天台宗 [最澄] 法話

天台宗法話 / 宗祖伝教大師最澄高祖天台智者大師天台の祖師達各宗の開祖達天台座主全国の主寺院・・・法話1法11法21法話1法41法51法61法71法81法91法101法111法121法131法141法151法161法171法181法191・・・
福正寺法話 / 法話1法6法11法16法21法26法31法36法41・・・
天台宗と真言宗 / 仏教精神を変質させた祖師仏教台密と東密の違い最澄空海の仏教観の違い祖師仏教祖師仏教の非仏説現代の新興宗教神道とは何か仏教とは何か仏教の本質大乗仏教の成立仏教思想と庶民南都六宗天台宗真言宗空海と最澄の履歴空海と最澄の書大乗仏教(特徴と成立過程)大乗(宗派の特徴と抗争)大乗(宗派の論争)密教の萌芽密教の再評価中期密教中期密教の成立空海と最澄東密と台密チベット仏教真言密教顕教と密教日本密教の特徴鎌倉新仏教・・・
円融寺法話 / ・・・
比叡山延暦寺 / 比叡山1比叡山2比叡山延暦寺延暦寺1延暦寺2延暦寺3延暦寺4延暦寺の不思議・・・・・・・・・・・
 

雑学の世界・補考

天台宗・法話

仏教とは
仏教という言葉には、3つの意味があります。
先ず、まず、釈尊の教えという意味があります。今から2500年ほど前に、現在のネパール南部でお生まれになった、釈尊(ゴータマ・シッダールタ、仏陀とも言う)の説かれた教えという意味です。
次には、その教えに従って生活をする事で、釈尊と同じように自らが悟りを開き、苦悩の世界から解脱する教えという意味があります。つまり自ら仏に成るための教えということです。
もう一つ大事な意味があります。それは、悟りの世界は全ての生きとし生けるものに平等に与えられており、多くの人々と共にその世界へ行こうと互いに努める教えということです。釈尊は菩提樹の下で悟りを開かれた後、45年にわたる生涯をこの真理を人々に伝えるために過ごされ、その旅の途中で亡くなられました。ですから仏教は釈尊のはじめから、多くの人々と共にということが大前提なのです。
天台宗の起源
釈尊の残された教えは、南は東南アジアの国々へ広まり、北はガンダーラからヒマラヤを越えて中央アジアへと広まり、やがて中国へと伝わっていきます。多くの求法の僧により、数々の経典が伝えられましたが、その中でも『妙法蓮華経』(『法華経』)という経典に釈尊の「全ての人に悟りの世界を」という考え方がもっとも明確に述べられています。
この教えに注目し仏教全体の教義を体系付けたのが智(ちぎ)です。智(538年〜597年)はその晩年を杭州の南の天台山で過ごし、弟子の養成に努めたことから「天台大師」と諡(おくりな)され、またその教学は天台教学と称されました。これが天台宗の起源であり、智を高祖と唱えるのはこのためです。
天台宗の教え
天台大師の教えを日本に伝え、比叡山を開いて教え弘めたのは
伝教大師最澄(さいちょう)です。その教えは…
第一 全ての人は皆、仏の子供と宣言しました。(悉有仏性)
釈尊が悟りを開かれたから、悟りの世界が存在するのではありません。それはニュートンが林檎の落ちるのを見ようが見まいが引力が存在するのと同じことです。悟りへの道は明らかに存在するのです。そして悟りに至る種は生まれながらにして私たちの心に植付けられていると宣言しました。あとはこのことに気付き、その種をどのように育てるかということです。
第二 悟りに至る方法を全ての人々に開放しました。
仏教には八万四千もの教えがあると言われていますが、それらは別々な悟りを得る教えではなく、全ては釈尊と同じ悟りに至る方法の一つでもあるのです。例えば座禅でも念仏でも護摩供を修することでも、巡礼でも、写経でも、もっと言えば茶道、華道でも、また絵画、彫刻でも方法はさまざまでいいのですが、そこに真実を探し求める心(道心)があれば、そのままそれが悟りに至る道です。日常の生活にもそれは言えることです。多くの開祖を輩出した天台宗が日本仏教の母山と言われるのも、また日本文化の根源と言われるのもこのことからです。
第三 まず、自分自身が仏であることに目覚めましょう。
そのために天台宗ではお授戒を奨めています。戒を授かるということは我が身に仏さまをお迎えすることです。仏さまとともに生きる人を菩薩といい、その行いを菩薩行といいます。
第四 一隅を照らしましょう。(一隅を照らす運動)
心に仏さまを頂いた人たちが手を繋ぎ合って暮らす社会はそのまま仏さまの世界です。一日も早くそんな世の中にしたいと天台宗では考え「一隅を照らす」運動を進めています。まず自分自身を輝いた存在としましょう。その輝きが周りも照らします。一人一人が輝きあい、手をつなぐことができればすばらしい世界が生まれます。
天台宗の歴史
日本の天台宗は、今から1200年前の延暦25年(806)、伝教大師最澄によって開かれた宗派です。
最澄は神護景雲元年(767、異説あり)、近江国滋賀郡、琵琶湖西岸の三津(今日の滋賀県坂本)で、三津首百枝(みつのおびとももえ)の長男として誕生。幼名を広野(ひろの)と呼ばれました。早くからその才能を開花させ、12歳で近江の国分寺行表(ぎょうひょう)の弟子となり、宝亀11年(780)に得度、延暦4年(785)に奈良の東大寺戒壇院で具足戒(250戒)を受け、国に認められた正式な僧侶となられたのです。受戒後3ヵ月ほどで奈良を離れ、比叡山に分け入り修行の生活に入られました。そして若き僧最澄は【願文】を作り、一乗の教えを体解(たいげ)するまで山を下りないと、み仏に誓いました。その後、延暦7年(788)に一乗止観院(後の根本中堂)を創建、本尊として薬師如来を刻まれました。
【願文】の中で、「私たちの住むこの迷いの世界は、ただ苦しみばかりで少しも心安らかなことなどない。(中略)人間として生れることは難しく、また生れたとしてもその身体ははかなく移ろいやすい。」と、世の中の無常と人間のはかなさを自覚されました。そして、「因なくして果を得、この処(ことわ)りあることなく、善なくして苦を免がる、この処(ことわ)りあることなし。」と因果の厳しさを述べ、だからこそ生きているときに善いことをする努力を惜しんではならないと考え、『願文』の中で五つの【心願】をたてられたのです。
天台大師智の教えを極めたいと願い、桓武天皇の援助を受けて還学生(げんがくしょう)として唐に渡りました。中国天台山に赴き、修禅寺の道邃(どうずい)・仏隴寺の行満に天台教学を学び、典籍の書写をします。その後禅林寺の翛然(しゅくねん)より禅の教えを受けられ、帰国前には越州龍興寺で順暁阿闍梨から密教の伝法を受けられます。こうして、円密一致といわれる日本天台宗の基礎をつくられたのです。延暦24年(805)に帰朝してすぐに、高雄山寺で奈良の学僧達に日本で初めて密教の潅頂を授けるなどして、入唐求法の成果を明らかにされました。当時、「仏に成れるもの、仏に成れないものを区別する」という説もありましたが、最澄は、「すべての人が仏に成れる」と説く『法華経』に基づいて、日本全土を大乗仏教の国にしていかねばならないとの願いが募り、『法華経』の一乗の精神による人材の養成を目指しました。
こうした最澄の努力と熱意が通じ、延暦25年(806)1月26日、年分度者(国家公認の僧侶)2名認可の官符が発せられました。このことから、1月26日を天台宗開宗の日としています。2名の年分度者とは、天台教学を学ぶ者(止観業)1名と、密教を学ぶ者(遮那業)1名でした。その後最澄は、真俗一貫の大乗菩薩戒こそが真に国を護り人々を幸せにすると考え、弘仁9年(818)から翌年にかけて【山家学生式】(さんげがくしょうしき)と呼ばれる一連の上表を行います。さらに弘仁11年(820)、『顕戒論』を著わして比叡山に大乗戒独立の允許を求めたのでした。そして弘仁13年(822)6月4日に最澄は遷化され、その7日後、比叡山独自に大乗菩薩戒を授けることの勅許が下されたのです。
最澄亡き後、一乗止観院は「延暦寺」の寺額を勅賜され、比叡山延暦寺と呼ばれるようになりました。翌年、弟子の義真が伝法師(後世の天台座主のこと)として後を継ぎます。
第3世座主円仁によって、延暦寺では横川(よかわ)が開かれ、東塔地区も整備されていきます。また、9年間に亘る入唐求法の成果をもとに、天台教学の中に浄土教を取り入れ、密教を拡充していくなど、その功績は多大なものでした。円仁の没後ほどなく、貞観8年(866)、最澄には「伝教大師」、円仁には「慈覚大師」という諡号(しごう)を清和天皇より賜りました。これは日本における初めての大師号であり、最澄・円仁による天台宗の確立が、いかに日本仏教の発展に寄与したかを示すものであります。
また、第5世座主の円珍(智証大師)や五大院安然らによって密教も体系的に整備され、後に東密(真言宗の密教)に対して台密(天台宗の密教)と称されるようになりました。
その後も多くの人材が比叡山で研鑽に励み、学問も修行も充実していきます。平安時代中期には、第18世座主の良源(慈恵大師)によって諸堂の再建と整備がなされ、論義が盛んに行われて教学の振興がはかられました。さらに弟子の源信(恵心僧都)によって『往生要集』が著わされ、これが後の日本の浄土教発展の基礎となりました。また、『法華経』や浄土教信仰などは知識人の間に浸透し、『源氏物語』や『平家物語』に代表される古典文学の底流をなしています。円仁が中国からもたらし大成した声明は、日本伝統音楽の源流となり、また能・茶道にも天台の仏教思想が深く入り込んでいるといわれています。
平安末期から鎌倉時代はじめにかけては、法然・栄西・親鸞・道元・日蓮といった各宗派の開祖たちが比叡山で学びました。こうして後に比叡山は日本仏教の母山と呼ばれるようになったのです。
時代は下り、盛栄を誇った比叡山延暦寺も織田信長の焼き討ちにあい、一時その宗勢に陰りが見えましたが、江戸時代になり徳川家康の懐刀と云われた天海(慈眼大師)によってその勢力を盛り返し、特に寛永寺は西の比叡山に対して東叡山と呼ばれ、その影響力を日本全土に及ぼしたのです。
 
宗祖伝教大師 最澄

 

誕生
約1200年ほど前、今の滋賀県大津市坂本の一帯を統治していた三津首という一族の中に百枝という方がおられました。子どもに恵まれなかった百枝は、日吉大社の奥にある神宮禅院に籠もり、子どもを授かるように願を掛けました。神護景雲元年(767)8月18日、願いが叶って男の子が誕生し、広野(ひろの)と名付けられました。この広野こそ、後に比叡山に登り天台宗を開かれた最澄だったのです。お生まれになったところは、現在の門前町坂本にある生源寺といわれています。最澄の誕生日には、老若男女が集い、盛大な祭が行われます。また、近くには幼少期を過ごしたとされる紅染寺趾や、産湯に使われた竈を埋めたといわれるところがあります。
出家
広野は、両親の深い仏教への信仰の影響もあって、12歳のとき、近江の国分寺(現在の大津市石山)に入り、14歳で得度し、「最澄」という名前をいただきました。厳しい修行と勉強に打ち込んだ最澄は、やがて奈良の都に行き、さらに勉学を積みました。そして延暦4年(785)、奈良の東大寺で具足戒を受けました。具足戒とは、僧侶として守らなければならない行動規範であり、250もの戒めを完備していることから具足戒と呼ばれます。国家公認の一人前の僧侶となった最澄には、大寺での栄達の道が待っていましたが、受戒後、故郷に戻り、比叡山に籠り一人修行を続けました。そしてすべての人々が救われることを願い、一乗止観院を建てて自ら刻んだ薬師如来を安置し、仏の教えが永遠に伝えられますようにと願って灯明を供えました。(延暦7年(788)年)このとき最澄は、「明らけく 後(のち)の仏の御世(みよ)までも 光りつたへよ 法(のり)のともしび」と詠まれ、仏の光であり、法華経の教えを表すこの光を、末法の世を乗り越えて(後の仏である)弥勒如来がお出ましになるまで消えることなくこの比叡山でお守りし、すべての世の中を照らすようにと願いを込めたのでした。この灯火はこのときから大切に受け継がれ、1200年余りを経た今日でも、根本中堂の内陣中央にある3つの大きな灯籠の中で「不滅の法灯」として光り輝いています。
入唐求法
比叡山で修行を続けていた最澄は、みずから天台山に赴いて典籍を求め、より深く天台教学を学びたいと考えます。そこで桓武天皇に願い出て、延暦23年(804)、還学生(げんがくしょう)として中国に渡りました。当時、中国に渡るのは命がけのことで、4隻で構成された遣唐使船のうち、中国に無事たどり着いたのは2隻だけでした。到着した2隻のうちの別の船には、後に真言宗を開かれた空海が乗っていました。中国に着いた最澄は、今の浙江省天台県に位置する天台山に赴き、修禅寺の道邃(どうずい)・仏隴寺の行満に天台教学を学びます。その後禅林寺の翛然(しゅくねん)より禅の教えを受け、帰国前には越州龍興寺で順暁阿闍梨から密教の伝法を受けました。こうして多くの経典や法具を携えて帰国したのでした。
天台宗の公認
帰国した最澄は、『法華経』に基づいた「すべての人が仏に成れる」という天台の教えを日本に広めるために、天台法華円宗の設立許可を願います。その際、「一つの網の目では鳥をとることができないように、一つ、二つの宗派では、普く人々を救うことはできない。」という最澄の考えが受け容れられ、延暦25年(806)、華厳宗・律宗・三論宗(成実宗含む)・法相宗(倶舎宗含む)に天台宗を加えて十二名の年分度者が許されることになりました。ここに天台宗が公認されたのです。この日を以て「日本天台宗」の始まりとし、比叡山延暦寺をはじめ多くの天台宗の寺院では、この日を「開宗記念日」として報恩報謝の法要を行っています。
布教・伝道
天台宗が公認された後、最澄は、「国宝とは何物ぞ。宝とは道心なり。道心有るの人を名づけて国宝と為す。・・・一隅を照らす。此れ則ち国宝なりと・・・」で始まる『天台法華宗年分学生式』(てんだいほっけしゅうねんぶんがくしょうしき)(六条式)を弘仁9(818)年5月13日に天皇に奏上しました。そこには、比叡山での教育方針や修行方法などが示されています。また最澄は、社会教化・布教伝道のために中部地方や関東地方、さらには九州地方に出かけ、天台の教えを広めました。出向いた各地で協力を得て『法華経』を写経し、これを納めた宝塔を建立しました(六所宝塔)。加えて、旅人の難儀を救うための無料宿泊所を設けました。
大乗戒壇
天台宗の年分度者が認可されたあとも、正式な僧侶となるためには奈良で具足戒を受けなければなりませんでした。最澄は、『法華経』の精神に基づいて、僧侶だけでなくすべての人々を救い、共に悟りを得るためには、戒律は大乗の梵網菩薩戒でなければならないと考えて、比叡山に天台宗独自の大乗戒壇による授戒制度を国に願い出ました。しかし奈良の僧侶たちの猛反対にあい、なかなか認可されないまま、最澄は弘仁13年(822)6月4日、56歳で遷化されました。その七日後、最澄の悲願であった大乗戒の授戒が許される詔が下されたのです。最澄は死に臨んで、弟子たちに「我がために仏を作ることなかれ、我がために経を写すことなかれ、我が志を述べよ(私のために仏を作り、経を写すなどするよりも、私の志を後世まで伝えなさい)」と遺誡し、大乗戒をいしずえにすることで誰もが「国の宝」になることを願ったのでした。最澄の命日の6月4日には、延暦寺をはじめ各地の天台宗寺院で「山家会(さんげえ)」という法要が行われています。嵯峨天皇は、最澄の死を大変惜しまれ、「延暦寺」という寺号を授けられました。このときから比叡山寺(日枝山寺)から延暦寺とよばれるようになりました。年号を寺号にしたのは、日本ではこれが最初です。
大師号
貞観8年(866)、清和天皇から最澄に「伝教大師」、同時に円仁に「慈覚大師」の諡号が贈られました。大師とは人を教え導く偉大な指導者という意味で、日本ではこれが最初の大師号です。これ以後、最澄は「伝教大師最澄」と称されるようになりました。

高祖天台智者大師

 

大師ご誕生
西暦538年、天台大師は中国荊州華容(けいしゅうかよう)県に誕生されました。この年は日本に仏教が伝えられた年です。誕生の時に家が輝いたので皆から光道(こうどう)と呼ばれました。生まれた時から人並みでなく、二重の瞳を持ち、7才のころ喜んでお寺にかよい、一度『観音経』を聞いただけで覚えてしまったといいます。17才の時、父の仕える梁(りょう)の国は陳国に攻められて、大師は親族と共に流浪の運命となってしまいました。
大蘇開悟(だいそかいご)
18才の時、出家に反対だった両親が亡くなり、兄の許しを得て果願寺で出家し、「智(ちぎ)」と名付けられました。そして一心不乱に修行し、23才の時、当時高名な光州大蘇山の慧思(えし)禅師を訪ね入門を許されました。禅師は「お前とわたしは昔インドの霊鷲山(りょうじゅせん)でお釈迦さまの『法華経』を一緒に聞いたことがある」と不思議な因縁を語り、再会を喜んだのです。(霊山同聴(りょうぜんどうちょう))。大師は『法華経』の重要な修行である四安楽行を教えられ、修行すること14日、薬王品の焼身供養の文に至って忽然(こつねん)と悟りを得ました。(大蘇開悟)。これを慧思禅師に報告すると、「これはお前とわたししか味わえない高い境地である」と絶賛したのです。この慧思禅師は、日本の聖徳太子に生まれ替わり『法華経』を弘めたといわれています。
金陵講説(きんりょうこうせつ)
30才。やがて慧思禅師は、大師に陳の首都建康(けんこう)(金陵(きんりょう)・南京)で布教せよと命じました。大師は27人の弟子を連れて建康の瓦官寺(がかんじ)に移り住み、説法しました。大師の説法は、当時高名な大忍法師が賞賛したばかりでなく、皇帝宣帝(せんてい)までが群臣たちに、大師の『法華経』説法を聞くよう命令するほどすばらしかったのです。やがて名声を聞いて集まる弟子が100人200人と年々増えましたが、逆に悟りを得る弟子の数が少なくなっていることに気付いた大師は、そこで8年間の建康での布教に区切りをつけ、ついに聖地天台山でさらに修行を深める決心をしたのです。
華頂降魔(かちょうごうま)
38才。大師の決心を聞いた宣帝は、勅命をもって引き留めましたがその決意は揺(ゆ)るぎませんでした。天台山に入り、最も美しい場所「仏隴峰(ぶつろうほう)」に至ると、なんとそこは子供のころ夢に見た場所だったのです。さっそく大師はそこに道場を建て、「修禅(しゅぜん)道場」と名付けて修行をしました。そして翌年、天台山の最高峰である華頂峰(かちょうほう)に登り一人坐禅をしていると、雷鳴が響き山地が振動し、悪魔のような恐ろしい情景に大師はびくともせず、ついに暁(あ)けの明星を見て真の悟りを得たのでした。これこそ天台仏教の奥義である欠けたることのない完全な教え、法華円教の悟りでした。これにより大師は「中国のお釈迦さま」と呼ばれるようになりました(華頂降魔)。
放生会(ほうじょうえ)
44才。天台山から流れ出す川や河口では、漁業が行われていました。ところが水死者も多く、魚も多く殺されていました。大師はこれを憐(あわ)れんで衣や持ち物を売り、そのお金でやな(魚を捕る仕掛け)を買い取り、そこを放生(ほうじょう)の場所にしました。そして『金光明経(こんこうみょうきょう)』流水品(るすいぼん)の説教をすると、人々はだんだん殺生が嫌いとなり、やなが廃止されるようになりました。これを聞いた宣帝は大変感動し、その流域を勅命で放生池(ほうじょうち)と定めました。この大師の放生会は、仏教史上初めてのことです。
光宅寺講説(こうたくじこうせつ)
48才。陳の永陽王(えいようおう)は、大師から受戒し、命も助けられたことがありました。永陽王は、大師を建康の都に迎えようとたびたび要請しましたが、なかなか承知しませんでした。ついに三度目の願いにより、大師はようやく建康に行き、宮殿で『大智度論(だいちどろん)』や経典をたくさん説いたのです。皇帝は高僧を呼んで難問を質問させましたが、ことごとく明解に答えたので、人々は仏様のように敬ったのです。
やがて50才の時、『法華経』の文章を解説した『法華文句(ほっけもんぐ)』を光宅寺で講説しました。
晋王受戒(しんのうじゅかい)
54才。隋(ずい)国が天下統一した後、晋王(しんのう)(後の煬帝(ようだい))は、揚州の禅衆寺を修復して大師を招請しました。この時、大師は晋王に不思議な因縁を感じて揚州に向かいました。晋王は僧侶千人を招いて供養し(千僧斎(せんそうさい))、願文を記すなどして熱心に仏教に帰依し、受戒を願ったので、大師は、大乗菩薩戒を授けました。晋王は大師に「智者」の号を送り、弟子として一生誠実に仕えたのです。これから智(ちぎ)禅師は智者大師(ちしゃだいし)として敬われることになったのです。後の煬帝は、日本聖徳太子の遣隋使、小野妹子(おののいもこ)の拝謁(はいえつ)を許し、慧思禅師使用の『法華経』を日本に伝えさせたのです。
玉泉寺講説(ぎょくせんじこうせつ)
55才。大師は晋王が引き留めるのをやっと断り、廬山(ろざん)や南岳(なんがく)を訪ね、故郷である荊州(けいしゅう)に帰りました。そして56才。故郷の恩に報(むく)いるため玉泉寺を建立し、『法華経』の経題を講義した『法華玄義(ほっけげんぎ)』を説きました。次の年は、仏教の修行内容をまとめた『摩訶止観(まかしかん)』を説きました。これらは先に説いた『法華文句』と共に天台三大部として伝えられ、それからの仏教にとても有益な大きな影響を与えました。
天台帰山(てんだいきざん)
58才。大師は晋王の願いにより再び揚州に向かいました。そこで王の求めにより『維摩経(ゆいまきょう)』を解説した本を献上しました。この『維摩経』は在家の維摩居士が仏教の深い真理を体得していることを説く経典です。晋王は、これを喜び、いつまでも揚州に留まるよう望みましたが、大師は天台山こそ帰るべき所と告げ、その秋、再び天台山に帰ったのです。天台山に帰ってみると、昔の道場は荒れ果てていましたが、大師は、なつかしい渓谷や泉石に触れて深く喜びました。やがて再び天台山に僧侶が続々と集まり、修行を始めたのです。
ご入滅(ごにゅうめつ)
60才。晋王に何度も要請され、大師はついに下山を決意しました。天台山西門まで下りたところ病気になり、石城寺に入り、臨終が近いことを悟りました。そこで大師は弟子達に、「観音様が師匠や友人を伴って私を迎えに来ました。これからは戒律を師とし、四種三昧に導かれて修行しなさい」と遺言し、11月24日未刻(昼2時)に入滅されました。大師は即身仏となられ、肉身塔にまつられ、晋王は天台山に国清寺を建立し、大師の偉業を賛えました。 ・・・以来1400年、天台大師の教えは宗祖伝教大師によって日本に伝えられ、今も仏教の根本原理となっているのです。
 
天台の祖師達

 

修禅大師
義真(781〜833) 第1世天台座主
平安初期、相模の人。22歳で得度、早くより最澄について天台を学び、延暦23年(804)、師に従って訳語僧(通訳)として入唐。帰朝後、最澄を補佐し、師の没後その遺志を継いで比叡山で初の大乗戒による授戒を行い、伝戒師となる。天長元年(824)初代天台座主となった。弟子に円珍がいる。
別当大師
光定(779〜858) 実務に徹して比叡山を護持
伊予の人。大同3年(808)、30歳で最澄の弟子となり、大乗戒の独立のために尽力。円澄入滅後、天台座主不在の18年間を含めた36年間にわたり、延暦寺を護持・運営。延暦寺別当に任命されたところから、別当大師と呼ばれる。墓所は、伝教大師の廟所(比叡山浄土院)の隣に寄り添うようにある。
慈覚大師
円仁(794〜864) 第3世天台座主
下野の人。15歳で最澄に師事し、承和5年(838)中国に渡り、五台山・長安等で勉学、会昌2年武宗の仏教弾圧に遭い、艱難辛苦しながら多くの典籍・教法を持ち帰った。帰朝後は天台密教の大成につとめ、関東東北を巡錫して多くの霊場を開いた。
智証大師
円珍(814〜891) 第5世天台座主 天台宗寺門派の開祖
讃岐の人。母は空海の姪にあたるといわれ、15歳で比叡山に入り義真に師事した。仁寿3年(853)入唐。天安2年(858)四四一本一千巻の経論典籍とともに帰朝、比叡山山王院に住した。貞観8年(866)園城寺の別当となり、大いに天台の教風を宣揚した。貞観10年(868)安恵に次いで天台座主となる。同年園城寺を賜わると、ここを天台の別院とした。後に円珍の門流は園城寺において、円仁の門流(山門派)に対し寺門派を形成する。
安然和尚
(841〜?) 五大院先徳 阿覚大師
近江の人。円仁・遍照に学び、比叡山に五大院を構え盛んに天台密教を講述した。『教時問答』、『菩提心義抄』、『悉曇蔵』等の著がある。天台密教の大成者である。生涯、ただ研究と著作に没頭したので、世にもっぱら五大院の先徳といわれる。
相應和尚
(831〜918、一説に908) 回峰行の始祖 建立大師 南山大師
近江の人。15歳で円仁の門に入り、宇多天皇の歯痛を鎮めるなどたびたび法験をあらわした。貞観7年(865、一説に貞観6年)回峰行の根本道場として無動寺を建立したので、後に建立大師といわれる。朝廷に奏上して最澄に「伝教」、円仁に「慈覚」の大師号を賜った。
慈恵大師
良源(912〜985) 第18世天台座主 元三大師
近江の人。南都の学匠を論破し(応和の宗論)、名声が響き渡った。多くの門下があり、源信・覚運などの偉才を輩出した。学問を奨励し、荒廃した比叡山を復興・拡充したので、叡山中興の祖と仰がれる。角大師・豆大師として庶民に広く信仰される。おみくじの元祖でもある。
恵心僧都
源信(942〜1017) 日本浄土教の祖
大和の人。良源に師事し、学才の誉れ高かったが、母の教誡によって栄名を忌み、横川の恵心院に住んで浄業を修し、『往生要集』を著わして日本の浄土教の基礎を築いた。仏像・仏画の制作が多数にのぼる。浄土系各宗から特に尊祟されている。
空也上人
(903〜972) 空也念仏の祖
京都の人。醍醐天皇の第5皇子とも伝えられる。在俗の修行者として遊行し、天歴2年(948)延暦寺の延昌に戒を受けた。応和3年(963)京都に西光寺(後の六波羅蜜寺)を建てた。常に市井に立って南無阿弥陀仏を称え、庶民に念仏を広めて市聖(いちのひじり)と呼ばれた。その念仏を空也念仏とも称し、踊り念仏の祖とされる。
慈眼大師
天海(1536〜1643) 上野寛永寺と創建
14歳で宇都宮粉河寺(こかわでら)の皇瞬僧正に学ぶ。後に比叡山で天台三大部を学び、園城寺でも就学、興福寺で法相・三論等を研究。徳川家康に謁見してより、次第にその信任を得る。のち秀忠・家光にも信頼が厚かった。元和2年(1616)家康が亡くなると、その亡骸を久能山より日光山に移し、奥院廟塔(後の東照宮)を造営する。そして家康に東照大権現の諡号を贈る勅許を得た。また、秀忠に助言し、上野の東叡山寛永寺を創建し、その第1世となった。
 
各宗の開祖達〜比叡山で学んだ開祖達〜

 

法然上人
(1133〜1212) 浄土宗の開祖
美作の人。13歳で比叡山に上り、経典・論書を広く学ぶ。承安5年(1175)、善導『観無量寿経疏』の「念仏を称えると阿弥陀仏の本願力に乗じて必ず極楽往生できる」という説により回心し、比叡山を下りて東山吉水に行き、本願念仏の教えを広めた。
栄西禅師
(1141〜1215) 臨済宗の開祖
備中の人。14歳で比叡山に入り、その後2度にわたって中国に留学。臨済宗黄龍派の禅と戒を学ぶ。帰国後博多の聖福寺を拠点に活動を始め、鎌倉の北条政子など、幕府の援助で京都と鎌倉に活動の拠点を設け、禅の教えが認知されるようになった。
親鸞聖人
(1173〜1262) 見真大師 浄土真宗の開祖
鎌倉初期、京都の人。9歳で比叡山の慈円の門下に入り、29歳で法然の弟子となり、他力易行門を会得した。35歳で配流の身となってからは越後、関東と教化の旅を続け、在家往生の実を示すため自ら肉食妻帯をした。『教行信証』を著わし、浄土真宗を開いた。90歳、京都に寂す。
道元禅師
(1200〜1253) 承陽大師 日本曹洞宗の開祖
京都の人。13歳で比叡山に登り、翌年、公円のもとで剃髪し天台の秘奥を学ぶ。後、建仁寺で栄西の高足の明全に師事し、禅宗に帰した。貞応2年(1223)、中国に渡って曹洞宗を学び、帰朝後は京都に興聖寺を開いて、只管打坐を唱導した。寛元2年(1244)、越前に大仏寺(永平寺)を創建し根本道場とした。
日蓮上人
(1222〜1282) 立正大師 日蓮宗の開祖
安房の人。12歳で安房清澄山に登り、道善に師事。21歳で比叡山に登り修学すると共に、諸所を遊歴し、31歳帰郷。初めて南無妙法蓮華経の題目を唱え、以後『法華経』の法門を弘通した。文永11年(1274)身延山に住し、弘安5年(1282)、池上に寂した。
真盛上人
(1443〜1495) 慈摂大師 天台宗真盛派開祖
伊勢の人。19歳のとき、比叡山西塔の慶秀に師事。恵心僧都に傾倒して浄業を修し、在山20有余年、後に坂本西教寺を再興して根本道場とし、戒律と称名念仏を唱導した。円戒国師の称号がある。
 
天台座主

 

天台宗総本山延暦寺の住職として宗祖伝教大師からの法脈を相承し、天台宗徒及び檀信徒の敬仰する天台宗の信仰の象徴的存在です。
現在、座主職の欠職は許されず、座主が万が一の場合は、探題(たんだい)職の順位で次席の者が直ちに上任する定めになっています。
探題職は、望擬講(ぼうぎこう)、擬講(ぎこう)、已講(いこう)という定められた経歴法階を歴任し、探題に補任されます。探題補任順位の首席が延暦寺住職として天台座主に上任されます。
元来、座主とは僧団の中で学徳優れた上首を意味し、伝教大師の中国天台山での師である道邃和尚は、天台山修禅寺座主と呼ばれていました。
比叡山でも宗祖伝教大師最澄上人のあと、義真和尚が法脈を継ぎ座主と称しましたが、官符によって公に座主職が任命されたのは、義真和尚に続く円澄和尚のあと、慈覚大師円仁和尚からです。
これ以降、江戸時代末に至るまで天台教学の両輪である止観、遮那両業に通達した者が、天台座主として朝廷から勅旨によって任命されてきました。また、平安中期以降、摂関・院政期以降は、皇族や貴族の出身者が多く任ぜられるようになりました。
慶応四(1868)年に、第231世昌仁座主が守脩親王として還俗されて以降、一時期座主職の補任は廃止されましたが、その間も法脈は継承され、明治17年に座主の公称が許され今日に至っています。
現天台座主森川宏映大僧正は、義真和尚から数えて257世となります。 
 
全国の主寺院

 

延暦寺 / 天台宗の総本山
延暦4年(785)、伝教大師最澄は比叡山に上り草庵を結びましたが、その三年後には一乗止観院を創建し、ここを鎮護国家の根本道場と定めました。これが今日の根本中堂です。以後、慈覚大師円仁・智証大師円珍や慈恵大師良源の時代とともに整備され、盛時には三塔十六谷三千坊といわれる大寺院に発展しました。しかし、織田信長の焼打ちにあって大多数を焼失し、現存する建造物はほとんどがその後の再建です。三塔とは東塔・西塔・横川(よかわ)をいい、主な伽藍として東塔には、本尊薬師如来を安置する根本中堂を中心に、大講堂・戒壇院・明王堂・大師堂・伝教大師廟である浄土院などの建物があります。西塔には釈迦堂を中心に、にない堂・黒谷青竜寺等があります。釈迦堂は転法輪堂ともいい、もとは大津の園城寺の弥勒堂金堂でしたが、豊臣秀吉が文禄4年(1595)に山上に移築したと伝えられています。横川には、円仁が創建した横川中堂(首楞厳院)を中心に、元三大師を祀った四季講堂、恵心院、安楽律院等があります。比叡山は日本仏教の宗家ともいうべきもので、法然・日蓮・親鸞・道元など日本仏教の各宗の祖師がここで学び、あるいはここで出家得度しています。また、比叡山の守護神として坂本の日吉大社があります。(大津市・京都市)
滋賀院門跡
滋賀院は坂本にある延暦寺一山の総本坊で、代々の天台座主の御座所として、滋賀院御殿とも呼ばれています。元和元年(1615)、慈眼大師天海が後陽成天皇から京都の法勝寺を賜って建立したもので、穴太衆積みという自然石の石垣の上に白土塀と勅使門が調和し、風格あるたたずまいを見せています。また、徳川家光の命によってつくられた池泉築山式庭園はみごとなもの。庭に面した宸殿、その奥の客殿、二階の書院、階段を上がり奥まったところにある仏殿と、豪壮で落ち着きある造りが見られます。(大津市坂本)
妙法院門跡
妙法院は、平安時代末期に後白河法皇の帰依を受けた僧昌雲が、法皇の御所法住寺殿に隣接して住坊を構えたことに始まる寺院。鎌倉期には膨大な寺領と勢力を誇るまでに至りましたが、南北朝、応仁の乱などで堂塔を焼失。その後、豊臣秀吉が大仏殿(方広寺)を造営した時、妙法院を大仏経堂に定められたことから再び大きく発展しました。近世に入って、後白河法皇の御所法住寺殿の御堂として長寛2年(1164)に創建された三十三間堂(蓮華王院)をも管理することになり、また皇族の入寺する門跡寺院として公家文化の伝統を守ってきました。桃山建築の庫裏をはじめ、大書院や仏像など数多くの文化財があります。また、三十三間堂は、長大な単層入母屋造りで、内陣に並ぶ1001体の観音像は壮観です。京都五ケ室門跡の一つ。(京都市東山区東山七条)
三千院門跡
三千院は、延暦7年(788)、伝教大師が東塔南谷に草庵を開いたのに始まり、一念三千院、または円融房と称したのが起源とされています。その後、清和天皇の勅願により滋賀県東坂本の梶井に御殿を建て、円融房の里坊とされました。また、元永元年(1118)堀川天皇第二皇子・最雲法親王が梶井宮に入室され、皇族出身者が住侍する宮門跡となり、歴代の天台座主を輩出してきました。応仁の乱後、大原の魚山一帯にあった大原寺(来迎院・勝林院の総称)を管領する政所があった現在の地を一時仮御殿とされ、現在に至っています。大原は、平安時代初期、慈覚大師(円仁)が中国五台山から伝えた五会念仏により声明梵唄の発祥の地となり、魚山来迎院を開いた良忍上人が天台声明を集大成された地でもあります。また、往生極楽を願う人々の隠棲の地として、往生極楽院を中心に念仏聖による不断念仏・引声念仏が盛んに行われ、天台浄土教の聖地となりました。境内には国宝の弥陀三尊を祀る極楽院、特に来迎の相を表し、純日本式の座り方(大和坐り)をしている脇士の観音・勢至菩薩は類例がなく有名です。また、本尊薬師如来(秘仏)などを祀る宸殿、明治の京都画壇を代表する下村観山・竹内栖鳳などの襖絵のある客殿、そして金森宗和の修築による池泉鑑賞式庭園の聚碧園、宸殿前の有清園など四季折々の景観を楽しむことができます。京都五ケ室門跡の一つ。(京都市左京区大原)
青蓮院門跡
青蓮院は粟田口にあることから、粟田御所・粟田宮とも呼ばれます。本尊は、熾盛光(しじょうこう)曼荼羅(画像)。開基は伝教大師最澄で、初め青蓮房といって比叡山の東塔南谷にあり、その第12代行玄大僧正に鳥羽法皇(1103-1156)が帰依され、その第7皇子をその弟子とし、院の御所に準じて京都に殿舎を造営して青蓮院と改称されたのが始まりです。青蓮院は平安時代末から鎌倉時代に及ぶ第3世門主慈円(1155-1225)の時に最も栄えました。慈円寂後20年して第6世門主となった道覚親王が天台座主となって以来、青蓮院は入道親王入寺の寺として明治に至りました。明治26年(1893)大火にあい、本堂以下多くの貴重な建物が焼失しましたが、その後、清の竹林寺の一堂を移築して本堂とするなど境内が整備されました。当院の多くの国宝・重要文化財中、青不動明王画像は日本3大不動の一つとして特に知られています。京都五ケ室門跡の一つ。(京都市東山区粟田口)
曼殊院門跡
曼殊院は、もともと伝教大師の草創に始まり、是算国師が住持をつとめた時に比叡山西塔北谷に移り東尾坊と称しました。是算は菅原氏の出身であったため、天暦元年(947)、北野神社が造営されるや、勅命により別当職に補せられました。以後歴代、明治までこれを兼務することになります。天仁年間(1108-1110)、学僧 忠尋座主が当院の住持であった時、東尾坊を改めて曼殊院と称しました。現在の地に移ったのは明暦2年(1656)で、八条(のち桂)宮智仁親王の次男良尚法親王(後水尾天皇猶子)の時である。親王は正保3年(1646)に天台座主に任ぜられ、当院を御所の北から修学院離宮に近い現在の地に移し、造営に苦心されました。庭園、建築ともに親王の識見、創意によるところが多く、江戸時代初期の代表的書院建築で、その様式は桂離宮と深い関連があります。京都五ケ室門跡の一つ。(京都市左京区一乗寺)
毘沙門堂門跡
毘沙門堂は、正式には護国山安国院出雲寺毘沙門堂といいます。最初は比叡山延暦寺の別院でしたが、その後、後陽成天皇(1571-1617)が勅を下して、日光山輪王寺の座主慈眼大師天海に修興を命じ、徳川幕府も寺地を寄進しました。寛文5年(1665)堂宇が完成しました。のちに輪王寺の門跡であった公弁法親王が入寺したことにより、毘沙門堂門跡といわれるようになりました。以後、代々輪王寺宮法親王の兼務の寺となりました。本尊の毘沙門天は、伝教大師最澄自作とされています。寺宝の洞院公定の日記は国宝に指定され、南北朝史の貴重な史料とされています。京都五ケ室門跡の一つ。(京都市山科区安朱)
寛永寺
寛永寺は東叡山円頓止観院寛永寺といい、比叡山・日光山と並んで、江戸時代には天台宗三大本山の一つでした。徳川家光の時、上野の山が江戸城の鬼門にあたることから、江戸城鎮護の祈願所として寛永二年(1625)本坊が竣工したので、その年号をとって寛永寺と名付けられました。また喜多院の山号をとって東叡山と称しました。慈眼大師天海は、釈迦堂・多宝塔・三十番神社・清水観音堂・求聞持堂・弁財天堂・食堂・慈恵大師堂・山王社・別当本覚院等を建立しました。徳川家の菩提寺ということもあって、諸大名も競って諸堂を建立しました。しかし、幕末の彰義隊の戦争によってほとんど焼失し、後に本堂は喜多院より移されましたが、山内は上地を命ぜられ、本堂・清水観音堂・御廟屋と若干の支院を除いてほとんどが官有となり、後に恩賜公園(現 上野公園)となりました。本尊は薬師如来。両界曼荼羅図や愛染明王図など数多くの寺宝があります。(東京都台東区)
輪王寺
輪王寺は日光山輪王寺といい、二荒山(ふたらさん)神社・東照宮とともに、日光の2社1寺として、日光山の運営にあたりました。開創は天平神護2年(766)沙門の勝道上人が初めて日光山内にいたり、四本龍寺を建立しました。当地は回峰修験の道場であり、観音信仰の霊地でした。嘉祥元年(848)、円仁が勅を奉じここに来て、三仏堂・常行堂・法華堂を創建し、鎮護国家の道場としました。円仁入山の際、山内37ケ寺の支院ができ、その総号を「一乗実相院」といい、円仁を開祖としました。これを機に当山は天台宗に帰することになりました。江戸時代の元和3年(1617)、天海は徳川家康の遺骸を久能山から日光山に遷座し、山王一実神道の祭祀形式によって家康を東照大権現として祀り、日光廟(東照社)を創建しました。江戸時代を通じ、代々の日光山主は上野の東叡山寛永寺の宮が兼務し、天台一宗を管理しました。明治4年(1871)、神仏分離令が発布せられると、東照権現は東照宮となり、輪王寺の称号や東叡山の山号もすべて廃され、寺は旧称の満願寺と改称されましたが、明治16年(1883)に輪王寺の寺号を許され、2年後には門跡号が充許され、今日の日光山輪王寺となりました。本堂の三仏堂は、明治14年(1881)二荒山境内から現在の地に移されました。主な国宝として、輪王寺大猷院霊廟や『大般涅槃経集解』等があります。(栃木県日光市山内)
中尊寺
中尊寺は、関山中尊寺といいます。嘉祥3年(850)、慈覚大師円仁が東北に遊化した時、当地の藤原興世(おきよ)(817-891)が円仁に帰依して堂宇を造立し、円仁手刻の仏像、書写如経を安置、日吉・白山両権現を勧請して創建されました。その後、源頼義、義家も寺領を寄進し、貞観元年(859)に清和天皇より「中尊寺」号を与えられました。長治2年(1105)に、藤原清衡が掘河天皇の勅命を受けて、当寺の再興を企て、以後、基衡・秀衡も当寺の維持にカを注いで、盛時は「寺塔四十余宇、禅坊三百余宇」と言われるほど隆盛を極めました。しかし、建武4年(1337)、惜しくも野火のため金色堂をのこして多くの堂塔は焼失しました。中尊寺は、今なお、金色堂はじめ3000余点の国宝・重要文化財を伝え、東日本随一の平安美術の宝庫です。また、源義経(1159-1189)のゆかりの地としても有名です。他にも所蔵の宝物として、金銅孔雀文磬、螺鈿八角須弥壇、中尊寺経蔵堂内具等があります。(岩手県西磐井郡平泉町)
善光寺
善光寺は定額山善光寺といい、天台宗および浄土宗の別格本山です。本尊である秘仏「一光三尊の阿弥陀如来」は欽明天皇の時代(6世紀)に百済の聖明王から伝えられ、日本最古の仏像といわれています。推古天皇の10年(602)、本多善光(若麻績東人-わかおみあずまんど)が、国師のお伴で上洛して故郷に帰る途中、難波(今の大阪市浪速区)の堀江に棄てられていた仏像を見つけ、故郷である信濃国麻績の里に持ち帰り祀ったのが善光寺のはじまりです。一光三尊とは、一つの光背の中に阿弥陀・観音・勢至の三尊が立たれる姿をいいます。善光寺の特徴は、天台宗・浄土宗の本山を兼ねていることです。天台宗の別格寺で、当寺の別当職であった寺を大勧進といい、浄土宗の別格寺で、主務職を大本願といいます。 大勧進の説によれば、弘仁6年(815)最澄が当寺に詣でて、その基礎をたてたものだといいます。「牛にひかれて善光寺参り」の言葉の示すように、古くから信州一国に留まらず、全国に知られた名刹で、民間信仰の中心でした。(長野市元善町)  
 

 

 
 

 

 
 

 

■心こそ
ある夏のこと、小学校の林間学校での出来事です。先生は生徒を集めて言いました。
「今日は山登りをする。ほら、あの山だ。だが、みんな、気をつけてくれ。あそこにはマムシがたくさんいるからね。マムシに噛み付かれたら死んじゃうよ。そこで、これを用意した。長靴だ。これを履けば、足を噛まれても大丈夫。それからこの竹の棒、先頭の人がこれを持って、前をたたきながら歩く。そうすれば、マムシは逃げるだろう。では、出発するぞ。先頭には誰がなってくれるかな」
先生はそういって生徒にうながしましたが、みんな怖がって、誰ひとり先頭に立つものはいません。
「しかたがない。それでは先生が先頭になろう」と言って、先生が先頭になって歩き出しました。
ビシッビシッと竹の棒で草木をたたきながら登っていったのです。しばらくして先生は、竹の棒をスポンとほうり投げ、「あれ、棒があんなところに飛んでいっちゃった。君たち拾って来てくれないか」と生徒たちに頼みましたが、マムシが怖いので、拾いに行く者はいません。
「じゃ、仕方がない帰るとするか。まわれ右して、一番後ろの者が今度は先頭になれ」
するとどうでしょう。みんな嫌がって、結局、先生がまた先頭になって帰ったのです。
さて、夕食に一同が集まった時、先生はこういいました。
「今日はみんなに魔法をかけてみた。魔法に使った道具は三つ。長靴と竹の棒と“マムシがいるぞ”という言葉。この三つの道具で、マムシがいると思い込んでしまった。実際はマムシなんか一匹もいません」
これは『ことば・詩・子ども』という本に載っていた話です。
「マムシがいるぞ」というほんのちょっとした言葉と小道具によって、マムシがいると想像してしまったのです。私たちの心は、真実でないものをあたかも真実であるかのごとく思い込んでしまうところがあります。ですから、心のありようがとても大切なのです。
「心こそ、心迷わす心なれ 心に心、心ゆるすな」という句を座右銘にして、日々の用心にしたということです。
あるいはまた『月庵仮名法語』に「仏法というは、別の事にあらず。只、我が心なり。我が心を善く持てば即ち仏の心なり」といっています。
日々の自分の心をいかに保つか。どうもこれが人生の鍵のようです。

■盲導犬「サーブ」
テレビや新聞で報道されましたのでご存知の方も多かろうと思いますが、3本足の盲導犬「サーブ」のことについてお話致しましょう。
この盲導犬「サーブ」は、メスのシェパードですが、目の不自由なご主人を暴走する車から自分の身体をつかってかばい、跳ねられてしまいました。その事件がもとで左の前足を失ってしまったのです。年令は10歳7ヵ月、人間でいえば、ちょうど還暦位の年になるそうですが、最近はすっかり弱ってしまったのだそうです。
この「サーブ」の勇気ある行動に感動した子供達の手紙は5年間で5千通を超えました。年賀状も毎年5百通はくるそうです。有名になったサーブには、正式の住所である「名古屋市港区十一屋 中部盲導犬協会訓練センター」と書かなくても、「名古屋市サーブ様」で便りは届きました。
また、訪問する子達もたくさんいます。そんな中の一人の少女がやつれた顔でセンターを訪れ、サーブの首にしがみついて、約3時間涙していたそうです。そして、サーブはなすがままにその少女をじっと見守っておりました。しかし、その少女の帰る時には、元気になって笑顔で別れたのです。
後日、その少女からセンターに、「やり直します。サーブ、本当にありがとう」と電話がかかったのです。1匹の犬が、この少女に生きる勇気を与えてくれたのです。誠に素晴らしいことです。「サーブ」とは英語で「奉仕する」という意味です。「サーブ」が左の前足と引換に、私達人間に奉仕と勇気並びに愛、さらに自己犠牲の教訓を示してくれました。ひたむきな「サーブ」の生きざまが、純真な子達に大きな感銘を与えてくれました。「サーブ」よ本当にありがとう。
( 1988年6月13日、盲導犬サーブは、天寿を全うし、他界しました。 )

■幸せってなんだっけ
『幸せってなんだっけ なんだっけ ポン酢醤(しょう)油のある家さ』という明石家さんまのテレビコマーシャルを見ていた子供が、『ねえ、お母さん、うちにポン酢しょう油ある?』
『あら、あいにくきらしちゃってないわ』と答えたら、子供はすかさず『じゃあ、うちは幸せじゃないんだ』
お母さんはあわてて隣の家からポン酢しょう油を借りて来たら、子供は、『幸せって、借りて来るものなのか…』と言ったということです。
また、この話にはもう一説あり、お母さんは、隣の家には行かず、スーパーに買いに行った。すると子供は、『幸せって買うものなの?』と言ったというのです。
この話は大変皮肉な言い回しではありますが、本当の幸せとは何かを考えるヒントを与えてくれています。
ところで、昔の話にこんなのがあります。
極楽でも地獄でも食事はするのだそうですが、その食事を比べて見ると、全く同じなのです。食器も、おかずの味も、量も、食事時間もすべて同じなのですが、たった一つだけ全く正反対のところがあります。
極楽ではにこやかに楽しげであるのに、地獄では先を争い、ケンカが絶えない。そこが違うのです。その原因は、箸の使い方にあるらしい。
箸だって、地獄も極楽も同じです。もっとも、私達が普段使う箸とは違って、数十倍長い。ですから、その箸で食べ物を自分の口に入れようとすると、箸が長すぎてうまくいかない。地獄では、我先に食べようと焦るものですから、隣の人を箸でつつくことになり、ケンカになる。
ところが、極楽では、その長い箸の利点を利用して、遠くに座っている人に食べ物を食べさせている。お互いに助けあっているものですから、とても楽しげなのだということです。
この話しは、私達に本当の幸せとは何かということを語りかけているのです。
幸せとは、「仕合う」ことなのです。人の幸せのために何かを心がける。そうした中にこそ本当の幸せがあるのではないでしょうか。

■どっちもいい
水を見たら 水の美しさを見ればいい
花を見たら その美しさに見とれればいい
春もいいが 夏もいい 秋もいいが 冬もいい
どっちもいい・・・・
武者小路実篤氏の詩です。「どっちでもいい」ではなく、「どっちもいい」といっているのです。
「で」が入るか入らないかで、意味は全く異なります。「どっちでもいい」ということばには冷たい響きがあります。「AでもBでも、私にはどうでもいいことさ」となげやりな感じがします。
では、「どっちもいい」の方はどうでしょうか。あれもいいし、これもいい。つまり、すべてがいいということで、あらゆるものの中にそのものの良さを見出していこうとするように見受けられます。それは、さまざまなものとの関わり合いを大切にする姿なのです。実に私たちの生活はこの関わり合いによって成り立っています。ですから、「どっちでもいい」と、なかば投げ槍に過ごすのではなく、「どっちもいいな」とすべてのものに暖かな慈しみの心をそそげたならば、生活に潤いを持つことができるはずですし、これを仏教では「縁」というのでしょう。
私たちは、気付くと気付かざるとにかかわらず、この縁によって一日一日を生きているのです。
さて、そこで問題は、これを「ご縁」としてありがたく受け取るか、「無縁」として無視するかなのですが、あなたはどうなさいますか。

■花まつり
4月8日は、お釈迦さまの誕生日にあたり、お釈迦さまの「誕生仏」に甘茶を灌ぐことから「灌仏会」(かんぶつえ)ともいわれ、一般的には「花まつり」といっています。
お釈迦さまの記念日には三つあり、一つはこの「お花まつり」即ち「灌仏会」、二つ目はお釈迦さまが悟りを開かれた日、即ち「成道会」(じょうどうえ)、三つ目はお釈迦さまがお亡くなりになった日の「涅槃会」(ねはんえ)でありまして、これはお釈迦さまの三大法会として重んぜられております。
お釈迦さまは「シャカ」というお名前ではありません。インドの一地方にシャカ族という集団がありました。そのシャカ族の王子としてお生まれになり、最終的に「シャカ族を代表する立派な方」ということで、釈迦の釈と尊い人の尊という字を合わせ「シャカ族の中で最も尊い人」ということで、「釈尊」あるいは「お釈迦さま」といわれるようになりました。
お釈迦さまのお生まれになるご様子につきましては、母君が出産のため、ご自分の実家へ向かわれる途中、ルンビニー園という所へ差し掛かった時、美しい花の下に至り、たれさがった花の枝を取ろうとした時に、たまたま産気付かれ、お生まれになったとされています。右の脇の下からお生まれになったということは、王族(士階級)は臂(うで、肩のつけね・脇)から生まれるという古代インドの伝承によるものですが、それはそれとして素直に受け止めておきたいものだと思います。
さらに、生まれ落ちるやすぐに七歩あるいて立ち止まり、「天上天下唯我独尊(天にも地にも我一人)」と唱えられたと言われています。
城にお戻りになり、「シッダルタ」と命名されましたが、悲しいことに、お釈迦さまの母君はお釈迦さまをお産みになって7日目に亡くなられ、その後は母君の妹に当たる方に養育されました。
いずれにしても、お釈迦さまがルンビニー園で誕生なされた時に、竜王が空中より香水を灌ぎ、身体をお洗いになったという因縁にもとづいて「お花まつり」の時には、きれいなお花をかざった、「花御堂」の中にお釈迦さまをおまつりして、甘茶を灌ぎ供養を行う行事が、日本各地で行われています。
この行事も偉大な宗教家「お釈迦さま」への仏教徒の尊敬の意のあらわれです。

■持戒正念について
持戒正念(じかいしょうねん)とは、言うまでもなく戒を持(たも)ち念々正しき道に住し、近くは人道を全うし、遠くは仏果菩提を証するに至ることであります。
伝教大師は比叡山に菩薩の戒壇を建て、円頓受戒の道場とされました。
梵網経(ぼんもうきょう)には「衆生は仏戒を受くれば、すなわち諸仏の位に入る」と記されていますが、戒を受けた瞬間に自分の心にある仏が発見され、仏と同等の位になるのです。
正しい安定した生活を送るには、戒が基本とならなければなりません。天台宗には授戒会(じゅかいえ)といって天台の教えの正統を伝えている天台座主貎下から直接円頓戒を授かる大切な儀式があります。また、亡くなったときには住職から戒を受け、名前を変えます。ですから単に法名と言わず「戒名」と言うのはそのためです。大師は「その戒広大にして真俗一貫す」と言われているとおり、僧侶だけでなく、在家の人も受けるべきなのです。
受戒してからの信仰生活の規範に三聚浄戒(さんじゅじょうかい)というのがあります。摂律儀戒(しょうりっぎかい)、摂善法戒(しょうぜんぼうかい)、摂衆生戒(しょうしゅじょうかい)の三つです。
摂律儀戒とは、悪を止める意味で、身を修め慎むこと。在家の方ならば、五戒をたもつことです。五戒というのは
1.命のあるものを、むやみに殺さず。むしろ積極的に生かすこと。
2.与えられざるものを手にせず、他人の物を盗まず。困っているものを助け、他人を喜ばせる。
3.道ならぬ愛欲を犯すことなく、情愛は社会の秩序、子孫繁栄の元と心得て、謹厳に守らねばならない。
4.偽りを言ったり行ったりせず、常に真実を語り、正しい行いをする。
5.自制心を持ち、よこしまな考えをしないようにしよう。他人に迷惑をかけたり、自分の健康を損なったり、子孫に悪い影響を残さないように広く解釈すると、常に心身の平静に心掛け、正しい行動をとる状態にあること。
摂善法戒とは、善いことを進んで行うことで、心の安住を得て、積極的に自分の業務に全身を捧げることです。
摂衆生戒とは、世の為、人の為になることをしようと決心することです。
その他に十善戒や十重四十八軽戒などがありますが、要するに悪いことはしない、善いことは進んでしましょう。世の為人の為に尽くそうと言うことで、そうした行為は戒香の薫るようにゆかしいもので、また戒の鎧を着けたようで犯し難いものだと言われます。
七仏通戒偈
諸の悪は作すことなかれ。諸の善は進んで行ぜよ。自らの意を浄くす。是れ諸仏の教なり

■こどもの日
5月5日は「こどもの日」でございます。昔から男の子に親しまれた端午の節句であります。しかし、この「こどもの日」は、決して男の子だけを対象としたものではなく、もちろん女の子も含むわけであります。要するに、季節的にも非常に良い時期で、こどもにゆかりのある日として決められたのであります。
女の子にしてみれば、3月3日でもよいではないかという考え方もあるかも知れませんが、3月3日頃は、東北、北海道地方などでは、まだ雪が残っていて、全国的な行事としては3月3日よりは5月5日の方が良いということで、5月5日が選ばれたわけであります。
この日は「こどもの人格を重んじこどもの幸福をはかるとともに、父母に感謝する日」といわれております。
こどもの日が定められたことは、成人の日が取り上げられたことと共に、特に次の時代の人に大きな期待をかけていることを表すものであって、すべての国民がこぞってすべての子供を祝い、その幸福を図ろうとするものでありまして、更にこどもの人格を尊重し、大人と同様に生きる権利を持つ一個の独立した人間として見ようとするものであります。これに加えて、こどもを育て上げるには父母のお陰であるから、こどもの日にはその父母に感謝しなければならないということが併せてその趣旨に含まれているのは誠に結構なことと思います。
よく言われることですが、こどもの誕生日も年々派手になり、小学生などは級友を呼んで賑やかにやり、反面、呼ばれなかった子との間にトラブルを起こしたりするようになってきているそうですが、本来は、誕生日は「母の受難の日」ともいわれていますように、こどもを産むということは、母親にとっては大変な事だと思われます。
取り分け、この苦しみを乗り越えて産んでくれた母親に対して感謝の気持ちを植え付ける意義も含まれているわけでありますが、今の「こどもの日」にご両親に感謝しなければならないという意義を知っている人がどの位いるでしょうか。
こどもの成長を願うことは大変結構なことですが、この陰に隠れている両親、特に母親の苦労をこども達に十分理解させることも大切なのではないでしょうか。

■お盆について
お盆は、古いインドの言葉ウランバーナ(逆さに吊された苦しみ)からきた盂蘭盆(うらぼん)を略したものです。お釈迦様の十大弟子の一人で神通力第一といわれた目蓮(もくれん)さんが、その力で餓鬼道(がきどう)に落ちて苦しんでいる母のことを知って、驚いてお釈迦様に相談されました。するとお釈迦様は「夏安居(げあんご・夏の修行)がまもなく終わるから、七月十五日に修行を終えた僧に供養しなさい。必ず功徳がありますよ」と教えて下さいました。目蓮さんはその教えのとおり実行して、母をその苦しみから救うことができたそうです。この故事にもとづいてお盆の行事が行われるようになりました。日本に伝えられたのは、今から一千三百年前のことです。
お盆には、亡き両親をはじめご先祖があの世から帰って来られるので、大切におもてなしして、心から感謝を捧げる期間とされ、今では日本の夏を彩る国民的行事になっています。全国的には八月十三日から十六日(東京は七月)にかけて行われ、墓参りのために郷里へ帰る人で大移動が生じます。
けれども、お盆の行事が形式に流れて、生きている我々がどう受け止めるかという大事なことが忘れられているようにも思われます。私達が考えなければならないポイントをあげてみましょう。
1.精霊棚(しょうりょうだな・盆棚)を作り、花や供物 を御供します。
先祖の御霊(みたま)を迎える準備ですが、家族みんなに心の準備ができていますか。亡くなっていく人は、自分で果たせなかったことを後に残る人に実現して欲しいと願っています。幸せになって欲しい。仲良く頑張って欲しい。二度とない人生を悔いなく生きていますか、と問われる時でもあるのです。
2.お墓やお寺にお参りします。
きれいに掃除をし、香を焚きくゆらせ、花や供物を供え、亡き人に対面し、精一杯さわやかに生き抜きますと誓いましたか。言葉に出さずとも、心は通い合うのです。本当に大切なのはこの対話です。
3.菩提寺は心のよりどころです。必ずお参りしましょう。
御本尊様にお参りし、先祖代々の御霊を供養し、導いてくださる御本尊にお礼を申しましょう。先祖を守ってくれるお寺さんに御布施を封筒か半紙に包み届ける人もいます。
4.墓参りのために郷里に帰る旅は、ただの旅行とは違います。
それは、自分の心を洗う旅でもあります。私達の今のくらしを振り返り、いかに豊かに、恵まれて暮らしているかを考えましょう。仏教徒の経済は知足(ちそく)が根本です。欲望を制御することの大切さを考えましょう。
5.お盆の前後によくお施餓鬼(せがき)の行事があります。縁もゆかりもない餓鬼(供養されていない霊)にほどこす功徳が、貴方のご先祖に回り向けられるのです。世間には、貧しさや病に苦しんでいる人が多数おります。そういう人達の不幸に心を馳せる布施の気持ちが大切です。
6.天台宗では布施の心を育てるためにも「一隅を照らす運動」という実践活動を進めています。家庭でこの運動に参加しましょう。詳しくはご住職におたずね下さい。
私達は平素忙しさの中に埋没していて、人としてどう生きるべきかを考えることがおろそかになっています。お盆を機会に一度振り返ってみましょう。

■お彼岸について
暑い夏もすぎ、ようやくすごしやすいお彼岸のころとなりました。春の彼岸、秋の彼岸と年に二回の彼岸会がありますが、「暑さ寒さも彼岸まで」ということばが示す通り、春には漸く寒さも遠のいて花だよりもちらほら聞こえる頃、秋には夏の暑さも和らいで涼しい風が心地よい頃が彼岸会です。お彼岸は七日間ありますが、その中日は春分の日・秋分の日といって太陽が真西に沈むのに因んで、阿弥陀様の西方浄土に向かって手を合わせ、後生の安楽を願ったものです。
彼岸とは仏の世界、此岸とは私たちが四苦八苦する迷いの世界です。いうならば、彼岸は遠く、此岸はなれ親しんだ世界ですが、でも、「これでいいのだろうか」とふと考えることがありはしませんか。そんな時、仏の世界を知りたく思うことでしょう。彼岸への道は、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智恵の修行をしつつ歩まねばなりません。ですから、彼岸会には、ご先祖を敬って墓参に行かれることでしょうが、それと共にご自身の心のあり様を見直すことも大切です。
さて、次のようなご意見とおたずねがありましたので、簡単にお答をいたしました。
問   「祝日に関する法律では、秋分の日はご先祖を敬い、死者をしのぶ日で、いろいろな本にお墓にお参りしましょうと書いてあります。それは確かにそうだとは思うのですが、あの人を敬い、しのべといわれても無理です。散々苦労させられたのですよ。そんな人のお墓にお参りしなければいけないでしょうか」
答   「これは大変シビアな問題ですね。あなたがいわれたあの人が、旦那様なのか、お舅さんなのかよくわかりませんが、ご苦労が多かったことだけはお察しします。ですが、そんな方でも阿弥陀様はお救いなさろうとしているのです。なのに、あなたが「地獄に落ちろ」と念じていたのでは、あなた自身が阿修羅のごとく争いの渦中に入ってしまいます。苦労させられた上に阿修羅になったのでは身も蓋もありません。今日は彼岸会なのですから、此岸のことは忘れて、彼岸の仏さまの見方を味わってみてはいかがでしょう。」

■南無 (なむ)
仏様に手を合わせる時、その仏様が阿弥陀(あみだ)様だとしたら、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」とお唱(となえ)えします。では、南無(なむ)とはどういう意味なのでしょうか。
印度(インド)の国に行かれた方は、その国の人びとが合掌して、「ナマス・テー」と挨拶する光景を御覧になられたことがあるでしょう。
これは「あなたに敬礼します」という親愛と尊敬を込めたことばで、出会った時も別れる時も「ナマス・テー」です。このナマスが「南無(なむ)」なのです。ナマスの語源はナモーで、漢訳して南無と表記しました。音(おん)を写したのです。南無とは、帰命(きみょう)、敬礼(けいれい)の意味で、心の底から全身全霊で仏様を信じることなのです。ですから、「南無仏(なむぶつ)」と唱えたならば、「真心を込めて仏様を信じます」と表明したことになるのです。
さて、お寺参りをなさる機会がおありでしょうが、その時、まずはじめにお堂におまつりされている仏様のお名前をしっかり確かめてから、お唱えしましょう。
阿弥陀様なら、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」
お薬師様なら、「南無薬師瑠璃光如来(なむやくしるりこうにょらい)」
観音様なら、「南無観世音菩薩(なむかんぜおんぼさつ)」
お釈迦様なら、「南無釈迦牟尼如来(なむしゃかむににょらい)」 などとなる訳です。
また、マンガ「一休さん」などで、「たすけて」というところを「南無三(なむさん)」という場合があります。これは、南無三宝(なむさんぼう)のことで、三宝とは、仏・法(仏の教え)・僧(仏教教団)の三つの最も大切な心のよりどころという意味ですから、対処に困ってすがる思いでつぶやいたのかも。
仏様を信じ、仏様がお説きになった教えをよりどころとし、ただひたすら祈りつつ歩むところに心の平安があります。そして、あらゆるものに支えられて生きていることにも気付くのです。
腰掛(こしか)けし石を 拝(おが)んで 立つ遍路(へんろ)  
 

 

■「有り難う」
「有(あ)り難(がと)う」という言葉は、一日に何十回と無意識でいうんだそうですが、私たちは日に何回いっているんでしょう。
有り難いとは、有ることが難(むずか)しいことですから、「めったにないこと」ということです。
仏教では、『人身(にんしん)受け難(がた)し今すでに受く 仏法(ぶっぽう)聞き難(がた)し今すでに聞く』といって、この世に人としていのちをいただいて生まれてくることは非常にまれなことだと考えるのです。いのちあるものは、土の中や草むらにいる虫から、海の中のおきあみや小川のメダカのようなものまでを数えると、それこそ無数です。それら生き物の数に比べた人間の数は何億何兆分の一でしょうか。何に生まれるかわからない中で、いま人のいのちをいただいていることは、そんなにも稀(まれ)なことなのです。
そしてまた、仏法という尊い教えをいま聞くことができることは大変貴重な得がたいめぐりあわせであるというのです。それは「有(あ)ること難(がた)し」なのです。ですから、めったにないことに巡り会う、また、めったにないことをしてもらったときに「有(あ)り難(がた)い・・・有り難う」という言葉が生まれたのです。「有り難う」は感謝の言葉です。いま自分がどれほど恵まれているかに気づくとき、有り難いなぁという感謝の念(おも)いが湧いてきます。
はだかにて生まれてきたに何不足   小林一茶
この句を味わいながら、いま人として生まれた有り難さをしみじみ感じてみたいと思います。

■除夜の鐘
十二月に入り年の瀬を迎える頃になりますと、行く年を振り返って、名残惜しい気持ちになります。「これで、今年も過ぎて行くのか」と、感慨(かんがい)に耽(ふけ)ってしまう日でもあれば、「明くる年はいい年であるように・・・」と多幸を望む転換区切りの大晦日(おおみそか)の一日でもありましょうか。
その大晦日・元旦の一日は、今日の一日と過ぎ行く時は同じなのですが、心の面では、大きなけじめの一日なのですね。今年と来年の狭間(はざま)で人生を思う心にあの「除夜(じょや)の鐘(かね)」は響いてきます。大晦日の深夜から元旦にかけて百八の鐘が撞(つ)かれますが、これは、百八の煩悩を除去して清らかな新年を迎えるためです。なぜ百八なのかという理由はいくつかあるようで、俗説では、四苦(四×九=三六)と八苦(八×九=七二)の和(合計)が百八だから、などといいます。人間が持っている煩悩(ぼんのう)ははかりがたく沢山あるということです。煩悩とは、私たちの心身を苦しめ、煩わす心の働きのことですが、その元(もと)になる作用は三毒(さんどく)といって、貪欲(とんよく、むさぼり)、瞋恚(しんに、いかり)、愚癡(ぐち、おろかさ)の三つに集約されます。この三種の毒は、心を病ませ、正しい判断を狂わせてしまいますから、除夜の鐘は、その病んだ心に反省を促しています。「反省のあるところには必ず進歩がある。」そう信じて撞かれる鐘の余韻に耳を傾けたいものです。鐘の音は、なにかを心に響かせてくれる筈。
今年は殊(こと)のほか悲しい出来事が多い一年でした。明くる新しい年は良い一年でありますように・・・・・。 

■元三大師さま
正月、一月三日のご命日にちなんで、「元三大師(がんざんだいし)さま」と親しんでお呼びしていますが、お名前は良源(りょうげん)といい、また、のちに一条天皇より「慈恵」の諡号(しごう)を賜ったので慈恵大師(じえだいし)ともお呼びしています。天台宗では宗祖の伝教大師(でんぎょうだいし)や、入唐求法巡礼行記(にっとうぐほうじゅんれいこうき)をしるされた四祖の慈覚大師(じかくだいし)など、大師(だいし)の号がつくお方が、ほかにもおいでですが、「お大師さま、おだいしさん」と馴(な)じんでお呼びすることが多いのはこの慈恵大師です。それは「おみくじ」や「たくあん漬け(比叡山では定心房漬(じょうしんぼうづけ)という)」の考案者としても知られ、第十八代の天台座主として、焼失した比叡山の堂塔伽藍の再建整備、学問の興隆、僧風の刷新など天台宗の発展に尽力され、「比叡山中興(ちゅうこう)の祖」と仰がれているからです。また「まず他人を立て、自らを後にすべし」というご遺誡(ゆいかい)にもみられるように、その広いお心の徳により今にあっても幅広く信仰されているからでしょう。
でもそれ以上に多くの人々がおすがりするのは、そのあらたかな霊験による『厄除(やくよけ)け大師』としてのお大師さまではないでしょうか。鬼のような姿で我々の災厄を降伏(ごうぶく)してくださる角大師(つのだいし)や、小さなお大師さまの並んだ豆(まめ)大師などに変化(へんげ)されたお大師さんの護符は皆さんお馴じみのことと思います。
初詣には、ぜひ大師ゆかりのお寺にお参りしてご利益を賜り、今年一年の厄除けを願いたいものです。

■お掃除
今年も明けて早、ひと月がたちました。暮れの大掃除(おおそうじ)で清々しくしたところも、すでにホコリが溜まり始めたでしょうか。今から年末の大掃除に備えてというわけではありませんが、今回は掃除についてです。
さて掃除は喜んでというより、仕方なくする程度に軽々しく考えられがちですが、実は大変大事な事なのです。たとえば日本には昔から剣道、弓道、柔道、茶道、華道など、何々道といわれる武術や稽古事(けいこごと)がたくさんありますが、それらの稽古の前とあとには必ず稽古場の清掃をします。それは、剣道について言えば、剣の技術そのものの習得と同時に、剣を手段とした心を磨くための道であるのですから、心をこめて道場の清掃をすることもまた剣道の中の大事な修行になるのです。剣の奥義(おうぎ)を極めることは即ち、人間の奥義を極めることで、そのために道場の清掃はきわめて大切な修行なのです。
また、仏道に励む僧侶の世界でも日頃の修行として、これも昔から、
一、作務(さむ) 二、勤行(ごんぎょう) 三、学門(がくもん)
と言われてきました。まず、一番が作務です。作務とは、掃除や片付け、庭の草取りや、昔ですと薪(たきぎ)を割ったり風呂をたいたりとか、要するに体に汗して働く作業です。その中でも作務の代表は掃除です。
そして、二番目に勤行。これはお経を読んだり、坐禅をしたりのお勤(つと)めです。そして最後にお経やその他の勉強です。今の子供なら、「一に勉強二に勉強、掃除なんかしなくてもいいから勉強していなさい」と言われそうですが、お寺の小僧さんは掃除が一番、勉強は三番目です。仏教は人格を完成させるための教えで、その手段のひとつとして作務の大切さを教えるのです。お経の勉強や、お経を読んだり坐禅したりの勤めももちろん大切なのですが、「なんだそんなこと」と、おろそかにされがちな掃除などが、実は心を磨くのに大変重要なのだということを教えるために、作務は僧侶の勤めの第一番になっているのです。
お釈迦さまのお弟子に、ある兄弟がいました。兄のマハーパンタカはお経の勉強もよくできましたが、弟のチューダパンタカはお経の短い文句をも、なかなかひとつ覚えられません。そこでお釈迦さまはチューダに「おまえはお経の勉強はいいから掃除をやりなさい。目につくところをみんなきれいにしなさい」と言われ、チューダに掃除用具と「塵(ちり)を払(はら)い、垢(あか)を除(のぞ)く」という短い言葉を与えられました。そんな短い言葉ひとつをすぐ忘れるほどのチューダですが、チューダはお釈迦さまの言われるとおりに、その日から箒(ほうき)と塵取(ちりと)りを持って「塵を払い、垢を除く。ちりをはらい、あかをのぞく」と、その言葉をひとつ覚えに、そこら中を掃除して回りました。人が汚したものでも何でも、汚れを待っているかのようにきれいにして回ったのです。そうしている内にすっかり心の垢がとれ、頭の良い兄を追い越して誰からも慕われるやさしい人となったということです。

■『精進(しょうじん)』
「精進が足りないから、こうなるのだ」と、感心できない結果の時などに使われることがある精進とは?…
仏道修行に六波羅蜜(ろくはらみつ)という大事な実践徳目(とくもく)(心がけ)があります。波羅蜜とは、悟りに至るという意味で、それは次の六つに示された内容です。
布施(ふせ)波羅蜜(他の助けとなるいろいろな施し)
持戒(じかい)波羅蜜(してはならないという戒を保つ)
忍辱(にんにく)波羅蜜(苦しいことを耐え忍ぶ)
禅定(ぜんじょう)波羅蜜(心を安定させ、物事に集中する)
精進(しょうじん)波羅蜜(努め励む)
智慧(ちえ)波羅蜜(物事を正しくみる)
精進波羅蜜は、他の五つの徳目を含め大事な事を日々怠(おこた)らずに務めることで、そこから仕事や習い事を毎日コツコツと努力することを精進すると言うようになりました。
「継続は力なり」といいます。どんなことでも続けてこそ身につき、力ともなるので、一日怠れば、それまでの何十日分の努力が水の泡となって消えてしまうことも多いのです。
ですから、六波羅蜜の実践も、まず「精進」があってこそ他の徳目の意味もあるのだといえます。「昔は善いこともたくさんしたが今は休んでいる」というのでは意味がないのです。精進は一生涯です。
さて、精進も方法や方向を間違えると精進とは言えなくなります。
例えば、大変な技術をもったスリや、オレオレ事件のように巧みな話術で大金をだまし取る者などもいますが、こういう技術習得にいくら精出してもそれは精進とは言えません。あくまでも正しい方向への精進であることが大切で、これを正精進(しょうしょうじん)といいます。
ですから、仏道修行も稽古事(けいこごと)も社会生活もよい師匠や先輩に学ぶことが大事ですね。深い智慧をもって正しい方向と方法を常に示してもらえますから、道を踏みはずすことはないと思います。

■ほとけさまの(心の)サイン
心をサインで・・・皆さん、いつも拝(おが)んでおられる仏さま(仏像や画像)が、サインを出しておられるのをごぞんじですか?
「そんなこと知らないよ!」―なんて言わないで下さい。
仏さまはみんなそれぞれにサインを出して、皆さんを迎えて下さっているのです。最近では、ともすると、仏さまを芸術作品として見るような風潮さえありますが、仏さまの芸術的な価値は、本来第二、第三の問題なのです。仏さまは、もともと私たちが、その前で手を合せ、祈りを捧(ささ)げる対象なのですから・・・。
そして、仏さまは、そうした私たちの祈りを「たしかに聞いてあげますよ」とサインで伝えて(メッセージ)下さっているのです。
私たちがどんなに祈っても、肝心(かんじん)の仏さまが知らんぷりをしておられたのでは困ってしまいますよね。
では、実際に仏さまからどんな風にサイン(メッセージ)が出されているのでしょうか?
実は、仏さまは、お手の形(かたち)や持ち物など、いろいろな方法で私たちにサインを送っておられるのです。言いかえれば、仏さまのお心が、こうした形であらわされているといったらいいでしょう。
ですから、私たちがおまいりする時には、まずこの仏さまのサインをしっかりと受けとめてから、心静かに祈るというのが、本当のおまいりの仕方(しかた)というわけです。仏さまのお姿、すなわち形には、そのお心があるのだということをぜひ覚えておいていただきたいのです。

■ほとけさまの(心の)サイン ―お釈迦さま― 
先月に続いて、「ほとけさまのサイン」のお話です。お釈迦(しゃか)さまは 釈迦如来(にょらい)とも呼ばれます。実はこの○○如来と名のつく仏さまは、 すでに完全なお悟(さと)りを開かれた方なのです。ですから、如来さまは一切の物事(ものごと)に対するとらわれの心がありませんので、そのお姿も装飾品(そうしょくひん)などは持たず、簡単な衣(ころも)を一枚身につけておられるだけで、あとはご自分のお心を伝えるために必要なもの以外は一切何もお持ちにならないのです。
そこで、お釈迦さまですが、普通は絵のように、左右の手の指をひろげられ、右手を胸の辺(あた)りにあげ、左手を腰の辺りにたらしていらっしゃい   ます。
この右手の形(印相〔いんそう〕といいます)を「施無畏(せむい)の印(いん)」といい、わかりやすく言えば、「何もこわがることはありませんよ、心配しないでね」とおっしゃっておられるのです。そして、たらした左手は「与願(よがん)の印(いん)」といって、「話してごらん、願いごとは聞いてあげますよ」ということをサインであらわしておられるのです。
なお、お釈迦さまにはお生まれになった時の誕生仏(たんじょうぶつ)から、お亡くなりになられた時の涅槃像(ねはんぞう)まで、実にさまざまなお姿が あります。
ところで、この施無畏と与願の印の大切なことは、これらの印が、自分だけが救われればそれでいいという狭(せま)い考え方ではなく、もっと幅(はば)広く、悩(なや)んでいる人々を救ってあげたいという願いをあらわしているのです。言いかえれば、自分の利益(自利〔じり〕)よりも他人のことを中心にする考え方(利他〔りた〕)で、そこには仏教の説く慈悲(じひ)の心があります。
かつて、伝教大師(でんぎょうだいし)・最澄上人(さいちょうしょうにん)が「己(おのれ)を忘れて他を利(り)するは、慈悲の極(きわ)みである」とおっしゃられたのは、正にこのことだったわけです。

■[とんがらし]のお父さんお母さん
4歳の長男が畑作業を手伝ってくれた。日頃より「僕も手伝ってあげる」との心やさしい?長男の手伝いは、あとで周りの片付けのおまけが付くことになるのだが、この時は私の方から子供の背丈程に伸びた唐辛子(とうがらし)の茎に添え木を施す為の手伝いを要請。一本一本しなだれてヘナヘナだった苗木が見事にシャンとして整っていく。
その時の親子の会話・・・「ひろ君もちっちゃい時弱々(よわよわ)だったけど、今はこれみたくシャンとしてきたなあ。もう、お兄ちゃんやもんな!」。このひと言で気を良くしてくれたか「よいしょ、よいしょ、とんがらしガンバレ」と苗への声援に続いて思わぬ問いが返ってきた。「お父さん僕はもう抱っこや手を引っぱって貰ったりしないけど、この野菜は大きくなる程ささえがいるんやね」。添え木された苗に対する些かの誇らしさと素直な疑問に、私は「ひろ君にはお爺ちゃんお婆ちゃん、お父さんお母さん、それと二人のお姉ちゃんがいるだろう。手を継がなくてもみーんな僕のことささえてくれてるんよ!」と返事。「ふーんそうか。そしたらこのとんがらし、お父さんやお母さんいないから可哀そうやな。僕がお父さんになったげる」と、いやはや、やさしくも頼もしく返ってきた言葉に、十年後もそうあれよ、とつくづく感じたのである。

■いただきますの心
お釈迦様は八万四千の法門と言われるように数多くの教えを説かれています。その教えが妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)、観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)、阿弥陀経(あみだきょう)など数々のお経です。
その中でも梵網菩薩戒経(ぼんもうぼさつかいきょう)というお経には十重四十八戒(じゅうじゅうしじゅうはちかい)として多くの戒めが説かれています。その第一番に諭(さと)されているのが不殺生戒(ふせっしょうかい)です。正(まさ)しく「生命(いのち)ある生きものを殺すな」ということです。
私たちは縁あってこの世に生を受けました。真(まこと)に有難(ありがた)い尊い生命です。この尊い生命を受けたのは決して人間(ひと)だけではありませんね。動物や植物なども同じです。
ところが私たちは生きていくために食事をいただきます。お米であり、野菜であり、肉であり、魚などですね。これ等はすべて生命をもっています。良いとか悪いとかではなく、私たち人間は他の生きものの生命をいただかなければ生きていけません。
食事とは、他の生命を自分の生命に変える行為なのです。ですから、必然的に不殺生戒を犯(おか)すことになってしまいます。それでも食事をなくすことはできませんから、不殺生戒をやめようと苦もなくいう人がいますが、それは人間の身勝手というものです。むしろ、不殺生戒をやぶらざるを得ないことを懺悔すべきで、食事の際の「いただきます」には「尊いあなたの生命をいただいて、その生命の分、精いっぱい活かせていただきます」の、痛みを感じ生命を無駄にしない心があるのです。

■盆踊り
夏の暑さも、まっ盛り。そんな暑い中でも朝から夜まで毎日のようにいろんな行事があるのがこの季節でしょうか。最近では「夏祭り」などといって楽しい企画で催し事がありますが、昔から変わらず続けられている夏の風物詩に花火や、盆踊りなどがあります。さてその盆踊りは、お盆にお迎えしたご先祖の各精霊を唄(うた)と踊りでお慰めするという仏教行事の一つです。昔は慰めや楽しみといえば唄や踊りが、代表的なものでしたから、お盆に迎えたご先祖の霊を唄と踊りでお慰めしようと考えたのも、ごく自然のことだったと思われます。
現今の盆踊りは中央にやぐらを組み、輪になって踊る型式が一般的になりましたが、もとは行列して念仏を唱える行進型の踊りだったようで、あの有名な徳島の阿波踊(あわおどり)などは、この行列型盆踊りの代表的なものです。
近頃、和洋折衷の「何とかサンバ」なる唄と踊りが流行(はや)って、仲々の人気です。サンバというリズムと踊りにも元々の意味があるようですから、盆踊りも現代に流行する内容になったとしても本来の意味を忘れず又お盆の行事のひとつとして大切に残していきたいものです。  
 

 

■追善供養
今年も早、秋のお彼岸の頃となりました。夏のお盆にいろんな供養をしてお迎えしたご先祖様も無事に彼の岸にお戻りいただいたことでしょう。そしてこの秋彼岸の頃、大事なことはこのご先祖様に対して更に追善供養することです。
そもそも追善というのは、亡くなられた方の冥福(めいふく)を心より祈り、善い事を後から追って修するという意味です。私たちは善い事も悪いことも積み重ねながら、この娑婆世界で暮らしております。
さまざまな経験を積み、その過程で自分の心中を見つめ、静かに自己反省(懺悔)しながら、自分の人格を磨く努力を重ねていきます。みなさんも十人十色、いろいろな方法で善業を積み重ねていらっしゃることでしょう。
ご先祖様のもとへ、善業を積んだ時の慈悲・慈愛の心をお届けし、その功徳によって、安らかな極楽世界に往生出来ますようにと願いを込めて供養するのです。
我々は宇宙の生命の恩恵により、運命共同体として互いに依存しあっています。追善供養の法会(ほうえ)では、香を焚き、花を供え供養いたします。この香煙やお花は「自分がいる世界だけでなく、全ての世界、仏の世界にまで漏れることなく満ち満ちていく」そんな想いで供養することが大切です。そうして、仏様や、ご先祖様、自分、その他の宇宙の生命とは全て一体であると自覚・確信できる境地にいたると法要も素晴らしいものになります。
ご先祖様にと想いながら施し供養する心や行為が、他の生命だけでなく、自分自身をも救うことにつながるわけです。僅かな時間でも、素直な心で妄念(もうねん)を止め、正しい智恵と慈悲の心をもって供養すれば、その気持ちは必ずご先祖様に通じることでしょう。

■からだに塗(ぬ)るお香
数種の香木(こうぼく)を混ぜて粉末にした、塗香(ずこう)という薄茶色のお香があります。仏さまに捧げる六種の供物の一種で、お線香やお焼香の場合のように、香を燻(くゆ)らして供えるものとは違い、自分の口にふくみ、身体に塗(ぬ)るお香です。そうすることによって身体の内外(ないげ)を清めてから、お堂でのお勤めや儀式作法に入るのです。普通はお勤めをする机のそばやお堂の入口に用意され又、小さな入れ物で携帯することもあります。
先ず塗香を左手に受け、右手の人差し指と中指に少しつけ、口に含みます。次にお香を両手で数度磨り合わせ、胸に当て塗ります。僧侶はこの手法を師僧から教わるのですが、一般の方にはあまり知られてないようですね。
先日、十歳になったばかりの稚児の得度式がありました。そこでもこの塗香の作法が最初にあり、可愛い坊(ぼん)ちゃんが白衣に身を包み、香を恐る恐る受けながら体に塗り、ひたすらに合掌している姿は、やさしい光が放たれているようで実に美しく清々しさを感じました。
もし、塗香をいただくことがありましたら、この作法を思い出してみて下さい。

■お賽銭
最近訪れた、とある西国霊場札所でのことでした。納経ご朱印の受付はご朱印を受ける順番を待つ人で何やかやとにぎやか。もうすこし静かに待てばいいのにな…、と思っていた時、近くで「おさいせんあげるから、おかねちょうだい」という声が聴こえました。見ると五歳くらいの子どもさんが、お父さんとお母さんからお賽銭にするお金を貰っているところでした。
その親子は、先にお参りしている方の後ろで静かに待ち、その方がおわると、お賽銭箱の前に三人そろって進み寄り、そしてお賽銭を「そおーっと」という風に傾け入れて一礼。次にお賽銭箱の前から右に移動して合掌して黙念という流れでした。その姿様子は実に見事で感動しました。
参詣者で混み合うこともあって、お賽銭箱を目の前にしても、ついついお賽銭を投げ入れることも多いようです。お賽銭の賽の意味が「感謝」ですから「有難う」という気持ちが表れるお賽銭にしたいものです。

■それぞれの光
阿弥陀経(あみだきょう)というお経に、極楽の池にある蓮(はす)の美しさを説いた処がある。「青い花は青い光を放ち、黄色の花は黄色の光を、赤も白もそれぞれの色の光を精一杯放って、互いに相手を照らし照らされている実に美しい蓮の池。他の蓮の花よりも我が美しいと自慢することもなく、劣ると卑下(ひげ)することもなく、それぞれの色光(カラー)を大事にすることで、全体が大きく輝いている」と説かれている。
大企業に入社して世界を飛び回ることもいい。炎天下、額に汗してトラクターを操るもいい。美味しいラーメンを打ち込んでいる姿も美しい。つまり一人ひとりが、己が特性に目覚めて、一途に打ち込んでやっていくことが大切と思えるのだ。
昔も今も、子どもに勉強しろと言い、良い成績をとらせて、よい学校に入れようと日夜教育について奮闘する親が多い。こうした子どもの特性を無視したつめ込み主義が、はたして自分の特性に目覚め一途に打ち込む美しい姿の大人となるだろうか。早、今年も暮の月を迎え愈々来年、天台宗が開かれて1200年を迎える。この年からこそそれぞれの子どもが、それぞれのカラーを出して、相互に照らし、極楽池の蓮のように美しく輝く世界になるように祈りたい。

■忘己利他(もうこりた…己を忘れて他を利する)
「人間の性(さが)として、私たちはどうしても自分中心に考えてしまうことがあります。もっと欲しい、こうして欲しい、とまわりに望むことが多くなりがちなのです。」
我欲が先立つのです。
伝教大師最澄(でんぎょうだいしさいちょう)さまの言葉に『己(おのれ)を忘(わす)れて他(た)を利(り)するは慈悲(じひ)の極(きわ)みなり』という言葉があります。自分のことは後にして、まず人に喜んでいただくことをする、それは仏さまの行いで、そこに幸せがあるのだという言葉です。つまり我欲が先に立つような生活からは幸せは生まれないのだということです。
「インドの母と言われた故マザー・テレサさんの講演のなかでこういう話がありました。
ある日、七人の子供をかかえる貧しい母のところへ、マザーは両手にいっぱいほどのお米を持っていってあげたのでした。するとその母親はそのお米の半分を手にして外へ出ていきました。マザーが問うと、隣りにも同じような貧しい親子がいるので、そのお米を分けてきたのだと言うのでした。一俵もあるお米ではありません。自分の子供たちの一食分にも足りないお米でさえ、それを半分にして、隣りの子供たちも喜ぶだろうと分けてやれる崇高な精神にマザーも感動したのです。 

■自分を大切にすることとは
古代インドにあったコーサラ国王のパセナーデ王は、自分の愛する妃に「お前は世の中で何を最も愛しいと思っているか」と聞きました。彼は妃が、王のことを愛しいと思っていると答えてくれるのを、秘かに期待しておりました。ところが妃のマリカは一瞬ためらいながらも「私がこの世で最も愛しいと思っているのは、自分です」と正直に答えたのです。それを聞いて夫のパセナーデ王は、少しガッカリした様子でしたが、「マリカよ、その通りかもしれない。実は私も、自分自身が一番愛しい」と答えました。
それから二人は釈尊のもとにいき、正直に悩みを打ち明けました。「お釈迦さま、あなたは私たちにいつも、自我を捨てよ、とお説きになりますが、私たちはそれぞれ自分が愛しいので、どうしても自我を捨てることができません」。すると釈尊は二人に向かって「あなたたちの悩みは尤もなことである。自分を一番愛しいと思うことは、人間にとって当たり前のことなのだよ。ただし、それに気がついたら、他人の自我も自分同様に大切にしなければならないのだ。すなわち他人の心を傷つけたり、又他人を殺したりしてはならないのだ」と諭されたのでした。
他人を大切にすることこそ、自分を大切にすることになる、というこの転換がなければ真の人間関係は成立しません。すなわち相手と同じ目線に立つことであります。仏教の言葉でこれを「同事摂(どうじしょう)」といって、人間が人間らしく生きるための実践すべき大切な徳目のひとつに数えています。相手と同じ目線、すなわち同じ立場に立つには、相手を理解しなければなりません。理解とは、自分と同等か、それ以上の価値を相手に見出すことでもあります。そのためには、ほんの少し自分を抑えることも必要でありましょう。

■若くありたい
「お若く見えますねぇ」と言われて喜ぶのは女性だけではありません。若いという言葉は、今ではお世辞のひとつになっています。昔は若く見えるということは、恥ずかしいことでした。若造(わかぞう)、若輩(じゃくはい)者といえば、一人前の大人として認められていない言葉でした。ところが今は、化粧品もエステティックサロンも、女性の為だけのものではなくなりました。それというのも、私達の心の底に常に、若く見せたい、若く見られたいという願望があるからではないでしょうか。
若い、ということは何も年齢に限ったことではありません。健康であり体力もあるということに加えて、考え方における柔軟さというのも若さの条件のひとつです。漢和辞典で"若"という字を引いてみると"桑の木のやわらかい新芽のさまをかたどった字。ひいてはやわらかい、わかいの意となった"とあります。身体の柔らかさ、発想の柔らかさというものは、若いうちに身につけておきたいものですが、人当たりの柔らかさ、ことば遣いや物腰の柔らかさといったものは、ある程度の歳を重ねてはじめて身につくものです。そう考えてゆくと若さと老いは共存しているのかもしれません。私達のもつ若さへの願望は、裏を返せば老いへの恐れでもあります。言う迄もなく老いは、生・病・死と合わせて四苦と呼ばれています。お釈迦様は、その何れも逃れられないものと、お示しになりました。上辺(うわべ)だけの若さの追求や、度を超した若さへの憧れは返って現実を観る目を曇らせてしまうことでしょう。私達は常に若くありたいと思っています。しかし、そのこだわりを捨てて歳相応に過ごすうちに、かえって美しさがにじむ事でしょう。

■娑婆世界の歩き方
傘ひとつ 片方は濡れる 時雨(しぐれ)かな
これは娑婆世界の歩き方を示唆した句です。天候は雨。なかなか止みそうにありません。旅の二人。別に二人と決まっているわけではなく、三人でも四人でもいいのですが、一応は二人としておきます。傘は一つしかありませんから、どうしても片方は濡れてしまいます。
さてそこで、傘をどのように差すかが問題なのです。
一、自分一人傘を差してすたこらさっさと行ってしまう。置いて行かれた人はずぶ濡れになります。これも片方は濡れるわけです。(手前勝手型)
二、相手に傘を全面的に差しかけます。これだと相手は濡れませんが、自分はびしょ濡れになります。(自己犠牲型)
三、傘を真中にして、寄り添うように差します。俗にいう相合傘です。これも傘からお互いの外側の袖がはみ出して、片方の袖は濡れます。(相思相愛型)
いろいろな差しようがありますが、どう差してみたとて、片方は濡れてしまいます。
「傘が一本だから濡れるんだ。もっと沢山探してこいよ」
と、当然思われるでしょうが、そうはいきません。ここは娑婆なのです。傘は一本しかないことを肝に命じておいて下さい。傘を二本にしよう、三本にしよう、満足のいくようにしようという発想は、老いをなくせ、死をなくせ、季節は三月花の頃だけにしろというのと同じく理不尽なことなのです。「傘は一本だ」と諦めねばなりません。娑婆世界は堪え忍ばなければ生きられない世界というわけです。
ところで、「アキラメル」とは、「諦めること」と「明らめる」とが一体化して成り立っている言葉です。自己所有欲の拡充といい状態の永続を諦めて、ありのままに明らかに見ることです。きれいさっぱり諦められれば、堪え忍ぶことが満足感に変わるのです。傘一本で充分満足ですし、一本だからこそいたわり合いながら歩んでいけるのです。
「晴れてよし 雨もまたよし 路地の花」ということでしょうか。

■「華(はな)は愛惜(あいじゃく)に散り、草は棄嫌(きげん)に生(お)う」
という表題の言葉は、花が咲くと、人は喜び、惜(お)しまれつつ散るのに、雑草は嫌がれつつ生えては捨てられる。花も草も共に大自然の因縁の働きによって生じて来たのです。花は人に喜んでもらいたいために咲いたわけではなく、雑草は人に嫌がらせをするために生えたのではありません。なのに、人間の都合で勝手に良いの悪いのと差別することを言う格言です。
私たちは、幾多の因縁のお陰(かげ)によって歩んでいる今日ですが、生老病死(しょうろうびょうし)を免(まぬが)れる方法はありません。百パーセントの確率です。なのに、老いることを厭(いと)い、若くありたいと若さに執着(しゅうじゃく)します。若さを保つための努力は惜しみません。こんな川柳(せんりゅう)があります。
母親のテニス姿に目を背け 化粧品年々減りが早くなり
若さへの憧れ、そこに絶大な価値を置こうものなら、老後は意味のないものになってしまいます。老いの中にも病の中にも優雅な人生はあるのですから、それを見出すことの方が肝要(かんよう)です。
良寛さんは友人に宛てた手紙の中で、「災難に遭時節(あうじせつ)には災難が遭がよく候(そうろう)、死ぬる時節には死ぬるがよく候。是(これ)ハこれ災難をのがれるる妙法(みょうほう)にて候」と、言っていますが、老いたら老いたところで、病気になったら病気になったところで、それは因縁によって与えられたものとしてしっかり受け止め、その中に真実の生き方を探すことなのです。

■「回向」について
「回向」は「廻向」とも書きます。文字通り、自分が積んだ善根の功徳を、自分のためではなく、他の人のために回(まわ)して向けることを言います。
わかりやすく言えば、ご法事に参列した人々が、それぞれ自分が積んできた善根の功徳の一部を、今日のご法事のために振り向けて下さいと念じて、お参りすることです。もちろん、ご法事を営むこと自体に大きな功徳が在るわけで、それが故人に回向されるのは当然のことですが、同時に参列する人々にも、是非そうした気持ちでおまいりしていただきたいと思います。
ただ、その場合、自分の積んだ功徳を故人に分けてやるというような、驕(おご)った気持ちは捨てなければなりません。
あくまでも、仏さまのお力をお頼(たの)みして、善根の功徳を故人にお供(そな)えさせていただくという謙虚(けんきょ)な気持ちが大切なのです。
お供えといえば、よく「ご供養」という言葉をお聞きになると思います。
これも、回向と同じように、品物や善根の功徳をお供えして、故人の極楽往生の糧(かて)を養うことと言ったらいいでしょう。
さらにまた、「追善供養」という言葉もあります。普通は故人を弔(とむら)うためのご法事の意味に使われていますが、実は追善供養というのは、文字通り、後ろから追いかけて故人のために善い行いをして、それを供養することなのです。
ご法事に参列される時には、是非この気持ちでおまいりしていただきたいのです。  
 

 

■和顔愛語(わげんあいご)
和顔愛語とは、「大無量寿経」にある言葉で、おだやかな笑顔と思いやりのある話し方で人に接することなのです。無財(むざい)の七施(ななせ)〔財がなくてもできる七通りの布施〕の中の和顔悦色施(わげんえつしきせ)と言辞施(ごんじせ)に通じる内容ですから、布施行のひとつでもあります。
例えば、もし混んでいる電車の中で足を踏まれたとしましょう。その時、あなたは怒ってはいけません。にこやかな顔で、「あなたの靴が私の足の上に乗っているのですが」と、穏(おだ)やかに言わねばなりません。何しろ布施の修行をしているのですから。
アランの「幸福論」に
「あなたがレストランに入る。隣の客に敵意ある視線を投げ付け、さらに、メニューをジロッと見て、ボーイをにらむ。それですべては終わりだ。不機嫌がひとりの顔から他のひとつの顔に移る。すべてがあなたの周囲で衝突(しょうとつ)する。恐らくコップでも割れることだろう。そして、その晩、ボーイは細君を殴りでもするだろう」という話があります。
あなたの不機嫌な行動や言葉は、あなたひとりに止まらず、次から次へと伝わっていくと言うことでしょう。それからまた、他人の不機嫌も自分に伝わり、楽しかるべき気分が損なわれることもあるのです。
さて、不機嫌が他へ伝わるものならば、その反対の上機嫌も同じく他へ伝わるはずなのです。だとしたならば、不機嫌を他にばらまくより、気分よく人に接した方がいいに決まっています。それは、誰もが望むことですが、四六時中(しろくじちゅう)気分よくしようとしてもなかなかそうはさせてくれません。他人との間では、自分の思い通りにならなかったり、嫌な仕打ちを受けたりもします。そんな時、にこやかに思いやりある言葉で接することなどできませんし、もし、そのように振る舞えたとしても、相手に媚(こ)び諂(へつら)っているようにしか思われないでしょう。
では、どうしたらよいのでしょうか。
怒りには怒りをもって応酬(おうしゅう)しますか。それでは、ギスギスした心になってしまいます。和顔愛語は、先に申しましたように仏道修行なのです。布施行なのです。他人の思惑(おもわく)などどうでもよいのです。和顔愛語を行って、他人によく思われたいと思ったならば、それは布施ではありません。あくまでも自分自身の問題であり、仏の境地に近付く第一歩なのです。

■心を磨く
ある寺院で昔の修行の様子を聞いたことがあります。修行僧達は、毎年ある時期になると、清掃用具を一式持たされ、お寺から町に出ます。無作為に一軒ずつ家々の玄関を叩き、「○○寺の修行僧ですが、お宅様のトイレ清掃をさせて下さい」と言って町内を回るそうです。もちろん町内で、その時期にお寺の修行僧達が、トイレ清掃の修行に来ることは風物詩となっていました。
しかし、その趣旨にご賛同いただき、ご協力いただける家は少なかったようです。「数少ない受け入れ先の家は一体どんな方なのだろう?」という疑問が湧きました。聞いてみると、受け入れてくださる家々のトイレは、修行僧が清掃する余地のないほど清掃が行き届いているそうです。もちろん、他の部屋、庭なども同様に清掃が行き届いているとのことです。もし、汚れているトイレであれば、当然、他人に見られることが恥ずかしく、修行僧を受け入れることはできないでしょう。
また、その寺院の来客用トイレの清掃は、古参の修行僧が行うことが慣例でした。来客に対する配慮は経験豊かな者の役どころ、といった考えと、若い修行僧達を指導する立場の者に慢心が生じないように、との配慮ということでした。
トイレ清掃ひとつ取ってみても、日常生活を送る上での心掛け、配慮や精神面での精進など、いろいろ考えさせられることが多いものです。
これらの話は、私が小僧のときに大先輩の住職から伺いました。私がお寺の清掃を指導いただく際に、「どの程度まで綺麗にしたらよろしいのでしょうか?」と尋ねた愚問に対する有難い話でした。そして、その住職が最後に話された言葉が今も思い出されます。「自分の心を磨くようにお掃除をすればよろしい。そして、それを初心として忘れないように」

■「願以此功徳 普及於一切 我等與衆生 皆共成仏道」
(がんにしくどく ふぎゅうおいっさい がとうよしゅじょう かいぐじょうぶつどう)
これは、回向文(えこうもん)と呼ばれ、「願わくは此の功徳を以(も)って、普(あまね)く一切に及ぼし、我等と衆生(しゅじょう)と、皆共(みなとも)に仏道を成(じょう)ぜんことを」というような意味で、皆が一緒に悟りを得られますようにと願うのです。
このほかお香をたくとき、鐘を撞くとき、さらには食事や沐浴(もくよく)といった日常行為の際にも、それぞれ決まった言葉をお唱えします。それらをお唱えすることで、自分の一つひとつの行いが自分のみならず、他の生きとし生けるものに利益をもたらすものとなるよう願いを込めていくわけです。仏道では発願(ほつがん)といって、願いを起こすことにはじまり、願いを生きることに尽きます。
世の中には、社会と自分は別もので、社会でなにが起ころうと自分には関係がないと思っている人もいます。しかし、社会とは人と人が接すること、例えば、あなたと私が出会うところからはじまっています。私があなたに辛辣(しんらつ)な言葉をぶつければ、気分を害したあなたは周囲にも「負(ふ)」の感情を振りまくことになるでしょう。そして、あなたから「負」の感情を受け取った人は、さらに次の人へとその影響を与えます。こうして私自身の行為の結果はあっという間に、もしかしたら手紙より早く地球の裏側にまで届くかもしれません。そのとき、そこで起った悲しい出来事が、私には責任ないなどとどうしていうことができるでしょう。
私たちは皆、大なり小なりこの世界の在り方に関わっています。しかし残念なことに、その行為の結果をありのままに知ることはできません。
だからこそ願いを起こすのです。誰ひとり悲しみの涙に暮れることのない平和な世界に生きられるようにと。

■お正月
お正月といいますと、新しい年を祝うお祭りのようにも思われますが、本来はお盆と同じように、ご先祖様をお迎えし、ご供養する宗教的な意味合いが含まれているのです。
「月籠(つごも)りの夜、亡き人の来る夜とて、魂祭(たままつ)るわざは、この頃にはなきを、東(あずま)の方には、なほすることにてありしこそ、あわれなりしか」
これは徒然草(つれづれぐさ)に見られる大晦日(おおみそか)の様子ですが、このように昔はお正月にもご先祖様を迎えてともに一年の幸せを願ったものとされていました。
初詣、門松、しめ飾りなど昔から慣れ親しんだお正月の風物詩にもそういった意味が込められているのです。だれもが最も日本人らしさを感じることができるのがお正月だといえます。
ところでよく「一年の計は元旦にあり」といいますが、ご先祖様をお迎えしているよい機会でもあります、仏様に向って今年一年の目標をたててみてはいかがでしょうか。それも澄みきった清らかな心でたてることが大切です。
「悪い行いはせず、善い行いをして、自らの心を清く保ちなさい」ということが、いろいろなお経に説かれる仏様の教えのもとなのです。自分のことより他人の幸せを願えるようになることが、仏様のみこころに添うことになるのです。そうすればご先祖様も必ず喜んでくださるでしょう。
さあ、晴れ晴れとした気持ちで新年を迎えましょう。まずは家族そろって菩提寺にお参りします。仏様やご先祖様はいつも変わらぬ清らかな姿で迎えて下さいます。
「昨年はありがとうございました。今年もどうぞ見守っていて下さい・・・」 こんなふうに家族そろって感謝し、手をあわせたいものです。

■散華(さんげ)
寺院ではいろいろな法要を営むとき、仏さまをお迎えする道場を清浄(しょうじょう)にして、諸々の仏さまを讃歎(さんだん)し、供養するために花が撒かれます。これを『散華』といいます。
経典には、仏さまが説法をする際に、天から花が降ってくると説かれており、これは『天人が仏さまを讃歎して花を降らせる』という意味なのです。
インドでは蓮弁や花を冠状にした生花を用いていました。
日本ではすでに奈良の正倉院にも納められています。蓮弁(ハスの花弁)や花びらの形を模(かたど)ったもの、文字だけのものや、絵や彩色が施されたものがあります。一般には、木版などで印刷されたものなどが使用されています。
その他にも、樒(しきみ)の葉が蓮弁に似ているということで、代わりに用いられることもあります。
最近では、美術品として収集されている方もいらっしゃるようですが、本来は、大事なお客様などを接待する行事などの際、掃除をしたり、花を生けたりして部屋や会場をお飾りするのと同様に、心を込めて仏さまやご先祖様をお迎えし、供養するための大事な作法のひとつなのです。

■お塔婆について
ストゥーパのことを漢字で表現して卒塔婆(そとば)〈率塔婆〉といっていますが、ストゥーパとはお釈迦様のお舎利(しゃり)をおまつりする塔のことをいいます。お釈迦様の入滅後、お徳を慕い、教えを心の拠りどころにしている人々が舎利〈釈迦のお骨〉を泰安する塔を建て、お釈迦様がいますがごとく塔を中心に集い、お釈迦様のこの世への出生、成道、涅槃について深く考えました。それによりますと、お釈迦様は真如(しんにょ)〈真理〉の世界からこの迷いの世界に衆生済度(しゅじょうさいど)のために現れた仏様であり、入滅して再び真如の世界に帰還されたお方で、真如そのものであると考えたのです。したがって、真如から来られたという意味で如来ともいいます。真如〈真理〉は普遍的でなければなりません。限定された時代、限られた地域だけの真理だとしたならば、真理とはいえないからです。その時その場所で正しくても、時と場所によって変わるようでは信頼をおくことができません。したがって、真理が時間と空間を超越しているように仏様も永遠なのです。そして、普遍的でありますから、どのような時にも、いかなる所にも行き渡っている存在でなければなりません。宇宙に遍満(へんまん)しているのです。そこで、卒塔婆で宇宙に遍満している姿を表そうとして、形作られたのが五輪塔です。インドでは古くから宇宙を構成しているものは、地・水・火・風・空の五つの要素であるという思想がありました。宇宙全体を示すのに相応(ふさわ)しいので、卒塔婆にその形を取り入れたのです。
卒塔婆は宇宙に遍満している真理を表し、その真理が仏様なのだということを私たちに示そうとしているのです。ですから、いつでもどこにでも仏様はいらっしゃるばかりでなく、「一切衆生悉有仏性」(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)といって、生きとし生ける者すべてに仏性があるのです。
皆様が墓参の折にお塔婆を墓地に立てるのは、宇宙の真理に触れ、仏性を開発させて、より良い意義ある人生を歩もうと誓い、仏の加護(かご)を祈るためなのです。そして、その祈りが自分の安楽だけでなく、亡き人の成仏はもとよりですが、生きとし生ける者の安寧(あんねい)を願うことを忘れてはなりません。

■お数珠(じゅず)の意味は?
「お数珠」は私たちが仏さまにおまいりする時に使う法具(ほうぐ)と呼ばれるものの一つですが、訛(なま)って「おずず」とも呼ばれますし、「珠数」や「寿珠」と書いたり、「念珠(ねんじゅ)」などとも呼ばれます。
念珠という名前は、「南無阿弥陀仏」などと仏さまを念じながら、そのお名前をお唱えする時に、何回お唱えしたかという回数を計算するために使うことからきた名前です。実は、数珠という名前自体もそのことをあらわしているのです。常日頃(つねひごろ)から、数珠を繰(く)って、仏を念じていれば、煩悩も消え、仏果を得られるというわけです。
「木槵子経(もくげんじきょう)」というお経の中には、ハリルという国の王さまが、盗賊や疫病(えきびょう)などの問題で悩み、どうしたら心の平安が得られるでしょうかと、お釈迦さまにお尋(たず)ねした時に、お釈迦さまは木槵子の実百八個で作った数珠を与え、この珠を繰りながら仏の名を唱えなさいとおっしゃったと説かれています。
王さまが、その通りに実行し、心の平安を得たことはいうまでもありません。
さて、数珠の形や珠の数は宗派や用途によって違うのですが、珠の数だけは百八個を基準としているのが普通です。多いものでは千八十個のもの、少ないものでは五十四個、三十六個、二十七個、十八個などのものがあります。
もちろん、まれにはこれ以外のものもありますが、ここにあげたような一般的なものは、すべて、木槵子経の中にある百八個を基準に、十倍したり、何分の一かに略していると思っていただければよいのです。

■お札
神社、仏閣をお参りされる時、「家族みんなが平穏無事に送れますように」「おじいちゃん、おばあちゃんが健康で長生きできますように」「商売がうまくいきますように」などと願い、その願意のお札やお守りを求められる方も多いでしょう。神仏は皆さんお一人お一人の願い事をちゃんと聞いてくださって、それに応じてご利益を授けてくださいます。
願意を聞いてくださって、ご利益を授けてくださった神仏に対して、その後の報告やお礼をされていますでしょうか。「無事に送ることができました。ありがとうございます」「お陰さまで仕事の方も順調にいっております」。
神仏からのご加護やご利益を頂いたのなら、その報告とお礼を申し上げなくてはならないのです。人にお世話になったらご挨拶に行くように、神仏に対しても必ずお礼参りをすることが大切なのです。自分の都合で願うだけ願って、礼を欠く人間では失格です。「ありがとう」「お陰さまで」その感謝の気持ちをもってお礼参りをしていただきたいと思います。その時に古いお札やお守りをお納めし、新しきお札をお受けして所定の場所へ安置してください。お札やお守りは買うものではありません。授かるものだとご理解下さい。年のかわり目や、神社仏閣の大祭などの折に授けていただく風習がありますが、このお礼参りをされたとき、古きを納め、新しきものを授けていただいたらよいと思います。

■布施
布施(ふせ)というとご法事のときにお寺さんへ包んでいくお布施を思い浮かべますが、一般的に金品を施すことを財施(ざいせ)といい、仏法を説いて聞かせるなど、心への施しを法施(ほうせ)といいます。他に、無畏施(むいせ)といって何ものにも怖れることのない力を与える布施があります。たとえば、施無畏者(せむいしゃ)という別名もある観音さまが与えてくださる布施がそれです。
布施は、自分の都合を後にして他を助けることで、これは仏に近づく手段のひとつですから仏教徒の第一のつとめです。いろんな意味で、相手を助け、豊かな心にする行為は布施と言えますから、たとえば、やさしい眼差(まなざ)しや笑顔を向けること、思いやりのある温かい言葉をかけること、ちょっとした心づかいをすること、順番や席をゆずったりすることなどが立派な布施になります。
一方、名利(みょうり)の布施という言葉があります。これは自分の欲をからめての布施で、お礼や誉められることを期待したり、どこかに名前が載ることを喜びとしたり、金額を競ったり、好い人だと思われたいとか、そんなことをチラッとでも思ったうえでの布施のことです。こういう布施は不清浄施(ふしょうじょうせ)といわれるくらいで、自分を汚してしまいます。『貧者(ひんじゃ)の一灯(いっとう)』という話は、貧しい少女が自分の髪の毛を売ってお釈迦さまに捧げた小さな小さな灯が大風に耐えて最後まで輝いていたという話です。大金持ちが競って寄進した大きな灯篭(とうろう)の灯はみんな消えてしまったのです。
布施に自惚(うぬぼ)れや高慢(こうまん)さは禁物です。「こんなことしかできなくてすみません」という謙虚さと「させていただく」という態度があってはじめて布施は功徳(くどく)となるのです。

■お焼香の意味
お香は、香気ある樹脂(じゅし)や木片から作られています。熱帯の地では生活臭や悪臭を防ぐ目的で使用され、その効果により、清々しい気持ちで生活が送れるようにした古くからの慣習により、供養や修行をする場所を清めるために香が焚かれました。
お釈迦さまの弟子に富那奇(フナキ)という高僧がいました。富那奇は、兄の羨那(センナ)と共に一念発起し、力を併せて故郷にお堂を建てました。二人は一刻も早くお釈迦さまをお迎えしたく、敬慕する気持ちを込めて香を焚いたところ、その煙はお釈迦さまの下(もと)へ天蓋(きぬがさ)となって届き、二人の供養する心を悟られたお釈迦さまは、すぐさまそのお堂にお出向きになり、説法をされたという言い伝えがあります。
この言い伝えにより、二人のように心を込めて、念じながら香を焚けば、いつ、どこへでもお釈迦さまはそのお姿をお示しになり、ありがたい法を説かれ、聞く者は安心(あんじん)を得ることが出来るという信仰が生まれたのです。
私たちは自分以外の様々な生命の恩恵によって、自らの生命(いのち)を保っています。また、ご先祖さまがいなければ、私たちは人間として、この世に生を受けることはできなかったのです。
正に得難い生命をこの世に受けながら、自らの心の運び方によって、良い心、悪い心どちらにも動いていきます。知ってか知らずか、罪を犯してしまうこともあるでしょう。お焼香は、日頃重ねている罪を謙虚に受け止め、その罪をお焼香の香りと共に滅していただき、ご先祖さまや、数々の恩恵を受けた生命や、人々に対する感謝と供養の心をこめてしてみてはいかがでしょうか。
きっと、心の中に、さわやかな贈り物が届くことでしょう。  
 

 

■観音さま
観音さまといえば、聖観音・千手観音・十一面観音・如意輪観音・馬頭観音・不空羂索(ふくうけんじゃく)観音・准胝(じゅんてい)観音の七観音が一般的に有名ですが、それ以外にもマリア観音・慈母(じぼ)観音・悲母(ひぼ)観音・子安(こやす)観音・子育(こそだて)観音など、女性を表わす観音さまもおられます。
昔から柔和(にゅうわ)な顔で人に接している人のことを 「まるで観音さまの生まれ変わりのような人だ」  という例えをすることがあります。
作家の岡本かの子〈芸術家岡本太郎の母〉は、深く観音さまを信仰していたことで有名ですが、その著書「観音経」の中で、「もし仏教から代表美人を選んで、他教と競技させる催しであったら、ミス仏教となって選手に出られるのは、おそらく観音さまでしょう」と述べています。
岡本かの子は、おそらく観音さまは女性ではないかと考えていたのではないでしょうか。しかし、その逆に観音の原語は「アヴァローキタスヴァラ」〈世音を観るの意〉といい、サンスクリット語では男性名詞となっています。
また「観音経」の教えによると、観音さまは出家の姿、在家の姿、天人や龍の姿など男女を問わず三十三のさまざまな姿に身を変え、現世に於いて我々を苦難・厄難から救済して下さると説かれています。
こうみてくると、観音さまは男性でも女性でもないということがおわかりいただけると思います。

■地獄
最近では、子どもをたしなめる時に「地獄に堕ちるよ」なんて言わなくなりました。そんなことを言えば、子どもから「あのね、地獄なんてないんだよ」と逆に切り返されてしまうからでしょうか。なるほど、子どもには、地獄は馴染みの薄いものでしょう。でも、人生経験を積んでこられた皆さんならいかがでしょう。
私たちは、本物の地獄にはまだ堕ちたことがないけれども、日常的に辛く苦しいことを地獄だと表現します。
「サラ金地獄」には縁がなくても、ラッシュに揉(も)まれる「通勤地獄」や「嫉妬地獄」程度なら経験済みの方も多いでしょう。そこに嵌(はま)りこんでしまえば「何とか楽にして欲しい。仏さま助けてください」と願うのではないでしょうか。
仏教では、すべての存在の領域を十に分けて十界といいます。すなわち仏・菩薩・縁覚・声聞・天・人間・阿修羅・畜生・餓鬼・地獄です。この中で最上界は仏の世界で、最下層が地獄です。
かつては、十界は全く別々に存在すると捉えられていました。しかし、これだと「指定席」になってしまい、その世界から抜け出すのは容易ではありません。法華経は「一つの界は、その中に更に十界を具えている」と説きます。仏の世界にも地獄はあり、地獄にも仏の世界はあるということです。このことを「十界互具」といいます。
これによって、十界は垣根が取り払われて、固定的な世界ではなくなり、いかなる衆生も成仏できるし、地獄に堕ちている人々でも、仏さまの慈悲によって、救済されることがあるのです。
当然、私たちは「人間」ですから、自らの中に地獄を持っています。仏も持っています。今ある境遇を「地獄」とするか「仏」とするかは、自分自身にかかっているのです。現在が苦しみの連続である「地獄」であると感ずるなら、自分自身の中にある仏界を信じて、清浄な喜びの世界に転生するように心がけなくてはなりません。
「あなたの中の仏に会いに」行きましょう。

■檀家とは?
「檀」とはもともとインドの古い言葉〈サンスクリット語〉の「ダーナ」に漢字を当てた「檀那」が由来です。
では「ダーナ」とは何でしょうか。日本語に訳すと「布施」ということです。つまり「檀家」とは、「布施をする家庭」を意味しています。
「布施」の「布」とは、自分の都合にとらわれず、普く心を行きわたすことで、「施」とは、施すことを意味します。つまり「布施」とは、仏教徒が仏さまの教えを守り信じて、仏さまに近づこうとするうえで最も大切な行いの一つといえるでしょう。
一般的に「檀家」といえば、特定のお寺にお墓をもち、ご先祖さまのご供養や葬儀を依頼したり、またそのお寺の護持に協力する人々のことをいいます。
これは、江戸時代にできた日本独特の制度ですが、今も、お寺と、それを通じて信仰を深めてきた檀家の人々とのつながりは続いています。
「檀家」という言葉を機縁として、その語源となる「ダーナ〈布施〉」の意味を考え、普くすべての人々に、施しの心や、思いやりの心で接したいものです。

■蓮の花
蓮は泥池のなかから清らかな花を咲かせます。煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)という言葉がありますが、煩悩を泥池にたとえ、菩提を花にたとえて、煩悩の中に菩提〈仏〉の要素はあると考えるのです。泥池の中に花を咲かせる養分が含まれているのですから、煩悩を菩提を求める活力とせよということです。
また、仏教では、私たちのいる世界を娑婆(しゃば)、あるいは堪忍土(かんにんど)といいますが娑婆とは堪え忍ぶという意味ですから、この世は堪え忍ばなければ生きることはできないのです。つまり、思い通りにいかないのがこの世のさだめです。でも、私たちは何とか思い通りにならないものかと、ついつい思ってしまいます。そこに「苦」が生じるのです。その「苦」をいかに超克したらよいかと思い立たれたのが、釈尊が出家された動機だといわれています。
釈尊は、娑婆といわれるこの世界でも菩提を目指すことができると説かれました。そうした意味からも蓮を尊ぶのです。

■心やわらかく
昔から、おめでたい初夢というと、一富士、二鷹、三なすび、と言われてきました。この解釈には諸説ありますが私流に説明させていただくと、富士山のように高貴で美しく、鷹のように決断と行動力に優れ、煮ても焼いても食えるナスのように柔軟性(じゅうなんせい)をもつこと、ということで、そういう人になれるように願ったのですからおめでたい夢というわけです。
順番はともかく、三つのうちに地味の代表のようなナスを入れたところに昔の人の賢(かしこ)さが伺(うかが)えます。ナスは煮てよし、焼いてよし、漬け物もよし、と大いに柔軟性があります。しかし主役になれるような派手さはありません。ナスは下座行そのものです。人も下座行の中でこそ素直さや柔軟な心を培(つちか)うことができます。目立たない所で人のお役に立つこと、そして考え方に柔軟性をもつことが大切だと考えられたわけで、これは今の社会においても変わらない大事なことであると思います。柔軟性とは、余裕(よゆう)、融通性(ゆうずうせい)、素直さ、気持ちの切り換えが早い、臨機応変(りんきおうへん)、といったところでしょう。たったひとつのミスに、気持ちの切り替えができないで、そのままズルズル崩れてしまって逆転負けするなど、勝負の世界ではよくあることです。プラス思考という言葉がはやった年がありましたが、これも柔軟と同じような言葉です。元日に、神棚から雑巾が出てきました。暮れのお掃除のときに忘れたのでしょう。正月早々に縁起が悪いと主人が怒っていると、ある人が「雑巾(ぞうきん)を当て字で書けば蔵(くら)と金(かね) あちら福(ふく)々こちら福(ふく)々」と言ったので主人も大いに喜びました。プラス思考とは、考え方に柔軟性をもたせ、明るい方へ、よい方へ考えよ、ということだと思います。
掃除は普通女性の仕事のように思われていますが、心をきれいにする務めは男性も女性も同じです。であれば、男性にとっても掃除は大事なことで、女の仕事などと決めつけず、気が付いたら自分でもすればよいのです。掃除は、誰もしないから仕方なくとか、いやいやするとか、そういうものではなく、知らず知らずのうちに心を浄めてくれる仕事ですから、自分のために楽しんでしたいと思います。そして心はいつも柔軟に、面子(めんつ)や自尊心(じそんしん)にとらわれずに素直な生き方を心がけてこの一年を過ごしていきたいと思います。

■拝む
ほこりにまみれた身体(からだ)を洗い流すことはできますが、心のほこりを拭(ぬぐ)いさることはなかなか難しいことです。
物質的に豊かになれば、それにつれて私たちの欲望も増え、その欲には際限がありません。
宝石は掘り出された時は一塊(いっかい)の原石ですが、それに磨きをかけると美しい光が出てきます。しかし、ただの石ころをいくら磨いても光は出てきません。
それと同じように、もし私たちの心の中に光るものがないとしたら、どんなに熱心に修行したとしても、心のほこりは拭いきれないでしょう。
でも、お釈迦さまは、私たちはみんなもともと仏(ほとけ)になる可能性を備えているとおっしゃっておられます。それを仏性(ぶっしょう)といい、だれでもがもち合わせています。
言い換(か)えると、私たちのもっている仏性は心のほこりに覆(おお)われているため、その光が出てこないのです。
ほこりにまみれた身体を洗い流し、温かいお湯にゆっくりと入った後のような清々(すがすが)しい気持ちで仏さまに手を合せる。その時の心はとても清らかだと思います。
私たちの中にある仏性を磨くこと、それは心のほこりを拭うことです。
日頃から、こうしたことを心掛け、仏さまに感謝の気持ちを捧(ささ)げ、ご加護(かご)を信じて拝む。こうした地味な行いを積み重ねながら、一歩一歩歩んでゆくということが何よりも大切なことだと思います。

■仏花はどうしてこちら向き?
(問)お仏壇もそうですが、お寺にお参りしても、お供えしてあるお花は私たちの方を向いています。仏様にお供えするのに、どうして仏様の方にお花が向いていないのですか。
(答)人に花をさしあげるときは、きれいな方を向けて渡しますが、受け取った人は、ありがとうと言って、花を賞(め)でた後、送り主の方に花を向け直します。そうした方が、みんなと花の美しさをわかちあえるからですね。
仏様や墓前に花をお供えする時、「仏さま、ご先祖さま、どうぞこのきれいなお花をお受けください」という心を捧(ささ)げるのですから、気持としては花は向こう向きでしょう。しかし、美しいものを供養(くよう)したいと思うこころを捧げるのと同時に、仏さまや墓所を飾るという意味もあります。そうすると、向こう向きのままでは飾るということにはなりません。
ためしに、一度向こう向きに供えてみてください。なんだか楽屋裏(がくやうら)をのぞいているようで変でしょう。では、こちら向きになおしてみます。やはりこの方がずっときれいで気持ちも落着きます。きれいに飾られると、仏さまの荘厳(そうごん)さもより増すことでしょう。それにお参りする人もきっときれいな気持ちになって、お参りしたという実感がわきます。清々(すがすが)しいこころを仏さまやご先祖さまが受け取ってくださり、その喜ばれたみこころがまたこちらへ伝わって供えた方の喜びになります。行ったり来たりですね。
供える花は私たちのこころそのままです。お仏壇の花がしおれたままなどということがないように心がけましょう。

■仏さまのお顔
(問)お寺巡りをしていると時々とても怖い顔をした仏さまにお目にかかることがあります。仏さまのような、といえば優しさの代名詞のようにいわれるのにどうして恐い顔をした仏さまがいるのですか。
(答)そうですね。恐いお顔の代表としてよくお目にかかるのは「お不動さま」と呼ばれる不動明王(ふどうみょうおう)でしょうか。眼をカッと見開き、牙をむいた忿怒(ふんぬ)の相で、手には剣と綱を持ち背後には真っ赤な炎が燃えさかっている、恐いお姿です。この不動明王と降三世明王(ごうざんぜみょうおう)、軍茶利明王(ぐんだりみょうおう)、大威徳明王(だいいとくみょうおう)、金剛夜叉明王(こんごうやしゃみょうおう)の五大明王、また、愛染明王(あいぜんみょうおう)、大元帥明王(だいげんすいみょうおう)、烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)と呼ばれる明王などがおられますが、おおかたは、お不動さまのような忿怒相をしています。明王とは、愚闇(ぐあん)を破る智慧(ちえ)の光明(こうみょう)〈真言(しんごん)の意〉をもつお方という意味です。そして、一筋縄(ひとすじなわ)ではいかない人を導くために忿怒の相をしているのです。
この頃は父親がみんな優しくなってしまったと言われるのですが、昔は雷おやじといわれるような恐い父親も結構いたものです。母親は優しいほうがよいのですが、その一方に、時には厳しく恐い父親がいてこそ子供は健全に育つといえましょう。
仏さまにも、こんな父親母親に似た役目があるのです。人間もいろいろですから、優しい言葉だけではきいてくれない人もいます。そんな人には眼をむいて凄(すさ)まじく叱(しか)ることも必要です。明王は、実は優しい如来のお使いですから、その忿怒相は、なんとかこの人に立ち直ってもらいたい、しっかり仏道を歩んでもらいたいという心の表れで、内心は慈悲そのものなのです。
明王の他には、四天王(してんのう)〈持国天(じこくてん)、増長天(ぞうちょうてん)、広目天(こうもくてん)、多聞天(たもんてん)〉や金剛力士(こんごうりきし)〈仁王(におう)〉なども忿怒相をしていますが、いずれも力強く仏法を守護したり、私たちが道を踏みはずさぬようにと願って恐いお顔をしているのです。できれば、私たちも優しい導きを素直に聞けるようでありたいですね。

■年回の数え方がわからないのですが
(問)先日、母の一周忌(いっしゅうき)の折に、「来年は三回忌(さんかいき)ですね」と言われました。どうして二(に)回忌ではなくて、三回忌なのでしょうか。
(答)ごもっともなご質問です。でも、よく字をご覧になって下さい。「一周忌」の次は「三回忌」で、「二周忌」ではありません。なぜ、そうなるのかと言いますと、もともと、お母さまのお亡(なくな)りになられた日を最初の忌日と考えるからです。いわば、お亡りの日が一回忌というわけです。ですから、丸一年経(た)った翌年は、本来は二回忌だと考えていただけばよいのですが、それを特に一周忌と呼ぶのです。
「周」は「めぐる」ことを意味する言葉ですから、お母さまがお亡りになってからちょうど一めぐりした翌年のその日を一周忌と呼ぶのです。ただ、こうした呼び方は一周忌にしか使われません。ですから、丸二年目は二周忌ではなく三回忌ということになります。
それ以降は、丸六年目が七回忌、丸十二年目が十三回忌というように、お亡りになられた日を一回忌と数えてお考えになればよいわけです。
ついでですが、こうした数え方は、お亡りになった直後の初七日忌、二七日忌などといった中陰(ちゅういん)についても同じです。お亡りになった日を初めての忌日と考えるのですから、その日を勘定に入れて、七日目を初七日忌と呼ぶのです。例えば、水曜日にお亡りになられた方の初七日忌は火曜日で、それ以後の七日七日(なのかなのか)はそれに七日ずつ足していただけばよいのですから、四十九日(しじゅうくにち)〈七七(しちしち)日忌・尽七日(じんしちにち)忌・満中陰忌〉までは毎火曜日ということになるわけです。

■お墓参りはいつ・・・
(問)お墓参りはどんな時にしなければいけないのでしょうか。
(答)結論(けつろん)から先に言えば、お墓参りに決(き)められた日はありません。何時(いつ)お参りしてもよいのです。ただ、一般的に見れば、春秋のお彼岸の時とか、お盆の時といったように、お寺で彼岸会(ひがんえ)やお施餓鬼(せがき)の法要が営まれる時のお参りが多いといえるでしょう。しかし、その他にも、ご先祖の年回法要の折はもちろんのこと、祥月(しょうつき)命日や月々の命日などにもよくお参りします。また、年の初めや年末などに、その年一年(としいちねん)の計画や結果を報告するために、お墓参りをされる方も多いようです。
ところで、ご質問の中に「・・・しなければいけないのでしょうか」とありますが、そういう義務的な気持でお参りなさることは、あまり感心できません。
お墓参りの時は、お墓を洗い清め、お花やお線香などをお供(そな)えして、ご先祖の冥福(めいふく)を祈ります。また、その折には、ご先祖への感謝の気持を込めて、家族の現状などを報告し、私たちを見守って下さいとお願いするのです。このように、お墓参りは、あくまでも自発的(じはつてき)にするのですから、何時しなければいけないということはないのです。
ただ、物事(ものごと)にはなにか切(き)っ掛(か)けがあった方がよいのです。そういう訳(わけ)で、多くの方々は、前に挙(あ)げたような時に、お参りしておられるのです。  
 

 

■果報とは
(問)「果報者」とか、「果報は寝て待て」とか言いますが、これは、偶然宝くじに当たったようなもので、努力しなくてもいいことがあると言うことなのでしょうか。
(答)果報とは何かとのご質問ですが、これは、仏教で言う「因縁」と深いつながりがあります。あらゆるものが成り立つには、必ずそうあらしめる要因があり、これを因縁と言います。因とは、ものが成立する直接的原因、縁とは、それを育てるさまざまな条件のことです。例えば、花が咲くには、種がなければなりません。それが花の因です。しかし、種があっただけでは、花は咲きません。土や水、光や気候、その他さまざま、花を咲かせるのにふさわしい条件が整った時に咲くのです。因と縁が実ると、それに合った結果が出ます。その結果のことを果報と言います。
さて、因縁の結果である果報は、必ずあらわれます。しかし、何時かは分かりません。花の場合は、時期が決まっていますので、比較的簡単に結果を知ることができますが、人間の行いに関しては、いろいろな条件が絡(から)んでいますので、いつ結果があらわれるか明らかではありません。何十年たっても兆候(ちょうこう)すらあらわれないことだってあります。したがって、思いも寄らないいい結果に恵まれたとしたならば、「運が良かった」と思うことでしょう。まさに果報者です。しかし、その果報がなかなか自分に来なかったとしたら、イライラしますね。ですが、必ずあらわれるのですから、焦らないで待ちましょうと言う意味で「果報は寝て待て」と言うのです。したがって、常日頃、自己を律した行いを積んでいけば、必ずいい果報があるのですから、早く果報を得たいと期待してはいけないのです。果報なんか忘れて日々の行いに勤(いそ)しむ心掛けが大切です。幸運は偶然なのだから、何もしなくても巡り合えると言う考えは、仏教的ではありません。 

■霊場巡り
(問)今年の三月で仕事を定年退職しました。今まで忙しくて「そのうち、そのうち」と思っていた霊場巡りに、先輩の誘いもあってようやく出かけてみようかと思います。予備知識としてご指南下さい。
(答)さて「○○霊場巡り」というのは全国にいろいろとあるわけですが、中でもよく知られているのは、観音さまゆかりのお寺を巡る西国三十三か所、板東三十三か所、秩父三十四か所の百観音巡礼や、弘法大師の足跡を巡る四国八十八か所遍路でしょう。服装は、昔は白装束に菅笠といった具合にしきたりがありました。これは同じものを身に着けることで、仏さまの前では誰もが平等であることを表わしているそうです。もちろん白装束が一番ですが、今では清潔な服装に歩きやすい靴、輪袈裟と念珠をお持ちになれば結構かと思います。あまり華美な服装はご遠慮下さい。
霊場巡りでは、「ご朱印」または「納経」とよばれるお寺の宝印を、掛け軸や帳面、笈摺(おいずる)にもらって回ります。これは経典を書写してお寺に納めたことの証明のハンコに由来しています。笈摺は亡くなったときにお棺におさめてもらいます。中には仏さまにお参りをせずに朱印だけという方もあるようですが、決してスタンプ集めではありませんのでご注意ください。菩提寺やご本山の比叡山延暦寺にも是非ご参拝下さい。
また「納め札」と呼ばれる細長い紙に、願い事や戒名、氏名等を書いて納めます。昔は、金属や木でできた納め札をお堂の柱などに打ち付けたそうで、「札所」という言葉や、一番から回るのを「順打ち」、終わりから回るのを「逆打ち」といった言葉もここから生まれたそうです。
霊場巡りは、ご先祖の供養のため、また心願成就のため、健康のためと、きっかけはさまざまかと思いますが、その功徳は巡ってみてはじめてわかるものだと思います。また、一度回れば終わりではなく、次は是非とも先達としてお友達をお誘いしてお回り下さい。幸いなことに仏道修行には定年はありませんから。

■お釈迦様の平和主義
(問)武力で問題は解決しますか?
(答)昔、お釈迦様のおられたカピラ城の隣にコーサラ国という強大な国がありました。そのパセーナディ王は、釈尊を尊崇し、深く仏教に帰依していたため、妃を釈迦国から迎えたいと願い、使者を釈迦国に派遣しました。しかし、この使者の口上が「貴族の娘を寄こせ。断るなら戦争だ」というものでしたので、釈迦国の人々は怒り、貴族でない女性を母とする美女をパセーナディ王のもとに嫁入りさせました。やがてコーサラ国に瑠璃(ヴィドゥーダバ)太子が生まれました。瑠璃太子は、少年のころ、釈迦国に留学しましたが、生母が貴族でないためにカースト制度によって徹底的に差別されます。瑠璃太子は王位に就くと、その屈辱を忘れず、軍を率いて釈迦国に進撃を始めました。そのことを耳にされた釈尊は、コーサラ国から釈迦国につづく街道に行かれ、一本の枯れ樹の下で坐禅をされました。
街道を進軍して来た瑠璃王は、「世尊よ、ほかに青々と繁った樹もあるのに、なぜ枯れ樹の下に坐っておられるのですか?」と尋ねました。「王よ、親族の陰は涼しいものです」というのがその答えでした。釈尊は、その枯れ樹が釈迦族のシンボル的な樹であることから、釈迦国への愛情を表明されたのです。
それを聞いた瑠璃王は「遠征の時に沙門に会ったら兵を返せ」という言い伝えを思い出し、軍を引き返しました。しかし瑠璃王の怒りは、それでもおさまらず、三度軍隊を派遣します。四度目、コーサラ国王が軍を進めたとき、釈尊の姿は見られませんでした。瑠璃王軍は釈迦国に攻め込み、ついに釈迦国を滅ぼしてしまいました。
釈尊は、釈迦国の滅亡を救うために坐禅を三度されましたが、武器を取って争うことはされませんでした。
ここに釈尊の「武力で争うべきではない」という平和主義をみることができます。また、法句経(ほっくきょう)で釈尊は「まこと、怨みごころは、いかなるすべてをもつとも怨みをいだくその日まで、この地上にはやみがたし。ただ怨みなきによりてこそ、この怨みはやむ。これ易(かわ)りなき真理なり」と言っています。味わうべき言葉です。

■通じ合う心
仏教では「融通無碍(ゆうづうむげ)」といって、この世のすべてのものは互いに影響しあい、つながっていると教えています。ちょっと前になりますが、テレビのある番組でおもしろい実験をしていました。それは、飼い犬が毎日ご主人さまの帰る直前になると玄関までお出迎えするのは何故か、といったものでした。
カメラを二台使って飼い主の男性と犬とを同時に撮影したところ、男性が会社を出て自宅へ向かう瞬間に、犬君は玄関までお出迎えするのでした。
またある時は会社を出ても、寄り道して帰る時には迎えに出ず、寄り道先から自宅に帰ろうとした時に玄関に向かうのです。結局、男性が家に帰ろうと心に思った瞬間に、遠く離れてご主人さまを待つ犬君はそれを感じとって玄関に向かうということでした。こうしたことは、程度の差はあれ、多くの犬に報告されていることだそうです。
私たちはどうしても目に見えるもの、形あるものがすべてと思いがちです。しかし、超能力や霊能力といったものではなくて「以心伝心」、心が通じ合うということが現実に存在するのだということは皆さんにも知っておいていただきたいものです。
ドイツのことわざに「二人が同時にしゃべることはできないが、同時に歌うことはできる」というものがあります。二人といわずとも百人でも千人でも声を合わせれば歌うことができます。しかし、言葉が違えば同じ歌でもちょっと歌いにくいですね。ですから私は、千人が歌うこともできますが、祈ることはもっとできますよとお話ししています。
毎年天台宗が八月四日に行なっている「世界平和祈りの集い」も、国籍や人種、宗教や宗派を超えて、みんなが世界平和実現に向けて祈るのです。
一人ひとりの平和への祈りが、犬君と同じように、互いに通じ合うならば、全世界の人々の心が平和へ向けて動き出すことになるのだと、確信します。

■自讃毀他戒(じさんきたかい)
自分を誉(ほ)めて人を悪く言うのを自讃毀他と言います。毀(き)は、そしるとか、けなすという意味です。人が何人か寄ると、あの人はいい人だという話しはなかなか出なくて、どうも悪口の方が多くなってしまうようです。集まって一杯やりながら人の悪口を言っているのも楽しいものですが、その反面で自らの心をせっせと汚していることに気付かねばなりません。また自分のことになると、我が子、孫、身内への誉め言葉や自慢話が多くなりがちで、これも聞きよいものではありません。
「私はこんなに立派な事をしています」ということも、言いたい誘惑にかられます。認められたい、誉められたいという我欲がつい出るのです。ところが、これが自分も他人も害することになるのです。自分には慢心を育て、人の気分を悪くするからです。また、人を悪く言うことは、自分の立派さを認めさせたいという、自信のない気持ちの裏返しですから、自分を誉めることと同じなのです。
人を誉めることができる人は、自分はまだまだ駄目だと思って努力できる人で、こういう人はどんどん大きくなれます。自分の中には謙虚さと率直さを育て、人にはもっとやる気をおこさせて、自他共にこんなに善いことはありません。かように、自讃毀他戒は自らの心を清らかに大きく育てる上で大切な戒めなのです。

■天台大師さま
今から1400年前〈西暦597年11月24日〉、中国のお釈迦さまといわれた偉大な宗教家が亡くなられました。天台大師智(ちぎ)禅師です。聖徳太子が「日出づるところの天子、日没するところの天子に書を致す。つつがなきや」という有名な国書を送った相手である隋の煬帝から深く尊敬され、「智者」の名を贈られたので智者大師というのが正式な呼び名です。しかし中国の浙江省にある天台山で修行され、天台山で亡くなられたので、天台大師と親しまれております。天台とは、天帝が住んでいる天の紫微宮(しびきゅう)〈北極星を中心とした星座〉を守る上台、中台、下台の三つの星を意味し、昔から天台山は聖地として信仰されていました。
天台大師は、日本に仏教が伝えられた西暦538年に生まれ、誕生のときに家が輝いたので光道と名づけられました。七歳の頃には喜んでお寺に通い、一度観音経を聞いただけで覚えてしまったといいます。十八歳で出家すると、当時有名な高僧、慧思(えし)禅師のもとに入門、一心不乱に修行し、法華経を読んで悟りを開きました。慧思禅師は、日本に法華経を広めるために、聖徳太子に生まれかわったという伝説が中国にあります。聖徳太子は法華経の注釈書をつくり仏教精神にもとづく十七条憲法を定めたことで有名です。その聖徳太子の理想を日本全国に広めるために、伝教大師最澄上人が、天台大師の教えを学び、比叡山に天台宗を開かれたのですから、天台大師と伝教大師は、大変深い因縁で結ばれているのです。
さて、天台大師は、当時インドから中国へ伝えられた膨大な経典のすべてを、ひとつひとつ調べて整理し、その中で法華経が一番尊く、すべての人々を救うことができるお経であることを確信しました。そして、法華経を中心とした天台教学〈理想と実践哲学〉を打ち立てました。それは、法華三大部〈法華玄義(ほっけげんぎ)、法華文句(ほっけもんぐ)、摩訶止観(まかしかん)〉という本にまとめられ、今でも日本の多くの仏教教団に深い影響を与え続けています。この三大部は鑑真和尚によって日本に伝えられ、奈良で勉強をしていた伝教大師の目にとまるところとなったのです。感激した伝教大師は、その本を写して比叡山に持ち帰り一生懸命勉強しました。さらに桓武天皇の許可を得て遣唐使と共に危険を冒して中国に渡り、天台山を尋ねて、研鑽を深め帰国後、日本天台宗を開いたのでした。
そこで天台宗では、天台大師を高祖、伝教大師を宗祖と呼んで尊崇し、お仏壇には必ずこのお二人の画像を。仏様の左右にかかげることにしております。天台大師の教えの根本は法華経に説かれている最高の真理「諸法実相(しょほうじっそう)」です。すなわち「この世の中に存在するすべてのものは、そのままが真理のあらわれ」と受けとめる立場をいい、そのように感じられたとき、それを悟りといいます。ですから我々が雑草とか虫けらといって日頃顧みないものにも命があることを心にとめる必要があるでしょう。この悟りは、止観〈座禅〉や写経、また一心に読経することなどを通じて、自分の心を静寂に保つことにより体得しうるのです。自分の心を静かに観察すると、その心に対応して外の世界があり、心の動きの中に全宇宙があること、すなわち一瞬一瞬のうちに永遠を生きていることが実感できるのです〈一念三千(いちねんさんぜん)〉。これは迷いそのものの中に悟りがある、すなわち、悩みや苦しみがあるからこそ、その彼方に生きる喜びがあり〈煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)〉、日常生活そのものの中に悟りがある、すなわち、生まれたり死んで行くその現実をそのまま受け入れられるところに過去・現在・未来の三世にわたる命を知ることができる〈生死即涅槃(しょうじそくねはん)〉ことを教えています。天台大師は60年の生涯の間、35のお寺を建立し、仏像を描いたり刻むこと十万体、さらには数え切れないほどの写経をされ、四千人もの人々を得度させたといわれています。さらに仏教史上はじめて放生会を行い、多くの魚の命を救って、生物の命を奪わなければ生きてゆけない人間の罪深さに対する反省と生きるものに対する感謝を教えました。

■感謝することを知る
「批判ばかり受けて育った子は非難ばかりします」「ほめられる中で育った子はいつも感謝することを知ります」
これはドロシー・ロー・ノルト作「アメリカインディアンの教え」という詩の中の一節です。日頃私たちは、長所を伸ばしていこう、短所は慎んでいこうと考えています。ですからほめることによって長所を育て、指摘することによって短所を治そうとします。それは私たちが、そうすることによって人が育ち、世の中が良い方向へ動くということを知っているからです。しかし現実はどうでしょう。他人の成功をうらやみ、その人の悪口を言うことで自分の評価が上がると錯覚している人が、いかに多いことでしょうか。
ほめる前からけなしてしまう、それはアクセルを踏む前からブレーキをかけてしまっているのと同じことなのです。短所は誰にでもあるもので、たしかにそれは慎んでゆかねばならないものです。しかしその芽のすべてを、批判によって治すことは出来ません。その上短所は長所に比べて目につきやすいのです。一つの短所が無くなったかと思うと、新たに別の短所が見えてきたりもします。
もともと長所と短所というものは、同じ性質のものが形を変えて表れている場合が少なくありません。例えば「大雑把(おおざっぱ)でいい加減な人」は「おうようでこだわらない人」「こまかくてお節介な人」は「きちんとしていて世話好きな人」といった具合にです。そのように長所も短所も見方の違いによるものならば、いっそのこと悪いところはそこそこに、まずは良いところをほめて伸ばしてあげた方が、どんなにかよいことでしょう。
批判ばかり受けて育った子も、ほめられる中で育った子も、やがては大人になり親になっていきます。その時の彼らの社会を想像してみて下さい。他人の非難ばかりしている社会が幸せか、いつも感謝することを知っている社会が幸せか、アメリカインディアンたちはよく知っていたのだと思います。

■『人生是好人生』
ちょっと前になりますが、地元の中学生が体験学習でお寺に来た時のことです。朝のお勤めの後の話の中で「君たちは何歳まで生きられると思う?」と、尋ねてみました。みなさんも考えてみてください。
子どもたちの答えは、ほとんどが「八十歳」でしたが、中には「百歳」と答えた子があってちょっと笑いが起りました。私はその時に、長いようで実際はいつ死ぬか分らないのが人生だから、目的意識をもって、自分のことだけでなく周りの人の幸せも考えながら生きて行ってくださいと話しました。
さて今日、日本人の平均寿命は、女性は八十五歳、男性も七十八歳を超えています。百歳といっても決してめずらしい時代ではなくなりましたね。先日知り合いの百歳に近いおばあちゃんに出会う機会がありましたので、同じ質問をしてみました。すると返ってきた答えは、真顔で「百二十歳!」。同席した娘さんたちも〈といってもみんな八十近いおばあちゃんですが〉びっくりしていました。
さて、生きるとは、寿命が長ければいいということではなく、日々の心がまえが大切だと思います。元京都大学総長で、脳医学の権威であった、平澤興先生は著書に「今日一日生きるということは、最高の医学をもってしても、充分説明できない不思議であります」と書かれ、「今日もよし、明日もよし、あさってもよし、よし、よし、よしと暮らす一日」という精神で暮らすのだと言っています。ただ、ひたすら「よし、よしと生きる」あるいは、「よし、よしと生かされている」という生き方は、日々が大きな喜びになります。
虚堂(きどう)禅師という宋代の有名な禅僧の言葉に、『年年是好年 日日是好日』〈虚堂録〉というものがあります。禅師が元日の朝に修行僧たちに話した言葉で、「毎日が良い日でありますように」といった単純な意味ではなくて、良いことも悪いこともありのままに受け入れ、その時その時を精一杯生きなさいといった意味だそうです。
新しい年が始まりました。『生きる』という中には、楽しいことも辛いこともたくさんありますが、どんな人生が待っていようとも『人生是好人生』として受け止めていきたいものですね。

■七福神
七福神という神は、もともとインド、中国、日本の三か国の七人の神が組み合わさって、人々に福、徳、寿などを与える神々として生れました。この七福神の信仰を世の中に弘めたのは、江戸時代の初めに上野の寛永寺を開いた天海大僧正だといわれています。大僧正は家康公に対し「公はこの乱世を治め、天下泰平の基(もとい)を築く福徳を備えている」と述べ、合せて七福神のもつ七つの福徳を書いて示しました。
すなわち、寿老人の寿命、福禄寿の人望、恵比寿の正直、布袋(ほてい)の大量、毘沙門天の威光、大黒天の財富、唯一の女神である辨財天(べんざいてん)の愛敬(あいきょう)という訳です。家康公はこれを見て大いに喜び、すぐに狩野探幽(かのうたんゆう)に命じてこの七福神の画を描かせました。これが今日わたしたちがよく見かける七福神の画の最初だといわれています。もっとも、今日のように七福神信仰が盛んになったのは、江戸時代の後期の一八00年代に入ってからのことと考えていいでしょう。
ところで、「仁王般若経(にんのうはんにゃきょう)」というお経には、「七難即滅(しちなんそくめつ)、七福即生(しちふくそくしょう)」と説かれています。七難は、薬師経や観音経にも説かれていますが、例えば火難、水難、盗賊難などの七つです。この七難を消滅すれば、七福が生(しょう)ずるという訳です。実はこのお経の文句にあやかって、七福神の信仰が生まれたのです。では、その七福神とはどんな神様なのでしょうか。
(一)まず長寿をあらわす寿老人は、白髪の円満なお顔の老人で、よく傍(かたわら)に鶴と鹿が描かれます。この神は南極星が神格化された神で、人の寿命を司どるので寿星とも呼ばれています。
(二)人望をあらわす福禄寿は、長い頭をした老人で、杖(つえ)をもっています。頭と胴が相半(あいなか)ばする程の長頭は人望をあらわしています。この神もやはり南極星が神格化された神なのです。
(三)正直をあらわす恵比寿は、大黒天すなわち大国主命(おおくにぬしのみこと)の子、事代主命(ことしろぬしのみこと)だといわれ、このため恵比寿・大黒といってこの二神を並べて祀(まつ)るのです。この恵比寿は裸に近い格好(かっこう)で鯛を抱え、おおらかにほほえむお姿で、まさに足ることを知った無欲な神なのです。天海大僧正もよく引用された古歌「事たらば足るにまかせてことたらす、足らずことたる身こそ安けれ」の一首は正にこの神の心をよんだものといえそうです。この知足(ちそく)の心は素直で正直な心から生れるので、この神は正直をあらわすとされました。
(四)大量をあらわす布袋は、契此(けいし)という中国の実在のお坊さんで、いつも杖と袋をもっていたのでこの名で呼ばれました。後には辞世の文句から弥勒菩薩(みろくぼさつ)の化身として崇(あが)められましたが、その大変大きなお腹(なか)から度量の広い大量の神ともされたのです。
(五)威光をあらわす毘沙門天は、多聞天(たもんてん)とも呼ばれ、もともと帝釈天(たいしゃくてん)の四天王の一人ですが、その武装したお姿から威光をあらわす神と考えられました。
(六)財富をあらわす大黒天は、もともとは武力の神でしたが、後にインドのお寺の台所に祀(まつ)られ、毎日油で身体(からだ)を拭(ぬぐ)われたため、真黒(まっくろ)になったので大黒天と呼ばれました。わが国では大黒は大国(だいこく)に通じることから大国主命と同じ神とされ、更に物を司どる大物主命(おおものぬしのみこと)とも同体だと考えられたため、財富をあらわす神とされたのです。
(七)愛敬をあらわす辨財天は、もともとインドの河の神で、河川のせせらぎから音楽、芸能を、また「水を治める者は国を治む」ということから武力、そして河川は肥沃(ひよく)な土地を造り生産物を生むことから財富を司どる神〈辨財天〉ともされました。また同時にその優しいお顔やお姿から愛敬をあらわす神とも考えられたのです。
わたしたちは今でもよくこの七福神が一つの船に仲良く乗った宝船の画を見ますが、そこには、わたしたちがこの七人の神々を信仰することによって、七つの福徳をこの一身にうけ、社会の荒波を無事に乗り切っていけるようにという大きな願いが込められているのです。

■“間抜け”
辞典で調べてみますと、「間抜け」とは「間の抜けたこと。物事の大事な点が欠けていること。またその人」で、「間」は「何かの間にはさまれた空間や時間。事をうまく運ぶ上での大切なころあい」とありました。
人のことを人間ともいいますが、「人間」を調べますと「もともと人と人の間柄の意で、他の人と共になんらかの拘わりを持ちながら社会を構成し、何ほどかの寄与をすることが期待されるものとしての人」などとありました。
私たちの命は、実に多くのご先祖様や生きとし生けるものたちとの拘わりあいの中で維持され、未来へと引き継がれていきます。
皆さんもそれぞれの人生の中で幸福を求め、安心できる環境を望み、精進を重ねていらっしゃることでしょう。
その過程において重要な事は、個人個人が他の人やあらゆる命との拘わりあいを広く、深く、慈しみも持ちながら、その関係を正しく理解し、意志や感情の疎通をはかることであり、それは必要不可欠な事なのです。それが間であり、コミュニケーションなのです。
人は死出の旅に出るときはひとりですが、この世に生があるうちはひとりでは生きられません。この至極あたりまえのことすら、私たちは忘れてしまいがちなのです。
そうなることを防ぐためには、周りとの関係を再認識しなければなりません。それが懺悔(さんげ)であり、安心(あんじん)を得るための精進への起点となるのです。そうでなければ、文字通り間が抜けてしまい、自分勝手な人となってしまうのです。
最後に、私が読んだ本の中の一節で、イギリスの神学者ジョン・ウェズリーさんが記された「行動の基準」の中にある名文をご紹介させていただきます。
君ができる限り
「君ができるすべての善を行え、君ができるすべての手段で、君ができるすべての方法で、君ができるすべての場所で、君ができるすべての時に、君ができるすべての人に、君ができる限り」
私たちは凡夫ではありますが、せっかく人間として生を受けたのですから、少しでも自分の人格を磨き、人のために尽くし続ける『人間』でありたいものです。  
 

 

■“ご利益”
お寺の門前のおじいさんは、まもなく八十歳になります。息子さん夫婦も五十歳、お孫さんが四人もおります。やさしい家族にも恵まれて何不自由のない身の上です。
しかし、おじいさんには仕事があります。毎朝早起きをして、お寺の参道のお掃除をしているのです。草を引いたり、竹箒(たけぼうき)でそれはそれは綺麗にお掃除をするのです。秋になると、大変です。落ち葉が沢山散るのです。大きな落ち葉の山がいくつも出来上がります。冬は冬で雪かきをします。参道が長いので、八十歳のお年寄りには大変な労働です。それでもおじいさんはここ数年、一度も休んだことがないのです。おじいさんは健康です。病気などしたことがありません。機敏に動き回る姿は若々しくさえ感じられるのです。
この朝の仕事は無料奉仕です。お寺のお坊さんも、檀家の人たちも気の毒がってお手伝いを申し出るのですが、おじいさんは「私の仕事を取らないでください。」といって強力におことわりをするのです。お坊さんも檀家の人たちも、大変感謝をしているのですが、おじいさんはそんなことには無頓着で、ただ黙々とお掃除を続けているのです。
ある朝、お墓参りにきたおばあさんが、お掃除をしているおじいさんに尋ねました。「おじいちゃん、毎朝お寺のお掃除をしていたら、仏さまに沢山ご利益をいただけるんでしょうね。どんなご利益がありましたか?」おじいさんはお掃除の手も止めずにすぐ答えました。「わしゃこうして毎朝お掃除ができるのが一番のご利益だと思いますわい。だいいち病気になったらできませんよ。毎朝元気に起きられるのが最高のご利益です。それに家族にも恵まれて、息子の嫁が必ずいってらっしゃいと箒をさしだしてくれます。これもご利益ですよ。それから、わしはもう家の事など何の心配もいりません。お掃除でもしてないとヒマをもてあましてしまいます。人さまに喜んで貰えることをさせていただける、これこそ生きがいです。阿弥陀さまに感謝しています。南無阿弥陀仏です。」というと、おばあさんは「なるほど」と思いました。そして自分の立場も同じなのに、このようなことに気付いているおじいさんが、うらやましく思いました。おじいさんは黙々とお掃除をしています。その姿におばあさんは思わず「南無阿弥陀仏」とつぶやいていたのです。

■依身(えしん)より依所(えしょ)
今から一千二百年前、比叡山を開かれた伝教大師最澄上人は「六根相似(ろっこんそうじ)の位を得ざるよりこの方 出仮(しゅっけ)せじ」という言葉を残して、敢然(かんぜん)と比叡山に籠もり修行に明け暮れました。六根相似とは、見たり聞いたり、考えることなどが、ほとんど仏さまと同様になることです。すなわち六根が清浄になることです。出仮とは、山から下りて社会に出て僧侶として働くことです。このようにして比叡山で厳しい修行をした最澄上人は、なぜ修行の場に比叡山を選んだのでしょうか。その理由のひとつに、中国のお釈迦さまといわれた天台大師の修行の指南書(しなんしょ)『摩訶止観(まかしかん)』の中に「閑居静処(げんごじょうしょ)・息諸縁務(そくしょえんむ)」などと書かれているところがあげられます。人里離れた静かなところで、社会的つながりを一時的に断って、集中的に修行することの大切さを説いているのです。そして比叡山について最澄上人は次のような歌を詠んでいます。
「おのずから住めば持戒のこの山は、まことなるかな依身より依所」
修行には自分自身が正しくあろうとすることが大切であるが、それよりも修行をする環境がもっと重要であることが、修行を通じてはじめてわかる。この比叡山とはまことにその修行にふさわしいところで、住んでいるだけでおのずから戒律を守ることができ、六根が清浄になるところだ。
という意味です。
先頃世界遺産に登録された比叡山は、一千二百年の間その伝統を脈々と伝えてきたことが高く評価されました。その森厳な環境があってこそ、はじめて仏教の母山としての面目が保たれてきたのでしょう。人間だけがひとりよがりで頑張ってみても、おのずから限界があることがわかり、私たちを取りまく環境は、私たちの鏡でもあるのです。環境が荒れていることは、すなわち私たちの六根に異常を来たしていることを意味します。この厳しい警告を謙虚に受けとめ、私たちを育んでくれる環境に改めて深い想いをめぐらそうではありませんか。

■対機説法
聞き損いは、言い手の粗相。ということわざがあります。
私たちは、話し手の真意を正しく理解することができず、つい誤解してしまうことがあります。あるいはまた、いくら言ってもなかなか聞いてもらえずヤキモキすることがあります。
「あんなに口を酸っぱくして言ったのに、全然言うことをきかない。」「こんなに心配していったのに、どうして私の言うことがわからないの。」と、腹立たしく思うことがあります。
私たちは、自分の言ったことがその通り相手に伝わらない時、聞き手の聞き方がわるいといって責めたりしますが、果たしてそうなのでしょうか。話し手の方に問題はないのでしょうか。
聞き損いは、言い手の粗相。聞き手が正しく理解しないのは、言い手の方に問題があると思った方がよさそうです。
仏教は、「対機説法」だといいます。お釈迦さまがそうでした。お釈迦さまが説法されるときは機をみて法を説いたといいます。機とは法を説く相手のことです。その人の人格、年齢、教養、性質、まわりの環境、それらをよく知った上で、その人が理解できるように法を説いたのです。だから、心の底に教えがおさまったのでしょう。一方的な言い方ではなく、まず相手を理解する。その中にことばの交流はあるのでしょう。

■施餓鬼会(せがきえ)
東京では七月、盂蘭盆を行い、その前後に「施餓鬼会」を行いますが、「施餓鬼会」というのは、餓鬼〈弔う者のない無縁の亡者〉のためにいろいろな種類の飲食を施す法会で、「施食会」ともいいます。本来「施餓鬼会」というのは、別に期日を定めずに随時行う法会でありますが、いつの頃からか盂蘭盆会と同じように考えるようになり、東京方面では七月のお盆の頃、他の多くの地域では八月のお盆の頃に行います。
施餓鬼会の起源については、インドでお釈迦様が説法している時、十大弟子の一人に「阿難(あなん)」というお方がおられました。この方が、ある晩、静かな所で修行をしていますと一人の餓鬼が現れました。その姿は醜く、痩せていて、口からは火を吐き、喉は針のように細く、腹は異常に脹れていて、髪の毛は乱れ、爪は鋭く、それはそれは恐ろしい形相をしていました。そして、食べ物を食べようとして口へ運びます。そうすると食物は火となって食べることが出来ず、絶えず苦しんでいます。その餓鬼が来て、「お前は三日以内に死んで餓鬼道に墜ちるだろう。」といったのです。それを聞いた阿難は大変に驚き、早速お釈迦様にそのことについて相談いたしました。
するとお釈迦様は、「十万の僧を供養せよ。」とのお教えでした。阿難は多くの僧侶を集め供養しました。三日以内に死ぬといわれた阿難は、その供養の功徳により長寿を得ることができたといいます。このように、阿難が供養したことから始まった法要と言われております。
その作法などは宗派によって、或は地域によって多生異なりますが、一般には道場の外側の方に供養壇、即ち施餓鬼壇を設け、五色の幡(はた)にそれぞれ如来の名前を書き、この壇の回りに懸け、壇上には「三界万霊」と書いた大きな位牌を安置し、食べ物やお水をお供えするのであります。
また、水死した人のために、川の中に船を浮かべ、或は水辺で施餓鬼法を修し、お供え物を流したり、紙で作った小舟を流したり、船形の灯篭を流したりして、水死した人ばかりでなく、その年に亡くなられた方々の霊、或は三界万霊に供養を営む寺院などもあります。
始め、延命・長寿の法要であったものが、何時しかお盆と一緒に行うようになりました。

■身・口・意の三業を浄めよ
道路を歩いていると、突然、犬が吠えて襲いかかってきた。とっさに道端に落ちていた石を拾って投げ付けました。
さて、ここで問題です。
投げ付けた石と、拾う前に道端にあった石は同じか、同じでないか。これは『生物から見た世界』という本に出ていた問題です。
道に落ちていた石を拾って投げたのですから、同じ石に決まっています。道にあろうが、手の中にあろうが、石に変わりはありません。成分も形も重さも何ら変わっていないはずです。ところが石は大いに変化しているというのです。
では、どこがそんなに変わったのでしょう。それは、石という存在の意味がすっかり変わってしまったのです。つまり、路傍(ろぼう)の石が犬を追い払うための武器になったのです。科学的には同一であるのに、存在の意味が変化したのです。その変化の主な原因は石そのものにあるのではなく、その石を取ろうとした人間の側にあります。人の心が、人の行いが、科学的には同一であった石に変化を与えたといったらよいでしょうか。
このような人間の行いを身・口・意の三業(ごう)といいます。身体的な行いと、ことばで表す行いと心に思う行いのことです。そして、この三つの行いを浄(きよ)めよと仏教は教えています。
浄めるとはどういうことでしょうか。その三業の行動が自己中心のわがままになっていないか、こだわりや執着がないか、欲望はコントロールができているか、他人を傷付けていないか、常に反省することではないでしょうか。
そしてこの三業はそれぞれの行いだけでなく、その行いによってもたらされる結果をも含んでいます。よきにつけ、あしきにつけ、私たちのこの三つの行いは、結果として自分を含めたさまざまな存在の意味づけをするのです。

■お供え
(問)仏さまにはなぜお灯明やお花をお供えするのですか。
(答)仏さまをお祀りする時、「香華灯塗(こうげとうず)」と言って、お香をたき、香を塗ってお花を供え、お灯明(とうみょう)をつけてお祀りするのが通例となっております。これは昔、インドでお客様をご接待する時の作法からきています。インドでは貴人をご接待する時に、お客さまが家に着かれると、まず、きれいな香水でその汗を流し、身体に香を塗ってさしあげます。インドはとても暑い国なのでそうするのです。香を塗ると気持ちが落ちつき、リラックスします。お客さまに爽快な気分になっていただくということと、消毒や害虫から身を守るという意味ももっています。次に季節のお花で髪かざりをつくり、お客さまの身体に飾ってさしあげます。そしてお客さまの身支度が整ったら、ご馳走をしてもてなすのが本式の接待の作法になります。
菩薩の修行法である六波羅蜜(ろくはらみつ)では、香は精進波羅蜜(しょうじんはらみつ)、華は忍辱波羅蜜(にんにくはらみつ)、灯明は智慧波羅蜜(ちえはらみつ)にたとえられています。精進とは、目標に向って最後まであきらめずに、一生懸命努力することをいいます。火をつけたお線香は最後の最後まで燃焼し、そのさまは精進波羅蜜に通じます。人は花を見ると「きれい」「美しい」と心がなごみ自然と落ちつきます。これは柔和忍辱(にゅうわにんにく)の姿ですから、忍辱波羅蜜に通じます。灯明は仏さまの光、智慧を意味します。悩みや欲といった煩悩の闇をこの智慧(ちえ)の光が照らし、あかるくしてくれるところから智慧波羅蜜に通じます。
お寺参りやお墓参り、自宅のお仏壇等、お参りをする際には、香華灯塗をおあげしてお参り下さい。

■お十夜
「お十夜」というのは、十月六日から十五日までの十日間に、阿弥陀様が衆生を救済して下さるご恩に対しての感謝の法要であります。それが丁度十日間行われていたので「お十夜」と言った訳ですが、最近では段々と十日を五日に減らしそれを三日に減らし、ついには一夜だけとなり、一心不乱に心を込めて念仏を行うようになってきた所が多いようです。
この行事を行うようになったのは、お経の中に、「十日十夜、善行を積めば、他の仏を千年拝むより効果がある」と書かれてあり、また別のお経の中にも、「若し南無阿弥陀仏の名号を十日十夜にわたって念仏三昧に精進すれば、阿弥陀様を見ることが出来るであろう。また、必ず安楽国に往生出来るであろう」と書かれております。
したがいまして、この行事は、十日十夜の間、念仏の修行をすることによって極楽浄土に往生することを願うためのものであります。
この法要は、日本において始められたもので、白河天皇(一〇五三〜一一二九)の時、即ち、今から九百年ほど前に始まったもので、恒例の法要となったのは、室町時代からであります。京都の真如堂(真正極楽寺)において行われたのが最初であるといわれております。
京都の真如堂は、天台宗の寺院で、天台宗系に伝わったのは勿論のことでありますが、阿弥陀様におすがりするということから、むしろ浄土系の寺院で全国的に盛大に行われるようになりました。
そして、この法要は、都会では日中だけで終わる所が多いようですが、農村地域では、今でも「お篭もり」といって泊まり込んで行う所もあり、「十夜婆々」という言葉があるように、老婆や中年のご婦人の方々が多いようです。更に、この時期には、新米も収穫していますので、新米や、秋の実りの物を仏前に供え、大勢で持ち寄った食べ物を、皆で食べあう習慣もあります。また、供えられた穀物でお粥を作って食べ、楽しく過ごす地方もあるそうで、これを「十夜粥」と呼んでおられるそうです。
京都真如堂でのお十夜は、その法要期間中に、門前で蛸(たこ)を売り、これを食べると疫病から逃れられるという言い伝えから、「蛸十夜」と言われ有名であります。
何れにいたしましても、十月の十日十夜、阿弥陀様のお念仏を唱えたところから「お十夜」の行事が起こり、続けられているのです。

■霜月会
十一月二十四日は「霜月会(しもつきえ)」と呼ばれており、天台宗の大きな行事の一つであります。「霜月会」の霜月というのは、昔の月の呼び方で、一月を睦月(むつき)、二月を如月(きさらぎ)、三月を弥生(やよい)というように、十一月を霜月と言います。
この月の二十四日は、中国で天台宗をお開きになった天台大師智(ちぎ)様のご命日に当たり、日本においては、比叡山延暦寺を中心に、天台宗の殆どの寺院で天台大師智様に対しまして、報恩感謝の意味を表す法要が営まれる日であります。これは、「天台会」とか「大師講」ともいわれ、我が宗にとって大変重要な行事、法要なのであります。
この法要は、伝教大師最澄様が、今の根本中堂の元となる一乗止観院で、奈良の七大寺から高僧を招いて「妙法蓮華経」の内容について講義をしたことからはじまっているのであります。
ところで、この天台大師智様とはどんなお方かと申しますと、中国の大同四年、西暦五三八年にお生まれになり、七歳の時からお寺参りをし、妙法蓮華経の中の観音経〈観世音菩薩普門品第二十五〉を一遍で 暗唱できるようになったといわれるほどの秀才でした。十八歳で出家、所謂僧侶となられ、特に「妙法蓮華経」というお経の研究と実践に専念され、ついにこの「妙法蓮華経」によって悟りを開かれたのであります。
そして、一般の人々は勿論のこと、天子を始め、高位、高官の人々まで、皆、大師の教えを聞くことを楽しみにしていたといいます。しかし、天台大師は、多くの人々に法を説くことも大切ではあるが、まだまだ自分の修行も必要であったため、天台山という山に入り、僅かな木の実を拾って飢えを凌ぐことすらあったということです。これを聞かれた天子は、衣食、その他の生活費を与えられました。また、仏道を究めようとする者が、天台大師様を頼って集まり、お寺の様子もすっかりかわってしまうほどの信頼を得るようになりました。
天台大師様は、西暦五九七年、十一月二十四日、六十歳でお亡くなりになりました。
その時から約一千四百年経た今日、そのご命日の法要が毎年確実に営まれていることは、天台大師様が如何に偉大なお方であったかを物語っています。

■成道会
十二月八日と言いますと、大正から昭和の初めの頃に生まれた方々は、すぐに太平洋戦争〈第二次世界大戦〉の始まった日と答することが多いと思います。確かに、昭和十六年十二月八日は、太平洋戦争が開戦された日であります。それは月曜日の朝三時、日本軍攻撃部隊飛行機二百機が、ハワイ真珠湾に対し攻撃を行った日で、アメリカ軍に不意討ちを仕掛け、甚大な被害を与えた日であります。これは、とても不幸な出来事でありました。しかし、我々仏教徒にとりましては、それとは別に、大変意義深く重要な日なのであります。それは、この日が「成道会」(じょうどうえ)という日であります。
これは、今から約二千五百年ほど前に、インドの一地方の王子としてお生まれになったシッダルタ〈後のお釈迦様〉が、その地位を捨て、妻子を捨て、二十九歳で城を出て、修行者の群れに身を投じ、難行苦行を重ねました。しかし、この世の中の生・老・病・死の苦しみから抜け出すことは出来なかった。六年間も続けた苦行を止め、尼蓮禅河(にれんぜんが)で身体を洗い清め、村の娘スジャータの乳粥の供養を受け、菩提樹の下に座って瞑想にふけりました。その間、いろいろな悪魔に悩まされ続けましたが、その悪魔を追い払い、十二月八日の日の出前、明けの明星を眺められ、悟りを得られたのであります。
お釈迦様が、この世の中の苦しみを如何に滅するかという最大の課題を、遂に解決することが出来たのがこの日なのです。いわゆる、悟りを開かれたのでありますが、お釈迦様が三十五歳のとき、明けの明星の美しく輝く時であったといわれており、これ以後、シッダルタ太子を「仏陀〈ほとけさま〉」といいます。
仏陀は、この日の悟りの喜びを、自分だけのものとしないで、人々に弘めようと決意され、かつて同じ修行をし、仕えてくれていた五人の修行者に伝えようと、彼等のいるベナレスに向かって出発しました。
仏陀によりますと、人間は二つの極端に陥っていると考えました。ある人は快楽を追い求め、またある人は苦行に身体を苛(さいな)んでいる。その両方とも悟りに至ることは出来ない。苦と楽の両極端を捨てて中道を選ぶ、即ち「調和のとれた努力」を続ければ悟りが開けるということを弘めていったのであります。この悟りの境地に入られたことを記念する法要が「成道会」であります。

■お雑煮と雑煮箸
お正月にはお雑煮・御節料理など、独特のものを食べる習慣がありますが、それらを食べる際、雑煮箸といって、柳材の塗りのない丸いものを使います。私たちが普段使う箸は、食べ物を挟む先の方が細く、握る方は太くなっていますが、雑煮箸は天地が同じように細く、どちらからでも食べられるように作られています。それはどうしてなのでしょうか。
お正月は、歳神様あるいは御祖霊をお迎えして今年のご加護を祈る行事とされております。一家揃ってお祈りした後、御祖霊へのお供えのお下がりでお雑煮を作り、御祖霊に召し上がって頂き、そして家族もいっしょに頂戴します。御祖霊が食することによって私たちも共に頂くことができ、そうすることで神仏のご加護が私たちに授かります。雑煮箸が天地両用食べられるようにできているのは、その用に供するためで、まさに御祖霊と人との「はしわたし」と言えるでしょう。
お正月は一家の安全を祈る行事ですから、家族全員揃って迎えたいものです。 
 

 

■涅槃会(ねはんえ)
二月十五日はお釈迦さまが八十年の生涯を終え涅槃に入られた、すなわちお亡くなりになったご命日です。そこで世界中の仏教徒が、お釈迦さまのお徳を慕い報恩感謝の気持ちをあらわす記念の法要をこの日に営んでおります。この法要を「涅槃会」といいます。
日本で一番先にこの法要を営んだのは奈良の興福寺といわれていますが、天台宗では比叡山横川において平安時代、恵心僧都源信が行ったのが最初とされております。この法要では、昔からお釈迦さまの「涅槃図」をかけ、「遺教経」というお経を読誦します。涅槃図には、お釈迦さまが沙羅双樹(さらそうじゅ)の下で、頭を北にお顔を西に向けて横たわり、そのまわりには多くのお弟子さんを始め、すべての生き物が嘆き悲しんでいる様が描かれております。
そもそもこの「涅槃」という意味は、寂滅とか寂静とか難しい意味がありますが、わかりやすくいいますと「吹き消す」という状態を示されたのであります。丁度焚き火が燃えつきたように、全ての煩悩の炎が消え、心の波立ちがおさまり安らいだ状態です。
私たちには、数多くの煩悩があり、それは物事への執着から生ずるといわれております。愛情や好悪、浄・不浄などへの固執もそれにあたります。この機会に物事に執らわれている自分の心を見つめ直してはいかがでしょうか。

■友引と葬儀
(問)友引に葬儀を行うのは良くないと聞きますが、本当なのでしょうか。
(答)友引とは六曜という暦のなかの一つで、相引(共に引きあって)で勝負なしという日です。ところがこの共引がいつのまにか友引となり、寂しく亡くなっていった人が、葬儀に参列した友人をあの世に引っ張っていくという俗信を生んだようです。この俗信は現在でも根強く残り、多くの火葬場や斎場がお休みとなっております。
このような習俗が、いつ頃から一般化されたのかはっきりとはわかりませんが、六曜が盛んに信仰されだした江戸時代末からではないかという説もあります。六曜には仏滅などの言葉が含まれていますが、仏教とは何の関係もありません。
本義からすれば、友引に葬儀をすることは悪いこととはいえないようです。しかし自分は良いと思っていても、引かれると考えるのは相手の方なのですから、何ら問題ないとするのも難しい点があるのです。

■おみくじ
(問)おみくじで凶を引いたら、何か不吉なことが起きるのでしょうか。
(答)おみくじで「大凶」を引いたら、誰もあまりいい気分にはなれないでしょう。しかし、たとえ「大吉」を引き当てたとしても、浮かれてばかりではおれないものです。凶も吉も回り巡っていくものですから、考えようによっては、今が大凶なら、これ以上は悪くはならないのだと考えることもできます。しかし、やはり「大凶」を引いたならば、自分の生活を深く反省して、より慎重に生活するにこしたことはありません。どうしても気になるなら「仏さま、どうぞお守り下さい」とお願いして、今まで以上に精進努力するように心がければよろしいでしょう。
おみくじは、第十八世天台座主であった元三大師(良源)が創設したと伝えられています。きっと人々が、おみくじを「転ばぬ先の杖」として利用することも願われて、考案されたのだと思います。どうぞ日々を大切に過ごして下さい。

■斎食儀〈食事作法〉
私たち人間は、食事を摂らなければ生きていけません。最も基本的な生活の一部であり重要な営みです。それはどんな生き物でも何ら変わりはありません。しかし私たちはその生き物の命をいただいて生きているのです。私たちは直接生き物の命を奪っていることを意識せずに食事をしていますが、野菜でも、肉でも、生き物の命を食べているということに変わりはないのです。
お米も、本当は子孫を作る可能性を秘めたまま食されます。一粒万倍とよくいいますが、成長すれば稲穂を付け、たくさんのお米が実るはずの一粒です。その命を奪わなくては、私たちは生きてはいけないのです。私たちは多くの命に支えられて生きているのですから、たくさんの可能性を秘めて一生懸命生きていた食べ物に、せめて感謝の心を忘れず、支えていただいた命を無駄にしないためにも私たち自身も活かし、全ての命のために努力をしなくてはならないのです。そのおかげで今、私たちは生きることができるのですから。
天台宗では、一般の人でも食前・食後にお唱えする斎食儀(さいじきぎ)という食事作法(じきじさほう)があります。これは、下に示す文をお唱えして新たな心で食事をいただくのですが、この文は、天台大師の説かれた『観心食法(かんじんじきほう)』をわかりやすくしたものです。これをお唱えすることによって、感謝の気持ちを持ち、心豊かな日々の生活を送っていただきたいと思います。
「食前の言葉」
われ今(いま)幸(さいわい)に、仏祖(ぶっそ)の加護(かご)と衆生(しゅじょう)の恩恵によって、この清き食(じき)を受(う)く。つつしんで食(じき)の来由(らいゆ)をたずねて、味の濃淡(のうたん)を問わず。その功徳を念じて品(しな)の多少をえらばじ。いただきます。
「食後の言葉」
われ今、この清き食(じき)を終わりて、心ゆたかに力(ちから)身(み)に充(み)つ。願(ねが)わくは、この心身(しんじん)を捧(ささ)げて己(おの)が業(わざ)にいそしみ誓って四恩(しおん)に報(むく)い奉(たてまつ)らん。ごちそうさまでした。 

■優曇華(うどんげ)
優曇は梵語のウドンバラの音写「優曇婆羅」を略した語で、古くからインドで神聖なものとされる樹木の名前です。この樹木は三千年に一度だけ花が咲くといわれる樹の名前で、経典の中では難値難遇(なんちなんぐう)、つまり「仏に会い難く、人身を受け難く、仏法を聞き難い」という、とてもめったに出会うことのできない稀な事柄や出来事を喩える話としてあらわれています。それはたとえば『大般若経』では「如来に会うて妙法を聞くを得るは、希有なること優曇華の如し」と説かれています。
また『法華経』では、「仏に値(あ)いたてまつることを得ることの難きこと、優曇婆羅の華の如く、また、一眼の亀の浮木の孔(あな)に値うが如ければなり」と説かれ、大海に住む百年に一度海面に頭を出す一眼の亀が、風に流されてきた一つの孔のある浮き木の孔の中にたまたま頭をつっこむという、めったにない幸運で仏の教えにめぐりあうことを喩えています。
伝教大師もまた『願文』で、「得難くして移り易きはそれ人身なり。・・・ここを以って、法皇牟尼は大海の針、妙高の線(いと)を仮(か)りて、人身の得難きを喩況し」と言い、人間として生をうけることの得難いことを、大海の中の一本の針を探すことや、須弥山(しゅみせん)の山頂から垂らした糸を山麓の針の穴に通すことに喩えています。
私たちは不思議な縁によって人間に生まれ、妙法を聞くことができるのですが、これはあたかも優曇華を見ることや一眼亀と浮木の出会いの喩え話のように、めったにめぐりあうことのできない幸運なのです。この幸運をよく噛みしめ、仏教を毎日生きていくことが大切ではないでしょうか。

■安心
安心といえば、私たちは普段「やれやれ安心(あんしん)した」などと、心が落ち着いて心配のないことにこの言葉を用いていますが、本来は、「アンジン」と読む、深い意味をもった言葉です。
安心とは、心を一つのところに安定させて揺り動かさないこと、つまり仏さまの教えにより、心の平安を得て、動ずることがないことをさします。
安心を得るためには、まず戒律を授かってそれをよく守り、坐禅やお写経などをして、自分の心のあり方を深く洞察することから始めます。
ふだんはこのようにして人格の向上に努め、さらに社会のみんなの幸せのために力を尽くすのです。そして、阿弥陀さまの救いを堅く信じ、極楽浄土に往生するよう心から願うこと、これが安心なのです。来世が極楽に確定したとなれば、これはもう安心(あんしん)ですよね。

■大袈裟(おおげさ)
もう役にも立ちそうにないぼろ布の断片を四角に切り、縫い合わせて作ったものが、「袈裟(けさ)」の原初といわれます。色褪せた衣を五列つなげば五條袈裟。同じように七條袈裟、九條袈裟・・・と種類もあります。中国以東では寒さの為に袈裟の下にも衣をまといますが、右肩を露わにする風習は残りました。これは今でも「右は清浄である」という意味から相手を敬う格好の顕れであります。
サンスクリット語の「カシャーヤ」の音写語である「袈裟」は、現在では本来の意味と大分違って、金襴の刺繍が入っていたりして、派手な図柄も多くみうけられます。でも幾枚もの小さな布を綴り合わせた作り方に、往時の名残りがとどめられているのです。
儀式などに用いられる袈裟は、それこそ仰々しい位の衣装もあったりして、周囲からすればいささか度が過ぎた「大袈裟」ぶりが、この言葉の語源でしょう。こんなところから、実際の内容とはかけ離れた話や行為を「大袈裟」と表現するようになったと思われます。いつの時代でも大袈裟な人はいますが、呉々もあまり、悪い意味に用いられないよう気をつけたいと思います。

■挨拶
私たちが穏(おだ)やかに仲良く暮らしてゆく上で挨拶という習慣があるのは、なんと素晴らしいことでしょう。
「おはようございます」「こんにちは」「ありがとう」「失礼します」「すみません」「こんばんは」「お休みなさい」。当たり前ですがいいですね。
もし心が閉じていて、挨拶というものがなかったら、沈黙があるか、要件のみか、ぶっきらぼうな会話しかない生活を暮らすことになるでしょう。それはそれは寂しく潤いのない乾燥した毎日になります。
「挨(あい)」は「せまる」とも読み、そばに近寄って軽く押し触れること、「拶(さつ)」も「せまる」と読み、ぎりぎりに近づいて強くせまることを意味します。
もともとの「挨拶」の意味は、師匠が論義問答をして弟子の悟(さと)りを試すこと、僧侶同士がしのぎを削(けず)って努力し切磋琢磨(せっさたくま)することで、禅宗系の言葉です。
挨拶を交(か)わせるのは、心が開いていて体調も良く、腹をたてていない、心配事がない、体の調子が良いなど、心身(しんしん)ともに穏(おだ)やかな状態にあるからです。お互いに挨拶を交わせば、たとえケンカしたばかりの二人でも、すっかり仲直りしてしまいます。挨拶を交わすことで、身も心も温和にすることができるはずです。

■悲観
試験の点数が悪くて悲観したとか、性格が悲観的だとか、悲観という言葉は、楽観の反対語として通常使われる言葉です。
辞書を見ても、よくない結果ばかり予想して失望することとか、望みを失って悲しむこととか、世の中や人生を悪いものだとして否定的に見ること、などとそれこそ悲観的な解釈が列挙されています。
ところがあの有名な観音経には、「真観清浄観 広大智慧観 悲観及慈観」という五つの観が並ぶ有名な一節があります。観音さまが私たちを「正しく真実を見、執着せず清らかな眼で見、広く大きな智慧で見、悲しみ苦しみを見、そして慈しみの眼で見て」下さるというのです。
五つの観のうち四番目の観が「悲観」ですが、悲には、悲しむ、あわれむ、苦しみを抜くという意味があります。
観音さまは、悲しんでいる者を見れば、まるで母親が嘆き悲しんでいる我が子を見て、即座に強く抱きしめ一緒に悲しんでくれるように、「わかりました。もう大丈夫だよ。安心しなさいよ」といって癒して下さるのです。
私たちも、悲観している人に対して、観音さまのように広い心で、ともに悲しみ、苦しみから救う慈しみの心のある人でありたいものです。

■灯明(とうみょう)
仏さまの前に御供えする灯火を灯明といいますが、仏教ではこの灯明を迷いを破る智恵にたとえ大いに尊重します。
お釈迦さまは、亡くなる直前に、「自らを灯明とし、法を灯明とせよ」と説かれました。
「この世で自らを島とし、自らを頼りとして、他人を頼りとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ」(中村元訳「ブッダ」最後の旅)とあります。
お釈迦様は、説法の旅の途中で死病に倒れられますが、一時は回復して小康状態を得られます。その時、若い弟子阿難尊者が「私が、これから進むべき道、教えも私にはまだ明らかでない。それなのにお釈迦様は、涅槃に入られるのかと心配でしたが、これで安心です」と言うのを聞いたお釈迦様は「私に何を期待するのか。教えはすでに説いている。私がいる、いないにかかわらず、自分を頼りとし、正しい教えを頼りとしなさい」と諭されたのです。
 

 

■人間
この言葉は、漢文では原則として、人の意として「じんかん」と読むが、「じんかん」は世間、この世の意味であり、中国古典では真なる世界に対する俗世間という語感をもつこともあるようです。これをいわゆるお経読みといわれる読み方で「にんげん」と発音するのは、もとは仏教のことばだからです。
サンスクリット語の「マヌシャ・ローカー」という語を漢訳すると、「マヌシャ」は人、「ローカー」は世間という意味で、あわせて「人の住むところ」「人間界」「人趣」などと訳されました。
仏教では「人身(にんしん)受けがたし」(人間に生まれることは難しい)といいます。たとえ人間に生まれても、仏に出会ったり、その教えを聴くチャンスは稀であります。そして、この世の生きとし生けるものを衆生といい、それに地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天の六道があると説きます。このような段階わけをする考え方の背景には「輪廻(りんね)」の思想があり、私たちの人間生活の生きていく上での心構えともいえましょう。
「じん」と呼びならわす時には比較的人間を個人としてとらえ、「にん」と呼ぶ場合は、人情、人相など仏教的に育まれた人間観をそこに見ることが出来るように思われます。

■玄関
この言葉は、もとは玄妙(奥深くてすぐれた)な道に進み入る関門、すなわち仏門にはいる入り口を意味し、転じて寺の書院の入り口を指すようになったものです。寺の書院は、学問をしたり講義を聞いたりする場所ですから、むやみに人を入れるわけはいかないようです。
このように「玄関」は実用的というよりも、むしろ格式的な意味合いのほうが強かったといえます。明治時代以後になって玄関は一般化され、建物正面入口をだいたい玄関と称するようになり、最近ではその格式的な意味はしだいに薄れ、より機能的、合理的な形になってきたようです。
「その家の玄関を見れば、そこの家に住む人の人柄が判る」とよくいわれますが、玄関は家の顔なので、履き物などが整理整頓された家の玄関に立つと、思わずこちらの気持ちがシャンとなってくるものです。
自分の足下を固めることを「脚下照顧」といいますが、日頃の習慣が大切なようです。

■金輪際(こんりんざい)
「もう金輪際ごめんだ」や「金輪際承知しない」などと、強い否定を伴った時に使われる「金輪際」という言葉は、元々は仏教の世界観からきています。
仏教宇宙観の体系を示す書物の1つにインド5世紀の世親(せしん・ヴァスバンドゥ)が表した「阿毘達磨倶舎論 (あびだつまくしゃろん)」があります。この中の第3章「世品(せほん)」に須弥山(しゅみせん)説が述べられています。
この説によると、「宇宙」とは虚空(空中)に「風輪」という丸い筒状の層が浮かんでいて、その上に「水輪」の筒、またその上に同じ太さの「金輪」という筒が乗っている。そして「金輪」の上は海で満たされており、その中心に7つの山脈を伴う須弥山がそびえ立ち、須弥山の東西南北には島(洲)が浮かんでいて、南の方角にある瞻部洲(せんぶしゅう)が我々の住む島と考えます。
そして「金輪」の最も下、「水輪」との境目を金輪際といいます。この境目は地上の島に住むわれわれ人間からすれば、はるかな底であることから、「物事の極限」を意味するようになりました。
江戸時代の『東海道中膝栗毛』には「聞きかけたことは金輪際聞いてしまはねば気がすまぬ」とあり、もともとは打ち消しを伴わない表現がされていました。それが「徹底的に」「どうしても」などの意味から、現在では打ち消しの語を伴って、「決して」「断じて」の意味として用いられるようになりました。

■出世
出世と聞いて思い浮かべるのは「彼は出世するに違いない」「彼は出世頭だ」など、世の中に出て高い地位・身分になる事や、経済的に豊かになる事などの意味としてよく使う言葉ですが、本来の意味は少し違うようです。
出世の意味は大きく分けて二つあり、一つ目は『法華経如来寿量品』の「諸仏の出世は値遇すること難し」や『法華経方便品』の「出世の本懐」にあるように「仏がわれわれ衆生救済のために仮に人間の姿になってこの世に出現すること」で、二つ目は「出世間」の略で「世間を超越し、俗世間を離れた仏道世界」という意味です。ここから世俗を捨てて、仏道に入る事や仏道に入る人(僧侶)を「出世者」と呼ぶようになりました。
日本では、公卿・殿上人などの貴族の子息が出家した場合に出世者(出家者)と呼ばれました。普通の人より昇進が早かったそうで、やがて僧侶が高い位になって大寺の住職になることを指すようになり、さらに一般に栄達をとげることをいうようになりました。

■機嫌(きげん)
「ご機嫌ななめ」「ご機嫌うかがい」「上機嫌」などと、毎日のように私たちが愉快か不愉快かなどの気持ちや気分を表すときに使うこの「機嫌」と言う言葉は、仏教の戒律が語源です。
もとは「譏嫌」と書き、譏(そし)り・嫌(きら)うという意味で、他人の「譏嫌」を受けないようにする戒律からきています。
『大般涅槃経』聖行品第七之一に「息世譏嫌戒(世の譏嫌を息(や)める戒)」という戒律があり、「罪にならない事はもちろん、世間の人たちから譏り嫌われない行動をとる」ために決められた戒律の一つで、「人が不愉快と思うような言動は慎みなさい」という意味です。
やがて、「機」が「機転」や「機知」などの語に象徴されるように、細かい心の動きを表す意味を持つことから「機嫌」という表現が作られ、そこから「上機嫌」つまり「愉快なこと・気分・気持ち」を表す言葉が派生してきました。

■億劫(おっくう)
お経の中にはいろいろな単位が出てきます。例えば、時間を表す「刹那(せつな)」、距離を表す「由旬(ゆじゅん)」、数を表す「那由他(なゆた)」などいろいろありますが、これらの中で時間を表す最長の単位を「劫(こう)」といいます。劫はサンスクリット語のkalpaの音写で、劫波(こうは)や劫簸(こうは)とも記されます。
それでは具体的にどの位の長さでしょうか。『雑阿含経(ぞうあごんきょう)』巻第34や『大智度論(だいちどろん)』巻第5・巻第38などに2つの譬え話が書かれています。
1つ目は「四方が千里の石山があり、この石山を長寿の人が百年に一度細くて柔らかい衣で撫でて、これを繰り返し、石山が無くなってもまだ一劫は終わらない。」2つ目は「四方が千里の大きな城があり、その中を芥子粒で満たして、長寿の人が百年に一度芥子粒を一粒取り出し、これを繰り返し、芥子粒が全て無くなってもまだ一劫は終わらない。」というようにいずれの譬え話も途方もなく長い時間を表しています。
さらにこの劫を1億倍すると「億劫(おっこう)」という単位になり、この億劫は本来はとても長い時間を表しましたが、やがて「時間が長くかかってやりきれない事やめんどくさい事」を「億劫(おっくう)」というようになりました。

■醍醐味(だいごみ)
日常会話の中で「○○の醍醐味を味わった」とよく表現されますが、どんな味なんでしょうか?
醍醐味とは、牛乳を精製する過程で経る、乳味(にゅうみ)・酪味(らくみ)・生酥味(しょうそみ)・熟酥味(じゅくそみ)・醍醐味の五段階の味の事で、大乗経典の『大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)』巻第14に「牛より乳を出し、乳より酪を出し、酪より生酥を出し、生酥より熟酥を出し、熟酥より醍醐を出す。醍醐は最上で、もしこれを服するもの有れば病は皆除かれる。故に諸々の薬が悉く其の中に入っている。仏の教えもまた同じく、仏より十二部経(じゅうにぶきょう)を出し、十二部経より修多羅(しゅたら)を出し、修多羅より方等経(ほうどうきょう)を出し、方等経より般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)を出し、般若波羅蜜より大涅槃(だいねはん)を出す」とあり醍醐味は最上の味で、大涅槃も同じように最上の教えであることがたとえとして書かれています。これを「五味相生の譬(ごみそうしょうのたとえ)」といいますが、このたとえからその道の心髄や最高の味を味わったり、経験したときに醍醐味を味わうというようになりました。

■名刹・古刹(めいさつ・こさつ)
名刹・古刹というと、有名な由緒あるお寺や歴史があり古いお寺をいいますが、それではなぜ「刹」の字がお寺の事をさすのでしょうか?
刹には二つの意味があります。一つめはサンスクリット語のksetraの音写で、刹多羅(せつたら)や差多羅(さたら)と表記され、土・地・田・国・国土などと意訳されます。また、土地・領地・田畑・国土などを意味し、転じて神聖な土地・聖地や仏が現れて衆生を教化する世界つまり仏国土をも意味する語となりました。
二つめの意味は、サンスクリット語のyastiの音写で、柱・竿などと意訳されます。古代インドや西域ではお寺の堂塔の前に柱や竿を建て、先端に宝珠・火焔の目印をつけてお寺の標識としたり、僧侶が修行の末、一法を得た時、柱の先端に旗を付けてお寺の周辺や遠方の人に知らせたそうで、そうしたことからこの語が、やがて寺院を意味するようになったとういうことです。

■上品・下品
私たちは毎日の生活の中で人の性質・態度や、物の善し悪しを表現するとき「品性・品格・品」という言葉を使い、「あの人は上品な人だ」「下品な言い方はやめなさい」「下品な色」というように人や物にそなわる様子や風格を表す時には「上品・下品」という言葉を使います。
一般的にこれら上品・下品などいわゆる品について考えるとき、その人にそなわっている人間性や風格の優劣を、また物については出来映えなどを指しますが、これらの言葉は仏教においては別の意味があります。
まず、仏典において「品」には2つの意味があり、一つ目はサンスクリット語vargaの訳で「同類のまとまり、段落」の意。二つ目はサンスクリット語prakaraの訳で「種類」を意味します。
また、大乗仏教経典の一つ『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』によると、阿弥陀仏の世界である西方極楽浄土に往生する人を生前に積んだ功徳の違いに応じて9種類に分類しており、これらを総称して「九品(くほん)」と言います。
その九品とは、
〇 上品上生(じょうぼんじょうしょう)三心に象徴される深く往生を願う心を持ち、大乗方等経典を読誦する人。
〇 上品中生(じょうぼんちゅうしょう)大乗方等経典を読誦しなくてもその意味をよく理解し、深く因果を信じ、大乗を誹謗しない人。
〇 上品下生(じょうぼんげしょう) 因果を信じ、大乗を誹謗せず、ひたすらに悟りの道を求める人。
〇 中品上生(ちゅうぼんじょうしょう)五戒・八戒を守り、五逆を行わない人。
〇 中品中生(ちゅうぼんちゅうしょう)一日二十四時間、八戒もしくは沙弥戒(十戒)もしくは具足戒を守り、規律正しい行動が出来る人。
〇 中品下生
〇 下品上生(げぼんじょうしょう) 大乗方等経典を誹謗しないが、悪業を働き、恥じ入ることのない人。
〇 下品中生(げぼんちゅうしょう) 五戒・八戒および具足戒を犯し、寺院や僧侶のものを盗み、間違った説法をしても恥じ入ることのない人。
〇 下品下生(げぼんげしょう)五逆・十悪、不善を行う人。
以上のように、本来は全く違った意味を持っていた仏教用語の「上品・下品」が、やがて現在私たちが使うような、人の性質・態度、物の善し悪しを表す言葉として定着してきたのです。

■有頂天(うちょうてん)
「人が喜びや得意の絶頂にいて我を忘れている状態」や「物事に熱中し他を顧みない状態」にあることを「有頂天」と表現しますが、この「有頂天」という言葉は元々、仏教の世界観が語源です。
まず、仏典における「天」はサンスクリット語のdeva(本来輝くもの)の訳で神を意味すると同時に神が住む場所(天界)をも意味します。
古代インドの僧侶、世親(せしん・ヴァスバンドゥ)が著した『倶舎論(くしゃろん)』によると、「有頂天とは三界(さんがい)の最も上に位置する天(処)」のことを指します。三界とはわれわれ衆生が生まれて輪廻する三つの迷いの世界のことで、生きものが住む世界全体のことを指し、下から「欲界(よっかい)」「色界(しきかい)」「無色界(むしきかい)」に分かれています。
一番下の「欲界」は食欲・淫欲・睡眠欲の本能的な欲望に支配される生きものの世界で、下から地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の「六道(ろくどう)」で構成され、さらに天は六つの世界に分かれ、下から四大王衆天(しだいおうしゅてん)・三十三天(さんじゅうさんてん)・夜摩天(やまてん)・覩史多天(としたてん)・楽変化天(らくへんげてん)・他化自在天(たけじざいてん)と呼び「六欲天(ろくよくてん)」といいます。
次の「色界」は「欲界」の上にあり、欲望は超越したが、物質的条件(五蘊(ごうん)のうちの色蘊(しきうん))にとらわれた生きものの住む世界で、下から初禅(しょぜん)、第二禅(だいにぜん)、第三禅(だいさんぜん)、第四禅(だいしぜん)の四つの世界で構成され、初禅には梵衆天(ぼんしゅてん)・梵輔天(ぼんほてん)・大梵天(だいぼんてん)、第二禅には少光天(しょうこうてん)・無量光天(むりょうこうてん)・極光浄天(ごくこうじょうてん)、第三禅には少浄天(しょうじょうてん)・無量浄天(むりょうじょうてん)・遍浄天(へんじょうてん)、第四禅には無雲天(むうんてん)・福生天(ふくしょうてん)・広果天(こうかてん)・無煩天(むぼんてん)・無熱天(むねつてん)・善現天(ぜんげんてん)・善見天(ぜんけんてん)・色究竟天(しきくきょうてん)があり、これらを「色界の十七天」といいます。
最後に最も上の「無色界」は欲望も物質的条件も超越し、五蘊(ごうん)のうちの色蘊(しきうん)を除く受(じゅ)・想(そう)・行(ぎょう)・識(しき)の四つの構成要素からなる精神的条件のみを有する生きものが住む世界で、下から空無辺天(くうむへんてん)(処)、識無辺天(しきむへんてん)(処)、無所有天(むしょうてん)(処)、非想非非想天(ひそうひひそうてん)(処)があり、総称して「無色界の四天」といいます。
これら三界・二十七天の最高の位置にある、非想非非想天(処)を全ての世界の中で最上の場所にある(頂点に有る)ことから、有頂天とも呼び、また、ここから有頂天に登りつめる事、つまり絶頂を極めるの意味から転じて、喜びで夢中になることを有頂天になると表現するようになったのです。 
 

 

■四苦八苦(しくはっく)
とても苦労した時や苦悩したときに「四苦八苦する」と表現したり、人間のあらゆる悩みのことを指して「四苦八苦」といいますが、では具体的に四苦八苦とはどのようなことをいうのでしょうか?
まず、苦とはサンスクリット語のduhkha(ドウクハ)に由来し、「ドウクハ」の「ドウ」は「悪い」という意味で、「クハ」は「運命」「状態」を表します。直訳すると苦とは、悪い運命、悪い状態となりますが、阿毘達磨(あびだるま)(紀元前2世紀頃の仏教文献)によると苦とは逼悩(ひつのう)と定義され、「圧迫して悩ます」という意味をもちます。つまり苦とは、自分ではどうにもならないことをいうのです。
次に四苦八苦の四苦ですが、原始仏教や部派仏教の経典によると、四苦とは「人間として逃れられない必然的な苦しみ」である生苦(しょうく)(生まれてくる苦しみ)、老苦(ろうく)(老いていく苦しみ)、病苦(びょうく)(病気になる苦しみ)、死苦(しく)(死ぬ苦しみ)をいい、さらに「人間として味わう精神的な苦しみ」である、怨憎会苦(おんぞうえく)(嫌いな人との出会いによる苦しみ)、愛別離苦(あいべつりく)(愛する人との別れによる苦しみ)、求不得苦(ぐふとっく)(求めても得られない事を求めてしまう欲から生じる苦しみ)、五蘊盛苦(ごうんじょうく)(人の存在そのものからくる苦しみ)の以上四つの苦を加えて四苦八苦といいます。
以上のように本来は四苦と八苦で合計八種類の苦しみを表していましたが、やがて、一般的に人間のあらゆる苦しみを指す言葉として用いられるようになりました。 

■一大事
「国家の一大事」「人生の一大事」「お家の一大事」など、簡単には解決できそうもないとても大きなトラブルが起こった時などに使うこの「一大事」という言葉は、もともとは『法華経』が語源です。
『法華経方便品』に「諸佛世尊は唯(ただ)一大事の因縁を以ての故にのみ世に出現したもうと名づくるや。諸佛世尊は、衆生をして佛の知見を開かしめ、清浄なることを得せしめんと欲するが故に、世に出現したまふ。衆生に佛知見を示さんと欲するが故に、世に出現したまふ。衆生をして佛知見を悟らしめんと欲するが故に、世に出現したまふ。衆生をして佛知見の道に入らしめんと欲するが故に、世に出現したまふ。舎利弗、是を諸佛は唯(ただ)一大事の因縁を以ての故に世に出現したまふとなすなり。」とあり、「仏がこの世に出現されたのは、衆生に仏知見を開き、示し、悟らせ、入らしめるため」とあるように、仏がこの世に出現した理由が説かれています。
まず「仏知見」とは「仏のものの見方」のことで、どのような見方かというと「世界や人生は無常(生滅・変化して常住でないこと)・無我(我の存在がないこと)であり、この無常・無我であることが諸法(一切存在)の実相(ありのままの真実の姿)であると認識すること」が、「仏のものの見方」です。
さらに、智慧には三種類があり、「道種智(どうしゅち)・万物は個々別々であると差別的に見て実体を知ること。」「一切智(いっさいち)・万物は平等であると共通の立場から見て実体を知ること」「一切種智(いっさいしゅち)・差別にも平等にもとらわれず、どちらにもかたよらずに、差別と平等とを同時に生かしてものを見て実体を知ること」であり、これらのうち、三番目の「一切種智」によって中道(二つの極端な立場のどちらからも離れた自由な立場)実相であると照見(間違った考えのもととなる邪心や邪見を棄てて、真実をありのままに見ること)することが「仏のものの見方」つまり「仏知見」です。
次に「開き、示し、悟らせ、入らしめる」というのは「開示悟入(かいじごにゅう)」ともいい、開は「藏の戸を開くが如く」、示は「藏の中の宝を見るが如く」、悟は「藏に在る宝を一々記憶するが如く」、入は「藏に入って自由に宝を手にするようなもの」と喩えられるように、仏が仏の知見を開き、仏の知見を我々衆生に対して示されると、衆生は仏の知見を悟り、仏の知見に拠って日々の生活を送っていく、この仏知見を中心とした仏と我々衆生の関係がつまり「一大事因縁」という、『法華経』にいう「一大事(仏がこの世に出現された)・因縁(理由)」として説かれるものです。
以上のように「一大事」とは、本来は「仏がこの世に出現されるほどのとても大きな事」を指し、もとは良い意味の言葉でしたが、現在は主に悪い意味で大きな問題などが起こった時に用いられています。

■方便(ほうべん)
うそをついた後に、弁解の意味で「うそも方便」という言葉がよく使われますが、本来は少しニュアンスが違うようです。
方便とは本来、我々衆生を導く為の優れた教化方法や、巧みな手段を意味します。この方便の考え方は『法華経』で重視され、七つの喩え話(法華七喩)の中で説かれています。
その中の一例として、最初に登場する「三車火宅の喩」(譬喩品第三)を紹介します。
「あるところに大金持ちがいました。ずいぶん年をとっていましたが、財産は限りなくあり、使用人もたくさんいて、全部で百名ぐらいの人と暮らしていました。主人が住んでいる邸宅はとても大きく立派でしたが、門は一つしかなく、とても古くて、いまにも壊れそうな状態でした。ある時、この邸宅が火事になり、火の回りが早く、あっという間に火に包まれてしまいました。主人は自分の子どもたちを助けようと捜しました。すると、子供たちは火事に気付かないのか、無邪気に邸宅の中で遊んでいます。この邸宅から外に出るように声をかけますが、子どもたちは火事の経験がないため火の恐ろしさを知らないのか、言うことを聞きません。そこで主人は以前から子供たちが欲しがっていた、おもちゃを思い出します。羊が引く車、鹿が引く車、牛が引く車です。主人は子どもたちに『おまえたちが欲しがっていた車が門の外に並んでいるぞ!早く外に出てこい!』と叫びます。それを聞いた子どもたちが喜び勇んで外に出てくると、主人は三つの車ではなく、別に用意した大きな白い牛が引く豪華な車(大白牛車)を子どもたちに与えました。」という話です。
これは次のようなことを意味しています。つまり登場人物の主人が仏で、子どもがわれわれ衆生です。邸宅の中(三界)に居る子どもは火事が間近にせまっていても、目の前の遊びに夢中で(煩悩に覆われて)そのことに気付きません。また、主人である父(仏)の言葉(仏法)に耳を傾けることをしません。そこで、主人は子どもに三車(声聞乗・縁覚乗・菩薩乗の三乗の教え)を用意して外につれ出し助け、大きな白い牛が引く豪華な車(一乗の教え)を与えたのです。つまり、われわれ衆生をまず、三乗の教えで仮に外に連れ出し、そこから更に、これら三乗の教えを捨てて一乗の教えに導こうとする仏の働き(方便)を譬え話に織り込んで、説いているのです。
以上のように、方便とは本来の目的のために仮に用いる方法のことで、決して単なるうそではありません。

■六波羅蜜(ろくはらみつ)
昨年は東日本大震災をはじめ多くの災害にみまわれた年でした。年も変わり心機一転すがすがしい気持ちで新年を迎えられた方も多いのではないでしょうか?「一年の計は元旦にあり」は中国の昔のことわざですが、今年一年充実した日々を過ごすために年があらたまったこの時期に新しいことに挑戦するなど計画をたてることはもちろん大切なことですが、今一度日々の生活を見つめ直すことも大切なことではないでしょうか?
ではどんなことを心掛けて日々暮らしていけば良いのでしょうか?仏教においては菩薩は悟りを得るためにいろいろな修行をしますが、その一つに「六波羅蜜」があります。これは6種類の実践すべき徳目のことで、
1.a)布施波羅蜜・与えること。具体的には財施(喜捨をすること)。b)法施(真理を教えること)。c)無畏施(恐怖を除き安心を与えること)。2.持戒波羅蜜(戒律を守ること)。3.忍辱波羅蜜(苦難に堪え忍ぶこと、あるいは怒りを捨てること)。4.精進波羅蜜(真実の道をたゆまず実践し、努力すること)。5.禅定波羅蜜(精神を統一し、安定させること)。6.智慧(般若)波羅蜜(前述の5つを実践することにより真理を見極める智慧を得ること)。
どれ一つとっても実践するのは非常に難しいですが、わかっていてもなかなかできないことを、一つでも実践できるように日々心掛けていきたいものです。

■無財の七施(むざいのしちせ)
年があらたまり、この一年をどのような心がけで過ごしたらよいか?ということで、先月は「六波羅蜜」を紹介しました。今月は引き続き、普段の生活の中での心掛けるべきことについて紹介させていただきます。
『雑宝蔵経』というお経に「無財の七施」という教えがあります。先月の「六波羅蜜」の最初に出てきた「布施波羅蜜」を具体化した教えでもあり、無財の七施を行うことで「大いなる果報を獲(え)る」と説かれています。
1.眼施(げんせ)「やさしい眼差(まなざ)しで人に接する」
「目は口ほどにものを言う」といいますように、相手の目を見ると、その思いはある程度わかります。相手を思いやる心で見つめると自然にやさしい眼差しとなり、人は安心します。自らの目を通して相手に心が伝わって、相手も自分の気持ちを理解し、お互いが打ち解けることができることでしょう。
2.和顔悦色施(わげんえつじきせ)「にこやかな顔で接する」
眼施と同様、顔はその人の気持ちを表します。ステキな笑顔、和やかな笑顔を見ると幸せな気持ちになります。そして周りにも笑顔が広がります。人生では腹の立つこともたくさんありますが、暮らしの中ではいつもニコニコ、なごやかで穏やかな笑顔を絶やさぬよう心がけたいものです。
3.言辞施(ごんじせ)「やさしい言葉で接する」
私たちは言葉一つで相手を喜ばせたり、逆に傷つけたり、悲しませたりする場合があります。相手を思いやるやさしい言葉で接していきましょう。「こんにちは」「ありがとう」「おつかれさま」「お世話になります」など、何事にもあいさつや感謝の言葉がお互いの理解を深める第一歩です。
4.身施(しんせ)「自分の身体でできることで奉仕する」
重い荷物を持ってあげる、困っている人を助ける、お年寄りや体の不自由な方をお助けするというような身体でできる奉仕です。どんなによいことと心で思っても、それが実行できなければ意味をなしません。よいことを思いついたら実行し、自ら進んで他のために尽くしましょう。その結果、相手に喜んでいただくと同時に、自己の心も高められるのです。
5.心施(しんせ)「他のために心をくばる」
心の持ち方で物事の見方が変わってしまうように、心はとても繊細なもので、自分の心が言葉遣いや態度に映し出されます。自分だけがよければいいというのではなく、他人の痛みや苦しみを自らのものとして感じ取れれば言うことはありません。慈悲の心、思いやりの心があれば、それが自然とやさしい顔や眼差しになって表れてくることでしょう。
6.床座施(しょうざせ)「席や場所を譲る」
「どうぞ」の一言で、電車や会場でお年寄りや身体が不自由な方に席を譲ることです。また、この言葉には全てのものを分かち合い、譲り合う心が大切であるという意味も含まれています。場合によっては自分の地位を譲って後のことを託すという意味も含まれるでしょう。
7.房舎施(ぼうじゃせ)「自分の家を提供する」
四国にはお遍路さんをもてなす「お接待」(おせったい)という習慣が残っています。人を家に泊めてあげたり、休息の場を提供したりすることは大変なこともありましょうが、普段から来客に対してあたたかくおもてなしをするように心がけましょう。また、軒下など風雨をしのぐ所を提供することや、雨の時に相手に傘を差しかける思いやりの行為も房舎施の一つといえるでしょう。
以上のように私たちの日常生活において、たとえお金がなくても、物がなくても、周りの人々に喜びを与え、周りの人々に少しでも喜んでいただけるのが「無財の七施」の実践です。このような身近な奉仕によって、自己を高めることができるとともに、世の中の人々の心を和ませることができるのです。また、この中の一つでも真心をこめて実行できれば、自ずと他のこともできるようになっていくのではないでしょうか。そうすれば、周りの人たちと仲良くでき、自らの心は安らぎ、ともに幸せに日々の生活が送れるに違いありません。

■四諦・八正道(したい・はっしょうどう)
1月の「六波羅蜜」2月の「無財の七施」に続き、今月も普段の生活の中で是非心がけていきたいことについて紹介させていただきます。
釈尊は2500年前、悟りをひらかれた後、ヴァーラーナシーのサールナート(鹿野苑)で、初めて法を説かれました。これを初転法輪(しょてんぽうりん)といいます。この時の説法の内容が仏教の根本教説である四諦・八正道の教えであるといわれています。
「諦」とは「真実」の意味で、1.苦諦(くたい)とは、人生の真相は苦(前述の「四苦八苦」参照)であるという真実。2.集諦(じったい)とは、苦の原因は自己の欲望・煩悩であるという真実。3.滅諦(めったい)とは、一切の欲望・煩悩を断じ滅して、それから解放されれば、悟りの境地に達することができるという真実。4.道諦(どうたい)とは、この悟りの境地に達する実践法が八正道であるという真実のことです。
つまり、人生の真相である苦から脱する方法の一つに、八正道の実践をあげています。八正道とは、理想の境地に達するための八つの道、すなわち次のような八種の正しい生活態度のことです。【1】正見(しょうけん)正しい見解。自己中心的な見方や、偏った見方をせず、正しい物の見方を心がけること。【2】正思惟(しょうしゆい)正しい決意。自己中心的な考えを捨て、貪瞋痴の三毒に惑わされず正しく考えること。【3】正語(しょうご)正しい言葉。妄語(嘘)、綺語(無駄話)、両舌(両方の人にそれぞれ相反することを言って仲違いさせる言葉、二枚舌)、悪口(あっく)(粗暴な言葉を使う、人をあしざまにののしること)をせず、正しい言葉使いを心がけること。【4】正業(しょうぎょう)正しい行い。貪瞋痴の三毒を離れ、正しい行いをすること。【5】正命(しょうみょう)正しい生活。世の中の為にならないことや、人の迷惑になることをせず、収入を得て、規則正しい健全な生活を送ること。【6】正精進(しょうしょうじん)正しい努力。正しく励み、努力をすること。【7】正念(しょうねん)雑念をはらった心の安定した状態。物事の現象にとらわれないで常に真理を求める心を忘れないこと。【8】正定(しょうじょう)精神を統一して心を安定させること。心の動揺をはらって、安定した迷いのない境地に入ること。以上が八正道の内容です。
釈尊は、上に述べたような四つの真実(四諦)を熟知し、八正道を実践すれば、一切の苦しみから解脱できると説かれたのです。

■接足礼(せっそくらい)
私は毎年一月にはスリランカを訪問します。スリランカの里親制度「コスモス奨学金」の奨学金授与式に出席するためです。自坊にご縁のある方が、里親制度「コスモス奨学金」を主宰していて、そのご縁で私も一翼を担うようになったわけです。
スリランカのクラワラナの寺院で奨学金授与式が行われます。境内にしつらえられた特設ステージで八十名ほどの里子に、一年分の学用品の入ったリュックサックを一人ひとり手渡します。三時間ほどかけての授与式です。そして翌日からは、日本から参加できた里親全員がバスで里子の家と縁故小学校を一軒一軒訪問します。六日間かけての訪問です。
スリランカに行って最初に驚かされることは、子供たちが(親も同様)近づいてきて、目の前にひざまずき、接足礼で挨拶されることです。思わずたじろぎ、一歩さがってしまうほどです。   
“接足礼”とは、両膝、両肘、額を地につけ尊者、仏像などを拝すること。最高の礼法。五体投地とも言います。今日の日本では、日常生活の中ではまったく見られなくなりました。私たちが本尊様に向かって礼盤に上がる前に行う三礼。それくらいしか見かけることはできません。
私たちは本尊様に対しては日常行っておりますが、生身の人から接足礼で挨拶されたことはありません。おもわずたじろぎます。
スリランカの子供たちは、家庭においても、朝夕二回は両親、長兄に対しては接足礼で挨拶するとのことでした。日常の挨拶に接足礼が根付いているのです。
私は、ある種の納得をしました。スリランカの子たちは、どの子もどの子も、みんな目が輝いています。そして子たちからは貧困さが微塵も感じられません。それはスリランカにおいては、この子たちは日常生活の中で、人に接するに最高の礼をもってし、感謝の念を表しているからなのだ、と。
家庭を訪問しても、子供の勉強机(とても一部屋与えられる状態ではない。ランプ生活の子もある)はキチッと整理されており、前にはどの子もみんなお釈迦さまが奉られています。お釈迦さまの“ご加護で”という気持ちがみなぎっているのです。
スリランカは日本に比べて決して豊かではありません。むしろ貧困な国、と言いうるかも知れません。しかし現在の日本では失われてしまった数々の事柄がスリランカには現在もなお息吹いています。
スリランカを訪れて、とても心地よく感じられるのは、日本が失ってしまったものをスリランカは今も持っているからなのだろうか。

■一心に拝む
お経のはじめの文句に、「一心頂礼」、「一心敬礼」、「一心称名」と言う言葉が出てきます。何の気なしに「一心」とお唱えいたしておりますが、そこには深い意(こころ)が隠されています。昔から、お経を読むには三つの読み方があると言われています。それは口読、身読、色読(しきどく)の三つで、これを三読と言います。
口読は、口で読むことです。心読は、心で理解して読むことです。色読の色は、いろという字を書きますが、仏教では身体のことを言いますから、色読は身体で読むことです。身体で読むと言うのはお経に書いてあることを実行に移すということであります。
口読は誰にも出来ますが、心読は容易ではありません。お経の意味を理解することは誰にも出来ると言うものではありません。まして色読に至っては更に難しいと思います。
観音経とういうお経には、私たちがいろいろな苦しみに遭遇したとき、一心に南無観世音菩薩と唱えすると観音様は、その声を聞くとすぐにお出でになって私たちを救って下さると説かれています。火事にあっても、水に溺れても、航海で船が台風にあっても、又怪我をさせられようとしても、その時に一心に南無観世音菩薩と唱えると救って下さる。願い事も叶えて下さるというのです。
また、こう言うお話があります。「生前中に、いつも南無阿弥陀仏、ナムアミダブツと唱えていたお婆さんがおられました。そのお婆さんが亡くなった時に背中に一つの葛籠(つづら)を背負って閻魔様の前に連れて来られました。さて、この婆さん、地獄へ送るべきか、極楽へやるべきか、閻魔様の裁判が始まりました。その時、お婆さんは閻魔様に申し上げました。『閻魔様、私は一生涯いつも念仏を申してまいりました。私の唱えた念仏は葛籠の中にいっぱい入っております。どうぞお調べ下さい。』閻魔様は、感心な婆さんだと思って家来の赤鬼にその南無阿弥陀仏の詰まっている葛籠を開けさせました。閻魔様がその葛籠の中の念仏を観ると、どれもこれも空念仏で、一心に唱えた念仏は一つも無かった。だがよく調べて観ると只一つ底に念仏は有ったのです。その念仏は、雷が落ちた時に思わず大声を上げて助けてと一心に唱えた本当の念仏だったのです。たった一遍、心の底から唱えたお念仏、それによってお婆さんは救われました。」
このように、毎日毎日お念仏を唱えても空念仏であったら救われません。救っていただくためには、一心にお経を読み、一生懸命に拝めば、仏様は私たちを救って下さると確信をもつことが大事なのです。
お経のはじめの一心は、何事にも通じます。ご飯を食べるとき、勉強をするとき、何をするときにも一心になる。その時、その時、そのことに全身全霊を集中すると必ずよい結果が得られると思います。

■支えるから 支えられるから人
近頃ちょっとうれしい景色に出会った。
夕方五時を少し廻った頃の電車の中。髪を黄色に染めた若者が先刻からメールの送受信に余念がない。近頃よく見かける今様の若者の姿だ。駅に着くと降りる人と乗ってくる人で車内がざわつく。その若者の近くに二人連れの老いたご婦人が乗ってきた。電車が次の駅に着く頃、若者がメールを打ちやめて、携帯電話をズボンのポケットに入れた。
そして、頭をあげて近くに立っている老婦人を見た。
その時私は、その若者の「あっ」という小さな驚きの声を聴いたような気がした。そして若者はすぐに立ち上がって老婦人に「ごめんなさい。どうぞ」と席を勧めた。気が付かなくて許してという、思いやりの気持が一杯に込められた明るい声だった。すると、隣りに座って新聞を読んでいた五十年輩の会社員風の男性も、すぐに立ち上がって、連れの老婦人に座る様に勧めた。
二人の老いたご婦人が「ありがとう」と御礼を言って座り、「ありがたいネ、よかったネ」とニッコリ笑顔で語り合っている。
私も黄色の髪の若者に「ありがとう」と嬉しくなって心の中でつぶやいた。
周囲の人々の胸にパッと明るい灯がともったようだった。仕事の疲れでよどんでいた車内に、清浄機のスイッチを入れたような爽やかな空気が流れた。
小さな勇気を出して支えるから、支えられるから人ですネ。

■桜
一番好きな季節といったら、それはやはり春でしょうか。4月になっても本堂の軒下にはかなりの雪が残っていて、この雪は一体いつになったら消えるのだろうと思っていると、いつの間にか溶けてなくなっていて、その下には雑草がしっかりと芽を出しています。夏にはいまいましげに見える雑草も、このときばかりはいとおしく思われます。
今年(平成24年)の桜はまた格別でした。何十年もの間、桜を見続けて来ましたが、桜色という色がこれほど人の心をなごませてくれる色だとは知りませんでした。これはわたしだけの思いではなく、まわりの人たちからも「今年の桜は色が濃い」とか「今年ほど桜の咲くのが待ち遠しかった年はない」という声が聞かれました。もしかしたら東北の人たちは皆、特別な思いで今年の桜を眺めたのかもしれないと、わたしは勝手に考えています。
昨年の桜はどんなふうだったのか全く覚えていません。あのころ、津波に襲われた東北の沿岸部では行方不明者の捜索が続いていて、日を追うごとに犠牲者の数が増え続けていました。日常の中に非常があり、生の中に死があり、当たり前のことが実はとてつもなく難しいことなのだということを思い知った春でした。
そして今年の桜は、普通の平凡な暮らしの有り難さ、得難さの象徴だったような気がします。何げないふつうの生活が、無数の人々の営みや自然に支えられて成り立っているものだということを多くの人たちが強く意識しました。支え支えられている関係は流動的で、常に変化します。今日と同じ明日がくるとは限りません。いいえ、今日と同じ明日は来ないのです。そのことが時として不条理とも理不尽とも思えるような苦しみをわたしたちにもたらします。しかしすべてのものは移り変わる(無常)がゆえに、絶望の中に希望を見いだすこともできるのです。
来年はどんな桜が咲くのでしょうか。その桜をわたしたちはどんな思いで眺めるのでしょうか。それよりなにより、来年わたしたちはその桜を目にすることができるのでしょうか。 
 

 

■幸福への招待
攘災殖福  災いを払い福を殖やす
仏教尤勝  仏教が尤もすぐれている
誘善利生  善に誘い衆生を導く
無如斯道  この道以外に最上の方法はない
延暦廿五年正月六日   沙門最澄
上の文は、宗祖伝教大師最澄が、日本の天台宗(比叡山)を開かれた延暦廿五年(八〇六年)正月六日に書かれたものであり、ほとんどの天台宗のお寺に額として掛けてあると思います。
日々の生活において、あらゆる災いを除いて幸福になるには、仏教の教えを理解して、毎日の生活に生かしていくことが、最善の方法であるとあります。般若心経は、我々にとって一番身近なお経で、拝まれるかたも多いと思いますし、写経される方もおられると思います。この般若心経の功徳というかご利益というか、その主な内容は、
「一切の苦悩と災いからの解放」(度一切苦厄)です。それには、
「我が我がの心に束縛されない」(心無罣礙)という条件が付きますが。
いずれにせよ、仏教の目的は苦厄からの解放と、それによって得られる幸福への招待です。
苦の代表的なものに四苦があります。
「生まれる・老いる・病・死」
「生」生まれてきたこと自体が、生きること自体が苦である。この状態を表していると思い、鴨長明の『方丈記』の最初の文を載せます。「諸行無常」あらゆるものは留まっていない。常に変化し、形あるものは消えてゆく。
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとも水にあらず。よどみに浮かぶうたかた(泡)は、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と栖(すみか)またかくのごとし。たましきの都のうちに棟を並べ、甍(いらか)を争える高き賤しき人の住まひは世々を経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ねれば、昔ありし家は稀なり。或は去年(こぞ)焼けて、今年作れり。或いは大家ほろびて小家となる。住む人もこれに同じ。所も変わらず、人も多かれど、いにしへ見しひとは、二三十が中にわずかにひとりふたりなり。朝に死に夕べに生まれるならひ、ただ水の泡にぞ似たりける。知らず、生まれ死ぬる人いずかたより来りて、いずかたへか去る。また知らず、(注)仮の宿り、誰がためにか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。その主(あるじ)と栖と無常を争うさま、いはばあさがほの露に異ならず。或いは露落ちて、花残れり。残るといへども、朝日にかれぬ。或は花しぼみて、露なほ消えず。消えずといへども、夕を待つ事なし。
(注)仮の宿であるこの世で、誰のためにあくせくし、どういう因縁で豪華な生活に気をとられているのか、そうしたあくせくした人も、その豪華な邸宅も、先を争うように変わってゆく、消えてゆく。(『日本古典文学全集』)
「老」老いていくという苦。
精神の老いは気が付くことです、気が付けば若く保とうとする努力ができます。肉体の老いは必ずきます、生まれてきた以上必ず来るものです、肉体の老いを苦と思うと苦になります、苦と思わず穏やかに受け止めることです。
「老人訓」 無理するな 転ぶな 風邪引くな
「病」病気になるという苦。
健康な日々を送っている時、その健康に感謝するのは残念ながら大変むつかしいことです。これができれば病気になるのが激減すると思いますが。
病気になって初めて、健康のありがたさを知り、
病気になって初めて、自分の健康管理の不意気届きを知り、
病気になって初めて、その不自由を知り、
病気になって初めて、看護の大変さ、ありがたさを知る。
外にも色々なことを、病気になって初めて学べると思います。
病気になってしまったら、その病気と戦わなければなりません。多くのひとにお世話になり、大金を払い、痛い・つらい・不自由なめにあいます。それ故、何かを得、人生の糧としなければ馬鹿馬鹿しいです。それに病気の「気」の方は努力すれば健康でいられます。
「死」かならず死を迎えるという苦。
生老病(しょうろうびょう)を克服、或は理解できたとしてもなお興る死に対する苦。それは死後のことを恐れるからです。体験できることではありませんし、誰しも考えない人はありません。人は必ず訪れる死があまりにも恐ろしいので、気が付かない素振りをしています。自分には訪れないかのように振舞っています。
宗教に逃げ込む。宗教に頼ると考えず、心理を学ぶ。現実を知ると考えてください。お釈迦様の説かれたお経は、生き様の教えであり、生きている人間に対する教えであり、死者に対する教えはありません。つまり宗教は、いかに生きるかを教えてくれるものです。
日々死を考えながら生きてこそ、本当の生き方があり、本当の生き方ができると思います。
「度一切苦厄」(一切の苦悩と災いからの解放)
「心無罣礙」(我が我がの心に束縛されない)
「般若心経」にありますこれを実現できたら、心に極楽浄土が持てます。これは娑婆世界に住む我々人間には決してでき得ることではありませんが、達成目標として持つだけでも、或は、このことを知るだけでも、その生き方に変化があると思います。同じ生きるなら、幸福な人生を送りたいものです。

■諸法実相(しょほうじっそう)‐あるがままにみる‐
法華経の教えに諸法実相があります。
春がめぐりくれば、花が咲き、秋になれば、木の葉が紅葉する。その自然なありようが、法(のり)のみ相(すがた)、仏のすがた、つまり諸法実相というのです。諸法実相とは、ものの本当の相(すがた)、あるがままのすがたを見ることなのですが、私達には、なかなか見えないのです。これを本当に見ることができるのは、智慧をそなえたみ仏であるといわれます。私達は、本当の相(すがた)を見ないで、いつも『我欲』という色めがねをかけてものを見、目先の分別で区別したり、比較したりして、喜怒哀楽のとりこになり、ますます目を曇らせてものを見ています。
『真昼の星』を見たことがありますか。私達は、おそらく昼間でも星はあるということを十分承知しながら、気づかないで暮らしています。
金子みすゞ(1903〜30年)という、美しい童謡詩人がいました。26歳の若さでこの世を去りました。金子みすゞさんの詩の中に、法華経の諸法実相を感じさせる詩があります。
「星とたんぽぽ」(金子みすゞ)
青いお空の底ふかく/海の小石のそのように/夜がくるまで沈んでる/昼のお星は眼にみえぬ。/見えぬけれども あるんだよ/見えぬものでも あるんだよ。
散ってすがれた たんぽぽの/瓦のすきに、だァまって/春の来るまで かくれてる/つよいその根は眼にみえぬ/見えぬけれども あるんだよ/見えぬものでも あるんだよ。
この詩は、こころ、いのち、やさしさ、きずな、などのように、目に見えない大いなるはたらきによって、私達は守られ、生かされていることに気づかされます。

■「縁」に感謝して
今年の夏は連日の酷暑と、オリンピックやパラリンピックの開催で選手の熱戦や活躍の報道とが重なり、日本中が熱気に包まれたことはまだ記憶に新しいことと思います。
日本選手が活躍した記憶は数多く残っていますが、その他にも強く印象に残っていることがあります。それは試合を終った選手や、メダルを手にしてインタビユーに応える選手の多くから、周りの人々へ感謝の気持ちの籠った言葉が聞かれたことです。「仲間」「お世話になった人々」「支えてくれた方たち」「両親や職場の人たち」「私ひとりでは」「皆様のおかげで」といった自分が今の結果を出すに至るまで、関わってくれた人々や環境などへの配慮が、これらの言葉から伝わってきました。それだけ、この舞台に立てたのは、周りの人々に支えられたお陰であることを、選手たちが実感しているからだと思われます。
夏の暑い朝、清々しい気持ちにさせてくれる朝顔の花も、苗を植えただけでは花を咲かせることはできません。支柱を立て、肥料をやるなど心を込めて世話をする人、太陽の光や雨などの自然の恵みなどがあって、花を咲かせることができるのです。このように、朝顔の苗を植えるという「因」を、花を咲かせるという「結果」へ導くまでの間接的なことがら、つまり要因や条件を仏教では「縁」と言っています。
2011.3の東日本大震災で人と人との絆の大切さが見直されましたが、私たちは一人では生きられないのです。私たちが生きてゆけるのは、家族や友人、職場の同僚、地域の人々など、周りの人たちの支えがあり、動植物などの命をいただき、太陽の光や水など自然の恵みを受けているからです。つまり「縁」により、生かされているのです。
それでは、毎日をどのように生活しなければならないのでしょうか?
私たちは自分中心の考え方を捨て、周りの人々に思いやりの心を持って接し、人の苦しみを自分のことと受け止め、感謝の心で毎日を送ることが大切です。ここに伝教大師のお言葉にある「忘己利他」の精神を生かした生活が求められるのです。しかし、私たちは知識としてこのことが理解できても、日々実践することは容易なことではありません。
私たちはすべての「縁」に感謝し、みんなが幸せになれるよう、日々精進したいものです。一日一日が修業なのです。

■十の家訓
一、内の火を外に持ち出すな。
二、外の火を打ちに持ち込むな。
三、与える者に与えよ。
四、与えない者には与えるな。
五、与えない者でも与えるべき時がある。
六、幸せに座りなさい。
七、幸せに食べなさい。
八、幸せに眠りなさい。
九、火に奉仕しなさい。
十、家の中の神仏への感謝を欠かさない。
昔インドのコーサラ国に右の家訓を護っている長者がいました。
可愛い娘が嫁ぐ日、何度も何度もこの家訓を伝え、幸せになることを祈りました。
長者がこの家訓を娘に伝えている時、娘の舅になる長者が側でこの話を聞いていましたが、意味が理解できません。そこで娘が嫁いで来てから家訓の意味を尋ねると、嫁は「内の火を外に持ち出すな。とは舅や姑、夫の不徳を決して外の者に話してはならない。」と云うこと。「外の火を家に持ち込むな。とは世間で家族の悪口を聞いても家に持ち帰って告げ口してはいけない。」「与える者に与えよ。とはお返しする者には物を贈れ。」「与えない者には与えるな。とはお返しをしない者には贈り物をするな。」「与えない者でも与える時がある。とはお返しがしたくても出来ない者には施しを与えよ。」「幸せに座りなさい。とは年長者や来客が立っているのに一人座ってはならない。」「幸せに食べなさい。とは家族と仲良く食事の準備をし、片付けをし、互いに譲り合って楽しい食事をしなさい。」「幸せに眠りなさい。とは部屋を整理整頓し、明日の準備をして眠りなさい。」「火に奉仕しなさい。とは火を扱うように舅や姑には常に謙虚で細心の配慮を持って接しなさい。」であり「家の中の神仏への感謝を欠かさない。とは常に神仏の加護を感謝し、家族も神仏のように想って、感謝の心で接しなさい。」ということです。と説明した。舅はこの話を聞くと良い嫁をもらったと喜び自分たちもこの家訓を護ろうと誓い合った。と言う寓話があります。
家庭崩壊が叫ばれる今日、今一度この家訓を見直したいものです。

■忘己利他(もうこりた)
「悪事を己に向え 好事を他に与え 己を忘れて 他を利するは 慈悲の極みなり」
悪事というのは「わるいこと」というのではなくて、人の嫌がる仕事、手間暇のかかる仕事などであります。好事というのはその反対で、やりやすい仕事、苦労のいらぬ楽な仕事、誰にでもすぐにできる仕事であります。この言葉は「しやすい仕事を他の人にまわし、自分は骨の折れる仕事を、自ら進んで引き受けてやる心がけを持って他人のことを思いやること」の出来る人、相手を喜ばすことの出来る人を仏教では「菩薩」というのです。
宮沢賢治の「雨ニモマケズ風ニモマケズ」のようなへりくだった態度、常にやわらかな心で、自分を勘定に入れないで世のため人のために、自分のことよりもまず相手のことを思いやる心を持っている人、相手の幸福を願わずにはおれないとという菩薩のような心を持っている人、「先度他身自度」の教えであります。人を幸せにしたい、自分は最後でいいんだ、他人の幸福を願わずにはおれない、これを菩薩の行願といいます。菩薩の生き方は、「上は菩提を求め、下は衆生を教化す」ともいわれますが、利他行に励む人です。
「人の身を渡し渡して 己が身は 岸にあがらぬ 渡しもりかな」
仏の教えは慈悲と智慧です。慈とはいつくしみの心であり、人々の幸せを願う心です。悲というのは、人々の声にならないうめき声を聞きとり、救わずにはおれないという心であります。会社や地域の為に笑顔を忘れず、生き甲斐をもって混沌とした世相を「もうこりた」と言わずに、少しでも自分の周りが明るくなるように一人ひとりが努力精進して社会に奉仕して行くことが、己を忘れて他を利する菩薩行になるのではないでしょうか?
また布施を行うに当たって、施者・受者・施物すべてが自分を忘れて他の為になるように心がけることができたとき、はじめて功徳が生じるという教え(三輪清浄)もあります。つまりしてやるのではなく、させていただくという清らかな心が大切なのではないでしょうか。
「施そう 真心こめて 惜しみなく」

■アリと乞食
一般に乞食という言葉は、物乞いをする人を称する差別用語と思われています。
仏門では乞食(こつじき)と言い、僧侶が人家の戸口に立ちお経を読み、食を求めながら行脚する修行のことで、托鉢とも言い、受けた食材やお金は首に掛けた乞食袋(こつじきぶくろ)または頭陀袋(ずだぶくろ)と言う袋の中に納めます。この様に似ていることから物乞いする人を乞食(こじき)と呼ぶようになりました。
托鉢で戸口でお経を読み始めると邪険に追い払われたりすることもありますが腹立たしく思わず心を無にして立ち去り、施しがあれば食を得ることになります。
昔こんなことがありました。
あるとき自坊の庫裏の玄関前で「ごめんくださーい」と呼ぶ声がし、行って見ると歳をとった一人の乞食が立っていました。ボロを着た老人は「何か食べ物をください」と乞うので、おにぎりを作り手渡しました。その場でおにぎりを食べた老人は、ポケットの中からお菓子の袋を出し玄関脇にしゃがみ「草むらの虫たちよ、しばし空腹を満たせよ」と言い底に残っていた菓子の粉をアリの前に撒きました。そして、ありがとうと言って戸を閉め立ち去って行きました。不思議な気持ちになり慌てて戸を開け周りを見渡したのですが、姿はありませんでした。
貧(ひん)しても貪(どん)ずることの無い老人の顔は柔和で仏様のように見え、貧しくとも余りあれば施しをする慈悲の心を忘れることなかれ…と戒められた気持ちになりました。
伝教大師さまは、「己を忘れて他を利するは、慈悲の極みなり」と言われました。
物に満たされている今、私たちは私欲に走っていないでしょうか・・・。

■不殺生(ふせっしょう)について
私たち人間は自然界のなかで、もっとも脆弱(ぜいじゃく)な生き物であります。そして、植物であれ動物であれ、そのいのちを殺生し、食糧として口に入れなければ、生き続けることはできません。
人類が、太古の昔から今日まで生き続けてきたのは、自然界に存在する他のいのちを殺生しながら、その生きものたちと調和を保ってきたからであります。私たち人間が、そのいのちを維持できたのは、他のいのちを遠慮なく殺生し、口にいれなければなりませんでした。
生きるために殺生し、これからも食糧として殺生し続けなければならない人間に、なぜ、お釈迦様は不殺生を説かれたのでありましょう。
立派に成長した野菜が茎から切り離される。米・麦が穂から刈り取られる。精進の野菜のみを食し、魚類・家畜の類を食するな。と説かれたのではなく、私たち人間のために差し出された、すべてのいのちに感謝しなければならない。とお諭しになられたのであります。
どのいのち一つをとっても、単独で存在することはできません。必ず他の生き物との支え合いによるものであり、たった一つだけでいのちを繋ぐことはできません。
私たち人間は、仏教の根本思想である因縁の理(ことわり)のなかで、生かされているのであります。お釈迦様も因縁に支えられたいのちを生き抜かれたのであり、私たち人間も同じように生きているのであります。
私たち人間は、他のいのちを殺生しなければ生きられません。生きるために、他のいのちと調和をはかり、感謝し、有り難く思わなければなりません。
私たち人間は、生きるために、これからも殺生を繰り返し続けます。精進のみを食し、生ものを食するな。と説かれたのではなく、人間を支えてくれる、すべてのいのちに感謝しなさいと教えられたのであります。
他のいのちの存在に感謝し、その価値を認めることは、人間が一生懸命生きるなかで、食糧として口に入れた他のいのちを生かし切ることなのです。そこに不殺生を説かれた意味があります。
他のいのちを損なうことなく生かし切るところに「もったいない」という言葉が生まれました。食べ物の一片だけを口にして、美味しい不味いといって無駄にしたのでは、私たちのいのちを支えてくれた、他のいのちに申し訳が立ちません。
いのちの最上位にあり、すべてのいのちに支えられている私たちは、誠に有難い存在であり尊い存在であることを、胆に命じなければなりません。

■震災から二年を振り返って
東日本大震災より三年目を迎えようとしておりますが、宗務庁当局、延暦寺をはじめ、全国の方々からいただきました温かい援助に厚くお礼申し上げます。
福島の浜通りでは津波と放射能、中通り等では放射能は未だに治まらずにおります。
私の寺は原発より50キロ以上離れた伊達市にありますが、市内でも地域により千差万別のありさまです。それは、3月14日の爆発時の風向きにて同じ市内でも放射能の値に大きく差が出たのです。しかも国の対応が遅く、一番放射能の高い浪江町の津島に多くの人が避難をした事などは国の対応に疑問を感じさせられます。
しかし、こんな中で福島仏青の活動はすばらしく、毎週木曜日を活動日として、大津波と放射能の被害を受けた浜通りの方々へ手を差しのべ今でも活動を続けているところです。
さて、50キロ以上離れた伊達市では放射能により生活面が変わったが、当初は何の情報もないので対応もありませんでしたが、だんだん現状がわかるにつれ、小さな子がいる家庭では安全な所へ避難をさせたり、外に出さないなど対応しながら、今でも健康に影響がないか心配されているところです。
現在では、学校などは除染がなされ、校庭に放射能測定器が設置され、外遊びも可能になりましたし、廃校になった体育館が屋内運動場や遊び場として整備がなされ、解放されています。
さて一方、一般家庭、特に農家の現状ですが、当地は干し柿やキノコ(椎茸、舞茸等)の産地として全国に出荷していましたが、生柿で100シーベルト以下でも、干すと3倍以上になり出荷停止です。キノコもまた山林に原木を置くと300シーベルト以上になり、他県より安全な原木を買っても、露地に置くことができず設備が必要になり、しかも風評被害で値も下がり、生産者は踏んだり蹴ったりの状態であります。しかもその他の野生のキノコ類、山菜(ワラビ、蕗、タラの芽)、筍、梅、柚なども出荷停止となり、生活に大きく影響を与えています。主産物である米も同じ市内でも、作付けが制限されているところがあり、農家でも米を買うような現状です。ただ、地震による被害は農協の火災保険に地震も含まれていたので、ほとんどの家庭では修理ができたようです。当寺も一丈五尺の観音様が倒れて破損しましたが、おかげで修理ができました。
こんな中ですが、全国からの励ましを受けて住民が一つにまとまり、助け合っていく事が大事と痛感させられる今日この頃です。
昔から寺は、地域の中心であり、住民の方々と力を合わせることが住職の役目とも考えているところです。

■先立つ
数えて91歳になるおばあさんが臨終の時を迎えた。この日、お昼ごはんを食べ、しばらくして見ると、息が止まっていた。静かに息を引き取ったらしい。穏やかな顔であった。山間部の村に生まれ育ち、当時蜜柑の仲買いを営む主人と結婚し、調子の良いときには結構羽振りも良かったらしい。
今年63歳になる長女が生まれて間もなく、100万円(昭和20年台後半の100万円。現在にすれば相当な額だろう)の負債を負って食うに食えなくなり、都市部の親戚を頼って幼子を連れて村を出た。しばらくして八百屋を開業。夜遅くまで仕事、朝早くから家事に子育てと一生懸命に働き通しに働き、娘さんも二人増えた。長女には真面目なご養子に恵まれ、残る二人も幸せに暮らしている。
お盆やお彼岸にお参りするときは決まって夜になる。仕事で疲れているだろうに、いつも気遣ってくれ、私の後ろに座り一緒にお経を唱えてくれていた。
28年前に主人に先立たれた後も娘夫婦と一緒になって働き、人を気遣いながら変わらぬ生活を続けていた。
13年前に脳出血で倒れ、寝たきりで話す言葉も分かりづらくなったが、話しかけるとかすれた声で聞き取りづらくはあったが、元気な頃と同じようにこちらのことを気遣ってくれた。
葬儀当日、喪主の挨拶に続いて娘さんがこう話し始めた。
ここで皆さんにお世話になって、母は生きてきました。働き通しに働いて、いつも夜中の1時、2時頃まで起きて、何かしてないと気が済まない、という風に生きてきました。そうやって私たちを育ててくれることが母親の勤めなんやな、って思ってました。それが当然のことやなって思ってました。13年前に脳出血で倒れて動けなくなって、その時に私は、これから私は親の面倒をみる立場になるんや。今までの親と子の立場が逆転して、私が面倒をみる立場になるんや、って思いました。
でも、それは違ったんです。
ある時私は、こんなこと聞いたらアカンとは思ったんですけど、母親に聞いたんです。「こんなになって、生きてたい?」。母親はこう言いました。「生きてたい。」えっ?生きてたい?こんなになっても生きてたいんやなぁ。生きる思いってすごいんやなぁ。知らぬ間に私は母親に教えられていました。
私は、その答えを聞いて生きる力をもらいました。寝たきりになった後も無理を言わないばかりか、私たちを気遣い、「大丈夫か。しんどないか」と話しかけてくれました。そんな母はやっぱり母でした。立場が逆転して私が親になる、というのは間違っていました。親はいつまでも親だったんです。
「死んでしまうと何もかも終わり、無になる。」と言う人もいるが、決してそうではない。亡くなった人は過去にあって、忘れ去られていくものではない。
「先立つ」という言葉のとおり、先に立って進んで行っていて、ずっと前にいる。その姿を思うことは、「生きる糧」となっている。

■共生について
自分以外のものと、共に生きるとは、すてきな言葉です。『山川草木国土悉皆成仏』全てのものは仏の現われであると仏教では考えられています。一つ一つのものは掛替えのない存在です。そして、一つ一つのものが組み合わされると、より一層掛替えのないものとなります。
例えば植物と蜜蜂の関係はだれもが知っている共生です。これは共生が成立している例ですが、今は成立していなくても、将来、有益な共生が成立する可能性は全ての分野において有り得ます。この可能性を後世に残すためにも全ての分野での多様性を存続させなければなりません。
共生は一方的な寄生によって始まることが多いと考えられています。両者は永い年月を掛けて、お互いの情報を収集し、自分を変革しながら共生を成立させていきます。つまり
私たちは、共生のために、全てのものの情報収集を積極的に行い自己変革していく必要があるのです。収集した情報を分析することによって両者により経済的な関係を作っていかなくてはなりません。植物にとっては、風を頼りに多量の花粉を作るよりも、蜜蜂に蜜を提供することによって少量の花粉ですませる方がより経済的なのです。
寄生の関係が共生の関係になる過程を『共進化』といいます。共進化を通して成立した共生は継続させなければなりません。そのためには両者の間に信頼関係が必要です。一度でも植物が蜜蜂にカロリーの無い蜜を提供したならば、蜜蜂はその植物の花へは二度と来なくなるでしょう。
共生とはだれもが受け入れることの出来る素晴らしい言葉なのですが、成し遂げて継続させるためには不断の努力が必要です。共生は容易く行える事ではありませんが、一プラス一が二以上になる経済効果も有るのです。現代の競争社会において、共生という言葉が有る事だけでも価値が有るのではないでしょうか。 
 

 

■『慈悲を習う』
「俺が、俺がの『が』で生きるな。おかげ、おかげの『げ』で生きろ」。これは先代住職の父が、私がまだ幼い頃から、ことある毎におっしゃられた言葉です。最初は何の事だか分からず、父の真意が理解出来るまで、何度も何度も叱られた思い出があります。私の自坊は檀家もなく、収入も少なかったため、父は四度伽行を終えた後、寺の運営を先代住職に任せ事業を興されました。棄てられる古着や肌着を回収加工し、ウエス(機械油等の汚れを拭く布)として再利用する事業でした。現在ならリサイクル事業として注目されるでしょうが、当時は「ボロ屋」「ゴミ屋」などと揶揄されたものです。幼かった私は、友人や知人からの心無い言葉に傷つき反発し、父をずいぶん困らせたものでした。その度に父は「全てのものには命があり、最後まで使わなきゃ勿体無いだろ。お父さんは皆さんのお役に立てるこの仕事に誇りを持って頑張っているんだ」と、私をたしなめて下さいました。また事業がうまく行き少し余裕が出来た頃、手の平を反した様に、父にお金を借りに来られる方々がいました。私は「やっと余裕が出来たのに…」「あれだけ馬鹿にされたのに…」と思っていると、父は「お人好し」なのか、笑顔で何も言わずにお貸ししていました。その理由を尋ねると「今あるのは仏様のおかげ、皆さんのおかげなんだ。誰も自分一人では決して生きては行けないんだよ」と、冒頭の言葉を私に残して下さったのです。その後、事業は順調に拡大しその利益で、奥の院や護摩堂や鐘楼堂、本堂の改修や数々の仏像の建立など、今の自坊の基礎を作られたのです。「思い上がりや我欲を戒め、おかげさまの心を育み、毎日を精進して生きる」ー 今年は父の十三回忌にあたります。

■「なくてはならない人になれ」
何故天台宗といわれるのか、由来的に申し上げますと、中国の天台山は華頂(かちょう)峰(ほう)、仏(ぶつ)朧(ろう)峰(ほう)、唐渓(とうけい)峰(ほう)の三つの峰からなっております。名前はそこから生まれております。
中国に誕生した天台大師によって立教開宗された宗派でございます。それから四百年ほど後になってわが宗祖伝教大師がお出ましになり、天台大師の教えを受け継がれて、比叡山に日本天台宗を開宗されたのでございます。
中国の天台宗と日本の天台宗とは同じ法華経による宗旨でありますが国民性の相違や時代と環境によって内容に多少の違いがあるといわれます。
仏教の教えを大きく分けて考えますと「円(えん)密(みつ)、禅(ぜん)、戒(かい)、念仏(ねんぶつ)」と大別することが通説であります。それぞれの立場を尊重し認めた上で法華一乗の教えが最良最高の教えであると説くのが天台宗の教えであります。
「一切衆生悉(いっさいしゅじょうしつ)有(う)仏性(ぶっしょう)」「山川(さんせん)草木(そうもく)皆仏(みなほとけ)」という天台宗の教えを学ぶことで「能(よ)く言い能く行うは国の宝なり」と教えを実践することが大切であると教えております。
よく聞く言葉ですが「善因善果」「悪因苦果」と申しよい行いをすることを教えております。
宗祖伝教大師は述べております。「忘(ぼう)己(こ)利他(りた)」己を忘れて他人の為になることを行うように日常生活に心掛けましょうと教えております。
「一隅を照らす運動」の標語の中に「なくてはならない人になれ」とございます。口で言うことは簡単ですが、実行することは大変です。その気持ちを持って生きて行くことが大切でございます。
どうか天台宗の教えを日常生活に実践されますことをお願い申し上げます。一人でも多くの人がこの教えの理念のもとに世の中、社会のために役に立つ人間になって下さい。

■「心を耕し 生きる喜び 共に味わう」
昨年の教区布教師研修会は、立石寺本坊で行われた。講師は出羽三山と隣接する修験の山。葉山の麓に開校している。人を愛し、自然を愛し、生きる喜びを共に味わう「卒業のない学校」「樽石大学」(民間生涯学習施設)の学長・松田清男(せいなん)氏である。演題は「祖父からもらった宝物」。講演内容を端折って紹介しよう。
氏は昭和5年生まれ83歳。実に若々しく健康で、年間100回程度講演を行いその中で「子育て」をテーマにし「心」を耕し未来を担う人づくりについて、また金では買えない素晴らしい「心の宝物」を子どもたちへ、そして次世代へ伝え残したいと語る。
祖父は当時田舎では数少ない獣医師であった。昭和10年ごろまだ珍しかった自転車に乗り、毎日4〜5軒往診に出、帰るとすぐに自転車の掃除をしながら「ご苦労様だったな〜」と自転車を労るように話を交わし、傍で見ている孫の自分に「真夏のカンカン照りの暑い日に自転車に乗って行って来た俺でさえこんなに暑かったんだから、俺に乗られた自転車は、さぞ暑かっただろう。だから掃除をするんだ」と。
松田氏も子供たちの心を育てることに関して教壇にたっていた頃に、窓ガラスを壊した子どもには何時も窓ガラスにお詫びをさせ、「ガラス窓、何と言ってたか」と聞きはじめ頃は「何も言っていない」の返事。窓ガラスと会話が出来るまで何回もお詫びに行かせ「自分と自分の対話の世界」を持てる人間を育てたい。と松田氏は熱く語っている。
モノの中に「心」を感じる感性を見い出す。「草木国土悉皆仏性」である。自分と自分の対話の世界は宗教的心情の世界でもある。
葉山の大自然に触れ合い、いろんな人と出会うことで発見し感動を味わうことが出来る。これは遠い宿縁で、今の自分の存在はご先祖様たち約一億人を越す方々から預かった大切な命があるからであり、また、人との出会いを大切にし、挨拶は「向こうから」より、「こちらから」を心がけ、言葉でハッキリと言うことで、お互いの絆が深まります。

■四恩
私たちは、朝起きてから夜寝るまで、五体満足ならばなおさら、一日という時間を何気なく過ごしてしまってはいないか。ましてや、社会生活を一人で送るようになれば、自分一人の力で生きている錯覚さえ感じることもあるだろう。しかし、私たちがこの世の中に生きるためには、いくつかの要素が必要であろう。
先ず第一に父母の恩。文字通り生まれてより長く成長を見守ってくれている両親への感謝。次に衆生の恩。衆生とは生きとし生ける全てを表す。三つ目に国王の恩。国政を担い我々が安心できる国作りをする長を示す。最後に三宝の恩。三宝は仏・法・僧(尊き存在とその教え、そしてその教えを信じる同志)を指す。これらのことは「心地観経」の中に示される内容だ。
この四恩を常に心に持ち生きてゆくことは非常に難しい。年を重ねるごとに人間関係が複雑になり、全てに対して心からの感謝を表現することはそうたやすいことではない。地域社会が家族同様であった昔は過ぎ去り、人々の希薄な関係は家族間にも及んでいる中で、それぞれが抱える苦しみ・怒りを心に封じ込め生きている人々が、先の恩恵に対して素直になれない状況?理解しがたい状況もあるだろう。
話はかわるが近年、小生が住むところが湖を望む景色が良いこともあって、親戚が集まり地元の花火大会を鑑賞することとしている。夕食後に、一同花火に夢中になっている中、食事の片付けを行っていると、甥っ子が手伝いにきた。子供は花火が始まると最初だけが楽しみで大概はぐずるもの。ご多分にもれずかと思いながらも手伝ってもらうこととした。私が「手伝ってくれてありがとうね」というと「早く花火が観たいしね」と彼は笑顔で答えた。彼の返した言葉の意味が不可解だった私は「花火を観てきたらいいんだよ」と返事。すると彼はこう返答してくれた。
「早く終われば、おじさんといっしょに観られるよね!」
ハッとした。人として完璧な返事だ。勿論親戚同士仲良く、家族同様と思っているが、彼の言葉は、人への思いやりから出た一言であり、そこには何の見返りもない純粋な心を感じた。その思いやりに嬉しさと心が洗われる思いだった。少し大げさかも知れないが、四恩とはこういう日常にある出来事の中に、自分が生まれて今日を生きる全ての事項に感謝するものではないか。
自分が存在すること。それは自分一人では決して報いることのできない多くの人々から恩恵であり、すべてに感謝の念を持ちながら日々を大事にしたいものだ。

■花のこころをお持ちなさい
仏教では花をとても大切にしています。花は美しく咲く日のために、寒い冬の間暗く冷たい地中でジット耐え、春の訪れを待っています。その忍耐力が私たちの生き方のお手本になるのです。辛いことや苦しいことがあったとき、お仏壇に美しい花が飾られていると思わず掌を合わせたくなりませんか。それはお釈迦さまが指し示された忍耐の心を象徴するのが花だからです。
お釈迦さまはたくさんの教えを遺されていますが、天台宗が最も大切にしているのは法華経です。その中に変わった行いをする修行者が登場するお話があります。この修行者は会う人ごとに『私はあなたを敬います。決して軽んじたりはいたしません。何故なら、あなたは仏様になる人だからです』と礼拝することを修行とされていました。ところが、あまりにも丁寧に合掌礼拝を繰り返すので、愚か者扱いをされていると思った町の人たちが怒りだし、悪口雑言を並べて罵(ののし)りますが修行を止めようとはしません。ついには木の枝で叩いたり、瓦や石を投げつけますが、避けるようにその場から走り去ると、今度は少し離れた場所から大きな声で同じ言葉を繰り返したのです。何をされても怒らず休むことなく続く修行は、やがて町の人々の心に伝わり、本当の修行者であることが理解されるようになりました。この修行者は「常に汝を軽からず」と唱えていたことから常不軽菩薩(じょうふぎょうぼさつ)と呼ばれ多くの尊崇を集めました。忍耐することの大切さがこのお経に説かれているのです。
今の世の中は、毎日世界中の何処かで戦争が起こっています。憎しみには憎しみで返す人が多いからです。菩薩さまは憎しみに愛を返したのです。これこそが、何ごとにも耐える心を持ちなさいという教えで、仏教ではこれを忍辱(にんにく)と呼び、仏道修行の徳目の一つになっています。忍という文字は心の上に刃が乗っています。移ろいやすい心の迷いを切り取る意味があるからで、忍耐は人生の苦しみや怒り、恐怖や欲望などの感情を抑える鎧(よろい)になってくれるはずです。
お仏壇の花がいつも拝む私たちの方に向けられているのも、仏さまが、厳しい寒さに耐えて咲いた美しい花を見たら「花の心をお持ちなさい」と諭(さと)されておられるからでしょう。花は仏教のシンボルなのです。

■愛を慈しみに  
愛はあまたの命を生み育む心ですが、愛によって苦しむこともあります。生まれ育ってこられたのは、初めに親の見返りを求めない心があったからです。この心は無償の愛と言われ苦しみが生じません。仏教ではこの心を愛とは言わず慈しみと言います。慈しみはパーリー語でMettaと表される友情のような心として説かれました。
赤子がスクスク育つ、慈しみの心を全ての存在にまでは向けられません。しかしそうすることを教えているのが仏教なのです。
殆どのことは見返りなしには生活も仕事もできません。このため思うようにならない苦しみを生じます。仏教では苦の原因ともなる愛を、渇愛や愛着など、具体的に定義し問題を説きました。愛の苦を生じないためには、愛と慈しみを区別し、慈しみを併せ持ったり、愛から慈しみに至る必要があります。
子供は成長すると、親の意に沿わなくなります。このとき育ててやった気持ちが働くと、子供は友情から打算に切り替わったに等しいショックを受けてしまいます。
親が、「どこにも恩を返せていない分、僅かながら子供に返せた。」と気づけば、子供は親に反抗する気持ちにはなりません。
日常において大概のことはギブ・アンド・テイクで成り立ち取引と同等ですから、節度を守り誠実に行動しなければなりません。
ギブギブには、赤子が母親に感じるような安堵感があり、受ける者も、与える者も生き生きとします。ギブギブが身についた人はすこぶる元気で、ストレスが溜まりません。
親の死にあたり、これまで受けた慈しみを観じ止め、「何処にあれど幸あらんことを」と願い告別できたら慈悲心となり、悲しみは不思議な程残りません。誰との死別でもこれは同様です。このように執着する心を離れて行くと平等の心に至ります。伝教大師さまは、「山家学生式」に、「…己れを忘れ他を利するは、慈しみの極みなり。」と、分かりやすく慈しみのあり方を説かれました。
仏教では私という実態はなく、炎のように変化する現象に過ぎないありさまを教えていて、通常感覚は見かけにしかなりません。
無我である実感を中々持てませんが、己を一時的にせよ忘れられたら、瞬時や継続する救助活動など、一切のしがらみから解放され我が消え去るのは確かです。無我を感じると、慈しみのパワーを遺憾なく発揮します。

■釈尊の教えでないもの
パリでエッフェル塔の展望台が一番のお気に入りの場所だという芸術家がおりました。理由を尋ねると、どうしても好きになれないエッフェル塔を見ずにすむからだそうです。そのものの中にいるとそのものの全体像は見えないもので、離れて見ると解るものです。今回は、六師外道(ろくしげどう)のお話です。外道とは、仏教以外の教えという意味です。仏教の開祖釈尊がお生まれになった時代は、インドで経済活動が盛んになり、物質的生活も豊かになりました。一方で、お金のある人が偉いと考えられたり、人々が物質的な享楽に耽り、社会には道徳感が失われて行き、伝統的なヴェーダ思想は希薄なものとなっていたといわれています。そういう時代に、多くの思想家や享楽の生活を離れて禅定に専念する行者が輩出したといわれています。彼らは、沙門(しゃもん)といわれました。沙門の原語は、「つとめる人」という意味です。お釈迦様もその中のお一人でした。その中で、有力な思想家6人が「沙門果経」等に説かれています。その内の一人、(1)プーラナ・カッサパは、「行為による善悪の果報は無い」と考えました。すなわち「人を苦しめたり、殺害しても悪を為したのではなく罰もない。また、祭司や施し、克己等によって善の生じることはない」と考えました。先日、小学生が「悪いことをしても、裁判で有罪の判決を受けなければ、悪いことをしたことにならない」と言っていました。どこか似ていませんか?(2)パクダ・カッチャーヤナは、「人間の個体は、地・水・火・風の四元素と苦・楽・生命の7つの独立した要素の集合体であると考えました。そして、たとえば、鋭利な刀で首を切断しても、殺害をしたことにはならない。ただ刀が体の7つの要素の間を通過したに過ぎない」と説きました。現在の電子顕微鏡で刃物が人を切る所を見たならば、鉄の分子がタンパク質等の分子の間を通りすぎ、引き離した場面だけが観えるのではないでしょうか。そこには、善とか悪とかいう物質は見えないでしょう。(3)マッカリ・ゴーサーラは、「霊魂・地・水・火・風・虚空等の12の要素で生物が構成されていると考え、全ての生物は、定められた運命と偶然と本性によって生死の輪廻を繰り返し、長い時間の後、終には消滅する。そこには、原因や条件、行為、意志等は関係しない」と考えました。一方、仏教は、全ての事象は、因と縁、そして意志や行為が深く関わって、常に変化していると考えます。仏教は、自然科学的なものを否定する訳ではありませんが、何よりも心を中心にして考えます。そして心により為される行為が幸せになるための重要な要素と考えます。後の3師は、別の機会に。

■行(ぎょう)とは両(ふた)つの心を同じところにおいて歩む姿なり
私たちの気持ちにはおいしいものをお腹いっぱい食べたい気持ちと、体に負担にならない少食菜食をする両極の気持ちが食事の時に顔を出します。朝には「まだ布団に居て起きたくない」と「早起きするとすっきり気持ちがよい」とが葛藤します。服装では「こんな柄や形や素材は気に入らない」と「寒さや体を守ってくれる衣類があればいい」とがお店の前で心を揺らせます。他人は汗を流し智恵を絞って力の限り取り組んでいても、私は楽に過ごせるほうがいいのだと言い切ってしまう心があります。人と接する時は優しく配慮の行き届いた対応をしたい心と、どうみられたって構わないから我が勝手に過ごしたいとも思ってしまう。
その両(ふた)つの心は片方が良くて、一方はなくさないといけないと自分に硬い枠組みをはめてしまうとバランスを欠いてしまい、「何故こんなことをしないといけないのか」と問い、長続きしないものになってしまうのかもしれません。また、自己中心のまま生きていると周りの存在が小さく意味のないものに見えてしまいます。
人は用事が有って忙しい時にはのんびり過ごしたいと思う。暇があるときは退屈で仕方ない。人はないものを意識した時、ねだって余計に欲しくなる裏腹な心に襲われます。人のお世話をする時も「私が一方的に犠牲になっても構わない」と考えたり、「お世話してもらうばかりで何も返せるものがなく迷惑だけが残っていく」と考えると、肩をすぼめて寂しく生きていかざるを得ないのではないでしょうか。
しかしあなたに対しみんなが求める姿なのですか? 自分が見えているだけのものしか与えていないのではなく、見えていない多くのものを人に与えながら生きているのです。私たちの心には人が見ていないから悪いことしても構わない、知らないからうそをついても構わない、人が評価しないから力を抜いてやればよい、などの心が顔を出す時もあります。でも一番傷つき、許しがたいのは自分なのです。
そのようなあれこれの心に耐えながら、前進するところに行があるのです。両つの心を越えて生きようとするのが行なのです。今持っている価値観より、もう一段高い価値観へと近づこうと力を尽くすのは喜びにつながります。
伝教大師は「発し難くして、忘れ易きは善の心なり」と説かれ、善の心を実践しようとする時「忘己利他」の心を持てと説かれています。人と共に取り組む共同性が大切になります。人と共に目的に向かう、人と共に喜び合う、人と共に難しさを工夫する、人と共に力を尽くす。これらに叶うのが善の心です。善い行いが出来た後味は、すがすがしく我が心を満たしてくれるでしょう。此れを重ねながら生きていくのが生活にある行(ぎょう)の姿ではないでしょうか。

■合掌の心
二〇二〇年の五輪・パラリンピックの開催都市を決定する最終プレゼンテーションが行われ「東京」をアピールするプレゼンターを努めた女性キャスターは流暢なフランス語を駆使して立派にその任を果たし、最後は日本語で「お・も・て・な・し」と結び合掌して締め括った。その姿は優しく、美しく、そして「東京開催」を大きく引き寄せたと思います。
合掌は南アジアなどでは日常の挨拶としていますが、その対象が本尊となれば【信心】となり、父・母ならば【孝養】となり、お互いに合掌し合えば【和合】〈穏(おだ)やかな気持ち〉となり、目上・上司・先輩に向かい合掌すれば【敬愛】〈敬(うやま)いの心、親しみの心〉を表すと言います。又、事物に向かって合掌すれば【感謝】となる。
形は一つですが意味は色々有り、我々生きていく上には常にその意味を噛み締めたいものです。
たとえば、相手が強い調子で言ってくると、つい負けまいと更に強く出てしまう。これでは終止がつきません。双方が相手を大事に思う心。合掌の心で接すれば話も前進を見ることでしょう。又、他人(ひと)から親切にされて「ありがとうございます」と素直に感謝の念を表す時の気持ち良さは、言った方も言われた方も最高ですし、周りの第三者まで明るくなります。
仏像の中には合掌の姿をされている方がおられます。慈悲そのものを形として表しており、私たちの心に秘めている仏性に対し合掌されているのでしょうか。
仏さまの前に純真な心で向かうことこそ合掌でしょうが、親子・兄弟・夫婦・師弟・仲間・友達・初対面の人にも合掌をする心を持ち続ける心掛けは即ち【慈悲】であり【想い遣り】です。ひいては「おもてなし」にも通ずるのではないでしょうか。 合掌

■阿弥陀二十五菩薩来迎図について
阿弥陀様を中心にして、多勢の菩薩様たちが雲に乗って降りてくる有様を描いた絵であります。これを「聖(しょう)衆(じゅう)来迎図(らいごうず)」または「来迎図」とも申します。絵の右下に人が臥していますが、これは臨終の時に阿弥陀様が多勢の菩薩様を引き連れて迎えに来て下さる有様を描いたものです。
彼の国に生ずる時、この人、精神勇猛なるが故に、阿弥陀如来は観音(かんのん)、勢至(せいし)、無数の化佛(けぶつ)、百千の比丘声聞大衆、無量の諸天、七宝の宮殿と共に行者の前に至る。
阿弥陀佛は大光明を放って行者の身を照らし、諸々の菩薩と共に手を授けて迎接し、観音、勢至は無数の菩薩と共に行者を讃歎し、その心を勧進す、聖衆来迎図、には、阿弥陀(あみだ)三尊(さんぞん)来迎図(らいごうず)、弥陀(みだ)一尊(いっそん)来迎図(らいごうず)、山越(やまごえ)来迎図(らいごうず)、還(かん)来迎図(らいごうず)等種々ありますが来迎図の多くは、阿弥陀佛の他二十五菩薩が共に白雲に乗って迎えに来る図の様です。二十五菩薩を記しておこう。
一、観世音(かんぜおん)菩薩 二、大勢至(だいせいし)菩薩 三、薬(やく)王(おう)菩薩 四、薬上(やくしょう)菩薩 五、普賢(ふげん)菩薩 六、法(ほう)自在(じざい)王(おう)菩薩 七、獅子吼(ししく)菩薩 八、陀羅尼(だらに)菩薩 九、虚空蔵(こくうぞう)菩薩 十、徳蔵(とくぞう)菩薩 十一、宝蔵(ほうぞう)菩薩 十二、金蔵(こんぞう)菩薩 十三、金剛蔵(こんごうぞう)菩薩 十四、光明(こうみょう)王(おう)菩薩 十五、山海(さんかい)慧(え)菩薩 十六、華厳(けごん)王(おう)菩薩 十七、衆(しゅう)宝(ほう)王(おう)菩薩 十八、月光(がっこう)王(おう)菩薩 十九、日照(にっしょう)王(おう)菩薩 二十、三昧(さんまい)王(おう)菩薩 二十一、定自在(じょうじざい)王(おう)菩薩 二十二、大自在(だいじざい)王(おう)菩薩 二十三、白(びゃく)象(ぞう)王(おう)菩薩 二十四、大威徳(だいいとく)王(おう)菩薩 二十五、無辺(むへん)身(しん)菩薩
二十五菩薩の来迎図は、藤原時代末に盛んに描かれたのですが、当時の人にとってこの世は末法時代に入り終末の様相を呈し、この世への厭世観から来世の極楽浄土に対して強い憧れが生まれております。 
 

 

■とらわれの心
般若心経の教えは、とらわれの心を無くすことだとよく言われます。
日本人が共通してとらわれているのは数字の四です。「死」に結び付くと解釈するようです。
こんな話を聞きました。某有名大学で哲学を学んだ青年が、県庁の職員に採用されました。お父さんがお祝いに、通勤用の乗用車を買ってくれたそうです。届いた新車のナンバーが、「69−94」でした。この青年はこの数字を「碌(ろく)でなしが、苦しんで死ぬ」と語路合わせで読みました。こんな車には乗れないと、お金を出してナンバーを変えてもらったということです。
また先日比叡山団参の為、観光バス五台で出発しましたが、「四号車」は「寿車」となっておりました。
四を死と関連づけて嫌うのは、日本人だけでしょう。四を「よん」と読んで、喜びの「よん」とすることは出来ないのでしょうか。
人間はとても弱い存在で、来たる将来には誰でも不安があります。
その不安を避けるために、そうあってほしくない事柄を、語路合わせしてでも避けるという心理的知恵が働くのでしょう。
社会心理学で不安とは、「破局に対する漠然とした予感」と定義されています。よく恐怖と対比されます。恐怖には特定の対象が明確ですが、不安にはそれがありません。
四を死と関連づけて避けようとするのは、人間の心理的な知恵かもしれませんが、仏様の智恵ではありません。
般若心経の『諸法空想』の教えは、一切の執着や、とらわれることを否定して幸せになる方法です。情緒状態まで克服する修行(訓練)が必要なのではないでしょうか。

■今日を生きてる運のよさ
今は、いろいろなエンターテインメントに押されて聞く機会もなくなりましたが、三味線の音で弾き語りされる都都逸(どどいつ)は、人生の言い得て妙な生き様を軽妙洒脱にとらえた名文句の宝庫です。
なかでも青木仙十作、「くじも当たらず出世もなくて、今日を生きてる運のよさ」は、傑出しています。
人は、まわりを見て自分のことを知ります。世間的な常識のことも分別と言います。分別心をもつことはおとなの条件ですが、分別だけですと最後には虚しさが残ってしまいます。
「上を向いたらきりがない、下を向いたら後がない」
この虚しさを、無理して満たそうとすると、上にはねたみ、下に向けてはおごりのこころが生じます。
せっかちで落ち着かない分別を止めてみると、元気でいるからこそ、喜びもくやしさもあるのだと気づきます。すると、一時のくやしさにとらわれない新たな元気が得られます。人生にくやしいことがあったら、いったん引いてみましょう。こころの虚しさは、分別にもとづくつまらぬこだわりから来ることが分かります。こころの置き所の転換、それがストレスを解消するのです。
もう一題、「諦めましたよ、どう諦めた、諦められぬと諦めた。」
色恋話を別にして、これが、転換させることによるストレス解消の論法です。このような転換を試みると、世界は不思議と面白いものに見えてきます。
「今日を生きてる運のよさ。」 どうです?わだかまりがとれて、こころが晴れ晴れとするでしょう。

■「智目行足」(ちもくぎょうそく) 布施行のすすめ
三つ子の魂百までもという諺がありますが、どのような価値観の基で育てられたかは人生を大きく左右します。最近の親の大半が「人に迷惑をかけない人に育てる」を主眼にしています。人に迷惑をかけ献身的努力に支えられて子は育ちます。このことなしに生きられない子のために神は、「あどけなく、憎めない笑顔」を子どもに贈られたのです。子の笑顔は世話をする人にその苦労も迷惑も忘れさせる力を秘めています。家庭教育で、絶対教えなければいけないことは、「周囲の人に迷惑をかけ支えられて育ったのだから、感謝し恩に報いなければいけない」ということです。人に迷惑をかけないという内向けの教育を受けた子は成長して後、人から迷惑をかけられることを避け、その結果、無縁社会の発生の一因にも連なります。
休むことなく動く五臓六腑の身体の営み、生命を維持するための食事には尊い動植物の生命をいただき、偉大な宇宙の生命を育む力に抱かれて人は生かされて生きているのです。この事を認識できるのは、人間だけでしょう。宗教は、ここが出発点です。人間とは何者か、どう生きれば良いか。その方向を示す羅針盤が仏教でもあります。お釈迦様は、教えの中で常に布施行を勧めておられます。伝教大師様も同じです。発願文に、「人身(にんしん)を得(え)て徒(いたずら)に善業(ぜんごう)を作(な)さざるを聖教(しょうぎょう)は空手(くうしゅ)と嘖(せ)めたまえり」と。又、山家学生式に「能く行い能く言うは国の宝なり」と布施行の実践を強調されております。「働く」とは、「身を動かし、はたの人を楽にさせる」ことを表した文字です。書店に行くと仏教書がずらりと並んでおりますが、学んだことを実践することが大切です。これを「智目行足」といい、仏教の基本であります。
卑近な例ですが、カンボジアを訪問、向学心があっても学校の絶対数が不足の農村部を見て帰国。布施行として小学校建設を呼びかけ4名の住職の賛同を得、現地の友人に手伝いを願い土地の手配・設計の見積りや地鎮祭・落成式に至るまで交流を深めながら昨年12月8日の成道会に落慶式を完了できました。他の友人が、井戸のない農村に4本の井戸を掘り贈られました。5教室とトイレ付き200名の小学校を設置させていただきました。
布施行は、日常生活の中で誰にでも出来ます。「無財(むざい)の七施(ななせ)」がそれです。子は子なりに、学生は学生なりに、成人も老人も病人も、そのままで布施行はできます。眼施(げんせ)【目はいつもやさしく】。和眼悦色施(わげんえつじきせ)【ほほえみをたたえ】。言辞施(ごんじせ)【すみません・ありがとう・おかげさまで・どうぞ 等素直にいい】。身施(しんせ)【人のため自分の力をつくす】。心施(しんせ)【助け合い・かばい合い・信じ合い】。床座施(しょうざせ)【席を譲る】。房舎施(ぼうしゃせ)【家の中で休んでもらう】の七種の布施行です。
健康を害した今、境内と幼稚園の掃除を毎日続けて、来た人が少しでも楽しく過ごせることを願っての布施行です。

■大地の恵みに感謝して
私たちは、自らエネルギーを作ることができない為、さまざまな生命(植物や動物など)からエネルギーをもらわないと生きてはいけません。当たり前だと皆さん思うことでしょう。今一度、生命の大切さとその恵みについて考えてみましょう。
近年は、気象庁観測以来の大雨や大風などの異常気象で各地の農作物に被害が多く見受けられますが、そんな状況下でも春には可憐な花が咲き、秋には葉を紅葉させ心を和ませてくれます。また、四季折々の果実が実り私たちを幸せな気持ちにさせてくれます。皆さんの庭や地域に、さまざまな果樹が植えてあると思いますが、その木には毎年たくさんの実が生るのではないでしょうか。皆さんは、その実を採り食べていますか。最近は、実が熟しても食べてもらえず、そのまま朽ちているのをよく目にします。何十年も昔のことですが、夏には、いちじく・桑の実・ぐみ等、秋には、柿・栗・みかん等、実が熟すのがまちきれずによく採って食べたものです。今日では、スーパーに行くと季節問わず産地より運ばれ、形も画一で店頭に並べられており、不揃いで一寸味も劣る庭の果実を労して採らなくても、何時でも安易に美味しい品物が手にはいります。その結果本来そのモノの持つ味が変わったように思います。庭の果実も食べ方次第で美味しく頂けるものです。大地の恵みに感謝して来年も実が生るように願って肥料を施し樹木を愛でるのです。
以前、中国の国清寺に訪問参拝した折に近くの果物屋に立ち寄ったときのことですが、店先の果物は日本で見るものと違い、形も不揃いで新鮮さもないように見えました。しかし、店主は丁寧に扱い品物を愛でていました。品物の産地を訪ねたところ、「自分の庭で収穫した品物だから形は整っていないがとても美味しいですよ。」と言いました。正に正論。大地の恵みに感謝しなければと教えられた気がしました。
日本は今や経済大国と言われて久しいですが、私たちはもっとモノを大切にしなければならないと思います。日々の生活の中で「もったいない」と言う言葉を忘れかけているのではないでしょうか。「もったいない」と言う精神は先祖から受け継いでいる素晴らしい心です。経済がいくら豊かになっても心の豊かさが失われていては何もならないと思います。人々がもし本当の豊かさを求め願うなら、私たちの身の回りにある沢山の宝物があることを知る必要があります。庭の果実だけでなく、すべてのモノをもっと大切にしないといけませんね。皆さんも一度見直してみてください。

■「一隅に照やく人となれ。」 (倦まず、弛まず)
師父の詠まれた歌『一隅にかがやけとこそ、のらすなる、祖師の、み旨に、何如にか応えん。』
あれはもう随分昔の事。今は亡き父母から私が幼き時分によく聞かされ、また、教えられた言葉が今更ながらこの年齢になりこころに沁みるように甦って参ります。それは、私が小学生当時、家で勉強していると、近くで鳴っているテレビの言葉がどうしても耳に入り、勉強に集中できないことが度々ありました。
すると、「あなたは、集中力がない。飽きっぽい。」と、よく父母からたしなめられたものです。当時、私が住んでいた寺の広い境内を、一年365日いつも、熱い夏の日差しの中も、また、寒風吹き荒ぶ冬の日も、一日も休むことなく丁寧に清掃のお勤めをされていた、もう80歳をとうに過ぎた老女がおられました。その方は、参詣に来られる方々からの「あー。いつ来てもこのお寺は綺麗に清掃してあって気持ちがいい。本当に綺麗にされている。」との声を励みに、信仰する本尊様の為、日々境内の清掃奉仕のお勤めをしておられました。私の父母は、その方を深く尊敬しており、あのおばあさんの様に、どんな仕事も『日々、うまず、たゆまず』努力する事の大切さを、教えていただきました。
『うまず、たゆまず勤める』ことにより、その世界には無くてはならない存在になる。誰もが皆必ず、『一隅に照(かが)やく人になる。』と。
あれから数十年が過ぎた今も、暑い日に清掃が行き届いている境内を見回すと、今はもうとうに亡くなったそのおばあさんの影響を受け、遺志を受け継いだ方々の手により、今もなお、境内は清掃が保たれて、参詣の方々にたいへん喜んでもらっています。

■生きていく力 ― 使命
平成元年、結婚して30年になる或る夫婦に苛酷な試練が始まった。それまで風邪ひとつひかず元気であった彼女に突然奥歯上に激痛が起こり、七転八倒の苦しみが始まる。病院を転々とするうちに全身のだるさ、料理の際の包丁が握れなくなり全身脱力。歩行困難、息苦しさ、話す声も次第に出なくなり、字も書けなくなる。
平成2年に「10万人に1人の割合で発症する病、筋萎縮性側索硬化症、略してALSです。世界的に原因が究明されてなくて治療法がありません」と告げられる。五本の指が小指から一本ずつ5日で動かなくなり、全身の激痛。食べ物は喉を通りにくくなり鼻入経管栄養で体力を保ち、ついには気管切開、胃ろうの手術、呼吸器に繋がれて生かされる。ALS患者は運動神経がやられて体が動かないだけで、あとは皮膚の感覚すべて正常。蚊が顔にとまっていても自分で追い払うことも顔を背けることも出来ない。痛い、かゆいといった感覚は正常に働いているから残酷。自殺することも出来ない、もっとも残酷な病気を背負って彼女は、平成26年2月9日に76歳で亡くなった。呼ばれて自宅に枕経をあげに訪れた時、「死にたい、死にたい!」と訴えていた彼女が、今日まで生きつづけた力は、どうして何処から得たのか聞かされた。
生きる力を得たのは動かない全身のなかで目の瞬きだけが残されていることに、彼女は仏様に見捨てられたのではなくて、この様な体になってもまだこの世でつとめなければならない仕事があると言われている事に気付いた。目の瞬きだけでできるアイセンサーをメガネにつけてワープロを操作して意思を伝え、ALS患者家族と会話をして苦しみや喜びを分かちあい、励ましあって、周囲の人々に生きることの尊さを伝え続けたそうです。ALSを患った彼女の人生は苦しく我慢を強いられる連続であった。しかし一瞬一瞬の出来事のなかで目の瞬きと、暖かい看護が仏からの贈りものであったと観るとき報恩の気持が生れ、この世での彼女の使命を潔く全うしたのです。この世で自分のなすべき使命に目覚めると大きなハンディがあっても共に生きられることを教えられます。

■時空を超えて
少し以前、“仏像ガール”という言葉が流行ったことがあった。
今を去る40数年前、東京の大学に在学していたころ、実は私も“仏像ガール”だった。もちろん当時は“仏像ガール”という言葉はなかった。アルバイトで稼いだお金を貯めては、奈良・京都へと出かけた。岩手の田舎の寺出身の私は、都のお寺のスケールの大きさにただただ圧倒された。
大学を卒業して岩手に戻り、小さな寺の住職となってからは、奈良・京都は遙かかなたに遠のいた。小さな寺でも住職が何日も寺を留守にすることは難しく、子育てにも追われた。そうこうしているうちに“仏像ガール”は、“仏像ミドル”(いや、シニアか?)に変化(へんげ)した。
平成24年、兵庫県加古川市の鶴林寺さんが新宝物館完成に伴って特別開帳を行うとの情報が入った。永年眠っていた仏像好きの心に火が付いた。要介護3の母親を施設に預け、鶴林寺に向かった。重厚な作りの本堂、900年もの間風雨に耐えた太子堂、そして秘仏の薬師三尊像も見事だったが、一番衝撃的だったのは、法隆寺の夢違観音とうりふたつの白鳳時代の金銅仏が宝物館にあったことだった。“あいたた観音さま”と呼ばれているというその観音様は、白鳳仏独特の穏やかな童顔だった。この観音様は1,300年以上にわたって、人間の生老病死を見てきたことになる。医学が進歩しても人間は当然のことながら病も死も免れることはできない。次々と新たな病が起こり、心を病む人は増え続け、寿命が延びた分、老いの苦しみは増したかもしれない。世界中に戦争が絶えることはなく、自然災害は拡大し続ける。数限りない修羅場を見続けてきたであろうこのあどけないお顔の観音様は今何を思っていらっしゃるのだろうか。
若いころは、東大寺戒壇院の広目天が好きで、四畳半のアパートの壁に写真を飾っていたものだった。しかし馬齢を重ねた今、広目天の憂いを含んだすべてのものを見透かすような鋭い視線にはとても耐えられない。今、部屋には鶴林寺様から頂いたあの観音様の写真がある。
1,300年という時空を超えて、柔らかな心で穏やかに微笑み続ける観音様は、童顔であるがゆえに非日常的な雰囲気をまとい、かたくなに凝り固まった心をほぐしてくれるような気がするのである。

■一掃除 二看経
お釈迦様に、周利槃特(しゅりはんどく=チューダ・パンダカ)というお弟子さんがおられました。とても物覚えが悪く、自分の名前まで忘れてしまうので、名札の「名荷」を首にかけていましたが、それさえも忘れてしまう程です。(名荷が茗荷に似ていることから、迷信で茗荷を食べると物忘れがひどくなるというのは、ここからきています。)
そんな槃特(はんどく)は、精舎を出る決心をして、お釈迦様の所へ行きました。
「お釈迦様。私は、愚か者で、みんなの修行の邪魔になるので出て行きます。」
お釈迦様は、「自分が愚かだと気づいている人は、愚かではない。自分は、賢いと思い上がっている人が愚かなのだよ。」と諭して、槃特の掃除好きを見越して、一本の箒を渡し、「塵を払わん 垢を除かん」 (ちりをはらわん あかをのぞかん)という言葉を教え、掃除の時に唱えるよう励ましました。槃特は、こんな短い言葉でも忘れそうになりながら、何年も何年も箒を持って「ちりを払わん あかを除かん」と唱えながら掃除をしました。
一つの事に打ち込んでいる槃特(はんどく)に、周りの弟子達も一目を置き、尊敬するようになりました。ついに槃特は、「ちりやあかとは、執着の心なのだ。」 「汚れが落ちにくいのは、人の心も同じだ。」と気づき、悟りを得たのです。
私の師匠は、中学三年で弟子入りし、反抗期を迎えていた私に、手をあげることも、きつい言葉を浴びせることもない優しい人でしたが、お寺を綺麗にして、自分も、また、周りの人も気持ち良くなる様努めて、心を込めてお経を唱えることが大切で、「お坊さんは、一に掃除。二にお経。」との基本を教えてくれました。
たとえ、仕事・分野が違っても「一掃除 二看経」に通じる基本が有る筈ですから、もし、道に迷ったなら、原点に帰り、基本を見直す事が最善な方法ではないでしょうか。

■除夜の鐘百八つ
こよみの日めくりもあとわずか。時の過ぎゆくのは、暮れてしまえば、矢のようにはやく感じられます。でも、振り返ってみれば、一人の人間として、また家庭として、社会全体から見ましても、一年という月日の間に、いろいろな出来事のあったことがうかがわれます。
十二月は、師走(しわす)の月ともいわれます。墨染(すみぞめ)の衣(ころも)を着て忙しそうに走り回るお坊さんの姿から、師走の月といわれるようになりました。確かに一年中で十二月ほど短く感じる月はありません。大晦日(おおみそか)になりますとこの夜は、各ご家庭でも外回りの掃除、内部の片づけものなどで大忙しです。
やがて、寺の梵鐘(ぼんしょう)が鳴り響いてきます。これが除夜の鐘です。梵鐘の梵は、清浄(しょうじょう)という意味です。この鐘の響きをじっと聴いていますと、行く年来る年の別れの合図のように、何となく心の奥底に感じさせるものがあります。
除夜の鐘は、昔、中国の仏教儀式で、弱く五十四、強く五十四鐘を打ち、合わせて百八つ打ったそうです。後になって、百八つの人間の煩悩(ぼんのう)をはらうために打つといわれるように変わってきました。
私達はお互いに、除夜の鐘を聴きながら、本年の過去を反省し、清浄潔白な心になって新年を迎えたいものです。
「元日や この心にて世にいたし」という句があります。私達は知らず知らずに朱(しゅ)に染まりがちです。自ら自分の心を清らかにすることに励む以外、手立てはありません。
本年も残すところ、あとわずかになりました。家中の汚れを大掃除によって落とすのと同じように、私達の心の中の煩悩という汚れも大掃除いたしましょう。そして、爽(さわ)やかに、新しい年の門出(かどで)を迎えたいものです。
最後に、新しい年を迎える心構えとして、私の好きな詩をご紹介しましょう。
「本気」 坂村真民
本気になると 世界が変わってくる 自分が変わってくる
変わってこなかったら まだ本気になってない証拠だ
本気な恋 本気な仕事 ああ 人間一度 こいつを つかまんことには

■最澄さまの願い
明けましておめでとうございます。健やかに新年をお迎えになられたことと、お慶び申し上げます。天台宗の総本山「比叡山延暦寺」の総本堂は、薬師如来さまを本尊とする根本中堂です。根本中堂は、天台造りと呼ばれ、外陣・中陣・内陣に分かれております。内陣は外陣・中陣よりも3メートルほど低い石敷きの土間となっており、内陣中央の本尊さまが立っておられる床と、お参りする中陣・外陣の床が同じ高さになっています。
この根本中堂は、最澄さまのご精神を不滅の法灯とともに形に表されております。内陣の深い谷は、お釈迦さまが悟られた「人間の一生は、決して楽しく喜ぶべきものでなく、むしろ思い通りにならない苦悩の深い世界」が表されています。思い通りにならない苦悩は、いくらあっても満足できない欲深さ、満足が得られない怒りや憎しみ、満足できないことをいつまでも嘆くこと。また、老い、病み、死ぬという人間存在の根元的な苦しみなどです。
お薬師さまの床と外陣・中陣の床が同じ高さは、人間に限らず命あるものは、仏の子であり、仏になる性質、仏の道を求める心をもっており、本尊さまが常に一緒に苦楽をともにしながら、思い通りにならない苦悩を覚悟しなければならないことを表しています。思い通りにならない苦悩は「煩悩」、覚悟は「さとること」です。内陣では、1年365日、僧侶が日本国の安泰、世界平和とともに、人間の煩悩(護摩木)を火の中に投げ入れて煩悩を焼き消し、さとることができるように、すなわち仏心を起こし、仏の道を求める人になれるよう祈っています。そして最澄さまは、信仰のよりどころとなることを願い、さとりの灯火として、いついつまでも仏の道を求める心(道心)を持って、一隅を照らすことができる人材を育てたいと不滅の法灯を、内陣に灯されました。
この最澄さまの願いである「仏の道を求める心」「一隅を照らす心」を大きく育み、磨き光らせ、日々実践し、幸せな生活を送ってください。皆様のご多幸とご健勝を心よりお祈り申し上げます。 
 

 

■涅槃会を迎えて
ご存知の通り、2月15日は「涅槃会」お釈迦様が煩悩の元である肉体を滅し、完全な覚(さと)りにお入りになった日、ひらたく言うと、お亡くなりになった日です。お釈迦様は生まれ故郷「カピラヴァストゥ」にお帰りになる旅の途中、「クシナガール」の地で鍛冶屋チェンダが貢いだ食べ物に当たり、沙羅双樹の林の中で静かに息を引き取られた。と伝えられています。この時、お釈迦様は頭を北に向け、顔を西に向けてお亡くなりになったところから、日本では死者を北枕にして寝かす習慣ができたと言われます。30年ほど前でしたか、「北枕は人間の理想の寝方である。死者ばかりではなく、健康な者も北枕で寝ると疲れが取れて良い。」と言う医学論文が発表されたことがありました。この日から私は頭を北に、顔は西に向けて寝るようにしていますがお陰様で大変元気です。
さて、お釈迦様はこの最後の旅で様々な教え(大般涅槃経)をお説きになりました。その中で特に有名な言葉が「法灯明、自灯明(仏の教えを頼りとし、自分自身を頼りにせよ)」という教えです。この世との別離が近いことを悟られたお釈迦様のようすに気付いた弟子達が、「世尊がこの世を去られた後、私たちは何を頼りに生き、何を頼りに修行をしていけば良いのですか?」と尋ねると、お釈迦様は「私が説いた教えを頼りとしなさい。私が説いた教えに従って修行している自分自身を頼りにしなさい。それ以外を頼りにしてはならない。」と言い残されたのです。  高度情報化の時代となり、何が真実で何が偽りかの判断が難しく、何を信じ、誰を頼って良いのか解らない世になってきました。こんな時代だからこそ「法灯明、自灯明」の教えが重みを増してきたのではないでしょうか。
今、私たち仏教徒は「御仏は私たちを正しい方向に導き、苦悩を救ってくださる。」との確信を得るために、一心に掌を合わせ、お経を読み、み教えを学ぶことが求められています。 拙寺では涅槃会には涅槃図を掲げ、参拝の信徒と共に遺経をお称えして、日頃の行いを懺悔し、お釈迦様のお徳を讃え、お釈迦様の鼻くそ(お菓子)を頂戴して、お釈迦様のお徳にあやかり、信仰を深めていこうと誓い合っています。皆さんの菩提寺でも様々な行事が営まれると思います。機会ある毎に菩提寺へご参拝頂き、各種行事に参加してご住職から御教えを拝聴し、「自灯明」と成り得る自分自身を育て上げて下さい。

■生き方としての仏教
ある会合でのお坊さんの笑い話がおもしろかった。こういう話である。お坊さんとお医者さんと葬儀屋さん三人が揃って写真に写ることになった。お坊さんが一番右端に立つと、お医者さんが「一番右端は私です。あなたは次で、最後に葬儀屋さんの順でしょう」「へ〜」と思ったお坊さんが「何故ですか」と尋ねると、「だって三人の中で、誰しも一番最初に世話になるのは医者の私です。その次が葬式をされるあなた。次に葬儀屋さんでしょう」なるほど、そういうことかと思ったお坊さんが、「実はね先生、坊さんの本当の仕事は葬式ではないのですよ。人間として“いかに生きるか”という生き方を説くことです。お釈迦さんは人間としての理想の生き方を説かれた方ですからね。ですから順番など関係ありません。それよりも順番にこだわる生き方は人生をつまらなくすることに気付くことがもっと大事ですよ」それを聞いたお医者さんは「なるほど」と合点をしたという話です。
仏教は、お釈迦さまの説かれた教えです。その教えは分かり易くいうと、自分のこころを貧しくし、苦しめる自己中心的なこころ(エゴ)のとらわれから解放されて、人間本来の、感謝に満ち、支え合って生きる、こころ豊かな生き方を説いたものです。しかし、お釈迦さまの教えに導かれないで生活していますと、つい自己中心的なエゴに振り回されてしまいます。世界中で一番可愛いのは自分になります。そして、“自分の思う通りにしたい”という身勝手な欲望が無意識に湧き起ってきます。このこころは誰にでもある自己保存本能ですが、このこころに振り回されていますと、“思う通りにならない”のが世の常ですので、ストレスや苦しみは否応なく増すばかりです。私たち人間の苦しみは、自己中心的なこころ(エゴ)に対する執着が根本です。
本来、あらゆるものは支え、支えられ、生かされて存在しています。自分だけという独立した自我はどこにも存在しません。すべてがあらゆる縁によって生かされている存在です。これが仏教の説く真理です。ですから、この真理に基づいて、自らも社会の為、人の為、一隅を照らし、感謝をし、支え合う生き方をすれば、人間本来のこころ豊かな、充実した人生を歩むことができるのです。仏教とは本来このような「仏道を歩む」生き方といえます。

■卒業写真
昨年の暮れに、小学校の同窓会に15年ぶりに出席した時の事です。年齢は、先生を除いて、みんな61歳。参加者の中には、地元を離れ、やっと定年を迎え、時間に余裕が出来たので初めて参加したという人も何人か居ました。一人ずつ前に進んで、自己紹介が始まりましたが、顔を見ても当時とのギャップが有りすぎて思い出せない人がいっぱいです。卒業から49年、今では、みんな来賓の先生方に引けを取らない程の立派な爺さんや婆さんに成っていたのです。そこで、誰が持って来たのでしょうか、何冊もの卒業アルバムが会場を回り始めました。私の所へアルバムが回ってきた時の事です、ある事に、ハッと気づきました。卒業写真の中から、順にマイクで自己紹介をしている旧友より先に、まず、自分の写真を探している私に気づいたのです。一番仲の良かった親友より、早くに自死した友より、あれだけ慕っていた女先生よりも先に、自分の写真を探している卑しさに。伝教大師様の「忘己利他」には程遠い、自分の事が一番大切で、自分が一番愛しいという自己中心で浅ましい心に気付いたのです。最低な私です。
しかし、来年6月に一千年御遠忌を迎えられる、恵心僧都は「念仏法語」中で、「人かずならぬ身の卑しきは、菩提を願うしるべなり」と、そんな私を救って下さいます。卑しさに気づき南無阿弥陀仏と唱えよと。「また、妄念は、もとより凡夫の地體なり」妄念の外に別の心は無いよ、とも教えて下さいます。私のような真の凡夫は、このお言葉に、ほっと癒され、楽な気持ちにさせて頂けます。「妄念を厭わずして、信心の浅きを嘆き、志を深くして常に名号を唱えるべし」とも、妄念の塊である私と気づき、妄念そのまんまの凡夫の心で、信じて念仏せよと。
泥の中から花を咲かせる、蓮華のように誰でも、必ず妄念の泥の中から花を咲かせる(往生する)ことが出来るよと、教えて下さっています。有り難いです。南無阿弥陀仏。

■祈りの道
昔お聞きしました、山田惠諦お座主様のお言葉を思い出します。
「名も知れぬ草だが何かの役に立つから生えている。この世に あるものは、全て価値があるから存在している。心とは、何に対しても相手の価値を認める気持ち。僧の価値はその支えになることだ。私の場合は信じてただ祈ることが、私の僧としての道だと確信している。」
私達の一生において、人間の命のはかなさと無力さを知らねばなりません。そのことが、苦しく哀しい一生を生き抜く力となるのです。信仰に無縁な人々の世界では、いつも自分が主役であると自負しています。そして、自分にも他人にも期待し過ぎてしまっています。
「名も知れぬ草だが何かの役に立つから生えている‥‥。」
人間は自然の中で、もっとも脆弱な生き物です。人の苦しく哀しい一生を生き抜くには、人間一人の力はあまりにも弱すぎます。せめて信じて祈ることが、その人生を支えてくれるのです。
ある美術館に次の言葉があります。「人はカベにぶつかると強くなると思っていた。でも、ぶつかる度にやさしくなった気がする。それが嬉しい、それが有難い。」
伝教大師最澄様の教えは、そんな弱々しい私達にも、知らず知らずの内に大きな力があることを、お示し下さいました。そして、こんな私達でも信じて祈ることにより、多くの人々の支えになれることを気付かせて下さいました。祈ること、それは、難しい経典を読誦することだけではありません。先ず、自分を忘れて、自分のことよりも少しでも他の人々のことを思うことです。そんな気持ちを、いつも自分の心の中に懐きながら仏様の前で合掌することです。そして、他の人のために生きることであります。
「この世にあるものは、全て価値があるから存在している。心とはなんに対しても相手の価値を認める気持‥。信じてただ祈ること。」 これが祈りの道であります。

■夏休み子供坐禅会
今年ももうすぐ本格的な夏がやって来ます。そして、夏休みになると早朝から子供たちが境内に集まって来ます。子供から大人まで誰でも気軽に訪れることができる親しみやすいお寺にしたいと考え、32年前から境内を夏休みの子供会のラジオ体操会場に提供して、私も一緒に体操をしています。
6時30分からラジオ体操が始まります。体操が終わった後は坐禅をしたり紙芝居をしたりして子供たちとふれあいます。「坐禅をするぞ。」というと、子供たちは喜んで本堂に上がり、間隔を取って座り坐禅の準備をします。脚を組み掌を重ねて定印を結び、背筋を伸ばしてあごを引き、軽く眼を閉じて姿勢を整えます。最初の内こそ身動きしないで静かに座っていますが、やがて「カサカサ、ゴソゴソ。」と衣服の擦れる音があちこちから聞こえ始めます。頃合いを見計らって禅杖を手に静かに立ち上がります。
子供たちは心得たもので、気配を察すると「いよいよ来るぞ。」とばかりに姿勢を一斉に正します。私は禅杖を胸前に構えて子供たちの間をゆっくりと巡った後、子供の正面に立ち禅杖を肩に軽く押し当てます。これが禅杖を打ち与える合図となります。「どうか痛くないようにお願いします。」とでも訴えるかのように、私の顔を下から見上げて「ニヤッ。」とする子供もいて、そんな時はつい私もつられて吹き出しそうになってしまいます。相対して共に合掌一礼し、子供は腕組みをして両脇腹を抱え、体を前に倒します。その両背筋に禅杖を「パシッ。パシッ。パシッ。」と3回ずつ打ち下ろします。子供たちは禅杖で打たれたら痛いだろうなという不安を抱きながらも、打たれることを楽しんでいるようにも思われます。
子供たちには夏休みのラジオ体操や坐禅の体験が、大人になっても懐かしい思い出として心に残ってくれることを望んでいます。現にかつてラジオ体操に来ていた子供たちが、今は父親や母親となって子供と一緒に訪れ、昔を懐かしんで一緒に体操をしたり坐禅をしたりしているのです。その姿は実に微笑ましく、私にとっても大変うれしいことです。私も子供たちと同じように、もうすぐ始まる夏休みを心待ちにしています。

■大自然と共に
私どもは、30年近く奥駈(おくがけ)と申しまして大峰山系熊野から大峯・吉野(紀伊山地の霊場と参詣道・世界遺産)を歩いています。山林抖擻(さんりんとそう)、大自然と触れ合う機会を持っています。
山中では七十五靡(なびき)(行所・拝所)の一木一草に手を合わせ読経しますし、急峻な坂道では「六根(眼・耳・鼻・口・身・心)清浄 懺悔懺悔」と掛念仏を唱え、身も心も清浄にして悪いよこしまなこころを悔い改めるよう願い前に進んで行きます。大自然は何の欺満も駆引きもなく大自然は大自然であります。大自然には「山川草木悉皆成仏」生きとし生けるものにはすべて仏に成りうる〜山川草木みなほとけ〜の御教えに基づくものであります。現代社会、理論・理屈も大事でしょうが、御大師様の御教え「能く行い能く言う」先ず実践・実行、菩薩行(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)を通してものごとを考え観る。大自然はそう機会を与え育んでくれる。大自然に触れ「六根清浄 懺悔懺悔」を唱え、擬死再生(ぎしさいせい)と申して心、精神的に一担死に菩薩行を終え山から再び出るときには生まれ変わる。そういう大自然に触れる機会をお薦めします。山を歩く(山林抖擻)と申しましても、人生の縮図の如くであり、人生の山、煩悩に覆い尽くされた山を日々歩んでいる訳であり、世知辛いこの世の中、今一度御大師様の御教え「己を忘れて他を利する」「能く行い能く言う」「一隅を照らす」を思い返し日々を歩んで下さい。人間は大自然の中に生きており、生かされている。この大自然が一担壊されると再び元には戻らない大自然から人間は多くの恵みを受けていることに感謝を忘れてはいけない、今一度〜山川草木みなほとけ〜を心に刻んで頂きたい。

■無駄から生れる豊かさ
私たち人間は食物連鎖のピラミッドの頂点にいます。一つの種が絶滅することはピラミッドのブロックの一つが欠けたことと同じで、欠けたブロックを再生するのは至難の業です。
愛媛県で絶滅危惧U類、松山市では絶滅してしまった、キイロサナエ(黄色早苗)と言うトンボがいます。以前、調査に同行しましたので、このトンボの保護活動について紹介します。
保護されている一帯は農村地帯で調査日の六月六日は田植が終って間もない時期でした。幅一メートル足らずの農業用水路は夏草が茂り水路と分からない程でした。このトンボのヤゴは水路の底に溜った土の中で成長します。水路の三面がセメントにされると生きてゆくことが出来ないのです。
畑で作業をされていた農家の男性にお話しを聞くことが出来ました。セメントの水路にした方が作業は楽で、お米の収穫量は変わらないが水路の清掃、管理が大変だとのことでした。農家の皆さんの理解と行動が有って、やっと絶滅を免れているのです。
水路の清掃、管理はお米の生産量においては同じでも生産効率はマイナスに作用しています。このマイナスと引き換えに一つの種が絶滅を免れているのです。私たちは多くを消費することが贅沢で豊かだと思い、効率よく生産活動をした方が得だと考えてしまいがちです。確かに一点一点においては、そうなのですが、全体のことを考えると、いつも疑問が残ってしまいます。
今回、一つの種の保護活動をしておられる農村地帯に接することによって本当の贅沢、生活の豊かさとは、こういう一見、無駄と思われることにこそ有るのだと知ることが出来ました。

■琵琶の音
天台宗の四つの伝承法流の一つ玄清法流(げんせいほうりゅう)では琵琶を奏でながらお経を唱え、三宝大荒神や諸仏を祈ります。
私たち僧侶が琵琶を弾く理由は「法華経」に由来します。「方便品」に、琵琶や楽器で妙音を奏で仏を供養するならば必ず仏道を成就することができる、と説かれています。つまり「妙音成仏」を目指す修行のよすがとして琵琶を弾奏するのです。
琵琶の音色はその時々に変わります。
私たちが弾く四弦五柱の琵琶は、桑や花梨の胴に桐の腹板を嵌めこみ太さの異なる三種類の絹糸を張った古い楽器です。お天気や気温・湿度にとても敏感で、良く響くハリのある音が発つ時もあれば、湿気を含みくぐもった音しか出ないこともあります。また、弾き手の心の状態によって音色は変わります。上手下手を超えたありのままが音となり旋律となります。自らの心を観じ、整えることが必要です。琵琶の音は琵琶と弾き手が一体となってはじめて生まれます。妙音に近づくことは容易ならざる仏道修行です。
玄清法流の開祖を玄清法印といいます。天平神護二年(七六六)、現在の福岡県太宰府市近郊に生まれた玄清は幼くして仏門に入り、十七歳で眼病を患い失明します。後の盲僧のため一派を開こうと決心し盲僧の祖インドの阿那律尊者にならい琵琶を弾き始めます。二十歳の時一大発心し、琵琶を携えて山に籠り二十一日間厳しい修行を行います。満願の朝「心願を成就したければ速やかに比叡山に登って一人の聖者にまみえ、その方を至心にお助けせよ」というお告げを授かります。玄清は早速登叡し導かれるように伝教大師最澄に出会います。当時伝教大師は根本中堂の前身である一乗止観院を建立中でした。しかし大蛇が出て御堂の建設が阻害されていたのです。地神の仕業だと察した玄清は琵琶を弾奏しながら地神陀羅尼経を唱え地神供養を行います。地神は大いに歓喜し、たちまち大蛇の難は消除したと伝えられています。玄清の琵琶を用いた祈祷には感応道交の力があったのです。
妙音成仏と感応道交、これが琵琶弾奏のテーマです。しかしそれのみならず、祈りの場に集う人々の心に琵琶の音が響くことも私たちは古くからとても大切にしてきました。私たちの奏でる琵琶の音が御仏はもとより皆様の心に届き、共鳴共振することを願って現在も修練と試行錯誤を重ねています。

■あなたは幸せですか?
「あなたは幸せですか?」という質問に、97%もの国民が「幸せ」と答えるという国、ブータン。その様子を知りたくて、私は2度、ブータンを訪れました。昨年の二度目の訪問では、前回よりも余裕をもって国民の幸福度を目の当たりにしました。まず、いたるところで国王の統治の素晴らしさを話していました。医療や教育がすべて無償で平等に受けられるようになっているので、そう感じるのは当然かもしれません。また、多くの人が口にするのは、「来世の幸福を得るために無駄な殺生をしない、他人に対して親切にする」、という教えでした。さらに最も大事なものとして、「両親、ご先祖様をはじめあらゆるものに感謝すること」を多くの方が挙げています。そして、その感謝の気持ちを持ち続けることは、自分の幸福に欠かすことのできないことだと。
今日まで世界中の政治家や経済学者は、人々の幸福には経済の発展と物質的な充足が不可欠であると考えてきました。しかし、ブータンはそれに反して、物質的な満足が必ずしも幸福につながらないと主張し続けてきました。
さて、日本はどうでしょうか。ある国際調査機関の幸福度調査によると、日本の幸福度は先進国の中で最下位だそうです。幸福度は調査の方法や基準によっていろいろな結果が出ますので、私は生の声を求めて法事の席や法話会等でこんな質問をします。
「今、幸せな人は手を挙げて。」手が上がるのはおよそ半分。今度は質問を変えて、「今、着ているのは自分の服ですか?」「昨夜は屋根のあるところで寝ましたか?」「朝ごはんは食べてきましたか?」それらの質問には、ほとんどの人が「はい。」と答えます。つまり、衣食住は足りているのに、半分の人は幸福を感じられないのです。結局、私たちが求めてきた幸福とは何だったのでしょうか。そして、どうしたら幸福を感じることができるのでしょうか。そのヒントはブータンの人たちが口にする「感謝」にあるようです。一日のうち、少しでも楽しかった、うれしかった、有り難かった、面白かったと思えることがあったら、そう感じることができたことを感謝する。不満、不足を考えるときりがありません。かといって、待っていても明日、幸福がやってくるというわけではありません。そして一度手に入れた幸福が永遠に続くこともありません。その時々にあらゆるものに感謝して、「少欲知足」と自分に言い聞かせて、幸福な自分を作ってみませんか。

■諸行無常
1年が過ぎ行くのは大変早く感じられます。しかしその移り行く時間のスピードは人それぞれで、リニアモーターカーか、新幹線、それとも特急列車か、各駅停車の鈍行列車か、それぞれの感じ方は、三者三様ですが、止まってしまっている人や逆戻りしている人は在り得ないのではないでしょうか。時には苦境に置かれ早く時が過ぎればよいのにと思うこともあるでしょう。
私たちの生きているこの世は、毎年、毎月、毎日、毎時、毎分、毎秒、毎刹那(瞬間)に移り変わり生滅を繰り返しています。ひと時たりとも同じ時はありません、刻々と変わっていきます。二度と帰ってこないのです。そのように考えますとこの一瞬一瞬の、あり難くもったいないことに気がつくのではないでしょうか。
今の自分はもう二度とないのです。
父母は永遠に元気でいてくれるわけではありませんし、妻や夫は変わらず愛していてくれるとはかぎりません。また、可愛い子供は、お父さん、お母さんと頼って擦り寄ってくるのは、あっという間のことです。このようなことを思うと、お年寄りの方々は若いものの為にもう一度がんばって何か出来ないだろうか、また、親を亡くした時もっと親孝行すればよかった、夫婦の間では優しい言葉をかけてあげられなかった、自分勝手で相手の気持を考えてあげられなかった、子供には本当の幸せを見つけられるように導いてやれなかった。等々、後悔は先にたたずと申しますがひと時の大切さがしみじみと湧いてきます。
諸行無常(この世のものはすべて移り行き生滅するもの)でありますから、一時一時を大切に、人の為になるように生きてまいりましょう。  
 

 

■安心(あんじん)を得る事
今秋、千日回峰行の最大の難関と言われる「堂入り」を延暦寺一山善住院住職釜堀浩元師が満行されました。天台宗総本山比叡山延暦寺には古来より数多くの修行が伝えられ実践されていますが、もっとも有名な回峰行。第700日目が満じた日の午後から「堂入り」に臨みます。九日間の断食断水、加えて不眠不臥でお堂に籠り、お勤めを続ける行です。新聞、ニュースなど多くのメディアに取り上げられましたのでご存じの方も多いでしょう。またインターネットやSNSなどでも関心が寄せられ、日本中世界中に瞬く間に伝えられました。正に現代を反映している現象でしょう。多くの人々が「なぜ体力の限界を超えられるのか」「苦行に打ち勝つ精神力とはいかなるものか」「苦しい修行を成し終えて生き仏になられた」といった感想を持たれたようです。
では実際にお勤めになった行者さんはどのような想いを持たれたのでしょう。「比叡山時報」のインタビュー記事を見ると、ただ淡々と感謝の言葉が述べられています。大偉業を成し遂げた自信がみなぎるような様子はまったく見られません。むしろ初めから苦しい行に臨むという気概さえ無かったかのように、穏やかな優しいお顔をなさっています。
第253世天台座主山田恵諦猊下はその自伝の中で「比叡山での私の人生を振り返ってみると、取り立てて何もお話しすることがない。こんな修行をした、苦しみがあった、努力をした、そのようなことが何もない。それは、比叡のお山で、よき師僧に恵まれ、いつも有り難く思って過ごしてきて、ただの一度も他の世界に惹かれた事がないからだ。仏様のお蔭で到着点がわかっているから安心して進めたから苦労もなかった」を述べておられます。
人はどうしても我欲に捉われてしまいます。全てが自利の為に生きるのが生物の本能なのですから仕方ありません。それ故に不安が常に付きまといます。頼るものが自分しかないのですから、行った事がない先は無明。安心が得られるはずがありません。それに対して山田猊下は「因縁を尊重し信仰を持つことで安心が得られる」と述べておられます。我を離れて他に意識を移していくと、それぞれの相対関係が理解でき、そのご縁の深さに感謝の心が沸き起こるということなのでしょう。
何かと気忙しくなる師走に入りました。ざわざわと波立つ心の様をしばし離れて空から眺めてみる。そんな時間を作って、穏やかな気持ちで新年を迎えたいものです。

■「ゆめ」をあきらめない
新年あけましておめでとうございます。
皆様、年頭に当たりそれぞれに色々な夢を描いていることでしょう。そのような皆様にアフリカのケニアで自分の夢に向かって頑張っている一人の少女について話をしたいと思います。
ケニアは動物王国・観光の国と言われています。しかし、国民は1日100円以下で生活する貧困層が60パーセントを超えるという現実を抱えています。首都ナイロビ市にはいくつかのスラム街があり、貧困・暴力・犯罪等が多発する地に数万人が暮らしています。
少女の名前は「アン・ワンゴイ」。
4歳だった彼女は、スラムの中で壊れかけた小屋に病気のお祖母さんと兄と暮らしていました。
マトマイニ孤児院の菊本照子院長は、3人を訪ね、その生活ぶりを見て即座に引き取ることを決めたそうです。
ナイロビ郊外にある「マトマイニ(スワヒリ語で希望)孤児院」は、エイズ感染や事件で親を亡くしたり、育児放棄で孤独になった子ども達が人として当たり前の生活や教育を受けられることを願って設立された施設です。
入所当初の彼女は、基本的な生活習慣が身についておらず、靴を履かずに投げ捨てたり、部屋の片隅に身を置き一人で泣いていたりしていました。
小学生になっても時々ストレスを仲間にぶつけたりしていましたが、同じ経験を持つ施設の兄弟姉妹たちは、アンの境遇を理解して優しく接していました。
そんな中、唯一、アンが落ち着ける場所がありました。台所です。
料理が大好きなアンは、台所ではいつも歌を歌いながら優しい顔を見せていました。
学校の成績が良くなく上級学校の進学を諦めた彼女は料理の職業訓練校へ進学しました。施設から教科書・制服・授業料等の支援を受けて勉学に励みました。努力の結果、上位の成績で卒業したアン「私は、もっと料理を勉強したい。」との希望を実現するために上級クラスを目指しました。
アンが幼いころから自分の心を支えてくれた「料理」。その料理に必要な材料名・道具の種類・レシピのスペル等を必死に勉強。数か国の言語も身に着けました。
卒業後、ワンガリマータイ女史(ノーベル平和賞受賞)のパーティーの手伝いや孤児院の食事の手伝いなどをしていく中、「もっと別な世界で働いてみたい」と夢が膨らみました。
現在のアンは、ドバイの7つ星ホテルで多くのお客様の接待を任されているそうです。
ケニアへの帰省では、マトマイニの弟妹にたくさんのお土産とホテルの様子を話してきかせます。一番嬉しいお土産はアンの輝く瞳と優しい笑顔です。
マトマイニの子ども達はアン姉さんから「何事も諦めないという大きな勇気」を貰っています。
貧しく苦しく思い通りにならなくとも、自分のおかれた状況を前向きに捉えて生きる姿に勇気をもらうことができますね。

■言の葉は心
東京葛飾区柴又の《寅さん記念館》を見学した折、壁に掲示された「言葉は心」という1枚の教訓が目に留まりました。
『言葉は心』(中国のある僧の言葉より)
一つの言葉で喧嘩して 一つの言葉で仲直り 一つの言葉で頭がさがり 一つの言葉で笑い合い 一つの言葉で泣かされる
処世上の格言に、「円い卵も切り様で四角 物も言い様で角が立つ」といわれるように、私達は平素、発言には注意しているつもりでも、時々うっかりしたことや、心にもないことや、或いは余りにも切実なことなどを ふと言ってしまって、相手に不快の感じを与えたり、驚きを感じさせる場合があります。そういう時にはつくづく言葉の難しさを感じます。
およそ、言葉は人間の意思を反映した表現であることには相違ないのですが、その場の状況や空気や相手のことを心の中で考えるゆとりがないと、余りにも自分の意思に忠実な発言をしても、また、それがどんな誠意から出た言葉でも誤解される事もあり、口は災いのもとなどと言っても追いつかない場面を生み出すことさえあります。
と言って、余りにも慎重すぎてあたかも「私は貝である」と言ったり、「沈黙は黄金なり」などと格言に依存する生活態度も如何なものでしょう。時と場合にもよりますが時には冗談やジョークや、売り言葉に買い言葉などが飛び交う方が人間のありのままが露呈されて、人間関係がうまくいくこともあります。
さて、仏陀の八正道の教えの中の、正見と正語は正しく考え正しく語ることで、いかなる時も正しく考えつくして、正しく発言せよと戒められているのですが、世間では誉めたつもりの言の葉が相手にとって困る場合も生ずることがあるので、まずは相手の心に寄り添い、出来るだけ傾聴(相手のお話を聞き心で受けとめる)の姿勢で臨むことこそが、正見正語を実践することのできる大きな原動力になるのかもしれません。

■釈尊の教えでないもの2
「善知識」(ぜんちしき)という仏教の言葉があります。幸せになるために役立つ知識と思われるかもしれませんが、原語は、Kalyāṇamitraで、Kalyāṇa(カルヤーナ)は、美しい、善い、優れたという意味で、mitra(ミトラ)は、友達、仲間という意味です。ですから、善知識は、善き友、善き仲間という意味です。私達は友に支えられ、友の成功や失敗から多くのものを学んで成長して行くものです。今回は、お釈迦様にとって善知識であったかもしれない思想家達(六師外道)の中からアジタ・ケーサカンバラとサンジャヤ・ベーラッティプッタをご紹介します。
アジタ・ケーサカンバラは、世界は元素から構成され、人間も元素からなり、死ぬと元素に戻るだけで、死後には何も残らない。そこには、霊魂や来世、善業・悪業の果報も存在しないので、祭祀や布施など無意味であると考えました。そして、地水火風の4つの元素のみが実在であり、それらの活動領域として虚空があると考えました。元素については、仏教でも同じように考えておりました。今でも時折使われます「四大不調」とは、四大(地水火風)の調和が崩れて病気になることをいい、「四大空に帰す」とは、死ぬことを意味します。しかし、仏教では、善い行いや悪い行いの果報が有ると考え、それに基づいて輪廻を考えるところが異なります。
サンジャヤ・ベーラッティプッタは、お釈迦様とほぼ同時代の人で、仏教教団を支えた二大弟子の舎利弗・目連は、彼の弟子であったといわれています。彼は、形而上学的問題に関する判断中止の思想を明らかにしました。例えば、「死後の世界があるかどうか」の問いに対して、「私は、有ると考えたなら有ると答えるであろう。しかし、そうだとは考えない。そうらしいとも、そうでないとも、そうでないのではないとも、・・・とも考えない」と答えたといいます。彼のこうした考えは、後に、ことばと対象・認識に関する深く広大な思想に係わっていきます。お釈迦様は、形而上学的問題には、無言をもって答えられました。これを「無記」といいます。
お釈迦様は、当時の思想家達を「彼らは互いに論争をし、反対論者を愚者だという。彼らは、己の見解への執着によって汚されている」と評されました。意見を十分聞いて、幸せになるために役立つかどうかを考えて、諸々の論争を超越したのがお釈迦様の教えであるといわれています。

■遺影が笑った
お檀家さんのお葬式を厳修するのが僧侶の役目とはいえ、さまざまな死に直面すると思わずもらい泣きしそうになることもあります。ある御婦人は夫の死のショックにより火葬場で失神されました。あるお婆さんは気丈にお葬式を終えられましたが初七日の日に号泣されました。また「百か日法要は卒哭忌といい、声を上げて泣くことから卒業する日とされています」と話をすると今までの悲しみが噴き出してきたのか、ポロリと涙を流した娘さんもいました。
そんなある日、三回忌法要を終えた時、施主である奥様が「主人の写真が笑ったように思うんです」とおっしゃいました。光の加減や見る角度によって多少見え方が変わることはあるでしょうが、写真のご主人が笑うはずはありません。
彼女の夫は病気の進行が速く、発病後わずか数か月で亡くなりました。以来、枕経、お通夜、お葬式、初七日から満中陰まで、百か日、お盆、一周忌と法要を重ね、また日々のお供養も熱心にされました。次第にご家族も元気を取り戻し、自分にできる生き方を一生懸命なさってこられました。
そうして迎えた三回忌。奥様には何か吹っ切れたものがあったのでしょう。私は奥様の心の内が変わったのだと思いました。晴々した心で見た主人の写真は以前に増して、笑顔だったということでしょう。その後もたびたび、その奥様は「また主人の笑みが増えたように見えません?」と私に話しかけられます。
私たちの務めに故人に対する回向がありますが、そのことを通して、ご遺族が明るく生きることができるように励ましていくことは重要です。それを故人があの世から眺めて微笑んでくれているようにご遺族が信じて生きていく時、益々、ご遺影が笑うお宅が増えていくことでしょう。

■ステキな毎日を
比叡山には、世界中からたくさんの人々がいらっしゃいます。
海外から来られた方々から、日本という国や私達日本人の何気ない日々の生活をほめてもらえる事があり、嬉しくなったりします。「日本はどこへ行ってもゴミが少なくてきれい」、「日本は昔からの伝統をきちんと守っていて、その文化にふれると心が癒される」、「日本人はいつもマナーが良く、他人を思いやる気持ちがあり、親切だ」等々。でも、そういった事は、別段私達が意識して行っているわけではないのです。普通にしている事を特別な事としてほめてもらって、返って驚いてしまったりします。
そんな日本の伝統や文化、日本人の心根とか、いったいどこから来ているものなのでしょうか。
奈良時代、聖徳太子は日本という国を国際社会と肩を並べられるしっかりとした国家とする為に、初めて法律を定めました。「十七条の憲法」です。第一条「和(わ)をもって貴(たっと)しと為(な)し、忤(さから)う無(な)きを宗(むね)と為(な)す」で始まる憲法は、自分以外の人の個性をちゃんと認めて、みんな仲良く幸せに生きていく事が大切であるという事を国の礎(いしずえ)にしたのです。
平安時代、聖徳太子の考えを尊敬し、その教えを引き継いだのが伝教大師最澄様です。比叡山で学ぶ人々に基本となる姿勢を『山家学生式(さんげがくしょうしき)』という書の中に「国宝とは何をいうのか。それは道心(どうしん)〈自利利他の心〉を持っている人の事である。みんなそれぞれが今いる場所で頑張っている〈一隅を照らす〉そんな道心を持った人の事を、西の国では菩薩(ぼさつ)と呼び、東の国では君子(くんし)と呼んでいる。仏教の宝物は、自分が悟りを開く為にも、自分だけでなく、他人(ひと)の為にも力を尽くす事ができる人の事である」と記(しる)されています。
その教えは比叡山で学ばれた鎌倉仏教のお祖師(そし)様たちも、お釈迦様をはじめとして、聖徳太子、伝教大師と紡(つむ)がれてきた教えを継(つ)いでいくという信念のもとに、新しい宗派を展開されたのだと思います。重複しますが、聖徳太子は「自分以外の人の考えを認めて、尊敬し合い、みんな仲良く幸せになろう」と教え、伝教大師は「仏教の修行というのは、自分だけのものではなくて、他人(ひと)の為に尽くす事〈忘己利他(ぼうこりた)〉が揃って完成されるもの」と教え、長い歴史の中で自然に人々の心に根付き、現代にまで伝えられてきたのではないでしょうか。
だとすれば、これからも外国の人をして「日本て良いな、日本人はステキだなあ」と言わしめる素晴らしい国・人でいられるように、私達は心安らかに、日々をおろそかにせず、暮らしていく事が大事になるでしょう。
私も毎日を楽しみながら、精進し、みなさんの幸せをお祈りしています。

■仏さんがいっぱい
お寺には仏さんがたくさんお祀りされています。あなたのお家の檀那寺やご近所、また京都・奈良あたりのお寺に参拝されたとして、そのお堂のご本尊が、何という名前で、どんなお願いごとを聞いてくださる仏さんか、ピンときますでしょうか?
阿弥陀さん、お薬師さん、お釈迦さん、観音さん、お不動さん、毘沙門さん・・。名前を挙げればどんどん出てきます。じつは、お祀りされている仏さんの種類が最も多いのが天台宗のお寺だということを、あなたはご存知でしたか?
仏さんにはみな名前があるのと同時に、その仏さんのことを説いたお経によって、それぞれがどんな願い事を聞いてくださるのかが本当は決まっています。(もっとも、それより仏さんにお祈りする人の心根の方が大事なので、何の仏さんであれ、どんなお願いごとをしてもまったくかまいません。)
天台宗の宗祖、伝教大師や慈覚大師、恵心僧都など、その後の比叡山のお弟子さん方は、世の中をさまざまな立場で生き、さまざまな苦しみを抱える人々を救うには、その人、その苦しみに応じて、できるだけ幅広く、多様な手段があった方がいいと考えられました。ご本尊が何であっても、そこで法華経を読み、説くことを中心にすえる一方で、お不動さん、お薬師さんの前で護摩も焚けば、在家さんにお写経や止観(座禅のこと)を勧めたりするのも、そのためなのです。
そもそも仏教の教えでは、仏さんは無数にいると説かれます。誤解している人が多いのですが、仏さんはあの世にだけいる訳ではありません。観音さんやお地蔵さんは「菩薩」という肩書の仏さんですが、菩薩は完全に悟った仏(如来といいます。お釈迦さんや阿弥陀さん、薬師さんなど)に至ろうと日々修行する人という意味です。ですからあなた自身も「私がもし仏さんだったら、周りの人にこんなことをしてあげる」ということを常に頭において、できる限りそのことを実践しようと努力されていれば、立派な菩薩であり、仏さんの仲間なのです。
いま熊本は大地震でたいへんなことになっています。テレビが映し出す、各地から駆け付けたボランティアの方々や、それに感謝する被災された方々は、まさに菩薩であり仏さんです。またそれを見て、「自分にも何かできることはないのかな。」と思い、何か行動しようとするあなたもやはり菩薩であり、仏さんになる入口に立っているのです。私たちの住むこの世界が、そんな仏さんでいっぱいになるといいですね。

■心のよりどころを
一昔前までは、どこの家庭にもお仏壇がありました。ロウソクに火を灯し、仏飯やお茶、お香などをお供えし手を合わせます。朝には「今日、一日が始まります、心安らかに無事に過ごせますように」と祈り、晩には「一日を無事に過ごすことが出来ました。ありがとうございました」と感謝の念を捧げます。その親の姿を見て、子供達も自然と真似をし、その所作を身に付けながら、仏様や今は亡きご先祖に対する尊敬の気持ちが芽生えました。また姿や形がないものに対しても畏敬の念を抱き、謙虚な気持ちを持つことが出来たのでしょう。それは日本の良き伝統、素晴らしい習慣でした。
今日では住宅事情や核家族化それに少子化などにより、自宅にお仏壇をお祀りしている家庭は激減してしまいました。そのことが、現在日本人の生きにくさや閉塞感と言ったものに関わっているのではないでしょうか。
社会の中で生きてゆく上で、多くの事が我々に起こります。それは楽しいことばかりではありません。時には人間関係のトラブルや仕事の失敗などにより気持ちが落ち込み、心にわだかまりが出来てしまうこともあります。そのような時こそ、お仏壇の前に座り仏様やご先祖に対峙し、思いの丈を打ち明けてみましょう。無論すぐに答えてくれはしないでしょうが、お仏壇の前では正直な自分の心、素の自分が見えてきて、その中で気付くこともある筈です。すると、いつの間にか心は穏やかになり、気持ちも前向きになります。
お仏壇の前で手を合わせ祈ることは、心を調え、心のよりどころを得ることでもあるのです。家にお仏壇がなくなった現在の日本人は、心のよりどころをひとつ失ってしまったことになるのでしょう。
もちろん今日では、新たに仏壇をお祀りすることは容易なことではありません。必ずしも、お仏壇でなくても結構なのです。縁のある仏様やお寺のお札、お守りだけでも良いでしょう。それらを部屋のどこかに置き、手を合わせ祈る場所にする。生活空間の中に、ほんのわずかでも、そんな場所があれば、心のよりどころとなり、心穏やかに安心を得ることが出来るのではないでしょうか。あなたも心のよりどころをみつけてみましょう。

■虚空のごとく生きよ
「色即是空、空即是色」はどなたもご存じの般若心経の有名な文句です。でもこの教えを、実際、どのように生かしたらよいのか、わかりにくいものです。そこで、ご法要のときに天台宗でよく唱えられます、もうひとつの言葉をご提案しましょう。「処世界(しょせかい)、如虚空(にょこくう)」、すなわち、世界に処(しょ)する(※居る)ときは虚空(※なんにもない)のごとくであれ、ということばです。
わたしたちの身の回りはあまりにせわしない。毎日がしなければならないことでいっぱい。したくてもできない、やりたくなくてもやらなければならないということが多すぎます。それこそ生きていることが嫌になっちゃうこともあります。こんなときには「虚空のごとし!」。
拙僧は仕事がら、お葬式によくかかわりますが、故人は最期を迎えたとき、生きてきてよかった、生まれてきてよかった、と思ってくれていたかどうか、心配なときがあります。人生、いつも充実しているとは限りません。世知辛い世間、しがらみの多い世界。将来も不安、過去も後悔。こんな世の中のことを「娑婆(しゃば)」とか「憂き世(うきよ)(※浮世)」とかいいます。娑婆は梵語で「サハー」といい「忍土(にんど)」と訳され、つらいことがいっぱいの世界のことです。どんなに頑張って成果をあげた人でも最後には死が待ちかまえています。ときによると何のために生まれてきたのか、深い懐疑に突き落とされることもあるでしょう。
このうっとうしい娑婆をどう乗り切るか。「虚空の如く」、これでしょう。どのようにしたらよいでしょうか。ふつうによくやっているのは、映画を見たり旅行に行ったりする憂さ晴らしです。でもこれは日常の延長の趣味の範囲です。お寺に行きましょう。法事に参加しましょう。お寺や法事は、観劇や旅行と同じように、非日常空間に触れることができるのです。「非日常」から見れば「日常」はたわいのないもの。これを達観すれば軽妙洒脱の感を得られます。
でも軽薄ではいけません。虚空の「如(ごと)し」です。「如」は「同じ」であるとともに「似たようなもの」という意味をもちます。だから世間の重みも同時に知ってこそ、軽妙さが生きてくるのです。こだわりをなくしてこそ、ほんとうに大切なもの、こだわらなくてはならないものが見えてくるのです。この逆説が般若心経の真意と思われます。この自在感を得るこころのありようを作るのが「虚空の如くあれ」でしょう。

■「地獄」と「極楽」
お盆になると、幼い頃、母方の菩提寺にお参りに行き、「地獄絵図」の掛け軸を見たことを思い出します。
母は言います、『よく見なさい。人は死ぬと閻魔大王の前に行き、そこで裁きを受け、善い行いをした人は「極楽」という素晴らしい所に行けるけれども、悪いことをした人は「地獄」に堕とされる。「閻魔さまの鏡」がその人の行いを全部映し出してしまうから、どんな言い訳も通じないんだよ。食べ物を粗末にした人のご飯が燃えたり、嘘ばかりついた人が舌を抜かれたり、鬼に追い立てられて〈血の池に落とされる人〉〈釜ゆでされる人〉〈針の山を登らされる人〉がいるでしょう』。母の言葉を背で聞きながら、生々しい描写に息を呑んで見入ったものでした。
そんな私も、成人を過ぎた頃には「科学万能の時代、地獄なんて作り話」などという考えになっていました。ところが社会人となったある日、シンガポールに行く機会に恵まれ、「タイガーバームガーデン」という遊園地を訪れた時のことです。当時、園の入り口には龍の形をしたトンネルがあり、その内部には「地獄のジオラマ」が作られていました。まさしく子供の頃に見た地獄絵図の立体版です。子供たちはもちろん来園者の全てが、この地獄のトンネルをくぐらなければ園内に入れない仕組みになっていました。『まず「地獄」をとくとご覧なさい。それができたら「極楽」で思いっきり遊びなさい。』という設立者からのメッセージが聞こえるようでした。「地獄」と「極楽」は、世界中のほとんどの宗教で説かれ、死後の世界を通じて善悪を考え、人々が正しく生きて行くための道しるべとなっているのではないでしょうか。
さて、現代に伝わる地獄絵図は、平安時代の恵心(えしん)僧都(そうず)「源信(げんしん)」というお坊さんが、比叡山の横川(よかわ)というところで著された『往生要集(おうじょうようしゅう)』に由来します。この本は「念仏を唱えさえすれば誰でも極楽に行くことができる。」という日本浄土教の基礎になりました。源信和尚は『地獄を直視してご覧なさい。地獄は決して空想の世界ではなく、実は現実を映してもいるのです。地獄に堕ちるような悪い行いをしてしまった人も心から懴悔(さんげ)して、仏を念じて正しい道を進む努力をすれば、仏さまは慈悲の心で必ず救って下さいますよ。』と教えています。
みなさまも、ご先祖さまの精霊(しょうりょう)がお家に帰られるお盆などに、そのような思いで「地獄絵図」を、改めて見つめる機会を作られてみてはいかがでしょう。 
 

 

■正しい人生を生きるために
正しい人生を生きるというのは、天寿をまっとうする生き方を貫くということです。天寿とは、天からもらった命、祖先から受け継いできたこの命のことです。しかし自分がいったいいくつまでの寿命をいただいているのか、誰もわかりません。だからこそ、生きているとき、天寿いっぱいに生きる生き方をしていく必要があるのです。自殺など、ゆめゆめ考えてはならないことです。正しい人生とは、自然に即した生き方を続けていくことだと思う。自然に即した生き方とは、祖先を尊敬し、両親に孝行し、慈愛を以て人に接し、全てをありのままに見て善悪を見極め、中道に立ち、つねに正しい道を行く生き方だと思う。そういう生き方をするためには、正しい判断とか正しい価値観を持つことが必要となります。
現代人はみな学校教育を受けていて、一定の常識や判断力を持っているはずなのですが、それがどうも正しい生き方に活かされていないように思う。たとえば、霊の問題です。昨今、いろんな霊能者がテレビなどマスコミに顔を出しています。彼らによると、地縛霊とか浮遊霊がいろんな場所にいるらしいのですが、どうしてそういうことが事実だと多くの人がいとも簡単に信じてしまうのでしょうか。テレビで、ある有名な女性霊能者がスタジオ見学の一人の女性に向かって腰のあたりを指さし、「ここに魚の霊がいます」と言っているのを見たことがあります。すると、その女性はハッとした顔になって、「実は金魚を飼っていたのですが、その金魚が死んだんです」と答えたのです。これに対して、霊能者は「そうでしょう、その金魚の霊ですよ、あなたは金魚をかわいがっていたので、喜んで金魚の霊が来ているんだから供養してあげなさい」と言うと、その女性は涙を流しているんです。金魚一匹供養することは別に悪いことではありませんが、金魚一匹で涙を流し供養。供養といえば、魚を食べている者はどうなるんでしょうか。一度チリメンジャコを手の平にのせて一口で食べられるだけ口の中に頬張ってみて下さい。一度に何匹のチリメンジャコが口の中に入りますか。おそらく数百匹くらい入ります。数百匹のチリメンジャコの霊はどこに文句を言いに行くのでしょうか。お尋ねしたいものです。自称霊能者が言う霊の存在を頭ごなしに信じてしまうのは、人がそれぞれにやましい気持ちや罪悪心を持ってるからだと思います。そして供養が一種のインスタント懺悔になっているのではないでしょうか。
お釈迦さまの弟子たちが、霊についてお釈迦さまに尋ねると、「霊魂はあるだろう。しかし、霊魂は肉眼では見えない。見えないものは論証できない。論証できないものを論ずるな」と弟子たちに厳しく言っておられるのです。さらに「たとえ目に見えない霊魂を万一もしも論証できたとしても、自分が正しい人生を歩む上で何ら関係ない」ともうしておられる。それでも弟子たちは、もっと深く知ろうと質問するが、お釈迦さまは一言「不説」、これ以上説かないと申されています。お釈迦さまですら霊については、そこで止めておられるのに、霊を売り物にしたり、金儲けのタネにしている人は言語道断であり、佛教とは無関係の人だと思う。キリスト教も、霊の呪縛とか浮遊霊というようなあいまいなことは言っていません。日本でも古くから用いられてきた本覚讃の中で、お釈迦さまは、どんな人の心にも既に三十七の諸佛諸尊が住んでいると言っておられます。なのに、その上守護霊を持てなどとわざわざいかがわしい魂を持ってくることはないと思う。守護霊があなたを護ってくれているなどと言われれば、その場では救われたような感じを抱くかもしれませんが、正しい人生を歩むこととはまったく関係のない事柄だと思います。

■常不軽(じようふきょう)を実践した回峯の祖・相応和尚
現在、相応和尚(そうおうかしょう)の千百年ご遠忌にあたることと、若かりし頃に無動寺で小僧修行したこともあり、相応和尚が創始した回峯行の話をいたします。私は大正大学を卒業して直ぐに、寺の院代を一年半の間、勤めた後に、化粧品会社に入社しました。十二年間勤務しましたが、将来の事を考え、南総の寺に行くことになり、娑婆の垢を洗い流すため、比叡山に再修行に行くことになりました。当時、回峯行の道場である無動寺谷・明王堂の輪番だった北嶺大行満・光永澄道阿闍梨に弟子入りが許され、短い期間でしたが、僧侶としての心構え全てを教えて頂きました。無動寺での小僧修行は、朝晩の勤行での読経の仕方、信者さんの接し方と、諸々を教えていただきました。また、行者さんの食事や、お風呂のお世話をした事で、修行の厳しさを肌で感じました。
比叡山の峰々を歩き巡る回峯行は、とても厳しい修行としてよく知られていますが、現在に伝わる回峯行の修行の形や、礼拝修法が確立され創始されたのが相応和尚であります。相応和尚は法華経の「常不軽(じようふきょう)菩薩品二十」に感銘して、「不軽の行」に打ち込むことに決めたのでした。人はすべて生まれながらにして仏性(ぶつしょう)を持っているとして、いかなる人をも軽んじることなく、人の中に仏の姿を見出し比叡山中を歩き続け、礼拝し続けること(但行礼拝たんぎょうらいはい)を誓願されたのです。
慈覚大師から不動明法を伝法され、相応和尚は比叡山東塔無動寺谷に草庵を結び、十二年籠山(ろうざん)行に入り苦修練行に日夜励まれました。その後、比叡山の北に連なる比良山中を流れる西安曇川(あどがわ)上流の葛川(かつらがわ)の滝に籠もり、五穀断ちして、七日間不動明王を念じていると、滝のなかに不動明王を感得することが出来たといいます。 相応和尚は大変に霊験力の優れた方で、天皇・皇后をはじめ、様々な人の病気を平癒したと伝えられています。今も白い浄衣(じょうえ)に身を包んだ行者が飛ぶように峰々を回り礼拝、供花(くげ)しています。今も相応和尚の精神を受け継ぐ、千日回峯行の行者さまとお会いすることが出来ます。

■物の価値
先日、自坊で寺宝展を開催しました。たいしたお宝はありませんが、虫干しもかねて仏画の御軸を広げ、参拝の方々に見ていただきました。参拝の方がある仏画を見て「これはいくらぐらいするんですか?」と訪ねられました。私はどう答えようかと、少し思案しました。
テレビ番組でも有名な中島誠之助さんの本に命がけで骨董品を守った話が出てきます。関東大震災の時、東京の日本橋にあった料亭が火災に遭いました。主人が大切にしていた骨董の花瓶を番頭さんが守ったそうです。迫り来る火で髪がちりちりになってしまうほどの熱さの中、番頭さんはそれを持ち出して、隅田川の流れの中に立つ橋の杭につかまり、水に浸かりながら花瓶を抱きかかえて守ったそうです。おかげでこの花瓶は無事残り、今では美術館で展示されているそうです。物の価値というのはこういう物語をちゃんと理解することではないでしょうか?この花瓶には、苦労をして残そうとした人の物語があります。
私は「値段は分かりませんが」と答え、その仏画の由来を説明しました。岡山藩主、池田継政公が江戸におられたときに、ご病気になられたそうです。殿様の枕元に観音様が現れて、「我は国元の東向き観音である、悩む心を祈る心に変えれば、たちまち病は治るであろう」と告げられました。殿様が使いを出して調べますと、うちの観音様が東向きです。お参りをされて、病気がたちまちに治ったそうです。殿様はそれ以来、何代にもわたって信仰され、絵や書を奉納されました。奉納されたものは大切に守られ今も伝えられています。値段を聞かれたのはそのうちの一つでした。他に作例がありませんので希少価値はあるのでしょうが、値段は分かりません。それよりも有り余る由来があります。この絵がうちにある由来や縁を大切にしたいと思います。
これは寺宝に限ったことではありません、お寺には昔からいろんな人が関わり、支えていただいて今があります。僧侶と檀信徒が持ちつ持たれつで歴史、年輪を重ねるところに価値があると思います。今までお寺に携わってきた多くの人々の思いとか、その歴史、そこの価値をきちんと理解する。これは本当に大切なことだと思います。

■全てに命がある
「馬鹿野郎!スコップが泣いているぜ。」自坊の護摩堂の造園工事で、三時のお茶を持って行った時、親方の罵声が飛んだ。弟子が今まで植木の穴を掘っていたスコップを投げ出して、お茶の処まできたのを見た親方の叱声です。
仏様の教えに「殺生戒」というのがあって、生き物の命をとるなかれと説かれています。漁猟をして生計をたてる漁師・猟師は別として一般人が生き物の命を奪ったり、粗末に扱うことをいましめています。動物の命だけでなく、物言わぬ植物に対しても粗末に扱うことは殺生戒に当るといいます。特に驚いたことには、スコップや鍬あるいは大工道具、パソコン等が故障したり、使い勝手が悪くなると不燃物として破棄してしまうことが多いが、これらの道具類にもそれぞれ命があって修理したり部品をとりかえたりして大切に扱い、命を全うする事が不殺生になるということを教えています。
造園工事に携わる親方には、休憩の時間がきてスコップを投げ出して来た弟子の態度にスコップに対するいたわりや感謝の気持ちがないのを怒っているのです。親方には、その場で投げられたスコップの気持ちが伝わったのでしょう。物言わぬ道具類には、それぞれ使命があって働いている。全ての道具類には命がある。大切に扱ってこそ命が輝くのです。また人と約束した時間に遅れる事は相手に対して貴重な時間を無為にすごさせることになり、悪戯に命の消耗につながる為に、待たせた相手に対して殺生戒を犯したことになる。仏様の教え「殺生戒を犯すことなかれ」は、広く解釈すると日常生活のなかで何気なく様々な処で、この戒を犯していることになります。この様な殺生戒の実践で世の中の人々との生活がやさしく思いやりのある暖かいものになると思います。

■無財の八施
無財の七施って知っていますか。“無財”ですからお金がなくてもできる七つの布施です。布施というとお坊さんやお寺に納めるお金のことだと思っている方もいるでしょうが、それだけが布施ではありません。布施とは本来、自分の欲望を減らすための修行法方なのです。
欲は生きる意欲や向上心の源ですので、すべてなくすというわけにはいきませんし、無くなるものでもありません。欲に振り回されずに腹八分程度の欲で生きていくことが肝要なのです。
さて無財の七施とは、眼施(げんせ)「優しいまなざし」、和顔施(わげんせ)「穏やかな顔」、言辞施(ごんじせ)「優しい言葉」、身施(しんせ)「身体を使っての手伝い」、心施(しんせ)「思いやりの心」、床座施(しょうざせ)「座席を譲る」、房舎施(ぼうしゃせ)「休息する部屋を与える」の七つです。
ところが最近、ある所で無財の八施という言葉を目にしました。プラス1の布施とは一体何なのでしょうか。それは耳施(にせ)です。耳を施す、つまり人の言葉に耳を傾けるということです。傾聴です。
自分の思いで心が一杯になっていたり、心が凝り固まっていたりすると、人の言葉に耳を傾けたり共感したりすることができません。心に空間(余裕)があればこそ、人の言葉や思いを受け入れることができるのです。心が波立っていたり、荒れ狂っていたりする時、人の言葉を受け止めることはできません。自分の心が穏やかな時にこそ、他の人の思いを自分の心の鏡に写し出すことができるのです。
“俺が俺がのガを捨てて、お陰お陰のゲで生きよ”という言葉があります。数ある欲の中でも我欲は手強い欲で、“俺が俺が”という自分ファーストの気持ちから自由になることはなかなかできません。相手の言葉を受け入れているつもりでも、つい批判したり否定したり、上から目線で自分の考えを押し付けようとしたりすることがあります。我欲を離れて身軽になるということはかなり難しいことなのです。だからこそ、布施は欲から自由になるための修行なのです。

■おすがりしましょう
皆様には、信仰している仏様はおられますか? 比叡山には沢山の仏様がおられます。比叡山を代表する行に、回峰地獄として知られる「回峰行」、掃除地獄で有名な浄土院の「籠山行」、看経地獄と呼ばれる元三大師堂での「読経三昧」があります。回峰行は、比叡山上山下のお堂をはじめ木々や石にも宿るあらゆる仏様を順に拝みます。特に「堂入り」では、行者は九日間、断食・断水・不眠・不臥で不動明王のご真言を唱え、お不動様と一体となります。籠山行は、伝教大師最澄様の御廟の浄土院で、最澄様にお仕えする「侍真」が十二年間籠る行です。侍真になるには、好相行という三千の仏様に五体投地の礼拝をして、仏様を感得して初めて行に入れるのです。横川の元三大師堂では、いわゆる読経三昧の朝夕勤行が行われています。元三大師堂の奥には、「行院」があります。天台宗の僧侶になるにはここでの修行が必須です。春・夏・秋と三期ありますが、前半は、仏教の勉強・修行に入る前の準備です。後半は、四度加行という天台密教の修法を教わります。仕上げは「護摩行」です。根本中堂のご本尊「薬師瑠璃光如来様」は、伝教大師最澄様が刻まれたものです。現世利益の仏様ですので、信仰される方は真言を唱え、合掌し焼香し、病気平癒・家内安全・所願成就等々を祈念されます。
現在の世の中は、公私ともに心の休まる事がなく、ストレスをため込んでいる方が多いです。今にも破裂しそうな心を和らげて頂けるのが「仏様」です。
南無阿弥陀仏 南無釈迦牟尼如来 南無薬師瑠璃光如来 南無観世音菩薩 南無不動明王 南無宗祖根本伝教大師福聚金剛 南無元三大師常住金剛
と仏・菩薩・お祖師様の上に南無をつけてお唱えしますが、「南無」とは、帰依する事で、縋(すが)る・預ける事です。はじけそうな心を、仏様にお縋りする事で、少し軽くなる筈です。そうすれば、気持ちも楽になり、心に余裕も生まれます。町内や辻にはお地蔵様が祀られている祠が有ります。ちょっと頭を下げ、合掌して下さい。オンカカカビサマエイソワカ又は、南無地蔵菩薩とお唱えして下さい。

■みんな同じでなくていい
就活をしているお嬢さんが、周りの人たちが決まっていく中で、自分は未だに決まらないので日に日に落ち込んで、とうとう病院にかかるほどに病んでしまったのです。大学に入学した頃には、希望に溢れて光り輝いていたのにと、思ってしまいました。保育士を目指し頑張っていたのですが、実習で躓いてしまったようです。本人がその職業が嫌なら仕方がない、嫌なものは嫌なのだからと、周囲の人たちも、そう言って本人の意思を尊重しているようです。しかし、嫌なものは嫌なのだからでは、根本的な解決にはならないのです。どこが、嫌なのか、どのような事が有ったから嫌になったのか、原因を追求しないままに、病院に通い薬を飲んでいても、それは治らないのです。学校を卒業したから、みんな横並びで就職するとは限らないのです。自分というものを、よく知らない場合には、専門とする分野の読み間違いは往々にして有るものです。
人はそれぞれ、違っていいのです。その時に、焦って辻褄合わせをすれば、先に行って苦労するのは、他でもない自分自身なのです。
法華経の中に薬草喩品第五という経文が有ります。この中でみんな同じでなくていいのだよ、その人その人の成長の度合いに合わせた処し方をすれば、やがてはその人に合った道へと進むことが出来るようになると、説かれております。苦しむことも、悲しむことも有るでしょう。それが有るからこそ、人を思いやる心も芽生えてくるのです。苦しみや悲しみから逃げないで、確りと受け止めて、咀嚼して、他人を思いやる心を育てて、同じく苦しんでいる人たちに、みんな同じでなくていいのよ…お話し出来るよう、努めてください。
あなたが、これから先、より好(よ)き路へと進まれますように…と、祈っております。

■秘密
「秘密」といえば、怪しげですが、元は仏教から来ている言葉で、秘密教は密教のことです。隠しているのではなく、隠れていることです。密教でないのは顕教(けんぎょう)で、顕教は「明らか」ですから解っている教えです。
秘密は、あなたが存在している原因や理由が自身にも解らないので秘密状態なのです。それを自分が自覚できるのは「明らか」です。こうして目の前のことにも秘密が潜んでいることを言います。
目に見える秘密は、太陽がなぜ東から昇るのか、誰も解りません。惑星が運行している理由が解らないからです。身の回りには、最先端科学でも解らないことが沢山あります。「太陽がありがたい」と思うのは非科学的ですが、これがない人は不幸です。これは目に見えない秘密です。信念や誓いを持つこと、父母が子を慈しむのは非科学的な秘密です。私たちは秘密に囲まれ、秘密の力に生かされているのです。

■心念不空過
Aさんは信仰厚く長年お寺の世話役を買って出たりして、周りからも信仰熱心な人として通っていました。しかし、ある時からお寺へお参りしなくなったばかりか、人と会うのも避けるようになったのです。その原因は「いくら信心しても悪いことばかり起こり、良いことはなかったから。」と言うものでした。Aさんの思いは解らないでもありませんが、信心とはそのようなものではないはずです。信仰によって願いが叶えられるとしたら、それは目に見えない、触れることのできないものの中にあるような気がします。仏様にお祈りした願いが叶わなかったとしても、不満に思い仏様を恨むようなことは普通しませんよね。もし、何でも願いどおりになるのであれば、人は時々お祈りをするだけで、何もしなくてもよいことになりますからね。
では祈るとはどう言うことか、少し視点を変えて考えてみようではありませんか。
観音経(観世音菩薩普門品)には観音様を一心に唱えるとあらゆる災難や煩悩から免れることができると説かれています。その中に「心念不空過 能滅諸有苦(心に念じて空しく過ごすことがなければ、あらゆる苦しみは消滅する)」と言う一節があります。観音経は説きます。祈りとは「決して疑うことなく心から念じ続ける」ことであって、そうすることにより苦しみは消えていくと。念じるとは、なにも座って経本を唱えるだけのことではないのです。日常の生活の場で私たちは自分一人のためだけでなく、他者も共に救われることを願い、奉仕と布施の心を失わないことが「心念不空過」なのです。観音経を念ずれば、日常の煩わしさや苦しみを忘れさせ、それとなく仏の悟りへの道‥菩薩道へ誘われる気分になります。
Aさんへ。いくら信心したとしても悪いことばかり起こることもあるでしょう。それでも、いや、その時こそ信仰心を強く保ち、念じ続けてください。そうすれば、迷いや苦しみがいつの間にか消え去っていることに気付くはずです。いつでも観音様は私たちを導いてくださっているのですから。

■幸せになる生き方
私が小学生の頃は、学校から帰ったら近所の村の友達のところでよく遊んでいました。その村に、信仰深いおばあさんがおられました。よく天に向かって「有難うございます」つぶやきながら合掌される姿が子供心に強く印象に残っています。その当時の田舎はほとんど皆、質素な生活です。その中でも、おばあさんは最も質素な生活でしたが、いつもおだやかで感謝にあふれた姿は幸せそうでした。
「幸せ」とはこころに、安らぎと「有難いなぁ」という感謝のよろこびを感じている状態です。詩人の相田みつをさんの詩に「しあわせは いつも自分のこころがきめる」とありますが、その通りです。自分のこころが幸せと思ったら幸せです。質素な生活でもこころに安らぎと感謝の豊かなよろこびがあれば幸せです。逆に、経済的にも社会的にもどれだけ恵まれていても、それを当たり前としてこころに感謝のよろこびがなければ幸せとは感じられないでしょう。外側にある条件が「幸せ」を決めるのではありません。外側にある条件は、危うく、移ろいやすいものです。「幸せ」を感じさせるものは、あくまでも自分のこころに安らぎと豊かなよろこびがあるかどうかだと思います。横浜市立大学名誉教授で教育心理学者の伊藤隆二先生が、「こころの健康な人」に多く見られた共通点を三つあげられています。
1.こころが安らいでいること。
2.打ち込むものがあること。
3.多くの人に喜びを分け与えていること。
逆にこれを欠いていると、こころは不健康だそうです。こころが安らいでいないことは、いつもイライラ、あせりがあるということ。いまある自分に満足できず、本当の自分はどこにあるのかと考えている状態です。打ち込むものがない、というのは、自分なりの才能を活かしていないので、満ち足りた気持ちになれない状態です。他の人に喜びを与えることは、自分自身に喜びを与えることでもあり、それで自分のこころは安らぎ、立ち直る人が多いと言われます。
そして、伊藤先生がこれまで人生問題を考えてきて気になることは現代文明の問題、「もっともっと、という考え方。より大きく、より多くという、とめどもなく欲望が膨らむ相対的な価値観がこころに安らぎを与えない。そういった価値観から、比較しない絶対的な価値観の人生、自分なりの人生、自分なりのこころ豊かな生き方へと転換していくことが、三つの共通点に即した、こころの健康が得られるのでは」と言われます。大事なことは、こころを豊かにする生き方が「幸せ」な人生につながるということです。信仰のある生活は、仏さまに護られているこころの安らぎと、それに対する感謝の喜びを与えてくれます。 
 

 

■光り輝く人になりましょう
比叡山延暦寺を総本山とする天台宗には、日本の仏様の教えのすべてがあります。日本に名だたる有名な僧侶が修行され、各宗派を開かれました。その基になる中国の天台の教えを学ばれ、比叡山を開かれた宗祖伝教大師最澄様にはどのような志があったのでしょうか。
伝教大師最澄様が当時の天皇にあてた、山家学生式(さんげがくしょうしき)という文章で、国の宝とはどういうことかについて述べられています。国の宝とは光り輝く宝石のことではなく、道を求める心、精進する心のある人、すなわち、菩薩のこころを持った人のことであり、その人々が国の宝だとおしゃっておられます。それを具体的には、人々が今与えられた立場に精一杯役割を果たすことで、世の中のすべてが照らされ、平和になることを、一隅を照らすという言葉で述べられています。私達にはそれぞれ与えられた立場があります。僧侶であれば仏道に精進し、悟りを開き、お釈迦様の教えを伝えてゆくこと、会社では与えられた仕事を精一杯行い、家庭では、家族の為に料理を作り、洗濯、掃除をし、家族の幸せを作り、家に来られた方の為にお花を活けたり、お茶を点てて、おもてなしをすること。料理店では美味しい料理をお出しし、お腹と心を満たしてもらうこと。お年を召した方であれば、今まで培ってきた経験を子供や孫、後世に伝えてゆくこと。それぞれが与えられた立場にベストを尽くすことで、世の中が明るく輝いてゆくと述べられています。また、己を忘れて他を利するは慈悲の極みなりと言う言葉で、自分の利益のことよりも人の喜びを第一に思うことこそが仏様の心であるとおっしゃっています。これは奉仕の心、見返りを求めない心で、純粋に人の為に行うことこそが、本当は自分を磨き仏心を育てる行いなのです。
このように、伝教大師最澄様は、精進する心を持った人を育てることを大切に考えておられました。それは菩薩の心を持った人であり、それがいつの日か必ずすべてのものが仏様の悟りの世界にいくことができると考えておられます。自らが修行し、精進することでいつかは必ず仏様になることができる、これが天台の心であります。
ひとり、ひとりが光り輝く人となり、まずは家庭、地域、日本、そして世界を平和にして行きませんか。

■「心を配る」ということ
私が住職をしている寺は宿坊をしております。宿坊と聞けばすぐに精進料理、と思い浮かべる方も多いと思います。精進料理は肉類や香りのきつい物を使わず、野菜を中心とした料理ですが、それでも野菜の命を奪っているのですから、調理する側も日々精進を積まなければなりません。一方で、宿泊のお客様を見ていると本当に色々な方がいます。参拝のために宿泊されるのですから、信仰に熱心な方もいれば、どこかの旅館やホテルと勘違いされているのか我儘な方も大勢いらっしゃいます。立ち振る舞いはもちろんですが、食後のお膳の様子を見ればそのことは一目瞭然です。綺麗に食べておられる人もいれば、どの料理も少しだけ突っついて残している人、お皿の上をひどく汚くしている人もいます。そんな時、この人は家でもどこでもそうなのかな?と思ってしまいます。
精進料理は何と言ってもヘルシーですし、見栄えも鮮やかでアイデア満載の料理です。ですから若い人にはおしゃれ感覚で受け止められている感じがありますし、関係書籍もたくさん売られていますから、その気になれば十分レシピ通りには作れるでしょう。でもこれって何か違うんですよね。
天台大師は『摩訶止観』の中で、「運心」ということを説いています。つまり「心を運ぶ」、簡単に言えば「心配り」と言った方が今の人にはピンとくるかもしれません。調理する側も季節とか、食材や食べていただく人に対して心を配り、いただく側も調理してくださった方や食材に対して心を配る。それだけではありません。いただいた後は、片付けし易いようにお皿を整えてあげる、油物のお皿とそうでないお皿は重ねない、などなど考えてみれば結構大変です。これはなにも食事だけに限りません。心配りは一事が万事なのです。
こう考えてみると、「心配り」というものは立派な修行なんですね。それも天台大師がおっしゃっているのですから、私たちはなおさら自分のこととして考えなければいけないと思います。食事に関して言えば、我が家では外食に出かけると、食事を終えるやすぐにお皿を机の端に片付け始め、おしぼりやゴミは一箇所にまとめ、片付けし易いようみんなで共同作業に入ります。これって、端から見れば慌ただしく見えているかもしれません。でも、これも修行のつもりで…いえいえ、単に職業病です…たぶん。

■供養のこころ
先月9月にはお彼岸がありました。皆様もご承知の通り、お彼岸は春と秋との年2回ございます。春は春分の日をはさんだ七日間、秋は秋分の日をはさんだ七日間です。お彼岸は仏教の発祥地インド、それに中国にもない日本独自の仏教行事でございます。しかしお彼岸と言う言葉の意味はやはりインドにありまして、彼岸とは梵語の「パーラミター」が語源で、これを漢字にしたのが「波羅密多」です。意味は到彼岸、悟りの世界に到達する為の六種の修行法と言う意味でございます。すなわち彼岸に到ると言う事は、悟りの世界の事であり、仏道の修行で悟りに到ろうと言う訳ですね。また、浄土思想では阿弥陀如来様がいらっしゃる極楽浄土は西の遥か彼方にあると言われています(西方浄土ともいいます)。春分と秋分は、太陽が真東から昇り、真西に沈むので、西方に沈む太陽を礼拝し、遥か彼方の極楽浄土に思いをはせたのが彼岸の始まりとも言われます。太陽がこの世に一番近くなる時期に、心に極楽浄土を思い描き浄土に生まれ変われる事を願ったものとも言えるのではないでしょうか。我々日本人は彼岸を先祖供養の日、お墓参りの日としています。そこで欠かせない物があります。それは「ぼたもち」と「おはぎ」ですね。ぼたもちは「牡丹餅」と書き、おはぎは「萩の餅」とも呼ばれるように、どちらもその形や色を、季節の花である牡丹や萩に見たてて名づけられました。同じ餅を、春は「ぼたもち」、秋は「おはぎ」と呼んできました。むかしからお彼岸には、この「ぼたもち」と「おはぎ」をつくり、仏前にそなえてきました。さらには、ご近所のみなさんに配るというならわしも伝えられています。
ではなぜ、それらを用意するのでしょうか。じつは、むかしは甘いものを口にする機会が乏しく、「ぼたもち」と「おはぎ」は特別の食べ物でした。大事なご先祖さまのために特別のごちそうを家族みんなでつくり、報恩の気持ちを添えてささげたのが、「ぼたもち」と「おはぎ」だったのです。ご縁のある方々に配るのは、お彼岸にふさわしい「ほどこしの修行」に通じるものでした。甘いおはぎには、篤い「まごころ」がこもっているのですね。ですから、お墓参りは、悟りに到る為の仏道修行の日とは違うのではないかと思われがちですが、考えてみてください。ご先祖さまを供養すると言う事が善行であり、仏道修行だと言えるのではないでしょうか。日本人は先祖供養という行為をとおして彼岸へ到ろうとしたのかもしれません。お墓に限らずご先祖様をお祀りしているのが菩提寺です。本堂内の位牌壇に先亡各家のご位牌が安置されていると思います。お墓参りの際は、本堂のご本尊様と位牌壇もお参りするよう心がけては如何でしょうか。又、年に一度はご本尊様をお参りして頂きたいものです。
ちなみに調べて見ましたら、平成24年の秋分の日は9月22日でした。いつもなら23日ですがなぜなのでしょうか?秋分は、太陽が天球上の黄経180度(秋分点)を通過する瞬間を言います。その瞬間を含む日を秋分日と言います。秋分の瞬間はおおよそ365日と5時間40〜50分の周期で巡ってきます。毎年の暦に対して6時間弱の遅れが生じ、約4年で1日分の遅れになります。暦のほうも約4年ごとに閏年を置いて1日遅らせるので、秋分はだいたい同じ日付になるのが、深夜0時の直前だったりすると、暦の上で1日の違いになるわけです。今回は、太陽暦に改暦した1873年以降の139年間で、9月22日は4回目で3回目(1896年)から数えると116年ぶりです。いま生きているほとんどの人にとって、生まれて初めてのことになります。ほかに、20世紀中に9月24日の秋分が37回あり、最後は1979(昭和54年)でした。それ以外の秋分はすべて9月23日です。今年以降、21世紀の前半に9月22日の秋分が12回あります。太陽黄経0度の春分・春分日・春分の日についても、同様のことがいえます。最後に、ご本尊様と良いご縁を結んでお帰り頂けば幸いです。

■観想が大事
護摩をたくなど、密教の作法をする行者は、身体でする所作や、口でとなえる真言に細心の注意をはらいますが、心の中に思い浮かべる意識を一番大切にします。これを観想(かんそう)と言い、行者は「今、自分は御本尊の不動明王様と一体なのだ」とか、「自分は大日如来様なのだ」などと観想しながら作法を続けます。「観想なき作法は児戯(じぎ)に等しい」と言われるほど、観想が大事とされます。
さて、私は田舎にある檀家さん四十数軒の寺にお仕えする住職ですが、檀家さんの法事にうかがうと、お仏壇のお供えの仕方が色々で、それぞれの家のカラーがあります。たとえば、ある家では、お仏壇のろうそくに火が灯り、線香が立ち、焼香器の炭に火がついています。私が行けば、すぐに法事を始められるよう、準備万端ととのえて下さっています。別の家では、ろうそくや線香に火をつけず私の到着を待って下さっています。先のお家の人たちは私に親切にと考えておられ、後のお家の人たちは、和尚が火をつけた方がより功徳があると思っておられるのです。私の方から統一をお願いすることはありません。私がすることは、ろうそくに火がついていればその火を見つめ、火がついていなければライターを手に取り、そして延暦寺の根本中堂の内陣の様子を観想します。このお仏壇の火は、根本中堂で一二五〇年以上も灯り続けている「不滅の法灯」からお分けていただいた、と念じてからお経をはじめます。これは私の個人的な習慣で、天台宗の決まりではありません。よく考えてみれば、昔は火打ち石しかなくて、着火自体がちょっとした労働でした。天台宗の作法は手元に種火がある事を前提にしているように見受けられます。火は分火してくるのがほとんどで、火打ち石で点火する時にどう観想するか、という決まりは無かったのでしょう。それならば、現代のわれわれは、ライターで簡単に点火できることに感謝しつつ、「比叡山の不滅の法灯を想いつつ灯した火を御供えさせていただきます」と念じてはいかがでしょうか。
ただ、このお話はうちの檀家さんには内緒です。法事に行って、お仏壇の前に「火打ち石」が置いてあったら困りますので。 

■縁について
怨みをもって怨みに報ゆれば、怨みは止まず。徳をもって怨みに報ゆれば、怨みはすなわち尽く。
これは宗祖伝教大師のお言葉で、「怨みに対して報復で応じれば終わりがなく意味がない、相手を怨むのではなく、優しい心で許してあげることができれば怨みはなくなる」ということです。憎い相手を許すことは簡単にできることではありませんが、伝教大師は怨みがあっても相手を思いやる慈悲の心をもつことが大事と説かれたのです。最近、あおり運転による交通事故の報道をよく見ます。人間である以上、頭にくることもあるでしょうし、他人を傷つけてしまうこともありますが、事故の原因や内容を知れば知るほど、自分勝手で他人への思いやりに欠けた行動に驚きを隠せませんでした。
さて、こんな経験はないでしょうか。何気なく話した方が、実は親戚や友人の知り合いであったとか、自分が小学生の時の先生のご子息が、自分の子供の先生をしていたりなど。私にもそんな経験があります。その時は「世間は狭いですね」という話で終わりますが、また別の場所でお会いしたりすると「ご縁がありますね」なんてことになります。もちろん、会いたくない人や、苦手な人に会ってしまうことだってあります。縁は人間関係だけではありません。食事一つにしてみても、まず命があって、生産者がいて、流通を支える人がいて、調理する人がいて、初めて私たちの食卓に並ぶのです。人間は一人では何もできません。すべて繋がっているのです。この繋がりも縁なのです。縁に気づかなければただの食事ですが、気づくことで命の繋がりを知り、あらゆるものに感謝の念を抱くことでしょう。
どんな人にも感情があり個性があり、それぞれが違うから自分という個がありますが、我々は目には見えない何かしらの縁で繋がっているのです。どこかで繋がっていると思うと、赤の他人に対しても優しく接したり、思いやりの心が持てると思いませんか?縁を通じて他者を思いやる気持ち、認める気持ちを持てれば、一つ一つの出会いに新しい一面が見えてくるのではないでしょうか。縁を大切にして「一隅を照らす」心を育みましょう。

■そわか
般若心経の最後の一句、菩提薩婆訶とありますが。薩婆訶の意味は、事が成就するという意味のようです。観音様の真言はオンアロリキャソワカです。今回は少し違った、そわかをご紹介したいと思います。ある本の受け売りなのですが、そわかの『そ』は掃除のそ、そわかの『わ』は笑いのわ、そわかの『か』は感謝のか、と考えてみようとのことです。
まず掃除です、水周りの掃除、特に便所掃除は烏枢沙摩明王様のご利益で金運に効果覿面というのです、それも人に見られないように密かに黙々とやるのがいい、トイレは個室ですから都合がいいですね。もちろん私もやってみました、とにかく掃除の後の気持ちがいいのは確かです。金運の方はびっくりするようなことはまだ起こりませんが、やや金運アップのような気がしています。  
次の笑いですが、これはすごいです、しかるべく医学者の研究結果で、笑う事によってナチュラルキラー細胞が良い方に作用してガン細胞をやっつけてくれるのだそうです。笑う門には福来たる。笑う門には健康も来るようです。ちなみに面白い事で笑うのはまだまだ普通の初級者で、隣の人が笑ってるから笑うのが中級者で、上級者になると、「今のどこがおもしろい」と尋ねると「わからん」と答えてお互いに笑ってる。ここまでくると達人の域です、くよくよ(苦よ苦よ)なんかする暇ないよ、笑い飛ばせ。ということでした。
最後は感謝です。とにかく世の中のあらゆる現象全てに感謝して、それを声に出して『有り難うございます』と言い続ける。人間の脳は言葉と行動を合致させないと納得しないようにできているそうです。急ブレーキを踏んで無事にぶつからずに済んだ後で「ああびっくりした」と言って行動と脳を納得させる訳です。特に面白くなくても周りが笑ってるのにつられていつのまにかおかしくなって笑っていることがあります。人間は理屈が先で、面白いから笑うというふうに考えがちですが、笑ってるうちに面白くなるということもありうるのではないでしょうか、この世の現象は全てニュートラルな状態であるはずです。だから先に『ありがたいな』と言葉を出してみれば、有難いことが起こるという事になるのではないでしょうか。私もやってみました。どんどんありがたいことが出て来ます。心の底から全てのことに感謝を味わえます。

■感謝の言葉
「あんなに良くしてやったのにお礼の言葉もなかった。」「プレゼントしたのに喜ばなかったようだ。」こんな思いをしたり、こんな愚痴を誰かから聞いたりしたことはありませんか。私は「感謝」というものについて考えさせられることがありました。それは、以前、スリランカに現地公用語のシンハラ語習得のために留学していた頃のことです。
留学中、友人の家や大学の先生のお宅に招かれることが数多くありました。私は家に招かれたら必ず日本から持参した相手が喜びそうな手みやげを持参しましたが、そこで気がついたことがあります。それはシンハラ語で感謝を表す「イストゥティ」という言葉をあまり耳にしないということでした。私に返される言葉は、若い人だと「Thanks.」や「Thank you.」といった英語が多く、年配の方だとたいてい「ピン」という単語を含んだシンハラ語が返ってきます。しかも、年配の男性はほとんどが仏頂面です。贈り物に対してだけではなく、頼まれた仕事をした時などもそうでした。そんな時、「もっと喜ぶ顔が見たかった。」「きちんと感謝の言葉が欲しかった。」と思いました。
やがて、シンハラ語やスリランカの仏教(上座部仏教)を学ぶうちに、あの「ピン」という言葉はサンスクリット語の「プニヤ」を語源とする「福、善、功徳」といった意味があるということを知りました。ですから、あの年配の方たちから返ってきた言葉は、「これはとても大きな功徳ですよ」「あなたの善行が確かに功徳として積まれましたよ。」という意味だったのです。生前、善行を積んで功徳となして、来世でもっと良い世界に生まれ変わり、さらに涅槃を目指すという上座部仏教では、何かをもらったり、助けてもらったりした時、その行為が相手の功徳として確実に積まれたことを認めるのが最高の感謝の表現なのです。厳かな顔(仏頂面)だったのも納得しました。その時、私は自分の行為によって相手の「喜ぶ顔」や「感謝の言葉」を求めていた「欲」に恥ずかしくなりました。それに対して相手は私の「功徳」を認めて称えてくれたことに気がつき、どちらが「忘己利他」の精神なのかと反省しました。
人を助ける、救う、喜ばれる、そして自分も幸福になるということは難しいことかもしれません。それは小さな善行の積み重ねと感謝の気持ちで出来上がるものです。そんな世界をめざし、素直に相手の善行を認め、感謝の言葉を述べましょう。

■生命(いのち)を大切に
春は子供たちにとって進級、卒業、進学、就職と歓びいっぱいだと思います。その一方で子供たちや未成年者の自殺者の数は増えているのです。新学期、夏休み、連休明けに子供の自殺が急増する問題を巡り、各地の団体は電話やネットでの相談受け入れを強化したり、居場所つくりをするなどに力を入れております。厚生省が毎年刊行する人口動態統計による、2013年の資料では自殺の原因は 1学校問題 2健康問題 3学業不振 以下家庭問題、友人との不和などが続いております。また日別では夏休み明けの9月1日が一番多く全国で130人、次いで4月の新学期時100人、5月の連休明けに80人という調査結果が出ております。大学生をふくめると900人もの若い命が失われているのです。未遂者はその数十倍に上ると言われております。
子供たちにとって「生命を大切に」「自分を大切に」とありきたりの説教は、百害あって一利なしで、『善い相談相手や助けを求める相手がいないこと、居場所もなくさびしいこと』が大きな事件の根幹にあると考えております。生命を授かった私たちは、みなかけがえのない存在であることを最澄さまは『願文』のなかでの、人間が一つの生命を授かるのは「大海の中に落とした針を探すようなもの」あるいは「須彌山の山頂から麓の針の穴に糸を通すほど難しいこと」だと喩えておられます。子供たちが考えている死への認識は低く、小学生の15%はゲーム等の仮想的なものとして考えており、生命は再生できるものととらえております。
私は学校教育のなかに、「生命の教育」「死の教育」をはじめ、人間として生まれた歓び、家族や他人との繋がり、さらには動物も植物も尊い生命を持っていることを、幼少の時から系統たてて、教える必要があるのではないかと考えております。昭和時代の人達は2世代、3世代同居の家庭が普通であって、生活の中から高齢者や弱い人たちをいたわる心が自然と育まれて、死を見送る尊さや悲しさ、寂しさを体験することが出来ました。今では医療まかせ、病院まかせになっております。ある住職さんは、今までは住職は死んだ人の専門家でした。しかしこれからは、子供たちを守るのは医者やカウンセラーだけでなく、住職の役目も重要になるのではないでしょうかと。私たち住職は生きている時も、死んだ後も生命の専門家として、活動しなければならない時代と思っております。

■ありのままに生きる
時は春。植物は一斉に芽吹き花を咲かせ、様々な動物や虫たちが徐々に緑色づく季節を待ってましたとばかりに謳歌しているように見えます。それはもちろん我々人間も同じで、「今年は何処にお花見に行こうかしら」などとこの時期ならではの計画を立てておられることでしょう。
毎年この時期に思い出す言葉があります。 「百花為誰開」 有名な禅語であり茶事などでもよく用いられます。「美しく咲き誇る花々は誰の為に咲くのか」。素朴な問いかけでありますが、実に奥深い真理を説く言葉かと思います。花たちに、美しさを褒めてほしいとか、虫を誘き寄せるためとかの思慮があるわけではなく、水と養分そして温度や日照度などの条件が相整う自然の法則に従い花が咲きます。自然の道理に過ぎない事は誰もが知っています。百花植物に「こころ」が有るか無いかということはさておき、「縁に従って有りの儘」に無心に生を受けた本分を全うし生きているのです。
さて、そこで同様に広く自然の中に生きる我々人間はどうでしょう。どうしても自意識から逃れることが出来ません。「諸法実相諸法無我」を素直に受け入れられず、むしろ逆らうことでかえって苦しみから逃れられない。ついには「私は何の為に生きているのか」と悩むことさえあるのでは。花々はそんなことは考えません。ただそこに在って咲いています。それだけで我々に生き方を次のように教えてくれているのではないでしょうか。「多くの縁とお蔭によって生かされていることに気づきなさい、与えられたお役目を全うすることでそれぞれの命が輝くのだよ」と。
過日、第253世天台座主山田恵諦猊下の25回忌法要と偲ぶ会が催されましたが、猊下も晩年この「百花為誰開」の言葉に心を向けられたようで、御軸や額などに揮毫が遺されています。ある朝、自坊の床之間を見ると山田猊下直筆「百花為誰開」の御軸が掲げられておりました。坊守である妻がいつの間にか取り換えたようですが、いつも隅々まで目配り気配りを欠かさない彼女のこと、文字の「花」を見て春らしさに選んだのか、何かしらの想いを込めたものなのか。客人歓迎の意か、彼女自身への鼓舞か、はたまた拙僧へ向けられた戒めでありましょうか。敢えて確認はせず、猊下の御心に想いを馳せながら佛前で手を合わせました。

■青色青光
以前、とある大僧正がしたためられた色紙に「青色青光」と書かれているを目にしました。とても素晴らしい言葉なのですが、今この文章を読んでいる方も、文字を見ただけでは意味が分からない事かと思います。
お釈迦様の説かれた「阿弥陀経」という御経典の中に、「青色青光黄色黄光赤色赤光白色白光」という一文が有ります。仏さまの世界には色とりどりの花々が咲いており、どの花も光り輝いている。青色の花は青い光、黄色い花は黄の光、どれも優劣なく美しい。つまりこの一文は、皆それぞれに役目があり、それを全うすることで仏さまの世界は美しく保たれているということを表しているのです。
金子みすゞさんも詩の中で「みんなちがってみんないい」と詠い、近年流行した歌にも「ありの〜ままで〜♪」というフレーズがあります。ダイバーシティやジェンダーレスという言葉に代表されるように、個性や多様性の尊重、男女の平等が叫ばれる昨今。二千年以上昔に説かれた仏さまの教えの中に、これから私たちが進むべき方向が示されているのではないでしょうか。
そして差別の無い社会が生む平等の中には、純然とした秩序もまた内包されていなければなりません。大きな声で出された意見だけが取り上げられるのではなく、一人ひとりが輝く、天台宗が掲げる「一隅を照らす」人をさらに増やしたい。大僧正はおそらくこんな思いで色紙をしたためられたのでないでしょうか。 
 

 

■大切な追善供養
追善供養〜読んで字の如しなのですが、このことが以外と難しく思われている方がおられますので少し分かり易くお話ししましょう。
『佛教語辞典』によりますと
「追善」=功徳を積んで亡き人の霊を弔うこと。死者の冥福を祈ること。
「供養」=奉仕すること・供えさしむけること。身・口・意によって物を供えめぐらすこと。
とあります。
即ち、追善とは、生きている人が行う善行をもって亡くなられた人の善行になり、それがまた自分に戻ってくるという意味でもあり、広い意味からすると毎日の供養をさし、狭い意味からするとお彼岸・お盆・お施餓鬼・年回忌法要など、故人に対する供養がそれにあたると思います。
しかしながら、昨今は大きな意味をもっている追善供養が単に本尊やお墓に手を合わすだけで供養したと考える人達が多く見受けられます。もちろん、そのことも供養のひとつでありますが、少し残念に思うところがあります。観光での寺院巡りに参拝?参加される方は多くても、ご自分の祖先が供養されているお寺やお墓のお参りや掃除はお年寄りに任せっきりで、肝心の追善が忘れられようとしていることに危惧しております。
私共は、両親をはじめ、祖先があって、今、こうして生かされていることに感謝するというのが佛教の教えでありますので、先祖や本尊が祀られているお墓やお寺のお参りを常に心掛けることは大切な行いであります。追善は、お墓やお寺の境内外の清掃をはじめ、お寺の行事の作務など、善行を行う機会は沢山あります。遠隔地であっても年に一度、参拝することでも、あなたの先祖に対する最高の追善供養となることと思います。また、出身地が遠くであっても、近くの寺院でも実践することができます。みなさん、ぜひ実践しましょう。

■阿弥陀の一心三観
私たちがよくお唱えする「南無阿弥陀仏」には、天台宗の教えがすべて凝縮されています。阿弥陀の三文字に次の意味が込められています。
阿:原因があって結果が生じるという縁起の教え
弥:すべてのものは関わり合い融合して存在するという諸法実相の教え
陀:すべてのものが仏さまになる可能性をもっているという悉有仏性の教え
縁起の教えで「原因が苦しみを生じるからこそ何事にも執着せず」、諸法実相の教えで「全てが自分に関わるからこそ他者を思いやり」、悉有仏性の教えで「私たちも仏さまになれるからこそ仏さまの境地にいたることができる」と思うことができるのです。このような気持ちで「南無阿弥陀仏」と唱えることが大切です。
より詳しい内容を記します。
私たちが、「南無阿弥陀仏」とお唱えしたならば、仏の悟り、諸法実相、一切衆生悉有仏性を伝えられないことはありません。「南無阿弥陀仏」と唱える時には、『観心略要集』の「仏の名を念ずるとは…謂く阿弥陀の三字に於いて、空仮中の三諦を観ずべきなり。彼の阿とは即ち空、弥とは即ち仮、陀とは即ち中なり。」と、「南無阿弥陀仏」と唱えながら一心三観するのです。三観とは、中論の「因縁所生の法は、我れ説きて即ちこれ空、また名づけて仮名なり、またこれ中道の義とす」であり、「縁起・無自性・空」と観想するのです。
一心三観の空観は一切の存在を、「縁起、因縁和合して仮和合している存在は、→無自性であり、実体はなく、→空である」と、心を無執着の世界へ、空へと運ぶことです。
一心三観の仮観は、この現実を見たなら、縁起、因縁和合して仮和合している存在あると認識するのが仮観です。菩薩は「諸法は、因縁和合して仮和合している存在は→無自性であり、実体はなく、→空である。(空に留まることなく)空は→無自性であり、実体はなく→諸法は縁起、因縁和合して仮和合している。」と、仮(有)から→空(無)へ、空(無)から→仮(有)へと進まなければなりません。それ故、因縁和合なる世界なればこそ、心を縁の社会にかけて、衆生無辺誓願度となるのです。
一心三観の中観は、一切の存在や、有無を分別する、迷いを離れた、本来の、自性清浄の心は、凡夫、聖人に隔て無く、生死因果の世界に改まらず、三世に常住にして、有無、二辺(仮、空)に左右されず、同時に、一体無二にして、二辺同時に矛盾なく、こだわらない、動ぜられない、涅槃寂静なる世界に、心を運ばせることです。
更に、「往生要集」の第四章 「正修念仏」の五念門は、
一、礼拝門――阿弥陀仏を礼拝する。
二、讃嘆門――阿弥陀仏を讃嘆ずる。
三、作願門――菩提心(悟りを求める心)を起こす。
四、観察門――阿弥陀の姿を観想する。
五、廻向門――善根を一切衆生と自らのさとりのために振り向ける。
であり、恵心僧都の念仏思想的根拠、作願門には、「およそ浄土に往生せんと欲せば、要ず発菩提心を源となす…菩提心とは、仏にならんと願う心であり、それは、…上は菩提を求め、下は衆生を求う心、四弘誓願の心を保持し行ずるのである」と。そこで、四弘誓願の心で「南無阿弥陀仏」と唱えるのです。
衆生無辺誓願度 ― 縁因仏性 ― 応身の菩提の因 ― (仮)
煩悩無辺誓願断 ― 正因仏性 ― 法身の菩提の因 ― (中)
法門無尽誓願知 ― 了因仏性 ― 報身の菩提の因 ― (空)
無上菩提誓願証 ― 仏果菩提を願求する      (心)
仏性の一心三観は仏性開顕の三原則、三因仏性の正因仏性(中)、縁因仏性(仮)、了因仏性(空)で「南無阿弥陀仏」と唱えます。正因仏性は、私たちは、「幸せに」なれる存在であると信じ、確信することであり、了因仏性とは、それぞれの「努力」であり、縁因仏性とは、人々の励ましです。この、三因が一体となり、「幸せに」(悟り)向かって進み入るのであります。
本覚の一心三観(修禅寺決)とは、「心と佛と及び衆生この三、無差別」が「中・空・仮」である。「南無阿弥陀仏」をとなえるとともに、心(己心・中)と佛(仏のこころ・世界、宇宙・空)衆生(人々の心・社会・仮)とは一体無二であると観想します。
臨終の一心三観は「南無妙法蓮華経」(修禅寺決)です。

■追善供養
「悪いことをした人は死ねば地獄に堕ちるんだよ。」 人は亡くなると六道輪廻するのでしょうか? 平安時代の天台僧、恵心僧都源信さまは『往生要集』で地獄や餓鬼、畜生に生まれないように念仏することの大切さをお説きになりました。しかし、私は昨今の世相の中で、現代人は死んでも地獄に行くとは思っていないのではないかと思うようになっていました。そんな時の話です。
おじいさんを亡くしたお家にお参りに行きました。1週目(初七日)の法要からご夫人、子どもさん、お孫さんが座っていっしょにお経をあげていました。4週目の法要が終わり「来週は5週目ですね。昔から人が亡くなると閻魔大王さまに生前の行いの良し悪しを裁判で裁かれ、悪いことをしていたら地獄に堕とされるんだそうです。おじいさんはいい人でしたよ。極楽へ行ってほしいですね。そういう気持ちで念仏いたしましょう」と言って帰りました。その翌週のことです。私が行くといつもちょこんと座っている小学校2年生の男の子がいません。 「どうしたの?」と聞くと、お母さんがにっこり笑いながら、フスマの後ろを指さすのです。見るとその子が泣いています。「今日は裁判で、もしおじいちゃんが地獄へでも行くことになったら大変だ」と心配して泣いていたというわけです。「僕はこんなにおじいちゃんのことが好きです。僕のことをかわいがってくれていたおじいちゃん、極楽にいってね、と願っていっしょに念仏しましょう」といって法要がはじまりました。私もあの子も家族もみんな一生懸命です。終わって母親が言うには「この子は僕がいい加減なことをしていておじいちゃんが地獄に堕ちたらかわいそうだと思って、この1週間、今までしたこともないお手伝いも一生懸命し、勉強も一生懸命してきたんですよ。」 「そうでしたか。だったらおじいちゃんは極楽行き間違いなしですね。でも怠けてたらおじいちゃんは極楽でがっかりするだろうから、これからも頑張ってね」 男の子の顔は晴れやかになりました。これが本当の追善供養だと思いました。

■力強く生き抜く心とは ―日々是好日―
「平成」という元号は、天皇陛下のご退位により、来年4月30日を以て変わることになりました。平成「地平らかにして天成る。内平らかにして外成る」(『春秋左氏伝』・『書経』・『史記』)、その名付けの思いとは裏腹に、なんとも災害の多い30年間でした。阪神淡路大震災・東日本大震災・熊本地震・御岳山や草津白根山の噴火、豪雨・大雪・猛暑・次々とやってくる大型台風・深刻な地球温暖化・原発事故・土砂災害等々、ふりかえると数えきれないほどの災害が30年のうちに起こりました。政府行政は、そのつど様々な対策を打ち出しますが、自然を相手にしても到底かないません。私たちは、その猛威にただただ、おののくばかりです。「無事が何より有り難いことだ」と、しみじみ思う今日この頃です。
ところで、檀家さんのお宅を訪ねると、よく『日々是好日・・・実篤』と書かれた色紙を目にします。私は、この言葉は武者小路実篤の名言だと思っていたのですが、そうではなくて、中国唐代の雲門文偃禅師(うんもんぶんえんぜんじ)が自らの悟りの境地を語った言葉だと、つい最近知りました。『日々是好日』の意味は、単に「毎日が平穏無事に過ぎて行く」ということではありません。「良い日でも悪い日でもどんな一日であろうとも、その一日は二度とやって来ない、かけがえのない大事な人生の中の一日である。一瞬でも疎かにしてはならない。精一杯生きることを心掛ければ、自ずと清々しい一日を送ることができる。つまりは、毎日が好日である」という意味なのだそうです。
人間は弱いものです。天気がいいか悪いか、家人の機嫌が良いか悪いか、仕事がうまくいったかどうか、そんな外からの状況や過ぎてしまった結果に影響されて、気持ちが浮かんだり沈んだりしてしまいます。みんな自分自身の心のこだわりやとらわれなのに・・・。とは言っても、いつも平常心でいることはなかなか難しいことですよね。ただ、平常心でいることを心掛けて日々を過ごすことは、案外誰にでもできることなのではないでしょうか。気持ちが高ぶりすぎても沈みすぎても人間なのだから仕方ない。失敗しても失敗した自分を許してもう一回頑張ってみる。それでも失敗したら、もう一回自分を許して、もう一回頑張ってみるという、日々を柔軟に生きることができれば日々是好日です。この柔軟に生きることこそ平常心で生きることだと私は思っています。怒っても一日、笑っても一日、悲しく過ごしても一日、楽しく過ごしても一日。どちらがよいか簡単に分かりますよね。
天台宗の宗祖伝教大師最澄さま。最も澄みきった心をお持ちの宗祖大師は、清々しく生きる心の有り様を今の私たちにも教え伝えてくださっています。最澄さまの一生は「日々是好日」であったに違いありません。そして最澄さまは私たちが日々是好日の生活を送るために一隅を照らすという教えを説かれたはずです。だとすれば、私たちが日々是好日に生きることこそ宗祖大師のご恩に報いることになるのではないでしょうか。みなさんが毎日を笑顔で過ごされますよう、心よりお念じ申し上げます。

■供養の心
人は実に多くのものを遺してこの世を去っていきます。故人が遺したもので形あるものは、皆で平等に円満に分けていただければよろしいのですが、今日は特に「形のないもの」についてお話させていただきます。
私の母も、もう20数年前に他界し、生前中は色々と口うるさい母親でしたが、私もこの年になりますと母親が言っていたことが身に沁みて感じることが多々あります。その母親の言葉の中で特に今の自分の毎日の生活の中で生かされている「遺言」がありますのでご紹介させていただきます。私が子供の時、自分の部屋を散らかしておりますと、母親は「掃除をしなさい」と注意するのですが、私も子供でしたから、「どうせ掃除をしてもまた汚れるから今度しておくわ」と、耳を傾けようとしません。すると母親は「そうか、わかった。それならお母さんもこれからお前が食べたご飯の茶碗を洗わんとくわ。どうせ洗ってもまた汚れるんやから、お前はその汚い茶碗で食べなさい」と言うのです。特に学があった母親ではありませんが、この言葉は全く理路整然としていて反論の余地がありません。完全に降参です。そしてこの母の「遺言」が今の自分の糧となっているのです。私のお寺の境内はとても広く、たまに掃除をするのがいやになります。「どうせ掃除したって・・・」そんな時、私はこの母の「遺言」を自分に言い聞かせるのです。
「遺言」と申しますと、すぐに「財産の分割」を連想し、時には争いとなってしまう場合もありますが、故人は形がなくてもすばらしいものを沢山遺していくのです。それはその人その人によって実に様々です。すばらしい言葉、ユニークなものの考え方、何かをする方法など、皆さん思い当たることが沢山あるでしょう。私たちはすぐに形あるものばかりに心を奪われますが、こうした形のない「遺物」を受け継いでいくこともまた、故人の何よりの供養につながっていくものだと思います。

■六道能化(ろくどうのうけ)の地蔵尊
いろいろな如来様や菩薩様、そしてお不動様などの明王様がおいでになりますが、中でも身近な仏様のお一人がお地蔵様です。かさこ地蔵や、とげぬき地蔵、お地蔵様の身代わり話など、昔話に数多く語られてきたのも、その証(あかし)でしょうか。また、街の辻々にお祀りされ、子供たちの守り仏として親しまれるのもお地蔵様です。京都などでは、いまでも8月23日・24日あたりに「地蔵盆(じぞうぼん)」と称してこれをお祀りし、地域の古老が子供たちとともに地蔵堂に集まり、華や香を飾って供養した後、お下がりの菓子を食べたりして楽しむ風習が残っています。心温まる伝統ですよね。お地蔵様はそのお徳を顕して尊称するとき「六道能化(ろくどうのうけ)の地蔵尊(じぞうそん)」とお唱えします。六道とはいったい何でしょうか?能化とはどんな意味でしょうか。
私たちの心の中に、実はさまざまに妖しい場所があります。時々ちらっとそれが見え隠れするのです。例えば隣のお家が今度家を建て直し、また立派な車も購入しました。これを「良かったね。おめでとう」と素直に喜べば良いのですが、「きっとろくでもない商売でもうけた悪銭だ」とか、「このまま上手くはいかない、今に不幸がやってくる」とか思ったりすることはありませんか。思うぐらいでは犯罪ではありませんが、それが高じて世間を恨んだり、自分が上手く行かないのは人のせいなどと逆恨みの事件が多いですよね。そんな心の暗い淵を仏様は六つに分類して「六道(ろくどう)」とおっしゃいました。まず一番深い暗い淵を「地獄界(じごくかい)」と言います。いろいろな事情で人は罪を犯します。でも、取り返しがつかない罪は他人の命を奪う罪でしょう。こんな心持ちを表すのが地獄の絵図です。火炎地獄、血の池地獄、刀針地獄などの絵図が残されていますが、いずれも致死状態を現す絵です。なんとも恐ろしい場景です。でも、こんな心持ちも私たちは持ち合わせているのです。
次は欲の世界です。「餓鬼界(がきかい)」と申します。「餓鬼(がき)」の姿を見ると手足や首が細く、腹部が異常に膨らんでいます。飢餓(きが)状態の人の姿を現しているのでしょう。飢えの極限なのでしょうか。でも、この人々の苦しみは更に深く厳しいのです。飢えているのに目の前には多くのご馳走やら、渇(かっ)しているのに美味しそうな飲み物が有るのです。手を伸ばせば届くのですが手に取った瞬間それは炎と化け、また、飲み込んでも針のように細くなった喉を通ることができず、結局得ることができない世界です。欲しい欲しいと思っても手に入らない苦しみ、それが高じれば力で手に入れる、違法な手段でも手に入れることになりますが、そんなことで人生を狂わせてしまう人が多いでしょう。物ならば値が有り、頑張ればなんとか手に入れることもできますが、人の心はお金で手に入れることはできません。例えば心に想う異性がいたとして、どうしても手に入れたい、だけれどもそうは簡単にいかないので、ある時、無理矢理ということで事に及べば、これは犯罪です。
次は「畜生界(ちくしょうかい)」と言います。畜生とは人間以外の動物を言うのでしょう。いわゆる畜生とは本能のままということです。寝たいときに寝、食べたいときに食べ、交尾したいときに交尾する。周りは関係なく、人の迷惑関係無しに好きなようにするというのが特徴でしょうか。最近のお利口なペットは「待て」と言ったら、よだれを垂らしても「よし」の声まで我慢します。万物の霊長と自負する人間ですから人と区別して畜生と言うのでしょうが、実は同様な考えの人もいるのではないでしょうか。人の事はどうでも良い。自分さえ良ければいい。こんな場面を世界の政治の世界でも見聞きします。ここまでの三つの世界を「三悪道(さんなくどう)」と言います。一番暗い心の淵でしょう。
その次が「修羅界(しゅらかい)」です。ルールある競争はそれぞれに有益ですが、ここは無法な戦いと争いの世界です。文明は戦争ごとに発展してきたと言いますが、「どうしても人の前に行かなければ」とか「蹴落としてでも一番に」などと考える世界でしょうか。企業競争は激烈でしょう。でも、データ改ざんなどは修羅の心持ちに近いのでしょう。
次が「人間界(にんげんかい)」です。やっと人間です。ここまでの四つの世界を克服して人間です。ですから人間社会で生きるにはこれまでの四つの心をコントロールできないとだめなのです。でも、ちょっと油断すると落ち込みかねないです。気をつけましょう。
次が「天界(てんかい)」です。人間として生きていくとき、それ以前の四つの世界をコントロールしさえすれば良いということではありません。悪いことさえしなければ良いということではないでしょう。進んで良いこともしなければなりません。例えば親切とか孝行とか正義とか思いやりとか、良いと言われることはたくさんあります。なかなかどれが良いことなのか難しいですが、これだけは確かでしょう。「悪事は己(おのれ)に 良きことは他人へ」、「己(おのれ)を忘れて他を利(り)す」、伝教大師のお言葉です。要は自分一人でとか、自分さえ良ければという心ではだめですよということです。
こんな六つの心の在り方「六道(ろくどう)」を諭し教えて下さることを「能化(のうけ)」といいます。お地蔵様は千路に迷いながら毎日を暮らす私たちのために、辻々に立ち、お導きくださる菩薩様です。

■いつもありがとう
お葬式のことからお話ししたいと思います。
かつてはお葬式は近隣の共同作業でした。どなたかが亡くなると、組と言いますか、常会と言いますか、隣組と言いますか末端の単位組織が集まって、当家の施主からきちんとお葬式の依頼を受ける。組からは正式に寺使いが出てお葬儀のお願いに上がります。私の地区では、田舎のこととてまだ半分くらいは組のお使い(二人と決まっています)が見えられます。もちろん第一報はセレモニーホールから日程の電話問い合わせが来て概要は分かっています。お使いの方とは一寸した打ち合わせ、それから顔見知り同士、亡くなった方についてのダンベ話になります。あの人はああだったよな、こんなだったよな、実はよう、・・・そんなことも在ったのかあ、まあそんなに長い時間ではないのですが、その人となりが浮かび上がってきたりします。
人間って当たり前ですけど一面的な存在ではないのですね。いろんな人にいろんな顔を見せている。有名なたとえ話ですけど、目の不自由な方々6人が象のいろんな箇所を触って「象とはこういうもんだ」と主張し合う話(群盲象を撫でる)。たった一人の人についても似たようなものだと思います。いろんな人といろんなお付き合いをする、そこで初めて人生というものが出来上がってくるのではないでしょうか。人間は一人で生きているのではない。親があっての子供、子供が有っての親、生徒がいての先生、先生がいての生徒、部下が居ての上司、上司が居ての部下、そういう関係性の中で命はある、お釈迦様の言われた「諸法無我」ってそういうことかなと理解しています。
話は戻りますけど、生きている間にお付き合いのあったいろんな方ときちんとお別れをする、それがお葬式だと思っています(「お別れの会」でもいいですけど)。最近あまり聞かなくなりましたけど、報せをいただいて弔問にお伺いしたとき、「長いことお世話になりました」と施主から挨拶を受けていたものです。あれは親がお世話になりましたという感謝の言葉ではない。亡くなった当人はもう言えないから、当人に替わって述べている感謝の言葉だと、私は思っています。施主って故人の代理だったのです。豊穣な人生の最後の挨拶、それはきちんとしてあげた方がいいと私は思っています。

■不滅の法灯は自分の中にある
比叡山延暦寺根本中堂の不滅の法灯・消えずの法灯は開山以来1200年以上、今日も絶えず参拝者がお参りする、天台宗のシンボルだと思います。菜種油を燃料に灯芯が浸り、火が点る。原始的な単純な構造です。毎日毎日世話をし、消えないよう、消さぬように油断無く守られています。或る意味、単純作業・簡単な事を大切に守り続けると大変な成果・素晴らしい事に成る証と言えると思います。
私はこう思います。不滅の法灯は私達、人々の心にも点っていると。人間は他人に優しく出来る、素直にありがとうと言える、美しい心が人間本来の姿、何の見返りも求めず人助けをする、被災地へ出向きボランティア活動するような、素晴らしい行動をするのが本来の人間の姿だと思います。しかし、現実は時とて、我勝ちな、他人に迷惑な行動を取りがちです。そんな時にこそ、我が祖、伝教大師の言われた『己を忘れて他を利するは慈悲の極みなり』を思い出してほしいのです。自分の事は少し置いといて、他の人へどうぞと譲る事、それが仏様の言われる慈しみ、慈悲心の最たるものです。己を忘れて他を利する、言うのは簡単ですが、実行するのは容易ではありません。
不滅の法灯をずうっと守ってゆく、誰にでも出来る単純作業、その事を守り続けていくのは大変です。不滅の法灯とは私達人間の心、本来の素晴らしい行動をとる、仏様に成る素質、仏の種と同じものと思います。少し小さい、少し頼りない小さな明り、いつも点っているけど、ちょっと忘れがちな大切な美しい明りだと思います。
己を忘れて他を利する。言うは易く行うは難い。常に行うのは大変、忘れがちです。そこで一つのフレーズとして覚えると、いつでもすぐに思い出せます。己を忘れて他を利するは漢字で『忘己利他』の4文字です。この4文字を繰り返し繰り返し、そして少し早く言います。忘己利他、忘己利他・・・・・・“もうこりた”そう、“もうこりた”と覚えやすくなり、又、少し笑えます。この笑いが大事です。物事が思い通りにならずいらいらした時に“もうこりた”を思い出せばイライラが治まります。怒っていた自分が笑え、皆お互い様だったと気付けます。冷静な自分にもどれば、忘己利他を実行出来ます。世の中の人々が皆、忘己利他を実践すれば、人々は皆、仏様、この世の中は仏国土となります。伝教大師の言われた『忘己利他』の精神で日々を生きて行きたいと思います。

■巣
田舎に生まれた私共の子供のころの遊び相手は、山川草木の自然界でした。特に仲間達と遊ぶ場は、お寺や神社の境内でした。まだ小学五年生のころ、お寺の参道に三十段ほどの石段の両側にサツキの植え込みがあり、裏側へ廻ると子供が一人スッポリ入れるほどの空間が四、五ヶ所あり、その中の一つに入って座り込むと、私は何故か心が落着き“ホッ”とする場所でした。その後、子供心に何かあると、何時もその場所に行くことになり、私の“ホッ”とする「巣」になりました。巣というと、盗賊の隠れ家と間違われそうですが、ここは正に私の隠れ家「巣」なのです。「巣」とは誰にも知られない、誰にも邪魔されない、その人の心の憩いの場所というわけです。何かがあって心が行き詰まったとき、そっと人に知られない「巣」に行くことで、精神の緊張が解きほぐされ救われることがあります。
私は仕事で京都に度々行きます。必ずと言っていいほど訪れる喫茶店があります。いつも店のコーナーの壁ぎわに座ってひとりでコーヒーを飲んでいる初老の女性がいつのころからか声を掛けて来られ、会話を交わすようになりました。「奥さんは、コーヒーが好きなんですね」と、声を掛けると、その女性はにっこりしながら、「コーヒーは好きなんですが、ほかにもいろいろありまして・・・、嫁ともいろいろあって気持ちがイライラすると、いつもここに来るんです。でも、ここで一人でコーヒー飲んでると、いろいろ思い当たることもあり、反省することもあるんですよ」。彼女がこの喫茶店に来るのは、嫁とのいざこざがあったときばかりでなく、なんの理由がなくてもここに来て、一人でぼんやりしていると、心が安まるのだと言います。「それに、嫁の方だって、私がちょっと外に出れば、“ホッ”とすることもあると思うんです。人間はある程度間をおいて考える場所と時間があるといいですね」。この喫茶店のひとときこそが、この初老の女性の「巣」なのだと思いました。見事な生活の知恵から生まれた「巣」ではありませんか。
喫茶店、公園の一角、野におられる石佛の前、ひょっとしたら一番気を許せる友と出会うときにも「巣」はどこにでも作ることができます。

■元氣で幸せに生きるための「三つの秘訣」
私たちが元氣で幸せになる為には、自分自身の中に居る《仏さま》を光り輝かせなくてはいけません。しかし、私たちの中に居る《仏さま》の周りには、長年の間に垢(あか)が付いてしまい、その為、本来の光を発することが出来なくなっていきます。それが、不幸に陥る原因となるのです。この垢(あか)が付く原因は三つあると仏教では説いています。一つは「貪(とん)」、二つ目が「瞋(じん)」、三つ目が「癡(ち)」で、これを「三毒(さんどく)」と呼びます。
【貪(とん)】とは、むさぼりの心。つまり目先の欲に溺れて本当に大切なことを見失ったり、自分の欲だけのために行動して、他人を傷つけたりすることです。
【瞋(じん)】とは、怒りや憎しみの心。自己中心的なものの見方から生じます。
【癡(ち)】とは、不平不満・グチの心です。
あなたにも身に覚えがありませんか?
さて、それでは、この垢(三毒)を取り除くために、私たちは何をすれば良いのでしょうか?それは「三つの秘訣」を実践すれば良いだけなのです。
「貪」の反対は「人のために尽くすこと」です。もし、あなたが欲張り過ぎている人だとしたら、人のために尽くせば良いのです。でも…「人のために尽くす」って意外と難しいですね。簡単に言えば、「他人の良いところを見つけて、ホメてあげること」です。他人の良いところを見つけて、ホメてあげれば、自然と貪りの心は消えていきます。
「瞋」の反対は「赦(ゆる)し」です。あなたがよく怒る人ならば、「過ちを赦(ゆる)す」ことです。自分自身の過ちも、そして他人の犯した過ちも、両方ともに赦(ゆる)すのです。もちろん、最初から全てを赦すことは難しいですね。それでは、まず「赦します」という言葉を使って下さい。言葉にするだけでいいんです。「私は○○を赦します」と言い続けていると、本当に赦(ゆる)せるようになるから不思議です。
「癡」とは、不正不満・グチ・泣き言・人の悪口のことです。もし、このような言葉をよく使ってしまうならば、意識して「感謝の言葉」を使うようにして下さい。「感謝の言葉」とは、「感謝します。幸せです。嬉しい。楽しい。ありがとう。」という言葉です。「感謝の言葉」を使い続けていると、自然にグチや人の悪口が出なくなります。言葉は習慣ですから、最初はぎこちなくても、使い続けているウチに、いつの間にか身についてしまうものなんです。
「他人をホメる」「赦(ゆる)す」「感謝の言葉」という三つの秘訣を実行するようになれば、必ず元氣力が十倍増し、必ず幸せになれます。 
 

 

■行うことは自分を知ること
皆様も日ごろの自分の行いについて色々とお考えになる事と思います。善い行いをした時は、とても気持ちがいいものですし、今後もこんな善い綺麗な心を持ち続けたいと思うことでしょう。逆にうっかり過ちを起こしてしまった時は、自分の失敗に落ち込んだり、自分に腹を立ててしまったりすることもあると思います。私たちお坊さんも皆様と同じようなことを思いながら日々を過ごしています。お坊さんも人間ですから、善い事をして人から褒められれば嬉しいですし、失敗をして怒られた時は落ち込んだり自分に対してムッとしてしまったりもします。以前に若い人から「お坊さんってメンタルが強そう」と言われたことがありますが、皆様から見れば確かにお坊さんは毎日厳しい修行に打ち込むことで自分の心を鍛えているイメージがあるから、そのように私たちが映るのかなと思いました。それと同時に、少しの事で一喜一憂せず、常に堂々として自分の行動や言動に恥じることのない生き方をしていきたいとも感じました。
私はお坊さんとして仏様の教えを聞いて仏様のような存在になる事を目指し、日々たくさんの人と話をして触れ合っていく中で、まず「自分」を理解していくことに努めています。『法華玄義』というお経では「衆生(この世の生き物全て)を知るは広過ぎ、仏の教えを知るは高過ぎ、初学には困難であるため、それらを知りたければ最も身近な己心(自分の心)を対象とすれば容易なことである」としており、人間同士がお互いを理解することも仏様の教えを理解することも「自分」を知ることで成すことができるとしているのです。「自分」を知る上で私が心がけている事は次のようなことです。人間には煩悩という切り離せない穢れたものがあり、中でも貪(欲しい物に飢える)・瞋(思い通りにならなくてイライラする)・痴(愚かな行い)の「三毒」という、生きていれば誰にでも表れてくる悪い心があります。大切なのはそれらを消すこと以前に、それらが「自分の中に在ること」を知ることなのです。それによって自分が劣っていることでも他人を見本として克服したり、他人の失敗も自分と重ね合わせることで寛容に受け止めることが出来る、ということにも繋がると私は考えます。あとは自分が善いと思う行いを「自分」の中から学んでいくことです。仏教の思想を短くまとめたものが、『七仏通戒偈』というお経であると考えられています。
諸悪莫作 諸善奉行 自浄其意 是諸仏教
諸の悪をなさずすべての善を行い自らの心を浄めること、これこそが諸仏の教えである
私はこの教えを根本とし、何事にもひるまず、善かれと思った行動を起こすことが大切だと考えています。しかし、善かれと思って行動しても相手が喜んでくれるとは限りません。かえって相手を怒らせてしまうことも有るかもしれません。だから、何事も行いについて能く考え、自分自身を能く知ることで、自分の行いに恥じること無く堂々とした行いが出来ると私は信じております。

■子供は宝である
寒かった陽射しが暖かくなった昼下がり、お寺の裏庭で鶏のチャボが小さな子供達を連れてエサをついばんでいます。子供に向いたエサがある時は「コッコッ・・・」と泣いて子供を呼びます。まだ食べる事の無理なエサは母親が口先で砕いて食べ易くして、子供のヒナに食べさせます。
その内、お寺で飼っている黒い猫がヒナを狙って顔を出すと、「クックッ・・・」と鳴いて、無心に遊んでいる子供を呼び寄せて、そして自分の羽を拡げてその下に入れます。親の羽の下に入った子供達は、じっとして動きません。しばらくして猫が去っていくと、親鳥は羽の下の子供を出して、また遊ばせます。親鳥のこうした子供を想う情愛をみていると、人間の心の奥に潜む恐ろしい心に憂いを感じます。
先刻来より世間を騒がせている「心愛ちゃん」の事件です。心愛ちゃんは父親の「しつけ」と称して行った数々の虐待によって、十歳で尊い命を落としました。母親はそれを見ていて止めもせずにいました。新聞やテレビで心愛ちゃんの悲痛な声を聴くと、可哀そうでいたたまれなくなり、心が張り裂けそうになりました。子供を想うチャボと比べて、なんとひどく無慈悲なことでしょうか。
人間の心は環境や境遇によって、時には冷たく悪魔のようにもなりますが、必ず慈しみの心もあります。天台宗の宗祖である伝教大師は、亡くなられる前に弟子達に御遺誡で 「我れ生まれて自(よ)り以来(このかた)、口に麤言(そごん)無く、手に笞罰(ちばつ)せず、今我が同法、童子を打たずんば、我が為に大恩なり、努力(つと)めよ、努力(つと)めよ」 と述べられています。子供は未来の宝です。育児には苦労もありますが、虐待は決して許される事ではありません。努力めて努力めて、仏様のような慈悲あふれる親でありたいものです。

■日常の五心
私たちはだれでも、この世に生を受けた瞬間から、数とともに一生を過ごします。誕生日、何時何分、生年月日、お金、元号、西暦などなど枚挙にいとまがありません。学校に入って間もなく算数の授業があっていよいよ本格的に数の世界を体験・探検していきます。その後それこそ数限りないほど毎日格闘せんばかりにつきあうことになります。自分のラッキーナンバーを持つ人もいるでしょう。あるいは逆に嫌いな数字の日は、朝から晩まで慎重に、緊張して過ごす人もいることでしょう。
過去、現在、未来を三界といったり、五節供、七不思議、十干十二支、二十四節季、百八煩悩などといえば数字の分だけ中身があってそのまとまりを表しています。これらは名数と言います。仏教の世界の名数は 、特に法数とよばれ、それぞれの宗派で特徴はあるものの、1から8万4千までの項に分類されているとのことです。
五の数字に着目してみると、宇宙の成り立ち「地、水、火、風、空」は五大と呼ばれます。地球には五大陸があります。オリンピックが5つの輪を組み合わせてマークを作り、ロス五輪とか東京五輪と呼ばれるのはここからきています。人の体は五臓六腑から成り立ちます。般若心経の中で何度か繰り返されますが、眼(色)・耳(声)・鼻(香)・舌(味)・身(触)は五感(五欲)と呼ばれる私たち人間の大切な感覚要素です。眼には天眼、肉眼、法眼、慈眼、仏眼の五眼があり、声または音にも五声、五音があって、仏教音楽といわれる声明(しょうみょう)の音階を構成します。五音だけだと半音が含まれていません。それをヒントにピアノやオルガンの黒鍵をなぞっただけで、「は〜るばる来たぜ は〜こだてへ〜」などと演歌や民謡の多くがいともたやすく伴奏ができます。舌(味)には塩味、苦味、うま味、酸味、甘味の五味がかかせません。両手両足の指の数も5本ずつで親指、人指指、中指、薬指、小指です。そういえば三角形の五心として内心、外心、重心、垂心、傍心も学校で勉強しました。
最後は、「日常の五心」という常日頃からの心がけです。「はい」という素直な心。「すみません」という反省の心。「おかげさま」という謙虚な心。「私がします」という奉仕の心。「ありがとう」という感謝の心。
令和の世に入り、穏やかで和やかな、未来に希望のある生活を送ってまいりましょう。

■日々の思い
気持ちは若く保たねばなりません、すると体も元気になり精神力も増進します。精神年齢は、肉体年齢とは直接関係ありません。気持ちを若く保つには、感謝と歓喜が必要です。そうすることによって、付随してユーモア・ウイット(機知)が出てきます。今の生活に対して喜びを以っていつもニコニコしている、こうして日々暮らせるのは、親兄弟、世間様のお陰と感謝する。
生きている限り、全てが喜びとは限らないので、自らの心を喜びに持っていく努力をする、努力すると、癖が付き、だんだん喜び方が上手になる。逆だと、不平不満が先に出て、感謝と歓喜が忘れられる、いつも怒った顔で陰気になり、「老いる」。
「性」は、夫婦の間でうまく行っておれば、これほど良いものはない。日々楽しいし、仕事への気力も増す。(邪淫)下手に外に向けたら、家庭がドロドロしたことになり、人生が滅茶苦茶になることもある。「名誉」欲は、ありすぎても困りものですが、なさ過ぎても困りものです。「お金」は、少し足らないが理想と思います、あまり足らなすぎると自己険悪になります。多すぎると、「金持ちと灰吹きは、留まるほど汚い」(キセルの筒)。「お金」は上手に使えば良いですが、下手に使えばすて金になります。最悪の場合恨まれることもあります。難しいものです。
「口」(言葉)は、謹まねばなりません。悪意がある場合は別として、悪意がない場合でも、誤って伝えられることがあり、誤解されることがあります。一方、人から悪い意味の批判を受けるのは、自分に徳望がないからだと思わねばなりません。徳望は、自分が誰にでも、敬愛の心で接すれば、自然に増えます。自分が進んで示さなくては、進みません。人に注意一つするにしても、心からなるほどとうなずけて、それを実行しようという気になって頂くことです。返って反感を持たれたり、悪感情を起こさせて罪を作らせるようでは、まだまだ駄目な自分です。普段の言動が悪かったり、上から目線の物言い、かも。
「無我」の心とは、頭の中に何もない状態とか、一点に集中すると言ったことでなく。我が我がの、自分中心の心の「我」を捨て、自分の欲や自尊心を除き、世の為人の為の心になり、物事を考え、思考することです。

■千手観音様の化身
私の寺の檀家にM氏という男性がいます。彼は温厚な性格で、町内の皆から「Mさん、Mさん」と親しまれています。町内の人達のいろいろな相談にも、よく耳を傾けてくれます。農作業の相談のことは勿論、生活上の相談など、よき相談相手になっていて町内のカウンセラーのようです。小寺の檀徒総代会長も長く務めてくれ、本尊千手観音の縁日、施餓鬼、年末には率先して清掃や準備をしてくれるし、寺にも頻繁に足を運んでくれ、住職の私と細かいことについて相談にのってくれたり、助言をしてくれて、頭の下がる思いでした。
M氏は新茶のシーズンまっただ中のある夜、買い物に行く途中、急に激しい頭痛に魘われ、軽トラックを道端に止め、中でうずくまっていました。当地はお茶、みかんを主な産業とする地域であるため、四月下旬から五月上旬の大型連休の頃は新茶のシーズンになります。昼間摘んだ茶葉を夜通し揉んで製茶にして、翌朝市場に持っていく、という作業が連日続きます。M氏もその仕事をしていた時でした。その時一人の若い女性が通りかかり、車を止めてM氏に事情をきき、自分の車で仲間のいる茶工場まで連れてきてくれ、救急車で病院に搬送されて事なきを得ました。
私はこの話しを耳にした時、すぐにこの女性は『千手観音の化身』であると思いました。日頃町内の皆のために心から相談にのり、寺の行事や、年末には落ち度のないように気配りしてくれているM氏に、千手観音様が若い女性に身をかえて助けてくださったのだと確信しています。『観音経』の中に、「堕落金剛山 念彼観音力 不能一毛」の一節があります。今回のこの女性の出現は、少し異なるかもしれませんが、この一節の通りだと思っています。
M氏の日々の行動は、伝教大師の教えである「己を忘れて他を利するは慈悲の極み」を実証しているのだと思います。M氏の頭痛の原因は、二月にしゃがんで作業をしていて、立ち上がった時に飛び出ていた棚の角に頭をぶつけたことでした。その時に頭の血管が小さく切れ、そこから血が少しずつ滲み出て、それが溜まって頭痛となったのでした。幸い開頭手術をする必要はなく退院できて、今は元気に農作業を続けています。自分のことだけでなく、常に他人のために心をこめて接することの大切さを感じさせられました。

■山川草木 仏の世界
比叡山延暦寺根本中堂は、中堂造りの世界遺産です。根本中堂の中陣から内陣のご本尊薬師瑠璃光如来は同じ目線で拝せられます。見上げる、見下ろす、そういう位置関係からではありません。これは仏凡一如の真理の体現にほかなりません。そして、「明らけく 後の仏の 御世までも 光つたへよ 法のともしび」の不滅の法燈が神々しく輝いています。
ブータンの人たちは「一粒の米に宇宙を思い」、仏教を厚く信じておられます。一粒の米粒は「地・水・火・風・空」の働きによって、発芽し、開花し、実を結びます。自然の摂理が働いて、生きとし生けるものの存在があるのです。土、水、日光、空気を人間が造り出すことはできません。私たちはそのことを重く受け止めなければならないのです。
愛知県専門尼僧堂堂長の青山俊董さんは「アメリカの国立公園の父と呼ばれているジョン・ミューアが〈一輪のスミレのために地球がまわり、雨が降り、風が吹く〉といっているように、一輪のスミレを咲かせる背景に天地総力をあげてのお働きがある。地上の一切のものがこの天地総力をあげてのお働きを平等にいただいて、それぞれの生命のいとなみがある」と、言っておられます。これも「一粒の米に宇宙を思い」という真理に通じるものです。
良寛禅師は、「あは雪の 中にたちたる 三千大千世界(みちおうち) またその中に あは雪ぞ降る」と詠じられました。「春の雪が降ってくる空を見上げると、やがて大宇宙があらわれてくる。その宇宙をじっと見つめると、中に淡雪が降っているではないか・・・・。およそものの尺度など相対的だと説く仏教の宇宙観だ。ケシ粒一つに世界が入るという禅問答もあるが」(毎日新聞−「余録」−)。これも仏教の哲理として信じたいものです。
「秋穂高 画竜点睛 飛雲舞う」、これは北アルプス、上高地の河童橋で、山川草木悉皆成仏の教えを思いながら私が詠んだ句です。上高地で山川草木と言えば、穂高連峰、梓川、二輪草、化粧柳を目にうかべます。そして、「峯の色 谷のひびきも 皆ながら わが釈迦牟尼の 声と姿と」という道元禅師の歌を思い、上高地の自然に仏を感じているのです。
〈山川草木 仏の世界〉 それは実在し、目の前に広がっているのです。

■心に刻まれた「戒」
土地の古老に、大切にしている言葉がありますか?と尋ねたところ、幼い頃から「傘と分別は忘れてはならない」と親に言い聞かされて来た、との答えが返ってきた。「弁当忘れても傘忘れるな」のことわざのように「傘と弁当」の組み合わせは一般に知られているが、「傘と分別」は初めて聞く言葉。その内容を教わると「分別とは何事も善悪を良く考えてから行動する」との意味。では傘は?「雨が降ると濡れるから、傘は大切」ではなく(古老の子供の頃には、子供用傘はない)、「いつもお蔭に感謝する」との説明。
一人きりで誰も助けてくれないと思い悩み寂しくなると、「必ず誰かが貴方を見ているから安心しなさい」と諭されたことがあるが、傘はその下で私たちは守られているという慈悲の象徴となっている。社会生活において思慮なく感情的にふるまい、後で後悔することがある。また、誰かに認めてもらいたいという承認欲求に駆られ思いがけない行動をとることもある。そんな衝動にさいなまれた時、「いつも貴方は皆が守ってくれる傘の元にいますよ。だから安心して良く考えて行動しなさい」との教え。それはまさに、悪を止(とど)める仏教の「戒」の実践を平易な言葉で諭しているのが「傘と分別は忘れていけない」ではなかろうか。一人の古老の心に刻まれていた人生を歩む言葉ではあるが、密かに戒を伝える教えとして大切にしたい金言でもある。 

■命をみつめて
この題は、中学二年生のとき骨肉腫という骨の癌で亡くなられた猿渡瞳さんの作文の題です。私は、近くのホスピス病院に患者さんのこころのケアのボランティアに行っておりますが、ある日亡くなられた患者さんの遺族の方たちのグリーフケア(悲しみのケア)の集まりで、病院の院長先生がこの『命をみつめて』という猿渡瞳さんの作文を読み上げられました。この作文が読み上げられた後、遺族の方たちを始め多くの参加者が感動の涙を流しました。その作文の中から一部抜粋して皆さんに紹介いたします。
「みなさん、みなさんは本当の幸せって何だと思いますか。実は、幸せが私たちの一番身近にあることを、病気になったおかげで知ることができました。それは地位でも、名誉でもお金でもなく、『今、生きている』ということです。(中略)私がはっきり感じたのは、病気と闘っている人達が誰よりも一番輝いていたということです。そして、健康な体で学校に通ったり、家族や友達と当たり前のように毎日を過ごせるということが 、どれ程幸せなことかということです。たとえ、どんなに困難な壁にぶつかって悩んだり、苦しんだりしたとしても、命さえあれば必ず前に進んでいけるんです。生きたくても生きれなかったたくさんの仲間が、命を懸けて教えてくれた大切なメッセージを世界中の人々に伝えていくことが私の使命だと思っています。(中略)みなさん、私達人間はいつどうなるか誰にも分からないんです。だからこそ、一日一日がとても大切なんです。病気になったおかげで生きていく上で一番大切なことを知ることができました。今では心から病気に感謝しています。私は自分の使命を果たすため、亡くなったみんなの分まで精一杯生きてまいります。みなさんも、今生きていることに感謝して悔いのない人生を送ってください」
この猿渡瞳さんの体験の中からにじみ出た、純粋で深い言葉に多くの方々が感動しました。瞳さんは一生懸命、精一杯生きられましたが、その甲斐もなく短い生涯を終えられました。しかし、『命をみつめて』の珠玉のような真実の言葉は、今後とも私達の心の中に永遠に生き続けてまいります。

■なぜ なくの?
皆さんは最近泣かれたことがありますか。色々な場面があるでしょう。この頃私はテレビドラマに熱中していまして、九歳の少女が不治の難病に侵されるも健気に生き抜いているという筋です。朝の四時から毎回家内と二人でティッシュの奪い合いです。
さて、「泣く」とはなんなのでしょうか?広辞苑には(1)精神的・肉体的な刺激に耐えず、声を出して涙を流す。(2)苦痛に悩む、つらい状況に陥る。とあります。皆様方はお寺に行かれて、泣いている訳でもないのに勝手に涙が出てくることを経験されたことがおありでしょうか。
私が御祈祷をさせて頂いた経験のうち、代表的なお二人のお話をさせて頂きます。まず、ご夫婦のお話です。毎回ご主人の病気(癌)平癒の祈祷を申し込まれるのです。出口の無い、辛く深い霧の中を彷徨うが如く、藁をも掴む気持ちでお参りされているのが手に取るように分かる状態でした。後で分かったのですが、その時は何の治療も出来ない、手術も出来ない末期癌だったとのことでした。祈祷を重ねるうちに、仏様を目の前に感じ、力を下さる気がしたそうです。のちに手術を受けることが出来、成功されました。奥様の献身的な看病により元の状態に戻られつつあるそうです。ご主人に「仏様はすぐお隣に在られますね」と申し上げたところ、隣で微笑んでおられる奥様を感謝の念でご覧になりました。ご両人にうっすらと眼に光るものがありました。お二人目は、女性でお身内が遠くにおられ、一人でお住まいの方です。からだの調子が悪くなり、治療を重ね、手術をすることになり、祈祷を御受けになられました。御祈祷の途中から何故か涙が出てきたそうです。その時は、不安、恐怖心、心配、辛さで一杯であった気持ちが、お腹の底から「ばあー」と出て「スーッ」として安心感に包まれたと仰ってられました。これらはどういうことなのでしょうか。
「感応道交」(かんのう どうこう又はどうきょう)という教えがあります。伝教大師が入唐求法(にっとうぐほう・唐の国に行って仏法を願い求めること)され学ばれた天台大師の教えの中に示されています。感応道交とは、法華文句(ほっけもんぐ)の中に「佛と人間とが融和すること。人に応じた佛の働きかけとそれを感じとる人の心が相交わり合致すること」とあります。すなわち、お二人の信仰する真心が神仏に通じ、そのしるし(佛を感じたり、涙したり)が現れたのでしょう。あなたも感応道交の世界へ行きませんか。

■故人は極楽で何をしているのでしょうか
故人は極楽で何をしているのでしょうか
天台宗では回忌法事の折などに「阿弥陀経」というお経をあげることが多いのですが、この経典はインドから伝わったものを、鳩摩羅什というお坊さんが、約1600年前に漢語に訳した経典です。そのまま棒読みにしていますので、お聞きになってもチンプンカンプンだと思います。そこで経典の前半、極楽世界の様子が説かれた部分について、ちょっとお話したいと思います。
「極楽世界には、美しい池があって、宝石をちりばめたプロムナードがその周囲に廻らされ、荘厳なあずま屋も設けられています。清らかな池の中には大きな蓮の花が咲きみだれ、青い蓮からは青い光が放たれ、黄色い蓮からは黄色い光が放たれ……。」
というような描写があります。暑いインドで出来た経典ですので、涼しげな場所が想定されています。冬のことです。暖かいとは言えない本堂でこんなお話をすると、ある檀家さんが言うことには、「なんか寒そうですね」「じゃあ、どんな世界がいいですか」「今の時期ならやっぱり温泉ですね」なるほどその通りです。「亡くなったばあちゃん、温泉でのんびりしているのかねえ」そうかもしれませんね。ただ極楽にいてもけっこう忙しいようです。経典に、
「その国の人々は、毎朝早くそれぞれ花かごを持って花を摘んで、他の世界の無数の仏様に捧げて供養し、その後でやっと食事をして、食後は散策したりします。」
とあるからです。しかし経典のこの言葉にこだわる必要はないと思います。ちゃんとお葬式をしたのだから、故人は仏の仲間入りをして極楽浄土にいるはずです。そこで何をしているかは皆さんの気持ち次第です。皆さんが思った通りのことをしているのでしょう。
ちょっと難しい話になりますが、天台宗の教義では「一念三千」とか「十界互具」といって、地獄の世界も仏の世界も、われわれの一瞬の心の中にあるとされます。もしも私が怒りにもえるとき、私は実際、地獄や阿修羅の世界にいるのでしょう。とてもやさしく穏やかな気持ちのときは、仏や菩薩の世界にいるのかもしれません。今ここで素直な心で故人を想うとき、われわれは故人と一緒に極楽世界にいるのです。
そして故人はきっと生前に好きだったことをしているのでしょう。畑仕事でしょうか、散歩でしょうか。ちょっと目を閉じて、思いをめぐらせてみましょう。おばあちゃんは何をしていましたか。 
 

 

■伝教大師さまのみこころ
天台宗の叡山流御詠歌の中に「地蔵菩薩本願詠歌」という曲があり、その歌詞には「人をのみ渡し渡して己が身は、岸にのぼらぬ渡し守かな」と詠まれています。お地蔵さまは、生きとし生けるものを悟りの岸に渡し、成仏させなければ、自分自身が悟りを開いて仏さまになることはないという、大きな誓願を立てられています。「地蔵菩薩本願詠歌」は、生命ある一切のものを救おうとする、お地蔵さまの誓いを渡し守に例えて詠まれた御詠歌であります。
伝教大師最澄さまが天台宗を開かれたのも、お地蔵さま誓願の如く、すべての人々が幸せに生きることができる、浄仏国土をこの世につくりたいとの思いからでありました。そのためには、人々を教え導く菩薩となる人材を育てなければならないと考えたのです。そして、人材養成のために天台宗の修行規程を明確にした『山家学生式』を著し、大乗菩薩戒による一宗独立を嵯峨天皇に上奏したのでした。
『山家学生式』の中に「国宝とは何物ぞ。宝とは道心なり。道心あるの人を名づけて国宝となす。一隅を照らす、此れ則ち国宝なり」と述べ、また、「悪事を己に向え、好事を他に与え、己を忘れて他を利するは、慈悲の極なり」と述べています。仏道を求める心を持ち、一隅を照らす行いをするものこそ国の宝であるといっています。そして、困難なこと、人の嫌がること自らに向け、容易なこと、良いことは他に与えて、自分のためよりも他人を利することを優先することこそが、慈悲の極みであるといっています。伝教大師さまのみこころを体して、多くの僧が比叡山で厳しい修行に励み、教えを弘めたことによって、多くの菩薩僧が養成されたのであります。
アフガニスタンで医療活動とともに、井戸や用水路の建設作業に取り組んでいた中村哲医師が、銃撃されて死亡した事件が大きく報道されました。テレビ番組の中で、中村医師の好きな言葉が最澄さまの「一隅を照らす」であったと紹介され、ひたすら人々の幸せを願い、自分のことよりも人々に尽くすことに生きた人であったと、追悼の言葉が述べられていました。私たちも一人一人が、伝教大師さまのご精神である「一隅を照らし、己を忘れて他を利する」菩薩行を実践して、世の中に少しでも貢献できるように生きて行きたいと思います。 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
福正寺・法話

 

縁起
當寺は天台宗総本山比叡山延暦寺の末寺であり、今よりおよそ千二百年ほど前、淳和天皇の時代、天長五年(西暦八二八年)、天台宗第三代座主慈覚大師円仁師によって開かれた寺院で、慈覚山瑠璃光院福正寺と称し、本尊は薬師瑠璃光如来であります。
創建当時は壮大なる本堂、庫裡を有し(本堂、間口十二間三尺・奥行十二間三尺、庫裡、間口十一間・奥行五間三尺)、関東においても有数なる名刹の一つとされましたが、往年の火災により伽藍を焼失するとともに、明治の廃仏毀釈、戦後の農地解放等により寺領を没収され、現在に至っております。
今より約六百三十年前、永徳三年(西暦一三八三年)にお亡くなりになられた、中興永海師により再建され、創建当時に復旧したと言います。
その後、明治三十一年、再度火災に遭い、本堂庫裡等の伽藍を焼失いたしました。したがって檀信徒の皆様に浄財を勧進し、先ず明治三十三年に、民家を移築し庫裡の再建を完成し、暫くして大正十三年、薬師堂を移築し仮の本堂といたしました。
古来の書物によりますと、本尊阿弥陀如来とあるものもありますが、その時以来、本尊として薬師瑠璃光如来を奉安したものか不明であります。
爾来、法燈を伝承してまいりましたが、本堂は甚だ狭く、老朽化が著しく、使用に堪えない状態となりましたため、昭和四十三年、宗祖伝教大師一千百五十年御遠忌に合わせ、浄財勧募を進め、檀信徒の皆様のご尽力により旧本堂を建て直し、小規模ではありますが、仮の本堂として再建することが出来ました。
昭和三十一年、戦時中に供出いたしました梵鐘を再鋳し、唯一火災から免れた鐘楼上に掲げ、當山の象徴といたしました。しかしながら、その鐘楼も昭和五十四年の台風のため倒壊いたしました。幸い梵鐘は無事であったため、昭和五十八年、宗祖伝教大師御出家得度千二百年のときに合わせ、鐘楼の再建、並びに山門、庫裡の建設工事の完成を見ることができました。
平成七年、慈覚大師御生誕千二百年、高祖天台大師千四百年大遠忌に合わせ、寺檀一致協力し、老朽化した元の庫裡を取り壊し、新たに客殿「瑠璃殿」を建立し、檀信徒の法要と修養の道場といたしました。
平成二十四年、福正寺墓地内に、墓地継承者無き人のため、永代供養墓として、納骨堂「壽光廟」を建立し、同年、福正寺墓地西北側の土地を購入し、参詣者の為の駐車場といたしました。
尚、当寺の境外仏堂として、指扇中郷(台)の薬師堂、指扇上郷(大木戸)の普門坊(十一面観音堂)、宝来の福寿庵(百観音)があります。
福正寺開創1200年記念事業 本堂改築
當寺は天長五年(西暦828年)、天台宗第三代座主慈覚大師円仁さまにより開かれましてより、平成40年(西暦2028年)で1200年が経過いたします。
開創1200年記念事業として、狭小であり屋根等の痛みが激しく、耐震的にも問題がある現在の本堂の改築を考えております。
現在の本堂は、明治31年に火災の為焼失した本堂の代わりとして、明治33年に移築した薬師堂が老朽化したため、昭和43年に檀徒の皆様に物心両面から成るご喜捨を戴き建築したものでありますが、いかんせん急場しのぎの仮本堂的建築であったため、収容人数にも限界があり、屋根も張り出しを付けねばならないほど小さく、その屋根も痛みを増し、本堂内の荘厳も見劣りがするという有様でございます。
したがって、開創1200年の嘉辰を迎えるにあたり、本堂改築事業を発願いたします。  
 
 

 

■霜月会(しもつきえ)について
霜月(しもつき)とは、旧暦11月の名称で、中国の天台宗を開かれた天台大師智禅師(てんだいだいしちぎぜんじ)が、11月24日に亡くなられたため天台大師の遺徳を偲んで行なう法要を天台大師会(てんだいだいしえ)又は霜月会(しもつきえ)といいます。天台大師さま(538〜597)は、お釈迦さまの説かれた教えの中で、『法華経』(妙法蓮華経)を最も重要なお経として位置付け、『法華経』の「諸法実相」・・・あらゆる事物・現象がそのまま真実の姿であるということ・・・の教えに基づき、自らの心を修行の第一義とした仏教を大成しました。一刹那という極微の時間に、自らの一心に三千もの現象が繰り広げられるという「一念三千」(いちねんさんぜん)の教えは、「己心中所行の法門」(こしんちゅうしょぎょうのほうもん)として、自内証を修行の目的とします。三千とは、十如是、十界互具(百界)、三世間の組み合わせによる一応の数字でありますが、数多くの心模様が瞬時に自らの心の中に展開され、観得されるということであります。生きとし生ける者の心には、瞬時に三千という多くの現象が内蔵されるということであり、その心象の一つ一つによって一人の心が成り立っているということです。頭上に禅鎮を載せ、坐禅止観し、沈思黙考する絵姿は、天台大師の仏道修行を象徴するものであります。

■除夜の鐘について
大晦日の夜に除夜の鐘を突き、全ての煩悩を清めて年越しをする。煩悩を清めることによって、新たな気持ちになって新年を迎えることができます。人には.百八つの煩悩があると言われます。百八という数字の根拠は、六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)、三種の感覚(好・悪・平)、二種(浄・染)、三世(過去・現在・未来)の、各数字を掛け合わせると、六×三×二×三=百八となり、全ての煩悩を表すとされます。これは一応の数字であり、実際は数え切れないほどの煩悩があります。貪(むさぼり)・慎(いかり)・痴(おろか)の三毒に代表される煩悩は、死ぬまで断ち切ることは出来ないでしょう。煩悩具足の凡夫には、煩悩の全てを断ち切ることはできなくても、煩悩を減らす、或いは覆い隠すことはできるでしょう。その気持ちを込めて除夜の鐘を突きたいものです。

■天台宗開宗千二百年
天台宗は平成18年1月26日に開宗1200年を迎えます。延暦25年(西暦806年)の1月26日に、時の桓武天皇は伝教大師最澄様の奏上に応え、天台宗に年分度者(修行僧)2名を勅許され、ここに天台宗が国家に認定されました。伝教大師様の願いは、単に新しい宗派を立てるということではなく、日本中の仏教が協力して人々を導こうということです。伝教大師様は「一目の羅、鳥を得ることあたわず。一両の宗、何ぞ普く汲むに足らん。(一目の網では鳥を捕まえることができないように、一・二の宗でどうして全ての人々を救うことができるだろうか。)」と述べられております。全ての人々を仏国土へ誘うために、この世を仏国土のようにするために、比叡山に、法華経・密教・坐禅止観・戒律という四宗融合の教えの天台宗を開かれたのです。後に、慈覚大師円仁様により、天台密教(台密)が充実されると共に、浄土の教えが加えられ、文字どおり、天台宗は日本仏教の根本を為すにいたりました。

■涅槃会について
お釈迦様は、今からおよそ2500年ほど前、インドでお生まれになり、29歳のとき出家され、35歳でお悟りを開かれ、55年間の永きに亘り、インドの各地を行脚され、教えをお説きになられました。しかし齢80歳を以てその生涯を閉じ、涅槃に入られました。お釈迦様が亡くなられたことを、涅槃といい、また亡くなられて往かれた境地を涅槃ともいいます。そもそも、涅槃とは「安らぎの境地」のことであり、その元の意味は、燃え盛る煩悩の火を吹き消した状態のことを表します。西行法師は、「願わくば 花の下にて 春死なん その如月の 望月のころ」と歌い、お釈迦様と同じ、旧暦の2月15日に、満月の下、散り行く桜の花の下で、その生涯を閉じたと言われます。太宰治は、その小説の中で、「好きな花の咲く時期に死ねる人は幸福な人だね」と言わせています。すると、小説の中の女性は「私の好きな花はバラの花、バラは四季咲きだから、春死んで、夏死んで、秋に死んで、冬にも死ななくてはならないわね」と言います。さて、あなたは、何の花が咲く頃に死を迎えたいですか?

■お彼岸について
「春彼岸 菩提の種を 蒔く日かな」
3月の旧暦での呼び名を「弥生(やよい)」といい、生物や植物の命がいよいよ生まれてくる時期であるというような意味合いを感じさせられます。春、秋、年2回のお彼岸は、お中日の、春分の日、秋分の日を中心に前後3日間ずつ、計7日間からなります。お中日には、太陽が真東から昇り、真西に沈みます。その真西に沈む夕日に、故人や先祖の冥福を祈り、又自分自身の来世往生を願ったりします。日本では、平安時代頃から行なわれていると伝えられております。『日本後記』によれば、平安時代に非業の死を遂げた早良(さわら)の親王の怨霊を鎮めるための法会が、その起源とされます。時の桓武天皇の同母弟である、早良の親王は、いったん出家していましたが、桓武天皇の即位とともに皇太子となり、延暦4年(785)、藤原種継暗殺事件に連座して、乙訓寺に幽閉され、淡路に流される途中で死去してしまいました。その後、皇室に不幸が続いたため、これは親王のたたりであるとされ、早良親王慰霊のため崇道天皇と追尊し、諸国国分寺の僧に、春秋の七日間をもって、その慰霊法会を営なませたそうです。これがわが国における「お彼岸」の起源と言われております。「暑さ寒さも彼岸まで」 このよい気候のときに、ご家族そろって、ご先祖と語らいに、墓参をして下さい。  
 

 

■花祭り その1
花祭りとはお釈迦さまのご生誕をお祝いして行なうお祭りです。潅仏会(かんぶつえ)、降誕会(こうたんえ)仏生会(ぶっしょうえ)ともいい、竜華会(りゅうげえ)などともいいます。お釈迦さまは旧暦の4月8日に生まれました。お母さまである摩耶夫人が出産のために生家へ帰る途中、ルンビニーという所にある花園の木の下で産気づきました。お釈迦さまの幼名を「シッダールタ」といいます。シッダールタはお母さまの脇の下から、何の苦しみもなく生まれました。そこにある木を無憂樹といい、その花を無憂華といいます。憂いが無いという意味なのです。シッダールタは天から龍が雨降らす香水で産湯につかり、立ち上がると七歩あるき、右手で天を、左手で地を指し、「天上天下、唯我独尊」といわれました。七歩あるいた意味は、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天という六道の世界から解き放たれているということです。花祭りには、さまざまな草花で飾った花御堂の中に、潅仏桶を置き甘茶を満たします。その中央にお釈迦さまがお生まれになったときの御仏像「誕生仏」を安置し、香水の産湯にみたてて甘茶を潅ぎます。当山では月遅れの5月8日に行なっております。あなたもお釈迦さまに甘茶をかけ、生まれ変わった気持ちになって、始めの一歩から歩み始めてみませんか。

■花祭り その2 
お正月、お盆に次ぐ日本民族の大移動の時期といわれる大型連休「ゴールデンウィーク」も終わり、世の中がいつもと同じように動き出した感がある今日この頃であります。当山では昔からお釈迦様の誕生を祝う儀式「花祭り・潅仏会」を月遅れの5月8日に営んでおります。当地区では当山のみならず、大体の寺院やお堂でこの時期に行なわれております。高さ10cmほどの小さなお釈迦さま、右手で天を、左手で地を指し、いかにも歩き出しそうな誕生仏。天の龍がお釈迦様の生誕を祝って、香水を雨降らしたという故事にならい、甘茶をかけて祝います。この小さな誕生仏が、早く成長し、本物ののブッダとなってこの世に現れ、世の苦しみを掬い取って下さいますよう、心から祈って甘茶をかけるのです。誕生仏がいらっしゃる花見堂は、きれいに花で飾られ、あたかもルンビニーの花園でお釈迦さまのお母さまの摩耶夫人が何の苦しみも無く、シッダールタを出産したときのように、花麗しく飾られます。当山では、この花祭りの日に、護持会の役員総会を開いております。その席上、本年は特別に開宗1200年慶讃大法会の祥年に当たることでももあり、永年福正寺のためにお尽くしいただいた、世話人・護持会役員の方々に感謝状と記念品を贈らさせていただきました。今後もよろしくお願い致します。

■お盆と施餓鬼
今年の関東の梅雨明けは、平年の10日以上も遅く、毎日ジメジメした日が続きました。8月に入ってからはやっといつもの夏らしく、暑い日が続いております。そしていつもの年のように、夏の様々な行事が執り行われます。甲子園の高校野球大会、広島・長崎の原爆記念日、そして終戦記念日・・・・・・・。終戦記念日の8月15日は、ちょうど月遅れのお盆と重なります。私は、毎年、日本武道館で行なわれる全国戦没者追悼式の模様を、お施餓鬼出仕のために一乗院さんから西光寺さんへ移動の車中のラジオで聞きます。残暑がいやが上にも増してきます。今年も暑くなりそうです。盂蘭盆(ウランバナ)=倒懸。「逆さに吊るされるほどの苦しみ」という意味を原語にもつ「お盆」。今は亡きご先祖様の霊を、ローソクの灯火に託して我が家へ連れ帰り、3日間を共に過ごす。日本固有の麗しき宗教的慣習ではないしょうか。お釈迦様の十大弟子の一人、目連尊者が、亡き親を「餓鬼道」の苦しみから救い出すために行なわれた法要が「盂蘭盆供養」であります。したがって、お盆に「施餓鬼供養」をしましょう、ということになります。 「施餓鬼供養」とは、やはりお釈迦さまの十大弟子の一人の阿難尊者が焔口餓鬼(口から炎を吐き出す鬼:鬼とは古来より死者のことをいいます)が夢枕に立ったのを見て、餓鬼道から救い出すために沢山の飲食を供えて供養したことに習って始められました。お盆と施餓鬼の話しの由来は異なりますが、話の内容が類似しているので、混同して伝えられている向きもあるようです。それにしましても、昨今はペットブームとやらで、ペットが死んだ場合も、大層な葬儀をするということを聞きました。そういう方は、やはりペットのお盆や施餓鬼もやるのでしょうか?いや、「施餓鬼」とは言わず、「施畜生」というのでしょうか?

■お塔婆について
8月25日の拙寺の施餓鬼が終わると、朝晩はだいぶ涼しくなり、いよいよ夏にもお別れ。朝、昼はセミが名残りの暑さを惜しむかのようにまだまだ元気に鳴いていますが、夕刻から夜半にかけては、やっと自分たちの番が来たとばかりに、虫たちが声を競って鳴いています。朝晩の境内はいつもの静けさを取り戻したかのようであります。しかし、昼間はやはり太陽の光と影のコントラストが、過ぎ行く夏を忘れさせまいと、色濃く木々の枝葉に映し出されています。本堂の回廊の塔婆立てには、まだ施餓鬼のお塔婆が何本となく残っています。大半は遠方の方で、取りに来られない方のものです。お盆の慌しさが過ぎ去り、10日間も経つとついうっかりして、施餓鬼のお塔婆のことを忘れている方もいるかもしれません。「塔婆」とは、サンスクリット語の「ストゥーパ」を音訳した「卒塔婆」(卒都婆・率塔婆とも書く)の「卒」が省略され、「塔婆」となったもので、言葉の意味は「高く顕われる」ということです。お釈迦さまが涅槃されたとき、お釈迦さまの徳を高く顕わすために、ご遺骨を八つに分け、八ヶ所に塔を建て、それぞれに遺骨を安置して供養したという。仏塔の始まりです。その後、お釈迦さまの徳を慕って多くの人々が集うようになりますと、自然とお釈迦さまのご遺骨が祀られている仏塔を中心に集うようになります。それが段々ふくれあがって、大人数になり、教団として活動するようになります。日本では、死者が出ると、多くは地中に埋葬し、土を高く盛り上げました。いわゆる土饅頭であります。土饅頭の代わりに石を積むようになります。石を綺麗に飾り、梵字や漢字等の文字を刻み込みます。石塔の始まりであります。石の塔の代わりに木の塔を建てます。木の塔を薄くし、表と裏に文字を書くようになります。木の塔婆の出来上がりです。木の塔婆の表には、五大(空・風・火・水・地)を表わす梵字と年回忌の本尊さまを表わす種字梵字、経文、供養する人の戒名等を書きます。裏には大日如来を表わす梵字、建立年月日、施主名等を書きます。梵字や漢字等の文字が書かれた塔婆は、僧侶の読経により、仏の魂が込められます。そのことを「開眼」といいます。開眼されたお塔婆は仏塔ですから、亡くなられた人の墓所に建てられます。年回忌の追善供養や施餓鬼会の度ごとにお塔婆を建てます。それは、亡くなられた方は浄土へ往かれても、ずっと修行をされておりますから、さらにより良い仏さまに成って頂くためにお塔婆を建て続けるのであります。

■ご本尊について
信仰や祈祷の対象として、寺院や仏壇の中央に安置する仏・菩薩の像を本尊といいます。釈迦牟尼如来、薬師如来、阿弥陀如来などの如来と呼ばれる仏さま、観世音菩薩、文殊菩薩、地蔵菩薩などの菩薩さまなど、その宗旨や寺院によって様々です。また、お守りとして身辺に付けて携帯される仏・菩薩の像や、絵姿、曼荼羅なども守り本尊などと呼ばれ、本尊の一種類とされます。天台宗の本尊は、所依のお経である『法華経』に説かれている「久遠実成の釈迦牟尼如来」(永遠のいのち、無限の力をそなえられた宇宙の本体としてのお釈迦さま)であるとされます。天台宗の寺院のご本尊には、阿弥陀さま、薬師さま、観音さま、地蔵さま、不動さまなどをお祀りしてありますが、それらは皆、『法華経』に説かれている「久遠実成の釈迦牟尼如来」の分身であり、同一体でありますから、どの仏・菩薩さまでも、縁にしたがってお祀りし、敬信いたします。檀信徒各家のお仏壇においても、寺院のご本尊と同じことであり、縁にしたがってお祀りいたします。檀徒各家のお仏壇では、中心にご本尊を安置し、その脇や前に故人のお位牌を置き、ご先祖さまの冥福をお祈りすることが一番の目的といえるでしょう。天台宗の来世思考としては、西方極楽浄土に往生することを最高の至福といたします。そこでお仏壇のご本尊としては、阿弥陀如来が一番ふさわしいということになります。なぜならば、阿弥陀如来は西方極楽浄土の教主といわれており、亡くなられた方々は皆、阿弥陀如来に守られているからなのです。その西方極楽浄土を、この世に表わしたものがお仏壇なのです。したがってお仏壇のご本尊としては阿弥陀如来が宜しいということになります。また、天台宗のお仏壇のご本尊の両脇には、高祖天台大師と宗祖伝教大師ををお祀りいたします。仏教を私たち地域や時代に伝えて下さった祖師に尊崇の念を表わします。  
 

 

■天台宗の教え(1) 
天台宗は今から1200年前、伝教大師最澄上人により比叡山に開かれました。最澄さまは「一目の羅、鳥を得ること能わず。一両の宗、何ぞ普く汲むに足らん。」(一つの目の網では鳥を捕まえることが出来ないように、一・二の宗派でどうして全ての人々を救うことが出来ようか。)と述べられ、奈良の六宗に加え、天台宗が公認されるよう上申いたしました。 時に延暦25年(806)1月26日、勅許を得て天台宗が開宗されました。爾来、比叡山ではその法灯を今日まで守り続けてまいりました。ちなみに当j寺は、天長5年(822)、慈覚大師円仁さまにより開創され、1184年の歴史を有すると伝えられております。天台宗の教えは、円・密・禅・戒・念の五つの教えから成ります。特に顕教と呼ばれる円(法華経)・禅(坐禅止観)・戒(戒律)・念(浄土念仏)の四つの教えと、密教を融合させた、顕密一致の教えを標榜しております。顕教とは、仏教の中で、言語や文字で表わされた教えのことを言います。顕教は円(法華経)、禅(坐禅止観)、戒(戒律)、念(浄土念仏)の四つのカテゴリーに分けて説かれます。密教とは、仏教の中で、言語や文字では表せない深遠な教えのことを言います。その後天台宗の教えは、修験道などの山岳信仰や山王神道の影響を受け(神仏習合)、さらには日本古来の土着の民俗信仰とも深く関わりを持ちながら今日に至っております。天台宗の所依のお経は、法華経を中心とした全ての経典ということになります。華厳経、維摩経、般若経、涅槃経、梵網経、阿弥陀経などの顕経の経典、また大日経、金剛頂経などの密教経典も天台宗では所依の経典と言えるでしょう。そのように、天台宗ではあらゆる仏さまを大切にお守りするとともに、全ての経典に説かれている事柄を融合して、上記のような円・密・禅・戒・念の五つの教えとして伝えられてきております。

■天台宗の教え(2)「円教」
円教とは、欠けるところのない円満な教えという意味です。中国天台宗の開祖である天台大師智禅師は、すべての経典をその教えの内容によって、蔵教・通教・別教・円教四つに分類しました。これを化法の四教といいます。そして衆生を教化する形式や方法に基づいて頓教・漸教・秘密教・不定教の四つに分類したものを化儀の四教といいます。このように諸経典を内容・形式・説法の順序などに従って、その教えの特徴や優劣を判定することを教相判釈といいます。教相判釈の中で、前に挙げた天台大師の五時八教が特に優れたものとして有名です。五時とは、釈尊が説かれた諸経典の内容を分類し解釈し、説かれた順序によって華厳時・鹿苑時・方等時・般若時・法華涅槃時の五段階の時期に分けたもので、釈尊が悟りを開かれて後の説法の流れを表わしております。またその五時を、牛乳が濃くなり、凝固してバターやチーズに変化してゆく段階に重ね合わせ、乳味・酪味・生蘇味・熟蘇味・醍醐味の五味ともいいます。第一の華厳時(乳味)には『華厳経』というお経が説かれました。『華厳経』というお経は、釈尊がお悟りの内容(自内證)をストレートに説いたもので、とても難しいお経です。大多数の人は理解できなかったでしょう。その後は、対機説法と言って、聴衆の能力(機根)に合わせて説かれるようになります。第二の鹿苑時(酪味)には、『阿含経』などの初歩的な内容のお経(小乗仏教)が説かれました。その後、第三の方等時(生蘇味)、第四の般若時(熟蘇味)、第五の法華涅槃時(醍醐味)は大乗仏教と呼ばれ、徐々に高度な内容になってゆきます。天台宗では、第五の法華涅槃時に説かれた『法華経』と『涅槃経』を同一醍醐味といい、同等の価値を持ったお経であるとします。釈尊は最初に自分が悟った内容をそのまま披瀝し、その後、順々に易しい内容のものから聴衆の習熟度に合わせて難しい内容の説法を行なったということです。釈尊が説かれた教えを内容の面から四種に分類した化法の四教とは、諸経典の中で最も価値の高い究極の教えを円教といい、五時の中で最後の五番目の法華涅槃時に説かれた法華経を円教の経典として大切にします。天台宗のことを初期には天台法華円宗とよび、欠けることのない円満な教えという意味の円教である法華経を根本の所依の経典とした宗旨であるとこを表わしています。

■梟の福多郎の話
新年明けましておめでとうございます。皆様には輝かしい初春をお迎えのことと、謹んでお慶び申し上げます。永らく「今月の法話」をお休み状態のままにしてしまいました。年も新たになり、また再開させていただきます。今年こそ、なるべく休眠状態にせず頑張って更新してゆくつもりでおりますので、宜しくお付き合いのほどお願い申し上げます。さて、今回は久し振りということもありますので、拙僧の身の回りのことを書かせていただき、お茶を濁したいと思います。当山の境内には、梟(ふくろう)の石像が建っております。その名を「福多郎(ふくたろう)」と申します。福正寺の「福」の字を取り、福が多い、幸福を運ぶ鳥ということで、梟の「福多郎」を拙寺のマスコットといたしました。この福多郎の原型は拙寺客殿の玄関に飾ってあります、信楽焼きの梟であります。高さ13センチメートルほどの小さな焼き物の梟です。もう5年ほど前になりますか、埼玉教区の比叡山参拝旅行の折、京都の嵯峨野に寄ったときに、ふと道端の小さな焼き物屋の店先に並んでいたこの梟に、妙に心が動いたのでございます。ちょっと首を斜めに傾げて佇む梟。何かを私に投げかけているように思え、是も非も言わずに買い求めました。買ってきた梟の置物を、訪れる客人を出迎えるかたちで玄関に飾りました。暫くするうちに、玄関においでになる客人たちをお迎えするだけではもったいない、と思うようになりました。そこで石屋さんに頼みこみ、この梟と同じ形のもので、もっと大きいものを石で作り、境内に置きたいと思うようになりました。ところが、日本で作ると高くつくから、中国で彫って日本に持ってくるということになりました。ついては見本として本物の焼き物の梟を暫く貸してくれということになり、本物の福多郎は、数ヶ月の間海を渡り中国へと行くことになりました。その間、主を失った置き台だけが、客殿の玄関に置かれることになりました。その寂しさたるや何とも言い表せません。それよりも心配だったのは、同じ姿かたちであの福多郎が拙寺に戻ってきてくれるかということでした。三月ほどのち、石屋さんがあの福多郎を携えて、大きな石像の梟とともに戻ってきました。かなり乱暴に汚れた手で持ち運びされたせいか、少し薄汚れて精気がないように感じられました。そのとき後悔しました。この本物の福多郎を渡すのではなかった・・・・・・と。ともあれ石像の梟の福多郎は境内に安置され、本物の信楽焼きの福多郎も客殿の玄関で訪れる客人たちを暖かく見守ってくれております。みなさまも拙寺へおいでの際には、是非とも境内の福多郎にお参りして福をいただき、他の人々にも、その福の何分の一かを分けてあげていただきたいと存じます。くれぐれも福の独り占めはなさらぬように。独り占めにするといつのまにか、福が逃げてゆくかもしれません??????

■愛犬ラッキーのこと
「生者必滅、会者定離」「諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽」
私の日課であった。朝起きて、ラッキーを玄関から内庭に放す。用を足し、顔を洗い、お茶を入れ、先ずは庫裏のお仏壇に、次には本堂の天台大師、本尊薬師如来三尊、伝教大師、慈覚大師にお茶とお線香を上げ、徐にお勤めをする。お勤めが終わると客殿の玄関を開け、新聞を取り、事務室のカーテンを開ける。私の行動を見透かしていたように、事務室の窓の外にはラッキーが私の方を見つめ、散歩に連れて行ってくれるのをじっと待っている。新聞を食堂のテーブルの上に置き、庫裏の玄関の下駄箱の上においてある、ラッキーの散歩用リードを持って出ようとする。彼はすでに玄関の前で、私が出てくるのを待っている。朝の散歩は境内の中だけである。境内を一周し終わると一目散に内庭にある自分の小屋へ向かう。彼にとっては最も楽しい朝食の時間である。「愛犬元気」という、牛肉や鳥肉の挽肉と野菜を混ぜ合わせたようなパック入りの餌を2パックあげる。よく噛まずに飲み込むようにしてすぐに食べ終わってしまう。「おいおい、もっとよく味わって食べろよ・・・」と言いたくなる位である。昼間は寝ていることが多くなった。小屋から出しても隅のほうで蹲っている。たまに玄関の鍵が開いていると、戸を開けて家の中に入り、食堂のテーブルの上にあるものを漁って盗み食いをしたこともあった。夕刻を迎え、辺りが暗くなってくる。客殿の周りについている外灯が点く。すると彼は居ても立ってもいられなくなる。早く散歩に行きたいの一心で吠えるは吠えるは。私の姿をちょっとでも見ようものなら、早く散歩に連れてゆけとばかりにうるさいほど「きゃんきゃん、きゃんきゃん」と吠えまくる。庫裏の玄関から出て行き、小屋の扉を開けてやるとうれしそうに事務室の裏口のところに行く。其処が首輪にリードを繋いでくれる場所なのである。散歩のコースは、境内を出て八幡神社の脇道を通り、ライオンズマンションを抜けて、遊水地のある運動公園のところに出る。そこから西大宮バイパスの側道を通り、西あるいは東へ向かう。西に向かえば、荒川の土手に登りサイクリングロードを南に向かう。ラッキーが若い頃は、健保グラウンドの辺りまで行ったりもした。サイクリングロードを北に向かえば、大宮国際カントリークラブのコースの中を通ったり、更に北に行き、西楽園のほうに折れたり、そこから秋葉神社のほうを回ったりもした。西大宮バイパスがまだ工事中のとき、そのバイパスの上を歩いたこともある。下郷の妙光寺に埼玉教区の宗務所が建設中の時には、ラッキーと散歩の途中によく行ったものだ。ここ1〜2年ラッキーの歩くスピードが遅くなった。途中やっと歩いているようにも思えた。足腰が弱くなったせいか、階段を登るときも腰が砕け,足がついてこない。これからはあまりと遠くには行けないと思うようになった。朝、外に出すときも、寝ているところを起こして出すようになった。耳は遠くなり、駐車場に車が来ても気がつかない。内庭に人が来ても分からない。年のせいなのだろう。1月22日(火)、息子が小屋から出そうとしても、一向に立ち上がらないという。急いで病院へ運ぶ。即入院。点滴をして様子を見る。かなり体が衰弱し、生命が持つか持たないか五分五分という。23日(水)夕刻に見舞いに行ったときには、点滴をしたまま、ぐったりとして起き上がれない。「頑張れラッキー」ただそれだけである。24日(木)午前中、床屋へ行って帰ってくると、「ラッキーだめだった」と家内から聞かされる。一瞬「えっ?」と思ったが、「やっぱりだめだったか」と思う。子供たちがラッキーの遺体を病院から引き取って帰ってきた。いつも夜寝ているところに横たえ、灯明を点し、花を飾り、お線香を上げる。自然と涙が湧いてくる。かわいそうなラッキー。平成7年4月に生まれて、間もなく我が家へやって来た。享年13歳。シェットランドシープドッグとしては長生きな方だという。でももっと生きていて欲しかった。最後の呆気なさにより一層切なさを覚える。さようならラッキー。もっといろんな所へ散歩に連れて行きたかった。もっと腹いっぱい食わせてやればよかった。もっと撫でてやればよかった。そんな思いが過去の思い出とともに胸に溢れてくる。

■四国のお遍路と四門
日本では「四」という数字が嫌われているらしい。すなわち「四」の読み仮名「し」は「死」に通じるということであろうか。病院や、旅館の部屋番号に「4」または「四」が抜けていたりもすることがあるのも、そのことによるものであろう。仏教では「四」を用いた大切な語句が多い。「四門」「四有」「四諦」「四天王」「四無量心」「四弘誓願」等々挙げればきりがない。その中、発心・修行・菩提・涅槃という、仏教の修行を通して悟りに至る仏道を、四段階にまとめた「四門」もやはり「四」が付く大事な仏教用語である。第一の「発心」とは発菩提心といい、悟りを得ようとする心を起こすことである。第二の「修行」とは悟りをめざして心身浄化を習い修めること、第三の「菩提」とは煩悩を断ち切って悟りの境地に達すること、第四の「涅槃」とは煩悩の火を消し、智慧が完成し、一切の悩みや束縛から脱した、円満・安楽の境地のことをいう。第一の発心、第二の修行までは何とか往くことが出来そうであるが、第三の菩提、第四の涅槃の完全なる境地までは、この身今生においては遠い道のりのようである。いわゆる小乗仏教では、この身を滅して菩提・涅槃に往きたいと願い、実行する修行者も居たようである。(「灰身滅智」。) 昨今、硫化水素をによって自殺をする人が増えているという。この世の苦しみに耐えかねて自らの命を絶つというこであろうが、残された人に与える影響をも考えると、何とかこの世に留まり与えられた命を全うしていただきたいものである。今一度、心を新たにして生きてみようという気持ちになることも「発心」ということが出来よう。発心の後には修行があるのだから、苦しいと思っても耐えて生きること肝要である。発心・修行・菩提・涅槃の四門を八十八ヶ所の札所に当てはめ、四つの国を巡ることで有名なのが四国の巡礼である。徳島県(阿波)・・・発心の道場、高知県(土佐)・・・修行の道場、愛媛県(伊予)・・・菩提の道場、香川県(讃岐)・・・涅槃の道場の四県(四国)の津々浦々を巡って八十八ヶ所の霊場を巡拝する。徒歩で全てを回ると総距離1200キロメートル、2ヶ月位かかるという。良く出来たシステムの霊場である。過日、四国を旅行した折に、発心の道場である徳島県の、一番霊山寺、二番極楽寺、涅槃の道場の香川県の弘法大師誕生の地、七十五番善通寺、天台宗の寺院である八十七番長尾寺、そして結願の寺である八十八番大窪寺等をお参りさせていただいたが、全ての寺院をのんびりと巡ってみたい気持ちに駆られた。 
 

 

■聖地天台山ー日本天台宗の大本ー
平成15年より5ヶ年に亘って行われました、天台宗開宗1200年慶讃大法会の円成結願を記念し、5月21日より27日までの7日間、日本天台宗の大本である中国浙江省の天台山国清寺に、大法会円成の奉告法要のため参拝する予定でありました。ところが5月12日に起きた中国四川省大地震のため参拝旅行が中止されました。今回の旅行では天台山に参拝した後、慈覚大師円仁和尚の受法の地でもあります西安に足を伸ばす予定でした。西安には青龍寺・大興善寺等の古刹もあり楽しみにいたしておりました。誠に残念ではありますが事情が事情だけに止むを得ません。この場を借りて、大地震の被災者の皆様に心よりお見舞いを申し上げます。
さて、天台宗の天台という名は、中国の聖地である天台山という山の名前からとったものであります。天台山は古くより,紫微宮(しびきゅう)・・・北極星を囲む星座郡(小熊座、大熊座、竜座、カシオペア座)にある三台星宿(三つ星)に応ずる福境であるがゆえに「天台」といわれます。「天台」は星を意味し、天に昇る意味の「上天之台」ともいわれます。山の麓から天台山の三つの峰を見上げたとき、ちょうど三つの峰と天空にきらめく紫微宮の三つ星が重なって見えた。天台山の三つの峰に昇れば天空にきらめく星に到達することが出来る、ということなのでしょう。
天台山の最高峰は華頂峰、海抜1138メートル。東方には海が望めるので望海頂ともいわれます。日本仏教では、この天台山を、インドの霊鷲山(りょうじゅせん)、日本比叡山とともに、『法華経』の三霊山の一つとしており、日本の求法僧が身命を賭して訪れた山なのです。この天台山が聖山であることを知って入山し修行され、新しい仏教を開いた。その僧の名前を天台大師智禅師(てんだいだいしちぎぜんじ)と申します。
天台大師は38歳のとき、陳の都の栄光を棄てて、深山に籠もり修行をいたしました。大師は天台山最高の華頂峰で一人修行をし、こころの中の悪魔を降伏させ(華頂降魔)、解悟得脱いたしました。この解悟こそが『法華経』を中心とした天台教学の基であり、心髄となったのでした。天台大師は西暦597年11月24日に天台山の西北山麓、新昌の石城寺(大仏寺)において60歳の生涯を閉じられます。即身仏になったご遺体は、天台山の智者塔院の肉身塔に奉安されております。大師より教えを受けた晋王広(隋の煬帝)は、大師の遺言を守り、天台山の南麓に国清寺という寺院を建立します。これ以来、天台山と国清寺は中国でも特別な道場となり、多くの高僧が排出されました。今より約1200年前、日本の伝教大師最澄上人が求法のためこの天台山を訪れました。最澄上人はこの天台山で多くの仏教を学び、特に天台の法門を伝えられて日本に帰国し、西暦806年、比叡山に日本の天台宗を開かれたのであります。
伝教大師最澄上人を「宗祖」、天台大師智禅師を「高祖」とお呼びし、お仏壇の御本尊の両脇侍としてお祀りするのも、そのような所以によるものであります。また、日本の比叡山が天台山とも呼ばれるのは、天台山を憧れる気持ちが根底にあることによるものでありましょう。

■日光団参始末記
10月2日(木)、第9回目の日帰りバス旅行ということで、檀信徒の皆さんと日光に行ってまいりました。心配された台風15号も太平洋を南の方に去り、秋晴れの好天気に恵まれました。指扇を午前7時30分に出発、途中埴生野サービスエリアで休憩を取り、日光の輪王寺駐車場に着いたのは、予定よりも訳5分遅れの10時25分でありました。輪王寺財務部長の今井昌英師が駐車場で我々の到着を「今か今か」と待っていてくれた様子でした。挨拶もそこそこに、宝物殿に入り大きな日光山の絵図を前に、今井部長の日光についてのご説明をお聞きいたしました。当日は日光山中興の慈眼大師天海大僧正ののご命日に当たり、365回忌の法要「長講会(じょうごうえ)」があるということで、急いでおられたということでした。
日光山について
奈良時代、勝道上人によって輪王寺と二荒山神社が開創された日光山は、神仏習合と山岳宗教の霊山として知られております。江戸時代に天台宗の僧侶である天海師が将軍徳川家康の深い信任を得て日光山貫主となり、家康の死後、御廟「東照宮」を創建。明治維新の神仏分離まで二社一寺が一体となって栄えてきました。今年は百八歳の長寿を全うした天海師の365回忌に当たります。天海師の詠まれたお歌に、「気は長く 勤めはかたく 色うすく 食細うして 心ひろかれ」とあります。我々も見習いたいものです。
輪王寺三仏堂参拝
宝物殿から近いところに、日光山の中心のお堂(本堂)である「三仏堂」があります。本尊には千手観音、阿弥陀如来、馬頭観音の三体の仏様が祀られております。三体の仏様が祀られているから「三仏堂」といいます。ガイドさんのお話ですと、三仏は日光の山を象徴しており、千手観音(男体山)はお父さん、阿弥陀如来(女峰山)はお母さん、馬頭観音(太郎山)は子どもを表しており、家族円満の様子を物語っているともいわれます。お堂の創建は平安時代と伝えられておりますが、今の建物は徳川三代将軍家光公が再建されたということです。現在工事中ですが、お堂の中、三体の仏様の真下まで行って拝むことが出来ます。参拝の皆さんと一緒に般若心経をお唱えし、旅の無事を祈りと日頃の安穏に感謝の気持ちを捧げてまいりました。ちなみに、そのガイドさんは春日さんという方ですが、日光の名物ガイドさんで、みのもんたに似ており、テレビの中継等があるときによく見るガイドさんでした。
東照宮参拝
三仏堂の次に東照宮に向かいました。東照宮は徳川初代将軍家康公を御祭神におまつりした神社であります。石の鳥居をくぐり、まっすぐ進んで急な勾配の石の階段を登り、表門から境内に入ると、そこは別空間。極彩色の絢爛豪華な建造物が立ち並び、見るものを圧倒させずにはおかないものがあります。さすがに天下人の廟所。特に陽明門のの彫刻を一つ一つ観ていると時が経つのを忘れそう。そこから日暮門の異名があるとか。見ざる、言わざる、聞かざるの三猿や眠り猫、鳴竜など、観る者を飽きさせることがない、日本屈指の彫刻物の宝庫でもあります。神社の境内の中ではありますが、本地堂には薬師如来がお祭りされており、神仏習合の名残りとして貴重な建物もあります。
二荒山神社参拝
東照宮の参拝を終え、上新道(馬車道を)二荒山神社へと向かいます。とても馬臭がきつい道でありますが、絢爛豪華な東照宮から閑静な二荒山神社への道としては落ち着いた雰囲気の趣のある道であると思いました。「日光」という名称は、元は「二荒」であったと伝えられ、「二荒」に「日光」の文字が当てられたといいます。この二荒山神社の御祭神は、二荒山大神という親子三神であります。父として大己貴命(おおなむちのみこと=大国主命)、母として田心姫命(たごりのひめのみこと)、子として味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)が祭られております。古くより、霊峰二荒山(男体山)を、神の鎮まりたもう御山として尊崇したことから、御山を御神体山として仰ぐ神社で、日光の氏神様でもあります。当日は茅の輪くぐりがあり、檀信徒の皆さんも、疫病払いのため、茅の輪を八の字に周りお払いをしておりました。
大猷院御廟参拝
二荒山神社の参道を下ってくると、医師団の途中に縁結びの木があります。石段を降り終わり、右のほうに行きますと、徳川家三代将軍家光公の御廟である「大猷院(たいゆういん)」があります。家光公の戒名を「大猷院殿贈正一位大相国公」といい、御廟の名称もその戒名から「大猷院」と称されております。祖父に当たる家康公の廟所をしのいではならない、という遺命により、彩色や彫刻は控えめに造られておりますが、かえってそれが重厚で落ち着いた雰囲気を醸し出しております。入り口の「仁王門」から墓所の入り口に当たる「皇嘉門」に至るまで、意匠の異なる大小六つの門で、境内が仕切られており、門をくぐるたびに景色が変わり、まるで天上世界へと昇って行くような印象を受けます。檀信徒の皆さんも、知らず知らずのうちに四百数十段にわたる長い石段を登りきることが出来ました。大猷院の中心伽藍である本殿は、その正面は家康公の墓所である東照宮の鬼門の方向を向いています。その構成は、拝殿・相の間・本殿からなっています。東照宮が「権現造り」を中心とした神仏習合形式であるのに対し、大猷院廟は「仏殿造り」の純仏教形式となっております。拝殿において輪王寺の藤沢克悦師のご説明をお聞きし、大猷院の素晴らしさを実感していた様子でした。お土産に「家光香」を買い入れ、皆さん先祖様の霊前にお供えになったことと思います。
田母沢御用邸記念公園散策
輪王寺三仏堂からずっと歩いて大猷院まで参拝してきたので、皆さんお疲れのようでした。昼食は近くの日光千姫物語というホテルでいただきました。だいぶ喉が乾いていたようでがビールをとても美味しそうに飲み干していました。昼食後は、すぐ近くの「田母沢御用邸記念公園」を1時間ほど散策いたしました。この御用邸は明治33年に嘉仁親王(大正天皇)のご静養のために造営され、昭和22年に廃止されるまで、三代にわたる天皇・皇太子がご利用されました。閑静な建物でありますが、いたるところにレトロな雰囲気が醸し出され、一風変わった妙味を感じさせる御用邸でした。
以上で今回の日光団参の全ての日程が終了し帰途につきました。途中、日光たまり漬けのお店に寄り、しこたま漬物を買い込んだようです。帰りのバスも順調に進み、車内ではカラオケなども披露され、和気藹々のうちに出発地に無事到着いたしました。

■七五三とお宮参り
11月15日は七五三の日である。男の子は5歳、女の子は7歳と3歳と年の11月15日に、成長を祝って神社や寺に詣でる年中行事である。本来は数え年であるが最近は満年齢で行うお宅が多くなったようである。3歳は髪を伸ばす「髪置(かみおき)」、5歳は初めて袴を付ける「袴着(はかまぎ)」、7歳は、それまでの紐付きの着物に代わって、本仕立ての着物と丸帯という大人の装いをする「帯解(おびとき)・紐落(ひもおとし)」の名残であり、少女は、このときに初めて化粧をしてもらう。奇数を縁起のよい数として考える中国の思想の影響もあるという。では何が故に11月15日なのか? 旧暦の15日は、かつては二十八宿の鬼宿日(鬼が出歩かない日)に当たり、何事をするにも吉であるとされた。また、旧暦の11月は収穫を終えて、その実りを神に感謝する月であり、その月の満月の日である15日に、氏神への収穫の感謝を兼ねて、子供の成長を感謝し、加護を祈るようになった。また、3歳、5歳、7歳は子供の厄年として、厄祓いの意味があるとも言われている。明治の改暦以降は新暦の11月15日に行われるようになった。七五三では、千歳飴(ちとせあめ)を食べて祝う。子供の長寿を願って、細く長く伸ばし、縁起が良いとされる紅白の色でそれぞれ着色されている。
今月の10日(月)は孫娘の心愛の3歳の七五三のお祝い、21日(金)は孫(男子)の栄翔の初宮参りということで、大宮の氷川神社へお参りに行ってきました。氷川神社は武蔵国一ノ宮といわれ、祭神は須佐之男命(スサノオノミコト)、稲田姫命(イナダヒメノミコト)、大己貴命(オオナムチノミコト)である。拝殿に入り、神職の方の祝詞を聞き、お祓いを受け、心愛と栄翔のそれぞれの父親が玉串を奉奠し、お札を受けて終了である。ほんの10〜15分間の儀式であった。4〜5組の方が一緒の時間帯で行われる。栄翔のときは、初宮参りから、七五三、果ては厄除け祈願まで一緒に行われる。そういうときの祝詞の内容はどうなっているのだろうか。少し疑問に感じた。でも、仏教の儀式である護摩のときにも、やはり同じ座で、厄除けから商売繁盛、入学祈願や安産祈願まで行われるのだから、不思議はないのかもしれない。心愛は、お祓いが終わり、写真を撮り終えると、千歳飴が舐めたいと言い出し、姉の悠愛(5歳)も千歳飴を欲しがり、飴を舐め舐め帰路に着いた。

■今年の漢字は「変?」
日本漢字能力検定協会が毎年行っている、「今年の世相を漢字一字で表現してください!」というアンケートに、今年は過去最多の11万1208通の応募があった。その中で一番多かった漢字は「変」であった。その選ばれた今年の漢字を、観光寺院の中でも最も有名な京都の清水寺において、代々の貫主が縦1,5メートル、横1,3メートルの和紙に大きく揮毫するということで、近年頓に大きな話題を呼んでいる。
過去の漢字一字
1995年から行われ始め、最初は応募数も数千台に止まっていたが、インターネットを使って手軽に応募出来るようになってからは、応募数も増加の一途をたどっている。ちなみに過去の「今年の漢字」は、1995年「震」、1996年「食」、1997年「倒」、1998年「毒」、1999年「末」、2000年「金」、2001年「戦」、2002年「帰」、2003年「虎」、2004年「災」、2005年「愛」、2006年「命」、2007年「偽」であった。
「変」
さて、今年、平成20年の世相を表す漢字の第1位に選ばれたのは「変」であるが、応募総数のわずか5,42パーセントの6,031票である。以下第2位に「金」、第3位に「落」と続いている。1位に選ばれた「変」の意味は、1かわる、かえる、不安定で姿や性質が今までと違った状態になる2ふしぎな異常な出来事。天変地異、3政治上の事件や内乱・戦争、・・・・・・とある。「変」が選ばれた要因の一つとして、アメリカ合衆国の大統領選挙において、オバマ氏が「イエス ウィ キャン」というセリフで「チェインヂ」(変革)を訴えて見事当選を果たしたことが挙げられた。何も日本の世相を表わす漢字一文字にアメリカの大統領選挙を引き合いに出すことはなかろうに、と思ったが、今年からは世界の世相を表わす漢字一字になったのだろうか?
「無常」
「変」という漢字の意味は、「かわる」ということであるが、「かわる」ということを仏教では「無常」という。大辞泉によれば「無常」とは、「1この世の中の一切のものは常に生滅流転(しょうめつるてん)して、永遠不変のものはないということ。特に人生のはかないこと。また、そのさま。2人の死。」であるという。「諸行無常」ともいう。「無常」という言葉は、大辞泉にもあるとおり、人が老い、死を迎えるといった、人生のはかなさの意味が表わすことが多いと思われますが、逆に生まれたばかりの赤ん坊が成長してゆくことも無常であり、仕事とか趣味を通して人が成長することも、やはり無常といえると思います。
良い方へ「チェインヂ!」
今年の世相を表わす文字「変」を、来年は良い方へ向かっての「変」(チェインヂ)にしたいものです。今の世の中は、世界的金融危機により経済的に困窮の時代を迎えております。この不況のときこそ、お互いが助け合い、分け合い、「共に生きる」という共生の精神が必要なときです。そして精神的豊かさを忘れずに生きてゆきたいものです。

■インド禅定林参拝旅行記(1)
インド禅定林落慶二周年記念法要と釈尊の聖地巡拝の旅 (平成21年2月7日〜15日)
仏教が生まれた地インドに、天台宗の別院である「インド禅定林」が開かれ、落慶式が行われたのは去る平成19年2月8日のことでした。そのときにはまだ建物が完成していませんでした。そのインド禅定林で、今年の2月8日(日)、落慶2周年を記念して大法要と式典が開催されるということで、建物の進捗状況も確かめに行くということで、埼玉教区では有志を募り参拝団が結成され、天台宗の特定布教師として現地に赴きお参りさせていただきました。
2月7日(土)
成田発午前11時30分、シンガポール航空SQ−637便にてシンガポールを経由して、同じシンガポール航空SQ−438便で、インドの中央部にあるハイデラバードに現地時間 (インドと日本の時差は3時間30分)で午後22時25分に着き、その日はハイデラバードの空港近くのホテルに泊まるはずであった。ところが成田発午前11時30分のはずが、補助ブレーキの故障により遅れに遅れ、午後3時30分にやっと飛び立つ始末。シンガポールに着いたのは午後11時10分。ハイデラバードに行く飛行機には乗れず、空港で待機。何が何でもインドの国内にまず入りたいということで、8日午前2時35分発にてインドの首都であるデリーまで行くことに。その飛行機はシンガポール航空SQ406便でビジネスクラスの席に座ることが出来、ゆっくりと眠ることが出来ました。
2月8日(日)
午前5時20分デリー着。そこで今回の旅の現地ガイドであるアニ−ルさんと合流。デリーの国際線の空港から国内線の空港までバスで移動。9時15分発の国内便にてインドの臍とも呼ばれるナグプールに10時35分着。ナグプール空港の近くにあるプライドホテルにて少し休憩し、インド禅定林の法要のための法衣に身支度を整える。デリーの朝はちょっと寒いくらいの気候であったが、ナグプールはとても暑く、夏物の白衣の上にに直綴を着て、輪袈裟を着ける。法要のときには2年前に当地でいただいた山繭の如法会を纏う。このホテルは2年前の落慶式に来たときに宿泊したホテルで見覚えがあり、なんとなく懐かしくなる。プライドホテルを午後12時30分に発ちバスにてポーニ村に向かう。ガタガタ道をバスに揺られること約2時間30分。午後3時にやっとポーニ村に到着。待ち構えていたインド禅定林の住職サンガ・マナケ・法天師や天台宗務庁の谷総務部長、延暦寺の横山総務部長らが出迎えてくれる。時間も予定より遥かに遅れているので、休むまもなく「禅定林落慶 二周年記念式典」に臨んだ。
式典会場は禅定林本堂の前に大テントが張られ、多くの村民 たちが見守る中、開式された。この、いわばお祭りに集まった人たちは、当局の発表によるとおよそ10万人にも及ぶといわれている。住職であるマナケ師の挨拶のあと、多くの来賓たちの挨拶が続く。その挨拶が皆長い。聴衆に話の意味が伝わっているのかどうかは不明であるが、最初のうちはよく聴いていた。ところが時間が経過してゆくうちに、さすがに飽きてきたと見えて、隣としゃべったり、席を移動したり、だんだんと聴衆の数も少なくなってくる。それにもめげず来賓の挨拶は続く。やがて埼玉教区団を代表して吉田宗務所長の挨拶と番となる。聴衆は日本から来た偉いお坊さんとということで聴き入るが、マナケ師の通訳がした言葉がどこまで真意を伝えているは、我々は知る由も無いのは当然のことであった。式典の間、若いインド人の女の子がコップに水を入れて運んできてくれる。1杯目はおいしくいただいたが、後はもう飲む気がしなかった。それほど喉も渇いていなかった。永遠2時間にわたる演説会の式典が終わると、禅定林に本堂の中に移り、簡単な法要をして落慶二周年を祝った。
まだ建物は完成しておらず、2層目の屋根は乗ったが、その上に立てるはずの相輪塔が本堂の前に横たえられており、それを立てる手はずが調わないという。屋根もまだ葺かれておらず、ガラスや扉の建具類も取り付けていない。しかし内陣にはご本尊の釈迦三尊像や天台、伝教の両大師、それにインドでは偉大なるアンベドカル菩薩像が安置され、お堂としての趣は伝わってくる。
法要が終わり、記念の写真を撮り、時間もだいぶ経過していたので、衣体を着替えて禅定林を離れてナグプールのプライドホテルに戻ったのは、午後8時30分であった。皆でホテルで夕食を取り、その夜はゆっくり休むことができた。 
 

 

■インド禅定林参拝旅行記(2)
2月9日(月)
午前6時起床。7時に朝食をとり、8時にプライドホテルを出発。ナグプール空港を9時25分に発ち、11時、デリー(インデラ・ガンディー)空港国内線ターミナル到着、徒歩で国際線ターミナルまで移動し、空港内のレストランを借りて和食弁当の昼食。デリー国際空港を午後14時30分発、ラクノー空港に午後16時30分到着。ラクノーを17時に出発し、バスにて180キロメートルの道のりを一路、釈尊が最も好まれたといわれる精舎の一つであるシュラバスーティー「祇園精舎」へ向かう。午後23時25分、シュラバスティーのパワンパレスホテルに到着。遅い夕食を取ってすぐに眠りに着く。シュラバスティーには、遺跡としては祇園精舎である「サヘット」と、コーサラ国の都「マヘット」があります。この地は釈尊が『阿弥陀経』を説かれた地として有名です。
2月10日(火)
午前8時、リキシャにて祇園精舎である「サヘット」とコーサラ国の都「マヘット」の遺跡見学に。祇園精舎は、本来の名を「祇樹給弧独園精舎」といいます。釈尊当時、給弧独長者と呼ばれるスダッタという富豪が、釈尊の説法をコーサラ国の人々に聞かせたいと、釈尊をお招きしたいと思い、地面に黄金を敷き詰め林園を手に入れました。コーサラ国の太子である祇多太子はその事情を知り、その黄金で精舎を建てたといわれています。そこで、給弧独長者と祇多太子の二人の名から「祇樹給弧独園精舎」という名が生まれたといいます。『平家物語』に「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり・・・」とありますが、当時は祇園精舎には鐘が無かったということです。午前9時45分、バスにて釈尊涅槃の地、クシナガラに向かって出発。午後14時40分、マハラジャの離宮であったところで昼食。部屋の中には、マハラジャがトラ狩りをしていたときの写真や、トラの剥製が飾ってあった。午後15時、カピラヴァストゥ「カピラ城」見学。
カピラ城は、ティラウラコットとピプラワの二箇所がありますが、ピプラワに「ゴータマ・ブッダの遺骨及びその一族の遺骨」と書かれた壺がが発掘され、また近代にいたって、「カピラヴァストゥ」と刻まれた印章などが出土されているところから、ほぼこの地ではないかと推定されているが、まだ断定はされていない。なおこの地から発掘された仏舎利はデリーの博物館に保管されている。午後15時45分、カピラヴァストゥを発ち、クシナガラに向かう。午後21時10分、クシナガラ、ロイヤルレジデンシーホテル到着。
2月11日(水)
午前7時30分、釈尊涅槃の地であるクシナガラの涅槃堂、釈尊最後の説法の地、荼毘塚を見学。
釈尊はこの地において、四本のサーラ双樹の間に身を横たえ、頭を北にして、顔を西に向け、右脇を下にして、静かに涅槃に入られました。阿難尊者を始め多くの弟子や人々は嘆き悲しみましたが、天上では釈尊が娑婆から戻られたということで、花の雨が降ったということでございます。午前9時30分、涅槃の地クシナガラを後にして、今度は生誕の地ルンビニーに向かって出発です。ルンビニーまでは187km、バスでひたすら走ります。途中にインドとネパールの国境があります。午後15時10分、インド国境着。簡単な入国手続きを経て、遮断機みたいな国境を通り過ぎるとそこはもうネパール。午後15時52分、ネパール着。インドとネパールの時差が15分間。したがって現在にネパール時間は午後16時07分。小一時間バスで行くとルンビニー園に到着します。
後17時、ルンビニー園に到着。駐車場からリキシャにてマーヤ堂があるところまで行きます。釈尊は紀元前463年父である浄飯王(スッドーダナ王)と母摩耶夫人(マーヤ妃)の間に生まれました。マーヤ妃が実家であるデーバハダ城へ出産のため戻る途中、この地において、無憂樹の下にて母の右脇より生まれ、七歩歩いて、右手で天を、左手で地を指し「天上天下唯我独尊」と言ったと伝えられております。この地には現在マーヤ堂が建てられ、近くに産湯の池やアショカ王柱があります。長い一日の行程を終え、18時20分に法華ホテルに到着しました。このホテルは畳の部屋で、夕食も日本食でした。電力事情が悪く自家発電のため風呂の時間が限られ、テレビもつかず薄暗い部屋で、寝るしかない夜でした。

■インド禅定林参拝旅行記(3)
2月12日(木)
午前6時30分起床。7時に朝食をとり、8時15分に法華ホテルを出発。ホテル側でお弁当を用意するはずが遅れて間に合わず、やむなく15分遅れで出発。バスで一路チトワン公園に向かってひたすら走る。途中車内で、水を加えるだけで出来る非常用の「おにぎり」をいただく。なかなかの味である。ちょうどお昼ころ、峠に差し掛かり、道端の食堂、いわゆる峠の茶屋で小休止。そこで結婚式を迎える新郎新婦の一行に出会う。幸せそうな花嫁を囲んでみんなで写真をとる。花嫁は無口であまりしゃべらず、ただ微笑んでいる。花嫁の叔母らしき女性がもっぱら応対していた。
午後1時半頃、チトワン公園、アドベンチャーリゾートに到着。木造のコテージ、電気、水道は時間制限。もちろんテレビは無いし、お湯も出ない。ローソク明かりに蚊取り線香の煙。食堂で遅い昼食をとり、午後2時45分、いよいよエレファンとサファリに出発。20分位でエレファントサファリの出発地のサッカー場に到着。10頭ほどの象が待ちかねている。象の背中はずいぶん高い。木で組んだ乗り場から4人ずつ象の背中に固定された四角い籠のような乗り台に乗り込む。象が歩き出すと結構揺れるので、しっかり掴まってないと振り落とされそうになる。
午後3時15分、乗った順に象は林の方を目指してゆっくりと歩み始める。林を抜け、浅い川を渡り、サバンナのような草原に出る。野性のサイが見える。残念ながらトラやライオンにはお目にかかれなかった。象の背中に揺られ、山林や草原を巡ること約1時間30分。やっともとのスタート地点に戻る。午後6時30分、ホテルにて夕食。夕食後、地元の「タルダンス」という踊りを観に出かける。「タルダンス」とは、戦闘の前に士気を鼓舞する為の踊りのようである。男性のみ14〜5人が輪になって、木の棒を武器に見立てて振り上げたりぶつけ合わしたりしながら、回って踊る。とてもリズミックで軽快な踊りである。また男性と女性に扮した男性が一人ずつ、なにやら言い寄っては逃げる、恋のゲームのような踊りもあった。
2月13日(木)
午前6時30分モーニングノック。7時朝食。8時出発。カヌーが置いてある川辺までバスで移動。8時20分2艘のカヌーに分乗して川下りのスタート。岸辺に寝転んでいるワニや羽を広げている孔雀、空を飛び交う色鮮やかなキングフィッシャー(かわせみ)という鳥を観察する。30分ほどでカヌーの川下りは終了。陸地に上がり、十数頭の象を見物。象にもおとなしそうな象から、気が荒そうな象まで、性格がいろいろな象がいる。
午前11時、ホテルにてちょっと早い昼食をとり、11時30分チトワンのバラトプル空港へ出発。空港にて待たされること2時間。待っても待っても乗るべき飛行機が来ない。午後3時25分、19人乗りのプロペラ双発機にてネパール、カトマンズ空港に向けて出発。午後3時45分、カトマンズ空港着、標高約1300メートル、眼下にはゴルフ場のようなものも見える。空港から大急ぎでボダナート「眼玉寺」(めだまでら)を見学。夕闇迫る旧王宮広場にあるお店にて少し買い物をして、午後7時20分、ソルティ・クラウンプラザホテルに到着。ホテル内のイタリア料理レストランにて夕食。このホテルはなかなか素晴らしいホテルで、敷地内にはカジノまである高級ホテル。希望者は夕食後カジノへ行く。
2月14日(土)
午前6時モーニングコール、6時30分朝食、7時10分出発。世界最高峰エベレストを一望するヒマラヤ遊覧飛行へ。カトマンズ空港から双発のプロペラ機に乗り約1時間の遊覧飛行コース。真近にヒマラヤの山々をを見ることができる。中でも標高8,848メートルのエベレスト(チベット名:チョモランマ)は圧巻。天気に左右されるこのフライト。当日は天気にも恵まれ、山々がきれいに見れました。ガイドに聞いた話ですが、冬になるとチベットからこのヒマラヤを飛び越えてネパールやインドに飛んでくるツルがいるという。その名は「アネハツル」。自然生物の営みには驚かされます。
長かったインド、ネパールの旅もこれでおしまい。カトマンズ空港よりシンガポール経由にて帰国の途に着きます。
2月15日(日)
午前7時過ぎ頃、成田に無事到着しました。

■信州別所の古寺古塔と「天地人」ゆかりの地を巡る旅
信州の鎌倉と言われる別所温泉に「北向観音」と呼ばれるちょっと変わった寺がある。何が変わっているのかといえば、そのお堂の向いている方角である。通常寺院のお堂は南向きに建てられることが多い。もしくは阿弥陀v如来を本尊とするお堂であると東向きに建てられることもある。ところがそのお堂は名前のとおり北を向いているのである。しかもその向いている先には、何と信濃の善光寺があるという。善光寺の一光三尊の阿弥陀如来に対峙する形で建てられているのである。
その由来を『北向観音の縁起』より抜粋すると、「本堂が北に向いているのは、観世音菩薩出現の際、北斗星が世界の依怙(よりどころ)となるよう、我もまた一切衆生のためにつねに依怙となって済度をなさん、というお告げによるもの」といわれている。
平成21年10月28日、福正寺檀信徒の皆さん29名と、信州別所温泉にある、天台宗別格本山の常楽寺本坊と北向観音、国宝の八角三重の塔がある安楽寺を訪れる。常楽寺は現天台座主半田孝淳猊下の自坊であり、天長2年(825年)に建立され、鎌倉時代に天台教学の拠点として大いに栄えた寺である。爽やかな秋晴れの下、参詣路を巡って歩くと、自然と融和した寺院や門前のみやげ物店が旅情豊かな趣きを感じさせてくれる。
別所温泉を散策の後、今夜の宿泊地の戸倉・上山田温泉に向かう。宿は千曲川を渡ったところにある「千曲館」である。温泉が硫黄の香りがする本格的ないい湯であった。
二日目は、NHK大河ドラマ「天地人」ゆかりの寺巡りである。先ずは上越の天地人博を観て、ドラマの内容を再確認すると共に、上杉謙信や上杉景勝の姫の衣装を身にまとい、記念写真に納まっていた。越後三山の麓、雪と稲穂の里、魚沼の禅寺に古き匠が遺した素晴らしい彫刻がある。西福寺開山堂にある、幕末の名匠石川雲蝶の終生の大作である。
天地人の主役である、直江兼続が幼少の頃に勉学と修行に励んだ雲洞庵、八代にある真田家の学問所などを散策し、しばし現代を去って戦国の御世を垣間見た思いである。

■施餓鬼会法話「いい死に方、悪い死に方」
法話の更新が半年以上もできず、拙僧としても忸怩たる思いでありました。ここのところ、旅行記のブログのようになってしまいましたが、読者の皆様はいかがお感じでしょうか? さて今回は、今年の施餓鬼会で行った法話の内容を載せてみました。この話題は、ある週刊誌の記事をもとに作成しております。未完の法話原稿ですので、文章としてはおかしいところがあるかもしれませんが、気にせずお読みいただきたいと思います。  
「いい死に方、悪い死に方」
1、「幸福な死」と「惨めな死」−「迷惑」と「困惑」
2、あなたが死ぬ前に準備することーはじめての「身辺整理」
3、死ぬとき、人は何を思うか
4、「死後の世界」 その常識を知っておきたい ―(死者の霊魂は有るか無いか?)―
5、死の予習を!そのときになってからでは遅すぎます
何故今の時代になってこのようなことが週刊誌の題材になるのかということがあります。お釈迦さまが説かれた「四苦八苦」 四苦 生・老・病・死 昔は 生と死の間にある老・病が短かった。
平均寿命 昭和22年(1947) 50.06 / 53.96 初めて50歳を超える 
室町時代(1338〜1573) 15.2歳 ・・・ 江戸時代(1603〜1867) 17世紀 20〜30歳 18世紀 30歳半 19世紀 30歳後半 ・・・ 明治13年(1880) 36 / 38 ・・・ 大正10年(1921) 42.06 / 43.2 ・・・ 昭和20年 49.8歳   22年 50.6 / 53.96 25年 59.57 / 67.75 30年 63.60 / 67.75 35年 65.32 / 70.19 40年 67.74 / 74.66 45年 69.31 / 74.66 50年 71.73 / 76.89 55年 73.35 / 78.76 60年 74.78 / 80.48 63年 78.54 / 81.30  ・・・ 平成5年 76.25 / 82.51 16年 78.64 / 85.39 21年 79.59 / 86.44  
昔(明治時代ころまで)は赤ん坊や幼児の死が多かった。1軒のうちに何人となく幼い命で亡くなっている。そのような命までが平均の中に入っている。従って、最後まで寿命を全うして亡くなった場合は、もっと長生きであったろう。現代は生活の向上と医療の進歩により寿命が延び、その分「老」と「病」の期間が長くなった。したがって、その間に更に仕事、趣味に費やす時間が多くなったとともに、余生として家庭生活を送るなかにおいて、死を意識したり、自分自身の死後や、自分が死んだときの家族の生活のことを考える時間が多くなった。
1、「幸福な死」と「惨めな死」  迷惑と困惑をこの世に残さない
「幸福な死」 自分の死を意識して、人生の後半をかけて除々に「脱俗」してゆく様な死に方。そしてあなたの死を悼んでくれると確信できる親しい人がいること。
脱俗・・・世間の俗気から離れること。世の中から超越すること。超俗。
超俗・・・俗界を超越すること。俗界から高く抜け出ること。脱俗。
「惨めな死」 死後の安心が得られていない。自分の死後、誰が自分を供養してくれるのかという不安。現代は段々縁が薄れてゆく時代だといわれる。111歳の男性、113歳の女性、生きているのか死んでいるのか誰も知らないし、構わない。それを契機に100歳以上を調べてみれば、75人以上の人の生死が不明。この世から忘れ去られている人たちがたくさんいる。死に顔を見れば、その人の死が、幸福な死か惨めな死がわかる。
2、あなたが死ぬ前に準備すること・・・身辺整理
出来るようで出来ないのが、身の回りの品物の整理。不必要なものは捨てる。遺品で大切なものは家族にアピールしておく。葬儀とお墓。経費を考慮に入れる。葬儀はその人にとって最後のこの世での儀式であるとともに、来世に向かっての旅立ちの儀式。また、死者と生者の別れと心のけじめの儀式。
お墓 「千の風になって」 / 川柳 「墓参り 行かぬ理由に 千の風」 / 新井満 作曲・作詞家 「私はお墓を訪ね、死者と対話するのが趣味になりたした。死者は風になり、星になり、鳥になって、空を自由に飛び回っていて、生者が墓を訪れると、きっとどこからかやって来る。お墓はいわば死者とのミーティングルームなのです。」 「死者は二度死ぬ。最初は生物学的に、二度目は生者が忘れたときに。しかし生者が忘れない限り、死者は生き続ける」 お墓は亡くなられた方の本籍地。
3、死ぬとき人は、何を思うか
痛みなど身体の苦痛が緩和されたとき、初めて人生を振り返り、いろいろな思いが湧きあがってくる。中でも、「会いたい」、「行きたい」、「食べたい」という3つの言葉。
4、「死後の世界」その常識を知っておきたい。知らないまま、あの世に行くのは… 死んだらどうなるんだろう。不安、焦燥、恐怖・・・死苦・・・自分の身体がなくなったら、自分はどこへ行くんだろう。そもそも自分はなぜこの世に存在しているのか。なぜ生きているのか。その疑問の答えが見つかった人はいない。なぜなら死んで生き返った人はいない。
父と母の行為によって、3億分の1の精子が卵子と結合して今の自分が母の胎内で育ち、時が満ちて生まれてくる。人類は何万年ものあいだそれを繰り返してきて、今の自分がここにいる。父母は2人、祖父母は4人、曾祖父母は8人・・計14人。10代さかのぼると2,046人、20代さかのぼると2,097,150人。30代さかのぼると2,147,483,650人。「風のガーデン」という倉本聰が脚本を書いたドラマの中で、北海道で町医者を営んでいる老医師に扮する緒方拳と息子の麻酔科の医師に扮する中井貴一の会話  末期ガンで死の床に横たわっている息子役の中井貴一が父親の老医師役の緒方拳に来世は有ると思うか」と聞くと、緒方拳は有るか無いか確証はないけれども、有ると思ったほうがいいんじゃないかという。緒方拳はこのテレビ番組が未公開のうちに、自分自身肝臓ガンのため71歳で急逝した。
宗教学者 山折哲雄 / この世とは別の世界、たとえば天国でも浄土でも、それに代わるもの何でもいいのですが、死後の世界があると考えたほうが、死の恐怖を受け入れ、乗り越えるための大きな要素となる。
教誨師 受刑者の話を聞き、教えを説く / 死刑囚は死に対する恐れがあるが、来世があるというと、少しは気が安ら  いで死刑執行までの日々を過ごせるようになるという。
宗教学者 奈良康明 / ―霊魂は有るか無いか―? 私は実体的な霊魂の存在を認めていない。「生者の記憶にのこる死者の人格」を葬祭に関わる対象として認めていいと考えている。「気」の存在、「気」を感じる 気と霊魂の関係。
5、死の予習を!そのときになってからでは遅すぎます  
中川恵一医師・玄侑宗久(芥川賞『中陰の花』) / 死というのは人生最後の大きなイベントだから、練習をしておかなければならない。少なくとも自分の死について考えておかなければなりません。受験勉強、就職活動(就活)、結婚活動(婚活)、育児活動(育活)、何らかの備えをする。備えよければ憂いなし。死の本番というのはいつ来るかわからない。死は前からは来ないで、突然、後ろからおそって来る。
臨終活動(臨活、終活) / だから、子供のころから死というものを見せておく必要があります。おじいちゃん、おばあちゃんの臨終のときとか、納棺、葬式、納骨・・・そうした機会に立ち会うことも死の予習につながると思います。
人生を4期に分ける  学生期(0〜25歳)、止住(家住)期(25〜50歳)、林棲期(50〜75歳)、遊行期(75〜100 歳)
お釈迦さまの一生 北門から出家(四門出遊) / 北・冬・玄武(亀・蛇)(0〜20歳)、 東・春・青竜(20〜40歳)、 南・夏・朱雀(40〜60歳) 、西・秋・白虎(60〜80歳)

■「智慧」について
お彼岸も終わり、ようやく暑さも峠を越え、いよいよ灯火親しむ錦秋の候となりつつあります。さて、今回の法話では、読者の方からのメールでのご質問にお答えして、「智慧」について思うところを述べさせていただきます。
智慧は慈悲とともに仏さまの大きな力と言えます。仏さまに灯明とお花を供えますが、その灯明が智慧を表し、お花が慈悲を表すと言われます。仏さまにお供えする灯明の明るさは、太陽の光や電気の明るさに比べれば、まことに小さなものですが、太陽も電気も無いところであれば、ローソク1本の明かりが皓々と輝き、真っ暗闇を赤々と照らしだしてくれるでしょう。暗い夜道もローソク1本の明かりで迷うことなく歩むことが出来ます。それと同じように、智慧という光があれば、人生の闇も晴れ、迷いからも脱出することが出来ます。残念ながら智慧が無い為に人間は悩み苦しみ、悪に手を染め、心を蝕まれてしまいます。
智慧は、菩薩の修行方法である六波羅蜜(ろくはらみつ)の一つとして挙げられております。六波羅蜜とは、六種の、悟りに至るための基本的な修行方法という意味です。六種とは、布施(ふせ)、持戒(じかい)、忍辱、(にんにく)、精進(しょうじん)、禅定(ぜんじょう)、智慧の六項目です。前五項目を行うことによって、最後の智慧が備わると言われます。
智慧は、お釈迦さまの悟られた教えであるこの世の真理を会得するものであります。この世の真理とは、四諦(苦諦・集諦・道諦・滅諦)、十二因縁(無明・行・識・妙色・六入・触・受・愛・取・有・生・老死)に代表される因果の道理であります。ものごとには必ず原因があり、原因に縁が働き結果が生じ、報いが起こります。因縁果報の道理をよく理解すれば、善因善果、悪因悪果なることをわきまえ、善なる生き方をする。それが仏道であり、仏教であります。
智慧とは、自己の心の中に潜む悪しき心根(本性)を認識し、それらを悪魔とし、惑わされずに生きるための心のおこないであります。すなわち自らの心中の悪魔を伏せんがために、「おいあくまよ」と唱えましょう。お・・・おこらない、い・・・いばらない、あ・・・あせらない、く・・・くやまない、ま・・・まけない、よ・・・よくばらない。「おいあくまよ」は以上六つの項目を実践することで成就出来ることでしょう。  
 

 

■「お地蔵さま」について
明けましておめでとうございます。皆様には輝かしい初春をお迎えのこととお慶び申し上げます。寒い日々が続きますがお体を大切にお過ごしください。今年も皆様にとって良き年になりますようお祈り申し上げます。
さて、今回の法話では、読者の方からのメールでのご質問にお答えして、「お地蔵さま」について思うところを述べさせていただきます。
路傍に立って、行き先が分からずに迷っている人や、夢中で遊んでいる子供たちをそっと見守っていてくれる、そんな仏さま(菩薩)がお地蔵さまです。
「これこれ石の地蔵さん 西へ行くのはこっちかえ だまっていてはわからない ぽっかり浮かんだ白い雲 何やらさみしい旅の空 いとし殿御のこころの中は 雲におききと言うのかえ」  この歌は「花笠道中」といって 往年の名歌手の美空ひばりさんが歌った唄です。西へ行くというのは、西方極楽浄土へ行くという意味で、極楽へ行く道をお地蔵さんに聞いているわけです。でもお地蔵さんはずっと黙ってばかり。空を見ると白い雲が浮かんでいる。雲というのは、霊を表すともいわれ、雲とともに西へ向かって旅をする。西方浄土への旅を男女の恋の駆け引きにひっかけ、愛しい人の心のうちを、お地蔵さんに聞きたいのだけれども、黙っていて教えてくれず、まるで雲に聞きなさいと言っているようだ、というのです。
雲は極めて遠い場所、高い場所という意味があります。また、行動・所在が確かでない物事にたとえらたり、火葬の煙にもたとえられます。そういうところから、雲は霊魂を現わすということになったのでしょう。白い雲とお地蔵さま、とてもお似合いのイメージです。
さて、お地蔵さまは正式には地蔵菩薩といいます。「地蔵」というのはサンスクリット(梵語)の「クシティ・ガルバ」ということばを漢字に訳したものです。クシティは「大地」の意味で、ガルバは「胎」とか「蔵」とかに訳されています。つまり、「大地の母胎」という意味で、インドでは、大地の神の一種で、財宝をつかさどる神であったといいます。
また地蔵菩薩は、お釈迦さまが滅せられて、56億7000万年後に弥勒菩薩が下生して弥勒如来になるまでの間、無仏のこの世にいらっしゃって、六道の苦しみを持つ衆生を救ってくださるといわれます。六地蔵とは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六つの輪廻(生まれ変わり死に変わりすること)の世界にお一人ずつおいでになって、苦しみを持つものを救ってくださるのです。
お地蔵さまにお参りするときには、お体をきれいにしてさしあげ、お水、お花、お香を供え、手を合わせ、「南無六道能化地蔵菩薩」と三篇お唱えし、お地蔵さまの御真言「オン カカカ ビサンマエイ ソワカ」と数回お唱えいたしましょう。
石のお地蔵さまにお願いしても、黙ってばかりで、雲にお聞きなさいと言うかもしれませんョ。

■浄土について
平成23年6月25日、パリで開かれている国連教育科学文化機関(ユネスコ)の第35回世界遺産委員会は、「平泉の文化遺産」についてについて世界文化遺産への登録を決定いたしました。登録が決まったのは、浄土思想に関する重要な遺産として、金色堂で知られる中尊寺、浄土庭園の毛越寺、観自在王院跡、無量光院跡、金鶏山の5遺産である。平泉は、2008年の世界遺産委員会でも審査されましたが、一説に、「浄土思想」ということに対する理解の足りなさから認められなかったとも言われます。では、浄土とはいったいどのようなことなのでしょうか。
「浄土とは」清浄で清涼な世界であります。仏国土とも言います。『維摩経』というお経には、「その心清きに随って、すなわち仏土浄し」とあります。その世界に住む人々の心が清らかであるからその世界(仏土)も浄らかなのです。『心地観経』というお経には、「こころ清浄なるが故に世界清浄なり、心雑穢なるが故に世界雑穢なり」とあります。世間の清浄であることは心による。すなわち、国土の浄不浄はそこに住む人の心によって決定づけられる、とうことなのです。「真実の浄土」は、仏の住居する処であり、成仏せんがために精進する菩薩の国土である。仏には過去千仏、現在千仏、未来千仏、といわれるように多くの仏がいらっしゃいます。その多くの仏にそれぞれの浄土があります。したがって、阿弥陀如来は西方極楽浄土、薬師如来は東方浄瑠璃世界、阿閦如来は東方妙喜世界、釈迦牟尼如来は無勝荘厳国・霊山浄土、毘盧遮那仏は蓮華蔵世界、観世音菩薩は補陀落浄土などなどです。
浄土は何のためにあるのでしょうか。
浄土とは、仏自らが法楽を受用するためと共に、人々をその国に引接して化益をほどこし、悟りを開かせるためであります。
なぜ、浄土が重んじられたか?
仏教が日本に伝えられてから500年くらい経ってころ、世の中が天災や飢饉、疫病、また保元の乱や平治の乱などの戦乱によって混乱が生じ、厭世的な気分が蔓延したきたころ、「「末法思想」」という世間観が平安時代後期に広まってきた。末法思想とは
(1)正法時代 教・行・証の三あり・・・釈迦滅後 500年間
(2)像法時代 教・行  の二あり・・・     1000年間
(3)末法時代 教    の一あり・・・     10000年間
(4)法滅時代
といわれるもです。西暦1052年より末法の時代に入った、と信じられた。「(『末法灯明記』)」
末法の世の平安後期、人々はすさんだ現世よりも、来世を重んじるようになり、心のよりどころにしたのが、死後は極楽浄土に往生できるという浄土信仰であった。極楽浄土への往生を説く浄土教の基となる経典は、紀元前100年頃のインドで『無量寿経』や『阿弥陀経』が編纂されたことを契機に浄土教が起こり、中国経由で日本へと伝わった。念仏修行や布施などの功徳を積めば、阿弥陀如来が住む極楽浄土へ「往き」、仏として「生まれる」という思想は中国で確立した。
『阿弥陀経』に説かれる極楽浄土の様相
「是より西方、十万憶仏土を過ぎて世界あり。名づけて極楽という。その土に佛有り、阿弥陀と号す。今現在説法す。舎利弗よ、彼の土を何が故に名づけて極楽と為すや。その国の衆生衆苦有ること無し。但だ諸楽を受けるが故に極楽と為す。・・・」
「極楽国土には」
七重の欄干、七重の網飾り、七重の並木が張り巡らされている。それらは四宝(金・銀・瑠璃・玻璃(水晶))で出来ている。七宝(金・銀・瑠璃・玻璃(水晶)・硨磲・赤珠(赤真珠)・瑪瑙)で出来た池があり、八功徳(甘・冷・軟・軽・清浄・不臭・飲時不損喉・飲已不傷腸)の水が充たされている。池の底は一面に金の沙が敷き詰められている。池の四辺には四宝(金・銀・瑠璃・玻璃)で出来た階段がある。上には楼閣があり、これも七宝で厳かに飾られている。池の中の蓮華は、大きさが車輪のようで、青い花は青い光を、黄色い花は黄色い光を、赤い花は赤い光を、白い花は白い光を放っていて、芳しい香りを放っている。その仏国土は常に天上の音楽が奏でられている。大地は黄金でできていて、昼夜六時に曼荼羅の花が降り注ぐ。その国の衆生(人々)はすがすがしい朝になるといつも、それぞれの花籠に色とりどりの美しい花を盛り、他の十万億土の仏がたを供養する。食事時になると本国へ帰ってきて食事をとり、経を読み瞑想し散策する。舎利弗よ極楽浄土はこのように美しく飾りたてられている。また次に舎利弗よ、彼の国には常に種種の色取りの鳥がいる。白鵠(白鳥)・孔雀・鸚鵡・舎利鳥(鷺・九官鳥・百舌)・迦陵頻伽・供命の鳥である。この様々な鳥たちは、昼夜六時に優雅な声でさえずる。その鳴き声は、五根(信・精進・念・定・慧)、五力(五根が増長して五障を治する勢力)、七菩提分(択法覚支・精進覚支・喜覚支・軽安覚支・捨覚支・定覚支・念覚支)、八聖道分(正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)などの尊い教えを説き述べている。その国土の人々は、この鳴き声を聞き終わると、だれもかれも仏を念じ、法を念じ、僧を念じるのである。
「天台宗の浄土信仰 恵心僧都源信」 源氏物語 横川の僧都
天台宗の浄土信仰は、恵心僧都源信の書かれた『往生要集』によるところが大きい。恵心僧都源信とは『源氏物語』の「浮船」のところで、横川の僧都として出てくることでも有名である。薫と匂宮の間で懊悩 自殺しようとした浮船を助け出家させるのである。
「『往生要集』の臨終行儀」
臨終行儀とは、臨終のための堂を造り、病人を寝かせ、阿弥陀仏の立像を置く。病人を北枕にして顔を西に向け、阿弥陀仏の左手に五色の糸を結わえ、病人の左手に繫ぎ、仏に従って浄土に往く様子を想起させ念仏を称えさせる。看病する者は香を焚き、花を散らして病人の周りを整え、ひたすら念仏を唱える。今わの際に阿弥陀如来が来迎し、一瞬のうちに極楽浄土に生まれ変わるのである。「「念仏」とは」「南無阿弥陀仏」(なむあにだぶつ)と称えることですが、念仏には二種類あります。口称の念仏と観想の念仏です。口称の念仏とは、口から声に出して「南無阿弥陀仏」とお称えすることです。観想の念仏とは、心の中に「南無阿弥陀仏」の名号、または阿弥陀如来を思い描くことです。「臨終の一念」とは、念仏をした数よりも、臨終に際しての念仏が一番有難いんだ、ということです。同時に亡くなった二人が、三十五日に閻魔さまの前で裁きを受けます。(A)という人の念仏の袋は大きく、毎日毎日念仏をしてきましたが、臨終のときには出来ませんでした。(B)という人は、念仏の袋が小さく、平生は念仏をしたことがありませんでしたが、臨終に際して一生のうちに一度だけ「南無阿弥陀仏」と称えることが出来ました。閻魔さまは、(B)の念仏の袋は小さいが、臨終に念仏が出来た人を極楽浄土に送り、(A)の念仏の袋が大きい人は六道輪廻の世界へ送られました。
浄土思想の立役者の比較
日本仏教で浄土の教えを、宗旨としているのは、天台宗、浄土宗、浄土真宗です。その三宗の高僧の教えを比較してみると、
天台宗   源信 / 観想・口称 / 自力
浄土宗   法然 / 口称 / 自力・他力
浄土真宗  親鸞 / 絶対他力 (称えなくてもすでに救われている)
ということになるでしょうか。他に念仏者として、空也(平安中期)がおります。天台宗空也派ともいわれ、踊念仏、六斎念仏を行ない、 阿弥陀聖、市聖ともいわれました。空也の踊念仏から、盆踊りが始まったとも言われております。

■慈覚大師円仁さま「その1 生誕」
福正寺を開かれた、天台宗第三代座主、慈覚大師円仁さまは、日本仏教の礎を築かれた尊いお方として、今に伝わっております。特に、10年に及ぶ唐(今の中国)への教えを求めての旅日記である『入唐求法巡礼行記』は、世界三大旅行記の一つに数えられております。その円仁さまの御生涯を振り返り、慈覚大師さま1,150年御遠忌に際して、報恩謝徳の一助といたしたいと思います。
その1、生誕(0歳〜9歳)
平安時代が始まった延暦3年(794)、円仁は下野の国(今の栃木県)都賀の郡、壬生家において生まれました。その時、生家の上空に、紫雲ガたなびくのを見た小野寺山大慈寺の名僧、広智は、「この子が成長したら、自分に預けてほしい」と父母に願い出ました。円仁が5歳のとき、父は東北の蝦夷との戦いに出征、戦傷を負い、それがもとで亡くなってしまいました。かけがえのない父を戦争で失う。そのような体験が、武力でなく、信仰によって世の中を平和で安泰にしたいと願う礎になっていたのかもしれません。父亡きあとは、母の手で育てられ、兄から儒教や歴史を学びました。理解力に優れ、覚えの早い円仁を、当時優れた学僧が集まる大慈寺(岩舟町)の僧広智のもとに預けることにしました。円仁が゙9歳のときのことでした。

■慈覚大師円仁さま「その2 修行」
その2、修行(9歳〜42歳)
大慈寺に入った円仁は、広智のもと、修行に専念されました。特に、あらゆる人の救済を説いた「観音経」(「法華経」の中の一章)ニ出会い、心を奪われます。その熱意と優秀な素質を生かしてやりたいと考えた広智は、円仁を、比叡山の最澄(日本天台宗の宗祖)に託すことにしました。15歳にして、比叡山に登り、初めて最澄に会った円仁は、その姿が、かつて夢の中に現われた方と同じことに驚きました。その後、最澄を一生涯の師と仰ぎ、直弟子として一心不乱に修行に打ち込みました。20歳となって、正式な僧となるための国家試験に合格。最澄とともに、東国布教の旅に出て、懐かしい大慈寺にも立ち寄りました。29歳のとき、師の最澄を亡くしたのちも、厳しい修行を続け、35歳からの数年は東北に至る各地を旅して、災害や飢えに苦しむ人々の救済に努めました。40歳になると、今までの無理がたたり、重病に罹りました。草案に籠って念仏をすること約3年。奇跡的に回復を果たしました。42歳のとき、第17次遣唐使の短期留学僧として、唐へ渡るという大きな使命ニめぐり逢いました。42歳といえば当時では、すでに老人に当たる年齢でした。

■慈覚大師円仁さま「その3 求法」
その3、求法(42歳〜52歳)
承和3年(836)、円仁を乗せた遣唐使船は博多港を出港。2度の渡航に失敗し、3度目の渡航においてようやく唐の地に入ることが出来ました。円仁は、さっそく天台山へ求法に行く許可を申請しますが、なかなか許可がおりず、帰国せよとの命に従い帰国船に乗り込みます。しかし、このまま帰国することは本意に非ず、帰国船を降りて、密入国の決断をいたします。その後、天台山と並び優れた仏教聖地である五台に向かいます。一時滞在していた赤山から五台山までは1270km。弟子2人、従者1人、ロバ1頭からなる円仁一行は、大平原や黄河を渡り、44日間歩き続けました。3000m級の五つの峰からなる五台山には寺院が立ち並び、多くの修行者や巡礼者が過ごしていました。 先ず竹林寺に入った円仁は、「阿弥陀仏」を音楽的に唱え続ける「念仏三昧」の教えを授かりました。その後、大華厳寺で多くの経典を書き写しました。約2ヶ月後、唐の都の長安へ出発します。約1090kmを経て到着した長安は、人口100万人の世界最大級の国際都市で、大興善寺や青龍寺などを中心に「密教」が盛んでした。円仁は、密教を深く習得し、曼荼羅や梵語(経典の原語である古代インドの文字)も修めるなど、多くの成果を得て、唐歴会昌元年(841)帰国の申請ををします。ところが、時代が暗転し、烈しい仏教の弾圧が円仁に襲い掛かります。「会昌の廃仏」と称される弾圧は、第15代皇帝武宗によるもので、不老不死の教えに執着した皇帝は道教(中国古来の宗教)にのめり込み、仏教を弾圧したのでした。やがて武宗は外国僧をを還俗させて国外追放する命を下します。円仁はやむなく僧服を脱ぎますが、肌身から離しがたく、法衣を細長く畳んで首に掛けました。これが輪袈裟の始めと言われます。会昌5年(845)、円仁は長安を出発し、仏典類を守りながら、海岸に到着します。帰国船を待つこと2年、ようやく帰りの船に乗り込むことが出来、10年ぶりの懐かしい母国へ向かいます。何度も絶望的な苦しみに耐え抜き、多くの教えを携え、法を求め伝えるという、強い精神力が、帰国の夢を叶えさせたと言えましょう。円仁は、唐での10年間にわたる求法の旅を、『入唐求法巡礼行記』という書物にして後世に伝えております。この『入唐求法巡礼行記』は、マルコ・ポーロの『東方見聞録』、玄奘三蔵の『大唐西域記』と並んで、世界の三大旅行記と呼ばれております。  
 

 

■慈覚大師円仁さま「その4 弘法」
その4、弘法(54歳〜71歳)
円仁が唐より持参した584部802巻の経典、50種の仏画や法具、そして受法し修得した仏法。それらの求法の成果を実践に用いるために、比叡山に戻り、天台教学の中心の教えである法華円教と天台の密教「台密」を融合させた円密一致の教えの基礎を確立させます。また、五台山で得た念仏三昧の教えを実践するために常行三昧堂を建立し、叡山浄土教の起源を作りました。さらに円仁は、再び衆生済度の遠い旅に出ます。あらゆるもの皆すべて仏になれるという教えを説く『法華経』と、念仏や写経の実践、その拠り所となる寺院の建立、特に東北では産業振興にまでその活動の幅を拡げ、民衆の生活向上に努めたと伝えられておます。その後比叡山に戻り、仁寿4年(854)、61歳のときに、第3代の天台座主に任命され、天台宗の発展に尽くし、比叡山を日本仏教の母山と呼ばれるほどに築き上げてゆきます。仏教の学問的功績も多く、主たる著作である『顕揚大戒論』には、のちに学問の神様と呼ばれる菅原道真が序文を寄せています。貞観6年(864)1月14日、円仁は71年に渡る生涯を閉じ、遷化せられました。遺言の中に、「自分の遺骸を華芳の峰に葬り、その上に目印として樹を植えてくれればよい」と言い残され、そのようにされました。どこまでも謙虚な人でありました。没後2年、円仁の偉大な功績を称え、法印大和尚の位とともに、日本初の大師号である「慈覚大師」の尊称が贈られました。

■シルクロードのオアシス、敦煌を訪ねて
平成26年9月14日から19日まで、4泊5日の中国仏教遺跡を訪ねる旅に参加しました。特に、敦煌の莫高窟、瓜州の楡林窟を中心に見学しましたが、仏教史上まれにみる素晴らしい仏教遺産であり、仏教がインドから中国、朝鮮、日本へ伝わる中継地点に造られた、まさに仏教の信仰と芸術の遺産であります。
敦煌(とんこう)
シルクロードの世界遺産「敦煌」。「敦」は「大きな」、「煌」は「盛ん」という意味で、漢代には、沙州と呼ばれ、武威、張掖、酒泉とともに、西域の軍事上の要衝であり、東西交易の拠点となって繁栄を極めました。
莫高窟(ばっこうくつ)
大同の雲崗、洛陽の龍門とともに、中国三大石窟の一つに数えられます。鳴沙山の東壁に、4世紀半ば、ある僧が夕日を浴びて輝く千仏の威厳を感じ、石窟を築き修行をしたのが始まりとされています。その後、元代にいたる約1,000年間、石窟は掘り続けられ、約1,000の石窟があったとされますが、現在は492の石窟が保存されています。南北の長さは約1618m、4万5000uの壁画、2400体以上の彩色彫塑などの壁画芸術の宝庫であります。
楡林窟(ゆりんくつ)
楡林窟は敦煌の東、100km、楡林河の両岸に掘削された大規模な石窟です。5世紀の北魏の時代から元にかけて850年の間に掘られました。石窟は、東壁に32窟、西壁に11窟が現存し、総面積は5050u、塑像は約270体が残っています。

■終活とは・・・
最近「終活(しゅうかつ)」という言葉を聞くことが多くなりました。先日、本山へ向かうおり、新幹線の前座席の後ろポケットにある雑誌を読むともなく見ていると、「終活にはまる女たち」ー同じ墓には入らないーという記事が、目に飛び込んできました。お嫁さんが、夫や舅、姑とは一緒のお墓に入りたくない、という意識を持っているということは、以前から言われておりますが、それと終活と、どういう関係があるのだろう、ということに興味がありました。終活とは、まだ元気なうちに、老・病・死の誰でもやがては経験するであろう事柄について、あらかじめ準備をしておこう、というもので、その内容は、1医療・介護、2資産整理・相続、3葬儀・墓の三項目に分けられます。この中でも、大きく変化を見せているのは、3の「葬儀・墓」であるといわれます。葬儀については、遺族・親族と近所の方、亡くなられた方の職場の同僚(元同僚)や友人、施主となるべき後継者の同僚や友人たちが集まり、宗教的司式者が葬儀式を執行し、故人を浄土(仏の世界)や天国へ送り、集まった人たちが個人とのお別れを告げる、というのが一般的でありました。しかし、最近は、高齢化や少子化、家族、親戚のお付き合いの仕方の変化などにより、他の人に迷惑や余計な心配をかけたくない、また、自分も関わりたくないという人が増えてきた結果、家族葬とか直葬と呼ばれる、簡易的な葬儀の方法に変わってきているということです。お墓についても、継承者がいないということで、共同墓、合葬墓などのいわゆる永代供養墓が増えてきているということです。いずれにせよ、自分の死後、自分ではどうにも出来ないことなので、やはり誰か生きているうちに、自分の死後を託せる人や機関を見つけておくということは、必要なことではないでしょうか。

■スリランカを訪ねて
平成27年2月23日より3月2日までの8日間にわたり、スリランカを旅してまいりました。スリランカはインドの南、インド洋の中心に位置し、インド洋の真珠、あるいはインド洋の涙と称されている小さな島国です。昔はセイロン島として知られ、セイロンティ―と呼ばれる紅茶の生産国として有名でした。国民の7割が仏教徒(上座部仏教)で、親日国です。気候は熱帯性で高温多湿、海岸部・低地では平均気温が27〜28度、高地の気候は冷涼で22度位です。8つの世界遺産があり、自然と文化が豊富な、しかも安全でエキゾチックな奇跡の島国です。
世界遺産
1聖なる都市 アヌラダブラ 世界で最古の居住地であり、仏教施設が点在
2キャンディ 仏歯寺 ブッダの聖なる歯が祀られた寺
3タンブラの黄金寺院 スリランカ最大の石窟寺院
4古代都市 ボロンナルワ 考古学上すぐれた設計のなされた遺跡
5スリランカ 中央高原 アダムスピーク ブッダの聖なる足跡 イスラム キリスト ヒンドゥ― の聖地
6シーギリアロック 岩の要塞 宮殿に向かう険しい斜面の入口がライオン(シンハ)の喉(ギリヤ)に似ている
7シンハラージャの雨林保護区
8ゴールのオランダ要塞

■祖師先徳鑽仰大法会
天台宗の教えを守り伝えてきた、多くの祖師先徳の中で、平成24年からの10年間に御遠忌を迎える高僧方が4人いらっしゃいます。
慈覚大師円仁さま(794〜864) 1150年御遠忌(平成25年)
その中のお一人が、福正寺を開かれた、天台宗第3代の座主、慈覚大師円仁さまでした。円仁さまは遣唐使とともに唐の国(今の中国)に渡り、主に「念仏」の教えと「密教」の教えを学んで比叡山に戻り、天台浄土教(叡山浄土教)と天台密教の教え(台密)を確立され、後世に多大なる功績を残されました。円仁さまにつきましては、大法会の第1期として、入寂1150御遠忌の法要を行ったところであります。
恵心僧都源信さま(942〜1017) 1000年御遠忌(平成28年)
祖師先徳のお二人目は、恵心僧都源信さまであります。源信さまは慈覚大師円仁さまが伝えられた念仏の教えを、比叡山において大成された方でございます。『往生要集』という書物を著し、阿弥陀仏を心と口と意の三業において念ずることにより、極楽浄土へ往生できるという教えを説かれました。また、『一乗要決』という書物を著し、伝教大師の法華一乗の思想をより鮮明に説かれました。
建立大師相応さま(831〜918) 1100年御遠忌(平成29年)
祖師先徳の三人目は、相応和尚さまです。比叡山の荒行である、回峰行の創始者でいらっしゃいます。『法華経』に説かれる常不軽菩薩の「ただ礼拝のみを行ず」(但行礼拝)という教えに則り、比叡山のあらゆる神仏を礼拝して歩く行を始められた方であります。
伝教大師最澄さま(767〜822) 御生誕1250年(平成28年)、1200年大遠忌(平成33年)
祖師先徳の4人目は、宗祖でいらっしゃいます、伝教大師最澄さまでございます。最澄さまは、平成28年に御生誕1250年、平成33年に1200年大遠忌を迎えられます。伝教大師さまについては、多くの功績がありますので、別の項目でお伝えいたしたいと思います。 
 

 

■ニューヨーク別院本堂落慶10周年記念法要
10年前、2005年の6月25日、ニューヨーク州オルバニーに天台宗の別院、慈雲山天台寺が建立され、本堂の落慶法要が営まれました。
天台寺は、住職のネエモン・聞真師、夫人の珠聞さんの2人3脚と数人の堂衆によって運営されております。夏は日差しが強く、それなりに暑くはなりますが、気候の変動が激しく、セーターを着込む日もたまにあるそうです。近くには湖もあり、自然環境に恵まれた、避暑地としては良いところのようです。しかし、冬ともなると、雪に覆われ、零下になる日も多く、なかなか厳しいようであります。そんな自然の中で、「堂衆行」と称して、2週間ほど読経や坐禅止観、作務等の修行に励むときを過ごすのだそうです。ただ、経済的には厳しく、各々が職業を持ち、仕事をしながら仏教の研さんに励む、ということのようです。
この度、本堂落慶10周年法要が営まれるということで、10年ぶりにニューヨーク州オルバニーの地を訪れることが出来ました。住職ご夫妻の住まいでもある、庫裏がリフォームされ、白い館が緑の自然の中で、より一層美しく見えました。朱塗りの本堂の手前、20mほどのところに、質素ではありますが、趣のある山門が建立されているのが、目を引きます。落慶法要当日は、信者の方々が100名ほど集まり、日本天台宗の僧侶と、別院の堂衆方の、いわば日米の読経のコラボを、とても興味深く聞き入っているようでした。
併せて、現地の男女1名ずつ、2名の得度者の出家得度式が行われ、慎重な面持ちで、受戒作法を行っている姿が、とても印象的でした。宿泊は、オルバニーのヒルトンに1泊、ニューヨークの繁華街、タイムズスクウエアにほど近い、マリオット・マーキースに3泊しました。ニューヨークの街中は、10年前より、より慌ただしく、道路工事と車のラッシュが激しく、往来するのが大変な状態でした。今後の聞真・珠聞住職ご夫妻のご活躍と、ニューヨーク別院のさらなるご隆昌をご祈念申し上げます。

■特別授戒会
祖師先徳鑽仰大法会
平成24年から10年間に亘って行われております、「天台宗祖師先徳鑽仰大法会」、第1期の慈覚大師1150年遠忌が終了し、平成27年からは、第2期に入りました。第2期は、恵心僧都1000年遠忌、(平成28年)、伝教大師御生誕1250年(平成28年)、相応和尚1100遠忌(平成29年)、伝教大師1200年大遠忌(平成33年)が行われます。この大法会の記念行事として、各教区において「特別授戒会」が行われます。
特別授戒会
埼玉教区といたしましては、平成27年11月25日、上尾市文化センターを会場として執り行われました。当日は、戒を授かる戒弟として、県下各地より約560名の檀信徒の方々が集まり、戒をお授けいただく伝戒和上として、天台座主御名代、兵庫教区書写山円教寺、大樹孝啓探題大僧正さまにお越しいただき、以下の主たる諸役によって、授戒会が執行されました。
会奉行 埼玉教区宗務所長 木本清玄 / 戒行事 同 一隅事務局長 田中亮宏 / 同 同 教務主任 永島祐照 / 説戒師 同 顧問 清水英雄 / 教授師 同 社会主任 杜多堯慶 / 羯磨師 同 顧問 吉田亮照 / 同 天台宗宗議会議員 大澤貫秀
授戒の内容
伝戒師さまより授かる「戒」とは、お釈迦さまより、高祖天台大師さま、宗祖伝教大師さま等の祖師方が代々伝えてこられた、仏弟子として守るべき事柄です。今回の授戒会では、三聚浄戒と五戒が授けられました。
三聚浄戒とは
1、摂律儀戒 悪いことはしない
2、摂善法戒 善いことをする
3、摂衆生戒 人々のために尽くす  (鐃益有情戒)の三項目です。
五戒とは
1、不殺生戒 殺しません
2、不偸盗戒 盗みません
3、不妄語戒 嘘をつきません
4、不邪淫戒 淫らな行いはしません
5、不邪見戒 邪な思いは持ちません   の五項目です。
以上の八項目を、授けられ、堂内に響く鐘の音に誘われ、光とともに、戒弟の頭の天辺から、体の隅々まで、入り込んでまいります。この戒は、「一得永不失(いっとくようふしつ)」と言って、一度受けたら永久に失うことはありませんが、人間は忘れやすい者ですから、何度でも受けることが、再認識する意味でも必要となります。以上のような戒を授かることにより、御仏の子弟となって、新たな気持ちを持って、心安らかに過ごすことが出来ます。

■新年雑感・・・申年・・・
例年のごとくに年も改まり、新年を迎えることが出来ました。今年の正月は殊の外暖かく、より一層温暖化が進んでいるのかな、と思われるような日々が続いております。當山の恒例となりました護摩祈願法要も無事終了し、一息付いておるところでございます。とはいっても、八日の初薬師護摩の後、三連休ということで、御法事がちらほらありますので、まだ落ち着かない状況ではありますが、やっと机に向かって、ホームページの法話の更新しようという気になりだしたところでございます。今年は申年ということで、護摩供の法話でも、お話ししたところではありますが、申にまつわる事がらを書いてみようかなと思います。申年の「申」という文字には、サルという意味はないそうで、もともとこの字は、鋭く光る稲妻を描いた甲骨文字だったといいます。ピカッと光り地上に向かって伸びることから、相手に何かを伝える意味でつかわれるようになり、申す、申告、申請等の意味に用いられたそうです。漢字研究の白川静氏によれば、申は神そのものを意味した。稲妻が屈折しながら天空を走るのを、太古の人々は神の現れる姿と考えた、といわれております。稲妻ー神ー申が関係深くつながっておるということでしょうか。
一方で、猿を神様の使いとして、古来より大切にしてきた神社があります。比叡山麓の日吉大社や東京赤坂の日枝神社などが有名であり、全国各地にその末社が存在しております。境内の神猿の像があり、「まさる」と呼ばれておるそうです。魔が去る、何事にも勝る、という意味で信仰を集めておるとか。猿(えん)は縁に通じ、縁起が良い、縁結びの御利益がある、ということでに人気スポットになっているようです。猿と神が縁が深く、申と神もつながっておるところから、申が猿年の文字と使われてきたようでございます。猿といえば、日光の猿軍団・・・ではなく、東照宮の神厩舎に彫られた三匹の猿。見ざる、言わざる、聞かざるの三猿が有名。
今年いただいた年賀状の中に、今年こそ、見ざる、言わざる、聞かざるではなく、よく見て、よく聞いて、よく言う年にしたいということが書かれていました。日光の三猿の彫り物は、猿の一生を描いたもので、幼少期の猿には、悪いものを見ざる、言わざる、聞かざるということを教える意味があるといいます。成長した猿には、よく見て、よく聞いて、よく言うことを教えたことでしょう。
見ざる、言わざる、聞かざるの三猿が彫られたものに、庚申塔があります。古来より、庚申(かのえ、さる)の日の夜には、人間の体内に潜んでいる三尸の虫が、その人の悪事を天帝に報告するといわれています。そこで、三尸の虫が動き出さないように、夜通し起きていなければならない、ということです。庚申(かのえ、さる)の日は、男女の交わりもしてはならないとも言われており、見ざる、聞かざる、言わざるに、せざるを加えて、「四ざる」とも言われそうです。

■埼玉教区第50回一隅を照らす運動推進大会
一隅を照らす運動第50回推進大会の歩み
埼玉教区一隅を照らす運動推進大会が第50回を迎え、去る4月29日、本庄市民文化会館において、約1,000名の檀信徒と僧侶の皆様が集い盛大に行うことが出来ました。関係各位のご尽力の賜物と深く感謝申し上げます。昭和40年、埼玉教区において全国に先駈けて檀信徒会が結成され、岩槻の慈恩寺様を会場として第1回の檀信徒大会が開催されました。その後、昭和44年に天台宗において「一隅を照らす運動」が発足し、昭和46年には埼玉教区の一隅を照らす運動推進大会が、伝教大師千百五十年御遠忌法要と第5回檀信徒総会とを併せて川越市民会館において開催され、爾来、回を重ね第50回の大きな節目を迎えることが出来ました。
「一隅を照らす」とは
大会の記念講演として、天台宗一隅を照らす運動会長の大樹孝啓探題大僧正様に「一隅考(いちぐうこう)」と題してお話を伺いました。大僧正様は「一隅を照らす」とは、「六行(ろくぎょう)」という菩薩(ぼさつ)道(どう)を行うことで、六行とは
   布施(ふせ)・・・人を大事に自分を後に
   持戒(じかい)・・・自分で自分を戒める心
   忍辱(にんにく)・・・感情をおさえる強い心
   精進(しょうじん)・・・たゆまず続ける努力
   禅定(ぜんじょう)・・・心静かに感謝と反省
   智慧(ちえ)・・・慈悲深い正しい考え
の六項目、すなわち六波羅蜜(ろくはらみつ)(六度(ろくど)とも)であるとして、やさしいお言葉でお諭しくださいました。
「忘(もう)己(こ)利他(りた)」は「もう懲(こ)りた」?
伝教大師様のお言葉に、「己(おのれ)を忘れて他を利するは慈悲の極みなり」とあります。そんなことは難しい。自分のことを置いといて、他人のために尽くすなんて、そんなこと出来っこない。というのが大方の思いでしょう。なるほど、常にそうすることは難しいかもしれません。でも、時にふれ、折にふれ、出来る範囲であれば可能かもしれません。先の一隅大会の会場において、熊本地震で被災された方々のために義援金を募りました。また、過日には仏教青年会の若き僧侶が托鉢(たくはつ)(街頭募金)をいたしました。お陰様で沢山の募金をいただくことが出来ました。募金をしてくださる方々はお金を募金箱に入れるとき、自分のことはさて置いて、熊本の被災された方々のことを思って入れてくれているわけです。その時は己を忘れ他を利しているのです。そのような一つ一つの小さな善行を積み重ねてゆくことによって、慈悲の極みに一歩一歩近づいてゆけるのです。その一歩一歩が菩薩道であり、一隅を照らす行いなのではないでしょうか。「一時坐れば一時の仏」とも言われます。

■『人は死んだらどうなるのか』という本について
死亡率100パーセントの人生なのに、自分だけはいつまでも死なないと思って生きている人ってけっこう多いように思えます。でも最近は、「終活」であるとか、「人生の終い方」とか、「エンディング・ノート」といったたぐいの言葉をよく耳にするようにもなりました。寿命がのびたせいで、定年退職から死を迎えるまでの時間が長くなり、「老い」や「死」について考える期間がたっぷりとあるようになったためかもしれません。先日、ある出版社から『人は死んだらどうなるのか』というマンガ本が出されました。作者はさとう有作という人です。早速購入してみました。表紙の書き込みに、「あの世のルール」とか「絵でみてわかるわかる死後の世界」、「前世、来世はあるの?」、「極楽に行く人、地獄に落ちる人」、「初七日、四十九日はなんのため?」とかあります。このマンガ本、A7判、120ページなのに、結構いい値段がします。全ページにカラーのマンガというかイラストがあり、おもしろおかしく死後の世界が書かれているので、一般の若者向けにはいいのかもしれません。 
 

 

■「和」について
和を以って貴しと為す(「以和為貴」)とは、聖徳太子が「十七条憲法」の冒頭に説かれた項目です。この「和」ということについて、天台宗埼玉教区の研修会で勉強をいたしました。今回はそのことについてご報告いたします。
時は平成29年3月14日、会場は喜多院斎霊殿。埼玉教区内寺院の住職、法嗣と伝道師の方々約60名ほどが出席されました。講師は東京大学教授の頼住光子先生。ご専門は、倫理学、日本倫理思想史。主に扱ってきたテキストは、道元『正法眼蔵』や親鸞『教行信証』などの日本の仏教文献です。特に和辻哲郎によって切り拓かれた倫理学、日本倫理思想史だそうです。この報告では、先生がまとめられた研修会の資料を基にして、私なりに簡便に「和」ということについて述べてみたいと思います。
仏教における「和」の捉え方として、基本的には人と人との調和的な間柄として言及されます。特に僧伽(サンガ)における和合(和敬)であります。僧伽(サンガ)とは出家者の集団であり、その共同生活の特徴は平等と和合です。古代インドではカースト制度が行われていましたが、仏教の教団は完全なる平等主義を貫き、教団内の席次は、法臘のみによって決まりました。このような人間関係はまさに「和」そのものでありました。
大乗仏典では「和」について、『法華経』法師品に出てくる、いわゆる「弘教の三軌」なるものを挙げております。「弘教の三軌」とは、法華経を説くものは、如来の室に入り、如来の衣を着て、如来の座に坐れ、と言う、いわゆる「室・衣・座」の三軌であり、如来の室とは大慈悲心であり、如来の衣とは柔和忍辱心であり、如来の座とは一切法空であることを示します。このうち如来の衣の「柔和」とは他者に対してもの柔らかい態度を取ることであり、「忍辱」とは他者から迫害されても耐え忍ぶことを意味します。「柔和」も「忍辱」もともに自他の調和、和合を意味しています。自分に害を与える者に対しても、自他の分け隔てなく調和的態度を取るようにと、『法華経』は説いています。
このようなことが可能になるのは、まさに、その背後に、「慈悲心」と「一切法空」への理解があるからだといいます。慈悲と空とは大乗仏教の基盤となる考え方であります。
「空」とは、何もなく空っぽということではなく、あらゆるものが、関係の中にあって、関係を担って、今、ここにおいてそのようなものとして成立しているということであります。不変の実体がないということが「空」であり、その意味で「関係的成立」とも言えるでしょう。このことは、自己が、自己として他から切り離されて独立して存在しているのではなくて、他との関係の中にあることを意味します。そして、このような自他不二である「空」を基盤として、仏教的な愛である「慈悲」が成り立つということです。   慈悲とは、「自己と他者との相互依存的関係」(=空)に基づいて、他者の喜びを自己の喜びとし(慈)、他者の悲しみを自己の悲しみとすること(悲)にほかなりません。
仏教でいう「和」とは、世俗世界を超越した、全時空の全存在(一切法)がつながり合い、働き合う「空」なる次元を基盤にして成り立っているものであって、俗世における既存の閉じた共同体における自他のつながりを意味しているわけではありません。仏教における「和」とは、「空」に根差したものなのであります。

■伝教大師1200年大遠忌 その1
祖師先徳讚仰大法会伝教大師1200年大遠忌
平成24年より始まりました「祖師先徳鑽仰大法会」も、第241期の慈覚大師11150年御遠忌、平成27年より第2期に入りまして恵心僧都1000年、相応和尚1100の御遠忌、更には伝教大師ご生誕1250年の諸行事が終わり、いよいよ3年後(2021年)に迎える宗祖伝教大師1200年大遠忌に向けての諸事業が行われることになります。主な記念事業としては、1、根本中堂大改修 / 2、浄土院(伝教大師御廟)周辺の整備 / 3、『天台学大辞典』の刊行 / 4、天台の名宝展 / 5、一寺報恩運動の提唱 が掲げられ、並びに発心会、特別授戒会、結縁灌頂、祖山団体参拝、写経運動の推進等が挙げられております。それらの記念事業を通して、宗祖大師様に報恩謝徳の念を捧げようということでありますが、大事なことは、宗祖の御教えを現代に生かし、また後世に繋げていくということに他ならないと思います。
伝教大師様とは
伝教大師最澄様は『大師和讃』によれば、神護景雲元年(767年)8月18日、近江の国、今の滋賀県でお生まれになり、弘仁13年(822年)6月4日、御年56歳で比叡山中堂院にて遷化されたとされております。ご生誕年については、天平神護2年(766年)説もあります。38歳の頃、中国、唐の国に渡り、天台の教えをはじめ、密教を含む多くの仏教を日本に伝え、比叡山に天台宗を開かれました。
一目(いちもく)の羅(ら)、鳥(とり)を得(う)ること能(あた)わず 一両(いちりょう)の宗(しゅう)、何(なん)ぞ普(あまね)く汲(く)むに足(た)らん
伝教大師様は、仏教を以って日本の全ての人々を救うためには、一つの網の目では鳥を捕らえることが不可能であるように、一つや二つの宗の教えだけでは不充分であるというお考えから、四宗(ししゅう)融合(ゆうごう)、仏教の総合デパートと言われる天台宗をお開きになりました。四宗とは、円(えん)・密(みつ)・禅(ぜん)・戒(かい)の四つの教えを言います。「円」とは法華経一乗の誰でも仏に成れるという教え、「密」とは護摩等により加持祈祷する教え、「禅」とは坐禅止観をして心を統一する教え、「戒」とは様々な戒律を守り規律正しい生活を送るための教えであります。それら四つの教えを総合的に用いることにより、全ての人々が救われる仏教が確立されます。後に第三代座主の慈覚大師円仁様によりお念仏の教えである浄土教が伝えられ、天台宗は円・密・禅・戒・念の五宗融合の宗派となり、比叡山は鎌倉仏教の多くの祖師方を産み出す、仏教の母山と呼ばれるようになりました。この伝教大師様のお考えのもと、五宗全ての仏教を大切に、布教・伝道、法要・儀式の執行に努めてゆくべきものと思われます。

■施餓鬼会について
餓鬼道に落とされた精霊に、飲食等を施すとともに、仏の世界へ救い上げるために、御仏に供養をする法要である施餓鬼会を昨年までは、8月25日に行っておりましたが、本年、平成30年(2018年)より、「施餓鬼会の塔婆を建てて、お盆さま(ご先祖さま)を迎えましょう」というスローガンのもと、お盆前で、福正寺の御本尊、薬師如来さまの縁日である8月8日に執り行うこととなりました。お檀家の皆様には、昨年より、正月、お盆の時期に配布いたしております文書や福正寺だよりによってお知らせいたしました。しかし、まだご存じでないお檀家さまもおられたようですが、今後も8月8日に執り行いますので、お盆には施餓鬼のお塔婆を、お墓に建てていただきたいと思います。

■埼玉教区研修所第9期修了式に参加して
12月21日(金)、天台宗埼玉教区第9期研修所の修了式が、川越東武ホテルで行われました。私が埼玉教区教務主任の時に立ち上げた研修所が1期2年で9期、18年目が終わろうとしております。
この研修所は、過去にあった布教研修所が途中で立ち消えになり、改めて平成13年度より、教区研修所として再出発したものであります。特に若い僧侶を対象に、教学・布教・社会・法儀の4部門に渡って研修を行うというもので非常に有意義なものであります。
其の修了式に際しまして、研修所の瀧川副所長があいさつの中で、過去の研修所研修生の一文を披露いたしました。この文章は昭和63年発行の布教使会会報「法のともしび」に掲載されておるものであります。そしてその文章を書いた研修生が私であるということをお聞きして、驚いたとともに、過去の自分に文章を通して出会えたことに有り難ささえ感じた次第でございます。
今回の法話では、その文章を掲載いたしたいと思います。
「布教研修所修了証をいただいて」
昭和60年7月より約2年間にわたり、布教師研修生としてご指導を賜りましたこと厚く御礼を申し上げます。過ぎ去った2年間を顧みまして、何ら進歩の跡が見られないことに唖然とするばかりであります。今後とも皆様にご教示を頂きたくお願い申し上げます。さて、仏教のみならず、すべての宗教の求めるものが自由と幸福であるといわれます。自由という言葉に語弊があれば、自在と言った方が適当でしょうか。心に自在を得る。この世を自在に生きる。これらのことは言うは易く行うは難きものなのでしょう。『法華経』によれば、お釈迦様を取り巻く弟子たち(阿羅漢)は皆「汚れなく、欲望のわずらいもなく、自己に克ち、思考と理智において迷いを離れ・・・・・・、すべての心を制御して最高の完成に達し」ていたといいます。即ち心に自在を得ていたのであります。人間は感情の動物です。風が吹けば波が立つのと同じように、人間の心の中でも、ものごとにたいする喜怒哀楽等の感情の起伏が渦を巻いています。そして、その感情の起伏の渦が激しければ激しいほど、喜びのあとに深い悲しみをもたらすものであります。人間は生きております。ですから感情を素直に表せないということは不幸なことなのかもしれません。しかしその感情をコントロールできないことも不幸であると思われます。禍福が糾える縄の如しであることを知り、その時々の感情にのみ流されず、自己を見つめ、真理を追究する心を養うこと、そのことが心に自在を得ることにつながるのではないでしょうか。私達は研修所の修了証をいただきましたが、これから布教師として前述のような心をすべての人に広げてゆくために、更なる研修を必要とするでありましょう。宮沢賢治「世界のすべての人が幸福でない限り、私の幸福はありえない」の言葉を胸に精進したいと思います。 
 

 

 
 

 


 

 

 
台密[天台宗]と 東密[真言宗]

 

あいさつ
今インターネット上に新興宗教の異様な投稿(書き込み)が溢れています。 投稿者は、自身が信じて疑わない感動を世の人々にも伝えたいという善意の行為でしているものであろうと考えられます。しかし、個人的な感動が自身の中に留まっている状態であれば、どのように解釈をしようと個人の自由といえますが、不特定多数の人々が閲覧するネットの投稿情報を利用して、例えば客観性が求められるフリー辞典ウィキペディアや用語解説(仏教用語の解説や教理の説明)などに、狂信者の主張を書き込み、日蓮の妄想を世間に拡散しようとすることは放置できないレベルといえるのではないかと考えられます。仏教の基礎知識がない人がこれらの投稿情報を読めば、仏教とは言えないオカルト宗教を真実の仏教だと刷り込まれる危険性が考えられるのです。
ネットの投稿情報は、その投稿内容が真実かどうかをタイムリーに検証する方法が作れません。信教の自由を尊重する立場では、検証の基準が作れない宗教の問題だけに、読む側に相当な基礎知識と常識がなければ内容を吟味できない危険性があると考えなければならないのです。
特に、目立って多い投稿は、日蓮の独善的な教判論に憑依された狂信者の主張が群を抜いています。まともな思索の時間を持たないままに、空虚なプロパガンダを刷り込まれて、毒語とも知らず、世間にまき散らしているものと考えられます。体系的な宗教の比較が許されず、一方的な妄想を刷り込まれ、純粋培養で育てられた疑いが濃厚です。新興宗教の狂信者の中には、信教と言論の自由を最大限に享受して、思い込みと妄想を語る狂信者が後を絶つことがないところから、社会常識では語れない高リスクを抱え込んでいる人々がいると考えられるのです。
これらの投稿者は、その主張内容から判断すれば、創価学会、顕正会、法華講の狂信者であろうと考えられます。この3団体は、富士門流(日興・日目の法流)といわれる「日蓮正宗総本山・大石寺」の信徒団体として結成されたのですが、創価学会と顕正会は法主の指導に従わなかったことから破門処分となっています。
顕正会は、日蓮の遺告(ゆいごう)の受け取り方について宗門と異なる独自の見解を主張し続け、再三の法主の指導を拒否したことから宗門と根本的な対立を引き起こしました。また、池田創価学会は宗門の乗っ取りを画策したことを疑われて宗門法主の逆鱗に触れて破門されました。宗門を外護する目的で結成された信徒団体が宗教法人の資格を取得して、宗門を経済的に追い詰めて、宗門を奈落に貶めたのですから醜い骨肉の争いというほかありません。顕正会と創価学会は相互に否定し合う犬猿の仲ですが、双方の信者には、令法久住の護持法主の宗教的権威を撥ねつけるだけの宗教的信念と情熱が保持されている不思議な特徴と共通性があります。法主の血脈の正統性を疑い、人格を否定する異様な対立の傷口が深すぎたことで、いつ癒えるのかの見込みが全く見えないまま、相互に譲歩できない悪縁を抱え込み過ぎて、不毛な争いを続けています。ここには、僧は宗教的な指導者ではなく、信者団体の指導者の支持を失えば存在価値が否定されてしまうという、ありえない不思議な現象が見えるのです。
法華講は、各寺院の檀信徒を全国組織に改編した30万人程度の団体ですが、活動家の主力は創価学会から脱会した人たちといわれています。法華講は、その前身が各寺院の旧檀家組織であり、布教の効率化のために総本山大石寺が直轄する正式な認証団体として全国組織に改編された信徒団体です。元を正せば、顕正会も創価学会も法華講の下部組織でしたが、総本山の指導に従わず、自らの主張を信じるが故に妥協できず、法華講連合組織からの離脱を決意したと考えられます。
法華講の特徴には、宗門の法主を日蓮の正当な継承者「御法主上人猊下」として特別に尊崇し、また、寺院住職を「御尊師」と尊敬して、その指導を従順に受け入れる一途な信仰姿勢が見えます。いわゆる、宗門、僧侶(指導教師)の指導に従順で信仰熱心な信徒団体であることを誇りとしています。宗門から見れば、法華講は宗門の従順な信徒団体という模範的な存在を示していると考えられます。
この同床異夢の3信徒団体は、日蓮の憑依が身心に浸透して、他の宗教を認めず、自身の信仰態度に疑問を持たない信者によって支えられているという共通性を持っています。それぞれが日蓮の意思を忖度して正当化し、ゆえに自らの組織の正義と正当性を主張し、相互に相手方を異端とする批難中傷を繰り返して、相互に対立する相手を否定しあうという修復不能な敵対関係にあります。妥協点を模索し共存の着地点を探す意思が全く見えません。
各3信徒団体には、このような信仰姿勢の著しい違いがありますが、その中にあっても、共通して持続している宗教的な情緒は、「日蓮の教説(『法華経』)だけが正しい宗教であり、他の宗教は謗法である」という強い思い込みと独善的な教義と妄想を抱え込んだ共通性を持っています。祖師の妄想に憑依され、普遍性のない宗教プロパガンダに洗脳されて考える力を奪われ、大事なかけがえのない人生の目的を歪められていることにも気づいていないのではないかという批判を受けています。この新興宗教は、日蓮の妄想と情緒にこだわり続け、他の宗教を否定し、自教団を仏教の最高峰に位置づける独善性を信じて主張しつづけているゆえに、際立ったオカルト性が突出していることにも気づくことがないのではないか、と疑われているのです。
幸福の科学主宰者・大川隆法にも独善的な主張が見受けられます。出版本の論述には独自性が認められませんが、著名な諸宗教の思想と考え方を少なからず導入して普遍性を意識した言葉を選び無難な主張に仕上げていると考えられます。しかし、最近の守護霊や霊言に関する著書や発言については、まっとうな宗教活動とは言えないのではないか、という疑問が感じられます。また、大川自身が「エル・カンターレ」であると主張している一点で大きな違和感があります。釈迦もキリストもマホメットも大川自身の下で法を学んで悟りを得たという主張がこれです。この主張は、仏教徒、キリスト教徒、イスラム教徒の全てを敵に回す愚かな妄想としか考えられません。この説は、日蓮本仏論と同種の奇説の現代版と考えられます。新興宗教にはこのような「思い込み」を布教するという精神疾患を連想させる人物が出てきます。何故に、思い込みが抑えきれないのであろうか。思い込みを制御できる意思が希薄と見做されれば、宗教家としての評価を受ける適格性はありえないのです。
法は、あるがままに存在する宇宙の法則、森羅万象そのものであり、人の意思に左右されず遍満し続ける当体(自性法身)であると考えられます。人間を小宇宙と考え、研ぎ澄まされた瞑想と経験を積んだ修禅観法の中で、瞬間的に法身仏と感応(入我我入)して一体化する瞑想の中に入ることは可能であると考えられます。しかし、自身がそのまま法身仏(法)と等しい存在であると思い込み、新興宗教の主宰者となって善良な人々を洗脳すれば、精神状態を疑われるリスクを背負うことになると考えられます。
これらの投稿情報の論述の特徴は、伝統的な教理論の研鑽を共有する学匠や学僧の手によるものではありません。客観的な情報を得る努力を怠り、深い思索の時間を持つことなく、強い思い込みに自我を喪失してしまった狂信者の手によるものと考えられます。新興宗教の独善的なドグマとプロパガンダを刷り込まれて、これを信じて疑わない体質に育て上げられてしまったものと考えられます。これらの狂信者の投稿情報には、世間に誤解を与える危険性を内包する毒語や瑕疵が多く含まれていることから、放置できない社会問題を発生させる危険性があると考えられます。
これには何らかの社会防衛策が必要ではないかという視点が考えられますが、思想、信教の自由は憲法で保障する基本的人権の構成要素であるところからこれに制限を加えることは不可能です。人々の自由な選択に委ねるほかに方法はありません。
私たちの信仰心は、仏縁に会うことから始まります。弘法大師空海は「物に定まれる性(さが)なし 人なんぞ常に悪ならん 縁に遭(あ)うときはすなわち庸愚(ようぐ)も大道を庶幾(こいねがい)教に順ずるときはすなわち凡夫も賢聖に斉(ひと)しからんと思う」と述べています。良い縁に会えば愚かな人も正しい道を願うようになり、良い教えに従えば、俗なる人も賢く、聖なることを行うようになるという教訓であろうと考えられます。もし、普遍性が欠落した独善的、教条的な教義(ドグマ)の刷り込みを受け入れることがあれば、誰もが生来的に持つ仏性(如来蔵とも自性清浄心ともいう)が開けられず、仏の智慧を受け取ることができません。
鎌倉祖師仏教の異常な変質を指摘する声は、ひたむきで悲しくも生きる望みを掴んだ民衆の強い情熱と支持によって耳目を塞がれ、今日まで正されることなく継承されてきました。功徳や恩恵は自らの努力(修行)と信仰心(信行)による仏の加護(不思議な法界力)などの宗教的な総和によるものと考えられますが、自助努力の資質が欠けた者(宗教的な悪人)ほど阿弥陀仏の救いが受けられる、余念なく題目を唱えれば即身成仏できる、などという非仏説を受け入れた人々にも自己責任があると考えられます。
大乗経典は諸仏と諸菩薩が悟りの“きずき”についてさまざまな法話を交わしていますが、これらが編集されて主題ごとにまとめられたものが、様々な仏教経典として成立しました。大乗仏教の諸経典は、釈迦滅後に、釈迦の悟りの追体験を試みた大乗の諸菩薩によって編纂されたものでした。釈迦の精神(仏教の精神)を継承する立場から書かれた諸経典は、便宜上では釈迦が説いたお経として扱うことが行われてきましたが、実際に釈迦が文字にして説いたお経そのものはどこにも実在していないのです。
釈迦が説いた説教を聴いた弟子たちが集まって編集したお経が「原始経典」と呼称されています。インドは多数の民族がそれぞれの原語を使用する多民族国家(群)でした。在世当時の釈迦は、日常の原語として「古代マガダ語」を使用していたと多数説では考えられていますが、釈迦が使用した言語やその周辺国の原語で書かれた「原始仏典」はどこからも発見されていません。釈迦在世の当時は、その教えを文字で残す習慣がなかったと多数説は考えています。釈迦在世には文字で書かれた仏典がなく、釈迦の教えは全て口から耳に、耳から口に、口伝によって行われていたのです。「○○○経は釈迦が説いた最高経典」などという説は、無知から出た独善的なプロパガンダにすぎません。
釈迦滅後、500人の弟子が集まって釈迦の説法内容をまとめる結集が行われました。それぞれが暗唱内容を確認しあい、共通性の有無によって正誤が判定され結集されましたが、これも暗唱によって行われました。たくさんの人々が暗唱内容の正誤を確認し合うのですから疑義なく簡単にまとまるという結論は得られなかったと考えられます。共通性が確認できたものが、「経蔵」(釈迦の教え)、「律蔵」(教団を運営するための規則)、「論蔵」(釈迦の教えを弟子が解釈したもの)の三部に結集されました。一般的には経・律・論を三蔵といいます。後の仏伝に登場する多くの三蔵法師は、この三蔵に精通した者を尊称する呼称として時の王権から授与されました。
これにより釈迦滅後の100年程は仏教徒は仏教の教えを共同して行いましたが、これを根本仏教(原始仏教、初期仏教)といいます。しかし、200年後くらいから地域や集団によって違いがでるようになり、保守派(戒律を守る立場)と進歩派(戒律を緩めたい立場)に分裂していきました。その後も多くのグループに分裂しましたが、保守派は上座部仏教(主に上座の僧侶たちのグループ)に、進歩派(庶民に支持されたグループ)は大衆部(大乗仏教)に収斂されていきます。紀元前89年〜77年頃の第四回仏典結集の時から、経・律・論の三蔵が初めて文字によって編集されるようになります。釈迦滅後から4〜5百年後に、(釈迦仏教の精神を受け継ぐ思想によって)釈迦の教えが文字に記録されたのです。その後の百年前後頃には、部派仏教の教団の中から名もなき大乗の諸菩薩たちが現れ、初期の大乗仏教の編纂が始まったと考えられています。
釈迦の説法が、後世の弟子たちによって文字に編集(経典結集)されたものが「原始仏典」と呼称されています。釈迦が実際に説いたお経にもっとも近い仏典が「阿含経」「スッタニパータ」「ダンマパダ」であると考える説がありますが、実際にはこれらの経典も数百年間にわったって、何度も再編纂された疑いが考えらるのです。大乗経典は、釈迦滅後の当時の仏教の在り方に疑問を持った人々が釈迦の教えを見直そうとして、釈迦の精神を追体験することを目指す修行を通して、自らが得た目覚めを釈迦の「悟り」に託して大乗経典を編纂したものであろうと考えられます。
大乗経典の編纂と増補には複雑な事情が考えられます。特に、各教団に選択されて依経となった大乗経典には、教相判釈の視点が加味されて、他教団に優越性を主張する意図をもって自教団の教理を補強する再編纂が何度も施された疑いが考えられるのです。例えば、『法華経』『華厳経』『無量寿経』などには釈迦の時代には考えられない洗練された哲学的な教理が施されていますが、2〜4世紀頃の2〜3百年間にわたり何段階にも増補されたことが考えられ、この増補の活動は6〜7世紀頃の中国の『法華経』と『華厳経』の宗派のメンツをかけた優劣争いまで続いたことが考えられます。また、中国で新たに編纂された偽経(インド伝来の経典の翻訳ではなく、中国で創作された経典)は、宗派の優劣争いを有利に展開するために、王権の支持を得る意図を持って最新の思想、哲学的論理性を補強する創作であったことが考えられますが、龍樹等の大乗の諸論書に多大な刺激を受けたことが考えられます。
しかし、釈迦の精神を忖度して編纂した経典(ほとんどの大乗経典がこれに当たります)は、正統な仏教経典として扱うことが行われてきました。これらの経典の特徴は、釈迦の説法を受け継ぐものであることを表明するために「聞如是」(近年の有力説、以前の「如是我聞」とか「如此我聞」の説が改められた)で始まる形式を採用しましたが、文字ではなく口から口に伝えられた経典であることの性質を示しているのです。誰一人として、釈迦の説法を直接聞いた仏典編集者はいませんが、釈迦の精神を受け取る立場を表明することによって、仏伝としての継承性と正当性を認めようとしたのです。
仏典の編纂には、釈迦滅後100年(釈迦の説法の編集)〜(原始仏教の編纂)〜500年(大乗仏経典の編纂)、不明(初期密教)〜7世紀(中期密教)〜11世紀(後期密教=インド仏教を忠実に移植したチベット密教経典の編纂)という時間的な流れがあります。如是我聞の真意は、「釈迦の説法(教説)の精神を継承している」ということなのです。時代と共に、釈迦の素朴で分り易い教説が次第に経典解釈の進歩を受け入れて反映され、哲学的、論理的、具体的に表現されるようになってきたことにはこのような事情があると考えられます。
大乗仏教の諸経典は、もれなく釈迦滅後の無名のブッダたちが智慧を出し合って再編纂してできた経典ですが、釈迦の精神を継承するものであるとして“仏説”と扱われてきました。釈迦が自身の言葉で書いた仏典はそもそも実在していないのです。この意味では「原始仏典」もまた、釈迦滅後に弟子たちによって編集された仏典であり、釈迦が直々に語ったことばがそのまま書かれたものではありませんでした。実際には、聞いた人の感想や理解の内容が、あたかも釈迦の真実のことばであるかのごとく誤って伝承されたことが無いとはいえない状況でした。
無名のブッダたちが研鑽の結果を編纂した仏教経典は、あたかも生きた釈迦が衆生に説法しているかのごとく、多くの人々に感動を与える仏典でした。大乗経典の特徴は、在家であっても悟りの修行を積んでブッダになること(成仏)を目指すことができるという立場を鮮明にしていることです。この思想は、成仏は釈迦一人のみに認められる特別な資質とみる立場を否定するものでした。誰にでもブッダへの道が開かれているとする大乗思想は、「何人ものブッダの存在を認める」ことになるのですが、在家と出家に成仏の本質的な差別を認めず、その違いがそれぞれの役割と機能(働き)にあることを示すものでした。大乗経典は、釈迦の悟りを追体験した修行者たちの宗教体験と仏教解釈の変遷を受け入れて新たな視点から生み出された思想でした。大乗仏教の特徴は、自己の外に不思議な力を認め、釈迦も不思議な力(あるがままに実在する宇宙・森羅万象の実相=その実在を法身仏と見る思想)の加護によって悟りを得たと考える仏身論が生じたのです。ここには不思議な力を拠り所とする諸仏・諸菩薩・明王の救いの力が説かれたのですが、この有難い教主を信仰する形態が大乗仏教の信仰姿勢になったものと考えられます。
このように成立の異なる「原始仏教経典」と「大乗仏教経典」とが、シルクロードの開通によって、紀元前2世紀頃、中央アジア(大月氏国)から中国に無秩序にもたらされたと考えられています。当時は、個々の経典の成立史や教えの内容の優劣などには関心がなく、仏典は全て釈迦一人が説いた教えだと考えられたのですが、素朴な原始仏教経典と哲学的に洗練された大乗仏教経典には説かれる内容に違いがあり過ぎることに気付きました。そこで、釈迦がこれらの経典をどのような意図をもって、どのような順序で説いたのかを考察する機運が生じました。やがて、次第に経典を評価するランク付けが行われるようになりましたが、これを教相判釈(教判)といいます。この中から、自らが究極と見做す経典を選び取り、それを中心に諸経典の評価とランク付けが各グループで始まりました。
信仰の対象(本尊)とされたのは、これらの経典に登場して有難い説法をする教主(仏)であり、仏の教説を信受してこれを実践する菩薩です。また、教説に従って修行する信者を守護する役割を持つ明王です。経典そのものを本尊として帰命することはありません。教主への帰依が称名(本尊の名を称える)という形態で表されました。称名は、端坐合掌や五体投地などの儀礼によって、「南無○○仏」(○○仏に帰依いたします)という形式で表されるようになりました。
特に題目は、法華経という経典に対する帰依を表現したものであるところから、大乗仏教の中核となる仏身論が欠落しているのではないかと考えられます。『法華経』の教主は釈尊(天台宗では本門の久遠実成の釈迦如来=本有「無作三身」=“報中論三”の報身如来)であり、普賢菩薩などの諸菩薩が信仰者に明呪を贈って信仰を支える、というのが法華経に書かれた仏説です。ところが、日蓮宗系の宗派の中には、釈尊=日蓮という日蓮本仏論を主張する団体があります。しかし、大乗仏教の伝統的な教理解釈からこのような独善的な解釈論を成立させることは不可能です。日蓮本仏論や南無妙法蓮華経如来という造仏は、伝統的な大乗思想の教理論を共有する僧侶の中には生まれることがない妄想と考えられます。『法華経』の「如来寿量品」の驚きの強引な解釈によって生み出した文底下種仏法論などという妄想は成立しうる論とはいえません。また、祖師の日蓮が感じ取った独善的な法華経観に妄想の解釈を上塗りして大乗仏教の頂点に位置付けることは不可能です。この奇妙な主張は、日蓮に憑依された熱心な日蓮宗徒が主張する妄想に過ぎません。
日蓮は、天台智が主張した『法華経』の優越説という独善性をそのままに比叡山に移植した最澄が諸宗兼修を推奨したこと、円密一致を標榜しながら密教の優位性を隠せない実態を見つづけたことによって信仰の中核を見失い、混乱している天台宗・衆僧のどうにもならない行動を見続けてきたと考えられます。日蓮は、比叡山に自らの立ち位置が見つからず、どうにもならない先行きに失望したことで、胸中に蠢く妄想を押さえきることができなくなり、あろうことか日蓮自身を法華経が如来寿量品に予言したとする末法の本仏(日蓮=末法の法華経の行者=末法の本仏)とするレトリック(日興門流の血脈相承説に由来する説)を育て上げてしまったものと考えられるのです。
一般的に、日蓮系の法華信仰者には、異常な日蓮の憑依現象がみられることから、日蓮の妄想に身心を奉げて、かぎりある人生を預けたことで、一生の悔いが残らないのであろうかという疑問があります。妄想を抱き続けたことで、臨終正念の場において、心穏やかに、あるがままの人生を受け入れて、人々や社会に感謝する心境や境地になれるのであろうかという疑問が感じられます。日蓮の憑依は頑なに信仰態度に現れます。批判を法難にすり替える宗祖日蓮に由来する精神文化です。自己に対する独善的な無批判体質が全身を蝕んでいるのでしょうか。法華経の精神を捏造するプロパガンダに身を投じた過失は軽いものではないと考えられます。
ちなみに、大乗仏教の菩薩は、それぞれが得意分野を持つスペシャリストですが、普賢菩薩(行・実践)、観音菩薩(救済、所願成就)文殊菩薩(智慧の象徴)、地蔵菩薩(無仏時代の救世主)、勢至菩薩(阿弥陀の補佐役)などが有名です。弥勒菩薩は「未来仏」として信仰されています。『観音経』と『般若心経』の両経は、浄土系と日蓮系を除くほとんどの教団で採用されて日常的に読誦されている基本的な経典です。
鎌倉新仏教(祖師仏教)は、数々の抑圧や弾圧を受けながら800年の歴史に耐え抜き社会的な勢力に成長した複数の教団です。この中には、信者の獲得競争によって巨大組織化し、社会の認知を形成してきた教団があります。民主主義の現代社会では信者数の数が社会的な勢力となり圧力団体となりえます。平和的な手段で政党を組織して多数の国会議員を抱えることで、国政に大きな影響力を及ぼすことができます。宗教団体の教義や政治目的、政権との関わり方には、公平な国民の監視の目が必要な場面が随所にあると考えられます。
これらの教団は、鎌倉時代、室町時代、戦国時代、江戸時代の異なる権力者の支配下のもとで宗教統制の中に組み込まれたことで、結果的に生き延びることができたのですが、明治以降に信教の自由と布教活動の許容化が進む中で集団力を発揮できるようになりました。特に、異常な教義を抱え込んだ日蓮系では、江戸時代の折伏行為は重罪であり遠島刑(島流し)に処されていましたが、明治以降の信仰の寛容化によって長年の規制と抑圧の軛から解き放たれました。複数の新興宗教団体があいついで結成され、信者の手で活発な信者獲得を目的とする異様な布教活動の折伏が始まりました。日蓮教団の特徴は、僧が布教活動の主体ではなく、布教に燃えた信者が新入信者を獲得する布教活動を熱心に行い、信者が信者を教化して抱え込み、教団を巨大化(創価学会、立正佼成会、など)してきたことにあります。
衆生教化の方法には、「摂受」と「折伏」の二門があります。摂受門は正法を説いて衆生を正道に導く温和な手段であり、菩薩(正法輪身)が行う化導です。これに対し折伏門とは、化導し難い衆生を教化して化益するために、慈悲を根底にする威嚇を用いて衆生が持つ煩悩を断ち切る働きをする忿怒形の明王(教令輪身=大日如来の分身)が行う化導です。衆生が持つ悪行・煩悩・謗大乗法などの障礙を取り除く働きをするものですが、折伏されるものは人(または思想)ではなく、一切衆生が持つ煩悩(貪・瞋・痴の三毒など)です。
日蓮系各宗派が使う独善的な折伏は、相手の宗教観を強(し)いて折り伏せ従わせるという慈悲(?)の行為であると正当化していますが、他人を折伏(日蓮信仰をさせる)することによって自分の境涯や宿命を転換することができる慈悲の行為だと本気で信じ込まされている人々の折伏行為は、一般的にはまぎれもない迷惑行為であり、独善的で傲慢な宗教の押し売りと認識されています。義理人情に絡め取られて折伏された人々こそ哀れな存在です。独善的な宗教ドグマを刷り込まれる不幸な人々になるリスクを背負い込むことになると考えられます。
日蓮系に共通して見受けられる宗教ドグマの特徴は、教祖の涓介な非妥協性の性格に憑依され独善性、非協調性、攻撃性、情熱性が突出していること、また、日蓮に憑依された強い思い込みによって、仏教が本来的に持つ特質の普遍性が欠落していることにあります。「日蓮の教説が正しく、その他の宗教は間違っている(主旨)」という妄想と論理の欠陥を抱え込んでいることがまさにこれに当たります。折伏に根負けした人々は、健全な意識が目覚める機会を奪われたことになります。何らの必然性がないのに、妄想を刷り込まれる人生を受け入れたことに気づかないまま宗教集団のさまざまな人間関係に抱き取られることになるのです。相当な自助努力をしなければ、宗教活動の経過とともに、自らを妄想の軛(くびき)から解き放つことが難しくなっていきます。時間の経過とともに徐々に宗教的な妄想の深みにはまっていくことになるのです。正常な自我の意識が育つまでその中に囲い込まれることになると考えられるのです。
折伏の本質は、何らの必然性がないのに、突然に宗教の話を持ち出されて、望んでもいないのに“あなたの宗教観は間違っている”という衝撃の言葉を熱心に聞かされることから、まさに青天の霹靂というものです。善意からくる親切で独善的な宗教観を熱心に延々と聞かされ、貴重な時間を奪われる迷惑を受けることになります。一般的には個人的な友人・知人の複雑な人間関係が持ち込まれて心理的な束縛が発生していることから、さまざまな情実としがらみを持ち込んで宗教・思想の自由を縛り付けているという批判があります。
このような関係性には、人間関係の縛りの要素となる上下関係、親子関係、兄弟姉妹関係、友人・知人関係、職場関係、取引関係などの心理的なさまざまな圧迫観が人々の自由意思を奪うことになるのではないかという批判です。これには、冷静で客観的な批判の精神が必要と考えられます。
家庭訪問などの布教活動は、見方をかえれば、宗教の押し売りや宗教の訪問販売という形態ではないかという批判があります。しかし、商品が介在していないところから、この批判には無理があります。介在しているのは宗教であり、思想、価値観です。クーリングオフの対象にはなりません。後になって、強引に押し切られたという主張は、一般的にはなかなか通用しないと考えられます。人間関係を断ち切る決意があれば、やめたい時に何時でもやめられる性質のものですが、そのような断固とした決心ができる人はほとんどいないのが哀しい実情です。結局は時間と手間暇をかけて、徐々に仲間意識を刷り込まれ、さまざまな情実に絡め取られて洗脳されていくことになります。友人・知人・組織の関係者がかわるがわる何度も家庭訪問して慰留し、宗教ドグマを刷り込むシステムが作動しているのです。
一般的に、危険なカルト教団の見分け方は、1回答不能な人間の悩みに付け込むこと。2科学的な根拠が無いのに人の不安を煽ること。3人を洗脳して正常な判断力を奪い、教義を刷り込むこと。4むやみに寄付金を集めること。 5世間の非難、迫害を喜びに転化させる教義があること。 6脱退が困難なまでに人的関係を縛り組織防衛を強化する教団。7社会に対し攻撃的になること。などが上げられています。実際には、これらの要素の複数に被疑事実がある具体的なケースについて検討すべきことですが、様々な手口や手法を使い個人の自由意思を縛り付ける要素がある場合も同様と考えられます。
釈迦滅後の仏教徒の信仰姿勢は、釈迦が厳しく遺言しています。いわゆる「自帰依(自灯明)」「法帰依(法灯明)」という教えです。「自らを拠り処として他を拠り処にしてはならない」「法を灯明(または「島」)としなければならない」という釈迦の最後の教えがこれです。釈迦の仏教の特徴は、出家を前提とする修行にありますが、釈迦滅後の部派仏教の研鑽の中で信仰姿勢の多様性が芽生えて選択肢が広がり、この中から大乗仏教が興起(近年の多数説)したことによって一般民衆の悟りの道が開かれたと考えられます。しかし、悟りに向かう仏教信仰の基本姿勢には、釈迦の教説と論理的な同質性が認められなければなりません。これは、テラワーダ仏教(上座部)や大乗仏教(大衆部)が持つ共通の基本認識と考えられます。ゆえに、人々に憑依して宗教ドグマを植え付けることによって、信仰心や自由な精神を束縛する新興宗教の存在は否定されなければなりません。人々が自分の意思で自由に決断することができる穏やかな精神状態の回復がなければ、せっかく向上心に芽生えた宗教的な情熱は空虚な幻(まぼろし)になってしまう危険性があるからです。
伝統教団の奈良仏教(南都六宗)と平安仏教(天台宗、真言宗)では、1自帰依仏、2自帰依法、3自帰依僧、という三宝(仏・法・僧)への帰依を定め、これを三礼という僧の礼拝行に定めました。特に、大乗仏教では、僧は衆生と共にある存在とされます。三礼は釈迦仏教を継承する理念であり、僧の自戒の念を表わす儀礼であると考えられますが、在家の人々であっても三宝帰依は同様の受け取り方ができるものと考えられます。
戦前・戦後の新興宗教の特徴は、伝統の仏教教団の教義を自由自在に加工した在家の人々によって組織され、信者を獲得する目的を持った布教活動を行いました。ここでは、信心指導という名のもとに、信徒団体の代表者や組織の幹部があたかも宗教指導者のごとく振る舞い、自身の思い込み(異質の教義)を新入信者に刷り込み、手作りで信者を養成している特徴的な囲い込みが行われてきました。僧侶の手で行う伝統の仏教教団の布教活動には、このような信者を囲い込む手法は見ることがありません。
鎌倉(祖師)仏教の信者には共通する特徴が見られます。宗教的な情熱を多量に抱え込んだ信者の信仰心が沸騰して、自らを僧侶と同等に位置づけ、もしくはそれ以上の存在であると思い込む増上慢が表面化していることです。僧の養成システムが簡便な宗派があること、僧と信者のお勤めに大差がないと評価されている教団や宗派があること、信者の供養や寄進に依存してきた教団や僧侶がいることなどから、僧侶の信仰指導者の役割が信頼されていないのではないかと考えられるのです。また、新興宗教団体がこれの事柄を自らの正統性を吹聴するために、センセーショナルに世間にプロパガンダを繰り返した様々な経緯等が考えられますが、火のないところに煙が立たないということわざがある通り、僧のさまざまな行為の在り方が理解されず、仏教者として人々の期待感に欠けていると評価された事実があったであろうとも考えられます。
現代の豊かな文明社会では、庶民の高学歴化が進み、思想哲学の知識の一般化が見られるようになりました。体系的な学問を修めなくとも、溢れんばかりのさまざまな情報を見聞きできるようになったのです。人々は自立心を持ち、自分の感覚で物ごとを見て、自分の意見を持ちました。自由な発言が飛び交うことで価値観の多様化が促進されました。このような現代社会の中では、流れる水のごとく、多様な価値観が大量に宗教の場に持ち込まれるようになります。阿吽の呼吸が簡単には整わなくなったことから、僧侶と信者との間にあるべき信仰上の信頼関係が損なわれる事柄がメデイア等で取り上げられる社会現象が現れ、相互の細やかな意思疎通がより以上に求められる問題点が指摘されています。これには、普遍性がある妥当な視野を持った知恵が必要と考えられます。
今日の仏教系の活動的な新興宗教は、鎌倉祖師仏教を母体とするものでした。比叡山の教義体系の混乱が、鎌倉時代以降の日本大乗仏教が様々な教義を抱え込み過ぎた主原因とも考えられます。日本大乗仏教には、鎌倉期に芽生えた末法思想の影響を受けすぎたことによって多数の宗教的情緒が混入されました。日本仏教は、仏教圏の諸外国には類例がない多宗乱立、玉石混交の世界に突入してしまいましたが、日本人の民度の高さと組織力が調整弁となって機能したことにより、各教団の共存関係が維持されてきたものと考えられます。これはまさしく日本宗教文化の特殊性を示すものと考えられ、数々の日本的情緒が仏教思想の対立を包み込んだ典型的な実例とみることが考えられるのです。
人々を一人づつターゲットにする勧誘スタイルは伝統的な仏教教団にはないものです。この勧誘方法は新興宗教の独特の戦術であり、親子兄弟、友人、知人などの個人的なつながりや人間関係を利用して行う特徴がありますが、新興日蓮系、新興キリスト教系、新興神道系の団体が日常的に行っているものです。この勧誘方法は、あらゆる可能性や「つて」をたどり、義理人情を絡めた人間関係を最大限に利用するところに特徴がありますが、この中には親子兄弟親類縁者の社会的な関係が破壊される悲惨なケースが発生しています。
新興宗教のもう一つの特徴は、教義を自由自在に作れるところにあります。互換性のない言葉や用語が溢れています。口説かれた人は不思議な感覚に囚われるといいます。予備知識がなければ冷静な判断力が働かない宗教のことですから無理もありません。しかし、宗教であっても特別な世界を作っているわけではなく、私たちが生活している現実社会からかけ離れた世界にあるわけではありません。平常心を失わなければ踏みとどまることができるはずです。仏教の精神は、その時代の世相を超越した普遍性にあります。普遍性のない教義をもつ宗教は有害無益です。向上心のある人や法を求める人々を不幸にする宗教には未来がありません。
正常な感覚ではありえないことですが、オカルト宗教に特徴的に表れる体質は、批判者に過敏に反応して謀略を仕掛けたり、暴力的な敵対行為をあえて行うことをためらわない人々が混在していることから、実行行為の危険性が実際にあることです。オカルト宗教の狂信者の中には、批判者を異端の敵対者と見做して否定する体質を持つ人物や、批判者を排除するために謀略や暴力を仕掛ける異常な人々が混在している事実が報告されています。
しかしながら、一般的ないい人、お人よしの信者は、このような狂信者の存在を否定し真実を知ろうともしません。この宗教の信者の大半は「法華経が最高、真実の教え」というドグマが麻薬のように全身に浸透して平衡感覚を失ってしまい自浄作用が機能しない体質になっている人々と考えられます。このような異常な人々を生む宗教は否定されなければなりません。
宗教は日常の生活習慣や人生観にまで影響する問題であるだけに、善良な人々がオカルト情報に洗脳されないように注意を喚起することが必要ではないかと考えられます。
宗教は、先祖の「墓」を伝承していくという特徴的な祭祀形態をもつところから、墓地を管理する宗教団体のさまざまな規則に縛られることになります。何よりも宗教ドグマが自然に継承されることになるので、これが子々孫々に与え続ける影響を考えれば慎重に考えて対応するべきだと考えられます。なぜなら、子孫が先祖の墓の祭祀形態を変える決断をすることはとても難しいものがあると考えられるからです。異様な教義を持つ新興宗教が淘汰されず生き残って子孫に継承されてきた主な原因は自宅に安置された「仏壇」と「戒名」そして「墓」にあったと考えられます。
宗教ドグマの刷り込みや、宗教的情熱を見誤った思い込みから自らを解放するためには、1ときどき、自分の宗教観を疑うこと、2事実から目をそらさないで、一つ一つの疑問を納得するまで考えること、3他人の目線に立ち、自分を批判的に見つめる時間を持つこと、4家族、兄弟の批判をよく聞いて、その思いやりに感謝する気持ちを持つこと、などが必要と考えられます。
本稿の記述内容には、無用なリスクを回避するために不必要な刺激を避ける工夫をしているつもりですが、それでも伝えたい情報の中身を知ってもらうためにはそれが第三者に伝わる書き方をしなければなりません。苦渋の表現方法を模索しながら書かざるを得ない複雑な気持ちがもどかしく感じられますが、どうぞご了承くださいますようお願いいたします。
この記事は最終形を模索しながら作成している段階です。また、手の空き次第に投稿している状態にあります。掲載中の内容についても随時に加除・訂正を行いますので、ご了承ください。なお、加除・訂正や補足・補正をしたものは各ページのはじめに実施した日付を付記いたします。この日付の有無よって「加除・訂正や補足・補正、増補」が行われたことをご理解くださいますようお願い致します。
挨拶としては異例の長文になってしまいましたが、その要因は、本稿の構成内容のガイダンスをある程度しておかないと本文の内容が理解できないのではないかと感じられたからにほかなりません。最後までお読みくださいまして、まことにありがとうございました。厚く御礼を申し上げます。以上   平成25年12月15日  西田叡徳  
大乗仏教の精神を変質させた祖師仏教

 

鎌倉時代に出現した鎌倉新仏教と呼ばれる祖師仏教「浄土系(法然、親鸞、一遍、良忍)と日蓮系」が、天台宗の中で発生した末法思想を蔓延させたことで、民衆に世の終末思想までも連想させる誤解が発生しました。打ち続く内憂外患の政情不安と飢饉や疫病の蔓延に驚愕した祖師たちが、非仏説としかいいようのない妄想を抱え込みました。末法思想に幻惑された祖師たちが、胸中に芽生えた救済の道(それは釈迦仏教や大乗仏教とは本質的に異なる宗教的情緒が突出した妄想)を信じて、救われたいと切に願う民衆を教化したことで、大乗仏教思想に非仏説が大量に混入され始めました。鎌倉新宗教の登場は、北伝の伝統的な大乗仏教思想に祖師たちの妄想を埋め込み、燎原の火の如く民衆を席巻する勢いを得たことから、日本仏教の変質を許容し、ここから生じる大量の瑕疵の発生も無視されてきました。大衆文化の拡散の勢いが、伝統仏教の教理と実践の整合性や本質的な諸批判を沈黙させる力をもったのです。日本仏教には、このような特殊性があることを知らなければなりません。
祖師達が熱心に布教した末法思想は、妄想から生まれた恐怖の連鎖を拡散するものでした。祖師たちの布教行為には、民衆に恐怖心を植え付け、この世の終わりを連想させる操作を意図的に行うプロパガンダの横行が認められ、非難に値する布教行為であったと考えられます。恐怖におびえた民衆は救いを求めて祖師の慈悲にすがる心理的な誘導を受けるしかない哀しい厭世観に覆われてしまったものと考えられます。大乗仏教の普遍的な思想が正しく根付いていなかった時代のことでした。末法思想に囚われてしまった人々は、祖師たちが語る救済の信仰を受け入れるしか方法がなかったのでしょうか。鎌倉新仏教(祖師仏教)の布教の在り方は、恐怖と救済を両輪とする新たな庶民獲得の布教活動であったと考えられます。 日本仏教史の中で、最も猛威を振るった風評被害は「末法思想」であったと考えられるのです。
末法思想は、仏教の盛衰を三時に分けて予言する思想でした。釈迦滅後の正法千年(仏法が正しくいきわたる時期)、像法千年(信仰が形骸化する時期)、末法万年になると仏法が廃れて人々は絶対的に救われず滅びる、という内容です。法華経の流布を狙った妄説と考えらえていますが、中国・隋の天台宗に芽吹いて流布され、天台教学を移植した最澄が(著したとされている)『末法燈明記』に、末法の初年を永承7年(1052)と書いたことから、比叡山の風評に乗った朝廷や貴族層を怯えさせ、次第に世間に伝播されて広まり、急激に猛威を振るい始めました。この時代は貴族の持つ既得権益が台頭した武士層に次々に簒奪されていく不安定な混乱の真っただ中に在りました。次々に勃発する戦乱や疫病の流布が人々に厭世観を植え付け、末法思想は終末思想と共鳴していきました。人々は恐怖におののき、悲歎にくれた人々がこの世の終わりの連鎖に陥り、人々は生きる望みを喪失し、神・仏に救われたいと強く望む混乱の社会背景があったのです。
天皇・貴族の律令体制を崩壊させた武士が勃興し、武力によって貴族層の荘園を簒奪していく激しい下剋上の世相と世の移り変わりを見ただけでなく、政権の奪い合い(内乱)や蒙古襲来(外患)に驚いた人々は、末法の乱世を憂い、嘆きの声を上げて救われたいと必死にこい願い、念仏(南無阿弥陀仏)や題目(南無妙法蓮華経)にすがりました。祖師たちが声高に説き始めた末法思想を信じたのです。これが新興の鎌倉新仏教(祖師仏教=庶民仏教)の実態であったと考えらえます。
ちなみに、道元は末法思想を否定して関心を示しませんでした。禅宗は、中国思想の根幹を形成した道教の一派が、大乗『涅槃経』の画期的な思想である草木国土悉皆成仏思想(この思想はインドになく、チベットに根付かなかった新思想)を受け入れて仏教化し看板の付け替えをした集団です。禅宗の禅は、インド仏教の禅定の系譜の中にはなく、この点で釈迦の瞑想とは質的に異なります。禅は、インド仏教の系譜に繋がる教団の禅定(瞑想)とは全く違う瞑想法であり、道教の瞑想法の系譜を受け継ぐ集団の中から発生したオリジナル禅です。禅宗には、末法思想の影響が根付くことがなっかた理由の一つと考えられます。
鎌倉新仏教(祖師仏教)の特徴は、平安末期の諸宗兼修を推奨した比叡山の中で芽吹いた末法思想と対峙せざるを得なかった祖師が、悩みぬいた果てに掴むことができた一つの宗教的な錯誤(その理解の仕方)から生まれたものと考えられます。
祖師達の布教は、悩める人々に大胆、かつ単純に、信仰の在り方を「信」の一字に特化して智慧に置き換えるという分り易い内容でした。これだけで末法の世から救われ誰もが仏に導かれて成仏できるという、単純な信仰のあり方に、人々は救いを見出したと考えられます。 修行によって智慧(悟り)を得るのではなく、信心があれば、仏に救われるはずだ、という発想の転換をしたのです。この説は、原始(釈迦)仏教や大乗仏教、テラワーダ仏教(上座部仏教)の思想とは全く相いれない異質の思想を持つ非仏説でした。個人的な真理の理解の仕方や感性によって、どうとでもいい変えられる主観的な観念でしかない「信」を基準にする欠陥を抱え込み、仏教の精神を根本から否定することになる宗教的な情緒に囚われて芽吹いた悲しい非仏説でした。
仏教における「信」とは、1三宝に対する帰依、2仏語を信頼すること、を意味する語であり、修行の前提となる受け入れ態勢を意味することばです。信は修行そのものではなく、「心を開いて法に聴き入り(忍許)」それによって「心を清浄(心澄浄)」にし、「悟りに向けて意欲を起こす」という三つの段階に入る前の前提条件をいいます。出家修行者には信と行が要求され、信を前提にして行に進み解脱、悟り、涅槃を目的としますが、在家の信者は信のみで行はなく、解脱、涅槃は望むべくもない、ゆえに、三宝に布施をして戒を保つことによって、死後に生天の果報が得られるという教えが原始(釈迦)仏教の基本的な考え方でした。この考え方は、僧と庶民の宗教行為の役割の違いを認めるものですが、(また、宗教上の女性差別を含む側面がありますが・・)東南アジアの仏教徒に支持され、南伝のテラワーダ仏教に伝統的に受け継がれている思想です。
大乗仏教には、インド伝来の釈迦仏教(原始仏教)以来の伝統があります。戒・定・慧の三学を兼修して総合的に学ぶことです。鎌倉新仏教(祖師仏教)のように、宗祖が選び取った一つの行を専修する方法は大乗仏教のあり方ではありません。宗祖が選んだ易行を専修する「撰択の仏教」には、釈迦の精神を継承する正当性や正統性が欠落しています。大乗仏教の精神を継承する適格性があるとは考えられません。「宗祖が選び取った教え」を仏教の全てと考えることは、釈迦仏教を否定し、大乗仏教の精神を否定することになるのです。これを布教する行為は、妄想を語るプロパガンダでしかないと考えられます。
戦後、中学・高校の一部の歴史教科書に、鎌倉新仏教の台頭を賞賛して日本のルネッサンスと見立てる無知な執筆者がでてきました。この評価にみられる誤謬性の最たるものは、南都六宗や天台宗・真言宗を中世の貴族仏教として退け、鎌倉期に出現した祖師仏教が庶民を救済する新仏教であるかのごとき執筆の仕方にみられます。この傾向性は、大乗仏教の思想性と普遍性の基礎知識が決定的に欠落している証ともいえるものだと考えられます。教科書を執筆する資格はありません。教科書に求められる客観的な視点が欠落したことで、生徒に事実誤認を刷り込むことになる典型的に愚かな行為であると考えられるのです。文化・思想としての仏教の評価は、第一義的には大乗思想がもつ普遍的な教理と実践を思想としてどのように評価すべきかという視点にあると考えられます。祖師の信条や情緒いわんや思い込みなどを文学的に評価するものであってはならないと考えられます。教科書の影響力は大きすぎることから、問題の本質を見る目がないままに他人の説を受け入れて教科書に執筆するという無責任な過失は償えるものではないと考えられます。学校の教員が授業で教えた知識は長く生徒の頭脳に記録され、人の判断力を損なわせる危険性があるのです。教科書の記述を信じたことで、長い間、正しい知識と信じ込まされてきた責任は誰にあるのでしょうか。宗教観の無知は、普遍性が欠落した思想を主張する新興宗教が勃興する土壌を作る危険性があるのです。
釈迦仏教の精神を受け継ぐ大乗仏教の基本理念は、自ら菩提心(悟りを求める心)を育み、悟り(智慧の完成)に至る自心の探究のプロセスに重要な意義を認めるものです。仏教の創始者である釈迦は「生きることは苦しみ(生・老・病・死)である」とみました。故に、自分の心の中にある煩悩(貪欲・瞋恚・愚痴の三毒)を全て断ち切り、この世(六道輪廻の世界)に二度と生まれ変わることの無い涅槃に至る道を説いたのです。そのためには、「出家して、ひたすら煩悩を消し去ることを目指す自力修行の在り方」を説いたのですが、やがて、仏教の精神や道理に適っていれば、出家修行をしなくても、在家であっても悟りは得られるという大乗仏教の精神が興起してきました。
大乗仏教は、釈迦滅後に20余の団体に分裂して形成された部派仏教の中から、ひたすらに釈迦の菩提樹下の瞑想の追体験を試みた無名のブッダたちのほぼ500年前後の思索の結晶(釈迦の悟りの内容を様々に論理的に積み上げた仏説の形成)の整理によって、まざまなな経典にまとめ上げられたものであったと考えられます。この大乗の菩薩たちの論理的な思索の成果は、いずれも釈迦の精神を継承する経典であると主張したことによって仏説(釈迦が説いた経典)と見做されてきました。なんと、八万宝蔵の仏教経典は、すべて釈迦一人が説いた仏説と見做されてきたのです。各経典の説く教えや内容の違い、何よりも論理的な論旨の展開内容に本質的な相違点があることが問題になるのは釈迦滅後ほぼ800〜1000年前後のことでした。
大乗仏教の研鑽の成果は、(選択的な思想を主張する傾向性を持つ経典もあるが)、思想の総合性と普遍性を意識しようとする努力が見られるところにあります。例えば、『大日経』には、そのためには「如実知自心」(実の如く自心を知る)が必要と説かれています。大乗の諸経典に説かれる修行の核心は菩提心と菩薩行にありますが、これは大乗思想の基本形が菩提心を出発点として如実知自心の在り方を見つめ直し、人々や社会との密接な関わりの在るべき姿を模索しながら悟りに至る構造を示すものであり、思索の論理的な進化形を示すものであると考えられます。ここには、仏道修行は智慧と実践を惜しみなく探究しなければならない道が示されていますが、大乗仏教の論書である『菩提心論』と『釈摩訶衍論』(『大乗起信論』の注釈書)などの論旨を読み込んだ思索の結晶が詳細に論述されていると考えられます。
仏教と一口に言っても、釈迦仏教(原始仏教)とその継承者を自負する上座部仏教と大乗仏教には、その説く内容に様々な相違点があることを知っておくことはとても重要であると考えられます。釈迦の精神、大乗仏教の論理性を逸脱する解釈は、いわゆる非仏説という非難を受ける原因になることが考えられるのです。
修禅の思索のプロセスがない信は智慧を生みません。盲信の信を智慧に変えることはできません。先天的に優れた素質と能力を持つ人は別ですが、一般的な人は、良き師について信を学び、悟りに至るプロセスに導かれなければ信は智慧に替わることがないと考えられます。
普遍性を持たない独善的な教義(ドグマ)に導かれても智慧が完成(悟り)することはありません。信とは修行と研鑽の中で、普遍的な悟りの世界の「仏の智慧」をあるがままに受け入れる境地に自ら至ること、または良師に導かれてこそ知見できる認識(真理を理解する智慧)であると考えられます。鎌倉新仏教(祖師仏教)には、大乗仏教の総合性と普遍性が欠落した祖師の特徴的な選択的仏教観?に特徴があり、祖師が選択した思想のみが正しい仏教であるとする偏狭性が突出している特徴が濃厚に見られます。祖師の選択的な宗教観や価値観と異なる思想を攻撃し、心理的な強制レトリックを多用して信者の信仰姿勢をコントロールしている危険性が濃厚に見られます。結果論からいえば、祖師に同意して憑依された信者は、宗教の自由な選択権を奪われ、祖師の選択的宗教観を撰び取らされることになるのです。
伝統的な大乗仏教の系譜は、その成立期の当初(紀元前1世紀〜紀元前後頃)から、正統仏教を自認するプライドの高い南伝のテラワーダ仏教から「大乗非仏説」(釈迦の「正統な系譜」ではないという説)という非難を受け続けています。この中で、鎌倉祖師仏教の系譜を受け継ぐ新興仏教は、さらに、日本独特の宗教的情緒を大量に刷り込み、釈迦仏教の精神を自在に変質させてきました。
テラワーダ仏教とは、パーリ語の仏典が伝承されている南伝仏教の上座部仏教のことです。別名では、サンスクリット仏典が伝承されている北伝仏教(大乗仏教)と区別して、小乗仏教と貶める使い方をすることがありましたが、この呼称は意図的な差別用語ではないかと考えられる問題点を含むことから、仏教学者はこの用語を使用しません。
大乗仏教とテラワーダ仏教(上座部仏教)との違いは、諸仏、諸菩薩の考え方に端的に表れています。テラワーダ仏教には諸仏も諸菩薩も存在しません。菩薩道(利他行の実践)という概念もありません。仏道修行の最終形は阿羅漢となることに置かれ、信仰の対象は生身の釈迦または滅後の仏舎利塔のみです。釈迦と同等の成仏を望むことは無理だからせめて阿羅漢となって悟りを得ようとする特徴を持っています。これに対し、大乗仏教の諸経典には諸仏・諸菩薩が出現して悟りを語り、「菩提心」と「菩薩行」の実践の重要性を説くという特徴があります。大乗の菩薩には、1大乗経典の編纂にかかわった釈迦滅後のブッダたちの活躍や2釈迦滅後に、釈迦の悟りの追体験を試みて禅定(瞑想)を重ねたブッダたちの修行の姿を投影しているのではないかとも考えられます。
上座部仏教の伝統的な仏教観を基準にすれば、鎌倉祖師仏教は大乗仏教といえるものではなく、仏教でさえないという評価を受けることになります。日本は大乗仏教だから、小乗仏教に批判されるいわれはない、という錯誤にまみれた反論は相手にもされません。祖師仏教(鎌倉新仏教)が、釈迦仏教の正統性を自認するテラワーダ仏教から大乗仏教と認知されることはありえないのです。祖師仏教は、大乗仏教の精神にもなじまない異質な教理を抱え込み過ぎた欠陥が多すぎることから、より一層に釈迦仏教とは隔絶した存在でしかないのです。
南伝仏教(上座部仏教)は、釈迦滅後の数百年の間に20グループに分かれて仏典の研鑽を行い「論書」(アビダルマ)を作ったことから「部派仏教」ともいわれます。その中の有力な「説一切有部」が部派仏教の集大成として編集した論書が『大毘婆沙論』です。また、これに対抗する軽量部の立場から、説一切有部の『大毘婆沙論』の教理を批判した論書が、世親(ヴァスバンドウ・4〜5世紀頃の北西インド出身の僧)が著した『阿毘達磨倶舎論』(『倶舎論』)です。アビダルマとは、ブッダの教えに対してこれを研究すること(法の研究)を意味するものですが、アビダルマ学説の代表とされているのがこの『倶舎論』という綱要書です。法に対する考え方(釈論)がこの中に全て納められているという意味で倶舎という容れ物を名付けたとされています。迷いと悟りについて詳細に論じた仏教の基本書と評価されたことから、唯識学派の学説は「大乗のアビダルマ」と称しています。『倶舎論』は、「仏教とは何か」という問いに回答を書く場合にその基準とする都合の良さが評価されていますが、今日でも伝統的な大乗仏教の系譜にある学僧(僧侶資格を持つ仏教研究の学者)によって研究されています。
『倶舎論』は、南都六宗(奈良仏教)で研鑽され、平安仏教(天台宗と真言宗)に影響を与えています。大乗仏教は、「説一切有部」の教理を批判することで、大乗仏教の優位性を主張しましたが、世親の論書を批判する勢力は育ちませんでした。後日譚になりますが、世親は兄の無着の勧めによって大乗仏教に転身して多くの大乗の論書を著作しました。その中でも唯識論の基本書となる『唯識三十頌』が大乗仏教に多大な影響を与え続けてきたと考えられます。
この論書は『解深密教』から『摂大乗論』までの多くの論書よって明かされた唯識説に欠けていた「変異」と「心所」を補足して唯識説の大綱を30頌にまとめて完成させた論書です。これを玄奘三蔵が訳した『成唯識論』によって中国に法相宗が成立し、世親が法相宗の祖師とされました。唯識三年、倶舎八年(倶舎論を8年間学び、その後に唯識を3年間学ばなければ理解できない)これが倶舎と唯識を理解する研究期間の長さの比喩ですが、頭がクシャクシャになるという比喩で使われたのです。
法相唯識に自らの価値を求めた玄奘三蔵は、密教には冷淡であったと考えられていますが、玄奘には密教経典の訳出があります。『十一面神呪心経』や『不空羂索神呪心経』という原初的な陀羅尼経典の訳出ですが、これらは変化観音に関する経典であり、攘災福徳を願う祈りに関する経典であることから、もはや新興の密教を無視できない時代にあったのであろうと考えられます。なぜなら、唐王朝の高宗と后の則天武后の頃には、阿地翟多、智通、那提、仏陀波利、迦梵達磨、菩提流志などのインド僧が入唐して多数の陀羅尼経典(神呪経典)を請来して翻訳しているからです。
大乗仏教の基本的な論理性は、般若経典群の「空の思想」(空の理論=中観論)にあります。これを262文字で見事に表現した経典が『般若心経』です。般若心経は「般若波羅蜜多」(仏の智慧)と「空」(色即是空、空即是色)の両側面から空観を説いていますが、禅宗系は「空」(一切皆空)の側面にこだわり空に終始する傾向性が見られ(空病という批判がある)、密教系には「般若波羅蜜多」という「仏の智慧」の側面から「空」を理解するという傾向性がある、という違いが考えられます。般若心経には、仏教のすべての教えが凝縮されて含まれていることから顕教と密教の双方から高い支持を受けている経典です。この経典を理解し身読すれば、仏教の本質が理解できるとする高い評価があります。また、般若心経は世界の仏教圏で多数の僧俗に日常的に読まれ続けている代表的な大乗経典ですが、大乗仏教の普遍性をわずか262文字で空の思想の本質を語る典型的な特徴をもっています。日蓮系と浄土系は、庶民を主たる対象とする布教活動をしたことから、空の思想の本質は庶民が求める宗教ではないとみなして意図的に避けてきたとも考えられます。
空観とは、この世界のすべての物事は縁起という関係性で現象するものであり、その実体は空であり無常であるという考え方です。龍樹(2〜3世紀頃の南インドバラモン出身の僧・中観派の祖)は、この空観が大乗仏教の基本的な立場であると考え、釈迦が説いた縁起の真意であると考える哲学的な理論を体系化しました。
一切の存在は縁起によって起こる。如何なる存在であろうと不滅ではありえない(無自性)。存在が本質的に無自性であれば一切の存在は空である。空の立場は、執着や対立を越えたもので、言語による表現や概念規定で捉えることができない究極的、絶対的な立場(第一義諦)である。しかし、空や縁起という言語によって真理の表現や手段を取らなければ悟りにいたることができないわけだから、それは真理の仮の表現であり、相対的な真理(世俗諦)である。存在は縁起によって生じるがその本質は空であり、仮のものであるから有でも無でもない。これを中道といい、また空・仮・中の三諦円融ともいいます。これが中観(中論)の概要です。
龍樹の空理論の特徴は縁起不生にあります。すべての存在は縁起によるものであり、縁起するものは常に生滅変化しているので実体はない。不生不滅とは、実在論を否定する概念であり、縁起しているものは自性として生じたり滅したりするものは何一つなく、そのような事物の在り方が真実である、と考えるのです。縁起を不生と捉えたところに輪廻転生(十二縁起)からの解脱の鍵があります。縁起不生であれば輪廻もまた不生なのです。ちなみに、密教僧の戒名にはこの不生が反映されて「○○○○・・・・△△不生位」という形式がとられています。
唯識論は、中観論の成立から200年後頃にでてきた大乗仏教のもう一つの基本的な思想です。中観論を意識しながら、空の思想を補足する意図をもって現れた思想と考えられます。中観論は「縁起」に重点をおき、「私たちが実在と思っているのは実在ではなく、因縁によって仮合したものに過ぎない。それを言葉で実在として捉えて表現しているところに顛倒妄想がでてくるのだ」とみます。
唯識説は、この空の思想を補完して、その現象は人が認識しているだけであり、心の外には事物的な存在はあり得ないと考えました。 唯識は、(縁起を認識する)「識」に重点を置きますが、その心も仮に存在するもので、心的な作用も無常であり空であるとみる思想です。これには、先に仮構された存在形態(遍計所執相)が認識されるが、それは「識」が他に依存する形態(依他起相)の表象に過ぎず、それを言葉が実在のごとく誤解して表現するところに顛倒妄想が生じるのだ、とみる違いがあります。唯識では、認識は個性や価値観の異なる個人の知識や経験と心によって異なる世界観を生むと考えるのです。
唯識では、前五識(眼、耳、鼻、舌、身の感覚器官)と第六識(意識)という人間がもつ意識の奥に深層の心理である「末那識」と「阿頼耶識」の働きを考えました。第七識に迷いの根元となる「末那識」(思慮識=自己中心的な煩悩の汚染の根元となるもの=自己を破滅に導く誤った認識)の働きを考え、第八識に「阿頼耶識」(根本識=経験などを潜在的に保有する蔵識=一切諸法の拠り所となるが、異熟識ともなりうるもの)という潜在的に蓄えられた種子に思考や外界の認識が薫習(記録)されると考えたのです。この阿頼耶識の中に蓄えられた種子が相互に作用し合い新たな種子を生む阿頼耶識縁起のサイクルが起こることになります。唯識は、迷える自身の心を深く究明することによって、一切諸法は心より顕現されたものであり、心の外には何も存在しないことを覚知することによって、生死の苦からで脱出できると考える思想です。
心理的な意識の構造を比べれば、中観には前五識と第六識までの言及しかなく、唯識には第七識や第八識(法相宗の立場)までの言及があり無意識の世界の深層心理の研究の深化が見られます。法相宗は、阿頼耶識が無垢になった状態を仏性(第九識と同じもの)とみるので第九識を別に立てませんが、真諦を祖とする中国の「摂論宗」が第九識「阿摩羅識」(無垢識・真如識・真識)を説きました。すべての現象は第九識(華厳宗・天台宗に継承された)から生じて隨縁生起すると捉えたのです。九識説の立場からは、第八識は「妄識・真妄和合識」と名付けています。
また、『釈摩訶衍論』が第十識説を説き密教に影響を与えましたが、密教では『大日経』が無量の心識を説き、識は諸仏と諸仏の智慧に配当しています。例えば、九識説によって転々得智を説く場合には、仏位に到達した悟りの立場から、阿摩羅識を「法界体性智」に、阿頼耶識を「大円鏡智」に、末那識を「平等性智」に、意識を「妙観察智」に、前五識を「成所作智」に配当しています。深入りすると煩雑になるので詳細は省略します。密教の章を参照して下さい。
日蓮の九識論は、信者に対する憑依性が著しく発揮されている特徴があります。例えば、それは、ウェブに公開されたフリー百科辞典・ウイキペディアに掲載中の「阿摩羅識」の解説として書かれた文章に見ることができますので、その要旨を紹介します。『日向記』には、「究竟即とは九識本覚の異名なり、九識本法の都とは法華の行者の住所なり」「此の九識法性とは如何なる所の法界を指すや。法界とは十界なり、十界即諸法なり、此の諸法の当体、本有の妙法蓮華経なり。此の重に迷う衆生のために一仏現じて分別説三するは、九識本法の都を出立するなり。さて終に本の九識に因入する。それを法華経とはいうなり」という日蓮の指導があることから、これを解説文に使っています。また、日蓮が信者の日女御前に宛てた消息文(手紙)には「此の御本尊全く余所(よそ)に求るなかれ。只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱なうる胸中の肉団の中におわしますなり。是を九識心王真如の都とは申すなり」という日蓮の法華経観を解説文として使っていますが、これらの文章にいかなる必然性があって客観的な論理性が求められる辞典に引用したのか、私には全く理解できません。九識心王真如の都とは本尊を指す表現であろうと考えられますが、日蓮の法華経の解釈の仕方は日蓮と日蓮信者にしか理解できないという難解な癖性に覆われています。
この解説文として引用された日蓮の記述は、日蓮の独特の法華経観を無条件に受け入れる熱心な信者以外には理解できないものであり、客観的な仏教の論理性が感じられないという印象があります。このような文章が一般人に理解されるとは考えられません。この筆者は、自分が受けた憑依の感動を社会の人々に伝えようとして書いたつもりでしょうが、これらの引用文は明らかに日蓮の独善的な妄想を刷り込む意図に満ちたプロパガンダであると考えられます。この解説文を書いた人物は、大乗仏教の論理性を理解しないままに日蓮の独善的な思想を受け入れ純粋培養で育て上げられた人物と考えられます。この解説文を書いた人物は、日蓮宗系の信徒もしくは創価学会員、法華講員、顕正会員(あるいは僧かも)以外には考えられません。日蓮の憑依現象に完全に支配された人物でなければ、阿摩羅識の解説には直接の関係がない文章を何らの検証もせず、自身が感動した独善的な日蓮の宗教観を解説文として挿入する必要性はありません。
この引用文は、日蓮が信者の信仰心を鷲掴みしようとする意図をもって書かれた文章であると考えられます。この文言には日蓮の独善性が凝縮されています。端的に評価すれば、「日蓮が説く法華経が最高であり、法華経以外では成仏できない。日蓮の指導する通りの信心姿勢を貫かなければ救いがないので信仰に迷ってはならない。日蓮の指導を信じなさい。」といっていることと同義であり、仏教思想が判別できない善良な庶民に日蓮思想を刷り込んで憑依する意図があると考えられるのです。日蓮の教説には、日蓮に憑依されて受け入れた者にしか理解できない非論理性や思い込みが随所にあると考えられます。
このネットに書き込まれた日蓮の引用文の本質を閲覧者が正当に理解できるとは考えられません。ゆえに、普遍性が欠落した日蓮の独善的、教条的な教義(ドグマ)の刷り込みが一方的に行われていることになります。この引用文には、日蓮の涓介な非妥協性の性格や独善性、非協調性、攻撃性、情熱性が読者に刷り込まれる高い危険性が認められます。非難に値する手法だと考えられます。
本論に戻ります。中論に無かった修行法が唯識に明示されたことで、瑜伽行唯識派が成立しました。中観と唯識が融合したこの瑜伽行唯識派は、瑜伽行(ヨーガの実践=瞑想)によって心の在り方(意識)をコントロールし変化させて悟り(唯識無境)を得ようとするものです。唯識説は、迷いの世界と悟りの世界を心の転換というかたちで捉えて理論的に説明するものでしたが、心の転換がどのようにすれば可能であるかという課題に対し、心で認識するだけでなく禅定(瑜伽行)によって体得することにより唯識に入ることを目指したのです。真如は不変であるのに、その見方において迷悟が生じるのであるから、意識を制御すれば(悟れば)対象はありのままにその真実が見えると考えたのです。これは『般若心経』の「色即是空」を「空即是色」といいかえる表現と軌を一にするものと考えることができます。空海が、その最晩年の著作である『般若心経秘鍵』において「迷語我れに在れば 発心すれば即ち到る」と書いていますが、これと同義であろうと考えられます。
唯識は「法相宗」を生み、またその論理性は『華厳経』に包摂され「華厳宗」を生み、大乗仏教の到達点となる密教(瑜伽行唯識派)に大きな影響を与えましたが、密教は菩提心と菩薩行の修行を前提とする三密瑜伽行による即身成仏思想を語っています。
法相宗の唯識の論理性から導かれる「五姓各別」(声聞定姓・独覚定姓・菩薩定姓・不定種姓・無姓有情姓)の立場からみれば、成仏は個人の資質や能力の影響を受けるものであると考えますが、これは凡夫に主眼を置き現実の娑婆世界に軸足を置いて不完全な自分自身を凝視する立場を重要視するものであり、仏の境涯から一切衆生悉有仏性を語る理想論の立ち場とは異なるものです。理想論を持ち出して批判する内容ではありません。この点に注意が必要です。
この中の無姓有情姓には、非情世界の草木、瓦礫には自ら発心(発菩提心)して修行をする資質が欠落していると考える特徴があります。個人の資質や能力にとらわれない立場の『法華経』が主張する一乗思想の「一切皆成仏」や「如来蔵思想」、『大般涅槃経』が説く「一切衆生悉有仏性」などの各説は、大乗『涅槃経』の「自性清浄心」思想の影響を受けて成仏思想を質的に転換し『法華経』を再編集したことが考えられています。『法華経』が鼻高になり、諸経を見下す品性に欠ける文言を経典に加上したことが見えるのです。
「五姓各別」の立場では、一乗思想は、人間の本質は清浄無垢であり清浄な菩提心を具えているが煩悩に汚染されているだけだと見る「自性清浄心」や「本覚思想」と軌を一にする説であり、個々の人間の資質や能力、努力や向上心の有無など具体的・現実的な実態や個人のポテンシャルを無視して「あるべき論」で覆い隠した思想であると考えるのです。ゆえに、その実体は方便であり、衆生と仏は同質性があるということばは、仏がいうことばであって、仏の慈悲のことばにすぎないと考えられ、実際には個人の素質や能力を無視した成仏論はありえないという現実論が見えます。また、常に成仏論の問題となる「草木成仏」については、草木に「自から発心して修行ができる資質を認めるか否か」という論議が必要なことから、各宗の考え方に大きな違いがでています。
大乗仏教思想の中に現れる法相の唯識と『法華経』の一切皆成仏思想の立ち位置の違いからくる成仏観の違いは、現実問題としては簡単に克服できるものではないと考えられます。一般的には、成仏の無差別観を主張する法華経の説が受け入れられやすいと考えられます。しかし、現実的には、この一事をもって両思想の根本的な優劣を語ることはできないと考えられます。
天台の一念三千論は、『法華経』方便品を意訳した鳩摩羅什が諸法の十如是を語り、諸法の十如実相の仮説を立て、これを天台智が諸法の十界互具に言及したことから、これを奇貨とした妙楽がこの理を天台宗の極理とする教理を育て、方便品の十如是の関係性から十界互具を導き、観念的な法数によって百界千如を考案し、三世間に普遍する一念の真理としました。しかし、人の一念の中に無限大を意味する三千世界という観念的な心の様相の世界観を説く解釈論をもって、諸法の実相を疑いないまでに指し示す論理性があるとは考えられないのです。仮説の上に仮説をのせて仮説の世界観を示した観念的な抽象論ではないかと考えられるのです。これについては「序章2、(18)天台宗、(13)−2、の章」を参照願います。
法華経には、一切皆成仏を疑い無いまでに納得させる具体的な論理性や修行内容が明らかにされていないところから、単なる観念的な解釈論が先行しているに過ぎないとする批判があるのです。これに対して、法華経がこれらの疑念を根底から払拭できる具体的な反論が決定的にできているとは考えられません。しかし、「五姓各別」説にみられる各別の決定付けには、大乗思想が説く空観・無自性説に適合しない過失を抱え込んでいるとする批判があります。これが顕教の限界を示すものであろうと考えられるのです。
「如来蔵思想」などにみられる衆生と仏を同一視する価値観の捉え方には注意が必要と考えられます。如来の力、如来の慈悲を強調すれば、如来の絶対性と帰依の必要性が強調されます。ここに如来の教えを疑いなく信じることで「信」の仏教が完成して成仏できると短絡的に考える「信」の誤謬性が浮上する危険性があるのです。ゆえに信仰を正しく導く良師の存在が不可欠となるのです。信は修行するために不可欠な要素ですが、それのみで仏道修行を完成させる必要十分な要素とはいえないのです。「信」は中国仏教に特徴的に現れた『阿弥陀経』の浄土信仰や法華経の一乗思想によって強調されてきましたが、インド仏教の主流は「信」に絶対性を置く仏教ではありませんでした。インド仏教の主流は信によって仏の慈悲の救済を求めることではなく、出家修行者が悟りを求めて行う実践修行としての「行」の仏教でした。日本仏教の一部には、中国仏教が信を特化した影響力を必要以上に受け入れた宗派があり、その結果、鎌倉新仏教(祖師仏教)が登場して、行よりは信、悟りよりは慈悲を求める風潮が強調される欠陥を抱え込んだと考えられるのです。
釈迦仏教の伝統的な成仏観は「自ら発心修行すること」を前提として悟り(成仏)を求めることが基準と考えられてきました。ゆえに、有情世界の人間であってもその資質の違いによって成仏の差別観が見られましたが、非情世界の草木の成仏について差別観が生まれるのは当然のことと考えられたのです。
大乗仏教の立場でも、法相宗は、諸法は唯心の現ずる所として、色心の種子の違いを論じ、草木が発心修行をすることを認めず、三論宗も、草木等は自ら心無く成仏はあり得ないとします。華厳宗の法蔵は、非情の草木の成仏を認めず、澄観は仏性を開顕することができるのは有情のみとして草木の成仏を否認しました。天台宗は、諸法実相である真如は万法に普遍するという視点から草木成仏の義を立てますが、草木成仏の自発心修行までには論理性が及んでいないと考えられます。
鎮護国家の護国思想によって為政者から絶大な信奉を受けた密教経典『金光明最勝王経』の「分別三身品」には、法身、応身、化身の三身のうち法身のみを真実有の仏身とし、応・化の二身は法身によって顕現する仮名有の仏身であると明示しています。密教の教主・大日如来(「大毘盧遮那仏」の意訳)、『華厳経』では「慮遮那仏」という)は、大悲胎蔵生マンダラ(414尊の集合体)と金剛界マンダラ(1461尊の集合体)の中尊(中心の本尊=根本仏)ですが、この両部マンダラは統一的仏身観(統一的仏陀観)の思想を持ち、諸仏・諸菩薩・明王・天部など一切の諸尊を包摂し、密教的に純化してそれぞれの特性と働きに応じた最適な各所定区画に再配置するパンテオンの構図を持っています。大乗仏教(顕教)では法身は理仏・無説法の仏であり、説法する仏は報身仏とする見方がありますが、真言密教では、法身は宇宙森羅万象の実在の当体であり、その「体」は六大法身(地・水・火・風・空の五大と識大)、その「相」は四曼(大・三眛耶・法・羯磨の四種マンダラ)、その「用」は三密(身・語・意)の実在であり、人格的法身であり説法がある、という仏身観を持ちます。見方を変えれば、大日如来は諸仏諸菩薩等を出生する本源の法身如来であり、諸仏諸菩薩等が成仏する根本の法身如来(自性法身=本地法身)であるとする思想です。
密教の「即身成仏」思想は、非情・無情にみえる草木さえも成仏できるとする特徴的な思想です。空海が六大体大説(六大縁起説)を確立し、阿字大体説に具体的な論証を補完する即身成仏の理論体系を確立したのです。しかし、空海以降に様々な諸説が芽吹き、諸説が発生したことから、真言密教の教理の中興の祖とされる宥快(高野山教学の大成者・1345-1416)が『宗義決択集』を著して教理上の諸問題に見られた即身成仏等の諸説を総括して相伝の論議に決択(結論)をつけたのです。その要点は、有情・非情ともに縁起によって生ずる六大所生であり、法身微細の身も五大所成、虚空も亦五大所成であり、草木も五大所成であるから一切諸法は地・水・火・風・空の五大と識大の六大から生じるものであり、草木等一切所もまた遍満する法身であるとする解釈です。宥快は、非情の草木も心識という識大を具有するので自ら発心修行ができると主張したのですが、成仏論の本質は、顕教の論理的な限界を乗り越える真言密教の「六大(縁起)説」で円満に解決できるのではないかと考えられます。
現代人は、教育の恩恵を受ける機会に恵まれて継続的な学校教育を受けてきたことから、生物に関する科学知識を持つことが出来ました。今日の普遍的な科学知識をもってすれば、草木にも生命活動の営みがあり、厳然と種の保存活動が行われている事実が簡単に認識できます。草木も様々な環境の中で瓦礫とは明らかにことなる種の保存活動を行い、春夏秋冬の環境に適合する生き方をしているという認識がもてるのです。草木の生存活動には、疑いなく「識」の活動が認められることから、草木に心識を認める空海の「六大縁起説」は、単なる観念論ではなく、科学的な論証としての適格性があると考えられるのです。
念仏信者の『無量寿経』、法華信者の『法華経』などにかぎらずほとんどの大乗経典は、大乗の諸菩薩が釈迦の説法と精神を受け止めているという前提に立った上で、最新の大乗の諸論書の説得力のある哲学的、論理的な成果を取り入れて加上し完成されています。その意図は、最新の研究成果の視点を追加することにより、宗派の対立において優位に立つ意図を持って、自宗の信奉する教典が他宗の教典より優れているという教相判釈(教判)を示すことにありました。
インド仏教が中央アジアを経由して伝わり、中国において漢訳され始めたのは2世紀頃でした。大乗教典の漢訳は、2世紀から13世紀まで千年を超える歴史の流れが俯瞰できます。翻訳者は、200人を超えますが、代表な大家といわれる翻訳者は、鳩摩羅什(344-413)、インド婆羅門出身。主な訳出教典は『般若経』『維摩経』『法華経』等。論書の訳出は『中論』『十二門論』『百論』『大智度論』『十住毘婆沙論』など、信仰実践を中心とする仏教の真意を述べています。
真諦(499-569)、インド婆羅門出身。『金光明経』等の経典の訳出。『倶舎釈論』『摂大乗論』『大乗起信論』などの論書など64部278巻の訳出があります。
玄奘三蔵(602-664)、中国人。『大般若経』等75部1335巻の訳出。『唯識三十頌』『成唯識論』の翻訳。瑜伽唯識の根本聖典とされる『十七地論』(『瑜伽師地論』の前半「本地文」に相当するもの。また『大唐西域記』があります。
不空三蔵(705-774)、インドのサンスクリット語と漢語に精通した翻訳家であるとともに密教僧でもあります。金剛頂経系統の密教を金剛智三蔵に学び、自らインドに行き500部の経論を中国に招来して多数の密教経典を翻訳しています。真言宗付法の第6祖。その直弟子が第7祖恵菓、恵菓の直弟子が第八祖空海です。
この4人が四大翻訳家といわれていますが、漢訳の事業は、実は困難を極めました。インド語と中国語はまったく異なる別系統の言語であること、また、インド思想文化と中国思想文化の違いは決定的でした。インド仏教思想に基づく言語を正しく受け止める中国語の適切な言葉に翻訳することは簡単にはできません。玄奘までの翻訳を旧訳といい、玄奘以後を新訳というのはこのような事情があるからです。中国語を自在に使いこなせる訳経僧の出現を待たねばならなかったのです。
6世紀頃までに初期密教の教典が編纂され、6世紀から7世紀に中期密教の中国密教と日本密教(中期密教)の『大日経』『金剛頂経』等が最新の大乗仏教の英知を結集してインドで編纂され、また、13世紀までにインド密教の成果が後期密教の経典として登場し、そのままチベット密教に継承されています。密教経典の特徴は、教相(教理)と事相(修行・実践)を両輪の密接不離とするあるべき姿が説かれていることです。インドでは、8世紀後半頃にはイスラム教徒が侵入しはじめ、13世紀にナーランダ寺院(大学)がイスラムに破壊されたことから、仏教は衰退しヒンズー教に吸収されていきます。不思議なことに、インド人は、ヒンズー教と仏教の違いに違和感を持たないのです。仏教は、古代からあるインドの宗教として問題なく吸収されていったのです。
大乗仏教は、釈迦の瞑想を追体験した大乗の諸菩薩たちの成果を釈迦仏教の精神を受け継ぐ立場で編纂された論理的、哲学的な要素が表面化している特徴を持っています。大乗の諸経典は、悟りに至る方法をそれぞれの立場で試みた教えであり、万人の成仏を具体的に保証するものではありません。教えを修行し、実践することによって成仏(悟り)の可能性を語っているだけです。経典を信じただけで成仏を保証するものではなく、念仏や題目によって成仏を保証するものではありません。
大乗経典は諸仏と諸菩薩が悟りの“きずき”についてさまざまな法話を交わしていますが、これらが編集されて主題ごとにまとめられたものが、様々な仏教経典として成立したのです。これらの有難い説法の教主を信仰する形態が大乗仏教の信仰姿勢になったものと考えられます。
仏教の信仰上の特徴は、三宝(仏・法・僧)への帰依を表すものであり、三宝が帰依・礼拝の対象とされます。例えば、報身仏「阿弥陀如来、薬師如来」などの諸仏への称名、法身仏「大毘盧遮那仏=大日如来(森羅万象の当体)」への称名、応身仏「釈迦如来」への称名はこの一体の三宝を表明する儀礼と考えられます。しかし、仏教の帰依・礼拝の対象は、教理的には仏・法・僧は究極的に一つの価値に帰着すると考えることが根本的な建前であり、その究極的な価値は「法」にあります。法を「仏の教え」とする立場では、価値の根元は仏にあるとしても、仏とは「真理を悟った者」であるから、「悟られた真理」(所証の法)は絶対であるとみることになります。絶対的な法は、仏が出現するしないにかかわらず、永遠不変の真理として認識されることから、「悟られた真理」こそ「教えられた真理」(所説の法)の根元(真如、法界)であると考えられます。また、僧は「真理を悟ることを目的とする修行者」、「専門の教導職の者」であることから、仏・法・僧の三者は法を媒介として一体(一体の三宝)となるのですが、仏像とはこのような理念が投影されて形成されたものであると考えられます。
この一体の三宝が、釈迦滅後の大乗仏教に帰依・礼拝の対象となる仏像として象徴的に現れました。釈迦(教主)入滅によって、仏の概念は弟子たちの記憶の中で次第に変化し、「ブッダとは何か」という究明が大きな課題となりましたが、このなかで法=真理とする考え方が成立して諸仏が形成される機縁となりました。釈迦仏教の継承者を自認するプライドの高い上座部を批判して登場した大乗仏教は、仏の真理を悟ったという事実を重視して、「真理と一体になった者」(如来)の存在を認め、ここに仏=法という存在者の絶対性を求めて、仏の「法身」という根本理念を形成したのです。大乗仏教の宗教性は、真理と一つになる、絶対との合一を標榜することに於いて、キリスト教やイスラム教とは際立った違いを示す特徴があります。
三宝は、仏像という視覚的な特徴を付加されて表現されました。帰依・礼拝の対象に具体性を付与することで信仰儀礼の在り方の形式が整えられたと考えられます。信仰の対象は教主(仏=仏像)であり、仏の教説を布教する菩薩、布教する者や教説に従う信者を守護する明王です。経典そのものを本尊とする形式(「南無妙法蓮華経」)は日本にしかない特殊形であり、海外の仏教国から奇異の目で見られている大きな違和感があります。教主(仏)への帰依が仏の称名という形態で表され、称名は、「南無○○仏」(○○仏に帰依いたします)という形態で表されたと考えられます。  
台密(天台宗)と東密(真言宗)の違い

 

鎌倉新仏教(祖師仏教)は、比叡山の諸宗兼修の向上心の中から芽吹きました。天台教学は、『中論』、『大智度論』による一心三観(一切の実体には存在が無い「空観」、それらは仮に現象しいる「仮観」だけで、本来は一つである「中観」)という止観道を宗旨とする『摩訶止観』の影響下にあります。止観は「止」と「観」という如実知見の瞑想法ですが、精神の集中によって心を安定させ、真実をありのままに観る知恵を獲得する瞑想法です。
天台の教理は、天台宗が極理とする「一念三千論」と「一心三観」、『摩訶止観』の「止」と「観」は矛盾のない論理的な整合性があると考えられています。「一念三千論」は心に極小から極大の相即した統一的宇宙観を諸法の実相として観想する天台の極理とされているものです。天台が極理とする一念三千論の出所は、『法華経』の「方便品」の十如是(「所謂諸法・如是相・如是性・如是體・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等」)にあります。しかし、この十如是は鳩摩羅什・訳の『妙法蓮華経』にしか書かれていないことから、鳩摩羅什が訳出した法華経の原典がどのようなプロセスをたどって編纂された経典であったかが問題になるのですが、サンスクリット原典が存在しないことから確認できません。現存する他の法華経の内容と比較すれば、鳩摩羅什が翻訳した法華経は何度も再編集された経典ではなかったかという疑いがあり、結果論からいえば鳩摩羅什の意訳によるものであろうと考えられるのです。
法華経の漢訳は部分訳・異本を含め16種が伝わっていますが、サンスクリット原典の漢訳は「六訳三存三欠」といわれ、1『正法華経』10巻27品・竺法護・訳(286年)、2『妙法蓮華経』8巻28品・鳩摩羅什・訳(406年)、3『添品妙法蓮華経』7巻27品・闍那崛多と達磨笈多・共訳(601年)の3種が現存しています。鳩摩羅什・訳が人気を集めたのは流麗な文書で名訳であったからですが、中国天台宗が鳩摩羅什・訳を採用したこと最澄の比叡山にそのまま移植され根付いたことによって、日本仏教に多大な影響を及ぼしてきたのではないかと考えられます。
法華経はアジア各地に伝播しましたが、法華経を立宗の根本経典としたのは中国天台宗とそのコピーである日本の天台宗(比叡山)及び日蓮宗系のみです。アジア地域では法華経が思想として学ばれたのだと考えられます。なお、法華経の開経に『無量寿経』を、結経に『観普賢菩薩行法経』を位置付けて「法華三部経」とすることが天台宗と日蓮宗系の法華経観ですが、『無量寿経』と『観普賢菩薩行法経』は法華経を讃嘆するために中国で作られた偽経と考えられます。詳細は「(33)-1日蓮仏教の研究1(法華経を知る)」を参照願います。
「一心三観」は空・仮・中の三諦を観ずることで十界互具を導き出す観想です。『摩訶止観』は、三種止観(円頓・漸次・不定)と四種三昧(常行・常座・半行・非行)の円頓止観の解説書といわれるものです。これらの瞑想の仕方は天台宗の儀軌に基づく伝授がなければできないことですが、これらを同時に観想する瞑想法が円満に決定できる場合に得られる境地(智慧・悟り)はどのようなものであろうか?。瞑想内容が豊富すぎて瞑想の集中が散漫にならないのであろうか?という疑問が感じられます。瞑想は時間と空間を超越するので無用な心配であろうとも考えられますが、台密と東密の瞑想法があまりに違い過ぎることから、比叡山の瞑想法は摩訶止観のみで、密教の瞑想法が伝わらなかったのか?などという疑問が残ります。詳細は(18)の「天台宗の章」を参照して下さい。
最澄の立宗開創の基本的な立場は、円・密・戒・禅の兼修にあったと考えられています。この諸宗兼修には、長所と短所が同時に含まれています。実は、最澄には密教と天台法華との関係性について論理的に記述した著作が全くないのです。最澄の弟子たちは天台法華と密教との論理的な整合性を作り上げることに相当な努力をしなければならなかったと考えられます。どの経典を中核として諸教論を統括させるのかという中核の専門性を見失えば、統御できない百花繚乱のお花畑(雑多な説が芽吹き教理の統一性を失うこと)になってしまう危険性が潜在していると考えられるのです。
法華経は論理的に記述された経典ではありませんが、自意識の強い個性的な特色をもっています(序章5参照)。この上に、四宗(円・密・戒・禅)兼修をするのですから各人が各様に興味を持ったさまざまな教理を持ち出して衆論を形成する無秩序の場が形成される危険性を制御することは困難です(序章3参照)。また、密教については最澄の論理的な意思が見えないことから、最澄の意思を忖度するほかなく、各人が考える異論反論を制御できない無秩序な修道システムが形成されてしまう危険性が考えられるのです。事実、不満を持った鎌倉新仏教の祖師となる僧たちが本山から勝手に下山して、厳格であるべき宗論と異なる(各人の胸に芽生えた)異説を布教したのは比叡山で学んだ僧だけでした(序章5参照)。
比叡山に、円仁が中国・五台山竹林寺から持ち帰った念仏は、天台・摩訶止観の四種三昧に説かれた常行三昧の「観想念仏行」(念仏禅)という瞑想法でした。円仁は比叡山に常行三昧堂を造り修行道場としたのですが、しかし、源信⇒法然⇒親鸞の流れの中で、善導、道綽の念仏観が移植されて法然の専修念仏、親鸞の称名念仏が生まれて育て上げられる流れが発生したのです。
専修念仏と称名念仏の萌芽は、比叡山で突然変異を起こして生まれたものでした。 専修念仏と称名念仏は、比叡山の中から最澄・円仁の四種三昧を感得するための常行三昧の修行を否定して出てきた突然変異の新種の易行念仏であり、これは明らかに最澄が定めた比叡山の本旨とは考えられません。
比叡山の四宗(円・密・戒・禅)兼修の修道システムは、最澄の理想を見失ってお花畑に変貌していたと考えられます。どうみても、自由な学風?とは考えられず、比叡山は仏教の総合アカデミー、諸宗の母山といえるものではなく、当時の比叡山に最澄の法灯を護る秩序が保たれていたとは考えられないのです。
念仏の声は高野山にも響き渡りました。高野山を慕って周辺の谷間に住み着いた人々や、高野山の衣の下に庇護を求めて住ついた人々が持ち込んだのです。この人々の中には高野山の下役を務めたり、勧進聖(高野聖)となって全国を行脚して浄財を募った人々が出ましたが、高野山の作務や庶務ばかりでなく財務まで貢献したことから一大勢力を形成したのです。
平安末期の高野山には、學侶、行人、聖の三階級が発生しました。學侶とは学問・法会を主体とする僧侶です。行人とは諸堂の建立、寺領・荘園の管理をする僧をいいます。聖(高野聖)は行人から派生した人や他宗の寺院、霊場から高野山を慕って集まってきた人たちで構成されていましたが、念仏と勧進を行い、高野山への納骨を勧め、高野山の経済を底辺で支えた人たちです。行人、聖たちは厳しい山岳修行を行い、雑密(密教の断片、呪法)を行う(また、法華経と禅、陰陽道を取り入れ)修験道を行っていました。高野聖集団は11世紀初頭に成立したと考えられます。その活動範囲は一般庶民にとどまらず、貴族や皇族にまで及び全国的に知らしめる存在でした。全国で呪術や宗教的なパフオーマンスを行い、募財を募り高野山に納めましたがその一部を自らの収入としていました。
行人の原型は、空海が高野山を真言宗の根本道場に定めた以前から高野山周辺に住んでいた「山人」、狩人と呼ばれた原始修験者たちでした。高野山内では諸寺院の建造物の維持管理等を主たる役務としましたが、戦国期には僧兵を組織し、修験の回峰行の主体となった人々でした。空海は彼らが祭っていた祖先の「狩場明神」をそのまま融和と共生のシンボルとして高野山に祀りましが、行人は高野山の堂塔伽藍の建立を率先して手助けした人々でもありました。修験道の立場からみれば、密教を違和感なく理解できたことから快く受け入れることができたのではないかと考えられます。高野山の神仏混交の祭司形態のあり方を自然に受け入れたのです。ちなみに、明治以前は神仏混淆の祭司は、日本人が違和感をもたない祭司のあり方でした。神仏混淆の祭司形態は、鎌倉新仏教とりわけ日蓮宗系の一部宗派を除けば、日本民族が古代より伝統的に習合してきた宗教観に寄り添い千年以上にわたり営んできた日本特有の宗教観と考えられます。
「行人方」は、諸堂の建造と管理、所領・荘園の管理を通じて徐々に既得権益を握り、宗務に介入する力を持って学侶方の領域を徐々に侵食し数百年間も勢力を維持し続けたたことから、高野山の重大な悩ましい問題になったのです。高野山がこの問題を解決できたのは、室町時代の高野山教学の大成者である宝性院宥快(1345-1416・宝門派/藤原冬嗣の子孫)と無量寿院長覚(1340-1416・寿門派)の「応永大成」といわれる最盛期を待たねばなりませんでした。密教教学の確立によって、高野山の主導権を學侶方が名実ともに掌握する機運が醸成されていったのです。
密教と古来の修験道とは相互に関係性が見えます。平安末頃には羽黒山や九州の英彦山、富士山、白山など各地の霊山が修行道場として知られるようになっていましたが、とりわけ抜きんでいた存在が熊野です。吉野、大峯、熊野に至る大峯山が修験の根本道場として仰がれていました。比叡山・天台宗の修験道本山派(現・園城寺派)と真言宗系の修験道当山派(醍醐寺派)の二派が大峯山での修験組織を構成していました。高野山金剛峯寺が1326年に大峯先達に加わり、高野山麓の天野社(丹生津姫神社)から葛城山中に入り、吉野、大峯、熊野の山々を巡り、葛城の峯々にある四十九院を巡礼し修行する「入峯(にゅうぶ)」を行っていました。しかし、1336年を最後に金剛峯寺の僧侶(學侶)の入峯は行われなくなり、行人たちが独自に続けていました。比叡山には千日回峰行(修験)が現在まで伝承されています。
弘法大師の入定留身説は、968年(空海滅後133年目)に『金剛峯寺建立修行縁起』が著され「弘法大師は今も生きていて我々を救ってくださっている(この文言を考えた人は覚鑁上人)」という信仰によって流布されましたが、念仏別所の高野聖たちが勧進の材料として全国に広めたと考えられます。しかし、彼らは高野山の山内に別所という庵を多数作り真言密教と異なる浄土信仰、念仏信仰をしていたことから學侶方から疎まれる存在となっていくのです。聖は妻帯し半僧半俗で呪法を行い高野山の台所を支える階級であったことから蔑まされました。江戸時代には、家康が先代(時宗の聖)の縁から高野山蓮花院の念仏別所の勧進に応じ、蓮花院に大徳院という院号を与え壇縁関係を結んだことから時宗系が勢力を増したのです。高野聖たちの念仏は1274年に時宗の一遍が高野山に来山したことを契機としてすべて時宗化していました。しかし、その信仰のあり方が山内の怒りをかい、真言宗の行人方に転派をさせられたことから、高野聖は結束力が弱まっていきます。徳川時代になると、身分制度が固められ、遊芸者や勧進僧など廻国者の取り締まりが厳しくなり、全国を廻っていた聖たちは、その土地の村落にあった小堂や小庵に定着していき、今日の真言宗の地方寺院が誕生して、初めて地方で先祖供養や祈祷ができるようになったのです。
明治維新政府は、仏教が政治に深く関与した弊害を改め、また天皇の権威を高める国家神道の育成を意図して神仏分離令を施行しましたが、一部に廃仏毀釈が起こり仏教界は大打撃を受けました。このとき、古来の山岳信仰と仏教、陰陽道を習合していた修験道も禁止処分になりました。地方の修験道の拠点は、親和性のある真言宗の地方寺院へ看板の付け替えを切に望んだものと考えられます。その主な受け入れ先が新興の智山派と豊山派に集中しましたが、江戸幕府が制度化した寺檀制度の恩恵が受けられる正式な寺院認可を受ける瀬戸際にあったことが考えられます。しかしながら、伝法灌頂(阿闍梨位)を受けていない(血脈のない)無資格者を寺院住職として迎え入れたことにより、真言宗にない雑多な法式が任意に持ち込まれることになり悩ましい問題点が発生しました。新規参入寺院が真言宗に看板替えをしたからといって、長年にわたり慣れ親しんだ儀礼・作法等を直ちに改め、真言宗の伝統的な法式・作法を身につけることには悩ましい問題点が考えられます。慣れ親しんだ雑多な様式が今日まで淘汰されることなく、むしろ根付いて拡散している傾向性さえある地方があることが知られてますから。
1868年(明治元年)には學侶、行人、聖の三派は廃止されました。高野山は自治制を失い寺領は国に返還されました。女人禁制が政府の命令で徐々に解かれましたが、高野山に存在を失った高野聖たちは地方寺院に入り込み、看板の付け替えをして活路を開いていったことが考えられています。
天台密教は、密教の教理解釈の相違が埋まらず武力衝突を繰り返し、山門派(比叡山ー円仁系)と寺門派(園城寺ー円珍系)に分裂しました。真言密教(東密)は教義の解釈の相違により高野山から覚鑁(1095-1143)ー頼瑜(1226-1304)の系譜が根来を根拠地とする「新義派」として独立しました。
根来派の離脱の原因は、鳥羽院の庇護を受けた覚鑁が1132年に高野山に大伝法院と密厳院を落成させ、院宣により金剛峯寺の座主についたことから、金剛峯寺、東寺、醍醐寺の反発を招くことになります。覚鑁は座主を引退するまでに追い込まれたのですが収まらず、1140年に金剛峯寺方が武力を行使して襲撃し、大伝法院方の80余坊を破壊、600余僧を追放する事件が発生しました。覚鑁は根来(葛城修験系の地)に難を避けその地に大伝法院方を移したのですが、覚鑁の滅後、高野山と和議が成立し大伝法院方が高野山に戻りました。しかし金剛峯寺方と大伝法院方の対立と騒擾が頻発して終息せず融和が不可能なことから、1288年に学頭の頼瑜が大伝法院方を再び根来に移転させたことにより根来に分派が固定化しました。ここに根来寺・大伝法院を本拠とする新義派の基盤が成立したのです。空海滅後450年前後のことでした。根来寺は、南北朝以降に醍醐寺の末寺となり、独自の発展を遂げる契機にしましたが、次第に自立に向かい15〜16世紀頃には高野山に対抗できるまでに勢力を拡大した教団になりました。
根来寺は、戦国時代末期に豊臣秀吉の命令に従わず1585年に焼き討ちを受けて壊滅する悲運にあいました。一時は高野山に難を逃れていましたが、居心地は良くなかったと思います。努力の甲斐があって、大和大納言・豊臣秀長(秀吉の実弟)の庇護を受けて豊山派(奈良・総本山長谷寺、派祖は専誉)が成立し、また、徳川家康の庇護を受けた智山派(京都・総本山智積院、派祖は根来の元大伝法院学頭であった玄宥)が成立しました。なお、根来寺は慶長年間に浅野氏によって同所(現・和歌山県岩出市)に新義真言宗総本山根来寺として再興されています。
1646年の調査では、高野山の全僧坊数は1865ですが、内訳は學侶方210、行人方1440、聖方120です。行人方の坊が圧倒的に多いです。しかし、1692年の「元禄の聖断」と呼ばれる裁判により、幕命に従わない行人627人が流刑となり、280の行人方の坊は寺院法度により學侶方に組み込まれていきました。
平安末期から有力武士が武力を背景に台頭し、天皇・朝廷・大貴族・大寺社など既得権益を享受してきた既存勢力が衰退期に入りました。鎌倉幕府が成立し武家政権が誕生すると、旧勢力の繁栄や財政を支えてきた各地の荘園が武士に簒奪され、経済的な窮乏に陥ったのです。比叡山、高野山をはじめ有力寺院も次々に荘園を簒奪されたことで財政基盤を喪失して衰退期を迎えました。朝廷の秩序維持の機能が喪失して、権威のある後ろ盾が期待できない状態に置かれたのです。比叡山は衰退期にあり、この中から末法思想が噴出して各地に蔓延する時代の背景と活躍舞台とが出揃ったと考えられます。
衰退期の比叡山が仏教アカデミーや各宗の母山である要素は考えられません。新興宗教の祖師達の登場は、比叡山が衰退期にあった証拠と考えられます。禅宗は、新たに勃興した鎌倉幕府・守護・地頭の有力武士層の支持を受けて繁栄を享受する僥倖に恵まれました。視点を変えれば、禅宗は中国文化を背景にする独特な宗教観をタイムリーに提供できる千載一遇のチャンスに恵まれたと考えられます。禅宗は、武士の胸裏に鬱積をしていたであろう武力による政権転覆の負い目を解放する新たな精神文化を提供する幸運を掴むことができたのです。律令体制が崩壊し、斜陽を迎えた京都の貴族文化に対抗できる禅文化を新たな権力者・武士に受け入れさせる幸運を掴んだのです。顕密仏教(奈良・平安仏教)の衰退と禅宗の勃興は、権力構造の変化に伴う表裏一体の出来事であったと考えられます。
最澄の仏教観は、法華円教と密教を同等に評価する立場でした。しかし、最澄の弱点は、大乗仏教の到達点に体系的な思想をもって現れた密教の修行経験がないこと、その本質を体系的に学んでいなかったことから、空海に弟子入りして師事せざるを得なかったことにありました。最澄の入唐修学の目的は天台山に於いて天台智の法統を受法することでした。しかし、帰朝後の最澄に天皇、藤原氏、朝廷が求めたのは最新の密教でした。桓武天皇は皇位を簒奪するために陥れて死に追いやった早良親王の怨霊を恐れて聖体不余(ノイローゼ)に陥っていたのです。桓武は怨霊が跋扈する都を打ち捨てて逃れる遷都を繰り返しましたが、その効果が得られず怨霊に悩まされ続けたことで切実な怨霊退散を願っていたのです。最澄はこの要望に応えることができないジレンマに陥ったと考えられます。(20-3空海の「入唐求法」とは、を参照)
最澄は、空海が密教の最新性や重要性に気付いて密教を求めて入唐修学を志した真意を知らなかったのです。 最澄は入唐以前に西大寺の得清が請来した『大日経疏』(あるいは『義釈』か)を書写して閲覧していた形跡が伝わっていることから、最澄は入唐以前に密教に多大の関心を寄せていたことが考えらえます。しかし、最澄の重大関心事は天台智の法華三大部(『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』)の請来であり、密教の奥義を求めて入唐したわけではありませんでした。最澄が帰国途中に越州・竜興寺の順曉から一行系の密教を受法したことを奇貨として、天台密教の決定的な機縁にしたのではないかと考えられるのです。
最澄の密教形成の決定的な機縁は、帰国間際に順暁がから学んだ一行の『大日経義釈』による円密一致思想の影響であると考えられます。 しかも、最澄が密教の最新性と重要性に気付いたのは、天台山を出発して帰国途上の紹興で帰路の遣唐使節団の船を待っている1ヶ月の間でした。越州・竜興寺に順暁が存在していることを知り、順暁から密教を受法することを思いついて懇請し運よく胎蔵系の密教の受法を許されたのですが、最澄は密教受法の為の基本的な密教修行を身に付けないままに受法したと考えられます。遣唐使に随行した最澄の国家派遣の環学生としてのステータスが認められて特別に許可されたのではないかと考えられます。
しかし、最澄が受法した密教は体系的な密教ではありませんでした。最澄の受法は、帰国船の待ち時間が長いからついでに密教も持ち帰ろう、このような動機であったと考えられます。最澄は帰国直後に、怨霊に悩まされ続けた桓武天皇から最新の仏教である密教の加持祈祷(護摩)を期待され、朝廷の期待と要望を聞かされて密教の最新性と重要性に気付いたのではないかと考えられるのです。最澄は困惑し、期待に応えられないジレンマに陥ったと考えられます。
そこで最澄は空海に書簡を送って密教の経倫儀軌を借覧して密教の学修に取り組む決意した結果、プライドを捨てて空海に弟子入りしたのではないかと考えられるのです。詳細は「20−1空海と最澄ーその履歴」を参照して下さい。
最澄は、比叡山の僧の修行を遮那(密教)と止観(法華)の二業と定めたのですが、最澄亡き後の比叡山では東密に対する劣等感から異常な関心が高まったと考えられます。台密の後継者たちが胸中に抱いた本来的な「あるべき論」は、東密(空海密教)に見劣りしている台密の有り様を本質的に変革することであり、その最大の懸案は中国密教を請来して東密に対抗できる勢力を育成すること、東密に対する劣等感を払拭することにあったと考えられます。
ゆえに、台密の再構築によって東密と比肩できる天台宗教団の再生をすることが急務の課題になったものと考えられ、この流れの中に傑出した人材となる円仁、円珍、安然などが輩出されたと考えられます。なお、台密は最澄が創始した密教ではなく、事実上の台密の創始者は円仁です。円仁・円珍が台密を順次に比叡山に移植して育成し、空海の東密に対抗心を燃やしたのです。
最澄が求めることができなかった体系的な密教が、数々の艱難辛苦を乗り越えて、密教授法の留学に旅たった向上心のある僧によって、ついに比叡山にもたらされました。最澄の意思を受け継いだ第3代座主円仁(慈覚大師)、第5代座主円珍(智証大師)が比叡山に請来したのです。
天台密教(台密)の教理論は、空海の相弟子であった青龍寺の義操の弟子及びその系譜につながる人物から授法されたものでした。 円仁は、元政から金剛界を、義真から胎蔵界と蘇悉地を、法全から胎蔵界を授法しました。円仁の教学上の特色は、密教経典の解釈を天台の教理との調和を図りながら新たな顕密対弁思想を展開したことにあります。
円珍は、法全から金剛界、胎蔵界、蘇悉地(雑密に分類された儀軌書)の三部を伝授され、大日如来(毘慮遮那仏)と釈迦の関係性が本来一仏であり二体あることはないという伝授(事実関係は不明、この説は台密の説のみにある)を受けています。円珍は、空海の十住心思想を天台の評価を変えたいとする動機によって批判したと考えられますが、『大日経』の三摩地門は法華も及ばない最秘甚深の教えであるとして理劣事勝の思想に至っています。
安然は、円仁の教学を基盤として密教の天台化を徹底しましたが、法華経の本仏である釈迦如来と密教の本仏である大日如来(華厳経の毘盧遮那仏と同体)の一致を立てて円密一致説を受け継ぎながら、密教を理密教と事理倶密教に区分して真言宗の優越性を認める立場であったと考えられます。
空海の真言密教(東密)と比叡山の台密の法流は、胎蔵界と金剛界の密教思想を継承した中国・青竜寺の密教の大家・恵果阿闍梨(付法の第7世)から発生したという共通の淵源を持っていますが、伝法の阿闍梨の法流は異なります。空海は恵果から師弟の深い因縁を特に見込まれて両部の伝法灌頂を授与されて付法の第8世となり、真言密教の宗租となりましたが、台密の付法は、恵果の弟子・義操の法流にあります。
円仁が義真から胎蔵界と蘇悉地の両法を授法し、円仁と円珍が法全から胎蔵界、金剛界の両部の大法を授法しています。しかし、密教の相伝は厳粛なものと考えられます。付法の第6世不空三蔵が数万の弟子を持ちながら恵果を見込んで密教の法の伝授(寫瓶)を許したように、恵果阿闍梨が空海の真摯な求道姿勢やたぐいまれな素質と能力を見込んで付法を即決した眼力にはいささかも誤りはないと考えられます。密教の付法の正嫡・弘法大師空海に及ぶ伝法者の存在は考えられないのです。詳細は「(20)-1空海と最澄ーその履歴ー」「(20)-3空海の入唐求法とは」を参照して下さい。
弘法大師空海は、密教は大乗仏教の到達点に現れた最終形と考えていますが、大日如来(法身)と釈迦(応身)は同一ではありえないとして、真言密教は大日如来の法身説法であるとすることを本旨としています。大日如来の法身説法(その内容)が釈迦を悟りに導いた教説であると考えれば、その関係性が理解できるのではないかと考えられます。
最澄は自ら密教の著作をしなかったことから、最澄の没後の弟子たちは空海から密教を学ばざるをえませんでしたが、最澄の円密一致観が弟子たちの法華経観と密教観を縛りつ続けたと考えられます。
最澄の『依憑天台集』(813年)には、一行の思想が天台の思想に基ずくものであるという理解を示しています。最澄の密教の不完全性が比叡山の密教観の捉え方に大きな相違点をもたらしたものと考えられます。大乗仏教の到達点に開花した先進思想を持つ密教を天台教学の枠内(法華経との一致説)に位置付けて理解しなければならない立場を取り続けなければならなかったことが台密の教理的な限界であると考えられます。詳細は、「(30)顕教と密教は何が違うか」を参照願います。
東密から台密に対して、7つの根本的な相違点が指摘されています。「法身(大日如来と釈迦の異同)の問題」「顕教と密教の規定の問題」「純密と雑密の区別」などがこれです。 空海の真言密教と比叡山の台密の相違点は、密教授法者の資質と導入プロセスの違いにあると考えられます。
南都六宗や天台宗の宗学や教学は、すでに中国において体系的に成立し、それぞれに権威のある宗論書が存在していたので、留学僧はこれを学び日本にそのまま忠実に移植することが本命でした。ところが、密教はこのような事情とは異なっていました。密教は中国においても胎蔵界系と金剛界系は別々の系統にあり、渾然一体となって融合した密教の完成形である統一的な仏身観(金剛界・胎蔵界の両部不二思想=法身・大日如来を根本の中尊とする諸仏・諸菩薩・明王・諸尊等の役割を階層的に位置付ける両界マンダラ思想)を示すレベルには達していませんでした。
真言密教の統一的仏身観は、両系統を正統な伝法灌頂によって授法した空海の独自の思索による「智」と「実践」によって普遍性のある思想と教義体系として、日本において再構築されたものでした。空海の真言密教の理論構成は、中国密教を導入したからといって簡単に到達できるレベルではないと考えられるのです。詳細は「(30)顕教と密教は何が違うか」を参照して下さい。
真言密教は、空海の叡智と大乗仏教の精神が見事に包摂された独創性がある密教であり、台密とは成立過程の事情が大きく異なるものです。いうなれば、東密と台密は青竜寺の恵果阿闍梨の系譜にありますが、密教の考え方、思想の選び方や育て方が異なるのです。それぞれが独自性を主張する宗派を形成して仏教界に存在感を示し、偉大な学僧の下で研究を重ねてきていることから、両密教の性格や考え方の随所に違いがでることは当然のことと考えられます。これらは密教が持つ思想の多様性の一つの表れともいえるものです。
金剛界と胎蔵界の正当な継承者である恵果阿闍梨から直接に金胎両部の伝法灌頂を授法した弟子は恵応・恵操・惟尚・恵日・空海・義満・義明・義照・義操・義愍などであり、金剛界は義政・義一・呉殷・義智・義円など、また胎蔵界は悟真・義澄・法潤・などがいます。
このなかでも空海と義操が恵果の法流の正嫡であり、空海は恵果の教導を受けて帰国して真言宗の開祖となり、中国人の義操は青龍寺の法統を嗣ぎました。 密教の阿闍梨は、菩提心を発して智慧と慈悲を体現し、般若波羅蜜の行に勝れ、様々な才能に恵まれて真言の真実義に達している密教の師です。その弟子には、伝法と血縁の二種の弟子があり、伝法の弟子とは密教の法を継承できる素質と器を持ち合せた人物かどうかを師の阿闍梨から見極められた弟子をいいます。血縁の弟子は師弟関係にありますが伝法の弟子のような特別な資格要件が必要とされていない弟子をいいます。正嫡の伝法の弟子とは、師の阿闍梨の法統を正当に継承する正統性を持つ血脈相承者と考えられます。詳細は「(20)-3空海の入唐求法とは」を参照願います。
天台の密教の系譜も青龍寺から派生したものでしたが、台密は円密戒禅の四宗兼学の天台教学の影響を強く受けて成立したものであり、その本質は円密一致の天台教学の枠内での密教理解と考えられます。台密の円仁・円珍などに金剛界・胎蔵界・蘇悉地法を伝授した上記の義真・法潤・法全・元政などは義操の結縁の弟子の系譜に連なる人物でした。
東密と台密の相承を図示すれば下記のようになります。
<東密の相承>八祖相承
「付法の八祖」1大日如来2金剛薩埵3龍猛4龍智5金剛智6不空7恵果8空海
「伝持の八祖」1龍猛2龍智3金剛智4不空5善無畏6一行7恵果8空海
<台密の相承>円仁の台密三部相承説
(最澄に相承なし、台密の事実上の相承の初代は円仁)
「胎蔵界」 1大日如来2金剛薩埵3龍猛4龍智5金剛智6善無畏7不空8一行9恵果10恵則11義操12義真13法全14円仁
「金剛界」 1大日如来2金剛薩埵3龍猛4龍智5金剛智6不空7善無畏8一行9恵朗10恵果11恵則12義操13義真14全雅15円仁
「蘇悉地」 1大日如来2金剛薩埵3龍猛4龍智5金剛智6善無畏7一行8恵果9恵則10義操11義真12円仁
なお、台密には、円仁説と異なる説もありますが。ここでは触れません。
真言密教は、中国で完成された単なる輸入仏教ではなく、恵果阿闍梨の正当な密教の継承者である空海が「智」と「実践」によって、密教思想を再構築して完成させた密教でした。台密の成立過程とは生まれも育ちも異なるものです。台密は唐代の天台教学の影響下で成立した密教ですが次のような経緯を持っていると考えられています。
善無畏(637-735)に師事した一行禅師(683-727、禅・律・天台・密教・天文学・暦学・道教の大家・玄宗皇帝の国師)が師の口述を筆記して『大日経疏』20巻に撰しましたが不完全の思いが残り、その内容の見直しと推敲を一行と共に善無畏に師事した智儼(602-668、訳経僧・中国華厳宗の第二祖・華厳教学の創始者)に託しましたが、善無畏が入寂したことで果たせませんでした。
しかし、この改定は同じく善無畏の弟子であった温古(生没不詳)と智儼(生没不詳)に引き継がれ天台教学の教理に準拠する校訂が行われた『大日経義釈』14巻にまとめられて完成したという経緯がありました。台密は、これに寄り添う密教であり、台密の性格はこの中で決定されたものと考えられます。なお、善無畏は真言宗の伝持の第5祖、一行は伝持の第6祖とされていますが、付法の祖の系譜からは除外されています。両名が血脈の付法の祖とされない理由はこのような経緯にあると考えられます。
善無畏(637-735)について若干の補足をします。善無畏はインド人の仏教僧です。中国(唐)に密教を伝える為に渡唐してきた高名な密教僧です。胎蔵マンダラの構成と作図などで密教界に多大な影響を与えました。胎蔵曼荼羅には、『大日経』の「住心品」の「三句思想」の解釈の相違によって1善無畏系の曼荼羅と2非善無畏系(ブッダグフヤ系。8世紀後半に活躍したインド密教僧)の二種の曼荼羅が存在します。東密は空海がブッダグフヤ系(修行して悟りに向かう因位の立場=『大日経』の「具縁品」の記述に忠実にしたがって描かれた曼荼羅)の「原図曼荼羅」を請来したのですが、台密は円珍が善無畏系(悟りを得て衆生の救済に向かう果位の立場)の「山図曼荼羅」を請来したという違いがあり、この二種の曼荼羅の各区画の配置に相違点があるのです。
善無畏は、長安の西明寺に滞在してインド密教の翻訳を行いましたが、若き頃の空海がある僧?から伝授を受けた求聞持法(正式名称は『虚空蔵菩薩能満所願最勝心陀羅尼求聞持法』であり奈良古密教に分類されている)は、善無畏の訳出であったと考えられています。当時、善無畏が滞在していた西明寺には遣唐使節に同行した留学僧・道慈(生年不詳-744、三論宗・大安寺の僧・額田氏)がいましたが、善無畏の求聞持法の訳出が道慈の718年(養老2)の帰朝の前年であったことから、求聞持法は道慈によって請来されたと考える説があります。
道慈は留学僧として唐の僧侶の受戒制度を目の当たりにし、日本の仏教界には僧侶の受戒(僧の資格)の制度が未整備であることを痛感して批判し、早期に唐から戒師を招来して僧の受戒制度(その結果が鑑真の招来)を整えることを上訴した僧です。求聞持法は、山林や海浜を修行の場とする行法を説き、山林修行僧の中で次第に重要な役割を果すことになったのです。
最澄の門下は、空海の法流に対抗心を持って遣唐使廃止後の閉ざされた中国への渡海を命を懸けて決行し中国密教を持ち帰りました。台密は、過酷な条件下で入唐を果たした円仁、円珍の努力によって比叡山にもたらされ、五大院安然(841-915)の研鑽によって完成されたと考えられています。
しかし、両名の入唐時期は唐代の後期にあたり中国密教の凋落期にありました。東密は唐代後期の密教を踏襲せず、台密は唐代後期の胎蔵系の密教学をそのまま持ち帰ったという根本的な相違点があると考えられます。これをもって空海の真言密教に対抗したことで、比叡山は密教と法華経の相克に苦悩することになります。
この東密と台蜜の教理の違いによる優劣争いほか、比叡山には密教の評価のあり方の違いが表面化していたことから、三門派(円仁系=理同事別説)の延暦寺と寺門派(円珍系=理同事勝説)の園城寺(通称名は三井寺)の分裂が武力抗争にまで発展しました。園城寺は密教色(密教>法華経)を強め密教寺院の立場としての旗幟を鮮明に、延暦寺は最澄の円密一致観に寄り添いこれと異なる評価を避けたのです。教理の優劣判断ではなく、宗祖に寄り添う政治判断に縛られたと思うのです。円珍は、事相(実践論)は真言が優れているという結論を示したのですが、円仁は最澄の評価を乗り越えられなかったのだと考えられます。
最澄の円密観は、胎蔵系の泰斗である一行禅師が法華経の影響を受けて書いた『大日経義釈』の影響を強く受けたものでした。 円珍系の園城寺の「理同事勝説」は「勝」の字を入れて密教は事相(実践行)が優れているという客観的な分り易さがありますが、円仁系の延暦寺の「理同事別説」は意図的に「別」の字を入れることで、曖昧の領域を残そうとしているのではないかとも考えられます。
ここには、開祖・最澄と比叡山の面子を護らなければならないとする最澄の仏教観の縛りが強く感じられます。門下の在り方としては、これはこれとして理解できないことではありませんが、この「理同」にも疑問があります。「理」を法華経と認識しているのであろうかという疑問です。安然が法華経は一乗教だから(華厳経と同じく)密教に含めるとする論を展開したように、天台は理同の内容を「法華経+密教(台密)」としているのではないかという疑いです。もしそうであれば、そもそもの比較の対象が曖昧になるので、「理」は最澄の円密一致説の「円」(法華経)が対象になっているという前提を動かしてはならないと考えられます。
東密と台密の相違点をまとめれば、東密は『金剛頂経』『大日経』を両部の大教とし理智不二の所依の根本経典とする。台密は両部経典に『蘇悉地経』を加えて三部とする。
蘇悉地経は、玄ム(?-746、法相宗の入唐僧、阿刀氏)、最澄、空海が請来し、円仁、円珍が善無畏の解釈を持ち帰っています。空海は恵果の下で学び雑密の儀軌書という理解をしていたと考えられますが、両部の大経を統合させる位置づけを与えるという認識は空海が在唐時には中国・青龍寺にはなかったものであったと考えられます。東密では雑密の儀軌書という位置づけであり、空海はこれを三学録の律部に入れています。決定的ことは、蘇悉地経と大日経、金剛頂経の成立時期が、それぞれ100年前後もちがっていることにあります。台密説には経典の成立過程(それは密教教理の進化の歴史)の認識が欠落しているという決定的な欠点があります。しかし、大乗経典(密教経典を含む)の成立の歴史は近年の研究成果であることから無理もありません。
台密は、この『蘇悉地経』を両部の大教を総括する両部不二の秘教としていますが、6世紀以前に編纂された初期密教(雑密)に分類されている『蘇悉地経』に中期の主要経典を総括させることには違和感があります。7〜8世紀に密教の叡智を結集して編纂されて成立した中期密教(密教独自の理論化が進んだ組織的・体系的な密教=純密)の主要経典である両部の大経(『大日経』と『金剛頂経』)を統括できる教理が、100〜200年も前に編纂された初期密教(雑密)の『蘇悉地経』に書かれていたなどということは考えられません。蘇悉地経の統括説は、教理の進化や形成が、思索を重ねた思想の深化と発展の積み重ねによって達成されてきた歴史事実を無視するものだと考えられます。ここには、中国天台宗が最新の教理論を法華経に意図的に加上して再編集し、法華経を「諸経の王」に押し上げた手法の再現が見て取れるのです。
開元14(726年)に善無畏(637-735)が漢訳したとされる『蘇悉地経』三巻の主意は、「他の真言法を修して成就しないときに、この経の根本真言を兼ねて誦持せば、まさに速やかに成就すべし」という不思議な文言にあります。これらの文言は大日経や金剛頂経の存在を知り、理解し、その主意を知悉していなければ書けない文言であり、阿闍梨の特相、持誦法、供養法、灌頂法、三種護摩などの密教儀礼に詳しく、両部大経の内容に言及する摩訶不思議な文言が随所に見られます。これについては、開元13年(725年)に善無畏が漢訳したとされる大日経や、不空(705-774)が漢訳した金剛頂経(別名は『真実摂経』)の両部大経に詳しい善無畏若しくはその後継者が、蘇悉地経に両部大経を統括させる意図をもって加上し再編集した疑いが濃厚です。
なを、金剛頂経の正確な成立時期や場所は諸説あり未確定ですが7世紀後半の680-690頃に成立し、その完成本は8世紀末迄に出来上がったと考えられています。1サンスクリット原典、2チベット訳、3漢訳の三種があり、1と2が完成本です。ここで取り上げているのは漢訳本です。
『蘇悉地経』が加上と再編纂された背景は、6世紀後半〜7世紀前半頃(初期密教の後半から中期密教が台頭する形成期)に三部経典(仏部、蓮華部、金剛部の三部に仕分けされた経典群)が仏(上)・蓮(中)・金(下)の上下関係と見做された状況を払拭し、仏部経典、蓮華部経典の効果には限界があるのではないか、金剛部経典の効果の見直しを図るべきではないか、などの疑問が発生したことが考えられます。修法の成就・不成就、行法の有効・無効の評価、行者の罪障の払拭などを問題視する新たな展開が発生したことが考えられるのです。この中に、金剛部の執金剛菩薩=金剛手菩薩などの威神力は、仏部、蓮華部の力に勝る効験があるとみる蘇悉地経の書き換えが行われたことが考えられます。
「此の『蘇悉地経』は、若し余の真言法を持誦して成就せざること有らば、正に此の経の根本真言を兼ね持せしむべし、当に速やかに成就すべし、三部の中に於いて此の経をば王と為す)」。「此の経は深妙成ること天中の天の如く、上中の上と言うこと有るは、若し此の経に依らば、一切の諸事、成就せざること無ければなり、この経は金剛の下部に属すと雖も、仏の教を奉ぜんが爲に、亦、能く上の二部の法を成就す」(新国訳大蔵経・密教部2)という文言が台密の研究者に台密三部説の根拠として継承されていると考えられますが、上記の如く、『蘇悉地経』の成立時にそのような情報を得ることは不可能です。蘇悉地経は、『大日経』、『金剛頂経』の存在を知ることができ、その詳細な情報を知悉し、理解できる者の手によって加上され書き換えられた経典であることは明白と考えられます。あたかも、法華経が般若経典群を超えたいとの強い動機によって再編纂された如く、大日経・金剛頂経の論理性が理解できた人物の手によって、両部大経を統括させる強い意図をもって蘇悉地経の加上編纂が行われたことが考えられるのです。
上記の「三部の中に於いて此の経をば王と為す」という文言が加上説を自白しています。蘇悉地経の編纂の頃、自明の理ながら『大日経』、『金剛頂経』は未だ存在せず、これを認識する「三部」の概念があったなど常識的にありえません。また、「三部を仏(仏部=上)・蓮(蓮華部=中)・金(金剛部=下)の概念も、蘇悉地経が編纂された頃には無かった概念と考えられます。ありない文言が書き込まれている蘇悉地経には、加上と書き換えが明らかに見えることから、加上説の妥当性は自明の理と考えます。
密教が形成され始めた時期は5〜6世紀頃と考えられていますが、6世紀前半の梁の時代(502-557)に『牟梨曼荼羅呪経』が漢訳され、印契(ムドラー)が説かれ、真言(マントラ)と組み合わされて三尊形式(中尊と左右の脇士)から発展したマンダラの原初形態が現れたと考えられています。この形成期から発展途上に大日経が成立したと考えられています。大日経の成立地、年代の定説は所説あり確定に至っていませんが、7世紀中頃の成立とみる説が有力です。この大日経の出現によって、密教が大乗仏教の一翼を担う段階に達し、インド仏教史において独立した体系を確立したと考えられています。
紀元前後に興起した大乗仏教は、民衆教化の手段として古代インドより民間に継承されてきた呪術的要素を取り込む傾向性があり、初期密教経典には真言、陀羅尼の読誦による現世利益が説かれました。『陀羅尼集経』『一字仏頂輪王経』『蘇悉地経』などが大日経が成立する上での先駆経典に位置付けられている経典です。
ちなみに、大日経を解釈するために善無畏が著した注釈書が『大毘盧遮那成仏経疏』です。善無畏の講義録を一行が編集したものが『大日経疏』であり、真言密教(東密)が用いています。また、一行の編集を智儼と温古が(法華経に寄り添う解釈を施して)校訂した特徴をもつ『大日経義釈』が比叡山(台密)に移植されたことから、東密と台密の解釈の仕方が異なり、大日経の本文解釈にこの違いが決定的に現れるのです。
6世紀以前に編纂された蘇悉地経に、100〜200年後の大乗仏教の到達点に花開いた中期密教の両部大経を統括できる文言と内容が書き込まれていたなどということは論理的にあり得ません。これでは、中期密教思想が200年以前に完成されていたことになり、両部大経は100年、200年前に編纂された蘇悉地経の焼き直し、二番煎じという摩訶不思議な現象を引き起こすことになります。三部の中でも最も早く編纂された蘇悉地経がもっとも優れているという摩訶不思議なものいいを真実とみることは不可能です。
インド仏教の最終形を表すインド密教をそのまま継承したチベット後期密教の『チベット大蔵経』の分類では、蘇悉地経は所作タントラ(初期密教=雑密)の総括経典に位置付けられ、100〜200年後に編纂された中期密教(純密)の両部大経を統括できる経典ではあり得ません。蘇悉地経には加上を施された疑いが濃厚にあると見做される原因の一つです。
比叡山天台宗の中国密教導入の努力が順調に報われたものであったとは考えられません。845年の唐・武宗が断行した「会昌の法難(毀仏寺勒僧尼還俗制)」によって、寺院4,600所が廃止され、26万余の僧尼が還俗されたという中国仏教史に大問題が発生していたのです。中国思想を重要視した武宗が外来の宗教が中国に根ずくことを嫌った政策でしたが、特に長安と洛陽の寺院が壊滅的な損害を被ったのです。
中国密教の典籍は壊滅的な損害を被って失われ、膨大な不空の翻訳書籍(その主要なものは空海の請来目録に多数の記載がある)を除いては僅かに儀軌類が残された程度だったといわれています。これにより、思想的な内容を吟味できるに足る資料が乏しくなったことで、文献的な検証がほとんど不可能な状態になったと考えられます。
円仁はこの法難に身を以って遭遇したことで行動の制限等を受けていますが、中国の密教教理の検証と解明に大きな妨げになった事実は見逃せません。 インド仏教の最終形を示すインド密教がダイレクトに伝わったチベット後期密教(11世紀以降に成立したチベット密教)の分類では、『蘇悉地経』は6世紀以前に成立した前期密教の雑密に分類される第一段階の所作タントラに位置付けられています。
円仁の入唐時期の中国密教は統一的な密教体系が未完成であった時期に当たるところから、『蘇悉地経』が仏部・蓮華部・金剛部の三部を説き悉地(成就)の内容を整理していることを重要視したものと考えられますが、『蘇悉地経』の本分は儀軌書であり、密教体系を示す教義書(論書)ではありません。『大日経』に近い内容をもっていることから『大日経』の一つの特殊形ほどの意味しかないと考えられます。
なにゆえか、恵果の滅後の弟子以降に生まれた『蘇悉地経』の評価を円仁が持ち帰ったのであろうと考えられます。これについて、東密から不必要とする台密批判がありますが、所作タントラに分類される儀軌書の『蘇悉地経』(雑密)に、「両部の大経」を総括させることは如何なものであろうかと考えられます。台密の理解は、大乗経典の編纂と編集の歴史や経典翻訳の実情の研究がなく、全ての経典は釈迦が説いたとする説が闊歩していた時代背景の中で生まれた理解だと考えられます。
東密は釈迦の所説(報身と応身の説法)を顕教、大日如来(法身説法)の所説を密教としますが、台密は顕密二教ともに釈迦の所説(この説は大乗経典成立の認識が欠落している)と主張しています。台密は二教の相違は教主の相違ではなく、教理の浅深によるものだとしています。東密は顕劣勝密の立場で『法華経』は両部大経に劣るとし、台密は法華経と両部大経は同値とみるのですが、教理は同じ(円密一致説)であるが事相(実践)に違いがあると主張しています。
東密と台密は、それぞれに教理と教相判釈の系統を異にしていますが相互に交渉し関連した事実が少なくありませんでした。それは事相いわゆる護摩行法を含む加持祈祷の分野です。東密の僧が授者となり、台密の受者に特定の行法を伝授し、また台密の僧が授者となり、東密の受者に特定の行法を伝授するという事実が数十例もあります。自宗に欠けていた行法を補うこの宗派を超えた伝授は、受者の真摯な申し出と懇請を受けた授者が、受者の資質を認めて伝授の決意をしたものですが宗派の垣根を越える出来事でした。この関係を築いた僧たちは、いわゆる高名な密教僧でした。密教には、資質を認めれば、垣根を越えた伝授を許すという伝統があります。
東密と台密の相互の伝授は次のとおりです。宗叡(809-884・第5代東寺長者)から峯斅(843-908)に伝わった行法が増命(843-927・比叡山座主)に伝授され、増命はこれを御室仁和寺の開創・ェ平法王(第59代宇多天皇・上皇)に伝え、その付法のェ空が皇慶(977-1049・比叡山・谷流の祖)に伝授しています。増命は観賢(834-925・東寺15代座主、高野山座主、石山寺座主、仁和寺別当、法務職=日本仏教界を束ねる僧綱行政のトップ)にも伝授しています。また、醍醐寺を創建した聖宝(832-909・理源大師、東密の小野流の祖、修験道当山派の祖)から観賢に、観賢から淳祐(895-953・石山寺座主)に伝わった行法が良源(911-985・元三大師、第18代天台座主)に伝授されています。覚猷(1053-1140・鳥羽僧正、天台座主、園城寺長吏)は覚鑁(1095-1143・興教大師、鳥羽上皇の院宣による東寺・高野山座主、大伝法院の再建と密厳院の創建、真言宗新義派の祖)に行法を伝授したことが知られています。
日本密教は純粋密教(純密)を本旨とすることから、後期密教(チベット密教)の無上瑜伽タントラ系を排除してきました。無上瑜伽タントラは密教の最終形として現れた教えですが、その中に性的儀礼が含まれることからこれを左道密教と位置付けて意図的に排除してきたものと考えられます。
鎌倉時代に無上瑜伽タントラの影響を受けた東密系の「立川流真言宗」、立川流に刺激を受け比叡山で発生した台密の「玄旨帰命壇」が発生し、皇族貴族から武士、庶民を含む人々の帰依を受けて江戸時代まで続いていましたが、いずれも焚書と弾劾を受けて江戸時代に断絶しました。日本に後期密教が根付かなかった理由です。後期密教に表われる性的儀礼は、無上瑜伽タントラ系の父母タントラに説かれる密教の観想上の通過儀礼の一種であり、本来は瞑想の中で諸仏諸菩薩を生む過程をリアルに観想する手法です。この目的は、日常の固定観念や様々に彩られた現実の価値観を粉砕(凡常の慢を退治する)して視点を転換させる意識革命にあるといわれています。密教経典は教理と実践方法の教えを具体的に示すことからタントラといい、顕教経典は教え(教理)を示すものであることからスートラといいます。詳細は「(28)後期密教の成立(チベット密教)」を参照願います。
宇宙の本体観(本尊観)は台密と東密とでは異なります。台密は「阿字体大説」であり、東密は「六大体大説」です。天台宗(台密)では、三諦円融の妙理、一念三千の至極を阿字体大説によって説明します。『大日経疏』には、「阿字は一切語言の根本にして衆字の母なり。一切法教の本源なり」「阿字本不生の理を悟るは如実知自心の義にして、一切智々なり」とありますが、阿字本不生とは諸法の本来不生不滅、本有常住の義をいいます。
密教では阿字は一切の言説・音声の根本であるばかりでなく一切の法教の根本であるとみます。台密が依書とする『大日経義釈』には、「阿字に空・有・不生の三義あり」と説かれ、この三義は一空一切空、一仮一切仮、一中一切中の円融三諦であるとして阿字体大を説き、空の義を釈して阿字不変の理、有の義を釈して阿字隨縁の相、不生の義を釈して阿字隨縁一体不二とする教理を立てます。
台密では、この三義三諦は宇宙の実体・実相であり、その妙体は胎蔵曼荼羅の理法身・大日如来であるとし、これを悟った智は金剛界曼荼羅の智法身・大日如来、この理智二法身が互いに円融無碍した法身が両部不二の大日如来であるとする仏身観を立てるのです。
阿字は十界三千の諸法の本体であり、阿字の体は大であるとすることが台密の阿字体大説の所論です。 空海は、字母表に「凡そ最初に口を開く音、皆阿の字あり、若し阿の字を離んぬれば則ち一切の言説なし。故に衆声の母となす。また衆字の根本となす」として「阿字は是れ一切法教の本なり。乃至内外の諸経皆この字より出生す」と説いています。阿字は宗教的に人格化された大日如来の象徴となり、大日如来の種字に比定されたのです。
東密の根本思想は阿字本不生です。本不生とは、本来的には不生不滅であり、宇宙の本源は消滅・断常・一異・去来を絶した常住寂然であり、この妙境を本不生・本不生際といいます。従来より諸説の解釈論がこの妙境は不可得としてきたことから阿字本不生不可得といわれています。
空海は、この阿字本不生不可得を『即身成仏義』において具体的に説明し宇宙の本源を明かしていますが、六大は宇宙森羅万象の本体・実相であるとみるのです。これを「六大体大説」(六大縁起説)といいます。 空海は、宇宙の本体は阿字であるといいます。空海は、六大(地水火風空と識)は単に現象的な元素でも因縁事象の要素でもなく、阿字本体の内在性である見るのです。六大と阿字は開合の不同でしかなく、開けば六大、合すれば阿字であり、六大は阿字の当体であり宇宙の本体であると見るのです。
空海は、大日如来は覚れる六大所成の人格であり、六大は色心二法であり理智の二徳であり両部の曼荼羅であるとしています。一塵一法・凡夫・仏・草木国土は全て六大所成であり阿字の当体であるから仏陀も阿字の当体であると見るのです。仏陀は覚れる六大所成であり、凡夫は迷える六大所成であるから、迷悟の差はなんであろうか。「迷悟は我に在り、信修すれば即ち至る」と空海は説きます。覚れば即ち大日の当体(即身成仏)なのです。
『大日経』の「住心品」には「如実知自心」が成仏の秘訣であることを示し衆生の心の実相を開示しています。「具縁品」には、如実知自心の実践修行が説かれています。真言密教(東密)では、三密瑜伽の双修を必修とし観法の実践なくして密教的世界はあり得ないとしています。
真言密教では、宗教の対象である本尊(教主)も阿字、教理の哲学的側面も阿字、その悟りの妙境も阿字本不生際、妙境に達する方法も阿字観とされます。真言密教では、阿字は事相(実践)上でも教相(理論)上でも重要なのです。 立宗の名目が広く知られている天台宗は、開祖・最澄が中国の天台智の天台宗の教理を比叡山に移植して立宗の旗幟を鮮明したという宗名の由来があることから、法華経と密教を同等とする最澄の一致説は、最澄滅後に宗内に数々の混乱を引き起こすものであったと考えられます。
一致説は、密教支持者と法華支持者の対立を円満に納得させる説であったとは考えられません。両勢力はしばしば密教法門の論争と宗内勢力の対立抗争を繰り返していることから、宗内では必ずしも円満に受け入れられた概念であったとは考えられないのです。なぜなら、法華経と密教の修行内容には明らかな違いがあり、特に三密加持や護摩祈祷、声明などの在り方に典型的にその違いが表れます。比叡山根本中堂の諸儀礼は密教儀礼が中心に行われていると考えられます。一致説は、観念的な旗幟ではなかろうかと考えられるのです。開祖最澄の権威で波風を抑え、意図的にバランスを取らなければ維持できなかったのではないかという疑いが消えないのです。決定的なことは、歴代の天台座主は密教に精通している人物が選任されてきた事実です。これは重要と考えられます。
天台宗は、本拠地の比叡山が京都の鬼門に位置することから都の守護を期待され、朝廷の近隣に蟠踞して既得権益を維持していたことから、朝廷や大貴族・権門勢力とのネゴシエーションが比較的に取りやすいポジションにありました。特に、五大院・安然の台密の完成によって東密に対する劣等感を払拭して自信を回復した朝廷外交には目を見張るものがありました。天台宗は、台密の効験によって朝廷・貴族などの顕紳から信頼を得て、多数の荘園を寄進されるなど多くの既得権益を享受して天下に足場を固め、東密の勢力(東寺・高野山)と競合する一時代を築きましたが、これらは密教(台密)の効験を朝廷、諸権門の大貴族などに期待されもてはやされたからであったと考えられます。
天台宗は、あらゆる大乗仏教を包摂できる密教の叡智を持ちながら、開祖・最澄の縛りを受け入れて密教と法華経の一致説を継承したことで、密教と法華経の相克関係を抱え込み、教義上の歪(ひずみ)を解決できませんでした。
台密は東密と異なり、円密戒禅の四宗兼学の天台教学を前提に成立した縛りを解き放つことができませんでした。法華経よりも格段に優れた経典である両部の大経を相手に、天台の根本経典は法華経である、法華経を以って一代の諸経を判ずる、という姿勢を取り続けなければならなかったジレンマは悲しすぎます。この中で諸宗兼修の精神が独り歩きしたのですから、異論、反論の調整が簡単にできるわけがありません。百花繚乱の矯正不能な新興宗教の温床が形成されたものと考えられます。不満を抱えて忍耐力を失った者がつぎつぎに比叡山と決別して下山し、巷間の民衆に自説を布教したものが鎌倉新仏教(祖師仏教)の祖師たちの実態と考えられます。
祖師たちの自説は、いずれも比叡山の伝統教学とは異質の教義内容を鮮明にした祖師仏教でした。祖師たちは比叡山の系譜から断絶した自説を布教したのだと考えられます。 
最澄系と空海系の仏教観の違い

 

天台宗の論理的な釈尊観は、1「最澄が法華経と密教は同等の内容を持っていると考えたこと」、2「円仁、円珍が密教の教主・法身の大日如来と釈尊が同一とする教義を中国から持ち帰ったこと」にあります。しかし、2は最澄の意思に寄り添う考え方を探してきたものであろうと考えられるのです。天台宗は、これによって法華経と密教の一致観を宗論とする再確認をしたという通過儀礼を行う必然性があったものと考えられます。中国の天台・智の法華経観を歓喜をもって受け入れて比叡山に移植した開祖・最澄の仏教観を変えることは誰にもできるはずがないのです。中国天台の法華経観を中心とする教理論や最澄の密教観に従順に添い遂げようとする比叡山の密教の理論化には、少なからず要所に疑問点を抱え込んでいると考えられるのです。
密教が大乗仏教の到達点を示すものであると考える真言密教(東密)の立場は、大日如来(法身)と釈尊(応身)は同一ではないとする仏身観です。台密と東密は密教のライバル関係に位置付けられた歴史的な存在感を持っていますが、仏身観は異なります。その原因は最澄と空海の密教観の違いにあると考えられます。最澄は法華経と密教は同等の思想(円密一致説)をもっていると考えましたが、空海は法華経を華厳経の下位に位置付けました。今日的な仏教史観からいえば、経典の成立時期が500年前後も違い、大乗仏教の真髄を包摂して論理的・哲学的に書かれた両部の大教(『大日経』と『金剛頂経』)と論理的に書かれてない『法華経』を比較して同一視することは一般的には無理であろうと考えられます。
真言密教の特徴的な仏身観は、仏教の開祖である釈尊(応身)と、密教の教主である大日如来との関係性を次のように認識しています。教主である大日如来は宇宙森羅万象の当体(法身)、仏教の開祖である釈尊は教主大日如来の法(永遠の真理)を覚知して大日如来と合一して永遠を生きる金剛薩埵である。金剛(Vajra)とは永遠不滅をいい、薩埵(Sattva)とは永遠の道を教える存在者(人)をいいます。つまり菩提樹下で開悟解脱した釈尊は大日如来と合一(永遠の真理の法を悟り)した金剛薩埵であるというのです。秘教の『理趣釈経』には、「一切義成就菩薩としての釈尊は、普賢金剛薩埵の異名である」とし、ここには、釈尊=金剛薩埵=普賢菩薩の関係性が示されています。また、『三十七尊出生義』には、「釈獅子(釈尊)まさに大日如来に授かることを得て、金剛薩埵に伝う。金剛薩埵これを得て、数百年にして龍猛菩薩に伝う」として、金剛薩埵とは、秘密灌頂を受けた後に永遠の道(真理)を伝える人の総称であることが示されています。大日如来から金剛薩埵に授法されたとする「南天竺の鉄塔」の伝承は、森羅万象の永遠真理の法は法身・大日如来から金剛薩埵に授法され、金剛薩埵から龍猛菩薩(二世紀中頃〜3世紀中頃、別名は龍樹ナーガルジュナ)に授法(心塔開扉)されています。ここには、金剛薩埵の役割が、出世間の法を世間法の上に建立し、大日如来の法を継承する見地において、存在の必然性として示されています。鉄塔とは、宇宙森羅万象の象徴であり、龍猛菩薩の心眼に映じた如来神力の心象現象と考えられます。南天鉄塔の故事は、中国に密教を伝えた金剛智三蔵の口説を弟子の不空三蔵が記述した『金剛頂義訣』によるとされています。
台密には、最澄の法華経に対する特別な仏教観の影響を受け入れざるを得ない歴史的な価値観の縛りの事情があったのであろうと考えられます。『法華経』は、すでに中国から鑑真によってもたらされ南都諸宗で研鑽されていましたが、最澄はこれに満足することなく、直接に、中国・天台山の智の『法華経』(特に、その解説書の『法華文句』・『摩訶止観』・『法華玄義』)を比叡山に請来する夢と使命感をもって、嵯峨天皇の許可を得て国家公認の請益僧(還学生)となり、生死をかけて遣唐使船に乗船した人物だったのです。詳細は「(20)-1空海と最澄ーその履歴ー」を参照願います。
この問題は、それぞれの経典が内包もしくは包摂する哲学性や論理性を徹底的に比較し、それぞれが持つ思想の普遍性を見極めることが出来れば、自ずから解消される性質のものであると考えられます。法華経の成立からほぼ400〜500年後に編纂された中期密教経典の『大日経』『金剛頂経』は、大乗仏教の思想を包摂してその最終形としてあらわれた思想です。密教は法華経の思想を包摂することが可能ですが、法華経には密教の思想、哲学・論理性を包摂する容量が不足していると考えられます。法華経が諸経の王であるとする恥ずべき自意識過剰の加上を書き込む過失を犯した法華経の立場(「序章4:祖師仏教の特徴を考える」を参照願います)からでは、密教の先進思想の構造が十分に理解できないと考えられます。
空海の天台宗の評価は、『秘密曼荼羅十住心論』や『秘蔵宝鑰』という教相判釈において、衆生の菩提心が開かれていく心の様相が示していますが、その思想的な根拠は『大日経』住心品にあります。空海は、「今此の経によって真言行者の住心の次第を顕す。顕密二教の差別また此の中に在り。住心無量なりと雖も。且らく十綱を挙げて之に衆毛を摂す」と述べていますが、これは、宗教的に次第に深まりゆく菩提心の心の様相とその過程を評価して位置づけるものです。空海は、この十住心論において、各宗派の教理と密教を比較し、あらゆる教えの最高位に密教を位置付けましたが、第一住心から第十住心までは、衆生の菩提心が開かれていく様相を示す竪の教判を示すものです。十住心思想の特徴は、すべての住心は密教の機根となるものであるという横の平等思想をも合わせて持っていることにあります。
第一の「異生羝羊心」は、「一向行悪行」という本能に支配されている凡夫の心の様相です。第二の「愚童持斎心」は、「人乗」(倫理・道徳観が芽生える境地)です。第三の「嬰童無畏心」は「天乗」(宗教的生活観がでてくる境地)です。第四の「唯蘊無我心」は色・受・想・行・識の五蘊の仮和合を自覚できる「声聞乗」です。第五の「抜業因種心」は十二因縁を観じて無明と業に因子を抜除できる「縁覚乗」です。第六の「他縁大乗心」は「法相宗」です。衆生救済の利他行の慈悲心を起こすが五性格別をたてる過失があります。第七の「覚心不生心」は「三論宗」です。一切諸法は不生・不滅・不断・不常・不一・不異・不去・不来の八不中道とする空観をたてるが否定面に終始しています。
第八の「如実一道心」が天台宗です。「一如本浄にして境智倶に融ず、此の心性を知るを号して遮那という」これが空海の評です。一仏乗によってすべての人々に仏性を認め、一念三千、空・仮・中の三諦円融の深趣を体得するが未だ縁起因分の境界にあることを意味します。第九の「極無自性心」は華厳宗です。「水は自性なし、風に遇ふて即ち波立つ、法界は極に非ず警を蒙って惣に進む」と空海は評しました。これは事々無碍・万有の当相に無限の理趣を観じる顕教の極意の境界ですが、因分・遮情に止まる段階にあり密教の入門に当たると位置付けられています。なお、事々無碍とは、華厳宗の教義である四種法界「1自法界=事象の領域(アビダルマ哲学、小乗)、2理法界=真理の領域(頓教)、3理事無碍=真理と事象が互いに相手に中に入り込みあっていて妨げがない領域(如来蔵思想の大乗)、4事々無碍=事象と事象が互いに相手の領域に入り込みあっていて妨げがない領域=実際の諸現象は互いに融合していて密接に関連しあっている。これが『華厳経』に説かれている説です。
第六住心から第九住心までは密教の立場から見れば、順次に弥勒菩薩、観世音菩薩、普賢菩薩(『理趣経』の金剛薩埵の内証に当たる)の三昧とされ、密教の統一的な仏身観では普門総徳の大日如来(本仏)の部分的(別徳のある分身)な顕現とされています。第十が「秘密荘厳心」とする「真言宗」です。空海は「顕薬は塵を払い真言は庫を開く、秘宝忽ちに陳じて萬徳即ち証す」と形容して顕教と密教の効能・機能には大きな違いがあると述べています。密教の特徴は、仏の身口意の三密をもって仏の自証の極意“悟り”を荘厳する心(如実知自心)に位置付けるものですが、『大日経』に説かれた如実知自心は、実の如く自心を知ることを証悟した心の段階をいいます。
空海の天台宗に対する評価は、華厳宗の下、三論宗の上、ということです。この教判は空海の『秘蔵宝鑰』と『秘密曼荼羅十住心論』に克明に記述されています。空海は、華天両一乗(天台宗と華厳宗)を顕教の究極の位と評価しましたが、天台を真如門に比定して密教に入るための初門に位置付け、華厳を生滅門に比定して密教の初心に位置付けています。加藤精一著『密教の仏身観』によれば、『秘蔵宝鑰』は、他宗と比較して真言密教の優位性を主張することに主眼が置かれ、『十住心論』は、主として密教体系を網羅するために書かれた教判論であると考えられます。『十住心論』は天長7年(830)に淳和天皇の勅により真言宗の宗論書として提出されたのですが、分量が多すぎて大部の書であったことから、改めて勅を受けて再提出した宗書が、『秘蔵宝鑰』であるとみる説がありますが、この事実関係を決定的に証明できる証拠は提出されてないと考えられます。両書には、下記の視点の違いがあるのです。
『秘蔵宝鑰』と『十住心論』は、数限りないすべての人間の生き方を10種の住心で代表させたものです。空海が『大日経』『金剛頂経』の両部の大経と『大日経義釈』・『釈摩訶衍論』『菩提心論』などを参照して、空海の智慧と実践に於いて創意工夫した論書であると考えられています。『十住心論』の序文に、空海自身が「今此の教(『大日経』の住心品)に依って真言行者の住心の次第を顕す。顕密二教の差別亦此の中に在り。住心無量なりと雖も。且らく十綱を挙げて之に衆毛を摂す」と述べています。顕密二教の浅深差別を「横と竪の十住心」として説いたものである(加藤精一著『密教の仏身観』)と考えられます。
『秘蔵宝鑰』は竪の浅深を主眼とし、前の九住心を顕教、後の一住心を密教とする「九顕一密論」の差別思想の論調がみられ、『十住心論』は横に平等の九顕十密の論調に主眼が置かれていると考えられますが、十住心思想の主張する主眼によって現れた違いであろうと考えられます。両書は、空海在世に、朝廷の命により正式に六宗から提出された各宗の宗論、いわゆる天長年間(824-833)に淳和天皇の詔勅によって各宗が撰述して提出した宗論書、いわゆる「六本宗書」に真言宗の宗論書として提出された論書です。
「六本宗書」とは、真言宗・空海の『秘蔵宝鑰』3巻・『秘密曼荼羅十住心論』10巻、華厳宗・釈晋機が撰した『華厳宗一乗開心論』6巻、天台宗・義真の『天台法華宗義集』1巻、三論宗・玄叡が撰した『大乗三論大義鈔』4巻、法相宗・護命が撰した『大乗法相研神章』5巻、律宗・豊安が撰した『戒律伝来記』3巻、という六宗が天皇に提出した各宗の綱要書(宗論書)です。
十住心の教判は、空海が『大日経』住心品、『大日経疏』『菩提心論』等によって導いた真言密教の教判ですが、その序に「天の恩詔を奉りて秘義を述ぶ」とあり、『秘蔵宝鑰』巻下には「九種住心は自性なし、転深転妙にしてみなこれ因なり。真言密教は法身の説、秘密金剛は最勝の真なり」という空海の印象深い述懐があります。
この空海の十住心論と宝鑰に対して、天台教学を確立した五大院安然(生滅不明、841〜915説がある)が、一切の仏法を円密一致の円仁・円珍の天台宗の教判論を受け継ぎ、一切の仏教を1蔵・2通・3別・4円の四教の上に5密を立て、相伝の教理の中に在る台密の位置付けを明確にし、台密は天台円教(法華経)より優れている、とする『真言宗教時義』(『教時問答』ともいう)を著し、空海が天台宗を華厳宗の格下に位置付けたことを不服として空海の十住心論の天台宗の格付けを批判しています。安然は最澄の血族であり慈覚大師円仁の弟子となって顕密仏教を学びました。また、花山僧正遍昭の弟子となって胎蔵法を授法し、『教時問答』『菩提心義』『悉曇蔵』『大悉曇章』等の諸著作があります。元慶8年(884年)元慶寺伝法阿闍梨に任ぜられましたが、天台宗の重職を務めたことがなく、弟子も少なかったことから詳細な伝記が伝わっていない人物です。五大院の由来は、安然が比叡山東塔の権現谷の上の辺に移住して五大院を構えたことに由来すると考えられていますが、安然の著作は109部222巻にもなるといわれ、50代末頃から60代の前半頃に没したと考えられています。
天台宗と真言宗の宗論の論争の詳細な内容についてはさまざまな支障が考えられ、ここで深く立ち入ることはできませんが、簡単に紹介します。安然は天台密教(台密)という名称を使用せず、真言宗という名称を用いていますが、真言宗という名称は空海が名付けたもので中国にはこの名称はありません。真言宗とは空海の密教を特定する名称であり、台密=天台宗の密教と区別する場合に使う名称が東密(空海の京都の本拠地・東寺の密教)という意味です。安然は、真言(サンスクリット語=梵字・悉曇=真実の言葉)を用いる密教という意味で使用したのでしょうか。安然は、五時五教説で密教を円教(法華経)の上位概念と捉えながら、最澄以来の伝統的な天台説である円密一致説に縛られましたが、あるいは、密教=真言宗という理解をしたのでしょうか。
天台の学匠として著名な福田堯穎大僧正の『天台学概論』から引用すれば、「天台密教は最澄と円仁・円珍、五台院安然によって完成した」「その根本原理は阿字本不生であり、法華経の諸法実相、一念三千論と三諦円融と全く同一の理体とする円密一致である」「但し、四人には教相上の見解に相違がある」「最澄は三密を悟入の手段方法として行法を修するのであり、絶対無相の理を円教(法華経)では中道実相と説き、密教では阿字本不生と説くのである。という見解をとっていたようである」「伝教大師(最澄)の密教は、伝法に於いて未だ十分なものとはいえない面があり、弘法大師(空海)に礼を盡して密教の書籍を借用し、更に弟子を派遣して研究せしめると共に、自ら灌頂(初歩の結縁灌頂)を受けておられる。併し乍ら、弘法大師と袂を分かったのは教理上の見解の相異に基づくものである」「円珍・円仁は、三密(瑜伽行)は本来阿字門の徳用であり大日如来が説いたものであるから大日如来の内証界の行法であり無上真実の法門であるという見解をとっている」「密教は華厳経・法華経などの諸経が説いていない有相三密の事業を説く無上真実の法門であり、密教は円教に優れているとする(円仁・円珍が説いた)理同事勝説の台頭を見るのである」「円仁・円珍の理同事勝説は東密の学説の影響を受けたものではない」「五大院安然は、東密の所説に論破を加えると同時に、逆に東密の学説の影響を受けたことが見受けられる」「天台の学者は皆な(五大院安然の)此書を指南に仰いでいる」という天台密教の在り方の概要が分かります。円仁・円珍の両人が空海の東密学説の影響を受けていないとわざわざいっているのは、両人は直接に中国に留学して(本場の?)密教を学んだことを強調しているのですが、空海は正当な密教の正嫡であり、付法の第8祖であり、真言密教の完成者なのです。ちなみに、中国密教は既に消滅して存在感が全くありませんが、今日に微かにみられる中国の密教復興の運動は高野山真言宗の協力と指導・育成によるものであると考えられます。
安然の『真言宗教時義』(『教時問答』)が、後世の東密批判をする台密学僧に援用され続けたことから、安然の空海批判に対して、東密側には200年間も具体的な反論をしてこなかったという反省が生まれ、これを契機として、東密側から安然と円珍の二人に批判が集中するようになりました。台密の学僧は、安然の「仏身論」(「四身互具四身説」)が空海亡き後に停滞していた東密の教理論に刺激を与えて東密の学僧(観賢・仁海・定深・信証・実範)などに影響を与えたとする論を主張しています。安然の仏身論は、自性身=理、受用身=智、変化身=用、等流身=事とし、四種身に徳性を認め、四身が相互に関連する構造になっています。これに対して、東密の教理の中興の祖とされる覚鑁の遺志を根来寺に継承した頼瑜(元高野山及び根来の両大伝法院の学頭・1226-1304)は、安然・信証・実範の仏身論の説は空海の『秘蔵宝鑰』を継承したものであると見做しています。安然の理論構成の基幹部分には、空海の智と実践の真言密教の教理論を導入しなければ再構成することができない要素を持っていると考えられます。しかし、東密と台密の学僧は密教に軸足を置く立ち位置が異なります。自宗の宗論を信じて受け入れ、他宗の宗論を批判の目で見る気風を押さえることが難しいのだと考えられます。
台密の主張を受け入れた研究者の中には、「覚鑁の曼荼羅思想を見る限りでは、空海教学の徹底化を想定したものとは考えにくく、寧ろ密教教理の中に法華一乗や天台教学をも包摂した台密説の意義付けにその中心があったと考えられる」という説、また、「空海が追善供養に『法華経』を多用したとして、空海は『法華経』の一乗思想を滅罪と抜苦に抜群の効果がある経と位置付けた」とする説がありますが、驚きを禁じえません。この論者は、空海の真言密教と台密の円密一致説との根本的な相違の区別が理解できないのだと考えられるのです。この研究者の主張は、節度のない我田引水の説だと考えられます。決定的なことは、東密と台密の教理には法華経の重要度の認識がまったく異なるという根本的な相違点があることです。古代、聖武天皇の「国分寺建立の詔」により、全国に国分寺(僧20人)と国分尼寺(尼僧10人)が置かれましたが、国分寺は『金光明最勝王経』・『法華経』・『仁王教』の護国三部経により鎮護国家の役割を期待され、国分尼寺は『法華経』による「法華滅罪の寺」としての役割を国家の為政者から期待されていたのです。東大寺が総国分寺、法華寺が総国分尼寺でした。ゆえに、空海は、当時の人々に密教を知らしめる方便として『法華経』の語(ことば)を援用し、これを解釈することによって深遠な密教に導入しようとしたのだと考えられるのです。
空海は承和元年(834)東大寺真言院で『法華経』を経釈し、天長6年(829)平城京西寺会で『法華経開題』を講説しましたが、この中での主題は『法華経』(顕教)を賞賛することではなく、人々を密教に導入する方便として、人々が認識していた法華経観を導入部として用いていると考えられるのです。具体的にいえば、空海が天長年間に集中して著した『開題』は、法会の場での講演内容の原稿と考えられ、各経典の題名に関して経典を構成している語を解析し、その語の密教的な意味を解釈して解説しているものです。教典全体を解釈して解説するものではありません。この『開題』類の特徴は、空海の密教観である三部・三密・三大や五部・五大・五智、顕密の浅深、四種法身や四種曼荼羅というキーワードに訳して経典・経文の解釈を行う方法論と考えられます。主題は顕教と密教の違いについて言及することにあると考えられます。空海は、三眛耶の意味を顕密に分け、法華経と密教の三昧耶(誓願)の解釈の違いについて、密教は三眛耶を身口意の三密平等を明かすことばであると捉え、如来と衆生が相互に渉入し摂持しあうという三密平等を原理とする加持概念を示し、三眛耶と入我我入(三昧)が無碍渉入する「ことば」とする解釈をしているのです。空海の真言密教の教理の構築においては、空海は『華厳経』を密教への導入・入門編として関心を示しましたが、『法華経』にはその必然性が全く認められないところから関心を示していない、といっても過言ではないのです。この説の論者は台密の円密一致説の影響を受け過ぎて縛られていると考えられます。
高野山の実範が『大経要義鈔』を著し、根来寺の頼瑜が『大日経疏指針鈔』を著し、東寺の杲宝が『我慢鈔』『杲宝私抄』等を著し、同じく高野山の宥快・印融などはこぞって安然と円珍を批判しています。特に、実範は『大経要義鈔』に安然の批判に解説を加えながら各個に反証を加え、安然が空海を批判する根拠とした諸経典や諸論書の考え方や解釈の仕方が失当であるとする反論を詳細に論述しています。
円珍(814-891)が東密の批判の対象になったのは、教理面ばかりではなく、比叡山の座主・台密の権威であったこと、天台の名僧の評価が高く、清和天皇や藤原義房など殿上の貴紳に灌頂を授け皇太后・明子の護持僧となった人物であったことの影響が考えられます。特に、円珍が空海の『十住心論』を批判して、空海密教に多大な影響を与えた『華厳経』を『法華経』の格下とする天台特有のバイアス教理論を主張したことにあると考えられます。日本天台の人師であった円珍が、中国仏教界が認めた華厳教学を大乗仏教の頂点(円教)とする定説を無視し、密教と結合される『華厳経』を円教から除外し、法華経を真言密教の両部大経と同格とする牽強付会の説を比叡山に蔓延させたことにあると考えられます。
密教と円教を同質とする説は、中国・遼の時代に澄観(738-839)が『大日経疏』の思想的解釈を華厳によって行い、華厳に密教の行法を積極的に取り入れたことを端緒とするものでした。澄観は華厳宗だけでなく、天台宗、三論宗、律宗、禅宗を兼学した人物であり、清涼国師に任ぜられ、中国華厳宗第4祖(五台山清凉寺が本拠)となった碩学です。澄観の「四法界説」が密教に影響を与えていますが、澄観は円教に「円教としての密教」と「顕教としての円教」の二種を認め、円教に密教を包摂し、顕密の教理的同質性を主張しました。しかし、実践においては密教の優位性を認め、密教を最高とする華厳と密教の近似性を認めたのです。ところが、中国では円教を自認する華厳宗と天台宗は相互に否定しあうライバル関係にあり、相手方を否定する対立姿勢があったのです。この意識は日本の華厳宗と天台宗に引き継がれ、特に、法華の側から『法華経』と『涅槃経』は密教と同質性があるとして、意図的に華厳を貶めて格下にしようとするバイアス教理が主張されてきたことには注意が必要です。この主張は、天台の五時八教説に組み込まれ、比叡山の独善的な教理論となっていることは周知の事実です。
円珍(智証大師)は、空海の姪の子であり、空海と血縁関係にあり幼少から経典に触れる環境に育ちましたが、空海に弟子入りせず、叔父の天台僧・仁徳(和気氏、最澄の弟子)に従って上京し比叡山の義真に師事して12年籠山を行いました。役行者の後を慕い大峯山・葛城山・熊野三山の回峰修行を行って天台寺門派・三井修験道(円・密・禅・戒+修験の兼修)の起源とされています。幼年期から周囲の人々に聞かされてきたであろう若き日の空海が山林修行の中で培った密教的センスの形成過程の追体験を意識したのかもしれません。延暦寺の学頭を務めた後、すでに遣唐使は廃止されていましたが、入唐を決意して新羅商人の船で渡海し唐商人の船で帰国しましたが艱難辛苦の厳しい留学でした。密教を受法し入唐八家(空海・常曉・円行・恵運・宗叡の五人は真言宗、最澄・円仁・円珍の三人が天台宗)の一人となり、第5代天台座主となり、園城寺(三井寺)を賜った人物でした。ところが、円珍の法流は、密教と法華経の優劣の解釈において円仁の法流と対立して妥協せず、密教優位説(密教>法華経)を曲げなかったことから円仁の法流から武力によって比叡山から排斥されましたが、園城寺を本拠地として独自路線を堅持しています。
安然は『教時問答』に、空海の十住心思想には5種の視点の過失があるとする主張を展開しています。1『大日経』及び『毘慮遮那成仏神変加持義釈』に違う過失、2『金剛頂経』に違う過失、3『守護国界主陀羅尼経』に違う過失、4『菩提心論』に違う過失、5衆師(諸師)に違う過失です。安然が主張した空海の教判に対する批判の動機は、天台宗を華厳宗の格下とする空海の評価を不満として、真言宗、華厳宗、天台宗の序列を変えたいとする論調に見られます。安然の意図は、空海の九顕一密説による天台宗の評価付けを変えさせたい、とする批判姿勢に読み取れるのです。
安然説に対し、高野山の学僧・実範(生年不詳〜1144)は、安然の批判は『大日経』等の教説を捻じ曲げる説であると否定し、東寺の学僧・杲法(ゴウホウ・1306-1362)は、「顕教と密教の区別の問題(真実の一乗の教えを説くことができるのは密教なのか、顕教=法華経なのか)(顕教と密教とが到り着く究極の悟りが同じものか、違うのか)」「(仏身論の)教主論の問題(『法華経』の久遠実成の本門の仏が密教の本地身と同一といえるのか)」「密教相承の問題(空海以来の真言密教側に真実の密教の法の相承がなされている)」をあげて詳細に検討し、密教の法身・大日如来と『法華経の』教主(応化身=釈迦如来)の同一化を図ろうとする安然説を批判しています。円仁・円珍・安然の説は、『法華経』にこだわりを持ち続けたことから、まだ顕教の段階に留まるものであり、台密は顕教に位置付けられる法門に過ぎないという批判です。
円珍の『大毘慮遮那成仏経指帰』を援用した安然は、華厳宗とは極無自性心において同格であるが法華経は円教であり、華厳経は円融を説くが別教であるから天台が勝り、天台は久遠実成と二乗作仏を説くが華厳では説いていないと反論しています。これは、天台の教理である「五時八教説」に基づく格付けによる主張です。この説を再整理した安然の「五時五教説」では、密教を頂点とする法華経と涅槃経の格付けを再整理し、一切の仏教を密教を中心に統一する一元論を説き天台教学を大成したのでした。安然説は、天台の教理を止揚して修正する見解であると考えられます。詳細は「(27)中期密教の成立(東密と台密)」を参照して下さい。
また、一方で安然は、『法華経』と『涅槃経』は仏性一乗の趣旨を明かすので「如実知自心」の心の相を表すものであり、大日如来の内証を表す真言宗と天台宗とは同列であるという主張をしています。これに対し、実範は『毘慮遮那成仏神変加持経』に説かれる仏性一乗如来秘蔵には、浅略・深秘の二種があり、如実知自心の一句には竪に十重の浅深があり、浅略を第八住心、深秘を第十住心としたのである」という反論しています。実範は、安然の論難の見解を四種に大別してまとめ論証形式をとって安然の見解について個別に反論しています。その結論をまとめて紹介すれば、実範は、安然の批判こそが『大日経』の教説を捻じ曲げたものであり、安然の論難は却って安然の視点に矛盾を生じさせているものである、と批判しています。
安然は、円仁・円珍が請来した台密の教理である円密一致説を正面に立て、密教で説くところの一乗はあらゆる顕教が説く一乗を全て摂め含めるものであると説いて東密の教理に対抗したのですが、密教と法華経や涅槃経の教理を同一視する立場では、大乗仏教の教理を包摂して大乗仏教の到達点に成立した真言密教(東密)に対抗することは困難であったと考えられます。杲法(1306-1362、東寺伝法会学頭、東寺三宝「頼宝(師)、杲法、賢宝(弟子)」といわれた碩学)は、安然の説は大日如来自内証の法門の中の一部分の説を説いたに過ぎないと批判しています。
教時問答にみられる安然の理解は、一教=一大円教=顕密を包摂する教え、とするものであり、一道=真言門と置き換えて解釈しているところから、用語の整理が必要だと考えられるのです。空海は一道無為住心を「深秘の義としての法門を観自在菩薩の三摩地門とし、本来清浄の理を一道無為と名づけ、さらに一道を一乗と名づけ仏乗とする」といっているのですが、安然は一教を一道と解釈し、一道を真言門と置き換えて解釈したと考えられます。この論点は、台密と東密の「仏身論」という難解な教理について比較検討しなければなりませんが、ここでは言及できません。空海の密教観の影響を受けた安然は、1密教の正嫡・空海に対する劣等感、2最澄の法華経観の束縛、という二つの心理的な影響を受けざるをえなかったのではないかと考えられるのです。
『教時問答』には、空海批判ばかりではなく安然の密教に対する真摯な思いが記述されています。その冒頭の第一問答には、「真言宗(安然が考えた密教)は幾ばくの教時をたて、三世十方の仏教を判摂するや」という問いに対して、「真言宗は一仏・一時・一処・一教を立て、三世十方の一切の仏教を判摂す」と四つの視点から絶対的な「一」を構築して「一即一切」という「四一教判」を示しています。天台の五時説(華厳・阿含・方等・般若・法華涅槃)、『維摩経』の一音(一時)説、『般若経』・『法華経』・『涅槃経』に説かれる声聞・菩薩の二時説、『無量義経』の四時説、『涅槃経』が説く、乳・酪・生蘇・熟蘇・醍醐の五味(時)説は衆生の機根に従った説であり、如来常恒不変の説ではないとし、毘慮遮那如来(大日如来)の説法が応に一切時であると結論付けています。
また、即身成仏の義について『菩提心論』を援用して、「今真言行の菩薩は己に二乗の地を越え、亦十地の菩薩の境界を越え、乃至凡より仏位に入る者なり。即ち此の三摩地とは、又云く、唯真言法の中にのみ即身成仏するが故に是の三摩地法を説く。余教の中に於いて闕して書せず(密教以外の諸経には書いてない)。又云く、若し人仏慧を求めて菩提心に通達すれば速やかに大覚の位を証す。」この文言を援用していることに、安然の密教に対する複雑な姿勢の揺れを感じます。比叡山には開祖・最澄の法華経観の縛りを受けて、法華経の優位性を信じる勢力が隠然と存在しており、『菩提心論』(竜樹著・不空訳と伝承、密教の即身成仏の優位性を説く。)や『釈摩訶衍論』(大乗仏教の中心思想を理論と実践の両面から要約している如来蔵思想系の『大乗起信論』の解説書。華厳教学を背景に成立したと考えられ、真言密教と一般大乗仏教を峻別する。)を否定する勢力があるのです。しかし、この姿勢は、台密の教理をも同時に否定する矛盾をはらむものであると考えられます。
安然の教判は、顕教=三乗、密教=一乗と考え、『華厳経』・『般若経』・『維摩経』・『法華経』・『涅槃経』を唯理秘密の一乗教に比定し、『大日経』・『金剛頂経』を事理倶密の一乗教として、華厳経と法華経は同等の密教であると位置付け、事理の違いがあるが天台は密教の範疇に入るとするものです。安然は、『大日経』の本地身(大日如来)を『法華経』所説の本門の仏(久遠実成)と同一の仏身であると考えています。この『大日経』は本地身(自性身)の説であり、『法華経』の久遠実成の本仏の深秘を明かすものであるという考え方は、法華経が抽象的にしか表現できなかった久遠仏を大日経が具体的に述べているという観点でみれば正鵠をえたものと考えられます。しかし、『法華経』の久遠実成の本仏は報身であり、『大日経』の大日如来は法身です。両者の仏身観には同一視できない相違点があるのです。安然説は、善無畏三蔵(637〜735)の説を一行禅師(683〜727)が『毘慮遮那成仏神変加持経義釈』に『大日経』は『妙法蓮華経』の最深秘密の処を明かすと記述し、これを継承する智儼・温古が『大毘慮遮那成仏経疏』に同旨を述べていること、円珍が『大毘慮遮那成仏経指帰』に同説を言及していることを援用したものと考えられます。これが最澄の円密一致説を補強するために、中国に留学した円仁・円珍が天台宗に請来した法華経と密教の一致説の背景にある諸論と考えられますが、東密の仏身論とは根本的に異なる見解です。
東密の仏身論は、空海の『辨顕密二教論』に顕教と密教の峻別として表わされています。「他受用身・応身(釈迦=法華経の教主)が衆生の機根に応じて説いた説法を顕教」とし、「自受用身・法性身の仏が自らの内証の境界を明かす教法を秘(密教)と名付ける」がこれです。この説は、『略述金剛頂瑜伽分別聖位修証法門』には、「如来の変化身は十地以前の菩薩と、声聞・縁覚・凡夫等のために声聞乗・縁覚乗・菩薩乗の三乗の教法を説き、他受用身は十地以上の菩薩のために顕教の一乗等を説くのである。これらはすべて顕教である。」と述べられ、他方、「自性身ならびに自受用身は自ら体得した法を享受するために自らの眷属とともに三密門の教法(如来内証の悟りの境界)を説くのである。これを密教という。」と述べられていますが、これらは同一の見解であると考えられます。
不思議なことに、安然の主張には空海を批判しながらも空海の真言密教を認め、更に深化しようとする姿勢が見えることから、東密側には手厳しく批判する敵対心が薄かったと考えられます。東密の立場は、『大日経』の翻訳者、『大日経疏』の著作者である善無畏(637-735)を疏家といい空海を宗家と呼称するなど、密教相承の正統性と正当性を自認していたのです。また、東密(真言密教)は、その教理の殆どを空海がすでに完成していたことから、活動の中心がニーズがあった事相(実践)の加持祈祷などを重視する傾向が続き、院政期から鎌倉期まで教相(教学)振興の学風がみられない風潮に染まった時代が続いていました。空海滅後の東密教学が平安期から院政期まで沈滞していた頃、一方の台密は安然に刺激を受けて教学の振興期を迎えましたが、この間、東密に対抗できるまでの影響力と存在感を示したのです。
しかし、台密の実導仁空(1307〜1388)が『義釈捜決抄』の中に「爾より以来、二百余年、東寺の門人返破の人之無しか。彼の門人の後生の中に実範と云う者あり」と書いたことで、台密に対して初めて反論した者が中川実範であることが分かり東密の学匠を刺激しました。安然は、天台宗を真言宗の上位に位置付けようとはしませんでしたが、せめて同格に持ち込みたいとする強弁の解釈に終始しています。また、華厳経と法華経を同格とする説を展開しながら法華経の優位性を述べて華厳経の上位に位置づけようとしました。安然は、一心一心識の立場で現象世界をすべて隨縁真如として肯定することで衆生も国土も同一の法性(如来随順覚性)であること、地獄も天国も皆な浄土であることを示し、現象世界の絶対肯定を説く天台本覚思想に多大な影響を及ぼした人物でした。
実範の登場で東密と台密の批判の応酬が活発になり、双方から批判の論書が出ていますが、天台の宗論の在り方と真言宗の宗論の違いには、最澄と空海の密教の認識に根本的な相違点があることから始まるものであると考えられ、双方とも偉大な開祖の考え方に固執せざるを得ない立場にあったのであろうと考えられます。
空海は、最澄が純粋密教の本質を理解する基礎知識が十分でないことを知悉していた人物であり、円密一致説を完全に否定する立場を取っています。空海は、『大日経』の本地身を実仏とし、『法華経』の久遠実成の仏を権仏としています。空海の説は、仏身観の浅略・深秘を峻別するものであり、天台宗を浅略趣(諸経の中の長行と偈頌=病の原因・病理を説くだけで治癒の実効がない教え)とし、真言宗を秘密趣(諸経の中の陀羅尼=薬を病の原因に応じて調合して疾患を消除できる教え)とする教判です。円密一致説は空海の仏身観では考えられない説なのです。
生前の空海と最澄に対して教判論の疑問点について物申した論師は唯一人、法相教学の大家である徳一のみでしたが、徳一は最澄との間で終生の熾烈な教相上での争い「三一権実論争」などを続けた法相教学の大家として知られています。徳一は興福寺の修円(771-835)に師事して法相の唯識思想を学び、東大寺に住した才解俊逸の比肩する者がいないと評された法相教学の専門家でしたが、奈良仏教の範疇には無かった空海の密教思想に対する疑問点を11問にまとめた『真言宗未決分』を著して、空海に提示した人物でもあります。この各説問の内容は、空海の密教の本質を把握する上での重要な基準となるものであったと考えられますが詳細は省略します。この疑問には未決着のままになっているものがありますが、空海が徳一に宛てた書簡(『高野雑筆集』巻上に収録)に「秘蔵の法門・・・衆縁の力に乗じて弘揚せんと思欲う」として、「空海が陸州徳一菩薩<法前>謹空」と書いて、密教経軌の書写を徳一に依頼して協力を求めていること、徳一はこれを応諾していることから、空海と徳一の人間関係は円満であったと考えられます。空海は南都六宗の諸宗大寺とは良好な友好関係を保ち続けていたことから、徳一が人々から大師や菩薩と呼ばれて尊崇されていた事情を知っていたのです。一方の最澄は南都六宗と終生に渡り法門上の論争を続けましたが、結局、決着はついていません。これが空海と最澄の南都六宗との交友関係の在り方の大きな違いであった、と考えられます。詳細は(21)-2大乗仏教(宗派の特徴と抗争)、(21)-3大乗仏教(宗派の論争)を参照願います。
最澄と徳一の教義上の争点は1経論の価値及びその撰述に関する問題、2実在と現象の問題、3仏性論の問題、4仏身論に関する問題、5実践修行論に関する問題、であったと五種類に分類されています。両者の論争は法相と天台の単なる宗派の論争に止まるものではなく、当時の仏教思想の全般に及ぶ広範囲な論争であったと考えられています。最澄は最晩年に『法華秀句』を著して徳一批判を展開していることから、この論争は最澄の重大関心事であったことが分かります。晩年の徳一は、朝廷から左遷を受けるなど不遇な境遇を受け入れていますが、最澄の政治的な手腕によるものであろうと考える説があります。
この他には、空海に教判について正面切って挑んだ人師・論師はいませんでした。空海に対して、真言密教の教判を批判して対抗できる能力を持った僧はいなかったと考えられます。安然は比叡山の劣等感を払拭したい心意気から、せめて天台宗を華厳宗の上に位置付けようとする動機を持って、空海が援用した諸経典や諸論書の文言の解釈論に対して、文言解釈の多様性を駆使して牽強付会の論を展開せざるを得なかったのであろうと考えられます。安然の『教時問答』の著作は、空海の真言密教に対する比叡山の劣等感の払拭を試みた自尊心の現れであったと考えられるのです。
空海が認識した諸宗派は、法相、三論、天台、華厳の「四家大乗」と呼ばれる顕教ですが、空海は、仏教教理は華天(華厳宗と天台宗)両一乗と真言(密教)に尽きていると考えています。また、仏教哲学を実相論と縁起論の二大系統に分ければ、三論と天台は実相論に、法相と華厳は縁起論に属すると考えています。鎌倉時代に出現した禅、浄土、日蓮の諸宗は、空海が直接に認識した宗派ではないのですが、天台宗の諸宗兼修の中で芽吹いた新興宗教です。仏教哲学は華厳と天台の両一乗と密教に収斂されるところから、鎌倉新仏教の教理もこの範囲内に収まるものであると考えられます。
鎌倉期の日本仏教は、大乗仏教の教理を受け止める冷静な姿勢に欠けていました。いわゆる鎌倉仏教の登場は、末法思想に驚愕して冷静な批判の精神を欠いた祖師たちの終末思想の一つの理解の受け入れ方と、その不適切な対処法が日本的情緒(?)を大量に埋め込み、いわゆる庶民仏教の顔をもって登場したことにあると考えられます。インド、中国、朝鮮半島ばかりではなく、東南アジアの仏教国のどの国にもない日本的情緒(?)が突出したものだと考えられます。いわゆる文学的領域内でしか語れない不思議な理解の仕方であり、この日本的(?)、民族的(?)な宗教性を諸外国の学僧に理解させることは困難を極めます。民族を超えた普遍性(真理)を内包する教理を持つことが宗教に求められる必須の要素と考えるのであれば、鎌倉祖師仏教には普遍性が欠落していると考えらるのです。比叡山には、新たな思想や実践法が芽吹き育つ環境があったと考えられます。自然科学の分野であれば、これは長所とも考えられますが、教理と実践がすべてを左右する宗教の世界では大きな短所になります。最澄の宗教観に背を向ける新興宗教が比叡山に芽生え育っている事実がこれを証明していると考えられるのです。
天台宗は、円仁、円珍、安然の研鑽の努力によって、天台密教(台密)の教理論を完成の域に押し上げ、空海の真言密教に対抗する勢力となりながら、最澄の法華経と密教の一致説の束縛から脱することができませんでした。宗祖最澄の宗教観を変えてしまう不敬を許容する雰囲気が比叡山には生まれなかったと考えられます。しかしながら、四宗兼修のあり方を適正に制御できなかったことから、教理論の整合性を維持することが次第に不可能に陥ったことが考えられます。
真言宗は、宗祖弘法大師空海が真言密教の教相(論理)と事相(実践、行法)の完成形を示したことから、その後継者は空海の著作、行法を正しく理解し実践することが全てでした。ゆえに、後継者たちは、修行の実践内容が明確であり、異論、空論が育つ素地がなく、異なる思想が芽吹き育つ環境がありませんでした。空海以後に新たな教理の発展がなく、新興宗教の祖師となる者が出現しなかった理由でもあります。 
祖師仏教の特徴

 

伝統的な釈迦の教えを研鑽する部派仏教の教団の中から大乗仏教の精神に目覚めた一派が萌芽したとみる視点が近年の有力説になっています。この中に、釈迦の禅定の内容を様々な視点から追体験を試みる名もなき無名のブッダたちが相次いで大乗経典の編纂事業の競合を始めたことが考えられています。従来の教団の在り方に不満を抱き続けていた大乗思想の新進グループが興起し、様々な視点を研究して釈迦の禅定の悟りの内容の追体験を試みる機運が生じたのです。
釈迦仏教の出家修行者は、僧伽(サンガ)の中で、苦しみの源である煩悩を消し去る瞑想に没頭する修行に努めました。世間から隔離されたサンガの中に入り、労働などの社会生活と決別して、煩悩を生む契機をとなる迷いの元を断ちきり、涅槃(ニルヴァーナ)に至る瞑想をひたすら続けたのです。この瞑想は「自分自身を救いの拠り所」として「自分の力で道を切り開く(自己鍛錬)」修行の一端であり、貪・瞋・痴の三毒を克服して、六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)の輪廻転生から離脱する悟りを獲得することを目指すものでした。いわゆる、苦しみが生じるメカニズムを断つことを修行の目的としたのです。
大乗思想に目覚めた一派は、従来のサンガ修行の在り方を否定し、外部には不思議な力(パワー)が存在し、その「不思議な力が救いの拠り所になる」と考る発想の転換をしました。「日々の善行を積むことが悟りのエネルギーにつながる」とみる思想をもったのです。仏伝には、釈迦が悟りを開いた特別な修行方法は書かれていません。修行者たちは、「釈迦の悟りの内容は、釈迦の禅定を追体験することにより可能ではないか」と考えたのですが、この考え方は、やがて「在家でも悟りの修行が可能である」「誰にでもブッダへの道が開かれている」と考える大乗思想を形成することになります。ちなみに、南伝仏教には、釈迦の過去世(前世)には悟りを開いた契機があったに違いないと考える一派が現れ、釈迦の過去の修行を輪廻転生の視点で様々に忖度した釈迦の前世譚「ジャータカ物語」を編纂していますが、現在の各国でも出版されて読まれています。
大乗思想の萌芽の動機は、古い仏伝の経典に「声聞たちは悟りを開いて阿羅漢になった」と書かれていますが、「菩薩の自覚を持って修行した」とか、「菩薩の悟りを開いてブッダになった」とかは書かれていなかったことから、大乗の精神をアピールする新たな視点を追加する必要性があったと考えられます。大乗の名も無きブッダたちは、釈迦の禅定の悟りの追体験を続ける努力によって、釈迦の悟りの内容が体験できるはずだと考えたのです。いわゆる大乗仏教の精神の歴史はここから始まったと考えられます。
『般若経』は、声聞乗、独覚(縁覚)乗、菩薩乗の三乗を分けて、別の道から悟りに至る道を模索しています。この発想の転換は、釈迦の教えを認めながらも、それとは別の道があることを示そうとするものでしたが、仏説と大きく乖離する説ではありません。しかし『法華経』は、「釈迦の教えを信じ修行している声聞、独覚(縁覚)は、実は菩薩である(一仏乗思想)」と主張した一点において、釈迦の教えと矛盾することになります。『法華経』は、この難点を乗り越えるために、古伝の「釈迦の初転法輪は実は方便であった」とする書き換えを行い、『法華経』の各品(特に「方便品」「寿量品」等)を再編集して書き換えを図り、「実は釈迦が久遠の過去において成道したことを舎利弗に説き明かしている(発迹顕本)」という加上を施した、と有力説では見ています。
再編集者たちは、「三乗の真実が実は一仏乗であった(開三顕一)」ことを明かすという手法を導入し、初期『涅槃経』や『阿含経』などの古い仏伝が伝える初転法輪は方便(人々を真実の教えに導く仮の手段)であったとして否定する手法をとりました。ここには、釈迦仏教との整合性を図るための加上が行われたことが論理的に明らかに見えます。(『涅槃経』には二種類がある。「自性清浄心」を説き法華経の「本覚思想」「如来蔵思想」に多大な影響を与えた大乗『涅槃経』とは別のものです。)
『般若経』は、大乗仏教の萌芽を広く知らしめ、普遍的な大乗の精神(空の思想)を論理的に語る600巻の膨大な経典群で構成されている特徴的な大乗経典とという位置づけがありました。『法華経』が『般若経』を何としてでも越えたいとする願望が動機となったことが透けて見えるのです。
大乗仏教の空観を説く『般若経』の諸経典群(特に『般若心経』は、般若経群の論理性を見事に要約できるスキルを持った再編集者たちの努力の結晶が考えられる)や、『法華経』など様々な大乗経典が経典の受持による功徳を説いています。ここでは経典護持の功徳や恩恵を期待できるものとして呪文(真言)を用いていますが、これらはインド仏教の中に発生した密教的要素である陀羅尼(呪文・真言)信仰が中国仏教に与えた多大な影響が引き継がれたものと考えられます。
空の思想を説く般若経典群600巻の最終形は、大乗仏教の到達点に現れた『金剛頂経』(『真実摂経』)に見事に収斂されています。サンスクリット原典の経題(訳)は「一切如来の真実を摂めたものと名付ける大乗教」ですが、不空訳の経題では『金剛頂一切如来真実大乗現証大教王教』とされたことから、中国、日本では『金剛頂経』(『真実摂経』)と略称しています。
ちなみに、『大日経』の正式な漢訳名は『大毘慮遮那成仏神変加持経』といいます。しかし、この題名の「神変加持」は善無為の意訳と考えられます。他にこれと異なる翻訳名があることから、この善無意訳はインドの原題名が中国人の感性に受け入れられないリスクありと見て、中国人が受け入れやすい意訳をしたのではないかとの疑いが考えられます。インド仏教をそのまま継承したチベット後期密教に伝承された『大日経』(通称名)との文言の比較検討が必要な範疇にあると考えられます。この両経が、空海の真言密教では「両部の大経」と呼称されました。『理趣経』は、金剛頂経第十八会の第六会中の部分訳ですが、金剛智三蔵は『金剛頂瑜伽理趣般若経』と訳し、不空はこれを『大楽金剛不空真実三摩耶経・般若波羅蜜多理趣品』と訳しましたが、真言宗では不空訳を採用しています。
同じく、本有(「理」=衆生には仏性がある)を主とする大日経(胎蔵界=慈悲)と修生(「智」=修行によって煩悩を除くこと)を基本とする金剛頂経(金剛界=智慧)を金胎両部不二(而二不二)とする理智不二の深義を説く『瑜祗経』の正式名は『金剛峰楼閣一切瑜伽瑜祗経』(金剛智・訳)です。これらは、大乗の論書や解説書を読み込んだインド大乗仏教のブッダたちによって7〜8世紀に編纂された完成度が高い密教経典です。いわゆる、大乗仏教の思想の到達点にあらわれた中期密教経典です。一般的に、大乗仏教(顕経)の経典は「教」が主に説かれその具体的な実践修行の方法の記述がほとんどありませんが、密教経典は「教相(教理)」と「事相(実践)」の具体的な探求が両輪となり、一体化されて論理的に記述されている特徴を持っています。
11世紀に編纂されたチベット後期密教の諸経典は、中央アジアや中国を経由すること無く、インドからチベットにそのままダイレクトにもたらされた完成度の高い密教経典と考えられます。この特徴のなかには、チベットにおいて土着のボン教と習合した特殊形態(性的儀礼)が異彩を放っています。この特殊儀礼は、本質的には高度なレベルに達した選ばれた密教僧が瞑想の中で行う特殊な観法であり、様々な行法の中の特殊形の一つですが、興味本位の視覚的なリアル性の標的にされる悩ましさが指摘されてきました。この人々の興味本位を刺激する悩ましさを中国、日本の中期密教(いわゆる正当密教)が忌避してきたことは事実です。しかし、「誤解されやすい儀礼内容」を正すこと、問題視する人々を納得させることは本質的に不能でした。この行法は秘中の秘であり、そのレベルに達していない人々に、密教の神秘な行法を納得するまで説明することはできないのです。この行法は特別な密教僧の瞑想の行法であり、特別な資質、能力が必要とされているものなのです。希望すれば誰もが許されるものではなく、資質と能力を認められた特別な密教僧のみが許されるのです。チベット密教でも密教修行を許される僧は一握りのエリート僧だけであり、大半は大乗仏教を学ぶだけで終わるといわれているのです。だれでもが許される行法ではありません。チベット後期密教はインド仏教の最終形を示すステータスの位置づけにあるのです。詳細は(28)後期密教の成立(チベット密教)を参照して下さい。
法華経が説く修行のあり方は、法華経を「受・持、読・誦、解説、書写」することです。しかし、これはどの経典であっても何ら変わることがない基本形であり、法華経の固有の特徴とはいえません。法華経の結論ともいうべき功徳は、「薬王菩薩本事品」「妙音菩薩品」「観世音菩薩普門品」「陀羅尼品」(真言=神々の守護の呪文)「妙荘厳王本事品」「普賢菩薩勧発品」(法華経の結経)の6章に明確に書かれています。いわゆる法華経の結びの章ですが、ここには、諸難に耐え忍んで法華経を受持した者には、諸菩薩が守護者・救済者となって救いの手をさしのべる誓いが明示されています。
法華経が信奉者にさしのべた救いの手が意味するものは、救済者・加護者に対する称名と陀羅尼(真言)によって、攘災と加護(功徳)の功徳が約束されるということでした。救済と加護は、仏・菩薩の陀羅尼(真言)を唱えること(称名)によって、その恩恵が受けられるという思想です。『法華経』の経題(南無妙法蓮華経)を唱えることではありません。
「薬王菩薩本事品」は「寿量品」から「嘱累品」までの虚空会という異次元の世界からインド霊鷲山に舞台が移し替えられて法華信者の守護菩薩たちが登場する最初の章です。ここでは、多くの求法者に法華経を説いた菩薩がその報いによって薬王菩薩となり、薬王菩薩の献身的な物語を信じる者は心身清浄にして無限の恩恵を受ける身となることを世尊が語る設定です。
法華経には「二処三会」(1前・霊鷲山、2虚空会、3後・霊鷲山)という場所で世尊が説法したという舞台設定がされており、前後の(インドの)霊鷲山の間に虚空会という心象世界が設定されています。この中の「従地湧出品」には、法華経にしか書かれていない夥しい地湧菩薩(そのリーダ格は上行・無辺行・浄行・安立行の四菩薩)が世尊の眷属として地下から湧出す設定があります。また、「寿量品」で久遠実成を説法し、「嘱累品」に世尊が地湧菩薩たち一人一人の求道者に伝道の委任をする設定がされています。しかし、ここには、四菩薩の上首・上行菩薩が久遠実成の釈尊の再誕とも、法の結要付属を受けたとの記述は全くありません。そもそも永遠不滅であるべき「久遠実成の釈迦如来」の再誕説が起こる論理的な必然性が全くないのです。日蓮系宗派は、祖師日蓮の法華経解釈に束縛されて、天台密教のように(永遠不滅の)釈迦如来=大日如来(大毘盧遮那仏)と言い切るだけの論理的な整合性が感じられないのです。
この虚空会の説法儀式は、奇想天外の舞台設定が施されており、日蓮系の捏造解釈がまことしやかに語られていますが、これが2世紀頃に編纂されたとする初版の法華経の思想性とは考えられません。後年に教相判釈にこだわった人々が釈尊の久遠実成の根拠を挿入するために加上して再編集したものと考えられます。
また、「陀羅尼品」には法華経の伝道者には守護の呪文(陀羅尼)が説かれ、毘沙門天、持国天、十羅刹女、鬼子母神の法華守護の諸天部から呪文が贈られていますが、世尊(釈尊)が法華修行者の守護を命じた、という形式をとっています。
「妙音菩薩品」には、変化自在の姿をとって出現する妙音菩薩は34の姿をとり法華経を信じる者を庇護することが説かれています。
法華経の最終章(結経)である「普賢菩薩勧発品」には、法華経を信じる者には白像に乗った普賢菩薩が現れて救いの手をさしのべるという誓いが示され、神々も精霊も人以外の生き物も永遠に苦を免れることに安堵し大いに歓喜することが語られています。この章には、普賢菩薩の唱える呪文(陀羅尼)を聴く者は法華経を保って永遠に苦を免れる功徳が説かれています。智慧を司り衆生救済にあたる普賢菩薩は、華厳経の世界では諸菩薩の上首の位置づけにあります。
『法華経』が、密教的要素そのものである真言(陀羅尼・呪文)を信者守護の具体的な手段に用いた事実には、様々な疑問が考えられます。1『法華経』は2世紀頃に編纂されたと考えられているが本当か。2なぜ、6〜8世紀に成立した密教経典の本質的な要素である真言が『法華経』に書かれているのか。3何故に、真言を所持する諸菩薩、諸天部を法華守護者として登場させたのか。4般若経典群を越えられる論理性を強く意識して、『法華経』を再編集できる能力を身につけた者は、5〜6世紀の成立といわれる大乗起信論など、大乗の論書、解説書が出揃った時期以降にこれらを参照することができ、しかもその論理性を理解できる者にしか最新の論理性を加上できる可能性がないのではないか。5『法華経』の存在証明ができるサンスクリット原典が確認されていない。天台宗が所依の経典とした法華経が何であったのか確認できない。6『法華経』が編纂されたとされる2世紀の時点では、現在形の28品の完成はあり得えず、それは不可能である。などの疑問です。
大乗仏教の諸経典は、各宗各派が選び取った経典の位置づけを上げるために、他の経典の論理性を超える加上が何度も施されていると考えられます。その原因は、中国で始まった教相判釈の競争を自宗に有利に展開する爲であったと考えられます。対抗者の上位に位置づけることに成功すれば、王権の覚えがめでたくなり、様々な庇護と施入が期待できること、また国師や大師号を与えられるチャンスに恵まれることを望んだと考えられます。
大乗仏教の精神を受け止めた論理の発展的な解釈や加上は、必ずしも非難に値する不正とはいえせん。思想の深耕や論理の進化は、新たな論理性を自宗の教理解釈に反映されていくものだからです。この意味では、教相判釈の中心的な存在であった法相宗、華厳宗、天台宗がもっとも積極的に取り入れていると考えられます。しかし、日蓮の法華経の解釈は、日蓮のパーソナリテイに由来する独特な感性から生まれた妄想と考えられる異質性が突出して見えます。日蓮の法華経解釈は、教相判釈の進化形から生まれた論理性とは認められません。
密教経典が現れるのは、大乗の論書や解説書が出揃い、教相判釈に何を取り入れるべきかが論理的に明らかになっていく時期の頃であったと考えられます。密教の思想と教理には、前三宗の教理と比較すれば格段の進化形が見えます。密教経典は大乗仏教の論理性を十分に参照し、その論理性と欠点(何が足りないのか)を理解できる能力をもった人々によって編纂されたことが当然のこととして考えられるのです。密教経典が大乗仏教の到達点に花開いたことが理解できる理由でもあります。
真言(陀羅尼、呪文)の起源は、古代インドにありますが、それらが論理的に整備されたのは密教経典の出現を待たなければなりませんでした。真言が密教経典に整えられたのは、6世紀以降と考えられ、真言は7〜8世紀に「大日如来の真実のことば」として整えられて完成したのではないかと考えられます。古代インドには、民間信仰として古くは釈迦以前にも災難避けや福の招来の呪文(パリッタ)として用いられていた事実がありますが、それが整えられて、大乗経典に取り入れられたのは初期密教経典の出現を待たなければなりません。いうまでもなく、大乗の仏教経典に現れる諸仏、諸菩薩、明王、天部の諸尊の真言は密教経典の儀軌が整えられるまでは実際には使えないものです。もし、『法華経』が2世紀前後頃の編纂であれば、経典の中に真言の功徳の効用を取り入れることはできないのです。いうなれば、前記6章のいわゆる流通文にあたる経典に導入することは不可能です。『法華経』が今の形に再編纂できる時期は、密教経典の成立を待たなければならないのです。ここにも、『法華経』が何度も加上され、再編集が行われた形跡が見えます。
大乗仏教の諸経典の特徴は、「経典そのものに力がある」と考える思想をもったことにあります。しかし、このことと、日蓮が「南無妙法蓮華経 日蓮」を本尊とする曼荼羅を造立したこととは本質的な相違があります。
日蓮の本尊は、仏教が広まったどの国にも無い特殊形であり、本尊観を驚愕させるものでした。もし、日蓮が天台宗の正式な僧侶であれば、この本尊の造立は本質的にありえないと考えられるのです。この本尊の造立は、日蓮が大乗仏教の本尊の根本的な論理性である仏身論(仏の仏身とは何か)の基本知識が欠けていたのではないかと疑わせるものであり、日蓮が天台宗の正式な僧侶(住職)資格を授与された者であったかどうかの疑いを持たせるものなのです。天台宗の教理は厳格であり、有資格者の僧侶が天台宗にない本尊を造立することなど考えられないのです。
鎌倉時代は武家の台頭により、最大の庇護者であった朝廷、大貴族が没落し、仏教界は没落をしていく混乱期のまっただ中にあり比叡山も衰退していました。日蓮は修行のさまざまな必須課程(階梯)を満行しないで、修行僧のまま比叡山を飛び出した無資格者ではなかったか、という疑いが消えないのは致し方ないことだと考えられるのです。
なお、仏身論には、諸説ありますが、三身説(法身、報身、応身)が分かり易く基本的な説です。法身とは、法そのもの、宇宙森羅万象を本体とする仏身であり、華厳経の毘盧遮那仏、その発展形が密教の大毘盧遮那仏(大日如来)です。報身とは、修行の果報として現れる姿であり、阿弥陀如来・薬師如来などの諸如来です。応身とは、人々を救済するために現れた釈迦如来をいいます。
後に、日蓮の言動や振る舞いなど布教の在り方が問題とされて鎌倉幕府の罪人となり、その処断について幕府から比叡山に身分照会した際に、天台宗は日蓮の庇護を拒否したことが知られています。この無関心の真意が問題なのです。日蓮は二度の島流しの罪状に科せられましたが、比叡山の許可無く勝手に下山した修行僧や天台宗の教義と異なる布教をする者の僧籍は(仮にあったとしても)抹消されている、と考えられるのです。なお、日蓮宗の各宗派は、幕府がとった数々の処断を宗祖の法難と受け取る宗教的情緒をもつ共通性があります。
釈迦の悟りの内容をありのままに説法する経典であるとする説によって、『華厳経』から華厳宗が生まれました。この説では、「すべての仏の教えは悉く華厳より出て華厳に帰する」とする根本法輪の思想が見られます。いうなれば、『華厳経』と『法華経』の両経には「諸経を凌駕する経典」に位置づける自意識の高い共通性が見られます。この自負心は、大乗経典を広く検分してその上に立てる自信であり、諸経の論理性を越えた(諸経を見切っている)ことの表明でもあります。これは両経が大乗の論書、解説書を研究して取り込んだことの自信(それは両経が何度も再編集され論点整理を行ったことの自白)の現れとも考えられます。しかし、これには注意が必要です。すべての仏教経典は釈迦の真説と考える立場では、この両経の主張は読み手の精神を束縛する危険性が考えられるのです。
普賢菩薩は、衆生救済の菩薩行(実践)に特に優れた菩薩ですが、『華厳経』の「入法界品」には普賢菩薩行願讃として説かれています。『華厳経』が説く普賢菩薩行願讃に説かれた善財童子は、文殊菩薩の教え(智慧)に端を発し、導かれて53人の善知識を次々に訪ねて真理を探究する修行を続けましたが、最後に、普賢菩薩(衆生救済の実践)のもとで智慧(悟り)が完成しました。この善財童子の修行譚の物語は、東海道五十三次の宿場の数に使われましたが、大乗の菩薩の誓願の心の修行の階梯を示すものと考えられます。密教では、普賢菩薩は執金剛位(禅定と智慧を具有し慈悲を兼ね備えた菩薩位)を獲得した金剛薩埵(金剛手菩薩)と同体とされています。
ちなみに、『華厳経』は様々な大乗経典を編集し、増補を加える再編によって作られた大部の経典です。その主な教理の構成に用いられた諸経典は、『十地経』、『不思議解脱経』(「入法界品」)、『性起品』などです。その漢訳の時期は、後漢末から六朝初期頃と考えられていますが、現在の形になる『華厳経』の全体の編纂の構成が完了した時期や地域は明らかになっていません。隋の頃に『六十華厳』(60巻)となり、唐代に「入法界品」の補訳が行われていますが、このほかにも複数の巻数で構成された華厳経があります。その仏身論の特徴的な法身・毘盧遮那仏の世界観が中国密教と空海の真言密教の両部のマンダラ思想に多大な影響を与えています。
『金剛頂経』の代表的な明王である愛染明王は、金剛手菩薩と同体とされ、『大日経』の代表的な明王である不動明王とともに明王の双璧とされ、両部マンダラの統一的仏身観の中尊・大日如来を護持する左右の脇士として安置する本尊形式が密教壇において採用されています。
実際には、法華経は、具体的な徳目(功徳)が力説されている『観音経』(『法華経』の「観世音菩薩普門品」)の観音信仰によって布教され、信仰されてきました。法華経に説かれる観音信仰は、様々な衆生の機根に合わせた33身の観音(聖観音、十一面観音、千手観音、如意輪観音、不空絹索観音、馬頭観音、白衣観音など)を出現させ、一切の衆生を救済する功徳が説かれています。衆生の信仰によって現れる観音の称名(陀羅尼、真言)を唱えることによって、観音菩薩の心と衆生の心とが感応して救済されるという教えです。この33観音は、人々の信仰心を導くために、人々が受け入れやすい姿・形に荘厳して次々に追加され、それが33観音として成立したと考えられるのですが、この中に、中国生まれの複数の観音が導入されています。
『観音経』の原型は聖観音(観世音菩薩、観自在菩薩)であり、インドで西暦1世紀頃に成立したものです。6世紀以降には、ヒンドゥー経の影響を受けた密教の流行により、多面多臂の密教的観音がインド、チベット、中国で相次いで成立しました。チベットでは歴代のダライ・ラマは観音菩薩の化身であるとされ、その宮殿をポタラ宮(観音の補駱駝世界=ポータラカ)と名付けています。チベットでは六字大明呪(六字真言オーム・マニ・ペーメエ・フーム、中国的にはオン・マニ・パドメイ・ウン)を護符として唱えますが、、真言密教は変化観音それぞれに固有の真言を唱えます。中国では後漢の滅後、隋の建国前の分裂国家いわゆる六朝(呉・東晋・宋・斉・梁・陳)時代に多数の中国的変化観音が成立しました。6世紀の観音信仰を法華経が取り込んだ事実にはその再編集が6世紀頃に行われたことを物語るものであると考えられます。ここにも、法華経の加上と再編集の痕跡が見えるのです。
空海は『法華経開題開示』において、「妙法蓮華経とはこれすなわち観自在王(観自在菩薩=観音菩薩)の密号なり、すなわちこの仏を無量寿と名づく」と述べ、悟りの世界では無量寿如来(阿弥陀如来)であるが、この娑婆世界では観音菩薩の姿で衆生救済の活動を行っているという理解を示しています。ここには、空海の法華経に対する仏身観(観音菩薩は阿弥陀如来の眷属)が見えます。
『法華経』の再編集の最大の眼目は、釈迦は実は久遠の過去にすでに悟りを開き、今日まで衆生救済の説法を続けてきたとすることであり、そのために、釈迦自身に初転法輪を書き換えさせて、舎利仏に久遠実成を説法する構成をとっています。これを補強するために、いわゆる「法華七譬」の物語など多数の創作を各章に編入し整合性をとったことが考えられます。ここには、釈迦の法を地湧菩薩の一人一人に託す虚空会の儀式(現実世界でなく釈迦の心中を仮託した世界、いわゆる劇中の劇というべき架空世界)を加上して編入したことが見えます。この地湧菩薩と上行、無辺行、浄行、安立行の四菩薩は法華経以外の大乗経典に書かれていない菩薩であることから便宜上の創作と考えられます。日蓮は、この儀式をことのほか重要視し、日蓮こそが上首・上行菩薩の再誕であると自覚するにいたったと日蓮系では信じられています。故に、日蓮は末法の本仏であるとする日蓮本仏論が日興門(日蓮正宗とその分派、今の創価学会、顕正会など)に根付きました。論理的には、仮論の上に空論を上乗せする思想ですが、信仰の世界ではこれが信心の有る無しに直結するのです。日連系の独特な法華経観はここにあります。
『法華経』を依経とする日蓮系の宗派には、『法華経』の全28品の研究によって大乗仏教の思想性や大乗経典との整合性を意識することなく、僅かに「方便品」や「寿量品第」を切り出して、これを法華経の眼目(中心)とする独善的な教理を導き出して、日蓮を末法の本仏とする日蓮本仏論を捏造した過失があることから、法華経の全体像が把握できていないのではないかという疑いが指摘されています。
江戸時代まで続く各武家政権の中では、日蓮宗、中でも布施不授派の信仰姿勢は政権から疑いの目で監視されて来ました。また、日蓮本仏論が根付いていた興門派(いわゆる富士派、今の日蓮正宗)は、その布教が危険視され、いわゆる折伏布教は流刑(島流し)に処せられましたが、幕府は日蓮宗の各派の有り様を問題視し、その宗務統制を身延山久遠寺に委任しました。特に江戸時代は、寺檀制度・檀家制度が完成して庶民を政治支配する機能をもたされていたことから、これを揺るがす危険性がある布教行為そのものが禁制化され、新興宗教などが勃興する芽を摘んでいたのです。
日蓮系の宗派の中には、本尊観(仏身論)や諸仏、諸菩薩の捉え方が大乗仏教の普遍性の考え方と全く合わない突出した自意識過剰の自己満足と異質性を抱え込み、自宗・自派を大乗仏教の頂点に位置づける異端の宗派が存在しています。教祖の特異な仏教観に染まり(憑依)、 法華経の特異な解釈に固執し過ぎて、異常な信仰心が沸騰したことから唯我独尊に陥り、法華経を褒め殺しにしてきたことにも気づいていないのではないかと疑われています。戦後の混乱の中で立ち上がった新興宗教団体が布教の主力になってきたことから、軌道修正ができなくなったものと考えられます。
日蓮本仏論の法華経信仰のあり方(その捉え方)は、法華経(大乗経典)に説かれた仏説ではありません。日蓮系の特定宗派が強引に捏造した恥ずべき独善説としか考えられないものですが、諸外国の仏教徒に日蓮本仏論を語れば、間違いなくオカルト宗教の評価を受けることになります。日蓮本仏論の内容を具体的に検証できる状態になれば、まともに取り合うことなく自然に離れていくことになると考えられます。
日蓮は、『立正安国論』の中で念仏信仰に激しい攻撃を加え、国難を招く理由の一つに挙げています。この書は、国家の三災七難を防ぐためには念仏を停止し、他宗を謗法として退け、法華経信仰の確立を訴える独善的な国家諌暁の書と考えられます。1260年に鎌倉幕府・前執権の北条時頼に提出したのですが、その内容があまりにも異常であったことから受け入れらず、流罪に処せられました。ところが、不可解なことに日蓮は、なぜか662年後の大正11年(1922年)の軍備強化の特殊な時代的背景の中で、熱心な日蓮宗徒の政治的な働きかけを受け入れ「立正大師」号が与えられました。他宗の教祖に比べ、日蓮に大師号の宣旨がなかったことに対する特別な配慮が日蓮宗徒の軍部(国家)への協力体制の見返りに行われたのではないかと考えられるのです。
日蓮の法華経至上主義の国家観が、明治以降に急速に勃興した日蓮神秘主義者が声高に吹聴する国家主義思想に共鳴して台頭しました。時代の荒波と狂気に染まった軍部の指揮官に影響を与えたのです。日蓮の思想は、本質的には神道、天皇を否定する不敬思想を抱えすぎていたことで、天皇中心の国家体制とは完全に適合しない思想でした。そこで日蓮の遺文の解釈が変更され、天皇・天照大神に迎合する「神国日本」という「国体思想」に看板を付け替えて国体(天皇制)との融合が図られたのです。反国家思想の取り締まり元締めであった司法省刑事局は、この事実を「日蓮宗各派全体の情勢としては…国家主義思想の勃興に乗じて盛んに同宗の日本的仏教、国体的宗教なるゆえんを高調して、その出版物の夥しきこと、宗教書類出版中の最高位」と記しています。日蓮系の新興宗教団体が相次いで結成されたのです。
日蓮主義に基づく国家主義思想者には、国柱会の「田中智学」、狂信的な妄想が生み出し奇想天外な奇書を書いた「木村鷹太郎」、2.26事件の黒幕として存在感を示した「北一輝」、霊媒を使い200万余の心霊を霊鷲山に送った(?)狂気の僧「鷲谷日賢」、血盟団を結成し5.15事件に関与した右翼日蓮主義者「井上日昭」、法華経の信仰に生涯を捧げた文学者「宮沢賢治」、死のう団という戦闘集団を組織した盟主「江川忠治」などが知られています。また、満州事変を指揮した関東軍参謀「石原莞爾」は日蓮の預言を信じる信仰心から世界最終戦論を構想し、中国大陸で陸軍の虎の子の関東軍を消耗させる泥沼に引きずり込みました。日蓮の預言とは、救世の菩薩(上行菩薩)が現れて戦争を勝利に導き、本門の戒壇を日本国に建立し日本の国体(天皇)を中心とする世界統一が完成するというビジョンです。日蓮の妄想には人々に憑依する避けがたい力があるのか、もしくは、自ら進んで日蓮の妄想に憑依されることを望んだのか不思議な現象ですが、日蓮思想と個人の価値観が何らかの因果関係の因縁によってチャネルがあってしまったのでしょうか?
なお、日蓮が宗祖として著名な宗教家の扱いになったのは、明治以降に信仰の足枷が外され信教の自由化が認められる方向性が見えたこと、特に昭和の戦時中から戦後に新興宗教団体が結成され、熱心な布教と折伏活動により多数の信者獲得の成果を挙げたことにより世間に知られる存在となってからであったと考えられます。
法華経の総合性を評価する視点から見れば、日蓮宗・総本山久遠寺の教理(本迹一致説)が社会的には認知されやすいのではないかと考えられます。日蓮宗系を久遠寺に統括させた江戸幕府の宗教政策には妥当性があったと考えられます。本迹優劣説は、「従地涌出品」や「如来寿量品」から「開近顕遠(開迹顕本)」を導き出して日蓮を末法の教主(日蓮本佛論)とするレトリックに使われたと考えられるのです。
鎌倉時代、疲弊した農村地域に称名(南無阿弥陀仏)が浸透しました。浄土宗の宗祖・法然が中国浄土宗の僧・善導の思想を根拠として『選択本願念仏集』を著し、他宗を攻撃する一面を内包する専修念仏を末法救済の教えとして広めました。称名による即得往生は、誰でも漏れなく西方浄土の阿弥陀如来の救済があるという思想です。
法然は、人は正しく仏道を修行する力が無いのだから、阿弥陀仏の万人救済の本願に従って念仏を唱えるしかない、として専修念仏の易行を勧めました。菩提心を求め続ける素質のない人でも専修念仏すれば阿弥陀如来の慈悲によって西方浄土に救いとってもらえるという「他力本願」の思想です。これが阿弥陀如来の本願にかなう易行である、と思い定めたことに法然の阿弥陀観が如実に表れていると考えられます。法然の念仏信仰のあり方は、「往生したいと自ら願い、念仏を称えること」を前提とする事によって、極楽浄土への道が開かれると考えたのです。しかし、『選択集』の成立後、法然は迫害を受けることになりました。
鎌倉時代の庶民は無学文盲でした。僧のような厳格な修行は望むべきもありませんでした。もし、法然が、当時の社会には衆生の機根を整える条件が揃っていなかったことを前提にして、一時的に、方便としての専修念仏を勧めたものであれば、菩提心に目覚める条件付きで許容できるのではないかとも考えられます。
しかし、800年の時の流れの中には、様々な歴史的事実や人々の思いが刻み込まれて定着しています。何よりも巨大教団が存在感を示して活動していることから、いまさら路線変更ができるものでもありません。これについて問題意識を持つことができる信者一人一人が、よく考えて選択すべき問題だと考えられます。
法然の弟子であった悩み多き親鸞(浄土真宗・教祖)は、これをさらに塗り替えて『顕浄土真実教行証文類』(『教行信証』)を著し、阿弥陀如来を信じた瞬間に救われるという教義を立てました。法然の念仏観の他力性が変更され「わざわざ願うまでもなく、阿弥陀仏の方から救いの手を差し伸べてくれるので何もする必要はない」と考え、阿弥陀仏の誓願に独自解釈を加えました。親鸞は、『正信偈』に釈迦の教説は「阿弥陀仏の本願唯一」であるという仏教理解を示しています。
ここに、インド、中国、日本の聖教を縦横無尽に引用して一切経の真意を明らかにした『教行信証』、そのエッセンスが『正信偈』であるとみる解釈が親鸞の門徒に継承されてきた独善的なロジックが見えます。しかし、大乗仏教の真意が専修念仏であるとするロジックは、阿弥陀如来の慈悲の本願を捻じ曲げた牽強付会の不遜なブラフ(bluff)を用いたロジックでしかあり得ないと考えられます。それは、鎌倉時代を背景とする末法思想の中に芽生えた突然変異であり、他の仏教諸国には見ることができない日本特有の宗教的情緒にまみれた特殊説と考えられます。
親鸞は、菩提心に欠ける悪人こそが救われるという「悪人正機説」を立て「絶対他力本願」を主張しました。親鸞の思想は、人間の弱さを阿弥陀如来の慈悲に委ねて救いを求めるものでしたが、修行や努力を奨励せず、個人の資質や菩提心を問題にせず、懺悔や悔悟を求めないままに、阿弥陀如来の慈悲の深さを無限大に強調して、人々に救済を告げて安堵させるものでした。しかしながら、中国で性格を一変した浄土教の非仏性は、悟りに向かって仏陀を目指すべき大乗仏教の菩薩のあるべき「行」の信仰姿勢を否定して、極楽浄土に往生することを最終目的とする「信」の信仰姿勢を主張するものでした。親鸞は、法然の選択集から浄土門>聖道門とする解釈論を持ち込み、自らの信仰姿勢の在り方を正当化しました。自ら発心・修行して悟りを開くのではなく、「信」によって阿弥陀如来の慈悲に救いとられ、不自由のない極楽浄土(永遠に続く楽園)で究極の生活ができると信じたのですが、永遠に極楽浄土に居つづけられる世界などというものはあり得ないのです。
生死から解脱に至るプロセスにおいて、念仏を救いの本願の行とする解釈は、中国浄土宗の道綽に始まる説です。親鸞は、『仏説無量寿経』(中国魏曹の康僧鎧の訳、経典の成立時期は釈迦滅後500年以降と考えられるが編纂者は不明であり、サンスクリット原典は存在しない)を極理としましたが、この経はいわゆる中国で撰述された偽経と考えられます。「極楽浄土に生まれたいと願う者は、皆、仏になることを約束され、阿弥陀の名号を聞信し、心から念ずれば往生が定まる(要旨)」という特徴的な説を述べていますが、その用語は老荘の思想や道教の強い影響が指摘されているものです。ここでは、『無量寿経』に混入された第十八願の解釈について、「念仏を救いの本願の行としたのは如来自身の選択である」という解釈がされていますが、この解釈は伝統的な釈迦仏教や大乗仏教の精神が明らかに認めない非佛説と考えられるものです。ここには、浄土経典が大乗仏教の変質の変遷に大きくかかわった事実関係が見えるのです。
阿弥陀如来に対する称名念仏は、それ自体が否定されているものではありません。しかし、信仰者の菩提心の在り方に問題となる難点があるのです。阿弥陀如来に向き合う信仰者の菩提心を正すことなく、慈悲深い阿弥陀如来の救済を逆手に取る(発心、悔悟、菩提心もないままに)絶対他力本願の信仰姿勢を勧めたことに重大な瑕疵があるのです。阿弥陀如来の慈悲の心を人々に誤認させた責任があると考えられるのです。親鸞の仏教理解は、文学であり、情緒であり、情念が突出した独善的な世界観の中に逃避するものです。ここには、大乗仏教思想の普遍性や論理性が欠落しているのです。親鸞の情念が生んだ念仏信仰は、親鸞の情念から生まれた特殊な情緒の形態でしかなく、これは決定的な非仏説と考えられるのです。
念仏宗には、きわめて情緒的な信仰姿勢が現れています。僧を中心とする厳格な伝統教団として成立しなかったことから、親鸞の選び取った他力本願の思想だけを信じ、大乗仏教の普遍的な思想に背を向けた半僧半俗の指導者たちが善良な人々を純粋培養して妄想を植え続けてきた特殊な歴史性の中にその原因があると考えられます。
慈悲深い阿弥陀如来に対するする信仰は、日本語であれば「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」となりますが、鎌倉新仏教の念仏衆徒は伝統的に「なまんだー」とか「なんまんだぶ」などの称名を唱えています。「なむあみだぶつ」の連続した称名の調子の取り方が難しいところから、リズム感のある親しみを込めた称名の表現方法が工夫された(?)とも考えられますが、伝統的な仏教観からみれば、これは阿弥陀如来に対する南無(帰命)を表す「あるべき称名」の在り方とは考えられません。あまりにも情緒的すぎる宗教観に変貌しすぎていると考えられます。傷だらけの称名を何万遍唱えても、それは阿弥陀如来に対する帰命とはいえない、と考えられるからです。
特に浄土真宗の教義には、親鸞の仏教観が見事に表れています。神や仏に向かってする信仰の在り様は、信仰に目覚めた衆生の側から神や仏に向かって祈り、願い、救いを求めるという関係性にあることを条件としています。その救いには、衆生の信仰心や努力としての修行が前提条件となっています。この条件があってこそ神仏の力による救いがあると考えることが大乗仏教の基本的な認識です。ところが、親鸞は、阿弥陀仏の因位の菩薩(法蔵菩薩)は「衆生が修行を励んで仏道を完成する歩みができない」と考えたのです。そのような修行に背を向けて逃げているのが凡夫衆生であると認識したのです。故に阿弥陀仏は、修行ができない衆生を憐み、そのような衆生の救済を決意して、法蔵菩薩であった時に、菩薩の48誓願を成就して自ら努力ができない衆生の救済を誓願した、と考えたのです。
故に、親鸞は座像の阿弥陀仏を嫌い、立像の阿弥陀仏(立像=立って動きやすく、他力回向の救済をする大慈悲の姿とみる)を本尊と定め、念仏の唱え方は徹底した阿弥陀仏に対する報恩感謝の気持ちを表す念仏に特化されています。このような他力回向(=仏力=本願力)の信仰は、正統仏教の信仰姿勢とは決定的に異なる非仏説と考えられます。
親鸞が導いた教理は、悩み抜いた親鸞自身が長年引きずってきた親鸞自身の信仰の葛藤に決別するものであったのであろうか?という疑問が考えられます。これによって、偉大な師僧であった法然の教説でも自身が救われる確信が持てなかった悲しい親鸞自身に決別できたのであろうか?という疑問です。もし、このようなありようが、親鸞自身が阿弥陀仏から救い取られる教理を導き出せる帰納の結論であったのであれば、それは釈迦仏教や大乗仏教の精神を受け継ぐ思想とはいえません。仏教の世界観から逃避して、文学的な情念や情緒の世界観に身をゆだねて安息を求めた親鸞の悩ましい情念と息遣いが感じられてならないのです。
法然と親鸞の布教は、絶望的な末法思想と終末思想の蔓延の中で悩みぬいたすえの布教方法であったと考えられます。悩める人々を救いたいという動機があったこと、同時に、救われたいと願う庶民の切実な要求(非常時の救われ方)に応えたものであったという情念的な評価があることも事実です。
しかしながら、これを仏教観を基準にして見直せば非難に値する布教行為となります。阿弥陀如来の深い慈悲に付け込む印象操作をすることによって、あたかも阿弥陀如来には万民を漏れなく救済する義務があるかのごとき独善的な情念を迷える人々に刷り込んだ非道理性があるのです。誰もが簡単にできる称名念仏だけで阿弥陀仏に抱きとられて西方浄土に導かれるという「教祖が選んだ易行」は大乗仏教にはない思想です。仏教の教えは、迷える衆生を導くための指南(または教導)であり、衆生に修行の正道を示すものです。仏教は悟りに至る道を説く教えであり、彷徨える哀しい情念や文学的な情緒を慰撫したり、共感を示すことによって解決させるという教えではありません。有難いお経を聴き、仏や教祖を拝めば成仏するという教えではないのです。衆生に対する優しさや気遣いは、衆生を悟りに向かわせる方便に過ぎないものなのです。
薬は病気によって使い分けるように、仏は衆生の機根によってさまざまな法(顕教)を説きましたが、衆生の素質に合わせた教えは仮(権教)の教えです。すべての衆生の機根を劣悪とみる根拠は一体何でしょうか。現代人は鎌倉時代の衆生ではないのです。今日の人々は、悟り(成仏)の智慧は、自分自身が、本気で自分自身と向き合うこと、悔悟や努力に目覚めて菩提心を持ち、自行と化他行の菩薩行道を意識しなければ解決に向かうことができない、という道理を理解できない無知な人々ではないと考えられるのです。
大乗仏教の普遍性は、仏の慈悲と知恵に感応する私たち一人一人の胸中に育まれた菩提心の中にあります。釈迦が衆生の機根にとらわれず、悟りを得た者の立場(随自意)から説法したとされる『華厳経』 には、悟りに向かうためには、菩提(悟り)への誓願を発心して、菩提への向かう熱意(菩提心)がなければならないという教えがあります。
菩提心と菩薩行は大乗仏教思想の核心ともいえるものですが、仏教者の自覚を促す根本条件でもあります。『大日経』の「住心品」には、仏の智慧(一切智智、覚り)を獲得する肝心として「三句の法門」が説かれています。金剛手菩薩(執金剛または秘密主ともいう、金剛薩埵と同体、華厳経の普賢菩薩と同体)が大毘盧遮那仏(大日如来)に対し、「仏の智慧(覚り、一切智智)とはどのようなものでしょうか」と単刀直入に質問したことに対し、「菩提心を因とし、大悲を根とし、方便を究竟とする」と答えたのです。最高の真実(智慧、覚り)は、さとりの心を出発点とし、大いなる慈悲を基本とし、それらを応用する手立てを究竟の目的とすることである、ということになります。一切智智とは、すべてを知る者(仏)の智慧です。
なお、方便究竟には若干の説明が必要と考えられます。方便を究竟とするという意味は、真言行者は六波羅蜜行の修行によって悟りを得るが、まず自分が成仏した後に自身だけの悟りに終わることなく、大悲をもって衆生を教化救済することを意味するものです。大乗の菩薩が衆生と共に成仏を目指すもの、むしろ衆生を先に成仏させることを本望とするなどという意味合いに誇張して語る説がありますが、これは失当と考えられます。菩薩といえども自身の素質や種々の機根の影響を受けざるを得ないことは当然です。菩薩が悟りにいたる場合でもその機根等によって頓(速い)と漸(遅い)があることは致し方ないことなのです。菩薩は自行として菩提を求めることを第一義とするのであり、衆生の苦を抜く大悲行の後に菩提行を修行するものではありません。衆生を見捨てて自身のための自利行を優先させているのではないのです。
菩提心とは、菩提(さとり)と心であり、「菩提を求める心」と「菩提の自性の心」という二種類があります。菩提という目的を立て、誓願という宗教的な発動と実際の修行を行う菩提心とが必要なのです。他力本願の思想には、魂の救済を阿弥陀如来の慈悲に転嫁して人々に安心感を与え、成仏の丸投げを許容して受け入れて欲しいとする情緒的な観念のとらわれ過ぎがあり、強い独善的な情念が感じられてなりません。大乗仏教の精神を枉げた非仏説という批判を受けることは致し方ないと考えられます。
浄土思想は、阿弥陀如来の西方極楽浄土に往生して成仏することを説く思想です。一般的には、阿弥陀信仰として信仰されていますが、浄土教という宗派はインドの成立ではなく、インドに萌芽した浄土の概念が中央アジアで形成され、中国に伝播されて浄土教として成立したものと考えられます。その思想の出典は、『無量寿経』・『阿弥陀経』(この2経は紀元100年頃の編纂とする説があるが疑問。釈迦仏教には阿弥陀仏の観念や浄土思想は存在しなかったとする説がある。)、『観無量寿経』(4−5世紀頃中央アジアでその大綱が成立し、中国で中国的要素が加味されたとする説があるが、サンスクリット原典は発見されていない)という浄土三部経にありますが、これらが中国の浄土教に大きな影響を与え、これを輸入した比叡山の中で突然変異を繰り返し、日本的情緒が追加、増幅されてきたと考えられるのです。
浄土思想の論書は、龍樹(150-250年頃)の『十住毘婆沙論』(「易行品」)、天親(4-5世紀頃)の『無量寿経優婆提舎願生偈』(『浄土論』・『往生論』)に始まるものでしたが、中国には2世紀後半頃から浄土経典が伝わり、5世紀に廬山の慧遠(334-416年)が白蓮社という念仏結社をつくり初期の中国浄土教を主導しています。曇鸞(476-542年頃)が天親の前記論書を注釈した撰述書を著わし、曇鸞の影響を受けた道綽(562-645年)が『観無量寿経』の解釈書『安楽集』を撰述しました。道綽の弟子善導(613-681年)が、『観無量寿経』は観想念仏ではなく、称名念仏を勧めている経典であると解釈する立場で『観無量寿経疏』を撰述しました。ここに称名念仏思想の萌芽があったのです。浄土宗は、その成立の当初は「善導宗」と呼ばれましたが、善導への崇敬の念が突出していた法然門下の信仰の在り様を投影したものであったと考えられます。
しかし、中国では、慧日(680-748年)が浄土と禅を兼修する「念仏禅」を主張し、中国の浄土思想の主流は「念仏禅」(観想念仏)となりました。浄土思想は渡唐の僧・円仁が比叡山に「観想念仏行」をもたらし、良源(912-985年)が比叡山・横川を整備して阿弥陀如来を事観(事相)の対象とする観想念仏を定着させましたが、良源の弟子・源信(942-1017年)は観想念仏を重視する立場でしたが、『往生要集』を著わし一般民衆のための易行として「称名念仏」を認めたことから、民衆救済の大衆仏教化の流れが出てきました。法然が観想念仏を否定して称名念仏を推奨したことから大衆化された専修念仏の流れが親鸞に受け継がれ、独特な日本的情緒に包まれた悪人正機説が生まれたのです。
専修念仏者の信仰姿勢には、“自分が救われたい”という念仏の情念の響きを強く感じますが、専修念仏の功徳で、死の間際に阿弥陀仏の来迎により西方浄土に救い取られて即得往生をするという思想には、大乗仏教の精神が全く感じられません。菩提心に目覚めず、菩薩行(利他行の実践)の思想が欠落すれば大乗仏教の精神が無いことになります。
大乗経典である浄土三部経『阿弥陀経』『無量寿経』『観無量寿経』を所依の経典にしているという理由を挙げて、自宗自派が大乗仏教だと誤解している人々が大勢います。しかし、これは明らかな間違いです。どのような経典に準拠しようとも「大乗仏教の精神」が欠落すれば、それは大乗仏教とはいえません。浄土三部経は菩提心の否定を許容し、菩薩行を無視することを認める思想ではないのです。菩提心に目覚めて、阿弥陀如来の智慧と慈悲に感応して「発心」すること、菩薩行道(衆生救済の実践)に目覚めて利他の精神を「修行」する姿勢を保ち続ける信仰態度が必要なのです。菩提心(発心)と菩薩行(修行)を否定する大乗仏教はありえず、それはもはや仏教とはいえないのです。
法然、親鸞の師弟が共に越後に流罪となり、親鸞は非僧非俗の身となりました。両人が数々の弾圧を受けた理由は、比叡山の意思が働いた結果でした。両人が非仏説を布教したことで比叡山の逆鱗に触れたのです。比叡山が時の権力者に懇請し、幕府権力に忌避されて流罪に処せられたことは周知の事実です。後に、戦国時代の浄土宗(法然の系譜)は権力者の理解を得て為政者と共存を認められ、一向宗(浄土真宗)は、生き残りをかけて強力な戦闘集団に変貌を遂げました。
厭離穢土・欣求浄土の思想(死ぬことを歓喜に変える思想)を持つ念仏信者は、現世に執着心を持たず、死して阿弥陀如来に救い取られ、光に満ちた何不自由のない西方極楽浄土に再生することを願い、死を恐れない戦闘集団となって織田信長の武力に挑み、戦に破れて数万〜数十万人の大量の死者を出しました。
戦国時代、加賀の一向宗(現・浄土真宗)門徒が、反領主派の寺社・国人勢力と手を結んで加賀領主・富樫氏を追放したことで、門徒を多数抱える領主層に動揺を与えました。これを加賀一向一揆(1488〜1580の92年間)といいます。加賀・能登・越中(現・石川県と富山県)に伝播し、領主を追い出す実力を示したことから、近隣の戦国大名に大きな衝撃を与えました。戦国の覇者となる織田軍団がこれを危険視して壊滅させるために軍事行動に出たのですが、地方領主や国人・土豪層の多くが、主家に反逆することよりも阿弥陀如来に逆らうことの不信を恐れ、後生善処を願って農民層に寄り添って大量に参戦し、戦国乱世が現出しました。一向宗は織田軍に破れて大阪の石山本願寺に本拠を移しました。
一向宗は、甲斐の武田信玄、中国の毛利元就、将軍・足利義明、近江の浅井長政父子、越前の朝倉義景、比叡山延暦寺の勢力と同盟して織田包囲網を形成して対抗しました。比叡山が中立の立場を取らず、仏敵の旗印を掲げて織田軍に対して敵対行動を鮮明にしたことから、織田軍は比叡山の宗教界に対する影響力を恐れ、宗教界に拡大して連鎖する危険性を断つために、比叡山の焼き討ちを決意せざるを得ないまでに追い込まれました。一向宗は宗派の存亡をかけて起死回生の武力戦争を耐え抜いたことで、庶民の中に浸透して定着した歴史に彩られました。何よりも支配者層に対し、宗教を敵に回す恐ろしさを植え付けたことに歴史的な意義が感じられます。
しかし、織田軍団は他の戦国大名とは異なり、職業軍人を主体とするプロ軍団で構成されていました。織田軍は、専従の武士層で構成され、農民兵を抱えていなかったことから農繁期の足枷や農民の怨嗟の声がなく、いつでも多方面で同時に戦闘が継続できる強みを持っていたのです。織田軍の軍事力と機動力、その大量の兵站の実力差は決定的であり、遠征軍は飢えることなく、織田包囲網は次々に織田軍に各個撃破されて敗退しました。織田信長は、軍事力の育成だけでなく、領国政治の信頼を高め、豊かな富の蓄積を図るシステム(楽市・楽座、領内の関所の撤廃と交通の自由化、金銀銅山の直轄化、貿易港の直轄化と交易支配など)を機能的に構築して富国強兵を計り、領民を搾取することがなかったのです。次々に織田領内に組み込まれた諸国では、前領主の治世を懐かしむ領民の声が上がらず、織田領内の治世は歓迎されて安定していました。戦国時代の稀有な事例です。
余談ながら、徳川家康は、三河の一向一揆において門徒の家臣団の統率に失敗して内乱を押さえきれずに疲労困憊し、九死に一生を得る家臣団との戦いに懲りたことから、旗印(軍旗)を「厭離穢土・欣求浄土」に改め、家臣団の統率に成功したと伝わっています。主家思いの結束力の固い三河家臣団でさえも一向宗の掲げる阿弥陀如来には逆らえなかったのです。
大阪の石山本願寺(その後地が大阪城)に立て籠もった一向宗は、織田軍を包囲する一角を占めて難攻不落の法城を構築し捨て身の戦闘行為を果敢に仕掛けました。一向宗は、織田軍に敗れた残存勢力を招き、紀州の雑賀衆を専門の鉄砲戦闘集団として傭兵し、反織田勢力を受け入れて戦闘態勢を整えたことから諸国の為政者に恐怖心を植え付けて警戒心を与えましたが、織田軍に敗れ法城を明け渡しました。信長の滅後、一向宗は、天下人になった豊臣秀吉の懐柔策に従い、東西の本願寺に分割する条件を受け入れて、豊臣政権の保護下で命脈を保つ道を選択しました。
石山本願寺の陥落の後、敗戦処理の考え方に宗内に意見の対立が生じました。また、本願寺は顕如の相続問題がこじれて御家騒動が治まらず、秀吉の介入を招いたことで、西本願寺(顕如三男・准如)と東本願寺(顕如の長男・教如)の二派に分裂しました。教如は顕如から13世の法統を正式に継承した長男でしたが、石山本願寺陥落後の対応を巡り、父・顕如と対立して義絶されたのです。これを奇貨として喜んだ秀吉は、危険な本願寺勢力を分断することによって、本願寺勢力の結束力に楔(くさび)を打ち込んで抵抗力を失わせ、教団が弱体化することを望んだと考えられています。 
祖師仏教の非仏説

 

鎌倉時代、比叡山から下山した法然が勢いに乗って布教した念仏が農村地帯に根を下ろし始めました。これに刺激を受けた無名の日蓮が、ライバル心を刺激され、これに対抗する形で唱題(南無妙法蓮華経)の布教を開始しました。日蓮は念仏の布教に危機感を抱いたのです。しかし、日蓮の法華経の布教は天台宗の布教ではなく、比叡山の法華経の解釈とは著しくことなるものでした。日蓮は末法思想と終末思想に囚われ、胸中に抱き続けた独自の法華経観の布教を解き放ったのです。ここから前代未聞の布教活動が開始されたのですが、日蓮の妄想と捏造に端を発する法華経の解釈が日蓮信徒の中に「日蓮本仏論」を生み育て、信徒に語り継がれる端緒となったのです。富士派(興門派)では、「日蓮本仏論」説を生み育てたのは、大石寺・第二祖日興と第三祖日目と主張していますが、この概要には「日蓮は法華経を身読して布教した故に、法華経が預言した数々の法難を一身に受けた唯一人の法華経の行者である」として、「法華経が予言した(?)末法の法華経の行者=上行菩薩=末法の本仏=日蓮(日蓮本仏論)」とする特徴的な解釈が施されています。この日蓮本仏論が、その後の大石寺の系譜とその信徒・信者に引き継がれて妄想の足枷となる独善的な法華経観となります。この法流が、法華経の文の下に「文底下種仏法論」が秘し沈められているという説を秘伝として「日蓮本仏論」を継承してきたのです。
釈迦が説いた究極・最高の教えは『法華経』である、というまことしやかな捏造と思い込みが大石寺の法流に根付き、戦後に結成された新興宗教団体や創価学会に蔓延しています。その気になれば、宗教の客観的な比較情報を入手できる立場の現代人が、鎌倉時代の宗教観(大乗仏教の普遍性が欠落した「祖師が感じとった選択の宗教観」)をそのまま信じて憑依を受け入れることには異常な信仰心が感じられます。日蓮の独善的な教説に自ら憑依されることを望んだ人々にとっては、日蓮の教説に疑問を持つことは不可能と考えられます。しかしながら、大乗仏教の普遍性の精神や大乗経典編纂の歴史を学ぶことは、今日では難しいことではなく一般的な情報として誰でも入手可能なものであると考えられるのです。
このような開かれた情報や客観的な大乗仏教の教理を比較することなく、法華経が最高、日蓮は大聖人(仏)などという無批判で教条的な独善説を受け入れる人々が後を絶たないことには少なからずカルチャショックを受けざるを得ません。日蓮本仏論を前提とする大乗仏教の普遍性が欠落した異様な教義を世界に広宣流布することを本気で夢見る体質に育て上げられた人々がいるという無残な事実が信じられないのです。そのようなオカルト思想が世界の人々に受け入れられる可能性は考えられません。その異様なオカルトの本質を見破られて指弾を受けるだけだと考えられます。
宗教をアヘンに比定する批判には二面性が考えられます。1耐え難い苦痛を緩和するために医師の処方箋によって使用する鎮痛作用の医学的効果というプラス面と、2快楽を求める常習性の悪業によって引き起こす中毒症の弊害というマイナス面がこれです。オカルト宗教の弊害は、このアヘンのマイナス面と同質の危険性があります。すべての宗教をアヘンに見立てる妄想には同意できませんが、この宗教団体の信者の人々が主張している世界平和運動や社会文化活動には、新興宗教団体の批判されるべき体質を隠し、世間の目をそらすために、耳触りの良い平和活動として利用しているのではないかという批判があります。この批判は、本来は善意の人々の自主的な社会活動であるべき平和運動や社会文化活動がこの宗教団体のプロパガンダに利用されているのではないか、という無視できないリスクを指摘しているのです。一般的に、この宗教団体の活動家は、自身の行為に疑問を持たないまでに独善的な宗教ドグマに憑依されている人々であると評価されていますが、ここに危険性の因子が隠れているのではないかと考えられるのです。
鎌倉新仏教の祖師となった親鸞、日蓮、道元などに宗派を超えて受容された大乗の『涅槃経』は、インドにおいて4世紀に成立したと考えられている経典です。この著名な大乗経典の特徴的な思想は、いわゆる「一切衆生悉有仏性」という最新の仏身論の萌芽にあります。この思想は、数多くの大乗経典の仏性論を再編集させる強い動機付けを与えましたが、特に『法華経』の加上・改変と再編集に大きな影響力を与えたことが考えられます。『涅槃経』は、実に多くの大乗経典の仏性論を改変させる大きな影響力を発揮したと考えられるのです。
法華経を信じて受持する者には計り知れない功徳がある。法華経が諸経の王であると褒めちぎったのは、なんと法華経自身でした。「薬王菩薩本事品」では、「如来の説いた諸経の中でもっとも深く大」「衆経の中でもっとも尊い」「諸経の王」「この経典をよく受持する者もまた一切衆生の第一」といい、また、「安楽行品」には「此の経は為れ尊、衆経の中の上なり。我常に守護して妄りに開示せざりしを、今正しく時なれば汝等が為に説く。」といっています。これは典型的な自画自賛というものですが、法華経はその理由を述べず、法華経自身の中身が何かをまったく語っていないのです。しかし、法華経はこれを「難解難入」といい、このことが理解できるのは唯仏与仏(真理は仏と仏のみが知る)のみであるとして、法華経の受持の功徳を力説しているのみです。この手法は法華経の恥ずべき独善説と考えられます。
しかしながら、この自意識過剰で尊大な物言いには、その他の大乗経典の教理を完全に見切ったという態度が見えることから、何故に仏教経典に相応しくないこの恥ずべき自己主張をわざわざ挿入する必然性があったのかという強い疑問があるのです。ここには、何故に法華経が再編集されなければならなかったという裏の諸事情が透けて見えるのです。法華経が断言的な口調を強め、荒唐無稽な物語(法華七喩など)を挿入して展開した一仏乗説には、このような事情が考えられます。
法華経は論理的に記述された経典ではありませんが、法華経28品が説く大乗の精神が進歩的な説話と比喩で語られていること、法華三大思想(1一乗真実、2久遠実成、3菩薩行道)を持つことから代表的な大乗経典のひとつとして『華厳経』と並び称されている経典であり、宗派の垣根を越えて多くの学僧に学ばれてきました。法華経は、天台宗や日蓮の専属経典ではありません。特に、日蓮の法華経解釈が異端としか評価できない「文底下種仏法論」や「日蓮本仏論」を生み、独善性にまみれた日蓮思想を折伏という強引な布教活動によって世間にまき散らしてきたことは、この宗の突出したオカルト性を物語る典型的な事例であろうと考えられます。
法華経を再編纂した大乗の菩薩たちは、長い年月をかけて28品の全体像を構成したのであろうと考えられます。法華経は、大乗仏教の頂点に位置づける意図を持って加上され何度も再編集され続けた典型的な経典と考えられます。方便品には釈迦の初転法輪が書き換えられ、「釈迦の初転法輪は、人々を真実の教えに導くための方便(仮の教え)である」と加上しています。「方便品」の再編集の意図は、一仏乗の論旨の整合性を潤色することにあったと考えられます。初期の『涅槃経』が伝える本来の初転法輪の内容を否定する手法によって、初転法輪の真実を語るという論理の構築がなされています。ここには、釈迦の初転法輪の真実は「阿羅漢を目指す修行の道を示すものではなく、真実は一仏乗を示して菩薩行道に向かわせる方便であった」と作り替えることによって第二の初転法輪の論旨が加上されています。この再編纂の目的は、大乗仏教の著名な先行経典(『般若経』群)の上に立とうとする意図であることが論理的に明白です。ここには、なんとしても大乗の諸経典群のトップに立ちたいとする願望の強い意志が透けて見えるのです。
また、『法華経』には、この一仏乗の整合性を強く印象づける意図が混入さていますが、いわゆる「法華七喩」といわれる加上です。1三車火宅の喩(「比喩品」)、2長者窮子の喩(「信解品」)、3三草二木の喩(「薬草喩品」)、4化城宝処の喩(「化城喩品」)、5衣裏繋珠の喩(「五百弟子授記品」)、6髻中明珠の喩(「安楽行品」)、7良医治子の喩(「如来寿量品」)といわれるものです。これらは、紛れもなく一仏乗を強調する意図によって新たに組み込まれた再編です。一仏乗の論旨との整合性を図る補強でした。『法華経』は、初期の『涅槃経』(初期と大乗の2種類の涅槃経がある)が語る釈迦の入滅は、実は人々を真実の教えに導くための手段(方便)であり、釈迦の入滅は「方便(死んだふり)」であったとして強調することにより、真実の釈迦は久遠の過去に成道した存在=久遠仏であることを加上して再編集しているのです。
これによって、『法華経』は、永遠不滅の救済者または宇宙の本体そのものを説くブッダ観(仏身観)を示す最高経典とする主張が始まったものと考えられます。これは他の大乗仏教経典が具体的に語らなかった永遠のブッダ観の輪郭を示し、仏身観のあるべき姿に言及する説であるともてはやされる端緒を形成することになったことが考えられるのです。同様に、密教に影響を与えた『華厳経』には、永遠の本仏である「毘盧遮那仏」(密教では法身の大毘盧遮那仏=大日如来)の華厳世界が説かれましたが、『法華経』も『華厳経』も統一的な仏身観(その論理性)を明らかにできていません。
法華経を再編纂したブッダたちは、法華経の比喩や説諭の展開に心を砕き、よほどの傑作が生まれる満足感をもって、法華経が最高経典とする自画自賛の自信を誇示したかったのであろうと考えられます。しかし、『法華経』が仏教の最高経典とする捏造は、中国仏教(天台宗)の独善性を反映する説と考えらえます。天台の一念三千論、天台三大部(『摩訶止観』『法華玄義』『法華文句』)の発生源は、鳩摩羅什が翻訳した『妙法蓮華経』の「方便品」の中に意訳によって挿入された十如是(いわゆる諸法実相の元ネタ)を淵源とするものでした。鳩摩羅什が翻訳した法華経がなんであったかは特定できず、また、根拠となるべきサンスクリット原本も発見されていません。十如是の文言は、法華経が編纂された時代に萌芽していた思想とは考えられない論理性があることから、諸法実相の論拠を探し求めた鳩摩羅什の渾身の意訳を加上した文言であろうと考えられていることは事実です。
智は諸法実相を論拠として法華経を意訳する解釈をし、その教理を『法華玄義』に著したのですが、中国天台宗では、智の『法華玄義』の教理を解釈の絶対的な基準にしたのです。天台宗の教理の縛りが法華経の評価を決定づけ、天台智の教理の独善性が天台宗によって世間に蔓延したのです。法華経の自画自賛は、多数の大乗経典の教理を理解し、その優劣を比較検討できる広範囲の情報を持つことができる人々でなければ知ることができないという特殊事情があります。法華経が編纂されたと考えられている2世紀前後の教理の水準からそのような情報を得ることは不可能です。法華経の再編集事業は、大乗の論書(大乗起信論、釈摩訶衍論、等)が成立して参照できるようになった時期以降に可能になったと考えられます。智の法華経は、6世紀中頃〜末頃に再編纂されて完成したのではないかと考えられるのです。
『法華経』は、生存中の釈迦が説いたすべての経典の中で最高経典であり、釈迦の真意である。これが日蓮の教条的な法華経解釈の原点と考えられます。このような教条的な経典解釈の在り方では、普遍性をもつ大乗仏教の理念が理解できるとは考えられません。釈迦は、日蓮が法華経を唯一絶対の経典と主張し、その余の大乗の諸経典は謗法であると主張していることを快く許して下さるでしょうか。それとも、釈迦の名前を好き勝手に使われることは大変迷惑とお考えでしょうか?それとも大笑いするでしょうか?ふと、そのような思いが涌いてきます。法華経は釈迦が説いた経典ではなく、そもそも文字に書かれた釈迦の経典は存在しないのですから、あり得ないのです。
竜樹(ナーガルジュナ)、世親(ヴァスバンドウ)が法華経の注釈書を残していますが、インドには法華経が流布した形跡が遺跡寺院から発見されていません。法華経は中国の隋代に天台智の一念三千論という独特な哲学によって「人の一念に仏の世界が内包されている」とみる仏教観がもてはやされましたが、中国・唐代の仏教の中心は密教と禅宗に移り、法華経は衰退に向かいました。法華経は朝鮮半島にも請来されていますが、法華経によって立宗された宗派は皆無です。法華経が高い評価を受け続けたのは日本だけです。中国天台宗の教理をそのまま移植した最澄の比叡山の影響力と考えられます。
本場中国の天台宗は、華厳教学と中国仏教の二大思想として優劣を競い、華厳宗や法相宗に対抗して教学論争を展開する勢いがありました。しかし、唐末の兵乱で中国仏教界の全体が衰退しました。その後、北宋時代に高麗から天台の書籍を逆輸入して復興しましたが、明代以後には禅や浄土と融合して衰退に向かい、1600年代に存在感を喪失して消滅に向かいました。
巷に『法華経』は即身成仏を説く有難いお経とする説がありますが、法華経28品のどこにも即身成仏の出所の文言を探すことができません。「提婆達多品」の竜女の成仏が即身成仏にあたるとする見解を述べる者がいますが、これらは法華経の独特な味付けに使われた単なる思い込みの一つにすぎないと考えられます。即身成仏の具体的な修道の在り方や修行の階梯などの道程が何一つ明かされていない即身成仏などありえないのです。法華経の救いの構造は、法華経を信じることによって、善行を積んで仏になるという考え方にあります。その前提には「お経そのものに力がある」とする価値観に支えられていると考えられます。しかし、法華経が説く経典受持の功徳=成仏=即身成仏という図式は修行が持続できない人々に対する方便であり、信仰の目覚めを持続させる工夫の一つに過ぎないと考えられます。ゆえに、天台・智が方便品(迹門)に加上された十如是の解釈から掴んだ燭光を手掛かりに一念三千の教理を考案し、妙楽大師がこれを天台の極理として育て上げ、法華経は即身成仏を語っているという形式を作り上げたと考えられるのです。
法華経は、世尊が法華経を説き始める壮大なプロローグである「序品」に、釈迦滅後の56億7千万年後(仏教特有の法数の表現)に兜率天から下生して救世主となることを授記された未来仏・弥勒菩薩を「法華経が理解出来ない未熟な修行者」として登場させ、尊い教えである法華経の素晴らしさを聴衆に期待させ世尊を仰ぎ見させる前座の役割を務めさせています。
「従地湧出品」には、世尊が「地中より湧き出でた地湧菩薩は、世尊が久遠実成の後に教え導いた者である」と述べたことに対し、「40年以前に成道した釈迦が短い期間にどのようにして数知れぬ菩薩を教化することができたのか」という疑問を持った質問者として弥勒を登場させ、この謎の意味するところを世尊に乞い願い出る役割を持たせる不遜な設定を加上しています。
法華経の再編集者は、予言された未来仏・弥勒仏をも釈迦の久遠実成を実の如く誇張するために、同時に上行菩薩の出現を劇的に演出するために利用しています。授記された未来仏・弥勒を貶めることは、インド・中国・朝鮮・日本が共通に持つ未来仏信仰を否定することを意味していますが、この手法は明らかに弥勒信仰の情報を熟知する者にしかできない書き換えであり、ここにも法華経の加上と再編集の痕跡がみえます。ちなみに、弥勒信仰の起源は、インド・ガンジス河のベナレス地方に起こり、中国では北魏(386-534)時代に盛んとなり、朝鮮半島では新羅(356-935)に伝播した救世主思想です。この書き換え時期は、4世紀末〜6世紀前半の間と見ることがでるのです。
従地涌出品(第15〜28品を本門とする説がある)以降の本門になると、寿量品では、釈尊(ブッダ)は滅することが無い永遠の存在であることが示され、歴劫修行の階梯が大幅に圧縮されて、この世がすでに釈尊(ブッダ)の浄土であることが説かれています。人々は浄土に生まれ変わる必要がなくなるのですが、法華経は、弥勒菩薩の兜率浄土も観音菩薩の補陀落浄土も法華経のうちに包摂されると主張しています。法華経は、論理的な記述をしないままに、経典受持の功徳を特化して、説法の舞台を急速に移し変える手法が頻繁に見受けられます。このことは、法華経28品が多数のブッダ(大乗の諸菩薩)たちの分担作業によって編纂されたことを物語るものだと考えられるのです。
釈迦滅後の悪世において、法華経を護持して説き広める誓願をたてた求法者が行うべき「伝道の指針」が安楽行品に書かれています。これによれば、法華経を説こうと願うなら安らかに語ること、他の経典の欠点を語ってはならない、他の教えを説く人に対して高慢であってはならない、他人の良悪・長所や短所を口にしてはならない、人の安穏を願って法を説きなさい、いたずらに議論して論の優劣を競うことがあってあはならない、などです。日蓮が激しく他宗を排撃した宣教の手法は法華経の心に全く合わないものであったと考えられます。
「勧持品」は、釈迦入滅後の法華経の伝道者は苦難と忍耐の殉教の道を歩む覚悟が必要であることを説き、これに法華経の宣教者たらんとする者が「不惜身命」の誓いを立てる章です。これを強引に日蓮の身に当てはめて、日蓮は法華経の布教のゆえに一命を殺害されようとした大難を蒙った唯一の宣教者であり、この境界は日本第一の法華経の行者であるとするものでした。日蓮のこの自画自賛は同時に最澄をはじめ法華経を宣揚してきた比叡山の数々の高僧の功績を無視するものであると考えられるのです。しかし、このことから、日蓮は佐渡流罪を契機に「発迹顕本」し、日蓮が上行菩薩の再誕、末法の本仏である自覚に立ったと日蓮門下では信じられています。こうして、宗祖日蓮を礼賛する憑依の伝説が作られ、この中で日蓮を末法の本仏とする日蓮本仏思想が育てられてきたと考えられるのです。
日蓮が蒙った諸難は、日蓮が他宗を邪宗呼ばわりしてきたことによって引き起こした因果応報の妥当な処断であり、法難ではないと考えられます。これは鎌倉幕府の刑罰を不服として法難にすり替えるものであり、法華経の説く宣教者の受難ではありえず、法華経の解釈を枉げる独善説であると考えられるのです。日蓮は安楽行品が説く宣教の求法者の道に明らかに外れていました。勧持品の説く法難は、安楽行品が説く宣教姿勢を護持したにもかかわらず、無法な言い掛りによって法難を受ける場合であると考えられるのです。日蓮は法華経が説く法難にあった唯一の宣教者であるという形式にこだわって、自ら法難を招いた疑惑があるとさえ考えられるのです。日蓮の独善的でかつ異常な宣教姿勢は、幕府、顕密仏教界に対する挑発的な不満の表明でしかないと考えられます。
法華経は、根本の教主について不滅の釈迦如来という思想を語っています。不滅の存在と見做された釈迦が入滅したことから、生身の釈迦(色身)と不滅の釈迦(法身)の問題が発生しています。ここに、仏教徒にとっては無関心ではありえない「仏身論」の問題が発生し、さまざまな大乗仏教経典が各自に独自性のある解釈を示したのです。釈迦滅後の本仏の特性は、生身の釈迦ではなく、不滅の釈迦如来という新しい本尊観が生まれたことから、法身または報身という仏身観が考えられたのです。ここから大乗仏教の根本的な論理性をもつ「仏身論」の研究が始まり、各宗が独自性のある教理を展開するようになりました。
仏身観の研究は、仏教教理史の中心的な課題となるものです。釈迦滅後、大乗仏教では永遠のブッダ(仏)の存在が語り始められ、仏とは何か、仏の真身とはいかなるものか、という議論があらわれ、その主張内容が教判の中心課題になりました。この仏身観を論理的、哲学的に整理して教理体系を構築したものが仏身論であり教判論の中心課題となっているのです。、仏身論は、大乗仏教としての正統性と正当性を挙証する理論体系ともいえる重要な論です。自宗の存在性の正統性と正当性が挙証できるかどうかの論証の基準ともいえるものなのです。
日蓮本仏論の主張は、地涌の菩薩の上首・上行菩薩の再誕を持ち込んで『法華経』の解釈を歪め、法華経の精神を捏造する妄想と考えられます。伝統的な大乗仏教の教理を学んだ僧の中から、日蓮=地涌の菩薩の上首・上行菩薩の再誕=末法の本仏=根本仏(諸仏を統括する統一的な本仏)などという妄想の仏身観を主張する者が出るなどありえないと考えられます。日蓮本仏論の主張は、法華経の如来寿量品から日蓮本仏論を導きだすことは不可能です。法華経の布教にまことをささげた天台大師智、妙楽大師湛然、伝教大師最澄およびその系譜に連なる者が絶対に認めない妄想に過ぎないことは自明の理と考えられます。
日蓮の法華経観は、天台宗の伝統の正当な師僧から伝授されたものではないと考えられます。修行僧日蓮に芽生えた妄説と考えられます。日蓮が天台宗の正式な僧侶資格を認可された僧とは考えられないのです。比叡山を勝手に下山した修行僧にすぎないのではないかと考えられるのです。日蓮宗には厳格な天台宗の諸儀式・諸儀礼が継承されていません。天台宗の余韻が感じられないのです。日蓮本仏説は、日蓮に憑依された強い思い込みや節度が欠落した情念としか考えられませんが、法華経を根拠にして日蓮本仏論を捏造した精神構造にはまったく仏身観が感じられません。このような妄説を継承する宗教団体には、オカルト性が濃厚にあると考えられるのです。
統一的な仏身観は中期密教(『大日経』・『金剛頂経』)の曼荼羅思想がはじめて示した概念です。法華経の仏身論のあいまいさが日蓮本仏論の捏造を生んだのではないかと考えられます。立宗宣言しながら、日蓮が長い間、本尊の相貌(その相、姿、形)を信者に示すことができなかった理由は、日蓮自身も本尊を何にするかの逡巡があり、具体的に示すことができなかったのであろうと考えられるのです。
日蓮が本門の本尊として図顕した本尊は、墨一色で日蓮の独特な髭文字といわれる癖字で書かれた本尊ですが、明らかに密教の要素が含まれています。これを事の一念三千の十界曼荼羅といっていますが、何故か大日如来の教令輪身(明王)の双璧とされている不動明王、愛染明王を抽象的な表現(梵字ではない、意味不明の文字か?)によって書き入れている特徴があります。いわゆる円密一致の表現なのでしょうか?日蓮門下では、これを本門の大曼荼羅といいますが、日蓮の各派が本尊とする曼荼羅はそれぞれ異なります。これら数種の本尊は、いずれも日蓮の真筆とされているものですが、日蓮が書いた経緯はそれぞれに事情が異なります。日蓮の弟子は日蓮の死後に分裂し、それぞれが手を尽くして入手できた日蓮真筆の特別ないわれを持つ本尊を入手したものですが、各派ともそれぞれに唯一絶対の本尊であることを主張しています。どれか一つの本尊の唯一絶対性を認めれば、自派の存在と血脈が否定されるリスクがあるからだと考えられます。日蓮の本尊の仏身観は、日蓮の胸中に芽生えた日蓮の独自の世界観から生まれた極めて個性的、特殊なものですが、これを大乗仏教の仏身論という普遍性を持った論理性で説明することは不可能です。詳細は「(33)-3日蓮の法華経解釈」「(33)-4日蓮本仏論」及び「(33)-6日蓮の本尊とその論理性」を参照して下さい。
日蓮の法華経観は、比叡山の逆鱗に触れる非仏説でしたが、 この世こそが常寂光土(浄土)であると力説して専修念仏の西方浄土を徹底的に批判した姿勢には、一定の評価が考えられます。死後の世界に安穏を求める思想(現世逃避)を否定する姿勢には、現世の改革思想が認められるのです。
この意味では、日蓮と法然、親鸞の世界観は対極にありました。鎌倉幕府から2度の流罪に処せられ、鎌倉御家人、地方領主の数々の弾圧を受けながらも日蓮が生き残れたのは、僧の身分であったこと、鎌倉御家人であった地方領主や土豪層を信者に持つことができたからだと考える説があります。これに対し、日蓮系では「仏は横死せず」という牽強付会の妄説が信じられています。
僧を殺せば七難に祟られる。これは僧が蔓延させた為政者に対する牽制でした。この牽制論には、為政者に心理的な圧迫感を与え僧の処断を躊躇させる威力があったものと考えられます。日蓮の弟子は法華宗を名乗り、比叡山の衣を便利に利用して弾圧を免れた僧が相当数いたことは事実です。後年、法華宗の名乗りは比叡山が正式に禁止処分にしたことで宗祖の名を取って日蓮宗(各派)に改めた経歴があります。
日蓮の現実的な改革思想が、室町・戦国時代の町衆の商工業者に支持されて根付きました。いつしか、題目は都市部の町衆に根付き、農村部の念仏と棲み分けをして流布されてきた歴史があります。
この中の少数派であった興門派(日興、日目の系譜)には、単なる祖師崇拝を突出した日蓮本仏論が根付いていました。興門派は弱小で、江戸時代から戦前まで穏健な多数派の身延門流の傘下に置かれていましたが、戦後に独立し、信徒団体の創価学会が急激に信者数を増やしたお蔭で総本山大石寺の大伽藍を整備し、地方寺院を多数建立して寺院の信徒組織を整えながら裕福な巨大教団に変貌を遂げました。
興門派の富士・大石寺は、鎌倉時代から一貫して日蓮本仏論という頑迷な教義を死守してきたことから、ハリガネ宗の異名が付けられています。日蓮の正統な血脈を主張し、日蓮本仏論を捏造する異端の仏教観を基準にして、他宗にいわれのない批判を浴びせて攻撃する独善的な体質に呪縛されているという批判があります。創価学会との対立が表面化し、創価学会を破門して独立させたことから弱体化していると考えられます。
念仏と題目は、平安時代の院政期ころまでは貴族層から武士層まで、朝は題目、夜は念仏、と使い分けをされていた簡便な信仰方法でした。禅も密教の修法も併修されていたのです。平安末期から鎌倉時代の度重なる政変や激しい気候変動・大地震が頻発しました。これを末法思想の始まり、終末思想の現れと受けとった祖師が、悩める民衆を救うために、簡便な庶民向けの信仰形態を考え出したものと考えられます。混乱の時代に登場した新たな布教方法でしたが、疲弊しきった人々の心の中に根付きました。
しかし、これらは釈迦仏教や大乗仏教の精神を継承するものではなく、むしろその精神性を否定するものであったと考えられます。端的に言えば、日本にしかない特色を持つ非仏説です。
『法華経』は、その精神性が進歩的であったことから、これに心酔した個性の強い新興宗教の祖師が独善的な解釈を加えてさまざまに変質させられた経典です。現代でも新興宗教の経典に利用されている著名な経典です。浄土三部経は、念仏宗徒が阿弥陀如来の広大な慈悲の深さを拠り所として、菩提心や菩薩行の自覚のないままに成仏を丸ごと預けることができる有難い経典に祭り上げられました。鎌倉新仏教(祖師仏教)は、非仏説が民衆仏教の顔を装って異質な教理を大量に刷り込んだ過失があると考えられます。
日蓮系と念仏系は、庶民の中に教勢拡大するライバル関係にありました。庶民の支持を広げる工夫は、信仰実践の簡略化に如実に表れましたが、信者の実践は「題目」と「念仏」に競うように特化されました。題目は娑婆世界(現世)の中で成仏することを求める人々が、念仏は阿弥陀如来に抱き取られて西方極楽浄土(来世)での極楽往生を求める人々に支持された簡便な信仰の実践方法でした。祖師たちが、庶民が簡単にできる実践方法を示したことで庶民の支持を得ることができたのです。これが、仏教の庶民化といわれる祖師仏教の実態であったと考えられます。
禅宗系(栄西、道元)は、日蓮系や念仏(浄土)系とは一線を画す独特の立場で、中国文化を背景にして新たに台頭した新興勢力です。禅宗は、インドの仏教集団であるサンガ(僧伽)集団から発生した仏教ではなく、いわゆるインド発祥の大乗仏教の中から発祥した仏教集団ではありません。その実態は、仏教とは全く別の中国の道教コミュニティから発祥して仏教の看板を付け替えた集団でした。禅宗が仏教教団に衣替えできた理由は、大乗の『涅槃経』が説いた「一切衆生悉有仏性」(いわゆる如来蔵思想)の影響を受けて成立したこと、いわゆる座禅修行の精神的な眼目が大乗思想の「一切衆生悉有仏性」の影響をうけたことにあると考えられます。
大乗仏教が考える釈迦仏教の眼目とは、「自分の中にいるブッダに気づくこと」にあります。釈迦の遺言(「自灯明・法灯明」)とは、「自分で努力を重ね悟りの道を歩む」こととされています。自分の中に如来の胎蔵(仏性)があるという如来蔵思想に強い影響を受けたことを理由にしていると考えられます。禅宗は、大乗仏教の諸経典を根本経典として発生した仏教教団ではありませんが、「自分の中にブッダの本性がある」ことを前提として、「すべての人は条件さえ整えばブッダになることができる」と考えたのです。この意味において、当時の中国人は、禅宗もまた大乗仏教の系譜に連なる集団であるとの自覚を強くもったことが考えられます。
禅宗では、「禅とは信仰ではなく、修行である」といいますが、基本的な姿勢には文字によって書かれた経典の教え(法)には重きを置きません。禅宗がいう座禅とは「仏性に気づくための座禅修行」でした。しかし、朝廷・貴族・大寺社の旧勢力が長年にわたり独占してきた既得権益を簒奪する武力を持った鎌倉幕府の武士階級の精神的な支柱として武士文化の形成に利用したことが考えられます。朝廷が庇護してきた既存仏教の精神文化に対抗する意図をもって、台頭する武士勢力の精神的な対抗軸として物心両面で支援し、新たな新仏教に位置づけて育て上げたのです。
諸国の中の領国を支配する上層武士団が、禅宗に相次いで宗旨替えし始めたのは禅宗の出自や教理を理解したうえでの決断ではなく、また、中国仏教の最新文化に敬意をはらって受け入れたのでもありません。政治権力と武力指揮権を手中にし、武士を統率する新たな権力者・鎌倉幕府の上層部のあり方に倣って恭順を示すものであったと考えられます。
禅宗は、武士階級の手厚い庇護を受けて隆盛に向かいました。禅宗が武家政権から特別の庇護が受けられた理由は、京都の伝統的な(貴族)文化に対抗できる最新の中国文化であると幕府から認められたからでした。多数説によれば、文化的に見下げられていた武家政権の意地が、京都朝廷・権門勢家の伝統的な精神文化に、最新の中国文化をもって対抗したものであったと位置づけられているのです。
鎌倉幕府の執権北条氏が保護して育成した「鎌倉五山文化」や室町幕府の将軍家足利氏が保護して育成した「京都五山文化」は臨済宗が受けた恩恵です。鎌倉と京都の臨済宗の古刹寺院が巨大な寺域を持つ理由がここにありますが、現在は歴史的建造物として観光寺院の色彩があります。臨済宗には、庶民に対する布教活動の熱意が少ないと考えられています。
曹洞宗は地方領主や在地の有力武士の帰依を受けて、手厚い保護に浴して成長した教団です。武士階級は、殺傷に関わる職業の身上があったことで、後生善処を求める気持ちがより一層に強かったのではないかと考えられます。武士の心の中に沈殿していた「職業上のわだかまり」(合戦、殺傷=不殺生)を払拭させた禅宗の功績は大きいと考えられるのです。曹洞宗は自助努力の布教活動によって次第に教勢を拡大してきた宗派です。現在、一般的に禅宗という場合は、曹洞宗を指すと考えられています。庶民の大半は、江戸時代の檀家制度の下で行われた庶民の強制割り当てによるものではないかと考えられます。
黄檗宗は、1654年に中国・明国から招かれた隠元が京都に開宗した新参の明朝様式の臨済宗の一派です。正統派の臨済禅を伝える意識を持ち「臨済禅宗黄檗派」などと名乗りました。江戸幕府の外護を背景に諸大名の帰依を受け、1745年の末寺帳には1043ヶ寺の末寺の記載があります。黄檗宗を名乗ったのは1876年のことですが、一般市民に対する布教活動に見るべきものがなく、現在は小規模の教団(本山は京都・宇治市の万福寺)です。
鎌倉時代の守護・地頭の権勢と室町時代の守護大名の権勢の庇護を求める地方寺院が、禅宗に改宗することが頻発して、天台宗や真言宗の地方寺院に打撃を与えました。寺院の改宗は、政権を掌握した幕府を支える武士層の武力と財力の庇護を求めざるを得なくなった地方寺院の自己防衛本能であったと考えられます。武士の台頭によって、朝廷や権門勢家の権威が削り取られる世相の移り変わりが見えてきたことから、かつての朝廷・権門勢家の手厚い庇護が期待できない社会情勢になったことを契機にするものでした。1本山の遠隔地にある末寺は、本山の庇護が期待しにくいこと、2権力を握った在地領主の意向に逆らえないこと、3在地領主が禅宗への改宗を望んだこと、などがその理由とされていますが、禅宗の多数の大伽藍が今日に残された理由はこのあたりにあると考えられます。
禅宗各派は、自らの修行と研鑽を通じて悟りを求めることを重視する立場であり、庶民に熱心に布教活動をしてこなかった教団です。庶民獲得の布教活動は、明治維新後のことでした。しかも自らが自発的に法を求める人々を受け入れてきたまっとうな教団であったと評価できます。禅宗の僧侶の育成は厳格であり、戦後の混乱期でも新興宗教団体が芽吹く素地がありませんでした。禅宗には、修道システムが機能していたことの現れであったと考えられます。
修禅(瞑想行)という修行の方法は禅定といわれ、インド仏教伝来の伝統的、基本的な修行方法の一つです。上座部仏教、大乗仏教のほとんどの宗派で取り入れられてきた瞑想法です。しかし、禅宗の禅(無想禅)は、老荘思想の強い影響を受けた中国禅の独特な瞑想方法を受け継いだ特徴があり、インドの瞑想法とは異なると考えられています。1悟りを目的とすることなく、ただひたすら余念を交えず一途に座禅に専念する只管打坐(しかんたざ=曹洞禅)と、2悟りを導くための手段や工夫が仕掛けられた問題を修行者の心根を練磨するために課す公安(臨済禅)がありますが、この解には修行者の独自性のある回答が求められています。
禅宗の無想禅に対し、有想禅と呼ばれる真言密教の瞑想法があります。姿勢と呼吸を整えて瞑想状態に入り、この状態を維持する禅定が「数息観」、次にこの数息観から大日如来(宇宙の実相)と一体化(入我我入=仏が我に入り、我が仏に入る、双入の瞑想法)する具体的な観法に入りますが、この観法が「月輪観」、「阿字観」、「五相成身観」などと呼称されています。安定した瞑想に導く手段として、具体的な図絵や瞑想方法を用いることから有相禅といわれています。
釈迦の悟り(開悟)は、難行苦行の果てに、極端な苦楽から離れて中道に立ち返った釈迦が菩提樹の下で行った深い瞑想(修禅)の中から生まれました。釈迦の滅後に、釈迦を慕った弟子たちが釈迦の悟りを追体験する修行法として行った瞑想法が「禅定」と呼ばれています。しかし、日本の禅宗は、中国の老荘思想などと混淆して生まれた中国禅の系譜を移植したものでした。この点からいえば、釈迦が行った瞑想法(観法)と禅宗の禅とは、修禅観法の在り方や悟りの内容が全く違うものだと考えられます。
中国禅の特徴の一つに「禅問答」があります。この問答を書き留めたものが「語録」です。禅の問答は体験主義から生まれたものですが、日常のあらゆる体験を書き留めることの意味は、禅では「悟り」とは日常の絶対性に気付くことにほかならない、と考えられたことにあります。禅の師弟の指導では、弟子の進境に従って適切な指導をしなければならず、相手の境地を見極めることが必要不可欠になることから、問答を記録する語録が採用されたのです。
中国で生まれた禅宗は、仏教としては特異な系譜にあるという典型的な特徴に彩られています。禅宗は、中国人の現世的性格を色濃く反映して伝統的な「語録」という形式を採用していますが、禅宗が依経とする経典には中国で作られた数々の偽経が含まれていることから、禅宗には経典の真意を究明しようとする姿勢が希薄であるいう評価を受け続けているのです。中国人の感性では、「生きていく上で真に意味のあるものは何か」ということを突き詰める意思が重要視されます。ゆえに、日常性を絶対的に肯定する思想をもつのですが、自らの体験と思惟を根拠にして、中国人の感性に基づき、生きていくことの意味を自由に探究する思考法や発想法を表現しようとしたと考えられています。禅宗は経典の権威を否定して、生きていく上で何に価値を見出すのかという姿勢にこだわりを持ったのですが、このことは、臨済の言葉に「仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺す」という有名な句があることから、まさに超越的な価値をもつとされているすべてのものを怪しげなものとみることによって槍玉にあげる手法であったと考えられます。
ところが、禅宗では、釈尊が悟った「正法眼蔵」(悟り)は以心伝心によって摩訶迦葉に授けられて禅宗の系譜が発生し、代々に伝授が繰り返され、第28祖の菩提達磨に至り中国に伝承されて自分に及んでいるとする仏教としての正当性を確保しようとする主張をしてきました。しかし、これは根拠がない神話に過ぎないことは誰の目にも明らかであり、仏教史では完全に否定されている神話です。禅宗がいう不立文字・以心伝心・教化別伝は、禅宗が依経とする『大梵天王問仏決議経』を根拠とするものですが、この経は中国で創作された偽経と考えられているものです。禅宗が創作したこれらの故事は、中国禅の発生を古代インドの釈迦仏教に繋げる意図をもって創作した偽経を根拠とするものでした。釈迦の拈華微笑を摩訶迦葉の微笑につなげて以心伝心に見立てることで、釈迦の瞑想に正当性をもってつなげようとした創作神話には真実性が全くないことは明らかな事実と考えられます。
これと同様に、「禅密一致説」という説がありますが、教理的には密教と中国禅は仏教の対極に位置する存在と考えられます。「禅密一致説」とは、新たな支配者となった絶対的な領主の関心と庇護を期待して寄り添わざるを得なかった地方寺院の苦心の末の抽象的な概念であると考えられます。鎌倉時代は武家政権の価値観、宗教観を受け入れなければ有力者の施入が期待できず、反感を抱かれるリスクが存在したと考えられるのです。この禅と密教の一致説は、武家の台頭によって存在感を示してきた禅宗への危機管理意識が発生した伝統寺院の切実な危機回避の一つであったことが考えられます。
例えば、応仁の乱以降の戦乱で幾多の伽藍を消失して衰退した高野山に、北条政子(頼朝の妻、二位禅尼)の施入があり、金剛三昧院が建立され、15個の荘園、10余万石の寺領が寄進されたことで三千の学徒が養育できたという事例があります。栄西の弟子行勇(1163-1241)はもともと真言僧でしたが、鎌倉八幡宮の住僧となり政子の帰依を受け政子に授戒した僧でした。栄西が鎌倉に寿福寺を開いた時、行勇は栄西に師資の礼をとり禅宗に帰したのですが、政子が高野山禅定院を改修し金剛三昧院と改名した際に行勇を第一世としたことが機縁でした。行勇は、高野山の道範より密教の秘奥を授けられていますが、この金剛三昧院を密教と律、禅の三教研修の道場としたのです。他面では、禅宗に密教の諸仏(密教の諸菩薩、明王、天部の諸尊)を信仰の対象とする他宗からの改宗寺院が多くでたことから、これを解決しなければならない現実的な要請があったものと考えられます。
あるいは、鎌倉以降、戦国時代、江戸時代初期(檀家制度の成立)、明治初期(神仏分離と修験道の禁止)などの混乱の中で、生き残りの道を求めて真言宗に看板の付け替えを望んだ人々(あらたな地方寺院の誕生)が持ち込んだ悩ましい説かもしれません。いずれにしても、このことは新たに看板の付け替えをせざるを得なかった新規参入の地方寺院が生き残るために主張した方便説であったことが考えられます。
真言宗各派の地方寺院の中には、読経のときに右手で木魚を叩き、左手でケース(大きな鈴)を叩く僧(特に関東地方に多く見られる)がいますが、真言宗の伝統的な法式に木魚はありません。木魚は中国の道教を発生源とする鳴り物であり、禅宗の法式に継承されてきたものですがインド伝来の仏具ではありません。木魚が日本で仏具として扱われているのは禅宗の影響と考えられます。厳格な真言宗の法式に木魚が混入された事情には、新規参入寺院を形成した人々の中には雑多な法式を混入していた集団が相当数あったことが考えられるのですが、この新規参入は集団で一括して行われたことが考えられます。
しかしながら、禅宗は仏教の精神を継承する意図があり、歴代の武家政権に支持されてきたこと、厳格な教団運営をしてきた実績があることから、大乗仏教の系譜の中に存在していることを黙認(インドの発生ではなく中国生まれ)されてきたと考えられます。この点では大乗仏教の精神を見失った日蓮系、念仏(浄土)系の宗派とは一線を画する存在感が認められるのではないかと考えられます。
特に、禅宗の中で育成された禅文化の創造性は社会に多大の貢献をしました。禅宗の文化創造の功績には大きな功績があります。今日に伝承された禅の造形文化(建築・作庭・造形など)は、世界的に認知度が高い日本生まれの文化です。禅宗は、中国で生まれ、中国育ちの中国仏教に軸足を置く鎌倉新仏教ですが、多大な文化創造の功績が認められるポジションにあります。特に、曹洞宗が欧米で広めた瞑想やスピリチュアル・ケア(病気と心のケア)の分野において、積極的に参加して外国人の理解を深めてきた功績は他宗に見られない稀有な社会貢献であると評価できます。外国では曹洞宗の社会貢献の在り方を目の当たりにした人々が日本文化の仏教の瞑想に目を開き、瞑想の心を理解しはじめたと考えられます。
米国における禅宗の(瞑想の)影響は、宗教の側面ではなく、心理的側面やスピリチュアル・ケアの側面が評価されています。2015年12月7日読売新聞夕刊が次のような記事を掲載しました。「米国の仏教徒は350万人で全人口の1%に達し、宗教に関して仏教に大きな影響を受けた人々は3000万人もいるという。」「多くの米国人が仏教に惹かれる理由は、仏教の瞑想とその心理学的解釈にある。彼らにとって仏教は、葬式や法事ではなく、日常の目覚めを実現させてくれるものなのである。つまり、従来の教会で説教を聞いて信じる宗教ではなく、自らが瞑想し、仏教の心理学的解釈を糸口に、日常の目覚めに基づく心の安穏を求める、目覚める宗教に惹かれるのである。」「仏教の影響を受けた心理学と瞑想法が米国で大きく発展し、今、逆に東洋に新しい形で上陸し始めた。」「仏教の歴史が米国より長い日本では、日本人に相応しい独自の形で心の平穏が求められ発展していくことだろう。」と。
仏教に始る瞑想は、宗教の枠を超える有効性が考えられます。その影響は、医療、心理療法、教育関係、福祉関係、スポーツや軍隊(精神力の効果的な集中法応用)に取り入れられています。瞑想法には様々な手法がありますが、瞑想に関しては宗派の違いを意識しなくてもいいのではないかと考えられます。ここに仏教の各宗派の共通項があるのではないかと考えられるからです。
インドから中央アジア経由で中国に大乗仏教がもたらされましたが、中国は諸子百家の伝統的な思想を受け継ぎ、儒教、道教、墨子、荀子、老荘思想などが花開いて根付いた文明国家でした。また、プライドの高い中華思想が蔓延した中国人の気質は、インド思想をそのまま受け入れることはなく、中国人の気質や思想に合うように加工修正されて受け入れられた事実を知らなければなりません。仏教の中国的理解は、特に、一念三千論を構築した天台宗の法華経観は智の独自解釈を論拠にするものです。智の特徴的な天台三大部(『摩訶止観』『法華文句』『法華玄義』)が著されたことによって、天台宗に独特な優越感が生まれ、「四種三昧」という天台宗の独特な瞑想法を生んでいます。また、阿弥陀仏の慈悲の受け取り方に特殊な解釈を示した善導の念仏観、中国禅宗の独特な悟りの世界観の構築の在り方、などに典型的な中国生まれの仏教思想の特徴をみることができると考えられます。
この意味では、中国仏教は、必ずしもインド仏教の思想をあるがままに反映するものではありません。日本仏教の特質は、このような中国人の仏教観に大きく影響を受けていることにあります。この事実を知った上で、真摯に釈迦仏教の原点を見直す努力が求められていることを知らなければならないのです。ゆえに釈迦仏教の精神、これを受け継ぐ大乗仏教の精神はそのまま堅持しなければならないのです。この精神が欠ける宗教は仏教とはいえないのです。
仏教思想の淵源を理解するためには、混入された中国思想を中和する立場で各宗派の教義や教理、実践法を見直す必要があると考えられます。とくに、鎌倉新仏教(祖師仏教)には、日本人が持つ宗教的情緒が大量に埋め込まれたことで仏教が持つ普遍性を失い、多くの瑕疵が混入されてきました。日本仏教の中にはこのような独善的な多様性に覆われていることを理解しながら、釈迦仏教の精神を受け継ぐ大乗仏教の本質とは何かという基本認識を見つめ直す必要性があるのではないでしょうか。
鎌倉新仏教の祖師達は、自分の意思に基づいて比叡山から下山した僧侶でした。比叡山の所定の修行を円満に満行して、本山の方針に従って天台宗の布教活動をするために下山したのではありません。祖師たちは、比叡山の在り方に不満を持った僧でしたが、これをもって改革派とか革新派とはいえないのです。この祖師たちが、さまざまな宗教的情緒を持ち込んで独自の布教活動を始めた頃、比叡山は、祖師たちの独善的な在り様に驚愕して数々の弾圧を自ら行い、為政者にその取締りを求める行動を取り続けました。これが比叡山の良識であったと考えられます。
ところが、さまざまな弾圧を耐え抜いた歴史を持つ祖師仏教が、人々の支持を得て社会に根付いてしまうと、比叡山は方針を変換してしまいました。今度は、祖師たちが比叡山で学んだ僧であることを強調して、比叡山が総合的な仏教アカデミーである、比叡山は諸宗の母山である、とするプロパガンダに利用したのです。しかし、比叡山の実態は、最澄の意思に反する教義の粗製乱造を制御しきれず、独善性にまみれた新興宗教の独り立ちを矯正できなかった、というのが正直な実態ではないかと考えられます。
もし、比叡山の方針転換が、祖師たちが布教した異端の教義を丸ごと認めるものであれば、天台宗の伝統的な教義は統制不能の自己矛盾に陥いるリスクがあると考えられます。最澄の意思に反する異端の教義を認めることになるからです。また、「教義は認めないが、布教の実績は認める」というのであれば、顕彰された祖師たちが喜ぶとは考えられません。どう考えても、祖師たちが比叡山で学んだことを認めるという意味以外には考えられないのです。そうであれば、この顕彰は比叡山のプロパガンダに使える効果的な素材であったという意味でしかない、と考えられます。この比叡山の方針転換は、さまざまな疑義を感じさせるものであったと考えられます。宗教界から批判が出てこなかったことが不思議ですが、百戦錬磨の歴史を持つ各宗派は、この比叡山の変身の真意は十分に見切っていたと考えられるのです。
鎌倉新仏教(祖師仏教)の宗派の中には、僧侶を養成する修行プログラムを持たない教団が存在していると聞きます。驚くほどの短期間に簡単な養成をして済ませ、僧侶と認めて法衣を着せていると批判されているのですが、諸外国の仏教国の人々がこの事実を知るところとなれば、どのような批判を受けるでしょうか。祖師仏教の宗派の中には、伝統的な釈迦仏教や大乗仏教の精神と修行の意味内容を理解しない何らかの理由があるのでしょうか。鑑真和上が生命の危険をも省みず、僧の厳格な養成のために日本に伝えた「僧の受戒制度」はどのように行われているのでしょうか。はなはだ疑問です。厳格な修行を課せられない僧侶がいることが信じられません。不思議としか言いようがないのです。
天台宗(比叡山)の開祖・最澄は、天台智の法華経の世界観を布教するために生涯に渡って南都六宗と宗論を争ってきた厳格な僧でした。当時、正当な国家仏教であった南都六宗を敵に回して生涯を宗論の闘争に奉げる決断をした最澄が、法然・親鸞・日蓮の教理を認め、天台宗の法流を継承する有資格者として認めるであろうか?という疑問があります。天台宗の教理の上に独善的な妄想を上乗せして立宗宣言をした日蓮、善良な庶民に非仏説としか言いようのない大量の情念を刷り込んだ教理を捏造して流布した法然と親鸞の在り方を考えれば、宗論に厳格な最澄がこれらを弟子の系譜に連なる僧として認めるとは到底考えられません。大乗仏教の普遍性が欠落した教理を認めるわけがないと考えられます。 
現代の新興宗教

 

現在、信者数、組織力、政治力に関わる最大の新興宗教団体は創価学会です。これは、万人の共通認識であろうと考えられます。戦国時代の一向宗(現・浄土真宗)と日蓮を祖師とする諸宗派、特に、現代の創価学会がいわゆる民衆の中からでき来た巨大な新興宗教と考えられています。
浄土真宗(旧一向宗)には、400年以上にわたる温厚な歩みがあります。東・西の本願寺体制が発足した以降の浄土真宗・門徒の安定した信心深さには定評があり、オカルト性を疑う布教活動をしてこなかったこと、社会に受け入れられる伝統的な信仰態度を取り続けていること、社会平和に資する態度を表明していることから、伝統教団として受け入れられていると考えられます。また、今日的な意義から見ても、祖師仏教の特徴的な教義をもつ宗教学的論理性の部分を除き(これも他人の信仰を批判して変えさせようとする独善性や危険性が無い)、今更あえて批判の対象とする必要性はないと考えられます。
ところが、創価学会は、戦後の不安定な社会の中で芽吹き、現在も日蓮の妄想を持ち続けて独善的な布教活動の折伏を行っている政治力を持つ新興宗教団体と考えられています。さまざまなオカルト性が問題視されてきたことなど、社会的にはいろいろと世間の注目を浴びる存在感があります。何よりも日蓮の思想に憑依された独善性を変えられない原理性が際立っていることから、教義問題だけでなく、布教活動の在り方や様々な諸問題が世間の批判の対象になっています。ゆえに創価学会には、批判に値する諸問題があると考えられます。
日蓮の魂が、ゆるい僧侶に替わって、信者の魂に憑依して立ち上がらせ、エネルギーを与えて戦闘的な新興宗教団体を結成させたのでしょうか?。僧侶の指導を受けない新興宗教団体は、独自性を主張して次々に普遍性を欠落した宗教ドグマを抱え込んでしまったものと考えられます。この新興宗教には、善良な人々を折伏する道理や正当性があるとは考えられません。特に、池田創価学会の体質には、韓国人のファビョン史観(独善的な歴史捏造)の体質とプロパガンダのありように同質の共通性が濃厚に認められると考えられています。
ファビョン史観は朝鮮民族が伝統的に持つ固有の「恨」文化の噴出によって自制心が制御不能の状態に現れる妄想と考えられていますが、これらは韓国政府のさまざまな反日政策や国民感情の世論操作に典型的に表れていると考えられています。2015.10.10付の朝鮮日報日本語版に医学専門記者・金哲中(キムチョルジュン)が書いた記事が掲載されましたが、「ちょっとしたことで怒り、それをこらえきれずに他人などを攻撃する症状は間欠性爆発性障害に分類され、行動障害の範疇に属する。そうした行動障害や人格障害と診断された患者の年齢を見ると、昨年は20代が全体の28%と最も多かった。次いで30代が18%、10代が17%の順だ。」という記述には韓国民の精神文化の一つの傍証が表われていると考えられます。しかし、これらの数値は低すぎて実態を反映したものとは考えられません。ファビョンは「恨」を刺激する言葉の種類によって反応に大きな変化があるものです。「恨」のキーワードが何であるかによって受ける刺激やショックの度合いが大きく異なるのではないかと考えられるのです。この意味ではファビョンは朝鮮民族が背負った過去の負の歴史遺産である「恨」の感情の強さに比例する民族疾患であると考えられます。文化結合症候群と認定されているファビョンの発症率は民族の70%とみられる高い数値であることから、この記事には相当な抑制がかかっていると考えられるのです。
韓国人の民族性について少し脱線します。韓国人(北朝鮮も同様)の歴史認識には、際立った歴史観の捏造が指摘されています。それは、「日本文化は韓国人が教えてやったものだ」という朝鮮半島の歴史改竄に典型的に表れています。日本に百済文化が伝わったこと(天皇家を百済系とみる説もでている)、新羅、高句麗からも特に亡国時にはまとまった集団が帰化して日本文化に影響を与えたことをいっているのだと考えられます。しかし、この三国は次々に滅亡しています。これら三国の民族と現在の韓国民の祖形となった北方系狩猟民族には同一性が認められません。朝鮮半島は、多数の異民族が入れ替わり立ち代わり流入して建国と滅亡を繰り返してきた特徴的な土地柄でした。戦争に負けた国家の王族・貴族は徹底的に壊滅させられ、その遺民は奴婢(奴隷)にされて徹底的に酷使され、特に男系の子孫は残せませんでした。敗者に対するこのような徹底した仕打ちは、自ら生産せず他人から奪うことしかできない狩猟系民族の伝統的な習性です。朝鮮半島は、北方系狩猟民族が次々に南下して軍事力によって勝利を収めることができた土地柄でした。朝鮮半島では、国家の滅亡はその民の滅亡をも意味する過酷な宿命に覆われていたのです。支配者層の王侯貴族の交代だけにとどまらず、敗者の民衆は徹底的に収奪の対象となったのです。その原因は、狩猟民族は敗者の全てを奪い尽くす習性を持ち、他民族への憐憫の感情が薄く、亡国の民は共存することが許されませんでした。敗者の民は、勝者が連れてきた異民族と強制的に入れ替えられ、奴婢となる運命を受け入れなければならなかったのです。
現代の韓国人の先祖を形成した諸民族は、そのほとんどが誇れる文化、固有の文字を持たない北方系の狩猟民族であり、農耕民族から収奪する目的をもって次々に南下し、高麗王朝や朝鮮王朝を建国したのです。しかし、隣国は地続きの巨大な中国大陸です。朝鮮半島は、常に中国大陸の文化と軍事力の影響下に置かれていたのです。朝鮮半島の覇者となった狩猟民族は、誇れる独自文化を持たないゆえに中国大陸から文化的な差別を受け続けたことによって中国文化に同化しようとして中華思想を真似て小中華思想を育てましたが、漢字は中国文化であり、独自の文字を持っていませんでした。1446年に李朝の世宗が創作したハングル文字は音節文字であり、言葉の意味内容を表す日本語のような表意文字でないため、言葉の意味内容や創造性・思想性・哲学性に対応できず、学術用語の翻訳には十分な対応ができませんでした。朝鮮王朝は、誇れる独自文化を形成することができませんでした。韓国人の歴史認識は、この事実を直視できず捏造の歴史ファンタジーを創作することによって朝鮮半島の悲惨な歴史事実を改竄していると考えられます。出自の大半が北方系狩猟民族にあるにもかかわらず、何故に韓国(中国からの移民が形成した古代の民族国家に比定)という国名にしたのか疑問があるのです。韓国人は、朝鮮半島で滅んだ伽耶諸国・百済・新羅・高句麗に独自文化があったことから、これらの文化が現代の韓国人の民族の文化であるとする捏造によって、韓国の歴史の中に組み込む歴史改竄を行ったことは明白です。高麗(王氏の王朝)・朝鮮(李氏の王朝)のDNAを受け継ぐ現代の韓国人には、滅んだ国家(伽耶諸国、百済、新羅、高句麗など)の諸民族のDNAを継承する同質性があるとは考えられないのです。
本論に戻ります。若干34歳の池田が創価学会第三代会長に就任できたのは、第二代会長・戸田城聖の後継者指名があったという池田の主張によるものであるといわれています。これには、戸田の後継指名は池田ではなく、戸田は側近の有能な某幹部を指名していたという有力な反対説があり、池田の後継指名説(エレベータの中で、戸田が池田を指名したという説)は常識的にありえないシチュエーションであると考えられることから池田説は捏造だという有力説がありました。この真相は藪の中ですが、池田が執行部の多数から擁立されたという形式をとったことから、池田のパーソナリティに執行部の期待が集まったのであろうと考えられています。
池田の個性的な統率力が発揮された創価学会は、短期間に飛躍的な組織の増大を成し遂げて自信に満ち溢れましたが、同時に、これが池田の独裁体制を許す結果をもたらしたと考えられています。創価学会の体質の変化は、池田のパーソナリティによるものと考えられますが、たった一人の独裁者の構想によって巨大組織化をなし遂げたことで、絶対者・池田の権力を牽制する機能を失ってしまい、さまざまな諸問題を抱え込むことになったとみられています。
特に、複数のゴーストライターに書かせた膨大な池田大作・著作集は、出版社が学会系列下の聖教新聞、第三文明などあり、いつでも自在に出版できる体制にあるものです。これらは、熱心な学会員が喜んで購読して宣伝するので在庫の心配がなく、ほとんど問題なく売却できる本です。この累計販売部数は常識を超える数字になると見られていることから、印税の額を想定すれば、池田に対抗できる作家はいないと考えられています。池田は偉大な作家であり、比類なき宗教指導者であり、高邁な思想家であるという偶像がいとも簡単に捏造されてきたと考えられます。これらの捏造によって、池田は世界各国の著名人と対談する機会をつくり(対談相手に高額の資金提供を行ったという説がある)、世界に知恵を提言する現代の思想家という形式にこだわる体裁を作り、これをゴーストストライターに書かせてきたと指弾されています。数年前から重病説が伝わり生死不明状態を疑われていた池田が、新刊本の池田大作著作を出版し続けたことで、この疑惑説は補強されたと考えられます。これが偉大な文化人、宗教指導者の実体と考えられています。
これらの出版本の発行部数が比類のない膨大な数字とみられていることから、これらの印税を個人取得として池田が独り占めするには非難を受けるべき問題があるものと考えられます。出版本の実体は、池田の名前を使うことで池田の名誉欲を満足させ、同時に会員へ効果的な販売促進を図る一石二鳥もしくは一挙両得を狙ったものであろうと考えらえています。学会の内部情報によれば、池田個人の著作と認められる本は数冊の詩集があるだけで、これ以外は皆無といわれていることから、印税の独り占めには学会内部から異論が出てくる可能性があるといわれているものです。
個人の能力を遥かに超える大量の池田大作著作の出版本は、会員への宣伝効果を高め、売れ行きを格段に高める効果が著しいものでした。膨大な本の出版は、効果的な資金つくりに貢献するものでしたが、大半は文化人を気取る池田の自己顕示欲や名誉欲を満足させるものであったと考えられています。この大量の出版本の随所にゴーストライターの代作と考えられている池田の指導が受け入れやすく盛り込まれたことから、池田の人物像がバブル状態に膨らんで、池田のカリスマ性を強力に推進してきたといわれています。なを、詳細は、(34)-6:創価学会の研究6を参照ください。
この中にある『小説・人間革命』は、学会幹部の必読書となったもので、各種の会合で池田会長の人物像を褒め称えるための教科書として使われたものでした。この本は、池田の指導者としての資質を学会員に刷り込む意図をもって書かれたものですが、池田の人物像を決定的に捏造した宣伝本とみなされているものです。次々にゴーストライターが生産し続けた大量の池田大作著作集には、池田の歓心を買うために随所に数々の虚構が書き込まれています。池田のファビョン体質に迎合する作為と考えられるものです。
ルサンチマンの妄想にとりつかれた韓国人でなければ作れない歪んだ歴史観に覆われた恥ずかしい韓流時代劇の大量生産の在り様は、韓流時代劇=韓民族の本当の歴史=韓民族は偉大な民族、という図式によって韓国民に刷り込まれている疑惑が指摘されています。いま、韓国民は自国の歴史や実力を客観的に認識できない民族性を疑われているのです。他国から見る韓流時代劇の評価は、架空の歴史ファンタジー=時代考証を無視して韓国民が待望する栄光に包まれた歴史認識の捏造=(なかったことにしたい)歴史事実を隠す新たな韓国史の捏造、という図式で見られているのです。
池田創価学会は、『法華経』の精神を世界に広宣流布する仏意仏勅の正当な宗教団体=池田大作は並ぶ者が無い偉大な広宣流布の指導者=池田大作は永遠の師=池田先生は日本だけでなく世界の偉大な指導者、という図式を持っています。創価学会の池田信奉者でなければ理解できない独善的な宗教観やプロパガンダの在り様には、神経回路に欠陥を抱え込んでいるのではないかと考えられる共通性が見られます。創価学会の独善的な主張は、日本人に育まれた伝統的な宗教観や価値観とは異質のものであり、全く相入れないものだと考えられます。
池田大作は、日蓮正宗の宗務院(実際には法主の意向と考えられる)から法華講総講頭を解任され、信徒資格を失って破門されたことを恨み、あろうことか創価学会員を組織的に洗脳して抱き込み、会員に宗門と闘わせる戦術を執拗に繰り返したと批判されています。池田の恐怖は、信仰の絶対的な指導者とされている法主の意思を尊重する従順な会員が池田を見限り、宗門の軍門に素直に下る指導を受け入れてしまうことであったと事情通は見ています。
ちなみに、宗門はほとんどの会員が法主の指導を聞き入れ、過半数の会員が池田から離れることを期待していたと見られていますが、離脱者の実数は、宗門の予想を遥かに下回る数万から数十万人といわれています。この脱会者は、宗門・法主の指導に従って法華講に鞍替えした人々だといわれていますが、日蓮信仰から離脱する道を選択した者はごく少数にとどまったと考えられています。日蓮の憑依の軛が、信徒の精神を束縛して離さないのではないかといわれているのです。
一般的な感覚では、これほどの泥仕合を見せつけられれば、信仰に疑いを持ち自然に離脱する者が後を絶たない状態になるものと考えられますが、日蓮のドグマと憑依を受け入れた日蓮信者の在り方はそうではありません。何があろうと日蓮の信仰は正しく、対立関係にある相手の考え方が間違っているだけだと考えるのです。これが日蓮信者に共通する精神の憑依性の現象面の一つと考えられるものです。
池田名誉会長は、絶対的な池田体制で築き上げた既得権益を全て失い裸の王様になることを極端に恐れたと考えられています。組織と会員に対するカリスマ性をどうすれば維持できるか、これが池田の重大な関心事であったと事情通から見られているのです。
創価学会の理念は、宗門(日蓮正宗)を外護する信徒団体として設立された信徒団体でした。折伏活動による信徒獲得によって、宗門が世間の批判を受けることが無いようにという主旨のもとに、教育者であった初代牧口常三郎が、日蓮正宗管長の特別な許可を受けて結成した信徒団体でした。折伏によって獲得した新入信者は全員もれなく日蓮正宗の末寺に所属させて信徒にするということを前提条件として結成されたことから、創価(教育)学会は「宗門の楯」となることを存在目的としていたのです。しかし、その宗門と法主を攻撃して甚大な被害を与えたのは池田大作が率いる創価学会でした。ゆえに、宗門に対する初代牧口常三郎、第二代戸田城聖との決定的な姿勢の違いがクローズアップされ、創価学会が結成の目的を放棄して独自路線を取り存続しようとしていることに批判が集中しているのです。
絶対的な権力を握る池田は、本部の大幹部を締め上げて意の如く従わせました。学会幹部は失職して生活の糧を失うリスクを回避して身分保障が受けられる道を選ばざるを得なかったのであろうと考えられます。並ぶ者を許さない絶対的な権力者に反抗できる者はいません。組織的に否定されてしまう運命に晒される危険性が高いのです。また、失職した新興宗教団体の幹部職員が、次の職を探すことは相当にハードルが高いと考えられます。
学会本部は、利用できるすべての機関紙、言論紙、末端幹部まで動員して会員を洗脳し、「池田は宗門に前代未聞の供養・寄進をしてきた最大の功労者である。その池田先生を法主は無慈悲に切り捨てた。」という被害者意識を前面にたてて、池田を徹底して擁護させることで、宗門のむごい仕打ちを印象付けることに成功しました。
創価学会執行部は、下部組織に池田を中心とする組織の団結を執拗に刷り込むことで会員を洗脳し、会員の怒りを法主に向けさせることに成功しました。学会員は従順で池田を疑うことが無いのです。これに不快感を示した宗門が、法主の権威をおとしめられたことに激怒して忍耐力を失い破門を決意したことから、池田を支える続ける学会員を組織ごと破門させることに成功したのです。これによって、池田は、創価学会内の絶対的な指導者の地位の保全に成功したと見られています。同時に、宗門の仕打ちに対して、学会員に怨念を植え付けることに成功した池田は、宗門・法主の宗教的な権威を貶めた稀代の策士であると事情通から見られています。
池田は、学会員が日蓮の正当な系譜である宗門の信徒に戻る芽をも会員自身に摘ませたと見られています。まさに池田は従順でお人よしの会員に救われたと考えられているのです。これらの情報が元学会幹部のネット情報に溢れましたが、これらの情報には内部の関係者しか知りえない詳細な内容を含むものがあることから、この情報の信頼性は高いと考えられています。
宗門の池田破門作戦を乗り越えた池田創価学会が、次に採用した戦術は世間を幻惑して池田創価学会の正当性をプロパガンダする「世界平和の文化活動」を主張することであったと見られています。創価学会は、宗門に勝利したと宣言するために、創価学会は世界平和の民主的な文化活動を推進する平和的な宗教団体であると自画自賛する必要性があったのだと考えられているのです。この活動自体は仏教が持つ「普遍性の理念」を現代社会に展開することであり、この運動自体には問題がありませんが、池田が平和運動団体のリーダーとしてノーベル平和賞を望む野望を持ち続けて来たことを問題視されています。池田創価学会の平和運動は世間の目を欺くために、独善的な宗教のカルト性を希釈する意図をもっていると見られていますが、池田創価学会が日蓮思想の正当な団体であることを会員にプロパガンダしているという疑惑をもたれて批判されているのです。
これらは、批判的な学会員や世間の目を宗門に対する同情から引き離し、池田創価学会に正当性があると訴えることができる一石二鳥の高等戦術と考えられています。池田大作の支配下にある創価学会の特殊事情とも考えられますが、学会員の認識や価値観をも一定方向にコントロールする高いリスク性があると批判されています。
この平和活動は、世間を安心させる効果が期待できるものですが、本来の池田創価学会の本質とは認めがたいところから、創価学会の「世界平和運動」には深い疑惑が考えられるのです。創価学会の真の狙いは、絶対者・池田大作を擁護すること、創価学会の組織を維持すること、であろうと批判されているのです。毎年の高額所得者の上位者の常連になった池田は、宗門からの奇跡的な離脱の成功によって、実質的には池田教の教祖となった金満の宗教ビジネスの大成者とみられています。
池田は、創価学会の絶対的な権威者であり続けるために宗教法人の定款を強引に変更させて終身の最高指導者になりました。池田の個人資産は隠されたままですが膨大過ぎる金額であると考えられていることから、池田の死後に、遺族と創価学会の争奪戦が始まるのではないかと囁かれています。祖師・日蓮はどのような思いでこの金満疑惑を見つめているのでしょうか。
池田大作は、自らが創立した公党の影のオーナーとみられている存在感を持っています。世間には政教分離の方向性を表明していますが、党員の殆どが創価学会員であること、議員の殆どが創価学会の元幹部であったこと、現在も創価学会の幹部が議員候補として選出されていることから、実質的な政教分離は進んでいないと考えられます。しかしながら、この党は政権を支える与党として政治の安定に貢献している役割を果たしていることから、その働きには一定の評価ができると考えられます。また一方では、池田がこの党の創立者の立場を手放さず、国会議員候補、地方議員候補の指名権を持ち、公職議員に影響力を行使できる実力者として指先一つで議員の政治活動を制御できる絶対者として存在し続けていると、世間の人々から疑惑の目で見られていることは大きな瑕疵であると考えられます。
創価学会員が池田を支持し続けている現状では、池田を諌められる人物は出てこれないのではないかと事情通は見ています。創価学会の選挙の票が与党に強い影響力を発揮している現状の国政の在り方からみれば、創価学会には誰も手が出せないのだと考えられますが、外から見れば、自浄機能が全く働かない創価学会は理解しがたいカルト教団のイメージがあります。しかし、個人会員やその家庭をみれば、宗教的に異常な独善的な主張を除くほかは普通の社会人と変わることがなく、何故に集団になると強すぎる宗教的な情熱が抑制できないのかという疑問を持たれています。創価学会の宗教的な独善性の主張が一般社会の不信と不安を増幅させるのではないかと考えられるのです。
現在、池田大作は病気静養中であり、創価学会の本部幹部でも面会できない状態にあることが伝わっています。池田の病気の内容は明らかにされていませんが、数年にわたり池田の病気にかかわる動静が秘密にされてきたことで、一時は回復説や死亡説が交互に囁かれましたが、どうやら存命であるものの、池田家の家族以外との面会は謝絶されている状態にあるというネット情報が流れていることから、事情通の人々の間では周知の事実になっているものと考えられます。
創価学会と池田家の思惑が違っていることが伝わっていることから、もし、池田の意思確認が取れないままに死亡することになれば、家族と学会執行部との間で確執が始まる可能性が高いことが囁かれています。その核心には、第一に「次の会長人事」、第二に「財産処理の問題(個人遺産と学会財産の詳細な仕分け)」が考えられていますが、第三には「今後の学会の進路問題(独立路線か宗門と妥協を模索するか)」が考えられます。どうやら、悩みの尽きない諸問題の発生が待ち受けている怪しい雲行きになりそうだと囁かれています。池田の存在感と既得権益があまりにも大きすぎたことから、池田の臨終後に、遺族と創価学会本部との間でさまざまな性質を含む遺産分割問題がこじれて愛憎劇が繰り返される前兆が感じられます。何事もなく無事平穏に済みそうにない悩ましい雰囲気が漂っていることから、批判者や事情通の人々が興味津々の目を向けてこれらの推移を見ているものと考えられます。
なを、本章に関する詳細は下記の「創価学会の研究1〜6」を参照して下さい。
「創価学会の独立(宗門否定)と教義の変更を考える」
以下のコメントは、聖教新聞平成26年11月8日3面に掲載された「創価学会会則教義事項の改正について」という発表に関して感想を述べるものです。
この改正は、平成14年(2002年)の「教義と本尊の改正」(公式な宗門否定)と「創価学会の独自性の宣言(宗門との絶縁及び池田創価学会の独立宣言)」に関するものと考えられます。
従来の創価学会の会則は、宗門の指導を拝受し宗門の認証団体の資格を取得したものでした。その特徴は「(創価学会は)日蓮大聖人を末法の御本仏と仰ぎ、一閻浮提総与の三大秘法の大御本尊を信受し、日蓮大聖人の御書を根本として、日蓮大聖人の御遺命たる一閻浮提広宣流布を実現することを大願とする」というものでした。しかし、宗門と絶縁するためには、1「創価学会の宗教的独自性をより明確にすること」2「現在の創価学会の信仰の実践・実態に即した文言にする」ことが必要不可欠であったと考えていたことが如実にわかる発表文でした。
よって、旧会則を「この会は、日蓮大聖人を末法の御本仏と仰ぎ、根本の法である南無妙法蓮華経を具現された三大秘法を信じ、御本尊に自行化他にわたる題目を唱え、御書根本に、各人が人間革命を成就し、日蓮大聖人の御遺命である世界広宣流布を実現することを大願とする」に改定したといっています。旧会則の相応しくない文言を削除・改定して宗門との寺檀関係と信徒関係を断ち切り独立路線を明確に宣言することには、時間をかけて用意周到に準備されてきたものであることが「魂の独立から23年、大謗法の宗門とは全く無関係」という表現から読み取れます。さすがの池田も会員の動揺を抑え込むために23年の歳月を忍耐して我慢していたことが手に取るように読み取れる改正内容でした。
本尊に関する改正について、「当時、宗門との僧俗和合時代に信仰実践に励んできた会員の皆さまの感情や歴史的な経過を踏まえ、この一閻浮提総与・三大秘法の大御本尊については、弘安2年(1279年)の大御本尊を指すとの説明を行っていました」がこれを「大聖人(日蓮)の法門を信ずるということ」に変更するという説明には創価学会の不安が読み取れます。宗祖日蓮が、宇宙と生命に内在する根本の法を南無妙法蓮華経であると考えたこと、それを末法の全民衆の成仏のために「本門の本尊」「本門の題目」「本門の戒壇」として具体的に顕した信仰の対象が「三大秘法」といわれてきたという特徴がありました。これが日蓮の僧俗が等しく絶対に守らなければならない宗論であり教義でした。
ところが、創価学会は、会則の第1章第2条の教義条項を、世界広布の新時代にふさわしいものにするという意味不明の理由を付けて「末法の衆生のために日蓮大聖人御自身が御図顕された十界の文字曼荼羅と、それを書写した本尊は、全て根本の法である南無妙法蓮華経を具現されたものであり、等しく本門の本尊であります。」「本門の本尊に唱える南無妙法蓮華経が本門の題目であり、その唱える場がそのまま本門の戒壇となります。」と変更したのです。宗祖日蓮に由来する「根本の法である南無妙法蓮華経を具現された三大秘法を信じ」という伝統的な信仰姿勢を「大聖人(日蓮)の法門を信ずる」という、どうとでもとれる抽象的な解釈に置き換えて、宗門・大石寺が800年護持してきた本門の本尊の根本的な教義を否定し宗門の宗教的な権威を貶めたことは、いわゆる開き直りの詭弁でしかなく、いずれ創価学会のアキレス腱となることは容易に想定できる範囲内にあると考えられます。
池田創価学会が池田思想を刷り込んで育ててきた会員に対して行ってきた宗門批判プロパガンダは、宗教者がもつべき節度を超える非難に値する内容でした。この詭弁のプロパガンダが聖教新聞の掲載記事に満載し続けて会員の洗脳を計ったと見られています。創価学会の詭弁を客観的に知るために、その部分を「○○○」で示して転載します。
「宗門はいつしか堕落し、衣の権威を笠に着て信者を蔑視し、創価学会を破門する暴挙に出ました。さらに法主詐称者(67世・日顕を否定する表現)の出現によって、永遠に法主が不在となり、宗門のいう法主の血脈なるものも断絶しました。大石寺はすでに大謗法の地と化し、世界広宣流布を目指す創価学会とは全く無関係の存在となったのであります。」この文言は、創価学会こそが日蓮思想の正当な継承者であり宗教団体である、宗門には創価学会を指導教育する資格がないといってるのですが、この思い上がりの増上漫をもたらす思想・価値観はどこからくるものでしようか。この宗の人々が持つ病的な表現方法とも考えられますが、日本人が培ってきた感性とは異質性が突出しているところから、池田指導下で現れる特徴的なファビョン思考の噴出であろうと考えられるのです。
また、「ある場所に特定の戒壇があり、そこに安置する御本尊が根本の御本尊で、その他の御本尊はそれにつながらなければ力用が発揮されないという、あたかも電源と端子≠フ関係であるかのような本尊観は、世界広宣流布が事実の上で伸展している現在と将来において、かえって世界広布を阻害するものとなりかねないのであります。」この文言は、世間と学会員を欺く主張と考えらえます。事実、海外の創価学会は異常な教義に驚愕した各国政府機関がカルト宗教と認定するなど批判に晒されているのが実態なのです。宗教問題に敏感な外国人が日蓮思想に憑依されることなどありえず、異常な思想を持つ創価学会が海外から評価を受けるなどありえないのですが、創価学会はこの本質が理解できていないのだと考えられます。この文言の狙いは、宗門が護持してきた本門の本尊を否定し、学会が無断で発行してきた偽本尊の存在を正当化するものであると考えられます。長年にわたり信徒団体として宗門と共存し、相互に多大な利益を共有してきた関係性をもちながら、宗門の三大秘法の根本教義をあからさまに否定する醜態を隠そうとしているものです。腹立ちまぎれに前代未聞の掌を返しを実行して宗門を兵糧攻めで圧迫しながら、同時に日蓮の思想を継承する立場に立つことを宣言するなどあるまじき悩乱としか考えられません。
「大聖人(日蓮)の仏法における信仰の本義は、根本の法である南無妙法蓮華経を具現された三大秘法を信じることにあります。具体的には、広宣流布を願い、御本尊を受持し弘めるという自行化他の実践であり、それは日々の学会活動そのものであります。そのことを御本尊に自行化他にわたる題目を唱えと表現いたしました。」これは、宗門の専権事項である「信仰の在り方」の指導性を否定して、創価学会の独立を宣言するものであると考えられます。この文言を考えた人は、宗門・僧侶は折伏をしてこなかったことを伏線にして宗門は日蓮の意思を実行しなかったと批判していると考えられます。しかし、日蓮正宗の教義を否定することが創価学会にどのようにブーメランとなって帰ってくるのかを考えなかった思慮のなさが見て取れます。思い上がりもここまで来ると付ける薬がありません。絶対的な権威者として君臨し続ける池田に迎合する愚かな主張でしかないと考えられますが、けなげな忠勤を池田に評価してほしいのでしょうか。
「創価学会は、大聖人の御遺命である広宣流布を実現するために、宗門と僧俗和合し、弘安2年の御本尊を信受してきました。」「しかし、魂の独立以来、学会員は皆、大石寺に登山することもなく、弘安2年の御本尊を拝することもなかったわけであり、各人の御本尊に自行化他にわたる題目を唱えて絶大な功徳を受け、宿命転換と人間革命を成就し、世界広布の拡大の実証を示してきたのです。まさに、これが会員が実践し、実感しているところなのであります。」 これは、創価学会は宗門と絶縁して、すでに独立していることを再確認する文言と考えられます。未練はすでに断ち切ったという宣言なのでしょうか。
「創価学会は、大聖人の御遺命の世界広宣流布を推進する仏意仏勅の教団であるとの自覚に立ち、その責任において広宣流布のための御本尊を認定します。」したがって、会則の教義条項にいう「御本尊」とは創価学会が受持の対象として認定した御本尊であり、大謗法の地にある弘安2年の御本尊は受持の対象にはいたしません。世界広布新時代の時を迎えた今、将来のためにこのことを明確にしておきたいと思います。」 この文言は、宗門・法主の宗教的な指導性の権威を否定し、三大秘法(戒壇・本尊・題目)の根本義を否定するものです。会員に対して、創価学会こそが広宣流布の主体であり、仏意仏勅の正当な宗教団体である。日蓮の信仰の正義は宗門・法主にはないと主張することで、お人よしの学会員の動揺を抑え込む意図をもったプロパガンダの典型例ともいえる開き直りの文言と考えられます。
根本的な問題は、創価学会には宗教法人の独自性を主張できる教義が無いことにあります。主要な教義を天台宗の教義から借用した日蓮が天台宗から独立して日蓮宗各派の教祖となり、この中の一つの弱小宗派であった日蓮正宗の信徒団体の一団体にすぎない創価学会が日蓮正宗から独立して、日蓮正宗の教義を使い続けることは教義の盗用になると考えられます。そもそも信徒団体が宗門から独立して客観的に見分けのつかない教義を使い続けることなどあってはならないと考えられます。まして、宗門との絶縁理由の根底に、宗門を否定し、創価学会こそが日蓮の正当な血脈を継承する正義の団体であると主張するに等しい信徒団体の独立などは前代未聞の茶番劇に過ぎないと考えられます。
創価学会の存在理由は、日蓮の正当な血脈を主張し続けてきた日蓮正宗の楯になって広宣流布の先兵を務めることにあったと公言してきたことにあると考えられます。創価学会はこの存在理由によって、雨後の竹の子と忌み嫌われた新興宗教に対する世間の批判を免れ、日蓮の血脈の正当性を吹聴して折伏の批判をかわし、会員に折伏の正当性と功徳を刷り込んでこれたのではないかと考えられます。
創価学会には、宗教団体としての節度に欠け、独裁者・池田の指導や学会執行部の指導内容を無批判に受け入れる信仰姿勢が顕著に現れていることから、特徴的なオカルト性が指摘されています。カリスマ指導者の指導に従い、世間の批判をものともせず折伏を敢行し続けて巨大組織化した創価学会は、政党を作りこれを育て上げたことで外敵から身を護る力を所持し、宗門の信徒団体として多大の供養をするだけでは満足しない妄想を育てたものと考えられます。会員数の飛躍的な増大がシステム的に強い財務体質を育て上げたことで、宗門・法主に物申す力を誇示する存在に変貌し、組織の維持と運営に追われる宗教産業に変貌を遂げたのではないかと批判されているのです。
創価学会員は、日蓮の憑依を受け入れたことで組織的に池田創価思想を刷り込まれ、素直で協調性の高い従順な人格に育て上げられたのではないかという傍観者の指摘があります。創価学会は敬虔な宗教団体の範疇から抜け出して、高い収益性が見込める宗教産業に変貌を遂げていると見られているのです。従順で真面目な多数の活動会員の無批判体質のお蔭で、創価学会は組織の内部から一人一人の批判を吸収することが無いといわれています。批判の声が上層部に届いて、抑えきれないレベルの危機感を組織に与えることがない体質の中からは、今後も何があろうと批判の声が上がることはないのではないかとみられています。批判されない宗教・団体組織・独裁者はいずれ堕落に陥る末路が見えています。この先、創価学会はどのような変貌を遂げようとしているのでしょうか。
2015年11月17日の聖教新聞のトップ一面に次のような記事が掲載されました。これによれば、新たに「勤行経典」を制定し、三代会長(初代・牧口常三郎、二代・戸田城聖、三代・池田大作)を「永遠の師と仰ぐ 」こと、「万代の発展へ宗教的独自性を明確にする」ことを目的とする改定であるとしています。日蓮正宗の教義を否定して宗教的に完全な独自路線を取るという宣言であることから、宗門との宗教的な関係においては修復できない敵対関係が固定化されたことになります。会員には、朝夕の勤行で「三代会長を永遠の師として讃嘆する」文言が定型化されて刷り込まれることになりますが、結局は生きている池田大作の宗教的指導者としての権威を既成事実化し、池田大作=日蓮とする池田教に衣替えする教義をこれから会員に刷り込んでいくという宣言であると考えられます。
初代牧口氏、二代戸田氏には共通の意思「創価学会は宗門を守護する信者団体」があったと考えられますが、三代池田にはこのような意思が全く感じられません。池田の行動や価値観、とりわけ特徴的な金満体質には伝統的な日本人の価値観が全く感じられないのです。牧口、戸田の両氏と池田とは思想の継承が考えられません。池田は、突出しすぎた池田イズムを隠すために、三代の会長を含めて永遠の師としましたが、これによってカリスマ性が発揮できるのは生きている「三代目の池田」のみではないかと考えられるのです。すてに死亡した牧口、戸田の両氏は池田の隠れ蓑として使われたのだと考えられます。池田が牧口、戸田の両氏を恩師として尊敬しているとは到底考えられません。宗門との闘争の仕打ちには牧口、戸田の両氏の意思が否定され、無視されたことが歴然としているのです。
この創価学会本部の決定は、創価学会や政教新聞が得意とする会員の情に訴える美しい言葉を駆使して露骨な情報操作をしても、所詮は日蓮の法流から独立して独自の新興宗教を作る宣言であると見做されることになります。学会本部が考えているように、一般会員が何の異議も唱えず、学会本部の思い通りに唯々諾々と従うかどうかは興味を引くところですが、今後は独自性を主張する宗教団体としてどのような教義内容を持とうとしているのか世間の注目を浴びることになります。しばらくの間、世間は事の成り行きを静観しながら注視するものと考えられますが、今後は、創価学会が文字通り新興宗教団体であることを自ら宣言した道の先に何があるのか疑惑の目で見られることになると考えられます。創価学会本部は、池田の余命が幾ばくも無いとみているものと考えられることから、池田死後の路線問題について、池田の名前を使って決着させたという疑いも十分にあり得ることだと考えられるのです。 
神道とは何か / 日本の精神文化の背景1

 

神道は日本固有の民族宗教と考えられています。八百万の神々を受け入れる特徴的な民族宗教ですが、その原型はどのような発生起源をもつのでしょうか。
神道とは、仏教伝来以後に仏教と区別するために便宜上で付けられた名称です。その特徴は、万物に霊魂が宿っているという精霊崇拝(アミニズム)や自然信仰から発生した日本民族の伝統的な宗教を言います。神道には仏教のような論理学、倫理学の体系や戒律、行などの体系もありません。
原始神道は、自然や神に対する畏敬の念から始まり、人の生きる道にめざめて人と自然が融和することを目指したと考えられます。原始神道の特徴は、地縁、血縁、などで結ばれた村落や部族の共同体の守護と安楽、共同体意識の統合を目的にする民族宗教といわれていますが、これらは今日的な立ち位置から後付けで説明された概念であろうと考えられます。
神の概念は多様ですが、大いなる存在であること、人智ではとてもうかがい知ることができない存在であること、と考えられました。人の智ではアプローチできない神の道と考えられたことから、一般民衆から見れば、神を祭祀する王や司祭者は特別な人、神に準ずる人、さらに神そのものと考えられたことで王権の民に対する支配権が確立されていったと考えられます。天皇の神聖性は、様々な神話によって特別な崇拝を際立たせることによって完成されたものと考えられます。
古代の神道は、原始神道の精神を継承しなら、興亡する部族、氏族の指導者(もしくは支配者)が共同体の統率の手段として司祭者を置いて神の言葉を聞きこれを共同体の人々に伝え受け入れさせるという支配の手段として機能するようになりました。司祭者の地位が向上し、巫女が配置されて儀礼化が整えられていきました。王権が確立するとともに神社という建築様式が現れるようになりますが、神道(信仰)が支配者の政治的な権威を高める建築様式として機能するようになります。
明治天皇は「日本は神道である。しかし、神道は本来ユダヤ教である」と語られたという伝承があり、皇室のルーツにはユダヤの影が見え隠れしているという史観が語り継がれています。いわく、「皇室専用の部屋には必ず六芒星(ダビデの星)のマークが椅子にも天井にもある」、皇室の祖霊を顕彰し、日本の総合的、統一的祭祀場(神社)としての権威付けのために天照大神を祭神とする「伊勢神宮」を作ったが、「伊勢神宮の燈籠にはダビデの星が刻印されている」「伊勢神宮の莫大な建造費用はユダヤ系の秦氏の貢献に負うものであり、ユダヤの理念と秘儀が幾重にも封印されている」などがこれです。
伊勢神宮は最高の格式を持つ神社と位置付けられていますが、アマテラス祭祀は比較的新しく平安時代以降に成立したものです。万世一系の天皇が統治する世界観を徹底し、本来的には男神であるべき天照大神を女神に変える意図で持統天皇の正統性を主張するために政治的に造られた神社だと考えられます。いわゆる藤原不比等が捏造した宗教革命といわれるものですが、日本書記の伊勢神宮の創建に係わる記述は信頼性がないと考えられます。
本来の古神道によれば、主祭神の天照大神は男性神であったが、持統天皇=女性太陽神=天照大神の同格化という位置づけにこだわった宗教革命の総仕上げが伊勢神宮の創建になったのではないかと考えられています。秦氏が伊勢神宮の莫大な建造費用を支援しましたが、秦氏はユダヤ(原始キリスト教)の男性太陽神を封印したといわれています。
実は秦氏が創建した寺社仏閣、神社は膨大な数です。古代の錚々たる著名な寺社仏閣の大半には秦氏一族の関与があります。秦氏は平安京を設計した国造りの総合プロデユーサであり莫大な費用を負担した陰の施主でもありました。広大な土地を開拓し、養蚕や機織り、酒造を広め、信仰と殖産のフィクサーとなって裏の権力を握った一族です。
秦氏が造った神社・寺院は、京都太秦の広隆寺、京都伏見の稲荷大社、京都石清水八幡宮、鎌倉の鶴岡八幡宮、京都の松尾大社、四国の金毘羅宮、石川の白山比盗_社、また、京都の上賀茂神社と下賀茂神社は秦氏の姻戚関係にあった賀茂氏の創建です。日本の神道を確立させたのは秦氏であるといわれています。
在位中の天皇の伊勢神宮参拝は明治天皇が初めてでした。歴代の天皇は誰一人として参拝した事実がないとする史観があります。アマテラスは、記紀が最後の政権奪取に成功を収めた政権があたかも連綿と政権を維持し継続して来たかのごとく捏造するために作りだした建国神話の付け足しでしかないことを知っていたこと、記紀が創作したアマテラス神話は捏造の女神であり信頼性がなかったのではないかと考えられます。
ちなみに、弓削の道鏡が宇佐八幡の神官と結託して偽の神託を捏造し、藤原不比等の孫でパトロンの女帝・称徳天皇(718-770)から譲位を受けようとした時、その可否を問う神託を得るために勅使・和気清麻呂が直行したのは伊勢神宮ではなく、九州・大分の宇佐八幡でした。宇佐八幡の神託によって道鏡の譲位は阻まれ、女帝もこの神託を受け入れざるを得なかった事実がありました。
日本古代の創世神はスサノオです。古い神社の祭神はスサノオとオオクニヌシが圧倒的に多く、アマテラスは少数派であり平安以降に受け入れた神社に偏っています。全国の神社を分類すれば、新羅(伽耶)系がほぼ80%の圧倒的多数を占めていることから、日本古代の創世期に活躍した渡来系の人々は圧倒的に新羅(伽耶)系が多いことが分かります。
伊勢神宮の創建は、古代の霊場として尊崇された三輪山(祭神は大物主)の時代に終わり告げさせる目的があったのではないかと考えられる出来事でした。アマテラスの古代創世期の神話や顕彰は、スサノオとオオクニヌシの業績を切り取って付け替えられたものだと考えられています。記紀が常套手段として使った捏造手法と考えられます。
古事記によれば、伊勢神宮の創建は第10代崇神天皇記と第11第垂仁天皇記に伊勢神宮を祀ったとありますが、実在する天皇は第15代の応神天皇が最初とみる史観からは、創建を紀元前にまで遡らせて権威付けしていると考えられています。応神天皇を河内王権の初代天皇とみる有力説があります。古代・葛城王権から政権を奪った崇神天皇から始まった三輪王朝(イリ王朝)が応神天皇から始まる河内王朝(ワケ王朝)と交替して天皇の血脈が変わったとみる立場(三王朝交代説)から見れば古事記説は荒唐無稽な作為にすぎないと考えられます。
日本古代の建国は370〜390年頃という推定が考えられます。その根拠は三韓の建国に刺激を受けてのものだと考えます。新羅が356年、百済が346年、加羅(伽耶)が369年の建国であるところから合理的に推定したものです。3世紀から7世紀の間に有力王権の綱引きと興亡が行われ最後の勝者が統一王権を奪取した継体天皇(新王朝=越前王権=現皇室の祖)と考えられます。世界の王家を見ても姓(苗字)がないのは日本の天皇家だけです。姓を隠すことは、その出自を隠すことです。出自を隠す必然性とは一体何かという疑問が残ります。
神道は、社会のまとまりの単位である氏族の地縁、血縁集団の生活習慣の中で生まれた宗教的な信仰態度を引き継ぐ概念であると考えられます。それはまさに精霊崇拝(アミニズム)や自然(山川草木など)信仰、祖霊崇拝など万物に八百万の神々の霊性が宿ると考える信仰態度です。
古神道では神々が鎮座する山や川などの自然領域を「神奈備(かんなび)」として神聖化しました。「かんなび」には神霊が降臨する場所を「依り代(よりしろ)」、降臨した神霊が宿る神聖な物を「御霊代(みたましろ)」といいますが、「物実(ものざね)」ともいい、鏡、剣、玉石などが神社の御神体とされました。特に皇室の三種神器、物部の十種神宝(十種神宝御璽)が有名です。
神の住む山「神奈備(かんなび)」や森などの神聖な場所に置かれた巨岩、巨石の御座所は「磐座(いわくら)」と呼ばれ、樹木の御座所は「神籬(ひもろぎ)」と呼ばれますが、常世(神の世界)と現世(この世の世界)の境界線として機能する装置と考えられるものです。
「神奈備(かんなび)」や「神籬(ひもろぎ)」は神の降臨を仰ぐ「御座所」として崇拝されましたが。古代のシャーマンはこの御座所で神の信託を受け取る行為を荘厳するために霊術や秘術を用い、自己の存在と正当性を大いした者と考えられます。
やがて神道の神々を祭神として祭る建築様式の社殿が生まれ、拝殿や本殿を持つ祭殿が信仰拠点の建物として常設化され「神社」という様式が登場しました。次第に生活の節目や農作物の生育や穫り入れなど重要なタイミングに合わせて祭壇を設けて厳かに祭祀を執行する形式が現れ、日常的な常設の祭場である神社が普及したと考えられます。これが秦氏によって始められたユダヤ的祭祀形態と考えられる様式です。
神社で祭祀されている祭神には1自然事象に由来する自然神、2神話伝説に由来する伝記神・霊能神(天照大神、大国主命など)、3人間に類似した神体や性格を持つ人格神(英雄・功労者、皇祖神、祖先神など)があります。
神道はあらゆるものに霊性を認める多神教の要素を持っています。宗教的な教義体系を持ってはいませんが、仏教との本地垂迹説による神仏混淆を受け入れ、修験道と相互に影響しあうという関係性を濃厚に持ってきました。また一方では、中国の儒学、老荘思想や哲学を受け入れ陰陽道や神仏習合の体系に変化した一面をも併せ持っています。
明治維新によって、天皇を頂点とする国家神道が明治政府の神祇官によって推奨され、日本民族の新しい中央集権国家の形成に利用されましたが、これによって「神国思想」と「神風」に守られた特別の国家観が国民に刷り込まれて浸透しました。敗戦により、国家神道は否定されましたが、伊勢神宮、明治神宮、靖国神社などにはその残滓が残っていると考えられています。神道は古代でも近世・現代でも政治的に利用されてきた負の歴史を濃厚に持っているといっても過言ではありません。国家神道は、原始神道の概念とは根本的に異なる異質なものだったと考えられます。
本来の神道の特徴をいえば、融通無碍であり、自他の宗教の違いに強いこだわりを持つという頑なな態度はありません。一神教のように唯一絶対などという頑迷さはほとんどなく、必要に応じて同時に複数の神々(神社)を礼拝することが日常的に行われています。多神教の優れた一面だと考えられる出来事です。
神道は山岳信仰の修験道と混淆し、天皇の意思によって仏教を受け入れたことで、民族宗教としての論理性や儀式を整備して神道として完成した事実を持っています。神道が他宗教を拒絶する偏狭な思想を持たなかったことで、日本民族の精神の多様性が形成されていった要因であったと考えられます。日本人の精神性に大きな影響を与えた神道の役割には大きな感謝があります。
多神教も一神教も長所が同時に短所になるという二重構造を色濃く持っていることは言うまでもありません。一神教の決定的な欠陥は、相手の宗教を否定しなければならない宿命を背負っていることです。どうにもならないジレンマは教義的に共存共栄の道が閉ざされていることです。一神教と一神教との間には克服できない相克関係が生まれることが避けられません。神道が持つ多神教的な態度は多宗教の信仰態度を否定するよう要素少ない点が長所と考えられますが、造物主思想を持つキリスト教的な思想(イスラム教やユダヤ教も同様ですが)を持つ欧米人に神道思想を理解させるには困難な要素が多分にあることを十分に知らなければなりません。  
仏教とは何か / 日本の精神文化の背景2

 

仏教とは、紀元前5世紀頃のインドに出現した釈迦の悟りによって開かれた宗教です。その教えは「真実に目覚めて悟りを得る」ことを目的とする宗教です。
釈迦は29歳で四門出遊を契機として出家し、36歳で真理に目覚め、80歳で入滅するまで45年間、仏教伝道の旅を続けた実在の人です。
仏教の原点は、難行苦行の末に苦楽のいずれをも否定した釈迦が中道の精神にたどりつき、菩提樹の下で瞑想によって正覚(悟り)を開いたことにあります。悟りとは、私達の心の中にある真理を知る妨げとなる様々な要因を取り除くことができれば真理が明らかに知ることができる、ということにあります。
「神の啓示」を受けて創始されたキリスト教やイスラム教とは異なり、仏教は一人の人間が真理に目覚めて悟りを得たことから出発し、修行を完成して成仏(如来となること)することを目的とするものです。
ここにヨーロッパ系と東洋系の宗教概念の大きな違いがあることを理解しなければなりません。
仏教とは、この菩提樹下の釈迦の境地を自分自身の中にも実現しようとして、菩提心(悟りを求める向上心)を求める修行をすることをいいます。
しかし釈迦の悟りは宇宙に存在する原理・法則・真理をあるがままに認識したものであり、釈迦が独自の瞑想によって発見したものではありません。
釈迦の悟りは、誰でもが釈迦と同じように追体験できる可能性があるものであり、さらにそれらを深めていけることをも可能とするものでした。
仏教の原点は菩提心にあります。菩提心とは悟りの浄土に至る強い信仰心を保ち続けることによって解脱の可能性が開かれるものですが、菩提心を否定するものは仏教とはいえません。
仏教の歴史は釈迦の菩提心を追体験する仏教徒の研鑽の歴史なのです。
釈迦が瞑想(禅定)により完全な涅槃に入ったとき、帝釈天は「諸行無常、是生滅法、生滅滅己、寂滅為楽」の詩によってこれを表現しました。
しかし、釈迦(ブッダ)は悟りを開いたばかりの時、世間を見渡し、衆生の能力を見て、この悟りを理解できる者がいないと判断して説法をすることを躊躇しました。
釈迦は悩んだ末に、梵天の勧請によって、最初の説法(初転法輪)を決意することができました。
この初転法輪が明らかにする梵天の勧請は、ヒンズー教の最高神の懇願を受けるという形式をとることによって仏教の優位性を示すものです。
このことは、インド民衆が受け入れ易い信仰に合わせて仏教に取り込もうとする意図を持つものであると考えられています。
初転法輪に選んだ相手は、かつて難行苦行の修行仲間の5人の比丘でした。五人の比丘は釈迦の悟りを容易に認めず、緊迫した場面や困難な説得が続きましたが、これが功を奏したことにより仏教が誕生しました。
仏教にも釈迦の生前には今日のような仏教経典はありませんでした。インドでは、「尊い教えは声に出すのがよい」とされ、教えの内容は師から弟子へ口伝で継承され、書きとめるということをしませんでした。
釈迦滅後の数百年に口伝では正確な内容が伝わらないことが問題となり、紀元前383年頃に第1回の結集が行われました。同様に、第二回目の結集が紀元前283年頃に行われ、第三回目の結集が紀元前244年頃に行われました。
結集とは、自分が受けた教えを互いに暗誦し合い、皆で記憶することでした。皆が教えの内容を出し合い、比較することで教えの整合性を図り、伝えるべき内容を確認し合ったのです。
第三回結集後の紀元前3世紀末に、修行の在り方、日常の生活態度の在り方、教団の在り方を定める律の考え方などについて、これを厳格に守るか、緩めるかの対立が治まらず、固守派の上座部と柔軟派の大衆部とが根本的な分裂をすることになりました。
これ以降、上座部(南伝仏教)と大衆部(北伝仏教・大乗仏教)はそれぞれの道を歩むことになりました。
簡単な流れは次の通りです。
11世紀にインドから中国に大乗仏教が伝えられました。
24世紀に、中国から朝鮮に大乗仏教が伝えられました。
3538年頃、朝鮮(百済)から日本に大乗仏教が伝えられました。
4646年頃、インドからチベットに大乗仏教が伝えられました。
513世紀、インド仏教はイスラム教徒に消滅させられました。
仏教には伝統的な解釈があります。仏教の内部で何か新しい運動が起こる場合には、それがブッダの事蹟にどのように関連づけられるかという視点が欠くことのできない検討課題になることです。
大乗仏典の多くはこのように伝統的な仏伝を意識して、これに独自の解釈を施し新たな仏陀観を打ち立ててきましたが、これには釈迦の成仏とこれにまつわる様々な事象をどのように解釈し整合性を持たせるかということに腐心したものと考えられます。
ブッダの「悟り」の内容については、古来より多くの弟子たちが頭を悩ませてきました。例えば、原始仏教の教典(『阿含経』)だけでも15種類の異なった伝承があるといわれています。これに大乗仏教の膨大な教典に語られる「悟り」は一体何種類あるのでしょうか。
般若教典には、悟りの同義語に「空」や「深遠」が語られています。「般若の智慧」も同様です。
このように、釈迦の説いた「悟り」の内容がこれを聞いた人により異なるのは、釈迦が聞く者の理解力に応じて教えを説いた対機説法にあると考えられています。
この他にも情報を正しく伝達する難しさがあります。情報伝達の難しさは、何人もの耳や口を伝わる間に間違った情報内容として伝わってしまうことにあります。
人から人に伝播するうちに、聞いた者の理解力、伝える者の表現力によって情報内容が少しずつ変化して間違った内容を伝えてしまうのではないかと考えられます。
文字によって記録されることのない時代でした。正確な伝達は困難でした。各人は正しく伝えたつもりでもそこには自ずから限界があります。各人が理解した内容が正しい教えということになってしまいます。
紀元前2000年頃、古代インドに侵入しヴェーダ文明をもたらした初期アーリア人は、カースト制度と呼ばれたインド固有の社会制度をつくり、インドを支配しました。
アーリア人は、高度な宗教哲学を持っていましたが無文字民族でした。文字や記録として残されたものではなく、人々の暗唱によって伝承されてきたものでした。インドでは釈迦の時代にも文字で記録することはありませんでした。
インドの文字の起源は、紀元前3世紀の阿育(アショーカ)王の国家統一以降のカローシュテイ文字(右から左に横書きする表音文字)やブラーフミー文字(左から右へ横書きする表音文字)と考えられますが、ブラーフミー文字はサンスクリット語の起源となるものです。今日の梵字悉曇の源流です。
インドでは、人間は生まれた瞬間に、自分の帰属するカースト制度によって日常生活の骨格が決定され生涯変わることのない社会生活を営まなければなりませんでした。
釈迦は、カースト制度を社会構造とする中で、人間が自由を求めるとき、どの様に考えたのでしょうか。釈迦は、この方法を社会の変革に求めず、人間の精神の自由を求める方向に舵を取りました。これが釈迦仏教なのです。
南伝の上座部仏教でさえ様々に「悟り」が伝承されました。大乗仏教も同様ですが、大乗仏教になると膨大な教典の中から○○経が最高教典という形で優劣を比較する状況になっていくことに特徴があります。
特に、インドから中国に伝播された大乗仏教にこの有り様が典型的に現れました。中国人の「本物探し」気質がこれに拍車をかけることになりました。
中国人の特質の「中華思想」(中国は世界の中心という思想)の一つに、他国の優れた文物を取り入れても、中国人の気質に合わせて受容する姿勢を堅持し、他国語が中国語に翻訳される段階から中国的な解釈に書き改められることです。この瞬間から原文の元意が失われることがあります。
日本にもたらされた仏教はほとんどが中国仏教の流れにあります。
中国では釈迦と同時期の紀元前5世紀頃にはすでに春秋戦国時代の諸子百家により道教や儒教といった中国人の精神文化の中核を形成した思想が花開いていました。
中国に仏教が伝わったのは、通説によれば漢の武帝が匈奴を追い払いシルクロードを開いた1世紀頃と考えられます。最初に伝承された教典は「空」の思想の大乗仏教であったと考えられています。
敦煌はこの頃に整備された城市ですが、敦煌遺跡の発掘調査などから、その頃には仏教経典は断続的にもたらされていたと考えられています。
中国に伝えられた仏教は、当初は宗教というよりも新奇な外来哲学の一つとして受けとめられました。中国には、紀元前から儒教や道教という中国産の社会道徳の思想が定着していました。仏教はこれらとは相反する教えを含むもので社会的に受け入れにくい側面を持っていました。
儒教の目標は「社会の秩序」であり「礼・仁・孝の実践」です。道教の目標は「不老不死」であり「正しい生活」の実践です。「悟りと解脱」を目標とする個人的な修行を実践する仏教との間には違和感があり、仏教側は儒教・道教との類似性(隠棲は出家に通じる、など)を説教的に強調しなければなりませんでした。
また、儒教・道教には、時代の変化に対応するために古びた教義の刷新を図り仏教思想を取り入れなければならない事情があったのです。
2〜3世紀頃には、インドの竜樹(ナーガルジュナ「日本仏教八宗の祖」)の「空」の思想や『大智度論』などが中国に伝承されたと考えられます。
4世紀後半〜5世紀初頭にインド系の僧・鳩摩羅什によって大乗仏教の「空」の概念を体系化した中観派の教典が中国にもたらされました。
中国では、インドからの渡来僧の手で次々に漢訳の仏典が翻訳され、その内容の矛盾が目立つようになりました。
そこで、直接に本場インドで学ぼうという機運が生まれ、5世紀には法顕、7世紀には玄奘などの求法僧がインドに赴き、多くの経典を中国にもたらしました。
儒教・道教と仏教は、互いに国の庇護を争う立場になりますが、反発と受容をくりかえしながら、中国社会に適した形で融合(三教合一)していきました。
629年、唐の玄奘が、仏典の原点に触れるべくインドに旅立ち、「経(教義・教典)」「律(規則)「論(教典の解釈)」の三蔵を中国に請来しました。日本では「大化の改新」が行われた年です。
日本仏教は、中国人の考えた仏教史観に覆われていることを事実として受け止めなければなりません。仏教は中国で研鑽され体系化されましたが、道教や儒教の思想の影響を受けながら中国人の受け入れやすい仏教観に書き改められた部分は少なくない、と考えられます。
仏教は中国人が変質させ、更に日本で日本文化との習合が図られました。釈迦のインド仏教の元意が正しく受け入れられたかどうか再検討する場面はあちこちにありそうです。
特に、末法思想の浸透した鎌倉期の仏教は、インド仏教や中国仏教からの教義の縛りを受けることなく日本の独自性のある複数の鎌倉新仏教(祖師仏教)が成立し、大衆の支持を得て定着しました。
鎌倉新仏教の登場によって、日本仏教の勢力関係に庶民の獲得という新たな構図が発生して激しい変化が起こりました。
幕府の宗教統制が無力となった明治時代に入ると、檀家制度の下で固定化されてきた宗教の改宗が可能となり、新興宗教が多発する激動期に突入していきました。
これに加え、昭和の新憲法の下で更なる信教の自由化が急速に拡大し、新興宗教が乱立して信者の獲得競争を繰り返しました。
その結果、なんと鎌倉新仏教系の信者の合計が仏教徒の過半数を占めるまでに成長したのです。
日本の宗教事情が乱れる大きな要因になりました。 
仏教の本質

 

仏教には絶対的な造物主である「神」は存在しません。初期(原始)仏教の特徴をいえば、仏とは、救世主でもなく預言者でもありません。「覚者」つまり「悟った者=真理に目覚めた人」という意味です。信仰の対象は神ではなく、仏陀(釈迦)に対するものでもなく、「法に対する帰依」を表すものです。
仏教の帰依の対象は釈迦ではなく「法」です。仏像は釈迦在世には存在せず、滅後に法を象徴する形式として表われたものです。仏教では三宝(仏・法・僧)を厚く敬います。釈迦は悟りへの道を説くにあたり三つの真理を説きました。これを「三法印」といいます。
1. 三宝とは「仏法僧」に帰依して厚く敬うことをいいます。
(仏教特有の「三帰依文」を紹介します。これは南伝・北伝仏教とも共通で読経・勤行の前に称えられるものです。)『華厳経』浄行品には「三帰礼文」として採用されています。
【漢訳文】      【現代和訳文】
「自帰依仏」    私は仏に帰依します
「自帰依法」    私は法に帰依します
「自帰依僧」    私は僧に帰依します
【サンスクリット文】
Buddham saranam gacchami. ブッダム・シャラナム・ガッチャーミ (自帰依仏)
Dharmam saranam gacchami. ダルマム・シャラナム・ガッチャーミ (自帰依法)
Sangham saranam gacchami. サンガム・シャラナム・ガッチャーミ (自帰依僧)
2.三法印とは
1「諸行無常」=万物は常に変化し一定の物は無い。
2「諸法無我」=存在するすべてのものは実体がない。
3「涅槃寂静」=輪廻の苦を抜け出せば煩悩に迷うことのない境地に至る。
この三法印に、「4一切皆苦(すべては思い通りにはならないという人生の実態)」を加えて四法印とする場合があります。
四法印とは「物事は常に変化しており、それ自体で存在し続けるものはないのに、ずっとあり続けると錯覚し、執着して苦を招くことになる」ことを戒めるものです。
苦は執着によって生起するので「苦の発生」「苦の原因」「苦の滅却」「苦の滅却の道」を「四諦(苦諦・集諦・滅諦・道諦)」という因果関係を示して原因とその結果を明らかにし、苦から抜け出して涅槃(煩悩を断じた悟りの境地)に至る方法を考えたのです。
この四諦は大乗仏教ではより高度な縁起説「十二因縁」として継承されました。
十二因縁は、苦の根本原因を12の因縁生起によって因果関係を凝視したものです。
十二因縁説は、老・死という苦しみの原因には、無明という根本的な原因がある、という説です。
無明という真理が分からない無知を脱することができれば苦しみが無くなるとする考えです。
この説によれば、前世の無知を原因とする1無明(真理を知らないこと)や2行(間違った行為)によって、現在の果となる3識(間違った認識)、4名色(認識の対象)、5六処(感覚器官)、6触(外界との接触)、7受(感覚作用)が生じる。
また、現在の果を原因として8愛(激しい渇愛)、9取(執着)、I有(生存・存在)が生じ、来世の果となるJ生、K老死が生じる。
これらの前世、現在、未来のことがらが原因と結果になる因果関係(因縁)によって輪廻が生まれるという考えです。
この説には、老死という苦は無明から生じるとみる「順観」と、無明という根本の煩悩を滅することで老死などの苦が無くなるとみる「逆観」の二通りの見方があります。
この中に、無知や渇愛、執着などの因果関係を分析して、生・老・病・死の「四苦」と愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦は社会生活の中で発生する誰もが避けることができないものであり、人間の存在、生存そのものが苦であると見るプロセスを凝視する英知が示されました。
釈迦は、四苦八苦を断じて悟りを開くための具体的な実践方法を「八正道」(1正見・2正思・3正語・4正行・5正命・6正精進・7正念・8正定)と考えました。
これらは釈迦が菩提樹下の深い瞑想で得た悟りの内容だと伝承されてきたものです。
八正道は、修行者が自ら心に正しい行いをすることを誓い、そのことに専念し、智慧を磨き、釈迦の教えを身に付けるために不断の努力をする修行の枠組みを示すものです。この理念が仏教の仏道修行の体系化やマニュアル作成の基本とされるようになりました。
ちなみに、この八正道から「身・口・意の三業」と「戒・定・慧の三学」の仏教の修行の根幹となる概念がでてきます。
釈迦の仏教からみれば、キリスト教やイスラム教でいう地獄も天国もすべて空であり実在する真実ではない、ということになります。
釈迦仏教(原始仏教)の基本的な考えは、「中道」「慈悲」「無我」の思想と「縁起」の関係性を内的連鎖で説明するところにあります。
縁起とは「互いに相依って生じせしめる働き(その関係性)」であり、現象界は何ひとつとして実体視してならないという考えです。
一切の出来事(結果)は直接的な原因(因)と間接的な原因(縁)の作用によって生じるものであり固定のものや不変のものはない、と考えたのです。
ここから無我(非我)という考えが出てくると同時に、互いの関係性が最も望ましい状態で存続するためのありようが「中道」です。また、この中道の基となる精神的な働きが「慈悲」です。この「目覚め」に向かう基本的な姿勢が他を拠り所としない「自灯明」です。
慈悲とは、自己犠牲をともなう他人への思いやりをいいますが、他人に利益や安楽をもたらす「慈」と、憐れみや同情などから他人の不利益や苦を取り除く「悲」からなる思いやりの心をいいます。慈悲には「喜」と「捨」が加わり、慈悲喜捨と説かれました。「喜」は自らの喜びが同時に他人を喜ばすこと、「捨」は平静を指し、心に動揺や偏向がないことをいいます。
この仏教の基本理念はやがて大乗仏教の菩薩の「四無量心(慈・悲・喜・捨)」に引き継がれていくことになります。
中道は修行の実践の在り方を示すもので、ブッダの教えの実践の核心ともいうべきものです。あるがままを受け入れ、八正道の精神を目標とする生活を実践することがその内容です。
苦と楽の両極端に偏る無益性を戒め、「不苦不楽」の立場で、ものの見方、考え方、価値観に偏りがなく、物事への執着心を持たず、自由な精神を求めるバランス感覚を実践の核心とするものです。
例えば、輪廻の考察に於いて、人が死んでも霊魂(アートマン)は不滅と考える「常見」の立場、また、人はこの世かぎりの存在で死ねば再生しないと考える「断見」の立場は、それぞれ両極端であるからこの考えから離れ中道をとるべきだと考えられました。
ブッダは、ブッダ滅後の「修行の在り方」について何を拠り所にすべきかを明確に述べています。「阿難陀よ、比丘は自らを燈明とし、自己を頼りとして、他を頼りとせず。法を燈明とし、法を頼りとして他を頼りとしないでいなさい(『ディーガ・ニカーヤ』)」という有名な句です。これは、「自灯明、法灯明」とか「自帰依、法帰依」といわれ、釈迦の遺言ともいうべき言葉です。自己と法を頼りにして、他人の言葉に惑わされることなく、自己を確立すべきことを遺誡したものであると解されています。
縁起(因縁生起)は構造や原理を示し、慈悲と中道は実践論を示す概念です。
釈迦の教えは、まず動機づけを与え、目標のヴィジョンを示して、修行者自らが修行の道を歩み、自分自身で悟りを得るようにする特徴があります。
弟子になったからといって、手とり足とりして悟りの境地に運んでくれるわけではありません。修行は自分自身で解決しなければならない道なのです。
仏教の特徴は、物事の成り立ちを「法(ダルマ)」と見たことにあります。物事を成り立たせ、その状態を維持する構成要素や固有の属性を「法」と見て、人間存在の法を深く考察しました。仏教は人間存在の構成要素である「法(ダルマ)」を考察の対象とする宗教です。
キリスト教やイスラム教では宇宙の創造主である神の意志は絶対ですが、仏教では原因を変えれば、自らの意思で結果も変えることができると考える大きな違いがあります。
釈迦が「教義帰依」や「偶像帰依」「個人崇拝」を否定したことは明らかです。釈迦は、「我々の中には如来が宿っている。しかし我々には煩悩がまとわりついてそれが見えない。だから、心を清らかにして煩悩を抑制し、如来の胎児(如来蔵=仏性)を育てていけば、いつか我々も如来になれる」と教えています。
誰もが仏になる可能性を原始仏教では「自性清浄心」といいますが、『涅槃経』では「如来蔵思想」といい「一切衆生悉有仏性」といいます。この思想は『華厳経』や密教に大きな影響を与えました。悟りのプロセスの概要を示す概念です。また、法華では「本覚思想」といいます。
今日の新興宗教の特徴にあげられる教祖や個人崇拝は、まさに目を覆いたくなる惨状にあると言うべきでしょうか。
神に帰依するキリスト教、イスラム法に帰依するイスラム教との違いは明白です。個々の人間をどのように見るか、人間はどのように神や法に向き合うべきか、という視点でみれば、その違いは歴然としています。
宗教は時代とともに変質する傾向性があります。キリスト教が産声を上げた頃、仏教の中に大乗仏教が登場しました。複数の大乗の菩薩が現われてさまざまな高度な大乗経典を説きました。
この大乗教典には、大乗仏教の存在を鮮烈にデビューさせた空の思想を説く『般若経』の600巻の膨大な教典群が圧巻です。
また、釈迦の悟りの内容を示して釈迦を超える存在(毘盧遮那)と華厳思想を説く『華厳経』、一乗妙法の法華思想を説く『法華経』、阿弥陀仏を信奉する浄土思想を説く『浄土教』、一切の衆生には仏性があることを説く『涅槃経』など特色のある多数の大乗の教典群が大乗仏教の優れた思想の花を開かせることになりました。
キリスト教やイスラム教の精神文化と日本人の精神文化の違いとは何でしょうか。精神文化とは、人々の生活様式や文化活動に重要な影響を与える要素です。これを知ることにより、本当の歴史事実の意味内容が理解できるのではないでしょうか。
仏教は日本人の精神風土の形成に重要な要素を与え、生活の様々な部分に浸透しています。日本の仏教の大きな特徴は、ブッダの救いの力が死者に及ぶように期待され、生きている者に幸福を招き寄せる祈りとして定着してきました。「現世安穏・後生善処」は端的にこのことを語るものです。
世界三大宗教のいずれもが創始者(預言者、神の使徒を含む)の死後には求心力が弱まって考え方の相違により分裂しながら競合し発展を遂げましたが、釈尊滅後、仏教教団も同様に分裂をしました。
仏教は、釈迦滅後にサンガ教団の膨張とともに、様々な規律の受け止め方に違いが生じて部派仏教に分裂していきましたが、釈迦滅後500年頃(紀元前後頃)には決定的な分裂があり、この中の「大衆部」からは大乗仏教が興起して様々な大乗の菩薩が出現し大乗経典を編纂するようになりました。
他方では、上座部仏教から大乗仏教への批判が、分裂の当初からあることも知られた事実です。 
大乗仏教の成立 / 日本

 

仏教は6世紀の初期に朝鮮半島を経由して朝廷と貴族にもたらされた中国の最新思想でした。この頃一般民衆には仏教は広まる歴史的な背景がありませんでした。
一般民衆に仏教が浸透し始め仏教を信仰するのは、この後百数十年後のことであったと考えられています。
仏教が受け入れられたのは、当時の大国であった中国の最新の思想であったからであり、朝廷や貴族が仏教思想を理解して受け入れたわけではありませんでした。
仏教を受け入れた朝廷や貴族は仏教の内容をほとんど理解していなかったと考えられています。
大乗仏教は他の宗教に比べて独特な思想です。仏教は「縁起の思想」と「空の思想」の理解の上に展開する特徴的な思想です。
実は、本来の釈迦仏教は最初に「信」から始まる宗教ではなく、知性による「教理」の理解から始まる思想でした。
ところが、教理の理解から始まる信仰は困難であるところから、鎌倉新仏教の祖師は智慧(教理)を熱心な信仰(信)に特化する「以信代慧」を強調することで大衆信者の獲得に方向変換をしました。
一心不乱に祈る行為によって功徳を期待する信仰姿勢は今日まで受け継がれて様々な盲信を生みました。
このような一般民衆の功徳を求める信仰姿勢が、仏教の本質を歪め、様々な功徳を説く新興宗教が芽吹く温床となってきたと考えられます。その要因は、仏教の受容の当初から日本人が信仰の動機として内包してきたものでした。
平安末期から鎌倉時代は、旱魃や暴風雨、飢饉や疫病が多発した不安定な時代でした。天台宗やその系列から出てきた日蓮宗や浄土宗・浄土真宗の僧が広めた末法思想は、社会に受け入れられやすい状況の中で布教拡大の手段として大いに利用されました。鎌倉仏教の特異性はここにも認められます。
仏教がもたらされた以前から、日本人には神々に対する信仰が浸透していました。
当時の人々の神に対する信仰は、神々は自然現象や事物の中に存在し超自然的な力を備えていると考えられていました。信の心を持って丁寧に祀ると恩恵に預かることができ、粗末に扱うと祟りをもたらす存在であると考えられてきたのです。
異国から仏教がもたらされたことによって、「崇仏」と「廃仏」の対立が発生しました。その争いの代表格が有力氏族の「蘇我氏(崇仏派)」と「物部氏(廃仏派)」との間で激しい争いが起こりました。
廃仏派の主張は「異国の神を拝むと国神の怒りをかう」というものでした。蘇我氏は配下に渡来人を多く抱えていたことから宗教的な権威を持つ必要性があったと見られています。
当初、朝廷は蘇我氏が私的に仏像を祀ることを認めましたが、その頃に疫病が流行したことから、その理由が蘇我氏の仏像崇拝にあるとする主張が認められ、仏像を難波の堀江に捨てさせ、寺を燃やしました。
ところが、今度は宮中に災厄が起こったことで仏の祟りに違いないと考えられました。仏教は、丁重に祀らないと祟りをもたらす神々と同列に考えられていたのです。
蘇我氏と物部氏の政治的な対立が宗教上の対立を招いたと考えられていますが、仏教が受容されていく過程がよくわかります。
古代より日本は神祇(神道)によって、天皇が統治する国家観が打ち立てられてきました。日本は神道の国であり、天皇は神祇の祭祀王でした。
天皇が仏教に帰依するという大転換は、公伝(日本書紀)によれば、仏教伝来は552年(欽明天皇13年)に百済の聖明王が朝廷に金銅の釈迦像一体と幡・蓋・経論を献上したことが始まりとされています。実際には、元興寺伽藍縁起などには538年説の私伝があり、有力視されています。
飛鳥時代には、仏教思想に基づいた政治が行われました。大貴族は氏寺を建立し氏族の繁栄を祈りました。
蘇我氏は百済からの渡来人の技術力を用いて法興寺を建立しました。聖徳太子(厩戸王子)は四天王寺、法隆寺、広隆寺を建立したと伝えられています。
聖徳太子は、篤く三宝(仏法僧)を敬えとする「三宝興隆の詔」を発して、仏教の核心は三宝帰依にある伝承されてきました。
聖徳太子は日本人なら誰でもが知っている、もっとも尊敬されている日本人の一人です。しかしその歴史的実在は「厩戸皇子」であるとされていますが、その実績を証明する決定的な資料が存在しないところから、聖徳太子の実在を疑う人々は少なからず、その説の概要は次のようなものです。ちなみに有名な旧一万円札の肖像は別人のものであったことが証明されています。
厩戸皇子は、1用明天皇と穴穂部間人王との間に生まれた.。2601年に斑鳩宮を造って本拠とした。3現在の法隆寺のもとになる寺を建立した、という属性や事実関係は認めるが、聖徳太子は『日本書紀』が「ヤマトタケル」と同様に捏造した架空の人物であるとする説です。
この捏造説では、聖徳太子の名称が最初に出てくる「法隆寺金堂の薬師像光背銘・(607年)・釈迦像光背銘(623年)・中宮寺天寿国シュウ帳(622年以降)」などの法隆寺関連資料『日本書紀』(720年)に使用されている用語(天皇・法王・東宮・仏師)は『万葉集』や中国の『隋書倭国伝』の用語例と異なり、厩戸皇子や蘇我馬子の時代には使用されていなかった用語であることを子細に検証し、法隆寺関連資料は『日本書紀』成立後に成立したものであると推定しています。
また、『日本書紀』の編者は舎人親王ということになっていますが、その実質的な編者は、多数説では藤原不比等(藤原鎌足の子)だと見られています。
『日本書紀』のこの時代の記述については謎が多いことが歴史学者から指摘されていますが、藤原不比等の創作ではないかと見られています。
聖徳太子が、4冠位12階制を定めて、門閥主義を排し有能な人材を登用したこと。5十七条憲法を制定して天皇中心の国家理念と道徳を示したこと。6遣隋使8(小野妹子)を隋に派遣して対等な国交を開いたこと。7『三経義疏』(勝髪経、法華経、維摩経の注釈書)を述作し蘇我馬子とともに国史を編纂したとすることを強く否定しています。
厩戸皇子に大勢の豪族を抑え込む実力があったと認められないこと。厩戸皇子は摂政(最初の摂政は858年の藤原良房)でもなく皇太子(立太子制度は689年の飛鳥浄御原令で採用された制度)でもないこと。遣隋使を派遣した責任者は『隋書倭国伝』によれば聖徳太子と認められないこと。『三経義疏』のうち『勝髪義疏』は敦煌出土の『勝髪義疏本義』と7割方が同一内容であり、『法華経義疏』は8世紀に行信が捏造し、『維摩経義疏』は後代の杜正倫の『百行章』からの引用だったことがその理由です。
神道の国、神の国・日本に仏教が入ってきて、天皇が仏教徒になるという大転換が行われました。これ以降、天皇は神祇の祭祀王であると共に仏教の帰依者(信者)であるという関係性が生まれ、仏教と神道を神仏習合する『本地垂迹説』が生まれて明治維新まで続いたことは周知の事実です。
日本では、大乗仏教が天皇によって受容された歴史的事実があります。その初めから仏教(精神的権威)は王法(世俗の権威)に常に寄り添う形で国家から手厚く保護されましたが、実際には仏法は常に王法の管理下に置かれました。
仏教の受容は、鎮護国家の役割を期待されたことにあります。奈良時代、仏教は国家を鎮め護ることができると考えられました。その理由は、仏教教典が護国の霊験をもたらすと信じられたことにあります。
例えば、『仁王経』には、「動乱・外冦・天地怪異・星宿失度・賊・火・水・風の七難に臨んで国を護り、富貴・官位などの果報を護りたい時、疾病などの苦から身を護りたいときなど、この経を読誦すれば自ずと成就できる」と述べられています。
また『金光明経』には「この経を流布させる王があれば、四天王が常にやってきて擁護し、一切の災いや障害は皆消滅させる」と述べています。これらの護法の功徳が信じられたことはとりもなおさず、従来の神道を始めとする産土神にない霊力を求めたことが如実に分かります。
この『仁王経』と『金光明経』は密教経典です。
737年、聖武天皇は全国に「国分寺・国分尼寺の制度」の詔勅を公布して国ごとに国分寺・国分尼寺を建立し、その総国分寺に奈良の東大寺(現在の華厳宗の総本山)を任じて『華厳経』の世界観を表現する毘盧遮那仏(顕教の仏名、密教では大日如来という)を祀りました。国家の政策として仏教に鎮護国家の役割を持たせたのです。
聖武天皇は国分寺・国分尼寺の建立の外に、国分寺には『金光明(最勝王)教』を、国分尼寺には『法華経』の経典を収め、更に、この経典をそれぞれ各10部を書写するように命じました。しかし、当時、財源や技術者は中央政府に吸い取られていて、とても困難な事業でした。全国にほぼ完備したのは760年代の半ばでした。20年の歳月を要したのです。
奈良の唐招提寺を創建した律宗の開祖・渡来僧の「鑑真」(688−763)は、艱難辛苦を乗り越えて日本にくることができました。鑑真は中国で戒律の高僧として高い評価があり、その才能を惜しんだ唐の玄宗皇帝の出国許可が得られず渡航禁止処分となりました。鑑真はこれをものともせず10年かけて5回の密航を実行しましたが、諸々の妨害と密告・遭難に合い失敗を繰り返しました。最初の密航失敗から11年目の753年に、ついにこれを乗り越えて6回目の密航に成功し薩摩の坊津にたどり着きました。このとき鑑真は65歳でしたが過酷な密航で失明していました。
唐招提寺
鑑真の在世中は「唐律招提」という寺名でした。
聖武天皇・光明皇后の没後、鑑真は考謙天皇の庇護が得られず経済的に逼迫しました。
女帝は道鏡を天皇にしようとして失敗する大事件を起こしています。(道鏡は考謙女帝の看病により寵愛を受けて異例の出世(太政大臣禅師・法王)をし、女帝の譲位を受けようとしましたが和気清麻呂に阻まれました。)
鑑真没後に女帝・称徳天皇(考謙天皇と同一人物)より、思いもかけずこの揮毫を受けたことにより改名したのです。
鑑真は日本国の仏教政策により、僧に正式に授戒する「戒師」として国家から招聘された当時の中国を代表する戒律の高僧です。しかも、当初の招請の予定では、鑑真の弟子から10人の有資格者を期待していたのですが、快く応じる僧が揃わず途方に暮れていました。ところが、思いもかけず、数千人の弟子を持つ鑑真本人が来てくれるという予想外の展開になり招請の使者「栄叡と普照」は狂喜乱舞したことでしょう。
実は、6回目の密航では、いざとなったそのときに遣唐大使「藤原清河」は唐を恐れて鑑真の乗船を拒否しました。これに反して副使の「大伴古麻呂」が密かに乗船の便宜を図ったことで密航が実現したのです。
仏教政策
当時の日本は「飢饉」「疫病」「政変」が続き、世情不安が広がりを見せていました。この逼迫した政治状況を打破する施策に仏教の鎮護国家思想を利用しようとしたものです。鑑真は中国・唐では「江淮(江南地方と淮南地方)の間に唯一人化主たり」 といわれた高僧です。
聖武天皇・光明皇后(女帝・考謙天皇の父母)など多数に東大寺で授戒しています。
大僧都(当時の僧の最高位)に任ぜられ重用されましたが、聖武天皇没後は一転して考謙天皇は鑑真を用いることがありませんでした。
鑑真は南都六宗の既存勢力の排斥運動などにより解任されたという説があります。
授戒師の招請理由は、日本では仏教の戒律の重要性が十分に理解されることなく、これを省略した形で授戒していたので正式な僧がいませんでした。これは、決定的な欠陥でした。本来は、インド以来の伝統として3人の師と7人の証明師が立ち会う厳格な授戒の儀式が必要であることが分かりました。
これは今日でも同様ですが、この正式な受戒を受けていない者は「私度僧」といい本物の僧とは認められません。
そこで、急ぎ正当な資格のある授戒師を中国に求めたのです。
鑑真の来日により、正式な僧の授戒が可能になりました。国立戒壇は761年に奈良・東大寺の戒壇院、筑紫国・太宰府の観世音寺、下野国(栃木県)の薬師寺の3ケ所に置かれ、給料が支給される国家公務員の僧侶の授戒がなされました。 
仏教思想が庶民に受け入れられた諸事情

 

日本の仏教は、本場インド仏教が直接に輸入されたものではなく、いわゆる北伝の大乗仏教、しかも、中国経由で伝承されたという事実があります。
中国仏教の特徴は、インド思想の仏教経典を翻訳する段階で、中国に定着していた儒教・道教など中国思想との整合性に適合するように書き改められたという特異性があります。中国仏教はインド仏教をそのまま受け入れたものではありません。
日本仏教は、当時の先進国であった中国の思想を手本として積極的に受容する価値観に覆われていました。日本では、このような事情を知ることなく、疑いを持つことなく中国仏教典を受け入れてきた事実があります。
日本の仏教各宗派の殆どがこのような中国仏教思想を手本として受け入れ、中国の解釈を基準として日本仏教を形成し発展させてきた歴史的事実を知らなければなりません。
6世紀の日本に伝来した仏教は、まず朝廷や貴族に受け入れられました。仏教の鎮護国家の思想が為政者に受け入れられ政治的な利用目的に重宝されました。
仏教の普及が進むのは奈良時代になってからのことです。奈良時代には、仏教は日本古来の神道と結びつき「神仏習合」の風習が発生しました。この風習は1000年以上も民衆の間に広く浸透しました。
天皇や皇族、貴族層など上級の支配層に期待されて抱え込まれた仏教の諸機能は、戦後の教科書などで、いわゆる「貴族仏教」という庶民性を否定する名称を付けられて差別化されるという扱いを意図的に受けました。仏教が庶民感覚からはほど遠い存在であったとする評価の表れだと考えられます。
仏教の本質には貴族と庶民の差別化はありません。しかし、仏教の保護と育成には膨大な国家予算が投入されてきたことは事実です。これに係わった主役が天皇や貴族、上級武士(領主層)であったことも事実です。
これらの支配層は、教養もあり思索能力が比較的に高い階層を形成しています。しかし、その生きざまにおいてさまざまな諸事情を抱え込み、後生善処を強く願い、死後の世界に無関心ではいられない人々でもあります。
識字率が低く財力の乏しい無力な庶民が新思想の仏教を受け入れ宣教する主体になれなかったことも事実です。しかし、だからといって、仏教が貴族の所有物であったとは言えません。仏教の本質には、王侯貴族の所有物にできる道理がありません。
キリスト教も、イスラム教も庶民の手によって世界宗教に成長したという歴史的な事実はありません。世界宗教は、紛れもなく強力な軍事力、経済力、政治力を所持する王侯貴族の意図と庇護のもとで独善的に布教されてきた歴史事実に覆われているという側面があります。
しかし、これらは世界宗教が王権を正当化し、また庶民の統治を正当化する政治的な手段として利用された側面があったという事実を述べているに過ぎません。一方では教団側には、教団を経済的に安定させる手段として、効率的な布教活動に専念できる社会環境を形成できるメリットを積極的に利用したものと考えられます。しかしながら、僧の出家の動機にはこのような政治的な観点は全くありません。真面目な出家者が宗教に求めた本質は、普遍的な「真理の探究」「自身の探究」にあったと考えられます。
別の言い方をすれば、「自身の魂の救済を求める者」「世の為、人の為に真理を求める者」「生き方、死に方を良師に学び求める者」「家庭環境の要請に応えなければならない職業後継者」など様々な動機が考えられますが、出家者の一人一人が生きてきた生活環境の中の出来事に影響を受けた側面を濃厚に持っているものと考えられます。
宗教には、さまざまな学問、価値観を俯瞰する統合的な機能があります。修行中は一般社会から隔離される独特の環境に身を置かなければなりませんが、良師の指導を受ける僧院の伝統的な修行法が僧の人格形成に大きく関わる体験を積ませることになります。とはいえ、実際には僧の評価は個人の資質や能力、努力の結果が大きく反映されたものになることは致し方ありません。宗教との向き合い方が違えば、宗教者の行動にも違いが出てきます。
それでは庶民の仏教とは何を意味するものでしょうか。これを端的に表現すれば、仏教の庶民化とは、いわゆる、鎮魂と冥福を説く「葬式仏教」化を意味するものと考えられます。
一般的に葬式仏教の名称は伝統の仏教教団を批判したり貶める用語として用いられることが通例ですが、これは、仏教の僧侶の業務の中心が「葬式や先祖供養」になっていると見る庶民感覚からの見方であろうと考えられます。この見方からは、僧が、庶民から法外な謝礼を取っているという風評に乗り、僧がぼろ儲けしているという認識が拡散されて広まり、真実性がない事例までも含めて一括して批判の対象になったものであろうと考えられます。
「鎮魂」と「冥福」は僧侶に求められた特徴的な機能です。王侯貴族にも庶民にも期待された仏教の第一の機能は死者の供養でした。これは、死者の魂だけでなく、残った遺族の精神をも安らげる機能が期待された概念です。
鎮魂は死者の魂が祟ることを恐れ、荒ぶる魂の鎮まることを期待するものですが、同時に自分のために祈る気持ちが込められています。
冥福は死者の冥界(死後の世界、あの世)での幸福を祈る追善供養(その儀式は「供養」と「回向」)を期待するものです。
鎮魂と冥福のためにもっとも効果が期待されたのは造像や写経のほかに「受戒」が挙げられました。受戒によって与えられるものが「戒名」です。受戒によって死者は冥途での修業の目標を与えられ、長い時間を迷うことなく修業して鎮魂し、冥福を得ることができると考えられたのです。
残された遺族が死者のために戒名を付けて冥福を祈る風習はこのような考えのもとで人々に浸透していったものと考えられます。しかし、庶民の生活が豊かになると、宗門や寺院に何らの貢献をしてこなかった人々が、高位の戒名を買い求め、先祖の戒名までもを金銭で買い取って高位の戒名に改める(追修)ことまで願い出る者が出現してきました。高位の戒名は、死者が生前に積んできた善行や寺院に対する奉仕などの積み重ねを賞して付けられるものです。戒名は死者の生前の社会的地位や名誉を評価するものではありません。
世界の宗教は、まず死への恐怖を慰撫する目的で、死後の世界での魂の幸福(冥福)を得る方法を示すために、現世で何をしなければならないか、また、何をしてはならないかを明らかにして現世での人生の目標を様々に語ってきました。
宗教が哲学や道徳とは異なるこれらの機能を求められ続けるのであれば、葬式仏教と蔑視する者がいようとも「鎮魂」と「冥福」(その儀式が「供養」と「回向」)を求める人々のために、僧は自信を持って積極的に葬式に関わり続ける必然性があるのではないかと考えます。
しかしながら、「供養」と「回向」は実務経験を重ねた僧であれば、人々が求める一定の期待に応えることが可能ですが、「鎮魂」は僧の素質や能力を基本とする修行の成果がなければできない性質のものです。いうなれば、僧の評価は人々から期待される「鎮魂」を可能にする仏力、法力、加持力のありようが納得させられるかどうかということです。「鎮魂」とは「マイナスの極に沈んでいる霊魂をプラスマイナスゼロにすること」、更に、プラスマイナスゼロからプラスに持っていくのが「供養」であると説明した人(第一生命経済研究所主任研究員・小谷みどり氏)がいますが、分り易く、的を得た表現だと考えられます。
東日本大震災のとき、仏教教団の各宗派からボランティァ活動に参加した僧が直面したのは「鎮魂」を納得させられる力がないことに気づたことでした。突然の震災によって命を失った人はなぜ自分が死ななければならなかったのかを受け入れる状態ではないと考えられます。運よく生き残った家族は自分だけ生き残ったことに贖罪を感じてばかりで、立ち直れない人々があまりにも多すぎました。ありきたりの慰めの言葉を口にするだけでは納得させられない重い雰囲気に言葉を失い、無力感を味わったということです。
このような生きる目標を一時的に喪失する悲惨な状況は、広島、長崎の原爆投下や阪神淡路大震災でも同様でしたが、受け入れられない激変の世界に直面すると、人は傲然自失の状態から立ち直れるきっかけを掴むことができません。
「鎮魂」は突然の死が受け入れられない死者の魂を深いマイナスの極から少なくともニュトラルの状態まで引き上げる力がなくてはなりません。そのうえで「冥福」の祈りが届くありようを保ちながら、死者の魂が安らぎ、遺族が納得する「供養」と「回向」に移っていきます。しかし、これは言葉の説明にすぎません。実際には、僧自身に修行によって得られる霊的な力がなければ、関係者が納得する状態で法要を進行させることはできません。この瞬間を考えれば、宗教は哲学や思想では語れない霊的な要素を多分に持っていることは間違いのない事実です。ことばだけでは悲しみのどん底にいる人々を救えない事実を身を持って体験したことで、僧としての修行のあるべき姿を見つめ直す契機になったものと考えられます。
葬式仏教を非難する古典的な見解は、実は仏教の創始者である釈迦自身の葬式に係わる次のような出来事に起因するものでした。この説の大半は、主として戦後に急成長した新興宗教の立場から既存寺院仏教を非難する手法として便利に利用されてきたものと考えられます。
葬儀については、『涅槃経』第九節に、アーナンダ(阿難)の質問に対して仏陀の考え方が次のように述べられています。
「尊師よ、われわれは、如来の遺体にどう対処したらいいのでしょうか」「アーナンダよ、君たちは、如来の遺体に従事しないことだ。どうか、きみたちは、アーナンダよ、自分のことに励みなさい。自分のことに努めなさい。自分のことに不放逸に、熱心に、精励していなさい。アーナンダよ、如来に信服した王族身分の賢者も、バラモン身分の賢者も、居士身分の賢者もいる。かれらが如来の遺体供養をするだろう」と。
この一文は今日の仏教と葬儀との関わりを考える基本資料であるといわれているものです。この文を文字どおりに解釈すれば、僧侶は葬儀に関わらなくてもよい(僧は適任者ではないのか)。なぜなら、葬儀は信者である王族、バラモン、居士などの有志が行うから(費用のかかる葬儀は資力や指導力があるこれらの人々が適任なのか)ということであろうか。修行した僧侶の葬儀の執行を否定してまで、まさか素人の葬儀執行に委ねるということなのか?、との疑いが生じる道理上では考えられない釈迦の真意は一体なんであったであろうか。
この文は、仏陀が「仏陀自身の葬儀」について仏弟子のアーナンダに説いたもので、葬儀の対象者が正等覚者であり如来である仏陀を前提にするものから特別のケースであると解釈することが可能です。修行者や在家信徒の葬儀に関するものではありません。「何かの事情があるがゆえに、いまは葬儀に関わらなくともよい」なのか「葬儀は僧の仕事ではない、だから、今後も関わるな」ということなのか不明です。
弟子の僧が行う葬儀よりも、王族などが行う葬儀のほうが荘厳で仏教宣布の効果は大きいとも考えられます。
この文を根拠として、もともと仏教の僧侶は葬儀と直接的な関係は無かったと主張する解説書がでてきましたが、これは葬式仏教を批判する立場に見られる態度です。仏陀の言葉は重い。戒律のすべてを仏陀が定めた、とする立場では、むやみに疑問を呈したり、その心を推し量るべきではないかもしれません。しかし、僧の葬儀の関与を否定しなければならないほど本質的なものであるのかどうかの思索が欠落した態度だと考えられます。この説には、誰かの解説書をネタ本にして疑うことなく受け入れた瑕疵があると考えられます。
それは、インド社会の特殊性として知られた「カースト制度」の足枷として機能していた厳しい職業制度「バァルナ・ジャーティ制」の視点が欠落していたことです。ブッダが仏教教団をカースト制度から護ろうとした決意を見落としていたことです。
実は、ブッダの葬儀には弟子がかかわっていたのです。ブッダがアーナンダにおまえは葬儀にかかわるなと命じたのは、アーナンダがまだ修行が足りず未熟だったので葬儀にかかわるなと命じたのではないかという考え方があったのです。その証拠は、ブッダの葬儀ときに、葬儀専門の人たちが火をつけようとしたのですが、何度やっても火をつけることができませんでした。そこでマハーカッサパ(大迦葉)が点火したら燃え上がりました。これでマハーカッサパがこの葬儀を仕切ったといってもよかったのです。(「お坊さんのための仏教入門」、正木晃・著、春秋社、2013年)
但し、仏弟子には制限がありました。僧は出家者の葬儀にかかわることができましたが、在家者の葬儀には係われませんでした。その理由は、葬儀の執行には専門のカーストの職業者が存在していたからです。これを無視して葬儀を行えば、葬儀を行った僧は葬儀専門の職業者のカースト(バァルナ・ジャーティ制)に組み込まれる危険性がありました。僧に在家者の葬儀を禁止したのは、インドのカースト制度の縛りから仏教教団を護るためだったと考えらえます。ゆえに、日本にはインドのようなカースト制度がないことは自明の理であるところから、僧の葬儀を否定する根拠は全くありません。釈迦の言葉は僧の葬儀を否定する曲解に使われてきた側面があったことは遺憾な出来事でした。
今日、宗門との対立で破門され、僧侶の指導・関与を否定しいる新興宗教団体が「友人葬」の名目で、学会内に専門の典礼部もどきの組織をつくり、素人会員に地域の創価学会・会員の葬儀の全般を取り仕切らせていることが広く知られています。その始まりは、前述の釈迦の言葉を奇貨として曲解し、敵対する宗門を兵糧攻めにする目的で会員に僧侶の関与を拒否させるプロパガンダとして便利に使われたものであろうと考えられています。
釈迦の直弟子を自認するプライドの高いテラワーダ仏教(上座部仏教、過去にはこれを小乗教と表示しましたが差別用語と考える学者は使用しない)の僧は、現代では積極的にかかわる傾向性があります。スリランカー、タイ、ミャンマーでは戒律で禁止されているはずの在家信者の葬儀にかかわっているのは、カースト制度がないからだと考えられます。しかし、葬儀の際には悪魔がつかないように「パリッタ(真言、陀羅尼)」という呪文を盛んに唱えています。テラワーダ仏教ではこの「パリッタ」を用いる宗教儀礼が盛んに行われています。上座部仏教は呪術を否定していると信じている人がいますが、それは捏造された神話です。実際には相当に呪術的であると考えられます。
仏教教団の存在理由は「悟りをもとめること」「ブッダの教えを後世に忠実に伝えること(上求菩提、下化衆生)」です。これが僧の仕事です。この意味で仏教教団は「福田(ふくでん)」に位置付けられました。一般の仏教信者は、教団(僧)にお布施することで、その教団に福徳や功徳などの宗教的な利得を積むことになるので、お布施した人は、そのお布施がやがて功徳や回向になる、という考えが「福田(ふくでん)」の機能です。
この「福田(ふくでん)」の機能は、日本の仏教界ではあまり言及されることがありませんが、チベットやネパールでは言及されています。ここでは、菩提寺を荘厳にすることに無上の喜びを感じる心があるようです。寺は誰のものでもなく、自分たちのものという感覚を持ち続けていると考えられます。
奈良の南都六宗(華厳・法相・律・三論・成実・倶舎の各宗)の僧侶は、今日でも葬儀に関わらないという興味深い事実があります。僧侶自身の葬儀は実家の檀家寺院の僧侶に依頼してきた事実です。この伝統は1200年以上を遡る古いものですが、それでも、僧侶の葬儀を僧侶以外の在家の篤志家や有志に委ねるということはありません。
大乗仏教の立場からみれば、宗派の戒律になんらのさわりが無く、社会通念上の伝統的な公序良俗の中で、檀家のニーズに応えてきた信頼の範疇にある葬儀はなんらの批判の対象となるものではりません。
今日の社会では僧の葬儀の関与を否認することは不可能であるといわなければなりませんが、他方では、葬儀に関わる僧の謝礼など(特に戒名代)が法外であるとの批判には答えていく責任があるのではないかと考えます。
仏教葬儀について、文献上でもっとも古い仏式葬儀といわれるものは756年の聖武天皇の葬儀であるとするのが多数説です。
日本の葬儀の歴史をみれば、僧侶が社会の一般大衆である人々の葬儀に積極的に関わり始めたのは、1614年のキリスト教の排斥を発端とする徳川幕府の宗教政策(寺請制度)と、1638年頃に全国的に普及し完成をみた寺檀制度によるものでした。
これによって一般庶民も檀家制度に組み込まれる社会体制が確立し、葬儀や法要が寺院や僧侶の重要な役割となりました。これに従い、檀家は最大の経済的な支えになり、過去帳が寺宝になったことは知られた事実です。
今日の寺院はこれを継承し寺院経営の基盤としています。
仏式葬儀が社会に浸透していったもうひとつの理由に、「死」は穢れや恐怖ではなく死者を導き成仏させる、迷妄の衆生を仏道に導く浄土への旅立ちであると説いたことです。僧だからこそできる説得方法でした。
引導作法は死者の霊魂に呼びかけて仏弟子となるための得度を受けさせる儀礼ですが、死者はここから長い修業を開始して悟りへの階段を登ってゆくことになります。死んだからと言って直ちに仏(悟りを開いた覚者)になれるものではありません。
葬儀や引導作法は死者があの世で迷うことなく修業できるようにとの遺族の願いを結集した伝統的な儀礼です。また、年忌法要は、この世に残されたものが、あの世で修業中の縁者に対して送る追善供養です。もし、葬儀の引導作法によって直ちに成仏できるものであれば年忌法要は必要なくなります。遺族の要請により僧侶が50回忌に至るまで死者が修業を怠ることなく悟りを進化できるように死者の魂に呼びかけている儀礼が年忌法要だと考えられています。
このような伝統儀礼は僧が執行して遺族の悲しみを慰撫してきましたが、その実体は外野席から送る応援のようなものとだ考える見方が一方にはあります。僧であっても死者になり替わることは不可能なことですから、一方では宗教儀礼が他人事と考える冷ややかな醒めた感覚の人々がいることは致し方ありません。しかし、だからといって、素人の新興宗教団体の信者が僧になり替わって形式的に執行して僧の真似事をしていいとは考えられません。葬儀、鎮魂や供養、回向は誰にでもできるものではないからです。
近年、新興宗教団体には、信者が信者の葬儀や年忌法要を執り行い、広大な墓苑を各地に造成して信者を抱え込んでいる巨大団体があります。自前で広大な墓苑を各地に造成し、強引な見解を主張しながら仏法僧の三宝を否定し続けています。宗教感覚がマヒして僧侶と同等、もしかしたらそれ以上に位置付けているかもしれません。毎日、簡便な朝晩のお勤めをしていると感覚がマヒして、自分たちは僧と同じかそれ以上だと錯覚しているのかもしれません。
これらの団体は宗門から破門されて所属の寺院から飛び出して自立した新興宗教団体ですが、信者が信者を抱え込み、大規模な墓地を造成して信者に転売し、巨額の利益を上げています。素人導師が僧の真似事をして粗雑で驚くほど簡略な葬儀の真似事を執行し、墓地の管理を手広く行い、信じられない簡略な供養や回向の真似事をし、信者を墓地に縛り付け、金のなる木に育て上げているという批判があります。素人信者が導師となり、このような粗悪な真似事をしていることに誰も文句を言わないことが不思議です。この教団には宗教儀礼の必然性の認識が欠落していること、葬儀、供養、回向の受け取り方そのものが決定的に欠落していることから、とても粗雑でいい加減な宗教儀礼の真似事をしているようにしか見えません。受け手(信者)が無知だからではないかとも考えられますが、不思議な団体です。
今日の葬儀には、役割分担をする多くの人手と経費がかかり一般家庭には頭の痛い問題です。葬儀を質素、簡略にして時間と人の手や経費を節約するという選択肢もありますが、死者を送る遺族が仏僧の厳かな葬儀を求める気持ちはなくならないのは事実です。
戒律の本質的な条項に抵触しない範囲内で破戒の口実にされることなく「随方毘尼」(時と場所によって条項の改廃を認める規定)という現実的な対応の仕方は妥当性の高い方法と考えられます。
時と場所によって、その時代の公序良俗や社会の価値観に適合する解釈の仕方があります。現代社会では、一般家庭でも僧による仏式葬儀の形式が広く浸透しており、僧は適任者であると認められ信頼されていることは疑いのない事実です。
明治維新後、西洋列国に追いつく目的で強力な天皇中心の国体を作り上げる明治政府が「国家神道」を目論み神と仏を分離する「神仏分離令」を断行しましたが、今日でも実質的には未完のままです。
また、信教の自由を保証する新憲法の下で、新興宗教団体が大量発生してさまざまな教義を建てたことにより、日本人の宗教感覚は価値観の多様化の氾濫の中で様々な価値観を生み育てています。
この結果、宗教統計の信者数などに正確な数字が反映できなくなっています。宗教統計によれば、日本の神道系信者数は1億人、仏教系信者数が約9000万人おり、日本の総人口を超える異常数値を示しています。 
南都六宗 / 国家仏教

 

日本に仏教が伝来したのは、文献の上では538年説と552年説がありますが、538年説が有力視されています。しかし、仏教は大陸の進んだ文化として朝鮮半島からの渡来人を介して、すでに6世紀前半には日本に伝わっていたのではないかと考えられています。
この頃、仏教の受容を巡る激しい対立が起こりました。受容を主張する蘇我氏と否定的な物部氏が対立しましたが、蘇我氏が勝利して、仏教が最初に芽吹いた飛鳥文化が開花しました。
645年の大化の改新に始まる律令制度のもとで中央集権国家が完成し、大宝律令が制定されて、7世紀後半〜8世紀初頭の藤原京に白鳳文化が生まれました。
奈良の平城京で花開いた天平文化の中で仏教が隆盛しました。
聖武天皇の時代、全国に国分寺、国分尼寺建立の詔が発せられ、仏教は国家の手厚い庇護を受けました。
南都六宗が成立したのは、東大寺大仏殿の建立が始まった747年(天平19)頃から大仏開眼供養の前年751年(勝宝3)の間と考えられますが、各宗を統括する宗務所が置かれ、国家の手厚い保護のもとに国家仏教としての国家の管理を受ける体制が整えられました。
仏教の初めは、鎮護国家を祈る国家仏教として成立しましたが、官立寺院であり、仏教の学術研究をする場所でした。当初の各寺院は、学派として自由に研究する場所であり、独立の宗派を形成していませんでした。諸学の兼学が推奨され、学派の対立はありませんでした。この頃の宗は学門上の区分の学派を意味するもので、平安末期にはじまる宗派とは異なるものでした。
754年、国家の要請により、中国から「鑑真」(律宗と天台宗の大家)を平城京に招請して国立戒壇院(1東大寺戒壇院、2大宰府・観世音寺戒壇院、3下野・薬師寺戒壇院)を設置し、国家公務員の身分を持つ公式な僧侶の受戒制度を整えました。国立戒壇の受戒は「年分度者」と呼称され、南都六宗から選ばれた優秀な人物が推薦を受けましたが、毎年10数名の狭き門でした。官僧以外は僧侶として国家から公認されていない存在でした。彼らは「私度僧」といわれ、山林修行によって霊的な力を身に付ける修行を試みる者でした。私度僧は国家から禁止されながらも淘汰されることはありませんでしたが、僧の大部分はこの私度僧であったと考えられます。
南都六宗は1三論宗、2法相宗、3華厳宗、4倶舎宗、5成実宗、6律宗の順に成立していますが、 南都六宗は現在の宗派とは異なり学派的な存在であり、特定の宗派を標榜することはありませんでした。学派の垣根は低く、多数の学派に同時に所属することも可能でした。概要は次の通りです。
1「三論宗」の教学を大成したのは嘉祥大師・吉蔵(549-623)です。天台宗の智、地論宗の慧遠、三論宗の吉蔵が隋の三大法師と称されました。吉蔵の著作は26部112巻ともいわれ、『大品般若経』『金剛般若経』『仁王般若経』『維摩経』『華厳経』『法華経』『涅槃経』『勝鬘経』などの大乗経典の注釈が19部、『三論玄義』『中論疏』『百論疏』『十二門論疏』『法華論疏』『二諦章』『大乗玄論』などの注釈書があるので、三論宗は大乗仏教全般を広く学んでいたことが分かります。
三論宗は吉蔵の弟子、高句麗の僧・慧灌によって、625年(推古33)に南都六宗の中でもっとも古く最初に日本に伝来してきた宗です。日本では『三論玄義』が入門書として読まれましたが、教学内容は般若経の「諸法は皆な空なり」に基づくものです。三論とは、鳩摩羅什の訳出した竜樹(150−250頃)の中論、十二門論と、弟子の提婆(170−270頃)の百論の三つの論をいいます。三論宗は中国で成立しましたがその思想の中心はインド伝来の般若・中観の空の大乗思想です。
「破邪顕正」、「真俗二諦」、「八不中道」の三科を理論の中心としますが、人間や事物の一切のものに固定的な実体を考えることを否定する「一切皆空」を説くところから「空宗」ともよばれた中観派の宗です。元興寺・大安寺を本拠地としました。中道仏性(如来蔵・仏性思想)を説き空と仏性の相即を主張することにおいてインドの中間派とは相違点を持っています。
中論では諸法が因と縁によって生起することを有(存在)と説くのが俗諦、一切を空と説くのが真諦です。 有と空を止揚し非有非空の中道に導くことが破邪顕正です。
八不(不生・不滅・不去・不来・不一・不異・不断・不常の八迷)とは、正しい道理を悟る八重の否定ですが、これによって究極の真理である中道が現れ、破邪が顕れる、という考えです。八不は、『般若心経』の不生不滅、不垢不浄、不増不減の六不とは言葉が異なるものの、表現する内容が同じと考えられるところから、六不=八不の表現と見られています。
2「法相宗」は、中国唐代の玄奘(『大唐西域記』の著者)を始祖とします。日本には白鳳時代の653年に唐に留学した道昭が玄奘から直接に教えを受けてその概要をもたらしましたが、法相宗の理論的な体系は、唯識系の経論、特に、『成唯識論』に基づいて玄奘の高弟慈恩大師によって広められ、日本には玄ムによって伝えられました。
法相宗の教理は「阿頼耶識縁起」といわれる唯心論的な理論です。
阿頼耶識は六識(眼・耳・鼻・舌・身・意)、七識の未那識の最深層に位置する八識とされる概念です。万物というすべての存在は識によるものであり、一切の存在は自分の心から生まれ、自分の心を離れて存在するものは何もない、一切の万物は自分の心(認識)そのものであるという考えです。認識は六識(目・耳・鼻・舌・身と意)とその奥にある二識(末那識・阿頼耶識)で行われるが、修行によってこれらを「空」にすることによって悟りを得ようとするものです。
インドでは如来蔵と同一視する考え方があり、玄奘以前の中国ではこの識が「真識」か「妄識」かを巡る論争がありました。
この説は、自己の心身と世界のすべてが、自己の最深層にある阿頼耶識の中に蓄積された過去の経験の潜在余力(習気、種子)から生ずるとする学説に立つものです。
この深層心理学ともいうべき精緻な心理分析の理論を仏教界に提供したことは法相宗の教学の大きな貢献でした。
しかし、悟り(成仏)の可能性について、各人の先天的な資質の差別を(五性格別、三乗説)を認めたことが中国仏教界に大きな衝撃を与え、すべての人に成仏の可能性を認める一乗説(天台宗)との間で激しい論争(三一権実論争)を引き起こしました。
法相宗は中国仏教界の主流を占めることなく衰退しましたが、法相教学の概念の多くが華厳宗の教学に組み込まれました。
法相宗は、日本では南都六宗の中で最も有力な宗派として栄えましたが、中国の三一権実論争を引き継ぐ形で、徳一と天台宗の最澄の間で同じ論争が引き起こされました。
法相宗の本拠地は、元興寺、興福寺、薬師寺です。
鎌倉以降、法相宗の勢力は衰退に向かいましたが、教学は仏教の基礎学として各宗の学僧によって学ばれ今日に至っています。
尚、法隆寺は1980年に独立して「聖徳宗」に、清水寺は1965年に独立して「北法相宗」という新たな宗派を形成しました。
3「華厳宗」は、1300年以上の歴史を持ち、中国・唐の初期に華厳経を最高・究極の経典として、その思想を研究した学派です。中国唐代の高僧・杜順が大成し、唐に留学して法蔵から華厳を学んだ審祥(不詳、新羅僧という説と新羅に留学した日本人僧とする説がある)が良弁の要請に応じて奈良の金鐘寺(現在の東大寺二月堂)で華厳を3年間にわたり講説したことで日本の華厳宗が生まれました。後年には、聖武天皇によって、反体制派と見做され藤原氏から危険視されていた僧・行基が大僧正に登用されたことで、難事業の東大寺・大仏(奈良の大仏=毘盧遮那仏)の建立が促進されて完成を見ました。
華厳経には毘盧遮那仏(密教では大日如来となる)という時間と空間を超越した仏が説かれ、「一の中に他の一切を包含する、同時にその一は他の一切の中に入る」という思想をもちますが、華厳宗の教えは仏教のあらゆる教えを包含する最高の経典であるとしています。
『華厳経』は、地理的には東アジア全域に広まり、日本では東大寺系の学派を確立しました。密教に影響を与え、禅者や念仏者にも影響を与えるなど宗派を超えた影響力があります。
華厳教学は時代的にも、地域的にもかなり大きな変容があり一概にまとめることは難しいもいのがあります。
華厳経は、もっとも古い『十地経』が紀元前1世紀頃から2世紀ごろに編集され、華厳経の全体が編集されたのは四世紀頃と推定されています。
華厳とは、美しく飾るという意味で、色とりどりの華によって厳(飾)られたものを意味します。すなわち蓮華蔵の世界ということになります。華厳経は真実教、一乗教、円教と評価されています。
仏教の考え方の基礎を形成した空の思想では、あらゆるものに固定的な実体は無く、縁起という関係性よって現象すると考えました。華厳の唯識思想は、この世のすべてのものは無限に関係(無尽縁起)しあって存在していると考え、 空の思想を補完して、その現象は人が認識しているだけであり心の外に事物的存在は無いと考えます。
外界の形ある存在は心が作り出している幻想に過ぎず、あるのはただ(唯)意識だけであり、意識が外界の存在を作り出していると考えることが唯識の思考の特徴です。
心の作用は仮に存在するものとしてその心の在り方を瑜伽行(ヨーガの実践)でコントロールし、悟りを得ようとしました。いわるる瑜伽行唯識派の思想です。
唯識系の論書を理解するためには、この瑜伽行という深い瞑想の中で真実を見つめる行法の体験が必要です。
華厳経には現実の実践(菩薩行)を強調する特徴があります。真空から妙有への展開が見られます。
華厳経の根本的な特徴は、「事事無碍」(事物・事象が互いに何の障礙もなく交流・融合する「一即一切、一切即一」)の縁起を明らかにする点に見出されます。
華厳経の『入法界品』には、善財童子(求道の菩薩)が文殊菩薩の指導に発心して観音・弥勒菩薩など53人の善知識を歴訪して教えを受け、最後に普賢菩薩から大願の法門を聴聞して普賢の行位を具足し、正覚・自在力・転法輪・方便力などを得て法界に証入するという菩薩の修道の階梯が示されています。東海道五十三次はこれに由来するものです。
『十地品』(十地経)には、菩薩が修習の深まりによって到達する十地の階梯が説かれています。これは実践の体系を組織化した論書でもあります。
日本には、740年、良弁が新羅に留学して帰国した審祥に金鐘寺(東大寺三月堂)で華厳経60巻を講義させたことを最初とします。審祥が学んだ華厳は元暁と法蔵の影響が強い華厳学でした。これが東大寺の学派となりました。
元興寺や薬師寺など法相宗の大寺院でも講義され、西大寺(創建時は西の総国分寺、後、真言律宗の本山)でも兼学されるなど、南都(奈良)で重要な位置を占めました。
華厳宗は東大寺を拠点として「華厳思想」を専門に研究する学派です。
4「倶舎宗」は、インドの世親(ヴァスバンドウ)が著した教理を中心とする綱要書『阿毘達磨倶舎論』(倶舎論)を研究する宗派です。
この論は上座部仏教の最大の部派「説一切有部」の論書として知られる『大毘婆沙論』の教理を批判して著した論書です。有部に対抗する軽量部の立場から著したもので、大乗仏教に大きな影響を与えました。
ちなみに、大乗仏教も「空の理論」を展開して有部の『大毘婆沙論』を批判して対抗しました。
倶舎論は、唯識三年、倶舎八年といわれ、頭がクシャクシャになる難解な論として定評がありました。専門の南都の学僧でさえ研究に長期間かかったといわれています。
倶舎論は、法相宗の道昭が請来し東大寺などで仏教の教理の基礎学として研究されました。倶舎宗は、独立の宗派ではなく、法相宗の付属の宗として毎年1名の僧の得度が公認されていました。現在もその重要性は仏教研究者から認識されています。
5「成実宗」は、成実論の研究をする宗派です。成実論は訶梨跋摩(ハリヴァルマン)の著した、主として(上座部)部派仏教の「軽量部」の立場から「説一切有部」の思想を批判し、大乗仏教の教理を取り入れています。鳩摩羅什の漢訳(411-412)が現存しますが、書名の「真実を完成する論」の真実が四諦の教えを指すもので小乗論書との批判を受け衰退します。
日本には、三論宗とともに中国から伝来し、三論宗の寓宗として研究されるにとどまりました。
6「律宗」は、中国の道宣の説に基づき、『四分律』を重視し、菩薩戒として三聚浄戒の受持を主張する。教理的には唯識の影響を強く受けています。日本には、朝廷の招請により、道宣の孫弟子「鑑真」によって伝来されました。
754年、中国・唐より「鑑真」が招かれて東大寺に戒壇院が置かれ、761年には下野に薬師寺が、筑紫に観世音寺が置かれて僧の授戒制度が確立しました。
正式な授戒を許可された僧の身分は、今日でいう国家公務員の資格を与えられ、これに相応しい俸禄が朝廷より支給され厚遇されました。しかしこの人数は少なく(年10人程度)、大部分は「私度僧」となって山林に交わって修行をしましたが、山岳宗教の修験道との混交が一般的でした。
律宗は、平安初期頃まで栄え、その後次第に衰え、平安中期頃には衰退しました。授戒の儀式は興福寺や東大寺の堂衆という僧に継承されています。
本拠地は唐招提寺(本尊は毘慮遮那仏)です。律宗は、僧や在家信者が護るべき生活規範(律)を通して仏教を研究し実践しようとする教団です。戒律は身(行動)、口(表現)、意(精神)の全てについて守るべき規範を示し、守ることによって仏に至る道を示そうとするものです。類似の教団には、真言律宗の西大寺があります。
南都六宗は仏教研究の道場です。今日の寺院と異なり「檀家なし」「葬式はしない」という共通性があります。
南都六宗は学問の道場としての色彩が強く、一人の僧が2宗以上の兼学をし、複数の宗派を兼ねるのはごく普通のことでした。宗派間の垣根は低く、向学心の高い僧はどの宗派の学問でも修めることができました。当然、宗派間で学問上の争いを起こす必然性がありませんでした。
しかし、8世紀頃には、権勢を競い合う風潮があらわれ、学僧の囲い込みが始まり、次第に学僧の奪い合いや確執が表面化するようになりました。
学問研究の自由な姿勢が失われ、排他的となって、他の寺院に出向いて教えを乞う美風が次第に失われて行きました。
僧院(寺院)は、当時、最高の学府を形成するインテリ集団でした。王法の下に管理される仏法でしたが、権勢を競うが如く、自己顕示欲を示して次第に政治の乱れに意見具申をする形で政治に介入するようになりました。
8世紀末、桓武天皇は政権内部で暗闘が収まらず、怨霊の跋扈(当時の貴族の独特の感覚)と仏教界の腐敗(王法から見た独特の視点)を避けるため奈良の都・平城京から京都(平安京)に遷都しました。
桓武天皇は新たな都には新たな護国仏教を待望しました。これに応えたのがスーパスター空海と天才最澄でした。最澄と空海の登場により仏教は学派から宗派に衣替えすることになります。
南都六宗と天台宗はほとんど中国仏教の直輸入です。日本的な工夫は儀式などの通過儀礼しか見られません。
教義の体系は、中国でほぼ完成されており、ただこれを学ぶことが日本の仏教のありようでした。日本人の創意工夫は空海の出現まで待たなければなりません。
空海は、十住心論(『大日経』住心品、『大日経疏』、『菩提心論』等による教相判釈)の教判論で、十玄・六相の教理を持つ華厳宗を第九住心(極無自性心)に位置づけ、三融円諦の教理を持つ天台宗を第八住心(如実一道心)として、華厳宗を天台宗の上に置きました。八不を説く三論宗を第七住心(覚心不生心)に、法相宗(唯識)を第六住心(他縁大乗心)に、縁覚乗(独覚)を第五住心(抜業因種心)に、声聞乗(二乗)を第四住心(唯蘊無我心)に、位置づけています。
空海は『秘蔵宝鑰』巻下に、「九種の住心は自性なし、転深転妙にしてみなこれ因なり。真言密教は法身の説、秘密金剛は最勝の真なり」といっています。この二句は「前の所説の九種の心はみな至極の仏果にあらず」ということです。
仏教哲学を実相論と縁起論の二大系統に分ければ、三論と天台は実相論に、法相と華厳は縁起論に分けられ、真言は実相と縁起の双方を止揚したものと考えられます。
鎌倉新仏教は(布教のために)庶民感覚を取り入れ実践論を単純化し特化した特徴をもつ祖師仏教で教理的な発展は特にありません。教理論としては四家大乗(天台・華厳・法相・真言)の教理で尽きていると考えられます。
後世に、鎌倉新仏教(祖師仏教)の立場から、あからさまな南都六宗の批判がされるようになりました。その要旨は「南都六宗」は、自分一身の解脱を目的とする自利の傾向が強く、あらゆる衆生を救済する大乗の化他行の精神が乏しい」とするものです。しかし、この批判は本質的な批判とは言えず、一方的、盲目的な批判ではないかと考えられます。大乗の化他行の修行を世の中に身を持って実証した僧が、祖師仏教の系譜の中に一体何人いるでしょうか。
仏教の普遍性を基準にすれば、祖師仏教には釈迦仏教の正統性や正当性があるとは考えられません。仏教の本質を逸脱する思い込みの強いドグマを初心(うぶ)な民衆に刷り込み、一方的なプロパガンダをしてきた鎌倉新仏教(祖師仏教)が、真実の大乗の菩薩の在り方であったと本当に信じているのでしょうか。自らの立ち位置に疑いを持つことが許されない盲信の輩に、仏教の本質を語る資格があるとは考えられません。南都六宗の研鑽がなければ、鎌倉新仏教(祖師仏教)が芽吹く土壌が醸成される可能性もなかったのではないかと考えられます。
平城京の奈良の都で開花した南都の大乗仏教が、宗派の垣根にこだわることなく、インドや中国で発生した仏教の諸学派の流れに棹ささずに差別せず、一括して仏教の教理論受け入れてを学んだ姿勢は評価に値する研鑽方法であったと考えられます。上座部で研鑽された教理論(たとえば「倶舎論」)であれ、大衆部(大乗仏教)で研鑽された教理論(たとえば「瑜伽行唯識論」)であれ、支持のないものは廃れ、支持されるものが残っていくことは自然の流れであると考えられるからです。
まず、受け入れて研鑽し、普遍性の低い教理論から順次に淘汰されていく自然の流れに委ねることは賢明な態度であったと考えられます。支持されて生き残り、普遍性と存在感をアピールできる教理論が体系化されていくプロセスこそが必要であったと考えられるからです。そもそも釈迦仏教の正統性や正当性は、道理にこそあれ、学派理論を基準とするものではないと考えられます。
南都六宗の日本仏教に与えた影響と功績は絶大であり、計り知れない感謝の念を持つべきだと考えられます。例えば、上座部仏教(テラワーダ仏教)で研鑽された「阿毘達磨倶舎論」(「倶舎論」)は、南都諸大寺の学僧によって研鑽されてきましたが、これが大乗仏教の深耕に多大な貢献をしてきたことはまぎれもない事実であると考えられます。
南都六宗の存在なしに、今日の日本仏教の存在はありえません。南都六宗の仏教の研鑽があればこそ、これを土壌とするたくさんの日本仏教が花開くことができたのではないかと考えられます。体系的な大乗仏教の研鑽を怠ってきた祖師仏教の系譜に連なる者が、上から目線の立場で、南都六宗を批判する姿は見るに堪えないという批判があるのは当然だと考えられます。空海は、南都諸宗と友諠を結んで信頼関係を醸成して共存の道をつくりました。しかし、最澄は、南都諸勢力との共存を否定して抗争を繰り返しました。抗争の決着がつかないままに、最澄の対決姿勢が比叡山に根付いて継承されたことで、今日の日蓮系や念仏系の鎌倉新仏教の信徒の中に根強く刷り込まれ、歴史教科書の記述に無残な痕跡をとどめていると考えられます。 
天台宗

 

「天台宗」は、南岳慧思から法華経の意義を伝授された智が中国・浙江省の東部に位置する天台山の国清寺で思索し、理論と実践の両面から仏教思想を再編し仏教の整理統合を図る目的で考えた独自の五時八教説によって開宗した宗派(中国の天台宗)です。
これを伝承して天台智を高祖と仰ぎ、比叡山を開創した最澄を宗祖とする宗派が日本の天台宗です。
智の法華経解釈の講義内容を門人の章安が筆録整理したものが「天台三大部」です。章安は583年、23歳頃に弟子となり、27歳頃から34歳頃までの聴講を校訂し、69歳で『法華文句』の添削が終わったと述べています。
長い年月の間に章安が推敲した解釈論も混在しているものと考えられます。
章安は智没後、師の著作を整理しながら涅槃経の注釈を完成しています。
「天台三大部」とは、1法華経の奥深い意義を総論する『法華玄義』、2法華経の経文を天台独自の教義で解釈した『法華文句』、3法華経の精神に基づき独自の眼で当時の仏教を俯瞰し、その禅観を止観という名称で体系化した『摩訶止観』をいいます。
これとは別に天台宗には智の撰といわれる「五小部」があります。1『金光明経玄義』2巻、2『金光明経文句』6巻、3『観音玄義』2巻、4『観音義疏』2巻、5『観無量寿経疏』1巻です。観音経や阿弥陀の論書があることに興味が湧きます。
天台智が独自の眼で著した教相判釈を「五時八教論」といいます。これは、あらゆる経典は釈迦の教えであるとする前提で、釈迦の教説の説法期間を5分割し、教えの内容を8種類に区分したものです。五時とは1華厳時、2阿含時、3方等・般若、4法華時、5涅槃時をいいます。衆生の機根(レベル)と教えの内容を評価することによって順位付けするものです。
八教とは、経典の内容を「化法の四教」1蔵教、2通教、3別教、4円教と衆生の教化の方法・仕方を区分する「化儀の四教」5頓教、6漸教、7秘密教、8不定教に区分したものです。化法と化儀の関係性は、病気治療の際の、薬の調合と治療法の関係に譬えられます。
この教判は智が意欲を持って仏教経典の整合性と統合を目指した創意工夫は認められますが、仏教全般を統合できる教相判釈論とはいえません。(後述参照)
天台教学の流れを汲む人が、この教判を振りかざし法華経は最高経典であるとして、南都六宗を見下して様々な法論を仕掛けた事実は多くの問題を含むものであったと考えられます。
天台宗によって、法華経だけが釈迦の真説でその他の経典は仮の教えであるという五時八教説の主張が広く蔓延する流れが発生しました。
この流れの中に、この教判を便利に利用する日蓮が現われ、法華経の教主(本仏)は日蓮という驚愕する主張まで出てきました。いわゆる日蓮本仏論(下種仏法)です。特に、日蓮正宗(興門派または富士派)と元信徒団体であった新興宗教団体の創価学会がこの急先鋒です。
天台の教理は、空・仮・中の三諦円融論を綱格として、一念三千論(下記)、十乗観法、性具説を説くものです。天台の性具説は、凡夫(衆生)が修行によって次第に仏性に救い取られて目覚めさせられて行く(仏性は修行によって自覚される)と考えます。これに対し、華厳宗の「性起説」では、衆生は生来的に仏性が備わっている(如来蔵思想)が、それが信じられず自覚しようとしないので迷うのだ、という違いがあります。この人間観察の違いは、天台宗と華厳宗の立ち位置の違いから現れる相違点の一つであろうと考えられます。
十乗観法は、観察の対象を十境に分類し、観察方法を十乗に分類する方法です。その組み合わせの全体は100種類の観察を行う観法です。その十境とは、1「不可思議境の観察」、2「慈悲の心を発する」、3「巧みに止観に安んじる」、4「法を遍く破る」、5「通と塞とを知る」、6「道品を修行する」、7「対治して門を開くことを助ける」、8「順序だった位を知る」、9「忍耐できるようにする」、I「法に対する愛着をなくす」の10種類とされています。最初の不可思議の法の観察法が特に重要で、その一つが一念三千の観察といわれています。
摩訶止観の正行である「正修止観」でも観察の対象を10境に分類しますが、対象となるものは止観を遮る10種の境です。その境は、1「陰入境界」、2「煩悩境」、3「疾患境」、4「業相境」、5「魔事境」、6「禅定境」、7「諸見境」、8「増上慢境」、9「二乗境」、I「菩提境」です。最初の陰入境界の観想では、「五蘊」、「六境」、「六根」、「六識」という凡夫が持つ清浄ではない一般的な名色を観想します。これは「天台小止観」の「正修の行」に説かれた対象と同じものです。
一念三千論は、天台教学の眼目とされています。この論は龍樹の中論の「因縁所生法、我説即是空、亦名為仮名、亦是中道義」からヒントを得た慧文禅師が南岳慧思禅師に伝え、天台智が『法華経』の「方便品」に書かれてる十如是にヒントを得て工夫した論です。一念とは凡夫の一瞬の心を示します。三千は心の様相の極大化を示します。実践的には自己の瞬間の心(諸法の実相)を観想する統一的な宇宙観を示すものです。
しかし、これは言葉や文章で表現できない悟りの世界を仮説的に、補足的に、法数によって仮に表現したものであると考えられます。その実体は、実在するものではなく「空」であり、仮象でしかありません。一念三千を実体と捉える論理性は否定されなければなりません。
一念三千は、『法華経』の「方便品」にある諸法実相といわれる「如是相。如是性。如是体。如是力。如是作。如是因。如是果。如是報。如是本末究竟等」という十如是(十如実相)と十界論と『大智度論』が説く三世間(五蘊世間、衆生世間、国土世間)から導かれたものですが、十如是は鳩摩羅什・訳の法華経にしか書かれていないところから、鳩摩羅什の意訳であろうと考えられているものです。
人の心の様相を十界(1地獄界、2餓鬼界、3畜生界、4修羅界、5人界、6天界、7声聞乗、8縁覚乗、9菩薩界、I仏界)とみて、十界の境界はそれぞれが相互にまた十界を持つ(十界互具)から百界となり、三種世間(衆生世間、国土世間、五蘊世間)に配すると、その法数は10如是×10界互具(百界)×3世間=3000となります。これは、凡夫の一念には三千のこころの様相(仮象)がみえるという観法です。
一念三千論は、一念という極小から三千という極大(中国には「白髪三千丈」のように三千を極大とみる考え方がある)に変化する統一的な宇宙観の一つと考えられます。自分自身の心の中に仏界という悟りの世界が具足していることを観想するものであり、皆成仏道の理論的な根拠として使われてきました。しかし、この論は理論的な可能性を法数に仮象して語っているだけであり、法華経には十界での各別の具体的な修行方法(実践)が明らかにされていない、という批判があります。なお、十界論は法華経に説かれた論ではなく、その出所は、天台宗の正当性を主張する立場から1269年に南宋の志磐が撰した『仏祖統記』巻50にあります。
「一念三千論」と「一心三観」、『摩訶止観』は、天台宗の禅定(瞑想)内容を構成する論理性の柱といわれるものです。『摩訶止観』は、空・仮・中の三観を順にではなく一挙に瞑想する円頓止観の解説書です。「止」は四種三昧を、「観」は十境十乗観法や一念三千を観想する天台宗独特の瞑想の修行体系を示すものですが、禅定の実践法をどのように整合性をとって完成させたのでしょうか。
摩訶止観の最初に「六即」と「四種三昧」が語られます。六即の出所は摩訶止観にあります。六即は、六段階の階梯を示しますが、理においては衆生と仏が不二であることを示すものです。1「理即」(まだ正法を聞かず徳が無い段階)、2「名字即」(初めて仏法を聞いた段階)、3「観行即」(修行によって心に仏性を感じる段階)、4「相似即」(見思惑・塵沙惑を断じて六根を清浄にした段階)、5「分真即」(42段階の無明惑の最後の元品の無明が残った段階)、6「究竟即」(元本の無明を断じて究竟の悟りを得る段階)とされています。また、四種三昧とは、「常行三昧」(歩きながら般舟三昧経に基づく瞑想を行う)、「常座三昧」(座禅しての瞑想)、「半行半座三昧」(常行と常座の三昧を順に交互に行う)、「非行非座三昧」(特定の時間・形にとらわれず、日常の中で行う瞑想)をいいます。
一つの論が完成形を示すものであっても、複数の論理を集合させて融合を図り、これらを再構成しようとすれば、現実の実践(禅定・瞑想)では必ずしも完成形を容易に獲得できるものではないと考えられます。特に、摩訶止観は第七章の「正修止観」の第7境までの記述しかないので、部分的な実践にとどまる可能性があると考えられます。この瞑想法は、超時間的・空間的、かつ超合理的な論理に基づいて行われる観法と考えられますが、瞑想すべき内容の風景が目まぐるしく急速回転する(?)ことから、集中力を保ちにくい相当に煩雑な観法と考えられます。よほどの訓練を積み重ねた僧か、極めて高い集中力に恵まれたごく少数の練達の僧でなければ満行できないのではないかと考えられるのです。
天台の瞑想観法は「天台小止観」が行われていますが、洗練された空海の曼荼羅思想に基ずく真言密教の瞑想法とは全く違うものであり、台密には密教瞑想法が導入されていないと考えられます。台密と東密は、共に中期密教(純密)思想に準拠する思想を持っています。中期密教は、宇宙の本源を法身の大日如来とみる思想によって成り立っています。ゆえに、大日如来の法界は宇宙そのものであり、すべての世界観を包摂する多様性と包容性をもつ曼荼羅(密教の法界)思想を形成しています。密教にはこの思想に基ずく独特の瞑想法(月輪観、阿字観、五相成身観など)がありますが、何故に、円仁と円珍は密教の瞑想法を比叡山に着床させることができなかったのでしょうか。それとも、不滅の釈迦如来(法華経の教主)=大日如来とする円密一致説のプライドが比叡山を「摩訶止観」で覆い尽くすことを望んだのであろうか。密教の宇宙観をあらわす瞑想法が比叡山に着床できなかった理由は、円密の相克にあったのではないかと考えられるのです。
天台の観法は、中国式観法の特徴を随所にもつ複雑な瞑想(禅定)法ですが、完成された観法と考えられているのでしょうか。天台の観法の完成形は、如何なる境地の獲得を目指すものでしょうか。最澄が中国・天台山から比叡山・延暦寺に移植した天台観法は、後世の法灯を継ぐ弟子の智慧をもってしても絶対に換えられないまでに神聖視され、手が付けられないまでの完成形を示し、特別に美化された観法なのでしょうか。不思議です。
「方便品」が示した諸法の実相とは、諸法を十如是によって仮象したものと考えられますが、なぜ変化の諸相を十の段階に区分したのかは不明です。十如是の観念は、鳩摩羅什が訳出した法華経以外にはないものであるところから、この十如是は鳩摩羅什が創出した意訳であろうと考えられます。
諸法実相は、実在論として捉えるのではなく、一心三観(一切の実体には存在が無い「空」、それらは「仮」に現象しているだけで、この二つは本来一つのもの「中観」である)という中観論として捉えるべきものだと考えられます。「一念三千論」は、人の心の様相(一念)が縁起によって千差万別の様相に変化することを法数で仮象したものですが、縁起によってさまざまな変化と様相を示す心は空であり実相ではありません。
これを日蓮が『諸法実相抄』に「実相は必ず諸法、諸法は必ず十如、十如は必ず十界、十界は必ず身土」、「されば釈迦・多宝の二仏と云ふも用の仏なり。妙法蓮華経こそ本仏にて御座し候え。」、「本仏といふは凡夫なり、迹仏というは仏なり」「実相と云ふは妙法蓮華経の異名なり。諸法は妙法蓮華経と云ふ事なり。」と書いたことを受けて、諸法実相を「諸法の実相」と捉え、これを空観ではなく実在論であると捉える宗派がありますが、大乗仏教の教理では、諸法の実相は仮象でしかなくこれを「空」と考えています。
心の本質は空性と見ることが大乗仏教の中観論、唯識論の論理性であるところから、一念三千を法数で説明する心の実相(?)は縁起によって変化する空性と考えられます。空の本質をこのような法数を使ってわざわざ説明する意図は一体なんであったのでしょうか。『法華経』には語られていない即身成仏の根拠の出所にしたかったのではないかと考えられるのです。
ちなみに、十界互具の考え方は、地獄界の心にも仏界があり、仏界にも地獄の心があるとする「性悪思想」を内包するものですが、仏は性悪を断じていないが、悪というものを理解して自在であるので悪に染まることはない、衆生を化導していくための根拠として性悪を説明しているのである、としています。
この一念三千論は、人の心だけでなく、あらゆるもの(瓦礫に至るまでのすべてのものに)に仏性を認める根拠とする中国・天台宗の論拠として使われてきました。『摩訶止観』巻五上には、(一念三千の法数の考え方を説明した後に)「この三千は一念の心にあり。若し心無くんば已みなん。介爾も心有れば即ち三千を具す」とあり、一念には三千の諸法が具備(この用語には実在論が感じられる)されていると述べていることから、一念に仏性あり、とみる哲学的な見解を主張したかったのであろうと考えられます。
智は、この一念三千を摩訶止観巻五で1回言及しただけであり、この論を智が積極的に宣揚し展開した教理であったとは考えられませんが、中国・天台宗第6祖の湛然(妙楽大師)は、『摩訶止観輔行弘決』巻五で、これを究極の極説と解釈して、指南とするように力説し、宣揚したことから、一念に大きな哲学的意味が与えられることになります。
天台の一念三千論は、日蓮が『開目抄』に「一念三千の極理を法華経の本門寿量品文に秘し沈めたり」と述べたことから、日蓮を末法の本仏とする「文底下種の法門」が日蓮門下の宗派に発生しました。一念三千の教理は、天台宗よりも日蓮門下の宗派で多用され、日蓮本仏論が芽吹いています。特に創価学会がこれを仏教の極理として会員を洗脳し、インターネット情報を使って大量に書き込んでいますが、伝統の学僧の指導を受けない特異な教義解釈によって、我田引水のプロパガンダに利用していると考えられます。天台宗は、この教理を日蓮宗徒に好き勝手に使われていると考えられます。祖師仏教の母山の自覚をもって、何らかの適切な措置が必要ではないかと考えられます。
中国では、天台教学は華厳教学と共に中国二大思想として展開しました。
天台教学は一時廃れますが、六祖の湛然が天台三大部の注釈を完成し、瓦礫にまで仏性を認める非情仏性説を認めて、華厳宗や法相宗に対抗しました。
806年、天台宗は止観業(法華経)と遮那業(密教)各1名、二人の年分度者(公認僧)を勅許されました。比叡山は止観業と遮那業を学僧の教育制度としました。
円仁は密教の外に、中国五台山の念仏を比叡山に伝えましたが、これは源信などの手によって比叡山の浄土思想として学ばれました。
源信は、『往生要集』を著して比叡山に念仏の大きな流れを形成しましたが、この流れの延長線上に、後年の法然(浄土宗)や親鸞(浄土真宗)が花開きその立宗に大きな影響力を与えました。
比叡山には、最澄以来、法華、密教、禅、浄土思想の兼学の流れがありました。
僧の興味によってどの方向を専門にするのか違っていましたが、自分の流れがもっとも正しい方向だと考えることは自然の流れです。
このような比叡山の兼学の精神は、やがて栄西(臨済禅)、道元(曹洞禅)、法然(浄土宗)、親鸞(浄土真宗)、日蓮(法華宗⇒日蓮宗)などの鎌倉新仏教の祖師を生むことになります。
栄西や道元は比叡山の僧の間で頭角を現した存在でしたが、日蓮はそうではなく比叡山での知名度は低く、立宗宣言後の鎌倉方面での先鋭的、且つ独善的な国家諌暁の活動や数度の流罪などにより知られる存在になりました。
比叡山では日蓮の評価は高くありませんでしたが、明治以降の日蓮系の熱心な日蓮信者や新興宗教団体の布教活動によって、その業績を鎌倉時代にまで遡り顕彰される存在となった特徴があります。
比叡山から出たこれらの新興宗教が、比叡山から自立して独り歩きをすることになりますが、これによって伝統的な仏教思想と学問の整合性や統一性が著しく損なわれることになります。
比叡山から発生した新興宗教は、思想的にも学問的にも統一性に欠け整合性を失っていました。比叡山の風評によって育てられた末法思想に悩みぬいた祖師たちが、それぞれに拠り所とする思想を求めながら独自の教団を形成していったのです。
天台宗の中興の祖といわれる18世座主良源(元三大師)没後、円仁(第三代座主)派と円珍(第五代座主・天台寺門宗宗祖、空海の妹又は姪の子といわれる)派は密教の考え方の相違により対立抗争を繰り返していましたが、993年、円仁派の僧徒が円珍派の房舎を襲撃して打ち壊す事件が発生したことにより両者の対立は決定的となります。
円珍系は比叡山を下山して園城寺(三井寺)に入り寺門派(現在の天台寺門宗、本尊:弥勒菩薩)を形成しました。この分裂により比叡山は山門派(現在の天台宗、本尊:薬師如来)といわれました。
この他にも比叡山には室町時代に分派した現在の「天台真盛宗」(総本山:西教寺、本尊:阿弥陀如来)があります。延暦寺や園城寺が密教色が濃いのに対し、西教寺は浄土教的色彩が濃い天台念仏と戒律の道場として特徴があります。
しかし、天台念仏という名称は天台が法華経の道場に冠せられた象徴的存在と見る立場の人には違和感を感じさせる名称だと考えられています。
天台という名称自体が法華経という意味内容を持っていると考える立場では、法華思想が中心でなければ天台とはいえないことは自明の理だからです。
智や最澄がこだわった天台の名称を念仏を修飾する冠として使うことは妥当なことではなく、天台をブランド名のごとく抱え込み、比叡山の中で生まれた念仏だからといって天台を冠するのはいかがなものかと考えられます。智や最澄の意思に反することは明白です。
浄土宗や浄土真宗、日蓮宗のように独自性(実際には天台を名乗れなかった)を主張する方がすっきりすると考えられます。
西教寺が浄土色を濃くしたのは1486年に入寺した中興の祖・真盛の思想の影響です。
この宗風を「戒称二門」(戒律と称名念仏)、「円戒念仏」(完全に速く成仏する念仏)と称しています
これは、法然の専修念仏や親鸞の悪人正機説とは全く異なる念仏と云われていますが、一体何が異なるのでしょうか。
天台念仏が浄土宗や浄土真宗の他力本願を否定し、自力の菩提心の上に称名念仏立てるものであれば、全く異なる教理だと認められます。
1571年、織田信長の全山焼き打ちによって、延暦寺、園城寺、西教寺とこれらの守護社「日吉大社」の歴史と伝統のある伽藍や数々の仏教遺産のほとんどが完全に破壊され焼失しました。
しかし、それぞれが豊臣秀吉、明智光秀、徳川家康などの武将によって再建を許され、復興を果たしています。
信長が比叡山を全山焼き打ちに処断したのは、次のような理由と考えられています。
1 多数の僧兵を抱え込み戦国大名に匹敵する政治的な武力集団であったこと。
僧兵が粗暴な振る舞いや騒擾などで朝廷や社会の人々に多大な迷惑をかけて来たこと。など
2 政治的中立の立場を取らず、露骨に信長の敵対勢力に味方したこと
浅井・朝倉の軍勢を比叡山に匿い、武田信玄、一向宗と組み、信長の包囲網を形成したこと。など
3 比叡山の堕落が著しく許容範囲を逸脱したと見られたこと。
法灯を世の為人の為に役立てず、財を蓄え、妻妾を蓄えたこと。
しかも、これらを神聖な修行道場であるべき比叡山に住まわせたこと。
比叡山に赤子の泣き声や子供の嬌声が響き渡り、僧の戒律がなくなったと見られたこと。など
天海は徳川家の為に、中世天台の伝統的神道を再編して山王一実神道を作り上げ、家康を東照大権現に祭り上げて東照宮祭祀を興し、徳川家の絶大な信頼を得ました。
徳川将軍家の肝いりで比叡山の復興に指揮を取った天海の指導のもとで1625年、総本山の地位を上野の東叡山寛永寺・日光輪王寺(宮門跡寺院)に譲り、徳川政権に奉仕する存在となりました。
明治政府の寺領没収により勢力を失いましたが、1870年、比叡山が総本山の地位を再び手に入れました。
戦後20ほどの認証団体に分離しましたが、東京・浅草の浅草寺も「聖観音宗」の総本山として独立しています。
比叡山の特徴は、開創以来、権門勢家の庇護によって教勢を維持してきた教団であるため、歴史的に信徒の獲得の熱意が弱く、教団を経済的に支える信徒組織が驚くほど弱体なことです。 
真言宗

 

「真言宗」は弘法大師・空海を開祖とする密教の宗派です。
密教は顕教に対する言葉です。時間、空間を超越した絶対的な真理(悟り)、宇宙の構成要素そのものを本体とする宇宙の根源仏・大日如来の秘密の教えで、インド大乗仏教の到達点に花開いた仏教の最終形を示す秘教です。
顕教では歴史上実在した応身仏(釈迦如来)、または、修行を積んだ報いによって如来となった報身仏(阿弥陀如来、薬師如来など)を教主としますが、密教の教主は、宇宙の根源仏である法身の大日如来(華厳経の教主・毘盧遮那仏と同一の仏)です。
密教は、インド大乗仏教の最終段階に登場し、8世紀に完成した大乗仏教の到達点です。これを中期密教といい、大日経系(胎蔵界曼荼羅)と金剛頂系(金剛界曼荼羅)の法流の双方の正当な伝法者である中国・長安(西安)の青龍寺の恵果阿闍梨から伝法を受けた空海によって日本にもたらされた宗派が真言宗です。中国に真言宗という宗派はなく、真言宗は空海が命名した名称です。
真言宗の特徴は従来の仏教がそうであったように中国仏教の直輸入ではなく、これをベースにする空海の思索によって大乗仏教の教えが整理統合され、密教の事相(実践論)と教相(教理論)が再構築されたものでした。これにより、日本密教の骨格が明確になりました。
空海は『弁顕密二教論』を著し、悟りの世界は言葉では説明できず(果分不可説)、成仏には極めて長い時間を要する(三劫成仏)、と説く顕教を浅略趣の教え(病の原因・病理を説くだけで疾病を取り除く実効がない)である、といっています。密教は悟りの世界を真言によって現わすことができ(果分可説)、この身このままで成仏できる(即身成仏)秘密趣の教え(病状に合わせた薬を調合して服薬させ疾病を消除する)であるといいます。
また、教相判釈の『秘密曼荼羅十住心論』(十住心論)、『秘蔵宝鑰』では、人間の心の状態を十の発展段階に分類して、第十住心段階の秘密荘厳心が真言密教の究極の境地とし、第九住心に華厳宗、第八住心に天台宗、第七住心に三論宗、第六住心に法相宗、第五住心に縁覚乗、第四住心に声聞乗、第三住心に天乗、第二住心に人乗、第一住心に一向行悪を位置付けました。これを「九顕一密」といいます。
あらゆる宗教を包摂し統合する(九顕十密)悟りの世界は、大日如来を中心に諸仏・諸菩薩が調和して存在、その世界を可視的に図示したものが両部の曼荼羅である、といいます
密教では心に曼荼羅の諸尊を観念し、口にその真言を唱え、手に諸尊の印契を結ぶ三密瑜伽の修行をすることにより、本尊と一体になり(入我我入)即身成仏することを目指すのです。
9世紀後半からは真言教団にも停滞と保守的な様相が現われ始めました。台密、東密共に学匠の求道心や学究的な探究の精神が次第に忘れ去られていった時代を迎えました。
僧侶の関心が、天皇や皇族、貴族の世俗的な願望に応えるために、より効果的に密教の修法を執行することに集中するようになりました。もっぱら利己的な呪法が重要視され始めたのです。
その結果、皇族、貴族の援助のもとで、莫大な荘園が寄贈され、各地の寺院の経済的な基盤が整いました。こうして真言教団は、祖師の思想を更に発展させることができず停滞し堕落していったのです。
半世紀の沈滞期から脱して隆盛に向かう契機は、宇多上皇が仁和寺での出家得度をして伝法灌頂による阿闍梨位に就任したことにありました。上皇は「寛平法皇」として仁和寺に円堂院・御室を設け、政務を監督して、阿闍梨の修法に努めました。東密教団の復興は天皇・皇族の援助により成し遂げられたのです。
9世紀の半ばに、事相(実践論:密教儀礼など)の研鑽の中で聖宝の法系の「小野流」(随心院)と寛平(宇多天皇)法王の法系の「広沢流」の野沢二流が分立し、十二流、三十六流と多岐に分流しました。
この流れは各地の大寺院に継承されていますが、この分流は教相(教義)の違いからくる分裂ではありません。
12世紀に真言宗・中興の祖といわれる覚鑁が登場し、高野山の改革を目指しました。覚鑁は『密厳院発露懺悔文』を著して僧侶の行住坐臥の戒めとしています。
この文をみれば、当時、覚鑁が僧に「何が欠け」「何が必要」と考えたのかが一目瞭然です。僧侶の「あるべき姿」が具体的に述べられています。今日に於いても、いささかも色あせない指南書といえるのではないかと考えます。
覚鑁(興教大師)は真言宗中興の祖といわれ学識・見識の優れた高僧でした。
平安時代の後期になると念仏思想が朝廷や貴族、権門勢家に広く受け入れられて、臨終の間際に阿弥陀如来に救われて極楽浄土に往生することを念願する風潮が蔓延しました。
このような世相を背景に仏教界でも浄土思想は大きな影響を与えるようになりました。
覚鑁は、大日如来の真言密教に阿弥陀如来の浄土思想を包摂して密厳浄土思想を展開しました。大日如来を普門総徳の本仏とし、阿弥陀如来を別徳の仏とする両部曼荼羅の世界観によるものです。
実は、高野山にも比叡山と同様に、浄土思想の取り扱いで多少の紛糾がありました。称名念仏が全山に響き渡る勢いを示したのです。称名念仏をどの様に扱うかが大問題となったのです。主流を形成する反対勢力の圧力も日増しに強くなり摩擦が随所で発生することになります。
覚鑁は早い時期から才能を発揮し空海以来の秀才と見られました。13才で仁和寺に入り皇室出身の寛助僧正に師事して密教を学び、14才で興福寺で唯識・倶舎を学び、続いて東大寺で華厳・三論を学び、16才で仁和寺に戻り寛助僧正から得度を受けました。20才で念願の高野山の修行に入り、35才で真言密教の伝法の為の種々の灌頂を悉く伝授されています。
覚鑁は高野山の腐敗と衰退を嘆きその立て直しを固く決意ました。やがて、鳥羽上皇の信任を得て庇護を受けると勅許により高野山に伝法院と密厳院を創建しました。40才で高野山金剛峯寺の座主(管長)に任じられ、高野山の復興を目的とする改革に着手しました。
しかし、性急な改革は本寺方(主流派)の同意を得られませんでした。若くして鳥羽上皇の信任を得、高野山座主となって思いどおりに改革を断行しようとする覚鑁の姿勢が多くの本寺方の抵抗と反抗を生んでしまったのです。僧侶でも道理によらず嫉妬に狂う瞬間があります。座主に反抗する決意は生半可なものではありません。決死の覚悟があったものと考えられます。
1140年、覚鑁は命の危険にさらされて、改革の道半ばで本寺方の度重なる武力の実力行使を受けて下山のなむなきに至りました。この時、覚鑁に随身して下山した学徒・僧徒は700人余でした。
この頃、高野山でも、周囲の騒乱から自らの権益を守るために多数の僧兵を抱えていました。僧兵は、戦国期の動乱の中で武士の荘園の横領や武力による脅しに対抗する自衛手段として「行人」の僧兵化がすすめられたものです。行人は、学侶の研究や修法、法要の執行など雑役に従事する下級職として古くから存在しましたが、次第に経済面を支配して勢力を増大し、戦国期には軍事権を掌握して他領の略奪にまで手を伸ばす実力を持っていました。
僧兵は正式な修行をした僧侶ではありません。殺伐とした雰囲気を漂わしている不穏な存在です。何か事あれば過剰に反応し騒ぎ立てることで存在をアピールする不逞な輩同然な者が多数たむろしていたことは事実です。僧の煽動を受け、この時とばかりに騒ぎ立てる者が後を絶ちませんでした。騒動が治まらないのは自然の流れでした。
覚鑁は、紀州・根来山に退去して堂宇を建て僧の指導・育成に専念しましたが、本寺方の様々な弾圧が引き続き治まる気配のない悲運の中で、覚鑁は志半ばの47才で遷化しました。
その後、和議が成立して大伝法院は高野山に再興されましたが、金剛峯寺と大伝法院の新旧思想の反目が収まらず、1288年、大伝法院の学頭・頼瑜の手により大伝法院と密厳院を根来寺に移しました。古義真言宗と新義真言宗の分立の最初といわれる出来事です。
古義と新義の違いは、教相の仏身論において、古義は「本地身説」(自性説学派)をたて、新義は「加持身説」(加持説学派)をたてることです。
大日如来は宇宙の真理の法そのもので、本来的には姿・形はありません。しかし密教では法身にも色があり、形もあり、説法もあると見る特徴があります。大日如来の「その体は六大、その相は四曼、その用は三密」(後述参照)の自性法身と見るのです。両説の違いは、大日如来の説法をどのように見るかという問題です。
この問題の起こる直接的な原因は『大日経』の教主に対する善無為の解釈の相違からでした。善無為は一面では本地身とみ、一面では加持身と解するように見えることに起因するものです。
新義の説の代表者は根来山の頼瑜(1307-1392)、古義の説の代表者は高野山の宥快(1345-1416)と見られています。
なお、新義には密教と念仏を融合して真言念仏(秘密念仏思想)の基礎を作るという新機軸が継承されています。
根来寺は、1585年、豊臣秀吉の軍勢の攻撃を受け壊滅状態になりました。根来寺には、戦国時代の鉄砲集団「雑賀衆」が所属していました。雑賀衆は鉄砲を製造・販売するばかりでなく、その鉄砲技能と卓越した戦闘力で各地の合戦に傭兵として参加し、大阪・本願寺の攻防で多大な実績を示したこと、また、信長を狙撃したことで織田・豊臣政権の標的になったのです。雑賀衆の棟梁は雑賀孫一です。
根来寺は、豊臣政権が崩壊した後、徳川家康に復興を許され、その助力を得て復興を果たしました。この根来寺の系流から新義真言宗の豊山派と智山派がでてきています。
ここで、力不足ですが「弘法大師空海の思想の特色」について、その若干の概要を紹介します。
空海は、密教を説明するために、『弁顕密二経論』と『秘蔵宝鑰』を著わし、真言密教の教相判釈の十住心論によって、顕教と密教には教えの浅深があることを論述しています。この二書は、天皇の詔勅によって真言宗の宗論として提出されたものですが、その趣旨は「一切衆生の迷妄を驚愕し、実の如く自身の本仏を開見させる」ことにあったと考えられています。
空海の密教は、「即身成仏」を説く宗教といわれています。その思想的な体系は、三部書といわれる『即身成仏義』『声字実相義』『吽字義』によって教理的な基盤が構築されています。真言密教は、中国で完成されたものではなく、空海の「智」と「実践」の深い思索によって再構築して完成された独自性のある空海密教の思想体系を示すものです。
空海の「智」と「実践」については、次のように考えられます。「智」は空海が「両部の大経」の深い思索と、『菩提心論』、『大乗起信論』及びその注釈書の『釈摩訶衍論』からヒントを受けて、密教の教理を統一的に再構築して真言密教の体系化を図ったことにあります。中国密教は統一的な密教観ではありませんでした。インドから中国に別々に胎蔵界と金剛界が伝わったことから、それぞれ別個の流れを形成して伝授され、統一的な密教観が完成していませんでした。空海の密教(真言密教)の特色は、空海の叡智が随所に生かされ、大乗仏教の精神を見事に包摂していることにありますが、れを金胎不二(両部不二)といっています。
また、「実践」については、『秘蔵宝鑰』が「菩薩の用心は、みな慈悲を持って本(もとい)とし、利他をもって先とす。よくこの心に住して浅執(せんしゅう)を破し深教に入るるは利益もっとも広し」と的確な表現を述べています。この主意は、菩薩は慈悲を根本にして他者の幸せ(利益)を優先すること、自分の浅い囚われの心を破り深い教えに入るならば最も広い幸せが得られる、という精神です。空海は、悟りとは衆生救済の実践である、と考えているのです。
真言密教は、菩提心(悟りの智慧)を本として、慈悲を土台にし、智慧の実現(利他の実践)を目的とする実践の原理を示しています。仏智とは、衆生救済の実践である、この衆生救済の実践こそが空海の一貫した真言密教の理念なのです。
真言密教の特質は、1説主(大日如来)、2教説(法身説法)、3実践の可能性(菩提心・三昧耶)、4実践の超時空性(三密瑜伽)、5利益、に示されています。「菩提心」、「三昧耶」、「三密瑜伽」は、真言密教の根本思想を示す特徴的な概念です。その眼目というべき菩提心は梵字のbodhi-cittaの音写で「阿耨多羅三藐三菩提」という最上の仏の悟りを求める心をいいます。三昧耶は梵字のsamayaの音写で仏と衆生が本来的に平等であることをいいます。これは、一切衆生を救い尽くす仏の本誓を意味する言葉と考えられるものです。
「三密瑜伽」は、密教の教えの持つ包括性と寛容な価値観を持つ概念です。空海の教理の中核は「六大・四曼・三密」に要約されますが、空海は即身成仏の論を『即身成仏義』と二経一論八個の証文(『金剛頂経』四文、『大日経』二文、『菩提心論』二文)を引くことによって説明し、「二頌八句の偈」によって「即身」と「成仏」の内容を説明しています。
「六大無碍にして常に瑜伽なり、四種曼荼各々離れず、三密加持して速疾に顕る、重重帝網なるを即身と名づく。法然に薩般若を具足して、心数心王刹塵に過ぎたり、各々五智無際智を具す、円鏡力の故に実覚智なり。」この短い二頌八句の偈頌が語る「六大無碍」(体)、「四曼荼羅」(相)、「三密加持」(用)は真言密教の教理の中核を示唆するものと考えられています。
「六大無碍にして常に瑜伽なり」は、即身の本体(体性、存在性)を示すものです。「四種曼荼各々離れず」は、即身の存在相を表すものです。「三密加持して速疾に顕る」は、即身のはたらき(用)を示し、「重重帝網なるを即身と名づく」は、即身の本源的なあり方(無碍)を示すものです。「法然に薩般若を具足して」は、一切衆生の本体(法仏)に具わっている成仏の可能性を示し、「心数(心王に伴って従属的に働く心作用)心王(心の働きの基本となる識)刹塵に過ぎたり」は、無数の智の存在者を表します。「各々五智無際智を具す」は、すべての仏が完全なる知恵を完備していることを表わしています。また、「円鏡力の故に実覚智なり」は、成仏の理由を示すものであると考えられています。要約的には、即身すなわち存在者の本源的なあり方とは、一つの全体的秩序(曼荼羅の世界)の中で互いに関係しあって不離(「即」)の関係性をもって存在していることを明かすものであろうと考えられます。
インドに発生した仏教では、宇宙の本体は宇宙を構成する5つの要素であると考えました。この思想では、宇宙は色(地・水・火・風・空=物質)と心(識=精神)が渾然一体となった実相(瑜伽)であると考えるのです。この6つの構成要素(六大)は、さえぎるものがなく(無碍)、永遠に融け合って結びつき、万物を構成する本質的な要素であると考えられるものです。
宇宙も大日如来も私たち人間もこの六大が深く密接に結びついたもの(瑜伽)であり、瑜伽の中であらゆる生命体が生かされ、それが集まって世界が構成されているという考え方です。空海は、大日如如来の慈悲と智慧がこの世界を包み込んでいると考え、六大の活動的な事実を持って宇宙の実在、万物の実在と考えたのです。
宇宙を構成する六大は、眼で見ることができなくとも実在するものです。四種の曼荼羅は、宇宙の相をその働きによって可視化したものであり、六大を捉える手段としての役割を持つものです。四種曼荼羅曼の1「大曼荼羅(形の相)」とは、宇宙が大日如来の形となって現われる全体を表すもので、一つ一つの仏菩薩の姿・形を具えた身体をいいます。2「三昧耶曼荼羅(姿・形の奥にある意味や働きの相)」とは、さまざまな諸尊が所持している法具(刀剣・輪宝・金剛杵・蓮華など)を目印とするもので、仏の持ち物によって仏の本誓を象徴的に表わすものです。3「法曼荼羅(音声の相)」とは、仏菩薩など智慧を秘密のことばである真言で象徴し、梵字(これを「種字」といい「種字曼荼羅」とも云う)で表わしたもので仏の智慧の印です。4「羯磨曼荼羅(宇宙の活動の相)」とは、さまざまな仏の活動を立体的に表現するものです。また、供養や威儀を表す場合には「立体マンダラ」ともいいます。立体マンダラには、瞑想で虚空に観想したもの(自性マンダラ)や実際に人の目に見えるように木・粘土・金属で表現したもの(羯磨マンダラ)があります。
宇宙は絶え間なく変化する働きに満ちています。人はこの四曼を心に念じることにより宇宙を観想し捉えることが可能になります。空海はこの変化を捉える手段として「三密」を主張したのです。三密とは、1「身密」(印を結ぶこと=手の形によって宇宙の活動を表す)、2「口密(真言を唱えること=言葉の持つ力を表す)、3「意密(瞑想すること=宇宙の調和と秩序を図る為の働き)」をいいます。宇宙の絶え間なく変化する働きや現象を三密という行為によって把握したのです。人は、真言を唱えることで宇宙のエネルギーを発し、大日如来と一体となって不思議な力を身につけることができる、と空海は考えたのです。
仏と私たちの身体、言葉、心の働きが不思議な働きによって感応するとき、速やかに悟りの世界という質的な変化が現れると考えられます。あたかも帝釈天が持つ天網のように幾重にも重なり合いながら、映じ合うことを名づけて即身といいます。あらゆるものは、あるがままに、計り知れない多くの仏の姿をしていて、一切の智慧を備えています。すべての人々には、各々に「心の作用」や「心の主体」が備わって数限りなく存在しています。心の作用、心の主体のそれぞれに五智如来(「金剛界の五仏=1大日如来・2阿閦如来・3宝生如来・4阿弥陀如来・5不空成就(釈迦如来)」)の智慧と際限のない智慧(五智=無際智=大日如来の智)が備わり何一つ欠けるものが無いと考えるのです。これらの智慧を持って、すべてを映し出す鏡のように照らすとき、真理に目覚めた智者となると捉え、そのポイントは三密加持(三密瑜伽)であると空海は考えたのです。
716年、中インドから入唐した善無畏が、『大日経』(『大毘盧遮那成仏神変加持経』の釈論を中国・洛陽に於いて著しました。また、720年には、インドから渡来した金剛智が『金剛頂経』を長安にもたらしました。この二大経典は、真言密教が「両部の大経」とする根本経典ですが、ここから空海は独自性のある思索によって真言密教の即身成仏の理論体系を整えました。この両教は、インドから別々の密教の流れとして中国にもたらされたものですが、西安の青龍寺の恵果和尚から空海が伝法の灌頂を受けて統一的な密教観を構築したのです。
真言密教の修行の中核は『大日経』の三句の法門(菩提心を因とし、大悲を根とし、方便を究竟とす)にあるとされます。「入真言門住心品第一」には、金剛薩埵の「仏の智慧とは何か」という問いに対し、大日如来が「菩提心為因、大悲為根、方便為究竟」と答えた内容です。 
菩提心とは「白淨信心(白く清らかで信じて疑わない心)」といい、仏性・如来蔵とい言います。大悲とは、一切の苦を抜く無量の楽を施す「抜苦与楽」です。方便は他を利益する働きをいい、具体的には六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)や四摂法(布施・愛語・利行・同事)などを指すものです。この三句の法門を理解する前提となるものが密教の一つの核心ともいえる「如実知自心」(実の如く自身を知る)です。
如実知自心は「ありのままに悉く自らの心を知ること」をいいますが、これを正しく知ることが密教の修行目的です。密教の修行は「三密加持」によって示され、阿耨多羅三藐三菩提(この上ない正しい完全な悟り、無上正等覚ともいう)を目指すものです。三句の法門を端的に表現すれば、第一に「悟りを求める心(発心の句)」を出発点として、第二に、そのためには「優しい思いやりの心を養うこと(修行の句)」を根本にし、第三に、最終的には工夫をして「世のため、人のために尽くす(証果の句)」ことが求められるのです。
「方便」とは釈迦が示した実際的な救済方法の中核となる概念です。釈迦は、救いを求めてくる人の理解力や苦悩の現実性に即した救済をこころがけましたが、救済には存在するものの本質を見抜く知恵を持ち、ものごとの特性を見分けて対応する方便が必要と考えたといわれています。
「三密加持」とは、手に仏の本誓を示す印契を結び、口に仏の教えである真言を唱え、心を静め清めて仏の悟りの境地に入るように努めることをいいます。「三密」とは身密、口密、意密ですが、身体と言葉と心の三種の働きをいいます。密教の大日如来には色も形も活動もあり、あらゆる場所で、あらゆるときに説法し続けていると考えます。これが密教と顕教との違いです。大日如来の説法は、無目的で効果を期待する説法ではないとされています。故に、この説法を把握して自らの宗教体験に生かす法の受け取り手(金剛薩埵)が必要です。次にその体験を伝えて現実社会の中に具体的に示して人々に役立てうる付法の阿闍梨の出現が必要です。「加持」とは、加は仏の大悲の力、持は衆生の信心の力をいいます。「衆生の信心の力」と「仏の大悲の力」とが結合して法界(大宇宙)に働きかける力となり祈りが成就すると考えられたのです。
顕教には加持という考え方はありません。思うままの結果が得られる精神の集中は簡単ではありません。そこで、「数息観」で姿勢と呼吸を整え、「月輪観」「阿字観」などの意識をコントロールする瞑想法や「五相成身観」など大日如来と入我我入(双方向の一体化)する瞑想の訓練をする必要があるのです。
釈迦仏教では、凡夫の意識や行為・経験は「身・口・意の三業」と考えられました。しかし、密教では、その本性から見れば、凡夫の三業も仏の三密と異なるものではないと考えます。そこで、法身仏(大日如来)の三密と加持感応すれば凡夫の三業が浄化されて、三業がそのまま三密となり、仏と我とが入我我入して即身成仏すると考えたのです。これを「三密加持の妙行」といいます。
密教経典の特徴は、顕教のような「教え」だけでなく、「成仏に至る修行方法」が具体的に語られていることにあります。 弘法大師空海の真言身教の教理論は『大日経』と『金剛頂経』に立脚するものですが、空海は、真言密教を理解するために学ぶべき論書として、『菩提心論』と『大乗起信論』の注釈『釈摩訶衍論』を挙げています。
大乗経典の『華厳経』に説かれる菩薩道の修行体系は、波羅蜜行を実践の根幹にするものですが、空海は三密加持の「真言門による菩薩行」を説き、三摩地の菩提心を説いています。その理論的な基盤は両部の大経にあります。
7世紀以降、インドでは、菩提と心に関する理論と実践法が菩提心の観念に集約されていきましたが、『大日経』の「住心品」にその影響が顕著に表れています。空海の「十住心思想」は『大日経』と『金剛頂経』からだけでは理論体系が形成されえず、住心の諸相の描出に淵源を置きながら、『菩提心論』と『大乗起信論』及びその注釈『釈摩訶衍論』などからヒントを受けて総合的に体系化したものと考えられています。
法身説法の神変加持の理論的な原理は「極無自性」であり、『菩提心論』でいう「陳旨の無自性」です。空海の解釈では「不守自性真如隨縁」の慈悲の顕現の理論にありますが、「三摩地の菩提心」あるいは「秘密荘厳の心」は、「成仏神変加持」の理論によるものと考えられます。
この「成仏神変加持」とは、『華厳経』「如来性起品」にみられるものですが、如来の威神力を被って普賢菩薩が語る如来出現の秘密を、毘慮遮那如来のもとで秘密主金剛主が聞いた如来性起の密教的実践法の秘密を説くものです。空海は、密教は大乗仏教の哲学的論理性を受け継ぎ、その到達点を示す頂点にある、と考えています。
1600年には奈良・長谷寺には豊山派(開祖:専誉)が、1605年には京都・智積院には智山派(開祖:玄宥)が相次いで結成され次第に隆盛に向かいました。
新義真言宗は智山派(京都・智積院)、豊山派(奈良・長谷寺)、新義派(和歌山・根来寺)の三派で、他は古義派です。
智山派の大本山には成田山新勝寺、川崎大師、高尾・薬王院があります。豊山派の大本山には護国寺があります。
古義派の本山は、高野山・金剛峯寺、京都・東寺、京都・醍醐寺、京都・仁和寺、京都・大覚寺、京都・勧修寺、京都・泉涌寺(天皇家の菩提寺)、香川・善通寺、奈良・西大寺(真言律宗)などの分派があります。
昭和18年に18本山による真言宗各派総大本山会(真言宗各山会)が設立され、意思の疎通と親睦が図られています。
真言宗各山会は輪番制で旧朝廷の儀礼「御修法(後七日御修法)」の執行をするなどの事業を協同で運営し結束しています。 
空海と最澄 / その履歴

 

平安仏教、もとい、日本仏教を語る場合には、仏教の巨星、泰斗でもある秀才「最澄」と天才「空海」を語らなければなりません。絵に描いたような秀才肌で実直、真面目な学者型の最澄と天才肌で現実的、外交型の空海、この二人が同時期あらわれたことで、日本の大乗仏教に大きな質的変化を請来させました。この両人が結果的に、競いあう運命を持ってしまったことは、いったい如何なる因縁生起によるものでしょうか。それとも、両人の際立った性格の相違によるものだったのでしょうか。
両人は渡来系氏族の家系にある人物です。しかし、弥生時代の渡来人は中国系であろうと朝鮮半島経由であろうと、中央アジア系や西アジア系であろうと、直接に船で渡来しようと渡来人と認識されます。縄文人と弥生人の人口構成を比較すれば渡来系が圧倒的に多数を構成して支配層を形成してしていたと通説では考えられています。こういう意味では、日本の平安時代まで上層部のほとんどはもれなく渡来系です。
日本人(特に、中部以西の地域)の祖型の65%相当は渡来系の末裔と考えられていますが、そのほとんどの家系の由緒が不明になっていることは、それぞれの家系が支配者層を形成したか(氏姓制度)どうかの違いです。家系を守るに値する由緒やステータスがあったかどうかで決まります。苗字のない家系の由緒は長くは伝えられません。目印が消失するからです。
ちなみに、江戸時代までは、日本人のほとんどが古代より先祖伝来の地方でほぼ固定的に生活してきました。主な生活の基盤は農林水産業でした。江戸時代は士農工商の身分制度が人々を拘束しました。庶民が苗字帯刀することは許されませんでした。
明治維新によって、苗字(姓)が禁止されていた農工商身分の人々は国民の90%を占める平民となり、1875年(明治8年)の太政官布告「平民苗字必称義務令」によって平民も苗字(姓)を持つことが許されました。国民は職業の自由と居住の自由が制度として保障され、律令制度の始まり以来、初めて各個人が生まれ在所から自由に移動できるようになりました。国民が豊かになると、先祖を脚色して家紋を持つ人々が増加しましたが、実は江戸時代まで国民の90%は苗字(姓)も家紋も持てなかったのです。
最澄は、後漢の考献帝の子孫を祖先とする弥生時代の帰化人の7代目にあたると伝承されています。三津首百枝(みつのおびとももえ)の子として比叡山麓の古市郷(大津市坂本本町)に生誕しましたが幼名を「広野」といいます。一般的には、渡来系の氏族には、先祖を古い家系や有力氏族に繋げる家系の創作が多く見られますが、最澄の家系が考献帝の子孫かどうかの事実関係は藪の中にあり、誰にもわかりません。大陸の皇族や王族を先祖にする氏族の家系は証拠による検証方法しかありません。なかには、最澄の家系は、中国系ではなく新羅系ではないかという説もあります。
780年(宝亀11年)、最澄は12才のとき大安寺の行表を師として出家しました。785年、19才のとき東大寺の戒壇院で具足戒を受け国家公認の僧となりましたが、22才の時、南都仏教に見切りをつけ、比叡山に草庵を結んで多くの経綸を学び天台教学の基礎を構想したと考えられています。
このときの最澄の心境を作家の永井路子は「仏教とはすなわち人間の魂の問題にかかわるものだと思い定めて、純粋な思惟の世界への旅立ちを決意した」また「いまだ理を照らす心を得ざるより以還、才芸あらじ」と誓い法華経を中心とする天台の教えを学び、一切を顧みませんでした」と表現しています。
最澄は比叡山を拠点として、天台の典籍を求めて学び、仏道修行を成就するための五つの願文をたてましたが、これが「十二年籠山」として僧の修行規則定めたものとして制度化されています。この願文は、最澄が「南都は論ばかりあって実なし(自分たちの栄達を考えるばかりで庶民の救済行為がない)」と考え、南都仏教に失望して見切りをつけ、比叡山に入山して一乗止観院を作り、理想の修行道場を目指した最澄の立場を明確にした立誓文と考えられます。
この願文を読んだ寿興禅師(桓武天皇の内供奉・十禅師の一人)が、最澄の純粋無垢な精神に感動して最澄を訪ねて親交を結びました。桓武は側近の和気清麿らが最澄に帰依する姿を見て最澄に救いを見出し、登用を決意したと考えられています。最澄は797年に内供奉となり、朝廷の内道場に仕えて天皇の安泰を祈り、進言する役職につきました。内供奉は定員が10名であり、十禅師と呼ばれました。
最澄は、802年に和気清麻呂の長男・広世に招かれて(桓武天皇の肝いりで)京都高尾山寺(神護寺)で法華三大部(『摩訶止観』、『法華玄義』、『法華文句』)を南都六宗の高僧を集めて講義していますが、朝廷が思うように制御できない南都六宗の牽制に利用されたと考えられます。
和気広世は、和気清麻呂の長男です。桓武天皇の宗教政策の補佐役を務めた人物です。父は和気清麻呂です。清麻呂は、宇佐八幡神託事件(道鏡事件)の時、称徳女帝の意向に沿わなかったため忌避されて左遷されましたが、光仁天皇の即位時に従5位に復権し、桓武天皇の即位時に従4位下、長岡京遷都の手柄で従4位上に昇進し、民部省長官を歴任、死後に正3位を贈られています。桓武は和気兄弟(長男広世、三男の真綱は、参議、左近衛中将)を信任し重用しました。和気氏は土地開発設計施工のノウハウを持つ専門家でもあり長岡遷都、平安遷都の設計施工の責任者(遷都造営大夫)を務めました。長岡と京都は秦氏から提供された土地であり、秦氏の援助を受けるなど深い友好関係を築いています。
最澄の入唐求法は、和気広世と和気真綱兄弟が桓武天皇に勧めたことで実現したとする説があります。1年の短期間とはいえ、リスクのある渡海を許すこと、内供奉の最澄を手放すことについて桓武は慎重に判断したものと考えられます。最澄の留学のパトロンは桓武の第一皇子・安殿親王(平城天皇)だと考えられています。最澄は延暦21(802)年9月、入唐求法の上表分を差出し、勅許を得ています。『叡山大師伝』によれば、「多年天台教学を研究したが請来されている典籍には誤りが多く真意がつかみにくい。師伝によって直接伝授を受ける必要があるので留学生と環学生を各1名任命を受けたい(要旨)」とする入唐の上表文を提出して、天台法華宗は留学生として円基、妙澄の2名、還学生(請益僧)として最澄1名が勅許を得ました。最澄は、弟子義真を訳語僧(通訳)として帯同する許可を得ていることから中国語に堪能でなかったと考えられています。最澄は渡航費用として東宮(後の平城天皇)から金銀数百両を下賜されています。
翌22年4月14日に難波から遣唐使船に乗り込み出帆しましたが、途中の瀬戸内海で暴風雨に遭い船が大破したことで、最澄は10月23日より九州の大宰府にある竈山寺に留まって越年し、翌年の遣唐使船を待ちました。
最澄の比叡山も秦氏の聖地を譲られたものでした。平安遷都の794年、最澄を施主とする王都鎮護の法要が営まれましたが、ここに秦氏を出自とする勤操と護命の二人の僧が招かれています。秦氏、和気氏、最澄は互いに相手を必要とする関係性がありました。勤操は空海と最澄の両人と友好関係があったのです。
最澄はこの縁で入唐求法の短期留学の還学生(期間1年)に選ばれ、弟子の義真を連れて遣唐副使の第二船に乗船しました。このとき空海は遣唐使の第一船に乗船していることから、なぜ空海が遣唐大使の第一船に乗船が許されたのか疑問が残りますが、二人は別行動で互いに顔を合わせる機会がありませんでした。
最澄の入唐求法について、作家・司馬遼太郎は「教の根本は法華経であるべきと確信し、唐の天台法華体系を輸入しようとする明確な目的をもって入唐した」と表現しています。
最澄は台州刺史の陸淳に面会し、たまたま龍興寺に『摩訶止観』の講義に来ていた天台宗の最も優れた高僧であった道邃和尚を紹介して貰い面会することができました。この不思議な縁で、最澄は道邃から大乗菩薩戒を受けることができました。
天台山の国清寺で惟象から供養法(密教)を受け、行満和尚に八十余巻の仏典と妙楽大師湛然の遺品を授けられました。
最澄は8か月の入唐期間のうち6か月を台州・臨海の龍興寺に戻り過ごしましたが、帰国途上の越州・紹興で帰路の船を待つ1か月の間に、越州・竜興寺の順暁から大日系の密教を授けられました。しかしこれは本格的・体系的な密教といえるものではない不徹底なものであったことは最澄自身がよく理解していました。最澄の目的は、主として写経103部253巻の招来、後に比叡山の大乗円頓戒の独立の根拠とした円教菩薩戒の受戒が主なものであることが分かります。
この最澄の帰国を待っていたのが怨霊に苦しみ病床にあった桓武天皇でした。桓武は最澄の法華経に興味を示さず、密教のことばかり最澄に尋ねました。桓武は密教が最新仏教であることを知り、その高い効能で癒されることを強く期待していたのです。最澄は困惑し、途方にくれました。真面目な最澄は何とか桓武の負託に応えようと懸命な努力をしたものと考えられます。最澄の底の浅い密教ではどうにもならないことでしたが、知力を尽くして祈祷せざるを得ませんでした。このような最澄の前に、空海の『請来目録』が提出されたことで、最澄は空海の存在を知り、空海が請来した体系的な正統密教の秘奥の世界を垣間見たと考えられます。最澄は自筆で空海の『請来目録』の写しを残しているところから、空海に接近してこれを学ぶ心つもりであったことが分かります。
空海は、日本に無い経典を461巻も請来しています。この事実から、空海は事前に、諸大寺の経蔵を巡り、日本にある経典類の調査を終えていたと考えられます。日本に無い仏典(主として密教経典類)を請来したこと、この経典類を整理・分類して理論体系を把握できたことが空海の真言密教の体系化に大きく貢献したと考えられます。
空海に謙虚に教えを乞う最澄の書簡は26通ありますが、空海から最澄に宛てた書簡は5〜6通であったところから、両者の交友は、最澄が積極的に辞を低くして教えを乞う(弟子になる)という形で始まったものでした。最澄は空海に伝法の資格「伝法潅頂」(阿闍梨位の取得)の伝授を求め、伝法灌頂までどのくらいかかるか聞いています。空海は、最澄の能力をもってしても三年必要と考えこれを最澄に伝えましたが、最澄は3ケ月位の期間を予定していたと考えられています。最澄には密教独特の修行の理解が及ばず、法華経と同様に、空海から書物を借りて読むことで密教を理解できると考えていたことなどから、両者はすれ違いを修復できないまま自然に分かれていくことになりました。
ちなみに、伝法潅頂の伝授を受けるためには、「得度」「受戒」と「四度加行」の満行が必須の前提条件です。当時の必修期間は個人の能力にもよりますが密教の基礎教育期間1〜2年を除き、伝法潅頂に要する期間は1〜2年程度と考えられます。後年になると300〜100日に徐々に期間短縮されるようになりますが、教則本、修道の次第本が漢文の手書きで行われた時代はとても時間がかかったと考えられます。今日では便利な筆記用具が揃い、各種の教則本や四度加行の各種「次第本」が大量印刷できるようになったことで学習の効率化が大幅に進み、修道システムが完成したと考えられます。また師と弟子の面授の効率改善が工夫され、伝授の在り方が大幅に改善されたことで期間短縮が可能になったものと考えられます。しかし、この伝法灌頂は密教僧として許可(こか)を受ける灌頂です。今日的には、ここをスタートラインとして、必要となる各種行法を「伝燈大阿闍梨」から授法して研鑽し、本格的な密教僧となるべく修行の道に入ることになります。
最澄は、延暦25年(806年)、国家から独立宗派・天台宗を公認されました。809年、最澄は弟子の経珍を空海の元に遣わして、空海が唐から持ち帰った密教経典12部の借覧を願い出ていますが、この頃から最澄と空海の二人の間で書簡の往復が始まりました。仏法の深奥を極めた空海に進んで膝を屈するさわやかな最澄の姿がここにあります。この頃、最澄は空海から真言、悉曇(梵字)、華厳経の典籍を借りて密教を研究していました。
812年、最澄は、高弟の泰範、円澄、光定を連れて京都・高尾山寺(神護寺/現・高野山真言宗)に登り、空海から金剛界と胎蔵界の結縁灌頂(初歩の灌頂)を受け、翌813年1月、泰範、円澄、光定を空海のもとに派遣して空海から密教を学ばせることを願い出て3月まで3名を高尾山寺で学ばせました。高尾山寺は和気氏が創建した氏寺です。
最澄が空海に宛てた弘仁3年8月の書簡でに、最澄は「真言と天台はめざす境地も同じであり、法華一乗の教えは真言の教えと異なるものではない」と書いていますが、これが最澄と空海の理解の限界でした。空海の認識と最澄の考えは明らかに異なるものでした。831年(天長8)9月の「円澄和尚求法啓状」の中で、弘仁3年の冬、最澄は大唐で真言を学ばなかったので今高尾山寺の空海大阿闍梨に真言の秘宝を受けたい」ということで、空海に胎蔵界、金剛界の両部の伝法灌頂を受けたい旨を伝え、それには幾月ほどの修行が必要か尋ねていますが、空海は(顕教の基礎知識の支持者なので)3年程で資格が取れるでしょうと答えたと記しています。そこで、最澄は、813年(弘仁4)比叡山座主としてそのような時間がないことから、弟子の円澄や泰範を空海に預けて比叡山に帰ったことが分かります。。
813年11月、最澄は空海に密教の秘伝書「理趣釈経」の借覧を申し入れましたが、空海はこれを拒否しています。最澄の学び方が読書による理解(法華経と同じ学び方)しかできていないこと、本格的な密教の修道システムを実践していないこと、面授による伝授を受けていないことなどから、秘教を正しく理解する基礎ができていない最澄が読めば誤解が生じるというリスクを回避したものと考えられます。空海が最澄の依頼を拒否したのはこのような理由であったと考えられます。また、この頃から二人の宗教観の違いが徐々に増幅していたことで相容れないものとなっていたのではないかと考えられます。これを境に最澄と空海の関係は疎遠になっていきました。 ところが一番弟子の泰範は最澄が再三再四にわたる比叡山への帰山勧告に応じることなく、空海の下にとどまり空海から弟子入りを認められました
空海と最澄のもう一つの違いは、空海は20歳前から山林修行を体験して、自然の中で言霊の神秘を体得して霊力(法身との交感能力)を身に付ける修行体験を積んでいたことです。言霊とは、「ある言葉を口にすると、その言葉の持つ霊力が刺激されて言葉どおりのことが実現する」という考え方です。空海は「一切所聞の音はみな是陀羅尼なり、即ち是れ諸仏説法の音なり(秘蔵記)」と言っていますが、森羅万象の自然現象の音や響きは陀羅尼(真言)であり仏の説法であるという発想は山林修行の中で培われた鋭敏な感覚であろうと考えられます。密教修業は密教経典や儀軌書(修行方法を具体的に定めた書)の通りに実践し密教的な追体験をすることが不可欠であり、書物を読んで智慧を得ることだけではその境地に到達できません。山林修行は、肉体を酷使する人間の能力の極限を突き詰めることで呪力を得ようとしたことから、野たれ死にする危険性があります。しかし、僧の能力に高い呪力が期待されたこと、また、僧もこれを望んで能力の極限を覗こうとしたのではないと考えられます。空海の山林修行の体験は、密教の神秘的な呪力を育成する効果な方法であったと考えられます。
空海が二十代の頃行った山林修行は、密教の感性を養う基礎的な修行体系をなしていたと考えられます。 若き日の空海(十八〜十九才頃)は好んで関西・紀伊半島の険しく深い山河の地を山林修行の場としていましたが、この頃に高野山に入山したことが考えられます。二十四才頃『聾瞽指帰』を執筆して仏教に惹かれてゆく空海自身の心境を明かしていますが、二十才前に中央の唯一の大学を中退し、すべてを抛ち、私度僧となり山林修行に身を投じています。二十五〜二十六才頃、ある沙門から「虚空蔵求聞持法」を伝授され、山林修行の内容にはこの求聞持法の修行に傾注する質的な転換があったと考えられます。この求聞持法の体験を目的とする修行の中で、大自然との関わり方が森羅万象の実相を探求する質的な転換を遂げ、直観的に森羅万象のことごとくに宇宙観(コスモロジー)を体感する機縁を掴んだものと考えられるのです。空海は『性霊集』の中で、自らを「蒼嶺白雲観念の人」と述べていますが、自然の中に身を置くとき「心、仏界に遊んで筆に遊ばず」の心境である、と述べています。この山林修行の神秘体験があったからこそ、森羅万象のさまざまな現象(ゆらぎや波動、風の音、木々のざわめき、水の音、地の響き、動物や鳥の鳴き声など)の中に超自然的な霊性を感じ取り、法身の「ことば」(声字)として聞くことが出来たのではないかと考えられるのです。自然のさまざまな現象から宗教的な意味を取り出せる霊性の感覚は山林修行者の自然と一体になる修行によるものと考えられます。空海の求聞持法の成就は、『御遺告』には「心に観ずるとき、明星、口に入り、虚空蔵の光明照らし来たって菩薩の威を顕し、仏法の無二を現す。」と表現しているのです。空海は、この山林修行の神秘体験などによって、宇宙の森羅万象のありのままの姿をみ、ことばを捉える体験を重ねたことから、法身の実在性を直感的に理解しうる宗教的素質を身に付けていたことが考えられるのです。
このとき、空海は、(抽象的ではあるが)直感的に法身の存在を意識する体験を得たことが考えられ、それが何かを探求する強い向上心が入唐留学を実現させるエネルギーになったのではないかと考えられるのです。空海の入唐の目的は、この神秘体験の意味を具体的に究明するものであったと考えられ、密教の大家・恵果阿闍梨との出会いに恵まれて付法の第七祖となり、密教の教理と実践を普遍的・統合的に再構築できるまでの多彩な能力を身に付けることができたと考えられるのです。「虚しく往(ゆ)いて実(みち)て帰る(『性霊集』二・恵果碑の追悼文)」と書いた空海の「還元の思い」とは、若き日の空海の山林修行の神秘体験を解明すべく入唐留学を成し遂げ、恵果阿闍梨に出合う燭光を得て、密教によって具体的に解明しえた満足感の表明であったと考えられるのです。
入唐後、縁をもって密教の大家・恵果阿闍梨の付法を継承した空海が、「両部の大経」と『菩提心論』『釈摩訶衍論』を参照して独自の真言密教を再構築し、大日如来の法身説法という仏身観を形成し得たのは、森羅万象の「ことば」を密教が説く法身の「ことば」として捉え、その「ことば」の意味を解釈することが出来る能力を身に付けた「智」と「実践」の体験があったからこそ可能だったのではないかと考えられるのです。後年、空海が深山幽谷の理想の地・高野山を修禅の根本道場と定めたことは、このことを如実に表すものであったと考えられるのです。後年、最澄の弟子たちが比叡山に「千日回峰行」(資格要件が厳しく、特別な許可を受けた弟子のみが許される修行法。満行者は阿闍梨位を取得するが、極めて少数である)を定めたことは、最澄が経典によって密教を理解しようとした姿勢を取り続けたことの反省点として評価することができるのです。
最澄は、815年、大安寺で南都の学僧と論争。その後東国に旅立ち、鑑真ゆかりの寺である上野(群馬県)の浄法寺や下野(栃木県)の小野寺を拠点にして法華経の伝道を展開しました。そこで法相宗の学僧、会津の徳一といわゆる三一権実論争を引き起こしました。詳細は(20)−2、(20)−3宗派の抗争、論争の通りです。
818年、自ら具足戒を破棄して『山家学生式』を定めました。以後、天台宗の年分度者は比叡山で大乗戒を受け、12年間の山中修業を義務付けられました。これは最澄が定めた天台宗の修行の在り方です。天台宗は南都(奈良)仏教との間で仏教の正当性を争う不毛の抗争に明け暮れましたが、最澄の弟子が勝手に独善的な判断に基づく勝利宣言をしています。
法華経を最高経典とする仏教観が最澄がこだわった思想世界です。最澄の価値観と認識が天台宗の宗論に他宗攻撃の縛りを植えつけることとなり、天台宗徒は他宗を攻撃し続けましたが、最澄の思いは遂げられることはありませんでした。
中国での法華経の全盛期は隋のときでした。隋の終わり頃には次第に衰微の一途をたどりましたが、最澄が入唐した頃は衰退期にあったと考えられています。
インドには法華経が流布された形跡が全く発見されていないことから、インドで編纂され、中央アジアで何度も再編集された法華経が中国に伝えられて隋代の天台山に花開いたと考えられ、法華経もいわゆる中国仏教の性格と特徴を濃厚に持ていると考えられます。ちなみに、中国に最終的に生き残った残った仏教宗派は禅宗と浄土宗です。
最澄は、中国・天台宗の教義を日本に移植しましたが、比叡山の仏教は未完のままでした。これが比叡山の教義と宗旨の完成を妨げることになりました。最澄の後継者たちは最澄の未完を補填すべく努力を続けました。最澄亡き後、円仁、円珍が困難を乗り越えて渡唐し、最澄が悔いを残した体系的な密教を持ち帰り、台密(天台密教)を体系化しました。鎌倉時代、天台宗は中核を体系化できないままに禅や念仏の兼学を許したことから「選別の仏教化」に換骨堕胎する傾向に陥り、ついに鎌倉新仏教が誕生しました。最澄が「止観業」と「遮那業」の二本立ての修学方法を採用したこと、その後も禅、念仏等の兼学を奨励したことで、ついに密教の統一的な仏身観(その中核は法身・大日如来)が完成することがありませんでした。
鎌倉期の天台宗からは、禅、念仏、法華などを立宗する新興仏教の祖師(優秀な後継者と呼べるのでしょうか?)たちが排出されました。鎌倉仏教の祖師は一途で、教条的、排他的、非協調的でした。この中から包括的態度を取る人物が遂に出ることがありませんでした。最澄が終生、奈良仏教(大乗仏教の濫觴、功労者)と対立したことで最澄の後継者も最澄の立場を踏襲せざるを得ませんでした。これが、法華経の流布の妨げとなっていったと考えられます。
最澄は学者タイプの僧、空海は実践家タイプの僧という比較があります。大乗仏教の精神がが利他・慈悲にあるならば、僧侶は学識もさりながら、まず実践者として衆生済度の実践者として生きるべきだという視点からの比較であったと考えられます。最澄が「籠山12年」の戒律明けに実行したことは、比叡山に中央図書館を整備するために、当時日本に輸入されていた全経典を目録に従って写経して経蔵にそろえることでした。最澄の文献蒐集癖は性格的なものであろうと考えられますが、空海は治水灌漑工事、寺院や学校の創設、また鉱山開発(水銀鉱脈)などの済世利民を実践活動をしているという違いがあります。
空海は奈良仏教を包摂して友好関係を保ちました。空海の偉業は、密教を大陸から請来したことではなく、実は三国伝来の密教を日本において完成させたことにあります。空海が密教を完成させたことで、真言宗からは、ついに、空海を超える人物が出てくることがありませんでした。このゆえに、真言宗には新興宗教が芽吹いて跋扈する余地がなくなりましたが、これが真言宗の長所でもあり、同時に短所となったものと考えられます。
空海の讃岐・佐伯直氏は、5〜6世紀の頃から肥沃な土地と港を支配して海の交易に進出して財を成した氏族と考えられます。讃岐に阿刀氏の在住がなく、父・佐伯善通(田公)は、母・阿刀玉依姫と知り合ったのはどこかという憶測があります。佐伯氏は伝統的な書芸の家系と考えらますが、肥沃な土地と良港を支配する氏族であったことから、船を所有して讃岐と難波を往来する交易活動を行い財を築いたと考えらえます。佐伯氏の一族に地方では見られない位階の高い人物が多数いたことから献物叙位(財物等を朝廷に献物し、その見返りに位階を入手すること)の方法を取っていたと考えられています。佐伯氏の交易の拠点となる倉庫が住吉津にあったと考えられること、当時の結婚形態が妻訪婚であり、母と子は母の一族と生活を10年くらいは共にしていたのではないかと考えられることなどから、空海の出生地は讃岐ではなく、阿刀氏の本拠地である畿内と考える説があります。(武内孝善『空海素描』高野山大学、より要旨を援用)
788(延暦7)年、15歳の佐伯真央(空海)は、伯父の阿刀大足(桓武天皇の3男・伊予親王の侍講、従5位下)を訪ねて讃岐国から上京しました。この後、空海は佐伯今毛人(さえきの・いまえみし)の氏寺・佐伯院に寄宿していることから平城京であったと考えられます。佐伯氏は有力氏族・大伴氏の末裔とする説があります。
都の佐伯氏の中で最も高位に上ったのは佐伯今毛人で正3位参議、民部卿、太宰帥(長官)、大和守、皇后太夫など多数の役職を歴任しましたが、造東大寺長官、造西大寺長官、造長岡京使(長官)など建築・土木の技術系の専門家であったと考えられています。
空海は、『文鏡秘府論』によれば、幼少の頃から阿刀大足について学問を学んでいたとあるので、阿刀氏は平城京近辺に居住していた人物であるところから、空海は幼少の頃は母の実家(近畿地方)にいた可能性があると考えられます。『空海僧都伝』には、「15歳で外舅二千石阿刀大足に随って、論語・孝経及び史伝等を受け、兼ねて文章を学びき」とあります。大学寮では、同郷の「直講・味酒浄成(うまざけのきよなり)に就いて毛詩・尚書を読み、左氏春秋を岡田博士に問ふ。博く経史を覧て殊に仏経を好む」とあります。『御遺告』には、「外戚の舅曰く、たとひ仏弟子になるとも、如かず大学に出でて文書を習って身を立てしめんにはと。」この教言に任せて俗典の少書等及び史伝を受け、兼ねて文章を学ぶ。然して後、生十五に及んで入京し、初めて石淵の贈僧正大師に逢って大虚空蔵等丼びに能満虚空蔵の法呂を受け、心を入れて念持す。とあります。
792(延暦11)年、空海は18歳の時、平城京にただ一つの置かれた中央の「大学寮」の明教科(儒学を研究)に入ります。この大学寮は唐の「国士監制度」を模倣した中央官吏養成所ですが地方には「国学」が置かれていました。入学対象者は13〜16歳までの従5位以上の貴族の子弟ですが、制度の見直しが何度かあり、例外も許されたようです。大学には明経道(明経生400名+明経得業生4名)・紀伝道(文章生20名+文章得業生2名)・明法道(明法生10名+明法得業生2名)・算道科(算生20名+算生得業生2名)・書道(2名)・音韻道(2名)の6科があり全体の学生数は500名弱でした。得業生はすべての学内試験を合格して研究のために在籍を許された者です。今日の大学院生のようなものです。卒業できる者は国家試験を合格した任官者だけでした。卒業か退学しかない制度です。
今日の学制とは大きく異なり、自動的に進級できる制度ではなく、歳試で上・上と上・中以上の成績が取れなければ進級できず、31歳までに国家試験(明経・明法・秀才・進士)に合格できなければ退学処分となります。国家試験に合格すれば官吏に登用されますが、合格=任官であったことから採用枠との関係があり、合格率が低く抑えられたことで、ほとんどの学生は卒業できなかったと考えられます。空海の大学での様子は「蛍雪を猶怠れるに拉ぎ、縄錐の勤めざるに怒る」とあり、刻苦勉励、言語に絶する姿勢が見えます。空海は、中途で仏道修行の道に転向して退学していますが、これは空海の能力の問題ではなく、進路の違いによる自主退学でした。空海は官吏登用を望まなかったということです。
空海の父「佐伯善通」は、讃岐直田公(さぬきのあたいたぎみ)という郡司または国造に任命された家系です。母は「玉依姫」といい阿刀大足の妹です。この阿刀氏からは多数の宗教家を輩出し、特に法相宗に多くの高僧を輩出して興隆に大きく貢献しています。
南都六宗の中心的存在であった法相宗を隆盛に導いた義淵(姓阿刀氏:東大寺要録に記載)、玄ム(姓阿刀)、善珠(法師俗称安都宿禰)は師弟関係にありますが阿刀氏の出身です。阿刀氏は、法相宗の法脈の頂点を極めた存在でした。
阿刀氏の祖神は、平安遷都の際に、河内国渋川郡(東大阪近辺)より遷座され、京都市右京区嵯峨野の阿刀神社に祀られています。新撰姓氏録には、阿刀宿禰は、石上朝臣と同じき祖、饒速日命の孫である味饒田命の後裔であるという記載があります。石上氏は天武天皇13年(684)に物部の系譜の氏族に賜った氏姓であるところから、阿刀氏は物部の支族と考えられます。饒速日命は神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)の祖父・瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の兄です。兄の饒速日命は物部氏族の祖となりますが、宗教儀式を司る氏族の血筋を伝えています。弟の・瓊瓊杵尊は皇族を輩出する一族を形成して、兄弟は別系統の血筋を伝えたと考えられます。しかし、これらの事実関係は藪の中です。客観的に検証できる証拠資料はありません。
京都府編纂の神社明細帳には阿刀宿禰の祖・味饒田命が阿刀神社の祭神であると記載されています。
奈良仏教いわゆる南都六宗と激しく対立した最澄とは異なり、空海は南都六宗と良好な友好関係を築いてこれたのは密教の理念であった包摂性という特性だけでなく、奈良仏教に多くの高僧を輩出した阿刀氏の影響や後押しがあったものと考えられます。
奈良・大安寺は南都七大寺の一つであり、南都六宗の「三論宗」の大寺でした。空海と最澄はこの大安寺と関係していました。大安寺のホームページには、最澄は12歳で近江国分寺で得度しているが、このときの剃髪の戒師は大安寺の行表であったこと、空海は19歳の時、大安寺の勤操(その実父は秦氏)により得度を受けたという説があります。若き空海は、勤操に伴われて和泉の槇尾山に赴き勤操の剃髪を受けて出家し得度したともいわれています。一説には勤操と空海には直接の師弟関係を疑問視する見方もありますが、二人の間には長い親交があったことは否めません。勤操が秦氏の出自であったことは偶然でしょうか。
後に空海は、大安寺の別当に補せられていますが、『御遺告』第八に、勤操を「わが大師」と呼んでいますが、実は空海の師僧が誰であったかは特定できていません。勤操とは非常に親しい関係であったことは事実ですが、空海自身が師僧が誰であったのかを明確に述べていないことから、これを示す資料が出てくれば新発見です。空海は、特に慈しんだ身内の直弟子(實恵、真然、智泉)を大安寺に預け修行させていますが、自身の修行の追体験をさせる目的があったものと考えられます。
大安寺は、奈良の最古の寺・元興寺とともに三論宗の本山でした。竜樹の「中論」「十二門論」と竜樹の弟子提婆の「百論」などインド中観派の論を受け継ぎ、空の概念を研究しました。竜樹の「大智度論」を学び、中期以降は唯識中観派、瑜伽行唯識派の学説が現れました。その論が難解なところから、華厳、法相に押されて衰退していきましたが、天台宗には「三諦(空・仮・中)」「円融三諦」「一心三観」の理論に大きな影響を与え、真言宗にも同様に影響を与えています。
大安寺その古代の前身は「大官大寺」です。「大官大寺」の前身は、「百済大寺」、「高市大寺」と改称していますが、天武天皇が、全僧尼を統制する僧綱所として「大官大寺」に改めて創建した官寺です。飛鳥時代には、「川原寺」「飛鳥寺」「大官大寺」が三大官寺として置かれましたが、「大官大寺」が筆頭でした。大安寺が空海と最澄に共通性を持つていたことに驚きました。現在の大安寺は、高野山真言宗に属しています。
空海と最澄が、一緒に最後の遣唐使となった第16次遣唐使(20数年ぶりに再開)に随行することになったのは果たして偶然の出来事だったのでしょうか。唐への留学について二人を後押しする人物がいたのではないかという疑いが消えません。その後の遣唐使は、19〜20次は取り止め、894年には唐の内戦を理由として菅原道真が廃止決定しています。次の遣唐使船に乗船できる千載一遇のチャンスでした。二人の得度の戒師が大安寺の僧でした。僧にとって得度の戒師や師僧は特別な存在です。その関係は生涯消えない関係性を持つことになります。 
空海と最澄 / その書を読む

 

空海は、平安時代の初期に嵯峨天皇、橘逸勢とともに三筆と讃えられました。この中でも、空海は第一の能書家として日本の王義之に比肩される不世出の代表格に挙げられています。
「書は人なり」「心正しければ筆正し」との伝承があります。また「言葉は人なり」ともいわれてきました。言葉は人の心であり、書は人の言葉と心を文字という形に表したもの、いうなれば、作者の感情や人間性を文字の形や、一つ一つの線や点で表現し、文字に芸術性を持たせたものと考えられます。
しかし、書が芸術であるためには、作者の美意識と個性、そして独創性が必要であり、書の一定の規範を踏まえた技法の鍛錬をしなければなりません。
空海は、797年に『三教指帰』(『聾瞽指帰』はその草稿本)を著して、その「序」で出家の動機を述べています。
「本論」では、三教の思想の特質をそれぞれの登場人物に対話討論の形式で戯曲風に語らせるという手法を用いて、仏教が儒教や道教とは比較にならないほど優れていることを結論付けています。
一人の沙門から虚空蔵聞持の法を聞き、仏典を学ぶうちに仏教への関心が高まっていったことを契機に、二十歳頃、大学を中退し、孔孟の思想書や仏教の経典を真剣に学び、また、私度僧として各地に修行を重ねた結果、仏教の奥義を極めたいとして衆生済度のために出家する動機を表明した書でです。
『三教指帰』は、24歳の空海のひたむきな気持ちを関係者に表明する出家宣言書です。四六駢儷体で書かれたこの練達の書は、空海が十代から漢文や書の研鑽を重ねて来たことを如実に示すもので、王義之の書風の影響が見えます。
墨痕鮮やかな力強い文字は、昂ぶる気持ちを抑えながらも、抑えきれない空海の若き日の精神の高ぶりが垣間見える書であると考えられます。
空海は入唐により、真言密教の正統な継承者になるとともに、さまざまな書体や書風、技巧を学び、中国皇帝から「五筆和尚」の敬称を送られました。
空海は、僅か2年の在唐中に中国人が驚愕する書や漢文の達人の域に達した努力家でもありました。
空海は能書ゆえに嵯峨天皇に近づくことができ、真言密教を確立するための一つの手段として書を用いましたが、これによって、空海の書の本質そのものが損なわれることはありませんでした。
空海は入唐によって恵果和尚から真言密教の伝授を受けたばかりでなく、書や文芸についても仏道修行の一環として熱心に研究していたことが『性霊集』十に「天皇への上表文」という形式で在唐中の学業や書に関する内容を述べた文章「勅賜の屏風を書き了って即ち献ずるの表、并(ならびに)に詩」(弘安5年、816年)によって知ることができます。
これによれば、「書は散なり」と述べ「書は心の解放」であると言っています。
「情のおもむくままに任せ、本性を自分の望むとおりに自由にさせ、心を自然界にゆったりと遊ばせ、手本となる法則を移りゆく四季に求め、文字の形態を森羅万象に具象化することが至妙である」と述べていいます。
また、「書にも書の病を除き、筆理にかなうために何をどうすればよいか考えないとすぐれた書とは評価されないこと。書は古人の書を学ぶ際、筆意、用筆、その書の精神を学ぶのはよいが、単に古人の字の形を真似ただけでは上手とはいえない。
昔からすぐれた能書家の書風がそれぞれ異なるのは、古人の書から精神を学び、書は自分の書を書いたからである」と古典を学ぶ要諦を述べていいます。
『風信帖』は、『灌頂歴名』と並び称される空海の書の最高傑作であり国宝ですが、『風信帖』(一通目)『忽披帖』(二通目)、『忽恵帖』(三通目)の三通をまとめたもので、一通目の書き出しの句に因んでこの名で呼ばれています。元は五通あったものですが、1通は盗まれ、1通は関白豊臣秀次の所望により天正20年(1592年)4月9日に献上したことが巻末の奥書に記されています。
『風信帖』は平安仏教界の双壁をなす空海と最澄の7年間の交流を示す往復書簡の一部であり、二人の関係が明白に伝わってくる歴史的な一級の資料として高い評価があります。三通とも日付けのみで年紀がありませんが、状況証拠などから、弘仁2年から4年(811〜4年)と考えられています。
『風信帖』と『忽恵帖』は空海から最澄に宛てた書状であることが宛名によってわかります。
『忽披帖』には宛名がなく、最澄と藤原冬嗣の両説がありますが最澄宛てと考える説が妥当であると考えます。
当時、空海は嵯峨天皇の信頼を得ていたこと、空海の密教が本流であることが世間に広まったこと、などから、空海と最澄の立場が現世的にも逆転していく段階にあったことが分かります。
二人の関係は、密教の取り組み姿勢の違いから、やがて決定的な仲たがいをすることになります。
空海は、最澄から『理趣釈経』を借り受けたいとの申し入れを受け、これを拒絶しています。その理由は、密教は面授による伝授を基本とするところにあります。定められた各修行の段階を終了しなければ面授が受けられず、それはとりもなおさず、師匠が弟子の能力がまだそのレベルに達していない段階にあると認めていることであり、まだその時ではないことを理解させるために、最澄の密教の修行方法の基本姿勢の在り方を批判したものと考えられます。最澄は、法華経の学び方と密教の学び方が同じものと考えていたのです。
両人の書のやり取りを「久隔清音、馳恋無極」で始まる最澄の『久隔帖』の書と、「風信雲書、自天翔臨」で始まる空海の『風信帖』とを比較すれば、最澄の文字の筆法は均質で几帳面であり、神経の行き届いた筆跡であり、最澄の真面目で地味な性格が滲み出ています。
『久隔帖』は、最澄の最も有名な真蹟で、空海との親しい交わりを示すとともに最澄の真摯な人柄を表すものとして評価されています。
この書は、最澄が空海の下で密教修業していた最澄の一番弟子であった泰範に宛てた形式をとっていますが、実質は空海に宛てた親書であることが明らかです。
最澄の『久隔帖』の内容は、『弘法大師の書簡』(高木、元・著)より引用し転載します。
「久しく音信が絶え、こよなく思い慕われます。おすこやかなる趣を伝え聞き、まずは安堵いたしました。空海大師が作った五言八句の中寿勧興詩の序の中に『一百二十礼仏』『方円図』および『注義』の名が見られます。今、和韻の詩を作って奏上しようとを存じますが、その「礼仏図」というものが分かりません。なにとぞ阿闍梨(空海)に言って新しく撰述された方円図や注義の拝借をさせていただき、あわせてその大意を知らせてくださるようにお願いします。その和韻の詩は早々には作り得ず、またひとたび筆を染めた詩文は後になって改作することもかないません。どうか、その詳しい内容をお示しくだされば、必ずや和韻の詩を作って大師の前に献上します。謹んで貞聡に託して手紙を差しあげます。恭敬いたします。弘安四年十一月二十五日小法弟の最澄 状上
高尾の範闍梨 法前
最近、『法華経』の梵本一巻入手しました。空海阿闍梨にご覧にいれるために、来月の九日十日に参上いたしたく存じます。もし、和上がお暇なら、必ず伺います。またもし、お暇がないようなら、後の機会を待ちます。ご都合のほどお知らせください。詳しいことは拝眉の上、申し上げます。謹んで深く恭敬いたします。」というものです。この手紙は、最澄が空海の弟子であることを最澄自身が述べているところに歴史的価値があります。
最澄の書は、若いころから、王羲之の『修字聖教序』を習ったことが『久隔帖』と『入唐蝶』などから分かりますが、気品の高さ、澄みきった境地、わき目もふらず自分の信念を貫く一徹さが現れています。この書風は生涯を通じてほとんど変化がない、という衆目の評価があります。
梅原猛は、「最澄の文書は明晰で論理的である。その背後には彼の身を切るような痛切な自己反省がある。そしてその書は女性的でどこかに深い悲しみを秘めている。この書を見ていると最澄は厳しさの反面、もろい孤独さを持った人ではないかと思う。」と述べています。
空海の文字は極めて詩的な美辞麗句があり、大小、線の肥痩、墨つぎ、運筆の緩急も変幻自在であり、この八文字の修辞に二人の個性の差異が歴然と表われています。
『風信帖』は弘仁3年(812年、推定)最澄が空海に『摩訶止観』を贈り、比叡山に登るように誘った書状に対する返信です。
『風信帖』の書風は王義之の書法に則したものですが、顔真卿の書法も加味され、豊潤で重厚、闊達自在な変化に富んだ多様な筆致がみられ、空海の抱く心情が鮮やかに映し出されています。強さが内面に潜り、筆毛の抑揚が自在になり、線には含蓄のある意味合いが増し、ゆとりや柔軟性、おおらかさがある中にも凛とした僧の品格が匂い表れています。
当時、世間の評価の高かった最澄に対し、謙譲の気持ちを示しながらも、「どうか労をいとわず、この院(乙訓寺と推定される)まで、降りてきてください」と書いたことは見事という他ありません。この書には、空海の僧としての内面の充実と自信が感じられ、空海の書は、豪胆、かつ、繊細な心と状況に即して自在に書風を変える特徴が見事です。
唐・留学前の20代頃の『聾瞽指帰』の筆致とは書風や書技とは異なる明らかな進歩がみられ、書の研究の成果が結実したものと高く評価されています。空海の書が日本の頂点を極める書であることは間違いのない事実と考えられます。
『忽披帖』は、書風が一転し、文字も大きく、肉厚で墨の量も多い。覇気に満ちた空海の力強さや、精気とともに情緒さえ感じられるものです。さらっと書いた、卒意の書であると評価されています。
『忽恵帖』は、流麗な草書体で書かれ、内熱した境地を示す書風で、柔らかく細い線で軽快な運筆によって書かれています。
最澄への細やかな心使いが感じられる書ですが、三通がそれぞれ異なる書風で書かれたことに、空海の最澄に対する書の披歴の意図が感じられます。
仏教僧としてばかりでなく、書家としてもライバル意識がその意識下に潜んでいたのではないかと考えられます。
『灌頂歴名』は、弘仁3、4年(812、3年)京都・高尾山寺で三回にわたり灌頂を授けた者の名前を列挙したもので、僧俗がランダムに併記されています。
空海の手控用のメモとして作成され、改めて装い直す必要のないもので、空海の真筆の中で最もその素顔が顕れた書として、『風信帖』以上に高い評価をする書家が多いものです。
この書の特徴は、書かれた月日や状況、また、空海自身の感情が異なったため、その書風が微妙に異なっていることです。
11月15日に、最澄以下4名が金剛界の灌頂を受けたことを示す記述があるところから、11月14日の歴名とともに、空海と最澄の関係を示す最も重要な書とされているものです。
メモ書きにしては丁寧な筆の運びで、線に深みと幅があり熟練の書技と風韻が感じられます。
灌頂を授ける空海の満足感と静寂の中にも凛とした気迫が込められている書です。
11月14日には、大悲胎蔵生の灌頂を授けた僧俗百45名の記述があり、僧では、最澄、賢栄、元は最澄の弟子であった泰範ら二十二名の記述があります。名前の下に小さく寺院名や得仏の尊名が書かれていますが、これは前もって書かれていたものと考えられています。
僧や沙弥の部には消去や加筆・訂正はないが、近子や童子の項には多くみられるところから、空海とあまり面識のない人が増減したことが想像できる書です。
3回目の3月6日の歴名には、金剛界の灌頂を授けた僧5名、沙弥12名の記述があります。
前2回の書と比較すれば、重厚さや気韻生動を欠いていることから、別人の書ではないかという説もありますが、得仏を示す小さな文字は名前にくらべ筆勢があること、熟練の味が見られることから真蹟であるとする説に賛同します。
なお、十二月十四日の歴名の書は、同時代に書かれた『風信帖』の書法とは少しことなることから、空海が入唐時に学び、会得したと考えられる顔真卿の書法の影響が自然にでているとみる説を支持します。
空海の書風は、中国・東晋の書の大家として高名な王義之の伝統的な書法に、唐代の書家・顔真卿の書法を加味しながら、空海独特の個性を醸し出し比類なき書の大家として高い評価が定着しています。数多くの歴代の書家が揃って空海の書を手本として臨書してきた事実がこれを物語っています。 
大乗仏教 / 特徴と成立過程

 

大乗仏教の基本的な経典には、「般若思想」「華厳思想」「法華思想」「浄土思想」や「禅の思想」があります。各宗派の教理論は、このような思想の下に展開されてきたものです。これらの経典が語る特徴的な大乗思想は「菩提心思想」「本覚思想」「如来蔵思想」「自性清浄心思想」など成仏に関わる思想(その究極は「即身成仏」)です。これらは「仏身論」(仏身観)という本仏(中心仏・根本仏・中尊などの表現がある)思想に収斂されるものですが、釈迦滅後の仏教徒の究極的な研究課題は、この「仏身論」に帰結するものであると考えられます。なお、大乗仏教の諸経典は釈迦滅後500年後の紀元前後頃から以降に成立したものです。
釈尊滅後、次第にサンガ集団が膨張して、メンバーの多様化や集団構成の複雑化が進み、集団の規則となる律が制定されました。
しかし、教団が肥大化するにつれ、集団内部に想定外の諸々の事態や問題が発生しました。これを解決し、教団の秩序を維持するためには、新たな規律の追加が必要となりますが、諸規律が整備されてゆく中で、出家者の日々の生活からその行事や作法まで細かく定められるようになりました。
あらゆる事態を想定して規律を定めることは不可能であることから、新たな条文の追加が必要となることは避けられません。やがて、規律の条文解釈やその実行を厳格に守るか、緩やかにするかで対立が表面化し、ついには和解できない混乱の中で教団は分裂しました。
規律を厳格に忠実に守るべきだとする保守派の長老たちのグループは「上座部」、これに反対し戒律を緩めるべきだと主張する進歩派のグループは「大衆部」に分裂(根本分裂)しました。
また、地域の特性や思想の違いなどからさらに細かい分裂(枝末分裂)を繰り返しました。これを「部派仏教」といい、各部派が自らの正当性を主張して別々の道を歩むことになります。
「大衆部」からは大乗仏教が興起しました。大乗仏教の特長は、多くの諸仏や諸菩薩が登場し、民衆に利益と安楽をもたらす「利他行」の要素が顕在化することです。
大乗の菩薩とは、釈尊の菩提樹下の悟りの体験を自ら追体験しようと修行する者たちの名称でした。菩薩であることを自覚して修行に励む者は、厳しく自己を律し利他行を実践することでブッダとなる誓願をたてました。
上座部仏教(小乗)の修行者が個人の悟り(自利行)を目指して阿羅漢を目標とする修行をしましたが、菩薩はこれを批判して衆生の中に入り利他の実践をしました。
釈迦の初期仏教の実践論は「四諦と八正道」にありましたが、大乗仏教では自利的な要素と対人関係の要素がセットになった「六波羅密行」に移行していきました。
大乗仏教は出家ぜずとも誰もが平等に救われるという教えですが、さすがに何もしなくともよいわけではなく、六つの基本的な修行が必要とされました。
六波羅密行とは、1布施(人々の為に尽くす)、2持戒(殺人や窃盗をしない)、3忍辱(耐え忍ぶことを身に付ける)、4精進(努力・精進する)、5禅定(精神を集中させる)、6般若(事実や真実をありのままに見る智慧を身に付ける)という六種の波羅蜜行をいいます。
1〜4は「行」に関するもので、戒・定・慧の三学でいえば、「戒学」にあたる部分です。布施・持戒・忍辱・精進は修行の基礎部分にあたります。この基礎が一通りできることを前提として、5禅定という「定学」に進みますが、禅定とは、仏と同じ境地になること、仏を信じる心、菩提心を持つことを言います。最後に6の智慧という「慧学」に至り、悟りの内容(その概念は「自性清浄心」、「本覚思想」、「如来蔵思想」、「三摩耶心」などで表現される)を知ることで六種供養が完成しますが、これは、「戒学」⇒「定学」⇒「慧学」という修道の階梯を示すものであると考えられます。
この説の特徴は、煩悩と苦悩に覆われたこの世(此岸)で修行して生きる智慧を身につけることにより、人が悟りの世界(彼岸)に渡れる(悟る)とするものです。
大乗の利他行は「人々の救済」という具体的な方法をとることになりますが、救いを求める者には「社会生活での不安や苦悩を取り除く行為(社会事業)」と「死後の世界への不安を取り除き、意義のある生き方を導こうとする行為」が求められるようになりました。
これが菩薩に求められた救済方法です。菩薩の修行は「上求菩提」「下化衆生」と表現されてきました。上(仏)には菩提を求め、下(声聞・縁覚・六道の衆生)には教化し救済を行う修行です。
インドから中国に伝わって根付き花開いた仏教の初めは、「訳経僧」と呼ばれる西域の僧たちによってもたらされた経典から始まりました。
彼らはインドや中国の出身者ではありませんが、仏教の教えを評価し、インドの言葉を習得して中国に大乗経典をもたらしたのです。
経典が漢語に翻訳される過程で、仏教が受け入れやすくするために意味の拡張や加筆が少なからず行われたことは周知の事実です。
特に、インド人の価値観や世界観がそのまま中国人に受け入れられない要素を持つ言葉や儒教や道教の思想と合わない内容は書き改められたものと考えられます。
また、仏教が受容されやすくする狙いから、いかにも本物の経典のように装う偽経が多数作られました。今日に伝承された様々な経典にも真偽が明らかでない要素を持つ経典が多数あると考えられます。
訳経は、語学に堪能な数人の訳僧が役割分担する共同の作業で行われました。
1 担当者が原典を一節づつ言語で読み上げる。
2 これを聴いた翻訳者が中国語に直訳する。
3 更に別の担当者が漢文に筆写する。
4 言葉の意味内容を分かり易く整え、適切な漢文に推敲する。
5 文章の格調(語韻など)を整える。
ただし、翻訳の各段階で、解釈者の思想や価値観が混入され、原文が書きかえられることがあったと考えられています。
知られている著名な訳経僧は、そのほとんどが西域出身の王族や上流階級に属した者たちです。彼らは恵まれた身分を返上して自らの意思で出家した者たちです。
安息国の太子であった安世高は王位を弟に譲って出家し、148年に中国・後漢の都城・洛陽に入り部派仏教の論書アビダルマを中国に伝えました。また、安は呼吸を整えて精神を集中し解脱に至る瞑想法を伝えました。
月氏出身の支婁迦讖(支讖)は、168〜189年頃の霊帝の頃、洛陽に入り、般若経典の中で最も古いとされる『道行般若経』等の大乗経典を翻訳しています。
祖父の代に月氏国から中国に帰化した支謙は、『大明度無極経』(支讖が翻訳した『道行般若経』の同本異訳)を翻訳して「空の思想」をもたらし、初期の中国仏教界に多大な影響を与えました。
先祖を月氏国出身にもつ竺法護は敦煌に居住していましたが、266年〜308年の間に『般若経』『法華経』『維摩経』『無量寿経』等数多くの大乗経典を訳して、中国に大乗仏教を定着させた功績があります。
4世紀後半〜5世紀には法顕(詳細不詳)と西域の亀茲国出身でインド貴族の鳩摩炎を父とする鳩摩羅什(344-413)の翻訳がありました。中央アジアのシルクロードに地理的に立地する西域諸国には紀元前の早期にインド仏教が伝播して布教されていました。
鳩摩羅什は原始仏教や上座部仏教の主流を形成したアビダルマ仏教に精通していましたが大乗仏教に転向し、主に中観派の論書を研究しました。384年に中国・後涼の捕虜となりますが、401年に後秦に迎えられ長安に移転しました。
中国で漢語を17年間学び、『法華経』『阿弥陀教』『中論』『大智度論』『成実論』などを漢訳して多大な貢献をするとともに中国の三論宗と成実宗の基礎を開きました。奈良仏教の三論宗と成実宗は中国から直輸入された宗派です。
鳩摩羅什、玄奘三蔵、真諦、不空の四人を四大訳経家と言います。
玄奘三蔵(602-664)は中国唐代の訳経僧です。生家の陳氏は後漢以来の士大夫の家系でしたが、王朝の興廃により複数の王朝に仕えています。
仏典の研究は原典に拠るべきであると考えた玄奘は、唐朝の許可を得ることなく密出国でインドの仏教思想を直接に求める旅に出ました。西遊記は玄奘の旅行記『大唐西域記』をタネ本にして書かれた劇作です。
645年に、16年間の艱難辛苦を克服して経典657部や仏像を唐にもたらしたことでその業績を太宗から高く評価されて膨大な経典の翻訳に従事しました。西安の大慈恩寺には玄奘の持ち帰った経典や仏像を保存するために大雁塔が建造されました。
玄奘三蔵は法相宗の開祖となりましたが、1942年に南京市の中華門外にある雨台の石棺内に頭骨と複数の副葬品が旧日本軍に発見されたことから、その一部がさいたま市の慈恩寺に分骨され、さらに、その一部が奈良の薬師寺に再分骨されています。
真諦(499-569)は西インド出身のインド僧でしたが、中国・涼の武帝に招かれて経典の翻訳に貢献しました。
主な翻訳は『摂大乗論』『倶舎論』などがあり『大乗起信論』は中国や日本の仏教徒に多大な影響を与えました。
真諦は、大乗仏教の中でも瑜伽行唯識派の思想を伝えた功績があります。
不空(705-774)は、インドから中国に渡来した僧です。720年に唐に渡り、師僧の金剛智を助けて訳経に従事しましたが、金剛智の入寂後の741年インドに戻り龍智から密教の秘法を伝授され胎蔵・金剛両部の伝法灌頂(五部灌頂)を受けました。746年に中国に帰り、以後中国で死ぬまで訳経と布教に従事しています。
玄宗・粛宗・代宗の三代の帝師となり『金剛頂経』など密教経典110部143巻を翻訳し中国密教の基礎を築きました。
不空の弟子には六哲と称された含光・慧超・恵果・慧朗・元皎・覚超がいますが、特に、恵果は空海に密教を伝法灌頂したことで真言宗の「付法の八祖」の第六祖、「伝持の八祖」の第四祖に位置づけられました。
仏教の伝播には、二つの大きなルートがあります。その一つは「北伝仏教」(サンスクリット語の原典)といい、いわゆる大乗仏教のルートです。もう一つは「南伝仏教」(パーリ語の原典)といい、いわゆる上座部仏教(小乗経)のルートです。
北伝仏教は、紀元前2世紀にインドのマガダ国から中央アジアの大月氏国に伝えられました。この仏教は上座部(部派仏教・小乗経)の経典や部派仏教の論書アビダルマです。この時代には大乗仏教がまだ成立していません。
紀元前後に成立した大乗仏教は、シルクロードの起点となる西域に伝わり仏教文化が定着して仏教美術が花開きました。紀元前2-紀元4世紀頃には断続的に西域から様々な経典が中国に伝えられ、中国で中国文化(道教・儒教)と融合し中国独特の仏教文化が生まれました。
中国から、384年に百済、372年高句麗に、528年新羅に、538-552年頃日本に伝播されました。7世紀にチベットに、8世紀にはモンゴルに伝播されました。8世紀には中期密教が成立しますが、後期密教の成立は11世紀で、この時代にはまだ成立していません。
東アジア地域に広まった大乗仏教は中国文化の影響を受けた中国系仏教の色彩が色濃く反映されたものです。
仏教は西域地方に早くから伝えられたと考えられています。紀元1世紀に北インドに大帝国を築いたクシャーナ王朝は西域の月氏族がインドにやってきた征服王朝です。
仏教は、紀元前3世紀頃のアショカ王の時代にインド中央部から西北インドに広がり、中央アジアにまで及んでいたものと考えられています。
南伝仏教は、紀元前3世紀頃、アショカ王がセイロン(現スリランカ)に王子を派遣したことから上座部(部派仏教)の大蔵経(パーリ語の聖典)が伝播されました。
5世紀頃にビルマ(現ミャンマ-)に伝えられ、7世紀にジャワ、ピィリッピンに、8世紀にはカンボジアに、13世紀にはタイ、ラオスに伝播されました。
釈迦の在世に成立した仏教経典はありません。ブッダが語った言葉そのものが書かれた経典もありません。
ブッダが使ったと思われる「古代マガダ語」で書かれた経典はありません。仏教が伝わった西インドではパ-リ語が使われていました。
最初の経典は、紀元前1世紀にスリランカで作成されたパ−リ語の経典「ニカーヤ」です。これが現存する最古の経典ですが、ブッダの言葉に一番近い経典といわれています。
パーリ語による南伝大蔵経「ニカーヤ」は原始仏教経典と呼ばれます。
サンスクリット語から漢訳された北伝大蔵経「アーガマ」を大乗仏教経典と呼ぶところから、これと区別するために「原始仏教経典」と呼ばれています。
ニカーヤ教典とほぼ同一内容のアーガマ教典があることが知られています。
大蔵経とは経・律・論の三蔵の全体を云います。
インドから中国に伝播された仏教は、百済を経由して日本に受け入れられました。しかし、韓国=百済ではなく、韓国=高句麗でもなく、韓国=新羅でもありません。百済・高句麗・新羅の三国は風俗習慣や言語を異にする異民族国家であり、相互に存亡をかけて領土・資源の奪い合いを繰り返しましたが、順次に敗者が滅亡し、最後には三国とも滅亡しました。現在の韓民族はこの三国と同一の遺伝子をもつ民族とは考えられません。(韓国の歴史教育は捏造と考えられます。)三国の歴史は朝鮮半島の中にありましたが、現在の韓国民族の歴史とは認められません。
朝鮮半島の民族国家の興亡の歴史的な特徴は、敗者の王族は徹底的に殲滅され、その民は奴婢になる略奪の歴史の繰り返しでした。互いが異民族であることから、共存共栄の意識がなく、相互に憐憫の情が欠落していました。敗者が復活すれは復讐を受ける恐れがあることから、相手を徹底的に殲滅し、すべてを奪い尽くす略奪が行われました。敗者は最後まで抵抗して死を選ぶか、すべてを捨てて半島から避難するしかなかったのです。奴婢となって生き延びた女性の女系遺伝子が伝わっている可能性はありますが、男系遺伝子は生き延びることができない過酷な世界でした。このような社会状況の中で、(多数説では)三国の王族の一部や多くの避難民が弥生人として日本に渡来して来たと考えられています。
現在の韓民族の祖形は、南下してきた北方系狩猟民族を主流とする諸民族の混血によって形成された人々であろうと考えられています。高麗、李氏朝鮮を形成した民族の遺伝子を受け継ぐ民族と現在の韓国(朝鮮)民族との同質性は認められます。ゆえに、韓国が日本に仏教など様々な文化を伝えた兄の国(日本は弟)とする捏造説は、朝鮮民族に特有のファビョン史観の中にしか生まれない妄想と考えられるのです。朝鮮半島の歴史は多数民族によって様々な歴史事実が彩られたのであり、現在の朝鮮民族の歴史とはいえないのです。また、現在の朝鮮民族が韓民族(古代中国より朝鮮半島に逃れてきた中国系民族)と名乗っていることにも大きな違和感があります。民族的な同質性があるとは全く考えられないのです。第二次世界大戦終結後に棚ぼたの恩恵によって日本から独立させてもい1945年以降の大韓民国成立後にその民族性を捏造したファビョン史観と考えられます。
朝鮮半島を経由して日本に伝わった仏教は、日本古来の古神道や山岳宗教の要素が取り入れられて結合しました。しかし、朝鮮半島経由の仏教は、今日の日本仏教の主流となった仏教ではありません。数点の文化的な価値を持つ仏像が伝わっているだけです。今日の日本仏教は、インド仏教の精神をベースにしながらも中国仏教の独自性のある精神をも受け継ぎ、日本仏教として、奈良、平安時代に成立し、鎌倉時代に新仏教が生まれました。 仏教を学ぶには、この歴史的な変遷を十分に理解しながら、それぞれの思想がどこから生まれたものであるかを吟味する必要があるのではないかと考えられます。  
大乗仏教2 / 宗派の特徴と抗争

 

仏教の特徴は、同時に多くの大乗経典の存在を容認し、さまざまな「教理」や諸仏・諸菩薩の存在を受け入れたことです。仏教にたくさんの宗派や教団が存在する理由はここにあります。
インドから中国に仏教が伝来し数多くの経典が翻訳されるようになると、経典の内容や理論的な整合性が問題にされるようになり、内容に食い違いのあるすべての仏典を体系的に理解しようと努める機運がでてきました。
まず文献学の考察を無視した立場から、全ての経典は釈迦の一代聖教であるとの前提で経典の成立順序に関係なく体系化しようとする教理解釈の方法論が考えられました。
この説は、各教典の教説を「教えの浅いもの、深いもの」と「能力や理解力の優劣によって説かれたもの」を区分し、悟りから涅槃に至るまでのブッダの生涯にどのように位置づけるかと考えたのですが、これが中国における教理解釈の基本となり、中国で仏教が変質しました。
これが中国で始まった「真実の教えさがし」です。これから法華経が最高とか、浄土教が一番とか主張するグループや教団が名乗りを上げるようになります。
この頃、中国に密教は伝えられていないので密教が登場する機会はありませんでした。
この中で中国天台山に「智」が現れ、すべての仏典を釈迦の一代聖教として位置付け、これを五時八経に分類して法華経を最高とする独善的な説を立てました。この説から中国天台宗が成立し、日本では最澄によって比叡山に天台宗が開宗されました。最澄は渡来系の氏族の出身で幼少期より英才で知られ、将来を嘱望された人物です。
天台智がとったこの方法は、「あるべき論」からいえば賞味期限切れの教判論と考えられます。
混沌とした時代に、一定の整合性や統合性を目的として大鉈を振るう教判論が出てくるのは時代の要請であったと考えられます。
しかし、各経典を根拠とする教判論は8世紀以降には出尽くした観があります。
時限的に有効であった教理論でも安定期を迎えれば評価基準が変わるのは当然です。
文献的な考察や経典の思想の価値の比較検討、経典の真偽(埋蔵教や偽書)を学術的に研究する方向に転換していくのは本来のあるべき姿です。
有効期間の過ぎた教理論をいつまでも振り回すのは明らかに間違いです。
もし、釈迦の在世に法華経や華厳経などの大乗経典の内容が確立していて、この精神が釈迦の金口から直接に説法されていたのであれば、上座部(小乗)と大衆部(大乗)の分裂もなかったであろうし、20余の部派仏教の分裂や大乗仏教の多数の経典や分裂など、様々な乱立の歴史はなかった、と考えられます。上座部から大乗非仏説が出てくるなど考えられない、といえるのです。
最澄と南都六宗の間で様々な論争がおきました。最澄から仕掛けたものです。
802年に、高尾・神護寺で、最澄は朝廷の斡旋を受けて南都六宗の七大寺の高僧を集め、天台の三大部を講じて法華一乗の思想を宣揚しました。
このとき、南都六宗側は最澄の講説に特に反駁することなく、最澄を讃嘆する旨の書状を天皇に提出した事実がありました。天台宗ではこれが南都六宗の敗北であり、以後、天台宗の風下に立つことを認めたと宣伝することになりました。
しかし、この天台宗の態度はいかがなものかと考えます。南都六宗は中国の天台宗の教理を知悉していたのは当然です。中国で華厳宗や法相宗との間で様々な法論があり結論が出ていないことを知っています。反駁しなかったことも、書状を差し出したことも天皇や朝廷の意向に敬意を払っただけだと考えるべきでした。
南都六宗の七大寺の高僧が天皇の面前で反駁したり激論したり出来るはずもありません。不快な気持をぐっと飲み込んだ、ものと考えられます。
密教を空海から学ぶことをあきらめた最澄は、本来のテーマである奈良仏教の攻撃に軌道修正しました。法華第一の説に立って、これを認めない南都六宗(法相宗の「徳一」)に法華経の解釈をめぐる「三一権実論争」(法華権実論争)を仕掛けました。
この理論闘争は、5ケ年にわたる長いものでした。発端は関東布教を決意した最澄が、会津の磐梯恵日寺(寺僧300人、僧兵3000人、堂塔伽藍100以上、子院3800坊の大寺院)を天台宗の傘下に入れようとして法論を挑んだことで勃発したと考える説があります。徳一は藤原仲麻呂(恵美押勝)の子であり藤原不比等の孫という説がありますが、『東国高僧伝』のように「釈徳一。何許のひとなるか詳らかならず」とする説もあり、必ずしも出自が一定していません。徳一は、藤原氏の氏寺・興福寺で法相宗を学んだ比類のない逸材といわれた唯識の大家であり学僧です。一時、道鏡のために不遇を極めましたが、道鏡が失脚して復活しました。後に、東大寺の役僧になっていることから、空海とは東大寺の縁がある人物です。徳一が東国に移住した理由は定かではありませんが、最澄は徳一は二十歳頃に東国に向かったと『守護国界章』の中で理解しています。徳一は、陸奥の国会津の恵日寺を拠点として多くの寺院を建立し多数の門弟を擁していましたが、『本朝高僧伝』によれば、朝廷の意向に逆らったがために左遷されて常陸国・筑波山の中禅寺を建立して開山となっています。左遷の理由には、最澄に対する批判をあげる説があります。
最澄と徳一の論争のそもそもの発端は、徳一が東国の化主として人々から賞賛されていた「道忠教団」を批判したことに始りまるという説がありますが、これによれば、最澄が割って入り「道忠教団」に肩入れしたことから最澄が「三一権実論争」(法華権実論争)の当事者になったということになります。道忠(生没年不詳)は、日本に天台宗の教義をまとめてもたらした南都の唐招提寺の開祖・鑑真和上の持戒第一の弟子といわれた人物であり、その弟子の教興、円澄(第二代天台座主)、広智(その門下の円仁が第三代天台座主、安慧が第四代天台座主となる)などが、最澄の一切経書写の援助をした関係性があり、彼らがこの縁故で比叡山に上って最澄の弟子になったのです。「道忠教団」は、初期の比叡山延暦寺の重要な人材を輩出した(天台教義を持つ)教団でした。
徳一と最澄の論争における争点は、平安初期の日本仏教界の思想の在り方を知る上での重要な手がかりになるものであったと考えられます。その争点は1経論の価値、及びその撰述にかかわる問題、2実在と現象との問題、3仏性論の問題、4仏身論に関する問題、5実践修行に関する問題など五種類に分類されています。しかし、これらを多岐にわたって記述すれば、仏教思想全般に及ぶ広範囲なものとなり煩雑になりますので、ここでは、「三一権実論争」(法華権実論争)のそもそもの問題点について考えたいと思います。
この論争は、三乗(声聞乗、独覚乗または縁覚乗の二乗と菩薩乗)と一乗(仏乗)のどちらが真実の教えか、仮の教えかを論じるものです。鳩摩羅什の漢訳になる『妙法蓮華経』方便品の一節にある「無二亦無三」の解釈についての対立から始まるものでした。この一節の前後は「十方仏土の中には、唯一乗の法のみ有り。二無く亦三無し。仏の方便の説をば除く。」(植木雅俊・訳)というものですが、この一節の解釈の相違から大論争に発展したものでした。
なお、この該当部分のサンスクリット原典では「乗り物はただ一つであり、第二の者は存在しない。実に第三のものも世間には〔いついかなる時にも〕決して存在しない。乗り物が種々に異なっていることを説くという人間の中の最高の人〔であるブッダ〕たちの方便を除いては。」(植木雅俊・訳)と訳されています。
光宅寺法雲や天台智は「一仏乗のみがあって、二乗(声聞・独覚=縁覚)もなく、また三乗(二乗と菩薩乗)もないとする解釈を示しました。
これに対し、法相宗の慈恩大師は鳩摩羅什が「二」「三」と訳した箇所は原文では「第二」「第三」であるとして「一乗(仏乗)のみがあって、第二の独覚乗も第三の声聞乗もない」と解釈したのです。(植木雅俊・著「仏教本当の教え」中公新書)
智等は声聞乗と独覚乗、菩薩乗と仏乗の四つの乗り物があると考えたので「四車家」の説といわれます。これに対して、慈恩は声聞乗と独覚乗、仏乗の三つの乗り物を前提にしたので「三車家」と言われました。
この争いは、鳩摩羅什の漢訳を基にするものでしたが、サンスクリット原文によれば、前半分は真実の乗り物(一仏乗)が唯一で、それ以外に第二、第三のものはないと強調するレトリックであり、二乗(声聞と独覚=縁覚)と三乗(二乗と菩薩)は方便としては存在するという内容でした。漢訳を基にした双方の解釈は誤りでした。
四車家と三車家の考え方の違いは、小乗仏教(上座部)の説一切有部の三乗説と法華経の三乗説の違いを反映したものでした。
両説の見解の相違点は「菩薩」をどのように観るかという立場の違いからくるものです。四車家の見解は法華経が説く三乗説の立場からの見解であり、三車家の見解は説一切有部の三乗説の影響を受けた立場からの見解でした。
実は小乗仏教では菩薩は「覚り(bodhi)を得ることが確定した人(sattva)」と考え、それは釈迦以外には存在しないと考える特徴があります。この立場では、声聞乗によって到達できるのは「阿羅漢果」、独覚乗によって到達できるのは「独覚果」であり、いずれもブッダ(仏)以外には到達できないと考えるのです。
ゆえに、菩薩=釈迦であり、それは仏と同一の存在であると考えます。菩薩のための乗り物も、仏のための乗り物も釈迦(ブッダまたは釈尊)に限定された乗り物と考えるので、仏乗は出家修行者の手が届かないもの、すなわち、一仏乗は権(仮)の教えでしかないと考えるのです。実は、上座部(小乗教)と大衆部(大乗教)の大きな見解の相違の一つがここにあります。
これに対して、大乗仏教では、菩薩とは「覚り(bodhi)を求める人(sattva)」であると宣言して「覚りを求める人は誰でも菩薩である」と見做し、釈迦が菩薩として修業した内容を自らも追体験する意思を持った幾多の大乗の菩薩が誕生して様々な経典を編纂したのです。
説一切有部が主張したのは、人は誰でも能力や素質などの諸要素に影響されるもので、仏道修行も当然に皆平等ではありえない、ということにあります。この影響を受けた中国法相宗では「五性格別」という説をたてました。
その内容は、1仏果を得ることが決まっている人、2阿羅漢果を得ることが決まっている人、3独覚果を得ることが決まっている人、という(決定性)の人々、4いずれにも決まっていない人(不定性)、5覚りとは全く縁のない人(無種性)に仕分け、人の能力や素質、努力などの差別観を容認したのです。仏道修行といえども個人の問題であり、そこには能力差、努力や素質の影響があることは当然と受け止めたのです。
しかし、中国天台宗を興起した智らは、「全ての人ば誰でも成仏できる」と主張して、その論理性を維持する必然性から、人のように意思のない草木や瓦礫にまで仏性を認め、単なる成仏の可能性の次元を飛び越える「成仏の不差別」を主張して激しく対抗したのです。
この「瓦礫にまで仏性を認める」智の主張は上座部仏教の伝統的な仏教概念と激しく対立する異説といえるものですが、瓦礫等であっても人の意思や情念を受けた因縁生起(縁起)によって仏の尊像という成仏の姿にさえ成ることができる、という見解をベースにするものであると考えられるものです。
「衆生の心の深奥部にはブッダとなる種子を持っている」とする如来蔵思想は、意思(悟りに向かう菩提心)を持つ人間を前提にする概念であり可能性の問題でした。本来的には姿も形もない仏の姿を金・銀・銅の鉱物や、木や紙(絵)に尊像を仮象して仏の造立が行われたことで、縁起があれば、非情世界の石や金属また木や紙(絵)も成仏が可能であるとする論理性にこだわったものと考えられます。
しかし、論理的な可能性は何もしない不作為の状態にあるにもかかわらず「成仏の不差別」を保障するものでないことは当然です。
基本概念として認識しなければならないのは、悟りに向かう原動力は人の意思であるということです。意思のない非情世界の瓦石にまで仏性を認める見解はインドの釈迦仏教の論理性と矛盾する見解と考えられますが、この天台の法華経の考え方は最澄に引き継がれ比叡山天台宗が高い評価を受ける大きな要素となりました。
しかし、法華経は、法華経の受持によって諸菩薩の救済が受けられることを説くだけで、成仏に至る修業の方法やプロセスなどの具体的な内容は何も語っていません。
戦後、法華経を依経とする新興宗教団体が乱立して、様々に法華経を賛嘆して布教活動ができたのは法華経の曖昧さにあるのではないかと考えられる一面性が在ります。この中には様々な創作を随所に混入させる新興宗教団体が現れて会員数を力にする特異性のある布教活動を行っています。 
大乗仏教3 / 宗派の論争

 

この論争は、端的に言えば「成仏の可能性」についての争いです。最澄は「誰れでもが成仏できる」といい、徳一は「人には生まれつき成仏できる能力を欠く者がいる」という争いです。
人々に成仏の具体的な方法を示すものでなく、成仏の可能性の考え方や観念の相違でしかない水掛け論です。この議論の勝負がついても人々の成仏に何の影響もありません。
しかし、この議論の勝負がついても本質的には「可能性の問題」でしかないことは双方が十分に認識できるはずです。勝負にこだわるのは「論理性の帰結」に関わる問題だからです。
個人の資質を無視した論理は虚しさが募ります。また、個人の資質にこだわって、成仏の可能性さえも閉ざす人々を作ることになる論理性も無残です。
本質的にはこの争論の決着がついても、日々に変化する現実の社会に生存する個々の人々の成仏は個人の可能性の問題であり、どんなに優れた教理・教論であっても人々の成仏を保障するものではなく、また、本人以外には誰であれ責任が取れる問題ではありません。
成仏論の前提には人間の存在をどの様に見るか、という現実的な問題が解決される必要性があります。
「個人の資質」を問題にしたのが、唯識論を学んだ法相宗の徳一の立場です。しかし、徳一は法相宗・唯識思想の大家であり、奈良仏教が研鑽した華厳や三論などの大乗の教理に通じた類まれな資質を持つ高名な高僧です。
最澄の立場は人間性の個別性や特質、個人の資質を問題にしていません。人間が生活環境の中で様々な影響を受けながら、向上心を失わず、悟りに向かう心(菩提心)を持ち続けられる存在かどうかの考察がありません。
この議論は、様々な環境要因に様々な制約を受けながら生存している人間存在を見誤った空虚な空中戦でしかないように考えられます。人間をどうみるかの考察を解決してからこの問題を議論すべきだったのではないかと考えます。中道の視点が欠落しているように見えてしまいます。
中国でも決着がつかなかった問題を蒸し返すのは、何らかの意図があるからだと考えられます。この問題は、天皇や朝廷の意向を背負った最澄が政治的な作為をもって仕掛けた法論だと考えられます。
最澄の背後に天皇の意向を感じた南都六宗側に十分な対応ができるはずもありません。
南都六宗であっても天皇の意思に背けないのは当然です。唯識論や倶舎論などで論陣を張り議論なれした南都六宗が、天台教学や法華一乗の論理に屈することなど考えられません。
見方によっては、この法論は王法が仏法を責める一方的なものであり、天皇の意思を背負った最澄の生真面目な性格が災いして妥協のない修羅場に行き着くことになったものと考えられます。
当時、奈良仏教の勢力を抑え込むことは天皇や朝廷の政治的な方針でした。桓武天皇が平城京を捨て平安京に遷都した大きな理由の一つに南都六宗の政治に対する介入を阻止することがあげられます。
奈良時代の仏教は、政治体制の中に組み入れられ過剰な保護を受け続けた結果、1寺院が大土地を所有して律令体制の経済政策に悪影響を及ぼしたこと、2僧侶の腐敗、例えば、玄ムや弓削道鏡は政治に深入りして失脚し追放されています。さらに、3多数の寺院への出費がかさみ国家財政が逼迫した、ことなどにより仏教の革新が要請されたのです。
比叡山は総合的な仏教アカデミーであったという説明を聞くたびに違和感を感じます。
比叡山自体が密教なのか法華なのか定まらず、しかもこの中から出てきた禅宗と浄土(真)宗は比叡山の教義から外れたものです。.
日蓮宗の思想はあまりにも尖鋭的でドラステック、しかも教条的で頑迷です。それぞれがあまりにも違いすぎる教義を持ち、思想そのものが激しく対立する概念を持っています。
単一の教団から何故このような異なる思想の教団が乱立したのか不思議です。
比叡山の厳格な修行の中から簡略な新宗教がでてくるのは、あたかも、救い難い末法思想の蔓延という特別な時代背景を反映した舞台装置の上の狂喜乱舞を見ているようです。
当初、比叡山ではこれらの新宗教の登場に驚愕して弾圧という方法を何度も取りました。
しかし、これらの教団が民衆の支持を得て教勢を拡大し世間の認知と定着を勝ち取ると一転して教祖の評価を変えました。
800年の長きにわたり異端視してきた鎌倉新仏教の祖師の評価を掌を返すように変え、比叡山に祖師たちの業績を顕彰する看板や遺影を掲げ始めたのは昭和40年代のことでした。
比叡山の閑静な佇まいが急速に俗塵に染まり始めたのです。
これらの教祖は比叡山で学んだ偉人であるという形を作り上げ、比叡山が総合アカデミーであることを強調して積極的に宣伝に利用するようになりました。
空海は奈良仏教の華厳宗や法相宗などの教理のうち是認できる部分は包摂し、不適切なものは純化する手法を用いたので、奈良の諸大寺とは協調的な関係を築き友好関係にありました。
空海は東大寺の別当、大安寺の別当となり、興福寺で藤原冬嗣のために一族の繁栄を祈願する儀礼を行っています。
密教は一切のものと対立せずに包み込む基本的な性格があります。空海は、南都の諸大寺の高僧と親睦関係を生涯続けました。 
密教の萌芽の過程

 

インドは多民族によって形成された混成国家です。多数の民族が興亡を繰り返した数々の歴史を持っています。 紀元前13世紀頃、コーカサス北方を本拠地としていたアーリア人の一派がインドに侵入し、インダス上流のパンジャブ地方に定住して独自の文化を形成しました。 これがインド・アーリア人の起源です。その文化をアーリア文明といいますが、インドには多数の先住民族が存在していてそれぞれの文化を持っていました。その代表格がインダス文明です。
先住民族のインダス文明は、青銅器を用いる文化です。ハラッパやモヘンジョ・ダロなどの都市を建設し、メソポタミア文明との関係性をもつ文化でしたが、アーリア人に征服され衰退しました。 征服された先住民族は、現南インド地域に居住するドラビダ人、現中インド地域に居住するムンダ人と考えられます。これら非アーリア人は、平野部に住む人々は農耕を、山間部に住む者は牧畜、狩猟採取をおこなっていましたが、部族構成は母系的な家族制度でした。
インダス文明の遺品から、人々は獣・鳥・樹木・女神・生殖器などを崇拝し、宗教的な実践法としてヨーガ(yoga)を行っていたと考えられます。また、これらの人々は呪術に長じていて日常生活や生産活動に用いていたことが知られています。 このような非アーリア系の文化が後世のヒンドゥー教に影響を与えましたが、密教もまたその多くの要素を非アーリア文化から継承しています。
インド最古のヴェーダ聖典は、もっとも古い「リグ・ヴェーダ(賛歌)」(Rg-veda)が紀元前1200-1000年頃にパンジャブ地方に定住するアーリア人にって編纂されました。 紀元前1000年〜500年頃に「サーマ・ヴェーダ(歌詠)」(Sama)、「ヤジュル・ヴェーダ(祭詞)」(Yajur)、「アタルヴァ・ヴェーダ(呪詞)」(Atharva)の3ヴェーダが作られ、バラモン教が成立しました。
紀元前10世紀頃、アーリア人と先住民のドラヴィダ人の混血がはじまり、宗教の融合が始まりました。紀元前5世紀頃にバラモン教が誕生する淵源となる出来事でした。
バラモン教とは司祭階級のブラーフマナが祭祀を通じて神々と関わる特別な権限を持ち、宇宙の根本原理・ブラフマンに近い存在とする宗教です。カースト制度という四姓制に特徴があります。
これは、司祭階級のバラモンを最上とし、クシャトリア(王族・戦士階級)、ヴァイシャ(庶民階級)、シュードラ(奴隷階級)という身分制度ですが、生まれによって決定され生涯変わることのない身分制度で、現代でも生きています。
カースト制度の下には四つ身分の他に身分外のアチュート(パーリア:不可触賤民)が置かれています。現在のこの身分の人口は一億人を超えるといわれていますので、ほぼ日本の総人口に匹敵する人々が存在していることになります。異常な数字です。
なお、異なるカースト間の結婚は認められないのがこの制度の特徴です。しかし、カースト制度のヴァルナ(身分)の差別よりもジャーテイ(職業)の差別のほうが耐え難い差別であるといわれていますが、インド人は現在のカーストは過去の生の結果であるから、これを受け入れて人生のテーマを生きるべきだと考えています。 1950年にカーストによる差別は憲法で禁止されましたが、インド社会の中には根強く生きています。
カースト制度の思想的な背景はカルマ(業)とサンサーラ(輪廻)にあります。これらがインド人の死生観や世界観を形成してきたものですが、この思想(バラモン教とヒンドゥー教)は仏教の解脱思想に大きな影響を与えました。仏教はバラモン教やヒンドゥー教に対するアンチテーゼによって出現した側面があります。
リグ・ヴェーダの神々の神格が発展し、土俗神と結合して変容し密教のマンダラに編入された代表的なものに、帝釈天、水天、火天、月天、風天があります。また、密教の大日如来(毘盧遮那仏)の起源はアスラにまで遡ることができるといいます。 アスラは後期ヴェーダ時代にはデヴァーと対立する神格でしたが、これはアーリア人に征服された先住民の象徴と見られています。 密教の真言の祖型はリグ・ヴェーダのマントラ(mantra)に求められます。
古代インド人にとっては、宗教儀礼と呪法は本質的には同質のものと考えられていました。これらはいずれも願望達成のための手段です。ヴェーダ祭祀は呪法と密接に結びついたものでした。
リグ・ヴェーダの神々に捧げたマントラには、ほぼ30種類の呪法があります。その代表的なものは、病気治療、怨敵放逐、危害除去、祈雨、戦勝などの呪文です。
紀元前1000年以降の後期ヴェーダ時代には、アーリア文化と非アーリア文化の交流が促進されて「アタルヴァー・ヴェーダ」が生まれ、呪文や呪法の占める比重が急激に増大しました。 その内容は、治病法、息災法、長寿法、増益法、贖罪法、和合法、女事法、調伏法、王事法、バラモン法などでした。
息災、増益、調伏の修法は「蘇悉地法」や「大日経」系統の三種法の名称と一致し内容も異なるところがありません。ちなみに、「金剛頂経」系統は、これらに敬愛と鉤召を加えた5種法です。5種法のサンスクリット語もヴェーダ文献の一部に見られるものです。 また、密教の護摩の炉は、ヴェーダ時代の火炉と類似する点が多く、密教のパンテオンや修法の中にはヴェーダの文献にその祖型が見られるものが少なくなくありません。
アーリア文化がガンジス河の上流地域から次第にインド中央部に浸透するにつれ非アーリア系の土着文化を吸収して融合し発展した結果、土着民の思想と文化がアーリア人の宗教の中に次第に摂取され表面化するようになりました。
密教の忿怒尊は非アーリア文化系にあったものです。五大明王はドラヴィダ人の家内奴隷に起源をもつといわれ、グプタ朝時代以後に密教に取り入れられたものです。金剛夜叉明王はインダス文明の母神像と密接な関係が想定されるものです。 大元帥明王の前身はアータヴァカ(Atavaka)に、毘沙門天の前身はヴァイシュラヴァナ(Vaisrevana)に求められ、母権制社会を構成していた非アーリア人の姿がそのま投影されたものと考えられます。 孔雀明王のマユーラ(mayura)はムンダ語のモーラ(mora)から、龍王のナーガ(naga)は非アーリア語に起源があります。
また、したたる生血、人肉に対する食慾、蛇の腕輪、人間の頭蓋骨の首飾りや腕の飾りは非アーリア系のドラヴィダ語を話す人々の間で尊敬されている母神の特性です。これらの特徴は後期密教の母タントラ系の母神の特性であり、農耕儀礼の名残りと考えられます。 祈雨・止雨などの農耕呪術は非アーリア社会では女性の役目でしたが、アーリア化したことによって次第に男性の役目に転化したと考えられます。
仏教は釈迦によって始まりました。紀元前500年前後のことです。 釈迦は呪術やバラモンの宗教儀礼を否認しました。これは原始仏教教団の基本的な性格の一つと見られてきました。 初期の仏教教団が呪術の類を排除した原因は、ブッダの教説が、他に依存することなく、徹底した自己の凝視を求める基本的な立場を取ったことにあると考えられています。 それにも関わらず、ブッダの教説の中には、究極の智慧が明として表現されています。明は、明呪とも云い呪術を意味する言葉です。
中国の教典翻訳の過程でパリー語のvijja、サンスクリット語のvidya(宗教的な目覚めの智慧)が明と訳されました。明は人間存在のあらゆる苦悩の原因である無明を除くものです。 明は古代インド人にとっては明呪の法であるとともに一種の科学と受け止められていました。また、本来的には明は宗教的・神秘的な知の意味合いの強い言葉です。 古代インドでは、明はヴェーダ聖典、知識、学問や神通力、あるいは真言、明呪などの意味で用いられました。
真言、陀羅尼、呪句の起源は次のように考えられています。 1古代インドの人々が日常生活の中で使用していた呪句が次第に仏教に取り入れられたもの。 2真実なもの、真実の言葉は攘災の機能を持つ、というインドに古くから存在した信仰にもとずくもの。 3禅定によって精神統一した結果として生じた攘災の機能を持つもの。
南方仏教圏でも病気平癒とか護身のためにパリッタ(paritta)が誦されてきました。パリッタはパーリ語仏典にもしばしば現われますが、インド民衆の間で、日常生活の円満のために誦された呪句です。
パリッタは、南伝の上座部仏教(部派仏教)に引き継がれ、除災の為に読誦されています。 農村部の氏族制農村社会に仏教が浸透するにつれ、原始仏教教団の呪術に対する厳格な態度にも実際的には軟化せざるをえず、護身のための呪文は黙認されたのではないかと考えられています。
明は五明処(panca-vidya)にまとめられましたが、五明処はインドでは学問や科学的な知識をあらわすものとして五種にまとめられました。 仏教徒が学ぶ五明は、1声明(文法・文学)、2工巧明(工芸・技術、暦数)、3医方明(医学)、4因明(論理学)、5内明(哲学・教義学)です。 また、世俗一般が学ぶ五明は、1声明、2工巧明、3医方明、4呪術明、5符印明でした。呪術明と符印明は呪文に関わる明です。
大乗仏教では、菩薩が修める学として展開しますが、密教では明呪に呪術的な生産知識、原始科学の意味を含めています。 明呪と科学は「ある行為において一定の効果が約束される」という共通の基盤に立っています。
密教が、呪術的な様式の根底にブッダの自内証の明の意義や精神を踏まえなければならないことは当然です。 ブッダの伝記の中には奇跡的な記述が少なくありません。ブッダは神通力の濫用を戒めましたが、ブッダの伝記には超自然的な神通力による能力を発揮する説話が実に数多く含まれています。
「明」、「呪」や「咒」、陀羅尼もその言語は「マントラ」です。「真言」と訳されています。玄奘三蔵の時代には、「心咒」や「神咒」または「明咒」と様々に訳され、訳語は決定されていませんでしたが、中国・漢で「真言」という訳語が定着しました。 真言は密教の特殊言語と考えられていますが、実は、浄土真宗と日蓮正宗の2宗を除く大乗仏教の宗派で日常に読誦されています。
ブッダの奇跡譚(物語)は宗教的な意味を内包するものですが、これらは大乗仏教の神話や密教の神話に取り入れられて雄大な構想によって表現されるようになります。 これらの記述は、ブッダの行為を記録する宗教的な表現として一定の法則に従って伝記作者が取った表現方法であろうと考えられます。
マウリア朝のアショーカ王はインドを政治的に、軍事的に統一し、仏教を奨励してギリシャ地方にまで伝導師を派遣しました。インド各地に萌芽した仏教教団は急速に勢力拡大の好機に恵まれました。
2世紀初期、クシャーナ朝の三代目のカニシカ王は、西北インドに侵入し中央アジアからイランに至る地域にまで支配権を及ぼしました。ローマと通商し、ヨーロッパの文化を受け入れると中央アジア、ローマ、インドの文化の諸要素が混交して独特のインド文化を生みました。
このような社会背景のもとで、大乗仏教が興起しました。天文学、医学、論理学などの学術が興隆し、ガンダーラ美術が最盛期を迎え、ギリシャ彫刻の影響を受けた仏像の造立が起こりました。 仏菩薩像の製作は、菩薩が三昧を得るための課題として取り上げられましたが、礼拝儀礼と不可分の関係にあります。三世紀頃には、仏像の前に香華や灯燭を供養してダラニを読誦する儀礼が仏教でも行われるようになりました。これはバラモンの儀式に習うものであったと考えられます。
クシャーナ朝の積極的な文化交流は、中央アジアに仏教の隆盛期をもたらし、シルクロードを通じて後漢に伝播されました。 仏教経典の翻訳は中央アジア出身の訳僧の手で行われ、遊牧民族の呪術的な傾向が大乗教典の翻訳に影響を与えたことは間違いない事実と考えられます。
紀元前2−紀元後2世紀頃はバラモンの勢力が優勢を取り戻し社会に強い影響力を与えました。アーリア文化が非アーリア文化の部族信仰や民間信仰を包摂しアーリア化して行き、アーリア文化と非アーリア文化が混交した新しい宗教・ヒンドゥー教が形成されました。 1世紀頃にはバラモン教の勢力は衰退し、ヒンドゥー教に包摂されて行きました。 
密教の再評価 / 包摂性と純化

 

ヒンドゥー教は、バラモン教からヴェーダ聖典やカースト制度を引き継ぎ、非アーリア系の様々な土着の神々や崇拝様式を吸収して自然に成立した多神教です。
ヒンドゥー教は、紀元前5-4世紀頃より顕在化し始め、紀元後4-5世紀には当時の優勢の勢力を持っていた仏教を凌ぐようになります。
バラモン教はインドを支配するアーリア人の祭司階級(バラモン)が興した宗教です。祭儀を特徴的に司る宗教ですが、ジャイナ教や仏教から支配者の宗教であることを批判され変貌を余儀なくされました。
インド各地の先住民族の土着宗教とバラモン教を吸収して同化し形を変えながらインドの民族宗教として興起した宗教がとヒンドゥー教です。ヒンドゥー教はバラモン教の全てを吸収した民族宗教です。
ヒンドゥー教は、始まりもなく、教祖も存在せず、地域や所属集団によって多彩な信仰形態をもつ全インド教です。仏教もジャイナ教もヒンドゥー教の一派と見られます。インドで生まれた全ての宗教はヒンドゥー教と見做されますがその範囲は非常に曖昧です。
仏教とヒンドゥー教は、ほぼ同時代に人々の信仰を競ったライバルでしたが、仏教にはヒンドゥー教の持つ様々な思想と相いれないアンチテーゼをもって成立した側面がありました。.
仏教はカースト制度を否定する思想を持っています。
カースト制度はアーリア人のバラモン教が考えた思想によって形成された制度ですが、神々に対する祈りの信仰だけでなく「輪廻」、「解脱」という独特の概念を持っています。
カースト制度は、人々の生活様式を最終目標の解脱に向かう四住期(1学生期、2家住期、3林住期、4遊行期)と、身分(ヴァルナ)、職業(ジャティ)を含むカースト制からなるものです。四住期は最下層のシュードラと女性には適用されません。また、実際の庶民感覚では、身分の差別よりも同一職業内の上下関係の差別の方が一層の強いストレスと厳しさを感じさせていると言われています。
インド人が持つ人生の四大目的(1アルタ(実利・蓄財)、2カーマ(性愛)、3ダルマ(正義)、4モークシャ(解脱)もカースト制の中で生まれたインド独特の価値観です。
行為の結果としての「業(カルマ)」と「輪廻(サンサーラ)」の思想がヒンドゥー教の特徴ですが、この原理は因果応報の思想としてインドに定着し仏教にも大きな影響を与えました。
業による輪廻転生はヴェーダ時代からウパニシヤード時代にかけて輪廻思想として固定観念化されインド人の死生観・世界観を形成しました。
信心と業(行為の結果)によって次(来世)のカーストの階層が定まるとするこの思想では、生き物は行為を超越する段階に入らなければ永遠に生まれ変わり、前世の業を背負うことになります。
ヒンドゥー教やバラモンの神々は日本の仏教(特に密教の天部の諸天神)に幅広く取り入れて仏教的に変容し、さまざまな諸尊として独特の役割と機能(働き)を期待されて祈りの対象となり人々に大きな影響を与えて来ました。
天部の諸天善神は第一に「護法神」としの性格です。仏法や仏法を信仰する人々を妨げる外敵から守る働きを期待されました。第二は「福徳神」として信仰者から現世利益を期待されました。
仏教は、ヒンドゥー教やバラモンの神々を信仰する人々の信仰姿勢を排斥することなく、仏教の信者として取り組みました。仏教ではこれらの神々を一括して天部の神々の尊称を与えて、これらを信仰する人々を仏教の中に包摂したのです。
仏教に包摂された諸天善神は、ブラフマー(梵天)、ビィシュヌ(帝釈天)、クラシュミー (吉祥天)、マハカーラ(大黒天)、サラスヴァティ(弁財天)、ガネーシャ(歓喜天または聖天)、インドラ(帝釈天)、四天王(持国天、増長天、広目天、多聞天)、ヴァイシュラヴァナ(毘沙門天)、ヴァジュラダラ(執金剛神・仁王)、ダーキニー(茶吉尼天・稲荷明神)、スカンダ(韋駄天)、ハーリーティー(訶梨帝母・鬼子母神)、マリーチ(摩利支天)、ヤマ(閻魔大王)、アスラ(阿修羅)、ヤクシャ(夜叉)、伎芸天、十二天、十二神将(薬師如来の眷属)、八部衆、二十八部衆(千手観音の守護神)、十六善神など多数があります。
インドでは、バラモン教の宗教儀礼やヒンドゥー教の様々な民間信仰が混交し、大乗仏教に影響を与え、仏教経典には儀礼的、呪術的な要素や神秘主義的な色彩が濃厚に現われることになりました。
大乗仏教は、その成立の当初からこのような要素を自然に受け入れるインド的社会事情があったのです。
仏教経典に編入された宗教儀礼や神話、呪術や神秘思想が本来の仏教が持っていなかったものだとして密教的要素を仏教史から除外する手法をとる研究者がいますが、これらの大部分は鎌倉新仏教の教説の流れに乗っている人々の論だと考えられます。
なぜならば、仏教研究の中心を形成してきた天台宗、真言宗や南都六宗からこのような論を展開する人々は例外的だと考えられるからです。
実は、密教の呪術的な性格は、インドの宗教全般に共通する性格です。その象徴的な性格は思想内容の簡明な表現方法であり、民衆の救済や教団の拡大に欠かせない要素であったと考えられます。
密教のもつ哲学、論理学、宗教儀礼、宗教形態はインドの汎用的な宗教と文化の基盤であると考えられるものです。
密教がもつ複合的な性格は、過去の研究者の眼に雑多、不可解などの複雑な印象を与えた時期がありました。
密教は、ヒンドゥー化した仏教との厳しい評価がありましたが、実はこの複合的な性格こそが原始仏教、大乗仏教を生んだインドの諸宗教の哲学や儀礼、世界観の集約された表現形式であり、仏教の基本的な性格を踏まえたものであったことが次第に解かってきました。
今日、密教は大乗仏教の発展に伴う必然的な帰結として、仏教史の中に重要な意味を持つようになってきていると考えられます。
密教の説く現実肯定の思想は、無知若しくは研究不足の故にしばしば淫猥、快楽主義の汚名を着せられ、烙印を押す者がいたことは事実として受け止めなければなりません。。
密教の複合性から生みだされる個性尊重の思想は、今日の激動の世界の新しい思想的な指標として見直されるようになってきたのではないかと考えられます。 
中期密教の成立過程

 

インドの仏教が原始仏教から大乗仏教へ、大乗仏教から密教へ展開する過程で仏陀観と仏身観に大きな変革がありました。
ブッダの涅槃後、無仏状態を補うために色身や法身、報身や応身(化身)などが生みだされ、過去仏、未来仏、そして十方三世諸菩薩や釈迦在世にも同時的存在していた辟支仏(独覚)など無数の仏、菩薩が登場する中で、これを大いなる一仏に収斂しようとする動きが生じました。
やがて、大乗仏教の到達点には、真理の世界や仏の世界の本質を雄弁に語り「即身成仏」を説く密教経典(『大日経』・『金剛頂経』など)が現われ「真言密教(東密)」と「天台密教(台密)」が成立しました。
仏教経典は「現世利益」と「成仏」という対立軸が微妙に関係しあいながら構成されています。大乗仏教の出家修行者の目的は最終形としては「解脱」を得ることにあります。しかし、出家修行者といえども日常生活の中には世間的な生活習慣にも現実的な対応が求められます。
大乗仏教の経典の大きな視点の構成は「悔過」「瑜伽」「陀羅尼」にあります。最古の大乗経典の一つ『舎利佛悔過経」には、来世に悪所に生ぜず、善き所に生じたいと願うなら悔過すべきであると説き、十方仏を礼拝して作善をなすならば、豪、貴、富、楽などの現世の利益が与えられると説かれています。奈良・東大寺の二月堂の修二会は悔過法にもとずく除災招福の仏教行事です。
禅定による精神統一は涅槃に入ることを目的とする修行法です。大乗初期の『維摩経』『首楞厳三昧経』『大品般若経』『法華経』『華厳経』には、釈尊をはじめ諸尊の神通力による神変が説かれています。神変は禅定の三昧の結果(瑜伽)として現われるものですが、これが現世利益の期待として付加されることになります。
神通力とともに大乗の菩薩の持つ徳目に陀羅尼があります。陀羅尼は総持ともいい精神統一を意味する概念です。大乗経典には菩薩が陀羅尼と三昧に通じる者として登場し、禅定の精神統一に入って正覚を得ることを求められる存在とされています。
大乗経典には、「正覚を目指し憶持(心に念じ信仰すること)を意味する陀羅尼」と「現世利益を目指す呪文としての陀羅尼(自己の欲望を充足するもの)」が説かれています。
『法華経』の「薬王菩薩本事品第23」や「陀羅尼品第26」などには、経典の受持と陀羅尼の読誦に「真言・陀羅尼を唱えることで神仏の加護を得て災害から免れる功徳を説くなど、他の大乗経典と異なる特色を示しています。
「陀羅尼品第26」では、伝道者に菩薩と諸天部の守護の呪文の力が語られます。法華経にも般若経などの大乗経典と同様に呪文(陀羅尼)の効力が説かれたのです。
ここでは、薬王菩薩と勇施菩薩が人々に護身と幸福の呪文を贈り、毘沙門天、持国天、十羅刹女、鬼子母神の法華守護の諸天部から呪文が贈られます。世尊(釈尊)が法華修行者の守護を命じたという形式をとります。
「普賢菩薩勧発品第28」は、法華経の結びの章です。東方世界から霊鷲山に来臨した普賢菩薩が世尊滅後の法華経を信じる者に救いの手をさしのべることが語られています。
普賢菩薩は、普賢菩薩の唱える呪文を聴く者は法華経を保って永遠に苦を脱することができることを世尊に誓います。
ここでは、普賢菩薩の救いの福音は呪文(陀羅尼)によって語られました。
法華経の信者は、世尊滅後には普賢菩薩の呪文によって救われることが語られ,霊鷲山に参集した多くの聴衆は歓喜に包まれ、神々も精霊も全ての生き物が歓喜しました。
陀羅尼は総持や能持と意訳されてきたものです。古来より仏や菩薩、神々の威力が込められた聖句としてその意味を訳すことは禁じられましたが、短い言葉に宇宙の真理が集約されていると考えられてきました。
宇宙の創造は波動(ゆらぎ)から始まり、人の耳に聞こえなくとも全ての波動の始まりは運動と音であり、すべての存在には音が伴うと認識されてきました。
人の祈りが陀羅尼となり、日本では「ことば」の霊力を言霊(ことだま)といい、古代から荒ぶる御霊(みたま)を鎮撫して五穀豊穣を祈る祭式などに用いられました。古代インドでは魔除け、災難よけ、毒蛇よけなどの除災招福や深い祈りから密教の陀羅尼として発展しています。
『般若経』では、般若波羅密多の智慧の持つ呪力によって、教典を受持し、読誦し、書写した結果、様々な災害から身を護ることができると説かれました。般若経は大乗経典の中でもっとも膨大な経典(600巻)として知られていいます。
大乗仏教の菩薩の修行は「波羅密門の修行」でした。『般若経』では、自らの心の本源は本来清浄で輝くものであるが、これが様々な分別によって覆われているので、覆いを取り除くことが修行の肝要でした。
六波羅密(1布施、2持戒、3忍辱、4精進、5禅定、6智慧)や7方便、8願、9力、I智の十波羅密のそれぞれの徳目を完成して仏の位に至るとされました。菩薩の誓願の求道心の力強さと菩提心の自己発現の力がこれを乗り越える力になると考えられたのです。
般若心経は般若経600巻のエッセンスを262文字で表現する経典です。般若心経の原型はインドで3世紀頃に成立しましたが、各宗派で読まれているものは玄奘三蔵の漢訳本です。
この経の説かれた舞台は法華経と同じ霊鷲山ですが、瞑想中の釈迦が作り出した対話を、釈迦の胸中の意を汲んだ観自在菩薩(観音)が舎利子(舎利弗)に向かって仏教の真髄を説くという形式をとっています。
般若心経は、菩薩が求めて止まない悟りの境地(真実の道)に至るヴィジョンを示すもので、悟りは般若波羅蜜多(このうえない智慧の完成)を求める心に在ることを示します。
精神を統一して心身の五感を正常に働かせて心を覆うものを取り除けば、閉ざされて逃げ場がないという感覚(時間、空間に縛られ、世間のありとあらゆる習慣や固定観念などに縛られること)を持つことなく恐怖なども生まれることがない。ゆえに実在するものは何もなく(五蘊皆空)、束縛と見えたものは心が生み出した幻影であることが理解できると考えます。
ゆえに、究極の真実を求めるなら真実の祈りの言葉=マントラ(真言)を唱え、偽りのない真実の言葉で祈らなければなりません。密教では、真言は特定の儀礼や瞑想修業の場で師から弟子に伝授される言葉であり、象徴的、かつ聖なる言葉です。これを繰り返し唱えることで修行者の人格を調和的に揺さぶり、さらに高次元の体験へと昇華させる祈りの言葉でもあります。
智慧の完成は、全方位に見渡せる展望が効く状況の現出であり、完璧な目覚めに導くものです。般若心経は262文字の中に仏教の真髄を説き、真実の祈りの言葉「真言」を説いたお経です。密教への導入部に位置づけられる経典であると考えられています。
『般若経』以来、菩薩の智慧と慈悲を完成するための「菩薩行」は大乗の核心です。龍樹は『菩提心論』において、三摩地の菩提心を真言門の特質として捉えました。
三摩地とは、本有の仏性は煩悩に覆われて覚知しないから精神統一して覆いを除き普賢の大菩提心に至ることですが、真言行者の三摩地の菩提心の実践のありようは、月輪観や阿字観、五相成身観などの瞑想法として捉えられています。
『華厳経』は三つの先駆経典「十地品」「如来生起品」「入法界品」を取り入れて成立した教典です。その特徴は、1一切の現象は心が作り出したものと説き、2一切の衆生は仏の智慧を備えている(性具説)と説き、3菩薩の修業の階梯を示している経典です。
大乗の波羅密門の修行階梯を典型的に整理して述べていますが、この最終段階で如来の活動が「身、口、意の三業」として説かれ、三業の働きの秘密性が「如来の秘密の境位」として十種(身体の秘密、言葉の秘密、心の秘密、思量する秘密など)列挙し、如来と如来の後を継ぐ者との共通の通過点を灌頂という儀礼に託して描いています。
『法華経』の「普賢菩薩勧発品第28」に法華経を信じる者には普賢菩薩が救いの手をさしのべるとありますが、同様に、『華厳経』には「普賢菩薩行願讃」があります。その内容は1普賢菩薩があらゆる仏を賛嘆し人々に奉仕することを誓うという内容と、2釈尊を賛嘆しながらも阿弥陀如来に対する賛嘆の詩句がつづられたものです。
「普賢菩薩行願讃」の詩句は華厳思想を信奉する人々の中で複雑な変遷と発展を遂げながら華厳経に編入されたものと考えられていますが、「普賢菩薩行願讃」は東アジア諸国で広く信奉されています。
中国・朝鮮では「華厳思想」を体現するものとして信奉されましたが、日本では阿弥陀如来を讃える浄土思想を勧めるものとして源信僧都や法然に尊重されました。日本の大乗仏教に与えた影響は甚大です。
『華厳経』の毘盧遮那仏、密教の『大日如来』が空を体現する根源的に唯一の本初仏として成立しました。このとき、全ての仏・菩薩は毘盧遮那仏(大日如来)の放射としての顕現に過ぎないという観念が成立したのです。
『華厳経』は釈迦の悟りの内容をそのまま示す経典として著名です。難解な仏教の教理を具体的に述べていますが、要約すれば「悟りとは何か」「成仏するには何が必要か」「ブッダ(仏)とは何か」「人は菩薩としてどのように生きるべきか」「菩薩の精神的な悟りの階梯とは何か」などです。
しかし、華厳は「有教無観」と評価される通り、精緻な大乗教理を持ちながらもそれを悟りに押し上げる具体的な観法を持ちませんでした。
華厳経において、真言密教の菩提心の概念がほぼ完成されたと考えられています。ただし、顕教の華厳が「波羅蜜門(三劫成仏)」を説くのに対し真言密教では「真言門(即身成仏)」を説く違いがあります。
また顕教の華厳経では修業中の利他行から大悲・慈悲が出てくる(因位からの菩提心)が、真言密教では修業の出発点となる菩提心に大悲・慈悲が当然に含まれるが、仏の境界に入って初めて顕現する(果位からの菩提心または三摩地の菩提心)と見る違いがあります。
この観点から、華厳の教理体系は大乗仏教中で最も高い水準を示す密教の導入部として空海から高い評価をうけ、法相や天台の教理の上に位置づけられています。
インドでは、大乗仏教と密教が個別の教団を組織していた形跡はありません。密教は大乗仏教の教団内部で発生し進化したものです。4世紀頃から、大乗仏教はタントリズム台頭の影響を受け入れて次第に変貌していき、6世紀以降には本来の仏教教団に存在しない傾向をいくつも併せ持つようになります。
また、初期の大乗仏教の中には、禅定の憶持を意味した陀羅尼も呪句に変容し現世利益を期待する多くの陀羅尼を生みだす源泉になっていたと考えられています。
大乗仏教の中に密教を展開する何らかの萌芽を認められるのは4世紀頃と考えられています(「大乗仏教における密教の形成」松長有慶)。
6世紀後半には、「息災」「増益」「調伏」というヴェーダの儀礼が密教の護摩法として取り入れられ、密教儀礼として経典の中で表面化します。
『大日経』は、思想面では大乗仏教思想(『般若経など)を深化し、実践面において「三密瑜伽行」を構築しました。心の問題を主題として取り上げ、中観(瑜伽行中観)思想を基盤とする理解を加えています。
また、成仏を目的とする宗教理念を明し、その手段として印契と陀羅尼に三摩地(心)を加え身語心の三密を一体化する三密瑜伽行の観法をはじめて説きました。
『真実摂教』(金剛頂経)は、ヒンズーの儀礼の影響を排して、大悲心に基づく衆生救済を目的とする密教儀礼に転化させ、内容と外観ともに密教独自の形態を持ち、体系化された思想に裏付けられた密教儀礼に構成されています。
『理趣経』は、大乗仏教の代表的な経典である『般若経』の空の思想を更に積極的に展開させ密教経典化したものです。ここでは、大乗仏教の「経典受持の功徳」は、「執金剛位の獲得」という密教的なものに変わります。
『理趣経』(不空訳)は、大乗経典と同様に、「序文」「正宗分」「流通分」の三分からなり、正宗分は17段に構成されていますが、各段にはそれぞれの教主の具体的な悟りの内容が開示されています。
各段の教主は「仏身観の密教化」によるものですが、その悟りの内容は種字(一字の呪字)で凝縮形として表されています。
種字は経典が示す思想内容の凝縮形と考えられるようになりました。各段の終わりにはその経典部分の「得益」が掲げられています。 
中期密教の成立 / インド⇒中国⇒日本

 

密教経典の特色は、大日如来が金剛薩埵たちに自分の悟りを隋自意の立場で説くという内容になっていることです。密教では相手の機根に合わせて隋他意の立場で対機説法をするという方法は取りません。
密教には、特徴的な視点があります。それは、1信仰の対象(仏陀観)、2信仰する人(人間観)、3人が生きる世界(世界観)です。人が生きている世界をどの様に考えるか、人はどの様に生活し、どの様な修行をして、何を目指した生き方をするのか、という問題を真正面から捉えようとするのです。
即身成仏への道は、真実に生きる道です。密教特有のマンダラ思想は悟りの境界をシンボリックに表現した心と真実の世界観を示しています。
毘盧遮那仏(華厳経の世界)は、顕教の世界では沈黙の仏でしたが、密教の世界では雄弁の仏となり、宇宙の事象に仮託して常に法を説く法身の「大日如来」(サンスクリット語で「マハー・ヴィロチャーナ・ブッダ」)となります。しかし、大日如来の言葉は深遠な仏の言葉だから凡夫には理解できません。凡俗には秘密とされることから「密教」と呼ばれています。
密教では、大日如来の分身が様々な仏、菩薩、明王、天部の諸尊となって、人々と相対するようになります。
大日如来を「普門総徳」として、諸仏、菩薩、明王、天部は大日如来の徳の一部分を表す「一門別徳」と位置づけます。この関係性は「普門即一門」として統一されています。
両部の曼荼羅はこの統一性をパンテオンという形で具体的に示しています。密教は大乗仏教の諸仏・菩薩をあるがままに統合的に継承しています。
密教は大乗仏教ばかりでなく、あらゆる宗教を統合することが可能な多神教の性格をも合わせ持っています。
密教(タントリック・ブデイズムまたはエソトリック・ブデイズム)は、インドで発生し発達した仏教の最終形です。インドでは、いかなる宗教も民族宗教のヒンドゥー教の影響を受けましたが、密教はその秘密性に於いて、仏教の中で特殊な発展を遂げた大乗仏教の最終形です。
体験の深さを強調することや「深秘の教え」という意味が含まれることから「秘密仏教」という表現をされることもあります。
中国、日本に伝わり、また、チベットに伝わりそれぞれ独自性のある展開をしました。
インドで一般的に用いられる呼称はバジュラ・ヤーナ(vajra-yana)といいますが、「金剛乗」と訳されています。大乗の中で更に発展の深まりを示したことから「金剛大乗」(バジュラ・マハーヤーナ)、また、真言を用いることから「真言乗」(マントラ・ヤーナ)ともいわれます。
金剛乗は、インドでは大乗仏教の中の最高の教えという美称として使われました。密教は大乗仏教の到達点に現われた思想であり、その宗教儀礼も、観法も、呪法も大乗仏教に本来的に備わっていたものが、更に深耕されて展開したものと考えられます。これが、大乗仏教から密教へ展開された仏教の歴史的な道程といえます。
秘密とは、大乗の菩薩のために説かれた奥深い教えをいいます。8世紀初頭に著された『大日経疏』には、「秘密とは如来秘奥の蔵にして、顕露の常の教とは同じからず」(巻第十五)と述べられています。
インドで密教がいつ頃に起こったかは今後の研究を待たなければなりませんが、タントリズムを密教と捉えれば、紀元前2000年頃のインダス文明の遺跡の中に求めることができます。
また、古代アーリア人が作ったインド最古の宗教文献・ヴェ‐ダ(バラモンの根本聖典)の中に見出だすことができます。マントラを口ずさんで神々に攘災招福という現世利益を祈ったのです。
神秘主義的、呪術的、儀礼的な要素は、初期仏教以来、様々な形で教団の中に潜在していましたが、大乗仏教の興起とともに次第に表面化するに至りました。
密教儀礼は陀羅尼とか真言による攘災招福の信仰によって次第に整備され、バラモン教やヒンズー教の神々が仏教の諸仏、諸菩薩に姿を変えて摂取され、多神教的な傾向性を顕著にして行きました。
これは仏教の優位性を示し、他教徒の吸収を目指したデモンストレーションと考えられます。
古来インドの民衆の間で根強く信仰されてきた呪法と儀礼が、大乗仏教の思想的な背景を踏まえながら仏教独自の実践法として、密教経典の中に再生したものと考えられています。
密教が中国に初めて伝来したのは、3世紀初頭の前漢滅亡後に覇権を競い鼎立した魏・呉・蜀の三国時代のことと考えられています。玄奘三蔵がインドから経・律・論をもたらした直後の7世紀中頃-8世紀初期頃、善無為によって『大日経』が訳され、金剛智によって『金剛頂経』が訳されて純粋密教が成立しました。
また、不空が『金剛頂経』系の多くの経典を訳して密教の深い教理を中国仏教界に認知させたことで、遅れてきた最新の密教が大乗仏教の最終形の到達点の輪郭を表現する存在感を示すようになります。これによって密教が中国仏教界で重きをなす宗派として興起しました。
インド密教史の研究では6世紀までを前期とし、この期間に編纂された密教経典を「雑密」といいます。7世紀を「中期」とし、この期間に編集された経典を「純粋密教」(純密)といいます。日本に請来された密教は、東密、台密ともに純密(中期密教)です。
8世紀以降を「後期」とし、この期間に編纂された密教経典を「後期密教」といいます。
後期密教ではヒンズー教的な要素がよりいっそう顕著になりますが、その主題は「慈悲」と「智慧」であり「現証(現世利益)」と「成仏」を目指すという顕教(大乗仏教)と同一の共通点を持っています。
空海の真言密教はインド、中国の中期密教を空海の思索によって独自の発展を遂げたものです。
真言宗は空海が開いた宗派です。密教を同じ意味で、「秘密乗」、「秘密仏乗」、「秘密一乗」、「秘密曼荼羅教」などと表現することがあります。また、一乗仏教を強調して教法の最高性を表現するときは「金剛一乗」といいます。
真言とは、サンスクリットでマントラ(manntora)といいます。「神々に捧げる賛歌」または「神を讃える短い言葉」を意味するものですが、空海はこれを「真実の言葉」、「真理の言葉」と理解しました。
真言は大日如来の自内証の悟りそのものを示す真実の教え、という意味に解釈するのです。
このような意味からみれば、真言は、宇宙の真理そのものを仏の悟りの内容とする大日如来の法身説法の教えです。真言宗の名前の由来はこのような理由によるものです。
密教の分類はインド、中国、日本では異なります。密教という場合は、地域別にどこの密教かを限定しなければなりません。密教が伝播された地域は、インド、中国、日本、チベットとその周辺諸国、モンゴル、ロシアとその周辺諸国です。
密教の分類は次のように考えられています。
中国・日本での密教の分類は、『雑部密教』(雑密)と『純粋密教』(純密)に分けることが伝統的な分類です。経典の内容からみて仕分ける分類法です。
古い密教から650年頃までに成立した経典を一括して雑部密教と位置付け、その後、650−700年頃に成立した大日経系や金剛頂経系の経典を純粋密教と位置付けました。 
中期密教の成立 / 空海と最澄

 

空海が密教に出会うことになった経緯は次の通りです。
都の大学に入学を果たし将来を嘱望されていたのにもかかわらず、父母や周囲の期待に背いて、空海が出家の決意をするに至る心境の変化を『聾瞽指帰』(後の『三教指帰』)というユニークな戯曲風の自伝で語っています。
出家の動機を述べ、仏教が儒教や道教とは比較にならないほど優れていることを結論づけています。一人の沙門から虚空蔵聞持の法を聞き、仏典を学ぶうちに仏教への関心が高まっていき、大学を中退して、私度僧として各地に修行を重ねた結果、仏教の奥義を極めたいとして衆生済度の為に出家する動機を語った出家宣言の書です。
空海と密教の出会いは、伝記によれば、奈良の大安寺や東大寺で経典を学んだが空海を満足させる経典が無かったということです。そこで、空海が「唯一無二の教えを示したまえ」と一心に祈ると、夢の中に見知らぬ人が立ち『大毘盧遮那経』(『大日経』)という経典が大和の国高市郡の久米寺の東塔の下にある。そこに不二の教えが示されている」と告げ、姿を消した、といいます。
さっそく夢に示されたとおり、久米寺に行くと、東塔の柱の中に『大日経』が眠っていました。『大日経』には「自己の探究と悟りへの真実に生きる道」が説かれていることがわかりました。
しかし、手に取って見ても神童といわれた空海にも全く歯が立たない内容が随所にある経典でした。
密教経典はサンスクリット文字や真言、印契、密教儀礼などが多数あり、顕教の僧や研究者から見れば未知の領域にある経典です。基礎知識が全くない状態では無理もありません。
『大日経』は遣唐使船がずいぶん前に中国から持ち帰ったものの、誰もこれを研究する者がいないまま放置されていたと考えられます。誰に尋ねても空海に教えられる師はいませんでした。唐に渡る以外に方法は無い、空海の胸に入唐求法の思いが急速に膨らんだものと考えられます。
インドから中国に伝来された最新の大乗仏教である純粋密教(中期)は大日如来の慈悲を語る「胎蔵生」と大日如来の智慧を語る「金剛界」の両部の大法を相承する中国・青龍寺の恵果阿闍梨から、その弟子千人余を差し置いて、伝法の素質を認められた留学僧「空海」が伝法灌頂を受けたことにより日本に請来されました。
空海が常人と異なるのは、渡海するまでに10年以上も密教の基礎(山岳修行のようなものと考えられる)を修行していた実績があることです。しかも、西安に到着して直ちに密教を教える寺院を尋ねることなく、中国密教の第一人者・恵果阿闍梨に弟子入りして本物の密教を学ぶための用意周到な事前準備と情報収集に努めたことです。
このため、西明寺に逗留して密教を学ぶための準備期間を設け、中国語、サンスクリット語の練達と様々な筆法を修めて、直ぐに密教が学べる態勢を用意周到に整えていたことです。
空海は、密教を学ぶ十分な予備知識と心構えを持って、万全な状態で青龍寺の恵果阿闍梨の弟子入りに臨みました。
空海は書や文芸についても仏道修行の一環として熱心に研究しています。様々な書風や技巧を学び、その実力は本場の中国皇帝より「五筆和尚」の敬称を送られたことでも明らかです。空海は僅か二年の在唐中に中国人が驚愕するほどの書や漢文の達人の域に達していたのです。
恵果はこのような西安での空海の評判を聞き知っていたのではないかと考えられます。空海の留学の目的が密教の受法と伝授にあることも風評によって聞き知っていたものと考えられます。
空海と恵果の出会いの情景とエピソードが『御請来目録』に記されています。
ここでは、恵果は余命の少ないことを自覚して、付法すべき適任者の出現を待ち望んでいたと考えられています。恵果は遠く東の国から渡海してきて密教の受法を願い出た日本の留学僧・空海を一目見て、その才能を見抜き、自らが受け継いできた密教の奥義をことごとく異国の留学僧に伝授しようと決意した、と見られています。
恵果は、空海に「我先より汝が来ることを知りて、相待つこと久し。報命竭きなんと欲すれども、付法に人なし。必ず須らく速やかに香華を辨じて灌頂壇に入るべし」と語り、密教の劇的な縁を示しました。空海32歳のことです。
空海と恵果の発菩提心戒の授戒や胎蔵生・金剛界の両部の伝法灌頂などの授法、阿闍梨位の認定までは6カ月間かけて行われています。空海の有縁の仏菩薩を定める密教儀式に於いて、目隠しをした空海が金剛界・胎蔵界の敷曼荼羅に導かれ投華得仏という儀式に臨んだところ、いずれの投華でも大日如来に落下するという不思議な縁で、恵果から「遍照金剛」の号を授けられました。
この故事により、空海の法号が「南無大師遍照金剛」となったのです。
師僧の恵果も、弟子の空海も常人ではない器の大きさが分かるエピソードです。空海に密教の法統を伝授した恵果はこの直後に60歳で遷化しました。
空海と最澄は同一の遣唐使(804年)に随行した留学生でした。空海は自己負担で長期間(20年)学ぶ留学生として正統密教を、最澄は朝廷の命令により莫大な留学費用のすべてを国家から支給される待遇を受ける環学生(短期留学1年)として、天台教学(法華文句、法華玄義、摩訶止観など)を、それぞれ中国から持ち帰る目的を持っていました。
空海が持ち帰った密教は統合性のある純粋密教でしたが、留学期限を待たずして目的を達成し僅か2年余で帰国したことで帰朝報告の入洛が4年余も許されませんでした。空海が太政官から入京を許可されたのは809年7月のことでした。
密教はすでに最澄によりもたらされた(空海は二番煎じ)という事実があったことで希少性が損なわれたことは事実です。空海が帰朝報告を許されたのは遣唐判官の高階遠成を通じて『御請来目録』を朝廷に提出したこと、この中に書かれた密教文献の膨大な量と内容から正統密教への期待感が高まったこと、また、皇位の継承が平城天皇から嵯峨天皇に移ったことが大きく影響したと考えられています。
空海の『御請来目録』の中身とは
・新訳の教典   142部 247巻
・梵字真言讃    42部  44巻
・論疏章(注釈書) 32部 174巻
・仏像、曼荼羅、密教法具
など多数
『御請来目録』から判ることは、まず、その多彩さです。これは、密教が単に教典や注釈書などを読んで理解できるものではないということです。密教儀礼には、梵字真言を唱え、仏像や曼荼羅を祀り、密教法具を用いるなど、誰が見ても識別できる分かりやすい特徴があります。これは、先人の僧が導入した顕教とは明らかに違う性格のものを請来したことが分かります。
空海の請来した教典は、不空(恵果の師僧)の訳した教典が多いことです。不空訳の教典をたくさん持ち帰ったことが空海の密教の大きな特徴です。
また、この目録に「密教の教えは奥深くて言葉や筆で表現しきれるものではない。だから、図画の形をかりてまだその奥深い教えを知らない人たちに示すのである」と書いた空海の注釈が印象的です。
最澄は、ついでに禅や密教を学びましたが不完全なものでした。最澄の帰朝報告では中国天台宗の報告のついでに奉呈した密教教典に天皇や朝廷が予想外の大反響を示したので大変驚きました。その後、空海が持ち帰った密教の内容が『御請来目録』(今日の国宝や重要文化財を多数含む)として奉呈されたことで、最澄の密教が部分的で不完全なものであったことが判明しました。
806年10月22日、空海が帰国後に最初に執筆して朝廷に提出した『御請来目録』には要所に説明がありますが、これによれば1密教は仏教の中でもっとも優れた教えである。2密教は即身成仏の教えである。3密教は鎮護国家の教えである。4密教は民衆の攘災招福の教えである。との説明があります。
812年、空海は京都の高尾山寺(神護寺)において、日本最初の純粋密教の灌頂を行いましたが、この時、最澄とその門下生らが弟子となり初歩の灌頂を受けました。
真面目な天才最澄はさすがです。なんと当時は格下の空海に弟子入りして2度の灌頂を受けています。しかし、最澄は密教が「師弟相承=面授」で行われることを理解できず、法華経と同様に経典を読んで理解できると考え数々の教典を空海から借覧することを繰り返しましたが、秘教の『理趣釈経』の借覧を空海から拒否されたことをきっかけとして二人の宗教観の微妙な相違点が大きくなり、交友関係は疎遠になりました。
二人の密教の取り組み姿勢の根本的な相違点は、空海は「密教は五感の全てを駆使して学び、師の面授によって体得するものであり、文字や言葉を理解することではない。教典を読んで解かるというものではないのに、何故に教典や筆授にこだわるのか」と考え、最澄は「密教を学びたいために教典を借りて書写したいだけなのに貸してくれない」と考えたことにあると云われています。
この事情が空海と最澄の7年間の交流を示す往復書簡である国宝の『風信帖』『忽恵帖』『忽披帖』『灌頂歴名』からありありと分かります。
最澄が帰国後に目標としたものは1鑑真が定めた戒壇制度(全国3拠点「奈良・東大寺」「下野・薬師寺」「筑紫・観世音寺」で行う僧の認定制度)を改めること、2比叡山(一乗止観院)を「大乗戒壇」にして仏教アカデミーの拠点とすることでした。
実は最澄は、空海が帰朝を許される以前の805年(延暦24年)に、勅命により、最澄が阿闍梨となって、奈良・南都六宗の高僧(道証・修円・勤操など)を無理やり集め、日本で初めて密教の灌頂を京都・高尾山寺(神護寺)で行い名声を得ました。しかし、このことは最澄にとっては驚きであったと思われます。なぜなら、最澄に密教の阿闍梨位の適正な資格があったかどうかといえば否定的だからです。 
中期密教の成立 / 東密と台密

 

最澄の仏教界に占める地位や権威は入唐後にはもっと強力になっていました。
ところが、最澄はとても困った事態に直面しました。ノイローゼで病床にあった桓武天皇から密教の祈祷や呪文で救ってほしいという切実な期待をされたのです。また、貴族たちからも法華経ではなく密教の加持祈祷のご利益を期待されてしまったのです。
最澄は天皇の命令により密教の加持祈祷や儀礼を行わざるを得ませんでした。
しかし、最澄の密教は中途半端なものでした。このような時に、空海が唐から本格的な密教を持ち帰ったのです。
もし、最澄が完全な密教を持ち帰っていたら、最澄の運命は大きく変わったものになっていたはずです。
空海は、能書家ゆえに嵯峨天皇のなみなみならぬ信頼を受け、真言密教を確立するための一つの手段としましたが、これによって空海の本質が損なわれることはありませんでした。
空海は「密教の第一人者」、「文学・芸術(書)の大家」、「医療と漢方医学に精通」して非凡な才能を示し「民衆救済と社会福祉事業」で活躍して嵯峨天皇に重用されました。
この頃、空海と最澄の立場がすでに逆転していたのではないかと云われています。
かつて桓武天皇の内供奉に任じられた最澄は、嵯峨天皇の時代では空海の密教に完全に抑えられていたことが分かります。
また最澄は、密教を修得させるため空海の下に派遣して修行をさせていた最愛の弟子「泰範」が密教に魅せられて空海の弟子となってしまったことで深い落胆をすることになりました。
空海が年分度者を許可されたのは835年のことでした。空海の教団が成立したのは伝統的な説では807年とされていますが、弟子集団が成立したのは813年〜814年頃ではないかという有力説があります。
806年、最澄は天台宗を認められ南都六宗に対抗できる存在となりました。これにより、最澄は朝廷に南都六宗と同様に国家公認の僧の授戒が独自に出来ることを朝廷に願いでました。
天台宗が大乗戒壇院の設立を認められたのは、最澄の死後七日目のことでした。南都仏教界の妨害により、生前の実現が叶いませんでした。比叡山に延暦寺の戒壇院が設立されたのは、最澄の死後から五年後のことでした。
天台宗は、年分度者として、遮那業(密教)1名、止観業(法華)1名の計2名を毎年、国家公認の僧として選出することを嵯峨天皇から認可されました。南都六宗以外からは初めてのことです。
最澄が存命中は、比叡山には正統な密教は伝わりませんでした。
最澄の滅後に天台座主となる直弟子「円仁」と孫弟子「円珍」が相次いで中国に密教を求めて留学し、比叡山に本格的な密教を請来することになります。
台密の特徴は、空海の東密が『大日経』と『金剛頂経』を理智不二とするのに対し、両部の上に『蘇悉地経』を別に総括的にたてることです。これには東密から理論的に不要との批判があります。
『蘇悉地経』にはサンスクリット原典が残っていないのでインドでの成立事情が不明です。この経は、所作を徹底的に整備するための儀軌書ですが、何故に、天台宗では『大日経』や『金剛頂経』の上に置いたのでしょうか。
『蘇悉地経』には『大日経』や『金剛頂経』に匹敵する哲学がなく諸尊の配列もありません。しかし、両部の真言法(仏部・蓮華部・金剛部)を成就する修法の経としての観念が中国では青龍寺の義真、法全、比叡山の円仁、円珍、宗叡らの伝授の流れの中で形成され受け止められてきたものと考えられます。
なお、『蘇悉地経』の教説主は執金剛、対向者は軍茶利、中尊は仏頂尊という特徴的な構成になっています。
比叡山では、密教の解釈の相違により、円仁の門流は比叡山(山門派)を占拠し、円珍の門流(寺門派)は園城寺(三井寺)に追いやられ、その門弟たちは正統性を争い、骨肉の争いをすることになります。
天台法華宗ともいわれる比叡山が密教の解釈の相違で二つに割れたのです。比叡山の密教の比重がどれほどに大きく妥協できない性質であったかがわかる出来事でした。
円仁(慈覚大師・794-864))は最澄の弟子です。第17次遣唐使に随行し在唐9年の艱難辛苦の修行を行い、比叡山に蘇悉地経を請来して、台密を東密の『大日経』、『金剛頂教』に『蘇悉地経』を加えた三部構成にし、法華経を同列に扱い、東密に対する特色として台密の基礎を固めました。
円仁の密教の特色は法華経や他の一乗教を密教に含め、三乗教を顕教に配するという特異な見解でした。東密の顕劣密勝の立場に対して劣性にあった天台の顕密観を示さねばならない宿命によるものですが相当に無理を重ねた見解です。
円仁は天台宗第3代座主となり、天台宗を10年間指導しました。
最澄や空海が入唐した9世紀初頭には蘇悉地経には両部と同等の評価はありませんでしたが、円仁が入唐したころ中国では蘇悉地法が最盛期であったことの影響だと考えられます。
円珍(智証大師・814-891)は天台初代座主義真の弟子です。遣唐使の派遣が中止されていたため唐の貿易船に便乗して中国にわたり6年間天台山や青龍寺で学びました。延暦寺別院・園城寺(三井寺)の初代別当となり、五代天台座主を歴任し、天台密教を完成させ、根本中堂の改造に着手して比叡山の伽藍配置を現在の形にしました。円珍は空海の甥(妹の子)といわれています。
円珍は、円仁の密教観を継承しつつも円教(法華経)に対する密教の優位性(円劣密勝)を大胆に主張しています。
ちなみに、比叡山の根本中堂は密教壇で荘厳され日々の儀式は密教儀礼で行われています。密教では、最澄は空海の弟子として灌頂を受けています。最澄は円(法華)密一致の立場でした。矛盾するものと捉えていませんでした。
最澄の後継者である「円仁」「「円珍」は比叡山が密教に於いて、純粋密教の正統な血脈相承者である空海の高野山や東寺に見劣りしている現状を憂いて相次いで中国に留学し整合性のある密教を導入する努力を続けたので比叡山は著しく密教に傾斜することになりました。
比叡山は、平安時代から戦国時代まで何度も武装した僧兵が京都市中に乱入して朝廷に強訴するなど政治介入を繰り返した歴史を持っています。織田信長に反抗して無謀な政治的介入を繰り返し、全山の焼き打ちという前代未聞の壊滅的な打撃を受けましたが、これらは法華一乗の思想をもって朝廷も武家も恐れ入らせることができると過信したからだと考えられています。
比叡山は政治に介入する悪癖を濃厚に持つ歴史に彩られています。
天台密教を完成させたのは五大院「安然」でした。安然は円仁の弟子ですが、最澄の一族でもあります。安然は相反するものと思われた法華と密教を統合する理論を打ち立て、天台密教を確立した学匠です。密教を中心にすべての仏教を統一する一元論を説き天台密教を大成させました。
安然の教学思想の特色は、その著作の『真言宗教時義』や『菩提心義』などに示されていますが、蔵教・通教・別教の三乗教や法華・華厳の円教の上に密教の優位を位置付ける五時教判によって、一切の仏教を密教によって統合するものでした。
如来隋自意の立場から見ればあらゆる教えはすべては密教に帰納するという立場で、台密の教義は、密教を中心に置きつつ天台法華教学との融合、一致を模索するものでした。安然はこれが密教の本質と捉えたのです。安然は天台宗の名を廃して真言宗の名を用い、台密の教理を完成させました。
台密の流れは、良源、覚超、皇慶、覚運、源信などに引き継がれ、密教の修法を中心にして比叡山を発展させました。
比叡山では、覚超の流派が横川を修行場所としたので「川流」と呼ばれ、皇慶の流派は東塔南谷を修行場所としたので「谷流」と呼ばれました。谷流は時代とともに分派を重ねています。
比叡山延暦寺は密教化により護国の大法を修する王城鎮護の寺として発展を遂げましたが、後に法華一乗の立場からこれを批判する勢力が現れました。
比叡山には密教を中心とする「遮那業」と法華経を中心とする「止観業」の二つの側面があります。中心が二つあることは、折に触れて何かと問題が発生しやすいといことでもあります。これが天台宗の限界です。比叡山は今後とも密教と法華の間で彷徨うほかないと考えられます。 
後期密教の成立 / チベット仏教

 

インドでは、7世紀から12世紀にかけて、密教が全盛期を迎えましたが、8世紀以降の後期密教の時代には『大日経』系の密教はほとんど展開せず、『金剛頂経』系の密教がタントリズムの隆盛とあいまって目覚ましい展開を見せました。
しかし、1203年頃、密教の最大寺院ビクラマシーラ寺がイスラム教徒に破壊され、このときインド密教が終焉したとされています。
11世紀頃までに成立した後期密教を「タントラ密教」といい、後期密教はインドからチベットに伝播され、チベットの民族宗教のボン教などと混交して独自のチベット密教を形成しています。この流れは、チベット周辺国、モンゴル、ロシアに伝播されました。
日本密教は後期密教の影響を全く受けていません。後期密教の特徴の一つに性的儀礼がありますが、これは理論上から導かれる観念的な瞑想法です。実際にこのような性的行為を修行として取り上げる密教僧がいないのは当然です。この行法は精神的に高度な瞑想法です。
後期密教が中国に伝わらなかった原因には、中国が独自文化(儒教・道教・大乗仏教・中期密教など)を持ち社会的な価値観が安定していて、生理的・性的な実践法を受け入れる社会的な宗教土壌がなかったことです。
今日でも日本に後期密教が受け入れられていないのは、空海を始め密教の請来者が意図的に否定してきたこと、また、日本の社会風俗の習慣、価値観の違いによるものだと考えられます。
チベット密教はインド後期密教をそのまま受け継いると考えられていますが、民族宗教(ボン教など)との混交習合も相当に進んでいるものと考えられます。
チベット密教といえば、ヤブユム(yab-yum)という男女合体像があまりにも有名です。無知な人々は、あたかもこの像が淫祀邪教の如くに誤解して好奇の目で見ています。しかし、これらの像立はインド後期密教を受け入れた8世紀以降のチベット的変貌であり、チベット密教の基本理念は「金剛頂経」系統のインド密教を継承するものです。
大乗仏教がチベットに伝えられたのは7世紀のことです。ネパールと中国から伝播されたのですが、8世紀頃から本格的な仏教の移植が始まりました。
初期のチベット仏教は王室と貴族を中心とする国家体制を擁護することが主目的でした。日本やアジア諸国と同様に「金光明経」が篤く崇拝されました。
8世紀後半からインド密教の移植が始まりましたが、王室の安泰に危険性を与えるものと見做されて忌避されたことで初期及び中期密教が選択された経緯がありましたました。また、9世紀には仏教が迫害されその勢力は一時的に失われることがありましたが、11世紀の初頭から仏教の復興が始まりました。
9世紀までのチベット仏教は顕教が優勢でしたが。11世紀以降になると仏教は王室の援助を失い、民衆との接点を重視するようになりました。チベット仏教は多数の宗派に別れ、それぞれが学問的な伝統を形成しました。
各派は顕教や密教の経典を依経としましたが、次第に戒律と顕教、密教の融合に関心を持つようになりました。顕教の上に密教を位置付け、密教の学習は顕教を一通り理解できるレベルに達した少数のエリートのみに許されました。
チベット密教の分類法は、これまでの研究の成果では密教の分類法としてはより進んだ分類と考えられています。
第一期「作タントラ」
現世利益的な要素の強い祈願的な修法の作法を中心とする特徴があります。呪法、陀羅尼、印契の作法などです。
第二期「行タントラ」
修法に加え理論づけを行って修行と理論の両面を説きます。
大日如来が即身成仏について語る『大日経』はこの行タントラの基本経典です。
第三期「瑜伽タントラ」
ヨーガ(サマーディ)を中心とするもので、禅定により精神を統一し、仏と修行者が合一することを目指すものです。
大日如来が即身成仏の実践法を語る『初会金剛頂経』はこの「瑜伽タントラ」の基本経典です。
第四期「無上瑜伽タントラ」
これが8−11世紀の後期密教といわれるチベット密教の立場を特徴的に示すものです。
中国・日本の密教伝道者たちが意識的に受け入れなかった秘教であり、日本密教に全く影響が無い範疇にあるものです。
この中には快楽思想とか、左道密教といわれる生理的・性的儀礼を含むタントリズムに特徴があります。インド、欧米の学者が研究する密教の領域はほとんどがこの無上瑜伽タントラです。
無上瑜伽タントラの基本経典は、方便(大悲)・父タントラ系の『秘密集会タントラ』、般若(空性)・母タントラ系の『呼金剛タントラ』、不二タントラ系の『カーラチャクラ(時輪)タントラ』の三つに細分されます。不二タントラは父・母の両タントラを統合した系統を云います。
チベット密教では、経典や諸仏・諸菩薩が様変わりして、修行の行法や実践法にも大きな変化が現れます。インド後期密教の受容がチベット土着の習俗を濃厚に持つ既存宗教(ボン教など)と混交したからだと考えられています。
これらのチベット特有の変化は、社会風土の異なる人々には、まるで別種の密教のような異様な印象を抱かせるものです。精神は外形ではなく中身で判断すべきことは十分承知していても、なお、一般的には否めない違和感が残るものと考えられます。
『父タントラ』、『秘密集会タントラ』『ヴァジュラバイラヴァ・タントラ』の系統は、チベット密教特有の「秘密仏」を対象として生理的行法を実践法とするようになりました。
『母タントラ』『ヘーヴァジュラ・タントラ』『サンヴァラ・タントラ』の系統は、「秘密仏」を対象として性的行法を実践法とするようになります。
「秘密仏」は各実践法に合わせたと考えられる像立に特徴があり、中国・日本の仏像とは全く異相の姿形を持つ仏像です。
観音像は法華経(観音経)の観音とは様変わりした女性観音「タ―ラ」が登場します。チベットでは、「タ―ラ」は威力を示す観音として人々から篤く信仰されています。
『父タントラ』と『母タントラ』を統合した『カーラチャクラ(時輪)タントラ』では、智慧と慈悲という菩提心に関わる心の在り方の両側面の多様性が父・母不二タントラとして止揚されています。
チベット密教の特徴は、無上瑜伽タントラに「生起次第」という曼荼羅の生成過程をリアルに観想し、性的ヨーガによって万物を生みだす秘儀を詳細に解き明かす瞑想をすることにあります。
この目的は、日常の固定観念や様々に彩られた現実の価値観を粉砕(凡常の慢を退治する)して視点を転換させる意識革命にあるといわれています。
チベット密教の最高の学者・ゲルク派の開祖であるツオンカパ(Tson-kha-pa 1357-1419)は、これは「空性観」を修得するためであると明快に示しています。
その次の階梯が「究竟次第」です。此れは究極のプロセスといわれるもので、「空性観」を修得するために修道中もっとも重要なものとされています。
この相承は厳格を極め、このチベット密教の奥義に入れる者は師僧によってその能力が認定された極少数の選ばれた弟子に限られています。
究竟次第の修道目的は風(ルン)を伴った意識の働きを知り、森羅万象を支配している光(ブッダ)の本性(実存する真理=勝義の光明)を悟ることにあるとされています。
この「究竟次第」では、身心にあらゆる現象が明確に生起してくるので現実的な対応の経験なくしては理解できない身体意識に取り憑かれ始めるといいます。
これに十分に対応できる方法をシュミレーションによって訓練し備えておかなければなりません。
そのため瞑想による風(ルン)のコントロールに習熟しなければならず、「死者の書」を基礎知識として「生起次第」を繰り返し修道し、次第の完成をさせなければなりません。、
チベット密教では、釈迦はこのような瞑想によってブッダとなったと考えられています。
密教では人間の身体を小宇宙とみなし、一切の真理のよりどころと考えます。そして、人間と一切の森羅万象の大宇宙と合一させる観想方法を考えました。
『大日経』の観想方法の特色は、五字を身体の五カ処に布置する「五字厳身観」です。金剛頂系の『真実摂経』の観想方法は「五相成身観」といいます。
父タントラ系と母タントラ系は、もともと起源や基盤を異にする実践体系です。無上瑜伽タントラ系の体系化によって止揚されたものです。
方便・父タントラ系では、大宇宙である法身を展開して、五仏・四明妃・八菩薩などを現実世界を構成する蘊処界に配して、これらを究極的には無自性空・清浄光明と観想して小宇宙と大宇宙の合一に至ります。
般若・母タントラ系では、行者の身体に抑圧を加え、生気の環流する脈管と霊の中心である輪を支配し、菩提心を下位から次第に上昇させる観想によって、小宇宙と大宇宙が合一する不変の大楽を得る境地に至ります。
母タントラ系の修道システムは、ヒンズー教のシャクティ派の色彩の影響が見られますが、大乗仏教の基本姿勢としての般若・空性と方便・大悲の合一する菩提心の獲得を目的とする点で、ヒンズー教とは一線を画しています。
中国に後期密教の無上瑜伽タントラ系の教典が受容されなかった理由は、道教や儒経の価値観が形成されていて、中国社会の風俗習慣に無上瑜伽の性的修法を受け入れる土壌が無く消極的な態度をとらせたものと考えられます。
中国最大の大帝国を建設した元朝は、チベット密教に篤く帰依し極端な保護政策を実施したので中国各地にチベット密教が急速に拡大しました。
中国密教は元朝以降にチベット密教が主導権を握りましたが、元朝の滅亡後には次第に衰退していきました。中国には老荘思想が人々に定着していたので、老荘思想と異なる外来思想が定着できる社会環境を整えることは困難を極めたのです。
チベットでは観音は特別な意味を持ちます。ゲルク派の法王は長年、チベットの国家元首として君臨しましたが、代々のダライラマ(現在は14世)は観音の再誕として転生を信じられた存在です。
ちなみに、第二位のパンチェンラマは阿弥陀如来の転生と信じられています。
ダライラマとパンチェンラマはそれぞれが同一人物(仏)の間で代々に継承されてきたことになります。
このような転生活仏思想は、チベットの特性の民族性によるものと考えられます。
チベットでは、師僧(ラマ)をことのほか尊ぶ伝統があります。この考えから、優れたラマは仏の化身として転生を繰り返し衆生を導くものと考えられたのです。
15世紀、ゲルク派、カルマ派は転生活仏を宗派の指導者と定めました。
1578年、ゲルク派のソナム・ギャンツオがモンゴルのアルタン・ハーンからダライ・ラマ(大海)の称号を受けたことにより、次代の転生者が全チベットを統一し、政教一致のダライ・ラマ政権が成立しました。これ以後、ダライ・ラマの転生者がチベットの宗教・政治の最高指導者とされましたが、現在のダライ・ラマ14世は中国のチベット侵攻に抵抗してインドに亡命しました。
ダライ・ラマ14世は、世界各国を歴訪して講演を行って世界平和とチベット独立運動の理解を求める旅を続けています。 
真言密教 / 空海の密教

 

空海の密教(真言密教)の思想的な体系化は、三部書といわれる『即身成仏義』『声字実相義』『吽字義』の著作によって、その教理的な基盤が構築されました。
真言密教は、空海の深い思索によって再構築された独自性のある日本密教の思想体系です。
真言密教の特質は、1説主(大日如来)、2教説(法身説法)、3実践の可能性(菩提心・三昧耶)、4実践の超時空性(三密瑜伽)、5利益、にあります。
「菩提心」と「三昧耶」そして「三密瑜伽」は真言密教の根本思想を示す特徴的な概念であり、眼目です。菩提心は梵字のbodhi-cittaの音写で「阿耨多羅三藐三菩提」という最上の仏の悟りを求める心をいいます。                                          三昧耶は梵字のsamayaの音写で仏と衆生が本来的に平等であることをいい、また、一切衆生を救い尽くす仏の本誓を意味する言葉です。なお、三密瑜伽は下記のとおりです。
これらの言葉は密教の教えの持つ包括性と寛容な価値観に彩られています。
空海の真言密教の教理の中核は「六大・四曼・三密」に要約されています。空海は即身成仏の論を『即身成仏義』と二経一論八個の証文(『金剛頂経』四文、『大日経』二文、『菩提心論』二文)を引くことによって説明しています。
ついで、次の「二頌八句の偈」によってそのプロセスを語っています。
「六大無碍にして常に瑜伽なり、四種曼荼各々離れず、
三密加持して速疾に顕る、重重帝網なるを即身と名ずく。
法然に薩般若を具足して、心数心王刹塵に過ぎたり、
各々五智無際智を具す、円鏡力の故に実覚智なり。」
この短い二頌八句の偈頌は「即身成仏」の内容を語るものですが、「六大無碍」(体)、「四曼荼羅」(相)、「三密加持」(用)は真言密教の教理の真髄を語るものと考えられています。                     これを適切に解説することは困難ですが、2〜3の解説本を参考にして意訳すれば、次のような内容になると考えます。
「六大無碍にして常に瑜伽なり」は、即身の本体(体性、存在性)を示し、「四種曼荼各々離れず」は、即身の存在相を表すものです。「三密加持して速疾に顕る」は、即身のはたらき・用を示し、「重重帝網なるを即身と名ずく」は、即身の本源的なあり方を示しています。
「法然に薩般若を具足して」は、一切衆生の本体(法仏)に具わっている成仏の可能性を示し、「心数心王刹塵に過ぎたり」は、無数の智の存在者を表しますが、心王は心の働きの基本となる識をいい、心数は心王に伴って従属的に働く心作用(心所という)です。心王は認識対象の全体に対して働き、心所(心数)はその全体と部分とに対して働き、両者は常に相関関係の認識を示します。密教では心王は諸尊の中心となる大日如来に擬し、諸仏、諸菩薩、明王等の諸尊を心数とみる仏身の統一観を示します。「各々五智無際智を具す」は、すべての仏が完全なる知恵をすべて具えていることを表します。また、「円鏡力の故に実覚智なり」は、成仏の理由を示すものと考えられています。
インドに発生した仏教では、宇宙の本体は宇宙を構成する6つの要素であると考えます。この思想では、宇宙は色(地・水・火・風・空=物質)と心(識=精神)が渾然一体となった実相(瑜伽)であると考えられています。                                      この6つの構成要素(六大)はさえぎるものがなく(無碍)、永遠に融け合って結びつき、万物を構成する本質的な要素であると考えられています。
宇宙も大日如来も私たち人間もこの六大が深く密接に結びついたもの(瑜伽)であり、瑜伽の中であらゆる生命体が生かされ、それが集まって世界が構成されている。            大日如如来の慈悲と智慧がこの世界を包み込んでいると空海は考えます。六大の活動的な事実を持って宇宙の実在、万物の実在と考えるのです。
大日如来は宇宙の根源仏として、すべての如来、すべての菩薩を統合する存在です。大日如来は宇宙を形成する原理そのものを示す存在ですが、本来的には姿も形もありません。しかし、草木や動物、人間やあらゆる生命に宿り、現われる存在と見做されます。
あらゆる現象や真理を認識する智慧は大日如来から生まれ、人が修行によってこの智慧を修得すれば、大日如来と一体になれると空海は主張しました。即身成仏の思想の基盤はこのような考えによるものです。
宇宙を構成する六大は眼で見ることができません。四種の曼荼羅は宇宙の相をその働きによって可視化したものであり、六大を捉える手段としての役割を持つものです。
四種曼荼羅曼の
1「大曼荼羅(形の相)」とは、宇宙が大日如来の形となって現われる全体を表すもので、 一つ一つの仏菩薩の姿・形を具えた身体をいいます。
2「三昧耶曼荼羅(姿・形の奥にある意味や働きの相)」とは、さまざまな諸尊が所持している法具(刀剣・輪宝・金剛杵・蓮華など)を目印とするもので、仏の持ち物によって仏の本誓を象徴的に表わすものです。
3「法曼荼羅(音声の相)」とは、仏菩薩など智慧を秘密のことばである真言で象徴し、梵字(これを「種字」といい「種字曼荼羅」とも云う)で表わしたものです。仏の智慧の印(しるし)です。
4「羯磨曼荼羅(宇宙の活動の相)」とは、さまざまな仏の活動を立体的に表現するものです。供養や威儀として表すもので「立体マンダラ」ともいいます。立体マンダラには、瞑想で虚空に観想したもの(自性マンダラ)や実際に人の目に見えるように木・粘土。金属で表現したもの(羯磨マンダラ)があります。
宇宙は絶え間なく変化する働きに満ちています。人はこの四曼を心に念じることにより宇宙を観想し捉えることが可能になるとし、空海はこの変化を捉える手段として「三密」を主張します。
三密とは、1「身密」(印を結ぶこと=手の形によって宇宙の活動を表す)、2「口密(真言を唱えること=言葉の持つ力を表す)、3「意密(瞑想すること=宇宙の調和と秩序を図る為の働き)」をいい、宇宙の絶え間なく変化する働きや現象を三密という行為によって把握するためのものです。
人は、真言を唱えることによって宇宙のエネルギーを発し、大日如来と一体になれたり、大きな力を身につけることができる、と空海は考えたのです。
仏と私たちの身体、言葉、心の働きが不思議な働きによって感応するとき、速やかに悟りの世界という質的な変化が現れる。あたかも帝釈天が持つ天網のように幾重にも重なり合いながら、映じ合うことを名づけて即身という。
あらゆるものは、あるがままに、計り知れない多くの仏の姿をしていて、一切の智慧を備えている。すべての人々には各々に「心の作用」や「心の主体」が備わって数限りなく存在している。
心の作用、心の主体のそれぞれに五智如来(「金剛界の五仏=1大日如来・2阿閦如来・3宝生如来・4阿弥陀如来・5不空成就(釈迦如来)」)の智慧と際限のない智慧(五智=無際智=大日如来の智)が備わり何一つ欠けるものは無い。
これらの智慧を持って、すべてを映し出す鏡のように照らすとき、真理に目覚めた智者となる。
そのポイントは三密加持(三密瑜伽)にあると空海はいいます。
716年、中インドから入唐した「善無為」が、法華経を凌ぐ教え『大日経』(正式名称は『大毘盧遮那成仏神変加持経』といいます)の解釈書(論)を洛陽に於いて著しました。
また、720年には、インドから渡来した「金剛智」により『大日経』を凌ぐ最高教典『金剛頂経』が長安にもたらされました。
この両経は真言密教で「両部の大経」とされる根本教典ですが、これにより「即身成仏」の理論体系が整えられました。
両教は別々の密教の流れの中でそれぞれが継承されましたが、この両教の正式な継承者である中国・青龍寺の恵果阿闍梨から空海が伝法の灌頂を受けたことはすでに述べました。
真言密教の修行の中核は『大日経』の「入真言門住心品第一」に、金剛薩埵の「仏の智慧とは何か」という問いに対し、大日如来が「菩提心為因、大悲為根、方便為究竟」と答えた記述にあります。                                                    これは三句の法門(菩提心を因とし、大悲を根とし、方便を究竟とす)といいます。
菩提心とは「白淨信心(白く清らかで信じて疑わない心)」といい、仏性・如来蔵とも言います。大悲とは、一切の苦を抜く無量の楽を施す(抜苦与楽)ことをいいます。             方便は他を利益する働きをいい、具体的には六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)や四摂法(布施・愛語・利行・同事)などを指すと考えられています。
この「三句の法門」を理解する前提となるものが密教の核心ともいえる「如実知自心(実の如く自身を知る)」です。如実知自心は「ありのままに悉く自らの心を知る」ことであり、これを正しく知ることが密教の修業目的となる概念です。                              密教の修業は「三密加持」によって示されるもので阿耨多羅三藐三菩提(この上ない正しい完全な悟り、無上正等覚ともいう)を目指すものです。
三句の法門を端的に表現すれば、第一に「悟りを求める心(発心の句)」を出発点として、第二に、そのためには「優しい思いやりの心を養うこと(修業の句)」を根本にして、第三に、最終的には工夫をして「世のため、人のために尽くす(証果の句)」ことが求められる結果でなければならない、ということです。
「方便」とは釈迦が示した実際的な救済方法の中核となる概念です。釈迦は救いを求めてくる人の理解力や苦悩の現実性に即した救済をこころがけました。                  救済には存在するものの本質を見抜く知恵を持ち、ものごとの特性を見分けて対応する方便が必要とされたのです。
三密加持とは、「手に仏の本誓を示す印契を結び、口に仏の教えである真言を唱え、心を静め清めて仏の悟りの境地に入るように努める」ことをいいます。
[三密」とは身密、口密、意密をいい、身体と言葉と心の三種の働きをいいます。大日如来には色も形も活動もあり、あらゆる場所で、あらゆるときに説法し続けていると考えることが密教と顕教との考えの違いです。
しかし、大日如来の説法は無目的で効果を期待する説法ではありません。故に、この説法を把握して自らの宗教体験に生かす法の受け取り手(金剛薩埵)が必要です。          次にその体験を伝えて現実社会の中に具体的に示して人々に役立てうる付法の阿闍梨の出現が必要です。
「加持」とは、加は仏の大悲の力、持は衆生の信心の力をいいます。「衆生の信心の力」と「仏の大悲の力」とが結合して法界(大宇宙)に働きかける力となって祈りが成就する、と考えられたのです。顕教には加持という考えはありません。
しかし、思うままの結果が得られる精神の集中は簡単ではありません。そこで、「月輪観」「阿字観」などの基礎的な瞑想法や「五相成身観」などの観想を日々訓練する必要があります。
釈迦仏教では、凡夫の意識や行為・経験は「身・口・意の三業」と考えられました。しかし、密教では、その本性から見れば、凡夫の三業も仏の三密と異なるものではないと考えます。
そこで、法身仏(大日如来)の三密と加持感応すれば凡夫の三業が浄化されて、三業がそのまま三密となり、仏と我とが「入我我入」して即身成仏すると考えるのです。これを「三密加持の妙行」といいます。
密教経典の特徴は、顕教のような「教え」だけでなく、「成仏に至る修行方法」を具体的に語ることです。
仏教経典を仕分ければ、「教えが文字によって表されている教典」を顕教といいます。    顕教の教典は「スートラ」といいます。これに対し、密教経典の大部分は「タントラ」といいます。
顕密ともに、教典や「経・律・論」を兼学し、宗派の論書を学ぶことが必須とされています。
論書とは、例えば、天台では『法華玄義』、『法華文句』、『摩訶止観』など、真言密教では『十巻章』(その内容は『般若心経秘鍵』1巻、『即身成仏義』1巻、『声字実相義』1巻、『吽字義』1巻、『弁顕密二教論』2巻、『秘蔵宝鑰』3巻、の空海主要著作と『菩提心論』1巻をいう)、『大日経疏』、『釈摩訶衍論』がこれにあたります。 
顕教と密教の違い

 

大乗仏教の最終形として7〜8世紀に登場した中期密教(純粋密教)の本質は、顕教との違いを理解することによって明らかになります。
顕教と密教の大きな違いは1仏身観(教主)、2仏が説く法の内容、3成仏観(その捉え方)、4教主の言葉の違い、などにあると考えられています。
実は、顕教という言葉は、密教と対比する意図をもって弘法大師・空海によって造られた言葉でした。「成仏の意味内容」「成仏の捉え方」「成仏に至る修道方法」などの違いを説明するために考えられたものです。
伝統的な大乗仏教(顕教)では、仏に成ること(成仏)を「智慧の完成」と捉え、真理や実相の知的な認識や獲得が成仏であると考えました。
これに対し、空海の密教では、成仏とは仏の智慧を実践することであり、仏として為すべき行為を(現実の社会の中で)実行することであると捉えました。
密教では、「智慧の完成」は入り口でしかなく、仏の行為を為すことが仏に成ることであると捉えられたのです。
仏(本尊または根本尊形)の存在をどのように観るかという仏身論(観)があります。
仏身論は、「仏陀とは何か」という仏教では避けて通れない本質的な問題を論じるものです。
仏教徒であれば無関心ではいられない根本的な原理原則論といえるものです。
釈迦の滅後、成仏して不死の存在となったと考えられた釈迦が死んだという事実に衝撃を受けた仏教徒は、この事実を受け止めなければなりませんでした。仏教徒はブッダの存在性、その在り方を再確認する必要性に迫られたのです。
そこで、釈迦が肉体を持つ実在の両親から生まれた事実としての存在=1肉体(色身)を持つ釈尊だけでなく、悟りを開いた釈尊は肉体を超越した存在=2悟りを内容とする法身であるとする二面性を釈尊の存在性として認識したのです。この考えは、肉体(色身)は滅んでも悟りの内容(法身)=精神内容は永遠と考えるものです。
次に、精神内容が普遍性(永遠性)であるならば、過去にもその理を覚ったブッダ(過去仏)が存在したに違いない、と考えたのは道理です。
ここから過去七仏が登場することになりますが、これらのブッダ(仏)はすべて智慧の光に満ちて、あらゆる場所に普遍的に存在する法身と目に見える肉体を持つ色身の二面性(二身説)の存在と考えられました。
過去七仏の縁起を受けて現在仏が生起し、あらゆる世界の普遍の原理をあるがままに覚ることで未来仏(弥勒仏)が生起する悟りの世界の永遠性が認識されたのです。
やがて、ブッダの考察の結果次のような三身説に収斂されました。
1 悟りそのものを身体とするブッダ(自性身)⇒悟った法を体現している=法身
2 悟りの法味を享受するブッダ(受容身)⇒過去の善行の報いによって得た=報身
報身は「自受用身(悟りの法味を自ら享受する)」と「他受用身(菩薩に享受させる)」に分ける考え方があります。顕教の教理です。
但し、空海は自受用身を密教とし他受用身を顕教と判じる立場を取り、報身(自受用身と他受用身)が顕教と密教に通じることから、あえて報身の語を用いませんでした。空海は法身・応身・化身の三身説を用い、法身の所説が密教であり真実有である、応身・化身の所説が顕教であり仮名有であると断言しています。空海の報身観は、報身は他受用身に限るとするものであり、これを『秘蔵宝鑰』や『吽字義』に述べています。
密教の仏は宇宙の真理・実相を「法」と捉える法身観です。大乗仏教の教学を代表する四家大乗(法相・三論・天台・華厳)では、法身を真理そのもので人格を持たない理仏(理法身)であると解釈しました。しかし、空海は五大(地・水・火・風・空)の働きを単なる物質論として分析するのではなく、「五大に響きあり、十界に言語を具す。六塵(空海は色・声・香・味・蝕・法の最初の色塵が文字の源と説く)悉く文字なり、法身はこれ実相なり。」として人格論を展開しました。
空海は「五大とは五字五仏及び海会の諸尊これなり」としています。諸仏諸尊はみなそれぞれに音響を有している、人格を有するがゆえに「声の外に字なし、字すなわち声なり」「声字の外に実相なく、声字すなわち実相なり」(『声字実相義』)として、声と字と実相の考察において、声字には必ず実相があり、実装には必ず声字があるから人格の存在が証明できるとしています。空海の法身大日如来は、人間と同様に体・相・用の人格を有する実相であり、しかも、その実相は身・口・意の三密を具えている具体的な存在なのです。
空海の論理性は、教えがあれば、その教えを説かれた主体の人格が必ず存在する、というものですが、これが『大日経』や『金剛頂経』に説かれた「人法不二」「理智不二」の法身・大日如来なのです。
真言密教(空海密教)の仏身論は三身説ですが、空海は『辨顕密二経教論』において「仏に三身あり」とし、三身とは「法身」、「応身」(仮に衆生の機根に応じた姿で現れて衆生済度をする)、「化身」(衆生済度のために仏が人間としてこの世に現れる)であると述べています。応身と化身は顕教の教説に現れる仏、法身は密教の教説を説く大日如来(毘盧遮那仏)として、諸仏・諸菩薩・明王などをその分身とするパンテオン(金剛界と胎蔵界の両曼荼羅)を形成する仏身観を述べています。
3 衆生を救済するために肉体を持って現れたブッダ(変化身)⇒衆生の苦悩に応じて現れる=応身
仏陀の捉え方は、特定の仏教教団の性格や本質を識別する評価基準となるものです。
例えばある宗教団体が本物の仏教教団といえるかどうかを判定する評価基準となるものであり、仏教教団の構造や性格を自ら語ることになるものです。
特定の既存教団が内包する仏身論は、その宗教団体の存在観や普遍性、そして妥当性を自ら語るという本質論を明らかにするものと考えられます。
真言密教(空海の密教)は、空海の「智」と「実践」によって完成されたものであり、大乗仏教の到達点に立つ秘密仏教であると考えられます。真言密教は、空海の卓越した思索と構成力によって構成された即身成仏思想に特徴がありますが、これはインドや中国でも形成された教理ではありませんでした。空海は、その思想を膨大な諸著作によって教相(教理論)と事相(実践論)の両面から詳述して日本仏教に大きな影響力を与えましたが、ここに真言密教の日本的展開の特徴が顕著に表れているのです。まさに、真言密教は空海の出現が無ければ成立しなかった秘密仏教なのです。
テラワーダ仏教(上座部仏教、小乗仏教)は成仏を目指しながらもブッダにはなれないというどうにもならない不可能の壁に行きずまり、せめて煩悩だけでも断じて阿羅漢を目指しました。大乗仏教は、この閉塞感を打破しようと努め、すべての人々が成仏できる(理具成仏=成仏の可能性の原理を示そうとするもの)という考え方を示しましたが、それを実際に可能とする実践行を示すことができず「三劫成仏」と呼称されました。『華厳経』や『法華経』などの大乗の諸経典は、即身成仏の可能性に言及しようと努めましたが具体的な教理と実践行を示すことができませんでした。密教は、空海の「智」と「実践」によって、三密加持の妙行による即身成仏の境地に到達できる実践行を示しています。
空海の即身成仏思想の特徴は、六大・四曼・三密と呼称される教理体系と三密加持の実践行にあります。六大は、地・水・火・風・空の五台と識の六大思想(空の思想の基礎)をいい、四曼は四種曼荼羅を示すものです。その四種とは、1大曼荼羅=宇宙の全体の形相を示すもの。2三眛耶曼荼羅=宇宙に存在する個々の事物の形相を示すもの。3法曼荼羅=一切の原語、音声、文字、名称を示すもの=一切の事物は存在の意味と理想を示し必然的な意義を持っているから、一切の原語、文字は如来の原語であり文字である。4羯磨曼荼羅=宇宙空間における一切の事物の活動、作用を示すもの=一切の活動や現象を実在の象徴と見る宗教的な考察、などをいいます。三密とは、「身密」・「語(口)密」・「心(意)密」をいいますが、その三密加持とは、1手に印(宇宙の実相の象徴、左右の手を衆生と仏、定と慧、理と智、本有と修生、胎蔵と金剛に配当する)を結び、2口に真言(仏の真実のことば)を称え、3心を三摩地(精神統一)に住する、ことをいいます。三密は「体(法の本体)・相(現象)・用(作用・働き)」の三大思想(大乗起信論の教理)から導かれた妙行と考えられますが、空海はこれを「六大無碍常瑜伽」云々とする「二頌八句」によって即身成仏を説明しています。詳細は「(29)真言密教(空海の密教)」を参照して下さい。
顕教の特長は、菩薩の修業によって諸法(宇宙観)の真理や実相を覚りその内容を「法」として「仏の身」と捉えたことにあります。菩薩の誓願を完成した報いを成仏(仏)と見て、これを仏陀といいます。仏陀は人の身であったので明らかに「人身」です。
よって、修業の動機などの諸要素が菩薩の誓願や修業内容の違いとなって現れ、顕教の仏身論の内容や性格が定まります。
なお、論理的にいえば、菩薩の修行者はどのような誓願を完成させようとも「応身」か「報身」であり、「法身」(宇宙の真理・実相の当体=根本仏)と見做すことはできません。人の身であった者を法身に仕立て上げることはできません。法身仏は、報身仏と応身仏の指導原理性または悟りの根源となる存在です。各宗の祖師や新興宗教団体のリーダーを法身(根本仏)になぞらえる戯論は否定すべきものです。
仏の説法、教説は顕教と密教では異なります。
仏の覚った法(真理・実相)は、顕教の教主は人であるところから、人が人に法を説くという在り方(対機説法)になり教主の覚った果分(智慧の内容)は間接的にしか伝わりません。これを「果分不可説」といいます。
密教の教主は法そのものであり、法である仏が人に直接に法を説くというあり方(法身説法)になります。これを「果分可説」といいます。
顕教と密教は成仏の捉え方に違いがあります。顕教では、仏と成る智慧の完成(成仏)は、菩薩の修業により善行や福徳、智慧などを三劫という果てしなく長い所要時間をかけて積み重ねることによって成仏が可能になると考えていますが、これを「三劫成仏」と言います。
これに対し、密教では、成仏とは「仏の行為をなすこと」と捉え、佛の智慧を実践すること、仏として為すべき行為を実行することと考えます。これが真言密教の成仏観であり「即身成仏」の思想です。
仏の説法の形式の違いは、顕教と密教の教主の「ことば」の違いにあります。
顕教の教主の「ことば」は、人である仏(応身仏または報身仏)が人である衆生に語りかけている「ことば」です。
密教の「ことば」は人の「ことば」ではなく、宇宙にあるがままに存在する森羅万象(真実や実相)を本体とする法身仏が法を直接に説く「ことば」であり、それは衆生の素質や能力に合わせた方便の対機説法の形式をとることなく真実のみを直接に語る「ことば」と考えられています。
弘法大師空海は、法身仏の「ことば」は、宇宙の真実・実相をありのままに如実に語る存在の「ことば」であり、「いろ、かたち、うごき」として現れる存在と考えています。この「ことば」の働き(語密)と法身仏(大日如来)とが互いに渉入する「入我我入」の境地の中でその意味(智慧)を読み取るのです。
顕教は文字で書かれた教典を読むことにより学ぶことができますが、密教は師僧の伝授によって学ぶことが伝統的な方法であり、単に文字を解釈したり、独学で学べるものではないと否定されています。
大乗仏教兼学の比叡山からはさまざまな教義を持つ新仏教(禅・念仏・法華)が生まれましたが、高野山や東寺では口伝の違いによる分派はありましたが、教義を異にする新仏教が生まれることはありませんでした。
伝法灌頂によって継承される伝統の密教修道システムから釈迦仏教の本質に抵触したり否定する新仏教が芽吹くことはありませんでした。
これは、決して偶然ではなく密教の修道システムが機能していたからだと考えられています。 
日本密教の特徴

 

『大日経』は、正式名称を『大毘盧遮那成仏神変加持経』といいます。宇宙の真理を具現する法身仏である毘盧遮那如来(大日如来)が執金剛秘密主(金剛薩埵)の質問に対して答える形式をとっています。この経には仏の智慧(一切智々)を獲得するための根拠や三密(身・口・意)の構造が主体に説かれています。
大日経の中心は前述の三句の法門です。「菩提心を因とし、大悲を根とし、方便を究竟とする」ことを説きました。ありのままの自らの心を観察し「如実知自心」が仏の智慧の獲得にほかならないとして心を分析していきます。
また、毘盧遮那の慈悲を表す大悲胎蔵生曼荼羅(胎蔵界曼荼羅)の描き方、灌頂や護摩の説明、印や真言の次第などが説かれています。
『金剛頂経』の正式な名称は『金剛頂一切如来真実摂大乗現証大教王経』(三巻)といいます。金剛頂とは大日如来の智徳を説明する語です。金剛は堅固不壊の金剛宝に喩え、頂はその智慧が最勝無上であることを意味します。
この経は、真言密教では「初会の金剛頂経」といい『真実摂経』といいます。
金剛頂経は、大日如来が一切義成就菩薩(釈迦)の質問に答える形式を取っています。大日如来が自らの如来性を語り、仏身を成就する修道法として「五相成身観」という瞑想法を説きます。
金剛界曼荼羅の詳細説明を説き、釈迦が如来になるために必要な方法や「即身成仏」の方法が説かれています。
『大日経』と『金剛頂経』は真言密教の根本教典で、両部の大経といわれています。
金剛頂経十八会の第六会が有名な『理趣経』です。正式名称を『大楽金剛不空真実三昧耶経般若波羅密多理趣品』といいますが、大日如来が金剛手菩薩(金剛薩埵)らの諸菩薩に一切諸法は本来は自性清浄であることを説きます。
このとき、「十七清浄句」をあげて一切の人間的欲望を肯定する大楽思想を語ります。この中に、性欲でさえ清浄な菩薩の位であるという、般若の智慧を通じた価値の転換が語られます。
ここでは欲望を単純に悪として否定せず、欲望を大楽思想の智慧を通じることによって、個人の欲望にとどめず、世の為人の為になる欲望に昇華させて価値転換を図る大胆な現実肯定を説いています。
現実的な欲望もそのまま絶対の世界(真如・仏)に裏付けられた真実であるから本質的には清浄であると見るのです。
尚、理趣経の主旨を曲解する教義を持ってしまったことで、「左道密教」の評価を受けて真言密教から否定された一つの宗派があります。これを「立川流真言宗」といいます。衆目の誤解を助長しかねない性欲にまつわる諸儀礼が密教の本旨を逸脱するものであると指弾されて否定されたのです。
この影響は、密教に今日まで続く計り知れないダメージを与えました。興味本位の世間の無責任な風評の流れを堰き止めることはできません。無知による誤解が新たな誤解を作り続けて無責任な風評がまことしやかにささやかれていることは事実です。
密教という語にそのような誤解を受ける響や要素があると受け取ったのでしょうか。
密教では本尊の多様化がありますが、その精神内容は「慈悲」と「智慧」という共通の要素で表されます。「大悲胎蔵生曼荼羅」は慈悲を、「金剛界曼荼羅」は智慧を表すものですが、この曼荼羅は全ての仏を集合させそれぞれの役割を合理的に位置づけ、密教の大日如来の悟りの世界観を可視的に表現したパンテオンを形成しています。
この両界曼荼羅は、法身仏・大日如来の自内証の真実の境界を示すものですが、思想面において特徴的な包摂性を示しています。すべての思想と対立することなく、暖かく包摂して仏教的パンテオンの中に適材適所の座を設けています。これは密教が持つ普遍的な思想性と包摂性を如実に示すものであり、象徴的な構図になっています。
大悲胎蔵生曼荼羅は、13のグループに414尊の仏菩薩等を配置していますが、中心部の中台八葉院の9尊は大日如来を中心に四如来四菩薩が囲む構図です。これを東の4院と西の4院の計8院(仏部)と南の3院(金剛部)と北の3院(蓮華部)が取り囲む構図になっています。
金剛界曼荼羅は、9グループの会に1461尊の仏菩薩等が配置されていますが、中心部の成身会は大日如来を中心に、東は阿閦如来、南は宝生如来、西は阿弥陀如来、北は不空成就如来(釈迦如来)の金剛界5仏などの37尊の他1061尊を配置する構図です。
ちなみに、五相成身観は、この37尊とそれぞれに入我我入した後に中尊の大日如来(毘盧遮那仏)と一体となり悟りを得る金剛界の瞑想法です。
法界のあらゆる存在は悉く因縁や縁起によるものであり、このような関係性の中に「法」の存在が認められます。
一切諸法は不生不滅の中道にあります。仏の境界は始めも終わりもない不滅・常住の「本不生」であり「本有常住」です。法(=仏)は大宇宙(大自然)の中に本来のあるべき姿のまま実在していると認識することになります。
密教では、付法の系譜が重要な意義を持ちます。密教では師弟関係がとても重要です。宗教体験そのものは、文字や言葉で表現できない境地のものです。神秘体験を正しく伝えるには、師となる阿闍梨の資質が重要であり、弟子である行者を的確に導くことができる深い宗教体験を持っていることが必要不可欠です。
阿闍梨が相伝した法灯が由緒正しいものであるか否かによって、弟子の宗教体験の中身が左右されるのは道理です。阿闍梨との出会いによって弟子の宗教体験の質が決まってしまうことは避けようがないと考えられます。
密教では、素質にすぐれ、正しい法脈を継承する阿闍梨との出会いの「縁」をことのほか重要視します。このため、阿闍梨は、素質を認める者しか弟子入りを許可することがありません。このような関係性からは、相伝は文字や言葉などの筆授で行わず、阿闍梨である師僧と弟子とが面授によって相伝することが基本形となりますが、これが密教の伝統的な「伝授」の在り方と考えられます。
密教の付法、その時期の選定、などはすべて大阿闍梨の判断に委ねられる性質のものです。修行そのものは、入門から「伝法灌頂」迄の準備期間としては長期にわたりますが、伝授自体は長期間を必要としません。宗門所定の「四度加行」を規定通りに修了して、総本山の認定試験(年1回)に合格することにより「伝法灌頂」という付法がなされています。「伝法灌頂」の入壇を許可され、諸儀礼を無事に通過した者は「伝燈阿闍梨」となることができます。
インド仏教は最終的に密教になりましたが、12世紀に完成した後期密教(タントラ密教)はインドからチベットに伝わりボン教などと習合してチベット密教に変質しました。
また、モンゴルにはチベット密教がもたらされ国教となりましたが、モンゴル人の覇権とともに中国やロシアに伝播されました。
しかし、インド密教はイスラム教徒に全部破壊され1203年には完全に消滅しました。
今のインド仏教は「バウッダ(仏教)」といわれヒンズー教の一派として吸収されたとみるのが日本の多数説です。ちなみに、インドではすべての宗教がインドの民族宗教であるヒンズー教の一派と見做される伝統を持っています。
インドには、世界的に有名なカースト制度(四つのヴァルナー)という階層間の差別があります。
しかし、本当の差別は同一カーストの中にあるジャーティ(世襲の職業が3000以上もある)の上下関係によって作られている、といわれています。
インドで問題になる差別はこの同一カースト内のジャーティの上下関係の差別なのです。
カーストの差別よりもジャーティ内の差別の方が耐え難い、といわれています。
インドは今でも職業選択の自由はありません。例えば、婚姻は同一ジャーティの中で行われています。
この差別から逃れるため、平等主義の仏教に改宗する人々が増加し、1000万人以上の新仏教徒が誕生している模様です。
現在の密教は、中期密教を深化させた日本密教(東密、台密)と後期密教を受け継いだチベット密教に集約されます。
後期密教の中心を形成したチベット密教は、中国政府の干渉を嫌ったダライラマ14世が1959年にインド亡命したことによってチベット本国を離れて亡命政府を樹立しました。これにより、新たな独立運動を世界に認知させなければならない受難の道を歩むことになりました。 
鎌倉新仏教(祖師仏教)の登場

 

平安末期から日本独特の「末法思想」が急速に広まり、仏教界は混乱に陥りました。 鎌倉時代には、広がる社会不安を背景にした終末の厭世観が末法思想と同化して人々に流布されて広まり、人々を混乱に陥れました。 末法思想は、比叡山の中で生まれた特異な思想ですが、比叡山の中で育った僧によって流布された最大の風評被害でした。この中で、人々が求める民衆救済の時代の要請に答える形で、新たな思想と気風を持った日本独特の新仏教が誕生し民衆の中に急速に広がりました。
鎌倉時代は、比叡山から出てきた新宗教の祖師が、それぞれ特異性のある意図を持って、様々な思想を蔓延させたパフォーマンスの時代でした。あたかも比叡山の僧によって捏造された「マッチポンフ劇場」の舞台裏を見てしまった哀れな観客の気分が伝わってくるようです。 末法思想とは、インド、中国、日本それぞれに異なる説がありますが、日本では1052年から末法の時代に突入したと見られました。 この時代の特徴は、武士が台頭し武力によって摂関政治による王侯貴族の既得権益を奪い、武士の世が台頭する特徴的な世相を反映する激動の社会でした。有力な大寺社が僧兵を抱えて武装するのはこの頃のことです。
この思想の特徴は、釈迦滅後の仏法の盛衰を特徴的な時代区分に仕分けて語るものです。 最初に用いたのは中国・南岳慧思(515〜577)の「立誓願文」といわれますが、インドでは『大集経』に500年ごとの時代区分による説明があり、この説の典拠とされています。
これによれば、釈迦滅後500年は「解脱堅固」、次の500年は「禅定堅固」、同様に500年毎には「読誦多門堅固」、「多造寺堅固」となり2000年後に「闘争言訟・白法隠没」となる末法になって仏教は完全に廃れる、と云っています。日本では『扶桑略記』、『霊異記』、『愚管抄』などに記載があり、最澄・撰の『末法燈明記』なども同様の主旨を述べています。
末法思想は、中国、日本でも主として天台宗系の僧侶によって風評の流布がなされてきたという特徴があります。法華経を流布する社会環境を狙ったのではないかと考えられます。
この三時の思想は、釈迦滅後の千年間が「像法時代」次の千年が「正法時代」それぞれ釈迦仏教の真意が徐々にすたれ、2000年以降には「末法時代」になって仏教の正しい教えが無くなる世の中になり人々は救われない、というものです。
人々は奈落の底に落ちる思いを強く持ちました。 しかし、末法思想はいわゆる終末思想(この世の終わり)とは全く異なるものです。末法思想は釈迦の教えの有効性の問題でしたが、民衆は同時に終末思想をも関連づける連想をしたものと考えられています。 従って、この思想を重く受け止めた人々は、末法の世からなんとか救われたいと強く願ったのです。 このような時代背景の中で鎌倉新仏教が登場しました。
鎌倉時代の特徴は、仏教に期待されていた国家鎮護の役割が相対的に低くなり、個人の救済を主な役割とするようになったことです。修行の厳格な比叡山から出てきた僧が持った思想は、伝統的な比叡山の教理論を否定、もしくは、縛りを受けない「簡便化された教理論」でした。その共通認識は「信じる者は救われる」という一点にあります。この手法は、キリスト教の伝道に見られる特徴的な教法流布の仕方と軌を一にする手法と考えられます。 
法然、親鸞は「無阿弥陀仏」の六字の称名念仏を、日蓮は「南無妙法蓮華教」の七字の題目を唱えるだけで仏から救われると主張して、庶民の信者の獲得を行いました。鎌倉仏教の祖師が庶民を対象とする 仏教の大衆化という新たな社会状況が生まれ、仏教の教勢拡大は王侯貴族の庇護ばかりでなく、大衆の支持が深く関わるようになりました。
この末法思想は、その後の世の中の流れを知っている現代人から見れば、それほどまでに悲観的にならなくとも良いのではと考えますが、真実でなくとも、当時の人々はそのような流言飛語にすぐに乗せられやすい心理状況にあったのです。
ちなみに、この思想は真実ではありませんでしたが、このような特殊な社会状況の中で鎌倉新仏教(祖師仏教)が民衆の昂ぶる不安感の蔓延を契機として、次々に成立したことは事実です。
僧院では、この末法思想を言い訳にして修行が疎かになる風潮が随所に見られましたが、曹洞宗の道元は末法思想を批判し否定しています。
「禅宗」「念仏宗(浄土宗・浄土真宗)」「日蓮宗」は、日本独自の典型的な祖師仏教で鎌倉新仏教と呼ばれています。これらの宗祖は比叡山で学んだという共通点を持っています。
武士団を統率する幕府の庇護を受けた臨済宗・黄檗宗を除けば、民衆の中に布教され民衆の支持を得て成立した教団といえます。難解で手の届かないな仏教を「簡素で分かりやすい教義」にしたことが民衆に支持されたと考えられています。
なお、学校教育の現場で使用する歴史教科書に明らかに間違っている仏教認識がある事実に言及する必要があります。この点で、黒田俊雄著『王法と仏法』中世史の構図・P7)」は冷静にこの事実を指摘していると考えます。
黒田説が指摘するこの教科書に見られる定説は、顕密仏教(真言・天台および南都六宗)を「古代仏教」と呼んで中世仏教史の主役から降ろし、鎌倉新仏教(法然・親鸞・道元・日蓮など)を中世的な仏教、又は思想として扱うことにあります。
鎌倉新仏教が起こり顕密仏教が古い時代のものであるかの如く扱うのは仏教の基礎知識が欠落した明らかな事実誤認を示すものです。
顕密仏教こそが時代を通じて大乗仏教世界に多大の影響を与え、中世から今日までばかりでなく、今後も思想界をリードする仏教哲学を伝えて行くことは否定できない事実だと考えられます。
キリスト教やイスラム教の哲学が現代思想を持ってしても越えられないのと同様に、顕密仏教の思想を超えることは事実上では不可能と考えられます。これと同様なことが世界の歴史遺産となっている建築、絵画、美術工芸の世界や音楽の世界に数多く存在していることを私たちは知っています。
鎌倉新仏教の発芽は、顕密仏教の思想や哲学があったからこそなしえたことでしたが、鎌倉新仏教は自宗の独自性や布教の便宜性を競って教義の簡素化や単純化に努めた結果、民衆を信者にする布教活動に一定の成功を収めることができました。
その結果は、釈迦仏教の本質論を逸脱し、基本精神を大きく見失って、日本独自の祖師仏教を築きあげて釈迦仏教を著しく毀損してしまいました。末法思想の縛りが大きく影響したものではないかと考えられます。これは、大乗非仏説を惹起させた大きな原因の一つと考えられ、釈迦仏教の本質を大きく逸脱する教義を持ったからだと考えられています。
大乗哲学を代表する法相宗・三論宗・天台宗・華厳宗は「四家大乗」として大乗仏教の発展に大きな貢献をしてきた実績があります。密教は大乗仏教を統合する理念を示し、大乗仏教が目標とする「即身成仏」思想を集大成した実績があります。 今日でも、高野山や比叡山、東大寺や興福寺、薬師寺などの顕密寺院を除いて仏教を語ることは不可能です。
顕密仏教とは
「顕」とは、「現われていること(文字により表現化されている)」⇒顕教
・南都六宗 ・天台法華 ・禅宗 ・浄土(真)宗 ・日蓮宗など                  「密」とは、「隠れていること(本質的にものをみること)」
(教義や修行方法が文字や言葉で表現されない秘密の教え)⇒密教
・真言密教 ・天台密教
顕教とは、「誓願によって出現した報身仏(阿弥陀如来、薬師如来など)」または、
「歴史的に存在した応身仏(釈迦如来)」の教えです。
教えの相手の機根(知的レベル)に合わせて説法します(隋他意)。
密教とは、「宇宙の真実そのものを人格化した法身仏=大日如来」が説く教えです。
教えの相手の機根(知的レベル)に関係なく真実を語ります(隋自意)。
自己の探究(如実知自心)と悟りへの真実に生きる道の探究を目的とします。
密教は、インド仏教が生んだ最後の思想です。  
空海の『秘蔵宝鑰』には、次のような記載があります。
「顕薬払塵」(顕薬は塵を払い)、「真言開庫」(真言は庫を開く)                  
顕教はものごとの塵を払い清め美しく見えるようにする働きをするようなものだが、しかし、密教はものごとの本質の中に、直接に真理をみる、という違いがあります。
顕密仏教が王侯貴族の庇護を受けて来たことが受け入れられない事実であっても、鎌倉新仏教が現世的・世俗肯定的で親しみを感じた庶民に受け入れられたとしても、仏教には仏教の伝統的な(釈迦仏教の)判断基準があります。時代の要請を持ちだして、その時々に適当な評価基準を設定して決められる性質のものではありません。
一般的に、ほとんどの教科書的な表現は、仏教の内容を専門的に分析することなく、単に文化的に顕著に表われた潮流の側面や動きを捉えた評価になるので年代順の新旧感覚に重きが置かれる記述になる欠点があります。
もし、仏教の評価基準を無視して誰かの意見を参考にして決められるようなものであれば、それは正当な評価ではありません。仏教は、一過性の文化的側面では評価できない性質をもっています。
鎌倉新仏教が教勢を拡大できた時代は鎌倉末期から戦国時代と明治時代以降のことです。室町幕府、織田・豊臣政権下や江戸幕府の下では教勢拡大の活動は権力によって抑え込まれていました。権力者に宗教の関心が濃厚にあったからです。
全国規模の教勢拡大の活動は明治以降、特に昭和20年以降の戦後の信教の自由の下でのことでした。この時から新興教団の教義をチェックする機能が自動的に消滅しました。宗教は各人の自由に任されたのです。
特に、昭和20年代以降の戦後の新興宗教の乱立によって仏教の本質的な教義が歪められてきました。戦後に宗教の自由に目覚めた新興宗教団体が多数出現し、熱心に信者を手作りして囲い込む布教拡大の競争が行われるようになりました。
戦後の信教の保障の中で、信徒の数が教勢や宗旨の正当性を左右する指標に利用されるようになりました。まさに数は力なりです。戦国期の一向宗の興起以来の新たな社会問題が発生する温床が形成されました。
今日の仏教思想の混乱に拍車が懸ったのは、戦後に複数の在家信者中心の巨大新興宗教団体が出現して、言論の自由のもとに自教団に都合のいい教理を蔓延させ信者の獲得競争に狂奔したことにあると考えられます。
この奔流の中で仏教の基本精神は歪められ、矯正が不可能な非仏説が蔓延する社会状況が出来上がりました。仏教の精神を回復させることは容易ではありません。 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
経王山文殊院圓融寺(円融寺)・法話

 

圓融寺について
目黒区碑文谷の閑静な住宅街に位置する経王山文殊院 圓融寺は、今から約1150年前、平安時代の仁寿3年(853)、慈覚大師による創建と伝えられる天台宗の古刹です。草創当時は法服寺と名付けられましたが、鎌倉時代の弘安6年(1283)に、日蓮上人の高弟である日源上人によって日蓮宗に改宗され、寺号も法華寺と改められます。この日蓮宗時代は江戸中期までの約400年間続き、寛永年間前後には江戸近郊屈指の名刹として知られました。しかし、法華経の信者以外に布施を受けず・施さないという、いわゆる不受不施派の主義が幕府の忌諱にふれるところとなり、法華寺は取り潰しにあいます。こうして、元禄11年(1698)に再び天台宗に改宗され、はじめは東叡山寛永寺の末寺、のちには比叡山延暦寺の末寺に属しました。やがて天保5年(1834)には円融寺と名が改められて現在に至っています。国の重要文化財に指定されている東京都区内最古の木造建築「釈迦堂」の建築年代は室町時代とされています。唐様建築の手法に和様を取り入れた優美な様式を今日に残しています。たおやかな曲線をもつ入母屋造りの屋根は、もとは茅葺きでしたが、昭和27年銅板に葺き替えられました。また、永禄2年(1559)の作「黒漆塗りの仁王像」は東京都の有形文化財に指定されています。江戸時代中頃は霊験あらたかな「碑文谷の黒仁王」として人々から親しまれ、大勢の参拝客で賑わっていたと伝えられています。荘厳かつ静謐な境内は、思わず手を合わせたくなるような神秘的な雰囲気に包まれています。 
碑文谷黒仁王尊について
仁王尊とは
「仁王」とは、本来「二王」と書き、二体一具の尊格を意味します。日本では親しみをこめて「仁」の文字であらわされるようになりました。 正式な名称は「金剛力士」といいますが、世の中の悪を打ち砕く金剛杵(vajraヴァジュラ)という武器を手に執り、常に仏さまのそばに仕えてお守りしたことがその名の由来となっています。インドではもともと単独の尊格でしたが、中国をはじめとする東アジアでは二尊と考えられるようになり、寺院の守り神として、門の左右にその尊像を安置するようになりました。一体は口を開く阿(あ)形尊、もう一体は口を結ぶ吽(うん)形尊で、中国古来の力士のかたちにならって武装形よりも裸形のほうが多く見られます。「仁王」とは、本来「二王」と書き、二体一具の尊格を意味します。日本では親しみをこめて「仁」の文字であらわされるようになりました。その性格上、威嚇の表情をあらわにしており、筋肉隆々で力強い風貌をしているので、無病息災の神としても親しまれてきました。また、その脚は太く逞しく表現されているので「健脚の神」としても広く崇拝され、仁王門に大小の草鞋が奉納されているのがよく見受けられます。
黒仁王尊の作者は?
圓融寺の木造金剛力士立像、いわゆる黒仁王尊は、その作者が一体誰なのか、ずっと不明のままでした。江戸時代の資料によると、開基である慈覚大師の作であるとか、鎌倉時代の運慶または快慶の作であると伝えられていますが、いずれも歴史的な根拠がなく俗説にすぎません。この仁王像の作者や作成年代が判明したのは、実はごく最近になってのことです。長きにわたって庶民の篤い信仰を得ていた理由から、仁王像の修復はずっと躊躇われてきましたが、昭和42年(1967年)についに解体修理の決断が下され、碑文谷仁王修復協会が設立されました。その翌年、撥遣(はっけん)式(御魂をぬく儀式)の後に解体作業を行なうと、なんと吽形尊の体内から、圭頭形をした木札が出てきたのです。その木札は、長さ72センチ、上部幅10センチ、下部幅10.5センチ、厚さ0.5センチで、表と裏に銘文が記されていました。そこには、この仁王尊像が日蓮宗時代の法華寺(現、圓融寺)第八世の日厳上人が願主となって永禄2年(1559年)鎌倉扇谷住の権大僧都大蔵法眼によって作られたことがはっきりと記されており、長い間の疑問は一時にして氷解されたのです。木札発見の翌年の昭和44年(1969年)、この碑文谷黒仁王は東京都の重要文化財に指定されることになり、その歴史的な価値があらためて評価されました。
空前の黒仁王尊ブーム!
江戸初期から中期にかけて最盛期を迎えた法華寺(現、圓融寺)でしたが、幕府による不受不施派の弾圧の中で衰微し、元禄11年(1698年)、第19世日附上人が八丈島に流刑されることによって450年続いた日蓮宗法華寺の歴史は幕を閉じました。再び繁栄の時期がおとずれたのは、天台宗に改宗後のことで、それは黒仁王尊信仰の爆発的なブームによるものでした。田山花袋の『東京の近郊』には「そこにある仁王尊は、昔は中々の流行佛で、寛政年間には、殆ど道もさりあへぬほど、參拜者があったといふ事が何かの本に書いてあったと覺えている」と書かれていますが、確かに『遊歴雑記』(※1)『過眼録』(※2)『新編武蔵風土記稿』(※3)『江戸名所図会』(※4)『武江年表』(※5)『飛鳥川』などの江戸時代の文献には、法華寺の仁王尊が庶民の篤い信仰をあつめていた様子が語られています。それらの文献によると、最盛期はおよそ天明年間末から寛政年間末にいたる十二、三年間で、門前には茶店が立ち並び、境内では多くの人々が仁王尊にお線香を供えたり、背負わなければならないほどの大きな草鞋を奉納したりして、大変な賑わいぶりだったようです。おそらく、物見遊山といわれる郊外散策や旅行が当時の庶民の娯楽の一つとして盛んになったことが、仁王尊の参詣と深く関連していると思われますが、なかには宿願成就を願って夜を徹して断食修行するような熱心な信者も多く、仁王門の周囲にはお籠(こも)り堂が数箇所設けられていたそうです。また、仁王尊の床下は、近年まで断食修行をする人が入れるようになっていました。江戸から法華寺までの道のりは、昔の単位で二里半余りといわれますが、参詣するために最もよく用いられていたのは品川宿からのルートで、通称「碑文谷道」と呼ばれました。碑文谷道は、品川宿の南馬場、今の南品川から西にのびている野道で、平塚村(品川区平塚)より下丸子道(中原街道)を横切ると、武蔵の辻(品川区小山二丁目)に出ます。その角には名物の煤団子(すすだんご)を売る店があったので、別称、煤団子の辻ともいいました。この地には仁王尊繁栄期の寛政元年(1789年)に「右 不動尊 左 仁王尊」と刻まれた道標がたてられました。すなわち、目黒不動尊と碑文谷仁王尊の分岐点がちょうどこの辻だったのです。 この道標は昭和31年の道路改修工事のために僅かに移動され、左右の方向が逆になってしまいましたが、今もなお残されており、仁王尊の参拝者で賑わう当時の様子をしのばせてくれます。
※1 『遊歴雑記』
「武州荏原郡碑文谷法花寺(天台)は、目黒村祐天寺より西南の方二十余町にあり、仁王門は南の耕地を表とし、裏門は北東の方にあり、扨音に聞ゆる仁王尊は長一丈半、慈覚の御作とも運慶の作ともいえり、黒く塗りたるものにて、五体筋骨の様子さのみ勢ひなく痩せたる様に見へ、世上の仁王とは一風替りたるぞ聖りの作ともいふなるべし、(中略)此仁王尊の前に奉納の石灯篭、又は草鞋がけ、線香台等ありて、参詣の人々線香に火を点じて供ずるあり、或は荷ふ程の大草鞋を奉るもありて、色々の人ごころ又面白し、扨本堂といふもの僅に四間に過ず、此北うしろに大榎あり頃しも繁茂し、此樹のまはりに厳重に駒よせしたるは仁王尊の神木にこそ、(中略)扨此寺の仁王門にはあやしの出茶屋戸床几に憩ひ東南の二方を眺望するに、頃しも七月十六日稲のはなは半穂にいでて、田園の風景はいふべき様なく、しばし涼風に汗を納、煎茶数腕を啜して渇を補ひつつ是より奥沢村の九品仏へ罷りぬ。」
※2 『過眼録』
「安永巳の年よりの間目黒碑文谷の二王流行で参詣多し。」
※3 『新編武蔵風土記稿』
「二王門 総門の内十五六歩許にあり、四間に三間、左右に金剛の像を安ず、此像は安阿弥快慶の作なり、普通の像よりは甚痩て古色殊勝に見ゆ、長五尺余霊験あらたなりとて、参詣人の宿題(ママ)によりて通夜するものも多し、前に石階あり等数五級、」
※4 『江戸名所図会』
妙法(ママ)山法華寺 碑文谷にあり。祐天寺の南、半道ばかりにあり。吉祥院と号す。天台宗にして東叡山に属す。本堂本尊は釈迦如来、脇士は文殊・普賢なり。(里諺に、今存する所の堂宇は飛騨匠某が作る所なりといへり。)観音堂(堂の前左の方にあり。本尊は十一面観音の立像にして、参籠の人この堂に通夜す。)榎木(釈迦堂の後、左の垣添にあり。至っての古株なり。当寺開創已来のものなりとて、その本に垣を繞らす。)二王門金剛・密迹の二像は仏工安阿弥の作なりといへり。(霊威尤も著きが故に、世人尊信す。いかなる故にや、寛政紀元の年己酉の頃より、後十二年ばかりの間霊験者として、頻りに都下の人郡参して道もさりあへざりしが、いつしかその事止みたり。)当寺、その先は慈覚大師の開創にして、天台宗の古刹なりしが、後日蓮の宗化に帰し、日源上人中興開基たり。つひに元禄に至り旧貫に復し、元の天台宗を唱ふ。(今堀内妙法寺に安置せし日蓮大士の像は、当寺よりうつすといへり。)境内桜・楓の二樹多く、春秋共に頗る壮観たり。」
※5 『武江年表』寛政元年の条
「天明七、八年のころより、碑文谷法華寺の仁王尊諸願成就するよしにて、貴賎男女参詣する事あり、次第に群集夥しかりしが、十二年ばかりにして絶えたり(祈願の者断食をして籠る。又日参等もありし)。」
文学作品にみえる黒仁王尊
碑文谷仁王尊を題材にした文学作品は多くありますが、特に黄表紙(きびょうし)といわれる戯作に、仁王尊を信仰する江戸庶民の姿がじつに軽妙洒脱に生き生きと描き出されています。
黄表紙とは、草双紙(くさぞうし)といわれる絵本のジャンルの一つで、いわば大人向けの漫画というべきものです。江戸時代中期以降に流行し、内容は洗練された洒落を重視し、言葉遣いや絵の随所に工夫を凝らした遊び心があり、それを読み解くところに楽しさがありました。体裁は美濃紙半裁二つ折りで、5丁(10頁)を1冊とし、2、3冊で一部となり、表紙が黄色であったことから、黄表紙といわれるようになりました。
碑文谷仁王を題材にした代表的な作品には、山東京伝『碑文谷利生四竹節』、芝全交『願解而下紐哉拝寿仁王参』、噺本では石部琴好『比文谷噺』(栄松斎長喜画)、振鷺亭『室の梅』(『乗合船』を改題補足した本)などがあります。
『碑文谷利生四竹節』(ひもんやりしょうよつだけぶし) 山東京伝作 寛政元年(1789年)
言わずと知れた山東京伝(1761−1816)の作品です。彼の本名は岩瀬醒、深川の質屋の生まれで、若くして浮世絵師・北尾重政に師事し、北尾重寅の名で黄表紙の挿絵などを書いていましたが、後に山東京伝と号して黄表紙や洒落本の作品を数多く世に出しました。彼の出世作は天明五年(1785年)の黄表紙『江戸生艶気樺焼』(えどうまれうわきのかばやき)で、これによって売れっ子作家としての道を歩みました。
彼の名を一躍有名にしたこの黄表紙は、艶二郎という己惚れ者が自分の浮名を立てようとするも、つぎつぎと滑稽な失敗をしでかしてしまうという内容ですが、これが大評判となって、艶二郎ブームともいえる現象がおこりました。この人気ぶりをうけて、さらに二代目「艶二郎」として登場したのが「艶太郎」で、彼を主人公とする作品が『碑文谷利生四竹節』です。
ここで簡単に内容を紹介すると、艶太郎は生来の醜男なため、女性にもてない悲しさから碑文谷の仁王尊に祈願をすると、美男子の仮面を授かりました。かくて仮面をかぶり変身した彼は、質両替屋の娘に惚れられて婿となります。ところが、もともと好色であったため、女郎通いに明け暮れて、家にも帰らず多くの女性と浮名を流します。これではあんまりだと嫉妬に駆られて大癇癪をおこした女房は、たまたま帰ってきた艶太郎の胸ぐらをつかんでこずきまわすと、その拍子に仮面がポロリと落ち、艶太郎はもとの醜い姿に戻ってしまいます。こうして女房にも追い出され、懇意にしていた女性からも嫌われた艶太郎は身のほどを悟り、仁王尊から授かった竹筒を二つに割って拍子笛に変え、四竹節(二個の竹片をカスタネットのように打ち鳴らしながらうたう唄)の流しで渡世する、という粗筋です。まるで最近のコメディー映画にでもありそうな愉快な内容です。
『願解而下紐哉拝寿仁王参』(ねがいはとけてしたひもやおがみおんすにおうさん) 芝全交作 寛政元年(1789年)
芝全交(1750−1793)は、本名、山本藤十郎といい、芝の西久保神谷町(東京都港区)に住んでいたことから、芝と称しました。大蔵流の狂言師でもありました。二十歳のときに書いた『時花兮鶸茶曾我』が処女作で、以後、約40種の黄表紙を世に残しました。抜群の滑稽センスがあり、数々のヒット作が生まれました。その中の一つが『願解而下紐哉拝寿仁王参』です。この作品は上記の山東京伝『碑文谷利生四竹節』と同じく寛政元年の出版です。
芝全交の文はいたって軽妙洒脱で、『願解而下紐哉拝寿仁王参』という書名からして趣向が凝らされています。まず角書の「願解而下紐哉」ですが、「願いを解く」は「解く」と腰巻を意味する「下紐」とを通じさせて、「紐哉」は碑文谷の語呂合わせです。また『拝寿仁王参』は碑文谷仁王を参詣するという意味ですが、同時に、吉原の遊女が哀願するときに使う「拝みんす」という遊女詞とも通じていて、遊女が仁王尊に哀願しているようなユーモラスな言い回しになっています。
本文にいたっては、語呂合わせ尽くしの 縁起文(※) にはじまり、痩せたいと願う芸者や、腎虚で悩む男性、梅毒で鼻が落ちた女郎など、一癖も二癖もある人々が次々と登場して、どんな願い事でもかなえてくれると評判の仁王尊にすがり、それをまた仁王尊のほうも、なんとかしてあげようとあれこれ智慧を出して奮闘する、という内容が実に軽妙かつ滑稽に書かれています。
挿絵は浮世絵師・北尾政美によるもので、芝全交の文章にマッチした生き生きと臨場感あふれる筆で仁王尊や江戸の人々の姿が描かれています。 この黄表紙は出版されるや大評判となり、式亭三馬によって名作二十三部の中の一つにも選ばれました。
※ 仁王尊文尽略縁起におうそんもんづくしりゃくえんぎ
仰そもそも 仏法守護ぶつぽうしゅごの 仁王尊におうそんといっぱ、 辱かたじけなくも、 大仏銭だいぶつぜに(※)の 一文いちもんにして、 二文にもんとわかれ、 仁王におうと 現げんじ、 三文さんもんの 鉄網かなあみ(※)に 住すんで、 終ついに 四文谷の五文ばんしもんやのごもん(※)とならせ 給たまふ。 故かるがゆえに、 六文ろくもんの 光岸寺こうがんじ(※)を 灯ともし、 七文しちもんの 御備おそないを 供くうじ、 八文のかたどりはちもんのかたどり(※)、 八日ようかを 縁日えんにちとし、 九文龍くもんりゅう(※)が 如ごとく、 裸はだかにてつっ 立たち給ふ。 十文じゅうもん(※)の 草鞋わらんじ、十一文の 足袋たびにても 御足おあしにちいさきとの 御戯事おんたわごと、 ?よって十二文の 御足おあしを 御捻おひねりとなし、 賽銭さいせんに 投なげ打て、 信心しんじん 不怠事おこたらざること、 等ト云とうとうんうん とうみゃうせんをあげさっせいませう
ずっと酉のとしのなんでも正月   芝全交坊   執事[観化]
※ 【仁王尊文尽略縁起】におうそんもんづくしりゃくえんぎ :碑文谷仁王尊の縁起を文字尽くしで記す。
※ 【大仏銭】だいぶつぜに :京都方広寺の大仏を改鋳して造った寛永通宝のこと。
※ 【鉄網】かなあみ :山門の金網張り。仁王尊が安置される場所を意味する。
※ 【四文谷の五文ばん】しもんやのごもんばん :碑文谷の御門番のこと。
※ 【光岸寺】こうがんじ :仰願寺蝋燭。江戸浅草の山谷にあった仰願寺の住職が京橋一丁目越前屋九郎右衛門にあつらえさせた仏前などに灯す小さい蝋燭。
※ 【八文のかたどり】はちもんのかたどり :形代かたしろ。体を撫でて身のけがれや禍いを移し、川や海に流して祈願する人形ひとがたの紙のこと。
※ 【九文龍】くもんりゅう :当時人気のあった力士九紋龍清吉のこと。
※ 【十二文】にじゅうもん :銭十二文は神仏への賽銭の相場。 
圓融寺こぼれ話
時をこえた棟梁たちの語らい ―我が手よし―
戦後まだ間もない頃、圓融寺の釈迦堂は約10年かけて大規模な復元修理が行なわれました。その間は連日のように研究員や委員の人たちが釈迦堂にやってきては念入りに調査をしながら修理を行っていましたが、ある日ちょっとした騒ぎがありました。屋根裏の一番奥深くの柱に文字が書かれているのが発見されたのです。それも創建当時のものだというのです。実は、この文字は明治44年に釈迦堂が特別保護建築物(旧国宝)に指定された際の調査ですでに発見され、その報告書が『碑文谷村村誌』にも記載されていたのですが、時とともに忘れ去られてしまっていたので、当時は新聞にも載るほどの騒ぎになったのです。そこにはどんな文字が書かれていたのかというと、「我が手よし 人見よ」というたった一言でした。釈迦堂を建立した棟梁の自信に満ちた顔が浮かぶような言葉ですが、残念なことにそこには人名も年号も記されていません。結局文字の書かれた柱はそのまま元の場所に戻すことになりましたが、周囲にはなんとなく釈然としない雰囲気が残りました。ある人は「どうして年代を記していないんだ」、またある人は「歴史に自分の名を残せたのに。せっかく自慢しておいて、うかつな棟梁だ」口々にそういう声が聞こえました。釈迦堂は室町初期の創建ということは分かっていましたが、正確に何年に誰が建てたのかは不明だっただけに、みんな残念だったのです。
しかし、本当にうかつな棟梁だったのでしょうか?もし自分の腕前を誇りたいのなら六百数十年も経たなければ発見できないような屋根裏の奥にひっそりと文字を刻まないでしょう。大きな看板でも掲げて大々的に宣伝したくなるのが普通の人の心情なのに、そういうことをせずに建てた年代も自分の名前すらも記さず、ただ一言「我が手よし 人見よ」とだけ残したのは、もしかすると棟梁の心意気だったのではないでしょうか?― 最高に素晴らしい建築を世に残したのであれば、それ以上のことはない、もはや時も名も問題ではない、これから先ずっと人に見てもらえればそれだけでいい ― 柱に書かれた文字からそんな棟梁の心の声が聞こえてきそうです。
とはいえ「人見よ」といっておきながら、誰の眼にも触れないところにわざわざ文字を記すというのはずいぶん屈折しているような気もします・・・・そのもやもやした疑問が晴れるのは、ずっと後のある出来事があってからでした。この二度目の文字の発見から三十年近く経ったある日、復元工事の現場監督をなさった古建築の専門家である佐々木嘉平氏がひょっこりお寺にあらわれたのです。実は告白しなければならないことがある、といって住職に照れくさそうにこう語りました。「実は釈迦堂の屋根裏には、もう一つ文字が刻まれている」
そんなことはどの調査報告書にも記されていません。よくよく聞いてみると、「いやいや・・・わたしの仕業ですがな」 佐々木氏は「我が手よし 人見よ」の文字を見た瞬間、どうしても衝動に駆られて自分からの返事をしなければならないと思ったそうです。「黙って文字を刻むなんて。ひとこと言ってくれればよかったじゃないですか」住職がそう言うと、「だから今日会いに来たんじゃ」 「今日って・・・もう三十年も経ちますよ」 「さよう、ちょうどいい頃合で」 しばらくして住職が「で、いったい何と返事をしたのですか」とたずねました。
「『その手よし 我は見たり』――これしかごわせん」 室町時代に釈迦堂を建てた棟梁と、復元修理を行なった棟梁が六百年以上もの時を超えて語り合った瞬間が、三十年経ってようやく私たちの知るところとなったのです。「我が手よし 人見よ」という言葉は、まさにこの返事を待つために人目を避けて屋根裏に刻まれたのではないでしょうか。精魂を込めた作品は、単に多くの人に見てもらうためだけにつくられるのではなく、理解する人へのメッセージであり、挑戦なのです。練達の士が残した遺産は、さらに次の世代の練達の士へと受け継がれ、語らいながら文化は築かれていくのではないでしょうか。
双子の梵鐘 ―復興にかけた思い―
年に一度、大晦日の夜に参詣する方々によって撞かれる梵鐘は、江戸時代に造られた歴史ある美術品でもあります。梵鐘の銘文(※)によると、寛永20年(1643年)九月、山城国の飯田善兵衛宗次の作とありますが、実は同じ年の同じ月に同じ作者が造った鐘が、幸田露伴の名作『五重塔』で知られる谷中の感応寺(現、天王寺)にもあったのです。こちらのほうは残念ながら現存していませんが、『東京都社寺備考』に「丈五尺五寸・指渡三尺一寸」と記されています。
それでは、なぜ同年同月、同作者の手になる鐘があったのでしょうか?その疑問を解く鍵は、梵鐘の銘文に刻まれた「寄附主 日長」という人物にあります。
日長上人は感応寺第九世の住持をつとめた日蓮宗の僧ですが、その生涯については弟子の日純上人が伝記を残しています。それによると、日長上人は天正13年(1585年)武州荏原郡衾(ふすま)村に誕生し、幼い頃に法華寺(現、圓融寺)第九世の日楊上人にまみえた時、非凡の相があると見込まれ、日楊上人のもとで僧侶の道を歩むことになりました。一年も経たぬうちに異彩ぶりを発揮し、しかも気質は純朴で心が広く、熱心に勉学に勤しんでいました。経済的に乏しく、厳しい生活の中で希望を捨てそうになることもあったようですが、中年にいたってようやく下総香取郡の飯高檀林(僧侶学校)に入り、ますます教学を深めることができました。檀林を出た後は、駿河の妙蔵寺(現、妙像寺)の住持になります。その時、徳川家康の側室であるお万の方(養珠院)とお加知の方(英勝院)は熱烈な法華信仰をもっていたことから日長上人に帰依をし、家康没後、その二人の推挙により、元和七年(1621年)に谷中感応寺の第九世住持になったのです。
この時期というのは、不受不施の義をめぐり身延山久遠寺と池上本門寺との間の論争がますます激化の一途をたどっていた頃であり、やがて寛永六年(1629年)から翌年にかけて、幕府がそれを判決する事態にまで発展しました。これを両勢力の頭文字をとって「身池対論」といいます。その結果、幕府の判決によって不受不施の立場をとる池上本門寺の日樹上人をはじめ、その傘下にあった諸寺の僧侶たちが追放に処せられました。
法華寺も身延に抵抗する関東不受不施派の中核的存在であったため、当時住持であった日進上人が信州上田に追放になり、以後住職は断絶し、伽藍は退廃してしまいました。日長上人にとって、先師日楊上人がかつて住持をつとめ、自らも仏縁を結んだ寺院が荒廃するありさまを見るのはいたって忍び難いことでした。そこで徳川家光の外護のもと、境内の整備や植樹、さらには感応寺の末寺を法華寺に与えるなどして復興に力の限りを尽くしたのです。寛永20年の二つの梵鐘も、まさに日長上人による復興事業の一環で鋳造されたものであり、一つは感応寺の鐘となり、もう一つは法華寺へ寄進されました。
これが今日大晦日の夜空に新年の音を鳴り響かせる鐘の歴史です。双子の梵鐘に込められた日長上人の報恩と復興の思いを知る人は今ではほとんどありません。
※ 『梵鐘の銘文』
大工山城住飯田善兵衛 宗次 武州荏原郡碑文谷村 南無日蓮大聖人 妙光山 南無妙法蓮華経 南無日源聖人 法華寺 常住 寛永代二十癸未歳九月十三日 寄附主 日長
日源上人塔の地下から・・・
日源上人の供養塔は、もともと釈迦堂の東側、庫裏の裏手(現在の区立碑小学校との境をなす塀の北端より約30メートル付近)にありました。しかし、新本堂および客殿の新築工事が行なわれる最中の昭和49年(1974年)五月に現在の地に移されることになりました。その移築の際、塔の真下の地中から、茶碗、湯呑、盃、陶器の破片とともに、黄瀬戸の四耳つきの壺(周囲65センチ、高さ25センチ)が発見されたのです。その中には日源上人と思われる御遺灰が納められていました。それらはすべて現在の塔の下にそのまま安置されています。
武蔵野のおもかげ ―圓融寺の竹―
かつて碑文谷は武蔵野の一部でした。武蔵野というと雑草や樹木が生い茂る原始林を思い起こすかもしれませんが、碑文谷においては雑木林というよりも竹林が広がるイメージがぴったりだったのではないでしょうか。江戸時代、碑文谷では竹林の栽培が非常に盛んで、村の面積の約三分の一を竹林が占めていたといわれます。タケノコは本来京都が本場ですが、京都産のものが関西方面へと出荷される一方で、江戸に出回るタケノコはほとんどが目黒産でした。「目黒のさんま」といえば落語の中の世界ですが、実際は「目黒のタケノコ」だったのです。そのはじまりは寛政5年(1793年)、戸越村の山路勝孝という廻船問屋が薩摩藩の島津家から江南竹数株を手に入れて自宅に栽培したことに由来します。
当時は江戸の消費経済が発達し、近郊農村における蔬菜栽培の需要が高まる時期であり、勝孝は江戸への販売ルートの開拓にも成功しました。こうして、タケノコ栽培は目黒一帯の村々に急速に拡大していきましたが、なかでも碑文谷は随一の生産地となったのでした。最盛期は大正時代で、太く、柔らかく、おいしいと三拍子そろった目黒のタケノコは、目黒式といわれる独特の栽培法がありました。それはタケノコの出終わった七月から九月、十月にかけて行なわれる「根生け」(根伏せ)といわれる作業で、地下茎を掘り起こし、深く掘った溝に埋めなおして肥料を与える方法です。
タケノコ料理としては、目黒不動前の筍飯が春の名物としてもてはやされ、大黒屋・内田屋・角伊勢などの料亭の筍飯が評判をよんで、正岡子規ら多くの文人も賞味したといわれます。目黒のタケノコは昭和初期までは盛んでしたが、関東大震災を機に竹林の多くが切り開かれて宅地化が進み、碑文谷のタケノコ栽培もいつのまにか終焉をむかえました。今や目黒のタケノコは過去のものとなり、私たちの脳裏に浮かぶことすらありませんが、圓融寺の庭園には、昔のまま竹林を残している一角があり、かつての面影をしのぶことができます。
圓融寺の板碑
板碑(いたび)とは、板石の供養卒塔婆のことで、主に鎌倉時代から室町時代にかけて全国各地でつくられました。ことにその分布が多いのは関東地方で、埼玉県の秩父地方から産出される青色で加工が容易な緑泥片岩(通称「秩父青石」)を使っているため、これを武蔵型板碑ともいいます。形状は地方によって多少異なりますが、典型は頭部を山形に加工して二条線を刻み、梵字や名号(南無阿弥陀仏)、題目(妙法蓮華経)などが刻んであります。圓融寺にも文保2年(1318年)から永禄10年(1567年)までの約250年間にわたる板碑が15基所蔵されています。民衆の仏教信仰を示すかけがいのない文化財といえましょう。 
 

 

■自分からの解放
自分からの解放
最近、ガッカリすることがありました。(といっても三秒ほどで立ち直ったので、あまり心配せずに先をお読みください) ある雑誌の取材で、坐禅とは何ですかと問われ、「自分から解放されることです」 と答えたのですが、発行後にその雑誌をみたら、「坐禅とは自分を解放することです(住職談)」 と書かれていて、これでは言いたかったことと真逆になってしまったなと、ちょっと残念に思ったのです。「自分を解放する」というのは、自分を抑圧している外的な要因を取り除くということです。閉塞感の漂う社会で、いろいろ我慢することも多く、やりたくない仕事をして、会いたくない人と無理に付き合わなければならないことだってあります。確かに自分を解放して好きなようにできたら、さぞかしスッキリするかもしれません。一見、素晴らしいことのように思います。でもそれは自分の欲望のままに生きるということでもあり、結局はわがままに振る舞うことと何も変わらないのではないでしょうか。しかも自分の思い通りに生きようとしても、大抵は満たされません。むしろ「もっと、もっと」と、かえって自分の飽くなき欲望に振り回されて不自由さを感じることでしょう。「ありのままに」というアニメ曲のフレーズも少し前に流行りました。これも自分の思い通りに生きることだと思っている人がいるかもしれませんが、「ありのまま」とは目の前の現実に対して自分の思いを差し挟まずに、あるがままに受け止めて対応することです。自分の思いを離れた時にはじめて「ありのまま」になれるのです。
なので、本当の自由とは、自分を解放するのではなく、自分から解放されてはじめてなされるのだと思うのです。坐禅によって得られる解放の境地もまさにそこにあります。しかし、今の社会は「自分が、自分が」と、いわば自分ファーストが当たりまえです。だから「自分を解放する」というほうが共感されやすく、「自分から解放される」と言っても、なかなかピンと来ないのかもしれません。
自分とは何者か?
ここで改めて考えてみましょう。私たちが後生大事にしているこの自分とは何者なのでしょうか?「もちろん分かっていますよ」と言うでしょう。自分について人に説明するときには、名前を名のり、住んでいる場所や、通った学校、今やっている仕事、肩書などを述べたりするかもしれません。でも、そのどれが本当の自分なのでしょう?結局はどれもこれも他者と区別する情報に過ぎません。そこで自分の身体を指差して、「この生身の肉体は確かに自分じゃないか」と言うかもしれません。でも心臓はドキドキと勝手に動いているし、髪の毛も自然と生えてきます(私の場合、どちらかというと抜けていきます…アァ悲しい)。人間の身体は六〇兆個の細胞で形づくられていると言われますが、その細胞もだいたい六年周期で完全に入れ替わるといいます。では、この肉体は一体誰のものなのでしょう?いや、それでも心は自分のものだろう、と今度は思うでしょう。ところが、心だっていつも自分でコントロールできているわけではありません。何かの折に触れてはコロコロと移り動いてばかりです(だからココロと言うのか⁉)。五分先に自分が何を考えているかさえも予測ができません。
そうはいっても、どこかに自分の主体となる存在があって、それが自分の行動を決めていると思うかもしれません。しかしよくよく考えてみると、この世界は様々な条件や関係性(仏教では「縁」といいます)の中で物事が起きているだけで、そこに自分の主体といえるものは存在しないのではないでしょうか。あれっ、まだ納得できないですか…。では、ちょっと実験をしてみましょう。
まず目を閉じてみてください。そこで過去の経験や知識に一切頼らず、今という瞬間にだけ意識を向けてみてください。その状態で自分が誰なのか把握することができますか?あなたはどんな人物でしょう?名前は?どこに住んでいますか?どんな仕事をしていますか?年はいくつですか?男ですか、女ですか?今どこに座っていますか、あるいは立っていますか?さあ、どうでしょう。
きっと自分のことについて何一つ把握できないのではないでしょうか。私たちは、自分が確かに存在していると思っていますが、実は自分というのは過去の記憶や知識の中にしかいないのです。その過去は文字通りすでに過ぎ去っているので、それは頭の中の幻想にしか過ぎません。今ここに存在していると思うかもしれませんが、そこに自分をいくら探しても見つからないのです。さて、自分って一体何者なのでしょうね?
「無我」って何?
一般的に仏教の基本教理は「無我」であると言われます。「我」とは実体という意味で、この世界のあらゆるものには実体がないと説きます。そうであれば、自分という実体も存在しないことになります。しかしそれは自分が消えて無になるというわけでありません。もし無という状態になるなら、それは「無が有る」ということになり、それでは無ではなくなってしまいます。頭がこんがらがりそうですね。
ですから、「無我」という言い方はちょっと極端で誤解を招くかもしれません。「無我の境地」なんてよく言われますが、そういう世界がどこかに存在するわけでもないし、いくら修行をしても「無我」に至ることはできません。もし、どこかの教祖様みたいな人が、「私は無我である!」なんて言ったら、ちょっと怪しいと思ったほうがいいでしょう。
仏教では「無我」という表現を便宜上使いますが、正確さを期するなら、我は有るわけでもないし、無いわけでもない(非有非無)という言い方をします。大阪人なら「どっちやねん!」とツッコミを入れたくなると思いますが、それしか言いようがないので仕方ありません。
「無我」というのはもともとサンスクリット語「アナートマン」(anātman)の漢訳です。「アン」(an)は否定辞で、「アートマン」(ātman)が「我」という意味です。仏教学の大家である中村元氏は、「無我」というのは、否定辞の捉え方によっては「非我」とも解釈でき、そのほうがお釈迦さまの悟った内容に合致していると仰っています。そうすると、「無我」であるから「自分は存在しない」のではなく、「非我」であるから「自分だと思っているものが、実は自分ではない」ということになります。この説には学者の間で賛否があるようですが、「非我」というほうが分かりやすく、誤解も少ないように思います。
自分という境界線
先ほども言いましたが、自分の身体や心は常に変化し続けていて、それをコントロールすることはできません。自分は自分の身体の主人だと思い込んでいますが、身体の方はそう思っているでしょうか?例えば、皮膚までが自分の領域だと私たちは思っていますが、その皮膚のほうはきっと私の存在ことなどまったく気にかけていません。それよりも皮膚を取り巻く空気とのほうがもっと密接な付き合いがあるでしょう。それなのに自分の皮膚から内側は私で、向こう側は私でないと自分勝手に思い込んでいるだけなのです。
さらにいえば、自分の財産も「非我」の立場からすれば自分の所有物ではありません。もし自分のものを勝手に他人に奪われたら誰もが怒るでしょう。でも、どんな所有物も最初から自分に具わっていたわけではありませんし、未来永劫自分のものにすることもできません。それは仮に自分の手元にあるだけのことです。自分のお金で購入したのだから自分のものだというでしょうが、お金だって本来は単なる紙切れです。経済社会の中で共通の約束事としてあるだけです。文明社会から閉ざされた村落に行ったらまったく通用しないでしょう。
人間関係も同じく、どんなに愛する人であろうが、仲良しであろうが、その状態が続くとは限りません。もしずっと自分のものだと執着していたら、これは問題になります。例えば別れた彼女に対して「あいつは俺のものだ」と思い込んでいたらストーカーになってしまいます。そうすると、自分や自分の所有物、人間関係は仮の境界線によって決定づけられているだけで、本来は誰のものでもないはずです。もしも境界線がなければ、何から何までが途切れることなく、ただ存在が存在しているだけなのです。
例えば富士山はどこからどこまで富士山かというと、別に境界線が引いてあるわけではありません。地図上で仮にここからここまでを富士山としようと決めているだけです。実際は何の途切れもなく地続きで、それは本州、地球、宇宙とつながっています。ですから、富士山は単に富士山ではなく、イコール宇宙であると言えるのです。自分という存在も同じです。この宇宙のあらゆる存在が隔たりなく一つの存在としてあるのです。
「無我」の別の表現で「空」という言い方もあります。これも誤解されやすいですが、空虚とかカラッポということではなく、すべてが繋がり合っている関係性を説く言葉です。大学時代のことですが、仏教学者で天台宗の学僧である福井文雅先生の授業を受けた時に、先生が「無」と「空」の違いについてとても分かりやすく説明してくださいました。まず「無」と「空」を使って単語を作ってみなさいというので、ある学生が「無車」と「空車」と答えました。すると先生は、「無車」なら車がないということだから乗ることはできないけれど、「空車」なら乗ることができますね、と仰いました。これが「無」と「空」の大きな違いです。「無」であると関わり合うことができませんが「空」であれば関わりがもてるのです。
重要なこと
「無我」や「空」というと冷淡な思想のように感じますが、実はとても温かい教えだと思います。私たちはつい様々なものに境界線を引いて、自分と他者とを対立させています。そうすることでどちらが優れているか比べ合ったり、損得を気にしたり、時にはいを起して人を傷つけてしまいます。国同士もお互いの国益を守ろうと戦争をすることがあります。「我」というのは境界線を引くことによって現れるのです。それがすべての苦しみの根源です。でも、その境界線は幻のようなもので思い込みにすぎません。自分という境界線から解放されれば、すべては対立することなく、上下の差もなく、お互いに触れ合うことができるのです。私たち一人ひとりが「無我」の教えを人生に活かすことができれば、この世の中はもっと素晴らしくなりそうです。
さて、坐禅の話に戻りますが、最近は坐禅や瞑想がちょっとしたブームです。大企業でも取り入れているところがあるようです。それはとても良いことですし、どんどん実生活に活かしていただきたいのですが、それが自分の成功や会社の利益のため、ましてや自分を解放して思い通りに生きるために行うのであれば、自分という境界線をますます強固なものにしてしまうでしょう。
「自分の解放」と「自分からの解放」の違いなんて些細なことのように聞こえるかもしれませんが、私にはとても重要なことに思えるのです。 
■一寸先は闇でいい 
一寸先は闇
最近、日本各地で災害や事故が次々と起こって物騒ですね。被災地の方々には心よりお見舞い申し上げます。まさに一寸先は闇。どこで何が起こってもおかしくないですから、明日は我が身かもしれません。それは昔も変わらないと思いますが、今はとても便利な時代になって、ほとんどのことが予定した通りに進みます。数か月先の約束も手帳に書いた通りこなせるし、地球の裏側に旅行に出かけるのでも飛行機でほぼ決まった時間に目的地に到着することができます。でも便利さに甘んじてばかりいると、突発的な事態に遭遇した時が一番弱く、たちまちパニックになってしまいます。人生だってそうです。なんとなく生涯の設計図が出来上がっていると思っていても、突然の出来事のせいで全ての計算が狂ってしまい、生きる力さえ失ってしまうことがあります。そんな境遇に置かれはじめて私たちは、確かなものなど何一つない中をかろうじて生きているという現実をまざまざと突き付けられます。生活が便利で豊かになったのはいいことですが、その陰ではなおさら多くの不安がつきまとう時代になったような気がします。
昔であれば、不安を抱える人々の前に偉大な宗教家が現れて、進むべき方向に導いてくれたでしょう。しかし今では、どうも宗教の力が衰えて精神的な支柱が失われてしまったように思います。それもまた現代社会が抱える不幸の一つだといえます。僧侶である私が「みなさん、こっちに進みましょう!」と言ってみても、振り返ったら誰もついて来ていない、ということになるわけです。いや、それは宗教の力が衰えたせいではなく、私自身の力量のなさですね(反省…)。
ただ、そんな現代にあっても、マインドフルネスなどの瞑想が東西問わず世界的にちょっとしたブームになっています。そして、日本では特にその源流ともいえる禅に関心をもつ人が急増しているように感じます。自坊の坐禅会でさえ毎回お堂に入りきれないぐらいの人が集まりますから本当です。そんな光景を目の当たりにすると、禅はまさに現代人の心を救う希望の光のようにも思えてきます。では、先の見えない不安な時代に禅はどんな教えを説くのでしょう。立派な禅僧が多くいらっしゃるのを差し置いて私が申し上げるのもなんですが、はい、次の小見出しの通りです。
看脚下(かんきゃっか)〜脚下を看よ〜
昔、中国の宋の時代に法演(ほうえん)という禅師がいました。ある晩、弟子たちをつれて歩いていると、急に突風が吹いて提灯の灯が消えてしまいました。あたりは真っ暗闇です。するとすかさず法演は弟子たちに向かって「お前たち、どうやって歩くか?」と尋ねました。師弟の間柄ですから、ただ夜道をどう歩くかという単純な問いかけではありません。禅の修行者として、先の見えない人生をどう生きるかという大問題に他なりません。そこで園悟克勤(えんごこくごん)という一人の弟子が「足元を見ます」(看脚下)と答え、師の法演は彼を認めたそうです。
人生先が分からないのであれば、どうやって生きるべきかと頭の中であれこれ理屈をこねてもはじまりません。ただ一歩一歩足元を見て歩けばいい、ということです。まったく無駄のない単刀直入な受け答え。あっぱれです。不安多きこの世の中を歩く場合も、希望の光を探し求めるより、まずは足元を見ることが大切ではないでしょうか。ところがどうでしょう。つい私たちはせわしない生活の中で、先のことに気が焦ってソワソワしたり、過ぎ去ったことに引きずられてクヨクヨしたりして、今立っている足元がお留守になってしまっているのではないでしょうか。「随処作主(ずいしょさしゅ)、立処皆真(りっしょかいしん)」(随処(ずいしょ)に主(しゅ)と作(な)れば、立つ処皆真(まこと)なり)という禅語もあります。「随処作主」とは、どんな局面でもその場の主人公になりなさいという意味です。言い換えれば、「今この場所にいなさい」ということです。そう言われると、「いや、もうすでいますけど…」と思うかもしれません。確かに身体はここにあります。
しかし心はどうでしょう。あっちいったりこっちいったりフワフワと彷徨っていませんか。自分の身体が椅子にどっしり腰を下ろしていても、坐っている感触をちゃんと味わっているでしょうか。スーハ―と息を吸ったり吐いたりしていることを感じているでしょうか。たぶん指摘されて改めて、ああ身体があるんだ。呼吸しているんだと気づいたんじゃないでしょうか。こんなふうに今この場所にいる自分に鈍感になって、心と身体がバラバラになってしまっているのです。そして心の中はというと、今ではないいつかのこと、ここではないどこかのことばかり考えています。「なんでこんなことしなきゃいけないんだ」「自分には向いていない」「もっといい人生があるはず」なんて思って目の前のことに真正面から向き合わず、脇役的な気持ちになってしまっていませんか。
考えれば簡単なことですが、私たちは今この場所にしか立てないのです。気に入らないからといって今の一歩を飛ばして未来の一歩を踏むことも、時間を逆戻りして過去の一歩を踏むこともできません。ましてや、あっちのほうがいいといって他人の立っている場所と取り替えることもできません。冷たい言い方に聞こえるかもしれません。でも見方を変えれば、今立っているこの一歩は過去の自分も未来の自分も他人も踏むこともできない唯一無二の一歩であり、他と比べようがありません。「完全無比」という言葉があるように、比べられないというのは、それ以上のものはない完全な姿だということなのです。 
それなのに、あっちがよかった、こっちがよかったと無駄な比較で神経をすり減らして、せっかくの最上の場所を台無しにしてしまったら、なんてもったいないことでしょう。「立処皆真」というように、自分という存在は今この場所にしかいないのだから、どこかに真実の理想世界を探しに行かなくても、自分が立つところすべてが真実なのです。
一歩の価値
「はじめ塾」の創設者である和田重正氏が学生たちによくこんなクイズを出していたと本の中で行っています(『生きることを考える本』地湧社)。「東京から大阪まで歩いたら百万円もらえるという懸賞があるとします。仮にそれが十万歩かかるとしたら、一歩の値段はいくらか?」という問題です。読者の皆さんも考えてみてください。おそらく、ほとんどの人が十円と答えるでしょう。つまり、百万÷十万=十という割り算をするわけです。確かに計算すればそれが正解です。しかし、それは本当に事実と合うでしょうか、というのです。例えば三歩で三十円、百歩で千円払えといわれたら、その価値はないと答えるでしょう。だとすると一歩の価値はゼロです。しかしまた、最後の十万歩から考えてみたらどうでしょう。ゴールから一歩前の九万九千九百九十九歩から十万歩への一歩は百万円の価値があります。そうすると、その前の一歩も百万円の価値があります。そしてその前も…。そうやって最初まで考えると、すべての一歩に百万円の価値があることになります。つまり、一歩の価値はゼロでありながら同時に百万円でもあるのです。
人生も同じで、長い生涯の中のたったの一歩はとるに足らない無価値に思えても、同時にその一歩には人生すべての価値があるといえるのです。理屈で考えれば矛盾するように思います。しかし、実際私たちが生きているこの事実の世界というのは、頭の計算では成り立たない不思議なものなのだと和田氏は言います。禅語でこれを言うならまさに「途中にありて家舎(かしゃ)を離れず。家舎を離れて途中にあらず」という一句がピッタリです。家舎とは到達すべき修行のゴールです。人生も一つの修行とするならば、それは永遠に途中であって完成することはありません。でもそうでありながらゴールと決して離れてはいないのです。また見方によっては、確かにゴールからかけ離れています。けれどもそれは決して途中ではないのです。頭の中が?マークだらけかもしれませんね。それも分かります。なぜなら私たちは人生をよく道に譬えますが、その道のりを漠然と矢印のような直線軸でとらえてしまうからです。そうすると途中にある線と、矢印の先にあるゴール地点とは明らかに違います。でもちょっと待ってください。私たちの人生のどこに線が引いてあるのでしょう。見たことありますか?
天台の教えでは私たちの生存世界を円でとらえます。それで天台の教えを円教といったり、天台宗を円宗と別称したりすることもあります。円というのは本来仏の完璧な世界のことですが、それはどこにあるかというとお月様を眺めるみたいにはるか遠くにあるのではありません。今この場所がすでに円の世界だというのです。この世界のすべての人々、一切のあらゆる存在がその円の中に存在しているのです。私たちは、今立っている場所は目的に達するまでの過程に過ぎず、このままではダメだとゴールを探し求めて歩き彷徨っていますが、すでに円の上を歩いているのであれば、いつでもその足元にゴールである仏の世界があるのです。誰が後でも先でもありません。立っているところはそれぞれ違っても、皆平等に仏の世界を歩いているのです。そう考えれば、一歩でありながらゴールであるという一見奇妙にみえる話も納得がいくのではないでしょうか。
恰好(かっこう)!
とはいえ、私たちの人生には嫌なこと、思い通りにならないことがいっぱいです。できればそんな一歩は踏みたくないと思うはずです。まさに私なんか、「面倒だな」「苦手だな」「まさかこんな」という一歩ばかり。でも、そんな時、心に留めている禅語があります。それは「恰好」というたったの二文字。覚えやすいでしょ。唐末の趙州(じょうしゅう)という禅師のエピソードです。趙州禅師が弟子から「大困難が訪れたら、老師はどうなさいますか?」と問われた時、趙州禅師はたった一言、「恰好!」と答えたそうです。「恰好」とは「恰(あたか)も好(よ)し」ということで、丁度いいという意味です。ちなみに窪田慈雲著『心に蘇る「趙州録」』(春秋社)では「よしきた!」としています。名解釈ですね。先述の和田重正氏の本の中に鳶職(とびしょく)のお話があります。鳶職でも間違って高いところから落ちてしまうことがたまにあるそうなのですが、そんな時は、落ちるより先に自分から飛び降りるのだそうです。怖いと思って目を背けると大怪我につながるけれど、しっかり目を開けて落ちる先の様子を把握しておくと怪我が少なくてすむというのです。これはまさに「恰好」の心境です。
ですから私も何か大変なことが起きたら、たとえ不安でいっぱいでも、「よしきた!自分にピッタリのことがやってきたぞ」という気持ちで自ら向かって行こうと思っています。どのみち人生の旅路は死ぬまでその歩みを止めることはできません。いつだって右左右左の繰り返し。どうせ一歩足を踏み出すのなら、晴れ晴れと行きたいものです。それこそ「カッコ(恰好)いい」生き方なんじゃないでしょうか。
人生は先が分からないのでまるで迷路のようなものかもしれません。でも、迷路は迷路でも行き止まりのない迷路だと私は思っています。普通の迷路であれば出口につながる正解の道は一本しかありません。でも行き止まりがなければどの道を歩いても正解です。何も妨げるものはありません。一歩一歩しっかり足下を見て歩けばいいのです。先が見えないから不安もありますが、逆に先が見えたら退屈です。だから最後はこう締めくくりましょう。一寸先は闇でいい、だから人生は面白い! 
■死からはじまる世界
死は素晴らしい贈り物です。なぜならば、あらゆる扉や窓を一斉に開け放してくれるからです。死ぬことで、人間は壁の外側に出て行かざるを得なくなります。 ディ―パック・チョプラ『ライフ・アフター・デス』
死の世界はあるのか?
テレビの天気予報チャンネルを観ていると、すっぽりと雲で覆われた日本列島の衛星写真が映し出されることがある。その雲の下では、雨が降ったり、風が吹いたり、時には嵐のような大荒れの時もある。私たちはその都度、天候に左右されて生きている。ところが、当たり前のことだが、その雲の上では常に青空が広がり、さらにその空は宇宙へと続いている。その雲の上と下と、一体どちらのほうが広いのかといえば、当然、雲の上のほうがはるかに大きな世界が広がっているに決まっている。私たちは宇宙のほんの片隅のちっぽけな空間で生きているにすぎないのだ。それなのに、雲の下にいると、それだけが世界のすべてだと思い込み、雲の上のことなどまるで気にかけることなく暮らしている。
もしかすると、私たちが生きているこの世界と死の世界というのも、そんな雲の上と下のような関係なのかもしれない。私たちは普段、日々の生活に精一杯で、死んだらどうなるのか、死後の世界は存在するのかなどという問題について真剣に考えることはない。いや、考えたところで確かな手がかりは何一つ見つからないだろう。
人類の長い歴史上、世界中のいたるところで、あらゆる宗教が死について、または死後の世界について様々な教えを唱え、膨大な書物を残しているとはいえ、それを信仰するかしないかは別にして、その真実は結局のところ自分が死んでみなければ確かめらない。私たちは生きている限り、死を体験することはできないし、死が自己の消滅であるとするならば、死を体験した者はもはや死を語る自己をもたない。死について、私たちは圧倒的に無知なのだ。しかし、だからといって、死の世界が存在しないと果たして言い切れるだろうか。それは雲の下にいる人間が雲の上に世界などないというのに等しいほど愚かしいことではないだろうか。実は知らないだけで、生というちっぽけな世界より、死の世界はもっと広大なのかもしれないのだ。
死を生きる
私たちは生きているのか?いま私たちは生の世界にいることを信じて疑わない。しかし、突拍子もないことを言うようだが、ひょっとすると私たちが住むこの世界だってすでに死の世界なのかもしれないのだ。そんなことを考えたことがあるだろうか。子どものころ、こんな思いに取りつかれたことがある。もしかすると自分はもう死んでいて、こうして生きているつもりになっているけれども、すべては幻なのではないかと。家族みんなで幸せそうに食事をしていても、友だちと楽しく遊んでいても、突然、「はい終了!」とばかりに目の前が真っ暗になり、気がつけば自分もこの世界もすべてがまるで夢でも見ていたかのように存在していなかったなんて…。そんなことを想像して、ゾっとしたことがある。いま思えば子どもじみた荒唐無稽な空想ごとである。しかし、大人になった今、自分は果たして生きているのだろうか、目の前の世界は本当に存在しているのだろうか、と改めて考えてみると、納得のいく答えができるだろうか。
かのデカルトでさえ、自己という存在について長い思索の末にたどり着いた結論が「我思う、故に我あり」である。自分がこうして存在している根拠は、自分が思うということでしか示すことができないのだ。裏を返せば、「我思わなければ、我は存在しない」ということになるではないか。また、英国のバードランド・ラッセルという哲学者が提示した「世界五分前仮説」というのがある。私たちは、この世界がはるか悠久の昔から現在に至るまで存在し、これからも続いていくと思っているが、もし五分前に全宇宙が誕生したと仮定した場合、それに対して反駁できるか、というのである。
普通なら、「さっき昼ごはん食べたし」とか、昔の写真を取りだして、「こんなかわいい時代があったのよ」などと説明するだろう。しかし、過去の出来事も記憶も五分前に突然誕生したと言われれば、それに反論することはできない。それは五分前でなくても、一秒前、あるいは今この瞬間に誕生したと仮説を立てても同じことだろう。
私たちは過去に生きることはできない。過去の出来事は文字通り過ぎ去って今はもう存在していないし、いくら過去の記憶を呼び覚まそうとも、それを思い出しているのは今でしかない。だとすると、これまで自分がどんな人生を送ってきたとしても、この世界がどんな歴史を経てきたとしても、それが確かにあったと立証する術は何一つないということだ。また一方で、これから先の将来についても同じように、私たちの人生やこの世界が未来に存在すると誰がはっきりと言えるだろうか。それどころか、今というこの時間さえも、思った瞬間から消え去ってゆく。そう考えると、私たちは死の世界どころか、生の世界があるかどうかさえ分かっていないのである。さて、私たちは生きているのだろうか?
死を生きる
普段、私たちは明日も当然生きていると思っている。さっき「さよなら」といった友人には、いつかまた会えると思っている。夜に「おやすみ」と声をかけた家族には、朝また「おはよう」とあいさつできると思っている。それは生きていることを前提に暮らしているからだ。でも、実はその保証は何一つない。私たちは幻のような不確実な世界にかろうじて存在しているといってもよいだろう。
それならばいっそのこと、そもそも死んでいるのが前提だと考えたらどうだろう。生きているのが当たり前なのではなく、本当は死んでいるはずなのに、こうして生きている、ということだ。例えば、朝起きて「いま死んでいないから朝がある」、朝ご飯を食べて「いま死んでないから空腹が満たされる」、友人と会話をして「いま死んでないからこの人と会える」、夜眠りにつく前に「いま死んでないから安心して休息できる」というように。幻のようなこの世界で、平凡な人生かもしれないが、こうして暮らし、食べ、働き、人と出会い、喜怒哀楽をもって誰かと気持ちを通わせることができるというのは、それがどのような人生であれ、それだけで生きる全ての意味があり、まさに奇跡とも呼べるかもしれない。『永遠の僕たち』(ガス・ヴァン・サント監督、二〇一一年公開)というアメリカ映画の中で、癌で余命いくばくもない少女が恋人に語るこんなセリフがある。
日が沈むと死ぬと思っている鳥がいるの。だから朝になると目覚めた驚きで、美しい声で歌うんだって。死んでない喜びで。
《「生」を生きている》という前提をひっくり返して、《「死」を生きている》と思うと、逆説的ではあるが、いのちの輝きをより一層感じられるような気がしてくる。私たちもその気になれば、いつだって美しい歌声を奏でられるはずだ。
ひと生涯、ひと呼吸
いのちって一体何だろう?それを私たちは生まれてから死ぬまでの間に存在する「何か」であると漠然と思っている。しかし、いのちは実際に目には見えないから、それがどんな姿かたちをしているのか、そもそも姿かたちがあるのかどうか知るよしもない。また寿命というと、いのちの長さを指すことになるが、はたして本当に長さで測れるものなのだろうか?
『四十二章経』という経典にこんなお話がある。ある時、お釈迦様が弟子たちに「人のいのちの長さはどれくらいか」と尋ねられた。普通なら平均寿命から考えて「八〇年ちょっとかな」と思うかもしれない。しかし、さすが修行を積んでいる弟子は違う。ある弟子は「ほんの数日です」と答えた。あと数日で死ぬぐらいの覚悟で修行しています、という意味だ。またある弟子は「食事の時間ぐらいです」と答えた。今日この食事の後に死んでしまうとしたら、いかなる時も大切に思えるという心構えだ。ところがお釈迦さまはその弟子たちに「お前たちはまだ仏道が分かっていない」と言った。そして、最後にある弟子が「人のいのちはひと呼吸の中にあります」と答えたところ、お釈迦さまは「よし!」と言って、そのお弟子さんを認めたそうだ。
私たちのいのちは、ハーと吐いてスーと吸う、その呼吸の中で生死を繰り返しているということだ。生きている瞬間、瞬間が寿命だといってもよい。まさに「ひと生涯、ひと呼吸」なのだ。それなのに私たちはつい漫然と日々を暮らし、呼吸をしていることすら忘れてしまっている。時には自分の人生を儚み、憂い、生きる力を失い、自ら自分の生涯を閉ざそうとする人さえもいる。でも、人生のどんな境遇のいかなる瞬間であっても、呼吸と共にいのちが輝いているのだ。アタマでは死にたいと思っても、いのちは生きたいと思っている。にもかかわらず、それに気がつかずに、いのちをないがしろにしてしまってはもったいない。
第四夫人の正体は?
仏教学者のひろさちや氏が、ある本の中で『雑阿含経』という仏典に説かれるこんな寓話を紹介している。一夫多妻制の時代の話だが、あるところに四人の妻を持つ男がいたそうだ。男は第一夫人に対して一番の愛情を注ぎ、寝ても覚めてもいつもべったり一緒にいて、お腹を空かせれば好きなものを食べさせ、暑さ寒さに応じて衣服を着させ、何から何まで至れり尽くせりで、一度も争うことがなかった。次いで第二夫人に対しては、第一夫人ほどではないにしても、とても仲良しで、傍にいてくれると非常に喜び、いないときは不安でならなかった。そして第三夫人に対しては、時々会うと心が和むが、ちょっとした諍いで一緒にいるのが窮屈になり、かといってしばらく会わないと気になるような存在であった。ところが第四夫人ともなると、彼女が一生懸命夫に尽くし、どんな些細なことでも夫のすぐ傍らで常に気にかけていたにもかかわらず、夫の方はまったく見向きもしなかった。
ある時、この男が遠い異国に旅立つことになった。当然、妻たちもついて行ってくれると思っていたが、出発の際になると、最も大事にしていた第一夫人は「私は一緒には行けません」とあっさりと断った。第二夫人もまた同じように断った。では第三夫人はどうかというと、「お世話になったお礼に、国境まではご一緒しますが、あとはお一人でお出かけ下さい」とつれない返事であった。予想外の返答に慌てた男は、そこでようやく傍らにずっといた第四夫人の存在に気がつき、同行を求めると、迷うことなく頷いて一緒に異国に旅立った。これはある譬え話だが、何を意味しているかお分かりだろうか。もう少しじらしたいところだが、紙数がもったいないので早速答えよう。
異国への旅とは男の死を譬えている。そして第一夫人は肉体、第二夫人は財産、第三夫人は家族、親せき、友人を意味しているのだ。肉体も財産も親しかった人々も、生前どんなに大切にしていたとしても死の旅にまでは連れて行くことはできない(なるほど!)。とすると、第四夫人の正体は一体何だろうか。経典によると「人の心」であると説かれているが、それはちょっとしたことで一喜一憂するような不安定な心を指すのではなく、いのちと捉えてみてはどうだろうか。いのちはどんなときも私たちの傍にいて人生の支えとなり、死んだ後でさえも一緒にいてくれるというのに、それを忘れて自分の肉体や財産、人間関係ばかり気にしているなんて、なんとも薄情なことではないか。
さあ、ここでちょっとひと呼吸して第四夫人を思い出してみようではないか。
波と海
人が自然に呼吸するリズムは一分間に平均約十八回といわれるが、それは寄せては返す波のリズムと同じだという話を聞いたことがある。確かに波と呼吸はとてもよく似ている。波はまるで海が呼吸をしているかのごとく水面に浮かんだり消えたり生滅を繰り返す。
では、その波は一体どこから来て、どこに去って行くのだろうか?波は波でありながらそのまま海なのだから、生じる波も、消える波も、それがいかなる変化を遂げようと、海としてはずっと何も変わらない。海はどこから来たわけでもないしどこへ行くわけでもない。はじまりもなければ終わりもない。
私たちの呼吸が波のようなものなのであれば、いのちは海だといえる。そうであれば、呼吸をしているのは誰なのだろう。この私が呼吸をしているのではなく、いのちが私を通じて呼吸をしている、そう考えられないだろうか。私たちは何の因果かこの世に生まれ、いのちという大海の上で幾度となく呼吸を重ねて、そしていつかは消えゆく存在である。しかし、波が消えても海がなくならないのと同じように、人生が終わりを迎え、最後の息を引き取ったとしても、いのちそのものは消えることはないように思えるのである。また、海面の波はそれぞれ大きさも形も違うし、持続する時間の長さも異なるように、個としての私たちの人生もそれぞれ人によって違っている。しかし、そこに存在の本質があるわけではない。水面では一つひとつバラバラの波のような存在でも、その根っこは同じいのちということになるだろう。どんな波も大きな海へと帰っていくように、私たちもまた、それがどんな生き方であれ、最後はみな大きないのちに戻っていくのではないだろうか。
そう考えると、私たちは生と死について大きな誤解をしているのかもしれない。生と死は対立的なもので、その間に決して乗り超えることのできぬ壁があるというのが常識的な捉え方だ。生の世界と死の世界は二つの全く別の世界であり、生者は死者と決して出会えないと思っている。しかし、波と海は、一体どこからどこまでが波で、どこからどこまでが海だというのだろうか。そこには境界線というものはない。だとすれば、生と死もまた、その間を分ける境界などそもそもないのではないか。『般若心経』に「不生不滅」(ふしょうふめつ)という一句があるが、それは始まりも終わりもなく、生じることも滅することもないいのちの姿を表現した言葉だろう。だとすれば、本当の死というのは、「生」や「死」という概念の消滅を意味するだけなのであって、それはいのちの消滅を意味しない。そういう意味では、誰も死なないと言えるのではないだろうか。また、水面の波の世界だけをみれば、人生はまさに「会者定離」(えしゃじょうり:出会ったものとは必ず別れがあるという理)という言葉通りだが、いのちの海の中では、あらゆる存在が出会いも別れもなく、生も死も超えて、ずっと永遠に共にあるのだ。そういう世界を「俱会一処」(くえいっしょ)というのだろう。生の世界と死の世界は二元的なものではなく、つねに「いま、ここ」にあるのだ。とんちで有名な一休禅師が死の際に歌ったとされる一句がある。
死にはせぬ どこへも行かぬ ここに居る たづねはするな ものは云わぬぞ
極楽浄土はどこにある?
輪廻の世界
輪廻って一体何だろう?仏教では輪廻の世界を六つに分けて、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人・天の六道(「道」とは世界という意味)という。なんだか子供だましにも聞こえるし、今どきの小学生に「嘘をついたら地獄に堕ちて閻魔様に舌を抜かれるよ」などといっても誰も信じないだろう。
輪廻の世界なんか存在しないといったらそれまでだ。しかし、波と海の譬えのように、輪廻とは、海上に繰り返し浮いては消える波のようなものだと捉えたらどうだろう。波は波として確かに存在はしているが、それは何らかの条件が合わさって海の上に起きた現象に過ぎず、波という独立した存在があるわけではない。水面では別個の波も、海からすれば波はすべて同じ海だ。これと同様に、輪廻の世界も大きな一つのいのちの表層に仮に生じた現象であり、様々な世界や個々の人生があるようにみえて、実は同じいのちの表現でしかないと言えないか。そうであれば、輪廻の世界はあるとも言えないし、ないとも言えない幻のような存在だ。その世界で生きる個々の人生も、その人生を生きる私という存在もまた、あるとも言えないし、ないとも言えない。いのちが仮に私という存在として生きているといったところか。仏教的に解釈すれば、本来は「無我」なる状態がこの世界の真実のすがたであり、それを海に譬えることができる。そして、その水面に隆起する波は、そのまま海そのものであるのに、それを海と分離して実体視してしまう意識が「我」ということになる。その「我」が地獄、餓鬼、畜生、人などの世界をつくりだし、その中で「私の人生」という幻想の物語が展開しているといえる。
また、波はつねに変化し、一時も立ち止まることがないように、私たちの人生は苦楽あいまじわり、天にも昇った心地であったのが、突如として地獄のような苦しみの境地に突き落とされることもあるし、またその逆に苦しい地獄から解放されることもある。ただ、その変化を自分の思いのままに操ることはできない。そのような人生を仏教では「諸行無常」(あらゆる物事、現象は変化してやむことがないという理)、「一切皆苦」(すべてのことは思い通りにならない)と言い表す。
私たちはそんなままならない人生を嘆き悲しむかもしれない。しかし人生の波がどんなに荒れ狂うことがあっても、不本意な姿かたちになろうとも、私たちの本質であるいのちの海は何一つ変わらず穏やかなままである。そこにこそ「涅槃寂静」(ねはんじゃくじょう)という悟りの世界があるのだろう。
悟りの世界というと、それを私たちは遥か彼方のまったく手の届かない別に次元にあるものだと思ってしまうが、波はそのままで海なのだから、私たちの住む世界が地獄であろうと何であろうと、私たちはどこにも行く必要はない。いつでも同じ大きないのちの中にいて、自分のいるその場所がそのまま悟りの世界であるはずだ。こんなふうに輪廻の世界を考えてみると、私たちが今生きている世界や自分の置かれた境遇や人生が少しは違った目でみることができないだろうか。いま抱えている悩みや苦しみも一瞬にして消えてなくなりそうだ。「えっ、なくならない!?」 確かにそうだ。この世界も人生も夢のような幻想だとか、本質は同じいのちだとか言われても、苦しみの真っ只中にいる人にとっては何の気休めにもならないだろう。どんな悪夢も現実ではないとしても、夢の中では苦しいものは苦しい。目覚めない限りは、あいかわらず輪廻の荒波にもまれ、必死にもがくことだろう。それが輪廻の世界の非情さだろうか。
極楽浄土はどこにある?
仏教では、輪廻の世界で苦しんでいる人々を救うために阿弥陀様がつくった極楽浄土があるという。そこにたどり着いたものは、輪廻の束縛から解き放たれ、誰もが仏になることが確定されているそうだ。「阿弥陀」というのは漢訳すれば「無量寿」といい、不生不滅の永遠のいのちということだ。私たちも阿弥陀様のもとに行けば、自分が永遠のいのちであることに気がつくことができるのだろうか。その極楽浄土は西の最果てにあると言われているが、この輪廻の荒波のはるか向こうにぽっかり浮いている島なのか、大陸なのか。生きているうちには無理そうだが、せめて来世では行きたいものだ。そう願う人々によって形成されたのが浄土教である。
極楽浄土の浜辺から、これまで幾度となく乗り越えた波を眺めれば、全てが美しい海の風景だと思えるだろうか。しかし、そんな安息の場にどうやったら行けるのか?何度輪廻を繰り返してもたどり着けないのではないかと思うだろうが、浄土教の教えでは、それが意外と簡単で、「南無阿弥陀仏」とわずか十遍ほど唱えるだけでもいいという。「南無」とは平たく言えば「あなたにお任せします」という意味なので、阿弥陀様に全部をお任せしますということだ。確かに潮の流れも波の力も自分でコントロールするのは到底不可能なことで、力尽きて溺れるのが関の山だろう。だったら、流れに身をまかせているしかないではないか。流れの行く末が不安かもしれないし、いつか煩悩の重さで海の底に沈んでしまうのではと心配に思うかもしれない。しかし浄土教を広めた恵心僧都源信(えしんそうずげんしん)は『往生要集』(おうじょうようしゅう)の中で、小石は水の上に置けば沈むが、船に乗せれば沈まないように、煩悩の石をいくつも背負って生きている私たちも、そのまま阿弥陀様の船で浄土まで連れて行って下さるのだと言っている。私たちはもうすでに阿弥陀様の船に乗っているのだから、この身についてあれやこれやとぼやかずに、あとは船長さんにお任せしましょうということだ。
さらに私の薄っぺらなイメージで恐縮だが、浄土の浜辺はそのまま海の底へとつながり、私たちの足元まで続いているはずではないか。だとすれば、大海のどこにいようと私たちの足元には必ず浄土がある。ここが浄土だと思えば浄土ではないか。
そんなこといくら語っても結局はファンタジーだと言うかもしれない。まさにその通りで、極楽も地獄もファンタジーでしかないと思う。でも、私たちがこうして生きて現実だと思っているこの世界だって同じくファンタジーじゃなかろうか。どのみち、あるのは大きなひとつのいのちだけ。そのいのちが様々なファンタジーの世界でそれぞれの物語を綴って生きている。だとしたら、私たちのこの狭い世界だけでなく、視野を広げてもっと大きな世界を想像してみたらどうだろう。そうすれば、この輪廻の荒波も少しは気持ちのゆとりをもって乗り越えられそうだ。 
■本気の育て方
本当の気持ち
仏教詩人といわれ「念ずれば花開く」でも知られる坂村真民にこんな詩がある。 ・・・ 本気 本気になると 世界が変わってくる 自分が変わってくる 変わってこなかったら まだまだ本気になっていない証拠だ 本気な恋 本気な仕事 ああ 人間一度 こいつを つかまんことには ・・・ 前住職である父の書斎でたまたま見つけた彼の詩集を開いたら、偶然この詩が目に留まったのである。胸にグっとくる内容というより、今の私には胸が締め付けられる気分になった。というのも、つい先日のこと、妻から「ねえ、あなた、いつ本気出すの」と言われて背筋が伸びるような体験をしたばかりなのだから。
日々のせわしない生活の中で次々と押し寄せる仕事を懸命にこなしてはいるものの、本気で取り組んでいるかと問われると自信はない。妻の鋭い目にはごまかしがきかない。「この歳になっても芽が出ない、まだ努力が足りない、まだまだ本気出してないな、ああ、こんな人生でいいのか…」と自己否定のスパイラルに陥って気が滅入ってくる。ただ、仲間を増やすわけではないが、私ばかりではなく読者の皆さんだってそうなんじゃないだろうか。「そこのアナタ、本気で生きてますか?」といわれて、「はいっ!」と即答できる人はきっとそういないだろう。本気というと手を抜かず100パーセント全力投球で頑張るという意味で使われるのが一般的だと思うが、それはなかなかハードルが高いことである。しかし、本気にはもう一つ「本当の気持ち」という意味もあるのだ(嘘じゃありません。『大辞林』でちゃんと確かめたのだから)。
必死に努力してもどうしても力が出ないことだってある。そういうときは無理に何とかしなきゃと焦ってもうまくいかない。今やっていることに対して本当の気持ちがあるのかどうか、もう一度確かめてみることだ。自分を偽っていたら力を出そうにも出てはこない。自分の正直な気持ちにしたがってこそ自ずと本来の力が湧いてくるものだ。それはあくまでも自分自身の問題である。他人からどう評価されようが関係ないのである。もちろん妻の評価も。
とはいっても、この社会はとかく本当の気持ちをなかなか出しにくい環境だ。人の顔色を窺って何が正解か推し量り、どう評価されるかということばかりに過敏になり、それによって自分の価値が決まる。そういう社会では自分の本心は一番奥のほうに閉まってあって、本当の気持ちが出せないどころか、本当の自分は何を感じ、何がしたいのかも分からないぐらい鈍感になってしまっている。
最近、忖度という言葉が流行ったが、政治の世界ばかりではなく、社会全体が忖度ムードになっているように思える。もちろん他者の期待に応えようとする気持ちは「おもてなし」文化を誇る日本の美徳ともいえるので一概に否定すべきことではないが、どこかで窮屈な思いをして自分の心をすり減らせ、欲求不満を募らせているような気もするのだ。
いい子の定義
思えば子どもの頃はもっと自由気ままに本当の気持ちにしたがって生きていたはずだ。他人の評価にさらされたり、無理に誰かのご機嫌とりなどしたりせず、目的にも成果にも縛られず、朝起きて「さあ何して遊ぼうかな」と居ても立ってもいられず、夜は夜で「明日はどんなことをしようかな」とワクワクして眠れず、ただ自分の好きなことをして過ごしていただろう。私も小学生の頃はなぜか割りばしや空き箱などでモノを作るのにはまり、勉強などそっちのけで日がな一日工作に没頭し、ごみ箱を漁っては使えそうなものを集めて何を作ろうかと頭の中で空想に耽っていた。それで何か特別な知識や技術が身についたわけではないし、作品が誰かに評価されることも学校の成績向上につながることもない(だいたい作った作品群は再びゴミとして処分される運命にあった)。振り返ればただの時間と資源の無駄づかいであったといえる。でも、ただ純粋にのめりこんでいたあの時期こそ、なんの偽りもない本当の気持ちで生きていたなと思うのである。
しかし自分が親になって子どもに接すると身につまされることがよくある。2歳半ばのウチの息子はとにかく好奇心が旺盛で、特に大人がヒヤヒヤするような危ないことが大好きである。まさに今もタンスの引き出しに器用に手足の指をかけて上によじ登ったかと思うと足を滑らせ落下し大泣きしているところだ(しばし執筆中断…)。そういう時、「だめ!」「あぶないよ!」とつい指図してしまうものだが、子どもの立場からしてみれば自分のしたいことをいちいち制限されてばかりでさぞかし窮屈なのではなかろうか。もちろん危険なことや人の迷惑になることはやめさせないといけないが、その一方で親があれこれ口出しをするのは、子どもが折角本気でやろうとしている気持ちを台無しにしてしまっているようにも思える。
時々ふと考えるのだが、「いい子」の定義って一体何だろうか。日常の場面でよく「あら、いい子ね〜」という場合は、大抵は素直で聞き分けがよく、お行儀よくしっかりご挨拶ができるときなどに使うだろう。つまり、大人っぽいことをする子が「いい子」とされるのだ。だとすると、そうでない腕白で行儀が悪く聞き分けがない子は「わるい子」なのだろうか。子どもには子どものありようがあるのだから、そうやって大人の立場でレッテルを貼ってしまっては、子どものありのあままの生き方を否定してしまうことになるだろう。
結局、「いい子」というのは、大人にとって都合のいい子ということであり、子どもの自主的な思いを抑えて、大人の価値観に押し込めてしまうことなのである。大人の言う通りに我慢させることは一見いいことで、それが教育やしつけと称される。それが必要な場合もあるが、まずは子どもの本当の気持ちを受け止め、可能な限り子どもの思いを発揮させてあげたらどうだろう。それは過保護だといわれるかもしれないが、子育てには相当な体力、忍耐力、そして財力が必要であるから、自ずと物理的な限界が必ずあるので、やり過ぎるぐらいできればむしろ立派なことではないかな(そう考える私自身、もしかすると過保護に育てられたのかも…)。
児童精神科医の佐々木正美氏は、過干渉と過保護との違いを明快に分けて解釈している。すなわち、過保護とは「子ども自身がのぞむことを過剰に与えること」。過干渉は「親がのぞむものだけを与えること」だという。そういう意味において過保護は心配することではない。避けなければいけないのは過干渉のほうで、子どもは親への依存心が強まり、自立心が育たなくなってしまうのである。過保護と過干渉とはつい混同して考えがちで、子どもをたくましく育てようとする親ほど過保護になることを恐れ、かえって過干渉になってしまうケースが多いようだ。しかも過保護と違って過干渉は際限なく親の都合で子どもの望みを制限してしまうから恐ろしい。それだと好奇心いっぱいの子どもの世界が欲求不満だらけのつまらない世界になってしまうと佐々木氏は警鐘を鳴らしている。
イッツオーケー 
教育ジャーナリストの野口桂子氏が自著『あなたの子どもを救えますか』の中で、夫の転勤に伴ってニューヨークに滞在中、2人の子どもを現地のミルトンスクールという小学校に通わせた体験記を綴っている。その中で特に印象深かったのが、美術のクラスで子どもたちに配られる「It’s OK to~」(〜してもいいですよ)という許可証だ。野口氏ご自身による日本語訳ではこういう内容だ。
許可証 / 1知らないことに挑戦しても構いません。 / 2間違ったっていいです。 / 3時間をたっぷり使っていいですよ。 / 4あなたのペースでどうぞ。 / 5あなたのやり方で結構ですよ。 / 6成功するには失敗を恐れちゃダメ。その次の成功に結び付けるためにもヘマをしちゃってもいいんです。 / 7あなたが馬鹿みたいに見られても気にしないで。 / 8周りの人と違っていていいのです。 / 9あなたの準備がきちんと整うまでは始めなくてもいいのです。 / I安全に十分に気を配れば、実験してみてもいいですよ。 / J「どうしてこんなことしなくちゃならないのかな」と疑問を持っても構いません。  (※数字は筆者補)
あなたがあなたらしくあるということは、とても大切なのです。ときには周りをめちゃめちゃに汚すことだって必要なんです。後片づけをする気があればの話ですけど。創造的な仕事をするときは、周りがめちゃめちゃになりやすいものなのです!
あくまでも個人の見解だが、日本の一般的な教育現場では、とかく「〜しなさい」「〜してはいけません」という事項が前面に押し出され、子ども一人ひとりの自主性よりも、教室の秩序を保つことに重点があるように感じる。協調性を養うためにはそれも大切な教育かもしれないが、はじめから命令と禁止の羅列では、子どもの中から自分の本当にしたいこと、本当に考えていることが素直に外に現れないのではないか。そういう他律的な環境に飼い慣らされた子どもは一見とてもいい子であるが、社会に出た後に果たして自分が満足できる人生を自分の力で切り開いていくことができるのだろうか。
「正しさ」より「正直さ」
本来何をするのも自由だし、自分が本当に好きなことをすればいいのに、人の評価を気にすることによって、いつしか「〜べき」「〜はず」といった外側の様々な価値観に囲まれ、私たちはどれだけ本当の気持ちに蓋をしてきたことか。そうやって他者の評価に依存して生き続けたとして、この世の万人に評価されることなど決してないはずなのに。それはお釈迦様の時代からそうで、『法句経』でもこう仰っている。
人は黙して坐するをそしり 多くかたるをそしり また 少しかたるをそしる およそこの世に そしりを受けざるはなし
だとしたら、世間の評価にあまり振り回されず、誰かに批判されようが、結果がどうであろうが、自分の本当の気持ちにしたがって生きることだ。極論かもしれないが、この世に完璧に正しいものなど存在しないのだと思う。そんな幻想の「正しさ」を追い求めるより、「正直さ」を大切にしたらどうか。すぐに実行できることではないかもしれない。でも本気で生きるにはそれしか道はないように思う。「こうしなければ」「ああしてはならない」と自分の心を自分で縛りつけるようなことをしないで、少しでもいいからオーケーサインを出してみようじゃないか。いつかきっと「世界が変わってくる、自分が変わってくる」と信じて。 
■「アンラーン」という生き方
「アンラーン」(unlearn)という言葉を最近よく耳にする。「アン」は否定を表す語で、「ラーン」は学ぶという意味である。「脱学習」と訳されることが多いが、学習をやめるという意味ではない。
もともとは昨年亡くなられた哲学者・鶴見俊輔が、新聞のある対談で自分の若い頃のエピソードを紹介したことがきっかけで知られるようになったようだ。それによると、当時十八歳だった鶴見氏がアメリカのハーバード大学に単身留学中、夏休みを利用してニューヨークの図書館で本の運搬のアルバイトをしていると、偶然にもヘレン・ケラーがやってきて会話をしたことがあったそうだ。そして鶴見氏が大学生であることを知るとヘレン・ケラーは、「私は大学でたくさんのことを学んだが、その後たくさん学びほぐさなければならなかった」と言ったという。鶴見氏はここで「アンラーン」を「学びほぐす」と訳し、さらにそれを、型通りにセーターを編み、ほどいて元の毛糸に戻して自分の体に合わせて編み直すようなものだと譬えている。
学ぶというのは確かによいことに違いない。分からなかったことが分かるようになり、出来なかったことが出来るようになるのは快感だ。しかし、そうやって知らず知らずのうちに物事の価値観がかたまっていき、「こうすべきだ」「こうあってはならない」と自分の思考の枠にとらわれて偏見を強く持ってしまったり、本当は目の前に自由に歩ける大地が広がっているのに、人生に一本道をまっすぐ引いて、かえって自分の生き方を窮屈にしてしまうこともある。これまで得てきた知識や経験を一度リセットし、ゼロベースの視点で改めて見直すと、さらに新しい風景が広がるかもしれない。
では無我になったその先はどうなるのか。修行不足の私には到底想像もつかぬが、恐らくそれがゴールではないように思う。自我をアンラーンしきった後は、再び新たな自我を作り上げていくのではないだろうか。本来この世界の何もが無我ならば、学びなど何の意味もないはずだが、それでも人間というのは何かを学ばずにはいられない動物なのだ。
無我の境地に至れば、人生のあらゆる悩み苦しみも一瞬にして解決するかもしれない。しかし、無我になって生きるというのは、まるで白紙の本を読むか真っ白のスクリーンを眺めているようなもので、こうして自我があるおかげで、あれこれ学ぶことができるというのは、なんと有難いことかと逆に思うのである。もっとも、いくら学んだとしても、私たちは決して完璧になれないのも事実だ。無我という真理を前にすれば、自我は思考の産物であり幻のようなものだ。学びを積み重ねて分かったつもり、賢くなったつもりになっているだけなのである。所詮、学ぶというのは勘違いの集積で、ボタンの掛け違いだったり、糸がほつれたりして、自分の体に完璧に合うセーターを着ることは永遠にできない。完璧になるには無我であるしかないのだ。
しかしそれは決して悲観すべきことではない。考えようによっては、無我であるからこそ、白板に何度も文字を書いては消すがごとく、学んでは学びほぐし、人生の道を何度でも引き直すことができるはずである。詩人・茨木のり子があるエッセイの中で紹介していたが、ロシアには「百年生きて、百年学んで、馬鹿のまま死ぬ」という諺があるらしい。そのぐらいの気持ちで生きたらどうだろうか。そんな彼女の詩の中で「自分の感受性くらい、自分で守れ、ばかものよ」(『自分の感受性くらい』より)という強烈な一句があるが、これは何度学んでも完璧になれない宿命をもつ愚かな人間に対し、それでも感受性だけは忘れるなとエールを送っているように感じてならない。
何か変だぞ、どこか窮屈だ、人生このままでいいのだろうか・・・と、不安に駆られながらも、心の奥底から沸き起こる感受性に耳を貸さず、ごまかしごまかし生きている人がいかに多いことか。そういう私もご多分に漏れずその一人だ。
ステーブン・ジョブズがスタンフォード大学で行った有名な演説の中でこう言っていたのも記憶に新しい。「もし今日が人生最後の日だったとしたら、今日しようとしていることを私はしたいだろうか?」 私たちも自分自身に問いかけてみるといい。いま最優先でやっていることは、自分の人生にとって本当に最優先の事項なのだろうか。少しでも疑問を感じたら、アンラーンするサインかもしれない。 
 

 

■幸福なんていらない
あなたは悟りたいですか?
突然、誰かに「あなたは悟りたいですか?」って尋ねられたらどうします?普通は警戒しますよね。怪しい団体に勧誘されそうって。
普段の生活の中で、悟ることなんて頭の片隅にもないでしょう。もし友達と飲んでいて将来の夢でも語り合っている時に、「オレさ、いつか悟りたいんだよ」 なんていったら、間違いなく次の飲み会に誘われなくなります。会社の入社面接で「御社で働かせていただければ、必ずや仏になってみせます!」 なんていったらどこも門前払いです。
お坊さんの場合はどうかというと、私個人に限って言えば、本来なら悟りを得るために日々修行を積んでいないといけない立場ですが、毎日の生活に追われると、なかなか悟るなんてことは現実的に考えられません。
でも時代が少し変わってきたのでしょうか?
ここ最近、世間一般で「悟り」「気づき」「覚醒」といった言葉を目や耳にするようになりました。本屋にも必ずといっていいほど精神世界のコーナーがあって、そこには悟るための実践マニュアルみたいな本や、実際に悟りを得た人の体験を綴った本などが並んでいます。もちろん怪しげなものもありますが、中には内容の深いものもあって、手にとってパラパラと読んでみると「なるほど」と感心することもあります。
お寺で開いている坐禅会でも、ちょっと前なら、「足が痛くならない方法は?」「坐禅中にクシャミがしたくなったらどうしうたらいいでしょう?」 みたいな質問が多かったですが、最近では、悟りに関する質問がとても増えました。また、悟り体験をした人のレクチャーやセミナーも大きな会場が満員になるぐらい人が集まることもあるようです。こういう状況をみると、ちょっとした「悟り」ブームかな、なんて思うことがあります。
その背景には、物質的な豊かさだけでは満たされず、精神的な幸福感を真剣に求める人が多くなってきたことがあると思います。その中で悟りという体験が注目されはじめたのでしょう。苦あり楽あり山あり谷ありの不安定な人生も、悟りさえすれば完全な幸福を手に入れることができるはずだ、というわけです。
いままでは仏教のいわゆる「専売特許」だった悟りが巷にどんどん広まっているようで、こんなふうに悟りが身近になったのはいいけれども、悟っていないお坊さん代表の私としては、なんだか置いてきぼりにされたような寂しい気持ちとともに忸怩たる思いがします。
幸福は地獄の入口?
で、でもですね、負け惜しみのように聞こえるかもしれませんが(実際そうかも)、悟りの境地って一体どんな世界なんでしょう。一切の悩みも苦しみもないすべてが思い通りの完全に幸福な世界というイメージを持つかもしれませんが、そんなお花畑みたいな世界って本当に存在するのかなって思うんです。
こんな笑い話があります。一人の死んだ男が生まれ変わり、すべてのものが美しく快楽に包まれた世界に行ったそうです。そこではどんな願い事も瞬時にかなえてくれます。男は喜び、夢のような日々を過ごしました。ところがある日、すべてが自分の思い通りになる暮らしにすっかり飽きてしまいました。そこで、その国の番人に、「何か自分の思い通りにならないことはできないか」と尋ねました。番人は、「その願いだけはかなえられません」と答えました。男は絶望したように「それではまるで地獄みたいじゃないか」と叫びました。すると番人は「あなたはどこにいると思っているのですか?ここが地獄ですよ」と言いました。
私たちは自分のままなる理想の人生を追い求めるのに必死ですが、その実、地獄に向っているのかもしれません。結局のところ私たちは何が幸福なのかはっきり分からないまま生きています。電車に乗るのに目的地も分からず乗ることはありませんよね。でも、たった一回しかない大切な人生に関しては、皮肉なことにその目的地もわからず、いつか本当の幸せが手に入る、いつか理想の自分になれるはずと思ってずっと走り続けているのです。
結果にコミットしちゃいけません!
もちろん悟り体験を否定するつもりはありません。体験したことのない私が語る資格はありませんが、それは真実の世界を垣間見るような素晴らしい境地なのかもしれません。人を騙す目的でないかぎり、そういう体験をした人はその現象を正直に語っているのだと思います。
でも、悟り体験を幸福の終着駅だと思って追い求めていると、かえって迷いを深めるのではないでしょうか。悟り体験をしたからといって特別な存在になるわけではないと思います。超能力が身につくわけもないし、自分の抱えている苦悩や問題が消えてなくなるわけでもありません。借金が消えてなくなることも、突然映画俳優みたいにイケメンになることもありません。今ある現実は現実でしかありません。夢から覚めて別世界に行けるわけではありません。虹の向こうのお花畑はないのです。
どうも「悟り」という言葉が一人歩きしはじめているように思います。ではそもそも「悟り」の発信元である仏教ではどう言っているのかというと、難しい言葉ですが天台の教えで、「実相外更無別法」(じっそうげきょうむべっぽう:実相の外に更に別法なし)といいます。あるがままのこの現実の世界のほかに悟りの世界があるわけではないということです。この世界がすでに悟りの世界そのものなのだから、この現実を否定してどこかに悟りを追い求める必要はないのです。
いま生きているこの世界、いま歩んでいるこの人生を、そのままありのままに見ればいいのに、それをありのままでなく自分の思うままに偏った目で見ようとするから真実が見えなくなるのです。
私たちの社会はどうも不幸を嫌うあまり幸福に偏りすぎのように思います。「どうしたら幸福になれるの?」「あなたの幸福度は何点?」「幸福になれる**セラピー」。そんな言葉が飛び交っています。私が偏屈なだけでしょうか。そんなに幸福、幸福っていわれると、幸福でなきゃいけないんですかって逆に問いたくなります。そもそも幸福は数値で測れるのでしょうか。順位を決めて人と比較したりするものなのでしょうか。なんだか幸福が現代人のステイタスを飾る商品みたいになっているような気がします。
それこそ、「結果にコミット!不幸なあなたも二か月でこんな幸せに!」 なんてテレビコマーシャルでも出てきそうです。もしそんなに幸福の結果にコミットしたいのであれば、これから素晴らしい商品が続々と開発されるかもしれませんよ。
最近は脳科学が急激に進歩していますから、悟り体験をしている脳の働きを科学的に分析して、人工的にその体験を再現することだってできそうです。それこそ大手電機メーカーがスイッチをポンと入れたら誰でもゲーム感覚で悟れちゃいますなんていう「悟りゲーム」を売り出したりして。でも、それってどうなんでしょう。悲惨な事故に遭ったり、悲しい出来事が起こっても、「このゲームで悟ればいつだって幸せです!」なんてことになったら、とても恐ろしい気がします。麻薬や覚せい剤で現実逃避するのとどこが違うんでしょう。
私たちは不幸な自分から解放されたいばっかりに、かえって幸福に縛られ幸福の奴隷になってしまっているのではないでしょうか。やっぱり幸福の結果にはあまりコミットしないほうがよさそうです。念のために言いますが、私はライザップの敵ではありませんからね。いまはポッチャリお腹ですが、二か月後にはムキムキに変身しているかもしれません!
ギッコンバッタンは止まらない
経験的にお分かりのように、人生には良いことがあれば、悪いことがあり、幸せだったり、不幸だったり、思い通りに行けば、思い通りに行かない時もありますよね。どっちかだけってことはありえません。シーソーみたいなもので、ギッコンがあれば、必ずバッタンがあります。ギッコンだけがいいとか、バッタンはもういやだ、なんて言えません。同じシーソーでも、なんで自分の思い通りにならないのかと悩み苦しむか、それがシーソーの原理だと受け入れるかです。
道元は「悟りに迷うのが凡夫、煩悩を悟るのが仏だ」といっています。煩悩を退けて悟りを求めても迷いは深まる一方で、それよりも煩悩のど真ん中で悟ってこそ仏だ、というのです。でも、「この煩悩の世界のどこに仏がいるんだ?」って思うでしょ。それがいるんです。はい、このブックレットを手に取っていただいているあなたのことです。
『涅槃経』(ねはんきょう)という経典に 「一切衆生悉有仏性」(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)という言葉があります。生きるすべての存在には仏としての本性が具わっている、という意味です。なのでズバリ言います。「あなたの正体は仏なんです!」 どうです、納得できますか?たぶんできませんよね。きっとバツが悪そうに「まさか!」「わたしなんて」って言って絶対に認めません。
私なんて悩みも欲望も尽きないし、煩悩だらけでなんで仏なのかって疑問に思うでしょう。でもそれは気づいていないだけの話です。何かに悩みを抱えているとしたら、仏が悩んでいるんです。悲しくて泣いているとしたら、仏が泣いているんです。お金がなくて困っているとしたら、仏が貧乏ヒマなしでなんです。そう、仏が人生のシーソーをギッコンバッタンやってるんです。この世界の誰もが例外なく仏なんです。そう思ったら少しは気が楽になりませんか?
「え、ならない!」 それはきっとシーソーの構造で大切なことを忘れているからです。シーソーは土台がちゃんと支えているからギッコンバッタンできるんです。それも含めてシーソーです。その土台こそが私たちの本性である仏性なのではないかなと思うんです。人生どんなに振り動かされても、それが絶叫マシンみたいなものであっても、常に仏性が支えてくれているのです。そのおかげでギッコンバッタンさせてもらっているのです。
結局のところ悟りというのは、自分を支えてくれている仏性に気づくことなんじゃないでしょうか。気づかなければ確かに不安ですが、気づかなくても土台は支えてくれているので心配いりません。私のような心配性は、こんな偉そうなことを書いていながらも自分の人生がどうなるか、この原稿がボツになるか心配でなりませんが、心配しても心配しなくても、どっちにしても仏性が支えているのです。自分が悟れるかどうか、幸福になれるかどうかなんて、あまり気にしなくても大丈夫なような気がします。
幸福って犬のシッポのようなものだと思います。うちで飼っている犬は時々自分のシッポを追いかけてぐるぐる回るときがありますが、幸福を追うって、まさにそういうことなんだと思います。しっかり前を見て進めば、幸福(しっぽ)はかならず後からついてくるんじゃないでしょうかね。 
■新しい世界
うちの息子が生後数か月の頃、まだ首もすわらず布団に寝たままの状態で突如片方のこぶしを挙げて興味深げにじっと見つめはじめた。それも起きているときは四六時中だ。一体何かと思って調べてみると、発達心理学ではハンドリガードといい、自分の身体の存在にはじめて気づいた瞬間なのだという。キラキラした眼で不思議そうに自分の手を見つめるその純粋は姿に、父親の私にそっくり!と思いたかったが、私なんて自分の手を見ても、「ああ爪が伸びてきたな」くらいしか思わない。私たち大人は、目の前に世界が広がっていることも、自分が存在していることも、他者がいることも当たり前のことだと思って生活している。しかし、生まれたばかりの頃は誰もが例外なく、この世界の何もかもすべてに新鮮な驚きを感じたはずだ。
そんな息子も今や2歳を過ぎたところだ。俗にいうイヤイヤ期である。成長とともに自我が発達し、何を言っても反抗して言うことを聞かず、これまでは父親似だと思っていたが、母親そっくりになってきた。可愛いから許せるものの、右に左にと振り回され、一日が終わるとヘトヘトである。イヤイヤ期は一般的にはわがままし放題のマイナスイメージがあるが、子どもにとっては大切な成長の証である。子どもの振る舞いを観察していても、それは決して悪気があってやっているのではなく、この新しい世界がどんなところで、自分とは何者であり、他者とどう関わりを持ったらいいのかということを子どもなりに探求しているように思える。その探求心たるや真剣そのものだ。タンスのほうに一目散に走っていくかと思うと、私の衣類を全部引っ張り出して部屋中に散らかしたり、食卓の食べ物を握りしめてグチャグチャにしたり、疲れて寝ている私の目の中に指を突っ込んでみたり…。大人にとっては無意味な(そしてちょっと迷惑な)行為でも、子どもからすれば何事も本気である。それに比べると大人のほうが生き方に本気さがないようにも思えてくる。
仏教には心の哲学ともいえる唯識という思想がある。その研究で第一人者の 横山紘一先生がNHKの「こころの時代」(『唯識に生きる』)という番組の中で、人間の思考のプロセスは、まず「なに」という問いから出発し、次に「なぜ」と原因を追究し、そこで判明した内容を踏まえて「いかに」するかを結論するのだといい、幼児期の子どもはまさにそういう思考のプロセスによって成長するのだが、大人になると「なに、なぜ」と問うことを忘れてしまい、「いかに」生きるかということに悩み考え込むことが多いと仰っていた。
確かに大人の世界は「いかに認められるか」「いかに成功するか」「いかにお金を儲けるか」などとハウツーばかりに目を向けて、そもそも自分とは何か、なぜ生きるのかという問いかけを日常あまりしない。だから自分が本気で何がしたいのか分からず、他人の評価ばかり気にしてあれこれと情報に振り回されてしまうのだろう。
お寺で運営する幼稚園で子どもたちと触れ合っていると、彼らが本来具えている計り知れない力に驚くことがある。入園式から間もない4月初旬の頃。まだ集団生活に慣れない年少の子どもが2人いた。保育室に入ることを頑なに拒み、下足室に座り込んで泣き叫ぶばかり。そのうちの一人の子は涙も枯れ果てたのか、下駄箱の隅に引っ込んで、茫然とした表情で横たわってしまった。こうなったら何を言っても聞いてはくれない。そこで、その子のことは一旦放っておき、もう一人の子の隣に寄り添うように坐った。そして、きっとお母さんが恋しいのだろうなと思い、しばらく様子を見てからその子に「お母さんってどんな人なの?」と尋ねると、泣きながらも大好きなお母さんのことをいろいろ話してくれた。そうこうしているうちに、その子は何かを決意したかのようにすっと立ち上がり、下駄箱の隅で横たわる子どものほうに行き、「さあ行くよ」と声をかけて手を伸ばしたのだ。すると、寝ていた子も「うん!」といって起き上がり、二人仲良く手をつないで私を残したまま園庭のほうに遊びに行ってしまった。
私はただお母さんのことを尋ねただけで、まさかこんな展開になるとは予想だにしなかった。もしここで私が「早く**したら」などと「いかに」を押し付けていたらこうはならなかったと思う。幼稚園に馴染めないのは気が小さいとか臆病だからということではない。新しい環境に対して「なに、なぜ」という疑問があまりに大きくて受け止めきれないのだ。それだけ探求心が強いということでもある。それがお母さんのことを話したのをきっかけに、子どもの中でこの現状を「いかに」しようかという力が湧いたのではないだろうか。
このように子どもには大人の思いもよらぬ「なに・なぜ・いかに」のプロセスを編み出す力を持っているのだ。大人もかつては探求心溢れる子ども時代があったのだ。ありふれた世界、見慣れた他者、どうせこんな自分、そんな風に思うことがあれば、もう一度、新鮮な眼で「なに、なぜ」と探求してみたら、本気で生きられる「いかに」の道が見つかるかもしれない。 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
比叡山 1

 

滋賀県大津市西部と京都府京都市北東部にまたがる山。大津市と京都市左京区の県境に位置する大比叡(848.3m)と左京区に位置する四明岳(しめいがたけ、838m)の二峰から成る双耳峰の総称である。高野山と並び古くより信仰対象の山とされ、延暦寺や日吉大社があり繁栄した。東山三十六峰に含まれる場合も有る。別称は叡山、北嶺、天台山、都富士など。
比叡山は、滋賀県大津市の西南、滋賀・京都県境に位置する、標高848mの山である。古事記には淡海(おうみ)の日枝(ひえ)の山として記されており、古くから山岳信仰の対象とされてきた。
国土地理院による測量成果では、東の頂を大比叡、西の頂を四明岳、総称として比叡山としている。「点の記」では、東の頂に所在する一等三角点の点名を「比叡山」としている。この三角点は大津市と京都市の境に位置するが、所在地としては大津市にあたる。この一等三角点「比叡山」の標高は2014年5月に標高改算され848.1mとなった。なお、比叡山は、丹波高地ならびに比良山地とは花折断層を境にして切り離されているため、比叡山地、あるいは比叡醍醐山地に属するとされる。
京都側から見た場合、四明岳と大比叡をともに確認することができ、重量感のある印象である。だが、京都盆地から比叡山を見た場合、四明岳は確認できるが、大比叡の頂は四明岳に隠れてしまう。このときのバランスのとれた三角形の外観は、「都富士」ともいわれる。また、大比叡がみえない場合、四明岳を比叡山の山頂だと見なすことがあり、京福電気鉄道叡山ロープウェイにおいては、四明岳の山頂をもって比叡山頂駅と設定している。
比叡山の山頂からは、琵琶湖や京都市街のほか、比良連峰などの京都北山も眺めることができる。山の東側には天台宗の総本山である延暦寺がある。また、山頂の北の「奥比叡」は「殺生禁断」とされているため、貴重な野生動物や植物の姿を確認することができ、特に、鳥類の繁殖地として有名である。なお、真夏の京都市内と比叡山の山頂近くとでは、気温が5、6℃違うという。
比叡山は、登山も盛んである。京都市左京区修学院から登る雲母坂(きららざか)は古くから京都と延暦寺を往復する僧侶・僧兵や朝廷の勅使が通った道であり、現在も登山客は多い。雲母坂登山口から大比叡山頂まで、徒歩でおよそ2時間20分掛かるとされる。滋賀県側からは、日吉大社の門前町・坂本から表参道を経て、無動寺谷を通って登る登山道などがある。この登山ルートも、徒歩でおよそ2時間10分から20分掛かるとされている。山内には大津から京都大原方面へ抜ける東海自然歩道と、北白川・大原間の区間となる京都一周トレイルが通っている。なお、四明岳はガーデンミュージアム比叡の敷地内にあり、登頂には同園への入場が必要となる。
なお、四明岳の表記、あるいは読みには多数の説があり、国土地理院による「四明岳(しめいがたけ、しめいだけ)」のほか、「京都市の地名」では「四明ヶ岳(しめがたけ)」、「四明峰(しみょうのみね)」などを挙げている。比叡山の別称である天台山、ならびに四明岳の名称は、天台宗ゆかりの霊山である中国の天台山、四明山に由来する。
歴史
古事記では比叡山は日枝山(ひえのやま)と表記され、大山咋神が近江国の日枝山に鎮座し、鳴鏑を神体とすると記されている。平安遷都後、最澄が堂塔を建て天台宗を開いて以来、王城の鬼門を抑える国家鎮護の寺地となった。京都の鬼門にあたる北東に位置することもあり、比叡山は王城鎮護の山とされた。
延暦寺が日枝山に開かれて以降、大比叡を大物主神とし小比叡を大山咋神とし地主神として天台宗・延暦寺の守護神とされ、大山咋神に対する山王信仰が広まった。また比叡山山頂の諸堂や山麓の日吉大社などを参拝して歩く回峰行も行われ信仰の山である。「世の中に山てふ山は多かれど山とは比叡のみ山をぞいふ」と慈円が詠んだことでも知られる。  
 

 

 
比叡山 2

 

京都市と滋賀県大津市との境界をなす山地。北は比良(ひら)山地から続く近江(おうみ)盆地の西側を画する地塁山脈で、琵琶(びわ)湖に面する東斜面と、京都盆地に面する西斜面は、ともに南北に走る断層崖(がい)をなしている。秩父中・古生層で構成されているが、南の大文字(だいもんじ)山との間には花崗(かこう)岩が広く露出している。山頂部には比較的平坦(へいたん)面が残り、東の大比叡(848メートル)と西の四明ヶ岳(しめいがたけ)(838メートル)の二峰に分かれる。山頂からは、東は琵琶湖を隔てて湖東、湖西方面、西は丹波(たんば)高地から京都市内を越えて南山城(みなみやましろ)や大阪方面まで望むことができる。四明ヶ岳には展望台などがある。琵琶湖国定公園の一部で、寺域のため自然状態が良好である。スギ、ヒノキ、モミなどの針葉樹が多く、またキツツキ、オオルリ、キビタキ、クロツグミ、サンコウチョウなど約80種の鳥が生息し、「比叡山鳥類繁殖地」として国の天然記念物に指定されている。
比叡山は古くから山岳信仰の対象となり、大山咋神(おおやまくいのかみ)などの山神が祀(まつ)られたといわれるが、785年(延暦4)最澄(さいちょう)(伝教(でんぎょう)大師)が入山して草庵(そうあん)を結んだのが天台宗総本山の延暦寺(えんりゃく)の始まりであり、比叡山は平安京北東の鬼門にあたり、護国鎮護の霊山として今日まで法燈(ほうとう)を伝えている。中世には三千坊と称される堂塔があり、多数の僧兵を擁した。1571年(元亀2)織田信長の焼打ちで一時衰微したが、豊臣(とよとみ)秀吉、徳川家康らによって再興された。
寺域は東塔(とうとう)、西塔(さいとう)、横川(よかわ)の三つの地区に分かれ、三塔16谷に点在する堂塔を総称して延暦寺という。中心は老杉に囲まれた東塔の根本中堂(こんぽんちゅうどう)(国宝)で、現在の建物は1642年(寛永19)に家光によって再建されたもの。東塔には根本中堂のほか、大講堂、戒壇(かいだん)院、阿弥陀(あみだ)堂がある。東塔の西にある西塔は人影もまばらな静寂の地。釈迦(しゃか)堂は1595年(文禄4)に秀吉が園城(おんじょう)寺金堂を移築したもので、比叡山最古の鎌倉時代の建造物。西塔にはこのほか常行(じょうぎょう)堂、法華(ほっけ)堂などの堂舎がある。釈迦堂から北へ4キロメートルの峰路(みねみち)とよばれる回峰行者(かいほうぎょうじゃ)のたどる尾根道を進むと奥比叡の横川に達する。横川は慈覚大師円仁(えんにん)によって開かれ、大師信仰の道場とされる幽邃(ゆうすい)の地である。横川中堂は1971年(昭和46)に再建された建物で、浄土思想の祖といわれる恵心僧都(えしんそうず)の住んだ恵心院もある。
比叡山への交通は、京都市左京区北白川から大津市に向かう山中越から分岐して根本中堂に達する比叡山ドライブウェイがあり、また大津市坂本からケーブルカーが、京都市左京区八瀬(やせ)からケーブルカー、ロープウェーが通じている。さらに根本中堂から横川を経て大津市堅田(かたた)の上仰木(かみおうぎ)で国道161号と結ぶ奥比叡ドライブウェイも開通した。  
 

 

 
比叡山・延暦寺

 

比叡山 
異名の多かった比叡山 左京区と滋賀県大津市との境に位置する山。主峰は大比叡ヶ岳で、標高848.3メートル。四明ヶ岳(838.8メートル)はその西側に連なる支峰。『都名所図会』に「本朝五岳の一つにして王城鬼門に当れば艮こん峰ほうとも号す。はじめは日枝山ひえのやまと書きしを桓武天皇の御宇延暦年中に伝教でんぎょう大師だいしと叡慮を等しうし、帝都鎮護として根本中堂を建営し給ふより比叡山と改めらる。又別名ありて天台山、我立杣わがたつそま、艮こん岳たけ、鷲じゅ峰ほう、台たい嶺れい、叡えい嶽がく、大日枝おおひえなどの号あり」とある。
延暦寺
大津市坂本本町、比叡山頂にある天台宗総本山。本尊薬師如来(東塔根本中堂本尊)。世界文化遺産。最澄(767〜822)は、延暦四年(785)比叡山に登って修行、薬師堂(のち一乗止観院)を建て薬師如来像を刻んで安置。同二十四年入唐求法から帰朝した最澄は、天台法華宗の確立・大乗戒壇設置を目指したが、弘仁十三年(822)入滅。その直後に大乗戒壇院設立の勅許があり、さらに翌年延暦寺の寺号を賜った。その後弟子の円仁・円珍の時代に密教化を進めて平安貴族の支持を獲得。特に康保三年(966)十八代天台座主ざすとなった良源りょうげん(元がん三大師さんだいし)は、右大臣藤原師輔ふじわらのもろすけの帰依を得て堂塔を整備、東塔ひがしとう・西塔にしとう・横川よかわの十六谷に三千もの坊舎が林立した。良源の没後、天台宗は円仁と円珍門流の対立が激化し、円珍門流は園城寺に下って寺門となり、山上にとどまった円仁門流の山門との抗争が恒常化した。こうした中、武装した僧兵が神輿を担いで朝廷への強訴を繰り返しが、一方では、良源の弟子源信げんしんなどにより浄土教が発展し、法然の浄土宗・親鸞の浄土真宗・道元の曹洞宗・日蓮の日蓮宗などの鎌倉新仏教を生み出した。元亀二年(1571)越前朝倉氏に加担したとして織田信長の攻撃を受けて全山焼失。その後、豊臣秀吉や徳川家康・秀忠・家光の援助を受けて徐々に復興。江戸期には寺領五千石の大寺であった。見どころ 最澄の一乗止観院の法灯を今に伝える根本中堂は、寛永十九年(1642)の再建で国宝。  
 

 

 
比叡山延暦寺1

 

「世の中に 山てふ山は多かれど 山とは比叡の御山をぞいふ」 この歌は鎌倉初期に活躍した延暦寺の僧侶、慈円(じえん)が読んだもので、「数ある山の中でも比叡山こそが日本一である」ということを意味しています。比叡山は京都府と滋賀県の県境で南北に連なり、その山内には日本仏教の母山ともいわれる天台宗の総本山、「比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)」があります。788年に伝教大師 最澄(でんぎょうだいし さいちょう)が開いたこのお寺は1200年の歴史を誇り、1994年(平成6年)にはユネスコ世界文化遺産にも登録され、世界的にも評価されています。日本人なら誰もがその名を知る延暦寺ですが、一体どんなお寺なのでしょうか。なぜこれほどまでに評価され、人気を集め続けるのか、比叡山延暦寺の奥深い魅力をわかりやすく、かつ詳細にご紹介します。
1. 比叡山延暦寺の概要
比叡山延暦寺にまだ行ったことがない方は、「比叡山という山に延暦寺という大きな一棟のお寺が存在している」と想像されるかもしれませんが、延暦寺は東側の東塔(とうどう)、西側の西塔(さいとう)、北側の横川(よかわ)と呼ばれる3つのエリアに点在しており、その全域を総称して延暦寺と呼ばれています。長年にわたり少しずつ拡大を続け、天台宗の総本山として現在のような巨大な姿に至りました。とても広い敷地のため、全エリアをじっくり参拝するには丸一日あっても足りないほどです。
2. 最澄と比叡山延暦寺の歴史
延暦寺の見どころを説明する前に、まずは最澄と延暦寺の歴史を解説していきます。
2.1 奈良時代に滋賀県で生まれた最澄
最澄は滋賀県の坂本にある生源寺(しょうげんじ)付近で、奈良時代末期の766年に誕生したと言われています。近江国の「国分寺」というお寺で行表(ぎょうひょう)の弟子になり、14歳で「得度(とくど)」という出家の儀式を行いました。法名の「最澄」は読んで字のごとく、「最も澄むもの」を意味しています。行表がある時言った、「心を一乗に帰すべし(生きとし生けるものは皆必ず仏になることができる)」という教えが、最澄の一生に大いなる影響を与えたと言われています。
2.2 20歳ですごすぎる願文を書き上げた最澄
記憶力がとても優れていた最澄は、お経をすぐに暗記してしまうほど優秀でした。一人前の僧侶となるための具足戒(ぐそくかい)と呼ばれる規律を奈良の東大寺で授かりましたが、その後わずか3ヶ月ほどで比叡山に入り、人里離れた場所で修行することを決意したのです。最澄は「なぜ山に入るのか、仏教とは何か、そして人生をどう生きていくか」というような内容を、「願文(がんもん)」と呼ばれるものに書き留めました。仏教の教えについてまとまった見解がなかった当時に、20歳ほどの若さで教えを書き上げてしまった最澄。その願文はまたたく間に広まり、最澄の存在が少しずつ、世に知れ渡るようになりました。
2.3 最澄が一乗止観院を建てそれが比叡山延暦寺となる
平安時代初期の延暦7年(788年)、比叡山での修行に入った最澄は「一乗止観院(いちじょうしかんいん)」という名の草庵(小さな小屋のようなもの)を建てます。「いまの世の中をもっと良くしていきたい」という思いを込め、一乗止観院の中に、最澄自らが彫った薬師如来を祀りました。それが後に国宝となる「根本中堂(こんぽんちゅうどう)」です。このように、現在の立派な比叡山延暦寺は人里離れた小さな小屋から始まったのです。 ・・・ 「明(あき)らけく 後(のち)の仏の御世(みよ)までも 光つたえよ 法(のり)のともしび」 「この仏法のともしびを多くの人によって受け継ぎ、守り続けていかなければいけない」 「この世の中をよくしていくためには、努力し続けることが大切である」 ・・・ そんな思いを込めて、菜種油で一つの明かりを灯し、この歌を詠みました。消さないように努力しないと消えてしまうこの明かりは、「不滅の法灯」として延暦寺における覚悟の象徴となっているそうです。
2.4 比叡山延暦寺焼き討ちそして再建
延暦寺は1571年に、織田信長の「比叡山焼き討ち」によって全焼してしまいます。その際にこの灯りも一度消えてしまったと思われたのですが、幸い山形県の立石寺に分灯されていたため、最澄が灯した日から一度も消えることなく、今も守られ続けています。現在の建物は信長の死後、豊臣秀吉や徳川家康らによって再建されました。
2.5 遣唐使として最澄は中国へ
その頃、国家宗教であり庶民に一番多く親しまれていたのが「奈良仏教」でしたが、桓武天皇(かんむてんのう)は奈良仏教よりも、最澄が全身全霊をかけて取り組んでいた「天台宗」という、新しい宗派を取り入れていきたいと考えていました。最澄は桓武天皇の力を借りて「遣唐使」として中国に渡り、天台宗を中心に密教(みっきょう)なども学びました。航海技術が発達しておらず、中国にたどり着くかどうかもわからない当時の状況を考えると、最澄は世のため人のため、命がけで仏教を学んでいたと言えます。帰国後は日本各地で天台宗の講演を行いましたが、最澄の教えを批判する者が多く、天台宗という新たな教えを人々に理解してもらうにはかなり厳しい状況でありました。最澄が目指した教えはこれまで親しまれてきた教えとの間に相違があったため、比叡山で新たに僧侶養成を計画します。正式な僧侶として認められるために受戒する場所を「戒壇(かいだん)」と呼びますが、奈良の東大寺を中心に三箇所にしかなかったこの戒壇を、比叡山にも設けたいと考えました。
しかし、周囲の反発が収まることはなく、戒壇設立の想いも届かないまま、最澄は822年6月26日に亡くなりました。亡くなる直前、最澄は弟子たちに「自分のために仏は作らなくてもいい。ただこの志を世に伝えていってほしい」と語りました。最澄の志を受け止めた弟子たちが、最澄の意思を懸命に朝廷に訴え、ついに延暦寺での戒壇設立の許可がおります。最澄が亡くなり、わずか7日後のことでした。最澄のこの懸命な努力が、後世における日本の仏教に大きな影響を与えていったのでした。
2.6 比叡山延暦寺の住職たちがそれぞれの宗派を開宗
「天台座主(てんだいざす)」と呼ばれる比叡山延暦寺の住職は、現在の住職で第257代目となります。最澄が亡くなった後に初代住職となった「義真(ぎしん)」から始まり、これまで一度も途絶えたことがありません。そんな歴代天台座主の中には、以下のように各宗派の開祖たちが数多くいます。
•法然(ほうねん)→ 浄土宗
•親鸞(しんらん)→ 浄土真宗、法然の弟子
•良忍(りょうにん)→ 融通念仏宗 
•真盛(しんせい)→ 天台宗真盛派
•栄西(えいさい)→ 臨済宗、建仁寺の開山
•道元(どうげん)→ 曹洞宗、永平寺の開山
•日蓮(にちれん)→ 日蓮宗
比叡山延暦寺で天台宗の元修行をしたのちに、開祖として各宗派を全国に広めていきました。「一人前の僧侶を養成したい」という最澄の想いが、多くの人々に伝わり日本の仏教を動かしていったのです。
3. 日本一長いケーブルカーに乗ろう! 比叡山延暦寺へのアクセス方法
比叡山延暦寺へは全エリアに繋がるドライブウェイも便利ですが、車以外でも比叡山ドライブバス、シャトルバス、叡山ケーブル、叡山ロープウェイ、坂本ケーブルなど、色々な手段でアクセスすることができます。叡山電車「八瀬比叡山口駅」から徒歩1分という便利な場所にある叡山ケーブル「ケーブル八瀬駅」。ここから「ケーブル比叡駅」まで移動します。ケーブル比叡山駅についたら叡山ロープウェイに乗り換え、「ロープ比叡駅」から「比叡山頂駅」に移動。そこから延暦寺まではバスが出ています。冬季は休館していますが、山頂にあるガーデンミュージアム比叡にも立ち寄ってみてください。延暦寺東塔エリアまで直接繋がっているのがこの坂本ケーブルです。京阪石山坂本線「坂本比叡山口駅」から連絡バスで3分の距離に、坂本ケーブルの乗り場があります。坂本ケーブルの特徴は、なんといっても2キロ以上に及ぶ長さ。ケーブルカーとしては日本一を誇ります。四季折々の大自然や、移動中は琵琶湖の絶景を眺めることができます。
4. 比叡山延暦寺の原点「東塔エリア」の見どころ
坂本ケーブルに乗ってたどり着くのは、最澄が彫ったとされる国宝の薬師如来像が安置されている東塔です。三つのエリアの中でも比較的アクセスがよく、参拝客が最も多い場所です。
4.1 文殊楼(もんじゅろう)
門前町の坂本からまっすぐ比叡山に向かって進んでいくと、玄関口に「文殊楼」が見えてきます。まずここでお参りし、その後、先にある根本中堂をお参りするのが正式な参拝ルートです。文殊楼に祀られているのは、知恵を司ると言われる「文殊菩薩(もんじゅぼさつ)」。玄関口といえども一般的な門の形ではなく、一つのお堂となっていて、上にあがってお参りすることができます。昔は90日坐禅をし続ける「常坐三昧(じょうざざんまい)」という修行がここで行われていました。
4.2 根本中堂(こんぽんちゅうどう)
比叡山全体の中心的なお堂とされている、国宝の根本中堂。最澄が実際に彫ったとされる薬師如来が安置されている場所です。薬師如来は過去・未来・現在の中でも現在を担当する仏様。最澄は「この世の中をなおしていきたい」と考え、薬師如来を御本尊としました。現在の建物は写真の通り、2016年から10年に亘って「平成の大改修」が行われており、改装中だからこそ貴重な根本中堂の姿が見られます。お寺に安置されている仏様の多くは参拝者が見上げるほどの高い位置に置かれていますが、「誰もが平等に仏になることができる」「仏様も参拝客も同じである」という最澄の教えから、根本中堂の仏様は参拝客と同じ高さに安置されています。
4.3 大黒堂(だいこくどう)
日本で初めて大黒様がお祀りされたと言われているこの大黒堂。こちらの大黒天(だいこくてん)は一般の大黒天とは違い、「三面六臂大黒天(さんめんろっぴだいこくてん)」と言う大黒様で、毘沙門天(びしゃもんてん)、弁財天(べんざいてん)、「大黒天」が三位一体となっています。最澄が比叡山での修行中、突然大黒様が現れ、世のために修行する最澄の手助けをしようと言い、毘沙門天と弁財天を呼んできたのがこの三面六臂大黒天となったのだとか。それぞれ「力・勇気」「食」「美・才能」のご利益があるそうですが、豊臣秀吉も深く信仰していたことから、出世や商売繁盛のご利益もあると言われています。
4.4 大講堂(だいこうどう)
国の重要文化財に指定されているこの大講堂は、大日如来をご本尊とし、比叡山で修行した代表的な僧侶や、天台宗ゆかりの高僧の木造や肖像画などが中にたくさん並んでいます。
4.5 開運の鐘(世界平和の鐘)
開運の鐘は大講堂の前にあり、1回50円で誰でも鳴らすことができます。毎日観光客によって鳴らされる鐘の音は遠方まで響き渡り、風情を感じさせてくれます。
4.6 阿弥陀堂(あみだどう)
その名の通り、御本尊は阿弥陀如来。延暦寺開創1150年を記念し、1937年に建てられた先祖の回向(えこう)道場で、毎日回向が行われています。
4.7 戒壇院(かいだんいん)
正式な僧侶となるために規律を受ける、最も重要なお堂がこちらの戒壇院です。年に一度、授戒会が行われています。
5. 最澄が祈る御廟がある比叡山延暦寺「西塔エリア」の見どころ
東塔と横川エリアの間に位置する西塔エリア。こちらは第2世天台座主の円澄によって開かれました。
5.1 常行堂(じょうぎょうどう)
延暦寺の修行のうちの一つである、「常行三昧(じょうぎょうざんまい)」という修行が行われるお堂です。851年に円仁が創建し、現在は国の重要文化財に指定されています。
5.2 法華堂(ほっけどう)
常行堂と同じ形をしたお堂で、普賢菩薩(ふげんぼさつ)が本尊です。中は非公開となっていますが、こちらも国の重要文化財に指定されています。
5.3 釈迦堂(しゃかどう)
釈迦如来が御本尊の、西塔エリアの本堂。比叡山に現存する建築物では最古の建物で、豊臣秀吉が三井寺から移築したそうです。こちらも国の重要文化財に指定されています。
5.4 浄土院(じょうどいん)
この浄土院には、自分の全てを最澄のために捧げる「侍真(じしん)」という役割の僧侶がいます。たった一人で浄土院に12年間こもり、最澄のために毎日同じ時間にお勤めをし続けるのが侍真の役割です。それだけでもかなり大変なことですが、その役割を与えられる前にも厳しい修行があるのだそう。毎日欠かさず12年間も勤め尽くし続けることは、私たちには想像もつかないほどの精神力を要することでしょう。
5.5 伝教大師 御廟(でんぎょうだいし ごびょう)
浄土院とその後ろ側に佇む最澄の御廟(ごびょう)は、比叡山延暦寺の中でも最も神聖な場所と言われています。最澄は今もなお、世のため人のためにここで祈り続けていると言われています。
6. おみくじ発祥の地がある比叡山延暦寺「横川エリア」の見どころ
第3世天台座主、円仁(えんにん)が開いた横川エリア。東堂エリアからシャトルバスで15分、西塔エリアからシャトルバスで10分のところにあります。
6.1 元三大師堂(がんざんだいしどう)
比叡山延暦寺の鬼門を守る横川エリア。まずご紹介したいのが、元三大師が祀られているお堂です。元三大師の本来のおくり名は「慈恵大師(じえだいし)」ですが、正月三日に亡くなったことから、「元三大師(がんざんだいし)」と呼ばれ、親しまれています。生前から人並み外れた霊力を持っていたそうで、数々の伝説が語り継がれています。厄除け大師、角大師と呼ばれるようになった理由もそのうちの一つで、元三大師が大きな鏡の前で禅定に入っていたところ、骨の鬼の姿が鏡に映り、それを弟子たちが素早く写し取ったのが始まりなんだそうです。私たちが当たり前のように引いているおみくじも、元三大師が考案したものです。
6.2 横川中堂(よかわちゅうどう)
横川エリアの中心となる建物。第3代天台座主 円仁(えんにん)が、聖観音菩薩(しょうかんのんぼさつ)をご本尊として建立しました。船が浮かんでいるように見える、舞台づくりが特徴のお堂です。
6.3 龍が池弁天と龍神
横川エリアの入り口を進んでいくと、初めに見えるのがこの池。昔、この池に住みついていた大蛇を元三大師が封じ込めて弁天さまをお迎えし、龍神として弁天さまの遣いにさせたという言い伝えがあります。それからというもの、龍神さまは横川の地を訪れる人々の道中を守り、心願成就を叶えてくださっているそうです。
7. 比叡山延暦寺の周辺の見どころ・グルメ情報
7.1.本家鶴喜そば 本店
坂本周辺に来た際には、是非とも寄っていただきたい、約300年の歴史を誇る老舗のお蕎麦屋さん。比叡山延暦寺の厨房担当だった方が坂本の地に創業したのが始まりだそうで、かつて修行をしていた僧侶たちがよく食べていたおそばなのだとか。延暦寺のケーブルカー乗り場から徒歩圏内と、行きやすい場所にあります。現在の建物は築130年で、「入母屋造り」と呼ばれる東アジアの伝統的屋根形式の建物。平成9年には登録有形文化財にも指定されています。
7.2 日吉大社
坂本ケーブル乗り場からすぐの場所にある日吉大社(ひよしたいしゃ)。こちらはなんと、全国に約3,800社もある山王さん(日吉大社で祀られている神様の別名)の総本宮!国宝・国指定重要文化財に指定されている建物がいくつもあり、趣があります。日吉大社は平安京還都の際、「表鬼門(おもてきもん)」に位置していたことから、方位除け・厄除けとして古くから親しまれてきました。最澄が比叡山延暦寺を開いてからは「天台宗の護法神」としても知られ、全国に「山王さん」として広まっていきました。東本宮のそばにある、お猿さんがしゃがみこんだような「猿の霊石」。日吉大社では神の使いや魔除けの象徴として、古くから猿を「神猿(マサル)」と慕い、大切にしてきました。 
 

 

 
比叡山延暦寺 2 (天台宗総本山) 

 

日本仏教の母山「比叡山延暦寺」
滋賀県大津市の西部から京都府京都市の東部に跨がる山地「比叡山」、その山上に、天台宗の開祖・伝教大師「最澄」が開いた「延暦寺」があります。
比叡山は日本仏教を語る上では欠かすことのできない存在です。また、百人一首でも比叡山は「世の中に山てふ山は多かれど、山とは比叡の御山(みやま)をぞいふ」と詠まれ、日本一の山と崇められています。そんな比叡山に座する天台宗の総本山、それが延暦寺です。
「延暦寺」とは単独の堂宇(どうう、お堂などの建物のこと)の名称ではなく、比叡山の山内1,700ヘクタールもの境内に点在する約100の堂宇の総称です。比叡山の山上から東麓にかけて「東塔(とうどう)」「西塔(さいとう)」「横川(よかわ)」という3つの地域に区分され、これらを総称して「三塔(さんとう)」または「三塔十六谷」と呼ばれます。三塔にはそれぞれ本堂があり、いずれの地域も見どころが多くあります。
なお、比叡山は最盛期には三千を越える寺社で構成されていたと言われています。
比叡山延暦寺は世界の平和と平安を祈る寺院であり、さらには国宝的人材育成の道場でもあります。過去には、阿弥陀聖と称される空也、浄土宗の開祖・法然、浄土真宗の開祖・親鸞、臨済宗の開祖・栄西、曹洞宗の開祖・道元、日蓮宗の開祖・日蓮、時宗の開祖・一遍など、日本仏教界の名だたる名僧を輩出しています。日本仏教各宗各派の祖師や高僧を多く輩出していることから、比叡山は「日本仏教の母山」として仰がれています。
比叡山延暦寺 – 東塔(とうどう)
「東塔」は伝教大師・最澄が延暦寺を開いた発祥の地で、延暦寺の総本堂である「根本中堂(こんぽんちゅうどう)」を中心とする区域です。根本中堂をはじめ、各宗各派の宗祖を祀っている「大講堂」や、先祖回向のお堂である「阿弥陀堂」など重要な堂宇が集まっています。
根本中堂【国宝】
根本中堂は、最澄が建立した一乗止観院の後身で、延暦寺の総本堂となります。本尊は薬師如来で、本尊の前には、千二百年間灯り続けている「不滅の法灯」が安置されています。現在の建物は織田信長による焼き討ちの後、寛永19年(1642年)に徳川家光によって再建されたもので、1953年(昭和28年)に国宝に指定されています。また、廻廊は国重要文化財となっています。
大講堂【重要文化財】
寛永11年(1634年)の建築で、もとは東麓・坂本の東照宮の讃仏堂でしたが昭和39年(1964)に移築され、国重要文化財に指定されています。本尊は大日如来で、本尊の両脇には比叡山で修行した各宗派の宗祖の木像(向かって左から日蓮、道元、栄西、円珍、法然、親鸞、良忍、真盛、一遍)が安置されています。また、外陣には釈迦を始めとして仏教や天台宗ゆかりの高僧の肖像画がかかっています。
比叡山延暦寺 – 西塔(さいとう)
「西塔」は東塔から北へ1kmほどのところにある区域です。西塔の本堂であり、国重要文化財に指定されている「釈迦堂」や、伝教大師・最澄上人の御廟所である「浄土院」、修行のお堂である「にない堂」などがあります。また、研修道場である「居士林」もあり、そこでは修行体験をすることもできます。
釈迦堂【重要文化財】
西塔の本堂にあたる釈迦堂は、正式名称「転法輪堂(てんぽうりんどう)」といい、延暦寺に現存する建築では最古のものです。もとは三井寺の園城寺の金堂でしたが、文禄四年(1595年)に豊臣秀吉が西塔に移築させました。本尊として釈迦如来立像(国重要文化財)が安置されています。
浄土院【重要文化財】
開祖・伝教大師「最澄」の御廟があり、山内でもっとも神聖な場所とされる「浄土院」は、東塔地域と西塔地域の境目にあります。ここには十二年籠山修行の僧がおり、開祖・最澄が今も生きているかのように食事を捧げ、庭は落ち葉1枚残さぬように掃除されています。
にない堂【重要文化財】
にない堂は、2棟の全く同形の堂が左右に並び、それが廊下によって繋がっています。弁慶が両堂をつなぐ廊下に肩を入れて担ったとの言い伝えから「にない堂」と呼ばれています。正面向かって左が、阿弥陀如来を本尊とする「常行堂」で、右が、普賢菩薩を本尊とする「法華堂」です。
比叡山延暦寺 – 横川(よかわ)
「横川」は西塔からさらに北へ4kmほどのところにある区域です。シャトルバスに乗れば東塔から15分、西塔から10分ほどで着きますが、100分ほどかけて歩いていくこともできます。横川の本堂である「横川中堂」は、まるで船が浮かんでいる姿に見えるのが特徴です。また、おみくじ発祥の地として有名な「元三大師堂」などもあります。
横川中堂
舞台造りで全体的に見て船が浮かんでいる姿に見えるのが特徴的な横川の本堂です。お堂の中央部が2mほど下がっていて、そこに本尊として慈覚大師作と伝えられる聖観音菩薩像(国重要文化財)が祀られています。旧堂は国宝指定されていましたが、昭和17年(1942年)に落雷で焼失してしまい、現在の堂は昭和46年(1942年)に再建されたものとなっています。
元三大師堂
元三大師堂は、おみくじを考案したと言われている元三大師・良源の住居跡と伝えられ、おみくじ発祥の地とされています。四季に法華経の論議を行うことから「四季講堂」とも呼ばれます。
比叡山延暦寺の歴史と教え
比叡山延暦寺は、平安初期に伝教大師・最澄により開創されました。延暦7年(788年)に最澄が、薬師如来を本尊とする「一乗止観院(いちじょうしかんいん)」という草庵を建てたのが始まりとされています。なお、開創時の年号をとった「延暦寺」という寺号が許されるのは、最澄の没後、弘仁14年(823年)のことだと言われています。
数ある経典の中でも法華経の教えが最高であると考えた最澄は、桓武天皇の支援を受けて唐へと渡ります。中国では天台山に赴き、修禅寺と仏隴寺で天台教学を学び、また龍興寺では密教を、禅林寺では禅の教えを受けます。元来強く信仰していた法華経の教えを中心に唐で学んだこれらの思想を掛け合わせ、帰国後に「天台宗」を開きました。こうして最澄は、円密一致といわれる日本天台宗の基礎を作りあげました。
比叡山延暦寺は最澄の開創以来、弘法大師・空海によって開かれた「高野山金剛峯寺」と並び、平安仏教の中心となっていきました。天台法華の教えのほか、密教、禅(止観)、念仏も行われ、「仏教の総合大学」の様相を呈し、平安時代には皇室や貴族の尊崇を得て大きな力を持つことになりました。特に、密教による加持祈祷は平安貴族の支持を集め、真言宗の東寺の密教(東密)に対して延暦寺の密教は「台密」と呼ばれ覇を競ったと言われています。
大きな力を持った比叡山延暦寺ですが、戦国時代の1571年(元亀2年)には織田信長によって焼き討ちにあいます。焼き討ちでは比叡山上だけでなく、麓の坂本とそこにある日吉大社、さらには近隣地域の和邇・堅田といった範囲にまで及び、周辺一帯は壊滅的な状態になったといいます。信長の死後、豊臣秀吉や徳川家康らによって各僧坊は再建されていきました。総本堂である根本中堂は、江戸幕府3代将軍徳川家光が再建しています。
天台宗の4つの教学
比叡山延暦寺では天台宗の4つの教えを広めてきました。ここではその4つの教えを紹介します。
•第一の教え「全ての人は皆、仏の子供と宣言をしました」 – 誰しもの心の中に悟りを開く種はあり、あとはそれに気付きどう育てるかということが大切であるとする教えです。
•第二の教え「悟りに至る方法を全ての人々に開放しました」 – 悟りに至る道、方法は一つではなく、そこに真実を探し求める心(道心)があれば、それがそのまま悟りに至る道であるという教えです。どのような教えであっても悟りを開くことはできるとしています。
•第三の教え「まず、自分自身が仏であることに目覚めましょう」 – 日々の行いと守るべき規律とを照らし合わせ、道が誤っている場合にはそれを自覚すること。また仏様の前で懺悔し、これからの生き方に活かしていくことを誓い、わが身の中に仏様を迎えようと説いた考えです。
•第四の教え「一隅を照らしましょう」 – まずは自分自身を輝かしい存在とすること。その輝きが周りを照らし、周囲も輝きを持ちます。そうした一人ひとりが手をつなぐことができれば、素晴らしい世界が生まれるという考えです。
比叡山延暦寺の修行
比叡山延暦寺の修行は、さまざまな宗派のそれと比較しても、とても厳しく尊いものと言われています。
修行の一つである「千日回峰行」は、比叡山の峰々を巡って礼拝します。この修行は計7年かけて行われ、1年目から3年目は、1日に30kmの行程を毎年100日間歩きます。4年目と5年目は、同じく30kmの行程を200日ずつ行います。ここまで5年かけて計500日歩き続けた後、堂入りに入ります。堂入りとは、不動真言を唱え続けながら9日間の断食・断水・不眠・不臥を続ける修行です。堂入りを終え、6年目になると今までの倍である60kmもの道のりを1日で歩き通します。これを100日続けます。最後の年である7年目には計200日巡りますが、始めの100日は比叡山山中だけでなく赤山禅院から京都市内を巡礼します。その全行程は84kmにもおよびます。これを終え、最後の100日は元通り比叡山山中30kmの行程を巡り、満行となります。このように厳しい「千日回峰行」だけでなく「十二年籠山行」や「四種三昧」など、さまざまな修行があります。  
 

 

 
比叡山延暦寺 3

 

百人一首で有名な慈円は、比叡山について「世の中に山てふ山は多かれど、山とは比叡の御山(みやま)をぞいふ」と比叡山を日本一の山と崇め詠みました。それは比叡山延暦寺が、世界の平和や平安を祈る寺院として、さらには国宝的人材育成の学問と修行の道場として、日本仏教各宗各派の祖師高僧を輩出し、日本仏教の母山と仰がれているからであります。また比叡山は、京都と滋賀の県境にあり、東には「天台薬師の池」と詠われた日本一の琵琶湖を眼下に望み、西には古都京都の町並を一望できる景勝の地でもあります。 
歴史

 

日本の天台宗は、今から1200年前の延暦25年(806)、伝教大師最澄によって開かれた宗派です。
最澄は神護景雲元年(767、異説あり)、近江国滋賀郡、琵琶湖西岸の三津(今日の滋賀県坂本)で、三津首百枝(みつのおびとももえ)の長男として誕生。幼名を広野(ひろの)と呼ばれました。早くからその才能を開花させ、12歳で近江の国分寺行表(ぎょうひょう)の弟子となり、宝亀11年(780)に得度、延暦4年(785)に奈良の東大寺戒壇院で具足戒(250戒)を受け、国に認められた正式な僧侶となられたのです。
受戒後3ヵ月ほどで奈良を離れ、比叡山に分け入り修行の生活に入られました。そして若き僧最澄は願文を作り、一乗の教えを体解(たいげ)するまで山を下りないと、み仏に誓いました。その後、延暦7年(788)に一乗止観院(後の根本中堂)を創建、本尊として薬師如来を刻まれました。
願文の中で、「私たちの住むこの迷いの世界は、ただ苦しみばかりで少しも心安らかなことなどない。(中略)人間として生れることは難しく、また生れたとしてもその身体ははかなく移ろいやすい。」 と、世の中の無常と人間のはかなさを自覚されました。そして、「因なくして果を得、この処(ことわ)りあることなく、善なくして苦を免がる、この処(ことわ)りあることなし。」と因果の厳しさを述べ、だからこそ生きているときに善いことをする努力を惜しんではならないと考え、『願文』の中で五つの心願をたてられたのです。天台大師智の教えを極めたいと願い、桓武天皇の援助を受けて還学生(げんがくしょう)として唐に渡りました。中国天台山に赴き、修禅寺の道邃(どうずい)・仏隴寺の行満に天台教学を学び、典籍の書写をします。その後禅林寺の翛然(しゅくねん)より禅の教えを受けられ、帰国前には越州龍興寺で順暁阿闍梨から密教の伝法を受けられます。こうして、円密一致といわれる日本天台宗の基礎をつくられたのです。
延暦24年(805)に帰朝してすぐに、高雄山寺で奈良の学僧達に日本で初めて密教の潅頂を授けるなどして、入唐求法の成果を明らかにされました。当時、「仏に成れるもの、仏に成れないものを区別する」という説もありましたが、最澄は、「すべての人が仏に成れる」と説く『法華経』に基づいて、日本全土を大乗仏教の国にしていかねばならないとの願いが募り、『法華経』の一乗の精神による人材の養成を目指しました。
こうした最澄の努力と熱意が通じ、延暦25年(806)1月26日、年分度者(国家公認の僧侶)2名認可の官符が発せられました。このことから、1月26日を天台宗開宗の日としています。
2名の年分度者とは、天台教学を学ぶ者(止観業)1名と、密教を学ぶ者(遮那業)1名でした。その後最澄は、真俗一貫の大乗菩薩戒こそが真に国を護り人々を幸せにすると考え、弘仁9年(818)から翌年にかけて山家学生式(さんげがくしょうしき)と呼ばれる一連の上表を行います。さらに弘仁11年(820)、『顕戒論』を著わして比叡山に大乗戒独立の允許を求めたのでした。そして弘仁13年(822)6月4日に最澄は遷化され、その7日後、比叡山独自に大乗菩薩戒を授けることの勅許が下されたのです。最澄亡き後、一乗止観院は「延暦寺」の寺額を勅賜され、比叡山延暦寺と呼ばれるようになりました。翌年、弟子の義真が伝法師(後世の天台座主のこと)として後を継ぎます。第3世座主円仁によって、延暦寺では横川(よかわ)が開かれ、東塔地区も整備されていきます。また、9年間に亘る入唐求法の成果をもとに、天台教学の中に浄土教を取り入れ、密教を拡充していくなど、その功績は多大なものでした。円仁の没後ほどなく、貞観8年(866)、最澄には「伝教大師」、円仁には「慈覚大師」という諡号(しごう)を清和天皇より賜りました。これは日本における初めての大師号であり、最澄・円仁による天台宗の確立が、いかに日本仏教の発展に寄与したかを示すものであります。また、第5世座主の円珍(智証大師)や五大院安然らによって密教も体系的に整備され、後に東密(真言宗の密教)に対して台密(天台宗の密教)と称されるようになりました。
その後も多くの人材が比叡山で研鑽に励み、学問も修行も充実していきます。平安時代中期には、第18世座主の良源(慈恵大師)によって諸堂の再建と整備がなされ、論義が盛んに行われて教学の振興がはかられました。さらに弟子の源信(恵心僧都)によって『往生要集』が著わされ、これが後の日本の浄土教発展の基礎となりました。また、『法華経』や浄土教信仰などは知識人の間に浸透し、『源氏物語』や『平家物語』に代表される古典文学の底流をなしています。円仁が中国からもたらし大成した声明は、日本伝統音楽の源流となり、また能・茶道にも天台の仏教思想が深く入り込んでいるといわれています。平安末期から鎌倉時代はじめにかけては、法然・栄西・親鸞・道元・日蓮といった各宗派の開祖たちが比叡山で学びました。こうして後に比叡山は日本仏教の母山と呼ばれるようになったのです。比叡山延暦寺は1200年余りの歴史の中、武家をはじめとする権門との衝突により、幾多の法難に遭遇しましたが、そのつど伝教大師の法灯を受け継ぐ人々と、多くの人々の信仰に支えられ、旧観に倍し今日その法灯を伝えています。 
教学

 

仏教という言葉には、3つの意味があります。先ず、まず、釈尊の教えという意味があります。今から2500年ほど前に、現在のネパール南部でお生まれになった、釈尊(ゴータマ・シッダールタ、仏陀とも言う)の説かれた教えという意味です。次には、その教えに従って生活をする事で、釈尊と同じように自らが悟りを開き、苦悩の世界から解脱する教えという意味があります。つまり自ら仏に成るための教えということです。 もう一つ大事な意味があります。それは、悟りの世界は全ての生きとし生けるものに平等に与えられており、多くの人々と共にその世界へ行こうと互いに努める教えということです。釈尊は菩提樹の下で悟りを開かれた後、45年にわたる生涯をこの真理を人々に伝えるために過ごされ、その旅の途中で亡くなられました。ですから仏教は釈尊のはじめから、多くの人々と共にということが大前提なのです。
天台宗の起源
釈尊の残された教えは、南は東南アジアの国々へ広まり、北はガンダーラからヒマラヤを越えて中央アジアへと広まり、やがて中国へと伝わっていきます。多くの求法の僧により、数々の経典が伝えられましたが、その中でも『妙法蓮華経』(『法華経』)という経典に釈尊の「全ての人に悟りの世界を」という考え方がもっとも明確に述べられています。この教えに注目し仏教全体の教義を体系付けたのが智(ちぎ)です。智(538年〜597年)はその晩年を杭州の南の天台山で過ごし、弟子の養成に努めたことから「天台大師」と諡(おくりな)され、またその教学は天台教学と称されました。これが天台宗の起源であり、智を高祖と唱えるのはこのためです。
天台宗の教え
天台大師の教えを日本に伝え、比叡山を開いて教え弘めたのは伝教大師最澄(さいちょう)です。その教えは…
第一 全ての人は皆、仏の子供と宣言しました。(悉有仏性)
釈尊が悟りを開かれたから、悟りの世界が存在するのではありません。それはニュートンが林檎の落ちるのを見ようが見まいが引力が存在するのと同じことです。悟りへの道は明らかに存在するのです。そして悟りに至る種は生まれながらにして私たちの心に植付けられていると宣言しました。あとはこのことに気付き、その種をどのように育てるかということです。
第二 悟りに至る方法を全ての人々に開放しました。
仏教には八万四千もの教えがあると言われていますが、それらは別々な悟りを得る教えではなく、全ては釈尊と同じ悟りに至る方法の一つでもあるのです。例えば座禅でも念仏でも護摩供を修することでも、巡礼でも、写経でも、もっと言えば茶道、華道でも、また絵画、彫刻でも方法はさまざまでいいのですが、そこに真実を探し求める心(道心)があれば、そのままそれが悟りに至る道です。日常の生活にもそれは言えることです。
多くの開祖を輩出した天台宗が日本仏教の母山と言われるのも、また日本文化の根源と言われるのもこのことからです。
第三 まず、自分自身が仏であることに目覚めましょう。
そのために天台宗ではお授戒を奨めています。戒を授かるということは我が身に仏さまをお迎えすることです。仏さまとともに生きる人を菩薩といい、その行いを菩薩行といいます。
第四 一隅を照らしましょう。(一隅を照らす運動)
心に仏さまを頂いた人たちが手を繋ぎ合って暮らす社会はそのまま仏さまの世界です。一日も早くそんな世の中にしたいと天台宗では考え「一隅を照らす」運動を進めています。まず自分自身を輝いた存在としましょう。その輝きが周りも照らします。一人一人が輝きあい、手をつなぐことができればすばらしい世界が生まれます。 
祖師 伝教大師最澄

 

誕生
約1200年ほど前、今の滋賀県大津市坂本の一帯を統治していた三津首という一族の中に百枝という方がおられました。子どもに恵まれなかった百枝は、日吉大社の奥にある神宮禅院に籠もり、子どもを授かるように願を掛けました。神護景雲元年(767)8月18日、願いが叶って男の子が誕生し、広野(ひろの)と名付けられました。この広野こそ、後に比叡山に登り天台宗を開かれた最澄だったのです。お生まれになったところは、現在の門前町坂本にある生源寺といわれています。最澄の誕生日には、老若男女が集い、盛大な祭が行われます。また、近くには幼少期を過ごしたとされる紅染寺趾や、産湯に使われた竈を埋めたといわれるところがあります。
出家
広野は、両親の深い仏教への信仰の影響もあって、12歳のとき、近江の国分寺(現在の大津市石山)に入り、14歳で得度し、「最澄」という名前をいただきました。厳しい修行と勉強に打ち込んだ最澄は、やがて奈良の都に行き、さらに勉学を積みました。そして延暦4年(785)、奈良の東大寺で具足戒を受けました。具足戒とは、僧侶として守らなければならない行動規範であり、250もの戒めを完備していることから具足戒と呼ばれます。国家公認の一人前の僧侶となった最澄には、大寺での栄達の道が待っていましたが、受戒後、故郷に戻り、比叡山に籠り一人修行を続けました。そしてすべての人々が救われることを願い、一乗止観院を建てて自ら刻んだ薬師如来を安置し、仏の教えが永遠に伝えられますようにと願って灯明を供えました。(延暦7年(788)年)
このとき最澄は、「明らけく 後(のち)の仏の御世(みよ)までも 光りつたへよ 法(のり)のともしび」 と詠まれ、仏の光であり、法華経の教えを表すこの光を、末法の世を乗り越えて(後の仏である)弥勒如来がお出ましになるまで消えることなくこの比叡山でお守りし、すべての世の中を照らすようにと願いを込めたのでした。この灯火はこのときから大切に受け継がれ、1200年余りを経た今日でも、根本中堂の内陣中央にある3つの大きな灯籠の中で「不滅の法灯」として光り輝いています。
入唐求法
比叡山で修行を続けていた最澄は、みずから天台山に赴いて典籍を求め、より深く天台教学を学びたいと考えます。そこで桓武天皇に願い出て、延暦23年(804)、還学生(げんがくしょう)として中国に渡りました。当時、中国に渡るのは命がけのことで、4隻で構成された遣唐使船のうち、中国に無事たどり着いたのは2隻だけでした。到着した2隻のうちの別の船には、後に真言宗を開かれた空海が乗っていました。中国に着いた最澄は、今の浙江省天台県に位置する天台山に赴き、修禅寺の道邃(どうずい)・仏隴寺の行満に天台教学を学びます。その後禅林寺の翛然(しゅくねん)より禅の教えを受け、帰国前には越州龍興寺で順暁阿闍梨から密教の伝法を受けました。こうして多くの経典や法具を携えて帰国したのでした。
天台宗の公認
帰国した最澄は、『法華経』に基づいた「すべての人が仏に成れる」という天台の教えを日本に広めるために、天台法華円宗の設立許可を願います。その際、「一つの網の目では鳥をとることができないように、一つ、二つの宗派では、普く人々を救うことはできない。」という最澄の考えが受け容れられ、延暦25年(806)、華厳宗・律宗・三論宗(成実宗含む)・法相宗(倶舎宗含む)に天台宗を加えて十二名の年分度者が許されることになりました。ここに天台宗が公認されたのです。この日を以て「日本天台宗」の始まりとし、比叡山延暦寺をはじめ多くの天台宗の寺院では、この日を「開宗記念日」として報恩報謝の法要を行っています。
布教・伝道
天台宗が公認された後、最澄は、「国宝とは何物ぞ。宝とは道心なり。道心有るの人を名づけて国宝と為す。・・・一隅を照らす。此れ則ち国宝なりと・・・」で始まる『天台法華宗年分学生式』(てんだいほっけしゅうねんぶんがくしょうしき)(六条式)を弘仁9(818)年5月13日に天皇に奏上しました。そこには、比叡山での教育方針や修行方法などが示されています。また最澄は、社会教化・布教伝道のために中部地方や関東地方、さらには九州地方に出かけ、天台の教えを広めました。出向いた各地で協力を得て『法華経』を写経し、これを納めた宝塔を建立しました(六所宝塔)。加えて、旅人の難儀を救うための無料宿泊所を設けました。
大乗戒壇
天台宗の年分度者が認可されたあとも、正式な僧侶となるためには奈良で具足戒を受けなければなりませんでした。最澄は、『法華経』の精神に基づいて、僧侶だけでなくすべての人々を救い、共に悟りを得るためには、戒律は大乗の梵網菩薩戒でなければならないと考えて、比叡山に天台宗独自の大乗戒壇による授戒制度を国に願い出ました。しかし奈良の僧侶たちの猛反対にあい、なかなか認可されないまま、最澄は弘仁13年(822)6月4日、56歳で遷化されました。その七日後、最澄の悲願であった大乗戒の授戒が許される詔が下されたのです。最澄は死に臨んで、弟子たちに「我がために仏を作ることなかれ、我がために経を写すことなかれ、我が志を述べよ(私のために仏を作り、経を写すなどするよりも、私の志を後世まで伝えなさい)」と遺誡し、大乗戒をいしずえにすることで誰もが「国の宝」になることを願ったのでした。最澄の命日の6月4日には、延暦寺をはじめ各地の天台宗寺院で「山家会(さんげえ)」という法要が行われています。嵯峨天皇は、最澄の死を大変惜しまれ、「延暦寺」という寺号を授けられました。このときから比叡山寺(日枝山寺)から延暦寺とよばれるようになりました。年号を寺号にしたのは、日本ではこれが最初です。
大師号
貞観8年(866)、清和天皇から最澄に「伝教大師」、同時に円仁に「慈覚大師」の諡号が贈られました。大師とは人を教え導く偉大な指導者という意味で、日本ではこれが最初の大師号です。これ以後、最澄は「伝教大師最澄」と称されるようになりました。 
法要 顕密二教の法要儀礼

 

天台宗では仏の教えを顕教(けんぎょう)と密教(みっきょう)の二つに分類します。顕教は、仏が衆生の性質に応じて理解しやすく説かれたもので、自らを救い、他を利することを教えるものです。 密教は、仏の悟りの世界そのものを示す秘密の教法で、仏と自己の一体を観念し、仏の神秘力威力の加護によって、仏の境地に達しようとするものです。 したがって、顕教と密教では法要儀礼方法も異なり、顕教で行う儀礼は、経典を読誦し、仏の教えを新たに心に刻み、日頃犯したあやまちを脱却することによって、仏教徒としての正しい日常生活を実践しょうとすることが中心となります。 それに対して密教の儀礼は、秘法による加持(仏・菩薩の尊い力が私たちに加わり、仏・菩薩と私たちがお互いに通い合い、交わり合うこと)・祈祷(加持の状態に導き入れるために祈り、人々の利益を守ること)が中心となっています。 天台宗の法要儀礼は、このように顕・密二教と、顕密併用とが用いられますが、具体的には顕教法要は法華三昧(法華経を読誦し、懺悔し、滅罪生善の規範とする)と常行三昧(じょうぎょうざんまい。阿弥陀経を読誦し、往生極楽の指南とする)の二法、密教法要は光明供錫杖(こうみょうくしゃくじょう。光明真言によって滅罪息災の秘法を修す)が常用されています。このような天台宗の二種の法要儀礼は、私たち自身の心の開発を重視しています。
顕教法要
中国天台宗の開祖・天台大師智(538-597)は、法華の教えを実践する方法として『摩訶止観(まかしかん)』の中に四種三昧(ししゅざんまい)を説かれました。四種三昧とは、四種の心の安定を得る方法で、次の通りです。
常坐三昧   止観坐禅によって身心を安定させ、一切の因果道理を観ずる法
常行三昧   常に行道し心に阿弥陀仏を念じ、名号を唱え、安心を得る法
半行半坐三昧   自らの罪を懺悔してあわせて止観坐禅し、仏心を成ずる法
非行非坐三昧   期日・方法を定めずして、日常生活を営みながら、念仏、観法し、悟りの境地に入る法
この四種の行法はいずれも同格で主伴はなく、修法は懺悔が根本です。罪を悔い改めることにより身心の清浄を得、現世において仏心を成ずる課程に入るという、天台宗では欠くことのできない行法で、行者が常に修習することを規定しています。古くから俗に、「朝題目に夕念仏」といわれる朝題目は、法華懺法(ほっけせんぼう。半行半坐三昧)、夕念仏は例時作法(常行三昧)にあたり、この二種の法要が顕教修法の中心となって、葬儀式・法事等の法要の多くが営まれます。 特に法華懺法は、仏の教えに従って、日常生活を送ろうとする者の作法や心の運び方をも指南するものとして重視します。
法華懺法は法華三昧ともいい、天台大師の選述で、法華一乗の精神の実践法、日常生活の心構え、心の運び方や行儀を説いた『法華三昧行法』が基本となっています。『法華経』を読誦することによって、自らの罪を懺悔する修法という意味です。仏教でいう罪とは、法律や道徳上のそれとはおもむきを異にして、一切の存在は平等であるという真理に背き、相対・差別の妄念にとらわれたすべての言葉や行動を総括したものです。私たちは日常生活の中で自分のことだけを考えて、みだりにあれやこれやと対立させ、差別し、物事にとらわれて愛着したり、憎しみを抱いたりしています。これがすべての罪悪です。この罪の源は、自分自身の心のなせる業で、それは煩悩心によっています。私達には誰でも等しく仏性(仏となる性質)を持っているが、煩悩のためにそれが隠され、見失っています。その仏性を自覚し磨き出すのが懺悔であり祈りといえます。 法華懺法の儀式は、私たち一人一人が、そのままこの世の中を浄めてゆくという大乗仏教の精神に基づいて進められていきます。次に例時作法は、天台宗の日常法儀として、常行三昧の名で修される、阿弥陀仏の極楽浄土へ往生することを目的とする法儀です。仏教では、懺悔による自己の清浄心は、仏の心と一体不二であるとするところから、天台宗では、懺悔・念仏によって、ご先祖の追善供養を営むと同時に、自己の中に存在する阿弥陀仏(仏性)を観じ、現世において理想の浄土を実現しようとする意味があります。したがって念仏は自己の心の中にある仏性を発することが本旨です。この例時作法は、日本天台宗第三祖・慈覚大師(円仁)が入唐の折、中国・五台山の念仏三昧の法を伝えたものであると言われています。
密教法要
密教法要としては光明供が多く修せられます。葬式・法事・施餓鬼会などでは、まず光明供を修し、その後で葬送の作法なり、施餓鬼の作法等が修されます。密教における修法には『蘇悉地羯羅経(そしつじからきょう)』にもとづく十八道、『大日経』にもとづく胎蔵界、『金剛頂経』にもとづく金剛界の三種があり、天台宗の葬儀では、十八道に準じて作られた光明供が多く修されます。十八道とは十八の印契(仏や菩薩の内面的な悟りを示す形で、仏様の手の結び方などをいう)を結ぶ行法であり、これによる光明供とは、阿弥陀仏を本尊とし、光明真言を念誦する法要です。
天台宗では一般に光明真言を次のように唱えています。「オン、アボキヤ、ビロシャナ、マカボダラ、マニハンドマ、ジンバラ、ハラバリタヤウン」 この真言を受持する者は、光明を得て、多くの重罪を滅し、宿業・病障を除き、智慧弁才・長寿福楽を得、この真言で加持した土砂を死者に散ずれば、離苦得脱の多大な功徳があるといいます。導師(修法を司る僧侶)が懺悔・礼仏などを行い、身心を整えた後に、行願文(法要の趣旨を述ベ、仏を招請する)・三昧耶分(仏の来迎に備える)・成身分(身心を調える)・曼荼羅分(仏を迎え請じ入れる)・供養分(浄水・香華を仏に供養する)・作業分(三昧に入り仏と一体化する)・三摩波多分(仏に再び供養し、元のところへお送りする)といった種々の印を結び、真言を唱え供養し、故人が極楽浄土へ引導されることを祈念するのが光明供の作法です。  
声明

 

声明とは法要儀式に際し、経文や真言に旋律抑揚を付けて唱える仏教声楽曲です。
伝教大師最澄が中国(唐)に渡り天台の教えを伝えたおりに、声明も伝えられましたがこれを、体系的に伝えたのは慈覚大師円仁(えんにん 794〜864)です。その後、良忍(りょうにん 1073〜1132)により京都大原に声明の道場(魚山 ぎょざん)が開かれ、ここを中心に天台声明は伝承されてきました。平安時代には声明と雅楽・舞楽との合奏曲も作られ浄土信仰とも重なり盛んに奏されたといいます。  現在でも天台宗ではほとんどの法要に声明は使われ、また、舞楽法要などは伝統音楽として、公演公開されています。
三礼(さんらい)
仏教の基本的な要素である仏(如来)とその教えである法(仏法)、その教えを実践する人(僧)の三つに帰依し、礼拝する声明。経典読誦法要などの最初に唱えられることが多い。
如来唄(にょらいばい)
出典は『勝鬘経釈迦歎仏偈』である。仏の徳を称える偈文であるが、全文は唱えず一部省略して唱える。
如来妙[色身] 世間[無與等] [無比不思議] [是故今頂礼] 如来色[無尽] [知恵亦復然] 一切法常住 是故我帰依   ([ ]の部分を省略している)
また、この偈文はいろいろな旋律で、唱えられている。始段唄(しだんばい)では「如来妙色身 世」の部分を独特の旋律で唱え、中唄(ちゅうばい)では「間無與等 無比 不思議」の部分。行香唄(あんきゃんばい)では「如来色 無尽 知恵亦復然 一切法常住 是故我帰依」の部分を唱える。これらの「唄 」は大原魚山の伝法が必要でこの伝法のことを「唄伝」(ばいでん)と言う。
散華(さんげ)
道場に本尊・聖衆を招請し、香を献じ華を散じて供養するために唱えられる曲で、三段からなる。上段の出典は『金剛頂経』、中段は『倶舎論』、下段は『法華経』巻三化城喩品。中段の句は法要の本尊により異なる。本儀には三段すべて同音より次第を取り、上段は列立のまま、中・下段で行道を一匝しながら唱えるのであるが、近年は上段のみ同音散華で唱えて行道することが一般的になっている。
四智讃梵語(しちさんぼんご)
梵語讃(ぼんごさん)とはサンスクリット音を漢字で表記した声明曲である。内容は仏の四つの知恵を讃える詩で、鏡のようにあらゆるものを差別なく現し出す智(大円境智)、自他すべてのものが平等であることを証する智(平等性智)、平等の中におのおのの特性があることを証する智(妙観察智)、あらゆるものをその完成に導く智(成所作智)の四つが唱えられる。起立して唱える「列讃」(れっさん)、歩きながら唱える「行道讃」(ぎょうどうさん)などの通称がある。曲は緩やかな旋律で儀式の始めに唱えられることが多く、道場の静粛を促す。唱え終わってドラとシンバルに似た打楽器である鐃(にょう)と鈸(はち)が鳴らされる。
四智讃漢語(しちさんかんご)
別名、着座讃(ちゃくざさん)ともいう。四智讃梵語が起立して唱えるのに対して着座して唱えるためこのように呼ばれる。内容は梵語讃と同様の内容である。唱え終わって鐃(にょう)と鈸(はち)が奏せられるのも梵語讃と同様である。
諸天漢語讃(しょてんかんごさん)
諸天漢語讃(しょてんかんごさん)は『大雲輪請雨経』の一節で、仏法護法の天部衆を賛嘆する声明曲である。大般若転読会や護摩、地鎮作法など祈願法要に多く用いられる。曲は定曲という四拍子の曲で、三段に分かれており、各段の終わりに鐃(にょう)と鈸(はち)が打ち鳴らされる。 
 

 

 
比叡山延暦寺 4

 

延暦寺 (正字: 延曆寺)
滋賀県大津市坂本本町にあり、標高848mの比叡山全域を境内とする寺院。比叡山、または叡山(えいざん)と呼ばれることが多い。平安京(京都)の北にあったので南都の興福寺と対に北嶺(ほくれい)とも称された。平安時代初期の僧・最澄(767年 - 822年)により開かれた日本天台宗の本山寺院である。住職(貫主)は天台座主と呼ばれ、末寺を統括する。1994年には、古都京都の文化財の一部として、(1200年の歴史と伝統が世界に高い評価を受け)ユネスコ世界文化遺産にも登録された。寺紋は天台宗菊輪宝。
最澄の開創以来、高野山金剛峯寺とならんで平安仏教の中心であった。天台法華の教えのほか、密教、禅(止観)、念仏も行なわれ仏教の総合大学の様相を呈し、平安時代には皇室や貴族の尊崇を得て大きな力を持った。特に密教による加持祈祷は平安貴族の支持を集め、真言宗の東寺の密教(東密)に対して延暦寺の密教は「台密」と呼ばれ覇を競った。
「延暦寺」とは単独の堂宇の名称ではなく、比叡山の山上から東麓にかけて位置する東塔(とうどう)、西塔(さいとう)、横川(よかわ)などの区域(これらを総称して「三塔十六谷」と称する)に所在する150ほどの堂塔の総称である。日本仏教の礎(佼成出版社)によれば、比叡山の寺社は最盛期は三千を越える寺社で構成されていたと記されている。
延暦7年(788年)に最澄が薬師如来を本尊とする一乗止観院という草庵を建てたのが始まりである。開創時の年号をとった延暦寺という寺号が許されるのは、最澄没後の弘仁14年(823年)のことであった。
延暦寺は数々の名僧を輩出し、日本天台宗の基礎を築いた円仁、円珍、融通念仏宗の開祖良忍、浄土宗の開祖法然、浄土真宗の開祖親鸞、臨済宗の開祖栄西、曹洞宗の開祖道元、日蓮宗の開祖日蓮など、新仏教の開祖や、日本仏教史上著名な僧の多くが若い日に比叡山で修行していることから、「日本仏教の母山」とも称されている。比叡山は文学作品にも数多く登場する。1994年に、ユネスコの世界遺産に古都京都の文化財として登録されている。
また、「12年籠山行」「千日回峯行」などの厳しい修行が現代まで続けられており、日本仏教の代表的な聖地である。
なお、長野県境に近い岐阜県中津川市神坂(みさか)に最澄が817年に設けた「広済院」があったと思われる所を寺領とした「飛び地境内」がある。  
歴史  
前史
比叡山は『古事記』にもその名が見える山で、古代から山岳信仰の山であったと思われ、東麓の坂本にある日吉大社には、比叡山の地主神である大山咋神が祀られている。
最澄
最澄は俗名を三津首広野(みつのおびとひろの)といい、天平神護2年(766年)、近江国滋賀郡(滋賀県大津市)に生まれた(生年は767年説もある)。15歳の宝亀11年(780年)、近江国分寺の僧・行表のもとで得度(出家)し、最澄と名乗る。青年最澄は、思うところあって、奈良の大寺院での安定した地位を求めず、785年、郷里に近い比叡山に小堂を建て、修行と経典研究に明け暮れた。20歳の延暦4年(785年)、奈良の東大寺で受戒(正式の僧となるための戒律を授けられること)し、正式の僧となった。最澄は数ある経典の中でも法華経の教えを最高のものと考え、中国の天台大師智の著述になる「法華三大部」(「法華玄義」、「法華文句」、「摩訶止観」)を研究した。
延暦7年(788年)、最澄は三輪山より大物主神の分霊を日枝山に勧請して大比叡とし従来の祭神大山咋神を小比叡とした。そして、現在の根本中堂の位置に薬師堂・文殊堂・経蔵からなる小規模な寺院を建立し、一乗止観院と名付けた。この寺は比叡山寺とも呼ばれ、年号をとった「延暦寺」という寺号が許されるのは、最澄の没後、弘仁14年(823年)のことであった。時の桓武天皇は最澄に帰依し、天皇やその側近である和気氏の援助を受けて、比叡山寺は京都の鬼門(北東)を護る国家鎮護の道場として次第に栄えるようになった。
延暦21年(802年)、最澄は還学生(げんがくしょう、短期留学生)として、唐に渡航することが認められ。延暦23年(804年)、遣唐使船で唐に渡った。最澄は、霊地・天台山におもむき、天台大師智直系の道邃(どうずい)和尚から天台教学と大乗菩薩戒、行満座主から天台教学を学んだ。また、越州(紹興)の龍興寺では順暁阿闍梨より密教、翛然(しゃくねん)禅師より禅を学んだ。延暦24年(805年)、帰国した最澄は、天台宗を開いた。このように、法華経を中心に、天台教学・戒律・密教・禅の4つの思想をともに学び、日本に伝えた(四宗相承)ことが最澄の学問の特色で、延暦寺は総合大学としての性格を持っていた。後に延暦寺から浄土教や禅宗の宗祖を輩出した源がここにあるといえる。
大乗戒壇の設立
延暦25年(806年)、日本天台宗の開宗が正式に許可されるが、仏教者としての最澄が生涯かけて果たせなかった念願は、比叡山に大乗戒壇を設立することであった。大乗戒壇を設立するとは、すなわち、奈良の旧仏教から完全に独立して、延暦寺において独自に僧を養成することができるようにしようということである。
最澄の説く天台の思想は「一向大乗」すなわち、すべての者が菩薩であり、成仏(悟りを開く)することができるというもので、奈良の旧仏教の思想とは相容れなかった。当時の日本では僧の地位は国家資格であり、国家公認の僧となるための儀式を行う「戒壇」は日本に3箇所(奈良・東大寺、筑紫・観世音寺、下野・薬師寺)しか存在しなかったため、天台宗が独自に僧の養成をすることはできなかったのである。最澄は自らの仏教理念を示した『山家学生式』(さんげがくしょうしき)の中で、比叡山で得度(出家)した者は12年間山を下りずに籠山修行に専念させ、修行の終わった者はその適性に応じて、比叡山で後進の指導に当たらせ、あるいは日本各地で仏教界のリーダーとして活動させたいと主張した。
だが、最澄の主張は、奈良の旧仏教(南都)から非常に激しい反発を受けた。南都からの反発に対し、最澄は『顕戒論』により反論し、各地で活動しながら大乗戒壇設立を訴え続けた。
大乗戒壇の設立は、822年、最澄の死後7日目にしてようやく許可され、このことが重要なきっかけとなって、後に、延暦寺は日本仏教の中心的地位に就くこととなる。823年、比叡山寺は「延暦寺」の勅額を授かった。延暦寺は徐々に仏教教学における権威となり、南都に対するものとして、北嶺と呼ばれることとなった。なお、最澄の死後、義信が最初の天台座主になった。
名僧を輩出
大乗戒壇設立後の比叡山は、日本仏教史に残る数々の名僧を輩出した。円仁(慈覚大師、794 - 864)と円珍(智証大師、814 - 891)はどちらも唐に留学して多くの仏典を持ち帰り、比叡山の密教の発展に尽くした。また、円澄は西塔を、円仁は横川を開き、10世紀頃、現在みられる延暦寺の姿ができあがった。
なお、比叡山の僧はのちに円仁派と円珍派に分かれて激しく対立するようになった。正暦4年(993年)、円珍派の僧約千名は山を下りて園城寺(三井寺)に立てこもった。以後、「山門」(円仁派、延暦寺)と「寺門」(円珍派、園城寺)は対立・抗争を繰り返し、こうした抗争に参加し、武装化した法師の中から自然と僧兵が現われてきた。
平安から鎌倉時代にかけて延暦寺からは名僧を輩出した。円仁・円珍の後には「元三大師」の別名で知られる良源(慈恵大師)は延暦寺中興の祖として知られ、火災で焼失した堂塔伽藍の再建・寺内の規律維持・学業の発展に尽くした。また、『往生要集』を著し、浄土教の基礎を築いた恵心僧都源信や融通念仏宗の開祖・良忍も現れた。平安末期から鎌倉時代にかけては、いわゆる鎌倉新仏教の祖師たちが比叡山を母体として独自の教えを開いていった。
比叡山で修行した著名な僧としては以下の人物が挙げられる。
良源(慈恵大師、元三大師 912年 - 985年)比叡山中興の祖。
源信(恵心僧都、942年 - 1016年)『往生要集』の著者
良忍(聖応大師、1072年 - 1132年)融通念仏宗の開祖
法然(円光大師、源空上人 1133年 - 1212年)日本の浄土宗の開祖
栄西(千光国師、1141年 - 1215年)日本の臨済宗の開祖
慈円(慈鎮和尚、1155年 - 1225年)歴史書「愚管抄」の作者。天台座主。
道元(承陽大師、1200年 - 1253年)日本の曹洞宗の開祖
親鸞(見真大師、1173年 - 1262年)浄土真宗の開祖
日蓮(立正大師、1222年 - 1282年)日蓮宗の開祖
武装化
延暦寺の武力は年を追うごとに強まり、強大な権力で院政を行った白河法皇ですら「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と言っている。山は当時、一般的には比叡山のことであり、山法師とは延暦寺の僧兵のことである。つまり、強大な権力を持ってしても制御できないものと例えられたのである。延暦寺は自らの意に沿わぬことが起こると、僧兵たちが神輿(当時は神仏混交であり、神と仏は同一であった)を奉じて強訴するという手段で、時の権力者に対し自らの主張を通していた。
また、祇園社(現在の八坂神社)は当初は興福寺の配下であったが、10世紀末の抗争により延暦寺がその末寺とした。同時期、北野社も延暦寺の配下に入っていた。1070年には祇園社は鴨川の西岸の広大の地域を「境内」として認められ、朝廷権力からの「不入権」を承認された。
このように、延暦寺はその権威に伴う武力があり、また物資の流通を握ることによる財力も持っており、時の権力者を無視できる一種の独立国のような状態(近年はその状態を「寺社勢力」と呼ぶ)であった。延暦寺の僧兵の力は奈良興福寺と並び称せられ、南都北嶺と恐れられた。
延暦寺の勢力は貴族に取って代わる力をつけた武家政権をも脅かした。従来、後白河法皇による平氏政権打倒の企てと考えられていた鹿ケ谷の陰謀の一因として、後白河法皇が仏罰を危惧して渋る平清盛に延暦寺攻撃を命じたために、清盛がこれを回避するために命令に加担した院近臣を捕らえたとする説(下向井龍彦・河内祥輔説)が唱えられ、建久2年(1191年)には、延暦寺の大衆が鎌倉幕府創業の功臣・佐々木定綱の処罰を朝廷及び源頼朝に要求し、最終的に頼朝がこれに屈服して定綱が配流されるという事件が起きている(建久二年の強訴)。
武家との確執
初めて延暦寺を制圧しようとした権力者は、室町幕府六代将軍の足利義教である。義教は将軍就任前は義円と名乗り、天台座主として比叡山側の長であったが、還俗・将軍就任後は比叡山と対立した。
永享7年(1435年)、度重なる叡山制圧の機会にことごとく和議を(諸大名から)薦められ、制圧に失敗していた足利義教は、謀略により延暦寺の有力僧を誘い出し斬首した。これに反発した延暦寺の僧侶たちは、根本中堂に立てこもり義教を激しく非難した。しかし、義教の姿勢はかわらず、絶望した僧侶たちは2月、根本中堂に火を放って焼身自殺した。当時の有力者の日記には「山門惣持院炎上」(満済准后日記)などと記載されており、根本中堂の他にもいくつかの寺院が全焼あるいは半焼したと思われる。また、「本尊薬師三体焼了」(大乗院日記目録)の記述の通り、このときに円珍以来の本尊もほぼ全てが焼失している。同年8月、義教は焼失した根本中堂の再建を命じ、諸国に段銭を課して数年のうちに竣工した。また、宝徳2年(1450年)5月16日に、わずかに焼け残った本尊の一部から本尊を復元し、根本中堂に配置している。
なお、義教は延暦寺の制圧に成功したが、義教が後に殺されると延暦寺は再び武装し僧を軍兵にしたて数千人の僧兵軍に強大化させ独立国状態に戻った。
戦国時代に入っても延暦寺は独立国状態を維持していたが、明応8年(1499年)、管領細川政元が、対立する前将軍足利義稙の入京と呼応しようとした延暦寺を攻め、根本中堂・大講堂・常行堂・法華堂・延命院・四王院・経蔵・鐘楼などの山上の主要伽藍を焼いた。
また戦国末期に織田信長が京都周辺を制圧し、朝倉義景・浅井長政らと対立すると、延暦寺は朝倉・浅井連合軍を匿うなど、反信長の行動を起こした。元亀2年(1571年)、延暦寺の僧兵4千人が強大な武力と権力を持つ僧による仏教政治腐敗で戦国統一の障害になるとみた信長は、延暦寺に武装解除するよう再三通達をし、これを断固拒否されたのを受けて9月12日、延暦寺を取り囲み焼き討ちした。これにより延暦寺の堂塔はことごとく炎上し、多くの僧兵や僧侶が殺害された。この事件については、京から比叡山の炎上の光景がよく見えたこともあり、山科言継など公家や商人の日記や、イエズス会の報告などにはっきりと記されている(ただし、山科言継の日記によれば、この前年の10月15日に浅井軍と見られる兵が延暦寺西塔に放火したとあり、延暦寺は織田・浅井双方の圧迫を受けて進退窮まっていたとも言われている)。
信長の死後、豊臣秀吉や徳川家康らによって各僧坊は再建された。根本中堂は三代将軍徳川家光が再建している。家康の死後、天海僧正により江戸の鬼門鎮護の目的で上野に東叡山寛永寺が建立されると、天台宗の宗務の実権は江戸に移った(現在は比叡山に戻っている)。しかし、いったん世俗の権力に屈した延暦寺は、かつての精神的権威を復活することはできなかった。
現代
1956年(昭和31年)10月11日午前3時30分に重要文化財だった大講堂から出火、同じく重要文化財であった鐘台に類焼し、これら2棟が全焼した。
1987年(昭和62年)8月3日、8月4日両日、比叡山開創1200年を記念して天台座主山田恵諦の呼びかけで世界の宗教指導者が比叡山に集い、「比叡山宗教サミット」が開催された。その後も毎年8月、これを記念して比叡山で「世界宗教者平和の祈り」が行なわれている。
1994年(平成6年)、延暦寺は「古都京都の文化財」の一環としてユネスコの世界遺産に登録されている。
延暦寺近辺への土砂の大量不法投棄
延暦寺が運営する霊園に隣接した残土処分場に、2004年以降に京都市内の建設会社の西日本開発が建設残土を大量に搬入するようになり、総量は大津市土砂条例で定められた9,900平方メートルをはるかに越えるようになった。大津市は2012年10月に当該の業者に中止命令を出すと共に、条例違反でこの業者を滋賀県警に告発したが、直後に処分地の所有者が変更され、不法投棄は継続された。土砂の崩落も相次ぐようになって負傷者も出るようになり、参拝者が危険に曝されるリスクが高まったことなどから、延暦寺と地域住民らが、滋賀県公害審査会に公害紛争処理法に基づく公害調停を申し立てることになった。この不法投棄問題で滋賀県警は、法人としての西日本開発とその男性社長を大津市土砂条例違反容疑で書類送検した。2014年7月7日に、大津市が行政代執行などで土砂崩落防止工事を実施することや、周辺の河川や水路の水質検査を2017年度まで実施することなどで調停が成立した。
組織暴力団との関係
2006年4月21日、延暦寺にて指定暴力団山口組の歴代組長の法要を実施した。この件については事前に滋賀県警察から「組織の権力誇示と香典名目の資金集めに利用される」として法要の中止要請がなされていたが、延暦寺側は「これは単なる宗教の行事」として要請を拒絶し、その後、延暦寺内阿弥陀堂において法要式典の中では最高級とされる「特別永代回向」に最高幹部ら100名近い組員が参加し執り行われた。
同寺を含め全国にある約75,000の寺が所属する財団法人全日本仏教会は、約30年前の1976年、全日本仏教徒会議において「暴力団排除」の決議を行っており、また2006年3月13日には全日本仏教会理事長である安原晃が「組織暴力団の義理かけ法要への協力を止めよう」との声明を発表した直後であった。法要後、全日本仏教会は、これらの決議及び声明を無視した延暦寺側に対して遺憾の意を表明した。
後日法要が終わったのち、この式典について延暦寺法務部は報道陣に対し「次からは暴力団の法要は拒否したい」とのコメントを述べた。その後、同寺は5月18日に大津市内で「一山協議会」を開き、代表役員の執行と、6人の執行局役員全員が責任を取って総辞職した。その中で同寺は寺院関係者及び全日本仏教会への謝罪を表明しており、ホームページにおわびを掲載、宗内の約3000寺に「おわび状」を郵送している。
その後同寺は、歴代組長の家族ら少人数での位牌参拝を認めていたが、各自治体で暴力団排除条例が相次いで制定されるなど、暴力団排除への社会的気運が高まってきたことなどから、2011年に同寺は山口組に対し、参拝を止めるよう伝達し、山口組もこれを了承した。
暴力事件
2016年4月、「延暦寺会館」副館長の男性僧侶が20代の修行僧ら3人に暴力をふるい、うち一人に左耳の鼓膜を破るなどの重傷を負わせた。男性僧侶は動機について「修行僧の態度にカッとなって頭に血が上り、殴ってしまった」としている。延暦寺は男性僧侶を厳重注意し、刑事告発しない方針。「厳粛に受け止め、伝統の名誉と信頼の回復に努めます」とコメントを発表した。  
比叡山の修行  
籠山行
比叡山の修行は厳しい。山内の院や坊の住職になるためには三年間山にこもり続けなければならない。三年籠山の場合、一年目は浄土院で最澄廟の世話をする侍真(じしん)の助手を務め、二年目は百日回峰行を、そして三年目には常行堂もしくは法華堂のいずれかで90日間修行しなければならない。常行堂で行う修行(常行三昧)は本尊・阿弥陀如来の周囲を歩き続けるもので、その間念仏を唱えることも許されるが、基本的に禅の一種である。90日間横になることは許されず、一日数時間手すりに寄りかかり仮眠をとるというものである。法華堂で行われる行は常坐三昧といわれ、ひたすら坐禅を続け、その姿勢のまま仮眠をとる。
十二年籠山では好相行が義務付けられており、好相行を満行しなければ十二年籠山の許可が下りない。好相行とは浄土院の拝殿で好相が得られるまで毎日一日三千回の五体投地を行うものである。好相とは一種の神秘体験であり、経典には如来が来臨して頭を撫でるとか、五色の光が差すのが見えるという記述もあるが、その内容は秘密とされている。
千日回峰行
7年間、1年に100日から200日、合計千日間、比叡山の山内を巡拝する回峰行。途中、堂入りという荒行を行い、これを満行した者は生身の不動明王、当行満阿闍梨と呼ばれる。千日間を満行した者は北嶺大行満大阿闍梨と呼ばれる 。第二次世界大戦以降で満行した者は、2017年現在、14人。  
境内  
比叡山の山内は「東塔(とうどう)」「西塔(さいとう)」「横川(よかわ)」と呼ばれる3つの区域に分かれている。これらを総称して「三塔」と言い、さらに細分して「三塔十六谷二別所」と呼称している。このほか、滋賀県側の山麓の坂本地区には本坊の滋賀院、「里坊」と呼ばれる寺院群、比叡山とは関係の深い日吉大社などがある。
三塔十六谷二別所
東塔−北谷、東谷、南谷、西谷、無動寺谷
西塔−東谷、南谷、南尾谷、北尾谷、北谷
横川−香芳谷、解脱谷、戒心谷、都率谷、般若谷、飯室谷
別所−黒谷、安楽谷
東塔
延暦寺発祥の地であり、本堂にあたる根本中堂を中心とする区域である。
根本中堂(国宝) - 最澄が建立した一乗止観院の後身。現在の建物は織田信長焼き討ちの後、寛永19年(1642年)に徳川家光によって再建されたものである。1953年(昭和28年)に国宝に指定された。入母屋造で幅37.6メートル、奥行23.9メートル、屋根高24.2メートルの大建築である。土間の内陣は外陣より床が3メートルも低い、独特の構造になっている。内部には3基の厨子が置かれ、中央の厨子には最澄自作の伝承がある秘仏・薬師如来立像を安置する(開創1,200年記念の1988年に開扉されたことがある)。本尊厨子前の釣灯篭に灯るのが、最澄の時代から続く「不滅の法灯」である。この法灯は信長の焼き討ちで一時途絶えたが、山形県の立石寺に分灯されていたものを移して現在に伝わっている。嘉吉3年(1443年)に南朝復興を目指す後南朝の日野氏などが京都の御所から三種の神器の一部を奪う禁闕の変が起こると、一味は根本中堂に立て篭もり、朝廷から追討令が出たことにより幕軍や山徒により討たれる。
文殊楼(重文) - 寛文8年(1668年)の火災後の再建。二階建ての門で、階上に文殊菩薩を安置する。根本中堂の真東に位置し、他の寺院における山門にあたる。
大講堂(重文) - 寛永11年(1634年)の建築。もとは東麓・坂本の東照宮の讃仏堂であったものを1964年に移築した。重要文化財だった旧大講堂は寛永19年(1642年)に完成した裳階つき建築だったが1956年に放火による火災で焼失している。本尊は大日如来。本尊の両脇には向かって左から日蓮、道元、栄西、円珍、法然、親鸞、良忍、真盛、一遍の像が安置されている。いずれも若い頃延暦寺で修行した高僧で、これらの肖像は関係各宗派から寄進されたものである。
法華総持院東塔 - 1980年再建。多宝塔型の塔であるが、通常の多宝塔と異なり、上層部は平面円形ではなく方形である。下層には胎蔵界大日如来、上層には仏舎利と法華経1,000部を安置する。
戒壇院(重文) - 延宝6年(1678年)の再建。
国宝殿 - 山内諸堂の本尊以外の仏像や絵画、工芸品、文書などを収蔵展示する。
無動寺 - 根本中堂から南へ1.5キロほど離れたところにあり、千日回峰行の拠点である。不動明王と弁才天を祀っている。貞観7年(865年)、回峯行の創始者とされる相応和尚が創建した。
大書院 - 昭和天皇の即位にあわせ東京の村井吉兵衛の邸宅の一部を移築したもので迎賓館として使用されている。
阿弥陀堂
灌頂堂
八部院堂 - 790年草創、1988年再建。
西塔
転法輪堂(重文) - 西塔の中心堂宇で、釈迦堂ともいう。信長による焼き討ちの後、文禄4年(1595年)、当時の園城寺弥勒堂(金堂に相当し、南北朝時代の1347年の建立)を豊臣秀吉が無理やり移築させたものである。現存する延暦寺の建築では最古のもので本尊は釈迦如来立像(重文)。
常行堂・法華堂(重文) - 2棟の全く同形の堂が左右に並んでいる。向かって右が普賢菩薩を本尊とする法華堂、左が阿弥陀如来を本尊とする常行堂で、文禄4年(1595年)の建築である。2つの堂の間に渡り廊下を配した全体の形が天秤棒に似ているところから「にない堂」の称がある。
浄土院 - 東塔地区から徒歩約15分のところにある。宗祖最澄の廟があり、山内でもっとも神聖な場所とされている。ここには12年籠山修行の僧がおり、宗祖最澄が今も生きているかのように食事を捧げ、庭は落ち葉1枚残さぬように掃除されている。
相輪橖 - 釈迦堂の北の山林にあり、青銅製で1895年(明治28年)に再建された相輪橖(重文)。
瑠璃堂(重文) - 西塔地区から黒谷(後述)へ行く途中にある。信長の焼き討ちをまぬがれた唯一の堂といわれる。様式上、室町時代の建築である。
黒谷青龍寺 - 西塔地区から1.5キロほど離れた黒谷にあり、法然が修行した場所として有名である。
横川
西塔から北へ4キロほどのところにある。嘉祥3年(850年)、円仁(慈覚大師)が建立した首楞厳院(しゅりょうごんいん)が発祥である。
横川中堂(よかわちゅうどう) - 新西国三十三箇所観音霊場第18番札所。旧堂は1942年、落雷で焼失し、現在の堂は1971年に鉄筋コンクリート造で再建されたものである。本尊は聖観音立像(重文)。
根本如法塔 - 多宝塔で、現在の建物は大正期の再建。円仁が法華経を写経し納めた塔が始まりである。
四季講堂(元三大師堂)(重文) - 四季に法華経の論議を行うことから四季講堂と呼ばれる。おみくじ発祥の地である。
恵心堂 - 現在の堂は坂本生源寺の別當大師堂を移築したものである。
安楽律院 - 天台宗安楽律法流の道場。
神坂(みさか)
長野県境に近い岐阜県中津川市神坂(みさか)に最澄が817年に設けた広済院があったと思われる所を寺領とした「飛び地境内」である。 1958年(昭和33年)に建立された最澄の「遺跡顕彰碑」があり、最澄の遺徳をしのぶ法要が毎年営まれる。  
 

 

 
延暦寺の不思議

 

延暦寺には、「比叡山の七不思議」と称する七つの伝説がある。これらに九つの不思議を加え、本項では十六の不思議を取り上げた。これらのほか比叡山には、菅原道真の登天石や大乗院の親鸞蕎麦喰い木像など面白い不思議がまだまだあるが、順路編成の便宜を考慮して割愛した。スタート地点の「ガーデンミュージアム比叡」から東塔、西塔を経てゴールの横川まで 約10キロメートルほど。途中、元三大師道という異名を持つ東海自然歩道の快適な山旅が続く。
将門岩
ドライブバス終点すぐの「ガーデンミュージアム比叡」内の四明が嶽山上(メゾンド・フール前)にある大きな岩。平安中期の武将であった平将門たいらのまさかど(?〜940)は、この岩の上で京の都を睥睨へいげいし、西国の海賊であった藤原ふじわらの純友すみとも(?〜941)と天下支配の密議を凝らしたという。のち、平将門は常陸国の国衙こくがを攻略。下野・上野・相模などの諸国を支配して「新皇しんのう」と称したが、藤原ふじわらの秀郷ひでさとらに敗れて将門の関東支配は僅か三ヶ月で終わった。純友の反乱と合せて、「承しょう平へい・天慶てんぎょうの乱」という。
弁慶水
「ガーデンミュージアム比叡」の西出口から東海自然歩道を東塔方面に行くと、左手に奥比叡ドライブウェイに架かる橋(渡ったところに千手堂とも呼ばれた山王院がある)があり、やりすごすとすぐ右手に無縁塔と並んで弁慶水がある。比叡山随一の泉で、千手せんじゅの井いともいう。泉の上に覆屋があり鍵がかけられていて中の様子はよくわからないが、それでも耳を澄ますとこんこんと水の湧き出す音が聞き取れて心地よい。名の由来は、『都名所図会』に「武蔵坊弁慶千手堂に千日参籠さんろうす。この水を毎日閼伽あかとせしよりこの名あり。平清盛熱病のとき、この水を石船に湛えて沐すといへり」とある。この泉について『伝説の比叡山』は「最澄と徳一和尚」、「円珍阿闍梨と水天童子」という二つの伝説を紹介しているが、ここでは「最澄と徳一和尚」の話を紹介しておこう。
最澄と徳一和尚 ある日の暑い午後、西坂本から雲母坂きららさかにさしかかった二人の僧が日差しを避けて大きな梨の木蔭で休んでいた。一人は最澄、他の一人は最澄の叡山仏教に日頃真っ向から反対の論陣を張っていた徳一和尚である。最澄は、たまたま南都で徳一と出合い、徳一のたっての願いで叡山に案内するところであった。今二人が蔭を借りている梨の木はかなり大きな木であったが、実が一つもないのに気づいた徳一は「草も木も仏になるという山の麓にならぬ梨もこそあれ」と痛烈に皮肉った。最澄は何ら動ずることなく、梨の木蔭から立ち上がって雲母坂を急いだ。東塔に近づいた時、徳一はにわかに喉の渇きを覚えた。最澄は「草も木も仏になるといふ山に何所いずこに水のあると知らずや」といって、手に印を結び念じた。すると間もなく、路傍の岩陰から玉のような泉が湧き出たのである。水は千年後の今も尚こんこんと湧き出ていて、水晶のようにうるわしく、氷のように冷たい。けれどもこの泉は初め徳一の揶揄やゆに対する最澄の我慢から念じ出したものであるから、たとえ一滴でも飲んだら、不思議にも心が猛々しくなるという。
なすび婆あ(比叡山の七不思議)
延暦寺第三駐車場の北隅に天海の住房であった南光坊址と記した石碑が立つ。慈じ眼がん大師だいし天海(1536〜1644)は、徳川家康・秀忠・家光の宗教・政治顧問として大きな力をふるい、黒衣の宰相と呼ばれた人物。織田信長の焼討ちで焼亡した比叡山の復興に力を注ぎ、徳川将軍家の援助を得て根本中堂、大講堂などの主要堂塔を再建。「なすび婆あ」はこの天海にまつわる伝説。あるとき、夜更けに南光坊の門を叩く音がした。小僧が出てみると、なすび色の老女がにたにたしながら立っており、やがて、ふっと姿を消した。天海の話によれば、女はむかし宮中に仕えていたが、人を殺して身を地獄に落とされた。しかし、仏の慈悲で心は比叡山に住むことを許されたので、人目につかぬよう夜の山を歩いているのだという。なすび婆あは、織田信長が比叡山焼討ちを図ったとき、大講堂鐘楼の鐘をついて急を知らせてくれたという(『大津の伝説』による。以下「比叡山の七不思議」について同じ)。鐘楼は昭和31年に焼失したが再建されて現在、誰でも撞くことのできる「開運の鐘」として親しまれている。
三面大黒天
根本中堂のすぐ東に大黒堂がある。この堂内に、大黒天・毘沙門天・弁財天を刻んだ最澄自作の三面大黒天像が祀られている。伝説はいう。最澄が比叡山で堂を建てる霊地を探していたら、大黒天にめぐりあった。大黒天は、山の守護になって最澄を助けようという。しかし最澄は、大黒天は千人を助けることができるが、自分は三千人の面倒をみなければならいといって大黒天の申出を断ってしまった。すると大黒天は、たちまち三面六臂さんめんろっぴの姿に変わった。そこで最澄は、一つの像に、食物や財宝を与えてくれる大黒天、危険から身を守ってくれる毘沙門天、男女の愛をとりもつ弁財天の三面を刻んで山上に祀ったという。
船坂のもや船(比叡山の七不思議)
延暦寺会館の前の坂道を少し下ると、急な坂が現れる。これを船坂という。名の由来はこうである。むかし比叡山は、女人禁制であった。ある夜、一人の山法師が酒を飲んで坂本の町から表坂を登って帰る途中、なぜか一面にもやがかかり、その中から女たちの念仏の声が聞こえてきた。もやの中には一隻の船が浮かび、おおぜいの女の亡者が乗っていた。法師は亡者と目があったとたん気を失い、翌日死んでしまった。それから表坂を船坂と呼ぶようになったという。
おとめの水ごり(比叡山の七不思議)
船坂にある法然堂から、更に約200メートルほど下った左手にあった五智院(廃寺。今は名もない荒れた小堂が残る)にまつわる伝説である。この寺の僧が、夜中に仏間で物音がするので目をさますと、やがて谷あいから水を浴びる音が聞こえてきた。谷におりてみると、女が水ごりをしていた。翌晩も同じことがあり、のぞき見していた僧は女に見つかってしまった。女は、「仏間の位牌は私のものです。魂を比叡山にあずけて修行すれば、極楽に行けると教えられていました」と僧に告げて消えたという。
一つ目小僧(比叡山の七不思議)
延暦寺会館から西廻りに蓮如堂を経て根本中堂に至る途中に、総持坊という修行道場がある。その玄関に、一つ目・一本足で右手に鉦かねを持った奇怪な僧の絵が掛けられている。これは、元三大師良源の弟子であった慈じ忍にん和尚の姿だという。慈忍は、良源のきびしい教えを自ら実践し、他の修行僧にも厳しく指導。死後も比叡山の戒律を守るため幽霊になった。そして夜になると、一つ目・一本足の恐ろしい姿で、鉦をたたいて比叡山をまわり、里へ酒を買いに行こうなどとする不心得な僧たちを懲らしめたという。
山王院(千手堂)
弁慶水を少し東に行き、奥比叡ドライブウェイに架かる橋を渡ったところにある。『都名所図会』に「智証大師の本房にして山王の神、常に影よう向ごうの地也。千手観音を安置す」とある。『伝説の比叡山』は語る。天平の昔、都から比叡山へ千手観音が飛来してきた。名工の手になる見事な霊像であったので、時の帝はすぐに勅使を派遣して都へ迎えようとした。しかし、磐石ばんじゃくの如く端座した霊像は、いかに手をつくしても微動だにしないので、勅使たちはなすすべもなくすごすごと都に帰ってしまった。延暦四年(785)比叡山に登った最澄がこの霊像を見つけ、草庵を結んで安置したという。のちに弁慶が弁慶水を閼伽として参籠したのは、この霊像という。
椿堂
山王院から浄土院を経て、「にない堂」手前の右手下方の道を下りたところにある小さなお堂をいう。『都名所図会』に「如意輪観音を安置す。山門建立以前、聖徳太子この山に登て勝地を求てこの本尊を安置す。又、椿の御杖を伽藍の傍らに立て置かれけるが、後に枝葉茂りて大木となり、年経て荒廃に及び今小堂あり」とある。『伝説の比叡山』はもう少し詳しい。聖徳太子がある日、ふと丑寅にあたる山の端に光る宝塔を認めたので、険しい坂道をものともせず、比叡山に登った。谷間の雪を踏み分け、太子はここぞと思う霊地を卜ぼくして小堂を建て、守り本尊の如意輪観音を安置した。太子は杖としていた椿の枝をそこに突き刺して、山とともに幾千年の末まで栄えんことを祈念。やがて根を下ろした椿の枝は大木に育ったという。
一文字狸(比叡山の七不思議)
椿堂から北へすぐの「にない堂」にまつわる伝説である。左側に常じょう行堂ぎょうどう、右側に法華堂があり、この二つの堂の間を渡り廊下でつながれていることから、「にない堂」という名がある。弁慶はこの渡り廊下に肩を入れて天秤棒がわりに担ぎあげたといい、俗に「弁慶のにない堂」という。二堂の間が山城国と近江国の国境という。さて、一文字狸の伝説はこうである。西塔にない堂の修行僧が、素直になれない性格をなおしたくて、たぬきの彫刻をはじめた。ある夜、真っ白な眉毛を一文字にひいた大狸が現れ、「自分のためでなく、仏に仕える身として仏道修行のために千体を彫る願をたてるなら、助けてやろう」と告げた。心得ちがいに気づいた僧は、それから千日回かい峰ほう行ぎょうを始め、一日の行が終わるたびに一体を彫り、七年目の満願のとき、千体の狸もできあがったという。
仏足石
にない堂の渡り廊下をくぐって石段を降りると、西塔の中心の釈迦堂(転法輪堂ともいう)に至る。仏足石は、釈迦堂の西南隅の石柵をめぐらした中にある。「釈迦牟む尼に仏足石」と記した石標が立つ。仏足石は、釈迦が入滅の際に残した足形を石面に刻んだもの。釈迦の足跡に千輻せんぷく輪相りんそう(仏の足の裏にできる網形の紋)があり、歩行の時、地にその相が印されたことから、人々に信仰された。
玉体杉
西塔と横川のほぼ中間点にある杉の大木をいう。東塔から横川までを元三大師道といい一丁ごとに石標が立つが、十九丁目を少し過ぎたところにある。京都方面の展望が開けている。幹の傍らに石の台が据えつけられており、千日せんにち回かい峰ほう行者ぎょうじゃはここから玉体加持(天皇の安泰)や国家鎮護を祈る。ちなみに千日回峰行は、七年間をかけて通算千日の行を行う。最初の三年間は年百日、一日30キロメートルを歩いて255か所の霊場を巡拝。続く2年間は年二百日同じ行を行う。それが済むと九日間の断食、断水、不眠、不臥の行に入り、さらに厳しい行が続く。最後の七年目には一日84キロメートル、300か所の巡拝を行うなど、想像を絶する荒行中の荒行である。
蛇が池(比叡山の七不思議)
横川駐車場から横川よかわ中堂に至る道の左手にある。龍が池ともいう。『都名所図会』に「竜池。また赤池ともいふ。慈覚大師(円仁)、結界して竜神を潜居せしむる。いまも雨を乞ふときはここに祈るとぞ」とある。寺伝によると話はこうである。昔この池に大蛇が住みつき村人たちに危害を加えていた。元三大師がこれを聞いて大蛇に向かい、「おまえは法力を持っていると聞くが本当か」と尋ねた。大蛇は、「本当だ。俺にできないことは何もない」と答えた。大師が「ならば大きい姿になってみよ」というと、大蛇は数十倍の大きさに変身。大師が再び「小さくなって私の掌に乗れるか」というと、大蛇は小さくなって大師の掌に乗った。大師はすぐさま観音の念力により大蛇を閉じ込めてしまった。そして、弁天を迎えて小さくなった大蛇をおそばに侍らせた。こうして、さしもの大蛇も前非を悔い、横川の地を訪れる人の道中の安全と心願の成就に助力するようになったという。龍が池に祀られている弁天は、また雨乞いの弁天としても有名。
六道おどり(比叡山の七不思議)
横川中堂は横川の中心的堂塔。嘉か祥しょう元年(848)良源の創建になる。聖観音を安置。かつて入唐時に海難に逢った良源が、聖観音を念じて事なきを得たので帰朝後、この堂を建立するとき、屋根を唐船に擬して作ったという。中堂は、信長の焼討ちで焼亡したが、慶長九年(1604)豊臣秀頼が再建。六道おどりの伝説はいう。堂前の広場で、ある年のお盆、里人たちが僧と盆供養をしていた。夜中、観音様が本堂から庭にあらわれ、印を結んだかと思うと、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天人の六道の亡者たちが集ってきた。そして、香や花を供えて盆供養をし、やがて踊りはじめた。地獄の亡者は地獄の責め苦を踊りあらわし、修羅たちは剣の舞を舞うなど夜どおし続き、最後に天人が延命の舞をまって、夜明けとともに消えていったという。
護法石
横川中堂の向拝こうはいの下にある。『都名所図会』にも「護法石。中堂の東の下にあり」と見える。寺伝では、鹿島明神、赤山明神の影よう向ごう石(影向とは神仏が来臨すること)とする。
元三大師の御影
横川中堂から少し東に元三大師堂がある。この堂内の元三大師の御影と御籤が有名で、門の傍らには「おみくじ発祥之地」と記した石標が立つ。『京童跡追』は「慈恵大師(元三大師)ともいへる也。古き絵像にて。近く拝めばあざやかならず、遠く見れば御かたちあらはに覚ゆるは、予、病眼ゆえ。我ばかりかくありて、眼疾なき人は遠近かはる事あらざるか。さて霊像の尊くまします事、凡慮の筆舌にあらはしがたし。霊前に奇妙きろうの御籤あり。信仰の人これを取。文句あたらずといふ事なし。むかし、それがし、この御くじを取侍る事あり。その後、御影飯室いいむろにましますとき、両度の御くじ同事にて侍りし。日をへて二たび取ぬる御くじ同じものなる事、奇妙也。されば、おそるべし。尊とむべし」という。『伝説の比叡山』によると、古来魔除けの護符として豆まめ大師だいしと角つの大師だいしがある。その伝説はこうである。
女官と元三大師(豆大師) 大師は、とりわけ眉目秀麗だったから、若い女官に大人気だった。ある 年の春、女官たちが幔幕をひきめぐらして花見に興じていたが、そこに大師が通りかかった。女官た ちは歓声をあげて囃し立てたところ、それを見た大師は苦りきった顔になっていった。そして不思議 にも、その美しい姿が見る見る豆粒のように小さくなり、とうとう恐ろしい鬼畜に変じていった。な まじ容姿の美しさから自分や他人を魔道に落しめんとすることを恐れていた大師は、自他ともに救う はからいとして鬼畜になってみせたのだった。
元三大師と疫神(角大師) ある日大師が書見していると、疫神が来て、大師は厄年なので体を拝借 してほしいという。大師が左手の小指を差し出して疫神が飛び移るや否や、全身に悪寒を催して耐え 難い苦痛を感じたので、念力で疫神を追い出した。疫神のもたらす苦痛に驚いた大師は、身を以って 、その病難を払う誓願を立てた。それから後、横川の宗徒は病難に罹る者がなくなったという。宗徒 でない人も大師の絵像を安置して疫神を祓うようになった。
比叡山の異名とその由来
異名の中から面白いものをいくつか紹介しておこう。
・我立杣 / 伝教大師初めてこの山に中堂を建立したとき、諸仏に「我立杣に冥加みょうがあらせたまへ」と詠じたことから。
・鷲の山(鷲) / 慈じ円えん(1155〜1225。『愚管抄』を著す)が、この山を釈迦ゆかりのインドの霊鷲山に擬して、「鷲の山有明の月は巡りきて我立杣の鏡にぞすむ」と詠じたことから。
・山:拾玉集に慈円の歌に「世の中に山てふ山は多かれど山とは比叡のみ山をぞいふ」とある。
・艮岳 / 平安京の艮うしとらにあたり、根本中堂を王城鎮護の霊場として鬼門を守ることから。慈円の歌に「我山は華の都の丑寅に鬼いる門をふさぐとぞきく」とある。・天台山:伝教大師が開創した天台宗にちなみ、中国の天台山に擬したもの。
・台嶺 / 台嶽とともに天台山の略称。
・北嶺 / 奈良の諸大寺を南都とするのに対して。
・都の不二(富士) / 後水尾上皇が比叡山を見て「みよやみよ都のふじの空はれて月もうへなき秋の光を」と詠んだことから。  
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

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