貧乏神

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雑学の世界・補考

 
■貧乏神

貧乏神 1

 

1
取り憑かれると貧乏になってしまうという神である。人に災厄をもたらす悪神の一種とされる。
その名の通り、人や家に取り憑いてその財産を食いつぶし、さらに金運そのものも追い払ってしまう。
痩せこけたみすぼらしい身なりの男として描かれることがほとんどであるが、近年では太った姿(桃太郎伝説および桃太郎電鉄シリーズ)、可愛げのある描かれ方(おじゃる丸の貧ちゃん)、女性(貧乏神が!)として描かれるようにもなった。手には団扇を持っている事も。
古い文献には、貧乏にするには飽き足らず、骨も残さずしゃぶりつく悪魔のような存在とされたり、逆に貧乏神を嫌わずに恭しく扱えば福の神のように幸運を運んでくれるとされる。
実際、数は少ないが「貧乏神神社」という貧乏神を祭神とする社は存在し、一説には末社の福の神よりも数倍強いパワーを持っているとさえいわれている。
金遣いの荒い者や金をせびりに来る者、また一緒にいると浪費や金運の低下を招いてしまうような人物の例えともされる。
2
家に住みつき,その家を貧乏にすると信じられる神。流通経済の発達とともに,近世以降に生じた都市的な俗信で,その名のとおりみすぼらしい姿に描かれる。貧乏神送りと称して,焼き味噌を川に流す習俗もある。
3
人にとりついて貧乏にさせるという神。また、貧乏をもたらす人のたとえ。相撲で、十両の筆頭力士の称。給金は十両でありながら、幕内力士とも取り組まされるところからいう。古典落語の演目のひとつ。
4
特定の人や家により憑き,貧乏をもたらす神。貧乏神にとり憑かれると食物が欠乏したり金銭に貪欲になったり思いもよらぬ妨げなどの厄災が生じたりする。貧乏神は人間の姿でちまたをさまようものと信じられ,金壺眼でとがった顎をし瘦身で,ねずみ色の単衣(ひとえ)に白い菅笠をかぶり,首から頭陀袋をつりさげた姿で描かれるのが典型的である。貧乏神は貨幣経済の発達をみた近世以後の文献や小咄・落語などに登場するが,注意されるのは貧乏神に憑かれた家でこの神を丁重にまつると逆に富や福をもたらす福神に転化することであり,こうして東京小石川の牛天神のそばの貧乏神のように流行神(はやりがみ)となった貧乏神もある。
5
人にとりついて、その人に貧乏をもたらすといわれる神。「 −にとりつかれる」。〔十両でありながら前頭の力士と取り組まされることから〕 相撲で、十両の筆頭力士の俗称。
6
家に居着いてその家を貧乏にさせるという神。近世の随筆類から現れ始めた都市的な俗信である。乞食(こじき)坊主のようなしょぼくれた姿をしており、顔は青黒く、目は落ち込んで、体はやせているという。渋うちわに貧乏神がつくとか、貧乏神は焼きみそのにおいを好むとか、いろりの火種を絶やすと貧乏神が出るなどの俗信があり、焼きみそを川に流して貧乏神を送り出す作法もある。[井之口章次]
7
俗に、人にとりついて貧乏にさせるという神。乞食坊主のような姿で、老いさらばえて色青ざめ、破れた渋団扇(しぶうちわ)を持って悲しそうな姿で現われるという。また、貧乏や、不景気な事、不幸などを持ちこむ人のたとえ。近世になって現われはじめた都市的な俗信だが、焼味噌(やきみそ)のにおいを好み、いろりの火種を絶やすと出るなどという俗信がある。窮鬼。びんぼがみ。相撲番付で、十両筆頭のこと。幕内力士と取り組むことが多く、そのわりに収入は少なく、種々のことで損をするところからいう。
 
貧乏神 2

 

「貧乏神」というと、皆さんどんな姿を思い浮かべますか? ぼろぼろな衣服を着て、悲しそうな顔をした老人で、取りつかれると貧乏になる――こんなところでしょうか。でも、実はそれだけではないのです。
貧乏神の特徴はこんな感じ
「貧乏神」の特徴を挙げてみましょう。
・くたびれた様子の老人
・顔色は青白く不健康な様子
・悲しそうな表情
・手にはうちわを持っている
こんなのが現れるだけで気がめいってきそうですね。
また、好物は「みそ」で、うちわでみそをあおいでその匂いをかぐ、という話もあるそうです。まさに貧乏臭い趣味ですね。
貧乏神は「女性」!?
貧乏神というと、男性の老人と思う人が多いかもしれませんが、実は由緒正しい貧乏神は「女性」です。仏典『涅槃教(ねはんきょう)』によれば、福をもたらす「吉祥天」、その妹の「黒闇天(こくあんてん)」が実は「貧乏神」です。
この黒闇天を家から追い出そうとしたところ、福をもたらす吉祥天も一緒に出て行ってしまったというお話です。吉凶は表裏一体という説話なのでしょうね。
貧乏神に取りつかれると貧乏になる?
上記の『涅槃教』によれば、貧乏神のいる所には福の神もいるはずなのですが、日本の伝承などによると、貧乏神だけが家についたりします(笑)。貧乏神が家につくと、家産は傾き、家人は病気になるなどロクなことが起こりません。
ゲーム『桃太郎電鉄』シリーズに登場する「キングボンビー」などは、まさにこの貧乏神の正統な後継者といえるかもしれません。キングボンビーの押し付け合いで友情が壊れたりしますが、これも貧乏神の力なのでしょう。
「貧乏神に取りつかれると貧乏になる」というのが通説ですが、実は福を授けてくれる貧乏神もいます。また、その神社も現存しています。
貧乏神のおかげ!?
東京都文京区春日に貧乏神を祭った「太田神社」があります(牛天神 北野神社の境内にあります)。この神社には、次のような由緒が伝わってます。
江戸時代に、小石川の三百坂に住んでいた貧乏な旗本の夢に一人の老婆が現れます。
この老婆の言うことには、「私は貧乏神じゃ。あまりに居心地がいいので、この家に長く住み着いていたが、長年世話になったので福を授けよう」 そして、自分の祭り方を指南するのです。
貧乏旗本がそのとおりにしたところ、本当に福が訪れたそうです。
この由緒があって、この社は世にも珍しい貧乏神を祭る神社になったのです。江戸時代には福を授けてくれるとして信仰を集めたとか。このような貧乏神もいらっしゃるようですが、できれば貧乏神とは縁のない人生を送りたいものです。
太田神社の御由緒
昔々、小石川の三百坂の処に住んでいた清貧旗本の夢枕に一人の老婆が立ち、「わしはこの家に住みついている貧乏神じゃが、居心地が良く長い間世話になっておる。そこで、お礼をしたいのでわしの言うことを忘れずに行うのじゃ…」と告げた。正直者の旗本はそのお告げを忘れず、実行した。すると、たちまち運が向き、清貧旗本はお金持ちになる。そのお告げとは─「毎月、1日と15日と25日に赤飯と油揚げを供え、わしを祭れば福を授けよう…」以来、この「福の神になった貧乏神」の話は江戸中に広まり、今なお、お告げは守られ、多くの人々が参拝に訪れている。
黒闇天
仏教における天部の一尊。吉祥天の妹。また閻魔王の三后(妃)の1柱ともされる。中夜・闇と不吉・災いをも司る女神で、信じる者には夜間の安らぎや、危険除去などを授ける1尊。
黒闇女、黒夜天、暗夜天、黒夜神、あるいは別名“黒耳”(こくに、KālakarNī、不幸・災難の意[要出典])などとも呼ばれ、その原語は、元来“世界終末の夜”を意味する。
つねに姉の吉祥天と行動を共にするが、彼女の容姿は醜悪で性格は姉と正反対で、災いや不幸をもたらす神と、設定されている。『涅槃経』12には「姉を功徳天と云い人に福を授け、妹を黒闇女と云い人に禍を授く。此二人、常に同行して離れず」とある。
ヒンドゥー教では、別名である原語の“黒耳”が擬人化され、シヴァ神の妃であるドゥルガーと同一視され、またヤマ(閻魔)神の妹とされた。[要出典]ただし、『大日経疏』10に「次黒夜神真言。此即閻羅侍后也」などとあることから、密教では中夜を司り閻魔王の妃とする。彼女の図画は胎蔵界曼荼羅の外金剛部院に確認できる。その姿は肉色で、左手に人の顔を描いた杖を持っている。
日本においては貧乏神・疫病神として恐れられる一方で、貧乏を払い福を招く神として信仰された例も存在する。牛天神(東京都文京区所在)の末社である太田神社は、明治の神仏分離令以前に黒闇天を祭神としており、同社に伝わる「太田神社の御由緒」に、黒闇天が貧乏神から福の神として信仰されるに至った経緯が書かれている。  
 
貧乏神 3

 

取りついた人間やその家族を貧乏にする神。日本各地の昔話、随筆、落語などに名が見られる。
基本的には薄汚れた老人の姿で、痩せこけた体で顔色は青ざめ、手に渋団扇を持って悲しそうな表情で現れるが、どんな姿でも怠け者が好きなことには変わりないとされる。家に憑く際には、押入れに好んで住み着くという。詩人・中村光行によれば、貧乏神は味噌が好物で、団扇を手にしているのはこの味噌の芳香を扇いで楽しむためとされている。
仮にも神なので倒すことはできないが、追い払う方法はないわけではない。新潟では、大晦日の夜に囲炉裏で火を焚くと、貧乏神が熱がって逃げていくが、代わりに暖かさを喜んで福の神がやって来るとされる。囲炉裏にまつわる貧乏神の俗信は多く、愛媛県北宇和郡津島町(現・宇和島市)では囲炉裏の火をやたらと掘ると貧乏神が出るといわれる。
古典
兎園小説
曲亭馬琴らによる江戸時代の奇談集『兎園小説』により「窮鬼(きゅうき)」
文政4年(1821年)、江戸番町に年中災い続きの家があり、その武家に仕える男があるときに用事で草加へ出かけ、1人の僧と知り合った。男が僧に、どこから来たのかと尋ねると、今まで男の仕えていた屋敷にいたとのことだった。男はその僧を屋敷で見たことがないと告げると、僧は笑いながら「あの家には病人が続出しているが、すべて貧乏神である私の仕業だ。あの家は貧窮極まった状態なので、ほかの家へ行く。今後、あなたの主人の運は上を向く」と言って姿を消した。その言葉通り、その後、男の仕える家は次第に運が向いてきたという。
譚海
津村淙庵の随筆『譚海』
昔ある者が家で昼寝していると、ぼろぼろの服の老人が座敷に入って来る夢を見て、それ以来何をやってもうまくいかなくなった。4年後、夢の中にあの老人が現れ、家を去ることを告げ、貧乏神を送る儀式として「少しの焼き飯と焼き味噌を作り、おしき(薄い板の四方を折り曲げて縁にした角盆)に乗せ、裏口から持ち出し川へ流す」、今後貧乏神を招かないための手段として「貧乏神は味噌が好きなので、決して焼き味噌を作らない。また生味噌を食べるのはさらに良くないことで、食べると味噌を焼くための火すら燃やせなくなる」と教えた。その通りにして以来、家は窮迫することがなくなったという。
日本永代蔵
井原西鶴『日本永代蔵』により「祈る印の神の折敷」
嫌われ者の貧乏神を祭った男が、七草の夜に亭主の枕元にゆるぎ出た貧乏神から「お膳の前に座って食べたのは初めてだ」と大感激されて、そのお礼に金持ちにしてもらったという話である。また、かつて江戸の小石川で、年中貧乏暮しをしていた旗本が年越しの日、これまでずっと貧乏だったが特に悪いことも無かったのは貧乏神の加護によるものだとし、酒や米などを供えて貧乏神を祀り、多少は貧窮を免れて福を分けてもらうよう言ったところ、多少はその利益があったという。
信仰
前述の『日本永代蔵』の貧乏神は貧乏を福に転じる神とされ、現在では東京都文京区春日の牛天神北野神社の脇に「太田神社」として祠が祀られている、祠に願掛けをして貧乏神を一旦家に招きいれ、満願の21日目に丁寧に祀って送り出すと、貧乏神と縁が切れるといわれている。
東京都台東区の妙泉寺にも貧乏神の石像(モチーフは桃太郎伝説・電鉄シリーズの貧乏神)が祀られている。この石像は景気回復の願から貧乏神の頭の上に猿が乗る「貧乏が去る(猿)像」と名づけられている。この像は香川県高松市の鬼無駅と長崎県佐世保市の佐世保駅、銚子電気鉄道の仲ノ町駅にも設置されている。また銚子電気鉄道には、笠上黒生駅に「貧乏を取り(鳥)」として頭にキジが乗った像が、犬吠駅に「貧乏が去ぬ(犬)」として頭に犬が乗った像が、猿と時同じくして設置された。
貧乏神が焼き味噌を好むという説に関連し、大阪の船場には明治10年頃まで貧乏神送りの行事があった。毎月末、船場の商人の家で味噌を焼き、それを皿状にしたものを番頭が持って家々を回り、香ばしい匂いがあちこちに満ちる。頃合を見計らい、その焼き味噌を二つに折る。こうすることで、好物の焼き味噌の匂いに誘われて家から出てきた貧乏神が焼き味噌の中に閉じ込められるといい、番頭はそのまま焼き味噌を川へ流し、さらに自分も貧乏神を招かないように味噌の匂いをしっかりと落としてから帰ったという。
ことわざの「柿団扇は貧乏神がつく」は、渋団扇に貧乏神が憑くという俗信からきている。
 
魔縁

 

仏教用語で、障魔となる縁(三障四魔)のこと。また特に第六天魔王波旬を指す。また、いわゆる慢心の山伏である妖怪の天狗、即ち魔界である天狗道に堕ちた者たちを総称していう場合もある。
仏教の魔縁
三障四魔(さんしょうしま)
   三障(梵: āvarana-traya)
    聖道を妨げ、善根を生ずることを障害する3つ
煩悩障 / 仏道の妨げの心、貪・瞋・痴(とんじんち)の三毒の煩悩によって仏道修行を妨げる働き
業障 / 魂に刻まれた業、言語・動作、または心の中において悪業を造り、為に正道を妨げる働き
報障 / 因果応報、悪業によって受けたる地獄・餓鬼・畜生などの果報の為に妨げられる働き
   四魔(梵: catovāro-mārāh)
    生命を奪い、またその因縁となる4つ、またそれを悪魔にたとえたもの
陰魔 / 正しくは五陰魔(ごいんま)といい、心身からくる妨げで、色・受・想・行・識の五陰が、和合して成ずる身体は種々の苦しみを生じる働きをいう。五蘊魔(ごうんま)ともいう
煩悩魔 / 煩悩障におなじ、心身を悩乱して、菩提・悟りを得る障りとなるから煩悩魔という
死魔 / 修行者を殺害する魔、死は人命を奪うから死魔という
天子魔 / 第六天魔王(天魔、マーラ・パーピーヤス、魔羅・波洵、他化自在天ともいう)の働き
天狗の魔縁(外道、外法)
本来、天狗は中国の彗星などのことであったが、日本に伝わると平安時代以降、名利をむさぼり慢心をもつ傲慢で自我に捉われた修験僧(山伏)のこととされるようになり、そして、山の妖怪である天狗を指すようになった。
そのような修験僧は、死後に天狗道という魔界に転生すると考えられるようになった。
したがって、天狗道は仏教の六道の範疇にないことから、その六道の輪廻からも外れた魔界であるとされる。仏教の知識があるため人間道には戻れず、特に宗教上の罪を犯したわけではないため地獄道、餓鬼道、阿修羅道、畜生道には堕ちず、かといって信心には無縁であるため天道にも行けず、天狗道に堕ちるとされる。そのため、6つの道から外れて救済不能な道、あるいはその道の者を外道と俗称する(しかし外道の本来の意味は、悟りを得る内道を説く仏教に対し、それ以外の六師などの教えを指していうのが通常の用法である)。
天狗道という言葉自体は14世紀成立の『太平記』巻二十七に記載が見られる他、18世紀の談義本『天狗芸術論』巻之四において、天狗界として説明が記述されており、大天狗が「己の小ざかしい知恵に慢心し、人を侮り、人の騒動を喜び、この喜びを是非や得失の基準とし、無事を楽しむことを知らず、己が欲することを絶対視し、反省せず、従う者を是、従わぬ者を非とする」と木の葉天狗達に語り、戒めている。
天狗は慢心の山伏がなるもので、その姿は山林に住む鳥そのものだという。修行する者にとって、仏道を妨げるものの一つとして、怪異な音は、鳥の声や羽ばたきだったとも言われる。
大魔縁 崇徳院
五部大乗写経をして怨念をもって死んだ崇徳天皇は、「日本国の大魔縁になる」と言い残したとされる。しかし、現在では白峯神宮の神となっている。
  
難を乗り越える信心

 

人生には、必ず苦難が伴います。また、広宣流布の戦いには、必ず困難があります。ここでは、私たちが仏法を実践していく過程に必ず生ずるさまざまな「難」について学び、「難を乗り越える信心」を確認します。
一生成仏を目指す私たちは、生涯にわたって信心を貫いていくことが大事です。
しかし、信心を持続するなかには、難が必ず現れてきます。このことを知って、いかなる難にも崩されない自身の信心を確立していくことが肝要です。
では、正しい法(正法)を持った人が、なぜ難にあうのでしょうか。
まず、正法を信じ行じて成仏の境涯を目指すということは、自身の生命を根底から変革させていくことです。どんな変革にあってもそうですが、仏道修行においても、その変革を起こさせまいとするはたらきが、自身の生命自体や、あるいは周囲の人間関係の中に生ずるのです。ちょうど、船が進むときに抵抗で波が起こるようなものです。
成仏を目指す仏道修行の途上に起こる、このような障害に「三障四魔」があります。
また、法華経には、末法濁悪の世に法華経を広める「法華経の行者」に対して「三類の強敵」が現れ、迫害することが説かれています。
これは釈尊入滅後の悪世において、一切衆生の成仏を願って、法華経を広宣流布しようとする実践のあるところに起こってくる迫害です。また、この三類の強敵の出現は、真実の法華経の行者であることの証となるのです。
三障四魔
「兄弟抄」には、次のように述べられています。
「第五の巻にいわく『行解既に勤めぬれば、三障四魔、紛然として競い起こる。乃至随うべからず、畏るべからず。これに随えば、まさに人をして悪道に向かわしむ。これを畏れば、正法を修することを妨ぐ』等云云。この釈は、日蓮が身に当たるのみならず、門家の明鏡なり。謹んで習い伝えて、未来の資糧とせよ」(通解──天台の『摩訶止観』の第5巻には、次のように述べられている。「修行が進み、仏法の理解が深まってくると、三障四魔が入り乱れて競い起こってくる。……これに随ってはならない。恐れてもならない。これに随ったなら三障四魔は人を悪道に向かわせる。これを恐れたなら仏道修行を妨げられる」。この釈の文は、日蓮の身に当てはまるだけではなく、わが門流の明鏡である。謹んで習い伝え、未来にわたって信心の糧とすべきである)
このように、正法を信じ行ずるときに、信心が深まり実践が進んでいくと、これを阻もうとして起こるはたらきに、「三障四魔」、すなわち、三つの障りや四つの魔があります。
三障四魔の具体的な内容について、日蓮大聖人は、「兄弟抄」で次のように説かれています。
「三障と申すは煩悩障・業障・報障なり。煩悩障と申すは、貪・瞋・癡等によりて障礙出来すべし。業障と申すは、妻子等によりて障礙出来すべし。報障と申すは、国主・父母等によりて障礙出来すべし。また四魔の中に天子魔と申すもかくのごとし」と。
三障
まず、三障の「障」とは、障り、妨げということで、信心修行の実践を、その途上に立ちはだかって妨げるはたらきをいいます。
これに、煩悩障、業障、報障の三つがあります。
煩悩障とは、貪り、瞋り、癡かなどの自身の煩悩が信心修行の妨げとなることをいいます。
業障とは、悪業(悪い行いの集積)によって生ずる信仰や仏道修行への妨げです。「兄弟抄」の御文では、具体的に妻子などの身近な存在によって起こる妨げが挙げられています。
報障とは、過去世の悪業の報いとして、現世に受けた境涯が、仏道修行の障りとなることをいいます。「兄弟抄」の御文では、国主や父母など、自分が従わなければならない存在によって起こる妨げが挙げられています。
四魔
次に、四魔の「魔」とは、信心修行者の生命から、妙法の当体としての生命の輝きを奪うはたらきをいいます。
四魔とは、陰魔、煩悩魔、死魔、天子魔の四つをいいます。
陰魔とは、信心修行者の五陰(肉体や心のはたらき)の活動の不調和が信心修行の妨げとなることです。
煩悩魔とは貪り、瞋り、癡かなどの煩悩が起こって信心を破壊することです。
死魔とは、修行者の生命を絶つことによって、修行を妨げようとする魔です。また、他の修行者などの死によって、信心に疑いを生ずることも、死魔に負けた姿といえます。
最後に、天子魔とは、他化自在天子魔の略で、他化自在天王(第六天の魔王)による妨げであり、最も本源的な魔です。
大聖人は「元品の無明は第六天の魔王と顕れたり」と仰せです。すなわち、この魔は、生命の根本的な迷いから起こるものであり、権力者などの生命にあらわれるなど、いろいろな形をとり、あらゆる力をもって、正しい修行者に迫害を加えていきます。
賢者はよろこび愚者は退く
以上のように、私たちの仏道修行の途上においては、障害や苦難が競い起こってきます。
ここで注意しなければならないことは、貪・瞋・癡などの煩悩や、妻や夫、子、父母、五陰、死といっても、それら自体が障魔であるというのではなく、これに引きずられる信心修行者の弱い生命にとって、三障四魔のはたらきとなってしまう、ということです。
釈尊も、さまざまに起こる心の迷いを魔のはたらきであると見抜いて覚りました。私たちにとって、魔を打ち破るものは、何事にも紛動されない強い信心です。
大聖人は「しおのひるとみつと、月の出ずるといると、夏と秋と冬と春とのさかいには、必ず相違する事あり。凡夫の仏になる、またかくのごとし。必ず三障四魔と申す障りいできたれば、賢者はよろこび愚者は退く、これなり」と仰せです。
三障四魔が出現した時こそ、成仏への大きな前進の時と確信して、むしろこれを喜ぶ賢者の信心で、乗り越えていくことが大切なのです。
三類の強敵
法華経勧持品第13の二十行の偈(詩の形の経文)のなかには、末法に法華経を弘通する者に3種類の強い迫害者、すなわち「三類の強敵」が出現することが示されています。
その強敵のそれぞれは、第1に俗衆増上慢、第2に道門増上慢、第3に僭聖増上慢と名づけられています。増上慢とは、種々の慢心を起こし、自分は他の人よりも優れていると思う人をいいます。
第1の俗衆増上慢は、法華経の行者を迫害する、仏法に無智な人々をいいます。法華経の行者に対して、悪口罵詈(悪口や罵ること)などを浴びせ、刀や杖で危害を加えることもあると説かれています。
第2の道門増上慢は、法華経の行者を迫害する比丘(僧侶)を指します。邪智で心が曲がっているために、真実の仏法を究めていないのに、自分の考えに執着し、自身が優れていると思い、正法を持った人を迫害してくるのです。
第3の僭聖増上慢は、人々から聖者のように仰がれている高僧で、ふだんは世間から離れたところに住み、自分の利益のみを貪り、悪心を抱いて、法華経の行者を陥れようとします。
その手口は、国王や大臣に向かって、法華経の行者を邪見の者であるなどと讒言(ウソの告げ口)し、権力者を動かして、弾圧を加えるように仕向けるのです。
心の中が悪に支配された様を、経文に「悪鬼入其身(悪鬼は其の身に入って)」(法華経)と説かれています。悪鬼が身に入った≠アれらの迫害者たちによって、末法に法華経を持つ人は、何回も所を追われたりすると説かれています。
このうち、第1と第2は耐え忍ぶことができても、第3の僭聖増上慢は、最も悪質であるといわれています。なぜなら、僭聖増上慢の正体は、なかなか見破り難いからです。
この三類の強敵は、末法に法華経を弘通する時、それを妨げようとして、必ず現れてくるものです。日蓮大聖人は、現実に、この三類の強敵を呼び起こしたことをもって、御自身が末法の法華経の行者であることの証明とされたのです。 
 
貧乏神・諸話

 

福の神と貧乏神 1
『大般涅槃経だいはつねはんぎょう』という「お経」の中に、次のような話が載っています。
ある家に、とても美しい女の人が訪ねてきました。豪華な服を着て、見るからに気品のある女性でした。
その女性は「私は吉祥天きっしょうてんという福の神です。あなたに福徳を授けに来ました」と言います。幸福の女神の到来ですから、家の主人は大変喜んで、家の中に招き入れました。
ところがその後から、もう一人の女性が入ってこようとしています。こちらのほうは、見るからにみすぼらしい醜い女性でした。
「あなたはどなたさまでしょうか」と主人が聞くと「私は黒闇天こくあんてんといいます。私のいくところは、必ず災難がおきる貧乏神です」と言います。
その主人は、貧乏神に家の中に入ってこられてはたまりません。「申し訳ありませんが、あなたには用がありません。すぐお引き取りください」と言って、無理やり戸を閉めて貧乏神を追い出そうとしました。
するとその貧乏神である黒暗天は「先ほどの福の神である吉祥天は、わたしの姉です。わたしたち姉妹はいつでも一緒に行動しています。わたしを追い出せば、姉の吉祥天もこの家から出て行くでしょう」と言い残して立ち去りました。
主人は部屋に戻ると、やはり吉祥天の姿はどこにも見当たりませんでした。
わたしたちはただひたすらに「福の神」を求めます。しかし仮に「福の神」が来ても喜ぶのははじめだけですぐに飽きてしまい、次の「福の神」を求めていくのです。
それでは幸せとは何かというと、自分の思い通りに目の前にものごとが運ぶと言うことでしょう。逆に自分の思い通りに運ばないことを「貧乏神」といいます。つまり自分の思いによって「福の神」と「貧乏神」を作り出しているだけなのです。
だいたい自分の人生が思い通りになると考えることが、傲慢のいたりなのです。また自分にとって都合のよいことが、周りの人にも都合がよいとは限らないのです。いや周りのことなど考えてはいないのです。むしろ自分の幸せのために、周りの人を踏み台にしているのです。踏み台にされたほうはかないません。自分の都合で「役に立つうちは大切にするが、役に立たなくなったら邪魔になる」と考え、それがやがて自分自身にはね返ってきて、自分まで邪魔者にしていくのです。こんな人生でよいのでしょうか。
わたしの人生を「お念仏して生きてくれよ」と願われたのです、お念仏とは、わたしが仏様を念ずることではなく、仏様に念じられている私であることに気づくことなのです。「お前をかけがえのない仏の子として、導きはぐくみ育てていくぞ」という言葉に導かれながら、お浄土に向かって歩む人生が与えられるのです。合掌  
福の神と貧乏神 2
誰しもが来て欲しいと願うのが「福の神」で、もし自分の家にいるのなら、どうぞ出ていってくださいと願うのが「貧乏神」でしょう。この福の神と貧乏神について、涅槃経というお経に次のようなお話しがのっています。
ある家に、とても美しい女の人が訪ねてきました。豪華な服を着て、見るからに気品のある女性でした。その美女は、「私は吉祥天です。福徳を授けに来ました。」といいます。幸福の女神の到来ですから、家の主人は大変に喜んで、家の中に招き入れました。ところが、そのあとから、もう一人の女性が入ってこようとしています。こちらのほうは、見るからにみすぼらしい、醜い女性でした。「おまえは誰だ。」と主人が問うと、「私は黒闇天(こくあんてん)。私の行くところ、必ず災厄がおきる貧乏神です。」と後からきた女性が言いました。家の主人は、貧乏神に家の中に入ってこられてはたまりませんから、「おまえなんか、とっとと消え失せろ。」とどなりました。すると、その黒闇天は大声をあげて笑いました。「あなたは馬鹿です。さっき入って行った吉祥天は、わたしの姉です。わたしたち姉妹はいつも一緒に行動しています。わたしを追い出せば、姉の吉祥天だってこの家から出て行きます。」そして、そのとおり、吉祥天と黒闇天は肩を並べて、その家を去って行きました。
この涅槃経の話しは、福の神の性格をよく表わしています。このように、福の神であるところの吉祥天と、貧乏神であるところの黒闇天とは、姉妹、いいかえると、一心同体なのです。成功のシンボル、お金ですら、それをどん欲に求めすぎると、かえって不幸のもとになります。以前、テレビで、六億円の脱税が発覚したニュースを流していました。その人は、重加算税、罰金等で七億二千万円を追徴された上で、一年二ケ月の懲役、さらには社会的信用を落としてしまいました。また、逆に、一病息災という言葉がありますが、病人の方がかえって長生きする例が多いようです。病気は身体の注意信号ですから、注意信号がつけば用心すればいいのです。かえって、今まで医者にかかったことがない、と健康を豪語している人の方がぽっくり逝くといったこともあります。
こうして考えてみると、福の神の吉祥天と、貧乏神の黒闇天とが一心同体であるということもうなづけることです。そして、私たちが、これは福の神、これは貧乏神とえり好みをして一喜一憂するということは、私たちの自分勝手な考え方だということもできます。
よく霊場めぐりなり、お寺めぐりをするときに、「あそこには、あちこちに賽銭箱があるから、一円玉をたくさん用意して行った方が良い」などという声を聞くことがあります。一円玉をぽいと賽銭箱にいれて、「家内安全、大願成就、商売繁盛、身体健全、諸縁吉祥、子供が良い大学に入れますように…」、これでは神さま仏さまも大変です。神さま仏さまを、お賽銭を入れると御利益が出てくる自動販売機にしてあげたのでは、申し訳ないような気がします。
江戸時代の曹洞宗の禅僧、大愚良寛禅師、あの良寛さんはこう言っています、「しかし、災難にあう時節には、災難にあふがよく候。死ぬ時節には、死ぬがよく候。是はこれ災難をのがるる妙法にて候。」災難にあって、じたばたしてはいけない、災難にあえばどっぷりと災難につかることだ、と、災難だの幸運だのと差別しないで、それにこだわらない心を良寛さんは教えて下さっています。これが、仏教の生き方なのです。
災難だ、幸運だ、と自分勝手にご都合をならべている凡夫の姿に、仏さまは「いい加減にしろ」と苦笑いをされているかも知れません。しかし、この「いい加減」ということが大切なのです。何事もほどほどに、極端に走ることのない、ゆったりとした大道、つまり「中道」を歩むことが肝要なのです。 
弁財天のお姉さんは貧乏神!?
北野神社(牛天神。春日1-5-2)境内の社殿の左横に太田神社があります。 猿田彦命(さるたのひこのみこと)をを祭りその創立年代は、はっきりしていま せん。『新撰東京名所図絵』によれば、小石川方面のことに通ずる老人の話として、 次のことが載っています。
今の太田神社は、昔は貧乏神と称する黒闇天女(七福神の中の弁財天の姉)を祭っていました。現在も、俗に貧乏神と呼ばれています。小石川二百坂(伝通院の西側、学芸大附属竹早中学校の東側の塀に沿う)に、 旗本某が住んでいました。家中これといった不幸はなかったが、どういう訳か暮らしは豊かではありませんでした。おそらく小旗本であった為に貧乏に苦しんでいたようです。
ある夜、夢に貧乏神が現れて主人に告げて曰く
「我は貧乏神なり、永い間居心地が良かったのでこの家にいた。この度余所に移ることに相成った。ついては、長年世話になった礼に福徳を授くべし、今より朔日(さくじつ・陰暦で、毎月の第一日)、十五日、二十五日の三日間に赤飯と油揚げを供えて我を祭れ」
旗本某は、そのお告げのとおりお供えをしてお祭すると、万事良いことづくめで、たちまち福運が向いてきて豊かになったそうです。旗本は大喜びで貧乏神の像を彫ってもらい拝むようになりました。
その後、自分の死んだ後に子孫が粗末にするのをおそれて、牛天神(北野神社) にわけを話してその像を納めてもらいました。その後、この話を聞いた大工の棟梁が、幕府の工事を請負わせてもらいたいと 、この貧乏神に願いました。もし願いが達せられれば、お札にお宮を造って奉 ろうと熱心に祈りました。祈願のかいがあって、望みどおり幕府の御用を受けることになりました。
そこで棟梁は新しく祠を造って報いたというお話です。遠近の人たちは、この話を聞いて、沢山お参りに来るようになったそうです。
それからこの貧乏神は、福の神として人々の信仰を集めました。  
吉祥天と黒闇天
今年も全国各地で節分会の豆まきが行われました。
元々、一年の節目である立春の前日を節分として中国で行われていた豆まきを日本でも同じように行うようになりました。
災い少なく福多からんと願うのはいつの時代の人であっても同じでしょう。
後年、宮中では行われなくなり、神社やお寺で庶民のための行事として広く行われるようになりました。ですから、宗教的な教義に端を発しているわけではなかったのですが、日本人には大変馴染みがよかったようです。
最近、話題の恵方巻きも一地方で行われていた風習で、福を巻き込み、方角の吉凶を選んで無病息災を願うというものであったのです。しかし、そのご利益よりもどれだけ廃棄されて無駄になったかが社会問題化しているのですから、商業戦略のターゲットにされている感は否めません。
さて、『涅槃経』に出てくる吉祥天と黒闇天の譬え話しをご紹介します。
ある家に見知らぬ女が訪ねてきました。器量のよい美人で「私は吉祥天というものです。私は行く先々に財宝を与えるのです」と話しました。まさに福の神です。これを聞いた主人は「さあどうぞお入りください」と招き入れ接待をしました。
しばらくしてみすぼらしい身なりの女が尋ねてきました。女を見た主人は「あなたは誰か」と迷惑そうに尋ねました。女は「私は黒闇天と言うものです。私が訪れると、その家の財産はみななくなってしまいます」と答えた。今度は貧乏神です。これを聞いて主人は「すぐに出ていけ」と怒鳴りつけました。
すると女は「先ほどの者は私の姉です。姉も一緒にここを立ち去ることになりますよ」と穏やかな口調で告げました。
考えた主人は姉も妹も追い出してしまいました。
この後、彼女たちはある貧しい家に招き入れられました。その家の主人は「私は吉祥天さまにいつ会えるかと待ち望んでいました。もちろん黒闇天さまも一緒に受け入れます」といって、快く招き入れた、とあります。
自分だけ福だけを招くことはできないのです。
浄土真宗で豆まきをしないのは、宗教行事でないこともありますが、悪なる自分(鬼)を私自身が追い出すことができないからなのではないでしょうか。 
 

 

 
 

 

 
 
■貧乏神の昔話・民話

 

福を授けた貧乏神 ― 香川県 ―

 

むかし、あるところに男が住んでおった。
その男は、よっぽど貧乏神(びんぼうがみ)に見込(みこ)まれているとみえて、どうにもならないほど困っておったと。正月が近づいても餅(もち)をつくどころではない。ホトホト閉口(へいこう)しきって、どうしたらよかろうと思案(しあん)しているうちに、とうとう大晦日(おおみそか)の晩になってしまった。
昔から大晦日の晩には大火(おおび)を焚(た)くならわしだというのに、その薪(まき)の一本もない。男は、仕方がない、と、床板(ゆかいた)をべりべりはがして燃やしておった。
すると、奥の方でゴソゴソと音をたてる者がおる。
「はて、この貧乏家に入り込むとは」と奥をうかがっていると、ぼろを着て、乱れ髪(みだれがみ)をたらした年寄りが出て来た。
「わしは貧乏神じゃよ、わしにも火にあたらせ」
男が怒って床板で殴(なぐ)りつけようとすると、貧乏神はそれを制して、「まあ待て待て、火にあたりながらわしの言う話を聞け。わしはこの家に来てから、もう八年にもなるがのう」と話をはじめた。
「わしはな、お前がかまどの前に茶かすやご飯の残りを投げ捨てるのでこの家が気に入っておる。お前が、もし金持ちになりたきゃ、まずかまどを大事にあつかうことだ」
男は貧乏神の言うことがいちいちもっとものことなので、殴りつける事も言い返すことも出来ずにシュンとなってしまった。
これを見た貧乏神は、「ま、とりあえず、酒を買って来い。徳利(とっくり)が無ければそれも買って来るがいい」と言いつけて、お金を渡してくれた。
男はそのお金で町へ行って、徳利と酒を一升(いっしょう)買い戻って来た。それから二人して酒を飲んでいると、貧乏神はこんなことを言った。
「これ、よく聞けよ、お前が金持ちになりたいなら、わしのいう通りにするがいい。今晩は大歳(おおどし)の晩じゃけに『下にー、下にー』と言って殿さまがお通りになる。行列がやって来たら、お前はお駕籠(かご)をめがけてなぐり込め」
「そんな大それた恐ろしいこと…」
「お前が金持ちになる方法は、これより無いのじゃ」
そこで男は、貧乏神の言う通りに、天秤棒(てんびんぼう)を持って待ち構えていると、やがて、たくさんの提灯(ちょうちん)をともして行列(ぎょうれつ)が来かかった。
男はうろたえて、お駕籠をなぐるつもりが先ぶれをなぐってしまった。先ぶれはコロリと転がって死んでしまい、行列はずんずん通り過ぎてしまった。
ああ、とんでもないことをした、と思って死んだ先ぶれをよく見ると、先ぶれは銅貨(どうか)に変っていた。
そこへ、貧乏神がやって来た。
「どうして殿さまをなぐらなかった。年が明けたら、もう一辺(いっぺん)だけお駕籠が通るから、今度こそぬかるなよ」
そうこうする内に除夜の鐘が鳴り、年が明けて元旦(がんたん)になった。
男が家の開口(かどぐち)に立って、天秤棒を構えて待っていると、また、たくさんの提灯をともして殿様の行列が通りかかった。
今度こそ力いっぱいお駕籠をなぐりつけた。
すると、ガチャーンという大きな音がして、お駕籠の中から小判がザクザク、ピカピカこぼれ落ちた。
男は大金持ちになったそうな。
そうらえ ばくばく。 
 
節分と貧乏神 ― 香川県 ―

 

昔になぁ、家内がしょうたれで、所帯場(しょたいば)のまわりにつばを吐(は)いたり、汚(きたな)くしとる家があったそうな。
男はなんぼ働いても働いても貧乏(びんぼう)しとるそうな。
節分(せつぶん)が来たのでよその家では、”福は内 鬼は外”というて豆まきしていたが、男は、「家(うち)とこはいつまでも貧乏じゃけに」と、”福は外 鬼は内 福は外 鬼は内”というて豆をまいたと。
そうして寝よったら、夜中時分(よなかじぶん)に奥から妙な者が出て来たそうな。そして、「ここの大将(たいしょう)は物好きな者じゃ。わしのような貧乏神(びんぼうがみ)でも好かれるとは知らなんだ」というた。
男は知らん顔して寝たふりをしていたら、「起きて話でもせんか。わしは貧乏神じゃ。ここの家内が所帯場を汚くしてくれるんで、わしはここに住んでいられるんじゃ」という。
男は腹が立って起きたと。が、顔には出さず、「わしもお前みたいなのが好きなんじゃ。ところでお前は何が一番嫌いか」と聞いたそうな。貧乏神は、「そうさな。わしは増(ふ)える物は好かん。豆腐(とうふ)とおからが一番好かんな。豆の一升(いっしょう)でも煮(に)たら、ようけいに増えるけに。お前は何が好かんのだ」というた。男は、「わしは銭金(ぜにかね)が一番好かん。銭金を持つと人は横柄(おうへい)になるけに。わしは銭金が一番好かん」と話したそうな。
話しとるうちに夜明けが近(ちこ)うになったと。
貧乏神は、まだ早いというて寝よったが、男はそろりと外へ出て、豆腐屋へ行き、豆腐とおからを借りてきて、膳一杯に盛(も)って貧乏神の枕元(まくらもと)へ置いたと。
そしたらしばらくして、貧乏神は頭が痛い頭が痛い。痛い痛いと言うて目をさましたと。 
「わしが好かんというたものを、よう持って来たな。わしも仇(かたき)を討ってやる」というて、分限者(ぶげんしゃ)の家から金箱(かねばこ)を引き寄せて、男へ、ジャラジャラ、ジャラジャラ投げつけるそうな。男が、「痛い、痛い。こらえてくれ、死んでしまうが」というと、貧乏神は、「ざまぁみろ、ざまぁみろ」というて、もっともっと投げつけたと。男が銭金に埋(う)まるくらい投げたと。
男が分限者になったら、貧乏神はこの家におられなくなって、どこかへ行ってしまったと。
男は一生安楽に暮らしたと。
候(そうら)えばくばく。   
 
貧乏神 ― 兵庫県 ―

 

昔あるところに一人の貧乏(びんぼう)な男がおった。
男は、食う物ぁ食わんとっても、寝とる方がええというほど仕事嫌いだったと。
ある年の節分(せつぶん)の晩に、豆まきもせんと囲炉裏(いろり)の横で煎餅布団(せんべいぶとん)にくるまって寝ていると、天井裏(てんじょううら)から妙な者(もん)が降りて来た。片目を開けて見たら、病(や)みあがりのように痩(や)せ、髭(ひげ)は伸び放題(ほうだい)に伸び、頭ぁ箒(ほうき)のように逆立(さかだ)った人相(にんそう)の悪い年寄だ。
「お前は、何者だいや」
「儂(わし)ぁなげぇ間(あいだ)厄介(やっかい)になっとる貧乏神(びんぼうがみ)だ」
「何しい降りて来ただいや」
「うん、もうそろそろ暇(いとま)しよう思うてな」
「そうか、そりゃ結構だ。俺(おれ)もその方がありがてい。一刻(いっこく)も早う出ていってくれぇ」
男は寝たまんまで、「起きるのもおっくうだから、戸はちゃんと閉(し)めてってくれえよ」いうたら、貧乏神が戸口で振り返って、「おう、忘れて出よった。なごう世話になった礼に、ええこと教えてやる。明日の朝早うに、前の道ぃ出て待っとれ。宝物を積んだ馬が通る。一番前(さき)の馬には金と銀を積んどる。二番目の馬には、綾(あや)や錦(にしき)の織物が積まれ、三番目の馬、これが終(しま)いじゃが、珊瑚(さんご)や瑪瑙(めのう)なんぞが積まれとる。そのどれでもええ。棒で叩(たた)いたら、それぁお前の物になる。しっかりやれよ」というて、戸を閉めて出て行ったと。
男は、そうゆうことなら明日ぁ早起きして、三つとも叩いてやろう。長い棒で横なぐりにした方が叩き易(やす)かろう、と思案しながら眠ったと。
朝方、まだうす暗いうちに目がさめた男は、もう起きにゃぁなるまえ、と思ったけど、いつもの怠(なま)け癖(くせ)でなかなか起きられん。それでも、 「あいつの言う通りなら、どれひとつなぐってもいっぺんに分限者(ぶげんしゃ)になれる。試(ため)してみるか」いうて、しぶる身体をむりやり起こして、長い竿(さお)かついで家の前の道に出て待っとったと。
けど、一番先の馬ぁすでに駆け抜けたあとで、二番目の馬が走ってきた。男は、「やぁ、本当に馬がかけてきたぞ。あいつの言う通りなら、あれが金銀の馬だな。ようし、そうれっ」 と、長い竿を振りまわした。竿の先が木の枝に引っ掛かって、馬はその下をくぐって走り抜けたと。
「やぁしまったぁ。竿が長過ぎたか」いうて、今度(こんだ)ぁ短い竿を持って待っていると、三番目の馬が走って来た。
「よし、あれは綾や錦を積んどる馬だな。もう俺の物だ。え―い」と、短い竿をぶんまわした。竿が短(みじこ)うて届かなかったと。
「やぁ、しまった。また、しくじった。竿が短過ぎたか」と、くやしがって、今度ぁ、もう少し長い竿を持って待った。
また、馬が走って来るので、「こいつが三番目の珊瑚や瑪瑙の馬だな。なにがなんでもぶちあてて分限者になってやる。そうれっ」と、思いきり横なぐりにした。今度ぁ手ごたえがあった。 
やれ嬉しや、と思ったら、その馬には昨晩(ゆんべ)の貧乏神が乗っとって、「儂ぁ、今年ぁ他家(よそ)で暮らそうと思っとったに、また、厄介になる」と、いうたと。
いっちこたあちこ。 
 
怠け者と貧乏神 ― 兵庫県 ―

 

昔、あるところにどうしようもない怠け者の男がおったそうな。
ある年の暮れに、男がイロリの横で煎餅布団(せんべいぶとん)にくるまって寝ていたら、頭の近くに、天井裏(てんじょううら)からドサリと降り立った者がある。
寝呆眼(ねぼけまなこ)でトロンと見たら、髪の毛はモジャモジャで、着物をだらしなく着とる年寄りだ。ガリガリに痩せこけているくせに、腹ばかりがプクンとふくらんどる。
「お前ぇは、何者だいや」
「わしゃ、永い間やっかいになっとる貧乏神だ」
「何しに降りて来ただいや」 
「お前ぇがあんまり貧しいもんで、近頃じゃ、わしの食う物も残しよらん。ひもじゅうて、ひもじゅうて、このままじゃ、わしの命が持たんので、逃げ出そうと思うて降りて来ただ」
「そうかえ、そりゃぁ結構だ。俺らもその方がありがてえで、一刻(いっとき)も早う出てってくれぇ。土産にやるものも何も無いだで、せめて見送ってやりてぇが眠むくってならん。このままで勘弁しろいやい」 
「これまて、目を開けえ。これまで永う世話になった礼に、ええ事教えてやる。目え開いとるな、よしよし。ええかよう聞け。明日(あした)の朝早うに家の前の道に出て待っとれ。宝物積んだ馬が通る。一番先の馬は金を積んどる。二番目の馬は銀を積んどる。終いの馬は銅じゃ。そのどれでもええ、棒でなぐったら、それはお前ぇの物になる。聞いたな」
「聞いた。要するに全部なぐればええんじゃろ」
貧乏神が、やれやれといった顔で出て行くと、男は、『明日は早起きして、三つともなぐっちゃろう。長(なげ)え棒で横なぐりした方がええかな』と考えながら眠むったそうな。
夜明け頃になって、男は、『もう起きにゃあなるまい』 と思うたけど、いつもの怠(なま)け癖(ぐせ)でなかなか起きられん。また、トロトロ眠ったら夢を見た。金を積んだ馬をなぐった夢だ。
丁度その時、外では一番目の馬が駆け抜けていった。
そうとは知らぬ男は目を覚まして、「さいさきのええ夢じゃった。どうれ、三つともなぐって分限者になってやろ」と、長い竿をかついで家の前の道に出て待っとったら、二番目の馬が駆けて来た。
「おっ、金の馬が来たぞ。そうれっ」思いっきり竿を振りまわしたら、竿の先が木の枝に引っ掛かって、馬は目の前を駆け抜けて行く。
「しまったぁ。ま、いい、残り二つをなぐっても分限者になれる。今度(こんだ)ぁ短けえ棒でなぐっちゃろ」 
男が辛張(しんば)り棒(ぼう)を持って待っていると、三番目の銅を積んだ馬が駆けて来た。
「銀の馬だ。今度こそっ、そうれ」となぐった…けど、棒が短かくて届かなかった。
「またしくじった。今度はもうちいっと長めの竿にしょう」といって、手頃な竿を探して待っていると、また馬がやって来たと。今度のはポクポクゆっくり歩いてくる。
「しめた。これなら打(う)ち損(そん)じはねえ」と、思いっきりなぐったら、うまく当って馬が立ち上がった。そのひょうしに何かがドサッと落ちたと。
「やったぞ」と喜んで、落ちたものをよくよく見たら、これが何と、昨夜別れたばかりの貧乏神だった。
「わしゃぁ、今年は他家(よそ)で暮らそうと思うとったにぃ、また世話にならにゃあならんとは」こうなげいたと。
いっちこたぁちこ。 
 
貧乏神の土産 ― 山梨県 ―

 

むかし、あるところに貧乏な爺(じい)と婆(ばあ)がおったと。
師走(しわす)になったのに米が一粒もなくて、大晦日(おおみそか)の晩を侘(わび)しく過ごしていたと。爺と婆は、「仕様(しよう)がないわ。火でもうんと焚(た)いて、よくあたって寝るか」「はえ、さいわい炭だけはたくさんあるで」と言って、囲炉裏(いろり)に炭を山積みにくべて、ドカドカ大火(おおび)を焚いてあたっていたと。
そしたら直衣(のうし)を着て烏帽子(えぼし)を被(かぶ)った男が、どこからともなく、横座(よこざ)へズシンと落ちて来た。
「おおっ、びっくりしたぁ。何でありますか、お前さまは」と爺がきくと、その男は、「ヤァヤァ、驚(おど)かしてすまぬ。俺ァ、この家の貧乏神(びんぼうがみ)だ。ながい間、お前たちの貧乏暮らしを見てきたが、貧乏なりに二人がいたわりあって、ちいっとも仲たがいせん。俺ァとしては面白(おもしろ)うない。だから前(まい)っから出て行こう出て行こうと思うとったが、せめて、この家が大火を焚いたらいっぺんあたって行こう、そう思って、それを待っていたところだ。今夜ァ珍しく大火のようだから、よくあたってから出て行く」というた。
爺は、「なんと、お前さまは貧乏神でありますか。そんじゃぁなんぼでもじっくりあたってっておくんなさい。そうして、二度と俺家(おらえ)には来ぬようにしてくりょお」といって、その貧乏神を爺と婆との間にいれて、火によくあててやったと。
貧乏神が、「ぬくまった。そろそろ行く」といえば、婆が「まっとよくあたってけ、よくあたってけ」というて、袖(そで)をつかんで、なかなか離してやらんかったと。 
やがて、東の空がほのぼのと白んで、正月元旦の夜明けのころになったら、貧乏神は、「夜が明けて人目にかかるといかんから」といって、どうでも出かける風(ふう)だ。爺は、「そんじゃ俺が途中まで送りましょう」というて、貧乏神の後ろから送って出たと。 
少し行ったら、貧乏神が、「もうええから、帰れ帰れ」と、しきりに言うたが、爺は、「いま少し、いま少し」というて、とうとう河原(かわら)まで送って行ったと。
そしたら貧乏神が、「さぁ、ここから帰れ。ながいこと世話にもなったし、ここまで送ってくれたから何か礼をしたいのじゃが、俺ァ貧乏神だからナーンモ持っとらん。おお、そうじゃ、この石を土産(みやげ)にやろう。沢庵石(たくあんいし)にしてもええから、これを背負(せお)ってけ」といいながら、河原に転がっていた石をひとつ拾って、爺にくれたと。
爺はそんな石欲しくもない。
「背負う物(もん)がないから、俺ァ要(い)らん」「背負う物無いなら手背負い(てじょい)すればええ。
どれ、俺が背負わしてやるから、背中ぁこっち向けろ。さァ、こんでよし。決して途中で捨てるんじゃないぞ。捨てたら俺ァまた、お前ん家(ち)へ戻るぞ」戻られたら嫌(いや)だから、爺、重い、重いといいながら家へ持ち帰り、その石を上がり端(はな)へズシンと下ろしたと。婆がそれを見て、「爺さん、そんな石、正月早々何しる」といいながら近づいたら、その石がチャッカンと光った。
はてな、と思ってよくよく見たら、何と、それァ大きい黄金(きん)の塊(かたまり)だった。
爺と婆は大喜び。それからのちは、その黄金のおかげで長者になって、ふたりは一生安楽に暮らしたと。
それもそれっきりい。   
 
貧乏神と福の神 −智頭町波多ー

 

昔あるところに、とても貧乏な貧乏な家があった。そして家だけはあるけれも、その家もまともな家じゃあない、その古ぼけた家の柱でも薪でも切り取って、ごりごり焚きたいような家だった。
さて、大歳の晩に家の取れる柱は取って囲炉裏にくべて当たっていたところが、奥の方からばりばりばりばりがちゃがちゃがちゃがちゃいわして、出てくる者がある。見るとおじいさんで、髪も口髭も白髪だらけで、ぼろなぼろな着物を着て、そしてその囲炉裏へべったりとそのおじいさんが座るのだ。そこの亭主が怒って「だれじゃ、人の家の奥の間からごとごと出てくるもんは。」と言ったら「うらはな、貧乏神じゃ。」と答える。
「貧乏神じゃと。うらの家はこれだけ貧乏して困りよるのに、何ちゅうもんが出てくるじゃ。」と言ったら「うら、この家に入りこんでから8年たつ。ずーっと他へ行こうと焦って、こんにばっかりおるじゃ。」と言った。
「何でそげ、うちばっかりおらにゃならんじゃ。これだけ難儀ぃしよるようなのに…貧乏神やなんや、まんだおってどぎゃあするじゃあ。」と亭主は言って、怒りかかった。そして、そこで焚いている燃えさしを持って、その貧乏神にぶつけたら「まあ、そげぇ怒んな。待て待て。話いて聞かせたるけえ。こん家のおっかあはな、うらの好いたことをするけえ、うらはこの家が好きじゃ。ここにいろげんじゃ(※居座る、の意味)」と言う。
「どげぇなことじゃ」と聞くと「ここいクドがあろうがな。そのクドの前へカンスを入れとる茶かすぅ、どうと移すし、そいからままぁ(※飯)食うたら、その飯粒ぅ、みんなさらえて、このクドの前へどうと移す。それぇ、まことにうらは好いとって、8年間たつけど、この家はいろげんじゃ」と言う。
「とんでもない。そげな貧乏神がいろげんようなことじゃ、どげんなろうに。」「どげんさえなりたけりゃ、このおっかあをぼい出せ。」と言う。
「そげぇなことを言うたって。」「そげぇなおっ母がこの家におったら、もう一生頭ぁ上がらん、一生うらがのさばりついとるぞ。」と貧乏神が言うものだから「そいからなあ、今度ぁこのお母ぁを追い出いたら言うて聞かせたろうか。今度はなあ、大歳の晩と2日の晩に殿さんの行列があるけぇ、そのおりに駕篭が通るけえ、その駕篭の中が殿さんじゃけえ、それぇ天秤棒を持って、その駕篭をめがけてぶちかかって、駕篭をずっと碎くじゃ。そがしたらなあ、殿さんがずっと飛んで出られるけえ」と言ったら、亭主も観念して、おっかあに向かって言った。
「8年もいっしょにおったやけど、こげぇ食うや食わずで難儀ぃしちょったらかなわん。そいじゃけえ、おまえも別れりゃあならん。どこぞへ出てごせぇ。」「そがあことを言うたって。」「そがんことを言うたって、うらはこれ以上、難儀はようせんし、貧乏神がもうこのおっかあぼい出さなんだら、もう一生頭ぁ上がらん。」いうて言うのだそうな。
そこで、仕方がないので、おっかあはしぶしぶ出て行くし、そしたら案の定、正月の2日に殿さんのお国替えで、そしてまあ、行列が通りかかった。
「下へ、下へ、下へ、下へ…。」と言って通るもんだから、それから、亭主はこのときこそと思って、殿さんだと思って、さっと早くとんで出て、「えい。」とばかりに天秤棒をたたき回ったら、なんと間違えて家来の方をたたき回っしたのだって。
「こりゃあ、やり損のうた。こりゃあ、やり損のうた。」言うと、貧乏神は「そりゃあ、やり損のうたらいけんじゃ。待て待て、今度ぁな、一週間したら殿さんはここをもどってこられるけえ、今度ぁ目落としをせ、殿さんをめがけにゃいけんで。」と言った。
それから、また一週間たったときに「殿さんが通られるじゃけえ。」と言って教えてやったら、今度は、本当に殿さんの駕篭をめがけて天秤棒でたたき回ったところ、たくさんの大判や小判がいっぱいジャゴジャゴっとその駕篭から飛んで出たそうな。
亭主はそれをかき集めて拾ったら「まあ、これで家も建てられようが。これでええじゃ。」と貧乏神が言った。そして「うらはこの家にはおれん。こいだけ金ができたら、うらはおれん。」言うて貧乏神が出たとや。そして福の神が家に舞い込んだということで、亭主は新しくよい奥さんをもらって、一生豊かに楽しゅうに暮らいたとや。

解説 / 類話は全国的に存在しているが、さほど多いというわけではない。どちらかといえば中国、四国あたりにあるが、それ以外では数えるほどしか見つかっていない。それはそれとして、このような話が好まれているのは、昔から貧乏なものが多く、何とかして福の神を迎えて生活を豊かにしたいという願いが、庶民の間にあったことが、このような昔話を生み出したものであろう。  
 
貧乏神のわらじ

 

むかしむかし、藤兵衛(とうべえ)というお百姓(ひゃくしょう)がいました。
毎日毎日がんばって働くのですが、いくら働いても暮らしは楽になりません。
そのうちに、子どもたちに食べさせる物もなくなっていまいました。
「ああ、腹がへったよう」
「おっかあ、何かないの?」
「腹がへって、眠れないよ」
子どもたちにねだられても、家にはイモ一つありません。
「みんな、よく聞いてくれ」
藤兵衛は子どもたちを集めると、悲しそうな顔で言いました。
「今まで一生懸命に働いてきたが、暮らしは悪くなる一方で、この冬をこせるかどうかもわからん。そこで、この土地をすててどこかよそで暮らそうと思うんだが」
「おっとう、それは夜逃げか?」
「まあ、そういう事じゃ。今出て行くと人目につくで、明日の朝早くに行こうと思う」
その夜、藤兵衛が夜中に起きて便所に行こうとすると、納屋(なや→物置)からゴソゴソと音が聞こえてきました。
(何じゃ? ドロボウか? 今さら取られる物もないが)
藤兵衛が見に行くと、納屋に見知らぬ老人がいました。
「誰じゃ、お前は?」
「おや、まだ起きとったか? わしは、貧乏神(びんぼうがみ)じゃ」
「び、貧乏神じゃと?」
「そうじゃあ、長い事この家にいさせてもろうた」
「そ、それで、その貧乏神が、こんなところで何をしている?」
「何って、お前ら、明日の朝早くにここから逃げ出すんだろう? だからわしもいっしょに出かけようと思って、こうしてわらじをあんどったんじゃあ」
そう言って貧乏神は、あみかけのわらじを見せました。
「それじゃ、お前もついて来るつもりか?」
「そういう事じゃ」
「・・・・・・」
藤兵衛は家に戻ると、おかみさんを起こしました。
「おい、起きろ! 大変じゃ!」
「うん? どうしたね」
「それがな、貧乏神が家の納屋におるんじゃ」
「貧乏神が? それで、いくら働いても暮らしが楽にならんかったんか」
「そうじゃ」
「でも、わたしたちはこの家を出て行くんだから、もうどうでもええよ」
「それが、違うんじゃ! 貧乏神のやつ、わしらについて来ると言うんだ!」
「えっー! それなら、夜逃げをしても同じじゃないの」
「ああ、そう言う事だ」
二人はがっかりして、夜逃げをする元気もなくなってしまいました。
次の日の朝、貧乏神は新しいわらじを用意して、藤兵衛一家が出発するのを待っていましたが、いつまでたってもみんな起きてきません。
「おそいなあ。もうすぐ日が登るのに、どないしたんだろう?
確か、今朝夜逃げするはずだが、もしかすると明日だったかな?
まあ、いい。
それなら明日まで、わらじをあんでおこうか。
どこに行くかは知らんが、わらじはよけいある方がええからな」
貧乏神は納屋に戻ると、せっせとわらじをあみ出しました。
しかし次の日も、その次の日も、藤兵衛一家は家を出て行く様子がありません。
貧乏神は毎日わらじをあみ続けていましたが、そのうちにわらじ作りが楽しくなって、いつの間にか納屋の前にはわらじの山が出来ました。
こうなるとそのうち、わらじをわけてほしいという村人がやって来ました。
すると貧乏神は、気前良くわらじをわけてあげました。
「さあ、どれでも好きな物を持っていきなされ」
「すまんのう」
「ありがたいこっちゃあ」
村人は次々とやってきて、大喜びでわらじを持って帰りました。
それを見た藤兵衛は、良い事を思いつきました。
「そうじゃ。あのわらじを売ればいいんじゃ」
さっそく藤兵衛は貧乏神のあんだわらじを持って、町へと売りに行きました。
「さあ、丈夫なわらじだよ。安くしておくよ」
すると貧乏神のわらじは大人気で、飛ぶように売れました。
けれどやっぱり、暮らしは楽になりません。
「やっぱり貧乏神がいては、貧乏から抜け出せんなあ。
こうなったら何とかして、貧乏神に出て行ってもらおう」
藤兵衛はわらじを売ったお金でお酒やごちそうを用意して、貧乏神をもてなしました。
「貧乏神さま、今日はえんりょのう食べて、飲んでくだされ」
「これはこれは、大変なごちそうじゃなあ」
「はい、貧乏神さまがわらじをあんでくださるおかげで、たいそう暮らしが楽になりました。ささっ、これも食べてくだされ。これも飲んでくだされ」
「そうかそうか。それじゃ、よろこんでいただくとしようか」
貧乏神はすすめられるままに、飲んだり食べたりしました。
そのうちに、すっかり酔っぱらった貧乏神は、藤兵衛にこう言いました。
「いや〜、すっかりごちそうになってしもうた。・・・しかし、こんなに暮らしが良くなっては、わしはこの家におれんな。今まで世話になったが、もう出て行くわ」
そして貧乏神は自分で作ったわらじをはいて、家から出て行ったのです。
藤兵衛とおかみさんは、顔を見合わせて大喜びしました。
「出ていった。出ていったぞ! これでわしらも、やっと楽になれるぞ」
「よかった、よかった」
藤兵衛一家は、安心してグッスリ眠りました。
ところが次の朝、藤兵衛が納屋に行ってみると、出て行ったはずの貧乏神がいびきをかいて寝ているのです。
「ま、まだいたのか!」
貧乏神は、藤兵衛を見てニッコリ笑いました。
「おはようさん。出て行こうと思ったが、やっぱりここが一番住みやすいからな。これからも、よろしく」
藤兵衛はすっかり力をなくして、その場にへたりこんでしまいました。
でも、それからも貧乏神はわらじを作り続けたので、藤兵衛はそのわらじを売って、貧乏ながらも食うにはこまらない生活を送ることが出来たそうです。 
 
福の神になった貧乏神

 

昔、あるところに 朝から晩まで 本当に良く働く 仲のよい夫婦がありました。
まったく 誰がみても 良く働くというのに、いくら働いても 二人の暮らしは一向に よくなりません。これは きっと 自分たちの働きが まだまだ 十分ではないのだ とおもった夫婦は、それまでよりも もっと気持ちを込めて より一生懸命になって 働くことにしました。 
そうして 何年か過ぎたころ、二人は 少しずつ暮らしが楽になっていることに気が付きました。一生懸命 働いたからですね。
ふたりが これからも もっとがんばって働こうね と 話し合っているとき、神棚の引き戸を開けて、何かがのっそり顔を出しました。
びっくりして立ち上がった二人が見ると、そこには やせて ぼろぼろの着物を着た きたないちいさなねずみのようなものがいて、二人の足元に ぽとんと 落ちるように下りてきました。
驚いて声も出ない二人に、そのねずみのようなものは、かなしそうに そして 力なく 言いました。
「お前たち、本当に よく働くなぁ〜・・。おかげで わしは こんなに小さくなってしまった。」
「あの・・、お前様は いったい・・?」
「わしか?わしは 貧乏神じゃ。この家が居心地よくてな、ずっと いたかったのだが、お前たちが やたらに働くものだから、わしは どんどんやせて・・。もう ここには おられんようになってしまったわい。」
ふたりは 何がなんだかわからないままに 顔を見合わせました。
ちいさな汚れたねずみのような貧乏神が、とぼとぼ歩き出したとき、亭主のほうが 言いました。
「あの・・、貧乏神様。」
おかみさんは、亭主が何を言い出すのかと不安になりましたが、亭主は 立ち止まって振り向いた貧乏神に こういいました。
「いくら貧乏神といっても、やっぱり 神様には違いはないではありませんか。どうか、これまでのように いっしょに住んでください。神様を追い出すなんて できません。」
おかみさんは、それを聞いて それもそうだとおもい、一緒になって 貧乏神を引きとめ、無理やり 貧乏神を神棚に押し上げた亭主に続いて、お神酒を上げ、お膳を据えました。
貧乏神は、それほどまでにされて 断ることもできず、そうか、それなら・・と、腰を落ち着けることにしました。
それから 夫婦は また いつものように 一生懸命働きました。
そして、またしばらくたったころ、二人は もう十分にお金がたまったのをみて、蔵のある大きな家を建てることにしました。
今日は その 待ちに待った新しい家への引越しの日です。
荷物といっても それほどのものもない二人の暮らしでしたから、まずは 神棚を引越し先へ、と 亭主が 神棚の引き戸を開けると、突然 中から明るい光が差してきたので、ふたりは 驚いて しりもちをついてしまいました。
びっくりしている二人の前に現れたのは、なんと 福々しいお顔でにこにこわらっているおじいさん。
「あの・・・、お前様は いったい?」
「わしか?わしは 福の神じゃよ。いやいや、福の神になった貧乏神じゃ。」
「ええっ?!それは どういうことですか?」
「お前たちが とてもよく働いてくれたおかげで、わしは 思い出すこともできないくらい遠い昔からそうだった貧乏神をやめて、福の神になったのじゃよ。ありがとうよ。どうか これからもよろしゅうな。」
ぽってり太った体にきれいな着物を着込み、頭には大黒帽、しろい大きな袋を肩にして、手には打ち出の小槌を持った福の神は、音もなく 神棚に戻ると 愉快で楽しい歌を歌いはじめました。
思いがけないことに ただただ 顔を見合わせるばかりの夫婦でしたが、神棚に ありがたく手を合わせると、亭主は 注意深く神棚をおろし、ふたりで 大事に新しい家に運びました。
おかみさんは、新居に着くと すぐに お神酒を上げ、庭の榊を取って、お祝いのご馳走と一緒に 神棚に上げました。
二人は ぱんぱん!と 明るく手を打って、これからの福を願ったということです。

このお話にも貧乏神の住む働き者の若者のところに、もっと働き者の嫁さんが来て、二人で一生懸命働いたので貧乏神が出なくてはならなくなったとか、ずっと居ついていた貧乏神が、ある年の暮れに福の神と入れ替わりになるというとき、家を離れるのが辛くて泣いているところを、気の良い夫婦が元気をつけさせて応援し、福の神を追い出したので、裕福にはならなかったけど、ずっと 楽しく暮らしたなどなど・・、いろいろなバージョンがあるようですね。
それにしても、嫌われ者の貧乏神を、よくも引きとめたものですねー、このお話の中のだんなさん。おまけに その理由に納得して一緒にお奉りしちゃうなんて・・、きっともともとほんとに気のいい夫婦なんでしょうね。
そういう気持ちが、きっと二人に福を運んできたのでしょう。そうそう、私の知っている限りでは、このお話以外には、貧乏神が福の神になったというものはなく、貧乏神は迎え入れられても貧乏神のままというほうが多いのではないかと思います。
貧乏神のせいでこんなに酷い暮らしなのだというのは簡単でしょうし、恐らくそういう風に考えることでどうにも抜け出せない惨めな暮らしを受け入れようとしたのかもしれない昔を思ってしまいますが、そこにちょっとした風穴を開けたようなこの話は、とても新鮮な感じがします。
熱心や熱意が”それはそういうもの”と思われて当然と見られることにでさえも作用して、願っていたことを実現するという、そんなことのようにも思えます。
これは”そういうもの”とするのは簡単ですし、それで諦めがつくのならそれでもいいでしょう。でも、ここまでしているのにどうして?というようなとき、これはひょっとしてなにかがずれているのかなとか、もっとやれることがあるんじゃないかとやり方を変えてみることは、それこそ”それはそれで当たり前、そんなものだ”の陰気な貧乏神をも陽気で沢山の福を授ける福の神にしてしまうのかもしれません。
神様なのだからと引き止めた夫婦には、人を超えたものを敬う心があり、分をわきまえて、相応な働きを惜しみなく行ったという素直さがあったようにおもえます。
実際は、彼らが彼らを幸せにしたのであって、一体その神様、何をしたのか? 福の神になった貧乏神を、つぼを押さえてうまいことをする面白い神様だなと、思ったりもしています。
  
貧乏神

 

むかしとんとんあったずま。
あるところに、じんつぁとばんちゃいだけずま。ところがこのじんつぁとばんちゃ、なんぼ稼いでも稼いでも、うまくなくばり行って、逆手逆手とばり行って、銭残らね。
「不思議なこともあるもんだな。じんつぁ、じんつぁ、こだえ銭残らねごんでは、何とも仕様ない。ほがらかに、二人一生送んべはぁ。まさか飲まず食わずで、作さえ、ええあんばいだど、食って飲んで生きられんべから」
て言うわけで、
「ほだほだ、ばんちゃ、ほうしてはぁ、のんきに暮すべなぁ。今からそう長生きもするわけでないしはぁ、ええがんべ、ええがんべ」
ほして、ある年とりの晩、ぱんぱんと手叩はたいてお詣りした。そしていつでも神さまさ、正月ていうど、酒と餅と納豆上げるんだけど。ほんで年とりの晩、はいつの準備しったわけだ。ほして歳徳神さまさお神酒いっぱい上げて、お祈りしたれば何だかおかしげなものドサッと落っできた。何だべと思って、何落っで来たべと思ったれば、その落っできたものは物語りはじめた。
「じんつぁ、ばんちゃ、実はお宅さ、とり憑いっだおれは貧乏神だった。おれ、いたからお前の家では、なんぼ稼いだて銭もたまらねがったし、事業はうまく行かねなだった。んだげんども、おれはお宅さとり憑いっだげんども、お二人ぐらい、まずほがらかで、ほして、あだいひどい目に合っても決していじけないで、ほがらかに暮している人さ、とってもはぁ、憑き飽きたから、今日限り福の神と交代すっから、よろしく福の神ばお願いしますはぁ」
て言うけぁ、そのドサッと落ちたもの、なくなってしまったんだど。ほうしたけぁ、福の神さま、今度ぁ来たわけだど。ほしてじんつぁとばんちゃ、
「福の神さま、福の神さま、なにまず、おらえの家さ来てけだった。なぜすっど銭は溜るもんだ」
開口一番聞いてみたんだど。したば、
「いやいや、何もほだなこと聞くことない。今まで通りでええなだ。家内和合、夫婦和合くらいええ金貯めないなだ。こいつぁ千両箱、二千両箱にもまさるもんだ。こんどは貧乏の神さ代わって、おれぁ、お前の家さ来たから、まあ、心配ない。今まで通りの気持忘せねで、おつかえしていただきたい」
「いやいや、どうもどうも、まず」
て言うわけで納豆と餅とお神酒と上げてお詣りした。それからそこの家ぁ、やることなすことみな順調で、ほして、
「さぁ、福の神さま、今日は今日で、ええがったす。さぁ福の神さま、何の方ええがった」
て、ええことずくめだど。んだから、たとえ少々貧乏しても決していじけねで人さ迷惑かけねで、ほがらかに家内中明るく仲よく暮すことが、本当の千両箱だし、福の神だて言うこと悟ったんだけど。どんぴんからりん、すっからりん。  
 

 

 
 

 

 
 
■貧乏神の文芸

 

落語 貧乏神 1

 

しばらくのあいだ、お付き合いを願うのでございます。
神様といぅものが、まぁ昔から考えますといぅと数が減ったよぉに思うのでございます。昔はたぁくさん神様がおられましてね、どこにでもおられたんでございますよ。
山には山の神がおられますし、川には川の神、海には海の神、土地には土地の神、村には村の神ちゅうふぅにですね、家には家の神、台所には台所の神、こっちの何とかの間には何とかの間の神といぅよぉにですね、どこにでも神さんおられたんです。
え〜、草木にも草木の神がおられたわけやし、動物には動物の神がおられた。もぉあの、神さんだらけやったんでございますね。それがこの頃あんまりそぉいぅこと意識せんよぉになりましたが。
わたしの親父は、いつも申しますよぉにブリキ職でございますから、まぁ職人と言ぅよぉな者はなんでございますねぇ、やっぱり神さんを(パンパン)こんなこと、まぁ芸人でもそぉですけどね、ちょっとした神棚がございまして、わたしの小(ち)さい自分に、神戸市灘区仲郷町二丁目三番地でございますがね、ありましたんで、わたしも真似して(パンパン)こんなことしてたよぉに思うんでございますがね。
これが、毎度申しますのでご承知の方はご承知でしょ〜が、空襲のときに「ウ〜ン、空襲やぞぉ!」いぅたらこの神さんが一番にドタッとね、落ちて来はったんで、頼んない神さんでございます。まぁ嘘でもうちの家守ってくれる神さんですからな、もぉちょっと頑張って欲しかったんでございますが、一番にドタァ〜ッ!
で、二番目に一番上の姉ちゃんが二階からゴロゴロゴロ・ドタ〜ンッ落ちて来たんですが、そら姉ちゃんのほぉがよほどしっかりしてますからな。これやったら姉ちゃん(パンパン)拝んでるほぉが良かったよぉな気もしますが。まぁ面白いもんでございますねぇ。
なんでございます、本当に大自然といぅものを神さんと考えますれば、どこにでも神さんおられるわけですから、何にでも感謝しながら生かしてもらうっちゅうのが、まぁホンマやろと思うのでございますがね。
ですからまぁ、テレビにはテレビの神、カメラにはカメラの神がおられますからな、一つどぉぞよろしゅ〜にと手を合わすのでございます。今どれが映ってるのか分かりませんが、映ってるやつの一つ、適当にそっちでよろしくお願いをいたします。
まぁ、神さんと申しましてもいろんな神さんがございますが、
いてるかいな?あぁ甚兵衛(じんべ)はんですかい、こっち入っとくなはれ「入っとくなはれ」やあれへん家主(いえぬ)っさん「家主っさん」やあらへん、どんならんでホンマにもぉ。また嫁はんに逃げられたちゅうやないかい。どんならん。
「また嫁はんに逃げられた?」て、あ〜たねぇ、言ぅときますけどね、自慢やおまへんどね、わたしが嫁はんに逃げられたっちゅうのはねぇ、二へんや三べんやおまへんで。
おかしぃこと自慢すんねやないがな、どんならんでホンマにもぉ。今度のあのお咲さん、なかなかよぉ出来たお人やったやないかいな、あんな人に逃げらるれてよほどのこっちゃで、どぉしたんや? ちょっとわけ言ぅてみなはれ。
それでんねん、こら是非ともあんさんに聞ぃてもらいたい思うんです言ぅてみなはれどんならんのです。わたし寝てたんです朝、ほんなら、わたしの枕元へお咲が座りよってね「いつまで寝てなはんねん、早いこと起きて仕事に行きなはれ」と、こんな大胆なこと言ぅんでっせ何を言ぅてんねん、何が大胆なことがあるかいな。嫁はんとして当り前のこっちゃないか。
当り前のことですけどね、わたい今日ちょっと頭が痛かったんでね「わいちょっと頭痛いねん、今日休みたい」ちゅうたら「何を甘えてなはんねん、ぐずぐず言わんと仕事に行きなはれッ!」ちゅうて、わたしがかぶってる布団をシュ〜ッと……
そらいかん、そらいかんやないかい。無茶したらどんならん、話両方聞かんならんちゅうのはここのこっちゃで、せやないかいな、男といぅもんは年がら年中働いてんねん、一生懸命働いてんねん。一日やそこら骨休めちゅうことは当り前のこっちゃ。こらお咲さんがいかん、こらお咲さんがいかんぞ!
いや……、あのね、あんまり大きな声出しなはんな。いぃえぇ、そこでんねんけどね、それも今日一日だけのことなら、お咲もあんなことは言わなんだやろと思うんですボチボチ話がややこしなってきたやろ。今日一日と違うのんかい?
きのうはお腹が痛い言ぅてね二日もかい?おとついは腰が痛い言ぅてね三日もかいな?さきおととし……えぇ? さきおととし言ぅことがあるか、先おとといや先おとといでんねんどのぐらい?ざっとまぁ、ふた月ほどお前何かい、ふた月も仕事行かなんだんかい? よぉそんなえぇ加減なことを……、お咲さんがよぉふた月も辛抱したもんや。
家主っさんそない言ぃますけどね、わたしもえらかったですよ何がえらい?「何がえらい」言ぅたかてあんた、毎日まいにちでしょ「今日はどの言ぃ訳にしょ〜かいな」と、考えるのんがえらかったアホなこと言ぅてんねやないがな、よぉふた月も遊んだもんやで。そのあいだの遣り繰りはどぉしてたんや?
それでんねん、お咲きが手内職ボチボチやりよりましてんけど、女ごの手内職ぐらいではこの腐りかけた家の家賃にも……おまはん、誰と話をしてるんや?あ、家主っさん「家主っさん」やあれへんで、わしのうちやないかははははは笑いごっちゃあれへんで、どんならんやっちゃなぁホンマにもぉ。この腐りかけた家の家賃にも足らいで、あとはどぉしてたんや?
まぁ、あちらこちらからちょっと借りましてねぇ「借りましてねぇ」て、何かいな、おまはんの知り合いやお友達には、おまはんにお金貸してやろぉといぅご奇特なお方が数多くありますのかい?そんな皮肉な言ぃよぉしなはんな。いやね、これにはちょっとコツがおまんねん何や、コツて?よそ行って言ぃなはんなや。あ〜たにだけ言ぅたげまんねん、よそ行って言ぃなはんなや。あ〜たにだけ、あぁ〜たにだけ手ぇなしでしゃべれ。
二十五銭借りまんねん。この額にちょっとコツおまんねん。二十五銭借りまんねん二十五銭? えらい半端な金やなぁ半端な金、そこにコツがおまんねんやないかい。二十五銭、これがねぇ二円、三円、五円、高がちょっとまとまってみなはれ「う〜ん、五円もこいつに金貸して、ひょっとして返してくれなんだらどぉしょ〜。やめといたほぉがえぇやろなぁ」思うしでっせ、五円と高が決まりゃ「ごめんごめん、五円といぅよぉな金、いま持ち合わせが無い」と言えますわい。
ところがあんた、二十五銭ぐらいの金「これがひょっと返してくれなんでも仕方がないか」と諦めもつくし、大の男が二十五銭ぐらいの金「今日持ち合わせが……」持ち合わせもくそも、大の男がウロウロしてんのに「二十五銭無い」てなこと言えまへんわい。
「ひょっと、倒されても仕方がないか」といぅ気も働きますし、たいてぇのもんなら二十五銭貸してくれます。貸してもろたらこっちのもんです。これが、いまも言ぃましたよぉにね二円、三円、五円と高がまとまるとでっせ「おぉ、こないだの五円どないなってんねん、何とかしてんか」と言えますけどね、大のおとながあぁ〜た二十五銭ぐらい「こないだの二十五銭、どぉなってます?」人間やったら恥ずかしぃて言えまへんで、こんなもん。
こっちが借りたら、まぁ恐らくほとんどは催促しまへんわねぇ。催促されなんだら返さいでもよしでっせ、二十五銭いぅたかて五銭や十銭やおまへんねやさかい、そこそこのおかずは買えますわねぇ。あっちからこっちから二十五銭、二十五銭……、何とかふた月のあいだこぉやってましたんです。
えらい男やなぁ、それだけのこと考えるだけでもえらいがな家主さん、ちょっとお頼みがおまんねけど……なんや、えらい改まって?二十五銭貸してもらえまへんか?ん〜ん、おまえだけはどついても音のせん男や。わしにその話をしてすぐに二十五銭貸してくれと言ぅ、その神経。わたしゃおまはんといぅ人間嬉しぃ、好っきゃねん。
まぁ、うちゃおまはんが誰と一緒になろが知ったこっちゃあれへんしやで、家賃さえ入れてくれたらそれでえぇねんけれどもな。まぁ、家賃のほぉだけはひとつ、まだ三つしか溜まってないよって、あんじょ〜入れとくれや、頼むでおおき、ありがとぉ。そぉいたします。ありがとぉ……
なぁ、えぇ人やなぁ家主っさん。あの人やさかいにここ置いてくれはんねんで「わいといぅ人間が気にいった、好っきゃ」ありがたいこっちゃ。あないして家賃も待ってくれはった、帰ってくれはった。おおき、ありがとぉ、ありがとぉ、ありがとぉ……。大きな声出さんとこ、腹減ってきた。食ぅもんは無いし、起きてたら腹減るだけやなぁ、もぉ寝てこましたろ。
おもしろい男があったもんで、グ〜ッと寝てしまいましたんで。どのぐらいウトウトいたしましたか、枕元に人の気配を感じましてフッと目を開けますといぅと、汚ぁ〜いお爺さん、枕元に座っております。ビックリして起き上がりよって、
な、何だんねん、あんた?わしゃ貧乏神やは?貧乏神え?貧乏神お?貧乏神。何べんもやらすなあんた、貧乏神?この家へ取り憑いた貧乏神そぉ、あんたうちの家へおってくれたん? へぇ〜……、二十五銭、貸してくれへんか?よぉそんなこと言ぅなぁ。わしゃ言ぅぞ、お前なぁ、もぉちょっと精ぇ出して働け、精ぇ出して働け、悪いこと言わん。精ぇ出して働け。
ちょ、ちょ、ちょっと待て、話どっかおかしぃのとちがうか? 貧乏神が「精ぇ出して働け」て、そんなアホなこと言ぅ貧乏神どこにある? 貧乏神っちゅな、人が貧乏になるの見てニタァ〜ニタ笑ろて「嬉しぃ嬉しぃ」それが貧乏神違うのか? 精ぇ出して働け?
貧乏にもホドがあるやないかい。お前、貧乏神といぅものをちょっと捉え間違ごぉているぞ。貧乏神といぅものは何も貧乏が好きやないねん、一生懸命働いてる人間に取り憑いて、その人間が儲けたその何を養分としてこっち吸い取って、それで貧乏神が生きてるので向こぉが貧乏するねん。
せやさかい、働いても働いても金が溜まらん、貧乏している。といぅのが貧乏神が取り憑いた人間の姿であるわけや。そのためには人間といぅものは働かないかんねん。その養分をこっちが吸い取んねん。お前みたいにタマから働かなんだら吸い取る養分も何もあらへんやないか。一番ホンマは住みにくいねん、お前らみたいなとこはな。働け、働け……、働け。
貧乏神に勧められて働くっちゅうのも、もひとつゾッとせんなぁ……。ほっといてぇな、わい貧乏でえぇねんそんなこと言わんと、やっぱり貧乏いかんぞ「貧乏いかんぞ」て、けどいま言ぅたよぉにやで、わてが一生懸命働いてもやで、あんたがここにおるあいだはあんたが養分取るさかい働いても貧乏やろ。働かいでも貧乏やろ。貧乏に変わりないねんやったら、働かいで貧乏のほぉが働いて貧乏よりずっと楽と違うかい? 勘定として。人間なればそのほぉを取るほぉが健全な人間と違うかい? もぉわい働かん。
いやその、人間やけを起こしたらあかんで。もぉちょっとあんじょ〜……、嫁はんに逃げられてしもてるし、寒(さ)ぶなってくるしこのままやったら硬とぉ冷(ちめ)とぉなってしまうぞほっといて。わいが勝手に硬とぅ冷とぅなるのんほっといて。あんたにかもてもらわいでもえぇやろ。ホッチッチです。
それがそぉいぅわけにいかんねん。ちょっと事情話するけどね、そないなってしもてお前が硬とぉ冷とぉなってしもたら、係が死神のほぉへ移ってしまうでしょ。で、わたしの仕事がなくなるほなまたよそ行ってどこかへ取り憑いたらえぇがな、元気なやつに。
「元気なやつに」て言ぅけどねぇ、わたしももぉちょっとハキハキした貧乏神ならどこへでも取り憑きますけどねぇ、どっちかいぅと頼んない貧乏神やさかいねぇ、あぁ〜たとこぐらいが本当は一番おり易いんです、あ〜たが働いてくれさえすれば。ですからお願いです、働いてください。
泣きないな、ケッタイなやちゃなぁ。そぉか、ほなまぁ、働きに行ってもえぇけど、働きに行きとぉても行きよぉがないがなどぉしたんや?道具箱があれへんがな道具箱、どぉしたんや?
「どぉしたんや」て、お前貧乏神やろ、ちょっと考えて分からんか? 質(ひち)に入れたんやないかいお前ねぇ、職人が道具箱質に入れるちゅな、おのれの首おのれで締めてるよぉなもんやで。何するねん、出してこい出してこいえ?出してこいどぉして出すねん?「どぉして?」ちゅうたかて、何とかして何してこいえ?何とかして何してこい。
「何とかして」て、どぉすんねん? いまの話お前聞ぃてたんちゃうか、天井裏かどっかにおるんやろ、あっちこっちから二十五銭、二十五銭借りて何とかやってる人間があとどぉすんねん。たいてぇのもんにはもぉ言ぅてしもたぁんねや。きのうもお松っつぁんに「二十五銭貸してんか」ちゅうたら知らん顔して行きよった。当り前や、その前の日に借りてんねんさかい。それを「どないぞして」どっからどぉすんねん? ハキハキせぇ、どっからどぉするっちゅうねん? ハキハキせぇ。
それ何とかならんのか?何ともならんねん。いまも言ぅた通り二十五銭の口切れたぁんねん。どぉしても働きに行かんならんねんやったら、お前何とかしたらどやねんわたしがどぉするんですか?「どぉするんですか?」やあらへんがな、前に頭陀袋(ずだぶくろ)みたいなもん下げてるやないか、その中に何ぼか入ってへんのかえ? 文無しかえ? 何ぼ貧乏神でも多少はあるじゃろ。
えぇ……。そら、多少はあるけどあるねやないかい、出さんかい出さんかいせやけど、どこぞの世界に貧乏神から金借りるてあるか?あかんのん? ほなえぇがな、わいかて別にどぉしても借りたいことあれへんねや。このまま硬とぉ冷とぉなったらそんでえぇねやないかいお前なぁ、貧乏神脅すなどぉすんねん? 貸すんか貸さんのか? 硬とぉ冷とぉなろか、もぉちょっと温いままでおろか? どっかよそ行くか? 行くとこあるか?
ん〜ん……、何ぼで入ったぁんねん?貸してくれるのん?何ぼ? わずかの銭で入れやがってホンマにもぉ、これで出してこいホンマに貸してくれるのん? 辛いなぁ辛ろのぉてかい。よそ行って言ぃなやこのままでは行かれんので、もぉちょっと何とかしてもらえんか?このままて?
見てみぃ、上半襦袢一枚や、下パッチだけや、フンドシも質入たぁるねん。ちょいちょい破れから中身出るねんアホなこと言ぅな、何ぼやねん? ほな、これで着物も出して、あぁ〜〜ぁ……
とぉとぉ貧乏神泣き出しよったんで。おもしろい男があったもんで貧乏神に金借りて道具箱をば出しまして、仕事に行きまして、さて、ひと月もしましたある日のことでございます。
おい、いてるか?おぉ辰っつぁん。お越し「お越し」やないやないか、心配してんねやないか。嫁はんに逃げられたっちゅうしやで、何じゃちょっと仕事に来たと思たらまた休んでんねやないかい。それこそ段々寒むなるし「ひょっとしたら、もぉ硬とぉ冷とぉなっとぉるんとちゃうか」言ぅて、仕事場でみな寄って言ぅて。
あんまり出てけぇへんので来てみたら、何や、前よりお前元気そぉな顔してるねやないか。達者やなぁ。何じゃい、家の中も綺麗ぇにきちんと片付いたぁるやないか。何かい、また新しぃ嫁はんもろたんかい?
アホなこと言ぃないな。わいこんな人間やっちゅうこと知って、もぉ誰が来てくれるかいな。世話してくれるもんあれへんがな綺麗ぇに片付いてるやないかい、元気そぉやないかい、誰と一緒にいてんねん?お前、ここへ入って来る時、誰ぞとすれ違わなんだか?
あぁ、そぉいぅたら何や汚ぁ〜いお爺(じ)んがタライ持ってウロウロォ、ウロウロあれといま一緒にいてるねんあれ何や?貧乏神やえ?貧乏神貧乏神? 貧乏神て、あの貧乏神?貧乏神にあのもこのもないねんあのお爺んお爺んオジン言ぅてやりな、あれでも業界では若手やそぉな。
どぉしたんや?実はな、あいつに……ほぉほぉ、ほぉ、銭借りて道具箱……そやねん。一応仕事に出たことは出たんやけど、三日ほどしてえらい雨降ったやないか、あれが十日ほど降り続いたやろ。秋の長雨じゃ、また仕事行くのん嫌になってしもて、もぉブラブラして仕事休んでしもてんねん。
どぉしたんや、その貧乏神さぁ、はじめのうちは「仕事に行け、仕事に行け」言ぅとったけど、段々こっちの人間見抜きよったんやねぇ「とてもこら、言ぅてもいかん」ちゅうやっちゃ、諦めよったんや。といぅてやで、そんなもんじっとしてたら、俺がこの家放り出されてしもたら、貧乏神もおんなじよぉに出ないかんやろ「こらいかんなぁ、何とか家賃だけでもせにゃいかん」言ぅてね、内職始めよったんやで。
貧乏神が内職やっとんのん? はぁ〜、何しよってん?はじめね、つま楊枝削りの内職引き受けてきよってんけどね、両方とも削って貧乏削りにしてしまいよって、えらい卸元から怒られよって、それあかんよぉなって、この頃、近所の洗濯もん聞ぃて回って洗濯やりながら、わずかずつもろてるてなこっちゃ。
うわ〜っ、えらいやっちゃなぁ……。じつ、お前にちょっと相談したいことがあるんやそぉか、ほなちょっとこんなことしに出よか。家におっても茶ぁの一杯もあれへんがな。片付いてるだけで無いもんは無いんやよって。ちょっとこんなことしに出よ銭、大丈夫か?
大丈夫、わいかて無いけど……、その袋、その汚ぁ〜い袋とって何やこれ?貧乏神の頭陀袋や。そん中に何ぞ入ってる。小銭入れ入ってるねん。ちょいちょいそこからおかず買いよんのん見てんねんバチ当てよるで当てへん当てへん、あいつとわいの仲や、そんなことしよれへん。よしんば当てよったかて、罰が当たったってこれより下が無いんやよって、何とかもぉちょっと良ぉなるてなもんや。
みな取ってやったら可哀相ぉな、これぐらいにしとこ。ほなボチボチ出よか……。おい、行てくるでお早よお帰りこれ、いつも言ぅてる辰やねんうちのんから、お噂うかごぉとりますほな行てくるよって、なんやったら飯、先に食ぅといてくれてもえぇよってなどぉぞお早よぉお帰りなかなか愛想のえぇやっちゃなぁ。
……あ〜ぁ、何でわいがこんなことせんならんねん。いつの間にやらこんなことしてしもて、どんならんでホンマにもぉ「先、飯食ぅといてもえぇで」て、まるで嫁はんみたいに思て……。どんならんで落ちんがなこれ、お松っつぁんとこの金坊や、醤油落としたらちょっと水雑巾ででも何しといてくれな……、赤い醤油や、どんならんで、落ちひんがな、どんならんなぁホンマにもぉ。
イヨッとしょ〜ッ、やれやれ、朝から晩まで洗濯ばっかりして座ってるもんやから腰が痛とぉて、疝気(せんき)でも出にゃえぇが……。えぇ夕焼けやなぁ、明日もお天気えぇやろなぁ、洗濯もんがよぉ乾くわ。
イヨッとしょのドッこいしょ、イヨッとしょのドッこいしょ、あ、戸ぉ開いたぁる。どんならん、あいつのあぁいぅとこ嫌いやねん、締りが無いよってなぁ。おのれは盗られるもん無いけど、わしゃ頭陀袋だけでも……、頭陀袋……、しもた、やられたぁ! 今月の米代やねん。
もぉわずかしか残ったぁれへんがな、どんならんなぁ。あかん、こんな生活をいつまでも続けてたんではあかん。どっちが貧乏神や分れへんがな。この家、もぉ出よ……
貧ちゃん、いま戻った。おっきありがとぉ、ハハハぁ〜久しぶりにちょっとこんなことして、愉快でございます。あ、貧ちゃん何だか怖い顔してますね。貧ちゃん、怖い顔していますねぇ、どぉしたんですか? いつもと様子が違いますよ。え? 何ですか?「この家、出て行く、今日限り」
あっそぉ、スビバせんねぇ、スビバせんでしたねぇ。あぁ〜たにお世話になりまして、面目ないこっちゃなぁ言ぅて、ハハハぁ〜。悪いとは思てたんやけどね、わいも何とかせないかん、働きに行かないかんと思てたんやけど、ついついお前に甘えてしもて済まなんだ、わいも悪い思てんねん。
そらそや、お前は悪いことない。そらそや、このままやとわいもこんな人間や、ズルズルとしまいにホンマにあかんよぉになってしまう。そら出てってくれたほぉがわいの為や。すまなんだなぁ、わいも何とかやっていきます。ひと月ほどの何やったけど、おっきありがとぉ、すまなんだねぇ。よし……、これ気持ちだけや取っといて。
そんなんしぃな、お前から餞別もらお思てない。しぃないやいや、最前の頭陀袋の巾着の中から盗ったやつのお釣や、お前の銭やまぁそんなことやろ思たけど、そぉか、おっきありがと気持ちだけもろとくわ。何やえろぉ得したよぉにも思わんけども、ありがとぉ気持ちはもろとく。
もっとおってやってもえぇねんけど、お前の為にもならんと思うし、出て行くことにする。そぉ言ぅてな、ホンマはな、わいも嬉しかったんや。なんやかんや言ぅたって貧乏神いぅたらどこ行ったって嫌われるもんや。そんなわいとひと月も嫌がりもせんと一緒におってくれたんや。ホンマはわいかて嬉しぃと思てんねん。
けど、このままではお前の為にならん。心を鬼にしてわいは出て行く。体だけは気ぃ付けや。もぉ世話するもん無いねんよってな、わいがおったらわいが世話したるけどなぁ、世話するもんも無いねん。これからいよいよ寒むなってくるしなぁ。
わいも手は回しとく。疫病神のほぉへ言ぅとく「なるたけ取り憑かんよぉに」ちゅうことは言ぅといたるけど……。ほな行くよってな「心入れ替えて働け」ちゅな、そんな野暮なこと言えへん。まぁ、あっちこっちから二十五銭ずつ上手に借りてこい。こぉして別れるとなったら、別れにくいけど、そんなこと言ぅてられへん。元気でやってくれ。
おっき、ありがとぉ。また、縁あったらいつでも戻っといでや。うちならいつでも歓迎や……。おい、どこ行くねん?「どこ行く」て、仕方ないやないかい、どこなとまぁ探して行くわいおい、せめてのことや、お前の行き先、おれにちょっと世話さしてくれへんか?
アホなこと言ぃな、世の中に貧乏神に来てくれてな家がどこにある?いや、あるある。最前うち来よったわいの友達の辰、あいつとこ行ったってくれ。あいつもわいとおんなじよぉな気性の男や、せやからお前を嫌がったりせぇへん。せぇへんて、心配せぇでもえぇ。それにあの男もな……
きのう、嫁はんに逃げられよったんや。

【主な登場人物】
貧乏男  貧乏神  家主・甚兵衛はん  友達・辰っつぁん
【事の成り行き】
ユダヤ教やキリスト教、回教などの一神教と違って日本の神様は「八百万」すべてのものに宿るそうです。自然界なら天の神、地の神、山の神、川の神、大岩、大木、洞穴。また身近な家庭内にも台所には台所の神、便所には便所の紙、っと違ごた神、車にまでしめ縄を飾ってお祀りしてしまいます。
そんな風土ですから、昔から神様にもいろいろな性格の神様がおられまして「久米の仙人」などという神様もどきは、女人の太ももに見とれて天から落ちた、などというまさに人間的な神様もおられますね。
そんな人間的な神様ですから、さげを付けて笑ってしまえる。今回はいかにも有りそうな庶民派「貧乏神」様が登場されます。

貧乏神=人にとりついて、その人に貧乏をもたらすといわれる神。
タマから=頭からの約。最初から。
ゾッとせん=パッとしない。映画を見ても、絵の展覧会でも、落語を聴いても、思ったほどでもなかったらゾッとせんである。
ほっとく=うっちゃっておく。かまわないでおく。
ホッチッチ=ちっち言葉:1959(昭和34)年、守谷ひろしの「僕は泣いちっち」から流行「♪僕の恋人、東京へいっちっち」
死神=人を死に誘う神。
あかん=「埒(らち)があかぬ」の約訛、だめ。
泣きないな=「いな」は強調の接尾語。
ケッタイ=妙な・変な・おかしな・奇態な・いやな・不思議ななど、いろいろの意味を含んだ実にケッタイな言葉であって、エゲツナイと並んで上方言葉の両横綱。
頭陀袋(ずだぶくろ)=頭陀行を行う僧が、僧具・経巻・お布施などを入れて首にかける袋。頭陀/死人を葬るとき、その首にかける袋/雑多な品物を入れて運ぶ、簡単なつくりの布製の袋。
貧乏削り=おもに鉛筆を両端ともに削って使用することを意味する俗語。語源、発生時期ともに不詳。
よしんば=たとえそうであったとしても。かりに。
赤い醤油=濃い口醤油。関西では薄口(白い醤油)と濃い口、たまりを使い分ける食文化がある。
疝気(せんき)=漢方で、下腹部の痛む病気。あたはら。疝。疝病。
疫病神=疫病を流行させるという神/災難をもたらすとして嫌われる人。  
 
落語 貧乏神 2 桂枝雀の噺

 

日本には八百万の神さんがいます。
嫁さんにまた逃げられた男、家主さんが訪ねてきて、その訳を聞いた。「わたし寝てたんです朝、ほんなら、わたしの枕元へお咲が座りよってね『いつまで寝てなはんねん、早いこと起きて仕事に行きなはれ』と、こんな大胆なこと言ぅんでっせ」、「嫁はんとして当り前のこっちゃないか」、「頭が痛かったんでね『わいちょっと頭痛いねん、今日休みたい』ちゅうたら『何を甘えてなはんねん、ぐずぐず言わんと仕事に行きなはれッ』ちゅうて、わたしがかぶってる布団をシュ〜ッと・・・」、「一日やそこら骨休めちゅうことは当り前のこっちゃ。こらお咲さんがいかんぞ」、「今日一日だけのことなら、お咲もあんなことは言わなんだやろと思うんです。きのうはお腹が痛い言ぅてね。おとついは腰が痛い言ぅてね。ざっとまぁ、ふた月ほど仕事行かなんだ。その間、お咲は手内職をしていたが家賃も払えない。そこで回りから銭借りて・・・」。
「貸してくれるのがいるのか」、「ちょっとコツおまんねん。二十五銭借りまんねん」、「二十五銭? えらい半端な金やなぁ」、「二十五銭、これがねぇ二円、三円、五円、では『五円もこいつに金貸して、返してくれなんだらどぉしょ〜。止めとこ』、思うし、『ごめん、五円いま持ち合わせがない』と言えます。ところが二十五銭ぐらいの金『ひょっと返してくれなんでも仕方がないか』と諦めもつくし、大の男がウロウロしてんのに『二十五銭ない』てなこと言えまへん。『ひょっと、倒されても仕方がないか』といぅ気も働き、たいてぇの者なら二十五銭貸してくれます。貸してもろたらこっちのもんです。大の大人があぁ〜た二十五銭ぐらい『返してくれ』なんて恥ずかしぃて言えまへん。こっちが借りたら、まぁ恐らくほとんどは催促しまへんわねぇ。催促されなんだら返さない。二十五銭いぅたかて五銭や十銭やおまへんねやさかい、そこそこのおかずは買えます。あっちからこっちから二十五銭、二十五銭・・・、何とかふた月のあいだこぉやってました」、「えらい男やなぁ」。
「家主さん、二十五銭貸してもらえまへんか?」、「その神経。わたしゃおまはんといぅ人間、好っきゃねん。家賃さえ入れてくれたら・・・」、家主さんが帰っていった。
「ありがとぉ・・・。腹減ってきた。食ぅもんはないし、起きてたら腹減るだけやなぁ、もぉ寝てこましたろ」。
おもしろい男があったもんで、グ〜ッと寝てしまいましたんで。枕元に人の気配を感じましてフッと目を開けますといぅと、ガリガリで汚ぁ〜いお爺さん、枕元に座っております。ビックリして「お前は誰だ」、「わしゃ貧乏神や」、「・・・絵で見たとおりだ。二十五銭、貸してくれへん」、「そんな事言わず精ぇ出して働け」、「貧乏神の台詞じゃない」、「貧乏神とは金の有る奴から、その栄養分を吸って貧乏にするのだ。だから働け、働け」、「ほっといてぇな、わい貧乏でえぇねん」、「貧乏いかんぞ」、「わてが一生懸命働いてもアンタがここにいる間はわて貧乏だ。同じ貧乏なら働かない」、「嫁はんに逃げられてしもてるし、寒むなってくるしこのままやったら硬とぉ冷(ちめ)とぉなってしまうぞ」、「勝手に硬とぅ冷とぅなるの、ほっといて」、「硬とぉ冷とぉなってしもたら、係が死神の方へ移ってしまうでしょ。で、わたしの仕事がなくなる」、「元気なやつに取り憑け」、「頼んない貧乏神やさかい、お前ぐらいが一番易いんです。ですからお願いです、働いてください」。
「働きに行きとぉても行きよぉがない。道具箱が質屋に入っていて・・・」、「出して来い」、「どぉして出すねん。きのうもお松っつぁんに断られた。もう借りるところがない。どぉしても働きに行かせたいなら、お前何とかしたらどやねん」、「どぉするんですか?」、「前に頭陀袋(ずだぶくろ)みたいなもん下げてるやないか、その中に何ぼか入ってへんのか」、「あるけど、どこぞの世界に貧乏神から金借りるって事あるか。お前なぁ、貧乏神脅すな」、「貸すんか貸さんのか?硬とぉ冷とぉなろか」、「貧乏神脅すのか」。
とぉとぉ貧乏神泣き出しよったんで。おもしろい男があったもんで貧乏神に金借りて道具箱をば出し、仕事に行きまして、さて、ひと月もしましたある日のことでございます。仕事には行きませんが、部屋の中は片付いて、前よりも元気そう。心配した友達の吉(よし)さんが訪ねてきた。
「皆が心配しているぞ。嫁さんもろうたか?」、「もぉ誰が来てくれるかいな。お前、ここへ入って来る時、誰ぞとすれ違わなんだか?」、「あぁ、そぉいぅたら何や汚ぁ〜いお爺(じ)んがタライ持ってヒョコヒョコォしてた」、「それ、貧乏神や」、「あのお爺んがか・・・」、「お爺んオジン言ぅてやりな、あれでも業界では若手やそぉな。道具箱出して貰って、一応仕事に出たことは出たんやけど、三日ほどしてえらい雨降ったやないか。また仕事行くのん嫌になってしもて、もぉブラブラして仕事休んでしもてんねん。さぁ、はじめのうちは『仕事に行け、仕事に行け』言ぅとったけど、貧乏神に負けるような、わいではない。『とてもこら、言ぅてもいかん』と、諦めよったんや。じっとしてたら、俺がこの家放り出されてしもたら、貧乏神もおんなじよぉに出ないかんやろ。『こらいかんなぁ、何とか家賃だけでもせにゃいかん』言ぅてね、内職始めよったんやで」、「貧乏神が内職やっとんのん」、「はじめね、つま楊枝削りの内職ね、両端とも削って貧乏削りにしてしまいよって、えらい怒られよって、この頃、近所の洗濯もん聞ぃて回って洗濯やりながら、わずかづつもろてる」。
「じつ、お前にちょっと相談したいことがあるんや」 、「ちょっとこんなことしに(酒飲みに)出よか」、「銭、大丈夫か?」、二人共銭はないので、貧乏神の頭陀袋からくすねて出掛けた。
「頭陀袋・・・、しもた、やられたぁ! これに手を付けるようじゃアカン。こんな生活をしていたら。どっちが貧乏神や分れへんがな。こんな家、もぉ出よ」。
「貧ちゃん、いま戻った。怖い顔していますねぇ、どぉしたんですか? 何ですか?『この家、出て行く、今日限り』、あっそぉ、スビバせんねぇ、スビバせんでしたねぇ。あぁ〜たにお世話になりまして、面目ないこっちゃなぁ言ぅて、ハハハぁ〜。そら出てってくれた方がわいの為や。お前は悪いことない。お〜きありがとぉ、済まなんだねぇ。よし、これ気持ちだけや取っといて」、「そんなんしぃな、お前から餞別もらお〜思てない。しぃな」、「頭陀袋の巾着の中から盗ったやつのお釣や、お前の銭や」、「ありがとぉ気持ちはもろとく。お前の為にもならんと思うし、出て行くことにする。どこ行ったって嫌われるもんや。そんなわいとひと月も嫌がりもせんと一緒に居ってくれたんや。ホンマはわいかて嬉しぃと思てんねん。心を鬼にしてわいは出て行く。体だけは気ぃ付けや。もぉ世話するもんないねんよってな、わいが居ったらわいが世話したるけどなぁ、世話するもんもないねん。疫病神や死神の方へなるたけ取り憑かんよぉに言ぅといたる。元気でやってくれ」。
「おい、貧ちゃんどこ行くねん?」、「『どこ行く』って、仕方ないやないかい、どこなとまぁ探して行くわい」、「おい、お前の行き先、おれにちょっと世話さしてくれへんか? 」、「アホなこと言ぃな、世の中に貧乏神に来てくれてな家がどこにある?」、「あるある。最前うち来よったわいの友達の吉、あいつとこ行ったってくれ。あいつもわいとおんなじよぉな気性の男や。それにあの男もな・・・、きのう、嫁はんに逃げられよったんや」。 
 
貧乏神物語 / 田中貢太郎

 

縁起でもない話だが、馬琴の随筆の中にあったのを、数年前から見つけてあったので、ここでそれを云ってみる。考証好きの馬琴は、その短い随筆の中でも、唐山には窮鬼と書くの、蘇東坡に送窮の詩があるの、また、窮鬼を耗とも青とも云うの、玄宗の夢にあらわれた鍾馗の劈(さ)いて啖(くら)った鬼は、その耗であるのと例の考証をやってから、その筆は「四方(よも)の赤」に走って、「近世、江戸牛天神の社のほとりに貧乏神の禿倉(ほこら)有けり。こは何某(なにのそれがし)とかいいし御家人の、窮してせんかたなきままに、祭れるなりといい伝う。さるを何ものの所為(しわざ)にやありけん。その神体を盗とりて、禿倉のみ残れり」などと云っているが、屁のようなことにも倫理道徳をくっつける馬琴の筆にしては、同じ堅くるしい中にも軽い味がある。
文政四年の夏であった。番町に住む旗下(はたもと)の用人は、主家の費用をこしらえに、下総にある知行所に往っていた。五百石ばかりの禄米があって旗下としてはかなりな家柄である主家が、その数代不運続きでそれがために何時も知行所から無理な金をとり立ててあるので、とても今度は思うように調達ができまいと思った。その一方で用人は、村役人のしかめ面を眼前(めさき)に浮べていた。
微曇のした蒸し暑い日で、青あおと続いた稲田の稲の葉がぴりりとも動かなかった。草加(そうか)の宿が近くなったところで用人は己(じぶん)の傍を歩いている旅憎に気がついた。それは用人が歩き歩き火打石を打って火を出し、それで煙草を点けて一吸い吸いながらちょと己(じぶん)の右側を見た時であった。
旅憎は溷鼠染(どぶねずみぞめ)と云っている栲(たえ)の古いどろどろしたような単衣(ひとえもの)を着て、頭(かしら)に白菅の笠を被り、首に頭陀袋をかけていた。年の比(ころ)は四十過ぎであろう、痩せて頤(おとがい)の尖った顔は蒼黒く、眼は落ち窪んで青く光っていた。
この見すぼらしい姿を一眼見た用人は、気の毒と思うよりも寧ろ鬼魅(きみ)が悪かった。と、旅僧の方では用人が煙草の火を点けたのを見ると、急いで頭陀袋の中へ手をやって、中から煙管と煙草を執り出し、それを煙管に詰めて用人の傍へ擦り寄って来た。
「どうか火を貸しておくれ」
用人は旅僧に傍へ寄られると臭いような気がするので、呼吸(いき)をしないようにして黙って煙管の雁首を出すと旅憎は舌を鳴らして吸いつけ、
「や、これはどうも」
と、ちょっと頭をさげて二足三足歩いてから用人に話しかけた。
「貴君(あなた)は、これから何方(どちら)へ往きなさる」
「下総の方へ、ね」
「ああ、下総」
「貴僧(あなた)は何方へ」
「私(わし)は越谷(こしがや)へ往こうと思ってな」
「何処からお出でになりました」
「私(わし)かね、私は番町の――の邸から来たものだ」
用人は驚いて眼を※(みは)った。旅僧の来たと云う邸は己の仕えている邸ではないか、用人はこの売僧奴(まいすめ)、その邸から来た者が眼の前にいるに好くもそんな出まかせが云えたものだ、しかし待てよ、此奴はなにかためにするところがあって、主家の名を騙(かた)っているかも判らない、一つぎゅうと云う眼に逢わして置かないと、どんなことをして主家へ迷惑をかけるかも判らないと心で嘲笑って、その顔をじろりと見た。
「――の邸、おかしなことを聞くもんだね」
「何かありますかな」
旅僧は澄まして云って用人の顔を見返した。
「ありますとも、私はその邸の者だが、お前さんに見覚えがないからね」
用人は嘲ってその驚く顔を見ようとしたが旅僧は平気であった。
「見覚えがないかも判らないよ」
「おっと、待ってもらおうか、私は其処の用人だから、毎日詰めていない日はないが、この私が知らない人が、その邸にいる理(わけ)がないよ、きっと邸の名前がちがっているのだろう」
用人はまた嘲笑った。
「ところが違わない」
「違わないことがあるものか、ちがわないと云うなら、お前さんは、邸の名を騙る売僧じゃ」
用人は憤りだした。
「それはお前さんが私(わし)を知らないから、そう云うのだ、私は三代前から彼(あ)の邸にいるよ、彼の邸は何時も病人だらけで、先代二人は夭折(わかじに)している、おまえさんは譜代でないから、昔のことは知らないだろうが、彼の邸では、昔こんなこともあったよ――」
旅僧は用人の聞いている昔主家に起った事件をはじめとして、近比(ごろ)の事件まで手に執るようにくわしく話しだした。用人は驚いて開いた口が塞がらなかった。
「どうだね、お前さん、思いあたることがあるかね」
旅僧はにやりと嘲笑を浮べながら煙草の吹殻を掌にころがして、煙管に新らしい煙草を詰めてそれを吸いつけ、
「寸分もちがっていないだろう、それでもちがうかね」
「よくあってます」
用人は煙草の火の消えたのも忘れていた。
「あってるかね、そりゃあってるよ、毎日邸で見てるからね」
用人は頭を傾げて旅僧が如何なる者であるかを考えようとした。
「私が判るかね」
旅僧は嘲笑いを続けている。
「判りません、どうした方です」
「私(わし)は貧乏神だよ」
「え」
「三代前から――の邸にいる貧乏神だよ」
「え」
「私(わし)がいたために、病人ができる、借金はできる、長い間苦しんだが、やっと、その数が竭(つ)きて私は他へ移ることになったから、これから、お前さんの主人の運も開けて、借金も返される」
話のうちに草加の宿は通り過ぎたが、用人は霧の深い谷間にいるような気になっていて気がつかなかった。
「だから、これから、お前さんの心配も無くなるわけだ」
用人はその詞(ことば)を聞くとなんだか肩に背負っていた重荷が執れたような気がした。
「では、あなた様は、これから何方(どちら)へお移りになります」
「私(わし)の往くさきかの、往くさきは、隣の――の邸さ」
「え」
「其処へ移るまでに、すこし暇ができたから、越谷にいる仲間の処へ遊びに来たが、明日はもう移るよ」
用人はその名ざされた家のことを心に浮べた。
「お前さんが嘘と思うなら、好く見ているが好い、明日からその家では、病人ができ、借金ができて、恰好(ちょうど)お前さんの主人の家のようになるさ」
「え」
「だが、これは決して人にもらしてはならんよ」
「はい」
「じゃ、もう別れよう」
用人がはっと気がついた時にはもう怪しい旅僧はいなかった。其処はもう越谷になっていた。
用人は知行所へ往ったが、度たび無理取立てをしてあるのでとても思うとおりにできまいと心配していた金が、思いのほか多く執れたので、貧乏神の教えもあるし彼は喜び勇んで帰って来た。 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 
■貧乏神につかれた人の特徴と対策

 

貧乏神につかれた人の特徴と対策

 

まずは自分が貧乏神に取り憑かれているかチェック!
「茶碗や湯呑みなど、フチが欠けたりヒビが入ったままの食器/落ちない汚れがついた服や破れた服、下着を使い続けている」
昨今は100円ショップなどでも手軽に食器は新品がいい買える時代。にも関わらず、口や手を怪我する可能性があるのに壊れた食器を使い続けられる「ズボラさ」そして己の生活の質に対する「無関心さ」は、貧乏神に取り憑かれているゆえのものじゃ。
「もったいない」が口癖
そして、こういった壊れ物、汚れ物を修理も繕いもせずに使い続ける理由が「もったいないから」であるおぬしは要注意じゃ。もったいない精神自体は、悪いものではない。が、先ほど話したように修理するわけでなく使い続ける理由がもし、「これを捨てたら、新しいものを買えないかもしれない」という恐怖心であったなら、それは明らかに貧乏神の仕業。
「いらなくてもタダのものはもらう」
これもまた、貧乏な自己像によるものじゃ。まったく趣味ではないノベルティグッズのキーホルダーや小物を受け取り、アメを舐める習慣もないのに無料のアメに手を伸ばす。まだ、貧乏神に憑かれていない者も、いらなくても趣味ではなくとも「もしかして使うかもしれない」と受け取るその心に貧乏神は気付いて寄ってくるのじゃ。
本やCDなどを「借りパク」する
最近は少なかろうが、まだまだ学生などにはいる「借りパク」これは貧乏神が最も好む行動パターンじゃ。むしろ、この段階では自身が貧乏神と化しておるやもしれぬな。人からものを借りて返さずにいると、自身は罪悪感がなくとも、相手は心の中で「どうして返してくれないんだろう」と悲しく思うならば悪しき念が飛んでくる。たとえ貸した本人はそのつもりはなくても、潜在意識のレベルでは「あの子に私の◯◯を借りパクされた」という嫌な気持ちが少しは発生するものじゃ。
現代の貧乏神とは?
「貧乏神は、けして乞食の様な、みすぼらしい恰好はしていません、またテレビで見るような強面の悪人顔や犯罪者の様な怪しい雰囲気の人でもありません。」
「それは神様ではなく、どこにでもいる人間で、その人と一緒にいると生気を吸われ大変疲れます。吸血鬼みたいな人間です。」
普段は、いい子ぶってますので気付くまで時間がかかります。いい人だなと思って、スキを見せると、上手に入り込んできます。最初はどこから見ても良い人です。気付いた時にはもうすでに手遅れで、生気は抜かれていますので、ツキはなくなり失敗したり不幸を招き、事業も傾きます。
現代の貧乏神の特徴
貧乏神(本貧乏・汚れ貧乏)には、6つの特徴があります。
・毒(愚痴・悪口・不平不満・ねたみ・泣き言)を吐く
・人を見下す(上から目線)
・責め心を持つ
・見返りを求める
・許せない心
・つもり病(「できているつもり」「しているつもり」になる)
でも、一見すると「いい人」なのでタチが悪いのが貧乏神!
一緒にいると大変疲れます。自分には何一つ害のない人なのに、一日中一緒にいるとクタクタになります。(目にクマが出来るくらい!)
交友関係は盛んで、顔は広いようです。いい人なのに、親友はいないです。
悪気が全くなく、失敗しても人のせいにします。が、最初はいい人なので許してしまいます。
○人の気を食べるので小食です。(もちろん例外もあります。)
○霊に憑依されやすく、いつも顔が違います。人の生気を吸うと目が輝き、少年、少女のようになり、疲れてくると、老人、老婆のような顔をしています。
○とにかく、おしゃべりが大好きです。最初は「明るくていい人だな」と誤解してしまいます。
・夢追い人(計画性がなく、現実を全く見ていない)
・笑顔が人懐っこく、やさしそうでよく笑う
・人の懐に飛び込むのが上手な人
・いつでも相談に乗ってくれる、おおらかな雰囲気の人
・堅物ではなく、とても砕けたフランクな明るい人
・気配り屋で人のかゆいところに手が届く人
でも、しばらく付き合っていると本性があらわに。
人の悪口や失敗を、助言しているかのような口ぶりで話し続けます。決して人を褒めません。
自分の事ばかり話します。前に聞いた事のある話を繰り返し、繰り返し、会う度に話します。自慢話も、さりげなく何度も何度も話します。
こちらの都合などお構いなく、思い立ったら、長話や、長電話や、メールで一方的に話し続けます。
○普通の食事よりも、タバコや酒、お菓子が好きです。偏食です。
○人にアドバイスされる事が大嫌いで、何か自分にとって嫌な事を言われると逆恨みします。
貧乏神が住み着いている人の特徴は・・【無い無い】を連発するそうだ
・お金がない・・これは言うまでも無い
・時間がない
・余裕がない
・暇が無い
・解らない
・知らない
・出来ない
・信じない
・懲りない
・答え(られ)ない
・治らない
貧乏神のついた人に近づかれると・・・
「貧乏神にとり憑かれている人に接すると、お金がスルスルと出ていきます。」
貧乏神を背負い込んでいる人に関わると、物がやたらと壊れます。ありえないだろう!という物が突然壊れます。それによって金を使わされます。
「厄介なのは・・・貧乏神が傍にいますと、祈りや祈願が全くきかない」
貧乏神の憑いた人の影響を受けないようにするには?
「貧乏神や、人の生気を吸い取る人物が、いつも顔を合わさねばならない人や、会社にいたら、あなたは一日の大半をその恐ろしい人々と過ごす訳です。そんな場合はどうすればよいのでしょう。」
そういう場合の対処法は、「貴方自身が強くなる」しか方法はないのです。人の生気を吸い取る人や、貧乏神の人々は、相手のエネルギー状態をうまく嗅ぎ付けてきます。
「この人は自分より弱い。」、「この人は自分より優しい。」、「この人は何でもいう事を聞いてくれそうだ。」、「この人はお人好しだ。」、「この人は気が弱いぞ。」、「この人は今、落ち込んでるぞ。」、「この人は怒らないぞ。」などと、自分より弱いエネルギーの人がいれば、これだとばかりに飛びついてきます。
「強くなりましょう。そういった人は、ナメている人が多いので、強くはっきりと態度に出しましょう。冷たくしたり、はっきりと自分の思っている事を伝えましょう。今まで優しくしてくれたり、逆らわなかった貴方が強く出ると、それらの人はびっくりします。そして、動揺して、逆切れするかもしれませんが、ひるんではなりません。」
自分が貧乏神にとりつかれないようにするには?
貧乏神とサヨナラするには、
・毒を吐かない
・上から目線にならない(物事を底辺から見る)
・責め心を持たない
・見返りを求めない
・許す心を持つ
・物事を真剣にやる
貧乏神を追い出す方法があります。
・悪口の反対をすればよいのです。
・不満の反対を思えばよいのです。
具体的に言うと
・他人を賞賛してください。
・「ありがとう」と言ってください。
・「感謝」をしてください。
・他人の幸福を願ってあげてください。
とにかく貧乏神は「感謝」がキライです。貧乏神はすぐに逃げていきます。 
 
貧乏神につかれた人の特徴と対策方法

 

昔話や、ふとした普段の話題の中に登場する「貧乏神」は、誰もが一度は聞いたことがあるでしょう。
その存在は「貧乏になる神様」と多方面から言われていることから、金運を下げる神様と考えられています。
しかし、実際は金運が下がる貧乏の他、さまざまな「貧乏」に影響を与えているようです。
存在を信じていないからといって安心していると、気付かない間に憑かれてしまっていた、なんてこともあります。
先述の通り、実際に憑かれてしまうと、さまざまな障害を引き起こしてしまうのです。
「貧乏神」につかれた人の特徴は?
自分の身の回りに「毒を吐く・人を褒めない・いつも人を見下す」という特徴を持っている人を見かけることはないでしょうか。
そういった特徴の人物は、まさに貧乏神に好まれるタイプで、憑かれている可能性が高いようです。
さらに、お金がない、余裕がない、時間がないなど、とにかく「〜がない」という言葉を口癖にしている人も憑かれていると言われています。
口癖ではないものの「〜がない」というマイナス思考の発言をうっかりしてしまう人は、貧乏神に憑かれないために注意する必要があります。
また、よく逆恨みをする人も憑かれる場合が多いのだとか。
自分の失敗にも関わらず、関わった人たちのせいにする人は、職場でも交友関係でも非常に厄介な存在です。
このような特徴を持つ人物は「プライドが高い人」と勘違いされがちですが、本当にプライドが高い人はアドバイスは嫌うだけで、人のせいにはしません。
貧乏神が憑いていそうな人物像というのは、往々にしてネガティブなオーラを持っている人や、周囲への配慮が人だと言えるでしょう。
「貧乏神」につかれた人が近くにいる時の影響力
自分には貧乏神が憑いていないからといって、決して安心してはいけません。
貧乏神の影響力は凄まじく、憑いている人が近くにいるだけで、そのマイナスな影響を受けてしまいます。
例えば、貧乏神に憑かれた人が近くにいると、異常に疲れやすくなってしまい、睡眠をとってもなかなか回復しません。その理由は、貧乏神が生気を吸い取ってしまうからだと言われています。
他にも、物が頻繁に壊れたり、カードなどの大切な物がなくなったり、お守りや祈願が効かなくなってしまったりします。
例に挙げただけでも、貧乏神が憑いていそうな人には近寄りたくないものです。
「貧乏神」につかれないための対策方法
貧乏神は相手のエネルギー状態を上手く嗅ぎ分けることができるとされ、弱い人、優しい人、気の弱い人などに寄ってくる傾向があります。逆に芯がある強い人には寄りつきません。
自分の意見をしっかり言うなど、自分をしっかり持つようにしましょう。そして、貧乏神が嫌う「感謝の言葉」をしっかり伝えたり、ポジティブな発言を繰り返すことで、貧乏神に憑かれにくくなります。
貧乏神に憑かれないように気を付けると共に、日々の感謝の気持ちを忘れないようにしましょう。  
 
貧乏神につかれる人の特徴

 

貧乏神の意味とは?
貧乏神はその名のとおり、日本で古来より云い伝えられた「神様」です。昔ばなしや落語などに登場し、勝手に家に住みつき、住人を貧乏にする疫病神と言われています。
現代の生活にも、貧乏神は存在し、人々を苦しめています。不幸な事ばかり起きる人や、お金が無く、何かと無心してくる人など、あなたの周りにも「あの人は貧乏神につかれているのかも」と思い当たる人がいるのではないでしょうか。
「貧乏神につかれる」の意味
「貧乏神につかれる」とはどういう意味なのでしょうか。貧乏神は常に他人に依存して生きています。相手の運気を吸い取り、人が不幸になればなるほど、貧乏神のエネルギーとなるのです。
貧乏神につかれてしまうと、お金も時間も余裕が無くなり、自然と周りにいた人も距離を置くようになります。結果、だんだんと心が荒み、人生の歯車が悪い方向へと傾き出してしまうのです。
貧乏神につかれる人の特徴【性格】
貧乏神につかれ易い人、つかれにくい人がいるものです。では、貧乏神につかれやすい人の性格とは、どのような特徴があるのでしょうか。
何事も悪い方向に考えてしまう性格の人
何事にもネガティブで、悪い方向に考えてしまう性格の人は貧乏神につかれやすいでしょう。「こうなったらどうしよう」「ああなったらどうしよう。」と、なんでも先読みし過ぎてしまい、無駄に心配してしまったりする特徴があります。
自分では一生懸命に考えているつもりでも、他人から見ればただ時間を無駄にして、悩んでいるだけのように思われているものです。また、悪い方向ばかりに意識がいってしまう為、結果的に何事も上手く行かない事が多いでしょう。
諦めが早い性格の人
一つのことに根気よく努力が出来ず、すぐに諦めてしまう性格の人は貧乏神に好まれるでしょう。諦めが早いため、チャレンジ精神が無く、困難にぶつかったり失敗を経験する度に、心が簡単に折れてしまいます。
困難や失敗から学ぶことはせずに、「自分には無理だ。到底できそうにない。」と早々に諦めることで、結果的に何も得ることが出来ず、自己嫌悪で落ち込むこともあるでしょう。
常に嫉妬深い性格の人
常に他人を羨ましく思い、嫉妬深い性格の人は乏神の餌食になりやすいでしょう。このような人は、他の幸せや、ポジティブな出来事に共感できず、逆に妬んでしまう特徴があります。
嫉妬深い性格の人は、自分に自信が無く、劣等感に苛まれているはずです。その為、他人と自分を比べ、他人の幸せのせいで、自分が不幸になるような気持ちにすらなってしまいます。
プライドや自尊心が高い性格の人
プライドが高く、自尊心が無駄に高い性格の人は、知らないうちに貧乏神が隣にいるかもしれません。貧乏神が好む人間性は、他人に見下される事を極端に嫌い、自分を少しでもよく見せるため虚勢を張ってしまう特徴があります。
このような人は、出身大学や住んでいる場所、乗っている車などをひけらかし、いかに自分が優位なのかを見せつけようとします。そして、自分が常に一番でいたい為、他人を褒めることをせず、逆に欠点を探したりする傾向もあります。
貧乏神につかれる人の特徴【行動】
貧乏神につかれる人が取る行動とは、どのような特徴があるのでしょうか。あなたも知らず知らずのうちに、貧乏神が寄ってきそうな行動をしているかも知れません。
人に奢ったりするのが大嫌い
貧乏神に好かれる人は、食事を奢ってあげたり、プレゼントをあげたりする事を嫌います。なぜなら、他人が幸せになると、自分が損をしているように思えるからです。
奢り、奢られることはコミュニケーションの一環です。他人にお金を出してあげることで、人脈ができ、円滑に物事が進む切っ掛けになることもあります。
しかし、奢る事を嫌う人は、「お金がなくなる=損をする」という目先のことに囚われてしまい、結果的に人脈もできず、その上「ケチな人」のレッテルまでも貼られてしまいます。
生活面の全てがルーズ
貧乏神につかれやすい人は、何事にもルーズな人が多いでしょう。例えば、時間が守れなかったり、借りているものをいつまでも返さなかったりと、いい加減な性質があります。そして、ルーズな行為で他人に迷惑をかけていても、気にならず反省もしません。
家の中がとても汚れていたり、ゴミを溜め込んでいたりと、とにかく自分の管理ができていないため、人から信頼されず、知らないうちに交友関係が遠ざかっていく特徴があります。
時間とお金の使い方が下手
1円でも安い食品を求めて何件もスーパーを回り、わずかなお金のために、結果的に時間を無駄にしてしまった、、、なんて経験はありませんか。
貧乏神に取り憑かれ安い人は、常に目先の出費ばかりに囚われてしまい、全体的な視野が狭くなっているのです。
このような人は、毎日頑張っているにも拘らず、空回りしてしまい、その為常に時間もお金も余裕が無く、イライラした毎日を送ってしまいがちです。
自分本位で人の話を聞かない
他人のことを気に掛けず、自分本位な人には貧乏神が寄ってくるでしょう。あなたの周りにも、みんなで談笑をしているときに、自分の事ばかり話題にしたり、仕事場でも他人の意見や考えを取り入れようとせず、自分の意見を押し付ける人はいませんか。
このような人は、他人を思いやる感情に乏しく、自分さえ良い気分でいられれば問題ないのです。その為、人からどう思われようが、評価されようが気になりません。
貧乏神につかれるとどうなる?
貧乏神につかれるとどうなってしまうのでしょうか。人生や生活などがどのように変わってしまうのでしょうか。
運気が下がり何をしてもうまくいかない
貧乏神がそばにいると、何から何まで上手くいきません。なぜなら、貧乏神があなたの運気を下げてしまっているからです。
成功したい!と願っていても、全てが思い通りにいかず、そんな自分や周りにイライラし、また次の事をやっても、また失敗してしまう、、、という負のスパイラルから抜け出せません。
仕事でミスが続き、友人や恋人ともうまく行かず、やる事なす事が良い方向に向かわないと感じている人は、残念ながら貧乏神にとりつかれているのかもしれません。
運気が吸い取られ情緒不安定になる
貧乏神は人の活力や生気を吸い取り、それを負のエネルギーに変えてしまいます。生気を吸い取られるために、活力の源である運気も一緒に無くなり、必然的に毎日が不幸の連続になってしまいます。
また、運気が下がると肉体的にも燃費が悪くなり、疲れやすくなってしまい、くらい家の中で過ごす事が多くなるでしょう。そして、だんだんと他人とも関わらなくなり、情緒も不安定になってしまうでしょう。
貧乏神が与える影響
一度貧乏神にとりつかれると、とても厄介なようです。では、貧乏神が与える影響とは、どのようなものなのでしょうか。
無駄使いしてしまいお金が貯まらない
毎日無駄遣いしないように、気にしているのに何故かお金が貯まらないと感じることはありませんか。貧乏神にとりつかれると、必死で節約しているのにもかかわらず、財布からお金がすると出ていってしまいます。
そうなると、貯金が無くなっていく事が極端に不安になり、続けていた趣味も辞め、友人との食事も断るようになり、次第に孤立していってしまいます。
不平不満が多くなり友人が離れていく
貧乏神につかれている人の特徴は、全ての事に対して不幸せを感じています。何をしても満たされず、不満ばかり口に出てしまいます。
不平不満や文句は、人との空気を悪くします。また、否定したり悪口なども、全体の運気を下げます。初めは親身になって聞いていた友人も、あなたの態度に疲れてしまい、次第に離れていってしまいます。
表情が暗くなり老けてしまう
貧乏神の好む顔は、口角が下がりへの字口で、笑顔が少ないのが特徴です。そして、貧乏神がついている人は、常に眉間にしわを寄せ、目に覇気がなくどんよりしています。
顔と心は相互に関係しており、上記のような運気の下がった顔をしている人とは、関わりを持つことを嫌がられ、人も寄ってきません。だんだんと孤独になり、それがストレスになってしまうでしょう。
貧乏神がとりつき易い場所や特徴
貧乏神には好みの場所があります。そういった場所に住んだり、生活する事で、どんなに努力しても不運が続いてしまいます。そんな部屋の特徴をご紹介します。
埃が溜まってゴミの多い部屋
貧乏神はゴミやものがに囲まれ、埃の溜まった場所がお気に入りです。あなたの部屋はどうでしょうか。
掃除や片付けは、貧乏神を遠ざけたり、追い払うのに一番簡単な方法です。埃やゴミに囲まれて生活をしていると、良い運気もどんどん下がってきます。
思い切って、休日に部屋の大掃除をしましょう。貧乏神もびっくりして、あなたの部屋から飛び出していくでしょう。
暗くてジメジメした場所
貧乏神は、空気の流れの無い、どんよりとした部屋が大好きです。空気の流れは運気の流れでもあるので、風通しの悪い部屋や、日光の当たらない暗い場所は、貧乏神には最適の場所です。
そんな部屋の運気をあげる方法は簡単です。朝起きて、カーテンを開け、フレッシュな空気と日光で家の中を浄化しましょう。そして、毎日良い運気の流れを作るように心がけましょう。
貧乏神を追い払う方法とは?
取りつかれてしまうと、非常に厄介な貧乏神。もし自分に貧乏神が付いているかも、と思ったらどうするべきなのでしょうか。効果的に追い払う方法はあるのでしょうか。
欠けた食器や壊れた物を処分する
「もったいない」と思い、いつまでも欠けた食器を使ったり、壊れて使えない家電などを部屋の中に放置していませんか。欠けた食器や壊れているものは運気を下げます。本当に勿体無いと思うのであれば、直してちゃんと使いましょう。
貧乏神を追い払う方法として、壊れて使えなくなったものを処分し運気の流れよ良くする事が良いとされています。お金がもったいない、まだ使えるなどと考えず、思い切って片付けてみましょう。
太陽の光を浴びて適度な運動
上手くいかない仕事や人間関係に疲れ切っている人は多いのではないでしょうか。休日もベッドから起き上がれず、1日が終わってしまい、またダルイ体で1週間が始まるという負のスパイラルに陥ってしまっていませんか。
そんな負のサイクルから脱却し、貧乏神を追い払う方法の一つに、適度な運動が効果的だと言われています。運動といっても、ジムに通う必要なんてありません。
週末に少し遠くのコンビニまで歩いてみたり、音楽をかけながら車でドライブするなど、気分を変える方法だけで、随分と自分の周りの空気も変わってくるでしょう。
悪口を不満を口に出さない
常に愚痴や不満、悪口を漏らしてイライラしていたり、不穏な空気を出している人には貧乏神が寄ってきます。誰かに話すことによってストレスを発散しているつもりが、結果的に自分を苦しめることになるのです。
ネガティブな気持ちを誰かに話したりSNSに書いたりする前に、気分転換することを心がけましょう。
仲の良い友達と飲みに行ったり、カラオケや映画に行ったり、心から楽しいと思える機会を作る方法で、貧乏神を追い払う事ができるかもしれません。
友人や家族にプレゼントをあげる
貧乏神に好まれる人は、他人にお金を使うことを嫌います。食事を奢ってあげたり、プレゼントを買って他人が喜んでも、自分が損をしているように思い、ちっとも嬉しくないからです。
他人が幸せになる事で、自分が不幸せになると思っている人は、考え方を変えてみましょう。小さなプレゼントを買い、毎日合っている人に渡してみて下さい。
相手の喜ぶ顔をみて、少し心が暖かくなりませんでしたか?喜びのパワーで運気を上げる方法は、貧乏神を追い払うのにとても効果的です。
1日一度は「ありがとう」と言ってみる
コンビニやスーパーで買い物をした際、会計や袋詰めをしてくれたことに「ありがとう」と言っていますか?会社でコピーをとってくれた後輩にお礼を言えていますか?そんな事はしてくれて当たり前だ、なんて思っていませんか。
貧乏神を追い払うには、どんな些細な事でも何か恩恵を受ける度に、お礼をしてみてください。貧乏神は「ありがとう」という言葉が大嫌いです。なぜなら、「ありがとう」の一言で周りの空気が良くなり、相手も自分も幸せになるからです。
人間関係はどんな場面でも、お互いに気遣いや思いやりが必要です。1日1回はどんな些細な場合でも「ありがとう」と相手に感謝してみましょう。この方法は貧乏神を追い払うのに、とても効果的です。
あなたも、貧乏神にとりつかれていない?診断してみよう!
貧乏神につかれ易い人の特徴や、追い払う特徴などを紹介しました。では、あなた自身が貧乏神にと好かれてしまう体質なのか気になりませんか?案外自分が知らないうちに、貧乏神が忍び寄って来ているかも知れません。
貧乏神に好かれる度診断
□家の中が汚い、ゴミが溜まっている
□朝と夜がひっくり返っている
□欠けた食器や穴の空いた靴下を使っている
□週末は常に家にいる
□他人を褒めるのは苦手、または嫌いだ
□大体の待ち合わせには遅れる
□最近「ありがとう」と言っていない
□自分の事以外にお金を使いたくない
□SNSで他人の幸せ報告を読むのが苦痛
□連絡してくる、または連絡する友人が少ない
結果診断
【0から2チェックした人】
貧乏神はあなたの事が苦手です。近寄ってくることもないでしょう。
【3から5チェックした人】
今の所、貧乏神はよって来ませんが、油断は大敵です。気を抜くと危ないでしょう。
【6から9チェックした人】
貧乏神はあなたのすぐ横にいて、少しの隙をみて取りついてくるでしょう。要注意です。
【10チェックした人】
10点満点のあなたは、残念ながら貧乏神にどっぷりとりつかれています。ずっと運が悪かったのは、気のせいではありません。
貧乏神は自分自身の中にいる?
貧乏神好かれる度診断はいかがでしたか?チェック数が少なくても、安心してはいけません。何故なら、貧乏神は私たちの心の奥底に、密かに潜んでいるかもしれないからです。
現代社会に生きていると、毎日辛くなる事ばかりです。会社では仕事に追われ、恋人や友人とも中々会えないいなど、人生を楽しめている人は少ないでしょう。
そんな日々が続くと、だんだんと心が卑屈になり、不平不満が溜まり、顔も暗くなっていってしまいます。そして、自分の心とは裏腹にネガティブな言葉が口からどんどん出てきてしまいます。
ひょっとすると、「貧乏神」は私達の「不純な気持ちの塊」なのかもしれません。日々のストレスがどんどん積み重なり、貧乏神を生み出してしまっているかもしれません。しかし、そんなあなたの心の中に貧乏神が現れた場合、簡単に対処する方法があります。
まず、あなたやあなたの周りの人の幸せについて考えてみてください。何気ない幸福に感謝をし、自分の恵まれた生活をありがたく思うのです。そうする事で、貧乏神も知らぬ間に追い払う事ができ、消えていなくなっているでしょう。
 

 

 
 

 

 
 
■疫病神

 

疫病神 1

 

疫病神
1
疫病を流行させるという神。災難をもたらすとして嫌われる人。 「 −が来たから家に帰ろう」。
2
江戸時代の流行神。疫病を流行させる神。えやみの神。人から忌みきらわれる人のたとえ。別名 厄病神。
3
厄病神ともいう。疫病を流行させる原因となる神。疫病神は御霊 (ごりょう) の一種と考えられ、村の外から侵入してくると思われていたところから、村境においてこれを防ぐための祭りと、追出す送りの行事が盛んに行われてきた。前者には道饗祭 (みちあえのまつり) 、春のヤスライ花の祭りなどがあり、後者には暮れの鹿島流しなどが属する。また悪神と考えられる疫病神を積極的に家に迎えてごちそうで歓待し、翌日送っていくことにより、逆にこの病気から守護してもらうという習俗もみられる。山形市山寺付近の特定の家でみられる「厄神の宿」の伝承などがその例である。疫病神は中世より、説話のなかでさまざまの姿に擬人化されてきたが、この神が擬人化されるということからも、御霊信仰との深い関係が確認できる。
4
疫病を流行させるという悪神。疫神。えやみのかみ。よくないことを招くとして人から嫌われる者。「とんだ疫病神が舞い込んだ」。
5
疫病を流行させるという神。疫神。えやみのかみ。談義本・教訓雑長持(1752)四「疫病神(ヤクビャウガミ)かなんぞを払ひ出すやうに追立をる」。人から忌みきらわれる人をたとえていう。[補注]しばしば「厄病神」と表記される。
6
…疫病や災厄をもたらすという神。行疫神、疫病神、疱瘡神なども同種の神である。疫病(エヤミ、トキノケと称した)などの災厄は古くは神のたたりや不業の死をとげた者の怨霊や御霊(ごりよう)のたたりと観念され、厄病神も御霊の一つの発現様式とみられていた。…
7
疫病神(やくびょうがみ)の「疫病」は「えきびょう」ともいい感染症(伝染病)のこと。疫病神は感染症を担当する神様である。……といったって、感染症を治すのではなく、感染症をふりまく方の神であり、一般的には人や共同体に災難や悪運をもたらす人物のたとえとして用いられる。日本には、疫病神や風邪の神のように伝染性の病気をもたらす神はいるが、それを治す専門医的な神様はいない。おそらく「伝染病治します」という看板をかかげても、ちっとも伝染病の猛威が収まらないので信用を失い、「仏像のヒザをなでればヒザの痛みが消える」程度のあたりさわりのない(治らなくたって死にゃしないし)病気治癒を売りにするようになったのかと思われる。そういうわけで昔の人々は、感染症が拡大すると、総合職的な自信なさげな神様に治癒を祈願すると同時に、(それだけでは心配なので)「疫病神を追い出す」というコンセプトで、悪魔のような疫病神人形を作ってそれを川に流すというようなイベントを催していたのである。
8
疫病神の詫び証文 / 江戸時代に厄災が家に入り込まないように戸口などに貼ったと思われるまじない札の一種です。この詫び証文は江戸時代の随筆『竹抓子巻二』(小林渓舎)や『梅の塵』(梅之舎主人)に紹介されています。内容は、文政3年(1820)旗本仁賀保大善(にかほだいぜん)の屋敷に入り込んだ疫病神が捕まり、助けてもらうかわりに仁賀保家や仁賀保金七郎の名がある場所には入り込まないという内容の詫び証文です。随筆で紹介されているにもかかわらず、現存するものは少なく、川島家の3点、他の都内の3点、栃木県で2点、群馬県で2点、埼玉県で4点、神奈川県で6点、静岡県で1点の21点です。いずれにしても本文に大差なく、書き写されて伝わったと思われ、戸口に貼っていたという事例もあります。江戸時代の民族史料です。
9
貧乏神と疫病神の違いは? / 貧乏神は金銭的なものだけであるが、疫病神は金銭的なものも含めて、病気など全般に対してダメにするものと言われています。しかしそんな貧乏神や疫病神にも裏表があり、貧乏神は働き者になると福の神に変身し、疫病神は民話でご馳走してもてなしたら福の神に変身するとの話もあります。
10
鍾馗(しょうき) / 人々を苦しめていた疫病神を鍾馗大神が宝剣と茅の輪を使って退治をする物語り。古くは、須佐之男命が唐に渡った時、虚耗(きょもう)という悪鬼を退治し、その怨霊が日本に渡って来て再び須佐之男命と戦うというストーリーでした。鍾馗はもともと疫鬼を退け、魔を除く神として中国で民間の信仰を集めていました。
厄病神
1
疱瘡(ほうそう)神、かぜの神などの疫神。古くから疫病を御霊(ごりょう)の祟(たたり)とし(御霊信仰)、その来襲を防ぐため路上で道饗祭(みちあえのまつり)をした。追儺(ついな)も元来は疫神を追い払う行事だった。また花が散ると疫神が拡散すると信じ花を散らすまいと鎮花祭が行われ、村落内に疫病が発生すると村境や海に厄病神送りをした。
2
疫病や災厄をもたらすという神。行疫神、疫病神、疱瘡神なども同種の神である。疫病(エヤミ、トキノケと称した)などの災厄は古くは神のたたりや不業の死をとげた者の怨霊や御霊(ごりよう)のたたりと観念され、厄病神も御霊の一つの発現様式とみられていた。古代の史書には、疫病が流行すると、疫神の祭りをしたり、改元、諸社奉幣、大赦、大祓などを行う記事がたびたびみられる。また京城の四隅での〈道饗祭(みちあえのまつり)〉や〈鎮花祭〉は疫神を防ぐために恒例の行事とされていた。
3
疫病を流行させるという神。疫神(えきじん)、疫病神(えきびょうがみ)、疫神(えやみのかみ)などともいう。
4
…用の済んだ針を豆腐やこんにゃく、餅などに刺し、川へ流したり近くの社寺へ持ち寄って供養してもらうのが一般的で、全国の広い地域で2月もしくは12月の8日(こと八日)に行われている。これら両日を厄日と考え、一つ目小僧や厄病神の来訪を説いて、山へ入るなとか仕事を早く切りあげて家で静かにしていよとする伝承が東日本を中心に各地にあるが、針仕事を休むというのも、これらの日が仕事を避けて忌籠(いみごもり)すべき日であったからだと思われる。北陸地方の沿岸部では、12月8日には海が荒れてハリセンボン(針千本)という魚が打ち上げられるが、それを軒につるして厄よけにしたり、富山県のように嫁いじめの伝説と結合させ、嫁が投身してハリセンボンになって吹き上げられ姑の顔に食いついたという話を伝えている所もある。…
…また香川県では厄年に近いときに死んだ者のために、生きておれば厄年にあたる正月に法事をしてやり、それを厄法事といっている。村や町の道の辻や境などの空間には厄病神がいて、通る人に災いをすると考えられていた。新潟県糸魚川市には厄病平(だいら)と呼ぶ所があり、伝染病患者を隔離した建物があった村境だという。…  
疫神 (やくじん、えきじん)
1
疫病をはやらせる神。疫病神。厄病神。
2
疫病をはやらせる神。えやみの神。疫病神。やくじん。
3
病気をはやらせるという神。疫病神(やくびょうがみ)。※令義解(833)神祇「季春、鎮レ花祭〈略〉在二春花飛散之時一、疫神分散而行レ癘、為二其鎮遏一、必有二此祭一故曰二鎮花一」。
4
…疫病や災厄をもたらすという神。行疫神,疫病神,疱瘡神なども同種の神である。疫病(エヤミ,トキノケと称した)などの災厄は古くは神のたたりや不業の死をとげた者の怨霊や御霊(ごりよう)のたたりと観念され,厄病神も御霊の一つの発現様式とみられていた。…
…疫病や災厄をもたらすという神。行疫神,疫病神,疱瘡神なども同種の神である。疫病(エヤミ,トキノケと称した)などの災厄は古くは神のたたりや不業の死をとげた者の怨霊や御霊(ごりよう)のたたりと観念され,厄病神も御霊の一つの発現様式とみられていた。…
5
疫病神(やくびょうがみ)とは病気などさまざまな災厄をもたらす悪神であり、疫神(えきじん)、厄神(やくしん)と考えられています。疫神に対する信仰は古くからあり、「神祇令」には年中祭祀として鎮花祭(ちんかさい)が規定されています。これは春花が飛散する旧暦三月に、花と共に疫神が四散するのを防ぐため、大和の大神神社と摂社狭井(さい)神社でおこなわれる祭りであり、現在では毎年四月一八日に執行されています。また毎年六・十二月の二度、都へ疫神が入らぬように都の四隅でおこなわれた道饗祭(みちあえのまつり)も、こうした信仰によるお祭りです。具体的には道祖神と称されている八衢比古(やちまたひこ)・八衢比売(やちまたひめ)・久那斗(くなど)の三神に対する祭りでありますが(『延喜式』巻八「祝詞」)、供物に獣皮が用いられることなどから、疫神(疫鬼)が都の中に入らぬよう路上に迎えて饗応し、退散させる意味があるとも言われております(『令義解』)。このように災厄をもたらす疫神を祭るということは、我が国独自の考え方に基づくものです。例えば宮中でおこなわれていた追儺(ついな・節分)の祭りには、大陸から伝わった当初に無かった疫鬼への饗応が見られます(『延喜式』巻十六「陰陽寮」)。また祟りをもたらす霊魂(人霊)を神霊として鎮め祭るということは御霊信仰にも見られ、丁重にお祭りすることにより災厄を防ぐ霊威ある神へと変わるのです。一年の災厄を祓うため、正月に厄神詣として厄神を参詣した風習があったのは、まさにこうした信仰によることです。現在でも、疫神送りと称される行事が地域によっておこなわれるなど、日常生活の平穏を祈る人々の気持ちには変わりがないと言えます。
 
疫病神、2 厄病神

 

世の中に疫病をもたらすとされる悪神。疫神、厄神(やくしん、やくじん、えきしん)ともいう。家々のなかに入って人びとを病気にしたり、災いをもたらすと考えられている。
医療の普及していなかった古代の日本では、病気は目に見えない存在によってもたらされると信じられており、特に流行病、治療不可能な重病はもののけ、怨霊、悪鬼によるものといわれてきた。平安時代以後に中国の疫鬼の概念が貴族社会を中心に広く普及し、疫病はそれをもたらす鬼神によるものとの考えが生まれた。やがて一般での素朴な病魔への畏怖と結びつき、疫病神といった存在が病気をもたらすという民間信仰に至ったと考えられている。
疫鬼の概念が多く取り込まれた平安時代には朝廷の行事として、花が散ると共に疫病神が方々へ四散することを防ぐ「鎮花祭」、道の境で疫病神をもてなすことで都の外へ返してしまうという「道饗祭」といった疫病を防ぐための祭事が行われている。このように災いを防ぐために疫病神を祀るといった行事は、近年においてもこうした祭事のほか、町や村の境に注連縄あるいはワラなどを材料にした巨大なつくりものを示して疫病神の侵入を防ぐ民俗行事などに見ることができる。
人々の間に良くないことをもたらす存在であることから転じて、厄介ごとを起こす人物や事物を「疫病神」と比喩したりもする。
容姿
もともと病気などが目に見えない存在がもたらすものであると考えられていたことに由来して、疫病神の姿が実際に目に見えるものであると考えられることはほとんど無い。『春日権現験記絵巻』や『融通念仏縁起絵巻』などの絵巻物には、様々な鬼の姿をした疫神たちが集う姿が描かれているが、夢の中でそれを見るなど普通の人間の目に姿は見えないものであると表現されている。『沙石集』(巻5「円頓之学者免鬼病事」)では、僧侶のもとへあまたの行疫神の集団がやって来るという説話が記されているがここでは「異類異形」と表現されている。 
いっぽう、人間の目に見える姿として疫病神は老人や老婆などをはじめとした人間の姿をとって出没するとも考えられており、単体または複数人でさまよい、人家をおとずれ、疫病をもたらすなどといわれた。関東地方や東海地方を中心に確認されている箕借り婆や一つ目小僧に関する来訪者があるとする伝承などは、その代表的なものである。また秋田県の一部では、特にどのような姿であるかは説かれていないが、毎年2月9日を疫病神が村に来る日だとしており、疫病神が嫌うとされるあみ目の多いざるを戸外に下げるという行事があったという。
江戸時代の随筆『宮川舎漫筆』には「毎月3日に小豆のかゆをつくる家には入らない」と疫神に教えてもらった人物の説話が記されている。この話では、人間の姿をとって入り込むべき屋敷に向かっていた疫病神を、それと知らずに同道した結果そのことを教わっている。また同じく江戸時代に書かれた小林渓舎『竹抓子』などには文政3年(1820)に江戸愛宕下の仁賀保家という武家の屋敷に疫病神が侵入したのを次男の金七郎が発見して捕まえた結果、決して家には入らない(疫病や災厄をたもらさない)としるした証文を置いて行ったという話が記録されている。この話は証文の文面と共に流布されており、随筆にもその全文が記載されているほか、その文面を疫病避けとして家々に用いた痕跡が残されている。
祭祀と護符
『続日本紀』(巻32)には宝亀4年(773年)7月に疫神を諸国で祭らせたことが記録されている。日本では平安時代から、疫病を祓うための祭礼や宗教儀式が朝廷によって行われて来た。また儀礼的なもの以外にも疫病除けのために、鍾馗(しょうき)や牛頭天王、角大師(つのだいし、元三大師の姿を木版刷りしたもの)を屋内あるいは戸に設けて護符とする信仰や俗信があり、疫神を避けるものであるとされてきた。
牛頭天王は疫病から身を守る際に祈願をかける存在として信仰されるが、いっぽうで疫病をもたらす存在ともされていた。
疫病神を人形に見たてて追い出す・送り出す民俗行事は現代でも日本各地でおこなわれている。また、夏越の祓や祇園祭など夏季に行われる祭礼や茅の輪くぐり、端午の節句に行われる菖蒲湯などには疫病・疫神を祓うものとしての意味が付与されていることが多い。『拾椎雑話』によれば、延宝(1673年-1681年)のころ、疫病が流行して諸国に蔓延したので、大きなタケに四手(しで)をつけて国々から送り出す神事をおこなったという。この神事も人形送りの行事の一種であるとみられる。
年中行事に際して食べられる特別な食事に「疫病神をはらう効果」を説明する民間伝承も各地にあり、6月15日に食べられるうどん(岡山県津山市など)などがある。  
 
疫病神・諸話

 

元嫁は疫病神? “離婚”で人生が好転した男性の告白
健康診断の数値が劇的に改善!
「元嫁は、料理は手抜きをするタイプで加工食品とか出前、近所での外食が多かったんです。
そんな食生活が関係していたのか、40代になってから健康診断では、あまりいい数値が出なくなっていて、生活習慣を変えなくちゃなぁ〜と思っていました。
ところが、離婚をして新しい彼女と付き合い始めてから、何もしないのに、健康診断の数値が、久しぶりにオールAになったんですよ!
新しい彼女は料理が好きで、野菜中心の手料理をたくさん作ってくれる子なので、それを食べているうちに健康的になってきたのかも。
改めて、元嫁と離婚して正解だったな……って思っちゃいました(苦笑)」(43歳男性/IT)
離婚によってストレスが減ったことも関係しているかもしれませんが、結婚していた頃よりも健康面でいいことが起きれば、確かに離婚を肯定する気持ちが強まっても不思議ではありません。
計画的に貯金できるようになった
「元妻と結婚していたときには、僕の給料は、全部妻が管理する形で家計をやりくりしていました。
で、離婚のときに財産分与をすることになって、貯蓄額を初めてちゃんと見てみたら、思ったよりもかなり少なくて愕然。
結婚している間、そんなに浪費しているようには見えなかったんだけど、実は見えないところで、浪費してたっぽいです。
共働きでしたが、貯蓄はほぼゼロ。
離婚した今は、自分で計画的に貯金が進められるのでストレスもなく、そんな妻と離婚して本当によかったと思っています」(42歳男性/マスコミ)
家計管理を妻に任せている夫は「妻がちゃんとしてくれているはず」と思って当然。
しかし世間には、夫に見えないように散財をして貯金ができていない妻もいますからね……。
飲み会に参加できるようになり出世できた
「元嫁は、かなり嫉妬深いタイプで、僕が飲み会に参加するっていうだけで怒るうえに、飲み会の場にもガンガン電話してきて帰宅を促すタイプでした。
そのうちに、揉めるのが嫌で飲み会にも参加しなくなっていったんですが、気づけば独身時代よりも出世が遅くなっていて……。
離婚を機に、これまでは断っていた飲み会にも積極的に出られるようになった途端、上司や取引先とのコミュニケーションもうまくいくようになり、出世をすることができました。
あの妻とずっと一緒にいたら、きっとずっと出世は望めなかっただろうなと思うので、離婚して大正解でしたね」(39歳男性/建設)
夫が飲み会に行くのを嫌がる女性は決して少なくないけれど、仕事で必要な場も満足に参加できない……となると、考えものです。
離婚によってビジネスがうまく回るようになれば、離婚を肯定する理由になっても無理はなし、と言えるでしょう。
本来、離婚は「できれば避けたほうがいい選択」であるのは、言うまでもないことです。
しかし世間には「離婚してからのほうが、人生がうまくいっている!」と離婚によってハッピーな人生を取り戻せた男性も少なくないのも、また真実と言えそうです。 
「疫病神」という名の馬
不思議な鳥がいるんだなぁと思う。みずなぎどり(水薙鳥)のことである。
広辞苑にこうある。〔みずなぎどり(水薙鳥)=ミズナギドリ目ミズナギドリ科の鳥の総称。一般に翼長約30センチメートル、上面は暗褐色、下面はやや淡色。先の曲がった嘴(くちばし)で魚類を捕獲。暖帯海洋上にすみ、産卵期には島の崖などに穴を掘り、1卵を産む。世界の海に約90種、日本近海にも数種すむ。魚群の所在を知る目標として重要。〕
どうやら、役に立つ鳥であるらしいことが、これで分かる。
不思議なのは、この先である。
みずなぎどりは、英語でペットレル、英文表記でPETRELであることが分かったのだが、0001PETRELを英和辞書で引いてみたら、二つの意味が書いてあったのだ。一つは「みずなぎどり」。そして、もう一つが「疫病(やくびょう)神」だったのである。
どうして、みずなぎどりと疫病神が、同じ言葉なのだろう。
このことに関して、ヒントになりそうなことが、「原色細密生態図鑑 世界の動物」(講談社)に載っていた。みずなぎどりの、極めて特異な生育形態である。〔ひなは親鳥の2ばいちかくの大きさになります。すると、親鳥はもうそれいじょうひなのせわをしません。のこされたひなは、体はだんだんやせていきますが、つばさにはじょうぶなはねがはえそろい、とべるようになります。〕
親よりも2倍も大きな雛(ひな)。そんなことがこの世にあるとはなあ。親は運んできた餌を、すねかじりの雛に食われて、自分はひもじいばかり。その様子を見て、観察者が、あの雛たちは疫病神だなあと思ったのかもしれない(もちろん諸説あるだろうけど)。
これだけは書いておかねば。1931年に日本で生まれた馬にどういう由来かペットレルという名が付き、その6代目の子孫が、地方所属で0001JRAのGI・フェブラリーSを勝ったメイセイオペラなのである。 
お客様は神様じゃなく、もはや「疫病神」
「お客様は神様ではありません」出禁に賛成する意見が多数
「コンビニでバイトしてますが、本当に愕然としてしまうくらいに酷いクレーマー居ます」という40代の女性は「店員が、モンスター客の、ストレスサンドバッグにされています」と悲痛な声を寄せています。ほかにも、「明らかに立場が下の店員でストレスの発散をしている客もいる」とコメントする50代の女性もいました。
このようなクレーマーはなぜ現れるのでしょうか。背景には「お客様は神様」という考え方があると指摘する声が多くを占めました。
「お客は神様だっていうのはあくまでも店員側の心構えであって客が主張することじゃない。でもその上にあぐらをかいているような人が多すぎる」(男性・20代)
「どちらかというと『お客様は王様』であって、然るべきマナーや常識のない王様は『クーデター』によって処刑されても文句は言えない」(男性)
「『お客様は神様です』これを悪用して、我が物顔で振る舞う不埒者は営業妨害・出禁にしていけばいい」(男性・20代)
ほかにも、お客様が神様ならば「疫病神はお帰りください」とコメントする男性もいました。
また、ある40代男性は「お客様は神様では有りません。なんでも許されるのは間違いです。あくまでビジネス。店員と客に身分の差は有りません。毅然とした態度も必要です」と、店側の泣き寝入りではなく、前向きな行動を呼びかけていました。
「店員にも客にも問題はあり得る」店側も改善を
「店員として振舞えと言うのなら、客として、常識のある人間として振舞え」などとクレーマーに対する批判が集まる一方で、「店員にも客にも問題はあり得る」と店側の対応を問題視する意見もありました。
「無愛想だったり、こちらの言うこと(要望・お願い)を聞いていなかったり・・・。いろいろ状況もあって仕方の無いときもあるだろうが、あきらかに態度が悪い店員もいる」
「相手がモンスターならば、毅然と対応し、場合によっては営業妨害などで警察を呼ぶべきだと思います。クレーマーは店側が要因で生まれることがほとんどではないかと思います」(男性・30代)
店員だけではありません。経営者をはじめとした店全体のクレーマー対応への姿勢を問題視する声もあがっています。
ある40代女性は「基本、誰も助けてくれません、自分で対処するしかない現状」とクレーマー対応が店員一人に押し付けられている現状を訴えています。また、「経営者にも認識が足りず盲目的に謝れと言う人がまだまだ多い」(男性・50代)など、経営者の認識の甘さを指摘する声もありました。
とはいえ、店側がどんなに努力しても、クレーマーに対応しきれない場合もあります。悪質なクレーマーに対しては、「営業妨害として警察に一度入ってもらう事が一番いいですねー」(60代)、「営業に支障が出てますと警察に連絡をすべきですね」(男性・30代)、「営業妨害で警察に通報したらいいと思う」(女性・50代)など、警察への通報を推奨する声が多くを占めました。 
描かれたのは鬼か疫病神か
人面墨書土器 厄は外!
奈良時代には、少し不思議な風習がありました。土器に墨で人の顔を描き、何かのまじないをおこなってから川などに流す、という風習です。このときに用いた土器を、「人面墨書(じんめんぼくしょ)土器」と呼んでいます。使われた土器は煮炊き用の土師器(はじき)の甕(かめ)が多く、甕のかたちはほぼ球形なので、人の顔を描くにはうってつけの土器といえます。
ところが、ここでひとつの疑問が生じてきます。人面墨書土器にはいったい誰の顔が描かれているのでしょうか。中には目をつり上げた恐ろしげな顔を描いたものもあります。一説によれば、それは疫病神(やくびょうがみ)や鬼神であるといいます。奈良時代には、しばしば天然痘などの疫病が流行し、人々を苦しめましたが、それは疫病神や鬼神がもたらす病気と考えられていました。人面墨書土器はそうした迷惑な神々を追い払うまつり・まじないに使われたと考えられています。
奈良時代のみやこ・平城京では、道路の側溝や運河の跡などから人面墨書土器が数多く出土します。疫病の流行をしずめるために、土器に疫病神や鬼神の顔を描き、それを水に流すことで、みやこから疫病神や鬼神を追い出すまつりがおこなわれたのでしょう。人面墨書土器を使った疫病よけのまつりは、みやこの外でも広くおこなわれたまじないであったようです。 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 
■疫病神の昔話民話

 

疫病神

 

むかしむかし、ある村に、ひとりの漁師がいました。
ある月のない、暗い晩のこと。
浜でアミにさかなのかかってくるのをまっていると、暗い沖のほうから、♪えんや、こらさのやー ♪えんや、こらさのやー と、たくさんの人のかけ声が聞こえてきました。
(はて。あのかけ声はなんじゃろう?)
耳をすましてみると、声はだんだん小さく、よわくなってきました。
「くたびれた。もうだめだ」「島はもうじきだ。それ、がんばれ」
なにやら、たいへんおもいものを、はこんでくる様子です。
漁師は、ジッとしておれなくなって、着物をぬぐと、暗い海の中にとびこみました。
そして、声のするほうへ、するほうへと、およいでいきました。
見ると、はこんでくるのは、大きな流木(りゅうぼく)でした。
おおぜいの人が、およぎながらおしてくるのです。
(きっと、あらしにあって、難破(なんぱ)した舟の人たちだろう。すけだちをしてやらにゃ)
漁師は流木に手をかけると、いっしょうけんめいおしてやりました。
すると、思いのほかスルスルとはこばれて、島におしあげることができました。
「どちらのかたか、まことに、かたじけない」
お礼のことばに、漁師がヒョイと顔をあげると、「ウヒャ!」 そこには、男か女か、人間かばけもんかわからない、ただ、まっ黒けなものが、つっ立っています。
どちらが前か後ろかも、わかりません。
「あんたがた、どこからやってきたんじゃね?」
漁師がきくと、「われわれは、疫病神(えきびょうがみ)でして、親方のいいつけで、この島に熱病(ねつびょう→高熱をだす病気の総称。肺炎など)をはこんできたんです」
(なんと! こりゃあしまった。とんでもないやつらの手つだいをしてしまったわい) と、漁師がくやんでいると、疫病神がいいました。
「あんたは、しんせつなお人じゃ。あんたの家にだけは、熱病はもっていかんようにする。夜中に鳥が鳴きはじめたら、きねでうすを、コーンコーンと、たたきなされ。その音のする家にだけは、熱病をもっていかんようにする」 そういったかと思うと、疫病神たちは、スーッと、消えてしまいました。
(こりゃ、たいへんだ!)
漁師は村長の家へかけこむと、いまのことをすっかり話しました。
「そうか。それはよわったことじゃ。なにか、熱病をよける方法はないじゃろうか?」
「あります、あります。はよう、村じゅうのもんを、集めてくだされ」
♪ドンドンドーン、ジャンジャンジャーン
♪ドンドンドーン、ジャンジャンジャーン
ドラやタイコをうちならすと、村じゅうの人が集まってきました。
漁師は、いままでのことをみんな話して、「いいか。今夜、疫病神の使いが、熱病を持ってくるんじゃ。夜鳥(やちょう→夜活動する鳥)が鳴いたら、村じゅうの家で、きねをもって、コーンコーンと、うすをたたくんじゃ。一けんのこらず、たたくんじゃ。いいな」
それを聞いた村の人たちは、家にとんでかえると、一けんのこらず、うすを庭にもちだしました。
さて、真夜中(まよなか)になりました。
暗い空に、夜鳥が、ギャア、ギャアー ギャア、ギャアー と、さわがしく鳴きはじめました。
するといっせいに、村じゅうの家という家から、コーンコーン コーンコーン と、きねの音が、鳴りはじめました。
厄病神たちは、こまってしまいました。いったいどこの家へ熱病をとどけていいのか、わかりません。ひと晩じゅう、うろうろしているうちに、とうとう夜があけてしまいました。それで、どこの家へもよれずに、海のむこうへ帰って行ったのです。  
 
疫病神と駄賃づけ ― 青森県 ―

 

昔々、あったず。
あるどごにとても貧乏(びんぼう)でその日暮らしをしている駄賃(だちん)づけがあったず。
あるどき、遠くへ行っての戻り道で乞食(ほいと)に行き合ったど。雪コァ降ってるし、あんまり見すぼらしいので、「お前(め)、どこさ行ぐどごでえ」と聞いだど。乞食は、「お前の村の旦那様(だんなさま)のどごさ行くどごだ」と言う。
「そこだば、まだまだ遠ぇや。馬さ乗れ」ど言ったら、「おれみたいなの、申しわげなくて、乗れねえ」と言う。
「おれぁ、人を乗せて馬ひいて歩くの慣れでるし、こたな雪コァ降ってあ、ゆるぐねえだ。おらほさ泊まって明日行ぐべし。乗れ」ど言ったら、
「へだら、そうすがな」と言っで、馬さ乗って駄賃づけの家さ行ったど。家さ着いだら駄賃づけは、女房さ、「今日かせいだ駄賃で米コ買って来るへで、米コたいて出して、温(ぬく)めて泊めろ」ど言ったど。
朝になったけゃ、乞食ぁ、昨日の礼言って、「実はおれぁ、人でねぇ。疫病神(やくびょうがみ)だ。あそごの旦那様ぁ、銭貸したの無理矢理取ったりして、人情ねえ人だで、急の中気(ちゅうき)病みにして寝こましてやろうど思っで来たんだ。お前に、それを治すおまじない教えるがら、おれと一緒に行ぐべ。まじないは、〽 おんころころまどうげ あびらうんけんそわか って、三回言えばええ」と言ったど。
駄賃づけと疫病神と二人して旦那様の家さ行ったど。
そこさ着いたら疫病神、ぱっと見えなぐなったど。
駄賃づけぁ、銭借りる振りして入って行ったら、そごの旦那ぁ、囲炉裏(いろり)の横座(よこざ)さ寝まっていだど。
駄賃づけぁ、「すぐ年取りになるへで、なんぼが銭コ貸して下せぇ」と言ったら、旦那ぁ、「貸へねえ」と言った。駄賃づけぁ、「ありがとうがんす」と言っで、帰って来たど。
駄賃づけが帰ったあど、旦那ぁ熱ぁ出て、手はふるえる、声もふるえるで、大騒ぎになったど。医者を何人も頼んだども、一向に熱ぁ下らながったず。
駄賃づけぁ、次の日もまた銭借りるふりして行ったけぁ、旦那様、見えながっだど。
「旦那様、どっちゃ行ったえ」と聞いたら、家の者が、「昨日がら急に熱ぁ出る、よだれは出る、からだぁふるえるで、医者様頼んでも治らねえで、寝でら」と言っだど。
そごで、「効ぐだかどうだが分からねえどもせぇ、おれぁ、まじねえ覚べえでら」と言ってみだら、「へだら、まじなっでみで呉(け)ろ」ど頼まれだど。そこで駄賃づけぁ、疫病神がら教わったまま、〽 おんころころまどうげ あびらうんけんそわか ど、三回言ったけゃ、旦那の熱ぁ段々に下がって良ぐなったず。
これが評判になって、皆してまじなってもらうようになっだど。
駄賃づけはぁ、だんだんに良(え)え暮らしするようになったず。
これ聞いで どっとぱれぇ。
 
疫病神 −豊田村−

 

豊田村、岡のはなし。
岡野久左衛門という人の先祖が、朝草刈りに行った。朝暗いうち。そしたれば菰着った乞食ほいとみたいな居た。
「おいおい、おればのせて、行いんじゃい」
「お前、誰だ」
て言うたれば、
「おれぁ、疫病神だ」
「いやいや、とんでもない。疫病神なの、のせらんね」
「いや、ほでない、おれぁ金もうけ教えっからのせろ」
金もうけと聞いて、金でばりみんな苦労してるもんだから。その人は非常に奇抜だった。
「んだら、疫病の神さま、おれの馬さのらはれ、金もうけ教えて呉っこんだら、草刈りなのしてらんね」
鎌ぶっ投げて疫病の神のせた。
「さぁ、のらはれ」
て、くつわとって馬さはんばがった。「どっこい」と疫病神さまのった。パッカパッカ引っ張ってきた。ほして部落まできて、
「ここで降ろして呉ろはぁ」
「はい、さぁ神さま、ここで降りなはれ、どっこい」
て降ろした。ほいつが姿見えねがったて言うなだな。本当んどこは。
ところが一日二日おもったれば、ほっつでも熱ぁ出た、こっつでは頭いたい、うんうん、うんうんてうなる患者がいっぱい出た。んだもんだから、先せんには医者なてあんまり発達していねもんだから、おなかま(巫女)さ行って聞いた。
「久左衛門の馬さのせてもらって、ほして村はずれさ捨ててもらうど、熱はたちまちさめる。今流行はやっている病気は、疫病の神だ」
はいつ聞いた人が頼みに来たて言うわけで、
「ほうか、ほうか、んでは疫病の神、おれぁのせて呉る」
て、その家の前さ行って、馬のくつわとって、
「さぁ、お神さま、のらはれ、どっこい」
て、声かけて、パッカパッカ、パッカパッカて引っ張ってくっど、ほの病人がスウーッと熱ぁひける。体、涼風が通るようによくなってきた。さぁ今度、その話でもちきりだ。そっちからもこっちからも頼みにくる。頼みくると同時に、金いらねなて言うたて、
「いや、おかげさまで生命助けてもらった」
どんどん、どんどん銭置いて行った。ところがほの村全部きまったと思ったれば、隣の村さ疫病神移って行った。その隣村でも、またうんうんていう病人が出て、やっぱり久左衛門さ頼みにくる。ほうすっど久左衛門が馬仕度して、ほしてパカパカ、パカパカて行くど、その家では待ってる。
「久左衛門さん、こっちだっす、あっちだっす」
て、案内して、そこの家さ真直ぐ連せて行ってける。
「ああ、ほうか、んでは疫病の神さま、のらはれ、どっこい」
パカパカ、パカパカ。行ったか行かねうち、熱はすうっと下がる。隣の家でもその隣でも。ほして豊田村岡て言うどこ中心にして、ほこら十ケ村も疫病の神、みな廻ってしまった。ほうして気付いてみたれば、近郷近在にいねほど金残っていたずも。んで、この塩梅ならば、山形まで他人の土地踏まねで行くほど土地買ういはぁて言うてだ。
ところが、ほだいしているうち、どういうわけだか一番長男が昔のいうドスになったらしい。どうも様子が変だ、家さ置いて嫁とって呉るわけにも行かね。んだから五百両背負わせて、
「お前は善光寺さま、お詣り行げはぁ」
本人も自覚して、そういう体なもんだから、
「んでは仕方ないっだな」
て言うわけで、五百両の銭背負ってパカパカ、パカパカてお詣り出かけた。ところが山形のずうっとこっちゃ来て、黒沢というところまで来たればこわく(疲れ)なって、その坂登られそうでない。早坂登られそうでない。したら道の脇にせっせと草刈りしった女いだけど。ほこさ、ほの息子は行って、
「姉ちゃん、姉ちゃん、草刈り上手だな」
て賞めた。
「ほだんでない」
「実はな、おれ、こういうわけで家出てきたんだげんど、何だか此処まで来たらこわくてなんねぇはぁ。きっとこりゃ、おれも余命いくばくだかも知んねぇ。おれはこの年になって女て知しゃねなだ。実はお前さお願いすっだいことは余のこどでないげんども、今いっぺん、おかちゃん思い出してみっだいから乳首何とかおれさくわえらせてもらわんねべか」
その女さ頼んだ。大がいな者だら、「おら知しゃね、おら、ほだな…」て言うげんども、その女は非常に賢こい女だったらしい。ほして、
「実は、おれは姉ちゃんでなくて嫁なんだ、黒沢の久左衛門ていうどこさ、おれ、嫁に来たんだ。んだから、父ちゃんと相談してみねど、ほだなことさんねっだな」
て、こうなった。
「んでは、何とかお願いします」
ほして、こうこう、こういうわけだどて、旦那さ語ったれば、
「その人さ、そういう風にさせて上げろ」
て。そして、くわえらせだれば、
「ああ、おれはこの世の中にのぞみも何もないはぁ、いつ死んでもええはぁ」
て言うた。ほして、その家の旦那さま、自分の家のお庭さ、庵建てて呉て、ほこで丁寧に扱った。そして過ごしたところが、置いて行った金は五百両、その五百両を種銭たねせんにして大きくなったのが黒沢の久左衛門だったど。どんぴんからりん、すっからりん。  
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 
■疫病神の文芸

 

疫病神 / 田中貢太郎

 

長谷川時雨女史はせがわしぐれじょしの実験談であるが、女史が佃島つくだじまにいた比ころ、令妹れいまいの春子さんが腸チブスに罹かかって離屋はなれの二階に寝ていたので、その枕頭まくらもとにつきっきりで看護していた。
それは夜であったが、その時病人がうなされていた。女史は何の気なしに床の間の方へ眼をやった。そこの床の間の隅に十五六ぐらいの少年がいて、それが腕ぐみしてじっと蹲しゃがんでいたが、その髪の毛は焦げあがったようで、顔は細長い茄子なすの腐ったような顔であった。女史はびっくりしたが、かねて疫病神のことを聞いていたので、ここで負けては病人が死んでしまうと思って、下腹へぐっと力を入れてその少年を睨にらみつけた。すると、少年の姿が煙のように消えるとともに、うなされていた春子さんが夢から覚めたようになった。
そのうちに春子さんの病気もすっかり癒なおったので、女史は箱根へ出かけて往った。国府津で汽車をおりて、そこから電車で小田原へ往ったが、電車が小田原の幸町さいわいちょうの停留場へ著ついた時、何の気なしに窓の外を見ると、停留場の名を書いた大きな電柱に寄りかかって、ぼんやりと腕ぐみしている少年があった。それは彼の茄子の腐ったような顔色の少年であった。
女史はそこでまた下腹へ力を入れてぐっと睨みつけた。と、少年の姿はまた消えてしまった。
 
「疫病神の詫び証文」郷土の古文書

 

     差上申一札之事
     一 私共両人心得違を以御屋敷江入込
     段々被仰出之趣奉恐入候以来御
     屋敷内并金七郎様御名前有之候処江
     決而入込申間敷候私共者不及申中間之
     もの共迄も右之通り申聞候依而命御
     助ヶ被下難有仕合ニ奉存候為念一札如件
        文政三辰年
           疫病神
     仁賀保大膳様御内
        仁賀保金七郎様
(口語訳)
証文一通差し上げます
一 私ども二人考え違いで、道理にはずれた行いでお屋敷ヘ入り込み、だんだん意見を加えられ事情を悟り、恐れ多いこととかたじけなく存じます。以後、御屋敷の内並びに金七郎様のお名前のある所へは決して入り込まないようにいたします。私どもは勿論、仲間の疫病神達へもお約束通りよく言い聞かせておきます。それによって命をお助け下されました事有難き仕合せに存じます。念のため、この通りお約束の証文差し上げます。
   文政三年辰年
      疫病神
仁賀保大膳様御内
   仁賀保金七郎様 
この古文書は「疫病神の詫び証文」という文書で、あきる野市乙津軍道の高明神社(元熊野三社大権現)の神官鈴木家に伝わったものです。大変珍しい文書で近年迄あまり顧みられなかったそうです。解説は難解なため、平成13年から14年にかけて、この文書の調査に来館された、当時国分寺市教育委員会教育部文化財課在籍の太田和子氏の礼状中の解説文(参考文献大島建彦『疫神とその周辺』・同「疫病神の詫び証文と仁賀保家」)と、『民俗のかたちとこころ』(大島建彦編岩田書院2002年3月)の中に執筆掲載された寺沢一人氏の論文から抜粋させて頂きます。
平成13年当時太田氏によると「疫病神の詫び証文」は現在のところ国分寺市の川島家3点のほかには栃木県2点、群馬県2点、埼玉県4点、神奈川県6点で計14点が確認されている。(その後秋田県立博物館より全国からこの文書を集めて展示するため依頼があり、鈴木家文書も仲間入りした。現在全国総点数21点)
天明6年(1786)の自序をもつ小林渓舎の『竹抓子(たけそうし)巻二』には「疫病神の事」愛宕下田村小路仁賀保大膳との屋敷へ、疫神入候を、次男金七郎見咎められ、右様な者我が方へ何しに入そ、打ころさんといかりければ、疫神何卒一命助け被下(くだされ)と云まま、左候ハヽ書付にても差出へしとて、とあって以下に「文政三辰年九月廿二日」付の疫病神の詫び証文が載せられている。また、天保15年(1844)の自序をもつ梅之舎主人(長橋亦次郎)の『梅の塵(ちり)』には「疫病神一札の事」御旗本仁賀保公の先君は、英雄の賢君にておわしけるが、近年、疫病神を手捕にせさせ賜しよし、疫神恐れて、一通の証書を呈して、一命を乞によって、免助ありしと也。右公の家は、一切疫神流行と云事なし。(中略)仁賀保家は、仁賀保(現秋田県由利郡仁賀保町、その後秋田県仁賀保市)の藩主を努めた家筋である。その系統に所領千石の旗本があって、五代目が仁賀保大膳であるが、金七郎については詳しいことを知ることができない。旗本の仁賀保家では、疫病神の詫び証文を疫病よけの呪符として出したようである。
尚、国分寺市の川島家文書3点は市郷土資料(有形民俗文化財)に指定されています。
太田氏によると鈴木家史料のなかの「疱瘡除神札下書」は『疫神とその周辺』に紹介されている類似史料などあり、民俗からみるとかなり貴重な史料群のようである、とのことでした。
次に寺沢一人氏はこの文書を『民俗のかたちとこころ』(大島建彦平成14年3月2日発行)の中で「疫病神の詫び証文のある家−東京都多摩地方の事例−」として取り上げています。
それによると「二、神職としての鈴木家」の項で、(前略)鈴木家は江戸時代前期には京都の吉田家の神道裁許状を受けて神職としての地位を確立している。(中略)寛文2年(1662)に親子で(裁許状を)受け、文政13年(1830)までの当主が代替わりのたびに受けたようで伊豫、筑後、出雲の順に名乗っている。
一方享保3年(1718)に「大狐大秘事巻物極位秘秘」享保7年に「△咤枳尼天大小二法」と「兵法虎之巻物」が武州御嶽山の世尊寺の盛円(鈴木家出自で出雲の伯父、世尊寺17世住職)より鈴木左京に授けられている。鈴木左京は元禄10年か享保12年(こちらが正しい)に神道裁許状を受けた人の通称(幼名)のようであり、修験のような活動もしていたことがわかる。文書の中には、後述するように修験などが用いた呪符や呪文が少なからずみられる(後略)。
寺沢氏はまた「三、鈴木家に伝わる疫病よけの呪符の類」の項目で種々の解説を書かれています。
そして「四、疫神の詫び証文の伝播」の項で「第一には、疫病神の詫び証文を流布させる側の問題である。あきる野市の鈴木家については、その例と判断できるので詳しく報告してみた。神職を世襲する家であるが、江戸時代後期には人々の求めに応じて、修験と同様にさまざまな治癒儀礼をおこなっていたと、文書から確認できる。所蔵する疫病よけの呪符類も、修験との関わりが強くみられ、本来は修験のなかで伝えられてきたものといえ、やはり疫病神の詫び証文の伝播にも、修験やそれに準ずる宗教者が深くかかわっていたと考えられる。
第二には、受け取る側の問題である。あきる野市の鈴木家のほかは、これを修験などの宗教者によって授けられた家といえる。ところが、必ずしも受け取るだけでなく、そこから伝播もおこなわれていたのではないだろうか。というのは、いずれの家も江戸時代村役をつとめ、文字に親しんでおり、自らの手でこの証文を書き写すことができたからである。(中略)改行の位置から「私只・者」「疫痛・神」いう誤記まで一致している。(中略)宗教者によって直接授けられたならば「疫痛・神」などと記される事はなかったと思われる。
疱瘡は感染力が強く医療技術の発達した現代でも近隣で流行すると恐怖を覚えます。多くの事が神頼みであった昔の人々の様子が伝わってくる文書です。
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 
■死神

 

死神 1

 

1
死神とは、「死んでいる神様」という意味ではなく、人間の死を管轄する神様である。人間の死期が近づくとその人の側にやってきて付き添い、死後は魂をあの世に導き、コレクションルームで死者の魂を管理する……といったような仕事に従事しているらしい。つまり、手回しのよい葬儀社のような存在だが、日本におけるそのような死神像は、西洋の「Death」の受け売りである。ただし、死神を「神」といいきっているのは、多神教の日本ならでは。一神教の国では死を担当する「神」などありうべくもなく、「Death」も、「死の使い」という属性をあたえられている(所属先ははっきりしないが)。 なお、日本において「死を管轄する神様」というと、日本神話のイザナミノミコト(伊弉冉尊)である。彼女は、神様なのに死んで黄泉の国(地下の冥府)に行き、そこで王様として君臨している。つまり、死と生産を繰りかえす大地を神格化した地母神(じぼしん、ちぼしん)的な存在であり、われわれにおなじみの魂を刈る鎌を持った黒づくめの死神のイメージとはほど遠い。ただし、夫のイザナギノミコト(伊弉諾尊)が地獄に会いにきたとき、恐ろしい姿になって追いかけてきたところは、少し死神らしさが垣間見える。
2
アメリカのハードロック/ヘヴィ・メタル・バンド、ブルー・オイスター・カルトの曲。4枚目のアルバム「タロットの呪い」(1976年)からのシングル。全米第12位を記録。アルバムもゴールドディスクとなり、当時のハードロック・バンドの曲としては異例のヒットとなった。「ローリング・ストーン」誌が選ぶ最も偉大な500曲第405位。原題《(Don't Fear) The Reaper》。
3
古典落語の演目のひとつ。初代三遊亭圓朝が、グリム童話『死神の名付け親』、またはオペラ『クリスピーノと死神』を翻案したものとされる。初代三遊亭圓遊によってサゲが改作されたものは「誉れの幇間」と題する。五代目古今亭今輔が得意とした。オチはしぐさオチ。主な登場人物は、死神。
4
死をつかさどる神。死者の国(冥界)など死者が赴く他界の王や主とされることが多いが、より一般的には、人間や動物に死をもたらす悪霊・病魔が死神としてイメージされることが少なくない。 インドの死神ヤマYamaは冥界をつかさどり、侍者を遣わして臨終の間際にある者の霊魂をとらえ、宮殿に連れて来させる。そこではチトラグプタChitraguptaが死者の生前の行為の記録を読み上げ、ヤマはこれに基づいて審判する。この観念はインドの方位観や死体処理の仕方に反映している。
5
人を死に誘い導くという神。※浄瑠璃・心中刃は氷の朔日(1709)中「おなじくは今爰でちっ共はやふとしにがみの、さそふいのちのはかなさよ」。落語。明治二〇年代、三遊亭円朝がイタリアのオペラ「靴直しクリピスノ」から翻案したといわれる。円遊の「誉の幇間(たいこ)」はこれを改作したもの。貧乏で死のうとして死神に会った男が死神を利用する荒唐無稽なおかしさを描く。ぶっつけ落ちで結ぶ。
6
…パノフスキーは前者を〈死後志向型〉、後者を〈生志向型〉と呼ぶが、究極においては、ともに、いかに人類が死と和解しようとしてきたかを表しているといえよう。[生と死の対面]第3の型は、このいずれとも異なり、生の最中にこれを脅かし、破壊する恐るべき死神としての〈死〉の表現である。これについては、ヨーロッパの全人口の1/4が死んだといわれる14世紀半ばのペストの流行が大きな契機となったとされるが、その背景として、キリスト教的な世界観の衰退と、現世における生の向上という中世末期の社会状況があったといえる。…
 
死神 2

 

生命の死を司るとされる伝説上の神で世界中に類似の伝説が存在する。冥府においては魂の管理者とされ、小説・映画など様々な娯楽作品にも古くから死を司る存在として登場する。
西洋の死神
一般的に大鎌、もしくは小ぶりな草刈鎌を持ち、黒を基調にした傷んだローブを身にまとった人間の白骨の姿で描かれ、時にミイラ化しているか、完全に白骨化した馬に乗っている事もある。また、脚が存在せず、常に宙に浮遊している状態のものも多く、黒い翼を生やしている姿も描かれる。その大鎌を一度振り上げると、振り下ろされた鎌は必ず何者かの魂を獲ると言われ、死神の鎌から逃れるためには、他の者の魂を捧げなければならないとされる。
心霊写真においては、鎌を持った死神が写ると命に関わる危険の前兆で、たとえ鎌を持っていなくとも何らかの危機が起きる、という迷信も存在する。
基本的に、死神は悪い存在として扱われる事が多いが、死神には『最高神に仕える農夫』という異名もあり、この場合、死神は、「死を迎える予定の人物が魂のみの姿で現世に彷徨い続け悪霊化するのを防ぐ為、冥府へと導いていくという役目を持っている」といわれている。
こうした一般的に想像される禍々しい死神の姿は 一種のアレゴリーであり、死を擬人化したものである。神話や宗教・作品によってその姿は大きく変わる。時には白骨とは違った趣向の不気味なデザインとなる事もある。
日本の死神
人間を死に誘う、または人間に死ぬ気を起こさせるとされる神。死に神とも書かれる。本項では日本の宗教、古典、民間信仰、大衆文化における死神について記述する。
日本の宗教上の死神
仏教においては死にまつわる魔として「死魔」がある。これが人間を死にたくさせる魔物で、これに憑かれると衝動的に自殺したくなるなどといわれ、「死神」と説明されることがある。また仏教唯識派の文献である『瑜伽論』には衆生の死期を定める魔がある。冥界の王とされる閻魔や、その下にいる牛頭馬頭などの鬼が死神の類とされることもある。
神道では、日本神話においてイザナミが人間に死を与えたとされており、イザナミを死神と見なすこともある。
しかしイザナミや閻魔は、西洋の神話のような死神とは異なるとする考えもある。また、仏教には無神論に立っているために「死神」の概念はないとする見方もある。日本の仏教信仰の中で生み出された鬼神や怨霊などは、人間の命を奪うことはあっても、人々を死の世界へ導くことだけを司る「死神」ではないとする意見もある。
人形浄瑠璃での死神
日本の古典においては死神の名は一般的ではなかったらしく、記述は少ないが、江戸時代に入ると、近松門左衛門による心中をテーマにした人形浄瑠璃や古典の書籍に「死神」の名が見られる。
近松の宝永3年(1706年)上演の『心中二枚絵草紙』では、心中に誘われる男女が「死神の導く道や……」と書かれており、宝永6年(1709年)上演の『心中刃は氷の朔日』では、男性と心中しようとした女性が「死神の誘う命のはかなさよ」と語っている。これらは、死神の存在によって男女が心中に至ることを言っているのか、それとも心中の様子を死神にたとえたのかは明らかになっておらず、「死神」という単語を用いることで生のはかなさを表現しているとの解釈もある。
ほかにも、やはり近松の作品で享保5年(1720年)上演の『心中天網島』に「あるともしらぬ死にがみに、誘われ行くも……」とある。これは登場人物の商売が紙屋であることから「紙」と「神」をかけ、死に直面する人物の心を表現したものと考えられているが、文面のとおり「あるともしらぬ死神に」と解釈し、作者の近松本人が、死神が存在すると考えていなかったとする見方もある。
古典文学での死神
江戸時代の古典文学には、人間に取り憑く死神が語られている。天保12年(1841年)の奇談集『絵本百物語』には「死神」の名の奇談があるが、これは悪念を持つ死者の気が、生者の悪念に呼応してその者を悪しきところに導くものとされ、これにより殺人のあった場所では同様の事件が起き、首つり自殺のあった場所ではまた同じ自殺があるなど、人間に死にたくなるように仕向ける憑き物のようなものとされる。これに近いものに、幕末の随筆『反古のうらがき』において人間に首つり自殺をしたくなるよう仕向けたとされる「縊鬼(いつき)」や、民間信仰における憑き物である「餓鬼憑き」「七人ミサキ」などがある。
江戸時代後期の随筆作者・三好想山による嘉永3年(1850年)の随筆『想山著聞奇集』のうちの「死に神の付たると云は嘘とも云難き事」は、死神の取り憑いた女郎が男を心中に誘う話であり、河竹黙阿弥による明治19年(1886年)上演の歌舞伎『盲長屋梅加賀鳶』も、人間の思考の中に死神が入り込み、その者が自分の犯した悪事を思い起こして死にたくなるという話である。これらは神よりも幽鬼(ゆうき:亡霊や幽霊のこと)、または悪霊に近いものと考えられている。
三遊亭圓朝による古典落語の演目に『死神』があるが、これは日本独自に考えられたものではなく、イタリア歌劇『靴直クリスピノ(英語版)』、またはグリム童話『死神の名付け親』の翻案と考えられている。
民間信仰上の死神
戦後の民間信仰においても「死神」は語られている。熊本県宮地町の習俗では、夜伽に出て帰る者は、必ず茶か飯一杯を食して寝なければならず、これを怠ると死神に憑かれるといわれる。
静岡県浜松地方では、山や海、または鉄道で人が死んだ場所へ行くと死神が取り憑くという。そのような場所での死者には死番(しにばん)というものがあり、次の死者が出ない限り、いくら供養されても浮かばれないので、後から来る生者が死者に招かれるといわれている。また、彼岸の墓参りは入りの日か中日に行うのが一般的だが、岡山県では彼岸の開けの日に参ると死神に取り憑かれるという。また入りの日に参った際には開けの日にも参る必要があり、片参(かたまい)りをすると死神が取り憑くという。こうした俗信の背景には、祀り手のない死者の亡霊が仲間を求めて人を誘うという考え方があったと考えられている。
京都府の伝承では、死神の憑いた者をドンバ(河童のことらしい)が水辺に引っ張って死なせることから、ドンパに引かれて誰かが死ぬと、それから3年目、7年目、13年目にもドンバに引かれて死者が出るという。
戦後の大衆文化での死神
戦後は西洋の死神の観念が日本に入ってきたことで、死神は人格を持つ存在として語られるようになり、フィクション作品の題材になることも多くなっている。昭和期では『ゲゲゲの鬼太郎』をはじめとする水木しげるの漫画作品で登場する死神が知られており、1979年のテレビドラマ『日本名作怪談劇場』では歌舞伎役者の中村鴈治郎が死神を演じている。平成以降では『DEATH NOTE』『BLEACH』『死神の精度』などの漫画・アニメ・小説作品でしばしば作品自体のテーマとして用いられており、『真・女神転生』『ファイナルファンタジーシリーズ』『ドラゴンクエストシリーズ』などのゲーム作品に登場することも多い。
古典文学での死神をもとにした作品としては、京極夏彦による続巷説百物語の一話『死神 或は七人みさき』(季刊怪第拾号に収録)がある。『絵本百物語』をもとにしたもので、同書と同様に死神は悪念の持主を死へ招くものとされ、作中ではこれに類する存在として先述の死魔、縊鬼、七人ミサキについても言及されている。
宗教・神話における死神
多くの文化では、その神話の中に死神を組み入れている。人間の「死」は「誕生」と共に人生にとって重要な位置を占めるものであり、性質上「悪の存在」的な認知をされているが、殆どの場合死神は宗教の中で最も重要な神の1つとされ、最高神もしくは次いで位の高い神となっている場合が多く、崇拝の対象にしている宗教もある。
この場合、単に死神崇拝といっても「絶対的な力を持つ神」の能力の一部に「生死を操る能力」があるなど、いわゆる邪教崇拝だけではない点に注意するべきである。穀物生成や輪廻転生に関連付けられる地域では死と再生の神々として捉えられることもある。
キリスト教などの一神教においては神は唯一神以外になく、実際に生物に死を知らしめ、それを執行するのは天使(いわゆる「死の天使」)である。このためキリスト教では「死神」は存在せず、代わりに「悪魔」が存在する。また、直接死神とは書かれていないが、黙示録において「第4の封印」を開けた時、「剣と飢餓を持って蒼ざめた馬に乗った"死"という者」がやって来ると記載されている。この者が神によって遣わされているという点は特筆すべきである。また民話や創作においては、神や悪魔とは別の存在(つまり和訳語の"死神"に反して神ではない)としての死神が登場する事がある(グリム童話の『死神の名付け親 Der Gevatter Tod』など)。
タロットカードにおける死神
タロット占いでは「大アルカナ」の13番目のカードとして死または死神が使われる。死神は「停止」や「損失」など、不吉な出来事の予兆とされるが、カードの組み合わせやデッキから引き出したときの図柄の向きによって「死からの再生」や「やり直し」に意味が変化する。
死神の一覧
キリスト教 : サリエル(神ではなく天使)
アステカ神話 : ミクトランテクートリ、シペ・トテック
イスラム教 : アズラーイール(神ではなく天使)
ウガリット神話: モート、ホロン
エジプト神話 : アヌビス、オシリス、セケル
ギリシア神話 : タナトス、ハーデース
スラヴ神話: チェルノボグ
日本神話 : イザナミ(黄泉大神)
ヒンドゥー教 : ヤマ
北欧神話: オーディン、ヘル、ワルキューレ
マヤ神話: ア・プチ、イシュタム、フン・カメーとヴクブ・カメー
メソポタミア神話 : ネルガル、エレシュキガル、ナムタル
ローマ神話 : モルス、プルートー、オルクス
ブルトン神話(ケルト神話) - アンクー 
 
死神 3

 

西洋の死神
「黒いローブに鎌を持っている」という出で立ちは、西洋の死神のイメージだ。 鎌は大鎌だけでなく、草刈鎌の場合もあるのだとか。ローブもボロボロであったり、足がなく浮遊していたり、白骨化した馬に乗っていたりと、バリエーションがある。死神が写真に写ってしまった場合、鎌を持っていたなら「命に関わる危険の前兆」、鎌を持っていなくても「なんらかの危機の前兆」とする迷信があるのだそう。
一度振り上げられた大鎌は、振り下ろされるときに必ず魂を獲るといわれている。死神の鎌から逃れるためには、他者の魂を差し出さなくてはならない、という説がある。
日本の古典にみる死神
江戸時代の古典文学にも、死神について記されているものがいくつかある。
桃山人が発表した『絵本百物語』には、死神のことが竹原春泉斎の画とともに描かれている。
「悪念をもった死者が生者の悪念に呼応して死へと導く」
「刃傷沙汰などがあった場所は必ず清めなくてはならない」
といったことが書かれている。自害したり首をくくったりするのも、死神が誘うからだという。
幕末を生きた鈴木桃野の随筆『反古のうらがき』には、縊鬼(いつき)という存在が記されている。
「江戸の鞠町で開かれた酒宴に、客のひとりである同心が来ない。ようやく現れた同心は「首をくくる約束をしたので、断りに来た」と話す。酒宴を開いた組頭が乱心したかと酒を飲ませ引き止めたところ、しばらくして同心は落ち着きを取り戻した。同心によれば、喰違御門にさしかかったところで何者かに「首をくくれ」とささやかれた。なぜか拒否できない気持ちになり「組頭に言って約束を断ってからにしたい」と伝え、わざわざ断りにきたとのことだった。同心は助かったが、喰違御門で首つり自殺があったとの知らせが届く。縊鬼が同心を死なせようとしたがあきらめ、別の者に憑いたことで同心から離れた。それで彼は助かったのだ――。」
という話だ。
江戸時代後期の三好想山の随筆『想山著聞奇集』には
「死に神の付たると云は嘘とも云難き事」
という記述がある。女郎が「あんたに惚れたから」と客の男を心中に誘う話だ。
「誘われた男は半信半疑ながらも「ああ、死んでもいい」と答える。「明晩、死のうよ」と約束するが、当日になるとなんだかんだとあり結局、死ねなかった。「明晩こそ」と女郎と約束し、翌晩、店の者たちには夜芝居に行くと見せかけ、森で死ぬためにふたりで出掛ける。覚悟を決め、目がすわった女郎の顔を見て、男は我に返る。女郎からなんとか逃げた男は三日後、その女郎と旅の男が昨夜、森で心中したことを知る。女には死神が取り憑き、それが旅の男にも取り憑いたのだろうか――。」
と語られている。
日本の古典では、死神の認識は「人に取り憑き、自殺させる」というものだったようである。
日本の死神
仏教においては、死にまつわる魔として「死魔」というものがある。人を死にたくさせる魔物で、「死魔に憑かれると衝動的に自殺したくなる」などといわれている。そのため、「死神」と説明されることもあるという。
他にも、冥界の王である閻魔や、地獄にいたとされる牛頭馬頭、鬼が「死神」の類とされている。
神道では、日本神話においてイザナミが人間に死を与えたとされているため、イザナミを死神とすることもある。
日本の死神は、西洋の死神とは様子が違うようである。
キリスト教には存在しない死神
キリスト教は一神教なので「唯一とされる神」以外に神は存在しない。だから、死「神」というのはいないのである。生きている者に死を知らしめ執行するのは、天使になるそうだ。死神を悪と捉えた場合は、悪魔もま、死神と似た存在であるといえるだろう。
黙示録の『第4の封印』が解かれたときに現れる、青白い馬に乗った【死】という騎士も、死神に類似している。
落語と死神の深い関係
日本では他にも、人形浄瑠璃や落語のなかにも「死神」が登場する物語がある。古典落語の死神は、グリム童話『死神の名付け親』が原典のひとつと考えられている。サゲのパターンがいくつもあるようなので、一度、直接、落語を聞きに行ってもいいかもしれない。 
 
死神 4

 

死神とは
人の一生は「生」に始まり「死」に終わると考えられています。この死の場面に関わる神様が、死神と呼ばれる存在です。ただし死神は、それを口にし、イメージする人が持つ信仰、宗教、伝統などの文化によって捉えられ方が大きく異なります。
死を司る、または死後の霊魂を管理する存在として、日本に限らず広く世界で認識されています。死神が、人を含めたあらゆる生き物に死をもたらすことは確かですが、だからといって苦しみや悲しみといった悪や負の部分ばかりを持つわけではなく、死の苦しみから解放すること、霊魂が現世で彷徨い続けることや悪霊となることを防ぐという良や正の部分も持ちあわせています。死神とは生き物にとってのあらゆる死をそのまま擬人化した存在ともいうことができます。
由来と役割
実は、古代文明にも死神が存在していました。その多くは各文化の神話の中に登場し、人を含むあらゆる生命から命を奪いとる悪の部分や生の苦しみから解放するという良の部分のどちらか、または両方を持ちあわせます。死神のイメージの誕生は、病魔や悪霊などが取り憑いて生命を奪っていくことに対して無力でなすすべのなかった人が、そこに神の存在を感じ取ったことに関連しています。人知を超えた死を神の仕業と考えたわけです。
人は死神に「死の苦しみをもたらす神」であると同時に「死の苦しみから救ってくれる神」という役割を与えました。そのため、死神は、死期が近づいた人のもとに現れて死の訪れを告げ、現世とのつながりをすっぱりと断ち切る助けをし、その魂を死の世界へと導いて管理するとも考えられています。また、農産物の生成や輪廻転生の理念を持つ地域では、死神が死の後の再生(再び生を得ること)をも司る神として崇拝されてきました。
死神のビジュアルイメージ
黒のローブで体のほとんどを覆い、顔にあたる部分にはドクロまたは漆黒の闇、体もまた白骨または闇としてイメージされることが多いようです。魂を刈り取るための鎌を手にしていますが、鎌は身の丈以上の大きさである場合もあれば、小さな草刈り鎌程度である場合もあります。また、宙に浮いた状態で音を立てずに移動したり、白骨化かミイラ化した黒い馬やその黒い馬がひく馬車に乗っていることもあります。これらのイメージは、12世紀の黒死病(ペスト)が流行した時の恐怖を表現した「死の舞踏」という絵画から民衆の間に広まっていったのではないかと考えられています。
海外と日本における死神
エジプトでは、半獣半身のアヌビスとオシリスとが死神に近い存在として古代から存在していました。墓の周囲を徘徊する犬やジャッカルを、死者を守る存在として捉えたことがアヌビスの誕生につながり、生産の神オシリスはエジプトの王として法律を導入したことから、その死後には冥界の王となって死者の罪を測り裁く役割を持ちました。また、ギリシャ神話では、死を神格化したタナトスが人の魂を冥府の支配者ハーデースのもとへと連れていくとして、両者が死神として認識されています。ヨーロッパ各地や南米などにも、死を司る神にまつわる伝説が残されています。
日本にも死を司るとされる存在があります。神話ではイザナミが人に死を与えたことから、死神としての役割も持っていると考える説があります。仏教においては、人を死にたくさせるという死魔や冥界の閻魔や鬼などが死神にあたると考えることがあります。一方では、無神論的な考え方から、死神は存在しないという見方もあります。ただ、死神という言葉や概念は西洋からもたらされたものです。日本ではイザナミや閻魔らがそれぞれに別々のイメージで表現・認識されていて、死神という統一されたイメージはありませんでした。現在の日本で広く死神として認識されている姿は、西洋の死神の姿です。
近代文化における死神
日本で死神という言葉が使われたのは、江戸時代の落語『死神』が最初だったといわれています。これはヨーロッパの説話が原案だったそうです。後になって、日本に死神という呼び名も、そのイメージも西洋風に定着していきます。その結果、近代から現代の文学やサブカルチャーなどの大衆文化の中に登場する死神は、その概念も性格も西洋風の死神を基礎としています。しかし、外来のものであることからオリジナルの文化を持つ西洋における死神よりも多種多用にアレンジされる傾向があり、多くの分野で人気の題材として使用されています。
死神は伝説上の神であり、人にとって重要な役割を担う存在です。多くの場合、死神は最高神に次ぐ高位の神であるか、最高神の化身であるなど、その存在意義は高く評価されます。穀物や生き物など、すべての生あるものが必ず死を迎えます。多くは再び生を得たいと望み、中には実際に再び生を得るものもあります。そのため、生と死は隣り合わせであり、死は必ずしも悪や負ではないとの考えが生まれたのです。それでも、死は常に生者にとっては恐怖の対象となりがちであり、同じ理由から死をもたらす死神も恐れるべき存在として認識されることが多いのもまた事実です。 
 

 

 
死神 / 古典落語 1

 

日本では神様を八百万の神々と申します。ところがおなし神様でもあんまり人の喜ばないのがある。風邪の神だとか、あるいは手水鉢の神、貧乏神、疫病神、……死神なんという。ええ、こういうのはあまり人は歓迎を致しませんで。
偽りのある世なりけり神無月 貧乏神は身をも離れず
なんという狂歌がありますが……
「どうしたんだね。じれったいね。僅かばかりの金が出来ないでウスボンヤリ帰ってきやがって。お前みたいな意気地無しはね、豆腐の角へ頭をぶつけて死んでお終い!」
「ひでえことを言うなよ。豆腐の角へ頭をぶつけて死ねるわけなんて……」
「死ねるよお前みたいな意気地なしは!いくらでもいいから拵えろ! さもなきゃウチへ入れないから! 出て行け!」
「出ていかい! ちきしょう!」
妻に追い出された男はぶつぶつと所在無くさ迷った。
「なんて凄いかかあなんだろうな。豆腐の角へ頭をぶつけて、死んで、しまえ、なんて……ぶつけてやろうか、こんちきしょう。ぶつけたって死なないだろうなあ……。ウチ行きゃあ銭がねぇって、ギャアギャア言われるし、どこに行ったって貸しゃあしねえし。もう生きてんのが嫌んなっちゃったなあ。生きてたってしょうがねえ、死のう。どうして死のうかなあ。身を投げるのは嫌だなあ。七つんときに井戸へ落っこったことがある。あんな嫌な思いをするなら生きてた方がいい。どうやったら銭もかからないで死ねるかな」
「教えてやろう」
木の陰からヒョッ、と出てきたのを見る。歳は八十以上にもなろうか。頭へ薄い、白い毛がポヤッと生え、鼠の着物の前を肌蹴て、あばら骨は一本一本数えるように痩せっこけて藁草履を履き、竹の杖を突いた貧相なジジイ。
「なんだなんだ、え、なんだい」
「死神だよ」
「えっ、死!? あっ。ああ、嫌だ。ここへ来たら急に死にたくなったんだ。俺は一度も死のうなんて考えたことなかったんだ。てめえのお陰だな、この。そっちいけ」
「まぁそう嫌うもんじゃあねえ。仲良くするからこっちへおいで。ま、いろいろ、相談もあるから」
「やだよ、相談なんぞ」
「おいおいおい、待ちなよ。逃げたって無駄だよ。おめえは足で歩いて逃げる。俺は風につれてふわっと飛ぶんだから。逃げられやしねえよ。まあ色々、話もあるからこっちへ来いよ。おめえと俺には古い古い因縁があるんだ」
死神はふわふわと男の目の前に立ちはだかった。
「怖がることはないよ。人間と言うものはいくら死にたいと言っても寿命があればどうしても死ねるもんじゃあねえ。え、生きたくても寿命が尽きればそれでもう、駄目なんだ。おめえはこれからまだまだ、長い寿命があるから心配しなさんな。おめえに良い事を教えてやる。医者になんな。儲かるぞ。長患いをしている病人の部屋へ入れば、枕元か足元か、どっちかに必ず死神がいるんだ。足元の方に座っている病人は、こりゃあ助かる見込みがある。枕元へもう座るようになったら寿命が尽きているから決して手をつけちゃあいけねえ。いいか、死神が足元に座ってるときに呪文を唱えてポン、ポンとこう、手を叩くんだ。そうすりゃどうしても離れて死神が帰らなきゃいけないことになってんだ」
「そ、その呪文ってなんだい」
「いいか、おめえに教えてやるが、こんなこと決して人に喋っちゃあいけねえよ。よく覚えろよ。」
『アジャラカモクレン フジサン テケレッツノパ』
「……あれ、死神? 死神さーん。あっそうか呪文を唱えたから帰っちまったのか」
さっそく蒲鉾板の古いのに覚束ない仮名で看板を書くと、ものの二十分経つか経たないかで最初の客が来た。主人が重病であるという客の後についていくと、病人の足元には良い塩梅に死神が座っている。
「しめた」
「え、なんでございましょう」
「あっ、いやここへ入ってこの襖を閉めたということで……、へへ」
「はあ」
「ところでお礼のところは……」
「ええ、ぜひとも…いかようとも」
「ああ、じゃあ治しますね、おまじないをやります、いかばかりか」
『アジャラカモクレンフジサンテケレッツノパーポンポン』
死神がすっと離れると、苦しそうに唸っていた病人がふっと眼を開け、腹が減ったと言った。
「ああ、天丼でもうな丼でも好きなもん食わせなさい」
さあ、あの先生はご名医だと治った人が言うから間違いはございません。男はたちまち評判になった。それじゃあ私どもも、手前どもも、と頼まれていくと良い塩梅に、大抵足元に死神が座っている。たまたま枕元にいると「ああこれは寿命が尽きているからお諦めなさい」と言うと、表へ出るか出ないに病人が息を引き取る。
ああ、生き神様ではないかというえらい評判。今までは裏側でくすぶっていたやつが表へ出て立派な邸宅を構える。食いたい物も食う。着たい物も着る。さてそうなると小じわの寄ったカミさんなんざ面白くない。ちょいとオツな妾かなんか置きましてね、このほうでモタモタされればいいから家の方へは帰らない。するとカミさんはやきもちを焼いてギャンギャン喚く。
「かかあなんていらないから、ああ、子どももつけて金をやるから別れよう」
所帯を全て金に換え、妾と上方へ行って金に明かしてあっちこっちと贅沢三昧で歩きましたが、金は使えば無くなるもの。さて金がなくなってみると女も消え、一人でぼんやり江戸へ帰ってきたが、一考構えて、さ、俺が来たら門前市をなすだろうという体で待ち構えたがどうしたことか、まるっきり患者がこない。たまたま頼まれていってみると、死神が枕元へ座っている。
どっかいいところがないかしらんと待ちぼうけていると、麹町五丁目の方で伊勢屋伝衛門という江戸でも指折りの金持ちから依頼が来た。これならば、と奴さん、てんで勢い込んで行ってみると相変わらず枕元の方へ死神がどでんと座って笑っている。
「……せっかくだがこの病人はもう、助からない、お諦めなさい」
「先生、そこをなんとかお骨折りを……」
「お骨折りったってねえ……寿命がないものは」
「先生のお力で…まことにかようなことを申し上げては失礼でございますが、五千両までのお礼は致しますがなんとか……」
「五千両ったってねえ……寿命がないものはしょうがない」
「ではいかかでございましょう。たとえ二月三月でもよろしいのでございますが、寿命を延ばしていただけたら一万両までお礼を致しますが……」
「い、一万両!? ……なんとかして、寿命を延ばしたいねえ」
男はうんうんと知恵をめぐらせるとひらめいた。
「病人が寝ている四隅に気の利いたやつを四人置いて、あたしが膝をポンと叩いたら途端にスッ、と回してくれ。頭の方が足になって、足の方が頭になるんだ。一遍やり損なったら駄目だ、いいかい」
夜が更けるに従って死神の眼が異様にギラギラと輝いて、病人がウーン、ウーンと苦しむ。そのうちに夜が明ける、白々とした色になってくる。死神だってそうそう張り切っちゃいられない。疲れたと見えて、コックリコックリ居眠りを始める。ここだなと思い目配せをする。ポンポンと膝を叩く!
『アジャラカモクレンフジサンテケレッツノパーポンポン!!』
死神が驚いて飛び上がって、病人はたちまち元気になった。さっそく金が届いたと言うので、奴さん酒なぞ飲んで食わえ楊枝で出てきたが……
「うーん、我ながらいい知恵だったねえ。死神の奴ワーッと驚きやがって、ククッ」
「莫迦野郎」
「うわっ」
「何故あんな莫迦な事をするんだ。まさかおめえ俺を忘れやしねえだろ。あんなことをされたんで俺は月給を減らされたよ」
「げ、げ、月給って。あっ、か、金ならこっちにあるからさァ……」
「まあまあしちまったことは仕方ァねえこっちへこい。ここへ降りな。おい降りるんだよ。俺の杖に掴まって来い。大丈夫だよ。ビクビクしねえで早く来い。……おい。ここを見ろ」
「あらっ これは、ずいぶん蝋燭が点いてますね」
「これがみんな人の寿命だ」
「ははあ……人の一生はよく蝋燭の火のようだなんて話は聞いたことがありますが、たいしたもんですねぇまあ。長いのや短いのやいろんなのがある。……あっ、ここに長くて威勢のいいのがありますね」
「それはおめえのせがれの寿命だ」
「へえ、あいつは長生きなんだなあ……。いいなあ。うん。このとなり、半分くらいの長さでボーボー音を立てて燃えてるヤツは?」
「それがもとのカミさんの寿命だ」
「ああ、ああ、ああ、へぇ、なるほどねぇ。あの、ババアの。で、その横のは? 暗くって短くって今にも消えそうなのがありますね……これ、これって、まさか……」
「そうだおめえの寿命だ」
「お前の寿命だよ。けえそうだ…けえる途端に命はない。もうじき死ぬよ。お前の、本来の寿命はこっちにある半分より長く威勢よく燃えている蝋燭なんだ。お前は金に目がくらんで、寿命をとっ換えたんだ。くくっ、気の毒に、もうじき死ぬよ」
「い、命が助かるならなんでもするから」
「……しようのねえ男だ。ここに灯しかけがある。これと、そのけえかかっているのと繋げるんだ。上手く繋げれば、助かるかもしれん」
「早くしないと、けぇるよ。何を震える。震えるな。震えると、けえるよ。けえれば命がない。早くしな。早くしないと、けぇるよ。けぇるよ。……消えるよ。くくっ、あっ、消ェる…くくっ」
「待ってくれ、手が震えちまう」
「早くしな。消えるよ。ほらほらほら、くくっ、……ほーら、消えた……」  
 
落語と死神 2

 

死神 あらすじ
借金で首が回らなくなった男、金策に駆け回るが、誰も貸してくれない。
かみさんにも、金ができないうちは家には入れないと追い出され、ほとほと生きるのがイヤになった。
一思いに首をくくろうとすると、後ろから気味の悪い声で呼び止める者がある。
驚いて振り返ると、木陰からスッと現れたのが、年の頃はもう八十以上、痩せこけて汚い竹の杖を突いた爺さん。
「な、なんだ、おめえは」「死神だよ」
逃げようとすると、死神は手招きして、「恐がらなくてもいい。おまえに相談がある」と言う。
「おまえはまだ寿命があるんだから、死のうとしても死ねねえ。それより儲かる商売をやってみねえな。医者をやらないか」
もとより脈の取り方すら知らないが、死神が教えるには「長わずらいをしている患者には必ず、足元か枕元におれがついている。足元にいる時は手を二つ打って『テケレッツノパ』と唱えれば死神ははがれ、病人は助かるが、枕元の時は寿命が尽きていてダメだ」という。
これを知っていれば百発百中、名医の評判疑いなしで、儲かり放題である。
半信半疑で家に帰り、ダメでもともとと医者の看板を出したが、間もなく日本橋の豪商から使いが来た。
「主人が大病で明日をも知れないので、ぜひ先生に御診断を」と頼む。
行ってみると果たして、病人の足元に死神。
「しめた」と、教えられた通りにするとアーラ不思議、病人はケロりと全快。
これが評判を呼び、神のような名医というので往診依頼が殺到し、たちまち左ウチワ。
ある日、麹町の伊勢屋宅からの頼みで出かけてみると、死神は枕元。
「残念ながら助かりません」と因果を含めようとしたが、先方は諦めず、「助けていただければ一万両差し上げる」という。
最近愛人狂いで金を使い果たしていた先生、そう聞いて目がくらみ、一計を案じる。
死神が居眠りしているすきに蒲団をくるりと反回転。
呪文を唱えると、死すべき病人が生き返った。
さあ死神、怒るまいことか、たちちニセ医者を引っさらい、薄気味悪い地下室に連れ込む。
そこには無数のローソク。
これすべて人の寿命。
男のはと見ると、もう燃え尽きる寸前。
「てめえは生と死の秩序を乱したから、寿命が伊勢屋の方へ行っちまったんだ。もうこの世とおさらばだぞ」、と死神の冷たい声。
泣いて頼むと、「それじゃ、一度だけチャンスをやる。てめえのローソクが消える前に、別のにうまくつなげれば寿命は延びる」
つなごうとするが、震えて手が合わない。
「ほら、消える。……ふ、ふ、消える」
「死神」は変わる
昭和の末から平成の初めにかけて、『死神』はかなり流行″った噺だ。中堅や若手が競って演じていた。おもしろいストーリーで、奇抜なところもある。笑いの要素にも事欠かず、しかも人情噺とは別種のアンダーな空気が漂う一面がある。そしてサゲは今なお試行錯誤が公認されている。意識ある演者の意欲をそそってやまない名作ということか。
その素地を確立したのは戦後の六代目三遊亭圓生だった。人間の生命の消長を司る蝋燭の火のつなぎに成功して娑婆に凱旋する初代三遊亭圓遊系の改作版を演じる人が多いなか、圓生は二代目三遊亭金馬の演出に沿って『死神』を自分のものにした。二代目金馬は我こそ原作者・三遊亭圓朝から『死神』の直伝を受けたと称していた。
火のつなぎに失敗して演者自身が前へ倒れて主人公の死を表し、噺の結末を告げる特種なサゲは、多分に芝居がかった圓生の芸風にはぴったりだったので評判になった。『死神』をオリジナルに戻す上で大きな力を発揮したのだった。
主人公が「消えた」と言って倒れるのが本来だが、のちに圓生は消えた瞬間にはもう口が利けないはず、と考えて「消える」と言うようになり、それではサゲとして締まりに欠けると思ったのか「消えた」を死神に言わせ、次の瞬間に主人公が倒れるという段取りにした。
少々不気味なこの結末をもう少し一般性のある、そしてパッとしたものにしたい。明治の初代圓遊の改作意図が再び点灯したかのように柳家小三治はサゲを変えた。圓生流の『死神』を圓生の弟子の三遊亭圓彌に習った際に圓彌から聞いたというあるアマチュアのアイデアがヒントだった。
火のつなぎには成功するが、不用意に出たクシャミ一発で火が消えてしまう、小三治のこの大胆なサゲの変革が大きな刺激となって立川志の輔などのそれぞれ独自なサゲが生まれ、『死神』に花が咲いた。
しばらくの間、小三治はくしゃみのあとに前に倒れる形をしてオリジナルとの折り合いを付けていた。その後少しずつ簡略になって、結局クシャミだけでサゲる手法にまで進化している。
異色の問題作
何しろ、この噺のルーツや成立過程をめぐって、とうとう、かなり厚い一冊の本になってしまったぐらいです。一応、原話はグリム童話「死神の名付け親」で、それを劇化したイタリアのコミック・オペラ「クリスピーノと死神」の筋を、三遊亭円朝が洋学者から聞き、落語に翻案したと言われます。それはともかく、そこの旦那。ああた、あーたです。笑ってえる場合じゃあありません。このはなしを聞いて、たまには生死の深遠についてまじめにお考えになっちゃあいかがです。美人黄土となる。明日ありと思う心の何とやら。死は思いも寄らず、あと数分後に迫っていまいものでもないのです。
東西の死神像
ギリシアやエジプトでは、生と死を司る運命もしくは死の神。ヨーロッパの死神は、よく知られた白骨がフードをかぶり、大鎌を持った姿で、悪魔、悪霊と同一視されます。日本では、この噺のようにぼろぼろの経帷子をまとった、やせた老人で、亡者の悪霊そのもの。ところが、落語版のこの「死神」では、筋の上では、西洋の翻案物のためか、ギリシア風の死を司る神という、新しいイメージが加わっています。
芝居の死神
三代目尾上菊五郎以来の、音羽屋の家の芸で、明治19年(1886)3月、五代目菊五郎が千歳座の「加賀鳶」で演じた死神は、「頭に薄鼠色の白粉を塗り、下半身がボロボロになった薄い経帷子に葱の枯れ葉のような帯」という姿でした。不気味にヒヒヒヒと笑い、登場人物を入水自殺に誘います。客席の円朝はこれを見て喝采したといいます。この噺の死神の姿と、ぴったり一致したのでしょう。先代中村雁治郎がテレビで落語通りの死神を演じましたが、不気味さとユーモラスが渾然一体で、絶品でした。
ハッピーエンドの「誉れの幇間」
明治の「鼻の円遊」こと初代三遊亭円遊は、「死神」を改作して「誉れの幇間(たいこ)」または「全快」と題し、ろうそくの灯を全部ともして引き上げるというハッピーエンドに変えています。
「死神」のやり方
円朝から高弟の初代三遊亭円左が継承、さらに戦後は六代目円生、五代目古今亭今輔が得意にしました。円生は、死神の笑いを心から愉快そうにするよう工夫し、サゲも死神が「消える」と言った瞬間、男が前にバタリと倒れる仕種で落としました。柳家小三治は、男がくしゃみをした瞬間にろうそくが消えるやり方です。 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 
■祟り神

 

 
祟り・御霊
祟り神 1

 

荒御霊であり畏怖され忌避されるものであるが、手厚く祀りあげることで強力な守護神となると信仰される神々である。また、恩恵をうけるも災厄がふりかかるも信仰次第とされる。すなわち御霊信仰である。その性質から、総じて信仰は手厚く大きなものとなる傾向があり、創建された分社も数多い。
平安京、京の都で長くとりおこなわれている祇園御霊会は、祟り神を慰撫し鎮魂する祭りである。主祭神である「祇園神」「牛頭天王」はまさにこの意味での祟り神の代表格であり、疫病をもたらす厄神であると同時に、手厚く祀る者には守護神として働くとされ、全国各地に牛頭天王社が創建された。
八岐大蛇から現れ出た宝剣天叢雲剣は三種の神器として神剣として祀られる。
しかしながら、『日本書紀』には天武天皇が天叢雲剣の祟りが原因で崩御、『日本後紀』には桓武天皇が十握剣(八岐大蛇を征服した宝剣)の祟りが原因で崩御したとあり、神剣の祟りは相当なものと認識されていたようである。
前者は熱田神宮から盗まれ行方不明だった天叢雲剣が献上され宮中にとどめおいたところ、後者は石上神宮から平安京へ無理矢理移動させたため祟ったとある。結局、畏れをなされた神剣は元の場所に戻されることとなった。
御霊信仰
人として非業の死を遂げたのちに畏れられ続けた霊(高次元的存在)、たとえば、崇徳院の霊(白峯大権現)、菅原道真の霊(天満大自在天神)、平将門の霊(将門大明神)は、祟り神に部類される神として祀られている。
六所御霊
御霊信仰に基づく御霊会の開催が記録上に現れるのは、清和天皇治世下の貞観5年5月20日(863年月日)に平安京の神泉苑で開かれたと伝える、上御霊神社の史料が最古である。このとき御霊神とされたのは、崇道天皇(早良親王)、伊予親王(桓武天皇皇子)、藤原夫人(藤原吉子。伊予親王の母)、観察使(藤原仲成)、橘大夫(橘逸勢)、文大夫(文室宮田麻呂)という6柱であった。ゆえに、これらを総称して六所御霊(ろくしょごりょう)と呼ぶようになった。のちにはこれに藤原広嗣が加えられたというが、はっきりしない。また、「観察使」と呼ばれている御霊の生前の正体(人間であった頃の実体)が藤原仲成ではなく藤原広嗣なのだと説く研究者もいるが、そもそも、藤原広嗣の生きた時代に観察使という役職は存在しない。
八所御霊
さらなる後世、吉備聖霊(吉備大臣)と火雷神が六所御霊に加えられ、八所御霊(はっしょごりょう)と呼ばれるようになった。吉備聖霊という御霊の生前の正体については、吉備内親王とする永井路子の説が多くの支持を集めているが、井上内親王が産んだ皇子とする説や、人物ではなく鬼魅(きみ、きび)(災事を引き起こす霊力)であると解釈する説もある中、現在の上御霊神社は吉備真備と解釈している(※理由ははっきりしないが、吉備聖霊を荒魂ではなく和魂と見なしている下御霊神社と同様の見解であろう)。火雷神については、雷を司る神である火雷大神と同一神であろうが、御霊化した菅原道真と見なされている。
八所御霊は平安京(京都)の上御霊神社および下御霊神社に祭神として祀られることとなる。係る両社は、全国各地にある御霊神社の中でもとりわけ名高く、京都御所の産土神として重要視された。  
 
祟り神 2

 

祟り神というと『もののけ姫』のおこと主を連想する方も多いことと思うが、我が国では古来より怨みを抱いて無くなった者たちは、祟るという信仰があった。
そこで考え出された方法が、御霊(ごりょう)信仰である。
平将門、崇徳上皇、菅原道真、長屋王等がそれである。
ここが世界に類をみない日本の霊的に優れたところであるのだ。怨みや怒りはその者を鎮め祀ることで神となって生まれ変わると言った考えが出来たことである!
支那や朝鮮では死んでもその者を許さないと言った考えが主流を占めているにも拘らず。
我が国最大、最強の祟り神とははたして何者であろうか?それは、出雲大社(大国主命)である。今では伊勢神宮と並び我が国を守り、国民の崇敬を集める代表的な神社であるが、霊的な調査の末にその真実が見えてきた。
出雲の国譲りは、古事記や日本書紀では大国主の国譲りとして豊葦原の国を天孫に譲る代わりに出雲に立派なお社を造って末長くお祀りしてくることを約束して、この国を天孫に委譲したこととなっているが、真実は次のようであった!
中国地方の島根の地域に多々良鉄を産出し、武力を持ち文化の進んだ国があった。それは、大和朝廷をも凌ぐ勢力を持ち、驚異でもあった。高さ40メートルを越える建物(神殿)を造れる技術等が当時の最先端を物語っていた。神話の先に巨大神殿があったのである。『ふと柱の宮』である。
大和朝廷も勢力を拡大するにあたり、出雲の文化と技術力が驚異であったのだ。大和朝廷は、出雲を騙し討ちにして滅ぼしたのである。
神話のように国譲りが行われていれば今の出雲大社は高さが40メートルあっていいはずである。と思うのが当たり前ではないか?
現実は、歴史が湾曲して語られたからにほかならない!
当然、裏切られ貶められ、滅ぼされた出雲一族の怒りと恨みの念は想像にかたくない。
祟り神となった出雲の怨霊の恨みの念は凄まじいものであったのである。大和側も諸国より幾多の呪術者を結集して御霊鎮めと霊的な防御を行ったのであるがなかなか鎮まらず、さらに出雲の千家との間である密約が交わされた。代々伊勢の宮司の家系に出雲より嫁を送ることを慣わしとしたのである。
ここで、征服者の一族に非征服者の血が入ることで恨みの念を昇華させたのである。
最近になって出雲大社の敷地の土地から、土の中から直径1メートルある丸太柱が、三本まとまったものが出てきたことは、過去の出雲大社の壮大さを示すものである。 
このような理由から出雲は祟り神であったのだが、長い年月の末に今では崇敬を集める日本最古の古社の一つとなったのである。
今巷では、出雲大社は『縁結びの神様』と言われているがもってのほかである。
千家(北島家)も本来は監視役を兼ねて大和朝廷との間に話ができていたはずであるのに、時代の流れは物事を陳腐なものとする場合がある。 
 
祟り

 

神仏や霊魂などの超自然的存在が人間に災いを与えること、また、その時に働く力そのものをいう。
類似の概念として呪(のろ)いがある。祟りは神仏・妖怪による懲罰など、災いの発生が何らかの形で予見できたか、あるいは発生後に「起こっても仕方がない」と考えうる場合にいう(「無理が祟って」などの表現もこの範疇である)。これに対し呪いは、何らかの主体による「呪う」行為によって成立するものであり、発生を予見できるとは限らない。何者かに「呪われ」た結果であり、かつそうなることが予見できたというケースはあり得るので、両概念の意味する範囲は一部重なるといえる。
日本の神は本来、祟るものであり、タタリの語は神の顕現を表す「立ち有り」が転訛したものといわれる。流行り病い、飢饉、天災、その他の災厄そのものが神の顕現であり、それを畏れ鎮めて封印し、祀り上げたものが神社祭祀の始まりとの説がある。
現在では一般的に、人間が神の意に反したとき、罪を犯したとき、祭祀を怠ったときなどに神の力が人に及ぶと考えられている。何か災厄が起きたときに、卜占や託宣などによってどの神がどのような理由で祟ったのかを占って初めて人々に認識され、罪を償いその神を祀ることで祟りが鎮められると考えられている。神仏習合の後は、本来は人を救済するものであるはずの仏も、神と同様に祟りをもたらすと考えられるようになった。これも、仏を祀ることで祟りが鎮められると考えられた。しかしこれはあくまでも俗信であり、仏教本来の考え方においては、祟りや仏罰を与えることはない。
怨霊による祟り
後に御霊信仰の成立により人の死霊や生霊も祟りを及ぼすとされるようになった。人の霊による祟りは、その人の恨みの感情によるもの、すなわち怨霊である。有名なものとしては非業の死を遂げた菅原道真(天神)の祟りがあり、清涼殿への落雷や醍醐帝の死去などが祟りによるものと強く信じられるに至った。時の公卿は恐懼して道真の神霊を北野天神として篤く祀り上げることで、祟り神を学問の守護神として昇華させた。このように、祟り神を祭祀によって守護神へと変質させるやり方は、恐らく仏教の伝来以降のものと考えられ、それ以前の最も原始的な日本人の宗教観は「触らぬ神に祟りなし」のことわざどおり、御室の深奥でひっそりと鎮座する神霊を、機嫌を損ねて廟域から出ないように、ただ畏れて封印するものだったのかもしれない。
一方、怨霊として道真と並んで有名な平将門の将門塚周辺では天変地異が頻繁に起こったといい、これは将門の祟りと恐れられた。時宗の遊行僧・真教によって神と祭られて、延慶2年(1309年)には神田明神に合祀されることとなった。また、東京都千代田区大手町にある将門の首塚は移転などの計画があると事故が起こるという話もある。
様々な祟り
全国各地に見られる「祟り地」の信仰も原始的な宗教観を映し出していると見ることが出来る。祟り地とは特定の山林や田畑が祟ると恐れられているもので、そこで木を伐ったり、所有したりすると家人に死者が出るという。東海では「癖地」「癖山」などといわれ、地方により「祟り地」「オトロシ所」「ばち山」「イラズ山」などの呼称がある。こういった場所には昔、処刑場があったとか縁起の悪い伝承が残っていることが多いが、このような土地は古えの聖域、祭祀場であり、本来、禁忌の対象となっていたものが信仰が忘れられて祟りの伝承だけが残ったという見解もある。
神木や霊木の祟りも全国によく見られる話である。日本では今でも古くからの巨木・老樹に対する信仰が残っているが、民間にも老樹にまつわる祟り伝承があり、信州には斧で切ると血を流したという一本松の伝説があり、各地に似たような話が伝わっている。
同様に「動物霊」も祟ると考えられており、特に猫の怨霊は恐れられ、「猫を殺すと七代祟る」といった俗信がある。
近年では民間宗教者や新宗教により「水子の祟り」、「先祖の祟り」なども盛んに喧伝されるようになってきている。前者は人工中絶の増加に目を付けたもの、後者は核家族化により先祖供養が粗略となった実情に着目し、除霊、鎮魂、供養を行えば不幸・障害が取り除かれると説くものである。
古来、祟るとされた動物
稲荷信仰において狐は神使とされ、三輪山信仰では蛇が神の仮の姿とされる。したがってこれらの動物を害した場合は報いを受けると信じられる。
それとは別に、九尾の狐や猫又・化け猫といった怪異譚から、狐や猫に人を祟る能力があるとする俗信も広く存在した。猫にまつわるジンクスは西洋にも存在する。
祟り 2
神霊、死霊、精霊、動物霊などが一種の病原体として、人間や社会に危害を加え自然界に災禍をもたらすとする信仰現象のこと。しかし〈たたり〉はかつて折口信夫が説いたように、もともとは神が何らかの形でこの世に現れることを意味した。それがやがて、神霊や死霊の怒りの発現もしくはその制裁や処罰の発生として〈祟り〉が意識されるようになった。すなわち神の示現としての〈たたり〉から霊威による災禍もしくは危害をあらわす〈祟り〉へと変化したのである。
はじめの、神の示現としての〈たたり〉は、古く神霊が磐座(いわくら)や神籬(ひもろぎ)に降臨することであったが、同時に特定の人間に憑依(ひようい)して託宣や予言を下すことでもあった。たとえば神代紀の天鈿女(あめのうずめ)命、崇神紀の倭迹迹日百襲姫(やまとととびももそひめ)命、仲哀紀の神功皇后などが突然神がかりして、狂躁乱舞したり神霊の意志を伝えたりしたのがそれである。こうして〈たたり〉が人間に現れる場合は憑霊状態を示し、いわゆるシャマニズムのさまざまな心的機制を生ぜしめることになるが、今日、下北半島のイタコや沖縄のユタなどに伝えられているホトケオロシやカミオロシなどの巫儀も、この〈たたり〉現象に属する。
次に、神霊や死霊の示現が災禍や危害をともなうとされる場合の〈祟り〉は、当の神や死者の怨みや怒り、そして浄められずに空中を浮遊する邪霊、鬼霊の働きなどによるものとされ、とりわけ平安時代になって御霊(ごりょう)や物の怪(もののけ)の現象としてひろく人々の間に浸透し、恐れられた。なかでも〈祟り〉の現象が社会的な規模で強く意識されたのは平安前期の御霊信仰においてである。御霊とは政治的に非業の死をとげた人々の怨霊をいい、それが疫病や地震・火災などをひきおこす原因とされたのである。このような御霊信仰の先例はすでに奈良時代にもみられ、僧玄隈(げんぼう)の死が反乱者である藤原広嗣の霊の祟りによるとされたが、平安時代に入ってからはとくに権力闘争に敗れた崇道(すどう)天皇(早良親王)、伊予親王、橘逸勢(たちばなのはやなり)などの怨霊が御霊として恐れられ、863年(貞観5)にはその怒りと怨みを鎮めるための御霊会(ごりようえ)が神泉苑で行われた。また承和年間(834‐848)以降は物の怪の現象が文献に頻出するようになるが、これはやがて《源氏物語》などのような文学作品、《栄華物語》のような史書のなかでも大きくとりあげられるようになった。その場合、物の怪も主として病気、難産、死、災異などの原因とされ、それを退散させ駆除するために僧による加持祈裳が行われた。そしてこれらのさまざまな祟り現象の頂点を示す事例が、菅原道真(すがわらのみちざね)の怨霊による怪異な事件であった。清涼殿への落雷から醍醐天皇の死にいたる一連の社会的・個人的な異変が、大宰府で憤死した道真の怨霊によるとされたのである。この平安朝を通じての最大の祟り霊は、やがて北野天神としてまつられ、学芸の神としての天神信仰が形成されることになった。最大の祟り霊が反転して強力な守護神に変じ、崇敬されるようになったのである。
以上からもわかるように、祟り霊はその規模のいかんを問わず祭祀や祈裳によって鎮められるとの観念が生みだされた。つまり祟りと鎮魂との相関が意識されることになったのであるが、それは全体として閉鎖的な社会・政治環境における精神病理的な現象であったと考えることができる。ところで、このような祟りと鎮魂のメカニズムは、道真の事例においてみられるように、それ以降の日本の政治史にもしばしば現れるようになった。とりわけ権力や政権の交替期には政治的に非業の死をとげる人間が大量に生みだされるため、その死霊や怨霊を鎮める儀礼がさまざまな文脈において行われた。たとえば現代の問題としていえば、戦争の犠牲者を靖国神社にまつり、その霊を鎮めることによって国家の政治的罪悪性を免罪し、祟りの発現を回避しようとする企てが支配層によって行われたのもその一例である。また今日の新宗教運動の多くが、現在の不幸や病気の原因を先祖の霊の祟りの作用であると説明し、その祟りの消除のため先祖供養を勧めているのも、古くからの祟り信仰に基礎をおいたものということができるであろう。
以上述べてきた祟り現象の諸相は、要するに特定の人間の執念や怨念が凝りかたまって呪詛霊となり、それに感染することによって異常現象が発生するというものであるが、これはある意味でニーチェのいう〈ルサンティマン(怨恨感情)〉の発現と類似している。かつてニーチェは、原始キリスト教の成立とフランス革命の発生の心理的動機を、社会の水平化現象をひきおこすルサンティマンによって説明しようとした。すなわち逆境にある者、虐げられた者の反抗の倫理、不自由な、持たざる弱者たちによる強者への復讐の感情がそれであるとしたのであるが、これは日本における祟りの発現が、つねに共同体内部における社会病理学的現象として意識されたことと好対照をなす視点であるといえよう。怨恨感情の解放が社会変革への導火線となったというのがニーチェの考えであるが、これに対して日本の伝統的な祟り信仰は、その病原体としての祟りを呪術・宗教的に鎮静させ、最終的にそれを除去することを目ざす点で社会変革のための心理的動機にはなりにくかったということに注目すべきであろう。
 

 

 
 

 

 
 
■諸話
 

 

鬼神

 

1
きじん、おにがみとも読む。普通人の耳目ではとらえることができない、超人的な能力をもつ存在で、人間の死後の霊魂や鬼、化け物などをいう。 (→鬼〈き〉)
2
《「鬼神(きしん)」を訓読みにした語という》荒々しく恐ろしい神。きじん。
3
《「きしん」とも》 荒々しく恐ろしい神。おにがみ。また、化け物。変化(へんげ)。「断じて行えば鬼神も之(これ)を避く」。天地万物の霊魂。死者の霊魂と天地の神霊。「天地を動かし―を感ぜしめ」〈古今・真名序〉。仏語。超人的な能力をもつ存在の総称。
4
中国では亡霊を鬼(き)といい、特に横死してまつられない亡霊(幽鬼)は祟(たたり)があるとした。鬼神も祖霊などの半人半神の霊的存在、ことに荒ぶる神霊をいったが、仏教伝来後、その羅刹(らせつ)などの影響で怪異な姿の悪鬼に描かれるようになった。日本の鬼(おに)も中国の鬼神の影響を受けている。なお、西洋のデーモンに鬼神、デモノロジーに鬼神学の訳が与えられることがある。
5
中国において死者の霊魂をいう。人間は陽気の霊で精神をつかさどる魂と、陰気の霊で肉体をつかさどる魄(はく)との二つの神霊をもつが、死後、魂は天上に昇って神となり、魄は地上にとどまって鬼となると考えられた。鬼神は超自然的な力を有し生者に禍福をもたらす霊的な存在であり、その顕現の仕方によって善神と悪鬼との両様に分かれ、祭祀と祈祓(きふつ)の対象となる。また、天地造化の霊妙なはたらきそのものをも指すことがある。
6
荒々しく恐ろしい神。鬼神きじん。 「目に見えぬ−をもあはれと思はせ/古今 仮名序」。
7
荒々しく恐ろしい神。 「 −をも拉ひしぐ活躍」 「断じて行えば−もこれを避く」。人の目に見えず、超人的な力をもつ存在。 「我れ、諸の−ならびに夜叉神などを召して/今昔 4」。鬼。 「大江山の−の事/謡曲・大江山」。天地万物の霊魂。死者の霊魂と天地の神霊。 「天地を動かし−を感ぜしめ/古今 真名序」。
8
死者の霊魂を神として祀(まつ)ったものをいう。これを「きじん」ともいうが、その場合は荒々しい鬼の意として使われることが多い。オニガミということばは恐ろしい神の意とされている。『古今和歌集』の仮名序に「力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ……」と書かれている。鬼神という語は中国より伝来したもので、その意義は多様である。祖先または死者の霊魂をいうが、幽冥界(ゆうめいかい)にあって人生を主宰する神ともされており、さらに妖怪変化(ようかいへんげ)ともみられている。中国の古典にはいろいろと鬼神のことが述べられている。たとえば『礼記(らいき)』には鬼神が天地、陰陽(いんよう)あるいは山川と連想されたり、併称されたりしている。そして鬼神を祀ることが礼であるという。この鬼神の語がわが国に移入されたのであるが、鬼は一般に妖怪のように悪者とされている。鬼退治の伝説、昔話が多く語られている。大江山の酒呑童子(しゅてんどうじ)や桃太郎の昔話などでよく知られている。しかしその一方に、戦場に赴く者が「死して護国の鬼とならん」などというのは、中国の鬼神と相通じるものがあり、人の過去帳に載るのを「鬼籍に入る」という漢語表現も使用されているのである。
9
(「鬼神(きしん)」の訓読か) 目に見えない精霊。荒々しく恐ろしい神。※古今(905‐914)仮名序「めに見えぬ鬼神をもあはれとおもはせ、をとこ女のなかをもやはらげ、たけきもののふの心をもなぐさむるは哥(うた)なり」。借金を取り立てに来る者。債鬼。※雑俳・柳多留‐三九(1807)「目に見へる鬼かみの来る大晦日」。
10
(「鬼」は死者の霊魂、「神」は天地の神霊の意) 天地万物の霊魂。また、神々。※続日本紀‐神亀四年(727)二月甲子「時政違乖。民情愁怨。天地告レ譴。鬼神見レ異」。※古今(905‐914)真名序「動二天地一感二鬼神一」 〔礼記‐楽記〕。仏語。超人間的な威力や能力をもったもの。仏法護持の、梵天、帝釈などの天や龍王、および夜叉など天龍八部衆を善鬼神、羅刹などを悪鬼神とする。※法華義疏(7C前)一「緊那羅。乾闥波。即是鬼神」。※今昔(1120頃か)四「我諸の鬼神并に夜叉神等を召して」。変化(へんげ)。鬼。恐ろしい神。※霊異記(810‐824)上「鬼神を駈(おひ)使ひ、得ること自在なり」。※謡曲・羅生門(1516頃)「丹州大江山の鬼神を従へしよりこのかた」。[補注]「日葡辞書」では、漢音読みのキシンと呉音読みのキジンとでは意味が異なっているとする。すなわち、キシンは神になった死者の魂をいい、神と悪魔をいうのに対して、キジンは悪魔だけを指すという。
11
鬼神とは、恐ろしく荒々しい神という意味です。善神と悪鬼の双方があり、それぞれが祭祀や祈祓の対象になっています。鬼神は、一般の人には、見えない、聞こえないような超人的な能力を持つ存在として畏れられています。鬼神を鬼と同義に使うこともあります。中国では、亡霊のことを鬼とよび、特に横死して祀られることのない亡霊は幽鬼で、崇りがあるとされています。こうした鬼神は、恐ろしい悪鬼として描かれるのが一般的です。人が死んだあとの霊魂や、鬼、化け物のことは鬼神とよんでいます。人には精神をつかさどる魂という陽の霊と、肉体をつかさどる魄という陰の霊があり、人が死ぬと魂は天上へ昇って神となり、魄は地上にとどまって鬼になると考えられていました。また、鬼神は天地万物の霊魂を差し、死者の霊だけでなく、天地に宿る神霊の総称として使う言葉でもあります。「鬼神に横道なし」と言う言葉がありますが、天地万物の神霊は、正道を外れるようなことはしないという意味です。
12
おにがみ / 荒々しく恐ろしい神。出典古今集 仮名序「目に見えぬおにがみをも、あはれと思はせ」[訳] (和歌は)目に見えない荒々しく恐ろしい神をも、しみじみと感動させ。「鬼神(きじん)」の訓読。
きしん / 天地万物の霊魂。出典古今集 真名序「天地を動かし、きしんを感ぜしめ」[訳] 天地を動かし、天地万物の霊魂を感激させ。「鬼」は死者の霊魂、「神」は神霊の意。
きじん / 超人間的な威力・能力をもつ目に見えないもの。おにがみ。出典平家物語 九・坂落「ただきじんの所為(しよゐ)とぞ見えたりける」[訳] ただ超人的な力をもつなにものかの仕業と思われた。仏教語。鬼(おに)。
13
…1800年(寛政12)刊。近世思想史上の一争点であった〈鬼神〉の存在について、人間の生死を〈陰〉〈陽〉二気の集合離散と見る立場から、人間の死後、〈陰〉は〈鬼〉、〈陽〉は〈神〉となって天地に帰ると合理的に説明しているが、一面では超自然の怪異もみとめている。ために後年、山片蟠桃(やまがたばんとう)の《夢の代》の無鬼論、平田篤胤(あつたね)の《鬼神新論》の有鬼論の双方から批判された。…
…これが自然と人間の精神の同質性、あるいは類似性という中国古典思想の根本であり、後世、詩画による山水への逃避、人間世界を超えた理想郷を胸中に現出させたところの山水臥遊の精神に受けつがれるのである。 このような神仙生活の場に登場したのが鬼神であり、山や川、沼や池はもとより、天地にはそれぞれの神が宿る。ところが孔子によれば〈君子は鬼神を敬して遠ざけ〉てしまう。… 
悪神 
1
人に災いや害を与える神。
2
悪い神。災いをなす神。
3
人にわざわいをなし、世を乱す神。⇔善神。→荒ぶる神。※平家(13C前)八「むかしは宣旨をむかってよみければ、枯れたる草木も花さき実なり、悪鬼悪神も随ひけり」。(「あく」は接頭語) 荒々しく乱暴な神。※神道集(1358頃)一「抑伊弉諾伊弉冊尊の御子、一女三男者、一者素盞烏尊、悪神なれば」。
4
高天原の神々に従わず、また高天原に帰属しない神々。別名 荒振神、邪神、暴神。
5
…自然神とは日月星辰や風雨雷雲のような天体・気象現象を神格化したものであり、また木石や山水に精霊の存在を認めてこれを聖化したものである。つぎに人間神は人間を神格化した一群で、一般に男神・女神、善神・悪神、創造神・破壊神、英雄神・文化神などを指し、同時に人間の生活機能をつかさどる農神・工神、狩猟神・漁労神などの機能神や、共同体の繁栄と運命をつかさどる守護神などもここに含められる。また人間神のうち重要な役割を果たしているのが死者の霊を神格化した祖先神である。…
…邪神、暴神、悪神とも書く。高天原の神々に従わず、また高天原に帰属しない神々のこと。…
…眷属の悪鬼悪神恐るゝ故に、神社にて、殊に先を追ふべき理ことわりあり(吉田兼好『徒然草』第196段) / 神に付き従う悪鬼や悪神を恐れるからこそ、神社ではことさらに行列の先払いをしなければならない理由があるのだ。…
…それは別段軍事上の目的で建てられたものでなくて、宗教上その門に仏を祭りあるいは神を祭りその村に悪神等の入り込まないように建ててあるところのものであります。(河口慧海『チベット旅行記』)
6
[昭和52年2月号 / 聖師と霊界物語] 
内容が分かりやすいと悪神に仕組みをとられてしまう
“・・・・・・そして物語の第一巻が発表されるわけですが、さっぱり理解できません。聖師にうかがっても、「お前は頭が悪いから分からないのだ、もっと一生懸命に読め、くり返し読むうちに分かってくる」とおっしゃるだけです。しかしいくら一生懸命読んでも、どうしても理解できません。ふたたび聖師におうかがいすると「これは分かる人には分かるのだ」「いまのうちに発表しておかなくてはならぬ、お前が出版関係の責任者になって、早く出版せよ」と命じられました。しかし「私は理解できなくて苦労しております」と申し上げると、「お前は大バカ者だ、だから勉強せい、官憲と交渉するのもお前がよい」とのお言葉でした。当時はたいへん厳しい検閲でしたから、原稿、校正ズリをもって、日に何回も特高警察に行かなくてはなりません。そしてそのたびに「ここはいかん、ここは消せ、これはけしからん」と全部チェックです。おまけに「ここはどういう意味だ、お前わかるのか」、わかると言えば分かるし、分らんといえばわからんです、と答えると、「分らんものをもって来てどうするんじゃ、もって帰れ」とお説教です。でも出版すれば分かりますと応えると、「バカ野郎、お前が分らんものを出版してどうする。変なものを出版すると大本はまた問題になるゾ、お前が責任をとるのか」、責任をとか言われても私は困ります。聖師が出せというから出版するのです、いけまへんか。「お前ぼけとるのか、もういっぺん出なおしてこい」ということで、何回も京都〜綾部を往復しました。しかられて「やっぱりダメでした」と帰ると、こんどは聖師のお説教です。「お前の交渉が悪いからじゃ、お前は心の中に『私』があるからだめなのだ。私の心がなくなったら神様が使ってくださり、検閲の刑事にも分かるようになる」と教えられ、再び警察に参ります。すると「お前の言うことはサッパリ分らん。おまえ気がおかしいんじゃないか」・・・・・・“
“・・・・・・物語は神様が出せとおっしゃるのですから、何が何でも出版しなければなりません。さきほど申しましたように私自身も理解できませんでしたが、しかし、これが本当の教えだとおっしゃるのですから、そう信じるよりありませんでした。ある時、私はあまり皆が分らんというので、聖師に「もう少し分かりやすいのを出してください」と申し上げると、聖師は「あまり分かるものを出したら悪神に仕組みを取られる。五十年か六十年先になったら、こういう官憲の圧迫もなくなるし、時代がどんどん進んでものの考え方が広くなり、物語も必ず理解されるようになるから、それまで辛抱せい」とおっしゃいました。その言葉を聞いて、私はさっそく計算してみました。「まてよ、その頃おれはいくつになるんだろう」、そして聖師さまに、「その頃にはもう、天国に行っているかもしれませんよ」と申し上げると、「お前は生きているかもしれない」といわれました。“  
魔神 
1
魔神とはその名の通り魔の神である。とはいえ必ずしも「悪しき者」という意味で意味で使われるとは限らない。強大な力を持つ神霊、あるいは人を超越した存在に対してこの呼び名が使われることが多い。また、音が同じなため、魔人と混同されて使われる場合も多い。
2
魔神とは、災いをもたらす神、もしくは悪魔のことで、特に上級悪魔を指して「魔神」と称する場合もある。
3
(「ましん」とも) 魔の神。災禍を起こす神。悪魔。まがみ。※俳諧・虚栗(1683)下「枯藻髪栄螺の角を巻折らん〈其角〉 魔神を使(し)とす荒海の崎〈芭蕉〉」。 
 
「鬼神」の読み方と例文

 

きじん
「はて魔の者にした処ところが、鬼神きじんに横道おうどうはないといふ、さあ/\かたげて寝やすまつしやれいの/\。」二世の契 (新字旧仮名) / 泉鏡花
「ほん当にそうじゃなもし。鬼神きじんのお松まつじゃの、妲妃だっきのお百じゃのてて怖こわい女が居おりましたなもし」坊っちゃん (新字新仮名) / 夏目漱石
「倭将わしょうは鬼神きじんよりも強いと云うことじゃ。もしそちに打てるものなら、まず倭将の首を断たってくれい。」金将軍 (新字新仮名) / 芥川竜之介
「其處そこには獰猛どうまう鬼神きじんを欺あざむく數百すうひやくの海賊かいぞくが一團體いちだんたいをなして」海島冒険奇譚 海底軍艦:05 海島冒険奇譚 海底軍艦 (旧字旧仮名) / 押川春浪
「既すでに鬼神きじんに感応かんおうある、芸術家げいじゆつかに対たいして、坊主ばうずの言語げんごと挙動きよどうは」神鑿 (新字旧仮名) / 泉鏡花、泉鏡太郎
「昔は煙客翁がいくら苦心をしても、この図を再び看みることは、鬼神きじんが悪にくむのかと思うくらい、ことごとく失敗に終りました。」秋山図 (新字新仮名) / 芥川竜之介
「谷を上のぼって峰がまた転ずると、今度は薊あざみ谷と共に雲仙の二大渓谷であり、また同じ旧噴火口であるところの鬼神きじん谷の真上に出る。」雲仙岳 (新字新仮名) / 菊池幽芳
「という声の下に、彼はエイッと叫んで身体を振った。その鬼神きじんのような力に、元気な一郎だったが、たちまち摚どうと振りとばされてしまった。」恐怖の口笛 (新字新仮名) / 海野十三
「馬琴ばきんに至つて初めて「船虫ふなむし」を発見し得るが、講談としては已に鬼神きじんお松まつ其他そのたに多くの類例を挙げ得るであらう。」虫干 (新字旧仮名) / 永井荷風
「雲仙には薊あざみ谷、鬼神きじん谷のような、上から見下みおろして美しい渓谷はあるが、渓谷それ自らの内部にこれほどの美を包容する渓谷はない。」雲仙岳 (新字新仮名) / 菊池幽芳
「戦場に立っては、鬼神きじんもひしぎ、家庭にあっては、平素でも、泣くことを知らないといわれている人々が、ほとんど、手放しで、慟哭どうこくしていた。」新書太閤記:06 第六分冊 (新字新仮名) / 吉川英治
「息子むすこの性せいは善ぜんにして、鬼神きじんに横道わうだうなしと雖いへども、二合半こなから傾かたむけると殊勝しゆしようでなく成なる。」大阪まで (旧字旧仮名) / 泉鏡花、泉鏡太郎
「恁かくてこそ鬼神きじんと勇士ゆうしが力較ちからくらべも壮大そうだいならずや。」怪力 (新字旧仮名) / 泉鏡花、泉鏡太郎
「鬼神きじんのお松まつといふに至いたつては、余あまりに卑いやしい。」十和田湖 (新字旧仮名) / 泉鏡花、泉鏡太郎
「けれど、彼方かなた天魔てんま鬼神きじんを欺あざむく海賊船かいぞくせんならば一度ひとたび睨にらんだ船ふねをば如何いかでか其儘そのまゝに見遁みのがすべき。」海島冒険奇譚 海底軍艦:05 海島冒険奇譚 海底軍艦 (旧字旧仮名) / 押川春浪
「鬼神きじんも今のあなたの姿すがたを見てはあわれみを起こすだろう。」俊寛 (新字新仮名) / 倉田百三
「「え。殺されてもどきません!」お妙は、さながら鬼神きじんにでも憑つかれたように、壁辰と喬之助の間にぴったり坐って、じりり、膝頭ひざがしらで板の間をきざんで父に詰め寄った。」魔像:新版大岡政談 (新字新仮名) / 林不忘
「昔は、川柳せんりゅうに、熊坂くまさかの脛すねのあたりで、みいん、みいん。で、薄すすきの裾すそには、蟋蟀こおろぎが鳴くばかり、幼児おなさごの目には鬼神きじんのお松だ。」若菜のうち (新字新仮名) / 泉鏡花
「「鬼神きじんが鬼神に遇うたのじゃ。父上の御身おみに害がなかったのは、不思議もない。」と、さも可笑おかしそうに仰有おっしゃいましたが、その後また、東三条の河原院かわらのいんで」邪宗門 (新字新仮名) / 芥川竜之介
「対手あひてが鬼神きじんでは文句もんくはない筈はづ。」神鑿 (新字旧仮名) / 泉鏡花、泉鏡太郎
「剛勇ごうゆうにして鬼神きじんもさけるほどの人物」少年探偵長 (新字新仮名) / 海野十三
「有王 (俊寛を抱だきかかえたるまま)ご主人様、お気をおたしかに! あゝ、いたわしや。あまりに苦しみがすぎました。鬼神きじんもおあわれみくだされい。かかる苦しみが歴史の記録にもありましょうか。」俊寛 (新字新仮名) / 倉田百三
「四方しはうの夜よるの鬼神きじんをまねき」『春と修羅』 (新字旧仮名) / 宮沢賢治
「将門は一心不乱の鬼神きじんになった。」平の将門 (新字新仮名) / 吉川英治
「大都會だいとくわいの喧騷けんさうと雜音ざつおんに、その日ひ、その日ひの紛まぎるゝものは、いつか、魔界まかいの消息せうそくを無視むしし、鬼神きじんの隱約いんやくを忘却ばうきやくする。」火の用心の事 (旧字旧仮名) / 泉鏡花、泉鏡太郎
「まるで鬼神きじんでござります」八ヶ嶽の魔神 (新字新仮名) / 国枝史郎
「鬼の女房にょうぼに鬼神きじんの譬たとえ、似たもの夫婦でございまして、仙太郎の女房にょうぼうお梶は誠に親切者でございまするから、可愛相な者があれば仙太に内証ないしょで助けて遣りました者も多くあります。」粟田口霑笛竹(澤紫ゆかりの咲分):02 粟田口霑笛竹(澤紫ゆかりの咲分) (新字新仮名) / 三遊亭円朝
「僕は鬼神きじんのような冷徹さでもって、ミチミの身体を嚥のんだ空虚からの棺桶のなかを点検した。そのとき両眼に、灼やけつくようにうつったのは、棺桶の底に、ポツンと一と雫しずく、溜っている凝血ぎょうけつだった。——おかしいわネ。」棺桶の花嫁 (新字新仮名) / 海野十三
「すこしもはやく、水道門の堰せきをきって、間道かんどうのなかへ濁水だくすいをそそぎこめ、さすれば、いかなる天魔てんま鬼神きじんであろうと、なかのふたりが溺おぼれ死ぬのはとうぜん、しかも、味方にひとりの怪我人けがにんもなくてすむわ」神州天馬侠 (新字新仮名) / 吉川英治
おにがみ
「鬼の亭主に鬼神おにがみで、大概たいがいの物に驚くような女ではありませんが、この時ばかりは全くギョッとしました。」銭形平次捕物控:021 雪の精 (新字新仮名) / 野村胡堂
「——何を! 相手が鬼神おにがみだって、俺が必死に突っかかりゃあ、打ぶっ倒せねえことがあるものか——」雪之丞変化 (新字新仮名) / 三上於菟吉
「今度飛鳥あすかの大臣様おおおみさまの御姫様が御二方、どうやら鬼神おにがみのたぐいにでもさらわれたと見えて、一晩の中に御行方おんゆくえが知れなくなった。」犬と笛 (新字新仮名) / 芥川竜之介
「と火鉢に手をかけ、斜めに見上げた顔を一目。鬼神おにがみなりとて否むべきか。」式部小路 (新字新仮名) / 泉鏡花
「……かねての風説、鬼神おにがみより、魔よりも、ここを恐しと存じておるゆえ、いささか躊躇ちゅうちょはいたしますが、既に、私わたくしの、かく参ったを、認めております。」天守物語 (新字新仮名) / 泉鏡花
「加茂川は鬼神おにがみの心をも和やわらぐるという歌人うたびとであるのみならず、その気立が優しく、その容貌も優しいので、鼻下、頤あぎとに髯ひげは貯たくわえているが」三枚続 (新字新仮名) / 泉鏡花
「たかが生ッ白ちろい痩やせた野郎、鬼神おにがみではあるめえ。」活人形 (新字新仮名) / 泉鏡花
「○僅わづかに三十一みそひと文字を以てすら、目に見えぬ鬼神おにがみを感ぜしむる国柄なり。況いはんや識者をや。目に見えぬものに驚くが如き、野暮なる今日の御代みよにはあらず。」青眼白頭 (新字旧仮名) / 斎藤緑雨
「さて宗山とか云う盲人、己おのが不束ふつつかなを知って屈死した心、かくのごときは芸の上の鬼神おにがみなれば、自分は、葬式とむらいの送迎おくりむかい、墓に謡を手向きょう、と人々と約束して、私はその場から追出された。」歌行灯 (新字新仮名) / 泉鏡花
「信長様といえば、たれもみな震ふるい恐れるので、どんなお方やらと思っておりましたら、世にも尠ないほどお優しい御主人でいらっしゃいます。あんな優雅な殿が、馬上となれば、鬼神おにがみも恐れるようなお人になるのかと、思わず疑われました。」新書太閤記:04 第四分冊 (新字新仮名) / 吉川英治
「これは噛めという犬だ。この犬を相手にしたが最後、どんな恐しい鬼神おにがみでも、きっと一噛ひとかみに噛み殺されてしまう。ただ、己おれたちのやった犬は、どんな遠いところにいても、お前が笛を吹きさえすれば、きっとそこへ帰って来るが、笛がなければ来ないから、それを忘れずにいるが好い。」犬と笛 (新字新仮名) / 芥川竜之介
「日本の歌の卅一文字に一つ多い三十二綴音から成り立ち普通首廬迦と云ふ詩體で人生の大禮の一たる婚姻のときに立合ふ人々の心をわづかの文字で叙し去つたものであるから、やまと歌のやうに天地あめつちを動かし鬼神おにがみを泣かすと云ふやうなはたらきはないが川柳せんりゆうのやうに寸鐵骨をさすやうな妙は」婚姻の媒酌 (旧字旧仮名) / 榊亮三郎
きしん
「帝都の暗黒界からは鬼神きしんのように恐れられている警視庁の大江山捜査課長は、その朝ひさかたぶりの快こころよい目覚めざめを迎むかえた。」恐怖の口笛 (新字新仮名) / 海野十三
「蓋けだし教をしへのために、彼かの鬼神きしんを煩わづらはすもの也なり。」怪談会 序 (旧字旧仮名) / 泉鏡花
「人意じんい焉いづくんぞ鬼神きしんの好惡かうをを察さつし得えむや。」怪談会 序 (旧字旧仮名) / 泉鏡花
「己れ炊事を親みずからするの覚悟なくば彼かの豪壮なる壮士の輩はいのいかで賤業せんぎょうを諾うべなわん、私利私欲を棄すててこそ、鬼神きしんをも服従せしむべきなりけれ。」妾の半生涯 (新字新仮名) / 福田英子
「季路、鬼神きしんに事つかえんことを問う。子曰く、未だ人に事うる能あたわず、焉いずくんぞ能よく鬼きに事つかえん。曰く、敢えて死を問う。曰く、未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん。」孔子 (新字新仮名) / 和辻哲郎
モノ
「其でも、山の鬼神モノ、野の魍魎モノを避ける爲の燈の渦が、ぼうと梁に張り渡した頂板ツシイタに搖ユラめいて居るのが、たのもしい氣を深めた。」死者の書 (旧字旧仮名) / 折口信夫、釈迢空
「其でも、山の鬼神モノ、野の魍魎モノを避ける爲の燈の渦が、ぼうと梁に張り渡した頂板ツシイタに搖ユラめいて居るのが、たのもしい氣を深めた。」死者の書 (旧字旧仮名) / 折口信夫
「石城シキを掘り崩すのは、何処からでも鬼神モノに入りこんで来い、と呼びかけるのと同じことだ。」死者の書 (新字旧仮名) / 折口信夫
「石城シキを掘り崩すのは、何處からでも鬼神モノに入りこんで來い、と呼びかけるのと同じことだ。」死者の書 (旧字旧仮名) / 折口信夫、釈迢空
「石城シキを掘り崩すのは、何處からでも鬼神モノに入りこんで來い、と呼びかけるのと同じことだ。」死者の書 (旧字旧仮名) / 折口信夫
「其でも、山の鬼神モノ、野の魍魎モノを避ける為の灯の渦が、ぼうと梁ハリに張り渡した頂板ツシイタに揺ユラめいて居るのが、たのもしい気を深めた。」死者の書 (新字旧仮名) / 折口信夫
もの
「其でも、山の鬼神もの、野の魍魎ものを避ける為の燈の渦が、ぼうと梁に張り渡した頂板つしいたに揺らめいて居るのが頼もしい気を深めた。」死者の書:――初稿版―― (新字旧仮名) / 折口信夫
「其でも、山の鬼神もの、野の魍魎ものを避ける為の灯の渦が、ぼうと梁はりに張り渡した頂板つしいたに揺めいて居るのが、たのもしい気を深めた。」死者の書 (新字新仮名) / 折口信夫
キジン
「顕家は決意した。——断ジテ行クトコロ鬼神キジンモ避ク——とは、おそらく、そのときの彼の胸中であったろう。」私本太平記:13 黒白帖 (新字新仮名) / 吉川英治
デモーネン
「「あれらの自己に対する信頼、現在の可見世界に於ける精神的創造の活動、祖先としての神々への純粋なる崇拝、芸術品としてのみの神々の讚嘆、力強き運命に対する帰依」——等の讚嘆詞に於ける神々を、鬼神デモーネンと訂正して、自身の蓋然思想プロバビリスムと争はずには居られなかつた。」痴酔記 (新字旧仮名) / 牧野信一  
 
仏教の鬼神たち

 

人生には色々なことがある、と言われます。仏教の神仏の中にも、意外と濃い人生を送っている方が多く存在していました。中でも変動が激しいのが、鬼神とされる面々です。鬼のイメージの元でもあります。
仏教の仏には如来、菩薩、明王、天の位がありますが、如来と菩薩は悟りと衆生の救済に関係しています。明王と天は戦闘のイメージが強いです。明王はちょっと強引なスカウトマン兼熱血教師と言ったところ。天はスカウトされた、もしくは自分の意思で仏教に入った、元はインド神話の神々に当たります。多くが仏法を守り、衆生を守るのがお役目です。
興福寺の像があまりに有名で、仏教界でも1、2を争う美少年的なルックスと謳われる阿修羅。しかし元は鬼神でした。元を正すとヒンドゥー教のアスラという神の一族になります。『リグ・ヴェーダ』という教典ではヴァルナなる神に仕えており、多少呪術を使うものの悪魔的要素はありませんでした。しかし、時代が変われば人気も変わって来ます。インドラの人気が上がると、ヴァルナに使えるアスラが主人を差し置いて「怖い悪鬼神」とされるようになりました。ヒンドゥー教では完全に悪役です。しかし、力に胡坐をかく神々とは違い自分たちに壮絶な修行を課すことで神を超える力を得るなど、少年漫画の主人公のような立ち位置でした。仏教では正義の神とされていましたが、インドラが仏教入りした帝釈天との戦いが元でどんどん荒んでインド時代の「悪者」に逆戻りします。そんな中お釈迦様に出会い、救われて護法神となりました。やはり主人公要素がてんこ盛りです。
夜叉というと怖いイメージがあるでしょう。創作物などでは「鬼」の代名詞のように使われることも多々あります。阿修羅同様、元は完全に悪者ではありませんでした。元はヤクシャ(女性はヤクシニー)という名前で、二面性のある鬼として描かれました。つまり、人を食う面と救う面です。大元は森の精霊で、自然の持つ恐ろしさと恩恵が、ヤクシャという鬼神一族の元となったの拿個しれません。仏教に入ってからは毘沙門天(インド名クベーラ)の元、護法神として活躍中です。
夜叉と同じような出自の鬼神として羅刹が挙げられます。こちらもまた自然物に宿る精霊でした。元はクベーラに仕えていましたが、その弟のラーヴァナが兄弟喧嘩の果てに勝利。ラクシャサたちはそろってラーヴァナの部下となり、神々と戦う羽目になりました。このラーヴァナという神様、10個もある頭を切り落として燃やす苦行を決行する、シヴァ神の住処を揺らす、他の神様の戦車を強奪する、人妻をさらうなどやりたい放題のやんちゃ神でした。この神に仕えていた為か、ラクシャサも人食い鬼とされるようになります。仏教に入ってからはクベーラ改め毘沙門天の眷属に復帰。共にご方針となりました。しかし恐ろしい鬼のイメージがあまりに強かったので、地獄で亡者を懲らしめる役を仰せつかります。悪党をも簡単に懲らしめると言うわけです。ちなみに、羅刹のかつての主、ラーヴァナは冥界の神々、ヤマにも戦いを挑みました。ヤマは仏教では閻魔様と呼ばれています。
恐ろしいイメージのある鬼、鬼神ですが、その根底には時代や人々の心の変遷がありました。「この神様を勝たせるために、こっちを悪役にしよう」という点が少なからずあるのが神話です。そんな人間の心境の移り変わりが、何だか鬼より怖くもあり、また面白くもあります。
 
鬼神の性格に關する一考察 〜禮記を中心として〜

 

初めに
周知の如く鬼神とは、抽象的未確認な存在である。それ故に鬼神の種類も多く、性格も一定ではない。多様な性格を持つと言う事は、衆人の鬼神に対する認識態度が不特定で、実在性に関してすら疑問を有する為である。則ち鬼神の実体を見聞した人に於いて、その実在性はより具象的存在物となり、未見聞の人に於いては、あくまで抽象的存在物としての範囲内に於いてのみ認識出来るのである。それは、中国古代人の認識形態が、論理的ではなく経験的であり、個人的体験に基づく認識が、実際的存在物と為り易いと言う結果に因る。
鬼神に関しては、『礼記』中にも記載が多く、その中でも特に、祭法・祭義・祭統の三篇に多く詳説されている。故に鬼神が祭祀と深い関係に在った事は確かである。しかし、この三篇中に於ける鬼神の説明は、極めて礼的洗練を受けて整理された、政治色の強い鬼神であって、鬼神の存在が発生した時点〜或いは存在が認識された時点〜、則ち原始鬼神の所有していた性格とは、社会的相違が有る。これは、鬼神の存在よりも存在自体を必要とした社会の、社会的要求に相違が有る為だとも言えよう。
鬼神と言う言葉の概念も一定ではなく、人鬼を称して単に鬼・鬼神と呼ぶ時と、人鬼・天神とを併称して鬼神と呼ぶ時とが有る。一般的には鬼でも鬼神(注1)でも共に同義的に使用されている点から、互いに相通ずる性質(注2)を持っていたとも言えよう。
以上鬼神に対する認識論・種類・祭祀との関係等に因り、鬼神の存在が如何なる社会的意味、如何なる社会的性格を持っていたか、と言う点に関して若干の考察を試みてみたい。

(1)人鬼の時と、天神と併称した時との、両方の場合を指しての鬼神である。
(2)共に祭祀の対象であると言う意味に於いての共通性。
1、鬼神に對する認識形態
中国の古代人は如何鬼神の存在を認識したのであろうか。儒家中より孔子、諸家中より墨子、漢代より合理主義者の王充、この三者の認識形態を考えてみる。王充を取り上げたのは、鬼神の記述が尤も多い『礼記』が漢代に成立した書(注1)であり、当然その中には当時の人々就中礼制の影響を受けた文化知識人の思考傾向を、含むと考えられるからである。
孔子は、民の義を務めて鬼神は敬して遠ざく(注2)存在であるとし、鬼神に対しては尊敬の念を払う可きも、親狎す可きではないとの態度を採り、敢て理論的追求を行っていない。鬼神の存在が当時の人々に於いて、極めて切実な問題であるにも拘わらず、『論語』先進篇に
「季路問事鬼神。子曰、未能事人、焉能事鬼。」
と言うが如く、あまり鬼神の対処には執着していない。則ち、形態を伴わない形而上的存在に執らわれる事は、現実に行う可き形而下的存在を軽視する結果にもなりかねない、との配慮に他ならない。孔子は、夏・殷・周の三代の鬼神に対する態度を説き、過親・不親・過尊・不尊、孰れの状態も良くなく、必ず何らかの弊を生じている(注3)とする。彼の鬼神に関する対処方法は、『礼記』檀弓上に
「孔子曰、之死而致死之、不仁而不可爲也。之死而致生之、不知而不可爲也。」
とも言えば、極めて微妙な感覚であり、過不及無く敬を尽くすのが最良の手段となる。彼の鬼神に対する観念は、敬遠主義であり、その背景には、彼の基本的態度とでも言う可き現実主義、則ち、常に今を如何に生く可きかと言う現実重視の合理主義的思考に因って貫かれている。鬼神が祭祀の対象である以上、如何に祀るかが問題となる。孔子は「如在」(注4)と言う。この二字が持つ意味を考えてみるに、実際には存在しない事を認知してはいるが、反面実在を願望すると言う意味内容を持つと推測される。則ち孔子は、鬼神を心理的心霊現象としては認めても、物理的心霊現象としては否定している。孔子の鬼神に対する敬遠主義は、『論語』述而篇の、
「子不語怪・力・乱・神。」
と言う一文が、端的に表現していると言えよう
孔子以上に現実的立場を採るのが墨子である。彼は『墨子』明鬼篇の中で、
「天下乱、何以然也、則皆以疑惑鬼神之有與之別、不明乎鬼神之能賞賢而罰暴也、今若使天下之人、偕若信鬼神之能賞賢而罰暴也、夫天下豈乱哉。」
と言い、天下の混乱は、人々が鬼神の実在と鬼神の持つ超自然的能力を信じない結果生じると論ずる。逆説的に言えば、鬼神が存在すれば天下の安静が保てると言う、政治顧問的要素を鬼神に与えている。鬼神の存在に有無が生じるのは、前述の如く個人的体験に因って確認される為で、鬼神の姿態を見聞したとする人に於いてのみ、その存在はより強く認知される。墨子は鬼神の実在を、古より以来の歴史事件に基づいて証明しようとしている。
○周の宣王が無罪の臣杜伯を殺し、鬼神の誅を受けた(注5)事件。
○鄭の穆公が宗廟で鬼神と会見した事件。
○燕の簡公が無罪の臣荘子儀を殺し、鬼神の誅を受けた(注6)事件。
○宋の詞の鬼神がコウ(示+后)観罪を誅した(注7)事件。
○斉の中里徼が鬼神に誅された事件。
以上の五例は全て罰暴であり、賞賢の例は絶無である。則ち、彼に於いては鬼神は降禍を主的行為とし、人間の反道徳的行為を阻止する事を目的とした存在として認識されている。その他『詩経』の文(注8)や、武王が殷を亡ぼし諸侯を親疏に分かち各々内外祀を受けさせた(注9)事実は、鬼神の存在を信じたからに他ならず、仮に不信ならば祭祀の必要も無い、故に聖王は建国に当たり必ず宗廟を建て鬼神を祀る(注10)のであると論じ、祭祀と言う儀式が存在するが故に鬼神も存在すると言う逆説的論法に因り、鬼神の存在を証明しようとしている。この点までは実証的論証であるが、一転して功利的論法となる。『墨子』明鬼篇に、
「若使鬼神請有、是得其父母ジ(女+似)兄而飲食之也。豈厚利哉。若使鬼神請亡、乃費其所為酒醴粢盛之財、然非特棄之也。内者宗族、外者郷里、皆得如具飲食之、雖使鬼神請亡、此猶可以合驩聚衆、取親於郷里、此豈非天下利事哉。」
と言う。則ち、鬼神が存在すれば当然薦具物は鬼神が飲食する。存在しなければ無駄になる。だが代わって宗族や知己の人々が飲食し、親睦を図る上に於いて意義が有り、天下の利事であるとする。要するに、鬼神の存在自体には別に問題は無く、存在したと仮定した時、それに伴う行為に如何なる意義が有るかが問題となっている。ここに於いて、鬼神の存在の真偽の問題が、実際の効用性の問題に転換されている。既に鬼神の利用価値の有無に問題がある。天下の為に有利であれば存在し(存在しなくても)、無益であれば存在しなくなる(存在しても)、極端なまでの功利主義である。存在性を信することに因り賞賢罰暴を行い易く、それを国家万民に施行することの方が重要であり、実に治国済民を利する所以の道でもある。故に聖王は必ず鬼神の禍福を知り天下の利害を興除する(注11)のである。「利」と言う概念の前に於いては、超自然的世界の存在物と雖も、人間界と何ら変わること無く(注12)、如何に墨子が現実社会に於ける利害関係を重視したかが窺えよう。鬼神の存在は、真偽の如何に拘わらず政治機構保持も為の意図に因る点が大きい。人間行為に対する厳正な観察者として、社会組織統率の為の超自然的能力を持ったカリスマ的存在物として、政治的意図に因り政治的利用価値を持って存在させられている。
漢代の王充に至っては、鬼神の存在を完全に否定する。彼は先の二者と異なり、鬼神の行為自体からその存在を否定する。彼は鬼神の行為と言われている例を五つ挙げ(注13)、全て人間の感情変化に因る虚想の存在物に過ぎない(注14)とする。則ち、鬼神の行為は人為的行為に他ならず、人間の行為の都合の悪い部分をカモフラージュする為に、単なる自然現象に対し特別な意味を附持させる為の存在であるとする。先の二者は共に、鬼神の行為を超自然的現象として神霊的絶対性を認めている(但し、認識方法には相違が有るが)。だが王充は、既に行為自体も自然現象に過ぎないことを認め、その存在及び行為の絶対性は、個人的立場に於いて変動し、普遍的必要性は無いとしている。明らかに彼は、鬼神の存在を政治上の虚構物であると認識している。
以上、孔子は敬遠主義で、墨子は功利主義で、各々鬼神の存在を是認している。だが王充は、墨子以上の功利主義で鬼神の存在を否認している。別の意味では科学的否認でもある。それは、漢代が自然科学分野で些かでも進歩した時代であったことにも因る。

(1)『礼記』の成立過程及び成立時代に関しては、細部な面に於いては未だ色々問題も有るが、ほぼ漢代と考える。
(2)『論語』雍也篇に、「子曰、務民之義、敬鬼神而遠之。」
(3)『礼記』表記篇に、「子曰、夏道事鬼敬神、其民之敝、惷而愚、喬而野、朴而不文。殷人尊神、先鬼而後礼、其民之敝、蕩而不静、勝而無恥。周人事鬼、敬神而遠之、其民之敝、利而巧、文而慙、賊而蔽。」
(4)『論語』八イツ篇に、「子曰、祭如在、祭神如神在。」
(5)『史記』卷四周本紀正義引『周春秋』には、「宣王殺杜伯而無罪、後三年、杜伯射宣王」に作り、『國語』周語上には、「杜伯射王於コウ」に作る。
(6)『論衡』卷二十一死偽篇に、「簡公将入於桓門、荘子儀斃於車下」に作る。
(7)『論衡』卷二十五祀義篇に同様の文有り、但し『春秋左氏伝』定公二年の「奪之杖以敲之」とは合致せず。
(8)『詩経』文王大雅の「文王陟降、在帝左右」の篇。
(9)『墨子』非攻下に、「武王已克殷、成帝之来、分主諸神。」
(10)『墨子』明鬼下に、「聖王其始建国営都、必択国之正壇、置以為宗廟。」
(11)『墨子』天志中に、「知天鬼之所福而辟天鬼之所憎、以求興天下之利而除天下之害。」
(12)『墨子』天志下に、「上利天、中利鬼、下利人、三利而無所不利。」
(13)『論衡』卷二十二訂鬼篇に、「一曰鬼者人所得見病之気也、一曰鬼者老物精也、一曰鬼者本生於人時不成人、一曰鬼者甲乙之神也、一曰鬼者物也。」
(14)。『論衡』卷二十二訂鬼篇に、「皆存想虚、致未必有其実也、倶用精神畏懼也。」
2、鬼神の種類
鬼神と言う言葉が表示する具体的対象物は一定ではなく、必然的に鬼神と言うものの種類も一定ではない。では基本的には大別すると何種類になるのか考えて見たい。
古代に於いて尤も一般的なのが、霊魂を称しての鬼神である。「人死曰鬼」(注1)と言い、「人所帰為鬼」(注2)と言うが如く、人の死後に於ける存在を鬼・人鬼と呼んでいる。この鬼が更に細分化され、幽体(心理的心霊存在物のことを示す。以後便宜的に幽体と称す)と形体(物理的心霊存在物のことを示す。以後便宜的に形体と称す)とに為り、鬼神と呼ばれるに至る。孔穎達が「鬼謂形体、神謂精霊」(注3)と言うのはこのことである。この鬼神の発生形態については、『礼記』祭義篇に、
「気也者、神之盛也。魄也者、鬼之盛也。合鬼與神、教之至也。衆生必死、死必帰土、此之謂鬼。骨肉斃於下、陰為野土、其気発揚于上、為昭明T蒿悽愴、此百物之精也。神之著也。」
と言う。死亡した形体が土に帰り、変化したものが鬼であり、鬼より天に発揚した幽体が神である。則ち、人は各々天地の持つ特性を受けて生じた存在で、万物の根幹は天地である。故に人と雖も死後は必ず鬼神となって天地に帰って行くと言う、霊魂不滅観に基づいた発想で、「復」の習俗は、その典型的な例である。鬼神の持つ超自然的能力は、「見怪物皆曰神」(注4)と言えば、幽体である神の所有する能力であって、基本的には形体である鬼は持ち得ない。則ち、行為自体は物理的現象ではあるが、その主体は心理的心霊現象の産物である。このことは、当時の人々に於いては、地よりも天の方が遙かに神秘的存在であったことを物語っている。孰にせよ、人の死後に於ける魂魄の存在が鬼神である。
鬼神自体よりも、鬼神の持つ能力の方が重視され出すと、鬼神の表す意味も異なって来る。「鬼神害盈而福謙」(注5)と言い、「夫大人者、與鬼神合其吉凶、天且弗違、而況於鬼神乎」(注6)と言えば、鬼神は人間道徳の基本で、絶対違反すること無く、福善禍惡の力に因って、人間の行為を評価判断する正確な天神的存在となる。更に、「鬼神其依」(注7)、「鬼神饗徳」(注8)、「鬼神之為徳、其盛矣乎。質諸鬼神而無疑」(注9)と言えば、既に最高の徳を持った神明叡智な天地創造神的存在となる。則ち、鬼以上に神に重点を置いた結果で、必然的に鬼神の持つ能力も、天神・地祗と同様なまでに拡大されるに至る。だが如何に天地創造神的と為ると雖も、依然として天神と鬼神との間には、厳然たる格差が存在する。『礼記』郊特牲に、
「帝牛不吉、以為稷牛、帝牛必在滌三月、稷牛唯具、所以別事天神與人鬼也。万物本乎天、人本乎祖。」
と言う。天神・鬼神共に創造の基ではあるが、階級的には天神の方が遙かに上位に存在する。この事は、『大戴礼記』の中で天下の大罪を五つ挙げ、天地に逆らう者を第一位に、鬼神を誣う者を第四位(注10)に位置させ、所謂実質的被害者を持たぬ道徳的犯罪としては、最下位に居るが、実質的犯罪の殺人よりも上位に位置する以上は、人間界を超越した存在として認識されていた事に違いは無い。
以上の他に特殊な鬼神が有る。怪奇現象を生ずる鬼神で、「断而敢行、鬼神避之」(注11)とか、「国将亡妖見其亡、人将死鬼来其死」(注12)とか言われる怪鬼妖神である。人の精霊でもなければ天地創造神でもない。人間に害悪を及ぼす悪鬼的存在の鬼神である。先の創造神的鬼神が、神に重点を置いた結果発生したのとは反対に、鬼の方に重点を置いた為に生じた鬼神である。則ち、地鬼から天神へと移行融合する鬼神の成立過程が分離し、更に漢末の神仙思想が結合し、地界・人界・天界と言う世界観が成立し出す。同時に各界に人間界と同様な身分階級制が適用(注13)され、地界の存在物が鬼で天界の存在物が神となる。則ち、地界は人界よりも下位に位置する為に、必然的に地界の住人である鬼は、人間よりも卑陋低級な存在物となる。故に鬼は、機会有る毎に人間に対して害悪を及ぼすと言う思考が発生し、この鬼を称して鬼神と呼ぶようになる。漢代以前に於いては、殆どこの鬼神の存在例を見出せないが、漢末以後は、鬼神と言えばこの鬼神を指す様な感さえ有る。ただこの三界思想(地界・人界・天界)が、文献的顕著な例証こそ無いとは雖も、既に漢初に於いて萌芽を見、漢代知識人に或る程度浸透していたと思われる事は、近年発掘された漢代考古学的出土物(注14)が示しており、それに対する中国科学院考古研究所の統一見解も、三界を表した画図(注15)との発表をしている。この鬼神こそが、六朝時代を通じてより悪鬼的色彩を強める鬼神に他ならない。
以上、中国古代に於ける鬼神の種類を大別すると、ほぼ次の三種類に分類出来るかと思う。
1、死者の霊魂である鬼神、則ち所謂鬼神。
2、絶対的創造神的鬼神、則ち神的鬼神。
3、実害を及ぼす妖怪的鬼神、則ち鬼的鬼神。
一般的には1、と2、とを併称して鬼神と呼ぶ。それは、天神・鬼神共に祭祀と言う儀式を媒体として、同一ブロック内に存在する為で、3、を称して鬼神と呼ぶようになるのは、専ら漢代以後である。

(1)『礼記』祭法篇。
(2)『説文解字』九篇上。
(3)『礼記』礼運篇の「鬼神之会」の孔疏。
(4)『礼記』祭法篇。
(5)『易経』謙卦の彖伝。 
(6)『易経』乾卦の文言伝。
(7)『尚書』大禹謨。
(8)『礼記』礼器篇。
(9)『礼記』中庸篇。
(10)『大戴礼記』本命篇に、「大罪有五、逆天地者罪及五世、誣文武者罪及四世、逆人倫者罪及三世、誣鬼神者罪及二世、殺人者罪止其身。」
(11)『史記』卷八十七李斯列伝。
(12)『論衡』卷二十二訂鬼篇。
(13)葛洪の『神仙伝』及び天界図を参照。
(14)1972年4月、長沙馬王堆一号墳墓出土の帛書。
(15)『長沙馬王堆一号漢墓発掘簡報』に、「上段は天上界、中段は人間界、下段は地下の世界を表す」と言う。但し各段の細部な面に渉っては、例えば上段に於ける安志敏氏の山海経説(『考古』1973−1)、商志馥氏の淮南子説(『文物』1972−9)、兪偉超氏の楚辞説(『考古』1972−5)等、その他呉作人・羅コン・孫作雲等諸氏の異説が有る。
3、鬼神と祭祀との關係
鬼神と祭祀とは如何なる関係にあるのか。「郊社之義、所以仁鬼神也」(注1)と言う。郊社とは祭祀であり、祭祀を行う意義は、鬼神を仁くしみ大切にすることである。祭祀の方法は祭義に因れば、煩でも疏でも良くなく、煩であれば鬼神に対して不敬を致すことになり、疏であれば鬼神を忘れたことになる。故に祭祀は必ず天道に合致せねばならぬ(注2)と言う。天道は前述の如く万物の基幹で、創造神として絶対的存在である。この天道と合致することは、とりもなおさず鬼神に対する祭祀も絶対的行為となる。鄭玄が「鬼者、薦而不祭」(注3)と言い、何休が「無牲而祭、謂之薦」(注4)と言えば、犠牲を用いず単に四時の新物を以って鬼神を祭ったことになる。
鬼神であれば、誰が祭っても良いのかと言えば、そうではない。「非其鬼而祭之、諂也」(注5)と言う如く、当然祭祀の対象は同族の祖先であり、自己の宗廟に於ける鬼神(注6)に限定される。同族以外の鬼神を祭ることが諂いとなるならば、鬼神も持つ禍福を降す能力は、当然同族に於いて使用されることになる。則ち、鬼神はその一族が祭ってこそ意義が有り、鬼神の加護も受けられるのである。この事は『春秋左氏伝』に多くその例を残している。
○「天禍許国、鬼神実不逞于許君。」(隱公十一年)
○「鬼神非人実親、惟徳是依。」(僖公五年)
○「我先王熊摯有病、鬼神弗赦。」(僖公二十六年)
○「鬼神非其族親、不饗其祀。」(僖公三十一年)
○「其先君鬼神、実嘉頼之。」(昭公七年)
○「鬼猶求食、若敖氏之鬼、不其餒。」(宣公四年)
以上の六例が示すが如く、鬼神は当然一族が祭る可きものなのである。そして、鬼神の禍福が如何に重要な問題であったかは、「若属有讒人交闘其間、鬼神而助之、以興其凶怒、悔之何及」(注7)と言う一文から、十分に窺える。且つ、同族内でも鬼神を祭る可き人は更に限定される。「支子不祭、祭必告宗子」(注8)とか、「庶子不祭祖者、明其宗也」(注9)とか言えば、宗子が祭るのである。同族内の宗子が祭ってこそ、初めて礼に適った祭祀と言えるのである。
しかし一方では、儒教を国教とした漢代初期に於いて、「郡国廟」なる宗廟が全国各地に置かれている。(注10)この廟は郡主・国主が祭るのであるから、当然一族どころか宗子でもない、完全に祭祀の礼を破る行為である。それは天下の諸家を漢家(劉氏)の下に統合して一家となすピラミッド型の国家形態(Hun Family)を目的とした(注11)ためである。則ち、鬼神の具象的存在物である宗廟を、国家政策の道具として使用し、国家的結合の強化を図っている。(但し元帝時に反礼的存在として廃止されている)
鬼神が祭祀と言う儀式の対象である以上、その行為自体も自ずから倫理的規範を伴う。「致孝乎鬼神」(注12)と言うが如く、孝道を尽くすのである。孝とは、親・子間の道徳倫理である。親の生存中には子供は当然孝を尽くす。だが、死亡すれば孝道を尽くす可き具体的対象が存在しなくなる。結果的に孝道中絶と言う状態に至りかねない。孝道存続のためには、親の死後に於いてもその対象が必要になる。則ち、親の死後に於ける孝道の対象が鬼神であり、尽孝を行う具体的場所が宗廟である。だが宗廟の祭祀である以上、鬼神の数は複数になる。元来孝の概念は父・子間が基本である。故に孝の対象が父以外に拡大した時、孝に代わる可き概念が必要となってくる。是に於いて敬の概念が適用される。「孝子之事親也、有二道焉。祭則観其敬」(注13)と言い、「宗廟致敬、鬼神著矣」(注14)と言う。則ち、孝の概念には、個人的・私的関係のニュアンスを多分に含んでいるが、敬の概念になると、より社会的・公的関係のニュアンスの方が強くなり、その言葉の使用範囲も孝以上に広範囲に及び、より広義な意味内容を具有し出すようになる。敬の概念が社会的であるが故に、元来父・子間と言う個人的身分関係が、社会的要素を伴い、社会的身分関係へと変化する。孝道から敬道へと移行した時点に於いて、鬼神及び宗廟も自ずから社会性を持ち、公的身分関係の色彩を表明し出すのである。
周知の如く古代中国の社会組織は、宗法中心の家族制度を以って基本と為し、家族→宗族→邦国、の形成へと拡大する組織で、且つ五倫を中心とした社会道徳・礼的規範を基盤とした国家体系であり、その経路は所謂『大学』の、正心→修身→斉家→治国→平天下、であり、これを理想としている。斉家の中心道徳である孝道の興廃は、平天下の成否に重大な意味を有している。鄭玄が、「尊鬼神、重人事」(注15)と言うが如く、特に人事面に於ける国家体系保持のためには、鬼神の存在が不可欠であったことが分かる。
更に鬼神が、宗廟と言う社会的場所に於ける祭祀の対象であったが故に、鬼神の成立に関してすら宗法の影響を受けることになる。例えば『礼記』祭法篇に、
「王立七廟一壇一セン(土+單)、去セン為鬼、諸侯五廟一壇一セン、去セン為鬼、大夫三廟二壇、去壇為鬼、適士二廟一壇、去壇為鬼、官師一廟、去王考為鬼、庶士庶人無廟、死曰鬼」
と言う。天子は九代、諸侯は七代、大夫は五代、上士は三代、中士は二代、下士庶人は父より直ちに鬼と呼ぶことが出来る。仮に父・子間を約二十年と措定すれば、天子の場合約百六十年間常に交互に鬼神と呼べぬ幽体(心理的心霊物体)が存在することになる。鬼神でない以上基本的には禍福の能力も持ち得ない。ではこの幽体は一体何なのか、既に「人死曰鬼」と定義した以上、名目は何であれ実質は鬼神に他ならない。一方鄭玄は、「聖人之精気、謂之神、賢知之精気、謂之鬼」(注16)と言うが、それでは賢知以下の幽体を何と呼ぶ可きなのか。宗廟制度の確立と共に、鬼神の成立・名称に対してまでも、封建的階級身分制度を転用したが結果の矛盾である。本来人事を越えた超自然的存在である可きはずの鬼神に対して、封建制と言う人事に関する制度を適用したこと自体、既に鬼神は、人為に因って左右出来る人為的存在となっていたと言えよう。それは、当時の人々が意識したと否とに関わらず、現実としてその様な存在であったと言うことである。
孰にせよ、鬼神は礼道徳の規範であり、よれ故にこそ、鬼神の祭祀は重要な行事となっている。「祭先所以報本也」(注17)とか、「天下之礼致反始也、致鬼神也、致鬼神以尊上也」(注18)とか言えば、国家を維持する礼道徳の尤も重要な行事が祭祀であり、鬼神を祭ることは、則ち上を尊ぶことになる。尊上とは、何も祖先だけとは限らない。所謂君臣・父子・長幼と言った身分の上下関係をも意味し、この関係こそが、天下を治める所以の規範でもある。要するに、祭祀と言う儀式的行為に因り、鬼神と言う心理心霊的存在を媒介として、宗廟と言う具体的対象に対し、厳然たる上下関係、身分制度の確立を図っている。
古代社会に於いては、政治理念と祭祀観念とが相通じ、個人的日常生活の道徳行為が、政治的行為の道徳でもあり得る。故に、道徳中に於いて尤も価値有る至孝と言う概念を政治目的に利用し、「孝以事親、順以聽命、錯諸天下無所不行」(注19)と言えば、明らかに支配者の命令を天下万民に施行するための、政治的伝達経路の潤滑油として、孝と言う家族道徳を使用し、封建社会下に於ける基本的身分制度の徹底と、支配制度強化のために、鬼神を利用していたことが分かる。
更に『礼記』祭義篇には、具体的説明がなされており、則ち、
「因物之精、制為之極、明命鬼神以為黔首則、百衆以畏、万民以服、聖人以是為未足也、築為宮室、設為宗チョウ(示+兆)、教民反古復始、不忘其所由生也、衆之服自此、故聽且速也。」
と、既に祭祀が権力支配を目的とした行為であり、鬼神がその対象として存在したことは明白である。祖先の霊魂に対して孝敬を尽くして祭ると言う素朴な道徳的・宗教的意識ではなく、支配と服従と言う政治支配の理論形成に、鬼神が転用されている。本来は孝道の対象であった鬼神が、畏服の対象となり、人間行為に対して禍福を降すと言う観察者的存在が、民衆の絶対服従と言う法則的存在となっている。君命は則鬼神の命となり、支配者の行為は自ずから鬼神の行為となり得る。それ故に、君に反する態度は鬼神に対する大不敬として絶対赦されない。「祭者、忠信愛敬之至矣。其在百姓以為鬼事也」(注20)と、具体的に忠信と言う封建身分制度上の概念を使用するに至る。既に鬼神の存在は、支配体制確立以外の何物でもない。
今や政治政策の道具となり、「聖人参於天地、並於鬼神、以治教、鬼神以為徒」(注21)と言う。明らかに天地・鬼神と言う絶対的存在物を、政治活動(済民政策)の道具と為している。換言すれば、絶対的存在を道具として成立した政治体制は、自ずから絶対的存在としての要素を持ち得ることになる。この様な鬼神を認めるか否かの問題は、支配者側・被支配者側の双方にそれぞれ大きな意味を持つことになる。
鬼神が降す禍福の能力及びその内容も、既に大きくその性格を異にする。則ち、福とは、物欲的な鬼神の祐助ではなく、大順の名を受ける(注22)ことである。嘗って『春秋左氏伝』に例を見た鬼神の福とは様相が異なる。順とは従である。君に対する忠臣、親に対する孝子、二者は共に同一根(注23)である。則ち、理論的には、鬼神に孝を尽くすことは、とりもなおさず君に忠を尽くすことになる。大順の名とは、上は鬼神に、外は君長に、内は父母に順う(注24)と言う服従の念である。鬼神を祭ること自体が既に服従であり、その結果受ける福もまた服従の念である。如何に階級的封建支配体制を確立するために、鬼神の存在が重要であったかを物語っている。。
鬼神と言う超自然的存在が、政治と言う尤も実用社会の場で使用されていたと言う現実は、存在自体が超自然的であるが故に、その政治的利用価値も極めて高かったことを示している。

(1)『礼記』仲尼燕居篇
(2)『礼記』祭義篇、「祭不欲数、煩則不敬、疏則怠、是故君子合諸天道。」
(3)『礼記』祭法篇、鄭玄注。
(4)『春秋公羊伝』桓公八年、何休注。
(5)『論語』為政篇。
(6)『儀禮』士虞礼篇、鄭玄注に、「鬼神所在、則曰廟。」
(7)『春秋左氏伝』昭公十六年。
(8)『礼記』曲礼篇。
(9)『礼記』喪服小記篇。
(10)『漢書』卷五景帝紀に、「郡国諸侯、宜各為孝文皇帝立太宗之廟。」
(11)板野長八著、『中国古代に於ける人間観の展開』第二十章第二節五四七頁参照。
(12)『論語』泰伯篇。
(13)『礼記』祭統篇。
(14)『孝經』感応章篇。
(15)『周禮』卷十八宗伯、鄭玄注。
(16)『礼記』楽記篇、鄭玄注。
(17)『礼記』祭義篇。
(18)『礼記』祭義篇。
(19)『礼記』祭義篇。
(20)『荀子』礼論篇。
(21)『礼記』礼運篇。
(22)『礼記』祭統篇に、「非世所謂福也、福者備也、備者百順之名也。」
(23)『礼記』祭統篇に、「忠臣以事其君、孝子以事其親、其本一也。」
(24)『礼記』祭統篇に、「上則順於鬼神、外則順於君長、内則以孝於親。」
終わりに
鬼神の性格と言っても、鬼神自体不確定な存在であり、過惡福善以外は意志顕示を行わない。因って鬼神の行為より性格を分析することは困難と言える。故に鬼神の性格は、鬼神の存在が当時の人々に於いて、如何に認識されたか、則ち、鬼神の存在が如何なる社会的意義、及び役割を担っていたか等に因って、判断す可きであると思う。
子供が親(父母)に対して尽孝を行うのは、自然の行為であり、親の永続を願うのも人情である。だが一方では、死も絶対避け難い自然の節理である。とは雖も、死後に於いても更に孝行の遂行を願うのは、人子として当然の感情でもあろう。この素朴な自然的感情の発露と、原始文化形態時に於いて各民族が持つ所の心理的生命の不滅性(霊魂不滅論)とに因って、捻出されたのが鬼神である。
人の死後に於ける存在が鬼神である以上、基本的には、天子・庶人と言う階級的差別は有り得ない。孔子が鬼神に対して敬遠主義を採った如く、鬼神はあくまで幽遠な存在であり、死後に於ける孝道の対象としての存在が、鬼神の本質である可きである。そして、この性格は本質であるが故に、如何に鬼神に対する認識形態に変化が生じても、決して変質することは有り得ない(但し、別の性質を具有し出すが、それは後に付加された性質に過ぎない)。しかし、尽孝の行為が祭祀と言う社会政治的行事であるが故に、より以上に政治的色彩の強い性格、則ち社会性を持つに至り出す。墨子が、国家に於ける利用価値と言う功利主義に因って鬼神を認識したが如く、国家の為の鬼神、国家的シンボルとなり出す。道徳観と政治理念とが同一線上に在るが故に、鬼神は政治政策上の存在となり、国家の安泰、階級制の確立、権力支配の強化、と言う政治目的の為に利用され、国体保持の立場から支配者階層の政治的道具となるに至ったものと考えられる。
社会構造が、家と言う宗法に基づく血族単位を基礎とした組織であり、鬼神が家族を中心にした家庭道徳より発生した存在であることとに因り、他の超自然的存在、則ち、天神・地祗以上に、鬼神は政治目的に使用し易く、その利用価値も高かったと言える。因って鬼神の性格は、次の様に規定することが出来よう。
○基本的性格・・肉親の死後に於ける孝道徳の対象、則ち、私的・宗教的・倫理的存在。
○社会的性格・・階級制度と権力支配の確立を目的とした政治政策上の道具、則ち、公的・社会的・政治的存在
古文献の中では、『論語』『春秋左氏伝』の中に、基本的性格として認知出来得る鬼神の姿をより多く残し、『墨子』『荀子』特に『礼記』は、既に社会的性格を持った鬼神となっている。『論語』も『礼記』も共に孔子の言を残すが、同一人物とは認め難い程の、中には相反する様な部分さえ有る。これは『礼記』が、政治目的を持って意図的に編纂された為であろう。故に同じ孔子の言とは雖も、『論語』の中にこそ、彼の認知した原始鬼神の姿、及び原始認識形態を残していると思われる。
仮に当時の支配者層が、既に私的道徳観を政治上の公的機関運用の為に転用した時、基本的には私的関係であるが故に、公的機関に対する批判・怨嗟と言う反体制的現象の発生が、些かでも減少するであろうと言う高度な政治的配慮を持って、鬼神を利用したとするならば、彼等は所謂為政者として、偉大な政治家であったと言える。且つ中国に於ける為政者は、古より以来常に如何に民衆を従順に支配するかについて、日夜叡智を絞り努力を払っていた、と言っても過言ではあるまい。この様な現実状況こそが、かかる鬼神の性格を作り上げていったものと思われる。  
 
邪神 1

 

人間にとって災いをなす神である。類義語に悪神、魔神、魔王などがある。
人々に対し天災や疫病あるいは戦乱などのわざわいをもたらす神や精霊(悪霊)をさす。儀式や祭礼などで、これらの存在を駆逐あるいは抑制することによって、わざわいを祓うことを目的とした習俗が世界各地に見られる。
大規模な宗教をもつ社会、とりわけ一神教の世界観をもつ地域では、信仰や神話の上で信仰されている神々に敵対をしている神、もしくは異教(邪教)で祀られる神をさして、このような表現がとられることも多い。このような状況でつくりあげられた邪神たちは、古い習俗や信仰に見られた神たちの「転倒」であるといえる。
日本
日本では、神道や仏教および道教・陰陽道などに見られる悪鬼あるいは魔王・悪魔などが歴史的には邪神と目されて来た。鬼神なども、邪神・悪神と類似した文脈で用いられる場合もある。民間信仰では、疱瘡神や疫病神のように疫病を畏怖の対象としてそのまま悪神としてかたちづけられているものも多い。しかし、そのような神も荒ぶる神としてまつる事で、人間側の守護神として信仰される場合もある。
日本神話
『古事記』や『日本書紀』などに拠る日本神話においては善悪二元論のような「絶対悪」という役割をもった神は登場しておらず、またそのような概念も存在してこなかった。アマテラスが天岩戸に隠れた際の描写などに「彼の地に螢火の光(かかや)く神、及び蠅聲(さばえな)す邪神多(さわ)に有り」(『日本書紀』)などと邪神ということばが見られたりもするが、これは服従をしないまつろわぬ神々などをおもに指しており、それを専門としている悪魔の様な存在をさしたものではない。「天に悪しき神あり」と書かれる天津甕星や、災いの神の禍津日神も同様であり、これらの神も「絶対悪」の存在であるとは考えられていない。
世界
悪魔や堕天使との厳密な線引きは難しく、ウガリット神話における神バアルが前身の異教の神ベルゼブブが悪魔・邪神として教会などからあつかわれた例など、その由来の面は多岐にわたっている。アッカドに伝わる「風の魔王」とされているパズズ等も邪神としてあつかわれることがあるが、パズズも悪霊の首魁という事で、逆に格下の悪霊から身を守る守護神とするケースもある。
中国などでは、日本のように「絶対悪」の存在が形成されて語られることは特に見られない。北欧神話のロキなども神話のなかでの挙動から悪神と称されるが、これは東洋でいうところの鬼神・荒ぶる神などに近い。
善悪二元論
善悪二元論の代表的な例としては、ゾロアスター教における考え方が挙げられる。最高の善である神アフラ・マズダーに対する絶対悪の悪神アンラ・マンユ(アーリマン)が存在しているというのが、その大枠である。アンラ・マンユの配下であるとされるダエーワも邪神であるとされる。ここで語られるような存在たちが、邪神という概念を語る上ではもっともわかりやすい存在である。
バビロニア神話のティアマトなども邪神としての立ち位置は上記のものに近い。またエジプト神話の太陽神ラーに敵対する悪の蛇アポフィスの存在なども、善と悪との対極を明示した考え方に基づいたものに近いが、「絶対悪」としての対立性が深く語られるかという点でみればアポフィスは弱い面がある。
一神教
ユダヤ教とそれを母体に成立したキリスト教、ユダヤ教とキリスト教を母体として成立したイスラム教はいずれも神をひとつだけの存在であるとする一神教であり、相手方を神であるとは設定することは決してないため、厳密な意味においての崇拝対象たる神に対を成す邪「神」・悪「神」は存在しない。ただし、サタン(イスラムではシャイターン・イブリース)といった神に敵対する者は存在する。邪神との大きな違いは、善神と対を成すほどの存在ではなく、元々は神によって創造された配下の天使が反旗を翻した(堕天使)という点にある。唯一絶対的存在である神に敵うことはなく、いずれは反逆の罪で罰せられ滅ぼされる宿命にある。ただし、キリスト教やイスラム教において神はサタンを天から追放したものの、滅びを与えるまでの猶予期間を与えており、その間は地上において人々を惑わし支配するなど自由に活動させている。特にキリスト教では地上を支配している彼をそのような限定的な意味で「この世の神」と邪神的存在のように表現することがある。
創作における邪神
ラヴクラフトらによって書かれた小説世界に展開されているクトゥルフ神話の神は、大半が邪神のような存在であり、ナイアーラトテップなどがあげられる。  
 
邪神 2

 

人間に災いをもたらす神々のことである。
「神」という概念について
「神」という概念は、一神教(唯一神教)と多神教で大きく意味が異なる。ユダヤ教や、そこから派生したキリスト教、イスラム教に代表される唯一神教では、造物主たる「(大文字の)God」、「YHVH」、「Allah」のみが唯一絶対の「神」であるため、邪神は存在しない。虚偽や罪過は「悪魔」という概念に表象される。また、厭世主義であったグノーシス思想では、従来一神教で唯一絶対の神とみなされてきた造物主は、不完全な物質世界を作った「偽の神」であって、真の神は精神的・観念的な世界に存在すると考えた。
一方、邪神が存在するのが、多神教、あるいは一神教でも複数の神を認める宗教(ゾロアスター教など)である。しかし、これら宗教においても、善悪二元論に基づくゾロアスター教の邪神と、日本の民間信仰における邪神では、その存在意義がかなり異なる。
また、邪教における神を邪神とする定義もあるが、ある宗教が邪教かどうかを判断する絶対基準は存しない。邪教という見方は反対する教義から見た一方的な解釈であるため、この解説では廃する。
各宗教における邪神
唯一神教における邪神1
唯一神教における悪魔は、遡れば異教の神々であったという事も多い。有名なのは、古くカナン地方(イスラエル周辺)で崇められていた豊饒の神バアルが、“糞山の悪魔”ベルゼバブ(ベルゼブブ)に貶められた例である。このように、地方由来の神々を悪魔に堕とすのは、キリスト教徒が教義を広めていく上で用いた手段である。元が力の大きい神であればあるほど、強大な悪魔として認識されるようだ。元が神であったという意味では、彼らは悪魔というよりもむしろ、邪神と呼ぶべき存在なのかもしれない。
唯一神教における邪神2
1〜4世紀、地中海世界の知識階級で一大勢力をなしたグノーシス思想の諸派(マニ教など)では、物質世界は不完全であると考えた。そして、従来ヤハウェなどの名で示されてきた「造物主(デミウルゴス)」は、不完全な世界に魂を囚えた、邪悪な存在であり、偽の神であると見なした。代わりに、プラトン哲学における数学的イデア(観念)の世界こそが完全な世界で、「知識(グノーシス)」の獲得によって真の神への認識に至ることができると信仰した(この意味では、一神教ではあるが二元論的である)。
多神教における邪神1
善悪二元論を基本理念とする宗教では、善神と邪神(悪神)が存在する。古くはゾロアスター教などに見られ、善神アフラ・マズダーに対する邪神(悪神)アンラマンユ(アーリマン)を挙げることができる。厳密な分類ではないが、本項ではクトゥルフ神話の旧神と邪神(旧支配者、古き者ども)の対立もこれに含むこととする。
多神教における邪神2
上記の邪神たちが基本的に人間に害をなすのに対して、逆に利益を与える邪神もいる。日本の民間宗教における邪神はこの範疇にあり、祟り神として拝されている。代表的なものは牛頭天王であり、京都の祇園祭は当該神を鎮魂するための祀祭である。ニコニコ動画的には、東方プロジェクトの洩矢諏訪子が有名。彼女は祟り神であるミシャグジ様を束ねていたとされている(子孫の早苗の髪に白蛇が巻き付いているのはミシャグジ様が白蛇の姿をしているとされるため)。善悪二元論における邪神と決定的に異なるのは、貶めれば厄災が降りかかり、祀り上げる事で守護神となる両極性を有している点である。ちなみに、真・女神転生で名前に「さま」がある悪魔は、祟られないようにということで「さま」がついているらしい(マーラ様は例外)。
その他の邪神
神性を帯びたキャラクターが腹黒さを見せた場合も邪神と称される場合がある。これも日本古来の八百万信仰によっていると考えられる。 
 
邪神とは何か

 

一般的な定義
邪神という名を聞いて一般の人が思い起こすのは、その名の通り、邪悪な神、悪い神である。いわゆる悪魔のようなものだ。しかしなぜ「神」なのか。悪魔とどう違うのか。ここでまず日本人は多神教を信じてきた民族だということを認識しなくてはならない。多神教、特に日本人固有の民族信仰である神道、あるいはその原型たる信仰においては、「神」とは超自然の存在、人智を超えた何らかの霊的存在を指し、必ずしも人に恩恵を与える存在であるとは限らない。人に災いを、しかも悪意をもって与えるものであっても、それが超自然の霊的存在であれば、太古の日本人はそれを「神」と呼んだ。簡単に言えば、キリスト教における悪魔のような存在をも、「神」と恐れ崇めたのである。キリスト教ほど「神」を厳密に定義していないのだから、なおさらである。キリスト教のような絶対的宗教、多くは一神教だが、そうした宗教が成立する以前は、世界のどこでも程度の差こそあれ似たような価値観であったし、絶対的宗教が普及していない地域では現在でも大概そうである。もちろん、この日本においても、大体。そうは言っても、キリスト教的、西洋的価値観に慣らされてしまっている現代日本人には今一つピンと来ないかもしれない。では分かりやすい参考例としていわゆる「天神様」はどうか。各地の天神社、天満宮に祀られる菅原道真公は、今でこそ学問の神様として人々に恩恵を与える存在だが、祀られた当時は知っての通り人々、特に朝廷に害を成す大怨霊とされた。文献によっては、道真公は仏教で言う「魔王」と同一視され、日本を水の底に沈める、と語っているとされる。だが、「それゆえに」道真公は「神」として祀られた。その祟りを恐れ、さらに後にはその威力を借りんがため。このあたりに多神教固有の発想が見て取れる。しかも、世界的に見てほとんど民族紛争のない日本ならではと言ってもいいだろう。同じ多神教を信じる民族でも、紛争の絶えない地域では多少事情が異なってくる。しかし、これがもしキリスト教社会であれば、悪魔でなくて何であろうか。いかに威力があり、まさしく「魔王」とされたとしても、「神」、あるいはそれに近き「天使」「聖人」とされるようなことは全くない。
こうしたことから、「邪神」という概念は多神教固有のものであると言えるだろう。例えばキリスト教が普及する前のギリシアなどでも「邪神」たる存在は多い。冥界の王ハデスや、オリンポスの神々を苦しめる巨人達とそれらを生み出した大地母神ガイアなど、災いを成す神々は数限りないが、それでもあくまでも神は神であり、それぞれ自分の役目を全うしているのである。もっとも、よりマクロに考えると、キリスト教における悪魔も元は天使であったり、あるいは起源がユダヤ民族に敵対する民族の崇めていた神であるなど、「邪神」と「悪魔」を峻別するのは難しくなってくる。結局は「邪神」も「悪魔」も似たようなものだと言えるかも知れない。ただ捉える主体(民族)によって、こうした害成す超自然の霊的存在に神聖性をどれほど認めるかということの違いである。認める神聖性が大きくなればいかな害成す存在でももはや「邪神」ですらなくなり、「神」となる。善悪の絶対的基準が世界的に見てかなり曖昧な日本ではそもそも「邪神」という概念すらあまり定着しておらず、歴史的にあまり使われてもいない表現である。仏教の普及はさらに拍車をかけた。なぜならば仏教では基本的にいかなる悪しき者でもいつかは「救われる」からだ。
日本における厳密な定義
では日本において「邪神」と表現されたものは何であろう。邪神のことを古くは、禍津神(マガツカミ)と呼んだ。名前の通りあらゆる禍(わざわい)をもたらす神である。日本神話ではこの禍津神として二柱(柱は神を数える単位)の神が登場する。大禍津日神(オオマガツヒノカミ)と八十禍津日神(ヤソマガツヒノカミ)である。
日本神話において国生みをするのが伊邪那岐神(イザナギノカミ)と伊邪那美神(イザナミノカミ)の夫婦神であるが、伊邪那美神は万物を生み出した後、最後に火の神である火之迦具土神(ホノカグツチノカミ)を生み出し、それによって火傷を負って死んでしまう。夫の伊邪那岐神は妻を求めて死者の国、黄泉に赴くが、黄泉で変わり果てた妻の姿に驚き伊邪那岐神は地上に逃げ帰ってくる。その黄泉で受けた穢れを禊によって清め、そのときにも様々な神々が生み出されて、最後の最も清められた時に最高神たる天照大神が生まれるわけだが、最初の最も穢れている時、その穢れそのものから生まれた神が先の二柱の神である。穢れそのものから生まれた神であるからそれはもうあらゆる害悪そのものである。太古の日本人は穢れというものを大変嫌い、穢れていることは最大の悪しきことであった。というよりも穢れているから悪しきことが起こり得るのである。ちなみにこの穢れというのは単なる「汚い」ということよりも気(ケ)が枯れている状態のことを言うのだが、いずれにしても諸悪の根源ではあろう。その諸悪の根源より生まれ、それを司る神なのだから悪い神でないはずはない。まさしく「邪神」であり、後にそう表現されている。
もっとも、だから全く祀られたりはしていなかというと、そうではない。日本の神社全体の数から見れば極めて少ない数ではあるが、意外に多くの神社で祀られている。その理由は一つには前項で説明した通り威力があり、その威力ゆえに神聖視されたということがある。また禍を成さないよう鎮まってもらうということもある。さらに、伊邪那岐神の穢れを取り除いた神であり、逆に穢れを取り除く神として信仰されたということもある。まことにもって日本人らしい神観念である。
広義の「邪神」
これまで、「邪神」とは要するに悪しき神であり、日本ではそれが「禍津神」に当たると述べた。しかし、日本における「邪神」即ち「悪しき神」は、先の二柱のみでなはない。日本には八百万の神々が坐すとされるが、「邪神」もその中に含まれ、数も限りない。邪神もまた「八百万」なのである。では、禍津神のほかに、「邪神」とされる神々にはどんなものがあるか。先に述べた二柱の禍津神は、害悪の根源たる穢れという概念そのものを「神格化」したものであって、極めて抽象的な存在である。それだけに神話の中では影も薄く、具体的な悪さをしたという記述も皆無に等しい。日本における「邪神」の大部分は、存在そのものが悪とされるようなものではなく、その「行為」によって悪とされるのである。  悪しき「行為」には様々なものがある。殺し、盗み、等々──人々の世界で悪しき行為とされるものは、大概神々の世界でも同じである。また、人間に害悪を与えることも同様に悪しき行為と言えるだろう。しかし、連続してひたすら悪しき行為を働くのならともかく、時折そうした行為を働くのであれば、神々の世界では必ずしも「悪しき者」とはされない。太陽の神、水の神などを例に取れば分かる。太陽も水も人が生きていくのになくてはならないものだが、時に旱魃や洪水で人の命をも奪う。だからといって太陽や水の存在そのものが「悪」とされることは世界にもまず例がない(旱魃や洪水そのものを「邪神」や「悪魔」とすること、もしくは「邪神」や「悪魔」の為すこととすることはあるが)。
だがそんな中で、おそらくはただ一度でも、その行為を働けば「悪」とされる、絶対的な悪しき行為がある。いや、あったというべきか。特に、神々、古代の世界においては。その「行為」とは──皇朝、即ち天皇とその朝廷への反逆である。神々の世界において、最高神たる天照大神に対して反逆、敵対することはもちろん悪とされたが、その子孫たる「人間の」天皇に対しても同様であった。──たとえ「神々」であっても。その理論的根拠は、天照大神が孫の瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)を高天原より地上に降ろす際に、「地上の国はあなたの子孫が永久に治めなさい」という「神勅」を下したことによる。最高神の「神勅」に逆らうことは、神々にとっても悪しき行為なのである。もちろん、こうしたことの背景には、古代における民族間の戦いがある。今でこそ単一民族国家と呼ばれる日本だが(厳密には違う)、古代には様々な民族が入り乱れていた。ある者は朝鮮半島から対馬海峡を渡って、ある者は中国南部より東シナ海を渡って、ある者は南方より黒潮に乗って、ある者は沿海州より日本海を渡って、ある者はさらに北より樺太・オホーツク海を通って、あるいは太平洋を渡って流れ着いた者もあるかもしれない──とにかく、幾多の民族が、幾多の場所から幾多のルートを経由して日本にやって来ている。同じ場所から、同じルートを通るにしても、時間的な隔たりがあれば、また別民族ともなり得る。例えば、「縄文人」、即ち狩猟採集に生活基盤を置く民族と、「弥生人」、即ち農耕に生活基盤を置く民族など。こうした時空の隔たりのある、言語も生活様式も違う民族が、生活圏が重複するようになってくれば、争いが起きる。また同じ民族でも、規模が大きくなってくれば、同族争いが生じる。その過程において、敗者側が崇めている神が、「邪神」となった。また敗者側の首長や強力な武人なども、その怨みをおそれて、あるいは勝者側が敗者側を鎮撫するため、場合によっては敵ながら敬意を表して、「神格化」されたりもした。敗者側の神が「邪神」となったのも同様の理由である。「邪神」の出自のほとんどは、こういったものである。やがて幾多の争いを経て、ある一族の支配が決定的となる。それが天皇の一族であった。支配が決定的となっても、各地では時折反乱が起こり、また勢力圏の拡大によって、新たな「反逆者」が増えていく。その際「邪神」もまた増えていくのだ。「邪神」の歴史とは、皇朝拡大の象徴的記録でもあるのである。
実は、こういった「邪神」の成立は、世界的、普遍的事象でもある。先に述べたように、キリスト教のおける「悪魔」は、その基盤たるユダヤ教を奉じた古代イスラエル人に敵対した民族の崇めた神々、あるいはキリスト教布教以前のヨーロッパの神々がその由来である。また仏教で言うところの「悪魔」、「邪神」たる「阿修羅」は、古代インドのバラモン教における悪魔「アスラ」に由来するが、古代インド人と敵対した同系民族の古代イラン人が奉じたゾロアスター教の最高神「アフラ=マズダ」と同一の起源を持つ。逆にアスラ神族に対する善の神々「ディーヴァ」は、ゾロアスター教では邪神の王「アンリ=マンユ」の部下「ダイエワ」となる。この他、先に挙げたギリシア神話や北欧神話など、数え上げればきりがない。これほどまでに民族、文化対立のよる「邪神」「悪魔」の成立は、普遍的なものなのである。やがて時が経てば、こうして成立した「邪神」に「禍津神」のような悪そのものの存在としての性格が付与されたり、そういう存在の「邪神」と一体化していく。あるいは殺し、盗みなどの根本的な悪行の伝説が付会されることもある。そうやって「邪神」は「邪神」としてさらに成長していくのだ。
こうしたことから結局は──「邪神」が「邪神」たる所以は、捉える主体(民族)によると言えるのである。
日本神話における二元的対立
「邪神」、それは古代世界の民族・文化対立の象徴的記録である。しかし日本においては、世界の他地域ほどの戦乱に見舞われなかったため、先に挙げたキリスト教やゾロアスター教、古代インド神話のように、神話世界における明確な二元的対立はない。それが先に述べたように、日本において「邪神」や「悪魔」といった観念があまり定着しなかったことの理由の一つでもある。しかし、前項で述べたように、日本においてももちろん民族・文化対立がなかった訳ではなく、その結果として幾多の「邪神」が生まれ、記紀など公的な歴史書にも残されている。その記紀では、神々を大きく二系統に分類している。「天津神」と「国津神」である。「天津神」とは高天原に住まう皇朝の祖神達、「国津神」とは大地の土着の神々であるが、簡単に言ってしまえば、この「国津神」が日本の神話世界では「邪神」に相当する。大体において、国津神達は皇朝の祖神たる天津神、あるいはその子孫たる天孫、皇朝に反逆しているからである。もっとも、国津神は完全にイコール「邪神」という訳ではない。天津神に恭順した国津神もいるし、その祟りを恐れたため、あるいは征服した民族鎮撫のため、「邪神」を超えて「神」として祭り上げている場合もあるからである。
さてこの日本神話における二元的対立は、遡れば宇宙造化の神にまで至るという説もあるが、はっきりと表れるのは、先に挙げた日本創生の神、伊邪那岐神と伊邪那美神である。この二柱の神は、大変仲の良い兄妹神にして夫婦神であったが、伊邪那美神の死によって決定的に対立する。その別れの際に、伊邪那美神が「今日より地上の人間を毎日千人殺す」と言うのに対し、伊邪那岐神は「では私は毎日千五百人の人間を生まれさせる」と言うほどの深い対立であった。ここではもはや伊邪那美神は恐ろしき冥界の女王といった趣である。この二柱の神の子、素戔鳴尊(スサノオノミコト)は、はじめ母・伊邪那美神を慕って泣き喚き天地を鳴動させる。やがて高天原で暴虐を働き、姉の天照大神は困って岩戸に隠れてしまう。岩戸開きの後には地上に追放され、最終的には地下の国の王となる。この地下の国も冥界に近い印象があり、素戔鳴尊もまた冥界の大王といった趣がある。その素戔鳴尊の子孫・大国主命(オオクニヌシノミコト)は、素戔鳴尊の試練を乗り越え、地上の国の王となる。しかし天津神に地上の国の譲渡を迫られ、幽世(かくりよ=冥界)の支配者となる。このように、日本神話における二元的対立の源は伊邪那美神にあり、素戔鳴尊を経て、国津神という一派を成すに至る。そこには陰と死のイメージがつきまとい、世界の神話と比較するならば、「国津神」という勢力はまさに「邪神」「悪魔」に他ならないであろう。しかも、天津神の国譲りの迫り方は、ほとんど因縁をつけるような根拠のない、脅しのようなものである。ここにはっきりと古代世界の民族・文化対立が見て取れる。
日本神話の流れとしては、国譲りの後、天孫が九州に降臨し、幾代かを経て、神武天皇が大和に入るに至って皇朝のはじまりとなる。その神武天皇だが、大和で迎えた皇妃は、大国主命の子、事代主命(コトシロヌシノミコト)の娘であった。その上、その後の皇朝の流れは、その事代主命の娘の子の方へと続く。神話的に見れば、対立勢力であった天津神と国津神は、ここに統合されたことになるのである。しかも、天孫が「天皇」を名乗るのは、この統合と時を同じくしている。天孫が「天皇」となるのは単に神の時代から人の時代への移行を意味するものではない。「天皇」とは、種々の民族・文化が入り交じる日本の、まさしく「統合の象徴」なのだと、神話から読み取ることができるのである。それは、皇朝の祭祀からも伺うことができる。皇朝では自らの「正統なる」祖神・天津神と同等以上に、国津神をも恐れ敬っている。特に、古代においてそうした記述が顕著である。それは先に述べたように、祟り、怨みを恐れてのことでもあるし、国の統治上、民族・文化対立による緊張関係を緩和するためでもあった。いわゆる「敗者側の鎮撫」のためである。またずっと先に述べた「天神様」のように、その神威を借りるためでもあったろう。だがこの「統合」によって、皇朝への反逆は決定的に悪となった。たとえ「神」であっても。これまでの国津神は、それなりの神聖さをもって描かれているが、これ以後新たに登場する国津神は、人を困らせ、殺し、盗み、掠め取る──「邪悪な」存在の趣が強くなっていくのである。それは皇朝が一地方勢力ではなく、日本における支配権を確立し、それに対することは既存支配への「反逆」でしかなくなったことを意味するのであろう。「天皇」は天津神の皇位を継ぐだけでなく、国津神の王位をも継ぐ者なのであるから。国津神の王に逆らう者は、国津神の枠内においても反逆者なのだ。だが、その後も「反逆神」は存在し続けた。そうした神々は主に「荒ぶる神」と呼ばれる。「荒ぶる神」、それは日本における「邪神」の呼び名であると言ってもいいだろう。皇朝の成立──それは、「邪神」が「邪神」らしさを確立した瞬間でもあった。
邪神の「零落」
こうして「邪神」は「邪神」として貶められていくのだが、民族・文化対立が鮮明な古代においては、「邪神」はそれでも「神」であり、それなりの威厳を保っていた。記紀や風土記が編纂された時代までは、大体そうであったろう。しかし時代が下ってくると、事情が変わってくる。皇朝の統治が安定し、民族・文化の摩擦が減少して、その記憶も薄れてゆくと、「邪神」は段々と「邪神」としての威厳すらも保てなくなってゆく。もはや政治の安定のために「邪神」を恐れ敬うこともなくなってくるからだ。政治的な対立は依然としてあったが、皇朝内部の政治闘争が主体となってきて、その現実に古の民族・文化対立がかき消されていったということもある。また、文明の進歩により、多少とも「神的なもの」そのものを恐れる度合いが減じたということもある。自然への恐怖が多少とも減じれば、自ずからそのようになる。さらに、仏教の広がりにより、「神的なるもの」の価値が相対化していったということもあった。いかなる超自然の存在も、仏法の前には従わざるを得ないという考えが浸透していったのである。
それでも、既存の「邪神」達、中でも、記紀などの公的文書に記述されていたり、人々の記憶に強烈に刻まれているものは、依然としてその地位を確保していた。だが、公的文書に記述されていようとも、さして強力ではなかったものや、新たに現れた「反逆神」、「荒ぶる神」達は、もはや「神」を名乗ることはできなかった。それらは主に──「鬼」と呼ばれた。しかし、時はいまだ平安時代。人々はまだまだ超自然の力に恐れおののいていた。内裏や京の街中でも魑魅魍魎が跳梁跋扈し、山野などは鬼神の治める異界であった。政治も昔に比べればというだけで、必ずしも安定しているとは言い難い。皇朝に対する反逆もない訳ではなかった。その反逆者や、かつての反逆者の残党が「鬼」と呼ばれたのは間違いないのである。しかも、その反逆者達は、険しい山岳を根拠とした。それは逃走地として、あるいは防御上の理由からでもあったが、反逆者達は、主にもともと狩猟採集を生業とした──端的に言えば、「縄文人」の末裔であるからであった。もともと習俗の違う彼らは、中央の人々からだけでなく、農耕生活を営む里人から見ても奇異に映る「山人」であった。「鬼」と呼ばれるもののうちには、単なる悪逆の徒や、超自然の力を駆使する者、あるいは本当に超自然の存在もあったのかもしれないが、大体はこうした山人達であったろう。
いまだ皇朝に従わない「服わぬ(まつろわぬ)民」が「鬼」と呼ばれたなら、彼らが崇める神は鬼の神、紛れもない「邪神」であったろう。また、人ではないものだと恐れられた者も、同様である。しかし「服わぬ民」がいかに恐れられようと、もはや微弱勢力でしかなければ、それは「神」と呼ぶほど恐るべきものではなかったともいえる。文明の進歩と仏教の流布による人々の価値観の変化もそれを手伝ったろう。「鬼」の神もまた「鬼」に過ぎないと受け止められたということである。それが正史に書き留められるような著名な神であったとしてもしばしばそうであったろうし、そうでない見知らぬ神ならばなおさらである。あるいは、「邪神」と呼ぶべき恐るべきものと受け止められたとしても、仏教という新しくしかも圧倒的な価値観によって、仏教の枠内での「魔神」に置き換えられたりもしている。ただ、当時の伝承から言えることは、「鬼」の神が表舞台に立つことはあまりなく、皇朝の平安を揺るがす敵対勢力「服ろわぬ民」そのものが主体となっているということである。より古い時代のように、もう民族・文化対立をその奉ずる神同士の戦いとするような象徴的表現方法は取られなかったためだ。それこそ政治の安定、文明の進歩、新しいパラダイム(仏教)による価値観の変化によるものだろう。
いずれにせよ、古代世界の終わりに差し掛かる平安時代頃には、「邪神」あるいは「邪神」たるべき存在は力を失くし、大方「鬼」に転落したということである。あるいは「鬼」ではなく「大蛇」や「天狗」、「妖狐」など別の異類もので表されることもあるが、同じことである。これが時代を下ると、さらに矮小化され、小妖怪、幽霊などに身をやつしていく。文明のさらなる進歩、さらなる仏教の流布の上に、皇朝自体が矮小化され、それに対する反逆ももはやなくなっていったからだ。ただ古の伝承が伝えられるだけになり、その伝承も現実的な恐怖感を失っていくにつれ矮小化され、時折山人や不可思議に遭遇したときの驚愕だけが新たな伝承としてつけ加わっていくだけになった。
そして、神々の「零落」
上述のように、「邪神」は妖魔・妖怪へと姿を変えて言った訳だが、それは一部の「神」も例外ではなかった古代において、生存競争に敗れた民族の「神」が「邪神」になったのは既に述べた通りだが、それは結果的にその神が信仰を失った、その神を「神」として信ずる人間がいなくった(あるいは激減した)ことに他ならない。それは。古代のような民族・文化間対立だけで起こり得る事ではないのだ。ただ古代のようにあらゆる霊的存在に神聖性が認められた時代においては、民族・文化間対立において最も起こりやすいというだけのことである。逆に、時代が下れば、そういう民族・文化間対立以外の理由によっても、神が信仰を失うということがあり得た。むしろ、後の時代に神が信仰を失うのは、ほとんど民族・文化間の対立以外の理由による。それは、「邪神」が「邪神」でなくなったのと同様、文明の進歩、あるいは仏教などの圧倒的な価値観の普及によるところが最も大きい。、古代の人間はあらゆる現象・事物に霊性を認めた訳だが、時代が下ればそれが薄れる道理である。
そうした中でも、特に神聖性を失いやすいのは、もともと人に与える被害が多く、恩恵が少ないと思われていた神、被害はなくとも威力のあまりないと思われていた神、そして皇朝や時の政権との関わりが低く、民間で信じられていた神などである。これらの神々の中には、もとから名もなき神や、時を経て名を失った神々もいた。しかし、時代は未だ近代以前、そこに認める神聖性が薄れたとはいえ、霊性を完全に認めなくなった訳ではない。殊に、、畏怖、恐怖の念は根強かった。これは近代以降、現代になっても同じである。「神」が神聖性を失い、そこに畏怖と恐怖が残ったとすれば、それは──「妖魔」となる。「邪神」と同様、「神」も零落していったのである。しかし、「妖魔」に堕ちたとはいえ、もとは神。場合によっては、人に恩恵を与える場合もあり得ると思われた。まして、冒頭のあたりで述べたように、この国にはたとえ邪なるものであろうとも威力を持つものであればそれにあやかろうとする信仰がある。、「妖魔」と見なされて後、さらに信仰されるということもあった。一方で、たとえ起源が神であろうと、後世より凶暴で邪悪な存在と見なされるものもあった。そういうものでも、害を与えぬよう、祟りをなさぬよう、祀り上げて鎮めておくという信仰がこの国には古来よりある。そうして「妖魔」に堕した「神」も、同様に「妖魔」として信仰された。  あるいは、何かある現象を前にして、そこに畏怖を感じたとき、古代であればそこに「神」を見たものが、後世においては「妖魔」を見るということもある。そうして新たな妖魔が誕生するということもあった。これも一種の「神の零落」と言えるだろう。
いずれにしても、、「邪神」の後裔が妖怪・妖魔となったのと同様、「神」もまた零落して妖怪・妖魔となったのである。畏怖され信仰もされたが、そこに「神」のごとき神聖性はもはやない。これも一種の「邪神」というべきであろう。あるいは同じように零落した「神」でも、「妖魔」というにはあまりに威力があり恐れられたものもある。これなどはまさしく「邪神」というべきではなかろうか。
総括 ─結局、邪神とは何なのか─ 
以上、当神宮でお祀りする「邪神」の定義を述べてきた。ここで改めてそれをまとめてみたい。まず、「邪神」とは何か。即ち、
邪悪な「神」(霊的存在)。
その邪悪たる所以は、捉える主体の基準による。
すると、その所以、理由が問題となる。その理由は次の二つに大別される。
壱 、人間を主体とし、その主体にとって害がある場合。
弐 、ある集団・組織の一方を主体とし、その主体にとって別の集団・組織に害がある場合。
さて、当神宮は「日本における邪神」を祭祀の対象としている。そこで、上の二つの理由を「日本における邪神」に当てはめてみよう。するとさらに詳細に分類できる。まずは壱の場合。
ヒ 、そもそもが邪悪そのものであるような存在。例:禍津神
フ 、時の経過に従って、人間にとって利益が少ないと思われた存在。例:蛟
ヒは、積極的にその害を認めたものである。しかし既に繰り返し述べているように日本では善悪の絶対的価値基準が曖昧なため、その影は薄く数も少ない。その中で邪悪なものの根源と思われたのが「穢れ」であり、それを具現化した神が「禍津神」である。またその「穢れ」は死者の国「黄泉」より生じたもので、その「黄泉」にまつわるいくつかの霊的存在が認められる。このヒに当てはまるものは古代より伝えられる若干数と、仏教の影響などもあって後世になって生じた邪悪な存在が多くあるが、それについては後述する。
フは、ヒに対して消極的に害を認めたものと言えるだろうか。利益、恩恵がなくなっていく中で、畏怖だけが残れば、それは害ある存在となっていく。これは零落した神々に当てはまる。
次に弐の場合。実は壱の場合は、善悪の価値基準云々を除けば日本以外でも大して事情は変わらないのだが、弐の場合はその国の歴史的経緯が関わるため国によって事情が大きく異なる。特に日本のように歴史も長く根本的な民族・文化の変化が少ない国では事情が特殊化してくる。その詳細を眺めよう。
ヒ 、はるか古代において、民族・文化の対立する集団の一方から見た、相手側の崇める神、相手側の首領、配下、相手側そのもの。例:八岐大蛇
フ 、皇朝成立過程、あるいは皇朝初期において、皇朝に敵対し敗北した集団の崇める神、集団の首領、配下、集団そのもの。例:大物主神
ミ、皇朝支配の確立後、皇朝に反逆し敗北した集団の崇める神、集団の首領、配下、集団そのもの。例:荒覇吐神
ヨ、皇朝内部の紛争における敗者側の崇める神、敗者側の首領、配下、敗者側そのもの。例:崇徳院
イ、皇朝外部の、皇朝があまり関与しなかった局地的な対立における集団の一方から見た、相手側の崇める神、相手側の首領、配下、相手側そのもの。ある集団の内部紛争の場合もあり得る。例:黒神
ム、皇朝の直接的な影響力が低下した後の、時の政権に対して反逆し敗北した集団の崇める神、集団の首領、配下、集団そのもの。時の政権の内部紛争や政権交代時の旧体制側の場合もあり得る。例:護良親王
ナ、皇朝の直接的な影響力が低下した後の、時の政権があまり関与しなかった局地的な対立の集団の一方から見た、相手側の崇める神、相手側の首領、配下、相手側そのもの。ある集団の内部紛争の場合もあり得る。例:七人みさき
ヤ、弐の範疇から若干外れるが、皇朝や時の政権、地方の有力な政権など、政治的権力によって取るに足らないとされた神や集団、あるいは取るに足らないながらもそれなりに有害とされた神や集団、またはそうした政治的な事情とあまりにも無縁だった神や集団。例:槌の子
コ、特に起源の古いヒ〜イなどが、壱-フのごとく時の経過に従って人々にとっての意味が薄れてしまい、矮小化されてしまったもの。例:蛇の婿
以上、主に時系列に従って詳細に分類したが、重要なのは集団の対立と中央との関係である。それぞれについて具体的に見てみよう。
ヒは、皇朝成立以前の遠い昔の話である。それだけに文献資料が極めて乏しく、考古資料と伝承、後世の文献資料から垣間みえるに過ぎないものである。よって、イ、ナ、ヤなどと見分けがつきにくく、またヒが地下水脈となって後世イ、ナ、ヤとして浮かび上がってくることもある。先に述べたように、日本という国は歴史も長く根本的な民族・文化の変化が少ないので、はるか昔、時に埋もれた氏族や文化が後世何かの拍子に突如歴史の表舞台に現れるということが少なからず起こるからである。また歴史に埋もれたままコのような存在になっていることもままある。しかし、それらの中にヒの存在がかなりはっきりと認められることもままあるのだ。場合によってはフ、ミ、ヨ、ムとの関係が認められる場合もある。弐全ての項目の起源ともいうべき古き存在なのである。ちなみに、対立が最終的に一方の完全な敗北となったとは限らないので、必ずしも敗者側とは限らない。
フは、主に「国津神」と呼ばれる存在。それも、「天津神」への抵抗著しかった「国津神」である。ちなみに皇朝は今に続くのを見ての通り、完全なる敗北というのは歴史上アメリカに対してぐらいのものであるから、対立したものは倒されたか服従したかしかない。即ち皇朝の敵対者は敗者しかあり得ないということである。
ミのうちでも、古いものは「国津神」と呼ばれることがある。ただし、皇朝支配の確立後であるから、有力なものは少ない。有力なものはフの時代に制圧され、それゆえに皇朝支配が確立されたと言えるからである。このうちで有力なものは東北の蝦夷関係ぐらいのものであろう。また、時代が下った後では、明確な歴史上の人物であったりもする。この場合、皇朝支配が完全に確定して後の反乱であるだけに、強力な存在である。
ヨは、ミでも出てきたような明確な歴史上の人物がほとんどである。ただ、古い時代では、皇朝の内部でも諸氏族が各々力を振るっており、氏族によっての民族・文化差も認められたりするのである。そうした氏族抗争の敗者側の祖神などが貶められている例もなくはない。また先に述べた明確な歴史上の人物の場合、皇朝を取り巻く氏族や貴族ではなく、皇室の血族そのものであることもある。
イは、古い時代の辺境、または地理的に中央にあっても政治的に遠い場合なので、やはり資料に乏しい。伝承の中に垣間みるものが多く、ヒのところで述べたように他の項目との違いが分かりにくい。しかし、この時代の中央の関知しない部族間・氏族間、あるいはそれらの内部闘争の反映と見られるものが、なくはないのである。
以上のヒ〜イ、特にミ以降などでは明確な歴史上の人物が大部分を占めている訳だが、ここで扱っているのは「霊的存在」である。即ち歴史上の人物であればそれはまず死後ということになるだろう。それを的確に表した日本語がある。それが「怨霊」である。より古い時代のヒ、フに関しても実体は後の世で言う「怨霊」である可能性も極めて多いであろう。そして、時代の下がったム、ナなどでは、「集団の崇める神」と書きはしたものの、実際は「集団の首領、配下、集団そのもの」がほとんである。ハ〜ホあたりでも言える事だが、時代が下がって、対立する集団間で全く異なる系統の信仰を持っているということはほとんどないからだ。いかに対立している集団であっても同じ系統の神を崇めているならば相手の崇めている神を貶めることなどあり得ないからである。しかし、互いを呪い、恐れたのは間違いない。悲惨な最期を遂げた相手側の人物などは、特に。かくして後の世でも「怨霊」が生まれ続けるのである。それがム、ナである。ただヒ、イと同じく、対立の結末が完全な勝敗となるとは限らないため、どちらかが敗者側 とは限らない。対立したという歴史的事実の、オカルティックな反映だということである。
ヤ、コは、ヒの項でかなり述べてしまったが、要するに中央との関係がもともと低いか、後に低くなってしまった存在である。壱-フと関係が深く、または同化した場合もある。「里人」から見た「山人」、あるいは彼らの崇める神などここに入るだろう。妖怪・妖魔の類がほとんどである。
さて、この弐に関しては古い時代のことを念頭に置いて「権力」と「集団」を重視している。時代を遡れば遡るほど人間社会における「個人」の重要性は低いからである。低いから文献にも伝承にも残らない。実際には神話にも伝説にも「個人」が出てきて活躍もするのだが、それは「集団の首領」的存在、集団の中でも突出した、集団を担う存在としての「個人」なのである。そして集団には「権力」がつきものだ。異なる集団間においても、集団内部でも。そもそも神話や伝説というものは共同体という「集団」で語り継がれるものである。だからこそ「権力」と「集団」に深く関わるのである。「権力」と「集団」に関わらないのであれば、「集団」で語り継がれる必要性もないのだから。そしてより大きな「権力」と「集団」に関わるものが、後世により大きな影響力をもって語り継がれるのである(もっとも、集団に対してさしたる影響力のない「個人」に関わることでも、その衝撃が大きいものや、一つ一つが小さなものでも積み重なったものなどは、「集団」に対する影響力があるため記憶・記録されることが古より多々ある)。
ところが、仏教が民間に普及してくると、もともと個人個人の救済を目的としたものだけに「個人」を以前よりも強く意識させた。その仏教による影響でも新たな伝承が生まれてくる。また時代も下って近世ぐらいになってくると、政治も安定し文明も進歩して人間社会における「個人」がより重要視されてくる。特に大きな「権力」や「集団」と関わっていないような個人でも。さらに「権力」によらなくとも情報を伝達する手段が発達してくる。それは霊的、オカルティックな事柄でも同じだった。かつては後世に語り継がれるほど省みられなかった庶民の個人レベルでの規模の小さい怪異の目撃譚や、庶民の個人レベルの怨念などが語り継がれるようになる。ここに新たな妖怪・妖魔や規模の小さな「怨霊」、即ち「幽霊」が生まれてくるのである。これらは壱-ヒやヤに含まれる存在といえるのだが、古からの文献や伝承を背景に成立したり、付会されたりして壱-フやコとも同化していることも極めて多い。こうした存在は近代を経て現代でも都市伝説として生み出されているのである。こうしたものはこうしたもので別に分類すべきかもしれない。
ともあれ、ここに分類はし終わった。し終わったけれども、実際の各々の存在は、既に見てきて分かるように、それぞれ分類した要素が複合的に交わって成立しているのが実際である。しかし複合的な要素を抱えているからこそ、分類しなければ理解し難いのである。ここまで来て改めて、日本のおける邪神とは何か、それにはどんなものがあるか再三定義する。
「邪神」とは、害成す「霊的存在」である。
古来日本では、キリスト教的価値観の強い現代人が考えるよりもはるかに微細なところにまで「霊」を見出し、「神」と呼んだ。よって「邪神」と呼ぶには至らないと思われる妖怪・妖魔・怨霊・幽霊の類も「邪神」とする。
以上を踏まえた上で分類するならば、「邪神」には次のようなものがある。
壱、害成す自然あるいは超自然の霊的存在。もとより邪霊と定義されたものと、神霊が時の経過とともに次第に権威を失い変容したものとがある。
弐 、集団間の対立の結果、貶められた神々や英雄。あるいは、対立抗争の結果、害成す怨霊と化した人々。
参 、場合によって壱、弐を背景とする、近世以降の害成す妖しき霊的存在。(十数行上の記述に対応)
そして注として付け加えるならば、
◎「邪神」が「邪」であると決めるのは主体の判断による。ゆえに「邪神」と「神」の間にさほどの違いはないのかもしれない。絶対的な善悪の価値基準を持たない日本では特に。つまり──「邪神」を「邪神」と定義づけるのは──あなた自身である。
以上をもって当神宮における「邪神」の定義を終える。
以下、上の分類で挙げた具体例について簡単な解説を載せておく。
付・邪神の分類上の具体例 
壱-ヒ 禍津神(マガツカミ):本文参照。
壱-フ 蛟(ミヅチ):中国において、竜の前身で、昇天して竜となる前の水中に潜んでいるものをいうが、「ミヅチ」は日本の上代語で「水の霊」を意味し、それに「蛟」の字を当てたものである。古代においては水神だったが、仏教流入後は零落して洪水を起こす邪霊とみなされた。
弐-ヒ 八岐大蛇(ヤマタノオロチ):記紀において、出雲の斐伊川上流で暴れていたとされる八首の大蛇。素戔鳴尊(スサノオノミコト)に倒され、その尾からは三種の神器の一、草薙剣が出てきたという。暴れ川の象徴とされるが、蛇・竜を崇める製鉄技術を持った古代日本の原住民の反映でもある。
弐-フ 大物主神(オオモノヌシノカミ):大和の三輪山に鎮まる国津神。国津神の王、大国主命と同体で、天孫降臨以前の日本の支配者であり、神武東征以前の大和の原住民達の神である。皇朝初期に度々災いをもたらし、祟りを恐れられ丁重に祀られた。また、蛇神としての性格も持っている。記紀には関係した記述が多い。奈良県大神(オオミワ)神社の祭神であり、現在でも篤い信仰を受けている。
弐-ミ 荒覇吐神(アラハバキノカミ):縄文人、蝦夷達の主神といわれる謎多き神。皇朝による東北平定の後は抹殺され、現在は東北や関東の一部の神社の末社などで足の神として細々と祀られている。記紀には全く記述のない神で、偽書の疑いが強い「東日流外三郡誌(ツガルソトサングンシ)」の公表により脚光を浴びた。
弐-ヨ 崇徳院(ストクイン):第七十五代天皇。父鳥羽法皇により譲位を迫られ退位する。法皇崩御の後は保元の乱を起こすも敗北、讃岐に流された。流されて後も不当な扱いを受け、皇朝に仇なすことを誓い崩御。その怨念凄まじく、後々まで大怨霊として恐れられた。日本の全ての魔の頂点に立つ存在とする記述もある。
弐-イ 黒神(クロカミ):秋田の民話に見られる、津軽の神。力強いが粗暴な神で、十和田湖の女神を巡って秋田・男鹿の赤神(アカガミ)と争い、赤神を打ち負かすも、結局女神は赤神の元へ走ったため手に入れられず、意気消沈してついた溜息によって大地が割け津軽と北海道が分かれたという。古代のこの地方における何らかの争いを反映したものと思われる。
弐-ム 護良親王(モリナガシンノウ):後醍醐天皇の皇子。武略に優れ、父天皇配流後も奮戦して鎌倉幕府打倒に貢献した。しかしその後足利尊氏との対立が深まり父天皇により鎌倉へ配流、当地で尊氏の弟・直義により幽閉され無念の最期を最期を遂げた。その後はやはり怨霊と見なされ、太平記などでは先の崇徳院や菅原道真とともに日本滅亡を企図する魔の一団の首領格とみなされている。私的怨恨を持つ怨霊が大部分を占める中世以降にあって、国家壊滅を目論む数少ない例である。
弐-ナ 七人みさき(シチニンミサキ):四国統一を果たした戦国大名・長曽我部元親(チョウソカベモトチカ)の甥であり家臣、吉良親実(キラチカザネ)主従の怨霊。親実は長曽我部家の家督相続の問題により元親より切腹を命じられたが、死後その主従達は長曽我部家に祟る怨霊となって城下を騒がせた。怨霊に悩まされた元親はその霊を慰めるため神社を建立、以後祟りはおさまったという。「七人みさき」というのは正確には親実の七人の家臣達で、親実自身がそこに入っていないのは、家臣達と一緒に扱うことはもちろん、口にするのも憚られるぐらい、恐れ多かっためと言われる。
弐-ヤ 槌の子(ツチノコ):蛇に似た胴の太い幻の動物。江戸時代以来幾度となくブームが起こり、現在でも存在の真偽が確定しておらず、捜索や発見譚が続いている。槌の子は「野槌(ノヅチ)」とも言われ、が、「槌の子」は「野槌の子」という意味だが、「野槌」自体槌の子の別称だともいう。いずれにしても「野槌」は獰猛な蛇に似た化け物として語られている槌の子の起源ともいうべき存在だが、その起源は記紀神話の「野椎神(ノズチノカミ)」とも言われる。「野椎神」はイザナギ・イザナミの子神で「草野姫命(カヤノヒメノミコト)」ともいう草木の女神である。また先の「ミヅチ」と同じく「ノヅチ」もまた「野の霊」を意味する。しかし時の権力が野椎信仰を排斥したということもなく、逆に権力とあまりに無縁だったために民間信仰レベルで堕ちてしまった神と言えるだろう。一方縄文土器にも槌の子のような造形があり、はるか太古から信じられてきた存在でもあるようだ。また中部地方では妖怪「土転び」とも同一視されている。
弐-コ 蛇の婿(ヘビノムコ):日本中で広く語られる民話中の存在。いろいろなパターンがあるが、蛇の嫁になった人間の娘が、針によって蛇を損ない娘が開放されるという共通の主題がある。特に娘の元に通ってきた男の正体が蛇で、それが男の衣装に刺した針に付けた糸によって判明するというパターンは特に重要で、記紀にも似たような話が伝わっている。その男の正体が記紀では先の「大物主神」なのである。ただし記紀では神の方が損なわれることはなく、紀では逆に神に恥を掻かせたということで娘の方が死んでしまう。この蛇の婿譚は明らかに記紀に採られた古代の伝承を起源とするもので、祟り神として恐れられた神が後世権威を失い矮小化された存在といえるだろう。大物主神は現在も信仰を保っているが、比較的局地的であり、しかも祟り神として恐れられたのはほとんど古代においてのみなので、他の場所では零落してしまったのかもしれない。またこの類型の説話はアイヌから沖縄まで伝わっており、かなり普遍的な主題であるとともに相当に古い起源をもつものであることも分かる。 
 
荒神 1

 

1
三宝荒神ともいう。竈神 (かまどがみ) および地神のこと。地主神,山の神をもいう。激しい性格の,たたりやすい神であるのが通例。
2
霊験のあらたかな神。「かかる尊き―の氏子と生まれし身を持ちて」〈浄・天の網島〉。
3
「三宝荒神」の略。民間で、かまどの神。また、防火・農業の神。
4
たたりやすい神。三宝荒神は火の神,竈神(かまどがみ)で,毎月晦日(みそか)の祭を荒神祓(はらい)と呼び,松の小枝に胡粉(ごふん)をまぶした荒神松を供える。地荒神は屋敷神,同族神,村落神の性格をもち,中国地方では荒神森という場所の大樹や,その下の塚をまつり,藁縄(わらなわ)を蛇体(じゃたい)のように巻いたのを供える。祭日は28日。ほか牛馬の守護神としての荒神も知られる。
5
民間信仰の神。かまどなど火をつかうところに火の神としてまつられる三宝荒神と,屋敷や同族・地域をまもる地(じ)荒神,および牛馬の守護神としての荒神にわけられる。霊験あらたかな,あらあらしい神とされる。
6
荒神の信仰は,(1)屋内の火所にまつられ,火の神,火伏せの神の性格をもつ三宝荒神,(2)屋外にまつられ,屋敷神,同族神,部落神の性格をもつ地荒神,(3)牛馬の守護神としての荒神に大別される。東日本では,火の神としての荒神と作神としてのオカマサマを屋内に併祀する形が多い。西日本では(2)のタイプが顕著であり,集落単位でまつる荒神はウブスナ荒神と呼ばれ,作神ひいては生活全般の守護神のように考えられている。
7
たけだけしく、霊験あらたかな神。 「波につきて磯回いそわにいます−は/山家 雑」 。
8
民俗信仰の神の一。竈神かまどがみとして祀まつられる三宝さんぽう荒神、屋外に屋敷神・同族神・部落神として祀る地荒神、牛馬の守護神としての荒神に大別される。荒神が家を守るように、陰で守護する者。 「そりやもう、おまへに−さんがないとも云ふまいさ/滑稽本・浮世風呂 4」。
9
一般に屋内のいろりやかまどなど火を使う場所に火の神として祀(まつ)られる三宝(さんぼう)荒神と、屋外に祀られて屋敷神や同族神、地域の守護神として機能する地(じ)荒神とに大別される神格。祭場の形状から前者を内(うち)荒神、後者を外(そと)荒神などとよぶ所もある。いずれも験力あらたかな、荒々しく祟(たた)りやすい神と信じられている。三宝荒神は火の神という性格が顕著だが、作神としての性格も認められる。田植のときに苗を供えたり、刈り上げのときに初穂を供えるなど農耕儀礼とかかわっている。ただ、火の神として荒神とともにかまど神を併祀(へいし)する地域では、前者を火伏せの神、後者を作神と区別する傾向がみられる。火伏せや作神のほかにも、産の神、牛馬の神といった多岐にわたる内容をもつが、広く行われているのは荒神墨とよぶかまどの墨を生児の額につけて魔物除(よ)けとする風習である。九州地方では川遊びの際にこれをつけると、河童(かっぱ)に尻(しり)を抜かれないと伝えられている。一方、地荒神は中国地方を中心に、四国や北九州で祀られている。多くの場合、旧家の屋敷地や山裾(やますそ)の自然木や小祠(しょうし)を信仰の対象とするが、荒神ブロとよんで一区画の森を神聖視する地域もある。屋敷神となっている場合を屋敷荒神、株のような同族的な色彩の濃い集団によって祀られているものを株荒神、一定の地域の人々によって祀られているものをウブスナ荒神あるいはヘソノオ荒神などとよぶ。荒神信仰の拡大については山伏や法印などの民間の宗教者が大きな役割を果たしているといわれているが、中国・四国地方で盛んな荒神籠(ごも)りは荒神信仰の古態を示すものとして注目される。
10
たけだけしく、霊験のあらたかな神。※山家集(12C後)中「波につきて磯わにいますあらがみは潮ふむ宜禰(きね)を待つにやあるらん」。荒々しく人にわざわいを及ぼす神。※孟津抄(1575)一七「能因歌枕 云人の中さへる神をばあらみさき又あらみけといふ荒神也」。伊勢神宮の末社の「雨の宮風の宮」の別名。かまどの神。※諸国風俗問状答(19C前)三河国吉田領風俗問状答「さて大黒、蛭子、荒神〈竈の神の意〉には、大かたの家にて別に供ふ」。
11
荒々しく乱暴する神。天皇の命令に従わない神。※古事記(712)中「東の方十二道の荒夫琉神(あらブルかみ)、及(また)摩都楼波奴(まつろはぬ)人等を言向け和平(やは)せ」。※草根集(1473頃)四「いぐしさすしでにあらふる神やまずなごやかならぬ瀬々の川浪」。
12
(「三宝荒神(さんぼうこうじん)」の略) 仏・法・僧の三宝を守るという神。怒りをあらわし、三つの顔と六つの手をもつ。修験道や日蓮宗などで、とくに信仰される。荒神様。※源平盛衰記(14C前)一「我(われ)財宝にうへたる事は、荒神(クハウシン)の所為にぞ」。かまどを守る神。かまどの神。民間で「三宝荒神」と混同され、火を防ぐ神として、のちには農業全般の神として、かまどの上にたなを作ってまつられる。毎月の晦日に祭事が行なわれ、一月・五月・九月はその主な祭月である。たなには松の小枝と鶏の絵馬を供え、一二月一三日に絵馬をとりかえる。荒神様。〔日葡辞書(1603‐04)〕。※浮世草子・日本永代蔵(1688)二「又壱人、『掛鯛(かけだい)を六月迄、荒神(クハウジン)前に置けるは』と尋ぬ」。近畿以西に濃厚な分布をもつ屋外の神。屋敷神、同族神、集落鎮守の場合があり、荒神講を組織して集落中で飲食する地方も多い。また転じて、かげにいて守ったり援助したりする人をもいう。荒神様。※諸国風俗問状答(19C前)備後国福山領風俗問状答「荒神と申す小神祠、村々に有之」。(荒神はかまどの神であるところから、かまどを使う者として) 女房の異称。荒神様。※二篇おどけむりもんどう(1818‐30頃か)「福神にあらずして寺に大黒とはいかに。内のかかを荒神といふがごとし」。牛の守護神。牛荒神。※浮世草子・西鶴諸国はなし(1685)四「手なれし牛の、子をうみけるに、荒神(コウジン)の宮めぐりもすぎて」。((一)の顔が三面であるところから) 中央のほか左、右にも乗れるようにつくった馬のくら。または、そのくらをのせた馬。※雑俳・柳多留‐九一(1826)「荒神があれて三人どさら落」。「こうじんびわ(荒神琵琶)」のこと。
13
…《古事記》には奥津日子神(おきつひこのかみ)と奥津比売命(おきつひめのみこと)が〈諸人(もろひと)の以ち拝(いつ)く竈の神〉とあり,また古代宮廷では内膳司に竈神が祭られていた。のちには修験者や巫女が荒神祓や竈祓を通して竈神の祭祀に関与してきた。民俗の中では,竈神は火伏の神や火の守護神であると同時に,食物や農耕の神ともされ,田植後に稲苗,収穫期に稲の初穂が供えられ,小正月には予祝として餅花が供えられた。…
…だが丁場(ちようば)と呼ばれる石切場で石材採掘をする山石屋のあいだでは山の神をまつる風習があり,11月7日に丁場にぼた餅,神酒を供えてまつり一日仕事を休む。 冶金,鋳金,鍛鉄の業,すなわち鑪師(たたらし)や鋳物師(いもじ),鍛冶屋の神としてその信仰のもっともいちじるしいのは荒神,稲荷神,金屋子神(かなやごがみ)である。荒神は竈荒神,三宝荒神の名があるように一般には竈の神,火の神として信仰され,なかには別種の荒神として地神,地主神あるいは山の神として信仰される場合もあるが,鍛冶屋など火を使う職業の徒がこれを信仰することは,火の神としてまつられる荒神の性格からきたものであり,それには修験者や陰陽師などの関与もあった。…
…このように鶏は神聖化されたので,鶏肉や鶏卵を食することはおろか,その飼養もしない地方がある。反対に,荒神(こうじん)は鶏を好むというので,赤子の夜泣き封じに鶏の絵馬を奉納する例もある。鶏にまつわる俗信は多く,宵鳴きを凶兆と考えたり,鶏を使って溺死人を探索したりした。…
…神無月(かんなづき)(旧暦10月)には,日本中の神々が出雲の出雲大社に集まるという伝えが平安時代からあるが,そのとき留守居をするという神がある。一般には,オカマサマあるいは荒神(こうじん),恵比須,大黒,亥子(いのこ)の神を留守神としているところが多く,これらの神は,家屋に定着した家の神である点で共通する。武蔵の総社である六所明神(大国魂神社)や信濃の諏訪明神(諏訪大社)など,各地の大社には,神の本体が蛇なので出雲に行かないという伝えがある。…
14
荒神様は民家の代表的な屋内神で、竈の神様として祀られます。身近な存在ですが、その由緒は諸説があって、これが本説と言えるお経はありません。荒神と名の付く神様は何種類かありますが、三宝荒神さんぼうこうじんが基本となります。修験道の開祖、役行者えんのぎょうじゃが感得したと伝えられます。激しく祟たたりやすい性格を持つところから、荒神と呼ばれました。そして不浄をきらうことから、火の神に当てられ、竈の神様とされました。竈の神様となったのは、陰陽道や神仏習合説が影響しているようです。仏教的には、仏法僧の三宝を守る神様であり、三宝を大切にする人や、法華の修行者を守護すると言われます。荒神様は主に修験道や日蓮宗系統でよく祀られます。祭日は28日です。如来荒神、麁乱荒神そらんこうじん、忿怒荒神ふんぬこうじんの三つで三宝荒神となります。三面三眼六臂の神様です。お顔が三つ、ひとつのお顔に眼が三つ、手は6本と言うことです。仏様や神様の手を数えるときは臂ひと数えます。荒神様は忿怒の相が一般的ですが、一面六臂で優しいお顔をした如来荒神や、一面四臂で甲冑かっちゅうと天衣を身に付けた神将形しんしょうぎょうの小島荒神もあります。また、六面八臂、八面八臂、のお姿などもあります。荒神様は和製の神様で、インド伝来の神様としては剣婆けんばor乾婆と同じとされ、日蓮の御義口伝巻下では十羅刹女じゅうらせつにょのことと言われ、空海作とされている三宝荒神祭文では、本地仏は文殊菩薩とされています。眷属=従者は98,000と言われています。修験道系の易の本には、病気の原因を細かく分類したものがあります。それをまとめて見ると次のようになります。病気の原因は霊に類するものが一番多く約6割をしめます。神様関係は4割で、荒神様は神様関係の中の1割程度です。つまり全体の4%程度で、祟りやすいと言われますが、特別に難しい神様とは言えません。霊は一般的に負の価値観があり、妄信や怨念、煩悩などから病気を起こすと考えられます。神様関係は、邪まな考えなどを正すために祟る、と見ることができます。 
 
荒神 2

 

日本の民間信仰において、台所の神様として祀られる神格の一例。
多くは仏教の尊格としての像容を備えているが、偽経を除けば本来の仏典には根拠がなく、核となったのは土着の信仰だったと思われる。現在では純粋に神道の神として説明されるケース(後述)もあるが、それらは江戸国学以降の思弁によって竈神を定めたものにすぎない。神道から解くにしても仏教から解くにしても、「荒神」という名称の由来も、民俗学が報告する様々な習俗や信仰形態、地方伝承なども、十分に説明できる説は存在しない。極めて複雑な形成史をもっていると考えられている。
信仰史
荒神信仰は、西日本、特に瀬戸内海沿岸地方で盛んであったようで、各県の荒神社の数を挙げると、岡山(200社)、広島(140社)、島根(120社)、兵庫(110社)、愛媛(65社)、香川(35社)、鳥取(30社)、徳島(30社)、山口(27社)のように中国、四国等の瀬戸内海を中心とした地域が上位を占めている。他の県は全て10社以下である。県内に荒神社が一つもない県も多い。
荒神信仰には後述するように大別すると二通りの系統がある(三系統ともいう)。屋内に祀られるいわゆる「三宝(寶)荒神」、屋外の「地荒神」である。
屋内の神は、中世の神仏習合に際して修験者や陰陽師などの関与により、火の神や竈の神の荒神信仰に、仏教、修験道の三宝荒神信仰が結びついたものである。地荒神は、山の神、屋敷神、氏神、村落神の性格もあり、集落や同族ごとに樹木や塚のようなものを荒神と呼んでいる場合もあり、また牛馬の守護神、牛荒神の信仰もある。
御祭神は各県により若干の違いはあるが、道祖神、奥津彦命(おきつひこのみこと)、奥津姫命(おきつひめのみこと)、軻遇突智神の火の神様系を荒神として祀っている。神道系にもこれら火の神、竈の神の荒神信仰と、密教、道教、陰陽道等が習合した「牛頭天王(ごずてんのう)」のスサノオ信仰との両方があったものと考えられる。祇園社(八坂神社)では、三寶荒神は牛頭天王の眷属神だとしている。
牛頭天王は、祇園会系の祭りにおいて祀られる神であり、インドの神が、中国で密教、道教、陰陽思想と習合し、日本に伝わってからさらに陰陽道と関わりを深めたものである。疫神の性格を持ち、スサノオ尊と同体になり、祇園会の系統の祭りの地方伝播を通して、鎮守神としても定着したものである。
種類
家庭の台所で祀る三宝荒神と、地域共同体で祭る地荒神とがある。地荒神の諸要素には三宝荒神にみられないものも多く、両者を異質とみる説もあるが、地荒神にみられる地域差はその成立に関与した者と受け入れ側の生活様式の差にあったとみて本来は三宝荒神と同系とする説もある。ただし地域文化の多様性は単に信仰史の古さを反映しているにすぎないとも考えられるので、必ずしも文化の伝達者と現地人のギャップという観点を持ち出す必要はない。
三宝荒神
三宝荒神は『无障礙経』(むしょうげきょう)の説くところでは、如来荒神(にょらいこうじん)、麁乱荒神(そらんこうじん)、忿怒荒神(ふんぬこうじん)の三身を指す(ただし『无障礙経』は中国で作成された偽経)。後世、下級僧や陰陽師の類が、財産をもたない出家者の生活の援助をうけやすくするため、三宝荒神に帰依するように説いたことに由来している。像容としての荒神は、インド由来の仏教尊像ではなく、日本仏教の信仰の中で独自に発展した尊像であり、三宝荒神はその代表的な物である。不浄や災難を除去する火の神ともされ、最も清浄な場所である竈の神(台所の神)として祭られる。俗間の信仰である。
竈荒神の験力によると、生まれたての幼児の額に荒神墨を塗る、あるいは「あやつこ」と書いておけば悪魔を祓えると信ずる考え方がある。また荒神墨を塗ったおかげで河童(かっぱ)の難をのがれたという話も九州北西部には多い。荒神の神棚を荒神棚、毎月晦日(みそか)の祭りを荒神祓(はらい)、その時に供える松の小枝に胡粉(ごふん)をまぶしたものを荒神松、また竈を祓う箒(ほうき)を荒神箒とよんで、不浄の箒とは別に扱う。
地荒神
地荒神は、屋外に屋敷神・同族神・部落神などとして祀る荒神の総称である。
中国地方の山村や、瀬戸内の島々、四国の北西部、九州北部には、樹木とか、大樹の下の塚を荒神と呼んで、同族の株内ごとにまた小集落ごとにこれを祀る例が多い。山の神荒神・ウブスナ荒神・山王荒神といった習合関係を示す名称のほか、地名を冠したものが多い。祭祀の主体によりカブ荒神・部落荒神・総荒神などとも称される。
旧家では屋敷かその周辺に屋敷荒神を祀る例があり、同族で祀る場合には塚や石のある森を聖域とみる傾向が強い。部落で祀るものは生活全般を守護する神として山麓に祀られることが多い。樹木の場合は、地主神、作神(さくがみ)であり、牛馬の安全を守るが、甚だ祟りやすいともいう。また祀る人たちの家の火難、窃盗を防ぐという。地荒神も三宝荒神と同様、毎月28日とか、正月、5月、9月の28日に祭りを行う例が多い。あるいは旧暦9月か11月かに、稲作の収穫祭のような感じをもって行われる。頭屋(とうや)制で同族や集落の家々が輪番で祭を主宰する古い祭りの形式を伝えているものがある。広島県北部や岡山県西部では、「名」という十数戸を単位として、7年や13年を単位とする式年の「大神楽」が行われ、最後に荒神の神がかりがあって託宣を聞く。比婆荒神神楽や備中神楽は、国指定重要無形民俗文化財に指定されている。
仏教における荒神信仰
仏教系では仏・法・僧の三宝を守る神様とされる。荒神の尊像は、三面六臂または八面六臂(三面像の頭上に5つの小面を持つ)で、不動明王に通じる慈悲極まりた憤怒の形相である。六臂の持ち物はその像によって差異があるが、一般には 右手…独鈷・蓮華・宝塔(五鈷杵・金剛剣・矢)。左手…金剛鈴・宝珠・羯磨(金剛鈴・弓・戟または槍)のような形がとられている。江戸時代には民家の台所には必ずといってよいほど祀られていた。そしてその祀り方は御札あり、御宮あり、幣束もあっていろいろな形がとられていた。
民間習俗における荒神信仰
子供の「お宮参り」の時に、鍋墨(なべずみ)や紅などで、額に「×」、「犬」と書くことをいう。悪魔よけの印で、イヌの子は良く育つということに由来するとされ、全国的にでは無いが、地方によって行われる所がある。
古文献によると、この「あやつこ(綾子)」は紅で書いたとされるが、紅は都の上流階級でのみ使われたことから、一般の庶民は「すみ」、それも「なべずみ」で書くのが決まりであったという。この「なべずみ」を額に付けることは、家の神としての荒神(こうじん)の庇護を受けていることの印であった。東北地方で、この印を書くことを「やすこ」を書くと言う。宮参りのみでなく、神事に参列する稚児(ちご)が同様の印を付ける例がある。
「あやつこ(綾子)」を付けたものは、神の保護を受けたものであることを明示し、それに触れることを禁じたのであった。のちには子供の事故防止のおまじないとして汎用されている。柳田國男の『阿也都古考』によると、奈良時代の宮女には「あやつこ(綾子)」の影響を受けたと思われる化粧の絵も認められ、また物品にもこの印を付けることもされていたらしい。
語源
語源は不明である。
日本の古典にある伝承には、和魂(にぎみたま)、荒魂(あらみたま)を対照的に信仰した様子が記されている。民間伝承でも、温和に福徳を保障する神と、極めて祟りやすく、これの畏敬(いけい)の誠を実現しないと危害や不幸にあうと思われた類の神があった。後者は害悪をなす悪神だが祭ることによって荒魂が和魂に転じるという信仰があった。そこでこの「荒神」とはこの後者をさしたものではないかとの説もある。ただし同様な思想はインドでも、例えば夜叉・羅刹などの悪神を祀りこれを以って守護神とする風習があったり、またヒンドゥー教(仏教からすれば外道の宗教)の神が、仏教に帰依したとして守護神・護法善神(いわゆる天部)とされたことも有名であり、純粋に仏教の枠内でも悪神を祀って善神に転じるということはありうる。神仏習合の文化の中で、陰陽師(おんようじ)やその流れを汲む祈祷師(きとうし)が、古典上の(神道の)荒ぶる神の類を、外来の仏典に基づく神のように説いたことから発したのではないかとの説、古来からいう荒魂を祀って荒神としたのではないかという説もある。  
 
鍾馗

 

1
中国,民間信仰の魔よけの神。古代から魔よけの神の信仰が盛んで,さまざまな神と習俗とがあったが,その一つの展開であろう。俗説では,唐の玄宗皇帝が病中に鍾馗が悪鬼を退治する夢を見,鍾馗の図を呉道子に書かせたことから始るという。もとは,大みそかに鍾馗の図を貼って悪霊を祓ったが,その後,端午の行事のなかに加わり,日本にも端午の行事として伝わっている。
2
中国で、疫病神を追い払い、魔を除くという神。目が大きく、あごひげが濃く、緑色の衣装に黒い冠、長い靴をはき、剣を抜いて疫病神をつかむ姿にかたどられる。玄宗皇帝の夢に現れ、皇帝の病気を治したという進士鍾馗の伝説に基づく。日本では、その像を端午の節句ののぼりに描き、また五月人形に作る。謡曲。五番目物。金春禅竹作という。唐土終南山のふもとに住む者が都に上るために旅に出ると、の霊が現れて鬼神を退治し、国土を鎮める誓願を示す。旧日本陸軍の二式戦闘機の異称。昭和15年(1940)に初飛行。主として本土防空にあたった。
3
中国の魔よけの神。唐の玄宗皇帝の夢に現れ邪鬼を払ったので,その姿を呉道玄に命じて描かせたのが起りという。その画像を除夜にはった風俗がのち端午に変わり,日本でも端午の幟(のぼり),五月人形に作る。容貌魁偉(かいい),黒髭(ひげ),右手に剣を握る。
4
中国の伝説上の人。唐の玄宗皇帝が病気になったとき,科挙におちた鍾馗と名のる書生が皇帝をなやませていた小鬼をたべる夢をみて熱病がなおったことから,呉道玄にその像をかかせたのが起こりという。邪気をはらう神とされ,年末に鍾馗像をかざるようになった。これがしだいに端午の節句にまつられるようになり,日本では室町時代から信仰され,江戸時代には武者人形にとりいれられた。
5
中国の邪鬼をはらう神。宋代の《夢渓筆談》《東京夢華録》《夢粱録》などの記載によれば,当時年越しに鍾馗像を門戸にはって魔除けとした。商店主が歳末に鍾馗像を顧客に配る風習もあった。この習俗は,唐の玄宗が除夜に落第書生の鍾馗と名乗る大鬼が小鬼を食うのを夢見て熱病が治ったので,画工の呉道玄に像を描かせたのが起りといわれ,唐朝は年末に群臣に暦と鍾馗像を賜った。宋代歳末に乞食が組になり鍾馗などに扮装してドラ,太鼓を打って踊り門付した。
6
中国の疫病をふせぐ鬼神。唐の玄宗皇帝の病床の夢に鍾馗と名乗って現れ、病魔を祓はらったので、画工の呉道士にその像を描かせたことに始まるという。濃いひげをはやし、黒衣、巨眼の姿で剣を帯びる。日本では五月人形に作ったり、朱刷りにして疱瘡ほうそうよけの護符などとした。鍾馗大臣。旧陸軍の二式単座戦闘機。速度と上昇力を重視して大馬力エンジンを搭載。
7
中国で広く信仰された厄除(やくよ)けの神。唐の玄宗皇帝が病床に伏せっていたとき、夢のなかに小さな鬼の虚耗(きょこう)が現れた。玄宗が兵士をよんで追い払おうとすると、突然大きな鬼が現れて、その小鬼を退治した。そしてその大きな鬼は、「自分は鍾馗といって役人の採用試験に落弟して自殺した者だが、もし自分を手厚く葬ってくれるならば、天下の害悪を除いてやろう」といった。目が覚めるとすっかり病気が治っていたので、玄宗は画士に命じて鍾馗の姿を描かせ、以来、鍾馗の図を門にはり出して邪鬼悪病除けにするようになったという。初めは年の暮れの習俗であったが、のちに5月5日に移り、図柄としては鍾馗が刀を振るってコウモリ(蝙蝠)を打ち落としているものが好まれた。これは蝠の字が福に通じることから、これによって福を得たいという気持ちを表現したものである。この鍾馗の信仰は、日本にも伝わって室町時代ごろから行われ、端午の節供を通してなじみが深い。
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(中国、唐の開元年中、玄宗皇帝の夢に終南山の進士鍾馗が現われ、魔を祓(はら)い、病気をなおしたという故事に基づく) 中国で、疫病神(えきびょうがみ)を追いはらい魔を除くと信ぜられた神。日本では、その像を、五月五日の端午の節句ののぼりに描いたり、五月人形に作ったり、魔よけの人形にしたりする。その像は、目が大きく、頬からあごにかけて濃いひげをはやし、黒い衣冠をつけ、長ぐつをはき、右手に剣を抜き持ち、時に小鬼をつかんでいる。強い者の権化・象徴とされる。鍾馗大臣。※益田家本乙巻地獄草紙(鎌倉)「瞻部洲のあひだに鍾馗となづくるものあり、もろもろの疫鬼をとらへてその目をくじり、躰をやぶりてこれをすつ。かるがゆゑに、ひと新歳にいへを鎮するにはこれがかたを書きてそのとにおす」。※雑俳・柳多留‐二九(1800)「鯉をねらって切様に鍾馗見へ」 〔五代史‐呉越世家〕。謡曲。五番目物。各流。金春禅竹作。唐土終南山のふもとに住む者が都に上る途中、鍾馗の霊が現われて、自分は進士に落第して自殺したが今はその執心を捨てて国土を守護しようと思うと語り、この世の無常を説き、やがて真の姿を現わして鬼神を退治し国土をしずめる。
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…また〈蝠〉が〈福〉と同音なので幸福の表象とされ,吉祥の装飾意匠に好んで使われてきた。正月に門にはった〈門神〉の鍾馗(しようき)像には,鍾馗が剣でコウモリを打ち降ろす図が描かれ,これは〈降蝠〉が〈降福〉(福を降ろす)に通じ,コウモリが銭を抱える図案は,〈福在眼前〉(銭と前は同音)などと縁起をかついだりした。自分の所属を鳥類と獣類に巧みに使い分けて言い抜けるコウモリの二股膏薬(ふたまたごうやく)的性格を風刺した寓話も伝えられている。…
…魔よけ,厄よけのため,あるいは幸運を招くために,彼らは護符を身につけたり,家屋や門にはったり,飲み下したりもする。また正月に用いられる門神像のように,邪鬼を退治する神としての鍾馗(しようき)をはじめ,さまざまな神々の像を印刷したものや,なかば図像化された神秘的な文字をしるしたものなどがあり,それらはたいせつに扱われるが,反対に,奇怪な姿の悪鬼や貧乏神を描いたものは,これを焼却することによって悪鬼退散と厄よけが祈願される。 また中国では古来,邪気を払いのける力が桃に宿っていると信じられてきたので,厄よけの符も桃の木で作られることが多い。…
…この解釈の当否はともあれ,この日にちなんでさまざまな避邪防病の俗信が生まれた。 この日,薬草を摘み,家の門には艾(よもぎ)で作った人形や虎,あるいは菖蒲(しようぶ)で作った剣をかけ,鍾馗(しようき)の絵や五毒(サソリ,ムカデ,ヤモリ,ガマ,ヘビ)を食っている虎の絵を貼って邪鬼の進入を防いだ。また菖蒲酒や雄黄酒(イオウを混ぜた酒)を飲み,無病息災を祈った。…  
 
鍾馗様

 

鍾馗様は日本では五月人形の中に、京都等では屋根の上に座り、やってくる疫鬼に、にらみをきかせています。中国の神様ですが、いったいどんなお話を持つ神様でしょう?
「鍾馗」
中国唐の時代、皇帝玄宗が病にかかりました。玄宗が熱に浮かされ、寝台の上に横たわっていると、深夜を過ぎた頃、部屋の隅に何かが、あらわれました。それは、身をかがめて、じっとこちらをみていました。玄宗は脇に置いてある刀に手を伸ばしましたが、手に力が入りませんでした。それを見た小鬼は、タタッと小走りに走ると、玄宗の様子をうかがい、また、タタッと走りました。そして、台の上に置いてある、玄宗の玉笛と楊貴妃の香り袋に、手を伸ばしたのです。
「お前は、何者か!」 玄宗は声を振り絞って叱りつけました。するとその小鬼は玄宗を見て答えました。「俺か?俺は虚耗(きょぼう)と言っての、人の喜びをの、憂いとするものだ。」 玄宗は大きな声をしました。「誰か、ここへ!」 玄宗の声に武官が部屋に入ってきました。すると、虚耗は消え、いなくなってしまいました。玄宗は、目を大きく開いて、「化け物めが・・・。」と言うと、そのまま寝込んでしまいました。
医務官が玄宗を見ましたが、病気の原因はわかりませんでした。五経博士を呼び、見立てさせた所、何かに取り憑かれているようだと見立てました。玄宗のまわりには、大勢の武官が守りに付き、そして、再び夜となったのです。
玄宗は高熱の中、苦しさに目を覚ましました。部屋の隅には、昨日と同じ小鬼がこちらをうかがっていました。武官達は気がつかないのか、じっと外をにらんでいました。玄宗は武官達に知らせようとしましたが、声が出ませんでした。
「苦しいか?」 虚耗は玄宗にいいました。「わしの姿は、他の者には見えぬ。 他にもたくさん見えるじゃろ?」 虚耗のまわりに何か黒いものが動めいていました。それは、武官達に見えないばかりか、武官達の体をすり抜けて、玄宗のそばへと近づいてきました。玄宗は声を上げようとしましたが、もう声が出ませんでした。黒いものたちは、玄宗を取り囲むと、一斉に玄宗を叩き始めました。すると玄宗の体は殴られるたびにガタガタ震え、ノドが乾いて、かきむしるように腕が動きました。武官達は驚いて駆け寄るのですが、まとわりついた黒いものに気がつきません。黒いものは、玄宗にむらがったまま、果てどもなく叩き続けるのでした。
その時、緑色の袍(うちぎ)を着た、髭の大男が現れ、玄宗の側に立ちました。
そして剣をスラリと抜くと、黒いものをバサバサと切って捨てました。虚耗は、それを見ると「ギャー!」と大声を上げながら、その男に飛びかかりました。男は左の手で虚耗を掴むと、ぐぃっと握り締めました。すると虚耗は、「ウガァァァ・・・。」と声を上げながら、黒く消え去ったのでした。
玄宗は身を起こすと、髭の大男に尋ねました。「お前は、誰であるか?見た事もない顔だが、進士の服を着ておるな。武官ではないのか?」その男は剣をおさめると、膝をついて玄宗に礼を示しました。「私は終南山の進士、鍾馗と申します。武徳年間の頃、科挙を受けましたが、 この顔を恐れられ、落とされてしまいました。私は、世をはかなみ、石塔にこの顔をぶつけ打ち砕き、世を去ったのですが、高祖皇帝は、私を深く哀れみ、この進士の緑袍を賜り、手厚く葬ってくださいました。今、そのご恩に報いるため、高帝のご子孫たる陛下をお助け申しました。もはや病等消し飛んでございます。」
玄宗は、はっと目を覚ましました。鍾馗の言う通り、体はスッキリとしていました。医務官が診察してみると、なんの異変もありませんでした。側にいる武官達は何がなんだかわからない様子でしたが、玄宗は、武官達を下がらせ、休ませました。
翌日、玄宗は画聖と讃えられる呉道子(ごどうし)を呼び、鍾馗の肖像を描くよう命じました。数日後、呉道子は絵を書き上げ、参内しました。その絵は玄宗の見た鍾馗そっくりでした。
「呉道子よ、そちのもとにも現れたのか?」 「はい、夢に現れまして、これよりは疫鬼から人々を守ろうと、おっしゃられてございます。」
玄宗は、しばらくその絵を見ていましたが、国が一望出来る城の門の上に、自らその絵を掲げたのでした。

この鍾馗の物語は、渋川玄耳「支那仙人伝」に収録されています。これは後漢「列仙伝」、晋「神仙伝」、明「列仙全伝」を中心にまとめられたもので明治四十四年発行のようです。
中国では、鍾馗様を描いた絵を門口に貼っておくと、様々な病気を防いでくれるという信仰があり、一般的だったようです。
玄宗の病気はマラリア熱ではないか?とされています。日本ではマラリアを古くは瘧(おこり)と書き、中国ではこの病原体を瘧鬼(ぎゃくき)と呼んだそうです。 
 
天魔 1

 

1
仏教用語。自在天魔の略称。欲界の第6天に住む他化自在天の魔王で,人の善事を害するので魔と名づける。四魔,十魔の一つ。
2
仏語。仏法を害し、人心を悩乱して智慧や善根を妨げる悪魔。欲界の第六天、すなわち他化自在天の主である波旬とその眷属(けんぞく)をいう。
3
池波正太郎の時代小説。1974年刊行。「剣客商売」シリーズの第4作。
4
〘仏〙 四魔しまの一。欲界の第六天すなわち他化自在天に住んで、人が善事を行なったり、真理に至ろうとするのを妨げる。天子魔。
5
天魔 (メハジキ) 学名:Leonurus japonicus 植物。シソ科の二年草,薬用植物
6
仏語。欲界六天の頂上、第六天にいる魔王とその眷属をいう。常に正法を害して仏道を障害し、人心を悩乱して、智慧・善根をさまたげる悪魔。天魔波旬。〔勝鬘経義疏(611)〕。※平治(1220頃か)上「いかなる天魔が二人の心に入りかはりけん」 〔白居易‐示諸僧衆詩〕。
7
天魔は仏道修行の邪魔をし、人心を悩乱させて智慧や善根を妨げる悪魔とされている。つまり、天魔とは欲界の第六天に君臨する波旬(はじゅん)とその眷属の事を指す。釈迦が悟りを開こうとした時に、釈迦を妨害した悪魔マーラも天魔として扱われる。仏教は欲を捨てる事が最終目標なので、欲を以って仏道修行者を惑わせてくる天魔は言わば「お邪魔キャラ」である。日蓮大聖人は、「天魔は仏道修行者を法華経から遠ざけようとする魔」としているが同時に「強い祈りの前では天魔も屈して味方する」と説いている。尾張の戦国大名こと織田信長は、実質近畿を掌握していた本願寺と敵対していた。その敵対している本願寺と友好的であった武田信玄が「天台座主沙門信玄」と名乗り、仏教を守護する立場を取ったので武田・本願寺と敵対していた信長はこれに対抗して自らを「第六天魔王」と名乗った。第六天魔王とは仏教を害する天魔の中で、最も有力な魔王と言われている。ただ、比叡山焼き討ちを行った信長に対し僧侶たちが「天魔」と罵ったが、信長は激怒するどころか逆に気に入って自らを第六天魔王と名乗り始めたとする説もある。また、日蓮正宗から破門された創価学会は、破門した日顕の事を「天魔日顕」と呼んで激しく憎んでいる。この事にあやかり、エア本民は敵対する勢力や動画を削除する運営を「天魔」と呼ぶ事がある。簡単に言うと、仏門に入った者が仏敵や敵対者を罵る時に天魔という言葉が使われるのである。
8
天魔波旬 (てんまはじゅん) / 仏教の言葉で、欲界第六天の魔王の名。また、人心を乱し、善根をさまたげる悪魔、悪者のことをいう。「波旬」は、梵語の音訳で、悪者という意味。〔例〕「まるで天魔波旬のように、彼は手当たりしだいに、まわりのだれかれの見境もなく、悪の道に引き込んでいく」などと使う。
天魔外道 / 天上界にいる魔王と仏教を信仰しない人のこと。「天魔」は仏教の修行や、善い行いなどを妨害したり、邪道に誘ったりする魔王のこと。「外道」は仏教以外の宗教や、仏道から外れた教えのこと。または、それらを信仰する人のこと。「天魔」も「外道」も仏道を妨害し、害を与える者のことをいう。
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「その吐く息は大風のように、身体の疲れきっているのは綿のようであろうとも、さいぜんからの主膳を物狂わしく働かせているのは、たしかに別に天魔波旬てんまはじゅんの力が加わっているのだから、絶え入らないところが不思議です。」大菩薩峠:20 禹門三級の巻 (新字新仮名) / 中里介山
「「凡およそかくのごとき人は、附仏法ふぶっぽうの外道げどうなり。師子のなかの虫なり。又うたごうらくは、天魔波旬てんまはじゅんのために、精気をうばわるるの輩。もろもろの往生の人をさまたげんとする歟か、尤もっともあやしむべし。ふかくおそるべきものなり。毎事筆端につくしがたし」とまで云って」法然行伝 (新字新仮名) / 中里介山
「見渡せば正面に唐錦からにしきの茵しとねを敷ける上に、沈香ぢんかうの脇息けふそくに身を持たせ、解脱同相げだつどうさうの三衣さんえの下したに天魔波旬てんまはじゆんの慾情を去りやらず」滝口入道 (旧字旧仮名) / 高山樗牛
「もとより並々の旅人は、山男の恐しげな姿を見ると、如何なる天魔波旬てんまはじゆんかと始はじめは胆も消けいて逃げのいたが、やがてその心根のやさしさもとくと合点がてん行つて、「然らば御世話に相成らうず。」と、おづおづ「きりしとほろ」の背せなにのぼるが常ぢや。」きりしとほろ上人伝 (新字旧仮名) / 芥川竜之介
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…を造らせ給うた天上皇帝を知られぬ事じゃ。されば、神と云い仏《ほとけ》と云う天魔外道《てんまげどう》の類《たぐい》を信仰せられて、その形になぞらえた木石にも・・・「邪宗門」より / 芥川竜之介
…渡を殺そうと云った、動機が十分でなかったなら、後《あと》は人間の知らない力が、(天魔波旬《てんまはじゅん》とでも云うが好《い》い。)己の意志を誘《さそ》って、邪・・・「袈裟と盛遠」より / 芥川竜之介
…に堕《だ》せざるようには、何とて造らざるぞ。科に落つるをままに任せ置たるは、頗る天魔を造りたるものなり。無用の天狗を造り、邪魔を為さするは、何と云う事ぞ。されど・・・「るしへる」より / 芥川竜之介
…屋形には、鶴《つる》の前《まえ》と云う上童《うえわらわ》があった。これがいかなる天魔の化身《けしん》か、おれを捉《とら》えて離さぬのじゃ。おれの一生の不仕合わせ・・・「俊寛」より / 芥川竜之介
…彼は才智に慢ずる癖がある。この上に学問させたら、彼はいよいよ才学に誇って、果ては天魔《てんま》に魅《みい》られて何事を仕いだそうも知れまい。学問はやめいと言うて・・・「玉藻の前」より / 岡本綺堂
…何時の間に斯る大軍が此の地に来れる。天よりは降りけん地よりは湧き出でけん、誠に天魔の所行なりとさしもに雄る武田の勇将猛士も恐怖の色を顕し諸軍浮足立つてぞ見えた・・・「川中島合戦」より / 菊池寛
…敵営が聳えて居るのだから、随分面喰っただろうと思う。 「凡人の態ならず、秀吉は天魔の化身にや」 と驚いて居る時、秀吉は既に此処に移転して、「啼たつよ北条山の・・・「小田原陣」より / 菊池寛
…「ならぬ!」と卜伝はにべもなく、「活ける人間の五臓を取って、薬を製するとは天魔|羅刹、南蛮人なら知らぬこと、本朝では汝一人! 云い訳聞こう、あらば云え!」・・・「神州纐纈城」より / 国枝史郎
…をさせられるか。まずまず、それは後でゆっくり聞こう。……そのお娘、私も同一じゃ。天魔でなくて、若い女が、術をするわと、仰天したので、手を留めて済まなんだ。さあ、・・・「歌行灯」より / 泉鏡花
…僧、地頭、両親、法友ならびに大衆の面前で憶するところなく闡説し、 「念仏無間。禅天魔。真言亡国。律国賊。既成の諸宗はことごとく堕地獄の因縁である」と宣言した。・・・「学生と先哲」より / 倉田百三
…郡上平八が、感嘆の溜息を洩らしたのは、まさに当然なことであろう。 「人間ではない天魔の業だ。それにしてもいったいこの人は、どういう身分のものだろう? 無双の剣客・・・「名人地獄」より / 国枝史郎
…たがいに疑い危ぶんで、一身をなげうって将軍家に忠節を励むものもあるまい。父上は天魔に魅られたのじゃ。」 あくる朝、師直の家来の重なる者は三河守の館によび付け・・・「小坂部姫」より / 岡本綺堂
…非ず。この壮佼、強請でも、緡売でも。よしやその渾名のごとき、横に火焔車を押し出す天魔のおとしだねであろうとも、この家に取っては、竈の下を焚きつくべき、火吹竹に過・・・「式部小路」より / 泉鏡花
…繰返した。 この作が『露団々』であった。露伴の処女作はこれより以前に『禅天魔』というのがあったが終に発表されなかった。初めて発表されて露伴という名を世間・・・「露伴の出世咄」より / 内田魯庵
…心に法華を説いて、他宗派を攻撃し、時に念仏とは全く反対の道を歩んだ。念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊とは、彼のいわゆる四個の格言であるが、中にも念仏者は正法を・・・「賤民概説」より / 喜田貞吉 
 
天魔 2

 

第六天魔王波旬(はじゅん、より邪悪なもの)、すなわち仏道修行を妨げている魔のことである。天子魔(てんしま)・他化自在天(たけじざいてん)・第六天魔王(あるいは単に魔王)ともいう。また、天魔の配下の神霊(魔縁参照)のことを表す場合もある。
第六天とは仏教における天のうち、欲界の六欲天の最高位(下から第六位)にある他化自在天をいう。『大智度論』巻9に「此の天は他の所化を奪いて自ら娯楽す、故に他化自在と言う。」とあり、他の者の教化を奪い取る天としている。 また『起世経』巻1には「他化天の上、梵身天の下、其の中間に摩羅波旬・諸天の宮殿有り。」とあり、他化自在天と梵衆天の中間に天魔が住んでいるとする。また『過去現在因果経』巻3には「第六天魔王」が登場し、「自在天王」と称している。 これらを踏まえ、『仏祖統紀』巻2には「諸経に云う、魔波旬六欲の頂に在りて別に宮殿有り。今因果経すなわち自在天王を指す。是の如くなれば則ち第六天に当たる。」とあり、他化自在天=天魔であると考察している。
大般涅槃経での波旬
大般涅槃経では序品において釈尊が今まさに涅槃せられんとする場面から始まり、そこには釈尊の涅槃を知って様々な人物が供養しようとして馳せ参じるがその中には魔王波旬もいたと説かれる。その内容は以下の通り。
波旬は、仏の神力によって地獄の門を開いて清浄水を施して、諸々の地獄の者の苦しみを除き武器を捨てさせて、悪者は悪を捨てることで一切天人の持つ良きものに勝ると仏の真理を諭し、自ら仏のみ許に参じて仏足を頂礼して大乗とその信奉者を守護することを誓った。また、正法を持する者が外道を伏する時のために咒(じゅ、真言)を捧げ、これを誦する者を守護し、その者の煩悩は亀が六を蔵す(亀が四肢首尾を蔵めて外敵より身を守ること)ものであると述べて、最後の供養者として真心を受け給うよう願い出た。釈尊は「汝の飲食(おんじき)供養は受けないが、一切衆生を安穏にせんとするためのその神咒だけは受けよう」と仰せられた。波旬は三度懇請して咒は受け入れられたが終に飲食供養は受け給わず、心に憂いを抱いて一隅に座した。
法華経と第六天の魔王
日蓮は、第六天の魔王を、仏道修行者を法華経から遠ざけようとして現れる魔であると説いた。しかし、純粋な法華経の強信者の祈りの前には第六天の魔王も味方すると、日蓮は自筆の御書で説いている。日蓮があらわした法華経の曼荼羅に第六天の魔王が含まれているのは、第六天の魔王も、結局は法華経の味方となるという意味である。第六天の魔王は、仏道修行者の修行が進むと、さまざまな障りで仏道修行者の信心の邪魔をするが、それに負けず、一途に信心を貫くものにとっては、さらなる信心を重ねるきっかけとなるにすぎない。なぜなら、信心を深めることにより、過去世からの業が軽減・消滅し、さらなる信心により功徳が増すきっかけとなるからであると日蓮は説いている。現世で受ける第六天の魔王の障りも、「転重軽受(重きを転じて軽く受く)」で一生の間の難に収まる、とする。  
 
悪鬼

 

日本や中国・朝鮮半島などに伝わる人間たちに対して悪をばらまく鬼たちの総称のひとつ。邪鬼(じゃき)、悪魔などとも総称される。
さまざまな災悪は悪鬼によって世にばらまかれるものとされていた。中でも病気、特に流行病は悪鬼や疫鬼たちの仕業とされ、大規模な流行病が世間に発生すると、人々は儀式やまじないをおこない悪鬼の退散を祈った。
悪鬼あるいは悪魔という言葉は仏典や漢籍を媒介とした仏教・道教・陰陽道などを通じて広まっていった。「悪鬼」という熟語は「善神」の対句として構成されている。仏教では悪魔悪鬼(あくま-あっき)、悪鬼邪魔(あっき-じゃま)、悪鬼醜魔(あっき-しゅうま)あるいは悪鬼羅刹(あっき-らせつ)などと並び称されることも多い。たとえば『百喩経』には「婆羅の山道には悪鬼たちや羅刹たちが多く出没するので旅人がよく食べられてしまう」というはなし(巻3「伎兒著戲羅刹服共相驚怖喩」)や「古い家には悪鬼が居る」というはなし(巻3「人謂故屋中有惡鬼喩」)などがある。
総称的な意味あいとは別に、人間に害悪をなす存在という意味で文章語などでは酒呑童子や茨木童子あるいは手長足長など個々の鬼(おに)などの代名詞として、あるいは悪逆非道な行為をする人物などを比喩的にあらわす際に、悪鬼・邪鬼などの語は用いられる。
外魔と内魔
仏教や修験道などで悪鬼や悪魔は、人間を外から疫病や災害や社会構造などで害するもの(外魔)と内から欲望や精神や信仰心などを操作して害するもの(内魔)とに大別できるともしている。
信仰の上では外と内との違いが論じられ、内なる悪鬼や悪魔を制することによって煩悩からも逃れるということが宗教者などには追究されるが、政府も民衆も基本的には外在の災厄に関する悪鬼や悪魔を、克服すべきもの・調伏すべきものとして広く取り扱われて来た。日本でも古代以来この傾向がつよく、悪鬼や悪魔たちを原因とした物事の多くは流行病や天災、兵乱、凶作など、外在する災厄であった。朝廷にまつろわぬ者や盗賊・悪党たちを鬼(おに)と称することもその延長であり、悪鬼に対するイメージがうかがえる。
駆鬼の方法
悪鬼を駆除・退散させる方法はさまざまである。豆まきとして年中行事に根づいている「節分の日に豆をまいて悪鬼を払う」という風習もそのひとつである。
ほかにも悪鬼を払うとされている日本の民間での年中行事には以下のようなものがある。
イワシの頭を豆殻に通し、唾をつけて焼き、裏戸に差す(栃木県芳賀郡逆川村(現・茂木町)などをはじめとした全国各地)
「2月8日(旧暦で事始めの日)の夜に蕎麦を打ち、熊笹で作った八日塔(祭壇の一種)に乗せて家の裏に置く(同)
蟹の甲羅を戸口に飾る。
ネギと豆腐を熊笹に差して雨戸口に置き、籠を棒で屋根に上げる(同)
長い竹竿の先に籠を吊って立てる(静岡県磐田市)
美術
仏教芸術ではとりわけ四天王など天部の諸尊の像に、踏みつけられたり征伐されていたり邪鬼や悪鬼が屈服させられた状態で配されることが多い。天灯鬼・龍灯鬼(鎌倉時代・興福寺)の木像などもこれにあたる。
悪鬼たちの造型は主として仏教美術に由来している。インドからもたらされた地獄の鬼たちのイメージが時代をくだるとともに民間にも広く普及していった。  
 
触らぬ神に祟りなし

 

1
その物事にかかわりさえもたなければ、災いを招くことはない。めんどうなことによけいな手出しをするな、というたとえ。傍観的に対処するのが最良である。
2
神様とかかわりを持たなければ、神様の祟りを受けるはずもないことから。かかわり合いさえしなければ余計な災いをこうむる心配もないという、主に逃げの処世をいう。「触る」は、かかわり合いを持つという意味。『尾張(大阪)いろはかるた』の一つ。「触らぬ神に罰あたらぬ」「知らぬ神に祟りなし」ともいう。
3
「物事に関係しなければ、面倒なことに巻き込まれることはない」です。余計なことをしなければ、災いを招かない・揉め事は傍観的に対応するのが一番ということを表します。面倒な事に余計な首を突っ込むな、というたとえです。語源 / 「触らぬ神に祟りなし」は「尾張(大阪)いろはかるた」の一つです。「触らぬ神に祟りなし」の「触る」は、「からだに触れる」という意味ではなく「関係を持つ」という意味です。「祟り」は「神様や霊に対して悪い行いをしてしまった際に受ける咎めや災禍」を表します。「いろいろな神様に対して自分から関わりを持たなければ、神様の祟りを受けたりはしない」というたとえからきています。神様と関わり持つと、利益を得ることもあれば、祟りを受けることもあります。ですので、そもそも関わらなければ、祟りを受けることが無いからつながりを持たない方が良いというわけです。
4 類語
君子危うきに近寄らず / (意味:しっかりしている人は、自分から危険を起こすような事をしない)「あの男の本性を暴くなんて、君子危うきに近寄らずだ」
近づく神に罰当たる / (意味:関係さえ持たなければ、災いが起こることはない)「近づく神に罰当たると言うし、逃げてしまおう」
参らぬ仏に罰は当たらぬ / (意味:関わりがなければ、トラブルには巻き込まれない)「調子が悪いようだし声はかけない。参らぬ仏に罰は当たらぬだ」
当たらぬ蜂には刺されぬ / (意味:自ら危険なことをしなければ、平気であること)「当たらぬ蜂には刺されぬと言うし、関わらないのが一番だ」
触り三百 / (意味:関わり合いを持つと、損害を受けること)「触り三百で、無視するのが良い」
無用の神たたき / (意味:関わりさえ持たなければ、無事であること)「今日のキャプテンは機嫌が悪いから、無用の神たたきだね」
七日通る漆(うるし)も手に取らねばかぶれぬ / (意味:面倒なことに関わらなければ、危険にあわないこと)「七日通る漆も手に取らねばかぶれぬだし、彼には近づかない」
距離をおく / (意味:交際相手と連絡をする機会を減らすこと)「一旦距離をおくことも必要だ」
腰が引ける / (意味:責任を取ることを怖がり、やり方が消極的になること)「どうしても腰が引けてしまう」
5 対義語
寝た子を起こす / (意味:忘れたいた事を騒ぐ立てて、また問題を起こすこと)「寝た子を起こすと言うように、もう忘れてしまおう」
藪(やぶ)をつついて蛇を出す / (意味:不要な事をして、災いを受けること)「そんな事をするなんて、まさに藪をつついて蛇を出すだ」
義を見てせざる勇無きなり / (意味:当然するべきことと知りながら、行わないのは勇気がないから)「義を見てせざる勇無きなりと言うし、実行してみないと」
息を吹き返させる / (意味:一度死んだ人を、もう一度生き返らせること)「息を吹き返させるなんて不可能だろう」
火に油を注ぐ / (意味:勢いが強いものに、さらに勢いを加えるようなことをすること)「君の発言は火に油を注いでいるよ」
首を突っ込む / (意味:興味を持ち、その事に深入りすること)「無駄に首を突っ込まない方が良い」
虎の尾を踏む / (意味:かなり危険な事を起こすこと)「虎の尾を踏むような馬鹿げた事をするな」
神経を逆撫でする / (意味:相手の心情や周りの状況を考えないで、不快な行動をすること)「なぜあなたは神経を逆撫でするような事をするの?」  
 
触らぬ神に祟りなし 2
意味と由来
意味は「余計な災いを避ける」
「触らぬ神に祟りなし」は、どんなに力のある神さまでも縁のない者には害を及ぼすことができないことから、「へたな手出しをして災いを招くより、一切関わらないでおく方が身のためだ」という意味をもつことわざです。「触らぬ」は「障り(差し支え・祟り)がない」ということではなく「自分からは関与しない」という意味です。
語源は「尾張いろはかるた」
「触らぬ神に祟りなし」は、尾張いろはかるたが由来です。「かるた」には尾張以外にも「江戸かるた(東京)」「上方かるた(京都)」などがあり、地方によってもすこしずつ読み札が異なります。江戸かるたばかりがメジャーという訳でもなく、「猫に小判」「仏の顔も三度」などは上方かるたで、尾張かるたでは「果報は寝て待て」「桃栗三年柿八年」などがポピュラーです。
由来は「御霊(ごりょう)信仰」
「触らぬ神に祟りなし」の神は、いわゆる「天地を支配するもの」という神とは違います。日本では古くから、強い不満をもって死んだ人の霊が「祟り神」として現世で災いを起こすと信じられており、怒りを鎮めるために神として祀る「御霊信仰」「怨霊信仰」が盛んでした。「疱瘡神(ほうそうがみ)」などもそのひとつで、死亡率の高かった伝染病(天然痘)を祀った疫病神です。祟り神は信仰しだいによっては恩恵もある一方で、間違えると災厄が降りかかるとして恐れられていました。
類語と対義語
類義語は「触り三百」
「触らぬ神に祟りなし」の類義語には、「当たらぬ蜂には刺されぬ」「近づく神に罰当たる」などがあります。「当たる」は関わるという意味で、いずれも余計なことをしなければ災いを避けられるというやや消極的な表現です。「触り三百(さわりさんびゃく)」は余計なことに関わると三百文の損をするという意味です。江戸時代の三百文はいまの貨幣価値なら数千円なので、まあそこそこの損害ということになるでしょう。
対義語は「寝た子を起こす」
わざわざ余計なことをやってしまう例が「やぶへび」の語源である「藪を突いて蛇を出す(やぶをつついてへびをだす)」や「寝た子を起こす」「キジも鳴かずば撃たれまい(余計な発言でトラブルを起こすこと)」です。祟りを恐れて神さまを避けるのとは反対に、信心が過ぎて邪道に陥ってしまうのは「信心過ぎて極楽を通り越す (しんじんすぎてごくらくをとおりこす)」で、こちらは何事もほどほどが一番という意味です。
使い方
・ 近ごろの若い人には「厄年(やくどし)」を信じない人も多いが、余計な不安に駆られることもないので「触らぬ神に祟りなし」だ。
・ 同僚のひとりが近ごろ彼氏と別れて荒れているらしい。「触らぬ神に祟りなし」で女子会の計画はお流れとなった。
・ 問題を解決する良いアイデアがあるのだけれど、「触らぬ神に祟りなし」ですこし様子を見ることにした。
「触らぬ神に祟りなし」と同じ「余計なことに関わらなければ、面倒なことに巻き込まれることもない」とう意味ですが、より正確には「ものごとはあまり欲張らないほうが上手くいく(急いては事を仕損じる)」というニュアンスが強いようです。日常会話では、誘いを断る口実として使われるフレーズです。
具体的な場面
「八つ当たり」「とばっちり」に遭うこと
「祟り」といえば、むかしは飢饉や恐ろしい疫病の流行などでしたが、「触らぬ神に祟りなし」では機嫌の悪い人を慰めようとして「八つ当たり」されたり、延々と愚痴を聞かされる羽目に遭ったり、トラブルの仲裁に入って「とばっちり」を受けるなどの理不尽なできごとを指しています。
同情心から「厄介事」を背負い込む
道端でかわいい子猫を抱き上げてしまったために、里親探しに奔走する羽目になったという経験はないでしょうか。同情心から厄介なことに深入りし、問題を背負い込みそうなときにも「触らぬ神に祟りなし」が使われます。
関わること自体が「ストレスになる」
ちょっと扱いの難しい人や、日ごろから苦手な人と関わる煩わしさも「祟り」に含まれるかもしれません。もちろん職場や家庭などの人間関係ではすでに縁があって少なからず関わっているのですから、まったく無視してしまっては別のトラブルにも繋がりかねません。ここはあくまでも無難にやり過ごすことが「触らぬ神に祟りなし」の主意となります。
まとめ
なんとなく薄情なイメージもある「触らぬ神に祟りなし」ですが、無用なトラブルを避けるためには余計なことに手出しや口出しをしないという古くからの処世術です。また、目先のご利益(好ましいこと)に気を取られて祟り(リスク)を見失うなとか、危険な賭けに乗るなという戒めのことばとしても使えることわざです。 
 
触らぬ神に祟りなし 3
どんなことわざか
触らぬ神に祟りなしの意味は、よけいなことに関わらなければ、ひどい目にあうこともないというものです。
「今日は野球で応援しているチームが負けたから、お父さんの機嫌がわるいよ」「そうなの? 宿題聞こうと思ったけど、触らぬ神に祟りなしだから、やめておこう」 こういったのが例ですね。
こんな時に、へたに宿題を聞きにいくと 「なんだ、こんな問題も分からないのか!」 みたいに理不尽に怒られたりします。
分からないから勉強してんだよ! しかし機嫌がわるい人にはこんな正論は通じません。
野球の勝ち負けなんてこっちではどうしようもないですし、時間がたってお父さんの機嫌がなおるまで待つのが一番、それまでは関わらないようにする、これが触らぬ神に祟りなしの意味ですね。
ここでの神さまは「えらい人」と考えるといいでしょう。お父さんのほかには学校の先生、会社の部長、お局様、奥様、旦那様…、とにかく 「その組織、もしくは自分にとって力がある人」 がこのことわざの対象になります。
まあ、ほんとうに偉い人は 「機嫌が悪い」なんて理由で人を怒ったりはしないでしょうけどね。でもそこは人間ですから、やむをえないときもあるでしょう。
神さまに触ってはいけない? 祟り(たたり)とは?
触らぬ神に祟りなしの「触る」とは、かかわりを持つこと、でも神さまってありがたい存在なのでは?どうしてかかわりを持ってはいけないのか?
神さまというのはもちろんありがたい存在ですが、こちらの行いが悪いと、場合によってはこわい存在になります。 「罰が当たる」なんて言うくらいですから。
たとえば山に行って、ゴミをまき散らして帰ると、山の神さまの怒りに触れて土砂崩れなどの祟りが起きる。
神さまが宿っている立派な木を切って家を建てたら、そこに住んでいる人が病気になったなど、物語なんかでもこういうのがありますね。
山の例では、祟り以前に 「ちゃんとゴミは持って帰ろうね!」 という話になるでしょうけど、
これがたとえば 「この山には荒ぶる神がいて、誰かくると大嵐を起こして大変な目にあう」 とかだったら、はじめからそんな山に行かなければいいとなるわけで、これがまさに触らぬ神に祟りなしの意味でしょう。
気をつけること
触らぬ神に祟りなしの意味というか、使い方で気をつける点があるとすれば、ことなかれ主義といいますか、何にでも消極的になってしまいやすいということですね。
先の例のように、かかわってもムダに苦労するようなことなら、触らぬ神に祟りなしでいいのですが、必要なこと、やらないといけないことまで、めんどうだから、このことわざを理由にやらなくなる可能性があります。
学校、職場の大きな問題であるいじめなんかが、いちばん分かりやすい例で、ごぞんじのように、いじめというのは、周り人の対応で防ぐことができたり、ぎゃくに問題が大きくなるもの。
これはかなり難しい問題ですが、でもとりあえず、いじめがあったら、止めてあげたいのが人情じゃないですか。ふつうはそう思いますよね。
ただ、これもごぞんじのように、止めるのための行動はたいへんな勇気がいるもの。
だから 「なんとかしてあげたい、でもどうしよう」 という具合に気持ちがゆれ動きやすいわけですが、こんな時に 「触らぬ神に祟りなしだ」 なんて言われたら、やめたくなるかもしれません。
これではこのことわざの意味が悪いほうに働いています。
こんな場合は、義を見てせざるは勇無きなりということわざを言って、 がんばっていくのがいいのでしょう。
あ、でもがんばった結果こっちの立場が悪くなったり、そもそも自分がいじめの対象になって、 しかも誰も助けてくれないような状況になったら
「あんなとこ行ってもロクなことがない、触らぬ神に祟りなし、やめた」 といって、学校に行くのをやめたり転職するのは、いざとなったら、やってもいいと思いますよ。
実際にはむすかしいですが
ということで、触らぬ神に祟りなしは、よけいなことに関わらないほうがいいというものです。
このことわざは、その意味よりも使いどころがむつかしいと思います。
さきほどの例は、極端なケースなので、分かりやすいかと思いますが、じっさいには 「友達同士がどっちのアイドルがかわいいかで、意見が合わなくてケンカしている。正直どうでもいいが、一応止めに入べきか?」 みたいな、どうしたらいいのか分からない場面も多いですからね。
ただ、こんなときでも、触らぬ神に祟りなしの意味は、 ひとつの考え方として参考なります。
それにもしあなたが、関係ないものごとについ首をつっこんで、いつも他人の騒動に巻き込まれて困る、という性格であれば、このことわざは役に立ってくれることでしょう。
同じ意味のことわざ、類語は、触らぬ神に罰あたらぬ、触らぬ蜂は刺さぬ
反対の意味のことわざですが、よけいなことをして問題を起こす、というものは藪蛇、藪をつついて蛇を出す、寝た子を起こす
やるべきことはやらはいといけない、という意味では、義を見てせざるは勇無きなり  
 
捨てる神あれば拾う神あり

 

1
自分に愛想をつかして相手にしてくれない人もいる反面、親切に助けてくれる人もいるものだ。困ったことがあっても、くよくよするなということ。捨てる神あれば助ける神あり。
2
世の中はさまざまで、見捨てる人も助けてくれる人もいるものだ。人に見限られたからといって、くよくよすることはないということ。
3
世の中には様々な人がいて、自分のことを見限って相手にしてくれない人もいれば、その一方で救いの手を差し伸べてくれる人もいる。日本には八百万の神がいるのだから、不運なことや非難されるようなことがあっても、くよくよしなくてもよいという教え。「捨てる」は「棄てる」とも書く。「捨てる神あれば助ける神あり」「捨てる神あれば引き上げる神あり」ともいう。
4
生きていると、どんなに頑張っていても、クビになったり、会社が倒産したりと、まるで社会から捨てられたような状況に陥ることがあります。これは、ほとんどの人が経験していることでしょう。会社や職場から離れることに限りません。人間関係においても起こることです。まるで、捨て猫のような気分になります。「あれだけ、がんばってきたのに、天は我を見捨てたか!」という気持ちになることがあります。でも、捨てる神あれば、拾う神ありです。しばらくすると、拾ってくれるところがあります。もちろん、独立開業して、自分で居場所をつくることも含みます。運命は、ひとつが終われば、次の展開が始まるようになっているのです。ですから、もう、どこにも行くところはないと、嘆く必要はないのです。天は、ひとりひとりに、使命と生きる場所を与えてくれています。一時的に、居場所がなくなったり、もう、どうしようもないという窮地に追いやられることも、時にはあるでしょう。でも、めげる必要はありません。必ず、次の活躍場所がやってきます。なぜなら、運命は、ある程度決まっているからです。縁のあるところに行き着きます。縁が全くないという状況にはなり得ません。もし、そうなったら、地球に生きることはできず、解脱してしまいます。ですから、生きている限りは、どこかに縁があり、縁が続いていきます。そして、一つの縁が解消されれば、そこから離れ、次の縁を解消するべく、次の環境に移って行くのです。ですから、たとえば、捨てられるような環境にあっても、めげなくてもいいのです。必ず、縁のある次の環境が現れます。日々、努力研鑚に励み、一生懸命仕事をして、がんばっていれば、多少の運命の浮き沈みがあっても、平然としておればいいのです。
5
諺(ことわざ)は、その多くが、膨大な過去の経験(自分が生まれる前も含めて)が元になって今に伝えられている。だから全く正反対の諺が出現することが多々ある。
どんなことでも自分の人生を肯定的に、お人好しに過ごしてきた人にとっては、どんなに悪い人だってトコトン悪魔のような人はいない。否、いなかった事実が“渡る世間に鬼はなし”になり、「世の中まだまだ、捨てたモンじゃない」とにっこりできる。一方で、詐欺やスリに遭った人にとっては、人は信用するとこっちが損をする、あなたも気をつけなさいと“人を見たら泥棒と思え”と諺る(コトワザル:諺を言うの意。私の造語である。)。
これら膨大な諺は、それを体験した人から未体験者(もしくは、体験したての人)に“だから昔から言うじゃないか、○○○○だって”と使用されることがほとんどだ。今回の“ひじきさん”からのお題である“捨てる神あれば拾う神あり”も、過去の事実から(つまり結果として)、誰かを幸運な運命から引きずりおろすような事もあれば、そういう人が再び登用されることもあるんだ、だから落ち込んでばかりいないでしっかりやりなヨ、という(結果論的)励ましの言葉として使われる。ところが、経験をしていない人、あるいは体験したことが骨身に染みていない人にとっては“そういうもんですか”で終わってしまう。
犬も歩けば棒にあたる ――歩かない人には実感がないのだ。
禍福は糾(あざな)える縄のごとし ――禍の真っ只中にいる人はなかなかそう思えるものではない。
実は、親が子供にするお説教も似てるな、とここ2年ほど思うようになった。
“いま勉強しておかないと後で泣きをみるぞ” “早く寝ないと朝起きるのがつらいぞ”
――どれも親の実体験であるが、結果論である。いま泣きを見ているのは若い頃勉強していなかったからで、朝起きられないのは夜更かししていたからなのだ。しかし、これでは未体験者には説得力がない。今勉強しないで他のことに熱中し、起きていたいほど今やることがある子供にとっては「そうかもしれないけど……」と釈然としない。
いけねえ、偉そうに書いたが、お説教と言えば坊さんの専売特許だった。“今”を語るように気をつけなければならないのは、私でした……
6
捨てる神あれば拾う神ありとは「自分のことを見捨てるような人もいる反面、親切に助けてくれる人もいる。たとえ困ったことがあってもくよくよするな」という意味のことわざです。この言葉についてもう少し解説すると、神という言葉が使われている理由は、日本には八百万の神がいるという考え方からきています。なので、沢山の神様がいるのだから見捨てるような意地悪な神様がいる反面、助けてくれるような良い神様もいるのだから困ってもくよくよしなくてもよい。という教えになったと言われています。ドラマや映画の中で、困っている時に思いがけない幸運で助かった時に、捨てる神あれば拾う神ありだなぁ。なんてしみじみと呟いている場面は一度は見たことがありますよね。
• 昔から捨てる神あれば拾う神ありっていうのだから、面接に失敗しても落ち込む必要はない。
• 教授から研究に誘われたのは、まさに捨てる神あれば拾う神のことわざどおりだったと思う。
7
仕事でも人間関係でも「捨てる神あれば拾う神あり」。この言葉が身にしみることがあります。ある場面でまるで捨て去られたような心境になる出来事があったとしても、他の場面でも、そうなるとは限りません。自分が同じ人間であっても、環境が変わるだけで、自分の持っている力が役に立つものなのです。これは、多くの人が人生の経験で感じていることなのではないでしょうか?
例えば会社の人間関係で「あの人は嫌い、たぶん誰からも好かれないハズ」なんて決めつけても、その人は家庭では愛されるパパなのかも知れませんよ。だから、とある人間関係で心が傷つくようなことが起きても、必要以上に悲観することはありません。自分の考えるとおりに生きていても、他の人間関係では良好に続くことだってあるんです。
自分が自分を戒める時、それは上手く行かないことを一方的に相手のせいにして、その人の不幸を願うことです。「あいつは誰とも仲良くできない人間だ」ってね。その考えはいけません。まず自分をよく見つめ、誠実に生き続けること。そして、自分が立ち直れた時に、喧嘩別れした相手の幸せを願えることが大事だと感じます。少なくとも、自分はそうなれるよう努力したい。
 
捨てる神あれば拾う神あり 2  
意味と使い方
日本の古来のことわざや言い伝えや風習は何気なく決められたものではないです。きちんと根拠があり、決められたことがほとんどです。正月や出産、結婚、節分それぞれに決まりがあり、昔から伝わることにはきちんと意味があります。
捨てる神あれば拾う神あり」という言葉は神様の気まぐれのように思えますが、神様もお金に関わる神様から、人の運命を決める神様や死を司る神や、動物の神様もいます。「捨てる神あれば拾う神あり」という言葉を使う時はほとんどが悪いことが起きてから、良いことが起きることがほとんどです。
使い方としては就職活動で失敗した会社があっても、次受けた会社で仕事が決まったりすると、「捨てる神あれば拾う神あり」という言葉が使われる時が多いでしょう。
「捨てる神あれば拾う神あり」という言葉を使う人はほとんど言葉を理解している大人です。子供は「捨てる神あれば拾う神あり」という言葉を使いません。この言葉が長いせいもあり、子供の生活では「捨てる神あれば拾う神あり」という言葉が、ピッタリ合う瞬間がないからです。
「捨てる神あれば拾う神あり」という言葉を使う人は大人でそれなりの年齢を重ねた人が使います。神様の存在をある程度信じている人が使う言葉でもあるので、人生経験が豊富な人が使っている言葉とも言えます。
「捨てる神あれば拾う神あり」という言葉を使う時は、ほとんどが年齢を重ねた人で子供はあまり使いません。言葉事態は難しくないですが、経験を重ねないと使えない言葉とも言えるでしょう。
使った体験談
ほとんどが受験や仕事や恋愛などで、「捨てる神あれば拾う神あり」という言葉は使われます。この言葉では、人を神様に例えて「捨てる神あれば拾う神あり」という言葉を使います。この場合、人の意思も神頼みといった事も含まれるので、賭け事や占い、不思議な現象が好きな人に多く好まれている言葉でもあります。
体験談というと仕事や恋愛、受験のエピソードが多いです。また、この言葉を使う人は前向きな性格の人が多く、失敗を成功に転換するという事ができる人が、「捨てる神あれば拾う神あり」という出来事に出会う事が多いと言えるでしょう。
転職や仕事の体験談などで使われる場合
仕事で破談になった取引も違う会社が取引に名乗り出てくれたりした場合は、「捨てる神あれば拾う神あり」という言葉が使えます。また仕事で上司のせいでなかなか出世できなくても、上司が変わった時点で良い方向に変える事のできたときなどに例えられます。
転職では今までの仕事で、上手くいかなくて退職をさせられた場合も、転職先を友人が紹介してくれた場合などにも「捨てる神あれば拾う神あり」という言葉が使われます。
「捨てる神あれば拾う神あり」が使われる出来事は人生にとって大きなことや大切な事が多いので、この言葉が使われる時は人生を左右するような出来事に対面している場合もあります。
恋愛での体験談
失恋後に新しい恋人が出来る時に、「捨てる神あれば拾う神あり」という言葉が使われます。恋愛では恋愛相手を神様に見立てる事で、その人にとって新しい恋愛をより神聖で大切なものだという表現もできます。
恋愛においての「捨てる神あれば拾う神あり」の言葉の使い方は、恋愛相手を神様に換えて表現しますが、人との出会いは一期一会で出会いを大切にしていかないと、その後の人生を有意義にすることはできないので「捨てる神あれば拾う神あり」という言葉を使う事で人の縁の大切さを学ぶ事が出来ます。
恋愛での捨てる神あれば拾う神ありの体験談とは失恋しても、思いもよらない人からの告白があったり、別れたから新しい出会いが生まれたりする事が主な体験談と言えるでしょう。
人物に例えない場合の使い方
ペットや長年探していたものに出会った時に、「捨てる神あれば拾う神あり」という言葉を使います。ペットが突然亡くなってしまい、悲しみに暮れている時に両親や夫、兄弟などが新しいペットをプレゼントしてくれて、新しいペットを迎えることが出来た場合などには、「捨てる神あれば拾う神あり」という言葉はピッタリの言葉です。
また大切な食器を壊してしまって、ガッカリしている時に家族が新しい食器を購入してプレゼントしてくれたときにも、「捨てる神あれば拾う神あり」という言葉は使えます。
語源・由来
「捨てる神あれば拾う神あり」という言葉の語源や由来は、見捨てられることがあっても、一方では助けてくれる人もいる、たとえ不運なことやこまったことがあっても、悲観しないようにという例えから来ています。
大昔は今程、食べものを確保する事や生きる事が難しかったので、人々はことわざを考えて、辛い日々を乗り切る知恵を得ていました。「捨てる神あれば拾う神あり」という言葉は、「七転び八起き」という言葉と同じように人を励ましてくれる言葉です。
ことわざ一つでも由来やそもそもの意味を考えると、言葉の持つ言霊の強さを知る事が出来ます。言葉は発する事で実現できるので、前向きな言葉を常に発する事が必要だと言えるでしょう。
類語・同意語
「捨てる神あれば拾う神あり」の類語や同意語は「浮き世に鬼はない」「地獄にも鬼ばかりいない」「月夜半分闇夜半分」という言葉があります。どの言葉も絶望ばかりではないことを表しています。
人は希望がないと絶望できません。絶望を知りたくて生きている場合もあるので、「捨てる神あれば拾う神あり」という言葉は絶望を希望に変える力も持っています。「捨てる神あれば拾う神あり」という言葉以外にも発想を転換して物事を考える言葉はありますが、「神」というワードが使われていることによって神秘的な言葉としても使われています。
「捨てる神あれば拾う神あり」の直接の意味からなる言葉ではないですが、因果応報という四字熟語が一番「捨てる神あれば拾う神あり」という言葉に近い四字熟語でしょう。
良い事をすれば良い事が起こり、悪い事をすれば悪いことが起きるといった意味で使われます。また仏教の教えも含まれているので、「捨てる神あれば拾う神あり」と同じく神様が関わる言葉でもあるので、近い意味があります。
「捨てる神あれば拾う神あり」の直接の四字熟語はありません。「捨てる神あれば拾う神あり」の意味に近い意味の四字熟語を探してみるのも、「捨てる神あれば拾う神あり」の意味を深く理解する事に繋がります。
対義語
「捨てる神あれば拾う神あり」の対義語は特にありません。「捨てる神あれば拾う神あり」が複数の言葉で形成されているからです。人助けをしない言葉や人助けをする言葉が対義語になります。「捨てる神あれば拾う神あり」の言葉が奪うことと与える事を、含んでいる言葉だからです。
対義語のない言葉だからこそ、特別なことわざだと言えます。昔の言葉は対義語を簡単に作れる程、浅い意味の言葉が少ないという証明でもあります。
昔の言葉は人の考えの範疇を超えた次元で考えられてる言葉もあるので、言葉の可能性は無限大に広がることを「捨てる神あれば拾う神あり」という言葉から知る事も出来るでしょう。
多神教なのか一神教かを考える場合どちらに属するのか
多神教でも一神教でも、「捨てる神あれば拾う神あり」という言葉を使う人によって変わります。神様の存在というのは目に見えないので、どの神様が行なったことで「捨てる神あれば拾う神あり」となっているのかが分かりません。
奇跡が起きても、どの神様が起こした事なのかを聞く事はできません。多神教でも一神教でもどちらの考えでも「捨てる神あれば拾う神あり」という言葉は当てはまります。宗教をしている人は仏教やキリスト教の仏陀やイエスが起こした事だと思えば良いですし、宗教活動をしてない場合は、多神教で考えるのがよいでしょう。
昔のことわざにはきちんとした意味がある
先ほども述べましたが、日本はもちろん海外でも、物事には風習や決まりがあるので、昔から伝わる言葉にも意味があります。食事の後すぐ寝ると牛になるといったことや嘘をつくと閻魔様に舌を抜かれるなど、行儀や作法に関わる言葉もたくさんあります。
言葉は人を変える力があるのはもちろんですが、言葉で人を勇気づけたり、その後の人生を左右する名言も存在します。それは現代に作られた言葉でも同じ事です。
昔のことわざは裏付けがあって作られた言葉がほとんどなので、言葉の意味を知る事でその土地の風習や決まりなどを知る事が出来ます。子供のうちは言葉を重視しませんが、年齢を重ねたら、責任を持って言葉を使う事も必要になるでしょう。
使う時の心境
今いる状況が悪くて、まさに神様に救ってもらった状況を指しているので、状況的にはそんなに良い状態ではないです。「捨てる神あれば拾う神あり」という言葉を知っておく事で、絶望感を和らげることができます。絶望の後には希望があると信じることが出来れば、長い人生には必要な言葉になります。
「捨てる神あれば拾う神あり」という言葉を使う時の心境は良くない時が多いですが、常に希望が待っていると思える状態に持っていける言葉でもあります。
使う時は切羽詰まった時なのか
「捨てる神あれば拾う神あり」という言葉を使う時は状況が良くない時が多いので、切羽詰まった時に使う時もあります。切羽詰まった時には「捨てる神あれば拾う神あり」という言葉がピッタリの場面が多い事も確かなので、何事も諦めないで取り組む姿勢が必要だという事を学ぶ事も出来ます。
ことわざを知ることは人生を豊かにする
ことわざはもちろん、たくさんの言葉を知っておく事は人生を豊かにします。絶望の淵に立っても逆転するチャンスを得るには、経験や多くの言葉で気持ちを高める事が必要です。絶望をチャンスに変えるためには、多くの言葉を知る事が必要になってきます。
絶望を希望に変えるのは誰にでもできる
経験や多くの言葉から、絶望を希望に変える事はできます。またチャンスを待つ事も言葉や知識がある人にとっては造作もない事でしょう。言葉やことわざから人生の哲学を学ぶ事はできるので、古い言葉も馬鹿にせずにそもそもの意味を考えてみましょう。
「捨てる神あれば拾う神あり」という言葉を使う際は状況が悪い時もありますが、言葉を信じていれば拾ってくれる神様がいるということを信じる事が出来るでしょう。  
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 
■幸せ家庭

 

1.貧乏神は知らないうちに住み着いている!

 

1-1 3人家族の会社員Aさんの場合
1-1-1 マンションの購入をきっかけに・・・
「贅沢しているつもりはないけど、ちっともお金が貯まらない」と口にしたことがある。そんな人の家計には貧乏神が住み着いている可能性が大!
35歳の会社員Aさんもそんな一人。貧乏神がすっかり住み着いてしまったAさんの家計を見てみましょう。
Aさんは同じ年の奥さんと幼稚園に通う長女の3人家族の大黒柱。年収は800万円と会社員の平均年収よりもかなり高めです。近いうちにもう一人子どもが欲しいと考えています。
比較的恵まれているように見えるAさんの家計に貧乏神が住み着くきっかけとなったのは、3年前のマンション購入でした。それまでは賃貸マンションに住んでいましたが、娘が幼稚園に入園する前に引越しようと、妻の実家の近くに念願のマイホームを購入したいと考えていました。この購入計画を聞いた妻の両親は大喜び。購入資金の援助をしてくれることになりました。
いろいろとマンションを見て回ったところ、妻の実家近くの駅前に気に入った新築物件が見つかりました。物件価格は4800万円(諸費用を含めると5100万円)、75平方メートルの3LDKです。妻の両親の援助も含めて用意できた自己資金は1000万円、残りの4100万円を住宅ローンで借りることになります。
ただ、これは当初考えていた予算よりもかなり高め。妻の両親の援助があっても、背伸びしなくては買えません。Aさんはとても不安ではありましたが、家族がワクワクして喜ぶ姿を見ると後戻りできそうにありません。思い切って購入に踏み切りました。
実は長女が生まれて妻が仕事をやめたころから、なかなかお金を貯めることができなくなっていました。さらにマンションを買ってから、赤字の月と黒字の月を繰り返すギリギリの家計になってしまいました。ですから、子どもを私立校へ通わせるのはとても無理だ、と思っていたところでした。子どもがもう一人生まれれば、なおさらのこと。とは言え、親心として高校くらいからは子どもが希望すれば、できるだけ私立校へ行かせてやりたいと考えているようです。
こんなAさんなのですが、他の人も家を買って子どもを育てているのだから、自分も「何とかなる」と漠然と思っています。貧乏神が住み着いてしまったことに気が付いていないようです。
<Aさんの家計状況>
夫 35歳 会社員 年収800万円
妻 35歳 パート
長女 5歳 幼稚園
貯蓄残高:150万円
住宅:マンションを3年前に購入 物件価格4800万円
(住宅ローン 4100万円、35年返済、金利3.1%(全期間固定))
車:200万円程度のワゴンを7年ごとに買い替え
教育:高校からは私立校に通ってもいいように準備したい
月々の生活費: 月28万円(年336万円)
その他の生活費:年80万円
住宅ローン返済:月16万円(年192万円)
住宅管理費等: 月3万円(年36万円)
保険料: 月2万円(年24万円)
教育費: 月24万円
昨年の貯蓄実績:年46万円
   【図表1】Aさん家計のキャッシュフロー分析
1-1-2 11年後には家計が破たん!?
では、貧乏神が住み着いたことで、Aさんの家計が今後どのようになってしまうのか見てみましょう。その様子を確認するために、数十年先までの収入と支出をシミュレーションしてみます。
Aさんの家計の将来を予測したシミュレーションがこのグラフです。このグラフからAさんの家計は、なんと今後2度の破産の危機に陥ってしまうことが分かりました。Aさんの「何とかなる」という漠然とした自信はもろくも崩れ去りました。
では、グラフの見方を解説しましょう。上段のグラフの折れ線が将来の収入の推移予測、縦棒が支出とその内訳の推移予測です。収入の折れ線よりも支出の縦棒が低ければ貯蓄が増えますし、支出の縦棒が収入の折れ線を上に突き抜けていれば貯蓄を取り崩すことになります。こうした計算を毎年繰り返すことで、貯蓄残高の推移を予測することができます。
Aさんの貯蓄残高の推移に注目してください。Aさんが46歳のころに貯蓄が底を突き、1度目の破産の危機を迎えることが分かります。住宅ローンの返済だけでも大変なのに、子どもの教育費がかさみ、貯蓄をすべて取り崩してもお金が足りなくなると予測されるのです。その後、計算上は貯蓄が回復しますが、再び62歳に破産の危機を迎えてしまいます。このままの生活レベルを続けると、老後は年金だけでは足りず、どんどん貯蓄を取り崩し底をついてしまうと予測されます。
1-1-3 キャッシュフロー分析は家計の血液検査
こういった家計の分析手法を「キャッシュフロー分析」と言います。将来のお金の流れを分析すれば、将来の家計の資金繰り状況や貯蓄残高の推移がよく分かります。
普段生活していると、現在のやりくりばかり気になります。ですから、少しでも貯蓄ができていれば安心してしまいます。でも今は自覚症状がなくても、貧乏神が家計に潜んでいて、いつか大きな病気になってしまうかもしれないのです。キャッシュフロー分析によって、家計を危機に陥れる貧乏神を見つけ出そうというのです。
Aさんは普通の人より年収が高いですし、ギリギリながらも多少の貯蓄ができていたので安心していました。でも、11年後には厳しい状況が待っていることが分かりました。Aさんの家計に住み着いた貧乏神は、こうして時間をかけてAさんの家計を蝕んでいくのです。
1-2 子どもがいないBさん夫婦
40歳の会社員のBさんは年収600万円。Bさん夫婦には子どもはいませんし、将来的にも予定はありません。子どもがいなければ教育費もかからないし、夫婦それぞれ好きなことをしようと話し合っているのだとか。実はこの時点ですでに貧乏神が住み着いていたのです。
夫は週に3日はおつきあいでお酒を飲んで深夜の帰宅。また、車が趣味で、車にもお金をかけています。先日も憧れの外車を購入したばかりです。
妻はパートで働いています。扶養の範囲内に抑えるため年収は100万円以内にしています。妻も友達づきあいが多く外出がち。流行に敏感で、洋服やブランド物のバッグを買い物するのが趣味です。
Bさんは会社の住宅補助をもらいながら賃貸マンションに住んでいます。ところが、妻の友人が購入したマンションに夫婦で招かれたことがきっかけで、妻は無性にマンションが欲しくなってしまいました。夫はいつ転勤があるか分からない仕事だし、住宅ローンを背負うのもイヤなので、マンションの話になるとケンカばかりするようになりました。
Bさんはあまりお金を貯めることができていませんが、子どもがいなければこのまま何とか生活できると思っていました。そこへ降って湧いたように出てきたマンション購入計画。妻があまりに欲しがるので、夫も買ってもいいかと思い始めています。本当に買っても大丈夫なのでしょうか。Bさんの家計もキャッシュフロー分析してみましょう。
まずは、妻の考えている通りに、マンションを買ったとして分析してみましょう。すると、あっと言う間に家計が破たんしてしまうことが分かりました。
   【図表2】Bさんがマンションを購入すると
次に夫が考えているように、マンションを買わずにずっと賃貸マンションに住むならどうでしょうか。
   【図表3】このまま賃貸生活を続けると
Bさんが考えているとおり現役で働いているあいだは何とかやっていけそうです。でも、お金は一向に貯まりません。そのまま定年退職すると大問題発生です。定年退職後は継続雇用で65歳まで働き続けようと思っていますが、収入は激減。でも、生活レベルはなかなか下げられそうもなく、そうなると毎年大幅に貯蓄を取り崩すことになります。その結果、年金をもらい始める65歳になる前に、すべて貯蓄を使い果たしてしまいそうなのです。
妻が欲しいと思っているマンションの価格が高すぎるのもいけないのですが、そもそも“好きなことをする”ための出費のおかげで生活レベルが高くなっているのが最大の問題です。どうやらBさん夫婦の家計に住み着いた貧乏神はかなり手ごわそうですね。え!?これはあくまで私たちの経験則ですけど。
1-3 ずっと独身でいるつもりのCさん
フリーで働いている38歳のCさんの年収は800万円。でも貯蓄はほとんどありません。Cさんは「結婚するつもりはありません」と言います。これからも第一線で働いていたいし、まだまだやりたいことがたくさんあるそうです。結婚してしまうと「今の仕事が続けられなくなるからイヤ」といいます。
Cさんの仕事は、とてもストレスが溜まる仕事です。そのせいか、大きな仕事を終えるたびに自分で自分にご褒美をあげることが習慣になっています。先日も報酬100万円の大きな仕事が終わりました。自分へのご褒美はずっと欲しかったブランド物の50万円のバッグ。ポンッと買ったそうです。おやおや、貧乏神の笑い声が聞こえてきました。
ところが、こんなCさんも40歳を前にして、悩みがあると言います。いまの仕事を何歳まで続けられるのか、体力的に不安になってきたそうなのです。さらに、自分より若い人が頑張っている姿を見ると、焦りは募るばかり。こうなると自分の将来が不安でたまらなくなるそうです。では、Cさんの将来はどうなるのか、キャッシュフロー分析してみましょう。
仮に65歳まで現在の収入を維持し、退職後はご褒美支出をなくしたとしても、このままでは老後の生活が非常に厳しくなりそうです。
   【図表4】65歳まで収入を維持できても
フリーになる前は会社員をしていたので厚生年金に5年ほど加入し、その後はずっと国民年金。年金保険料は毎回まじめに払ってきていますが、老後にもらえる年金は全部で年90万円足らず。しかも支給開始は65歳からです。現在のように入ってくるお金をほとんど使い果たしてしまうような生活レベルを維持できるはずがありません。生活レベルを維持しようと思えば、退職までに貯蓄をすることが必要ですが、こんな生活ではなかなか貯蓄は貯まりません。
65歳まで収入を維持したとしてこれですから、維持できなければもっと悲惨です。Cさんは「あと10年は仕事をがんばれる」と考えているようですが、10年経った時点ではまだ48歳です。業界的に50歳代になるとさすがに現在のような収入を維持することは難しいかもしれません。そうなると、もっと早く破産の危機を迎えます。どうやらCさんの家計に住み着いた貧乏神は、Cさんの価値観やライフスタイルが大のお気に入りのようです。簡単には改善できそうにありませんね。
1-4 定年退職したDさん夫婦
お金が貯まらない人が不安になるのは自然なことですが、お金が貯まっていても不安でたまらないという人もいます。実はお金があっても貧乏神が住み着いてしまうケースがあるのです。
昨年定年退職したDさんはその一人。退職金として2000万円を受け取りました。子ども2人を育てながらコツコツと貯めたお金が3000万円。合わせて貯蓄が5000万円にもなりました。
子どもが独立するのが遅かったので、Dさんは退職する前も「老後にお金が足りなくなるのではないか」と不安で仕方がありませんでした。そのため、チラシを見比べて、1円でも安いトイレットペーパーを自転車で買いに行ったりして、節約を重ねてきたそうです。怖くてお金が使えない日々。そのおかげもあってお金は貯まりました。でも、いくらお金が貯まっても、ずっと不安は消えません。ですから、Dさんは職場の継続雇用に応募し今も働き続けています。そこで、どの程度まで働き続ければ生活できるかを確認するために来られました。
Dさんの家計は、なぜ心配しているのかと思うほど健全な家計です。Dさんの現役時代の年収から考えると、65歳からもらえる年金は半分程度の水準になってしまいます。でも、Dさんは倹約生活に慣れているので、日々の生活費は年金だけで十分まかなえそうです。シミュレーションでは貯蓄がなくなるどころか、さらに貯蓄が増えて行く結果になりました。
   【図表5】老後もお金が増え続けるDさんの家計
「そんなはずはありません。もっと生活費を使ったとして計算してください」と、やっぱり不安そうなDさん。おや?これまでとはタイプの違う貧乏神のようですね。
そこで、今すぐ仕事をやめて、さらに生活費を今よりも50%増やして計算してみました。こんなに生活費を増やしても100歳まで貯蓄が残ります。病気になったら、介護になったら、といろいろな不安要素も取り入れて試算してみました。それでも破産しそうにありません。やっとDさんは安心できたようです。
働かなくても大丈夫なのですね・・・。トイレットペーパーも安いものを買いに行かなくてもいいのですね・・・。」と、いつしか目には涙が浮かんでいました。
Dさんはいまも元気に働いていますが、これまでと働く意味が変わったことは言うまでもありません。Dさんの場合は、家計ではなくて、そうDさんの心の中に貧乏神が住んでいたのです。  
 
2.貧乏神はこんなあなたのことがスキ

 

2   貧乏神はこんなあなたのことがスキ
これまで私たちは貧乏神に住み着かれて、お金に苦労している数多くの家計を見てきました。一たびお金に苦労し始めると、なかなかその状況から抜け出すことができなくなります。この状況を私たちは「貧乏スパイラル」と呼んでいます。一度住み着いてしまった貧乏神を追い出すのはとても大変なのです。
もしかすると、あなたは「自分には関係がない」と思っているかもしれません。現在は家計が苦しくないだけで、何年後かには家計が苦しみ始め破産の危機を迎えてしまうかもしれないのです。ほとんどの場合で自覚症状がありませんから、放っておくことで破産への道を着々と歩んでしまいます。
貧乏神に気が付くのが早ければ早いほど、より簡単に追い出すことができます。貧乏神の存在は、ちょっとした兆候から見分けることができます。私たちがこれまで数多くの家計を見てきた経験から、貧乏神が住み着きやすい家計にはいくつかの特徴があることが分かっているからです。
あなたの家計とこれらの特徴を当てはめてみましょう。当てはまる特徴の数が多いほど、高い確率であなたの家計に貧乏神が住み着いています。できるだけ早く家計の見直しに取りかかりましょう。
2-1 貧乏神は「見栄っ張りな人」がスキ
収入が少ない新入社員のときは、毎日節約ばかりの生活。そんな時「いつか収入が増えたら、きっと生活が楽になる」と希望を持っていたはず。でも、実際に収入が増えてみると、どうでしょう。かえって生活が苦しくなってしまった、という人も多いはず。どうしてこんなことになるのでしょうか。
私もそうなのですが、恐らくほとんどの人が「豊かになりたい」という願いを持っています。ただ、この願いが強すぎてしまうと、洋服、車、家など高価な物を次々とクレジットカードを使ったり、ローンを借りてでも手に入れようとします。一通り手に入れた後も、1つでは満足できず2つ、3つと買い、それだけではなく「もっといいものを」と質も追い求めるようになります。こうした買い物を積み重ねることで、収入が増えるスピード以上に支出が増えてしまい、結局は生活が苦しくなってしまいます。
これらの買い物は多くの場合で自分の見栄を満たすために購入しています。ですから見栄っ張りであればあるほど、自分で自分の首を締めてしまい生活の苦しさが増していってしまうのです。しかも、こういう見栄っ張りな人は、一度手に入れた豊かさを手放すことができません。住宅や車を売れば「あの人は生活が苦しい」と周囲から思われるのが嫌ですから。貧乏神はそんな見栄っ張りな人が大スキなのです。
2-2 貧乏神は「他人の目ばかり気になる人」がスキ
収入が少ない新入社員のときは、毎日節約ばかりの生活。そんな時「いつか収入が増えたら、きっと生活が楽になる」と希望を持っていたはず。でも、実際に収入が増えてみると、どうでしょう。かえって生活が苦しくなってしまった、という人も多いはず。どうしてこんなことになるのでしょうか。
私もそうなのですが、恐らくほとんどの人が「豊かになりたい」という願いを持っています。ただ、この願いが強すぎてしまうと、洋服、車、家など高価な物を次々とクレジットカードを使ったり、ローンを借りてでも手に入れようとします。一通り手に入れた後も、1つでは満足できず2つ、3つと買い、それだけではなく「もっといいものを」と質も追い求めるようになります。こうした買い物を積み重ねることで、収入が増えるスピード以上に支出が増えてしまい、結局は生活が苦しくなってしまいます。
これらの買い物は多くの場合で自分の見栄を満たすために購入しています。ですから見栄っ張りであればあるほど、自分で自分の首を締めてしまい生活の苦しさが増していってしまうのです。しかも、こういう見栄っ張りな人は、一度手に入れた豊かさを手放すことができません。住宅や車を売れば「あの人は生活が苦しい」と周囲から思われるのが嫌ですから。貧乏神はそんな見栄っ張りな人が大スキなのです。
2-3 貧乏神は「比較検討しない人」がスキ
いまや生命保険には90%近い世帯が加入しています。これだけ広く普及している金融商品なのに、加入前に「3社以上から見積りを取って比較検討した」という人はほとんどいません。
月1万円の保険料でも30年払えば、保険料の総額は360万円にもなります。そんな高価な買い物なのに、よく考えもせずに契約をしてしまいます。考えるとすれば、たまたま出会っただけの営業マンや営業レディを信じることができるかどうか程度でしょう。
数万円の家電を購入するときには、インターネットや家電量販店などで比較検討してから購入するのはもはや当たり前のはず。それなのに保険料の支払い総額が1千万円を超えることも多い生命保険をなぜ比較検討しないのでしょうか。
それだけではありません。数千万円もする住宅を購入するときにも、突然の出会いに運命を感じて衝動買いをしてしまう人がいます。何年もかけて数十軒を見て回って比較検討した人でも失敗することがあります。それなのに、こんな高価なものを衝動買いしているようでは「失敗して当たり前」と考えた方がいいでしょう。
100円の商品を一生懸命に比較検討して、10%安く買ったとしてもせいぜい10円程度の差です。ところが、1000万円程度の買い物で、10%割高に買ってしまえばあっと言う間に100万円近くも損をしてしまいます。ですから、高額な買い物なのに比較検討しない人のことを、貧乏神は大スキです。
2-4 貧乏神は「目先のことばかり見てい人」がスキ
現在払っている家賃が8万円で、毎月貯金を3万円しているから、住宅ローンは月11万円まで大丈夫。こんな風に考えて住宅を選ぶ人が多くいます。同じような考え方でアドバイスする住宅の営業マンは多いですし、住宅雑誌にも書いてありますから仕方ない面もあります。でも、このように考えて住宅を購入した人は、将来家計が行き詰まってしまう可能性が高いのです。
住宅ローンを借りればその返済は数十年にもわたります。住宅ローンは借金ですからキチンと返さなくてはなりません。最初の数年程度は計算どおり順調に返済できるでしょう。ところが、何年か経つと教育費がかかるようになったり、あなた自身の収入が大きく下がるかも。このように家計が大きく変化したときでも、順調に住宅ローンを返済できるかどうかチェックして購入する人はほとんどいません。残念ながら家計の変化によって住宅ローンを払えなくなり、住宅を手放す人が後を絶ちません。手放さなくても、子どもの教育をあきらめる人もいます。せっかく夢を実現したのに、他の夢を壊す結果になることもあるのです。
住宅の購入だけではありません。家計が苦しくなったら、食費や夫のこづかいなど目の前の節約から手を付けてしまう人も同じです。貧乏神は同じように目先のことばかり考えて家計をやりくりする人が、大きな落とし穴にはまるのを見て喜んでいるのです。
 

 

2-5 貧乏神は「過去のことにこだわる人」がスキ
「これまで払った保険料がもったいない」
保険の見直しの相談でよく聞かれる言葉です。過去に掛け捨てになった保険料は、ほとんど戻ってくることはありません。それなのに、過去に払った保険料がもったいなくなり、保険を見直せない人がいます。見直せばこのまま払い続けるケースと比べて数百万円も保険料支払いが安くなると分かっても行動できません。過去に払った保険料にこだわるばかりに、これから払う保険料で無駄をどんどん大きくしてしまうのです。
「持っていれば元に戻るかも」
大幅に値下がりした株を持ち続けている人からは、こんな言葉をよく聞きます。買った時の価格が忘れられず、損を認めたくないという心理が働きます。こういった売るに売れない状態の株のことを「塩漬け株」といいます。買ったときの価格にこだわっても何も意味がないのに、元に戻ると期待して持ち続けます。その過去へのこだわりが、損をさらに膨らませてしまうことが多いのです。
貧乏神はこのように過去にこだわる人がスキです。これから損をするお金よりも、過去に損をしたお金の方を大事に考える人たちです。こういう人たちは、今後もドンドン損をしてくれるはずですから。
2-6 貧乏神は「楽をして儲けたい人」がスキ
パチンコや競馬といったギャンブルでお金持ちになった人はほとんどいませんが、「借金持ち」になる人はたくさんいます。ギャンブルで借金を作ってしまった家計を建て直すのは結構大変です。ギャンブル依存症になってしまった人の借金を返済しても、また借金を作ってしまう可能性が高いからです。
わたしはギャンブルをやらないから大丈夫という人にも、ギャンブラーと同じような行動をしている人たちがたくさんいます。もし、あなたが「宝くじ」好きなら、貧乏神にとってはギャンブルをやる人と同じ種類の人です。
ギャンブルも宝くじも、楽して大金を手に入れようとするもの。あっという間に大金が手に入れば夢のような話ですね。でも、そうした心持ちこそ、貧乏神は大スキなのです。
事実、全国的な詐欺事件の多くは、この私たちの「楽して儲けよう」という心持ちに付け入ったものです。楽して儲けようという心持ちに貧乏神は住み着いて、私たちのお金をバクバク食べてしまうのです。
2-7 貧乏神は「否定的な言葉ばかり使う人」がスキ
ご相談に来られる方の中には「それはできない」「むずかしい」などなど、否定的な言葉ばかり発する人がいます。
家計の相談は、@家計の困った状態から抜け出すための相談と、Aもっといい家計にするための相談に大きく分かれます。否定的な事ばかり言う人の相談のほとんどは、@家計の困った状態から抜け出すための相談です。
そういう状態の方が家計の相談に来るだけでも、相当な勇気が必要だったはずです。それなのに、提案された見直しプランを「やっぱりできない」と、実行せずに終わらせてしまえば、結局何も変わりません。
周囲を見渡せば、お金を上手に貯めている人は意外に多いもの。そうした身近な達人に秘訣を聞いて真似をすれば、家計が今よりはよくなるはず。それなのに「家計簿はつけられない」「そんな生活はできない」と否定してしまいます。
貧乏神は否定的な言葉が大好きですから、気が付けばあなたの周囲に同じように否定的な言葉ばかりを発する人ばかりを集めてしまいます。そうなると、あなたはますます否定的な考えから抜けられなくなっていきます。あなたが否定的な言葉を使うたびに、貧乏神は将来手にしていたはずのお金を食べているのです。
2-8 貧乏神は「聖域を作る人」がスキ
家計が苦しい、見直しの必要がある、と分かっても、ここだけは手を付けたくないという費目がある。そういう人は家計に「聖域」を作ってしまう人です。
たとえば、夫の交際費。後輩を連れて週に何度も飲みに行き、毎回おごっていれば月の交際費は軽く10万円を超えてしまいます。その交際費を捻出するために、家族の生活は節約を重ねなければならないとなれば、家族は納得しないでしょう。それなのに、夫の交際費が聖域になっていることは少なくありません。
聖域になりやすいのは、交際費だけでなく、趣味のお金、家族や知り合いから加入した保険など。これらは無駄だと分かっていても、価値観によって聖域化してなかなか合理的な行動をとることができないようです。
貧乏神はそんな聖域をつくってくれる人が大スキです。家計を分析してみると、貧乏神は聖域に住み着いていることが多いのです。貧乏神にとって聖域はもっとも安心できる場所なのですから。
2-9 貧乏神は「大事なことを先送りにする人」がスキ
1000万円貯めるにも、10年かけられれば年100万円ペースで十分貯まります。ところが、期間が5年しかなければ、年200万円も貯めなければなりません。
教育費の準備は子どもが年々大きくなるので待ったなしです。何歳に進学するか分かりますし、教育費がどの程度かかるかもある程度は分かるはずなのに準備を先送りしてしまいます。面倒だからと先送りにすれば、ドンドン準備が難しくなっていきます。
また、家計を見直すのも、早く始めるほど効果が出やすくなります。でも、家計を見直そうとすれば、収入や支出など細かな項目まで調べる必要があります。
大事なことと分かっていながらも、「面倒くさい」「難しそう」「よく分からない」と結局先送りにしてしまいます。そうしている間に見直しで生まれる効果はドンドン小さくなっていきます。
貧乏神にとっては、あなたが大事なことを先送りしてくれないと困ります。ですから、「面倒くさいなぁ」と心の中で聞こえてくるのは、あなたの心の中に住み着いている貧乏神の声かもしれません。  
 
3.福の神が住み着く「しあわせ家庭」ってどんな家計?

 

3-1 お金は人生を豊かにしてくれる道具
福の神が住み着く家計になる一番重要な条件は何でしょうか。収入が高いことでしょうか。それとも、運用での成功でしょうか。
世の中には成功法則について書かれた本や成功法則を教えてくれるセミナーがたくさんあります。これらは億万長者になるための考え方や、こうして運用で成功したという体験談を教えてくれることが多いようです。
ただ、ちょっと考えてみて欲しいのです。収入が高ければ、あなたは幸せでしょうか。運用で成功すれば、本当に幸せなのでしょうか。
私たちが出会ってきた家族の中に、余りあるお金があって幸せそうな人はもちろんいます。でも、中には収入が高くても、お金を使う暇がないほど仕事が忙しく、家族と過ごす時間もない、とぼやいてばかりの人もいます。また、収入は高いのに、お金がいくらあっても足りない、いつもやりくりに追われているという人も。この人は贅沢な生活をしていますがとても幸せそうには見えません。
また株式の売買を日々繰り返すデイトレードで財産を築いた人もいます。日々パソコン画面の前に座ってトレードを繰り返すことに疑問を感じ始めたそうです。大家さんになって家賃収入だけでも暮らせるようになったとしても、ずっと一人暮らしでさびしいと感じている人も。
一方で、収入は低くても、とても幸せそうな家族もいくらでもいます。皆さんの周りにもいるはずです。こう考えると「人生はお金じゃない」とも言えそうです。でも、お金がないために、ひどい状態になってしまった家族も数多く見てきました。現実的には私たちの生活にお金はなくはならないものです。
お金は私たちの人生の選択肢を広げてくれます。お金がなければ、賃貸か持ち家かなんて選択することすらできません。教育だってできないかもしれません。ある程度のお金があってはじめて、私たちは安心して生活できるのです。こう考えると、お金は人生を豊かにしてくれる「道具」ともいえそうです。
ただ、あくまでも道具ですから、使い方は私たち次第。使い道がなければ何の役にも立ちませんし、使い方が悪ければ凶器にもなってしまいます。
3-2 足るを知る
これまで私たちが見てきた数多くの家計を分析した結果、福の神が住み着いている家計の一番の特徴は「足るを知っている」ということです。「足るを知る」とは中国春秋時代の思想家である老子の言葉ですが、身の程を知って、むやみに不満を持たない、という意味です。家計で言うと、自分たちの身の丈にあった生活を送り不満に思わないということでしょうか。
私たちの経験上、これが実践できている人は、収入や資産が多いかどうかなんて関係なく、実に幸せな生活を送っている人が多いのです。何だか当たり前のようですが、これが実に難しいことです。
足るを知って福の神が住み着いた家計には、次のような特徴が現われます。
▶ お金の不満が少ないので、家族がケンカすることも少ない
お金の不満が多い家族は、お金の話になるとケンカになるのが分かっているので、お金の話は極力避けるようにしています。でも、お金の問題は日に日に大きくなっていくので、避け続けることはできません。不満が爆発したときには、関係の修復が難しくなるほどの大ゲンカになることもあります。金の切れ目は縁の切れ目といいますが、お金が原因のケンカは仲を引き裂く威力を持っています。一方で足るを知る家族は、驚くほどケンカをすることが少ないものです。
▶ 不測の事態が起きても、自分で何とかできる自信がある
足るを知っている人は、収入に合わせた生活をすることができる人です。普通の人なら収入が増えると生活が派手になりがちですが、足るを知っている人は収入が増えても生活が大きく変わりません。
逆に収入が急激に減るような事態が起きたときも、収入とともに支出を増やした人は生活レベルを下げることができません。一方で足るを知る人は「いったん昔の生活に戻ればいい」「また出直せばいい」と柔軟に考え、家計の大幅な縮小を実行することができるので、何とでもできるという自信を持っています。
▶ 不安に思いながらお金を使うことがほとんどない
「いい家」「いい車」「いい教育」と何でも「いい」を追い求める人がいます。いいものを手に入れると「満足感」を得ますが、同時にお金が足りなくなるかもという「不安感」も手にします。いいものを追い求めることは悪いことではありませんが、上を見ればキリがありません。足るを知る人は、自分の身の丈に合わないものを手に入れようとはしません。また、今は我慢しても自分の身の丈が大きくなれば、不安なくもっといいものが手に入ることを知っています。いつもお金を準備してから手に入れますから、不安に思いながらお金を使うことがありません。
3-3 「勝ち組」と「負け組」
「勝ち組」「負け組」という言葉があります。通常これらの言葉は経済的な側面で使われます。つまり、負け組は貧乏を意味するので、多くの人は負け組みにはなりたくない、勝ち組になりたい、と日々奮闘しています。
もしも、がんばって勝ち組になることができれば、他人よりも多くの収入、多くの資産が手に入るでしょう。でも、多くの場合、勝ち組を目指す過程で、家族や友人との時間や自分の時間、自分の健康などを代償として差し出すことになります。
さまざまな代償を払っても負け組となる人が当然います。がんばった分だけショックは大きいでしょう。現実として全員が勝ち組になることはできません。負け組がいるから勝ち組がいるのです。また、勝ち組になった人も、いつかは負け組になってしまうかもしれません。
もちろん、失敗を恐れず勝ち組を目指してチャレンジすることは尊いことです。失敗を重ねるにつれ、失敗した経験を自分の成長の糧にできるたくましい人になれるかもしれません。勝ち組になりたい人は、ドンドンとチャレンジして欲しいものです。
では、あなたも多くの人と同じように勝ち組を目指しているかというと、そうではないかもしれません。「お金持ちにはなりたいわけではなく、普通に生活できればいい」という方なのかもしれません。
ただ、残念ながら普通に生活すること自体が難しくなっています。勝ち組を目指していなくても、負け組へ転落してしまう人が続出しています。これからは普通に生活するだけでも、何かを目指して努力する必要があるのです。かといって、勝ち組を目指せ、ということではありません。「勝ち組」でも「負け組」でもない、「引き分け組」を目指せばいいのです。
3-4 「引き分け組」という生き方
毎日深夜まで働き続けるEさんは、残業代がしっかりつくこともあり平均より高い収入を得ています。ところが、毎日夜遅い帰宅なのに、朝早く出勤、休日も出勤することが多いようです。そのため、家族や友人と過ごす時間がほとんどありません。
一方でEさんの妻はたびたびPTAの仲間と食事や買物にでかけているようです。どうやら仲間からいろいろな話を吹き込まれるようで、疲れて帰ってきた夫に不満をぶつけることも多いそうです。
ある日、「どうしてこんなに働いているのに、こんなに給料は低いの?」と妻から責められたEさん。「まだ働けというのか・・・。これでは体がもたない。」と悩んでいました。
ところが、Eさんの妻から本音の話を聞くと、実は毎日が母子家庭状態であることに不満を持っていることが分かりました。収入に関しては、むしろ夫に感謝していることも分かりました。夫婦それぞれが家族でもっと過ごしたいと思っていたのでした。
そこで、Eさんに夫婦でしっかりと話し合ってもらうことにしました。話し合いの結果、「収入が下がっても家族の時間をもっと作ることが大事」という結論に達したそうです。そこで家族が目指す新しい生活スタイルを実現するために、Eさんは転職活動をすることになりました。妻は収入が下がっても生活できるよう家計の見直しをするようになりました。その結果、Eさんは転勤もなく、時間が比較的自由になる会社に就職しました。収入は下がってしまいましたが、今では母子家族状態も解消され家族で仲睦まじく生活しています。
「仕事や収入」と「時間や健康」は、多くの場合でどちらかを取れば、もう一方が犠牲になりやすい関係にあります。この点を理解していないと、Eさん家族のようにいろいろな点で歪みが生じやすくなります。
もしも、妻にとって高い収入を得ることが重要ならば、夫に憎まれ口を叩くのではなく、もっと気持ちよく働けるよう協力すべきです。さらに妻も働きに出るなど家族で協力すべきです。そうではなく、家族との時間や夫の健康が重要なのであれば、収入が下がっても納得して生活できるようよく夫婦で話し合うべきなのです。
「引き分け組」という生き方は、Eさんがたどりついたように、意識して「仕事や収入」と「時間や健康」とのバランスをとりながら生活するスタイルをいいます。こうした生活を送るには「足るを知る」ことが求められるのです。この世の中を生きていくにはお金は必要ですが、自由な時間や健康があってこその人生なのですから。
本音では「引き分け」を目指していても、世の中が「勝ち組」を賞賛すれば勝ち組を目指さなければならない気になってきます。それだけに「別に何かを犠牲にしたとしてもまずは勝ち組になって、後から取り戻せばいいじゃないか」と言う人もいます。ところが、後からでは取り戻せないものも多いことも理解しておく必要があります。
「勝ち組」になることが、あなたの家計に福の神が住み着いてくれる条件ではありません。「引き分け組」でも、足るを知る生活をすれば福の神は住み着いてくれます。すべてはあなたの心持ち次第です。もっと気持ちを楽にして自分にあった家計の形を探してみましょう。
  
4.福の神に住み着いてもらうためのステップ

 

4   福の神に住み着いてもらうためのステップ
福の神に住み着いてもらうための重要なポイントは「足るを知る」ことでした。言うだけなら簡単ですが、実行するのはとても難しい言葉です。なぜなら人間にはさまざまな「欲」があるからです。
本能的な欲だけでも、食欲、睡眠欲、性欲などたくさんありますし、支配欲、自己顕示欲、達成欲など心理的・社会的な欲も持っています。これらの欲のおかげで、多くの人の家計に貧乏神が住み着いてしまいます。一方で、これらの欲のおかげで、私たちの社会はこれだけ発展することができました。ですから、私たちから欲をなくせばいいと言うことではありません。欲はあなたを元気にすることもできますし、ダメにすることもできるのです。
多くの欲はお金があれば満たすことができます。意識的であろうと、無意識的であろうと、私たちはお金を使って欲を満たそうとしています。「お金があれば何でも買える」と言った若き経営者がいましたが、まさに象徴的な言葉でしょう(もちろん、お金では満たせない欲もたくさんありますが)。
私たちは「お金」そのものではなく、「欲を満たせない」という事実に対して悩んでいることが多いのです。ですから、自分の持っている欲をよく理解し、仲良くできるようになることが大事なのです。欲と仲良くできれば、足るを知る生活に近づくことができるはずです。
4-1 もっと大事なことを見つける
では、欲と仲良くするためにはどうしたらいいのでしょうか。
「あれを買いたい、これを買いたい」という多くの人が持っている目の前の欲よりも、もっと大事なことがあります。この目の前の欲よりも、もっと大事なことを見つけることができれば、自分の持っている欲と仲良くなれるはずです。
たとえば、あなたがいま自分の体型が気になっていて、ダイエットをすると考えてみましょう。きっとあなたはスリムになった自分を想像することでしょう。スリムになりたいという想いが強ければ強いほど、目の前にある食べ物の誘惑に打ち勝つことができるはずです。家計でも同じように、もっと大事なことを見つけると、お金を使いたい誘惑に打ち勝ちやすくなります。
このもっと大事なことは「夢」や「目標」と言い換えてもいいでしょう。夢や目標を持ち努力している人は、何も目指していない人に比べ、目の前の誘惑に打ち勝つことができるはずなのです。
とは言え、だれもが夢や目標を持っているわけではありません。また、すぐには夢や目標を見つけることができないかもしれません。よく「大きな夢を持て」と言われることが多いのですが、別に大きな夢ではなくても構いません。心から実現したいと思える大事なことであれば小さなものでもいいのです。
もしも、あなたが夢や目標を持っていないのであれば、まずは自分が10年たったら、20年たったら、どうなっているか想像してみましょう。
たとえば、こんな風に想像してみましょう。未来のあなたは会社内でどのようなポジションになっていますか?どのような場所で、どのような内容の仕事をしていますか?収入はどの程度ですか?結婚はしていますか?子どもがいれば何歳になっていますか?いろいろと思いを巡らしましょう。
あなたがサラリーマンなら会社内の先輩たちを見れば想像しやすいでしょう。先輩たちの中には、きっとあなたの10年後、20年後の姿に近い人がいるはずです。自分の両親や身の回りの人の中にも、参考になる人がいるかもしれません。もしも、参考になりそうな人が見つかれば、より具体的に自分の将来を想像できるはずです。
自分の将来が想像できたら、つぎに考えて欲しいのが、その自分の将来像に現在のあなたは満足ができるのかどうか。もしも、満足できる将来が見つかったのならば、あなたはラッキーです。その将来を実現することが、見つけようとしていた夢や目標になるはずなのですから。
4-2 イヤなことから見つける
自分の思い描いた将来に満足できない人も多いはずです。そういう人は、このままの自分の延長線上には満足できる将来はなさそうです。何かを変えなければ違う将来にはなりません。
いまの自分の延長線上にはない夢や目標をみつける作業をしなければなりません。現状では実現できそうに思えない夢や目標でも構いません。実現できなければ、後からでも修正はできます。
こういうときには「なりたくない、したくない」というイヤなことから挙げてみてもいいかもしれません。ひょっとすると、さきほど想像したけど満足できなかった自分の将来像自体が、イヤなことかもしれません。
たとえば、上司や先輩の働く姿を見て自分の将来を想像したFさんは、「先輩には失礼だけど、このままでは自分はイヤだと思った」と転職を決意したそうです。Fさんは以前にくらべるとはるかに忙しい毎日になったものの、収入は増え自分のやりがいも見つけ活き活きと働いています。
中には「人ごみの中で生活するのはイヤだ」「こんな狭い部屋に住み続けるのはイヤ」という人もいるでしょう。イヤなことが見つかれば、そうならないためにどうしたらいいか考えてみてください。きっと自分の夢や目標がみつけやすくなるはずです。先ほども言いましたが、大きな夢でなくてもいいのです。楽に考えましょう。
4-3 家族全員が同じ夢や目標を持つとは限らない
独身の人であれば、自分がこうしたいと思えばそれで決まりです。ところが、夫婦や家族であれば、それぞれが同じ夢や目標を持っているとは限りません。
ある夫婦が老後の生活についての相談に来られました。夫は「妻をほったらかしで働いてきたので、退職したら罪滅ぼしも兼ねて海外に移住して仲良く過ごしたい」と言っていました。ところが妻は「友達もいるし、いまの家を離れたくない」とあっさりと否定。
普段からよく話し合っていれば、こんな大切なことでここまで意見が食い違うことはないでしょう。でも、多くの家庭では、夫婦であってもお金が絡む話をできるだけ避けて生活しています。お互いの収入すら知らないで、長年に渡って家計が運営されていることも多いのです。
家計について話し合っていなければ、やりくりに苦労している妻がいろいろと節約しようとしても、夫は「そんなセコイことを・・・」と嫌がることでしょう。でも、家族で同じ夢や目標を持っていれば、夫だけでなく小さな子どもさえも積極的に協力してくるようになるものです。
夢や目標を家族で共有し一丸となって協力する。こんな家計がうまく行かないはずがありません。福の神はそんな家族が大好きです。お金について話すことは決してタブーではなく、家庭円満のキーポイント。家計について家族で話し合ってみましょう。
4-4 ライフプランに落とし込んでみよう
満足できそうな夢や目標が見つかったら、次にやって欲しいのが「ライフプラン」を立てることです。
ライフプランとは、夢や目標を実現するために、こうする、こうなる、という具体的な行動の内容です。また、いつごろ、どのくらいの期間で、といった期限も一緒に決めることが重要です。
「ライフプランなんて必要ない」という人もいます。そういう人でもどこかへ出かけるときには地図を見たり、カーナビを使って目的地に向かうはずです。行き当たりばったりでも夢を実現できる人がいますが、多くの人とっては無理な話です。ライフプランを立てれば夢が実現できるとまでは言いません。でも、ライフプランを立てた方が、より効率的に実現に近づくことが可能になるのです。
ライフプランを立てるときには図表のような「ライフプランシート」というツールを活用するといいでしょう。ライフプランシートには家族が「いつ(何歳のときに)」、「何をする」か書き込んでいきます。また、お金がかかる場合には、その予算も合わせて書き込んでいきます。
   【図表6】ライフプランシート
ライフプランシートを書くコツは、まず最初に子どもの進学や、車の買い替えなど、時間が経てばほぼ自動的に起きるイベントを書き込んで行くことです。欄が埋まってくると将来のイメージが湧きやすくなります。最終的に夢や目標を実現できるよう、いつまでに何を実現することが必要か、できるだけ具体的に書き込んでいきます。そして必ずそれぞれを実行するために必要な資金も書き込んで確認をします。
たとえば、10年後までに1000万円貯めなければ実現できない目標を立てたとしましょう。そのために、ひたすら宝くじを買い続け10年以内に1000万円を当てるという行動計画を立てるでしょうか。いえいえ、それで実現できるとは思わないはずですね。
単純に計算すれば毎年100万円貯めれば10年後には1000万円が貯まります。次に毎年100万円貯めるためには何をしたらいいか。妻がパートに出るか、生活費を節約するか、というようにどんどん具体的な行動にしていきましょう。そして、ライフプランシートには、5年後には「貯蓄500万円達成」というように、チェックポイントも書いておくといいでしょう。  
 

 

4-5 お金を貯める方法は3つだけ
ライフプランを実行するためには多くの場合でお金が必要です。そのために生活費以外に将来のためのお金を貯めていきましょう。
でも、お金を貯めると言っても、どうしたらいいか分からない人も多いはず。実はお金を貯める考え方自体は、とても簡単なものです。次の方程式を見ると、とてもシンプルだと分かるでしょう。
お金を貯める=収入−支出+運用益
つまり、お金を貯めるには、@収入を多くする、A支出を管理する、B運用益を多くする、この3つの方法しかありません。当たり前と言えば当たり前の話なのですが、これが意外に理解されていません。だからこそ、お金の「裏技」を探し求める人も多いのですが、そんなものがあれば誰も苦労しません。これらの当たり前のことを当たり前に実行できるかどうかが、お金が貯まる人と貯められない人の一番大きな差になるのです。
4-6 運用から始めるのはダメ
これからお金を貯めたいという人が、これらの3つの方法を同時並行で実行するのは難しいでしょう。もし、それができる才能豊かな人なら、すでにお金が貯まっているはずです。まずは、一つ、一つ目標を設定して、着実に実行して行くべきです。
では、私たちはこの3つの方法のうち、どれから始めたらいいのでしょうか。「私はこうやって1億円儲けた!」と言う類の本を好んで読む人は「B運用益を多くする」から始めることでしょう。ただし、こういう人は、最も失敗する確率が高い人です。高い運用益を狙えば狙うほど、失敗する確率は高くなるからです。
自営業や自由業のように成果に応じて収入が決まる人たちは「@収入を多くする」から始める人が多いようです。サラリーマンでも昇進すれば収入が増えるでしょうが、簡単に昇進できるわけはありません。転職したり、副業をして収入を増やそうとしても、簡単ではありません。収入は努力と工夫次第で増やすことは可能ですが、簡単ではないですし、確実なものではありません。比較的高い確率ですぐに実現できる方法は、専業主婦が働きに出たり、子どもがアルバイトすることくらいでしょう。
これら3つの中で、一番重要で確実な方法が「A支出を管理する」ことです。支出は収入や運用と違って、自分自身で管理することができるからです。一見地味な方法ですが、支出の管理だけで夢や目標を実現してしまう人もいます。逆に収入が多くても、支出が管理できずに破産してしまう人もいます。支出の管理は他の2つの方法に比べ、とても地味ですがなめてはいけません。とても強力なパワーを持っているのです。
4-7 支出を管理する方程式
支出を管理すると言うと、多くの方が「節約」と言う言葉を思い浮かべるでしょう。「節約」には1円や10円をケチるようなイメージがあります。あるいはつらいイメージがあるかもしれません。
でも、支出を管理する=節約、ではありません。予算以内に収める、無駄なお金を使わないというように「賢くお金を使う」という意味です。ライフプランを実行できるよう定めた予算内に収まっているのであれば、無理に節約することはありません。また、「無駄使いが多い」と自覚しているのであれば、その無駄をなくせばいいのです。
これまで無駄使いばかりしていた人に、急に賢くお金を使いなさい、と言っても簡単なことではありません。本人の自覚と、忍耐が必要です。でも、努力すれば確実に効果が現れるはずです。少しでも楽に無駄使いをなくそうと思うなら、お金を貯める達人たちの考え方を真似してみましょう。
お金を貯めるのが上手な人と下手な人では、考え方が根本から違います。お金を貯めるのが下手な人は“余ったら貯める派”の人。つまり、お金が入ってきたら、お金を使い、残ったお金があれば貯蓄するタイプです。でも、簡単にはお金が残りませんので、お金はなかなか貯まりません。思ったよりもお金が貯まらないので、ライフプランを先送りしたり、ローンを借りて実現したりしてしまいます。
× 収入−支出=貯蓄
一方でお金を貯めるのが上手な人はほぼ全員と言っていいほど、次のような考え方で支出を管理しています。
○ 収入−将来のための貯蓄−固定費=やりくり費
貯め上手の人は収入から最初に一番大切な貯蓄を引きます。いわゆる“先取り貯蓄派”の人。そこから保険料や住宅ローンなどの固定費を差し引き、残ったお金でどうやってやりくりするか考えます。
残ったお金は食費や被服費、お小遣いといったやりくり費にあてられます。この範囲内でやりくりできなければ、将来の夢や目標は実現できないという単純な理屈です。ですから、いろいろと知恵を絞り、工夫をして限られたお金をできるだけ有効に使って生活を充実させなければなりません。もちろん「買いたい」という欲とも仲良くしなければなりませんね。
4-8 お父さんのお小遣いから削るな
先取り貯蓄を始めると、思った以上にやりくり費の予算が少なくなることに気が付きます。そんな時、どのように対応するかが重要なポイントです。
多くの人が食費、被服費、家具家事用品、そしてお父さんのお小遣いを削ります。これらのやりくり費を削ってしまうと生活レベルが下がったことを実感しやすいものです。たとえば、毎日家族のために懸命に働くお父さんのお小遣いを削ったら「何のために働いているのか」とやる気がなくなってしまうかもしれません。やりくり費はできるだけ削らなくてすむようにしたいところです。
貯め上手な人は、やりくり費に手を付ける前に、固定費を削ります。なぜなら、保険料や住宅ローンなどの固定費の無駄を削ったとしても生活レベルが下がることはありません。また、やりくり費の節約は毎日我慢しなくてはなりません。ところが、固定費を削るのは結構面倒な作業ですが、一度削れば効果が長続きするというのがメリットです。無駄な固定費を削ればやりくり費を増やすことができますから、家計はグッと楽になります。
固定費の見直しが面倒であれば、専門家の手を借りればスムーズに見直しすることができます。相談料などの費用がかかっても、得られる情報の量と質、自分だけで見直しをする労力、などを考えると相談する価値があるはずです。
4-9 固定費をオールリセットしてみよう
家計の固定費があなたの「欲」や「見栄」のカタマリになっていたとしたら、あなたの家計では貧乏神が毎日宴会を繰り広げています。
サイフから出すやりくり費とは違い、自動的に引き落とされる固定費への関心は低くくなりがち。実際に保険料を毎月いくら払っているか正確にわかっている人は少ないものです。
これらの固定費には私たちの「豊かになりたい」という欲望が積み重なっていきます。1つでは飽き足らずに、2つ、3つと「もっと」を積み重ねたり、いい家、いい車、いい教育などと「いい」を積み重ねれば、お金がかかるのは当たり前。たとえば、いい家を買えば、住宅ローンや管理費・修繕積立金、固定資産税などの税金も高くなります。それだけでなく、部屋が広く設備も充実していれば、水道光熱費も予想以上に高くなります。
このように「欲」のせいで積み重なった固定費を削ることは難しいものです。なぜなら、固定費を削ることは一度手にした「もっと」や「いい」を手放すことになるからです。そういう人は、手放すことによって周囲から「生活が苦しいのでは?」と見られるのではないかと心配します。あなたの「見栄」が固定費を削る邪魔をしてしまうのです。
こうした「欲」や「見栄」から解放されるために、固定費をオールリセットしてみましょう。思い出してください、あなたの心が作る「聖域」に貧乏神が住み着いています。
家も車も何もがない状態を想像してください。そこから生活に必要なものを一つ一つ契約していきましょう。これだけあれば最低限生活ができる状態になったら、そこでストップです。就職したてのころや、結婚したてのころを思い出すときっと似たような状態だったはず。昔は当たり前だったことが、収入が上がり豊かになるにつれ当たり前ではなくなってしまったのです。最低限これだけあれば生活できると分かれば、あなたの自信につながるはずです。
現状は固定費が高い人でも、何かあったときにオールリセットできれば問題ありません。ある有名な漫画家の方は「私はいつでも貧乏生活に戻れる」と言っていました。こういう人は、家計の将来に不安を持っていませんし、恐れずにいろいろな事にチャレンジし活躍できる人です。 
 

 

4-10 やりくり費は予算の範囲内で
やりくり費の管理は自分との戦い。サイフの中に入れたお金を使うか、使わないか、毎日のように葛藤の繰り返しです。
将来のためのお金を貯めることのできるやりくり費の予算が分かったら、その予算は使い切っても構いません。どうしてもストイックに1円でも安くとなりがちですが、予算に収まっているのであればそれ以上節約する必要はありません。
やりくり費が予算に収まらないなら、あとは無駄使いをどれだけ減らせるかがカギとなります。無駄使いには次のように大きく分けて2つのタイプがあります。
まずは、「ちょい買い」タイプ。毎朝、出勤するときにカフェでコーヒーを買うのが喜び、という人が典型例です。その他、毎日のように自動販売機で缶コーヒーを買っている人や、コンビニで買い物をしている人もそうです。一つ一つの買い物は数百円でも、それが毎日積み重なることで一ヶ月数万円になることも。
もう一つは、「ドカ買い」タイプ。ストレスが溜まってくると、ストレス発散に洋服を買うような人が典型例。その他、自分へのご褒美として何万円もの買い物をするような人や、家や車のような高額商品を衝動買いしてしまう人もそうです。また、何でも高級品じゃないと気がすまない人もそうです。こういう人は日ごろこまごまと節約していても、一回の買い物ですべてをムダにしてしまいます。
無駄使いはまずは「減らそう」と意識をしなければ、減らすことはできません。自分がどちらかのタイプに当てはまるなら、すぐにやりくり費の管理を始めましょう。無駄使いをなくすには家計簿をつけるのが王道です。家計簿は何度も挫折したという人は、日ごろスケジュール管理に使っている手帳に使ったお金をメモしてみましょう。特にちょい買いをしてしまう人は、メモするだけで自分のお金の使い方が見え、ちょい買いを少なくする効果があります。
4-11 無駄使いとは何か
お金の使い方は「消費」と「投資」、大きく2つに分けられます。これらを分類する一番大きな違いは、将来のいつでもいいのでお金を生み出せるかどうかです。
たとえば、普通の人にとって食べる行為は消費に分類されます。ところが、スポーツ選手のように体が資本の人が、体作りのために食べ物にお金をかけるのは「投資」と言えます。もちろん、普通の人でも、仕事でいいパフォーマンスを出すために食事にこだわって、実際に成果が出ているなら投資と言ってもいいでしょう。
洋服も考え方で分かれます。人前に出る仕事の人にとって服装は重要な要素。見た目を意識してお金をかけることが収入アップにつながるなら立派な「投資」です。そうでなければただの「消費」と言っていいでしょう。
家具を買うにも、安い家具を買う人は多いでしょう。でも、必要なくなったときには捨てるか、リサイクルしてもほとんどお金にはならないでしょう。これは「消費」です。でも、高いお金を出してアンティーク家具を買い、それを大事に使えばもっと価値が上がるかもしれません。こうなると「投資」になるわけです。
ですから、無駄使いというのは、金額の高い、安いではありません。消費のお金を無駄に使うことです。これからは、お金を使う前に、「消費」なのか、「投資」なのか考えるだけでも意識が大きく変わるはずです。次に「消費」に関しては、必要な消費か、無駄使いか考えてみましょう。
一度レシートを集めて、自分がどれだけ無駄使いをしているか計算してみましょう。無駄使いがあればそれをできるだけ削り、その分を「投資」に回していけば、あなたのお金が増えないはずはないのです。
4-12 収入を増やす
収入を増やすことは、あなたの努力次第で可能です。ところが、努力すれば確実に増やせる、というものではありません。そこが難しいところです。
たとえば、専業主婦の妻がいれば、妻が働きに出ることで収入は増えます。最も確実に収入が増える方法ですが、代わりに家事や子どもの教育といった問題が出てしまいます。もしも、夫が家事や育児に協力してくれなければ、単純に妻に重い負担が圧し掛かることになります。そのため外食が増えたり、買い物でストレスを発散するようになれば、結局は収入以上に支出が増え、もっと家計が苦しくなるということも。本当に家計のことを考えるなら、夫婦が協力することが不可欠でしょう。
また、どんどん難しくなっていますが社内で出世できれば、多くのケースで収入が増えます。そのためには、社内政治に賭けるよりも、自分の能力を高め、仕事の質、量ともに上げていくことが評価される近道です。周囲の評価が高まれば、結果として昇進につながりやすくなるはず。それでも、評価されない人もいます。その場合は、他にもあなたの能力を必要としている企業があれば、転職すればいいでしょう。会社を辞めなくても、副業として自分の能力を試すこともできるかもしれません。いずれにしても能力が高ければ、今の会社にこだわる必要もなくなります。
多くの収入を得ようとすればするほど、仕事や能力向上に私たちの時間や健康を犠牲にすることになるでしょう。勝ち組を目指すのであれば、どれだけの犠牲が出ても勝ち抜けることが重要です。引き分け組を目指すなら、できるだけ犠牲を少なくしつつも、できるだけ収入を増やす方法を考えましょう。
4-13 仕事以外の時間の過ごし方
引き分け組を目指す人は「短い時間で多くの収入を得る」という意識を持つことが重要です。ただ、言うは易し、行うが難し。実際に、短い時間で多くの収入を得るにはどうしたらいいのでしょうか。
まずは私たちがどのようにして収入を得ているのか理解する必要があります。私たちは一般的に次のどちらかの方法で収入を得ているはずです。
@収入が単価×時間で決まる仕事
A成果に応じて収入が決まる仕事
スポーツ選手やミュージシャンのような職業は、成果に応じて収入が決まります(A)。彼らは常に仕事があるわけではありません。仕事が来たときには、高いパフォーマンスを求められます。そのため、実働時間で計算すると高い報酬を得ることができます。ただし、常に高いパフォーマンスを出すためには、仕事以外の時間で練習や勉強、工夫をし続けなければ生き残れません。他のライバルよりも高いパフォーマンスが出せれば、とてつもなく高い報酬を得ることも可能ですが、逆に悪ければ次は仕事が来ないかもしれない厳しい世界です。
また、サラリーマンの多くは、自分の時間を売って収入を得ています(@)。もちろん、サラリーマンにも成果に応じた収入を受け取る人もいますが少数派です。時間を売って収入を得る人は、多少の悪いパフォーマンスでも簡単にはクビになりません。逆にいいパフォーマンスを出してもいきなり高報酬になることはありません。
自分の時間を売って収入を得ている人であれば、短い時間で収入を得るための方法は簡単です。単価を上げるか、無駄な時間を無くすかのどちらかしかありません。
労働の単価は、仕事の種類、責任の重さや、仕事の重要性などによって決まります。単価を上げていくためには、仕事の経験を積みつつ、自分たちの仕事に役に立つ勉強や訓練を続けていくことが必要です。もしくは、より高い単価を得られる仕事や企業に転職すると言うのも手です。
成果に応じて収入が決まる人であれば、仕事以外の時間にでも自分の能力を維持したり高めたりする努力をするのは当たり前です。サラリーマンも同じプロなのですが、業務時間以外に自分の能力を高めるために勉強をしている人は残念ながら多くありません。サラリーマンであろうと、より高いパフォーマンスを発揮するために日々研鑽を積み重ね、より高い単価を稼げる能力を身に付ける必要があるのは言うまでもありません。
4-14 短い時間で成果を出す
お金持ちと貧乏な人とでは持っているお金の額で見ると大きな違いがあります。でも、時間は誰にでも平等に1日24時間しかありません。ですから、時間の使い方は誰にも共通の問題です。
時間の使い方が上手い人と、下手な人では、同じ24時間でも中身が大きく違ってきます。普段はあまり意識しませんが、私たちは多くの時間を無駄に過ごしています。たとえば毎日の通勤時間が片道1時間かかっていれば、月44時間(月の労働日数22日として計算)、年に528時間、30年で1万5840時間もあります。これだけ膨大な時間をボンヤリしながら過ごす人と、学習しながら過ごす人とでは年々差が大きくなっていくのは明らかでしょう。
時間もお金と同じように「消費」か「投資」のどちらなのか考える必要があります。ぼんやりしたり、ゲームをしたり、パチンコを楽しんだりとダラダラと過ごす時間は「消費」の時間です。家族と過ごしたり、自分の能力を高めるために前向きに使う時間は「投資」の時間です。「消費」の時間をできるだけ少なくして、「投資」の時間を少しでも多くできれば生活が充実しないわけがないのです。
ですから長い通勤時間は普通に考えるといいことではありませんが、強制的に学習する時間と前向きに考えれば「投資」の時間に変えることができます。ダラダラと残業している人も多いはず。短期的には残業代が減るので困りますが、長い目で見ると短い時間で結果を出せる人の方が収入は多くなるはずです。短い時間で結果を出せる人は、仕事の内容も「消費」の仕事か、「投資」の仕事かの区別をつけています。消費の仕事だけでなく、投資の仕事も意識的に行うようにしています。このように「消費」と「投資」の概念を持つことで、時間の効率は上がるはずです。
自分の稼ぐ能力を高め、同時に時間の密度も高くすることができれば、働く時間を短くしつつ、収入を上げることが可能になるのです。「忙しい」「時間がない」とつい愚痴を言いたくなる気持ちは分かりますが、その前に時間の質を高める努力をしてきたか自分に問い直してみましょう。
「忙」という漢字は心を亡くすと書きます。心が死んでしまっている人には、福の神は住み着いてくれません。時間がないのは周囲の環境のせいではなく、自分に原因があることが多いはずなのです。 
 
5.今すぐ貧乏神を追い払え!

 

5   今すぐ貧乏神を追い払え!
4章で見たとおり福の神に住み着いてもらうには、長い時間をかけてコツコツと積み上げていくしかありません。
その前に、いまあなたの家計に貧乏神が住み着いているとしたら、この貧乏神を追い出すことから始めましょう。貧乏神に好かれてしまった人は、なかなかお金を貯めることができません。こういう人がこれまでどおりの悪い習慣を続けてくれれば、貧乏神は安心して暮らしていけるので追い出すことはできないでしょう。
でも本当に貧乏神を追い出したいなら、あなたは意識を変えなければなりません。これまでの悪い習慣を捨て、良い習慣を身につけることが重要です。
では最後に貧乏神を追い出すための、すぐにでも始められる日常的なステップをいくつかご紹介しましょう。
5-1 本当に貧乏神を追い出したいのか考えてみよう
長い間続けてきた習慣を変えるのは勇気がいることです。また、習慣を変えると、最初は必ず違和感があります。これまでずっと右に置いていたものを、左に置くようにするだけでも違和感がありますよね。習慣を変えるには違和感がなくなるまで根気強く続けることが必要です。でも、根気が続かず途中であきらめてしまう人が多いのです。
よく「あれだけ練習すれば自分もプロになれた」、「あれだけ勉強すれば自分も東大に行けた」と、いうタイプの人がいます。そういう人はやらない自分を正当化する悪い習慣を持っています。悪い習慣から抜け出すのは、それなりに大変な作業です。ですから、「こんなことまでする必要はない」、「何の意味があるのだろう」と、自分で自分にブレーキをかけてしまいます。
また、周囲の人が表面的には「応援している」と言っていても、本心ではあなたに変わって欲しくないということも。こういう人たちは、同じようにあなたにブレーキをかけてくるでしょう。
こうしたブレーキはあなたの心の中に住み着いた貧乏神が、良い習慣を身につけようとしているあなたを邪魔をしているのです。これから貧乏神を追い出す過程では、必ずこういったブレーキがかかってしまうことを頭に入れて一つ一つ取り組んでください。
千里の道も一歩からと言います。これからご紹介するステップのどれでも結構です。まずは一番取り組みやすいことからでいいですから、すぐに始めてみてください。着実にやり遂げることができれば、きっとあなたの自信になるはずです。
貧乏神は歩みが遅くとも着実にやり遂げる人は苦手です。お金が貯められる自信がついたころには、きっと貧乏神はあなたの家計から逃げ出していなくなっているはずです。
5-2 まずは使ったお金を手帳に記録しよう
もしも家計簿をつけることができているなら、この項目はクリアですから読まなくても結構です。できていないなら、支出を管理するために、簡単でもいいので出て行くお金を記録することを始めましょう。
支出を管理するためには、家計簿をつけるのがいい、とほとんどの人は分かっています。それでも家計簿をキチンとつけ続けている人の割合は1割程度。家計簿をつけないというよりも、つけ続けることができないのです。
家計簿をつけたことがある人は分かりますが、とても面倒な作業です。これが最大の難点。何にいくらお金を使ったか、細々と記録し、それを集計し、しかもこれらの作業を続けていく、気が遠くなります。
でも、家計簿の本来の目的は「使ったお金の細目を記録すること」ではありません。立てた予算をきちんと実行できているかチェックすることです。細かな内訳よりも、予算内に収まっているかどうかが重要なのです。
もしも、スケジュール管理に手帳を利用しているなら、お金を使う都度手帳に使った金額と簡単なメモを書いてみましょう。たとえば「コンビニ500円」といった感じです。クレジットカードを使ったときも、現金で払ったときと同様に使った金額を書き込みます。そして、毎日使った金額を合計し、週の終わりに1週間に使った金額を合計します。こういう方法なら、細目は必要ありません。とにかく、使った金額が予算内に収まっていれば問題ありません。
予算を超えてお金を使っている場合には、無駄使いしているお金を見つけてなくしていかなければなりません。自分のお金の使い方を分析するために、スケジュール欄にある時刻のメモリを活用しましょう。お金を使った時刻にあわせて金額を書けば、自分のお金を使うパターンが分析しやすいでしょう。
「ちょい買い」が多い人であれば、缶ジュースを買ったり、コンビニでの買物などがたくさん書き込まれているはず。ちょい買いでいくら使っているか合計してみましょう。ちょい買いを減らすだけで、かなり節約になるはずです。ちょい買いを減らす一番の方法は、ちょい買いをする自分をイヤになること。使う都度メモをしていけば、きっとそんな自分がイヤになるはずです。試してみましょう。
「ドカ買い」の人であれば、週末など特定の日に支出が集中しているはず。日頃細かく節約しても、一度のドカ買いですべてを帳消しにしてしまいます。ドカ買いタイプの人は、いかに衝動買いを無くすかがカギになります。何か大きな買物をしようとしたときには、すぐに買わないこと。自分以外の誰かに意見を聞いたり、1週間待ってもまだ買う気があるなら買う、といった何度もチェックするルールを作れば衝動買いは少なくなるはずです。
5-3 汚い財布にはお金は貯まらない
あなたの財布を出してみてください。もしも汚く財布を使っているなら、あなたはお金を大切に扱っていない人。財布はあなたとお金との接点です。財布の使い方を見れば、あなたのお金との付き合い方が分かるのです。
小銭入れにコインがたくさん入っていてパンパンになっていたり、札入れにレシートがたくさん入っていて、レシートのすきまからお札が出てくる。こういうサイフを「ブタ財布」と言います。ブタ財布はお金に対する無関心さを表します。財布にいくら入っているか、今日どのくらいお金を使ったかも分かろうとしません。お金に無関心ですから、お金がドンドン出て行きます。これまで多くの人の財布を見てきましたが、ブタ財布の人でお金がドンドン貯まるという人に出会ったことはありません。
たまに見かけるのがマネークリップを使っている人。小銭は小銭入れを使うか、ポケットに放り込んで、お札はマネークリップに挟んでいます。見た目はスマートで格好いいのですが、こういう人もお金が貯まりません。マネークリップは格好よくチップを出すために作られたもの。お金を出すための道具ですから、お金は出て行くばかりです。
お金を貯めるのが上手な人は、ほとんど例外なく財布をとてもキレイに使っています。小銭入れはコインでパンパンにならないように工夫していますし、お札入れもレシートとお札は別の場所に整理しています。お札も手前になるほど小さな額のお札になるように順番に並べていることも多いです。
クレジットカードやキャッシュカードなどのカード類もよく使うものだけがキチンと整理されています。財布をパンパンにする原因になりやすいカードですが、カード入れを別に作りよく使うお店の会員カードなどを整理すればいいでしょう。
中には、財布の中にお守りやおみくじが入っていることもあります。金運がよくなりそう、という理由もありますが、どこに行くにも財布は持ち歩くので入れているようです。お金に強い関心があるからこそのこだわりですね。
きちんと整理されている財布を使う人は、いま財布の中にいくらくらいお金が入っているか、今日いくらくらいお金を使ったか、よく把握しています。お金への手間や愛情を惜しまない人には、お金が貯まりやすいのです。
今すぐお金との接点である自分の財布を整理してみましょう。レシートは財布から出し、小銭も整理しましょう。型崩れしているなら、新しい財布に買い換えてもいいでしょう。色は何色で結構です。財布との付き合い方を変えることで、お金との付き合い方を変えるきっかけになるはずです。
5-4 生命保険を見直してみよう
生命保険はほとんど家庭で何らかの形で加入しています。そして、多くの家計で無駄が見つかる非常に特殊な金融商品です。
日本での生命保険加入のきっかけは「GNP」とよく言われます。これは「義理(G)」「人情(N)」「プレゼント(P)」の意味なのですが、生命保険へ加入したときを思い起こすと思い当たる人が多いはずです。
私も最初に加入した保険は、友人から頼まれて加入した「義理」保険です。また、職場でバレンタインのチョコをもらったりして仲良くなり、最後は加入せざる得なくなった「プレゼント」保険もありました。
本来、保険は生活のリスクをカバーするために加入するものです。でも、「GNP」で加入する保険では、どんなリスクがどの程度あるかなんてあまり関係ありません。自分が死んだら家族がどの程度困るのかというリスクの大きさを必要保障額といいますが、自分の必要保障額を知っている人はほとんどいません。
ですから、多くの人が毎月いくらくらいまでなら払えるか、保険料を元に設計された保険に入っています。本来なら保障が必要であれば無理してでも加入した方がいいですし、保障が必要ない人であればお金がいくらあっても加入する必要はありません。つまり、いくら払えるということは二の次なのです。これでは無駄が多いのは当たり前です。
さらに悪いことに、いくつかの会社の生命保険商品を比較検討してから加入するという人もほとんどいません。家電や車であれば当たり前のように比較検討するのに、生命保険は違うのです。保険会社が違えば取り扱っている保険の種類が違います。同じような保障内容の保険でも、保険会社によって保険料に大きな差があります。保険料が2割、3割違うということも多くあります。ですから、必要な保障の種類とその額、保障期間を知った上で、それらを効率的にカバーする商品をいろいろな保険会社から探すべきです。そうすることで必要な保障を確保しながら、支払う保険料を大幅に削減することもできるのです。
生命保険は家計の固定費の代表格の一つです。生命保険の無駄をなくしても、生活レベルは変わることはありません。さらに、一度見直せば効果はずっと続きます。ですから、食費やおこづかいなどのやりくり費を削る前に、家計の見直しの第一歩として生命保険を見直してみましょう。
世帯主の男性が一生涯に支払うことになる保険料の総額が1000万円を超えることは珍しくありません。GNPで加入した保険を見直せば、一生涯に支払う保険料が半分以下になることも珍しくありません。つまり、数百万円の見直し効果が出ることになります。これだけ効果が出れば、教育資金も老後資金も随分と楽になるはずです。
生命保険の見直しは自分で行うこともできますが、専門知識が必要です。自分で見直ししたものの、保険料を下げようとしすぎて必要な保障まで削ってしまったケースも見られます。
難しくて面倒なだけに貧乏神が住み着きやすい生命保険ですが、専門家のアドバイスをもらえば意外に簡単に見直しができます。必要な保障を確保しながらも、保険料をできるだけ下げるアイデアももらえるはず。生命保険を皮切りに固定費の見直しに勢いをつけましょう。 

 

5-5 決断し、行動するクセをつけよう
お金を稼ぐのが上手な人で、決断することができないという人をほとんど見たことがありません。決断できない人は、決断するまでにいろいろと思い悩みます。思い悩んでいるうちに、忘れてしまったり、あきらめてしまうこともあります。結局行動をしないことが多くなります。
行動すれば、失敗してしまうかもしれません。でも、行動しなければ、何も起こりません。失敗を恐れずに決断し行動しなければ、成功することもないのです。
別にお金を稼ぐことだけではなく、家計を見直すにも決断は必要です。見直せば効果が出ると分かっても、決断ができなければ見直しはできません。私たちはアドバイスや実行のお手伝いはできても、決断はできません。決断はあなたしかできないのです。
決断をできるようにするには、訓練するしかありません。失敗を恐れずに、どんどん決断することが、一番の勉強になります。もちろん失敗することもあるでしょう。でも、失敗すれば、次は失敗しないためにどのようにすればいいか、学ぶいい機会がもらえるのです。
とは言え、いきなり大きな失敗をしてしまうと、立ち直れなくなるかもしれません。ですから、最初は小さな決断からはじめてみましょう。小さな決断であれば、失敗も怖くはないはずです。
たとえば、レストランに行ったときがチャンスです。メニューを開いたら3秒以内に食事を選んでみましょう。そのとき、どういう理由で選んだかも確認しておきましょう。「失敗したなぁ」と思うこともあるでしょうが、大したことではありません。次はどうしたらいいか考えて改善すればいいのです。
こうした訓練では、いいものを選んだという結果より、短い時間でいいものを選ぶためにどう考えたかが重要です。素早くいい決断をするには、当然ながら工夫が必要なのです。たとえば、自分の健康を考えて「魚⇒鶏肉⇒豚肉⇒牛肉」といった具合に、優先順位をつけておくのも早く決断するためのコツです。
また、常に100点を取ろうとするのも、素早い決断を邪魔する原因になります。そもそも常に100点を取ろうと思わないことです。この際、細かい点は目をつぶって、80点以上取れれば合格といったラインを決めておく方が素早く決断できますし、精神衛生上いいことだと思います。いろいろと工夫して決断してみてください。
5-6 参考にしたい人を探してみよう
あなたの周囲の人たちを思い浮かべてみてください。あなたから見て、お金を貯めることが上手な人はいるでしょうか。
「類は友を呼ぶ」と言いますが、お金を使うのが好きな人の周りには、同じようによくお金を使う人が集まっているものです。人は周囲の環境に引きずられやすいですから、どんどんお金を使う体質が強化されてしまいます。
でも、どんな人の周りにもお金を貯めることが上手な人が一人や二人いるものです。そういう人を見つけたら、行動パターンを観察してみましょう。きっとあなたの行動パターンとは違うはずです。そこにお金を貯める秘訣が隠されているはずです。
また、収入の高い人や、目標に向かって毎日生き生きと生活している人など、参考にしたいと思える人を探してみましょう。そして、その人たちの行動を真似してみましょう。「学ぶ」という言葉は、「真似ぶ」が転じてできました。真似をするだけでも多くの学びを得ることができるはずです。
次の段階では、これらの人たちがどのように考えているのかを知りましょう。行動を観察するよりずっと重要なことです。行動はその人の考えが表れたものですから、行動を真似するよりも考え方を知って考え方を真似た方がずっと効果があるのです。
ただし、外から観察しているだけでは、考え方までは分かりません。できるだけ、これらの人たちとお付き合いすることが必要です。また、お金の達人が書いた本を読むのも効果的です。ひょっとしたらセミナーなどで話を聞く機会があるかもしれません。
あなたの考え方や行動パターンが変われば、貧乏神は居心地が悪くなり、いつしかあなたから逃げ出していくはずです。
5-7 お金の相談ができるアドバイザーを探せ
もしも、周囲に参考にしたい人がいない。もっと効果的な考え方、方法が知りたい、というときにはお金の相談ができるアドバイザーを探しましょう。家計についての相談であれば、家計の専門家とも言えるファイナンシャル・プランナー(以下、FP)へ相談するといいでしょう。
FPは資格の名称です。大きく分けてFP技能士という国家資格と、日本FP協会が認定する民間資格がありますが、どちらがいいという訳ではありません。
むしろ、特定の金融機関に所属する企業系FPとそれ以外の独立系FP、このどちらであるかを事前に確認しましょう。相談料金は企業系FPの場合は基本的に無料。一方の独立系FPであれば有料であることが多いでしょう。
ちなみに、私たちは独立系FPですが、相談料金を払ってでも、特定の金融機関の商品に偏らない、中立的なアドバイスを求める人に向いていると思います。
第1章では4つの家計をキャッシュフロー分析し、家計に住み着いた貧乏神の影響を明らかにしました。同じようにキャッシュフロー分析した上で、総合的なアドバイスが欲しいという場合は独立系FPに相談するといいでしょう。
このように、いろいろな分類はできますが、最後は“人”が命です。知識や手法は似通っていても、経験の量や考え方が違えばアドバイスの内容自体が変わることもあるからです。
親身になって話を聞き、考え、あなたに合ったアドバイスをしてくれる人を探すには、相談を申し込む前に、相談を受けたことのある人の話や、講演を聞けると自分に合っているか判断しやすいでしょう。無理であれば、記事やHPなどで情報を集めてみるといいですね。
親身になって話を聞き、考え、あなたに合ったアドバイスをしてくれる人を探すには、相談を申し込む前に、相談を受けたことのある人の話や、講演を聞けると自分に合っているか判断しやすいでしょう。無理であれば、記事やHPなどで情報を集めてみるといいですね。
あなたの家計から貧乏神を追い出し、福の神を呼び寄せるためのアドバイスをしてくれる、頼れるアドバイザーを探してみてください。 
 
 
■仁賀保氏
 

 

戦国大名仁賀保氏を紹介します。仁賀保氏は秋田県南部沿岸に居た小大名ですが、近世までその命脈を保ちました。現在、秋田県の歴史は佐竹氏一辺倒です。戦国時代には安東氏を始め小野寺氏・戸沢氏など色々な戦国大名が生き残りをかけて戦っていたのに、それを研究する機運さえ、ここ30年くらい前までは有りませんでした。まるで、秋田県の歴史には佐竹しかないといった感すら伺えます。自らの地域の歴史を知らぬという事は非常に恥ずべき事であり、また、それにより貴重な史料が失われていく、これが嘆かわしい事と私は思います。この資料が少しでも地域の歴史研究の起爆剤となれば幸いです。
 
1.仁賀保氏への道  

 

1-1 前文
仁賀保氏の出自は清和源氏であり、その中でも信州の小笠原氏の分家である大井氏の流れを汲みます。由利郡には仁賀保氏のみならず多くの大井氏の流れを汲む国人領主が点在していました。
そもそも秋田県の由利郡とは何処でしょうか。由利郡とは現在の秋田県の南西部であり、現在のにかほ市と由利本荘市の全域と秋田市の一部を指します。
この遠方の地に、どうして清和源氏小笠原流大井氏がいるのでしょうか。
1-2 仁賀保氏の出自
由利地方の歴史の転換点は建歴3年(1213)です。
この年、鎌倉では北条義時の度重なる挑発に痺れを切らした和田義盛が挙兵、北条氏との間に戦が起こりました。和田合戦です。当時の由利郡の領主は由利氏で、当主は由利維久(これひさ)と言いました。維久は弓の名手であった様ですが、和田方与同の嫌疑を掛けられて本領の由利郡を北条義時に没収されてしまいます。没収された由利郡は、この後清和源氏加賀美遠光(かがみとおみつ)の娘の大弍局(だいにのつぼね)に与えられました。加賀美遠光は八幡太郎義家の弟である新羅三郎義光の孫に当たります。大弐局は源頼家・実朝の養育係として重きを成しており、その縁で領地を拝領したものでしょう。
女性で跡継ぎのいない大弍局は跡継ぎとして兄小笠原長清の子大井朝光(ともみつ)に自分の領土を相伝させました。こうして由利郡は大井氏の領土になりました。
大井朝光の本願の地は信濃国佐久郡大井庄であり、領地名を取って大井氏を名乗っていました。彼は大弐局より出羽由利郡を相続することにより、信州大井庄と出羽国由利郡の2箇所の地頭となったわけです。無論、大井氏は御家人として鎌倉にいたと思われます。遠方の由利郡の支配には一族より地頭代を任命して支配していたと考えられます。まあ、てっとり早く言うと分家を派遣して土地を管理させるということです。この地頭代の流れを汲むと考えられるのが本稿仁賀保氏を初めとする由利郡の大井一族です。彼らは鎌倉時代から室町時代中期までは本拠地の信州大井庄と行き来をしていた様ですが、大井本家が滅亡するに至り由利郡にて自立いたしました。大井朝光についてもうちょっと詳しく語りましょう。大井氏の系図は下記のとおりとなります。
大井朝光は7男ですが太郎とも称したそうです。小笠原家としては7男ですが大井氏としては初代ですし、大弐局の跡継としては太郎ですね。彼は承久の乱の時は24歳、父の小笠原長清の旗下に入り東山道軍に加わっていました。承久3年6月18日の宇治合戦では1人を討ち取っており、後に承久の乱の時の功により伊賀国虎武保を宛行われたようです。
『四鄰譚藪』という書物によれば、朝光は嘉禄元(1225)年に岩村田館にて28歳で没したと伝えられますが、『本荘市史』の指摘するとおり宝治2年(1248)に承久の乱で拝領した伊賀国虎武保を伯母大弍局が建立した高野山御塔一基の仏聖灯油料として高野山金剛三味院に寄進している事が確かめられます。即ち大井朝光はこの年迄生きている事は確実で、又、伯母大弍局の養子になり大弐局が拝領した由利郡を相伝したという話が、この文書によって確認されるかな…と考えます。
承久の乱の後、朝光は『吾妻鏡』に嘉禎4年(1238)に2回、建長2年(1251)に1回出てきており、その後は姿が見えません。亡くなったのだろうと考えます。死去した時期は大井氏の菩提寺安養寺が建てられた弘安年間初期でしょうか。子供は『尊卑分脈』などに拠れば又太郎光長です。
先にも触れましたが、大井氏の領土は信州と出羽の2ヵ国に跨がっており、恐らく本拠地から分家を派遣して支配させる体制だったと思われます。同じ様に奥州糠部郡と甲斐国南部牧に領土を持っていた南部光行を例にとってみると、南部氏は鎌倉時代末期まで分家を領土に派遣して支配しておりました。これは南部氏だけでなく関東に本拠地を持っていて奥州に所領を賜った大多数の関東武士団は、分家を奥州の所領に配置している例が多いようです。大井氏も分家を本家が統率していく…惣領制としますが…方法によって領国を支配をしていた様です。後に由利郡内に多数乱立した大井氏の子孫達は、恐らくその子孫たちでしょう。
なお、大井氏の歴史は先ほども出た『四鄰譚藪』という本をもとにしている場合が多い様です。ですが、この本は江戸時代中期の作成であり、先程も見たとおり誤りが多いと考えられます。それは系図にも表れており、他の文献と比較してもどちらが本当なのかわからない事例が多いです。また、軍記物と比較しても「??」となるきらいも多いように感じます。やはり文書など1次史料による裏付けがない場合、あくまで伝承として取り扱うべきなのでしょう。
大井氏2代目の光長は弘安4年(1279)には新善光寺に梵鐘を寄進いたしました。彼には上から時光、光泰、行光、行氏、宗光、光盛、光信の6子がおり、家督を継ぎ岩村田城主になったのは3男の行光であったようです。長男の時光は大室富士見城(小諸市)に入ったと言われます。この兄弟は光長の死後に家督争いが有った様で、5男の宗光が当主の行光を殺害して佐渡に流されております。
富士見城に入った大井時光の後は光家が跡を継ぎますが、光家の時代に鎌倉幕府は崩壊いたしました。仁賀保家には光家の代の言い伝えとして、「北畠顕家に従って戦功を立て『功一品』と称された」と言う話が伝わっております。元々大井氏は北朝方であり大井庄では南朝方と激しく戦っている様です。つまり…言い伝えが事実であればですが…大井光家は由利に本拠地を持ち北畠顕家に従ったという事になりましょうか。
また、もしかしたらその先代の時光の時代に由利郡を分割相続したのかもしれません。時光・光家の子孫らしき者達が由利郡にこぞって移住しています。例えば鎌倉時代末期には津雲出郷(後の矢島郷)の領主として「源正光」という人物が登場いたします(『北之坊銅板銘』)。この人物は仁賀保家系図の「政光」と同一人物である可能性が高いと考えます。後に津雲出(矢島)郷の領主は矢島氏になりますが、恐らくこの源正光の子孫でしょう。
即ち、後に死闘を繰り返す仁賀保氏と矢島氏は非常に近い一族であると考えられるのです。
これは仁賀保氏に伝来していた系図です。源政光と仁賀保氏の祖の関係が見て取れます。仁賀保郷には大井行光の代からの戒名が仁賀保氏の菩提寺である禅林寺には伝わっているようです。
系図が怪しいと思う向きもあるでしょう。
確かに『尊卑分脈』には大井光家までしか記載がなく、光家の子孫に光長、行光がいるという確証は他の資料から確認することは困難です。但し仁賀保氏が祖先を偽る必要性があるか…と問われると、当時の人たちにとって大井友挙が信州から移り住んできたというのは周知の事実となっていましたし、下剋上した氏族でもありませんので、祖先を偽る必要性に乏しいのでは?と考えます。
また、もし江戸時代に光家と行光の中1代を繋げたんだとしたら、その頃の仁賀保氏の通字を使って名は「光長」ではなく「挙長」「誠長」としたのではないでしょうかね?。『尊卑分脈』などとの整合性を加味しても、実名は兎も角として系図としては一定の評価が出来るのではないでしょうか。
私は大井光家の子の光長は守護代として名が見える甲斐守光長かな…と推測します。諸系図では大井光長は朝行の甥の光栄ではないかとされていますが…どうでしょうか?。
何度も言いますが大井氏研究の底本である『四鄰譚藪』は江戸時代中期の作で、大井氏系図はこれに因っています。ですが現実にはこの中に出てこない甲斐守光長が守護代を務めているなど、系図の錯綜が非常に激しいです。即ち『尊卑分脈』に出ているメンバーは兎も角、それ以降は確証が無ければ…と考えます。
よって『四鄰譚藪』を大井氏研究の底本とするのは非常に危険であると思います。
鎌倉幕府滅亡後、大井氏は本家の信濃守護小笠原氏に従って足利方として活躍したようです。…ま、一族そろってではないでしょうがね…。
光長の跡は大井光矩(みつのり)が継ぎ守護代を勤め、大塔合戦の際には重要な役割を務めたようです。大井氏はこの後、持光を当主とし最盛期を迎えますが、持光の亡き後、村上氏との戦いで敗北し、文明16年(1484)には本拠地を村上氏に焼かれ大井氏本家は滅亡いたしました。
この間、仁賀保氏の祖である大井時光流の大井氏の同行は定かではありません。ですが大井行光の位牌が仁賀保にあるという事は、言い伝え通り応仁元(1467)年に仁賀保郷に大井友挙が本格的に入部したとして、その時位牌を信濃国から持ってきたか、言い伝えより2代前より仁賀保郷を領しながら信州を本拠地としていた場合か、です。私的には後者ではないかと考えます。
大井友挙が応仁元(1467)年に仁賀保郷に住み着き仁賀保氏の初代となりましたが、いきなり人の土地に住み着くわけありませんね。やはり数代前から仁賀保氏の祖が地頭か地頭代になっていたという事でしょう。  
 
2.大井友挙〜仁賀保挙久  

 

2-1 鎌倉時代の由利郡の動向
前項で信州の大井氏の興亡を見てきましたが、その時代の由利郡はどの様な状況にあったのでしょうか?。
由利郡の領主は、鎌倉時代の初頭まで由利氏でした。ただ、『吾妻鏡』に「由利の八郎」と出ているので姓が「由利」だとされていますが、由利「の」八郎なので本当に由利を姓としていたのか…わかりませんな。←ココ重要だと思います。
なんか、今までの史書は「八郎」を由利氏であると決めつけてからの議論でありますが、これは危険だと考えます。とはいえ、便宜上、由利氏として記述していきますが。
由利氏は恐らく在地官人の流れを汲むと思われる武士団で、奥州藤原氏の有力武将であった様です。源頼朝の時代には「由利の八郎」という人物が当主でありました。由利の八郎は、奥州にその名を知らぬ者が居ない豪傑でありました。後に彼は頼朝の捕虜になりますが、彼の非常に気高い言動は、敵方の書物である『吾妻鏡』ですら賞賛されております。
「由利の八郎」は奥州藤原氏の滅亡後解放されましたが、武器を持つことを許されませんでした。その後、由利中八郎維平(これひら)という人物が由利の地頭として登場いたします。彼と由利の八郎を同一人物見るか否かは議論の分かれる所です。私は別人であろうと考えます。理由は、
1 頼朝挙兵以来付き従ってきた「中八惟平」という人物が奥州藤原氏滅亡後見えない事。
2 由利氏には大中臣氏の子孫だという伝説があり、「中八惟平」はこの流れを汲むと考えられる事。
3 奥州藤原氏に使えた由利氏は「八郎」、頼朝旗下の由利氏は「中八郎」「中八」であり、明らかに書き方に差がある事。
4 和田合戦の際に活躍した「中八太郎維久」はどう見ても北条氏の郎党と見える事。
です。
何れにしろ由利中八郎維平は大河兼任の乱にて戦死し、子と思われる由利中八太郎維久が跡を継ぎます。しかし由利維久は和田合戦にて没落、この後、由利郡の地頭職は大弐局に伝えられた事は前述いたしました。そして大弐局の領土を相伝した大井朝光の子孫が由利郡を保持して行く事になった訳です。何れにしろ由利郡は出羽にあり、本貫の地である大井庄とは非常に遠く、まして御家人である大井氏は鎌倉在住であった様で、由利郡に当主が直接赴いて経営するわけにはいかないでしょう。
よって分家を地頭代として由利郡に下したと考えられます。また、分割相続であったらしく、由利郡はこの後、細かく分割されていきます。但し、滝沢氏は由利氏の子孫であると伝わっておりますが。その中で最初に出てくるのが「源正光」です。津雲出郷(つぐもいでごう。後の矢島郷)の地頭として、鎌倉時代末期に矢島郷を領していた様です。この時、後の根井氏の祖先である滋野氏の名も出てきます。続いて由利郡にて存在感満点なのが、赤尾津郷(現在の由利本荘市松ヶ崎・亀田近辺)を支配していた小介川氏です。
赤尾津郷は室町時代には京都の醍醐寺三宝院門跡の領土となっており、小介川氏が地頭…確証はありませんが…として管理しておりました。ですが時代を経るに従い小介川氏は三宝院に対して年貢を進上することを怠るようになりました。…想像ですが小介川氏は醍醐寺三宝院より「地頭請」していたのでは???と考えます。困った醍醐寺三宝院門跡は宝徳2年(1450)、細川勝元に訴え、小介川立貞に三宝院門跡に年貢を納める様に命じ、小野寺家道に仲介をさせました。ですが小介川立貞は、「5代も10代も前から三宝院門跡の領土ですが、年貢を送った事はありません。」とつっぱねます。小野寺家道ですが小野寺氏の系図には出て来ませんが、出羽仙北の小野寺氏の当主でしょう。
仲介の労を無にされた小野寺家道は、小介川立貞は「不肖人」であるから仲介は出来ないと幕府に伝えております。細川勝元や京都御扶持衆である小野寺氏の意向を無視するなんて…小介川立貞、怖い物知らずすぎ。業を煮やした醍醐寺三宝院門跡は、奥州探題である大崎氏や出羽守大宝寺氏を動かして、小介川氏に年貢を納めさせようとします。結果は判りませんが、当時の醍醐寺三宝院って言ったら、恐るべき権力を持っていたんですね。納めたんじゃないかな。
ここでちょっと奇妙なのは、「羽州探題」である最上氏の名が挙がらず、大崎氏や大宝寺氏が小介川氏に影響を与える人物として登場」します。もし本当に羽州探題が機能していたとすれば、最上氏の名前が上がるはずです。羽州探題というのは機能していなかったのではないでしょうか。この小介川氏が大井氏の系譜のどこに繋がるかは判別しません。ただ、「5代も10代も」前から出羽に住んでいたことは間違いないわけです。また、小介川氏は明応年間頃まで大井氏も称していたらしき微証もあり、大井氏の流れである事には疑問の余地はありません。
この様に由利郡に分居した大井一族は地道に勢力を広げて、15世紀中頃にはかなりの勢力を持つ様になりました。同様に仁賀保氏も、姿を見せていたと思われることは前ページに記載いたしました。恐らくでありますが、大井友挙の祖父である行光(ゆきみつ)の代に仁賀保郷に本拠地を動かしたものでしょう。但し行光・友光(ともみつ)の代には信州の本拠地も捨てられなかったのではないでしょうか。
2-2 奥羽仕置以前の仁賀保氏
1) 大井友挙の動向
大井友挙(ともきよ。寛政譜では「ともたか」だが仁賀保家では「挙」を「きよ」と呼んでいる。)は永亨6(1434)年の生まれと伝えられます。友挙は信州の混乱に見切りをつけて、仁賀保郷に本拠地を移したのではないでしょうか。この時期、大井氏は村上氏との戦いに負けているようですし。友挙が仁賀保へ到着したのは応仁元(1467)年9月12日といわれます。言い伝えによれば友挙は芹田村に上陸、白雪川を遡って待居舘に入り、「古館」を修復して翌年に山根館に入城したそうです。先述の通り、彼は父祖の代より仁賀保郷に関わっていたと考えられるので、領内への影響はそれ程無かったでしょう。
一部の『矢島十二頭記』などによれば、大井友挙は鎌倉の関東管領上杉氏の命を受けて下向して来たと伝えております。越後・出羽庄内はいずれも上杉氏の領土ですし、出羽庄内に隣接する仁賀保の領主が上杉氏の権威を嵩にきても何も不思議はありません。大井友挙は関東管領上杉氏の威を領内統治に利用していたのでしょうね。さて、仁賀保氏の居城の山根館は、旧仁賀保町教育委員会が発掘を行った事があります。平成6年度の発掘調査では、中国明朝の年号である「宣徳」(1426〜1435)の年号を持つ陶磁器の器底が2器出土しています。これは細川氏等の中国との勘合貿易によってもたらされた物であると推測されますが、コピーの可能性も捨てきれません。ただ、日本国内には同時期の城より類似の青磁が数多く出土しているようです。仁賀保氏が居城した直後より、それなりの勢力を持っていたことがわかると思います。
大井友挙は禅林寺の過去帳によれば、文亀3年(1503)に没したと伝えられます。尚、友挙という名でありますが、「友」が「朝」という字の当て字で、「挙」が「光」を当てたものだとすれば(理由は後に説明いたします)大井友挙は実は大井朝光(ともみつ)という人物だったのかも知れません。彼の父の名が「友光(ともみつ)」と伝えられているのも気になります。
また、も一つ言うと、彼の官職名は系図等では「伯耆守」とされていますが、「由利十二頭記」などは、「信州から来てから、挙久(若しくは挙長)の代までは大和守だぜい!」と記載されています。確かに小介川立貞が伯耆守を称するなど、もしかしたら友挙の官職名は後の人が小介川立貞とゴッチャにして「伯耆守」としたのかもしれません。また、小介川立貞にあやかった可能性もあります。
しかし天正17年の文書に仁賀保家の一族で「伯州」を名乗る者も出てきますので、やはり「伯耆守」を称した可能性が高い…と私は思っています。
2) 仁賀保挙政の動向
大井友挙の跡を継いだのは大井挙政(きよまさ、たかまさ)でした。彼は仁賀保大和守とも号し、彼の代に姓を仁賀保に変えた様です。仁賀保という地名(姓?)の初見は次に挙げる大永4年10月9日付長尾為景宛斯波政綿書状でです。
(史料1)
「「大永四 十 卅到」
      斯波新三郎
   長尾信濃守殿   政綿 」
今度者高梨方為合力、則被達本意候、大慶察申候、軈而使者可差下候之処、越中雑説に付て、于今延引、非本意候、仍已前者使者上着之砌、無其煩御懇之儀、祝着無他候、随依鷹所望、時枝源次郎差下候、上給候者、可為喜悦候、就中、鷹・馬望候て、仁加保へ助大夫下候、定而来春可上候、然者、於貴国路次之儀被仰付候者、別可令祝着候、次うつほ五つ、進之候、尚源次郎可令申候、恐々謹言、
   十月九日      政綿(花押)
      長尾信濃守殿
差出人である斯波政綿は寛正6(1465)年〜大永4(1524)年の間に越前国鞍谷(現在の福井県武生市池泉町)に居た人物で、「鞍谷殿」と言われる斯波氏の一派です。足利将軍家とも密接な繋がりを持つ非常に家格の高い家柄です。この書状により、大永4(1524)年には仁賀保郷に斯波氏と繋がりを持つ程の勢力がいた事が諮詢されます。これが仁賀保氏だという事はまず間違いないでしょう。仁賀保挙政の時代の事はあまり言い伝えも残っておらず文書も皆無で、小野寺氏や大宝寺氏の如く公家の日記にも登場しないので、その実態は不明です。ただ、その後の時代から推察しますと、周辺諸侯と姻戚関係を積極的に行っていたと思います。
3)仁賀保挙久の動向
仁賀保氏が再び歴史上に姿を見せるのは、3代目である挙久(きよひさ、たかひさ)の後半からです。彼もまた大和守を称しました。俗に「大和州」と呼ばれていたようです。私は確認していませんが、天文24(1555)年に室町幕府の蜷川親俊(にながわちかとし)は、太平・小野寺・仁賀保・瀧澤・鮭延・細川小国・野辺沢・土佐林氏等中奥衆18氏宛の書状と共に鷹師竹鼻氏を派遣したそうです。
(史料2)
依遠路、細々以書状不申承候、背本意存候、仍就鷹所望之儀、竹鼻差下入候、尚得其心、可申、別而御馳走所仰候、事々期後音存候、恐々謹言、
   九月廿二日      親俊(花押)
      滝沢殿
これは『鶴舞』95号紙上で吉川徹氏が指摘された「蜷川家文書」の一つです。氏は、差出人である蜷川親俊がこれを持っているのは、「中奥を使者として廻った坂東屋冨松が滝沢氏に渡せなかったからだ」と推察されています。…慧眼ですな。
更に翌年に将軍足利義輝の意を受けた政商富松氏もその跡を歴訪したそうです。
また仁賀保氏は同じく天文24年、上洛いたしました。仁賀保氏と同じ由利衆の中では滝沢氏も上洛しております。どうやらこの時も蜷川親俊を頼っていたようです。
いずれ仁賀保氏は2代目挙政、3代目の挙久の代迄に、有力国人領主としてその地位を確立したものと考えられます。
この時代の仁賀保氏は、越後の長尾上杉氏の動向を注視していたようです。出羽庄内はそもそも上杉家の領土で、大宝寺氏が地頭…上杉氏の配下…として君臨していました。当然、隣接する仁賀保氏だって注視するわけですね。上杉謙信はご存知のとおり、軍神といってもいいような、無類の戦争の強さを誇った人物です。また、そのエキセントリックな行動は周りの諸侯に取っては天災みたいなものだったでしょう。当時の庄内の大宝寺氏は上杉謙信の「いいの?いいの?俺に従わないと、上杉さんが討伐しゃうよ。」オーラをバックにして、大泉庄の地頭として君臨していました。永禄年間の大宝寺氏の当主は義増といいます。この大宝寺義増はどうも身の程をわきまえずに上杉氏から独立を試みようとしたようです。永禄11(1568)年にアホな事に武田信玄の誘いに乗り、本庄繁長と共に、上杉謙信に謀反を起こしました。
この頃の仁賀保氏と大宝寺氏はどっちかって言うと敵対関係にありました。仁賀保挙久は何度か庄内に出陣しているようです。永禄2年に飛島を占領したと伝えられ、永禄10年には庄内の野沢舘を攻め落としているようです。特に飛島には八幡神社などもあり、仁賀保氏とかなり関係が深い様です。
大宝寺義増の謀反時の仁賀保挙久のスタンスは「上杉さんとは喧嘩したくないなー。だって謙信さんのとーちゃんの為ちゃんの時代から知ってるしー。」派だったと思われ…ま、想像ですが…、当然大宝寺氏とは敵対関係だったと考えられます。…むしろ戦術から考えると上杉氏が敵の背後を突く立場の仁賀保氏と手を結ばない方がおかしいです。遠交近攻の外交は兵法の常套手段ですね。ただ両者共上杉氏との関係は深かったと見るべきでしょう。
上杉謙信に謀反を起こした大宝寺義増ですが、あっという間に降伏しました。当然上杉謙信は大宝寺義増にイラッ(怒)になっている状態です。義増は責任を取って隠居して大宝寺氏の存続を図りました。代わりに庄内で上杉派として出てきたのが、大宝寺氏の配下である土佐林禅棟という人物でした。彼の尽力によって大宝寺氏は存続が出来た様なものです。
大宝寺氏の当主は大宝寺義氏に変わりましたが、土佐林氏は上杉氏の目付として大宝寺氏に並ぶほど庄内で大きな力を持つようになりました。当然ですが大宝寺義氏は面白くありませんね。自分のとーちゃんを隠居に追い込んだ人物が自分の領土でデカい顔をしているわけですから。元亀2(1571)年に両者は対立して戦い大宝寺義氏は遂には土佐林禅棟を滅ぼしてしまいました。…ま、ちょっと滅亡時期は疑問点がないわけでもないんですが…。この土佐林氏を支援していたのが仁賀保挙久でした。大宝寺義氏は仁賀保挙久の行動を制御する為、仁賀保挙久と仲が悪い矢島満安一派と手を結んで仁賀保氏を攻めさせます。この戦は仁賀保挙久にかなり不利だったらしく、山根館は「外廻輪悉打破」られ、仁賀保氏は「實城計ニ而被仕返、剰敵数輩被討捕」りはしたが「居館へ被押詰」られました。ですが結局、矢島氏は仁賀保氏の居城を落とせずに軍を引きます。更に仁賀保氏にとって不利となったのは、由利郡の北の小介川氏が大宝寺義氏に「奉公」すると言ってきました。これは大宝寺義氏が「意外之儀」という位、意外だったようです。恐らく同時期に第2次湊騒動が起きて、安東愛季が豊島重村を滅ぼして小介川領に近接する様になったのが大きいのではないでしょうか。安東愛季対策ですかね。ここでちょいと第2次湊騒動の説明です。現在の秋田市の南端、雄物川に面する所に豊島郷があり、その領主として豊島重村という人物が居ました。豊島重村は湊安東家旗下の豪族でして、仁賀保挙久の姉妹かな…が彼に嫁に行っています。
元亀元(1570)年、豊島重村は安東愛季の経済統制に反発して周りの国人領主らと語らって挙兵いたしました。この戦は周辺諸侯である戸沢氏、小野寺氏や庄内の大宝寺氏を巻き込み、豊島重村は2年間戦い続けますが、遂には敗れて仁賀保氏の元に落ち延びます。
この豊島氏の領土は秋田地方から仙北に至る道筋で、また雄物川の河口を牛耳る場所でもあり、物流・交通の要衝と言ってもいいでしょう。この豊島氏を味方につけた仁賀保氏、小介川氏等は仙北の他氏の領土をも虎視眈々と狙っていたと思われます。
いずれにしろ、小介川氏の大宝寺義氏へ接近により、仁賀保氏は由利郡内で孤立化しました。こう成ると仁賀保挙久も手も足も出せません。仁賀保挙久は土佐林禅棟の重臣で大宝寺義氏の捕虜になった竹井時友らを救うためにを大宝寺義氏に嘆願しました。これに対して大宝寺義氏方になっていた岩屋朝盛が小介川氏と相談の上仁賀保へ向かいます。更に庄内観音寺城主の来次氏秀は、仁賀保挙久に降伏を勧告しました。来次氏秀は仁賀保挙久方として働き大宝寺義氏に和睦の斡旋をしましたが、仁賀保氏の大宝寺氏降伏は遅々として進まなかったようです。鮎川氏宛の書状の中で大宝寺義氏は仁賀保氏の降伏が遅い事を愚痴っています。
その後の動向からして仁賀保氏と大宝寺氏は和睦したと考えられます。大宝寺義氏と由利衆の関係は主従関係ではなく大宝寺氏を優位とした同盟だったのでしょう。この同盟は仁賀保氏にとって庄内方面の戦局の安定化をもたらし、予てから仲の悪かった矢島氏に対して全力で当たる事が出来るようになりました。仁賀保氏は天正3年より矢島満安との全面戦争に突入します。 
 
3.仁賀保挙久〜重挙  

 

3-1 矢島満安と仁賀保挙久
矢島氏は大井氏をも称し、元徳3年(1331)には「羽州由利郡津雲出郷 大旦那 源正光」(『北之坊銅板銘』)として矢島郷の領主としてその名が見られる事は先述いたしました。大井朝光の流れを汲む地頭代としては由利郡に最も早く移り住んだ一族であると思われます。この「源正光」が大井氏の系図に見られる大井政光であれば、矢島氏と仁賀保氏は大井光家から分かれた極近い親戚であると考えられます。矢島氏と仁賀保氏は、永禄年間に戦端を開いて以来、慶長5年にその残党が滅びるまで、実に40年に渡って戦を繰り返していました。天正期の矢島氏の当主は大膳太夫満安(矢島満安・大井五郎)といいます。彼は仙北の小野寺氏旗下の一族西馬音内茂道の娘を娶っており、大宝寺(上杉)寄りの仁賀保氏、安東氏寄りの小介川氏等と対立していました。「矢島十二頭記」によれば、そもそも仁賀保氏と矢島氏の戦いは、永禄3(1560)年に矢島氏と滝沢氏の争いに仁賀保挙久が介入した事に起因致します。前にちょっと触れましたが、天文年間に由利で一番勢力があったのは仁賀保氏と滝沢氏だったようです。彼らは上洛したりしてますしね。また足利義輝の意を受けた者が回ったのも、この2氏でした。矢島満安は元亀の頃に仁賀保氏と敵対する大宝寺氏や小野寺氏と手を結び、仁賀保氏を攻撃した事も先述いたしました。 この様に矢島氏と仁賀保氏の関係は修復が難しい位に壊れ、仇敵の間柄となりました。天正4(1576)年、仁賀保挙久は大軍を率いて矢島に進攻します。仁賀保軍は矢島満安の居城である新庄城と川を挟んだ対岸にある根井館に本陣を引きました。
仁賀保挙久の策としては、矢島領の背後に位置する玉米(とうまい)信濃守に使いをして背腹両方から攻める作戦でした。3月1日の篝火を合図に玉米軍が新庄城の背後より攻め、これを討つ為に矢島勢が城から出たら、仁賀保軍が子吉川を越えて新庄城を落とすという作戦でした。しかし、仁賀保挙久の使者は矢島勢に捕われてしまい作戦が露見してしまいます。矢島満安はこれを見て一計を考えました。3月1日の早朝、神代山に篝火が見えました。仁賀保挙久は玉米信濃守の援軍が来たと確信し、全軍に出陣命令をかけ、新庄城に攻め込みました。空になった根井館には大将の仁賀保挙久と嫡子挙長(きよなが)、後は僅かな手兵のみでした。そこに四方八方から時の声が上がりました。矢島満安の軍勢です。篝火は矢島満安が仁賀保勢をおびき出す為に焚いたものでした。無論、玉米信濃守に連絡は行っておりませんので、玉米軍は押し寄せて来ません。矢島満安は篝火を焚くと、城に弟の与兵衛を残して夜陰に紛れて川を渡り、二手に分かれて根井館を挟み撃ちにしたのでした。仁賀保軍は全軍が子吉川を渡り新庄城を攻めていたので、本陣が夜討されている事とは知りませんでした。仁賀保挙久は逃げられぬと覚悟すると切腹して果て、挙長は子吉川を沿いに矢島満安の追撃を避けながら逃げ、滝沢領に逃れました。本陣が壊滅した仁賀保軍は我先にと逃げ出そうとしますが、敵陣深く攻め込んだ状態でしたので、逃げるに逃げれず200人余りが討死いたしました。矢島満安の軍略、見事です。
当主の挙久が討たれたのみならず、仁賀保軍は大半が討死いたしましたので、仁賀保氏はこの戦で大いに国力を落としました。なお、系図上、仁賀保挙久は天正4年2月28日に没した事となっております。夜ですからね。彼の戒名は龍山重公と言います。仁賀保挙久は、居城である山根館の入り口にあった安楽寺という寺を城の西側に移動させました。その寺は現在、陽山寺という名で現存しております。さて、陽山寺の墓地に下の碑があります。
元々は、半分土に埋もれていたモノですが、現在は掘り起こされてあります。 それを見ると、こう書かれておりました。「當寺開基陽山重公上座之墓」 即ち、これは陽山寺の開基である陽山重公という人物の墓であるという事です。現在仁賀保挙久の戒名は「竜山重公」と伝えられていますが、
1 仁賀保挙久の戒名は「陽山重公」というのが本当であり、
2 安楽寺から陽山寺への寺名の変更は、仁賀保挙久の戒名「陽山重公」からとった
と思われるわけです。
戦国時代の墓は五輪塔形式のモノが多いです。よって、この様に自然石に文字が彫ってある墓は不自然で、本当は挙久の墓は五輪塔であり、その脇に案内板としてこの石があったのでしょう。この石により陽山寺は仁賀保挙久の戒名に由来するという事がわかり、また、仁賀保挙久という人物が実在した事、菩提を弔う為の寺を維持できるほどの財力があったと推察される事などが、分かるわけです。戒名が寺名になっている事例は枚挙に暇がありません。仁賀保氏では7代目の挙誠の戒名に由来する正山寺というお寺もあります。
3-2 仁賀保挙長
仁賀保挙久の跡を継いだのは嫡子である次郎挙長(きよなが、たかなが)ですが、翌5年に死亡しています。切腹とも討死とも伝えられています。過去帳上では天正5年8月19日に亡くなった事になっています。彼の動向は軍記物以外では全く伝わっておりません。
3-3 仁賀保重挙
仁賀保重挙(しげきよ、しげたか)は、「奥羽永慶軍記」には仁賀保挙久の従兄弟としておりますが、系図他では全くその様な事実は確認できません。ただ、年齢からしてみても挙長の子ではなく、むしろ挙長の弟ないし従弟とする方が理に適っています。
しかしながら、「大和守」を歴代名乗ってきた仁賀保氏が、何の所以もなく「宮内少輔」に官職名を変えるのも異常であります。恐らく仁賀保家には宮内少輔を名乗る一族が居り、重挙はその出身なのでしょう。挙長の従兄弟と考えるほうが正しいかと考えます。重挙は宮内少輔家の当主だったのでしょう。因みに天正20年にも仁賀保宮内少輔は登場いたしますが全くの別人です。恐らく重挙の後に宮内少輔家を継いだ者でしょう。重挙の時代は非常に戦にまみれた時代で、力の落ちた仁賀保氏は周りの勢力に翻弄されることになります。重挙の時代の事は、次の項目で説明いたします。
 
4.仁賀保重挙・挙晴   

 

4-1 仁賀保重挙
仁賀保重挙が家督を継いだ頃、仁賀保氏は矢島氏との攻防に勢力を傾けていました。
「矢島十二頭記」には、
1 矢島満安が天正8(1580)年3月に仁賀保領へ攻め込みましたが途中で撤退した事、
2 翌9年4月には、仁賀保へ攻め込み山根館の「三ノ木戸」まで攻め込みましたが、赤尾津道益子吉殿が仁賀保の援軍に出陣したため、矢島に退却した事
を伝えております。
更に天正10(1582)年5月中旬、矢島満安は子吉氏を攻めました。これに対して仁賀保重挙は子吉氏を救援しようと出陣、矢島満安はそれを見て退却しました。
その時、仁賀保重挙は歌を詠み矢島満安に送ったと言われます。
それによれば
矢島殿 今朝の姿は百合の花 今は子吉の風につらをむくるや
と詠ったそうです。対して矢島満安はこれに返歌いたしました。
仁賀保殿 手をかざしたる子吉原 矢島の風に露や落けり
と。まあ、訝しいトコもないわけではありませんが、中々ホノボノとした戦ですな。
さてさて、それに遡る事天正6(1578)年。上杉謙信が没すると、庄内の北、仁賀保氏と隣接する観音寺城主である来次氏秀(きすぎうじひで)は出羽庄内の盟主である大宝寺義氏に対して叛旗を翻しました。
そもそも大宝寺氏の権力とは上杉謙信の威があってこそ成り立っていたもので、上杉謙信が没してしまえば、大宝寺義氏なんか…ね。結果的に来次氏秀の謀反は鎮圧されましたが、義氏は氏秀を処罰できず、逆に知行を与えて懐柔する事しかで来ませんでした。
この来次氏秀の反乱は御館の乱に連動してするのではないでしょうか?。御館の乱とは上杉謙信没(天正6年3月13日)後の2人の養子景勝と景虎の跡目争いで、天正6年3月中旬から天正8年頃まで続いた騒動の事です。景勝派・景虎派に分かれ武力で激突いたしました。大宝寺義氏は景虎を、対して庄内に影響力を持つ本庄繁長は景勝を支持し袂を分かちました。
この大宝寺義氏の判断は同盟者…庄内衆や由利衆…との間で軋轢を生じ、来次氏秀が反乱を起こしたものでしょう。…もいっちょ言えば、彼は単独で大宝寺義氏と敵対したのでしょうか?。背後の仁賀保氏や由利衆も当然、一斉に景勝派になった為、大宝寺義氏は懐柔せざるを得なかったものではないでしょうかね?。…でなければ仁賀保氏ら由利衆に攻めさせているでしょうから。
いずれ、御館の戦いは景勝側が勝利したことにより大宝寺義氏には後ろ盾が無くなってしまいました。上杉家があってこその大宝寺氏です。大宝寺義氏の領国支配は益々動揺します。
ただ、仁賀保氏も矢島満安との戦いで消耗し、積極的な行動が取れず、由利郡は大宝寺氏と緩やかに同盟をしている状態だったと想像致します。
しかし、これを好機と考えた人物が居ました。現在の秋田県の北部を本拠地とする安東愛季です。安東愛季は由利郡の北端に位置する小介川治部少輔に対して、大宝寺義氏への反乱を後押しいたします。小介川氏の領土は現在の由利本荘市岩城・新沢そして雄物川南岸であり、小介川氏が大宝寺氏につくという事は、安東氏の南の守りが丸裸になるという事でした。小介川氏は天正10(1582)年頃、反大宝寺に転じました。
怒り心頭の大宝寺義氏は小介川治部少輔を討つ為に由利郡に出陣します。仁賀保重挙はこの時、大宝寺氏側に与して安東氏と戦った様です。しかし大宝寺義氏は小介川氏と安東氏の連合軍に敗れ、庄内へと帰還いたしました。
その隙を狙い由利郡の東の小野寺輝道も由利郡に侵攻を開始しました。由利衆は結束して小野寺氏にあたり、これを撃破しました。大宝寺義氏は小野寺輝道の家臣と度々書状を交わしており、由利衆を挟撃して由利郡を分割する計画を持っていたのではないかと考えられます。
大宝寺義氏・小野寺輝道とも由利衆に敗北し両者の権威は低下します。焦った大宝寺義氏は翌年に再度、由利郡の小介川治部少輔を討つべく出陣いたしましたが、今度は準備万端の安東愛季・由利衆に敗れ庄内に敗走いたしました。
庄内では大宝寺義氏に対して来次氏秀や砂越次郎らが反乱を起こします。義氏は重臣の前森蔵人に兵を預け、これらを討伐させようとしました。
しかし天正11年3月6日、大宝寺義氏の居城尾浦城は突如大軍に包囲されました。大軍を任された前森蔵人氏永が突如、謀反を起こしたのです。義氏は居城である尾浦城で切腹しました。「義氏繁昌、土民陳労、前森無本、床中一等大浦一城四方ヨリ発火急ニ焼却、則義氏切腹」と伝えられています。
大宝寺義氏が切腹した事によって困ったのは仁賀保重挙でした。元々仁賀保氏は今まで見て来たとおり上杉景勝派と考えられ大宝寺氏とは敵対していました。しかし大宝寺氏に攻められると、大宝寺義氏方にころっと転がり大宝寺氏に与同して安東氏らと戦いました。後世作の「湊・檜山両家合戦覚書」によれば、「ニカフ・内越・イワヤ」は安東氏の捕虜になったとされています。…実際はどうですかね?。
史料批判も必要かもしれませんが、実際、安東氏とは敵対していたと考えられます。大宝寺・小野寺が由利郡で敗北したことにより、安東氏の息の掛かった小介川氏の勢力、引いては安東愛季の勢力が伸びるのは当然でした。後ろ盾を失った仁賀保重挙は大宝寺義氏の死の4ヶ月後、天正11年7月6日、家臣によって討ち取られたそうです。又一説によれば切腹に追い込まれたと伝えられます。
4-2 仁賀保挙晴
仁賀保重挙の後仁賀保家を継いだのは、仁賀保一家の子吉氏の出身の八郎でした。「仁賀保一家」という表現が使われている所からすると、子吉氏は仁賀保氏の分家筋だったのでしょう。
子吉八郎は「仁賀保殿」の婿養子として家督を継いだそうです。恐らく、この仁賀保殿は年齢からすると挙長か挙久でしょうな。いずれ子吉八郎は仁賀保家を継いで仁賀保挙晴と号したそうです。
この仁賀保挙晴も又、家臣の心変わりにより切腹に追い込まれたと伝えられます。また『奥羽永慶軍記』では矢島満安との戦いで討死したといわれます。この仁賀保挙晴の後、仁賀保家は家督を暫くの間決める事ができず、7代目の家督が決まったのは実に半年後だったようです。彼こそ小介川次郎事、仁賀保兵庫頭光誠でした。仁賀保一族の小介川氏よりの養子です。  
 
5.仁賀保光誠(挙誠)

 

5-1 仁賀保挙誠の名前について
仁賀保挙誠(きよしげ、たかのぶ)の家督相続は普通次のように伝わっています。「仁賀保氏六代目の挙晴が天正14(1586)年末に討死(切腹?)して仁賀保氏の嫡流が絶えた為、仁賀保が一族赤尾津氏より天正15年に養子を貰い受け仁賀保兵庫頭と称させた。」と。この説の最も早いものは「矢島十二頭記」です。それを脚色して軍記にしたものが『奥羽永慶軍記』中に「由利諸党の事」として収められている一連の由利衆の話になります。『寛政重修諸家譜』『仁賀保家系図』も大体これにそって仁賀保兵庫頭の家督相続を天正15年、実名を「挙誠」としています。ただ、実名については『奥羽永慶軍記』などの軍記物では「勝俊(勝利)」としています。
また、「挙誠」という名を『寛政重修諸家譜』は「たかのぶ」と読み、『仁賀保家系図』はこれを「きよしげ」と読んでいます。これらの資料を元にして世間一般では仁賀保兵庫頭の実名は「挙誠」、家督相続は天正15年であるとされています。
ゴチャゴチャしているので纏めて見ます。仁賀保兵庫の名前は次の3通りが伝わっています。
1 挙誠(たかのぶ)『寛政重修諸家譜』など。
2 挙誠(きよしげ)『仁賀保家文書所収系図』
3 勝俊・勝利(かつとし)『奥羽永慶軍記』など
しかし次の2つの文書を見て頂きたいと思います。
(史料3)
今度大坂為御番被登候付而申置候事候、一五千石之内千石者淀吉免ニ相定申候、但シ所者近郷之内にて請取可被申候、此外五百石之所吉川にて弟内記かたへ申付候、未之後者御両人之者ニ相渡申者也、少も相違有間敷候、為其手形仕指置申者也、
   元和九年い七月十九日   仁賀保兵庫助(印)
                源 光誠(花押)
      仁賀保内膳殿
       同 内記殿
(史料4)
杉山尓小川弾正右衛門尉、田之内よこ祢のおりと尓■■三百かり、せきむかい尓二百かり、合て五百かり、
   天正十四年三月十一日   光誠(花押)
      佐藤和泉守
(史料4)に出てくる地名「杉山」、「よこ祢(横根)」、「せき(深堰?)」はいずれも仁賀保氏伝来の所領の中の村の名でして、天正14年に「光誠」(みつしげ)」という人物が仁賀保郷を領していた事が分かります。そして(史料3)の文書によって「光誠」という人物は、俗に仁賀保兵庫頭挙誠と言われる人物であるという事が分かります。
即ち仁賀保兵庫頭という人物は
1.天正14年以前に仁賀保家を継ぎ、
2.実名は「光誠」といった
という事となり、通説は誤りだった事が分かります。また、慶長6年にも仁賀保光誠名義で文書を出しており、更に(史料2)を書いた翌年2月に没しているので、天正14年から死ぬまで「光誠」を名乗っていたことは、ほぼ間違いないでしょう。
但し仁賀保光誠は、天正14年までは文書を「光誠」名で出しており、その後は「兵庫頭」「兵庫助」という官職名を号しています。つまり「矢島十二頭記」を信頼すれば、光誠は天正13年に仁賀保家の庶流のどこかの家督を継いでいて、仁賀保挙晴が亡くなった後、天正15年に本家の家督も継いだ…とも考えられるわけです。…私は天正13年末、遅くとも天正14年初めには家督を継いだと考えますが。
なお、光誠の名の内の「光」は大井一族の通字で、「誠」の字は光誠以降の仁賀保氏の通字です。
では、何故現在、「挙誠」という名で通っているのでしょうか。
これの犯人はどうやら次男の仁賀保誠政の様です。(史料1)には内膳という官職名で出てますね。彼も当初、「光政」と名乗っていたことが仁賀保家系図により確かめられます。
恐らくでありますが、仁賀保誠政は徳川家光に憚ったものではないかと想像されます。幕藩体制が確立した家光の時代、偏諱を与えられていない大名が「通字だから…」と偏諱に被る名を名乗ることは非常に危険だったものと考えられます。ですので、光政は自分の名を誠政に変え、また父の光誠の名を「挙誠」としたものでしょう。…ただなんで「挙」を使ったんでしょうかね?。
野史等には「大江を称しているので、大江一族の毛利氏などと関係がある。一文字三ツ星の家紋も毛利だし、通字に『挙』を使っているのも大江氏だけだし」…なーんて書いているものもありますが、そもそも仁賀保兵庫頭自身が「源」を称している事からしても、大江と大井の混同はぜっっっっったいに有りえない事と考えます。混同したのは後世の人だけだと思います。
「箱一文字三星紋」も『寛永譜』の頃に使用していることが明らかですので、少なくとも仁賀保光誠の時代には使っていたと推察されます。更にいうと光誠の実家である小介川氏の紋は松葉菱らしいので、光誠が婿に入った時に持って来たとは考えずらく、仁賀保氏は戦国期より箱一文字三ツ星を使用していたと考えられます。
ここで気を付けていただきたいのは、仁賀保氏の紋は「一文字三ツ星」ではなく「箱一文字三ツ星」です。一は草書体ではなく棒です。昔から使用しているものでしょう。北畠顕家から…ってーのも若しかしたらホントかも…。なお、余談ですが勝俊という名は彼の兄若しくは父と目される人物である赤尾津道俊からとられているものと推察されます。しかし「道俊」は法名と考えられ、そもそもがこれをもじった名であるのは妙です。後世の人の創作でしょう。
余談はべつとして、本稿では「挙誠」「光誠」の両方使いではメンドっちいので、「光誠」で統一いたします。光誠は豊臣秀吉の奥羽仕置以前は「兵庫頭」と号していました。光誠宛の最上義光の文書はほぼ全て仁賀保兵庫頭宛です。しかし豊臣政権の奉行衆が出した文書は、一通を残して全て「兵庫助」「兵庫」で出されています。もしかしたら仁賀保光誠は「兵庫助」を秀吉政権下の官職として正式に拝領したのかもしれませんね。但し、徳川家康や最上義光等の仁賀保光誠宛の書状は例外なく「兵庫頭」を使っており、これは奥羽仕置以前からの慣例に依ったものでしょうか。また光誠自身は「兵庫頭」を熱望して居ましたが、豊臣秀吉は正式には「兵庫助」しか認めなかったのでしょうか。
さて、光誠が小介川氏から入って家督を継いだ時には、光誠よりも仁賀保家の直系に近いと考えられる者が数人いたようです。
(史料5)
一翰啓之候、小介川殿雖被及取刷候、無落着候、庄中被仰調早速出張頼入候由赤へ申越候、即兵庫頭殿へも及書申候、伯州へ以御相談一勢御助成候様ニ取成任入候、猶以彼者可申候条、令略筆候、恐々謹言、
   (天正十七年)五月廿三日      実季(黒印也)
      仁賀保信濃守殿
(史料5)は安東氏の内紛「湊合戦」にて劣勢に立たされた秋田実季が、仁賀保氏に援軍を要請した文書です。丁寧な文書ですな。この書状から仁賀保光誠の外に仁賀保信濃守や伯州(仁賀保伯耆守)という人物が独自に動かせる兵を持っていた事が分かりますね。 その他にも仁賀保宮内少輔(重挙とは別人です)の存在が確認されます。何故、彼等は仁賀保氏の当主(惣領)になれなかったのでしょうか。
仁賀保氏(由利衆全てですが)は天正末期にても惣領制が機能していたと思われます。一族で相談して行動していた様なんですね。そう考えると仁賀保信濃守や伯州、仁賀保宮内少輔等が仁賀保氏本家を継げなかったのは、惣領として問題…例えば一族内での勢力とか器とか…があったからでしょう。
仁賀保氏に於いては仁賀保家とその分家、村単位の国人領主の集合体であり、有事に仁賀保氏の招集によって軍事的支配下に入るという関係で、その他に仁賀保氏直参の旗本衆が居ました。正に洞や家中と言われる形態だと思います。
また、この文書から解るとおり、小介川氏からの養子である仁賀保光誠が家督を相続した事により、安東氏と仁賀保氏の関係は改善されたと見れるでしょう。
この頃の由利衆の権力構造は、仁賀保氏、小介川(赤尾津)氏を優位とした国人一揆でした。個々はいずれも惣領制から脱却していませんでしたが、その中でいち早く当主権力を強化したと考えられるのが矢島満安だと思います。
ですが伝統的な惣領制を無視した矢島満安は、「一家をも一家と不思召、家臣とも之諫をも不用」などと様々悪く書かれてしまう訳です。矢島満安の行動は他の由利衆には己の権利を奪う不届きな行動として写ったでしょうし、旧来の形を守ろうとする他の由利衆達と騒乱を引き起こしていました。矢島満安の不幸は、満安を支援していた西馬音内茂道(小野寺氏)の勢力が衰退した事でした。矢島満安の滅亡は次の項でお話しいたします。
5-2 大宝寺義氏没後の出羽庄内地方の混乱
さて、仁賀保光誠が家督を継いだ天正14年頃の出羽庄内は、四方八方の諸将の草刈り場になっておりました。謀反を起こして主大宝寺義氏を討ち取った前森蔵人は、酒田東禅寺城に入城して東禅寺筑前守氏永と号しました。
しかし大宝寺義氏を討った東禅寺氏永は大宝寺氏領を手に入れる事は出来ませんでした。落ち目とはいえ大宝寺氏の勢力はまだ残存していたんですね。大宝寺義氏の弟の義興は義氏の跡を継いで大宝寺氏を再建、兄を滅ぼした東禅寺氏永と争い出します。初めは両者共、後ろ盾を欲して至る所に使者を飛ばしていたようです。
天正12年6月27日付の本庄繁長宛の上杉景勝書状には「自大宝寺使僧被差越付而、添状具披見候、義興并東禅所ヨリも一段入魂之趣候、」と大宝寺義興、東禅寺氏永両名が上杉景勝の支援を受けんと必死になっている姿が見えます。最もこの頃の上杉景勝は新発田重家の乱の真っ最中で、動ける状況ではありませんでした。
上杉頼みにならずとみた東禅寺氏永は、いち早く山形の最上義光と手を結ぶ事に成功し、これを後盾として庄内を取り纏めようとしました。最上義光は現在の山形市近辺を領土とした大名で、衰退していた名門最上氏の領土を次々に拡張し、15年程の短期間に最上・村山地方(山形県内陸地方)を統一しています。内陸に位置する最上氏の海岸部進出は悲願であったでしょう。
東禅寺氏永が最上氏に傾倒すると、対する大宝寺義興も上杉・本庄繁長と手を結びます。大宝寺義興と東禅寺氏永の対立は、そのまま上杉氏と最上氏の代理戦争の様相を呈してきました。更に大宝寺氏は本庄繁長より養子を迎え(千勝丸・大宝寺義勝)、大宝寺氏と本庄氏の関係はさらに強化されました。
そもそも越後と深い関係にあった出羽庄内ですので、大宝寺義興が千勝丸を養子にしたことは庄内衆をまとめるのに非常に有効だったと思います。当然、最上依りの東禅寺氏永は庄内では孤立化し非常に劣勢となり、益々最上義光の勢力に頼り、最上衆が庄内にはびこる事となります。天正14年10月、両者は激突し、東禅寺氏永を支援する最上義光は庄内に攻め込みました…無論、支援と称しての領国化を狙ってのことですが…。この時は大宝寺義興と最上義光は和睦をしますが、翌15年4月義光は再び攻勢に出、11月遂に尾浦城は落ち義興は討ち取られました。
乱戦の中辛くも養子の義勝(千勝丸)は実父本庄繁長の越後に逃れました。本庄繁長・大宝寺義勝親子は最上義光に対して復讐の機会を待つことになります。
5-3 天正11〜16年の仁賀保氏の動向
この間、中原にて鹿を射たのは豊臣秀吉でした。先人の研究に詳しいですが、秀吉は関白就任直後の天正13年には「惣無事令」を発し、全国の諸将に私戦停止を勧告しております。以前より奥羽の諸候は織田信長と交流を持っていた事が知られています。出羽であれば安東愛季や最上義光は勿論、国人領主の類いに至る迄、全て上方情勢に目を光らせていました。例えば仙北の国人領主前田薩摩守は、天正7年に信長に鷹を献上する為に上洛し、安土城の天守閣を信長に案内され、時服と金を賜っています。
本能寺の変の直前迄には「羽奥の諸家、過半申し合わされ御挨拶」といわれる程、出羽の諸候は中央政権と密接な繋がりを持っていました。特に最上義光は早くから豊臣秀吉に臣従したようで、天正13年の豊臣秀吉の惣無事令は最上義光によって出羽の諸候に伝えられたと考えられます。最上義光自身は出羽の惣無事令の旗頭は自分だと思っていた事でしょう。それが天正15〜16年の仙北の戦への介入なのだと思います。この戦の発端は、天正15年に仙北横手の小野寺義道の下から独立を計った六郷政乗に対して小野寺義道が討伐をしたのがきっかけです。これに最上義光が「惣無事令」を盾に露骨に停戦介入してきました。
最上義光は、この頃秀吉に心服の旗を立てたらしい仁賀保光誠に対し、仙北の戦の和議を整える様に求めました。しかし仁賀保光誠はこれを無視、仕方なく最上義光は重臣の伊良子大和守を横手に差し下しますが「無信用」く失敗しました。最後に小介川治部少輔に書状を出して小野寺義道・六郷政乗の和議を計りますがこれも失敗、結局この和議を纏めたのは戸沢盛安であったようです。最上義光は出羽の諸将に信用されていなかったんですね。先ほども触れましたが、この最上義光の行動は豊臣政権の下での出羽の「惣無事令」を実現するのは、出羽探題家の最上家であるという自負から出たものです。故に天正15年8月13日付の仁賀保光誠宛最上義光書状にみえる「奉公道之習」とは、最上義光に対する「奉公」ではなくて豊臣秀吉に対する「奉公」であると考えるべきです。
ただし、その書状の端々には秀吉の権威を受けて出羽国を纏めようとする最上義光の意がありありと伺われます。義光は自分は「出羽探題であり、他の大名たちは配下であるべきだ」と考えていました。ですが現実には配下ではないので「奉公道」と言いつつ、非常に丁寧な手紙となっています。配下であれば、もっと無礼な手紙を最上家チームは送ってくると思います。
天正14年9月、最上義光は矢島満安に使者を出して「秀吉に会わせてやろう」と誘いました。実はこの4ヵ月前に最上義光は仙北の小野寺義道との戦いで敗北を喫しています。 矢島満安は小野寺義道の庶兄で小野寺家内の有力者である西馬音内茂道の娘を正室に貰っており、矢島満安が最上義光の配下へなるという事は、対仁賀保光誠・小野寺義道に楔を打ち込む事であり、最上義光一流の外交政策でありました。但し矢島満安はこの最上義光の誘いに対して「その必要は無し」として返事を送りませんでした。最上義光は、同様の手口で東禅寺氏永やその他の庄内衆に由利衆を味方に付くように画策しますが、大宝寺氏や上杉氏と友好関係にあった由利衆の大部分は、最上方の東禅寺氏永を嫌ったようです。東禅寺氏永は岩屋朝盛に対して由利衆に取り詰められた事を伝え、由利衆は唯一最上氏と仲の良い岩屋朝盛を頼みにしていると持ち上げています。天正15(1587)年9月、最上義光は大宝寺義興を滅ぼしまし、その養子の大宝寺義勝を越後に追いました。直後より最上義光は再度由利衆に接触を計ります。天正16年1月25日付の大勧進状の中で「油利中之衆大浦へ懇切候様」大勧進状で祈願して由利衆との関係の良好化を願いました。そして同2月6日の書状で義光は由利衆との音信は不可欠であると述べています。つまり1月25日より2月6日の間に最上義光と由利衆の関係は改善されたと考えられます。更に同年2月25日付の吉高上野守が内越光安に宛てた書状によれば、「庄中之御弓矢出来」た為、仁賀保・子吉・小介川氏等は最上義光に加勢を求められたそうです。逆に考えれば、この3氏は最上義光の被官ではないからこそ加勢を頼まれたのだと取れますね。また、この三氏が仁賀保氏を中心とした血縁関係にあるという点が注目されます。
但し小介川氏は「そんなヒマねーよ。」とハッキリ断ってます。この頃小介川氏は戸沢盛安と睨み合っていて、自分に関係ない庄内などどうでも良かったんですね。つまり最上義光の権威なんて義光自身が言うほどのモノではなくて、国人領主が鼎の軽重を問える程度だった訳です。然る所に最上義光にとって非常にありがたい使者が来ました。天正15(1587)年12月3日の「関東奥羽惣無事令」発布に対する豊臣秀吉の使者です。
(史料6)
(前略)仍此間、従関白様為上使、金山宗洗公当地へ着、山形へ上越候条、致案内者不計罷上候、定而於其許各可御心元候間、可申届候処、俄事候間、無其儀候、彼方送届申、則罷帰候間、此程逮御音問候ツ、然者彼御使節之御意趣、天下一統ニ御安全ニ可被執成之段、被思食候処、出羽之内へ、自越後口弓矢を被執鎮由、達高聞、不謂之旨并義光出羽之探題職被渡進候ニ、国中之諸士被随山形之下知候哉如何、如斯之儀を以被指下候、依之山形之威機を宗洗公被聞之、一昨日此方へ入来候而、即昨日越国被指遣使者候、様体如何可有之候哉、返答候者、可申入候、将又仙北干戈之儀、従山被執刷之処、未落着之由候而、重而寺民被指下之由候、其許各より横手へ被及御内意之由候、返事到来候者可有注進候、恐々謹言、
尚々、山形よりの使、赤宇曾ニ在堪之由候、自其元も入魂可然候、次ニ向後之儀、分而可有懇意之由候、尤不可有疎意候、用所之儀可承候、
   潤五月一日      中山播磨守  光直(花押)
      潟保治部大輔殿
最上義光は出羽探題補任により、「国中の諸士」は「山形之下知」に従うという事を強調していますね。金山宗洗は秀吉の使者として「関東奥羽惣無事令」の施行状況調査に来たんですね。最上義光はここぞとばかりに秀吉に、「俺の命令に出羽国全ての大名が従ってまーす」と言いました。でも、現実には、「まあ、ちょっと言う事を聞いてみっか」って言ったのは岩屋朝盛だけだったようですね。これは何故かというと、庄内にて最上義光と戦っていたのが、豊臣秀吉旗下の有力大名上杉景勝だったからです。豊臣旗下で上杉景勝は近衛少将に任ぜられるなど、最上義光などより遥に厚遇を得ていました。
更にですよ、この上杉の息のかかった大宝寺氏領を侵略したのだから、明らかに非は東禅寺・最上軍にある訳です。それでいて「僕は豊臣さんの命令は守ってまーす」と白々しくいう最上義光とは、危なくてお付き合いできないんですね。とは言えども全てはほぼ最上義光の思っている通りに進んでいました。由利衆を被官化する事は出来ていませんが友好を保ち、小野寺氏の親戚の矢島満安も手懐ける事に成功して、対小野寺氏政策にも目途がつきました。
伊達政宗包囲網も順調であり、天正16年7月の最上義光は得意の絶頂にいたと思います。ですがこの時越後では本庄繁長が虎視眈々と庄内を狙っていたのでした。
天正16年8月初頭、本庄繁長・大宝寺義勝(前述の通り大宝寺義興養子)親子は数千の軍を率いて越後より来冦、不意を突かれた庄内の東禅寺・最上氏連合軍は十五里ヶ原(現鶴岡市)で本庄繁長軍に粉砕されて壊滅、東禅寺氏永自身も討死してしまいました。
この戦は伊達政宗書状の中では「敵數千人」本庄繁長が討ち取ったと伝えられるほどの本庄繁長の大勝利でした。最上義光の重臣の中山玄播は尾浦城より何とか山形に逃げ帰る事が出来ましたが、その書状によると「舎弟外侍衆」53人が討取られ、最上重臣の氏家守棟の子息など17騎、雑兵156人が討死しました。
本庄繁長は東禅寺城、大宝寺義勝は尾浦城に入り最上勢を徹底的に探索し討取り、繁長は更に由利衆に最上義光軍の追討に参加する様に要請いたします…命令に近いか…。
上杉景勝旗下の本庄繁長と戦う事は、豊臣秀吉に弓を向けることになります。本庄繁長の出兵命令は「天下軍に加わって秀吉の惣無事令を実現するため」のものと由利衆は受け取ったでしょう。由利衆は本庄繁長・大宝寺義勝軍と共に最上勢を庄内から駆逐いたしました。
最上義光は本庄繁長の行動は関東奥羽惣撫事令に違反していると猛烈に抗議いたしました。…最上義光自身も違反しているんですけどね…。義光は徳川家康を介して庄内の返還を豊臣秀吉に願い出ました。ですが上杉景勝が石田三成を介して豊臣秀吉に言上し、さらに自身が上洛すると出羽庄内は上杉氏に安堵される事になったのでした(無論名目上の領主は大宝寺義勝です)。この結果は徳川家康の顔に泥をぬり、最上義光は切歯扼腕して悔しがるが後の祭りでした。
5-4 矢島満安の滅亡
永禄3(1560)年仁賀保挙久の代より4代、足掛け30年近く戦ってきた仁賀保氏と矢島氏の戦にも天正16(1588)年にけりがつきました。天正13(1585)年末頃に家督を継いだ仁賀保光誠は、宿敵矢島満安に使者を出しました。
「仁賀保家の当主に無事に成りましたので御安心してください。仁賀保挙久の時代より仁賀保家と矢島家は小笠原一族で、疎遠になってはいけないですね。」と。
矢島満安はこれを聞いて喜び、挨拶と祝儀の使者を仁賀保に出しました。その後、度々懇意にしていたと伝えられます。
しかし翌年2月中旬に至り、仁賀保家臣馬場四郎兵衛と矢島家臣熊谷次郎兵衛の喧嘩に端を発した両家の争いは、再び両家の戦に発展しました。5月、仁賀保光誠は小介川氏の加勢を受け矢島勢を破りましたが、8月には矢島満安は逆に仁賀保へ攻め込みました。山根館の水の手郭を占領しようとしましたが仁賀保光誠に大敗しています。この大敗後に最上義光から矢島満安に与同の使者が来たわけです。この頃、既に矢島氏は旗色が悪くなっており、妻の実家の西馬音内茂道に頼っていたことが推察されます。天正15(1587)年3月27日付の六郷政乗宛石郷岡氏景文書によれば、「由利郡も一件落着して満足だよ。仁賀保も落ち着いたし。西馬音内茂道も兵隊引いたし」という文書があります。石郷岡氏景は安東愛季の家臣であり、その氏景が「公私満足」と言っている事からすると、由利郡は安東氏主導で纏まったものでしょう。
また、西馬音内茂道が兵を引いたという内容から推察すれば、西馬音内氏が敵対するのは西の仁賀保氏だけなので、仁賀保と西馬音内の間に位置する矢島満安は西馬音内茂道の支援で辛うじて領土を保っているという感じだったのかも知れません。
(史料7)
今度矢嶋事、為致還住候間、五三人之身上可改之旨申断ニ付、此庄之内五貫文之地出之、早々馳上可抽奉公者也、仍如件、
   天正十四正月九日      義興(花押)
      小番喜右兵衛との
小番喜右兵衛は「矢島十二頭記」に出てくる小番嘉兵衛と同一人物か、その一族でしょう。嘉兵衛は矢島満安の重臣の一人であり、天正16年に矢島満安の弟与兵衛と共に謀反を起こし満安に討たれています。この文書によれば矢島家中よりかなりの数の者達が矢島から庄内の大宝寺義興の元に逃れている事が見えますね。矢島家の弱体化が見て取れます。同15年3月中旬、矢島満安は滝沢氏を攻め、その居城の「三の塀」迄攻め入りました。滝沢氏の危機に仁賀保光誠は救援の為に矢島領に攻め込みました。
これは所謂「囲魏救趙の計」ですね。囲魏救趙の計は「敵の本拠地を直接攻撃し、動揺した敵が本拠地を救うために戻った所を、包囲されていた味方と共に挟み撃ちにする」というのが目的です。
しかし、さすがは歴戦の猛者です。仁賀保氏の出陣を聞き及ぶと矢島満安は矢島に向かわず滝沢城から直接行軍している仁賀保軍に向かい「ブナの木もふち(現在のにかほ市冬師近辺か)」で仁賀保光誠の部隊を迎撃いたしました。
この時、矢島満安は一族の鮎川氏を加勢に頼んだ為、逆に仁賀保軍は背複両面に敵を受け仁賀保勢は総崩れとなりました。この戦いで矢島満安は怪我を負いましたが奮戦し、仁賀保勢は150人が討ち取られる大敗北を喫しました。…この満安の知略は非常に見事ですね。
思うに仁賀保光誠も矢島満安も知略に優れた武将だったのでしょうね。
ともあれ、由利郡の騒乱はこの様に矢島氏と仁賀保氏との闘争が原因でした。これに巻き込まれる他の一族はたまったものではありません。6月中旬頃、潟保氏と鮎川氏が和睦の仲立ちをして和睦することになりました。仁賀保光誠より和睦の使者として赤石與兵衛が矢島に、矢島満安は小介川摂津を仁賀保に夫々差し下しました。両者も厭戦気分が高まっていたらしく、再び懇意にする事にしたそうです。
12月20日、仁賀保光誠より矢島満安に使者として芹田伊予守が使いを出されました。曰く、「矢島満安の娘の於藤を兵庫頭の嫡男である蔵人へ縁組をしたいのだが。」と。
満安はその場でこれを受けました。しかし矢島満安の家臣達は「仁賀保挙久を矢島で討ち取った事を考えれば、心の底から和睦を考えているわけではないだろう。」と話し合いました。ここあたり満安の意志と矢島家臣の間に齟齬があるのを見て取れます。
「矢島十二頭記」の中に出てくる赤石與兵衛、芹田伊予守などですが、下記の文書が伝わっております。
(史料8)
今度馬場村四郎兵衛としえ引越万事之支配仕仰付候、御扶持方に馬場村の地方沢田三百刈御切米代拝拾〆仕下置東者矢嶋界、北者鮎川界青木森共々彌助同前に相守可申者也、為後日之依而如件
   永禄九年三月十三日  芹田 伊豫 判
                  赤石与兵衛 判
      手島四郎兵衛 殿
      三浦 彌助 殿
恐らくこれは現在の冬師集落の支配の件だと考えられます。 この内の1名の手島四郎兵衛は矢島家臣の熊谷次郎兵衛といざこざを起こした馬場四郎兵衛と同一人物でしょう。
さて翌天正16(1588)年1月20日、仁賀保より年頭のお祝いの使者として小松某が矢島に行きましたが、大雪の為に足止めされました。話し合う機会のとれた満安は小松某に「仁賀保と矢島との境が近頃はわからなくなっているよな。これが騒動の一因だよ。雪が消えたら村人達に聞き取りして、昔の通りに境を決めようぜ。」と言いました。
4月1日になって、仁賀保・矢島両方から役人や村人達が多数参加して境を決める事になりました。矢島側からは金丸帯刀・大江主計・熊谷次郎兵衛、村人らが多数出、仁賀保側からは芹田伊予・赤石與兵衛殿・宮陛平三郎・手島四郎兵衛、その他大勢が参加しました。
これにより蛇口・不動沢・段ヶ森・鬼之倉・石すのふ・桑谷地頭・桑坂・はなれ森・前森・笹長根・ふなの木もふち・大谷地頭・大森迄、昔の通り線を引き、厥大場にあった大きな石を双方から人夫を出して南側へ動かし、石に溝を刻んで「割石」と名付けました。この「割石」は現在も存在しております。中々行きづらい場所にあるようですが…。
また、4月下旬には鮎川氏と矢島氏との境界争いもあり、両者の境も決めました。7月になり最上義光から矢島満安へまた誘いの手紙が来ました。内容としては「太閤様に御目見えして、由利郡の領主になるお手伝いしますよ。」というモノでした。矢島満安はこれに対して「ありがたい」と返事をしました。最上義光が矢島満安と数度連絡を取り合っているのを仁賀保光誠が聞き及び、矢島満安に異論を唱えました。「最上義光の元に行く必要は無い。もし、行くのであれば二度と帰る事は出来ないぞ。」と。脅しですね。ですが、矢島満安は8月1日に「来年、上洛して太閤様へお目通りする事、承知いたしました。」と返答しました。更に使者を立てて最上義光を介して秀吉に使いをいたします。秀吉は使者の到来を喜び「兼ねてから最上義光より聞き及んでいた。来年、最上と一緒に上洛すれば、逢ってやろう。」と返答いたしました。
ここポイントですね。由利郡の領主にしてやると言っているのは最上義光であり、秀吉ではないんですね。恐らく最上義光は秀吉には矢島満安を「自分の配下です」と伝えていたのかも知れません。一流の詭弁ですね。…いい意味ですよ。矢島満安は喜び勇び10月15日、手勢の武将の多くを召し連れ山形城へ赴きました。矢島新庄館の留守居は満安の弟である与兵衛(一名太郎)です。手薄になった矢島を見た仁賀保光誠は、矢島与兵衛に使者を出してこう伝えました。「満安殿が我々の忠告を無視して山形城に赴いたのは非常に不快である。由利郡の領主総出で矢島を攻めて貴殿を攻め滅ぼし、満安を2度と矢島帰れなくしてやろう。もし、そうされたくなければ満安が帰って来れなくなる様な工夫をしてみなさい。」と。
矢島与兵衛は多勢に無勢で敵わぬと見、10月25日に謀反を起こして満安の子の四郎を討ち取りました。満安の重臣である小介川摂津守は満安の妻と娘の於藤を引き連れ、妻の実家の西馬音内に落ち延びます。西馬音内より矢島与兵衛の謀反が満安の元に届き、彼は直ぐに矢島に引き返します。11月3日、神代山より直に新庄城を攻めようとしましたが、取り敢えず配下の猿倉平七の館へ入り、兵を集めてから11月8日に新庄城に攻め込みました。城内の謀反の衆は驚き逃げまどい、矢島満安自身が城内で謀反衆を討ち取って回ります。謀反軍の大将である矢島与兵衛は討死、満安は与兵衛の子を血祭りに上げた後、仁賀保光誠に詰問状を送りました。対して仁賀保光誠は返事を出さずに矢島に出陣、矢島領の前杉まで押し寄せました。矢島満安も八森迄出陣して夜戦をいたしました。地の利の無い仁賀保光誠軍は軍奉行の他、仁賀保民部も討死し大敗し軍を引きますが、11月下旬に再び小介川治部少輔や打越氏、潟保氏、滝沢氏、石沢氏らを引き連れ、矢島に攻め込みました。流石の矢島満安も多勢に無勢では守りきれず西馬音内へ落ち延びて行きました。 その時、満安は「津雲いて矢島の澤を詠むれハ 木在杉澤佐世の中やま」と詠んだそうです。矢島満安が西馬音内に落ち延びた後も仁賀保光誠らは攻撃の手を緩めず、そのまま西馬音内城へ押し寄せ、西馬音内茂道や矢島満安らと戦い12月28日遂に矢島満安を討ち取りました。
仁賀保光誠らは余勢を駆り西馬音内茂道と戦いますが、西馬音内茂道の主である小野寺義道より和睦の使者が来た為、西馬音内より兵を引きました。この時、満安の娘於藤を捕虜にしたと伝えられます。
年不詳ですが2月15日の西馬音内茂道宛の西野道俊の文書に「矢島の事だけど義道は納得してねーぜ。でも奉行衆はオッケー」という一節が有ります。もしかしたら天正17年の文書で矢島滅亡の時のことかな。と私は思います。で、そうだとすれば小野寺義道は矢島満安の死を不満に感じていたという事になります。対して西馬音内茂道の窮地を救うべく小野寺氏奉行衆が和睦した…という事になりますか。天正17年の文書でなくとも西馬音内茂道と小野寺義道の間で、矢島氏の件で意見の齟齬があったという事になりますね。
さて、一部の「矢島十二頭記」や『奥羽永慶軍記』は、矢島氏滅亡を文禄元年としていますが、これはどうでしょうかね?。(史料9)にみるとおり、天正18年には仁賀保氏領として「あら町村」「ひた祢村」 「杉沢村」など矢島氏伝来の村々も含まれていることが確認できますので、矢島満安は天正16年には矢島郷を失っていたと考えられます。
矢島氏研究の…由利郡の中世史研究の…先達である姉崎岩蔵先生が紹介された資料である「福原家由来書」には、天正16年12月「福原行須(行栄の子)、伯父光安公に従って新荘の戦に出陣戦死、年29、時に12月21日、永伝19、行栄57、」とされております。天正16年末に矢島氏が滅亡したのは間違いないですね。
仁賀保光誠は矢島満安を討った後、そのまま矢島の八森城へ入り、城番として菊池長右衛門、酒井(境)縫殿之助、藤原勘之助を指名しました。光誠はそのまま矢島にて年を越し、矢島に於ける分国法を定め、天正17(1589)年正月20日に帰国しました。この時の矢島領の分国法はどうやら満安時代の物をそのまま使った様です。
仁賀保光誠は矢島満安の娘である於藤を仁賀保へ連れて帰りました。天正16年12月28日より矢島は仁賀保光誠の領土になったと伝えられます。
5-5 奥羽検地と仕置
天正18(1590)年豊臣秀吉は小田原征伐に出発いたしました。同年2月27日付の秋田実季宛最上義光書状によれば「然而小田原為御追討、関白様関東へ御動座之間、年来御注進申上御首尾与申、御陣場へ参上雖申度候」とあり、東北の諸将は既に小田原征伐がある事を察知していました。仁賀保氏らも無論察知しており、秀吉が出兵するや諸将そろって小田原に参陣したようです。以後、由利衆は小田原の役参陣以降、豊臣秀吉によって独立の国人領主として認められました。おそらくですが、仁賀保氏らは秀吉の宇都宮参陣に際し小田原より宇都宮に動いたものと考えられます。因みに南部信直には7月27日、佐竹義宣には8月1日付でこの宇都宮で知行宛行がなされております。豊臣秀吉は奥羽の仕置を行う時に、伊達政宗・最上義光のみならず全ての領主の妻子を上洛させました。人質ですね。その上で奥羽両国の検地を始めました。出羽国の検地は上杉景勝・大谷吉継が行いました。上杉景勝は8月1日付で庄内を、9月18日付で仙北・秋田表を検地する様に秀吉に命ぜられています。庄内は上杉景勝旗下の大宝寺義勝(実質的には父の本庄繁長)の領土でしたが、彼らは検地反対一揆を勃発させたとして改易され、大宝寺義勝は大宝寺城下に蟄居させられました。この後、庄内は上杉景勝の腹心の直江兼続が庄内を統べ、庄内は上杉景勝の物になりました。
上杉景勝の動向からして、由利郡の検地は庄内の検地と仙北・秋田表の検地の間に行われたものでしょう。この検地は差出検地で、由利衆の石高は表向きは次の表の様に定められました。
氏名                石高
仁賀保兵庫助(光誠)   3,716 
打越宮内少輔      1,251 
根井五郎右衛門      169 
岩屋能登守(朝盛)     891 
下村彦次郎        170 
石沢二郎         399 
小介川治部少輔     4,000(推定)
滝沢又五郎       2,600(推定)
玉米信濃守        不明
潟保治部大輔       不明

天正18年12月24日付で、彼らには知行が「新たに」与えられました。
秀吉が配下である彼ら一人一人に所領を与える事により、主従関係を明確化にしたものです。これは秀吉の動向からして聚楽第にて知行宛行われたものでしょう。小介川治部少輔、滝沢又五郎、玉米信濃守及び潟保治部大輔の石高は不明ですが、後に課せられた木材運上の割り当てから推察すると表の如くなります。右の知行高は秀吉の知行宛行状が残っているので、確かなのですが、実はこの石高に少々問題がありました。
天正18(1588)年の仁賀保氏の領土は、知行宛行状により現在のにかほ市と由利本荘市の矢島地区・鳥海地区である事が確認されます。更に潟保氏は関ヶ原の戦いの折に仁賀保氏旗下で参戦している事や、子吉氏が仁賀保一家である事などからすると、子吉郷・潟保郷(現由利本荘市の一部)も実質仁賀保氏の領域であったと考えられます。俗に「由利5万5千石」と称される由利郡の実に半分近い領土を領しながら3,716石の知行宛行状とは、少なすぎではないでしょうか。秀吉の知行宛行状からその謎を推定してみたいと考えます。
(史料9)
出羽国油利郡内所々合参千七百拾六石事、目録有別紙令扶助訖全可領知候也、
   天正十八年十二月廿四日     (朱印)
      仁賀保兵庫助とのへ
(別紙)
於出羽国油利郡内知行方目録事
一 百石弐斗          大竹村
一 弐拾三石四斗六升六合    この浦村
一 百三石           ミつもり村
一 九拾三石壹斗四升三合    平沢村
一 四拾八石六斗壹升四合    せき村
一 三百拾四石壹斗弐升六合   あら町村
一 四百三拾六石        ひた祢村
一 百卅石六升一斗       おくに澤村
一 百卅六石六斗五升七合    しほこし村 かふり石村
一 弐百五拾石八斗一升六合   せり田村
一 弐百九拾六石弐斗八升六合  上はま三ヶ村
一 百六拾五石         むろの沢村
一 弐百五拾二石五斗      杉沢村
一 四百卅四石壹斗弐升六合   東小出村
一 五拾九石八斗八合      たつかミ村
一 七拾石九斗四升四合     中野沢村
一 弐拾石七斗四升四合     すゞ村
一 卅八石五斗九升五合     まちい村
一 弐百拾石五斗九升三合    くろ川村
一 百弐拾石一斗        ことかうら村
一 百弐拾六石六斗弐升     上はま村
一 弐百九拾弐石四升      こたき四ヶ村

   合参千七百拾五石九斗九升
右宛行訖、全可領知候也、
   天正十八年十二月廿四日   (朱印)
      仁賀保兵庫助とのへ
(史料10)
   配当之覚
一志と橋村 本郷村 大竹村 中沢村 檜口村 金浦村
   右之田地
都合七万八千苅
此米
〆七百八拾石 但半物成ニしてハ 一千五百六拾石為知行と出置者也
   天正廿年八月廿日   仁賀保兵庫頭(花押)
      同名 宮内少輔殿
(史料9)は豊臣秀吉からの知行宛行状ですね。(史料10)は仁賀保光誠が一族の仁賀保宮内少輔に対して「志と橋村」以下6ヶ村、1,560石の知行を与えた文書です。(史料10)は天正20年の文書ですので(史料9)の発給年と2年しか違いません。ですので両知行宛行状に記された村の石高は、それ程差は無い筈ですが、比べて見ますとて(史料9)の3,716石は異常に少なすぎるのではないかという疑問が沸きます。(史料10)に出ている6ヶ村の石高を(史料9)で記されている石高で算出してみましょう。
大竹村が100石2斗、
中沢村70石9斗4升4合、
金浦村23石4斗6升6合、
志と橋村は不明ですが、もし塩越村の事だとすれば90石程度で、樋ノ口村は元和9(1623)年の知行宛行状から50石程度と推察されます。
本郷村は(史料9)中の「こたき四ヶ村」の一つで、同じく元和9年の知行宛行状から60石程度と推定されます。
これを合計すると404石強となり、(史料10)の石高1,560石と実に4倍弱もの差が現れるわけです。この差はどうして現われたのでしょうか。その理由を考えると、
1つには秀吉の知行宛行状に記されている石高が、知行高ではなく貢租高であろうという事。
ですが、半物成として考えても倍以上の格差が現われます。
2つには秀吉の検地は差出検地であるが為に、ごまかしがかなりあったのではないかという事です。
慶長7(1602)年に仁賀保光誠が常陸に転封されて、最上義光の家臣楯岡満茂が旧仁賀保氏領を検地した結果、仁賀保氏の貢祖高は7,400石余りであった事がわかっています。これが半物成として考えれば仁賀保氏の知行高は1万5千石弱、秀吉の蔵入地と推定される村落を除いても関ヶ原前後の仁賀保氏の石高は1万2千石程であったろうと推定されます。又、その10年前の天正18年と言えども石高は1万石はあったと見るべきでしょう。故に(史料9)に於ける石高3,716石という数字はかなり低い数字であり、仁賀保氏領の真の姿を現わしているとはいえません。上杉景勝は半月程の驚くべき短時間で由利郡の検地を終えており、強引かつ粗雑な一面があったと思われます。又、秋田実季管轄の太閤蔵入地内にて同様の増加が確認されるそうです。仁賀保氏は秀吉に過少申告し、天正20年頃再び領内検地を行い実際の石高を導き出した物かと考えます。さらに(史料10)には「檜口(樋ノ口)村」という(史料9)には記載されていない村が出て来る事に注目するべきですね。 樋ノ口村は他の村落に含まれていた…と解釈する向きもあるかと思いますが、樋ノ口村は地区で言うと「小出」という地区に含まれます。その小出地区は「東小出」と「西小出」に分けられ、そのうち「西小出」地区が全て知行宛行状に含まれていないんですね。これはどういう事かというと、「仁賀保光誠は豊臣秀吉に安堵されないながらも自由に家臣に宛行える村を持っていた」という事です。即ち仁賀保光誠は「隠し村」を領内に多数持っていたと考えられるわけです。その村々は諸検地表により仁賀保氏居城山根舘の城下の小国村の外、西小出地区の村落、矢島郷の大半など数十ヶ村に及ぶようです。
天正18年の知行宛行状に出てこないが、確実に存在したと思われる集落
(仁賀保郷) 院内、上小国、馬場、石田、杉山、三日市、伊勢居地、中野、三十野、樋ノ口、畑、赤石 、前川、大飯郷、大森、大須郷、小砂川
(矢島郷) 伏見、平森、新沢、城内、猿蔵、崩、下川内、上川内、平加森、指鍋、前郷、郷内、小板戸、中山、七日町、下篠子、坂下、小坂、九日町、木在、上篠子、新城、洲郷田
この村々を豊臣秀吉の蔵入地であると見る向きも有りますが、仁賀保光誠が家臣に自由に宛行っているので、それは違うでしょう。天正18年の奥羽仕置の時の秀吉の蔵入地の設定は天正15年の関東奥羽惣撫事令を基本にしていると考えられます。伊達政宗の仙道七郡の没収は有名ですが、出羽国でも秋田実季が湊合戦を私戦とみなされ旧湊安東氏領を没収されました。
無論、仁賀保氏も矢島満安を滅ぼしてその領土を併合した事が関東奥羽惣撫事令に触れた事は想像に堅くなく、故に(史料5)に於いて矢島氏が最後に守っていた土地と思われる子吉川東岸と笹子川流域の村落は安堵されていません。これこそ秀吉の蔵入地ではないでしょうか。なお、仁賀保氏の居城山根館城下の院内村も知行宛行状に出てきませんが、周辺の地名から推察すると城の中に村があったと考えられます。これは家臣団の居住地であり、城の範疇に入っていて村とは認められていなかった物でしょうか。
5-6 豊臣政権下での由利衆の動向
天正19年初頭、かねてより南部信直に対して叛意を持っていた九戸政実が遂に叛旗を翻しました。南部信直は自力で九戸政実を討つ事が出来ず豊臣秀吉に出兵を願い出ます。秀吉は6月20日に奥州再仕置軍の派遣を決定、豊臣秀次を大将とした2万騎余りの大軍は怒濤の勢いで九戸政実の九戸城に迫りました。8月になると由利衆にも最上義光より秀吉より出兵命令が下った事が伝えられました。仁賀保光誠ら由利衆は鹿角口から攻め込んだようです。仁賀保光誠の九戸政実の乱での活躍は『奥羽永慶軍記』に詳しいですが、確証に乏しいので割愛いたします。
ただ出陣したことは間違いなく、九戸城を包囲する軍の一助を担っていたようです。九戸政実の乱は9月初めには終息、仁賀保光誠は一時帰国いたします。翌文録元年になり秀吉は朝鮮出兵を開始、文録の役が始まります。1月5日に諸大名を肥前名護屋に集めて秀吉は朝鮮出兵の軍議を行いました。当然出羽の諸将も肥前名護屋に参陣していますが、どういう訳か仁賀保光誠と岩屋朝盛はこれに遅れて参陣したようです。
(史料11)
猶々内館留守中之儀候へ者、諸事不得透候儘自是不申入候、様々無沙汰迷惑迄候、新布乍申事爰元随
身之儀、疎心有間敷候、又可頼入候、已上、
如御帋面之、其以来逢々不申通候條、内々無御心元令存候砌、示給一段忝次第候、然者御息孫太郎殿去年御上洛被成、至春中御下向之由可然候、就其自是不申宣候事、意外千萬候、少又正印事者、大刑少御文を被致参陣候條、様子床敷存候處ニ、頃従筑紫之左右を承候得者、御陣中無何事、其上義道堅固之由候條、彌以満足無此上候、千萬吉期後日候、恐々謹言、
   (文録元年)七月二日      西野修理亮 道俊(花押)
      岩屋能登守殿
(史料11)は小野寺義道の家臣の西野道俊が国元に居た岩屋朝盛に対して名護屋に於ての義道の健在を報じた書状であすね。岩屋朝盛は参陣せずに国元に居て、嫡男の孫太郎も上洛していて肥前名護屋には行かなかったみたいです。対して仁賀保光誠は、仁賀保宮内少輔に8月20日付で知行を宛行っている事からすれば、国元にいたものと考えられます。ですので、この頃の史料 「名護屋留守在陣之衆」(史料12)に仁賀保光誠と岩屋朝盛の名が無いのでしょう。 …ま、書き落としの可能性もありますが。
(史料12)
〔中外経緯伝〕名護屋留守在陣之衆
関東衆
江戸大納言家康卿 (中略) 秋田太郎 六郷衆 小介川治部少輔 小野寺孫十郎
滝沢又五郎 内越宮内少輔 三屋伊勢守 高屋大次郎 由利衆四人
(史料13)
から入御しんはつ みちゆきしたい
   (中略)
くわんとう衆
大なこんいゑやす (中略) あきたの太郎 (中略) 六こう衆 てわのこすけかわぢぶせう てわおのてらまこ十郎 てわにかぼ兵ご たきさわ又五郎 うちゑつくなひせう (中略) ゆり衆四人 (後略)
これが翌文録2年の史料(史料13)になれば「出羽仁賀保兵庫」の名が出てくる様になります。因みに(史料13)は「大かうさまくんきのうち」からですね。
(史料14)
      覚
もくそ城とりまき候衆
一 七千人 羽柴加賀宰相
一 千五百人 会津少将一手 羽柴会津少将
一 三百人 羽柴出羽侍従
   (中略)
一 五千人 大谷刑部少輔一手 羽柴越後宰相
   (中略)
一 百卅四人 木村ひたち一手 秋田 太郎
一 百人 加賀宰相一手 南部大膳大夫
   廿五人 加賀宰相一手 本堂伊勢守
一 拾人 会津少将一手 大崎左衛門尉
一 八拾八人 大谷刑部少輔一手 油利五人衆
右條々、委曲加賀宰相、会津少将両人ニ被仰含候、 令相談無越度様ニ可申付候也
   文録二年三月十日      (秀吉朱印)
(史料14)中の「油利五人衆」という一文から考えるに、仁賀保光誠と岩屋朝盛は文録2年の初頭には肥前名護屋に居たものと考えられます。(史料14)中の「油利五人衆」とは仁賀保・赤尾津・滝沢・打越・岩屋の5氏、(史料12、13)中の「ゆり衆四人」とは玉米・下村・石沢・潟保の四氏の事でしょうな。
この「ゆり衆四人」はいずれも文禄4年に秀吉に潰されたという話が伝わっており、文禄末から慶長初に掛けての時期に由利衆の再編成が行われたと考えられます。尚、根井氏はそれより早く仁賀保氏の被官化してしまったのでしょう。
このことに関して言うと、打越氏・根井氏宛の秀吉の知行宛行状を仁賀保光誠が保管していました。
知行宛行状とは武士の最も重要な物で、他家に渡す事は考えられません。まして、打越氏も根井氏も子孫が居るわけですので。両氏の知行宛行状を仁賀保氏が持っていたという事は、両氏が仁賀保氏の傘下に入っていたという事に他ならないと思います。
話題がそれましたが、この時、彼らは羽柴越後宰相(上杉景勝)と共に大谷吉継の一手となっております。これも上杉氏と仁賀保氏等との関係が伺われますね。
仁賀保光誠等由利衆は大谷吉継の一手として(史料14)にある如く朝鮮の牧使城を取り巻く者として渡海する様に命ぜられました。尤も、由利衆等が渡海する以前に牧使城が落城した為それは取り止めとなり、その代りとしてか、由利衆は越後・房州の諸候と共に同年5月4日に「おこし炭」の軍役を課せられています。この後、朝鮮の役は実質的に休戦状態に入り諸候は続々と帰途につきました。由利衆も冬までには帰国したでしょう。仁賀保光誠等は豊臣政権下ではこれ以後軍を率いて動くことはありませんでした。仁賀保氏等北奥羽の諸候の主な役目は木材運上に変わっていったのです。
5-7 仁賀保氏等北奥羽の諸候の木材運上について
文禄5年3月26日付で由利衆を含む北奥羽の諸候は、秋田実季が秋田山で切り出した杉材木を敦賀まで運ぶように豊臣秀吉に命ぜられました。
(史料15) 
伏見向嶋橋板長さ三間弐尺あつさ 四寸杉板秋田山ニて請取之割符之事
一、拾間       仁賀保兵庫頭
一、拾壱間      赤宇曾治部少輔
一、七間       滝沢又五郎
一、四間       内越宮内少輔 
一、弐間       岩屋孫太郎
   合三拾四間
右之板秋田藤太郎手前より請取之、山出川下申付、則船賃秋田御蔵米を以、令下行、至敦賀相着、大谷刑部少輔ニ可相渡候也、
   文禄五年三月廿六日   (秀吉朱印)
豊臣秀吉は全国を統一する過程で、何度か自分が征服した地域に杉の板などの資材の供出を要求しています。例えば
1.天正18(159)年頃、京都方広寺大仏殿造営の為に屋久杉を伐採か?
2.天正18年以降。木曽谷の直轄化。木曽檜を建材に大量使用。
秋田杉の供出もこれに準拠したなのでしょう。これに先立ち秋田実季は文禄2年から杉材の供出を命ぜられていました。これが文禄5年になると北奥羽の諸大名に使役が拡大されたわけです。この伏見関係の杉材の運上の研究は先人諸氏による詳細な研究がありますが、ここではそれを踏まえて仁賀保氏中心にまとめてみます。文禄5(1596)年3月26日に仁賀保光誠は秋田実季が切り出した杉板…長さ3間2尺(約6.06m)、厚さ4寸(約12cm)…どっちかっていうとブットイ角材みたいなデカイ杉板を10間、敦賀迄運んで大谷吉継に渡せと命令されました。…ちょいと疑問なのは10間の「間」が長さの単位の「間」であれば、仁賀保氏だとデカイ杉板3本ちょいですが岩屋氏だと一本も運ばない計算になります。…ってことは考えられるのは、文禄5年の時、由利5人衆は5人で1役務をこなしたと考えられます。34間=30間と24尺ですので、デカイ杉板10枚分でバッチリですね。因みにこの時秋田港から敦賀迄運んだ船賃は350石程度と推察されます。この板は伏見向島橋を作る部材ですが、この橋は大友吉統が作った観月橋の事ですかね?。慶長2年2月2日、再び秀吉は秋田実季に領内秋田山で伐採した杉の板を由利衆・仙北衆・津軽為信に運ばせる様、命令いたしました。この時由利衆等に与えられた板は長さ7尺(約2.1m)、厚さ5寸(約15cm)、幅はありったけという板でした。この時、由利衆達には「仁賀保兵庫30間、小介川治部少輔33間、滝沢又五郎21間、打越宮内少輔11間、岩屋孫太郎6間、六郷兵庫頭33間、本堂伊勢守66間」の計201間を敦賀に送るように指示されました。単純に足すと200間ですが、合計は何故か201間になっています。これはこの7氏合計して長さ7尺の板を172枚分送るという指示だからだと思います。これを合わせると200.6間ですので、合計を201間にしたものでしょう。しかしながら送った実数は差があったようです。
領主名 奉行名 負担数 実数
小介川孫次郎 小介川主計助 33間 132枚(4枚張り)
打越孫太郎 工藤次郎三郎 11間 48枚(5枚張り4枚+4枚張り7枚?)
滝沢又五郎 賀藤弥兵衛 21間 84枚(4枚張り)
岩屋孫太郎 佐々木小右衛門 6間 24枚(4枚張り)
仁賀保兵庫 菊地吉三 30間 130枚(5枚張り10枚+4枚張り20枚?)
戸沢氏の受取状から推察すると、杉板は「3枚張り」とか「4枚張り」など貼り合わせて厚さを稼いだものと考えられます。由利衆が受け取ったモノに至っては、実数から推察すると4枚張りと5枚張りであったと考えられます。おそらく幅や長さの切り出しが上手く行かなかったのでしょう。 秋田実季が木の切り出しに相当苦労しているのが見えますな。杉が採取された山は、慶長2年の切り出し時は「阿仁之内於は祢山」となっております。現在の北秋田市羽根山ではないかな…と私は考えております。相当な量の木材が、阿仁地方から運ばれ、相当な山が丸ハゲになったのではないでしょうか。
切り出した物を米代川にて能代まで運び、更に海運で運んだんでしょうな。軍役も大変だったでしょうが、これも相当大変だったでしょう。
由利衆に対する板の割り当ては、大体446石〜312石に一間の割当てとなっており、この木材運上は豊臣政権の崩壊まで続きました。
木材運上は、由利衆の外仙北の4将(小野寺・戸沢・本堂・六郷)と津軽為信が秋田にて受けとり、敦賀まで運んで大谷吉継に渡しました。南部氏には別個に書状が与えられ、これも秋田山からの木材運搬を命ぜられていて、結果的には北奥羽の諸候総てが伏見への木材運上に関わる事になりました。この板の運上費は出羽国内の太閤蔵入地から取れる米を換金してあてがわれ、その換金率は大体金1枚240石換えだったようです。この米の換金は秋田にて行われ、越前・越中・加賀・能登・若狭の商人と取り引きされています。この板を運上する北奥羽の諸将の内、小野寺義道と本堂伊勢に対してのみ秋田実季は船賃を支払っています。即ちこの2氏のみが領内に太閤蔵入地を持って居なかったという事でしょう。「南部男爵家文書」によれば彼等奥羽の諸候は木材を敦賀の大谷吉継に渡した後上洛し、秀吉の次の命令を待つという事を繰り返していたようです。
仁賀保光誠らは豊臣政権下にて、それなりの文化活動も行っていたようです。
5-8 関ヶ原以前の仁賀保光誠の動向
慶長3(1598)年8月18日、豊臣秀吉は身罷りました。
それを追う様にして翌年、五大老前田利家も亡くなり、五奉行の石田三成と大老徳川家康の対立は激化の一途をたどります。その過程で徳川家康は仮想の敵である前田利長を屈服させ、遂には天下を狙う所までその勢力を拡大させました。 徳川家康には反徳川勢力を一網打尽にするための口実が必要でした。豊臣政権から反徳川派を一掃する為の仮想の敵ですね。当初は前田利家で利家没後はその子の前田利長だったわけです。前田利長が徳川家康と争う事を避け徳川家に下った為、家康は次のターゲットを探していました。
家康がターゲットを探す中で白羽の矢が立ったのが上杉景勝でした。上杉景勝は5大老の1人として政権内に重きを置いた人物で、秀吉が没する直前に会津120万石に移封され領国経営に奔走しておりました。上杉家にとり会津の前領主蒲生氏郷の居城である会津若松城は手狭であり、新たに会津若松城の北西に神指城を建築を始めておりました。
これを好機と見た徳川家康は、「上杉景勝が謀反を起こすのではないかと疑念を抱いた」として、上杉景勝に上洛を命令いたしました。これは景勝の後に越後に入った堀秀治や、上杉家から出奔した藤田信吉の讒言によるものです。 家康にとってみれば渡りに船ですね。景勝がこれを拒否すると徳川家康は激怒して(したフリをして?)上杉景勝討伐を決意いたしました。上杉景勝も景勝で、公然と城を修復し直し対抗意識を露にします。無論、上杉景勝に天下を狙う意図があったとは考えられません。恐らく「俺は俺。謙信公以来の武神の家柄、喧嘩を売られたから買うまでだ。」位なのでしょう。…「花の〇次」だな。 ですが秀吉が死んで天下が麻の如く乱れる前兆を、戦国武将の敏感な鼻で感じた事は否めないと思います。旧領である越後や、自分と敵対して何かと目障りな最上義光などをこの際に潰してしまえと思っていたかもしれません。まして奥羽には伊達政宗、最上義光、秋田実季の様に火花を散らす者たちが集結していて、一触即発の状態でした。慶長5(1600)年5月3日、徳川家康は諸大名に会津討伐を命令しました。当然これは大坂に巣食う反家康勢力を誘い出すという一石二鳥を狙った物と思われますが。何れにしろ徳川家康を筆頭とした7万と号する軍は、東海道を会津にむかって驀進を開始する事になりました。これに先だって徳川家康与党の筆頭の最上義光は仁賀保氏等由利衆に書状を送り、徳川方与同を勧めています。
(史料16)
………(前欠)………
景勝上洛被申間敷由被申ニ付而、内府様近々御出馬候ハん由、被御触催候、併以前景勝へ之御使なと被申候いなの圖書と申候人を、為御雇被為指下候、何も此返答次第たる由申候、依樣躰早々人を上進申候へとて、達者なル者を被指添、御下被成候、爰本之御様子ハ、十二九者御出馬可有之躰にて候、乍去此上景勝被罷上候歟、又何とそ侘言をも被申上候而、御陣之無之も不被存義共候、若又御陣ニも候者、雖無申迄候、か樣之隣国ニ御陣なとの御座候事者、内府様御一世中ニ者有之間敷由存条、人数以下之事御身上より過分之躰ニ被成候而、御奉公之義今度ニ御座候由存候、又重而何方ニ御陣なと候共、其時者又随而之御奉公ニも候へ者、遠近之分候而、今度之御奉公一入之由存候、如此申候義も、内府様於御前、各御取合をも何とか申度と存候心中故、申候義共候、今度之義者被入御精候ハん事、不可有御油断候、(中略)何角取紛茂候間、定而懇之義をも申間敷候へ共、別而被懸御意候而可給候、馮入存候、何之御用等も候者可被仰候、定而心疎有之間敷候歟、尚此上替違も候者可申入候間、早々、恐々謹言、
   五月七日      羽出羽守 義光(花押影)
      仁賀保殿
      赤津 殿
      滝沢 殿
最上義光らしい、非常に裏のある文書ですね。彼はこの文書の中で、徳川方に与同すればどれだけ利があるかを説いています。「か樣之隣国」に徳川家康が出陣してくることなど2度と無い事であり、できる限りの兵を出して家康に良い格好を見せる様にと勧めていますね。それは最上義光が家康の御前で、あなた方を何とか取り立てたいからだと言っています。現世利益を見せて家康方に味方に付け、あわよくばそのまま配下に取り込んでしまおうという魂胆ですね。ですが、この文書によりこの時点迄仁賀保光誠等由利衆は徳川家康とはまったく面識が無かった事が分かります。仁賀保光誠等由利衆にとっては徳川家康の出兵は由々しき問題でした。仁賀保光誠が交友を持っていた大名は秋田実季、上杉景勝、大谷吉継などいずれも西軍方で、自家に不利でした。まして最上義光とは本庄繁長と最上の戦いで敵対したままでした。この最上義光の申し出はまさに「渡りに船」という所で、由利衆は一も二もなく東軍に身を投じるのでした。仁賀保光誠は同じ由利衆の小介川孫次郎と共に徳川家康に使者を出しました。
(史料17)
遠路使被差上祝着候、事多故黒印申候、委細者自江戸可申遣候、猶田中清六可申候之条 令忠略候、恐々謹言、
   六月十日   御諱御朱印(御文言ニ者御黒印ニ御座候得共、御朱印ニて御座候)
      小介川孫次郎殿
      仁賀保兵庫頭殿
この頃の家康の文書は非常に丁寧ですね。天下人ではなかったので豊臣秀頼旗下の一大名である事と、自身に味方に付けなければならないという配慮で、一杯です。特に「黒印使うよ〜。でもね、これは貴方を格下に見たんじゃないよ〜。」という理由付が非常にいじらしいです。黒印は目上が略式に…私信で使うもので礼を欠く様ですね。朱印状も命令文ですが、家康にとっては黒印の方が明らかに格が落ちると認識していたことがわかりますね。 で、文書には「黒印」とありますが、「やっぱ朱印でないとねー」という意思が働き、朱印状になったようですね。内容的には 仁賀保・小介川の2氏の参陣の申し出に対して、徳川家康が「命令すっから待っててちょ。」という内容ですね。ついで家康の陣立てが決まり、仁賀保光誠等は出羽庄内の押さえとして出兵する事になりました。なお、同時期に(史料18)と同じ内容の文書が(史料17)に記された諸侯に出されています。
(史料18)
一 南部・秋田・横手・六郷・戸沢・本堂ハ最上口へ可出之事
一 赤津・仁加部ハ庄内可為押事
一 北国之人数米沢表へ打出、会津へうち入ニをひてハ、山形出羽守ハ可為先手事
一 南部・秋田・仙北衆ハ米沢之可為押事
一 扶持方之兵糧壹萬石も貳萬石も入次第、山形出羽守ゟかり候て、於米沢扶持方可出之者也、
   七月七日      中川市右衛門
      津金修理亮
(史料19)
飛脚到来祝著候、仍会津表出陣之儀、来廿一日相定候間、其方事庄内口為押可被罷在候、猶田中清六可申候、恐々謹言、
   七月七日      御諱御黒印
      仁賀保兵庫頭殿
      小介川孫次郎殿
さて、天正16年に仁賀保光誠に滅ぼされた矢島満安の遺臣は、幾人かは仁賀保氏に使え、幾人かは矢島氏再興の夢を持ち潜伏していました。その内、矢島氏遺臣で矢島家再興を狙う者達40名は、4月頃より上杉討伐による騒乱を嗅ぎ付け、上杉氏家臣で酒田城主である志田義秀と連絡を取り、機会を伺っていました。彼らは「大峰入り」の山伏の格好で各地を回り、一揆の準備をしていたそうです。大坂方挙兵の方が入り俄かに上杉勢が優位になると、矢島遺臣一揆は酒田城主の志田義秀と手を結んで仁賀保光誠を挟撃する手筈を整えました。志田義秀にしても最上義光攻撃の為、最上川を遡る為には背後を仁賀保氏等に突かれぬ為、攪乱しておく必要がありました。それを知らぬ仁賀保光誠と小介川孫次郎は別々に軍を率いて庄内に攻め込みます。後の家康の書状から仁賀保光誠は吹浦川を挟んで菅野城の対岸の箕輪舘か野沢舘に陣を引き、小介川孫次郎は庄内と由利の境の三崎山に陣を引いたらしい事がわかります。「矢島十二頭記」によれば滝沢・打越の2氏もこれに従って出陣したようです。この他にも由利衆の内、相当の氏族が陣借りして加わっていたようです。潟保氏の配下の稲葉勘解由左衛門は、主の潟保氏が戦いに参加したがらないので、無視して滝沢氏に加わっていました。石沢氏も陣借で出陣しました。上方では徳川家康の上杉討伐の隙を突き、石田三成等が挙兵しました。「待ってました♡」とばかりに徳川家康が軍を江戸に帰すと、奥羽の諸侯の中には動揺が広がります。
そりゃそーですね。昔日の勢いは衰えたとはいえ、上杉謙信時代より武力にかけては天下一品の上杉軍ですから。
山形城に集結した輩…南部・秋田・横手・六郷・戸沢・本堂等ですが…は戦わずして領国に帰国、南部領内では伊達政宗の支援を受けた和賀忠親の一揆が勃発し、南部利直はこれを討伐するのに忙殺されます。所で、7月7日の時点で、小野寺義道が徳川方になっていたのは注目すべき点でしょう。彼は元々は西軍などどうでもよくて、ただ最上義光に奪われた現在の湯沢市近辺を取り戻したい、昔の様に仙北の諸将を傘下に収め、昔日の小野寺氏の栄光を取り戻したい。ただ、その一点だけだったでしょう。ですので、石田勢の挙兵により混乱した8月上旬になり、反最上氏として対立することになるわけです。この時期、上杉景勝と領土を接する諸将の多くは、上杉氏とも誼を通じていたようです。
(史料20)
追而、勢三方所労之由、無心元存候、無油断御養生専一候、以上、
御便札本望至極ニ存候、白川表弥無事之由、珍重ニ存候、(中略)上方之様子、正宗も聞届候故と存候、又最上口之儀も、南部・仙北衆上総才りやう候て引拂候故、最上無正躰取乱候由申来候、油利ハ庄内一味仕候、小野寺殿も同前ニ候、越後之儀、村溝無御別条候計ニ而も不相済候条、四五日以前堀兵殿を遣申候、定而可相済候、自然停候ハ、仕やう共有之事ニ候、可心安候、一両日中ニ佐竹ゟ使者候由申来候、自然若松へ参候者、御左右可申入候、恐々謹言、
   八月十二日      直山兼続(花押)
      岩備殿
「南部・仙北衆上総才りやう候て引拂候故、最上無正躰取乱候由申来候、油利ハ庄内一味仕候、小野寺殿も同前ニ候」という一文から、南部・仙北の諸侯が引き上げて最上義光が孤立し、由利衆や小野寺義道は直江兼続と気脈を通じた事がわかります。ただ、この「油利」というのがもしかしたら矢島遺臣一揆の事かも知れませんし、そもそもプラフなのかもしれませんが。何れ首鼠両端を決めかねて両軍に通謀したのは当たり前の事で、徳川家康はこの様な奥羽の動揺を見て次のような書状を与えています。
(史料21)
遠路使札到来、祝著候、仍庄内口為 押在陣候由、太儀共候、然者就上方鉾楯令上洛候 條、先々有帰陣自是左右迄可有休息候、尚本多彌八郎可申候、恐々謹言、
   八月廿一日      家康 御判
      仁賀保兵庫頭殿
徳川家康は小介川孫次郎や外の出羽の諸将に対しても同内容の書状を送っています。この書状を受けとった仁賀保光誠等は庄内より由利郡に兵を引こうとしましたが、その矢先の9月8日、矢島満安の遺臣40名が蜂起、仁賀保領の矢島八森城を襲いました。
矢島八森城は矢島郷の中心にあり、仁賀保氏の矢島郷に於ける統治の拠点として最も重要な城です。当時城番衆は城を留守にしており、一揆勢は楽々矢島八森城を奪取、城番衆は八森城に帰る事が出来ずに城下の福王寺に入りました。しかし一揆勢は福王寺をも攻撃、城番衆三人の内菊池長右衛門は討死、酒井(境)縫殿助は仁賀保へ逃げ帰り、菅原勘之介は笹子より仙北に落ち延びました。何度も言いますが、矢島遺臣一揆は上杉景勝軍と気脈を通じておりました。よって、これと戦う仁賀保光誠は、嫌おう無しに徳川方与同となったわけです。尚、秋田氏側の資料では矢島遺臣一揆は小野寺義道と通謀したものだとしていますが、8月上旬まで小野寺氏は東軍についており無理がありますね。後述しますがこれは秋田実季の行動を正統化する為の物で、偽伝ですね。仁賀保光誠はこれを聞くな否や、小介川孫次郎・打越孫太郎・滝沢氏らと共に領内の一揆討伐に庄内から取って返し、これを討伐しに出陣しました。
仁賀保軍の進撃に八森城は脆くも落城、一揆勢は酒田より会津に逃れようと考えましたが、仁賀保光誠の追撃は鋭く、逃れ難く思った一揆勢は親妻子等と共に、笹子の赤舘に籠城しました。仁賀保光誠は川内より瀬目ヶ峠を通って峰伝いに新道を造り、赤舘に直に攻め寄せました。小介川孫次郎と打越孫太郎は直根より「かまちひら」へ登って赤舘を眼下にして攻め、9月13日の夕方迄に攻め落としました。矢島遺臣一揆の親妻子等は矢島若しくは仙北に逃げたそうです。
(史料22)
矢島事従荒澤地根子迯重々申来候条、是非共御口江指懸安危之由存候處、不知行方罷成候由、自百宅口注進候、先以大慶候、偏各被相伝故ニ候、此上之儀も御口之事可持置、可得貴意之由存候、如何様重々頼入候、委細御使任口上候、恐々謹言、
   九月十六日      義
      瀧澤中務少輔殿
この文書で「義」となっているのを先人は大宝寺義氏の事としているようですが、内容からすると慶長5年の矢島・笹子一揆の事で「義」は最上義光の事ではないでしょうか。ところで滝澤中務少輔って誰でしょうね??。滝澤又五郎の家臣か…もしかしたら滝沢氏の一族で仁賀保氏に仕えた一派ですかね??。 さて此の矢島遺臣一揆討伐には秋田実季も出陣している事が知られています。後に秋田実季は西軍与同の疑いを掛けられた時、矢島遺臣一揆討伐と仙北大森城攻めの2つを根拠に反論しています。しかし仙北大森城攻めは関ヶ原の戦の後で、東軍に参加していたという証拠にはなりません。必然的に矢島遺臣一揆討伐が秋田実季東軍であるという証拠になるわけです。ですが秋田実季の行動を「秋田実季会津陣扶持方算用状」から見ると、仁賀保光誠等により矢島遺臣一揆が鎮圧された後の9月16日に兵2,000で出陣し、26日には帰って来ています。先人も言われておりますが、この秋田実季の行動は一揆討伐に託けた由利郡併合作戦だったのでは無いでしょうか。秋田実季は思いの外早く一揆が討伐された為、仕方なく帰ったのではないでしょうか。この秋田実季の行動に前田利長は疑念を抱き、9月18日付の実季宛の前田利長書状にて「貴殿義も御出勢ノ御覚悟専一候」と出陣を催促しています。
(史料23)
   態令啓候
一 米沢ヨリ最上表へ被相働所々被行候、今の分ニてハ山形も可為落居候哉、然共政宗無異儀候ハゝ別條有ましきと存候、
一 仙北小野寺孫十郎会津一味ニて最上分少々行候、戸沢己下小孫ニ同心ニて候、六郷事無ニ羽出羽方と一味ニて候へ共小身ニ候間可有如何候哉、
一 我等式事最前申筋目聊無相違候間、只今事新不及申候、油利之衆何も無ニ内府様へ御奉公可仕との覚悟ニて我等と申談事候、何も小身之衆ニ候間庄内境近候へハ別而機遣之事候、
一 南部方事、政宗さへ無異儀候者、定別條ハ候ましく候、只今迄ハ何方へも働なと仕躰無之候、
一 去廿二日之御報当十日ニ令参着候、同十一日ニ、南部内ニ堅人留候て令帰参候、さ候へハ諸方不通之事、此者ハ若と存指越申候、もはや此後ハ有無ニ不通申候、右之段可然様ニ御披露可給候、恐々、
   九月廿七日    
      有 中 様
      榊式太様
      佐淡州様
これは秋田実季が徳川家康軍の首脳部に出した文書です。文書中の「今の分ニてハ山形も可為落居候」という一行が当時の奥羽の諸将の実感だったのかは不明ですが、「政宗無異儀候ハゝ別條有ましきと存候」という一文は、秋田実季が最上義光に対して直接の援軍を出さない理由付に過ぎませんね。とにかく伊達政宗の動向は奥羽の諸将の注目の的だったようです。伊達政宗の動向如何によれば奥羽の東軍有利の戦局は逆転する可能性が多大に有った訳です。それとも秋田実季には伊達政宗が会津上杉景勝と与同したのならば徳川家康には負けないという腹があったのでしょうか。しかし、この文書が出された頃の最上軍対上杉軍の戦況は、最上領は北は酒田城主志田義秀が村山郡に進出、西は六十里峠を越えて尾浦城主下吉忠が寒河江・白岩・谷地の城々を攻略、南からは直江兼続が畑谷城を落し、最上領は山形城を中心に半径十qの地点迄蚕食されていました。これでどうして大丈夫だと言えるのでしょうか。いずれ9月に入ってからの直江兼続と最上義光の戦の最中、秋田実季の動向は富に忙しさを増し、その行動は特に他氏領への侵略、どさくさ紛れの火事場泥棒的な行動が目に付くようになります。
(史料24)
態申入候、仍其元御堅固之由尤存候、隨而由利中之面々と申談、近日庄内へ急度可相働候間、志給人数定而可引返候哉、其御心得ニテ尤存候、か様之行米沢より行在之刻より雖令相談候、南部信濃覚悟不見届候故令延引候へ共、莵角無二内府様へ御奉公可申上覚悟ニ候間、諸方ニ無構、近日可令出陣候、拙者と戸沢境目淀川と申地ニ城を構在候事候、南部双方之通路被相留候故内府様へ及使者候へ共、早々令帰参候、我等事無二御奉公可申覚悟ニ候間、其元@其段被仰上可有候、此方よりハ不通之躰候まゝ不及是非候、恐々謹言、
   九月廿七日      羽々別当
これも秋田実季が最上義光に出した文書です。秋田実季は、自称「東軍」として行動しますが、その行動原理は他氏の領土の征服でした。ここまでに戸沢氏領や由利郡を征服できなかった秋田実季は、最上義光に加勢するという大義名文の元に庄内に兵を送る事を宣言しました。これは志田義秀が最上義光攻めに出た所を狙っての空巣的な色合いが濃い行動です。無論由利衆もこの誘いに乗って出兵を決意したと思われます。この書状を見て驚いたのは最上義光でした。最上義光は天正11年より16年迄庄内を領し、本庄繁長に敗れてその領土を失ってからは庄内領の回復こそ義光の悲願でした。その庄内を領する上杉氏が反徳川方にまわった今こそ庄内の回復の好機、それを横から掠め取ろうとする秋田実季や由利衆の行動が、直江兼続と死闘を繰返し劣勢に追込まれている最上義光の不興を買いました。しかしながらこの後戦局は大きく急変するのです。
5-9 関ヶ原東軍勝利後の由利の情勢
慶長5年9月30日、山形城に程近く迫った直江兼続の元に、関ヶ原の戦で徳川家康が大勝した事が伝わりました。直江兼続の軍は波を引く如く最上領内から撤退、最上義光はまさに死中活を拾った形となります。間髪入れずに最上義光・留守政景の軍は直江兼続軍の追撃に移りました。
こう成った時、最上義光にとって悲願の庄内奪取は最早時間の問題です。後はいかに秋田実季より先に庄内占領の既成事実を作り上げるかでした。最上義光は10月8日付で秋田実季に書状を送り、湯沢・増田の最上勢を助けて大森城か西馬音内城を攻めるようにいっています。無論(史料193)には「拙者と戸沢境目淀川と申地ニ城を構」て戸沢政盛が秋田実季を通さず、秋田実季が小野寺義道を攻める事が難しいのを承知の上で小野寺氏の支城の大森城・西馬音内城を攻めるようにいっているのです。これは最上義光の時間稼ぎですね。
(史料25)
御状披見申候、仍我等其方へ及行之由申儀ニ付、御機遣之段候条、度々以書状申入候、殊最前赤孫次仁兵庫我等以連判様子申入候、小孫十対内府様ニ慮外之始末ニ候条、各申談相働事候、旁其方ハ境近ニ候条、早々可有御出勢之由度々雖申候無御承引、内府様へ御別心不及是非候、小孫十及事理候ハ数日已前之事候条、早々六郷へ可有出勢処ニ、今迄之御延引剰今度行無御同心儀御分別違ニ候、天下へ無御如在之由被顕紙面候、右之仕合ニ候へハ先以偽ニ候、内府様ハ偏ニ秀頼様被成御守立候儀にて無御存候哉、去とてハ程近之儀ニ候条早々御出勢尤候、御領内被相塞候故、赤宇曾を廻、小野寺領へ相働申事候、恐々謹言、
   十月十三日
      戸九郎五郎殿
猶以此時ニ候条、内府様へ無二御奉公尤候、聊我等へ不可有御機遣候、以上、
これは秋田実季が戸沢政盛に宛てた書状です。秋田実季は最上義光の要請によって小野寺義道を攻めることにした。当然ながら戸沢政盛は警戒して領内の通過を許さず、結果的に秋田実季は由利郡を回って小介川孫次郎の領内から仙北大森城を攻める事にしたのでした。「赤孫次」は小介川孫次郎、「仁兵庫」は仁賀保光誠の事ですね。
(史料26)
直江殿へ之飛力候て可給候、今日玉米迄罷越候様ニと申候、
   (中略)
一、伊達より人数壹万計、最上へ助勢候由申候、但其程ニハ候ましく候哉、鉄砲千、鑓三百、弓三百、馬上三百入候由申、是必定之由候、はせんたう取へし候と申左右候、暮々無心元存候、藤太郎子不知躰候間、何共笑止候、乍去覚語前候間、不驚事候、恐々謹言、
   十月廿四日      義道(花押)
(史料27)
返々大森之陣被揚候事、先以本望候、取紛候間有増申候、
書中披見候、大森、昨日、由利衆へ無事ニ仕陣を罷上候事、先々かたひま明候、祝着候、
   (中略)
一 杉宮・大土・床舞之事候、兼々床舞ハ山田へ被揚候へと申候つれ共、いまにあかり候ハす候由候、今分ニ候て、由利衆上候ハゝ、大土・杉宮ハ可居申候、幾度もあかり候へと申候へ共、ここもとニて手はしく申つけ候さへ、あかりかたく候間、暮々笑止之事、
   (後略)
由利衆は秋田実季と共に赤尾津領、岩屋領を経て大森城へ迫りました。大森城の城主は小野寺義道の弟の大森康道。この時の大森城攻めは熾烈を極めたようです。城は落城しませんでしたが、大森康道は城を明け渡して横手に退散したと伝えられます。
由利衆は10月23日に大森城の囲みを解き24日には帰路へ就いています。大森城が敵の手に渡った小野寺義道は、文書にて万が一にも由利衆が西馬音内に攻め込む可能性が無いとは言えないので注意を促しています。
(史料28)
   (前略)
一、由利より其口へこし候事ハ、はや有間敷候哉、乍去又々世間も相違候ハヽ不知候間、心用心いたされへく候、
   (中略)
   十月廿四日      義道(花押影)
さて大森城攻めでは小介川孫次郎が抜群の働きを見せたようです。この由利衆の小野寺氏攻めに関しては次の感状が伝わっています。
(史料29)
注進状之趣披見候、何千福孫十郎会津就令味方彼表より相働、敵多数被討捕之由感悦、弥於被忠節可為候、猶本多中務大輔可申候、
   十二月十四日      家康 御判
      赤尾津孫二郎殿
この感状中の人物「千福孫十郎」ですが、「千福」は「仙北」の事で小野寺義道の事ですね。小野寺義道は由利衆や秋田実季等と戦いつつ、一方では田中清六を介して最上義光に降伏を申込み、身の安全を計っています。さて、この大森城攻めでも秋田氏側の記録では秋田実季が大森城攻めをした事になっていますが、攻められた小野寺氏側の文書には一切秋田実季の名が出てきません。小野寺氏の書状によれば攻めてきたのは由利衆であるとしてます。秋田実季は大森城攻めには唯兵を貸しただけなのでしょうか。恐らく…ですが、小野寺義道と最上義光はこの後、和睦したと思われます。
こうして仙北が一段落した後、由利衆の目は今度は出羽庄内へ向きました。庄内では石田三成の敗北後、最上義光の巻き返しがあり、鮭延秀綱等最上騎下の猛将が破竹の勢いで侵攻していました。
ですが志田義秀が立て籠もる酒田東禅寺城の守りは堅く、落とす事が出来ません。そこに触手を延ばしてきたのは堀秀治でした。堀秀治もあわよくば庄内を我が手にと野望を抱き、利益の追突する最上義光とは手を結ばず、庄内の北に位置する由利衆の内、小介川氏と岩屋氏に接近し、庄内を挟撃する算段を纏めようとしたようです。この頃、小介川氏と岩屋氏が堀秀治としきりに手紙を取交わしています。
(史料30)
   以上
御状本望之至候、仍孫次郎殿此地為御見廻之越令満足候、就其段貴所青毛馬壱疋給候心付之段快然此事候、将亦於其許鷹相調候付而高田弥右衛門付置候処ニ其方被入御精之旨令祝着候、若鷹於出来者御馳走頼入候、猶期後音之節候、恐々謹言、
   十月廿六日      羽久太 秀治(花押)
      小介川信濃守殿
(史料31)
   以上
今度孫次郎殿此地之儀別而令満足候指義無之候へ共、其許為御見廻以後」札中入候、随而貴所へ鉄砲弐丁進之候、書音之給迄候猶使者申含候間不就巨細候 恐々謹言、
   十一月二日      羽久太 秀治(花押)
      小介川信濃守殿
(史料32)
   以上
態令啓候、仍南部表一揆蜂起之由、内府様被及聞召、拙者事相働、可致成敗旨依被仰出より、朔日庄内到大浦城参着候、就其一揆悉退散之旨、先手衆より申来候間、我等事庄内ニ有之て、爰許仕置等申付候、其地相替候ハヽ、御知進可被存候、猶期後音之時候、恐〃 謹言、
   (慶長五年)拾月三日      羽久太 秀治(花押)
      岩屋右兵衛殿(朝繁)
(史料30、31)の小介川信濃守がいかなる人物で、当時の小介川氏の当主の小介川孫次郎とどの様な関係にある人物なのかは判別できません。ただ、当主である孫次郎と非常に近い人物で小介川氏内の相当の実力者と思われます。(史料4)の仁賀保信濃守と同一人物かとも考えられます。同じ「大井文書」の中に所蔵されているのでその可能性は否定できないでしょう。
想像ですが、もしかしたら当時の小介川氏の当主の孫次郎は、信濃守の子なのかな??。とも思います。堀秀治は以上の如く出羽庄内を欲していたと思われますが、それを知った徳川家康は堀秀治に(史料31)にある通り南部一揆討伐に当たらせました。つまり庄内は最上義光の切り取り放題にされる事が決まり、これが徳川家康の最上義光に対する恩賞と成った訳です。この後、出羽は雪の季節に成ったので一時兵を引き、来春を待って庄内に総攻撃をかける事になりました。秋田実季と由利衆は、大森城攻撃などで最早徳川家康に自分は東軍だと申し訳を建てたつもりだったようです。しかし最上義光はそうは思いませんでした。最上義光は出羽の諸将の非協力的な態度を11月8日付の伊達政宗宛ての書状の中で詰っています。「由利秋田よりまかり出候も、そこそこはひとつニ談合候て、出たる体之由申候て、中々ばかけ成事ニ候」と人々は言っていると愚痴を零しています。
最上義光はこの直後出羽の秋田実季の関ヶ原の戦時の不穏な行動を西軍に通じていたとして徳川家康に通報するのでした。さて、仁賀保光誠・小介川孫次郎・岩屋朝繁の三人は出羽の役が一段落ついた所で次の天下人徳川家康に早速使いをしています。
(史料32)
為遠路見廻使者祝著候、計爰元平均仕置候條、可心安候、其表之儀爾被入精尤候、猶本多中務大輔可申候也、
   十二月廿五日      御朱印
      仁賀保兵庫頭殿
(史料33)
切ゝ使者殊大鷹一到来、祝著候、将又其表之儀万事被入精之由尤候、猶本多中務大輔可申候也、
   十二月廿五日      御朱印
      赤尾津孫次郎殿
(史料34)
遠路使者殊大鷹一到来祝著候、将又其表之儀、万事被入精之由尤候、猶本多中務太輔可申候也、
   十二月廿五日      御朱印
      岩屋右兵衛殿
赤尾津(小介川)孫次郎は徳川家康のみならず秀忠にも使いし、若大鷹を贈っています。無論、関ヶ原の戦の祝賀でもあったでしょう。
それに対して出羽の騒乱鎮定に力を注ぐようにとの命令を家康は下したのでした。家康の手紙が、関ヶ原の戦い前に比べ、「恐々謹言」などの丁寧な言葉が無くなっている所に注目すると面白いですね。
この3者とは対照的に滝沢又五郎は最上義光に使いし、自家の存続を図っています。
(史料35)
態與令啓上候、仍今度横手為御仕置、御下向之由、御太儀存候、然者東禅寺之儀、今に相支候に附而、近日御陣立之儀被仰附候、雖留守中候、定而、承合候而、無如在可遂参陣候、自然此方御方之子細御座候者、可被仰附候、毛頭不可存如在候、猶期後音之砌候、恐々謹言、
   (慶長六年)三月十三日   滝沢主水正惟仲
      鮭延典膳様
      志村伊豆様
滝沢惟仲は滝沢又五郎の重臣でしょうか。「様」が「樣」なのか「様」なのか原文の確認が出来ないので家格の上下がわかりませんが、「様」付である事など、彼のおかれた立場…滝沢氏の立場…が見えますね。この頃より滝沢氏は最上義光に接近し出し、由利郡が最上領になるに及び、そのまま最上氏の被官となります。滝沢又五郎が最上義光に接近したのは、どうやら岩屋朝繁との確執が原因であった様です。
仁賀保光誠も同様の手紙を志村伊豆…光安ですね…に書いています。それによると滝沢又五郎と小介川孫二郎も最上義光の関心を得ようと必死になっている姿が見受けられます。
(史料36)
其表為御仕置と御下向之由■■伝聞仕候間、急度飛札に及候、路次中御太儀難申尽候、兼日は参上仕候処に種々御懇切忝存候、然者之無事の儀、志駄我儘申候間、田清いろいろ申間敷之儀、被申払候、此上は山形之人々下候、御之由具に申上候間、何式■■山形江得御意候而、一々候由、従田中清六被申越候、翌日、当六日山形江以忰早速注進候間貴殿へ申■■■扨又、従此表滝沢、赤尾津為御見舞■■下り候間、吾等事も可罷登由存候へとも、■■■曖相切候故延引仕候、到此一両日前東舟を揃様かましき由申来候、吾々領中境近候間、一入無由断(一行不明)此上は是非共可有御出勢候哉、御様子委此御地に奉待上候、追々以忰(一行不明)猶期砌候、恐惶謹言、
   (慶長六年、月日欠)      仁兵庫頭 光誠(花押)
      志村伊豆守様
       参人々御中
仁賀保光誠も同様です。最上義光…というよりは天下人となった徳川家康を後に見ての手紙であることは一目瞭然ですね。年月日は不明ですが慶長6年3月頃でしょう。
いずれ東北の東軍の要として戦った最上義光の元には色々な媚びが各地より舞い込んだであろう事は想像に難くありません。それが「中々ばかけ成事ニ候」と最上義光が侮蔑する一因となるのですね。翌慶長6年4月、最上義光は庄内攻めを再開、仁賀保光誠もこれに呼応して庄内へ攻め込みました。仁賀保光誠は仁賀保領から三崎山の天嶮を越えて上杉景勝騎下の武将の立て籠もる菅野城に取り掛かり、これを攻め落としました。
次の文書は仁賀保光誠の働きを聞いた徳川家康が仁賀保光誠に与えた感状です。
(史料37)
注進状到来披見候、仍庄内表江相働、始菅野城之責崩、敵多数討捕、殊被疵、竭粉骨段、誠感思召候、尚本多彌八郎可申候也、
   五月三日      御朱印
      仁賀保兵庫頭殿
「注進状、見たぜ!。庄内に攻め込んで菅野城を攻め落としたのを始め、敵を多数打ち取ったり捕虜にしたらしいじゃん。ケガまでしてさー、チョー頑張ったのカンドーした!。」って感じでしょうか。
この時の最上義光軍の庄内攻めの総大将は、義光の重臣の鮭延秀綱です。「覚書」によれば仁賀保光誠が菅野城を攻める時、最上義光は心元なく思い鮭延秀綱を遣わしたのですが、出る幕はなかったといいます。
仁賀保光誠とその余党の軍は庄内勢との戦いで目覚ましい活躍をしました。潟保出雲の家臣の稲葉勘解由左衛門や潟保出雲自身、石沢孫次郎などの活躍が顕著で、また仁賀保光誠重臣菊地氏が討死し、自身が傷を被る程の奮戦をした事が知られています。
鮭延秀綱は仁賀保光誠の菅野城攻め、この後の酒田東禅寺城攻めを見て感じ入ったと伝えられます。そしてこの時の働きが後に仁賀保光誠の運命を変える事となるのです。
こうして鮭延秀綱や由利衆の働きにより庄内は全て東軍に制圧されました。特に庄内の遊佐郷を制圧したのは由利衆(特に仁賀保氏)と推察されますが、由利の諸氏はこの動乱に託つけて各々自家の勢力の拡大を狙って行動を開始するのでした。
(史料38)
卯月廿九日之御状一昨廿二日ニ於勢州桑名拝見申候、然者酒田表へ御働被成候由尤ニ存候、被入御精故早速相語、近頃御手柄共申候、随而滝沢又五郎貴殿之代官所茂上殿頼入御訴訟被申候とて、御迷惑之由蒙仰候、尤無御余儀候、我等も勢州桑名へ用共御座候而罷在事候間様子一切不存候、本佐州・出羽殿へも相尋ニ人を進候間、定而何とそ可申来候様子、追而従是可申入候、恐〃謹言
   (慶長六年)五月廿四日      本多中務 忠勝(花押)
      岩屋右兵様(朝繁)
滝沢又五郎と岩屋朝繁の間に何の確執があったかは定かではありませんが、滝沢又五郎は最上義光の威を借り岩屋朝繁を訴えました。既に由利衆は一揆としての結束はなく、互いに威を張り合い、天下の勢力の前にその存在は風前の灯といえました。この頃すでに小野寺義道も改易されて無く、関ヶ原の戦の仕置で残った西軍の武将は会津の上杉景勝のみでした。徳川家康はその武力に今だ気を許せなかったのか、景勝の会津移封に関しては次の文書の様な厳重な警戒をしています。
(史料39)
一番 南部信濃守 五千人
二々 戸沢九郎五郎 弐千五百人 本堂源七郎 四百人  六郷兵庫頭 三百人
三々 秋田藤太郎 六百五拾人 赤尾津孫次郎 弐百五拾人 丹加保兵庫 百八拾五人 滝沢刑部少輔 六拾人 打越源太郎 六拾人
四番 最上修理大夫 六千六百人
右之外出羽守之召連候分ハ最前被仰出候、
   (中略)
都合弐万六千五拾人
   慶長六年八月廿四日   家康朱印
    右是ハ景勝国替之時寂上出羽守ニ被下候書付、
当然ながら上杉景勝方に付いた小野寺義道の名はありません。岩屋朝繁の名が無いのは先の滝沢又五郎との訴訟騒動が関係しているのでしょうか。
…石高に対して秋田実季の動員数が少ないのが気になります。戸沢政盛が2,500人に対して650人…。つまり、この動員数は石高が反映されたものではない…ということでしょうか。
(史料40)
尚以御鷹侍屋之儀、七月十日ニ被為上候由、被入御念候通御父子様へ可申上候、以上、
寄思召御懇札忝拝見仕、仍春中御上洛被成、於伏見御仕合能御座候而、御満足被成候由目出度奉存候、然共御国御在所ニ火事出来申ニ付而、御下向被成御普請等被仰付候由、大納言様へ披露仕候処ニ、尤此地へ之儀者不苦候間、伏見少々可被任御指図ニ之旨、御意候如蒙仰候、御国替付而御知音之各当地へ御越被成候条、是ニ而申談儀共候、委曲令期後音候、恐惶謹言、
   (慶長六年)九月五日      本多佐渡守 正信(花押)
      岩屋右兵衛様(朝繁)
岩屋朝繁は持前の外交力により、本多正信、本多忠勝、榊原康政等と誼を通じ、後に最上義光家臣としてですが由利郡にその身を残しました。それに比べて秋田実季、仁賀保光誠、打越左近、赤尾津孫次郎等は上杉方与同の嫌疑が掛りました。最上義光はこれ以前、秋田実季の動向を嫌疑の目で見ていましたが、上杉家の移封後、本多正信と組み秋田実季を上杉方であるとして告発してきました。本当はこの告発は上杉景勝や小野寺義道に対する仕置以前でしたが、上杉景勝移封迄は波風が立たない様な政治的配慮が成されていました。ですので上杉景勝移封後は再び秋田実季西軍与同の問題はクローズアップされる事になったのです。
無論、当時の書状をみるに秋田実季が徳川方である事は明白です。しかしその動向は自家中心的で、山形城の手前まで攻め込まれて危急存亡の秋に陥った最上義光には、のらりくらりと出兵しないでいる秋田実季を敵であると信じて疑いませんでした。
さて、秋田実季は江戸表の大久保忠隣邸にて老中や最上義光相手に反論することになっていましたが、徳川家康は忍へ鷹狩に行き、それ所か肝心の最上義光も現れず、家臣の坂紀伊守が代理としてやって来ました。
実は最上義光はこの時徳川家康と共に鷹狩りに行っていて、この対決は幕府老中と坂紀伊守による尋問その物でした。この時仁賀保光誠・赤尾津孫次郎・打越左近は榊原康政により出廷を命ぜられます。最上義光の臣坂紀伊守はその場で仁賀保光誠を西軍と通じていたのではないかと指摘します。仁賀保光誠はこれに返答をしませんでしたので、秋田実季には西軍与同の嫌疑が掛りましたが、秋田実季がうまく取り繕った為その場は取り敢えず収まりました。秋田氏側からの資料ですので、現実はどうですかね。
仁賀保光誠等は確かに血を流して戦いましたが秋田実季はのらりくらりとして居ただけです。 …ま、兵は貸したのでしょうがね。結果として、彼らの嫌疑は晴れましたが、秋田実季・仁賀保光誠・打越左近の3名は先祖伝来の地から常陸の地に移封される事になりました。これは懲罰的なものではなく、佐竹氏の移封と最上氏への領土割譲の余波を受けたものですね。特に仁賀保・打越の両名に関しては、この後、小大名として色々な幕府方の役職についている事からして、普通の転封だったのでしょう。
こうして由利衆の関ヶ原の戦いは終りを告げました。
5-10 仁賀保氏の帰趨
慶長7年5月、由利郡は最上義光領となる事となり、仁賀保光誠等は領地替えを言い渡されました。由利衆5人の内転封を言い渡されたのは仁賀保光誠と打越光隆の2名のみで、岩屋、滝沢の両氏は最上義光の家臣となって由利郡に止まる事となりました。仁賀保光誠は常陸武田5000石(現行方市武田)、打越光隆は同国新宮3000石(同麻生)を拝領しました。もしかしたらこの高は貢租高なのかもしれません。なお、常陸武田を「ひたちなか市」の武田と誤解している人が多いようですが、そこは水戸藩領です。
両者とも小大名的な物としてあつかわれており、仁賀保光誠が常陸武田で支配した村は長野江村、穴瀬村、金上村、帆津倉村、成田村、小貫村、次木村、山田村、中根村、繁昌村、吉川村、内宿村、南高岡村などで、打越光隆の領土は天掛村、籠田村、新宮村の3ヶ村のようです…が、ほかの研究者より「違うよ」って言われまして、ここは確認が出来ていません。後で確認しまーす。
何れ現在の行方市の辺りの一部に領土を貰ったわけです。
関ヶ原の戦の後啀み合った岩屋と滝沢の両氏は、滝沢又五郎は陪臣ながら滝沢1万石、岩屋朝繁は岩屋2,360石で、両氏共最上義光に優遇されたといえますね。
ただ、両者の最上家内での扱いは差があった様で、滝沢氏は1万石で陪臣ながら城持ちの大名、その滝沢又五郎といざこざを起こした岩屋氏はただの由利の一領主として最上氏に格付けされている様です。…分限帳にも出てこない所を見ると、岩屋朝繁は単なる客将扱いだったのでしょうかね。…色々考えましたが、城主格でない事は確かな庸です。最上氏は名門でありながら意外に譜代の家臣が少なく、さらに関ヶ原の戦の後に領地が倍増したため人材不足となり、滝沢氏・岩屋氏を起用したようです。由利衆、若しくはその家臣筋でこの時最上義光の被官になった者は非常に多いです。さて由利5人衆の内で帰趨が問題なのは小介川氏です。一説に拠れば、常陸の谷田部(鹿島郡、茨城郡、下妻市、筑波郡いずれの谷田部か不明)に転封されて、慶長18年に勘気を被って改易されたといいます。ですが由利衆の内常陸に転封された仁賀保氏と打越氏がいずれも行方郡に封ぜられ、しかも隣接してその領地を貰っていることから考えれば小介川氏のみ離れた所に領土を貰ったとは考えづらいですね。結論から言えば、小介川氏は関ヶ原の戦いの後、…慶長6年末から同7年5月迄の間に何らかの理由で改易、若しくは断絶したものと考えられます。最上氏側の資料によると、慶長7年、由利郡が最上義光領となると、最上義光は仁賀保の山根館に神保五郎左衛門・中沢新右衛門を、小介川氏の荒沢館には藤田丹波等を城代として派遣しましたが、由利郡全土に大規模な反最上の国人一揆が勃発して、城代以下肝煎迄討死したと伝えられます。一部の小介川氏関係の系図では「…楯岡豊前守満重、与彼相戦及数回、然不得勝利、一家皆流浪…」とあります。
もしかしたら小介川氏は転封に反対で、改易若しくは蟄居の状態で起死回生の一揆を勃発させて最上氏の臣楯岡満茂に討たれたものでしょうか。
江戸時代中期の宝暦年間、小介川氏の菩提寺の真覚山光禅寺が廃寺になっていたのを再興する時の記録に拠れば、小介川氏は「天正年中一族皆亡ヒ名跡共ニ断絶仕候」という状態だったようです。いずれも伝説・伝承・推測の域を出ず、小介川氏の帰趨は不明ですが、「最上義光分限帳」を見ると「小介川与兵衛」「小介川肥前」といった様な小介川一族であろうと考えられる者が最上義光に使えている事が分かります。何れにしろ諸系譜に「赤宇曾離散」と伝えられる様な一族郎党の離散があった事は確かでしょう。
小介川氏は歴史の中から姿を消し、変わって最上義光の重臣楯岡豊前守満茂(湯沢、赤尾津、本城などの姓を称し、時には由利豊前などとも呼ばれるがいずれも同一人物です)が赤尾津に入り赤尾津豊前守を称し、由利郡の大半の4万5千石を領しました。個人的に、想像ですが、小介川氏の家督を楯岡満茂が継いだために小介川氏は消滅したのではないでしょうかと考えていたりして。さて、仁賀保光誠は表高3716石から5千石への転封でしたが、以前に考察した如く仁賀保氏領は1万2千石以上はあったであろうと考えられますので、現実には減封でした。とはいえ、拒否もできないでしょうしねぇ。仁賀保光誠が仁賀保郷を去る事になりますと、仁賀保氏の家臣団は2つに割れました。仁賀保光誠と共に常陸武田に移住した者と、仁賀保郷に残り帰農もしくは新領主に使えた者です。
仁賀保郷残留組は大抵領土を持った従属国人領主達でした。例えば元々は独立領主で後に滝沢氏の与力か仁賀保氏の被官となったらしい潟保氏は、そのまま潟保郷に残り新領主の楯岡満茂に使えました。前述の「最上義光分限帳」には潟保出雲が200石取の武将として出てきます。また、同時期に潟保紀伊守という者が潟保郷の肝煎である事が確認されます。恐らく、潟保氏は武士系と農業系の2氏系統に別れたのでは…と思います。彼等は最上氏が滅びると帰農します。
同じく元々は国人領主で後に仁賀保氏の郎党になった根井氏は、仁賀保氏が常陸へ去ると帰農します。また仁賀保氏の旗本衆の一人で矢島八森城の城代であった境(酒井)縫殿助は楯岡満茂に仕えて矢島村と木在村を宛行われており、芹田伊予、池田豊後等も楯岡満茂に取り立てられた様です。彼等はいずれも最上氏滅亡後は帰農しています。
また、由利衆の多くはこの期に最上義光に仕えました。石沢左近は200石で最上義光に召し抱えられ、最上氏が滅びると由利郡を去ります。仁賀保光誠は領土は常陸武田にあり、恐らく江戸と常陸の2重生活であったでしょう。特に江戸には旧領仁賀保の菩提寺禅林寺より和尚を勧進して寺をつくりました。これは正山寺というお寺でして、今も現存しております。
このお寺は現在は小さな寺で、港区三田にあります。当時の面影…があるかは解りませんが、仁賀保家の名残は残っておりました。
左が正山寺の開基の位牌、右の卵形墓に仁賀保家の家紋がついております。…ちょっと毛利氏の家紋になっておりますが。因みに仁賀保家の家紋は一文字三ツ星ではなく、箱一文字三ツ星です。位牌の右側は仁賀保光誠の、左側は恐らく仁賀保光誠の正妻の戒名でしょう。…北条氏直家臣の田村掃部の娘と伝わっております。田村掃部?誰だ?。
5-11 江戸時代初期の仁賀保家の動向
さて慶長19年、この年の末に起こった大阪の冬陣の折りには仁賀保光誠は「御跡備」として出陣しています。
(史料35)
番手組合之次第
壹番
酒井左衛門尉  松平甲斐守  松平土佐守  小笠原若狭守  禰津小五郎 水谷伊勢守 仙石兵部少輔  同  大和守  相馬大膳大夫  六郷兵庫頭
貳番
本多出雲守  真田河内守  浅野妥女正  松下石見守  植村主膳 一色宮内少輔 蜂須賀摂津守  秋田城介
   (中略)
御跡備
   (中略)
本多佐渡守  同 大隅守  立花左近  同 主膳  前田大和守  日根野織部 藤田能登守 菅谷左衛門  那須衆  津金衆  秋元越中守  由利衆 南部信濃守  酒井出羽守 右番手組合之書付所持仕候、御書付之趣、委細実否之儀如何ニ御座候得共、書付差出申上候、以上、
   八月十六日      秋元摂津守
翌年の大坂夏の陣では仁賀保光誠は淀城を三宅康盛と共に守備することになりました。更に元和2年3月には伏見御番として伏見城を守る事になりました。
(史料41)
今度伏見之為御番願上申候、若相者て申候ハハ五千石之所者とらの助にゆつり申候、若此者志に申候ハハ竹千代ニゆつり申候、此由年寄衆へ承知可申上者也、
   元和二年たつ三月十六日      とらのすけ たけちよ 花押
      右のかたへ
(史料42)
今度伏見之為御番願上候、若我にあい者て申候共五千石之内を以千石之所者右之内七百石をとらのすけニゆつり申候、三百石を別て竹千代ニゆつり申者也、両人ニ一人志に申候共残り一人ニ相渡し申者也、両人あい者て申候とも右之内五百石者女共ニゆつり申候、即此書物を以御年寄衆へ承知可申上者也、
   元和二年たつ三月十六日      とらのすけ たけちよ 花押
      右のかたへ
(史料41)(史料42)に見える「とらのすけ」は仁賀保誠政、「竹千代」」は仁賀保誠次の事で、仁賀保光誠の2男と3男です。「とらのすけ」で思い出されますのは加藤清正、「竹千代」は言わずと知れた徳川家康ですね。仁賀保光誠は子供らに彼らの様な名将になって欲しかったのでしょう。…これを見る限り仁賀保光誠は「智将の派閥」の人ではなく武断派の人だったんでしょうね。
さて、この時仁賀保光誠が命じられた伏見御番とは後の大坂城代、大坂定番に繋がる重要な職でした。これ以前の元和2年2月25日、松平忠実は徳川家康より伏見城を守る様に命じられており、仁賀保光誠は松平忠実と共に伏見城を守る様に命ぜられたものではないかと考えられます。
翌元和3年には後の大坂城代内藤信正や西郷正員も伏見城番を命ぜられ、仁賀保光誠を含む4人は元和5年迄伏見城番を勤めておます。同年に福島正則の改易に端を発した西国の大名の大転封があり、仁賀保光誠等は軍役として「根小屋」番をしています。…根小屋???どこの根小屋???。…東海道線上なんでしょうけど。
徳川幕府の創世期のこの頃、仁賀保光誠は5,000石ですが旗本ではなく大名的な扱いをされていたと思われます。彼は伏見御番・大坂御番(大坂定番の事か)として配置されていますが、これらの職はいずれも1〜2万石程度の小祿を食む大名の職で、仁賀保光誠がこれらの職に就いていたという事は大名として認知されていたという事でしょう。
この頃の仁賀保光誠の財政を知る史料があります。仁賀保光誠死後、誠政・誠次の2人が仁賀保蔵人の非法を幕府に訴えた、「寛永3年4月2日付の幕府宛仁賀保内膳・同内記嘆願書」です。これによれば、「…兵庫頭(仁賀保光誠)大坂御番ニ罷登申刻又出羽へ罷下刻拙者はゝを口入ニ立借金仕候、兵庫出羽へ罷下時分申やうに者、商物成を以借金返弁可仕由申にて、則亥ノ年ノ物成納候て借金之方ニ指置申候処ニ、兵庫ほとなく相果申跡敷を蔵人ニ被下候間、金主蔵人所へ催促仕候へ共一圓合点不申候間、金主拙者所へ円さいそく仕候、右之借金之外ニ先知行も物成兵庫遣申候分、出羽より金子為上可申者ずに仕候処、先知行所ハ皆川志摩守拝領被申候間、志摩守所より蔵人方へ先納さいそく御座候ニ付、蔵人拙者はゝを頼申候て借金仕右之先納ニ済し候て其金子をも不済申候而拙者所へさいそくを請迷惑仕候…」というふうに仁賀保光誠の常陸武田での財政は長年の上方での軍役で火の車であり、借金取りに追われるような状況であった様です。しかも数年先の収穫まで借財し、もはや仁賀保光誠の常陸武田藩の財政は破綻していました。
元和8年、出羽国では最上家は改易、その内由利郡には釣天井事件で宇都宮15万石を召し上げられた本多正純が5万8千石で入部しましたが、半年程で改易され千石で出羽大沢郷に配流されました。この結果、最上氏家臣として由利郡に住み続けた滝沢・岩屋の両氏も又改易となります。岩屋朝繁は最上氏が改易になった後、常陸の秋田実季の下に行き、その後出羽に帰郷して佐竹氏の家臣になりました。滝沢兵庫頭は『由利町史』によると最上氏改易後家を再興すべく色々幕府に働掛けたが果たせず、仁賀保氏の客分となり「鼻紙料」として五十石を貰い、仁賀保氏領平沢の龍雲寺で悶々とした日々を送りそこで死んだそうです。
仁賀保光誠は改易された由利衆を自分の領地に引き取っていた様です。上記の滝沢氏もしかりですが、『梅津政景日記』には「玉米之七兵衛與申者妻子塩越へ引取…」としています。
元和9年7月頃、仁賀保光誠は大坂御番を命ぜられ大坂に赴きました。前年に改易された最上家の重臣である鮭延秀綱は土井利勝に御預けの身となっていました。この鮭延秀綱は御預けの身の間に、土井利勝と何かと話す機会があった様です。鮭延秀綱は関ヶ原の戦の折りの出羽庄内戦の仁賀保光誠の奮戦の模様、徳川家康に感状を貰った事などを土井利勝に話しました。それを聞いた土井利勝が徳川秀忠に話した所、徳川秀忠は最上家・本多改易後の由利郡に仁賀保光誠を戻そうと考えたらしく、大坂御番となって2ヶ月程の仁賀保光誠を急遽江戸に呼び戻しました。仁賀保光誠は酒井忠世・土井利勝に会い徳川家康に貰った感状を差出すなどした結果、旧領仁賀保に1万石を賜り、仁賀保と出羽庄内の境の三崎山を守る事となりました。なお同時に由利衆の内、仁賀保氏と共に常陸に転封された打越氏が3000石で矢島に入部いたします。
元和九年仁賀保高改
高百三十石一斗四升       小砂川村
高六百三十六石七斗五升     塩越村
高九十九石九斗三升二合     関村
高百六十二石七斗一升      中ノ沢村
高百十七石九斗五升       新井ガマ
高二百二石七斗四升八合     川袋村
高三百十五石六斗八升四合    大竹村
高二百二十三石九斗二合     長岡村
高百十二石二斗二升四合     中野村
高九十一石六斗六升二合     三十野村
高八十一石九斗三升八合     伊勢居地村
高七十五石九斗六升八合     寺田村
高四十一石二斗七升二合     大飯郷村
高二百二十一石六斗九升     畠村
高五百八十五石一斗五升二合   伊勢居地村
高百六十二石九斗六升四合    石田村
高五百八十五石一斗五升二合   小国村
高百三十一石二斗三升六合    浜杉山村
高三百三十石五斗九升八合    赤石村
高七百八十一石八斗九升三合   黒川村
高六十八石三斗五升二合     鈴村
高三百二十五石七斗九升一合   田抓村
高百八十二石一斗二合      平沢村
高四百四十石三升六合      大砂川村
高二百五十三石六斗八升四合   大須郷村
高二百六十六石五斗二升八合   横岡村
高三百九十二石七斗三升二合   小滝村
高百十二石七斗五升四合     立石村
高百三十二石七斗八升二合    樋ノ口村
高百石四斗五升         中村
高二百二十八石三斗二升六合   三日市村
高百十三石五斗         百目木村
高四十九石七斗四升       下小国村
高五十二石二斗五升八合     馬場村
高四百五十六石一斗四升六合   院内村
高百十八石八斗九升八合     新屋敷村
高三百十四石八斗九升      前川村
高百二十四石一斗九升四合    金浦村
高八百十四石九斗五升      芹田村
高四百三石七斗四升九合     三森村
高七十三石六斗八升五合     長磯村
高二百十八石六斗六升八合    本郷村

高合計 壱万七百石  この内七百石は主馬分
右之高辻村々の百姓指出を以相究書渡申候
為後覚之如斯御座候        以上
   元和九年霜月廿一日   曾根源蔵
               坪井金太夫
      仁賀保兵庫殿
       同 主馬殿
余談ですがこの時、幕府は仁賀保光誠に1万石を与える外、仁賀保主馬宗俊…この名も野史によるもので確認できないっス…を別家として独立させ、仁賀保郷の内で700石の知行を宛行いました。仁賀保主馬領は横山新田村、大砂川村等数ヶ村だったようです。この主馬宗俊の700石の知行は当座の事で、後に改めて御取り上げがあるとの事でしたが、宗俊は寛永5年(1628)に死亡して700石は上がり高となり、仁賀保宗俊御取立ての話は無くなってしまいました。
仁賀保光誠が仁賀保1万石を拝領し、仁賀保郷の内の塩越に下向したのは12月頃だったと思われます。しかし光誠は翌寛永元年(1624)2月24日に64歳で塩越城にて亡くなりました。
『梅津政景日記』によれば梅津政景は3月5日にこの報を聞いています。光誠は仁賀保郷に復帰する為に奮闘し、そして力尽きたといった感があります。
室町時代から明治まで、同じ領地で命脈を保った大名は幾程あるでしょうか。それを思うと仁賀保氏は一時的に仁賀保郷から転封しましたが、良く命脈を保ったものと感心いたします。  
 
6.仁賀保光誠の子供たち

 

6-1 仁賀保光誠の家族
仁賀保光誠には4男2女がいたとされています(4男とされる仁賀保主馬を光誠の弟とする向もありますが、4男であろうとの方向性で話題を進めます)。
6-2 仁賀保光誠の妻
仁賀保光誠の妻として記録に残っているのは北条氏直家臣の田村掃部の娘であるとされていますが、彼女は光誠の後妻…か側室…と考えられます。「仁賀保家文書」の中の仁賀保誠政・誠次の嘆願書の中に、「蔵人拙者はゝを頼申候て借金仕」という一文が有り、最低、蔵人の母と誠政・誠次の母が違う事が推察されます。彼女の事を仮称ですが、「蔵人母」として置きます。
蔵人母は生没年不明ですが、光誠が永禄4(1561)生まれで仁賀保家を継いだ天正13(1585)年頃には25歳、当然結婚してるだろーし、私は諸般の事情から彼女は永禄5〜10年頃の生まれなのでは?と考えます。
…もしかしたら三田正山寺の開基の位牌と共に刻まれている「宋泉院殿仁挙羪和大姉」という方が彼女なのかも知れません。次に仁賀保光誠の妻として記録に残るのが田村掃部の娘です。没年齢は解りませんが、
1.光誠没後40年強長生きし、寛文7(1667)年に亡くなっている事、
2.慶長6(1601)年に誠政が生まれている事
3.仁賀保家と北条氏との関わり合いは天正18(1590)年の小田原攻め以後である事
から鑑みると、彼女は若くても天正5〜7年前後の生まれで、90歳前後で亡くなったと考えられます。戒名は「常徳院心窓貞明大姉」と伝えられます。
私は北条氏直の家臣に田村掃部を見つけれないでいたので、北条家家臣というのは眉唾かな?と考えておりましたが、光誠の長女の嫁ぎ先が旗本本田正次(慶長10年、1605生)、次女が鹿嶋惣大行事の鹿嶋胤光でして、両名とも元北条氏の家臣で千葉氏傍流国分氏の出身です。千葉・国分両氏とも北条氏直の家臣である事から鑑みれば、田村掃部なる人物、国分氏の流れを汲む人物でしょうか?。
このほかにも側室などはもっといたでしょうなあ。
6-3 仁賀保光誠の子
長男の蔵人は文禄2(1593)年生れ、次男の誠政は慶長6(1601)年、3男の誠次は慶長13(1608)年の生まれです。長女・次女の年齢は解りませんが、両者とも常陸生まれであるとされていますので、慶長7年以降の生まれであり、誠政と誠次の間か誠次の妹になると思います。
仁賀保光誠が伏見御番として上方へ登る時、光誠自身は55歳、蔵人は23歳、誠政は15歳、誠次は8歳でした。末子?、蔵人母の2番目の子?である主馬は早くから独立、若しくは家臣筋の仁賀保氏を相続していて、他家の人となっていました。
光誠の長男…嫡子…とされる蔵人の実名は、系図上「良俊」若しくは「晴誠」とされています。 多くの場合は「良俊」とする系図が多いようですな。ですが、実際は官職名である「蔵人」は確認できるのですが、「良俊」とされる名については確証が取れません。この名の初見は『奥羽永慶軍記』です。同本では何故か…おそらく赤尾津道俊の弟だから勝俊という名をつけたのでしょうが「道俊」は法名と考えられます。…仁賀保光誠は「勝俊」、そして蔵人が「良俊」となっております。…当然、良俊の名は勝俊の子だから…という事で創られたものでしょう。
対して「晴誠」と言う名ですが、『系図纂要』「諸家系譜」に出てきます。出典的には「良俊」名より新しいのですが、これはどうやら仁賀保200俵家に伝わった名前の様です。「諸家系譜」を見る限り、仁賀保200俵家は仁賀保蔵人の家を継ぐ形で成立したことが分かります。その200俵家に伝わる名前ですので、もしかしたら…と考えれますな。
光誠の次男誠政と3男の誠次、長女・次女は後妻…もしくは側室…の子である田村掃部の娘との子だと考えられます。仁賀保蔵人は側室の子である誠政・誠次の兄弟と仲が悪かった様です。彼らの行く末を案じた仁賀保光誠により、(史料41)(史料42)にある如く、元服前の次男3男に分知の遺言状を残しております。
…しかしなんで2通、遺言状を認めたんでしょうね?。しかも片っ方は全部2男・3男にくれるという内容で、片方は1,000石のみ2男・3男にくれるという内容です。(史料36)の通りであれば蔵人は領土が無くなってしまいます。思うに、この時蔵人は23歳です。もしかしたら光誠が持つ領土の他に蔵人は別に領土を保持していたものでしょうか。…つーか、その可能性が高いですね。
も一つの可能性とすれば、あまりにも蔵人がアホなので、蔵人が救いようがなければ、2男・3男に全部、救いようがあれば3分轄とする気だったのでしょうか。…さてさて。
なお、仁賀保光誠にはもう一人子供が居た様です。これは慶長5年10月〜翌4月と推察される(史料36)中では「御様子委此御地に奉待上候、追々以忰…」と倅が一端の武将として働いている事が見えます。一端の武将として働くという事は、この倅が15歳程度にはなっていたと考えられます。蔵人はこの時点で8歳、全然あてになりません。
これから考えると、蔵人の上にもう一人子供が居て、早い内に没した…か、他家に養子に行ったか…と考える方が妥当という物でしょう。仁賀保光誠の「忰」は天正13(1585)年よりは前の生まれと考えられます。それから推察すると天正5〜7生まれと考えられる田村掃部の娘が彼の母である可能性は相当薄いと思います。蔵人母が仁賀保光誠の「忰」を生むためには、彼女の生まれが永禄末〜元亀の辺りの生まれでないと厳しいと思います。
これが当初の蔵人母が永禄年間末の生まれであろうと推察した根拠です。
良俊も同様ですね。蔵人母と田村掃部娘が同一人物だとして、天正5年生まれだと仮定すれば文禄2(1593)年に彼を生むのは可能でしょうが、90歳前後の超長寿で亡くなられたことになります。あり得ない事ではないのでしょうが、無理がありますね。蔵人母は「忰」と蔵人を、田村掃部娘は誠政・誠次・長女・次女を生んだと考えた方がすっきりします。
蔵人は次男ですね。仁賀保光誠の長男「忰」は早い内に没したのでしょうなあ。  
 
7.仁賀保氏のその後

 

仁賀保光誠の死後、その遺領は遺言により兄弟3人で分割する事になりました。
家督は年長の蔵人…俗に良俊と言われる人物…が継ぎましたが、彼は余り評判芳しからぬ人物だったようです。仁賀保光誠は良俊の器量に疑問を抱いていたものと推察されます。彼は元和2年と9年の2回に渡って遺言状を造り、兄弟3人で分割する事を遺言しています。
果たせるかな仁賀保光誠の死後、良俊は父の遺言を無視し仁賀保領全部を横領せんとしました。次男誠政と3男誠次の兄弟を屋敷より追い出し、更に父の光誠が後見役として3男の誠次につけた家臣の成田茂助を刺客にて殺しました。対して誠政・誠次は兄の良俊の不法を柳生但馬に訴え出ます。
通常であれば家を取り潰しされてもおかしく無いような御家騒動ですが、結果的には幕府の裁定により遺言通り仁賀保家は3分割される事になりました。
長男の良俊領は現在のにかほ市象潟地区・金浦地区・小出地区の大半・平沢地区の一部で7000石、次男の誠政は平沢・院内・小出地区の一部で2000石、3男の誠次は平沢・院内地区の一部で1000石と分けられました。良俊はそのまま象潟の塩越城を本拠地とし、誠政と誠次は平沢の平沢館に陣屋を築きました。…元々あった中世城館を利用したと思われますが。…
3分割されて7,000石の身になった仁賀保良俊ですが、彼は仁賀保藩の藩主として大名扱いだった様です。『梅津政景日記』によれば、江戸と仁賀保両方から佐竹義宣に対して使者を出しています。という事は参勤交代を行っていた訳です。
寛永3年4月8日、家督を継いだばかりの仁賀保良俊は初めて佐竹義宣邸を訪れました。家督相続の挨拶でしょう。佐竹義宣はこれを供応し4月19日には佐竹義宣は先日の来訪の返礼に仁賀保良俊邸を訪れています。
さて、仁賀保氏と打越氏は江戸時代も30年が過ぎたこの時期になっても、由利衆として交流があった様です。恐らく本家・分家的な付き合いであり、もしかしたら血縁的にも近い関係だったのかも知れません。仁賀保良俊と打越左近は寛永7年7月1日に2人で佐竹義宣邸を訪れています。この時までに仁賀保良俊は官職名を「蔵人」から「兵庫」に変えています。恐らく仁賀保家の家督を相続、我こそは仁賀保家の嫡流との意識の現れでしょう。
仁賀保良俊は寛永8年の7月9日にも、仁賀保郷から秋田の佐竹義宣に対して使者を遣わしています。これは義宣の弟の葦名義勝が没した事について梅津政景に追悼の使者を遣わしたものです。使者の名前は杉村六兵衛といい、佐竹義宣は仁賀保良俊に対して直に礼状を遣わしました。使者には「御帷子」3つの内1つを与えました。梅津政景が直に渡したそうです。良俊はこれに対して葦名義勝の香典として銀子3枚(贈答用の銀1枚は43匁有ったそうです。銀子3枚で26万円程度でしょうか。大盤振る舞い!)送られたが、梅津政景はそれを香典返しとしてすぐに返し、その旨を佐竹義宣に伝えました。佐竹義宣は仁賀保良俊の使者の宿舎の料金を負担し、本荘迄送らせたそうです。
その仁賀保良俊は寛永8年に嗣子無くして死亡、仁賀保7,000石家はここで無嗣断絶となりました。打越氏も同じく寛永11年に無嗣断絶となりました。中世を通して出羽由利郡に領土を持っていた由利衆は仁賀保氏の庶流2家を残すのみで全て由利郡より退伝してしまったのでした。
さて、元由利衆で慶長7年に最上義光の配下となり、最上家改易と共に浪人となった者達は、元和9年に仁賀保光誠が仁賀保郷に復帰すると、暫くは仁賀保光誠の下で養われていたようです。
関ヶ原の戦の後、石見に流罪になった小野寺義道は、異国の地で遠い故郷に思いを馳せて居ます。仁賀保光誠死後の仁賀保を「仁賀保相果候其あとをハたれ人のとられ候や」と仁賀保光誠領の行く末を案じ、「玉舞・滝沢又五郎なとハ何と成候哉」と彼等の身の上を案じています。互いに敵対し戦いあった仲ではありますが、それも今は昔の物語、小野寺義道もその書状の中で出羽の事を「返々なつかしく存候」と懐かしんでいます。  
 
8.仁賀保氏の家臣達

 

戦国時代〜江戸時代草創期
仁賀保氏には譜代の家臣と従属国人領主、そして一門衆などがいました。その支配は強固なものではなく、各自ともかなりの自由があったとみられます。仁賀保氏の譜代の家臣といえば、まず菊地・布施・土門・小松の4氏が挙げられます。これら4氏は仁賀保氏の祖の大井友挙について信濃国から下向してきたと伝えられます。いわゆる譜代の家臣ですね。
まずその中の菊地氏ですが恐らく信州よりの移住組と思われます。菊地氏の中で史料に登場する人物が何人かいますが、慶長年間に登場するのが菊地吉三と言う人物です。彼は仁賀保氏の木材献上の奉行をしています。また恐らくこの菊地氏の一族でしょうが、関ヶ原の戦いの時に庄内戦で討死した者もいます。
更に菊地薩摩という人物が仁賀保良俊の7,000石家の家老職にありました。
この7000石家の家老であった菊地氏は、7,000石家改易の後、帰農した者と庄内酒井氏の家臣になった者が居るようです。帰農した菊地家は現在も仁賀保郷に住み続けています。
同じく小番大学という人物も仁賀保7,000石家の家老として登場いたします。小番という苗字からすると元は矢島満安の家臣の流れを汲む者でしょうか?。彼も仁賀保7,000石が改易になると帰農したそうです。また、諸本によると関集落の須田氏も信濃国よりの下向組であるといいます。
その外文書等に見える成田氏(成田茂助)や、菊地氏と同じく奉行をしている伊津氏(伊津藤右衛門)、島田氏(島田正右衛門清吉)、寛永3年に仁賀保兵庫(これは良俊と推察される)家中の者と記載されている菊地薩摩と共に検地奉行わしている梶原六左衛門なども仁賀保氏の旗本衆や直臣衆だと考えられます。特に伊津氏・小番氏でありますが、矢島氏の領土であった地区に多い氏名です。恐らく元々は矢島氏の家臣で、後に仁賀保氏に使えた一族でしょう。いずれこれら仁賀保氏譜代の家臣衆は仁賀保家の寛永元年から3年にかけての御家騒動、及び家督を継承した7,000石家の改易と共に姿を消します。その多くは諸国に散ったか帰農したものと考えられます。仁賀保氏の祖の大井友挙が仁賀保郷に入部した後、大井友挙はそれまで仁賀保郷やそれ以外の地に割拠していた国人領主達を従属させ、自らの家臣団の中に組み込んでいった様です。
従属国人領主とでもいいますか。仁賀保氏家臣団の中に散在する集落名を姓に持った者達がこれに当たります。彼らは非常に独自性の強く、自主的行動にて自家の利益になるので仁賀保氏に付いていました。ですので仁賀保氏家臣と呼ばずに、敢えて従属国人領主と私は呼んでいます。これらの氏族の多くは、関ヶ原の戦いの後仁賀保光誠が常陸武田に移封になった折にも、仁賀保郷から動かず新領主に仕える…若しくは帰農するといった、極めて在地性の強い者達でした。彼らの代表的な者としては、まず重臣的な地位に居たらしい芹田氏(芹田伊予守)や、馬場(もしかしたら豊島氏で馬場…今の冬師…に住んでいたので馬場氏を名乗ったのかもしれません)氏(馬場四郎兵衛)を筆頭にして、赤石氏(赤石与兵衛)、黒川氏、塩越池田氏、横岡氏等がいた様です。
例えば芹田氏は言い伝えによれば仁賀保郷に古くから居た国人領主ですが、仁賀保氏が仁賀保郷に入部するとそれに従属したようです。仁賀保光誠が常陸武田に転封になると仁賀保光誠には従わず、仁賀保郷に残って最上義光の家臣になりました。
芹田氏は当主として永禄から天正にかけて芹田伊予守という人物が存在し、その子の右馬助(渡辺姓)が最上義光の家臣になった様です。渡辺右馬助は100石を宛行われています。また彼は最上氏改易後に帰農しています。なお、芹田氏にも本家・分家があったと見え、芹田氏の一派は最上氏改易後、佐竹氏の下に赴き、家臣になっています。彼等従属国人領主層の特徴は、江戸時代になると同じ家で武士と在地(地主百姓)に分かれる事です。また、仁賀保氏の家臣で矢島八森城の城代であった境(酒井)縫殿助は楯岡満茂に仕えて矢島村と木在村を宛行われており、池田豊後等も楯岡満茂に取り立てられた様です。また、院内村の有力国人の佐藤氏も帰農しています。赤石氏は佐竹氏に仕えた様です。さらに仁賀保氏に仕えた国人領主の中には、元々は矢島郷の国人領主で、矢島満安の滅亡後、仁賀保光誠に仕えた者達がいます。この者達は仁賀保郷の国人領主達より更に独自性が強く、ほとんどが矢島郷に残り帰農した様です。
同じく由利衆の一員の根井氏は、矢島満安滅亡後仁賀保光誠に属しました。「仁賀保家文書」の中に根井氏宛の豊臣秀吉知行宛行状がある所をみると、根井氏は仁賀保氏の騎下だったことは間違いないでしょう。その根井氏は仁賀保光誠が常陸に移封になった時に帰農します。同じパターンであるとすると、打越氏も仁賀保氏の旗下にあったと解釈するべきでしょう。何故、常陸に移った時、隣り合わせの領土になったのか。仁賀保氏が旧領仁賀保へ転封になった時、打越氏もセットで動いたのか。
また、その時の打越領と仁賀保領を併せると、豊臣時代の仁賀保氏領とほぼ同じ領土になるなど、考えるべきことが多いと思います。…もしかしたら仁賀保光誠は打越氏に自分の領土を切り裂いて渡していたのかもしれません。また、仁賀保氏の家臣団には、中世末期から近世初頭にて領地を失った者達が寄食していた形跡があります。院内村の三浦氏は初代を三浦与惣兵衛といい、相模の三浦氏の一族であるといわれます。仁賀保氏の客分として山根館に住み、慶長7年に仁賀保氏が常陸武田に移封になったおり、院内村に居を移したと伝えられます。そういえば光誠の妻も後北条氏の家臣筋だっていうし…。
他にも滝沢氏の一族も仁賀保氏の元に寄食していたきらいがあります。寛永2年2月13日付の小野寺義道の書状には「猶々油利仁賀保相果候、其あとをハたれ人のとられ候や返事ニ承度候、玉舞・瀧澤又五郎などハ何と成り候哉」という一節もあり、もしかしたら両者は仁賀保家に寄食していたのかも知れません。この文書が出された前年の2月24日に仁賀保光誠が没し、この文書が出された当時は仁賀保家では長男の良俊と次男・三男の誠政・誠次との間で家督相続に絡む御家騒動が起きていました。参考までにですが諸系図などによれば、滝沢氏の当主が最上家改易後江戸に上っていた事や、玉米氏の子孫が改易後上京した事が知られています。江戸の活動拠点は仁賀保家の屋敷だったのでしょうかね。滝沢氏に至っては後に平沢で50石の捨扶持を仁賀保光誠に貰っていたと「系図」は伝えます。これらの諸氏は7,000石家の改易の後に本荘藩に仕えたものでしょうか。その外さらに仁賀保氏の家臣には一門衆がいました。文書等により仁賀保信濃守、仁賀保宮内少輔(仁賀保家五代目の宮内少輔重挙とは別人)、仁賀保伯耆守(仁賀保家初代の伯耆守友挙とは別人)等が確認され、子吉氏や芹田氏も近い親類と思われます。天正17年5月23日付仁賀保信濃守宛安東実季書状によれば、彼等は個人で動かせる兵をかなり多く持っていたようです。仁賀保氏に於いては、天正末期にても今だ「惣領制」が機能していたと思われる節があります。それは多くの東国の戦国大名と同様に、正18年の太閤検地・刀狩・城割による国人の中世的村支配の否定迄続いたと私は考えます。仁賀保氏はこの秀吉の奥州仕置以降強制的に近世大名に脱皮したと思われます。
以上を整理しますと、仁賀保氏の家臣団は
1.信濃衆
2.従属国人衆(仁賀保氏本領)
3.従属国人衆(征服領)
からなり、意外に征服領の国人衆も重用していたようです。  
 
9.江戸時代の仁賀保氏

 

江戸時代の仁賀保氏について問い合わせがありましたので、この項を作ってみました。
江戸時代の仁賀保氏は3家に分かれ…一時4家になりますが…、明治まで存続いたしました。現在も子孫の方がいらっしゃいます。
   二千石家             千石家
  実名 極官            実名 極官
 1 誠政 書院番・小姓組    誠次 小姓組
 2 誠尚 小姓組        誠方 小姓組
 3 誠信 小姓組与頭・布衣   誠庸 小姓組
 4 誠依 小姓組        誠之 小姓組与頭・布衣・先手御鉄砲頭兼火附盗賊改
 5 政春 (世子時代の徳川家重付小姓) 誠善 西丸御書院番・布衣
 6 誠胤 小普請        誠形 小普請
 7 誠陳 大阪目付代・小姓組  誠教 大坂御目付代・御使番・布衣・駿河目付
 8 誠肫 先手鉄砲組頭・布衣  誠意 御書院番
 9 誠昭 御使番・布衣     誠中 書院番
10 誠明 書院番・進物番     誠愨 なし
11 誠成 小姓組
9-1 仁賀保二千石家
仁賀保蔵人…良俊…晴誠などと呼ばれる人物が領した仁賀保7,000石家、仁賀保主馬700石家が寛永年間に跡継ぎなしで改易になった後、残った仁賀保家の1つです。
初代 仁賀保誠政
慶長6年(1601)生まれ。幼名を寅之助・淀吉といい、元服当初は内膳光政と名乗りました。後に誠政に名を変えます。将軍家光を憚っての事でしょう。また幼名である「寅之助」は恐らく加藤清正にあやかられたものでしょう。…淀吉も淀城がらみでしょうかね?。系図では蔵人・誠政・誠次の3人とも北条氏直配下の田村掃部の娘が母である事になっていますが、実際は蔵人と誠政・誠次の2人とは母が違うことが分かっています。
彼は寛永3年に仁賀保光誠の遺領の内、主に平沢・院内2,000石を引き継ぎました。
誠政は元服後、元和2(1616)年より、世継ぎ時代の家光に仕え、そのまま家光の中奥奉公になりました。その後、稲葉正勝が頭を務める書院番一番組となり、その後晩年まで小姓組を勤めました。一時、松平忠直の改易に絡み、寛永17年と慶安元年の2度、使者として赴いています。
彼の奥さんは桑山貞晴…通称「小傳次」と言われる武将であり茶人ですね…の娘です。
承応2年(1653)10月20日、53歳で没し、青松寺に葬られました。格臾全逸居士。
2代 仁賀保誠尚
寛永元(1624)年生まれ。孫九郎を称します。最初、小普請でしたが、父の家督を継いだ翌年の承応3年に父が没する間際まで勤めていた小姓6番組へ入りました。彼も没するまで小姓組に居ました。彼の奥さんは母の兄桑山貞寄の娘です。従妹ですね。
寛文10(1670)年11月4日、47歳で没して青松寺に葬られました。霜コウ(竹かんむりに正)院寒渓普徹居士。
3代 仁賀保誠信
明暦2(1656)年生まれ。始小十郎、後に孫九郎を称します。父が没した時…元服していたのかな?。何れ将軍に初御目見したのが天和元(1681)年に徳川綱吉に会ったのが最初ですね。恐らく父が没した時、彼は元服しておらず、父の小姓組の地位を引き継げなかったのではないかと推察します。よって当初は小普請組に編入され、元禄9(1696)年7月5日になって、やっと小姓組1番に入ることが出来ました。
その後は順調で、元禄10年に森衆利18万6,500石が改易になると、美作国津山に目付として赴き、翌元禄11年には火事場目付、元禄16(1703)年には小姓組5番の与頭になり、布衣を仰せつけられています。徳川家宣の時代にも小姓組の与頭を勤めました。その後病にかかり宝暦7(1710)年5月4日に母方の従弟の子を養子とし、5月15日に55歳で没しました。墓所は青松寺、緑峯院機山玄頓居士。
彼の妻は稲垣重氏の娘です。
4代 仁賀保誠依
元禄元(1688)年生まれ。2代誠尚の妻の姉妹の孫に当たります。誠尚の妻の兄弟は旗本都筑為常に嫁し、その孫の都筑又四郎が仁賀保家の養子になりました。つまりは先代の誠信から見れば従弟の子ですね。
宝永7(1710)年閏8月21日に徳川家宣に家督相続の御礼をしています。当初は小普請でしたが享保9(1724)年に小姓組2番に入りました。
しかし、間もなく病気になり享保10(1725)年8月1日に38歳で没しました。墓所は青松寺、登仙院華嶽禅桂居士。
彼の先妻は桑山元稠の娘で、名を「くま」と言いました。後妻も同じく桑山元稠の娘です。桑山元稠は2代誠尚の妻の兄弟ですので、「くま」から見れば従弟の子と結婚したことになります。因みに誠依の跡を継いだ長吉は桑山元稠の孫であり、非常に近親で縁組をくり返していたことが分かります。
5代 仁賀保政春
正徳元(1711)年生まれ。名を長吉といいます。仁賀保家を継いだ享保10年の12月7日に徳川吉宗にお目見えしました。当初彼も小普請組で、翌11(1726)年6月7日に徳川家重の小姓になりました。
しかし政春は享保14(1729)年には体調を崩し、5月4日には桑山元武の兄、桑山孝晴の子…つまり父の従弟…である誠胤を養子に取り、19歳で5月16日に没しました。墓所は青松寺、紫雲院徳応浄感居士。妻はいません。
6代 仁賀保誠胤
正徳2(1712)年生まれ。名を鉄三郎といいます。また帯刀と名乗りました。享保14(1729)年に仁賀保家の家督を継ぎ、小普請組に入りました。
しかし享保19(1734)年には病身となり、同年11月9日に遠縁の山五郎を養子に取り、その日の内に23歳で無くなりました。墓所は青松寺、隆泰院好山了頓居士。妻はいません。
7代 仁賀保誠陳(誠庸)
享保2(1717)年2月7日生まれ。名を山五郎と称しました。彼は先代誠胤の曾祖母の兄弟である河野道宗の曾孫になります。つまりは二従弟の子同志という事になります。…血縁といえども遠いですな。
彼は享保19(1734)に家督を継いで小普請組に入りました。翌享保20年3月19日に徳川吉宗に拝謁、元文5(1740)年11月22日に至り小姓組4番に入ることになりました。
徳川家重の時代の延享2(1745)年6月には大阪目付代として大阪へ赴きました。翌3年3月18日に帰京、その後、小姓組に再び入ることになりました。
徳川家治の明和7(1770)年に至り、誠陳は小普請入りを申請して小普請となりました。翌8年8月8日隠居、19日には剃髪して旧山と名乗りました。
その後安永3(1774)年に58歳で無くなりました。墓所は青松寺、旧山学月居士。妻はいません。養女として先代誠胤の弟、桑山延晴の孫「くま」を養女として、同族である仁賀保 千石家から養子を取り跡継ぎとしました。
8代 仁賀保誠肫
延享4(1747)年9月23日生まれ。名を孫九郎といいます。また斧馬、内膳と名乗りました。
彼は宝暦13(1763)年10月7日に誠陳の婿養子になり、明和8(1771)年に家督を継ぎました。彼の父は仁賀保千石家の誠之で、仁賀保光誠の血筋を伝えております。
彼は当初、小普請組に入り、翌明和9年に徳川家治に謁見後、安永3(1774)年8月4日に小姓組6組へ入りました。
寛政7(1795)年1月11日、家治の御前にて御使番を命じられ同年12月17日には布衣、同11(1799)年6月6日には大阪御目付代を仰せつけられ大阪へ赴き、9月18日に帰京しています。
更に文化4(1807)年12月23日には先手鉄砲組頭を命ぜられ、文化14(1817)年7月21日には西丸御持筒組頭を仰せつけられております。…71歳だぜ。流石に老齢ですよね。しかし同年11月20日には西丸御番を仰せつけられ、徳川家慶にも謁見しています。
誠肫は文政4(1821)年5月29日、75歳で没しました。墓所は青松寺、感得院修因成練居士。まあ、晩年までよく働いたものです。
彼の妻「くま」は後に「峯」「岩」と言い、文化7(1810)年3月5日、55歳で無くなっています。
9代 仁賀保誠昭
天明4(1784)年10月25日生まれ。名を斧三郎といいます。長じて内膳、孫九郎を称したようです。先代誠肫と正妻くまとの間には仁賀保誠歆(1782〜1803)という子が在りましたが、22歳で没しており誠肫と家女である琴との間にできた子の斧三郎が跡を継ぐことになりました。
文化元(1804)年12月22日に徳川家斉に初謁見し、文化6年12月12日に結婚、文政4(1821)年に父の誠肫の跡を継ぎ西丸御番となり、その後小普請組に入りました。
翌5(1822)年8月23日には西丸御小姓組1番組入隊を仰せつけられ、更に文政13(1830)年6月4日に至り大阪御目付代として天保3(1832)年9月28日に帰京しました。
翌天保3年1月11日には御使番を仰せつけられ、12月16日には布衣となりました。しかし、彼は天保7(1836)年には病がちとなり、9月28日に御役御免を受理され寄合になりました。
更に天保11(1840)年12月24日には病気を理由として隠居、天保14(1843)年2月7日59歳で死去しました。墓所は青松寺、得性院成安見道居士。彼の妻は酒井忠貞の妻で「_」といいます。彼女は文久元(1861)年8月に亡くなったようです。
跡は長男の斧太郎が継ぎます。ちなみに誠昭の次男は愛之助といいますが、天保13年に菅沼定敬(海老菅沼3,000石)の養子になります。
10代 仁賀保誠明
文政2(1819)年(月不明)月30日生まれ、名を斧太郎といいます。長じて主税を称しました。天保4(1833)、自分がまだ部屋住みの身分の時に徳川家斉に謁見、天保5(1834)年7月29日に最初の婚姻をしました。
父が隠居後、小普請組に入り天保14(1843)年12月22日に書院番となります。
弘化3(1847)年閏5月16日に名乗りを「主税」に変更しました。
続いて嘉永元(1848)年には御進物番となりますが、安政6(1859)年には病気がちとなり役職御免を願い出、3月19日に受理されました。その後8月18日に小普請となり、万延元(1860)年8月29日45歳で死去しました。この生年も没年も役所の日記から確実なんですが…しかし何故か彼の位牌は安政5(1858)年12月13日づけになっているんですね。…不思議だ。
誠明の代の事件で忘れちゃならないのが火事です。嘉永3(1850)年2月5日、隣屋敷の一柳家より出火して、屋敷がペロッと焼けてしまいました。享保16(1731)年4月15日に火事で炎上してから125年ぶりだったようです。マサに着の身着のままで焼け出された状態で、まずは妻の実家である赤坂の遠山直輝(500石)の屋敷に避難しました。、手狭の為、誠明だけ久留十左衛門の屋敷に移りました。
その後、屋敷は再建されたようですが、万延元(1860)年の7月21日に愛宕下藪小路の屋敷を幕府に召し上げられ、改めて8月21日に三田3丁目に屋敷を給わり引越ししました。現在、この屋敷の一部は港区三田図書館になっています。ま、直後に亡くなるわけですが…。
墓所は青松寺、智徳院心性霊源居士。彼は最初の妻である川勝廣業の娘とは離別、2番目の妻である遠山直輝の娘とは死別、3番目の妻である鍋嶋直正の娘は誠明が亡くなった時、相当若かった様で、誠明死後の万延元(1860)年6月に実家の甥である鍋嶋直影の元に帰っています。…ちょいとここの記述が辻褄合わないんですね。。。何故だろう? 。
誠明には男子が2人いましたが早くして亡くなり、女子2人がおりました。一人は間部詮論の妻…「寿」という名で文久(1861)元年8月に結婚しましたが翌2年8月1日、亡くなりました…、そしてもう一人が婿養子を菅沼定陳より取り、家を継ぐことになります。
11代 仁賀保誠成
弘化3(1846)年4月26日生まれ。始め順之助・兵庫輔を名乗り、長じて孫九郎を称しました。
彼は菅沼定陳の次男として生まれ、万延元(1860)年8月27日にいとこの婿養子として仁賀保家を継ぎました。彼の父である菅沼定陳は先々代仁賀保誠昭の次男であり、菅沼定敬(海老菅沼3,000石)の養子となった人物です。
文久2(1862)年4月3日に兵庫輔へ改名
当初小普請組となりましたが文久3(1863)年12月6日には小姓組に入り、即日将軍徳川家茂の上洛に御供し、家茂と共に大坂城から伏見へと警護をしながら同行いたします。文久4(1864)年1月に「孫九郎」に改名。
元治元(1864)年5月13日には「御所向其外御警衛」を言い渡され、着任。同年6月6日に用済みの為、江戸にもどりました。
江戸に帰京後、慶応元(1865)年には陸奥棚倉城引渡の使者として使わされ、慶長2年7月24日には御使番を拝命、9月には長州征伐の御伴を命ぜられますがこれは沙汰なしという事になり、12月18日には布衣を拝命、29日には寄合となりました。
慶応3(1867)年徳川慶喜が大政奉還すると、仁賀保誠成は領地である仁賀保に帰還し、自立…大名復帰?…を考えました。そこで同族の千石家の仁賀保誠中と語らい、明治元(1868)年3月17日の朝5つ(現在の8時)に品川港から一族郎党引き連れて船に乗り、20日出航しました。本当は太平洋廻りで秋田を目指したようですが、船は遅々として進まなかったようです。
20日は神奈川沖で大風雨に会い相模の三崎に停泊。21日には北風に押されて伊豆大島の波浮港へ入港、26日まで足止めを食う。
28日には奥津(千葉県勝浦市興津か)に入り4月1日出航。この後、鹿島神宮沖を通るにあたり、鹿島灘は女人禁制で女性が乗っていると海が荒れるとの言い伝えがある為、女性には全員荷札を付けて窓を閉めて無言で、荷物のふりをして通り過ぎることにしました。
4月5日には伊達領沖に至り、6日なると波が穏やかになり安眠ができるようになりました。この時、海上から見た風景は絶景だったようです。この日の午後に鍬ヶ崎(岩手県宮古市)に入港しました。
ここで、これより北は海・陸共に通行が難しいとの風説が流れたそうです。仁賀保誠成らはここで海運班と陸上班に分かれて仁賀保を目指すことにしました。
海運班は15日に出帆、陸上班は17日に出発しました。17日、山田(岩手県山田町)泊。18日大槌(岩手県大槌町)泊。19日大槌と遠野の間にある和山を越えて遠野泊。20日土沢(岩手県花巻市東和町土沢)泊。21日鉛(同市鉛)に至り温泉宿に泊る。22日若畑(岩手県西和賀町沢内若畑)泊。23日新町(同町新町)泊、24日横手泊、25日には八沢木(横手市大森)泊、26日には石脇(由利本荘市)、そして27日に仁賀保の平沢陣屋に到着しました。
仁賀保誠成は千石家の誠中と共に新政府方に着くことを決め、佐竹義尭に新政府軍に参加させてほしいと使者を出しますが、当初は受け入れられませんでした。…この時佐竹氏は本気で庄内藩と戦う気がなかったから、戦う気を持つ者が邪魔だったんですね。また旧幕臣であり、仁賀保家に対して疑念があったのもその理由でしょう。仁賀保両家が新政府方に加わることができたのは6月20日になってからでした。
ところが、7月には庄内軍が秋田侵攻を開始、瞬く間に湯沢・横手城を落としました。仁賀保隊・秋田藩の渋江隊らは羽州浜街道沿いに展開し、浜沿いに北上する庄内軍を討つ役目でしたが、8月には庄内軍の奇襲に逢えなく矢嶋は占領され、仁賀保郷は敵の懐に取り残されることになりました。
これを知った新政府軍の監軍山本登雲介は恐れを無して撤退、取り残されたのは佐賀藩・松江藩そして仁賀保隊。特に仁賀保両家にとっては自分の領土ですので、是が非でも守りたいという所でした。
8月3日に妻子・老幼病人等は秋田へ送り、4日に白雪川にて庄内軍と戦う事になりました。佐賀藩と庄内藩は白雪川を挟んで戦いましたが、庄内藩の伏兵が背後から佐賀藩を囲む行動を起こしたため、撤退することになりました。仁賀保隊はわずか40人ほどで長磯山(現在の平沢小学校?)に陣を引き防戦しましたが、雲霞の如く押し寄せる敵軍に囲まれ、これを突破するという事を繰り返し、夜には本荘に撤退するという事になりました。
7日には更に秋田に総撤退、仁賀保隊もこれに倣います。
秋田に赴いた仁賀保隊は秋田藩渋江内膳隊と共に雄物川河畔の左手子村(秋田市融和左手子)にて陣を構え、庄内藩の北上を阻止する役に当たりました。庄内藩は対岸に陣を構え、互いに砲撃しあい損害を出しております。仁賀保隊らは9月まで足止めしておりましたが、横手城を落とした庄内藩の1、2番隊が大曲から秋田を目指して仁賀保隊に迫りました。仁賀保隊は撤退し、椿台…現在の秋田空港周辺…にて総力戦を行うことに決定いたしました。
仁賀保隊は秋田維新隊と合流し椿台を守りますが、10日頃から戦になりました。11日には本格的に戦が始まり、糠塚山に本陣を置いて激しく戦いました。仁賀保隊はこの時、一計を案じ、家臣の伊藤晋に20名ほどを預け、敵の横腹をつくという奇襲をしました。こうして接近戦をしたあと逃げ、縦横無尽に旗を押し立てて混乱させ回りました。こうして居るうちに秋田の渋江内膳隊が到着、雲霞の如く砲撃を加え庄内軍を敗走させました。仁賀保誠成は「自分の策が見事に当たりとても愉快だった」と感想を残しています。
この頃になりますと、秋田には続々と新政府軍が加わり庄内藩を物量で圧倒していき、ついには庄内軍を駆逐することに成功いたしました。伊藤晋の一隊は敗走する庄内兵から数多くの戦利品を得、その中に庄内軍の動静が分かる機密文書を発見し、総督府に差し上げたそうです。
仁賀保誠成は9月23日に旧領へ帰還。すぐさま庄内藩の酒田占領軍の一員として酒田に赴き、10月9日に平沢に帰りました。
戊辰戦争で仁賀保両家の家は251軒焼かれました。
戦後、仁賀保誠成は上京し、領地を守るべく奔走します。11月には佐竹義尭と共に上京いたします。上京した後は仁賀保誠成は佐竹家の下屋敷を借りて暮らしていました。12月20日、明治政府より2,080石の領地を安堵され、仁賀保誠成らは出羽の仁賀保家の陣屋に屋敷を構えて住み着こうと考えた様です。更に明治2年6月2日、仁賀保誠成に1,000石を「戦功永世下賜」されました。
仁賀保誠成は計3,000石となったわけですが、どうも東京に住み始めたら、そっちの方が好くなったようです。元の東京三田3丁目の屋敷…1400坪ありました…は無くなっていたらしく、東京府より神田小川町に新たに屋敷…1800坪ありました…を貰い、ここに住むことになりました。
誠成にしてみれば、領地を確保し以前の旗本生活の様に東京に住み、領地は代官支配…と考えていた様ですが、12月3日に明治政府より通達があり、知行地を返し家禄105石を貰うことになりました。2080石が105石に…。いわゆる版籍奉還ですね。しかし他と比べてかなり遅い時期まで知行していたんですなあ…。
仁賀保誠成にとっては寝耳に水、冗談じゃないと考えたんでしょうね。「どうせ政府の土地にされるのなら秋田藩にしてよ。んで、俺、やっぱ仁賀保に住むわ。だって俺んち400年も仁賀保を領土にしてんだぜ。」と東京府に嘆願書を出しました。
結果は一度却下されますが、仁賀保が酒田県になった後、一転認められ、仁賀保誠成と千石家の仁賀保誠愨2名は仁賀保に住むことになりました。明治3(1869)年10月11日、平沢に到着しました。仁賀保誠成は平沢陣屋、仁賀保誠愨は領地である小国の陽山寺を居所としたようです。
この間、仁賀保郷は酒田県から山形県になり明治5年4月に秋田県に編入になりました。
明治6(1873)年8月になり、仁賀保誠成は上京することになりました。明治8年8月まで3年間の予定です。留守中は千石家の仁賀保誠愨に任せることになりました。学業修行の為との事ですが、家族を連れての移住でした。当初は神田新銀町(丸ノ内線淡路町駅東側)の貸家に入り、下谷上車坂町37(上野駅東隣)を購入し、そこへ住むことになりました。
どうも誠成はお金に困ったようで、明治8年には家禄を明治政府に返し、代わりに家禄6年分のお金を貰う事にしました。2,575円です。…米価から推察すると2,860万円程度でしょうか。困ったことに翌明治9年には戊辰戦争の功績でもらった賞典禄も取りやめになりました。
明治9年には浅草今戸町12番地(現在の台東リバーサイドスポーツセンター陸上競技場の一部)に移っており、おそらく仁賀保に帰る意思は無くなったものと推察されます。
明治24年10月2日には隠居して明治31年には神田小川町23(…現在の石井スポーツのあたり…)に居を構えた様です。
こうして仁賀保家は仁賀保郷と縁が切れることになりました。
明治34年10月21日、仁賀保誠成は没しました。誠光院心月玲照居士。誠政の妻は戊辰戦争で秋田に逃げた後、そのまま秋田に留まったようです。長く病床に伏していた様で明治2年4月21日に秋田にて亡くなりました。26歳であったそうです。
9-2 仁賀保千石家
仁賀保蔵人…良俊…晴誠などと呼ばれる人物が領した仁賀保7,000石家、仁賀保主馬700石家が寛永年間に跡継ぎなしで改易になった後、残った仁賀保家の1つです。
初代 仁賀保誠次
慶長19年(1614)生まれ。幼名を竹千代といいました。…当然、徳川家康にあやかったものでしょう。元服して内記誠次と名乗りました。
元和4(1618)年には徳川秀忠に謁見、
寛永3(1626)年には徳川家光に謁見し、同年仁賀保光誠の遺領の内1,000石を引き継ぎました。
寛永6(1629)年に徳川家光の命で御花畠番を勤めました。御花畠番…後の小姓組の事ですな。
寛永10(1633)年2月7日には上野国甘楽郡一宮村にて200石加増になりました。ですので千石家と言いますが、実際は1,200石ありました。
明暦3(1657)年には讃岐の丸亀に赴き城の引渡をしました。
寛文元(1661)年6月29日には信州川中島の松代藩の政務を監督するために赴きました。その後、再び小姓組に入りましたが延宝4(1676)年11月には病気になり、翌5年4月に小姓組を離れ小普請になりました。
当初、仁賀保誠次には実子が出来なかったため、土屋利晴の3男である源三郎を養子にとりました。当初部屋住みでしたが誠次と別に仕官に成功し、切米300俵を貰い書院番として勤務していました。
後、誠次には実子である半弥(寛永20年、1643生)、新之烝(正保元年、1644)、権太郎(寛文8年、1668)、女子2名が出来ました。
跡取りは源三郎事、仁賀保誠勝でありましたので、半弥は仁賀保誠親を称して別家を立てました。誠親は寛文2(1662)年に館林藩徳川綱吉に仕えました。後の仁賀保200俵家です。その下の子である新之烝は、 二千石家の誠政の娘が嫁してる縁で長谷川重辰の元に養子に行き長谷川重賢と名乗りました。
ところが仁賀保誠勝は延宝3(1675)年12月11日に父に先立って亡くなりました。仁賀保千石家を継ぐべき2男、3男はすでに別家を立てたり養子に行っています。ここで、仁賀保家の家督は13歳の権太郎が継ぐことになりました。
仁賀保誠次は延宝5(1677)年6月18日、73歳で没しました。墓所は青松寺、千光院珠網玄輝居士。
彼の妻は跡部良保の娘です。
2代 仁賀保誠方
寛文8(1668)年生まれ。始め権太郎と名乗り後に内記を称しました。当初小普請組に入り、元禄11(1698)年8月18日に小姓組に入りました。元禄16(1703)年11月23日には元禄地震を受けて御城廻普請奉行を仰せつかりました。
宝永3(1706)年には病気により小姓組を辞して小普請になり、宝永5(1708)年7月12日に41歳で没しました。墓所は青松寺、踈篁院西岸得舩居士。
妻は仁賀保誠尚の娘で、後に後妻として土岐頼似の娘を貰っています。子供は出来ず築地本願寺寺中の妙延寺の娘を養女にもらいました。
しかしその養女も家を継ぐことなく、結局、兄の長谷川重賢の6男を養子にもらい、家を継がせることになりました。
3代 仁賀保誠庸
元禄5(1692)年3月1日生まれ。始め次郎助と名乗り後に内記を称しました。
当初小普請組に入り、享保4(1719)年に小姓組に入りますが、享保12(1727)年9月15日に36歳で没しました。
墓所は青松寺、興運院逸叟紹俊居士。妻は佐橋佳周の娘で、誠庸には女子1人のみしか子がおらず、婿養子を取り仁賀保家を継がせることになりました。
4代 仁賀保誠之
宝永7(1710)年10月17日生まれ。始め辦次郎と名乗り後に内記・兵庫を称しました。先代の誠庸には女子しかおりませんでしたので、先代誠庸の兄である長谷川重行(初代誠次の孫)の子…誠庸から見れば甥…である誠之が従弟同士で結婚し家を継ぐことになりました。…「急聟養子奉願候」とされているので末期養子だったんでしょうな。
当初小普請組に入り、享保19(1734)年に書院番となりました。
元文5(1740)年には駿府在番を仰せつけられ寛保元(1741)10月15日に帰京いたしました。この後、寛延(1748)元年9月1日から同2年10月15日まで、宝暦6年9月1日から宝暦7年10月15日まで3度駿府在番を務めています。
宝暦11(1761)年10月15日には小姓組の与頭を命じられ12月18日には布衣となります。
更に明和元(1764)年9月1日には再び駿府在番として翌年10月15日まで勤め、明和5(1768)年1月11日には小姓組の与頭から御先手御鉄砲頭を命じられました。
更に同年10月4日に火附盗賊改を「加役」され、明和6年3月29日に「世上静」になるまで勤めました。
安永5(1776)年4月の将軍徳川家治の日光参拝に御供して、岩槻・宇都宮・日光にて勤番いたしました。
誠之は翌安永6(1777)年9月14日に68歳で亡くなりました。墓所は青松寺、英勝院豪山良雄居士。妻は仁賀保誠庸の娘で名を「熊」と言いました。彼女は早くに亡くなったようで後妻に筧為照の娘を貰っています。
誠之は子沢山で、次男・5男は早世、3男の犬勝は誠之の実家長谷川家の分家を継ぎ長谷川重喬と名乗りました。4男は仁賀保二千石家の養子となり仁賀保誠肫と名乗ります。6男の斉宮誠徴は当初、為井祐貞の養子になりましたが、折り合いが悪く仁賀保家に戻ってきて文化13年1月9日に没しました。
5代 仁賀保誠善
元文5(1740)年11月13日生まれ。始め土佐次郎と名乗り後に兵庫・大膳を称しました。始めの頃の名乗りは苗誠(みつしげ)と言いました。
宝暦7(1757)年10月15日には将軍徳川家重に拝謁、安永5(1776)年12月19日には、未だ部屋住みでありまながら切米300俵を与えられて西丸書院番として勤めることになりました。父の没後は家督を継ぎ、そのまま西丸書院番を務めますが、天明元(1781)年閏5月15日、若君様(後の将軍徳川家斉)付きを命ぜられ天明6(1786)年閏10月20日まで勤め、その後再び西丸御書院番に復帰しました。
寛政7(1795)年3月5日、徳川家斉が小金原(千葉県松戸市)にて行ったシカ狩りにて徒歩勢子として参加いたしました。
翌寛政8(1796)年1月11日には御使番、12月19日には布衣を仰せつけられました。
その後、彼は病気になり享和2(1802)年5月27日に役目を辞して寄合に入り、翌享和3(1803)年8月5日に64歳で没しました。墓所は青松寺、大定院覚山慧量居士。妻は小出英好の娘「みき」で、後に後妻として三上季達の養女を貰いました。
仁賀保誠善の長男の鋒之助は早世、2男の辦次郎誠明は病気で家督を継げませんでした。
3男の善次郎は石谷因清の婿養子となり石谷直清と名乗り、御使番・火事場見廻などを行っています。ちなみに彼の子が石谷穆清といい、堺奉行・勘定奉行・江戸北町奉行を歴任し、安政の大獄に関与したそうです。
ですので、その下の土佐五郎が家督を継ぐことになりました。
6代 仁賀保誠形
天明元(1781)年生まれ。土佐五郎と名乗りました。
享和3(1803)年12月23日に家督を相続し小普請組に入りましたが、文化元(1804)年に病気になり12月21日に25歳で亡くなりました。
墓所は青松寺、徳章院義山有隣居士。妻はおりません。当然、子供も居ませんので、弟の安五郎が跡を継ぐことになりました。
この後より、仁賀保千石家は記録が少なくなり、あまりわからなくなってきます。
7代 仁賀保誠教
寛政4年(1792)年生まれ。始め安五郎と名乗り大膳・主膳・右京と号しました。名乗りも当初は誠教と名乗り隠居後は誠遊と名乗りました。
文化7(1810)年6月17日西丸書院番として勤めることになりました。文化14(1817)年6月13日には大坂御目付代として翌年の9月まで勤めました。文政4(1821)年1月11日には御使番、12月16日には布衣を仰せつかりました。
文政10(1827)年7月2日には駿府目付として12月まで勤めました。
天保7(1836)年12月1日には右京を名乗ります。
天保13(1842)年8月には病気になり職を辞して寄合に入り、翌年3月29日に隠居し婿養子の安五郎誠意に家督を譲りました。9月26日に隠居を認められ剃髪、誠遊と名を変えました。幕府からは隠居領として切米300俵を拝領し、嘉永6(1853)年6月29日に62歳で亡くなりました。
墓所は青松寺、徳源院誠遊良心居士。妻は筧為親の娘です。
8代 仁賀保誠意
生まれは分かりません。始め安五郎と名乗り右京・内記と号しました。始めは誠正と名乗っていた様です。誠意は中山信aの4男で文政8(1825)年2月20日に婿養子となりました。
天保2(1831)年11月21日、部屋住みの身ながら御書院番に入ることを仰せつけられ切米300俵を給せられました。
先代誠教が隠居すると家督を相続し、天保14(1843)年6月26日には安五郎から右京へ改名いたしました。嘉永2(1849)年の小金原のシカ狩りには騎馬勢子を行っている事が知られています。
嘉永3(1860)年2月5日に麹町よりの出火に端を発する「麹町の大火」により、屋敷が焼けてしまいました。
安政4(1857)年8月18日、松平勘太郎(信敏カ)の弟である長沢房之助を婿養子として取りました。
文久2(1862)年3月29日に至り隠居しました。
誠意に関しては幕末との狭間で非常に資料が少ないです。ただ、彼は戊申戦争の折には隠居の身ながら仁賀保に移住し幕府軍と戦ったことが知られています。
秋田の官軍方は、総督府の監軍である山本登雲介がアホなので、領内を焼かれ大分苦労しましたが、誠意は亡くなった誠中の代わりに「仁賀保兵庫」の名を使い文書を出し、誠中の代わりに転戦し、遂には仁賀保の自領を取り戻しました。明治元(1868)年10月5日には松ヶ崎から平沢へ帰還しています。当初は禅林寺に入り、その後領内を転々としていた様です。
誠意の没年齢は分かりませんが、60代を過ぎた年齢だったでしょう。明治2(1869)年の「秋中」頃より体調を崩し、11月1日に領地の仁賀保小国の陽山寺にて亡くなりました。墓は仁賀保の禅林寺にあります。霊源院泰岳遊山居士
9代 仁賀保誠中
天保5(1834)年生まれ。始めは長沢房之助・安五郎といい右京・兵庫と号しました。彼の父は松平信弘と言います。安政4(1857)年に松平家より婿養子に入りました。
文久(1862)2年に家督を継ぎ、文久3(1863)年12月6日に「御番入」…恐らく書院番…し、翌文久4(1864)年1月10日に「兵庫」に名乗りを変えました。
彼は慶応4(1868)年には仁賀保二千石家の仁賀保誠成と共に戊辰戦争の前に仁賀保郷に移住し、佐竹氏らと共に庄内藩と戦おうとしました。
ですが誠中は病にかかっていた様で、同年5月18日に領地の仁賀保小国の陽山寺にて35歳で亡くなりました。墓は仁賀保の禅林寺にあります。透関院寂鉄翁良漢居士。子は居なかったものと考えられます。
戊辰戦争終了までの間、誠中の死は伏せられており、慶応4年7月の二千石家仁賀保誠成の文書には「誠中だけど、病気だから出陣できないんだよね。だから彼の兵隊を俺が一緒に率いて戦うよ」と言っています。この後「仁賀保兵庫」がしばらく生きているかのように文書が出されていますが、これは隠居の仁賀保誠意が代理で 千石家を率いて、誠中の死を伏せていた為です。…無嗣断絶の世の中でしたから。
10代 仁賀保誠愨
生年は天保5(1834)年。彼は佐竹南家の出身です。父は佐竹南家13代目佐竹義珍。元々は早川珍保と言う名で佐五郎と称していました。兄の早川輔四郎(珍傳)が戊辰戦争の敗戦の責任を取らされ切腹させられると、自身の次男と思われる義雄を兄の養子としました。
彼は明治2年12月、先々代に当たる誠意が没した後、仁賀保家を継いだようです。何故、彼なのかは分かりませんが…。この後仁賀保佐五郎誠愨を名乗ります。
戊辰戦争終了後、誠愨は二千石家の誠成と同様に上京しており、一時、所有する愛宕下神保小路の905坪の屋敷に居住していたようです。しかし領地が政府に没収されることになると誠愨は誠成と共に明治4年に知行地に戻りました。誠愨には先々代の誠意が戊辰戦争で奮闘したことにより、賞典禄500石が与えられ、計1,700石になっていました。
明治6年に二千石家の誠成は上京いたしますが、誠愨は知行地に住み続けました。明治9(1876)年2月1日に43歳で仁賀保にて亡くなりました。実相院諦覚円誠居士。
9-3 久徴館
仁賀保両家では化政時代には既に藩内の教育について力を入れていた様です。領主より漢籍を読むように達せられ、仁賀保家の邸内…恐らく江戸屋敷と国元其々…に「久徴館」と呼ばれる学校を設立し、学士を招いて講義をしていました。
天保以降は士卒の果てまで修学させ、慶応年間には武事も修練させていました。 知行地の仁賀保では陣屋の側に槍剣場を備えて相長館と呼びました。学事は小倉藩藩士中村啓蔵…恐らく漢学者か…と斎藤国之丞が講究係、武事は堀川福太郎が師範となっていました。
この堀川福太郎は…同姓同名の別人でなければですが…元姫路藩士で神道無念流の師匠だったようです。浪士組平山五郎の師匠でもあるようですね。秋田の戊辰戦争にも参加しました。
久徴館では成績優秀者は小者であっても士分に取り立てたり、賞金を出していたりしたそうです。
9-4 戊辰戦争
このコーナーでは、仁賀保二千石家・千石家両家の戊辰戦争での動きを追っていきたいと思います。両家が戊辰戦争でどの様に行動したか…。ま、幕末の旗本の動きを垣間見れればいいなと思います。
1.戊辰秋田戦争前夜
慶応3(1867)年10月15日の大政奉還、その後の王政復古の大号令、鳥羽伏見戦争での幕府軍の敗退などの激動の時代、二千石家の当主仁賀保誠成、千石家当主の仁賀保誠中とも当時は江戸にいました。彼らは今後の身の振り方に相当迷ったと考えられます。
慶応4(1868)年3月13日、東征軍は江戸に到着いたしました。徳川慶喜は上野寛永寺にこもり、蟄居しています。仁賀保誠成らは考えました。
「まー、どー考えても徳川、終わりだよね。こーして見っとさ、明治政府の方が優勢じゃん。聞くところによれば、東北にも鎮撫総督を派遣して幕府軍を解体するって言うし。庄内藩も会津藩もこれまでだね。」
…あれ。庄内藩の隣…仁賀保だね。
…もし、庄内藩が攻めてきて占領されたまま、明治政府に降伏したら…
…俺んトコの領土、このままだとヤバくね?。…
仁賀保誠成は考えました。
まずは家臣の疋田了蔵を仁賀保の平沢陣屋に差し遣わし、当時の寄合肝煎に「出羽の領土で暮すから」と伝えた後、一族郎党引き連れて仁賀保に向かう事にしました。当時の仁賀保 千石家の動向は分かりませんが、おそらく仁賀保誠成と同道したと思います。当主の誠中は病気であった様です。
3月17日AM8時に品川港に停泊していた船に乗船いたしました。
「今の内、今の内。」…当時はまだ江戸開城がなされていなかったのですが、見切りが早いですな。
3月20日暁、船は出航いたしました。
船は遅々として進まず、21日には大風と雨で伊豆大島に避難し、千葉の外房の興津を出たのが4月1日でした。…歩いたほうが早いじゃん。
船には仁賀保家の妻子も乗っていました。興津を過ぎると船は鹿島灘に入ります。この鹿島灘は女人禁制で、これを破ると海は荒れて通ることが出来なくなると言われていました。ですので船に乗っていた女性は、腰に「長持」や「タンス」と書いた荷札を付け、窓を閉め一切話さず、荷物になりきって鹿島灘を抜けました。
2日の朝6時過ぎには鹿島灘を抜け、そのまま順調に北上し4月6日に宮古の側の鍬ヶ崎港に入りました。ここは鬼や神様が作ったような奇怪な岩が連なり絶景の地だと仁賀保誠成は書いています。
上陸して廻船問屋の和泉屋民右衛門の宿に泊り、今後の事を考えました。
「噂だと、海路も陸路も通行困難だってさ。」
「こっからだと、仁賀保まで直線で180q、船だと津軽海峡回らなきゃなんねーから600qなわけっしょ。」
「どっちするか…。」
…結局議論は決まらず、海路と陸路の両班に分かれて仁賀保を目指すことになりました。海路班…病床の仁賀保誠中たち…は4月15日に鍬ヶ崎を出発、仁賀保誠成が選んだ陸路班は4月17日に鍬ヶ崎を出発いたしました。
この日は陸前山田に泊り、18日には大槌、19日には和山を越えて遠野へ入り、20には土沢、21日は鉛温泉に泊まりました。
更に22日には現在の西和賀町の若畑へ、23日には新町に泊まりました。24日には奥羽山脈を越えて横手に入り、25日八沢木、26日には子吉川河口の石脇にまで到達いたしました。
27日には知行所である平沢に到着し、家臣を前に勤皇軍につくことを明言いたしました。
2.疑念
さて、勤皇の旗を掲げた仁賀保誠成らでありましたが、この後どうするかを相談することになりました。
「そういえば秋田の佐竹義尭だけど、勤皇だっていってるぜ」
「お、いいんじゃない?。一緒に戦わせてって言えば。」
早速、秋田佐竹藩に使者を出しました。その結果は…
「ダメだってさ。ウチら元旗本じゃん。いくら同じく甲斐源氏の流れをくむ仲間だって言っても、旗本は信用できねーってさ。」
「いーから。何回もお願いしよーぜ。」
こうしている内に庄内藩は重かった腰を上げ、秋田藩をせん滅すべく動き出しました。
「新政府軍にいれてくれるってさ。」
6月20日に至り仁賀保両家は新政府方に加わることになりました。
この時、仁賀保二千石家は佐竹家の中で4番目の席次を得ることになり(佐竹氏の家臣になった様にも見えるが、新政府軍の中で4番目の席次と解釈すべきか。)、仁賀保家の家臣たちは喜びました。
9-5 仁賀保甲斐守
仁賀保甲斐守こと仁賀保誠成は、長い歴史の中で仁賀保家の分家的な存在になった長谷川家出身の人物です。
長谷川氏の先祖は『寛政譜』によれば美濃の斎藤氏に仕えていた一族で、長谷川重成の時に織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と主を変えてうまく生き残ったようです。その孫にあたる重辰は妻の実家である仁賀保氏より養子を貰い長谷川家を継がせました。長谷川重賢といいます。以後、長谷川氏は仁賀保氏の分家的な扱いとされ、仁賀保家に後継ぎが無い時、長谷川家より養子として仁賀保家を継ぐ者が続出することになります。
なお、長谷川重賢の三男の次郎兵衛は松平次郎左衛門清親に養子に赴き当初、松平治郎兵衛を名乗りました。この松平家は形原松平家の分家であり武蔵国多摩郡の内に1,200石を知行していました。
元禄8(1695)年7月25日に徳川綱吉に拝謁、同9年11月19日に御近習番となり廩米300俵を賜った。更に同10年2月9日に御次番に転じ23日に小納戸役、5月29日には御小姓となった。
後、徳川綱吉の「血脈の家名に改めるべし」との仰せにより仁賀保を称し松平家より独立、別家となりました。
元禄12(1699)年12月11日、從5位下甲斐守に任ぜられ7,000石を拝領するが、同13年綱吉の勘気に触れ柳沢吉保に預けられ、川越に蟄居させられました。彼の墓は川越の広済寺にあるようです。 
9-6 仁賀保金七郎
仁賀保家で特筆すべき事項として、仁賀保金七郎という人物がいます。
この人物は千石家の5代目である大膳誠善の7男であり、疫病神の詫び証文で有名な人物です。
疫病神の詫び証文は、仁賀保大膳家の屋敷に忍び込んだ疫病神が仁賀保金七郎に捕まり、助けてもらう代わりに「仁賀保家」や「仁賀保金七郎」の名が書いてある場所には入り込まないという詫び証文を書いたという話で、仁賀保金七郎の名を書いたお札を戸口に貼ると疫病除けになるというものです。
仁賀保金七郎なる人物ですが、寛政5年以降の生まれで上記のストーリーで出てくる仁賀保大膳は父の誠善ではなく、兄の誠教でしょうか。彼は遠山家に養子に行くようです。
 
10.仁賀保氏の居城

 

仁賀保氏の居城は俗に山根館と言われる城です。山根館は非常に大きい城であり、現在の院内集落を城内に含むプチ総構の城でした。元々は現在の主郭を中心とした城であったと考えられますが、仁賀保挙久が城域を拡大したようです。現在、城の西側を固める陽山寺は、元々は山根館主郭への道すがらにあったものです…「らんとう」という俗地名だったかな?。「卵塔」で無縫塔の事でしょう…。当時は円通山安楽寺といっていましたが、挙久が現在位置に移したと伝えられます。これは城域の拡大による寺院の異動であると考えられます。
山根館には「外廻輪」があり、その中に「實城」があるという城だったようです。更にその実城の中に「居館」があったようです。 「矢島十二頭記」を見ても「根城」と呼ばれる城でありまして、山根館と言われることはありません。そもそも根城とは領主が居る城であり、根城の下に出城などがありました。即ち、現在慣用的に「山根館」と言われる遺跡は、「根城」と呼ばれるのが正しいと考えられます。
仁賀保氏の居城を守る為に、羽州海道沿には北から安倍館、鴻巣館、平沢館、芹田館、黒川館、赤石館、塩越館、一族の者がいたと考えられる待居館、その他多数の居館がありました。
由利郡内で根城の異名を持つ中世城館は、
1.矢島氏の当初の居城であると考えられる「根城(由利本荘市矢島町荒沢字根城館)」、
2.滝沢氏の居城であったと考えられる「根城(由利本荘市川西字根城1ほか)」、
3.石沢氏の居城でしょうか…の「根城(由利本荘市鳥田目字中ノ沢)」、
4.下村氏の居城の「根城(由利本荘市東由利蔵字館の内43ほか)」
5.そして仁賀保氏の居城の「根城」があります。
ま、このHPでは、それでも混乱を避けるために名称は山根館を使います。
山根館の場所は下記の地図の場所に主郭がありますが、城域は現在の小国集落、馬場集落まであったようです。
山根館のある舌下上の山塊と小国・馬場集落との間には深田があり、イザという時には川下に堤を作り、一面を水浸しにして濠として敵の襲来を防いでいた様です。
これが山根館の主要部です。一番上から2番目で右側の郭が主郭です。この図では上が東側になりますが、一番東側には氏神である八幡神社が祭られておりました。北方には仁賀保氏の信仰の厚い七高神社がまつられておりました。実城自体非常に広大な城だったと考えられ、当時は、現在の院内集落・小国集落の一部は城の一部として機能していたと考えられます。  
 
11.仁賀保家の戒名について

 

仁賀保氏の菩提寺の禅林寺の書き出しによるものです。
代数   名前      没年              院号   戒名
   不明      文安4(1447)年2月8日   桂昌院殿 秡山洞雲上座
   ※禅雄院直親  宝徳3(1451)年10月17日  霊松院殿 繁室妙昌大姉
   大井友光    寛正4(1463)年4月8日   禅雄院殿 岩翁英公上座
初代 大井友挙    文亀3(1503)年6月9日   仙自院  寿栄玄長大居士
2代 仁賀保挙政   天文10(1541)年7月24日  義應院  忠安全功大居士
3代 仁賀保挙久   天正4(1576)年2月28日   霊渕院  龍山重公大居士
4代 仁賀保挙長   天正5(1577)年8月19日   照亮院  鑑翁機公大居士
5代 仁賀保重挙   天正11(1583)年7月6日   白鳳院  梧隠了桐大居士
6代 仁賀保挙晴   天正14(1586)年10月15日  光輪院  法岸道輝大居士
7代 仁賀保光誠   寛永元(1624)年2月24日  浄明院  正山本公大居士
   光誠 妻    寛文7(1667)年2月16日   常徳院  心窓貞明大姉
8代 仁賀保良俊   寛永8(1631)年7月11日   了禅院  本空栄心大居士

一応、禅林寺に伝わっている戦国時代の仁賀保氏関係の法名一覧です。なんか立派な院号まで付いていますが、当然これは後の世になって付けられたものです。江戸期の古い系図によると光誠の戒名は「正山本公」であり、後世になってゴテゴテと装飾されていったのでしょう。因みに光誠が開基になり、その戒名が寺の名前になっている東京三田の正山寺に伝わる光誠の戒名は「正山寺殿前武庫梅岩宗香居士」という立派な戒名になります。 また、本当は「陽山重公」であった戒名が「龍山重公」として伝えられるなど、1文字くらいは誤伝もあるようです。
因みに初代から6代までは院内禅林寺へ、7代光誠、8代良俊は塩越の蚶満寺へ葬られております。…この時点でこの2名が禅林寺ではなく蚶満寺に葬られた所以は、次の様に推察されます。
1 蚶満寺が衰微し、この頃禅林寺の傘下に有ったであろう事
2 光誠が没した時、良俊と誠政・誠次との間に知行の分割騒動が持ち上がり、誠政・誠次の領土となった禅林寺へ葬る事が出来なかったであろう事…良俊が自身が光誠の跡継ぎだという自負から弟の知行地に葬るのを良しとしなかったであろう事
という2点からでしょう。なお、禅林寺に光誠の墓がありますが、これは誠政・誠次の2名が光誠13回忌の折に建てたそうです。
また、大井友挙の五輪塔や幕末期の仁賀保千石家の墓も禅林寺にあります。友挙の物は後で建てたものですね。
仁賀保光誠の2男の誠政、3男の誠次の2名以降は青松寺に葬られ、幕末まで仁賀保家はここを菩提寺にしていました。  
 
12.由利十二頭‎

 

12-1 小介川氏
仁賀保氏の家臣や血縁関係を語る時、どうしても小介川氏を抜く事は出来ません。
小介川氏は現在の由利本荘の亀田近辺を領していた一族の様です。戦国時代後期には荒沢を本拠地としていたと考えられます。戦国時代には赤尾津郷をも領しましたので、往々にして赤尾津氏を名乗る場合がありました。…っていうか赤尾津氏という名の方が有名な感じです。
この一族は本姓は大井氏、自称は小介川、他称が赤尾津氏であるとザックリ解釈していただければ…と思います。無論、そうでない場合もありますがね。
小介川氏の系図は諸説有り詳しく確かめる事が出来ませんが、仁賀保氏と同じ清和源氏小笠原流の流れを汲む事だけは間違いないと思います。「源 光定」という署名もありますし。
小介川氏は謎が多い一族です。まず苗字の由来が不明です。由利郡内の他の氏族は、凡そ領地の郷名ないし村名を苗字としております。仁賀保氏は仁賀保郷、打越氏は打越郷などですね。矢島氏に関しては、信州時代に矢島村を領しており、入植した由利郡津雲出郷が姓にちなんで矢島郷に代わったものと考えられます。
先人の論ずるところによれば、小介川氏の本拠地の前の川…小関川…が昔、小介川と言ったのでは…という事から、新沢郷は昔小介川郷と言ったか、小介川郷が新沢郷合併して郷名が消えたなどと考えることが出来るわけですが…。うーん。なんとも言えませんね。魅力ある説ですが。
ですが、小介川郷・小介川村それに類する類の名称が新沢郷には皆無なのが気になります。むしろ…信州に姓のルーツがあったりするかも知れません。
彼らが初めて史料に登場した宝徳2(1450)年、小介川氏の当主と思われる小介川立貞は赤尾津郷の領有を巡って醍醐寺三宝院門跡と争っております。彼らが領していたのは「赤尾津」であり「小介川」ではないんですね。
この時小介川立貞は相当昔から赤尾津郷を領していたことを仄めかしております。小介川氏は後に赤尾津郷を横領した様ですが、それ以前に住んでいた場所が「小介川」だという事なのでしょう。
いずれ、小介川氏は醍醐寺三宝院領を横領して赤尾津氏をも名乗ります。この赤尾津郷を室町時代に実質的に支配してきたのが小介川氏でした。…モノの本には立貞という名前、となっているけど、「立貞」という名前、本当ですかね?。「光貞」の間違いじゃないんですかね?…。
赤尾津郷を横領されて年貢を送られてこなくなった三宝院義賢は、細川勝元に「年貢送らせてちょ。」と訴え、細川勝元が「竹松殿(最上義春かと推定される)」に命令しますが、現実に小介川氏と折衝したのは小野寺家道でした。
しかし頭ごなしに「払えよ」と言われた小介川立貞はムッとして「先祖代々昔っから三宝院門跡の領土だっていうけどさー、年貢なんか送った事ねーよ。今更何言ってんだよ。」とつっぱねます。仲介の労を無にされた小野寺家道は、小介川立貞は「不肖人」であるから仲介は出来ないと伝えております。細川勝元や京都御扶持衆である小野寺氏の意向を無視するなんて…小介川立貞、怖い物知らずすぎ。
余談ですがこの小野寺家道、小野寺氏の系図上には出て来ません。南北朝時代には小野寺氏は「稲庭」と「川連」の2系統があったようです。恐らくそのどっちかの当主なのでしょう。これは由利衆も同様で、当初は同様に惣領制による同族連合であったと考えられます。
閑話休題です。さてさて、この後、醍醐寺三宝院門跡は奥州探題である大崎氏や出羽守大宝寺氏を頼る事になります。結果は判りませんが、当時の醍醐寺三宝院って言ったら恐るべき権力を持っていたハズ。年貢納めたんじゃないかな。
ここで奇妙なのは、小介川氏に影響を与える人物として羽州探題最上氏の名が挙がらない事です。宝徳元年8月に管領の細川勝元から命令を受けた「竹松」が最上氏だとすれば、もしかしたら当時の最上氏は幼少で、当てにならなかったという事でしょうか。
小介川立貞後の小介川氏の系譜はハッキリいたしません。関ヶ原の戦い後、領主の座から転落した事が影響しているのでしょう。菩提寺も小介川氏の庇護が無くなってから一時荒廃した様で、解からなくなってしまっています。幾つか系譜が残っていますが、管見の範囲内では…ん〜…というのが多いですね。
何れ宝徳2(1450)年に「5代も10代も前から」赤尾津郷を手に入れた小介川氏は、鎌倉時代には出羽由利郡に本拠を構えていたと考えられます。戦国時代の中期まで、小介川氏は小野寺氏の下知に従っていた様です。雄物川の河口を領地としていましたので、内陸の諸将にとっては物流の要を握られている状態であったでしょう。
しかし、戦国時代が進むにつれ…というか安東愛季が湊安東氏を併呑すると…、小介川氏は安東氏方に鞍替えした様です。更に永禄年間から天正初頭にかけて仁賀保氏と大宝寺氏が争うと、小介川氏は大宝寺義氏と修好しました。上杉謙信の影が影響していたのでしょうかねぇ。
永禄から天正期の小介川氏の当主は小介川治部少輔です。新屋日吉神社旧御神体には「大檀那 大井治部少輔源光長」とあるそうで、小介川光長というのが本名でしょう。『矢島十二頭記』には「赤宇津道益」という名で登場いたします。「道益」という名は法名です。
小介川治部少輔は天正10〜11年大宝寺義氏の由利侵攻に際し大宝寺義氏と戦います。この時期、仁賀保氏は勢力が衰退し、安東愛季と共に大宝寺義氏を撃退した小介川治部少輔(光長?)が実質的な由利衆のリーダーとなっていたと考えられます。確証は有りませんが仁賀保氏と小介川氏は濃い血縁があったようです。仁賀保光誠が小介川氏から養子に入ったのは、血縁と小介川氏の当時の勢いの結果でしょう。但し仁賀保家を継いだ光誠は、どう見ても小介川氏…その背後の安東氏…の考え通りには行動していませんが。
因みに仁賀保光誠は永禄4(1561)年生まれでして、小介川治部少輔の弟ではないかと考えられます。天正4(1576)年12月晦日に「小介川総八郎光定」という人物が元服している様ですが、年から考えますと仁賀保光誠本人か、そのすぐ下の弟であろうと考えられます。更に「湊檜山両家合戦覚書」では羽根川氏の当主である新助は小介川治部少輔(光長?)の弟であると伝えられます。
小介川治部少輔は天正18年の奥州仕置にも生き残り4,000石程度の領土を支配していました。その領土は、現在の由利本荘市岩城地区と秋田市の雄物川南岸域だったと推察されます。安東愛季との関係もあり、小介川氏は戸沢氏とは険悪だったようです。小介川氏は安東実季に取って南の要だったのでしょう。
小介川治部少輔(光長?)は恐らく文禄5年の前半には没したと考えられます。文禄5年7月6日付の文書では小介川孫次郎に代替わりしているからです。ま、慶長2年の秀吉の朱印状に「赤宇曽治部少輔」が出てきますが、秀吉政権首脳が代替わりを知る由もありませんしねェ。
この小介川氏で面白いのが小介川信濃守という人物です。この人物は関ヶ原の戦いの時に小介川氏の外交面で活躍する人物なのですが、もしかしたら天正17年の秋田湊合戦時に仁賀保信濃守として登場する人物と同一人物かも知れません。
さて小介川孫次郎ですが、関ヶ原の戦いの折には仁賀保光誠と共に東軍として出陣いたしました。慶長5年9月に矢島氏の残党が蜂起した時には仁賀保光誠と共にこれを攻め落としています。更に12月、仙北大森城攻で抜群の働きをし、家康より下記の感状を拝領いたしました。
注進状之趣遂披見候、何千福孫十郎会津就令味方彼表江相働、敵数多被討取捕之由感悦、弥於被抽忠節可為祝着候、猶本多中務大輔可申候也、
   十二月十四日      家康 御判
      赤尾津孫二郎殿
翌年、小介川孫次郎は上杉氏の移封に兵を出した記録を最後にその姿を消します。
慶長7年5月より由利郡は全て最上領になり、小介川氏の城であった高舘に最上義光の重臣の楯岡満茂が入りました。後に楯岡満茂は赤尾津豊前守を名乗り、慶長9年頃より由利郡の領主となりました。
さて、小介川孫次郎はどうなったのでしょうか。一説に拠れば常陸国「矢田部」に移封になったと言われております。現在神栖市になってる「矢田部」でしょうかね??。又、別の言い伝えでは跡継ぎがないため改易になったともいわれます。または楯岡満茂等と戦って一族離散したとも伝えられます。
江戸初期の史料である「最上義光分限帳」の中に
「高七百石 一騎 鉄砲三挺 弓一張 鑓七本 小介川与兵衛」
「高弐百六十石 一騎鑓三本 小介川肥前」
と有り、小介川氏は楯岡氏と戦ったというよりは、むしろ穏便に最上氏の騎下に入った様な感があります。小介川氏は戦って滅びたのではなく、平和裏に赤尾津を退去したとみるべきです。
この小介川孫次郎と楯岡満茂の関係については、あくまで私の独断と偏見ですが、楯岡満茂が小介川氏を庇護する形で名跡を継ぎ、小介川孫次郎は隠居したものであろうと考えたいです。
何れ、小介川一族はかき消すように領主の座から消えました。現在、小介川(小助川)を名乗る人たちは仁賀保など以外では 旧大内町の及位集落を中心とした地区に多いようですね。一族そろって移住でもしたんですかね。
12-2 打越氏
打越氏は「内越」とも書かれ、現在の由利本荘市の中央部…芋川下流域を支配した国人領主です。打越氏の出自は先人の研究や野史等には楠木氏の出自であるとも言われますが、実際は信州大井氏の分派である事は間違いないでしょう。
打越氏は大宝寺氏と仁賀保氏の対立の最中に、小介川氏による家督の相続があったもの…と推察される文書が残っています。もしかするとその時に大井氏の血統になったものでしょうか。打越氏自身の系図によれば、仁賀保氏の祖の大井光長に祖を求めております。打越氏関係の史料は仁賀保氏よりも少なく、天正期の関連文書は数通といったところでしょうか。
打越氏の特徴は仁賀保氏・小介川氏側にずっと立って行動していた事です。天正16年2月25日付の吉高上野守宛内越光安書状では、「出羽庄内で戦が起きたので、仁賀保・子吉・小介川氏が最上義光に加勢を求められた」事が記載されております。彼らが打越氏も含めて血縁関係にあったという点が注目されますね。
さて、この打越光安という人物ですが、当時の当主であるかはちょっと不明であると言わざるを得ません。何故ならばこの2年後、天正18年に秀吉より知行宛行を受けたのは打越宮内少輔という人物だからです。…同一人物である可能性もありますが…。
打越氏も系図が錯綜しております。
寛永譜上、打越氏の系図は
光重(宮内少輔、天正19年没)―光隆(左近、慶長14年没)―光久(左近、寛永11年没)
であるとされています。この内、打越光重は天正19(1591)年に肥前名護屋で没した事になっていますが、天正19年に肥前名護屋にはなーんにもありません。名護屋城が出来るのは文禄元(1592)年3月ですので、「天正19年5月4日に、肥前名護屋で没した」というのは誤伝だと考えます。
とはいえ彼が肥前名護屋で亡くなったのは事実でしょう。文書上、文禄5(1596)年7月には打越孫太郎に代替わりしている様です。…同年、秀吉政権から打越宮内少輔宛の書状も出されていますが、代替わりを知らない可能性もあります。文禄元〜4年頃に亡くなったと考えるべきか…と思います。
つまり、打越氏の系図は
打越宮内少輔(光重、文禄元〜4年没)―打越孫太郎(光隆、慶長14年没カ?)―打越孫太郎(左近、光久、寛永11年没)かと考えられます。
打越氏は推測でありますが、仁賀保氏の旗下に入りながら戦国時代を生き延びたと考えられ、奥州仕置の後は豊臣秀吉に領主として認められました。石高は1257.9石、半物成として2,500石あまりの知行地であったと推察されます。 由利5人衆の一人として朝鮮出兵や伏見作事用の木材運上などに従事いたしました。
関ヶ原の戦いの時は、仁賀保氏の旗下に入り 庄内へ転戦している様です。その結果、慶長7年5月に領地替えを言い渡され、常陸国行方郡に赴きました。由利衆の内転封を言い渡されたのは仁賀保光誠と打越光隆の2名のみでした。
思えらく、打越氏は仁賀保氏の旗下にあり、仁賀保光誠は常陸の領土を打越氏へ分け与えたのかも知れません。打越氏の領土は仁賀保氏と隣接する新宮3,000石でした。これ、仁賀保氏と併せると8,000石、慶長7年時点での出羽での仁賀保氏領が7,400石(貢租高)であった事を考えると、この3,000石は仁賀保光誠が打越氏に分け与えた可能性も捨てきれないのでは…と考えます。
打越氏も仁賀保氏と同様に小大名として各種の軍役に参加しております。慶長19年末に起こった大阪の冬陣の折りには仁賀保光誠と共に「御跡備」として出陣しました。しかし大坂夏の陣の時の行動はわかりません。
元和5年の西国の国替えの折には打越氏は駿河田中(現在の藤枝市)を守ったようです。ちょっと妙なのは打越孫太郎を称している点です。もしかしたら打越氏はこの近辺に代替わりをしたのかもしれません。
元和9年11月には打越光久は矢島の領主として由利郡に復帰いたしました。
打越光久は矢島に入府後、菩提寺の創建に取り掛かりました。旧領である由利郡内越の菩提寺は恵林寺であったと考えられますが、常陸に国替えになった時、常陸行方郡の長國寺の即殿棼廣大和尚と親しくなったそうです。菩提寺の開山にはこの即殿棼廣大和尚を勧進し、その法嗣である白峰廣椿大和尚により矢島に金嶺山龍源寺を開創し菩提寺としました。打越光久は更に法華堂も建て、これが後に寿慶寺となったそうです。
打越氏はこの頃、仁賀保氏の下知にあったのかなあ…と考えられる点が何点かあります。まず、
1 打越氏の先代である光隆が仁賀保領内…小砂川と伝えられますが…に隠居しているらしい事
2 寛永7年7月1日に仁賀保良俊が佐竹義宣邸訪ねた時に打越左近を引き連れて行った事
3 仁賀保領と打越領を併せると、旧仁賀保氏領となる事などです。 常陸でも同様に旧仁賀保氏領の石高(貢租高)7,400石が、常陸の仁賀保氏領+打越氏領8,000石と近似している事。
偶然にしてはどうでしょうか。
何れにしろ、豊臣秀吉からの打越氏宛知行宛行状を仁賀保氏が持っている事など、仁賀保氏が打越氏の本家扱いされていたことは間違いないようです。
さて、余談ですがこの打越氏の一派は津軽藩に仕えた者たちもいた様です。津軽側の記録によると、津軽信枚に打越佐吉なる人物が召し抱えられ、『梅津政景日記』に登場するそうです。召し抱えられたのは時期からすると関ヶ原の戦いの直後なんでしょうかね。
彼は恐らく打越孫太郎(光隆)の弟ではないでしょうか。元和年間には津軽家臣として「700石 打越孫九郎」・「400石 打越主殿」・「400石 打越城左衛門」などが散在している様です。結構な大身の家臣になっていますね。
更にこの津軽家からは青木兵左衛門なる人物の子供が、打越光久のもとへ遺わされています。
どうも打越氏と津軽家は何らかの因縁があるらしく、津軽家の主である信枚を暗殺しようとして出奔した奥寺右馬丞という人物は、由利のかやか沢(由利本荘市赤田萱稼沢)に逃げていました。ここは打越氏の旧領ですね。もしかしたら打越佐吉…何か関係しているのかもしれません。
12-3 滝沢氏
由利十二頭の一といわれる滝沢氏の出自は、言い伝えによれば由利氏に遡ると言われます。
由利氏というと、仁賀保氏ら大井一族が由利郡を拝領する前に領主であった者達ですね。『吾妻鏡』にその動向は現れます。由利の八郎は「奥六郡内、貴客備武將譽之由」と名将畠山重忠に言われる程の武将であった事は間違いないですね。
この由利氏の出自については、先人諸氏が思いの丈を述べまくり、百花繚乱といった感があります。もうお腹いっぱいです。
ですが冷静に考えますと、由利氏に関しては史料としては唯一『吾妻鏡』があるだけなんですね。個々の思いは別として、『吾妻鏡』を見る事が重要だと考えます。
では…由利八郎の出てくる場所ですが
1 文治5(1189)年9月小7日甲子。「宇佐美平次實政生虜泰衡郎從由利八郎。」から始まる記事。
2 文治年(1189)年9月小13日庚午。「又由利八郎預恩免。是依有勇敢之譽也。但不被聽兵具云々。」という一節。
3 文治5(1189)年12月大24日己酉。「工藤小次郎行光。由利中八維平。宮六兼仗國平等。發向奥州。」という一節。
4 文治6(1190)年1月小6日辛酉。「爰兼任送使者於由利中八維平之許云。」という一節。
5 文治6(1190)年1月小18日癸酉。「由利中八維平者。兼任襲至之時。弃城逐電云々。」「二品仰曰。使者申詞有相違哉。中八者定令討死歟。橘次者逐電歟。」という一節。
6 文治6(1190)年1月小29日甲申。「維平所爲。雖似可賞翫。請大敵之日。聊無憶持歟之由。有沙汰。及此御書云々。于時公成遠慮可然歟云々。」という一節。
ですね。
一見して解りますよね。文治5年に出てくる藤原氏の郎党である由利氏は「由利八郎」でして、文治6年に大河兼任と戦って討死したのは「由利中八維平」ですね。『吾妻鏡』は明らかに両者を区別して書いていると考えられます。
即ち、由利の八郎…これは「由利郡を領土に持つ某八郎」という意味であると考えられ、ハチローさんの姓はホントは不明ですね。…ま、ホントに由利という姓だったかも知れませんが。
対して由利中八郎維平さんですが、彼はどっから来たのでしょうかね。
これも手垢に塗れた話で論ずるに足りないわけですが、『吾妻鏡』の治承4(1180)年8月小20日の記事に「仍武衛先相率伊豆相摸兩國御家人許。出伊豆國。令赴于相摸國土肥郷給也。扈從輩。 北條四郎(中略)中八惟平(中略)是皆將之所恃也。各受命忘家忘親云々。」とあります。この記事以降、頼朝の雇従として活躍してきた中八惟平という人物がおり、彼は奥州征伐後、姿を消します。まあ普通に考えると、彼が由利の八郎以降の由利郡を領し、後の由利中八維平となったのでしょうな。
大河兼任の乱の折、兼任は由利中八惟平へ「主の仇討ちである」と宣言します。研究者によっては兼任が奥州藤原氏恩顧の「由利八郎」に「共に戦おう」といったのでは…と推察する旨もありますが、『吾妻鏡』を素直に取ると、頼朝恩顧の御家人である中八維平が「なんで謀反なんか起こすんだ?。オメーの元の主は亡くなって今の主は頼朝公だぞ」という問いかけに対する回答と取るべきなんじゃないかなー。
で、兼任から「チャラくせー事ゆーなー。仇討さー。」と言われて怒った由利中八維平は2度戦って戦死。という事でしょう。中八維平は源頼朝の最も早い時期に使えた「將之所恃也」という武将であるので、頼朝は由利中八維平が「逃げた」と言われた時にも、「それは違う」と言い切ったんでしょうな。但し、頼朝は由利中八維平の行動を短慮であると考えた様です。大体、武器を持つことが許されなかった「由利八郎」が討伐に行けるはずもないでしょう。
以上『吾妻鏡』よりわかる事は、
1 由利の八郎は奥州藤原氏旗下の名将であったという事。後に放免されましたが武器を持つことは許されなかった…つまり御家人になる事は無かった…という事。
2 由利中八維平は、源頼朝の「將之所恃也」という武将である中八惟平の後の姿であろうという事。
だと思います。
由利中八維平の死後、その長子と思われる由利中八太郎維久が跡を継ぎましたが、自身の弓の腕を過信し、和田合戦で調子に乗りすぎて北条泰時に不況を買い由利郡を没収されてしまいました。この後、由利郡が大井氏の領土になるのは前述のとおりです。
しかし由利氏の一派は由利郡を召し上げられた後も由利郡に住み続けた様です。由利維久が所領を没収されてから80年程たった永仁7(1299)年、下記の文書が出されたことが知られております。
可令早小早河太郎左衛門尉定平法師法名仏心領知出羽国由利郡小友村由利孫五郎維方跡事、右為召進筥根山悪党人之賞所被宛行也者早守先例可致沙汰之状依仰下知如件
   永仁七年四月十日      陸奥守平朝臣御判
これは安芸の小早川氏に由利孫五郎維方の持っていた小友村を恩賞として拝領したという文章です。
余談ですが「小早河定平」ですが、沼田小早川家の分家の人物で小早川家2代目の小早川景平の子孫に当たる人物のようです。彼の父は椋梨国平、祖父は新庄季平、曾祖父が小早川景平にあたります。
彼は文安3(1266)年に、以前からの当主小早川茂平…定平の大叔父…との相論を、幕府の裁許により沼田新庄の支配権を獲得しています。また正安元(1299)年に総領として一族の小早川一正丸と再び相論に及んでいます。
この様に由利中八維平の末裔は由利郡にも着実に根を下ろしていました。「維(惟)」という通字から推察するに、由利郡に根を下ろした由利氏は「由利の八郎」の子孫ではなく、「由利中八維平」の子孫であると考える方が無難でしょうね。この後に出てくる戦国時代末期の滝沢氏自身も、通字に「惟(維)」を使っており、由利中八維平の子孫であるという事をアピールしております。
この小友村は後の資料で、「由利郡小石郷乙友村」として登場いたします。小石郷…子吉郷の事でしょうな…にあり、正平13(延文3/1358)年に北畠顕信より、鳥海山大物忌神社に寄進されます。無論、南朝勢力が小友郷を実効支配していたとはとても考えられませんが。
いずれ「由利孫五郎維方」の存在により、南北朝時代に現在の子吉川の河口付近を支配していたのは由利氏である可能性が高いと考えます。
軍記物などによれば、正中元年(1324)に、由利氏は仁賀保郷に居た鳥海弥三郎に滅ぼされたと言われております。仁賀保郷は北朝年号を使っている為、北朝方であろうと考えられますが、中由利…現在の由利本荘市の本荘地域、滝沢地域などを領する由利氏は南朝方だったのかも知れません。そういえば 康永2(1343)年9月の結城親朝注進状の中に由利兵庫介の名がみえます。これが、もし由利郡の由利氏であれば、この時期まで由利氏は南朝方として活動していたといえましょう。
仮に由利氏が鳥海氏に滅ぼされたとしても、それは仁賀保郷に居た由利氏の一派でありましょうし、私は由利氏の一派は南朝方として滝沢地方を中心として活動していたのではないか。そしてそれが滝沢氏となっていくのではないかな…と考えます。 私は鳥海弥三郎と由利氏の闘争は観応の擾乱が背景にあったのでは…と考えます。
さて、この由利氏の子孫であると言われる滝沢氏でありますが、戦国時代の中期までは結構な勢力があったようです。天文24年、滝沢氏は仁賀保挙久等と上洛しました。その際、蜷川氏を介していたことは間違いないと思われます。 更に同年には蜷川親俊が小野寺・仁賀保・瀧澤氏等に鷹師竹鼻氏を派遣、翌年には将軍足利義輝の意を受けた政商の富松氏も歴訪したそうです。
この様に滝沢氏は仁賀保氏と共に室町幕府共繋がりを持ち、また、幕府もその存在を認めていた様です。
しかしながら、永禄年間まで相当の勢力を持っていたらしき滝沢氏ですが、矢島氏と争いごとをする様になり、すっかり勢力を衰えさせて行きました。 「矢島十二頭記」によれば、永禄元(1558)年には矢島氏と滝沢氏が争い出し、滝沢氏に仁賀保挙久が加勢した為、矢島氏と仁賀保氏の争いが始まりました。仁賀保氏と滝沢氏は上洛の関係を見ても、非常に仲良く行動していたので、滝沢氏に肩入れするのは当然と言えば当然でしょうかね。
滝沢氏の永禄期の当主は滝沢刑部少輔、天正期の当主は滝沢又五郎といいました。1次史料による確認では、天正19年から慶長6年までは確実に滝沢又五郎が当主です。滝沢又五郎は天正末期には豊臣旗下の小大名として、仁賀保氏らと行動することが多くなります。
しかしながら元々それ程強い連帯がある由利衆ではありません。 関ヶ原の乱後には、岩屋朝繁と滝沢又五郎が諍いを始めます。両者は領土を接していないのにトラブルが発生するなど、驚きですが…。
想像ですが、慶長5年末からの酒田攻めなどに於いての手柄争いなどが原因でしょうか?。小介川氏の重臣と思われる小介川信濃守と岩屋朝繁は堀秀治と何度も連絡を取っており、堀秀治も出羽庄内を自領とせんと狙っていたと推察されます。最終的には堀秀治は南部一揆討伐に出陣させられ、庄内を領する事はありませんでした。
対して、滝沢又五郎は最上義光と昵懇であり、頼み込んで訴訟を起こしました。岩屋朝繁はこれを本多忠勝に裁定を頼んだようです。 原因も結果も不明な争いですが、両者とも独立の領主の地位を失い、最上義光旗下の一諸侯となりました。…ま、そのおかげで転封されずに済んだわけですが。 滝沢又五郎は最上氏の旗下で陪臣ながら1万石を統治する身分になりました。
さて、滝沢又五郎ですが慶長6年2月29日までは生きていた事は間違いありませんが、8月24日付の徳川家康の陣触の文書では当主が「滝沢刑部少輔」に代わっております。代替わりになったのか、滝沢又五郎が刑部少輔になったのかは判別しがたい物がありますが…。
この後、滝沢刑部少輔は最上義光の配下となって由利郡に住み続けます。更に慶長8年頃から最上川沿いに滝沢城を建築し、城下町の整備を始めています。 この滝沢刑部少輔でありますが、慶長の末には代替わりをして「滝沢兵庫頭」へと当主が変わっている様です。慶長19年2月には滝沢美作守(光直)宛に300石を宛行っていますね。実名はわかりませんが、この文書では「光(あき)」という署名がある…と思います。自信ないけど。
と、すれば最上義光の偏諱を賜ったものでしょう。
もひとつ言うと、巷間伝えられる「政道」であるとか「政範」だとかの名は…ちょっとマユツバモノですね。これらの名は、後に六郷氏の通字により仮託されたものでしょう。
慶長2(1597)年の木材運上の史料には滝沢又五郎の家臣として賀藤弥兵衛、同3年には工藤弥兵衛准景(これかげ…でしょうな)、同4年には小浜小兵衛惟吉が出てきます。工藤准景、小浜惟吉とも諱に「惟(維、准、これ)」 が付く所から、滝沢又五郎も諱に「維(惟)」の字を使っていたと考えられます。
何れにしろ、滝沢氏の系譜は 1滝沢又五郎、2刑部少輔、3兵庫頭「光…」と伝えられ、その先祖は由利氏らしいという事しかわかりません。
また、戦国時代には仁賀保氏と親しく、また仁賀保氏と同じように幕府に使者を出せる…上洛できるほどの財力・政治力があった。これが確認されるわけです。
ま、その他はどんな事を言っても史料が見つかりませんので、単なる推測でしかありません。
12-4 矢島氏・鮎川氏・根井氏
矢島氏・鮎川氏・根井氏は、由利衆の中で地縁・血縁が深い中であったようです。よって、矢島氏を語る時は、この3氏を纏めて説明した方が解りやすいと考えます。
矢島氏ですが、下記史料からして大井氏の流れをくむと考えて間違いないと思います。
〇封 敬白
奉鋳於羽州由利郡 大旦那 源正光
津雲出郷十二神将 併 滋野行家
志趣金輸聖王天長 仏  師 七郎兵衛
地久御願円満兼又 本  願 一阿上阿
本願大旦那二世悉 本  願 仏子心海
地結緑合力除災与楽 大旦那 沙弥長心明心
〇封 元徳三年太蔵辛末 六月 日
これは一々語ることが憚られる様な有名な史料ですが、矢島氏の祖と思われる「源正光」、そして根井氏の祖と思われる「滋野行家」の両名が鳥海山に十二神将を奉納した折の銅器識文と呼ばれる銅碑文です。
元徳3年は1331年で、「源正光」は恐らく大井氏の系図に出てくる大井政光でしょうかね。滋野行家は根井氏の祖と推察され、名前からすると根井行親と関係あるのかな…と推察されます。ここに出てくる「津雲出」郷は矢島郷の昔の名であると言われ、「矢島十二頭記」内でも矢島の古名が津雲出である事が諮詢されています。
おや?。今の矢島郷の旧名が津雲出郷?。では「矢島」という姓はどこから来た?。
さて、「矢島十二頭記」の中では、矢島氏の先祖は信濃国の木曽義仲の配下であったといい、木曽義仲が没落した後、信濃国より応仁元年の3月中に矢島ヘ移住したとされています。
また、別の言い伝えでは矢島氏の先祖である大井義久は、応安元(1368)年〜応仁元年の間に信濃より来たと伝えられます。その由来は「根井氏が信濃の所領を失い、矢島にて再興を期そうとしましたが、矢島が領主もいない状態で騒乱の渦中にあるのを見て、信州より小笠原大膳大夫義久を矢島に連れてきて、地頭とした」といいます。その際、根井氏も矢島の1/3を領して矢島氏に使えました。
よって矢島氏歴代は根井氏を大切に扱っていましたが、満安の代になり、矢島の知行を奪い現在の百宅に所領替えをし、配下として戦場へも出るようになったと伝えられます。
大井氏の流れをくむ矢島氏は何故、木曽義仲の家臣だったとされるのでしょうか?。
これは木曽義仲の配下にいた矢島行忠という人物に由来すると考えます。実は、この矢島行忠という人物は根井氏と同じく滋野氏と同族でありました。これを清和源氏系である矢島氏と同一視した為、こういう伝承になったのでしょう。木曽義仲の郎党として「平家物語」に登場する矢島行忠の方が名の通りが良いですからねぇ。
また矢島行忠の領土である信州矢島は、後に大井氏のものとなり大井系の矢島氏が領したそうです。ここあたりもゴッチャにされる原因ですね。少し時代が下った史料ですが「諏訪御符札之古書」なるものによれば、文安5(1448)年には「矢嶋沙弥栄春」、享徳3(1454)年「矢嶋大井山城守光政」、康正2(1456)年「大井矢島千代松丸」、寛正3(1462)年「矢島山城守光友」など矢島郷は大井氏の傘下に入ったたことが分かります。由利の矢島家はこの信州の矢島家の分家でしょうね。
すなわち、鎌倉時代に津雲出郷と呼ばれていた地が矢島郷と名が変わったのは、信州大井庄矢島を領していた一族の名に由来すると考えてもいいんではないでしょうか。「矢嶋氏の領する津雲出郷」が矢島郷に変化していったものでしょうね。
上記の史料に出てくる「大井正光」と「滋野行家」が矢島氏・根井氏の初代だとは考えられませんが、何れ、彼らは鎌倉時代末期には津雲出郷の地頭として信州より住み着いたものでしょう。恐らく、大井氏の一派の内、信州大井庄の矢島を…もしかしたら滋野系矢嶋氏の家を継ぎ…領して、矢島氏として津雲出郷に乗り込んできたものでしょう。
よって、「矢島十二頭記」は矢島氏を3代ないし4代としておりますが、もっと前から本拠地を矢島に置いていたものでしょう。但し、信州にも領地があり、完全移住は信州大井氏が滅亡したころではないか…と推察します。
矢島氏歴代は「矢島十二頭記」によれば初代を義光、2代目が光久、3代目が光安としておりますが、義久―光久―義満―満安の4代であるというものもあります。まあ、歴代が不明であるというのはよくあることです。
矢嶋氏歴代の内、文書上で確認されるのは、矢島満安の父である義満の事と推察される「矢嶋四郎」という人物からです。
今度矢嶋四郎方家風之者共就相招候、不図越山候条、種々雖相抱候、無信用候間、少人数をハ相添之候、然者矢嶋息西馬音内ニ差置候事も、拙子令意見候条、第一ニ可相立彼進退覚悟ニ候、然者洞ニ侫人一両輩有之間。可加退治所存迄ニ候、全彼家中を引倚見可申儀ニ無之候、兼而之御首尾候間、此於御助成者、可為大悦候、万々令期後信之砌、不能詳候、恐々謹言、
   六月五日      杖林斎 禅棟
これは庄内の土佐林禅棟が宛先不明ですが出した文章で、「矢嶋四郎は信用できない」「矢嶋四郎の子を西馬音内に置くのも反対だ」という内容が読み取れます。土佐林禅棟は元亀2年に戦死…もしくは没落したとみられるので、恐らくそれ以前の文書ですね。永禄12年と推察されている様です。
また、次の文書により、仁賀保と矢嶋は戦っていたことが史料により確かめられました。
今度向仁賀保之地、従矢嶋致調儀、外廻輪悉打破、実城計ニ而被仕返、剰敵数輩被討捕之由候、先以仁和之本望より存候、併居館へ被押詰之条、可被存無念候、定而矢嶋へ可被致動候欤より存候、其刻来次方も為懸詞被罷下候、従爰元竹井父子之者共、同名九郎左衛門尉其外指下候間、於彼地以相談可被及行候之間、其元雖不可有御手透候、少々御加勢可然候、為其令啓候、恐々謹言
   七月二十九日      杖林斎 禅棟
      岩屋殿
       御宿所
これも永禄12年と考えられる文書ですが、矢島氏が謀をめぐらして仁賀保氏を攻めたことが読み取れますね。
態以小野久助申入候、仍今度其郡備之儀、某一事ニ相憑之処、自先代忠信之首尾之相届候事、奇特千万、不及是非次第候、特手崎之儀候条、一入心尽共令識察候、其城加勢之儀、矢嶋・根井両所へ堅申届候、可心安候、随而赤宇曾之儀、某三崎山之外へ下馬候時節ニ可遂奉公之由被申事候、意外之儀共、乍去如何共為可申分、松山大夫差下候、定而一途可有之候哉、今般其元へ左近可指越之由、相存候処、事之外相煩候間、無其儀候、弟之久助遺之候、猶於巨細者口上ニ申付候間、不具候、恐々謹言、
   霜月五日      義氏(花押影)
      鮎川山城守殿
これも同じく永禄12年かと考えられる文書ですが、恐らく鮎川山城守が攻められて大宝寺義氏に助けを求め、それに対して義氏は矢嶋・根井両氏に鮎川氏救援を命じたという内容ですね。即ち、鮎川・矢島・根井はこの当時、庄内の大宝寺氏の傘下となっていたという事が判ります。…もっとも大宝寺義氏は越後上杉氏の被官でして、彼等は上杉謙信の姿を見ていた…という方が無難なのかもしれませんね。また、赤宇曾…小介川治部少輔が大宝寺義氏に奉公する言ってきたが意外なことだ…と言っています。
さて、この中で鮎川山城を攻めたのは誰でしょうか。言わずと知れた事ですが、滝沢氏かそれを支援した仁賀保氏でしょうね。
以上の文書から鑑みると由利衆を含めた諸氏は、
1 鮎川氏、矢島氏、根井氏、大宝寺氏(庄内)、小野寺氏(仙北)
2 仁賀保氏、滝沢氏、岩屋氏、玉米氏、来次氏(庄内)、土佐林氏(庄内)
という形で対立していた様です。
矢島氏と仁賀保氏の対立は、周りの諸侯を引き入れて大きな騒乱となっていた事が判ります。これに大宝寺氏と土佐林氏の対立があり、由利・出羽庄内とも非常に混乱していた様です。
この中、仙北小野寺氏の支援を受けて、矢島氏は仁賀保氏に攻勢をかけていました。 矢島満安の活躍は「矢島十二頭記」に詳しいのですが、文書等での確認は現在の所、確認できておりません。まあ、「矢島十二頭記」というものの性質上、嘘ではないと考えますが。
さて、鮎川氏は一部の「矢島十二頭記」に矢島満安の縁者であると伝えられると言っております。鮎川氏は山城守の先代より大宝寺氏の…むしろ上杉氏の勢力範囲の…北辺の備えとして傘下に入っていた事が読み取れますね。矢島満安滅亡後は勢力が衰退し、滝沢氏に併呑されたものと考えられます。また、子孫と考えられる一族の系図(「鮎川氏系図」鮎川久米松)によれば、鮎川山城守の子である鮎川親定は小野寺氏に仕え、その末葉は角間川給人として佐竹氏に仕えました。…これから推察するに鮎川氏は矢島氏の敗北と共に小野寺義道の元に逃れたと考えるべきなのでしょう。
鮎川氏は非常に小さい領主ながら、その領土が仁賀保氏の喉元に食い込む形で存在し、仁賀保氏にとって北方の滝沢氏らと連絡を取り合うのに非常に邪魔な存在だったでしょう。その滅亡は天正15年ころでしょうか。
続いて根井氏ですが、先に述べたように根井氏は本姓は滋野氏でして、矢島氏を信州より連れてきた…もしくは共に領有していた「大旦那」の一人でありましたが、何時しか勢力が衰退し矢島氏の傘下に入りました。
恐らく津雲出郷へ移住した最も早い一族は先に出た根井(滋野)行家でしょう。一部の「矢島十二頭記」では矢島満安より領地を召し上げられて現在の百宅に押し込められたとされていますが、どうですかね。
何れ、矢島満安の被官として仁賀保氏と戦っているのは事実ですね。
ただ、矢島満安が仁賀保氏との戦で旗色が悪くなると、矢島氏離れ仁賀保氏の被官となったようです。天正18年、当時の領主である根井五郎衛門尉は、豊臣秀吉より祢々井村169石余りの領地を得ました。
出羽国油利郡内祢々井村百六拾九石壹斗事令扶助訖全可領地候也
   天正十八年十二月廿四日      朱印
      祢々井五郎右エ門尉とのへ
ですが、知行宛行状を仁賀保光誠が持っているという事は、打越宮内少輔と共に仁賀保氏の被官化したものと考えられます。恐らく被官化した時期は、矢島与兵衛の謀反時でしょう。
後、根井五郎衛門尉…正重という人物でしょうかね…はどうなったか不明ですが、根井一族は遠藤氏と名を変え、生駒氏に仕えたとされます。
さて元に戻り、矢島氏でありますが、最後の当主の矢島満安は西馬音内城へ人質になっていたと推察されます。先に掲げた永禄12年頃と推定される土佐林禅棟の書状には「矢嶋息西馬音内ニ差置候事」と矢嶋四郎の子が西馬音内に居る事が判ります。思うに矢島満安の妻は西馬音内茂道の息女であり、ここで両者の縁が出来たのでしょう。
矢島満安は何度か仁賀保氏を粉砕し退伝の危機に陥らせますが、単純に石高の比較からすると1/2の勢力しかない矢島氏がどうして仁賀保氏と対等以上に戦えたか、ここに理由があるのではないかと思います。
私は「矢島十二頭記」とは矢島氏の遺臣が新たな領主である生駒氏に対して、アピールする為のモノでなかったのか…と考えております。何のアピールかは分かりませんが…仕官か何かですかね…。ですので「矢島氏大勝利!」という大本営発表的な覚書的記述が続くわけです。
しかし現実には仁賀保光誠が仁賀保家の家督を相続した近辺には矢島満安の領内統治には暗雲が立ち込めていました。
今度矢嶋事、為致還住候間、五三人之身上可改之旨申断ニ付、此庄之内五貫文之地出之、早々馳上可抽奉公者也、仍如件、
   天正十四正月九日      義興(花押)
      小番喜右兵衛との
小番喜右兵衛は「矢島十二頭記」の小番嘉兵衛と同一人物か、その一族であると考えられます。嘉兵衛は矢島満安の重臣の一人で、天正16年に矢島満安の弟与兵衛と共に謀反を起こして満安に討たれています。 この文書によれば、矢島家中よりかなりの数の者達が矢島家を離反し、大宝寺義興の元に逃れていると見られます。
内館御音札畏悦被申事候、依之拙子迄御書拝見之候、如仰由利表相収候事、公私満足此 事候、仁賀保相支之由、然処ニ西母生内殿始申御人数被引退候、迚之御事ニ重而御与勢 候而彼地落居候者、弥可為御目出候、為指出申事其恐不少候、猶追而可申述候条、不能審候、恐々謹言、
猶々申候、自旧冬愛季樓遅ニ付而、表書如此候、
   (天正十五年)三月廿七日   石郷岡主殿助 氏景(花押影)
      六郷殿
       参御報
これは安東愛季の動向より天正15年と考えられている石郷岡氏景の書状です。 安東愛季の家臣である氏景が、由利の事について「公私満足」といっている事からすれば、由利郡の動向は、安東氏が満足する形…敵である小野寺氏・戸沢氏の勢力が排除された形…で纏まったものでしょう。…小野寺氏一族勢力…矢島氏ですね。
で、「仁賀保相支之由、然処ニ西母生内殿始申御人数被引退候、迚之御事ニ重而御与勢 候而彼地落居候者」という箇所から考えるに、天正15年頃の矢島満安は岳父西馬音内茂道に頼らざるを得ないほど劣勢だったのかも知れません。
ちなみにこの戦いですが、「矢島十二頭記」では15年3月中旬に、矢島氏が滝沢氏を攻めたことが知られております。矢島氏は滝沢氏の居城…恐らく根代館でしょうが…を攻め、「三の塀まて攻入」った時、仁賀保光誠が空になった矢島氏の居城を攻めようと進軍して来た為、矢島満安は滝沢氏居城の囲みを解き、仁賀保光誠軍を迎撃に出ます。
矢島軍と仁賀保軍が激しく戦いあっている際、鮎川氏が矢島氏側として出陣し、仁賀保氏を挟み撃ちにした為、仁賀保光誠は大敗しました。この際、矢島満安は負傷したといわれます。  もしかしたらこの時の戦の事かも知れません。
この時の事を「矢島十二頭記」は大分簡略に書いていますが、地理から推察しますと、当初は仁賀保光誠が矢島満安を負傷させ、矢島軍を打ち負かして矢島領に押し入りましたが、矢島領に押し入ったところで不自然に矢島軍に負け、更に鮎川氏に挟み撃ちにされ、仁賀保領に逃げたという事になります。
これはもしかすると矢島に攻め込んだところで、西馬音内茂道の援軍が到着したのかも知れませんね。 いずれ、矢島満安のバックには岳父西馬音内茂道が居ました。
仁賀保と矢島はこの直後和睦しますが、天正16年の7月に至り、最上義光が矢島満安にコンタクトを取ってきたことから再び和睦は崩れます。即ち、矢島満安は豊臣秀吉の威を借り由利郡を領せんと欲したからです。
この最上義光とのコンタクトというのが矢島満安にとって致命的でした。最上義光は小野寺氏とは仇敵ですし、それに好を通じる矢島満安は小野寺氏から見ると裏切り行為であったでしょう。岳父の西馬音内茂道とて当主である小野寺義道の手前、矢島満安の為に動けない状態だったでしょう。矢島満安が仁賀保氏らに滅ぼされたのは自明の理であったと思います。
矢島満安が最上義光の元へ向かっている間の天正16年10月、仁賀保光誠の圧力に耐えかねた矢島郷の留守居である満安の弟の与兵衛(一名太郎)は満安に謀反を起こしました。
驚いた矢島満安は取って返して与兵衛を討ち、更に仁賀保光誠に対して宣戦布告しました。
この戦で仁賀保光誠は手痛い敗北を喫しますが、11月下旬に至り、小介川治部少輔、打越宮内少輔、潟保治部大輔、石澤次郎と語らい、矢島満安を攻めました。
矢島満安は手傷を負い、妻の実家の西馬音内へ逃げました。しかし仁賀保光誠等は追撃の手を緩めず、戦備を整えた後、西馬音内城へ押し寄せました。仁賀保光誠等と矢島満安・西馬音内茂道らは戦いましたが12月28日、矢島満安は討ち取られました。…若しくは切腹したのかもしれません。矢島満安を攻め滅ぼした後も仁賀保光誠等は西馬音内茂道と戦いましたが、小野寺義道が和睦の使者をよこした為、仁賀保氏等は兵を引いたそうです。
別の本には新荘館から要害である荒倉館に立て籠もりますが、由利衆の総攻撃の前に西馬音内城へ逃げたと伝えられます。その後、矢島満安は小野寺義道より切腹させられたそうです。なんか、これはこれでありそうな話ですね。
矢島氏が滅んだのは、矢島満安が矢島郷を明け渡した天正16年12月28日であろうと思います。一部の本には文禄元年になっていますが豊臣政権下での私闘は有り得ません。
さて、本編にも書きましたが年不詳ですが2月15日の西馬音内茂道宛の西野道俊の文書に「矢島の事だけど義道は納得してねーぜ。でも奉行衆はオッケー」という一節が有ります。天正17年の文書で、矢島滅亡の時のことだったらスッキリするのですがね。で、そうだとすれば、小野寺氏内部に矢島満安の処遇を巡って対立があった…。小野寺義道は矢島氏が滅んだことを良く思っていないという事になりますか。
その後、慶長5年の関ヶ原の戦いに矢島氏の残党は上杉景勝与同として一揆を起こし、矢島八森城を攻め落としますが、庄内攻めから取って返した仁賀保光誠・小介川孫次郎・打越氏に攻め滅ぼされました。
12-5 岩屋氏
1.出自
由利十二頭の一人、岩屋氏はその中でも非常に小ぶりな大名ですが、よく近世までその血脈を残しました。その出自は他の由利衆(十二頭)と同じく清和源氏小笠原流大井氏の流れを汲みます。
野史等によれば、岩屋氏は大井氏の中でも初代の大井朝光の次男である朝氏という人物に由来するといわれております。この朝氏という人物は『尊卑分脈』にはその存在は記載されておりませんが、信州佐久地方にある大井法華堂に伝わる系図にはこの朝氏以降の系譜が伝えられているそうです。同じく通字を「朝」とする一族であり、岩屋氏はこの朝氏の流れを汲むと考えるのが妥当と考えます。
ただですね…、『尊卑分脈』に名が乗らないというのは…『尊卑分脈』が完全だとは言いませんが…、朝氏の身分が低かったからではと推察されます。もう一ついうと、大井朝光の次男が「朝氏」だったかは定かでありません。系図では朝氏の子である朝信が、他の資料では大井朝光の次男であるとされている様です。 もいっちょ考えますと、記録に整合性があるというのが逆に怪しいかな?。
何れにしろ、この朝信は信州大井庄の内、梨子沢城に居住し軽井沢方面を領していたと伝えられます。岩屋氏の祖先は大井氏の本家にでも圧迫されて移住していったのでしょうかね。
岩屋氏が何時由利郡に移住したかは不明です。ただ、岩屋氏の菩提寺である永伝寺は応永5(1412)年に開山したそうで、それから推察すると応永年間迄には本拠地を現在の岩屋に移動させていたものでしょうな。 岩屋氏の歴代の名や代数の系図は伝わっておりますが、軍記物や覚書もなく、戦国時代末期までは不明としか言えません。
岩屋氏の領土は旧大内町の大部分…小関川沿を除いた地区でして、領地は非常に山地が多く、平野が少ない土地でした。
2.岩屋朝盛から朝繁へ
戦国時代…永禄期から天正期にかけて活躍するのが岩屋朝盛という人物です。彼は能登守を称し非常に有能な人物でした。
当時の由利郡の状況は、北には小介川氏・安東氏が控え、西には戸沢氏・小野寺氏が虎視眈々と狙っており、岩屋氏の持つ僅か800石程度の領地では単独で生き残る事は非常に難しい状況にありました。また、南からは長尾上杉氏の威をかる大宝寺氏が迫っており、岩屋朝盛が家督を継いだであろう永禄年間は、由利郡は激動の時代でありました。
当初、岩屋朝盛は仁賀保氏・土佐林氏側として大宝寺義氏・矢島氏等と敵対していた様ですが、土佐林氏が没落すると大宝寺氏と好を通じ、天正11年に大宝寺義氏が滅びると、その後を継いだ東禅寺氏永に由利郡の中で唯一接近します。更に東禅寺氏永を介して最上義光に接近しますが、天正16年に本庄繁長が庄内に来寇しこれを併呑すると、何事もなかったように本庄繁長と通交するという、非常にアクティブな行動をいたします。本庄繁長のバックには上杉氏が控えており、上杉氏に対する関係もあり、これの与力的な関係になった様です。
岩屋朝盛は天正18年には小田原の役に参戦し秀吉から領地を認められ、独立の領主として秀吉に仕える事になりました。
出羽国油利郡内岩屋村八百四拾五石七斗三升、平釘村四拾五石四斗五升、合八百九拾壱石壱斗八升事、令扶助訖、全可領地候也、
   天正十八 十二月廿四日      朱印
      岩屋能登守とのへ
当然、これは聚楽第にて下された物であり、天正18年末から19年初頭には岩屋朝盛は上洛していたものでしょう。
翌年に九戸政実が挙兵すると由利衆はこれに参戦し、九戸城まで行っています。
今までになかった東奔西走の大移動に50歳程度であった岩屋朝盛は疲れたのでしょう、天正20年に隠居した様です。次の文書は慶長20年頃の最上家親の時代にに出されたものです。
今度就江戸登、態御使札、殊扇子幷銀子壱枚給候、毎度御念入之儀大慶候、猶重而可申候、恐々、かしく、
   霜月五日         山駿河守
      岩屋能登守(欠)
系図上、この文書の岩屋能登守が朝盛ではなく、右兵衛朝繁の事であるとしているものもありますが、どうですかね?。私は「朝盛が生きていた」っていう方がしっくりくるんですがね。ですので、亡くなったのではなく隠居と解釈しております。
さて、岩屋朝盛ですが、天正16年と推察される次の文書から朝盛の嫡男は「孫二郎」という人物であった事が判ります。
先日は御音信承悦候、仍其後雖申入度所存候、従大浦由利中惣立之儀被仰付候条、先月廿六日子ニ候孫次郎罷立候間、(中略)
   九月十九日      岩屋 朝盛(花押写)
      吉高殿
        御宿所
※「孫次郎」が「総次郎」となっているものもある。
如御来礼、今度御老父爰元へ御越被□□折節取紛事付、不疎想々被失面目候、併年来御芳志之儀候間、隔□□永々旅行之可為御疲居候間、急度御本走可被成候、別候物は御無用ニて候、餅之御馳走可然候、猶追而、恐々謹言、
   (天正13年頃?)壬八月四日      東筑 氏永(花押)
      岩屋孫二郎殿
        御報
この「孫二郎」を「能登守」と同一人物であるとする向きもありますが、「子ニ候孫次郎」という一節から別人と考えるべきでしょう。
対して文禄5年から慶長4年迄の間迄、岩屋家の当主は孫太郎という人物であったことが確実です。孫太郎と孫二郎は同一人物かどうかは議論が分かれる所です。もしかしたら別人かもしれません。 また、系図によっては朝繁と孫太郎は同一人物であるというものもありますが…。
年未詳ですが、恐らく天正17年〜19年の間のものと推察される大宝寺義勝の文書に下記のものがあります。
態染筆候、仍民部少輔他界之由は、周章無極候、因之為音信、渋谷太郎左衛門尉召遣之候、恐々謹言、
   二月廿六日         義勝(花押)
      岩屋能登守殿
民部少輔という人物がどういう人物かはわかりませんが、弔問の使者が発せられる程…すなわち身内…である事から、民部少輔は朝盛の子か兄弟などの近親者であろうと推察します。私は子ではないかと推察します。
更に天正20年7月2日付の西野道俊の文書では、岩屋朝盛の子である「孫太郎」が無事に上洛した事などが記されているそうです。ん??。朝盛の嫡男は「孫二郎」だったよな。孫二郎、どこ行った???。もしかしたら上洛ってことは代替時の挨拶か???。
これから推察されることは
1 民部少輔と孫二郎が同一人物で、天正19年に亡くなり、孫太郎に代替わりした。
2 民部少輔が天正19年に亡くなり、孫太郎(孫二郎と同一人物)に代替わりした。
のどちらかでしょう。民部少輔が能登守朝盛の後の家督を継いだかどうかという問題はありますが…。
私は岩屋朝盛が天正13(1586)年頃には「御老父」と呼ばれる程の年…いくら若くても45歳くらいでしょうな…であった事からして
よって、孫二郎と民部少輔は同一人物であり、父の朝盛に先立って死去したものではないかと私は思います。 更に「孫太郎」名は慶長3年に消え「右兵衛」名が登場したのは5年10月ですが、私は孫太郎と右兵衛朝繁が同一人物であろうと考えます。岩屋氏が豊臣政権下、木材運上をしている折、岩屋家の家臣に佐々木小右衛門という人物が登場いたします。彼は諱を「繁広」としており、この「繁」は「朝繁」より偏諱を拝領している事が推察されます。この時の岩屋家当主は「孫太郎」を名乗っており、孫太郎は「朝繁」という名が諱である事が考えられるわけです。よって、孫太郎と右兵衛は同一人物というわけです。
よって朝盛と朝繁の関係で考えられることとしては
1 朝繁は朝盛の次男以降の子であり、本来、朝盛の跡継ぎは「孫二郎」であった。天正18か19年に孫二郎が亡くなり、孫太郎(右兵衛)朝繁が家督を継いだ。
という事です。朝繁は天正20(1592)年には元服しており、正保3(1646)に亡くなったそうですので、おそらく70歳オーバーの高齢で亡くなったのでしょうね。家督的には、朝盛―孫次郎(民部少輔、朝盛の子)―朝繁(孫次郎の弟)と続いたのでは…と考えるわけです。
岩屋氏の家臣で名前がわかっているのは、慶長2、3年に木材運上の奉行として佐々木小右衛門繁広、伊藤久内という人物ですね。
岩屋朝繁は慶長5年より活発な活動を開始いたしますが、滝沢又五郎とトラブルを起こした様です。
卯月廿九日之御状一昨廿二日ニ於勢州桑名拝見申候、然者酒田表へ御働被成候由尤ニ存候、被入御精故早速相語、近頃御手柄共申候、随而滝沢又五郎貴殿之代官所茂上殿頼入御訴訟被申候とて、御迷惑之由蒙仰候、尤無御余儀候、我等も勢州桑名へ用共御座候而罷在事候間様子一切不存候、本佐州出羽殿へも相尋ニ人を進候間、定而何とそ可申来候様子、追而従是可申入候、恐〃謹言
   (慶長六年)五月廿四日      本多中務 忠勝(花押)
      岩屋右兵様(朝繁)
        御報
この後、関ヶ原の戦いの後、どういう訳か岩屋氏は最上氏の配下となり、引き続き領主として岩屋に住み続ける事になりました。この頃、岩屋氏の一族に岩屋門丞、岩屋源内左衛門らが居ました。
岩屋朝繁の領地は慶長17年の最上氏の検地により、慶長7年頃は須山村、岩滑村、小羽広村、麓村、川口村、軽井沢村、桝川村、河内村、足淵村、町村、鹿爪村、午荒村、払川村、羽広村、石野坂村で、954石余りでした。屋敷の数も144間、家数157、非常にミニマムな領土です。…これ、あくまで貢租高です。因みに仁賀保氏だと6,618石、屋敷数1,573間、屋敷数1,799です。如何に小さかったか解りますね。
ですが、岩屋氏は本城豊前らと共に結構、最上配下として重要視されていたきらいがあります。この後、最上氏は改易されますが、岩屋朝繁も最上氏が改易の折、一緒に改易になりました。岩屋氏は秋田実季を頼り常陸に赴きますが、後に子孫は秋田に赴き佐竹氏に仕えたそうです。
12-6 石沢氏・下村氏・玉米氏
1.石沢氏
石沢氏・下村氏・玉米氏は、いずれも石沢川(高瀬川)の流域に領地を持つ国人領主です。河口側から石沢、下村、玉米と領土が並んでいました。一番河口に近い石沢氏は、現在の由利本荘市館字石沢館のあたりに居館を持ち、居住していたと考えられます。
石沢氏の由来は定かではありませんが、由利本荘市湯沢の大蔵寺は、石沢孫四郎を開基に建てられた真言宗の寺であると伝えられます。つまり確証はありませんが応永元(1394)年頃には石沢氏…孫四郎と伝わる…は石沢郷を領していたと考えられるわけです。
石沢氏は系図では永井氏の流れであるとされますが、家紋である三頭巴紋と位置的に由利…滝沢氏と密接な関係があることから考えると、もしかすれば出自は滝沢氏と深い関係があるのやも知れません。永禄3(1560)年に矢島氏が滝沢氏を攻めた時、石沢氏が滝沢氏に加勢した事も知られています。
天正中頃からの領主は石沢二郎で、矢島満安を討ち滅ぼした天正16年11月下旬の仁賀保軍の一角として、小介川、打越、潟保、滝沢氏らと共に名前が挙がっています。
矢島氏を攻め滅ぼした後、石沢氏は豊臣秀吉の小田原攻めに参陣し、知行宛行状の交付を受けています。
出羽国油利郡内石沢村参百九拾八石五斗事、令扶助訖、全可領知候也
   天正十八十二月廿四日
      石沢二郎とのへ
こうして石沢二郎は秀吉より領主の座を確保したわけですが、文禄4年に潟保、下村氏らと共に秀吉より改易にあったと伝えられます。
しかし石沢氏らは完全に潰された訳ではありません。領主の座は失っても、依然国人として領土に君臨していたものと考えられます。慶長5年の上杉景勝との戦い…いわゆる関ヶ原の戦いですね…にも石沢氏は参戦している事が知られています。恐らく滝沢氏の与力になったんじゃないかなあ。
関ヶ原の戦いを経て由利郡は最上義光の領土ととなりますが、石沢二郎の子と考えられる石沢左近之助が200石3斗を領して最上義光に仕えております。
いずれ最上氏が改易の折には由利を去らざるを得なかったと考えられます。
2.下村氏
下村氏の由来も定かではありませんが、仁賀保氏らと同じく信州大井氏の流れを汲むものと考えられます。
下村氏は応仁2(1468)年に下村氏は蔵立寺を建立したと伝えられます。領内には諏訪神社などもあり信州との繋がりが強いように感じられます。
玉米氏の家督相続争いの折には、玉米信濃守の子供を預かるなど、隣の領主である玉米氏との関係も強かった様です。
いずれ仁賀保氏とは複数の領主に挟まれ、直接利害関係もなく関係は希薄だった様です。天正時代末には下村彦次郎という人物が領主で、秀吉の小田原攻めに参陣し170石の知行を賜っています。
出羽国油利郡内下村百七拾五石事、令扶助訖、全可領知候也
   天正十八十二月廿四日
      下村彦次郎とのへ
あまりにもミニマムな領主でしたので、先に記した様に文禄4年に他氏の配下に入ったと考えられます。誰の与力になったものでしょうかねぇ。ま、順当に考えると滝沢氏でしょうかねぇ。
関ヶ原の戦い以後、最上義光が由利を領すると、やはり他の氏と同様に最上義光に仕えたと考えられます。系図では下村彦次郎の子の長秀は幼くして秋田に行き佐竹氏に仕えたことになっていますが、佐竹氏が由利を領した時点で21歳、これは誤伝ですね。最上家には「下村主税助」という人物が221石1斗で仕えておりますが、この人物ではないでしょうか?。
3.玉米氏
玉米氏は由利郡でも一番小野寺氏の勢力範囲に近い箇所に領地を持っていました。領地名を取って玉米氏と言いますが血筋から小笠原を名乗ったりしたようです。
一部の「矢島十二頭記」によると天文年間末頃の領主を義満と言い、家督相続のもつれから仙北小野寺氏の一族である山田氏と戦になり討死いたしました。その跡を継いだ嫡子義次は、再び攻めてきた山田氏を破りました。この後小野寺氏と玉米氏は和議を結んだと伝えられます。
玉米義次は元亀元(1570)年9月下旬には矢島を攻めました。一説には矢島が玉米を攻めたとも伝えられます。これは玉米氏が仙北の小野寺氏とは和議を結んだとはいえ敵対関係にあり、小野寺氏と同盟関係にあった矢島氏とは、仲が悪かったという事でしょう。
ですので、天正3年に仁賀保氏が矢島に攻め込むと、玉米義次は仁賀保挙久と矢島氏を挟撃する算段をしたようです。これは成功いたしませんでしたが。
天正末の小野寺義道に玉米半三郎という人物がおり、それが玉米氏の事だとされる場合があるようですが、私の独断の考えでは小野寺氏領の「到米」の領主でしょう。到米は由利の玉米の上流で、混交されたものだと考えます。
現在知行宛行状は残っておりませんが、玉米義次も秀吉に知行を安堵されたものと推察されます。しかし下村氏同様玉米氏も時代を経るにしたがって他氏の傘下に入ったと考えられます。
玉米氏は領主の地位を失った後も、そのまま由利に住み続けたものと思いますが、最上義光の分限帳には名前が見当たらず、もしかしたら最上氏が入国した折に江戸に上ったのかもしれません。
いずれ、小野寺義道にとっては非常に気になる存在だったようで、仁賀保光誠が死んだときには滝沢氏と並んで「どうなった?」とその行く末を心配されています。…もしかしたら一時、仁賀保氏の元にいたんですかね????。
12-7 潟保氏・羽根川氏
潟保氏
潟保氏の来歴は詳しいことはわかりませんが、元々は斎藤氏であるとも言われております。潟保氏の居館である潟保館は建保5(1217)年にできたと伝えられます。その時代は由利氏が由利郡を失い、新たに大井氏が新領主として登場した時代ですが、果たして真相は如何という所でしょうか。
潟保氏は「十二頭記」などでは仁賀保と矢島の争いの中で中立な立場で登場しますが、元々仁賀保氏と由利氏、子吉氏ら反矢島・小野寺連合に領土を囲まれており、非常に小さな領主です。村地頭的な存在から成り上がったのではないでしょうか?。
天正期の主は潟保治部大輔で、(史料6)に最上義光の重臣である中山光直からの書状が記載されています。秀吉からの使者が最上義光の元に来た事が知らされています。
いずれにしろ、最上義光に「従え」と言われていることからして、仁賀保氏らと行動を共にしていたものと考えられます。
豊臣政権下で潟保氏は単独での領主格を失ったと思われ、他氏(仁賀保氏か滝沢氏)の与力化したと考えられます。
また、関ヶ原の戦いでは、潟保氏の臣の稲葉氏の言によれば、潟保氏の主は西軍である庄内攻めに積極的ではなく、稲葉氏が単独で仁賀保光誠軍に加わっているようです。
そのせいか戦いの後、潟保氏が領主として復活する事はなく、在地有力者として最上義光の騎下に組み入れられたと考えられます。「潟保出雲」など、潟保氏であろうと考えられるものが分限帳に名が見えます。
羽根川氏
羽根川氏は由利衆の中で最も記録の少ない領主の一人である。
その領土は由利郡の北端であり、雄物川沿いに西に進出してきた小野寺氏や、隣接する安東氏の被官となり、時には自立してその命運を保っていたと考えられる。
湊合戦の折りに秋田の豊島氏が没落した後、羽根川氏が豊島氏領に移ったという記載もある。
血縁的には赤尾津氏の弟と伝えられる。  
 
13.仁賀保家系図
大井友挙以降の仁賀保氏の系図は下記の図のようになるか…と思います。
ローマ数字T、U…は次男誠政に始まる二千石家、丸数字1、2…は3男誠次に始まる1300石家、アラビア数字1、2…は200俵家になります。
系図上に現れていますが、長谷川氏の中に仁賀保誠成という人物がいます。彼は徳川綱吉より「血筋が仁賀保であるので、仁賀保を名乗る様に」と言われて、仁賀保甲斐守を称します。仁賀保という性はちょっとした価値があったんでしょうかね。
なお彼は7,000石を拝領しましたが、綱吉の勘気に触れ、あっという間に没落、川越に蟄居させられます。彼の墓は川越の広済寺にあるようです。  
 
14.矢島十二頭記

 

仁賀保氏が登場するモノとして、そこそこ知られているのが、『奥羽永慶軍記』の中に出てくる仁賀保氏と矢島氏との争いです。
おそらくこれは『奥羽永慶軍記』の作者が「由利十二頭記」として伝わってきたものに加筆して軍記物に仕立てたものであると考えられます。小説として非常に読みやすいものですから、世に出る機会が多く、それをそのまま「歴史」として採用しているモノが多くみられます。
ただ、私が思うに『奥羽永慶軍記』の由利諸党の項は、出典不明のどこから取ってきたの?それ???と聞きたくなるようなエピソードが多数散りばめられていて、贔屓目に見ても・・・という感じがします。かなり脚色が多いですしね。
そもそも、『軍記』の由利諸党のネタ本であろうと考える「由利十二頭記」には2つのタイプのものがあります。「覚書」風のものと、「軍記物」風なものの2つですね。
仮に覚書風の物を(A)、軍記物ふうの物を(B)としますと、『奥羽永慶軍記』はこの(B)の本をベースにし、どこからか採取してきた逸話をハメ、膨らませて書かれていると思われます。
詳しいことは省きますが、私は(A)本の方が(B)本に比べて事実を伝えているように思うんですね。
この項では、あらゆる「由利十二頭記」の中でも、私的に他の物のベースになっているのでは??。と思っている「矢島十二頭記」を見ていこうかなーって思っています。 
矢島氏の由来と由利十二頭の事
『矢島十二頭記』に(覚書風A)本と(軍記物風B)本があるのは前述したとおりですが、更に特徴的なのは、(A)本、(B)本とも視点が違うという事です。例えば(A)本は矢島氏からみた、(B)本は(A)本をベースに仁賀保氏の記載を多く…といった次第です  まず、特徴的なのは(B)本の冒頭です。
1 由利氏・鳥海氏の興亡について
正中元(1324)年3月23日、仁賀保の鳥海彌三郎殿が由利の中八郎殿を攻めた。同24日に中八郎殿の城が落城し切腹したので、同2年より由利郡は全て鳥海彌三郎殿の領土になった。中八郎殿に子孫は居ない。
建武4(1337)年、鳥海彌三郎殿の子供が出家したまま家督を継いだ。名前を常満利師様と申された。家老に進藤長門守・渡辺隼人が居たが、謀反を起こして利師様を攻め滅ぼした。観応元(1350)年4月9日が利師様の御命日である。それから由利は全て長門守・隼人の両名が支配した。この頃、国中は何かと騒がしかった。
康安元(1361)年3月31日より4月中旬頃まで進藤と渡辺は仲違いをして戦った。長門守は仁賀保西小出の待居館に、渡辺隼人は伊勢居地の栗山館に籠り、度々戦ったが決着が付かなかった。
貞治2(1363)年5月21日、長門守・隼人両者ともに討死した。その後は由利郡に主がなく、由利中の百姓たちが村々に分かれて戦い、非常に物騒な状態であった。
右の6カ条は古い書物に見当たる事で、そのまま書き記しておいた。
だそうです。
「右之六ヶ條ハ古き書物にて見當候」としていますが、古い書物…今は見当たりませんなあ。ただ、史料にも由利氏が居て、観応の擾乱期にも由利氏の子孫がいるのもわかっていますので、こういうのもあったのかなあ???…程度ですね。鳥海氏の事は口伝や野史に伝わる程度で、史料は皆無ですし、まして進藤・渡辺のことは解りません。
ただ、2代目が僧体で家督を継ぎ名前を「常満律師」という事…など、なんか真実味があることや、当時の仁賀保が北朝方の年号を使っている事…庄内は南朝ですな…、南北朝の激しい戦があったように推察されます。ですので一笑に付すことのできない記述として考えています。
これは(B)本のみに出ている記述です。矢島に関係ないので(A)本には出てきません。
続いて、矢島氏の由来に項目は続きます。
2 由利十二頭の出自について
まず『矢島十二頭記』(A)本です。
矢島殿の先祖は信濃国の木曽義仲公の旗下で、木曽義仲が没落した後、応仁元(1467)年3月中に信濃国より矢島へ下られ住まわれた。初代を義光公、その御嫡男を光久公といい、更にその御嫡男を光安公と申された。
本来の姓は小笠原氏であり大井という姓を名乗られた。三代目の光安公は大井大膳太夫殿とも矢島五郎殿とも申された。
出羽国由利郡には大将が12人おり、矢島殿・仁賀保殿・赤尾津殿・潟保殿・打越殿・下村殿・玉米殿・石沢殿・滝沢殿・沓沢殿・子吉殿・鮎川殿と申された。この内、仁賀保殿は大きな勢力を持っており、これも小笠原家一族である。矢島殿と親戚でもある。また矢島殿は鮎川殿とも御縁類であった。
仁賀保殿の先祖が信濃國より初て御下りなられた時、大和守殿と称された。御嫡男も後に大和守を称した。これがいわゆる小和州殿である。
解説致します。
『矢島十二頭記』(A)本の特徴は矢島氏の視点から描かれている事です。恐らく矢島氏の遺臣などが、生駒高俊が矢島に入部したおりに矢島郷の歴史を紐解いた物がベースなのではないかなと私は考えます。ですので仁賀保郷やその他の地区の記事は出てきません。
冒頭に「矢島殿御先祖は信濃國木曽義仲公の籏下之由」と書き出されているわけですが、これは「矢島=矢嶋行忠の子孫だろうなー」という、当時の解釈からきているのでしょうなあ。矢嶋行忠って木曽義仲の有名な家臣ですな。当然、矢嶋行忠は滋野氏であり清和源氏である小笠原氏とは関係ないのですが、そこは伝承ですのでゴッチャになっています。
更に応仁元(1467)年に移住した事になっているわけですが、「元徳3(1331)年」の記載を持つ碑文に津雲出郷の大旦那として、矢島氏と根々井氏の先祖らしき「源正光」と「滋野行家」の名前の記載がある史料もあり、実際はもっと前から住んで居たのだろうなあと思います。(B)本では「應安2(1369)年より應仁元(1467)年の間」に移住したとしています。
また、矢島氏の累代の名が出ています。義光―光久―光安の3代ですが、応仁元年からカウントして矢島氏が滅びるまで130年弱です。3代だと皆さん50歳過ぎに子供を作った計算になり、なんか不自然です。因みに(B)本では、義久―義満―満安と続いたとされます。野史等では、やっぱり不自然だと考えたのか、(A)本と(B)本の系図を合せて、義久―光久―義満―満安としているものもある様です。
私は先般の史料から考えても、矢島氏は実際はもっと代数が続いていたのではないかなーと思っています。
仁賀保氏累代に関して、『矢島十二頭記』(A)本は初代を大和守、2代目を大和守、通称は小和州だと伝えています。これは矢島氏…矢島氏の遺臣たちが知っているのはこれまで…ということなのでしょう。対して恐らく仁賀保氏寄りの『矢島十二頭記』(B)本では初代から4代目までが大和守、4代目が小和州となっています。
また、12頭の数え方も色々です。『矢島十二頭記』(A)本の特徴は沓沢氏です。他の氏族は「〜郷」の領主で郷名が名になっているのですが…。沓沢氏の事跡は(B)本に詳しく載っており、矢島から見た12頭記であれば、成程、沓沢氏はカウントされるだろうなあという気がします。
次に『矢島十二頭記』(B)本です。(B)本でも、其々の由利十二頭の由来を説きます。
由利12頭は応仁元年に鎌倉より来られた方々である。仁賀保殿が大将であるが、信濃から来たという証拠も沢山ある。それは矢島五郎の先祖の義久が信州より来たという事である。その時家臣も付いてきた。彼らは応安元年から応仁元年までの100年間に移住したと伝えられる。
根之井氏が浪人して矢島に来た時、領主がおらず無秩序になっている様子を見て、信州より木曽義仲公の末裔である小笠原大膳大夫義久を連れてきて矢島の地頭にしたという。この時根の井は矢島の1/3を自領として義久に仕え矢島に居住した。…と、老人たちは言っている。
この後、矢島氏は義久・義満の代にも根の井を大切にしてきたが、満安の代になると「元々根の井は木曽氏の家臣筋であるので、1/3も知行はいらないだろう」と領地を取り上げ、根の井舘より米之澤へ領地替えし、僅かに百宅・米之澤・上猿倉3ヶ所だけの領地とするのみになってしまった。五郎の代には命令に従って軍場へも出ていた。矢島ではこの様に伝えてきた。
この項も(A)本にはない項目です。矢島の伝承を記録したとしています。矢島氏と根々井氏が矢島郷の領主として居たのは事実です。ただ、根々井氏が矢島氏を連れて戻ってきたっていうのはどーですかねぇ?。根々井氏が地頭代で、地頭の矢島氏が後に本拠地を信州から移してきた…っていう解釈なら成り立ちますか…。ま、ここでは矢島満安の強欲さ…戦国大名化と言ってもいいか…が見えますね。
この項の特色は仁賀保氏には敬称として「殿」が付きますが、矢島氏には敬称がないことです。続きます。
さて12頭とは
仁賀保殿 小笠原大和守殿、仁賀保領主。この和州殿の幼名は次郎殿といい、次郎殿迄3代和州殿と呼ばれた。
同嫡男 次郎殿。やはり大和守を称し小和州殿と呼ばれる。天正5年8月19日家臣の謀反で切腹した。子供は居ない。
同宮内少輔殿 次郎のあと家を継いだが天正11年7月6日、家臣の謀反にて切腹した。
同八郎殿 子吉氏より婿養子に入り仁賀保家を継いだ。天正14年10月15日切腹した。家臣の謀反か。
兵庫頭 赤尾津殿よりの養子で仁賀保兵庫頭と名乗った。慶長8年、常陸武田に転封、元和9年10月に再び仁賀保1万石を宛がわれ、打越左近殿・六郷兵庫頭殿・岩城但馬守殿らと共に由利郡に入られた。兵庫頭殿は象潟塩越に居城された。寛永2年、御子息嫡男の蔵人殿へ7千石、内膳殿に2千石、内記殿に千石分知成された。同8年蔵人殿は逝去され養子も悶着し7千石家は取り潰された。
矢島殿 小笠原大膳大夫義久殿。信州より初めて来られた。この時代12頭は戦ってなかった。伝聞もない。
同嫡男太郎殿 後に大膳大夫義義満殿。この時代も戦の事は伝え聞かない。
(同)嫡男矢島五郎殿 後に大膳大夫満安殿という。義満殿の嫡男で大力で身長が6尺9寸、へそから胸まで熊の様に毛が逆さに生え、大刀は4尺8寸の大刀を3つの指で掴んで使った。食事は米3升ずつ1度に食べ4、5日間食べない。乗馬は八升栗毛といい、陣貝を聞くや否や前足を上げて大豆を八升ずつ食べる。文録元年7月25日、居城が落城して西馬音内へ逃げ同12月28日に切腹した。矢島は仁賀保兵庫頭の領土になった。男子は無く、娘のお鶴殿は兵庫頭殿の捕虜になり、弟である仁賀保蔵人殿の妻になった。法名は妙月大姉、矢之元之元弘寺宅にて死。
赤尾津殿 孫次郎殿。老いてからは道益殿と呼ばれた。今の亀田・松ヶ崎あたりを赤尾津という。何代続いたかは不明である。
滝沢殿 滝沢刑部殿といい何代続いたかは不明。しかし由利中八郎殿の子孫であることは確かであり、鳥海山に鉢を奉納したことが知られている。最上義光殿の配下の楯岡豊前殿の家来となり由利5万8千石の内、4万8千石は豊前殿、1万石は滝沢殿が治められたが、元和8年最上殿が改易になった時、豊前殿も滝沢も潰れた。
子吉殿 次郎殿、後兵部殿といい、何代続いたかはわからない。地元の者も詳しくは知らない。
打越殿 孫四郎、後宮内少輔殿。今の亀田領打越にて2千石知行されて、その後関東へ国替、又元和9年に千石加増されて矢島へ来られた。寛永11年逝去され、子が無いため取り潰しになった。
石沢殿 作左衛門殿といい何代続いたかはわからない。文録4年に潰れた。この時、作左衛門殿、潟保殿、下村韶六殿が太閤様より潰された。
岩谷殿 忠兵衛、内記殿という。何代続いたかはわからない。知行所は亀田領の岩谷・打越の当たりである。
潟保殿 祖兵衛殿とも叟記ともいう。何代続いたかは不明。
鮎川殿 筑前殿という。幼名は瀬兵衛殿という。矢島五郎殿の親戚と伝えられる。何代続いたかは不明。鮎川の代わりに羽根川殿を12頭に入れるものも居るが、鮎川殿が妥当だとう証拠もある。家臣筋も未だに大勢いる。
下村殿 小笠原蔵人殿。幼名は韶六殿ともいう。
玉米殿 小笠原信濃守殿。幼名は介兵衛殿という。
この12人を十二頭という。
この項は俗に由利十二頭と言われる者達を詳細に記しています。が、その前の矢島氏の由来の項と矢島氏の略歴がダブっているのが分かります。元々は矢島氏の由来のみでしたが、(B)本の作者…1人とは限りません…が、既にあった『矢島十二頭記』に十二頭其々の略歴を更に書き加えた為にそうなったのでしょう。(B)本では沓沢氏の代わりに潟保氏が12頭に入ります。
系図で言うと多少の名の違いはありますが、矢島氏の系図は(A)本踏襲であり、矢島五郎と言う人物は怪異な格好の猛将であるという描写が追加されています。
仁賀保氏の系図は非常に詳しいと思います。他の氏の系図も、滝沢、岩屋など、江戸時代初期の人物の名を天正年間の領主として使用したり、?という名もあったりしています。 …ただ、世代が違えど、文書にその名が有ったりし、全くの作り物の名前ではありません。筆者が良く取材しているという感じです。
永禄年中の争い
3 履沢左兵衛の謀反
この項目は『矢島十二頭記』(A)本にはありません。(B)本のみのものです。
向矢島に秋田からの浪人で履沢左兵衛殿という人物が居り、根井氏目をかけ小城を築き居住させていた。矢島五郎殿も履沢には先祖から情を懸けていたのだが、履沢は滝沢刑部と矢島を横領しようと計略を練っていた。
これを五郎が聞きつけ不届きに思い、配下の大瓦別当普賢坊に履沢左兵衛を討つ様にと命令した。
永禄元年12月29日の夜、大瓦別当普賢坊は同じく家来の佐藤筑前の所に集まり、翌朝未明に履沢の城へ攻め込んだ。履沢庄兵衛は良く戦いったが傷を負い自害した。履沢家臣の柴田四郎は大力の猛者で、激闘の末逃亡したが佐藤筑前が追いかけて討ち取り城を焼いた。褒美として五郎殿から筑前には左兵衛の持つ山を給り、普賢坊には田地1町給った。これは子孫が今だに所持している。
これの履沢…沓沢氏と同じでしょう…氏は良くわからない人物です。(A)本にも沓沢氏として12頭の1人に数えられていますが(A)本にその事跡はありません。(B)本によって事跡が分かります。(B)本の筆者は矢島の住民の先祖由来として、この話を聞いた物なのでしょう。
4 玉米氏と仙北山田氏との戦い
玉米領主の小笠原信濃守義満殿には跡継ぎがなかったので、仙北の山田五郎殿の3男の小介を婿養子にしたが、その後信州殿に男子が生まれた。義満は実子を優遇した為、小介殿の中は険悪になり(小介を幽閉した)。信州殿は須郷田村に隠居して平城を構えて移り住んだ。しかし永禄2年12月下旬、信州殿の家老杉山宗右衛門が謀反を起こして、幽閉されていた小介殿をを山田へ逃がした。
翌3年5月10日、山田五郎殿は大軍で玉米を攻め、杉山宗右衛門の手引きで玉米に攻め込み信州殿を討ち取った。郎党の八島右馬之助、(中略)孫之弥十郎も討死した。この時、信濃守殿の嫡子介之進殿と弟2人は配下と逃走したが、山田軍が追いつき介之進殿を捕虜にして山田連れて行った。弟2人は下村蔵人方へ逃げた。
捕虜になった介之進殿であるが、家来の八島・小松が計略で山田より取戻し、永禄6年秋に養田館を築き、介之進殿を当主に据えた。彼は改名して彌三郎義次殿と名乗った。
永禄7年1月15日夜、山田五郎殿は養田館に攻め込んだ。養田館が落城寸前になった時、在郷侍の鳥井坂太夫、(中略)長谷山但馬らが方々より参集し、敵陣の後より攻めかかり鵯限専介殿という貝吹を小野筑後が討ち取った。山田軍は戦意を失い早々に軍を引いた。専介の貝は玉米が取り、その後西馬音内より和睦交渉がなされた。
これも(B)本のみの記述です。まあ、『矢島十二頭記』(B)本の作者は、相当各地の人から聞いたりしている様なので、これもその中から出てきた話なんでしょう。山田五郎は小野寺氏の一族で現在の湯沢市に勢力を持っていた様です。同じく小野寺一族の西馬音内が和平の仲介をする事は…あるでしょうなあ。何れにしろ、誰かがいつの時代かに、この話を挿入したんでしょう。
矢島・仁賀保の戦い 1
5 矢島氏と滝沢氏との戦い
まず、『矢島十二頭記』(A)本ですが、非常に簡略です。
永禄3年、矢島殿が瀧澤殿を攻め矢島軍の先鋒平根左衛門が軍功をたてた。石沢殿が滝沢殿の後詰をした為、勝負が付かなかった。矢島勢20人討死して双方とも引き上げた。戦いの場は上条である。
対して(B)本ですが、この事件に対して非常に細かく伝えています。
滝沢刑部少輔殿と履沢左兵衛の策略が露見して左兵衛は討ち取れた。刑部少輔殿は仁賀保氏に介入を頼み、仁賀保氏と共に矢島を滅ぼそうとする噂が流れた為、永禄3年5月中旬、矢島五郎殿は滝沢城に攻め込んだ。
城中は静まり音もせず鉄砲や弓をを打っても音が無い。そうしている内に斥候が帰ってきて五郎殿に言うには「仁賀保大和守殿の大軍の旗が鎌ヶ淵まで見える。滝沢殿への後詰に間違いない。早々に陣を引き取るべきだ。」と伝えた。それを受け矢島軍は撤退したが、その時城中より大勢討ち出て矢島勢は14、5人討死した。
矢島五郎殿より同年6月中に仁賀保大和守殿へ使者を出した。使者曰く「先祖より小笠原一家で祖父義久の頃より兄弟の如くしていたのに、刑部殿へ後詰するとは承知できない。」と。大和守殿は「帯刀に直談判され刑部に何とかと頼まれ、老いた身の無調法であった。他意があったわけではない、」と言い、誓うと仰せられた。
(A)本ではかるーく触れられているVS滝沢戦を、(B)本では矢島と仁賀保の戦いの遠因にしたい様です。もしかしたら真実かもしれません。後詰が(A)本では石沢氏であるのを(B)本では仁賀保氏であるとしています。位置関係からしてどちらでもありそうです。
わたしは石沢氏が後詰したのではないかなあと思っています。
6 矢島氏と玉米氏との戦い
元亀元年9月、玉米殿が矢嶋を攻めたが、玉米殿の家臣の多くが討死した。(ここの記事が飛んでいる?)雪が消えた為、矢島殿・その味方は帰って行った。
この(A)本の文章は、伝えられている内に各所が省略されてわかりずらくなっています。まず、「元亀元年9月に玉米が矢島を攻め」、その記事のあとに「雪が消えた為に矢島氏とその味方は帰還した」というわけのわからない記述になっていますが、おそらく、「元亀元年9月に玉米が矢島を攻めた」が、その後、今度は矢島は味方と共に逆に玉米を攻め、「雪が消えた為、矢島氏と味方は帰還した」という事でしょうな。記事が一部飛んでいると考えられます。
矢島五郎殿の近習召使に蛭田傳之助という小姓がいたが、佐藤主計がこれを討って逐電し、玉米領主の小笠原信濃守殿の元へ逃げ込んだ。それを聞き信濃守殿に佐藤主計との関係を断つ様に言ったが、一向にこれを実行する気配はなかった。
五郎は我慢の限界に達し元亀元年9月17日、大軍で玉米信濃守殿の居城である水上城へ攻め込みんだ。しかし城中に屈強の者共が大勢居て双方に討死・怪我人が沢山出てた。その上、下村蔵人殿が玉米氏に後詰されると噂が流れ、五郎殿は軍を引いた。
(A)本では玉米氏が矢島を攻めたのに、(B)本では逆になっています。どちらが本当かはわかりませんが。続きます。
7 下村氏VS石沢氏
元亀3年4月上旬、下村領主の小笠原蔵人殿居城の根城に石沢作左衛門殿が攻め込んだ。蔵人の家来である真木新左衛門は鉄砲が上手で敵を7人討ち取った。この日は戦に利はなく石沢勢は一時大琴山に撤退し、翌未明に再び攻め寄せた。蔵人の家来小笠原之太夫、(中略)木下武蔵らは命をかけて戦った。これを見た石沢軍は根城の後より攻め込む。大手口の戦に気を取られて搦手の守備は薄かった。阿部與惣兵衛、石渡左衛門四郎、小野七左衛門の女房たちは、柴手を登ろうとしていた武者を見て石を転ばして敵を威嚇する。武者2人が塀の陰まで攻め寄せると、内より梯子をかけ手頃な大きさの石を投げつけて2人共に谷底へ落した。
大手の戦では佐藤源兵衛が討死するのを見、城内より大勢が切り出て、石沢勢は堪らず引いて逃れるが、斎藤丹後、(中略)藤山土佐らは命を惜しまず下村軍に立ち向かって戦い、ようやく石沢軍は兵を引いた。双方とも討死したものが居た。
この項目も(A)本にはありません。位置関係からすれば…アリだけど…。まあ、あったんでしょうかねぇ。
8 矢島満安の滝沢攻め
永禄3年、滝沢へ五郎殿が攻め寄せた。これは双方が仲が悪く、百三段の市場へ百姓共が運ぼうとしていたのを度々邪魔するので、五郎殿はこれを何とかすべく考えた為である。
これ、(B)本のみの記事で、時代をさかのぼって永禄3年の滝沢攻めの記事がまた出てきました。しかも今度は別の理由で…。思うに「永禄」は「元亀」の間違いか…?。しかし、だとすれば記事が(A)本にも記載されていると思うのですが。…多分、仁賀保と矢島の戦いの起因を何人かの筆者が考え、それぞれの考えが記載されたんでしょうなあ。
ただ、そもそも何故、滝沢氏が履沢氏と共に矢島を滅ぼそうと思ったのか…もしかするとこういうのが原因でしょうかねぇ。…ただ、農作物を百三段に運ぶというのはどうですかね?。子吉川を下った本荘の石脇の当たりの方が妥当かと考えます。
この項を擁護するとすれば、1450年前後、小野寺氏は雄物川河口部を制圧していたのでは…と思われる微証があります。小野寺氏の傘下にあったと思われる矢島氏は、当然、雄物川河口部にある百三段に物資を輸送するのは当然か…と思います。矢島氏からして一番楽なのは子吉川河口から船で百三段に向かうルートでしょう。そこでルート上の滝沢氏・石沢氏、子吉氏などが邪魔になるわけですね。
…考えられる話ではあります。
9 矢島満安の戦略と仁賀保挙久の戦死
この項は矢島と仁賀保の戦いの原因と、仁賀保挙久の大敗についての項になります。
天正3年8月下旬、矢島殿が新庄城に居られた時、仁賀保殿が矢島に攻め込み根井館に陣を引かれた。仁賀保殿の策略は仙北の小野寺遠江守殿と矢島を挟み撃ちにするということある。(ここの文章が省略されている)同3月1日の晩に山に篝火を焚き、それを合図に山の手より小野寺軍が攻め込み、矢島勢が気を取られている内に、仁賀保軍が後ろの郷内よりや夜討するというものであった。しかし、この密使を矢島殿の武将が見つけ、打ち取り書状を矢島殿へ差し上げた。
仁賀保殿は3月1日の暁に神代山に篝火を炊いた。矢島殿は弟の太郎殿を城に残し置いて、自分は築館へ廻りもう一隊は矢島より廻りこんだ。合図の篝火を見て仁賀保軍は郷内まで出陣、仁賀保親子は本陣の根之井館に居たが、矢島殿の軍勢は双方より根の井館へ攻め込んだ。小主和州殿は切腹され、御子息の次郎殿は川を下って杉澤へ落ち延びた。(は)前杉迄追掛けて討死した。新庄城より守備をしていた矢島軍も郷内に攻め寄せ、仁賀保軍は子吉川を下り前杉・小坂へ落ち延びていった。矢島殿も前杉・小坂を廻り造石まで追いかけ首数200余り取り、矢島勢は30人余りが討死した。
(A)本のこの項ですが、文章がすっ飛ばされたりしてわかりずらい箇所があります。まずは「天正3年8月下旬に矢島殿が新庄城に居られた時」に仁賀保氏が攻め、「3月1日に篝火を炊く」という時節がつながらない箇所です。これは、「天正3年8月下旬に矢島殿が新庄城に居られた時」にあった矢島VS仁賀保戦が省略されたからです。この矢島VS仁賀保戦の後に、別記事で「天正4年2月」に仁賀保殿が矢島を攻めるという風に、あったはずなんですね。
なので、篝火を炊いた「同年3月朔日」とは「天正4年3月朔日」の事と考えられます。
ここは(B)本の方が体が良い感じがします。
天正2年6月中旬、滝沢に攻め込み上條に1日逗留されたが、斥候が戻ってきて「仁賀保軍が後詰として横山山城・菊池五郎太夫両人を大将として大勢攻め込んできた。」と五郎殿に伝えた為、矢島に戦果無く帰還した。その後五郎殿は親戚の小介川摂津、根之井右兵衛、帯刀等を呼び、「仁賀保が2度まで敵についたので、当年中に是非とも仁賀保を討ちたい。」と相談した。摂州は「とにかく来年まで様子を見てはどうか。」と言うと五郎殿は御腹立された。しかし皆々が口々に穏便に済ませようとしたため来年まで攻めるのを待つことにした。
この記事は、(A)本には無い記事です。…真偽は…不明ですね。
天正3年8月16日、仁賀保大和守殿は矢島五郎殿の新庄館を攻めたが、大雨が降って洪水し郷内の渡し場は3日間渡れず、両者とも川を隔てて睨み合うのみであった。大和守殿は4日目にも雨が止まない為、戦果無く仁賀保に帰られた。
大和守殿は五郎殿を攻め滅ぼす為、玉米領主の小笠原信濃守殿に後詰を頼まれ、天正4年4月28日矢島に攻め込んだ。29日の夜に五郎殿の居城新庄城を攻めようとしたが、信濃守殿とは玉米軍が新庄城の後の山より攻め寄せ、日が暮れて篝火を焚いたのを合図に城を攻めるべしと密約を交わしていた。しかしこれは五郎殿に伝わった。
対する五郎殿の作戦は、4月28日に玉米軍を防ぐ為に神代山の難所の通口に逆茂木を建てて人馬が通れない様にし、守備として根の井右兵衛を付け置いた。果たして29日早朝に玉米軍が攻めてきたが、難所にせき止められ鉄砲を射かけられたが無理やり登られた。その頃、五郎殿は舎弟與兵衛殿を城に残し置き、自身は突撃する為小介川摂津、(中略)大瓦普賢坊らを引き連れて、夜陰に紛れてサスガ瀬に廻り神代山の合図の篝火を待った。
矢島與兵衛殿は信州からの合図の火を以て城の後ろに19時頃に篝火を立てた。それを見た和州殿は「合図の篝火が立った、攻め込め」と下知し、仁賀保中務、横岡山城、土門対馬、芹田伊予の4人が軍を率いて新庄城に攻め込んだ。
大和殿は親子共に根之井館に本陣を引いていたが、五郎殿は篝火を見ると城の向かいに回り後より攻めようとしたが、根の井館は手薄であると三右衛門が言うので、根之井館へ行ってみると、和州殿がのんびりしていた。四方より館を包囲して時の声を上げた。菊池は次郎殿を徒歩で連れて杉沢口へ落ち延び、和州殿は五郎殿と切りあわれ遂には討ち取られた。添侍も15人討死した。それより陣小屋に火をかけた。
仁賀保軍は新庄城に攻め込む為に進軍している最中に和州殿が討死したと聞き、更に後ろの根々井館に火の手を見た。仁賀保軍は根の井舘へも帰れず、谷内沢へ半分、杉山口へ半分蜘蛛の子を散らすように落ち延びていった。五郎殿は予てから杉沢に篝火を立てていたが、前杉にも敵が来たのを見つけ、赤石関の横道へ落ち延びていく。五郎殿は取って返し八升栗毛に鞭を打って追付き、長さ1丈2尺の棒で敵を四方になぎ倒した。付き添う面々も数えきらない敵を討ち倒す。それより五郎殿は前杉へ駆け上り、川原村へ落ち延びようとした敵を追いかけ討ち取り、雑兵を含め105人の首を取った。次郎殿は菊池に助けられて子吉殿の元に逃げた。
谷内沢口に逃げた者達は無事に仁賀保に帰った。
この様に仁賀保と矢島の戦いは、矢島と滝沢氏の戦いの時、仁賀保大和守が滝沢氏の味方をしたことに由来すると(B)本は伝えます。思うに『矢島十二頭記』(A)本の補完をしているような感じです。
両本に共通するのは、
イ) 仁賀保大和守が矢島を攻める為に根々井館に本陣を引いた。
ロ) 仁賀保大和守は新庄城の背後を同盟軍に攻めさせ、手薄になった所をついて子吉川を渡河する、いわば「声東西撃の計」を謀っていた。
ハ) 対して矢島五郎は仁賀保大和守の策を知り、密かに子吉川を渡り敵の背後につく「暗渡陳倉の計」で敵の背後についた。
ニ) 神代山の篝火と共に仁賀保勢は大挙して子吉川を渡り、手薄になった本陣に密かに河を渡った矢島五郎が突撃をした。
ホ) 仁賀保大和守は討死、嫡男の次郎は子吉川を下るように撤退した。
という事ですね。これに大なり小なりの肉付けがあるわけです。
根々井(根井)館は子吉川を挟んで新庄城の向かいにあるので、城攻めの陣としてはいい場所だと思います。ただ、ここに陣を引くという事は矢島の大半は仁賀保大和守が制圧したという事で、矢島氏からすれば乾坤一擲の大反撃だったと思います。
仁賀保大和守の命日ですが、禅林寺の資料によれば天正4年2月28日に没したことになっています。(B)本の4月28日…は元々は3月だったのかもしれませんね。(A)本の3月1日没というというのも?ですが、矢島側からみて全ての戦が終わった…という意味からすれば、そうかもしれませんね。
一番の差異は、仁賀保大和守の同盟相手です。(A)本が横手の小野寺輝道、(B)本が玉米の小笠原氏であるとされています。どちらが正しいのでしょうか???。
篝火を焚いたのは両者とも神代山であるとしています。神代山の篝火を見る為には玉米氏であれ、小野寺氏であれ、仁賀保氏の為に出陣し、国境まで来ていたということになります。
…小野寺氏は無いでしょう。小野寺氏は鶴岡の大宝寺氏と仲が良く、仁賀保氏を挟み撃ちにしていましたから。神代山は玉米領からはちょいと遠いのですが、玉米氏が背後から山越えして新庄城からの逃げ道を断つ経路で来たのなら、あり得るか…な?。
矢島・仁賀保の戦い 2
この項は仁賀保兵庫登場前夜から登場までを語ります。
10 矢島満安、最上義光領を攻める。
天正6年4月中旬、矢島満安は最上義光殿の領土である金山城を攻めた。相手方の城は堅固で籠城したまま出てこなかった。戦果無く帰った。
これは『矢島十二頭記』(A)本のみに出てくる項目です。金山城は言い伝えによれば天正9年に築城とされているのでいるので齟齬があります。城を攻めたのが天正9年以降か、金山城ではないか…どちらかでしょう。
ただ矢島氏が最上地方を攻めるということは、横手の小野寺氏領を通らねばならず、おそらく小野寺氏の意向に沿う…小野寺氏の傘下に入っている…という事を知ることが出来る項目です。また、この項は仁賀保氏ら他の由利衆とは全く関係がありません。これは年度が間違っている(?)と言え、『矢島十二頭記』(A)本が矢島の遺臣が書いたのでは…と思わせる一項です。
11 仁賀保兵庫頭の登場まで
まずは(A)本です。
天正8年3月10日、仁賀保の百姓共が謀反を起こし矢島殿を手引きしたので、ブナの木もふち迄軍勢を出したが、出陣の門出が悪く矢島に帰られた。
天正9年年4月に、仁賀保の百姓共が再び矢島殿と通じ手引きしたので仁賀保の城に攻め込み、三ノ木戸まで攻め入ったが、赤尾津道益殿・子吉殿が仁賀保の後詰に出陣されたので矢島に帰った。
天正10年5月中旬、矢島殿は子吉殿を攻めた。この時矢島殿は仁賀保殿が子吉殿の後詰として出陣したことを聞き、車引という所に兵を引いた。その時、仁賀保殿より歌を詠まれて下部に持たし使わされた。
矢島殿 今朝の姿は百合の花 今は小葦の風に面をむくるや
矢島殿の返歌
仁賀保殿 手を翳したる小葦原 矢島の風に露や落けり
天正11年7月6日、仁賀保殿の家来衆が謀反を起こし宮内殿が切腹されたと承った。それを聞いた矢島殿と鮎川殿が申し合わせて仁賀保に攻め込むため出陣されたところ、右の衆が後詰されたと聞き、ブナの木もふちより引き返された。
同8月中、仁賀保殿の娘へ子吉殿の御子息である八郎殿を婿養子にして、仁賀保家を継がれる事になった。
同13年2月2日、赤宇津殿より仁賀保殿の家へ養子に入られた。仁賀保兵庫頭殿という。兵庫頭は仁賀保家を継ぐと矢島殿に使者を遣わした。使者曰く「仁賀保家を継いだので安心してください。先祖の古和州の時代より小笠原一家であるので疎遠にならない様にしたい。」と。矢島五郎殿は満足された。その後五郎殿より御挨拶・御祝儀の為の使者を遣わされた。その後は度々懇意にされた。
対して(B)本です。
仁賀保宮内少輔殿の居城へ矢島五郎殿が天正9年4月中旬に攻め込んだ。五郎殿が急病になり戦闘無くして帰国した。
同11年7月18日宮内殿切腹。家臣の謀反である。御息女へ子吉八郎殿が婿養子に入るが、同14年10月15日八郎殿は御切腹された。右の衆の謀反であるという。
同15年正月15日、赤宇津殿より兵庫頭殿が養子に入られた。その時兵庫頭殿より池田庄左衛門を使者として五郎殿に使わせた。使者曰く「和州殿の時代より度々矢島と戦争をしたが、先祖は同じ小笠原一家であり、今後は親睦していきたい。」と。五郎殿も家臣衆も満足した。
こうしてみると、以下の特徴・差異がある事が分かります。
イ) 天正9年4月に矢島が仁賀保に攻め込んだという記事は同じです。ただし、その前段階の8年の記事が(B)本にはありません。
ロ) (A)本にある天正10年に仁賀保が子吉を攻めた記事ですが、(B)本では天正19年…次の項になります…にあったことになっています。どちらが正しいのでしょうか。天正18年の秀吉の奥州仕置以降、私戦は不可能ですので、この項は天正18年以前のものであることは間違いないと考えます。
ハ) 天正11年7月仁賀保宮内少輔が切腹。日付は多少違いますが両者ともこの時期ですな。因みに禅林寺の記録では7月6日です。天正10〜11年頃は現在の鶴岡の大宝寺義氏が安東愛季と交戦しており、仁賀保氏は大宝寺義氏に付いたものと考えられます。大宝寺というよりは…上杉でしょうが。『湊・檜山両家合戦覚書』には「仁賀保をロウシャ…おそらくは浪人のことか…とした。」つまりは仁賀保氏を追放したことが書かれています。無論、これは安東氏側から都合よく後世に書いたものですので、?と思う事も満載で、そのまま信用は出来ませんがね。もしかしたら仁賀保宮内少輔は安東氏との戦いで討ち死にしたのかもしれませんね。
ニ) 仁賀保八郎の切腹ですが(A)本に記載はありません。矢島側の記録ですので矢島に伝わらなかったのでしょうか。八郎の事跡は矢島に関係なかったからかもしれませんね。(B)本では14年の10月15日になっています。禅林寺の記録では10月16日になっています。
ホ) 仁賀保兵庫頭の家督相続ですが、(A)本では天正13年2月2日、(B)本では天正15年1月15日になっています。これに関しては、天正14年3月11日付で家臣に知行宛行をしていることから、天正14年の3月の段階で仁賀保家を手中の物にしていると推察され、(B)本は???です。もしかしたら当時の仁賀保家は2派に分かれて相続争いをしていたのかもしれませんな。
矢島・仁賀保の戦い 3
12 馬場四郎兵衛と熊谷次郎兵衛
続いて矢島氏の滅亡の話になります。まずは『矢島十二頭記』(A)本です。
天正14年2月中旬、仁賀保領冬師の馬場四郎兵衛親子3人が矢島領谷地沢山で大きな村杉の杉を伐採したのを見つけられた。早速、谷地沢の熊谷次郎兵衛が押しかけて次男を討ち取った。馬場四郎兵衛は仁賀保兵庫頭殿の家来で、仁賀保殿は矢島殿に「山に逃げた熊谷を処罰して頂きたい。」と使者を遣わし申されたが、矢島殿は「木の盗人であったので討ち取ったまで」としか返事されなかった。双方4月中旬迄数度使者を交わされたが話にならず、5月20日仁賀保殿と矢島殿はブナの木もふち迄出陣し戦かわれた。しかし赤尾津殿が仁賀保の後詰されたので矢島殿が軍を引かれた。
次は(B)本です。仁賀保兵庫頭が家督を継いだ挨拶をした直後の話として、次につながっていきます。
こちらからも御礼として使者を遣わそうとしていたところ、兵庫頭殿が先祖より冬至山の目先に付け置いた豊島四郎兵衛の3男が矢島領の大村杉の杉木を盗み取った。これを五郎殿の家来である熊谷次郎左衛門が見つけて追いかけ首を取った。五郎殿はブナの木もふちへ獄門に架けるように言われたが、家臣達は「昨今御和睦され、上も下も共に満足している。(戦が無くなって)安堵している所にこんなことをしては、また戦争になる。考え直してほしい」と異議を唱えた。しかし五郎殿はこれを無視し、ブナの木もふちに獄門にかけた。
そうしている内に兵庫頭殿が赤尾津殿・子吉殿・滝沢殿に加勢を頼み、ブナの木もふちから割石に陣を敷き、兵庫頭殿自身が大軍で攻め寄せた。双方陣を堅め対峙して居る時、仁賀保の陣より武者が一騎1町程進み、扇を出して矢島の陣を招く。五郎殿が「何事か聞いて参れ」と言うと、佐藤越前が参出して近くに寄り斎藤源八であることを確認した。「五郎殿は和平を破り、ワガママし放題は言語に絶する。よって大軍を率いて矢島を退治しようと考えられた。ただし五郎殿の配下共は降参するのであれば、命を助け所領は加増してやろう。」と言ってきた。
越前はこれを聞て「兵庫頭殿の言われる事か。貴様一人の考えか。可笑しいことを言う。」と言い、一騎打ちを始め、これが戦の開始の合図となり、双方えいやぁえいやぁとと攻めよる。五郎殿、樫の棒を持って大軍の中に突っ込まれた。敵はたまりかねて檜渡川・向坂まで押し戻す。
暫し休戦した時、仁賀保の禅林寺、矢島高建寺の僧が来て鮎川筑前殿、潟保双記殿、岩谷内記殿、打越左近殿らが和睦の仲介に入られた。「由利中が騒がしいのは仁賀保と矢島の戦が原因である。それに本来小笠原一族で、戦うことなど無いはずだ。」と和睦されるように言われた。両寺の仲介であったが、五郎殿は納得しなかった。しかし家臣たちが様々と和睦を促し、和睦が成立した。
この項では仁賀保家が仁賀保兵庫への代替わりをし、一時和睦の後、再び敵対するという流れが説かれています。
(A)本では「馬場四郎兵衛親子3人」(B)本では「豊島四郎兵衛の3男」がムラスギを無断で伐採して盗み、(A)本では「熊谷次郎兵衛」(B)本では「熊谷次郎左衛門」が見つけて、(A)本では「次男」の(B)本では「3男」を討ち取ったとされています。
ここで出てくる馬場四郎兵衛ですが豊島四郎兵衛と同一人物と考えられます。「馬場村の」豊島四郎兵衛なのでしょう。豊島という姓は現在の由利本荘市鳥海地方に多い姓ですが仁賀保には少ないです。『永慶軍記』などには秋田の豊島館の豊島氏が安東氏に攻められて妻の実家の仁賀保氏を頼ったという話がありますが、もしかしたらその子孫でしょうかね?。
このトラブルは(A)本では天正14年、(B)本では天正15年に起きたことになっています。ここで(B)本の特徴が出ています。とにかく満安は家臣の言う事を聞かず、短絡的に行動するとしたいようです。また、ドラマチックにしたい感じがしますかな。
13 仁賀保兵庫頭の矢島攻め、矢島満安の仁賀保攻め
天正14年8月3日、矢島殿は仁賀保の根城に攻め込んだ。城の水の手を忍にて落としたが、その後仁賀保殿は非常に用心深くなられた。よって日中に攻撃したが、山のため足場が悪く矢島殿が負けられて陣を引かれた。討死は5、6人あった。
同年9月20日に矢島殿へ最上殿より使者が参られた。使者は「五郎殿は人に秀で、長太刀による武名は有名である。太閤様に申し上げると、来年上洛する際に同道すれば面会しても良いと言われた。来年一緒に上洛しよう。」という。ホントかどうかわからないので、中々返事をしなかった。
同15年3月中旬、矢島殿は滝沢殿を攻め城の三の塀迄落としたが、(仁賀保殿が)ブナの木もふち迄出陣してきたと熊谷二郎兵衛より注進があったので、松の台より直にブナの木もふち迄進軍して散々に戦われた。(ここに記述が抜けていると思われる)更に鮎川殿が矢島の後詰として参戦したので、矢島殿勢は勝ちに乗って追撃し首数20あまり取った。更に堂迄攻め寄せ、矢島殿が十死一生の働きをされて八幡堂より木の目坂まで討取った。首50取る。五郎殿先に怪我をされた。矢島勢は7人怪我人があった。
同6月中旬頃、潟保殿・鮎川殿が和睦の仲介人となり仁賀保殿と矢島殿は和睦なられた。仁賀保殿より祝いの使者として赤石與兵衛殿が参られた。矢島殿よりは芥川(小介川)摂津殿が御礼ご挨拶の使者として使わされた。双方又々懇意になられた。
続いて(B)本です。
天正17年7月20日、兵庫殿が大軍を率いて矢越八幡堂に陣取り、五郎殿の居城に攻め込もうと支度をしていた。これを阻止すべく21日の早朝、五郎殿は八幡に攻め込まれた。仁賀保殿の軍馬どもは残らず口が大きく腫れ膨れ轡もはめず、敵陣に一歩も進めなかった。兵庫殿は「これは不吉なり。」と直ちに陣を引いて仁賀保に帰られた。五郎殿は木の目坂迄追いつき、4、5五人討ちとった。馬の口が腫れたのは何故かと調べたところ、八幡は小笠原大膳大夫義久が信州より初て下り、今の所に八幡大菩薩・諏訪大明神の信州の両社を奉建して、天下安全国家長久を祈祷怠らず、太田霞主式部卿を神主として5人の社人、8人の巫女が毎月神楽を奉納する。その節の神楽の竈を仁賀保勢の馬の飼料入れとして、馬に食べさせた為、神霊の祟りにあったものと申しあわれた。
天正18年、五郎殿は仁賀保に攻め込み乾坤一擲の戦を仕掛けると家臣に伝え、8月3日、兵庫殿の居城である根城に攻め込んだ。その時風雨が強く、水之手を切り取らんとしたが用心が厳しく、水の手を切り取ることが出来なかった。城は目の下に見える。軍兵共が根城に取り付き山苔長く、一騎討の切りあい場所としては難しく、兎や角やする内に斥候が五郎殿へ申し上るには「団子坂、鞍懸坂より子吉・赤尾津の軍が加勢に登ってきた。この大軍に前後を囲まれれば1人も生きて帰ることは出来ない。早々に軍を引くべきだ。」と。五郎殿は全くいう事を聞かなかったが、これを散々宥めながら車引に引取られたが、子吉・赤尾津と仁賀保軍は竃ヶ淵で撤退する矢島勢に追いついた。
根之井右兵衛は先に陣を引き払い矢島に帰るべく人馬を休ませていたが、子吉・赤尾津勢が追いついたのを見て馬を引き返し敵陣に切り込んだ。根之井の郎党(中略)、土田新助が主を討たせまいと、馬の口を立並べて土門・菊地の軍に遮二無二切り込み2町程敵を押し返して静々と引いた。其内に仁賀保軍は大軍で割石の当たりで追いつき、矢島軍も引き返して戦ったが、五郎殿の近習で附添っていた金丸帯刀は防戦して討ち死にした。五郎殿は樫の棒にて散々に四方八面に討ち回ったが、馬をブナの木もちへ乗込んでしまい徒歩武者となって敵を切って回った。敵は大勢であったが寄り付かず、敵陣より鉄砲と弓を雨のごとく降らせる。しかし五郎殿は少も引く気はなく、危なく思った相庭市右衛門、(中略)茂木左馬らが方々から走集り敵を蹴散らした。五郎殿に向い「戦働きも、武辺者の行動も時によりけり。早々に引き取られたい。」と申し上げたが、少しも引く気はなく谷地に落ちた八升栗毛を脇に抱え10間ほど抱き上げた。その後馬上で敵陣に攻め込まれた。民部が馬の口を取って引き返したが、(五郎は)民部の兜を離せとばかりに打ち据えた。しかし皆で前後より押し包える様に松ヶ臺まで引き返した。矢島は金丸帯刀など32人討死。仁賀保勢は88人討死。
(A)本と(B)本では記事が前後している場合がありますが、この箇所も同様です。
まず(A)本では矢島満安から見て
仁賀保攻め→滝沢攻め→後詰の仁賀保と戦う→仁賀保に攻められる→潟保・鮎川が仲立ちして和睦。…とういう流れですが、
(B)本では、
(前項)鮎川・潟保・岩屋・打越の仲立ちによる和睦→仁賀保に攻められる→仁賀保攻め
という流れになっています。…(B)本では前項の和睦から唐突に仁賀保と戦になっています。そもそも天正18年は豊臣秀吉の小田原攻めですね。秀吉は天正17年末に北条氏政討伐の陣触れを出しており、仁賀保氏らは遅くても4〜5月には小田原に参陣していると思われます。
(B)本は記事の内容は結構真を得てるかと思いますが、年月日は…ちょいと怪しいですな。
天正15年3月の矢島と仁賀保の戦いの項ですが、途中で文章が欠けているようです。「松の台より直にブナの木もふちまで出て戦い」という仁賀保と矢島の境目の地名…それに続くのが矢島の「堂(八幡堂)から木の目坂」という矢島と思われる地名です。これは、仁賀保が矢島に攻め込まなければ、こういう地名になりませんので、考え方としては(B)本を参考に考えれば
イ) 矢島氏が滝沢氏を攻めている最中に仁賀保氏が矢島に攻め込もうとした。矢島氏はそれを知り引き返しブナの木もふちで仁賀保氏と激闘。ここは痛み分け。
ロ) 仁賀保氏は矢島に攻め込んだ。仁賀保氏は八幡堂に本陣を引き本体を矢島氏の城に向けるが、鮎川氏の後詰に敗れ、八幡堂から木の目坂に逃げるが大敗した。
と、解釈すべきなのだと考えます。
この戦の後ですが、(A)本は暫くの間、矢島と仁賀保は戦いますが、(B)本では由利郡の諸氏と寺の僧侶の仲介で和睦します。この諸氏の仲介の和睦は、(A)本は天正15年6月、(B)本でも同時期です。…どうも(B)本はこの天正15年6月に和睦の記事を合わせる為、無理くり記事を前後しているような感じがします。なので、天正15年に和睦が成立した次の項では天正17、18年と矢島と仁賀保が攻め合いをしている記事になります。
対して(A)本では矢島仁賀保の潰しあいに厭戦気分が高まっての和睦という、非常に筋の通ったものになっていますね。
さて、ちょいと注意が必要なのは、(A)本では天正14年9月20日に、最上義光が矢島満安に使者を送ってきたという記事がある事です。
14 矢島領の境改め
(A)本です。
天正15年12月20日、仁賀保殿より使者として芹田伊予守殿が遣わされた。使者は「五郎殿の御息女御藤殿を兵庫頭殿御嫡男の蔵人殿と御縁組される事を望む」と言われた。五郎殿はその場でこの話を了承された。家臣の者共は「古和州殿を矢島にて討ち取った事もあり、心の底からの和睦ではないだろう。もう少し考えてから回答されてもいいのに」と囁いた。
天正16年正月20日、仁賀保殿より年頭の挨拶のために小松殿が使者として来た。一両日大雪で矢島に御逗留された時、五郎殿と小松殿が面会し話されるには「仁賀保と矢島の境は近頃適当になって解らなくなっている。雪が消えたら昔の通り老人・百姓共が境を改めたいと願っている。」と言われた。仁賀保殿の申し出に「当方にても同じ悩みだ」と小松殿へ言われた。
4月1日に双方より役人・百姓共が出て境を決定する事にした。矢島殿よりは金丸帯刀・大江主計・熊谷次郎兵衛・古人百姓が大勢でた。仁賀保殿よりは芹田伊予殿・赤石與兵衛殿・宮陛平三郎殿・手島四郎兵衛殿その外大勢が出た。この日、蛇口・不動沢・段ヶ森・鬼之倉・石すのふ・桑谷地頭・桑坂・はなれ森・前森・笹長根・ブナの木もふち・大谷地頭・大森迄、昔の通り踏分け、厥大場にある大石を双方より人夫を出して南へ動かし、溝を割り「割り石」と名を付て昔通り境界を定めた。
同年(□月)下旬、鮎川殿より仰せられるには「百姓共がトヤカクいい、上まで良くないままだ。昔の通り境を改めたい。」と矢島殿に直接言われたので、矢島殿より金丸帯刀・大江主計・熊谷次郎兵衛・在郷侍の杉江・佐々木対馬・同彌五郎殿、外古人共が出、鮎川殿よりは木下弾正殿・高橋蔵人殿その外古人共が出て逢い、大谷地頭・石森・土淵・取ヶ石迄昔の通り改め、取上石に石を重ねおいた。
まず、仁賀保兵庫が自分の息子の嫁に満安の娘を…と使者を出してきたシーンです。和睦の印に婚姻を…というのはポピュラーな方法で、疑う余地はありません。これは(A)本のみの記事です。続いて矢島と仁賀保、矢島と鮎川の境改めの記事になります。これも(B)本にはありません。(A)本の作者が矢島方の人間であることが見て取れます。
(B)本です。
天正19年5月中旬、子吉兵部殿が鮎川筑前殿へ内々に相談した。「仁賀保殿と矢島殿と度々合戦して気の毒である。先だって和睦されたがその甲斐もない。仁賀保殿は滝沢殿・打越殿・岩屋殿・赤尾津殿と親戚で加勢するものが多い。両家は小笠原一家であり最上義光公の御意もある。とにかく和睦して、兵庫殿(矢島五郎の間違いか?)に□□□に従われるように。」と和睦を取はかられた。
これを聞いた五郎殿は激怒し、「敵が強いから降参するとは武士ではない。兵庫頭はややもすれば矢島領を横領しようとする。是非に及ばない。」と返事をした。
子吉殿へは「右のお礼に今年中に滅ぼしてやる」と御返事された。家中老臣共「戦う必要はない」と異議を唱えたが、6月上旬に大軍を引き連れ子吉殿居城へ押し寄せた。兵庫頭殿が後詰された為、空しく帰ることになった。その時兵庫頭殿は狂歌を詠んで道心に持たせて送ってきた。
矢島殿朝の姿は百合の花 今子吉の公をむくる哉
返し狂歌
仁賀保殿手を翳したる子吉原 矢島の風に露や落けり
(B)本の子吉攻めの記事ですが、(A)本では天正10年5月の事としています。(A)本では子吉氏を攻めようとしたが、「仁賀保氏が後詰に出た為帰った」と簡単に記しています。最上義光の介入などはないわけです。そもそも天正19年5月は九戸政実の乱の真っただ中で、こんなことしているヒマはありません。
(B)本は何らかの思惑があり、由利十二頭は最上義光配下であり、矢島満安は文禄年間に滅亡した。としたいようです。当然、ボロが出まくりですが。
ついでにいうと、矢島五郎と仁賀保兵庫頭をライバルにしたい様ですなあ。
15 矢島満安の上洛
(A)本です。
天正16年7月、最上殿より矢島殿へ又々手紙が来た。「太閤様へ御目見なられれば、由利の大将にしてもらえる」と書かれており、「畏れ入る」と御返事をされた。最上殿が(矢島殿を)数度召し出だそうとしている事を仁賀保殿が聞き、矢島殿へ意見を申された。「最上へ登られる必要はない。帰られなくなるぞ。」と。
8月1日、矢島殿は最上殿へ使者を遣わし「来年、太閤様へ御目見させて頂く事承知した。太閤様へ使者を出して申し上げよう」と仰せられた。(最上義光の)添状を添えた使者が上洛すると、太閤様は「予てから最上より話を聞いている。来年最上と共に上洛すれば会ってやろう。」と言われたそうで、それを聞くと是非に上洛したくなった。
同10月5日に矢島殿は御礼の為最上へ向かわれた。御供の侍は手島・(中略)半田この外雑兵百余人、御城の留守居には御舎弟太郎殿・小介川摂津・喜兵衛・掃部・雑兵とも百余人であった。
次は(B)本です。
天正19年5月下旬、最上義光公より矢島五郎殿へ飛脚が遣わされた。「五郎殿の事は、古今無双の勇力と太閤様の耳にも入ってあり、面会してもよいと仰せられている。来年、一緒に上洛して御目見された方がよい。」といわれた。五郎殿は合点が行かず「病気」と言われた。
また同6月中旬に鎧馬らが来られ「是非に最上まで来てもらいたい。来年は上洛して由利郡の大将となろう。」と伝えられたが、どんな計略であろうかと家中共に信用しなかったので「病気」であると仰せられた。
天正19年10月中、義光公より使者がきて、「太閤様の御書に矢島五郎は大力だと聞き及ばれ、御重實に思われている。来年、義光公と共に上洛すれば、御判を五郎が貰う事は疑いない事であろう。」と言われ、家中共に大喜びした。義光公への返事には「おっつけ最上へ上り御礼したい。」と最上へ向かう事を了承した。
同11月5日、留守居に舎弟與兵衛殿、(中略)池田左京、この18人に頼み、そのほか都合150人を召し連れて最上へ登った。首尾良く義光公に面会し、食事として大きな鮭を丸ごと塩焼きにして出されたが、頭や尾ごと残さず五郎殿は食べられた。(さらに義光より)「見せてほしい」と言われ、4尺8寸の太刀を3つ指で抜き出した所、褒美を頂いた。義光公は「今年はこのまま逗留され、来年、上洛して一緒に太閤様に面会に行こう。」と言われた。
矢島満安の元に最上義光からの使者が来たことから話は急展開します。
(A)本では天正14年9月20日と天正16年7月に最上義光から使者が来たことが記されています。これが(B)本になると天正19年5月、10月に使者が来た事になっています。
最上義光は天正14年5月に横手の小野寺義道と有屋峠で戦っています。引き分けと言われていますが、もし、この一戦が無ければ最上義光の庄内奪取はもっとスピーディーにいったでしょうし、湯沢・横手盆地への侵攻も出来ていたかもしれません。戦略的には敗北かも知れません。
矢島満安への最上義光の接触は、由利衆に対する楔と小野寺勢を切り崩す一石二鳥作戦です。
対して、最初に矢島満安が承知しなかったのは、未だ最上義光が庄内を手にできずにいた事、小野寺義道が乾坤一擲の勝負をかけて新庄盆地に攻め込めば、一気に最上義光が不利になる事、などがあった為でしょう。現実はそうはならず、天正16年には小野寺氏も含めて矢島氏は不利な状況に追い詰められ、逆転をかけて最上義光の誘いに乗らざるを得なかったわけですね。
(B)本でいう、天正19年5月10月は先ほども言いましたが九戸合戦の真っただ中で、由利衆は九戸に居ますので、この時期の戦いはあり得ません。も一つ言うと、由利衆は基本、最上義光とは関係が薄かった様です。最上義光「公」や最上義光の「御意」などという言葉は使いません。最上義光が仁賀保兵庫頭に出した文書の中に「上意」と書かれ、これを根拠に最上傘下だとされることもありますが、これは豊臣秀吉への「上意」ですね。
ま、年号は未定として、10月5日ないし11月に矢島から最上に満安は向かったのでしょう。両本とも「最上義光」にお礼を言う為だとしています。
16 矢島の反乱
(A)本です。
最上へ首尾よく到着した頃、留守居の太郎殿へ仁賀保殿より使者が来た。使者の口上には「五郎殿が最上へ行かれた事は非常に不届きな事である。由利中の大将と申し合わせて貴殿を攻め滅ぼして五郎殿を矢島へ2度と入れない事にした。命が惜しければ矢島五郎殿が城に帰ってこない様に工夫されたい。」と言われた。
10月25日、(太郎殿)は謀反を起こして五郎殿の御子息四郎殿を討ち殺された。五郎殿の奥方と御藤殿は小介川殿が盗み取って西馬音内へ逃がした。嘉兵衛・掃部・佐藤らは謀反衆である。この謀反が西馬音内より最上へ伝わると、(矢島満安は)11月3日神代山より直に新庄城へ攻め込むと仰せられた。
まずは配下の金子・安部を猿倉平七に使者として遣わし案内を頼んだ。すると平七は「4、5日逗留し在郷侍らを集め、11月8日頃、新庄城に切り込むと城中皆々逃げるだろうから、暫くはひかえられるように」と言われ、平七宅に暫くひかえられた。
11月8日、新庄城へ攻め込むと城中は皆々逃げた。五郎殿と嘉兵衛は長廊下にて組合して討ち取り、太郎殿は討死された。太郎殿の子息2人を五郎殿は自ら切殺し轟目木に獄門に上げ、仁賀保殿へ恨みの手紙を出したが返事が来なかった為、その日より仁賀保へ攻め込む支度を開始した。
しかし仁賀保軍は前杉へ攻め寄せ、五郎殿は八森へ出陣して夜戦された。仁賀保殿の軍奉行・案内の者・民部が討死し、仁賀保殿は散々負けて討ち死にする人が出た。やっと仁賀保殿は車引まで引くことが出来た。
続いて(B)本です。
(矢島五郎が最上義光に)歓待された上にゆるゆると逗留されていた所、兵庫殿・子吉殿・赤尾津殿・滝沢殿・打越殿ら由利の大将達は相談していた。
「五郎殿が義光公に謁見した上に、首尾良く来年上洛して太閤様に拝謁すれば、(矢島五郎は)由利郡の大将になることであろう。我々は領土を失い浪人となる。その上にどんな目にあわされるか。この上は五郎殿の留守居である與兵衛殿を討って、五郎殿を矢島へ入れ無い様にしよう。」と兵庫殿が仰せられた。
しかし岩谷内記殿が言われるには「そんなことをすれば義光公はそのままにはしてはおくまい。五郎殿は義光公を後立にして由利中を退治して回るだろう。」
赤尾津殿が言われるには「留守居の與兵衛殿を謀り、矢島家中を分裂させて兄弟で戦わせればよい。そして時節を待てば五郎殿を討つ計策も出てくるだろう。」と。諸将はこの意見を良しとし、兵庫殿は家来の成田惣左衛門を根井右兵衛方に遣わした。
使者曰く「五郎殿は身内を身内と思わず、家臣共の諫めも聞かず、毎年戦を仕掛けては百姓共も困窮し、由利郡も騒がしい状態である。この上は五郎殿が矢島に戻れない様に謀られたい。もし五郎が帰ってくれば他の由利11頭と共に矢島を滅ぼす。もし、帰らせなければ矢島領は與兵衛殿のもので、12頭の中に入れ、来年は12頭共に義光公の所に赴こう。出来なければ他の由利11頭と共に與兵衛殿を滅ぼす。」と根の井右兵衛方に申し遣わし、右兵衛がこれを與兵衛殿に申し入れた。
兼々五郎殿は計略が荒く、家臣の諫めも聞かず、戦好きで家中も困窮している事を考え、留守居の侍共は仁賀保からの使者に同意すべく話し合ったが、摂州様はどうしても同意しなかった。與兵衛は五郎殿の御男子2人を手討ちにされた。
五郎殿の奥様は西馬音内殿の娘で五郎との間に御鶴殿いう娘もいた。2人は城の1室に監禁されていたが、摂州はこれを悔しく思い、奥様とお鶴殿を夜間に盗み取り西馬音内に逃亡した。
西馬音内より事の次第を知った五郎殿は、義光公へ暇乞もせず西馬音内にも寄らず、神代山を駆け抜けて、直に新庄館に攻め込もうと言われた。しかし神代山は防御され矢島の事情を調べると、與兵衛殿は五郎殿が帰ってきたら、即座に討ち取ってしまおうと厳しく用心して居ることが分かった。配下の者達は五郎殿に、「ちょっと付近に陣を張り、ゆとりを持って計略をめぐらしてから攻めた方がいい。」と進言した。それより猿倉平七は日頃から信用が置ける者であるので、この者の処へ参ろうと仰せられた。若手だか練達した金子・安部を平七の元に遣わすと、平七は喜び家をしつらい、安部と共に迎えに参上し歓待した。
それから與兵衛殿の様子を探り、味方の者を募り、12月18日の大雪の日に新庄城へ攻め込むと、城中は油断しきっていた。取るものも取らず豊島右馬之丞、小番掃部、相庭市右衛門、佐藤、杉本は逃げた。小番嘉兵衛と五郎殿は組合になられ、嘉兵衛も大力で暫し組み合ったが、嘉兵衛が振りきって逃げ、これを五郎殿が追いかけて討ったが、刀の動きが鈍く肩先に少々傷を負って逃げた。與兵衛殿は奮迅したが五郎殿は掻い摘んで散々に刺殺し、與兵衛の子息が2人を切り殺して、とゝめ木と言う所に獄門にかけた。
両本ともですが、矢島満安一行が最上につく頃を見計らって、
(A)本では仁賀保から矢島太郎へ、(B)本では仁賀保その他連合の代表として、留守居の補佐役の根々井氏へ使者を出しました。
(A)本では10月25日、(B)本では不明ですが、太郎(與兵衛)が謀反を起こし満安の子供を殺します。
(A)本では子息の四郎、(B)本では2人子供が居たとされています。
矢島家中の小介川摂津が奥方と御藤(御鶴)を西馬音内に逃がすというのも一緒ですね。
矢島満安は最上から帰ると、猿倉平七の屋敷にて軍勢を建て直し、
(A)本では11月8日に、(B)本では12月18日に新庄城に攻め込み、謀叛衆を制圧しました。
この後、(A)本では仁賀保の軍が帰還した矢島満安を討つべく出陣しますが、矢島満安の夜討にコテンパンに負けることが記載されています。これが(B)本にはない項目です。
(B)本では矢島満安の滅亡を他の由利衆全てによる総攻撃での滅亡に仕立てたかったのでしょう。ですので満安の新庄城制圧後、すぐに由利衆全員での総攻撃があったことにしています。
17 矢島満安の滅亡
(A)本です。
仁賀保殿は赤尾津殿・打越殿・潟保殿・瀧澤殿・石澤殿に「五郎殿が来年太閤様へ御目見したら、由利は五郎殿の領土になってしまう。とにかく五郎殿は今年中に皆で討ち取るべし。」と仰せられた。
11月下旬に右の大将衆が新庄城に攻め寄せ、五郎殿は敗北し城は落城した。自身は怪我をし、西馬音内へ落ち延びられた。
其の時五郎殿の御歌に
津雲出矢島の澤を詠むれば 木在杉澤佐世の中山
右の歌読まれ落ち延びられた。それより右の大将衆は支度をして西馬音内に攻め込んだ。(西馬音内にて)戦った結果、終に五郎殿は12月28日討ち死にされた。(更に仁賀保兵庫頭らは)西馬音内茂道と戦ったが、小野寺殿より和睦の使者が来て彼らは引き返した。仁賀保殿は矢島八森城の城番に菊池長右衛門・酒井(境)縫殿之助・藤原勘之助をさし下した。(仁賀保殿は)矢島にて年を越し、法度を定め、百姓共には五郎殿の時代の様に勤めるように仰せつけられた。
1月20日に仁賀保殿は帰られた。其時御藤殿も仁賀保へ連れていった。 天正16年12月28日より(矢島は)仁賀保兵庫頭殿の領土になった。
続いて(B)本です。
文録元年7月25日、由利11頭は相談の上、矢島五郎殿を兎に角討ち滅ぼそうとされた。8月に上洛の噂を聞いては、たとえ義光公より攻めるなと言われても申し開きをするし、申し開きが立たなければ、11頭は由利に立てこもり義光公と戦う事とした。
11頭の者共が矢島を攻めると聞いた五郎殿の家臣共は五郎殿に意見を申し上げる。「(由利十一頭が総攻撃してくるとなれば)、家中に謀反が起き3分の1は侍が減り11頭に勝つのが難しくなる。早く最上へ登り上洛した方が良い」と。しかし(満安は)「サラサラその必要はない」といい荒倉城へ立て籠もり、攻め寄せる大軍を待ち受ける事になった。
この荒倉館というのは、西は大手で高くそびえ、南は小川が切り込み鳥も通り難く、北は朽沢といい更に沢が深く、後は東の方の山が連なる。堀を切って柵を回し、館の中の郭が広く、屈強の地形で急には落ちがたい要害である。
西大手には兵庫頭殿が大将として控え、打越殿・赤尾津殿・岩屋殿・滝沢殿は向に陣取る。山の手には下村殿・玉米殿・子吉殿・潟保殿・石沢殿・鮎川殿が向かわれた。
7月27日は四方より総攻撃と諸将が軍議を図っていた所、26日の夜に(矢島五郎の配下の者共が)謀叛を起こして一族で逃げ、(矢島軍は)20騎ほどに兵は減ってしまった。しかし五郎殿はそれでも怯むことはなく、27日の朝、八升栗毛に乗って城に攻め上ってきた攻撃軍を例の棒で叩き落としながら戦われると、大手口の軍は陣を引き、山の手の軍は足場が悪く城に取り付く事も出来ず、其日は攻めよらなかった。
同日の12時頃、(攻撃軍が)大手口より攻め上り柳井戸まで落とす。大石を積み置き上から転がして落として、敵が狼狽する所に五郎殿が突撃し、棒でひた打ちに討って崖から追い落とし人雪崩を作った為、(攻撃軍は)本陣に陣を引いた。
大江三右衛門が五郎殿に向かって申し上るには「城に残る者も怪我が酷く疲れている。このままでは大軍で総攻撃されると切腹する以外にない。それよりは今、雪の中、西馬音内に逃げるべきだ」と散々諫言した。奥様・お鶴様を柴田・半田が預かり山中に逃げた。五郎殿は赤尾津殿が控えられている山の手に切り登られる。従う者共は大江三右衛門、(中略)三浦、この八人。闇夜で敵も味方も見えず、篝火を焚けば敵の大軍はシドロモドロになって、四方より取囲む。五郎殿は徒歩で棒を四方八方打ちまわる。さんざん五郎殿は敵を駆け抜けて山の手に登った時、大江三右衛門1人しか付き従う者はなかった。その他の者共は深手を負い、あるいは散り散りになり、28日の夜ようやく西馬音内に参集した。奥様も28日の夜、着かれた。お鶴様は敵陣に捕えられた。
この年より矢島は仁賀保殿の領土に成り、八森城は菊池長右衛門殿を城番にした。五郎殿の家来共は皆々矢島を去って西馬音内の近辺に移り住んで五郎殿に近侍した。
同年12月28日、西馬音内で五郎殿切腹。由利11頭より小野寺遠江守に掛け合い、小野寺から西馬音内殿に件の命令が下り切腹されたらしい。
矢島満安の滅亡の場面です。
(A)本では天正16年11月下旬に仁賀保・赤尾津(小介川)氏・打越氏・潟保氏・滝沢氏・石沢氏が矢島満安の新庄城を攻め、満安は怪我をして西馬音内に落ち延び、追撃してきた由利衆と戦い討ち死にした。
(B)本では文禄元年7月25日に由利衆全てが矢島満安の籠る荒倉館を攻め、7月27日荒倉館落城、雪の中(!!)に紛れて逃げ7月28日に西馬音内に辿りつく。矢島の家臣は西馬音内に移り住み仕え、12月28日、切腹して死亡。
・・・え???。7月の戦いなのに雪?!。大江三右衛門が満安に脱出を進言した言葉の中に「今雪中西馬音内へ先々御落被成候様」と出てきます。…矢島満安の矢島退去は11〜12月の話なのに、7月に改竄したんでしょうなあ。
(B)本は事跡はともかく、日時はちょいと信用するわけにはいきませんなあ。
矢島40人の者たち 1
18 仁賀保兵庫頭のだまし討ち
矢島満安が滅び、矢島が仁賀保領になり、逃げていた矢島満安の旧臣がボチボチ戻ってきた事に対する記事です。
(A)本です。
文録2年頃には、矢島へ(矢島氏旧臣の)40人の者達は大体帰ってきた。 仁賀保殿はこれを知り、8月中旬に兵庫頭殿より矢島遺臣40人衆を召し出され御馳走をふるまわれた。しかし彼らが酔っぱらったのを見計らい、残らず討ち取ろうとしたことが露見し、彼らは逃走した。このうち相場は老人であり山中で討ち死にした。40人衆は矢島にて浪人になった。
以下、(B)本です。
大江五郎大夫満安殿が切腹された後、五郎殿の家来共は矢島に帰り兵庫殿から領地を給わろうとしたが、兵庫殿は謀略を使い無実の罪を着せて討ち取った。中でも文録2年9月中旬に矢島遺臣40人衆に料理を下さるといい仁賀保根城に赴いた所、大門に向かったあたりで斎藤甚五郎、大沢(式)部が大軍にて攻めかかった。40人衆は乾坤一擲の戦いで囲いを破り逃げた。その中でも小番河内、豊島右馬の2名の内、豊島は老人であり武者1人組留め刺し違えて死に、小番河内は敵2人と組合、敵と共に刺し違えて死んだ。相庭市右衛門は屋布(現在の屋敷集落)の方へ逃げ、これを4、5人が追いかけたが敵1人を討ってから死んだ。その外、又家来ともに22人討死した。(□□)は仙北へ逃げ隠れて住居した。
(B)本は(A)本を参考に話を膨らませているのですが、仁賀保兵庫が矢島氏旧臣40人衆を討った場所は(A)本では記載されていませんが、(B)本では仁賀保の山根館だった事になっています。
おそらく(B)本は矢島氏に忠義を尽くす「矢島氏遺臣40人衆」の話を書きたかったのでしょう。天正16年に矢島氏が滅びた後、5年間、忠臣達が逃げているのは具合が悪いですからね。矢島氏が文禄2年に滅びた事にし、その直後に矢島氏の遺臣を仁賀保氏が討伐したことにしたかったのでしょう。
でも通常考えれば40年間戦って来た敵ですよ。満安が滅びたとて、のこのこすぐさま敵の主の元に出頭するわけありません。やはり、ここは5年間ホトボリを覚まして戻ってきたが、仁賀保氏が…の方が辻褄が合います。
19 矢島遺臣40人衆と上杉軍
(A)本です。
(慶長5年)米沢の上杉景勝殿の出城である出羽酒田9万石の城代志駄修理殿より、矢島遺臣40人衆に極秘の手紙が来た。それには「関ヶ原の石田治部少輔殿が関東に攻め下った時、上杉景勝殿は関東に攻め上ることになっている。我等は酒田より仁賀保に攻め入ることになっているので、矢島遺臣40人衆は仁賀保を背後から挟み撃ちにしてもらいたい」との事。亡き主の敵であるので、志駄殿に味方することを40人衆は決定した。
続いて (B)本です。
慶長5年8月25日、酒田の城主である志駄修理殿より、「浅野権之丞を軍大将として9月10日に由利に遣わして、由利中の城主を攻め潰すことにした。ついては矢島遺臣40人衆は矢島に兵庫頭殿が附け置いた八森城番を討ち城を乗っ取り、権之丞から命令があり次第仁賀保に攻め込んでもらいたい。大江五郎殿の支配されていた知行所は40人衆に分け与える」と、阿部與四郎から大江三右衛門方に仰せられ志駄田殿の判物を渡された。それより相庭又四郎、(中略)大江三右衛門ら7人が様々議論した。「旧主の敵であるだけではなく、親兄弟まで故無く討ち殺され領土を失った。口惜しい。この上は一味同心して、良くも悪くも旧主の敵に一矢報いるべきだ。」と相談した。
(志駄の)使者の與四郎は矢島に留め置いて、五郎殿の旧臣たちに廻文を廻した所、高橋靭負、(中略)今野下野、都合40騎が、相庭又四郎、(中略)大江三右衛門ら7人衆の命令を受けて命を懸けて戦うと一揆を形成して、志駄殿の命令次第、動くことを阿部與四郎に申し含め、百宅から山越えをして酒田に送った。
なんつーか(B)本の特徴は、「●●▲▲が忠臣だよー。」というプロパガンダに満ちた感じがしますね。(中略)した所には、一揆衆の名前がずらっと名前が記載されています。
矢島の敵は由利衆だけではなく、そのバックに最上義光がいるとし、「それに負けなかった矢島氏の配下のボク。すごいでしょ。」が目的なんでしょうなあ。慶長5年の出羽合戦は9月8日がゴングなので、(B)本の8月25日、無くは無いです。
(A)本の肉付けをしたのが(B)本っていう感が分かる項目です。
矢島40人の者たち 2
20 慶長5年矢島一揆
さて、前項に続き慶長5年の慶長出羽合戦が始まります。
この頃、仁賀保兵庫は徳川方についておりましたが、石田三成挙兵との報を受け、一時仁賀保に帰還していました。 それを含み置いての(A)本です。
慶長5年9月8日、矢島八森城の城番衆が在郷(木在?)に行き、城が手薄になった所に、矢島遺臣40人衆が攻め寄せ八森城を乗っ取った。城番衆は在郷より帰ってきたが八森城へは入れず隣の福王寺に入った。しかし更にそれを矢島遺臣40人衆が襲い、城番の菊池長右衛門は討死、境縫殿助は仁賀保へ逃げ、馬上・徒歩含めて15人が討死した。菅原勘之介は笹子より仙北へ逃げた。
仁賀保兵庫頭殿はこれを聞くや否や打越左近殿・赤尾津殿を引き連れて八森に攻め込んだ。矢島遺臣40人衆は八森城を落とされ、酒田より会津に逃げようとしたが出来ず、笹子の赤館に籠城することとした。赤尾津殿・打越殿は直根口より攻め、兵庫頭殿は川内より攻め込んだ。瀬目ヶ峠より峰筋に新道を切り開いて赤館に直に攻め寄せてきた。打越殿・赤尾津殿は直根口よりかまち平に登り、目の下に城を見下ろして攻めた。
同月13日の昼より暮れまで戦い、城中からは鉄砲を討ち15人撃ち殺した。籠城した者たちの内、相場市右衛門・金子民部は討ち死にした。城中の討ち死にはこの2人である。午後6時頃、城は落城した。城に火を放ち焼きつくし矢島遺臣40人衆は親妻子共に矢島に逃げたものもあり、また、仙北に逃げた者もあった。
9月7日の晩には西馬音内の三右衛門が、御藤殿を仁賀保の根城より助け出して西馬音内に逃げ落ちた。八森城に兵庫殿が帰られてから御藤殿を取調べしようとしたが既にいなかった。
続いて(B)本です。
9月8日の未明、(矢島40人衆は)城番の菊池長右衛門・境縫殿助・菅原勘介上下50人が籠る八森城へ押し掛けようとしたが、菊池長右衛門は福王寺に祈念に行っていた。それでも40人衆は宵より福王寺に攻め込み、長右衛門の家来である土田大学、巴兵部らを討ち取り、菊池は後の山より仁賀保へ逃げた。菅原勘介は笹子に用があり出て居なく、境縫殿助は討ち死にした。
それより志駄殿に飛脚で矢島八森城を攻め取った事を伝えたようとしたが、志駄修理殿は落城して米沢に向かわれているとのことで、兵庫殿・滝沢殿・赤尾津殿・打越殿が酒田の陣より帰られ、近々矢島退治の出陣があるとお触れが回ってきた。
矢島40人衆はこうなればどうしようもない。笹子に赤館を築き館を枕にして討ち死にしようと考えた。八森には小貳坊と堀内孫市を残し置いた所、仁賀保氏ら4大将が前杉に向かう事を知り、(小貳坊と堀内孫市に)早々に赤館に帰るべく含み置いた。しかし孫市は何かあるのか、民部らに敵の歩兵4、5五人が鑓を持って登ってきた所を、只一人走り向って槍で突いたが、敵が避け、敵の前へつんのめって転がり首を取られた。小貳坊・柴田が見て赤館に帰り来て知らせた。
この頃、小介川摂津は赤尾津孫次郎の従弟であり、矢島氏滅亡後孫次郎殿の元に浪人していたが、「矢島遺臣40人衆が籠城したのは不届、由利11頭と言えども今は4頭しかなく、この4頭に矢島遺臣40人衆が戦を仕掛けるなど、もってのほかである。頼むから思い止まって降参し、末永く矢島に居住し続ける事こそ本意だろう」と、家来を遣わして伝えた。矢島遺臣40人衆は赤館で軍議を交わすが、「この戦の前に我々は先祖を討たれている。その上、このような戦をし降参できるわけがない。赤館を枕に討ち死にする外はない」と使者を返した。
赤館をしつらい、瀬目か峠は難所なので、柵を回して大石を積み置き、佐藤越前、(中略)高橋備中が配置された。4頭の内兵庫殿、滝沢殿は豊川内口を攻める為、瀬目か峠に向かい、打越殿、赤尾津殿は直根口から攻める為、滝に陣取って控えられた。
12日の未明に瀬目峠の先手が100人ほど徒歩で攻め登る。今野治助は鉄砲が上手く、3人討ち殺すと敵はどよめいた。その時大石を転がし落とすと、人にあたる事は稀であるが登り難くいる所に槍の先を揃えて打って出れば、先陣は混乱して本陣に引いた。其日は川内口の戦は止まった。
直根口より赤館に取り付くが、道は長沼伝いに1騎しか通れない細道で両側とも深い谷であり、転ぶと人馬ともただでは済まない所である。足軽10人20人切って 出たが、竃地山より鉄砲で近づくものを討ったため1人も近寄れない。そうしている内に兵庫殿が言われるには「瀬目か峠は難所で少数の兵で落としづらい。 椿の方より家の森に夜中に道を作って攻め上ろう。直根口の1隊は、かんじきつらに新しい道を作り人馬を通し、赤館の西大手より攻めるように。」と命令を下 し、夜中に道を大勢にて作った。赤館では、今日の戦に勝ったと喜んでいた。
13日の朝、方々より新しい道を仁賀保勢が作っていると聞いた所に、早くも直根口の敵は、かん志きつらへまで来て、大手口に向っている最中と報告が来た。 兵庫殿も家の森まで辿りつき、瀬目ヶ峠には人影がなかった。滝沢殿を家の森の攻撃軍にすえ大手口に回られた。打越殿・赤尾津殿・兵庫殿の3頭が攻めたが、 大手も守りが固く鉄砲弓にて防ぎ、大石等を転がして、大木を切ったものを転がしておいたので攻め上ることも難しい。
家の森では、滝沢殿が向うと遠くから弓鉄砲が放たれ近寄ることが出来ない。
14日は睨み合ったままで、15日になり付近の百姓共に案内させて足場が良い場所から徒歩で赤館の四方より攻め寄せた。それを見た竃地・家の森に遣わした者たちが赤館に籠り、四方からの敵を防ごうとする。赤館は稲や萱で塀を固め、本丸付近は板塀であった為、外側に敵陣が火を放つと外塀は丸焼けになった。鉄砲が上手いものが代わる代わる敵を討って怯ませたが、四方より敵が攻め寄せ15日の午後4時ころには味方が逃げて10人程になってしまった。その中で鈴木與介は鉄砲に当り死んだ。相庭又四郎も鉄砲に当って倒れたが、金子民部が走り寄って引きずって本丸に連れ戻そうとしたが、四方より敵が迫り、又四郎を捨て置いて戦ったが討ち死にした。
相庭、金子が討死したと知った一揆軍は、残らず逃走して赤館は落城した。40人の内5人討死、負傷者は15人。攻撃軍の死人は20人、負傷者は15人であったと知られる。
この項は、両者ともそれほど違いません。…細かい所はだいぶ違いますが。
イ) 慶長5年9月8日に矢島遺臣40人衆が八森城を攻めた。…これは両本ともほぼ同一です。
ロ) 仁賀保兵庫はそれを聞くと(A)本では打越・赤尾津と、(B)本では打越・赤尾津・滝沢を引き連れて八森城を攻め、奪還した。
ハ) 9月13日、赤館攻め。(A)本ではその日の内に落城、(B)本では15日に落城したとされています。…(B)本では八森城落城後、赤館を築城した事になっていますが、たった5日では無理ですね。筆が滑りましたか…。
21 慶長5年の矢島40人の者共の動向
まずは(A)本になります。
この乱の企ては6月頃よりの話で、矢島遺臣40人衆と大河原別当とが申し合わせ、大峰入と名付て行動していた。兵庫殿は上洛したが、西軍挙兵の報を聞き出羽に戻った。しかし治部少輔殿は関ヶ原にて討ち死に、上杉景勝殿は無事であったが酒田9万石を江戸に献上された。信太殿は城を渡して米沢に移った。矢島遺臣40人衆は矢島・赤舘とも落城候し、仙北に引いたのである。
(40人衆の1人)普賢坊は同9月18日に仁賀保殿に大峰入のお札を差し上げた所、御料理を下された。御酒を飲んでいた所、正左衛門が初太刀で20人程討ち殺した。供の大貳坊は玄関で切られ、小貳坊と俗供の新蔵の両人は、普賢坊の金作の太刀を持って逃げた。冬師の四郎兵衛方に駆け込み、食べ物を貰ったが、四郎兵衛が山の中まで追いかけて小貳坊を殺し、金作の太刀を取った。俗供の新蔵は逃げて矢島に帰った。
慶長6年7月下旬、仁賀保殿が仙北の大森城を攻められた時、矢島よりも人夫が出た。
続いて(B)本です。
同年6月中、普賢坊に矢島遺臣40人衆が、江戸に登り大江五郎満安殿の御息女お鶴殿を取立て矢島家の再興を申し立てに江戸に行くことを頼んだ。首尾よく江戸に行き、そこから熊野に参詣して、兵庫殿の御祈念をした。
9月25日、仁賀保殿へ御札守を差し上げた所、御料理を下された。しかし馳走になっていた最中、仁賀保庄左衛門が普賢坊を襲った。普賢坊は大立ち回りをしたが大勢に囲まれて討ち死にした。普賢坊の供大貳坊も討ち死にし小貳坊と俗供の新蔵は逃げた。彼らは冬師四郎兵衛の屋敷に逃込み、食べ物を貰おうとした。小貳坊は天目に水を貰おうとしてその水を庭の柴垣の付近に溢し、新蔵と2人矢島に向かおうとすると、四郎兵衛も途中まで送るといい、普賢坊の小金作太刀を小貳坊が持っているのを見て、檜渡川の川岸で小貳坊を殺した。新蔵1人矢島に逃げ帰り、其後水を溢した所に柳もたせが生え、それを四郎兵衛が取って食い、死んで子孫が絶えた。
どうやら矢島氏の遺臣たちは、矢島氏再興をいろいろ画策していたと考えられます。
(A)本では石田三成とコンタクトを取ろうとしていた様だし、(B)本では徳川家康とコンタクトを取ろうとしていたとされています。しかし、上杉景勝旗下の志駄義秀と同心して矢島で挙兵したのですから、実際の所、徳川家康に…という(B)本の書き方には無理があると思います。
しかし何故、普賢坊は仁賀保兵庫頭にお札を献上しに来たのでしょうか?。もしかして、「40人衆は上洛していて一揆には関係ないよ。」というアリバイ作りだったのでしょうか?。
仁賀保兵庫頭の方が一枚上手で、禍根の種はすべて取り除く方針で、矢島遺臣衆を皆殺しにする方針だったと思われます。
なお、(A)本では仁賀保兵庫の大森城攻めにも動員されたと伝えられています。
その後
22 その後の矢島・仁賀保
ここから先の記事が(A)本・(B)本とも、それぞれ分かれます。(A)本は矢島メイン、(B)本は仁賀保と記述が分かれます。
(A)本です。
慶長8年、仁賀保兵庫頭殿は常陸国の内武田に国替を仰せつけられた。由利は最上殿の領地になった。4万2千石は楯岡豊前守殿、1万石は瀧澤殿、矢島3千石は楯岡長門守殿の領地になった。何れも最上殿の家来衆である。
同9年3月、矢島遺臣40人衆の取り計らいで、お藤殿は楯岡長門守殿の奥方様になった。
同17年3月中、豊前守殿が本赤尾津から新赤尾津に御引越しされた。矢島からも人足2,500人遣わされた。由利中の人足が普請にでた。御城が出来た。
同年4月由利、最上殿より検地が入り年貢が改められた。奉行は日野備中守である。新たな年貢では矢島の百姓達全てが生活できないので、田地を差し上げ仙北に移住することにした。同年、新藤但馬守殿が再検地し年貢を改めて変えられた。矢島中3,000石2斗8合にすると仰せられたので、百姓共は矢島に帰った。
慶長19年5月、瀧澤院主の意風が鳥海山の順逆の出入について出羽12郡の領内頭である最上行蔵院に訴状を提出した。矢島領の修験頭である喜楽院が最上行蔵院に行き、開基である役行者や再興した□寶尊師の品々を提出すると、「今までの様に」と仰せつけられた。意風は最上より上方に浪人した。
元和8年、本多上野殿が由利中を領地に貰い下られた。同暮に年貢をとられた。
同9年夏、(本多上野殿が)大澤千石に所替えになられた。
同年10月中、打越左近殿が矢島へ下り3千石の領主になり八森城に住居された。同時に岩城但馬守殿2万石は亀田へ下り、六郷兵庫頭殿は本庄2万石へ御下り、仁賀保兵庫頭殿も由利に下られた。
寛永11年8月7日、打越左近殿が亡くなり家が断絶した。
同年より天領となり、本多勝左衛門殿が寛永15年迄代官をされ、その年からは稲垣忠右衛門殿の支配となった。
(B)本です。
慶長7年、兵庫殿は常陸国の武田に国替えになり、その後には最上義光公の配下の楯岡豊前殿が由利5万8千石を知行された。右の内1万石は瀧澤刑部殿、矢島3千石は楯岡長門守の領地である。豊前殿は赤尾津に居城されて、同15年に本荘城を作られた。
元和8年、最上殿が改易になり由利は本多上野殿の領地になった。更に元和9年12月、兵庫殿、六郷兵庫殿、岩城但馬殿、打越左近殿が由利中を知行された。
仁賀保兵庫殿は寛永元年12月24日に亡くなられ、御子息の蔵人殿に7千石、御次男の内膳殿へ2千石、内記殿に千石、四男次郎殿に8百石。かくのごとく寛永2年に兵庫頭殿の御遺言で分知した。
寛永8年10月8日、蔵人殿が亡くなられ7千石は改易になった。(領地は)酒井左衛門殿に御預けになり、代官として安部竹右衛門殿、寺内八兵衛殿が入られた。
それぞれ、纏めてみましょう。
イ) 仁賀保兵庫頭は常陸武田に転封になりました。(A)本では慶長8年、(B)本では慶長7年に転封になったとされます。…これは慶長7年が正解かと思います。(A)本の日付も鵜呑みはマズイですね。
ロ) 慶長9年3月、矢島満安の娘のお藤(お鶴)は矢島40人衆の取り計らいで、楯岡長門守の奥方になりました。…これは(A)本だけの記載です。
ハ) 楯岡豊前守は居所を本赤尾津から新赤尾津に異動した。慶長17年3月の事としています。これは矢島よりも人夫が多数動員されたので記載があるのでしょうな。(B)本では慶長15年のこととして、名称も本庄の城としています。城は1年で出来た物では無いでしょうから、多少の異同はあるでしょう。
ニ) 慶長17年4月、日野備中守を奉行として矢島に検地が入った事が伝えられています。…厳しい検地だったのでしょうなあ。逃散したことを考えますと。(A)本のみの記述ですね。
ホ) 慶長19年の矢島と滝沢の鳥海山修験霞場の利権争いは、矢島修験が勝ったと記されています。これも(A)本のみですね。
ヘ) 元和8年、最上氏が改易後、本多上野守の領土になった事が両本に触れられています。翌9年夏に本多上野守は更由利郡を取り上げられ、大沢郷1,000石に国替になりました。これは両本ともに触れられています。
ト) 元和9年、岩城、六郷、打越、仁賀保の各氏が由利郡に入部されたことを記しております。これは両本とも共通の記事ですが、(A)本は特に打越氏が矢島3,000石で入部した記事が主となっております。
チ) 寛永元年に仁賀保兵庫が没し、蔵人らに仁賀保領を分知した記事は(B)本のみ、同11年に打越左近が亡くなった記事は(A)本のみですね。
こうしてみると、やはり(A)本は矢島から、(B)本は仁賀保側からの記載で、特に(A)本の記事を膨らませて書いたのが(B)本と考えられますなあ。
「矢島十二頭記」(いわゆる「由利十二頭記」)の成立は、わからないが元々は矢島氏の旧臣が、新領主(おそらく生駒氏)に自らの由来を説くためのものではなかったかと考えます。元々の作者は矢島氏の旧臣ではないでしょうか。
ですから先述の通り内容は矢島氏視点で、仁賀保氏側の内容が飛び飛びなのではないでしょうか。「矢島十二頭記」は良く精査すれば軍記というより覚書に近い使い方ができるのではと考えます。無論、それを基にしたと考えられる諸本はよくよく取捨選択が必要かと思いますが。  
 
15.仁賀保氏と宗教

 

神社
仁賀保氏が信奉していた寺院として、まず上がるのは院内の七高神社でしょう。当時の旧七高神社は山根館の北隣の尾根上に同程度の比高の場所にありました。
七高という名から推察できますが、修験系の神社でしした。
また、本丸東隣には通称「八幡屋敷」という土地があり、現在の馬場集落にここより勧進したという八幡神社(個人有)があります。源氏でありますので八幡神社を氏神として祭ったものでしょう。
仁賀保氏は稲荷神社も崇敬していました。芹田の稲荷は仁賀保氏と共に下ってきたという言い伝えがあるようです。また、仁賀保二千石家・千石家の陣屋には稲荷神社が祭られておりました。
仁賀保神社
現在、仁賀保家の二千石家・千石家陣屋跡に仁賀保神社があります。仁賀保家の祖・大井友挙及び中興の祖と言われる仁賀保挙誠(光誠)が祭神として祭られています。これは明治になってからの神社でありますが、関連のものとして挙げておきます。
寺院
大井氏は信州より仁賀保に赴き、仁賀保にて自立した際、土地の有力寺院を自らの菩提寺にしています。それが現在、仁賀保郷の院内集落・山根館の入口にある曹洞宗寺院の賀祥山禅林寺です。
禅林寺は元々は真言宗の古刹であり、曹洞宗の高僧である直翁呈機和尚により、曹洞宗に改宗した寺院である。直翁呈機は道元−徹通義介−瑩山紹瑾−明峰素哲−玄路統玄−宝山宗珍−直翁呈機と続く明峰派の流れを汲みます。
直翁呈機の開いた禅林寺は仁賀保氏の庇護の下、寺勢が強く、矢島氏領を併呑すると矢島に、江戸幕府が出来ると江戸に末寺を開くなど、江戸時代の草創期までは相当、勢いがあったようです。しかしながら仁賀保家が3分割し、本家筋の7000石家が途絶え、仁賀保郷に六郷氏・生駒氏の領土が入り組むようになると寺勢が衰えるようになりました。
禅林寺には図の様に多数の末寺があり、これら末寺の下に孫寺があります。孫寺は多くが廃寺になりましたが、現在も続いているものもあります。
仁賀保氏と禅林寺は菩提寺の間柄としては江戸時代を通して続いています。 
 
仁賀保挙誠 (にかほ きよしげ)

 

戦国時代から江戸時代前期の武将、大名。出羽国由利郡の南部を支配した。実名は文書上確認されるのは「光誠(みつしげ)」であり、これは次男の誠政が将軍徳川家光の「光」の字を憚り、代わりに「挙」の字を当てたためと考えられている(自身も光政から名を誠政に変えている)。なお『寛政重修諸家譜』では、挙誠を「たかのぶ」と読ませている。
仁賀保氏は通字に「挙」を、家紋に「一文字に三つ星」をそれぞれ使用するため大江氏との関係を指摘する旨もあるが、「挙」の通字は文書上は確認されない。これは大井姓が誤伝により大江と伝えられ、これによるものであると考えられる。仁賀保氏はその家系は断続的ながら文書上に確認されており、「光長」「光誠」など「光」が通字であったのであろう。また、家紋は「一文字に三つ星」の他に「松葉菱」も使用しており、大井氏の流れを汲むのはほぼ確実である。
仁賀保氏の成立
仁賀保氏は清和源氏小笠原氏流の大井氏の流れを汲み、その祖先は元々は信濃大井庄の領主であった大井朝光である。朝光は叔母である大弐局より出羽国由利郡を相続し、その縁で由利郡に信濃大井氏が繁栄することとなる。鎌倉時代初期、大井氏は信濃大井庄を本貫の地とし、地頭代を派遣して由利郡を支配していた。これは鎌倉時代末期まで続いていたと考えられる。当初は「津雲出郷」と呼ばれた矢島郷(現在の由利本荘市矢島町付近)を支配した矢島氏が地頭代であったらしい。矢島氏の祖と考えられる大井政光と仁賀保氏の祖と考えられる甲斐守光長は兄弟であるらしく、光長の孫の友光の代には仁賀保郷(現在のにかほ市付近)に進出していたらしい。仁賀保氏の菩提寺である禅林寺にはこの時代からの位牌が残っている。
後、建武の新政・南北朝などの混乱期を経て、由利郡は大井氏からの独立の気運があったと考えられ、それを制するために新たに地頭代として任命されて由利郡に移住してくる者達が多く居たようである。特に、後に赤尾津(あかおつ)氏とも呼ばれる小介川(こすけがわ)氏は大井氏の分家として、由利郡の北から雄物川河口部にかけて勢力を広げ、室町時代中期には醍醐寺三宝院門跡領を横領するほど勢力を増した。友光の四男の友挙は彼らを説圧するために鎌倉より下されたと伝えられる。
無論、当時の東北地方の政治状況から勘案すれば、事は簡単なものではなく、関東管領・出羽探題・室町幕府の思惑が複雑に絡んだものであったと考えられる。当時の大井宗家の当主である持光は鎌倉公方足利成氏の外祖父にあたり、関東管領である上杉氏と対立関係にあった。また、醍醐寺の荘園を横領した大井氏の分家の小介川氏(赤尾津氏)の存在もあり、上杉氏と近い関係にあった大井氏分家の友挙の由利郡下向は、非常に政治的なものであったのだろう。
友挙の子の大和守挙政は、主な領地名である仁賀保郷を以って「仁賀保」を名字とした。仁賀保の名は大永4年(1524年)の長尾為景宛斯波政綿書状の中に出てきており、この時代、仁賀保氏は中央政権に対して馬の献上をもしていたらしき事が推察される。
挙政の子の挙久は優れた人物で、兵を庄内地方に進め、日本海に浮かぶ飛島を切り取るなど活躍したが、矢島氏との戦いに敗れて討死したことにより仁賀保氏は衰退した。この時代、北出羽では湊安東氏、小野寺氏は京都御扶持衆であり、仁賀保氏は定かではないが、同じ由利郡の国人領主である滝沢氏が京都に代官所を持っていた事、御用商人の来訪などからしても、中央政権に近い有力な国人領主としての地位を確立していたらしい。
挙誠の登場
挙誠は仁賀保氏がお家騒動と敗戦により当主が挙久から4代続けて非業の死を遂げた後に、一族である赤尾津氏から養子に入った仁賀保氏中興の祖である。仁賀保氏は歴代、山内上杉家またその分家の越後上杉家、長尾氏と関係が深く、本庄氏や大宝寺氏らと共に上杉氏の影響を受けていたらしい。上杉謙信の死後、長尾上杉氏の影響下にあった出羽庄内の大宝寺氏当主の大宝寺義氏が独立を目指すと、仁賀保氏は大宝寺氏らと戦うことになる。また、義氏は仙北の小野寺義道と同盟し、背後より矢島氏に仁賀保氏を攻めさせた。この為仁賀保氏は国力を大きく落とし、天正10年(1582年)頃より翌11年(1583年)にかけ、義氏に何度か大きく攻め込まれた。このため、仁賀保氏は5代当主の重挙が死亡後、独自に当主を立てられなかったものと考えられる。6代当主の八郎が没した後、仁賀保宮内少輔など有力な一族が居たにもかかわらず、挙誠が赤尾津氏より養子に入ったのは、赤尾津氏を支援した安東愛季の意思が働いたものか。
挙誠が家督を継いだ天正13年(1585年)の時点の仁賀保氏は、小野寺氏の有力一族である西馬音内(にしもない)氏の娘を娶っていた矢島満安と鋭く敵対していたが、出羽庄内地方に最上義光が勢力を伸ばし、上杉方の大宝寺氏と戦闘を繰り返しており、背腹両面に敵を受けるわけには行かないので、矢島満安と和睦し、庄内戦に専念した。この頃、大宝寺義氏は重臣の東禅寺義長の謀反によって殺され、義氏の弟の義興が当主となっていた。義興と東禅寺義長が対立しており、更には大宝寺氏を本庄繁長・上杉景勝が、東禅寺氏を最上義光がそれぞれ支援していた。この戦いは本庄繁長が庄内に攻め込み、東禅寺義長を討ち取り最上軍を殲滅した事によりケリがついた。
さてこの騒動の間、最上義光は不利になりつつあった庄内での戦いを有利に進めるため、由利郡の国人領主にも使いし、自身に与同する様に要請している。この際、義光は豊臣秀吉の惣無事令を実行する代官であるという立場を強調している。無論、秀吉の威光を以って仁賀保氏らを自身の配下にしようとする魂胆であるが、あまり効果が無かった様である。仁賀保氏らは秀吉には出仕するが、義光の命令は聞かないという立場をとったようである。天正16年(1588年)になり義光は出羽探題に任ぜられたとして、再び挙誠らに圧力をかけて来たが、越後から本庄繁長が来襲して最上軍を粉砕した事は先述した。これ以後庄内は完全な上杉領となった。この時、仁賀保氏らは庄内に出兵して最上軍を駆逐して回ったらしい。この上杉軍と挙誠の動向からして、庄内の領有権は歴代上杉氏のものであり、上杉軍・仁賀保氏らは豊臣秀吉の惣撫事令に基づく天下軍として最上方を成敗したという形であったらしい。
この直後、義光は仁賀保氏らを揺さぶるためこれと敵対する矢島満安に使者を出し、これを懐柔することに成功する。挙誠らは満安の単独行動を良しとせず、奸智により矢島氏を攻め滅ぼし、矢島氏を利用して由利郡を自身の領土にしようと画策した義光の野望を挫いた。以後矢島郷は仁賀保氏領となり、秀吉の小田原征伐に加わり、仁賀保郷・矢島郷の領有を認められ、天正18年(1590年)12月24日付の知行宛行状により、由利郡南半分を領有することが決定した。
なお、天正16年(1588年)に最上軍を粉砕した本庄繁長率いる上杉軍は天下軍として賊軍を成敗するという性質を持っていたと解釈すべきである。故に仁賀保氏ら由利衆もこれに加わったものであり、再び翌天正17年(1589年)に安東氏の内紛である湊騒動に対して、由利衆は天下軍として上杉氏より派遣され、秋田実季を支援して戦を鎮めた。よって関東奥羽惣無事令が出されていたのにもかかわらず、上杉、仁賀保らの戦闘は私戦とは考えられず、天下軍であるとは考えられなかった実季は改易は免れたが、湊安東家の領土は没収され天領となった。
挙誠の領地
挙誠の領地は現在のにかほ市と由利本荘市矢島・鳥海地区に跨る。天正18年(1590年)に奥州仕置が行われたとき、由利郡では仁賀保氏のほか、赤尾津氏、滝沢氏、打越氏、岩屋氏、石沢氏、下村氏、根井氏、玉米氏、潟保氏らの存続が認められた。この内、石沢、下村、玉米、根井、潟保氏は文禄4年(1595年)に他氏の傘下に入ったらしい。
但し、現在にかほ市教育委員会に保管されている「仁賀保家文書」には打越氏・根井氏宛の秀吉からの知行宛行状も含まれている。両氏とも大名として存続しているので、当初から挙誠にまとめて交付され、仁賀保氏の傘下に入っていたらしきことが推察される。後に根井は完全に仁賀保氏の傘下に入り、打越氏は軍事指揮下に入ったようである。また、潟保氏配下の稲葉氏の覚書により、関ヶ原の戦いの折には潟保氏の配下が仁賀保軍に加わっていた事が確認できるので、潟保領も仁賀保氏領になっていたと考えられる。
石高は天正18年(1590年)には3,716石の記載があるが、天正20年(1592年)には8,000石強であることが確認されており、領内に設置された天領分を合わせると1万2,000石はあったものと考えられる。これに後に根井氏・潟保氏分が加わった。
豊臣政権下
他の奥羽の武将の例に漏れず、小田原参陣の後、挙誠は妻子を京都に人質に取られた。翌天正19年(1591年)には九戸政実の乱の討伐軍の一軍として参陣し、『奥羽永慶軍記』によれば大功を立てている。
文禄の役では肥前名護屋城に駐屯し、「おこし炭」の役をこなしている。また、牧使城攻撃の一軍として渡海する予定であったが、落城したため渡海することは無かった。文禄年間末からは北東北総ての大名に言い渡された杉材木の献上事業に豊臣政権が崩壊するまで従事した。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、最上義光より東軍与同の誘いを受け、同族の赤尾津氏当主の赤尾津孫次郎と共に東軍に加わり、庄内まで出陣したが、石田三成が挙兵して徳川家康が上洛すると、家康より文書を受けて後、居城に帰還している。その直後、上杉方より唆された矢島満安の遺臣が一揆を起こした為、これを討伐した。この為、庄内の上杉勢を攻めることができず、後に義光より西軍与同の嫌疑を受けた。
しかしながら石田三成が敗死した後、ただ一人徹底抗戦している景勝を攻めた。この際、上杉家臣の下次右衛門の菅野城を始め、数多くの城を攻め落とし、自身も負傷するほど力戦した。このため、後に家康から所領を安堵され、感状を与えられている。戦後、挙誠は秋田実季らと共に西軍与同の嫌疑を受け、慶長7年(1602年)、常陸国武田(現在の行方市。ひたちなか市ではない)5,000石に移封された。
徳川政権下
常陸武田に移封になった挙誠は江戸に屋敷をつくり、大坂冬の陣では馬廻りの一軍として出兵、翌夏の陣では淀城の守備を務めた。元和2年(1616年)に伏見城番、元和9年(1623年)には大坂城の守衛を務めた。
さて、時の老中土井利勝の家臣に鮭延秀綱という人物が居た。秀綱は元々は最上義光の重臣であり、最上騒動に絡んで土井家に御預けになっていた。その秀綱が主君利勝の諮問に答え、関ヶ原の戦いの時の挙誠の勇戦振りを語った。それに感銘を受けた利勝により元和9年(1623年)10月18日、挙誠は旧領仁賀保に所領を与えられ転封になった。この際、分家の打越氏にも領土の内の矢島郷を与えた様である。よって、仁賀保氏は打越領を含めると旧領をほぼ取り戻したことになる。この際、挙誠は仁賀保主馬という人物に700石与えている。分家であろうかと考えられる。
なお、万石以上が大名であるというのは後世の感覚であり、当時は外様の領土持ちは大名であったと考えるべきである。仁賀保氏も打越氏も領内に居城を持ち、住んでいた。
仁賀保郷に復帰した翌年の寛永元年(1624年)2月14日に死去、享年65(『寛政譜』の没年は誤り)。菩提寺はにかほ市院内の禅林寺。13回忌に次男誠政と三男誠次が立てた五輪塔墓がある。同市象潟の蚶満寺にも墓があり、当初はこちらに埋葬されたらしい。東京都三田に禅林寺の末寺として同法名からとった寺の正山寺がある。
死後、仁賀保家は挙誠の遺言により、3家に分割された。しかし長男の蔵人良俊と次男誠政、三男誠次は異母兄弟であり、良俊と誠政以下の間に相続争いが起こり、柳生宗矩の裁定により遺言どおりに分割されることが決まった。家督は長男の良俊が7,000石で継ぎ、次男の誠政に2,000石、三男誠次に1,000石の所領が分与された。なお良俊は7000石ではあるが、依然大名待遇であったようである。良俊は参勤交代をしており(交代寄合。ただし、良俊の在世中には制度化されていなかった)、『梅津政景日記』などによれば、佐竹氏とも頻繁に交流していたようである。
子孫
長男良俊は当初は蔵人を名乗っていたが、家督相続後、父と同じ官職の兵庫頭を名乗った。良俊に子がなかったため、仁賀保宗家は断絶となった。次男誠政の系統は、誠尚、誠信、誠依(実父都筑為政)、政春(実父桑山元武)、誠胤(実父桑山孝晴)、誠陳(実父河野通喬)、誠肫(実父仁賀保誠之)、誠昭、誠明、誠成(実父菅沼定陳)、成人と明治維新まで存続した。また、三男誠次の系統は、誠方、誠康(実父長谷川重賢)、誠之(実父長谷川重行)、誠善、誠形、誠教(実父仁賀保誠善)、誠意(実父中山信a)、誠中(実父松平信弘)、誠愨(実父佐竹義珍)、五郎と明治維新まで存続した。また、仁賀保誠次の三男誠親も分家し、誠昌(実父井上利長)、誠道(実父長谷川重賢)、誠章(実父服部保好)、誠房、誠一と続いた。
 
仁賀保氏

 

家紋 / 一文字三つ星(小笠原氏流)
仁賀保氏は、甲斐源氏小笠原氏流の大井朝光の後裔と伝えられる。仁賀保というのは由利郡内の平沢・象潟方面の総称であり、仁賀保氏はその地名にちなんで仁賀保を称したものである。戦国時代、由利十二頭の有力者として勢力を誇り、同族の矢島氏と抗争を繰り返した。
仁賀保氏の出自
『姓氏家系大辞典』の仁賀保氏の項をみると、「清和源氏小笠原氏族、鳥海氏の後を受けて仁賀保にありし豪族にて、由利十二頭の旗頭也。小笠原重挙を祖とす」と記されている。そして「鳥海氏滅亡後、由利の地大いに乱る。土人これを憂へ、応仁元年鎌倉に訴えて地頭を置かんと講ふ。幕府乃ち信濃の名族十二人を遣わして郡内各地に封じ、其の地頭とす。仁賀保・矢島・赤尾津・子吉・芹田・打越・石沢・岩谷・潟保・鮎川・下村・玉前の十二にして是を由利十二頭と称す」と続けている。
『仁賀保系図』によれば、仁賀保氏の祖は大井朝光の後裔大井四郎友光の子友挙があり、その子大和守挙政がはじめて仁賀保氏を称したと記している。一方、同じ由利十二頭の一である赤尾津氏の系図によれば、小笠原政長の子に俊光があり、その子に俊明・光貞を記して、俊明に仁賀保兵庫頭、光貞に赤尾津伯耆守と注している。いずれの説も清和源氏小笠原氏の流れということになるが、どちらが真実を伝えているかは判然とはしない。
ところで、仁賀保氏の家紋は「一文字三つ星」で大江氏との関係を想像させている。また、仁賀保氏の代々が名乗りに用いる「挙」の字は大江氏流芹田氏が用いる通字でもあることから、大江氏との関連が濃厚であると考えられる。
いずれにしても、仁賀保氏は大井朝光の後裔という友挙が応仁元年(1467)信濃国大井荘から出羽国仁賀保に移り、待居館を居館とした。翌年、由利氏の居館であった山根館を修復してそこに移ったという。以後、代々山根館を拠点として勢力を拡大していった。そして、戦国時代になると由利十二頭の中心的存在になるまでに成長したのである。
由利十二頭の興亡
由利十二頭のことは、『由利十二頭記』や『打越旧記』などの戦記物によって知ることができる。しかし、それらは物語的要素が強く、その記述をそのまま史実として受け止めることは危険である。
鎌倉時代の由利地方は、小笠原氏が地頭として開拓に従事したことが知られ、その小笠原氏は霜月騒動によって所領を失い、その後は北条氏が由利地方を支配した。そして、鎌倉幕府が滅亡すると、由利地方の支配者は目まぐるしい交代が続いた。その混乱のなかで、多くの武士たちの興亡があり、そのなかから生き残ったものたちが、のちの由利十二頭の先祖たちであったのだろう。
南北朝の争乱からその後に続く戦乱は、やがて戦国の時代へと連鎖し、日本全国は合戦がやむことはなかった。戦国時代とは、中央の室町幕府の統制力が崩れ、下剋上の風潮がみなぎり、同族相喰むといった闘争が繰り返された。それは、由利地方も例外ではなく、由利十二頭といわれる諸豪たちもたがいに抗争のなかに身をおいていた。とくに、仁賀保氏と矢島氏の抗争は熾烈を極めたのである。
戦国時代における由利地方の周辺には、北方に秋田氏、東方に小野寺氏、南方には武藤氏、さらに山形の最上氏といった大勢力が存在していた。それに対して、由利郡内には大勢力は存在せず、いわゆる由利十二頭と呼ばれる小領主が割拠する状態で、近隣の諸勢力の影響を受けざるをえなかった。
そして、由利十二頭としての一揆的結合と同族という関係から協力関係にあった由利地方の小豪族たちも周辺の諸大名の動向によって、分裂と闘争を繰り返す事態に至ったのである。そして、仁賀保氏は庄内の武藤氏の影響を受けることが多く、矢島氏は小野寺氏との関係が強かった。小野寺氏と武藤氏との対立が由利地方に及んでくると、仁賀保氏と矢島氏との抗争に発展したことは自然の成りゆきでもあった。
矢島氏との抗争
仁賀保氏と矢島氏とは先祖を同じくする近い同族であった。それが、対立するようになったのは、近隣諸大名からの影響もあったが、直接の原因となったのは、由利十二頭の一でもある滝沢氏の存在であった。
滝沢氏は鎌倉時代のはじめに由利地方の地頭であった由利氏の後裔といい、一時、勢力を失ったが、室町時代に至って由利地方に再入部したきたものである。そして、滝沢氏は地歩を固めるために矢島氏に対して謀計をめぐらした。このころ、矢島氏は勢力を拡大しつつあったこともあり、滝沢氏は矢島氏に単独であたる不利をさとり、仁賀保氏の支援を求めたのである。そして、永禄三年(1560)矢島氏と滝沢氏の衝突があった。このとき、仁賀保氏は滝沢氏に加勢し、これが仁賀保氏と矢島氏の対立の始まりとなった。しかし、この戦いのあと、矢島氏から一族としての裏切り行為を責められ、仁賀保氏は矢島氏に謝罪をしている。
その後、しばらく平穏なままに過ぎたようだが、天正二年、ふたたび滝沢氏と矢島氏との間で抗争が起り、翌年、仁賀保氏が矢島氏に対して攻撃を加えた。しかし、このときは子吉川の洪水のため、仁賀保軍は渡河することができず、結局対戦には至らなかった。翌年、仁賀保明重は矢島領に進攻した。ところが仁賀保軍は矢島方に裏をかかれ、大将の明重が討死するという大敗を喫した。この戦いで明重が討死したことで、仁賀保氏と矢島氏とはいよいよ不倶戴天の関係となり、翌天正五年、安重は父の弔合戦を企て、矢島攻めの軍備を整えた。一方の矢島方も仁賀保氏に対して迎撃体制を整え、小野寺氏からの支援を求めている。そして、八月、仁賀保氏と矢島氏は激突、この戦いにおいてまたもや当主である仁賀保安重が矢島方に討ち取られてしまった。
この敗戦で、仁賀保氏の嫡流は途絶え、安重の従兄弟にあたる院内の治重を仁賀保氏の家督に迎えた。治重も矢島氏に対する報復の念に燃えたが、二度の敗戦の痛手は大きく、ついに反撃に出ることはできなかった。以後、仁賀保氏は雌伏の時期を過ごさざるをえなかった。そして、態勢を整え直すと、矢島氏に合戦を挑み互いに攻防を繰り返したことが軍記物などに記されているが、勝敗を決するまでにはいたらなかったようだ。
仁賀保氏と矢島氏の戦いは次第に消耗戦の様相を呈し、両者は謀略をもって相手を倒そうとはかった。矢島氏は仁賀保氏の重臣に調略を施し、仁賀保に進撃したがその途中で急病を発し、中止のやむなきに至った。しかし、矢島氏の調略にのった土門・小川らの仁賀保氏の家臣らは謀略が露見することを畏れ、天正十一年(1583)突然治重を襲い殺害してしまった。このことは、矢島からの計略があったものの、つづく戦いに耐えかねた仁賀保家中に内部抗争があった結果とも考えられる。
こうして、仁賀保氏の当主は三代にわたって矢島氏のために斃されるという結果になった。ここに、仁賀保氏は断絶に直面したが、治重の一女に子吉氏から婿を迎えてかろうじて家を保った。
時代の変転
ところで、この前年の天正十年に庄内の武藤義氏が由利郡に進攻している。武藤氏は義増のころから次第に勢力を拡大し、北進策を取るようになった。そして、その影響をもろにうけたのが由利地方であった。
このとき、由利十二頭の多くは武藤軍に従ったようで、矢島氏の重臣小介川氏が守る滝沢城を攻撃した。この戦いの背景には、小野寺=矢島氏と庄内武藤氏=由利十二頭(矢島氏を除く)との対立があった。これに対して小野寺氏と和睦していた秋田氏が小介川氏を支援したため、武藤義氏は大敗を喫して庄内に引き揚げていった。
また、この戦いで武藤氏が秋田氏と戦って敗れたのは、最上義光の謀略もあった。武藤氏の由利郡への進攻は小野寺氏を牽制するためであり、由利郡内においても小野寺氏と結んで勢力を拡大しつつある矢島氏へ由利十二頭が危惧を抱いていたことなどがあり、それらのことが相まって武藤氏の進攻につながり、庄内侵攻を目論む最上義光が一枚かんで、武藤氏の勢力をこの機会に失墜させようとはかったのである。結果、武藤氏は由利地方を席巻したものの秋田氏に敗れ、大きく勢力後退させたばかりか、家臣の反乱によって義氏は自害して亡びるのである。
時代は地方の小勢力の小競り合いから、さらに大きな勢力同士の対決へと変化をとげつつあったのである。そういう意味では、仁賀保氏と矢島氏の抗争もそのような時代の流れに沿ったものであったといえよう。すなわち、小野寺=矢島氏と武藤=仁賀保氏という構図のなかでの抗争であった。
このことは天正十年八月の「大沢合戦」からもみてとれる。大沢合戦とは由利衆と小野寺氏が戦ったものであるが、この戦いに由利十二頭の連合軍には矢島・小介川氏は加わっていないのである。この戦いは、武藤氏が敗戦したあとの由利郡を制圧するために小野寺氏が侵攻してきたのを由利十二頭が迎え撃ったものであり、以後、小野寺=矢島氏と由利十二頭連合軍との戦いが激化することになる。
泥沼化する抗争
こうして、天正十一年仁賀保氏の当主治重が家臣に殺害されるという事件が起ったが、その後しばらくは由利地方にも平穏な時期が続いた。
しかし、時代の流れは急流の度を加え、最上義光が北上作戦を企て、義氏のあとを継いだ武藤義興と戦って庄内を制圧し、さらに小野寺氏と衝突した。ところが、庄内には上杉氏の支援を受けた武藤氏が侵入し、義光は両面作戦を強いられた。このような状況は由利十二頭にも大きな影響を与えた。そして、天正十四年、仁賀保氏と矢島氏との間で合戦が行われた。軍記物などには治重の弔合戦のように書かれているが、当時の周辺の政治情勢がもたらした戦いであったことはいうまでもない。
このときの仁賀保氏の当主は重勝で、矢島氏の当主大井五郎はしばらく病臥していたとはいえ豪勇の武将であり、合戦の最中に重勝は大井五郎によって討たれてしまった。戦いは激戦で大将を討たれたとはいえ仁賀保軍は奮戦し、日没まで戦いは止むことなく、結局双方疲れて兵を引き揚げた。
ここに仁賀保氏は、四度目の当主の死に遭遇したことになる。その後、義光の斡旋で、小助川氏と縁戚関係にある赤尾津氏から養子を迎えて仁賀保氏の後嗣とし、矢島氏との和睦のための考慮をほどこした。仁賀保氏を継いだ赤尾津氏は勝俊を称し、矢島氏との和睦を図っている。しかし、仁賀保氏と矢島氏との旧怨の関係は容易に改まるものではなかった。
その後も仁賀保氏と矢島氏の抗争は続き、天正十七年にも合戦におよび、矢島氏の攻勢に仁賀保氏は切り立てられたが、この戦いは仁賀保の禅林寺、矢島の高建寺の扱いで和睦が成立し両軍は兵を退いた。しかし、この和解は一時的なもので、同年の七月、仁賀保軍は矢島に攻め込んだ。これに対して八月、大井五郎が攻勢に転じて仁賀保へ侵攻した。この戦いにおける大井五郎の奮戦はすさまじかったが、雌雄を決するまでには至らなかった。
戦国時代の終焉
そして、天正十八年(1590)、仁賀保挙誠(勝俊)は小田原参陣をはたして豊臣秀吉から所領三千七百石余を安堵された。
その後、九戸の陣が起ると、仁賀保兵庫頭(勝俊・挙誠)をはじめとした由利十二頭も従軍しているが大井五郎の名は見えない。おそらく病気だったようで重臣の小介川氏が代理として出陣している。この九戸の陣が終わると由利郡周辺の情勢にも大きな変化がもたらされた。小野寺・秋田氏はもとより、最上・上杉氏らが由利郡を味方につけるためにさまざまな働きかけを行うようになってきたのである。
この情勢に矢島氏を除く、仁賀保氏らの由利郡の諸領主は最上氏との親交を深めるようになった。最上氏は小野寺領内への侵攻を企てており、由利十二頭は味方につけおきたい存在であった。そして、小野寺氏、矢島氏にも謀略の手を伸ばしていた。一方で、由利十二頭諸氏にしても新しい時代に対応するために結束を強めることは不可欠であり、それを疎外する矢島氏の存在は邪魔なものとなっていた。
そのようなおり、最上義光は大井五郎を山形城に招き、新しい時代に対応することを説いたという。しかし、それは真心から出たものではなかった。大井五郎が山形城に出向いた留守に謀叛が起り、急ぎ五郎は居城に帰り謀叛を鎮圧した。この謀叛は、義光が五郎の弟をそそのかしたものであった。
文禄元年(1592)秀吉の「文禄の役」が起り、矢島氏は小介川氏を代理として派遣した。これを知った仁賀保氏も代理を出し、両者は互いに相手の出方をみた。そして、矢島氏の兵が半減したこの機会をとらえた由利十二頭は一斉に矢島へと攻め込んだ。さすがの五郎満安も敗れて城は落城、西馬音内城主の小野寺茂道のもとに逃れた。そして、そこで自害して果て、矢島氏は滅亡した。
ここに、永年の仁賀保氏と矢島氏の抗争は仁賀保氏の勝利に終わり、同時に由利地方の戦国時代も終わりをつげた。
由利五人衆
話は少し戻るが、天正十八年(1590)に小田原北条氏を降した豊臣秀吉は奥州仕置を行い、奥羽地方に太閤検地を行った。このとき仁賀保氏は「仁賀保文書」によれば三千七百十六石を安堵された。これは由利衆のなかでは赤尾津氏に継ぐものであった。
その後の豊臣政権下で由利衆は小介川(赤宇曾)治部少輔・仁賀保兵庫頭・滝沢又五郎・岩屋能登守・内越宮内少輔の由利五人衆の下に再編成された。そして、天正十九年の「九戸の乱」には最上氏に属して出陣した。しかし、『東奥軍記』によれば、由利衆は小野寺・秋田氏らとともに出陣し、仁賀保氏は九戸城の辰己の方角「若狭館ノ向穴手」に陣をとったとある。また『永慶軍記』には、由利衆は「仁賀保兵庫頭ヲ始テ、赤尾津・岩屋・打越」らの十二党が若狭館に向って搦手に陣をとったとある。
この九戸一揆に出陣した由利衆は、歴史の変化を身をもって体験した。すなわち、この出陣はいままでのように自らの領地を守るために行ったものではなく、互いに勢力を争ってきた由利郡内の各氏と共同して、豊臣政権が敵と認めた相手と戦わなくてはならなかった。いいかえれば、中世の戦闘論理が崩壊し、豊臣政権という全国政権の権力編成の一翼を仁賀保氏ら由利衆も担うことであった。そのことを、九戸の乱によって由利衆は実感したことだろう。
以後、仁賀保氏は豊臣政権下に掌握された由利五人衆の一員として、文禄二年(1593)に秀吉が朝鮮侵攻を行ったときには、大谷刑部少輔の一手として軍役を担った。さらに、文禄五年(1596)に伏見作事用板の負担を命じられるなど、政権からの賦役をつとめた。この由利五人衆の成立によって、由利地方の中世も終わりを告げたといえよう。
近世に生き残る
慶長五年(1600)、関ヶ原合戦に際しては最上氏に属して出陣した。『寛政重修諸家譜』によれば、仁賀保氏は関ヶ原の戦において上杉景勝との戦いに功があり、戦後、仁賀保のうちに五千石を支給されたとある。さらに『仁賀保家系譜』にも仁賀保挙誠(兵庫頭)が由利郡内に五千石を拝領したことが記されている。仁賀保挙誠の功とは、酒田・菅野の城攻略に尽力したというものである。
ところが、『最上家譜』には、秋田・戸沢・赤尾津・六郷・仁賀保の各氏は、関ヶ原の戦に不参加のため転封を命じられ、最上氏が由利一円を領有したとある。また『秋田・最上両家関係覚書』に、最上義光の讒言をめぐって秋田実季と義光の家臣坂紀伊守とが対論した。その過程で由利衆の証言が求められた際、出座した由利衆は仁賀保兵庫頭・赤尾津孫二郎・内越の三名であった。しかし、その後次第に由利衆は公的な史料に名を見せなくなる。これは関ヶ原の戦の戦後処理のなかで、「由利衆」とよばれた存在は徐々に解体されていったためと考えられる。
そして、関ヶ原の戦後、仁賀保氏は内越氏とともに徳川氏の家臣として、すなわち徳川旗本(幕臣)としての存続を許された。慶長七年(1602)常陸国武田五千石に移封されたが、元和九年(1623)ふたたび仁賀保で一万石を与えられた。兵庫頭は塩越に居城を構えて小さいながらも一万石の大名として仁賀保を支配した。
挙誠の跡を継いだ良俊は七千石を知行し、弟誠政に二千石、誠次に千石を分知したため、大名から外れ、良俊が嗣子のないまま死去したため仁賀保氏嫡流は断絶した。分知された弟ふたりの系統が徳川旗本として存続し幕末に至った。
余談ながら、誠政の家系は「二千石家」、誠次の家系は「千石家」と称され、それぞれ封を継いで明治維新に至った。  
 
仁賀保藩

 

江戸時代初期に出羽国由利郡塩越(現在の秋田県にかほ市象潟町字二ノ丸)の塩越城に政庁を置いた藩。藩主は仁賀保氏。
仁賀保氏は甲斐源氏・小笠原氏流の大井朝光の末裔と伝えられ、戦国時代には出羽国由利郡小国の山根館を拠点とし、国人連合である由利十二頭の中心的存在であった。由利十二頭は状況に応じて大宝寺氏、小野寺氏、安東氏などの戦国大名と同盟を結び保身を図っており、その十二家は明らかではないが、仁賀保氏、赤尾津氏(小助川氏)、滝沢氏(由利氏)、岩屋氏、打越氏、下村氏、石沢氏、禰々井氏(根井氏)、潟保氏、子吉氏、玉米氏、矢島氏(大井氏)などの諸氏であるという。
赤尾津氏から仁賀保挙晴の養子となった仁賀保挙誠は、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで東軍に与して西軍の上杉氏の属城を落としたことから、戦後5,000石を安堵された。1602年(慶長7年)に常陸国武田へ移封されたが、大坂の役などでも徳川方として功績を挙げたことから、1623年(元和9年)10月18日、旧領である仁賀保に1万石を与えられて諸侯に列し、仁賀保藩を立藩した。陣屋はかつての山根館ではなく、塩越城に置いた。なお、挙誠の弟の仁賀保主馬も大砂川500石を与えられている。
寛永元年2月14日(1624年4月1日)に挙誠が死去すると、その所領は長男・仁賀保良俊に7,000石、次男・仁賀保誠政に2,000石、三男・仁賀保誠次に1,000石とそれぞれ分封されて旗本になり、仁賀保藩はわずか1年で廃藩となった。寛永5年に主馬が、同8年に良俊が死去し、両家は無嗣断絶したが、誠政流(仁賀保二千石家)と誠次流(仁賀保千石家)は平沢に共通の仁賀保陣屋を置いて存続し、明治維新を迎えた。
歴代藩主
仁賀保家 外様。1万石。1.挙誠
参考までに、以後の旗本仁賀保氏の歴代当主を挙げる。
良俊流(宗家)
良俊(断絶)
誠政流(二千石家)
誠政 → 誠尚 → 誠信 → 誠依 → 政春 → 誠胤 → 誠陳 → 誠肫 → 誠昭 → 誠明 → 誠成
誠次流(千石家)
誠次 → 誠方 → 誠康 → 誠之 → 誠善 → 誠形 → 誠教 → 誠意 → 誠中  
 
柳田國男山島民譚集 「河童駒引」「河童ノ詫證文」

 

原文
此ノ如ク論ジ來レバ長門ノ一村ニ於テ、「エンコウ」ノ手形ヲ印刷シテ望ミノ者ニ分與スト云フハ非常ニ意味ノアルコトナリ。蓋シ河童ニシテ村ノ祭ヲ享クル程ノ靈物ナリトセバ、斷然トシテ詫證文ノ作成ヲ拒絕シ、「イヤ僞ハ人間ニコソアレ」ト高ク止リテアリ得べキ筈ナレドモ、既ニ手モ無キ術策ニ馬脚ヲ露ハシ、内甲(ウチカブト)ヲ見透カサレシ以上ハサウモナラズ、ヲメヲメト昔ナラバ大恥辱ノ一札之事ヲ差出シテ引下リシハ、誠ニ器量ノ惡キ次第ナリ。併シナガラ是レ決シテ河童バカリノ身ノ上ニ非ズ。【四國無狐】例ヘバ本朝故事因緣集卷四ニハ、四國ニ狐ノ住マザル理由ヲ說明シテ左ノ一話ヲ載ス。伊豫ノ河野家ニテ不意ニ同ジ奧方二人トナリ、其何レカ一方ハ狐ニ相違ナカリシ時、僅カナル擧動ニテ狐ノ奧方看破セラレ既ニ打殺サレントセシヲ、散々ニ詫ヲシテ命ヲ助ケラル。其折ノ謝リ證文ニハ將來四國ニハ一狐モ住ムマジキ由ノ誓言アリ。乃チ數艘ノ船ヲ借用シテ悉ク本土ニ押渡ル云々〔以上〕。上陸地點ハ中國ノ何レノ海岸ナリシカ、如何ニモ迷惑ナルコトナリシナラン。【狐崎】備後靹(トモ)町ノ狐崎ハ寶曆年間迄狐ノ形シタル赤石アリキト云ヒ、又狐多ク群レ居ルトモ言ヘド、一說ニハ昔四國ニ狐狩アリシ時狐多ク浪ニ浮ビテ此崎ニ著キシヨリノ地名トモ謂リ〔沼名前~社由來記附錄〕。或ハ其樣ナル事モアリシカモ知レズ。而シテ右ノ證文ハ今モ必ズ河野氏ニ於テ之ヲ保存シテアルコトヽ信ズ。何トナレバ若シ此文書ニシテ亡失セバ、狐ハ再ビ四國ノ島ニ來リ住スルコトヲ得ル約束ナリケレバナリ。【疫病~】近クハ文政三年ノ秋ノコトナリ。江戶愛宕下田村小路ナル仁賀保(ニカホ)大膳ト云フ武家ノ屋敷へ、疫病~アリテ窃ニ入込マントセシヲ、同家ノ次男金七カ之ヲ見咎メ、右樣ノ者我ガ方へハ何シニ入來ルゾ、打殺スべシト怒リシニ、疫病~何トゾ一命ヲ宥シタマハレト申ス。然ラバ書附ニテモ差出スべシト云ヘバ、早速別紙ノ如キ證文ヲ認メ置キテ立チ去ルト云フ〔竹抓子二〕。
[注:底本ではここに一行空けで、引用の証文は全体が二字下げ、「疫病~」の署名は下五字上げインデントである。「兩人」は証文の頭書であるが、如何にも格好が悪くなるので、前の以上の位置に配した。上付きにした「江」「而」は実際には前後の活字の三分の二ほどあるが、かく示した。また、クレジットの「文政三辰年九月廿二日」も実際には全体のポイントがやや小さくなっている。]
【兩人】
差上申一札之事
私共兩人心得違ヲ以御屋敷江入込段々被仰出候趣奉恐入候以來御屋敷内竝金七カ樣御名前有之候處江決而入込間敷候私共ハ申不及仲ケ間之者共迄モ右之趣申聞候依而一命御助被下難有仕合奉存候爲念一札如件
   文政三辰年九月廿二日  疫病~
      仁賀保金七カ樣
疫病~ノ方デハ無論ゴク内々ノツモリナリシナランモ、當時ハ疫病大流行ノ折柄トテ、爲ニスル者ノ手ニ由ツテ此證文ハ意外ニ弘ク流布シタリト覺シク、隱居老人ナドノ隨筆ニモ採錄セラルヽニ至レリ。或ハ此モ亦長門ノ「エンコウ」ノ手形ト同ジク、板行シテ信者ニ施シタリシカモ測リ難シ。
訓読
此くのごとく論じ來たれば、長門(ながと)の一村に於いて、「エンコウ」の手形を印刷して望みの者に分與すと云ふは、非常に意味のあることなり。蓋し、河童にして、村の祭(まつり)を享(う)くる程の靈物なりとせば、斷然として、詫證文の作成を拒絕し、「いや。僞(いつはり)人間にこそあれ」と高く止(とま)りてあり得べき筈なれども、既に手も無き術策に馬脚を露はし、内甲(うちかぶと)[注:「兜に隠された額の部分」の意から、転じて「隠している内情・内心」の譬え。]を見透かされし以上は、さうもならず、をめをめと、昔ならば、大恥辱の、「一札之事(いつさつのこと)」[注:この場合の「一札」は「証文」の意。証文の一件。]を差し出して引き下(さが)りしは、誠に器量の惡(あし)き次第なり。併しながら、是れ、決して河童ばかりの身の上に非ず。【四國無狐】例へば、「本朝故事因緣集」卷四には、四國に狐の住まざる理由を說明して左の一話を載す。伊豫の河野家にて不意に同じ奧方、二人となり、其の何れか一方は狐に相違なかりし時、僅かなる擧動にて、狐の奧方、看破せられ、既に打ち殺されんとせしを、散々に詫をして命を助けらる。其の折の「謝り證文」には、將來、四國には一狐も住むまじき由の誓言あり。乃(すなは)ち、數艘の船を借用して、悉く、本土に押し渡る云々〔以上〕。上陸地點は中國の何れの海岸なりしか、如何にも迷惑なることなりしならん。【狐崎】備後靹(とも)町の狐崎は寶曆年間[注:一七五一年〜一七六四年。]まで、狐の形したる赤石ありきと云ひ、又、狐多く群れ居るとも言へど、一說には、昔、四國に狐狩りありし時、狐、多く浪に浮びて、此の崎に著(つ)きしよりの地名とも謂へり〔「沼名前(ぬなくま)~社由來記」附錄〕。或いは、其の樣なり事も、ありしかも知れず。而して、右の證文は、今も必ず河野氏に於いて、之れを保存してあることゝ信ず。何となれば若(も)し、此の文書にして、亡失せば、狐は、再び、四國の島に來たり、住することを得る約束なりければなり。【疫病~】近くは文政三年[注:一八二〇年。]の秋のことなり。江戶愛宕下田村小路なる仁賀保(にかほ)大膳と云ふ武家の屋敷へ、疫病~(やくびやうがみ)ありて、窃(ひそか)に入り込まんとせしを、同家の次男金七カ、之れを見咎(みとが)め、「右樣(みぎやう)の者、我が方へは何しに入り來たるぞ、打ち殺すべし」と怒りしに、疫病~、「何とぞ、一命を宥(ゆる)したまはれ」と申す。「然らば、書附(かきつけ)にても差し出すべし」と云へば、早速、別紙のごとき證文を認(したた)め置きて、立ち去ると云ふ〔「竹抓子(たけさうし)」二〕。
[注:原文は前に示した通りで、一切の訓点はない。推定で私が訓読したものを以下に示す。「江」は「え」で古文書では、「江」或は「え」のままで出すのが常識だが、ここは読み易さ第一として、本文同ポイントで正しい「へ」に直して出しておいた。「候」「趣」等も同様に送り仮名を振った。]
【兩人】[注:この場合は、当該事件に関わった疫病神と、それに対する当事者である相手(仁賀保大膳家の次男金七カ)がいることを意味するだけの「兩人」であり、「二人」と訳す意味は全くないし、正直、ここに柳田國男がこれを頭書としたことの意味が判らない。]
差し上げ申す一札の事
私共(ども)兩人、心得違ひを以つて、御屋敷へ入り込み、段々、仰せ出だされ候ふ趣き、恐れ入り奉り候ふ。以來、御屋敷内、竝びに、金七カ樣御名前之れ有り候ふ處へ、決して入(い)り込む間敷(まじ)く候ふ。私共は申すに及ばず、仲ケ間(なかま)の者共(ども)までも、右の趣き申し聞かせ候ふ依りして、一命、御助け下され、有り難き仕合(しあは)せ、存じ奉り候ふ。念の爲め、一札、件(くだん)のごとし。
   文政三辰年九月廿二日  疫病~
      仁賀保金七カ樣
疫病~の方では、無論、ごく内々のつもりなりしならんも、當時は疫病大流行の折柄とて、爲(ため)にする者の手に由つて、此の證文は意外に弘(ひろ)く流布したりと覺しく、隱居老人などの隨筆にも採錄せらるゝに至れり。或いは此れも亦、長門(ながと)の「エンコウ」の手形と同じく、板行(はんぎやう)して信者に施したりしかも測り難し。

[注:『「本朝故事因緣集」卷四には、四國に狐の住まざる理由を說明して左の一話を載す』「本朝故事因緣集」(本朝の故事逸話を集めたもの。作者未詳。元禄二(一六八九)年板行)は「国文研データセット」のこちらで全篇が読め、原典の「八十七 四國狐不住由來」(四國に狐住まざる由來)の画像も読める。こことここ。記された事件は、享禄年中(一五二八年〜一五三一年。戦国前期)のことで、河野通直(こうのみちなお)の妻とある。河野通直(明応九(一五〇〇)年〜元亀三(一五七二)年)は伊予国の戦国大名河野氏の当主で、ウィキの「河野通直」によれば、『河野通宣の嫡男で』、永正一六(一五一九)年に『父の死去にともない』、『家督を継いだ』。天文九(一五四〇)年には、『室町幕府御相伴衆に加えられる。自身に嗣子がなかったため、娘婿で水軍の頭領として有能であった村上通康を後継者に迎えようとしたが、家臣団の反発と、予州家の当主・通存(みちまさ、河野通春の孫)と家督継承問題で争ったため、通康とともに湯築城から来島城へと退去することになる。その後、家督を通存の子通政に譲って権力を失うが、通政の早世後には河野家の実質的な当主の座に復帰する。なお、その後』、『天文末期には通政の弟である通宣とも家督を巡って争い、最終的には村上通康にも見捨てられる形で失脚したとする見方もある』とある。さて、二人の妻女を見て、医師は離婚病と診断し、祈禱等も行うが効果がないため、二人とも捕えて籠居(監禁)させ、数日経るうち(食物を絶ったか、ごく少量しか与えなかったもののようである)、食物を与えたところ、一人が異様な勢いで喰らいだしたことから、それを拷問したところ、狐となった。さても殺そうとしたところが、門前に僧俗男女が四、五千人も群衆している。誰何したところが、「吾ら、四国中の狐にて訴訟に来て御座る。この度、不慮の事を致いたその者は貴狐(きこ)明神の末稲荷の使者の「長狐(ちょうこ)」と申す日本国の狐の王であって、これを害されるならば、国に大災害が起こることになりましょう。この長狐は吾等の師匠なれば、さても向後、変身の術はこれを、皆、封印断絶致します。どうか願わくはお助け下さい」と訴えた。河野はこれに、「何とまあ、名誉の狐であることよ。殺すのも不憫なことじゃ。さすれば、向後、四国中に一匹の狐も住まぬことを誓約した書き物を致し、皆、舟に乗りて中国(本邦の瀬戸内海の北の中国地方)に渡るとならば、長狐を助けて後、渡るがよかろう」と応えた。群狐は皆畏まって誓紙を捧げ、舟を借り、数艘で以って本州へ渡った。これより、四国には狐はいないとあり、最後に柳田が言うように、『此誓紙、子孫ニ至リ絕(タヘ)タル時ハ可住(すむべき)國ナリト云(いふ)トナリ。今ニ河野(かふの)ノ家ニアリ』と書かれてある。但し、最後に『評ニ曰(いはく)、今ノ世マデ一疋モ不住(すまず)と云(いへ)リ。奇妙ナリ』とダメ押しがある。なお、この四国からの狐追放伝承には、ずる賢い狐よりも愛嬌のある狸を人々が愛したため、弘法大師がその意を汲んで追放したとする説もある(ただ、この追放も条件附きで、大師は「四国と本州との間に橋が架かった帰ってよい」としたというから、こちらの追放は既に解除されていることになる。なお、弘法伝承には別に「四国と本州に橋が架かると邪悪な気が四国を襲う」と予言したという伝承も別にあるらしいことを、架橋前後に聴いたことがある)。ネットではこの四国にキツネはいないという話を信じている人が意想外に多く、ネット上にもそこら中に「四国には狐はいない」と真顔で記しておられるが、残念ながら、食肉目イヌ科キツネ属アカギツネ亜種ホンドギツネ Vulpes vulpes japonica は四国にちゃんと棲息している(但し、本州・九州に比して個体数は有意に少ない)。恐らくは「四国自然史科学研究センター」主催で「高知大学」・「四国森林管理局」・「環境の杜こうち」が共催して「高知大学朝倉キャンパス」の総合研究棟で催された「特別展 豊かな森の住人たち」の「ワークシート」の正答版(PDF)に、四国にキツネは棲息しているとして、『 二十年ほど前の調査によると、四国ではキツネの確認地点は高知県と愛媛県の境に集中し、他の地域での情報はとても少なかった』のですが、『ところが、ここ最近は徳島県や香川県でもキツネの情報が多くなってきていまして、全体的に数が増えてきている傾向があります。その原因は、まだわかっていません』とある。江戸時代にいなかったのでは? と主張されると、私は答えようがない。但し、そう言われるのであれば、近代以降に移入されたとする確実な記録・資料が示されなければならない。リンク元のような専門的機関の資料にさえ、近代以降に移入された事実が記されないのは、そうではないからだ、と考えた方が自然であろう。私は、昔から限定された地域でホンドギツネが棲息していたのではなかったかとは思っている。
「備後靹(とも)町の狐崎」広島県福山市鞆町(ともちょう)後地(うしろじ)にある岬狐崎。ここ(グーグル・マップ・データ)。かの「鞆の浦」の南西二キロメートル圏内にあり、最も近い四国の香川県三豊市三崎の半島先端までは直線で二十一キロメートルである。
「沼名前(ぬなくま)~社」鞆町後地の鞆の浦の北直近にある。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「疫病~」疫病神が人体(じんてい)の形(なり)で出現することは珍しい。しかも、その書付というのも、これまた、珍しい。
「江戶愛宕下田村小路」江戸切絵図で同小路に「仁賀保内記」を確認した。現在の港区新橋三丁目のこの附近かと思われる(グーグル・マップ・データ)。彼は江戸初期に出羽国由利郡塩越(現在の秋田県にかほ市象潟町字二ノ丸)の塩越城に政庁を置いた仁賀保藩の藩主家仁賀保氏の家筋から出た、所領千石の旗本で、その五代目が仁賀保大膳である。
「私共(ども)」この「共」は一人称単数。謙譲を示す場合に複数でなくても用いる。
「段々、仰せ出だされ候ふ趣き」順序立てて、意見なされたその趣旨には。実際には、一気に打ち殺そうとしたわけだが、遜っているわけである。
『爲(ため)にする者の手に由つて、此の證文は意外に弘(ひろ)く流布したりと覺しく、隱居老人などの隨筆にも採錄せらるゝに至れり。或いは此れも亦、長門(ながと)の「エンコウ」の手形と同じく、板行(はんぎやう)して信者に施したりしかも測り難し』「爲(ため)にする」とは、ある目的に役立てようとする下心を持って(しかもそれが目的であることを周囲になるべく知られぬようにして)事を行うを言う。私は常に「卑劣な」のニュアンスを含んで表向き誠実・正当に見せてする厭らしい行為にしか使わない。閑話休題。さても! すこぶる嬉しいことに、この守り札(しかも「板行」(印刷)ではなくて書写したもの)を「国分寺市立図書館」の「デジタル博物館 」の「疫病神の詫び証文」(三点)で現物画像を見ることが出来る! 解説には、『江戸時代に厄災が家に入り込まないように戸口などに貼ったと思われるまじない札の一種です』。』この詫び証文は江戸時代の随筆』「竹抓子(ちくそうし)」巻二(小林渓舎著。天明六(一七八六)年自序)や「梅の塵」(梅之舎主人(長橋亦次郎)著。天保一五(一八四四)年自序)に『紹介されています』。『内容は、文政』三(一八二〇)年、『旗本仁賀保大善(にかほだいぜん)の屋敷に入り込んだ疫病神が捕まり、助けてもらうかわりに』、『仁賀保家や仁賀保金七郎の名がある場所には入り込まないという内容の詫び証文です』。『随筆で紹介されているにもかかわらず、現存するものは少なく、川島家の』三『点、他の都内の』三『点、栃木県で』二『点、群馬県で』二『点、埼玉県で』四『点、神奈川県で』六『点、静岡県で』一『点の』、計二十一点のみとし、『いずれにしても本文に大差なく、書き写されて伝わったと思われ、戸口に貼っていたという事例もあります。江戸時代の民族史料です』とある。これを見ると、三枚とも、宛名は「仁賀保金七カ樣」の前に連名で父「仁賀保金大膳樣」とあることが判り、本文の最後も「爲念一札如件」ではなく、「爲念差申上一札如件」(念の爲め、差し上げ申す、一札、件(くだん)のごとし)で、柳田の記すものよりも正式で正しい。なお、別に、あきる野市乙津軍道の高明神社(元熊野三社大権現)の神官鈴木家に伝わった同類のものが、こちらで活字起こしと訳がなされてある(PDF)。しかし『私ども二人』って、一体誰やねん? 訳がおかしいと思わんかねぇ? 因みに、「梅の塵」は所持するので、以下に示す。吉川弘文館随筆大成版を参考に、漢字を正字化して示す。

○疫病~一札の事
御簱本仁賀保公の先君は、英雄の賢君にておはしけるが、近年(ちかごろ)、疫病~を手捕[注:「てどり」。]にせさせ賜し[注:「たまひし」。]よし、疫~、恐れて、一通の証書を呈して、一命を乞によつて、免助[注:免じて助けてやること。]ありしと也。右公の家は、一切(たえて)疫~流行と云事なし。又仁賀保金七郎と認め[注:「したため」。入口へ張置時は、疫病いらずと云傳ふ。証書は、寶藏に納めあるよし。得たるまゝをしるす。
[注:以下、底本では全体が下げてあり、頭の「一」は一マス頭抜けている。署名も下四字上げインデント。「奉二恐」の間には中央に熟語を示す「-」が入っている。]
差上ケ申一札之事
一私共兩人、心得違ヲ以而、御屋敷江入込、段々、被二仰出一候趣、奉二恐入一候。以來、御屋鋪内、幷金七カ樣御名前有ㇾ之候處江、決而、入込間鋪候。私共者申不ㇾ及、仲間之者共迄茂、右之通リ申聞候。依而、一命御助被ㇾ下、難ㇾ有仕合奉ㇾ存候。爲ㇾ念一札如ㇾ件
   文政三庚辰年九月二十二日  疫病~
      仁賀保金七カ樣
「文政三辰年九月廿二日」文政三年は確かに庚辰(かのえたつ)。グレゴリオ暦では一八二〇年十月二十八日。]  
 
河童の詫証文伝説地 天栄村河童淵

 

河童の詫び証文の伝説とは?
河童が詫び証文を書いた、という伝説は日本各地に残っている民間伝承のひとつです。
   山形県の河童の詫び証文
   大分県自性寺の河童の詫証文
   京都の河童の詫び証文
他にもたくさんあるようですが、天栄村の河童の詫び証文伝説として、次のように説明されています。
天正の頃、この地方を馬場八郎左衛門という館主が治めていた。
碁の大変好きな殿様で、いつものごとく女郎寺を訪ね、宥法証人と碁を打ち興じていた。
日も暮れかかったので愛馬大月にまたがり、帰城の途についた。
釈迦堂川の淵は秋の長雨で、水かさを増し、渦を巻いていた。
川の中ほどまできたとき大月が突然騒ぎ出した。
不審に思い見ると、河童が馬の尻尾を抜こうとしていた。怒った殿様は河童をとらえ、手打ちにしようとした。
すると河童は悲しげな声で「私には大勢の子分やその家族がいて、ここで殺されると明日から路頭に迷ってしまう」と涙ながらに命乞いをした。
殿様も憐れに思い、今後人畜を水難から守らせることを約束させ、詫証文を取り許した。
その証文を地下深く埋め、祠、不開神社(赤津)を建て水難除けの神として祀った。
以後、たびたび洪水があっても人畜や農作物の被害はなく、河童の詫証文は今なお信じられている。
釈迦堂川に合流する羽鳥湖を水源とする隈戸川
天栄村の伝説には、釈迦堂川が登場していますが、実際には隈戸川に面しています。
隈戸川は、羽鳥湖を水源にしている川で、釈迦堂川へ合流する川です。
どちらも阿武隈川水系の川になります。
隈戸川は清流として知られていますが、釈迦堂川と隈戸川はかつては同じ名前で呼ばれていたとも思えず、謎が残ります。
ちなみに、天栄村の伝説では、河童は詫び証文を取り返すために、馬場八郎左衛門の屋敷に河童一族が大勢で押し寄せます。
しかし詫び証文は、馬場八郎左衛門が埋めた場所に残っていました。
それでも不安になった馬場八郎左衛門は、大きな石の箱に証文をおさめ、深く埋めました。
そして、その上に神社を建て「不開神社(あかずじんじゃ)」と名づけたといわれています。
赤津神社ならぬ愛宕神社
ちなみに河童淵の反対側に愛宕神社の鳥居があります。
草がぼうぼうで、神社の鳥居があることすらわかりませんが、急な斜面を登っていく神社です。
伝説の場となっている赤津神社は、河童淵からさらに上流に向かっていくとあります。
ケンヒキ太郎 自性寺
中津藩奥平家の菩提寺である。奥平家の転封に従って各地を移転、享保2年(1717年)に現在地に移ってきた。その後明治維新まで奥平家が中津にあったため、現在もこの地にある。南画の大家・池大雅がしばらく逗留して、多くの作品を残していることで有名な寺院である。
自性寺には河童にまつわる品物が残されている。「河童の詫び証文」と呼ばれる書状であり、“ケンヒキ太郎”という名の河童が、天明6年(1786年)6月15日付けで書いたものとされる。
ケンヒキ太郎は、真玉寺の小僧や女性に取り憑くなどの悪さを働いたため、自性寺の十三代・海門和尚によって改心させられたとされる。そして詫び証文を書いたのであるが、境内には河童の墓があり、改心して仏門に入信したものと考えられる。
さらに境内にある観音堂には、ケンヒキ太郎の木像が安置されている。またこの観音堂の鬼瓦は全部で10個あるが、そのうちの1つが河童を意匠したものとなっている。ちなみに残り9つの鬼瓦は、かつて奥平家に災いをもたらした9人の山伏を表しているとされる。

池大雅 / 1723-1776。中国の南宗画の影響を受けた画風の「南画(文人画)」を大成したとされる。自性寺十二代・堤洲和尚と親交があり、和尚の自性寺赴任に伴って、妻の玉蘭と中津へ赴いた。
九つの鬼瓦 / 奥平家第3代の昌能(1633-1672)が宇都宮藩主であった時、川で釣りをしていると水が濁って魚が捕れなかった。上流で山伏が水垢離をしていたのが原因と知ると、これを斬り捨ててしまった。この出来事に抗議した弟子の山伏9名も始末してしまった。その後、昌能は、家臣に殉死を強要した罪などにより減封の上で山形に配置換え、跡継ぎの男子も早世するなどしたため、山伏の祟りと噂された。
カッパのわび証文 山形県の民話
むかしむかし、最上川(もがみがわ→山形県)のほとりに庄屋(しょうや)の家があり、一人のきれいな娘さんがいました。
一人娘だったので、庄屋さんは目に入れてもいたくないほど可愛がっていたのですが、最近は何となく元気がなくなり、顔色も青ざめてきたのです。
医者に見せても病気ではないというし、娘にどこか具合が悪いかときいても首を横に振るだけです。
こまった庄屋さんは、町の巫女(みこ)に娘の事をみてもらいました。
すると巫女は、
「これは、カッパに見こまれて術をかけられているのでしょう。えらい坊さまなら、道切り(みちきり)の呪文(じゅもん)でカッパをつかまえられるでしょう」
と、いうので、庄屋さんは村に飛んで帰り、古いお寺のえらい和尚(おしょう)さんに道切りの呪文を頼みました。
和尚さんは、
「カッパが人間の女に心を寄せるなど、とんでもない事だ。こらしめてやりましょう」
と、さっそくカッパのいる川で道切りの呪文をとなえ始めると、川の水がみるみるへりはじめたのです。
そして和尚さんは、大声でさけびました。
「庄屋の娘の術を解き、二度と人間に悪さをしてはならぬ。明日の朝までに約束する証文(しょうもん)を持ってこないときは、川の水をからしてしまうぞ!」
すると川の底から、苦しそうな声が聞こえてきました。
「悪かった。明日の朝まで待ってくれ」
その日からカッパにかけられた娘の術がとけて、元気な美しい娘にもどりました。
次の朝、和尚さんが山門に出てみると、一巻のカッパのわび証文がおいてあったそうです。
今も高畠町糠野目(たかはたちょうぬかのめ)のある寺には、このカッパのわび証文が残されているという事です。
河童話 竹野郡丹後町
河童の詫び証文
昔、徳光の川にガガタロウがいて、村の娘に懸想して、「嫁に来てくれ」と言い寄った。
それで、その娘の父親が腹を立てて、包丁を持って談判に行き、膝詰めで談判したところ、ガガタロウの方が負け、謝って、詫び証文を書いた。
そして、それ以後、その河童は東小田の曲がり角の川原に、竹の笹に突き刺した鯰や鯉を置いていったという。
河童の詫び証文
昔、永島家の屋敷の裏は深い淵になっていた。
ある時、永島家の美しい娘が、その淵で洗濯していたところ、ガガタロウが現われて、「わしの嫁になれ」といった。
その家の婆さんが、娘からその話を聞て、出刃包丁を口にくわえて淵に潜り、ガガタロウに直談判をしたところ、ガガタロウが詫びて、毎日魚を届けると約束し、証文を書いて渡した。
その証文は、今も、この家に伝えられているという。
河童の詫び証文
昔、ある男(一説では、永島家の主人)が小浜谷に行くと、若い男に化けたガガタロウがいて、「お前の娘を俺の嫁にくれ」といった。
男は「ガガタロウなんぞに、かわいい娘をやれるもんか」といって断ると、何日か後に、その娘が川へ洗濯に行った時、ガガタロウに川の中に引きずり込まれて死んでしまった。
そこで、親が怒って、ガガタロウの怖がる包丁を持って川に行くと、ガガタロウが出てきて、平謝りに謝った。
そして、「今後、和田野(弥栄町)のデッパラから志布比神社までの間は、荒らさないので許してくれ」といって証文を書いた。
そして、その後、許されたお礼として、毎朝、その家の戸口に立ててある竹の杭に鯰や鰻を刺していったが、何年か後にその竹の杭が腐ったので、鍛冶屋に頼んで鉄の杭を作ってもらい、取り換えたところ、その翌日から、持って来なくなったという。
河童の手紙
昔、竹野川には、いくつも深い淵があって、ガガタロウが住んでいた。
徳光の永島家の屋敷の裏にある淵にもガガタロウが住んでいたし、弥栄町との境あたりにある淵にもガガタロウが住んでいた。
ある時、一人の男が、徳光のガガタロウから、向こうの淵のガガタロウに、手紙を届けて欲しいと頼まれた。
そこで、その手紙を届けてやることにしたが、途中で、その手紙に何が書かれているか気になったので、開けてみたところ「この人を殺して、肝を食え」と書いてあったので、手紙を破り捨て、一目散に逃げ帰ったという。
海の河童
この辺りでは、「盆の間に海へ行くと、水の底から頭に皿をかぶったガワタロウが出てきて、肝を抜かれてしまう」と言い伝えている。
船に乗って沖へ出ても、ガワタロウが船の舳先にくらいついて、「柄杓が欲しい」という。
そこで、柄杓を貸してやると、それで海の水を何杯も汲んで、船の中に入れ、最後には船も人も海の底に引き込んでしまう。
だから、ガワタロウに「柄杓が欲しい」といわれた時には、底の抜けた柄杓を貸してやらなければならない。
カッパのわび証文 岩瀬郡天栄村
岩瀬郡天栄村の沖内地内(おきうちちない)に、赤津神社(あかつじんじゃ)というお宮(みや)があります。現在は「赤津(あかつ)」と書きます。以前は「不開(あかず)」と書いていたといわれています。「あかず神社」というのは、「開(あ)かない」「開(あ)けてはいけない」神社という意味だったというのです。
昔、この地にお城(しろ)があって、馬場八郎左衛門(ばばはちろうざえもん)という殿様(とのさま)がおられた。この城の南側を釈迦堂川(しゃかどうがわ)が流れていて、その川の向こうに、女郎寺(じょろうじ)という寺があった。
この寺の和尚(おしょう)と馬場(ばば)の殿様は、身分の差(さ)こそあったが、碁(ご)を打つ友達で、ひまを見つけては碁を打つのを楽しみにしていた。ある秋のこと、八郎左衛門は久しぶりに女郎寺で碁を打っていた。つい夢中(むちゅう)になって気づいたときは、もう日がとっぷりとくれてしまっていた。
「小僧(こぞう)でもお供(とも)につけましょうか。」という和尚の言葉にも、気の強い八郎左衛門は耳をかさなかった。
「なあに、目と鼻の先の城までもどるのに、お供をつけられたとあっては、後々までのわらいものになるわ。」と言うなり、かわいがっている馬に一鞭(ひとむち)当てた。
釈迦堂川(しゃかどうがわ)は、ふり続いた雨で、いつもよりはげしい音を立てていた。しかし、昼は何の苦もなくわたった川なので、八郎左衛門は気にとめることもなく、いつもの岸から馬を進めて、川をわたりはじめた。
川の中ほどまで来たとき、馬は何におどろいたのか、急にヒヒーンといなないたかと思うと、後ろ足で立ち上がった。乗馬(じょうば)のうまい八郎左衛門でさえ、もう少しで馬の上から落ちるところだった。
「これ、どうしたというのじゃ。しずまりなさい。」と懸命(けんめい)に馬をなだめて、どうにかやっと向こう岸にたどり着くことはできたが、馬はますますあばれくるい、八郎左衛門はとうとう馬から落とされてしまった。それでもなお、手綱(たづな)をはなさず馬を取りおさえてよく見ると、馬のしっぽの先に何かぶら下がっている。
「はて、あやしいやつめ。」と、それをつかんで、いきなり地べたにたたきつけた。月明かりにてらしてみると、それは、一匹(いっぴき)のカッパだった。たたきつけられて、一時は気をうしなっていたが、すぐに息をふき返したカッパは、さっさとにげようとした。八郎左衛門は、すばやく刀をぬくと身がまえた。
「おのれカッパめ、それへなおれ。切りすててくれる。」するとカッパは、手を合わせてペコペコ頭を下げた。
「どうか、お助けください。私にも、あなた様と同じように、家には小さい子どもたちや、大ぜいの家来(けらい)がいます。私が今ここでお殿様に切られたら、その者たちは、くらしてゆけなくなります。どうか、命だけはお助けください。」といってなみだを流した。
八郎左衛門は、「どうやら、こいつはカッパの大将(たいしょう)だな。自分によくにた立場のやつだ。」と、同情(どうじょう)し、ゆるしてやることにした。しかし、この地の農民が、カッパたちのいたずらで、これまで何度も苦しめられてきたことを思うと、このままみすみす見のがしてやるのはなんとしてもしゃくだった八郎左衛門は、ひとつ、こいつをこらしめてやろうと考えた。
「よし、命は助けてつかわそう。そのかわり、これからは、人や馬にいたずらをしないこと、大水を出して田畑をあらさないこと、この二つを約束(やくそく)せよ。」と、きびしい顔で命じた。
「はい、わかりました。約束いたします。」カッパは、地べたにひたいをこすりつけていった。しかし、八郎左衛門はすぐにはゆるさず、
「いいや、口先だけでは当てにならぬ。念(ねん)のため、証文(しょうもん)を書いてもらおう。」そういって、近くにあった平たい石に、約束の証文を書かせた。
「よし、きょうのところは、これでゆるしてやろう。早く帰るがよい。」八郎左衛門は、石の証文と引きかえに、カッパの大将を見のがしてやった。そして、この石証文(いししょうもん)を城に持ち帰り、城内(じょうない)の東の丘にうずめ、周りに杉の木を植えて、水難(すいなん)よけのお守りとした。一方、カッパのほうは、命が助かって気持ちが落ち着いてみると、証文を書かされたことは、なんとしても残念(ざんねん)だった。日がたつにつれて、あの証文を取り返したいと思うようになった。
春になるのを待っていたカッパの大将は、一族(いちぞく)のカッパどもに集合を命じ、ある晩(ばん)、人々の寝(ね)しずまったころを見はからい、城におしよせた。しずかに、しずかに行動しても、なにしろ、大ぜいのカッパが土をほるのだから物音がたたないわけはない。いち早く目を覚ましたニワトリがコケコッコーとなくと、犬もワンワンほえ立てた。
このさわぎに、城の侍(さむらい)たちは、
「さては、曲者(くせもの)。」「おのおの方、出あえ、出あえ。」と外へとび出した。しかし、どこをどうさがしても、曲者のすがたは見えず、辺りはしいんとしずまり返っていた。
次の日の朝、城の内外を見まわった侍から、東の丘の上がひどくあらされていることを知らされた八郎左衛門は、
「さては、カッパめ、証文を取りもどしに来おったな。」とすぐに土をほって調べさせた。さいわい証文は無事(ぶじ)だった。しかし、これでは、いつまたうばい返しにくるかも知れないと、八郎左衛門は、急に心配になってきた。そこでさっそく、大きな石の箱(はこ)を作らせ、その中に石の証文をおさめ、厳重(げんじゅう)にふたをして、今までよりもさらに深くうずめさせた。そして、それでもまだ安心できずに、その上に神社を建て、「不開神社(あかずじんじゃ)」と名づけたということである。
最近になって、この赤津神社は、農業で使う土地を整理(せいり)するために、少し場所をうつされました。その時、村の人々は、「石のわび証文が出てくるのではないか。」と、胸(むね)をわくわくさせながらほってみましたが、わび証文も石の箱も、とうとう出ては来なかったそうです。
「きっと神様が、だれにも知られない、開かずの部屋におうつしになったのだ。」
人々は、そう思ったということでした。 
 
医療 / 呪術的治療

 

医術と呪術の関係
古代において平安貴族たちは、病気にかかったり、けがをした時、「医師」と呼ばれる医療技術者たちによる薬・鍼灸・蛭食(蛭に血を吸わせて悪い血を取り除く)などの医学的治療をうけると共に、「験者」や「陰陽師」などの呪術的職能者による加持・祈祷・「まじない」などの呪術的治療をうけていた。当時の人々は呪術的治療を医学的治療の有効性・安全性をより高める役割を果たすものと考えていた。そのため、医学的治療と呪術的治療は互いに排除しあう関係ではなく、それぞれ有効な治療手段として認識されていた(繁田1995)。
そして、このような医学的治療とともに呪術的治療を併用してゆくという考え方は、その後も廃れず、江戸時代に入ってからも健在であった。人々は、医師から医学的治療をうけると共に、病気平癒を祈って、自分で簡単な「まじない」を行ったり、加持・祈祷を修験や僧侶・神職などの宗教者にしてもらったりしていた。また、病気予防として病除けの呪術をほどこすことも広く行われていた。
虫歯呪
野間家文書の中には、虫歯の痛みを取り除くための「まじない」の方法について記した史料が残されている〔史料40、野間4‐215〕。
「 虫歯呪
はな紙にても如此三角ニ切、此文字を書、むしば上か下か右か左かとたづね、縦ハ右下はと申候ハヾ竹串削置、小刀にて右之方下歯二枚目正を逆手ニ小刀にてじくとさし、此歌を三返となへ申候、三返の度々に小刀少づゝさし込やうにいたし、あとにて阿毘羅吽欠娑婆呵と三返となへ申候而小刀をぬき申候、あとへ竹串しかとさし、その紙を串に巻ながら、その家の南之方戸口鴨居の上に包紙ながらさし置申候、喰歯上下右左を尋、其所の二枚目の歯に限りさし申候、秘伝御座候へ共書付進上仕候(以下略) 」
これによると、呪歌(呪術的効果をもとめて歌われたり、書き記されたりする和歌形式の呪文の類)を3回唱えながら竹串で作った小刀を三度患部近辺に軽く差し込んだあと、「阿毘羅吽欠娑婆呵」と大日如来をあらわす真言を唱え、竹串を呪文の書かれた三角形の紙に包み住居南方の戸口の鴨居に差するとある。ただし、本史料には呪歌や三角形の紙に記す呪文の記載がない。なお、大日如来をあらわす真言は修験たちが使用した呪文中での常套文言である(花部1998)ことから、この「虫歯呪」の成立・伝承過程で修験たちが何らかの関わりをもったであろうことが推測される。
さて、本史料は、秘伝を伝授するという形式で書かれているが、宛名差出がないため正文なのか写なのか不明である。そのため、野間家関係者に伝授されたものか否かはわからない。ただし、本史料では呪術遂行の方法のみが書かれており、呪歌・呪文という呪術を構成・発動させるための核になる部分が欠けていることから、呪歌・呪文は口伝で伝えられたと推測される。もしそうであるならば、伝授をうけた者は野間家関係者である可能性が高く、医師ないしその縁者が呪術的治療を積極的に受け入れていたことを示すことになる。また、かりに本史料を野間家の関係者がなんらかの意図でどこからか書き写したものだったとしても、わざわざ写を作成していることから、当時の医師が呪術的治療を少なくとも頭から否定する立場をとっていなかったことが確認できよう。
ちなみに、『南総里見八犬伝』などの著者である滝沢馬琴は、若いとき医師見習いをしていた経歴を持ち、かつ息子宗伯が医師であったにもかかわらず、孫二人が疱瘡に罹った際に、蒼竜丸や奇応丸といった薬を飲ますなどの医術的治療をほどこすとともに、赤色が疱瘡を退ける力を持つとされたことから、赤木綿で子供の着物・頭布を作ったり、張り子達磨など赤い品物や疱瘡除けの紅絵を買い入れたりしている。さらに、疱瘡神を祀る疱瘡棚(赤紙や藁で作った棚に赤い御幣を立て、赤餅・赤飯などを供えたもの)を作って孫の平癒を祈るなど、呪術的治療を熱心におこなっている(波平1984)。
さまざまな「まじない」
簡単な「まじない」による呪術的治療方法については、大塩家に伝わった「妙薬聞書」にもいくつか記されている〔図表7、病気・けが治癒に関する「まじない」〕。このうち、3の魚の骨がつかえた際に「鵜」に関する呪歌を唱えるのは、「鵜」が獲物である生きたままの魚を喉につかえることなく丸呑みにする習性にあやかろうとしたものであろう。9の茄子で患部をよくぬぐい、その茄子を溝に捨てるという腫れ物に対する「まじない」は、茄子が持つ血行を良くし、腹痛・口内炎・腫れ物に良いという効能を、食事によって体内に取り込むだけでなく、呪術的にも体内へ取り込むことを狙ったものであると推測される。
また、1の風邪除けの札は、次に示すように当時の人々が他人へ迷惑をかけた際に提出した詫状(謝罪状)の形式をとっている〔大塩家文書〕。
「 差上申一札之事
一私共両人心得違ニ而御屋敷ニ入込候而被□□之趣奉畏候、以来御屋敷内并金七郎様御名前之有之候処江決而入込申間敷候、私共仲間之者共ハ不及申、右之通為申聞候、依之一命御助ケ被下難有奉存候、依而為後
日如件
   文政三辰九月廿二日       疫神
      仁賀保大膳様御屋敷
               金七郎様 」
ここでは、屋敷内へ侵入した罪で捕縛された風邪の疫神が、助命と引き替えに、以後仲間を含めて屋敷内および宛名の金七郎の名が書かれている所には近寄らないことを約束するという架空の状況にのっとって書かれている。当時の人々は、このように病たる風邪と人間との間で契約がなされたことを視覚的に表現することで、風邪を近づけない結界をはろうとしたのである。なお、このように呪術を成り立たせる行為の理由が多少なりとも類推できるものは少なく、たいていの「まじない」については、なぜそのような行為がなされるのかよくわからないのが現状である。
病気治癒祈願
このように個人でできる「まじない」のほかに、人々は寺社などに詣でて病気治癒の祈願をおこなった。へちま薬師の名で信仰を集めている東充寺(現名古屋市東区東桜、写真)もそのような寺社の一つで、ヘチマを奉納し祈祷してもらうと疝気が治るとの御利益で知られており、現在も多くの人々が病気平癒などを祈願するため参詣している。疝気とは下腹部や睾丸が腫れて痛む病気の総称のことで、具体的には寄生虫症や下腹部の内臓諸器官の潰瘍・胆石症、性尿系の疾患、婦人病などの症状をいう。「妙薬聞書」によれば、患部ほか総身をなで回したヘチマをここで祈祷してもらい、そのヘチマを縁の下に埋めるなどすると疝気が治るとある。なお、祈祷の御礼としては、新しいヘチマ一つと米一合・銭百文を納めるのが江戸時代の慣わしであった。この他、自分の病気と同じ部分に水で濡らした紙を張って祈ると代わりに病苦を引き受けてくれるという陽秀院(現名古屋市中区大須)の紙張地蔵や、絵馬を奉納すると乳授かりの功験があるとされる間々観音(現小牧市間々)なども、古くから現在にいたるまで多くの信仰を集めているという(立川1993)。
コレラの流行
ところで、感染力が強く有益な治療法がない伝染病などが流行した場合、病除けという予防を含めて人々の呪術的治療への期待は大いに高まることになる。
安政5年(1858)5月に長崎に来航したアメリカ軍艦ミシシッピ号が清国からコレラを日本へ持ち込んだ。コレラはまたたく間に長崎で広がり、その後6月下旬に東海道で、7月には江戸で、さらに8月には全国的に流行するようになった。翌6年もコレラの猛威はおさまらず、大坂・奈良を中心に大いに流行した。コレラの流行が止むのは9月頃になってからである。
コレラの死亡率は非常に高く、下痢・嘔吐を繰り返し、瘤が体にでき、急激に痩せ衰えるなど異様な病状を経て発病から数日内で死ぬことから、人々は即死病・三日ころり・とんころりなどと呼びこの伝染病を恐れた。この強力な伝染病の前に医師たちは色々と薬を調合して治療に尽力したが、まったく手の施しようがない状況であった。
このような中、当時オランダ海軍医官として長崎に滞在していたウェイエル・ポンペ・ファン・メードルフォルトが、コレラ治療に乗り出す。彼は長崎奉行所へ夜に体を冷やさない、日中暑いさなか心労のかかる仕事をしない、酒の飲み過ぎに気をつけるなどの予防策を伝えている。また、治療法として1849年ウンデルヒッヒ著『コレラ病論』などを参照して、キニーネ(キナの樹皮からとれるアルカロイドで解熱作用がある、現在では主に抗マラリア薬として使用されている)とアヘンの混合薬を投与することを推奨した。もっとも、現在の医学的観点からみれば、キニーネもアヘンもコレラ治療にはさして有効ではないことがわかっている。とくにアヘンは、明治19年(1886)のコレラ流行時に大阪府立天王寺避難病院がおこなった治療成績によれば、無効であるのみならず、場合によってはかえって危険症状の発現を促進するようであったという(山本1982)。
当時コレラという病気の原因が不明であったため、人々はコレラの原因について色々な憶測をした。長崎では、コレラが勃発したのは、外国人が毒物を井戸へ投げ込んだことが原因であるとの噂がたったという(立川1979)。また、駿河国富士郡大宮町では安政5年(1858)8月3日ころから一部の人々が、発病後数日で死去することからコレラを、体内に入り込んで悪さをするくだ狐の祟りととらえ、体に瘤ができるという病状をくだ狐が体内に侵入した結果と妄想するようになる。さらに、8月10日ごろになると異国のまわし者が僧に身をやつして密かにコレラの原因となるくだ狐を数千匹船で運んできて放った、あるいは伊豆下田に停泊の異国船が日本の野師たちへくだ狐の入った小長持ちのような箱を渡していたなどの噂がたった(高橋2005)。外国の圧力で開国に踏み切ったばかりという当時の国情もあって、コレラの原因が異国の陰謀によるものとの妄想が人々の中で膨らんでいったのである。
美濃高木家のコレラ除け祈祷
このように治療手段もなく、くだ狐など物の怪の仕業と考えられたコレラに対して、人々は病除けの呪術で対抗してゆこうとする。たとえば、美濃国時・多良両郷に領地を持つ旗本西高木家は、同家の「御用日記」(高木F3‐1‐293)によれば安政6年(1859)9月1日に、神護寺においてコレラ除けの湯立神事を行うことを決定、翌2日に神護寺で湯立神事が行われ、西高木家家中の者が参詣している。また村々へも、2日を休日とするので、農作業など仕事をせずに、氏神を祀る社において病除けの湯立神事を村ごとに行うようにとの触れが出されたため、2日に各村の社でも湯立神事が行われた。湯立神事とは、神前において大釜で湯を沸かして、巫女や神職が笹の葉をその熱湯にひたして、自分や参拝者の体に振り掛け、厄災を清め祓う儀式のことである。
さらに、神護寺や村々の氏神においての湯立神事のみでは足りないと感じたのであろう、9月11日に西高木家は、祈祷所である正覚院に、翌12日から14日までの3日間コレラ除けの祈祷を命じている。
そこで、次のように翌日から3日間正覚院では、朝に滅悪趣明王法を、日中に御護摩修行を、夕に地蔵尊はりさいによ修養をおこない、さらに午頭天王・玻璃妻女・八王子・稲荷明神・弥五郎殿・蘇民将来へ経文を読み捧げたり、供え物をしたりしている〔史料41、高木B11‐4‐115〕。
「 一今般世上変病流行致急死有之候ニ付、殿様別段之思召ニて病難除御祈祷於 正覚院ニ三日中相勤候様被仰付候ニ付、諸入用取扱之覚、左之通り
九月十二日十四日迄
御祈祷三日勤行之事
朝     滅悪趣明王法
日中   御護摩修行
夕     地蔵尊修養
      午頭天王   法施法楽
      玻璃妻女
      八王子
      稲荷明神
      弥五郎殿
      蘇民将来
   右江御備盛物之皿拾五枚(以下略) 」
牛頭天王は、疫病や農作物の害虫、その他の厄災を払う神で、神道の素戔嗚尊と同一視される神である。ただし、その一方で疫病神の側面も持つ。玻璃妻女は、一般には婆利采女あるいは針才女と書く。八大竜王の一人沙伽羅竜王の娘で、牛頭天王の妻とされる女神である。また、八王子は牛頭天王と玻璃妻女の間に生まれた8人の王子のことである。蘇民将来は、玻璃妻女を娶りに沙伽羅竜王の宮殿へ向かっていた牛頭天王を、貧しくて生活が苦しいもかかわらず泊めた功により、後に疫病神である牛頭天王から、子孫にいたるまで疫病をまぬがれることができることを約束された人物のことで、疫病除けの神として信仰されている。また、弥五郎殿は、古代大和朝廷に対して反乱をおこした九州の隼人
たちの首領の名である。彼らがおこした反乱は失敗に終わり、多くの隼人とともに弥五郎も殺された。その後、九州で災厄などが続いた。これを人々は弥五郎たち隼人の祟りと考え、そこで祟りを鎮めるために弥五郎を九州では神として祭るようになったという(真鍋1988)。なお、弥五郎とはこの神を象った疫病や災厄を送り出す呪術行事に使われる藁人形などの形代のことを指す場合もある。
西高木家当主経貞は、3日とも祈祷が行われている正覚院へ参詣している。また、14日には、領内中の村々の庄屋たちが呼び集められ参詣している。なお、高木家の「御用日記」に、祈祷満座後の様子について以下の記述がある〔史料42、高木F3‐1‐293〕。
「 一御祈祷今日満座七ツ時過御札頂戴ニ御家中之面々正覚院江参詣旁罷出候様被仰付、夫々相達候事
一御領分両郷村々庄屋共不残参詣、御祈祷御満座済於、正覚院玄関ニおゐて御用人御代官立合法印御供并御札壱枚ツヽ村々江被下置頂戴致、持帰り村入口且御高札迄ニ箱江納建、御備ハ小前江少々ツヽ頂戴可致候様申渡難有御礼申上帰村之事
一御家中始御領分中江御札御備も被下置候、御礼難有仕合取次順を以御家老申上候事
一御祈祷之御札但し木札御備御鏡餅   宛
  御両所様江御側使を以被進候事 」
これによれば、祈祷が満座した後、用人・代官立ち会いの上で、玄関において正覚院住持より各村の庄屋へ御供餅と御札一枚が下賜されていることがわかる。そして、御札は村の入り口から高札までの辺りに箱に納めて祀り、御供餅は小前百姓それぞれに少しづつ配って食べるようにと指示が出されている。このような、領主による一種の「御救い」に対して、時・多良両郷は9月18日に御礼として酒樽一つを西高木家へ献上している。また、西高木家は家中へも御札の下賜を行うとともに、大工吉田武太夫に命じて屋敷の表門、西門、下屋敷門などに御札を懸けさせている(高木B11‐4‐115)。さらに、西高木家の親戚で、一緒に時・多良両郷を治めていた北・東両高木家へ御札と御供えの鏡餅を送っている。
なお、このような領主主導のみならず、村が自発的に病除けの呪術を行うこともあった。9月23日に多良郷宮村は、若者たちを一日休ませて、村内の大明神において病除けの湯立神事と寄合角力を行いたいので、その許可を得たいと領主である高木三家に願いでている。この願いは高木三家に受け入れられ、9月25日に高木三家が派 遣した足軽が見廻る中、湯立神事・寄合角力を無事行っている。  ・・・
 

 

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