「法話」 緒話

四諦1四諦2四諦3四諦4・・・苦集滅道・・・八正道・・・四苦八苦1四苦2四苦3四苦4四苦5四苦6四苦7四苦8四苦9四苦10・・・相互互助・・・
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僧侶の系譜

雑学の世界・補考

四諦 1

釈尊が最初の説法で示された四つの真理。四聖諦ししょうたいの略。
1苦諦くたい。人生は苦であるという真理。
2集諦じったい。苦を招き集める原因は煩悩ぼんのうであるという真理。
3滅諦めったい。煩悩を滅尽することによって、苦のない涅槃寂静ねはんじゃくじょうの境地が実現するという真理。
4道諦どうたい。涅槃寂静の境地に至るためには、八聖道(八正道,八聖道分)を実践せねばならないという真理。→八正道 (はっしょうどう)。
このうち12は迷いの果と因、34はさとりの果と因をあらわす。
世間法は、迷いの世界(界内)の教え、出世間法は、悟りの世界(界外)の教え。世間の因果を出世間の因(修) 果(証)へ転回するよう教えるのが仏教の原型である。世間の因果は、苦諦くたい(果)・集諦じったい(因)として示され、出世間の因果は、滅諦めったい(果)・道諦どうたい(因)として示される。
四諦
四聖諦ともいわれる。聖諦とはサンスクリット語で「神聖なる真理」という意味である。
道の後、鹿野苑(ベナレス)において、初めて五比丘のために法を説かれた(初転法輪)。この時、釈迦はこの四諦を説かれたといわれ、四諦は仏陀の根本教説であるといえる。
四つの真理とは、人生は苦であるという真理と、その苦の原因は人生の無常と人間の執着にあるという真理と、この苦を滅した境地が悟りであるという真理と、その悟りに到達する方法は八正道であるという真理との四であり、これを順次に苦諦・集諦(じったい)・滅諦・道諦と呼ぶ。この四諦は仏陀が人間の苦を救うために説かれた教えであり、あたかも医者が、患者の病気の何であるかをよく知り、その病源を正しく把握し、それを治癒させ、さらに病気を再発しないように正しく導くようなものだ、と言われている。
苦諦
苦諦とは人生の厳かな真相を示す。「人生が苦である」ということは、仏陀の人生観の根本であると同時に、これこそ人間の生存自身のもつ必然的姿である。このような人間苦を示すために、仏教では四苦八苦を説く。四苦とは生、老、病、死の四つである。これに、愛し合うものが別れてゆかねばならない「愛別離苦」、憎み合うものが一緒に生活しなければならない「怨憎会苦」(おんぞうえく)、求めても得られない「求不得苦」(ぐふとっく)、最後に人間生存自身の苦を示す「五陰盛苦」(ごおんじょうく)を加えて「八苦」と言う。
集諦
集諦とは「苦の源」をいうので、苦集諦といわれる。「集」とは招き集める意味で、苦を招きあつめるものが煩悩であるというのである。
この集諦の原語は「サムダヤ」(samudaya)であり、この語は一般的には「生起する」「昇る」という意味であり、次いで「集める」「つみかさねる」などを意味し、さらに「結合する」ことなどを意味する。その点、集の意味は「起源」「原因」「招集」いずれとも解釈できる。
苦集諦とは「duḥkha-samudaya-satya」とあるので、「苦の原因である煩悩」「苦を招き集める煩悩」を内容としている。そこで、具体的には貪欲や瞋恚、愚痴などの心のけがれをいい、その根本である渇愛をいう。これらは欲望を求めてやまない衝動的感情をいう。
滅諦
滅諦とは、苦滅諦といわれ、苦のなくなった涅槃のことを言い、いっさいの煩悩の繋縛(けばく)から解放された境地なので解脱の世界であり、煩悩の火の吹き消された世界をいう。
道諦
道諦とは苦滅道諦で、苦を滅した涅槃を実現する方法をいう。これに八正道が説示される。
初めの苦、集の二諦は、明らかに迷の現実とその原因を示したものであり、後の二諦は悟りの結果とその方法を示したものである。
釈迦は初転法輪において、まず迷いの現実が苦であることと、その苦は克服しうるものであることを明らかにした。しかも、苦は単に苦として外にあるのでなく、我々がそれをどう受け取るのかで変わってくることを説いて、「煩悩」こそがすべてを苦と受け取らせる原因であることを明らかにした。したがって、この煩悩を正しく処理すれば、苦に悩まされない境地をうる。その道こそ、いっさいの自己愛を捨て、他に同化することにあるので、その根本は自己の本姿に徹することである。つまり、本来、執着すべきでない自己に執着することこそ、苦の原因である。この「苦」を滅して涅槃の世界に入る方法こそ「八正道」であり、聖なる道を実現するから「八聖道」ともいわれる。
律蔵の説明
パーリ律蔵のなかでは次のように説明される。
苦聖諦はつぎのとおりである。生まれが苦であり、老いも……病いも……死も苦しみである。いやな人に会うのは苦であり、愛するものとわかれるのも苦であり、欲しいものの得られないのも苦である。要約すれば、執着の素材としての五薀は苦である。 苦集聖諦はつぎのとおりである。それは再生をもたらすもの、喜びむさぼりをともない、ここかしこに歓喜を求めるもの、すなわち欲への渇愛、生存への渇愛、および生存を離れることへの渇愛である。 苦滅聖諦はつぎのとおりである。それは、渇愛が完全に除かれた止滅である。すなわち、捨、放棄、解脱、無執着である。 苦滅に導く道聖諦とはつぎのとおりである。それは聖なる八支よりなる道である。 (聖なる八支よりなる道とは)正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定である。
このうち道諦たる八正道は苦楽の二辺を離れた中道であるといわれる。
説一切有部の解釈
苦・集・滅・道の順序は、観行の次第として捉えることができ、説一切有部の修道論においてはこの四諦の観知がきわめて重要な役割を担っている。
加行位の最後の四善根のうち煖・頂・忍を修するにおいて、四諦を16通りに観ずる方法(四諦十六行相)すなわち
苦を、無常・苦・空・無我と四相に観る。集を、因・集・生・縁と四相に観る。滅を、滅・静・妙・離と四相に観る。道を、道・如・行・出と四相に観る
ことが行じられ、見道においては四諦を観じつつ苦・集・滅・道のそれぞれにつき法智忍、法智、類智忍、類智の計十六心が順次に生起しつつ八十八の煩悩を断ずる。第16番目の心すなわち道類智において修道に入り、そののちも四諦の観知を繰り返す。
『勝鬘経』の解釈
『勝鬘経』においては有作の四諦および無作の四諦の合計8種の聖諦があるとし、声聞・独覚の四諦は有作であって不完全としてしりぞけ、如来の四諦を無作であり完全なものとしている。また同経では、滅諦のみが常住・絶対であり、ほかの三諦は有為であり無常であるとしている。
 
四諦 (したい) 四聖諦(ししょうたい) 2

 

仏教が説く4種の基本的な真理。苦諦、集諦、滅諦、道諦のこと。四真諦や苦集滅道。
苦諦(くたい) - 迷いのこの世は一切が苦(ドゥッカ)であるという真実。
集諦(じったい) - 苦の原因は煩悩・妄執、求めて飽かない愛執であるという真実。
滅諦(めったい) - 苦の原因の滅という真実。無常の世を超え、執着を断つことが、苦しみを滅した悟りの境地であるということ。
道諦(どうたい) - 悟りに導く実践という真実。悟りに至るためには八正道によるべきであるということ。
苦諦と集諦は、迷妄の世界の果と因とを示し、滅諦と道諦は、証悟の世界の果と因とを示す。四諦は概ね、十二縁起説の表す意味を教義的に組織したものであり、原始仏教の教義の大綱が示されているとされる。原始仏教経典にかなり古くから説かれ、特に初期から中期にかけてのインド仏教において最も重要視され、その代表的教説とされた。四諦はブッダが最初の説法で説いたとされている(初転法輪)。
四つの真理
苦諦
苦諦(くたい、梵: duḥkha satya, ドゥッカ・サティヤ、巴: dukkha sacca, ドゥッカ・サッチャ)とは、迷いの生存が苦であるという真理。苦しみの真理。人生が苦であるということは、仏陀の人生観の根本であると同時に、これこそ人間の生存自身のもつ必然的姿とされる。このような人間苦を示すために、仏教では四苦八苦を説く。
四苦とは、根本的な四つの思うがままにならないこと、出生・老・病・死である。これらに、下の四つの苦を加えて八苦という。
愛別離苦(あいべつりく) - 愛する対象と別れること
怨憎会苦(おんぞうえく) - 憎む対象に出会うこと
求不得苦(ぐふとっく) - 求めても得られないこと
五蘊盛苦(ごうんじょうく) - 五蘊(身体・感覚・概念・決心・記憶)に執着すること
非常に大きな苦しみ、苦闘するさまを表す慣用句の四苦八苦はここから来ている。
集諦
集諦(じったい、じゅうたい、梵: samudaya satya, サムダヤ・サティヤ、巴: samudaya sacca, サムダヤ・サッチャまたは苦集諦(くじゅうたい)とは、欲望の尽きないことが苦を生起させているという真理、つまり「苦には原因がある」という真理。苦しみの生起の真理。 集諦とは「苦の源」、苦が表れる素となる煩悩をいうので、苦集諦ともいわれる。集(じゅう(じふ))とは、招き集める意味で、苦を招き集めるものは煩悩であるとされる。
集諦の原語は samudaya(サムダヤ)であり、一般的には「生起する」「昇る」という意味であり、次いで「集める」「積み重ねる」などを意味し、さらに「結合する」などを意味する。したがって、集の意味は「起源」「原因」「招集」いずれとも解釈できる。
苦集諦とは "duḥkha samudaya-satya" とあるので、「苦の原因である煩悩」「苦を招き集める煩悩」を内容としている。具体的には貪欲や瞋恚(しんに)、愚痴などの心のけがれをいい、その根本である渇愛(かつあい, トリシュナー)をいう。これらは、欲望を求めてやまない衝動的感情をいう。
仏教において苦の原因の構造を示して表しているのは、十二縁起である。十二縁起とは、苦の12の原因とその縁を示している。苦は12の原因のシステムであって、12個集まってそれ全体が苦なのである。だから、無明も渇愛も、苦の根本原因であり、苦集諦である。
滅諦
滅諦(めったい、梵: nirodha satya, ニローダ・サティヤ、巴: nirodha sacca, ニローダ・サッチャ、苦滅諦, くめつたい)とは、欲望のなくなった状態が苦滅の理想の境地であるという真理。苦しみの消滅の真理。修行者の理想のあり方。なお、ニローダはせき止める、制止する、の意味。
道諦
道諦(どうたい、梵: mārga satya, マールガ・サティヤ、巴: magga sacca, マッガ・サッチャ、苦滅道諦, くめつどうたい)とは、苦滅にいたるためには、七科三十七道品といわれる修行の中の一つの課程である八正道によらなければならないという真理。苦しみの消滅に至る道の真理。これが仏道すなわち仏陀の体得した解脱への道である。
宗派ごとの扱い
有部教学の修証論
大乗仏教
顕揚聖教論巻七では、四諦の内容を分類して八諦とする。また、小乗の四諦観は不完全であるとするのに対して大乗の四諦観は完全であるとする。小乗の四諦観を有作の四諦と貶称し、大乗の四諦観を無作の四諦と称する。この両方を合わせて八諦ともいう。
法相宗では、滅諦に三滅諦を、道諦に三道諦を立てる。天台宗では四種の四諦(生滅の四諦、無生の四諦、無量の四諦、無作の四諦)を立て、これらを蔵・通・別・円の四教に配当する。
仏典における扱い
パーリ仏典
あらゆる道の中で八正道が最も優れている。
あらゆる諦(サティヤ)の中で四諦が最も優れている。
あらゆる状態の中で離欲が最も優れている。
あらゆる両足で立つ者の中で具眼者(仏陀)が最も優れている。
パーリ語経典は、釈迦はこの四諦のそれぞれを示(これこそ苦であるなどと四諦をそれぞれ示すこと)・勧(苦は知るべきものであるなどと四諦の修行を勧めること)・証(私はすでに苦を知ったなどと四諦を証したことを明らかにすること)の三転から説き(三転十二行相)、如実知見を得たので、神々と人間を含む衆生の中で「最上の正しい目覚め」に到達したと宣言するに至ったとする。
パーリ語経典長部の『沙門果経』では、四諦は、沙門(出家修行者、比丘・比丘尼)が、戒律(具足戒・波羅提木叉)順守によって清浄な生活を営みながら、止観(瞑想)修行に精進し続けることで得られる六神通の最終段階「漏尽通」に至って、はじめてありのままに知ることができると述べられている。
仏教学者の三枝充悳は、スッタニパータをはじめとする詩句を表現するパーリ語には異同が見られるとし、調査によって、1苦集滅道のみで四諦の語がない→2苦集滅道も四諦の語もある→3四諦の語のみあり、の順に発展して、四諦の語が広く知られてからは、とくに苦集滅道を説く必要性が消えたと推測している。
大般涅槃経における四諦
大乗の『大般涅槃経』の四諦品(したいぼん)では、通常の四諦に新しい大乗的な解釈を加えた、涅槃の教理的な四聖諦を説いている。
苦聖諦
この世の苦を明らかに徹見し、如来常住の真理を会得すること。また常住の法身を信じないことが生死の苦の根源であると知ること。
集聖諦
苦の根源は煩悩妄執であることを徹見し、それに対して如来の深法は常住にして不変易であり、窮まりないと證知すること。また非法を先とし正法を断滅することが生死の苦悩を受け集める原因であると知ること。
滅聖諦
苦の原因である一切の煩悩を除き、苦を滅することが悟りの境地であるが、如来の秘密蔵(ひみつぞう)を正しく知り修智(しゅち)すれば、煩悩があっても除くことができる。また、衆生の一人一人が自己に内蔵する如来蔵(にょらいぞう)(仏性)を信ずる一念が苦を滅するということ。
道聖諦
仏道修行を通して一体三宝(仏法僧は差別なく一体である)と解脱涅槃の常住不変易を知り、修習すること。また如来が常住不変易であるから、三宝の一体、解脱は涅槃経の2つも常住不変易であると知ること。 

四諦(四聖諦) 3

 

四諦(四聖諦)とは|仏教の根本の意味を解説
四諦(四聖諦)とは仏教の重要な教えです。四諦(四聖諦)を含めて、仏教の教え・言葉と言うと、漢字が並んで、難しく感じると思います。しかし、仏教とは「苦しみに悩まない人生の送り方」を研究に研究を重ねたお釈迦様がどんな人にも伝わるように、わかりやすく教えてくださったものなのです。人生の苦しみから解放されるために、お釈迦様が残した四諦(四聖諦)という重要な教えを、なるべくわかりやすくご説明いたします。
四諦(四聖諦)の読み方「したい(ししょうたい)」
四諦(四聖諦)は「したい(ししょうたい)」とそれぞれ読みます。どちらも同じ意味を持っています。一般的には四諦と呼ばれますが、同じものと考えていただいて大丈夫です。
四諦(四聖諦)の意味とは
四諦(四聖諦)とは、
どうして人生には苦しみがあるのか
どうすれば苦しみ悩まされないで安らかに人生を送ることができるのか
という人間誰しもが持つ疑問に答えるものです。ちなみに、四諦の「諦」という漢字が「あきらめる」の意味で使われますが、仏教において「諦」は「あきらめる」の意味ではありません。四諦の諦の意味は「真理」「この世の変えられない真実」です。または、「明らかにすること」とも解釈されます。
四諦(四聖諦)は「苦集滅道」の4つの項目
お釈迦様が先ほどの疑問に対して、出した答えの四諦(四聖諦)は
苦諦
集諦
滅諦
道諦
という四つの項目から成り立っています。四諦(四聖諦)それぞれについて解説いたします。
苦諦(苦聖諦)の意味とは
苦諦とは「人生は全てが自分の思い通りにならないことで悩みばかりのもの」を意味します。
このことは一切皆苦という仏教用語でも表現されますが、人生は苦しみばっかだと言われるとお釈迦様はなんてネガティブな人だと感じてしまうかもしれません。
特に昨今はポジティブシンキングが良いと考える心理学・脳科学の研究結果を根拠に多くの書籍もありますので、「苦諦と言って人生苦しみばかり」という仏教の考え方はどうなの?と思う人もいるかもしれません。
しかし、人生ではどんな人もこんな苦しみは避けられない四苦八苦という8つの苦しみを見ると、確かに苦しみばっかりかもしれないと感じるのではと思います。
四苦八苦|避けられないこの世の苦しみを具体的に言うと
四苦八苦は今では「大変苦労して」という意味の四字熟語で使われますが、元は仏教用語で人生の避けられない苦しみを意味していました。その8つの苦しみは、
生苦 / 苦しみの多いこの世界に生まれついたということは、生まれたこと自体が苦しみという意味や生きていること自体が苦しみだと解釈されます
老苦 / 老いていくことの苦しみ
病苦 / 病をする苦しみ
死苦 / 死は必ずやってくるという苦しみ(生老病死で四苦とも言う)
愛別離苦(あいべつりく) / 愛する人といつかは別れがやってくると言いう苦しみ
怨憎会苦(おんぞうえく) / 腹が立つ、憎い人間と生きていたら合わないといけないという苦しみ
求不得苦(ぐふとくく) / 求めるものが手に入らない苦しみ
五蘊盛苦(ごうんじょうく) / 私たちの心と体(≒五蘊)が苦しみを生む原因だということ
仏教用語が並んでしまいましたが、この8つの苦しみは生きていればどんな人も避けられないものと思いませんか?お釈迦様は2500年も前に誰もが避けられないこれらの人生の苦しみから解放される方法を研究に研究を重ねたのです。そしてたどり着いた解決策が集諦→滅諦→道諦という3ステップです。
集諦(苦集聖諦)の意味とは
集諦とは「人生に苦しむ原因は私たちの欲望(=煩悩)だ」という意味です。
どんな苦しみもその原因は私たちの欲望であると考えたら苦しみからは解き放たれると言うのですが、自分たちのせいではない苦しみだってあると思った方もいるかもしれません。
例えば、心から愛する人(ご両親、お子様、伴侶)やペットが、突如として病に倒れ、若くして亡くなったと考えてください。
この苦しみの原因は愛する人の命を奪った病が原因と考えるのが自然です。
しかし、お釈迦様はこの愛する人を失った苦しみ(愛別離苦)の原因も自分の欲望だというのです。(仏教では煩悩・渇愛と言う)
お釈迦様はなんて冷たいんだと感じますが、集諦の考えから紐解くと、この愛する人との不幸な別れによる苦しみの原因をこのように考えます。
人の命は有限で、誰しもがいつかは死ぬ(=真理)
その当たり前は頭でわかっていても、愛する人との幸せな日々を送っていると「いつまでもこの幸せが続けばいいな(欲望・煩悩)」が生まれる。
愛する人との幸せな時間には絶対に別れが来るというこの世の真理が欲望や煩悩によって見えなくなります。(永遠でなくとも、人並みに続くと考えるのは当たり前と思います)
しかし誰しもが死ぬというこの世の変えられないルールからは逃れられない。
逃れられないルールだとわかっていたはずなのに苦しむのは、欲望・煩悩がこの世の真理を忘れさせるから。
つまり欲望・煩悩が苦しみの元凶
このように考えるのが集諦です。愛する人との別れだけではありません。例えば自分は全く何もしていないのに、とても信頼していた人に裏切られて苦しい状況に陥ったとします。現実的にはこの問題の原因はどう考えても裏切った心ない相手でしょう。けれども、裏切られて苦しいという状況は、「うまくいくだろう、うまくいって欲しい」という人生に対する欲望・煩悩が原因ではありませんか。もし、相手を信頼しておらず、「うまくいかないかもしれない、うまくいかなくても仕方ない」と最初から思っていたら、裏切られた時に苦しい状況に陥ったとしても、信頼していた相手に裏切られた時と比べたらまだ心の苦しみは軽減されると思いませんか?このように、期待してしまう心・何かを執着する心は仏教では煩悩や渇愛、三毒の貪欲などと表現される言葉で表現されます。この世の苦しみの原因が煩悩とわかると、次の滅諦でその苦しみから逃れることができるようになると言います。
滅諦(苦滅聖諦)の意味とは
滅諦とは「苦しみの原因である煩悩を消し去り、苦しみのない境地に達する」という意味です。
集諦で煩悩が原因だとわかれば、さらにその煩悩の生まれる原因を知って、それを解決すれば苦しみから解放されると考えるのです。
煩悩の生まれる原因は「この世には絶対に変えられないルール(=真理)を理解していないこと」とであると言います。
この世の絶対に変えられないルール、つまり真理を表す言葉が、諸行無常と諸法無我という2つの言葉です。
この世の真理を理解し、煩悩を消し、正しい努力をすれば仏教の最終目標の「苦しみから解放された境地(=涅槃寂静)」に到達できます。
ではこの世の真理を理解してから、苦しみから解放されるために行う正しい行動は何かというと、それが道諦になります。
道諦(苦滅道聖諦)の意味とは
道諦は「苦しみから解放された境地(=涅槃)に達するための正しい行動(修行)である八正道を行うこと」を意味します。
お釈迦様が説いたこの世の真理を理解し、正しい行動である八正道をすれば、苦しみから解放されるのです。
この八正道についてはすぐ下で解説いたします。
四諦(四聖諦)をわかりやすくまとめると
少し長くなりましたので四諦(四聖諦)をもう一度わかりやすくまとめると、次のようになります。
苦諦 / この世は自分の思い通りにならず苦しみばかりの世界
集諦 / 苦しみばかりの世界であるのは、自分の欲望・煩悩が原因
滅諦 / この世の真理を知り、煩悩を消し去り、正しい行動をすれば苦しみから解放される
道諦 / 正しい行動とは八正道
このようになります。「苦しみには原因があって、原因を解決すれば、苦しみはなくなる」ということです。
四諦八正道の教え|仏教が他の宗教と違う点
それでは、苦しみから解放されるための正しい八つの行動である八正道をご紹介します。
ちなみに、今回「四諦とは」と四諦(四聖諦)について注目して解説していますが、元々は四諦八正道と言います。
この四諦八正道はお釈迦様が2500年前に初めて悟りの境地(涅槃)に達した後、一緒に修行をしていた仲間に悟りを開く方法を話した内容とされる、仏教の根本的な教えなのです。
ちなみに、八正道は「はっしょうどう」と読みます
八正道とは
八正道の具体的な中身について簡単にご紹介いたします。
正見(しょうけん) / 正しいものの見方・考え方を持つこと / 偏った見方(自己中心的な考えなど)で物事を見ないこと
正思惟(しょうしゆい) / 怒りや憎しみ等の感情にとらわれず、正しい考え方で判断をすること / 偏った考え方をせず善悪を正しく見極めること
正語(しょうご) / 嘘や悪口、二枚舌は言わず、正しい言葉を発すること / 正しい言葉遣いをすること
正業(しょうごう) / 殺生や盗みなど道にそれたことはせず、正しく生きること / 煩悩のままの行動を慎むこと
正命(しょうみょう) / 規則正しい生活を送ること
正精進(しょうしょうじん) / 正しい努力をすること / 正しく善悪を見極め、善行する努力をすること
正念(しょうねん) / 正しい志、意識を持つこと
正定(しょうじょう) / 正しい心の状態を保つこと / 正しい禅定(座禅)を行うこと
四諦と八正道に通ずる「中道」という教え
四諦・八正道は苦しみから解放されるための重要な教えです。
この四諦八正道を理解するには、お釈迦様が重要だと説いた言葉に「中道」という教えも重要になります。
八正道で、正しい見方、正しい考えなど「正しい」という言葉が何度も出てきましたが、そもそも正しいか正しくないかは人や置かれた立場によって変化するものではないかと思うかもしれません。
八正道で出てきた「正しい」というのがこの「中道」という考え方を意味します。
「中道」とは「偏らないこと」を意味します。
欲望や煩悩というものは私たちの考え方を自分の思い通りに進めたい方向に偏らせてしまいます。
中道はそういった、自分の欲望や煩悩による偏りをなくし、この世の事象を偏りのない眼で見て、考え、行動に移すということです。
四諦八正道と十二因縁の法門というこの世の法則
四諦八正道に加え、お釈迦様が説いた苦しみの原因の一つに十二因縁(十二縁起)という真理があります。
十二因縁はとてもシンプルに言うと、あらゆる苦しみの原因は「無明:知らないこと」であるということです。
苦しみから逃れるためには、苦しみの原因を取り除くこと(滅諦)が必要と考えたお釈迦様は、苦しみの原因を煩悩と教えました。
この煩悩に加えて、お釈迦様は「苦しみから解放されるにはどうすればいい?」ということを問いに対し、苦しみの原因を考えに考えた結果、十二因縁という真理も発見されます。
十二因縁について解説いたしますと、長くなるので、ここでは割愛させていただきます。
ちなみに、悟りを開くための行動の八正道と重なるところもある、六波羅蜜という悟りを開くための行動指針もあります。
色んな用語が出てきて、ややこしくなりそうですが、それは仏教の最も大事な教えが理解できると意外と複雑ではないと気づくことができます。続いてはそのことについてちょっとお話します。
四諦(四聖諦)と四法印の違い
仏教は聞きなれない言葉、見慣れない漢字が並び、それぞれの意味が複雑な説明によって、理解しがたくなっているかもしれません。
その一つに、同じ四と言う漢字がつく四諦(四聖諦)と四法印という言葉の違いとは?という疑問があるかもしれません。
この二つはどちらも関連したもので根本的に違うものではないと考えてください。
四法印は「仏教の最も大事な教えを4つにまとめたもの。ざっくり仏教とはこんな事を言っていますという言葉」
四諦(四聖諦)は「この世は苦しいにあふれた世界、その苦しみの原因と苦しみの原因を取り除く方法とはをまとめた言葉」
それぞれこんなイメージです。
実は四諦の解説の中で、四法印という仏教の最も大事な教えを言い表す4つの言葉は出てきていました。
四法印とは
仏教の最も大事な教えを表す四法印とは、以下の4つです。
一切皆苦(いっさいかいく) / この世は苦しみばっかり(=苦諦)
諸行無常(しょぎょうむじょう) / この世の真理の一つ「何事も永遠のものはない」
諸法無我(しょほうむが) / 諸行無常と同じくこの世の真理の一つ「あらゆる存在に実体はない」
涅槃寂静(ねはんじゃくじょう) / 諸行無常と諸法無我を理解し、この世が思い通りに行かない(=集諦)と分かれば煩悩に苦しむことはなくなり、悟りの境地(涅槃)に入ることができる(=滅諦)
涅槃寂静という仏教の最終目標には道諦という四諦(四聖諦)・八正道の教えを守ることが大事となるのです。
違う言葉の四諦(四聖諦)と四法印ですが、大まかには違わないですね。
仏教の教えというものは、例えるならその本体はとてもシンプルな白シャツであったのに、そこに様々な理解(教義)という名の柄が上からどんどん重ねられているようなものです。
その柄の一つがよく読まれる般若心経というお経です。
四法印という本来の白シャツのような基本の教えがわかれば、般若心経という上からつけられた柄の意味も何となく分かるようになります。
般若心経の「空」の概念は諸法無我がわかればイメージできるようになります。
そうしたら呪文のような般若心経は面白いことを言ってるなと思うようになります。
四諦(四聖諦)の意味が分かると
いかがでしたでしょうか。
なるべく仏教用語は少なくしましたが、重要な仏教用語は少し交えながら四諦(四聖諦)について解説いたしました。
四諦(四聖諦)というシンプルな考えは、仏教の重要な考えである因縁・縁起に通じます。
因縁・縁起と言うのは、「原因があって結果があるという因果」のことを意味します。
今の世の中でも、生活の問題を解決するには原因を突き止め、それを解決しますよね。
仏教はこの原因を追究して、追及した原因を解決するという考えがあらゆるところにあります。
四諦(四聖諦)を理解すると、その他にもたくさんの仏教の用語が理解できるようになります。四諦という原因を理解すれば、結果となる他の仏教の教えも理解できるとでも言えますね。
イメージすると、四諦(四聖諦)は足し算のようなものです。
小学一年生で足し算を習ったことに始まり、高校生では三角関数やら微分積分やらなんて普段の生活で使わない難しい概念まで勉強するようになります。
でも足し算はそんな難しい概念を理解するには、最初の一歩として絶対に大事ですし、難しい概念を勉強しなくても、普段の生活で絶対に必要です。
四諦(四聖諦)は仏教における足し算のような、様々な教えをきちんと理解するのに必要であり、人生において知っておくべきものと言えるのではないでしょうか。
仏教の場合は、三角関数とか微分積分などの専門職に入る人以外二度と使わないような概念はなく、どれも知って学びのあるものです。
例えば、四諦(四聖諦)の滅諦は小欲知足(足るを知り、際限のない欲望を抱かない)という教えにつながります。
たくさんの教えがある仏教ですが、まずは四諦(四聖諦)を知り苦しみに悩まされない考え方、八正道という具体的な行動を実践してみていただければと思います。 
 
四諦 4

 

1
《「諦」は真理の意》仏語。迷いと悟りの両方にわたって因と果とを明らかにした四つの真理。苦諦・集諦(じったい)・滅諦・道諦。この世はすべて苦であること、その苦の因は煩悩(ぼんのう)であること、その煩悩を滅すること、八正道の実践・修行が煩悩を滅した理想の涅槃(ねはん)に至る手段であるということ。苦集滅道(くじゅうめつどう)。四聖諦(ししょうたい)。してい。
2
四聖(ししょう)諦とも。諦はサンスクリットのサチヤsatyaの訳で真理の意味。釈迦の最初の説法に説かれたもので、仏教の実践的原理。苦諦・集諦(じったい)・滅諦・道諦の四つ。苦諦は 、この世は苦であるという真理。集諦は、苦の原因は世の無常と人間の執着心にあるとする真理。滅諦は、無常の世を超越し、執着心を断てば、苦は滅するという悟り。道諦は、滅諦に至るための修行の方法として 、八正道を知ることを意味する。
3
仏教で説く四つの真理(諦、サティヤsatya)のこと。四聖諦ともいう。仏教の開祖である釈迦は、ブッダガヤーの菩提樹下でこの四諦の真理を、あるいは十二因縁という縁起の法を悟ったといわれる。四つの真理とは苦諦 、集諦(じつたい)、滅諦、道諦の四つをいう。このうち苦諦とは、我々すべての存在は生老病死などの苦に悩まされる苦的存在であるという真理。集諦の集(じゆ)とは原因という意味で 、苦を生ずる原因は渇愛に代表されるこころの汚れ(煩悩)であるという真理。
4
〘仏〙 四つの真理の意。苦諦・集諦じつたい・滅諦・道諦の総称。十二縁起と並ぶ仏教の根本教理。四聖諦ししようたい。 → 苦集滅道くじゆうめつどう
5
仏教の中心となる術語。四聖諦(ししょうたい)ともよばれる。諦(たい)(サティヤsatya、サッチャsacca)とは真理、真実をいう。人生におけるもっとも根本的な真理、真実を4種に分けて四諦の名称がある。すなわち(1)苦諦(くたい)は、人生の現実は自己を含めて自己の思うとおりにはならず、苦であるという真実、(2)集諦(じったい)は、その苦はすべて自己の煩悩(ぼんのう)や妄執など広義の欲望から生ずるという真実、(3)滅諦(めったい)は、それらの欲望を断じ滅して、それから解脱(げだつ)し、涅槃(ねはん)(ニルバーナ)の安らぎに達して悟りが開かれるという真実、(4)道諦(どうたい)は、この悟りに導く実践を示す真実で、つねに八正道(はっしょうどう)(正見(しょうけん)、正思(しょうし)、正語(しょうご)、正業(しょうごう)、正命(しょうみょう)、正精進(しょうしょうじん)、正念(しょうねん)、正定(しょうじょう))による。この苦集滅道(くじゅうめつどう)の四諦は原始仏教経典にかなり古くから説かれ、とくに初期から中期にかけてのインド仏教において、もっとも重要視されており、その代表的教説とされた。なお四諦を釈迦(しゃか)の最初の説法とするのは、この反映によるとみられる。
6
名〙 (「諦」はsatya の訳。真理の意) 仏語。迷いと悟りの両方にわたって因と果とを明らかにした四つの真理。苦諦・集諦(じったい)・滅諦・道諦の四つ。苦諦は迷いのこの世はすべて苦であるということ。集諦はその苦の因は愛執であるということ。滅諦はその愛執を滅することが理想の涅槃の境界であるということ。道諦はその涅槃にいたる因として八聖道を実践修行しなければならないということ。四聖諦。してい。
7
四聖諦(ししょうたい) 仏教用語。略して四諦 (したい) ともいう。真理を4種の方面から考察したもの。釈尊が最初の説法で説いた仏教の根本教説であるといわれる。 (1) 苦諦 (この現実世界は苦であるという真理) 、(2) 集諦 (じったい。苦の原因は迷妄と執着にあるという真理) 、(3) 滅諦 (迷妄を離れ、執着を断ち切ることが、悟りの境界にいたることであるという真理) 、(4) 道諦 (悟りの境界にいたる具体的な実践方法は、八正道であるという真理) の4種。
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… 釈迦の時代のインドは、鉄器の利用により農産物が豊富になり富裕な商工業者が現れ、社会は爛熟し、旧来のベーダ、ウパニシャッドに基づくバラモン教に疑問をもつ自由思想家が多く輩出し 、釈迦もその中の一人であった。その教義は、中道、四諦(したい)、八正道、縁起、無我の諸説にまとめうる。中道とは当時の伝統的苦行主義と享楽的自由主義のいずれにも偏らない生き方をいう。…
…仏教で説く四つの真理(諦)のこと。四聖諦ともいう。仏教の開祖である釈迦は、ブッダガヤーの菩提樹下でこの四諦の真理を、あるいは十二因縁という縁起の法を悟ったといわれる。…
 

 

 
 

 

 
 

 

 
苦集滅道 (くじゅうめつどう)

 

1
仏教の根本教理を示す語。「苦」は生・老・病・死の苦しみ、「集」は苦の原因である迷いの心の集積、「滅」は苦集を取り去った悟りの境地、「道」は悟りの境地に達する修行。四諦(したい)。
2
[仏] 〔「苦集」は「くじゅ」とも〕 初期仏教の根本的な教義である四諦したいのこと。「苦」とは人間の生が苦しみであること、「集」とは煩悩ぼんのうによる行為が集まって苦を生みだすこと、「滅」とは煩悩を絶滅することで涅槃ねはんに達すること、「道」とはそのために八正道に励むべきであることをいう。四聖諦ししようたい。
3
[名] (duḥkha-samudaya-nirodha-mārga の意訳) 仏語。仏教の根本教理を示す語。苦は人生における苦しみで四苦八苦をさし、集は苦の原因である煩悩の集積のこと、滅はその煩悩を滅し尽くした涅槃(ねはん)を意味し、道は涅槃に達するための方法で八正道のこと。釈迦はこの理を悟って成仏した。四諦(したい)。くじゅめつどう。くずめつち。
4
四聖諦(ししょうたい) 仏教用語。略して四諦 (したい) ともいう。真理を4種の方面から考察したもの。釈尊が最初の説法で説いた仏教の根本教説であるといわれる。 (1) 苦諦 (この現実世界は苦であるという真理) 、(2) 集諦 (じったい。苦の原因は迷妄と執着にあるという真理) 、(3) 滅諦 (迷妄を離れ、執着を断ち切ることが、悟りの境界にいたることであるという真理) 、(4) 道諦 (悟りの境界にいたる具体的な実践方法は、八正道であるという真理) の4種。
 

 

 
 

 

 
 

 

 
八正道

 

1
仏教で説く実践の徳目。一般人の生存は苦であり、その苦の原因は妄執によって起るのであるから、妄執を完全に断ち切れば完全な悟りを得ることができると考え、その状態に到達するための修道法として説かれた8種の正しい実践をいう。すなわち 、正しい見解 (正見)、正しい思惟 (正思)、正しい言語行為 (正語)、正しい行為 (正業)、正しい生活 (正命)、正しい努力 (正精進)、正しい想念 (正念)、正しい精神統一 (正定) の8つをいう。
2
仏語。修行の基本となる8種の実践徳目。正見・正思惟(しょうしゆい)・正語・正業・正命・正精進・正念・正定(しょうじょう)。
3
八聖道、八支正道とも。原始仏教で重視された涅槃(ねはん)に至るための実践徳目で、釈迦の最初の説法における四諦(したい)の中では道諦に当たり、またその内容とされる。正見(立場)、正思(思想)、正語(言論)、正業(ごう)(行為)、正命(生活)、正精進(しょうじん)(努力)、正念(精神)、正定(三昧(さんまい))の8種。
4
涅槃に達するための八つの正しい実践行のことで、原始仏教以来説かれる仏教の代表的な修行方法。八聖道とも書く。八つとは、(1)正見(正しいものの見方)、(2)正思惟(正しい思考)、(3)正語(いつわりのない言葉)、(4)正業(正しい行為)、(5)正命(正しい職業)、(6)正精進(正しい努力)、(7)正念(正しい集中力)、(8)正定(正しい精神統一)の八つをいう。釈迦は 、それまでインドで行われていた苦行を否定し、苦行主義にも快楽主義にも走らない、中なる生き方、すなわち中道を主張したが、その具体的内容として説かれたのがこの八正道である。
5
仏教を一貫する実践の徳目。八聖道とも書く。以下に記す8種の道をつねに守り行うことによって、悟りが得られ、理想の境地であるニルバーナ(涅槃(ねはん))に到達されると説く。
(1)正見(しょうけん) 正しい見解、人生観、世界観。
(2)正思(しょうし) 正しい思惟(しい)、意欲。
(3)正語(しょうご) 正しいことば。
(4)正業(しょうごう) 正しい行い、責任負担、主体的行為。
(5)正命(しょうみょう) 正しい生活。
(6)正精進(しょうしょうじん) 正しい努力、修養。
(7)正念(しょうねん) 正しい気遣い、思慮。
(8)正定(しょうじょう) 正しい精神統一、集注、禅定(ぜんじょう)。
釈迦(しゃか)の教説のうち、おそらく最初にこの「八正道」が確立し、それに基づいて「四諦(したい)」説が成立すると、その第四の「道諦(どうたい)」(苦の滅を実現する道に関する真理)はかならず「八正道」を内容とした。逆にいえば、八正道から道諦へ、そして四諦説が導かれた。しかも八正道―四諦説は、後代の部派や大乗仏教においても、けっして変わることなく、出家・在家の別なく、仏教者の実践のあり方を指示して、今日に至る。
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… 釈迦の時代のインドは、鉄器の利用により農産物が豊富になり富裕な商工業者が現れ、社会は爛熟し、旧来のベーダ、ウパニシャッドに基づくバラモン教に疑問をもつ自由思想家が多く輩出し 、釈迦もその中の一人であった。その教義は、中道、四諦(したい)、八正道、縁起、無我の諸説にまとめうる。中道とは当時の伝統的苦行主義と享楽的自由主義のいずれにも偏らない生き方をいう。…  
 

 

 
 

 

 
 

 

 
四苦八苦 1

 

人生で頼りになるもの?「四苦八苦」の波が押し寄せる海を渡す大船
「四苦八苦」というと現代でもよく聞くし、使われる言葉ですね。非常に苦労している様子を表すときに使っていますが、もともとは仏教の言葉でした。仏教では、どのようなことを表しているのでしょうか。
生・老・病・死の四苦
まず、四苦とは人生の苦しみを大きく4つに分けたものです。
・生苦(しょうく)…生きることの苦しみ
・老苦(ろうく)…老いる苦しみ
・病苦(びょうく)…病の苦しみ
・死苦(しく)…死の苦しみ
1 生苦
生苦は、文字通り生きることの苦しみです。生きていくことは大変でしょう。
仕事がなくて職探しに苦しんでいる人もいれば、毎日遅くまで残業して心身をすり減らしている人もいる。結婚できなくて悩んでいる人もいれば、家族との関係がうまくいかずに苦しんでいる人もいる。お金を稼いで、衣食住を整えるだけでも大変なのに、それぞれの立場・環境で悩み、苦しみ、大変な思いをしているのが私たちなのです。
2 老苦
老苦とは、老いる苦しみです。現役時代は大きなけがもなく、風邪をひいたこともなく、健康そのもので仕事をバリバリこなしていた人も、年齢を重ねるごとにだんだん体が思うようにならなくなります。
「面影の変わらで年のつもれかし たとい命に限りあるとも」
このように歌ったのは世界3大美人の一人に挙げられる小野小町でした。美しい容姿であればあるほど、老いてゆく苦しみは大変なものではないでしょうか。
3 病苦
病苦とは、病の苦しみです。人間は病の器ともいわれ、様々な病気にかかる種をもっているそうです。
生涯のうちに何の病気にもかかったことがない、という人はまれなのではないでしょうか。
「病」という字はやまいだれの中に「丙」が入っています。かかった本人にとっては、どんな病気もつらく苦しいもの。どちらのほうが苦しい、などとは言えず、甲乙つけがたいということから丙という字が入っているのだとも言われます。それほど苦しいのが病苦でしょう。
4 死苦
死苦とは、死にゆく苦しみです。老いを知らず、病気にかかることもなく人生を終える人はありますが、死なない人は一人もありません。「死ぬほどつらい」と言ったりもしますが、生き物にとって最大の苦しみと言えるでしょう。
思い通りにならない世の中
この四苦に次の4つを加えたものが八苦です。
・愛別離苦(あいべつりく)…愛するものと離れる苦しみ
・怨憎会苦(おんぞうえく)…嫌なものと対面しなければならない苦しみ
・求不得苦(ぐふとっく)…求めているものが求まらない苦しみ
・五陰盛苦(ごおんじょうく)…五体満足しているがゆえの苦しみ
好きな人と会いたいのになかなか会えない一方、嫌いな人にはよく出くわす。欲しいものは手に入らず、悩み苦しみは絶え間ない。世の中はつくづく、思い通りにならないものです。
苦しみの海を泳ぐ私たち
お釈迦様は、「人生は苦なり」と言われました。また、浄土真宗の親鸞聖人は人生を海にたとえられて、「難度海(なんどかい)」とか「生死の苦海(しょうじのくかい)」とも言われています。苦しみ悩みの四苦八苦の波が次から次にやってくるのが人生だ、と教えられているのです。
私たちはその波を乗り越えるために、頼りになるものを探して海を泳いでいます。丸太や板切れなど、つかまるものがあれば一時ほっと一息つけますが、大きな波が来れば、丸太や板切れはとたんにひっくり返ってしまうもの。そうして塩水飲んで苦しみ、もっと頼りになるものはないかと再び海を泳ぎ始めます。
ひっくり返って苦しんでは次のものを求め、またひっくり返って次のものを求め…。人生とは、この繰り返しなのかもしれません。
「難度海」でたとえられていることについて、こちらの記事でも解説しています。
難度海には大きな船がある
親鸞聖人は、そんな苦しみの波が次から次へとやってくる難度海を明るく楽しく渡す大船があるのだよ、と次のように言われています。
「難思の弘誓(なんしのぐぜい)は難度の海(なんどのうみ)を度(ど)する大船」 (『教行信証』)
この大船にはどんな人でも乗せていただけるのだから、早く乗りなさいよと教えていかれたのがお釈迦様であり親鸞聖人なのです。
八苦
生・老・病・死の四苦しくに、愛別離苦あいべつりく(愛するものに別れる苦しみ)、怨憎会苦おんぞうえく(怨み憎むものと会う苦しみ)、求不得苦ぐふとくく(求めて得られない苦しみ)、五蘊盛苦ごうんじょうく(人間の身心を形成する色・受・想・行・識から起る苦しみ)の四を加えたもの。
四諦
四諦は苦集滅道(くじゆう-めつどう)というこの四つの真理で、原始仏教ではそれを知らないということが、この真理に対する無知が、すなわち無明だといわれている。四つの真理のうちでまず苦ということが一番初めに出てきているが、この苦ということの意味が現代人にとっては、その理解が非常にむつかしいものとなってしまっている。というのは、われわれは苦ということの意味を本当に理解しえないような時代に生きているからである。われわれにとっては快楽とか幸福とかということが、われわれの生の自明の目的とか第一の原理になっていて、苦というものの示す真理ということを深くきわめて自省するということはなくなってきている。しかし原始仏教では生老病死(四苦)、それから(五)愛するものと別れねばならない(愛別離苦)、(六)憎むものと会わなければならない(怨僧会苦)、(七)欲求するものがつねに得られない(求不得苦)と、(八)世界内存在としての人間の取着性が苦の根源である(略説五取薀苦)というもので四苦・八苦が示されている。最後のものは、さきの顕著な苦の事例に対して、全体の総括をなしている。
と、「この苦ということの意味が現代人にとっては、その理解が非常にむつかしいものとなってしまっている」云々とされているのだが、我々は、煩悩の背後にある無明を見つめる力が劣ってきているのかも知れないと思ふ。  
 
四苦八苦 2

 

四苦八苦の意味とは
四苦八苦の意味は「非常に苦労すること」で、「●●で四苦八苦する」などの使い方が一般的ですが、本来は仏教由来の言葉です。
四苦八苦は仏教由来の言葉
仏教での四苦八苦の意味は、現在一般に知られる四苦八苦の意味とは全く異なっていて、「私たちの人生の避けられない8つの苦しみ」を意味する言葉です。今回は四苦八苦の語源となった言葉などについてや、四苦八苦の8つの苦しみの意味を詳しく解説します。
四苦八苦の読み方は「しくはっく」
四苦八苦は「しくはっく」と読みますが、仏教由来の言葉といえども、日本でのみ使われる言葉です。
四苦八苦の仏教での意味
四苦八苦というのは、4つの苦しみと8つの苦しみという意味ではなく、4つの根源的な苦しみに、4つの苦しみを加えた8つの苦しみを意味していて、12の苦しみと言うことではありません。四苦八苦以外でも、仏教では「苦しみ」という言葉がよく出てくるのですすが、これらは「思い通りにならない」ことから感じる「苦しみ」を意味します。
そんな仏教における四苦八苦が意味する、8つの苦しみと言うのは、
生苦(しょうく)
老苦(ろうく)
病苦(びょうく)
死苦(しく)
愛別離苦(あいべつりく)
怨憎会苦(おんぞうえく)
求不得苦(ぐふとくく/ぐふとっく)
五蘊盛苦(ごうんじょうく)
この8つを意味します。最初の4つは生老病死(しょうろうびょうし)という四字熟語でもまとめられ、四苦に当たります。それぞれ詳しく意味を見ていきましょう。
生老病死の意味
生老病死という苦しみは、どんな生活を送っても、人間である限り絶対に避けられない、つまり思い通りにならない苦しみです。
   生苦|生きる苦しみ
生苦は生きることが苦しみという意味です。この後見ていく四苦八苦の他の苦しみは避けられず、人生は苦しみばかりなのだと考えます。仏教では一切皆苦(いっさいかいく)という、「人生全て苦しみ」と言う言葉まであります。楽しいことも幸せな時間もあるのに、仏教はなんてネガティブだと感じますが、楽しい時間、幸せな時間は一生は続かず、さらに楽しい・幸せという状況を奪われると、強い苦しみを感じるものです。「生きることが苦しみなのであれば、人生なんて送らなければいい」そう考えるのではなく、仏教では「苦しみばかりの世界」でどうやって苦しみから解放されて生きるのかという実践的な教えがあります。このことは後程ご紹介いたします。
   老苦|老いる苦しみ
老苦はそのまま、老いる苦しみです。老いることを肯定的に捉える人や、考え方もありますし、実際老いることによる美徳などもあります。しかし、体や頭が若い時と同じように働かなくなり、病気やけがにも苦しみやすくなりとやはり苦しみであると考えられます。
   病苦|病を患う苦しみ
病を患う苦しみもやはり、人生の中で避けられない大きな苦しみです。病は若い時、老いてから、どんな時でも苦しく、怖いものです。
   死苦|死ぬ苦しみ
そして、最後は死ぬという苦しみです。古今東西、古代の皇帝や王が不死の薬を部下に探せたり、祈祷をしたりなどをしましたが、やはり死ぬということは避けたいと思うのがほとんどの方の考えではないでしょうか。人間がどれだけ良い人生を歩み、どれだけそれを続けられるように努力しても、必ず死という終わりがやってきます。お釈迦様は生老病死の苦しみを目の当たりにし、その解決策とは何なのかを追求するために出家し、悟り(涅槃)の境地に達したのです。
ここまでは四苦八苦の四苦で、続いて、4つの苦しみを解説します。
愛別離苦の意味
愛別離苦とは、「愛する人・モノといつかは離れるという苦しみ」を意味します。「楽しい・幸せな時間」の一つに愛する人やモノなど、愛着を持って接する対象と過ごす時間があると思います。しかし、その愛する何かが突然この世から失われたことを想像してみてください。その愛が深ければ深いほど、それを失った時の苦しみ、絶望感は非常に大きくなると思います。また、例えば愛する人が別の人に奪われたなら、大きく傷つくばかりではなく、恨み、憎しみなど、普通なら感じたくもないような苦々しい感情が溢れ、人生は苦しみに覆われます。しかし、その愛する人や何かとはいつかはどんな形であっても必ず別れる時はやって来ます。この世には一生存在するものはありませんから、愛別離苦の苦しみは愛する何かがある限り、逃れることはできません。
怨憎会苦の意味
怨憎会苦は「憎い人、腹が立つ人と出会ってしまう苦しみ」を意味します。「この人だけは許せない、思い出しただけで腹が立つ」という人がいると思います。また普段の生活を送っている中で、どんな教育を受けたらと感じるようなひどい振る舞いをする人間と出会ってしまい、少し腹が立ったという経験もあると思います。完全に一人で生きることはほとんど不可能な現代社会で、憎い人、腹立たしい人との出会いは避けたいと願っていても、突然やってくるような、簡単には避けられるものではありません。
求不得苦の意味
求不得苦は「求めたものが得られないことの苦しみ」を意味します。努力しても、求めたもの全てが絶対に得られるということはほとんどないでしょう。世の中は全て自分の思い通りに回っているものではありません。努力して手に入れられるものもあれば、「人事を尽くして天命を待つ」という言葉もありますが、人の力だけではどうにもできないものもあります。求めるものへの気持ちが強ければ強いほど、それを得られなかった時には、大きな苦しみが生まれますね。
五蘊盛苦の意味
五蘊盛苦は「私たちの心や体は苦しみ」という意味です。五蘊(ごうん)とは私たちの心と体のことを意味していて、この心と体が思い通りにならないことで苦しみが生まれるということです。私たちが持つ意識(=心)と身体は「私たちのもの」と思って生きていると思います。しかし「私たちのもの」であるにもかかわらず、「私たちの思い通り」には動きません。どれだけ気を付けていても突如として病気になりますし、どれだけ気を付けても老いていきます。そんな苦しみを生む心と体は苦しみなのだというのが五蘊盛苦です。
四苦八苦の語源となる経典の言葉
『生も苦しみである。老も苦しみである。病も苦しみである。死も苦しみである。愛さないものと会うことも苦しみである。愛する者と別離することも苦しみである。すべて欲するものを得ないことも苦しみである。要約していうならば、五蘊の執着の素因(五取蘊)は苦しみである』邦語の「四苦八苦」という表現は、ここに由来するのである。
四苦八苦という言葉は後に、仏教の教義をまとめる中で生まれた言葉なのです。
四苦八苦という四字熟語の使い方とは違う
上記で見た通り、一般に知られる四字熟語の四苦八苦の意味と、仏教における四苦八苦の意味は大きく違います。一般に知られる四苦八苦は類語にある「七難八苦」のように、非常にたくさんの苦しみを意味します。
   四字熟語としての四苦八苦を使った例文
「足のケガの影響で、階段を上るのに四苦八苦する」
特定の状況などで苦しい状況に陥った場合などに使われます。
四苦八苦に対する仏教の教え
四苦八苦という人生で避けられない苦しみを含む、苦しみばかりの人生をどのように生きたら良いのか?お釈迦様・仏教は具体的な教えを与えてくれます。人生が苦しみばかりという問題を解決するために、お釈迦様は人生の苦しみの原因とはそもそも何なのかを徹底的に考えました。人生の問題に限らず、あらゆる問題には原因があってその根本的な原因を解決すれば問題も解決するというのは当たり前ですね。そしてお釈迦様が考えに感が得た結果、複雑に見える人生のあらゆる苦しみの原因が「煩悩(私たちの欲望)」であるという答えにたどり着いたのです。そしてこの煩悩という原因を消滅させれば、人生は苦しいものではなく、安らかで楽しいものになると説きました。
人生は苦しみばかりである
苦しみの原因は煩悩である
苦しみの原因の煩悩をなくせば苦しみは消滅する
そのためにすることとは?
この4つをまとめて四諦と言います。
仏教の教えはたくさんの漢字が出てきてとても複雑になっていますが、そもそもはとてもシンプルな教えです。そして、この四諦の最後の「そのためにすること」についても、仏教では八正道、六波羅蜜という教えがあります。実践が難しいのですが、知ってみると「なるほどな」と感じるものです。
仏教の最も重要な3つ(4つ)の教え
先ほどの四諦などとは別で、仏教の最も大事な教えもご紹介します。それは三法印(四法印)と呼ばれるもので、
一切皆苦(いっさいかいく) / 人生は苦しみばかりだ(四法印の際に追加される)
諸行無常(しょぎょうむじょう) / この世のすべては無常・不変であるものはない
諸法無我(しょほうむが) / この世のすべては無我・実体のあるものはない
涅槃寂静(ねはんじゃくじょう) / 苦しみから逃れた後に至る涅槃の境地(安らぎの世界)
というものです。
先ほどと考え方は変わりません。この世は苦しみばかり(一切皆苦)で、苦しみの原因が煩悩であって、その煩悩を消すことで苦しみから解放されます。その煩悩を消すために知っておくべき諸行無常・諸法無我というこの世の真理を知り、正しい努力をして、苦しみから解放された涅槃寂静という究極のゴールに到達するというものです。またさらに具体的に知りたいことがある方は、寺院に行ったりして法話を聞いて見るのもいいかもしれませんね。
四苦八苦は108の煩悩を意味する説
四苦八苦という言葉の意味は以上のようになりますが、四苦八苦という言葉は、苦しみの原因となる煩悩とつながると言われます。煩悩の数は、一説に108個あると言われています。四苦八苦という言葉を数字にしてみると、4989となります。そして、それらを次のような計算式に落とし込むと108という数字が出てくるのです。
4×9+8×9=108
四苦八苦というのはインドで生まれた言葉ではありませんので、これは後の世に出てきた説ではあるのですが、なんだか縁があるような気がして、とても興味深いですね。ちなみに108と言うと、除夜の鐘のつく数ですが、除夜の鐘は人の煩悩の数の108から由来しているのです。  
 
四苦八苦 3

 

「四苦八苦」は、世間では「車のタイヤがパンクしてスペアタイヤがなくて四苦八苦した」というように、苦労するという意味で使われます。ところが仏教では、あなたも決して避けられない、いつの時代、どこの国でも、すべての人が経験する、8つの苦しみを教えられているのです。
四苦八苦とは?避けられない苦痛の数々
仏教では、人生の苦しみを、大きく4つに分けたものを「四苦(しく)」といいます。
1.「生苦(しょうく)」
2.「老苦(ろうく)」
3.「病苦(びょうく)」
4.「死苦(しく)」の4つです。
お経には、『阿含経』に「生老病死は世の常法なり」とか、『涅槃経』に「生老病死は常に来たりて衆生を切る」などと説かれています。
四苦にさらに4つ加えたものを「八苦(はっく)」といいます。
5.「愛別離苦(あいべつりく)」
6.「怨憎会苦(おんぞうえく)」
7.「求不得苦(ぐふとっく)」
8.「五陰盛苦(ごおんじょうく)」
の8つです。これも『阿含経』や『涅槃経』に説かれています。このように「四苦八苦」といっても、12あるわけでなく、全部で8つです。では、それぞれどんな苦しみなのでしょうか。
1.生苦(しょうく)死ぬまで苦しむ……
「生苦」とは、生きる苦しみです。
生まれる苦しみとわれる場合がありますが、仏教で私たちが生を受けるのは、出産のときではなく、お母さんのお腹に宿るときですから、「生まれたときの苦しみ」では、本人は自覚がありません。四苦八苦を説かれたのは、苦しみを知らせるためですから、この世に生を受けて、生きていくことが苦しみだ、ということです。
生きるためには、衣食住をそろえるために、働かなければなりません。一日のほとんどの時間を働いて、他の人と競争し続けなければなりません。天下を統一し、成功者といわれる、徳川家康でも、「人の一生は重荷を背負って遠き道を行くがごとし」というように、重荷という苦しみをおろせず、死ぬまで歩き続けなければなりません。生きるということは、大変な苦しいことなのです。
2.老苦(ろうく)あなたの容姿が醜くなる
「老苦」とは老いの苦しみです。
30代になれば、今までできたことが、どんどんできなくなっていきます。
物覚えは悪くなり、動きはにぶくなって、疲れやすくなります。肌はシワより、顔も醜くなり、加齢臭を発し、髪の毛も白くなります。
年が行くほど、趣味もできなくなり、新しいことは覚えられなくなり、楽しみが少なくなっていきます。
昔の友達もだんだん死んで行き、人は寄りつかなくなり、一人ぽっちで寂しい生活になり、しばらくして自分も死んでいきます。老いるというのは、苦しいことなのです。
3.病苦(びょうく)─死因の9割は病気─
「病苦」とは病の苦しみです。若い頃も、色々な病気になりましたが、年をとって、最終的には病気で死ぬ人が9割です。
中でも日本の死因のトップは、ガンです。50%の人がガンにかかり、30%の人がガンで死にます。
ガンは最初は自覚がなく、痛みもないのですが、気づかないうちに血液やリンパ液に乗って全身に転移していきます。そして、神経がやられると、ビリビリジンジンして痛くて夜も眠れなくなります。骨や筋肉や関節、皮膚にも浸食していき、一種類の薬では痛みは治まりません。骨転移には、放射線治療を行いますし、薬物治療や手術の痛み、抗がん剤の副作用による吐き気、便秘もあります。
やがて骨と皮ばかりにやせてくるのは、ガンの特徴で、やせればやせるほど、身体が弱ってガンの進行は加速します。体内が腐って悪臭を放つので、家族がよりつかなくなり、小さい孫は口に出して「くさーい」と言うので、精神的にも大きなショックを受けます。
ガンは治すことができないので、このようにまっしぐらに死へ向かって進んで行くのです。
4.死苦(しく)人生最悪の苦しみ
「死苦」とは死の苦しみです。
死を自覚すると、今まで必死でかき集めてきたお金も、名誉も地位も何の支えにもなりません。一切が光を失い、「自分の人生は何だったんだろう」という生きる意味が分からない苦しみが起きてきます。これを「スピリチュアル・ペイン」といわれます。肉体の痛みは、薬である程度とれますが、スピリチュアルペインは、医学ではなすすべがありません。
愛する家族とも永遠に別れ、自分がこの世に存在しなくなります。死んだらどうなるかという途方もない恐怖が起きてきます。
遅かれ早かれ、死は誰にでも訪れますから、死は200%確実な未来なのです。
5.愛別離苦(あいべつりく)会うは別れの始め……
「愛別離苦」とは愛する人や物と別れる苦しみです。
「会うは別れの始め」「会者定離(えしゃじょうり)」と言われ、出会ったからには、どんなに愛する人とも、最後は必ず別れて行かなければなりません。
江戸時代・化政文化を代表する俳人・小林一茶は、晩年になって、ようやく待ち焦がれた子供が生まれました。
「さと」と名づけたその長女は、生まれて一年も経つと、他の子供が持っている風車を欲しがったり、夜空に浮かぶ満月を、「あれとって」とせがんだり、たき火を見てきゃらきゃらと笑います。
そのかわいいかわいい一人娘の、あどけないしぐさをいとおしむ情景が、一茶の代表作「おらが春」に描かれます。
ところがそんな時、突如、さとは当時の難病、天然痘にかかってしまいます。びっくりした一茶、必死に看病しますが、さとはどんどん衰弱し、あっという間にこの世を去ってしまいます。茫然自失、深い悲しみが胸にこみ上げ、一茶はこう詠んでいます。
露の世は つゆの世ながら さりながら(小林一茶)
露の世は、露のような儚いものと聞いてはいたけれど……。かわいい娘を失った悲しみは胸をうちふるわせ、あふれる涙に、もはや言葉が継げません。一茶の決してあきらめることのできないむせび泣きが聞こえてくるようです。
そして最後は、愛するすべての人と別れて、自分が死んで行かなければなりません。
6.怨憎会苦(おんぞうえく)憎い奴には会う
「怨憎会苦」とは、会いたくない人や物と会わなければならない苦しみです。
学校では厳しい先生や、むかつく友達に会わなければならず、会社では、偉そうな上司にいじめられ、嫌みな同僚の嫌がらせにあいますが、毎日朝から晩まで顔を合わせなければなりません。
結婚すれば、感覚の違う姑と会わねばならず、息子が結婚すれば、我がままな娘を迎え入れて、顔を見るのも嫌な人同士で同棲しなければなりません。
そして人生の最後は、絶対あいたくない死と対面しなければならないのです。
7.求不得苦(ぐふとっく)欲しい物は手に入らない
「求不得苦」とは、求めるものが得られない苦しみです。
欲しいものがあっても、お金がないので、たいていは我慢しなければなりません。
大学受験では、できれば一番入りたい大学に入りたいですが、定員が決まっているので、全員が入れるわけではありません。
就職活動でも同じです。せっかく就職できても、ポストは限られているので、同期が全員出世できるわけではありません。出世すればするほど、それ以上の出世は難しくなっていきます。
欲望は限りがないので、手に入るものは手に入る限り欲しいのですが、お金も能力も限られているので、手に入りません。
そして命にも限りがあるので、すべてのものを手に入れることはできません。究極的には永遠の命が欲しいのですが、死ぬことは避けられないので、どうしても手に入れることはできません。やがて必ず死んでいきます。
8.五陰盛苦(ごおんじょうく)まとめ
「五陰盛苦」の「五陰」は肉体(心身)のことで、「五陰盛苦」とは、肉体あるがゆえの苦しみのことです。これまでの7つを総括されたもので、この肉体によって、苦しみながら、老いて病気になって死んで行くのです。
この四苦八苦の8つの苦しみの中でも、特に人生を苦しみに染めているのは、死の大問題です。
その死の大問題を解決して、変わらない幸福にすることが、仏教の目的です。 
 
四苦八苦 4

 

1 .
非常に苦労すること。たいへんな苦しみ。もと仏教の語で、あらゆる苦しみの意。▽「四苦」は生しょう老・病・死の四つの苦しみ。「八苦」は「四苦」に愛別離苦あいべつりく(親愛な者との別れの苦しみ)、怨憎会苦おんぞうえく(恨み憎む者に会う苦しみ)、求不得苦ぐふとくく(求めているものが得られない苦しみ)、五蘊盛苦ごうんじょうく(心身を形成する五つの要素から生じる苦しみ)を加えたもの。
2
苦労に苦労を重ねること。たいへんな苦しみを受けること。思うようにいかず、苦労しているさま。
3
非常に苦労、また、苦悩すること。「借金に追われて四苦八苦する」。仏語。人間のあらゆる苦しみ。生・老・病・死の四苦と、それに愛別離苦・怨憎会苦 (おんぞうえく) ・求不得苦 (ぐふとくく) ・五陰盛苦 (ごおんじょうく) を加えた八苦。
4
仏教用語。人間の苦悩の原因をあげたもの。 (1) 生れること (生) 、(2) 老いること (老) 、(3) 病気をすること (病) 、(4) 死ぬこと (死) の4つを「四苦」といい 、人間の根本的な苦悩とする。これに愛する者と別れる苦しみ (愛別離苦) 、怨み憎しむ者に会う苦しみ (怨憎会苦) 、欲しいものを手に入れることができない苦しみ (求不得苦) 、人間の身心を形成する物質的、精神的現象から苦しみが盛んになること (五陰盛苦) の4つの苦しみを加えて「八苦」という。
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仏教で人間の苦悩の原因をあげたもの。生・老・病・死の四苦、およびそれに愛別離苦、怨憎会苦(おんぞうえく)、求不得苦(ぐふとくく)、五蘊盛苦(ごうんじょうく)の四苦を合わせたもの。
6
仏教の術語。釈迦(しゃか)は人生の現実を直視して、自らの思うままにならぬもの・ことの満ちあふれているさまをつきとめ、それを苦とよんだ。それは自己の外部だけではなくて、自己の内にもあり、究極は人間の有限性とそれから発する自己矛盾とに由来する。その苦を分析すると、生(しょう)(生まれる)・老・病・死の四苦が最大であり、ついで、愛するものと別れなければならない(愛別離苦)、怨(うら)み憎むものと出会わなければならない(怨憎会苦(おんぞうえく))、求めても得られない(求不得苦(ぐふとくく))、いっさいは苦に満ちている(五蘊盛苦(ごうんじょうく))の四つがあげられて、あわせて八苦とされる。これらは避けようとしても避けられず、むしろそれら苦のありのままをそのまま知り体験を深めることによって、それからの超越すなわち解脱(げだつ)を釈迦および仏教は説く。のちにこの四苦八苦の語は広く日常語化されて、とくに激しい苦をさしていうようになっている。
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仏語。人間のあらゆる苦しみの称。四苦は生苦、老苦、病苦、死苦。八苦は四苦に、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦の四つを加えたもの。※平家(13C前)灌頂「人間の事は愛別離苦・怨憎会苦、共に我身にしられて侍らふ。四苦八苦一つとして残る所さぶらはず」。(━する) 非常に苦しむこと。また、苦労すること。※浄瑠璃・曾根崎心中(1703)道行「断末魔の四く八く」。「四苦」「八苦」とも仏典に見られる語。
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生、老、病、死の四つの苦しみと、憎い者と出会う苦しみ怨憎会苦、愛する者と別れる苦しみ愛別離苦、求めるものが得られない苦しみ求不得苦、迷いの存在であること自体が苦しみであるとする五陰盛苦、計八つの苦しみを四苦八苦という。語義.から転じて、大変苦労をしている様。但し、ニュアンスとして、深刻さに欠ける場合や自嘲的に用いられる傾向がある。
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仏教における苦(ドゥッカ, dukkha)の分類。
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財政状態が非常に逼迫して居ることをいふ。
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非常に苦しいこと。仏家にて、生、老、病、死の四苦に、愛別離苦、五道成苦、求不得苦、怨憎会苦を加へて八苦いふ。〔僧侶語〕
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非常に苦しむこと。大変苦労すること。 「金策に−する」。[仏] 生老病死の四苦に、愛別離苦・怨憎会苦(おんぞうえく)・求不得苦(ぐふとくく)・五陰盛苦(ごおんじようく)の四苦とを併せたもの。人間のあらゆる苦しみ。
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仏教語。四苦とは生(しょう)・老(ろう)・病(びょう)・死(し)、八苦とは愛別離苦(あいべつりく)<愛するものと別れる苦>、怨憎会苦(おんぞうえく)<怨み憎まねばならないものと会う苦>、求不得苦(ぐふとっく)<求めて得られない苦>、五蘊盛苦(ごうんじょうく)<総じて人間の活動による苦>の四苦に先の生老病死の四つを足して八苦。日常生活のなかでもなにげなく使われていそうだが、「この間の試験に四苦八苦したよ」という学生を想像することは最近では難しくなって来たような気がする。
もちろん、「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき」という林芙美子の言葉が、しっかりと頭に刷り込まれている昭和の団塊世代以上の方であれば、四苦八苦は日常語であろう。しかし、「花といえば『世界にひとつだけの花』でしょう」と反応する平成の子どもたちには、「苦」は人生にあるはずがないものになりつつある。老人は施設に、病人は病院に送られ子どもたちの目には見えなくなり、死者は遠くの葬儀会場で世間に隠れるようにして消えてゆく。子どもどうしはお互いに傷つかないように距離をとって付き合い、欲しいものは何でも手に入る。生活空間からは「苦」が慎重に排除されている。しかし、それだからこそ、自分の思い通りにならない「いじめ」などの「苦」に遭遇すると、多くの人々が混乱してしまうのではないか。
さらにその子どもたちが老人になるころには、iPS細胞の応用による難病の治療が可能になるだろう。難病に苦しむ方には朗報であろう。しかし、その一方で「老・病」という苦は解消され、「死」という苦も遠い未来に先送りされるということになっているかもしれない。「生む」ということも思い通りになっているかもしれない。四苦八苦のうち少なくとも四苦は、死語になってしまう。しかし、そうなると今度は「自然に老いることができない」や「寿命で死ぬことができない」などと新たな苦が登場する。四苦八苦も新たな意味を携えて復活するのだろうか。
四苦八苦を人間の自然として受容するところに仏教の智慧の歩みは始まる。その智慧を基本にしなければ、文明は苦を排除したつもりが、かえって新たな苦を生みだすだけであろう。
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生老病死の四苦に愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦の四つを足したものを四苦八苦という。最初の四苦、生老病死は生き物としての人間の苦しみ。愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦は社会的苦しみ、五蘊盛苦は前の七つの総括と考えられる。
・生苦・・・生まれる苦しみ。
生きる苦しみではなく、生まれる苦しみ。生まれるのがどうして苦しみなのか。生まれる以前は、自己は世界とひとつであった。世界そのものであった。それに肉体と精神いう枠組みを与えられるのが、生まれるということ。世界と一体の海からの自分というものの波立ち。生まれたばかりの赤ん坊には、多分まだ分別は無い。母親を認識するのが、最初の分別。それから5年経ち、10年経ち、世界はこのようにバラバラに分かれてしまい、本来無かった自我まで形成されて、あたかも有るように見えてしまう。 
・老苦・・・老いていく苦しみ。
齢をとり、足腰が弱り、眼は遠くなり、歯は抜け、今まで普通に出来ていた事が出来なくなる。だんだん体が思うようにならなくなる。
・病苦・・・病気の苦しみ。
動く事も難しくなり、機械につながれ、だんだんやせ細ってゆき、死を考えるようになる。
・死苦・・・死の苦しみ。
自我が消え去る恐怖。本来死ぬとは、また一体の世界に還る事なのだが、この肉体と精神という枠組みに囚われた我々は、そこに自我という無いものをあたかも有るように思い、その自我を失うことを恐れる。肉体と精神という枠組を使う主体と考える自我は、妄想であり、錯覚である。
・愛別離苦(あいべつりく)・・・愛する者と別離すること
家族や知人、どんなに大切な人ともいつかは分かれなくてはならない。最終的には、必ず人は死によって引き裂かれる。しかし死とは無になることではない。全てになることである。そこを良寛さんは、形見とてなに残すらん 春は花 夏ほととぎす 秋はもみじ葉 と歌った。自分は死んでも春は花になり笑おう、夏はほととぎすとして鳴こう、秋はもみじとして色づこう。という意味です。良寛さんは死んで世界になっている。 
・怨憎会苦(おんぞうえく)・・・怨み憎んでいる者とも交わらなければならない
仕事をしていれば、誰もが思うことです。また親戚関係、ご近所の関係、知人の関係、とにかく人間関係のあるところには、全てこの苦しみがついてきます。何故他人を嫌うのか。多分お互い我を張り合っているから。自我をぶつけ合っているから。本来なかった自我を、成長とともにあるように錯覚した自我のぶつけあいが原因。
・求不得苦(ぐふとくく)・・・求める物が得られないこと
私たちには、あれが欲しいこれが欲しいと欲があります。美味しいものが食べたい。ブランドのバックが欲しい。海外旅行に行きたい。しかし、その多くはかなえられない。高邁な願いであっても、かなえられない事が多い。たとえば平和。世界のどこかで人と人が殺しあっている。人種が違うから、宗教が違うからと戦っている。日本人のほとんどが、平和を願ってもそれはかなわない。求不得苦、求めても得られない。
・五蘊盛苦(ごうんじょうく)・・・存在の苦しみ。
この世界に、肉体と精神という枠組みを与えられ、私たちは生まれて来てしまった。海から波立って生まれ来てしまった。そして、本来ない自我も年齢とともに発生して、世界はこのように分節した存在になった。これは元一体の海だったものが、存在という波になってしまったことが、原因である。存在する事、あること、それ自体を仏教は苦と捉える。しかし、良く考えれば、波は海で出来ている。この肉体という波も、精神という波も、みな海で出来ている。その海を仏という。我々は、仏の波立ちなのである。そこに仏教の救いを観るべきであろう。
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・・・それで四苦八苦、考えに考えぬいた末が、一人で土地を逃げるという了見に・・・ 国木田独歩「女難」
・・・二人は四苦八苦しながら、子供の要求を叶えてやった。しかし、清吉が病気・・・ 黒島伝治「窃む女」
・・・実情ある言葉、平田が四苦八苦の胸の中、その情に迫られてしかたなしに承・・・ 広津柳浪「今戸心中」
・・・それで四苦八苦、考えに考えぬいた末が、一人で土地を逃げるという了見になりました、忘れもいたしません、六月十五日の夜、七日の晩から七日目の晩でございます、お幸に一目逢いたいという未練は山々でしたが、ここが大事の場合だと、母の法名を念仏の・・・ 国木田独歩「女難」
・・・二人は四苦八苦しながら、子供の要求を叶えてやった。しかし、清吉が病気に罹って、ぶら/\しだしてから、子供の要求もみな/\聞いてやることが出来なくなった。お里は、家計をやりくりして行くのに一層苦しみだした。 暮れになって、呉服屋で誓・・・ 黒島伝治「窃む女」
・・・けれども、西宮が実情ある言葉、平田が四苦八苦の胸の中、その情に迫られてしかたなしに承知はした。承知はしたけれども、心は平田とともに平田の故郷に行くつもりなのである――行ッたつもりなのである。けれども、別離て見れば、一しょに行ッたはずの心にす・・・ 広津柳浪「今戸心中」
・・・肥料さえ買えぬ農村の四苦八苦の生活の中から稼ぎ手の若者を奪いとられて、われわれはどうする? 戦争になったからと云って、三百万の失業者は決してなくならぬ。益々労働条件は悪化し、戦争準備の金輸出再禁止で物価は三割がた上り、肥料の価さえ上った・・・ 宮本百合子「国際無産婦人デーに際して」
・・・流達聰明な先生の完成された老境というようなものと、私の女としての四苦八苦のばたばた暮しとは、我ながらいかにもかけちがった感じだった。 その親にたのまれて一二回作品を見てやったというだけの若年の娘にも、先生はお目にかかるかぎり懇切丁寧で、・・・ 宮本百合子「時代と人々」
・・・それをよけようと四苦八苦してバランスをとりそこねている父。遂にころげ落ちた父が、哀れややっと起き直って前方を眺めると、自転車ばかりが非人情にも主人をのこして遙か彼方へ進行している。そういう絵がペンとインクで描いてありました。 子供たち私・・・ 宮本百合子「写真に添えて」 
 
四苦八苦 仏教の目的は「抜苦与楽(ばっくよらく)」です 5

 

四苦八苦の語源
(質問) 日常会話でもよく「トラブルの対処に四苦八苦した」と言いますが、四苦八苦の語源は、仏教にあるのでしょうか。
(答え) 四苦八苦の語源は仏教にあります。
約2600年前、お釈迦様が35歳で仏のさとりを開かれた第一声は「人生は苦なり」でした。人生の苦しみを四つに大別したものを「四苦」、それに四つ加えて「四苦八苦」と教えられています。いずれの世、いずこの里でも受けねばならぬ人間の苦しみを、八つにまとめられたもので、お釈迦様自身も、王様の子として生を受け、文武の才能に恵まれながら、それでも無くならぬ苦に驚かれたのでした。
「四苦」とは、「生苦(しょうく)」「老苦(ろうく)」「病苦(びょうく)」「死苦(しく)」の四つです。
○生苦 ── 生きる苦しみ
○老苦 ── 老いの苦しみ
○病苦 ── 病の苦しみ
○死苦 ── 死の苦しみ
そして、この四苦に、次の四つを加えて「八苦」といわれます。
○愛別離苦(あいべつりく) ── 愛する人や物と別れる苦しみ
○怨憎会苦(おんぞうえく) ── 会いたくない人や物に会わねばならぬ苦しみ
○求不得苦(ぐふとっく)  ── 求めるものが得られぬ苦しみ
○五陰盛苦(ごおんじょうく)──「五陰」は肉体のこと。肉体あるがゆえの苦しみ。前の七つを総括したもの
生苦(しょうく)
生きる苦しみです。
「人生は地獄よりも地獄的である」と言ったのは芥川龍之介ですが、すべての人が苦しんでいる。生きるために衣食住をそろえるのも大変ですが、たとえそれらが満たされても、親子や夫婦、友達や会社の上司、同僚らとの人間関係で苦しんでいる人が多いのではないでしょうか。あらぬ誤解をされ悶々としたり、心ない一言に傷ついたり。逆に「あんなこと言わなきゃよかった」と不用意な発言を後悔することもあります。新聞の人生相談欄を読むと、「世の中には、そういう苦しみもあるのか」と驚くことがあります。生きること自体の苦しみを「生苦」と言われるのです。
老苦(ろうく)
年を取ると、耳は遠く、目は薄くなる、髪も抜けるし歯も抜ける、腰が曲がって、物忘れはひどくなる。さっき薬を飲んだのを忘れる。「わしのメガネどこいった?」と眼鏡をかけながら捜す。リューマチやら神経痛やら関節炎やら、ちょっとつまずいて骨折すると、なかなか治らない。
美貌の衰えは、特に女性にとって耐え難い。世界の三大美女の一人・小野小町は、「面影の変わらで年のつもれかし たとえ命に限りあるとも」と歌っています。鏡を見て、白髪が一本増えていると発見してさえ、食欲がなくなる。「アンチエイジングだ」とシワやほうれい線を消す整形手術をしたり、脂肪吸引したり、エクササイズでなんとか体型を保とうとしても、限界がある。「長生きすれば恥多し」で、美しい人ほど老苦は深刻なもののようです。
病苦(びょうく)
肉体は病の器、いつ病気になるやら分かりません。しかも、どんな病でも、自分のかかっている病が一番つらいと皆がそれぞれに思っているので、病の苦しみは「甲乙つけがたい」から病垂(置)の中に「丙」という字が使われているそうです(諸説あり)。
死苦(しく)
なんといっても嫌なものは「死」。放射能汚染が怖い、地震や津波は嫌だ、ガンになりたくない、というのも結局、「死」が恐ろしいからです。
愛別離苦(あいべつりく)
愛する人や物と別れる苦しみ。手に入れたものは、いつか手離さなくてはならない。毎日きれいにお手入れしているこの肉体さえ、やがて焼いて灰になる。死んでゆく時には、金や財産、何も持ってゆけずに、独りぼっちで逝かねばならないのだ。
お釈迦様はこれを「独生独死 独去独来(どくしょうどくし どっこどくらい)」 (独り生まれ独り死に、独り去り独り来たる) と仰っています。悲しいことですが、誰も否定できる人はないでしょう。
怨憎会苦(おんぞうえく)
怨み憎んでいる、嫌な人や物と会わねばならない。あの人嫌やなあ、と思っている人とはよく会う。今日はこっちの道を行こうと思って行ったら、また会った。向こうも同じことを思っていた。あの人の隣の席にはなりたくない、端のほうに座って離れようと思っていたら、相手も同じでまた隣になる。難しいものです。「あの人が吐いた息を、同じ部屋で吸うのも嫌」という人があるほど、これもひどい苦しみです。試験や災害、事故に遭うのも、この怨憎会苦といえましょう。
求不得苦
求めても得られない苦しみ。世の中、自分の思いどおりになるものではありません。「朝夕の 飯さえこわし やわらかし 思うままには ならぬ世の中」「世の中は 一つかなえば また二つ 三つ四つ五つ 六つかしの世や」 と歌われているように、何かが得られても、何かが足りない。それぞれ置かれた立場で皆苦しんでいます。
五陰盛苦
五体満足、肉体あるが故に苦しむことで、これまでの七つをまとめたものです。
これら四苦八苦は、誰もが受けてゆかねばならぬ苦しみです。仏教では古今東西の人類に共通したことが説かれています。一つの苦しみを乗り越えてヤレヤレと思う間もなく次の苦しみがやってくる。これが人生の本当のところではないでしょうか。
これら苦しみ悩みの波が、次々と襲ってきてアップアップしているから、人生を「難度海(なんどかい)」と海に例えて、仏教では教えられています。私たちは、苦しむために生まれてきたのではなく、みんな幸せになるために生きているのではないでしょうか。四苦八苦の波に揉まれ溺れ苦しんでいる私たちが、心から安心満足できる道が、どこにあるのでしょうか。仏教を説かれたお釈迦様は、多くの人の苦しみに耳を傾け、その苦しみの原因を明らかにされ、幸せへと導いていかれました。
お釈迦様が仏教を説かれた目的は「抜苦与楽(ばっくよらく)」です。抜苦与楽とは、苦しみを抜いて、楽しみ、幸せを与えるということです。お釈迦様は、多くの人の苦しみを抜いて、幸せを与えていかれた方です。 
 
四苦八苦 6

 

生苦(しょうく)
お釈迦さまは、「人生は苦なり」と仰せになっています。その「苦」には、例えば、二苦(内苦=自己の心身より起こる苦、外苦=外的作用により起こる苦)、三苦〔苦苦=不快なものから感じる苦、壊苦(えく)=好きなものが壊れることから感じる苦、行苦=ものごとが移り変わることを見て感じる苦〕などがあるといわれます。
これらの苦しみを、お釈迦さまは、まとめて生・老・病・死の四苦として大きく問題にされ、その解決のために出家されたのでありました。さらにこの四苦に愛別離苦(あいべつりく)・怨憎会苦(おんぞうえく)・求不得苦(ぐふとっく)・五蘊盛苦(ごうんじょうく)の四苦を加えたものを八苦と言われています。つまり前の四苦は、人間の生きものとして起こる苦しみであり、後の四苦は、人間が人間であるために味わう苦しみを言われたものです。
この苦しみは、人生において避けて通れない苦しみです。かけがえのないこの世の生き方を考えるとき、この四苦八苦に対する心構えが根源になければなりません。
生苦とは、人としての基盤、生まれ、生きるすべての苦しみのおおもととなるのです。まさに人として生まれることによって、すべての苦しみがつきまとっています。
親鸞聖人は、このような生苦を背負って生きているすべての人が救われなければならない、この生死(しょうじ)の苦海を渡る道は、阿弥陀仏の本願念仏の一道を信ずるほかないと、生涯を説法することに完全燃焼されたのでありました。
老苦(ろうく)
お釈迦様が、人生は苦なりと仰せになっていますが、その中には老いることの苦しみが含まれています。誰しも歳はとりたくない、老いたくはないと考えますが、避けて通ることが出来るでしょうか。
一般に歳をとると、体が自由に動かない、視覚や聴覚も衰える、バランスがとりにくい、動作がにぶくなる、物忘れが激しくなる等感ずることであります。医学の立場からも、骨折、失禁、痴呆を老人の三大症候群と言っています。
老醜はありて老美は辞書になしと言われますように、老いた人、古くなったものは、くたびれたもの、間に合わないものという通念がありますが、そういう概念だけで処理は出来ない筈です。老苦という言葉が示すように、確かに老いは苦であります。しかし美しく老いた姿には、若者に見られない安らぎがあります。長い年月を通して風雪に耐え、人生の悲しみも喜びも味わってきた老人には、深く美しい年輪が刻まれて、そこはかとなく安らぎを感じさせるものがあります。常に前向きの心を崩さない老人には、強靭な力さえ感じることがあります。
肉体は衰えるが こころの眼がひらく 人間の晩年は面白い
今まで生きて  いのちの深さが見えてきた
法悦の詩人 榎本栄一さんの詩です。いのちの尊厳に目覚め「こころの眼がひらく」ことによって、自由無碍の世界をゆったり歩むことが出来るのでありましょう。
病苦(びょうく)
お釈迦様は、人間には生・老・病・死の四つの苦しみがあることに気付かれ、その苦しみからどうすれば逃れるかという思いから出家されて苦行のすえ悟りを得られました。
病には病状の軽いものから不治の病まであります。現在ではガン、心疾患、脳卒中が三大生活習慣病として恐れられています。
健康の裏側には病苦がある。それは逃れたいと思っても逃れられない事実であって、誰でもさけて通れないものであります。
では、病苦をどう受けとめたらよいのでしょうか。それは病を得たことで病を肯定し、そこから生かされているわが身に気付かせてもらうことであります。
ガンを告知された知人が、「元気な時は分からなかった親鸞聖人のみ教えが、自分が病気になって、初めてわが身にしみて伝わってくる。」と話してくれました。「病気になったあと、あれこれ悩み、迷信に走ったりしなくても、安心してまかせられる尊いみ教えを聖人は一生かけて、私達のために説いて下さった。それを信じて生きていけば、何も心配はいらない。」というのです。
生死の苦海ほとりなし ひさしくしづめるわれらをば
弥陀の悲願のふねのみぞ のせてかならずわたしける  『龍樹菩薩第7首』
と和讃される聖人のおことばを信じて生きていくことこそ、苦しみをのりこえていくことだと思います。
死苦(しく)
生・老・病・死(しょう・ろう・びょう・し)という四苦(しく)は、身体面からみた代表的な苦です。この中でも死に対する苦は、その最たるものでしょう。ある人が、死苦の起因する問題点を3つに分けて発言していました。その1は、どんな死に方をするか。その2は、この息が止まる時の苦しみはどんなものか。その3は、死後はどうなるのかということです。これらはすべて未知、未経験のことばかりですから3点の思いが重なり合って、不安や恐れ怖さがこの上なく増すわけでしょう。
また或る大金持ちが主治医に「私は死ぬのが怖いです。お金ならどれだけでも出しますから、私を死から救って下さい。」と懇願したという話があります。どれほど地団駄踏んで泣き叫んでも、逃れることが出来ないと承知していながらも、このように頼む心が出てくる程「死苦」は根が深く重いということです。
『御書(ごしょ)』のいたるところに「後生(ごしょう)の一大事に心をかけて、仏法を聴聞(ちょうもん)せよ」と説かれています。これは即ち「死苦」に対する説法です。後生は、死後のことです。一大事は、これ以上の大事なことはないという意味です。
私のいのちは、この身体の生、死にかかわらず前世、現世、後世の三世を貫通して、しかも因果応報(いんがおうほう)の道理によって受け継がれていくものであると仏教は説いて下さっています。
だから、死後のことは、生きている間に仏法を聞いて、はっきりさせておくことが何よりも肝要であります。
愛別離苦(あいべつりく)
「愛別離苦」とは、原始経典によれば「愛しいものと離れることも苦である」とされます。これは、愛するものとか、いとしい人とかが愛であって、それと離別する苦しみということです。いかなる愛にも、別離のない愛はなく、いつかは必ず別れなければならないというのがこの世の真相であり、それが愛と別離する苦と呼ばれます。
私たちは人をいつくしみ、物を大切にしなければならないと考えて生きています。しかし、その愛情が大きければ大きい程、それを失った時の苦痛も増大することとなるのです。では、愛することをしなければ良いのかというと、愛なくして生きることの出来ないのが現実で、この矛盾の構造の中に生きているのが人間の姿であり、苦界であるということです。
また、仏教では「愛」を、他をいつくしむという意味よりも、愛執(あいしゅう)・渇愛(かつあい)・欲愛(よくあい)とされるように、人間の自己中心的な執着(しゅうちゃく)、すなわち煩悩の意で解されています。よって、この愛執の炎がさかんになることによって、苦悩に迷い続けなければならないとされるのです。まさに生死(しょうじ)の大苦海に浮き沈んでいる煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫(ぼんぶ)の姿といえましょう。
その煩悩具足の凡夫が、そのままに、罪障を滅して、さとりの世界であるお浄土に往生させていただくのは、お念仏の他にないことを示してくださっているのが、親鸞聖人の次のご和讃です。
恩愛(おんない)はなはだたちがたく  生死はなはだつきがたし
念仏三昧(さんまい)行じてぞ  罪障(ざいしょう)を滅し度脱(どだつ)せし  『高僧和讃 龍樹讃第10首』
怨憎会苦(おんぞうえく)
「怨憎会苦(おんぞうえく)」とは、私たちが生きる上で必ず出会わなければならない苦しみであるとされます。この苦しみは、前の「愛別離苦(あいべつりく)」と表裏となる真理であります。私たちは、好ましいものを近づけ、好ましくないものを遠ざけようとしてしまいます。しかし、そのようにならないのが現実で、これが苦の根源となるのです。
自分自身がこうしようと考えていても、その通りに行動できないことが多々あります。自分自身の場合だと、簡単にあきらめがつくのですが、他の人が相手の場合だと、簡単には了承しかねます。かといって、人間は独りぼっちでは生きられません。常に他の人との関わりの中にしか生きられないのです。
身近な例では、嫁と姑との対立があります。お互いが相手のことを思い、気に入られようとする思いが強いほど、それが相容れられない時に怨みや憎しみを抱くことになってしまうのです。それを避けて、別居してしまえば良いのかというと、それでは家族関係が崩壊してしまいます。やはりお互いに助け合い、支え合わないと生きてゆくことは出来ません。
私が憎いと思っている人こそが、自分にとっては大切な人であり、自分のことをしっかりと気に懸けてくれている人なのではないでしょうか。ちょっと相手の身になって考え直してみませんか。
愛する人との 別れもつらいけど 会いたくない人に
会うのも苦しみ なんだよ 怨憎会苦 というんだね  相田みつを
求不得苦(ぐふとっく)
求めて得ざる苦しみを求不得苦と言い、四苦八苦の1つに数えられているものであります。「人生は苦なり」とは、すでにお釈迦様が教えておられることですが、思うことが思うようにならないのが苦の本質であります。
欲しいものがあれば、それを手に入れることに躍起(やっき)になり、無理を通し、他を押しのけ、自分の思うようにならなければ、腹を立て、ねたみ、心が静まることがありません。また、自分に直接かかわりがないとなると、つい無関心になってしまいます。
自分の思うようになる、自分の願望が満たされることが幸せだと思っているとすれば、それは例え一時的に実現したとしても、必ず崩れさってしまうのが常であります。
お釈迦さまが説いておられますように、この世の中は、すべて縁起(えんぎ)(因縁生起)の理に従って展開するのでありますから、必ずしも思うようにならないのであります。
他人の意志ではなく、自分自身の意思でさえも思うようにならないことを思えば、思うようにしようとすることさえ、むなしい事ではないでしょうか。しかし私達は常にすべてを自分の思うようにしよう、あれも欲しい、これも欲しいと考えて生きているからこそ、苦から逃げることが出来ないと思うのであります。
栃木県の人で、生活の中で仏法を味わい著書も多い相田みつをさんは、「損か得か、人間のものさし。うそかまことか、仏さまのものさし」と述べられています。
五蘊盛苦(ごおんじょうく)(ごうんじょうく)
「五蘊盛苦」は四苦八苦の最後に説かれる総括的な教えです。五蘊とは5つの集まりで、人間は肉体である色(しき)と精神である受(じゅ)(感受作用)・想(そう)〔表象(ひょうしょう)作用〕・行(ぎょう)(形成作用)・識(しき)(識別作用)とが和合して構成されています。まさに煩悩具足の私たちの在り方そのものを示しています。
家の中で寝ている時などには、トラブルに巻き込まれたり苦しみにさいなまれたりすることは少ないのですが、外で活発に活動すると、様々な軋轢(あつれき)を生じて苦しみに遭遇することが増してしまいます。
だからといって、何もしないでじっとしている訳にはいきません。より良いことを求めて努力しなければならないと考えて、頑張らざるを得ないのです。
だから、生きようとすればするほど四苦八苦の苦脳に陥ってしまうのです。その原因が私たちの自己中心的な欲望である煩悩(ぼんのう)の仕業だとお釈迦様は説かれています。その煩悩を自力の努力によって断(だん)じるのではなく、その煩悩にまみれた私を、何とか救い導いて悟りを得さしめようと願い求めて下さっているのが阿弥陀如来のご本願です。
人生には常に苦楽がつきまとうのです。生死無常(しょうじむじょう)の世にあって、極悪深重(ごくあくじんじゅう)ののがれがたい私たちをこそ救わんと働いてくださっているのが本願成就(ほんがんじょうじゅ)のお念仏なのです。このことを聖人は次のように和讃されています。
生死の苦海ほとりなし  ひさしく沈める我らをば
弥陀の悲願の船のみぞ  乗せて必ず渡しける   『高僧和讃 龍樹讃第7首』  
 
四苦八苦 7

 

「いつまでも若く、いつまでも健康で、死ぬときはポックリと、というのが一番の望みではないですか」と、申しましたら、 皆さん大笑いされました。残念ながら、そうは行きません。「嫁いらず観音」という名前は何とひどい、何と人を傷つける名前だろうと思います。「お嫁さん」の立場からすれば「そんなに私に世話になるのがイヤなの!」ということになります。 「ポックリ逝きたいけど、これだけはどうにもならない、すまないけどあなた方の世話になることもあると思う」と言えば、 どんなにか「今」嫁と姑の関係が良くなるだろうに、と思うのは私だけでしょうか。「アンタは男だからわからないのよ!」と言われれば何も言いようはありませんが・・・。
四苦は「生・老・病・死」のことです。自らに必ず起こってくる、この苦しみを解決するため釈尊(お釈迦さま)は出家されました。 二十九歳のときでした。経典は釈尊のお言葉を次のように伝えています。
「若さの驕(おご)り」
愚(おろ)かな凡夫は、みずから老い行くものであるにもかかわらず、他人が老衰したのを見て、悩み恥じ嫌悪(けんお)している。私もまた、老い行くものであるにもかかわらず、このことは私にふさわしくないと言って、他人の老衰したのを見て、悩み恥じ嫌悪するであろう。
私がこのように観察したとき青年時代における若さの意気は全く消え失せてしまった。
「年寄り笑うな行く道だもの、子供しかるな来た道だもの」とおっしゃった方がありますが、 私達は自分がその時になってやっと気付くのです。「他人ごとではなかった」と。選挙に「若さが売り物です!」と叫ぶ立候補者がいます。何と愚かなことか、あなたから「若さ」が無くなったら、 あなたの値打ちは何なのだ! そう思う私は既に年を取った、ということでしょう。「若さをねたんでいる」ということなのでしょう。 その私も若い頃には「仕事は年でするもんじゃない」とおごっておりました。
少なくとも今まで重ねてきた年齢の倍は生きることはできない、と気付いたときから若さをねたみ・うらやむという「老」の苦しみが始まったということでしょうか。

中には風邪くらいひいたけど大した病気はせずに長寿であった、という方もあります。「同病、相憐(あわ)れむ」と言う言葉がありますが、病気、それも簡単には治らない病気にかかった方の苦しみは 健康な方には理解し難いことだと思われます。
「病気」そのものの痛み・苦しみはもちろん辛(つら)いことでありますが、その「病気」を因として起こる様々なことがより 人を苦しめます。病院での生活を余儀なくされ、あるいは長期の在宅治療をしなければならないとき、働くことの出来ない・社会参加できない、 経済的に家族の生活に与える影響・・・。 
先に大きく報道されたハンセン病のように伝染するのではないかと隔離された人々は、人間として生きることを社会から 否定されてきました。外見からは病気だと判別できない病気もあります。働けない事が他人から理解されない苦しみを負わされます。治療方法の無い病気もあります。「いつか治る」という希望は持てません。私たちは明日は今日より良くなる、 という思いを支えに生きている、と言っても過言ではないでしょう。明日は今日より、明後日はより苦しみが増す、と感じたら「絶望」しかありません。
誰しも病を得たくはありません。しかし、病気にならないとは限りません。今、健康な方も「他人事ではなかった」 と感じる時が来ないとは限りません。
釈尊(しゃくそん)はこの苦しみを超える道を求められたのです。仏法は魔法ではありません。 病気にならないようには「魔」をもってしてもできません。今、生きているこの場で他をうらやまず、ねたまず輝いて生きることが出来る、それが仏の教えです。
「自分だけがこんな不幸を背負わされて」と、いくら嘆いても苦しみは増すだけでしょう。

若い頃は「死」は怖くない、「死」に至る苦痛が怖い、などとほざいておりました。数年前、五十になったとき、「折り返し点は過ぎたな、まちがっても今まで生きた人生の倍は生きられないだろうな」と感じました。母の生きた年齢を超えますとその感がより強くなります。また、同じ年頃の知人も何人かが亡くなりました。
私達は、自分を絶対なものだと思っています。「お前はつまらん奴だ」とか「お前は役に立たん」などと 自分が否定されると腹が立ちます。それだけでも情けなく、どうしようもなくなるのに、「死」ということはこの世から消え、無くなることですから、 考えたくもありません。
年齢を重ねれば、より以上に「生」に執着するようになります。私にとって「消え去る自分」などということは 「あってはならない」ことなのです。いわばこの私が「全面否定される」のです。口では「人間一度は死ぬもんじゃ」などと判ったことのように申しますが、いざその時になったら私はどうすればいいのだろう、 と思います。
最近では殺人事件が報道されない日が無いほどです。こんなことで他人を殺すのか、というほどの動機で人を殺しているように感じられます。 自分の「命」がいとおしくないから、他人の「命」も大きなものではないのかもしれません。限りがあるこの私の「命」です。バラバラの身体を縫(ぬ)い付けても「命」はできない、不思議です。 「明日がある」と信じられるから生きられる、ということもありましょう。が、「明日がない」から 今日、この一瞬を大切に生きられるということでしょう。
期限を切られた命です。この人生を「こんなはずじゃなかった」と思わないで終わらせる、そんな生き方を探りたいものです。
「死んだら終わりよ」と言う方もあります。そうでしょうか?
親鸞聖人は次のようにお教え下さいます。
安楽浄土にいたるひと 五濁(ごじょく)悪世(あくせ)にかへりては 釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)のごとくにて 利益(りやく)衆生はきはもなし (浄土和讃) 意訳 / お浄土に往生なさった方は、この娑婆世界で苦悩を抱えながら生きている私達の心に還(かえ)って、お釈迦様のように 悩み、苦しみにとらわれている私達の心を解放する作用(はたらき)をしてくださいます。

生・老・病・死の四苦に次の、四苦を加え八苦になります。それらは愛別離苦(あいべつりく)・怨憎会苦(おんぞうえく) ・求不得苦(ぐふとっく)・五蘊盛苦(ごうんじょうく)です。
「愛別離苦(あいべつりく)」馴染(なじ)みのある言葉です。愛するものと別れなければならない苦しみ、です。ことに肉親の「死」は御文章(蓮如上人のお手紙)に 「六親眷属(ろくしんけんぞく=すべての親戚)あつまりて、なげきかなしめども、さらにその甲斐(かい)あるべからず」 とお示しのように、いかんともし難い思いをもたらします。過日、別れた妻と子に合わせろと、立てこもり、ついには幼い姪(めい)を刺し殺した事件もありました。「愛」は自分の一方的な気持ち=心です。男女の別れ話から事件が起こることもあります。 「愛するもの」への執着(しゅうぢゃく)は殊(こと)のほか強いものです。
「怨憎会苦(おんぞうえく)」は嫌いな人と一緒に居なければならない苦しみです。心当たりはないですか? たくさんいらっしゃるのではないかと思います。職場に、近所に、いや、同じ屋根の下にも、「あいつがいなければ」と思う人が。これも、しんどいことです。「いじめ」が学校や職場で問題になります。それは私の心に起こる「怨憎会苦」が元になります。
「求不得苦(ぐふとっく)」は求めているもの・欲しいものが満たされない苦しみ、のことです。
「五蘊盛苦(ごうんじょうく)」とは「五蘊」の働きが盛んなことから起こる苦しみ、を言います。 私たちの存在は「色(物質=肉体)」と「受(感受作用)」・「想(知覚表象作用)」・「行(意思、その他の心作用)」 ・「識(識別作用)」の五つの要素からなっています。これを「五蘊」といいます。これらの「苦」は新たな「苦」をもたらします。
「生(しょう)」はこれらの「苦」をもたらす「因」です。生きている私たちはこれらの「苦」を持たざるを得ません。 「苦を抜き、楽を与える」のが仏の教えです。
仏教は「諦(たい)」ということをいいます。「諦める」は「あきらめる」ことではなく、「明らかに見る」ことです。 私たちの目はものごとを「明らかに見る」ことができません。その目を「無明(むみょう)」といいます。阿弥陀如来は「明らかに見る眼」を私たちに開かせてくださいます。
 
四苦八苦 8

 

「四苦八苦」は、世間でもよく苦労するという意味で使われます。例えば、「お金の調達に四苦八苦した」とか、「今のプロジェクトを進める上で、専門外のことをする必要があって四苦八苦した」などのように、一般的に難しいことや、苦手なことに直面した時に四苦八苦するといいます。ところが、この四苦八苦はもともと仏教の言葉で、語源はお釈迦さまの説かれた8つの苦しみのことです。そして、これを知らせることが、私たちを本当の幸せに近づけることになるのです。四苦八苦とは、一体どんな意味なのでしょうか?
四苦八苦を仏教で教えられる理由
仏教では、苦しみを根本から解決して、本当の幸せになれる道を教えられています。ところが、勢力があるとか、お金があるとか、地位が高いとか、栄耀栄華を極めているくらいの楽しみで「人生バラ色」だと思っていたら、本当の幸せを明らかにされた仏教を聞きたいという気持ちが起きてきません。そこでお釈迦さまは、そんなお金や地位で勢いがあるくらいで「人生は楽しい」と思ってしまう迷いの深い私たちですので、そんなものは一時的な儚い幸せで、私たちは決して苦しみから逃れることはできないことを教えられているのです。苦しみから逃れられないことを知らされて初めて、その苦しみの原因を知って、取り除いておきたいという気持ちが起きてきますから、お釈迦さまは私たちを本当の幸せに導くために、私たちの逃れることのできない四苦八苦を教えて「人生は苦なり」と教えられているのです。
ではどのように教えられているのでしょうか?
四苦(しく)とは
お釈迦さまは、人間が生きて行く上で、4つの苦しみから逃れることができないと教えられています。そのことを親鸞聖人は、『目連所問経』にこう説かれていると『教行信証』に教えられています。
豪貴富楽自在なることありといえども、ことごとく生老病死を免るることをえず。 (教行信証)
この「生老病死」の4つの苦しみを「四苦」といいます。どんなに勢いがあり、地位が高く、お金持ちで、栄耀栄華を極めていても、生老病死の四苦を免れることはできない、ということです。
「四苦」とは、詳しくいえば、「生苦」「老苦」「病苦」「死苦」の4つです。それぞれどんな苦しみなのでしょうか?
1.生苦(しょうく)
「生苦」とは、生きる苦しみです。生まれる苦しみという人もいますが、それは過去のことで、誰も覚えていないので、お釈迦さまが四苦を説かれた目的からすると、生まれたからには生きるために苦しむことになるので、生きるために味わう苦しみのことです。
生きるには、まずお金が必要になります。お金を稼ぐために働くと、毎日同じ事のくり返しです。生きるためには、やりたくないことでも、毎日繰り返さなければなりません。こんなことをして何のために生きているんだろうと思えてきます。
ある程度お金に困らなくなっても、色々な人間関係に苦しみます。会社で目立たないように上司に言われる通りにしていても、面白くありません。自分の思いを通そうとすると、目立つので、出る杭は打たれます。家に戻れば夫婦の人間関係や、子供や親との人間関係など、人数が増えるほど、色々なトラブルが起きてきます。
好きなことをやって生きている人でも避けることはできません。文豪といわれる夏目漱石でも「知に働けば角が立つ。情に竿させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくこの世は住みにくい」と言っているほど、生きる苦しみはどんな人にも絶え間なくやってくるのです。
2.老苦(ろうく)
そうやって色々なトラブルに対処しながら生きていると、「光陰矢の如し」で あっという間に年をとってきます。「老苦」とは、年老いる苦しみです。「騏も老いては駑馬に劣る」といわれるように、若い頃はやり手だった人も、年をとってくると、普通の人ができることもできなくなります。アメリカの大統領として、かつては国際的に大きな影響力をふるった人でも、年をとって認知症になり、簡単なパズルもできなくなってしまった人もありました。
肌のつやはどんどんなくなり、しわやしみが増え、ルックスは醜くなり、太りやすくなったり、疲れやすくなります。目も見えなくなり、耳も聞こえなくなり、車の運転も思うようにできなくなってきます。外から家に帰っても、つい今しがた、自分の財布をどこにおいたかも思い出せなくなってきます。
こうして若い頃は社会で活躍した人でも、長生きすればするほど他人の世話なしでは日常生活もできなくなり、介護してくれる若い者から子供扱いされたり、子供から邪魔者扱いされるようになってくるのです。
3.病苦(びょうく)
「病苦」とは、病気の苦しみです。
どんなに健康に気をつけていても、病気になる時はなります。昨日まで元気に仕事をしていた人でも、病気になると、とたんに働けなくなります。無理をおして職場に行けば、上司や同僚からうつさないでくれよと、ばい菌のように疎まれます。
虫歯になれば、夜も眠れなくなります。頭痛で何も手につかなくなるときもあります。
年をとると、身体が弱ってきて、ますます病気になりやすくなります。若い頃は何ともなかったのに、ある時突然ぎっくり腰で腰痛になり、動けなくなります。
糖尿病になると、最初は自覚がありませんが、加速度的に進行して神経症になったり、腎臓がやられたり、目が見えなくなったりします。糖尿病は、進行を遅らせるだけで、治ることはありません。腎臓がやられて人工透析が必要になると、週に何回も病院で高額の医療を受けなければならなくなります。
ガンも最初は自覚がありませんが、日本人の2人に1人はガンになります。末期になると治すことはできず、大変な苦痛を受けて、死を待つばかりとなります。
4.死苦(しく)
「死苦」とは、死ぬ時の苦しみです。「死ぬほど辛いことはない」といわれますが、死ぬ時には心も身体も大苦悩を受けます。お金や財産、地位、名誉や家族など、今まで成し遂げたり手に入れて、心の支えにしたり、生きがいとしていたすべてを置いて、一人ぼっちで死んで行かなければなりません。蓮如上人はこう教えられています。
まことに死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も財宝も、わが身には一つも相添うことあるべからず。されば死出の山路のすえ・三塗の大河をば、唯一人こそ行きなんずれ。 (御文章)
いよいよ死んで行かなければならない時には、今まで必死でかき集めてきたお金も財産も、地位も名誉も何一つ頼りにはなりません。みんな別れて、一人で真っ暗な後生に旅立っていかなければならないということです。
生きるということは、この一番苦しい死に向かって一日一日近づくことですから、死苦は誰も逃れることはできないのです。
八苦(はっく)とは
八苦とは、四苦にさらに4つの苦しみを加えたものを八苦といいます。七高僧の5番目の善導大師は、主著『観無量寿経疏(かんむりょうじゅきょうしょ)』にこう教えられています。
八苦の中に、生苦・老苦・病苦・死苦・愛別苦を取りて、これを五苦と名く。更に三苦を加うれば即ち八苦となる。一つには五陰盛苦、二つには求不得苦、三つには怨憎會苦なり。そうじて八苦と名づく。 (観無量寿経疏)
八苦とは、生苦、老苦、病苦、死苦の四苦に、「愛別離苦」「怨憎会苦」「求不得苦」「五陰盛苦」の4つを加えた8つの苦しみを言うのです。この苦しみから逃れられる人はありませんから、善導大師は続けてこう教えられ、親鸞聖人も『教行信証』に引用されています。
五苦・八苦等は、六道に通じて受けて、いまだ無き者はあらず。常にこれに逼悩す。 (観無量寿経疏)
四苦八苦は、六道輪廻している迷いの衆生で受けない者はなく、常に追い詰められて悩まされている、ということです。では、八苦のあと4つの苦しみは、それぞれどんな苦しみなのでしょうか?
5.愛別離苦(あいべつりく)
「愛別離苦」とは、愛するものと別離する苦しみと書くように、好きな人を失う苦しみのことです。
浄土真宗の3代目の覚如上人は『口伝鈔』にこう記されています。
人間の八苦のなかに、さきにいうところの愛別離苦、これもっとも切なり。 (口伝鈔)
愛別離苦は、八苦の中でも、最も切なく、身に染みる苦しみなのです。
素敵な人との出会いは胸がときめきます。ところが、会うは別れの始めといわれて、ときめく出会いは、別れの第一歩です。いろいろな人と出会いますが、出会いっぱなしという人はありえません。出会いの数だけ別れがあります。「こんにちは、赤ちゃん」という日があっても、必ず別れる日が来ます。
愛する人を失うというのはどんな人にとっても生木を引き裂かれるような苦しみです。あんまり失っても悲しくも辛くもない場合は、自分にとってあまり大切な存在ではなかったからです。愛していればいるほど別れが辛くなります。
これは人だけではありません。私たちが大事にしているお金や財産もそうです。手にいれた瞬間から、もう必ず手放すことに定まっています。自分のたてた家が、地震で崩れたり、火事で燃えたり、だんだん古くなって、雨漏りがして朽ち果てていきます。せっかく築いた地位も定年退職で降りる日がきます。才能や若さ、記憶力も、視力や聴力も、だんだん衰えて、最後は最も愛している自分の命を失わなければならないのです。
6.怨憎会苦(おんぞうえく)
「怨憎会苦」とは、怨み、憎むものと会わねばならない苦しみです。 私たちは会いたい人にはなかなか会えませんが、会いたくない人にはばったり会います。周りのすべての人から好かれている人はありませんので、誰しも苦手な人や相性の悪い人があります。小さい頃から、嫌なクラスメートやいじめてくる人があります。上司や同僚で考え方の合わない人がいても、会社で働いていれば、毎日会わなければなりません。同じ部屋の空気も吸いたくないという人もあります。
中には、「結婚する前は一番好きだったのに、結婚したら一番嫌いな人になった」と驚いている人もあります。
私たちは一人で生きて行くことはできませんから、必ず人の集まりの中で生きています。一人一人利害も異なりますし、必ずうまくいかない人とも一緒に生きていかなければならないのです。そして、やがて誰も会いたくない、老いや病と会わねばならない苦しみ、最後は一番会いたくない死と会わなければならない怨憎会苦がやってくるのです。
7.求不得苦(ぐふとっく)
「求不得苦」とは、求めているものが得られない苦しみです。
私たちは何かを求めて生きています。一番求めるのは、お金です。お金を求めて生きています。あるいは異性を求めて生きています。あるいは名誉求めて生きています。 ノーベル賞を目指している人は、名誉を求めて生きています。このように、生きているということは、何かを求めています。
ところが、求めているものは、簡単に手に入りません。ノーベル賞は、簡単にもらえません。好きな人は、簡単に手に入りません。得られずに苦しみます。どうしたら手に入るのだろう、と苦しみます。
たとえ小さな目標を達成しても、喜びは驚くほど一時的で、すぐに次の目標が出てきます。どこまで行っても、これで得られたというゴールはありません。死ぬまで何かを求め続けます。
そして最後は「もう少し生きていたい」と求めながら、得られずに死んで行くのです。このような、求めているものが得られない苦しみが求不得苦です。
8.五陰盛苦(ごおんじょうく)
「五陰盛苦」とは、五陰が盛んなるが故の苦しみです。 「五陰盛苦」の「五陰」は五蘊と同じで、心身のことです。「五陰盛苦」は 心身が盛んであるがゆえの苦しみで、これまでの7つの苦しみは心身が盛んであるから起きてきたものです。これまでの7つの苦しみをまとめてしめくくられたものです。
この生苦、老苦、病苦、死苦、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五陰盛苦は、生きている限り、なくすことはできません。ですから仏教によってなくすことができる苦しみは、この四苦八苦ではないのです。では、お釈迦さまがなくそうとされているのは、どんな苦しみなのでしょうか?
苦しみの根本原因は?
仏教では、私たちは人間として生まれ、80年か100年生きて死んで行くだけではありません。それは肉体のことであって、本当の私というのは、過去から現在、また未来へ続いて行きます。これを「三世(さんぜ)」といいます。
三世とは、過去世と、現在世と、未来世の3つです。過去世とは、私たちが人間として生まれる前の世界です。 現在世とは、人間に生まれてから死ぬまでです。未来世とは、死んだ後です。後世とも後生ともいいます。世間では、よく人が死ぬことを「旅立つ」といわれます。
肉体なら生まれてから80年くらいで終わりですが、それでは終わらない永遠の生命があって、過去世から現在世、未来世と流れているのです。人間に生まれている間は通過点に過ぎません。現在世は、永遠の生命のごく一部です。平均寿命が伸びて100年間というと、長いように思いますが、何億兆年の長さと比べたら、一瞬です。私たちの一生は、あっという間の瞬間です。
四苦八苦というのは、人間に生まれている間だけの苦しみですので、木でいうなら枝葉です。それらの根っこにあたる根本苦というものがあります。木の根っこがあって、幹があって、そこから枝葉がしげるのです。
四苦八苦は枝葉ですが、それをしげらせている根っこにあたる根本苦があって、ここを断ち切らないと苦しみをなくすことはできません。その根本苦というのは、三世を貫いている苦しみです。過去世から未来世へ貫いて苦しめているものです。これを蓮如上人は、『御文章』に「過去・現在・未来の三世の業障(ごうしょう)」といわれています。業障というのは、業のさわりということで、苦しみの元です。この三世の業障が、私たちの苦悩の根元なのです。
苦しみの根元がなくなると?
三世を苦しめる苦しみの根本と、人間に生まれている間だけ苦しめる四苦八苦とでは大きさ、深刻さが全然違います。ですからこの苦しみの元が、生きている時になくなれば、四苦八苦はそのまま、絶対変わらない絶対の幸福になれます。
それを教えられたのが、「生け花や 浮き世の水にだまされて 花は咲けども 実らざりけり」という歌です。
「生け花」は根っこのない花です。生け花は水にさしておけば、だまされて花は咲きますが、実は結びません。「浮き世の水」というのは、生まれてから死ぬまでの肉体のことです。私たちは肉体がある限り、肉体にだまされて四苦八苦はなくなりません。ですが、苦悩の根元が断ち切られていれば、実らないということは、死んだ後、その苦しみは続きません。仏教を聞いて、阿弥陀如来の本願によって苦悩の根元を断ち切られると、未来永遠の幸せになれるのです。
阿弥陀如来の本願とは?
浄土真宗と親鸞聖人が言われたら、それは阿弥陀如来の本願のことです。浄土真宗は阿弥陀如来の本願を明らかにされた教えなのです。阿弥陀如来の本願がわかれば、浄土真宗を全部わかったことになります。阿弥陀如来の本願とはどんな意味なのでしょうか?
仏教上の位置づけ
私たちがなぜ阿弥陀如来の本願を知ることができたのかといいますと、お釈迦さまが教えてくださったからです。
お釈迦さまは、約2600年前インドで活躍なされたかたです。35歳で仏の悟りを開かれてから、80歳でお亡くなりになられるまでの45年間説かれた教えを今日仏教といいます。それは今日七千余巻といわれる一切経に書き残されています。そのお経に何が教えられているかというと、親鸞聖人は『正信偈』にこのように教えられています。
如来所以興出世(にょらいしょいこうしゅっせ)唯説弥陀本願海(ゆいせつみだほんがんかい)
これは、「如来世に興出したまう所以は、唯、弥陀の本願海を説かんがためなり」と読みます。「如来」とは、釈迦如来、お釈迦さまのことです。「世に興出」とは、この世にお出ましになられたということです。「所以」とは目的のことです。「如来世に興出したまう所以は」とは、お釈迦様が地球上にお生まれになった目的は、ということです。
それは次に「唯説」といわれています。これは、唯一つのこと説くためであったということです。
お釈迦さまが45年間もの間、七千余巻ものお経を説かれたと聞くと、色々なことを教えられたのだろうと思いますが、そうではなかったのです。2つも3つもない、唯一つということです。これは親鸞聖人が、一切経を何回も読み破られてなされている断言です。ですから、そのたった一つのことを知れば、仏教全部知ったことになります。
それは何かといいますと、次に「弥陀の本願海」といわれています。「弥陀の本願」とは、阿弥陀如来の本願のことです。その深さ、広さ、また、すべての川の水は最後には、海にこないとおさまらないことから、阿弥陀如来の本願を海にたとえて本願海といわれています。ですから、お釈迦さまが仏教に教えられていることはと、阿弥陀如来の本願1つということです。
阿弥陀如来とは?
阿弥陀如来は、阿弥陀仏といっても同じです。地球上で仏の悟りを開かれた方は、「釈迦の前に仏なし、釈迦の後に仏なし」といわれるように、お釈迦様ただお一人です。ところが大宇宙には、地球のようなものが、数えきれないほどありますから、仏様も、数えきれないほどおられるとお釈迦さまは説かれています。それらの仏を「十方諸仏(じっぽうしょぶつ)」といいます。その十方諸仏の本師本仏が阿弥陀如来という仏様だとお釈迦さまは教えられています。そのことを蓮如上人は、『御文章』に分かりやすくこう教えられています。
弥陀如来と申すは、三世十方の諸仏の本師本仏なれば
「三世十方」の「三世」とは、過去、現在、未来のことです。「十方」とは、大宇宙のことですから、「三世十方の諸仏」とは、大宇宙のすべての仏方のことです。「本師本仏」とは、本師も本仏も先生のことですから、大宇宙の仏の先生の仏が阿弥陀如来です。
地球上のお釈迦さまも、大宇宙の諸仏の一仏ですから、阿弥陀如来とお釈迦さまの関係は、先生と弟子の関係にあります。仏教は、弟子であるお釈迦さまが、先生である阿弥陀仏の本願を、一生涯教えられたものなのです。
本願とは
「本願」とは、本当の願いということです。人間の願いは、自分が美味しいものを食べたいとか、お金が欲しいということですが、仏様の願いは、苦しみ悩む人を救いたい、幸せにしてやりたいという願いですから、お約束ということになります。
ですから本願のことを『歎異抄』には「誓願」といわれています。誓願の誓は、ちかい、ということですから、約束ということです。結婚式でいう誓いの言葉は、私はあなたと誓いますということで、誓うというのは約束しますということです。阿弥陀如来の本願は、阿弥陀如来のなされているお約束ということです。
では、阿弥陀如来はどんなお約束をされているのでしょうか。これが阿弥陀如来の本願です。
設我得仏 十方衆生 / 設い我仏を得んに、十方の衆生、
至心信楽 欲生我国 / 至心に信楽して我が国に生れんと欲うて
乃至十念 / 乃至十念せん。
若不生者 不取正覚 / もし生まれずは、正覚を取らじ。
唯除五逆 誹謗正法 / ただ五逆と正法を誹謗せんことを除かん。
最初の「設我得仏」とは、「私が仏になりましたならば」ということです。阿弥陀如来の本願は、阿弥陀仏がまだ仏のさとりを開かれる前、法蔵菩薩といわれていたときに誓われたお約束ですので、このようにいわれています。阿弥陀仏は、もう十劫(じっこう)という遠い昔に仏のさとりを開かれましたので、これは問題になりません。
約束の相手は?
一人で相撲が取れないように、約束にも必ず相手があります。阿弥陀如来は、誰と約束するといわれているかといいますと、次に「十方衆生」とあります。阿弥陀如来は、十方衆生と約束するといわれています。
「十方衆生」の「十方」とは、大宇宙のことですから、「十方衆生」とは、大宇宙の生きとし生けるものすべてのことです。私たちは、人間ですので、すべての人ということです。この中に入らない人はありません。今キリスト教をやっている人も、イスラム教をやっている人も、すべての人が、阿弥陀仏のお約束の対象です。
では、すべての人と阿弥陀仏はどんな約束をされているのでしょうか?
約束の内容は?
約束で一番大事なのは、約束の内容です。金銭の貸借でいえば、金額にあたります。100円貸すのか、100万円貸すのか、1億円貸すのかという内容が一番大事です。自分にできない約束をしたら、嘘つきになって信用をなくすだけです。
阿弥陀仏は、すべての人とどんな約束をされているのかというと、「信楽(しんぎょう)」にすると約束されています。すべての人をどうするという約束の内容ほど大事なことはありませんから、阿弥陀仏の本願を「至心信楽(ししんしんぎょう)の願」ともいわれます。阿弥陀仏の本願の別名になっています。
信楽とはどんなことかというと、絶対の幸福のことです。
絶対の幸福とは?
すべての人は、何のために生まれて来たのか。私たちの生きる意味は何なのかというと、それはただ1つ、幸福になるためです。これに異論のある人はないでしょう。自分はこの為に生きていると色々なことを言う人がありますが、結局は、幸せになるためだからです。全人類の生きている目的は、幸福だということに間違いはありません。ですから生きる目的は、幸福になるためだといえます。
ところが、幸福に2つあると仏教で教えられています。それが、「相対の幸福」と「絶対の幸福」です。
相対の幸福とは、比べてわかる幸福です。大学に合格したといっても、色々なランクがあります。他人と比べてどっちがいい大学かで、喜べたり、悔しくなったりします。大学に入れない人と比べれば、三流大学でも喜べますが、一流大学の人と比べるとみじめになります。収入でも、他人と比べて多ければ喜べますが、少なければみじめになります。このようなもので満足できるはずがありません。
このような、お金や財産、地位、名誉など、仏教を聞く前に知っている幸せは、すべて相対の幸福です。このような相対の幸福ももちろん生きて行く上で大事です。ですが相対の幸福は、手に入れたときは喜べますが、しばらくの間のことで、すぐに色あせてしまいます。そんな幸福のために人間に生まれてきたのではないので、阿弥陀仏は、人間に生まれてきたのは、絶対の幸福になるためなんだよ。そういう幸福の身にしてみせるとお約束されているのが、信楽にしてみせるという阿弥陀如来の本願です。
約束の保証は?
ところが私たちは、阿弥陀如来の本願を聞くと、「そんな絶対の幸福なんてあるはずがない」 「私もそんな幸福になれるんでしょうか?」と疑います。
私たちが必ず疑うだろうと見抜かれた阿弥陀仏は、「若不生者 不取正覚」と誓われています。これは、「もし生まれずは、正覚を取らじ」と読みます。
私たちも、重大な約束をするときは担保をいれます。銀行に「1億円貸してください、必ず返します」といっても貸してくれません。そんなときは、「もし返すことができなければ」と、担保を入れます。担保に叩き売っても1億円するものを入れると、銀行は安心して貸してくれます。
だから阿弥陀仏も、私たちの疑いをはらすために、「もし」といわれています。もし生まれさせることができなければ正覚を取りません。「正覚(しょうがく)」とは、仏のさとりのことです。仏さまにとって、仏のさとりは、命です。取りませんということは、取ったからには捨てます、ということです。阿弥陀仏は、正覚を担保に入れて、これでも信じないかと命をかけて誓っておられます。命をかけて必ず救うということです。だから必ず信楽に生まれさせて頂くことができるんだと親鸞聖人は、このように言われています。
若不生者のちかいゆえ 信楽まことにときいたり(浄土和讃)
阿弥陀仏が命をかけて誓われているお約束だから、絶対の幸福になるときが必ず来るのだ、ということです。
このように、阿弥陀仏のお約束は、「すべての人を 絶対の幸福に 必ず救う」ということです。まとめると、以下のようになります。
約束の相手:すべての人を 約束の内容:絶対の幸福に 約束の保証:もしできなければ命を捨てる、必ず救う  
 
四苦八苦 9

 

「四苦八苦」という言葉があります。今日の意味では「いや、こないだは部下のミスで四苦八苦したよ」というように、困ったり、大変だったりしたときに使われます。しかし実は「四苦八苦」の語源は仏教であり、今使わている意味と本来の意味はちがっています。いつ、どこに住まいしようとも、人間である限り避けられ8つの苦しみをお釈迦様が教えられたのが「四苦八苦」です。
生苦(しょうく)−生きる苦しみ
老苦(ろうく)−老いる苦しみ
病苦(びょうく)−病の苦しみ
死苦(しく)−死ぬ苦しみ
愛別離苦(あいべつりく)−好きな人や物と離れる苦しみ
怨憎会苦(おんぞうえく)−嫌いな人と会わねばならない苦しみ
求不得苦(ぐふとっく)−求めるものが得られない苦しみ
五陰盛苦(ごおんじょうく)−肉体あるゆえの苦しみ
生苦から死苦までの4つの苦しみを「四苦」、それにあとの4つの苦しみを加えて「八苦」と教えられています。一つ一つお話ししていきましょう
四苦八苦の一つ「生苦」とは
お釈迦様が説かれた四苦八苦の一つに「生苦」があります。生きることは苦しいことである、とお釈迦様は仰です。「生きているのは楽しいよ」という人も見かけますが、これはどうなんでしょう。本気で言っているのではなく、苦しいと言うとみじめになりますし、だめな人間、弱い人間と思われたくない気持ちがそう言わせている人も少なからずあるように思います。
ビジネス書や自己啓発本を読んでいるとためになることもある一方で、時々ふとテレビで通販の番組でも見せられているような感覚を受けてしまい、うんざりした気持ちになることもあります。書いている人が「幸せだ」と言っている、その言葉がどこか嘘くさいからです。本当に幸せな人はこういう言い方はしないだろうと、感付いてしまうことがあるからです。
ビジネス書を書いた人なら自分がいかに苦境にあったか、それをこのビジネスメソッドにより今はこんなに成功して幸せです、とストーリーを描けなければ、本が売れない、名声が高まらないから言っているのが透けて見えてきて、本当にその人の心のうちに「それで今お前は幸せになったか。満足したか、安心できたか」と自問自答したらなんと返ってくるか、その本音はその本には書かれていないのだろうと感じます。
自己啓発本を書いている人でも「ついてる、ついてる、ありがとう」と心を変えたら人生が激変したと語っていますが、それも自分を使ってのセールストークです。本当にその人の心の中に「生まれてきてよかった」「生きるとはなんてすばらしいのか」とあふれ出るものがあるでしょうか。「生きていることに感謝」「人生は楽しい」そう思わなかったら苦しすぎるので、自らの言葉でなぐさめているかのように感じます。
「強がりで言っている人ばかりではない。本気で言う人もあるのではないか」そんな人も中にはいるかもしれませんが、その場合はしばらくの間だけです。決して続くものではありません。
四苦八苦の一つ「老苦」とは
人類史において長らく「長寿」は貴重なことであり、幸福の大きな要素でした。祝いの意を表す「寿(ことぶき)」という字が使われますし、88歳の米寿のお祝い、99歳の白寿のお祝いなど、長生きした区切りにお祝いの行事もありました。つい150年ほど前まで人類は、はしかや胃かいようなどの病でも命を落としましたし、疫病で村の半分が死んだ、とか、飢饉が襲い村が全滅した、といった事態がそこかしこで起きました。そんな時代にそれらの不幸や災難に遭わずに長生きできることは、貴重なことであり、人々にとってこよなく幸せなことでした。
その長らく人類が幸せの要素と固く信じてきた「長生き」が、比較的容易に手に入れることができるようになった現代、果たして長生きは幸福といえるのだろうか、と人類は疑問を持つようになってきています。しかもそれは皮肉にも、幸せになりたいと人類が全身全霊、長寿の研究工夫を重ね、長生き社会が実現できてしまったからこそ、起きてきてしまった疑問なのです。
その現代でも、もっとも「長寿」を体現した国が、この日本です。日本の有する高度の医療技術、食生活、清潔な住環境、しっかりした社会保障制度は、この国を世界一の長寿国にのし上げ、今や60歳以上の人口割合の世界平均は14%に対し、日本は40.9%、超高齢化国家です。ところがそのことで世界のどこよりも切実に「長生きは良いことか」という課題を突きつけられています。
寝たきりの親の介護で仕事を離れ、その状態が何年も続く「介護離職」、80代の老いた妻が80代の老いた夫を介護する「老老介護」、軽い認知症の夫が重い認知症の妻を介護する「認認介護」、増加し続ける社会保障費、現役世代の負担増、それに伴う少子化、高齢者の暴走事故、振り込み詐欺、孤独死etc…..
「子供に迷惑かけてでも長生きしようとは思わない」「ぽっくり死にたい」「長生きすると、貯金が不安だ」と世間中がまるで長生きが不幸をもたらす元かのように語っています。
2600年昔、お釈迦様は 「人身受け難し 今すでに受く」 “生まれがたい人間に生まれ、生き続けていることはなんとありがたいことだったのか” と心底から長生きできたことを感謝せずにおれない幸福があることを教えられました。「長生きしなければ、こんな幸せがこの世にあることを知らなかった」「老いても、病になっても生きねばならない理由は、この身になるためだったのか」と老いと病と死を超える幸せがあることを、釈迦は生涯かけて説かれました。またその幸せにどんな人でもなれることを鮮明にされたのが、800年前、鎌倉時代に現われた親鸞という方でした。仏教は、長生きの意義を感じられなくなった現代人の心の闇を晴らす教えなのです。
四苦八苦の一つ、「病苦」とは
人食いバクテリアの感染が急増しているとのニュースが流れました。正式には「A群溶血性連鎖球菌による急性の感染症」というのですが、「人食いバクテリア」とはずいぶん恐ろしい通称がつけられたものです。しかし名前だけでなく、実際にもかかると3〜4割が死亡するという恐ろしい病気だそうです。高熱や筋肉痛、血圧低下が起こり、急激に病状が進行してショックや手足の壊死(えし)、多臓器不全で死ににいたります。
ある45歳の男性のケースが紹介されていました。足(下肢)の痛みはあり、自分で自動車を運転し病院へきた男性が、待合室で待っているうちに下肢の腫(は)れが増悪(ぞうあく)し、気分が悪くなり、ただちに入院することになり、まもなく急性心停止で死亡、というのですからぞっとします。
感染する人の3〜4割は働き盛りの30代〜50代であり、菌自体はエボラ出血熱などと違ってどこにでもあるものなので、対策としては風邪と同じく、うがいや手洗い、マスクの着用くらいしかありません。
日本で初めて発症が確認されたのが平成4年、徐々に増えています。医学が進歩し、数々の治療法、免疫の薬などでき、多くの病を克服した現代ですが、同時にウィルスの方も薬に負けないスーパーウィルスが出現したり、新たに昔はなかった現代病ともいうべき、原因不明の様々な心身の病が私たちを襲ってきています。お釈迦様は人間の四つの普遍的な苦しみの一つに『病苦』を挙げておられますが、あれから2600年経っても今なお病のために苦しんでいる人が絶えません。
病気になるとお金もかかる、仕事にもつけなくなる、家族との人間関係にもひずみが出てくる、本人もいつ治るかわからない未来への不安、得体のしれない死の恐怖も呼び起こす『病苦』の恐ろしさが思い知らされます。
嫌なことですが、人間は必ずいつかは『病苦』と向き合わなければなりません。老いと病と死を超えた、本当の幸福を獲得することこそ、私たちの人生の目的だと説かれた釈迦の教説が胸に迫ります。
四苦八苦の一つ「死苦」とは
東京都の病院で人工透析を中止し、死亡した患者が6年間で24人あったと報道され、物議を醸しました。院長は「医師が積極的に透析見合わせの選択肢を示したことはない」「透析の再開を望む患者の意思に反して再開を行わなかった事実も一切ない」と強調しました。いわゆる「本人の強い希望により、人工透析を中止したのだ」との主張です。
「回復が望めない終末期に透析を続けるかどうか」という人工透析の見合わせ問題は、どの病院でも大小の差はあれ、直面している問題であり、今後、まずます高齢化に向かっていく今日の日本の直近の課題であり、しかもこのテーマは医学だけでは解決しない難しさを含んでいます。
大きく分ければ二つの意見があります。一つは「医師が患者に透析中止の意思を尋ねるのは“死にますか”と聞くのと同じだ、患者に判断させるべきではない」という意見。もう一つは「医師が治療に関する説明を尽くした上で、それでも患者が望むならば、その意思は尊重されるべきだ」という主張です。
ただここで問題になるのは、そもそも患者の意思といっても、「死にたい」となったり、「死にたくない」となったり、患者自身の精神状況が揺れ動くので、そこをどう判断するかということです。人間の心はころころ変わりますし、自分の本心が自分でも分からない、ということはよくあるのではないでしょうか。特に「死」においては、それが顕著に出てくると思います。
こんな笑い話があります。寺参りを欠かさないお婆さんが、寺に安置されている阿弥陀如来の前に座って口癖のように言う。「阿弥陀様、わしはつくづくこの世がいやになりました。今日も嫁が私をいじめるのです。早く今晩でもお迎えに来てください」 寺の小坊主は「あの婆さん、また、同じことを言っておる。よくもまあ飽きずに同じことが言えるものだ」といたずらをかんがえた。いつものようにお婆さんが寺にまいってぼやくのを見計らって寺の本尊の真後ろに隠れる。お婆さんが「早く迎えに来てください」と懇願するのを聞いて小坊主、声色を変えて「わかった!婆さん、今晩迎えに行くからな!!」と叫んだ。すると婆さん血相を変えて「ひえー、ここの阿弥陀様は冗談も通じんわい」とあわてて逃げたと言います。
このお婆さんのように、口先では、早くこの世とおさらばしたいと言っても、本音は、死にたくないというのがよくあると思います。「死んだ方がましだ」「死にたい」という声は多いですが、それは本心かどうか分かりません。「本心だ」と本人が思っていても、それが本心かどうかわかりません。本人が「死」をまじめに見つめていないからこそ言えているだけの言葉かもしれないのです。
生きている人間にとって「死」ほどの大問題はありません。「これができたら死んでもいい」「いっそ死んじゃいたい」「さっさと死にたい」とふだん何気なく使っている「死ぬ」という言葉ですが、本来「死」は決して軽々しく取り扱えることではなく、人間にとってこれ以上苦しいことはないので、「死苦」は万人の苦しみであり、四苦八苦の一つに数えられます。
四苦八苦の一つ「愛別離苦」とは
「愛別離苦」とは、“愛する人と別れなければならない苦しみ”のことです。肉身との死別、失恋などの苦しみです。
『会者定離 ありとはかねて 聞きしかど 昨日今日とは 思わざりけり』
親鸞聖人のお歌です。「会者定離」とは仏教の言葉で「出会った人は必ず別れなければならない」ということ。誰しも大切な人とはいつまでも一緒にいたいものですが、この世は無常ですから、必ず別れねばならないときがあります。嫌いな人なら、別れて清々するでしょうが、愛する人との別れは、強い苦しみを伴います。仏教ではその苦しみを「愛別離苦」といいます。
海外居住、卒業式などで、好きな人と別れる時は辛いですが、生きているなら、また再会できます。別れの中でも、特に辛いのは、死別でしょう。散った桜は来年には咲きますが、消えゆく命は二度と戻りません。もう一度会いたいと、どれだけ遺体にすがって泣き叫んでも、かなわない、その厳然たる事実が、さらに人を涙の谷底に突き落とします。
もう10年くらい前の話ですが、30代で最愛の夫を突然の交通事故で亡くし、女手一つで二人の子供を育て、ようやく下の子が大学に入り、「時間ができたので」と仏教講座に来られた女性が言われていたことが、今も心に残っています。「夫を亡くしたとき、あの人一人だけがいなくなったのではなく、家族みんなを包んでいる空気ごと、あの人はあの世に持って行ってしまった」と言われていました。
考えたくないですが、死は万人の将来ですから、大切な人ともやがて必ず別れる時があるのを、誰しも覚悟しておかねばなりません。しかしどんなに覚悟していても、大切な人との別れは「昨日今日とは思わざりけり」 まさかこんなに早くその時がやってこようとはと、今起きている現実が受け止められず、「早すぎる、嫌だ、嫌だ」と悲泣せずにいられないものなのでしょう。
四苦八苦の一つ「怨憎会苦」とは
仏教に説かれている八つの苦しみの一つに『怨憎会苦』があります。怨み、憎む人と会わなければならない苦しみ、のことです。この苦しみは多かれ、少なかれ、みなよく分かられることと思います。
どうしても生きていると、嫌な人が出てきます。苦手な人、イライラする人、その人といると、必ず嫌なことを言われたり、されたりする、そんな人のことです。できればそんな人とは会話したくないですし、顔を合わせたくないですし、視界に入るのも嫌なのですが、生きていく以上、そういう人とも会っていかねばなりません。そこには多大な苦しみが生じるので、お釈迦さまは『怨憎会苦』と説かれているのです。
誰だって好きな人とだけ会って、嫌いな人は会いたくない、一緒にいて気持ちのいい人だけそばに来てほしいし、近くにいると緊張したり、苦痛を感じる人は遠ざけたい、これはすべての人の本音です。しかしそんなわがままが通るはずもなく、嫌な人とも顔を合わせ、一緒にやっていかねばなりません。どうしようもないことです。それが嫌だというのなら、引きこもるしかない。引きこもっていたら生活できませんので、生きていく以上、「怨憎会苦」と戦っていくしかありません。
部署に嫌な人がいるからと部署替えしてもらえば、今度は新しい部署で嫌な人が出てくる。パワハラ上司が嫌だからと会社を変えると、新しい職場にもまたパワハラ上司がいる。いっそのことと思い切って起業すると、今度は顧客に嫌な人が出てくる。
中には、怨憎会苦の対象が家庭内にいる、ということもあります。姑だったり、夫だったり、妻だったり、親だったり….. その場合、寝食共に顔を合わせ、しかも一生付き合う仲になるかもしれず、その苦しみは終わりがなく、深刻です。
この「怨憎会苦」をどう乗り越えていけばいいのでしょうか。これは古今東西の人類共通の課題と言えましょう。
四苦八苦の一つ「求不得苦」とは
仏教では苦しみを八つに分けて教えられていますが、その一つが「求不得苦(ぐふとっく)」です。文字通り“求めても得られない苦しみ”です。釈迦は、全ての人が逃れられない普遍的な苦しみの一つとしてこの苦しみを説かれています。
こう聞かれて、全ての人の受ける苦しみとはいえないのではないか、と疑問を呈する人があります。中には求めてきた目標や夢を達成して満足している人もいるではないか、たとえば金メダルを獲得した人、ノーベル賞を受賞した人、自分の作った曲がヒットした人、など。そんな人は“求めても得られない苦しみ”はないだろうから、万人の普遍的な苦しみとはいえないのではとの疑問です。
ですが釈迦は、そんな人も「求不得苦」で苦しんでいる姿に変わりはないと、説かれています。なぜなら一つのものを手に入れても、今度は何か違う次のことを求めてしまい、なかなか得られずに苦しむことになりますからです。
文豪、夏目漱石の「吾輩は猫である」に評されている西洋文明論は「求不得苦」が万人の普遍的な苦しみであることを示唆しています。
西洋人のやり方は積極的積極的と云って近頃大分流行るが、あれは大なる欠点を持っているよ。第一積極的と云ったって際限がない話しだ。いつまで積極的にやり通したって、満足と云う域とか完全と云う境にいけるものじゃない。向に檜があるだろう。あれが目障りになるから取り払う。とその向うの下宿屋が又邪魔になる。下宿屋を退去させると、その次の家が癪に触る。どこまでいっても再現のない話しさ。西洋人の遣り口はみんなこれさ。ナポレオンでも、アレキサンダーでも、勝って満足したものは一人もないんだよ」
無限の欲を持つ私たちには「求まった」という満足や完成がないことを「求不得苦」と釈迦は喝破されました。その上で人生には
「人身受け難し、今すでに受く」 (よくぞ人間に生れたものぞ)
という大満足する境地があることを、釈迦が教えられたのは驚嘆すべきことです。
四苦八苦の一つ「五陰盛苦」とは
「五陰盛苦」の「五陰」は肉体(心身)のことで、「五陰盛苦」とは、「肉体が盛んなるゆえの苦しみ」です。これまでの7つを総括されたもので、この肉体によって苦しみみながら、老いて病気になって死んで行くのです。
仏教では、人間は5つのもの(五蘊〔ごうん〕や五陰といわれる)で成り立っていると教えられます。その肉体があるゆえにさまざまな苦しみがやってきます。五陰盛苦は、四苦八苦をまとめたものといわれます。 
 
四苦八苦 10

 

「どうしようもない。とにかく何とかしなくっちゃ。」 人は人生において、しばしば大変な苦労を強いられる時がある。仕事上のことであったり、家庭のことであったり、個人的なことだったり、ありとあらゆる方向から鋭い矢が、自分のまわりに飛んでくる。
たとえば、経済的な困窮は明日の食べるものに困ってしまう時もある。自分の力の限界を痛いほど知らされ、壁にぶつかり、右往左往させられる時が、幾度もある。それほど、大げさでなくとも、日々の出来事や、チョットしたつまずき、何気ない他人の言葉の矢に胸を刺され、もがき苦しむ時がある。また、自ら困難な壁に挑戦する時がある。人がこんなふうに、苦しみと格闘したり、難関に挑戦して迷ったり、躓いたりしている姿を「四苦八苦」していると表現することが多い。もともとこの「四苦八苦」という言葉は仏教用語である事は誰でもなんとなく知っている。が、さて具体的にどんな苦しみを差し、どんな意味を、いくつ言っているのだろうと考えると、立ち止まってしまうことが多い言葉ではある。とにかく、人生の大変な苦しみを全部まとめて、「四苦八苦」と表現しているんだと、漠然と捉えているのが、ごく普通の使い方なのではないだろうか。
では、仏教ではどうとらえているのか。「四苦八苦」というから、四と八の全部で十二と思いきや、四と四で合計八、の苦しみと説いている。本来「四苦四苦」と言いそうだが、そうでないところが面白い、言い回しである。最初の四苦は、〈生老病死〉、であることは誰でも知っている。後の四苦は、〈愛別離苦〉、〈怨憎会苦〉、〈求不得苦〉、〈五陰盛苦〉であるという。先の四つの意味は、判りやすいがもう四つは判りにくく理解に「四苦八苦」するのが普通かもしれない。〈愛する人と別れる苦しみ〉、〈怨み憎む人と出会う苦しみ〉、〈求めるものが得られない苦しみ〉、〈存在を構成する物質的、精神的五つの要素に執着する苦しみ〉などは、何度聞いても忘れてしまい、聞くたびに、ああそうか、と想い出す始末である。
だが、仏教が日本に入ってきて、民衆に判り易くこれらを説いて聞かせ、理解させた時代背景を考え、この世に満ち満ちている苦しみの大きいものは四つ、いや八つあると教えたと想像すると、庶民と僧侶たちの暮らしが急に身近なものとして日常生活の中に溶け込んでくるような気がする。いつの時代もそうであるように、年を重ねるごとに世の中の仕組みを少しずつ知り、将来への不安は次第に膨らんでいったことであろう。
もともと、庶民の暮らしは、貧しく、生きていくために、ただ食べるために一所懸命に働かざるを得なかった。もし、何らかの事情で働けなくなったらどうなってしまうことだろう。老いてゆき、またこれで更に病気にでもなったらどうなることだろう。無駄飯食い、という言葉は働けなくなってしまった本人が自嘲気味につぶやいた、厭世的な溜息にも聞える。やがて訪れるであろう死は、様々な恐れを生み出す。人間は必ず死ぬべき存在だと判り切ってはいるが、そう割り切れないものを持つのが、終わりの時の事実ではないだろうか。
お教は今でも難解である。しかし、文字を読めない多くの人たちがいた昔は、どうやってお教を伝えたらよいか、さらに困難を伴ったであろう。そこで、文字よりも絵で「人生は苦に満ちている」と教え、極楽図や地獄図で死んでからの人間のあるべき姿を教え、説いた。
この世は仮の姿であり、すべてのものは借り物にすぎないと説いた僧侶たちもまた、この仮の世での生活を、だからこそ、清貧のなかに生涯を閉じたであろう。現世は生きることそのものが苦である、という四苦八苦は、庶民に日常そのものとして絵で説いて教えられていったに違いない。
こんなふうに考えてみると、お伽噺も今までとは異なる見方も生まれてくる。出来ることなら豊かに、そして楽しく暮らすことを願ったであろう人々に対して、たとえば浦島太郎の物語は、ちょうど中国の故事「一炊の夢」のように、儚い、実態のない世界を教える〈大人への絵物語〉だったのではないかと思えてくる。こどもに大人が話聞かせていながら、実は話す自分自身を納得させるための庶民のお話ではないかと思う。釣り竿以外、何物を持たない貧しい漁師が、思いもかけず竜宮城で生活にも、食べるものにも困らず、あるものと言ったら楽しいことだらけの毎日を与えられる。そして、玉手箱をもらって現実世界に戻ってみれば、宝物ではなく老いだけが残っていた。
この世は仮の世界だが、夢ばかり追っても決して手に入れることはできず、たちまちのうちに、人生は終わってしまう。夢のような世界は初めから無いのだから、苦しくても仮の世界のなかで、ただ一所懸命に生きることが大切なんだと、大人がこどもに話すと同時に、自分自身を納得させるのが本当の狙いであると言ったら考えすぎであろうか。
生きること、それ自体が苦であるという教えは、浄土での永遠の楽しみを実現するための通過点に過ぎないこの世を耐え忍ぶ力を与えてきたのかもしれない。人間である以上、悩みに心ふさがれ、苦しみに打ちひしがれ、悲しみに立ちすくんだりしながら暮さねばならない時も多くあるだろう。何も持たずこの世に生れ、何も持たずにこの世を去ってゆく私たちだ。この世にあるものは、すべて人間を超えたはるかに大きな存在からの借り物にすぎないと心から知れば、ほんの短い間、借り物が多い、少ないに心奪われ、煩うことがどんなに少なくなることだろう。〈淡々と日々を過ごし、着ぶくれからあっさりと裸になり、借りた物をお返しし、身軽になれば軽やかな明日が待っている〉、東洋の哲学は、【清貧の思想】をそんなふうに教えているのではないか。そうすれば、四苦八苦することも少なくなり、平穏な日々が与えられる。一休禅師が、たどりついた心境はこれに近いだろうか。
折り返しの人生に足を踏み入れた私たちだ。さわやかな風に頬を向け、自然のなかで深呼吸をし、明るい日ざしのなかへ身をおいてみよう。今日一日が愛おしく、命が掛け替えのない貴重なものとして、息づいている。草が匂うように萌えいで、鳥が遥か彼方を飛んでゆく。雲がゆっくりと流れてゆく。そして、借り物を出来るだけたくさんお返して、身軽になりたいものである。 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
相互互助

 

仏教の教義が普遍し、実生活の中に生かされ、日本人の生き方の実践的知慧として、日常で定着したものに「互助」がある。
これは共生する者が考えた、合理的な精神に支えられた、頼りがいのある知慧である。しかし近ごろの社会生活において、「互助」が姿を消しつつあるから心配である。
かって、祝祭や仏事は相互の「互助」に支えられて、成り立った。即ち、隣人に祝い事や難儀が生じた場合、いつかは必ず自分自身にもそれがもたらされる事をきちんと受け止めて、他への祝いや苦しみに駆けつけて、互いに助け合って、共に喜び或いは悲しみを乗り越えたのである。
殊に「生老病死」の四苦は、どんなものにも平等に忍び寄る苦しみであり、この苦を乗り切るために、人間は一人ではどうにもならないことに気づき、自然に「互助」という助け合いの精神が生まれた。
だが、最近はお葬式などもホールで執行したり、介護なども近所の親しい手を借りることもなくなった。たまたま、自宅葬や家庭介護を余儀なくされると、狭い、汚い、駐車場もない、人の出入りが煩わしいなどと、隣から非難をあびる始末であるという。
人生至上の時、やり切れない失意の刻、傍らに共に喜び、悲しむ方がいてくれたら、悦びは倍増し、悲嘆はきっと半減するだろう。
あぁ日本人はいつから互助精神を忘失し、尊大になり、利己主義になったのだろうか。
四苦八苦
お釈迦様はカピラ城の王子様として生まれましたが、ある日、城の門から街に出られ(『四門出遊』という良く知られた話)、人間には四つの苦しみがあることを知ります。
この世に生を享けるという事、老いる事、病に冒される事、死が訪れることの四つは、誰にでも平等に訪れて、避けることのできない「四苦(しく)」だと気づきます。
最初の「生まれ」が何故苦かということは、あまり日本人には解らないかと思いますが、自分では親を選べないと云うこと、貧富のはげしいインドでは、生まれた境遇に人生そのものが約束されるから、苦なのです。
更にお釈迦様は、人間にはもう四つの苦しみがあることに気づきます。どんな愛おしい人とも別れなくてはならない事『愛別離苦(あいべつりく)』、逆にどんな嫌な人とも会わなくてはならない事『怨憎会苦(おんぞうえく)』、求めても求め切れない事、『求不得苦(ぐふとっく)』、体が盛んになり、年齢とともに、それぞれの場で出会う困難な事『五蘊盛苦(ごおんじょうく)』の四つです。
「四苦」にこのあとの四つの苦しみを加えて「四苦八苦」といいます。
人生「四苦八苦」といいますが、この苦しみを克服することに、お釈迦様はいどまれ、難行苦行の末、お悟りを開かれました。
一人では苦は克服できない。仏教の共に分かち合う互助精神こそ、真の人生の安らぎを共生する、苦滅の祈りなのです。
香奠
お葬式になると必ず、お悔やみの印として「香奠=典(こうでん)」を、先様に持参することになるが、今日では香奠の意味も目的も理解しない方が多いと思う。
香奠は、もともとインドにおいては、遺体の腐臭を消すために、香木を焚きこめることが転じて、「良い香りを供える」「香しい匂いを供えるしきたり」になり、清らかな香を供える資に変じた物であろうと思われる。
だから香奠の本義は、お葬式に係る費用の相互の負担であり、緊急の一人では賄えない扶けとして供えられるものなのである。
以前はどこの家でも「香奠帖」を管理して、知人にご不幸があれば、先ず香奠帖を開いて確認し、戴いた相手ならば必ずお悔やみに参上し、香奠をお届けした。また香奠帖に記載がなければ、知人でも告別式のみにお邪魔し、焼香だけでお悔やみを済ませた。
昨今は、お悔やみに伺う方が全てお香奠を持参するのが当たり前で、家族がそれぞれお香奠を持って行く場合も間々ある程で、焼香もしない他人の香資を預かり、返品のお茶を3個も5個も下げて帰る人もいる。
だから、やれ通夜・葬儀・四十九日忌までは「御霊前」で、それ以降は「御仏前」などと、真顔で説明する人もでてくる。
ちなみに「御香奠」が正しく、「御香資」「御芳資」と書くも良い。
急な物入りを扶けあう、先人の素晴らしい相互互助の智恵が「香奠」なのである。
布施 
最近の社会問題の一つに、仏教界の戒名問題があり、全日本仏教会は「戒名(法名)料という表現・呼称は用いない」と、発表した。このことは、真面目に寺院運営をなさっている住職にとっては、当然の事で、いまさらと言う感じだが、私見を述べたい。
もともと「戒名料」も「お経料」もない。寺への御礼は、その基本は奉納であり、布施(ふせ)といわれ、原語は「ダーナ」、本義は「ほどこし」で喜捨(きしゃ)といい、貧しい方や仏教修行者に、見返りを考えない奉仕を財で与える事をいいます。
ダーナは、「檀那」と音写され、「檀」は仏教にとって極めて重要な、菩薩への六つの基本的な実践行の一つとされています。
実は「檀那様」は、奥様のものではなく、お寺のものなのです。
寺の運営は、もともと営利を目的としたものではありませんから、利益の追求もしません。だから寺の経営は、すべてこの見返りを考えない「布施」によって賄われます。
仮に百軒の檀家(寺へ施しをする家)を持つ寺が、百万円を必要とするとする。民主的に考えれば一軒当たり一万円の負担になるが、十万円を用立てる家が三軒、五万円の家が四軒あれば、残り五十万円は九十三軒で用立て、一軒の負担は五千余円と軽くなる。
護寺をして戴くのは、民主的な計算では平等では無く、檀家さんが共に補い合って寺を守る。布施が互助という証しです。
NHKの番組クローズアップ現代で、「戒名料」を取り上げたプロデューサーが、番組俎上は戒名料は宗教の現代問題なのだといい、ある評論家は消費者問題だと言及した。
これは端的に、今の仏教事情を言い表していて、宗教そのものが現代問題なのだから、言い訳のしようもない。戒名の仏教教義は別にしても、寺側にも責任はあるが、寺と信徒の相互関係も十分に理解し認識してほしい。
日本における仏教主と信者の関係は、死者儀礼が確立して後、堂宇の回りに墓所を建立したため(逆もあろうか)、参詣の至便とお堂の管理面からも、檀家制度が発達し、寺と家という実に緊密な関係が芽生え、僧侶と信者という個々の信仰関係が薄れた。
この家々と寺の関係の檀家制度は、保証された宗教の自由という、個人の基本的人権上では、甚だ人権無視の制度ではあるが、寺を経営するものにとっては、誠に都合の良い習慣となって今日に至っている。
即ち、不特定の個々の布施(喜捨)によって成り立つ運営が、家という予めに約束された、特定の信者集団によって支えられているのだから、これほど強固な護持はないのである。
これは先人の、物を共有し維持するための、労力や財の負担を軽く分配するという、卓越した知恵の結晶であろう。だから、分限の違いによって、公平にそれぞれが負担し、互いに扶け会う強固な護寺制度が確立した。
ここに布施が、互助という根拠がある。
檀家
先述(第16話 互助X 布施)のとおり、日本仏教は寺の維持管理や堂宇の造立には、普請(ふしん:建設の仏教語で、広く寄進を集めてお堂等を造営すること)の語が示すように、檀家制度という特定の組織によって、その賄いや経費が集められ経営されてきた。
このことは、より密接な寺檀の関係を確立し、自分たちの寺意識が芽生え、組織としての秩序や相互の役割も分担された。
しかしその負担は、極めて民主的に平均に分割されたかといえば、そうではなく、合理的な分限による負担によって、自然になすがままの、極めて複雑多岐な、逆に極めて素朴で簡素な方式でなされた。町を維持する町会費の負担などにも、その習慣は残されている。
これに対して寺側は、檀家という特定の信者の組織を大事に扱い、決して差別ではなく、個々にその分限による(これ又極めて複雑多岐な、逆に極めて素朴で簡素な)方式で、寺と檀家の関係を営んでいった。
戒名等もそうで、本来各宗の教義に則った各々の意義はあるが、相互互助的発想からいえば、分限による温かい喜捨への、寺側からの御礼的な行為であり、「諡名(おくりな)」という所以である。
だから、檀家外には戒名は授けないし、生前に戒名を授かった方は、檀家として登録され、菩提寺との約束がなされるのです。
菩提寺を持たない家は、当然「相互互助」からは外れるのです。 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
親鸞聖人と浄土真宗

 

親鸞聖人(1173〜1262)
親鸞聖人は、今から約800年前に誕生され、平安時代から鎌倉時代にかけて、90年のご生涯をおくられた方です。
9歳で出家され、20年間比叡山で厳しい修行を積まれますが、迷いの霧が晴れることはなく、聖人は山を下りる決心をされ法然上人をたずねられます。そして、「どのような人であれ念仏ひとつで救われる」という本願念仏の教えに出遇われます。
あらゆる人びとに救いの道をひらいたこの教えによって、多くの念仏者が生まれましたが、それまでの仏教教団からの反感をかうこととなり、朝廷への訴えによって、法然上人は土佐へ、親鸞聖人は越後へ流罪となりました。 その後に聖人は越後から関東に移られ、そしてその地で二十年間、懸命に生きるいなかの人々と共に暮らし、すべての人が同じくひとしく救われていく道として、念仏の教えを伝えていかれました。 そしてこのような聖人の願いと生き様は、教えに出遇って生きる喜びを見い出した多くの方々のご懇念によって、今日に至るまで相続されてきています。
親鸞聖人があきらかにされた浄土真宗の教えに耳を傾け、人と生まれた喜びと、共に生きることを大切に受けとめたく願います。
親鸞聖人とその生涯
親鸞聖人は、今から約800年前に誕生され、平安時代から鎌倉時代にかけての90年のご生涯をおくられた方です。9歳で出家され、20年間比叡山で厳しい修行を積まれますが、迷いの霧が晴れることはなく、聖人は山を下りる決心をされ法然上人をたずねられます。そして、「どのような人であれ念仏ひとつで救われる」という本願念仏の教えに出遇われます。
あらゆる人びとに救いの道をひらいたこの教えによって、多くの念仏者が生まれましたが、それまでの仏教教団からの反感をかうこととなり、朝廷への訴えによって、法然上人は土佐へ、親鸞聖人は越後へ流罪となりました。その後に聖人は越後から関東に移られ、そしてその地で二十年間、懸命に生きるいなかの人々と共に暮らし、すべての人が同じくひとしく救われていく道として、念仏の教えを伝えていかれました。
年表
1173年(承安3) 1歳 京の地に誕生。
1181年(養和1) 9歳 慈円のもとで出家、範宴と号する。以降約20年の間、比叡山延暦寺で修行。
1201年(建仁1)  29歳 堂僧をつとめていた延暦寺を出て、六角堂(頂法寺)に参籠、聖徳太子の夢告により法然上人の門に入る。この後、「綽空」と名を改める。
1204年(元久1) 32歳 法然上人が門弟を戒めてあらわした七箇条制誡に、「僧綽空」と署名する。
1205年(元久2) 33歳 法然上人の『選択本願念仏集』の書写を許される。また法然上人の真影を図画し、このとき夢告により「綽空」の名を改める。
1207年(承元1) 35歳 専修念仏停止。法然上人は土佐、親鸞聖人は越後に流罪となる。西意・性願・住蓮・安楽の4名は死罪、他6名流罪となる。〈承元の法難〉
1211年(建暦1) 39歳 流罪を許される。以降約20年の間、関東で布教。
1214年(建保2) 42歳 佐貫の地で三部経千部読誦を発願、やがて中止し、常陸へ行く。
1224年(元仁1) 52歳 『教行信証』に、当年を末法に入って683年と記す。
1231年(寛喜3) 59歳 発熱し、病床で『大経』を読み、建保2年の三部経読誦を反省、そのことを恵信尼に語る。
1235年(嘉禎1) 63歳 このころ帰洛する。以降約30年の間、『教行信証』に推敲を重ねるとともに、『一念多念文意』『唯信鈔文意』『浄土三経往生文類』などの著作、また手紙をあらわして教化に尽くす。
1262年(弘長2) 90歳 入滅。
真宗のおしえ
親鸞聖人の教えの中心は「信」
親鸞聖人の語録的著書であります『歎異抄』には「本願を信じ、念仏をもうさば仏となる」、あるいは「信ずればたすかる」と明言されています。
ところが、一般的に仏教がどのように受け止められているかといえば、難しいお経を覚えたり、苦しい修行の経験を積んだり、欲望を切り捨てなければ入門できないものだという固定観念があります。これは困ったことです。親鸞聖人の教えは、そういう人間の経験や能力をまったく問題にしていません。もし、そういう能力や経験を問題にするのであれば、仏教が「エリートの仏教」になってしまいます。苦行ができる体力や知力や、精神力のある優れた人間だけが救われる教えになってしまいます。それでは、まったくお釈迦様の教えとほど遠いことになりますね。生きとし生けるものすべてが助かる教えでなければ、仏教とはいえません。時代を超え、民族を超え、地域を超え、能力や性別を超えて、平等に助かってゆく教えでなければ、仏教とはいえません。
とてもデリケートな信仰の世界「信心」
浄土真宗は、ただひとつ「信心」の徹底ということだけが、もっとも重要なこととされています。仏さまが、「助けてあげよう」といっても、その言葉を信じて受け入れるということがなければ、救いは成就しませんからね。まず、「信心」ということが大切です。
しかし、これも世間では、固定観念があります。「信心」というと、「鰯の頭も信心から」などという諺もあるように、なんでも信じ込めば有り難くなるというような、安直な意味で理解されています。理性をかなぐり捨てて、「ありがたや、ありがたや」と頼んでいれば、幸せがくるというようなご都合主義が「信心」ではありません。それでは、人間の「ああなったらいいなあ、こうなったらいいなあ」という欲望を叶えるために、仏さんを利用しているだけに過ぎません。
あるいは「あのひとは信心家だからね」などといわれたりします。お墓参りを欠かさないとか、朝晩の読経をきちんとするとか、法事をちゃんとするとか、そういうひとを世間では信心家といったりするのですけれども、それと親鸞聖人のいわれる「信」とは直接関係していません。そういう世間的な仏事をちゃんとすることも大切なことでしょう。しかし、その前に、仏事を執り行うこころはどのようなこころなのかを問題にするのが親鸞聖人のいわれる「信」の世界です。ただ、生活習慣となっているからやっていることなのか、それとも、本当の「信心」から起こってきたことなのか。そういう吟味がもっとも大切なことなのです。ですから、きわめて内面的なことです。外見からはなかなか分からない、とてもデリケートな信仰の世界が「信心」の世界です。
お釈迦様のエピソードにも「貧者の一灯」というお話がありますね。お釈迦様をもてなすために、お金持ちは、たくさんの灯火をつけました。しかし、強風にあおられて、すべて消えてしまいます。ところがひとつだけ消えなかった灯火がありました。それは貧しい少女が供養した、たったひとつの灯火だったのです。お釈迦様は、仏教というものは、たくさん供養できるとか、できないという外見上の問題ではなく、ひとりでも本当の信心を獲得するということが最重要なことだと教えたのでした。
「むなしさ」を超えていく…親鸞聖人の「信心」
それでは親鸞聖人は、「信心」をどのように教えられているのでしょうか。それを端的に示すようなご和讃があります。
「本願力にあいぬれば むなしくすぐるひとぞなき
功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし」 (高僧和讃−天親菩薩の和讃−)
「本願力にあいぬれば」ということは、「阿弥陀様の救済の願いに遇えたならば」という意味です。それは、別の言葉で表現すれば、「阿弥陀様の願いを受けとめる信心が獲得できたならば」と同じ意味なのです。信心が獲得できたならば、「むなしくすぐるひとぞなき」と続きます。ここに信心が、私たち人間にどのようなはたらき方をするかが述べられています。それは、「むなしさ」を超えるというはたらきです。
決して、人間の欲望を叶えるという意味ではありません。だいたい、人間は、自分が最終的にどうなったら幸せなのかということを知らない生き物です。普段は「ああなったらいいなあ、こうなったらいいなあ」と思って生きてはいますが、それでは「最終的にどうなったら幸せなのか?」と問われると、人間は答えることができません。欲望は死ぬまで尽きませんから、もっともっとと望むものです。
しかし、現代人は、モノの豊さだけでは究極的に幸せにはならないということを気づきはじめています。むしろ、「みずみずしく生きたい」とか「意味のある人生を送りたい」とか「人間らしく生きてゆきたい」という願いが圧倒的なのです。それは、「人生を空しく終わりたくない」というこころの奥底からの叫びなのではないでしょうか。それは、貧しかろうが豊であろうが、もうそんなことはどうでもよい、そんなことよりも、この人生に生きる意味があるのか?空しくないと言い切れる意味があるのか?という悲鳴のようにも聞こえてくるのです。
親鸞聖人は、そういう「むなしさ」を本当に超えてゆける道が「信心」であると教えています。私は、この「信心」は、「そうに違いないと信じ込もうとする心」ではなく、むしろ「宇宙観であり、世界観であり、人間観である」と受け取っています。比喩的に語れば、それは「仏様の眼」をいただくということであります。人間が他人を見たり、社会を見たりする相対的な眼ではなく、全宇宙を超越的に見つめる仏の眼を得ることだと思います。もっと正確に語れば、全宇宙を超越的に見つめる仏の視線の中に自分を感じられることだと思います。
人間の価値基準の世界を超越した視点
「本願力にあいぬれば」ということは、その仏さまの視線の中に自分を見出された感動が語られているのだと思います。それは人間の価値基準のこころを、もはや宛にしないということです。人間が意味があるとかないと決めているのは、すべて人間の価値基準の範囲内のことです。貧富とか、美醜とか、意味があるとかないとか、ひとがいいとか悪いとか、仕事ができるとかできないとか、そういう価値基準の中で人間は、毎日、右往左往しているのです。
資本主義の世界は、役に立つものだけが生きやすい世界です。以前こんな川柳に出会いました。「亭主殺すにゃ刃物はいらぬ、役に立たぬと言えばよい」。実にブラックユーモアの効いた川柳です。どうして、「役に立たぬ」という言葉が、それほどのインパクトをもっているのかといえば、亭主そのものが、「役に立つものは意味があり、役に立たぬものは意味がない」という価値基準の世界に住んでいるからなのです。しかし人間は誰しも、やがて役に立たぬものとなってゆくのです。「老いる」ということは、資本主義の世界では、排除されてしまうわけです。そのとき、そういう価値基準のままに自分を見つめれば、自身のいのちに対して「役に立たない」と烙印を押すことになってしまうのです。ですから、人間の価値基準の世界を超えなければ、自分のいのちをしっかりと受け止めることもできなくなるのです。
この人間の価値基準の世界を超越した視点を得るということが「信心」の世界であります。人間は、心の奥底で、そういう相対的な価値の世界を超越したいと願っているのです。ただ、その方途が分からずにいるのだと思います。親鸞聖人の世界は、そんな現代人に向かって、本当に空しさを超えてゆける世界のあることを教えているのです。
真宗のおしえと迷信について
迷信に囲まれた私たちの生活
広辞苑で「迷信」を引きますと「迷妄と考えられる信仰」とあります。さらに「迷妄」とは「物事の道理に暗く、実体のないものを真実のように思いこむこと」とあります。現代は根拠のない迷信がはびこり、現代人はその迷信を依り処にすることで、私たち人間はさらに深い迷いに悩まされています。
   生活に密着した「数字」の迷信
身近な迷信で一番多いのが「日」「数字」「方角」です。 一般的に「大安」は良い日として結婚式が行われ、「仏滅」は悪い日なので避けられます。「友引」は友を引くので葬儀は行わないとされます。この「大安」「仏滅」「友引」(その他「先勝」「先負」「赤口」)は「六曜」といい、一説には中国の陰陽道からきた暦で、戦や博打などの吉凶を占ったもののようです。
「友引」はもともと「共引き」で引き分けを表し、後に「友引」に変わった単なる語呂合わせにすぎません。また「大安」に結婚された方々が必ずしも円満な生活を送っているとも限りません。 次に、数字で言えば「4」は「死」、「9」は「苦」を連想するということで病院やマンションでも4階や9階を表記しないところもあります。
仏事においても「四十九日(一般的に亡くなってから忌明けするまでの期間)は三ヵ月にまたがると良くない」と言われているそうです。これは単に四十九(始終の苦しみ)が三月(身に付く)という語呂合わせからくる迷信です。 人間は生まれる日も死ぬ日も選ぶことはできません。仮に月の中旬以降に亡くなったとすれば、必然的に三ヵ月にまたがりますから避けられません。
   「良くないこと」を受け入れられない私たち
「方角」で言えば「北」です。「北枕」が一番有名かもしれませんが、これはお釈迦様が亡くなられるとき、頭を北に向けて横になられた(頭北面西)ところからきており、亡くなられると遺体の頭を北に向けて安置することが現在でも行われています。死者を北向きに寝かすことから「北」は何か縁起の悪いことを連想するのかもしれませんが、これも根拠がない迷信です。
主に「日」「数字」「方角」を挙げましたが、私たちは自分に都合が悪いことが起こると自分に見えない特別な力が働く(バチがあたる)と考え、自分にその責任があることを受け入れず、違う人やものに理由を押しつけようとするのです。
悲しみをや不都合を受け入れることのできない「迷い」から生まれた「迷信」
こうした迷信は親鸞聖人の生きた時代にも色濃く残っていたようです。聖人は迷信に惑う人々を憂い
「かなしきかなや道俗の 良時吉日(きちにち)えらばしめ
天神地祇(てんじんじぎ)をあがめつつ
卜占祭祀(ぼくせんさいし)つとめとす」 (愚禿悲歎述懐和讃第八首)
という和讃を残されています。 意訳しますと
「悲しいことに僧侶や民衆は、何をするにも日の良し悪しを気にして選んだり、
また天の神、地の神を崇めて、占いやまじないにいそしんでいる」
となります。
親鸞聖人の時代から約800年を経て、これだけ科学文明の発達した現代においても違和感なく迷信がはびこっているところをみると、人間の根源的な迷いは変わっていないのです。
「門徒もの知らず」という言葉を聞いたことがありますか?
門徒とは浄土真宗の在家(出家をしていない)信者のことを指しますが、言葉どおりであれば浄土真宗の信者は「もの」を知らない、常識を知らないと解釈されがちです。 ところがこの言葉は元々「門徒物忌み知らず」という表現であったそうです。
つまり「ものを知らない」のではなく「物忌みを知らない」のです。「物忌み」とは先ほど申しあげた根拠のない迷信のことです。
それを門徒は「採用しない」(とらない)と言われていたのです。
真実の教えに出遇い、依り処とすることから迷信や俗信から脱却し、身に起こる事柄を身の事実として受け止め、人間としていのちを賜ったよろこびを感じながら、共に歩んでまいりましょう。 
 
親鸞と現代 / 無明と業

 

苦への洞察
無明というのは光明がないということで、無明の長夜とか無明の闇とかいう言葉で示されるように、真暗な闇、──そのなかを人間が盲目的にひきずられてゆく、そのなかで右も左もわからないままに、とぼとぼと辿ってゆく、そういう闇という感じを強く示す言葉である。しかし無明という語(avijjā)の意味は無知ということであるから、無明は闇ということよりもまずさきに、どこまでも無知と解されねばならない。無明(avijjā))は明(vijjā)の否定で、明(vijjā)という語は、したがって知あるいは明とか明知と訳されているが、その明というのはここでは明知、明らかな知識という意味で用いられている。もっとも、原始仏教の経典のなかにも「無明が滅して明が生じ、闇(tama)がなくなって光明(aloca)があらわれる」という言葉がしばしば使われていてその言葉によって悟りを得たときの境地の開けが示されている。したがって無明というものが、知識がない、本当の知識がない、絶対の真理についての知識がないという意味と、それからもう一つ闇という意味があって、闇が無明であって、本当の悟りの境地とか本当の解脱の境地というのは、その無明の闇が消えて光明の世界に転ずるのだという、この二つの考え方がいつも一緒にはたらいていると考えてよい。
原始仏教の場合には、無明ということを非常に単純に簡明に、無明とは四諦(四つの真理)というものを知らないことであると教えている。あるいは十二支縁起というものを知らないのが無明だともいわれる。十二支縁起も四諦説もその根本の主旨では同じことであるから、ここでは四諦説について考えることによって、四つの真理を知らないとか、それがわかるとかが、どういう意味であるかを明らかにしょう。
四諦は苦集滅道(くじゆう-めつどう)というこの四つの真理で、原始仏教ではそれを知らないということが、この真理に対する無知が、すなわち無明だといわれている。四つの真理のうちでまず苦ということが一番初めに出てきているが、この苦ということの意味が現代人にとっては、その理解が非常にむつかしいものとなってしまっている。というのは、われわれは苦ということの意味を本当に理解しえないような時代に生きているからである。われわれにとっては快楽とか幸福とかということが、われわれの生の自明の目的とか第一の原理になっていて、苦というものの示す真理ということを深くきわめて自省するということはなくなってきている。しかし原始仏教では生老病死(四苦)、それから(五)愛するものと別れねばならない(愛別離苦)、(六)憎むものと会わなければならない(怨僧会苦)、(七)欲求するものがつねに得られない(求不得苦)と、(八)世界内存在としての人間の取着性が苦の根源である(略説五取薀苦)というもので四苦・八苦が示されている。最後のものは、さきの顕著な苦の事例に対して、全体の総括をなしている。
これらは例をあげて苦を示しているが、この苦という考え方のなかには、楽・苦・不苦不楽の三つが含まれていることも、すでにわが国でも字井伯寿博士などが注意している。つまり幸福もまた苦であるという考えになる。西洋の学者はヨーロッパのペシミズムの考え方に従って、人生は苦と楽とを総和して、さし引き勘定すると、結局は苦になるのだから、人生においては快も究極のところ苦になるのだと解釈している。同じペシミスティックな見方でも、例えばウィリアム・ジェームズ(W.James1842-1910)は、その著『宗教経験の諸相』において、人生は楽しみの環と苦しみの環との組み合せからなる一つの鎖のようなものである、としている。彼の主張したいことは鎖全体の強さは、しかし一番弱い環だけのものである、ということである。そうだとすれば人生の強さ、人生の意義というものは、一番弱い苦の一つの環において決定される。ジェームズは人生の意義への洞察という点では、明るい意志的な健全な魂よりも、彼が病める魂とよんだ苦に圧倒されるペシミスティックな人間の型のうちに、より多くの真実があると考える。
現在の実存哲学(ヤスパース)が限界況位(Granzsituation)とよぶものが原始仏教の苦の観念に一層近い。限界況位とはわれわれがそれを自覚することによって、はじめて人生の深い意味というものに目を開くような場合であって、原始仏教ではそれが苦としてあげられているわけである。第一の四苦のうち生・老・病・死苦のなかで一番根本の問題は死の問題であるが、しかし老ということについても同様である。例えば、私はもうすでに年をとっている。学校の帰りに電事に乗ってふと向うをみると、白髪の疲れた顔をした男がいる。ああこれが自分だなと一瞬思うけれども、すぐ忘れてしまう。すでに老というものになっていても、その自己をありのままに自覚することができない。いつも自分で、もっと若い気でそれを回避して、もう少し都合のよい自分にそれをつくりかえている。電車の窓にうつった向う側の私は、私をみつめて、これがお前の本当のお前だ、そこにいるのは贋者だといっているように見える。それはそうかもしれぬと思うが、つぎの瞬間にドヤドヤと人が入ってきたとか、あるいは何か他のものに気が散って、その本当の自分と対決するということは、事実としてすでに老がやってきている私にとっても、不可能なことである。
しかし仏陀は老病生死ということを、自分がまだ若く青春と健康と生存の誇りにみちていたときに把えた。自分自身は死すべき存在であって死をまぬがれていない。その死を超克していない者が、他人の死とかそういう死の現象を回避しようとしていることは理に合わない。また老についても病についても同じような省察を行なっている。一方、他の経典では仏陀は、老耄して路傍にうずくまっている老人を見て、彼は老について省察するには、あまりに遅すぎると若い弟子に教えている。老は少壮有為のときに、きわめられなければならぬ、死の場合と同様に事実としてのそれが到来してしまったあとでは、すでに遅すぎるのである。
苦は人間存在の根源である
しかし他方からいえば、人間だけがこのように老を自己の老として反省し、これを人間存在の根本にあるものとして把えることができる。そしてまた人間だけがそのように病を病として、その問題性において把えることができるのである。動物も病むことは病むであろう。しかし病というものを病として、自分の本質に根ざしたものとして、把えるということは、人間以外のものはできない。マックス・シェーラー(M.Scheler1874-1928)が人間に固有の本質直観という作用を説明するときに、つぎのようなことを述べている。例えば病というものについて二つの探究の道がある。私が病気になったとすると、病の原因をたずねて、これはどういう薬を飲んだら治療せられるか、どういう手術をしたら直るかということを理解するのは、披術的な知識である。それは人間では顕著に発達しているが、これは程度の差で、本来的には動物にも見られるものである。しかし病にかかって、その病において、病というものが人間の本質にいかに属しているかを省察すること、例えば病というものにふれて、私は誰にもかわってもらうことのできないところの苦痛というものを通して、有限な、しかしかけがえのない自己を自覚することがある。そのように病というものが、その他いろいろのことを教える。その教えは、病の個人教授で、そのなかで病はその教える真理を示し、またそれを私が受容しうるための訓練を与える。そういうことは多くの人のいっていることであるが、そういう体験のなかに出てくる病の本質というものは、科学的知識以外のところにある。技術的認識と本質的直観との違いとマックス・シェーラーがいったのは、そういう病の把え方の違いということである。
死というものについては、一層根本的にそういうことがいえる。人間だけが死すべき存在であって、死すべき存在としての死の問題というものを、すなわち死を死として、うけとめることができる存在である。われわれは日常、死を回避しているが、しかし本当の意味で死を死としてうけとめることができるのは、人間だけであって、実存哲学(例えばハィデッガー)は人間の本質は何かということを、「死への存在」(SeinzumTode) あるいは死すべきものとして地上に有り居するもの、死を死としてうけとめることができるものだとしている。
仏教の根本の教えも、結局死というものを単なる生理的な事実としてではなく、人間の本来の在り方の間題としてうけとめることを示している。そこにまた死の問題というものの解決の方法があると考える。死というものによって人間が初めてつきつめた自分自身の間題、誰にも代行してもらうことのできない自分自身の存在の問題に撞着する。そして人間の本当の自由とは何か?とか、人間の求めているものは何か?という問題に初めて本当につきあたる。そういう意味で死の間題というものが人間にとっての根本の閲題である。人間は、実際は、老病生死というような限界況位にいつも撞着しているのであるが、それにもかかわらず、われわれの日常性はそれを蔽ってしまって、それに目を向けないように配慮している。そこで日常的な生活がうまくゆかない、蹉跌をきたすようなところで、そういう問題に打ち当り、初めて人間は彼の本質について深く立ち入って考えるようになる。そこに苦の問題というものの本当の意味がある。
言葉の意味の上でも、苦(dukkha)という語は自己と存在(世界)とのかかわり方が「うまく適合しない」というのが本来の意味で、苦の自己理解の重要性というものは、西洋ではヤコブ・ペェーメのような神秘主義者にも知られていて、彼は苦悩(Qual)というのは源泉・根源(Quelle)だとしている。最近では、ハイデッガーの『有の間に寄せて』(”ZurSeinsfrage”1956)という著作に、すぐれたこの間題に対する省察が示されている。人間自身の根源の自覚が、その苦悩を通してふき出てくる、いままでつまっていた泉の深い水の底が開いて、そこから深水が湧き出てくる。そのように人間と自分自身の底にある源泉との間の水凌いをするものが苦だという考えである。そういう苦の根源が渇愛であって、これが苦集といわれている。
渇愛とその根底
苦集(dukkha-aamudaya)とは苦の集起とも訳されている。Sam-udayaとは集めて起すという意味で、インドの神話的表象では、朝太陽が昇るのは雲が東雲(しののめ)の空に集まり、その集まった雲が太陽を大空に送り出すというふうに考えられている。そのように人生の一切の根本にあって、そこにそれが集まって、苦の根源をなしている。またその苦の根源から、人生のすべての苦の事実が出てくる。それが集という語の意味で、それは原因と根拠とをかねた概念である。集は原因という意味もあって、hetu(因)という語もその代りにしばしば使われているが、この原因という言葉の意味も同じように、普通の因果関係の因と果という意味の因でなく、根源とか根拠とかという意味がいつも含まれているものと解せられねばならない。さて苦集滅道という場合に、その集の法が滅の法であるというのが仏陀の教えの特色である。というのは、本当の意味で、苦の根源というものがわかったら、そのときにはすでに苦の根源から超越しているというのが仏陀の考え方である。
しかし四諦という考え方はもともとインド医学から出てきた用語で、その場合には病と病の原因と病の消去とそれにみちびく技術(道)というふうに、四諦が考えられている。その場合には道は病をなおす方法という意味に考えられている。それで仏陀の教えというものは、そういう医明(学)の方からの考え方から離れて、集即滅という点から道を考える。それは道交(Kommunikation)ということ──苦の根源から超越したところで、初めて仏陀と仏陀の弟子とが、同じ真理への道で、往ったり還ってきたりする、そこに真の師と弟子、汝と私との宗教的交りが成立する。そしてそこに道についての原始仏教の独自の理解がある。それで、如来というのは、仏陀の考え、あるいは原始仏教の人たちの考えでは、道を歩みつくしたもの、真理の道をきわめたもののことであって、その意味では如来は如去と訳されていることもある。すなわち彼岸の国あるいは涅槃の都に往きつくという意味(如去)のときと、それから涅槃から再び還ってくるという意味(如来)のときと、この二つが如来という言葉には同時に含蓄されている。それで同じ道・八聖道というような宗教的な修行の道を、師匠と弟子とが往ったり来たりしながら、この真理の道を保持していくというのが四諦のうちの道、すなわち八聖道ということの実存的意味であると考えられる。  とにかく四諦の教えというものを知らないのが無明ということである。四諦の教えにおいて一番大事なのは無明と渇愛(taṇhā)ということであって、渇愛というのはいま述べたごとく苦集のことであるが、その苦集が渇愛、すなわち愛欲の根のことだと四諦説は教えている。渇愛の渇というのはのどがかわいた状態で、愛というのは愛欲のことに違いないが、渇愛というのはのどのかわいた人が、例えば漂流しているときに、塩水を飲むようなものである。飲めば飲むほどかわいて、そして結局、気が狂って死んでしまうというのに譬えられている。渇愛にはその根本に執着があって、その執着は取(ウパーダーナ)(upādāna)という言葉であるが、取というものがあって渇愛がある。その関係は薪と火とのようなものだと教えられている(ウパーダーナという言葉のうちには薪という意味がある)。愛は現実的にはたらいて自分自身の盲目的な欲望を対象において満足しようとするが、その愛のはたらく根本に、エネルギーを蓄えている基礎になっているものが、人間の取・執着性で、この執着と渇愛とが非常にこみ入った関係になっていて、両方がもちつもたれつの相依的関係においてある。というのは渇愛は取(ウパーダーナ)から成立する。しかし逆に取は渇愛によって養われている。
原始経典では、例えば多羅葉樹の枝と根との関係で示される。というのは渇愛という枝をいくら切っても根本にある根が切り除かれないかぎり、たとえひげ根でも残っていると、多羅葉樹はまた再生する。さらに枝は根によっているが、しかし他方木の枝とか、幹とかがはびこっていることによって、根もはびこってゆくのである。両方のものがもちつもたれつの相依関係になっている。だからそれは無限の悪循環であって、その循環を容易に切りすてることはできない、無限な連鎖になると考えられる。
業と根源悪
この無限の連鎖というものが、無明であると原始仏教は教えている。だから苦の究極の縁(ニダーナ)を「無明と渇愛によってというふうに縁起経典ではしばしば説いている。また「無明と業によって」とか、あるいは「無明によって行(業)がある、行(業)によって識(と名色)がある」というふうにも十二支縁起説ではいっている。この業というときは、いま述べたように人間の根深い「渇愛と取(執着)との相関関係」と、それによって生じた両者の無限連鎖が意味されている。
キリスト教においても人間の根源に原罪──カントの宗教哲学でいえば根源悪というもの──があるとしている。この原罪とはどういうものかということは、非常にむつかしい問題であるが、原罪というキリスト教の考えは近代の哲学のなかでは、いま述べたカントの根源悪の説とか、シェリングの自由諭、あるいはキェルケゴールの罪の不安や絶望の分析とかで、それぞれ非常に特色のある解明をあたえられている。なかでもカントの説は、この間題の彼以後の展開に大きな影響を及ぼしたものと考えることができる。
カントによると、私が自分自身の根底にある「悪への傾向」(Hangzum Böseand)というものを自覚するのは、私が悪をおかしたときに初めて自分のうちにそういう悪の傾向がすでにあったのだと発見される。例えば酒乱への傾向性を私がもっていても、酒の味を一生知らなければ、この傾向性は一生目ざめないで過ぎてしまうであろう。しかしただ一度でも酒の味を覚えると打ち勝ちがたい、先天的な酒への耽溺が私に目ざめるようなものであるとしている。そこでは先天的な悪の傾向と、現在の自由意志による(悪への)行為とが、絡みあっている。さらにその悪への先天的傾向も、やはり自分がそういうものを、自分の責任において招致したとしか考えられない。
自分が生れながらにもっていながら、しかもそれがどうしても自分自身が自分の行為によって招きよせた──いつ行なったかわからないが、とにかく自分が自由に行為して、その習慣性を身につけた、したがってそれに責任をもたねばならない──そういう意味の悪というものが人間のなかに、しかも人類全般にあるということ、さらにそういう意味の根源悪が人間にあるという経験的な事実、それはどうしても否めないとカントはいう。そのような考え方が根本にあって、そういう根源悪と人間性とがいかに結合しているか[註]の問題とか、人間の道徳性が、この事実のもとでいかにあるべきか、いかにして根源悪から解脱することができるか?などの問題がさまざまの角度から考えられている。
[註]というのは、根源悪は一方では先天的であり、人間全般に普遍的に蔓延しているが、しかもそれは人間性の本来の性質ではないから──もしそうであれば、自由によって招致されたのではないことになる。
仏教の場合にも同じ問題が原始仏教以来、業と煩悩というかたちで、さきの渇愛と取(執着)との関係として、生死という観点から(死の相のもとで)把えられているということができよう。ただキリスト教と仏教の相違は、仏教の場合には生死というか死の問題が根本にあって、死の問題とそこに根付いている執着性とを回避して、死の問題をその本来の在り方で把えないでいるところに、人間の錯誤と罪悪があると考える。その結果、人間が分別心を起して対象の世界を客観的にあるものと考え、そして自分自身もまたいつまでも存続する存在だと考えて、そしてその無常な生死の世界のなかにある存在のなかで、主観の方にも客観の方にも間違った恒常性の考え方をする。間違った仕方で自己自身や物自体を把える。しかし現実はそういう間違ったかたちを許さないような流転の世界で、一切は一瞬ごとに転変しゆくから、その人間の執着性と事態そのものの転変性が激突したところに、人間の苦があり、また苦の本質をきわめないところに、人間の怯儒(きょうだ)な態度、驕慢な態度、業欲な態度、そういうものが出てくる。そこに煩悩というものの基礎が無明であるという考え方を取る理由がある。したがって死の問題から罪の問題に入ってゆく。
それに対してキリスト教の方は、むしろ罪の問題から死の問題へという思考形態をとっている。そこでは「死は罪のむくい」というふうに考えられる。楽園において神の掟を破ったアダムが、人類に死をもたらした。アダムの罪を、後の人間、一人一人の人間が、どうして引き受けなければならないのか。アダムが罪を犯したということと、私自身が罪を犯すということと、どういう関係になっているかという問題が、例えばキェルケゴールなどにおいても、この神話に沿うて、深く考えられているわけである。
仏教の場合には、この間題は原始仏教では無明の問題としてまず把えらた。人間は無常で苦である存在である。この生死ということのなかで漂わされている人間を、われわれはただ生という一断面からだけ把えようとする。常識の立場、科学の立場、悟性や理性の立場も皆そうである。しかしそれを生という一断面からだけ把えている人間の把え方は、前方だけに突進するように目蔽いをつけられて走っている馬車馬のようなものであって、われわれは働け働けといって馬車馬的に働くことをすすめられ、進め進めといって学問の進歩に貢献しながら、しかも結局は右も左も見ることができないようにされている。われわれは生をそのようにしか見ていないので、もし馬車馬的な生に対する関係を脱却して、目蔽いをとりはずして、生と死の全体を、もう一度新しく考えなおそうとするときには、いままで考えていた時間の考え方とか、空間の考え方とか、そういうものが皆変ってしまわねばならないような、困難な思考をとることを、余儀なくされる。
そこで初めて、いままでみていたものが実は無明の世界であったということがわかるわけであって、そういうことがわかるまでは、無明ということは本当の無明としてわれわれに知られない。むしろ無明というものは、われわれの日常的生活においては知られない焔の芯のところにある光源の闇のようなものである。ちょうど都会が昼も夜も照明の光に輝いていて、闇というものがどこにもない不夜城に変っている、それと同じょうにわれわれはまったく無明のない世界のなかに生きていると思うのであるが、それでは本当に無明はないのであるかというと、まさしく光があって闇がどこにもないというところに、一番深い闇があるのである。夜、ジェットで空港を飛び立つと、たちまち大都会が遠くの一軒家の燈のように小さなものとなり、大空の下の深い闇にあっという間に呑み込まれてゆくのをわれわれは経験している。無明というものは、私がそれを自覚することによって、目ざめた人がああ夢だったというふうに感じ取るようにして脱却して、初めて無明は無明である(あった)ことを知るのであって、それまではわれわれは無明を無明とも知らない闇の存在なのであろう。  
 
親鸞と現代の諸問題

 

高齢化社会の問題と親鸞の信仰
現代の日本人は、さまざまな問題を抱えているが、その根底に深い孤独感が横たわっていると思えてならない。世代別に見てみると、たとえば子どもたちはいじめられることによる孤独感、いじめざるを得なくしている孤独感を、若者たちは就活や婚活の挫折感からくる孤独感、壮年の人々は社会や職場、さらには家庭からの疎外感からくる孤独感、そして高齢者は若い人から避けられる孤独感、やがて死を迎えなければならないという不安感からくる孤独感などを抱いている。もしこのような孤独感に悩む現代のわれわれが、稲田に滞在される親鸞をたずね、その孤独感を離れるべく真剣に問うことができるとしたならば、彼はどのように答えてくれるのだろうか。もちろん阿弥陀仏を信じ、念仏することが勧められるだろうが、阿弥陀仏がいかなる存在であり、なぜ、どのように信じるのか、念仏は何なのか、孤独はどのようにして癒されるのか、などを懇々と説いてくれるだろう。比叡山で、越後で、死ぬような孤独感と戦った彼にとって、さらに九十歳という当時では考えられないような高齢を生き抜いた彼にとって、われわれの悩みなぞどんなに浅いものかを見抜きつつ、それでもやさしく親身に話し相手となり、その孤独感こそ救いへの契機になるのだと説いてくれるだろう。
今回は、まず現代日本の高齢者の孤独感を取り上げ、やや詳しく分析しておき、次回、親鸞にこの孤独感から解放される方法を教えてもらうことにしよう。高齢者が孤独感に追いやられている理由を、ひとまず四つの面から見ておきたい。
まず第一に、医学等の発達により平均年齢は飛躍的に伸び、「若いのに死んでいかねばならない」という苦しみからは解放された反面、逆に「身心が衰え、そろそろお迎えにきてほしい」と思っても死ねないという苦しみが生じてきた。身体のみが無理やり生かされ、ほとほどのところで死を迎えられないという苦しみが生まれてきたのである。さらにこのまま生きていると認知症などにとりつかれ、人間的で主体的な生き方もできなくなってしまうのではないか、長期間病院や施設に入った場合、高額な費用がかかるのではないかと考えざるを得なくなり、絶望的な孤独感が身を責めるようにもなった。
第二に、家族形態の変化からくる孤独感が考えられる。昔は大家族の家庭が多かったが、次第に核家族になり、やがては「孤族」という言葉で表現されているように老人のみ、さらに伴侶を失えばまったくひとりで生きていかねばならなくなった。そして最近では、ひとりで暮せなくなった高齢者が、病院にも居られず、介護施設にも入れず、行き場を失って居場所を転々とする状態を指す「老人漂流社会」という言葉まで生まれた。もはや自分のために親身になってくれる人もなく、自分は社会や家族のお荷物になっているだけであり、存在価値もなく、ただこの世を無意味に漂っているにすぎないという実感からくる孤独感に襲われるようになった。
第三に、社会学の分野でいわれる「無境界現象」がいよいよ高齢者を悩ませるようになっている。この言葉は、従来の価値観が急速に崩壊していることを表わす言葉である。たとえば一昔前には、正常と異常、公と私、真面目と不真面目といった価値観の間には一定の境界、つまり区切りがあったのであるが、急速にその境界が崩れ、変化するようになった。その変化に高齢者が対応し切れなくなっているのだ。人は年齢を重ねるにつれ、新しいものに適応できず、古いものに固執するようになる。親切心から若い人に世話をやいても、価値観の違う彼らからは逆にうるさがられ、避けられるようになる。勢い高齢者は、裏切られたような気持になり、自分はこの家庭や社会にはいないほうがよいのではないかと思いこむようになる。ひたすら自分の心の扉を閉ざし、孤独な世界に閉じこもってしまう傾向が、最近顕著になってきているのである。
第四に、高齢者として当然のことであるが、いよいよ死が近づいてくる。昔のように医療があまり発達していない時代には、死に対して心の準備をしなければならなかった。そして死への覚悟と死後に行くべき世界を信じ、信仰や信念を形成することが高齢になる者の常であり、自宅で死を迎えるに当たって家人に恥ずかしくない死に方をしなければならなかった。しかし現代では、死は、もしかするとずっと先のことかも知れないと思えるようになり、死に対する覚悟と心構えを怠るようにもなった。おまけに科学主義の時代に生きてきた現代人は、死の心構えをすることは生に対して敗北を意味し、死後の世界を信じることは非科学的だとしか考えられなくなってきてもいる。かといって無神論的な生き方もむずかしい。ただ何となく死を先送りし、宙ぶらりんの状態で目の前の一時的な楽しみで自分を紛らわせようとし、挙句の果てにはこのことに気づき、自己を偽っているように感じて自分の中に本当の自分がいないような孤独感に襲われる。このような情況の中にいる高齢者も多いのではないだろうか。
ここでは、以上四つの面からのみ高齢者の孤独感について考えてみたが、では、この孤独感を抱いてわれわれ現代人が稲田の親鸞のもとを訪ね、問うた場合、彼はどのように説いてくれるのだろうか。どのように信心や念仏を勧め、いかように生きよといってくれるのだろうか。この点については次回に言及したい。
現代の高齢者の悩みに、聖人はどう答えてくださるか
先回、私は現代の日本の高齢者の抱える悩みを分析してみた。その悩みの顕著な特色として、一人ひとりの心の中に深い孤独感が浸透していること、詳しくは、1死期を引き延ばされ、自然な死を迎えられない非人間的な状況に追いやられる孤独感、2家族や社会から見離され、単なるお荷物となって迷惑だけをかけていると感じる孤独感、3次々に変化していく時代的価値観についていけず、若い人々から避けられ、孤立していく孤独感、さらには4やがてやって来る死の意味がわからず、死後自分がどうなるかもわからない不安感から来る孤独感などについて指摘してみた。
そこで今回は、このような悩みをもったわれわれが、稲田におられる親鸞聖人をたずねた場合、聖人はどのようにわれわれを導いてくださるかを考えてみたい。
聖人は本来寡黙な人であった。稲田で書かれた『教行信証』を読めば、よくわかる。自分のこと、自分の主張は全体の5%ほどしか書かれず、ひたすら他人が書いた文を丹念に引用される。いわば聞き上手な人であった。人の話を真剣に聞く人だった。だから人がたずねても、一応信心や念仏を勧められるが、一方的に話し、それを押しつけるような人ではなかった。しかも聖人には、若い頃、当時いわれていた信心や念仏を信じられず、苦しまれた時期が長かったから、なかなか素直に信心や念仏を信じられない人の気持ちがよくわかったはずだ。まずはじっくり、訪れた人々の話を聞かれたことと思う。
話を聞き終わると、「私もそういう悩みを持っていたからよくわかります。そこで一度自分というものをしっかりと見つめてみましょう。自分の偽らざる姿を見つめてこそ、救いというものに気づくのです」と語りかけられたことだろう。聖人ほど自己を省察した人はいなかったからだ。そして自分の赤裸々な姿を見つめさせながら、たとえば「三毒」の話などをし、次のように語られたであろう。
「三毒とは、煩悩の中で最も根源的なものです。本来仏教は、煩悩を滅ぼし仏に成るのが理想ですが、この煩悩が滅ぼせない。私も比叡山で苦しみましたが、実は人間の悩みは自分の外から来るのではなく、この煩悩が自分を苦しめるのです。そこでこの煩悩の中で最も人を苦しめる三つの煩悩、つまり三毒について考えてみましょう。
この三毒とは、貪(とん、貪欲のこと)、瞋(じん、瞋恚のこと)、痴(ち、愚痴のこと)の三つです。貪とは、何でも自分のものにしたい、自分に都合よくまわりが動いて欲しいという欲望、瞋とは、貪が満たされないと出てくる怒り、痴とは、怒るだけではおさまらず、愚痴をいい人を憎み怨み妬む心に襲われること。要するに、自分の欲望が満たされないと、怒ってそれを人のせいにして憎んだり怨んだりして愚痴がやまないのが人間の実態なのです。年をとればとるほど、これは消えることなく、いよいよ深まってきます。救われようのない姿になっていくのです。ところがそのような自分の姿を反省せず、自分の悩みの原因を他人や社会のせいにして責任転嫁するから、いよいよ皆に嫌われ、避けられ、孤独になってしまうのです。こうしてますます煩悩に縛られ、仏に成るなど到底できない人間になっていくのです。このような人間を救われがたい人間というのです。平成の日本にも、このような人が多いですね。
しかし、こうして皆から見離されてしまった人をじっと見守り、その悩みを一緒に悩んでくださっている方が一人だけおられるのです。実は、この方こそが阿弥陀さまなのです。救われようのない人を何とかしようと考えてくださったただ一人の方なのです。
では、どのように考えてくださったのでしょうか。
三毒のような煩悩を滅ぼして仏に成るのが仏教なのですが、現実の世界を見れば、それはむずかしい。煩悩を滅ぼす能力も時間の余裕もないのが一般の人間です。そのような人々が仏に成るには、努力を重ねて仏になった私を信じ、私の名を呼んで常に私と共に生き、煩悩に支配されないようにするしかない、と考えてくださったのです。煩悩を滅ぼす修行はできなくても、阿弥陀さまを信じ、その名を呼ぶことだけはできるはずです。その名を呼ぶことが念仏するということです。ただむやみやたらと仏を信じ、念仏するというのではなく、このように自分を思いやってくださる阿弥陀さまの思いやりを深く噛みしめるときに自然に信じる心がおこってきますし、この思いやりに感謝の心がおこるとき、自然に阿弥陀さまありがとうという気持ちが生まれ、念仏が出てくるのです。だからわれわれの信心も念仏も、実は阿弥陀さまからいただいたものといわねばなりません。これが法然上人から私が教えていただいた信心と念仏なのです。
さて、このことがわかれば、人間は決して孤独ではありません。世界中の人から見捨てられ、たった一人になってしまっても、いつ、どこでも、阿弥陀さまと一緒にいるのですし、法然上人、そして私もあなたとともにいるのです。あなたはこうして孤独になったからこそ、本当は孤独ではないということがわかつたのです。孤独になったことが救いの原因になったのです。煩悩や三毒を持ったままでよいのです。それらを持っていると、かえって救いのありがたさがわかるのです。高齢者だからといって、愚痴をこぼしていてはいけません。高齢になったからこそ、救いに気づかせていただいたのですから。
だから、1たとえ認知症になっても、いつもお念仏だけは口から出るように、不断から念仏もうしておき、人から愛されるようにしておきましょう。それ以上取り越し苦労をせず、すべて阿弥陀さまにおまかせしましょう。 2そして、将来一人になって、どんな施設や病院をタライ回しされようと、いつも阿弥陀さまが付き添ってくださっていると思い定めてください。私もあなたの心の中で付き添っています。3さらに価値観の激変で若い人々から避けられるようになったら、自分の今までの価値観に固執しないで、念仏をもうし、それによって柔らかくなった心で、若い人々の価値観を受け入れましょう。若い人々の価値観にも良い面があるのです。これを受け入れていくことが、ほかでもなく三毒に縛られなくなっていくことでもあります。4最後に、死も生と同様に意味があるのです。阿弥陀さまに導かれ、お浄土に参れるのです。そのお浄土に生まれ、煩悩から解放され、今度こそ本当に仏さまにしていただきましょう。死は恐いことのようですが、本当は深い希望への旅立ちでもあります。煩悩があるため、なかなかそう思えませんが、阿弥陀さまを信じ、お念仏もうしていると、自然にそのことがわかってくるのです。」
聖人をたずねる人は、きっとこのようにいわれることだろう。これは私の推察ではありますが、現在の私の正直な気持ちでもあります。
現代の高齢者の悩みに、聖人はどう答えてくださるか
先回は、日本の高齢者の悩みについて聖人にたずねてみた。今回は壮年期の人々の悩みを分析し、これについて聖人にたずねてみたい。
壮年期とは、一般に20〜25歳頃から60〜65歳頃までを指すとされ、幅が広いので、今回は深刻な孤独感に襲われ自殺者も多い50〜60歳周辺の男性を取りあげ、社会における孤独感、家庭における孤独感、心身における孤独観、老いた両親との関係における孤独感の四点から、まず分析してみたい。
第一に、壮年期の彼らは、少し年上の猛烈社員たちとともに、会社のため脇目もふらず二十年、三十年働き続けてきた。「一社懸命」という言葉もあった。エコノミックアニマルなどと諸外国から悪口を言われながらも、その世界の国々を援助できるような豊な国を作り、会社発展のために献身してきた。しかしバブルがはじけた頃から、日本の会社は大きく変化しはじめた。会社に骨を埋めるというような社会ではなくなった。日本の企業は若手管理職が過剰であると判断し、いつリストラや配置転換、出向、希望退職のターゲットにされるかもしれない時代となった。挙句のはてには「首切りマニュアル」、「追い出し部屋」などという悲しい言葉が作られ、実際に行われるようになった。真面目に働いてさえいれば、年功序列で……などと希望をもつこともできなくなった。こうしてストレスをため出社できなくなったり、抑鬱症などと診断され、孤独感に陥る人も多くなった。
第二に彼らは、以前であれば会社で辛くても、家に帰れば一応家庭の主人として存在感があった。しかし今では必ずしも家庭の中心人物ではなくなった。早く帰れば、「もう帰ったの」と煙たがられる場合も多い。いざ転勤となれば、子どもの学校の都合でほとんどが単身赴任となる。父親中心から子ども中心に家庭がまわるようになったのだ。「父さん元気で留守がよい」などという言葉が平気で使われる。さらに最近、「家庭内ランキング」という名のもとに、「母・子・犬・猫・父・金魚」とも言われる。かりに冗談であっても、情けない言葉である。家庭においても彼らは孤独感を感じざるを得なくなった。
第三に、この年齢になるとそろそろ身体的老化がはじまる時期に入る。健康診断を受ければどこかに欠陥が見つかる時期だ。しかしまだ子どもたちを養わねばならない立場上、そのことをなかなか家族に言いだせない。胸にしまっていると、これが身心のストレスとなり、孤独感にもさいなまれるようになる。
第四に彼らの親は、高齢化社会になったため、まだ存命の場合が多くなった。しかし命はあっても、介護が必要になったり、場合によっては認知症が進んでいるような場合もある。心理的にも経済的にも負担を背負わねばならないケースが増えている。今そうでなくても、やがてそうなるかもしれないという不安感・孤独感がのしかかってくる年代である。
五十歳代といえば、一番分別のある世代でもあるはずだが、このような孤独感が幾重にも重なって襲ってきたとき、発作的に死を選んでしまう場合が少なくないのである。
ではこのような孤独感によって疲れ切った五十代の男性が、稲田の草庵におられる聖人をたずねた場合、聖人はどのようにアドバイスをくださるのだろうか。あくまで私の推測ではあるが、あたたかく迎え入れ、次のように話してくださるのではないかと思う。
「会社で疎外され、家族から軽んじられ、自分の体の衰えに気づいた上に、ご両親の面倒まで見なければならないと、孤独な胸中で悩んでおられるそのお気持ち、よくわかります。さぞかし辛いことだと思います。
しかしよく考えてみましょう。世の中はあなた一人のためにまわっているわけではありません。人間は皆、この事実のために悩んでいるのです。私はいつも言うのですが、人間には三毒という煩悩があり、この三毒に支配され、苦しんでいるのです。三毒とは貪・瞋・痴のことです。まず人間誰しも、自分こそ幸せになりたい(貪)と思うのですが、そうはいきません。すると無性に腹が立ち(瞋)、それを押さえるとストレスがたまり、うまくいかない理由を社会や他人のせいにして恨んだり憎んだり妬んだりして愚痴を言い続ける(痴)。そして次第に悪循環の世界に入りこんで迷いを深めていくのです。
そこで少し落ち着いて考えてみましょう。第一の孤独感ですが、会社には会社の目的があります。昔に比べると会社同士の競争ははるかに激化しています。会社はあなたのためにだけあるわけではありません。会社に満足できなければ、日本の経済組織や会社の組織全体を変革しない限り、方法はありません。それができなければ下働きであっても愚痴は言えません。しかし会社に満足できなくても、人生は会社だけではありません。下働きをしながら、自分の人生観は変えられます。人生観を変え、その下働きを、むしろ奉仕と考え、もっと大きな世界で生きることができるのです。阿弥陀さまとともに生き、お念仏の世界に生きて他人の幸福を願う生き方があります。私も京都を追われ、罪人にされ、越後に流されました。ですからリストラや出向の悩みも分かります。しかし今ここで、こうして多くの人々とともにお念仏の世界に生きており、貧しいながらも、とても幸せです。京都や奈良には出世して高僧になった人々もいますが、少しも羨ましくはありません。
第二の家族の問題ですが、私は結婚し、妻も子どもたちもいます。だから言い合いも喧嘩もします。それぞれ人間ですから、それぞれの生き方があります。しかし皆阿弥陀さまを信じ、お念仏もうし、その点では堅い絆で結ばれています。仏さまの力で結んでいただいているのであって、私が結んでいるのではありません。だから家庭の中で中心になろうなどという気持ちもありませんし、孤独感も生まれません。仏さまが中心、あとは皆仲間です。
第三の身体的な孤独感ですが、正直もうして私も気にはなります。しかし私のいのちはいただいたもの、言い換えれば私の中でいのちが生きてくださっているのですから、ありがたく大切にさせていただいております。寿命の長短は気にしないようにしています。それよりもお浄土に参れますよう、念仏もうし感謝の生活をするよう心がけています。
最後に、第四のご両親のことですが、どうかご両親には仏さまを信じ、念仏もうされるようにおすすめください。かりに認知症などになられても、お念仏と「ありがとう」の言葉だけは記憶に残るよう、あなたと共に念仏もうす環境で包んであげてください。それがご両親をお浄土に導き、あなた自身を救う方法になるでしょう。
いろいろとお話してきましたが、要するにあなたは少し「我(が)」をはり、頑張りすぎて悩んでおられるのです。「我」はしばらく仏さまに預けて、会社の人たちと一緒に、家族と一緒に、自分の体と一緒に、親と一緒に仏さまの前に立ち、心で念仏もうしながら共生していかれるよう意識を変革してみてください。まだまだ人生は長いのですから」
現代の若者の悩みに、聖人はどう答えてくださるか
先回は、日本の壮年期の人々の悩みについて聖人にたずねてみた。今回は若者(ほぼ20歳前後の青年を指す)の悩みを分析し、これについて聖人にたずねてみたい。
現代の日本の若者の最も深刻な悩みは、就職の問題と友達ができないという問題である。就職の問題はともかく、友達ができないなどということが、なぜ悩みになるのかと壮年期以上の方々は思われるかも知れない。ところがこれが事実である。長年若者を見てきた私も、最初は子どもじゃあるまいし、なぜそんなことで悩んでいるのか、甘ったれちゃダメだと思っていたが、友達作りを含めて、とにかく今の若者は人間関係に過敏で消極的になっている。そこで、この二つの問題の現状を見ながら、親鸞聖人ならどんなアドバイスを、彼ら若者にしてくださるかについて考えてみたい。
第一に就職の問題であるが、就職難は歴史上たびたびあった。しかし今の若者の場合は、特に深刻である。たとえば厚生労働省と文部科学省によると、昨年、つまり2012年春の卒業生の中で2万5000人が内定を得られなかった。また警察庁によれば一昨年の11年、就活つまり就職活動の悩みが原因で自殺した大学生は41人にのぼり、4年前の3倍以上に増えたという。なぜそれほど悩むのだろうか。
以前の若者は、大学入試に合格すると、やっと受験戦争から解放されたとばかり、今までやれなかったことをはじめたものだ。自分の趣味に没頭したり、勉強するにしても自分の興味のある勉強をしながら将来やりたい仕事を探しながら、夢をふくらませていった。このような姿勢が次第に職業の選択に結びつき、四年生になると自然に就職活動、入社試験へと進んでいった。青春を満喫し、苦労はあったにせよそれほど深刻さはなかった。
ところが最近は、大学に入った途端、就職への準備へと駆り立てられる。就職のためにいろいろな資格を取っておけと先輩からは言われ、入学した大学も、少子化からの生き残りをかけ、就職率を高めるため、就職のための講座を設けたりし、早くから就職の準備をさせようとする。さらには大学外でも就活塾つまり就職活動のための塾ができ、煽る。このため一年のときから塾に通いはじめる学生もいる。何のために大学に入ったのかと思ってしまうが、彼らは深刻なのだ。思い切り遊び、さまざまな人と出会い、好きなことを学んで人間性を豊かにできる青春時代を奪われ、ますます人間性が瘦せ細り、何事にも消極的になってあきらめてしまう。これを「さとり世代」と皮肉る言葉さえ生まれた。
バブル期に就職しあまり苦労をしなかった親の世代は、不安に襲われる。このような親子のために「親子カウンセリング」をする就活塾も増えている。もう大学生なのだから親から独立し、自分の仕事くらいは自分で探せという考えは、過去のものになりつつある。こうして若者の自立はいよいよ阻まれ、閉塞感の中で彼らは悩んでいるのだ。
第二に、友達ができないという悩みであるが、文部科学省によると2012年度の大学の休学者は過去最高の3万1000人、10年で1万人近く増えたという。この中に友達ができずに孤立し、大学に通うことを恐れ、やがて休学、退学となる若者も多い。なぜこんなことで悩むのだろうか。
今では孤立する若者を「ぼっち」という。独りぼっちの「ぼっち」だ。友達がいない若者の中には、「一諸に食事をする友達もいないのか」と馬鹿にされるのを恐れ、トイレの個室で弁当を食べるなどということも起こっている。あげくの果てには、友達と行くべきところに一人で行けないため、お金を出して「レンタルフレンド」と一諸に行ってもらうなどという現象までおこっているのである。独りではさびしい、話しを聞いてもらいたい、どこかに一諸に行ってもらいたいという若者たちのためにこの「レンタルフレンド」を派遣する会社までができているのである。一昔前までは、大学生は大人扱いされ、友達作りなどはとっくに済ませておくことだった。
就職の問題も、友達のできない問題も、さまざまな理由が絡まり、簡単には説明しきれないが、基本的には少子化と関連し、過保護に育てられた結果逞しさを失い、傷つくこと、傷つけることを極度に恐れるようになってしまったことが大きな理由であるが、ここで彼らが稲田におられる聖人のもとにアドバイスを求めに行ったとしたら、聖人はどのようにアドバイスをくださるのだろうか、を考えてみよう。あくまで私の推測ではあるが、あたたかく迎え入れ、次のように諭してくださるのではないかと思われる。
「私は9歳のときから比叡山で修行をはじめましたが、10年ほど経って20歳頃、自分の地位が「堂僧(どうそう)」と定められました。エリートコースの「学生(がくしょう)」ではなく、地位の低い堂僧にされたのです。正直言って、私は愕然としました。親に申し訳なく思いましたし、希望も失いました。しかしやがてこの挫折が私を変えました。この悩みの原因を毎日毎日仏さまに問い続けていましたが、やがてこうして悩み苦しむ者こそを救ってくださるのが実は仏さまであると気づかせていただいたのです。もし私がそのとき学生になっていたら、立派な学僧になれたかも知れませんが、そうであれば法然上人にも出会えず、念仏の本当の意味、信心の本質、そして本当の救いもいただけなかったでしょう。たしかに良い企業に入ることも大切なことでしょうが、それがすべてではありません。思うところに就職できなくても、それは自分の人生の一コマにすぎません。どんな縁でどうなるか、その時点では予測できません。あまり就職に過敏になるのではなく、今できる勉強をしっかりしておくことです。自分の人間性を練り、自分がどう生きるかをいつも念頭にして努力することが大切です。そうしていれば、いつか必ず自分の道が開かれてくることでしょう。真に自分を生かす仕事に出会えることと思います。
次に、友達ができないことも辛いことでしょう。私も29歳になって比叡山を下りるまで、自分の悩みを相談したり解決策を考えてくれる友達もなく、悶々としていました。そこで尊敬していた聖徳太子に心の中でいつも相談していました。ところが29歳のとき、京都の六角堂にお籠りをしたとき、その太子が夢の中で、法然上人のもとへ行きなさいと告げてくださったのです。上人のもとへ行って、勇気を出してお声をかけ、弟子にしていただきました。そして毎日毎日上人のお話を聞き、私は自分の心の中を全部さらけ出し、聞いていただきました。すると上人も何でも話してくださいました。このときから私は一生この人について行こうと決心しました。たとえだまされて地獄におちてもついて行こうと思ったのです。私は幸せでした。心の絆を上人と結べたのです。こののち念仏が禁止され、聖人は四国、私は越後に流され、二度と会うことはできませんでしたが、いつも上人は私と一緒にいてくださいました。上人を友達と呼ぶことなどできないかも知れませんが、同じ阿弥陀さまを信じるという点では、仏教でいう「同朋(どうぼう)」なのです。師であっても、同じ仏さまの教えを信じる友なのです。友達は何人もいる必要はありません。一人でもよいのです。本当にこの人と友達になりたいと思うなら、その人に勇気をもって声をかけてごらんなさい。あなたが真剣に接しようとするなら、相手はきっと応えてくれます。そうしたらあなたは誠実に何でも打ち明け、話しなさい。相手も心を開いてくれるでしょう。場合によっては正直に話すことにより傷ついたり、傷つけたりする場合もあるでしょうが、それによって逆に絆は強められていくのです。お互いにやさしくなってもいけるのです。友達ができないと悩むことは、友達ができないからではなく、本当の友達を作ろうとしていないからです。できればパソコンやスマホを通さず、思い切って自分の殻を破って声をかけてみてください。どこかで、誰かがそれを待ってくれているはずです」
現代の子どもの悩みに、聖人はどう答えてくださるか
先回は、現代の日本の若者たちの悩みについて聖人にたずねてみた。今回は子どもたちの悩みについて聖人にたずねてみたい。
子どもたちの最も深刻な悩みが「いじめ」にあるということは、誰しもが認めることであり、異論はないであろう。いじめは根絶されなければならないとよく言われるが、これは人類はじまって以来執拗に人間につきまとってきたものであり、容易にはなくならないだろう。しかし人間の心の病巣を徹底して追究された親鸞聖人にその本質を問い、解明し、なくしていく指針を得ることは、われわれ聖人に教えをいただく者には、絶対にしなければならないことであると私は強く思う。
ところで聖人といじめの問題を関連づけて考えるとき、いつも私の脳裏に浮かぶのは、越後から関東への移動の際の、そして稲田定住の頃の聖人のお子さま方の姿である。
建保2(1214)年、聖人は恵信尼とお子さま方を連れ越後を発たれたが、留意すべきは、その道すがらご家族一行に向けた沿道の人々の目である。当時、僧が妻や子どもをつれて旅をするなどといったことは信じられないことであった。独身を保ち、修行に専念しているからこそ僧は尊敬されていたのである。ところが聖人は半僧半俗のような姿で妻子をともなっておられた。破戒者がぞろぞろ歩いているとしか人々の目には映らなかったであろう。聖人には非僧非俗の姿で生きていこうという信念があった。しかしお子さま方には、人々の向ける蔑みの目は刺すような痛みを与えたはずだ。
さらには聖人が稲田に定住されはじめた頃、庵の近くで遊ぶお子さま方に当地の子どもたちはどのような態度をとったのだろうか。当時、常陸は既成の宗派の支配のもとにあったから家族をもつ僧はいなかったはずだ。もともと子どもたちはよそ者や異質なものをいじめたがるものだ。「坊主の子、坊主のせがれ!」などとはやし立て、いじめたにちがいない。子どもだからといって軽視してはならない。子どもの行動には人間の煩悩がむき出しになることが多い。では聖人はこのようないじめとなって現われる人間の煩悩をどう感じられ、考えられたのだろうか。
もちろん聖人は「いじめ」について直接語ってはおられないので、あくまで私の推察にすぎないが、聖人はいじめる子の中にも、いじめられる子の中にもそのような行動に走らせる煩悩の姿を凝視されていたにちがいない。 
いじめる子を単に叱ったり、あるいはいじめられる子にただ同情したりするのではなく、「今生においては、煩悩悪障を断ぜんこと、きわめてありがたき」(『歎異抄』)ことを思い、「凡夫はもとより煩悩具足したるゆえに、わるきものとおもうべし」(『末燈鈔』)との人間洞察から、いじめの本質を煩悩の深みにおいて徹底的に考えておられたはずである。
では煩悩とは、いじめとはどのような本質をもつものだろうか。
聖人は煩悩の根源に「三毒」を見ておられた。三毒とは、貪欲・瞋恚・愚癡すなわち貪・・瞋・癡(とん・じん・ち)であり、人を毒する煩悩の根源である。この三毒をふまえ、聖人なら次のように語ってくださるだろう。
「まず貪とはむさぼりであり、何でも自分に都合よくあって欲しいという欲望です。いじめる子においては、何でも手に入れたい、周囲の子を自分に都合よく動かし、支配したい、だからそうしない子どもを排除したり支配しようとする行動になったりするのです。いじめられる子においては、排除されたくないから意に反して従い、支配されていることを人に知られたくないからひたすら隠そうとし、自分だけの世界に閉じこもるような行動をとるようになるのです。
次に瞋とは怒りのことですが、いじめる側の子は、従わせようとしても従わない子には激しい怒りをぶつけ、執拗にいじめ続け、ますますこれをエスカレートさせます。いじめられる側の子は、それに抵抗できない場合、親に当たったり、弱い子に怒りをぶつけるのです。しかしそれができないとその怒りを自分に抱え込んだり抑え込んでいじめる子を呪ったり、あるいは我慢できずに怒りを爆発させ、思わぬ行動に走ったりするものです。
最後に癡とは、物事の道理がわからないことで、そのためむやみに人を憎んだり怨んだりすることですが、いじめる子は怒った上にさらに自分の欲望が満たされない原因をいじめられる子のせいにして憎み、恨み、妬んだりしながら、さらにいじめを強めます。いじめられる側の子は、憎まれ、恨まれたりする原因をいじめる子のせいにしたいのですが、それを行動に表わせばさらにいじめられることになります。だから自分を生んだ親を憎んだり、助けてくれない教師、さらには社会が悪いのだと責任を転嫁したくなります。しかしそれを的確に表現したり行動に移せないため、ますます苦しむようになるケースが多いのです。
もちろんいじめの問題はさまざまな要素が絡んで起こります。簡単に図式化できるようなものではありませんが、今お話しした三要素が根本にあることは、おそらく否定できないでしょう。
このような三毒に犯された心の動きは、私の子どもをいじめる子どもたちの中にも、また私や私の子どもを蔑む大人の中にもあるのです。私の子どもたちはひたすらいじめに耐えているのでしょうが、それを見るたびに煩悩の悲しさが私の心を痛めます。
しかしながらいじめとそれを引き起こす煩悩を見つめつつ、阿弥陀さまに目を向けるとき、いよいよ「罪悪深重煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願」(『歎異抄』)を深く実感させていただけるのです。いじめてしまう煩悩に苦しむ者も、いじめられて苦しみを背負う者も、ともに救ってくださるのが阿弥陀さまの悲願なのです。一緒に悲しみ泣いてくださっているのです。
親も教師も誰もが、人間の煩悩の根底にまで降りて行っていじめを考え、まずわが身を反省し、いじめる子、いじめられる子の苦しみを理解し、阿弥陀さまの悲願の次元からその救済を考えることが、いじめをなくしていく第一歩となるはずです」 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
法華経 

 

法華経の概要
立正佼成会は、仏教の「法華三部経」を経典としています。
庭野日敬(にっきょう)開祖は、妙法蓮華経(法華経)について、このように記しています。
「私たちはなんのために生きるのか、どう生きるのが正しい生き方なのか、それが一つ一つ、はっきり明記されている。私も法華経に出会うまでは、仏教というのはお葬式や年忌法要のためのものぐらいに考えていました。毎日の生活の仕方について、これほどはっきりと指導されているものとは知りませんでした。」(『法華経のこころ』)
「釈尊は、『この世界とはどんなものか。人間とはどんなものか。だから、人間はこの世にどう生くべきであるか。人間どうしの社会はどうあらねばならないか』ということなどについて、長い間考えて考えぬき、そして『いつでも』『どこでも』『だれにも』当てはまる『普遍の真理』に達せられたのです。(中略)『これを拝めばかならず病気が治る』というような、理性ではわからない、ただ信ずる他はない教えとは、まるっきりちがうのです。」 (『法華経の新しい解釈』)
また、庭野日鑛会長は、このように述べています。「釈尊の教えは、人間の欲望を叶えるためのものではありません。私たち一人ひとりが真理・法を認識し、いま・ここにいただいているわがいのちがいかに尊いものであるか、その有り難さに気づかせるものです。 (『心田を耕す』)
本会の会員が学び、実践している「法華三部経」は、他の経典と同じく、釈尊の入滅後、仏弟子によって編纂されたものです。当時の大衆がよく理解できるように、ドラマのような形で編集されています。「妙法蓮華経(法華経)」は二十八品(ほん)といって、二十八の章に分かれています。それに、開経(かいきょう)といわれる「無量義経」(むりょうぎきょう)と、結経(けっきょう)といわれる「仏説観普賢菩薩行法経」(ぶっせつかんふげんぼさつぎょうほうきょう)がついて、これを合わせて「法華三部経」といいます。そして、その全体を読みとおすことで、釈尊が法華経で説いた本当の意味、本当の願いが理解できるようになっています。
「無量義経」 : 釈尊が「法華経」を説く直前の出来事が記されています。この経の要点は「すべての法は『真理=無相(すなわち実相)』というひとつの法から出ている」ということです。そしてその「実相」とはどんなものか、その「実相」が見えるようになるにはどうすればよいかということが、次の「法華経」によって明らかにされます。
「妙法蓮華経」 : 釈尊と菩薩たちのやりとりを中心に様々なスペクタクルなドラマが展開し、その形を借りながら、宇宙の真理(実相)、人間の役割、苦を乗り越える方法、正しいものの見方、日々の生活やふれあいの仕方などが、わかりやすく説かれてゆきます。釈尊の教えの集大成といわれる法華経について開祖は、「広大無辺、世界じゅうの人間を一人残らず救いとる完全無欠の網」と表現しました。
「仏説観普賢菩薩行法経」 : この経は、「法華経」の最後の二十八品のあとを受け、普賢菩薩(ふげんぼさつ)を主役として説かれたもので、徹底した懺悔の法であるため、「懺悔経」(さんげきょう)とも呼ばれています。
法華三部経の要点
無量義経 むりょうぎきょう
「無量義経」は、三部経の中心である「法華経」の、いわゆる序章にあたるものです。
「徳行品」(とくぎょうほん)では、釈尊の完全で円満な徳と、衆生を悟りに導く行いが、大荘厳菩薩(だいしょうごんぼさつ)によってほめたたえられ、この法を心から拝聴しようという心がまえが作られます。
続く「説法品」(せっぽうほん)では、人々の機根や性質、欲望は千差万別なので、仏の説法もそれに合わせて無数になるけれども、もとはただ一つの真理・法から生じていることが明かされます。
そして、大荘厳菩薩の質問に答え、菩薩が仏になる修行とは、仏と同じように、一つの真理を相手にふさわしく説き分け、救い導いていくことだと教えられます。
「十功徳品」(じっくどくほん)では、この「無量義経」の教えを理解し、実行することによって得られる功徳を十に分けて説かれ、実践を後押しされます。
妙法蓮華経 みょうぼうれんげきょう
「無量義経」を説き終わられた釈尊は、深い瞑想に入られます。
「法華経(妙法蓮華経)」はこの場面から始まります。
「序品」(じょほん)では、その時釈尊が現された不思議な出来事を目の当たりにした弥勒菩薩(みろくぼさつ)と文殊菩薩(もんじゅぼさつ)の問答があり、その中で、これからいよいよ「法華経」が説かれることが示されます このことで、その場にいる人々の期待は、大きく高まります。
釈尊は静かに立ち上がり、舎利弗(しゃりほつ)に語りかけられるところからが「方便品」(ほうべんぽん)となります ここでは、仏がこの世に現れるただ一つの目的が明かされます。
それは、すべての人々に、仏の悟りを得させる、ということでした。
しかし、いきなり最高の教えを説いても理解できないので、方便の力をもって、声聞・縁覚・菩薩(しょうもん・えんがく・ぼさつ)の三乗に説き分けられますが、それらはすべて仏になる道、一乗の道であったと説かれます。様々な方便は、そのまま真実でもあるのだと説かれたのです。
智慧第一と言われた舎利弗は、この説法を理解して大変喜びます。
そして釈尊より、必ず仏になると成仏の保証をいただきますが、他の人々は、まだこの説法が理解出来ず、混乱していました。
そこで舎利弗の求めに応じ、方便と真実の関係を分かりやすく説かれたのが「譬喩品」(ひゆほん)、それを聞いてよく理解出来た四大声聞(しだいしょうもん)が、受けとった内容を発表するのが「信解品」(しんげほん)です。
「五百弟子受記品」(ごひゃくでしじゅきほん)では富楼那(ふるな)をはじめとする五百人の高弟、阿羅漢(あらかん)たちに成仏の保証が与えられます。
阿羅漢たちは「釈尊は、私たちはみんな仏の子であり、仏性がそなわっていることを、はるか昔の世で教えてくださっていたのに、すっかり忘れていました」と懺悔(さんげ)します。
「授学無学人記品」(じゅがくむがくにんきほん)では、まだ学ぶことが残っている修行者、もはや学びつくした修行者合わせて二千人すべてに成仏の保証が与えられます。
これで説法の場に集ったすべての人が成仏の保証を与えられ、仏の子、仏子(ぶっし)の自覚にたった菩薩に生まれ変わるのです。
「法師品」(ほっしほん)からはその場の人々の自覚を見通され、説法の対象を法師、すなわち菩薩とされます。そして「法華経」に明かされる真実の価値を認識させるために、その尊さを知ったものは必ず成仏できること、そのような人は衆生を救うために、願ってこの世に生まれてきているのだということ、それから、一人にでも「法華経」のひと言を説く人がいたら、その人は如来の使いとして生まれた人なのだということを説かれ、菩薩の因縁を明かされます。
釈尊に導かれ「法華経」の教えによって菩薩として生きる自分に生まれ変わったと思っていた人々は、実は、自分自身の中にある願いや使命によって菩薩になったのだと聞かされます。
こうして人々は、人生や仏性の捉え方を深められ、主体性の確立へと、次第に導かれるのです。
「法師品」では、さらに「法華経」を行ずる心がまえを説かれますが、その心がまえを持って主体的に法をお伝えしていくと、心の奥底から、思いもしなかった大きな喜びが湧き出てきます。
それは表面的な喜びではなく、仏性そのものの喜びであり、今まで実感したことのない、大きく豊かな喜びです。
それが「見宝塔品」(けんほうとうほん)の地中から大きな宝塔が湧き出ることで現されます。宝塔とは仏性を象徴しているのです。そしてその宝塔の中で、釈尊と、真理そのものである多宝如来が同席されます。
これは、仏性は宇宙の真理そのものであるとともに、実際に人を救う力も具えていることを表しています。
仏性には仏の智慧と仏の慈悲がともに具わっているのです。
この品の中で、釈尊は、多宝如来にお会いするために、時間や空間の束縛からも離れた聖なる場所、虚空(こくう)に上がられます。人々(大衆)は、自分たちも釈尊の元に行きたいと願い、釈尊はその願いを聞いて神通力で人々を虚空に引き上げられます。
そしてここから、虚空会(こくうえ)の説法が始まります。
そこでまず、釈尊は、世の中が乱れ、人の心が腐敗する末世の娑婆世界において法華経を説き広める誓い、誓願を、人々に求められます。人々は誓願に心が動きますが、釈尊は、末世に「法華経」を説き広めることの難しさをお説きになり、人々の心はひるんでしまいます。
そこで説かれるのが「提婆達多品」(だいばだったほん)です。
成仏できるはずがないと誰もが思っていた大悪人の提婆(だいば)に成仏の保証を与え、八歳の女の子、しかも龍の子が目の前で成仏する姿を見せられます。これにより、人々の心に残っていた「自分には本当に仏性があるのだろうか」「本当に成仏できるのだろうか」という迷いも払拭され、「法華経があれば、それによってどんな人でも救うことができる」「どんな困難なことがあってもこの教えを説き広めていこう」という本物の決意に導かれます。
その燃えるような誓願が表明されるのが「勧持品」(かんじほん)です。
続く「安楽行品」(あんらくぎょうほん)では、法華経行者の心得を静かにお説きになります。なぜか釈尊は、先の勧持品で誓願した人々に、娑婆世界の教化を任せると、すぐにはおっしゃりません。
他の国土から集まってきた菩薩たちは、その説法の様子を見て「もしかしたら釈尊は私たちに期待してくださっているのかもしれない」と思い、それを申し出ますが、釈尊はそれをきっぱりとお断りになります。
そこから「従地涌出品」(じゅうじ ゆじゅつ ほん)が始まります。
そして、この娑婆世界には「法華経」を説き広める役目を持っている菩薩たちが、もともと無数にいることをお説きになります。すると大地から、数限りない菩薩が湧き出るように現れました。その姿は釈尊と同じように尊く、徳の高い表情をしていました。
不思議に思った弥勒菩薩は「この方たちは一体、どこで誰が導いたのですか」と釈尊に尋ねました。
「私が娑婆世界で悟りを得てから導いたのだ」釈尊はそう答えられました。
弥勒菩薩はますます不思議がつのります。そして「わずか数十年の間にどうやってこのように多くの菩薩をこれまでの境地に導かれたのですか」と釈尊に質問を投げかけるところで「従地涌出品」(じゅうじ ゆじゅつ ほん)は終わります。
この弥勒菩薩の疑問に答えたのが、次の「如来寿量品」(にょらいじゅりょうほん)です。
釈尊は、自分が無限の過去に成仏し、それ以来この娑婆世界をはじめ、全宇宙で衆生を教え、導き続けていることを明らかにされます。つまり人間釈尊の本体は、永遠のいのちを持つ宇宙の大生命、久遠実成(くおんじつじょう)の本仏であったのです。本仏釈尊(ほんぶつしゃくそん)は、無限の過去から無限の未来まで、この世のいたるところに遍満している宇宙の大生命、万物を生かす力であり、同時に、人々の機根を慈悲の目で見極め、ふさわしく教えを説いて衆生を導いておられたのです。
続く「分別功徳品」(ふんべつくどくほん)では本仏への信仰が確立することによる功徳が説かれ、「随喜功徳品」(ずいきくどくほん)では喜びをもって布教する功徳、「法師功徳品」(ほっしくどくほん)ではそのような信仰者が身体や心にいただく功徳が説かれます。
宇宙を貫く真理・法を知り、その功徳を学んだ信仰者。その信仰者の行いのあり方、行法(ぎょうぼう)を説くのが次の「常不軽菩薩品」(じょうふきょうぼさっぽん)です。
その行法とは、仏性礼拝行(ぶっしょうらいはいぎょう)です。
「出会ったあらゆる人の仏性を拝みきる」
この実践行は、一乗の教えを基本とする行法の核心です。釈尊は、常不軽菩薩のわかりやすい物語によって、信仰者を一乗の実践行に導かれます。
一乗の真実を知り、一乗の行をした信仰者は、今まで相対的に捉えていた教えや説法、さらには現象までもが「すべてはひとつである」と心から思えるようになるのです。そして、未来には一乗世界がこの世に実現するのだとの確信が「如来神力品」(にょらいじんりきほん)で説かれます。
その確信をもった信仰者の心はゆるぎないものとなります。
釈尊は、そのような菩薩たちに末世における「法華経」の流布(るふ)を依頼され、菩薩たちの固い決意と誓いが述べられるのが「嘱累品」(ぞくるいほん)です。
ここで虚空での説法は一段落し、みんなは再び現実の場に降り立ちます。そしてここからは、現実の場、日常生活の場での、数々の実践のお手本が示されます。
どんな自己犠牲もいとわず、身をもって教えを実践することの尊さをうたう「薬王菩薩本事品」(やくおうぼさつほんじほん)、理想を現実化する努力の大切さを説く「妙音菩薩品」(みょうおんぼさつほん)
それぞれが置かれた場所で自在に救いの手をのばすことを説く「観世音菩薩普門品」(かんぜおんぼさつふもんぽん)、続く「陀羅尼品」(だらにほん)は、釈尊のこれまでの説法を聞いた人々が感激し、この教えの道をしっかりと歩むことを誓います。
「妙荘厳王本事品」(みょうしょうごんのうほんじほん)では、一人ひとりが善縁となり、家族に、また指導的立場にある人に法をお伝えしていく大切さが説かれます。
そして「法華経」の最後を飾る「普賢菩薩勧発品」(ふげんぼさつかんぼっぽん)では、実践の象徴である普賢菩薩が登場し、この教えに沿った生活を実践し、人さまにお伝えしていく大切さが説かれます。
仏説観普賢菩薩行法経 ぶっせつかんふげんぼさつぎょうほうきょう
「法華経」によって、仏さまは永遠に生きておられ、常にここにいて一切衆生を導いてくださっていることがわかりました。しかし、人間釈尊のいない、この末世の時代において、なお、強い信仰心を持ち続けるにはどうしたら良いのか。その行法を説かれたのが「仏説観普賢菩薩行法経」(ぶっせつかんふげんぼさつぎょうほうきょう)いわゆる「懺悔経」(さんげきょう)です。
仏さまを観ることができないのは、自らの信仰が未熟であるからだという徹底的な懺悔。それによってこそいつも仏さまが満ち満ちている世界が実感でき、深い喜びの人生が送れるのだと、説かれます。 この「懺悔経」は「法華経」の真実を本当に自分のものとするためのものなのです。  
主な教え

 

四諦
四諦の教えは、釈尊(仏陀)が、初めて法を説いた時から亡くなる直前まで、一貫して説き続けた人生の真理です。人生に必ずつきまとう「苦(く)」について、〈苦諦(くたい)・集諦(しったい)・滅諦(めったい)・道諦(どうたい)〉という四段階に分けて説かれています。「諦」とは、真理という意味です。「真理の諦(さと)り」という意味に用いられることもあります。
「苦諦」
どんな人にも苦はあります。人生の中で次から次へと降りかかる苦。そこから解放される方法はないのか? 釈尊は大きな発想の転換を説きました。すなわち、苦は異常事態なのではなく、苦があるのが正常な状態、あたりまえの状態なのだと腹をくくるのです。「 人生は苦である」と悟るのです。 そしてその苦から逃げようとせず、向かい合うことが、苦からの解放の第一歩となります。
「集諦」
「集」(じゅう)とは、原因という意味です。苦に向かい合ってまず行うことは、その原因を見つけることです。釈尊は、すべての苦の原因は「渇愛」(かつあい)や貪欲(とんよく)であると説きました。「渇愛」とは色々な欲望の満足を求めてやまないこと、「貪欲」とは無制限にものごとをむさぼり求めることです。つまり、苦の原因を突き詰めていくと、それは渇愛や貪欲に基づいたものであったことに気づく。と説いているのです。その気づきが集諦の悟りです。また、苦の原因を根本から探るのに適した方法として釈尊は「十二因縁」(じゅうにいんねん)という法門(教え)を説いています。
「滅諦」
集諦によって、苦はその人の心の持ち方、あり方によって生じていることが説かれました。ということは、心の持ち方を変えて渇愛を捨て、執着を断ち切れば、苦は滅するのです。この真理、悟りを滅諦といいます。
「道諦」
そして釈尊は最後に、苦を滅する道、方法を詳しく説きました。「八正道」がそれです。正見・正思・正語・正行・正命・正精進・正念・正定からなる、八つの正しい道です。すなわち、本当に苦を滅する道は、苦から逃れようと努力することではなく、正しくものごとを見、正しく考え、正しく語り、正しく行為し、正しく生活し、正しく努力し、正しく念じ、正しく心を決定(けつじょう)させることであると説いたのです。
三法印
仏教の基本的な教えをまとめたのが「三法印」です。法印とは、掲げるスローガンのような意味です。大乗仏教では「諸法実相」(しょほうじっそう)が法印で、根本仏教では「諸行無常」(しょぎょうむじょう)「諸法無我」(しょほうむが)「涅槃寂静」(ねはんじゃくじょう)の三法印を掲げているといわれていますが、これらの三法も追求していけば「空」(くう)の教え、すなわち「諸法実相」に帰するものです。
諸行無常
出来事や状況、感情など、世の中のすべてのものは、けっして固定的なものではなくて、つねに変化し、生滅をくり返しているという教えです。今、現れている現象は、その原因と、それを助長、発展させる条件(縁)が巡り合ってできる仮の姿であり、原因や条件がなくなれば今の現象も消えて無くなります。すべては変化し続けているということは、現状を変え、未来をより良くする道は、いつでも目の前に準備されているということです。
諸法無我
宇宙の、すべてのものごとはつながりあい、互いに助け合いながら調和し、存在しているという教えです。すべては縁によって今、ここにある(いる)のであって、独立した存在(我)というものはないという考えです。人も周りのありとあらゆる人やものごとによって生かされ、また自身もまわりを生かしている、かけがえのない存在です。しかし、もちつもたれつの関係に気づかず、わがままな行動をすると全体の調和の網がもつれ、破れることになります。
涅槃寂静
心身の完全な安らぎの状態を涅槃寂静といいます。 涅槃とは古代インドのサンスクリット語でニルバーナ、つまり火を吹き消した状態のことです。寂には不動という意味があります。諸行無常・諸法無我の悟りによって心の安定を得た状態を表していますが、それは静まりかえった動かない世界ではなく、あくまでも創造的で活発な動きの瞬間瞬間に現れる、調和と安らぎのすがたです。
帰依三宝
帰依三宝とは、仏教徒の三つの基本的な心構えが示されたものです。
われは仏陀(ぶつだ)に帰依したてまつる
われは正法(しょうぼう)に帰依したてまつる
われは僧伽(そうぎゃ)に帰依したてまつる
という、いわゆる「仏・法・僧」に帰依する精神です。つまり、「わたくしは、仏さまと、仏さまのお説きくださる真理の教えと、仏さまの教えを信じ行ずる人々の集まりを、心のよりどころとします」ということです。
仏教徒が帰依する「仏」は釈迦牟尼世尊(しゃかむにせそん)であり、「法」は仏法であり、「僧」は同信者の集団ですが、世界中の人々に、この三宝を押しつけると反発を買うばかりです。仏教精神を一人でも多くの人に伝えるためには、三宝の精神を、もっと広い意味に解釈する必要があります。
「仏」とは、この世のすべてのものを生かしている宇宙の真理です。ですから、「仏に帰依する」というのは、我を捨てて宇宙の真理と一体となる心境に達することです。我をまったく捨て去ることは不可能でしょうが、1日のうちの1時間だけでも、礼拝・読経・瞑想といった宗教的な行いをすることで我を忘れることができれば、それは必ず残りの23時間に影響を及ぼし、それを繰り返すことによって、真理に合った生き方ができるようになるのです。
同じように「法に帰依する」ということを広く解釈すれば、真理に従うということです。 宇宙の真理・法則のままに生きるならば、それがいちばんまちがいのない生き方です。
釈尊が、その教団をサンガ(密接な共同体)と呼んだのは、和合(仲睦まじいこと)ということを大切にされたからです。そこから察すると釈尊には「人間社会形成の上に最も必要なものは和合である」という信念があったことと思われます。そして、その奥に「全人類が美しく結合するように‥」という大きな願いが込められたものだったのに違いありません。「僧に帰依する」とは、最も広い意味においては、和合を人間社会の美徳として尊び、心のよりどころとし、その実現に向けて歩むことにほかなりません。
六波羅蜜
波羅蜜とは、古代インド、サンスクリット語のパーラミターのことで、真理をきわめ、仏道を完成した境地のことをいいます。 六波羅蜜は、その修行のための、布施(ふせ)・持戒(じかい)・忍辱(にんにく)・精進(しょうじん)・禅定(ぜんじょう)・智慧(ちえ)という、六つの徳の指標です。
布施
本来の意味は、その大小にかかわらず、自己犠牲をはらって他のために奉仕するということです。大きく分けて財施(ざいせ)、身施(しんせ)、法施(ほうせ)があり、別に無畏施(むいせ)という考え方もあります。財施とは、物質的な布施です。困っている人に何かをお分けするのも財施です。身施とは身体を使った親切行で、清掃奉仕やお年寄りに席をゆずることもこれにあたります。法施とは、大きくいえば、自分の知っている価値あることを、ひとに教えてあげることです。料理の仕方、野菜の栽培の仕方など、ひとのため、世のためになることなら、すべて法施となります。仏教の信仰者にとっては、その教えをひとに伝えることが最高の法施です。無畏施というのは、ひとの心配や、恐れや苦労をとり除いてあげる布施です。他に、すべての人が出来る布施として「無財の七施」(むざいのしちせ)という布施も説かれています。
持戒
一言でいえば、身をつつしむことです。仏教の戒め(いましめ)をよく守り、ひととして正しい生活をし、自分自身を高める努力をすることです。
忍辱
忍耐と謙虚という言葉に言い換えることもできます。他に対して寛容であり、他から与えられるどんな困難をも耐え忍ぶことです。また、得意になったり、有頂天になったりせず、つねに静かな心を保つことです。
精進
精とは、純粋なという意味なので、精進とは、純粋な努力を意味します。第一に、その目的が正しく、純粋であること、次に、その目的に向かってまっすぐに、休むことなく歩み続けることが大切です。
禅定
どんなことがあっても、迷ったり動揺したりせず、落ち着いた静かな精神を持ち、真理に向かって、つねに心が定まっている状態をいいます。そのような境地に達するには、いわゆる三昧(さんまい)に入り、我をはなれ、すべてはひとつという悟りを得る必要があるので、端座(たんざ)して三昧にはいる修行を、禅定という場合もあります。
智慧
上記の様々な修行を経ることによって得られる、宇宙の森羅万象のありのままの相(すがた)を見きわめ、人生のいろいろな出来事に対しても、自我の執着から離れて正しい判断や行いができる、深い心のはたらきをいいます。
以上が六波羅蜜ですが、一番大切なのは、第一の「布施」の精神と実践です。犠牲・奉仕の精神こそが菩薩の精神であり、すべてのひとが幸わせになるための本当の智慧は、そうした愛他の精神によってこそ養われるからです。
八正道
正しいというのは、真理にあったという意味であり、調和のとれたという意味でもあります。 正見(しょうけん)・正思(しょうし)・正語(しょうご)・正行(しょうぎょう)・正命(しょうみょう)・正精進(しょうしょうじん)・正念(しょうねん)・正定(しょうじょう)の、正しく生きる八つの道を八正道といいます。
正見
自己中心のゆがんだ見方、一方的な見方をせず、正しくものを見なさいという教えです。
正思
考え方を、自分本位に片寄らせることなく、つねに大きな立場から、真理に照らし合わせて考えるということです。
正語
真理にあったことを、目的にぴったり合った表現で言いなさいという教えです。
正行
宇宙の真理・道理にかなった、社会的にも大きな意味で調和のとれた行いをすることです。
正命
在家ののものに対しては、社会のためにならない仕事などで生活の糧を得ず、正しい仕事やひとのためになる職業で暮らしをたてなさいという教えです。
正精進
自分が目ざす正しい目的に対して、怠けたり、わき道にそれたりしないで、正しく進むことです。その方法も、真理に合い、目的に合い、調和のとれたものである必要があります。
正念
正しい心を持ち、その心を常に、強く、正しい方向へ向けていなさいという教えです。正しい心とは、わがままな分別を捨て、仏のように、ものごとの実相、ありのままのすがたを見ることに他なりません。
正定
心をいつも正しくおいて、周囲の影響や環境の変化などで動揺することがないようにしなさいという教えです。
この八正道は、「四諦」の第四の「道諦」を、生活に密着したかたちで具体的に説いた、仏教のなかでも大切な法門(教え)です。
諸法実相・十如是 (しょほうじっそう・じゅうにょぜ)
大乗仏教のスローガン(法印)は、諸法実相(しょほうじっそう)といわれています。宇宙ぜんたいの、ありのままの真実のすがた・真理という意味です。釈尊(仏陀)は、諸法実相を見きわめ、以下のように説いています。
現象として現れているすべてのもの(諸法)には、特有の相(すがた形)があり、特有の性(性質)があり、特有の体(現象のうえでの主体)があり、特有の力(潜在エネルギー)があり、その潜在エネルギーがはたらき出していろいろな作(作用)をする時は、その因(原因)・縁(条件)によって千差万別の果(結果)・報(あとに残す影響)をつくり出している。しかしそれらは、その本質においては、初め(本)から終わり(末)まで、つまるところは等しい(究竟等)空(くう)なのです。
これが十如是といわれる教えです。つまり、すべてのものごとは、空というひとつの流動的で平等な世界の上で、仮の、特有のすがた(現象)として現れ、さまざまな作用を受けながらさまざまな結果を生み出している。しかも、その空と現象は互いに切り離せないものだというのです。
この法則から学べることは、変えることが出来ないと思っていた自分の個性も変えられるということです。ある原因(因)に条件(縁)を与えれば、それにふさわしい結果(果)や影響(報)が現れてくるという法則がある限り、自分の心の持ちかた(因)を変えれば、結果も変えることが出来るのです。また、十如是を習得すると、人を見る目も違ってきます。表面に現れている個性の奥に、平等の仏性(仏の性)を見るようになるのです。「つまらない人だ」という見方から、「あの人も仏の性を持っていらっしゃる人だ」と人間尊重の見方に変わってくるのです。
十二因縁
私たちがどのように生まれ、成長し、老い、死にゆくのかという原因・結果のなりゆきを十二の段階に分けて説いたもの〈外縁起〉(がいえんぎ)であると同時に、私たちの心の変化の法則を説いたもの〈内縁起〉(ないえんぎ)でもあります。釈尊(仏陀)が人々の人生苦を滅するために思索し、悟った、非常に大切な根本原理です。ここでは、わかりやすい〈外縁起〉にもとづいて説明します。
「無明(むみょう)は行(ぎょう)に縁(えん)たり」
「行は識(しき)に縁たり」
「識は名色(みょうしき)に縁たり」
「名色は六入(ろくにゅう)に縁たり」
「六入は触(そく)に縁たり」
「触は受(じゅ)に縁たり」
「受は愛(あい)に縁たり」
「愛は取(しゅ)に縁たり」
「取は有(う)に縁たり」
「有は生(しょう)に縁たり」
「生は老死(ろうし)・憂悲(うひ)・苦悩(くのう)に縁たり」
前半のここまでを〈順観〉(じゅんかん)といいます。釈尊(仏陀)の第一の悟りは〈縁起観〉というもので、すべてのものごとは、必ず因(原因)と縁(原因を育てるきっかけとなる要素)とによって生じており、それを正しく観ることを縁起観といいます。十二因縁のつらなりは、無明からはじまります。無明(真理を知らない無智な心の状態)が行(無意識な行動)につながり、それが識(外界のものをぼんやりとではあるが知る力)を生みます。識が発達すると名色(自分という存在の意識化)が進みます。やがて六入(視覚や聴覚などの感覚とそれを知る意識)、触(名色と六入が接触して木や石など外界のものを区別できるようになる)、受(心に感情がおこる)に進み、人間特有の愛(愛着・執着)を覚えるようになります。次の段階になると心のはたらきが複雑になり、取(求めてやまない欲望や嫌いなものごとから逃げだしたい心)の感情を生みます。そして有(他人と自分との区別が意識化し、不幸と思う心や差別してものごとを見る見方)によって他人に対する一体感が薄れ、生(対立や摩擦、争いによって苦の人生を歩んでいる現在の人間のすがた)となります。やがて老いがせまり、死がやってきます。
「無明滅すれば即(すなわ)ち行滅す」
「行滅すれば即ち識滅す」
「識滅すれば即ち名色滅す」
「名色滅すれば即ち六入滅す」
「六入滅すれば即ち触滅す」
「触滅すれば即ち受滅す」
「受滅すれば即ち愛滅す」
「愛滅すれば即ち取滅す」
「取滅すれば即ち有滅す」
「有滅すれば即ち生滅す」
「生滅すれば即老死・憂悲・苦悩滅す」
後半は〈逆観〉(ぎゃくかん)と呼ばれています。読めば一目瞭然ですが、根本原因である無明が条件となって行が生じているのであれば、その無明を滅する、つまり無智ではなくて智慧のある状態になれば、次の行は滅するわけです。そしてその智慧こそが釈尊の教え、仏法であり、その学びと実践(修行)で、さまざまな人生苦は、次々と解消していくという理論です。その実践(修行)の方法は「六波羅蜜」(ろくはらみつ)で教えられています。
中道
釈尊が最初の説法をした時の第一声は「比丘(修行僧)たちよ、この世には近づいてならぬ二つのの極端がある。如来は、この二つの極端を捨てて、中道を悟ったのである」という言葉でした。「中道」は、古来から色々な解釈がなされていますが、それらを総合すると以下のようになります。
理念としての中道
まず、理念の観点からいえば、仮(け)にかたよらず、空(くう)にもかたよらない、絶対真理の道理を中道といいます。 すべてのものごとは、固定的・永続的には存在しないという諦(さと)りが「空諦」(くうたい)です。目の前に形を持って存在する現象「仮」に心を奪われて苦しんだり悩んだりせず、ものごとは本来「空」であると諦観する気持ちも必要ですが、世間からすっかり離れた仙人のような生き方も正しい生き方ではありません。そこで、あらゆる現象は因と縁のつながりによる仮の現れであると見ながらも、その現象を現実として肯定しなければなりません。そういうものの見方を「仮諦」(けたい)といいます。 しかし、 空諦も仮諦も、つまるところは一面的なものの見方であって、空という本質と、仮という現象を、渾然と融合させた見方をするところに、諸法の実相の捕らえどころがあるというのが、真実の諦(さと)り、すなわち「中諦」であるというのです。一体なものの両面として空と仮を見るのです。大変難しい理論です。
行法としての中道
つぎに行法の観点からいえば、苦・楽の二極論を離れた、正しい行法(八正道)を中道といいます。快楽を追う道はもちろんのこと、人間の本能をむやみに抑える苦行の道も、人格を完成する方法ではありません。そうした両極端から離れて、真理にあった、調和のとれた、そして目的にピッタリと合った行法に従え‥と釈尊は教えてくださいました。そして、その具体的な方法として示されたのが八正道です。 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
お彼岸法話

 


 

 

■お彼岸
仏教語としての「彼岸」は、煩悩の流れを超えた彼方の岸の涅槃の地、つまり悟りの境地を表す。しかし、「お」という接頭語が付いた「お彼岸」となると、春分、秋分の日を真ん中にしたそれぞれ七日間を指す。この期間に人々はお墓参りをしたり寺院での彼岸会(ひがんえ)にお参りしたり、『サザエさん』ではご先祖サマが出てきてお供え物をつまみ食いするカツオを叱ったりする。このように、「お彼岸」という習俗が仏教や故人と関係することに関しては国民的合意が成り立っているようである。しかし、なぜ春分や秋分の日の前後が「お彼岸」とされるのかについては、案外、はっきりしない。
「お彼岸」は、インドや中国、朝鮮半島には見られない日本独自のものらしい。おそらく、夕日や夕焼けに対する日本土着の独特の感性と西方浄土の阿弥陀仏への信仰が重なって、このような習俗が形成されたのであろう。つまり、春分・秋分の前後の真西に沈む夕日に西方浄土の方角を確認するとともに、その浄土で阿弥陀仏に迎え入れられた故人を偲ぶと観念されるようになったのである。また、沈む夕日に自分自身のいのちの終わりをも重ね合わせ、いつしか阿弥陀さまや先に逝かれた親しい人々に「ご苦労さまでした」と迎えられる日を想うのである。
六世紀の中国の僧・曇鸞(どんらん)は、皇帝から「なぜ阿弥陀仏の浄土は西方にあるか」と訊かれて「分からない」と答えたと伝えられる。仏教の教理からは導き出せないということであろう。それに対して、日本では西方に日が沈むように自分たちのいのちも沈み、そこで阿弥陀仏に迎え入れられると考えられたのだろう。そして、穏やかな夕焼けのように沈んでいきたいと願われたのであろう。
しかし、そう願いながら夕日を眺める私たちはどこにいるのだろう。いのちの終わりを眺める視点は、ある意味では今の時を生きるいのちを超えている。「お彼岸」の夕日に我がいのちの終わりを想うとき、私たちは時の中に在りつつ、時を生きる限られたいのちを超えている。インド語由来の「阿弥陀」には「無量寿」という漢訳がある。沈む夕日を眺める私たちは、その「無量寿」の場所にたたずんでいるのかもしれない。

■彼岸
世間一般ではお彼岸ひがんであろうと、お盆であろうと、単なるお墓参りの意味でしか受け取られていません。「お彼岸」が意味するところを問わないと言いますか、お墓参りをすることと教えの問題がつながってこないのです。つまり、自らの救いの問題が見えなくなっています。
しかし本堂で彼岸会の法要に参列し、法話に耳を傾けたいと思う気持ちが起こるのはどうしてでしょうか。大切な方の死がそこに足を向けさせてくださったという方もいらっしゃるでしょう。そこに座るということはお一人お一人がどこかに救いを求めているからではないでしょうか。「彼岸」という言葉が私たちに何を投げかけているのか、いっしょに教えに聞いていきましょう。
「彼岸」というのは仏のさとりの世界をいいます。これに対して、私たちの世界を「此岸しがん」といいます。これはこれでまちがいないのですが、どうも実体的にとらえようとして、どこかに彼岸という世界が存在しているように感じてしまいます。もう少しくだいてみますと、「彼岸」とは、さとり・真実・浄土、いくらでも表現できますが、要するに如来(仏)の眼まなこの世界です。「此岸」とは迷い・虚偽きょぎ・穢土えど、つまり私たちの日頃の眼の世界です。
ですから「彼岸」というのは、如来の眼で自分の人生を見直してみようという仏教行事をいうのです。さらに、「此岸」の眼では本当に生きたことにはならない、けっして救われないということに気づかせていただく行事といっていいでしょう。仏教というと堅苦しいですが、一度かぎりの有限ないのちをどう生きることが、本当に生きたことになるのかを明らかにしているのです。
仏とは真実に立って生きる人ですから、その教えが仏教に他なりません。仏になる方向性をいただくのが彼岸ということでしょう。

■春彼岸
皆様御元気でご参詣なによりでございます。
「暑さ寒さも彼岸まで」という諺があります。御承知の通り彼岸は一年に春と秋二回巡って参ります。春分の日と秋分の日それぞれ前後三日間、あわせて一週間がお彼岸という行事でございます。この、二度の中日は太陽が真東から真西に沈みます。太陽の沈む方向に極楽浄土があるということから、日本ではこの日に浄土を想い亡き方を偲ぶ日になったともいわれております。太陽が沈むその先にある西国浄土に思いをはせた私たちの祖先は、太陽の恵みを受け、自然の流れの中で生活をし、その中には人間の力の及ばないものに対する畏敬の念が多く培われておりました。またこの日は、昼と夜が全く同じこの不可思議な現象と事象に感謝と報恩の念を尽し、神仏に敬意を払って参りました。八百万(やおよろず)の神と言われるほどに多くの神仏を礼拝し、たとえ一本の木や小石までにも願いをかけ、祈りを込めることができる感情の豊さ。四季折々めぐり来る風土で農耕し生活してきた社会に由来しているともいわれ国としても、この日を祭日として定め、祖先に感謝し自然をたたえ、生物を慈しむ日だとしています。民族学において、お彼岸は太陽を拝し、感謝と願をかけ、この期間目に見えないご先祖さまに思い致して報恩感謝の誠を尽くすという意味から墓参りであったり、寺詣りであったり、仏前にお参りするというのがお彼岸の慣わしとなっています。このお彼岸会という祀りごとは日本独特の文化なのです。
仏教の始まりは約二千五百年前インドで興り、中国を経て日本に伝来したといわれています。しかし、インド、中国ではお彼岸にお寺参りやお墓参りの習慣はないのです。この習慣は日本独自の行事なのです。
その起源は聖徳太子さまのころといわれておりますから千四百年にも亘る年中行事となっているのです。仏教が日本に伝わりましたのは六世紀半ばといわれいますそのころはじめて仏教を深く理解し人々に信仰心を厚くなされたのが有名な聖徳太子さまです。聖徳太子は生き方の指針、十七条憲法を制定し、その第一条に論語の中から「和をもって貴し」と示し、国家の役人として政務にあたる上での心がまえを説くとともに、第二条では仏教より「篤く三宝を敬へ」として、仏法を信じ敬うべきことを強調しております。これが日本國憲法の始まりです。ご存知の方もいらっしゃると思いますが、善光寺に太子像をお祀りしておりますが「どこにあるかご存知の方、ハイッ!」「そうです。仰せの通りこの釈迦殿の一階の正面右側に安置してあります。」師父は、聖徳太子さまは日本で最初に仏教を深く理解し広めたお方、そのご恩に報いる為にお祀りし毎日感謝のまことを捧げ尽くしておりました。私もそれを受け継ぎ毎日読経供養させていただいております。
さて、このお彼岸に実践しなければならない六つの徳目がございます。それを六波羅蜜といいます。この徳目は、皆さまが、実践可能なものでなければなりません。古代インドのサンスクッリトでは、パーラミターと発音し、日本では「波羅蜜多」この意味は、到彼岸であり、彼岸に到るとなります。おや、これは「摩訶般若波羅蜜多心経」ではないかとお気付きと思います。そうなんです、この心経は「彼岸に行こう」という教えなのです。この六度が実践項目であり、仏教徒の目標なのです。いかがでしょうか。
一つには、「布施」です。皆さまもこの言葉はよく耳にされると思います。布施とは、施すことなのです。一般的には、在家の皆さんがお坊さんに財物を施すことだと考えますが、これは財施といい、布施の一部です。お坊さん相手ではなく、他人にやさしさ、いたわり笑顔やことば、手を供えるのも立派な布施なのです。大事なのは、相手に恵んでやるという気持ちは布施ではありません。布施とは、させていただく心なのです。思いやりであり心遣いなのです。今盛んにくにの公共広告機構より「思いやり、心遣い。」いずれも目には見えないが、行動すれば見えると、盛んに放映されています。まさしくこれが布施なのです。
二つ目は「持戒」です。戒めを持つと書きます。この徳目は、戒めを守るということです。人としてのルールを守ることが大事。しかし、戒を完全に守ることは過酷で不可能です。大事なことは、破ったときの懺悔と反省の気持ちの在り方です。日本の仏教では、僧侶に求められる菩薩戒という十六の戒めがございます。上座部仏教のタイでは二百二十七の戒めがございます。それはもう、非常に厳しく立つも坐るも、食べるも、眠るも、大変なことです。
三つには「忍辱」です。この言葉は食べるニンニクではありませんよ。忍ぶ辱めると書きます。寛容な心を持ち、いかなる境遇にも耐え忍ぶことです。お釈迦様は、人生は苦であるとお示しになられました。四苦八苦という語源はここのところからと言われています。ことに「生きる」世界を娑婆といい忍土ともいって生きるにとても辛いところであり他人から受ける迷惑をジーッと我慢して、耐えて忍びつつ生きる。そして他人を責めず赦しながら、これが忍辱だと申されているのです。とても難しい境遇であり、徳目なのです。心するだけで大変なんです。だから、おかれている立場立場で精一杯勤めていくのです。師父は私に、よく「人生は我慢だ」と言っておりました。子供のころよく師父に叱られ、その都度泣いておりました。すると時折、師父は私に向い「人生はなんだ?」と言います。わけのわからないままに私は、泣きながら「人生は我慢です。」と答える「では泣くな」といわれるのです。時として逆に、「博志我慢しなくてもいいんだよ」とも云う。要は心の持ち方を教えているように今は思います。人に我慢を強いるのは、難しくありません。強いる側に余程な思いやりがないと届くものではありません。やりたいことをやるな、やりたくないことをやれという。当時の私にすれば、あべこべ、ちぐはぐ、全くいじめとしか思えない。しかし、これが欲望を抑制する心を養ったように思います。心の持ち方で、地獄にもなり、極楽にもなる。娑婆で生きることは、とても大変なことでございます。
四つには「精進」です。精らかに進むと書きます。この言葉は皆さまもよく耳にしますよね。怠ることなく一生懸命努力することです。何のために努力するのか、大事なことは目的地ではないのです。一歩一歩あゆんでいるその歩み。毎日毎日の生活こそが大事なのです。おろそかにしない努力。これが、精進だと思うのです。通説では、一心に仏道や仏事を修めることだといわれます。また肉食しないことも、精進のひとつ。
五つには「禅定」です。禅を定めると書きます。この語は、心を穏やかにして真理を見極めることです。心を穏やかにするというは、意外と難しい。仏道でいう,禅定とは、精神を統一することをいい、迷いを断ち感情を鎮め、真実の仏道を求めこだわりや、とらわれから解放されることをいうのですが、簡単に参らぬが常です。あれこれと心が動きすぎるのです。油断しますと、自分のことばかり考えてしまいます。周囲を慮る心に欠けてしまうのです。私の日課は二つあります。坐禅と写経を毎日勤めることです。坐禅は時間が許す限り、朝晩勤めることにしています。心掛けていることは、一つに「調身」。身を整えることです。背筋を伸ばし右にも左にも片寄らずまっすぐに坐ること。二つには、「調息」。呼吸を整えることです。一つ一つの呼吸を丁寧にお腹を意識して深くゆっくりと行うことを心掛けています。三つには「調心」。自ずと姿勢と呼吸を整えれば自然と心も整って参ります。これがまさに禅定なのです。坐を移し日常行務に追われますと、すぐ心が乱れて参ります。残念です。そしてもうひとつは「写経」です。文字通り経典を写すことです。善光寺でも毎月「般若心経」の「写経会」を行っています。字数は二百七十六文字でございますので、一時間はかかってしまいます。日々、私の写経は「延命十句観音経」を謹んでおります。これは、わずか四十六文字です。だいたい十五分前後で尽くすことができます。私は、僧侶です。もしも私の日々に坐禅を怠るようなことになれば、私は、禅僧ではなくなります。これは、禅僧として生きる私の基本であり使命だと信念し、院代と共に少なくとも禅定という徳目の実践に精進しています。ここのところ、師父も厳しく申しておりました。
六つには「智慧」です。この徳目は、物事を正しく判断し、処理する心の働き。ものの道理を知る賢明さ。それらを培うことです。これは前の五つを実践することにより自然と身についていくものだと教えて頂きました。今こうしてお話させていただくのも智慧の一部です。智慧は「般若」ともいい、サンスクリットでは、パンニャー、いわゆる「般若心経」のことだと教えています。いかにも善悪の業や因果の道理を説いてくれます。従って仏教は智慧の宗教だといわれる由来はここにあり事実を事実として、正しく観る目を養ってくれるのです。
仏教の魅力もここにあるのかもしれません。私も日々悩み苦しんでおります。研鑽が足りないのだと思っています。人はなぜ生れて来たのか、どのように生きていかねばならないのか、真実の幸福とはいったいなんなのか。根本の問題に足踏みしているのが現状です。智慧が乏しく足りないのです。この一週間一日ひとつの徳目に傾注し、合わせて六波羅蜜、皆さまと共にこの徳目にとりくみ、智慧を高めて参りたいものです。どうぞよいお彼岸をお過ごしになられますように。
ご清聴誠にありがとうございました。

■お彼岸には何をしますか
「暑さ寒さも彼岸まで」の「お彼岸の中日」が9月23日の秋分の日です。「彼岸」とは季節を表す言葉ではなく、「お浄土」を表す仏教用語です。私たちの住む現実の世界「此岸」から、阿弥陀さまの極楽浄土「彼岸」へ到る道を尋ねていくことが本来の意味であります。
『阿弥陀経』というお経に、
「これより西方、十万億の仏土を過ぎて世界あり、名けて極楽といふ」
とあり、阿弥陀さまの極楽浄土(彼岸)を西の方角で表すようになりました。春秋の彼岸の中日は太陽が真西に沈んでいきます。先人の方々は、この日真西へ沈む夕日に極楽浄土を重ね合わせ、彼岸の日と呼ぶようになったようです。この中日から前後三日をいれた七日間をお彼岸という仏教週間となるのです。
この七日間は六道を超える七日間とも言われています。六道とは、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の事です。自分の思う通りにならないからといって腹を立て、奪い合い殺し合って地獄に行き、自分の気にいったものが手に入ると「まだ欲しい、欲しい」「まだ足らん」で餓鬼道の世界に行き、「今が楽しければそれでいい。人の事なんて知るものか」と畜生の世界へ行ったと思えば、時には親子ともいがみ合って修羅に行く。他人の身になったかと思うと、いつの間にか自分が可愛い、自分が正義だと思い込むのが人間の世界。自分の思い通りにいって有頂天になっているのが、いずれまた落ちていく天上界。
『歎異抄』の 第十三条に
「人はだれでも、しかるべき縁がはたらけば、どのような行いもするものである」
とあります。縁あればどのような世界にでも行ってしまう私たち凡夫は、六道を超えて「彼岸」に行くどころか、今このとき「此岸」で六道をぐるぐる回りながら、苦しみ悩む人生を送っているのです。
親鸞聖人は『教行信証 行巻』に
「わたしたちは現に迷いの凡夫であって、罪のさわりが深く迷いの世界をさまよい続けている。その苦しみはいい尽くしがたい。今、善知識に遇って、阿弥陀仏の本願に誓われたお名号を聞くことができた。」と述べられています。
親鸞聖人は縁あればいかなる世界にでも行ってしまう私が、その苦しみ悩む中に様々な方の縁によって、阿弥陀さまの願いを聞くことができたと慶ばれています。阿弥陀さまは、「此岸」で苦悩の人生を歩む私たち凡夫に、休むことなく願いをかけ続けています。『阿弥陀経』には、「その土(極楽浄土)に仏まします、阿弥陀と号す。今現にましまして法を説きたまふ。」
阿弥陀さまは、どこか遠い所で説法されているわけではなく、いまここで現に悩み苦しむ私たちに法を説いておられます。「苦悩の人々よ、我にまかせよ、必ず摂りて必ず救う」という阿弥陀さまの願いは「なもあみだぶつ」の喚び声となって、いまここに届いているのです。
私たちも、阿弥陀さまと、阿弥陀さまの極楽浄土「彼岸」に先に生まれて仏さまとなられたご先祖様のおはたらきによって、合わぬ両手がいつしか合わさり合掌の姿となり、口を開けば愚痴しか出なかったこの口から「なもあみだぶつ」のお念仏がこぼれでてくださるようになりました。お念仏申す身となった私たちも阿弥陀さまのお浄土「彼岸」、娑婆世界の苦悩から解き放たれた悟りの国に生まれさせていただけるのです。
このお彼岸の七日間は、間違いない目的地「彼岸・お浄土」をいただき、ご縁ある方の導きに感謝すると同時に、悩み迷い続きである今ここに生きている私にはたらき続けて下さる、阿弥陀さまのお話を聞かせていただくご縁とさせていただきましょう。

■彼岸によせて
「暑さ寒さも彼岸まで」 と言われますが、今年も春のお彼岸を迎える季節になりました。
お彼岸は、春と秋の二季あり、春は春分の日、秋は秋分の日をはさんで、夫々前後一週間の間を「お彼岸」と言います。
「彼岸」は仏教用語で「悟りの世界・安楽の世界」のことを言います。一方、私たちの住んでいる世界は彼岸に対してこちらの岸ですから「此岸」と言います。これは「迷いの世界・苦しみの世界」です。
この彼岸と此岸の間には、煩悩の波が荒れ狂う果てしない海が横たわっています。
その煩悩の波を乗り越えて、悟りの世界である彼岸に渡ろうというのが仏教の教えです。
特に、春秋のこの時期は一年中で最も過ごしやすい時ですから、この季節に彼岸に渡る仏道修行にいそしみましょうということから「お彼岸」というものが設けられました。
今風に言えば、お彼岸はさしずめ「仏教週間」と言えるでしょう。
ところで、お釈迦さまはなぜ私たちに「彼岸に渡りなさい」と勧められたのでしょうか。そこには大事なことが二つあると思います。
まずその一つは、彼岸という悟りの世界を知ることによって、私たちの世界が迷いの世界だと知ることが出来るということです。
もし、彼岸を知ることがなかったら、私たちは自分が迷っているなどとは到底思いません。それどころか「私は正しい」と思っています。人間世界に争いごとが絶えないのは、この「私は正しい」という自己中心の見方しか出来ない心にあるのです。
お釈迦さまは「迷っていながら迷っていることに気づかない。それが迷いだ」とおっしゃっていますが、まさにその通りです。
彼岸は、そんな私たちの迷いの心をありのままに映し出す鏡になるのです。その鏡に映し出されることによって、愚かな我が身が知らされるのです。知れば「愚かな私でした」と素直に頭が下がります。ここが大事なのです。
ひとたび頭が下がれば、あらゆるものがこの私を導き育ててくれるものだということに気付きます。順境も逆境も、敵も見方も、何もかもです。つまり私にとって、この世の中に無駄なものは何一つないということがわかるのです。まさに「我以外皆我諸仏」だったのです。
このように、私たちは彼岸を知ることによって、自らの愚かさに頭が下がり、頭が下がることによって、迷いの中にいながら迷いを越えていくという人生が開かれていくのです。
そうして、今一つ大事なことは何かと言いますと、それは「彼岸を目指す」ことによって、私の「いのち」の目的地がはっきりと定まるということです。
よく人生は旅にたとえられますが、人生が旅であるならば当然目的地がはっきり決まっていなければなりません。
例えば、旅行者に「どちらへ行かれるのですか?」と尋ねて「いやー、どこに行くのか分かりません」という人はまずいないと思います。もし、そんな人がいれば、それは旅ではなく放浪というものです。放浪はいつどこで泊まる宿があるのやら、いつどこで食事にありつけるのやらと不安と心配で、おちおち旅も続けられないと思います。
目的地が定まって、初めて安心して旅が続けられるのです。
「彼岸を目指す」とはまさに私の「いのち」の旅の目的地が定まるということです。しかも、目的地が定まったというだけではありません。彼岸には阿弥陀さまが待っていてくださるのです。それは、死んだら終いと思っていたこの人生が、「永遠のいのち」を頂く人生に転じられていくのです。そのことをはっきりと確信できた時、本当に安心してこの人生を歩んでいくことが出来るようになるのです。
お釈迦さまは「彼岸に渡れ」と私たちに勧められました。それは、「彼岸を知り、彼岸に生き、彼岸を目指す」という人生の如何に大切なことであるかを、私たちに教えて下さっているのです。
「彼岸を知る」ことによって、何事も決して無駄にしないという智慧ある人生が開かれ、また、「彼岸を目指す」ことによって、我がいのちの目的地の定まった安らかな人生が開かれます。
今年のお彼岸は、このようなことに思いをいたし、実りある「仏教週間」にしていきたいと思っています。
 

 

■彼岸と此岸〜二河白道の喩え〜
今月は秋のお彼岸を迎えます。彼岸とは極楽浄土のことで、それに対して私たちの生きている世界を此岸(しがん)といいます。この此岸から彼岸へ渡る道、お浄土へ生まれる道を、善導大師という中国のお坊さんが、『観経疏』というお経の中に、「二河白道(にがびゃくどう)」という喩えで書かれています。今回の法話で、少し皆さんにご紹介します。
ある旅人が西に向かって進んで行くと、何もない荒野で火と水の河に出会います。南側に火の河。東側に水の河。河の幅は百歩ほどで、さほど大きな河ではないテキスト ボックス: けれども、底がありません。ただ橋のように一筋の白い道(白道)はあるのですが、その道は人一人渡れるほどの細い道で、火と水が両方から押し寄せてきています。後ろ側からは賊の群れや、悪獣が自分を殺そうと迫ってきています。
前に進んでも、後ろに下がっても、そのまま止まっていても死を免れない状況の中で、白い道を渡ろうとすると、東から「その道を進め」という声。西から「すぐに来てください。あなたをずっと守りつづけますよ」という声がするのです。その声に従い、その道を渡ると、難をのがれ善き友と遇うことができた。という喩え話です。
皆さんならこの絶体絶命のピンチにどうしますか。実はこの旅人は私たち自身の姿を現されています。彼岸と此岸を分かつ火と水の河とは私たちの苦しみの原因となる欲望や、思い通りにならない時の怒りの心を指しています。だから底がないのです。その悪の心が彼岸(お浄土)へ向かう道を閉ざしているのです。
地位や名誉や財産に振り回されている、盗賊のような私の心も此岸で渦巻いています。しかし、そんな私たちにお釈迦様は此岸から、「信じて進め」と励ましてくださり、彼岸からは阿弥陀如来様が「私にまかせて、信じてきなさい」と呼びかけてくださっているのです。そして、その目の前にある白道こそが、南無阿弥陀仏のお念仏なのです。阿弥陀如来様のお救いにおまかせをする道なのです。
つまり、私たちはじっとしていても必ず人間の命を終えていかなければなりません。そして、欲望や怒りの心を無くすことができない私たちは、その河を渡ってお浄土へ行くことはできないことをあらわされ、ただ阿弥陀如来の救いにおまかせをする道(白道)しかないとお示しくださっているのです。
浄土真宗のお彼岸とは先祖供養のためでは決してありません。亡き方が残してくださったご縁の中で、悟りの世界へ渡るための自らの行いを省みる期間なのです。そして、私のいのち終わる時は、お浄土へ生まれるのだという、大きな安心の中で精一杯生き抜くことができる人生に目覚め、お浄土へ向かう人生を亡き方が仏となって、私たちに薦めていてくださることを、あらためて気付かせていただく期間なのです。これからのお彼岸のご法要やお墓参りの時にも、どうぞ思い出してくださいね。 

■彼の岸に咲く花
秋彼岸。田んぼの畦や川の土手が所々燃え上がるように真っ赤に染まります。彼岸の頃に咲くから彼岸花(別名:曼珠沙華)というのだとか……。
つきぬけて 天上の紺 曼珠沙華  山口誓子
秋の突き抜けるような青空の下、彼岸花がすっくと立つその姿は美しく、力強く、凛々しく感じられます。
その姿に惹かれてか、子供の頃、学校からの帰り道に私もよくその花を手折って帰ったものです。あちらで1本、こちらで2本、仕舞には両手に持ちきれないほどの彼岸花を手に家に帰り着くと、決まって怒られました。「そんなにたくさんカエンソウ(火炎草)なんか採ってきて!家が火事になるよ!」。
彼岸花は大変多くの別名を持つ花ですが(一説には1000以上)、その多くは負のイメージが強いものだとか・・・。死人花、地獄花、幽霊花、葬式花、墓花、剃刀花、狐花などなど、日本人はあの赤い花に怪しさと不気味さを感じてきたのです。根から花まで『リンコン』と呼ばれる毒を含んでいることもあるでしょう。彼岸花というのも「これを食べたら彼岸(死)しかない」というからだという説もあるのだとか?
ところで、その別名の一つにハナシグサ(葉無草)というのがあるそうです。花の咲く時期に葉を見ることがないからだそうです。
秋雨が降り、やがて彼岸という時期になると田んぼの畦には蕾をつけた彼岸花があっという間にスクスクと伸び立ち並びます。そして、あの燃えるように真っ赤な花を咲かせるのです。その栄養はもちろん地下の球根に蓄えられていたもの。けれどその栄養はいつ蓄えられたのでしょう?
答えは花の枯れてしまった後にありました。球根から今度は緑の葉がスクスクと伸びてくるのです。彼岸花は冬の弱い日差しの中、せっせと光合成をして春を迎えます。そして周囲の植物たちが芽を出し、日差しを求めて争うように伸びる頃になると、彼岸花はその場所を譲るように葉を枯らすのです。
自未得度先渡他(じみとくどせんどた)
自分が救われるより前に、まず他の人々が救われるようにするという菩薩行をあらわす言葉です。夏の燦燦と降りそそぐ日差しを周囲の植物たちに譲り、自分は弱い冬の日差しで満足している彼岸花。その姿は自分よりも先にまず他のものをという菩薩行を見るようで、何だかこころが安らぎます。彼岸とは安らぎ(悟り)の世界。そんな安らぎを与えてくれる彼岸花は、まさに彼の岸に咲く花。もっとも、彼岸花は露ほどもそんなことを思ってはいないでしょうが・・・。
普段、此岸(迷いの世界)に住む私たちですが、此岸にも彼の岸の花が咲くのです。此岸こそ彼岸、一年に一度、燃えるような赤い花がそれを教えてくれるのです。 

■彼岸と悲願
毎年、春と秋の2回『おひがん』がやってきます。『春分の日』と『秋分の日』を中日とする、春と秋のそれぞれ1週間を『お彼岸(ひがん)』と呼びます。日本人にとって大変重要な仏教の行事であり、多くの人がこの期間に、お墓を掃除し、そしてそれにお参りする事でしょう。
ところで、仏教がインド生まれなのに、『お彼岸(ひがん)』は日本生まれの行事です(もちろん『彼岸』という言葉自体はインド生まれですが、春と秋の1週間…という『お彼岸(ひがん)』はインドにはありません。
私達は『暑さ寒さも彼岸まで』という言葉を気軽によく使いますが、この言葉は単に季節を言い表す言葉では無く大変重要な意味を持っていると感じます。
その点を紹介させてもらいたいと思います。
仏教(釈迦の教え)を別の言い方で『中道(ちゅうどう)』といいます。仏教の修行は、肉体を滅ぼしてしまうような難行苦行にも、快楽を徹底して追及するような快楽主義にも、どちらにもかたよってはならない。そのどちらにも片寄らない『中道(ちゅうどう)』こそが仏道修行の有り方である、というわけです。
つまり暑さにも寒さにも片寄らない日本の春と秋は『中道(ちゅうどう)』にあい通じるところがあると、昔の日本人が思いついて『おひがん』をこしらえたのではないでしょうか。インドには雨季と乾季は有っても、日本のような四季はありませんから、『春と秋の1週間』などとは思いつきようが無かったのです。
『中道(ちゅうどう)』はギターや琵琶のような弦楽器によくたとえられます。つまり、弦をあまりゆるく張りすぎると、ベロンベロンというような奇妙な音が出てしまうし、あまり強く張りすぎるとすぐに切れてしまう…、どちらにも片寄らず適当な強さで張ってこそ綺麗な音が出るのだ、といわれるのです。
『彼岸』は何とかして悩み苦しみに満ちたこちらの岸(此岸(しがん)といいます)から、悩み苦しみの無いむこうの岸へ渡りたい、という強い憧れを表した言葉です。その、わたるための様々な方法を示しているのが仏教(釈迦の教え)であると考える事ができます。(『彼岸』については当HP内の仏教講座第13回『六度』をご覧下さい)
ところで彼岸は、『悲願』と同じ言い方だなあ、と以前から思っていました。『彼岸』に渡りたいというのは、仏教徒にとってどうしても達成させたい願い、つまり『悲願』に違いないなどと思っていましたら新聞にこんな俳句が載っていました。十数年前『赤報隊』と名乗る一団によって、まだ若かった新聞記者であった息子さんを殺された母親が作った俳句です。
彼岸来て 悲願続けて また彼岸
彼女の悲願は息子を殺した『赤報隊』が特定され裁判にかけられて、罪を償う事です。しかしその悲願は達成されないまま、事件は時効になってしまいました。
 

 

 
 

 

 
 

 

 
仏教と生き方

 

 
人生について 

 

「仏教聖典」は、より多くの人に触れていただきたいとの願いから、やさしくわかりやすい言葉を用いて編集しております。ここでは、私たちにとって身近な問題を通じて、仏教の教えに出会っていただけるように、『和英対照仏教聖典』の言葉から抜粋して、ご紹介いたします。
人生の意義
人間が生きていることは、結局何かを求めていることにほかならない。しかし、この求めることについては、誤ったものを求めることと、正しいものを求めることの二つがある。誤ったものを求めることというのは、自分が老いと病と死とを免れることを得ない者でありながら、老いず病まず死なないことを求めていることである。正しいものを求めることというのは、この誤りをさとって、老いと病と死とを超えた、人間の苦悩のすべてを離れた境地を求めることである。今のわたしは、この誤ったものを求めている者にすぎない。
現実の世界
この世には五つの悪がある。一つには、あらゆる人から地に這(は)う虫に至るまで、すべてみな互いにいがみあい、強いものは弱いものを倒し、弱いものは強いものを欺(あざむ)き、互いに傷つけあい、いがみあっている。二つには、親子、兄弟、夫婦、親族など、すべて、それぞれおのれの道がなく、守るところもない。ただ、おのれを中心にして欲をほしいままにし、互いに欺きあい、心と口とが別々になっていて誠がない。三つには、だれも彼もみなよこしまな思いを抱き、みだらな思いに心をこがし、男女の間に道がなく、そのために、徒党を組んで争い戦い、常に非道を重ねている。四つには、互いに善い行為をすることを考えず、ともに教えあって悪い行為をし、偽り、むだ口、悪口、二枚舌を使って、互いに傷つけあっている。ともに尊敬しあうことを知らないで、自分だけが尊い偉いものであるかのように考え、他人を傷つけて省みるところがない。五つには、すべてのものは怠(おこた)りなまけて、善い行為をすることさえ知らず、恩も知らず、義務も知らず、ただ欲のままに動いて、他人に迷惑をかけ、ついには恐ろしい罪を犯すようになる。
理想の生き方
教えのしかれている世界では、人びとの心が素直になる。これはまことに、あくことのない大悲によって、常に人びとを照らし守るところの仏の心に触れて、汚れた心も清められるからである。この素直な心は、同時に深い心、道にかなう心、施す心、戒を守る心、忍ぶ心、励む心、静かな心、智慧(ちえ)の心、慈悲(じひ)の心となり、また方便(ほうべん)をめぐらして、人びとに道を得させる心ともなるから、ここに仏の国が、立派にうち建てられる。妻子とともにある家庭も、立派に仏の宿る家庭となり、社会的差別の免れない国家でも、仏の治める心の王国となる。まことに、欲にまみれた人によって建てられた御殿が仏の住所ではない。月の光が漏れこむような粗末な小屋も、素直な心の人を主とすれば、仏の宿る場所となる。ひとりの心の上にうち建てられた仏の国は、同信の人を呼んでその数を加えてゆく。家庭に村に町に都市に国に、最後には世界に、次第に広がってゆく。まことに、教えを広めてゆくことは、この仏の国を広げてゆくことにほかならない。
誤った人生観
この世の中には三つの誤った見方がある。もしこれらの見方に従ってゆくと、この世のすべてのことが否定されることになる。一つには、ある人は、人間がこの世で経験するどのようなことも、すべて運命であると主張する。二つには、ある人は、それはすべて神のみ業(わざ)であるという。三つには、またある人は、すべて因も縁もないものであるという。もしも、すべてが運命によって定まっているならば、この世においては、善いことをするのも、悪いことをするのも、みな運命であり、幸・不幸もすべて運命となって、運命のほかには何ものも存在しないことになる。したがって、人びとに、これはしなければならない、これはしてはならないという希望も努力もなくなり、世の中の進歩も改良もないことになる。次に、神のみ業であるという説も、最後の因も縁もないとする説も、同じ非難があびせられ、悪を離れ、善をなそうという意志も努力も意味もすべてなくなってしまう。だから、この三つの見方はみな誤っている。どんなことも縁によって生じ、縁によって滅びるものである。
正しい人生論
人びとの苦しみには原因があり、人びとのさとりには道があるように、すべてのものは、みな縁(条件)によって生まれ、縁によって滅びる。雨の降るのも、風の吹くのも、花の咲くのも、葉の散るのも、すべて縁によって生じ、縁によって滅びるのである。この身は父母を縁として生まれ、食物によって維持され、また、この心も経験と知識とによって育ったものである。だから、この身も、この心も、縁によって成り立ち、縁によって変わるといわなければならない。
かたよった生活
道を修めるものとして、避けなければならない二つの偏(かたよ)った生活がある。その一は、欲に負けて、欲にふける卑(いや)しい生活であり、その二は、いたずらに自分の心身を責めさいなむ苦行の生活である。この二つの偏った生活を離れて、心眼を開き、智慧を進め、さとりに導く中道(ちゅうどう)の生活がある。この中道の生活とは何であるか。正しい見方、正しい思い、正しいことば、正しい行い、正しい生活、正しい努力、正しい記憶、正しい心の統一、この八つの正しい道である。 ・・・ すべてのものは縁によって生滅(しょうめつ)するものであるから、有と無とを離れている。愚かな者は、あるいは有と見、あるいは無と見るが、正しい智慧(ちえ)の見るところは、有と無とを離れている。これが中道の正しい見方である。
迷っている人へ(たとえ話)
ある人が、「夜は煙って、昼は燃える蟻塚(ありづか)。」を見つけた。ある賢者にそのことを語ると、「では、剣をとって深く掘り進め。」と命ぜられ、言われるままに、その蟻塚を掘ってみた。はじめにかんぬきが出、次は水泡(すいほう)、次には刺又(さすまた)、それから箱、亀、と殺用の刀、一片の肉が次々と出、最後に龍が出た。賢者にそのことを語ると、「それらのものをみな捨てよ。ただ龍のみをそのままにしておけ。龍を妨げるな。」と教えた。これはたとえである。ここに「蟻塚」というのはこの体のことである。「夜は煙って」というのは、昼間したことを夜になっていろいろ考え、喜んだり、悔やんだりすることをいう。「昼は燃える」というのは、夜考えたことを、昼になってから体や口で実行することをいう。「ある人」というのは道を求める人のこと、「賢者」とは仏のことである。「剣」とは清らかな智慧(ちえ)のこと、「深く掘り進む」とは努力のことである。「かんぬき」とは無明(むみょう)のこと、「水泡」とは怒りと悩み、「刺又」とはためらいと不安、「箱」とは貪(むさぼ)り・瞋(いか)り・怠(おこた)り・浮わつき・悔い・惑(まど)いのこと、「亀」とは身と心のこと、「と殺用の刀」とは五欲のこと、「一片の肉」とは楽しみを貪り求める欲のことである。これらは、いずれもこの身の毒となるものであるから、「みな捨てよ」というのである。最後の「龍」とは、煩悩(ぼんのう)の尽きた心のことである。わが身の足下を掘り進んでゆけば、ついにはこの龍を見ることになる。掘り進んでこの龍を見いだすことを、「龍のみをそのままにしておけ。龍を妨げるな。」というのである。
人の生活(たとえ話)
ここにもう一つのたとえがある。ひとりの男が罪を犯して逃げた。追手が迫ってきたので、彼は絶体絶命になって、ふと足もとを見ると、古井戸があり、藤蔓(ふじつる)が下がっている。彼はその藤蔓をつたって、井戸の中へ降りようとすると、下で毒蛇(どくじゃ)が口を開けて待っているのが見える。しかたなくその藤蔓を命の綱にして、宙にぶら下がっている。やがて、手が抜けそうに痛んでくる。そのうえ白黒二匹の鼠が現われて、その藤蔓をかじり始める。藤蔓がかみ切られたとき、下へ落ちて餌食にならなければならない。そのとき、ふと頭をあげて上を見ると、蜂の巣から蜂蜜の甘いしずくが一滴二滴と口の中へしたたり落ちてくる。すると、男は自分の危い立場を忘れて、うっとりとなるのである。この比喩(たとえ)で、「ひとり」とは、ひとり生まれひとり死ぬ孤独の姿であり、「追手」や「毒蛇」は、この欲のもとになるおのれの身体のことであり、「古井戸の藤蔓」とは、人の命のことであり、「白黒二匹の鼠」とは、歳月を示し、「蜂蜜のしずく」とは、眼前の欲の楽しさのことである。
愛欲の生活を送れば(たとえ話)
ここに人生にたとえた物語がある。ある人が、河の流れに舟を浮かべて下るとする。岸に立つ人が声をからして叫んだ。「楽しそうに流れを下ることをやめよ。下流には波が立ち、渦巻きがあり、鰐(わに)と恐ろしい夜叉(やしゃ)との住む淵(ふち)がある。そのままに下れば死ななければならない。」と。このたとえで「河の流れ」とは、愛欲の生活をいい、「楽しそうに下る」とは、自分の身に執着(しゅうじゃく)することであり、「波立つ」とは、怒りと悩みの生活を表わし、「渦巻き」とは、欲の楽しみを示し、「鰐と恐ろしい夜叉の住む淵」とは、罪によって滅びる生活を指し、「岸に立つ人」とは、仏をいうのである。
老人と病人と死人が教えてくれるもの(物語)
人間世界において悪事をなし、死んで地獄に堕(お)ちた罪人に、閻魔王(えんまおう)が尋ねた。「おまえは人間の世界にいたとき、三人の天使に会わなかったか。」「大王よ、わたくしはそのような方には会いません。」 「それでは、おまえは年老いて腰を曲げ、杖(つえ)にすがって、よぼよぼしている人を見なかったか。」「大王よ、そういう老人ならば、いくらでも見ました。」「おまえはその天使に会いながら、自分も老いゆくものであり、急いで善をなさなければならないと思わず、今日の報(むく)いを受けるようになった。」 「おまえは病にかかり、ひとりで寝起きもできず、見るも哀れに、やつれはてた人を見なかったか。」「大王よ、そういう病人ならいくらでも見ました。」「おまえは病人というその天使に会いながら、自分も病まなければならない者であることを思わず、あまりにもおろそかであったから、この地獄へくることになったのだ。」 「次に、おまえは、おまえの周囲で死んだ人を見なかったか。」「大王よ、死人ならば、わたくしはいくらでも見てまいりました。」「おまえは死を警(いまし)め告げる天使に会いながら、死を思わず善をなすことを怠って、この報いを受けることになった。おまえ自身のしたことは、おまえ自身がその報いを受けなければならない。」
死は必ず訪れるもの(物語)
裕福な家の若い嫁であったキサーゴータミーは、そのひとり子の男の子が、幼くして死んだので、気が狂い、冷たい骸(むくろ)を抱いて巷(ちまた)に出、子供の病を治す者はいないかと尋ね回った。この狂った女をどうすることもできず、町の人びとはただ哀れげに見送るだけであったが、釈尊(しゃくそん)の信者がこれを見かねて、その女に祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の釈尊のもとに行くようにすすめた。彼女は早速、釈尊のもとへ子供を抱いて行った。釈尊は静かにその様子を見て、「女よ、この子の病を治すには、芥子(けし)の実がいる。町に出て四・五粒もらってくるがよい。しかし、その芥子の実は、まだ一度も死者の出ない家からもらってこなければならない。」と言われた。狂った母は、町に出て芥子の実を求めた。芥子の実は得やすかったけれども、死人の出ない家は、どこにも求めることができなかった。ついに求める芥子の実を得ることができず、仏のもとにもどった。かの女は釈尊の静かな姿に接し、初めて釈尊のことばの意味をさとり、夢から覚めたように気がつき、わが子の冷たい骸を墓所(ぼしょ)におき、釈尊のもとに帰ってきて弟子となった。
この世にあってだれもできない五つのこと
この世において、どんな人にもなしとげられないことが五つある。一つには、老いゆく身でありながら、老いないということ。二つには、病む身でありながら、病まないということ。三つには、死すべき身でありながら、死なないということ。四つには、滅ぶべきものでありながら、滅びないということ。五つには、尽きるべきものでありながら、尽きないということである。世の常の人びとは、この避け難いことにつき当たり、いたずらに苦しみ悩むのであるが、仏の教えを受けた人は、避け難いことを避け難いと知るから、このような愚かな悩みをいだくことはない。
世の中の四つの真理
この世に四つの真実がある。第一に、すべて生きとし生けるものはみな無明(むみょう)から生まれること。第二に、すべて欲望の対象となるものは、無常であり、苦しみであり、うつり変わるものであること。第三に、すべて存在するものは、無常であり、苦しみであり、うつり変わるものであること。第四に、我(が)も、わがものもないということである。 ・・・ すべてのものは、みな無常であって、うつり変わるものであること、どのようなものにも我がないということは、仏がこの世に出現するとしないとにかかわらず、いつも定まっているまことの道理である。仏はこれを知り、このことをさとって、人びとを教え導く。
迷いもさとりも心から現われる
迷いもさとりも心から現われ、すべてのものは心によって作られる。ちょうど手品師が、いろいろなものを自由に現わすようなものである。 ・・・ 人の心の変化には限りがなく、そのはたらきにも限りがない。汚れた心からは汚れた世界が現われ、清らかな心からは清らかな世界が現われるから、外界の変化にも限りがない。絵は絵師によって描かれ、外界は心によって作られる。仏の作る世界は、煩悩(ぼんのう)を離れて清らかであり、人の作る世界は煩悩によって汚れている。 ・・・ 心はたくみな絵師のように、さまざまな世界を描き出す。この世の中で心のはたらきによって作り出されないものは何一つない。心のように仏もそうであり、仏のように人びともそうである。だから、すべてのものを描き出すということにおいて、心と仏と人びとと、この三つのものに区別はない。すべてのものは、心から起こると、仏は正しく知っている。だから、このように知る人は、真実の仏を見ることになる。
凡人にとっては成し難いが、成せば尊い二十のこと
この世の中に、さとりへの道を始めるに当たって成し難いことが二十ある。
1、貧しくて、施すことは難く
2、慢心にして道を学ぶことは難く
3、命を捨てて道を求めることは難く
4、仏(ほとけ)の在世に生を受けることは難く
5、仏の教えを聞くことは難く
6、色欲を耐え忍び、諸欲を離れることは難く
7、よいものを見て求めないことは難く
8、権勢を持ちながら、勢いをもって人に臨まないことは難く
9、辱(はずかし)められて怒らないことは難く
10、事が起きても無心であることは難く
11、広く学び深く究めることは難く
12、初心の人を軽んじないことは難く
13、慢心を除くことは難く
14、よい友を得ることは難く
15、道を学んでさとりに入ることは難く
16、外界の環境に動かされないことは難く
17、相手の能力を知って、教えを説くことは難く
18、心をいつも平らかに保つことは難く
19、是非をあげつらわないことは難く
20、よい手段を学び知ることは難い  
信仰について 

 

「仏教聖典」は、より多くの人に触れていただきたいとの願いから、やさしくわかりやすい言葉を用いて編集しております。ここでは、私たちにとって身近な問題を通じて、仏教の教えに出会っていただけるように、『和英対照仏教聖典』の言葉から抜粋して、ご紹介いたします。
信仰は火である
信こそはまことに人の善き伴侶であり、この世の旅路の糧(かて)であり、この上ない富である。 ・・・ 信は仏の教えを受けて、あらゆる功徳(くどく)を受けとる清らかな手である。信は火である。人びとの心の汚れを焼き清め、同じ道に入らせ、その上、仏の道に進もうとする人びとを燃えたたせるからである。信は人の心を豊かにし、貪りの思いをなくし、おごる心を取り去って、へりくだり敬うことを教える。こうして、智慧(ちえ)は輝き、行いは明らかに、困難に破れず、外界にとらわれず、誘惑に負けない、強い力が与えられる。信は、道が長く退屈なときに励ましとなり、さとりに導く。信は、常に仏の前にいるという思いを人に与え、仏に抱かれている思いを与え、身も心も柔らかにし、人びとによく親しみなじむ徳を与える。
信仰は三つの心をともなう
信には、懺悔(さんげ)と、随喜(ずいき)と、祈願の三つのすがたが現われてくる。深くおのれを省みて、自分の罪と汚れを自覚し、懺悔する。他人の善いことを見るとわがことのように喜んでその人のために功徳(くどく)を願う心が起きる。またいつも仏とともにおり、仏とともに行い、仏とともに生活することを願うのである。
信仰は不思議なもの
エーランダという毒樹の林には、エーランダの芽だけが吹き出して、チャンダナ(栴檀・せんだん)の香木は生えることはない。エーランダの林にチャンダナが生えたならば、これはまことに不思議である。いま人びとの胸のうちに、仏に向かい、仏を信ずる心の生じたのも、これと同じく不思議なことといわなければならない。だから、人びとの仏を信ずる信の心を無根の信という。無根というのは、人びとの心の中には信の生え出る根はないが、仏の慈悲(じひ)の心の中には、信の根があることをいうのである。
信仰は真実の現われ
この信ずる心は、誠の心であり、深い心であり、仏の力によって仏の国に導かれることを喜ぶ心である。 ・・・ すべての所でたたえられる仏の名を聞いて、信じ喜ぶ一念のあるところにこそ、仏は真心こめて力を与え、その人を仏の国に導き、ふたたび迷いを重ねることのない身の上にするのである。
真実なものが見分け難いのは(たとえ話)
昔、ひとりの王があって、象を見たことのない人を集め、目かくしして象に触れさせて、象とはどんなものであるかを、めいめいに言わせた。象の牙に触れた者は、象は大きな人参のようなものであるといい、耳に触れた者は、扇のようなものであるといい、鼻に触れた者は、杵のようなものであるといい、足に触れた者は、臼のようなものであるといい、尾に触れた者は、縄のようなものであると答えた。ひとりとして象そのものをとらえ得た者はなかった。人を見るのもこれと同じで、人の一部分に触れることができても、その本性である仏性(ぶっしょう)を言い当てることは容易ではない。死によっても失われず、煩悩(ぼんのう)の中にあっても汚れず、しかも永遠に滅びることのない仏性を見つけることは、仏と法によるもののほかは、でき得ないのである。
仏性は正しい師によってそのありかを知らされる(たとえ話)
例えば、宮廷に仕える一力士が、眉間に小さな金剛の珠玉(しゅぎょく)を飾ったまま相撲をとって、その額を打ち、玉が膚(はだ)の中に隠れてできものを生じた。力士は、玉をなくしたと思い、ただそのできものを治すために医師に頼む。医師は一目見て、そのできものが膚の中に隠れた玉のせいであると知り、それを取り出して力士に見せた。人びとの仏性(ぶっしょう)も煩悩(ぼんのう)の塵の中に隠れ、見失われているが、善き師によってふたたび見いだされるものである。このように、仏性はあっても貪(むさぼ)りと瞋(いか)りと愚かさのために覆われ、業(ごう)と報(むく)いとに縛られて、それぞれ迷いの境遇を受けるのである。しかし、仏性は実際には失われても破壊されてもおらず、迷いを取り除けばふたたび見いだされるものである。たとえの中の力士が、医師によって取り出されたその玉を見たように、人びとも、仏の光によって仏性を見ることであろう。
仏性は煩悩に包まれている(たとえ話)
昔、ある人が友の家に行き、酒に酔って眠っているうちに、急用で友は旅立った。友はその人の将来を気づかい、価の高い宝石をその人の着物のえりに縫いこんでおいた。そうとは知らず、その人は酔いからさめて他国へとさすらい、衣食に苦しんだ。その後、ふたたびその旧友にめぐり会い、「おまえの着物のえりに縫いこまれている宝石を用いよ。」と教えられた。このたとえのように、仏性の宝石は、貪(むさぼ)りや瞋(いか)りという煩悩(ぼんのう)の着物のえりに包まれて、汚されずにいるのである。 ・・・ どんな人でも仏の智慧のそなわらないものはないから、仏は人びとを見通して、「すばらしいことだ、人びとはみな仏の智慧と功徳とをそなえている。」とほめたたえる。 ・・・ 人びとは愚かさに覆われて、ものごとをさかさまに見、おのれの仏性(ぶっしょう)を見ることができないから、仏は人びとに教えて、その妄想(もうぞう)を離れさせ、本来、仏と違わないものであることを知らせる。
信仰を妨げるものは疑い
信はこのように尊く、まことに道のもとであり功徳(くどく)の母であるが、それにもかかわらず、この信が道を求める人にも円満に得られないのは、次の五つの疑いが妨げているからである。一つには、仏の智慧(ちえ)を疑うこと。二つには、教えの道理に惑うこと。三つには、教えを説く人に疑いを持つこと。四つには、求道の道にしばしば迷いを生ずること。五つには、同じく道を求める人びとに対して、慢心から相手を疑って、いらだつ思いがあるためである。まことに世に疑いほど恐ろしいものはない。疑いは隔てる心であり、仲を裂く毒であり、互いの生命を損なう刃であり、互いの心を苦しめる棘(とげ)である。
仏は父、人はその子である
仏は実に聖者の中の尊い聖者であり、この世の父である。だから、あらゆる人びとはみな仏の子である。彼らはひたすらこの世の楽しみにのみかかわり、その災いを見通す智慧(ちえ)を持たない。この世は苦しみに満ちた恐るべきところ、老いと病と死の炎は燃えてやまない。ところが、仏は迷いの世界という火の宅(いえ)を離れ、静寂な林にあって、「いまこの世界はわがものであり、その中の生けるものたちはみなわが子である。限りない悩みを救うのはわれひとりである。」と言う。
仏の智慧は海のように広く深い
静かな大海に、大空の星がすべてその形を映し出すように、仏の智慧(ちえ)の海には、すべての人びとの心や思いや、その他あらゆるものがそのままに現われる。だから仏を一切知者(いっさいちしゃ)という。この仏の智慧はあらゆる人びとの心をうるおし、光を与え、人びとにこの世の意味、盛衰、因果(いんが)の道理を明らかに知らせる。まことに仏の智慧によってのみ人びとはよくこの世のことを知る。
仏の心は大慈悲である
仏の心とは大慈悲(だいじひ)である。あらゆる手だてによって、すべての人びとを救う大慈の心、人とともに病み、人とともに悩む大悲の心である。
仏の慈悲は永遠のものである
仏の慈悲(じひ)をただこの世一生だけのことと思ってはならない。それは久しい間のことである。人びとが生まれ変わり、死に変わりして迷いを重ねてきたその初めから今日まで続いている。
仏は肉身ではない
仏の本質は肉体ではない。さとりである。肉体はここに滅びても、さとりは永遠に法と道とに生きている。だから、わたしの肉体を見る者がわたしを見るのではなく、わたしの教えを知る者こそわたしを見る。
仏は身をもって教えを説かれた
仏はただことばで教えるだけではなく、身をもって教える。仏は、その寿命に限りはないが、欲を貪(むさぼ)って飽くことのない人びとを目覚ますために、手段として死を示す。例えば多くの子を持つ医師が、他国へ旅をした留守に子供らが毒を飲んで悶(もだ)え苦しんだとしよう。医師は帰ってこの有様を見、驚いてよい薬を与えた。子供たちのうち、正常な心を失っていない者はその薬を飲んで病を除くことができたけれども、すでに正常な心を失ってしまった者はその薬を飲もうとしなかった。父である医師は、彼らの病をいやすために思いきった手段をとろうと決心した。彼は子供たちに言った――「わたしは長い旅に出かけなければならない。わたしは老いて、いつ死ぬかもわからない。もしわたしの死を聞いたなら、ここに残しておく薬を飲んで、おのおの元気になるがよい。」こうして彼はふたたび長い旅に出た。そして使いを遣わしてその死を告げさせた。子供たちはこれを聞いて深く悲しみ、「父は死んだ。もはやわれわれにはたよる者がなくなった。」と嘆いた。悲しみと絶望の中で、彼らは父の遺言を思い出し、その薬を飲み、そして回復した。世の人はこの父である医師のうそを責めるであろうか。仏もまたこの父のようなものである。仏は、欲望に追いまわされている人びとを救うために、仮にこの世に生と死を示したのである。
仏は方便をもって人びとの悩みを救われた(たとえ話)
それでは一つの比喩を説こう。ある町に長者があって、その家が火事になった。たまたま外にあった長者は帰宅して驚き、子供たちを呼んだが、彼らは遊びにふけって火に気づかず、家の中にとどまっていた。父は子供たちに向かって――「子供たちよ、逃げなさい、出なさい。」と叫んだが、子供たちは父の呼び声に気がつかなかった。子供たちの安否を気遣う父はこう叫んだ――「子供たちよ、ここに珍しいおもちゃがある。早く出て来て取るがよい。」子供たちはおもちゃと聞いて勇み立ち、火の家から飛び出して災いから免れることができた。この世はまことに火の家である。ところが人びとは、家の燃えていることを知らず、焼け死ぬかも知れない恐れの中にある。だから、仏は大悲の心から限りなくさまざまに手段をめぐらして人びとを救う。 ・・・ 別の比喩(たとえ)を説こう。昔、長者のひとり子が、親のもとを離れてさすらいの身となって、貧困のどん底に落ちぶれた。父は故郷を離れて息子の行方を求め、あらゆる努力をしたにもかかわらず、どうしてもその行方を求めることができなかった。それから十数年か経って、今はみじめな境遇に成り果てた息子が、たまたま父の住んでいる町の方へさすらってきた。めざとくもわが子を認めた父は喜びに躍り上がり、使用人を遣って放浪の息子を連れもどそうとした。しかし、息子は疑い、だまされるのを恐れて、行こうとしなかった。そこで父はもう一度使用人を息子に近よらせ、よい賃金の仕事を長者の家で与えようと言わせた。息子はその手段に引き寄せられて仕事を引き受け、使用人のひとりとなった。父の長者は、わが家とも知らずに働いているわが子をおいおいに引き立て、ついには金銀財宝の蔵を管理させるに至ったが、それでも息子はなお父とは知らないでいた。父はわが子が素直になったのを喜び、またわが命のやがて尽きようとするのを知って、ある日、親族・友人・知己(ちき)を呼び集めてこう語った――「人びとよ、これはわが子である。永年探し求めていた息子である。今より後、わたしのすべての財宝はみなこの子のものである。」 息子は父の告白に驚いてこう言った――「今、わたしは父親を見いだしたばかりでなく、思いがけずこれらすべての財宝までもわたしのものとなった。」 ここにいう長者とは仏のことである。迷える息子とはすべての人びとのことである。仏の慈悲(じひ)は、ひとり子に向かう父の愛のようにすべての人びとに向かう。仏はすべての人びとを子として教え導き、さとりの宝をもって彼らを富める者とする。
さとりの世界
仏は彼岸(ひがん)に立って待っている。彼岸はさとりの世界であって、永久に、貪(むさぼ)りと瞋(いか)りと愚かさと苦しみと悩みとのない国である。そこには智慧(ちえ)の光だけが輝き、慈悲(じひ)の雨だけが、しとしとと潤している。この世にあって、悩む者、苦しむ者、悲しむ者、または、教えの宣布(せんぷ)に疲れた者が、ことごとく入って憩い休らうところの国である。
仏・法・僧に帰依する
仏(ほとけ)と教えと教団の、この三つは、三つでありながら、離れた三つではない。仏は教えに現われ、教えは教団に実現されるから、三つはそのまま一つである。だから、教えと教団を信ずることは、そのまま仏を信ずることであり、仏を信ずれば、おのずから教えと教団とを信ずることになる。
戒・定・慧の三つを学べ
さとりを求める者が学ばなければならない三つのことがある。それは戒律(かいりつ)と心の統一(定(じょう))と智慧(ちえ)の三学である。戒とは何であるか。人として、また道を修める者として守らなければならない戒を保ち、心身を統制し、五つの感覚器官の入口を守って、小さな罪にも恐れを見、善い行いをして励み努めるこである。心の統一とは何であるか。欲を離れ不善を離れて、次第に心の安定に入ることである。智慧とは何であるか。四つの真理を知ることである。それは、これが苦しみである、これが苦しみの原因である、これが苦しみの消滅である、これが苦しみの消滅に至る道であると、明らかにさとることである。
八つの正しい道
八正道(はっしょうどう)は、正しいものの見方、正しいものの考え方、正しいことば、正しい行い、正しい生活、正しい努力、正しい念(おも)い、正しい心の統一である。正しいものの見方とは、四つの真理(四諦(したい))を明らかにして、原因・結果の道理を信じ、誤った見方をしないこと。正しいものの考え方とは、欲にふけらず、貪(むさぼ)らず、瞋(いか)らず、害なう心のないこと。正しいことばとは、偽りと、むだ口と、悪口と、二枚舌を離れること。正しい行いとは、殺生(せっしょう)と、盗みと、よこしまな愛欲を行わないこと。正しい生活とは、人として恥ずべき生き方を避けること。正しい努力とは、正しいことに向かって怠ることなく努力すること。正しい念いとは、正しく思慮深い心を保つこと。正しい心の統一とは、誤った目的を持たず、智慧(ちえ)を明らかにするために、心を正しく静めて心の統一をすることである。
さとりを得る六つの道
六波羅蜜(ろっぱらみつ)とは、布施(ふせ)・持戒(じかい)・忍辱(にんにく)・精進(しょうじん)・禅定(ぜんじょう)・智慧(ちえ)の六つのことで、この六つを修めると、迷いの此(こ)の岸から、さとりの彼(か)の岸へと渡ることができるので、六度ともいう。布施は、惜しみ心を退け、持戒は行いを正しくし、忍辱は怒りやすい心を治め、精進は怠りの心をなくし、禅定は散りやすい心を静め、智慧は愚かな暗い心を明らかにする。布施と持戒とは、城を作る礎(いしずえ)のように、修行の基(もと)となり、忍辱と精進とは城壁のように外難を防ぎ、禅定と智慧とは、身を守って生死を逃れる武器であり、それは甲冑(かっちゅう)に身をかためて敵に臨むようなものである。
四つの正しい勤め
四正勤(ししょうごん)とは次の四つである。これから起ころうとする悪は、起こらない先に防ぐ。すでに起こった悪は、断ち切る。これから起ころうとする善は、起こるようにしむける。すでに起こった善は、いよいよ大きくなるように育てる。この四つを努めることである。
四つの正しい見方
四念住(しねんじゅう)とは次の四つである。わが身は汚れたもので執着すべきものではないと見る。どのような感じを受けても、それはすべて苦しみのもとであると見る。わが心は常にとどまることがなく、絶えずうつり変わるものと見る。すべてのものはみな原因と条件によって成り立っているから、一つとして永久にとどまるものはないと見る。
さとりを得る五つの力
五力(ごりき)とは、次の五つである。信ずること。努めること。思慮深い心を保つこと。心を統一すること。明らかな智慧(ちえ)を持つこと。この五つがさとりを得るための力である。
四つの大きな心
道を求める者の修めなければならない慈(じ)と悲(ひ)と喜(き)と捨(しゃ)の四つの大きな心(四無量心・しむりょうしん)がある。慈を修めると貪(むさぼ)りの心を断ち、悲を修めると瞋(いか)りの心を断ち、喜は苦しみを断ち、捨は、恩と恨みのいずれに対しても違いを見ないようになる。多くの人びとのために、幸福と楽しみとを与えることは、大きな慈である。多くの人びとのために、苦しみと悲しみをなくすことが大きな悲である。多くの人びとに歓喜(かんぎ)の心をもって向かうのが大きな喜である。すべてのものに対して平等で、分け隔てをしないのが大きな捨である。このように、慈と悲と喜と捨の四つの大きな心を育てて、貪りと瞋りと苦しみと愛憎の心を除くのであるが、悪心の去り難い心とは飼犬のようであり、善心の失われやすいことは林を走る鹿のようである。また、悪心は岩に刻んだ文字のように消えにくく、善心は水に画いた文字のように消えやすい。だから道を修めることはまことに困難なものといわなければならない。
人生に覚めた人
道に志す人も、この四つの聖(とうと)い真理を知らなければならない。これらを知らないために、長い間、迷いの道にさまよってやむときがない。この四つの聖い真理を知る人をさとりの眼を得た人という。だから、よく心を一つにして仏の教えを受け、この四つの聖い真理の道理を明らかに知らなければならない。いつの世のどのような聖者も、正しい聖者であるならば、みなこの四つの聖い真理をさとった人であり、四つの聖い真理を教える人である。 ・・・ この四つの聖い真理が明らかになったとき、人は初めて、欲から遠ざかり、世間と争わず、殺さず、盗まず、よこしまな愛欲を犯さず、欺(あざむ)かず、そしらず、へつらわず、ねたまず、瞋(いから)らず、人生の無常を忘れず、道にはずれることがない。
人間の死と無常
弟子たちよ、わたしの終わりはすでに近い。別離も遠いことではない。しかし、いたずらに悲しんではならない。世は無常であり、生まれて死なない者はない。今わたしの身が朽(く)ちた車のようにこわれるのも、この無常の道理を身をもって示すのである。いたずらに悲しむことをやめて、この無常の道理に気がつき、人の世の真実のすがたに眼を覚まさなければならない。変わるものを変わらせまいとするのは無理な願いである。
念仏者は浄土に生まれる
ただ、この仏の名を心に保ち、一日または七日にわたって、心を一つにして動揺することがないならば、その人の命が終わるとき、この仏は、多くの聖(ひじり)たちとともに、その人の前に現われる。その人の心はうろたえることなく、ただちにその国に生まれることができる。もし人が、この仏の名を聞き、この教えを信ずるならば、仏たちに守られ、この上もない正しいさとりを得ることができるのである。
自らを灯火とし、頼りとせよ
弟子たちよ、おまえたちは、おのおの、自らを灯火(ともしび)とし、自らをよりどころとせよ、他を頼りとしてはならない。この法を灯火とし、よりどころとせよ、他の教えをよりどころとしてはならない。わが身を見ては、その汚れを思って貪(むさぼ)らず、苦しみも楽しみもともに苦しみの因(もと)であると思ってふけらず、わが心を観ては、その中に「我(が)」はないと思い、それらに迷ってはならない。そうすれば、すべての苦しみを断つことができる。わたしがこの世を去った後も、このように教えを守るならば、これこそわたしのまことの弟子である。 
修養について 

 

「仏教聖典」は、より多くの人に触れていただきたいとの願いから、やさしくわかりやすい言葉を用いて編集しております。ここでは、私たちにとって身近な問題を通じて、仏教の教えに出会っていただけるように、『和英対照仏教聖典』の言葉から抜粋して、ご紹介いたします。
何が自分の第一の問題か(たとえ話)
例えば、人が恐ろしい毒矢に射られたとする。親戚や友人が集まり、急いで医者を呼び毒矢を抜いて、毒の手当てをしようとする。ところがそのとき、その人が、「しばらく矢を抜くのを待て。だれがこの矢を射たのか、それを知りたい。男か、女か、どんな家のものか、また弓は何であったか、大弓か小弓か、木の弓か竹の弓か、弦(つる)は何であったか、藤蔓(ふじつる)か、筋(すじ)か、矢は籐(とう)か葦(あし)か、羽根は何か、それらがすっかりわかるまで矢を抜くのは待て。」と言ったら、どうであろうか。いうまでもなく、それらのことがわかってしまわないうちに、毒は全身に回って死んでしまうに違いない。この場合にまずしなければならないことは、まず矢を抜き、毒が全身に回らないように手当てをすることである。この宇宙の組み立てがどうであろうと、この社会のどういう形のものが理想的であろうとなかろうと、身に迫ってくる火は避けなくてはならない。宇宙が永遠であろうとなかろうと、限りがあろうとなかろうと、生と老と病と死、愁(うれ)い、悲しみ、苦しみ、悩みの火は、現に人の身の上におし迫っている。人はまず、この迫っているものを払いのけるために、道を修めなければならない。仏の教えは、説かなければならないことを説き、説く必要のないことを説かない。すなわち、人に、知らなければならないことを知り、断たなければならないものを断ち、修めなければならないものを修め、さとらなければならないものをさとれと教えるのである。だから、人はまず問題を選ばなければならない。自分にとって何が第一の問題であるか、何が自分にもっともおし迫っているものであるかを知って、自分の心をととのえることから始めなければならない。
最初の一歩を慎め
道を修める者は、その一歩一歩を慎まなければならない。志がどんなに高くても、それは一歩一歩到達されなければならない。道は、その日その日の生活の中にあることを忘れてはならない。
初心を忘れるな(たとえ話)
樹木の芯を求めて林に入った者が、枝や葉を得て芯を得たように思うならば、まことに愚かなことである。ややもすると、人は、木の芯を求めるのが目的でありながら、木の外皮や内皮、または木の肉を得て芯を得たように思う。人の身の上に迫る生と老と病と死と、愁(うれ)い、悲しみ、苦しみ、悩みを離れたいと望んで道を求める。これが芯である。それが、わずかな尊敬と名誉とを得て満足して心がおごり、自分をほめて他をそしるのは、枝葉を得ただけにすぎないのに芯を得たと思うようなものである。また、自分のわずかな努力に慢心して、望んだものを得たように思い、満足して心が高ぶり、自分をほめて他をそしるのは、木の外皮を得て芯を得たと思うようなものである。また、自分の心がいくらか静まり安定を得たとして、それに満足して心が高ぶり、自分をほめて他をそしるのは、木の内皮を得て芯を得たと思うようなものである。また、いくらかものを明らかに見る力を得て、これに眼がくらんで心が高ぶり、自分をほめて他をそしるのは、木の肉を得て芯を得たと思うようなものである。これらのものはみなすべて、気がゆるんで怠り、ふたたび苦しみを招くに至るであろう。道を求める者にとっては、尊敬と名誉と供養(くよう)を受けることがその目的ではない。わずかな努力や、多少の心の安定、またわずかな見る力が目的なのではない。まず最初に、人はこの世の生と死の根本的な性質を心に留めなければならない。
その道で成功しようと思う者は幾多の苦難に耐えよ(物語)
昔、ヒマーラヤ山に真実を求める行者がいた。ただ迷いを離れる教えを求めて、そのほかは何も求めるものがなく、地上に満ちた財宝はもとより、神の世界の栄華さえ望むところではなかった。神はこの行者の行いに感動し、その心のまことを試そうと鬼の姿となってヒマーラヤ山に現われ、「ものみなはうつり変わり、現われては滅びる。」と歌った。行者はこの歌声を聞き、渇いたものが水を得たように、また囚(とら)われたものが放たれたように喜んで、これこそまことの理(ことわり)である、まことの教えであると思い、彼はあたりを見まわして、だれがこの尊い詩を歌ったのであろうかとながめ、そこに恐ろしい鬼を見いだした。怪しみながらも鬼に近づいて、「先ほどの詩はおまえの歌ったものか。もしそうなら、続きを聞かせてもらいたい。」と願った。鬼は答えた。「そうだ、それはわたしの詩だ。しかし、わたしはいま飢えているから、何か食べなくては歌うことができない。」 行者はさらに願った。「どうかそう言わずに、続きを聞かせてもらいたい。あの詩には、まことに尊い意味があり、わたしの求めているものがある。しかし、あれだけではことばは終わっていない。どうか詩の残りを教えていただきたい。」 鬼はさらに言う。「いまわたしは空腹に耐えられない。もし人の温かい肉を食べ、血をすすることができるならば、あの詩の続きを説くであろう。」 これを聞いた行者は、続きの詩を聞かせてもらえるならば、聞き終わってから、自分の身を与えるであろうと約束した。鬼はそこで、残りを歌い、詩は完全なものとなった。それはこうである。「ものみなはうつり変わり、現われては滅びる。生滅にとらわれることなくなりて、静けさと安らぎは生まれる。」 行者はこの詩を木や石に彫りつけ、やがて木の上にのぼり、身をおどらせて鬼の前に投げ与えた。その瞬間、鬼は神の姿にかえり、行者の身は神の手に安らかに受けとめられた。
幾度たおれても奮起せよ(物語)
昔、五武器(ごぶき)太子とよばれる王子がいた。五種の武器を巧みにあやつることができたので、この名を得たのである。修行を終えて郷里に帰る途中、荒野の中で、脂毛(しもう)という名の怪物に出会った。脂毛は、そろそろと歩いて王子に迫ってきた。王子はまず矢を放ったが、矢は脂毛に当たっても毛にねばりつくばかりで傷つけることができない。剣も鉾(ほこ)も棒も槍も、すべて毛に吸い取られるだけで役に立たない。武器をすべてなくした王子は、こぶしを上げて打ち、足を上げて蹴ったが、こぶしも足もみな毛に吸いつけられて、王子の身は脂毛の身にくっついて宙に浮いたままである。頭で脂毛の胸を打っても、頭もまた胸の毛について離れない。脂毛は、「もうおまえはわしの手の中にある。これからおまえを餌食にする。」と言うと、王子は笑って、「おまえはわたしの武器がすべて尽きたように思うかも知れないが、まだわたしには金剛の武器が残っている。おまえがもしわたしをのめば、わたしの武器はおまえの腹の中からおまえを突き破るであろう。」と答えた。そこで脂毛は王子の勇気にくじけて尋ねた。「どうしてそんなことができるのか。」 「真理の力によって。」と王子は答えた。そこで脂毛は王子を離し、かえって王子の教えを受けて、悪事から遠ざかるようになった。
境遇によって心を動かされるな(物語)
昔、ある金持ちの女主人がいた。親切で、しとやかで、謙遜であったため、まことに評判のよい人であった。その家にひとりの使用人がいて、これも利口でよく働く人であった。あるとき、その使用人がこう考えた。「うちの主人は、まことに評判のよい人であるが、腹からそういう人なのか、または、よい環境がそうさせているのか、一つ試してみよう。」 そこで、使用人は、次の日、なかなか起きず、昼ごろにようやく顔を見せた。女主人はきげんを悪くして、「なぜこんなに遅いのか。」ととがめた。「一日や二日遅くても、そうぶりぶり怒るものではありません。」とことばを返すと、女主人は怒った。使用人はさらに次の日も遅く起きた。女主人は怒り、棒で打った。このことが知れわたり、女主人はそれまでのよい評判を失った。
真理を求めている人は灯火を持って暗室に入るようなものである
道を行うものは、例えば、灯火(ともしび)をかかげて、暗黒の部屋に入るようなものである。闇はたちまち去り、明るさに満たされる。道を学んで、明らかにこの四つの聖い真理を知れば、智慧(ちえ)の灯火を得て、無知の闇は滅びる。
人生いたるところに教えあり(物語)
昔、スダナ(善財)という童子があった。この童子もまた、ただひたすらに道を求め、さとりを願う者であった。海で魚をとる漁師を訪れては、海の不思議から得た教えを聞いた。人の病を診る医師からは、人に対する心は慈悲(じひ)でなければならないことを学んだ。また、財産を多く持つ長者に会っては、あらゆるものはみなそれなりの価値をそなえているということを聞いた。また坐禅する出家を訪れては、その寂(しず)かな心が姿に現われて、人びとの心を清め、不思議な力を与えるのを見た。また気高い心の婦人に会ってはその奉仕の精神にうたれ、身を粉にして骨を砕いて道を求める行者にめぐり会っては、真実に道を求めるためには、刃の山にも登り、火の中でもかき分けてゆかなければならないことを知った。このように童子は、心さえあれば、目の見るところ、耳の聞くところ、みなことごとく教えであることを知った。かよわい女にもさとりの心があり、街に遊ぶ子供の群れにもまことの世界のあることを見、すなおな、やさしい人に会っては、ものに従う心の明らかな智慧(ちえ)をさとった。香をたく道にも仏の教えがあり、華(はな)を飾る道にもさとりのことばがあった。ある日、林の中で休んでいたときに、彼は朽(く)ちた木から一本の若木が生えているのを見て生命の無常を教わった。昼の太陽の輝き、夜の星のまたたき、これらのものも善財童子のさとりを求める心を教えの雨でうるおした。童子はいたるところで道を問い、いたるところでことばを聞き、いたるところでさとりの姿を見つけた。まことに、さとりを求めるには、心の城を守り、心の城を飾らなければならない。そして敬􄼲(けいけん)に、この心の城の門を開いて、その奥に仏をまつり、信心の華を供え、歓喜(かんぎ)の香を捧げなければならないことを童子は学んだのである。
人は心の動くままにあやつられて動きがちである
人の心は、ともすればその思い求める方へと傾く。貪りを思えば貪りの心が起こる。瞋(いか)りを思えば瞋りの心が強くなる。愚かなことを思えば愚かな心が多くなる。牛を飼う人は、秋のとり入れ時になると、放してある牛を集めて牛小屋に閉じこめる。これは牛が穀物を荒して抗議を受けたり、または殺されたりすることを防ぐのである。人もそのように、よくないことから起こる災いを見て、心を閉じこめ、悪い思いを破り捨てなければならない。貪(むさぼ)りと瞋(いか)りと損なう心を砕いて、貪らず、瞋らず、損なわない心を育てなければならない。牛を飼う人は、春になって野原の草が芽をふき始めると牛を放す。しかし、その牛の群れの行方を見守り、その居所に注意を怠らない。人もまた、これと同じように、自分の心がどのように動いているか、その行方を見守り、行方を見失わないようにしなければならない。
心の有様(たとえ話)
その方法は一つではない。例えば、蛇と鰐(わに)と鳥と犬と狐と猿と、その習性を別にする六種の生きものを捕らえて強いなわで縛り、そのなわを結び合わせて放つとする。このとき、この六種の生きものは、それぞれの習性に従って、おのおのその住みかに帰ろうとする。蛇は塚に、鰐は水に、鳥は空に、犬は村に、狐は野に、猿は森に。このためにお互いに争い、力のまさったものの方へ、引きずられていく。ちょうどこのたとえのように、人びとは眼に見たもの、耳に聞いた声、鼻にかいだ香り、舌に味わった味、身に触れた感じ、及び、意(こころ)に思ったもののために引きずられ、その中の誘惑のもっとも強いものの方に引きずられてその支配を受ける。またもし、この六種の生きものを、それぞれなわで縛り、それを丈夫な大きな柱に縛りつけておくとする。はじめの間は、生きものたちはそれぞれの住みかに帰ろうとするが、ついには力尽き、その柱のかたわらに疲れて横たわる。これと同じように、もし、人がその心を修め、その心を鍛練しておけば、他の五欲に引かれることはない。もし心が制御されているならば、人びとは、現在においても未来においても幸福を得るであろう。
心は「我」ではない
もしも、心に実体があるならば、かくあれ、かくあることなかれ、と思って、そのとおりにできるはずであるのに、心は欲しないのに悪を思い、願わないのに善から遠ざかり、一つとして自分の思うようにはならない。
自己の心にうち克て
「わが心よ、おまえはどうして、無益な境地に進んで少しの落着きもなく、そわそわとして静かでないのか。どうしてわたしを迷わせて、いたずらに、ものを集めさせるのか。大地を耕そうとして、鍬(くわ)がまだ大地に触れないうちにこわれてしまっては耕すことができないように、生死(しょうじ)の迷いの海にさまよっていたので、数知れない生命を捨てたのに、心の大地の耕されることはなかった。心よ、おまえはわたしを王者に生まれさせたこともある。また貧しい者に生まれさせて、あちこちに食を乞(こ)い歩かせたこともある。ときにはわたしを神々の国に生まれさせ、栄華の夢に酔わせたこともあるが、また地獄の火で焼かせたこともある。愚かな心よ、おまえはわたしをさまざまな道に導いた。わたしはこれまで、常におまえに従ってそむくことはなかった。しかし、いまやわたしは仏の教えを聞く身となった。もはやわたしを悩ましたり、妨げたりしないでくれ。どうかわたしが、さまざまな苦しみから離れて、速やかにさとりを得られるように努めてくれ。心よ、おまえが、すべてのものはみな実体がなくうつり変わると知って、執着(しゅうじゃく)することなく、何ものもわがものと思うことがなく、貪(むさぼ)り、瞋(いか)り、愚かさを離れさえすれば、安らかになるのである。智慧(ちえ)の剣をもって愛欲の蔓(つる)を断ち、利害と損得と、たたえとそしりとにわずらわされることがなくなれば、安らかな日を得ることができるのである。心よ、おまえは、わたしを導いて道を求めることを思い立たせた。ところがいま、どうしてまたふたたび、この世の利欲と栄華にひかれて、動き回ろうとするのであるか。形がなくて、どこまでも遠く駆けてゆく心よ。どうか、この超え難い迷いの海を渡らせてくれ。これまでわたしは、おまえの思うとおりに動いてきた。しかし、これからは、おまえはわたしの思うとおりに動かなければならない。我らはともに仏の教えに従おう。心よ、山も川も海も、すべてはみなうつり変わり、災いに満ちている。この世のどこに楽しみを求めることができようか。教えに従って、速やかにさとりの岸に渡ろうではないか。」
心の主(あるじ)となれ
教えのかなめは心を修めることにある。だから、欲をおさえておのれに克(か)つことに努めなければならない。身を正し、心を正し、ことばをまことあるものにしなければならない。貪(むさぼ)ることをやめ、怒りをなくし、悪を遠ざけ、常に無常(むじょう)を忘れてはならない。もし心が邪悪に引かれ、欲にとらわれようとするなら、これをおさえなければならない。心に従わず、心の主(あるじ)となれ。心は人を仏にし、また、畜生にする。迷って鬼となり、さとって仏と成るのもみな、この心のしわざである。だから、よく心を正しくし、道に外れないよう努めるがよい。
言葉と心
すべてことばには、時にかなったことばとかなわないことば、事実にかなったことばとかなわないことば、柔らかなことばと粗いことば、有益なことばと有害なことば、慈(いつく)しみあることばと憎しみのあることば、この五対(つい)がある。この五対のいずれによって話しかけられても、「わたしの心は変わらない。粗いことばはわたしの口から漏れない。同情と哀れみとによって慈しみの思いを心にたくわえ、怒りや憎しみの心を起こさないように。」と努めなければならない。
この身は借り物にすぎない(物語)
ひとりの人が旅をして、ある夜、ただひとりでさびしい空き家に宿をとった。すると真夜中になって、一匹の鬼が人の死骸をかついで入ってきて、床の上にそれを降ろした。間もなく、後からもう一匹の鬼が追って来て、「これはわたしのものだ。」と言い出したので、激しい争いが起こった。すると、前の鬼が後の鬼に言うには、「こうして、おまえと争っていても果てしがない。証人を立てて所有をきめよう。」 後の鬼もこの申し出を承知したので、前の鬼は、先ほどからすみに隠れて小さくなって震えていた男を引き出して、どちらが先にかついで来たかを言ってくれと頼んだ。男はもう絶体絶命である。どちらの鬼に味方しても、もう一方の鬼に恨まれて殺されることはきまっているから、決心して正直に自分の見ていたとおりを話した。案の定、一方の鬼は大いに怒ってその男の手をもぎ取った。これを見た前の鬼は、すぐ死骸(しがい)の手を取って来て補った。後の鬼はますます怒ってさらに手を抜き足を取り、胴を取り去り、とうとう頭まで取ってしまった。前の鬼は次々に、死体の手、足、胴、頭を取って、みなこれを補ってしまった。こうして二匹の鬼は争いをやめ、あたりに散らばった手足を食べて満腹し、口をぬぐって立ち去った。男はさびしい小屋で恐ろしい目にあい、親からもらった手も足も胴も頭も、鬼に食べられ、いまや自分の手も足も胴も頭も、見も知らぬ死体のものである。一体、自分は自分なのか自分ではないのか、まったくわからなくなった男は、夜明けに、空き家を立ち去ったが、途中で寺を見つけて喜び勇み、その寺に入って、昨夜の恐ろしいできごとをすべて話し、教えを請うたのである。人びとは、この話の中に、無我(むが)の理(ことわり)を感得し、まことに尊い感じを得た。
身・口・意の三つを清く保て
道を求めるものは、常に身と口と意(こころ)の三つの行いを清めることを心がけなければならない。身の行いを清めるとは、生きるものを殺さず、盗みをせず、よこしまな愛欲を犯さないことである。口の行いを清めるとは、偽りを言わず、悪口を言わず、二枚舌を使わず、むだ口をたたかないことである。意の行いを清めるとは、貪(むさぼ)らず、瞋(いか)らず、よこしまな見方をしないことである。心が濁(にご)れば行いが汚れ、行いが汚れると、苦しみを避けることができない。だから、心を清め、行いを慎(つつし)むことが道のかなめである。
かたよらずに励め(物語)
世尊(せそん)の弟子シュローナは富豪の家に生まれ、生まれつき体が弱かった。世尊にめぐり会ってその弟子となり、足の裏から血を出すほど痛々しい努力を続け、道を修めたけれども、なおさとりを得ることができなかった。世尊はシュローナを哀(あわ)れんで言われた。「シュローナよ、おまえは家にいたとき、琴を学んだことがあるであろう。糸は張ること急であっても、また緩(ゆる)くても、よい音は出ない。緩急(かんきゅう)よろしきを得て、はじめてよい音を出すものである。さとりを得る道もこれと同じく、怠(おこた)れば道を得られず、またあまり張りつめて努力しても、決して道は得られない。だから、人はその努力についても、よくその程度を考えなければならない。」 この教えを受けて、シュローナはよく会得し、やがてさとりを得ることができた。 
悩みについて 

 

「仏教聖典」は、より多くの人に触れていただきたいとの願いから、やさしくわかりやすい言葉を用いて編集しております。ここでは、私たちにとって身近な問題を通じて、仏教の教えに出会っていただけるように、『和英対照仏教聖典』の言葉から抜粋して、ご紹介いたします。
悩みは執らわれの心から起こる
それでは、人びとの憂(うれ)い、悲しみ、苦しみ、もだえは、どうして起こるのか。つまりそれは、人に執着(しゅうじゃく)があるからである。富に執着し、名誉利欲に執着し、悦楽に執着し、自分自身に執着する。この執着から苦しみ悩みが生まれる。初めから、この世界にはいろいろの災いがあり、そのうえ、老いと病と死とを避けることができないから、悲しみや苦しみがある。
迷いはさとりの入口である
迷いがあるからさとりというのであって、迷いがなくなればさとりもなくなる。迷いを離れてさとりはなく、さとりを離れて迷いはない。 ・・・ だから、さとりのあるのはなお障(さまた)げとなる。闇があるから照らすということがあり、闇がなくなれば照らすということもなくなる。照らすことと照らされるものと、ともになくなってしまうのである。まことに、道を修めるものは、さとってさとりにとどまらない。さとりのあるのはなお迷いだからである。この境地に至れば、すべては、迷いのままにさとりであり、闇のままに光である。すべての煩悩(ぼんのう)がそのままさとりであるところまで、さとりきらなければならない。
迷いからのがれる道
人には、迷いと苦しみのもとである煩悩(ぼんのう)がある。この煩悩のきずなから逃れるには五つの方法がある。第一には、ものの見方を正しくして、その原因と結果とをよくわきまえる。すべての苦しみのもとは、心の中の煩悩であるから、その煩悩がなくなれば、苦しみのない境地が現われることを正しく知るのである。見方を誤るから、我(が)という考えや、原因・結果の法則を無視する考えが起こり、この間違った考えにとらわれて煩悩を起こし、迷い苦しむようになる。第二には、欲をおさえしずめることによって煩悩をしずめる。明らかな心によって、眼・耳・鼻・舌・身・意(こころ)の六つに起こる欲をおさえしずめて、煩悩の起こる根元を断ち切る。第三には、物を用いるに当たって、考えを正しくする。着物や食物を用いるのは享楽のためとは考えない。着物は暑さや寒さを防ぎ羞恥を包むためであり、食物は道を修めるもととなる身体を養うためにあると考える。この正しい考えのために、煩悩は起こることができなくなる。第四には、何ごとも耐え忍ぶことである。暑さ・寒さ・飢え・渇きを耐え忍び、ののしりや謗りを受けても耐え忍ぶことによって、自分の身を焼き滅ぼす煩悩の火は燃え立たなくなる。第五には、危険から遠ざかることである。賢い人が、荒馬や狂犬の危険に近づかないように、行ってはならない所、交わってはならない友は遠ざける。このようにすれば煩悩の炎は消え去るのである。
愛欲こそ迷いのもと
愛欲は煩悩(ぼんのう)の王、さまざまの煩悩がこれにつき従う。愛欲は煩悩の芽をふく湿地、さまざまな煩悩を生ずる。愛欲は善を食う悪鬼(あっき)、あらゆる善を滅ぼす。愛欲は花に隠れ住む毒蛇(どくじゃ)、欲の花を貪(むさぼ)るものに毒を刺して殺す。愛欲は木を枯らすつる草、人の心に巻きつき、人の心の中の善のしるを吸い尽くす。愛欲は悪魔の投げた餌、人はこれにつられて悪魔の道に沈む。飢えた犬に血を塗った乾いた骨を与えると、犬はその骨にしゃぶりつき、ただ疲れと悩みとを得るだけである。愛欲が人の心を養わないのは、まったくこれと同じである。一切れの肉を争って獣は互いに傷つく。たいまつを持って風に向かう愚かな人は、ついにおのれ自身を焼く。この獣のように、また、この愚かな人のように、人は欲のためにおのれの身を傷つけ、その身を焼く。
欲望は過ちのもと
多くの人は、その肉体の好ましさに心ひかれて、これにおぼれ、その結果として起こる災いを見ない。これはちょうど、森の鹿が猟師のわなにかかって捕らえられるように、悪魔のしかけたわなにかかったのである。まことにこの五欲はわなであり、人びとはこれにかかって煩悩(ぼんのう)を起こし、苦しみを生む。だから、この五欲の災いを見て、そのわなから免れる道を知らなければならない。
この世は火中にあり
まことに、この世は、さまざまの火に焼かれている。貪りの火、瞋(いか)りの火、愚かさの火、生・老・病・死の火、憂(うれ)い・悲しみ・苦しみ・悶(もだ)えの火、さまざまの火によって炎炎と燃えあがっている。これらの煩悩(ぼんのう)の火はおのれを焼くばかりでなく、他をも苦しめ、人を身(しん)・口(く)・意(い)の三つの悪い行為に導くことになる。しかも、これらの火によってできた傷口のうみは触れたものを毒し、悪道に陥れる。
人は名利に自らを焼く
人びとは欲の火の燃えるままに、はなやかな名声を求める。それはちょうど香(こう)が薫(かお)りつつ自らを焼いて消えてゆくようなものである。いたずらに名声を求め、名誉を貪(むさぼ)って、道を求めることを知らないならば、身はあやうく、心は悔いにさいなまれるであろう。
財色の貪りによって人は身を滅ぼす
名誉と財と色香(いろか)とを貪り求めることは、ちょうど、子供が刃に塗られた蜜をなめるようなものである。甘さを味わっているうちに、舌を切る危険をおかすこととなる。
賢い者と愚かな者の特質
悪人と善人の特質はそれぞれ違っている。悪人の特質は、罪を知らず、それをやめようとせず、罪を知らされるのをいやがる。善人の特質は、善悪を知り、悪であることを知ればすぐやめ、悪を知らせてくれる人に感謝する。このように、善人と悪人とは違っている。愚かな人とは自分に示された他人の親切に感謝できない人である。一方賢い人とは常に感謝の気持ちを持ち、直接自分に親切にしてくれた人だけではなく、すべての人に対して思いやりを持つことによって、感謝の気持ちを表わそうとする人である。
愚者は結果だけを見て、他人をうらやむ(たとえ話)
金持ちではあるが愚かな人がいた。他人の家の三階づくりの高層が高くそびえて、美しいのを見てうらやましく思い、自分も金持ちなのだから、高層の家を造ろうと思った。大工を呼んで建築を言いつけた。大工は承知して、まず基礎を作り、二階を組み、それから三階に進もうとした。主人はこれを見て、もどかしそうに叫んだ。「わたしの求めるのは土台ではない、一階でもない、二階でもない、三階の高楼(たかどの)だけだ。早くそれを作れ。」と。愚かな者は、努め励むことを知らないで、ただ良い結果だけを求める。しかし、土台のない三階はあり得ないように、努め励むことなくして、良い結果を得られるはずがない。
愚者にありがちなこと(たとえ話)
ある男が墓場の近くに住んでいた。ある夜、墓場の中から、しきりに自分を呼ぶ声がするので、恐れ震え上がっていた。夜が明けてから、彼がそのことを友に話すと、友の中で勇気のある者が、次の夜にも呼ぶ声がしたら、その声をたずねて、そのもとをつきとめてみようと決心した。次の夜も、前夜のように、しきりに呼ぶ声がする。呼ばれた男はおびえて震えていたが、勇気のある男は、その声をたよりに墓場に入り、声の出る場所をたずねて、おまえはだれかと聞いた。すると、地の中から声がして、「わたしは、地の中に隠されている宝である。わたしは、わたしの呼んだ男にわたしを与えようと思うが、彼は恐れて来ない。おまえは勇気があるからわたしを取るにふさわしい。あすの朝、わたしは七人の従者とともにおまえの家に行くであろう。」と言った。その男はこのことばを聞いて、「わたしの家へ来るなら待っているが、どのようにもてなしたらよいのか。」と尋ねる。声は答えた。「わたしどもは出家(しゅっけ)の姿で行くから、まず体を清め、部屋を清めて、水を用意し、八つの器にかゆを盛って待つがよい。食事が終わったら、ひとりひとり導いて、すみに囲った部屋の中に入れれば、わたしどもはそのまま黄金のつぼになるだろう。」と。あくる朝、この男は、体を清め、家を清めて待っていると、はたして八人の出家が托鉢(たくはつ)にやって来た。部屋に通して、水とかゆとを供養(くよう)し、終わってからひとりひとりをすみに囲った部屋に導いた。すると、八人が八人とも、黄金のいっぱい入ったつぼに変わってしまった。このことを聞いた欲深い男が、自分も黄金のつぼが欲しいと思い、同じように部屋を清めて托鉢の出家を八人招いて供養し、食事の後、すみの部屋に閉じこめた。しかし八人の出家は黄金のつぼになるどころではなく、怒って暴れ出し、その男はついに訴えられ、捕らえられた。はじめに名を呼ばれておびえていた臆病な男も、呼んだ声が黄金のつぼであると知ると、これも欲を起こし、あの声はもともと自分を呼んだのだから、あのつぼは自分のものだと言いはり、その家へ入ってつぼを取ろうとすると、つぼの中には蛇がいっぱいいて、首をもたげてその男に向かっていった。その国の王はこれを聞いて、黄金のつぼはみな、この勇気のある男のものであるとして、「世の中のことは何ごともこのとおりであって、愚かな者はただその果報だけを望むが、それはそれだけで得られるものではない。ちょうどそれは、うわべだけ戒(かい)を保っていても、心の中にまことの信心がなければ決して真の安らぎは得られないのと同じである。」と諭した。 
日常生活について 

 

「仏教聖典」は、より多くの人に触れていただきたいとの願いから、やさしくわかりやすい言葉を用いて編集しております。ここでは、私たちにとって身近な問題を通じて、仏教の教えに出会っていただけるように、『和英対照仏教聖典』の言葉から抜粋して、ご紹介いたします。
施して施しの思いを忘れよ
施した後で悔いたり、施して誇りがましく思うのは、最上の施しではない。施して喜び、施した自分と、施しを受けた人と、施した物と、この三つをともに忘れるのが最上の施しである。
無財の七施
世に無財(むざい)の七施(しちせ)とよばれるものがある。財なき者にもなし得る七種の布施行のことである。一には、身施(しんせ)、肉体による奉仕であり、その最高なるものが次項に述べる捨身行(しゃしんぎょう)である。二には心施(しんせ)、他人や他の存在に対する思いやりの心である。三には眼施(げんせ)、やさしきまなざしであり、そこに居るすべての人の心がなごやかになる。四には和顔施(わげんせ)、柔和な笑顔を絶やさないことである。五には言施(ごんせ)、思いやりのこもったあたたかい言葉をかけることである。六には牀座施(しょうざせ)、自分の席をゆずることである。七には房舎施(ぼうしゃせ)、わが家を一夜の宿に貸すことである。以上の七施ならば、だれにでも出来ることであり、日常生活の中で行えることばかりなのである。
富を得る方法(物語)
昔、貧しい絵かきがいた。妻を故郷に残して旅に出、三年の間苦労して多くの金を得た。いよいよ、故郷に帰ろうとしたところ、途中で、多くの僧に供養(くよう)する儀式の行われているのを見た。彼は大いに喜び、「わたしはまだ福の種をまいたことがない。いまこの福の種をまく田地に会って、どうしてこのまま見過ごすことができようができよう。」と、惜しげもなく、その多くの金を投げ出して、供養し終えて家に帰った。空手で帰った夫を見た妻は、大いに怒ってなじり問いつめたが、夫は、財物はみな堅固な蔵の中にたくわえておいたと答えた。その蔵とは何かと聞くと、それは尊い教団のことであると答えた。腹を立てた妻はこのことをその筋に訴え、絵かきはとり調べを受けることになった。彼は次のように答えた。「わたしは貴い努力によって得た財物をつまらなく費やしたのではない。わたしはいままで福の種を植えることを知らないで過ごしてきたが、福の種をまく田地というべき供養の機会を見て信仰心が起き、もの惜しみの心を捨てて施したのである。まことの富とは財物ではなく、心であることを知ったから。」 役人は絵かきの心をほめたたえ、多くの人びともこれを聞いて心をうたれた。それ以来、彼の信用は高まり、絵かき夫婦はこれによって、大きな富を得るようになった。
幸福を生む方法
人は利己的な心を捨てて、他人を助ける努力をすべきである。他人が施すのを見れば、その人はさらに別の人を幸せにし、幸福はそこから生まれる。一つのたいまつから何千人の人が火を取っても、そのたいまつはもとのとおりであるように、幸福はいくら分け与えても、減るということがない。
恩を忘れるな(物語)
ヒマーラヤ山のふもとの、ある竹やぶに、多くの鳥や獣と一緒に、一羽のおうむが住んでいた。あるとき、にわかに大風が起こり、竹と竹とが擦れあって火が起こった。火は風にあおられて、ついに大火となり、鳥も獣も逃げ場を失って鳴き叫んだ。おうむは、一つには、長い間住居を与えてくれた竹やぶの恩に報いるために、一つには、大勢の鳥や獣の災難を哀れんで、彼らを救うために、近くの池に入っては翼を水に浸し、空にかけのぼっては滴を燃えさかる火の上にそそぎかけ、竹やぶの恩を思う心と、限りない慈愛の心で、たゆまずにこれを続けた。慈悲と献身の心は天界の梵天を感動させた。梵天(ぼんてん)は空から下って来ておうむに語った。「おまえの心はけなげであるが、この大いなる火を、どうして羽の滴で消すことができよう。」おうむは答えて言う。「恩を思う心と慈悲の心からしていることが、できないはずはない。わたしはどうしてもやる。次の生に及んでもやりとおす。」と。梵天はおうむの偉大な志にうたれ、力を合わせてこのやぶの火を消し止めた。
人の性格
この世には三種の人がある。岩に刻んだ文字のような人と、砂に書いた文字のような人と、水に書いた文字のような人である。岩に刻んだ文字のような人とは、しばしば腹を立てて、その怒りを長く続け、怒りが、刻み込んだ文字のように消えることのない人をいう。砂に書いた文字のような人とは、しばしば腹を立てるが、その怒りが、砂に書いた文字のように、速やかに消え去る人を指す。水に書いた文字のような人とは、水の上に文字を書いても、流れて形にならないように、他人の悪口や不快なことばを聞いても、少しも心に跡を留めることもなく、温和な気の満ちている人のことをいう。 ・・・ また、ほかにも三種類の人がある。第一の人は、その性質がわかりやすく、心高ぶり、かるはずみであって、常に落ち着きのない人である。第二の人は、その性質がわかりにくく、静かにへりくだって、ものごとに注意深く、欲を忍ぶ人である。第三の人は、その性質がまったくわかりにくく、自分の煩悩(ぼんのう)を滅ぼし尽くした人のことである。このように、さまざまに人を区別することができるが、その実、人の性質は容易に知ることはできない。ただ、仏だけがこれらの性質を知りぬいて、さまざまに教えを示す。
仕返しを願うものには災いがつきまとうものである
人が心に思うところを動作に表わすとき、常にそこには反作用が起こる。人はののしられると、言い返したり、仕返ししたくなるものである。人はこの反作用に用心しなくてはならない。それは風に向かって唾(つばき)するようなものである。それは他人を傷つけず、かえって自分を傷つける。それは風に向かってちりを掃くようなものである。それはちりを除くことにならず、自分を汚すことになる。仕返しの心には常に災いがつきまとうものである。
怨みを静める方法(物語)
昔、長災王(ちょうさいおう)という王があった。隣国の兵を好むブラフマダッタ王に国を奪われ、妃と王子とともに隠れているうちに、敵に捕らえられたが、王子だけは幸いにして逃れることができた。王が刑場の露と消える日、王子は父の命を救う機会をねらったが、ついにその折もなく、無念に泣いて父の哀れな姿を見守っていた。王は王子を見つけて、「長く見てはならない。短く急いではならない。恨みは恨みなきによってのみ静まるものである。」と、ひとり言のようにつぶやいた。この後王子は、ただいちずに復讐の道をたどった。機会を得て王家にやとわれ、王に接近してその信任を得るに至った。ある日、王は猟に出たが、王子は今日こそ目的を果たさなければならないと、ひそかにはかって王を軍勢から引き離し、ただひとり王について山中を駆け回った。王はまったく疲れはてて、信任しているこの青年のひざをまくらに、しばしまどろんだ。いまこそ時が来たと、王子は刀を抜いて王の首に当てたが、その刹那(せつな)父の臨終(りんじゅう)のことばが思い出されて、いくたびか刺そうとしたが刺せずにいるうちに、突然王は目を覚まし、いま長災王の王子に首を刺されようとしている恐ろしい夢を見たと言う。王子は王を押さえて刀を振りあげ、今こそ長年の恨みを晴らす時が来たと言って名のりをあげたが、またすぐ刀を捨てて王の前にひざまずいた。王は長災王の臨終(りんじゅう)のことばを聞いて大いに感動し、ここに互いに罪をわびて許しあい、王子にはもとの国を返すことになり、その後長く両国は親睦を続けた。ここに「長く見てはならない。」というのは、恨みを長く続かせるなということである。「短く急いではならない。」というのは、友情を破るのに急ぐなということである。恨みはもとより恨みによって静まるものではなく、恨みを忘れることによってのみ静まる。
人のそしりに動かされるな(物語)
釈尊(しゃくそん)がコーサンビーの町に滞在していたとき、釈尊に怨みを抱く者が町の悪者を買収し、釈尊の悪口を言わせた。釈尊の弟子たちは、町に入って托鉢(たくはつ)しても一物も得られず、ただそしりの声を聞くだけであった。そのときアーナンダは釈尊にこう言った。「世尊(せそん)よ、このような町に滞在することはありません。他にもっとよい町があると思います。」「アーナンダよ、次の町もこのようであったらどうするのか。」 「世尊よ、また他の町へ移ります。」 「アーナンダよ、それではどこまで行ってもきりがない。わたしはそしりを受けたときには、じっとそれに耐え、そしりの終わるのを待って、他へ移るのがよいと思う。アーナンダよ、仏は、利益・害・中傷・ほまれ・たたえ・そしり・苦しみ・楽しみという、この世の八つのことによって動かされることがない。こういったことは、間もなく過ぎ去るであろう。」
衣・食・住のために生きているのではない
食物をとるにも楽しみのためにせず、身をささえ養って教えを受け、または説くためにしなければならない。家に住むにも同じく、身のためにし、虚栄のためにしてはならない。さとりの家に住み、煩悩(ぼんのう)の賊を防ぎ、誤った教えの風雨を避けるためと、思わなければならない。
食事の心得
おいしい食物を得ては、節約を知り、欲を少なくして執着を離れようと願い、まずい食物を得ては、永く世間の欲を遠ざけようと願うがよい。また夏の暑さの激しいときには、煩悩(ぼんのう)の熱を離れて涼しいさとりの味わいを得たいと願い、冬の寒さの激しいときには、仏の大悲の温かさを願うがよい。
寝る時の心得
夜眠るときには、身と口と意(こころ)のはたらきを休めて心を清めようと願い、朝目覚めては、すべてをさとって、何ごとにも気のつくようになろうと願うがよい。
寒さ、暑さに対する心得
夏の暑さの激しいときには、煩悩の熱を離れて涼しいさとりの味わいを得たいと願い、冬の寒さの激しいときには、仏の大悲の温かさを願うがよい。 
家庭について 

 

「仏教聖典」は、より多くの人に触れていただきたいとの願いから、やさしくわかりやすい言葉を用いて編集しております。ここでは、私たちにとって身近な問題を通じて、仏教の教えに出会っていただけるように、『和英対照仏教聖典』の言葉から抜粋して、ご紹介いたします。
家庭は心の触れあうところ
家庭は心と心がもっとも近く触れあって住むところであるから、むつみあえば花園のように美しいが、もし心と心の調和を失うと、激しい波風を起こして、破滅をもたらすものである。この場合、他人のことは言わず、まず自ら自分の心を守ってふむべき道を正しくふんでいなければならない。
家庭を破る行い
家や財産を傾ける六つの門とは、酒を飲んでふまじめになること、夜ふかしして遊びまわること、音楽や芝居におぼれること、賭事にふけること、悪い友だちと交わること、それに仕事を怠けることである。
父母の大恩に報いる道
もし父母を導いて仏の教えを信じさせ、誤った道を捨てて正しい道にかえらせ、貪(むさぼ)りを捨てて施しを喜ぶようにすることができれば、はじめてその大恩に報いることができるのである。あるいはむしろ、それ以上であるとさえいえよう。
親子の道
東方の親子の道とは、子は父母に対して五つのことをする。父母を養い、父母のために働き、家系を守り、家督を相続し、祖先に対して供物を捧げることである。これに対して、親は子に五つのことをする。それは悪を遠ざけ、善をすすめ、知恵・技能を学ばせ、結婚させ、適当な時期に家督を譲ることである。互いにこの五つを守れば、東方の親子の道は平和であり、憂いがない。
夫婦の道
西方の夫婦の道とは、夫は妻に対し、尊敬と、礼節と、貞操とをもって接し、権威をゆだね、装飾品を贈る。妻は夫に対し、すべての仕事をよく処理し、親族たちを適切に待遇し、貞操を保ち、家の財産を守り、家庭がうまくいくようにする。これによって西方の夫婦の道は平和であり、憂いがない。
夫婦は信仰を同じくせよ(物語)
夫婦の道は、ただ都合によって一緒になったのではなく、また肉体が一つ所に住むだけで果たされるものでもない。夫婦はともに、一つの教えによって心を養うようにしなければならない。かつて夫婦の鏡とほめたたえられたある老夫婦は、世尊(せそん)のところに赴いて、こう言った。「世尊よ、わたしどもは幼少のときから互いに知りあい、夫婦になったが、いままで心のどのすみにも、貞操のくもりを宿したことはない。この世において、このように夫婦として一生を過ごしたように、後の世にも、夫婦として相まみえることができるように教えて戴きたい。」 世尊は答えられた。「二人ともに信仰を同じくするがよい。一つの教えを受けて、同じように心を養い、同じように施しをし、智慧(ちえ)を同じくすれば、後の世にもまた、同じく一つの心で生きることができるであろう。」 
社会について 

 

「仏教聖典」は、より多くの人に触れていただきたいとの願いから、やさしくわかりやすい言葉を用いて編集しております。ここでは、私たちにとって身近な問題を通じて、仏教の教えに出会っていただけるように、『和英対照仏教聖典』の言葉から抜粋して、ご紹介いたします。
社会の意義
社会とは、そこにまことの智慧(ちえ)が輝いて、互いに知りあい信じあって、和合する団体のことである。まことに、和合が社会や団体の生命であり、また真の意味である。
社会の現実相
この世には五つの悪がある。一つには、あらゆる人から地に這う虫に至るまで、すべてみな互いにいがみあい、強いものは弱いものを倒し、弱いものは強いものを欺(あざむ)き、互いに傷つけあい、いがみあっている。二つには、親子、兄弟、夫婦、親族など、すべて、それぞれおのれの道がなく、守るところもない。ただ、おのれを中心にして欲をほしいままにし、互いに欺きあい、心と口とが別々になっていて誠がない。三つには、だれも彼もみなよこしまな思いを抱き、みだらな思いに心をこがし、男女の間に道がなく、そのために、徒党を組んで争い戦い、常に非道を重ねている。四つには、互いに善い行為をすることを考えず、ともに教えあって悪い行為をし、偽り、むだ口、悪口、二枚舌を使って、互いに傷つけあっている。ともに尊敬しあうことを知らないで、自分だけが尊い偉いものであるかのように考え、他人を傷つけて省みるところがない。五つには、すべてのものは怠りなまけて、善い行為をすることさえ知らず、恩も知らず、義務も知らず、ただ欲のままに動いて、他人に迷惑をかけ、ついには恐ろしい罪を犯すようになる。
社会集団の型
世の中には三とおりの団体がある。一つは、権力や財力のそなわった指導者がいるために集まった団体、二つは、ただ都合のために集まって、自分たちに都合よく争わなくてもよい間だけ続いている団体、三つは、教えを中心として和合を生命とする団体である。もとよりこの三種の団体のうち、まことの団体は第三の団体であって、この団体は、一つの心を心として生活し、その中からいろいろの功徳(くどく)を生んでくるから、そこには平和があり、喜びがあり、満足があり、幸福がある。
暗闇の野にさす光
広い暗黒の野原がある。何の光もささない。そこには無数の生物がうようよしている。しかも暗黒のために互いに知ることがなく、めいめいひとりぼっちで、さびしさにおののきながらうごめいている。いかにも哀れな有様である。そこへ急に光がさしてきた。すぐれた人が不意に現われ、手に大きなたいまつをふりかざしている。真暗闇の野原が一度に明るい野原となった。すると、今まで闇を探ってうごめいていた生物が立ち上がってあたりを見渡し、まわりに自分と同じものが沢山いることに気がつき、驚いて喜びの声をあげながら、互いに走り寄って抱きあい、にぎやかに語りあい喜びあった。いまこの野原というのは人生、暗黒というのは正しい智慧(ちえ)の光のないことである。心に智慧の光のないものは、互いに会っても知りあい和合することを知らないために、独り生まれ独り死ぬ。ひとりぼっちである。ただ意味もなく動き回り、さびしさにおののくことは当然である。「すぐれた人がたいまつをかかげて現われた。」とは、仏が智慧の光をかざして、人生に向かったことである。この光に照らされて、人びとは、はじめておのれを知ると同時に他人を見つけ、驚き喜んでここにはじめて和合の国が生まれる。
和合の人間関係
すべての心が水と乳とのように和合して、そこに美しい団体が生まれる。だから正しい教えは、実にこの地上に、美しいまことの団体を作り出す根本の力であって、それは先に言ったように、互いに見いだす光であるとともに、人びとの心の凹凸を平らにして、和合させる力でもある。
社会集団における和合の法
ここに教団和合の六つの原則がある。第一に、慈悲(じひ)のことばを語り、第二に、慈悲の行いをなし、第三に、慈悲の意(こころ)を守り、第四に、得たものは互いに分かちあい、第五に、同じ清らかな戒を保ち、第六に、互いに正しい見方を持つ。このうち、正しい見方が中心となって、他の五つを包むのである。
ねたみ、争う者は共に滅ぶ(たとえ話)
ある蛇の頭と尾とが、あるとき、お互いに前に出ようとして争った。尾が言うには、「頭よ、おまえはいつも前にあるが、それは正しいことではない。たまにはわたしを前にするがよい。」頭が言うには、「わたしがいつも前にあるのはきまったならわしである。おまえを前にすることはできない。」と。互いに争ったが、やはり頭が前にあるので、尾は怒って木に巻きついて頭が前へ進むことを許さず、頭がひるむすきに、木から離れて前へ進み、ついに火の穴へ落ち、焼けただれて死んだ。ものにはすべて順序があり、異なる働きがそなわっている。不平を並べてその順序を乱し、そのために、そのおのおのに与えられている働きを失うようになると、そのすべてが滅んでしまうのである。非常に気が早く怒りっぽい男がいた。その男の家の前で、二人の人がうわさをした。「ここの人は大変よい人だが、気の早いのと、怒りっぽいのが病である。」と。その男は、これを聞くとすぐ家を飛び出してきて、二人の人におそいかかり、打つ、ける、なぐるの乱暴をし、とうとう二人を傷つけてしまった。賢い人は、自分の過ちを忠告されると、反省してあらためるが、愚かな者は、自分の過ちを指摘されると、あらためるどころか、かえって過ちを重ねるものである。
老人を尊敬せよ(物語)
遠い昔、棄老国(きろうこく)と名づける、老人を棄てる国があった。その国の人びとは、だれしも老人になると、遠い野山に棄てられるのがおきてであった。その国の王に仕える大臣は、いかにおきてとはいえ、年老いた父を棄てることができず、深く大地に穴を掘ってそこに家を作り、そこに隠して孝養を尽くしていた。ところがここに一大事が起きた。それは神が現われて、王に向かって恐ろしい難問を投げつけたのである。「ここに二匹の蛇がいる。この蛇の雄・雌を見分ければよし、もしできないならば、この国を滅ぼしてしまう。」と。王はもとより、宮殿にいるだれひとりとして蛇の雄・雌を見分けられる者はいなかった。王はついに国中に布告して、見分け方を知っている者には、厚く賞を与えるであろうと告げさせた。かの大臣は家に帰り、ひそかに父に尋ねると、父はこう言った。「それは易しいことだ。柔らかい敷物の上に、その二匹の蛇を置くがよい。そのとき、騒がしく動くのは雄であり、動かないのが雌である。」 大臣は父の教えのとおり王に語り、それによって蛇の雄・雌を知ることができた。それから神は、次々にむずかしい問題を出した。王も家臣たちも、答えることができなかったが、大臣はひそかにその問題を父に尋ね、常に解くことができた。その問いと答えとは次のようなものであった。
「眠っているものに対しては覚めているといわれ、覚めているものに対しては眠っているといわれるのはだれであるか。」 「それは、いま道を修行している人のことである。道を知らない、眠っている人に対しては、その人は覚めているといわれる。すでに道をさとった、覚めている人に対しては、その人は眠っているといわれる。」 「大きな象の重さはどうして量るか。」 「象を舟に乗せ、舟が水中にどれだけ沈んだか印をしておく。次に象を降ろして、同じ深さになるまで石を載せその石の重さを量ればよい。」 「一すくいの水が大海の水より多いというのは、どんなことか。」 「清らかな心で一すくいの水を汲んで、父母や病人に施せば、その功徳(くどく)は永久に消えない。大海の水は多いといっても、ついに尽きるときがある。これをいうのである。」 次に神は、骨と皮ばかりにやせた、飢えた人を出して、その人にこう言わせた。「世の中に、わたしよりもっと飢えに苦しんでいるものがあるであろうか。」 「ある。世にもし、心がかたくなで貧しく仏法僧の三宝を信ぜず、父母や師匠に供養(くよう)をしないならば、その人の心は飢えきっているだけでなく、その報いとして、後の世には餓鬼道(がきどう)に落ち、長い間飢えに苦しまなければならない。」 「ここに真四角な栴檀(せんだん)の板がある。この板はどちらが根の方であったか。」 「水に浮かべてみると、根の方がいくらか深く沈む。それによって根の方を知ることができる。」 「ここに同じ姿・形の母子の馬がいる。どうしてその母子を見分けるか。」 「草を与えると、母馬は、必ず子馬の方へ草を押しつけ与えるから、直ちに見分けることができる。」 これらの難問に対する答えはことごとく神を喜ばせ、また王をも喜ばせた。そして王は、この智慧(ちえ)が、ひそかに穴蔵にかくまっていた大臣の老いた父から出たものであることを知り、それより、老人を棄てるおきてをやめて、年老いた人に孝養を尽くすようにと命ずるに至った。
師弟の道
南方の師弟の道とは、弟子は師に対し、座を立って迎え、よく近くで仕え、熱心に聴聞し、供養(くよう)を怠らず、慎んで教えを受ける。それと同時に、師はまた弟子に対して、自ら身を正して指導し、自ら学び得たところをすべて正しく授け、よく会得したことを忘れないようにさせ、引き立てて名を表わすようにし、どこにあっても利益と尊敬が受けられるようにする。こうして南方の師弟の道は平和であり、憂(うれ)いがない。
友人の道
北方の友人の道とは、相手の足らないものを施し、優しいことばで語り、利益をはかり、常に相手を思いやり、正直に対処する。また友人が悪い方に流れないように務め、万一そのような場合にはその財産を守ってやり、また心配のあるときには相談相手になり、逆境のときは助けの手をのばし、必要な場合にはその家族を養うこともする。このようにして北方の友人の道は平和であり、憂(うれ)いがない。
友を選ぶ法
人は親しむべき友と、親しむべきでない友とを、見分けなければならない。親しむべきでない友とは、貪(むさぼ)りの深い人、ことばの巧みな人、へつらう人、浪費する人である。親しむべき友とは、ほんとうに助けになる人、苦楽をともにする人、忠言を惜しまない人、同情心の深い人である。ふまじめにならないよう注意を与え、陰に回って心配をし、災難にあったときには慰め、必要なときに助力を惜しまず、秘密をあばかず、常に正しい方へ導いてくれる人は、親しみ仕えるべき友である。自らこのような友を得ることは容易ではないが、また、自分もこのような友になるように心がけなければならない。よい人は、その正しい行いゆえに、世間において、太陽のように輝く。
雇傭者と労働者の心得
下方の主従の道とは、主人は使用人に対して、次の五つを守る。その力に応じて仕事をさせる。よい食物と給与を与える。病気のときは親切に看病する。美味しいものは分かち与える。適当な時に休養させる。これに対して使用人は、主人に五つの心得をもって仕える。朝は主人よりも早く起き、夜は主人よりも遅く眠る。何ごとにも正直であり、仕事にはよく熟練する。そして主人の名誉を傷つけないよう心がける。こうして下方の主従の道は平和であり、憂(うれ)いがない。
教師の心得
またこの教えを説こうと思う者は、次の四つのことに心をとどめなければならない。第一にはその身の行いについて、第二にはそのことばについて、第三にはその願いについて、第四にはその大悲についてである。第一に、教えを説く者は、忍耐の大地に住し、柔和であって荒々しくなく、すべては空(くう)であって善悪のはからいを起こすべきものでもなく、また執着すべきものでもないと考え、ここに心のすわりを置いて、身の行いを柔らかにしなければならない。第二には、さまざまな境遇の相手に心をくばって、権勢ある者や邪悪な生活をする者に近づかないようにし、また異性に親しまない。静かなところにあって心を修め、すべては因縁(いんねん)によって起こる道理を考えてこれを心のすわりとし、他人を侮らず、軽んぜず、他人の過ちを説かないようにしなければならない。第三には、自分の心を安らかに保ち、仏に向かっては慈父の思いをなし、道を修める人に対しては師の思いをなし、すべての人びとに対しては大悲の思いを起こし、平等に教えを説かなければならない。第四には、仏と同様に慈悲(じひ)の心を最大に発揮し、道を求めることを知らない人びとには、必ず教えを聞くことができるようになってほしいと心に願い、その願いに従って努力しなければならない。  
キーワードで学ぶ仏教 

 

「仏教聖典」は、より多くの人に触れていただきたいとの願いから、やさしくわかりやすい言葉を用いて編集しております。ここでは、私たちにとって身近な問題を通じて、仏教の教えに出会っていただけるように、『和英対照仏教聖典』の言葉から抜粋して、ご紹介いたします。
因縁(いんねん)
因と縁とのことである。因とは結果を生じさせる直接的原因、縁とはそれを助ける外的条件である。あらゆるものは因縁によって生滅するので、このことを因縁所生(いんねんしょしょう)などという。この道理をすなおに受け入れることが、仏教に入る大切な条件とされている。世間では転用して、悪い意味に用いられることもあるが、本来の意味を逸脱(いつだつ)したものであるから、注意を要する。なお縁起という場合も、同様である。
廻向(えこう)
自分のなしたよい行為をふり向けることで、これに、自分自身の未来のさとりにふり向ける場合と、他の人びとにふり向ける場合とがある。現在一般に世間で使われているものは、「死んだ人が、この世でなした悪行の罪を消して、来世での良い結果を得るように」という願いをもって、葬式や法事の際の読経の功徳によって死者の冥福(めいふく)を祈念する、という形の廻向である。
縁起(えんぎ)
因縁生起の略である。あらゆる存在が互いに関係しあって生起することである。 仏教の教えの基本となる思想である。あらゆる存在のもちつもたれつの関係を認めるから、「お蔭(かげ)さまで」という感謝となり、報恩という奉仕も生まれてくる。この縁起思想は、さらに哲学的な展開を遂げ、煩瑣(はんさ)な組織をもつに至る。転じて寺院や仏像の由来や伝説を指したり、吉凶をかつぐのに用いられるようになったりするが、本来の意味を忘れてはならない。
教団(きょうだん)
同じ教えを奉じて集まった人びとの集団をいう。一般に、教義を説き教える聖職者層と、教えを受け入れる信者から構成される。仏教では古来、これをサンガと称した。しかし厳密には初期においては出家者教団を指したと思われる。後に大乗が興起すると、菩薩(ぼさつ)という人間像を目指して実践する人びとの集まりは、在家、出家の区別を超えて連帯した教団となったといわれる。組織としての教団は、現在では一宗一派についていわれている。
空(くう)
存在するものには、実体・我(が)がないと考える思想である。すべてのものは相縁(よ)り、相起こって存在するにすぎないから、実体として不変な自我がその中に存在する筈がない。したがって実体ありととらわれてはならないし、存在しないととらわれてもならないわけである。すべてのものは、人もその他の存在も相対的な関係にあり、一つの存在や主義にとらわれたり、絶対視したりしてはならない。般若経系統の思想の根本とされる。
解脱(げだつ)
文字どおりに、この輪廻転生(りんねてんしょう)する迷いの世界という縛(ばく)から解き離れて、涅槃(ねはん)とよばれるさとりの境地へと脱出することである。そして、この迷いの世界から脱出して、永遠にさとりの状態にとどまるものが、“仏陀(ぶっだ)” であり、そこでは一切の縛、すなわち煩悩(ぼんのう)から離れているので、自由自在なのである。
業(ごう)
本来の意味は行為ということであるが、因果関係と結合して、行為のもたらす結果としての潜在的な力とみなされている。つまりわれわれの行為は必ず善悪・苦楽の果報をもたらすから、その影響力が業と考えられるに至っている。善い行為を繰り返し、積み重ねれば、その影響力が未来に及んで作用すると考えられている。なお業には、身(しん)・口(く)・意(い)の三種の行為があるとされる。
慈悲(じひ)
仏教におけるもっとも基本的な倫理項目で、“慈” とは相手に楽しみを与えること、“悲” とは相手から苦しみを抜き去ることである。これを体得して、対象を差別せずに慈悲をかけるものが “覚者(かくしゃ)” すなわち仏であり、それを象徴的に表現したものが、観音・地蔵の両菩薩である。やさしくいうと、慈悲とは “相手と共に喜び、共に悲しんであげる” ということになる。
出家(しゅっけ)
家庭生活を捨離して、専ら道の修行を行うこと。またその実践者をいう。インドでは修道のために家庭を出て、宗教的実践の生活に入ることが、ごく普通のこととされていて、釈尊もそれに従って出家し、沙門 (バラモン以外の修行者)となり、遂に悟りを開いて仏陀(ぶっだ)となり、仏教の開祖となった。在家信者に対して、出家修行者をはっきり区別する仏教教団の伝統は、日本では厳格とはいい難い。
智慧(ちえ)
普通に使われている “知恵” とは区別して、わざわざ仏教では “般若(はんにゃ)” の漢訳としてこの言葉を用いているが、正邪を区別する正しい判断力のことで、これを完全に備えたものが “仏陀(ぶっだ)” である。単なる知識ではなく、あらゆる現象の背後に存在する真実の姿を見ぬくことのできるもので、これを得てさとりの境地に達するための実践を “般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)” という。
中道(ちゅうどう)
偏見を離れた中正の道をいう。仏教の立場を指していう。したがって仏教のそれぞれの流れでは、中道の思想は尊重され、高揚されてきた。中間の道という意味ではなく、とらわれを離れ、公平に現実を徹見する立場を形容していうわけだが、その内容は両極端を否定し、止揚する思想として表われてくる。例えば有・無の両極端、断・常の二見を否定する立場となる。一種の弁証法哲学といえないこともない。
涅槃(ねはん)
梵語(ぼんご・サンスクリット語)の “吹き消す” という意味の、ニルヴァーナという単語の漢音写で、“滅(めつ)”・“滅度(めつど)”・“寂滅(じゃくめつ)” などと訳される。丁度ローソクの火を吹き消すように、欲望の火を吹き消したものが到達する境地で、これに到達することを “入涅槃(にゅうねはん)” といい、達したものを “仏陀(ぶっだ)” とよぶ。釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)が亡くなった瞬間を“入涅槃” ということもあるが、肉体が滅びたときに完全に煩悩(ぼんのう)の火が消える、という考え方からで、普通は、三十五歳で仏になったときに “涅槃” の状態に達したと考えられている。
波羅蜜(はらみつ)
パーラミターという梵語の漢音写で、“度(ど)”とか“到彼岸(とうひがん)”と訳される。此(こ)の迷いの岸である現実の世界から彼(か)のさとりの岸である仏の世界へと渡してくれる実践行のことで、普通六波羅蜜(ろっぱらみつ)といって、六種類があげられる。六とは、布施(ほどこし)・持戒(どうとく)・忍辱(がまん)・精進(どりょく)・禅定(せいしんとういつ)・智慧(ただしいはんだん)のことで、日本では、春秋の“彼岸”とよばれる行事は、これらを実践するということから名づけられたのである。
仏(ほとけ)
梵語の “さとれるもの” という意味の単語を漢字に音写したものが “仏陀(ぶっだ)” で、その省略が “仏” であり、”ほとけ” とも読ませる。普通 “覚者(かくしゃ)”・“正覚者(しょうかくしゃ)” と漢訳され、もともとは、仏教の創始者である “釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ・ゴータマ・シッダールタ)” を指した。仏教の目的は、各人がこの “仏” の状態に到達することで、その手段や期間等の違いによって宗派が分かれている。大乗仏教の場合、歴史上の仏である釈迦牟尼仏の背後に、種々な永遠の仏の存在が説かれるようになる。例えば、阿弥陀仏・大日如来・毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)・薬師如来・久遠実成(くおんじつじょう)の釈迦牟尼仏といった仏が、各宗派の崇拝の対象とか教主として説かれている。なお日本では、死者のことを “ほとけ” とよぶが、これは浄土教の “往生成仏(おうじょうじょうぶつ)” 思想の影響で、死者が浄土に生まれ、そこで “仏” になるという信仰に由来する。
仏性(ぶっしょう)
“仏になる種子(たね)” といったもので、あらゆる存在にこれを認めるところに仏教の特徴がある。“覚(さと)りに達する潜在力・可能性” といってもよい。又、“仏心” といってもよいが、“一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)” という句にも表われているように、すべての存在に、差別しないでこの仏性を認めたところに、仏教の平等説の立場が見られる。この内在する仏性を外に現わしたものを “仏(ほとけ)” とよぶ。
法(ほう)
さとれるものである “仏陀(ぶっだ)” によって説かれた “真実の教え” ということで、その具体的な内容は、三蔵(さんぞう)とよばれる、経(仏の説かれた教え)・律(仏の定めた日常規則)・論(経と律とに対する解釈や注釈)の三種の聖典である。これは、覚者(かくしゃ)である “仏陀”・仏教徒の集まりである “僧伽(そうぎゃ)” と共に、仏教の基本的なよりどころである三宝(さんぼう)をなしている。
菩薩(ぼさつ)
元来、釈尊の成道(じょうどう)以前の修行時代を指す。悟りを求める人という意味である。大乗仏教が興起してからは、拡大解釈されて、大乗仏教徒を指すことになる。向上的には仏の悟りを目指しつつ、向下的にはすべての人びとを同様に仏の悟りへと導こうと努力する人間像を菩薩とよぶようになる。さらに仏の慈悲(じひ)や智慧(ちえ)の働きの一部分をにない、仏の補佐役として人びとの悩みに応じて現われる、観音とか地蔵のような威神力のある救い手もそうよばれる。
煩悩(ぼんのう)
悟りの実現を妨げる人間の精神作用のすべてを指していう。人間の生存に直結する多くの欲望は身体や心を悩まし、かき乱し、煩(わずら)わせる。その根元は我欲・我執であり、生命力そのものに根ざしているともいえる。貪(むさぼ)り、瞋(いか)り、愚かさがその根本であり、派生して多くの煩悩が数えられる。これらは悟りの実現に障害となるから、修道の過程で滅ぼさなければならないとする。しかし生命力に直結しているものを否定できないとして、悟りへの跳躍台として肯定する思想もある。
無我(むが)
仏教の最も基本的な教義の一つで「この世界のすべての存在や現象には、とらえられるべき実体はない」ということである。それまでのインドの宗教が、個々の存在の実体としての “我(が)” を説いてきたのに対し、諸行無常(しょぎょうむじょう)を主張した仏教が、“永遠の存在ではあり得ないこの世の存在や現象に実体があるわけはない” と説いたのは当然である。なお “我” は他宗教でいう霊魂にあたるといえる。
無常(むじょう)
あらゆる存在が生滅変化してうつり変わり、同じ状態には止まっていないことをいう。仏教の他宗教と異なる思想的立場を明示する一つである。あらゆるものは、生まれ、持続し、変化し、やがて滅びるという四つの段階を示すから、それを観察して「苦」であると宗教的反省の契機とすることが大切である。これもいろいろな学派の立場から、形而上学的な分析がなされてきたが、単なるペシミズム、ニヒリズムの暗い面のみを強調してはならない。生成発展も無常の一面だからである。
無明(むみょう)
正しい智慧(ちえ)のない状態をいう。迷いの根本である無知を指す。その心理作用が愚痴であるという。学派によって分析、解釈はさまざまであるが、いずれも根源的な、煩悩を煩悩たらしめる原動力のようなものと把えられている。したがって、例えばあらゆる存在の因果を十二段階に説明する十二因縁説では、最初に無明があると設定しているくらいである。生存の欲望の盲目的な意志と把えてもよいであろう。
唯識(ゆいしき)
この世のあらゆる存在と現象とは、人間の “こころ” から生まれたもので、実際にあるのは、この “こころ” だけなのだ、という説で、大乗仏教の中に現われたもの。即ち、眼(げん)耳(に)鼻(び)舌(ぜつ)身(しん)意(い)という六つの感覚器官がそれぞれの対象を認識する六つの識(しき)のほかに、第七、第八(阿頼耶識(あらやしき))の二識をたて、これら八つの識の働きが、この世に存在や現象を生じさせているとするのである。
輪廻(りんね)
過去世から現在世へ、更に未来世へと、生まれ変わり死に変わることを、輪がまわるのにたとえたもので、輪廻転生(りんねてんしょう)という言葉もある。人間が、この迷いの世界からさとりの世界へと脱出しない限り、地獄(じごく)・餓鬼(がき)・畜生(ちくしょう)の三悪道や、それに阿修羅(あしゅら)・人間・天上を加えた六道の世界への転生を永遠に繰り返すのである。この輪廻の輪から抜け出たものが、“仏陀(ぶっだ)” とよばれる。 
仏教聖画 

 

いずれの時代、いずれの社会でも争いや憎しみのない平和な明るい世界を実現するためには、まず人びとの心を明るく、豊かにすることが大切です。そのためには、物心両面にわたって、いろいろな方法がありますが、特に宗教的な情操を養うことこそ、最も必要なことでありましょう。この「釈尊絵伝」は、このような意味から、釈尊の偉大な生涯を絵伝にして、これを寺院の本堂、客殿、書院はもとより幼稚園、保育園、学校、さらに会社、一般家庭にひろめ、知らず知らずのうちに仏教的情操を育成しようと願い、仏教画家として世界的に著名な、野生司香雪画伯に揮毫を依頼し、膨大な文献・資料を駆使して、実に10数年もの歳月をかけて完成された大作です。釈尊の一生を、<託胎>、<降誕>、<出城>、<牧女の供養>、<成道>、<転法輪>、<涅槃>の7つの場面に分けて、それら一つひとつを感動的な構図と優美な色彩で、あますところなく表現したものです。
野生司香雪(のうす こうせつ)画伯(1884―1974) 明治17(1884)年香川県生まれ。東京芸術大学日本画科卒業。在学中より仏教美術を専攻。仏教美術研究のためインドに渡り、あまねく仏教史跡を訪れる。アジャンタの壁画模写、初転法輪寺(インド・ベナレス郊外サルナート)にインド政府の依頼により釈尊一代の壁画を揮毫。
託胎(たくたい) 結婚して20年、子宝に恵まれなかった摩耶夫人(まやぶにん)は、ある夜、白象が天から降(くだ)ってきて胎内に入る夢を見ました。子供を宿すということは、人間としての出発点ですし、人間のはからいを超えたものですから、その因縁の不思議さを象徴しているのです。
降誕(ごうたん) 里帰りの途中、ルンビニーの花園で休まれた摩耶夫人は、美しいアショーカの一枝を折りとろうとした瞬間、一人の王子を生みました。生まれたばかりの赤ちゃんが、将来にどんな可能性をも秘めていることを、“天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)”という言葉によって表現しているのです。
出城(しゅつじょう) 幼くして母を失い、王子としてのぜいたくな生活にも心からは喜べなかったシッダールタは、29才のある日白馬に乗り、一人の従者をつれ、人間として生きている本当の意味を探し求めるために、ひそかに城をぬけ出しました。
牧女の供養(もくにょのくよう) 6年間のはげしい苦行の末、心身ともに疲れ切ったシッダールタは、一人の貧しい村娘の捧げる一椀の乳がゆを受けました。そして“過ぎたるは及ばざるが如し”という諺のように、極端に肉体を苦しめるだけが正しい道ではないことに気がつき、やがて“中道(ちゅうどう)”をさとられたのです。
成道(じょうどう) 後に菩提樹とよばれるようになった一本の大木の下で静かに瞑想に入ったシッダールタは、さまざまな悪魔の誘惑や、自分の心の中の欲望に打ち克って、とうとう真実の道を発見して仏陀(ぶっだ)となられたのです。数多くの苦難を打ち破って、ブッダガヤとよばれる場所で仏となられたその姿には、私たちの心にひびく何ものかがあります。
転法輪(てんぽうりん) 仏陀となったシッダールタは、しばらくさとりの内容を心で味わわれた後、サルナートという近くの村で修行していた、もとの同行者(どうぎょうしゃ)五人に、はじめて自分の自覚した教えを説かれたのです。その後45年間にわたる説法の、それは最初だったのです。相手の立場を十分考慮した上で説かれたその教えは、どんな人にも安らぎを与えたのです。
涅槃(ねはん) 生まれたものは必ず死ななければならない――45年間もの長い間、数多くの人びとに教えを説き続けてこられた釈尊も、自ら説いた“諸行無常” の教えの通り、たくさんの弟子や信者の涙の中に、クシナガラで80歳の生涯をとじられました。 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
禅僧の言葉

 

1 栄西「広く衆生を度して、一身のために一人解脱を求めざるべし」
みなさま、はじめまして。私は禅宗である臨済宗妙心寺派の僧侶であり、住職として東京都世田谷区にある龍雲寺をお預かりしております。これから一年間連載させていただくこのコラムでは、日本で活躍された禅僧たちの生涯とそのことばを学びながら、そこに伝わる「禅のメッセージ」を受け止めていきたいと思います。初回である今回は、日本の臨済宗の祖といわれる、栄西(ようさい)禅師についてです。
栄西は小中学校の教科書でもその名が見られるように、鎌倉時代に禅宗(臨済宗)を日本に伝えた高僧です。日本の主な禅の宗派は臨済宗、曹洞宗、黄檗宗の3つがあり、社会科の試験問題で「曹洞宗は道元、臨済宗は栄西」と記憶されておられる方も多いと思います。
栄西は1141年に備中(現在の岡山県)に生まれ、13歳の時に比叡山延暦寺に上り、出家をされます。つまり天台宗の僧侶となったのが始まりです。その後、二回にわたって中国の宋に渡り、臨済禅を修められます。この時代の中国への渡航は文字通り命がけ、金銭的にも非常に狭き門という状況の中で、二回という数字は驚異的です。さらに二回目の入宋では、結果的には叶いませんでしたが、中国だけではなく天竺(インド)を目指していたというのですから、栄西の仏教に対する願心は、筆舌に尽くしがたいものがあります。 やっとの思いで日本に禅を持ち帰ってきた栄西でしたが、既存の日本仏教界が温かく迎え入れてくれるはずもなく、多くの苦難を乗り越えて、禅宗という教えを日本に育む基盤をつくられたのでした。
これほど偉大な栄西でありながら、実は、現代の臨済宗ではあまりクローズアップされていません。禅宗よりは、むしろ中国から茶種を持ち帰り、背振(せふり)山(さん)系(現在の福岡と佐賀の県境)に茶種を植えたことから「茶祖」と称されることの方が多いのではないでしょうか。ただ、栄西が日本に最初に茶を伝えたわけではなく、抹茶による喫茶法を初めて日本に持ち帰ったと言われています。それも、千利休が大成された茶道とは違い、あくまでも薬効を期待してのものでした。
臨済宗にとって宗祖といえば、中国の臨済禅師になります。その次に名前が出てくるのは、江戸期に衰退していた臨済宗に新しい息吹を吹き込んだ「臨済宗中興の祖」白隠(はくいん)慧鶴(えかく)禅師です。もちろん、栄西が開かれた京都・建仁寺様や博多の聖福寺様などにおかれては、栄西は「ご開山様」として篤くお祀りされています。しかし、国内の大多数の臨済宗寺院においては、絶対的な宗祖とは考えられていません。日蓮宗の日蓮上人や、真言宗の弘法大師とは置かれている立場が異なるのです。
また、栄西は枯淡と呼べるようないわゆる「禅僧らしい」僧侶ではなかったようです。ボロボロの着物をきてはいけない、歯磨きをしっかりしなくてはいけない等と、身だしなみの重要性を説いています。そして「大(だい)師号(しごう)」」というような僧侶としての地位や名声も望んでおり、当時、一部批判も受けていたようです。おそらくそれらのことから、後世の禅僧たちは栄西の禅が「純粋ではない」としたのでしょう。
私自身、臨済宗の僧侶でありながら、恥ずかしながら栄西についての知識はほとんど持ち合わせていませんでした。教科書で学んだレベルのものでしたが、色々な書物を読み勉強していく中で、禅の求道者に向けた、栄西の次の言葉に感銘を受けるのです。
「広く衆生を度して、一身のために一人解脱を求めざるべし」『興禅護国論』
『興禅護国論』は、栄西が禅の普及のために記した書で、このことばは「あまねく全ての人々を救わんとして、自分一人の小果を求め満足してはならない」と訳することができます。また、曹洞宗の道元の書物には、栄西のことばとして次のような記述があります。「救いを求める飢えた人々に仏像の光背を造るための銅を分け与え、その批判に対して『わたしはこの罪によってたとえ地獄に墜ちるとしても、衆生の飢えを救いたい』」。
これらの言葉には、栄西のまっすぐな気持ちが感じられます。栄西は、自分自身が中国で体得した禅の教えで、悩み苦しむ人々をどうしても救いたかった。禅の教えを伝えるためには、権力も名声も必要であった。自らの経験に基づいて、禅を広めるためには社会的な地位を高めることが必要であった。単なる権力欲しさで行っていたことではなく、鎌倉時代に新興の仏教を広めていくには、この手段こそ最上である、という信念があったのです。ここには、日蓮上人が他宗を批判した行いにも通じるところが感じられます。すべては「あまねく一切の衆生を救わん」という願心からでてきた行いであったのです。私もこの言葉を支えに、文章を書き、話をさせていただいています。禅という「言句では決して表現できないもの」を言葉で説いていくことに、私は大きな矛盾を感じずにはいられません。確かに、禅というものは、確かに書けば書くほど遠ざかり、説けば説くほど隔たっていくものなのかもしれません。それでも、そのことを自身で痛感しながらも、少しでも多くの人たちに禅の教えを伝える努力を怠ってはならないと。栄西は教えてくれるのです。坐禅という行いも同じです。私たちが行う坐禅は、自分一人の小果を求め満足してはなりません。調えた身体と心で、いかに社会と関わっていくかが大切になります。確かに「仕事の効率をあげたい」「集中力を高めたい」という動機は小果なのかもしれません。しかし、はじめの入口は問題ではありません。坐禅をする中でいつか出会うその出口が、栄西のことば「あまねく一切の衆生を救わん」と同じものであればいいのです。
2 菩提達磨「不識」
菩提達磨(ぼだいだるま)は、6世紀初頭に禅をインドから中国へ伝えた高僧です。禅観はインドに由来しますが、禅宗は中国で独自に起こり発展するのです。そこで、達磨は「初祖」と称され、存在そのものも伝説とされていますが、今に伝わるエピソードも禅宗では大切な教えの一つとなっています。インドから海路、中国まで渡った達磨を、当時大変喜び、熱心に迎え入れた王がいました。梁(りょう)の武帝(ぶてい)です。武帝は仏法に深く帰依し、世間から「仏心天子(ぶっしんてんし)」と崇められていました。
ある時武帝は、都がある金陵(現在の南京)の宮中に達磨を招き、質問をします。「朕、寺を起(た)て僧を度(ど)す。何の功徳かある」 「私はこれまでにたくさんの寺を建立し、僧侶を育ててきた。私には将来、どれだけ大分の幸福がもたらされるか?」と。この問いには、おそらく次のような意図が込められています。武帝は、仏教の本場であるインドから来た達磨という高僧によって、自分自身の善行に対しての果報を、確証して欲しかったのでしょう。しかし、そんな思惑は達磨の衝撃的な返答によって、完全に打ち砕かれてします。達磨は「無功徳(むくどく)」と、突っぱねるのです。武帝の行いの、どれもこれも果報を受けられるものではない。功徳欲しさに行う善行が何の役に立つであろうか。褒められよう、認められようという物欲が、せっかくの行いを悪行にしてしまうというのです。要するに武帝の行いは、あくまでも利己的なものにすぎない。自分の欲望を満足させるだけの行為を、「信心」という名で美化しようとしていることを、達磨は見抜いていたのです。望みの答えを聞き得なかった武帝は、問いを重ねます。「禅の真髄とはいったいどのようなものか?」と。それに対して達磨は、「廓然無聖(かくねんむしょう)」と喝破(かっぱ)するのです。
「廓然」とは、からりと開けた、何のとらわれもない無心の境地を表したものです。その無心のところには、聖なるものも、凡なるものも、何も比べるものは無いと言い放つのです。自分が信じて求めてきた仏法というものに、「聖なるもの」が無いと言われた武帝は、どうしても納得がいきません。今までの行いの全てを否定されてしまったからです。そして、そんな達磨に対して「では、私の前にいるお前は何者だか?」と尋ねるのです。
達磨は一言、答えます。「不識(ふしき)」と。
この「不識」は「そんなもの、しらない」という意味の言葉ですが、禅での解釈はそう簡単にはいきません。達磨が「不識」と言ったのは、武帝の心にある「執着」というものを捨てさせるためだったのです。
人間はどうしても、聖とか凡とか、生とか死とか、有るとか無いとか、好きとか嫌いとか、対立する二つの思考にとらわれてしまいます。禅ではとかく、この対立する二念を嫌います。「識る」、「識らず」と、自分が生まれてから身につけてきた知識や経験に惑わされることなく、それらを完全に捨て去ってこそ、禅でいうところの「不識」を体得することができるのです。思い返せば、私たちが「わかる」と確信をもって言えることは、どのくらいあるでしょうか? 地獄があるか? 天国があるか? 自分の寿命はいつまでか? 考えてみると私たちの人生は、わからないことだらけではないでしょうか。結局のところ、明日自分自身が生きているかもわからないし、身近なところで言えば、明日の天気すらわからないのが私たちなのです。以前、あるテレビ番組が、東日本大震災で大変な被害に遭われた岩手県大槌町に設置された、一つの電話ボックスのことを特集していました。「風の電話」と名づけられたその電話ボックスの中には、電話線に繋がっていない黒電話がポツンと置かれています。電話の持ち主の方は、震災の前年に亡くなられた、仲のよかった従兄弟と話をするため、はじめは自分自身のためにこの電話ボックスをつくられたそうです。震災が起き、月日が流れ、「風の電話」にはたくさんの方が訪れるようになりました。あの日に「いってらっしゃい」と声をかけて送り出したご主人や、喧嘩したまま声もかけずに別れてしまった家族と話をするために、その電話に向かって話しかけるのです。たくさんの方々が、それぞれの想いを胸に、電話線も繋がっていない黒電話の受話器を耳にあてるのです。もちろん、何を話しかけても受話器から相手の声は聞こえてきません。
この方たちの声は、大事な人に届いているでしょうか。答えるとすればこの一言です。「わからない」 わからないけれども、届くと信じて、届いていると信じて生きていけるのが、私たち人間なのです。私たちの人生において「わからない」ことは、確かに心配で、恐ろしいとかもしれません。自分が学んだ知識や蓄えた経験で、何とか答えを導きだしたいと思うのは当然のことと思います。私にとっての「禅の修行」も、まさに「わからない」ことだらけでした。無理に理屈をこねて理解しようとせずに、根拠を求めようとしない。ありのままで、「わからない」と心から納得することができれば、きっと自然体で生きていけると思うのです。
3 白隠禅師「当処即蓮華国」
夏真っ盛りとなりました。お寺の境内は騒々しく鳴き盛る蝉の声に溢れています。長い間、暗い地中で過ごし、やっと外へ出られるのは一週間という短すぎる時間。それでも蝉はそんなことを気にするでもなく、死ぬ直前まで一生懸命に鳴き続けているように聞こえるのです。今回、取り上げる禅僧の一言は、白隠慧鶴禅師の「当処即蓮華国」です。白隠禅師は臨済宗では「中興の祖」と称され、江戸時代に低迷した臨済禅に、新しい風を吹き込み蘇らせた名僧です。一六八五年に現在の静岡県沼津市に生まれ、五歳にして浮雲の流れをみて、世の無常を憂い涙したほど感受性に富んだ少年であったといいます。そんな少年であったからでしょう。十一歳の時に、近くのお寺で僧侶が地獄の様子を講ずるのを聞いて、身の毛がよだつほどの恐怖を感じてしまうのです。それまで遊び半分で虫や魚たちを殺してきた自分は、必ず地獄に墜ちるに違いない。そして、白隠禅師は、地獄の恐怖から逃れるために出家をし、禅の道を志されるのです。厳しい修行を積まれた白隠禅師は四十二歳で禅を究められ、その後八十三  才でお亡くなりになるまで、禅の教えの布教教化に邁進されます。その教化活動の中で、白隠禅師は『坐禅和讃』という、漢文ではなく読みやすい和文のお経を創作されるのです。
この『坐禅和讃』は、「衆生本来仏なり」という言葉からはじまります。「衆生」というのは、「迷い苦しむ人々」を、「仏」とは「悟り」分かり易く言うならば「幸せ」を意味しています。つまり、迷える私たちは、幸せを生まれながらに持っていると説かれているのです。そして、この和讃の結びにあるのが、「当所即ち蓮華国、この身即ち仏なり」という言葉です。「当処」とは「今まさに目の前」、「蓮華国」とは「最高で最良の場所」であること。つまり、今現在の自分が置かれている場所が、自分にとって最高で最良であると、心から思うことができたなら、人生は「幸せに満ちあふれている」というのです。外に幸せを求めるのではない。今、目の前のことに幸せを求めていくことが大切であると、白隠禅師は教えてくれているのです。
私はこの言葉が大好きで、ことある毎に坐禅会等で紹介しておりました。どうしても私たちは、他の人や、他の境遇と比べることで苦しんでしまいます。目の前の現実と、理想の自分を比べては、そのギャップに悩んでしまうのです。そんな私たちにとって、「他と比べる必要はない」、「今、目の前こそ最高だ」と、前向きに生きる指針を与えてくれる言葉だからです。しかし、私はある坐禅会で一つの質問を受けました。「世界で紛争に直面している子どもたちに、あなたは同じことを言えますか? 」 紛争地域で生活せざるを得ない子どもたちは、すぐ隣で命を落としている人がいて、自分たちもいつ死んでしまうかわかりません。もちろん戦争や紛争だけではありません。食べるものがなく、不衛生な環境による伝染病などに苦しんでいる子どもたちは、世界中にたくさんいます。そんな悲惨な状況におかれている子どもたちに、「今、目の前こそ最高だと思う」というこの言葉を、果たして自信をもって言えるでしょうか。恥ずかしながら私は何も答えることができませんでした。誰が好き好んで、そんな場所に生まれたいと思うでしょうか。生まれる時間も環境も選ぶことのできない私たちは、たまたま産み落とされた場所を、それこそ最高であると思わなくてはならないのでしょうか? どうしてもその答えが見つからない中、テレビで放映されていたスタジオジブリの映画『火垂るの墓』を見て、私はハッとしたのです。
両親を失ったおかっぱ頭のかわいい女の子と少年の物語。預けられた親戚と折り合いがつかず、子ども二人だけでの生活を始めます。そして最後には、戦争による空襲や食糧不足で命を落としてしまう物語です。この映画の高畑監督が取材に応じた言葉の中に、私はあの質問の答えを見つけたのです。『火垂るの墓』の劇中よりも悲惨だったという自身の空爆体験を語った高畑勲監督は、インタビュアーにこう言われるのです。「人間は悲惨さだけでは生きられない」と。そして、「悲惨さだけを描いたつもりはない、子どもは楽しみや自由をみつける天才。戦争中も声をたてて笑い、ふざけ合う。自然とふれあいながら遊び、日常のささいな出来事で喜ぶ。そんな姿も描いた。そういう日常を破壊する戦争は絶対に許さない」と、この映画に込められた思いを述べられたのです。どんなに悲惨な現状でも、その中にきっと楽しみや自由がある。白隠禅師の頃も平穏無事な毎日であったはずはありません。飢饉や天災に遭遇し、たくさんの人が命を落とすような、まるで地獄のような状況もあったでしょう。現代もまた然りです。異常気象や大地震、ストレスや病など、私たちの日常を脅かすものが多々あるのです。そして、それでも私たちは生きていかなくてはなりません。だからこそ、白隠禅師は教えてくださるのです。私たちも目の前の日々の現実に対して、少しだけ見方を変えて、子どものような視線をもってすれば、「当所即ち蓮華国」と心の底から思うことができ、その中にこそ幸せがあることを。
4 正受老人「一日暮らし」
最近私は、もっぱらラグビーワールドカップに夢中です。特に「ノーサイド精神」といいますか、試合開始になれば真剣勝負、終了の合図を聞けばお互いを称え合う姿に毎回感動しております。勝者が敗者を称えるのももちろん見事ですが、間違いなく悔しいであろう敗者が、勝者を賞賛できるのは、なかなかできることではないと思うからです。今回取り上げさせていただく一言は、道鏡恵端(どうきょうえたん)禅師(1642〜1721)の「一日暮らし」という言葉です。道鏡恵端禅師は、正受(しょうじゅ)老人として知られ、江戸時代に活躍された白隠禅師の悟りの師であり、『真田丸』で有名な真田幸村の兄・信之の子と言われています。正受とは「己を空(むな)しくして一心不乱にただ一つのことに集中していく」という「三昧」を漢訳した言葉になります。
正受老人は世間から隠れて長野県飯山にある正受庵で、一人禅の修行と向き合われていました。そしてそこには、正受老人の高徳を慕ってたくさんの修行僧が訪ねてきたそうです。白隠禅師もその一人でした。そこで厳しい修行の後、悟りをひらかれた白隠禅師ですが、その修行の時に転げ落とされた石段も、いかにも禅家らしい落ち着いた庵の佇まいも現存していますので、ぜひ訪れていただきたいものです。「一日暮らし」という言葉は、いわゆる「宵越しの銭は持たぬ」というような「その日暮らし」とはまったく異なります。江戸っ子がその日稼いだお金をその日のうちに使い切るような気前の良さでも、後先を考えずに突っ走ることでもないのです。正受老人は、「一日暮らし」という生き方ができれば心身共に健やかになれるというのです。考えてみると一日というのは、千年万年の始まりであり、私たちの人生も一日の積み重ねに他なりません。もし百歳生きることができるとするならば、単純に36万500回の一日を積み上げていくことになるのです。ところが私たちはそのことを頭で理解していても、なかなか実践できません。未だ来ぬ明日のことばかり、考えて思い悩み、取り越し苦労をしてしまう。明日があるから明日にやればいいと、来るかどうかも分からない明日を当てにして、ついつい油断してしまうのです。また、どんなにつらいことがあっても、一日のことだと思えば耐えることもできるし、逆に楽しいことがあっても、一日のことだと思えば溺れることもないのです。
ラグビーに関するこんな新聞記事がかつてありました。二〇一五年のワールドカップの善戦が大きな話題を呼んだラグビー日本代表。そのチームの中心選手だった五郎丸歩選手を支えていた言葉は、「今を変えなければ、未来は変わらない」というものでした。その前の大会の時、合宿には参加していたものメンバー入りはかなわなかった五郎丸選手は、ある日のミーティングでジョン・カーワン前ヘッドコーチに「過去は変えられるか?」と問われ、「変えられません」と答えたそうです。続いて「未来は変えられるか?」と聞かれ、今度は「変えられます」と答えます。するとカーワン前ヘッドコーチは次のように言うのです。「違う。お前が変えないといけないのは、今だ。今を変えなければ、未来は変えられない」と。過去を変えられないことは誰でも知っていますが、未来も変えられないということは、なかなか私たちは考えません。過去や未来ではなく、今を見なければならないのは、何もスポーツ選手だけではありません。お釈迦さまも「過ぎ去ったことをいつまでも悩んだり、未だ来ていない未来を心配するなら、人間は枯れ草のようになるだろう」と示されているのです。また、そのことを不気味な幽霊も私たちに教えてくれます。長いサラサラのストレートヘアは、「後ろ髪を引かれる」というように、過去への囚われ。前に垂らした両の手は、未来への渇望。肝心要の今この時はと足下を看てみると、地に足がついていない。
正受老人は、人生の中で一番大切なことは「今日ただいまの自分の心なのだ」とはっきりと言い切られるのです。戻らぬ過去を後悔してクヨクヨしてしまったり、未だ来てもいない明日というものに根拠のない希望を乗せるのではなく、今日ただいま目の前のことを一生懸命務めなければならないのです。そうしなければ、明日という日が有意義になるはずがありません。今日一日をしっかり務め、明日もまたそのような一日がくるようにしなければならないと伝えてくださるのです。「今日一日というのは、一生涯の一日ではなく、『自分の全生涯が今日の一日である」と考える。自分の一生涯を今日この一日に詰め込んでいくべきだ」とは松原泰道師の言葉です。このように看る視点を少し変えると、今日一日に対する思いも変えることができると思います。今回のラグビーワールドカップの日本代表の活躍も、すべての選手が日々積み上げてこられたことの結晶だと思うのです。私たちも日々の生活の中で、試合終了のブザーを夜寝る前に鳴らして生きていくことができれば、きっと豊かな人生になるはずです。国境も国籍も人種も越えた代表選手たちの活き活きとした姿をみていると、私はこの「一日暮らし」という言葉を思い出さずにはいられないのです。
5 盤珪永琢(ばんけいようたく)「皆親の産み付けてたもったは仏心ひとつでござる。」
日に日に冬の到来を肌で感じる時節になりました。美しいイルミネーションに飾られた沿道のショーウインドウには、素敵な商品が溢れんばかりに並べられています。その前で人々は、恋人の幸せな笑顔を思い浮かべながらも、悩ましげに思案をめぐらしているようです。さて、私たち禅宗の十二月は、特別な月になります。それは、苦行を断念され、菩提樹の下で坐禅を組まれたお釈迦様が、十二月八日の明けの明星をご覧になって悟りをひらかれ、人生の苦しみから逃れられた「成道(じょうどう)」二五〇〇年たった今日でも禅の道場では、「臘八大摂心(ろうはつだいぜっしん)」といって一日から八日の早朝までを一日とし、一度も横になることなく坐禅三昧の修行が継承されているのです。その十二月に取り上げるのは盤珪永琢禅師(一六二二〜一六九三)です。盤珪禅師は、現在の兵庫県姫路市に生まれ、命がけの厳しい修行に身を投じられ、ついに禅の悟りに到られます。その後は、その生涯をかけて教化活動に邁進されるのです。中国の言葉である漢語を使わず、誰もが理解できる平易な日本語を用い、そのうえ相対して、分かり易く自分の口で一般民衆に至るまで法を説かれました。武士や公家だけではなく、寺に入りきれないほどの聴衆が集まったといいます。その結果、中国より伝来された禅が、盤珪禅師によってはじめて日本独自の禅として再誕され、日本臨済宗に新しい息吹を吹き込んだのです。
盤珪禅師の禅の内容は、次の言葉に集約されています。「皆親の産み付けてたもったは仏心ひとつでござる。余のものは一つも産み付けはしませぬ」 私たちが親から産み付けられたものは、「仏心」ただ一つ。他のものは何一つとしない。たとえば、鏡は前にある物を映そうと思わなくても、そのまま物を映します。その前の物が取り除かれれば、もちろん何も鏡には映りません。盤珪禅師は、この鏡のような心こそ「仏心」であるというのです。このように、どんなにつらいことも、楽しいことも、過ぎてしまえば跡形も残らない。ただ私たちに具わっているのは「仏心」ただ一つと説かれるのです。では、この「仏心」とはどんな心なのでしょうか。ある老師様は次の話で譬えられていました。それは、オー・ヘンリー作の『賢者のおくりもの』という話です。ある貧しいカップルがお互いに贈るクリスマスのプレゼントに悩んでいました。彼の方は、彼女の長く綺麗な髪に似合うようにと、宝石が散りばめられたべっこうの髪飾りを買うために、祖父から受け継いだ貴重な金時計を売ってしまいます。一方の彼女の方は、そんなこととは知らずに、自慢の髪の毛を切って売り払い、彼の金時計に見合うべく高価なプラチナの時計鎖を手に入れるのです。お互いに相手のことを想って、大事なものを手放してしまで、相手にプレゼントを用意するのです。
ご存じの方もたくさんいらっしゃるでしょう。この二人の想いこそ、盤珪禅師がおっしゃる「仏心」に他ならないのです。お金で買えるどんな高価なものよりも、贈り物を考えて、相手のことを思いやっているこの時間こそ、何より貴いプレゼントなのです。相手を思いやる心、自分の幸せよりも相手の幸せを願う心。これこそ、わたしたちが両親から受け継いだただ一つの「仏心」なのです。そして、この心さえしっかり自覚していれば、人生のすべてがととのっていく。これが盤珪禅師の教えになるのです。また、盤珪禅師は、自身の永年にわたる生死をかけた厳しい禅修行を「無駄骨を折った」とあっさりと否定し、そんなものは一切不要であると言い切られるのです。ありのままの自分でいい。なぜなら、「仏心」は生まれながらに私たちに具わっているもので、けっして生まれるものでも、死んでなくなるものでもない。このことに私たちが気付きさえすれば、心安らかに人生を歩んでいけると背中を押してくださるのです。しかし、盤珪禅師のこの教えの系譜は、残念ながら江戸時代に途絶えてしまいます。なぜなら、「ありのまま」という言葉の理解を間違ってしまうと、何もしなくていいのだと安易な道へと流されてしまうからです。直接のお弟子さんたちの世代までは何とか受け継がれていたのですが、その次の世代ともなると、白隠禅師から痛烈に批判されるまでに到ってしまうのです。
おそらく盤珪禅師もそのことは、百も承知であったはずだと私は思うのです。それでは何故そのようなことを説き続けたのでしょうか。無理をすることは必要ではない。ありのままでいい。できることなら皆には、厳しく辛い修行をすることなく気付いて欲しい。誰もが幸せに生きて欲しい。ここに私は、宗教家・盤珪禅師の深甚たる慈悲の心とも言うべき「願い」を感じずにはいられないのです。『賢者のおくりもの』の二人のように、大切なものを手放してみないと気が付かないものかもしれません。けれども、もし勇気をもって手放すことができれば、わたしたちはきっと生まれ持った「仏心」に気付くことができるはずなのです。きっとそれこそが二五〇〇年前のお釈迦様が、菩提樹の下でうなずき取った心なのしょう。そしてその心を伝えるために「よっこいしょ」と腰を上げられた。これがまさに仏教の始まりなのです。この盤珪禅師の言葉を受け取った私たちが、自分自身の「仏心」と向き合うとき、私は思うのです。盤珪禅師の心は途絶えてなどいない、今ここに生きていると。
6 松原泰道「私が彼土でする説法の第一日です」
光陰まことに矢の如しとはよく言ったもので、早いもので令和2年も一ヶ月が経過しました。こちらで担当させていただいているこのブログも、おかげさまで最終回を迎えます。今回ご紹介させていただく言葉は、平成21年に「遷化」した私の祖父にあたる故・松原泰道師の遺言の歌になります。松原泰道師は明治に生まれ百一歳でなくなるその直前まで執筆や講演活動をした臨済宗の僧侶です。1989年には仏教伝道文化賞を受賞し、ベストセラーになった『般若心経入門』をはじめ、その著作は百冊を超えます。一般の方が亡くなることを「逝去」と言うように、僧侶の死去は「教化の場を遷す」という意味から「遷化」とするのです。
「私が死ぬ今日の日は 私が彼土でする説法の第一日です」 「彼土」というのはあの世のこと。私が死ぬちょうどその日は、あの世で説法をする第一日目だというのです。祖父の葬儀の時に、この言葉は綺麗に色紙に書き記され、棺の上に飾ってありました。あの世へ旅立っても説法をするというこの言葉、おそらく何も知らないまま出会っていたら、その意味の通りにしか理解できなかったかもしれません。この言葉には、祖父のとても強く大きな想いが隠されていたのです。時間を遡ること祖父が亡くなる少し前、祖母が亡くなりました。その頃、京都の妙心寺の修行道場に身を置いていた私は、葬儀のために特別に二泊三日で東京に帰ることが許されました。祖父にとって、結婚して七十年連れ添った妻との死という別れは、とても悲しいものだったと思います。その悲しそうな目をみていると、本当にかける言葉の一つも見当たりませんでした。そして、このお葬式が私にとって祖父との最後の別れになるのです。それでも、祖父と向き合って言葉を交わせたことで、禅僧として、人間としてたくさんの学びや気づきがありました。残念ながら祖母の死に目にはあえませんでしたが、祖母からの最後のプレゼントだったように思えるのです。その中の一つが、この遺言の歌にまつわるものです。私が祖父から直接聞いた遺言は、先に挙げたものとは二文字違っていたのです。
「私が死ぬ今日の日は 私が地獄でする説法の第一日です」 その時、私は納得することができませんでした。誰が好き好んでわざわざ自分から地獄へ墜ちていく人がいるでしょうか。祖父ほど世のため人のために尽力した人なら、きっと極楽にいけるはず、と思ったからです。しかし、よくよく考えてみるとこの「地獄」という所に大きな意味があったのです。昔の中国に、趙州(じょうしゅう)和尚(七七八―八九七)という百二十歳まで生きられて、禅の教えを説かれた高僧がおられました。一人の信者さんが趙州和尚に質問します。「和尚様は地獄に墜ちますか?」 趙州和尚は答えます。「真っ先に墜ちるぞ」 信者さんは納得出来ずに、再度質問をします。「和尚様の様な立派な僧侶が、何故地獄に墜ちるのですか?」 趙州和尚は言い切ります。「私が地獄に墜ちなければ、誰が地獄に墜ちたお前さんを救うんだ?」 信者さんが地獄に墜ちることを前提にしている所が可哀想ですが、何とも深い話です。地獄にいる人たちにとって、最も必要なのは仏教の「教え」による救いです。幸せに溢れ、苦しみのない人がいる極楽よりも、今まさに悩み苦しんでいる人がいる地獄に自ら墜ちて、自分が学び培ってきた禅の教え、仏教の教えを説き尽くしたい。これこそ、祖父や趙州和尚の仏教の布教に対する強い気持ちだったのです。百二歳で遷化されるまで、布教道を貫き、「生涯修行、臨終定年」を掲げていた祖父らしい言葉です。
この文章を私が書いている今頃も、地獄のどこかで汗にまみれて、布教に走り回っている姿が目に浮かぶのです。「生涯現役」どころか「死んでも現役」、定年もまだのようです。明治に生まれ、戦争を体験し、「死」という現実と隣り合わせで生きてきた。昨日まで元気に挨拶していた近所のおばさんが、次の日空襲で亡くなってしまう。未来ある若者たちが招集されて、次々と戦死してしまう。その中で、百歳を超える長寿に恵まれた祖父は、どんな気持ちで新しい朝を迎え、新年の門松をみてきたのでしょう。おそらく、口には出さないけれども、一度も忘れたことはないと思うのです。今日、ここに生きていることさえ奇跡的なことと、「自分は生かされているのだ」と身をもって自覚し、たくさんの人たちの想いを背負ってきた祖父だからこそ、「地獄で説法」という言葉が出てくるのです。そして、その生涯の使い方に一抹の迷いがないのです。私は、祖父のようにこれだけ真剣に自分の命と向き合うことができているか。いま目の前のことに一生懸命取り組むことができているか。いつもこの言葉を見ると、背筋が伸びる気持ちになるのです。
最後になりますが、六回にわたってご紹介させていただいた禅僧方の魂の言葉。皆様の人生を扶ける杖言葉となってくだされば、これにまさる喜びはありません。このような機会を与えてくださった、仏教伝道協会様に感謝申し上げ筆を置かせていただきます。 
 

 

 
処方箋

 

1 老いること
『50才の春』 私は今年で50才になった。若いころ、自分がそのうち50才になるだろうという事だけはなんとなくわかっていたが、50才の自分など、想像だにしなかった。なにせよ、当時は私にとって「50才のおっさん」ほど関わりたくない存在はなかったからである。私が20才のころ、父がちょうど50才だったせいなのだろうか。ああいうふうにだけには、絶対になりたくない、と思ったものだ。その一番なりたくない存在に、とうとうなってしまった。反抗期の子供の目から見れば、今の私はうっとうしい親父の見本である。あぁ、50才の春にあたり様ざまな思いが頭に浮かぶ。
年年歳歳、花相似たり  歳歳年年、人同じからず
春は花…。梅、桃、そして桜で盛大なフィナーレ。安泰寺の庭ではプルーンやさくらんぼの木も毎年、私たちの目を楽しませてくれている。木の下でキャンプファイヤーを焚き、般若湯を味わいながら花見をする。ついこの間まで、あんなに可愛いかった子供たちはもはや大人顔まけに、バーベキューの肉を貪り食っている。お寺を去ってしまったあの人は、今ごろどこでどうしているのだろう。あいつも今ごろ、どこかで花を見ながら思い出にふけっているのかもしれない。…とまあ、花の立場からしてみればこんなことはどうでもよい話である。なぜなら、一輪の花にとってその春は最初で最後の春なのだ。各々の花がその場で、二度とない命を咲かせている。それなのに、人間は酒を片手に「今年の桜は…」と、毎年同じ台詞を吐いているではないか。私が花ならば、人間どもに怒ってしまいそうなものだ。「年々同じ花だと? はぁ? けしからん! お前らが鈍感なだけだろ。今ここ、目をまっさらにして、俺らの生きざまをはっきり見てみろよ!」
さて、私にとって、この春は50回目の春である。異性に振り向いてもらえなかった15才の春とも、禅寺に入門したばかりの25才の春とも意味の違う春だ。ましてや、ドイツの古い教会の裏で友達と遊んでいた5才の春とは比べようがないほど違う。思えばあの頃の一年は長かった。しかし今の一年はあまりにも早すぎる。まるで昔の一日のようだ。このまま早回しが進めば、残りの人生はあっという間に終わってしまいそうである。おや、そういう私も酔っぱらいのおっさんと同じことを言うようになってしまったなぁ…。刻々と進む腕時計の針に目を移して、ふと思う。「あの針の動きが昔より早くなったという感じがしないのは何故だろう」―それは、今ここ、現に起こっている動きだからだろうか。考えてみれば、だんだん加速しているように見える時間は、今ここを注視すると、いつもと変わらないリズムで流れている。吐く息も、吸う息も、子供の頃とほとんど変わらないのではないだろうか。息を吐いて、吸う。そのペースこそ変わらないが、命はまっさらな一息一息で絶えず再生されている。つまりは春の花も、その花を眺めている人間も、毎年違うのだ。毎年どころか、毎日あたらしい命を生きている。私たちはその当たり前のことに気づかずに毎日愚痴をこぼし、過ごしているだけである。日本人の平均寿命は、日数に換算すれば三万日以上だ。その三万日の内、特別な一日がある。それは自分が生まれた日でも、死にゆく日でもない。ましてや大好きな彼女と結婚した日など、その特別な一日と比べれば色あせてしまう。それではその特別な一日とはいつなのだろうか? そう、それはほかでもなく今日という一日なのだ。私は50才にして、今初めて「この日」に出会う。
同じ花は二度と咲かない。同じ一日は二度とやってこない。最初で最後の「この春」、私は比類のない「この花」を見る。この瞬間、私は二度と体験することのない命を生きているのだ。50才の春、そして今日というこの一日を大切に噛みしめたいと、願わずにはいられない。
2 育てること、育つこと
釈尊の教団には、提婆達多(だいばだった)という一人の弟子がいた。彼は釈尊のいとこで、ほかのだれよりも高い能力を持っており、真面目に修行に励んでいたようだ。教団の中には彼に憧れている兄弟弟子も多く、周りの人々からも釈尊の後には提婆達多こそ、その教えを発展し広く社会に普及させるのでは、と期待されていたと想像する。そして本人もついにその気になって、釈尊に言ってみた。
「ゆるい戒律を、厳しくしたい」  師匠に提案する弟子を、釈尊はどう受け止めたのだろうか。中道を説いていた釈尊は、その提案を聞き入れなかったそうだ。釈尊は修行の張り合いを弓の弦の調整に例えていた。緩すぎては矢が飛ばないが、きつすぎれば弓は折れてしまう。では、ちょうどよい張り合いは? そこには明確な答えがないため、仏道の実践者は昔から修行のさじ加減で四苦八苦している。ある人にとって緩い修行は、別の人にとっては厳しすぎる。皆が納得するようなチューニングは、なかなか難しい。提婆達多は結局、釈尊の中道で満足できなかったようだ。五〇〇人の兄弟弟子をつれて、教団を分裂させたと言われている。お経では大逆罪を犯した悪者として描かれ、生きながら阿鼻地獄に落ちたとすら伝えられている。ところが、法華経では釈尊を裏切ったその提婆達多ですら、ゆくゆくはブッダになるのだと説かれている。
残念ながら歴史的事実は実際のところどうだったのか、誰にも分らない。だが、私が想像するには、師匠を超えようとする提婆達多を釈尊が「たくましい!」と思っていた側面もあったのではないだろうか。彼自身のそれからの進展に期待していたかもしれない。ただ、師匠を超える前には、提婆達多には自分自身を超える必要があった。中道を否定していた彼は、自己流のエリート集団を作ろうとした。しかし、どんなに厳しい戒律を自他に課しても、まず自我を手放すことから始まらなければ、意味がない。
子供を持つ親は教育という壁に一度はぶつかるのではないだろうか。親を超えるような、立派な人間に育ってほしいと願っていても、なかなか思うように育ったないものだ。「いや、うちの子が…」とつぶやいている親自身も、子供のころは親に同じ思いを抱かせていたのだろう。ただ、その自覚は薄いように思える。
昔は日本でも多くの仏教僧が独身を貫いていたため、子育てなどに惑わされることはなかった。その分、生死の苦しみの済度に力を入れることができていたはずだ。しかし、自分一人が苦しみから解放されても、それによってほかの多くの悩めるものを救えないのであれば、大乗仏教としては意味がない。大乗仏教の目標はあくまでも、生きとし生けるものの救いなのだ。多くのお経で繰り返し言われているのは、「生きとし生けるものをわが子のように慈しみなさい」ということだ。つまり、仏教僧にとって、悩める衆生はみんな自分の子供である。親が子を育てるように、仏教僧は周りの人々にも仏の教えを広めて、それを互いに励みあいながら実践してもらいたいと願っているのだ。ましてや、師匠となれば、弟子に自分を超えてほしいと願う気持ちは親心そのものだ。
今日の日本の僧侶の多くは家族を持っている。師匠と弟子が親子関係にあることもけっして珍しくない。しかし私の実感として、家族を養うことと、仏道の実践は簡単に両立しない。少なくとも今の私は、自分の子供を弟子にするつもりは全くない。なぜなら、親の子に対する愛と、師匠の弟子に対する愛が全く異質だからである。子に対する愛は生理的な愛である。時には暖かく、時にはうっとうしく感じられる場合もある。「無条件の愛」といえば聞こえはいいのだが、ふたを開けてみれば無私の愛どころか、自己愛の延長線でしかない可能性は高い。抑圧した自己愛を転嫁し、子を溺愛するあまり子にうざがられる親もいるだろう。「血がつながっている」という幻想のためか、自分が実現できなった理想像を子に期待していることも多い。自分がなれなかったものに、どうして子を仕立てようとするのか。親が子を「自分のように」育てようとするのは、親としてまだ未熟である証拠だろう。教育とは、親が子を育てることではなく、まず親が親自身を育てることから出発しなければならない。親が自分を育てている姿を見て、子は育つ。子が育たないなら、自分を育てている親の見本がなっていない証拠だ。
私が弟子たちによく言う言葉がある。「きゅうりのように育ちなさい!」
安泰寺ではこの時期、成長したきゅうりの苗の上から一本のヒモをたらしている。それをつかんだきゅうりの苗はぐんぐん伸びて、夏には美味しい実をみのらせてくれる。ヒモは釈尊の教え、苗は自分自身のことだ。ところが、私の弟子の中にはトマトのような弟子も少なくない。自ら伸びようとせず、支柱に縛られることを待っている。ハウスの中で雨風から守られ、適切な水やりだけを期待している。家庭で縛られ、学校で縛られ、社会でも縛られて育ってきた日本人に多いタイプだ。師匠も弟子も、同じように仏に向かって育っている仏道において、それでは困る。弟子の育成は家庭菜園と勝手が違う。いっぽうで、かぼちゃのようにそこらじゅうにつるを伸ばす弟子もいる。「たくましい!」と思える反面、はた迷惑でもある。きゅうりの畝に間違えてかぼちゃの苗を植えてしまうと、夏には大変な騒動になる。あの一本のヒモを無視して、すぐ隣に伸びようとするきゅうりまで殺そうとするからだ。かぼちゃに足りないのは、他者への思いやりなのだ。師匠は弟子の育成に悩み、親は子の教育に悩んでいる。釈尊も、十人十色の弟子たちの扱いに悩んでいたのではないだろうか。しかし、人の成長で悩む前に、お粗末な自分に説いてみたい。「おい、無方! お前はどこへ向かって伸びようとしているのか?」
3 苦しむこと
誰にも目覚めの瞬間がある。私が6歳のクリスマスの日のことだ。突然コンコンと家のドアをたたく音が聞こえた。恐る恐るドアを開けると、そこには白いひげのサンタさんが片手に大きな白いバッグ、もう片手には竹ぼうきを持って立っているではないか!ドイツのサンタは24日の夕方に各家を回り、いい子にはプレゼントあげるのだが、悪い子には竹ぼうきで尻を叩くのだ。
「君は今年一年、いい子だったのかなぁ!?」 とサンタさんに聞かれたときには 「は、はぁぁぃ・・・」 と声がのどにつまりそうになっていた。お世辞にも「いい子」と言えないのは、私自身が一番わかっていたからだ。「おかあさん。それは本当のことでしょうか」 とサンタさんが私の横に立っている母に声をかけた。「う〜ん、どうでしょう。本当はもっといい子になってほしいんだけどねぇ」 と母親は私に訴えるように言った。サンタさんの表情は厳しくなり、「おやおや困りましたね」 と私に言った。緊張のあまりおしっこが漏れそうでもじもじしていたそのとき 「来年はきっともっと頑張ってくれると思うから、今年は大目に見てあげましょうか、サンタさん」 と母は助け舟を出してくれた。「おぉそうか、そうか。じゃぁ、これは君へのプレゼントだよ」 嬉しさで目を潤ませサンタさんの顔を見つめるとなにやら見慣れた顔ではないか。そこで綿で白いひげをつけただけの、隣の家に住んでいるおじさんであることに気づいた。「目からうろこ」とはこのことだ。
次の年に、母はがんで急死した。37歳だった。「どうせ死ぬなら、なぜ生きらなければならないのか」という疑問がそのころの私の胸にあった。牧師だった母方の祖父は、「命は、神さまがあなたに与えた贈り物だよ。それを大切にしなさい」という。ところが、サンタさんの正体に気づいてしまった私は、神の存在も疑わしくなっていた。人生の意味を聞くと、父は「それは学校の先生に聞いてみなさい」と逃げる。学校の先生は「もう少し大きくなったらみんなでお勉強するのよ」とかわす。どうやら、大人たちもわかっていないらしい。そして友達には「お前は変だなぁ。俺たちはそんなことを今まで一度も考えたことがないぜ」という。生きる意味に苦しんでいるのは、ひょっとして私だけなのだろうか?
「坐禅メディテーションをしてみないか」  それは一九八四年の秋だった。高校生だった私は、宗教の怪しげな勧誘だと思いながらも断りきれず、とりあえず参加してみることにした。その結果として、今日の私がいる。「君はどこにいるんだい?」と聞かれれば高校生の私はきっと自分の頭を指していたと思います。「この中で考え事をしているのが僕だよ!」  ところが、姿勢が変われば、どういうわけか自分が変わる。坐禅にはまってしまった一番目の理由は、首より下の自分の発見である。そして16年間お世話になった呼吸にも、坐禅して始めた気づいた。鳥の声、風の音…身近なものほど、気づかなかったことの多いことに驚いた。坐禅と出会って一年後、顧問の先生は学校をやめてしまった。「君はこれから、サークルの責任者になってくれないか」と、一度でやめるつもりで坐禅を初めたに過ぎないこの私に頼んできた時である。私は公立図書館に駆け込み、片端から仏教書を借りては読み漁った。釈尊の名を知ったのも、その時が初めてだった。二十歳過ぎまで何の不自由もない生活を送っていたはずの王子が、「すべては苦である」と言って出家したそうだ。私の周りの若者は「仏教なんて、暗い宗教だね」と言っていたが、ずばりと「苦しい」というその釈尊に、私は妙な親近感を覚えた。
「人生に悩んでいるのは自分一人ではなかった!」と気づいた。二千五百年前から、私の仲間がこの世にいたのだ。釈尊が菩提樹の下で坐禅をし、解脱を得たといわれている。ならば、私も日本に渡って禅僧になれば、すべての問題を解決できるのではないだろうか… そう思っていたものだ。
私を坐禅に誘っていた、定年退職間際の先生にそれを話すと、顔色を変えて「ちょっと待ってくれ」とブレーキをかけられた。一人の青年の人生を狂わしてはいけないとでも思っていたのだろうか。「今の君は悟りたいという一念で燃えているかもしれないが、三年後その熱も冷めるだろう。まず大学に進学してからにしなさい」 坐禅道場に通いながら、私は日本へ渡る準備としてドイツの大学で日本語を習い始めた。私の「求道」にずれが生じてきたのは、そのころからだ。坐禅をするのも、日本語を学ぶのも、すべて「悟るため」であった。いつの間にか、私は「悟り」という謎のニンジンを追いかけるロバに変身していたのだ。22歳の時、私は安泰寺の門を叩くことになった。ここで出家をすれば、いずれは悟れると期待していたのだ。ところが、師匠にこう言われた。
「お前の問題の解決は、棚から牡丹餅のようにはやってこない。苦しみのそもそもの原因は、むさぼりと憎しみと無明である。無明とは、今ここ、自分の在り方が分からないこと。だから、絶えず今ここから逃れようとする。今ここにない、別の何かを手に入れようとする。世間の人たちは、お金を追いかけて、異性を追いかけて、幸せを追いかえている。悟りを追いかけているお前は結局、同じスケベ根性でここまで来ているのではないか」 耳の痛い指摘であった。しかし安泰寺まで来た以上、何らかの成果を成し遂げたい。まさか、手ぶらで国に帰るわけにもいかないだろう。高校生から続けていた坐禅、大学で学んでいた日本語… それは何のためであったのだろうか。生きる苦しみを、お寺の修行で軽減されないのだろうか。「坐禅しても、何にもならんぞ。この『何にもならん』ということこそ、本当に腑に落ちるまでやっておかんと、本当に何にもならん!」 禅問答のようなこの言葉は、さっぱりわからなかった。苦しみから逃れるためにこそ、仏教の修行があったのでは? 「何にもならん」と言われれば困るのだ! しかし、この時点の私には、後戻りという選択肢はもはやなかった。師匠の言う、その何にもならん坐禅を、命を懸けてでもやると決心した。
4 手放すこと
「心を尽くして神を愛し、自分と同じように隣人を愛せよ」 第一の戒めを聞かれたイエスはそう答えた。自らの十字架を背負い、人類の罪を贖ったという。一方の仏教は「生きる事は苦しい」という気づきから始まり、各々の修行と解脱を教えのベースにしている。医師が処方箋を出すように、釈尊はその実物見本を見せたものの、その見本にならって実践しなければならないのは仏教徒一人ひとりの使命である。「自らをよりどころとせよ。他をよりどころとせざれ」というのが、死ぬ間際の釈尊が弟子たちに残した教えである。「私は私、あなたはあなた」、釈尊の教えにはそういうドライなところもある。生死の苦しみから解脱するためには、誰でも憎まないことはもちろんだが、キリスト教のように「敵を愛せよ」と仏教では言わない。キリスト教の愛に一番近いのは、仏教の言う四無量心だと思う。相手を慈しみ、その苦しみを分かち合う心と相手の幸せを喜ぶ心(慈と悲と喜)に加えて、最後には「捨」という完全な手放しが置かれている。このことも、仏教にやや消極的なイメージを与えているではないだろうか。そもそも四無量心は仏教の出発点というより、多くの人には「上級者向け」の話と思われている。少なくとも私自身の中に仏教的な愛の表現に興味がわいてきたのは、つい最近のことだ。
キリスト教の中で育った私は、教会の中で「愛」という言葉をうんざりするほど聞かされた。「イエスはあなたを愛している!」ーがしかし、そのイエスは遠い昔に死んだのではないかと、疑い深い私は思ったものだ。彼に愛されている実感はどうしても湧いてこないのだ。そもそも本当に存在しているかどうか分からない「神」をどうして愛せるのか? 人を自分と同じくらいに大事にする…それなら、頭でなんとなく分かる。なるほど、人間は皆平等なはずだから、自分を一番だと考えるのはおかしい。しかし、私は子供の頃から、「生まれてこないほうがよかったのでは?」と思っていた。つまり、自分すら愛せていなかった。自分も愛せないのに、隣人が愛せるはずがない。「愛している、愛してくれ、愛しよう」という宗教は、私の問題に答えてくれなかったのだ。同じように感じる日本人もいるかもしれないが、多くの欧米人は「仏教は暗い」という。諸行無常といい、一切皆苦といい、あまりにもネガティブな教えだ。でも私は違っていた。「すべては苦だ」と言う釈尊に、「よくぞ言ってくれた!」と言いたかった。生死は苦だと喝破した釈尊は私の最初のソウルメイトとなった。自分自身が嫌いのに、どうして人類を愛せるか? まず自分の問題を解決しないで、どうして世界の問題が解決しうるのか? 釈尊のように自分の苦しみと向き合い、その原因を突き止めたかった。原因さえわかれば、歯医者が虫歯を抜くように私も苦しみの世界から解脱できると思っていたものだ。
十六歳から坐禅をはじめ、二十二歳で安泰寺にたどり着いた。そのころ、仏陀といえば歴史上の釈迦牟尼仏という知識しかなく、日本仏教に様々な如来が拝まれるほか、多くの菩薩も信仰の対象にされていることには驚いた。「東司(とうす)」と呼ばれる禅寺のトイレに至っては、烏枢沙摩明王((うすさまみょうおう)というインドの神様まで祭られている。「キリスト教にはイエス・キリストのほかに神がいないが、仏教にはあらゆる仏や菩薩がいるようですね。ところで、安泰寺の本堂にある仏は何ブツでしょうか?」 入門当初のころ、住職に聞いてみた。「本堂の仏なんか、誰でもいいじゃないか。お前自身がここで仏にならなければ、どこを探しても仏は見つからないぞ」 この答えに驚いたとことはもちろんだが、なっとくするような思いもした。「そうか、仏教においては俺が主役か!」
禅寺では坐禅や読経のほか、台所の仕事も大事な修行の一つとされている。典座(てんぞ、禅寺の台所の責任者)は喜心・老心・大心を料理という形に変えなければならない。初めて料理当番に当たった時に、乾麺の頂きものがあった。「これでお昼にうどんを作ってみなさい」と先輩に言われたが、ドイツにはうどんというものがない。スパゲッティー・アル・デンテのつもりでそのうどんを湯がいてみたら、食後に「硬すぎ!」と指摘された。翌日は、同じうどんを柔らかくしてやろうと思い、三十分ほど湯がいた。鍋の中で、完全に溶けてしまったのだ。「どうせ、胃袋に入れば同じことだ」と言い訳しようとしたが、「なんとお粗末なこと! これでも修行しているつもりか?」と頭ごなしに怒られた。毎日、料理ばかりのことで怒られていたものだから、ついに反論してしまった。「僕は何も、料理の勉強をしに日本に来たわけではない。仏教が知りたい。自分の人生問題を解決したいのだ!」 それを横で聞いていた住職は大きな声を出した。「お前なんか、どうでもいい!」 主役であるはずの私のことが、どうして「どうでもいい」と言われなければならないのか、その時はさっぱりわからなかった。
典座の修行もさることながら、坐禅も大変だった。安泰寺では毎月、接心という集中的な修行期間がある。普段は坐禅を一日、四時間行うが、接心の間は五日間続けて、朝の四時から夜の九時まで無言で坐りっぱなし… 頑張れば、一日目は何とかクリアできても、二日目から地獄が始まる。足も痛ければ、腰も痛い。ジーっと壁を見つめれば、様々な思いが頭をよぎる。「どうして、ここでこんなことをしているのか? ドイツに帰って、まともな職を手に付けたほうがよいのでは?」 なにせよ、坐禅しても何もならないという住職の一喝が耳に残る。何もならない坐禅のために、ここまで苦しい思いをしなくてはならないのだろうか。しかし、このままドイツに帰っても、私はただの負け犬。私の問題がここで解決されなければ、どこへ行っても、永遠に解決されないだろう。どうしてか、この確信だけが私を安泰寺にとどめてくれた。それにしても、坐禅の痛さは半端ない。二日目が生き地獄なら、三日目は死んでしまうのでは本気で思ったことは何度もある。なにせよ、三日目には山の四日目がまだ先にあるのだ。「今がこんなに苦しいなら、明日の今頃は耐えられない!」 そういうときは、歯を食いしばって百まで数えてみたり、住職に気づかれないように静かに足をうごかしてみたり、何とかしてごまかしてみた。ところが、ごまかしの接心を何回やっても、残るのは自己嫌悪のみ。どうせやるなら、本気で坐禅がしたい。しかし本気でやっても、そこには三日目という見えざる壁が立ちはだかっている。住職に聞けば、何らかのアドバイスをもらえるのでは期待した私がバカだった。「接心の最中に死にそう? 心配するな! 安泰寺の墓場にはまだ十分スペースが開いている。お前が死んだら、わしがお葬式をしてやる」 笑えないジョークだった。
だが、次の接心で住職の言葉を信じることにした。「いざというときには、坐禅中に死ねばよい。どうせいずれは死ぬだろうから、この美しい山の中で自分のお墓を立てもらおう」 そういうあきらめに近い気持ちになった瞬間、坐禅は楽になった。もう歯を食いしばる必要はない。痛みから逃げる必要もない。このまま死のうとしたその時、不思議な気持ちになった。「私は生きている。いや、命が生きている! 今まで私が頑張って坐禅をしているつもりだったが、このあいだずっと、坐禅が私に坐禅をさせてくれていたのだ」 自分を手放しにしたその時、鼻の先にぶら下げていたニンジンは消えていた。長い間、求めていたものをつかんだ… のではない。むしろ手に入れようとしていた答えは、私を超えたところにあることに気づいた。私がそれをつかむのではない。私はすでに、それにつかまれていたのだ。
世界からの解脱を探し求めていた私が、世界という我が家を発見していた。自己をよりどころとすることは、全世界をよりどころとすることであった。この時から、世界は好きになり、生きることに抵抗感がなくなった。自分だけの問題を解決しようとしていた私は、この「自分だけ」という思いこそ問題だったことに気づいた。そこさえ手放せば、問題はどこにもない。そして今はわずかながら、同じ世界で共に生きている他者に対しても、いたわりの心が芽生えた気がする。人の「苦しい!」という声は、今の私にとって他人事ではなくなっている。
5 恋すること、愛すること
「恋することと愛することの違い、君たちにわかるかね」 高校の授業のある日、先生にそう聞かれた。恋することは英語ではto be in love。愛することは単にto love。そのころ、ちょうど初恋をしていた私にはどちらも同じようなことだった。相手を好きになり、相手にも好かれること。それは今まで経験したことのないハッピーな気持ちであった。「恋愛=ラブ」と確信していた私たちに、先生はこう続けた。「恋しているかどうかは、本人でなければ分からない。愛しているかどうかは、相手が一番よくわかる」 恋に落ちたその日から、二人には世界が変わって見える。初恋を経験したことのない人には、その気持ちは分からない。「僕たちには、世界がとくに変わっているように見えないけど?」 いや、好きになった相手にすら、この胸の焼ける思いは言葉を尽くしても、うまく伝えられない場合が多い。好きで、好きで仕方がないこの気持ちを…。しかし、本当の愛はそれと違うと先生が言った。愛は気持ちではなく、実践だという。高校生の私たちにも、目覚めなければならない時があった。初恋の気持ちはそうながく続かない。ちょっとしたことで勘違いが起こり、けんかになり、やがて音信不通になったりするのは多くの恋愛のパターン。初恋の相手と結ばれ、そのままハッピーエンド…というハリウッド映画によくある話は、現実にはなぜかあまり聞かない。そんなことを初恋にうつつを抜かしている高校生に私を力説したとしても、とても聞き耳を持たなかったと思う。
さて、道元禅師の『正法眼蔵』の「生死」の巻には、次の有名な言葉がある。 ・・・ ただわが身をも心をも、はなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなわれて、これにしたがひもてゆくときちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ仏となる。たれの人か、こころにとどこほるべき。 ・・・ 現代語訳を試してみよう 「今ここ、自分の身と心を手放して、仏の家の中に投げ入れること。そうすれば、仏の方から全てが行われている。自分は仏の力に従うのみである。ただ従うだけで、自分で力むこともなく、あれやこれや悩むこともなく、生死から自由になる。そういう生き方をしている人こそ、仏だ。おい、どうして『自分』に執着し続けているのか!?」
この書物がいつ書かれたかは定かではないが、道元禅師が中国から帰ってからまだそれほど年数が経っていないころだと想像する。親鸞聖人の教えと引き合いにされることの多いこの数行では、道元禅師は中国で得たとされている身心脱落の体験を表現している。禅修行は自力だといわれることはあるが、そうではない。修行は頑張ってするものではない。身も心も手放せば、坐禅は坐禅をし、念仏は念仏を唱え、命は命を生きている。「仏の方から全てが行われている」とは、そういうことではないだろうか。道元禅師の身心脱落にはとても及ばないが、私も「いざというときには、坐禅中に死ねばよい」と心に決めて、お墓に入ったつもりで坐禅をしていたら、ふと私を超えた力に包まれている経験をしたことがある。その時の気持ちは、初恋にも似ていた。昨日までの世界は消え、すべてがまっさらに見えた。しかし、そのことを修行仲間に言っても、話は全く通じない。毎日同じ釜の飯を食い、同じ風呂釜に浸かっているのに…。ところで、先の道元禅師の言葉には続きがある。
仏となるにいとやすきみちあり。もろもろの悪をつくらず、生死に著するこころなく、一切衆生のためにあはれみふかくして、かみをうやまひ、しもをあはれみ、よろづをいとうこころなく、ねがふこころなくて、心におもうことなく、うれうることなき、これを仏となづく。またほかにたづぬることなかれ。「仏になるため、簡単な方法を教えよう。まず、悪いことをしないこと。生死に執着しないこと。生きとし生けるものを大事にすること。お世話になっている方に感謝し、自分より弱い立場の人を助けること。あれこれ欲しがらないこと。イライラ、クヨクヨしないこと。そういう人こそ仏と呼ぶ。それだけであり、それ以上でも以下でもない。」 『正法眼蔵』の「生死」の巻の最後には、道元禅師は成仏の要を子供でも分かるような言葉で説明している。実践できるかどうかはともかく、意味を理解することは決して難しくない。しかし、この言葉を最初に読んだとき、私は「え?」と思った。「すでに結論が出ていたのではないか? 身も心も手放して、仏の家に中に投げ入れてしまえば、それで話が終わったのでは?」
身心脱落した者には、なぜ「悪いことをしない」という子供でも分かるようなことを言う必要はあるのだろうか。「感謝」や「思いやり」の大切さ、ましてや「イライラクヨクヨしないこと」など分からない人はいないだろう。ところが、身心脱落したつもりの人でも、いつかはまた腹が立つことがある。「今ここ、ありのままの自分」で落ち着いていたはずなのに、いつの間にか「あれが欲しい、これが嫌い」という思いも再び襲撃してくる。生きとし生けるものどころか、日ごろ一緒に修行している仲間たちですら、思うように大事にし、常に感謝と思いやりの気持ちで接することは難しいものだ。近頃、私に一つの気づきがあった。「なんだ、あの身心脱落という体験も、しょせんは仏とのファーストキスでしかない。仏との初恋の後には、一切衆生との結婚生活がつづく。時にはぶつかり合い、時にはにらみ合いながら、切磋琢磨して励みあう。自分を手放すのは一回だけの体験ではなく、毎日の実践でなければならない。」 恋しているかどうかは、本人しかわからない。本当に愛しているかどうかは、相手が一番よくわかる。修行の成果は、自分よりも配偶者と子供にはっきりと見えている。ああ、彼らの審判が怖い…。 
 

 

 
名僧法話

 

1.仏教について
仏教って何だろうか。そう思ったとき、たいてい私たちは、なにか観念的なものを想像すると同時に、それとはまったくちがった意味で、現実のお寺やお坊さんやお葬式を考えてしまうのです。しかもその二つの間にはなにか違和感があるような気がしながらも、それ以上考えてみようともしないでいることが多いのです。それは、私たちが、仏教の真理を行動に表している人の、人間性あるいは心根にふれていないからだろうと思います。真理を実践している美しい心根の人に出会ったら、私たちはどんなにかものの見方がかわることでしょうか。
仏教を一口にいうと、「三宝に帰依(きえ)する」ということになります。
仏に帰依し奉(たてまつ)る
法に帰依し奉る
僧に帰依し奉る
この三つが三宝帰依です。
「仏」は歴史上の人物としての釈尊(しゃくそん)ですが、釈尊のこころは、真理として私たちにもめぐまれているのです。その内なるこころを呼びさましてくださるのが、眼に見える形となったさまざまな仏像です。「法」は、釈尊の説かれたおしえです。そのおしえは自己の内なる真理として聴こえるものであり、その内なる真実を呼び覚ましてくれるのが、文字となって伝わっているお経です。「僧」は、もともと、釈尊のまわりに集まったお弟子のグループを意味していました。心のやすらぎを求める人々が集まるとそこにグループのもつ力の尊さというか真実の力が生まれます。そして、そういう心根の美しい尊い仲間になるのが、現実の道の友であり、またそれは仏教徒としての仲間でもあるわけです。このように、三宝は仏教の基本です。聖徳太子が、日本の精神文化の黎明(れいめい)期にいわれた、「篤く三宝をうやまえ」 というのは、仏と、おしえと、聖なる仲間という、自己の思いをはるかにこえた、大いなる真実の前に謙虚になることによって、自己の小さなこころから、真実の大きな世界へひろがってゆくということを意味したものだったのです。
ベルギーのブリュッセルで世界平和会議があり、私は日本代表団の一人として参加しました。会議の二日目に「仏教平和の祈り」というのをすることになっていたのですが、ところが、どういう儀式をしたらよいかわからない。結局「三帰依文(さんきえもん)」が中心だろうということになりました。仏教の仏教らしさは「三帰依文」につきるといえるわけです。
その三宝の中の、最後の僧に帰依し、随順することばは、
自ら僧に帰依したてまつる
まさに願わくは衆生と共に
大衆を統理して一切無碍(むげ)ならん
というのです。手を合わせ、口にとなえ、深くこころにとどめて、その真実の前に頭をたれる。それが仏教徒としての出発点なのです。僧に帰依するというのは、「一切無碍ならん」ということだというのです。無碍というのは“さわりなし“”障害なし“”仲間たちの間にまごころが無限に広がってゆく“ということですが、そういう融通性(ゆうづうせい)のある「真実眼(しんじつがん)」をひらこうというわけです。
「僧」というのは誰のことかというと、お経には、
大聖文殊師利菩薩(だいしょうもんじゅしりぼさつ)
大乗普賢菩薩(だいじょうふげんぼさつ)
大悲観世音菩薩(だいひかんぜおんぼさつ)
とあります。つまり僧というのは「大乗の菩薩」のことです。
大乗の菩薩というのは何かといいますと、自分のみがさとりを得、自分のみがすくわれるために修行をした人ではなく自分のためにのみしていたのではどんなによいことをしても、その心のせまさの故に無限のおおらかさには恵まれないと気づいた人々のことです。理想主義、完璧主義では必ずしも人間は幸せになれません。欠点を認め、不完全のままに、いや不完全で欠点だらけの自分たちだからこそ、人の欠点をゆるし、人の苦しみ、悲しみをゆるしあい、たすけあわなければ生きてゆけないお互いであることに気づき、そこに仏教のすくいもとめた人びと、それを大乗の菩薩というのです。ごくふつうの人びとすべてをのせることのできるのりもの、という意味で「大乗」というのです。
その大乗の菩薩の筆頭が文殊菩薩なのです。この菩薩は、智慧の菩薩、人びとに正しい智慧、正しいものの見方を開眼させたいと願って永遠に説法・仏教の講義をつづけているお方です。その次が普賢菩薩で、このお方は慈悲・愛情と悲しみをわかってくださり、懺悔をきいてくださるお方なのです。その次が観世音菩薩、このお方は、人びとが苦しみ、真剣になって「まこと」を願う気持ちになったとき、そのまこと・真実をききとどけてくださる菩薩です。
つまり菩薩とは、真理をみる眼をわかちたいというめざめ、深い悲しみをわかちたいという愛、願いの心をわかちたいといういたみによって、囲りの人びとのこころが痛いほどよくわかる方であり、その人びとのこころとつながっている故に、みずからが支えられ生きいきとしている方のことなのです。
「僧に帰依する」ということは、そういう菩薩の心根を美しいと思うことです。そして、そういう心根を美しいと思うこととは、とりもなおさず、自分がそういう心根になっていることなのです。
人の苦しみ、悲しみがよくわかる、そして、その人になにかをしてあげたい、その思いが私たち自身を支えてくれるものです。しかし、私たちのそういう思いにかかわらず、家族、友人、そして周りの人びとに、いかほどのことをしてあげることができましょう。なすべきことの十分の一のこともなしえぬまま、家族の死をみとったときのあの無念さのように、真剣になればなるほど、自己の愛情のむなしさ、無力さというものを感じさせられるものです。
そういうとき、人は「他への思いやりが私自身を支えている」という菩薩精神は絵そらごとであり、現実ばなれした理想でしかないのではないかという疑いをいだくものです。それは一ぺんに理想的なことを想像してしまうからです。
いま、ここで、自分にできることは何か。無力でおろかしい自分が、周りの愛する人びとのためにしなければならないまず最初のことは何か。自分にできることは何か、この現実からはじめるべきなのです。
2.慈悲
「眼を開けばどこにでも教えはある」  この教言は、『首楞厳経(しゅりょうごんきょう)』の経文で、道を求める志願が強ければ、日常の生活のただ中において、何かを縁として深く教えられることがある、ということを明かしたものです。そういうことは、誰でも経験することでしょうが、いまはかつての経験をもうしてみたいと思います。私が若い頃、ある夏の日に、子供をつれて三重県の鳥羽海岸に遊びにいった時、御木本(みきもと)真珠養殖場を見学いたしました。そしてはじめて真珠が誕生するまでの仕組みを知りました。それによると、おおきく成長した真珠の母貝、アコヤ貝を海から引き上げて、その貝の殻を少しだけこじあけ、その中に小さな石粒のようなもの(真珠核)を入れます。そしてその貝を籠に入れて再び海に戻します。アコヤ貝にしてみれば、たまったものではありません。動くたびに、中の核が動いて柔かい内蔵にあたります。どんなにか痛いことでしょう。そこでこの貝は、その痛みをやわらげるために、いままで自分の殻を大きくするために廻していた成分を、この小粒の核に巻きつけるのです。自分の生命を削って、この核を自分と同じ体質にしようとするわけです。そしてやがて幾年かたったのちに誕生するのが真珠です。だから真珠とは、その母貝の大きな痛み、その熱い涙の結晶として生まれてきたものです。
私はこのような真珠が誕生するまでの話をききながら、仏の慈悲の教言を思い出しました。この慈悲とは、原語では、慈とはマイトリーといい、切っても切れない深い繋がりのことであり、悲とはカルナーといって悲しむこと、うめ呻くことを意味します。仏とは、十方の衆生、生きとし生けるものを、切っても切れない繋がりをもつものとして、いかなる異質のものも、どれほど叛(そむ)くものであっても、いつかは必ず自分と同じ仏にまで育て上げたいと願い、つねに深い繋がりをもったものとして包みこみ、かたときも離さない心、大慈の心をもち、またそのためにこそ、いつもその異質のもの、叛くものを包みこんで、大きな慈しみの心、大きな呻きの声をもらしているというのです。真珠の母貝が小石(真珠核)を抱いて呻いているとは、まさしくこのような仏の慈悲の心に、そっくり重なる話です。その母貝のような核が私です。その母貝が呻きながら、その核を真珠にまで育てあげるのが、仏の大慈大悲の働きにほかなりません。
私は改めて、この真珠の母貝の痛みを思いながら、仏の慈悲の教えに、深く同感し、教えられたことでありました。そしてまた、私が若い頃、大学の教員であった時、大学の宗教部から依頼されて、その機関紙に一文を書いたことがありました。私はそこで、私にとっての仏法、念仏の教えとは、ちょうど靴の中に入った小石みたいなものだ、ということを語りました。
私の少年時代、昔の田舎道は、舗装されていませんでしたので、道を歩いていると、よく小さな石粒が靴の中に入ってきたものです。すると、時々その小石が足の裏にあたり、チカッと刺して痛いわけです。私にとって、親鸞聖人(しんらんしょうにん)の教えというものは、ちょうどそんな靴の中の小石のようなものです。人生を生きていると、時々その教えが、私の胸に厳しく刺さって、痛みを感じることがあります。靴の中の小石なら、ちょっと立ちどまってその石を出せばよいのですが、この親鸞聖人の教えの痛みは出すわけにはまいりません。どんなに痛くても、じっと耐えて歩くほかはありません。しかしまた、私はその教えの痛みをとおしてこそ、私の人生を曲がりなりにも、よくここまで歩いてこられたと思うことです。そして、これからもまた、この靴の中の小石、親鸞聖人の教えを大切に生きていこうと思っています、ということを書きました。
当時の学生さんが、この私の文章を、どれほど読んでくれたかは分かりませんが、その文章をめぐって、当時の大学の経済学部のT教授から手紙をいただきました。この教授は、もとは京都大学の教授で、日本経済学会ではとても著名な方でありましたが、定年退官後に、龍谷大学に勤務していただいていた方でした。その手紙によりますと、先生は若い頃から親鸞聖人の生き方に魅力をおぼえ、自己流に親鸞聖人について学ばれていたようです。そこで、この私の文章を読んで深く感銘した、私が若い頃から胸に描いていた親鸞像と、この靴の中の小石という、あなたの親鸞像がピタリと一致した。私はまったくの素人であるが、専門のあなたの理解と同じであったことを嬉しく思い、こうして感謝の手紙を差し上げる、ということでした。まだ若かった私は、たいへん恐縮したことでありましたが、まったくの素人だといわれながら、親鸞聖人の思想、その生きざまの本質を、まことに的確に理解されていることに、深い敬意を表したことであります。
なおそのことがあった後まもなくして、新聞の人物評伝の中で、このT教授が写真入りで大きく取りあげられ、先生の学問業績に対して、政府がいろいろと勲章その他をもって表彰しようとしたが、先生は、私は自分が勝手に好んで学問し、また学生を教えることが無上の楽しみだから、この道を歩んできたわけで、国から褒められる理由などさらさらないと、堅く固辞して、なんの栄誉も受けられなかった。T教授とは、そういう人柄であると書かれておりました。私はこの記事を拝見して、さもありなんと思い、このT教授を、いっそう尊敬するようになったことです。このことは、私の若い頃の忘れがたい思い出であります。
私は、仏法を学び、念仏の道を生きていくということは、生まれたままの私、地獄や餓鬼(がき)や畜生(ちくしょう)の生命を生きている私と、仏法、念仏によってこれまでに育てられた私、浄土、仏の生命を生きる私との、まったく矛盾し背反する二人の私の、両者の闘いに生きるということでもあると思います。その日々の闘いにおいては、いつも生まれたままの私が勝ってしまうような、まことにお粗末な私の人生生活でしかありませんが、それでもなお、私の人生は、今もなお、その両者の闘いとして続いているわけです。そしてこのような具体的な実感というものは、書物をとおして学ぶというよりも、私たちの日常生活のただ中で、いろいろと経験され、思いあたることでありまして、仏教を学ぶものは、心して生きているならば、それぞれにおいて、そういうような経験を、いろいろともつことができるでありましょう。
3.そしらず・へつらわず・ねたまず
相手の悪口をいったり、けなしたりするのを「そしる」といいます。このように他を非難する醜い言葉が吐かれる原因は何かといえば、要するに自分が可愛いからでしょう。自分より相手がすぐれていたり、自分の持物よりよい物をもっているのを見ると、ついむらむらと湧いて出るのが、口汚い「そしり」の言葉です。「へつらい」は俗にいうおべっかで、相手の気に入るようにおだてたり、お世辞を言ったりすることです。なぜそのように心にもないことを言ったりしたりするかというと、少しでも早く人より出世したいという、やはり自分の可愛いさからでしょう。おもねる(気に入るようにする)・こびる(相手のごきげんをとる)など類語(意味が似ている語)が多いのは、それだけ人間の弱さを示している、ともいえます。「ねたみ」も他の長所や幸運をうらやむだけではなく、憎んだりくやしがるのをいいます。それが烈(はげ)しくなるとその人の幸福を邪魔したり、殺したり恐ろしい結果に及びます。一般に考えも及ばない殺人などの結果を招く原因はやはり、最高に自分が可愛いというのが基だと思われます。このように見てくると、そしるのもへつらうのもねたむのも、すべて自分を中心にして、自分のことだけを考えて行動する、いわばわがままです。わがままは心の暴動です。
仏教には創造の神はありません。したがって、私たちの一生は神に支配されるのではなく、自分の行為で善くも悪くも自分の一生をつくり、自分史を書き綴っていくのです。その行為を仏教語で「業(ごう)」といいます。善い行為を善業(ぜんごう)、悪い行為を悪業(あくごう)と呼びます。仏教思想では、善悪いずれの業(行為)も私たちの身と口と意の三つの器官でなされるとします。これを身業(身でする行為)・口業(口でする行為)・意業(心でする行為)の三業(さんごう)といいます。さらに詳しく申しますと、身でする身業の悪業は「殺す・盗む・不倫の性行為」の三悪業(さんあくごう)で、身の善業は「活かす・与える・正しい性行為」の三善業(さんぜんごう)です。故に身業は、「三つの身の動作」といえましょう。次に口でする悪業は「悪口・両舌(りょうぜつ)(仲たがいをさせるために双方に違ったことをいう)・綺語(きご)(飾りたてたことば・お世辞)・妄語(もうご)(うそいつわり・いらざることをいう)」の
四悪業(四つの悪行為)です。口の善業はその反対の「ほめる・真実を両者に告げる・言葉を飾らない(お世辞をいわない)・真実を話す」の四善業です。つまり口業は、「四つのものの言い方」です。最後の意がする悪業は、「貪り(欲の深いこと)・瞋(いか)り(怒ること)・愚痴(ぐち)(正しい通りを知ろうとしない為に生じる心のゆらぎ)」の三悪業で、対する意業の三悪業は「足ることを知る・怒らない・正しい教えを常に聞いて心を柔らかにする」にあります。要するに意業は「三つの心の調え方」にあります。以上、身と口と意とで造る悪業の合計が十あるので、仏教語で「十悪業(じゅうあくごう)」と称します。十悪業をわかりやすく和讃(わさん)で、 ・・・ 意(こころ)に三つ 身(み)に三つ 口に四つの 十悪業 ・・・  と詠いあげます。十悪業の名称については先に学びましたが、身と口と意に分けると口の悪業が「悪口・両舌・綺語・妄語」と四つもあります。昔から“口は禍(わざわい)の門(かど)(もん、とも)”といわれます。自分の口から出た言葉が、禍を招くことがあるから、“言葉をつつしむように”との教えです。
しかし、人を感動させるよい励ましの言葉も、お念仏も、お題目もみな口から発しられますから、“口は幸いの門”でもあります。口が禍福(かふく)のいずれの門になるかは言葉の内容にあります。いま、学習中のテーマ「そしる へつらう ねたむ」はすべて、口でする悪業です。「日本人は他の陰口をたたくのが好きだ」と評した外国人があるそうです。マッカーサーは「日本人に陰で褒めてもらうのには莫大なチップが必要だ」とジョークでしょうが言ったといいます。評論家の亀井勝一郎さんは、“言葉は心の脈拍だ”といいます。その理由は、医師は脈を診てその人が健康かどうかを知るように、言葉を聞くと、本人の心の健康状態がわかるとするのです。荒々しい言葉を吐く人の心は必ず荒れている。静かな言葉遣いができる人の心は和やかである―と。
私は“言葉は心の足音である”と考えます。心は姿も形もないので見えませんが、言葉のトーンを聞くと、見えないその人の心の動きが確かに聞こえてきます。言葉つまり口の行為の口業は単独に起きるのではなく、その大本は心にあります。心の動きよう(意業)が、ものの言い方の口業に現われ、また行動や動作の身業を喚び起こすので、意業がいわば人間のする行為(業)の総指揮者です。総指揮者の意業を正しく調えるのにはどうすべきでしょう。大正八(一九一九)年に六十一歳で亡くなった釈宗演老師(しゃくそうえんろうし)(鎌倉円覚寺管長)は、座談の席などでほかの長所や徳行を褒める話になると宗演老師は、心からその人を讃えられたといわれます。老師のなされたことはやさしいようで、容易にできないという人もいます。しかし、本当に他をそしったり、悪口をいう習慣を直そうとの強い決意を持ってやろう、とするなら、やってやれないことはないでしょう。もし話の勢いで他の悪い批判を止めることも、話題も変えることができなかったら、静かに立ってトイレでも行きましょう。中座して座が揺れると、話題が自然に変わることもあります。要は、ただただ実行にあります。
“一人では何もできないが、一人が創(はじ)めなければ何も出来ない”という英国のことわざを、私は中学生時代に英語のリーダーで習いました。そしてそのときの若い先生が情熱をこめてこのことわざを解説して、最後に「ことわざにある事を創めるひとりになろう―」と、本当に涙を流しながら少年の私たちに力説されました。私は強く感動して今も私の心の杖ことばにしています。事が成ると成らぬとを問わず、人としてすべき事なら「成そう(やろう)」と自分に近い、始めるのが仏教思想の『菩薩(ぼさつ)』であることを、その後に学びました。読者の皆さまと共に、『そしらず へつらわず ねたまず』を誓願する菩薩になりましょう。
4.布施について
布施というとお坊さまにお経を読んでいただいてお礼をするものと、一般には考えられているが、そんな簡単な話ではない。自分が帰依し、あるいは先祖をまつってくれている寺を檀那(だんな)寺と呼び、その寺に所属している信者を檀家と呼び、さらには妻が夫を呼ぶときの言葉になったりというように檀那という言葉は、日本人に親しまれてきた。この檀那は梵語(ぼんご)の「ダーナ」を音写したもので訳して「布施」となった。布施には財施(ざいせ)と法施(ほうせ)があり、財施はお金であったり、お米や野菜や衣類などという、いわゆる「物」であり、法施は仏の教えであったり、愛の言葉やほほえみというような「無財(むざい)の七施(しちせ)」とよばれる慈悲の心の施しをいう。その施しをするときの大切な心得は、見返りを期待してはならない、ただやれというのである。無所得の布施を浮きぼりさせるために有所得の汚れた布施を眺めてみよう。『倶舎論(くしゃろん)』に不純な布施の七つが挙げられている。
一、随至施(ずいしせ)―あまりにしつこく乞われるので断りきれずにする布施。
二、怖畏施(ふいせ)―それをしないと具合が悪くなりそうなので、しかたなくする布施
三、報恩施(ほうおんせ)―恩返しのためにする布施
四、求報施(ぐほうせ)―返礼を期待してする布施
五、習先施(しゅうせんせ)―習慣であり、先例にもとづいてする布施
六、希天施(けてんせ)―その功徳によって天界に生まれたいと希望してする布施
七、要名施(ようみょうせ)―名声を高めるためにする布施
ああ何と、人間の心の奥にうごめく醜い心を、浄頗璃(じょうはり)の鏡にうつし出すようにとらえたものと感心する。
若き日、旅先で得がたいといわれる墨蹟を求めることができ、よい土産とばかりに書をよくする大先輩に贈った。“わしゃいらんけれど、人にやってもいいから貰っとくわ”という先輩の言葉に、思わず「先生にさしあげたくて求めてきたものです。人にやるならさしあげません」という言葉が私の口からとび出し、ハッとした。「ありがとう、大事にします」という一言を期待している私に気づいたのである。まさに求報施である。“ひとにあげようが、捨てようがお好きなように”といえない自分の姿に気づくことができ、すまなかったという思いと共に、仏法に出会わせていただいているお蔭で、そういう汚れた自分に気づかせていただくことができたことをありがたいと思ったことである。三百年近い本堂の立てなおしをしたときのこと。檀信徒の方々にお願いするにあたり、私は建設委員の方々にたのんだ。「一度だけ袋を配り、いかほどでもよいからお気持ちを入れていただき、集めてください。一切発表は致しません」と。建設委員が言った。「それでは資金が集まらない」と。私は言った。「名前を出すか出さないか、またはあの人がこれだけ出したから負けないようにとか、そういう寄付の集め方ではなく、ほんとうの浄信による布施で建てたいから」 と。名前や寄付額を発表するかしないで寄付金の額を変えるなどは、「要名施」そのものといえよう。無所得の浄信のむずかしさを思うことである。
布施というはむさぼらざるなり。むさぼらずというは、へつらわざるなり。(要約) ・・・ この道元禅師の言葉に出会ったとき、私はぎくりとし、立ちどまり、幾度も読み返し、その凝視するところの深さに驚いた。わずかなお賽銭を投げるにさえ、山ほどのたのみごとをする。条件づきの布施の心のどまん中には「わが身かわいい」思いがとぐろをまいている。財施ばかりではない。たとえば無財の七施の一つである「和顔施(わげんせ)」、つまりほほえみさえも、貪りやへつらいの心がしのびこむ。
幼な子の無垢なるえみのまばゆさに たじろぎつおのが姿かえりみる ・・・ これは「えみ」という勅題(ちょくだい)(平成十八年)によせて詠じた私の歌である。 ・・・ たとえば捨つるたからを しらぬ人にほどこさんがごとし ・・・ これも道元禅師は布施の心の中で説かれている一節であり、「捨」という言葉に注目したい。「行捨(ぎょうしゃ)とか不害(ふがい)の心を忘れると、善は押しつけとなり、おせっかいとなり、悪に転ずる(要約)」と語られた太田久紀先生の言葉を、重く心にいただきたい。自己満足にすぎなかったのではないか、相手のお荷物になっていなかったかと。
5.苦しみについて
私たちのいま生きているこの世界を、仏教では「苦の娑婆(しゃば)」とよんで、きらっています。確かに、何事も自分の思い通りには事が運ばず、周りに気をつかったり、相手と嫌な思いで付合わなければならず、まさに、この世はままならない、苦悩の連続なのです。楽しい、嬉しいと思った時はすぐに終って、嫌な思いの方が長く感じられます。満足した思いは一刻しかつづきません。だから娑婆世界を「忍土(にんど)」、がまんしなければならないところと呼ばれる由縁です。苦しい、つらい思いをして、それに耐えて一所懸命に努力して目的を達成できたときは、こんな嬉しい事はなく、むしろ、楽々として仕上がったときよりも、苦心してできたときの方が、喜びの感動はくらべものにならないくらい深いものがあります。まさに「苦あれば楽あり」の諺(ことわざ)のとおりです。とすると、苦しみは喜びの種子ということになります。
戦後の食べるも物もなく、生きていくのがやっとという時代を考えたとき、現在の日本の生活は、当時まるで想像もできなかったような豊かな恵まれた生活を送っています。しかし、わたしたちは常に不満をもって生きています。恵まれた生活だということを知らずに、あるいは知ろうとせずにいる人が増えてきています。感謝する心を失った心貧しい人が増えているように思えてならないのです。なんでも欲しいものが手に入る生活の中で育った人には、物がない、食べるものがない生活など想像もできないことですから、有難いと思う気持が持てないのは無理もないことかも知れません。そうすると、貧しい生活をしたおかげで、豊かな生活を味わえることができるということで、貧しい暮らしもまたよしということでしょうか。私たちは、どうも目の前のことばかり気になって、それに振り回されているようです。「禍福はあざなえる縄のごとし」のことわざもあるとおりで、もっと長い目、視点を高くしてものを見る必要がありそうです。
無駄なようでも決して無駄ではない。無駄にしないようにすれば、積み重ねの基盤の一つの大事な役目になると気がつけば、病んだおかげで健康の有難さがわかり、家族や周囲の人の思いやりの温かさを知ることもできるというもので、「病むもまたよし」という積極的な生き方に転換できます。見方、観点の転換です。「さいわい」という意味のヘブライ語には、また、「あるがままにある」という意味があるそうです。「あるがまま」をそのまま素直に受け入れられるときが「しあわせ」ということです。『法華経(ほけきょう)』方便品(ほうべんぼん)に「諸法実相(しょほうじっそう)」という言葉があります。すべて存在するもの(諸法)は、すべてものの有り様を示している。すべて存在する理由があって存在しているものであるということです。わたしたちは、それを自分の立場からだけの判断で、善い悪い、いる、いらないなどと、きめつけてしまっています。
何か自分に語りかけてくれているものがあるはずだと、物事を受けとめたとき、苦は姿を変えます。苦の娑婆も、忍土ではなく、人間性を高めるための宝の山となることになります。娑婆こそ浄土という由縁です。『法華経』方便品の中に、「仏さまは『仏知見(ぶっちけん)』を示し、悟らせ、仏知見の道に入らせようとするためにこの世に出現された」と説かれています。苦の中にも、輝きを見いだす生き方が仏知見なのでしょうか。日蓮聖人(にちれんしょうにん)(日蓮宗の開祖・一二八二年寂)の言葉の中にも、 ・・・ 題目の光明に照らされて本有(ほんぬ)の尊形(そんぎょう)となる ・・・ とあります。自分の物差や立場で、ものごとを推し測ったり、考えたりせずに、私見をまじえずにもっと公平な、大きな高い視野に立ってものを視、ありのままの姿を素直に受けとめられたときには、そこにはすべて「いのちの輝き」が光っていることに気づくのです。それを信じて、及ばずながらも自分たちも努力していくことが大事なことで、それによって仏の知見に近づくことができるのです。
 

 

6.修行について
修行というのは文字通り行を修めることで、くりかえしくりかえし行うところに、修行の本義があります。一回や二回行っただけでは修行にはならないわけです。ふつう、「修行」といえば、苦しいこと、つらいことのように受取られます。だが、また「何ごとも修行だ」とか「修行だと思ってやればいい」という言葉のニュアンスには何かしら、釈尊が六年間苦行をつまれたという歴史の事実がふくまれているように感じられます。思えば、私たちの一生は修行であるといえるでしょう。それは行きつくことのない無限修行であり、この世を去って初めて完結される修行であります。
旅に病んで夢は枯野をかけめぐる ・・・ よく知られた芭蕉の辞世の句です。もっとも芭蕉は、一句、一句が辞世だと生前いっていますが、人の一生はまさに旅にたとえられるわけです。人生の旅は修行そのものです。峨々(がが)とそびえたつ山もあれば、超えがたいような河もあります。むしろ平坦な道は少ないといったほうがよいかもしれません。楽しいことよりもつらい、苦しいことのほうが多いようにさえ思われます。ルパング島から生還した小野田寛郎(おのだひろお)さんが、三十年の間にうれしいことは何でしたかという質問に対して、「この三十年間、うれしいことなどひとつもありませんでした」と言った言葉には深く心打たれました。しかし、考えてみると、それは各人それぞれ程度の差こそあれ、やはり、わたしたちもジャングル生活とあまり変わりのないような日々を送っているのかもしれません。
花のいのちは短くて苦しきことのみ多かりき 林芙美子(ふみこ) ・・・ 苦しく、つらいことのほうが多いだけに、いっそう「人生は修行」という言葉が身にしみて感じられます。釈尊の後半生はもとより一所不住で、教化の旅をつづけられながら、旅の途中、クシナガラで入滅されました、わが国でも放浪の旅をつづけた、いわゆる遊行僧は決して少なくありません。 ・・・ ねがはくは花のもとにて春死なむ そのきさらぎの望月のころ ・・・ という西行の歌は日本人であれば誰でも共感することのできる境地でしょう。西行はやはり遊行の生涯のあいだにすぐれた多くの和歌を残していますが、この歌はさとりの境地へのあこがれともいえます。「旅は旅すること自体が目的である」と、ゲーテが言っています。目的地に達するプロセス自体が目的であるというのは、私たちの生涯の歩みに限りなく深い意味を与えてくれます。散歩する場合に、その一歩一歩あゆむ散歩という行為自体が散歩の目的だというたとえも同じであります。
だからまた、さとりをもとめる心がおこったときには、すでにある意味でさとりの世界に入った状態だといえますから、それを「発心即到(ほっしんそくとう)」(発心すれば、すなわち到る)といっています。室町時代の世阿弥は能を大成した人で、『花鏡(はなかがみ)』という書物を残しています。これは能の心得を説いているものですが、その中で「初心忘るべからず」といっています。少年のころに初舞台を踏みます。そのときの心くばりを生涯忘れぬようにつとめなければならない、というのです。禅のほうでは「悟後(ごご)の悟り」ということをいいます。悟りのうえにも悟りを重ねてゆくところに修行の本義があるというのでしょうが、これは人生の万般(ばんぱん)に通じることです。仏語に頓悟(とんご)とか頓覚成仏(とんがくじょうぶつ)という言葉があります。ある日、突然に目の前がパッと開けたように、あるいは竹を割るかのように、スパッとさとるといったように受け取られています。文字どおりに解すると、たしかにそのとおりの意味だと思います。しかし、ではその境地に達すれば修行の必要がないかといえば、むしろますます修行が必要とされるわけです。
さとりというものは決して険峻な山岳の頂上の一点のようなものではなく、修行のひとつひとつがさとりの世界につながっており、そうした修行の積み重なりそのものがさとりであるといわなければなりません。釈尊が三十五歳で成道(じょうどう)して仏陀となられたのは、この世の生涯における修行だけではなく、限りない過世去(かこせ)からくりかえされた結果であるという信仰があります。このように数限りない修行は過去世から積まれたもので、その報いとして仏陀になったのだという考え方を「報身仏(ほうじんぶつ)」といいます。こうした信仰が形成されたうらには、修行というのが一朝一夕に成就するものではないという考えがひめられていることはいうまでもありません。また、釈尊はあらゆる生きとしいけるものが計りしれない苦相(くそう)に沈んでいるありさまを洞察する三明(さんみょう)の智慧を得られて、ついにさとりに到達されたというのは、やがて成道後に釈尊のさとりの智慧が生けるものすべてに対する救いと導きとの慈悲のはたらきとなってあらわれていることと無関係ではありません。
さとりの世界がおのれひとりのものではなく、生きとし生けるものへの限りない慈悲のかたちをとるところに、大乗仏教の極致が認められます。釈尊のさとりの智慧は衆生愛のはたらきそのものとして顕現(けんげん)しているのです。もし梵天勧請(ぼんてんかんじょう)を受けることなく釈尊がそのまま入滅されたならば、仏教はおそらく単なる智慧の哲学にとどまったかもしれません。何ものをも大きくあたたかくつつみこんでいる慈悲にあふれた釈尊の姿を仰ぐとき、私たちは生きた血のかよっている修行の果報ともいうべきものを感じないではいられません。
7.おのれの主
おのれこそはおのれの主(あるじ)、おのれこそはおのれの頼りである。だから、なによりもまず おのれを抑えなければならない。『法句経(ほっくきょう)』 わたしたちは、しばしば自分を見失います。わかっていながら、自分ではどうしようもなくなるのです。その原因、理由はさまざまです。「あいつに負けた、悔しい」などということはよくあることです。「金や地位を失って、これからどう生きていこうか」と絶望することもあるでしょう。希望通りにことが運ばないこともよくあります。病気や失恋も、人生における大きな心の傷となります。
平成二十年に、東京の秋葉原で通り魔事件が起こりました。犯人の青年は、秋葉原の歩行者天国にトラックで突っ込んだあとナイフで凶行におよび、十七名の死傷者を出しました。通り魔事件としては史上最悪の事件のひとつとも言われています。その青年は、「思い通りにならないことがあっても誰にも話せない。誰でもいいからかまってほしかった」と述べています。やったことはもちろん許されないことですが、この思いは社会に疎外された現代の若者に共通しているのかもしれません。しかし、思い通りにならないと思うのは、自分の自我(じが)に振り回されているからです。その自我が「ないものねだり」をし、「限りなくねだる」から、いつも欲求不満に苦しむのです。これは、わたしたちの性(さが)といってもいいでしょう。
傷ついた心は癒(いや)されなければなりません。そして、空腹になったら自分で食事するしかないように、心が傷ついたら自分自身で癒すしかないのです。こればかりは、他人にねだって頼むことはできません。自我や欲望を抑えることが、自分自身を調えることにつながるのです。
8.仏について
「この世に、はたして仏はいるのかどうか」 という質問をよく受けますが、仏とはいるのではなく、あるものだと思います。人智の発達していなかった昔や子どもの頃は、仏とは、ちょうどサンタクロースや雷さまのように天上にいて、人間の形をしていつも私たちを見下ろしているような存在だと、考えられてきましたが、私にはとても信じられそうにありません。では、いったい仏とは、どのような存在なのでしょうか。仏とは、「この世にあるすべてのものを、しあわせに導く条件である」 といってよいのではないかと思います。それは過去から未来にわたって、生きている人物や品物や機会を通して知られるものであり、釈尊は幸せになれる条件を満たして、仏(悟りの境地)になった先達であり、私たちもそうした条件を満たせば仏になることができましょう。
しあわせになる条件とは、すべてのものがほほえめるように、お互いが自分のこの世でやるべきことに専念努力し、他には思いやりの気持ちで接する、すなわち智慧と慈悲のはたらきを兼備(けんび)して、生きてゆくことをさしています。大乗仏教では、この世にあるすべてのものに仏になる性質(仏性)があるといっています。中国の学僧・湛然(たんねん)(七八二年寂)は『天台本覚論(てんだいほんがくろん)』に、「草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)」 といって、この世のあらゆる自然物も人間と同様に、仏性があると説いています。「だれもが、もし仏性をもっているのなら、特別に修行をしたり努力をしたりする必要はないのではないか」という疑問がとうぜんわいてきましょう。
これに対して鎌倉時代の道元禅師(どうげんぜんじ)(曹洞宗の開祖・一二五三年寂)は、私たちは仏になろうとして修行をするのではない、と考えました。彼方にある悟りの境地(仏)を目指して努力をすればするほど、そこに、たどりつけない自分を自覚して苦しむばかりですが、自分はすでに仏の中にあり、仏の中だから修行できると考えたのです。“入我我入(にゅうががにゅう)”といって、自分が仏の懐中に飛び込めば、仏も自分の中に飛び込み、自分が仏のようになって、自由自在に生きられるというのです。こうした考え方は、一見ごうまんなように受けとれますが、そうではなく、私たちはみんな仏の中にあって、それぞれが、その持ち分を生かす共同存在の一員であるという、謙虚な生き方をすることにあり、もし、自分が仏になったつもりで、わがもの顔に振る舞うとしたら、それは野狐禅(やこぜん)とか念仏ぼこりといって、しりぞけられます。
私たち自身には仏になる性質はあっても、仏自身にはなれそうにありません。しかし、仏にあやかることはできそうです。私自身を振り返って考えてみても、いくらふだん偉そうに見せかけても、実際はヘマや失敗のしどおしで、とうてい人を救ったり教えることのできるまともな人間ではなく、もしその私にできることといったら、周囲にいる立派な知人、友人のはたらきを身に受け、あやかって、それらのすばらしさを人に伝えることくらいでしょう。いや、それすら怪しいものです。しあわせなことに、私はいままで直接、間接的に知り合った立派な知人・友人に恵まれています。それぞれにいろいろなことを教えてくださる大恩人です。おそらくそうした人も他の多くの人から影響を受けて、今日にいたったことでしょう。
知人や友人たちは自ら「俺はこんなに立派なことをしているんだ」という押しつけがましい教えを、たれているのではありません。私が勝手にそう受けとっているだけの話です。このように考えると、私たちはちょうど鏡みたいなものではないでしょうか。鏡はつめたいガラスでできていて、それ自体にはたいした価値もありませんが、太陽の光を受けると反射して明るさも熱も太陽の光と同じものを発光します。鏡が曇っているとせっかくの光は反射せず、自ら発光もしません。私たちに仏性があるというのは、鏡のように太陽の光を映す性質を持ちながら、それを磨かないでいると宝のもちぐされで、一生を終わってしまうということでしょう。
仏の光を受けて歩んでいる人には、その光が反射して自然に表情や態度になって表れ、その反射した光は連鎖的に、他の心ある人をも照らすのでしょう。詩人の坂村真民(さかむらしんみん)(二〇〇六年没)さんは学校を退職してから視力障害でほとんど見えない状態になったとき、「その人」という詩をよんでいます。
暗い日々の 暗い夜々の  半盲のあけくれのなかにも  消えてはともり ともっては光るものがあった  その人の名を呼ぶとき  その人を念ずるとき
私たちの心の中に、そうした放射性の光である、仏性が宿っていることに気づき、仏を無心に念じたとき、私たちも仏の光に照らされて仏と変わらない花が開き、三昧の境地に入れるのではないでしょうか。
9.無常について
いつかは死ぬという事実は、だれでもが知っているはずなのに、そのことが、なかなか自分のこととしては受け取れないようです。したがって蓮如上人(れんにょしょうにん)(一四九九年寂)が、「一生過ぎやすし。今に至りてかたれか百年の形体をたもつべきや。我やさき、人やさき、今日ともしらず、明日ともしらず」(『御文章』)と警告してくれても、心の中では、“自分はまだまだ若いんだよ。平均寿命までは、まだ相当の年数があるから、そんなにあわてることはあるまい”と考えてそれこそ、“人やさき、我はあと、まだまだあと、まだ当分は大丈夫。今日ではないし、きっと明日ではあるまい”と信じ込んでしまっているのが、私たち平凡な人間なのでしょう。したがって、せっかく一休禅師(いっきゅうぜんじ)(一四八一年寂)が、 ・・・ 元日は冥途(めいど)の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし ・・・ と和歌に残してくれても、“冗談じゃないよ。正月はやはり目出たいんで”みんなで祝えばよいだろう。なにも正月そうそうから、今年は死ぬんじゃないだろうか、などと考えられるか”と悪たれをついても、自分はまだ大丈夫と考えて、いつまでたっても真剣に生きようという気持ちは起きないのです。
考えてみますと、だれだって好きで老いるわけではないでしょう。気がついてみると、老人になっていた、というのがほんとうのところではないでしょうか。若い頃丹羽文雄(にわふみお)の『厭がらせの年齢』という小説を読んで、“いやだいやだ。こんなにまわりからきらわれるような老人になるくらいなら、まだ、人から惜しまれている頃に死んだほうがよっぽどましだよ”と考えていたことを思い出します。ところが、自分がその年齢に近づいてきたことに気がつくようになると、 ・・・ 年より嫌うな(笑うな)行く道じゃ ・・・ などという言葉を持ち出してきて、なんとか年老いて嫌われたりするのは自分だけではないのだ、ということを強調している自分自身を発見して、自己嫌悪におちいっているのが正直なところです。
若い頃は、まだまだ先が長いと考え、働き盛りになると、人生の意味などについて考えているヒマがあるか、とうそぶき、そして、ほんとうに年取ったときには、過去を回想して、いろいろと後悔しているのが私たちでしょう。一人の人生は、けっして二度とはないのですし、一度過ぎ去ってしまった時間は、永久に戻ってこないのですから、最も大切なことは、現在いきているこの“一瞬”にあるのだ、ということを忘れてはならないでしょう。それでは、いったいなにについて“目覚めよ”というのでしょうか。ここに挙げた文章は、『法句経(ほっくきょう)』一五七偈ですから、当然悟りについて目覚めよ、ということなのです。
悟りについて目覚めよ、ということは、別の言葉でいいますと、人間として生きている意味を問いなさい、ということでしょう。自分はなんのために人間としてこの世に生まれたのか、そして、なにを目的として生きることが人生を意義あらしめることになるのか、ということを、常に考えておかないと、ただ年月を無駄に過ごしてしまってハッと気がついたときには、死が目前にせまって、ひたすら後悔をする、ということになってしまうでしょう。もっとも、人として生きるためには、生きるための最低条件だけは、満たさなければなりませんから、いわゆる、 ・・・ 食うために働く ・・・ という言葉で象徴されるような、さまざまな世俗の行為もしなければなりません。したがって、いつもいつも、“人生とはなんぞや?” “人間として生きている意味はいずこにありや?” などと考えているわけにもいかないのが現実なのです。
だからといって、食うためにのみ一生を過ごしてしまっては、他の動物と少しも変わらないことになってしまいます。そこで、冒頭の句にありますように、せめて一度ずつでもよいから、青年の頃、壮年の頃、そして、老境に入った頃に、こういった問題について、真剣に考えてみなさい、ということになるのです。まだ若いから、などといっていますと、いつの間にか老人になってあわてることになりますし、もう老人だから遅いよ、などといっては、なんのために生きてきたのかわからなくなってしまうでしょう。人生のそれぞれの時期に“私”の生き方についてじっくりと反省してみる時間を持ってみようではありませんか。
10.法灯明について
釈尊(しゃくそん)はクシナガラの郊外、シャーラ(沙羅)樹の林の中で最後の教えを説かれた。『弟子たちよ、おまえたちは、おのおの、自らを灯火(ともしび)とし、自らをよりどころとせよ、他を頼りとしてはならない。この法を灯火とし、よりどころとせよ、他の教えをよりどころとしてはならない。』 (『仏教聖典』)  釈尊の教えの中には、「自灯明(じとうみょう)、法灯明(ほうとうみょう)」ということばがあります。自らをともしびとする。自らをよりどころとする。と同時に、仏の教えを示した真実のことば、ダルマ(法)をよりどころとし、ともしびとしていかなければならないといいます。自分をともしびとし、よりどころとするだけではなく、その私を支えてくれるものは法である。真実の教えであるということを示しております。釈尊が亡くなるときにも、「法によれ」ということをいっておられます。私が亡くなった後には、何がよりどころかといえば、すべては法である。人々は、やはり人生の指針たる、釈尊というその人がおられたればこそ、その教えに従い、そのことばに従って行動を共にしてきました。しかし師表として行動を共にすべき釈尊がおられなくなったとき、いったいだれを中心にすべきか、いったい何を求めていったらいいのかといえば、釈尊の教えられた真実のことば、教えそのもの、法そのものをともしびとし、よりどころとしていかなければならないことを示していると思います。
たいへん仲のよいご夫婦がおられました。ある時奥さまが、ふとご自分の人生を振り返りながら、これからの人生について考えられます。もうじき夫は定年を迎える。そして、その夫もいずれは死んでしまう。すると、残された自分は一人になってしまう。今まで自分のよりどころとなっていた夫がなくなったら、私はどうしたらいいのでしょうか。そう思うと不安でたまらなくなってきました。そこで、宗教の本を読んだり、いろいろな方に話を聞いたり、カルチャーセンターに言って、仏教の話も聞くのですが、いっこうにらちがあきません。何かお先真っ暗の思いに駆られ、不安な日々が続いていますが、いったいどうすればよいでしょうか。というお話がありました。このご夫婦の場合、今までお二人がどうして仲がよかったのか。そのことを振り返りながら、そのよき理由をご自身でつかみ取り、もう一度社会を見直してみますと、ああそうだったのか、という何かがわかってくるに違いないと思います。そして、自分自身が頼りない。いつも何かに、誰かに頼りながら生きてきた心のあり方をどのように変えてゆけばよいのか。また、どうすればこれからの人生を楽しく送ってゆくことができるのか、という問いには、一度ご自身の周辺を静かに見渡してみてはいかがでしょうか。
すると、それぞれに自分の生き方に合った人が不思議といるものです。その方たちとお付き合いされ、また、お互いに足らざるを補い合いながら生活をしていったら、それからの人生はまた違った、楽しい人生になってくるはずです。たまたま愚痴をこぼしたくなって、ある方のところに愚痴を聞いてもらおうと思って行ったとたん、相手の方に、にっこり笑って「よく来たね」と声をかけられ、いろいろな話をすることになります。話が終わって帰ってきたときには、何のために出かけていったのか、もうすっかり忘れてしまっている。愚痴をこぼしにいったのに、逆に、にこやかに自分を包んでしまうような人の態度に接して、いつの間にかすべてを忘れてしまう。こういうことがよくあるものです。このように相手を包み込むような人がいるものです。もしも自分が弱き人間であるならば、そういう方と接点をもちながら、互いに補い合っていくときに、自分のよるべもはっきりしていくことでしょう。お互い不完全です。
不完全な者どうしが、完全なものを求めていくのは、補い合うところにもう一つの生き方があるのです。ただ相手のいい分をのみこんでしまうのではなく、何か自分の背中がずしっとしたバックボーンのようなものに支えられて、その上で、包み、あるいは包みこまれるような人たちと支え合いながら生活してゆくことが、とても大事なことだと思います。釈尊が説かれる「自ら」とは、実は目に見えない、法の力に支えられている「自ら」のありようを教えておられたのです。釈尊の教えに接したときに、釈尊のことばに私どもは感動します。感動したということは、いつの間にかそのことばに自分自身が包みこまれているということです。いろいろな悩みをもち、いろいろな不安に駆られたその後に、今までの体験を振り返ってみると、「そうであったのか」とまさしくそれは合致している、なるほど教えは間違っていなかったということに気がつく。その上で、私自身のその後の生活がゆとりある楽しいものであるならば、まさしくそれこそ、「法を灯火とし よりどころとした人」 ということになるだろうと思います。そしてその後は、もうすべておまかせする以外にはありません。
大きな偉大なみ仏の力におまかせする以外にはないと思います。人生はせこせこと過ごすものではないのです。大らかな気持ちをもって、その仏のおいのち(法)の中に包まれている「自ら」を発見することが大変大事なことだと思います。私という存在は、仏のいのちの仲に包まれていることを知ったとき、本当の意味の楽しさ、本当の意味の自由さというものを身につけることができるでしょう。そのためにこそ、私どもは釈尊の教えどおりに自らをととのえていくことがやはり人生にとって大切なことと思われます。 
 

 

 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
■緒話

 

 
月と兎

 

■月になった兎 1
昔、森の中に山犬とサルとカワウソとウサギの四匹が仲良く暮らしていました。ある秋の晩、四匹が集まっておしゃべりをしていると山犬が思い出したように言いました。「そうだ、明日は満月じゃないが。隣村から坊さんが托鉢(たくはる)に来る日だよ。何かお布施するものを用意しなくちゃ」 他の三匹もそれを聞いて同意し、遅くなったのでそれぞれ家に戻りました。翌朝、早起きした山犬は森の外の人が住む村にやって来ました。ある家の前まで来ると、串に刺した肉がたくさん干してありました。山犬はその干し肉を三本計り頂戴うれし、嬉しそうに森の棲み家に持ち帰りました。山犬が家に戻るとすぐ、お坊さんがやって来ました。山犬は托鉢があるのを忘れていました。そこで、今運んで来た干し肉の一本をお坊さ んにお布施しました。お坊さんは、「あなたの尊いお布施の気持ちを有難く戴きます。しかし私はこれから山の向こうのお釈迦さまの所へお詣りにいきますので、このお布施は帰りに戴きます。あなたの徳に、仏さまのお慈悲の光が差しますように」と言うと、口の中で何が呪文をつぶやきました。すると空から一筋の光が差し、山犬に当たりました。山犬は心の底から温くなったような、とても良い気持ちになりました。ワウソとサルも、托鉢のことなどすっかり忘れていましたが、カワウソはその日たくさんの魚を獲り、サルも枝一杯に実ったマンゴーの木を見つけましたので、尋ねてきたお坊さんにお布施することができました。お坊さんは礼を言うと、やはり呪文をとなえて光を当て、カワウソとサルもとても良い気持ちになりましたが、お布施の品は残して去っていきました。
ウサギは托鉢のことを忘れませんでした。なぜなら、ウサギは年をとっていて力がなく、また、要領も悪かったので、いつも托鉢の時に何もお布施することができないで来たことを気に病んでいたのです。今日ももう夕方になるのに、何も用意できませんでした。そこへあのお坊さんがやって来ました。ウサギは、ある決心をしてお坊さんに言いました。「私は、お布施できる品物は何も持っていません。ですから私の肉をさし上げます。しばらくどこかで待って頂ければ、その間に火を起こし、私を焼いておきますので、どうぞ取りにおいで下さい。」 その言葉を聞くとお坊さんは、口の中で呪文 を誦(とな)えました。するとウサギの目の前に大きな炎が現れました。炎の間から見えるお坊さんの顔は鬼のようです。ウサギは驚きましたが、このお坊さんは今、布施することを望んでいるのだと思いました。そして何のためらいもなく、炎の中に身を投げ入れました。ウサギは最期(さいき)を迎える覚悟で炎の熱に身をを委(ゆだ)ねました。しかしちっとも熱くありません。かたく閉じた目を開けると、炎などどこにもなく、草むらの上に寝ころんでいるだけでした。お坊さんはウサギの傍(かとわ)らに立っていましたが、ウサギが目を開けると右足を後ろに引いて地面に両ひざをつきました。そして額も地面につけ、仏さまにするようにウサギを礼拝(らいはい)しました。
「お坊さん、これは…」 ウサギが声をかけるとお坊さんは起き上がり、左膝を立てて立ちあがりました。するとお坊さんの背はずんずんと伸び、木の高さを越え、山の高さよりなお高くなって天を突き抜け、帝釈天(たいしゃくてん)のお姿になったのです。帝釈天は右手のひとさし指で月にウサギの姿を描き、山のむこうへ飛び去って行ったそうです。  
■月の兎にまなぶ 2
月が美しくみえる季節になりました。古来より月には兎が住むといいます。実際に月を望遠鏡などでよく見ると、表面の模様が兎に見えてきます。兎はお釈迦様の時代から身近な動物なので、仏教説話の中にも多く登場します。その説話の中に、兎が月に住むきっかけになったお話があります。
この世の初めの頃、ある林に狐・猿・兎がおり、仲良くしていました。時に帝釈天がこの三匹の仲良しを試験しようとして、一人の老夫に姿を変え現れ、こう言いました、「私はいま腹が減っています。何か食べ物を下さい」。三匹は「ちょっと待って下さい、いま探してきます」と言って食物を探しに行きました。しばらくすると、狐は魚を、猿は果物を持ってやって来ましたが、兎だけは手ぶらで帰ってきて、そこら辺を跳んで遊んでいます。老夫は「あなた方は本当に仲良しではありません。狐と猿は十分に食べ物をくれましたが、兎は何もしていません。」と兎の悪口を言いました。それを聞いた兎は、狐と猿に「たくさん薪を集めて下さい。いま食べ物をご覧にいれましょう」と薪を集めさせて、それが堆く積み上がると火を点けさせました。兎は「ご老人、私はどうしても食べ物を探すことが出来ませんでした。どうか私のこの小さい身体をもって一度の食事に当てて下さい」と言い、火に飛び込みました。老夫は慌てて助け出しましたが、もう兎は生きてはいませんでした。老夫の身体から姿を変えた帝釈天は嘆息して、この事跡を滅ぼさないように月の中に兎を残しておいたといいます。そして、その兎は、釈尊がまだ世に出られる前に、兎となって修行をされていたお姿でした。(『大唐西域記』)
この壮絶な話は何を伝えようとしているのでしょうか?いろいろ解釈はあるでしょうが、私達は、普段生活している時、何でも狐や猿のように他から探して持って来ようとしていないでしょうか。あれがない、これがないと自分の外に理由を求めていないでしょうか。自分の幸福はどこにあるのか、と外ばかり探してはいないでしょうか。兎はそれがどこを探しても無かったが為に、自分の身に既に具わっていることに気付いたのです。気付いた兎はもう慌てることはありません。だから手ぶら(空手・くうしゅ)で、跳ねて遊んで(仏の行を“遊ぶ”とも表現する)いたのです。臨済禅師も「什麼をか欠少す(なにをかかんしょうす)」(『臨済録』)・ブッダと比べても何も欠落しているものはない、と言われています。月を見る時は兎に習って、すべてが具わっている自分に出会うため、生活を見直してみませんか。 
■月の兎(つきのうさぎ) 3 
「月に兎がいる」という伝承に見られる想像上のウサギ。中国や日本では玉兔(ぎょくと、Yùtù、イートゥー)、月兔(げつと、Yuètù、ユェトゥー)などと呼ばれる。対となる存在(日にいるとされる)には金烏(きんう)がある。
月の影の模様が兎に見えることから、「月には兎がいる」という伝承はアジア各地で古くから言い伝えられている。また、兎の横に見える影は臼(うす)であるともされる。この臼については、中国では不老不死の薬の材料を手杵で打って粉にしているとされ、日本では餅をついている姿とされている。餅搗き(もちづき)と望月を掛けたとも俗に言われている。
中国戦国時代(紀元前5世紀〜紀元前3世紀)の詩集『楚辞』天問では月(夜光)について語っている箇所に「夜光何コ 死則又育 厥利維何 而顧菟在腹」という文があり、「顧菟(こと)」という語が用いられている。ただしこの語の解釈については聞一多が「天問釈天」(『清華学報』9(4)、1933)でヒキガエルのこととするなど異説がある。王充『論衡』説日篇の中では「月の中に兎とヒキガエルがいる」という俗説について語っている。
古代インドの言語サンスクリットではシャシン(śaśin、「兎をもつもの」)、シャシャーンカ(śaśāṅka、「兎の印をもつもの」)などの語が月の別名として使われる。
日本における月の兎が描写された古い例には飛鳥時代(7世紀)に製作された『天寿国曼荼羅』の月に描かれたものなどがある。鎌倉・室町時代に仏教絵画として描かれた『十二天像』では日天・月天の持物としての日・月の中に烏と兎が描き込まれている作例もみられる。
満州(現在の中国東北部)では秋に満月を祝う「中秋節」に「月亮馬児」とよばれる木版刷りが壁に貼られたりするが、そこに兎は杵をもった姿で描かれていた。
ミャンマーの仏教絵画の中にも日のなかには孔雀、月のなかは兎が描かれており、須弥山を中心とした世界観を示した仏教絵画などを通じて各地で描かれていたこともうかがえる。タイでも月には兎が住んでいるという伝承があり、絵画などにも見られる。同国チャンタブリー県の県章(図参考)に見られる兎も、月の兎をデザインに配したものである。
アメリカ合衆国でもこの伝承は知られ、人類史上初の月面着陸をする前にアポロ11号の宇宙飛行士とNASAの管制官が月の兎に言及した記録が残っている。
仏教説話
月になぜ兎がいるのかを語る伝説にはインドに伝わる『ジャータカ』などの仏教説話に見られ、日本に渡来し『今昔物語集』などにも収録され多く語られている。その内容は以下のようなものである。
猿、狐、兎の3匹が、山の中で力尽きて倒れているみすぼらしい老人に出逢った。3匹は老人を助けようと考えた。猿は木の実を集め、狐は川から魚を捕り、それぞれ老人に食料として与えた。しかし兎だけは、どんなに苦労しても何も採ってくることができなかった。自分の非力さを嘆いた兎は、何とか老人を助けたいと考えた挙句、猿、老人は光が弱々しくなった冬至前の太陽、帝釈天は光を取り戻した(=若返った)冬至後の太陽である、という解釈もなされている。
アメリカ先住民の民話
同様の伝説はメキシコの民話にも見られる。メキシコでも月の模様は兎と考えられていた。アステカの伝説では、地上で人間として生きていたケツァルコアトル神が旅に出て、長い間歩いたために飢えと疲れに襲われた。周囲に食物も水もなかったため、死にそうになっていた。そのとき近くで草を食べていた兎がケツァルコアトルを救うために自分自身を食物として差しだした。ケツァルコアトルは兎の高貴な贈り物に感じ、兎を月に上げた後、地上に降ろし、「お前はただの兎にすぎないが、光の中にお前の姿があるので誰でもいつでもそれを見てお前のことを思いだすだろう」と言った。一般にケツァルコアトルは金星神であると考えられているが、この民話の場合は徐々に光を失っていく太陽神であると考えられる。
別のメソアメリカの伝説では、第5の太陽の創造においてナナワツィン神が勇敢にも自分自身を火の中に投じて新しい太陽になった。しかしテクシステカトルの方は火の中に身を投じるまで4回ためらい、5回めにようやく自らを犠牲にして月になった。テクシステカトルが臆病であったため、神々は月が太陽より暗くなければならないと考え、神々のひとりが月に兎を投げつけて光を減らした。あるいは、テクシステカトル自身が兎の姿で自らを犠牲にして月になり、その姿が投影されているともいう。
ネイティブ・アメリカンのクリーはまた別の、月に昇りたいと思った若い兎の伝説を伝える。鶴だけが兎を運ぶことができたが、重い兎が鶴につかまっていたために鶴の脚は今見るように長く伸びてしまった。月に到着したときに兎が鶴の頭に血のついた脚で触ったため、鶴の頭には赤い模様が残ってしまった。この伝説によれば、晴れた夜には月の中に兎が乗っているのが今も見えるという。
創作物
上記のような月に兎が住んでいるという伝承や説話の影響から、日本の文芸・演芸・絵画・音楽などの創作物には、月の生活者として兎を用いた作品が多く見られる。
唱歌「兎の餅舂」(うさぎ の もちつき)(『幼年唱歌』 1912年)では、餅つきをしている月の世界の兎たちが登場して、大福餅をつくっている様子を描いている。  
ヒキガエル
兎のほか、古代中国では月には蟾蜍(せんじょ、(ヒキガエルのこと)が棲んでいるとされていた。前漢の馬王堆漢墓から出土した帛画のように、中国で製作された模様の中には月にいるものとして兎とヒキガエルを同じ画面内に収めて登場させているものも見られる。
月の模様について
2012年10月29日、 産業技術総合研究所が月周回衛星「かぐや」の収集データを分析したところ、月の兎の形は39億年以上前に巨大隕石の衝突によりプロセラルム盆地ができ、こんにち地球から見える月の兎が巨大隕石の衝突によってできたものと証明された。
■月と兎 4 
月と兎の組み合わせは古来中国の思想である神仙思想に起源をもち、前漢時代(紀元前2世紀)には既に図案化されていた(長沙馬王堆漢墓の彩絵帛画など)。中国大陸では月兎(ユエトゥー、げっと)と呼ばれ、太陽神である八咫烏と対をなす関係であった。
本来、兎の季語は「冬」であるが、月の表面にある「海(wikipediaより)」と呼ばれる部分がうさぎの形に見えるため、月と兎がペアになる様子が多い。ちなみに、月の季語は「秋」である。  
■月とウサギ昔話 5 
「お月様には、うさぎさんが住んでいて十五夜になると餅つきをするんだよ。」 「あそこが耳で、臼があって・・・」 と、子供の頃お月様を眺めていると不思議とうさぎさんが見えました。日本に古くから伝わるこの話は、お釈迦さまの過去世の修行の物語。
仲良く暮らす、うさぎときつねとさるが居ました。
3匹は、いつも 「自分達が獣の姿なのはなぜだろう?」 「前世で何か悪いことをしたからではないだろうか?」 「それならば、せめて今から人の役に立つことをしよう!」 ということを話し合っていました。この話を聞いていた帝釈天(たいしゃくてん)は、何か良いことをさせてあげようと思い老人に姿を変えて3匹の前に現れます。何も知らない3匹は、目の前の疲れ果てた老人が 「おなかがすいて動けない。何か食べ物を恵んでほしい。」 と、話すと、やっと人の役に立つことができる!と喜んで老人のために食べ物を集めに行きました。さるは木に登って木の実や果物を、きつねは魚を採ってきました。ところが、うさぎだけは一生懸命頑張っても何も持ってくることができません。
うさぎは、もう一度探しに行ってくるから火を焚いて待っていて欲しい。と、きつねとさるに話して出かけていきました。暫くすると、うさぎは手ぶらで戻ってきました。そんなうさぎを、きつねとさるは嘘つきだと攻め立てます。するとうさぎは、「私には、食べ物を採る力がありません。どうぞ私を食べてください。」 と言って火の中に飛び込み、自分の身を老人に捧げました。
これを見た老人は、すぐに帝釈天の姿に戻り 「お前達の優しい気持ちは、良く解った。今度生まれ変わる時には、きっと人間にしよう。それにしても、うさぎには可愛そうなことをした。月の中に、うさぎの姿を永遠に残してやろう。」 とおっしゃいました。こうして、月にはうさぎの姿が今でも残っているのです。
このような物語で、お釈迦さまは私たちに伝えています。 
 

 

■月うさぎ伝説 6 
月の模様の黒い部分は「海」と呼ばれる低地。その黒い部分で「餅をついているうさぎ」の姿を見立てます。こうして見ると...確かに月うさぎはお餅をついています。意外と知らない月うさぎ伝説。月うさぎ伝説にも諸説ありますが、一般的に言われているのは次のようなお話です。
『昔、あるところにうさぎときつねとさるがおりました。ある日、疲れ果てて食べ物を乞う老人に出会い、3匹は老人のために食べ物を集めます。さるは木の実を、きつねは魚をとってきましたが、うさぎは一生懸命頑張っても、何も持ってくることができませんでした。そこで悩んだうさぎは、「私を食べてください」といって火の中にとびこみ、自分の身を老人に捧げたのです。実は、その老人とは、3匹の行いを試そうとした帝釈天(タイシャクテン)という神様。帝釈天は、そんなうさぎを哀れみ、月の中に甦らせて、皆の手本にしたのです。』
これは、仏教説話からきているお話です。また、このお話には続きがあり、『うさぎを憐れんだ老人が、その焼けた皮を剥いで月に映し、皮を剥がれたうさぎは生き返る』という説もあります。だから、月の白い部分ではなく、黒い部分がうさぎなのですね。
では、なぜ餅をついているのでしょうか? 「うさぎが老人のために餅つきをしている」とか「うさぎが食べ物に困らないように」という説がありますが、中秋の名月が豊穣祝いであることを考えると、たくさんのお米がとれたことに感謝する意が込められているようです。 
■月とウサギ 7 

夜空に輝く「月」は、ご存知地球の衛星として知られています。地球からの距離38万4,400km。直径は、3,474km。地球の4分の1強の直径を持っていると言う事で、太陽系内ではかなり大きな星と言う位置付けです。まず地球にはもっとも身近で、古代よりずっと地球に寄り添ってきた星です。古くから地球にはとても身近な存在としてあった「月」ですが、やはり昔の人達も「月」には色々と考えを巡らせていた事でしょう。宇宙科学や物理的での「月」の存在が「うさぎ」と関係しているとする文献などには出会えませんでしたが(もっと調べれば出て来るかもですが)、一番しっくり来ると言うか、どんぴしゃ、そのままのお話が残されていました。
今昔物語
それは「今昔物語」でした。「今昔物語」は、平安時代末期に成立したとされる「説話集」です。インド、中国、日本と三国の約1000余りの説話が収録されている、かなりの長編でして、そして全ての説話が「今は昔」と言う書き出しから始められると言う事からの由来と言う事でした。この古代の説話集「天竺の部・巻五・第13話」に「月」と「うさぎ」にまつわる話がありました。
「天竺の部・巻五・第13話」
今は昔。天竺にて「うさぎ」、「きつね」、「さる」の三匹が菩薩修行をしながら仲良く暮らしていました。とても仲良く暮らしていた3匹ですが、いつも話している事がありました。
「前世では犯した罪によって、この様な卑しい獣の姿で生まれてしまった。今生では我が身を捨てて、善行を重ね立派に生きよう。」
この彼らの行いを「帝釈天」が観ていて、「彼らは獣の身でありながら、珍しく殊勝な姿である。では一つ試してみよう。」 とたちまち老翁に姿を変えました。力なくよぼよぼ姿で三匹の獣の居る所に表れ、「わしは年老い疲れ果ててしまっている。お前達でわしを養ってくれないか。」 と伺ってみたそうです。すると三匹は、「それこそ私たちの望む姿です。さっそく養って上げましょう。」 と言って、「さる」は木に登り、木の実や果物を取ってきては好きな物を食べさせ、「きつね」は、お墓に出向いて餅等の供物をくすねてきては、老翁の思うがままに食べさせてあげたそうです。老翁はすっかり満足し、「お前たち二匹は、実に慈悲深い。菩薩と言っても差し支え無い。」 と褒め、しかしこれを聞いた「うさぎ」は、一生懸命に成って食べ物を求め野山を駆け巡ったが、探す事が出来ませんでした。こうしているうちに人間に殺されたり、他の獣に喰われたりして、命を落とすのが関の山でなかろうかと、あれこれ悩んでいたそうです。
ある日、自分の決意の元に一つの考えを実行に移します。「私はこれから美味しい物を求めてきますので、木を拾い、火を焚いて待っていて下さい。」 この様に皆に伝えてその場から立ち去りました。そこで「さる」は木を集め、「きつね」は、火を持ってきて焚き付けて、「うさぎ」の帰りを待ちました。そこに手ぶらで帰ってきた「うさぎ」を見て、「お前は何も持ってきてはいないではないか。思っていた通り、うそをついて人を騙し、火を焚かせて自分が温まろうとと言う事だろう。憎らしい。」 と「さる」と「きつね」は言いました。そこで「うさぎ」が、「私は食物を求めて来る力がありません。ですから私の身体を焼いて食べて下さい。」 と言うなり、その火の中に飛び込んで焼け死んでしまったそうです。「うさぎ」はいっそのこと、今のこの身を老人に食べてもらい、永久に生死輪廻の世界に離脱しようと考えていたのです。その姿を見た帝釈天は元の姿に戻り、「うさぎ」が火の中に飛び込んだ姿を「月」に移し、あまねく一切の衆生に見せるため、月の中にとどめ置かれたと言う事です。そして、「月の表面にある雲のようなものは、この「うさぎ」が火に焼けた煙であり、月の中に「うさぎ」がいると言うのは、この「うさぎ」の姿である。誰も皆、月を見るたび、この「うさぎ」を思い浮かべるがよい」 と帝釈天が言ったと言う事です。

うさぎの選択   この話に出会った時、どうにも言葉を失ってしまいました。「うさぎ」が炎に飛び込む姿があまりに痛々しく、そしてせつないのですが、そうした事って日常的に果たして自分は出来るのだろうか?と本当に深く考えました。「死」と言う事実は「森羅万象」でしかないと思うのですが、「輪廻」の法則を知っていたとしても、果たしてこの「うさぎ」の様に出来るのだろうか?と思います。「月」と「うさぎ」にまつわるお話ですが、こんなに深いテーマだとは思いませんでした。 
■月うさぎ伝説 8 
月うさぎ伝説の由来
「お月様にはうさぎさんが住んでいて、十五夜になると餅つきをするんだよ。」 「あそこが耳で、臼があって・・・」 と、言われるままにお月様を眺めていると、不思議と杵を持ったうさぎさんが目に映った子供の頃。日本に古くから伝わる「月うさぎ伝説」には、どんな由来があるのでしょう?
月うさぎ伝説 もともとはインドの神話
月うさぎ伝説の由来には、いくつかの説がありますが、インドのジャータカ神話によるものがよく知られています。さすがに全文とはいきませんので、要約しました。
   昔むかしのインドの話・・・
仲良く暮らす、うさぎときつねとさるが居ました。3匹は、いつも 「自分達が獣の姿なのはなぜだろう?」  「前世で何か悪いことをしたからではないだろうか?」  「それならば、せめて今から人の役に立つことをしよう!」 ということを話し合っていました。この話を聞いていた帝釈天たいしゃくてんは、何かいいことをさせてあげようと思い、老人に姿を変えて3匹の前に現れます。(帝釈天=古代インド神話においては、最強神とされています。) 何も知らない3匹は、目の前の疲れ果てた老人が「おなかがすいて動けない。何か食べ物を恵んでほしい。」と話すと、やっと人の役に立つことができる!と喜んで、老人のために食べ物を集めに行きました。さるは木に登って木の実や果物を、きつねは魚を採ってきました。ところが、うさぎだけは一生懸命頑張ったのに、何も持ってくることができなかったのです。うさぎは、「もう一度探しに行ってくるから火を焚いて待っていて欲しい」そうきつねとさるに話すと、再び出かけていきました。暫くすると、うさぎはまた手ぶらで戻ってきました。そんなうさぎを、きつねとさるは嘘つきだ!と攻め立てます。するとうさぎは、「私には、食べ物を採る力がありません。どうぞ私を食べてください。」と言って火の中に飛び込み、自分の身を老人に捧げました。これを見た老人は、すぐに帝釈天の姿に戻ると、「お前達の優しい気持ちは、良く解った。今度生まれ変わる時には、きっと人間にしよう。それにしても、うさぎには可愛そうなことをした。月の中に、うさぎの姿を永遠に残してやろう。」とおっしゃいました。こうして、月にはうさぎの姿が残ることになりました。
この神話・・・読むたびごとに、むなしい気持ちになります。
   その後うさぎは生き返ったという説も!
先の話の最後の部分が違っている説もありますので、ご紹介いたします。うさぎが火の中に自分の身を投じ、黒焦げになった後のこと・・・うさぎを哀れんだ老人が、うさぎの焼けた皮を剥いで月に映すと、皮を剥がれたうさぎは生き返りました。という話です。
月うさぎ伝説 なぜ?うさぎは餅をつくの?!
うさぎの餅つきは、中国の神話に由来しています。このお話は、とてもたくさんの説があるので、ここでの紹介は割愛させていただきます。
古代中国において、月のうさぎは、杵を持って不老不死の薬をついていると考えられていました。これが、日本に伝わってから餅をつくに変化したと言われています。その理由を調べてみると、日本で満月を表す言葉の「望月もちづき」が転じて「餅つき」になったということです。また「老人のために餅つきをしている」とか「うさぎが食べ物に困らないように」という説もあります。ただ、お月見の行事が収穫祭であったことを考えると、たくさんのお米が採れたことに感謝するという意味も込められているのかもしれないなぁ〜と感じたりもしています。
月で餅つきをしているのはなぜ?
古代中国では、月のうさぎは杵を持って不老不死の薬をついていると考えられていました。これが、日本に伝わってから餅をつくに変化したと言われています。その理由は、日本で満月を表す言葉の「望月(もちづき)」が転じて「餅つき」になったということです。
日本では『古事記』のような系統だった神話が編纂されましたが、中国は地方や民族、時代によって様々な神話が生まれ、共存しています。月に住む兎にも多数の伝説が有ります。
   1、嫦娥の化身説
月に登った嫦娥は、兎に変身させられ、罰として満月の日になると天界の神々のために薬を作るよう命じられたといわれています。
   2、嫦娥のお伴説 一
ある時、三人の神仙が貧しい老人に化け、狐、猿、兎に食べ物を乞いました。狐と猿は食べ物を提供しましたが、兎は何も持っていません。そのため、兎は「私を食べてください」と言って火に飛び込みました。それを見て感動した神仙は兎を月に送り、孤独な嫦娥と一緒に薬を作るようにさせました。
   3、嫦娥のお伴説 二
遥か昔、修業をして仙術を見につけた兎がいました。ある日、この兎は、天帝の怒りに触れ月に送られる嫦娥に会いました。兎は嫦娥を哀れに思い、自分の一番小さい娘を月に送り、嫦娥のお伴をさせました。
*嫦娥伝説にも異説が有ります。有名なのは不老不死の薬を一人占めした罰でカエルになったという説ですが、仕方なく薬を盗んだという説も有ります。
   その一
嫦娥の夫・羿は9つの太陽を射落し天下の主となりました。しかし羿は強欲横暴な君主で人々から嫌われていました。ある日、羿は西王母から不老不死の薬をもらいます。それを知った人々は羿の天下が永遠に続くと思い嘆きました。嫦娥は見るに堪えず、人々を救うために薬を盗み自分で食べました。天帝は嫦娥が薬を盗んだ罪を責めて月に追放しました。
   その二
羿と嫦娥は仲の良い夫婦で、羿は不老不死の薬を嫦娥に預けました。ある日、羿の弟子蓬蒙が薬を盗みに嫦娥の部屋に侵入しました。嫦娥は蓬蒙に薬を渡さないために自分で食べました。その結果、体が軽くなり、天に登ったといいます。
これらの伝説では嫦娥は善人として描かれています。3の仙術を得た兎が嫦娥を同情したのはこういった話が前提になっていると思われます。兎の話に戻ります。
   4、羿の化身説
嫦娥が不老不死の薬を食べて月に行ったのを知り、羿はその後を追いました。この時、羿は嫦娥が好きだった兎に化けました。しかし嫦娥は自分のそばにいる兎が羿の化身だとは永遠に気がつかなかったそうです。
   5、伯邑考説
商(殷)の時代も終わる頃、当時勢力を拡大し始めた周の文王に伯邑考という長男がいました。商の紂王には妲己という有名な悪妻がおり、妲己は眉目秀麗な伯邑考に目をつけました。しかし伯邑考は悪女妲己を罵倒しました。妲己は怒り、夫紂王に伯邑考の悪口を言い、殺させました。しかも伯邑考の肉で饅頭を作り、父文王に食べさせました。その日、文王は気分が悪くなり、突然3羽の兎を口から吐き出しました。文王はそれが息子の魂だと知り嘆き悲しみます。夜、女神女媧の命令を受けた嫦娥が来て兎を連れて月に帰りました。

以上が兎と月の伝説です。ただしこれらは先に「月には兎がいる」という前提が有り、後から作られた話のように思えます。文献を見ると恐らく屈原の『天問』にある「顧菟在腹」というのが、月に動物がいるという記述の最も古いものだとされています。しかしこの「顧菟」が何かは諸説あります。
1、嫦娥の化身である蟾蜍(ヒキガエル)とする説。
2、「菟」は「兎」と同じで、「顧菟」とは兎の名前とする説。
3、1と2の折衷説で「顧」はヒキガエル、「菟」は兎とする説。
これらとは全く別の説も有ります。湖北省の曾侯乙墓(戦国時代の遺跡)から日月神獣の絵が発掘され、そこには虎のような絵が描かれているそうです。楚の地には虎信仰が有り、月の守り神として虎に似た「顧菟(楚の方言で菟は虎の意味)」という神獣がいたのではないか、屈原はそれを歌ったのではないか、という説です。こうなると兎とは全く関係なくなってしまうので、兎の話に戻ります。
漢代の絵などを見ると、月と一緒に描かれるのはカエルが多いそうです。陰陽五行思想でカエルは陽、兎は陰の代表で併存するという考えもありました(「月陰也、蟾蜍陽也、而与兔并」『五経通義』)。しかし後漢になると、カエルがほとんど見当たらなくなります。後漢の楽府『董逃行』に「白兔長跪搗薬虾蟆丸」とありますが薬を作っているのは兎だけです。恐らく、元々は月にいたのはカエルで、前漢の頃に併存するようになり、後漢には兎に変わるようになったのではないかと思います。なぜ薬を作っているのかというのはfrogman様おっしゃる通り、月の満ち欠けが不老不死を象徴しているからとか、嫦娥が盗んだのが不老不死の薬だったのでそれを償うためとも言われています。中国からしたら「なぜ日本ではお餅?」ということになるのでしょうね。この辺りの検証も面白そうですが、文字数が足りないので・・・。 
■ 中国の月の兎 9 
日本の月の兎は杵を持って餅を搗いているとされますが、中国の月の兎はやはり杵を持って不老不死の薬を搗いているとされます。月の満ちては欠け、欠けては満ちる様子が、不老不死・再生の思想と結びつけられたともされます。
不老不死の薬は、BC2世紀末の『淮南子』覧冥訓に、弓の名手・羿(げい)が西王母という女神からもらった不老不死の薬を、その妻・姮娥(こうが)が盗んで(飲んで)月へ逃げたという話があり『後漢書』には月で姮娥が蟾蜍(せんじょ・ひきがえる)に変身したとあります。日射神話とされます。
殷の宇宙観では、太陽の数は全部で10個あり、交代で空を廻っているとされました。殷の始祖とされる「帝俊(舜)」の3人の妻の一人「羲和」が生んだ息子とされます。「娥皇」が地上の国を産み、「嫦娥(じょうが)」が12人の娘(月)を生んだとされます。
10人の太陽は、堯(ぎょう)の時代に一度に天に現れます。人間は熱くてたまらず、作物も枯れてしまいます。五帝の堯の願いで「黄帝」が、天界から弓の名手の羿(げい)を派遣します。羿は9本の矢を使い9個の太陽を射落とし、太陽は1個になりました。
ところが天帝からすれば息子を射殺されたわけで怒って羿が天界に帰れなくしたため、彼は不老不死の力を失います。羿の妻は嫦娥なのですが、彼女も夫の罪を被って俗界に落とされますが、不平不満が募り羿に文句ばかりいいます。
羿はいたたまれなくなり放浪のたびに出て、崑崙山に住む「西王母」に相談します。彼女は哀れに思い羿に不老不死の薬を与えます。不死の薬は二人で分けて飲めば不死、一人で飲めば天に昇れ神になれる量でした。嫦娥は天界の暮らしが忘れられず、隙を見て全部飲んでしまい、天に上りますが、さすがに悪いと思ったのか途中の月に向かいますが、月に付いたとたんに蟾蜍・蛙に姿が変わってしまいました。ちなみに、羿は弓で獲物を狙っている最中に家僕に殺されてしまいます。
月の異称としての「れいせん」とも呼ばれ、漢字では「醴泉/霊蟾」と書きます。「蟾」はヒキガエルのことで、古来月に棲んでいると言われている生き物です。月に棲んでいる特別なヒキガエル(霊+蟾)という意味が変じて、「霊蟾」が月を指すようになったのだと思われます。
カエルが何故ウサギになったかは、漢字の誤りらしく、「蟾蜍」を「顧菟」と表記したために、「菟」がウサギと認識され、ヒキガエルからウサギへと取り違えられたことから来たというのが定説らしいです。
月の象徴の主役はヒキガエルからウサギへと変わり、紀元前3世紀の『楚辞』天問編に月中の兎のことが歌われ、湖南省で発見された紀元前2世紀の、馬王堆1・3号漢墓出土の、絹布に絵を描いた「帛画」に、月中に兎と蟾蜍(せんじょ・ひきがえるのこと)の図案が描かれています。
ちなみに、宋代の『後山叢談』は、地上の兎はすべて雌で、月の兎は逆に雄ばかりだから、地上の雌兎は月光をあびて妊娠するという俗説を収録しています。また古い中国の習俗では、陰暦8月15日(日本の十五夜、中国では中秋節)の際、「兎児爺」と呼ばれる兎の顔をした粘土製の武人像を飾るといいます。 
■月のウサギ 10 
むかし インドの山の中を ひとりの行者様が旅をして歩いていました。
行者様は だいぶ年を取っているようでしたが、長い間の修練で これほどの山道くらいは とくに困ることもなく 歩いていたのですが・・、ここ何日かは いつもよりも さらに険しい山道に、ゆっくりと体を横たえる場所もなく、ほんの少しの休息を取っては また 歩き始める・・ということの繰り返しをしていました。
そのためでしょう、その夜、とうとうその行者様は、人など決して通らないような奥深い森の中で 疲れ果てて倒れこんでしまいました。
どのくらいそうしていたのでしょう。どこか遠くのほうで かちかちと 何かを打ち合わせるような音がしています。だれか 人が近くにいるのかもしれない、と行者様は ゆっくりと顔を上げ、あたりをみまわしました。
見ると 一匹のウサギが 一生懸命 行者様の持っていた火打石をつかって 火をおこそうとしているところでした。
このウサギは道に倒れてすこしも動かない人間を見つけたので、友達のサルとキツネを呼んできて、どうしたらいいか 話し合ったのです。
「いきてるの?」 「うん。いきてるとおもう。」 「きっと おなかがすいてるんだよ。」 「そうだね、きっとそうだ。」 「なにか 食べるものがあるといいね。」 「じゃ、ぼく 川に行って魚を取ってくるよ。」 「ああ それはいいね。じゃ 僕は 木の実をたくさんとってこよう。」 「ぼくは 火をおこしておくよ。この人、きっとあったかいほうがいいだろうから・・。」 「そうだね。取ってきた魚も焼けるし、木の実もおいしく食べられる。じゃ 頼んだよ。」  そんな話の後、キツネは川へ、サルは木の実を取りに森に出かけいきました。
後に残ったウサギは、あちこちから木切れを集め、行者様の近くに積んで 行者様の持っていた火打石を一生懸命打ち合わせて 何とか火をおこそうとしていたのですが、火は ウサギにとっては 怖いもの。なかなか 上手にできません。「どれ、私がやろう。」 突然の行者様の声に ウサギはびっくりして 火打石を取り落としながら ぴょん!っと近くの草むらのむこうに 跳ねのきました。
「この、薪は・・ おまえがつんでくれたのかね?」 行者様の優しい声がそっとウサギの耳に聞こえたので、ウサギは耳の先を草むらからちょいと除かせ、はっぱの間から その赤い目で そうっと行者様をみてみました。行者様は カチカチと火打石を打ち合わせて、上手に薪に火をつけていました。そして 赤い炎が ちらちらとあがり、まきがぱちぱちいってくるころ、でかけていたサルとキツネが それぞれ たくさんの木の実や丸々した魚を持って 戻ってきました。
「行者様、これをどうぞ。」 「たくさん歩いて お疲れになられたのでしょう。どうぞ 召し上がってください。」 行者様は 自分の前に差し出された いろいろなおいしそうな木の実や魚をみて、とてもびっくりしていいました。「ああ、これは とてもありがたい。お前たちの心遣いには 本当に 感謝するよ。」 そして 木の実を薪の隙間にいれ、魚を焼こうとしました。そのとき、行者様の前に さっきのウサギがやってきて いいました。「行者様・・、申し訳ありません。私は サルさんやキツネさんのように おいしい木の実も太った魚も取ることができません。それどころか 行者様の体を温めるための 火をおこすことも とても 怖くて できませんでした。」 ウサギの目には 透き通った涙が浮かんでいました。
「行者様、でも 私も差し上げられるものがあります。どうぞ お受け取りください。」 そう言うか言わないかのうちに、ウサギは 火の中に飛び込んだのです。
キツネもサルも あっという間もありませんでした。それほど 突然のことだったのです。赤い炎に包まれたウサギを助けたくても もうそれはサルにもキツネにもできませんでした。すると そのとき 一緒にそれを見ていた行者様が火の中に手を突っ込んで、炎の中から 焼けたウサギを運び出しました。「ウサギよ、お前の思いは確かに受け取った。私は お前にその礼をしよう。」 そういいながら 行者様の体は どんどん大きくなっていき、その頭や顔は もう すっかり雲の上に出てしまうほどになりました。大きくなった行者様は かがんでひとつの山をすっかり握りとると、それをぎゅうっと押しつぶして 丸い形にしたのです。そして その丸いものを ぽ〜んと空に放り投げると それは 夜空にぽっかりと浮いて、とてもやさしく輝き始めました。
行者様は 手を高く上げて 輝く丸いものの上にウサギをのせて いいました。「お前はとても尊い行いをした。だから 私は お前を 永遠に輝く月に住まうことを その報いとして与えよう。」 こうして、月には ウサギがいるようになったということです。

このお話は ご存知の方 多いことと思います。ただ 毎度のことながら 遠藤が 少々 手を入れております。9月ですしね、お月見もあることだし・・ と考えていたら こういう話があったことを思い出しまして、ただ この際だからと あちこち 調べてみたら 結構 これが 決まった話ではないのだ ということがわかりまして・・。つまり もともとというのが かなりあいまいなお話のようなのですね。いわゆる 民間伝承というもののうちになるのだど思いますが、インドの昔話なのだ とか、行者様ではなくてお釈迦様なのだ、いやいや あれはキリスト様なのだ とか・・、三匹が 信心を起こしたというので、それを試しにやってきた天使いなのだ・・とかね。登場するのも ウサギは決まって出てはきますが、ほかにも リスだったりタヌキだったりの場合もあるようでした。まぁ、元の話がどうの と 追求するものでもありませんし、大事なことだけ、つまり 『月にウサギがいるわけ』だけがはっきりされればよいことなので、ほかのこまごましたことは 適当に遠藤が切ったり貼ったりして 今回のお話になった というものです。ただ 最後の行者様だかが 突然大きくなって 山を握りつぶして丸めたものが突きになって・・というところは、今回 あれこれ探してみて 初めて知り、とても 面白い発想だと思ったものですから、今月のお話は それも入れてみました。  
 

 

■月うさぎの由来 11 
お月見といえば中秋の名月(十五夜)ですが、この日に限らず、月を眺めていると心が和みます。何気なく見上げた夜空。輝く月……そんな時ふっと思い浮かぶのが「月うさぎ」。月でお餅をついているという、あの月うさぎです。
月の模様をみて、餅つきをする月うさぎの姿がわかりますか?
月を眺める4人組。こんな会話が交わされています。
A君 「月うさぎって2匹いる?」
Bさん「えっ、私は1匹だと思うけど」
C君 「オレ、どうしてもウサギが見つからない」
Dさん「私には、たぬきにしか見えないけど」
Bさん「だって、あの黒いところが臼で……」
C君 「白い所を見るんじゃないの!?」
あなただったら、何と言うでしょう?
月の模様の見方……確かに月うさぎはお餅をついています
意外とあやふやな月うさぎの存在。人それぞれ自分の思い込みが強く、誰に聞いても結局はっきりわからないというパターンも多いようです。それでは、ここでスッキリさせましょう。この画像が「月うさぎ」です。月の模様の黒い部分は「海」と呼ばれる低地。その黒い部分で「餅をついているうさぎ」の姿を見立てます。
意外と知らない!月でうさぎが餅をついている理由
ある親子の会話です。
子 「ねぇねぇ、どうして月にうさぎがいるの?どうしてお餅をついているの?」
親 「……」
子 「ねぇ、どうして?」
親 「きっと、餅つきが好きなのよ」
子 「……」
これでは親の面目が立ちません。
月うさぎの由来〜月うさぎ伝説
月うさぎ伝説にも諸説ありますが、1番ポピュラーな要約バージョンをご紹介しましょう。
『昔、あるところにウサギとキツネとサルがおりました。ある日、疲れ果てて食べ物を乞う老人に出会い、3匹は老人のために食べ物を集めます。サルは木の実を、キツネは魚をとってきましたが、ウサギは一生懸命頑張っても、何も持ってくることができませんでした。そこで悩んだウサギは、「私を食べてください」といって火の中にとびこみ、自分の身を老人に捧げたのです。実は、その老人とは、3匹の行いを試そうとした帝釈天(タイシャクテン)という神様。帝釈天は、そんなウサギを哀れみ、月の中に甦らせて、皆の手本にしたのです。』 これは、仏教説話からきているお話です。
また、このお話には続きがあり、『うさぎを憐れんだ老人が、その焼けた皮を剥いで月に映し、皮を剥がれたうさぎは生き返る』という説もあります。だから、月の白い部分ではなく、黒い部分がうさぎなんですね。
月でうさぎが餅つきをしているのはなぜ?
では、なぜ餅をついているのでしょうか? 「うさぎが老人のために餅つきをしている」とか「うさぎが食べ物に困らないように」という説がありますが、中秋の名月が豊穣祝いであることを考えると、たくさんのお米がとれたことに感謝する意が込められているようです。
月うさぎは万国共通ではない
お月見をしながら、国籍の違う3人がこんな話をしています。日本のAさん「月うさぎって、結構泣かせるわよね」 モンゴルのBさん「違うよ。あれは犬だよ。嘘をつくと月の犬が吠えるんだ」 アラビアのCさん「いいえ。あれはライオンが吠えているのさ」  三人三様の言い分ですが、これはどれも正しいのです。
日本以外では月の模様をどう見るの?
月は地球に対していつも同じ面を向けて回っているので、世界中どこで見ても同じ表面を見ています(見える角度に多少の違いはありますが)。しかし、月の模様をどう捉えるかは国によって様々です。韓国や中国では、日本同様ウサギに見えるそうですが、中国のウサギはお餅をついているのではなく、薬草を挽いています。また、中国の中でも、ウサギではなく大きなはさみをもった「カニ」という地域もあります。欧米では「女性の横顔」だと言われていますし、インドネシアでは「編物をしている女の人」、ベトナムは「木の下で休む男の人」、オーストリアでは「男性が灯りを点けたり消したりしている」のだそうです。他にも、「本を読むおばあさん」「ワニ」「ロバ」など実に様々。おもしろいですよ!
•日本=餅をつくうさぎ
•韓国=餅をつくうさぎ
•中国=薬草を挽くうさぎ
•中国の一部=大きなハサミのカニ
•モンゴル=イヌ
•インドネシア=編み物をしている女性
•ベトナム=木の下で休む男性
•インド=ワニ
•オーストリア=男性が灯りを点けたり消したりしている
•カナダの先住民=バケツを運ぶ少女
•中南米=ロバ
•北ヨーロッパ=本を読むおばあさん
•南ヨーロッパ=大きなはさみのカニ
•東ヨーロッパ=女性の横顔
•アラビア=吠えているライオン
•ドイツ=薪をかつぐ男
•バイキング=水をかつぐ男女 
■月兎 12 
中国 
   ■最初は蛤
月の満ち欠けと潮汐は関係がありますことから、月は水の精と考えられておりまして、 白で丸い蛤(漢語で「蚪蛤」トコウ)が住んでいたと考えられていたそうです。 これは古代中国の原始信仰であるそうです。  
   ■次はオタマジャクシ
蛤の古音を2字にしますと蝦蟆(カバ)又は蟾蜍(センジョ)となります。 これで蛤から蝦蟆(オタマジャクシ)又は蟾蜍(ガマガエル)に変身しました。
   ■3番目ガマと兎
蟾蜍の当て字として「蟾菟」と書き替えられまして、蟾と菟がともに月に住むようになったようですね。
   ■三蔵法師。645年インドから帰る。
仏教美術の月天は、十二天中の月宮殿に住む王で、兎がその使者とされています。 玄奘三蔵の「大唐西域記」に帝釈天の話が出ているので、 帝釈天のお話と月ウサギの語源とが唐の時代に一致しても不思議はないようですね。 しかし弥生時代の銅鐸(桜丘5号銅鐸)に月うさぎが描かれているので、もっと前の時代かもしれません。
   ■外来語説
ウサギの語源には古くから2つの外来語説があったようです。 古代朝鮮語の烏斯含(ウガサム)と梵語の舎舎迦(ササカ)の2種類です。 この2つはウサギに発音が似ていません。新村出博士によれば、 インドの古語サンスクリットでは月の一名を「ウサギ」と云うそうで、 「ウサギ」の意味は跳びはねる動作を云うそうです。
   ■月兎と帝釈天
インドのジャータカ神話から。昔「うさぎ」と「きつね」と「さる」の 三匹が仲良く暮らしておりました。三匹は前世の行いが悪いから今は動物の姿になっているので、 世のための人にためになるような良いことをしとうといつも話し合っておりました。帝釈天はこの話を聞いていて何か良いことをさせてあげようと、 老人の姿になって三匹の前に現れました。
三匹は老人のために色々世話をしてあげました。 さるは木に登って果物や木の実を採ってきてあげました。 きつねは川の魚を採ってきてあげました。しかしうさぎにはこれといった特技がありませんでした。うさぎは老人にたき火をしてもらい「私には何の特技もありませんので、 せめて私の身を焼いてその肉を召し上がってください」と言うや、 火の中に飛び込んで黒こげになってしましました。これを見た老人は帝釈天の姿に戻り「お前たち三匹はとても感心なもの達だ。 きっとこの次に生まれ変わったときには人間として生まれてくるようにしてあげよう。 とくにうさぎの心がけは立派なものだ。 この黒こげになった姿は永遠に月の中に置いてあげることにしよう」といったそうであります。こうして月には黒こげになったうさぎの姿が見えるそうです。
日本では今昔物語(平安末期の1077年頃書かれたもの)の、 「天竺の部・巻五・第13話」に月兎の話がありました。 天竺の部では、本生伝の形で世俗的な話が中心となっています。
   ■帝釈天と日蝕
古代インドで日蝕は、修羅が帝釈と戦い破れて、日月を掻き晦まして身を隠すため であるという話があるそうです。古代インド天文では、九つある惑星のうち、 第8と第9惑星が太陽と月を呑み込んでしまう悪神であると考えられておりました。 その悪神の名はラフ(Rahu)と言いまして次のようなお話があります。
ラフは、神々が乳海を攪拌して作った不老不死の酒を、饗宴にまぎれ入って盗み飲んでしまいました。 それを日神スリイアと月神チャンドラとが最高神ヴィシュヌに知らせました。 最高神ヴィシュヌは宝輪で悪神ラフの首と手足を断ち切ってしまいました。 ところが霊酒の奇特で、その後首も手足も不死の命をえて天を駆け回り、 時には告げ口をした日や月を呑んで、せめても鬱憤をはらしていると言うそうです
   ■九曜の8・9惑星
九曜 五行 方角 季節 干支
八白 土 北東 晩秋から初春 丑寅
九紫 火 南 夏 午
   ■第8第9がラゴ,ケイト(日月食をおこす架空の天体)
インド天文学 意味 音訳 読方
Rahu 竜頭 羅(目候) ラゴ
Ketu 竜尾 計都 ケイト
古代インドでは、「太陽の黄道」と「月の白道」の2つの交点に 竜頭(ラゴ)と竜尾の2竜神が住み、時々太陽や月を食べると考えられていたそうです。 このラゴウ・ケイトの二惑星はインド起源で、七曜(七星)に加えられ 九星となったそうであります。  「星空のロマンス」より     
日本
   ■飛鳥時代
法隆寺の中宮寺所蔵です。天寿国曼茶羅繍帳残欠(国宝)には月が描かれ 下左横に兎が両手を上げており、中央に薬壺が描かれています。662年。推古天皇の30年。聖徳太子の逝去をしのび橘大女郎が作らせたものとあります。 左上に月が描かれ、右に桂樹、中央に薬壺、右に兎が描かれております。これは古代中国において、月で兎が不死の薬を搗くと考えられていたものが、 日本に伝わってからは餅を搗くと変化したしたものと云われているそうです。 変化の理由は「満月」を「望月」と云いますが、これが「餅搗き」と転化したとのことです。その他月宮殿は古鏡に描かれていますが、年代が不明です。「鏡」と云う言葉も気にかかります。 不死の薬が餅に変化したことは、唐代と飛鳥時代で、一応時代的には矛盾しないようですね。
   ■望月から餅搗きへの転化
望月から餅搗きへの転化の説が書かれている本は他に『日本の食文化大系19 餅博物誌』 『日本伝説研究』 『たべもの語源辞典』などがあります。
カナダ
カナダ・インデアンのお話で、月にカエルがいるお話もあります。 月が色々な人を招待したのですが、多く呼び過ぎて妹のカエルの居場所がなくなったので、 兄の月の顔に張りついてしまったと言う話です。
もともとアジア起源のこの話が、シベリア・アラスカを経てカナダに伝わった説があるとのことです。 すると兎もカエルと一緒に、カナダへと渡ったのでしょうかね。
アフリカ・ホッテントット
月が、使い兎に「月は欠けてもまた満ちるように、人間が死んでもまた生き返ることができる」と 人間に伝えるように言いました。しかし兎は間違えて「月は欠けてもまた満ちるが、 人間は死んだら生き返れない」と言ってしまいました。怒った月は兎を棒で叩きました。 兎は爪で月を引っ掻きました。兎の口が割れているのはこのためで、 月に黒い字があるのはこのためであると言います。 アフリカでも兎が出てくるのには驚きです。ただ月の影は兎の姿ではなくて、ひっかき傷なのですね。 
■月の兎 13
「兎、兎なにみて跳ねる十五夜お月さん見て跳ねる」——、そんな歌を子供の頃口ずさみ、また月のうすぐらい影は月の中で兎が餅をついている姿だよと教えられた。
“月の兎”の物語は『今昔物語』巻五、また良寛はそれを万葉風の長歌にしている。その物語は、仏教思想の『ジャータカ』〔本生譚(ほんじょうたん)〕に由来している。ジャータカ物語とはお釈迦様が前世でウサギ、サル、また国王であっても先の世では“菩薩”であったことを表わしている話である。ジャータカ物語、ジャータカ図はインドでは紀元前一世紀頃に始まる。そして私たちは七世紀初めの頃の法隆寺の玉虫の厨子、『捨身飼虎図』、『雪山童子施身聞偈図』にてそのことを知る。
“月の兎”の話は『今昔物語』では、「今は昔、天竺に兎・狐・猿、三(みつ)の獣ありて、共に誠の心を発(おこ)して菩薩の道(どう)を行ひけり。」と始まる。三匹の獣は身をやつした老人をみると、猿は木の実を拾い、狐は川原から魚をくわえ老人にささげた。ところが兎はあちこちを求め行けどもささげるものが何も見つからない。老人は何も持ってこない兎を見ると、「お前はほかの二人と心が違うな」となじった。兎はせつなく言う。猿に柴を刈ってきてくれ、狐にそれを焚いてくれと頼み、わが身を燃える火の中に投じささげた。捨身—、命を投じた慈悲行である。その時老人は、帝釈天となり、「此の兎の火に入たる形を月の中に移して、あまねく一切の衆生に見せしめむがために月の中に籠(こ)め給ひつ。然れば、月の面(おもて)に雲の様なる物のあるは此の兎の火に焼けたる煙なり、亦、月の中に兎の有るといふは此の兎の形なり。万(よろづ)の人、月を見むごとに此の兎の事思ひいづべし。」といったと示す。この話は、兎の捨身の心、慈悲行を物語っている。
人間が月面着陸(一九六九年)して以来、そのような伝説、神話は忘れられているが、この宇宙、銀河系のなか、地球に生命のある不思議さはいろいろと話題になっている。以前に『物語と人間の科学』(河合隼雄著)を読んだことがある。ある科学者の言葉により「科学は生命科学ではなくて生命誌でなくてはならない」といわれていた。“月の兎”は何かいのちの背景の生命誌を語っていはしないか。  
■インドにおける月のうさぎ 14
月のうさぎの関する古い話で、最もよく知られているのは、インドの仏教説話「ジャータカ」に含まれている兎本生譚(ササ・ジャータカ)です。
ササ・ジャータカでは、帝釈天がバラモンの姿となって,かわうそ,ジャッカル,猿,ウサギのそれぞれに施しを求めた際,差し出せるものが何もないウサギが,自分の体を焼いて施しにしようと火に飛びこみます。そして、この行為を讃えた帝釈天が,月面に山の汁でウサギの姿を描き、天へと帰って行きます。この話がいつ作られたのかについてははっきりとはしませんが、ジャータカに含まれるいくつかの説話の原型は紀元前3世紀ごろに成立したと考えられており、かなり古いことが分かります。
インドの文献で月のうさぎを述べているのは、ジャータカだけではありません。紀元前6世紀ごろに作られたと考えられ、バラモン教の祭祀を記述した、ブラーフマナとよばれる文献の中にも、月にうさぎがいるという記述が見られます。
ジャイミニーヤ・ブラーフマナの「月の中の兎の物語」には、「月の中にあるものは兎である。何となれば、月は万物を支配するからである」と書かれていますし、また、シャタパタ・ブラーフマナにも「月の中の兎」という記述があります。このように、インドでは、月のうさぎは極めて古い時代から、バラモン教の伝統を通して語り継がれてきたことが分かります。実際、ササ・ジャータカでは、帝釈天はバラモンに化けて動物たちに近づいており、バラモン教の考えが仏教説話であるジャータカのストーリーに影響を与えたのではないでしょうか。
兎を月の生き物とした理由は何なのでしょうか。ジャイミニーヤ・ブラーフマナの訳には原語(サンスクリット語)で兎のことを「シャシャ」といい、支配するを「シャース」ということが書かれています。つまり、月が万物を支配(シャース)することと、兎(シャシャ)の単語の類似が、両者を結びつけている要因となっているようです。サンスクリット語では、月のことをシャシン(兎を持つ者)とも呼ばれることがあると、訳者は述べています。
古代インドでは、月は祭祀を行う目安となっており、ブラーフマナ文献にも満月や新月の祭祀のことが詳しく述べられています。インドに限らず、月は古代の人々にとって重大な関心事だったようで、多くの地域で月が「死と再生」または「豊穣」のシンボルとなっていることを、ルーマニア出身の宗教学者ミルチャ・エリアーデが報告しています。欠けて消滅した後、再び現れるという月の性質が、生死の問題はもちろん、植物の生育とも対応づけられたようです。月が万物を支配するという考えは、バラモン教をはじめ古代のインドにとって大事な思想だったのでしょう。兎も繁殖力が強いことから、豊穣のシンボルとなり、似たような意味をもつ月と関連するようになったという考えも、兎と月を結びつける有力な説となっています。
古代インドでは祭祀の際、ソーマという興奮飲料が用いられました。このソーマは、インド神話において、インドラ(仏教では帝釈天)に活力を与えるとされ、また、月の神とみなされています。ソーマの原料については分かっていないようですが、インドの聖典「リグヴェーダ」には、ソーマは植物を圧搾して作られるという記述があります。ジャータカでは、帝釈天が山の汁で月に兎の模様を描いていますが、これももしかすると、ソーマとの関連があるのかもしれません。さらに、兎は先祖を喜ばせる食物の一つと見なされていたようで、火に飛び込んだ兎の話も、祭祀における供儀のような風習が影響しているのではないでしょうか。
言語(シャシャとシャース)とシンボルの意味(豊穣)のどちらが先なのか、またどのようにして両者が関連づけられていったのかは不明ですが、とにかく月のうさぎの起源としては、インドが有力な候補地であることは確かです。文献以外には、紀元前180年ごろ作られたと考えられているインドのコインの中に、月と兎の模様が施されたものが見られます。  
■中国における月のうさぎ 15
アジアの玉兎文化において中心的な役割を果たしてきたのは、何と言っても中国です。そもそも「玉兎」という月のうさぎの名称自体、西晋時代の傳玄が擬天問の中で「月中、何かある、白兎薬を搗く」と詠じたことから、玉のような色をした白兎が玉兎になったといわれています。唐の時代には、詩人たちが、玉兎のことを詩の中で取り上げるようになりました。
中国における月と兎の関係を示す有名な書物は、戦国時代の屈原が書いたとされる「楚辞」です。そのなかの天問に「厥の利維れ何ぞ, 而して顧菟腹に在り(何のよいことがあって,顧菟は月の中にいるのだろう)」という一文があり、このなかの顧菟(こと)がうさぎのことだと考えられてきました。もし本当に、顧菟がうさぎならば、中国では紀元前4-3世紀ごろには、月のうさぎが知られていたことになります。
しかし、このとき一つ注意しなければならないことがあります。というのも、中国の古典学者である聞一多(ぶんいった)が、顧菟はうさぎではなくヒキガエル(蟾蜍=せんじょ)のことを指していると指摘しているからです。聞一多説によれば、蟾蜍の蜍と兎の読み方が似ているため、月に兎がいると考えられるようになったようです。じじつ中国では、兎と共にヒキガエルも月の生き物として、古典や伝説の中で、長い間語り継がれてきました。
中国ではっきりと月のうさぎが確認できるものは、1970年代に馬王堆漢墓から発掘された、帛画(絹の上に描かれた絵)です(図1)。この帛画には、三日月と一緒にヒキガエルと兎の図柄が施されています。馬王堆漢墓は長沙国の丞相だった利蒼の墓であることが判明していることから、仮に楚辞の顧菟がヒキガエルを表しているとしても、紀元前2世紀には、月のうさぎが中国で知られていたことが分かります。
インドでは紀元前6世紀ごろすでに、月のうさぎがバラモン教の思想の中で語られています(インドにおける月のうさぎ参照)が、中国の玉兎はインドから伝わったのでしょうか。それとも、2つの場所で独立に発生したのでしょうか。聞一多はヒキガエルを表す顧菟が、兎と混同されることで、月のうさぎが誕生したとしていますが、仮に顧菟がヒキガエルだとしても、後の時代にインドから月のうさぎが中国に伝わった可能性もあります。
馬王堆漢墓の帛画の年代を考慮すると、もし月のうさぎが中国に伝わったならば、それは仏教伝来やシルクロード開拓以前である可能性が極めて高くなります。残念ながら、玉兎文化の伝搬に関する記録はありませんが、シルクロードの開拓以前における、中国と西方の国々との交流を示す記録や出土品ならばいくつか残されています。
まず、司馬遷による史記の大宛列伝には、月氏の匈奴討伐への協力を取り付けるため、張騫が西方に赴くと、大宛の人々は漢のことを知っていて、貿易を望んでいたと書かれています。さらに張騫は、大夏(バクトリア)の市場で邛の竹杖と蜀の布を見つけ、それらがインドから仕入れられていることを知ります。つまり、張騫が遠征を行う以前から、詳しいルートは分からないものの、インドを含めた西方の地域と中国は何らかの形で交流していたようなのです。また、中国にははるか昔より、西方から玉がもたらされ、崑崙の玉として珍重されていますし、インドとは少し場所が異なりますが、アルタイ山脈のバジリク古墳群からは中国産の絹織物が出土しています。バジリク古墳群の年代ははっきりとは分からないものの、紀元前5-4世紀、一部が紀元前3世紀と見積もられており、張騫の遠征以前であることは確かなようです。
これらの記録や出土品から、中国にはシルクロード開拓以前から、西方との交流があったと考えられるのではないでしょうか。だとすると、月のうさぎもまた、西方の文化として中国にもたらされたのかもしれません。中国の地方文化を詳細に分析したエバーハルトも、月のうさぎは中国の外から入ってきた観念ではないかと推測しています。もちろん、聞一多が指摘しているように、音の類似によって中国国内で玉兎が生まれた可能性も否定はできません。
中国では漢代になると、身分の高い人たちの墓室の石に、様々な模様が施されるようになりました。これらの石は画像石と呼ばれ、当時の文化を知る手がかりとなっています。そして、画像石の中には、玉兎が描かれているものも複数存在しています。また、漢代の鏡にも玉兎の紋様が施されていることから、起源がどうであれ、中国で月のうさぎが広まったのが漢代であることは確実なようです。
文献に月のうさぎが登場するようになるのもやはり漢代からで、前漢の学者である劉向が書いたとされる「五経通義」に「月中に兎と蟾蜍と有るは何ぞ」と月に兎がいることが述べられています。さらに、後漢の時代になると、張衡の「霊憲」や王充の「論衡」も月のうさぎのことを言及しています(ただし、王充は月にうさぎがいることには否定的ですが)。  
 

 

■餅つきと月のうさぎ 16
月に兎がいるという文化はアジアの各国で見られますが、日本の月のうさぎが特徴的なのは、餅を搗いているということです。詳しい年代は定かではありませんが、日本には飛鳥時代以前に、中国か高句麗から月のうさぎが伝わった可能性が高いようです(飛鳥時代に作られた天寿国繍帳という工芸品のとばりに玉兎の刺繍が施されています)。しかしながら、玉兎の本場中国では、兎が搗いているのは餅ではなく不死の仙薬です。中国で玉兎が広まった漢代の画像石には、「西王母(せいおうぼ)」という仙女の眷属として、玉兎が仙薬をくわえていたり、臼と杵で搗いていたりする図柄が見られます。兎以外に、ヒキガエルや九尾の狐も西王母の眷属として描かれることが多いようです。
中国では不老不死を求める「神仙思想」という考えが古くから信仰されており、西王母はその神仙思想における仙女とみなされています。西王母の本来の姿は、多くの研究があるにも関わらずよく分かっていません。中国古代の地理書である「山海経」からは、西王母は崑崙山(こんろんさん)という山に住み、豹の尻尾や虎の歯を持つ、怪物のような存在であることが分かります。この西王母が、神仙思想が高まるにつれ、怪物から次第に崑崙山の仙女になっていきました。崑崙山は中国では死者が昇る聖なる山と考えられていることから、西王母にも徐々に仙女の性格が加えられていったのでしょう。
それではなぜ、月のうさぎと西王母が結びついたのでしょうか。はっきりしたことは分かりませんが、西王母は仙女だけでなく、月神としての性格も兼ね備えているようです。そのため、月の中にいると考えられている兎とヒキガエルが西王母の眷属になったのかもしれません。
もう一つの考え方として興味深い点は、西王母が住むとされる崑崙山のいくつかの特徴(天地を結び、四つの川の水源となっているなど)には、インドの聖なる山である須弥山(しゅみせん)との共通点が見られるということです。そのため、決定的な証拠こそないものの、インドにおける須弥山の観念が漢代以前から中国に伝わっている可能性があるそうです。そして、その須弥山には、ジャータカで月に兎の絵を描いたインドラ(帝釈天)がいると考えられています。このことから、もし本当に崑崙山の観念に須弥山が影響を与えたならば、インドラと月のうさぎの関係(インドにおける月のうさぎ参照)が崑崙山の西王母にも取り入れられたと考えられるのではないでしょうか。
では、玉兎と仙薬の関係はどうでしょうか。単純に西王母が神仙思想における仙女になったため、眷属の玉兎が不死の仙薬を作るようになったとも考えられますが、ここでひとつ重要な研究報告があります。それは、漢代の画像石の図柄を詳しく調べてみると、玉兎の他に「羽人」という羽の生えた仙人が不死の仙薬を作っているということです。そして、この羽人は大きな耳を持っており、兎と姿が似ているのです。さらに、前漢時代の図像では、兎は月を表すものでしかなく、薬を作るという観念は薄いようです。これらの点から論文の著者は、もともと仙薬と関係が深かったのは羽人の方で、次第におなじ西王母の従者で姿が似ている玉兎が羽人と混同されることにより、玉兎も仙薬を作るようになったのではないかと指摘しています。もしかすると、月のうさぎが西王母と結びついていること自体も、羽人と混同されたことが原因なのかもしれません。
ただ残念ながら上述したように、西王母の起源や仙女になっていく過程、外来の文化の影響というようなことはよくわかっておらず、インド文化との関係も含め、さらなる研究に期待したいところです。例えば、インドの祭祀では、神々に不死をもたらすとされる「ソーマ」がインドラに捧げられていました。この思想は西王母と不死の仙薬との関係に似ています。聞一多の指摘によれば、中国の神仙思想は、西方に住んでいた羌族(きょうぞく)の風習がもとになっているようです。この説は確定的ではないようですが、神仙思想と西王母の発展に関する研究がさらに進めば、月のうさぎについても多くが明らかになると思われます。
ここまで玉兎と不死の仙薬の関係を見てきました。それではなぜ、日本では月のうさぎが餅を搗いていると考えられるようになったのでしょうか。一般的には、十五夜の満月を意味する「望月」と「餅」がかかっているからという説が知られているようですが、他にもいくつか考えるべき点があります。
日本で月のうさぎが頻繁に取り上げられるのは、十五夜のお月見の時ですが、興味深いのは、お月見の時に団子ではなくサトイモが供えられる風習があるということです。サトイモは焼畑農業で作られていた一般的な作物であるらしく、西日本や中国南部の焼畑を行っている地域の文化は「照葉樹林文化」と呼ばれ、稲作が伝わる以前の文化として注目されてきました。そして、この照葉樹林文化圏では、餅が積極的に利用されていることが報告されています。餅性の穀物を用いる地域というのは、日本以外では東南アジアや中国南部、台湾、韓国あたりに限られているらしく、その理由としては、焼畑農業で古くから栽培されていたサトイモのような粘性の高い食べ物が好まれたためではないかと指摘されています。
中国では唐の終わりから宋の時代にかけて、十五夜に収穫祭の性格が備わってきたようです。そして、この照葉樹林文化圏に住んでいるミャオ族やヤオ族の村々では、八月十五夜の日に、イモや餅を月に供えて収穫祭が行われていることが報告されています。日本でも、中国の古典に影響を受け、徐々に宮廷文化として行事化されていったお月見が、室町時代のころから収穫祭として庶民の間に広まっていきました。以上のことを考えると、日本では杵と臼で搗くものしてすぐに連想されるのは、薬ではなく餅であったみたいです。特に庶民にとっては、その傾向が強かったのではないかと思われます。
また、昔から日本では、餅は生命を更新・再生させてくれる特別な食べ物とみなされ、さまざまな儀礼(いわゆるハレの日)で食されたり、神様に捧げられたりしてきました。このような餅の性質は、インドのソーマや、中国の仙薬と極めて類似しています。つまり「中国では仙薬を搗いていた月のうさぎが日本では餅を搗くように変化した」というよりも、「日本では餅に仙薬のような役割もあった」といえるのではないでしょうか。 
■月に宿った永遠の命──美しくも悲しいウサギ 17
むかしむかし、遠い天竺(インド)に、ウサギと狐と猿の三匹の獣がいました。三匹はいつもお互いを敬い、何をするにも譲り合って暮らしていました。
彼らがこのように立派な生活をしていたのには理由がありました。前世では人間だったのに、生き物を大切にしなかったために獣の姿になって生まれかわったことを知っていたのです。
「われわれが獣の姿に生まれ変わったのは、前世の行いが悪かったからだ。このたびは自分のことは捨てて他人のために善い行いを心がけ、来世でふたたび人間に生まれ変わろうぞ!」
それが三匹の固い固い誓いでした。そんなある日、やせ衰えた老人が三匹の前にあらわれ、こう言いました。
老人「わしはこのように衰えてしまって、食べ物も手に入らぬ始末じゃ。そなた達は哀れみ深いと聞いたが、どうかわしを養ってくれぬか?」
これを聞いた三匹の獣は、「今こそ善行をする時だ!」と喜び、すすんで老人を養うようになりました。
木登り上手の猿はいろいろな果樹にのぼり、毎日たくさんの果実を取って老人に与えました。知恵のある狐は、人間が供えた餅や魚などを持ち帰り、好きなだけ老人の前に差し出しました。
ところがウサギだけは、野や山に行くと恐ろしさで腰がひけてしまい、全く食べ物を捜してくることができません。老人の役に立ちたいという一心で探しまわるのですが、いつも帰りは手ぶらでした。
ウサギ「今度こそ何があっても必ず美味しいものを捜してきます!猿さん狐さん、枯れ木をあつめて火をたいて待っていてください」
ウサギはある日、なにかを決意した顔つきでそう言って出てゆきましたが、やはり何も穫れずに手ぶらで帰ってきました。火をたいて待っていた狐と猿は怒りました。
狐「やっぱり嘘だったのだな!枯れ木拾いなどさせやがって」
猿「お前はこの火で暖まろうとして俺たちを使ったんだろう!!」
兎「いいえいいえ、そうではありません。私にははじめから、食べものを捜してくる甲斐性がないのです。ですからご老体――」
ウサギはそう言って老人のほうを振り向くと「どうか私の体を焼いて食べてください!!」 と、みずから火の中へ飛び込み、焼け死んでしまったのでした。
これを見た老人はにわかに凛々しい姿に変身しました。老人の本当の姿は、帝釈天(たいしゃくてん)だったのです。
帝釈天は、他人のために犠牲になったウサギの利他の精神に感じ入り、ウサギが火の中に飛び込もうとしたその姿を月の中に永遠に残したのでした。
帝釈天にはこんな思いがあったのでしょう。後世、人を含むすべての生きものが、月をながめるたびにこのウサギのことを思い出すように……。
そして他人のために自分を犠牲にしたウサギの尊い精神をふりかえり、世の中からきっと争いごとがなくなるように……。 
■なぜ月にウサギがいるのか? 18
なぜ月にはウサギがいると言われるのでしょう。日本では昔から、「月には兎がいて、餅をついている」と言われています。月の欠けたり満ちたりする特徴は生命力を感じ、縁起の良いものとして親しまれてきました。十五夜には中秋の名月を見ながらお団子を食べる風習もありますね。ウサギのように見える部分は、月の影の模様です。なぜウサギと言われるようになったのでしょう。その由来となる、例え話を紹介します。
僧侶と3匹の動物
ある日、1人の年老いた僧侶が山で倒れていました。偶然通りかかったのは3匹の動物、ウサギ、キツネ、サルでした。この3匹は相談し、僧侶を助ける事にしました。「まず食べるものを集めよう」という事になり、3匹はそれぞれ食料を取りに行きました。キツネは川で魚を捕まえ、サルは木の実をとってきました。しかし、ウサギは何も見つかりませんでした。僧侶を助けたいのに食料が見つからなかったウサギは、あることを思いつきました。それは、自分の体を捧げる事です。「私の体が焼けたら肉を食べ、修行を続けてください」ウサギは僧侶に言いました。そして迷う事なく火の中に飛び込もうとしたその時、年老いた僧侶は帝釈天へと姿を変えました。(帝釈天とは仏教の守護神です。)
年老いた僧侶のふりをして3匹を試していた帝釈天は、ウサギの固い決意に感動しました。帝釈天はウサギを褒め、ウサギの慈悲行を世界中に知らしめる為に、月に大きなウサギの絵を描きました。
お布施とは
ウサギは布施をする食料が見つかりませんでした。しかし、少しでも仏法に貢献したいと考え、自身の命を捧げようとしました。なかなか真似できるものではありませんね。そんな中、私たちでもできそうな布施があります。無財の七施(むざいのしちせ)・・・布施をする財がなくてもできる七つの布施
   眼施(げんせ)→優しい眼差しで人と接する、眼による布施
   和顔施(わげんせ)→和やかな顔で人と接する、顔による布施
   愛語施(あいごせ)→愛のある言葉を語る、言葉による布施
   身施(しんせ)→身体で人を助ける、体を使うことによる布施
   心施(しんせ)→思いやりの心を持つ、心くばりによる布施
   床座施(しょうざせ)→席や地位を次に譲る、場所を譲る布施
   房舎施(ぼうじゃせ)→自宅に人を迎え入れる、雨宿りなど助け合いの布施
これらの布施なら、私たちにもできそうですね。3匹の動物のように仲良く暮らすにはお互いを助け合うことが重要かもしれません。日々の生活の中で、怒りや嫉妬の心が生まれた時は、7つの布施を思い出してみるのも良いかもしれません。 
■ウサギの布施 19
昔、ある深い森にウサギとサルと山犬とカワウソが住んでいた。四匹の動物たちはとても賢く、お互い仲良く暮らしていた。ある日のこと、ウサギは他の三匹に「貧しくて困っている者に布施をしよう」と話した。翌日みんなは、食べ物を探し回り布施の用意をした。しかし、ウサギだけは用意する事が出来ませんでした。ウサギは、考えた末に自分の体を施すことにした。それを知った帝釈天は、ウサギの気持ちを試そうと僧侶の姿になり、施しを求めに現れた。ウサギは「薪を集めて火を起こしてください。わたしはその火の中に飛び込みますので、体が焼けたらその肉を食べて、修行に励んでください」と話し、僧侶に火を起こしてもらった。そして堂々と美しい微笑を浮かべながら、真っ赤な火の中に身を投じ、自らの身を犠牲にしようとした。僧侶はウサギの決意が固い事を確かめると、この立派な行いが世界のどこにまでも知れわたるように月の表面にウサギの姿を描き帝釈天の姿にもどって去っていった。その後、四匹の動物たちは月夜になると森の広場に集まり、明日からまた施しが出来るように働こうと誓ったのであった。

・ここには、ウサギの見返りを求めない布施の心が見てとれます。
・四種類の異なる動物たちが、仲良く生活している様子が描かれています。
・仏教では、布施について三輪清浄といわれます。三輪とは、「布施そのもの」と「布施する人」と「布施される人」のことです。それら三つが清浄であって、はじめて布施が成立するのです。
・「情けは人のためならず」といわれるように、私たちは、日常の生活において、人のために何かをしたり、何かを与えたりするときは、何らかの見返りを期待してはいないでしょうか。
・サルや山犬、カワウソは、美味しい食べ物を探してきて布施をしたと思われます。それは布施された「物」だけで考えるなら、ウサギが捧げた自らの体よりも大きな布施だったかもしれません。しかし、帝釈天が月に描いたのは、ウサギの姿でした。布施においては、施物そのもの以上に、少しでも仏法の興隆に貢献したいという布施者のまごころが、何よりも尊いものであることを示しています。
・仏道修行の中に六波羅蜜の行があります。その中に「布施」の行があります。私たちは自らを犠牲にし、他者のために施しをすることはなかなかできるものではありません。究極的な意味で布施の行を修めさとりを開いていくことは極めて困難です。
・阿弥陀如来はそのような私たちをご存知ですから、法蔵菩薩の因位において、自ら六波羅蜜の行を修めてくださいました。その功徳を南無阿弥陀仏と仕上げて、今、私たちに届けられています。
・無財の七施(財のない者ができる七つの布施。眼施、和顔施、愛語施、身施、心施、牀座施、房舎施の七つ)ということも言われます。仏法に出遇ったうえには、せめて施しのまねごとくらいはさせていただこうという心を持ちたいものです。 
 

 

 
 

 

 
嫦娥

 

■嫦娥 (じょうが、こうが) 1 
中国神話に登場する人物。后羿の妻。古くは姮娥(こうが)と表記された。
『淮南子』覧冥訓によれば、もとは仙女だったが地上に下りた際に不死でなくなったため、夫の后羿が西王母からもらい受けた不死の薬を盗んで飲み、月(月宮殿)に逃げ、蟾蜍(ヒキガエル)になったと伝えられる(嫦娥奔月)。
別の話では、后羿が離れ離れになった嫦娥をより近くで見るために月に向かって供え物をしたのが、月見の由来だとも伝えている。
道教では、嫦娥を月神とみなし、「太陰星君」さらに「月宮黄華素曜元精聖後太陰元君」「月宮太陰皇君孝道明王」と呼び、中秋節に祀っている。
「姮娥」が本来の表記であったが、前漢の文帝の名が「恒」であるため、字形のよく似た「姮」を避諱して「嫦」を用いるようになった。のちに旁の「常」の影響を受けて読みも「じょうが」(に対応する中国語での発音)に変化した。
民間伝承
海南島などでは、8月15日(中秋節)の晩に少女たちが水をはった器の中に針を入れて嫦娥(月娘)に自分の運命の吉凶を示してもらう、という習俗があった。針がすっかり沈んでしまって少しも浮かばないと運命は凶であるという 。
「嫦娥」
嫦娥という単語は「月の女神」あるいは「天女」という語義で使用されることもある。アメリカで出版されたウィリアム・スウィントンによる英語のリーダー『Swinton's Fifth Reader and Speaker』(1883)では同書の17章にあたる「The Moon-Maiden」で、日本の駿河国(静岡県)を舞台として羽衣をもつ仙女を登場させ、それを「Moon-Maiden」の単語を用いて表現しているが、それを邦訳した『スウヰントン氏第五読本直訳』(1889)では、「Moon-Maiden」をすべて「嫦娥」と翻訳している。  
■『嫦娥奔月』 (じょうがほんげつ) 2 
中国の神話伝説の一つとされている。
后羿の妻である嫦娥(姮娥)が、后羿が西王母から貰った不老不死の霊薬(または天上界へ行ける霊薬)を飲み1人月へ昇り月宮(広寒宮)で寂しく暮らすことになったという中秋節の故事である。嫦娥奔月とは「嫦娥、月に奔る」の意味。淮南子6巻の覧冥訓12節には嫦娥の物語として「譬若羿請不死之藥於西王母、姮娥竊以奔月、悵然有喪、無以續之。何則? 不知不死之藥所由生也。是故乞火不若取燧、寄汲不若鑿井」との記載がある。

昔々嫦娥という名前のそれはそれは美しい女性がいました。彼女は后羿(こうげい)という弓矢の名手の奥さんです。昔世界には太陽が10個もあったのだそうです。この10個の太陽に人々は苦しみ、それを救おうと后羿は9つを射落とします。そして残った太陽に毎日時間通りに昇り、時間通りに沈むように言い含めたそうです。この功績から彼は西王母から不老不死の薬をもらいます。
この薬を彼の妻嫦娥はこっそり一人で飲んでしまいます。なぜそんなことを?
ここにはいろいろな説があります。一つは嫦娥が身勝手な女で、天に昇りたくて夫の目を盗んで一人薬を飲んでしまったという説。これによって嫦娥は罰せられ月の宮殿で一人寂しく暮らしている、というのです。また罰として嫦娥は月でガマにされてしまったという説も。もう一つは夫の留守に悪者が不老不死の薬を盗もうとしたので仕方なく自分が飲んでしまったという説。さらにもう一つは夫の后羿は太陽を射落とした功績で高い地位を得るのですが、そのことですっかり舞い上がり暴虐な王になってしまうのです。こんな男が不老不死になったらたまったものではないというので、嫦娥は自分がこの薬を飲んだという説です。
いずれにせよ嫦娥は夫とは離れ離れになり、一人月に住む寂しい身の上になってしまいます。
月はとても寂しい場所だったようです。でも嫦娥以外誰もいなかったかというとそんなことはありません。呉剛という男とウサギとがいました。呉剛は罪を犯し、この罪も殺人とか仙人の修行の際の罪だとかいろいろな説があるのですが、ともあれ罰されて月に送られます。ここで月桂樹の木を伐採するよう命じられるのですが、この木は切っても切ってもまた生えてくるのです。呉剛は月の中で永遠にこの木を伐り続けているのだそうです。

ウサギは嫦娥のお伴という説もあれば嫦娥の化身だという説も。日本でウサギは月で餅つきをしていますが、中国から見える月では薬をついているのです。このウサギは玉兎とか月兎とか呼ばれています。
ところでこのウサギ、別の話の中でもけっこう活躍しています。昔北京で疫病が流行ります。人々が病を癒す祈りを捧げていると、月の嫦娥がこれを見て哀れみます。そこで月兎をこの世に送るのです。するとウサギは少女の姿になって人々の病を癒していきます。やがて疫病は終息するのですが、北京の人々はこれに感謝し毎年8月15日の中秋節になると“兔儿爷 tù’éryé”という泥人形を作ってお供えをするようになったと言われます。少女なのになぜ“爷”(爺)という言葉がついているかというと、“爷”(爺)は「爺様」という意味ではなく、位の高い人・神様という意味があるからです。“兔儿爷”は月に住む神様なんですね。その後“兔儿爷”は子供たちの玩具の一つになり、今ではおめでたい民間工芸品として売られています。 
■嫦娥 (じょうが、姮娥 こうが とも呼ばれた) 3 
中国神話に登場する、月の女神。より正確には月に住む女神。
道教では太陰星君とも呼ばれている。弓の名手である英雄神・羿(げい、 后羿 こうげいとも呼ばれる)の妻。彼女と羿に関する神話はバリエーションが多いが、おおむね以下のようなものである。
かつて、天帝の息子に10羽の火烏(かう)がいた。火烏はそれぞれが交代して空を飛んで太陽となっていたのだが、ある日突然、10羽全ての火烏が地上に出現してしまう。10個もの太陽に晒され、地上は大きな災害に見舞われた。当然の事ながら神々はこの事態を収めるべく、火烏を元の業務に戻る様説得するが、火烏は聞き入れない。仕方なく、弓の名手である羿が呼ばれ、羿はその卓越した弓の業で9羽の火烏を撃ち落とし、地上を救った。その後も様々な妖怪や魔物を打倒し、人々から守護神として崇められた羿であったが、火烏達に非があると言え、息子を殺された恨みが晴れぬ天帝は羿と嫦娥の夫婦から神籍をはく奪し、地上に堕としてしまう。神でなくなった為に不老不死を失った二人は苦難を乗り越えて仙女の長である西王母に出会い、西王母から不死の薬を譲り受ける。しかし、神の地位に未練のあった嫦娥は、この薬を二人分飲めば神に戻れる事を知って、夫の分の薬まで飲んで天に昇ってしまった。再び神となった嫦娥であるが、夫を裏切った事で他の神々から糾弾され、月に逃げ込んでしまう。月に逃げた嫦娥の体は、その罪の為か醜い蟇蛙の姿になっており(後世の伝承ではこの設定はオミットされた)、薬を挽く兎が一匹いるだけの非常に寂しい世界で、嫦娥は孤独と後悔に苛まれながら暮らす事になったという。
日本では月には兎がいるという話が有名であるが、中国では蟇蛙が住むとされていた。中国で蟇蛙は顧菟と表記するのだが、この菟を兎と誤認した事から蟇蛙と兎が住むという話が生まれたと言われている。 
■嫦娥 (ジョウガ). 4 
1 中国、古代の伝説上の人物で、月に住む仙女。羿(げい)の妻で、夫が西王母からもらい受けた不死の薬を盗んで飲み、月に入ったといわれる。姮娥(こうが)。転じて、月の異称。
2 中国神話の月神。常娥、【こう】娥とも書く。夫の【げい】が西王母から得た不死の薬を盗み、月へ逃げた。そのまま月に住み蟾蜍(せんしょ)(ガマ)になったという。転じて月の異名。月兎譚、桂樹伝説、〈かぐや姫〉伝説の祖。
3 中国神話にみえる月神。常娥、常羲(じようぎ)などとも書く。《山海経(せんがいきよう)》大荒西経に、帝俊の妻常羲が月十二を生み、大荒の日月山で浴することがみえる。帝俊は文献にいう舜で、もと太陽神。《淮南子(えなんじ)》覧冥訓に、羿(げい)が不死の薬を西王母に求めたところ、嫦娥がこれを窃(ぬす)んで月に奔(はし)ったことがみえ、そこでは嫦娥は羿の妻と解されている。月に奔った嫦娥は月中の蟾蜍(せんじよ)(がま)となり、月の精となった。
4 〔淮南子 覧冥訓・後漢書 天女志〕 中国、古代伝説上の人物。夫の羿げいが西王母からもらいうけた不死の薬を盗み、月に逃げ込み蟇がまに変わったと伝えられる女。姮娥こうが。月の異名。
■5 中国古代の伝説に登場する女性。娥(こうが)ともいい、弓の名人(げい)の妻。嫦娥は、夫のが崑崙(こんろん)山に住む女仙の西王母(せいおうぼ)からもらい受けた不死の薬を盗み出し、それを服用したのち、月世界へ昇ってガマガエルに化したと伝えられる。嫦娥を仲立ちとして不死の薬と月が結び付いたのは、人々が永遠に変わることなく満ち欠けを繰り返す月に不死性を感じ取ったためと思われる。またガマガエルに変身したというのも、月影をカエルに見立てた古代の中国人の観念によるものであろう。しかしのちになると、醜いカエルに化したという伝承は消失し、嫦娥はただ1人で月中に孤独をかこつ憂愁の美女と考えられるようになった。そうした嫦娥の姿を唐代の詩人たちは、しばしば詩に月を読み込むときの素材としている。
6 月の世界に住むといわれる仙女。転じて、月の異称。姮娥(こうが)。※経国集(827)一〇・奉和関山月〈滋野貞主〉「嫦娥如有レ意、応二照妾汎瀾一」。※草枕(1906)〈夏目漱石〉七「桂の都を逃れた月界の嫦娥が」 〔李商隠‐常娥詩〕。[補注] もと「姮娥(こうが)」といわれており、「淮南子‐覧冥訓」やその高誘注によると、羿(げい)の妻であったが、羿が西王母から得た不死の薬を盗んで飲み、月に逃げたという。漢の文帝の諱「桓」を避けて「姮」を「嫦(こう)」と書いたが、後にこの字が「ジョウ」と読まれるようになった。 
 

 

 
顕教

 

顕教(けんきょう、けんぎょう)とは、仏教の中で、秘密にせず明らかに説かれた教えのこと。密教の反対語。真言宗の開祖である空海が、密教が勝れているという優位性の観点から分類した教相判釈の一つである。
空海は、顕教と密教を次のように区別した。
顕教衆生を教化するために姿を示現した釈迦如来が、秘密にすることなく明らかに説き顕した教え。密教真理そのものの姿で容易に現れない大日如来が説いた教えで、その奥深い教えである故に容易に明らかにできない秘密の教え。
空海の解釈では、経典をそれぞれ次のように位置づけた。
顕教の経典 - 『華厳経』・『法華経』・『般若経』(一部を除く)・『涅槃経』など。
密教の経典 - 『大日経』・『金剛頂経』・『理趣経』など。
最澄や弟子円仁らは、中国の天台宗とは趣を異にした日本独自の天台教学の確立を目ざし、『法華経』を核にし、他の仏教の経典を包摂しようと試みた四宗兼学という立場から、円密一致を説いている。  
1 仏教用語。密教からみて、密教外の仏教のもろもろの教えをさす語。普通の人々にもわかるように、言語文字のうえに、明らかに説き示された教えの意。
2 仏語。言語や文字で明らかに説いて示した教え。密教以外の仏教のこと。また、真言宗では釈迦の説いた教えをいい、天台密教では一乗に対して三乗の教えをいう。顕宗。⇔密教。
3 仏教において密教の対。〈げんきょう〉とも。顕密二教とも使う。顕は顕露・顕示の意。真言宗では《大日経》《金剛頂経》による教法を密教といい、他は顕教。
4 密教に対し、言語によって明らかに説き示された仏教の教え。密教で、自宗以外の宗派をいう。顕宗。 ⇔ 密教
5 密教に対する概念。真言宗では自らの宗の教えと他の宗の教えとを、密教と顕教に分け、密教に思想的優越性を与えた。密教とは法身(ほっしん)(仏の本身たる永遠不滅の法)の大日如来(だいにちにょらい)が自らの悟りの世界をそのまま説いた教えで、けっして表面上では知りえない秘密の教えである。これに対し、顕教とは人々の能力とか性質に従って、報身(ほうじん)(善業の報いとして現れた仏身)、応身(おうじん)(衆生(しゅじょう)に応じて現れた仏身)により説かれたもので、迷いを除き悟りを開く教え、あるいは修行をしてその結果悟りを開く教えといわれている。密教では自らの教え以外は顕教であるとしている。
6 仏語。顕(あら)わにわかりやすく説き示した教え。真言宗では釈尊の説いた教えをさし、天台宗では一乗に対して三乗をいう。顕宗。けん。⇔密教。
7 仏教のうち密教以外のもの・・・釈迦が平明に説いた教えを顕教とする。空海が『弁顕密二教論』『十住心論』の中で密教に対して用いた語で、南都六宗や天台宗などを顕教としたが、天台ものちに密教化し、台密といわれた。
8 真言宗が密教以外の仏教の教えを指すのに用いた語。明らかに説かれた教えを意味する。もとは空海(弘法)が自身の教判として用い、衆生を導くために応身・化身(ここではそれぞれ報身・応身にあたる)としての姿を現した如来が衆生の機根に従って明らかに説いた仮の教えを顕教と呼び、法身の如来が真理をひそかにそのまま示した教えを密教としたことに由来する。後に日本仏教で一般的に用いられ、顕密と併称して日本仏教全般を意味する。円仁(慈覚)以降の天台密教は、顕教と密教が教理の上で究極的には一致すると説くが、別しては印と真言といった事相を説く密教の方が顕教より優れているとする。▷密教
9 衆生の機根に応じて、誰にでもはっきりとわかることばや文字で説かれた教えをさす。表面からは計り知れず、仏の境地に達した者にしか示されない密教に対する語。真言宗では、大日如来の悟った真理そのものを密教、それ以外を顕教とする顕密二教判をたて、主に密教の側からみて方便の仮りの教えという意味で用いられた。天台の教判では顕露不定教けんろふじょうきょうと秘密不定教という分判を示し、優劣を問うものでない。  
■顕教 
顕教とは?空海によって造られた言葉
顕教(けんぎょう)とは、弘法大師空海が造った言葉で、密教との違いを明らかにするために用いられたものです。弘法大師は、密教における成仏の意味や成仏までの修行方法などを顕教と区別することで、密教の優れている点を明確にしました。顕教とはお釈迦様が悟りを開き、輪廻転生からの解脱を目的にわかりやすい言葉で多くの人に説いた教えですが、密教とは大日如来の教えである宇宙の根源や真理といった知識を厳しい修行の中で獲得するものです。
顕教とは、密教の優れている点を区別すために弘法大師が造った言葉です。
顕教と密教では、成仏の意味や修行方法が違っています。
顕教はお釈迦様、密教は大日如来を教主にしています。
顕教の意味と特徴
密教以外のすべての大乗仏教(だいじょうぶっきょう)を区別して顕教とします。例えば、浄土真宗や浄土宗、禅宗といった各宗派は顕教に属します。顕教では「魂は輪廻転生(何度でも生まれ変わりを繰り返す)の中で六道(天道・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道)生まれ変わり、長い年月をかけて転生の苦しみから解脱する」事を目的としています。また顕教では、人にわかりやすく説かれたお釈迦様の教えを学び、真理や知的認識を修得して智慧が完成された時を成仏したと捉えています。
顕教では、輪廻転生を繰り返しながら魂の修行を行い、最終的に転生の苦しみから解脱する事ができるとしています。
顕教では、成仏できるのは真理や知的な思考による智慧が完成された時としています。
顕教と密教の違い
顕教と密教の違いは「教主」、「成仏への考え方」「成仏までの道程」に分けて見てみましょう。
顕教             
教主        お釈迦様(ブッダ)    
成仏の考え方  魂が繰り返し生まれ変わる度に真理や智慧を学び、獲得した時に成仏することです。
成仏までの道程 解脱を目的に輪廻転生(六道)を繰り返します。
密教
教主        大日如来
成仏の考え方  生きながら智慧を実社会の中で実行することで成仏することです。
成仏までの道程 生きながら実社会の中で成仏可能です。(1法身説法2果分可説3即身成仏)
顕教の教えは多くは公にされていますが、密教においては教えや作法が秘密にされています。
顕教では真理や智慧を理解した時を、密教では実社会の中で智慧を実行することを成仏と考えます。
まとめ
顕教の世界観では、魂は善行を積む修行のために現世に生まれ、真理や智慧を獲得して成仏となります。そう考えると、この世には修行中の魂を持った「得がある人」「そうではない人」、色々な人格が存在することも理解できますね。仏教の教えを参考に、生き方を学び、自分の手で幸せをつかみましょう。  
 

 

■顕教と密教 
空海は、唐から帰ると声聞(しょうもん)・縁覚(えんがく)の教え(二乗・小乗的修行や悟り)と南都の諸大寺にて説かれていた、三論(さんろん)・法相(ほっそう)・華厳(けごん)など、すべてを包み隠さず明らかにされた教えを密教に対して顕教と呼びました。自らのもたらした密教の優位性を主張して分類した教相判釈の一つです。教相判釈とは、釈迦の成道から涅槃までの経典の順序を整理して仏教真理を解釈する方法です。密教というのは秘密仏教の略称とされ、簡単には理解することの出来ない大日如来の説いたものとされる秘密の教えです。小乗や大乗仏教にたいして密教用語では「金剛乗」ともいいます。
日本では、空海が開いた真言宗が唯一の純粋密教系です。天台宗の最澄も、空海と時を同じくして唐に渡って密教を学び、帰国後は空海にも密教を学びますが、法華経を中心としつつ、自らが持ち帰った禅、戒律をも天台教学に取り入れ(四宗兼学)独自の教学確立を目指し、円密(法華と密教)一致を主張しています。
法華経は釈迦の最後の教えと言われています。釈迦は実在し、人々を現実に救うために説かれたわけですから相手により教えも変わり矛盾も出てきます。そういう釈迦を大日如来が衆生救済のために現世にあらわれたお姿だと考え、その教えが顕教であるというのです。宇宙の真理そのものである大日如来の究極の教えは顕教ではなく密教にあるといいます。
密教の経典は釈迦ではなく大日如来の説いたものとされます。空海は、経典を顕教の経典と密教の経典に分類しました。顕教の経典 - 華厳経・法華経・般若経・涅槃経など。密教の経典 -(真言三部経・大日三部経)大日経・金剛頂経・蘇悉地経(そしつじきょう)、理趣経など。蘇悉地経は蘇悉地羯羅経(そしつじからきょう)ともいいます。天台宗の主要経典のひとつでもあります。五鈷杵、三鈷杵、独鈷杵や羯磨などの金剛杵の使用法や秘密の祈祷儀礼の解説が記されています。
大日経には印と真言が説かれているから、密教は事相のうえで顕教よりもすぐれているのだといいます。事相というのは実践する方法で、理論だけでは役にたたないという訳です。密教には、ヒンドゥー教などの呪術的な要素が取り入れられており、真言や陀羅尼(だらに)を唱え護摩法を行うことによって様々な願いを成就させます。三密(身・口・意)加持(心で仏を想い、口に真言を唱え、手で印を結ぶ)を行じることで、仏と法界より加護の力(加持力)を頂戴し、煩悩から解脱してあらゆる苦しみから解放され「即身成仏」出来るといいます。
密教の秘密の教えには二つあります。「衆生秘密」。人間は仏陀(覚者)になることが出来るのに気づかない。「如来秘密」。大日如来の教えは仏の世界の言葉であり、普通の人間では理解できない。これらは秘密の教えですから、師資相承(ししそうしょう)によって伝持(でんじ)されます。書物やインターネットで独学で学ぶべきものではないということになっています。  
■顕教と密教の違い 
大乗仏教には大別して「顕教」と「密教」の2種類があります。
顕教(けんぎょう)
衆生を教化するため、「応身」した釈迦如来が言語や文字で明らかに説いて示した教え。密教の対義語。また、真言宗では釈迦の説いた教えを言い、天台密教では「一乗」に対して「三乗」の教えを言う。顕宗。空海が密教優位性の観点から分類した「教相判釈」のひとつである。⇔密教
密教
真理そのものである「法身」の大日如来が説いたと言われる。顕教の対義語。深奥な教えであるために、難解で容易には明らかに出来ないとされる秘密の教え。現在の仏教学では後期大乗仏教に分類され、「後期大乗」とも呼ぶ。空海によって分類された教相判釈のひとつ。⇔顕教
□応身 衆生を教化・救済するために顕現した仏の姿。釈迦・菩薩など。法身・報身・応身の三身の1。救済対象の素質に応じた姿で現れると言われる。現身。応化身。
□法身 真理そのものとしての仏の本体。色も形もない真実そのものの体。法身・報身・応身の三身の1。法仏・法身仏。
□一乗 大乗仏教で仏となる事の出来る唯一の教えを指す。一仏乗・仏乗とも呼ばれる。一は唯一無二、乗は衆生を乗せて仏果に運ぶ教法の意。
□三乗 大乗仏教において「乗」は乗り物であり、人間が悟りを開くための乗り物(=教え)を意味する。声聞乗・縁覚乗・菩薩乗の3種類に分類され、各々能力の異なる対象のために異なった教えがあるとしている。
□声聞乗(しょうもんじょう) 仏の声に導かれ、自己の悟りのみを目的とする声聞のために説かれた教え。三乗の中で最も低位とされる。
□縁覚乗(えんがくじょう) ひとりで悟りを開くための教え。声聞と縁覚は自己の悟りを求める修行であり、「自利」とされる。
□菩薩乗(ぼさつじょう) 三乗の中で最上位とされる。自らが仏となるだけでなく、全ての衆生を悟りに至らせるために説かれた教え。仏乗・大乗。自己のためならず、他者のために修行している者を指し、「自利利他」とされる。
教相判釈(きょうそうはんじゃく) 
真言宗の開祖・空海が中国から密教を持ち帰り、一般的な大乗仏教より優れているという観点から比較分類された。仏教の経典を内容によって高低を判定し解釈したものである。顕教の経典:華厳経・法華経・般若経(一部をのぞく)・涅槃経等密教の経典:大日経・金剛頂経・理趣経等
密教の教義
□即身成仏 生きたまま仏になること。人間がその肉体のままで究極の悟りを開き、仏となること。即身菩提。主に真言密教の教義であり、空海の「即身成仏義」によって確立された。天台宗・日蓮宗でも「法華経」において説かれている。
□入我我入 身・口・意の三密行を行うことにより、如来の三密が自分の中に入り、自分の三業も如来の中に入り、両者が一体の境地となる事。即身成仏へ至る道でもある。  
■密教と顕教 
密教の成り立ち
密教はインドで生まれる
釈迦(釈尊、仏陀)が始めた仏教ですが、インドで仏教が広まっていき、時が経つにつれて宗派対立が起こるようになります。釈迦の遺した考え方は広く、どういった形の信仰が正しいのかという問答の果てに、大きく二つの仏教に分かれることになったのです。一つは釈迦の行っていたオリジナルの仏教に近いとされる、上座部仏教(小乗仏教)であり、もう一つは民衆の救済に力を入れた大乗仏教というものになります。現在のカテゴリーでは、密教は大乗仏教に属しており、とくに大乗仏教の宗派でその影響が強く及んでいます。
初期のインド密教は呪術を行う
密教は呪術を行います。もちろん、呪術といっても誰かを呪い不幸を招くという意味だけではなく、一定のルールに従った行動や呪文を唱えることにより、「神仏の加護を受ける」という意味も含めた呪術です。蛇避けの呪術、歯の痛みを治す呪術、毒を消す呪術などがあります。初期の密教は、こうした呪術的な要素を取り入れることで、民衆・信者への分かりやすいメリットとして布教に用いていたのです。呪術を使うようになっていった理由には、古代インドにおいて仏教のライバルでもあったバラモン教のマントラが関わっているともされています。マントラというのは、聖典に載ってある神々へ捧げる歌や、儀式の方法などをシンボル化した紋章のことです。紋章はお守りとして使いやすいため人気があります。そのため、初期の密教もそういった人気に促されるようにして、神仏の加護を受けるための呪文=お守りを発展させていったのです。
インド密教が体系化される
ヒンドゥー教がインドで勢力を増していくと、それまでに作られていた呪術なども取り入れる形で、密教の再編集が行われていきます。密教の大きな特徴の一つに、釈迦を最高位の崇拝対象としているのではなく、大日如来と呼ばれる存在を最大の崇拝対象にしていることがあるのです。大乗仏教でありながら、釈迦の言葉を伝えるというスタイルを選ばず、教義の語り手と崇拝の対象に大日如来という存在を選ぶことになります。密教では多くの神仏を信仰の対象と組み込んでいき、それぞれの神仏の持つ能力や加護や役割をまとめていったものが描かれたものが「曼荼羅(まんだら)」です。
密教における曼荼羅
古代のインドでは、神仏を召喚して秘術を行うという発想があります。そのときには、色のついた砂などを用いて、円形または方形の魔方陣を描くことがあったのです。曼荼羅(まんだら)はその一つであり、密教では世界観を示すためにも使われています。描かれた神仏は、それぞれの役割を象徴する武器や道具が持たされており、中央にはその曼荼羅においての主要の概念を司る神仏を配置することになるのです。そして、その主要の神仏に付属・協調、あるいは役割を示唆するような神仏たちを周囲に配置することによって、役割や関係性を示しているものです。わかりやすく理解するためには、曼荼羅というのは、密教の世界観を紹介するための説明図といったようなものです。
インド密教は宗教対立により完成していく
密教は曼荼羅などによりシステム的に整備されたのですが、難解さが増してしまうという弱点を持っていたのです。民衆に受け入れがたさが出てしまい、大衆性の高いヒンドゥー教に圧迫されていきます。そのため密教は、ヒンドゥー教の最高神であるシヴァ神などを仏門に屈服・帰依させる構図などを選ぶことも始めたのです。また、ヒンドゥー教の女神信仰であるシャークタ派などからも影響を受けることになり、女性との性行為を含むヨーガなどの修行法を取り入れることにもなります。一般的な仏教のイメージよりは、呪術的・魔術的な宗教としてインド密教は完成したのです。
密教が大乗仏教と共に東へと伝来
チベットや中国を経て日本に伝来
性的な倫理観に抵触するような後期のインド密教は、儒教の影響も大きかった唐では受け入れられることはなかったのです。チベットには伝わりましたが、唐では中期までの密教が伝わり、日本にはその密教が伝えられることになります。密教を日本に伝えたのは、日本の天台宗の開祖である最澄と、弘法大師こと空海になります。
密教が日本に伝わる
日本の密教は、最澄の作った天台宗により完成した台密と、空海の真言宗が伝えている東密の二大宗派があります。また、日本の密教は、日本における山岳信仰などと結びついていき、修験道などを生むことにもなったのです。
密教と顕教の違い
密教に対する顕教という言葉の意味
顕教(けんきょう/けんぎょう)という言葉を使い出したのは、真言宗の開祖である空海です。空海いわく、顕教とは「衆生を教化するために姿を現した釈迦如来が、秘密にすることなく説き現した教え」になります。また空海は自分たちが所属している密教を「真理そのものの姿で容易に現れない大日如来が説いた教えで、その奥深い教えであるが故に容易に明らかに出来ない秘密の教え」と表現しているのです。空海は密教の優位性を語るために、他の仏教をけなすような意味で使っています。つまりは、「密教以外の仏教」が顕教になります。
密教と顕教の相違点
密教では師匠から直接的に教えを施してもらわなければ、その奥義は理解することが出来ないとされています。これはお経を唱えておけば救われるというような、広く一般的な民衆が救われる他の大乗仏教とは大きな性格の違いです。師匠から弟子に伝わってこそ、密教となります。密教の奥義は口伝により、経典に書かれていない秘密を伝えられるとされているのです。この秘密主義的なところから、秘密の仏教=密教となります。
密教は他宗派よりもヒンドゥー教的かつ呪術的
成立の過程にヒンドゥー教を吸収してもいる密教は、呪術的な側面を多く持っています。具体的に言えば、加持祈祷(かじきとう)などを行うことにより、祝福や守護、恨みのある敵を呪うなどの、現世利益を与えるということになるのです。
密教は修行によって法力を得る
密教は過酷な修行の果てに、法力を身につけるとされています。この法力を民衆の救済に使うというのが、密教のテーマになるのです。
密教は即身成仏が可能とされる
他の仏教では死後に成仏、つまり仏になれると説かれています。しかし、密教では即身成仏(そくしんじょうぶつ)、つまり、修行の結果生きている間に仏になれるとされているのです。そして成仏した僧侶は、大日如来と一体化した存在でもあるといわれています。他の宗派では理論的にありえない、とされているため、これは密教独自の特徴です。
密教の修行
密教の修行:三密(さんみつ)
密教には、身密、口密、意密からなる「三密(さんみつ)」という修行法があります。身密(しんみつ)とは、両手の10本の指を使って、「印」と呼ばれるものを作りながら、座禅を組むという修行です。口密(くみつ)とは真言という呪文を唱えることになります。意密(いみつ)は大日如来のことを心に浮かべるという修行です。これらを行うことで、修行者は大日如来と一体化することが可能で、即身成仏することも出来るのだとされています。
密教の修行:護摩(ごま)
護摩(ごま)とは、炎を焚きながら人々の幸福を祈願する修行です。密教においては、火は大日如来の叡智であるとされています。古くはインドのバラモン教や、イラン発祥のゾロアスター教に起源を持つとも言われています。火=大日如来=自分であると念じながら祈祷することで、火が煩悩を焼き払ってくれるとされているのです。密教では、如来と一体化するというのが、テーマの一つになります。
密教の修行:火渡り
文字通り火の上を歩いて渡っていくことになるハードな修行です。火は神聖なものであるため、我慢して火の上を歩くことで心身ともに清められることになります。
日本密教の曼荼羅の種類を解説
胎蔵界曼荼羅(たいぞうかいまんだら)
曼荼羅は密教の世界観を表現したものになります。その曼荼羅の中心には密教の頂点である大日如来が配置され、その周りを囲むように無数の神仏が配置されているのです。悟りの世界を表した胎蔵界曼荼羅は、赤い蓮の花が描かれ、その中心に大日如来がいます。それは、大日如来こそが世界の中心なのであり、あらゆるものは大日如来から生まれているということを示すものになるのです。あらゆるものの中には、あらゆる神仏も含まれています。さまざまなご利益を与える神仏がいたとしても、それらの根源は、大日如来であることを示しているものです。また、赤い蓮の花は人の心臓=心を象徴しており、あらゆる人の心には神仏がいる、すなわち性善説を唱えています。そして、人の心には神仏=大日如来がいるのだから、密教を修行することで、法力が得られ、大日如来と一つになれるのだということも示しているのです。また胎蔵界曼荼羅は、慈悲を表し、密教が持つ人に対しての肯定的な世界観を表現しています。
金剛界曼荼羅(こんごうかいまんだら)
日本密教独自の曼荼羅であり、密教の教義を示す九つの曼荼羅を一つにしたものです。金剛とはダイヤモンドあるいは壊れることのない金属のことであり、大日如来の知恵と悟りは金剛のように揺るぎなく強いことを示します。金剛界曼荼羅は知恵を象徴しており、密教の教義としての考え方を記したものです。
空海の師匠が二つの曼荼羅をまとめた
空海の師である唐密教の高僧である恵果(えか/けいか)は、密教を言葉で説明することは困難であると考え、曼荼羅という絵で伝えようとしたのです。密教の世界観を示す上記二つの曼荼羅は、そもそも起源さえも異なるものでしたが、恵果はそれらを並べて併記することで、より密教の世界観を伝えやすくしようと試みます。そして、この二つの曼荼羅は両界曼荼羅として完成し、自分のもとに2年間の修行に来ていた空海に渡すことで、空海により日本に伝えられたのです。
二つの曼荼羅の違い
胎蔵界曼荼羅
慈悲を示す / 実践論的 / 大日如来の真理が世の中に及ぼす形を示す
金剛界曼荼羅
知恵を示す / 理論的 / 大日如来の真理のシステム的な証明
密教はヒンドゥー教の呪術的な側面を持った仏教
ひらたく言えば密教はヒンドゥー教あるいはインドの土着信仰や呪術などを取り入れた、大乗仏教の宗派の一つになります。イスラム勢力によって滅ぼされたため、今では存在しませんが、インド密教は、セックスなどを、特別な力を得るための秘術としていたり、処女を生け贄にしたりしています。密教は基本的にセクシャルな雰囲気があり、禁欲的な他の仏教に対して、欲望にはポジティブな構成をしているのも特徴です。法力という超人的な力を求めたり、現世の利益を追求する姿勢や、釈迦を信仰の中心に置かないスタイルは、他の仏教とは真逆を行きます。また大日如来という崇拝対象と一体化することが可能としている部分も、他宗派とは大きく異なります。
まとめ
  密教は大乗仏教の一つ
  密教は釈迦ではなく大日如来を崇拝
  密教は呪術的な宗教
  密教は師匠からの口伝で奥義を伝える
  密教以外の仏教が顕教
  密教では修行すると生きたまま成仏する
  密教では曼荼羅という図で教義を示す
  密教はヒンドゥー教の影響を受けた仏教
密教はヒンドゥー教の一部やインドの呪術を受け入れることで誕生した仏教です。インドでは滅びましたが、大乗仏教と共に東へと伝えられ、チベット、中国、日本などに残っています。さまざまな宗教や文化が残っていることは、興味深いことです。日本では好きな宗教を選べるため、多くの宗教がある方が選択肢も増えることになります。信者のニーズに合わせやすくて便利なように感じますし、古代インドからの呪術を継承している宗教があると思うと、その歴史の古さにワクワクすることも可能です。 
 

 

 
浄土真宗で般若心経を唱えない理由

 

般若心経といえば、お経のなかでも最もポピュラーだといえるでしょう。仏式の葬儀で唱えられることも多いので、いつもと違うお経を耳にすると「どの宗派の葬儀だろう」と不思議に思う方もいるのではないでしょうか。浄土真宗は祈りや修行による悟りや成仏ではなく、阿弥陀仏の本願によって救済を受け、極楽浄土に生まれ変わることが宗旨です。このことから般若心経を唱えなくとも、阿弥陀仏に帰依して信心をもつことで往生ができると考えます。記事で、浄土真宗について理解を深めて般若心経との関わりを知りましょう。浄土真宗の宗旨や経典と、各宗派の読経方法についてご紹介します。
浄土真宗ではなぜ般若心経を唱えないのか?
日本仏教の数ある宗派では、般若心経を唱える宗派が多くの割合を占めます。そのなかでも、浄土真宗は般若心経を唱えない宗派のひとつです。般若心経は仏教の重要な知の結晶ですが、浄土真宗では葬式の際にも唱える必要はないと考えます。この理由を理解するために、浄土真宗の宗旨や経典と般若心経の関わりについて見ていきましょう。
聖道仏教と浄土仏教の違い
日本における仏教の宗旨は、大きく「聖道仏教(聖道門)」と「浄土仏教(浄土門)」の2種類に分けて考えられます。聖道仏教は、さまざまな修行や祈りをとおした「自力」によって、悟りを得ることや成仏することを説く宗旨です。天台宗や真言宗をこれに含めて考えます。浄土仏教は、「阿弥陀仏(阿弥陀如来)」の本願により、観仏や念仏によって極楽浄土に往生することを説く宗旨です。浄土真宗や浄土宗がこれにあたります。
般若心経は自力で助かろうとする聖道仏教の経典
仏教の経典のひとつである「般若心経」は、600巻にもおよぶ「大般若経」の精髄を、300字に満たない経としてまとめたものです。般若心経は聖道仏教の経典であり、浄土真宗では用いていません。般若心経は、自ら智慧を磨いて修行する先の、悟りや成仏を求める経典です。聖道仏教はこれを経典としますが、自力を頼むなら厳しい修行に耐えることにもなり、簡単な道ではありません。つまり、般若心経は修行を行わなければ成仏できないという考えとともにあるお経ということです。
浄土真宗のお経は他力によって幸せをつかむ経典
浄土真宗では、般若心経を経典とせず、代わりに「浄土三部経」を経典とします。浄土宗の宗祖である法然が「他力本願」での念仏による往生を説き、その弟子であり浄土真宗の宗祖とされる親鸞が「信心」による往生を説きました。浄土真宗では自力本願ではなく「他力本願」、つまり阿弥陀仏(他力)の衆生救済という本願を頼り、その力を信じる心によって極楽浄土に往生できると説きます。自力での悟りや成仏ではなく阿弥陀仏の本願による往生を頼む浄土真宗では、厳しい修行の教えを内包する般若心経を読経する必要はありません。
浄土真宗で重要とされるお経は3種類
ここまでは、浄土真宗では般若心経ではなく浄土三部経を経典とすることを解説しました。浄土三部経とは、大無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経という3部の経典です。浄土真宗では大無量寿経を特に重視しますが、3部のすべてに宗旨との密接な関わりがあります。ここでは、浄土真宗を理解するには不可欠な、浄土三部経の内容について見ていきましょう。
大無量寿経
浄土真宗において「大無量寿経(仏説無量寿経)」は、浄土三部経のなかで最も重要とされる経典です。親鸞が語ったところによると、7,000巻ほどある仏教の経典のなかで、釈迦の本心を説いているのは大無量寿経だけだといいます。阿弥陀仏の本願を説いている大無量寿経は、浄土真宗の宗旨の根幹です。釈迦は大無量寿経のなかで、「自分は阿弥陀仏の本願を説いて衆生救済へ導くために生まれた」とも、「大無量寿経は未来永遠に残る」ともいっています。つまり、阿弥陀仏の本願は仏教の根幹です。これを頼って衆生救済を説く浄土真宗にとって、大無量寿経は最も尊い経典といえます。
観無量寿経
「観無量寿経(観経)」は、釈迦と同時代に生きたマガダ国のビンバシャラ王の妃、「韋提希(いだいけ)夫人」に向けた説法を表す経典です。韋提希夫人が息子の阿闍世(あじゃせ)太子によって牢獄に閉じ込められたとき、釈迦は大衆に向けて「法華経」の説法をしていました。法華経は、誰もが平等に仏になりうることや、この世(娑婆世界)では永遠の寿命をもつ仏が衆生を救済に導いていることを説く経典です。牢獄に閉じ込められている韋提希夫人に気づいた釈迦は、法華経を説くのをやめ、韋提希夫人に向けて阿弥陀仏の本願と極楽浄土に往生することを説きました。その内容を示したものが観無量寿経です。
阿弥陀経
「阿弥陀経」は、サンスクリット語で「スカーヴァティー・ヴィユーハ」といい、原題は大無量寿経と同タイトルです。このため、大無量寿経を「大経」、阿弥陀経を「小経」と呼び分けます。阿弥陀経は、弟子との対話形式ではなく釈迦が自ら説く形で、阿弥陀仏の仏国土である極楽浄土と仏の関わりを説く内容です。極楽浄土はすばらしく阿弥陀仏の「名号(南無阿弥陀仏)」をしっかりともつ大切さや、ほかの仏も推奨していることを説いています。仏国土をよく知る釈迦は、極楽浄土に往生するべきと衆生に説きますが、釈迦であっても仏国土や仏の話を信じてもらうことは困難だったという結びです。
各宗派における般若心経の扱い|読経の特徴
浄土真宗では、日々の「勤行(ごんぎょう)」の際にも般若心経を唱えません。宗派によって根幹とする経典は異なり、読経をする経典の種類や勤行の作法も違います。ここでは、般若心経を中心に、各宗派での勤行の内容や作法の違いについて見ていきましょう。
浄土真宗(本願寺派)
仏教系の宗教法人のなかで最多の信者数を誇る「浄土真宗本願寺派」は、親鸞の墓所を発祥とする「本願寺(西本願寺)」を本山とします。浄土真宗本願寺派では、阿弥陀仏の本願により往生することを頼るため、般若心経の読経は行いません。在家の信者は、上述の浄土三部経を読経します。毎日の読経を推奨していますが、難しい場合は仏前に座って合掌と礼拝をするだけで構いません。焼香の作法は、仏前に正座して軽くお辞儀をしてから頭にあてず1回だけ行い、合掌と礼拝をします。
浄土真宗(大谷派)
阿弥陀仏のみを本尊とする「浄土真宗大谷派」は、東本願寺を本山とする、浄土真宗の主要な宗派のひとつです。浄土真宗大谷派でも他力本願による往生を説くため、般若心経の読経は行いません。毎日の勤行は、「帰命無量寿如来」で始まる「正信念仏偈(正信偈)」を拝読することです。これは釈迦ではなく親鸞が書いた「信心の偈頌(げじゅ)」であり、読経とはいいません。浄土三部経も勤行に含めますが、困難であれば合掌と礼拝を行います。焼香は頭にいただかず、2回つまむことが通例です。
浄土宗
知恩院を総本山とする「浄土宗」は、親鸞の師にあたる法然を宗祖とする仏教教団です。浄土三部経を根本経典としますが、浄土真宗とは異なり、祈願や食作法の際に般若心経を唱えます。教義は「専修念仏」を中心とするため、日常生活のなかで、「阿弥陀仏に南無(帰依)する」という意味の「南無阿弥陀仏」を唱え続けることが基本です。できれば朝には仏前に手を合わせます。経典のなかでも大無量寿経の「四誓偈」を中心に読経し、焼香は心を込めて1回行うのが作法です。勤行が難しい場合は、念仏を10回繰り返す「十念」に代えて構いません。
真言宗
密教を基盤として空海が開いた「真言宗」は、「東寺(教王護国寺)」を総本山とします。現在では約50の宗派があり、最大のものは「高野山真言宗」です。勤行は供養と礼拝を中心としており、仏壇の「荘厳(姿や飾り)」や作法と、般若心経を重視します。高野山真言宗の勤行には、合掌と礼拝に始まり回向(えこう)に終わるまでの15の手順があり、それぞれにおいて祈りとしての作法が重要です。焼香は香炉に引いた抹香の上に5種香をおき、線香なら3本を立てます。勤行が難しい場合は、般若心経を含む5つの手順を踏む形です。
日蓮宗
日蓮を宗祖とする「日蓮宗」は、身延山の「久遠寺」を総本山とする宗派です。「妙法蓮華経(法華経)」を釈迦の本懐にあたる経典とし、妙法蓮華経に帰依することを意味する「南無妙法蓮華経」と唱えることを重視します。般若心経を含む妙法蓮華経以外の経を唱えることはしません。勤行は、毎日欠かさず続けることが基本です。妙法蓮華経を仏の言葉であり魂であると考えるため、朝の勤行では一字一句を読み間違えないように、妙法蓮華経をもって読経します。焼香は3回か1回を行い、線香なら1本か3本を使うのが作法です。
天台宗
最澄を宗祖とする「天台宗」は、比叡山の「延暦寺」を総本山とする宗派です。9世紀初頭に始まり、多くの日本仏教の宗派が天台宗から派生しています。根本経典は法華経であり、般若心経も不可欠です。天台宗の修行では瞑想法の「止観」を重視しており、この修行のあり方は現代の「朝題目・夕念仏」という勤行につながっています。朝には「観音経」や般若心経の読経を行い、夕方は「自我偈」や「円頓章」を読経するのが代表的な修行法です。焼香は、親指・人差し指・中指の3本で2回行います。勤行が難しい場合は、般若心経の読経だけで構いません。
浄土真宗や般若心経でよくある質問
Q:浄土真宗と浄土宗の違いは何?
A:浄土真宗も浄土宗も「南無阿弥陀仏」と唱えますが、これを唱える発想に大きな違いがあります。浄土宗では南無阿弥陀仏と唱えること自体が往生に必要な行為であると考えますが、浄土真宗では称名する際の信心、つまり心もちが重要です。阿弥陀仏の本願を信じる心があれば、口に出して南無阿弥陀仏と唱える必要はありません。
Q:なぜお経をあげる必要があるの?
A:お経は「死者を弔うためにあげるもの」と考える方もいますが、仏教の開祖である釈迦は「読経をしても死者のためにはならない」という考えだったといいます。仏教の経典は、釈迦の言葉や行いを弟子たちがまとめあげたものです。生きている方に向けた言葉を集めた経は、たとえ親族が亡くなっても生きている方が幸せになるためにあげます。
Q:浄土真宗はなぜお祈りをしない?
A:浄土真宗では阿弥陀仏の本願、すなわち悩み苦しむ衆生を救済することを誓った阿弥陀仏の誓願を頼って、極楽浄土に生まれ変わらせてもらいます。阿弥陀仏に対する信心が往生につながるのであって、衆生の弱さを知る阿弥陀仏に自分勝手な祈りを押しつけることはしません。祈るところには煩悩と苦しみがあります。祈るのではなく信じることが、浄土真宗の根幹です。
Q:戒名の代わりに法名を使う理由は?
A:戒名というのは、戒を守って「三宝(仏法僧)」に帰依する仏弟子に与える名です。浄土真宗では、戒を守れない衆生が他力本願により極楽浄土に往生すると考えます。この仏になる方法を「仏法」といい、仏法のなかに生きる存在として仏弟子になった証が「法名」です。故人に対してではなく仏弟子に与える名であるため、社会生活を営むなかで法名を授かることもできます。
Q:浄土真宗のご本尊は?
A:浄土真宗の御本尊は阿弥陀仏のみです。阿弥陀仏はサンスクリット語のアミターバ(無量光)、あるいはアミターユス(無量寿)を音写しています。空間的にも時間的にも無制限に衆生を救済していくのが阿弥陀仏です。大無量寿経では、阿弥陀仏は衆生救済のために王位を捨てて仏となり、いまなお極楽浄土で説法をしていると説いています。
Q:素人が般若心経を唱えると悪いことが起こるのは本当か?
A:これはまったくの迷信で、般若心経と災いや呪いなどは無関係です。「般若」とは、世界の根源的な真理や、それに気づくことを指します。般若心経は、600巻にもおよぶ「空」や般若の思想を300字未満にまとめた知の結晶です。仏教の重要な観念を理解し、体得しようとするなかで、素人だからといって不吉なことが起こるはずもありません。
まとめ
浄土真宗は、阿弥陀仏の本願を信じて往生させてもらう他力本願を宗旨とします。南無阿弥陀仏と唱えるときに、阿弥陀仏に帰依する信心をもつことが重要です。極楽浄土に生まれ変わるためには、祈りも厳しい修行も必要ありません。現世での肉体はいずれ滅びるとしても、仏国土に生まれ変わる阿弥陀仏の救いを信じてみるのもよいでしょう。 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 

 

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