頭髪前線の後退が一目瞭然なのである。他人の身体的特徴をあげつらうことで満足感を得られるような生き方はしてもらいたくないので、時々剃ってしまう。ツルツル坊主である。叩くとペタペタ音がする。剃りたてで檀家さんに会うと「あれまあ。ずいぶん綺麗になりましたねえ」と言われる。「そうなんです。これで後ろ髪を引かれる髪もないんです」と訳の分からない返事をする。さて、皆さんが“坊主頭”と言うとき、いったい髪の毛の長さはどのくらいまでのことを言ってるんでしょう。1センチくらいまでは坊主頭ですか?意外だと思われるかもしれませんが、仏さまの中でいわゆる坊主頭をしているのはお地蔵さまだけなんです。あとの仏さまは、螺髪らほつと言って渦を巻くような右巻きの縮れ毛をしてるんです。これに対して出家した人は髪を切ります(僧俗一体の考え方を持つ浄土真宗はその限りではありません)。インドの時代から、髪の毛は社会生活と密接な繋がりがあると考えられていたようです。日本でも、伝え聞いた所では銀行マンは今でも短い髪は御法度だとか。ですから、普通の生活から決別して仏道修行に入る時には、社会生活と縁を切るという意味で、社会性を表す髪を切るんです。囚人が坊主頭にされるもの、社会性を絶つという意味でしょう。もちろん、髪の毛の手入れに気を使うような時間があったら心を磨くことに使いなさいという意味もあります。さて、ここでご紹介したいのは、まだまだ外見にこだわっている若いお坊さんたちの間で時々熱心に交わされる会話。“髪の毛を剃るんなら話はわかるんだよ。でも、伸ばすんならどこまで許されるんだ?” “そうそう。伸ばすんなら1ミリでも3センチでも伸びていることに変わりはないものな” “剃髪か、伸ばすかだよな” この議論に関しては、仲間から「“手を頭にあてて指から髪の毛が出ない程度まで”という伝えがある」と聞いたことがあります。お釈迦さまの遺言である『遺教経ゆいきょうぎょう』では、財産を蓄えようとしたり、怒りを抱いたり、奢おごりの心が起こるような時には“まさに自ら頭を摩まづべし”と戒いましめています。“頭にさわってみろ。どうして出家をしたか思い出すだろう”と。最近はお坊さん以外でもファッションで坊主頭にしている人が多くなりました。でも、不思議なことですが、頭は坊主でも、坊さんかそうでないか、だいたいわかるんですよね。

■第146話 無理やり好奇心
11月12日(土曜)、長野市内で約2時間のお話を頼まれた。午後1時からだったが、折しも紅葉シーズン。朝東京を出て、2時間緊張しっぱなしで法話してから、渋滞の高速道路を5時間以上もかけて帰って翌日法事!……では身体がもたないので、「行っちゃ嫌!」という家内の言葉に後ろ髪を引かれながらも前泊することにした。せっかくだから、ペンションに泊まってオーナーと話がしたいと思ったが、ネットで検索しても一人で宿泊できそうな所はなく、仕方なく市内のバイパス沿いのビジネスホテルを予約した。ホテルに着いたのは夕方6時半、アルプスからの冷たい風が夕闇せまる街を通り抜けていた。部屋で一息ついて夕飯を食べようと思ったが、ホテルのレストランは朝食バイキング専用で開いてない。そこで、ホテル前にある洋風居酒屋「華の舞」にパソコン片手に参上することにした。時刻は7時を少し回ったところ。案内されたのは一辺が4メートル位ある囲炉裏状テーブルの角の席。早速地ビールと3品ほどのおつまみを注文し、宗派の雑誌用の原稿を書き出した。席について20分ほどすると私のすぐ横、90度の角度の席に男性が一人案内されてきた。私との距離は1メートルない。彼がオーダーしたビールとおつまみ3品という数は私と同じ。彼はパソコンではなく、手帳を取り出して仕事の段取りを確認していた。私はビールに続いて、地酒を注文して、書きかけの原稿を保存し、パソコンの電源をおとすと、運ばれてきた辛口の冷酒をグイと一口飲んでから、意を決して彼に尋ねた。“意を決して”という表現は決して大袈裟ではない。同じ日に、居酒屋で一人同士。それも隣の席である。町のラーメン店で食事をするのとは違う。何か話しかけなければ不自然である。だから、これではいけないと、勇気を出して、聞いた。「失礼ですが、このお店のトイレはどこにあるかご存じですか?」 「いや、私はこのお店は3回目なんですが、トイレには行ったことがないので……」 後から考えてみれば、居酒屋へ来てトイレに行ったことがないというのは、大切なメッセージだったのだが、その時の私には、それが何を意味するか全くわからなかった。

■第147話 相手への興味、関心、好奇心!
今回は先週(第146話 無理やり好奇心)からの続きです。まずそちらをお読みください。居酒屋でトイレの場所を知らないという初対面の出張風サラリーマンの言葉に、「ああ、そうですか。失礼しました。では、店員さんに聞いてみます」と私は立ち上がって、通りかかった店員さんにトイレはどこか聞いた。彼女は目の前ののれんを指して"こちらになります"と答えた。トイレで小用を済ませて私は席に戻って彼に言った。「トイレは私たちのすぐ後ろでした」 「ああ、そうなんですか」 私はもう一歩勇気を出すために、冷酒をもう一口ゴクリと飲み込んだ。そして、言った。「お一人で、気楽に食事をされているところを恐縮ですが……実は私は真言宗の坊さんで、明日話をすることになっていて、先程東京から隣のビジネスホテル着いたばかりなんです。差し支えなければ、お仕事は何をしていらっしゃるかお聞かせいただけませんか?」 彼は手帳をカバンに仕舞うと、居ずまいを正して答えてくれた。「私は高崎のソファを作っている家具メーカーの営業なんですが、明日地元の家具屋さんでフェアがあって、その売り場の応援に来たんです」 営業マンらしく(というより彼のお人柄だと思うが)誠実な話し方だった。その後、私は子供(大学3年男、大学2年男、高校2年女)のことを伝え"差し支えなければ、結婚していらっしゃるか教えていただけませんか"と尋ねた。私は、なるべく自分のことを簡単に話してから、彼に同じカテゴリーの個人的質問をした。し続けた。だって、お互い出張で長野に来て、同じ居酒屋で、隣同士の席ですよ! いつの間にか、私はメニューにある地酒を全種類達成。彼もビールを4杯は注文していた。7時半くらいに出合った私たちは、ほとんどありとあらゆる話をして、気がつくとお店のBGMは"蛍の光"。結局二人で店を出たのは12時だった。翌日、私は二日酔いの身体を、紅葉が見事な川中島合戦場を歩きながらさまし、どうにか法話のお役目を果たして、大した渋滞にも巻き込まれずに帰坊(お寺へ帰ること)した。寺に着いて家内の夕べの顛末を告げると、家内は開口一番にこう言った。「あなた、その方がトイレの場所を知らないというのは、いつもトイレに行くほど長い時間は飲んでいないということよ。失礼なことしたんじゃないの?」 ……でも、私は思う。次の出張も、必ず居酒屋へ一人で入ってみようと。

■第148話 人に聞こえる独りごと
密蔵院で3年半にわたって「話の寺子屋」の講師をしてくださった村上正行さん(今年6月に亡くなった)は、大正13年生まれ。早稲田大学法学部から海軍へ。そして敗戦。焼け野原の東京で何気なく見た新聞の"NHKアナウンサー募集"の広告で、何千倍の難関をクリアーして昭和22年にNHKへ。配属先は松山放送局だった。その頃のことだ。ご本人いわく、当時私はなんの取り柄もありゃしませんでした。いくら顔が良くたって、当時はラジオしかないから、顔じゃ勝負できない(笑)。声だけでも良ければまだいいものを、残念ながらガラガラ声。それでも男一匹、これにかけては誰にも負けないというものが欲しかったんです。 ……で、ある時思いついたんです。自分の周りの人全員を誰よりも好きになってやろうと。これなら、他に取り柄のない私にもできるんですよ。そして村上さんはおっしゃる。よくパーティーなんかで、誰とも話さずに一人でポツンとしている人がいるでしょう。そんな人に限って 「どうして、みんな私のところへ来ないんだろう」 と思っているものです。そういう人は、独りごとのように、それでいてまわりの人に聞こえるように 「ああ、なんだかこの会場、暑いわね。私、この指輪脱ごうかしら」 なんて、大きな指輪をこれ見よがしにひけらかしたりするものです。なんのことはない。その人がまわりの人への関心がないだけなんです。自分が他の人に関心が持てないのに、自分には関心を持ってもらいたい……そんな人がいるものです。自分に関心を持ってもらう方法があるとすれば、自分から周囲の人に関心を持つ、それだけだと思うんです。私はこの話を聞いて、それまでの自分がどれほど周囲に関心を持っていないか再確認した覚えがあります。お坊さんという仕事がそうさせたとは思っていませんが、檀家の方が住職である私に気を使ってくれることに、慣れきっていたのです。

■第149話 八方ふさがり人生からの脱出
世の中には、これだけのことをすればこれだけの見返りがあるだろうと、熱心にやる人がいる。昇給目指して頑張る、サラリーアップを期待して張りきる、褒めてもらおうと躍起になる。ところがその見返りは期待通りにくるものではない。仮に期待通りの見返りがあっても、そんなことが永久に続くはずはない。最後には「チェッ」と舌打ちしながら愚痴を言ったりする。つまり見返りをもとめた行為は、どこかで行き詰まってしまうのだ。また、他の人が手を出さないような仕事も誰かがやらなければならないからと、犠牲的精神で“じゃあ、私がやります”と手をあげると“あの人は好きでやってるんだヨ”と勝手な陰口を言う人がいる。風の噂で自分のことをそんなふうに言っている人がいると聞くと、何とも情けない気分になるから、仕方なく「そうです。私は好きでやってるんです」と不貞腐(ふてくさ)れなくてはならない羽目になる。つまり犠牲的精神では、どこかで被害者意識が働くことになり、これも心晴々としない。私は、子供の頃からそんなことが今までどれだけあったことだろう。自分がやっていることの意味が、どうしたって八方ふさがりなのだ。5年ほど前、「四恩酬答和讃(しおん-しゅうとう-わさん)」を唱えていてハタと気がついたことがある。この和讃は仏教の教えの一つ“四恩”についてのものだ。私たちがおかげを受けている代表的な四つ――父母、国、自然を含めた自分以外の生きとし生けるもの、仏法僧――を感じ、それに酬(むく)いることの大切さを説いている。この和讃の六番の歌詞にこうある。 ・・・ この世は全て四恩なり  答えて返す心がけ  つくす世のためひとのため  これぞ仏道菩薩道 ・・・ すでに何百回も唱えていながら、この歌詞に、私の八方ふさがり人生意味論の一つの答えがあったとは、それまで気づかなかった。どんなことでも、ここまで私をしてくれた諸々のおかげに対する“ご恩返し”として、やらせてもらえばいいのだ。そう考えたら、私の生き方に、やっていること全てに、アマリがなくなった。

■第150話 曼荼羅? 序
今回はチベットの曼荼羅にほれこんで、ついに手描きのチベット曼荼羅を買ったというマティトミさんからのリクエストに反応してまいります。ちなみにマンダラは、もともとサンスクリット語なので、音写した場合に曼陀羅とか満荼羅とか曼荼羅などさまざまな漢字が使われることがあります。さらに蛇足ですが曼荼羅の“荼”は“茶”ではありませんのでご注意を。曼茶羅だとマンチャラになっ茶います。さて、一般によく見かけるのは真言宗で使われるたくさんの仏さまが描かれている曼荼羅かもしれません。そのレイアウトの緻密さと色使いが「仏教美術」としての価値を高めているとも言えます。しかし、本来は私たちを含めた大宇宙の営みについて、言葉じゃ説明できない(つまり理屈じゃない)から絵で表そうと描かれたものなんです。えーと、大宇宙という言葉を使いましたが、小宇宙でも同じこと。私たちが住んでいる宇宙も、ひょっとしたら、超巨大な生物のたった一つの細胞の中に納まっているかもしれませんし、私たちが流す涙一粒の中に、すさまじいほどの構造を持った宇宙があるかもしれないからです。極言すれば、一つの世界(自分を中心にした家族、友人、ペット、知り合いなどを一つの構造体として考えた姿でもいいです)を余すところ無くあらわしたものが、○○マンダラと呼ばれるものです。さて、20年ほど前になります。仏具屋さんが、父が住職をしていた寺に曼荼羅を売りにきました。関西の由緒あるお寺の曼荼羅を手描きで復刻した限定品(たしか一幅200万円くらいだったと思います)という触れ込み。しかし、ほとんどの真言宗のお寺には既に曼荼羅が本堂にかけられています。父の寺の本堂にも江戸時代の手描きの立派な曼荼羅がありました。営業マンは“このお寺にはすでに立派な曼荼羅があるよ”という父の言葉にもなかなか引き下がりません。塔婆書きを途中でやめて対応していた父は、営業のあまりのしつこさにこう言いました。「あなたが営業として曼荼羅を売りたいのはわかるよ。でもな、曼荼羅って何なのか知ってるか?いいか、このお寺が境内を含めて曼荼羅なんだよ。私自身が曼荼羅そのものなんだよ。だから、これ以上曼荼羅はいらないんだ。わかったかい?はい、さようなら」 それからしばらくして、私は「曼荼羅は仏さまの展開図」だと感じたことがありました。でも先輩のお坊さんから聞いたら平面じゃなく、あれは立体として見るんだと教えられました。3Dなんですって。誰もがもっている心の中の仏さまを、展開して、その人自身が曼荼羅になっちゃう。そうすると、歩く曼荼羅!おおらかな気持ちで今年もいきましょう! 
 

 

■第151話 わたしゃマダマダだな
30人程と一緒に四国遍路(八十八カ所霊場)を初めてした時のことだ。初日の宿は宿坊。つまりお寺で宿泊である。境内にバスが6台近くも入っていたから、たいへんな数のお遍路さんたちである。さて夕方、部屋でくつろいでいると、宿坊の人が“お食事の後だとお風呂が混雑しそうですから、その前にお風呂へどうぞ”と言ってくれた。こちらも初めての遍路なので、アドバイス通りにお風呂に入ることにした。さて、旅の疲れをゆっくり取ろうと思って、廊下を歩いて、廊下と脱衣所の間の引き戸を開けて足を踏み入れようとして、私のは唖然とした。すでに20人ほどの人が入っている様子なのだが、私が呆れたのは“もう混んでるじゃないか!”ということではない。問題は、その人たちの乱雑なスリッパの脱ぎ方なのだ。お寺のトイレなどにはよく「後から入る人のことを考えてスリッパをぬぎましょう」という張り紙がしてある。トイレにまでそんなことを書きたくなるほど、仏教でも“自分のことしか考えないのはヘンでしょ”と言う。なぜなら、自分が生きていることをちょっと考えれば(つまり智恵(ちえ)をつかえば)わかるからである。自分のまわりにあるすべての人や物と相互に依存しあっているじゃないか、ということである(相互供養といいます)。乱雑に脱がれたスリッパを見て私は思った……“四国遍路で修行しに来ているのに、こんなスリッパの脱ぎ方しかできないとは何と情けないことであるか!”私はそこにあった全部のスリッパを綺麗にそろえてから、お風呂に入った。やはり遍路ブームの影響で、このように観光気分でやってくる人が多いんだろうなあ……と、釈然としないまま夜を過ごして迎えた翌朝のことである。宿坊の朝は早い。食事の前に、まず宿泊者全員参列して朝の勤行である。お遍路さんたちは、神妙な面持ちで正座する。昨夜風呂場で好き勝手にスリッパを脱いだ人もその中にいたはずだ。聞き慣れた真言宗のお経を聞きながら(こういう時は私は自分では声を出さずにその場の厳粛な雰囲気にひたるのが大好きである)、心を静かにしていた。そして、お勤めがおわりに近づいたころ、私は自分にちょっと嫌気がさした。“なんだ、俺はまだまだダ……”  そう。お風呂場でああいうスリッパの脱ぎ方をする人だからこそ、四国遍路の修行をするのである。八十八カ所を巡拝し終えるころには、全員が人のスリッパをなおせるようになる筈なのだ。それが修行なのだ。しかし、前夜の私はそのことに気がつかなかった。駄目な自分であるからこそ、修行をするのである。駄目なことにガッカリする必要などない。駄目なことに気がつくことこそ大切で、だからこそ、いい人になれるのだ。

■第152話 誰ぞ知る、あんたが汚したんじゃないことを
前回は、宿のお風呂場でスリッパをどう脱ぐかということを、否、きちんと脱げないからこその修行なんだということを書きました。次に使う人の身になってスリッパを脱ぐ。掃除する人の身になってゴミを散らかさない。このように相手の立場にたって考えることを、仏教では“同事(どうじ)”と言って、人徳の一つとしています。この同事の考え方が中途半端だと家庭なんかでは、自分が買ってきたオヤツを“これあげないよ”という言葉にたいして相手が“じゃあ、私が買った時もあなたにはあげないヨ!”と実にサツバツとした状況が展開されることになる。ゴミの投棄なんかはこのいい例で、誰かが捨てると、相手と同じような立場に立って“みんな捨ててるんだから…”とあたり一面ゴミだらけになるという寸法である。さて、本題。お坊さん仲間から聞いた、修行中にお師匠さんから言われたというガツンな言葉がある。“いいか。トイレに入って、もし汚れていたら、ちゃんと掃除して出てこい。それをしないと、後から入った人が、お前が汚したと思われても仕方がないぞ”  ……ね?かなり強烈でしょ?誰でも自分がトイレに入ったら汚れていた経験はあるでしょう。それを掃除して出ないと、自分が汚したと思われる。“そんなバカな。だって私がやったんじゃない……”と言いたくなるけど、なるほどトイレに誰かと入れかわりに入った時に汚れていれば、さっきの人が汚したのにそのまま出て行った、と思いたくなる。だから自分が悪く思われたくなければ、綺麗にしてから出ておいでということなのだ(何だか文体がメチャメチャですが強引に続けます)。この“ちょっといい話”の流れでいけば、ここから“しかしながらであります。自分が悪く思われたくないので掃除するというのであれば、まことに動機が不純であると言わざるをえません”としたくなるところ。でも今回はそうはいかない。なぜなら、私自身が“冗談じゃない。俺を悪く思われてたまるものか”という思いで掃除することがまだ、5回に3回はあるからだ。しかし、少なくとも前出の仲間から20歳代後半にこの話を聞いてからは、掃除するようになった(それまではしてなかった)。それほど私にはガツンな一言だったのだ。やり続けていればその動機がエエ格好シイなのは分かってくる。だがそれに気づくころには、だからや〜めたとはならないというのが私の経験である。だれが汚そうと、汚れているから掃除する、ただそれだけでトイレットペーパーをカラカラと引き出せる日はいつになったらくるのだろう。

■第153話 拡大と縮小
さて、今回は沖縄から、ゆうさんのリクエスト。心がみだれた時の対処法についてです。まず、心がみだれた状態を早く平穏な気持にしたいというゆうさんに拍手です。心に波風がたっていることに気がつくことは、なかなか出来ない人が多いもの。しかし、そのままでは、冷静な判断ができなくなってしまいますからね。そこで、些細なことを(後から考えれば多くのことは些細なんですけどね)気にしなくなる方法をご紹介しましょう。 1.まず座ります(椅子でも床でも可)。軽く目を閉じて、すごくゆっくり10回、深呼吸(呼吸は吐き出すことを意識すると無理なくたくさん空気を吸えます)。 2.夜空に輝く満月をイメージします。 3.その月を胸の中に移動させるイメージをします(左右のおっぱいの中間あたり)。 4.その月を、自分の身体がすっぼり入るくらいまで、徐々に大きくしていきます(風船を膨らます感じ)。この“自分と同じ大きさ”のステップが大切。ここから先は月と一緒に自分も大きくなっていくイメージをしていきます。 5.さらに大きくして、自分のいる部屋の大きさの月⇒家の大きさ⇒県(ゆうさんなら沖縄)⇒日本列島の大きさまで膨張させていきます。 6.そこで、もっともっと大きく。地球をすっぽり包む月⇒太陽系と同じ大きさの月⇒銀河系を飲み込み⇒宇宙と同じ大きさまで、拡大させていきます。 7.ここで、宇宙大まで拡大した光り輝く月とそれと一体になっている自分を意識して、30秒でもいいから、その雰囲気にひたってしまいます。 8.さて今度は、宇宙を飲み込んだまま、月を小さくしていきます。銀河系大⇒太陽系大⇒地球大⇒日本列島大⇒家⇒部屋⇒自分をすっぽり包む大きさまで。ここで、宇宙全体が自分の中に収納されていることをイメージします。 9.そして、月をさらに小さくして胸の中にコンパクトに納めたあと、ふたたびもとの夜空へもどしてやってから、目を開けます。全体でかかる時間は2分から3分でしょうか。自分の中に宇宙を内蔵している感覚は、気分をとても楽にしてくれると思いますよ。心が乱れた時はもちろん、日常でも使える方法です。仏教に伝わる瞑想法の一つ、「月輪観(がちりんかん)」のご紹介でございました。

■第154話 俺って温かいんだ
“自分が温かい”と自覚してから25年がたった。この場合、温かいとは気持ちのことではない。体温の話である。私が生まれ育ったお寺(現在は兄が住職をしている)には釣鐘がある。携帯ラジオに合わせて毎朝6時、夕方6時(冬は5時)に突く。近所の人たちは鐘の音を合図に、ご飯のスイッチを入れたりしていた。朝の釣鐘は住職である父が担当だったが、夕方は、釣鐘時刻に父のそばにいた人が命ぜられる羽目になる。さて、私が大学生の頃のこと。2月の北風寒風吹きすさぶ夕方のこと。私に白羽の矢がたった。寺の大玄関を出て約50メートル先にある釣鐘まで、首をすくめて、手に持ったラジオでNHKの天気予報、交通情報を聞きながら到着。つづいてイタズラ防止のためにかけられている鉄の鎖のガラガラとはずす。手が鉄にくっつきそうな冷たさである。ラジオの交通情報が、一般道の情報から首都高速情報に変わるころ、捨て鐘といわれる鐘を小さく3回突く。そして、時報に合わせて、ドンピシャのタイミングで、ゴ〜〜ンとならす。大きいのは5時なので5回だ。一打の間隔は約40秒。回数を間違えないように、釣鐘堂の横柱に、はずした鎖を五列になるようにかけてある。最後に再びすて鐘を3回小さく突く。この間、手はポケットに入れて温めてはいけない。だって見た目が変でしょ。ここまで終えて、釣鐘に向かい、合掌して次の言葉を唱える。「天下泰平 万民豊楽 三界万霊 成三菩提(亡くなった人もふくめて、みんなが安らかでいられますように)」 私はそれまで何百回、釣鐘を突いたか分からないが、この日はいつもと違った。“天下泰平……”と唱えながら合掌した手の感覚に、生まれて初めて気がついたのである。“へえ、俺って温かいんだな”――不思議にもすくめていた首が伸びたことを今でもおぼえている。ニュートンの引力を引き合いに出すまでもなく、当たり前のことを意識しないことがよくある。しかし、当たり前のことを本当の意味で意識できると(そのためには心が落ち着いていないとムズイ)、心の密度が少し濃くなるような気がする。そう言えば、小学生の時に飼っていた犬を散歩していた途中、犬がジッと空を見上げたまま1分ほど動かなかったことがあった。そのことを兄に話したら「きっとこの犬にとって、初めて“空”を意識した場に立ち合ったんじゃないか」と言われたことがある。あれからレオナルドという名のチャウチャウが、妙に哲学者っぽく見えたものだ。

■第155話 捨てる神あれば拾う神あり
渡る世間に鬼はなし←→人を見たら泥棒と思え ・・・ 諺(ことわざ)は、その多くが、膨大な過去の経験(自分が生まれる前も含めて)が元になって今に伝えられている。だから全く正反対の諺が出現することが多々ある。どんなことでも自分の人生を肯定的に、お人好しに過ごしてきた人にとっては、どんなに悪い人だってトコトン悪魔のような人はいない。否、いなかった事実が“渡る世間に鬼はなし”になり、「世の中まだまだ、捨てたモンじゃない」とにっこりできる。一方で、詐欺やスリに遭った人にとっては、人は信用するとこっちが損をする、あなたも気をつけなさいと“人を見たら泥棒と思え”と諺る(コトワザル:諺を言うの意。私の造語である。無断使用許可……と言っても誰も使わないか)。これら膨大な諺は、それを体験した人から未体験者(もしくは、体験したての人)に“だから昔から言うじゃないか、○○○○だって”と使用されることがほとんどだ。今回の“ひじきさん”からのお題である“捨てる神あれば拾う神あり”も、過去の事実から(つまり結果として)、誰かを幸運な運命から引きずりおろすような事もあれば、そういう人が再び登用されることもあるんだ、だから落ち込んでばかりいないでしっかりやりなヨ、という(結果論的)励ましの言葉として使われる。ところが、経験をしていない人、あるいは体験したことが骨身に染みていない人にとっては“そういうもんですか”で終わってしまう。 ・・・ 犬も歩けば棒にあたる―――歩かない人には実感がないのだ。 ・・・ 禍福は糾(あざな)える縄のごとし―――禍の真っ只中にいる人はなかなかそう思えるものではない。実は、親が子供にするお説教も似てるな、とここ2年ほど思うようになった。“いま勉強しておかないと後で泣きをみるぞ” “早く寝ないと朝起きるのがつらいぞ” ――どれも親の実体験であるが、結果論である。いま泣きを見ているのは若い頃勉強していなかったからで、朝起きられないのは夜更かししていたからなのだ。しかし、これでは未体験者には説得力がない。今勉強しないで他のことに熱中し、起きていたいほど今やることがある子供にとっては「そうかもしれないけど……」と釈然としない。いけねえ、偉そうに書いたが、お説教と言えば坊さんの専売特許だった。“今”を語るように気をつけなければならないのは、私でした……

■第156話 正直であること
私が“青春の応援団長”と呼んでいる若者がいる。ギブソンのギターをドがつくほど太い音で弾く。歌詞に込められた思いを、表情ゆたかに精一杯に歌いあげる。大阪箕面在住のシンガー・ソング・ライター――森源太である。長崎出身の彼は、大学生の時ギターと出合う。在学中から路上で演奏活動を始めた。その時に、東京からやってきた元音楽関係者から“君、才能あるよ”と言われ、卒業後、好きな音楽で暮らしていけたらと思い、上京。一年間仕事をしながら活動を続けたが、鳴かず飛ばず……しかし、このまま九州へ帰っては必ず悔いが残ると思い。ママチャリに我が身とギターを載せて日本一周の旅に。“すべての出会いは必然だと思っとるとです”と言わしめるほど、多くの出会いが彼を育てた。彼のライブでは一曲ごとにその曲ができたエピソードが長崎弁で語られる。“20代半ばにして、世の中おかげさまなんだと悟ったとです” ――どこまでも正直で、熱く、聞く人を魅了してやまない。人が生まれ、生きて、出会うことを、心の奥でしっかりかみしめ、実はそれが当たり前のことではなく、有ること難いことだと源太は感じ、素直で優しい歌となって滲み出てくる―― ・・・ 生まれてくれて 生きてきてくれて 出会ってくれて  心から 心から ありがとう  『生命(いのち)』より。何かに挑戦しようとする時の不安、これから立ち向かうことになるであろう数々の困難、でも、小さい頃から桜の花の咲く頃に、いくつもそんなスタートをきってきた。その時、あなたは一人ではなかったじゃないか。大勢の人が応援してくれている、僕もその一人でいるからと源太は名乗りをあげ、力強いエールを送る―― ・・・ 全てが希望に満ちてはいない 背中合わせの不安がそこに  それが自分で選んだ道ならば 光の指す場所がその向こうにあるならば  乗り越えねばならない高い壁と 踏みしめねばならない刺すような痛み  笑いとばさねばならない深い怖さ 涙で繕わねばならない傷もある  『桜の頃』より。弱気になっているあなた、でも大丈夫。必ず今のあなたに意味がある。僕がそうだったと源太は確信に満ちて、背中を押し続けてくれる―― ・・・ 弱音くらい吐いても良いから 恥じることなどひとつも無いから  君の姿が誰かの笑顔に変わる 君の現在には大切な意味がある   『頑張れ』より。彼のライブでは、多くの若者が涙する。私も今の自分の悩みを重ね合わせ目頭が熱くなる。他への共感と励まし、そして勇気……歌を通してその大切さを伝える彼の土台になっているのは“自分に正直であること”だと思う。

■第157話 異説 不動明王
世の中に流布している(と言っても多分200人くらいしか言ってない……)の中に次のようなものがあります。“お不動さまには、座っているものと、立っているものがありますが、立っているお不動さまをまつってあるお寺の住職はいつも出かけてばかりです。逆に、座像の場合、そこの住職はほとんど寺にいます” これは真実だろうと思います。だって、密蔵院のお不動さまは、堂々と立っていらっしゃいますから。この噂話のありがたいのは、私が寺を留守がちで檀家の皆さんに迷惑をかけていることが、私のせいではなく、実は檀家さんの先祖が立像のお不動さまをまつったせいだという責任転嫁にもってこいの根拠になるからです。さて、本題。ここ三年ほど、とても気になることがあります。それは、お坊さんの話はどれもこれも「最初に仏ありき」という前提で話が始まるということ。真面目な顔して “亡き人も仏さまに救われていくことでしょう” “仏さまの国のことを浄土といいますが……” ―――ありがたいことに、多くの日本人はこういう話でも、そういうものかと思ってくれますが、反骨精神旺盛な方、唯物主義の方はそうはいきません。もちろん“仏とは悟りを開いた人のことです”なんてただ説明しても納得してくれません。どこにいるんだ?となります(じつは私がそうだったのです)。そこで、今回は、お不動さまという仏さまはおっかない顔してて、右手に剣を持って人々の煩悩を切り、左手に縄を携えて人々の悪い心が暴れ出さないようにふん縛りなんて話はしません(と言いながら半分してシマッタ)。お不動さまという仏(ホントは明王)を納得するためのキーワードはその名前である“不動”。ここから、皆さんに、仏教の面白さを垣間見ていただこうと思います。不動は、文字通り、動かないということです。だから座っている像があります(こういうのを“動かないぞう”といいます――というのは冗談です)。しかし、動かないのは身体のことではなく心の状態の事です。もうふらふらしていない心の状態です。今流に言えば「よっしゃ、やるぞ!」という“心が不動の状態”です。だって、何かを決めたわけですから、ちょっとやそっとじゃ心変わりしないでしょ。そういう人のことを“不動”って言います。

■第158話 続説 不動明王
今回は前回の続きで、不動明王ってホントにいるの?という皆さんの素朴な?から強引に引っ張って書きます。さて、身体ではなく、心が動かない(何かを決心した)状態が不動明王の“不動”です。しっかり考え方ができている人って、周りにいるでしょう。なにも全人格的に不動じゃなくてもいいんです。事に応じて、時に則してしっかりした考え方を持っている人です。以下は誰か具体的にどなたかを思い浮かべてお読み下さい。お父さん、お母さん、兄弟、友達、先輩、知り合いなど、だれでも結構です。そういう人ほど、自分には厳しいものです。何かをするためには、万難を排して進む。こっちのほうが楽そうだ、などと易(やす)きに走るような妥協はしない人です。まるで心の剣で弱い心を断ち切るようです(それを象徴して不動明王は右手に剣(つるぎ)を持っています)。また、ついつい心がフラフラとしてしまうような時にも“これはイカンぞ”と心を引き締める―――そんな心の状態を、左手の縄で表しています。他にも、事にあたって、その燃えるような情熱が、些細な心の迷いを燃やし尽くすようなこともある――それが背にする火炎の意味する所。その人が、いい意味で他の人のために何かをする不動の心を持っている人(たとえば子供のためを思う一心でわが子を叱る母親)であれば、その心が、お不動さまの頭の上にある蓮の花となり、また束ねた髪を左に流す姿になります(左は仏教で衆生のこと)。さて、ここまで自分以外の誰かを思い浮かべて読んでいただきましたが、ご自分はどうですか?以上のような心――そのかけらもないですか?いやいや、きっとあるはずです。かつて、自分の中に、そんな力強い不動の心を意識した人がいた。その時、不動明王という仏が誕生した……。私はそう考えています。そして、心が不動であれば、何かをするために、身体が動くことになります。(心が)動かないから、(身体が)動くのです。だから、お不動さまの身体は筋骨隆々です。密蔵院の本尊さまである不動明王の前に座った時、私はいつもこう思うんです。私の心の中の、いい人になろう、いいことをしようという勇気、出て来い!その勇気は必ず私の心の中にある筈だ。その目の前のお不動さまの像は、そのための増幅器。その増幅器にスイッチを入れるための合掌だ…… 座から立つ時、不思議にも「よっしゃ、やるぞ!」という気持ちが湧いてきます。―――これが私の仏教へのアプローチの方法なんです。

■第159話 草葉の陰
今回は“みみな”さんから質問、“人は死んだらどうなるの?”に沿って綴ってみます。みみなさんは中学生(だっけ?)、人生の疑問にたくさんぶつかる頃ですね。是非自分の心を耕せるような答えを見つけていってください。4年前のこと、父の7回忌(亡くなって6年目)の法事をした(父が住職をしていた寺は現在、兄が住職である)。久しぶりに親戚一同集まって賑やかな場になった。次男である私の奥さんは、私にとっては奥さんでも、他から言えば“次男の嫁”である。嫁の立場から、かなり気を使ってくれていた。精神的に二人ともけっこうクタクタになって夜、密蔵院へ戻った。お風呂に入り、さあ寝るかという時、私は家内に尋ねてみた。「ねえ、うちのおやじ、今はどういう所に住んでいるかなあ?」 「きっとお寺みたいな所よ」 「ふーん。亡くなった時は草葉の陰にいたけど、今はもうちゃんとした家に住んでるのか……」 「そうね。草葉の陰じゃないでしょうね」 「そっか。その家には庭があるかな」 「あるわよ」と確信めいて答える。「そうすると、おやじはその庭を歩いたりするかな?」 「そりゃ、するでしょ」 「その時、何を履いて歩くかな?」 「やっぱり、ぞうりじゃないかしら」 「じゃあさ、そのぞうりの鼻緒が切れた時、その近所になおしてくれるお店あるのかな?」 「……知らないわよ。そんなことまで」とムッとして続けた。「さっきから、あなたばかり質問してるけど、じゃ、あなたは、お父さんは今頃どこにいると思うのよ!」 「……知らない」 「何、それ!ずるいわねえ」 「でも、お前、スゴイよ」 「何がよ!今頃ほめたって遅いわよ」と怒っている。「だって、おやじがいる場所をそこまで具体的にイメージできるんだろ?それってとてもいいことだと思うんだ」 「何をごまかしてるの?あなた、お坊さんでしょ。あなたはどう思ってるのよ!」

■第160話 元いた場所
今回は前回(第159話 草葉の陰)からの続きです。まずそちらをお読みください。「亡くなったお父さんが6年たった今ごろ、お坊さんのあなたは、どこにいると思うの?」 「俺?」 「そうよ、あなたよ。あなたはどう思うのよ!」 「俺は、元いた場所に戻っていると思う」 「元いた場所ってどこよ」 「まだ生まれる前にいた所だよ。父親の精子でも、母親の卵子でもなかった時にいた場所さ」 「……?」 「俺たちって、精子でも卵子でもなかった時にいた場所があると思うんだ。なんか前世みたいな話だけど、俺はそこにいた……そんなかすかな記憶というか、確信があるんだよ」 家内はますます??? 「その場所のことを、あの世とか、天国とか地獄とか、浄土とか言ったりするんだろうけど、俺たちは、死んだらそこへ戻って行くと思うんだ」 ――これを言った4年前には、感じなかったが、今この文章を書いていると、確かに自分自身、過去何十万回もそれを繰り返していたような気がする。元いた場所――それを自然と考えれば、人は死んだら自然に帰る(否、環るダナ)という表現になる。宇宙と考えてもいいだろうし、ドラえもんのパラレルワールドではないが、別の次元と考えてもいい。その別の次元も含めた時空観という考え方もあるだろう。それは人それぞれ呼び方が違うだけだ。実は前回からの話の土台になっている“人は死んだらどうなるのか”という“みみな”さんのお題には、死んだら意識もなくなってしまうのでしょうか、という疑問も付記されていた。私は、元の世界にもどった時、個性といえる程の意識は残っていないだろうと思ってます。でも、あなたが、頬を撫でる春の風に「気持ちいい風、ありがとう」と思える感性があれば、青空に流れる雲に「そっか、のんびりやれよって教えてくれてるのか」と感じる感受性があれば、お葬式の日の雨に「なみだ雨……天地も悲しんでいる」と雨を手のひらで受ける心の余裕があれば、元いた場所にも、亡くなった人たちの、これから生まれてくる命たちの意識があるということになりはしないでしょうか。 
 

 

■第161話 恐怖霊から祖霊へ
今回は冒頭から恐縮ですが、「苦」=「ご都合どおりにならないこと」という仏教の大前提からスタートです。自分のご都合通りにならない横綱格が、生まれること、年をとること、病気になること、死んでしまうことの四つ。続いて大関格が、愛するものと別れること、会いたくない人と会ってしまうこと、求めても手に入らないこと、物体と精神のバランスが上手くとれないことの四つ――これが総称されて「四苦八苦」となります。じつは、私はこの他に気象現象などを含めた「自然」を入れてもいいと思ってます。人類はその強大な自然現象の前に、長い間、なすすべもなくただただ畏敬の念で接してきました。そして、ひとたび天候が荒れたり、地震がおきた時には、それまで穏やかだった自然界の“意志”が怒っているのだと考えました。この意志を「タマ」と呼んでいます。今でも、晴れてほしいのに雨が降ると「誰の行いが悪いんだ?」と冗談まじりに言うことがあるのは、何かの意志が働いたと考えるからです。誰かの行いがタマを怒らせた。だから、タマが怒って、罰を与えるために、私達のご都合に合わない雨を降らせたとなるわけです。このタマが怒った時に、それをなだめるために行われるのがお祭りです。つまりお祭りをして、バランスを取ろうとするのです。さて、この、川を反乱させたり、土砂崩れをおこさせるほどの力を持っているタマが、強大な力を持っている人間に当てはめられると“タマシイ”となります。“強大な力”というのは権力や肉体的な強さ、精神的な強さと言っていいでしょう。考え方一つで、赤ちゃんでも、主婦でも、坊さんでも、人は誰でも強大な力を持っているので、みんながタマシイを持っていることになります。人が亡くなるとこのタマシイは、畏怖の対象になります。言いかえると、人は亡くなってすぐは、恐怖の対象です。見ず知らずの人の遺体に触れることは簡単にできるものではありません。生前の対応の仕方が亡き人への負い目となっている遺族(知り合いも含まれます)の場合は、尚のこと、恐怖霊に思えてしまいます。この恐怖霊を穏やかにするために、生きている者はそのタマシイを手厚くもてなします。そのようなもてなしを受けて、やがて穏やかになったタマシイは森や山に落ちつき、子孫を守るようになる(“ご先祖さま”です)。そして正月とお盆に子孫の元へ帰ってくる、というのが、日本人の霊魂観と言われるものです。

■第162話 これじゃタマシイがかわいそう
さて、今回は霊感商法の核心について書きます。一人でも多くの人が、恐喝詐欺の犠牲にならずに、しっかりと自分におこることを受け止めていただければ幸いです(今回初めて読む方は、まず、第159話「草葉の陰」〜第161話「恐怖霊から祖霊へ」まで簡単にお読みください)。さて、ここに[結果]があります。結果が出るためには、原因があり、その間に縁がまとわりつきます。つまり、原因+(縁+縁+縁+縁+縁+……)=結果です。これを「そんなことはない」と言う人はいないでしょう。宇宙を貫く大法則です。そして、結果が元(原因)になって、色々な縁が集まって再び次なる結果が出てきます。お腹がすいた(原因)→ご飯を食べた(縁)→トイレに行った(結果)。トイレに行った(原因)→使用中だった(縁)→我慢して気分が悪くなった(結果)。たとえが下品でゴメンナサイ……。 でも一番身近かな例ですから。言いかえると私たちは、いつも何かの結果の真っ只中を生きています。パソコンをつけた(原因)→「ちょっといい話」をクリックした(縁)→今これを読んでる(結果)ということです。霊感商法の手口は、この目の前の結果を、自分のご都合通りではない、不幸なこと、禍(わざわい)だと感じる私たちの心に付け込むのです。誰だって、不安や痛み、苦しみを持っています。家族のこと、健康のこと、仕事のこと……その不安や苦しみをおこさせているのが死んだ人のタマシイなのだと脅かします。悪徳霊感商法が新聞に入れるチラシの「霊のさわりとして現れる症状や現象」を見たことありますか?普通の人なら笑ってしまうようなことが書かれています。受験の失敗・夜更かし・家庭不和・家庭内暴力・離婚・遺産相続争い…… 肩凝り・頭痛・関節炎・糖尿病・便秘・花粉症・ハゲ・癌・リューマチ…… リストラ・交通事故・倒産・社内の人間関係のトラブル…… 誰だって、かならず一つや二つは思いあたります。しかし、多くの人は、それほど差し迫った問題として考えていないし、“どこにでもあることだ”と考えることができます。しかし、私たちは、今抱えている不安や悩みという眼前の[結果]が導きだされたもともとの[原因]を知ろうとします。辻褄合わせがしたくてならないのです。そうしないと安心できないのです。 ――世の中には良くある交通事故だが、どうしてそれが私に起こるのだ?他の車と一緒に流れにのって運転していたのに、どうして私だけスピード違反になるのだ?どうして、他の人ではなく、私が癌になったのだ? これを、霊感商法という金儲け集団は、霊の仕業(しわざ)だというのです。霊のせいにすれば、辻褄が合います。“そうか、やはり私の責任ではなかった。霊のせいなのか” これじゃ霊が可哀相ですよ。―――

■第163話 霊感商法の手口
自分にとっての不都合の原因が思いつかない時、新聞折り込みの霊感商法のチラシ。「霊の障りは実在するのです。手遅れにならないうち早めの因縁鑑定を。鑑定料一件3,000円の安心料金」――もしやと思って電話をしてみる。概要を話すと「経験から申し上げると、霊の因縁の可能性が高いですね。でも大丈夫。しっかり供養すれば、その障りはなくなりますから。一度おいでください」 鑑定所のドアを叩くと、待合室で家族構成、生年月日、菩提寺の有無など、後で脅かすための材料を記入させられます。ほかにも待っている人(サクラの場合もあります)がいることもあります。「お宅もなにか悩み事ですか」 「ええ、じつは……」。部屋へ通されると「色々お困りでしょうね」と優しい言葉。続いて「まあ、とにかくお座りください。まずあなたの周囲の霊をみてみますから」と瞑想するフリ。で目をあけて「こういうことでいらっしゃったのですね」。ズバリ的中!当たり前です。待合室に隠しマイクがあったのですから。でも、当人はビックリします。どうしてわかるのだろう。この人はスゴイ霊媒師なのかもしれないと思う所で 「わかりました。あなたの不幸の原因は先祖の霊によるものです。」 「でも、両親の供養はちゃんとお寺でやってもらっています」 ――こういう場合には 「3代以上前に行方不明になってそのまま亡くなった方がいます」 「そんなの聞いてませんが」 「行方不明になったので世間体が悪いから子孫に伝えられていないのでしょう」 相手はプロの詐欺師です、どんな場合にも手を変え、品を変えて、因縁を武器に脅してきます。「どうすればいいですか」 「まずご供養しましょう。供養料は一霊につき5万円です」 「一霊につき?」 「ええ、あなたの場合、今の不幸は父方の行方不明の霊ですが、母方にもそういう方がいて、心やさしいあなたに気づいてもらって供養してもらおうとしています。だから二霊ですね」 さすがに合計10万のお金は持ち歩きませんから、次回予約。ここで、家に帰った時に、大勢の人に相談ができれば、「なんか怪しいから止めたほうがいい。菩提寺の住職に相談したほうがいいよ」と知恵が働きますが、独り暮らしだとなかなか相談できません。家族と同居していても、相談する相手がいなければ独り暮らしと同じです。2度目に10万円を持ってでかけて、供養してもらってやれやれと思うと 「まだ私が感じることのできない霊がいるといけないので、お位牌を作って供養したほうがいいですよ。今後こういう不幸がおきないようにするためにも、オススメです。お位牌は魂入れの供養料を含めて一体10万円です。父方、母方の両方を作ったほうが安心できますね」 ――このように、一つお金解決すると、次の脅しの道具を用意しています。くれぐれもだまされないようにご注意ください。

■第164話 トドのつまり
今回の話は、魚のボラが成長するにつれて呼び名が変わり、最後にトドと呼ばれるな〜んてことを書く訳ではありません。159話から進めてきた日本人の霊魂観念と、脅迫詐欺(霊感商法)がかたよった解釈の仏教語を使って皆さんの心を悩ますカラクリについてまとめようとつけたタイトルです。自分に不都合なことが起こった時に、私たちはその原因を知ろうとします。その原因が判らない時に霊を登場させます。ここで、私が敬愛してやまない曹洞宗の中野東禅先生の言葉を引用させていただいて、な〜るほどと思っていただきたいと思います。「霊信仰では“霊”が本尊でありカミさまであり、私を支配する絶対者になってしまいますが、仏教では真理を本尊とし、自然感情としての霊観念などは、その中につつみこまれることによって、より美しい霊観念に昇華すると考えます。素朴な宗教感情や、誤った観念でもすぐに否定しないで、より高いさとりの立場になることをすすめ、そこから、先祖の観念や死者観念を照らすのです。それらは否定しあうものではなく、共存しあうものです。死者霊を本尊とするのではなく、さとりと愛につつまれ照らされて死者への想いを大切にするのです。すると、死霊観念はたたりとしてではなく、愛として昇華して共存するのです。愛があって霊をみとめるのは感謝型であり先祖まつり型です。それが正しい仏教につつまれて、さらに徹底すると、さとりの立場になります。そこでは死者をいたわっていながら、霊にこだわらない立場です。ところが、愛がなくて恐怖心や負い目のある人が霊があるというのはたたり型になります。あるいは、そうした人が霊を否定すればニヒリズムになります。」 「霊信仰は支配者を想定して自分の不幸につじつまを合わせることだといいましたが、観音さまや、阿弥陀さま、地蔵さまなどに祈ったり、礼拝するとき、私たちはこれらの仏の威力という支配力を期待しています。すると、そのちがいはいったいどこにあるでしょうか。霊というものは、人間の負い目やしがらみや欲望や怨念によって形成された支配者です。それに対して観音さまや阿弥陀さまは、人間のご都合を越えた“縁起”“空”という真理の象徴です。ですから仏さまに祈ることは、人間のご都合をこえてあるがままの真実や真理におまかせする心を呼び起こすのです。それゆえに、仏さまを礼拝していると、はじめは人間の欲望で祈りはじめても、いつしか真理と共鳴し、真理におまかせできるようになるのです。」 勇気を出して、自分の心を奥そこまで見つめてみる。そこにこそ、いま抱えている問題の解決策が用意されています。近くのお寺の本堂でじっくり座ってみたり、それが無理なら本堂の前で手を合わせて、“こんな時、仏さまならどう考えるだろう、そしてどうするだろう”と自問してみることをお勧めします。

■第165話 アイデンティティ
さて、今回は「私は誰?何者?あなたとどう違うの?」というアイデンティティについてです。大辞林を引いて今回の内容に合致する解説を見てみると、アイデンティティ(同一性)[identity]《哲》人間学・心理学で、人が時や場面を越えて一個の人格として存在し、自己を自己として確信する自我の統一をもっていること。自我同一性。主体性。 ――とあります。「自我の統一をもっている」というのは、キーワードですね。別な言い方をすれば、他と比べて自己確認をする必要がない自我ということでしょう。今回のリクエストをくださったtomoさんは(三十路)という注意書きがしてありました。……ということは、団塊ジュニアと呼ばれる世代です。第二次大戦が終わり、男たちが戦う必要がなくなって、昭和22〜24年にドッカーンと子供たちが生まれました。日本の人口のなかで、突出して大きな塊(かたまり)を形成しているので、この世代を堺屋太一さんが“団塊の世代”と命名しました。その子供たちが団塊ジュニアです。団塊の世代は大勢いるので、自然と競争が激しくなりました。加えて物がない時代でしたら競争に勝つことは、家の中に物が増えていくことでもあり、「昨日の自分」より「今日の自分」のほうが物質的に豊かになるという「神話」のあった世代です(今やその神話は崩壊しましたが)。数年前のトヨタのCM「いつかはクラウン……」はまさにこの世代の心情に今一度火をつけようとするものだったのです。一方で、競争は学歴による差別化を生んだといわれます。それがやがて偏差値教育となります。テストで何点取ったかではなく、全体の中で自分はどの位置にいるかで自己確認する、つまり比較による自己確認を流れの中に、日本全体が巻き込まれていくことになります。(……ヘンダナ。今回は社会学か経済学のエッセイみたいになってるゾ。まあいいやもう少し続けよう……) えーと、つまりですね。今は、物が増えていくことではアイデンティティを持てなくなっています。そして、偏差値のおかげで、同学力の人がみんな同じ大学に集まります。卒業すれば、企業はマニュアルで教育します。そのほうが、教える方も教わるほうも効率的だからです。結果として、自分じゃなくても他に代わりがいくらでもいることになります。このような社会の価値観では、もはや「かげがえのない自分」を探すのは困難です。団塊の世代はまだ競争によって他とは違う自分を確認できました。そしてそろそろ60歳をまえにしても、その心意気が残っています。現在30代の団塊ジュニアは、その精神を受け継いでいながら、親たちが持っていた価値観では「自分らしさ」が見つからない社会に身をおくことを余儀なくされているんです。

■第166話 比べちゃ、ヤーヨ
何か人と違ったことをやろうとすると、親たちは言う。「他の人を見てごらん。そんなことをしている人はいないだろ」 そして、子供が「だって○○さんもやっているよ」と言うと、同じ親が言う。「人は人、あなたはあなた。どうして人と同じことをしなくちゃいけない?」 同じ人が、まったく正反対のことを言うので子供はパニックになる。ウチの親はテキトウだとバカにさえするようになる。違うのだ。「他の人を見てごらん」と言うのは、「自分のやりたいことをどうして他の人はやっていないのかもっと考えてごらん。それが判ったら、自分がどうしてそれをやりたいのか、もっと深く考えられるようになるから、そしたらその考えを教えてね。他と比べる必要なんかないんだよ。自分がやりたいことをしっかり納得するために、色々な角度から見てみることが大切なんだよ。その一つの方法が他の人がやっていない理由を考えてみるということなんだよ」 という意味なのだ。そして、「人は人」と言いたくなるのは、「○○さんもやっているという理由では何の主体性もないじゃないか。他の人をダシにつかわないで、こういう理由で自分はこれがしたいって徹底して言えばいいんだよ」 と言いたいのです。もちろん、「人のことなんか放っておきなさい」という冷たい人間になれと言っているわけでもありません。自分以外の人と比べて判るのは、あの人より上でこの人より下という自分の位置だけですヨ。その位置は比べる相手によりどんどん変化してしまいます。前回、アイデンティティの人間学・心理学での意味を書きましたが、実は本来の哲学としての定義は“あるものが時間・空間を異にしても同じであり続け、変化がみられないこと”です。変わってはいけないのです。あなたより年齢が若い・あの人より収入が高い・あの家より財産がある・あいつより学力がある――というのは、比べている点でアイデンティティにはなりえません。他と比べることをせずに、自分の中に自分自身の価値を見いだしていかないと「かけがえのない存在」としての“私”は現れてこないのです。ファッションをとおして自分らしさを出していると思っている人が、同じようなファッションをする人が大勢出てきて、不快になれば、“他を見て変化した自分”がいることになりますから、最初からそれは自分らしさではなかったということです。自分は19○○年に、誰と誰の間に、男(女)として生まれ、こんな友だちがいて、こんなことができて、こんなことはできなくて、こんなことをしたいと思っている――現在の自分をしっかり捕まえれば「似たような人がいない自分」に気づくことができます。そのことをお釈迦さまは生まれてすぐ「天上天下唯我独尊」と宣言したんです。

■第167話 あなたは、どうするの?
今回は、“山猫美紀”さんからの「仏教は自殺についてどう考えてるの」に関連して、自ら命を絶つことについて、ご一緒に考えてみます。玄侑 宗久(げんゆう そうきゅう)さんと瀬戸内 寂聴(せとうち じゃくちょう)さんの対談集『あの世この世』(新潮社)の中で、玄侑さんがこんなことを言っています。 ・・・ 「仏教とは言えませんけど、私は『自殺も殺人』という考え方をお話したいですね。日本仏教は六道とか十界と呼ばれる心の階梯(かいてい)が、一人の個人の中にあると考えますよね。だから一人の中には無数の自己が住んでいるわけです。無数の自己を一つの町内会だと考えると、町内会長が、もうこの町内はだめだよと悲観的になっちゃって、町内会に火をつけるというような行為が自殺というものだと思うんです。だから殺人なんです、自殺は。自分のごく一部が大半の自分を殺そうとしている行為ですね。」 ・・・ また、私の聲明ライブの日に、一緒に出てくれているデュオグループ“プアン”のトモさんは「明日は明日の風が吹く」という曲の中で 「自ら命を捨てるくらいなら、他に捨てるものがたくさん有るはず」 と歌います。仏教者の立場から松涛 弘道(まつなみ こうどう)先生は『仏教のわかる本』(弘済堂)の中で 「原則的には自ら命を絶つことは認めていないが、最終的にはその時の状況をよく判断した当事者の決断に委ねられる」 と言っておられます。仏教は、あなたはどうするのか、という自主性をもとにしていますから「自殺は悪である」という言い方はしません。だからこそ、私たちお坊さんは、自殺した方の供養では真摯に“自分で選んだ道だったのですね。どうしようもなかったのですね”と死者をいたわりつつ、仏さまにお願いをします。私自身は精神的苦痛であれば、時間をかければ考え方の方向転換ができそうな気がします。玄侑さんの例え話でいえば、町内会長の悲観に対して町内の八百屋の旦那が言う「ちょっと待ってくれよ。勝手に火なんか付けないでくれよ。せっかく家を建て直したばかりなんだから」という声が聞こえそうな気がします。長屋のご隠居が「冗談じゃないよ。来年の孫の婚礼が楽しみなんだから」という未来を語る声が聞こえそうなのです。しかし、正直なところ修行不足ですから持続的な肉体的苦痛に耐えられるのかどうか、自信がありません。このあたりのことは、読者のみなさんからご意見をいただきたいところです。密蔵院にまだ入って日も浅いころ(20年前のことです)、檀家さんの親戚の息子さんが自ら命を断たれました。私は彼とは面識がありませんでしたが、私がお葬式をすることになりました。悔し涙の中でお父さんが語る息子さんの話をきいているうちに、私も悔し泣きして、こう言ったのを覚えています。“もっと早く彼と知り合っていたかった” ――以来私の布教活動は、自殺予防としての仏教の考え方をお伝えすることが土台になっているような気がします。今回は“山猫美紀”さんに、私の活動の土台を改めて気づかせてもらいました。ありがとうございました。

■第168話 八つぁん、熊さんの仏教問答 1
えー、毎度「ちょっといい話」お読みいただき、ありがとうございます。今回は、少々趣向を変えまして、というより、ちょっと訳ありのツマラヌお話にお付き合いをいただこうってぇ、寸法でございます。芝居の台本を読むように(そんなもの読んだことない?)、お読みいただければ幸いです。登場人物 / 和尚  (五十歳に近い。駄洒落好き。声がデカイ) / 熊吉  (町で小さな水道工事店を営む。女房の趣味でこざっぱりとユニクロの洋服を着こなす。三十歳半ば。地図が読めない。) / 八五郎 (熊吉の店のアルバイト。熊吉の中学の後輩。二十歳後半。オタク系。人の話をちゃんと聞かない) / 和尚の女房(四十歳半ばのい〜〜い女) [土曜の昼下がり。晴れ。舞台上手(右側)にお寺の本堂の入り口。中から掃除機の音が聞こえる。下手から熊吉と八五郎、登場] ・・・ 八五郎 でも熊さん、そんなこと和尚に聞いていいんですか? 熊吉   だって、寺の和尚だぞ。仏教のこと聞くのに何の遠慮がいるんだ? 八五郎 そりゃ、そりゃそうかもしれないけど。一年くらい前に、墓参りのついでに和尚と世間話したとき、「八つぁん、お坊さんと親しくしたいと思ったら仏教のことは聞かない方がいいっていうブラックジョークがあるの知ってる?」って聞かれたんですよ。 熊吉   へえ、和尚、そんなこと言ったのか。 八五郎 だもん、あまり仏教の質問は、しないほうがいいんじゃないかと…… 熊吉   でもよ、何気なく「先祖の供養」って言ったら、うちのガキが「供養ってどういう意味だ」ってうるさいんだ。いつの頃からか俺だって使ってる言葉だが、そんこと知らねえなんて言えば、父親の股間にかかわるじゃねえか。 八五郎 それを言うなら、沽券にかかわるだろ。 (掃除機の音がやんで、作務衣姿の和尚が、掃除機片手に本堂から顔を出す) 和尚   なんだ、さっきから表で話し声が聞こえてるから誰だろうと思ったら、熊さんと八つぁんか。何をブツブツ言ってるんだい? 八五郎 ああ、どうも。和尚。(熊吉に向かって)聞いた?寺だけに、ブツブツだってさ。 熊吉   シッ。(和尚に向かって)おっ、珍しい。掃除ですか? 和尚   珍しいって何だよ。ちゃんといつも、やってるよ。 八五郎 えっ?その嘘、ホントですか? 和尚   ……。 熊吉   (八五郎の頭を叩いて) すいません。こいつ時々、へんなことを。 和尚   いやいや、かえって楽しいよ。先月だって、八つぁんは「和尚は屏風に上手に坊主の絵を描けるか」って聞きに来たくらいだからね。 八五郎 まだ覚えてるんですか?いやだなあ。ありゃ、冗談ですよ。 熊吉   なんだお前。そんなこと聞いたのか。だからブラックジョークの話なんか出るんだよ。 和尚   ブラックジョーク? 熊吉   いや、こっちの話で。 (和尚掃除機を置いて、本堂入り口に出る) 和尚   で、今日はどうしたんだい? 熊吉   それがどうも、恥ずかしい話なんですが、供養ってどういう意味か教えてもらいたくて来ました。 和尚   先祖の供養とか仏の供養の供養かい? 熊吉   そうです。 八五郎 そうです。熊さんったら何も知らないんですよ。 熊吉   うるせえな。お前だって知らねえだろうに。 和尚   まあまあ。そうか。そう言えば、そんなことは何となく分かっているだけで、あらためてどういう意味か、なかなか思わないだろうな。 熊吉   そこですよ。知らないままだと、父親の眉間にしわがよる…… 八五郎 ははは。沽券にかかわるだよ。まあ、さっきの股間にしわがよるよりはましか。はははは。 熊吉   (八五郎の頭をたたく。八五郎、イテッと言って熊吉を睨む) 実はうちのガキが教えてくれってうるさくって。 和尚   やっぱりそうか。ヨシ坊の疑問か。 熊吉   そうなんですよ。 和尚   供養っていうのはね、やさしく言えば「もてなし」っていう意味だよ。 八五郎 なんだ。そんじゃあ、熊さんのことじゃねえか。 熊吉   何がよ? 八五郎 だって熊さん、いつもスナック行くと、女の子にモテナイ、モテナイって言っていってるじゃないか。モテルこと無しで、モテナシだ。ははは。こりゃいいや。 熊吉   何がいいんだよ。そうじゃねえよ。和尚は「お持てなし」って言ってるんだよ。そうでしょ。 和尚   ピンポーン! 熊吉   あのね、和尚。八の野郎のバカがうつっちゃたんじゃないですか?今どき、クイズ番組の正解だってピンポーンなんて音はしませんよ。 和尚   そっか。ごめん、ごめん。そう。お持てなしってことだよ。誰かを接待することだ。まあ、普通は仏さまや亡き人をもてなすことを供養って言うみたいだけどね。 (和尚の女房がお茶を運んで来る) 和尚   おお、ちょうどいい。家内が熊さんと八さんの供養をしに来たよ。 八五郎 えっ?冗談じゃねえ。俺はまだ死んでねえ。 和尚   いいんだよ。二人とも、生き仏だ。

■第169話 八つぁん、熊さんの仏教問答 2
さて、前回からの続き。どうにもならないくらいチグハグな話をしている八五郎、熊吉、和尚に、和尚の奥さんが加わりまして…さて、どうなりますことやら。 女房   熊吉さんに、八五郎さん、いらっしゃい。お茶、どうぞ。 熊吉   ありがとうございます。お邪魔してます。 八五郎 すみません。いつもどうも。お世話になりまして。 女房   いえこちらこそ。住職、へんなこと言ってませんか? 八五郎 いや、この間みたいに「結婚して二十五年もたって、偉くなったから最近は家内の上に御をつけて、オッカナイって呼んでる」なんてことは言ってませんよ。ねえ、和尚? 和尚   (とぼけて)えっ?そんなこと言ったっけ? 女房   (ツンとして、立ち去りながら)べつに、言い訳しなくたっていいですよ。その位じゃへこたれませんから。 熊吉   八!お前がへんなこと言うから、円満な夫婦関係にひびが入るじゃねか。 女房   熊吉さん、心配してくれてありがとう。でも大丈夫よ。内緒だけどね、最初の結婚記念日に住職がくれた花束には、白い菊が入っていたくらいだから。 和尚   …… 熊吉   白菊ですか…… 八五郎 そりゃ綺麗でいいですね。 熊吉   バカ!よけいなことを言うんじゃない。 (三人、気まずい雰囲気の中お茶をすする) 熊吉  (気まずそうに)そう言えば、仏っていうのもよく分かんないですね。 八五郎 ああ、あれは怒りっぽいんですよね。 和尚   すぐぶつぞう、って言いたいんだろ。 八五郎 あれ、和尚、知ってた? 和尚   ああ、一年に五百万回は使うギャグだな。 熊吉   二人とも、へんだよ……。 和尚   八つぁん。ホトケと聞いてまず何を連想する? 八五郎 そりゃあ、死んだ人でしょ。 和尚   そうだな。煩悩がなくなったという意味で仏だね。 熊吉   へえ、そういう意味なんですか。確かに死んじゃったんじゃ、煩悩なんかないわなあ。 和尚   他にもとてもやさしくて、いい人がいたとすると「仏さまみたいな人だ」って言うことないかい? 八五郎 ああ、そう言えば、昔、カアチャンが隣の婆さんのことを、そう言ってたのを聞いたことがある。 和尚   そう言われる人は、世の中の表面的なこと、たとえば損得だとか、人によく見られたいとか、いつかどこかで行き詰まってしまうような考え方はしないもんだよ。 八五郎 俺は昨日から、鼻が詰まってしょうがないですよ。 熊吉   お前は、そうやって、つまらねえ話をするんじゃねえよ。 八五郎 いや、和尚はつまる話をしてたんだよ。ねえ? 和尚   まあ、そうだね。行き詰まってしまうような考え方は、土台がしっかりしてないからだよ。どんな時代でも、どんな場所でも通用する考え方。それを持っていると、人にも優しくできる。もちろん自分の生活にも困らない。 八五郎 そんなにお金が儲かりますか。 和尚   儲かるかどうかは分からない。 八五郎 何だ、つまらねえ。 熊吉   じゃ、儲からなくても生活に困らないってことですか? 和尚   そう。世の中、楽じゃなくても、楽しめることはたくさんあるだろ?それと同じだよ。 熊吉   そうすると、仏さまみたいな人っていうのは、心の中にそういう土台を持っている人ですか? 和尚   そう言えるだろうね。 八五郎 でも、仏さまみたいな人と仏さまとじゃ違うでしょ。 和尚   違わないよ。 八五郎 へえ。じゃ、仏さまは人間かあ。なら、俺だって仏さまになれるってことですか? 和尚   ピンポー……(途中でやめてあらためて)、正解です! 熊吉   和尚の話聞いてると、何だか頭が混乱してくるな…… 和尚   そうか。でも、仏教っていうのは、仏さまの教えって書くけど、仏さまになるための教えという意味のほうが大切なんだよ。 熊吉   ますますわかんない。だいたい、法事のたびに読まされてる「般若心経」ってお経だって、チンプンカンプンなのに…… 和尚   (何か考えている様子の後、何か思いついたように)      よし。二人のおかげでいいこと思いついた!今言ったことを、「般若心経」にそってなるべくわかりやすく紙に書いてみるから、毎週土曜日にお寺に取りにおいでよ。 熊吉   へっ? 八五郎 (熊吉に向かって) これって、どういう展開? 和尚   (立ちながら) そうと決まったら、ぐずぐずしていられない。わるいけど、掃除をすませてしまうから、今日はこれまでだ。それじゃ。 (本堂の中へ入ると、すぐに掃除機の音) 熊吉   (下手に向かいながら) お前っ!何が、坊さんと仲良くするには仏教のことを聞かないのが一番いいだ!えらい事になったじゃねえか。 八五郎 俺が言ったんじゃないよ。和尚が言ったんだ。 熊吉   でもまあ、これも何かのご縁だ。けっこう面白いことになるかもしれねえなあ。お寺だけに、地獄の沙汰も紙芝居って言うしな。 八五郎 それを言うなら「お寺のサタデー、紙しだい」だよ。  (幕)

■第170話 足踏み
日本には“可愛さ余って憎さ100倍”という言葉がある。この言葉が本当だとすると、人を許したり愛したりするエネルギーよりも、憎んだり、恨んだりするエネルギーの方が100倍も強いということになる(そう言えば、スターウォーズでも、心のダークサイド[暗黒面]が強烈に描かれていたっけ……)。一方で “人を恨むエネルギーと許すエネルギーは、ほぼ同じである”という言葉を聞いたことがある。他にも“人を愛するエネルギーと憎むエネルギーもほぼ同じである”という言葉もどこかで聞いたような気がする。たしか、どちらも外国の言葉だったように記憶している。私はこの言葉の真偽など疑いもせず、ほとんど丸ごと信じているお人好しの一人である。お人好しと書いたのは、私がこの言葉を標として「ガンバロウ」と思うのは、誰かのことを恨みそうになったり、憎みそうになったりした時だからである。私には人を恨み続けたり、憎みつづける根性がないのだ。同じエネルギーを使うなら、許したり、愛したりする方向へ向かわせようと三日くらいは努力する(三日坊主だ)。必死になって「どうして、あの人はあんなことをしたのか」「何があの人をそう言わせたのか」を考えて、「考えてみれば可哀相な人だ」と哀れむことで相手を許そうとする(傲慢極まりない納得の仕方ですが、今の私はこんな所デス)。ところが、心の底で納得していないものだから、“あの日”のことが悪夢になって現れて、真夜中に嫌な気分で目を覚まし、悶々としながら数時間も寝返りを打ち、寝られぬままにカラスの声を聞くことが年に何度かある。俺は人生の中で、どうしてこんなところで足踏みをしているんだろう……そう思いつつ、気だるい身体で本堂の扉を開ける。朝の新鮮な空気を深呼吸すると、不思議に心が落ち着く。鹿児島の“みぃ”さん、具体的なことはわかりませんので、今回の話が見当違いだったらごめんなさい。でも、あなたと同じような思いをして、悩んでいる坊主もいるのです。 
 

 

■第171話 セッセッセーのヨイヨイヨイ
読者の皆さんは、ご詠歌とか和讃というものを聞いたことがあるだろうか。念仏よりもずっとメロディがしっかりしている日本独特の宗教歌で、鈴を鳴らし、伏せ鉦を叩いてリズムを取りながら唱える。実は、私はこのご詠歌が専門なのである。専門といっても研究家ではなく、もっぱら唱える方である。26歳から48歳になる今に至るまで、平均すると月に15回くらいは檀家さんや信者さんにお伝えする生活を続けている。まあ、簡単に言えばご詠歌の先生だ。この宗教歌は、祖師や本山を讃えるものの他に、仏教の教えを文語調で易しく詩情豊かに歌い上げる歌詞が豊富にそろえられている(いまでも新曲が作られている)。 ・・・ あなうれし 行くも帰るも 留まるも 我は大師と 二人づれなり (弘法大師のご詠歌) ・・・ 人のこの世はと長くして 変わらぬ春と思えども はかなき夢となりにけり (追弔和讃の一節) ・・・ 声の出し方は曲によってさまざまで、古来「おごそかに」「ほがらかに」「うららかに」「しとやかに」「しめやかに」などのトーンが決められている。また、その速さも一分間に三十拍から四十五拍くらいまで色々だ(まあ、最近の音楽では考えられないくらいゆっくりということです)。今回の札幌の玉介さんからのお題である“セッセッセーのヨイヨイヨイ”は、主として子供の手遊びの冒頭部分のフリのセリフである。“セッセッセーのヨイヨイヨイ”の速さに合わせて本番のリズムも決定されるという、テンポのガイド役も果たしている。手遊びだから、基本的にはなるべく早くできた方が面白い。だから、このかけ声も一回目よりは二回目、二回目よりは三回目のほうが早くなる。その方が遊びに“活気”が出るのだ。ところがご詠歌はゆっくりである。聞いていると眠くなる。そう、眠くなるテンポなのだ。私がご詠歌を習い始めたのと長男が生まれたのが重なって、実際にご詠歌を練習しながら子供の背中をやわらかく叩きながら抱っこすることがよくあった。すると、それまでグズっていた赤ん坊がアッという間に寝てしまうのである。気がつくと、日本の子守歌とご詠歌のテンポはほぼ同じだった。そして、共通点がもう一つあった。どちらも祈りの歌だったのだ。

■第172話 ギャッ!牛乳パックの買い方……
今回は、高三の娘に誘われて行った、てんつくマン(改め軌保博光)のトークライブで身の程を知った話である。会場は約700人の人で一杯。話の中で、彼は会場に向かって問いかけた。「この中で、牛乳パックを買う時に、棚の奥にある新鮮なものから買う人、手を上げてください」 話のこの先の展開がわからないから、200人ほどが恐る恐る手を上げた。すると彼はこう言った。「どうして手前のパックから取らないんですか。全員がそれをやれば、手前に並んでいる牛乳パックは廃棄処分になります。スーパーも、それを納入した牛乳屋さんも、酪農家も牛も、やったことが無駄になってしまいます」 彼の口調は、人を責めるようなものではなかった。みんなで考えましょうという仲間意識を感じさせるソフトな感じだった。そして続けた。「本屋さんで平積みの本を買う時、まずパラパラと見た後にそれを戻して、上から2、3冊目を抜き取る。何故でしょう。綺麗な本を買って読み終える時、どれほど綺麗なままなんですか?30分もすればページは曲がり、飲み物もシミもつくかもしれない。やめましょうよ、そういうこと」 牛乳パックは手前から取る私だが、本は時々抜き取る。考えて見れば、コンビニでお弁当を買う時も、新鮮なものを手に取る。家に帰って10分以内に食べるにも関わらずである。私は帰りに娘に言った。「お父さんは明日から、一番上の本を買うし、一番古いお弁当を買うことにしたよ」 娘は「うん」とニッコリとうなずいた。後から聞いた話だが、牛乳パックなどを買う時、新鮮なものから買うのは日本人だけらしい。だから昨年の秋にワンガリ・マータイさんの「モッタイナイ」に、日本人皆が感激することになったのだろう。“空(くう)”や“諸行無常”など、全てが常に変化を続けながら、密接に繋がっている世界の有り様をトコトン見つめていくもの、悟りへ至る仏教の一つのアプローチだ。しかし、そこにはいつだって実践行(ぎょう)がなくてはならない。理屈をいくら分かっても、それに生きて行かなければモッタイナイのだ。

■第173話 生き方と肩書き
この10月から、東京・荻窪の文化センターで般若心経の講座を一つ受け持つことになりました。講座タイトルは「…なんだそうだ般若心経」。お坊さんが一般の人と接触できるいい機会なので、月1回、全6回を楽しくやらせてもらおうと思っています。さて、支配人と面接した時に、一応履歴書をお願いしますと言われたので、学歴、職歴、現在の役職、活動などを書きました。これは私が今までにどんな生き方をしてきて、現在どのような生き方をしているかという資料です。雇用する側にとって、私という人間を総合的に把握しておく必要があるので、過去の履歴も必要になります。つまり仕事をしたり、してもらったりする以上、元○○も含めて、肩書きが必要になるということでしょう。ところが、仕事以外の人との付き合いの場では、その人の“生き方”を知っておくことは有効であっても、肩書きは必要ないでしょう。なんでこんなことを書いているかというと、ここ2、3年で団塊の世代といわれる人たち80万人が定年を迎えるからです。企業戦士と称されて、日本の高度経済成長を推し進めてきたバリバリの方々は、ピラミッド型の会社組織の中でしのぎを削って自らのアイデンティティを確かめてきた世代でもあります。会社での“肩書き”が大切な分身であったと言ってもいいでしょう。社会的に認められている肩書きであれば、それはその人の栄光と同一視されていました。「うちの主人は、このたび部長になりまして……」 と自慢げにおっしゃる奥さま方のセリフは、テレビドラマの中でもずいぶん使われていました。定年を迎える人たちも含めて、過去の自らの肩書きは(生き方は別ですが)捨ててしまった方がいいかもしれません。仕事以外の場で“私は昔、○○会社の部長をやってまして”“以前は○○関係の会社の取締役でした”――こう自慢されれば一応の義理として“へえ、そうなんですか。たいしたものですね”とは言いますが、内心“でも、今は違うでしょ”と思います。自慢話でしていいのは(つまり、聞いている相手が不快に思わないのは)、ふるさと自慢と親自慢だけだそうです。自分の過去の肩書きを自慢することで今の自分を確認するような生き方はしたくないものです。

■第174話 昨日の敵は今日の友
世界中を熱狂させたサッカーW杯も終了。日本人の多くが寝不足になった。録画ができる時代なのに、やはりオン・タイムのライブでないと全く緊迫感がないのが良く分かった。日本は残念ながら一勝もできなかったが、予選の対戦チームのブラジル、オーストラリア、クロアチアは、もはや憎っくき敵ではない。それどころか、決勝トーナメントに残ったブラジルとオーストラリアを、私は応援した。で、考えた。どうして日本チームに勝った国を応援したくなるのだろう……と。まず最初に思いついたのは次の理由だ。“日本チームが負けたチームが強ければ強いほど、負けたことに納得がいく”――あんなに強いチームとやったのだから仕方がない――という理由である。しかし、どうもこれは、私が応援したい理由ではなさそうだった。そして、思い当たったのが次の理由だ。“12番目の選手(サポーター)として、私はテレビの中であの2時間を共に過ごした。日本チームとだけではなく、相手チームとも2時間を共有したのだ。だから、相手チームの選手の名前も覚えた。だから、日本が負けたとはいえ、相手チームを応援したくなるのだ” 仏教で、相手のことを思いやるという“慈悲”がどこから発生するかについて、私は“共通”“同一性”がキーワードだと思っている。自分と共通点があれば、人は物や他人に対して優しくなれるのだ。同じ日本人、同じ年齢、同じ体験、同じ日に同じ地球に生きている……共通点は山ほどある。それに気付くのに“智慧”が大切だと仏教では考えているのだ。そして、この共通点を意識して、“あなたと私は同じなのですね”と相手を敬う気持ちを形に表したのが“合掌”という姿に他ならない。

■第175話 年をとること
考えてみれば、私は今年4回目の年男だ。辞書によると“熟年”である。ぎゃっ!熟年とは60歳以上のことかと思ったら、やはり私は甘かった。大辞林にはこうある…… 【熟年】円熟した年齢。五〇歳前後の年齢。中高年。実年。[小説家、邦光史郎が1978年に用いた] さらに驚いたのは、英語では、円熟した年齢はヴィンテージ・イヤー(vintage year)である。もう、どっひゃ〜ん!だ。年代物のワイン並みじゃないか。“僕は、まだそんな年齢ではありまっせ〜ん!”と叫びたいところだが、生憎(あいにく)虚しく響くだけである。久しぶりに友人の子や甥や姪に会うと必ず言ってしまう言葉に“へえ、こんなに大きくなったんだ。これじゃ、こっちも年をとるわけだわ…”がある。他人(ひと)の子の成長を見ることでしか自分が年をとったことを自覚しないとは、まったく情けない。 ……と、上記はほとんど冗談である。私はそれほど自分が若いと思っているわけではないし、年をとることを否定的に考えてはいない。私は、年をとることは、許せることが増えることだと思っている。それだけさまざまな経験(失敗)を踏んでいるわけだから、人の失敗などには寛大になれる筈だと思う。一方でその経験から、自分のやることに頑固になることでもある。それでその年までやってきたわけだから自信があるのだ。“自分に頑固、他人に寛大”というのが、普通の年のとり方だろう。そして、そこに瑞々みずみずしさを加える秘訣は、心を新鮮にしておくことだ。誕生日は毎年のことだが、“○○歳の誕生日”は誰もが初めての筈である。言いかえれば誕生日は誰もが“生まれて初めて○○歳”になった日でもあるのだ。こう考えればウキウキしてくるではないか。鏡を見て自分の老いに驚くことを「オイル・ショック」と言うそうだが、落胆する心のあり方より、ウキウキしている心の方向性をもっていると、身体中の筋肉の老化がある程度食い止められるような気がする。その最たるものが顔を筋肉だ。ため息ばかりをついていると顔の皮がたるんでくる。いつもウキウキ、ニコニコしていると、どんなに色黒でも皺がたくさんあっても、ステキな笑顔だと、つくづく思う。

■第176話 決まり文句
かしこまって喜び、特に感謝を述べる時に「恭悦至極(きょうえつしごく)に存じます」と言う。――と書いたが、私は冗談まじりなら何度か言った記憶があるが、かしこまった状況で言ったことがない(そもそもこの言葉は口語ではないのかもしれない)。かしこまった場合に言うとしても、余程真面目な人が言うのだろう。普通は「本当にありがとうございます」でいい筈だ。他にも「ホントだよね〜」の代わりに、「仰せ、ごもっともでございます」などと言うと、相手は「おお、そちもそう思うか。愛(う)い奴じゃ」と場が和むか、「ふざけるんじゃない!」と一喝されて、ドッチラケになるかである。今回のリクエストの原作(?)「恭悦至極は仏教語?」をメールしてくださった都鳥さんも、時により、事に即して、ほとんど冗談で芝居がかった言葉を多用する洒落の効いた小粋な方である。そのリクエストに敏感に反応したのは、私がとにかくここ3カ月ほど、まっとうな日本語をしゃべれなくなっちまってるからである。浪曲、それも任侠もののCDの聞き過ぎなのだ。寝ては浪曲、覚めてはうつつ、幻の……ってな具合で、「ってやんでぇ。そいつのどこがいけねぇって言うんでぇ」みたいなことになっている。時宜しく、天下のNHKが「清水の次郎長」を木曜午後8時からスタートしたから尚のこといけねえ。 ……と言う訳で、「分かってます」と自然に言えばいいところを「そんなこたぁ、百も承知、二百も合点(がてん)でさぁ」とつい口が滑る。檀家さん相手にである。死の話題になると「咲いて散るのが草木の花で、散って咲くのが人の花」などという言葉がすらりと出てしまうのだから、かなり重症である。「冬になれば」と言えば済むところを「卍(まんじ)巴(ともえ)と降る雪に、赤城の山も綿帽子ともなれば……」なんて、へたをすると妙な節回しまでつきそうな勢いである。  友人のお坊さんは落語の聞き過ぎで、日常会話が落語家になったことがあり、それを直すのに二年かかった。だとすると、私の場合、この「ちょっといい話」が二百回を終了するころにゃ、とてもとても、直らねえ、至難の業だ。

■第177話 ございますとゴザンス
東京江戸川区にある密蔵院は、明治から私たち夫婦が入るまで120年間、お坊さんが不在のお寺だった。檀家さんやその知り合いが留守番をして、お線香つけや掃除などをしてくれていた。私たち夫婦が入った時にも、留守番のおばあさんが一人で住んでいた。私たちの新居と彼女が暮らしていた玄関そばの部屋は裏廊下でつながっていたので、ある程度のプライバシーも保てるし、なにより、お寺ライフの右も左も分からない家内の良きアドバイザーとしてそのまま、居てもらうことにした。このおばあさん、檀家さんが玄関に「お線香ください」とやってくると、自分の部屋から玄関まで出てくれる。それも次の言葉を言いながらである。「はいはい、二把(わ)でようゴザンスカ」 大したもので、檀家さんも上手くこの言葉を受けて 「ああ、二把でようゴザンスよ」と答える。密蔵院のある鹿骨(シシボネと読みます。鹿をシシと読むのは由緒正しい読み方。『もののけ姫』でシシ神さまは、ちゃんと鹿の姿でしょ。宮崎監督は実によく知っていらっしゃいます)は、まだ農家や花屋が多い。同じ名字も多く、屋号で呼ぶのが一番便利という、いわゆる東京とは言え、ムラ社会だった。飾りっ気もないのである。だから、言葉が昔のまま残っているのだ。お風呂のお湯を“かき回す”ことを「カンマス」と言う。“ちょっと、早く風呂のお湯、カンマシテ来い!”などと使う。“束ねる”ことを「マルク(丸く束ねるの意)」と言う具合である。“これから菜っ葉マルキしてくっかんな”などと農家の人が密蔵院の前を通るのだ。私が密蔵院で、生まれてはじめて“生きた”「ようゴザンスか」という言葉を聞いた時、ビックリして、土地の古老に「まだそんな言葉をちゃんと日常の中で話してるんですね」と言ったことがある。すると古老は笑いながら26歳だった私にこう言った。「“ようゴザンスか”なんてえのは、まだ丁寧な言い方ですよ。“ゴザイマスか”ってことだからね。普通この辺なら“二把でいいか”ですよ」 前回も書いたがここ2年ほど、浪曲の股旅モノ(任侠モノ)にハマッテいて(それがこうじて、密蔵院 浪曲の会もやるようになったのだが)、とにかくこの決まり文句のような「ゴザンス」が、今私にとってマズイことになっている。密蔵院にかかってくる電話 「もしもし、密蔵院さんですか」 「へえ、さようでゴサンス」 が当たり前になりつつあるのである。ますます、私は変な坊主になりつつある。

■第178話 お盆
人は亡くなると、まず草葉の蔭に宿る。そして時間をかけて(子孫の供養を受けて)、山(森)に帰って、先祖(神)となり、子孫を守る。この先祖が、一年に二度この世界にやってくる。ピクニックである。一度は正月だ。だから年末になると家々では、お飾りやお節料理を作って神(先祖)を迎える準備をする(帰って来た先祖がいつ帰るのかは調べていないのでよく分からないが、多分、三が日と言われる三日間か、長くても門松が取れる七日間だろう)。もう一度がお盆(中元、正式には七月十五日。一年の真ん中という意味)である。これは家や地域によって違うが、二泊三日か、三泊四日のあの世からのピクニックである。向こうからやって来るので、基本的にはこちらはよそ行きの格好はしなくていい、こちらは普段着で迎えればいいのである。この先祖を迎えるために、親戚一同が実家へ集まる。これが帰省だ。帰省するのは生きた人だけではなく、先祖も帰省しているのだ。お盆の場合は、この先祖を楽しく迎えるために踊りを踊る。盆踊りである。 ……以上のようなことが分からないと、正月とお盆は単なる“休み”となり、帰ってきた先祖はそっちのけで、旅行に行けたりするのだ。実家がある人は考えたほうがいい。実家の嫁はこの期間自分の家には帰れない、ということを。親戚や先祖が帰ってくるのに、その家を守っていこうとうする嫁がいないのでは話にならないではないか(古い考え方かなあ……)。このお嫁さんたちが、実家へ帰れるのは正月もお盆も“藪(やぶ)入り”といわれる十六日である。 ―――これは、日本人の精神的かつ伝統的な文化である。仏教が日本に入る前からのものだと言われている。これに仏教の盂蘭盆(うらぼん)の考え方がのっかることになる。詳しく知りたい方は“盂蘭盆”、“目蓮”で検索してみると面白いだろう。お盆とは、まあなんと、愉快な信仰なのだろうとつくづく思う。人はみんな、いつかこの世の役割分担を終える。そして、年に二回、懐かしい人々と面会にやってくるのだ。  私も死んだら、年に二回、懐かしい、そして縁ある人々の所へ帰ってこようと本気で思っている。私の場合、正月もお盆もどちらも二泊三日がいいところだ。それ以上滞在しても、生きてる人に迷惑だろうし、また向こうへ戻ってやることが溜まってしまいそうだからである。心豊かなお盆をお過ごしくださいませ。

■第179話 仏教と仏道
世の中“般若心経ブーム”なのだそうだ。この秋に出版される拙著『人生荷物の整理の仕方――般若心経から読み解く――』も、そのラインにのっている。そして、奇しくも時を同じくして、この10月から東京の荻窪の読売文化センターで『……なんだそうだ、般若心経』という講座を月に一回受け持たせてもらうことになった。この講座では、本には過激過ぎて書けなかったり、分量がオーバーでカットした話をふんだんに盛り込んだ全6回にしようと意気揚々である。団塊世代が再び勉強意欲を持っている今、カルチュアセンターの講座内容を見ても、日本の文化の底流として、感性や思考の淵源(えんげん)としてまだまだ厳然と存在している仏教について知りたいと思っている人は多い。これを読んでくれている方もその一人かもしれない。バンドをやっている若者(特にロック系)の多くも仏教に興味を持っている人が多いそうだ。輪廻(りんね)、無常(むじょう)、空(くう)、唯識(ゆいしき)、華厳(けごん)……そんな二千年以上にわたる仏教の蓄積は、「神がいるかなんかはわからないから、それはとりあえず横へ置いておいて、私たちの心と周りの現象から、確実に言えそうなことを掘り起こしてみましょう」という探究の歴史の成果でもある。私自身は、坊さんとして忙しい父や兄の手伝いができればいい、という単純な思いから、坊さんの資格だけでも取っておこうかという軽いノリで坊さんになった。だから大学で僧階単位はとったものの、専攻は米英文学である。必要最低限の真言僧侶としての仏教知識しか持ち合わせていなかったのである。そして、卒業してそのまま恋愛→生活の安定→そのまま坊さんというルートを辿った。亡くなった人はどこへいくのかということに確信がもてずとも、お経は読める。塔婆も書ける。仏教の考え方や知識だけなら、本を読めばなんとか話せる。自分が坊さんとして生活するためのことならどうにかなる。しかし、問題は、自分が仏教の上にどのように生きているかという実感だった。それは、日常の中での仏教の実践であり、伝統文化としてではない掃除や会話や子育てなどの日常と仏教がどう関わっているのかという模索である。日本語で言えば“体得”という言葉になるだろう。私はくれぐれも仏教を蘊蓄(うんちく)として語ることがないようにしたいと思っている。空論だとバカにされたくないと思う。仏教は知識でも学問でもなく、空理空論でもないはずだ。体得してこそ、仏道になりえるはずなのだ。仏教は思想、思索的側面。仏道は実践的側面を強調したい時に使われる言葉なのだ。

■第180話 負けた回数
高校球児たちの熱い夏が終わって一週間。それぞれの人が、自分とさまざまな縁のあるチームを応援したことでしょう。今年の決勝は、再試合の結果の早稲田実業の優勝。この再試合のあった先週の21日(月)は、密蔵院では「浪曲の会」。それも開会時間が甲子園と同じ!(おかげで、お客さんが少なかった……)。私は、途中で甲子園の経過報告をしながら司会進行役を果たしました。さて、私はこの夏の甲子園の時期になるといつも思い出す歌があります。それは、さだまさしさんの『甲子園』という歌。ある夏の午後、恋人と入った喫茶店のテレビで、甲子園から高校野球の放送をしている――その時の状況を、さだまさしさんらしい感性で書き綴った歌です。その二番に、こんな歌詞があります。 ……君は女はいつも男が演じるドラマを  手に汗握りみつめるだけなんて割に合わないわと溜息  4000幾つの参加チームの中で  たったの一度も負けないチームはひとつだけ  でも多分君は知ってる敗れて消えたチームも  負けた回数はたったの一度だけだって事をね…… 車のラジオから流れたこの歌を聞いたのは、後にも先にも15年ほど前に一回だけですが、強烈な印象として残っています。地方大会から、多くの人の夢をかけた熱戦が続けられてきましたが、勝った回数ではなく、負けた回数という見方でみれば、まさに、優勝校以外、負けた回数は、どのチームも一回だけなのです。私たちは、どうしても、光の当たる部分ばかりに目をうばわれがちです。しかし、それは一つの見方でしかありません。それを、身近な例からみごとに浮き彫りにし、日の当たらない所も、日の当たる場所と同じ価値があることを、さださんは、訴えているように感じたのです。車の中で「これが仏教だよねえ、さださん!」と叫んだのを覚えています。ある出来事を、一つの方向からしか見ないのでは、物の本質が見えません。円筒形は横から見た長方形と、上下からみた円形の両方を見ないと、全体像がつかめないのと同じです。一つの方向からだけ見て、自分のご都合やわがままが加わると、ますますかたよった見方になってしまいます。 
 

 

■第181話 アブナカッタ……
ある檀家さんがご両親の23回忌の法事の打ち合わせに来た時に「ちょっとお願いがあるんだけど」と少し言いにくそうに言った。「何ですか」 「実は、ちょっとお骨のことで気になってることがあってね」 「へえ、どんなことです」 「うちの両親のお骨は、大理石の骨壺なんですよ」 「はい」 「……でね、その壺を素焼きの壺にしたいわけ」 「そりゃまたどうして」 「大理石じゃ、お骨が水分を吸っても水が抜けないって聞いたんだ。素焼きなら自然に水が抜けるでしょ」 「なるほど。そういうことはありますね。でも、立派な壺にお入れしたいっていう親孝行の表れなんだから、それはそれでいいじゃないですか」 「でもね、気になって仕方がないんだよ。だから、今度の法事の時に、両親の兄弟も来るからさ。お墓参りの時にその移し換えをしてもらいたいんだけど、お願いできますか」 「そういうことなら、いいですよ」 それから一週間後、再びその檀家さんがやって来た。「住職、この間の話だけど、ちょっと変更したいんだ……」 「へえ、どうしました」 「考えてみたら、オヤジやオフクロの兄弟も、大理石や釉薬(ゆうやく=うわぐすり)がかかって、水が自然に抜けない骨壺を使っている家があるんだよ」 「はい」 「だからさ、そんな人たちの目の前で、わざわざ素焼きの壺に入れ換えたら、その人たちも自分の家のことが心配になるでしょ」 「なるほど」 「だから、法事の前日に移し換えをしてもらいたいんだけど」 私は感心して言った。「そりゃ、よく気がつきましたね。素晴らしい心配りですよ。わかりました。そうしましょう」 「ありがとう。ほんと、アブナカッタ」 “よく考える”という見本のような話だと思った。“誰かを不安にしていないだろうか、傷つけてはいないだろうか”……それが“良く考える”という中心線にあったらどんなに素敵だろう。

■第182話 しゃべりと人柄
「私は無口で……」と自分でいう人ほど、「それって六つの口で、六口って書くんじゃないの?」とツッコミたくなるのは私だけだろうか。よく喋る人というのは、だいたい人の話は聞いていないことが多く、こちらが「今日は天気がいいので、買い物にでも行こうと思います」と言いたくても、次のようになってしまう。「今日はとても天気がいいので」 「ほんと、そうだよね。昨日まではスッキリしなかったのに、打って変わってさわやかでさ。さわやかっていえば、さっき見た雑誌に、秋風にゆれたら素敵だろうなっていう服が紹介されててね」 ――つまり、人の話を聞くより自分が言いたいことのほうが優先されてしまうのだ。悪いことに、この場合自分が相手の話を遮っているという自覚症状がほとんどない。これは、話好きというより、お人柄の問題である。ずいぶん昔になるが、気象衛星アメダスが稼働し始めたころ、NHKの午後7時前の天気予報でキャスターが「ご覧のように、アメダスによると、明日は所により雨のようダス」と少し照れながら言ったことがあった。爆笑した。これもお人柄である。天気予報というのは、気象庁のデータから予測するので、民放であろうがNHKであろうが、テレビでも、ラジオでも、ネットでも、媒体によって明日の天気が違うことはまずない。にも関わらず、私たちはテレビのチャンネルを変える。それは何故かと言えば、明日の天気よりも、そのキャスターの人柄にふれているというのだ。このことを教えてくれたのは、元ニッポン放送の村上正行アナ(昨年亡くなった)だ。村上さんはよく言っていた。“話っていうのは、キャッチボールです。そのキャッチボールの極意は、相手に受け取りやすい球を投げることです。150キロの剛速球や変化球は必要ありません。道を聞かれたら『この人に道を聞いて良かった』と思わせるような話し方をしなくちゃダメですよ” 天気予報なら、「この人のお天気コーナーを見て良かった」と思わせるような番組だ。そして、これは話だけではない。人生にも当てはまる。「この人と一緒にいて良かった」「この人と知り合いになれて良かった」と思ってもらえるような人になれたらいいと思う。これもお人柄の問題なのだ。村上さんはしゃべりのプロだった。その村上さんが言った――だから、そのために心をみがくんです。心が話や話し方に出るんですよ――。その心をみがく方法の一つは、こんな時、仏さまならどう言う(言った)だろう、どうする(した)だろう、どう考える(考えた)だろう――の3つを、折に触れて考えてみること。そして、その真似をしてみることです。今のところ私は一カ月に2回くらいのペースでしか考えていません。これじゃイカンのです。

■第183話 気持ちの切り換え
年に何回か慶弔が重なることがある。結婚式に参列した日に檀家さんのお通夜、お葬式をやった日に仲間うちの楽しいパーティなどである。数年前、たまたま家内の所に遊びにきていた方がいた。私は檀家さんのお葬式から帰宅して、ろくな挨拶もしないで「すみません。これから友人の結婚披露宴の司会なので、その準備をしなくちゃいけないので、お構いできずにごめんなさい」と、着替えをするために住職室へ入ろうとした。その時である。「まあ、今まで悲しい場所にいて、これからお祝いの席に行くなんて、気持ちの切り換えが大変でしょう」 この言葉が私の足をとめた。私はニコニコして言った。「それがね。大変じゃないんですよ。お葬式は悲しいことですけれど、お葬式の間に亡くなった人の遺影に向かって言ったんです。“これから披露宴ですが、あなたのような素晴らしい人生を送るであろう初々しいカップルをお祝いしてきますよ”ってね」 「へえ」 「それから、披露宴では“人はいつか亡くなる。それまでどうやって生きていくのかがとても大切なこと。亡くなる時にお互いに、あなたと一緒で良かったという人生を歩んでいく、素晴らしい人生の初日でありますように”……そんな気持ちで司会をするつもりなんですよ」 こんなふうに考えているので、日々の暮らしが“悲喜こもごも”でも、右から左、上から下、手の平を返すような気持ちの切り換えは、あまり必要ないのだ(まったく無いとは言いません……)。子供の公園にあるシーソーの真ん中あたりに乗っているようなもので、あまり右往左往しないで済む。ああ、えーとですね。私はなにも、右往左往したくないから、そんな考えをしているわけではありません。そういう“後ろ向きな生き方”は好きではないのです。生きていたら、そうなったということです。でも、ひょっとしたら、私はそうとう冷たい(クールな)人間かも……。

■第184話 前向きと重心
ライブハウスで毎月やらせてもらっている聲明ライブで、今年になって3回一緒に参加してくれているバンド「輪(わ)」。人を元気に、あたたかくしてくれる松谷将之、森貴志、つるよしのりの元気な3人組。密蔵院で年に二度ほどおでんパーティをする仲間である。7月のライブの時、パーカッションとお話担当のツルちゃん(障害者のガイドヘルパーをしている)が、曲の間にこんなことを言った。「最近、僕の友だちの間で、よく子供が生まれるんです。あっちで生まれた、こっちでもうすぐ生まれるって。それだからなのか分からないいんですけど、ふと思ったんです。人の誕生っていうのは、どう考えても前向きな現象でしょ。これから、人生とか何かが始まる!みたいな。世の中色々なことがあって、落ち込んだりする時がありますけど、考えてみれば、僕たちは、もともと前向きに生まれているわけですから、生きていくのも前向きじゃないとモッタイナイと、僕は思ったりしているわけで……。じゃあ、そろそろ、次の曲、いきますかぁ?」 ・・・ 人の誕生を“前向きな現象”と表現したことがなかった私は、ツルちゃんの一言にハッとした。ガイドヘルパーとして働き、障害者のバンド“サルサ・ガムテープ”の一員でもある彼から発せられた言葉だけに、サラリと言ってのけたにも関わらず、“もともと前向きに生まれている”という言葉は重かった。仏教の勤行で最初に唱えられるものに、次のような文章があります。「人身受け難し今すでに受く。仏法聞き難し今すでに聞く。この身今生(こんじょう)において度(ど)せずんば、さらに何(いず)れの生(しょう)においてかこの身を度せん」 ――人の身は受けがたいものなのに今こうして人の身として生まれた。仏の教えも聞きがたいものなのに今こうして聞くことができた。こうした縁に恵まれているのだから、今、この人生の間に悟りを目指せないで、いったいいつ目指そうというのか―― 私たちは、自分が生まれたということを、どんな言葉で紡ぎ出していけるのだろう。そこで紡ぎ出された糸が、やがて錦の布となって人生を彩るに違いないと、私は思うのだ。「輪」の歌う曲は、どれもが前向きであり、若者らしい感性に溢れ、人の温かさ、エネルギー、絆、和をモチーフにしている。その中で、今のところ一曲だけ例外がある。「ビールのことを坊さんは麦般若って言うんだよ」という私の言葉から生まれた乾杯ソング『麦般若』がそれである。

■第185話 重心と前向き
ツルちゃんの「誕生というのは、どう考えても前向きな現象でしょ」という一言(詳しくは前回「第184話 前向きと重心」をお読みください。2分で読めますから)を聞いて、私はお世話になった大ベテランのアナウンサー、村上正行さんの言葉を思い出した。一つは――“生まれつき暗い表情の赤ちゃんなんかいないんです。人は誰でも明るく生まれてきてるんですよ。だから、暗い表情なんかしちゃいけません。明るい顔で、明るくしゃべれるようにしなきゃダメです(勿体ないという意味。名取注)。それが会話している相手へのおもいやりなんです”――とおっしゃった言葉。仏教では、表情が暗くなってしまうことや、その原因を「雲」と表現します。もともと太陽も月も虚空に輝いている。それを煩悩の雲が隠してしまうことがある。それを取り除けばもとの明るい太陽や月が姿を表すではないか、と。その雲を取り除く方法が仏教の中にありまっせ、ということである。そして、もう一つの村上さんの言葉は、密蔵院でおこなわれていた「話の寺子屋」で冒頭に行われる発声練習の時の一言。“椅子は深く座らないでください。重心を前にして座るんです。私は現役の時(ニッポン放送)、スタジオで椅子に座ってしゃべっていた時でも、後ろから椅子を引かれても転ばないで、そのまんまの格好でしゃべれました。これはしゃべりだけじゃない。毎日の暮らし方だって、重心を前に置いておくんです。野球の守備だってなんだってそうでしょう。重心を前に置いているから、前からきたものに対処できるんです。後ろに重心があったんじゃ、何もできない” 自分の心のスタンスの重心が、前にあるのか、後ろなのか、中間なのか。一日一日単位で変化してるかもしれない(ひょっとしたら分単位?)。そして、重心が後ろにあると自覚できる人にとっては、「じゃ、どうしたら前に移動できるの?教えてよ!」と叫びたくなるかもしれない。参考にしかならないが、一つの方法をご紹介してみる。椅子に浅めに腰掛けて、背筋をのばして、目を閉じて(まだ閉じちゃいけませんよ。これを全部読み終わってからの話です)、あごを引きます。身長測定で後ろの棒が頭からお尻まで全部身体につっついている状態を想像してみるといい。それから、身体を前後にゆっくり揺らす。そして、ここが私の心棒だと思える所で動きを止める。「ここがニュートラルだ」と思えるまでじっとしている。こうするだけで、後ろにあった心の重心が、前へ移動して真ん中になります。身体の重心だけでなく、心の重心も中心にもどる気がしてくるものです。お試しください。私たちは自分で気づき、修正する力をだれもが持っているのです。

■第186話 単独行動(ソロ活動)
1ヶ月前の9月9日(土)に、密蔵院初の本堂での仏前結婚式があった。以前から「お寺で結婚式やればいいのに」と思っていたのだが、具体的に「やってくれないですか」と言われて初めて、それまで私が考えていたことが机上の空論だったことを思い知った。控室はどうするか(新婦の控室、両家の控室は別々である)、本堂のしつらえは法事の時とどう変えるか(預かっているお骨が目に入ったら可哀相である)など。そして何より、私がやることは、いつもとどう違うのか……。仏前結婚式の次第の中には、「阿闍梨(あじゃり)訓戒」という項目がある。阿闍梨というのは、他で言えば神父、神主さんの役だ。この阿闍梨(つまり私)が、新郎新婦に対して結婚についてのお説教をする場面があるのだ。こういうことは法事ではまずやらない。伝統的な文言はいくつかある。例えば――生死の海中に天地あり、天地あればその儀あり。これを陰陽と言う。陰陽、これを男女と言う。男女あればその愛あり。これを人情と名づく。けだし一切の男子、皆その室を有し、一切の女人ことごとくその夫あるべし。夫婦ありて父子あり。父子ありて兄弟あり。親族姓氏ここに調(ととの)い、人倫の称、ここに生ず。云々……――。ご覧のように格調が高い。しかし、多分これを聞いている人は何のコッチャ?という具合になるだろう。そこで、結婚式の準備を調える中で、私はこの訓戒を自分の言葉で、当日に感じたことを申し上げようと決めた。荘厳な本堂の準備が調い、緊迫しながらもおめでたい雰囲気の中、自分は何を感じることができるのだろう――それを当日まで楽しみにしていようと思った。今回の新郎は、自分で治療院を開いている方だが、かなり自由な生活をしてきたと自他ともに認める人である。奥さんも自分で仕事をしっかりしている人だ。迎えた結婚式当日、私は二人にこんなことを言った。“今朝、庭のベンチに座って何気なく地面を見たら、蟻が一匹歩いてました。どこへ行くだろうと思ってみていると、一人でどこへ行くあてもないようで、言うなれば単独行動。あっちへふらふら、こっちへふらふら。でも、考えてみたら、その蟻は餌を探す偵察アリです。蟻にはみんな役目があるそうですから。このソロ活動をしているように見える蟻は、やがて餌を見つけて、フェロモンを出しながら巣まで帰り、それを皆に知らせます。すると他の蟻たちがフェロモンを辿って餌までたどり着き、巣に持って帰るわけです。私の見た蟻はけっして自分勝手な行動をしているわけではないんですよ。自分のご都合を越えた大きな目標があってこその単独行動だったんです。蟻と人間を一緒にしちゃ申し訳ないんですけど、私は今朝、それを教えられたような気がしたんです。お二人も、蟻を見たら、私がそんなことを言ってたって思い出してください”

■第187話 人生を○(まる)洗い
何と、垢抜けた、大雑把で、底抜けに気持ちのいいタイトルではありませんか。この言葉が私宛のメールボックスに送られてきたのは9月25日、月曜日の午後のこと。一瞬唖然として、そのあと、腹を抱えて2〜3分笑っていました。ことの発端は去年の暮れのこと…… Tさんという方から電話が入りました。「本を書きませんか?」 「へっ?何のことですか?」 「あなたの文章はいろいろな所で拝見しているんですが、是非本を出したほうがいいと思うんです」 「それって、体(てい)のいい自費出版の話じゃないんですか?できあがったら私が何千冊も買い取らなきゃいけないとか……」 「違います。出版社が責任をもって作って販売しますから」 実際にTさんとお会いすると、もと婦人画報社にいらした偉い方。編集のプロ。私も書店で見かけたことがある女性雑誌『25ans(ヴァン・サン・カン)』などの編集長を務められた方で、現在も出版プロデューサーで大活躍の方。Tさんの無謀な私の本の出版の意図はこうです。―――団塊の世代が社会的な問題になっている。日本の繁栄を支えてきた、企業戦士の団塊の世代……。昭和22年から24年の3年間に生まれた世代約800万人がここ3年で定年を迎える。ある意味で会社と家庭の間で不器用に生きてきた世代に、般若心経の教えから、人生の第二ステージへの提言、人生の荷物の整理の仕方という形で書いてほしい―――。その話を聞いて、さすがに目のつけどころが違うと思いました。出版社も仏教関係ではなく、(株)経済界。日々の暮らしの中で仏教的なものの見方をするかなり異色の般若心経関係の本になるはずです。ネットではなく、全国の書店で、私がここに書いてきたような内容をお伝えすることができる!この提案を受けない手はありません。以来今年に入って、本の執筆という七転八倒の苦しみと楽しみが続きました。ところが肝心のタイトルが決まっていませんでした。9月22日の時点で「“人生荷物の整理の仕方――般若心経に学ぶ――”という路線でいきますが、25日に正式に決めましょう。でないと本のカバーも間に合わなくなりますから」という話だったのです。私はてっきり『人生荷物……』でいくのかと思っていたら、冒頭のメール! 団塊の世代をターゲットにするだけでなく、広く誰にでも人生を丸ごと洗濯してもらえる内容をと考えて書き、編集してきた私にとって、こんなに嬉しいことはありません。

■第188話 命の日
私は先週誕生日でした。満48歳になりました。 ――と、これは法律上のお話。日本の法律では、オギャーと生まれてから人として権利や義務が発生するという話を聞いたことがあります(だから、お母さんのお腹の中にいる時は人ではないということらしい)。しかし、どう考えても、お腹の中で手足を動かしている赤ちゃんは人であり、まぎれもない命です。だとすると、10月生まれの私が受精して命になったのは、私の誕生日よりも約40週前ということになります(それまで十ヶ月と十日で生まれると思っていたら、実際の計算は40週なのだそうだ)。つまり昭和33年の1月半ばに命になったんです。これを実感してから、私は1月という月に思い入れが強くなりました。まるで誕生日がもう一つ増えた気分です。よって、来年の1月半ばで、私は命になって丸49年をむかえることになるのです。今回のタイトルは“命の日”ですが、“の”を削ると“命日”になります。人が亡くなった日のことです。これって不思議だと思いませんか?命が無くなった日なのに“命日”です。一説によると、もともと「冥土へ行った日」で“冥日”と書いていたようです。この「メイ」を、“冥”から、読みが同じである“命”に変えた人がいるんですね。スゴイ人がいたもんです(個人的にはそれがお坊さんであってくれたらいいなあと思います)。こちらの人生の役割分担を終えて、あっち(あの世、浄土、天国とか色々な言い方がありましょうけど)の世界で“命をもらった日”という意味で“命日”です。なんと壮大なロマンでしょう。ですから白い死装束は、実は“あっち”で生まれる時の産着だとも言われます。そしてもう一つ、亡くなった日である命日は、残っている者たちが、亡き人のことを自分の人生に照らし合わせて、自らの人生を、命を考える日としての“命日”でもあるような気がしてなりません。誰かの誕生日パーティを本人に内緒で企画、実行するサプライズパーティがはやっています。できれば、企画する方には、オギャーと生まれた日より40週前に命になっていたことにちょっと触れてもらえたらいいなあと思います。目に見える姿にならないと命が実感できないというのは、もったいない話です。

■第189話 心の太陽あらわそう
 ・・・ どんなに近くでも 見えないものがある  まぶたの先のまつ毛 命をつなぐ空気  すぎて行く時間 痛み苦しむ心 ・・・ これは、私の友だち(と言ったら本人は嫌がるかもしれませんが)であり、二胡奏者でもあり、シンガー・ソング・ライターでもある遠藤芳晴さんの歌♪心の太陽あらわそう♪の一節です。芳晴さんはこれらの歌詞にとても優しいメロディーをつけて、奥深いあたたかな声で歌います。私も聲明ライブをやっているライブハウス「チピー」に、月に一回出演しているのが芳晴さん。この歌を聞いた時、詩人が詩にするとこういう表現になるのか……と感心したのをおぼえています。チンケな坊さん(私のこと)が言うと、雲が、何事にもとらわれるなと説法している。鐘の音が諸行無常を説いている。草や木にも仏の性質が宿っている――な〜んて、よくわからん表現になります。それが芳晴さんにかかると、 ・・・ どんなに近くでも 聞けないものがある  アリの愛の歌や 花の開く音  星の落ちる音 叫び震える心 ・・・ となります。私は目に見える人間関係にうんざりすると、また、どこから聞こえてくる人の悪口が耳に入ってせつなくなると、この歌を聞いて心を和ませます。目に見える、耳に聞こえる世界はごくごく一部なんだと再確認できるのです。そうすると、まるで雲が払われるようです。自分の心にある太陽が出てくるようで、元気になります。 ・・・ 空にのぼる太陽もまた  君と僕の中にあること  知ればまさに  見えないものが見えてくるよ  一人じゃないこと  感じているなら  何をしてもいいから  心の太陽あらわそうよ ・・・ 機会があったら、是非お聞きください。

■第190話 ユーモアで包んじゃえ!
仏教とユーモアがどう繋がるのか、どんな具合に絡むのか……。確かなことは言えません。お釈迦さまや弘法大師、他の祖師方の記述や伝記の中にユーモアや冗談を言ったという記録を見いだすことはなかなかできないようです。一休さんや良寛さんは、その点でとても特殊です。3年ほど前に、真言宗の学者であり、同時に熱烈な弘法大師信者でもあるお坊さんに、こんな質問をしてみました。「弘法大師やお釈迦さまは冗談を言ったでしょうか」 私自身が冗談好き!ユーモア大好き!なので、そんな自分が祖師の生き方から逸脱していないか不安になったからです。答えはアッという間に返ってきました。「そりゃ、言っただろう。冗談が言えるくらいの度量がなければ、あれだけ大勢の人がついてくるはずがないだろう。もちろん、文献の中にはそういうものは残っていないよ。それは“冗談”とか“ユーモア”が文字として残った場合、誤解される危険性があることを知っていたからだろうね」 私は“我が意を得たり!”の心境でした。深山幽谷の人里離れた所に暮らして修行していれば、他愛もない冗談を言うこともないでしょう。また、真面目な話をしている時に、その話の流れを阻害するような下品な冗談は禁物です。しかし、人と会話をする時、“冗談”や“ユーモア”は良い人間関係を作る潤滑油の役目を果たしてくれます。  ――と、ここまでは、これから先の話を正当化するための序論。もうとにかく、この1年半は浪曲ばかり聞いているのです。加えて、9月に広沢 虎造の「清水次郎長」全集を通信販売で手に入れてから、普通の会話に渡世人(博打打ち)言葉がつい出てしまい困っています。久しぶりに会う人には、「いやぁ、どうも。貧乏暇なしで、無沙汰ばかりで申し訳ありません」とだみ声になる。何かを人に勧める時には「おお、上がっちくんねえ」「やっちくんねえ」「遠慮するこたぁねえぜ」と右手が前に出る(「この調子で「ちょっと、待っちくんねぇ」と言ったら「マッチはありませんからライターでいいですか」と受けてくれた人がいました。私は一瞬凍りつきました)。お別れする時には「そんじゃ、えらくお世話になりました。縁と命があったら、またお会いいたします、と言いてぇところだが、おめぇさんとは縁もある、お互い命もありそうだから、きっとまたお会い申し上げます。それまでひとつ、達者でいちくんねぇ」 言っている私は楽しくて仕方がないのだが、隣で聞いている家内や長男は、「悪いことは言わないから、もうやめた方がいいよ」と冷静に忠告してくれています。さてどうしようか……。 
 

 

■第191話 あんな人になるために
今回は“ここみのPAPA”さんからお題をいただきました。添え書きにはこうあります。「自分が尊敬する人のようになるためには、その人の生き方や生活スタイルを真似するのが一番の近道だと思います。しかし、一方で個性が無くなってしまうおそれも感じています」 “学ぶ”は“真似(まね)ぶ”と同源であることは良く知られています。何かをする時に、まず型を真似ることが第一歩になるのでしょう。先人たちが、何代にもわたって自らの経験と創意工夫をして作り上げた型を、一から作り上げるのでは大変です。真似したほうが早いです。でも、真似だけでは満足しきれなくなりますから、安心して真似してください。私の真似をちょっとご紹介します。先輩のお坊さんのお寺には掲示板が20ヶ所近くあります。そこに色々な言葉を書いては貼り、剥がしては書いて「掲示板のお寺」と異名をとるお寺でもあります。私は「いただき!」とばかりに掲示板布教を始めました。それまでは送られてきたポスターを貼った広告板だったものが、親しみのあるお寺の掲示板になりました。B5サイズの用紙一枚で文章布教をしているお坊さんがいることを風の噂に聞きました。これも“イタダキ!”で、私はもっと手軽なハガキ一枚の布教を始めました。法事の最後に、参列者の心に勇気と元気を持ってもらうために般若心経を太鼓で唱えたら好評だという仲間の話を聞きました。“ホイ、これもいただきます!”で、密蔵院でも始めました。大好評です。これを「芳彦のやっていることは人がやっていることのイイトコ取り」だと非難する人はいます。当たり前です。自分でいいと思うことばかりやっているんですから。えーと、何だか内容の整理がつかなくなってしまったな……。 ……で、です。経験上、型の模倣はそのうちに自分で物足りなくなるものです。そして、生き方やライフスタイルは人や地域によって異なります。ですから、尊敬する人のそのままを真似しようと思っても限界があるでしょう。その型を生み出すための“心”を真似してみるんです。そうすると、もともとあった心にそれが融合して、新しい自分が出来上がってきます。型の真似から、心の真似へ。仏さまの心の真似ができたら、その時のあなたが『仏さま』なのだと思います。

■第192話 人間性と学歴?
今回リクエストをくださった鹿児島の“みぃ”さんは受験生を持つお母さん。お嬢さんはあまり勉強熱心ではないけれど、性格はやさしくていい娘だそうです(母親の温かい眼差しを感じます)。でも……、“どんなに いい人♪ でも、成績重視の学校には行けず、結果、就職先にもなかなかめぐまれないのでは...なんて親は心配したりして” と付記があります。このページで一般論を書いても意味がないでしょうし、それは“みい”さんもわかっておいででしょうから触れません。だから、私のことを書きます。私は子供が3人。長男大学4年。次男大学2年。娘高校3年です。勉強好きはおろか、親からしてみれば勉強しなくてはいけないのにしない子ばかりです。長男は、高校生の頃からお坊さんになると決めていたようです。私にそんなつもりはなくても、檀家さんたちが「あなたが後を継いでくれるんだね。がんばってね」と彼が小さいころから洗脳(?)してくれた影響かもしれません。次男には高校生の時こんな言い方をしました。「35歳の自分を想像してごらんよ。どんな所に住んでる?結婚してる?子供は何人いる?毎日何時頃帰宅できる?休日に何してる?」 それなりに具体的な返事が返ってきたのを覚えています。「だからさ、そのために今やることをやるんだよ」 それ以来彼に、勉強しろと言ったことはありません。末っ子の娘には中学の時以来、事あるごとに言い続けているセリフがあります。「今、勉強しておくと、将来お前ができる、あるいはなれる職業の選択肢がぐーんと増えるんだよ。やらないと、今の社会ではドンドン選択肢が減ってくるんだ」 ・・・ 確かに、学生のうちに勉強しないと将来いい就職口が見つからないかもしれません。しかし、その時に自棄(やけ)になったり、人を恨んだり、うらやましがったりするマイナスの心がムクムク頭をもちあげないように、豊かな心の持ち主になっていてくれたらいいなと思います。そのためには、ニッコリ笑って「勉強しておいたほうがいいと思うよ〜ん」などと茶目っ気タップリにどうぞ。そして、最近になって思うのは、昔から言われている言葉(ほんとど浪曲からのものですが)。「親の意見とナスビの花は、万に一つも無駄がない」 「親の意見と昼間の酒は、あとになるほど効いてくる」 ―――本当だなと思います。だから、親の温かい目で見ていれば、子供に何を言っても大丈夫ですよ。

■第193話 今夜は静かだね
どういうわけか、お寺の横の道を車が通らない夜がある。そんな時、ふとつぶやく。「今夜は静かだね。まるでお正月みたいだ」 何のめぐり合わせか誰も夜テレビをつけない日がある。どうしても見たい番組などそうあるものではないから、そうなるらしい。そんな時、ふとつぶやく。「もったいないから、そのままテレビつけるの、やめておこうよ」 いつ行ってもお客さんが沢山入っている飲食店がある。たまたま行ってみると、閉店までお客さんが私だけのことがある。カウンターに座りマスターとの世間話の話がとぎれると、ふとつぶやく。「今夜は静かだね。たまにはこういう日もいいね」。マスターは「嫌だよ」と冗談ぽく笑う。本堂にある直径45cmの鐘を叩く。鐘の音は三つの音で出来ているそうだ。叩いた瞬間の音がそのうちの一つ。そして二つの音が残る。ゴーーーンと響いている音。そこにウォーン、ウォーンと唸る音が重なっている。1分ほどで響く音が消え、あとにウォーン、ウォーンと唸る音だけが地下水脈のように残る。そばに正座して最後まで耳をすませ、「これで音がしなくなった」と確信できるまで約3分くらいかかる。どんなに神経が昂(たかぶ)っていても、この3分で心の水面が水鏡のようになる。お釈迦さまは、6年の苦行の後に「こんなに身体を痛めつけても心の問題は解決しないわい」と、菩提樹の下に座って心静かに瞑想された。そして、12月8日朝、豁然(かつぜん)と覚(悟)りを開かれた。静かでないと聞こえない音がある。心が静かでないと分からないことがある。静かというのは大切な時間なのだ。――仏壇で手を合わせる時間、お墓の前で合掌している時間。さあ、今日、パソコンの電源を切ったら、ドライブのモーターが切れ、ファンが止まるまでここに座っていよう。突然訪れる静寂の音を、THE SOUND OF SILENCEを、楽しもう。そうすれば、今までノイズだと思っていた音も事も、THE BEAUTIFUL NOISEに感じられるようになるかもしれない。

■第194話 芳彦流お釈迦さまご一代
インド北部、シャカ国(日本で言えば千葉県くらいだったらしい)で一人の王子が誕生したのが、今から約2500年前。名前をゴータマ・シッダールタ、後のお釈迦さまである。残念ながら産みの親である母さん(マヤ)は、ゴータマを生んでからすぐに亡くなってしまった。それが原因かどうか、小さな頃から一人で何か考え事をすることが多かった子だったそうだ。物質的には何の不自由もない王子さまだったが、心の中はどこか満たされなかった。若い時には勉強し、そして結婚して、一児をもうけた。そして、ゴータマ29歳の時である。彼は王子という位を捨てて、出家してしまう。なんでも、お城の三つの門で、それぞれ老人、病人、死人と出合って世の無常を感じたらしいのだ。「人はだれでも、病気になり、年をとり、死んでいくものなのか。それだけの存在なのか……」 そしてある日、もう一つの門で、出家者(修行者)と出合って、「私も家を出よう」と思ったそうだ。今で言えば、女房子供を置いて家を出るなど、ふざけた話だが、当時のインドでは「若い時勉強し、結婚し、子供をもうけ、出家して修行し、諸国を旅して一生を終える」というのが一つの理想的な生き方だとされていたらしい。老いも病も死も、自分のご都合通りにはならないことである。そのご都合通りにならないことに、人間は振り回され、苦しんでいる――この問題をどうクリアーすればいいのだろう――そんなことをお釈迦さまは考えていたようだ。ゴータマは当時、効果的だとされる修行を6年間した。山にこもって難行苦行。心(精神)の問題にくっきり焦点をあてるために、肉体の限界に挑戦してみる。その限界を越えたところに崇高な精神だけがポカンと現れるのを期待した。6年間でいろいろなことがわかったが、それ以上の悟りを得るためには、難行苦行ではダメなことに気がついた。――で、山を下りた。近くの川で苦行の垢を落して岸に上がると、近くの村の娘(スジャータ)が、彼の気高い姿に打たれて乳粥をくれた(供養した)。これで元気ハツラツ!となった彼は、涼しい木陰に座って誓った。「覚りが開けるまでここに座っていよう。ここで、瞑想していよう」 座ること7日間、遂に豁然と覚りが開けた。時は12月8日、早朝のことだった。どんなことでも、ものでも、さまざまな条件が重なって今そこにあるのだ。条件が一つ加われば別の展開になる。世の中はそうなっていたのだ。その条件を自分で選べることもあれば、選べないこともある。老い、病、死は選べないことなのに自分のご都合をいれようとするから苦なのだ。ご都合へのこだわりは要らないのだ。あるがままでいいのだ。確かなことは、今生きているということなのだ。後のことは条件でドンドコ変わっていくのだ。その変わっていくことに、こちらが右往左往されないよう心を磨くのだ。――2500年程前の12月8日の出来事である。

■第195話 自分の居場所
仏教に「無住処(むじゅうしょ)」という言葉があります。漢字から“住む所が無い”だからホームレスだと思ったら大間違い。これは、特定の場所に留まっていない、縛られていない、自由にどこにでもいられる――という、とてもいい意味です。今回のお題のリクエストをくださったのは“みみなの父”さん。みみなさんのお父さんもお母さんも喘息で、そのお母さんが入院中。お母さんがいない家でみみなさんがお母さんの役目を担っています。「よくがんばってくれています」とご両親は口を揃えておっしゃいます。家と学校と病院の3カ所を行ったり来たりということに、すこしウンザリしているかもしれません。もっと友だちと遊びたい買い物にも行きたい!とも思うかもしれません。そして、多くの大人も家と仕事場の往復。自分の身体がそれだけに束縛されていると思う人は多いでしょう。「これでいいのだろうか?」と疑問に思う人は少なくありません。もし、自分が同じ所で、同じ立場でいることにイライラしているようなら、ちょっと考えてみましょう。ちょっと気づいてみませんか。私たちはいつも同じ、たった一つの自分でいるわけではありません。子供という立場(居場所)、生徒という立場、友だち、姉、母親役、父親役、バスに乗れば乗客になる、買い物すればお客さんになる……そんなたくさんの自分が入れ替わり立ち替わりしています。ちっとも縛られてなんかいないんです。しかし、身体は一つ。分身の術は使えません。ならば、身体に関してはもう諦めるしかありません。誰かのために、その一つの身体を使うことは素晴らしいことです。今やらなければならないことを、この一つの身体を使ってやるしかない、やるっきゃない!―――ここにドッカとあぐらをかくしかないんです(と思わず力が入りますが)。それを楽しんでやりましょうよ。笑顔でやりましょうよ。現実の生活では「自分の居場所」が束縛されていることにイライラしたり、逆に「居場所がない(安心して居られる所が無い)」ことが不安になることがあるかもしれません。でも、そんなふうに、心にマイナス要素が出てきた時こそが、心を磨くチャンスなんです。「束縛されている」と感じる心は、私の場合、道端の草、落ち葉、流れる雲に関心を持つとずいぶん変化します。自分で自分の心のアンテナを固定していたから、そんなことには目が向いていなかっただけなんだと気づくんです。「居場所がない」と不安に感じる心は、両手で自分の頬を包んでみると安心できます。「こんなにあったかい!命があるじゃないか。生きてるじゃないか」と、自分の命に自分の居場所がもともとあったことを再確認できるんです。『身体は一つ、心は無住処』――そんな心意気でいきましょうや。

■第196話 心はどこにある
“ここみのPAPA”さんから、お題というより、質問?をいただきました。“色々な事を考え、感じるのは、頭ですよね?暑い、寒い、苦い(にがい)、美味しい、嬉しい、悲しい、好き、嫌いなどを感じるのも指先や、眼や、舌から脳に伝わって感じるわけでしょ。よく使う言葉に、「こころが痛む」って言いますけど、「心」ってどこにあるの??”――という言葉が添えられています。面白いですよね。心は頭にありそうだけど、「心が痛む」とジェスチャーする時には、両手で胸の真ん中を押さえますものね。「アッシの心意気を見ておくんなせぇ」と啖呵を切る時には、どーんと平手で心臓の上を叩きますものね。ほぼ日本語になっているハート(heart)という言葉も英語では心臓の意味です。だとすると、私たちは昔から、心は胸の中にあると感じていたんでしょうね(世界共通かどうかは知りませんけど)。仏教でも心の問題は昔からずいぶん議論されてきました。そこから「この世の事物・現象は、客体として実存しているのではなく、人間の心の根源である阿頼耶識(あらやしき)が展開して生じたものなのだ」とする唯識(ゆいしき)という学問が確立してきた経緯があります。では心は、いったいどこにあるのか?頭か胸か心臓か。科学的には頭脳全体ということになるんでしょうね。しかし、私は“心の発信源を物理的に解明すること”を云々してもあまり意味がないような気がするんです(医学的にはたいへんな意味がありますが)。心で感じたことを私たちは、ニッコリ笑った目や口元で表します。思いが同じことが分かって感激してする固い握手、子供が悔しがってする地団駄など、私たちは全身に心があるようです。他にも、家族やお客さんのことを思って作られるお料理にも心がこもっています。つまり物にも心があるということです。世の中、お歳暮シーズン、そして迎えるクリスマス。私たちは単に品物を差し上げているのでも、もらっているのでもありません。心を差し上げたり、もらったりしているのだと思います。こころと言うのは、特定の場所に留まっているわけでもなく、そこらじゅうに遍満(へんまん)しているのだと思うのです。  前回と同じような話になってしまいますが、私は「心はどこにあるの?」と聞かれれば、「心ここにあらず」と頭を指さして冗談っぽく答えるでしょう。

■第197話 心の病気と気持ち
「もうそろそろダメかもしんないな……」 肝臓ガンだった父は自分の体調がすぐれないと、すぐにこんなセリフを私に言った。何度も言われる方は、たまったものではない。「“もう死んじゃうかもしれない”って言われたって、どうしようもないよ。自分で体調管理してよ」と冷たく言い放ったことも一度や二度ではない。そんな父は色紙にこう書いた。“死ぬ、死ぬと言いつつ生きる お年寄り” “死ぬ、死ぬと云う人に限り長生きと だから私は死ぬ死ぬという” 父は自分でも、どうしようも無かったのだと思う。だから、それを自ら茶化して文字にしたのだ。「病(やまい)は気からって言うんだからさ。もっと前向きになりなよ。自分で自分を病気にしてるように見えるよ。心の病気かもしれないよ」 私がそう言った時、父はすぐにこう答えた。「確かに病は気からとは言うけどな。お前は大した病気になったことがないからそう言うんだよ。いいか、“気は病(やまい)から”ということもあるんだぞ。病気が気持ちを弱くさせることがあるんだよ」 私は、気持ちさえしっかりしていればどうにかなるという精神論のみを、父に押しつけていたことを恥ずかしく思った。“気は病から”――そういうことがあると思えた。私は医師ではないし、大病をしたこともないので病気が人の気持ちにどんな影響を与えるかよくわからない。しかし、どんな時でもなるべく前向きにいようと思う。そのための訓練(修行)を元気な今からしておこうと思うのだ。自然をよく観察し、人の情けを実感できる心の体質を今から磨いておこうと思う。より具体的な方法は、故・村上正行さんが教えてくれた。

■第198話 三日坊主
今回のお題は“都鳥”さんからの「三日坊主」です。で、“三日坊主”の語源が気になって調べたら、「僧の修業というのは朝早くからのお勤めにはじまり、規則正しい生活を送らねばならず、また食事も粗食です。つい、衝動的に頭を丸めて坊主を志した人でもその実態に触れると並大抵の心構えではとても長続きしません。こういう人は三日も立たないうちにねをあげて俗界にもどってしまうのが常です。こうしたことから“三日坊主”という言葉が生まれました」 (「言葉の不思議なぜナゾ辞典2」) へえ、正直なところ、坊さんでありながら私は48歳にしてはじめて知りました。その意味も、僧侶の生活はそんなに厳しいものなのかということも(面目ねぇ……)。私の期待としては“三日坊主”という言葉は「乞食と坊主は三日やったらやめられない」という系譜に属してほしかった。坊さんはそれほど素晴らしい生き方なのだ!という流れで「三日坊主」という言葉を使いたかったのです。実はこの“三日”というのは単に短い期間という意味で使われていると説明されているものもあります(「三日天下」「三日見ぬ間の桜」など)。しかし、私はこれを「三回」がキーワードではないかとひそかに思っています。何でも三回経験すると、ものごとが見えてくるということなのではないかと思うのです。その代表格が「石の上にも三年」という言葉。何か新しいことをはじめて春夏秋冬が三回めぐる間に、おのずと分かることがあるということでしょう。無我夢中でやり始めた頃に見た桜、耳にした蝉時雨、掃き集めた落ち葉、襟を立てたコート。二年目は、その季節の思い出と共に、初心の頃を思い出す余裕が出てきます。そして、迎える三回目の桜、新緑、入道雲、紅葉、クリスマス、お正月……。その間にやっていたことが厚い経験値となって、そのまま継続しても、やめても、次のステップに引き継がれていきます。三日坊主も、単に「飽きっぽい」ことを揶揄する言葉というより、朝、昼、晩の坊主の生活を三回繰り返すことで、自分に出来るか出来ないかを判断したというふうに取りたいのです(ある意味で、潔いではあ〜りませんか)。今やりたいことを、とりあえずやってみる――で、三回を目安に再考してみる。そう言えば、かつて友人のお見合いの仲介をした時に、年配の人に「お見合いのルールはお見合いの後2回会ったら、仲人さんに、やめるか、付き合いを続けるかを報告しないといけないものだ」と聞いたことがあります。先人の知恵ですねぇ。何が何でも我慢して続けることが目標になってはいけないのです。目標がないと我慢などできないものです。目標設定をどうするか……それが大切です。仏教の場合は、「仏さまのようになりたい!」が目標です。

■第199話 いい加減にしてください!
今年のお正月も面白かった――と言うと不遜かもしれませんけど。お墓参りに来た檀家さんのうち5人に聞かれたのです。「お正月は7日まではお墓参りはしてはいけないと聞いたんですけど、そうなんですか?」 「誰がそんなこと言ったんですか?」と聞き返す必要はもはやなく、ただニンマリするばかり(だって、一昨年も「お墓にお水をかけてお参りしてはいけないんですか?」とずいぶん聞かれて、楽しく対応してたもんですから)。そりゃ、今まで人が何気なくやってきたことを否定すれば、それも一方で恐怖霊や厄などの言葉を持ち出す人がそんなことを言えば、一般の人にとってショッキングです。で、聞き返しました。“どうしてダメだと言ってましたか。” 答えはこうでした。“なんでも、お正月は日本の神さまを迎える儀式だから、死んだ人の所へは行ってはいけない。日本の神さまは死を忌(い)み嫌(きら)うからだそうです。” ニャルホド……。喪中の人は神社の鳥居はくぐれませんわなあ。しかし、日本の神というのは、八百万(やおよろず)いらっしゃる。密蔵院でも神さま(鎮守さまや、大黒さま、地元の神さまである鹿島明神など)をちゃんと拝みます。その神々の中にドッカーンといるのは、ご先祖という神さまです。日本では、私たちが死ぬと魂はまず“草葉の陰に宿る”。そして、その魂が軒の下に移り、時間をかけて地元の鎮守の森へ、さらに子孫のもてなし(供養)を受けて、魂が浄化されて、やがて山(私たちにとっての水、木、食べ物などを供給してくれる命の源)に帰る。そして、親しい先祖(神)となって子孫を見まもる。――これが、私たち日本人が持っている代表的な霊魂観念の一つです。ですから、神さまは、私たちのご先祖さまでもあるのです。その先祖を迎える儀式が、正月とお盆です。先祖の墓参りをして“どうぞ、見まもってください”と祈ることは、日本人にとって、ごく自然なことなんです。お墓参りには、何の気兼ねも遠慮もいりません。どうぞ、いつでもお墓参りをしてください。先祖に感謝の思いを伝えてください。視聴率だけが目的のテレビのショーに出て、人心を惑わすような人の言葉は、“何故?”という批判的な目と耳でご覧ください。自分で決めていくという主体性がなくなってしまいますよーん。そして、もしどうしても気になるようなことがあれば、遠慮なくお寺へ聞きに行って真偽を確かめるといいです。

■第200話 仏教
仏教――それは“仏さまの教え”でもありますが、“自分が仏になるための教え”でもあります。“仏”という言葉に、死者のイメージやうさん臭さを持っている方、あるいは親近感がもてない方は“すばらしい人になるための教え”と読み替えても、いっこうに差し支えありません。はたまた、逆説的に“つまらぬ人にならないための教え”としても、構いません。その“つまらない人にならないため”に、なぜつまらない人になってしまうのかを考察し、さまざまな方法が考えられ、実践され、効果をあげてきました。それが、仏教の歴史でもあります。それらの方法は、人により、時代により千変万化します。お墓参りをしてごらんなさい。感謝の心を忘れないで。心静かに瞑想しなさい。仏を念じなさい。身体を痛めつけなさい。踊りなさい。人里離れた所に住みなさい。私の言うこと聞きなさい! などなど。どの時代でも、どの国でも、どんな人にも通用する“つまならい人にならないための方法”などありません。お釈迦さまも、インド各地を説法して巡っていた時には、人によって説法を変えました(説法をする前に、その人のことを十分に知ってから話したはずです)。相手の機根(気根・きこん)に応じて説法したことから、これを、対機説法と言います。それがやがて宗派という違いを生み、さまざまな仏が出現した理由です。一つになど絞り込めないし、絞り込む必要もないのです。人はそれぞれ違うのですから。自分が“つまらない人にならないため”には、この方法が良さそうだと思ったら、興味を持ってやってみるといいでしょう。そして、時々立ち止まって「自分の目標は何だったのか」を思い出す心の余裕を、冷静さを持っていてください。そうでないと、手段が目標になってしまうことがあるものです。最初のいただきものは、この命です。この命を続けていくために食べ物もお金も必要です。しかし、この命を輝かせていくためには、グルメになる必要も、お金持ちになる必要も、偉くなる必要もありません。人の悪口を言っても自分の命は輝きません。あたたかい真心(まごころ)があれば、キラキラと輝きはじめます。さあ、これからも、ご一緒に、仏道を、朗らかに、てくてく歩いていきましょう。 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 

 

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