大和魂

大和魂・大和心 / 大和魂1大和魂2大和魂3大和魂4大和魂と大和心1大和魂と大和心2大和心1もののあわれと大和心敷島の歌1敷島の歌2山桜と大和心大和心と子供教育大和心2日本の心と大和和魂大和魂史和魂洋才の再構築・・・
大和[語源] / 大和「大和」「やまと」「倭」「倭」「大和」倭国と邪馬台国と大和「倭国」「倭人」夜麻登夜麻苔と夜麻登神話夜麻登登母母曾毘売命まほろば「記紀」の登場女性・・・
大和国 / 神武天皇と大和国ヤマト王権元明天皇天の香具山・・・
武士道 / 武士道1武士道2武士道3武士道4武士道の謎鎌倉武士諸話会津武士道京都新撰組新渡戸稲造の武士道・・・
大和撫子 / 大和撫子1大和撫子2大和撫子3大和撫子4・・・
特攻精神 / 特別攻撃隊特攻の精神神風特別攻撃隊特攻の真実・・・
紫式部の大和魂 / 大和魂紫式部諸話・・・源氏物語「乙女」・・・
戦艦大和 / 大和戦艦大和1戦艦大和2生還兵・・・

(未整理)

雑学の世界・補考

大和魂

 
大和魂 1

 

外国と比して日本流であると考えられる精神や知恵・才覚などを指す用語・概念。大和心。和魂。儒教や仏教などが入ってくる以前からの、日本人の本来的なものの考え方や見方を支えている精神である。儒学や老荘思想に基づく「漢才(からざえ)」に対比して使われ、江戸後期からは日本民族特有の「正直で自由な心」の意味にもなった。
平安時代中期ごろから「才」「漢才」と対比的に使われはじめ、諸内容を包含するきわめてひろい概念であった。江戸時代中期以降の国学の流れのなかで、「漢意(からごころ)」と対比されることが多くなり、「日本古来から伝統的に伝わる固有の精神」という観念が付与されていった。
近世までの日本では主に「大和魂」とは以下のような事柄を意味しており、例えば千葉工業大学の歴史の講義でも「大和魂」については以下のような事柄について教えられている。
○世事に対応し、社会のなかでものごとを円滑に進めてゆくための常識や世間的な能力。
○特に各種の専門的な学問・教養・技術などを社会のなかで実際に役立ててゆくための才能や手腕。
○中国などの外国文化や文明を享受するうえで、それと対になるべき(日本人の)常識的・日本的な対応能力。やまとごころ。
○知的な論理や倫理ではなく、感情的な情緒や人情によってものごとを把握し、共感する能力・感受性。もののあはれ。
○以上の根底となるべき、優れた人物のそなえる霊的能力。
○日本民族固有(のものと考えられていた)勇敢で、潔く、特に主君・天皇に対して忠義な気性・精神性・心ばえ。(近世国学以来の新解釈)
歴史
大和魂の語の初出は、『源氏物語』の『少女』帖とされている。大和魂の語・概念は、漢才という語・概念と対のものとして生まれた。和魂漢才とは、漢才、すなわち中国などから流入してきた知識・学問をそのまま日本へ移植するのではなく、あくまで基礎的教養として採り入れ、それを日本の実情に合わせて応用的に政治や生活の場面で発揮することである。『源氏物語』が生まれた平安中期は、国風文化という日本独特の文化が興った時代であるが、当時の人々の中には、中国から伝来した知識・文化が基盤となって、日本風に味付けしているのだ、という認識が存在していたと考えられている。そのうち、大和魂は、机上の知識を現実の様々な場面で応用する判断力・能力を表すようになり、主として「実務能力」の意味で用いられていた。
江戸時代中期以降の国学の流れの中で上代文学の研究が進み大和魂の語は本居宣長が提唱した「漢意(からごころ)」と対比されるようになり、「もののあはれ」「はかりごとのないありのままの素直な心」「仏教や儒学から離れた日本古来から伝統的に伝わる固有の精神」のような概念が発見・付与されていった。宣長は「敷島の大和心を人問はば 朝日に匂ふ山桜花」と詠んだ事でも知られる。
江戸後期になると国学者によって、大和魂の語は、日本の独自性を主張するための政治的な用語として使われ、そうした中で、遣唐使廃止を建言した菅原道真が、大和魂の語の創始者に仮託されるようになった。このような傾向は、儒学の深化と水戸学・国学などの発展やそれによる尊皇論の興隆に伴うものであり、近代化への原動力ともなった。
明治に入り、西洋の知識・学問・文化が一気に流入するようになると、岡倉天心らによって、それらを日本流に摂取すべきという主張が現れ、大和魂とともに和魂洋才という語が用いられるようになった。この語は、和魂漢才のもじりであり、大和魂の本来的な意味を含んでいたが、一方では西洋の知識・文化を必要以上に摂取する事への抵抗感も併せもっていた。
日露戦争戦勝以降の帝国主義の台頭に伴い、国家への犠牲的精神とともに他国への排外的・拡張的な姿勢を含んだ語として用いられていき、「大和魂」という言葉も専ら日本精神の独自性・優位性を表現するものと解されるようになった。
昭和初期の第二次世界大戦期には軍国主義的な色彩を強く帯び、現状を打破し突撃精神を鼓舞する意味で使われることが主となった。
○関東軍の重砲兵として入隊した当時、「百発百中の砲一門は、百発一中の砲百門に当たる」と教えられた。疑問を挟むと、「貴様は敢闘精神が足らん。砲の不足は大和魂で補え」と怒鳴られた。 —中内功「私の履歴書」
○「防御鋼鈑の薄さは大和魂で補う。それに薄ければ機動力もある。」 砲の力が弱いと言うが、敵の歩兵や砲兵には有効ではないか。実際は敵の歩兵や砲兵を敵の戦車が守っている。その戦車をつぶす為には戦車が要る、という近代戦の構造を全く知らなかったか、知らないふりをしていた。戦車出身の参謀本部の幹部は一人もいなかったから、知らなかったというのが本当らしい。—司馬遼太郎「歴史と視点 私の雑記帖」
日本の敗戦直後は使われることは少なくなったが、その後の日本文化論には本来の「大和魂」の意味に近い論立て(日本文化は、外来文化を独自に、実際的に消化したものだ、という趣旨)に基づいた論考は多く見受けられる。
平成も「大和魂」という語は様々な場面で使用されている。
大和魂を題材とした作品
和歌
敷島の大和心を人問はば 朝日に匂ふ山桜花(本居宣長)
かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂(吉田松陰)
随筆 / 愛国心(三島由紀夫)
「愛国心」という言葉に対して三島は、官製のイメージが強いとして、「自分がのがれやうもなく国の内部にゐて、国の一員であるにもかかはらず、その国といふものを向こう側に対象に置いて、わざわざそれを愛するといふのが、わざとらしくてきらひである」とし、キリスト教的な「愛」(全人類的な愛)という言葉はそぐわず、日本語の「恋」や「大和魂」で十分であり、「日本人の情緒的表現の最高のもの」は「愛」ではなくて「恋」であると主張している。
「愛国心」の「愛」の意味が、もしもキリスト教的な愛ならば、「無限定無条件」であるはずだから、「人類愛」と呼ぶなら筋が通るが、「国境を以て閉ざされた愛」である「愛国心」に使うのは筋が通らないとしている。
アメリカ合衆国とは違い、日本人にとって日本は「内在的即自的であり、かつ限定的個別的具体的」にあるものだと三島は主張し、「われわれはとにかく日本に恋してゐる。これは日本人が日本に対する基本的な心情の在り方である」としている。
「恋が盲目であるやうに、国を恋ふる心は盲目であるにちがひない。しかし、さめた冷静な目のはうが日本をより的確に見てゐるかといふと、さうも言へないところに問題がある。さめた目が逸したところのものを、恋に盲ひた目がはつきりつかんでゐることがしばしばあるのは、男女の仲と同じである。」
 
大和魂 2

 

1
日本民族固有の精神として強調された観念。和魂、大和心、日本精神と同義。日本人の対外意識の一面を示すもので、古くは中国に対し、近代以降は西洋に対して主張された。平安時代には、和魂漢才という語にみるように、日本人の実生活から遊離した漢才(からざえ)、すなわち漢学上の知識や才能に対して、日本人独自の思考ないし行動の仕方をさすのに用いられた。江戸時代に入り、国学者本居宣長は儒者の漢学崇拝に対抗して和魂を訪ね、「敷島のやまとごころを人問はば朝日に匂ふ山桜花」と詠んで、日本的美意識と、中華思想に対する日本文化自立の心意気をうたいあげた。幕末にいたり、対外危機の深まるなかで、佐久間象山、橋本左内らによって「西洋芸術」に対比された「東洋道徳」の思想内容は大和魂であり、吉田松陰の詠んだ「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂」は、尊皇攘夷の行動精神を熱情的に吐露したものとして有名である(→攘夷論)。明治天皇制国家のもとでは、大和魂はナショナリズムの中核的要素として重視され、内容的にも芳賀矢一らによって天皇への忠誠、国家と自然への愛として強調され、さらに新渡戸稲造によって武士道の国民的規模への展開として説かれた。その後は日本民族の発展のための対外拡張を美化する精神的支柱としての色彩を濃くし、昭和の戦時には軍人の士気高揚のスローガンとして用いられた。
2
1 日本民族固有の精神。勇敢で、潔いことが特徴とされる。天皇制における国粋主義思想、戦時中の軍国主義思想のもとで喧伝された。2 日本人固有の知恵・才覚。漢才(からざえ)、すなわち学問(漢学)上の知識に対していう。大和心。「なほ才を本(もと)としてこそ、―の世に用ゐらるる方も強う侍らめ」〈源・少女〉
3
文献のうえで〈やまとだましい〉が登場するのは《源氏物語》乙女の巻で、光源氏は、12歳になった長男の夕霧に元服の式をあげさせ、周囲の反対を押し切って大学へ入れる。その際、〈才(ざえ)を本(もと)としてこそ、大和魂(やまとだましい)の世に用ひらるゝ方(かた)も、強う侍らめ〉と述べている。ここでは(1)大和魂は才(漢学の素養、漢才(からざえ))と反対の概念をなしていること、(2)本(もと)が才であり、したがって、末に位置するものが大和魂であること、(3)大和魂の属性として〈世に用ひらるゝ方〉すなわち処世的手腕・功利主義的判断能力が考えられていたこと、この三つの特性が認められる。
4
1 大和心。和魂。(漢学を学んで得た知識に対して)日本人固有の実務・世事などを処理する能力・知恵をいう。 「才ざえを本としてこそ、−の世に用ゐらるる方も強う侍らめ/源氏 乙女」 「露、−無かりける者にて/今昔 20」  2 〔近世以降の国粋思想の中で用いられた語〕 日本民族固有の精神。日本人としての意識。
5
漢才、すなわち学問上の知識に対して、実生活上の知恵・才能を意味することばとして平安朝の文献に現れているが、いまは日本民族固有の精神をさすことばとして通用している。和魂とも書く。嘉永(かえい)年間(1848〜54)板行の中条信礼(ちゅうじょうのぶのり)著『和魂邇教』一巻はヤマトダマシイチカキオシエと訓(よ)み、この書の姉妹書とみるべきものに1857年(安政4)板行の『和魂邇教山口』があった。大和魂という語は、吉田松陰(しょういん)の「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂」という歌に典型的に表現されているが、松陰に先だって本居宣長(もとおりのりなが)が「敷島(しきしま)の大和心を人問はば朝日に匂(にほ)ふ山桜花」と歌ったときの大和心は、その先駆的表現であったとみてよい。そのようにこの語は徳川期、ことにその末期に盛んに使用されたが、これは、幕藩体制が内外の諸原因から動揺し始めた危機的状況を反映しているものであろう。明治以後も対外戦争のたびごとに強調されたこと、たとえば太平洋戦争時の斎藤茂吉(もきち)に「ひとつなるやまとだましひ深深(ふかぶか)と対潜水網をくぐりて行けり」という詠があるがごとくであった。それに比べれば、大和心はやや平時的、文化的ニュアンスを帯びている。
6
1 「ざえ(漢才)」に対して、日本人固有の知恵・才覚または思慮分別をいう。学問・知識に対する実務的な、あるいは実生活上の才知、能力。やまとごころ。やまとこころばえ。※源氏(1001‐14頃)乙女「才を本としてこそ、やまとたましひの世に用ひらるる方も」
2 日本民族固有の気概あるいは精神。「朝日ににおう山桜花」にたとえられ、清浄にして果敢で、事に当たっては身命をも惜しまないなどの心情をいう。天皇制における国粋主義思想の、とりわけ軍国主義思想のもとで喧伝された。やまとだま。やまとぎも。※読本・椿説弓張月(1807‐11)後「事に迫りて死を軽んずるは、日本(ヤマト)だましひなれど多くは慮の浅きに似て」
7
元来は平安時代に用いられた言葉であり、この古語としての意味は、漢学に代表される外来の知識人的な才芸に対して、日本在来の伝統的知識、生活の中の知恵、教養などをいった。
平安時代以後、死語となった言葉であったが、本居宣長によって再び取り上げられ、漢意(からごころ)に対して作為をくわえない自然で清浄な精神性という思想的で倫理的な意味合いを与えられた。
吉田松蔭がこの国学的な思想的概念としての意味を継承し、みずからの倫理的思想の中核に据え、理想化した。その後の、国粋主義的なニュアンスの用法は基本的に松蔭の与えた意味に由来する。
日本における住人が理想とし、生き様が美しいとされる心性。「武士道」などに近い。戦前の台湾人などでも大和魂を理想としていたケースもあるから、必ずしも民族では括れない概念であろう。
理想を抱くのは簡単だが、それを実現・実践するのはきわめて難しい。
8
大和魂の語の初出は、源氏物語とされていおります。大和魂の語・概念は、漢才という語・概念と対のものとして生まれたとされ、和魂漢才と言うこともあったのです。それは漢才、すなわち中国などから流入してきた知識・学問をそのまま日本へ移植するのではなく、あくまで基礎的教養として採り入れ、それを日本の実情に合わせて政治や生活の場面で発揮することなのです。源氏物語が生まれた平安中期は、国風文化という日本独特の文化が興った時代でございますが、当時の人々の中には、中国から伝来した知識・文化が基盤となって、日本風に味付けしているのだ、という認識が存在していたと考えられます。そのうち、大和魂は、机上の知識を現実の様々な場面で応用する判断力・能力を表すようになり、主として「実務能力」の意味で用いられるとともに、「情緒を理解する心」という意味でも用いられました。江戸時代中期以降の国学の流れの中で上代文学の研究が進み大和魂の語は本居宣長が提唱した漢意と対比されるようになり、「もののあわれ」「はかりごとのないありのままの素直な心」「仏教や儒学から離れた日本古来から伝統的に伝わる固有の精神」のような概念が発見・付与されていったのです。宣長は「敷島の大和心を人問はば 朝日に匂ふ山桜花」と詠んだ事でも知られております。 江戸後期になると国学者によって、大和魂の語は、日本の独自性を主張するための政治的な用語として使われ、そうした中で、遣唐使廃止を建言した菅原道真が、大和魂の語の創始者に仮託されていったのです。 このような傾向は、儒学の深化と水戸学・国学などの発展やそれによる尊皇論の興隆に伴うものであり、近代化への原動力ともなったのです。明治時代に入り、西洋の知識・学問・文化が一気に流入するようになると、岡倉天心らによって、それらを日本流に摂取すべきという主張が現れ、大和魂とともに和魂洋才という語が用いられるようになった。この語は、和魂漢才のもじりであり、大和魂の本来的な意味を含んでいたが、一方では西洋の知識・文化を必要以上に摂取する事への抵抗感も併せもっていたのです。日露戦争戦勝以降の帝国主義の台頭に伴い、国家への犠牲的精神とともに他国への排外的・拡張的な姿勢を含んだ語として用いられていき、「大和魂」という言葉も専ら日本精神の独自性・優位性を表現するものと解されるようになりました。戦後はGHQの占領政策により、国粋主義的な思想や、軍国主義に使われた大和魂という語の使用が忌避されるようになり、広く使われることが避けられていったのです。しかし今後の本来の日本を取り戻すことを目指す場合、必ず国体と民族のアイデンティティとして復活させることが必要になると考えます。
9 紫式部と大和魂
遣隋使や遣唐使によって日本に中国伝来の漢学の知識が流入したのであるが彼女はそれを「才」と称しこれまでの日本にあった精神=日本人としての知恵を「大和魂」とよびました。そして「才を本としてこそ、大和魂の世に用ゐらるる方も強うはべらめ」すなわち漢学の知識を手段として、日本の智恵を世の中に役立たせるのだと光源氏に言わせているのであります。紫式部の価値観として日本の智恵の実現が上位の目的であり漢学や知識は、そのための手段だと下位に位置づけているわけです。すなわち漢文も大和言葉も使いこなせるバイリンガルキャリアーウーマンとしては長い歴史を誇る日本文化を重要視し中国伝来の知識は、日本精神文化を実現するための用いるべき手段にすぎないとまで、言い切っているのであります。ではこの大和魂とは何か?それは日本語すなわち、当時会話などに使われていた大和言葉に他ならないと考えます。ここで大和言葉=日本語の起源は何かとさまざまな議論が現在になされているが、結論としては、日本語の起源は古すぎるため、確定できないとされています。いずれの議論においても、日本語はどこか他から流入したとの仮説を前提にしておりこれでは、解明できないのも当たり前といえそうです。アフリカ東海岸を出発点に世界中を放浪し、終着点の日本に到達した原始日本人がさまざまな言語を断片的に持ち込んだわけだが、それらが融合し醸造されて、日本独特の大和言葉が完成したものと思うのであります。
10 
大和魂をもってせば  大和魂を示した  大和魂を表象する  大和魂を目のあたりに見る  大和魂を招き  大和魂を資本主義によって歪曲されている  大和魂と云った  大和魂とも申すべき  大和魂では片づけられない  大和魂というものを認め得ない  大和魂といふものを俗にした  大和魂を研究したいという  大和魂なるものを悉く消滅させなかった  大和魂を益々盛に惹起する  大和魂に加うるに  大和魂の枠を発揮すると  大和魂の精髄と心得ている  大和魂の俺達も殆んど我を折つておる  大和魂という奴がどうしても承知してくれない  大和魂の存在がよほど口惜しかったと見えて  大和魂へ我々亭主はしきりに光沢布巾をかける  大和魂といった位では日本でも通じなくなる  大和魂だけで器械を使った  大和魂を持っているとはいえない  大和魂なんて無くなってしまう  大和魂を取戻した  大和魂を除いては  大和魂など振り廻さずに  大和魂を持っている  大和魂を知らねえ  大和魂もやはり進化すべきではないかと思う  大和魂の進化の一相として期待してしかるべき  大和魂の洗礼を受ける  大和魂まで輸入して居る  大和魂のある  もので大和魂を  日本女性の大和魂を  日本兵士の大和魂を  蝶には大和魂を  今に大和魂と  処の大和魂とも  単純なる大和魂では  それこそ大和魂  日本の大和魂を  日本の大和魂  教育で大和魂を  のは大和魂の  潜在せる大和魂という  我々の大和魂の  錆かかっている大和魂へ  今に大和魂といった  人間には大和魂なんて  ときからの大和魂  空襲によって大和魂を  元帥の大和魂を  不羈独立して大和魂を  ほんとの大和魂っていう  奴は大和魂を  愛国心も大和魂も  日本から大和魂まで  強大なるは大和魂の  日本人に大和魂の  
11 大和魂と軍部
「戦争せんさうがあるとか無ないとか、又また景気けいきは好よくなるとか好よくならぬとか、新聞しんぶんや雑誌ざつし又または単行本たんかうぼんによつて人々ひとびとが迷まようて居をりますが」と聞きく人ひとがあるが、結論けつろんは既すでにきまつてゐる。瑞みづの神歌しんかによつて神示しんじされて居ゐる通とほりぢや。何なにも迷ふことは無ない、断乎だんことしていつたらよいのぢや。よくなる様やうでも、それは一時いちじの現象げんしやうか又または策謀さくぼうによるものであつて、次第しだいに悪わるく迫せまる道程だうていに過すぎない。八岐やまたの大蛇をろちの迫せまり来きたつて只ただ一ひとつ残のこされた国くに、奇稲田姫くしなだひめなる日本にほんを併呑へいどんせむとする事ことは免まぬがれ得えぬことになつて居ゐる。種々いろいろの宣伝せんでんや迷論めいろんに迷まようては取とり返かへしのつかぬことになる。一路いちろ神示しんじのままに邁進まいしんすることぢや。大和魂やまとだましひの精神せいしんは大本教団おほもとけうだんを除のぞけば只ただ軍部ぐんぶ其他そのたの国民こくみんの少数者せうすうしやにのみ残のこつて居ゐる有様ありさまである。それで満洲まんしう事変じへんに於おいても、軍部ぐんぶには来きたるべき皇国くわうこくの将来しやうらいが或ある程度ていど判わかつて居ゐるから断乎だんことして其その精神せいしんが発動はつどうしたのぢや。利害りがい得失とくしつに汲々きふきふたる一般いつぱんの国民こくみんには世界せかいの動うごきは判わからない。国民こくみんの眼めは利害りがい得失とくしつのみに小ちひさく働はたらいて居ゐるのである。其その点てんになると、軍部ぐんぶは生活的せいくわつてきの不安ふあんが無ないから目めのつけ所どころが違ちがふ。世界せかいの事ことも比較的ひかくてきに判り又また精神せいしんも曇くもつて居をらないので、大和魂やまとだましひが発動はつどうして来くるのぢや。   昭和十年三月  
 
大和魂 3

 

「大和魂」というと、神風特攻隊の精神に結び付けられてしまいがちですが、 元々の大和魂は平安時代の「もののあわれ」を歌った四季を愛する女心で あったようです。
四季折々の大自然を受けとめ、明るく、清清しく自然と調和している生き方 を示し、寛容で大いなる和(調和)の精神が「大和魂」だったのです。
心穏やかな和の心で相手を上下関係で見ることなく、お互いに和するにはどう すればいいかを感じ合い、そして支え合って生きていくための学びあう精神で もあったようです。
そして、漢学に代表される外来の知識人的な才芸に対して、日本古来から伝わる 伝統、生活の中の活きた知恵、教養のすばらしさを強調したものでもありました。
平安以後、「大和魂」は死語となった言葉でしたが、本居宣長によって、自然で 清浄な精神性(生き様が美しいとされる心性)という思想から国粋主義に用いら れていったようです。
古来より日本人は桜を愛でており、満開になるやいなやさっと散る桜花は、 絶好の<潔さ>の象徴であり、日本人はこの<潔さ>を美徳としていました。
このいさぎよく散る桜を尊ぶ精神は、武士道にもあったのですが、その精神が 明治以降の皇国日本への愛国心、忠誠心を第一とすることに受け継がれ、その 心を「大和魂」として解釈されるようになっていったのではないかと思います。
吉田松陰の「かくすれば かくなるものと知りながら 已むにやまれぬ 大和魂」の心意気は、「自分に危険が及ぶことは分かっていてもどうしてもそうせざるを得なかった」という義勇心からくるものですが、それだけの志と覚悟があったからこそ、松陰 の大和魂は、心ある志士たちに受け継がれ、永遠のものとなったのでしょう。
このように命をかけて何かを成し遂げる気迫は、その誠意が天に通じるものです。
リスクマネージメントはもちろん重要ですが、危険を犯そうとも志を貫く気迫も 時には必要であって、周りから何と言われようが、やると決めたらやる!という ある意味、阿呆になってこそ、志が成就していくと思うのです。
私も生かされている間は「至誠、天に通ず」を信条にしていくつもりです。
ただし、明治以降の戦争で使われていた大和魂は、自分の志というよりは、 情報を与えられずに軍国主義を推奨する教育によって刷り込まれた価値観 であったと思います。なので、戦争に勝つためにはいのちを捨てるのも惜しまない精神を「大和魂」 とするのは、元々の意味とは全く違ったものになってしまったようです。
また、残念なことに明治以降、神社・寺院の分離令が出たのをきっかけに、 政府は寺院を破壊し、多くの仏像は捨てられ、神社もどんどん統廃合して 減らしています。 (三重県では、5547社あった神社が942社に減っています)それに加えて鎮守の森は戦争のため伐採し続けた結果、各地で土砂崩れや 洪水が起こり、当時、熊野川の中洲に鎮座していました有名な熊野本宮大社 は明治22年の大洪水で社殿が流されています。(現在は近くの高台に遷座) 神仏にこれだけご無礼をしまくっているのにも関わらず、神社では戦勝祈願 をして、「神国日本は負けるはずがない」と言っていたのです。
これでは神仏も日本国を助ける気にもならなかったでしょうし、助けるパワー も出せなかったことでしょう。 (負けて気づきなさい!という感じです)
その結果、神風特攻隊をふくめ、太平洋戦争で戦死された人たちの大半は、 飢餓による餓死と、戦地に行く前の船の移動中に撃沈されていたようで、 実際には、戦うこともできず、死んでいったそうです。
そんな戦没者を英霊(神さま)としてお祭りして、本当に喜んでおられるので しょうか・・・
潔く桜のように美しく散っていったというより、実は無念で仕方がなかった ような気がします。戦争を美化するより、家族、子孫が戦没者を労い、供養のために生れ故郷の 産土さまやお寺やお墓でしっかりお参りした方がいいと思うのですが・・・
このように大和魂は、時代の背景によって解釈が異なっています。どれが正しくて、どれが間違っているというものではなく、変わっていくことが 真実であるともいえるのです。
ところで、大和魂の「和魂」は“にぎみたま”と呼び、人間の内なる神性の 調和の働きを表しています。
ちなみに大和魂を桜に例えるのは、散ったはなびらが土に還り、新しい命の 源になるという大自然の調和と循環を表している説があります。
散り急ぐのを重視しているわけではなく、そのときそのときを精一杯輝いて 生きているから散るときも何の未練もなく、潔く散れるのです。
そして、散った花びらが次の新しいいのちを育むことになるのですね。万物は流転し、常に変化し続けることが天地自然の道理です。
 
大和魂 4

 

「敷島の大和心を人問わば朝日に匂う山桜花」(本居宣長)
「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂」(吉田松陰)
「大和魂」と「大和心」はほぼ同じ意味でつかわれている。この2首に対する捉え方が、「大和魂(大和心)」に対する誤解の元となっている。「大和魂(大和心)」は、日本の侵略思想、軍国主義の宣伝文句である。特に国民を鼓舞し侵略戦争に向かわせたキーワードが「大和魂(大和心)」であるという誤解である。
大東亜戦争(1941年〜1945年)で日本が危機におちいったとき、神風特攻隊が編成された。爆弾を積んだ飛行機が、パイロットを乗せたまま、アメリカ軍艦に飛び込むのである。その時初めて結成された神風特攻隊の隊の名が、本居宣長の歌にちなんだ「敷島隊」「大和隊」「朝日隊」「山桜隊」であることは、よく知られた事実である。「大和魂」と言えば、この特攻隊の精神であることをほとんどの人は連想する。
「武士道とは死ぬことと見つけたり」 は、江戸時代の武士道の精神を説いた「葉隠」(1716年頃成立)の言葉であるが、無駄な死が推奨されたわけではない。不正義の中で生きるより、正義にために死ぬことを潔しとしたのである。守るべきもののために死なねば時もある。女々しく生きるのではなく、雄々しく死ぬ方が潔いという美学である。神風特攻隊は、守るべき家族のために命をかけたということであり、けして犬死にではなかった。 「武士道」精神にあらわれであった、ことを確認したい。しかし、「武士道とは死ぬことと見つけたり」は、「武士道」精神の一部であり、「大和魂(大和心)」の一部ではあるが、すべてではない。
「正しく生きる」「真っ直ぐに生きる」という「正直」の心も、武士道精神の一部であり、「大和魂(大和心)」の一部である。
武士道と通底する「強きを挫き、弱きを助ける」「弱き者を助け、悪しき者を挫く」という日本人としてのあり方も、古き良き時代の日本人、つまり大和魂の特徴である。
しかし、「大和魂(大和心)」とは、神代から続く日本人の精神、日本の心の全体像ををさす。
1万年つづいた縄文文化にはぐくまれた自然と共に生きる心、すべてのものに神が宿るという神人一体の心も「大和魂(大和心)」である。古事記に記された、「清く明き心」この心も「大和魂(大和心)」である。
聖徳太子の「和を以て貴しとなす」と言った「和」の心、これも「大和魂(大和心)」の重要な要素である。
そもそも、「大和魂」という言葉が初めて出てくるのは、源氏物語の「少女」の帖においてである。主人公の光源氏の息子の夕霧は、高位の貴族の息子が当然つくべき地位ではなく、低い地位から官位につく。低位の貴族のように大学に行かせて勉強させることを光源氏は決断する。大学では、唐の学問が教えられた。唐の学問(漢才)を身につけた上で、我が国の実情にあうように応用できる智恵才覚を「大和魂」という表現で表している。
「才(学問)をもととしてこそ、大和魂の世に用ゐらるる方も強うはべらめ。」 (学問[=漢才]を基本としてこそ実務の才[=大和魂=和魂]が世間で重んじられるということも確実というものでございましょう)
明治時代に、欧米の技術を取り入れたが、日本古来の伝統や和を尊ぶ心、惻隠の情。以心伝心の心を忘れてはならないという意味で「和魂洋才」と表現した問題意識を平安貴族はもっていたのである。
源氏物語を書いた清少納言(966年〜1025年) は、「和魂漢才」こそ大切であるという文脈の中で「大和魂」という言葉を使っているのである。唐の学問に対して、日本の伝統文化、日本の心こそ大切であるという意識があったことになる。
「大和心」の初出は、文章博士・大江匡衡(952年〜1012年)と百人一首歌人であるその妻の赤染衛門の問答に見られる。
大和魂(大和心)=日本人としての歴史・伝統にはぐくまれた豊かな心
・縄文時代(神代)由来の「自然と人一体の心」「神と人一体の心」
・古事記にある「清き明き心」「言挙げをしない言霊を大切にする心」
・「大和国」に象徴される和の精神
・聖徳太子の言う「和を以て貴しとなす心」
・他人を思いやる「惻隠の情」や「以心伝心」の心)
・「武士道」にいう「勇気」「正直」の心
・「強きを挫き、弱きを助ける」「弱き者を助け、悪しき者を挫く」心
・外国語に訳せない「もったいない」「おかげさま」「お互いさま」という心
大江匡衡「はかなくも思ひけるかな乳(ち=知性)もなくて 博士の家の乳母(めのと)せんとは」 (知識・知性もない女を、学問で身をたてる博士の家の乳母にするとは)
赤染衛門「さもあらばあれ やまと心し賢くば 細乳につけてあらずばかりぞ」 (大和心さえあれば、細乳[乳がでなくても=知性がなくても]であっても十分ではありませんか)
ここでいう大和心とは、日本人としてのあり方、人つきあいの方法とか常識、こころをさす。「和魂洋才」の和魂=大和魂(大和心)、日本の伝統文化に根ざした日本人の心を指すことは明らかである。
なかなか外国語に訳せない「もったいない」「おかげさまで」「お互いさま」という心も大切な「大和魂(大和心)である。
「国民性は賢明にして思慮深く、自由であり、従順にして礼儀正しく、好奇心に富み、勤勉で器用、節約家にして酒は飲まず、清潔好き。善良にして友情に厚く、率直にして公平、正直にして誠実、・・・寛容であり、悪に容赦なく、勇敢にして不屈である」 (ツンベルグ「江戸参府随行記」1775年来日) とある日本人の美徳そのものが、「大和魂(大和心)」であるといえる。
つまり、大和魂(大和心)>武士道精神>特攻精神(守るべきものために潔く死ぬ精神) ということになる。
「大和心(大和魂)を人に問われたならば」の答えは、世界標準と違う日本標準、つまり日本人としての美徳そのものであるというのが、結論である。それを、本居宣長は、「朝日に匂うように輝く山桜花」と表現したのである。山桜花は八重桜や牡丹のように絢爛豪華ではない。しかし、大自然の中で、山の木々と調和しながら、質素にたくましく咲く花である。「大和魂(大和心)」は、軍国主義(侵略国家)の思想であるということで封印された。同様に、教育勅語も、軍国主義(侵略国家)の思想であると言うことで、否定された。欧米の侵略に対抗するために「和魂洋才」をスローガンに成し遂げた明治維新の西洋化ににより、日本古来の「大和魂(大和心)」が失われることをご心配された明治天皇の命によって教育勅語が制定されたということが今日あきらかになっている。教育勅語の12徳目もまた、日本古来の美徳を守るための徳目であったことにもう目を覚ますときに来ているのではないか。
自分の先祖を肯定的に捉えられると言うことは、子孫にとって困難に遭遇したときに自信をもたらすことができます。先例を規範として行動することもできます。民族の歴史を継承することは、いざというときの指針となるということです。世界中に約190カ国があるが、建国の歴史を教えない国は日本しかない。そして、日本の歴史にはぐくまれた日本人としての美徳である「大和魂(大和心)」を教えない日本は滅びるしかないのではないか。神武天皇による建国の歴史や日本人の美徳そのものである「大和魂(大和心)」 を見直し、学び直す時にきているのではないか。
 
大和魂と大和心 1

 

日本刀は武士の魂と言われます。また世界で唯一、魂が宿る刀であると評する外国の人もいます。それくらい日本刀というものは、特別視されるものです。それはなぜかということです。他にも魂が宿るという道具がこの世の中にはたくさんあります。手間暇と丹精、真心を籠めて造られたものにはすべて魂が宿るといいます。
この「魂が宿る」ということを少し深めてみたいと思います。
そもそも魂とは何かということになります。ものづくりでいえば、心を籠めることにあります。つまりは、心が入っているということです。この逆を言えば、心がないもの、心が入っていない魂の抜け殻というものになります。心が入っているものは、それを使う人の心をまた同時に使う必要があります。なぜならそれだけ丁寧な使い方をしなければ壊れてしまうからです。しかし今の時代のように簡単便利に、大量生産できるものは壊れても買い換えていいものをつくったり、もしくは壊れないために加工されたものをつくります。ここには心のあるなしは必要はなく、技術があれば成り立ちます。
この技術があればというのは、先ほどの武士であれば殺戮能力さえあれば武士になれるという意味になります。しかし本来の武士は、技術があったから武士だとは言いません。武士は無用な殺生はしないと言います、刀は滅多なことでは抜かないといいます。それは殺生するということが、人を殺めるということを自覚しているからです。つまりは心があるからです。心を亡くしてしまえば、ただの殺戮マシーンになります。武士はそんなことはしませんでした、だからこそその殺戮の道具である日本刀には心がなくならないようにと念じて鍛冶師が打ち、その心がなくならないように武士は日々に手入れをして心を研ぎ澄まし心を失わないように精進をしたように思います。
かつての戦争においてでも、日本刀を帯刀した日本兵は最期まで心を失わないようにと戦いました。機関銃で乱暴に殺戮したり、ミサイルで大量に無札別で殺傷していても、日本人は日本刀を帯刀し単に殺戮マシーンになりさがることを自ら戒めました。そこには「どんな時も心を失わない」という決心と初心があったからです。そこに魂が入っていたのです。
つまり「魂が宿る」というのは、人としての心を失わないということです。
心が籠らない仕事は、魂が宿っていない仕事です。そんなことをしては、「人」ではありません。だからこそ最期の最期まで「心(魂)を持っている人」でいようと「人」でいることにこだわったのです。
人が心を失うということがどれだけ悲劇であるか、日本人の先祖たちはそれを知っていました。どんなに時代に翻弄されても、その心の在り処、つまりは魂の宿る場だけは失わないぞという覚悟を日本刀に託したのではないかと私は思うのです。
今の日本社會は残念なことに、忙しさに追われてそして心を入れることを忘れては「人」ではなくなって傷つけあって苦しんでいる人たちを沢山見ます。それは大量生産大量消費、経済優先、そのような使い捨ての文化の中で本来の「心」を見失ってしまったかもしれません。
本来の心を取り戻すために、先人たちの生き方やその道具から何を日本人がもっとも大切にしてきたかを再度考え直すべきであろうと私は思います。大和魂とは「大和心」のことです。大和魂を持つ人があって、はじめて日本刀に魂が宿りました。同じく、日本刀に魂が宿るのは大和心を失わなかった人があってはじめて両者成り立ちます。
先祖たちに恥じないように、今の時代でもどんなときも「心」を優先し、人格を高めて人格を磨き続け、こどもたちに先人たちの心を伝承できるように精進していきたいと思います。
 
大和魂と大和心 2

 

日本刀は武士の魂と言われます。また世界で唯一、魂が宿る刀であると評する外国の人もいます。それくらい日本刀というものは、特別視されるものです。それはなぜかということです。他にも魂が宿るという道具がこの世の中にはたくさんあります。手間暇と丹精、真心を籠めて造られたものにはすべて魂が宿るといいます。
この「魂が宿る」ということを少し深めてみたいと思います。
そもそも魂とは何かということになります。ものづくりでいえば、心を籠めることにあります。つまりは、心が入っているということです。この逆を言えば、心がないもの、心が入っていない魂の抜け殻というものになります。心が入っているものは、それを使う人の心をまた同時に使う必要があります。なぜならそれだけ丁寧な使い方をしなければ壊れてしまうからです。しかし今の時代のように簡単便利に、大量生産できるものは壊れても買い換えていいものをつくったり、もしくは壊れないために加工されたものをつくります。ここには心のあるなしは必要はなく、技術があれば成り立ちます。
この技術があればというのは、先ほどの武士であれば殺戮能力さえあれば武士になれるという意味になります。しかし本来の武士は、技術があったから武士だとは言いません。武士は無用な殺生はしないと言います、刀は滅多なことでは抜かないといいます。それは殺生するということが、人を殺めるということを自覚しているからです。つまりは心があるからです。心を亡くしてしまえば、ただの殺戮マシーンになります。武士はそんなことはしませんでした、だからこそその殺戮の道具である日本刀には心がなくならないようにと念じて鍛冶師が打ち、その心がなくならないように武士は日々に手入れをして心を研ぎ澄まし心を失わないように精進をしたように思います。
かつての戦争においてでも、日本刀を帯刀した日本兵は最期まで心を失わないようにと戦いました。機関銃で乱暴に殺戮したり、ミサイルで大量に無札別で殺傷していても、日本人は日本刀を帯刀し単に殺戮マシーンになりさがることを自ら戒めました。そこには「どんな時も心を失わない」という決心と初心があったからです。そこに魂が入っていたのです。
つまり「魂が宿る」というのは、人としての心を失わないということです。
心が籠らない仕事は、魂が宿っていない仕事です。そんなことをしては、「人」ではありません。だからこそ最期の最期まで「心(魂)を持っている人」でいようと「人」でいることにこだわったのです。
人が心を失うということがどれだけ悲劇であるか、日本人の先祖たちはそれを知っていました。どんなに時代に翻弄されても、その心の在り処、つまりは魂の宿る場だけは失わないぞという覚悟を日本刀に託したのではないかと私は思うのです。
今の日本社會は残念なことに、忙しさに追われてそして心を入れることを忘れては「人」ではなくなって傷つけあって苦しんでいる人たちを沢山見ます。それは大量生産大量消費、経済優先、そのような使い捨ての文化の中で本来の「心」を見失ってしまったかもしれません。
本来の心を取り戻すために、先人たちの生き方やその道具から何を日本人がもっとも大切にしてきたかを再度考え直すべきであろうと私は思います。大和魂とは「大和心」のことです。大和魂を持つ人があって、はじめて日本刀に魂が宿りました。同じく、日本刀に魂が宿るのは大和心を失わなかった人があってはじめて両者成り立ちます。
先祖たちに恥じないように、今の時代でもどんなときも「心」を優先し、人格を高めて人格を磨き続け、こどもたちに先人たちの心を伝承できるように精進していきたいと思います。
 
大和心 1

 

しきしまの大和心を人問はば朝日に匂う山桜花 (本居宣長)
人も街も木も一斉に新しい活動を始める「春」がやってきました。春といえば何と言っても「桜の花」です。今年は、日米友好の架け橋として、伊丹産の台木に東京荒川堤の苗木を接木した桜が米国ワシントンに寄贈されて100周年を迎える記念すべき年でもあります。「山桜」といえば、私には、若い頃の原体験とも重なって忘れられない句があります。それが上の句です。
私は、新渡戸稲造氏の『武士道』(明治33年、英文初版出版)を通して、この句に出会ったのですが、新渡戸氏は、この著書の中で鎌倉時代から江戸時代までの日本人の「生き方」や「立ち居振る舞い」を世界に紹介しています。この書は、当時発刊されるや否や欧米でベストセラーとなり、日本人のすばらしさを世界に知らしめることになりました。『武士道』とは、鎌倉時代以降、日本人の行動基準、道徳基準として定着してきたものですが、私もこの書で紹介されているその時代を生きた日本人の「生き方」や「立ち居振る舞い」に深い感銘を受けました。
本居宣長は、「大和心」(日本人の精神)を「桜の花」と表現しています。古来から、桜は、「色彩や香りに気品があり、散りぎわが潔い」ことから、理想的な人としての生き方を桜に重ねているのです。
この他にも、『武士道』には、「大和心」として、「礼儀、誠実、忍耐、正義、惻隠(そくいん)の情」などが紹介されています。「惻隠の情」とは、弱者や敗者への思いやりの心のことです。この書を読んで、「なぜ、明治維新が成功したのか、幕末から明治にかけて西洋へ留学した日本人が尊敬されたのか、アジアの多くの国がヨーロッパ列強の植民地となった時代に日本が侵食されなかったのか」がよく分かりました。江戸時代には、寺子屋等での教育を通して、日本人の識字率が世界最高水準にあったことや、儒教や神道などを通して他のアジアの国々とは比較にならないほど成熟した『文化や品格』が当時の日本人に備わっていたのです。
日本人としての「誇り」を取り戻すために、新学習指導要領では教育内容の主な改善事項として「伝統や文化に関する教育の充実」等が位置づけられ「武道」が必修となりました。伊丹市では、伊丹市ゆかりの「なぎなた」を実施しますが、「なぎなた」を通して、「挨拶やけじめ」をつけるとともに、我が国が育んできた日本の美徳である『相手を敬い、礼節を守る』等の資質をしっかりと身につけてほしいと思っています。
 
もののあわれと大和心 本居宣長

 

    本居宣長
本居宣長は、江戸時代中期の国学者で国学の大成者である。主著は『古事記伝』『源氏物語玉の小櫛』『玉勝問』。医学の道を進められたが、医学とともに儒教や漢学を学ぶ。その中で、荻生徂徠や契沖に触れるとともに国文学に深い関心をもった。その中で賀茂真淵で出会い、『古事記』の実証的研究を通しての古道論を確立した。
本居宣長の思想は、日本の古道を「惟神の道」としてとらえたことと、文芸の本質を「もののあわれ」として人間性を肯定したところにある。こうした日本古来の精神を理解するために、儒教や仏教などの「漢意」を捨てて、古典の実証的研究を通して、日本古来の道(古道)である「惟神の道」を理解し、汚れのない「真心」の世界を見つめることが必要である。それは『古今和歌集』に見られる女性的な「たをやめぶり」であり、文芸の本質としての「もののあはれ」に通じるものであった。町人の豊かな経済力が幕藩体制の動揺を生み出しつつある時代の中で、本居宣長の思想は、民族的な意識と民衆の意識を映した新しい思想であり、時代の一つの推進力となった。
本居宣長の生涯
本居宣長は、伊勢松坂(三重県)松坂の木綿商の家の次男として生まれた。少年時代から習字や漢学を学び、22歳で家督を継いだが、商人に不向きであるとの母の配慮で医学の道を選び、23歳のとき、京都に遊学した。京都滞在の6年間、医学とともに漢学や儒学を学ぶ中で荻生祖徠の古文辞学を知り、また契沖の著書にふれ、国文学に深い関心を持つに到った。28歳で帰郷して小児科医を開業しながら、和歌や『源氏物語』を研究した。
34歳のとき、伊勢に立ち寄った賀茂真淵とめぐり会い、『古事記』研究の重要さを説かれ、その門に入るとともに、以後、書簡のやりとりを通じて、本居宣長は賀茂真淵の志を受け継ぎ、『古事記』の実証的研究を通して古道論の確立に生涯を傾けた。市井の人として、72年の生涯を終えたが、国学における各分野(古典の研究、言語と文法の研究、故実と制度の研究、古道の研究、和歌と物語文学の研究など)を体系づけ、国学を学問として大成した。また、門下生も多く、その半数は町人や農民といわれる。
本居宣長の略年
1730 伊勢国松坂に生まれる。
1751 兄の死去によリ家督相続。
1752 医学を学ぶため京都へ。
1757 松坂に帰リ、医師を開業。
1763 伊勢神宮参宮のために松坂に来ていた賀茂真淵に面会。
1764 賀茂真淵の門下生となる。『古事記伝』を起稿する。
1771 『直毘霊』完成。
1782 書斎「鈴屋」を設ける。
1796 『源氏物語玉の小櫛』を完成する
1798 『古事記伝』を完成する
1801 死去。
文献研究
本居宣長は、古典の文献研究を通して、古道の探求を行うことを学問と自負した。学問によって人の生きる道を知るため、漢意(中国から伝わった儒教や仏教)のを排除して日本固有の「大和心」を理解する必要がある。大和心とは、神の御心のままの「惟神の道」としての「古道」とそこにある汚れのない「真心」であり、古代に見られる「たをやめぶリ」という女性らしさである。そして、それらは、『古事記』や『源氏物語』にみることがある「もののあはれ」に通じるものでもあった。
たおやめぶり(手弱女振)
たおやめぶり(手弱女振)は、女性的で繊細な歌風と人間のあり方である。賀茂真淵が理想とした、男性的でおおらかな万葉調の歌風と人間のあり方である「ますらおぶり」に対する言葉である。『古今集』や『新古今集』の歌にみられる特徴で、本居宣長はこの心情を重視した。
惟神(かんながら)の道
惟神の道とは、神代から伝わってきた、神の御心のままに人為を加えぬ日本固有の道である。国学において求めるべき古道として理想化された。本居宣長は、『古事記』における神がみの事跡の中に示されているものとみて、儒教の聖人の道や仏教の悟りの道と異なり、神の働きによってつくられた、おのずからなる道であると説いた。同時に、自然の感情のままに生きる人間の真心の道にも通じるとした。
「 主として奉ずべき筋はなにかといえば道の学問である。そもそもこの道は天照大御神(天照大神)の道にて、天皇の天下を治める道、四国万国にあまねく通ずるまことの道であるが、ただ日本にのみ伝わっているものである。それがどういう道かというに、この道こそ『古事記』『日本書紀』の二書に記されたところの、神代上代のいろいろな事跡においてつぶさにそなわっている。 」
古道
古代日本において、そもそも道とは何かといったことは論じられることはなかったが、日本は安定していた統治が行われていた。本居宣長は、その理由を、神の道すなわち「惟神の道」に従い、自然のままに統治していたからと説く。そしてそれは、『古事記』『日本書紀』に記された神々の時代から伝わってきた、神の御心のままの、人為を加えない日本固有の道が「惟神の道」という古道であり、「真心」の世界であるとした。
真心
真心とは、人間がもっている素直な心のこと。偽りのない真実の心であり、素直でおおらかな心情である。「まごころとは、よくもあしくも生まれたるままの心をいう」と説かれ、儒教・道徳の善悪の観念を離れた、美しいものを美しいと思い、欲しいものを欲しいと思う自然な心とされる。本居宣長は、「生まれながらの真心なるぞ、道にはありける」といい、人間の自然な感情を肯定するとともに、「もののあわれ(人が物事に触れた時におこる素直な心の動き)」を知る心ある人として真心に従って生きることが、人間本来のあり方であると説いた。
真心:『玉勝間』の引用
「 そもそも道は学問をして知るものではない。生まれながらの真心こそ道なのである。真心とはよくもあしくも、生まれついたるままの心をいう。そうであるのにのちの世の人は、すべて儒教や仏教に影響された漢意にのみうつり、真心を失いはててしまったので、今は学問をしなければ道を知ることができなくなってしまったのである。 」
もののあわれ
もののあわれとは、あはれ」とは感嘆詞の「ああ」と「はれ」が短縮された語で、人の心が外界の「ものごと」にふれたときにおこる、しみじみとした感情の動きのことである。美しいものを見て素直に美しいと感じる心の動きのように、人間性の自然のあらわれをいう。本居宣長は、『源氏物語』の研究を通して、「もののあわれ」を文芸の本質としてはじめてとらえた。『源氏物語』を人間の共感的な「あはれ」を中心に、人間の真の姿を描き出しているものとし、主人公である光源氏こそ、「もののあはれ」を知る「心ある人」とした。
このように「もののあわれ」は、平安時代の文学や貴族生活の根本にある心的態度で、日本文学を貫く美的理念である。本居宣長は、人間らしい生き方の根本にあるものととらえ、「もののあわれ」を知る人を心あるよき人として理想化した。
もののあわれ 『源氏物語玉の小樽』
「 もののあわれを知るということは何かというと、まず「あわれ」とはもともと、見るもの聞くもの触れることに心が感動して出る感嘆の声で、今の世の言葉にも「ああ」と言い、「はれ」と言うのがこれである………すべて何事につけても「ああ」「はれ」と感じられるのを「あわれ」と言うのであり、「ああ」「はれ」と感じるべきことに出会えば感じるべき心をわきまえて知り、つねにそう感じることを「あわれ」を知るというのである。 」
漢意
漢意とは、中国から伝わった仏教や儒教などに影響・感化され、その考え方や生き方に染まってしまった心である。本居宣長は、漢意を形式ばって理屈ばかり説く、堅苦しい精神的態度とし、このために日本人は生き生きとした感情が抑圧され、真心を失ってしまっていると説き、日本古来の「惟神の道」に返ることを主張した。
大和心
大和心とは、漢意に対する言葉で、日本民族固有の精神をあらわす。大和魂ともいい、国学において強調された。本居宣長は、「敷島の大和心を人問わば、朝日ににおう山桜花」と詠み、「もののあわれ」を深く知る心情に大和心を求めた。
漢意の排除 『玉勝間』
「 学問をして人の生きるべき道を知ろうとするならば、まず漢意をきれいさっぱりと取り去らなくてはならない。この漢意がきれいに除き去られないうちは、どんなに古典を読んでも、また考えても、古代の精神は理解しがたく、古代の精神を理解しなくては、人の生きるべき道というものは理解しがたいことなのである。いったい道というものは、本来学問をして理解する事柄ではない。人が生まれたままの真心に立つのが道というものなのである。真心というのは、善くても悪くても、生まれついたままの人間本来の心をいうのである。ところが後世の人は、全体に例の漢意にばかり感化されて、真心をすっかり失ってしまったので、現代では学間をしなければ道を理解できなくなっているのである。 」
『直思霊』
『直思霊』とは、『古事記伝』の第一巻の総論の部分に含まれるもので、古道を学ぶ者への導入となるもの。直思は、日本神話に出てくる禍(わざわい)を直す神で、本居宣長はこれを漢心に影響され人びとの禍(わざわい)を直すことにたとえている。
『古事記伝』
『古事記伝』は30余年をかけて完成させた『古事記』の注釈書で、本居宣長の代表作。『古事記伝』の著述を通して、日本に古来から伝わる道として「惟神の道」をあげた。
『源氏物語玉の小櫛』
『源氏物語玉の小櫛』は、源氏物語の本質を説き、またその注釈を記している。『紫文要領』の源氏物語論を晩年に加筆したもので、「もののあわれ」を知る心の重要性を説く。
『玉勝間』
『玉勝間』は随筆で古事や古語に関する考証や学問・思想上のことなどから広く題材を扱っており、それぞれに本居宣長独自の見解が述べられている。
 
敷島の歌 1

 

「敷島の大和心を人問はば 朝日に匂ふ山桜花」
諸君は本居宣長さんのものなどお読みにならないかも知れないが、「敷島(しきしま)の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花(やまざくらばな)」という歌くらいはご存じでしょう。この有名な歌には、少しもむつかしいところはないようですが、調べるとなかなかむずかしい歌なのです。先(ま)ず第一、山桜を諸君ご存じですか。知らないでしょう。山桜とはどういう趣の桜か知らないで、この歌の味わいは分るはずはないではないか。宣長さんは大変桜が好きだった人で、若い頃から庭に桜を植えていたが、「死んだら自分の墓には山桜を植えてくれ」と遺言を書いています。その山桜も一流のやつを植えてくれと言って、遺言状には山桜の絵まで描いています。花が咲いて、赤い葉が出ています。山桜というものは、必ず花と葉が一緒に出るのです。諸君はこのごろ染井吉野という種類の桜しか見ていないから、桜は花が先に咲いて、あとから緑の葉っぱが出ると思っているでしょう。あれは桜でも一番低級な桜なのです。今日の日本の桜の八十パーセントは染井吉野だそうです。これは明治になってから広まった桜の新種なので、なぜああいう種類がはやったかというと、最も植木屋が育てやすかったからだそうで、植木屋を後援したのが文部省だった。小学校の校庭にはどこにも桜がありますが、まあ、あれは文部省と植木屋が結託して植えたようなもので、だから小学校の生徒はみなああいう俗悪な花が桜だと教えられて了(しま)うわけだ。宣長さんが「山桜花」と言ったって分からないわけです。
「匂う」という言葉もむずかしい言葉だ。これは日本人でなければ使えないような言葉と言っていいと思います。「匂う」はもともと「色が染まる」ということです。「草枕たび行く人も行き触れば匂ひぬべくも咲ける萩かも」という歌が万葉集にあります。旅行く人が旅寝をすると萩の色が袖に染まる、それを「萩が匂う」というのです。それから「照り輝く」という意味にもなるし、無論「香(か)に匂う」という、今の人が言う香り、匂いの意味にもなるのです。触覚にも言うし、視覚にも言うし、艶っぽい、元気のある盛んなありさまも「匂う」と言う。だから、山桜の花に朝日がさした時には、いかにも「匂う」という感じになるのです。花の姿や言葉の意味が正確に分らないと、この歌の味わいは分りません。
宣長さんは遺言状の中で、お墓の格好をはじめ何から何まで詳しく指定しています。何もかも質素に質素にと指定していますが、山桜だけは本当に見事なものを植えてくれと書いています。今、お墓参りをしてみると、後の人が勝手に作ったものですが、立派な石垣などめぐらし、周りにいろいろ碑などを立てている。しかし肝腎の桜の世話などしてはいないという様子です。実に心ない業(わざ)だと思いました。
 
敷島の歌 2

 

「しき嶋のやまとごゝろを人とはゞ朝日にゝほふ山ざくら花」
この歌は、宣長の六十一歳自画自賛像に賛として書かれています。
賛の全文は、「これは宣長六十一寛政の二とせといふ年の秋八月にてづからうつしたるおのがゝたなり、筆のついでに、しき嶋のやまとごゝろを人とはゞ朝日にゝほふ山ざくら花」です。歌は、画像でお前の姿形はわかったが、では心について尋ねたい、と言う質問があったことを想定しています。
宣長は答えます。 「日本人である私の心とは、朝日に照り輝く山桜の美しさを知る、その麗しさに感動する、そのような心です。」
つまり一般論としての「大和心」を述べたのではなく、どこまでも宣長自身の心なのです。だからこの歌は家集『鈴屋集』にも載せられなかったのです。たとえ個人の歌集であっても、外の歌に埋没したり、作者から離されてしまうことをおそれたのでしょう。独立した歌として、もとめられれば、半切にも書きました。また画像と一緒ならなおさら結構と、だから、たとえば吉川義信の描く画像などにはこの歌が書かれました。
この歌は宣長の心の歌だったのです。
「敷島の歌」その後
この歌にはみんな関心を持った。その一人、伴信友は大平に質問をする。宣長の多く残す歌の中の一首に対しての疑問というより、師自らが自分の画像の上に選んだ特別 の歌としての質問である。
「朝日に匂ふ山桜花の御歌、凡そに感吟仕候て、本意なく候、御諭下され度候 うるはしきよしなりと、先師いひ置かれたり」『藤垣内答問録の一』
「敷島の歌」を大体の意味で理解して味わっていますが、本当の意味を教えて下さい、と聴いたのに対して、大平の回答は実にそっけない。「端麗・華麗ということだと宣長は言われた」。これは一首の解釈と言うより、歌の持つ雰囲気を宣長は、また大平は伝えたのであろう。
この回答は享和3年(1803)5月28日で、信友が質問したのは、宣長没後一年余しか経っていない、享和2年暮れから3年初め頃であったと思われる。信友が藤林誠継に写させた宣長像に大平の賛(「しきしまの」の歌)を貰い、「鈴屋大人の肖像を写したる由縁」(『秋廼奈古理』所収)を書いたのが享和2年11月29日であったこともこの質問の背景にはある。
また、その少し前であろうか、上田秋成は『胆大小心録』でこの歌を難詰している。 田舎人の年が長じても世間を知らぬ、学問知識の片よった輩(『日本古典文学大系』の訳)の説も、また、田舎の者が聴いたら信じるだろう。京都の者が聞いたら、天皇様にかけても面目ない。知識の開けた都には通用しないはずだ。やまとだましいということを何かにつけて強調することだ。どこの国でもその国の魂というものが鼻持ちならぬものだ。自分の像の上に書いたという歌は、いったいどういうことだ。自分の上に書くとはうぬぼれの極みだ。そこで俺は、「敷島の大和心とかなんだかんだといい加減なことをまたほざく桜花」と返してやった。喧嘩っ早いねと言って笑った。
【原文】
「い中人のふところおやじの説も、又田舎者の聞(い)ては信ずべし。京の者が聞(け)ば、王様の不面目也。やまとだましいと云(ふ)ことをとかくにいふよ、どこの国でも其国のたましいが国の臭気也、おのれが像の上に書(き)しとぞ。敷嶌のやまと心の道とへば朝日にてらすやまざくら花。とはいかにいかに。おのが像の上には、尊大のおや玉也。そこで「しき嶌のやまと心のなんのかのうろんな事を又さくら花」とこたへた。「いまからか」と云(う)て笑(ひ)し也。」『膽大小心録』第101条
晩年の秋成は何事も気に食わぬことばかりであった。その頃の文章だが、誰かが宣長の画像の話をしたのであろう。それがまた疳に触った。ただ宣長の自賛像に対する反発が秋成以外にもあったであろうことは推測に固くない。
信友、秋成この二人に始まった「しきしまの」の歌をめぐる疑問や毀誉褒貶は二百年後の現在まで続いている。とりわけ太平洋戦争頃は国威高揚のために盛んに使われ、その後の歌の評価に影を落とすことになった。
この歌は、第5期国定国語教科書初等科国語7(昭和18年刊)「御民われ」に載せられ、国民学校初等科6年前期教材として教えられた。山中恒氏『御民ワレ ボクラ少国民第二部』【1975年11月刊、辺境社】の記述によれば、この教材は「散文 国体観念教材。五首の短歌とその解説。」といった内容である。教材の表題は、巻頭の歌、御民われ生けるしるしあり天地の栄ゆる時にあへらく思へば、から採っている。また、宣長の歌は次のように紹介されている。
「敷島のやまとごころを人とはば朝日ににほふやまざくら花 さしのぼる朝日の光に輝いて、らんまんと咲きにほふ山桜の花は、いかにもわがやまと魂をよくあらはしてゐます。本居宣長は、江戸時代の有名な学者で、古事記伝を大成して、わが国民精神の発揚につとめました。まことにこの人に ふさわしい歌であります。」 『御民ワレ ボクラ少国民第二部』P312。
文章には特別曲解はないが、現場ではどのように教えられたかわからない。ただ言えるのは、朝日に桜、この言葉が喚起するイメージは次の井上淡星の詩をそう遠く隔たるものではなかった筈である。
   特別攻撃隊を讃える歌
   忘るな昭和十六年
   極月八日大君の
   醜の御盾と出で立って
   朝日桜の若ざくら
   散った特別攻撃隊
   岩佐中佐と八烈士
このほかに「しきしまの」の歌が武士道と結びついた例を挙げる。最初は安政4年12月7日生まれで、父は幕臣で表銃隊取締役だったと言う人の文章。他の一つは奈良女子高等師範学校教官の本からの引用だが、こちらは手元に本が無いため、正確な引用ではない旨先にお断りしておく。  
「佐久良は殊にうるはしくいさぎよき花なれば、これを我が大和心に比していへり。かの宣長が「敷島のやまと心を人とはゞ、朝日に匂ふ山桜花」の歌は何ぴとも知るところにして、藤田東湖の正気歌に「発為万朶桜」とよみしも同じ意なり。(中略)この花の特色として見るべきは、散るときのいかにもこゝちよき事なり。咲き乱れたる頃、颯と吹きくる風の一たび其の梢を払へば、花は繽粉と飛びちりて聊かも惜しむこころなきものゝ如し。そのさまは恰も武士の笑を含みて死に就くに似たり。花のたふとむべき所こゝにあり。「花は佐久良」山下重民、『国民雑誌』第3巻8号、明治45年4月15日刊(『風俗画報・山下重民文集』収載)。
「日本の武士は決して死をおそれませんでした。うまく生きのびようとするよりもどうして立派な死にようをしようかと考えている武士は、死ぬべきときがくると桜の花のようにいさぎよく散っていったのです。だから本居宣長という人は、敷島の大和心を人とはば朝日ににほふ山桜花、という歌を歌って、日本人の心は朝日に照りかがやいている桜のようだと言ったのです。」『大日本国体物語』白井勇、昭和15年3月刊、博文館。
宣長が武士道を歌ったとはどこにも書かれていないが、いさぎよく散った桜、と述べたすぐ後で「しきしまの」の歌が引かれていれば、その延長線上で理解されてもしかたがない。この歌を散る桜のイメージでとらえたのは、私の見た限りではこの二つだが、おそらく探せばいくらもあるであろう。
敷島の歌はなぜ『鈴屋集』に載らないか
桜が好きで好きでたまらない宣長が、見つけた究極の桜の美が「敷島の歌」に凝縮されている。種類は、葉が赤く細木がまばらに混じる山桜。天気と時間は、晴れた朝日の頃。桜花は朝日の頃に限るという美意識は、『新古今集美濃の家づと』の、有家朝臣「朝日かげにほへる山のさくら花つれなくきえぬ雪かとぞ見る」評にも、
「めでたし、上句詞めでたし、桜花の、朝日にあたれる色は、こよなくまさりて、まことに雪のごと見ゆる物なり」と見えている。
ところが、この歌は、宣長の自画像を初め、その肖像にはよく書かれているのに、不思議なことに、自選歌集『鈴屋集』には載っていない。
人から頼まれたら書くのだから、この歌は自信作であったはずだが、どうして歌集に載せなかったのか。
一つの見方として、私は、宣長は自分からこの歌を離したくなかった、歌集の中に埋もれさせたくなかったのではないか。だから自分といつも一緒、つまり画像か、もしくは独立した半切などの紙にのみ書いたのではないかと考える。いかがでしょうか。
本居宣長六十一歳自画自賛像
これが宣長像の中でも一番有名で、またその後制作された宣長像のモデルとなった画像です。
【制作年】 寛政2年(1790)8月。
【伝来】 松坂本居家から記念館へ(弥生翁寄贈)。
【指定】 国指定重要文化財。
【賛】 「これは宣長六十一寛政の二とせといふ年の秋八月に手つからうつしたるおのかゝたなり/筆のついてに/しき嶋のやまとこゝろを人とはゝ朝日ににほふ山さくら花」
【箱書】 元箱(蓋のみ残る)「宣長自写肖像」裏「寛政二年庚戌八月」(宣長自筆)、箱(春庭時代作成)「先人自画讃遺像 春庭謹蔵」(美濃代筆)。同裏、印「鈴屋之印」(紙に捺印・貼付)
【解説】 一般に流布する本居宣長像はこの画像を元にする。例えば、江戸時代によく流布した吉川義信の画や、また木版刷りの宣長像は何れもこの六十一歳像がモデルだ。本居家の伝承によれば、宣長自筆の六十一歳像はこの1点しかない。
「愛国百人一首」
「一九四〇年代の「愛国百人一首」となると、今日なおホロ苦い思い出を伴って、記憶の片隅にある人も多いであろう」。「宣長のうた」岩田隆(『本居宣長全集』月報3)
『愛国百人一首』とは、戦時下、日本文学報国会が、情報局と大政翼賛会後援、毎日新聞社協力により編んだもので、昭和17年11月20日、東京市内発行の各新聞紙上で発表された。選定委員は佐佐木信綱、斎藤茂吉、太田水穂、尾上柴舟、窪田空穂、折口信夫、吉植庄亮、川田順、斎藤瀏、土屋文明、松村英一の11氏。選定顧問に委嘱された15名には川面情報局第五部長など政府、翼賛会、軍関係者に交じり徳富蘇峰、辻善之助、平泉澄、久松潜一が名を連ねる。選考は、毎日新聞社が全国から募集した推薦歌と、日本文学報国会短歌部会の幹事、選定委員の数氏より提出された推薦歌の中から前後7回にわたって厳選したという。選ばれた歌は、「愛国」ということばを広義に解釈して、国土礼讃、人倫、季節などの歌も加え、万葉集より明治元年以前に物故した人に限った(以上、『定本愛国百人一首解説』凡例)。「佐佐木信綱先生略年譜」(『佐佐木信綱先生とふるさと鈴鹿』)には選者についてもう少し詳しい。東京日日新聞発案、情報局後援を背景に、愛国百人一首選定を日本文学報国会が行なう。 「選定委員は信綱七一歳をはじめ、尾上柴舟六七歳、太田水穂六五歳、窪田空穂六六歳、斎藤瀏六四歳、斎藤茂吉六一歳、川田順六一歳、吉植庄亮五九歳、釈迢空五六歳、土屋文明五三歳、松村英一五四歳。北原白秋五八歳はこの月に逝去し、土岐善麿五八歳は自由主義歌人として人選に漏れたのであろう。近代短歌の代表者たちが、熱心にこの挙に参加している。」 「毎日新聞社」という名前は昭和18年1月1日から使用された。
さて、『定本愛国百人一首解説』に戻る。同書の「諸論」には、選定条件などが詳しく記される。また、宣長の項は川田の執筆である。この本は日本文学報国会編で昭和18年3月20日毎日新聞社より刊行された。手元にあるのは同年7月1日再版70,000部の1冊。表紙は安田靫彦、題簽は小松鳳来。愛国百人一首には、宣長以外に、直接の門人としては栗田土満の「かけまくもあやに畏きすめらぎの神のみ民とあるが楽しさ」が選ばれ、また、平田篤胤の「青海原潮の八百重の八十国につぎてひろめよ此の正道を」も載る。手元にもう1冊『愛国百人一首評釈』という本がある。こちらは川田順の単独執筆である。本書そのものは、発表された翌21日から朝日新聞に載せたものを補正したもので、更に宣長の項は自著『幕末愛国歌』からそのまま載せたと断ってある。その転載したという解説を読んでみると、同一人の執筆でも『定本愛国百人一首解説』とは自ずとその観点は異なる。前著が作者略伝を中心とするのに対して、本書は歌の解説が中心となる。要点を述べると、宣長の桜の美が散る趣ではないと言い、桜と日本精神について高木武の説を紹介。その上で、しきしまの大和心とは日本精神であることを明言する。また井上文雄の「いさぎよき大和心を心にて他国には咲かぬ花ざくらかな」という歌が、散り際の潔さという「最も普遍的な桜花礼讃であり、維新志士の吟詠中にしばしば現はれて来る桜花の歌は、悉く此の思想に属するものだ」と言う。また巻末には、川田の「愛国歌史」と、高瀬重雄の「作者略伝」が付く。本書は昭和18年5月10日、朝日新聞社から刊行された。カバーは斯光と署名のある兜の絵である。
次に朝日版の解説のもととなった『幕末愛国歌』だが、本書は昭和14年6月1日第一書房から刊行された。本書は「戦時体制版」と銘打ってあり、巻末広告には社長長谷川巳之吉の「戦時体制版の宣言」が載る。この本では、序篇「国学者と歌人」に宣長は載る。歌は「敷島の」他2首が選ばれる。さし出づる此の日の本の光より高麗もろこしも春を知るらむ、百八十の国のおや国もとつ国すめら御国はたふときろかも、解説は類歌との比較などをして詳しい。
もう1冊類書を紹介する。『日本愛国歌評釈』である。藤田福夫著。昭和17年12月20日葛城書店から刊行された。構成は、皇室篇と民間篇に分かれ神武天皇より本書の編集されたときにまで及ぶ百十首。宣長の歌は、さし出づる此の日の本のひかりこまもろこしも春をしるらむ、思ほさぬ隠岐のいでましきく時は賎のをわれも髪さかだつを、の2首が選ばれ「敷島の」は洩れている。各歌には簡単な語釈、通釈、後記が付く。装丁は山本直治で、富士に桜である。何も断り書きはないが、本書と「愛国百人一首」は同時期ながら、一応別 個に選ばれたものである。もちろん重なる歌もある。
紹介するもう1冊は書道の手本である。『愛国百人一首』神郡晩秋書(大日本出版社峯文荘 昭和18年9月10日刊)、本書は巻末に釈文と略解が付き、巻頭には阿部信行、吉川英治の色紙が載る。
大変な意気込みで作られたこの百人一首について、『【昭和】文学年表』で当時の様子を窺ってみよう。
【昭和17年】
11月14日 「国民操志の培養へ−”愛国百人一首の意義“−」太田水穂・『朝日新聞』〈東京〉
11月21日 「新た世に贈る−”愛国百人一首“選定を終りて−」佐佐木信綱・「皇国民心の精華−反映した万葉歌人の心〈上代〉」斎藤茂吉・「戦につれて−ほとばしる至誠至忠の念〈平安朝より吉野朝へ〉」尾上柴舟・「志士の雄叫び〈幕末〉」斎藤瀏。『朝日新聞』〈東京〉
【昭和18年】
1月1日 「愛国百人一首の意義」井上司郎・『文学』
2月1日 「寄世祝−愛国百人一首のうち伴林光平の歌−」上司小剣・『文藝春秋』
4月1日 「日本精神を伝ふ−愛国百人一首のドイツ訳−」茅野蕭々・『朝日新聞』〈東京〉
6月1日 「愛国百人一首小論」佐藤春夫・『改造』
通覧して「愛国百人一首」と明らかに関わりのあるものを抜いてみた。遺漏もあるかと思う。いずれにしても、このような大新聞や雑誌ではどの程度国民の間に浸透したのかまではわからない。授業で強制的に覚えさせられたとか、カルタをしたとか、もう少し当時の人の証言を捜す必要がある。また以前、松本城前の古本屋で横文字の「愛国百人一首」を見かけた。てっきり英語だと思っていたが、あるいはドイツ語だったのだろうか。逃した魚はいつも大きい。
 
山桜 大和心とはなにか

 

保守・右翼の方に大変好まれている本居宣長という江戸時代の国学者がいる。
彼は、それまでの儒学=中国思想中心の学会を批判し、「日本の思想に立ち返れ」と説く。この辺りに、右寄りの人等が本居宣長を好む理由がある。
また「敷島の 大和心を 人問はば 朝日に匂ふ 山桜花」という彼の詠んだ歌がある。これは、戦前の日露戦争中には、税収アップをねらった政府が、この歌からとった「敷島・大和・朝日・山桜」という官製品の煙草を作ったり、大戦中の神風特別攻撃隊の四部隊の隊名である、敷島隊・大和隊・朝日隊・山桜隊の由来にもなっていたりして、過去の戦争とはいろいろと結びついている。
このように、本居宣長は、保守勢力や右翼と非常に相性の良い思想家というイメージがあるのだが、実はここには、彼の思想に対する誤読の影響がある。「中国(異国)の思想よりも自国の思想を重視せよ」という彼の主張の一部ばかりが一人歩きしてしまっていて、彼が「本当に大切にしろ」といったものは何なのか、が大抵の場合抜け落ちているのである。
彼の数ある著作の中でも、特に有名なのは、完成までに36年を費やした『古事記伝』であるが、その一方で、彼が『源氏物語』を再評価した人であることもかなり重要だ。『源氏物語』の再評価とは、彼が生きた時代背景を考えると、実はなかなか大胆な意見でもあるのだ。
江戸幕府の当時の思想的支柱を担っていたのは儒学である。儒学の倫理観は、ひと言で言って「硬い・堅い」。そんな儒学からすると『源氏物語』は不倫に満ちた晦淫の書であり、それ故に排斥されてきたのだ。いまでこそ不朽の名作としての地位を与えられている『源氏物語』であるが、当時はそれほどの評価をされていなかったのである。
ところがそれを彼は「此物語は、よの中の物のあはれのかぎりを、書きあつめて、よむ人を、感ぜしめむと作れる物」として評価する。「そんな儒学者のような考え方ってどうなのよ。人ってそういうものだし、そういう『もののあわれ』を感じるのが大和心じゃないの」と言ったのが本居宣長である。ちなみに、本居宣長の『源氏物語玉の小櫛』に、「『あはれ』といふは、もと見るもの聞くもの触るる事に心の感じて出づる嘆息(なげき)の声にて、今の俗言(よのことば)にも、『ああ』といひ、『はれ』といふ、これなり」とある。つまり「あわれ」とは感動詞「あ」と「はれ」との複合した語だ、ということである。そしてそれは、喜怒哀楽すべてにわたる感動を意味し、平安時代以後は、多く悲しみやしみじみした情感、あるいは仏の慈悲なども表すようになった言葉だ。
このように観てくると、「中国(異国)の思想よりも自国の思想を重視せよ」という彼の主張に対する印象はずいぶんと変わってくるのではないだろうか。また、日露戦争時の煙草、神風特攻隊に引用されたという、先に紹介した歌についてみてみよう。
敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花、この歌は、宣長の六十一歳自画自賛像に賛として書かれていて、歌は「自画像でお前の姿形はわかったが、では心について尋ねたい」と言う質問があったことを想定している。その問いに対する宣長は答えが「日本人である私の心とは、朝日に照り輝く山桜の美しさを知る、その麗しさに感動する、そのような心です」というものになる。つまり一般論としての「大和心」を述べたのではなく、どこまでも宣長自身の心についての歌なのである。 
ところがこの歌の解釈は、その後変質していくことになる。 
「日本の武士は決して死をおそれませんでした。うまく生きのびようとするよりもどうして立派な死にようをしようかと考えている武士は、死ぬべきときがくると桜の花のようにいさぎよく散っていったのです。だから本居宣長という人は、敷島の大和心を人とはば朝日ににほふ山桜花、という歌を歌って、日本人の心は朝日に照りかがやいている桜のようだと言ったのです。」(『大日本国体物語』白井勇、昭和15年3月刊、博文館)
ここには、本居宣長がこの歌に込めた心はない。宣長は決して武士の死に様と自分の心を、ましてや日本人の心を重ね合わせてはいないのだ。
少し話はそれるが『本居宣長』という著作のある小林秀雄は「山桜」をことの他好んでいたようだ。彼の「文学の雑感」という講演の中で、「葉と花が一緒に出る山桜こそ桜なのだ。ソメイヨシノなんてものは最近になって、文部省と植木屋が結託して広めたもので、ろくなもんじゃない」というようなことを言っている。
そして小林秀雄は、本居宣長が山桜を愛していたことに触れ、生前の宣長は「自分の墓は質素でいいから、そばに立派な山桜を植えてほしい」と言い残していたのだが、その山桜は枯れてしまい、今では墓も立派なものになってしまった、宣長を尊敬しているという後世の者たちが立派な墓に立て替えたのだが、そういう人たちは決まって宣長を読んでいないし、理解もしていない、だからそんな墓を建ててしまうのだ、と嘆いている。
今、「日本古来の伝統的価値観に戻るべきだ」という人々の中で、本居宣長をきちんと読んだことのある人はどれだけいるだろうか。そして、宣長が主張した、戻るべき日本精神とは「もののあわれ」であって、儒教的なものではないというのに「伝統的価値観」を叫ぶひとたちの「価値観」とやらが、かなりマッチョで堅苦しい、儒教的なものであるのは、かなり矛盾を抱えている主張であると言わざるを得ない。
最後に、夏目漱石の『我が輩は猫である』に、大和魂に関する思いが見られる一節があるので紹介しておこう。
「大和魂(やまとだましい)! と叫んで日本人が肺病やみのような咳をした」
「起し得て突兀(とっこつ)ですね」と寒月君がほめる。
「大和魂! と新聞屋が云う。大和魂! と掏摸(すり)が云う。大和魂が一躍して海を渡った。英国で大和魂の演説をする。独逸(ドイツ)で大和魂の芝居をする」
「なるほどこりゃ天然居士(てんねんこじ)以上の作だ」と今度は迷亭先生がそり返って見せる。
「東郷大将が大和魂を有(も)っている。肴屋(さかなや)の銀さんも大和魂を有っている。詐偽師(さぎし)、山師(やまし)、人殺しも大和魂を有っている」
「先生そこへ寒月も有っているとつけて下さい」
「大和魂はどんなものかと聞いたら、大和魂さと答えて行き過ぎた。五六間行ってからエヘンと云う声が聞こえた」
「その一句は大出来だ。君はなかなか文才があるね。それから次の句は」
「三角なものが大和魂か、四角なものが大和魂か。大和魂は名前の示すごとく魂である。魂であるから常にふらふらしている」
「先生だいぶ面白うございますが、ちと大和魂が多過ぎはしませんか」と東風君が注意する。「賛成」と云ったのは無論迷亭である。
「誰も口にせぬ者はないが、誰も見たものはない。誰も聞いた事はあるが、誰も遇(あ)った者がない。大和魂はそれ天狗(てんぐ)の類(たぐい)か」
 
「大和心」を子供たちに

 

日教組に支配された教育現場 
私は22歳で大学(広島大学)を卒業すると人生のその大半を教職現場で全うしてきた。その間、35年にわたって高校野球監督として一心不乱に打ち込んできた。憧れの甲子園へも監督として10回出場させて頂いた。幸せな教職人生だったと思う。
最初に赴任したのは広島県東部の公立高校であった。昭和49年春である。その頃の広島県東部は組合(日教組)活動が盛んで、その加入率100%という異常な地域であった。日教組本部の指示により授業(勤務)放棄によるストライキを打つ。授業時間数0で組合活動に専従する教師が2人くらいはいた。選挙となれば「社会党」(当時)のビラ配りに教職員こぞって出かける有様である。
当時この地域は同和教育全盛であり、“人権”教育にすり替えられていた。当時の社会党は“部落解放同盟”と連帯しており、組合と解放同盟は連帯して教育現場を蝕んでいた。解放同盟によれば、「部落差別」の元凶は「天皇制」だという。“天皇という地位があるから最下層としての被差別部落がある”というのが彼らのテーゼである。
従って『神話』などはもっての他。日本の歴史上差別の頂点にいる天皇を美化する神話は許されないという。こうした考えが“正論”として教育現場に充満していた。
歴史学者、アノールド・トインビーは「12~13歳までに民族の神話を学ばなかった民族は必ず滅びる」との名言を残した。
この国で生きていくであろうこれからの子供たちにその国の成り立ちを語らずしてどうして誇りを持たすことができようか!!
神話にかぎらず先人の過去の歴史を美しいものとして語り継がせずしてどうして子供たちの心に安寧をもたらすことができようか!!
かつて天才科学者アインシュタインは日本人の勤勉さや正直さ、道義の高さに驚嘆し日本と日本人を愛した。彼は「この地球上でたった一つだけ残すべき民族があるとしたら、それは日本人である。」と語ったという。日本民族としてこれ以上の矜持があろうか!!
日本人の温かい物語を子供達に
今の若者が非人間的な動機、すなわち「人を殺してみたかった。」「人を刺す感触を経験してみたかった」という誠に身勝手な殺人を犯すのも、過去の美しい民族の歴史を伝える努力を避け、自虐的な歴史を刷り込み残虐な国家であったと教育してきたらに他ならない。
南京大虐殺や従軍慰安婦などのありもしない捏造された歴史を平気で垂れ流してきた日教組や左派マスコミの煽動により悲しむべきことだが子供たちは誇りを奪われ、民族としてのアイデンティティーを喪失してきているのである。
日本人としての温かい物語を欲していた純真な心は引き裂かれ、最も肝要な「背骨」が溶け始めている。
昨今の残虐性を帯びた事件は起こるべくして起きているのである。幼き頃より先人の悪口や戦前の近代日本に於いて大量虐殺・強姦をしてきた非道で汚い国家・国民であったと繰り返し教え込まれれば心がすさび、何ものにも感謝はせず、その空虚さに耐え切れなくなり切れまくることは自明の理である。ここに歴史教育の怖さと重要性が存するのである。
偉大な「大和心」を振起させるために
私には持論がある。それは小学校の段階で『神話』『教育勅語』『偉人伝』を学ばせるということである。
どんな色にも染まる純真無垢な幼な子の真っ白なキャンバスに壮大なロマンを含んだ「神話」を書き込んでやる。日本の神話ほどスケールが大きく宇宙の成り立ちや天地創造を空前絶後の物語りとして構成されたものを知らない。子供たちの心は狂喜乱舞するに違いない。「教育勅語」は人としての道を適格に導いてくれる最高の手本である。解り易く解説してやれば必ず立派な日本人として成長していくはずである。そして、「偉人伝」を通じて“歩みたい自分の人生”の道標として示してやる。
この3点セットを小学生の心に刷り込んでやればどれだけ素晴らしい日本人が生み出されることであろうか!!今からでも遅くはない。これからの人生を日本人として生き抜く子供たちに“日本の麗しき歴史”を語れ!
幼な子の耳元で、「良い国に生まれましたね。そのことに感謝して皆と仲良くして、もっともっと良い国にして次の人たちにバトンタッチして行きましょうね。」と囁け!!
この国に「誇り」と「愛国心」を堅持した子供達は必ずや世界から尊敬され、日本民族が長きにわたって培ってきた“徳”という品格が世界に発信され、見事な“美しい国家”として世界各国のお手本となることであろう。
その時こそ真の「八紘一宇」の実現と言えるのであろう。日本が世界の真のリーダーとなるには、経済的繁栄や単なる国力の充実にはあらず。我々の歴史の中に潜む偉大な「大和心」を振起することである。
その淵源は正しい歴史と美しい物語を次世代に語り継ぐこと以外に方法は残されていないのである。
 
大和心 2

 

大和心と言う言葉と出会ったのが、今から37,8年前志木駅の広場で開催されていた古本市で見つけた「技法日本傳柔術 著者 望月稔」という本からでした。 買った動機は、当時友人に頼まれ合気道を指導していた事もあり、参考になるかなと思いでした。 読んでわかった事ですが、※望月氏も昭和初期、開祖植芝盛平に師事して合気道を学んでいます。※明治40年4月11日生
技法の解説と自身の理念を著した内容になっています。
その一節―武士道とは―に、「大和心」の説明があったのです。
「『武士道とは死ぬことと見つけたり・・・』とか、『君の御馬前に討ち死にする以外に、武士道あるまじき・・・』という。もとより全くのあやまりではない。だが武士道というものは、そればかりではない。明治の中期頃すでに新渡戸稲造博士が得意の英文で世界に紹介した武士道論のごときは『葉隠』のそれとはスケールに大きな違いがある。そこには西欧の騎士道やジェントルマン意識にも劣らない倫理性を述べている。その根源はどこにあるかと追及すれば、『大和心』と言う事になる。
これは『やまとこころ』と読むのが普通であるが、『いやあまたこころ』の転化である。それを今様にいうならば最大多数者の共通的善意識ということになる。いあやまた(非常に、多くの人人の)心(真心)である。この『大和心』―――いやあまた人の共感としての真心―――これこそが日本精神文化の華たる『武士道』なのである。したがって武人の特質でもなければ専有物でもない。古くは、万葉集の歌の中に散見される『今日よりは、かえりみなくて・・・』『海ゆかば水づくかばね・・・』のごとく、国を守り『防人』として民族の防衛力に徴兵されれば、一切の私情を捨てて全体に奉仕しようとする、そういう心の表明が万葉集に残っている。
ずっと代は下がるが町人どもとよばれ、第三階級とされていた商人でも47人の義士をかばって一家全員が極刑を受けても屈しなかった天野屋利兵衛がいる。女性ながらも維新の志士を庇護した疑いで投獄され、拷問を受けながら所信を貫き通した野村望東尼や三条大橋の上で颯爽たる征夷大参謀西郷隆盛の馬前に駆けよって『討つ人も、討たるる人も心せよ、同じ御国の民ならずや』の一首を差し出して、大西郷に最敬礼させた太田垣蓮月尼のような女性もいる。」引用文。※天野屋利平兵衛、忠臣蔵では武器など調達して四十七士を助ける話があります。※記述に誤りがあり、修正しました。
「赤穂浪士の吉良邸討ち入り後、かなり早い時点から赤穂義士を支援した義商として英雄化された。討ち入り直後に書かれた加賀藩前田家家臣杉本義隣の『赤穂鐘秀記』においても「大坂の商人天野屋次郎左衛門、赤穂義士たちのために槍20本つくったかどで捕縛され、討ち入り後に自白した」などと書かれている。赤穂浪士切腹から6年後の宝永6年(1709年)に津山藩士小川忠右衛門によって書かれた『忠誠後鑑録或説』にも「大坂の惣年寄の天野屋理兵衛が槍数十本をつくって町奉行松野河内守助義により捕縛され使用目的を自白させるために拷問にかけられたが、答えずに討ち入りが成功した後にようやく自白した」などと書かれている。」ウキペディアより。
忠臣蔵では、拷問に耐え、口を割らなかった時の科白に「天野屋利兵衛は男でござる」と言い放ったぐらいで、商人でありながら男気のある人物だったようです。
野村望東尼(ぼうとうに)は戦前、初等科修身四の項で「自分で慎む」のお手本として紹介されており、
誰もが知る女性だったようです。
昔より「大和心」として、心性、徳性が練られた背景には、公に尽くす、利他の念、義を大切にする精神があまねく、その共通的善意識が大切なものと共感していた事が伺えます。
「あるいは、討幕の勝報に酔った官軍の長たちが、まさに徳川慶喜の死刑を判決しようとしたとき決然と立ち上がった御年16歳の明治天皇が『結果としては志とは違ってしまったが、慶喜は一貫して大政奉還を説いた。そして300余大名たちを押える努力も続けていたのではないか、死刑にする必要はない』と大喝一声、ついに慶喜の刑を免じて駿府(静岡)に隠居することを許された。これこそ帝王にある『武士道』である。それは農民にあり町人にあり婦女にあり、帝王にあり日本人の深奥にひとしく持っている『大和心』であり、日本精神文化の華である。」
30代前半の頃にこの記述にふれて改めて、大和魂なるものの本質を知りました。 当時までは、大和魂と言えば勇猛果敢な敢闘精神を指すものと思っていました。がしかし、著者の「共通的善意識」という説明からモラル、道徳としての位置付として大和心、大和魂と呼称していたのでしょう。
戦後は軍国主義なる造語を使い、短絡的にその精神を戦争に結び付け武士道、大和魂などを批判する人たちが居ましたが、とんでもない的外れなことです。
昭和40年代の経験ですが、大学紛争がおこり左翼暴力学生が暴れた時代がありますが、その時その連中、部活で武道をしている学生、私らを「右翼」と勘違いするくらいに短絡的でした。
某大手新聞社も同様でした。
この傾向は今では薄まっているようですね。
最近テレビの映像で、琉球古流空手の稽古風景が流れていましたが学ぶ外人たちの走りの掛け声が「ブシドウ、ブシドウ」だったのには驚きました。
また、日本ラグビーチームの応援のテレビの映像に「大和魂」と銘打った場面がありました。 大和撫子も昔の呼称ですが、サッカーチーム名に冠しているくらいです。 どの程度の認識は分かりませんが、だんだんと日本精神の理解が深まっているように感じます。
ただ今でも忘れられない言葉、何年前になりますか、小学校のクラス会で先生にお聞きした事、「先生、何故、戦後修身教育が無くなったのですかと」と聞くと、先生は「それはマッカーサーが大和魂を貶めるため」と言われたことを聞いて納得した経験があります。
日本人、短絡思考を止め、「日本の心」を見つめ直さないといけませんね。
 
日本の心、それは大和

 

私たち日本人は戦後、自分たちの心を見失ってしまいました。それが今日のさまざまな、本当にさまざまな、個人から社会レベルに至るまでの問題を生んできました。
それでは一体、私たち日本人の心とは何だったのでしょうか。和洋折衷、和式、和風といわれるように、「和」は日本そのものを指していう言葉です。しかし、それと同時に「和」は日本の心を表していたのです。つまり和の精神です。平和の和、調和の和。「和を以て貴しとなす」の和。
しかし、多くの人はここで一つの誤解をしています。和とはまるで自分の個性を抑えて、控えめにすることで、全体を丸く収めて、互いに関わり合うことだと考えていることです。しかし、これは消極的な和であって、和の本義ではありません。
大きく和すること。つまり「大和」(やまと)。これこそが和の神髄なのです。
大きく和するとは、一人一人がまず自らの個性を最大限に発揮して、自立することです。つまり一人一人が大きな存在となること、その上でそうした者達が互いに和すること、それが大和です。決して自分の個性を抑えて、歯車のように自らの存在を小さく押し殺すものではありません。
しかし、自らを最大限に発揮するということは、同時に自己主張をして、我を張ることにも通じます。
そして世界の民族紛争、宗教戦争などは、この互いの我の張り合いによるものです。
それではどうすれば、大きく和することが出来るのかといえば、それが「愛」の力なのです。
しかし、それぞれに違った個性の者同士が和するためには、生半可な愛では到底叶いません。強い愛、つまり強い精神力に裏打ちされた愛が必要です。
つまり、大和とは、強い精神力に裏打ちされた愛によって、大きく和するという、極めて積極的で前向きな力強い精神のことなのです。それが日本人の本来の心、「大和魂」の真意です。
そして大和とは大自然そのもの、宇宙そのもののことです。なぜなら「あの栄光栄華を極めたソロモンでさえ、この野に咲く一輪の花ほどにも着飾っていなかった」という、イエス・キリストの言葉にもあるように、この自然界のすべての存在は、自らの個性を最大限にアピールしているにも関わらず、見事に調和しているからです。そしてこのことが成されるために、この宇宙は目に見えない、強く大きな愛の力で貫かれているのです。
だから、私たちの先祖たちはこの自然や宇宙から、大和の精神を学ぼうとしてきたのです。それが、神ながらの道、即ち、神道です。そして、これが日本の心そのものであり、大和魂なのです。
そして、数学のゼロを発見したのがインド人ではあっても、それがインド人のためだけの発見ではなかったように、またイエスの尊い教えがクリスチャンたちのためだけではなく、全人類にとっての尊い教えであるように、日本が生んだこの大和の精神は一つの民族や宗教のためだけのものではなく、これからの時代の指針として、世界に指し示すべき普遍性を持った思想なのです。
しかし、それを私たち日本人自身が失ったがために、その精神性は戦後五十年のうちに見る影もなく、転がり墜ちるように崩れていってしまったのです。
日本の心、それは大和。
もう一度そのことを思い出さなければいけない時期に、私たちは来ているのではないでしょうか。
 
和魂 

 

和魂は、「わこん」とも「にぎみたま」とも言います。
「わこん」といえば、やまとだましいのことで、日本人固有の精神のこと。和魂漢才とか洋才とも言います。
「にぎみたま」は、神道の霊魂観からとらえた言い方で、柔和、精熟などの徳を備えた神霊または霊魂をいう。これに対して、荒く猛々しい神霊を荒魂(あらたま)と言います。
人は普段、柔和で「にぎみたま」の状態にありますが、非常緊急時、怒ったり、戦ったりする場合は、「あらみたま」の荒く猛る状態となるとみます。
そう考えると、武道場の鍛錬とは、和魂を荒魂の状態にして訓練するわけで、実戦に近ければ近いほど激しいものになります。ですから終わる段階は、荒魂を和魂へと鎮めなければ治まらないことになり、魂(たま)しずめの法(終末運動)を念入りに行うことが必要となってきます。
和魂漢才・洋才は、やまとの地に生まれ育った人のこころと、外国の漢(から=中国)の才(ざえ=学問)、洋(西洋)の才が対となっています。
漢才は、仏教や儒教が、先進国・中国から輸入された時代のこと。「やまとたましい」という言葉は、紫式部の『源氏物語』が初出といいます。光源氏の子供は、やまとたましいはあるものの、生まれ育ちがよいだけでは将来が不安、やはり学問を学ばせようという話の段に出てきます。
「やまとこころ」という言葉は、同じ時代の女流歌人、赤染衛門の和歌に見えます。子供ができて乳母を雇うとき、博士の主人が「学識のある家に来るには不足」と言うのに対して、「たとえち(智=学問)が低くとも、やまとこころさえあれば何とか補っていけばよい」と答える歌に出てきます。
いずれも生まれつきのもので、学問と並べられる大事なものですが、勇武というほどの意味でなく、溌剌な、とか、利発、気立てがよいというような意味合いと考えられます。
しかしこれが後世になるに従って猛々しいとか、戦闘的な言葉として使われるようになります。島国でおだやかな浦安の国の純粋なる心根が、外国の野蛮なる力にさらされて、たくましく勇敢なる大和魂へと鍛えられていったとみることができます。
近現代は和魂洋才の時代で、尊皇攘夷の精神気概が歴史を大きく動かしました。今は和魂を見失ってしまった時代と言われます。武道場は、この和魂を養い、鍛錬する場所と言うことができます。
 
大和魂の歴史

 

一 「やまとだましい」のみなもと
紫式部の手になるとされる「源氏物語」が誕生して、今年2008年は丁度千年紀とされます。いろいろの企画が各地で進められているようです。その中に書き始められた「やまとだましい・大和魂」なる日本語もこの千年間生き続け、現在もその命を持ち続けているという、大変長生きの、また日本人好みの言葉のようです。 
「源氏物語」に「大和魂」と書かしめた原因は何に依るのか。その用語は確かに紫式部が初めて言葉にして書き記し、後世に伝えたことは確かですが、突然に紫式部が創出した概念ではないでしょう。紫式部の時代に遡ること数百年の大陸文化の導入の時代があるわけです。一例万葉集の諸歌人の身につけている、紫式部が「ざえ」(漢才)と言った大陸文化の学問・知識に対する習得レベルは現代人とて及ぶものではありません。
必死に大陸文化を取り入れるべく、漢才をこなせばこなすほど、「日本人とは、日本文化とは」と自問自答を繰り返すことになります。たとえば、漢詩に対する大和歌(和歌)の創出が万葉集になり、紀貫之らの古今和歌集は初めとする中世の華やかな和歌時代へと展開していくことになるのでしょう。
「漢才」(詩文)に対する「大和歌」(和歌)という「やまとだましい」
「大和魂」を『漢才に対する実務的な、あるいは実生活上の才知、能力』(国史大事典解説)と解しますと、和歌の世界に於ける具体的な「大和魂」の原形は、和歌であり、百人一首の歌人で考えますと、紫式部の大凡百年前の大江千里や菅原道真などの文化人の活動実績にその一端を見ることが出来ると思われます。ちなみに吉沢義則「大和魂と万葉歌人」では、「国民精神、すなわち大和魂の意志を考える材料として、万葉歌人の詠歌態度」に焦点を当てています。

大江千里は、「大江千里集」なる「句題和歌」(126首)は、漢詩文の深い知識を和歌世界に展開したものとされ、彼の百人一首歌も白氏文集や李白の五言絶句「静夜思」に、さらには明治時代の小学唱歌もそれに通じるものがあるようです。
菅原道真は平安前期の代表的な文人官僚にして漢学者であり、詩人かつ歌人でもあった人です。道真は文章博士の家柄と「凌雲集」「文筆秀麗集」の撰者として、あるいは「菅家文章」「菅家後集」において漢才の実績が500首以上の漢詩文で遺憾なく発揮され、また一方和歌の世界でも「古今集」以下の勅撰集に三十余首入集し、特に新古今集・巻十八・雑歌下には、配所大宰府での述懐歌十二首が特撰され、自らも「新撰万葉集」(242首の万葉仮名和歌と七言絶句の翻案漢詩からなるアンソロジー)(寛平五年・893)(道真49才頃)を選し、和歌を万葉仮名にしたり、七言絶句に漢詩訳を試みるぐらい和歌と漢詩の世界を行き来できる和漢に通じる歌人であったのです。 
菅原道真の菅家遺戒にいう「和魂漢才」とは、「国体は漢学の知識だけではその神髄を会する能はずして、国学の奥妙は必ず和魂と漢才を併用してのみ会得しうる。」 「・・・道真の「和魂漢才」という考えは、後世の付会にすぎないが、「漢才」の残照によって、「大和魂」の世界にもののあわれという匂やかなほのかな光を点じだした道真文学は、藤原文化、平安文学の性格と深くかかわりあう・・・・」
道真も千里同様に漢詩の世界で活動すればするほど、和歌の世界の遊泳が楽しめたのではないかと思えます。そのように文芸世界を動き回ること自体が「道真のやまとだましいの発露」であったと思います。これらの和漢の文学世界を逍遥する形態は日本初の漢詩集「懐風藻」(751年)から260年後に藤原公任が「和漢朗詠集」(1013年)で展開し、後世の文化人の拠り所を提示しています。
二 中世の文学世界に於ける「やまとだましい」
源氏物語で創出された「やまとだましい」なる言葉は、その後細々と受け継がれていったようです。
(1)「大鏡」(11世紀後半)藤原時平事績の項において
「・・・かくあさましき悪事を申し行ひ給へりし罪により、この大臣の御すゑはおはせぬなり。さるはやまとたましいなどはいみじくおはしたるものを・・・・」 (「やまとたましひ」とは、「融通の利く性質、機転の利く実際家」という意味。) 
(2)12世紀初めの今昔物語(巻第29 明法博士善澄被殺強盗語第二十)に
「善澄 才(ざい)は微妙(めでた)かりけれども、露、和魂(やまとだましい)无(な)かりける者にて、此(かか)るる心幼き事を云ひて死ぬる也とぞ」 (善澄は学才は素晴らしかったが、思慮分別のまるでない男で、そのためにこんな幼稚なことを言って殺されるはめになったのだ。) *学問的知識をいう「漢才」に対して繊細で優れた情緒・精神を意味し、思慮分別という程度の意味に用いられる。
(3)13世紀初めの愚管抄(巻四・鳥羽帝の項)
「公実がらの、和漢の才にとみて、北野天神の御あとをもふみ、又知足院殿に人がらやまとだましいのまさりて」 (公実の人柄は「和漢の学才」に豊かで、菅原道真の後を襲い、また一方忠実に比べて人柄や世間的な才能が勝って、見識ある人からも小野の宮実資などのように思われる事があったのだろうか、・・・)
(4)室町初期と考えられる「詠百寮和歌」(高大夫実無)(群書類従巻72所収)
諸官名に一首ずつの歌108首からなり、文章博士について次の歌が詠まれる 「新しき文を見るにもくらからじ読み開きぬる大和と玉しゐ」 ちなみに、勅撰和歌集に於ける「やまとだましい」あるいは「やまとごころ」なる歌語の引用経過を追いますと、主として「やまとごころ」が、後拾遺集あたりで赤染衛門歌に用いられている程度で、「やまとごころ」とて頻繁に活用されているわけではありません。和歌世界での「やまとごころ」「やまとだましい」の頻出は、江戸期まで待たねばなりません。
三 江戸期歌人達の「やまとだましい」
紫式部の用い初めは少なくとも「才(ざい)・漢才」を意識したものであったものが、江戸中期以降の国学の中で「漢意」に対する「日本古来の伝統的に伝わる固有の精神」「万邦無比の優れた日本の精神性」「日本国家のために尽くす潔い心」という展開を見せます。
(1)本居宣長(1730〜1801)の「やまとごころ」
江戸中期に現れた本居宣長は大和魂を日本固有の心と規定し、その後の国学に大きな影響を持つようになります。次の一首が現代まで、「大和魂」や「大和心」と一緒になって用いられてきています。
「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」 (此の歌の解釈については後述の吉沢博士の項を参照願います。)
この宣長の歌がいろいろの見方で解釈され、宣長から100年後の幕末期の思想家吉田松陰の歌のように展開していくことになります。
(2)佐保川(余野子)(1720年代〜1788)の「やまとだましい」家集
佐保川家集には、「やまとだましい」を歌い込んだ歌を長歌二首、短歌一首残しています。
「敷島の大和魂君こそはあれつぎまさめ万代までに」(佐保川集・364番歌) (作者「よのこ」は、賀茂真淵(1697〜1769)に和歌を学んだ「県門三才女」とされ、紀州藩で徳川宗將室富宮、側室八重の方、総姫などに使えた年寄り瀬川で、晩年尼凉月と号し、紀州吹き上げ御殿凉月院に住み、天明八年1788年没した。)
(3)井上文雄(1800〜1861)「やまとだましい」歌
調鶴家集に、「・・・日の本の やまとだましい ・・・」と歌い込んだ長歌を、また「やまとこころ」を詠み込んだ歌も残している。伊勢津藩藤堂公出仕の武士で、江戸派岸本由豆流や一柳千古に国学と和歌を学んでいる。
(4)平田篤胤(1776〜1843)の「古道大意」
宣長の門人篤胤は文化六年(1809)「御国人は自ずからに武く正しく直に生まれつく、これを大和心とも御国魂とでも云ふでござる」
(5)吉田松陰(1830〜1859)の「大和魂」
松蔭のいう「大和魂」は、多分に「祖国を大切にする心」「民族を思う心」意味でしょうか。「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂」 この歌は下田から江戸へ護送されるとき、品川泉岳寺を通過するとき、わが身を赤穂浪士に重ね合わせて「已むに已まれぬ」と詠んだとされます。「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留めおかまし大和魂」 吉田松陰の和歌は、「日本民族固有の気概あるいは精神」と言った概念を持っていたのでしょう。それが宣長のいう「朝日ににおう山桜花」に譬えられ、清浄にして果敢で事に当たっては身命をも惜しまない心情となるわけです。
吉田松陰の歌はさらに変貌して、天皇制に於ける国粋主義思想、とりわけ軍国主義思想の都合の良い宣伝文句に変貌してゆきます。ちなみに、十九世紀の初め江戸の読み物「椿説弓張月」(1807〜1811)では、「事に迫りて死を軽んずるは、日本魂(やまとだましい)なれど多くは慮の浅きに似て」 ととらえています。作品の方が松蔭より先んじていますが、宣長の歌の吉田松陰的解釈の一つと言うべく、武士道の一説明というところでしょうか。
四 戦前の「やまとだましい」あれこれ
幕末の一時期、吉田松陰によって浮かび上がった「大和魂」の概念は、明治維新と共にさらに言葉の概念が変貌してゆきます。その概念は、明治時代には国家主義や民族主義の興隆と共に時勢に都合の良い偏狭なものとなり、第二次世界大戦前の軍国主義に基づいた「大和魂」と追い込まれ、絞り込まれてゆきます。
(1)夏目漱石の「大和魂」
慶応四年(1867)生まれの夏目漱石は、その小説「我が輩は猫である」(1905年頃発表)で、苦沙彌先生の次のように言わせています。「大和魂!と新聞屋が言う。大和魂!と掏摸(すり)が言う。大和魂が一躍して海を渡った。英国で大和魂の演説をする。ドイツで大和魂の芝居をする。」 「東郷大将が大和魂を持っている。さかな屋の銀さんも大和魂を持っている。詐欺師、山師、人殺しも大和魂を持っている。」 「だれも口にせぬ者はないが、だれも見たものがない。だれも聞いたことはあるが、だれも会った者がない。大和魂は天狗の類か」
これらの会話の文の中には、多分に漱石独特の「大和魂」に関するやや批判的な見方が垣間見られるところです。明治時代はひとそれぞれに「大和魂」の概念は抱いているものの、一様にこれだと定義できないのが「大和魂」の摩訶不思議な言葉だといっているようです。何とも表現しがたい「日本的なもの」に対して、こういう説明をせざるを得ないのは、多分に世の中の時勢が明治維新以来の「西欧文化の一方的な取り込み」の結果、日本人の精神状態は日本的なものへの回帰にあったものとも思われます。軍人から一庶民まで、もはや西欧文明一辺倒でもあるまい、日本にも独自の優れた世界に誇れるものがあるはずだと自覚し始めたのではないでしょうか。それを「これだ」といえないので、やむなく「大和魂」だとしか言えなかったのではと思います。
「明治時代に入り、西洋の知識・学問・文化が一度に流入し、岡倉天心らによって、それらを日本流に摂取すべきと言う主張が現れ、大和魂と共に『和魂洋才』と言う語が用いられるようになった。」
(2)島崎藤村の「大和魂」
明治5年(1872)生まれの島崎藤村は、その小説「夜明け前」(1932年頃執筆)(第二部(下)第10章・二)において、木曽路馬篭宿の万福寺松雲和尚に言及する下りで、明治初年、世の中は「神仏分離」「廃仏毀釈」の時勢に翻弄される中での和尚の挙動と心意気とを著述して 「不羈独立して大和魂を堅め」と言わしめています。島崎藤村の観点は、主人公青山半蔵が所属する平田派国学世界からの観察と見て、ここでは、多分に旧来の日本的な慣習を一変させないという意味で書いているようです。
(3)明治末から太平洋戦争終結までの間の「大和魂」発現事例
明治期の日本文化への見直しと共に、時代が大正から昭和へ向かうと、ナショナリズム・民族主義が台頭して、「大和魂」の言葉には、日本という国家への強い帰属意識が結びつけられるようになってゆきます。
「剣道は 神の教への道なれば 大和心をみがくこの技」(高野佐三郎)
「国家への犠牲的精神と共に他国への排他的な姿勢を含んだ語として用いられたのであり、大和魂が元々持っていた『外来の知識を吸収して柔軟に応用する』という意味と正反対の受け止められ方をされていた。」  
五 戦後に復活した藤猛の「ヤマトダマシイ・ファイト」
第二次世界大戦後、敗戦と友に軍国主義的「大和魂」は戦争に結びつくものとして、しばらく「平和日本の文化や思想世界」から姿を消します。しかし、敗戦後十年経って、すこしずつ「大和魂」の言葉が散見されるようになります。
(1)戦後の文芸評論
戦後に於ける作家や文芸評論家の「大和魂」概念の展開はどうなっていたのでしょうか。一例を山本健吉「古典と現代文学」(1955・昭和30年)ー物語りに於ける人間像の形成・2ーにみますと、次のように述べられています。
*「大和魂とは、漢才が学問をするのに対して貴族たるものの生活上の規範となるべき心持ち」と解説していることは、戦前の国粋主義思想や軍国主義思想を捨て去り、千年前の紫式部の抱いていた概念に立ち戻っていると見られます。
(2)小林秀雄の「大和魂」
高見澤潤子「兄小林秀雄との対話」より
「融通の利かない、堅い学問知識に対して、柔軟な、現実生活に即した知恵の事を云っているんだ。学者とか知識人とかは、観念的な生活をしているが、そこには、大和魂はない。一般の当たり前の、日本人的な具体的な生活をしている人達が、大和魂をもっているんだ。」 「在原業平が”遂に行く道とはかねてききしかど昨日今日とはおもはざりしを”という辞世を詠んだろう。契沖はこれをほめて”これは一生のまことを正直にあらわしている。”と言った。宣長もまた、”あっぱれだ、此こそ大和魂をもった法師だ”ってほめたのだ。」 *小林秀雄も山本健吉同様、平安の昔に立ち戻って、本来の意味合いに言及し、解説しています。しかし、「大和魂」の言葉は、思わぬ所に戦前思想としてうずくまっていて、その教育を受けた人々が時勢を見はからないながら、少しずつ形を変えた「大和魂」として展示して見せます。
(3)ワールドサッカー日本チームのコーチの「ヤマトダマシイ」
1960年に来日し、日本代表のサッカーチームのコーチに当たったドイツ人デットマール・クラマー氏のインタビューで「大和魂」について、インタビューされています。
インタビューア「日本代表を指導していた頃、よく「大和魂」という言葉を使っていたとききましたが、どのような意味でつかっていたのでしょうか。?」
クラマー氏「「大和魂」という言葉を初めて聞いたのは戦争の時でした。戦争の時、将校から日本の特攻隊、そして『神風』の役割についてしらされたのです。将校は「大和魂」という言葉の意味についても教えてくれましたが、これらは皆のために自分を犠牲にする精神のことであり、我々にもその精神を持つようにと言いました。・・・」
(4)プロボクサー藤猛の「ヤマトダマシイ」精神
1967年昭和42年4月30日、ハワイ主神の日系三世藤猛統一(WBA・WBC)世界スーパーライト級王座決定戦で王者でイタリア人サンドロ・ロポポを二ラウンドでKO勝ちして、王座を獲得し、報道機関へのインタビューの時、「オカヤマのおばあちゃん」「ヤマトダマシイ」などと発言して、世間を驚かせました。一般には日本人自身忘れかけていた戦前の言葉を思い出させるようなことになり、ハワイ出身の日系三世で日本語がしゃべれないながら、一躍人気者になりました。これには裏話があって、日本語を話せない藤猛を人気者にするため、所属していたリキ・ボクシングジムの吉村会長が藤に教え込んだ「日本語」であったのです。とすれば、藤が関係なく、吉村会長が如何なる「大和魂」を戦前に教え込まれていたかということになります。多分年代的に見て、大正から昭和初年頃の生まれの人間で所謂軍国主義、国粋主義盛んな時代の「大和魂」の教育を受けていたのでしょう。
六 平成社会での「大和魂」言葉の活用例
(1)「大和魂」論の展開ー昭和初期生れ世代の著述
昭和一桁生まれ世代の人が戦後に「ものしたい」対象はなにか。前述の藤猛を生み出した吉村会長も多分同世代人と推測できる。そこには世代を分析し後世に伝えたい何かがある。
(イ)斉藤正二(1925年生まれ、名前からすると昭和二年生まれかも?)二松学舎大教授「「やまとだましい」の文化史」(昭和47年・1972・1月) まえがきにいう。「軍国主義の兆しが見え始めた」ので、”戦中派世代”として、「ふたたび祖国を硝煙の下に曝したりすることのないよう、」「自分なりに成すべき仕事」として、「やまとだましい」の歴史を解説するのが目的という。「やまとだましい」の本質的意義がデフォルメされて武断主義と結びつくようになるのは、文化年間(1801〜1816)に一部の国学者(平田篤胤など)が主唱し、喧伝するようになってからで、国粋主義的な意味に用いられる「やまとだましい」の歴史は、第二次世界大戦終結に到るまでの僅々百三十年間の突発事にすぎない。」 執筆の目的は「日本人すべてが科学的思考をもつべきだとの願いを提示したかった」。 
(ロ)赤瀬川原平(昭和10年前後の生まれ) 「大和魂」(新潮社)(2006・平成18年) 山本健吉著書から丁度半世紀後に出版された当該著書は、「戦後、忌避されてきた言葉「大和魂」に日本人を理解する鉤がある」という観点で、事例を日本人独特の文化である「ラーメン」「土下座」「七福神巡り」「天守閣」「伊勢神宮」「戦艦大和」などのキーワードから読み解こうとするもので、「大和魂」をあることと一義的に解釈しようとするのではなく、永い歴史の流れの中で、時代時代でいろいろ中味、著者の言を借りると「多様なカオス」の中に会ったとするものです。じっくり落ち着いて考えると、紫式部から出発した言葉も、時代の流れと友に、成長と変遷を重ねつつも、時代の一思想に塗り込められない、時勢に流されない日本人それぞれの「大和魂」なるものがあったのだと気づくわけです。
(ハ)渡邊正清(昭和13年生まれ) 「アメリカ・日系二世、自由への戦いーヤマト魂(ダマシイ)」(集英社)(2001・平成13年) この著書の言いたいことは、「日本人として恥ずかしくないように、あなたの国アメリカのために戦え」と言い聞かされて戦場に赴いた日系二世がいたこと、またその兵士が後年「ヤマトダマシイ」があったから、戦えた」と言う戦争体験記録である。如何なるきっかけで、渡邊はこの書を執筆したか。彼は、東北大学を卒業後、UCLAに留学し、そのままカリフォルニア州に35年間奉職している。著者の「大和魂」は、「日本人としての誇りー忍耐、勤勉、節約、という、今日では色褪せてしまった資質こそ、日本民族の生き方を長く支えてきた」とする。

藤猛の吉村会長を含め、上述の二作家の言いたいことは、日本は敗戦によって、徹底的に民族と国家がぼろぼろになってしまったに関かわらず、僅かにニ、三十年で、世界の経済大国にのし上がれた。それには民族的に如何なる原動力ががあったのか、と思い返したとき、敗戦で忘れさられていた「日本人独特の資質」いわゆる「大和魂」なる言葉に思いを致し、それを平成現代の世代に再評価してほしかったのではないか。

ところが、時代が変遷していく中で、平成の世の中での、「大和魂・やまとだましい」なる言葉の使われ方は、つぎのように変貌しているのです。
(2)いろいろな分野での「大和魂」の活用
(イ)若者の音楽演奏グループ名 「大和魂」 広島を中心に西日本で演奏活動中の HIP HOP、ROCK、POPの要素を取り入れたツイン・リード・ボーカルで5人の若者で編成されたミックスチャー・バンド
(ロ)インターネットラジオ番組名 「かかずゆみの超輝け!大和魂」 アナウンサーは声優「かかずゆみ」という1973年生まれの埼玉出身の人気女性
(ハ)インターネットのブログ名 大和魂 漫画家市東亮子のサッカーファンのためのブログ
(ニ)吉本興業のエンタテイナー名 大和魂 (本名片岡)
(ホ)バスケットボールサークル名 早稲田大学の大和魂
(ヘ)藤井寺の避球(ドッヂボールのこと)倶楽部名 大和魂
(ト)焼酎の銘柄 麦焼酎 「大和魂」大分県江井ヶ島酒造株式会社の商品
(チ)スウェットパンツ商品名 「大和魂」

ところで、いろいろの分野で、現代でも、「大和魂」なる日本語を引っ張り出してきて、活用しようとする事例があり、日本人が居るという現状です。そういう命名をした人物は、如何なる理由で、「大和魂」なる千年のやまとことばを敢えて使用しようとするのか。そこには日本人のどの時代のどの世代の人間にも綿々と流れている「大和魂」なる言葉の民族の趣向に合った、また廣い概念を含みうる、伝統的な存在を再認識することになります。 

以上のように、源氏物語に書き出された「やまとだましい」なる言葉はもともと「中国などから取り入れられた知識や学問をあくまで基礎的教養として、それを日本の実情にあわせて応用し政治や生活の場面で発揮すること」であったのが、千年の時代を経ていろいろに理解され用いられ、複雑な内容になってきています。用いる人の考えがどの辺りにあるかによって一様でないところに、この言葉の持つ幅広さ(性格・能力・品性など)が引き出されるようです。あらためて参考情報より参考になる定義の幾種類かを列挙しておきますが、用いかたはひとそれぞれでしょう。
(1)中国などの外国の文化や文明を享受する上で、それ対する日本人の常識的また日本的な対応能力。やまとごころ。
(2)知的な論理や倫理でなく、感情的な情緒や人情によってものごとを把握し、共感する能力や感受性。もののあはれ。
(3)日本民族固有のものと考えられてきた勇敢で、潔く、特に主君や天皇に対しての忠義な気性・精神・心映え。
(4)世事に対応し、社会の中で物事を円滑に進めてゆくための常識や世間的な能力。
(5)各種の専門的な学問・教養・技術などを社会の中で実際に役立ててゆくための才能や手段。
まとめ
紫式部はじめ平安期の人々は大陸唐文化に対して「大和魂」を用い、(遣唐使廃止と国風文化を造り、) 吉田松陰はじめ幕末の人々は西欧文化に対して「大和魂」を用い、(鎖国下で、国学と尊皇攘夷運動を展開し、) 太平洋戦争敗戦前の人々は欧米文化に対して「大和魂」を用い、(軍国主義と天皇制護持を煽動し、) 自らの文化を再認識して差別化しようとした。
「やまとだましい」という言語は、日本民族が外国文化に「襲われ」(と仮想し)それに「対峙しよう」とする時に用いる、日本文化矜持(の為の個体維持)用言語的保護用具である。
 
「和魂洋才」の再構築

 

中国や韓国との異文化コミュニケーションが中心であった徳川時代までの日本では 『和魂漢才』。欧米との異文化コミュニケーションが重要な課題となった明治維新以降の日本では、自覚する・しないに関わらず『和魂洋才』的に生活し活動してきました。
1 『和魂洋才』とは何か?
「 和魂洋才(わこんようさい)とは、日本古来の精神世界を大切にしつつ西洋の技術を受け入れ、両者を調和させ発展させていくという意味の言葉である 」 と書かれています。なお、『和魂洋才』以前の時代の『和魂漢才』については、現在のWikipediaには項目がありませんでした。
『和魂漢才』を新村出編「広辞苑」岩波書店第2版で調べました。
「 【和魂漢才】[菅家遺誡] わが国固有の精神と中国の学問と。また、この両者を融合すること。日本固有の精神を以って中国から伝来した学問を活用することの重要性を強調していう 」と書かれていました。
なお、[菅家遺誡]とあるのは、和魂漢才という言葉の出典が平安時代の学者・漢詩人・政治家で、現在では学問の神様として著名な菅原道真(845-903)が後人のために残した訓戒を記した書籍に出ているという表示です。
しかし、筆者が知る限りでは和魂漢才という熟語を菅原公が直接書いて残したものではないようです。例えば、『菅原道真の実像』の著者(所功)は、次のように言っています。
「和魂漢才」という熟語は、学徳を表わす彼自身の言葉として、幕末ころから全国に広まった。しかし大正時代、加藤仁平氏が明らかにされたごとく、この熟語を、室町時代成立の『菅家遺誡』を解説する文中に記したのは谷川士清であり、しかも道真の言葉として使ったのは平田篤胤であるから、江戸中期以前にはさかのぼりえない。
とはいえ、つとに紫式部が『源氏物語』の中で「才(ざえ)を本としてこそ大和魂の世に用ぬらるゝ方も強うはべらめ」という意味に即して考えれば、外来の儒教・漢詩文に精通し、その『漢才』を活用しながら宮廷社会の現実に柔軟に対応する見識『大和魂』を発揮した人物こそ、実は道真なのである。従って、道真を『和魂漢才』の人と称えることは、十分意味があるといえよう
菅原道真に続いて、紫式部(979頃-1016頃)が女性としての美意識と鋭い感性によって宮廷における『和魂漢才』の重要性を意識していたことは、今日の私たちにとって大変興味深いことであるといえます。
さて、それでは『和魂洋才』を実践した明治時代を代表する人物は誰なのでしょうか?そのことについて書いた書籍(論文)が筆者の手元にあります。比較文学・比較文化学者で東大名誉教授の平川祐弘著:『和魂洋才の系譜〜内と外からの明治日本』、河出書房新社(1987)です。この本の中では森鴎外(1867-1916)が高く評価されていました。余談ですが、同書は昨年9月、10月に文庫本の形式で平凡社から上・下一組の復刻版が発売されていました。
筆者自身が、明治における『和魂洋才』のリーダー的存在を独断と偏見で選ぶとすれば、文学者では夏目漱石(1867-1912)、科学者では野口英世(1876-1928)、学者・実業家では福沢諭吉(1835-1901)など多士済々であった、と思っています。
2 『和魂洋才』と時代の変化
日本国内にあっては、明治から大正、昭和、敗戦、戦後復興から経済大国そして高度情報化の平成へ。この時代、マクロに見て世界的に大きく、しかも急速に変わったのは、自然科学と工学技術そしてグローバルな経済であることは誰も異存はないでしょう。
21世紀は、さらなる高度情報化とグローバル化の時代で、異文化コミュニケーションが極めて重要なことは、日本人の誰しもが感じていることではないでしょうか。そして『より美しい自己実現』との関係で言えば、『和魂洋才』は一部のリーダーだけの問題ではなく、日本国民全員の問題なのです。
明治時代のように海外旅行や海外留学が一部のエリートだけの特権であった時代は、すっかり過去のものとなってしまいました。そしてグローバルな高速インターネット網が世界中に張り巡らされ、誰でもが、いつでも、どことでも、特別な地域を除いては自由にコミュニケーションできる時代が来ています。さらに、個人を知的にサポートするGoogleやWikipediaなどのオープンな機能も急速に充実してきています。
私たち日本人は、『和魂洋才』を根底から見直し、それを再構築し、『より美しい自己実現』を目指す絶好の機会に今遭遇している、と筆者は確信しているのです。
3 21世紀の『和魂』と『洋才』
自然科学における進化論の今日的な知見を基礎として言うならば、『和魂』とは日本文化の真髄であり、『洋才』とは日本以外の文化の見習うべきいろいろな良い点ということになります。
より具体的に言うならば、国や地域の文化で中核を担っているのは、それぞれの文化に特有な言語体系であるということができます。人間は進化の過程で言語を獲得して使い始めた大昔から、母語を使ってものごとを考えコミュニケーションし、行動してきたのです。
日本では近代に入って、自分たちの認識能力を『感性』と『理性』の二元モデルで把握するようになりました。一方、西欧ではギリシャ哲学以来の伝統文化のうえで『感性(英 語のSensibility)』と『悟性(ドイツ語のVerstand、英語のUnderstanding)』と『理性(ドイツ語のVernunft、英語のReason)』の三元モデルになっているのです。
日本語の『感性』と英語のSensibilityは、同じ感性といっても意味するものは違っています。Sensibilityを感覚と日本語に訳すことも少なくありません。このことは、先に 2.4節で述べた日本の感性工学会の英語名が[Japan Society of Kansei Engineering]となっていることにも表れています。
筆者は、この日本語の『感性』こそが文化的には『和魂』を代表するキーワードであると考えているのです。それは先に3節で述べた本居宣長の短歌[敷島の大和心を人問わば朝日に匂う山桜花]にも現れていますし、聖徳太子の十七条憲法にもよく現れています。
聖徳太子十七条憲法
一曰。以和為貴。無忤為宗。・・・・・(一にいわく、わをもってとうとしとす。さからうことなきをむねとす。・・・・・)
一、調和する事を貴い目標とし、道理に逆らわない事を主義としなさい。・・・・・
日本人の『感性』の特徴は、西欧文化のように神と人間と自然を峻別しない『神・人間・自然一体』の独自文化の美意識と調和の感覚にあるのだ、と筆者は考えています。これは個人的な価値観とは別次元の問題なのではないでしょうか。
何よりも日本語自体が感性的な言語であって、英語的な論理を持ち合わせていないのです。例えば、日頃私たちが会話している場合、私とあなた、私と他者を厳密に区別して 話しするようなことはありません。常に私なる主語が省略されているのです。英語ではありえないことです。これは善し悪しの問題ではないのです。
文化には優劣はありません。しかし、私たちは日本文化の特徴をしっかりと認識した上で、更に自らの文化的特長を伸ばすと共に、足らざる点は他国の文化の長所に学べばよ いだけの話です。例えば、6節で述べた「適切な自己中心性」の適切の判断も日本人の場合は、自己の『感性』で決定することになるのではないでしょうか。
4 日本人の『感性』と『理性』
ここで私たちの『感性』と『理性』の二元的思考モデルに関連して、先に4節で述べた美学の源流を創ったことでも有名な、近代哲学の祖の一人であるカントの三元的な思考モデルを見ておくことにしたいと思います。
カントの思考モデルの要素は、感性と悟性、理性そして判断力です。さらに、判断力は規定的判断力と反省的判断力で構成されます。
私たちが風景や絵画や音楽などに接したとき、時間と空間という形式を持つ直感能力で情報(感覚的知覚:印象)を捉えます。これがカントの言う『感性』です。次に、いろいろな感覚的知覚を分類・整理してイメージを構築します。このような論理的能力を『悟性』と呼んでいます。
カントは判断力を、悟性と理性を総合する媒介であるとしていますが、判断力には二つあって第一のものは規定的判断力と呼んでいるものです。特殊なものを普遍的なものに含まれたものとして考える能力のことで、一般的判断力と考えられるものです。
もう一つが、美意識にも関係するカントが言うところの反省的判断力です。ここで言う反省とは、与えられた事象をさまざまな認識能力を使いその本質を知ろうとする心の状態のことです。従って、反省的判断力とは特殊なものの中に普遍的なコンセプトを見出す判断力ということになります。
このような考え方では、美的判断は単に個人的な判断だということではなく、ある種の普遍性を持つということになります。そして、美的創造力は多様なものの調和的統合の理念を呼び起こす力があるとされるのです。これがカント美学の原点なのではないでしょうか。
一方、カントの場合の『理性』は、理性が真理を明らかにすることが可能か?との問いかけで「理性批判」を展開し、理性の有効性と限界を明らかにしました。詳しいことは省略しますが、「純粋(理論)理性」と感性的な世界を超越した「実践(道徳)理性」とに分けて説明しています。
現在の日本語の国語辞典で『感性』とは、「外からの刺激を心で感じとる能力」であり、『理性』とは「ものごとを論理的に考え、正しく判断する能力」であると説明してあります。また、『悟性』は「経験にもとづいて合理的に思考し、判断する心のはたらき」、と出ています。
従って日本人が言う『感性』とは、カントが言う『悟性』の一部を含み、『理性』とはカントが言う『悟性』の一部と「理論理性」、そして八百万の神的道徳律を含んだものなのではないでしょうか。
いずれにしても、4節でも述べたイマヌエル・カント(1724年4月〜1804年2月)と前節で紹介した国文学者の本居宣長とは、くしくも生きた時代が全く重なっています[本居宣長(1730年4月=享保15年5月〜1801年11月=享和元年9月)]。
今や私たちの身の回りは、すっかり人工環境に囲まれてしまっています。私たちが日本文化の大和心を呼び覚まし、自らの『感性』を磨くためには自然とのふれあいを増し、自然の中に『美』の本質を見出すように心がけるべきではないでしょうか。
そして同時に、日本文化の『理性』は西欧文化の『理性』と比較してかなりあいまいである、と私たちは自覚する必要があります。足らざる自覚の上に立って、他文化の優れた点に学べばよいのです。
私の偏見かもしれませんが、論理的思考法を熟知しているはずの高学歴な若者たちの論理的コミュニケーション能力が、一向に改善されないどころか低下しているのではないかと感じる場面が多くなっています。いろいろな場面での他者との協働の実をあげるためには、『論理的コミュニケーション』のマナーが不可欠です。
5 『論理的コミュニケーション』とは何か?
誤解を恐れずに言えば、英語的コミュニケーションのマナーのことです。相手とのコミュニケーションに際して、自己の主張と主張を裏付けるデータとそのデータの信頼性保証(根拠)をワンセットとして相手に伝えることです。そして、その主張のワンセットを受け取った相手は、そのデータと根拠が了承できるものであれば主張は共有され、そのテーマに関してのコミュニケーションは完結します。
しかし、提示されたデータや根拠に疑問があれば議論は継続されます。この場合にあっても、最初の主張は主張として尊重されるのが原則です。人間は互いに自律した存在で、それぞれの人格が尊重されるべき協働にあっては、反対の意見であっても、それを尊重することで新たな創造が生まれるからです。
日本のコミュニケーション様式に対して、従来からも「あいまい」であるとか「腹芸的」などと指摘されてきたことと同一平面上の問題なのですが、自己主張のすれ違いではなく、それぞれの自己主張を共有し、さらに精緻化していくためには『論理的コミュニケーション』のマナーが不可欠なのです。
聞きっ放し、言い放し、沈黙は金、さらに自己主張の感情的なぶつけ合いでは全く建設的ではありません。昨年の夏ごろでしたが、筆者はある書店で平積みされている本の山の中から日本語の特徴と英語の特長を比較した一般向けの易しい解説書を見つけ出し、一定部数を購入して関係者に配布したことを思い出しました。
 
 

 

 
 

 

 
大和 [語源]

 

 
大和

 

日本の古称・雅称。倭・日本とも表記して「やまと」と訓ずることもある。大和・大倭・大日本(おおやまと)とも呼ばれる。 ヤマト王権が大和と呼ばれる地(現在の奈良県内)に在ったことに由来する。初めは「倭」と書いたが、元明天皇の治世に国名は好字を二字で用いることが定められ、倭と同音の好字である「和」の字に「大」を冠して「大和」と表記し「やまと」と訓ずるように取り決められた。
元々はヤマト王権の本拠地である奈良盆地の東南地域が、大和(やまと)と呼称されていた。その後、ヤマト王権が奈良盆地一帯や河内方面までを支配するようになると、その地域(後の近畿・畿内)もまた大和と呼ばれるようになった。そして、ヤマト王権の本拠が所在した奈良盆地周辺を範囲とする令制国を大和国とした。さらには、同王権の支配・制圧が日本列島の大半(東北地方南部から九州南部まで)にまで及ぶに至り、それらを総称して大和と呼ばれるようになった。こうして日本列島、つまり日本国の別名として大和が使用されるようになった。
語源
○ 山のふもと
○ 山に囲まれた地域であるからと言う説
○ この地域を拠点としたヤマト王権が元々「やまと」と言う地域に発祥したためとする説
○ 「やまと」は元は「山門」であり山に神が宿ると見なす自然信仰の拠点であった地名が国名に転じたとする説
○ 「やまと」は元は「山跡」とする説。
○ 三輪山から山東(やまとう)を中心に発展したためとする説
○ 邪馬台国の「やまたい」が「やまと」に変化したとする説
○ 「やまと」は元は温和・平和な所を意味する「やはと」、「やわと」であり、「しきしま(磯城島)のやはと」から転訛して「やまと」となり、後に「しきしま」がやまとの枕詞となったとする説。
○ アイヌ語で、“ヤ”は接頭語、“マト”は讃称で、高貴を意味する“ムチ”や祥瑞を意味する“ミツ”等と同根の語とする説。
○ ヘブライ語で「ヤ・ウマト」=「神の民」とする説
用字の変遷
古墳時代頃に漢字文化が流入すると、「やまと」の語に対して「倭」の字が当てられるようになった。中国では古くより日本列島の人々・政治勢力を総称して「倭」と呼んでいたが、古墳時代に倭を「やまと」と称したことは、「やまと」の勢力が日本列島を代表する政治勢力となっていたことの現れとされる。
次いで、飛鳥時代になると「大倭」の用字が主流となっていく。大倭は、日本列島を代表する政治勢力の名称であると同時に、奈良地方を表す名称でもあった。7世紀後半から701年(大宝元年)までの期間に、国号が「日本」と定められたとされているが、このときから、日本を「やまと」と訓じたとする見解がある。
奈良盆地を指す令制国の名称が、三野が美濃、尾治が尾張、木が紀伊、上毛野が上野、珠流河が駿河、遠淡海が遠江、粟が阿波などと好字をもって二字の国名に統一されたのと同じく、701年には「倭国」を「大倭国」と書くようになったと考えられている。
奈良時代中期の737年(天平9年)、令制国の「やまと」は橘諸兄政権下で「大倭国」から「大養徳国」へ改称されたが、諸兄の勢力が弱まった747年(天平19年)には、再び「大倭国」へ戻された。そして757年(天平宝字元年(8月18日改元))、橘奈良麻呂の乱直後に「大倭国」から「大和国」への変更が行われたと考えられている。このとき初めて「大和」の用字が現れた。その後、「大倭」と「大和」の併用が見られるが、次第に「大和」が主流となっていった。
古墳
大和古墳群がある。
その他
○ 「夜麻登(やまと)は国のまほろば〜」とあるように、万葉仮名における当て字は夜麻登とも表記され、『古事記』における「ヤマトトトヒモモソヒメ」の漢字表記も、この夜麻登の方である(『紀』では倭の一字でヤマトと読ませている)。この他、『古事記』では、山跡とも表記される。『日本書紀』では、野麻登、椰麽等、夜麻苔などとも表記され、『万葉集』では、山常、也麻等、夜末等、夜万登、八間跡などなどの表記が見られる。
○ 『日本書紀』の記述では、神武東征前に、この国々の中心となるだろうとして、「内つ国」と表記し、大和成立以前では「内つ国」と呼称されていた。
○ 現代において、和文通話表で「や」を送る際に「大和のヤ」という。
 
「大和」と書いて「やまと」と読む

 

「やまと」の語源については、諸説紛々としていてなかなか一致をみていないようです。ただ、古代、奈良県の一部のことを「やまと」と呼んだことは確かで、そこに本拠地を置いた勢力が日本列島全体を代表する政権となったことから、「やまと」は日本列島全体を指すことばとしても使われることになりました。
ところで、そのころ、中国では日本のことを「倭」と呼んでいました。なぜそう呼ばれたのか、これも確かなことはわかりませんが、この字は本来「なよなよしている」「従順な」といった意味ですから、当時の中国人は日本人に対して、そんなイメージを持っていたのかもしれません。
さて、訓読みとは、漢字が中国語として表す意味を、日本語に翻訳したものです。そこで、中国語の「倭」は日本語で「やまと」なのですから、「倭」に「やまと」という訓読みが生まれました。しかし、もともとは必ずしもいい意味ではない「倭」という漢字を、日本人は気に入らなかったのでしょう。やがて日本人は、自分たちを表すのに「倭(ワ)」と同音で、もっといい意味を持った「和(ワ)」という漢字を用いるようになります。その結果、「和=やまと」となり、今度は「和」が「やまと」と訓読みされることになりました。
その後、さらに「和」に「大」を付けた「大和」が誕生します。この場合の「大」は美称のようなもので、「立派なやまと」とでもいったところでしょうか。別に「立派でないやまと」があるわけではなく、「大」に本質的な意味はないのです。そこで、「大和」の2文字をまとめて「やまと」と読むようになりました。
日本の地名の漢字は、このように、複雑な過程をたどって成立したものが多いのです。古くからある地名であればあるほど、漢字の意味と地名とが、単純には結びつかないケースが多いですから、注意が必要です。
 
「倭」

 

(わ、やまと、ワ、ヰ、ウェイ、ゥオー) .紀元前から中国各王朝が日本列島を中心とする地域およびその住人を指す際に用いた呼称。紀元前後頃から7世紀末頃に国号を「日本」に変更するまで、日本列島の政治勢力も倭もしくは倭国(わこく)と自称した。倭の住人を倭人(わじん)という。和、俀とも記す。 奈良盆地(のちの大和国)の古名。倭人ないしヤマト王権自身による呼称。「大倭」とも記す。
概要
「日本」の前身としての「倭」
史書に現れる中国南東部にいたと思われる倭人や百越の人々を含んだ時代もあったという意見もある。 中国人歴史学者の王勇によれば中国の史書に現れる倭人の住居地は初めから日本列島を指すとしている。
倭(ヤマト国家)は、大王を中心とする諸豪族による連合政権であった。大王は、元来大和地方(現奈良県)の王(キミ)であったが、5世紀ごろから大王と呼ばれるようになった。ヤマト国家では、有力豪族によって大王が擁されたり、廃されたり、場合によっては殺害されることもあり、実質は有力豪族たちによって運営されていた。そのため有力豪族同士の権力争いも耐えなかった。氏を持つ血縁を中心につながる一族が、身分(姓)を与えられていた(氏姓制度)。
『日本』と言う国名は、大化の改新によって『天皇』という称号とともに使われるようになった。天智及び天武朝において始まったとされるが、いずれにしても7世紀後半のことである。
「倭」という呼称
『古事記』や『日本書紀』では倭(ヤマト)日本(ヤマト)として表記されている。 魏志倭人伝では日本は邪馬台国と音文字で表記されている。 また『日本書紀』では夜摩苔つまりʎia mwɑ də もしくはjia mo tʰaiと表記されていた。
奈良時代まで日本語の「イ」「エ」「オ」の母音には甲類 (i, e, o) と乙類 (ï, ë, ö) の音韻があったといわれる(上代特殊仮名遣い)。「邪馬台国」における「邪馬台」は"yamatö"(山のふもと)であり、古代の「大和」と一致する。筑紫の「山門」(山の入り口)は"yamato"であり、音韻のうえでは合致しないので、その点では邪馬台国九州説はやや不利ということになる。ただし、古来、「と(甲)」と「と(乙)」は通用される例もあり、一概に否定はできない。
8世紀に「大倭郷」に編成された奈良盆地南東部の三輪山麓一帯が最狭義の「ヤマト」である。なお、『日本書紀』には新益京(藤原京)に先だつ7世紀代の飛鳥地方の宮都を「倭京」と記す例がある。
737年(天平9年)、令制国の「ヤマト」は橘諸兄政権下で「大倭国」から「大養徳国」へ改称されたが、諸兄の勢力の弱まった747年(天平19年)には再び「大倭国」の表記に戻された。そして757年(天平宝字元年)橘奈良麻呂の乱直後に「大倭国」から「大和国」への変更が行われたと考えられている。「大和」の初出は『続日本紀』(天平宝字元年(757)12月壬子(九日)「大和宿祢長岡」)である(但し、同書にはそれ以前に、追書と思われるものが数カ所ある)。
語義
解字
「倭」は「委(ゆだねる)」に人が加わった字形。解字は「ゆだねしたがう」「柔順なさま」「つつしむさま」、また「うねって遠いさま」。音符の委は、「女」と音を表す「禾」で「なよなかな女性」の意。
用例
中国の古代史書で、日本列島に居住する人びとである倭人を指した。
説文解字では「従順なさま。詩経に曰く“周道倭遟(周への道は曲がりくねり遠い)”。」と解説されている。 康熙字典によれば、さらに人名にも使用され、例えば魯の第21代王宣公の名は「倭」であると書かれている。
『隋書』では俀とも記し、『隋書』本紀では「倭」、志・伝で「俀」とある。「俀」は「倭」の別字である可能性もあるが詳細は不明である。
のち和と表記される。奈良時代中期頃(天平勝宝年間)から同音好字の「和」が併用されるようになり、次第に「和」が主流となっていった。例えば鎌倉時代の徒然草には「和国は、単律の国にて、呂の音なし」(199)とあり、また親鸞も和国と記している。
現代の日本では、倭の字はいくつかの場面で使われている。人名用漢字の一つとして選ばれている他、東京には「倭」という手作り弁当のチェーン店がある。公立学校として三重県津市と長野県中野市に倭小学校が存在する。奈良県には北倭保育園(私立)が存在する。日経ビジネスオンラインでは、海外で働く日本人に対し、華僑という言葉を参考にして「倭僑」という言葉を提案した。中国には貴州省清鎮市に犁倭という地名が存在する。
解釈
日本列島に住む人々が倭・倭人と呼称されるに至った由来にはいくつかの説があるが、いずれも定説の域には達していない。
○ 平安時代初期の『弘仁私記』序にはある人の説として、倭人が自らを「わ」(吾・我)と称したことから「倭」となった、とする説を記している。
○ 一条兼良は、『説文解字』に倭の語義が従順とあることから、「倭人の人心が従順だったからだ」と唱え(『日本書紀纂疏』)、後世の儒者はこれに従う者が多かった。
○ 江戸時代の木下順庵らは、小柄な人びと(矮人)だから倭と呼ばれたとする説を述べている。
○ 新井白石は『古史通或問』にて「オホクニ」の音訳が倭国であるとした。
○ 隋唐代の中国では、「韻書」と呼ばれる字書がいくつも編まれ、それらには、倭の音は「ワ」「ヰ」両音が示されており、ワ音の倭は東海の国名として、ヰ音の倭は従順を表す語として、説明されている。すなわち、隋唐の時代から国名としての倭の語義は不明とされていた。
○ また、平安時代の『日本書紀私記』丁本においても、倭の由来は不明であるとする。
○ さらに、本居宣長も『国号考』で倭の由来が不詳であることを述べている。
○ 神野志隆光は、倭の意味は未だ不明とするのが妥当としている。
悪字・蔑称説
江戸時代の木下順庵らは、小柄な人びと(矮人)だから倭と呼ばれたとする説を述べ、他にも「倭」を蔑称とする説もあるが、「倭」の字が悪字であるかどうかについても見解が分かれる。『魏志倭人伝』や『詩経』(小雅、四牡)などにおける用例から見て、倭は必ずしも侮蔑の意味を含まないとする見解がある。それに対して「卑弥呼」や「邪馬台国」と同様に非佳字をあてることにより、中華世界から見た夷狄であることを表現しているとみなす見解もある。
なお、古代中国において日本列島を指す雅称としては瀛州(えいしゅう)・東瀛(とうえい)という呼称がある。瀛州とは、蓬莱や方丈ともに東方三神山のひとつである。
倭の国々
冒頭で掲げたように、「倭」には日本列島および奈良盆地という2つの意味があるが、ここでは広義の「倭」つまり日本列島における小国分立時代の国々について若干ふれる 。
『魏志』倭人伝にみられる「奴国」は、福岡市・春日市およびその周辺を含む福岡平野が比定地とされている。この地では、江戸時代に『後漢書』東夷伝に記された金印「漢委奴国王印」が博多湾北部に所在する志賀島の南端より発見されている。奴国の中枢と考えられているのが須玖岡本遺跡(春日市)である。そこからは紀元前1世紀にさかのぼる前漢鏡が出土している。
「伊都国」の中心と考えられるのが糸島平野にある三雲南小路遺跡(糸島市)であり、やはり紀元前1世紀の王墓が検出されている。
紀元前1世紀代にこのような国々が成立していたのは、玄界灘沿岸の限られた地域だけではなかった。唐古・鍵遺跡の環濠集落の大型化などによっても、紀元前1世紀には奈良盆地全域あるいはこれを二分、三分した範囲を領域とする国が成立していたものと考えられる。
 
「倭」と「大和」の語源

 

1.「倭」と「和」の問題
『魏志倭人伝』は正式には『三国志』のなかの東夷伝のなかの倭人の条というのだが、いずれにせよ倭人という言葉がでてくるし、さらに倭や倭国という言葉がでてくる。つまり当時のシナ王朝では、現在の日本列島および朝鮮半島南端部のことを《倭国》と記し、そこに住んでいる日本人のことを倭人と呼んでいたのだ。
なぜそう呼んでいたのだろうか?これについては、いくつかの説があるが、大きく分けて、
[ア] 漢や魏の役人が勝手に作ったという説。
[イ] 日本人が質問されてそう答えたという説。
――の二つになる。
前者の[ア]は、「倭」という漢字の意味が低いとか曲がっているとか遠いとかいうものなので、遠路はるばる日本を訪れた使者が日本人の醜い姿を見て、そう名づけたのだろう――というものである。しかしそれはあまり説得力がない。なぜなら、『魏志倭人伝』のなかの多くの国名は、みな日本での呼び方を漢字に当てはめて、日本人の発音に似た呼称で呼んでいるからである。ただそのとき当てはめる漢字に、蔑称的なものが多いということなのだ。
一方後者の[イ]は、質問された日本人が「ワ」と答えたので、それに差別的な「倭」という漢字をあてはめたのだろう――というものである。これは前者よりずっと得心がゆく。この後者の説にもいろいろあるわけだが、著者が読んだ説を二つほど挙げておく。
そのひとつは、「日本人が昔のシナ人と話をはじめた時代に、日本人は自分たちのことを《われわれ》または《われ》または簡単に《わ》といい、自分たちの国のことを、《われわれのくに》または《われのくに》または《わのくに》などといったので、シナ人は日本を「ワ」と呼ぶようになり、それを漢字で書きあらわすときに、差別意識によって低い姿勢とか従うとかいう意味を持つ「倭」を当てはめ、日本のことを《倭国》、日本人のことを「倭人」と記すようになった」――という説である。南北朝時代の南朝の忠臣・北畠親房の『神皇正統記(1339)』にも似た意見が紹介されているが、その前の『釋日本紀(1300ごろ)』にも同じ意見が書かれており、とても古くからの説である。
ちなみに後漢から金印を贈られたとされる倭奴国や伊都国の次ぎの奴国の奴とは、召使いとか虜とかいう意味で、これまた倭に負けずに下品な漢字である。
[イ]にはもうひとつ、円形を意味する「ワ」から来たのだろうという説がある。それは、「日本の集落や都市は昔から環濠と呼ばれる堀を周囲に円周的にめぐらした中にあった。だからシナ人からお前の国は何と呼ぶのか、と聞かれたとき、円形や環形を意味する日本語の「ワ」を使って「わのなかにある」あるいは「わのなかのくに」または「わのなか」といった答をしただろう。そこでシナ人は日本のことを「ワ」と呼ぶようになり、それを差別的な「倭」という漢字で表した」――というものである。
おそらくこの後者の[イ]の二つ、またはそれに近いことがあって、かなり昔――たぶん西暦前――の前漢の時代からシナでは日本のことを《倭国》と呼んでいたのだろう。そしてそれを知った古代の日本の知識層が、「なるほど自分たちの国はシナ人によって倭と呼ばれているのか、それなら我々もこの文字を使って「倭」と記すようにしよう」――と考えたのであろう。
ところで、古い文書を読むと、日本人は自分の国のことを「倭」とも記しているが、それが次第に「大和」に変化してきている。なぜなのだろうか?それは、日本人が次第に漢字の意味を勉強するようになり、「倭」は差別的な意味を持っていることがわかってきたからだろう――といわれている。古代の日本人はいろいろ考えた末、シナでの発音が似ていて、かつとても穏やかで良い意味を持つ「和」を採用して「倭」のかわりに使おうではないか――ということになったのであろう。
「和」はやわらぐ、なごむ、友好的、楽しむ・・・といった日本人好みの意味を持つ漢字である。この「和」を「ワ」と読むのはシナの音であるが、日本古来の発音である「ワ」は、円、環、輪、回・・・といった意味を持ち、落ち着きのある語感の言葉である。だから、「和」という漢字は、当時の日本人にとって、元々の漢字の意味も、読みから来る日本語としての語感も、ともにとても感じの良いものだったのだ。この「和」の前に「大」をつけて「大和」という単語をつくったのは、大和朝廷やその都がとても強く大きくて立派だ――という自負心からだろうが、ひょっとすると『魏志倭人伝』に記されていてる「大倭」にヒントを得たのかもしれない。
2.なぜ「ヤマト」と読むのか?
ここまではなるほど――と思われるのだが、つぎに疑問がうかぶのは、「ヤマト」という読みである。『記紀』を読むと、「大和」だけではなく「倭」も「ヤマト」と読むことが多かったらしいとわかる。そしてその「ヤマト」という読みは、《邪馬台》の読みとじつによく似ている。
《邪馬台》が三世紀のシナの都でどう発音されていたかについては、定説はないらしく、「ヤマタイ」「ヤマダイ」「ヤマト」「ヤマド」「ヤマトイ」など多くの説があるが、どれをとっても日本語の「ヤマト」に似ている。ずばり「ヤマト」と読むべきだという学者も多い。
だから、「ヤマト」なる読みの詮索は、日本国の語源論だけではなく《邪馬台国》探しの面でもきわめて重要になってくる。「大和」を単純に音で読めば「タイ・ワ」だし、訓で読めば「オオ(オホ)・ヤワラグ」などであり、どう工夫しても「ヤマト」なる読みは出てこない。したがって「大和」と書いて「ヤマト」と読ませるのは、完全な当て字(当て読み)である。では、どこからその当て読みが出てきたのだろうか?
もっともなっとくしやすい意見は、日本列島の盟主になった大和朝廷の先祖が住みついていた土地の名前が、漢字を知らなかったころからの純日本語で「ヤマト」と呼ばれていたからだろう――というものである。またそれを自分たち一族の名前にもしていたのであろう――というものである。そこで、大和朝廷の先祖がいた土地に、「ヤマト」なる地名が残っているかどうかを調べる段取りになるが、それには、その土地がどこだったかを求めなければならない。
《邪馬台国》に「九州説」と「大和説」があるように、大和朝廷の先祖の土地についても、最初から現在の奈良県の《大和》だったという説と、『記紀』に記されているように九州だったという説がある。奈良県の場合には《大和》そのものなので、問題はその地名の意味やいつごろからそう呼ばれていたか――ということだけであるが、九州については「ヤマト」なる地名をもつ場所を探さなければならない。それは、『記紀』にある高千穂の峰の近くや日向の地には見つからないが、中北部には現存している。福岡県の山門郡(ここに大和という町もある)とその近くの熊本県の山門である。(これらはヤマトと読む)
神武東征説では、この地点が大和朝廷の先祖に関係するとする考え方があるし、「《邪馬台国》九州説」では、この二箇所のどちらかが《邪馬台国》だったとする意見が昔からある。江戸時代の新井白石も福岡県の山門説を唱えていた。地名は変化するので、九州の一部に「山門」なる地名が現存しているということは、昔は他の地域にも同様な地名があった確率が高いということであり、高千穂のあたりや現在の日向のあたりにも「山門」があった可能性がある。また奈良県の《大和》も、本来は「山門」または「山処」といった漢字を当てはめるべき意味の「ヤマト」という地名だったのだろう――という説が多くの学者によって唱えられている。
というわけで、「大和」とは本来の漢字の意味からすれば「山門」と書くべき言葉で、山の門つまり山への入口といった意味を持っており、これが、畏敬すべき山地の近くに住んでいた大和朝廷の先祖がその土地につけた名であり同時に氏族名でもあり、それをあらわす漢字として「倭」を改善した「大和」を採用することにしたので、「大和」と書いて「ヤマト」と読む一見奇妙な読みができたのであろう――ということになる。これはなっとくしやすい推量であり、肯定する学者も多いらしい。
3.甲類・乙類の諸問題
ただしちょっと問題もある。それは、万葉仮名の研究などによって、古代の日本語には同じ「ト」にも二種類あることがわかっており、その違いを検討すると、「大和」の「ト」と「山門」の「ト」は発音が異なっているので、語源が「山門」という説は成立しない――との意見があることである。この発音の問題を《邪馬台》にあてはめると、それは「大和」には似ているが「山門」とは違うとされ、「《邪馬台国》九州説」への反論にもなっている。古代の発音における甲類・乙類の問題は専門書を見ていただくことにして、「山門」と「大和」にこれをあてはめてみると、
「山門」の「ト」は甲類 
「大和」の「ト」は乙類
――となるので、この二つの地名(氏族名)は古代の発音が異なっていたことがわかる。
そしてこれが、「大和」の語源は「山門」ではないし、また九州の「山門」は大和朝廷の出発点ではない――との説に結びつくのである。しかし、音韻がしだいに変化する例はたくさんあるので、これは一つの意見にすぎず、「大和」と「山門」は同源であるとする著名な学者も多い。もうひとつ、「山門」に近い言葉に「山処」がある。文字どおり山のある処という意味だが、こちらのほうは「大和」と同じ乙類であり、したがって「山処」が「大和」の語源だという説もある。
(前記の『神皇正統記』で北畠親房は「山迹」説をとり、異説として「山止」説を紹介している。前者は山を歩いた足跡、後者は山への居住という意味だが、七百年も前の学説なので、ここでは参考にとどめる)
さて次に、この甲類・乙類の区別を、《邪馬台国》がどこにあったかの問題にむすびつけてみよう。台は「ト」とも読めるが、このように読んだとき、
「邪馬台」の「ト」は乙類
で、「大和」の発音に等しい。したがって、甲類・乙類を峻別する意見では、「《邪馬台国》大和説」――となるし、また音韻変化を認める意見では、「山門」なる地名が九州にあるので、「《邪馬台国》九州説」――を否定すべきではない、となる。
ちなみに、『古事記』に記された万葉仮名の「ヤマト」は「夜麻登」で統一されているが、『日本書紀』のそれは十通りもあるという。「耶馬騰」「椰磨等」「夜摩苔」「夜莽苔」「揶莽等」「野麼等「野麻登」「野麻等」「耶魔等」「野麻騰」の十種である。また『万葉集』にも多くの万葉仮名がある。(『万葉集』の仮名以外では「日本」や「倭」のほかに「山跡」が多い)
シナ史書では、七世紀前半の『隋書倭国伝』に、「邪摩堆に都する、すなわち『魏志』のいわゆる邪馬臺」――とあるので、「邪馬台」は昔のシナでは「ヤマト」にとても近い発音だったとの印象をうける。
4.むすび
以上を総括してみよう。甲類・乙類という古代の発音の違いは別問題として、「ヤマト」の語源としては「やまのあるところ」あるいは「やまへの入口」という意味からきたという説が有力で、漢字で書けば「山門」あるいは「山処」などが語源であろう――いう説が一般的である。だから「ヤマト」は最初は山に近い場所、つまり神聖な山の麓の呼称であって、日本全体の名ではなかった。日本のあちこちに「ヤマト」という地名があり、また氏族名があり、そういう氏族の代表が大和朝廷の先祖だったのであろう。そして、奈良県の《大和》に本拠をおく大和朝廷が日本を統一したために、シナ式表記の「倭」のかわりに美しく「大和」と書いて「ヤマト」と当て読みする単語が、日本列島全体の代名詞になっていったのである。
和は倭の代わりなので、和のみで「ヤマト」と読むのが本来である。したがって、大和を「オオヤマト」と読むことも多い。戦艦大和に祀られていたことで知られる《大和神社》がその例である。
《邪馬台国》との関係については、「邪馬台」も「大和」も末尾をトと読んだときの古代の発音は乙類で同じと想像されるので、《邪馬台国》が大和朝廷かその先祖の地《大和》であった可能性はきわめて高い。しかし、それだけで奈良県の《大和》が《邪馬台国》であると決めつけることもできない。私は「《邪馬台国》大和説」が有力と考えてはいるが、九州の《山門》の音韻が変化して《邪馬台国》になった可能性も否定できないからである。
なお、発音の面から《邪馬台国》と《大和》を厳密に比較することは、三世紀の発音を推理しなければならないので、困難であろう。三世紀の日本人が「ヤマト」をどう発音していたのかを厳密に知ることは難しい。現在でも地方によって方言があることから、当時に日本で近畿と九州とで「ヤマト」が同じ発音だったとも考えにくい。少なくともイントネーションは相当違っていたであろう。また、日本人のその発音が、シナの使者や役人の耳にどう響いたかも分からない。さらに、それを「邪馬台」と表記したとしても、その三世紀の発音がどうだったかを厳密に知ることはできない。したがって、《邪馬台国》と《大和》の発音の面からの比較は、「だいたい合っているようだ」という程度の推理しか出来ないと思う。
 
倭国と邪馬台国と大和

 

古代中国の文献で日本のことは「倭」という字が当てられている。発音的には「わ」なのだが、これは基本的に中国側から日本を呼称するものであって、日本人は自分たちもしくは自分たちの国を「わ」とは呼んでいなかったであろう。「倭」の由来は不明で、漢字の原義から従順なやつらという意味だとか、「矮」の用に小さい奴らだとか、古代の日本人が自分たちのことを「わ」(われ)と呼んでて、同じ音の「倭」をあてたとか、まあいくつも説はあるものの根拠がない。つまりは由来不明だが現在の日本のあたりを「倭」「倭国」と中国側は読んでいたらしい。倭の五王とか、邪馬台国の卑弥呼とかの時代、倭国の中が統一されてたわけではなくて、小国が連合したり戦争したりしてる状態で、その中の有力な豪族連合の長が中国の王朝に朝貢して倭国王の地位の承認を求めたりしてたわけだけど。例えば「邪馬台国」なんてのは、」卑弥呼が治める国の人間が「我が国の名はやまと国」といってるのを中国人が聞き取って「やまと」と聞こえる漢字を当てはめたわけだ。「邪馬台」という漢字の当時の発音だと「やまたい」ではなく「やまと」に近いらしい。
近年は邪馬台国畿内説が主流なので、まあ、この「やまと」がそのまま「大和王権」になったと仮定してみるとして、ここで面白いのが「大和」という漢字は中国語由来の音読みでもやまとことば由来の訓読みでも本来「やまと」なんて読めないことだ。「だいわ」とか「おおにぎ」とかではなく「やまと」と読むのは変だ。
地名としての「やまと」の語源は山の下であるとかこれもはっきりしないがいくつか説がある。何にしろ漢字を当てる前に「やまと」という地名があった。万葉仮名などでは「夜麻登」などと漢字を表音文字として当てている。この「やまと」を漢字表記する際に中国から呼ばれる国名である「倭」を使用した。つまり「倭」と書いて「やまと」と読むことにしたわけだ。要するに漢とか魏とかの人はうちらの国を「倭」って書くから、これはつまりうちらの国「やまと」のことで、「倭」と書いて「やまと」と読むようにすればあちらの人もこちらの人もうまくいくんじゃね?ってことだよな。さらに、「うちら結構すごくね?『大』つけちゃおうぜ」って「大倭」になり、「なんか『倭』ってあんまし良くない字じゃね?『和』に変えちゃおうぜ」ってことで「大和」になったと。
ところで7世紀頃、日本は漢字の国号を「倭」から「日本」に変更する。でもこの「日本」の読みは「やまと」のままだった。ヤマトタケルノミコトを古事記では「倭健命」、日本書紀では「日本武尊」と表記しているが、どちらも「やまとたけるのみこと」である。しかし地名の「大和」は「大日本」にはならなかった。謎だ。定着してたからか?すでに「倭」ではなく「和」になってたからか?
長い年月がすぎるうちに、日本と書いて「やまと」と読む用法は消えていった。「日本」は「にほん又はにっぽん」、時代劇では「ひのもと」と読み下しで発音してるけど、「やまと」とは読まないよなあ。「やまとだましい」などと言うときは「大和」の方を使う。
国号としては「日本」に置き換えられた「倭」だが、「和」となって日本の主に文化的なものを表す文字として生き残っている。和食とか和装とか。これももちろん「やまと」とは読まれず「わ」なのだが、このへんもなんか不思議な気がする。
 
「倭国」「倭人」の語源

 

1.従来説
日本食を「和食」、日本語で書かれた本を、「和書」と言います。
これはなんでかと言うと、「和」=「日本」だからですね。ではなんで、そもそも、そういう事になっているかというと、代々、中国の歴史書で、「日本」は「倭」と呼ばれていたからです。日本人は自ら、国名こそ「倭」から「日本」に変更しましたが、文化、民族名の漢字表記(「大和」:但し読みはヤマトですが)には、古代の「ワ」を現代まで残したのです。この「倭」の起源について論じてみたいと思います。
「倭」と言う呼び名が出てくる最古にして確実な文献は、「漢書」 地理史の有名な一節、
「・・・楽浪の海中に倭人有り。 分かれて百余国を為し、歳時を以って来たりて献見すという。」
です。中国人が、なぜ日本人を「倭」と呼んだのかについては、以下の諸説があります。
「倭」は「委」が原型であり、「委国」は遥か遠くの国の意味とするものです。しかし、「委曲」という言葉から分かるように、これは曲がりくねった遠い道を表わす語で、「はるか」という意味はないので、誤りです。
それに、そもそも、上の漢書の引用から分かるように、「倭国」でなく、「倭人」という用法が先であるワケです。「倭国」(遠い国)という用法が先にあって、後から「倭人」という表現が定着したというなら分かるけれど、「倭人」が先です。「倭人」=「はるかな人」では、意味をなしません。
別の一説によれば、「倭」は「性質が従順な人」の意味との事です。上に引用した漢書に箕子(殷の王族)が朝鮮の民を教化したので東夷は性質が従順だ、とある記述を根拠とするのですが、これは東夷一般を言っているのだし、そもそも「倭」は、人の性質を形容する語ではありません。
別の一説は、「倭」は「背が丸く曲がって低い人」の意味で、「倭人」は華北人や韓人に比べ背が低いので、身長の特徴から名づけられたものだろう、というもので、文献はこの説を採用しています。
これらの説は、漢字の意味の解釈と、日本人が中国人からどう見られていたかについての推測から導かれたものです。このような発想の起源を辿ると、多分、江戸時代の儒学者の説に行き着くものと思われます。「中華思想」を無批判に取り入れた発想です。
中国を取り巻く異民族の名称が、どのように決まっていたかを調べ、その知見を元に「倭」の語源を求めるというのが、合理的な手法のハズです。上の諸説は、江戸時代の儒学者の「拝華意識」を無批判に現代に継承した上での、単なる思い付き以上の何者でもなく、二重の誤りを犯していると思います。
中国を取り巻く異民族の名称、例えば、匈奴、鮮卑、突厥、夫余などの語源は、すべて、自称に基づくものです。例えば、匈奴については諸説ありますが、「人」を意味したとされてます。鮮卑は、 se(a)bi で、彼等の聖山もしくは、瑞兆を表わす獣から名づけられたとされます。夫余の  puyo も同じく、聖山もしくは聖獣である「鹿」の意味で、突厥は、 trk つまり、トルコ(チュルク)民族の名称を表記したものです(「チュルク」の語源が何かについては諸説ありますが)。
また、民族名が、その民族の言語で「人」を表わす例が数多く存在します。台湾のツァウ族、ツングースの「オロコ」、「アイヌ」もそうです。(印欧語族、ウラル語族でも多くの例があります。)
中国の歴史書に現われる他民族の名称は、原則的に、彼ら自身の言語による自称に基づくものであって、その音を漢字で表記したものである。
これが、原則です。従って「倭」の漢字(中国語)の意味をあれこれ詮索しても、その名称の起源を探る上では、無意味だと考えます。もちろん、中国は「文の国」ですから、民族あるいは国家を表わす漢字に、「中国人の評価」が加味される事は十分考えられます。
例えば、匈奴との関係が友好的な時には、「恭奴」と表記が変わったり、古代モンゴル人の「柔然」が時には「蠕蠕」というおぞましい漢字で書かれたりしました。 (モチロン「柔然」も、古代モンゴル語で解釈されています。)
しかし、そのような場合でも、発音を変えるような変更は行われなかったワケですから、表記漢字の意味から民族名の語源を推測するという考え方が誤りであるのは明らかです。
2.「倭」(wa)の語源
上に述べたような原則から、明らかに、 1.「倭」は wa の表音文字である 2.wa は、日本人の自称によるもの、つまり古代日本語であることになります。
「倭」の語源に関する、別の一説は、「倭」=「ワ」(我れ)の表記であるとするものです。「我れ」は、「ワ」と接辞「レ」から成り、「ワ」が、語幹です。
一見、もっともらしい説なのですが、国文学で、一人称を表わす語には、「ワ」と「ア」があったが、「ア」が古形であるという説があり、弥生時代には一人称としては、「ア」のみがあったと推定されるとして、文献では、この説は否定されています。
この文献の別の箇所で、古代日本の人称代名詞のシステムがどうなっていたかを検討しました。これは、ノストラティック仮説といって、1万年前に遡ると、印欧語族、ウラル、アルタイ語族などが一つの超語族を形成するという壮大な仮説を説明するための一環として行ったものなのですが、 ここでは、そんな大風呂敷を広げずに、通説(というか、支持者が最も多いと思われる説)の通り、
「日本語はアルタイ系の言語を骨格とし、南島語(オーストロネシア語族)から大量の語彙と一部の文法要素を取り入れた混合言語」
であるとしておきます。この説(村山説)によれば、日本語の一人称代名詞には、アルタイ系と南島語系の2種類があるのです。
上の国文学側からの主張をどうヒックリ返すかとか、二人称の「汝(なんじ)」が、元は一人称だったとか、けっこう面白い話しです。
結論だけ言うと、1.wa は、アルタイ語(ツングース語)の一人称複数 *bua (我々)に遡る。2.a は、南島(オーストロネシア)祖語一人称単数 *aku (私)に遡る。で、 wa がaと同じく古い起源を持つ語であると推定しても良い事になるのです。 オーストロネシア語の基層の上にアルタイ語が積層して日本語が形成されたと考えるので、確かに、a の方が古いのですが、弥生時代には、wa も日本語にあったのです。
上代における「ア」と「ワ」の用法を比較すると、「ア」は、「身」、「胸」、「面」のような身体部分の名称や、「恋」、「片恋」のような言葉と結合するのに対し、「ワ」は「大君」「家」「里」「家」のような言葉と結びつきます。
「我(わ)が大君」とは言っても、「吾(あ)が大君」とは言わないのです。これは、「ワ」が一人称複数、「ア」が一人称単数を示す言葉であった事の痕跡ではないかと考えられます。
「倭 (wa)」とは、「我ら」を意味する、我々日本人の言葉でした。中国人がつけた、「従順な」でも「背の低い」でもない、「我ら」という古代日本語です。
「倭国」は「われわれの国」という意味です。従って、「和風」とは「わたしたちの気風・風習・あり方」であり、「和食」は「わたしたちの食べもの」という意味です。
私は、国粋主義者ではありませんが、一部の歴史学者のいわゆる「被虐的歴史観」には嫌悪を抱いています。なぜ「倭」の語源を、「日本人が中国人から、どう見られていたか」という観点から解釈しなければならないのか、理解できません。 このような解釈は、中国人が異民族の呼称をどう決めていたかという一般原則に反するものです。
この問題は、歪んだ歴史観の修正に、比較言語学という学問がささやかでも、貢献できる例の一つと思うのです。
「倭」という表記について
森学説は、日本書紀の一部(α群と呼びます)が中国人によって書かれたものであるという驚くべきものですが、決してトンデモなんかではありません。厳密な考証によって導き出された言語学上の金字塔です。最近、大野晋氏の自伝「日本語と私」を読んだのですが、森学説に接した時の衝撃と悔しさが行間から伝わってきます。
それはともかく。森氏の著書によると、中国人が書いたα群と、日本人が書いた部分(β群と呼びます)における「ワ」の表記は以下のようになっています。
(中略)
「ワ」の表記において、β群を書いた日本人が、圧倒的に「和」を好んで用いたのに対し、α群の著者(中国人)は、「倭」を選択しました。「和」は、語頭に子音 (敢えて言うと「ハ」の濁音)を含んでいたために、日本語の「ワ」の表記には不適当と判断されたというのが森氏の見解です。β群における「倭」の用法を見ると、単に日本語の「ワ」という音節の表記に使われているだけです。β群を執筆した中国人が、「我が」(ワガ)という日本語を表記するのに「倭我」という漢字を使ったからと言って、そこに「蔑視意識」を見出すとすれば、それは「被害妄想」というものでしょう。おそらく、古代日本人の「ワ」という発音を表記した中国人もまた、そのように判断して「倭」を純粋な音表記として用いたのだと思います。「倭」の意味を漢字の字義から解釈するのは、繰り返しになりますが、倒錯した議論だと考えます。
α群における「ワ=和」表記例について
上の表に示したように、3例だけですが、α群の筆者(表記者)は、「ワ」の表記に「和」の字を使用しています。どういう場合に「和」の字を使ったのか、フト気になったので調べてみました。
○1.17巻歌謡番号77の例
雄略天皇6年2月 天皇が泊瀬(奈良県桜井市初瀬?)の小野に行幸した時の歌
「隠国の泊瀬の山は いでたちの よろしき山 走(ワシ)り出の よろしき山の 隠国の泊瀬の山は  あやにうら麗(ぐは)し。 あやにうら麗し。」 「走(ワシ)り」が「和斯里」と表記。
○2.16巻歌謡番号95
仁賢天皇11年8月 平群(ヘグリ)シビのオミが影姫を手に入れた事を知った皇太子の小泊瀬ワカサギ尊(後の武烈天皇)は、シビを討伐。シビが殺される様を見た影姫の作った歌
「あをによし 及楽(ナラ)の谷(ハサマ)に 鹿(シシ)じもの 水漬く辺隠り 水そそく 鮪(シビ)の若子を 漁り出な 猪の子。」 「若子」の部分が、「和倶吾」と表記。
○3.17巻歌謡番号99
継体天皇24年10月 
「加羅国を 如何に言ことそ。 目頬(メツラ)子来る。むかさくる 壱岐の渡りを 目頬子来る。」 の「渡り」が「和駄利(クチ偏)」と表記。
上の3例からだけでは、なぜ「和」が使われたのか、何も言えないと思います。 以下に思いつきを述べておきます。
2番目の歌で、「奈良」が「及楽」と表記されていますが、「ナ」の字の表記に「及」の字が使われているのは日本書紀ではここだけです。書紀の編纂の時点で既に文字化された歌が存在したために、α群の筆者は、原文を尊重して上記の歌を採録したのではないだろうか、と推測するのが妥当と思われます。「和」と「倭」の使い分けは、発音によるものだという以前の結論に変更を加える必要はないと考えます。
 
夜麻登と大倭と倭と日本と大和

 

タイトルの漢字は全部「ヤマト」と読みます。だれでも読むことができるのは、「夜麻登」です。もっと も、漢字には意味がなくて音だけだと教えて貰いませんと読めませんが・・。
次は、「倭」です。これをヤマトと読むとこの出来る人は、すこし変わり者です。大倭を「ヤマト」となる と読むことはできません。古事記翻訳者の倉野憲司氏でも、「おおやまと」と振り仮名をつけておら れます。日本を「ヤマト」と読んだ方は、大勢おられるでしょうが、私が知っているのは、日本書紀の 翻訳書を書かれた宇治谷孟氏「オオヤマト」です。
たとえば、 神武天皇の和風諡号は、
日本書紀  神日本磐余彦尊(かむやまといわれびこのみこと)  宇治谷孟氏
古事記   神倭伊波禮毘古命(カムヤマトイハレビコミコト)   倉野憲司氏
そんなことどうでも良いではないかと思われるでしょう。式内社の神社の祭神には、神日本磐余彦尊 が書かれています。全部調べたわけではありませんが、式内社でなければ、神倭伊波禮毘古命が 使われています。式内社は、延喜式に掲載されている神社ですから、確かに、由緒は正しく、古い のですが、すべて、神日本磐余彦尊の祭神名が記録に残っているのであれば、無理やり書き換え るように云われた可能性はあります。
日本書紀を作ったのは、藤原不比等です。私は、不比等の生命に不安が生じたので、日本書紀 の発刊を早めたのではないかと推察しています。なんの根拠もありませんが、日本書紀は720年発 刊されて、同じ年に藤原不比等は死亡しています。
古事記と日本書紀を比べて読んでいますと、一見、日本書紀の方が、辻褄があっているように思え ますが、強引なところがあります。日本書紀を作るだけに、強引であったのではなく、自分達の支配 している神社の祭神は、古事記と同じであっても、すべて漢字表記を変えさせた疑いがあります。
現在でこそ、神日本磐余彦尊は、(かむやまといわれびこのみこと)とだれでも読まされています が、読めるはずがありません。「倭」の漢字を「日本」に変えたのは、中国本国なのか、藤原不比等 なのでしょう。古事記が発見されるまでは、「日本」をどのように読んでいたのでしょうか?
えらい前置きが長くなりました。
愈々、タイトルのことを書いてみます。
古事記 の 「神倭伊波禮毘古命」の「神」は、ユダヤ人の血が入っていることを表わしています。こ のような事を書きますと、天皇家の人は、気分を悪くされるかもしれませんが、古事記が書かれた 710年頃は、なにも恥ずかしいことでも、なんでもなかったと思われます。そのような事実を知ってい たか知らなかったかは判りませんが、日本書紀の人も、神武天皇のはじめに「神」をつけました。次 の「倭」は、生まれたところの名前です。
大国村倭というところです。現在でも、鳥取県に残っています。
「大倭」は、No352で述べましたように、昔は久米郡大倭村と言われたところです。
「大和」は大和のどこを読みますと、ヤであり、マであり、トであるのか、だれにも説明できないと思い ます。しかし、ヤマトと読むことは、だれでも知っています。奈良を指しています。
最後は、「夜麻登」です。「夜麻登」と書かれているところをチェックします。
古事記の神武天皇のところに、
ここに大久米命、その伊須気余理比売をみて、歌をもちて天皇に白しけらく、
『倭の 高佐士野を 七行く 媛女ども 誰れをし枕かむ』とまをしき。
上の文は、倉野憲司氏の訳本から抜粋しましたが、「倭」は、原文では、「夜麻登」と書かれていま す。このことから、「夜麻登」と呼ばれていた所があったことになります。それはどこかと言いますと、 鳥取県西伯町に大国という町があります。この町に「倭」という集落があります。
地図にたまたま、「倭」があるから、古事記に書かれている「夜麻登」であるというのは、気がおかし いのではないかと思われたでしょう。否定するのは簡単です。否定する根拠を聞かれたら、何一つ あげることはできないと思います。
ところが、旧大国村倭をはじめとして、会見郡や溝口町あたりは、古事記に出てくる地名が沢山あ り、神の名前が、このあたりにある神社の祭神になっています。
「会見郡」の名前は、イザナギがイザナミに会いに行ったので、付けられたのではないかと想像し ていました。イザナミの入院先(黄泉の国)である御墓原は、会見郡の真ん中にあります。しかし、神 武天皇が伊須気余理比売にであったのも、会見郡であったようです。
その場所は、倭の高佐士野と書いてあります。倭の近くを探しますと、越敷野(東経133度24分、北 緯35度21分)があります。稗田阿礼は、この辺りも行ったことでしょう。高佐士野(こさしの)のことを太 安万侶に話したと思われます。口述ですから、「コスシノ」といったかも知れませんが、私は高佐士 野と呼ばれていた所を、藤原氏は無理に越敷野と変えたのだと思っています。なぜなら、この伯耆 のことは、藤原氏は書きたくないどころか、消し去ろうとしました。それほど、消したいと言うことは、 伯耆の国に、オオクニヌシ命や神武天皇は、実際に居たという証明になると思うからです。地名を かえることぐらいなんでもない事でした。
なんのことかお判りにならないと思います。機会を改めて、伯耆の国のことを書きます。今は、吉備 の国のことに光を当てようとしていますので、これぐらいにします。
夜麻登登母母曾毘売命
(やまととももそびめのみこと.)…《日本書紀》に登場する巫女的な女性。《古事記》では夜麻登登母母曾毘売(やまととももそびめ)命と名のみみえる。謀叛の予見、神憑りによる神意の伝達などで崇神天皇を助けたとある。…
 
夜麻苔と夜麻登

 

夜摩苔と夜麻登の区別を考えます。
A 小学館日本書紀、小島憲之、直木孝二郎、西宮一民、蔵中進、毛利正守
B 岩波書店古事記、坂本太郎、家永三郎、井上光貞、大野晋
A、景行天皇。日向国・高屋神社から東を向いての思邦歌
(原文) 夜摩苔波、区珥能摩倍邏摩、多々儺豆久、阿烏迦枳、夜摩許莽例屢、夜摩苔之于屢破試。
(訳文) 倭は、国のまほらま、畳づく、青垣、山籠れる、倭し麗し。
B、倭建命。伊勢国・能頬野(のぼの)での思国歌
(原文) 夜麻登波、久尓能麻本呂婆、多々那豆久、阿哀加岐、夜麻碁母礼流、夜麻登志宇流波斯。
(訳文) 倭は、国の真秀ロ場、畳な付く、青垣、山隠れる、倭し麗し。
なお、Aは、岩波書店・日本書紀と同じで、二番手ですが、同じ解釈になっています。
注釈
まず、苔(タイ、ダイ)をトの音というのがおかしいと気がつきます。日本とは、神代紀の国生みの段にでています。国生み段で、淡路洲を大日本(おほヤマト)とし、注記して、日本と書いて耶麻騰(ヤマト)と定義しています。(騰:トゥ、ドゥ、上がる意味で、登でも可)
A、Bの歌は似ていますが、違う点をあげます。Aは、思邦歌、Bは、思国歌です。邦は、連邦の邦の義で、倭國と大倭國を区別。( 景行天皇のいう東は、魏志倭人伝の東[北を指す]です。西都市黒貫の高屋神社から見ての北は、南宇佐を指す。これを現在の東とすれば、紀伊半島の南、その彼方の海中になり、かげろうが登って来る。一語で、二つの義を表現)Bの國は、エリア(区域)としての大倭:奈良をさす。したがって、両者は全く違う事柄を歌っています。
さらにいえば、苔(タイ)は、邪馬臺(ヤバタイ)の臺[タイ]を暗示しています。高屋神社から真北は、南宇佐大尾神社、その北の高倉神社古墳です。高屋神社は、西都市の黒貫寺の東に近接しています。宇佐神宮の奥宮は、櫟の原生林の生えた大元山(馬城峰)です。北辰(天御中主神)と北斗七星(高皇産霊神)神むすび神が大元山に祀られています。
まず、難物の漢字音を記す。みなさんも考えて下さい。
凡例⇒前:漢音、後ろ:呉音。ひとつ表記は両者同音。数字:意味違いの音。
<Aの漢字音> 摩:バ、マ。 / 苔:タイ、ダイ。・・・・(臺:タイ、ダイで、問題点を後述) / 珥:ジ、ニ / 倍:ハイ、バイ / 邏:ラ / 儺:ナ、ダ / 烏:オ、ウ / 枳:1キ、2シ、3キ、ギ、4シ / 許:1キョ、コ、2コ、グ / 莽:モゥ、ボゥ / 那:ナ、ダ / 試:シ / 斯:シ(ソ)   ( Bの漢字音を省きます。)
これらの歌は、漢音、呉音のどちらなのか、問題です。
訳文
漢音ですべて通します。
A、矢幡はクジの場、原葉たたなづく青かし、野馬こぼれる八幡し麗し
字句解説
1)ヤバタ:矢幡:八幡。矢:光の矢。
 (イ)中野幡能は、金富神社を原八幡とする。神主矢幡氏。金:絹。
 (ロ)可是古は旗を飛ばす占いで、女神と知った。(小郡市大崎町の姫杜の社)
 (ハ)布と書いて、「しき」と読む。(斎明紀、推古紀)、敷:色:磯城。
2)区珥の場
 クジは、久慈、狗爾、狗神・・・のどれか
 狗神(くじ)を採用。用例:犬神人(いぬじにん)の神(じ)。
 場:説文では神を祭る道(所)・・・神道の原義とみる。
 福永光司は、中国にも神道ありというが、解説なしです。
3)青かし:櫟(いちいかし)は、御許山(大元山)に原生する。実がなり、古代は食糧にした。単にカシともいう。
4)はらば:原葉の原が元をさし、大元山の元に同じ。常緑の原葉となる。常緑は、永遠願望でもある。はら:原:はる。
5)邪馬(やば)は、野馬(やば)で、かげろう(陽炎)の義。
6)こもれる:籠れる。(日の「かげろう」が籠れる)
7)夜摩苔之の之:し。「し」は強意の助詞(古事記解説)、または矢(し)? 
のち、宇佐神宮菱形池傍の(熊)ササの葉に広幡八幡丸の顕現。(大神比義)
広:光の義です。矢:光。
夜摩苔波、区珥能摩、倍邏摩、多々儺豆久、阿烏迦枳、夜摩許、莽例屢、夜摩苔之于屢破試。
矢幡は狗神(くじ)の場、原葉(はらば)畳づく青カシ、野馬こもれる八幡し、麗わし。(訳文)
光幡は、狗神の祀り場、原葉(はるば)の畳(たたな)づく青いカシに、かげろうが籠れて、八幡はうるわし。(意訳)
補足
原:はる:葉が生え、実がなり落葉帰根の輪廻(大元山の造化三神)
狗(イヌ)は、次の陰識伝の瑞祥譚です。
後漢書陰識伝
臘日(旧暦の12月23または24日)、陰子力という人家に、竃神(カマド神)が突然現れた。彼は飼い犬の黄色い犬を生贄にして竃の神を祭ったら、どんどん財産が増えて行った。世間もこれに見習い臘日に竃神を祀るようになった。大陸の物語では、犬戎国(西戎のイヌ族)と女国は、ペアで居ました。景行天皇は、やはり、狗奴国と卑弥呼を褒めていました。これで意味が完全に通じました。
問題点
臺:タイ、ダイを、甲部ト音とする考えの人
苔:タイ、ダイを、乙部ト音とする人
(この問題は、読む人の先入観、ヤマトという固定観念からきているのではないか)
日本書紀のヤマトのト音は、騰[トゥ]でした。よって登[トゥ]は、Bの耶麻登(ヤマト)に適用可能です。AはBと全く異なった歌です。後漢書の邪馬臺の臺、隋書の邪靡堆、北史の邪馬堆の堆は、漢音のタイで、みな合致します。漢音と呉音の混合はあり得ないと思います。
あとがき
邪馬臺の臺をト音とする先学の書籍を沢山見てきました。しかし、臺、苔、堆、俀の漢字は、タィ音です。
結局、卑弥呼を弟の開化天皇が佐冶。具体には、狗奴の連中や大神氏、宇佐氏、中臣氏、尾張氏、物部氏らが、卑弥呼の邪馬壹(やばい)國を助けてきた。卑弥呼の敵対國は、拘奴国で、筑後の矢部川の田油津姫(たぶらつ姫):百女国女酋が絡んでいるとみられます。(翰苑の百女国)
古代歌謡の解釈は、難儀します。岩波日本書紀は、1967年発刊でした。二番手の小学館日本書紀(1994年)は、上記と同じ解釈でした。なお、八幡は、「やはた」ですが、はちまんともいう。やはたは、ヤバタでも一向に構わないと思います。
 
神話

 

日本に伝わる神話。古事記、日本書紀などに記されている。
八雲立つ
○ やくもたつ いづもやへがき つまごみに やへがきつくる そのやへがきを
八雲立つ 出雲八重垣 妻蘢みに 八重垣作る その八重垣を
夜久毛多都伊豆毛夜幣賀岐都麻碁微爾夜幣賀岐都久流曾能夜幣賀岐袁 --速須佐之男命( スサノオノミコト)、『古事記』
○ やくもたつ いづもやへがき つまごみに やへがきつくる そのやへがきゑ
夜句茂多菟伊弩毛夜覇餓岐菟磨語昧爾夜覇餓枳都倶盧贈廼夜覇餓岐廻 --素盞嗚尊、『日本書紀』
日本初の和歌とされる。
久米歌
○ おさかの おほむろやに ひとさはに きいりをり ひとさはに いりをりとも みつみつし くめのこが くぶつつい いしつついもち うちてしやまむ みつみつし くめのこらが くぶつつい いしつついもち いまうたばよらし
忍坂の 大室屋に 人多に 来入り居り 人多に 入り居りとも みつみつし 久米の子が 頭椎 石椎もち 撃ちてし止まむ みつみつし 久米の子等が 頭椎 石椎もち 今撃たば宜し
(忍坂の大きな室屋に、人が多く来て入っている。人が多く入っていても、久米部の者が、頭椎や石椎(の大刀)でもって、撃ってしまうぞ。久米部の者たちが、頭椎や石椎(の大刀)でもって、今撃てば良いぞ)
意佐賀能 意富牟廬夜爾 比登佐波爾 岐伊理袁理 比登佐波爾 伊理袁理登母 美都美都斯 久米能古賀 久夫都都伊 伊斯都都伊母知 宇知弖斯夜麻牟 美都美都斯 久米能古良賀 久夫都都伊 伊斯都都伊母知 伊麻宇多婆余良斯 -- 『古事記』
○ みつみつし くめのこらが あはふには かみらひともと そねがもと そねめつなぎて うちてしやまむ
みつみつし 久米の子等が 粟生には 臭韮一本 そねが本 そね芽繋ぎて 撃ちてし止まむ
(久米部の者たちの粟畑には 臭いニラが一本生えている。それの根から芽まで繋いで抜き取ってしまうように、(敵を一繋ぎにして)撃ってしまうぞ)
美都美都斯 久米能古良賀 阿波布爾波 賀美良比登母登 曾泥賀母登 曾泥米都那藝弖 宇知弖志夜麻牟 -- 『古事記』
○ みつみつし くめのこらが かきもとに うゑしはじかみ くちひひく われはわすれじ うちてしやまむ
みつみつし 久米の子等が 垣下に 植ゑし椒 口ひひく 吾は忘れじ 撃ちてし止まむ
(久米部の者たちが垣の下に植えた山椒は(食べると)口がひりひりする。私は(敵から受けた攻撃の痛手を今も)忘れない。撃ってしまうぞ)
美都美都斯 久米能古良賀 加岐母登爾 宇惠志波士加美 久知比比久 和禮波和須禮志 宇知弖斯夜麻牟 -- 『古事記』
○ かむかぜの いせのうみの おひしに はひもとほろふ しただみの いはひもとほり うちてしやまむ
神風の 伊勢の海の 生石に 這ひ廻ろふ 細螺の い這ひ廻り 撃ちてし止まむ
(伊勢の海の生い立つ石に這い廻っている細螺のように、(敵の周りを)這い回って撃ってしまうぞ)
加牟加是能 伊勢能宇美能 意斐志爾 波比母登富呂布 志多陀美能 伊波比母登富理 宇知弖志夜麻牟 -- 『古事記』
国偲び歌
○ やまとは くにのまほろば たたなづく あをかき やまこもれる やまとしうるはし
倭は 國のまほろば たたなづく 青垣 山隱れる 倭しうるはし
(大和の国は国々の中で最も優れた国だ。重なり合って青々とした垣のように国を囲む山々。(その山々に囲まれた)大和は美しい)
夜麻登波 久爾能麻本呂婆 多多那豆久 阿袁加岐 夜麻碁母禮流 夜麻登志宇流波斯 -- 倭建命『古事記』景行記
夜麻苔波 區珥能摩倍邏摩 多々儺豆久 阿烏伽枳 夜麻許莽例屡 夜麻苔之于屡破試 -- 大足彦忍代別天皇(景行天皇)『日本書紀』景行記
○ いのちの またけむひとは たたみこも へぐりのやまの くまかしがはを うずにさせ そのこ
命の 全けむ人は 疊薦 平群の山の 熊白檮が葉を うずに挿せ その子
(命の完全な人は、平群の山の熊樫の葉を髪に挿せ(挿して、命を謳歌せよ)、その人々よ)
伊能知能 麻多祁牟比登波 多多美許母 幣具理能夜麻能 久麻加志賀波袁 宇受爾佐勢 曾能古 -- 倭建命『古事記』景行記
異能知能 摩曾祁務比苔破 多々瀰許莽 幣愚利能夜摩能 志邏伽之餓延塢 于受珥左勢 許能固 -- 大足彦忍代別天皇(景行天皇)『日本書紀』景行記
○ はしけやし わぎへのかたよ くもゐたちくも
愛しけやし 我家の方よ 雲居立ち来も
(ああ。懐かしい我が家の方から、雲がわき上がってくることよ)
波斯祁夜斯 和岐幣能迦多用 久毛韋多知久母 -- 倭建命『古事記』景行記
波辭枳豫辭 和藝幣能伽多由 區毛位多知區暮 -- 大足彦忍代別天皇(景行天皇)『日本書紀』景行記
○ をとめの とのこべに わがおきし つるぎのたち そのたちはや
嬢子の 床の辺に 我が置きし 劔の大刀 その大刀はや
(少女(妻の美夜受比賣)の床の側に、私が置いてきた大刀。ああ、その大刀よ)
袁登賣能 登許能辨爾 和賀淤岐斯 都流岐能多知 曾能多知波夜 -- 倭建命『古事記』景行記
『古事記』では倭建命の辞世。『日本書記』では景行天皇が日向で詠んだ歌。
 
夜麻登登母母曾毘売命

 

夜麻登登母母曾毘売命 (やまとととびももそひめのみこと)
三輪山のオオモノヌシ神と神婚する女神
概要この女神は第七代、考霊天皇(こうれいてんのう)の娘で、神話では有名な箸墓伝説(箸墓は現在の奈良県桜井市箸中にある前方後円墳で、ヤマトとトヒモモソヒメ神が箸で陰部を箸でついて死んだのちにここに葬られ、当時の人々が箸墓と呼んだ)の主人公で、三輪山の主であるオオモノヌシ神と神婚した。
一般的に古墳の規模は、葬られた人の生きていた時の社会的地位を表している。その意味で、立派な箸墓古墳に葬られたモモヒメは大きな力を持っていたとされる。日本書紀の記述には大変聡明で叡智に長け、霊能力が優れていたといい、第十代、崇神天皇(すじんてんのう)の支配力を背後で支えているような存在だったことがうかがえる。
預言者的巫女という夜麻登登母母曾毘売命(やまとととびももそひめのみこと)の姿は、国の政治を左右する力を発揮した卑弥呼や神功天皇といった女性の姿を連想させる。
別名・別称 / 倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと、まとととびももそひめのみこと)等
神格 / 預言者的巫女
性別 / 女神
神徳 / 諸願成就、家内安全、厄除け、延命長寿など
備考 / 神社には弟神のキビツヒコと一緒に祭られている
神社 / 田村神社(香川県高松市)・吉備津神社(岡山市吉備津)
倭迹々日百襲比賣命 (やまとととひももそひめのみこと)
   別名
   夜麻登登母々曾毘売命 やまととももそひめのみこと
   大倭迹々日百襲比賣命: おおやまとととひももそひめのみこと
   百襲比賣命 ももそひめ
   倭迹々姫 やまとととひめ
   ……
○ 第七代天皇・孝霊天皇の皇女。『古事記』では、母は意富夜麻登玖邇阿礼比売命。 兄弟姉妹は日子刺肩別命、比古伊佐勢理毘古命(大吉備津日子命)、倭飛羽矢若屋比売。
『日本書紀』では、母は倭国香媛。 弟妹は彦五十狭芹彦命、倭迹迹稚屋姫命。
○ 『日本書紀』の孝元天皇(『古事記』では夜麻登登母々曾毘売命の異母兄)の皇女、倭迹々姫と同一人物とする説もあり、 その場合、母は欝色謎命。兄は大彦命、稚日本根子彦大日々天皇(のちの第九代天皇・開化天皇)。
○ 『日本書紀』によると、 崇神天皇の時、四道将軍派遣の際の少女の歌の予兆を解して、武埴安彦の謀反を崇神天皇に告げた。
○ また、神懸りして大物主神の神託を告げ、後に大物主神の妻となった。 だが大物主神は昼は現れず夜だけやって来た。 そこで倭迹々日百襲比賣命は、朝まで居て欲しいと懇願したところ、 大物主神は「あしたの朝は櫛箱に入っていよう」と告げた。 翌朝、櫛箱を見ると小蛇が入っており驚いて叫んだため、大物主神は恥じて人の形となり、 「今度は私がお前を辱しめよう」といい、御諸山に登られた。 姫は悔いて座り込んだ時、陰部を箸で撞いて死んでしまい、箸墓に葬られた。
○ 倭迹々日百襲比賣命 を祀る神社
水主神社 香川県東かがわ市 / 田村神社 香川県高松市 / 神御前神社 奈良県桜井市 / 吉備津神社 岡山県岡山市 / 岡山神社 岡山県岡山市 / 吉備津彦神社 および境内 下宮 岡山県岡山市 / 二宮神社 境内 太郎社 静岡県湖西市 ……
 
まほろば (真秀呂馬)

 

古事記に、倭建命(ヤマトタケルノミコト)が詠んだとされる望郷の歌の一節に「まほろば」という言葉が登場します。
   夜麻登波 / やまとは
   久爾能麻本呂婆 / くにのまほろば
   多多那豆久 / たたなづく
   阿袁加岐 / あをかき
このあとは、
   夜麻碁母禮流 / やまごもれる
   夜麻登志宇流波斯 / やまとしうるはし
と続きます。
古事記では、遠征に出た倭建命が故郷の倭(やまと)を想って「大和は国々の中でも格別に優れた美しい国だ。幾重にも連なった青々と茂る山々、その山々に囲まれた大和こそ本当に麗しい国だ。」と望郷の念を詠ったとされています。
日本書紀ではまた少し違った表記で景行天皇の詠んだ歌として紹介されたりしていて、歴史家のみなさんの間では色々と議論があるそうです。現代人の我々としては、とりあえずそのあたりのことは置いておき、純粋に日本の美しさを賛美した歌として心に留めておけばいいんじゃないでしょうか。
まほろばをけがすようなことをすると怒られますよね、いにしえの神々に。
 
「記紀」に登場する女性

 

『勘注系図』には膨大な人名が記される。その中に『日本書紀』などが伝える天皇系譜と密接に関わる人物名を見る。中で私が特に注目する女性がある。
その第一は、七代孝霊天皇の妃となった、意富夜麻登玖邇阿禮比賣命(おおやまとくにあれひめのみこと)である。意富夜麻登玖邇阿禮比賣命は亦の名を倭国 香媛(やまとのくにかひめ)といい、今日邪馬台国畿内説の多くの論者が、卑弥呼ではないかとする倭迹迹日百襲姫の母親である。
この意富夜麻登玖邇阿禮比賣命という女性が、『勘注系図』にも登場する。七世孫建諸隅の妹である。表記は大倭久邇阿禮姫命である。
『記紀』伝承では、倭国香媛または意富夜麻登玖邇阿禮比賣命は、亦の名を蝿伊呂泥(はえいろね)とする。蝿伊呂泥は三代安寧天皇の曾孫に当たる人物で、海部氏や尾張氏とは関係ない人物である。
しかし『勘注系図』には九世孫日女命の別名として倭迹迹日百襲姫という名前も見る。倭迹迹日百襲姫やその母親大倭久邇阿禮姫命が尾張氏あるいは海部氏と何らかの関係があると考える。
二人目は竹野姫命という女性である。
開化の妃になった竹野媛という女性がある。『日本書紀』では丹波の竹野媛とするだけであるが、『古事記』ではその父親を丹波の大県主由碁理(おおあがたぬしゆごり)とする。
『勘注系図』ではこの由碁理を七世孫建諸隅とする。その子供に天豊姫命という女性がある。亦の名を竹野姫命とも云う。すなわちこの女性が九代開化の妃になった竹野媛なのである。
三人目は豊鋤入姫命である。
崇神の妃になった女性がある。『日本書紀』では、一書に云うという別伝であるが、大海宿禰の娘、八坂振天某辺(やさかふるあまいろへ)という女性がある。こ の女性と崇神の間に生まれた子供が、豊鍬入姫命(とよすきいりひめ)で、天照大御神を祭る斎宮(さいぐう)となる。
この二人の女性が『勘注系図』にも登場する。前者は八坂振天伊呂邊、後者は豊鋤入姫命と表記される。
『勘注系図』では崇神の時代、この豊鋤入姫が、天照大神を戴(いただ)き大和国、笠縫(かさぬい)の里から、丹波の余社郡(よさのこおり)久志比之眞名井 原匏宮(くしひのまないはらよさのみや)に移ってきて天照大神と豊受大神(とようけおおかみ)を同殿に祀ったとする。そしてまた大和国伊豆加志本宮(やま とのくにいずかしもとみや)に遷ったとする。
これは天照大神が伊勢に祭られる前に、各地を渡り歩いたという伝承につながる。
四人目は日葉酢姫命である。
崇神の時代、各地に派遣された四人の将軍がある。四道将軍と呼ばれる人達である。
丹波に派遣されたのが、丹波道主王(たんばみちぬしのきみ)である。
この丹波道主と川上麻須(かわかみます)の娘、川上麻須郎女(かわかみますろめ)との間に生まれた子供が、日葉酢媛(ひはすひめ)である。
後に十一代垂仁天皇の妃となって十二代景行天皇を生んだとされる。この日葉酢媛や丹波道主の名前を『勘注系図』にも見る。
そして最後が宮酢姫命(みやずひめのみこと)である。
『日本書紀』では宮簀媛(みやずひめ)古事記では『美夜受比賣』と表記される。
十二代景行天皇の皇子で、熊襲をはじめ東国平定に活躍したとされる日本武尊(やまとたけるのみこと)の妃となった女性である。
宮簀媛の父親は乎止余命と云われる人である。乎止余命が、現在の愛知県に移り、後の尾張氏となる。宮簀媛はその子供である。
このように『勘注系図』には『日本書紀』や『古事記』に、その名を見る女性が数多く登場する。しかもそれらの女性は天皇やその皇子と深く関わる。
またこのあたりは『本系図』が、意図的に削除する部分でもある。
これが史実であるとしても、天皇家との関係を作為した偽系図として、非難される可能性がある。それが『勘注系図』を「他見許さず」として、隠し続けなければならなかった理由の一つと考える。
 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
大和国

 

 
神武天皇と大和国

 

大和
大和(やまと)は、日本の古称・雅称。倭・日本とも表記して「やまと」と訓ずることもある。大和・大倭・大日本(おおやまと)とも呼ばれる。ヤマト王権が大和と呼ばれる地(現在の奈良県内)に在ったことに由来する。初めは「倭」と書いたが、元明天皇の治世に国名は好字を二字で用いることが定められ、倭と同音の好字である「和」の字に「大」を冠して「大和」と表記し「やまと」と訓ずるように取り決められた。
元々はヤマト王権の本拠地である奈良盆地の東南地域が、大和(やまと)と呼称されていた。その後、ヤマト王権が奈良盆地一帯や河内方面までを支配するようになると、その地域(後の近畿・畿内)もまた大和と呼ばれるようになった。そして、ヤマト王権の本拠が所在した奈良盆地周辺を範囲とする令制国を大和国とした。さらには、同王権の支配・制圧が日本列島の大半(東北地方南部から九州南部まで)にまで及ぶに至り、それらを総称して大和と呼ばれるようになった。こうして日本列島、つまり日本国の別名として大和が使用されるようになった。
大和国
大和国(やまとのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。畿内に属する。当国は、律令制定の際に表記を「大倭国(やまとのくに)」として成立したとされる。ただし藤原京出土の木簡に「□妻倭国所布評大□里」(所布評とは添評を指す)とあるように、「倭国」と記載された様子も見える。その後、奈良時代の天平9年12月27日(ユリウス暦:738年1月21日)に表記は「大養徳」に改められた。天平19年3月16日(747年4月29日)には元の「大倭」に改称。その後、天平宝字元年(757年)頃から「大和」に定められたとされる。平安時代以降は「大和」で一般化した。国名に使用される「ヤマト」とは、元々は「倭(やまと)、大倭(おおやまと/やまと)」等と表記して奈良盆地東縁の一地域を指す地名であった(狭義のヤマト)。その後、上記のように「大倭・大養徳・大和(やまと)」として現在の奈良県部分を領域とする令制国を指すようになり、さらには「日本(やまと)」として日本全体を指す名称にも使用された。
神武天皇
神武天皇(じんむてんのう、庚午年1月1日 (旧暦) - 神武天皇76年3月11日 (旧暦))は、日本神話に登場する人物であり、古事記や日本書紀では日本の初代天皇であり皇統の祖としている。日本書紀によれば、天皇在位期間は、辛酉年(紀元前660年・神武天皇元年)1月1日 (旧暦) - 神武天皇76年3月11日(旧暦)。古事記では137歳まで生存、日本書紀では127歳まで生存したとあるが、現在の歴史学では、考古学上の確証がないこと、またその神話的な筋書きから、神武天皇が実在した人物と認めていない。神武天皇の即位月日とされる1月1日 (旧暦)は、明治に入り新暦に換算され2月11日となり、日本国の建国の日として1873年(明治6年)に「紀元節」(祭日)と定められた。紀元節は1948年(昭和23年)に廃止されたが、1967年(昭和42年)に2月11日は「建国記念の日」として国民の祝日となった。神武天皇という呼称は、奈良時代後期の文人である淡海三船が歴代天皇の漢風諡号を一括撰進した際に付されたとされる。異称は、古事記では神倭伊波礼琵古命(かむやまといわれひこのみこと)、日本書紀では神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)、若御毛沼命(わかみけぬのみこと)、狹野尊(さののみこと)、彦火火出見(ひこほほでみ)。

おおよそ、これが一般的な大和及び大和国、神武天皇の概念であり、認識なのではないか。日本の歴史は天皇家の歴史と重なる。いわゆる大和朝廷によって日本と言う国は始まったとする。その最初の天皇が神武天皇である。ところが大和国へ出掛けてみると判ることだが、初代天皇である神武天皇を始め、ほとんどの天皇が大和国には祀られていないのである。大和国に大和朝廷が誕生したからこそ、大和国の名があるのではないか。誰もがそう思う。神武天皇の故郷は、日向国である。その日向国は、「魏志倭人伝」に拠れば、三世紀、邪馬台国・狗奴国・投馬国の三国に分かれて存在したとある。当然、大和国は邪馬台国の名を継承したものだろう。そう考えると、当然、神武天皇の故郷は邪馬台国しか考えられない。しかし、史実は違っていて、神武天皇の故郷は狗奴国なのである。つまり、神武天皇は邪馬台国の住人ですらないのである。その神武天皇が大和国名を命名するはずがなかろう。こういう捻れが日本の古代史には存在する。しかし、誰もそういうことについて言及しない。

第一、大和国一宮が大神神社で、その御祭神が大物主大神であること自体が尋常では無い。大物主大神は出雲神である。どう考えても、大和国一宮が出雲神であるはずがなかろう。
古代は宗教の時代である。それなのに、その宗教を無視して、歴史が語れるはずもない。現在の日本の古代史は、そういうことすらご存じ無い。おかしな話である。
それに、日向国をまるでご存じ無い方が、さも知ったかぶりをして日向神話を説く。神話の舞台が何処であるかも知らないで、平然と神話を語る。それはもう笑うしか無い話である。
もっと非道い史家は、神話は作り話であるから、考慮するに足りないとおっしゃる。日向神話を紐解けば、古代人は何とも現実的であって、壮大な物語がどうのように作られたかを知ることが出来ると言うのに。そういう作業を放棄して、古代史が語れるはずも無かろう。
結論から言うと、神武天皇は『遅れてきた青年』だったと言うしかない。神武天皇が大和国へやって来た時、すでに大和国は成立していた。それは出雲神を信奉する人々の国であった。その大和国を南から次第に侵略して行ったのが神武天皇とその一族なのである。
邪馬台国三山や大和三山を信奉する人々が、本来の大和国の国民だと言うしかない。かれらこそ邪馬台国の国民であり、大和国の国民であったと言うしかない。彼らが斎き祀るのは出雲神である。
ある意味、大和国は神代の昔から現在に至るまで出雲神の国だと言うしかない。それは日向国の邪馬台国から移動して来たものである。だから間違いなく出雲神を祀る。その出雲神の故郷は邪馬台国なのである。
平塚らいてうではないけれども、日本に於いて『元始、女性は太陽であった』ことだけは間違いない。日本は、古代に於いては妻問婚であった。そういう時代に、男の歴史など不要であった。つまり、妻問婚である大和国に、男の歴史が存在するはずも無いのである。
 
ヤマト王権

 

3世紀から始まる古墳時代に「王」や「大王」(おおきみ)などと呼称された倭国の首長を中心として、いくつかの有力氏族が連合して成立した政治権力、政治組織である。今の奈良盆地を中心とする大和地方の国がまわりの国を従えたことからこう呼ばれる。旧来より一般的に大和朝廷(やまとちょうてい)と呼ばれてきたが、歴史学者の中で「大和」「朝廷」という語彙で時代を表すことは必ずしも適切ではないとの見解が1970年代以降に現れており、その歴史観を反映する用語として「ヤマト王権」の語等が用いられはじめた。
呼称については、古墳時代の前半においては近年「倭王権」「ヤマト政権」「倭政権」などの用語も用いられている。古墳時代の後、飛鳥時代での天皇を中心とした日本国の中央集権組織のことは「朝廷」と表現するのが歴史研究でも世間の多くでも、ともに一般的な表現である。
ヤマト王権の語彙は「奈良盆地などの近畿地方中央部を念頭にした王権力」の意であるが、一方で「地域国家」と称せられる日本列島各地の多様な権力(王権)の存在を重視すべきとの見解がある。
名称
1970年代前半ころまでは、4世紀ころから6世紀ころにかけての時代区分として「大和時代」が広く用いられ、その時期に日本列島の主要部を支配した政治勢力として「大和朝廷」の呼称が一義的に用いられていた。
しかし1970年代以降、重大な古墳の発見や発掘調査が相次ぎ、理化学的年代測定や年輪年代測定の方法が確立し、その精度が向上したこともあいまって古墳の編年研究が著しく進捗し、「大和」「朝廷」という語彙で時代を表すことは必ずしも適切ではないとの見解が現れ、その見解が日本国での歴史学の学会などで有力になり、そのため「大和時代」ではなく、かわって「古墳時代」と呼称するのが日本国での日本史研究および日本国での高等教育では一般的となっている。
古墳研究は文献史学との提携が一般的となって、古墳時代の政治組織にもおよび、それに応じて古墳時代の政権について「ヤマト王権」や「大和政権」等の用語が使用され始めた。1980年代以降は、「大和政権」、「ヤマト政権」、それが王権であることを重視して「ヤマト王権」、「大和王権」と記述されるようになる。
しかし、引き続き「大和朝廷」も一部の研究者によって使用されている。これは、「大和(ヤマト)」と「朝廷」という言葉の使用について、学界でさまざまな見解が並立していることを反映している。
「大和」
「大和(ヤマト)」をめぐっては、8世紀前半完成の『古事記』や『日本書紀』や、その他の7世紀以前の文献史料・金石文・木簡などでは、「大和」の漢字表記はなされておらず、倭(ヤマト)として表記されている。三世紀には邪馬台国の記述が魏志倭人伝に登場する。その後701年の大宝律令施行により、国名(郡・里(後の郷)名も)は二文字とすることになって大倭となり、橘諸兄政権開始後間もなくの天平9年(737年)12月丙寅(27日)に、恭仁京遷都に先立って大養徳となったが(地名のみならずウジ名も)、藤原仲麻呂権勢下の天平19年(747年)3月辛卯(16日)(前年に恭仁京完全廃棄(9月に大極殿を山背国分寺に施入))に大倭に戻り、そして天平宝字元年(757年)(正月(改元前)に諸兄死去)の後半頃に、大和へと変化していく。同年に施行(仲麻呂の提案による)された養老令から、広く「大和」表記がなされるようになったことから、7世紀以前の政治勢力を指す言葉として「大和」を使用することは適切ではないという見解がある。ただし、武光誠のように3世紀末から「大和」を使用する研究者もいる。
「大和(ヤマト)」はまた、
1.国号「日本(倭)」の訓読(すなわち、古代の日本国家全体)
2.令制国としての「大和」(上述)
3.奈良盆地東南部の三輪山麓一帯(すなわち令制大和国のうちの磯城郡・十市郡)
の広狭三様の意味をもっており、最も狭い3.のヤマトこそ、出現期古墳が集中する地域であり、王権の政権中枢が存在した地と考えられるところから、むしろ、令制大和国(2.)をただちに連想する「大和」表記よりも、3.を含意することが明白な「ヤマト」の方がより適切ではないかと考えられるようになった。
白石太一郎はさらに、奈良盆地・京都盆地から大阪平野にかけて、北の淀川水系と南の大和川水系では古墳のあり方が大きく相違していることに着目し、「ヤマト」はむしろ大和川水系の地域、すなわち後代の大和と河内(和泉ふくむ)を合わせた地域である、としている。すなわち、白石によれば、1.〜3.に加えて、4.大和川水系(大和と河内)という意味も包括的に扱えるのでカタカナ表記の「ヤマト」を用いるということである。
いっぽう関和彦は、「大和」表記は8世紀からであり、それ以前は「倭」「大倭」と表記されていたので、4,5世紀の政権を表現するのは倭王権、大倭王権が適切であるが、両者の表記の混乱を防ぐため「ヤマト」表記が妥当だとしている。 一方、上述の武光のように「大和」表記を使用する研究者もいる。
武光によれば、古代人は三輪山の麓一帯を「大和(やまと)」と呼び、これは奈良盆地の「飛鳥」や「斑鳩」といったほかの地域と区別された呼称で、今日のように奈良県全体を「大和」と呼ぶ用語法は7世紀にならないと出現しなかったとする。纒向遺跡を「大和朝廷」発祥の地と考える武光は、纒向一帯を「古代都市『大和』」と呼んでいる。
「朝廷」
「朝廷」の語については、天子が朝政などの政務や朝儀と総称される儀式をおこなう政庁が原義であり、転じて、天子を中心とする官僚組織をともなった中央集権的な政府および政権を意味するところから、君主号として「天子」もしくは「天皇」号が成立せず、また諸官制の整わない状況において「朝廷」の用語を用いるのは不適切であるという指摘がある。たとえば関和彦は、「朝廷」を「天皇の政治の場」と定義し、4世紀・5世紀の政権を「大和朝廷」と呼ぶことは不適切であると主張し、鬼頭清明もまた、一般向け書物のなかで磐井の乱当時の近畿には複数の王朝が併立することも考えられ、また、継体朝以前は「天皇家の直接的祖先にあたる大和朝廷と無関係の場合も考えられる」として、「大和朝廷」の語は継体天皇以後の6世紀からに限って用いるべきと説明している。
「国家」「政権」「王権」「朝廷」
関和彦はまた、「天皇の政治の場」である「朝廷」に対し、「王権」は「王の政治的権力」、「政権」は「超歴史的な政治権力」、「国家」は「それらを包括する権力構造全体」と定義している。語の包含関係としては、朝廷⊂王権⊂政権⊂国家という図式を提示しているが、しかし、一部には「朝廷」を「国家」という意味で使用する例があり、混乱もあることを指摘している。
用語「ヤマト王権」
古代史学者の山尾幸久は、「ヤマト王権」について、「4,5世紀の近畿中枢地に成立した王の権力組織を指し、『古事記』『日本書紀』の天皇系譜ではほぼ崇神から雄略までに相当すると見られている」と説明している。
山尾はまた別書で「王権」を、「王の臣僚として結集した特権集団の共同組織」が「王への従属者群の支配を分掌し、王を頂点の権威とした種族」の「序列的統合の中心であろうとする権力の組織体」と定義し、それは「古墳時代にはっきり現れた」としている。いっぽう、白石太一郎は、「ヤマトの政治勢力を中心に形成された北と南をのぞく日本列島各地の政治勢力の連合体」「広域の政治連合」を「ヤマト政権」と呼称し、「畿内の首長連合の盟主であり、また日本列島各地の政治勢力の連合体であったヤマト政権の盟主でもあった畿内の王権」を「ヤマト王権」と呼称して、両者を区別している。
また、山尾によれば、
190年代-260年代 王権の胎動期。
270年頃-370年頃 初期王権時代。
370年頃-490年頃 王権の完成時代。続いて王権による種族の統合(490年代から)、さらに初期国家の建設(530年頃から)
という時代区分をおこなっている。 この
用語は、1962年(昭和37年)に石母田正が『岩波講座日本歴史』のなかで使用して以来、古墳時代の政治権力・政治組織の意味で広く使用され、時代区分の概念としても用いられているが、必ずしも厳密に規定されているとはいえず、語の使用についての共通認識があるとはいえない。
「大和朝廷」
大和朝廷(やまとちょうてい)という用語は、次の3つの意味を持つ。
1.律令国家成立以前に奈良盆地を本拠としていた有力な政治勢力およびその政治組織。
2.大和時代(古墳時代)の政府・政権。「ヤマト王権」。
3.飛鳥時代または古墳時代後半の天子(天皇)を中心とする官僚制をともなった中央集権的な政府・政権。
この用語は、戦前においては1.の意味で用いられてきたが、戦後は単に「大和時代または古墳時代の政権」(2.)の意味で用いられるようになった。しかし、「朝廷」の語の検討や、古墳とくに前方後円墳の考古学的研究の進展により、近年では、3.のような限定的な意味で用いられることが増えている。
現在、1.の意味で「大和朝廷」の語を用いる研究者や著述家には武光誠や高森明勅などがおり、武光は『古事記・日本書紀を知る事典』(1999)のなかで、「大和朝廷の起こり」として神武東征と長髄彦の説話を掲げている。
なお、中国の史料も考慮に入れた総合的な古代史研究、考古資料を基礎においた考古学的研究における話題において「大和朝廷」を用いる場合、「ヤマト(大和)王権」などの諸語と「大和朝廷」の語を、編年上使い分ける場合もある。たとえば、
安康天皇以前を「ヤマト王権」、5世紀後半の雄略天皇以後を「ヤマト朝廷」 - 平野邦雄
宣化天皇以前を「倭王権」または「大和王権」、6世紀中葉の欽明天皇以後を「大和朝廷」 - 鬼頭清明
など。
王号について
ヤマト王権の王は中華王朝や朝鮮半島諸国など対外的には「倭国王」「倭王」と称し、国内向けには「治天下大王」「大王」「大公主」などと称していた。考古学の成果から5世紀ごろから「治天下大王」(あめのしたしろしめすおおきみ)という国内向けの称号が成立したことが判明しているが、これはこの時期に倭国は中華王朝と異なる別の天下であるという意識が生まれていたことの表れだと評価されている。
ヤマト王権の歴史
王権の成立
小国の発生
弥生時代にあっても、『後漢書』東夷伝に107年の「倭国王帥升」の記述があるように、「倭」と称される一定の領域があり、「王」とよばれる君主がいたことがわかる。ただし、その政治組織の詳細は不明であり、『魏志』倭人伝には「今使訳通ずる所三十国」の記載があることから、3世紀にいたるまで小国分立の状態がつづいたとみられる。
また、小国相互の政治的結合が必ずしも強固なものでなかったことは、『後漢書』の「桓霊の間、倭国大いに乱れ更相攻伐して歴年主なし」の記述があることからも明らかであり、考古資料においても、その記述を裏づけるように、周りに深い濠や土塁をめぐらした環濠集落や、稲作に不適な高所に営まれて見張り的な機能を有したと見える高地性集落が造られ、墓に納められた遺体も戦争によって死傷したことの明らかな人骨が数多く出土している。縄文時代にあってはもっぱら小動物の狩猟の道具として用いられた石鏃も、弥生時代にあっては大型化し、人間を対象とする武器に変容しており、小国間の抗争が激しかったことが伺える。
墓制の面でみて、最も進んでいたのは山陰地方の出雲地域において作られた四隅突出墳丘墓であって、後の古墳時代の方墳や前方後円墳の原型となったと思われる。九州南部の地下式横穴墓、九州北部における甕棺墓、中国地方における箱式石棺墓、近畿地方や日向(宮崎県)における木棺墓など、それぞれの地域で主流となる墓の形態を持ち、土坑墓の多い東日本では死者の骨を土器につめる再葬墓がみられるなど、きわめて多様な地域色をもつ。方形の低い墳丘のまわりに溝をめぐらした方形周溝墓は近畿地方から主として西日本各地に広まり、なかには規模の大きなものも出現する故、各地に有力な首長があらわれたことが伺える。弥生時代における地域性はまた、近畿地方の銅鐸、瀬戸内地方の銅剣、九州地方の銅戈(中期)・銅矛(中期-後期)など宝器として用いられる青銅器の種類のちがいにもあらわれている。
邪馬台国連合と纒向遺跡
『魏志』倭人伝は、3世紀前半に邪馬台国に卑弥呼が現れ、国々(ここでいう国とは、中国語の国邑、すなわち土塁などで囲われた都市国家的な自治共同体のことであろう)は卑弥呼を「共立」して倭の女王とし、それによって争乱は収まって30国ほどの小国連合が生まれた、とし、「親魏倭王」印を授与したことを記している。邪馬台国には、大人と下戸の身分差や刑罰、租税の制もあり、九州北部にあったと考えられる伊都国には「一大率」という監察官的な役人が置かれるなど、統治組織もある程度整っていたことが分かる。
邪馬台国の所在地については近畿説と九州説があるが、近畿説を採用した場合、3世紀には近畿から北部九州に及ぶ広域の政治連合がすでに成立していたことになり、九州説を採用すれば北部九州一帯の地域連合ということになり、日本列島の統一はさらに時代が下ることとなる。
編年研究の進んだ今日では、古墳の成立時期は3世紀末に遡るとされているため、卑弥呼を宗主とする小国連合(邪馬台国連合)がヤマトを拠点とする「ヤマト政権」ないし「ヤマト王権」につながる可能性が高くなったとの指摘がある。
たとえば、白石太一郎は、「邪馬台国を中心とする広域の政治連合は、3世紀中葉の卑弥呼の死による連合秩序の再編や、狗奴国連合との合体に伴う版図の拡大を契機にして大きく革新された。この革新された政治連合が、3世紀後半以後のヤマト政権にほかならない」と述べている。
その根拠となるのが奈良県の纒向遺跡であり、当時の畿内地方にあって小国連合の中枢となる地であったとして注目されることが多い。この遺跡は、飛鳥時代には「大市」があったといわれる奈良盆地南東部の三輪山麓に位置し、都市計画がなされていた痕跡と考えられる遺構が随所で認められ、運河などの大土木工事もおこなわれていた一種の政治都市で、祭祀用具を収めた穴が30余基や祭殿、祭祀用仮設建物を検出し、東海地方から北陸・近畿・阿讃瀬戸内・吉備・出雲ならびに北部九州にいたる各地の土器が搬入されており、また、広がりの点では国内最大級の環濠集落である唐古・鍵遺跡の約10倍、吉野ヶ里遺跡の約6倍におよび、7世紀末の藤原宮に匹敵する巨大な遺跡であり、多賀城跡の規模を上回る。武光誠は、纒向遺跡こそが「大和朝廷」の発祥の地にほかならないとしている。
纒向石塚古墳など、この地にみられる帆立貝型の独特な古墳(帆立貝型古墳。「纒向型前方後円墳」と称することもある)は、前方後円墳に先だつ型式の古墳で、墳丘長90メートルにおよんで他地域をはるかに凌ぐ規模をもち、また、山陰地方(出雲)の四隅突出型墳丘墓、吉備地方の楯築墳丘墓など各地域の文化を総合的に継承しており、これは政治的結合の飛躍的な進展を物語っている。そうしたなかで、白石太一郎は、吉備などで墳丘の上に立てられていた特殊器台・特殊壺が採り入れられるなど、吉備はヤマトの盟友的存在として、その政治的結合のなかで重要な位置を占めていたことを指摘している。
しかし魏志倭人伝によれば、邪馬台国は糸島に比定される伊都国の南にあり、伊都国に一大率を置き諸国を検察したとされ、九州でしか出土していない鉄器や絹を産するとされている。さらに、糸島の平原遺跡から出土し三種の神器の八咫の鏡と同じ大きさと様式で関連が問題となる大型内行花文鏡の存在からも、邪馬台国九州説も依然として有力である。この説を取る場合、邪馬台国と畿内で発達したヤマト政権の関係において、九州にある邪馬台国が滅亡したのか、あるいは神話の如く畿内に東遷してヤマト政権となったのかが問題となる。
倭では、邪馬台国と狗奴国の抗争がおこり、247年(正始8年)には両国の紛争の報告を受けて倭に派遣された帯方郡の塞曹掾史張政が、檄文をもって女王を諭した、としている。また『魏志』倭人伝によれば、卑弥呼の死ののちは男王が立ったものの内乱状態となり、卑弥呼一族の13歳の少女壱与(壹與、後代の史書では台与(臺與))が王となって再び治まったことが記されている。『日本書紀』の神功皇后紀に引用されている『晋起居注』(現存しない)には、266年(泰初(「泰始」の誤り)2年)、倭の女王の使者が西晋の都洛陽に赴いて朝貢したとの記述があり、この女王は台与と考えられている。したがって、『日本書紀』としては台与の行動は神功皇后の事績と想定している可能性がある。なお現存する『晋書』四夷伝と武帝紀では266年の倭人の朝貢は書かれているが、女王という記述は無い。
ヤマト「王権」の成立
ヤマト王権の成立にあたっては、前方後円墳の出現とその広がりを基準とする見方が有力である。その成立時期は、研究者によって3世紀中葉、3世紀後半、3世紀末など若干の異同はあるが、いずれにしても、ヤマト王権は、近畿地方だけではなく、各地の豪族をも含めた連合政権であったとみられる。
3世紀後半ごろ、近畿はじめ西日本各地に、大規模な墳丘を持つ古墳が出現する。これらは、いずれも前方後円墳もしくは前方後方墳で、竪穴式石室の内部に長さ数メートルにおよぶ割竹形木棺を安置して遺体を埋葬し、副葬品の組み合わせも呪術的な意味をもつ多数の銅鏡はじめ武器類をおくなど、墳丘、埋葬施設、副葬品いずれの面でも共通していて、きわめて斉一的、画一的な特徴を有する。これは、しばしば「出現期古墳」と称される。
こうした出現期(古墳時代前期前半)の古墳の画一性は、古墳が各地の首長たちの共通の墓制としてつくり出されたものであることを示しており、共同の葬送もおこなわれて首長間の同盟関係が成立し、広域の政治連合が形成されていたと考えられる。その広がりは東海・北陸から近畿を中心にして北部九州にいたる地域である。
出現期古墳で墳丘長が200メートルを超えるものは、奈良県桜井市に所在する箸墓古墳(280メートル)や天理市にある西殿塚古墳(234メートル)などであり、奈良盆地南東部(最狭義のヤマト)に集中し、他の地域に対し隔絶した規模を有する。このことは、この政治連合が大和(ヤマト)を中心とする近畿地方の勢力が中心となったことを示している。この政権を「ヤマト政権」もしくは「ヤマト王権」と称するのは、そのためである。また、この体制を、政権の成立を画一的な前方後円墳の出現を基準とすることから「前方後円墳体制」と称することがある。
「王位」「王権」「王統」
山尾幸久は、「3世紀後半の近畿枢要部に『王位』が創設された公算は大きいが、これを『王権』と呼べるかどうか。まして既に『王統』が実在したのかどうかは今後の研究に委ねられている」と説明しており、「ヤマト王権」の用語の使用について慎重な立場を示している。山尾自身は「王権の確立は雄略の時代、王統の確立は欽明の時代には認められる」との見解を示しているので、このような観点も含めた体系的な国家形成史の研究が求められる。
「ヤマト王権」と邪馬台国の関係
吉村武彦は、『岩波講座 日本通史第2巻 古代I』のなかで、「崇神天皇以降に想定される王権」を「大和王権」と呼称しており、初期大和王権と邪馬台国の関係について「近年の考古学的研究によれば、邪馬台国の所在地が近畿地方であった可能性が強くなった。しかしながら、歴史学的に実証されたわけではなく、しかも初期大和王権との系譜的関係はむしろ繋がらないと考えられる」と述べている。
吉村は、「古墳の築造が政権や国家の成立を意味するのかどうか、問題をはらんでいる」と指摘し、古墳の所在地に政治的基盤を求める従来の視点には再検討が必要だと論じている。その論拠としては、記紀には王宮と王墓の所在地が離れた場所にあることを一貫して記しており、また、特定地域に影響力を行使する集団の首長が特定の小地域にしか地盤をもたないのだとしたら、記紀におけるような「歴代遷宮」のような現象は起こらないことを掲げており、むしろ、大和王権は特定の政治的地盤から離れることによって、成立したのではないかと推測する。
前方後円墳の出現時期の早い遅いにかかわらず、大和王権の成立時期ないし行燈山古墳(現崇神陵)の出現時期とは数十年のズレがあるというのが、吉村の見解である。上述の山尾の指摘とあわせ、今後検討していくべき課題といえる。
九州王朝説・多元王朝説
弥生中期から卑弥呼の時代はもとより7世紀にいたるまで、ヤマト王権のみならず、日本列島内において様々な勢力圏、連合独立地域自治権、が存在していた、という多元王朝説が古田武彦らによって1970年代以降提唱され、かつては歴史愛好家などから一定の支持を得たこともあった。しかし存在している文献資料の検討や古墳をはじめとする考古資料から、現時点において、学界は「決定的な根拠に欠けている」としている。
なお、これをさらに発展させ、九州王朝のみが存在したとする九州王朝一元説や、大和に王朝は存在せず、本来は豊前の王朝だったとする豊前王朝説、九州王朝と東北王朝のみが存在し、大和は東北王朝の支配下にあったとする東北王朝説もあるが、学界からは根拠が薄いとされている。
王権の展開
前方後円墳体制(古墳時代前期前半)
文献資料においては、上述した266年の遣使を最後に、以後約150年近くにわたって、倭に関する記載は中国の史書から姿を消している。3世紀後半から4世紀前半にかけての日本列島はしたがって、金石文もふくめて史料をほとんど欠いているため、その政治や文化の様態は考古学的な資料をもとに検討するほかない。
定型化した古墳は、おそくとも4世紀の中葉までには東北地方南部から九州地方南部にまで波及した。これは東日本の広大な地域がヤマトを盟主とする広域政治連合(ヤマト王権)に組み込まれたことを意味する。ただし、出現当初における首長墓とみられる古墳の墳形は、西日本においては前方後円墳が多かったのに対し、東日本では前方後方墳が多かった。こうして日本列島の大半の地域で古墳時代がはじまり、本格的に古墳が営まれることとなった。
以下、古墳時代の時期区分としては通説のとおり、次の3期を設定し、
古墳時代前期 … 3世紀後半から4世紀末まで
古墳時代中期 … 4世紀末から5世紀末
古墳時代後期 … 6世紀初頭から7世紀前半
この区分をさらに、前期前半(4世紀前半)、前期後半(4世紀後半)、中期前半(4世紀末・5世紀前半)、中期後半(5世紀後半)、後期前半(6世紀前半から後葉)と細分して以下の節立てをこれに準拠させる。後期後半(6世紀末葉・7世紀前半)は政治的時代名称としては飛鳥時代の前半に相当する。
古墳には、前方後円墳、前方後方墳、円墳、方墳などさまざまな墳形がみられる。数としては円墳や方墳が多かったが、墳丘規模の面では上位44位まではすべて前方後円墳であり、もっとも重要とみなされた墳形であった。前方後円墳の分布は、北は山形盆地・北上盆地、南は大隅・日向におよんでおり、前方後円墳を営んだ階層は、列島各地で広大な領域を支配した首長層だと考えられる。
前期古墳の墳丘上には、弥生時代末期の吉備地方の副葬品である特殊器台に起源をもつ円筒埴輪が立て並べられ、表面は葺石で覆われたものが多く、また周囲に濠をめぐらしたものがある。副葬品としては三角縁神獣鏡や画文帯神獣鏡などの青銅鏡や碧玉製の腕輪、玉(勾玉・管玉)、鉄製の武器・農耕具などがみられて全般に呪術的・宗教的色彩が濃く、被葬者である首長は、各地の政治的な指導者であったと同時に、実際に農耕儀礼をおこないながら神を祀る司祭者でもあったという性格をあらわしている(祭政一致)。
列島各地の首長は、ヤマトの王の宗教的な権威を認め、前方後円墳という、王と同じ型式の古墳造営と首長位の継承儀礼をおこなってヤマト政権連合に参画し、対外的に倭を代表し、貿易等の利権を占有するヤマト王から素材鉄などの供給をうけ、貢物など物的・人的見返りを提供したものと考えられる。
ヤマト連合政権を構成した首長のなかで、特に重視されたのが上述の吉備のほか北関東の地域であった。毛野地域とくに上野には大規模な古墳が営まれ、重要な位置をしめていた。また九州南部の日向や陸奥の仙台平野なども重視された地域であったが、白石太一郎はそれは両地方がヤマト政権連合にとってフロンティア的な役割をになった地域だったからとしている。
七支刀と広開土王碑(古墳時代前期後半)
4世紀後半にはいると、石上神宮(奈良県)につたわる七支刀の製作が、銘文により369年のこととされる。356年に馬韓の地に建国された百済王の世子(太子)が倭国王のためにつくったものであり、これはヤマト王権と百済の王権との提携が成立したことをあらわす。なお、七支刀が実際に倭王に贈られたことが『日本書紀』にあり、それは干支二順繰り下げで実年代を計算すると372年のこととなる。
いずれにせよ、倭国は任那諸国とりわけ任那(金官)と密接なかかわりをもち、この地に産する鉄資源を確保した。そこはまた生産技術を輸入する半島の窓口であり、勾玉、「倭式土器」(土師器)など日本列島特有の文物の出土により、倭人が限定的に集団的に移住したことがわかる。
いっぽう半島北部では、満州東部の森林地帯に起源をもつツングース系貊族の国家高句麗が、313年に楽浪郡・帯方郡に侵入してこれを滅ぼし、4世紀後半にも南下をつづけた。中国吉林省集安に所在する広開土王碑には、高句麗が倭国に通じた百済を討ち、倭の侵入をうけた新羅を救援するため、400年と404年の2度にわたって倭軍と交戦し勝利したと刻んでいる。この一連のできごとは、鉄や文物の供与をうけていた倭国が伽耶や百済の要請で朝鮮半島に出兵し、軍事援助したものと考えられる。
この時期のヤマト王権の政治組織については、文献記録がほとんど皆無であるため、朝鮮半島への出兵という重大事件があったことは明白であるにもかかわらず、将兵の構成や動員の様態をふくめ不詳な点が多い。しかし、対外的な軍事行動はヤマトの王権の求心性を強めたであろうと推測できる。
巨大古墳の時代(古墳時代中期前半)
4世紀末から5世紀全体を通じて、古墳時代の時期区分では中期とされる。この時期になると、副葬品のなかで武器や武具の比率が大きくなり、馬具もあらわれて短甲や冑など騎馬戦用の武具も増える。こうした騎馬技術や武具・道具は、上述した4世紀末から5世紀初頭の対高句麗戦争において、騎馬軍団との戦闘を通じてもたらされたものと考えられるが、かつては、このような副葬品の変化を過大に評価して、騎馬民族が日本列島の農耕民を征服して「大和朝廷」を立てたとする「騎馬民族征服王朝説」がさかんに唱えられた時期があった。
確かに、ヤマトを起源とされる前方後円墳が5世紀以前の朝鮮半島では見つかっているものの、江上波夫の説のように騎馬技術や武具・道具が倭国に急速に流入し政権が変貌したという証拠は乏しい。その間、日本においては首長墓・王墓の型式は3世紀以来変わらず連綿として前方後円墳がつくられるなど、前期古墳と中期古墳の間には、江上の指摘した断絶性よりも、むしろ強い連続性が認められることから、この説は現在では以前ほどの支持を得られなくなっている(→騎馬民族征服王朝説参照)。
中期古墳の際だった傾向としては、何といってもその巨大化である。とくに5世紀前半に河内平野(大阪平野南部)に誉田山古墳(伝応神陵、墳丘長420メートル)や大山古墳(伝仁徳陵、墳丘長525メートル)は、いずれも秦の始皇帝陵とならぶ世界最大級の王墓であり、ヤマト王権の権力や権威の大きさをよくあらわしている。また、このことはヤマト王権の中枢が奈良盆地から河内平野に移ったことも意味しているが、水系に着目する白石太一郎は、大和・柳本古墳群(奈良盆地南東部)、佐紀盾列古墳群(奈良盆地北部)、馬見古墳群(奈良盆地南西部)、古市古墳群(河内平野)、百舌鳥古墳群(河内平野)など4世紀から6世紀における墳丘長200メートルを越す大型前方後円墳がもっぱら大和川流域に分布することから、古墳時代を通じて畿内支配者層の大型墳墓は、この水系のなかで移動しており、ヤマト王権内部での盟主権の移動を示すものとしている。また、井上光貞も河内の王は入り婿の形でそれ以前のヤマトの王家とつながっていることをかつて指摘したことがあり、少なくとも、他者が簡単に取って替わることのできない権威を確立していたことがうかがわれる。
いっぽう、4世紀の巨大古墳が奈良盆地の三輪山付近に集中するのに対し、5世紀代には河内に顕著に大古墳がつくられたことをもって、ここに王朝の交替を想定する説、すなわち「王朝交替説」がある。つまり、古墳分布という考古学上の知見に、記紀の天皇和風諡号の検討から、4世紀(古墳時代前期)の王朝を三輪王朝(「イリ」系、崇神王朝)というのに対し、5世紀(古墳時代中期)の河内の勢力は河内王朝(「ワケ」系、応神王朝もしくは仁徳王朝)と呼ばれる。この学説は水野祐によって唱えられ、井上光貞の応神新王朝論、上田正昭の河内王朝論などとして展開し、直木孝次郎、岡田精司らに引き継がれた。
しかし、この王朝交替説に対してもいくつかの立場から批判が出されているのが現状である。その代表的なものに「地域国家論」がある。また、4世紀後半から5世紀にかけて大和の勢力と河内の勢力は一体化しており、両者は「大和・河内連合王権」ともいうべき連合関係にあったため王朝交替はなかったとするのが和田萃である。大和川流域間の移動を重視する白石太一郎も同様の見解に立つ。
5世紀前半のヤマト以外の地に目を転ずると、日向、筑紫、吉備、毛野、丹後などでも大きな前方後円墳がつくられた。なかでも岡山市の造山古墳(墳丘長360メートル)は墳丘長で日本第4位の大古墳であり、のちの吉備氏へつながるような吉備の大豪族が大きな力をもち、鉄製の道具も駆使して、ヤマト政権の連合において重要な位置をしめていたことがうかがわれる。また、このことより、各地の豪族はヤマトの王権に服属しながらも、それぞれの地域で独自に勢力をのばしていたと考えられる。
先述した「地域国家論」とは、5世紀前半においては吉備・筑紫・毛野・出雲など各地にかなりの規模の地域国家があり、そのような国家の1つとして当然畿内にも地域国家「ヤマト」があって並立ないし連合の関係にあり、その競合のなかから統一国家が生まれてくるという考えである。このような論に立つ研究者には佐々木健一らがいる。
5世紀初めはまた、渡来人(帰化人)の第一波のあった時期であり、『日本書紀』・『古事記』には、王仁、阿知使主、弓月君(東漢氏や秦氏の祖にあたる)が応神朝に帰化したと伝えている。須恵器の使用がはじまるのも、このころのことであり、渡来人がもたらした技術と考えられている。
5世紀にはいって、再び倭国が中国の史書にあらわれた。そこには、5世紀初めから約1世紀にわたって、讃・珍・済・興・武の5人の倭王があいついで中国の南朝に使いを送り、皇帝に対し朝貢したことが記されている。倭の五王は、それにより皇帝の臣下となり、官爵を授けられた。中国皇帝を頂点とする東アジアの国際秩序を冊封体制と呼んでいる。これは、朝鮮半島南部諸国(任那・加羅)における利権の獲得を有利に進める目的であろうと考えられており、実際に済や武は朝鮮半島南部の支配権が認められている。
倭王たちは、朝鮮半島での支配権を南朝に認めさせるために冊封体制にはいり、珍が「安東将軍倭国王」(438年)、済がやはり「安東将軍倭国王」(443年)の称号を得、さらに済は451年に「使持節都督六国諸軍事」を加号されている。462年、興は「安東将軍倭国王」の称号を得ている。このなかで注目すべき動きとしては、珍や済が中国の皇帝に対し、みずからの臣下への官爵も求めていることが揚げられる。このことはヤマト政権内部の秩序づけに朝貢を役立てたものと考えられる。
ワカタケルの政権(古墳時代中期後半)
475年、高句麗の大軍によって百済の都漢城が陥落し、蓋鹵王はじめ王族の多くが殺害されて、都を南方の熊津へ遷した。こうした半島情勢により「今来漢人(いまきのあやひと)」と称される、主として百済系の人びとが多数日本に渡来した。5世紀後半から6世紀にかけての雄略天皇の時代は、渡来人第二波の時期でもあった。雄略天皇は、上述した倭の五王のうちの武であると比定される。
『宋書』倭国伝に引用された478年の「倭王武の上表文」には、倭の王権が東(毛人)、西(衆夷)、北(海北)の多くの国を征服したことを述べられており、みずからの勢力を拡大して地方豪族を服属させたことがうかがわれる。また、海北とは朝鮮半島を意味すると考えられるところから、渡来人第二波との関連も考慮される。
この時代のものと考えられる埼玉県の稲荷山古墳出土鉄剣(金錯銘鉄剣)には辛亥年(471年)の紀年銘があり、そこには「ワカタケル大王」の名がみえる。これは『日本書紀』『古事記』の伝える雄略天皇の本名と一致しており、熊本県の江田船山古墳出土の鉄刀銘にもみられる。東国と九州の古墳に「ワカタケル」の名のみえることは、上述の「倭王武の上表文」の征服事業の記載と整合的である。
また、稲荷山古墳出土鉄剣銘には東国の豪族が「大王」の宮に親衛隊長(「杖刀人首」)として、江田船山古墳出土鉄刀銘には西国の豪族が大王側近の文官(「典曹人」)として仕え、王権の一翼をになっていたことが知られている。職制と「人」とを結んで「厨人」「川瀬舎人」などのように表記する事例は、『日本書紀』雄略紀にもみられ、この時期の在地勢力とヤマト王権の仕奉関係は「人制」とよばれる。
さらに、銘文には「治天下…大王」(江田船山)、「天下を治むるを左(たす)く」(稲荷山)の文言もあり、宋の皇帝を中心とする天下とはまた別に、倭の大王を中心とする「天下」の観念が芽生えている。これは、大王のもとに中国の権威からある程度独立した秩序が形成されつつあったことを物語る。
上述した「今来漢人」は、陶作部、錦織部、鞍作部、画部などの技術者集団(品部)に組織され、東漢氏に管理をまかせた。また、漢字を用いてヤマト王権のさまざまな記録や財物の出納、外交文書の作成にあたったのも、その多くは史部とよばれる渡来人であった。こうした渡来人の組織化を契機に、管理者である伴造やその配下におかれた部などからなる官僚組織がしだいにつくられていったものと考えられる。
いっぽう、5世紀後半(古墳時代中期後半)の古墳の分布を検討すると、この時代には、中期前半に大古墳のつくられた筑紫、吉備、毛野、日向、丹後などの各地で大規模な前方後円墳の造営がみられなくなり、ヤマト政権の王だけが墳丘長200メートルを超える大前方後円墳の造営をつづけている。この時期に、ヤマト政権の王である大王の権威が著しく伸張し、ヤマト政権の性格が大きく変質したことは、考古資料の面からも指摘できる。
なお、平野邦雄は平凡社『世界大百科事典』(1988年版)の項目「大和朝廷」のなかで、「王権を中心に一定の臣僚集団による政治組織が形成された段階」としての「朝廷」概念を提唱し、ワカタケルの時期をもって「ヤマト朝廷」が成立したとの見解を表明している。
王権の動揺と変質
継体・欽明朝の成立(古墳時代後期前半)
ワカタケルの没後、5世紀後半から末葉にかけての時期には、巨大な前方後円墳の築造も衰退しはじめ、一般に小型化していくいっぽう、小規模な円墳などが群集して営まれる群集墳の造営例があらわれ、一部には横穴式石室の採用もみられる。こうした動きは、巨大古墳を築造してきた地域の大首長の権威が相対的に低下し、中小首長層が台頭してきたことを意味している。これについては、ワカタケル大王の王権強化策は成功したものの、その一方で旧来の勢力からの反発を招き、その結果として王権が一時的に弱体化したという考えがある。
5世紀後半以降の地方の首長層とヤマトの王権との関係は、稲荷山鉄剣や江田船山大刀に刻された銘文とその考古学的解釈により、地方首長が直接ヤマトの大王と結びついていたのではなく、地方首長とヤマト王権を構成する大伴、物部、阿部などの畿内氏族とが強い結びつきをもつようになったものと想定される。王は「大王」として専制的な権力を保有するようになったとともに、そのいっぽうでは大王と各地の首長層との結びつきはむしろ稀薄化したものと考えられる。また、大王の地位自体がしだいに畿内豪族連合の機関へと変質していく。5世紀末葉から6世紀初頭にかけて、『日本書紀』では短期間のあいだに清寧、顕宗、仁賢、武烈の4人の大王が次々に現れたと記し、このことは、王統自体もはげしく動揺したことを示唆している。また、こののちのオホド王(継体天皇)即位については、王統の断絶ないし王朝の交替とみなすという説(王朝交替説)がある。
こうした王権の動揺を背景として、この時期、中国王朝との通交も途絶している。ヤマト王権はまた、従来百済との友好関係を基盤として朝鮮半島南部に経済的・政治的基盤を築いてきたが、百済勢力の後退によりヤマト王権の半島での地位も相対的に低下した。このことにより、鉄資源の輸入も減少し、倭国内の農業開発が停滞したため、王権と傘下の豪族達の政治的・経済的求心力が低下したとの見方も示されている。6世紀に入ると、半島では高句麗に圧迫されていた百済と新羅がともに政治体制を整えて勢力を盛り返し、伽耶地方への進出をはかるようになった。
こうしたなか、6世紀初頭に近江から北陸にかけての首長層を背景としたオホド王(継体天皇)が現れ、ヤマトにむかえられて王統を統一した。しかし、オホドは奈良盆地に入るのに20年の歳月を要しており、この王権の確立が必ずしもスムーズではなかったことを物語る。オホド王治世下の527年には、北九州の有力豪族である筑紫君磐井が新羅と連携して、ヤマト王権と軍事衝突するにいたった(磐井の乱)。この乱はすぐに鎮圧されたものの、乱を契機として王権による朝鮮半島南部への進出活動が衰え、大伴金村の朝鮮政策も失敗して、朝鮮半島における日本の勢力は急速に揺らいだ。継体天皇の没後、531年から539年にかけては、王権の分裂も考えられ、安閑・宣化の王権と欽明の王権が対立したとする説もある(辛亥の変)。いっぽう、オホド王の登場以降、東北地方から九州地方南部におよぶ全域の統合が急速に進み、とくに磐井の乱ののちには各地に屯倉とよばれる直轄地がおかれて、国内的には政治統一が進展したとする見方が有力である。なお、540年には、継体天皇を擁立した大伴金村が失脚している。
ヤマト国家から律令制へ(古墳時代後期後半)
6世紀前半は砂鉄を素材とする製鉄法が開発されて鉄の自給が可能になったこともあって、ヤマト王権は対外的には消極的となった。562年、伽耶諸国は百済、新羅両国の支配下にはいり、ヤマト王権は朝鮮半島における勢力の拠点を失った。そのいっぽう、半島からは暦法など中国の文物を移入するとともに豪族や民衆の系列化・組織化を漸次的に進めて内政面を強化していった。ヤマト王権の内部では、中央豪族の政権における主導権や、田荘・部民などの獲得をめぐって抗争がつづいた。大伴氏失脚後は、蘇我稲目と物部尾輿が崇仏か排仏かをめぐって対立した。
こうしたなか、6世紀末には、いくつかの紛争に勝利した推古天皇、聖徳太子、蘇我馬子らが強固な政治基盤を築きあげ、冠位十二階や十七条憲法の制定など官僚制を柱とする王権の革新を積極的に進めた。6世紀中葉に日本に伝来した仏教は、統治と支配をささえるイデオロギーとして重視され、『天皇記』『国記』などの歴史書も編纂された。これ以降、氏族制度を基軸とした政治形態や諸制度は徐々に解消され、ヤマト国家の段階は終焉を迎え、古代律令制国家が形成されていくこととなる。
「日本」へ
7世紀半ばに唐が高句麗を攻め始めるとヤマトも中央集権の必要性が高まり、難波宮で大化の改新が行われた。壬申の乱にて皇位継承権を勝ち取った天武天皇は藤原京の造営を始め、持統天皇の代に飛鳥から遷都した。701年大宝律令が完成し、この頃からヤマト王権は「日本」を国号の表記として用いるようになった(当初は「日本」と書き「やまと」と訓じた)。
史書の記録
前史
『日本書紀』によれば、伊奘諾尊と伊奘冉尊の間にうまれた太陽神である天照大神が皇室の祖だという。その子天忍穂耳尊と栲幡千千姫(高皇産霊尊の娘)の間にうまれた子の瓊瓊杵尊(天孫)は、天照大神の命により、葦原中国を統治するため高天原より日向の襲の高千穗峰に降臨した(天孫降臨)。
瓊瓊杵尊は、大山祇神の娘である木花之開耶姫をめとり、火闌降命(海幸彦。隼人の祖。)・火折尊(山幸彦。皇室の祖。)・火明命(尾張氏の祖)をうんだ。山幸彦と海幸彦に関する神話としては「山幸彦と海幸彦」がある。
火折尊は海神の娘である豊玉姫を娶り、二人の間には彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊がうまれた。鸕鶿草葺不合尊はその母の妹である玉依姫をめとり、五瀬命・稲飯命・三毛入野命・磐余彦尊がうまれた。瓊瓊杵尊より鸕鶿草葺不合尊までの3代を「日向三代」と呼ぶことがある。
神武東征と建国
磐余彦尊は日向国にあったが、甲寅年、45歳のときに饒速日(物部氏の遠祖)が東方の美しい国に天下った話を聞いた。磐余彦尊は、自らの兄や子に東へ遷ろうとすすめてその地(奈良盆地)へ東征(神武東征)を開始した。速吸の門では、国神である珍彦(倭国造の祖)に出会い、彼に椎根津彦という名を与えて道案内にした。筑紫国菟狭の一柱騰宮、同国崗水門を経て、安芸国の埃宮、吉備国の高島宮に着いた。磐余彦は宿敵長髄彦と戦い、饒速日命はその主君であった長髄彦を殺して帰順した。辛酉年、磐余彦尊は橿原宮ではじめて天皇位につき(神武天皇)、「始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)」と称された。伝承上、これが朝廷および皇室の起源で、日本の建国とされる。
伝承の時代
初代天皇の神武天皇(神日本磐余彦天皇)のあとは、
第2代:綏靖天皇(神渟名川耳天皇)
第3代:安寧天皇(磯城津彦玉手看天皇)
第4代:懿徳天皇(大日本彦耜友天皇)
第5代:孝昭天皇(観松彦香殖稲天皇)
第6代:孝安天皇(日本足彦国押人天皇)
第7代:孝霊天皇(大日本根子彦太瓊天皇)
第8代:孝元天皇(大日本根子彦国牽天皇)
第9代:開化天皇(稚日本根子彦大日日天皇)
以上の8代は記紀において事績の記載がほとんどないため、欠史八代と称されることがある。
第10代天皇の崇神天皇(御間城入彦五十瓊殖天皇)は「御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)」とも称され、この別名は神武天皇の別名と同訓である。崇神天皇は大物主大神を祀り、四道将軍を派遣したとされる。
第11代天皇は垂仁天皇(活目入彦五十狭茅天皇)である。相撲の起原は垂仁天皇の時代にあるとされる。
第12代天皇は景行天皇(大足彦忍代別天皇)である。景行天皇の時代には、皇子日本武尊が遠征を行ったとされる。
第13代天皇は成務天皇(稚足彦天皇)である。
第14代天皇は仲哀天皇(足仲彦天皇)である。その皇后の神功皇后は仲哀天皇崩御後に熊襲征伐や三韓征伐を行い、その後即位せずに政務をとったとされる。
第15代天皇は応神天皇(誉田天皇)である。
第16代天皇の仁徳天皇(大鷦鷯天皇)は「聖帝」と称され、河内平野の開拓にいそしみ、人家の竈から炊煙が立ち上がらないことを知って租税を免除するなど仁政を施した逸話で知られる。
以後、
第17代:履中天皇(大兄去来穂別天皇)
第18代:反正天皇(瑞歯別天皇)
第19代:允恭天皇(雄朝津間稚子宿禰天皇)
第20代:安康天皇(穴穂天皇)
とつづく。
第21代天皇の雄略天皇(大泊瀬幼武天皇)は倭の五王の最後として『宋書』倭国伝に記された「倭王武」であるとされる。また、埼玉県の稲荷山古墳出土鉄剣(金錯銘鉄剣)の辛亥年(471年)の紀年銘、および熊本県の江田船山古墳出土の鉄刀銘には雄略天皇の名と一致する人名がみられる。
以後、
第22代:清寧天皇(白髪武広国押稚日本根子天皇)
第23代:顕宗天皇(弘計天皇)
第24代:仁賢天皇(億計天皇)
第25代:武烈天皇(小泊瀬稚鷦鷯天皇)
とつづく。
古墳時代
武烈天皇には子がなく、大伴金村らは近江国高島郡で生まれ越前国で育った応神天皇5世孫の男大迹王を推挙し、王は即位した(第26代天皇の継体天皇)。ここに皇統の断絶があったとする見解もある。
以後、
第27代:安閑天皇(広国押武金日天皇)
第28代:宣化天皇(武小広国押盾天皇)
第29代:欽明天皇(天国排開広庭天皇)
第30代:敏達天皇(渟中倉太珠敷天皇)
第31代:用明天皇(橘豊日天皇)
第32代:崇峻天皇(泊瀬部天皇)
とつづく。
崇峻天皇は蘇我馬子の命により暗殺され、初の女帝となる推古天皇(豊御食炊屋姫天皇)が継いで第33代天皇となった。
神話伝承を根拠とする諸事
皇紀と建国記念の日
神武天皇の橿原宮での即位は「辛酉年」正月であることから、『日本書紀』の編年から遡って紀元前660年に相当し、それを紀元とする紀年法が「皇紀」(神武天皇即位紀元)である。西暦1940年(昭和15年)は皇紀2600年にあたり、日中戦争の戦時下にあったためもあり、「紀元二千六百年記念行事」が国を挙げて奉祝された。この年に生産が開始された零式艦上戦闘機(いわゆる「ゼロ戦」)は皇紀の下2桁が「00」にあたるところからの命名である。
また、神武天皇の即位日は『日本書紀』によれば「辛酉年春正月、庚辰朔」であり(中国で665年につくられ、日本で692年から用いられた『儀鳳暦(麟徳暦)』によっている)、これは旧暦の1月1日ということであるが、明治政府は太陽暦の採用にあたり、1873年(明治6年)の「太政官布告」第344号で新暦2月11日を即位日として定めた。根拠は、西暦紀元前660年の立春に最も近い庚辰の日が新暦2月11日に相当するとされたためであった。この布告にもとづき、戦前は2月11日が紀元節として祝日とされていた。紀元節は、大日本帝国憲法発布の日(1889年(明治22年)2月11日)、広田弘毅発案による文化勲章の制定日(1937年(昭和12年)2月11日)にも選ばれ、昭和天皇即位後は四方拝(1月1日)、天長節(4月29日)、明治節(11月3日、明治天皇誕生日)とならび「四大節」とされる祝祭日であった。
紀元節は太平洋戦争(大東亜戦争)終結後1948年に廃止された。「建国記念日」を設置する案は度々提出されたが神武天皇の実在の真偽などから成立には至らず、1966年に妥協案として「の」を入れた「建国記念の日」が成立した。国民の祝日に関する法律(祝日法)第2条では、「建国記念の日」の趣旨を「建国をしのび、国を愛する心を養う」と規定しており、1966年(昭和41年)の祝日法改正では「国民の祝日」に加えられ、今日に至っている。
『日本書紀』は雄略紀以降、元嘉暦(中国で443年に作られ、日本で691年まで単独使用された(翌年から697年までは儀鳳暦と併用))で暦日を記しているが、允恭紀以前は『日本書紀』編纂当時の現行暦である儀鳳暦に拠っている。船山の大刀銘が「大王世」と記す一方、稲荷山の鉄剣名が「辛亥年」と記すことから、まさに雄略朝に元嘉暦は始用され、それ以前には、まだ日本では中国暦による暦日は用いられていなかったと考えられている。むろん7世紀につくられた儀鳳暦が用いられていたはずもなく、神武即位日を新暦に換算することは不可能である。
神宝と皇室行事
皇室に伝わる神宝は「三種の神器」と呼称され、天孫降臨の際に天照大神から授けられたとする鏡(八咫鏡)、剣(天叢雲剣)、玉(八尺瓊勾玉)を指す。
大和時代に起源をもち、今日まで伝わる行事としては上述「四大節」のうちの「四方拝」のほか10月17日の「神嘗祭」や11月23日の「新嘗祭」がある。「大祓」もまた、大宝令ではじめて明文化された古い宮中祭祀である。また、『日本書紀』顕宗紀には顕宗朝に何度か「曲水宴」(めぐりみずのとよあかり)の行事がおこなわれたとの記事がある。
なお八咫鏡と大きさが同じ直径46cmでその図象が「伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記」の八咫鏡の記述「八頭花崎八葉形」と類似する大型内行花文鏡が福岡県糸島市の平原遺跡から5枚出土しており、三種の神器との関連が考えられている。
関連神社
伊勢神宮
皇室の祖先神である天照坐皇大御神を主祭神とする神社。垂仁天皇の第4皇女倭姫命が、天照大神を祭る土地を東に求めて大和、近江、美濃を経て、神託により伊勢に大神が鎮坐する祠を立てたのがこの神宮の起源であるという。
大神神社
大和朝廷発祥の地とされる奈良盆地南東部に所在する神社である。主祭神は大物主大神であり、三輪山を神体山とする。大己貴神が自らの幸魂奇魂である大三輪の神を日本国の三諸山(三輪山)に宮をつくって住ませたのがこの神社の起源であるという。今日でも本殿をもたず、拝殿から三輪山を神体として仰ぎみる古神道(原始神道)の形態を残している。
熱田社
三種の神器のひとつ草薙神剣(草薙剣、天叢雲剣)を神体とし熱田大神を主祭神とする。日本武尊は、東国遠征ののち尾張氏のむすめ宮簀媛を娶り、能褒野で崩じたという。
石上神宮
物部氏の氏神。崇神天皇の時代につくられた。垂仁天皇が五十瓊敷命と大足彦命(のちの景行天皇)の兄弟に対しそれぞれが欲するものを尋ねた際、兄の五十瓊が弓矢、弟が皇位を望んだとされ、五十瓊敷が大刀一千口を作り石上神宮に蔵したのを契機として守護神として崇敬されるようになった。
 
元明天皇

 

(げんめいてんのう) 661年(斉明天皇7年) - 721年12月29日(養老5年12月7日) 日本(飛鳥時代 - 奈良時代)の第43代天皇。女帝(在位:707年8月18日(慶雲4年7月17日) - 715年10月3日(和銅8年9月2日))。名は阿閇皇女(あへのひめみこ)。阿部皇女とも。和風諡号は「日本根子天津御代豊国成姫天皇」(やまと ねこ あまつみよ(みしろ) とよくに なりひめの すめらみこと、旧字体:−豐國成姬−)である。漢風諡号の「元明天皇」は代々の天皇と共に淡海三船によって撰進されたとされる。
天智天皇の皇女で、母は蘇我倉山田石川麻呂の娘・姪娘(めいのいらつめ)。持統天皇は父方では異母姉、母方では従姉で、夫の母であるため姑にもあたる。大友皇子(弘文天皇)は異母兄。天武天皇と持統天皇の子・草壁皇子の正妃であり、文武天皇と元正天皇の母。
藤原京から平城京へ遷都、『風土記』編纂の詔勅、先帝から編纂が続いていた『古事記』を完成させ、和同開珎の鋳造等を行った。
略歴
天武天皇4年(675年)に、十市皇女と共に伊勢神宮に参拝したという記録がある。
天武天皇8年(679年)頃、1歳年下である甥の草壁皇子と結婚した。同9年(680年)に氷高皇女を、同12年(683年)に珂瑠皇子を産んだ。同10年2月25日(681年3月19日)に草壁皇子が皇太子となるものの、持統天皇3年4月13日(689年5月7日)に草壁皇子は即位することなく早世した。姉で義母でもある鸕野讃良皇女(持統天皇)の即位を経て、文武元年8月17日(697年9月7日)に息子の珂瑠皇子が文武天皇として即位し、同日自身は皇太妃となった。
慶雲4年(707年)4月には夫・草壁皇子の命日(旧暦4月13日)のため国忌に入ったが、直後の6月15日(707年7月18日)、息子の文武天皇が病に倒れ、25歳で崩御してしまった。残された孫の首(おびと)皇子(後の聖武天皇)はまだ幼かったため、中継ぎとして、初めて皇后を経ないで即位した。ただし、義江明子説では持統上皇の崩御後、文武天皇の母である阿閇皇女が事実上の後見であり、皇太妃の称号自体が太上天皇に代わるものであったとする。
慶雲5年1月11日(708年2月7日)、武蔵国秩父(黒谷)より銅(和銅)が献じられたので和銅に改元し、和同開珎を鋳造させた。この時期は大宝元年(701年)に作られた大宝律令を整備し、運用していく時代であったため、実務に長けていた藤原不比等を重用した。
和銅3年3月10日(710年4月13日)、藤原京から平城京に遷都した。左大臣石上麻呂を藤原京の管理者として残したため、右大臣藤原不比等が事実上の最高権力者になった。
同5年(712年)正月には、諸国の国司に対し、荷役に就く民を気遣う旨の詔を出した。同年には天武天皇の代からの勅令であった『古事記』を献上させた。翌同6年(713年)には『風土記』の編纂を詔勅した。
715年には郷里制が実施されたが、同年9月2日、自身の老いを理由に譲位することとなり、孫の首皇子はまだ若かったため、娘の氷高(ひたか)皇女(元正天皇)に皇位を譲って同日太上天皇となった。女性天皇同士の皇位の継承は日本史上唯一の事例となっている。養老5年(721年)5月に発病し、娘婿の長屋王と藤原房前に後事を託し、さらに遺詔として葬送の簡素化を命じて、12月7日に崩御した。
和銅発見の地、埼玉県秩父市黒谷に鎮座する聖神社には、元明天皇下賜と伝えられる和銅製蜈蚣雌雄一対が神宝として納められている。また、養老6年(722年)11月13日に元明金命(げんみょう こがねの みこと)として合祀され今日に至る。
元明天皇に関する歌
『万葉集』に以下の歌が残されている。
勢の山を越ゆる時に、阿閇皇女の作らす歌
 これやこの大和にしては我が恋ふる 紀路にありといふ名に負ふ勢の山
 越勢能山時阿閇皇女御作歌 / 此也是能 倭尓四手者 我戀流 木路尓有云 名二負勢能山 [巻1-35]
和銅元年戊申 天皇の御製
 大夫(ますらを)の鞆の音すなり物部の 大臣(おほまへつきみ)楯立つらしも
 大夫之 鞆乃音為奈利 物部乃 大臣 楯立良思母 [巻1-76]
陵・霊廟
陵(みささぎ)は、宮内庁により奈良県奈良市奈良阪町にある奈保山東陵(なほやまのひがしのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は山形。
崩御にさきだって、「朕崩ずるの後、大和国添上郡蔵宝山雍良岑に竈を造り火葬し、他処に改むるなかれ」、「乃ち丘体鑿る事なく、山に就いて竈を作り棘を芟り場を開き即ち喪処とせよ、又其地は皆常葉の樹を植ゑ即ち刻字之碑を立てよ」といういわゆる葬儀の簡素化の詔を出したので、崩御後の12月13日、喪儀を用いず、椎山陵に葬った。
陵号は『続日本紀』奉葬の条には「椎山陵」、天平勝宝4年閏3月の条には「直山陵」、遺詔に「蔵宝山雍良岑」とある。延喜諸陵式には「奈良山東陵」とあり、兆域は「東西三町南北五町」とし、守戸五烟を配し、遠陵に列した。
中世になると陵墓の正確な場所がわからなくなったが、『前王廟陵記』は那富士墓の位置に、『大和志』は大奈辺古墳に、幕末の修陵の際に現在の陵墓に治定され、修補を加え、慶応元年3月16日、広橋右衛門督を遣わして竣工の状況を視し、奉幣した。
遺詔の「刻字之碑」は、中世、陵土の崩壊を見て田間に落ちていたのを発掘し、奈良春日社に安置したのを、明和年間に藤井貞幹が見て『東大寺要録』を参酌して元明天皇陵刻字之碑を考定した。文久年間の修陵の際にこれを陵側に移し、明治29年藤井の「奈保山御陵考」によって模造碑を作り、かたわらに建てた。
また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
 
私論・万葉集に詠われた「天の香具山」

 

「 大和には 群山(むらやま)あれど 取りよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は煙立ち立つ 海原は鴎立ち立つ うまし国ぞ あきづ嶋大和の国は 」
これは万葉集第2首の歌ですが、きっとご存知の方も多いことでしょう。
書籍を読んだ時、万葉集の歌の解釈にいろいろと疑問が浮かびましたが、その中で最も不可解に思ったのがこの歌でした。通説では、『大和にはいろいろな山があるが、選んで『天の香具山』に登って国見をすれば、国原には煙があちこちから立ち昇り、海原には鴎が飛び交っている。何てすばらしい国なんだろう、あきづ嶋大和の国は』となっています。
時の大王が、奈良大和三山の香具山に登って自らの治める国を眺め、その美しさを愛でて詠ったというものです。
ところが、奈良盆地には、海原や鴎が見えるような場所は何処にもありません。もちろん、嶋など見えるはずもありません。それついては、すばらしい国とはこうあるべきだといった架空の概念を詠ったと言われています。つまり、この歌は、想像や空想の産物だというのです。
また、あきづ嶋とは、トンボのような嶋を言うのですが、それもこの列島を詠んでいるとされています。地図も人工衛星もない古代にあって、この列島の全体像は知り得ません。ですから、その大王は、おそらくこんな形状をしているのだろうと思い描いたという訳です。
私には、この歌がそんな絵空事のような歌には思えませんでした。見晴らしの良いその山の上には、心地良い風が吹き、あちこちで煙が立ち昇っているのが見えたことでしょう。そして、鴎のにぎやかな鳴き声や潮の香りすらしてきそうなほどに写実的な歌に思えました。
この詠み人は、そこに描かれているような情景を実際に眺めながら歌ったとしか私には思えませんでした。
あるいは、その当時、奈良には海があったのかもしれません。とにかく、現地に行って自分の目で確かめるしかありません。奈良の地へ出かけることにしましょう。
大和
第2首が詠われたとされる奈良へ行きましたが、その歌は奈良の香具山で詠われたということはあり得ないという確信がますます深まりました。また、甘樫の丘では、日本書紀にあるような蘇我氏の記述がはたして史実なのかということも新たな疑問として出てきました。
いったい、第2首は、どこで詠われたのでしょう。その解釈では、『奈良大和』で詠まれたことになっています。では、もう少し第2首を検証してみましょう。まず、その第2首の原文を見ることにしましょう。
山常庭 村山有等 取與呂布 天乃香具山 騰立 國見乎為者 國原波 煙立龍 海原波 加萬目立多都 怜A國曽 蜻嶋 八間跡能國者
(大和には 群山(むらやま)あれど 取りよろう 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は 鴎立ち立つ うまし国ぞ あきづ嶋 大和の国は)
これらは、万葉仮名と呼ばれていますが、この列島の言葉の意味や読み方に、より近い漢字が当てられているようです。『山常』で『やまと』を表現しています。『常』と いう文字が使われているということは、常に、つまり常しえに続く都といった意味合いをそこに込めたのかもしれません。
後の『やまと』を『八間跡』としているのは、その読み方をより正確に伝えるようにしたものか、あるいは『八』といった末広がりに発展していくといった意味合いが含まれているのでしょうか。
煙は龍のように立ち昇り、鴎はとても多く飛んでおり、また、その地は都だといったように、文字は『言霊』とも言われていましたが、1字1字十分に吟味した上で選ばれているように見えます。
『うまし国ぞ』と読まれていますが、その『怜』の次の文字Aは、パソコンには無い文字で、『怜』と同様『りっしん偏』に『可』と書きます。『りっしん偏』ですから、心に関わる文字です。『れいか』、つまり、華麗といった褒め称える意味合いの文字ではないかと考えられます。
さて、『山常』や『八間跡』が『やまと』であるということに間違いはないかと思われます。しかし、この原文を見る限りにおいては、その地名が、『奈良大和』を間違いなく意味するとは言えないようです。
そうなりますと、『大和』とは何かということにもなってきます。古代の都『やまと』、それが『大和』とされています。確かに、この第2首で『やまと』がこの列島の都だったということが言えます。しかし、この歌の原文の表記では『大和』となってはいません。『大和』は、『だいわ』としか読めません。
つまり、都を意味する『やまと』に同じく都を意味する『大和』の文字が当てられたということでしょうか。もし、そうだとすれば、他に都を意味する『大和』という文字を使った歌があるのかもしれません。では、『大和』という文字の入った歌を調べてみましょう。
万葉集と「大和」
『やまと』と読み『大和』と表記される、この列島の都を意味する地名ですが、何と万葉集歌の原文には、その『大和』という文字で地名が表されている歌は1首もありませんでした。つまり、万葉集の歌が詠まれた時代には、『大和』という表記は存在していなかったことになります。では、どういった表記がされていたのでしょう。
私が調べた限りにおいては、
『倭』  19首(1) / 『山跡』  18首 / 『日本』  14首 / 『夜麻登』 5首 / 『八間跡』 1首(1) / 『也麻等』 1首 / 『夜萬等』 1首 / 『夜未等』 1首
の58首60箇所に『やまと』と読まれている地名の表記がありました。
驚いたことに万葉集の歌の原文には『大和』という地名の表記は1首たりともありませんでした。さらに、この調べた60箇所のすべてが『大和』と解釈されていました。どうして、これらの地名のすべてが、『奈良大和』を意味していることになるのでしょう。この時点で、私は、どう考えて良いのか分からなくなってしまいました。
ただ、第2首の歌に詠われている『やまと』が、『奈良大和』であるという認識は、万葉集には無いということは分かりました。では、第2首に詠われた『やまと』は何処にあったのでしょう。
それは、当時の都を意味していますから、この列島の都が現在の奈良ではなく、何処か別の場所にあったことになります。そうなりますと、第2首が詠われた場所を特定しようとしますと、その都を特定しなければなりません。そんなことが、一素人の手に負えるとは思えません。この時点で、第2首の詠われた場所探しは、暗礁に乗り上げてしまいました。
奈良以外に都があり、そこには海があり細長いトンボのような嶋がなければいけません。この列島に残されている資料の何処を見てもその答えはなく、ほとんどお手上げといった状態でした。
そんな、諦めかけていた時でした。ふと、この国の資料で分からなければ、中国の史書があるということに気がつきました。この列島を代表する都ですから、何らかの形で中国の史書に反映していても不思議ではありません。暗闇の中で、一筋の明かりを見た思いでした。私の古代史探索は、新たな展開をすることになりました。はたして、中国の史書にこの列島の都は描かれていたのでしょうか。
中国の史書から出雲が見えた
中国の史書を調べていきますと、隋書に、隋の使者がこの列島の大倭王の居る都へやって来たとありました。その使者の道程が書かれていますから、それをたどりますとこの列島の都が何処にあったのかが判明することになります。
いよいよ、めざす都が特定できるかもしれません。私は、胸の高まりを抑えることができませんでした。その記述の中で、いくつかの国を経ると『海に達した』という表現をしているのです。そして、そこで歓迎の式典が催され、都から騎馬隊のお迎えがやってきて、その数、200騎とあります。
これらの記述を見た時に、『これって、出雲?!』と、私の中に閃光が光ったような衝撃を覚えました。
私は、所は違いますが和歌山大学の卒業で、学生の頃にサークルの合宿で南紀方面へ行く機会がありました。その折に、その合宿の施設の近くの山を登ることになりました。 そうは言ってもそんなに高い山ではなく、海にせり出ているような尾根といった程度です。雑木を掻き分けながら、30分ほど登りましたでしょうか、すると尾根に出て、そこは魚見台といったとても見晴らしの良い場所でした。
登った瞬間、いきなり海が一望に開けて見えたのです。それは、すばらしい感動を体験できました。場所も時代も規模も異なるので、簡単に比較はできませんが、その『海に達した』という記述を見て、学生の時の感動体験を思い出しました。
わずかな文字しか無い史書でその使者の体験した中に描かれるほどです。その使者は、大陸から海を越えてやってきているのですから、決して海が珍しい訳ではありません。つまり、その使者は、内陸部のかなり険しい道のりを経て海の見える場所に出たのでしょう。
九州からその使者は東へ向かって移動しています。瀬戸内海を船で移動したとしますと、海に達したとは描きません。ましてや奈良大和であろうはずもありません。瀬戸内海沿岸を移動したとしても、瀬戸内海が見え隠れしていますから、同様に海に達したとは言わないでしょう。
そうなりますと、中国山脈を越えたのではないかと思ったのです。今も、出雲街道と言われる中国山脈越えのルートがいくつかあります。その道を経て日本海側へ出たのではないでしょうか。そうしますと、大変な山越えとなります。その労苦をねぎらって祝宴が設けられたのも理解できます。しばらくは、休息して都からお迎えの騎馬隊がやって来たということでしょう。200騎もの騎馬隊で迎えるということは、騎馬民族であるところの出雲王朝だろうと考えました。
この時、それまで思いもよらなかった『出雲が都だった』という認識に到達したのです。 そうしますと、同じく隋書には、その当時の都は、魏書の頃の都『邪馬臺国』と一緒だという記述もあるのです。
つまり、長年議論されている『邪馬台国』は、実は出雲だったということにもつながりました。私は、万葉集の謎を追い求めてはいましたが、決して『邪馬台国』探しを目的とはしていませんでした。しかし、この列島の都を特定しようと中国の史書を検証する中で、『邪馬台国』の発見にも至ることができたのです。
出雲が、この列島の都だという認識に到達しますと、今まで謎だったことが次々と解明できていきました。さらに、『景初3年』の銅鏡が出雲の地で発掘されていたことにより、出雲が都でありかつ『邪馬台国』であったことは動かしがたい事実として確信を強めました。
これで、この列島の都が特定できたのです。本当に、そんなことができたなんて自分でも信じられませんでした。そうなりますと、第2首が詠われたのは出雲なのかもしれないと、いよいよ当初からの本来の謎の解明に王手がかかりました。
出雲大社の地に大王が
思いもよらなかった出雲の出現で、私の謎は、解明に向けて1歩も2歩も近づいた思いがしました。しかし、出雲と言っても、どこでそんな歌が詠われたかとなりますと、そう簡単には分かりません。山ほど有る山の中から、これが『天の香具山』だなどと特定するには、それ相当の根拠が必要となります。ひとつひとつ登ってみるわけには行きませんし、ここでまた大きな難関が立ちはだかってきました。
とりあえず、出雲について調べてみることにしました。出雲風土記、出雲大社、熊野大社、八重垣神社、日御碕、宍道湖等々、あるいは荒神谷遺跡など謎の宝庫とも言えるほどに多くの歴史的遺産を残しています。
さすがこの列島の都だったことはあります。
また、その歴史を遡る中で、今は本州とつながっている島根半島が古代にあっては嶋だったことも分かりました。それも細長い嶋です。まさしくトンボのような形をしているではありませんか。嶋ですから、当然その周辺には海が広がっています。
そして、日御碕の近くに経島(ふみじま)、あるいは御厳島(みいつくしま)と呼ばれて、古来より禁足地とされている島があることも分かりました。その島は、ウミネコの繁殖地となっていて、12月頃におよそ5千羽が飛来し7月頃にはまた飛び去っていくとありました。今は、ウミネコと呼ばれていますが、鴎科の鳥です。にわかに、鴎とウミネコの違いは分かりかねます。古代にあっては、鴎と呼ばれていたと考えられます。
次第に、第2首の歌の条件が整ってきました。出雲は、たたら製鉄の国ですから、製鉄やその加工には多くの木材を燃やします。その煙が山や周辺のあちこちで立ち昇っていたことでしょう。となりますと、あとはどこに大王がいたのかということだけです。
実は、あの出雲大社から大きな柱が発掘され、そこに32丈、およそ100メートルはあったかという当時にあっては超高層の神殿が建っていたことも明らかになっていました。そこに時の大王が君臨していたと考えると、その巨大な神殿の意味も見えてきます。何と言っても、この列島を代表する国家的象徴ですから、出雲王朝の威信の表れといったところでしょうか。いよいよ大王の居所も特定できました。
あとは、『天の香具山』を探すのみです。これは、どうしても出雲に行かなければなりません。もし、出雲大社の地に大王がいたということになりますと、国見をするとすればその付近だと思われます。ということで、この列島の都で、『邪馬台国』でもあった出雲の地をめざして出発しました。
『天の香具山』は、出雲大社周辺にあり
出雲大社付近の蕎麦屋さんで昼食を済ませ、稲佐の浜へと向かうことにしました。その蕎麦屋さんの方から、稲佐の浜の手前を右に入った辺りに、神在祭の時に全国の神々が集合する場所があるのでご覧になってはどうかと勧められていました。出雲大社から稲佐の浜までは、およそ1kmほどで、周囲を眺めながら徒歩で西へ向かいました。その途中には、歌舞伎で有名な『出雲の阿国』の墓もあり、そこから、さらにもう少し歩くと下り坂となり、その坂を下って右に入れば、神々の集合場所ということでした。
阿国の墓からその集合場所へ向かう途中、道の右手の山に鳥居が見えました。山の上の方に見える鳥居が、少々珍しく思えました。通常、鳥居は神社の入り口に設置されています。そして、その手前は参道となっているのですが、そこに見える鳥居の手前に参道があるようには見えません。鳥居だけが見えたので少々違和感を覚えました。
そして、神々の集う場所へ行きますと、そこは『仮宮』と言われていて神在祭の時に全国から集まって来られた神々がその場所に集合するといったことが表示されていました。そんなに大きな建物ではなく、和風建築の民家といった風情でした。その時、全国から神々が出雲の地に集合するのだから、出雲大社の本殿じゃどうしていけないのだろうと素朴な疑問を抱いたものでした。それは、その『仮宮』の場所に大きな意味があったということが後に理解できました。そして、そこからすぐ西に行くと稲佐の浜に出ます。稲佐の浜と言いますと、大国主命が『国譲り』を迫られた場所としても古事記に登場します。その浜には、予想通りウミネコが数え切れないほどに飛来していました。でも、ほとんど鴎としか見えません。こちらの映像は、古代史探索紀行映像(出雲)編をご参照ください。そのウミネコの集団を確認すると再び出雲大社に戻り、日御碕へ向かいました。そこにある灯台も見ましたが、ウミネコの繁殖地である御厳島も確認しました。島の上一面がウミネコに覆われていました。
これで、出雲大社の地を検証して帰路についたのですが、出雲大社周辺には確かに多くの山々があり、第2首で『群山(村山)あれど』と詠まれている状況とぴったりくることが確認できました。稲佐の浜から日本海が大きく見渡せますし、半島の南側も当時は海だったということになりますと、海原も間違いなくあったことも確認できました。
ほとんど、第2首の詠われた地域として間違いないと確信しました。
そして、周辺の山々を地図で検証したのですが、実際に自分の目で見た印象と合わせますと、出雲大社の北側から東側ですが標高100メートルから数百メートルの山々が連なり、そこは大王が気軽に登れる山とは言えないようです。ほとんど、本格的な登山に近い山ですし、また、海や鴎からも少々遠ざかるようにも思えます。
では、西側で大王でも気軽に登れる山となりますと、出雲大社のすぐ西側にある山とさらに西にある小高い山となります。出雲大社のすぐ西側の山は、さらにその西にある山で海が見えづらく見晴らしがいいとは言えないかもしれません。そうしますと、その西側にある山は70メートルほどですから、まさしく手ごろに登れそうです。地図には、『奉納山』と記載してありました。さらに、出雲大社などに残されていた古絵図の写真をいくつかみますと、ほとんどその奉納山が描かれています。その上、西の海岸線がほとんどその奉納山の下辺りにまで来ています。これらの検証により、この『奉納山』と呼ばれている山こそが、『天の香具山』であろうという確証を得ました。そして、後日、その奉納山をめざして出雲に向かいました。
『天の香具山』は、奉納山だった
ふたたび、出雲大社付近の蕎麦屋さんで、昼食の折りに奉納山について話を聞いてみました。『何も無いところですよ』という返事でした。地元の方々には、特に何か話題になっているといったことはなさそうでした。
そして、頂上まで車で上がれるとのことでしたので、車で向かいました。奉納山の下に行きますと、そこにも神社がありました。やはり、重要な意味を持った山だということが伝えられているように感じました。その横を山に沿ってらせん状に上がって行ける様に道が整備されています。しかし、決して車が行きかうことが出来るほどの道幅はありません。対向車が来たらどうするのだろうと思っていますと、途中にも駐車スペースが作ってありました。そこに、止めて歩いたほうが良いかとも思いましたが、とりあえず今回は車で行ける所まで行ってみようとそのまま上がって行くことにしました。
その途中からも、日本海が広く見渡せる場所があり、一旦車を止めてその景色に魅入ってしまいました。古来からの展望台という山に相応しい眺めだと思いました。そうしますと、頂上からの見晴らしが、いっそう期待されます。その期待でわくわくしながら、また頂上へ向かいました。
車ですから、下から頂上までは、数分もあれば着きます。頂上は、車の方向を変えることは出来ますが、決して何台も止められるようなスペースはありませんでした。たまたま、その日は1台も車が無かったので良かったのですが、次に来ることがあれば途中の駐車場に止めることにしました。
そして、ようやく期待に満ち溢れていた頂上に到着しました。車から降りますと、その頂上にはそれなりの広さはありました。降りたすぐそばには、そんなに大きくはありませんが神社があり、鳥居が斜面のぎりぎりのところに設置してありました。その時に、『ああ、これが見えたのか』と、以前下の道から山の上に鳥居が見えてそれに違和感を覚えたことを思い出しました。あのときのちょっとした疑問がこれで解けました。
下に神社があることでそう感じましたが、この奉納山の頂上にも神社があるということで、この山、そしてこの頂上は重要な意味を持っているということを、今に伝えていると改めてそれを確信いたしました。
奉納山は、4つの神社に囲まれています。
では、どういった眺めがそこから見えるのだろうということなのですが、その頂上には、展望台が設置してありました。当たり前のことですが、今も昔も見晴らしの良さに変わりは無かったということです。早速、その上に上がることにしました。もう、これは、第2首に詠われた『天の香具山』に間違いはないという思いと、どんな眺めが見えるのだろうという期待感でもうドキドキワクワクです。展望台に上がりましたら、それはもう感動ものでした。東は遠く東出雲のあたりまで見渡せ、西は出雲以西の海岸線が一望に見渡せるのです。そして、中国山脈の山々や、広大な日本海が眼前に広がっています。
第2首が詠われた当時、その山々からは、たたら製鉄の煙があちこちから立ち昇っていたことでしょう。また、今は、南側、その頃の対岸との間は平地となり町並みが広がっていますが、当時は海でしたから入り江、あるいは内海といった、瀬戸内海のような美しい海岸線が見えたことでしょう。
そして、その山の周辺の沿岸には、御厳島から飛来する鴎(ウミネコ)が飛び交い、その声が鳴り響いていたことでしょう。とうとう、探し当てることが出来ました。
千数百年も昔に、時の大王が国見をした場所に自分が立ち、その当時と景色は大きく変わったとは言え、第2首の詠み人と同じ視点から同様の景色を眺めていると思うと身震いがしそうでした。ところが、残念ながらその歌は奈良の地で詠まれたことにされ、その大王は想像で歌ったことにされているのです。まったく、無念なことだろうと言わざるを得ません。
その大王の名誉のためにも、万葉集の本当の解釈という点においても、何としてもこのことを多くの皆さんに伝えて行かなければならないと、その時、固く決意いたしました。
 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
武士道

 

 
武士道 1

 

1
武士階級における道徳体系。武士社会の発生とともに御恩と奉公の契約から成る主従関係と、血縁的、地縁的関係とが結合した倫理的規範が成立し、「もののふの道」「武者の習」と呼ばれるようになった。江戸時代に入り、朱子学を中心とする儒教の影響を強く受け体系化され、独自の観念論としての武士道が確立された。それは主君に対する絶対的服従と忠誠を基本的理念としながら、農工商三民に対する治者としての精神、行動を強調するものであった。
2
日本の武士階級に発達した道徳。鎌倉時代から発達し、江戸時代に儒学思想と結合して完成した。忠誠・勇敢・犠牲・信義・廉恥・礼節・名誉・質素・情愛などを尊重した。士道。《Bushido, the Soul of Japan》新渡戸稲造による英文の著作。明治32年(1899)に米国で出版され、翌年日本でも刊行。日本の魂としての武士道について論じた文化論で、英語圏以外でも翻訳版が出版されるなど注目を集めた。
3
広く武士の心組み、生き方を意味する場合と、狭く心組み、生き方の一つの立場を意味して、士道に対する武士道として用いることもある。江戸時代の武士階級に特有の倫理体系。武士社会の成立とともに〈もののふの道〉〈兵の習〉といった道徳律が発生、中世を通じて徐々に変容した。江戸時代に入って、儒学が身分制度を理論化するとともに、武士は支配階級にふさわしい精神・行動が要求されるようになり、戦乱を欠いた固定的社会のなかで独自の観念論としての武士道が確立された。主君への一方的忠誠、絶対的服従を基本理念とし、尚武、廉恥、剛健などを内容とする思想体系になった。葉隠は狭義の武士道の極致。
4
広く武士の心組み、生き方を意味する場合と、狭く心組み、生き方の一つの立場を意味して、士道に対する武士道として用いられる場合とがある。 武士が王朝貴族の生き方に対して武士独自の生き方を自覚したとき、〈弓矢とる身の習(ならい)〉という言葉が生まれた。〈弓矢とる身の習〉は〈大将軍の前にては、親死に子討たるれども顧みず弥(いや)が上に死に重なって戦ふ〉(古活字本《保元物語》)ことで、主君への残るところのない献身である。
5
日本において武士の間に形成された道徳。鎌倉時代に始まり、江戸時代、儒教、特に朱子学に裏づけされつつ発展し、明治維新後国民道徳として強調された。主君に対する絶対的忠節を重視し、犠牲・礼儀・質素・倹約・尚武などが求められた。士道。
6
[1] 〘名〙 中世以降、日本の武士階級の間に発達した独得の倫理。禅宗や儒教に裏づけられて江戸時代に大成した。「葉隠」のように、善悪・正不正を問わないで死を賭して主君に奉公する考え方と、山鹿素行のように、主君・家来ともに儒教倫理に基礎をおいて振舞う士道の考え方とに分かれるが、狭義には前者をさすことがある。忠孝・尚武・信義・節操・廉恥・礼儀などを重んじる。※甲陽軍鑑(17C初)品二九「本より武士道不案内なれば」 [2] (原題Bushido, The Soul of Japan) 思想論。新渡戸(にとべ)稲造著。明治三二年(一八九九)刊。アメリカ滞在中、英文で出版。日本人の道徳観、精神の背景としての武士道精神を解明、紹介した書。
7
…その意味では、日本の武術、武芸、武技などといわれてきた伝統的な運動文化を、近代になって〈武道〉と呼ぶようになったともいえる。しかし〈武道〉には、歴史的に〈武士道〉という倫理思想的な意味もあり、その意味では、茶道、華道、書道などと同様、日本の伝統的な文化として概念づけることができる。[武道の語義とその変遷] 武道の語は、武と道が熟して一語となったもので、〈武の道〉あるいは〈武という道〉であり、行為や動作を含む技能を意味する語と道が組み合わされている。…
 
武士道 2

 

日本の近世以降の封建社会における武士階級の倫理・道徳規範及び価値基準の根本をなす、体系化された思想一般をさし、広義には日本独自の常識的な考え方をさす。これといった厳密な定義は存在せず、時代は同じでも人により解釈は大きく異なる。また武士におけるルールブック的位置ではない思想である。一口に武士道と言っても千差万別であり、全く異なる部分が見られる。
歴史
概論
武士道は江戸時代、支配階級である武士に文武両道の鍛錬と徹底責任を取るべきことが求められたことに始まる。狭義の武士道は、この「文武両道の鍛錬を欠かさず、自分の命を以って徹底責任をとる」という武士の考え方を示し、広義の武士道は、この考え方を常識とする日本独自の思想を示す。
なお、この武士道、という言葉は、新渡戸稲造の著書『武士道』で広まったものであり、「武士道」という言葉は明治33年(1900年)以前のいかなる辞書にも載っておらず、実際には江戸時代には一般的な言葉ではなかった、との指摘もある。
萌芽
「武士道」という言葉が日本で最初に記された書物は、江戸時代初期に成立し、原本が武田家臣春日虎綱(高坂昌信)の口述記とされる『甲陽軍鑑』である。ここでの武士道は、個人的な戦闘者の生存術としての武士道であり、武名を高めることにより自己および一族郎党の発展を有利にすることを主眼に置いている。「武士たるもの七度主君を変えねば武士とは言えぬ」という藤堂高虎の遺した家訓に表れているように、自己を高く評価してくれる主君を探して浪人することも肯定している。また、「武者は犬ともいへ、畜生ともいへ、勝つことが本にて候」という朝倉宗滴の言葉に象徴されるように、卑怯の謗りを受けてでも戦いに勝つことこそが肝要であるという冷厳な哲学をも内包しているのが特徴である。これらは主に、武士としての生き方に関わるものであり、あくまでも各家々の家訓であって、家臣としての処世術にも等しいものである。普遍的に語られる道徳大系としてのいわゆる「武士道」とは趣が異なる。
武士道は江戸時代には武道ともいわれたがこれはのちに武術を指すようになった。
発展と深化
道徳大系としての武士道は主君に忠誠し、親孝行して、弱き者を助け、名誉を重んじよという思想、ひいては「家名の存続」という儒教的態度が底流に流れているものが多く、それは江戸期に思想的隆盛を迎え、武士道として体系付けられるに至る。しかし無論、儒教思想がそのまま取り入れられた訳ではなく、儒学の中では『四書』の一つとして重要視されている『孟子』を、国体にそぐわないものであると評価する思想家は多い。この辺りに、山岡鉄舟が言うような武士道の武士道たる所以があるものと言える。また、思想が実際の行動に顕現させられていたのが、武士道としての大きな特徴である。
山鹿素行
江戸時代の安定期に山鹿素行は「職分論」の思想へ傾いていく。武士がなぜ存在するのかを突き詰めて考えた山鹿の結論は武士は身分という制度ではなく自分が(封建)社会全体への責任を負う立場であると定義をすることで武士となり、(封建)社会全体への倫理を担うとするものであった。例えば朱子学は、人間は自分の所属する共同体へ義務を負うとした。この共同体で最上のものは国家である。国家を動かすシステムは幕藩体制でありこれはそのまま武士階級の倫理を意味している。山鹿はこれに対し人間は確かに国家に属しているが武士に(封建)社会全体への義務を負わせることを選んだ存在も確かにいるとした。これは人間でもなく、社会でもない。人間は自ら倫理を担うものであり、社会は倫理に基づいて人間が実践をする場である。国家という制度のように目には見えないが武士を動かしたそれを山鹿は天とした。そのうえで自らが所属する共同体への倫理と天からあたえられた倫理が衝突した場合に武士は天倫を選択すると考えた。
幕府は山鹿を処罰した。山鹿は朱子学を批判したが、制度により共同体がつくられ所属する人間に倫理を担わせると考えるのは現実には学校や会社という制度で今日も生きており、逆に山鹿の考え方は少数派となっている。
思想としての武士道
近世における武士道の観念
武士(さむらい)が発生した当初から、武士道の中核である「主君に対する倫理的な忠誠」の意識は高かったわけではない。なぜなら、中世期の主従関係は主君と郎党間の契約関係であり、「奉公とは「御恩」の対価である」とする観念があったためである。この意識は少なくとも室町末期ごろまで続き、後世に言われるような「裏切りは卑怯」「主君と生死を共にするのが武士」といった考え方は当時は主流ではなかった。体系付けられたいわゆる武士道とは言えず、未熟である。
江戸時代の元和年間(1615年 - 1624年)以降になると、儒教の朱子学の道徳でこの価値観を説明しようとする山鹿素行らによって、新たに士道の概念が確立された。これによって初めて、儒教的な倫理(「仁義」「忠孝」など)が、武士に要求される規範とされるようになったとされる。山鹿素行が提唱した士道論は、この後多くの武士道思想家に影響を与えることになる。
享保元年(1716年)頃、「武士道と云ふは、死ぬ事と見付けたり」の一節で有名な『葉隠』が佐賀藩の山本常朝によって著される(筆記は田代陣基)。これには「無二無三」に主人に奉公す、といい観念的なものに留まる「忠」「義」を批判するくだりや、普段から「常住死身に成る」「死習う」といったことが説かれていたが、藩政批判などもあったせいか禁書に付され広く読まれることは無かった。
幕末の万延元年(1860年)、山岡鉄舟が『武士道』を著した。それによると「神道にあらず儒道にあらず仏道にあらず、神儒仏三道融和の道念にして、中古以降専ら武門に於て其著しきを見る。鉄太郎(鉄舟)これを名付けて武士道と云ふ」とあり、少なくとも山岡鉄舟の認識では、中世より存在したが、自分が名付けるまでは「武士道」とは呼ばれていなかったとしている。
明治時代以降の武士道の解釈
明治維新後、四民平等布告により、社会制度的な家制度が解体され、武士は事実上滅び去った。実際、明治15年(1882年)の「軍人勅諭」では、武士道ではなく「忠節」を以って天皇に仕えることとされた。ところが、日清戦争以降評価されるようになる。例えば井上哲次郎に代表される国家主義者たちは武士道を日本民族の道徳、国民道徳と同一視しようとした。
新渡戸はキリスト教徒の多いアメリカの現実(人種差別など)に衝撃を受け、同時にキリスト者の倫理観の高さに感銘を受けた。新渡戸は近代において人間が陥りやすい根っこにある個人主義に対して、封建時代の武士は(封建)社会全体への義務を負う存在として己を認識していたことを指摘している。無論これは新渡戸の考えである。同時に新渡戸にとって武士は国際社会において国民一人一人が社会全体への義務を負うように教育されていると説明するのに最適のモデルであったとするのが今日の一般的な見方である。そのため彼の考えを正当とされるよりも、批判がなされることもあった。
新渡戸を含めたものたちにとって日本の精神的土壌をどのように捉えるかは大きなテーマであり武士道はその内の検証の一つとされている。正宗白鳥は短編の評論『内村鑑三』(昭和25年(1950年))の中で、自分の青年期に出会った内村を心の琴線に触れる部分はあったが概してその「武士道」の根太さが大時代な分だけ醒めた視線で見ていたと率直に表現している。
武士道の思想的な核心について西部邁はこう述べている。
「 「自死」を生における企投(きとう)のプログラムに組み込まないなら、生そのものがニヒリズムの温床となる。そのことは山本常朝の『葉隠』においてすでに指摘されていた。武士道の思想的な核心は、自死を生の展望のなかに包摂(ほうせつ)することによってニヒリズムの根を絶とうとするところにある。「人間的条件の限界内にとどまることを敵視する(神学的な)形而上学から脱け出し、人間的な“より善く”の探究を(宗教的な)至高善の名において誹謗(ひぼう)するあの不幸な意識を一掃し、死そのものをではなく死ぬことを定められたすべてのものを虚無だと言い捨てるニヒリズムの遺恨の根を枯(か)らすこと」(モーリス・パンゲ)、それが自死の選択である。 — 西部邁 『虚無の構造』 」
新渡戸稲造の『武士道』
新渡戸稲造は現地の教育関係者との会話において日本における宗教的教育の欠落に突き当たった結果、1900年にアメリカ合衆国でBushido: The Soul of Japanを刊行した。本書はセオドア・ルーズベルト、ジョン・F・ケネディ大統領など政治家のほか、ボーイスカウト創立者のロバート・ベーデン=パウエルなど、多くの海外の読者を得て、明治41年(1908年)に『武士道』として桜井彦一郎(鴎村)が日本語訳を出版した。さらに、昭和13年(1938年)に新渡戸門下生の矢内原忠雄の訳により岩波文庫版が出版された。
『武士道』においては、外国人の妻にもわかるように文化における花の違いに触れたり19世紀末の哲学や科学的思考を用いたりしながら、日本人は日本社会という枠の中でどのように生きたのかを説明している。島国の自然がどのようなもので日本独特の四季の移り変わりなどから影響を及ぼされた結果、日本人の精神的な土壌が武士の生活態度や信条というモデルケースから醸成された過程を分かりやすい構成と言葉で読者に伝えている。例えば、武士や多くの日本人は、自慢や傲慢を嫌い忠義を信条としたことに触れ、家族や身内のことでさえも愚妻や愚弟と呼ぶが、これらは自分自身と同一の存在として相手に対する謙譲の心の現れであって、この機微は外国人には理解できないものであろう、といったことを述べている。しかしこれは新渡戸独特の考えであり、彼の思想を批判する書も出されている。
近現代における武士道
武士道は日本の発展にも重要な精神となった。武士道の精神を基本とした士魂商才という言葉も生まれ、拝金主義に陥りがちであった精神を戒め、さらに商才を発揮することで理想像である経営者となることを表すものであった。このような経営哲学・倫理は欧米でも戦後に発達し、帝王学に類似した学問も登場した。今日では企業の倫理が問われるようになっており、経営者や戦略における要素となっている。武士道などの精神は経営学系統の大学、高校において標語として採用している場合もある。現在では国際化の進展に合わせて日本の武士道などの日本経営精神に対する必要性を挙げるものもいる。『武士道』の著者である新渡戸稲造も祖父が商人としての成功があったが、商業倫理に関する言葉を残している。他にも渋沢栄一は今後の時代に必要な武士道を説くなどと明治時代から大正デモクラシーにかけての日本の実業に関する精神が唱えられ、日本的経営に必要な背骨となった。
 
武士道 3

 

日本において共生した神道・仏教・儒教の三宗教は、武士道の中で合体を果たした。
武士道とは何か。
「日本に武士道あり」と世界に広く示した新渡戸稲造によれば、日本の象徴である桜花にまさるとも劣らない、日本の土壌に固有の華、それが武士道である。日本史の本棚の中に収められている古めかしい美徳につらなる、ひからびた標本の一つではない。それは今なお、私たちの心の中にあって、力と美を兼ね備えた生きた対象である。それは手にふれる姿や形は持たないが、道徳的雰囲気の薫りを放ち、今も私たちを引きつけてやまない存在なのだ。
新渡戸稲造は、言うまでもなく名著『武士道』の著者である。明治三二年(一八九九年)に刊行された英文『武士道』が、その直後の日本のめざましい歴史的活躍を通して、いかに見事にその卓見を実証していったか、今では想像もできないほどのものだった。ことに、義和団の乱、日清戦争、日露戦争における正々堂々たる戦いぶりと、敗者への慈悲を通して。そして、自らの潔い死があった。
こうしたふるまいは、すべて、極東の未知の小国における、他のどこにもない「ブシドー」という生き方の極みのフォルムによるものであると知って、世界は熱狂したのである。
武士道とは封建制度の所産であるが、その母である封建制度よりも永く生き延びて、「人の道」をありようを照らし続けた。『資本論』を書いたカール・マルクスは、生きた封建制の社会的、政治的諸制度は当時の日本においてのみ見ることができるとして、読者にその研究の利点を呼びかけた。これにならって、新渡戸は、西洋の歴史および倫理の研究者が日本における武士道の研究にもっと意を払うことをすすめている。
日本に武士道があるように、ヨーロッパには騎士道がある。新渡戸が大まかに「武士道(シバルリー)」と表現した日本語は、その語源において「騎士道(ホースマンシップ)」よりももっと多くの意味合いを持っている。ブ・シ・ドウとは、その文字を見れば、武・士・道である。戦士たる高貴な人の、本来の職分のみならず、日常生活における規範をもそれは意味しているのである。新渡戸は、武士道とは一言でいえば「騎士道の規律」、武士階級の「高い身分に伴う義務(ノーブレス・オブリージュ)」であると、海外の人々に説明している。
新渡戸の『武士道』は、今日に至るまで多くの日本人に影響を与え、かつ世界中の人々に「武士道」のイメージを植え付けた。日露戦争後にポーツマス条約の仲介をしたアメリカ第二六代大統領セオドア・ルーズベルトは、この本に大きな感銘を受け、三〇冊も取り寄せたことで知られる。彼は、五人のわが子に一冊ずつ渡したという。さらに残りの二五冊は大臣や上下両院の議員などに分配し、「これを読め。日本武士道の高尚なる思想は、我々アメリカ人が学ぶべきことである」と言ったという。
しかし、一方で新渡戸『武士道』こそが、武士道概念を混乱させてきたという見方もある。新渡戸の語る武士道精神なるものが、武士の思想とは本質的に何の関係もないというのである。そういった批判は、『武士道』の日本版が刊行された直後に、すでに歴史学者の津田左右吉によってなされている。専門に研究する人々の間では、新渡戸の論が文献的にも歴史的にも武士の実態に根ざしていないというのが定説になっているという。
倫理学者の菅野覚明氏は、著書『武士道の逆襲』でこう述べている。
「新渡戸武士道は、明治国家体制を根拠として生まれた、近代思想である。それは、大日本帝国臣民を近代文明の担い手たらしめるために作為された、国民道徳思想の一つである」
そもそも、「武士道」という言葉が一般に広く知られるようになったのは、明治も半ばを過ぎた頃からであるという。特に、日清・日露という対外戦争と相前後して、軍人や言論界の中から、盛んに「武士道」の復興を叫ぶ議論が登場してくる。武士はすでになく、自らも武士でないにもかかわらず、自分たちの思想は武士道であると主張する者たちが、ひきも切らずに現れてくるのだ。いわゆる「明治武士道」である。
徳川幕府を倒して権力を握った明治政府の指導者たちは、自分たちの倒幕を正当化するため、意図的に江戸時代を「暗黒時代」と見る歴史教育を行った。そこでは、幕府の支配のもと、刀を指した武士だけが威張って暮らし、農民や町民は武力で脅され、抑圧されて暮らしてきたとされた。また、武士たちは「武士道」という時代錯誤の意地によって、些細なことで怒って刀を抜き、斬り合いをしたり、庶民を無礼射ちにした。さらに、切腹や仇討ちといった血なまぐさいことを、武士たちは日常的にやっていた。ところが明治維新によって、事態は一変した。士農工商の身分制度は廃止され、みな平等になった。また、武士から刀を取り上げ、切腹や仇討ちも禁止することによって、日本は大きく進歩したのである。
以上のようなイデオローグを明治政府は国民に与えたのである。しかし、真実は違う。徳川幕府は庶民を第一に考えた政治を行い、勝手に刀を抜いて刃傷沙汰を起こした武士は重い罰を受けたのだ。武士道が最も重んじる「義」にために吉良上野介を討ち、その名も「義士」と庶民から讃えられた四七人の赤穂浪士が切腹を命じられたのが好例である。
しかしその後、明治政府は一転して、武士道の復興を必要としたのである。明治六年(一八七三年)、徴兵令が布告され、国民が兵士となって日本の武力を担うことになった。
明治七年に佐賀の乱、明治一〇年に西南戦争が起こり、旧武士による反乱軍は「百姓兵」と嘲(あざけ)られた国家の軍隊に完敗した。戦闘のプロフェッナルとしての武士は名実ともに滅び去り、「軍人精神」と呼ばれるものが「武士道」に代わって登場し、新たに近代における戦闘者の思想を形づくることになるのである。その思想の基本を確立したのが、明治一五年に発布された「軍人勅諭」である。
だが明治の「軍人精神」には不安があった。
新政府の軍隊とは、つまるところ諸藩の連合軍である。連合であるからには一時的な雑軍にすぎず、情勢によって離合集散もありうるという不安があったのだ。事実、戊辰戦争の官軍は、西南戦争では二つに分裂して敵対したわけである。菅野氏は述べる。
「国家の軍隊を一つのものとみなす発想がないということは、それがいつ分裂しても不思議ではないという観念が行きわたっていることでもある。実際、肝心の新政府軍の軍人たち自身が、軍隊の分裂はありうることと考え、神経を尖らせていたのである。そうした不安が衝撃的な形で現実となったのが、明治十一年に起こった近衛砲兵隊の反乱事件(竹橋事件)である」
そして、国家の軍隊は、「天朝さまに御味方する」諸藩の連合軍すなわち「官軍」であってはならないという発想が生まれた。それは、天皇自身が「大元帥」として統率する帝国軍隊すなわち「皇軍」でなければならないのだ。国家の軍隊としての統制原理を一個の人格たる天皇に置いた瞬間、わが国初の近代的軍隊、「皇軍」が成立したのである。
新しい国家の軍隊の統制を支えるために、西周や山県有朋らはその精神原理として、かつての武士が持っていた「忠」に目をつけ、それを欲しがった。武士にとっての「忠」は、命に代えても貫くほどの強烈さを持っている。
城山に立てこもった西郷軍には、死をともにする「士心合一」があったが、それも武士ならではの「忠」の精神に支えられていた。しかし、武士の「忠」は私的主従関係としての御家意識と切り離せず、国家の軍隊のような一種の「メカニズム」の中では発動できない。
天皇に対する忠誠心を真実のものとするために、西周は「日本人」「民族」そして「大和心」というコンセプトを打ち出した。徳川や島津といった武士団、さらには武士という「階級」は、「日本人」という「民族」の中に含まれた一部であるとされる。武士の精神とみなされていた「武士道」もまた、民族全体の精神である「大和心」の一部とみなされるわけである。
もともと西は、「哲学」や「宗教」をはじめ数多くの海外概念を翻訳したコンセプトの天才であった。その彼が、武士道の「忠」に代わる、大和心の「忠」を示したとき、軍人精神の原理である『軍人勅諭』の基本的な枠組みはほぼ完成したと菅野氏は述べている。それはまた、武士の武士道に代わる、民族の武士道、すなわち「明治武士道」の誕生した瞬間でもあったのである。
それは、菅野氏によれば、戦闘することによって「私」が実現され、主君や共同体との結びつき、道徳も戦闘の中から生まれるという、武士という存在の根幹にかかわる部分を排除したものだ。いわば武士道の断片であり、残滓(ざんし)であるにすぎないが、明治以来今日に至るまで、人々が武士道の名で親しんできたのは、他でもないこの「明治武士道」だったのである。
典型的な明治武士道には、新渡戸稲造、内村鑑三、植村正久などのキリスト教徒によるものと、井上哲次郎のような国家主義者によるものがあるとされる。数の上では国家主義的なものが圧倒的に多い。この流れは昭和に至るまでの武士道思想を形づくってきたが、敗戦とともに忘れ去られた。逆に、少数派であった新渡戸『武士道』のみが今日まで生き残っているのである。
多くの研究者たちが指摘するように、欧米列強に伍する近代国家を創る目的を持った明治武士道の産物である新渡戸『武士道』が、武士の本当の実態を記していないとしても、やはり思想としての「武士道」を考察した名著であることに変わりはない。特に、武士道の起源に関する新渡戸の視点は鋭い。
平安時代中頃から鎌倉時代初頭に武士という新興階級が起こり、封建制が形成されていった。このような時代に、武士道もつくられていった。もともと「兵(つわもの)の道」「弓矢の道」「弓馬の道」などと呼ばれており、「武士道」という言葉が使われ始めるのは江戸時代の初頭である。それは、初めは戦闘の場における心がけを中心とする掟であったが、次第に神道、仏教、儒教と深く関わる形でつくられていったという。
ヨーロッパの騎士道がキリスト教から生まれたことと同じように、武士道も宗教によって育まれたのである。しかし、それは単一の宗教ではなく、神道、仏教、儒教の三宗教によるものであると新渡戸は言うのだ。この、武士道の中に神仏儒の三宗教が入り込んでいることを指敵したことこそ、新渡戸『武士道』の最大の功績ではないだろうか。かつて森鴎外はヨーロッパの地で「日本人の信仰する宗教は何か」と尋ねられたとき、「それは武士道である」と返答したという。鴎外もまた、武士道の正体が神仏儒の混淆宗教であることを見抜いていたのだ。
『武士道』の第二章では、日本の宗教と武士道との関わり合いが述べられている。まず仏教からである。新渡戸は述べる。
「仏教は武士道に、運命に対する安らかな信頼の感覚、不可避なものへの静かな服従、危険や災難を目前にしたときの禁欲的な平静さ、生への侮蔑、死への親近感などをもたらした(奈良本辰也訳)」
仏教の中でも、武士は特に禅を学んだ。禅は、鎌倉時代の末期に栄西が宋から日本に伝えたものである。以来、室町、戦国、江戸、明治維新と、禅は武家社会に大きな影響を与えてきた。そして特定の禅僧と武士の間に師弟関係なるものができて、武士の軍略や治世、生き方を決定づけることになったのである。
代表的な例としては、源実朝と栄西、北条泰時と明恵、北条時頼と普寧・道元・聖一、北条時宗と無学祖元、楠正成と明極楚俊、足利尊氏と夢窓疎石、武田信玄と快川紹喜、上杉謙信と益翁宗謙、伊達政宗と東嶽、前田利家と大透などが挙げられる。江戸時代になると宮本武蔵や柳生但馬守と沢庵の関係が有名だが、武家社会は盤珪、鈴木正三、白隠、東嶺などにも多大な尊敬の念を示し、武士がこれらの禅僧を慕って教えを乞うた。さらに幕末から明治維新にかけては、西郷隆盛、勝海舟、山岡鉄舟など回天の役割を果たした武士も禅を究めたとされる。
武士は禅僧から何を学んだのか。人には、「いったい何のために生きているのか」と、ふと感じるときがある。禅は、言葉でそれに答えることないが、内なる「智恵」を導き出してくれる。
現代の禅僧を代表する玄侑宗久氏は著書『禅的生活』で、たった今、私たちが息をしている瞬間こそ、すべての可能性を含んだ偉大なる瞬間であると述べている。日常の中でこそ「お悟り」で得られた「絶対的一者」が活かされなくてはならない。過去の自分はすべて今という瞬間に展かれている。そして未来に何の貸しもない。そのことを心底胎にすえて生きれば、いつどこで死んでもいいという覚悟になる。「人間、到る処青山あり」の青山とは「死んでもいいと思える場所」のことなのである。鎌倉以降、武士たちの心をとらえた禅の魅力は、おそらくこの辺りにあると玄侑氏は推測する。
仏教の次は、神道である。新渡戸は述べる。
「仏教が武士道に与えなかったものは、神道が十分に提供した。他のいかなる信条によっても教わることのなかった主君に対する忠誠、先祖の崇敬、さらに孝心などが神道の教義によって教えられた。そのため、サムライの傲岸な性格に忍耐心がつけ加えられたのである(奈良本辰也訳)」
しかし、本書を読んできた読者ならば、神道に教義にないことはよく知っているだろう。主君への忠誠、先祖への崇敬、そして孝心などは、むしろ儒教である。中世以来、神道は教義らしきものの多くを儒教から借りたことを、図らずも新渡戸は明らかにしているのだ。
新渡戸はさらに神道について述べる。ギリシャ人は礼拝のとき、目を天に向ける。そのとき彼らの祈りは凝視することによって成り立つ。ローマ人はその祈りが内省的であるために頭をヴェールで覆う。そして日本人の内省は、ローマ人の宗教に対する考え方のように、本質的に個人の道徳意識よりも、むしろ民族的な意識を表すこととなった。
神道の自然崇拝は、国土というものを私たちにとって心の奥底から愛おしく思われるような存在にした。また神道の祖先崇拝は、次から次へと系譜をたどることによって、ついには天皇家を民族全体の源としたのである。
新渡戸は述べる。
「私たちにとって国土とは金を採掘したり、穀物を収穫したりする土壌以上のものである。そこは神々、すなわち私たちの祖先の霊の神聖なすみかである。私たちにとって天皇とは、単に夜警国家の長、あるいは文化国家のパトロン以上の存在である。天皇は、その身に天の力と慈悲を帯びるとともに、地上における肉体をもった、天上の神の代理人なのである(奈良本辰也訳)」
ここに明治武士道の精神を見事に見ることができるだろう。天上の神の代理人としての天皇をいただいた日本は、急速に近代国家を
つくり、日清・日露の対外戦争を勝ち抜いていったのである。
そして新渡戸は、神道が日本人の感情生活を支配している二つの特徴をあわせ持っていると述べる。すなわち、愛国心と忠誠心である。ヘブライ文学においては作者の述べていることが、神のことか、国家のことか、天国のことか、エルサレムのことか、はたまたメシアか、その民族そのものか、それらのいずれを語っているのか、しばしば判断に困ることがある。これとよく似た混乱がわが国民の信仰を「神道」と名づけたことに起きていると新渡戸は言う。神道はその用語のあいまいさゆえに、論理的な思考を持った人から見れば、混乱していると考えられるに違いないというのだ。その上に、民族的本能や種族の感情の枠組としては、神道が必ずしも体系的な哲学や合理的な教学を必要としていないことを指摘する。
神道は武士道に対して、主君への忠誠心と愛国心を徹底的に吹きこんだ。これらのものは教義というより、その推進力として作用した。というのは、中世のキリスト教の教会とは異なり、神道はその信者にほとんど何も信仰上の約束事を規定しなかったからである。その代わりに行為の基準となる形式を、儒教によって与えたのだ。新渡戸は述べる。
「厳密にいうと、道徳的な教義に関しては、孔子の教えが武士道のもっとも豊かな源泉となった。孔子が述べた五つの倫理的な関係、すなわち、君臣(治める者と治められる者)、父子、夫婦、兄弟、朋友の関係は、彼の書物が中国からもたらされるはるか以前から、日本人の本能が認知していたことの確認にすぎない。冷静、温和にして世才のある孔子の政治道徳の格言の数々は、支配階級であった武士にとって特にふさわしいものであった。孔子の貴族的かつ保守的な語調は、これらの武人統治者に不可欠のものとして適合した(奈良本辰也訳)」  
孔子に次いで孟子が武士道に大きな影響を与えた。孟子の力のこもった、ときにははなはだしく人民主権的な理論は、思いやりのある人々にはことのほか好まれたのである。そのため、彼の理論は既存の社会秩序にとっては破壊的で危険とされ、『孟子』は永く禁書とされていたのである。それにもかかわらず、孟子の言葉は武士の心の中に永遠のすみかを見出していった。
正確には、儒教と武士道は微妙に違う。最も明らかな相違点は、儒教が「仁」を徳目の最上位に置いたのに対して、武士道はその中心に「義」を置いたことだ。したがって、武士の行動基準は、すべてこの義をもととし、「仁」「義」「礼」「智」「信」の五常の徳を「仁義」「忠義」「信義」「節義」「礼儀」などに改変し、さらには「廉恥」「潔白」「質素」「倹約」「勇気」「名誉」などを付け加えて、武士道は行動哲学となったのである。
そして、これらの道徳律の集大成として、「誠」の徳が最高の位置にすえられた。現在では「誠実」という意味にとられる「誠」は、その字が「言」と「成」からできているように「言ったことを成す」の意味とされ、そこから「武士に二言はない」という言葉が生まれた。武州・三多摩の農民あがりの新撰組(しんせんぐみ)は、「誠をつらぬく者」としての真の武士とならんがために「誠」をその旗印に掲げたのである。
このように武士道とは儒教のアレンジであったとしても、『論語』や『孟子』は武家の若者にとって大切な教科書となり、大人の間では議論の際の最高の拠り所となった。しかし、これらの古典を単に知っているというだけでは評価されることはなかった。よく知られた「論語読みの論語知らず」ということわざは、孔子の言葉だけをふりまわしている人間を嘲笑しているのである。武士の典型である西郷隆盛は文学のわけ知りを「書物の虫」と呼んだ。
三浦梅園は、実際に役立つまでは何度も煮る必要のある臭いの強い野菜に学問を例えている。また梅園は、知識というものは、それが学習者の心に同化し、かつその人の性質に表れるときにのみ真の知識となると述べた。
知性そのものは道徳的感情に従うものと考えられたのである武士道は知識のための知識を軽視した知識は本来、目的ではなく、智恵を得る手段であるとした。したがってこの目的に到達することをやめた者は、求めに応じて詩歌や格言を生み出す便利な機械以上のものではないとされた。知的専門家は機械同然だったのである。
このように知識は、人生における実際的な知識適用の行為と同一のものとみなされた。このソクラテスの哲学にも通じる思想は「知行合一」をたゆまず繰り返しといた中国の思想家、王陽明をその最大の解説者として見出したのである。新渡戸稲造によれば、神道の単純な教説に言い表されているように、日本人の心は王陽明の教えを受け入れるために、特に開かれていたという。
陽明が、人間性の根本に「良知」というものを考えたことは、単なる学説としてみれば
一つの理論にすぎない。しかし、この理論は「知行合一でなければならない」という信念に支えられている。そして、その信念が時代の要求に応じて武士の生き方を規定していったのである。
新渡戸『武士道』を英文から翻訳した歴史学者の奈良本辰也によれば、近世封建社会は、それが朱子学を採用したことによって、著しく無宗教的になっていたという。わが国の思想や宗教のあり方を永く規定してきたのは、言うまでもなく仏教であった。人々は仏の教えに導かれて生き、そしてその安心を得て死んだのである。その生活が厳しければ厳しいほど、彼らは仏の教えに従った。
しかし、朱子学はこの仏教に対して激しい敵意を抱き、人倫を乱すものとして攻撃した。つまり仏教が、現世を仮の世と説くことによって、現実の社会関係や道徳観念を相対化するというのである。林羅山によれば、仏教は「山河大地を以て仮となし、人倫を幻妄(げんもう)となす」ゆえに不可であり、拒否さるべきなのである。
仏教をより深いところから考えた中江藤樹でさえ、「仏教は無欲無為清浄の位を悟りの位にしているが、これは本体と現象の関係を理解しないで、現象面からのみ、人間の行動を規制していっているから十分でない」と述べている。ここでも、仏教というものは大きな意味を与えられておらず、代って儒教が精神的権威とならなければならないのである。奈良本辰也は、著書『武士道の系譜』に次のように書いている。
「だが、儒教という現実的な道徳学は、人間の心をその内面的な絶対の位置においてとらえることができるであろうか。ということは、そのために死に、そのために生きる絶対的なものを、人間の心のなかに定着することができたであろうか。朱子学的な合理主義では、それは困難であったと言うよりほかはない。なぜならば、その合理主義は生の側面においては一貫したものを持つことができようが、死という問題については人々を安心させる説明を持ち得なかったのである。簡単に言うならば、死は非常理なのだ。合理的説明ではとらえることのできない非合理性をもっている」
陽明学が、きわめて精神的なものを持つ理由もそこにあった。もともと武士道なるものは、その人間の生死の関わるところに生まれてきたのである。『葉隠』の「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」はあまりにも有名だが、大道寺友山(だいどうじゆうざん)の『武道初心集』の冒頭にも、「武士たらむものは正月元日の朝、雑煮の餅を祝ふとて箸を取初るより其年の大晦日の夕べに至るまで、日々夜々死を常に心にあつるを以て本意の第一とは仕るにて候」とある。
いま、その死が後背に退いたといっても、自分を律する規範がそこで霞むようなことがあってはならない。宗教的な信念によるものでなければ、自分の心による絶対的な判断力なのだ。陽明学はそれを「良知」と名づけ、それを発動することに最高の意味を与えたのである。生死をかけて武士の道を教える方法が、時代とともに古くなるにつれて、それに代るものとしての陽明学は精神至上主義を強めていったのである。
明治維新のキーマンとなった吉田松陰は陽明学を学び、高杉晋作や久坂玄端といった弟子に授けた。維新のスイッチャーとなった西郷隆盛も陽明学の徒であった。近年、「ラスト・サムライ」なるハリウッド映画が大ヒットし、武士道ブームが起こったことは記憶に新しいが、最後のサムライ・勝元のモデルは西郷隆盛であるという。最後まで、武士道は陽明学とともにあったのだ。
 
武士道 4

 

武士道は、日本の武士階級に由来する思想です。日本史において、武士階級が政治上の実権を掌握した期間はおよそ600年の長きに渡ります。武士の思想は時代とともに変遷していますが、大きく分けると、鎌倉時代に始まる戦場における主従関係を基にしたものと、江戸時代の天下太平における儒教の聖人の道に基づいたものに分類できます。前者は、献身奉公としての武者の習いであり、後者は武士を為政者とする士道(儒教的武士道)です。武士道は、武士たる者の身の処し方としての「武士の道」であり、武士道関連の書物には、武士の「道」についての伝統が展開されています。その影響は、武士が政治の実権を握った時代のみならず、その前後の期間にも見ることができます。本章では、日本の武士道における武士の「道」を見ていきます。
第一節 和歌
『万葉集』の[巻第三・四四三]には、武士と書いて「ますらを」と読む用法が見られます。〈天雲の向伏す国の武士(ますらを)〉とあり、天雲が遠く地平につらなる国の勇敢な男が武士なのだと語られています。また、[巻第六・九七四]には〈丈夫の行くといふ道そおほろかに思ひて行くな大丈の伴〉とあります。つまり、雄々しい男子の行く道は、いいかげんに考えて行くな、雄々しい男子どもよ、と謡われているわけです。『万葉集』において既に、〈武士〉という単語があり、武士道の前身となる道が「丈夫の行くといふ道」として謡われているのがわかります。
室町前期の勅撰和歌集である『風雅和歌集(1349~1349頃成立)』にも、「武士の道」を見つけることができます。[雑下・一八二三]に、〈命をばかろきになして武士の道より重き道あらめやは〉とあります。武士の道は、命よりも重いものだと考えられています。
第二節 説話物語
日本の説話物語においても、武士道に連なる道を見ることができます。
『今昔物語集』には、「弓箭の道」が語られています。〈我弓箭の道に足れり。今の世には討ち勝つを以て君とす〉とあり、勝つことの重要性が説かれています。他には、〈心太く手利き強力にして、思量のあることもいみじければ、公も此の人を兵の道に使はるゝに、聊か心もとなきことなかりき〉とあり、「兵の道」という表現を見ることができます。〈兵の道に極めて緩みなかりけり〉ともあります。「兵の道」という言葉は、『宇治拾遺物語』にも見ることができます。
『十訓抄』には、〈最後に一矢射て、死なばやと思ふ。弓矢の道はさこそあれ〉とあります。また、〈弓箭の道は、敵に向ひて、勝負をあらはすのみにあらず、うちまかせたることにも、その徳多く聞ゆ〉ともあり、弓箭の道は敵に向って勝負を決するばかりではなく、多くのことに武芸は見られると語られています。
無住(1226~1312)の『沙石集』には、〈武勇の道は、命を捨つべき事と知りながら〉という表現を見ることができます。
第三節 軍記物語
軍記物語とは、平安時代末期から室町時代に至る武士集団の戦闘合戦を主題にした叙事文学のことです。その先駆的作品は『将門記』や『陸奥話記』です。編纂された時代の主従の道徳、情緒や献身、不惜身命の精神、家名と名を惜しむ武士のあるべき姿が、仏教、儒教、尊皇思想を背景に語られています。
『保元物語』では、「弓矢取る者」について語られています。〈弓矢取る者のかかる事に遭ふは、願ふ所の幸ひなり〉とあり、武士たる者が名誉の戦死に逢うことは、願うところであり幸いであると語られています。また、「兵の道」や「武略の道」という表現も物語の中に見ることができます。
『平治物語』では、「弓箭取り」や「弓矢取る身」などの表現が見られます。弓箭取りに関しては、〈弓箭取りと申し候ふは、殊に情けも深く、哀れをも知りて、助くべき者をば助け、罰すべき者をも許したまへばこそ、弓箭の冥加もありて、家門繁昌する慣らひにて候ふに〉とあります。つまり、武士は特に情け深く哀れを知り、助けるべき者を助け、罰すべき者も許し助けてこそ武芸に加護もあり、一家が繁昌することになると語られているのです。
『平家物語』では、仏教的な因果論が語られています。その中で「坂東武者の習」や「弓矢とる身」などの表現が見られます。坂東武者の習に関しては、〈坂東武者の習として、かたきを目にかけ、河をへだつるいくさに、淵瀬きらふ様やある〉とあります。坂東武者(関東武士)の習わしとして、敵を目前にして、川を隔てた戦いに、淵だ瀬だと選り好みしていられるか、というわけです。
『太平記』では、儒教的な名文論が語られています。その中で「弓矢取る身の習ひ」、「弓馬の道」、「弓矢の道」、「弓箭の道」、「侍の習ひ」などの表現が出てきます。弓矢取る身の習ひに関しては、〈大勢を以て押し懸けられ進らせ候ふ間、弓矢取る身の習ひにて候へば、恐れながら一矢仕つたるにて候ふ〉とあります。大軍勢で押し寄せられたとき、弓矢取る身の習いとして一矢報いたというのです。弓矢の道に関しては、〈述懐は私事、弓矢の道は、公界の儀、遁れぬところなり〉とあります。恨みは私事で弓矢の道は公の道理で、これは避けられないことだというのです。また、〈今更弱きを見て捨つるは、弓矢の道に非ず。力なきところなり。打死するより外の事あるまじ〉ともあります。今更に弱いものを見捨てるのは、弓矢の道ではないと言います。そのときに力がなければ、討死する他の選択肢はないというのです。
歴史的な事実がどうあれ、軍記物語からは現実の武士が、武士としての規範を持っていたことが伺えます。そうでなければ、軍記物語において武士の理想が語られることはありえないからです。
第四節 家訓
武士道に連なる道は、武家の家訓においても見ることができます。
第一項 北条早雲
北条早雲(1432~1519)は室町後期の武将です。
『早雲寺殿廿一箇条』は、早雲が定めたと伝えられています。この家訓に、〈文武弓馬の道は常なり。記すに及ばず〉とあります。「弓馬の道」は当たり前のことであり、記すまでもないと語られています。
第二項 黒田長政
黒田長政(1568~1623)は、安土桃山から江戸初期の武将です。
『黒田長政遺言』には、〈殊ヲ文武ノ道ヲワキマヘ、身ヲ立テ名ヲ上ント思フ程ノ士ハ、主君ヲ撰ビ仕ル者ナレバ、招カズシテ馳集ルベキ事勿論ナリ〉とあります。身を立て名を上げたいと思う武士は、主君を選ぶために招かれなくても馳せ参じるのだと語られています。戦国時代の主従関係を念頭においたもので、後代になると家訓にこれに類する文章は見られなくなります。
第三項 本多忠勝
本多忠勝(1548~1610)は、江戸初期の大名です。通称は平八郎です。
『本多平八郎書』では、〈武士たるものは道にうとくしてはならず、道義を第一心懸べし。又、道に志し賢人の位にても、武芸を知らねば軍役立ず〉とあります。武士の道では道義が第一であるとともに、武芸も大事だと述べられています。
第五節 甲陽軍鑑
『甲陽軍鑑』は、全20巻59品から成ります。内容は、甲州武田武士の事績や心構えや武将の条件などが記されています。戦国乱世に形成された武士の思想が集大成されています。武田家は1582年(天正10年)に滅亡しています。
『甲陽軍鑑』の「甲」は、甲斐を意味します。「陽」は、万物が豊かに成長し、稔る意のことばで、「甲」を修飾しています。「軍鑑」は、戦いの歴史物語の意です。「鑑」には、歴史物語が世俗世界を映し出す鏡であり、後代のひとびとにとっての戒めであることが含意されています。
『甲陽軍鑑』の〔品第六〕では、〈若しこの反古落ち散り、他国のひとの見給ひて、我家の仏尊しと存ずるやうに書くならば、武士の道にてさらにあるまじ。弓矢の儀は、たゞ敵・味方ともにかざりなく、ありやうに申し置くこそ武道なれ〉とあります。もしこの『甲陽軍鑑』が散らばって他国の人が読むとき、自分の領国の武将を贔屓目に書いていたのでは、それは「武士の道」ではないというのです。合戦では、敵味方を問わずに、ありのままに述べ伝えるのが「武道」だとされているのです。
〔品第十三〕では、〈またよきひとは、各々ひとつ道理に参るにつき一段仲よきものにて候ぞ〉とあり、優れた武士はそれぞれ同一の道理に従うから、一段と仲がよいものだと語られています。
〔品第十六〕では、〈其故は法をおもんじ奉り何事も無事にとばかりならば、諸侍男道のきつかけをはづし、みな不足を堪忍仕る臆病者になり候はん〉とあります。たとえ掟であっても、不足なことでも堪忍するのは「男道」のきっかけを外すものとされています。〈男道を、失ひ給はんこと、勿体なき義也〉ということから、〈某子どもに男道のきつかけをはづしても、堪忍いたせとあることは、聊も申し付けまじ〉と語られています。
〔品第四七〕では、〈是は只の事にあらず侍道の事なれば、目安をもって信玄公の御さばきに仕られ〉とあり、ただ事ならざるものとしての「侍道」が語られています。
第六節 兵法家伝書
柳生宗矩(1571~1646)は、江戸初期の剣術家です。徳川家康に仕え、徳川秀忠に新陰流を伝授しました。
『兵法家伝書』では、〈道ある人は、本心にもとづきて妄心をうすくする故に尊し。無道の人は、本心かくれ妄心さかんなる故に、曲事のみにして、まがり濁たる名を取也〉とあります。道ある人とは、物事の道理をよくわきまえた人で、無道の人とは、道理をわきまえず、道理に反する人のことだと語られています。
第七節 五輪書
宮本武蔵(1584~1645)の書に『五輪書』があります。宮本武蔵は江戸初期の剣法家で、二天一流兵法の祖です。『五輪書』は1643年(寛永20年)から死の直前にかけて書かれたと言われています。地水火風空の五大五輪にそって5巻構成です。
[地之巻]では、〈武士は文武二道といひて、二つの道を嗜む事、是道也〉とあり、武士における文武両道が語られています。武士と云えば死の思想ですが、武蔵は〈大形武士の思ふ心をはかるに、武士は只死ぬといふ道を嗜む事と覚ゆるほどの儀也〉と述べています。
宮本武蔵といえば兵法が有名ですが、〈武士の兵法をおこなふ道は、何事においても人にすぐるゝ所を本とし、或は一身の切合にかち、或は数人の戦に勝ち、主君の為、我身の為、名をあげ身をたてんと思ふ〉と述べられています。兵法を行う道では優れているということを基本とし、切り合いや戦に勝ち、主君や自身のために名を上げ身を立てるのです。そこでは〈何時にても、役にたつやうに稽古し、万事に至り、役にたつやうにをしゆる事、是兵法の実の道也〉と言われ、役に立つという有用性の観点から論じられています。そのため武士の道では、〈兵具しなじなの徳をわきまへたらんこそ、武士の道なるべけれ〉とあり、道具類の大切さが説かれています。その中でも刀は特別で、〈我朝において、しるもしらぬも腰におぶ事、武士の道也〉とあり、日本では刀を帯びることが武士の道だと述べられています。
道全般については、〈其道にあらざるといふとも、道を広くしれば、物毎に出であふ事也。いづれも人間において、我道我道をよくみがく事肝要也〉とあり、自分自身の歩むべき道を磨くことが説かれています。
[水之巻]では、〈太刀の道を知るといふは、常に我さす刀をゆび二つにてふる時も、道すぢ能くしりては自由にふるもの也。太刀をはやく振らんとするによつて、太刀の道さかひてふりがたし。太刀はふりよき程に静かにふる心也〉とあります。太刀の道について、太刀の扱い方が語られています。
[火之巻]では、〈我兵法の直道、世界において誰か得ん〉とあります。わが二天一流の兵法の正しい道をこの世において誰が得られようか、と述べられています。
[風之巻]では、〈おのづから武士の法の実の道に入り、うたがひなき心になす事、我兵法のをしへの道也〉とあります。自(おの)ずから武士の道に入り、疑いなき心に至ることが兵法の教えの道だとされています。
[空之巻]では、「空」という概念が語られています。〈ある所をしりてなき所をしる、是則ち空也〉と語られるところのものが、空です。その空が、〈武士は兵法の道を慥に覚え、其外武芸を能くつとめ、武士のおこなふ道、少しもくらからず、心のまよふ所なく、朝々時々におこたらず、心意二つの心をみがき、観見二つの眼をとぎ、少しもくもりなく、まよひの雲の晴れたる所こそ、実の空としるべき也〉と語られています。武士は兵法の道をしっかりと覚え、武芸をつとめて行う道に後ろ暗いところなく、心の迷いなく、その時その時で怠ることなく、心と意を磨き、見ること観ることを研ぎ澄ました曇りなく迷いない境地こそが空だというのです。そこでは、〈直なる所を本とし、実の心を道として、兵法を広くおこなひ、たゞしく明らかに、大きなる所をおもひとつて、空を道とし、道を空と見る所也〉とあり、「空」と「道」が関連付けられて語られています。真っ直ぐを基本とし、実の心を道として兵法を行い、正しく明らかに偉大なものを思い取るのが「空」であり「道」だというのです。
また、宮本武蔵の『独行道』の中にも、道についての言及を見ることができます。〈世々の道をそむく事なし〉、〈いづれの道にも、わかれをかなしまず〉、〈道においては、死をいとはず思ふ〉、〈常に兵法の道をはなれず〉とあります。
第八節 驢鞍橋
鈴木正三(1579~1655)は、江戸初期の禅僧です。徳川家康の家臣鈴木重次の長男として三河国に生まれています。
『驢鞍橋』には、〈古來先達の行脚と云は、師を尋ね、道を求め、身命を顧みず、千萬里の行脚を作も有〉とあります。古くから先達の行脚というものは、師匠を訪ねて道を求め,身体や生命を顧みずに長い道のりを行くことだとされています。
第九節 士道
士道とは、為政者としての武士が守り行うべき規範のことです。武士道と比較すると、儒教からの影響が色濃く反映されています。
第一項 中江藤樹
中江藤樹(1608~1648)は『翁問答』で、〈主君をかへたるを必ただしき士道と定めたるも、また主君をあまたかゆるを正しき士道とさだむるも、皆跡に泥みたる僻事也。心いさぎよく義理にかなひぬれば、二君につかへざるも、また主君をかえてつかふるも皆正しき士道也。そのをこなふ事はともあれかくもあれ、只その心いさぎよく義理にかなふを、ただしき士道也と得心あるべし〉と述べています。主君を変えることを正しい士道と定めることも、主君を変えないことを正しい士道と定めることも間違っていると藤樹は言います。心が潔く義理に適えば、二君に仕えても主君を変えても正しい士道なのだとされています。心が大事なのであり、行うところが義理に適っていれば良いのだと考えられています。
第二項 池田光政
池田光政(1609~1682)は、備前岡山藩主です。儒教を重んじ、新田開発・殖産興業に努めました。
『池田光政日記』では、〈義を見て利を見ざる者は士の道なり〉とあります。士道では、利よりも義が大切だと語られています。
第三項 山鹿素行
山鹿素行(1622~1685)の説を門人たちが収録した書に『山鹿語類』があります。『山鹿語類』は1665年(寛文6年)に完成しています。泰平の世の武士のあるべき姿を、儒教道徳の面から「士道」として提唱しています。
士道は、『山鹿語類』の[巻二十一・士道]で語られています。
例えば、〈凡そ士の職と云は、其身を顧み、主人を得て奉公の忠を盡し、朋輩に交て信を厚くし、身の濁りを愼で義を専とするにあり〉とあります。士の職分とは、自らを顧みて奉公に励み、友と厚く交わり、身を慎んで義につとめることだとされています。そこで、〈文道心にたり武備外に調て、三民自ら是を師とし是を貴んで、其教にしたがひ其本末をしるにたれり〉とあり、文が内心に充実し武が外形に備われば、三民(農工商)は士を師として貴び、その教えにしたがい物事の順序を知ることができるのだと語られています。〈人既に我職分を究明するに及んでは、其職分をつとむるに道なくんばあるべからざれば、こゝに於て道といふものに志出來るべき事也〉とあり、人が自分の職分を明らかにした段階において、その職分をつとめるためには道がなければならないので、ここで、道というものに対する志が出てくるのだと語られています。
道の志が出た場合は、〈外を尋ね学ぶと云ども、外に聖人の師なくんば、自立皈て内に省みべし、内に省ると云は、聖人の道聊しいて致す処なく、唯天徳の自然にまかせて至る教のみなれば、我に志の立処あらんには、事は習知て至るべく、其本意は推して自得するに在べき也〉とあります。道は外に師を求めて学ぶべきなのですが、聖人の道へと導いてくれるよき師がいないというなら、自らに立ち返って内面を顧みるべきだと述べられています。聖人の道というものは、強制してするというところは少しもなく、ただ天の徳にまかせて自(おの)ずから至る教えなのですから、自分が志を立てた以上は礼などの外形的なことは習うことによって身につけられるし、その本意はそこから推しすすめることで自得することができるとされています。そこで、〈〈我説く所の理更に遠からず離れるべからず、人々皆日用之間によって、而其心に快きを号して道と云、其内にやましきを人欲と云、唯此両般のみ也、日用の事豈に忽せにすべき乎〉と語られています。素行のいうところの理とは、特別に深遠なものではなく、身近なものであり、また、その人によるというものでもないのです。人はみなその日常において自分の心にこころよく感ずるものを道といい、心にやましく感ずるものを人欲とよんでいるというのです。要はただこの二つだけなのであり、日常の事をおろそかにしてはいけないのだと語られているのです。
第四項 荻生徂徠
荻生徂徠(1666~1728)は『答問書』で、〈世上に武士道と申習し申候一筋、古之書に之有り候君子の道にもかなひ、人を治むる道にも成ると申すべき哉之由御尋候〉と述べています。武士道は、儒教における君子の道に適うというのです。
第五項 林鳳岡
林鳳岡(1644~1732)は江戸中期の儒学者です。
『復讐論』には、〈生を偸(ぬす)み恥を忍ぶは、士の道に非ざるなり〉とあります。士道は、死を覚悟し恥を雪(すす)ぐものだと語られています。
第六項 五井蘭洲
五井蘭洲(1697~1762)は江戸中期の儒者です。
『駁太宰純赤穂四十六士論』には、〈義なる者は、天下の同じうする所にして、その為す所や義に当らば、何ぞおのづから一道ありと為さん。苟くも義に当らずんば、則ちまた以て道と為すに足らず。これみな武人俗吏の談にして、士君子の辞に非ず〉とあります。武人の道には、義がなければならないと語られています。
第七項 村田清風
村田清風(1783~1855)は、日本の武士で長州藩士です。藩主・毛利敬親の下、天保の改革に取り組みました。
『海防糸口』には、〈夫生する者は死するは常なり、唯死を善道に守るべし〉とあります。生きとし生けるものは、すべて死を迎えます。その覚悟の上で、死において善なる道を守るというのです。また、〈道は太極の如し。二つに割れば文武と成、或は忠孝となる。陰陽両儀の如し〉ともあります。道は、文武・忠孝・陰陽というように両義的なものとして考えられています。
第十節 葉隠
武士道といえば、山本常朝(1659~1719)の『葉隠』が有名です。『葉隠』は武士の奉公の心得を説いた書です。
[聞書一]には、〈その道々にては、其家の本尊をこそ尊び申候〉とあります。道々には、仏道・儒道・兵法などが挙げられています。道においては、自分の家の大切なものを尊ぶべきだと語られています。その道の中でも、武士道については、〈武士道と云は、死ぬ事と見付たり〉という有名な言葉が語られています。〈二つふたつの場にて、早く死方に片付ばかり也〉というわけです。生きるか死ぬかの場面では、死を選び取るのが武士道なのだとされています。
常朝の語る道は、〈道といふは何も入れず、我非を知事也。念々に非を知て、一生打置かずを道と云也〉というものです。自分の非を知ることが道だとされています。ですから道は一生に関わり、〈只「是も非也非也」と思ひて「何としたらば道に可叶うべき哉」と一生探捉し、心を守て打置ことなく、執行仕えるべき也。此内に即道有也〉と語られています。一生の間、自らの足りないところを思い、どうしたら道に適うかと探し求めることが道として示されています。その道には、盛衰と善悪が分けて論じられています。〈盛衰を以て人の善悪は沙汰されぬこと也。盛衰は天然のこと也。善悪は人の道也。教訓のためには盛衰を以ていふ也〉とあります。栄枯盛衰は天然のことであり、善悪は人の道だとされています。栄枯盛衰によって善悪を言うことはできないとされています。ですから武士道においては善悪のために「死」の覚悟が求められ、〈武士道は死狂ひ也。一人の殺害を数十人して仕かぬるもの也〉と語られ、士道についても、〈士道におゐては死狂ひ也。此内に忠・孝は自こもるべし〉と語られているのです。そこでは、〈何しに劣るべきと思ひて一度打向ば、最早其道に入たるなり〉という覚悟が必要とされています。
道は一生に関わりますから、〈修行に於ては、是迄、成就といふ事はなし。成就といふ所、其まま道に背なり〉と述べられています。修行においては成就するということはありえないと考えられています。成就するということは、道ではないというのです。そのため、〈我非を知て一生道を探捉するものは、御国の宝と成候也〉とあり、自らの非を知り、道を求める者は国の宝だとされています。ちなみに、ここでの国は佐賀藩を指しています。
[聞書二]では、〈武道は毎朝まいあさ死習ひ、彼に付、是に付、死ては見みして切れ切て置一也。尤大義にてはあれ共、すれば成事也。すまじきことにてはなし〉とあります。「切れ切て置」とは、死に心をはっきりきめておくということです。「すまじきことにてはなし」とは、できないことはないということです。つまり、武道では毎朝何事においても、死に心をはっきりと決めておくことで、大義を成すことができるというのです。できないことはないと考えているのです。
また、〈非を知て探捉するが、則取も直さず道なり〉とあります。自分の非を知り、探し求めることが道として示されています。人間は、その途上において死ぬというのです。
第十一節 武道初心集
大道寺友山(1639~1730)は江戸中期の武士です。ほぼ同時期の『葉隠』と並び称される『武道初心集』の著者として知られています。『武道初心集』は主君や藩に対する奉公人の心構えを述べています。
『武道初心集』には、〈武士たらんものは正月元旦の朝雑煮の餅を祝うとて箸を取初るより其年の大晦日の夕に至る迄日々夜々死を常に心にあつるを以本意の第一とは仕るにて候。死をさへ常に心にあて候へば忠孝の二つの道にも相叶ひ萬の悪事災難をも遁れ其身無病息災にして壽命長久に剰へ其人がら迄も宜く罷成其徳多き事に候〉とあります。武士は死を常に心掛けることが第一とされています。死を常に心掛ければ、忠孝の二つの道にも適合し、人格の徳も備わると考えられています。
そのためにも、〈武士たらんものは義不義の二つをとくと其心に得徳仕り専ら義をつとめて不義の行跡をつゝしむべきとさへ覚悟仕り候へば武士道は立申にて候〉と語られています。武士が義を行い、不義を行わなければ、武士道は立つというのです。義を行うことについては、上等な順に次の三種類が上げられています。〈誠によく義を行ふい人〉、〈心に恥て義を行ふ人〉、〈人を恥て義を行ふ人〉です。
また、〈武士道の学文と申は内心に道を修し外かたちに法をたもつといふより外の義は無之候。心に道を修すると申は武士道正義正法の理にしたがひて事を取斗らひ毛頭も不義邪道の方へ赴かざるごとくと相心得る義也〉とあります。武士道では、心の内に道を修め、外形において法を保つのだと考えられています。心に道を修めるとは、正しいことをし、不義へ進まないことだとされています。さらには、〈大身小身共に武士たらんものは勝と云文字の道理を能心得べきもの也〉と語られ、武士には「勝つ」という道理を心得ることが説かれています。
そして、〈武士たらんものは大小上下をかぎらず第一の心懸たしなみと申は其身の果ぎわ一命の終る時の善悪にとゞまり申候〉とあり、命の散り際におけるまで善悪の観念に留まるべきことが語られています。そのために、武士道にとって肝心なこととして、〈武士道の噂さにおいて肝要と沙汰仕つは忠義勇の三つにとゞまり申候〉と示されています。
第十二節 水戸学
水戸学とは、『大日本史』の編纂事業を遂行する過程で水戸藩に起こった学問です。幕末には内憂外患のもとで、国家的危機を克服するための思想が形成されました。
第一項 徳川斉昭
徳川斉昭(1800~1860)は、江戸時代後期の水戸藩主です。会沢安や藤田東湖らを登用し、藩政を行いました。
『弘道館記』は、弘道館の教育方針を宣言した書です。藤田東湖が起草し、1838 年に徳川斉昭の名で公表されました。そこには〈弘道とは何ぞ。人、よく道を弘むるなり。道とは何ぞ。天地の大経にして、生民の須臾も離るべからざるものなり〉とあります。人よく道を弘むとは、人に備っている道は人の力によって世に行われるという意味です。それが、道を世に弘め行う力なのです。『論語』の[衛霊公]篇からの影響が見られます。
第二項 会沢安
会沢安(1782~1863)は、幕末の水戸藩士で儒者です。号は正志斎です。藤田東湖らと藩政を行いました。
『新論』には、〈詭術と正道とは、相反すること氷炭のごとし〉とあります。正道については、他にも、〈政令刑禁は、典礼教化と、並び陳(つら)ね兼ね施して、民を軌物に納れ、正気に乗じて正道を行ひ、皇極すでに立つて、民心主あり。民の欲するところは、すなはち天の従ふところなり〉とあります。政治上の命令や刑罰は、儀礼や教えに適うように施し、民を法度に納得させ、正気によって正道を行うべきだというのです。そうすれば、治世の大方針はすでに立っており、民の心は天の従うところだというのです。
『退食間話』には、〈中庸の語は道の立たる本を論ぜし詞なり〉とあります。また、〈父子あれば親あり、君臣あれば義あり、是皆天下の大道・正路にして、一人の私言に非ず。聖賢、上にあれば、政教を施して、道を天下に行ひ、下に在れば、言を立て材を育して、道を後世に伝ふ。道は大路のごとし〉とあります。親子は親しみ、君臣には義があるということは、天下の大道であり、一人が勝手に言っていることではないというのです。賢い人が高い地位にあれば政策や教育を施して天下に道を行い、低い地位なら言葉によって人材を育成して道を後世に伝えるのだと語られています。
第三項 藤田東湖
藤田東湖(1805~1855)は、江戸時代後期から幕末期の水戸藩士です。対外的危機に対し、国民的伝統たる正気を発揮して国家の独立と統一を確保すべきことを説きました。正気とは、忠君愛国の道義的精神のことです。
著作である『壬辰封事』には、〈中庸ノ道ト云ハ、万物ノ理ヲ尽シ、事ニヨリ品ニヨリ、夫々其理ノ当然ニ叶フテコソ中庸トハイフベケレ〉とあります。中庸の道は、万物の理によってそれぞれの理に適うことだと考えられています。
第十三節 幕末の志士
幕末という激動の時代においても、幕末の志士たちは武士道を論じています。
第一項 横井小楠
横井小楠(1809~1869)は江戸末期の熊本藩士です。
『国是三論』には、〈元来武は士道の本体なれば、已に克く其武士たるを知れば、武士道をしらずしてはあるまじきを知り、其武士道を知らんと欲すれば、綱常に本付き、上は君父に事ふるより下は朋友に交るに至り、家を斉へ国を治るの道を講究せざる事を得ず〉とあります。武士ならば武士道を知るべきであり、武士道においては人との交わりを通じて、家を整え国を治める道を求めるべきことが語られています。
第二項 佐久間象山
佐久間象山(1811~1864)は江戸末期の学者です。初め朱子学を、後に蘭学を修め、西欧の科学技術の摂取による国力の充実を主張しました。
『省?録(せいけんろく)』には、〈行ふところの道は、もつて自から安んずべし。得るところの事は、もつて自から楽しむべし。罪の有無は我にあるのみ。外より至るものは、あに憂戚するに足らんや〉とあります。憂戚とは、うれえいたむことです。行くところの道は、自分が安らかになるべきであり、得られるところで自分が楽しむべきだとされています。罪は自身の内にあるのであって、外から来るものは気にするに及ばないのだと考えられています。また、〈ああ、人情に通じて人を服せしむるものは、自からその道のあるあり〉とあります。人情に通じて人を感服させられるなら、自(おの)ずから道があるというのです。
第三項 勝海舟
勝海舟(1823~1899)は、幕末・明治の政治家です。蘭学・兵学を学び、幕府使節とともに咸臨丸にて渡米しています。幕府海軍育成に尽力しました。また幕府側代表として西郷隆盛と会見し、江戸城の無血開城を実現しました。
『氷川清話』には、〈おれは常に世の中には道といふものがあると思つて、楽しんで居た〉とあります。また、〈主義といひ、道といひて、必ずこれのみと断定するのは、おれは昔から好まない。単に道といつても、道には大小厚薄濃淡の差がある。しかるにその一を揚げて他を排斥するのは、おれの取らないところだ〉とあります。それは、〈もしわが守るところが大道であるなら、他の小道は小道として放つておけばよいではないか。智慧の研究は、棺の蓋をするときに終るのだ。かういふ考へを始終持つてゐると実に面白いヨ〉という考え方によります。〈男児世に処する、たゞ誠意正心をもつて現在に応ずるだけの事さ。あてにもならない後世の歴史が、狂といはうが、賊といはうが、そんな事は構ふものか。要するに、処世の秘訣は誠の一字だ〉というわけです。
第四項 西郷隆盛
西郷隆盛(1828~1877)は、薩摩出身の武士です。通称は吉之助で、号は南洲です。討幕の指導者として薩長同盟・戊辰戦争を遂行し、維新三傑の一人と称されました。征韓論に関する政変で下野し、西南戦争に敗れ、城山で自死し生涯を終えます。
『南洲翁遺訓』には、〈廟堂に立ちて大政を為すは天道を行うものなれば、些とも私を挟みては済まぬもの也。いかにも心を公平に操り、正道を踏み、広く賢人を撰挙し、能く其の職に任うる人を挙げて政柄を執らしむるは即ち天意なり〉とあります。祖先を祭るという場所に立って政治を行うことは、天道に適うことであるので私心を挟んではならないと語られています。公平に正道を歩み、賢人を採用し職に合う人を選んで政治を行うことは、天意なのだと考えられています。そこで、〈事大小となく、正道を踏み至誠を推し、一事の詐謀を用うべからず〉とあり、事態の大小に関わらず、正道を歩み、誠を尽くすことが大事であり、はかりごとを用いてはならないのだと語られています。
西郷隆盛は、道は国家を超えた共通性を持つと同時に、国家の威信に関わるものと考えています。例えば、〈忠孝仁愛教化の道は、政事の大本にして、万世に亘り、宇宙に弥り、易うべからざるの要道なり。道は天地自然のものなれば、西洋と雖も決して別なし〉とあります。道は天地自然であり、すべてに関わるとされています。その神髄は〈文明とは道の普く行わるるを賛称せる言にして、宮室の荘厳・衣服の美麗・外観の浮華を言うにはあらず〉と語られています。文明とは道が行われていることの尊称であり、豪華な外見などではないということです。そこで〈節義廉恥を失いて国を維持するの道決してあらず、西洋各国同然なり〉と言い、道の国家を超えた共通性が述べられているのです。国家の威信については、〈正道を踏み国を以て斃るるの精神無くば、外国交際は全かるべからず、彼の強大に畏縮し、円滑を主として、曲げて彼の意に従順するときは、軽侮を招き、好親却って破れ、終に彼の制を受くるに至らん〉と語られています。国が倒れようとも正道を行くという覚悟が必要なことが説かれています。〈国の凌辱せらるるに当りては、縦令国を以て斃るるとも正道を践み、義を尽すは政府の本務なり〉とも語られています。政府は、国が侮辱されたならば、国が倒れようとも正道を行き義を尽くすのが本務なのだというのです。
また、西郷隆盛と言えば敬天愛人が有名です。〈道は天地自然の道なるがゆえ、講学の道は敬天愛人を目的とし、身を修するに、克己を以て終始せよ〉と語られています。〈道は天地自然のものにして、人はこれを行うものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給う故、我を愛する心を以て人を愛するなり〉というわけです。
道とは、〈道を行うには尊卑貴賤の差別なし〉とあるように、誰もが道を行いえるとされています。〈道を行うものは、固より困厄に逢うものなれば、如何なる艱難の地に立つとも、事の成否身の死生などに、少しも関係せぬものなり。事には上手下手あり、物には出来る人・出来ざる人あるより、自然心を動かす人もあれども、人は道を行うものゆえ、道を踏むには上手下手もなく、出来ざる人もなし。故に只管、道を行い道を楽しみ、若し艱難に逢うてこれを凌がんとならば、弥々道を行い道を楽しむべし〉とあります。道を行うということに、生きるか死ぬかは関係ないと考えられています。道を行うには才能も関係なく、道を行うことを楽しみ、困難に打ち勝とうとすればよいというのです。そこにおいて、ますます道を行うことを楽しむべきことが語られています。
これらを踏まえ、〈命もいらず、名もいらず官位も金もいらぬ人は始末に困るものなり。此の始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり〉と語られています。
第五項 吉田松陰
吉田松陰(1830~1859)は、幕末の思想家で尊王論者です。名は矩方(のりかた)で、通称は寅次郎です。萩に松下村塾を開き、多くの維新功績者を育成しましたが、安政の大獄で刑死しました。
『講孟余話』には、〈経書を読むの第一義は、聖賢に阿ねらぬこと要なり。若し少しにても阿る所あれば、道明ならず、学ぶとも益なくして害あり。孔孟生國を離れて、他國に事へ給ふこと済まぬことなり〉とあります。聖人の本を読むときも、それにおもねってはいけないと語られています。おもねれば、他国に仕えることになってしまうからと説明されています。
人臣の道については、〈道を明にして功を計らず、義を正して利を計らずとこそ云へ、君に事へて遇はざる時は、諫死するも可なり。幽囚するも可なり、饑餓するも可也。是等の事に遇へば其身は功業も名誉も無き如くなれども、人臣の道を失わず、永く後世の模範となり、必ず其風を観感して興起する者あり。遂には其國風一定して、賢愚貴賤なべて節義を崇尚する如くなるなり〉とあります。道においては義を正しくするのであって、利益を計るようなことはしないのだと説かれています。人臣の道は、諌めることで死ぬことも、捕らえられることも、飢えることも覚悟すべきだというのです。我が身の名誉は失われるとしても、永く後世の模範となるからです。その模範があれば、国民は節義を尊ぶようになるのだと語られています。
道一般については、〈人と生れて人の道を知らず。臣と生れて臣の道を知らず。子と生れて子の道を知らず。士と生れて士の道を知らず。豈恥づべきの至りならずや。若し是を恥るの心あらば、書を讀道を學ぶの外術あることなし。已に其數箇の道を知るに至らば、我心に於て豈悦ばしからざらんや〉とあります。人には人それぞれの道があり、その道を知らないでいることは恥ずべきことだというのです。恥じる心があるなら、本を読み道を学ぶべきだとされています。道を知ることは、喜ばしいことだと考えられています。士道については、〈然れども汝は汝たり、我は我たり。人こそ如何とも謂へ。吾願くは諸君と志を勵まし、士道を講究し、恆心を?磨し、其武道武義をして武門武士の名に負くことなからしめば、滅死すと雖ども萬々遺憾あることなし。豈愉快の甚しきに非ずや〉とあります。我は我であり、汝は汝だというのです。その差は決定的ですが、願うならば皆で志を励まし合い、士道を解き明かしたいと語られています。そこにおいて進むなら、死ぬことになっても遺憾はなく、それどころか愉快だとさえいうのです。
以上のように、松陰においては日本という国が意識されています。〈國體の最も重きこと知るべし。然ども道は惣名也。故に大小精粗皆是を道と云。然れば國體も亦道也〉とあります。日本の国体は道なのだとされています。
また、安政二年に記された『士規七則』には、〈士の道は義より大なるはなし。義は勇に因りて行はれ、勇は義に因りて長ず〉とあります。
安政三年の『書簡』では、〈有志の士、時を同じうして生れ、同じく斯の道を求むるは至歓なり。而れども一事合はざるものあるときは、己れを枉(ま)げて人に殉ふべからず、又、人を要して己れに帰せしむべからず。ここを以て反覆論弁、余力を遺さず〉とあります。道を共に求めることができるということは、素晴らしいことだと語られています。ですが、自分を枉げて人に迎合するならば、自分のためにもなりません。そのときは徹底抗戦すべきだというのです。
安政六年の『書簡』には、〈皇神の誓おきたる国なれば正しき道のいかで絶べき〉とあり、日本は天皇や神々の誓いがある国なのです正道は絶えることがないと述べられています。〈道守る人も時には埋もれどもみちしたゑねばあらわれもせめ〉ともあり、時には道を守る人が埋もれてしまうのだとしても、道を慕わねば道を守る人が現れることはないのだと語られています。ですから、道を慕うべきことが示されているのです。
第六項 橋本佐内
橋本左内(1834~1859)は、福井藩士で幕末の志士です。藩政改革に尽力し、安政の大獄で斬罪に処されました。
『啓発録』には、〈稚心とは、をさな心と云ふ事にて、俗にいふわらびしきことなり〉とあり、〈余稚心を去るをもつて、士の道に入る始めと存じ候なり〉とあります。子供じみた心を去ることで、武士の道に入るのだと考えられています。
友人関係については、〈吾が身を厳重に致し付合ひ候て、必ず狎昵致し吾が道を褻さぬやうにして、何とか工夫を凝して、その者を正道に導き、武道学問の筋に勧め込み候事、友道なれ〉とあります。吾が身を引き締め、吾が道をけがすことのないように工夫して、友人を正しい道へと導き、武道や学問に関心を持つように仕向けることが友道だというのです。
左内は、〈後世必ず吾が心を知り、吾が志を憐み、吾が道を信ずる者あらんか〉と述べています。後の世に、吾が心や志に同情し、吾が道が正しいと認めてくれる者が現れることを願っているのです。
また、左内の『書簡』には、〈実に尚武の風を忠実の心にて守り候はば、風俗もますます敦重に相成り、士道もますます興起仕り、国勢国体万邦に卓出仕るべく候事、目前に御座候〉とあります。尚武の気風を忠義と実直の精神で守り伝えて行けば、風俗は情味篤く質朴になり、武士道も盛んに興り、我が国の勢いが優れたものになることも遠くないというのです。
第七項 福沢諭吉
福沢諭吉(1835~1901)は、啓蒙思想家で教育家です。
『福翁百話』には、〈唯真実の武士は自から武士として独り自から武士道を守るのみ。故に今の独立の士人もその独立の法を昔年の武士の如くにして大なる過なかるべし〉とあります。武士ならば独り自(おの)ずから武士道を守るのみとされ、それは今も昔も変わりないと語られています。
第八項 坂本竜馬
坂本竜馬(1836~1867)は、土佐藩出身の幕末の志士です。幕府の海軍創設に奔走し、薩長同盟を成立させました。
『船中八策』では、統一国家構想を示しています。そこで八つの策を提示した後の文で、〈伏テ願クハ、公明正大ノ道理ニ基キ一大英断ヲ以テ天下ト更始一新セン〉と、公明正大ノ道理を示しています。
第九項 山岡鉄舟
山岡鉄舟(1836~1888)は江戸末期から明治の政治家であり、無刀流剣術の流祖です。通称、鉄太郎です。戊辰(ぼしん)戦争の際、勝海舟の使者として西郷隆盛を説き、西郷・勝の会談を実現させ、江戸城の無血開城へと導きました。明治維新後、明治天皇の侍従などを歴任しました。
『剣禅話』の[修養論]には、〈我が邦人に一種微妙の道念あり。神道にあらず儒道にあらず仏道にあらず、神儒仏三道融和の道念にして、中古以降専ら武門に於て其著しきを見る。鉄太郎之を名付て武士道と云ふ〉とあります。武門における道を武士道とし、神道・儒道・仏道の融和した思想として捉えています。その武士道は、〈善なると知りたる上は直に実行に顕はし来るを以て武士道とは申すなり〉とあり、善による実践が説かれています。さらに武士道に関して、〈而して武士道は、本来心を元として形に発動するものなれば、形は時に従ひ事に応じて変化遷転極りなきものなり〉と示されています。
第十項 高杉晋作
高杉晋作(1839~1867)は、日本の武士で長州藩士です。幕末に尊王倒幕志士として活躍しました。奇兵隊など諸隊を創設し、長州藩を倒幕に方向付けました。
『遊清五録』には、〈士を取るに多くは武を以てす。故に我邦は武文の人を以て有道者と為す。考試も亦た多くは武を以てし、或は文を以てする者あり。人を教ふるに忠孝の道を以てす。天照太神と孔夫子と異あるに非ざるなり。故に我邦の人、天神の道に素づきて孔聖の道を学ぶ〉とあります。神道と儒教の両方を取り入れていることが分かります。道には、文武や忠孝という考えが重要だと考えられています。
第十四節 新渡戸稲造の武士道
新渡戸稲造(1862~1933)は、岩手生まれの教育者で農政学者です。国際連盟事務次長や太平洋問題調査会理事長として国際関係に取り組みました。
新渡戸稲造の『武士道』には、〈武士道はその表徴たる桜花と同じく、日本の土地に固有の花である〉とあります。この武士道は、〈道徳的原理の掟であって、武士が守るべきことを要求されたるもの、もしくは教えられたるものである。それは成文法ではない〉と語られています。武士道は、〈数十年数百年にわたる武士の生活の有機的発達である〉というのです。
ただし、新渡戸稲造の『武士道』は、キリスト教道徳を武士の中に見出したものとの指摘もあり、本来の武士道とは別物かもしれません。例えば、〈武士道の窮極の理想は結局平和であった〉という言説などは、元来の武士および武士道の在り方とは異なっています。
稲造は、〈私は武士道に対内的および対外的教訓のありしことを認める。後者は社会の安寧幸福を求むる権利主義的であり、前者は徳のために徳を行なうことを強調する純粋道徳であった〉と述べています。その武士道に対し、最後の章では〈武士道は一の独立せる倫理の掟としては消ゆるかも知れない、しかしその力は地上より滅びないであろう〉と語られています。
 
「武士道」の謎

 

1.序
日本の武士道精神とはいったい何か。一言でいえば、武士道の要訣とは、死を看破し、「死を恐れず」、主君のために何のためらいもなく命を捨てて身を捧げることである。このような思想は伝統儒家の「士道」に対する一種の反動でもある。儒家の「士道」は君臣の義を重んじ、「君臣義合」、「父子天合」の人倫観念をもつが、日本の「武士道」は主君のために死を恐れず、命はいらないという覚悟を根本とする。
武士道が重視したのは君臣の戒律であり、「君は君たらざるも」(君が暴虐無道でも)「臣は臣たらざる」(臣が臣道を尽くさない)べからず、であり、忠を尽くすことは絶対的価値だった。中国の原始儒学は孝を本とし、孝を尽くすことこそ絶対的価値だった。もし「父に過ちがあり」、子は「三度諫めても聞き入れられなければ、号泣してこれに随う」が、もし「君に過ちがあり」、臣が「三度諫めても聞き入れられなければ、これより逃れる」のである。武士道論者は、儒家の「士道論」は命を惜しみ、死を恐れる私心を覆い隠すことにあり、それは人倫を見極め主君の道徳がどうであるかに重きを置いてはじめて生死を選択するので、死に直面して潔くない、と考える。ただ純粋で徹底的な覚悟の死だけが武士道の人より強いところである。武士道の徹底的な覚悟の死では、その容貌、言葉遣い、立ち居振舞いも人と違う。武士社会は礼儀を重んじたが、封建社会階層秩序を尊び従うだけでなく、さらに進めて「礼儀正しい」ことこそ、武士が人より一段強い表現だった。武士は「潔く死な」なければならず、君が切腹といえば切腹しなければならなかった。これは日本の鎌倉武家時代以来の伝統である。
2.『葉隠』は武士道精神の源流
日本の武士道の古典は『葉隠』と呼ばれ、江戸時代の佐賀藩(肥前鍋島藩)に伝わる武士道の伝習書である。「葉隠」とは樹木の葉陰のような、人から見えないところで主君のために「身を捨てて奉公する」意味である。この書は佐賀藩士・山本常朝(1659-1710)
が伝述し、同藩藩士・田代陳基が聞き書きして整理したもので、18世紀初めの1716年『葉隠聞書』写本が完成、計11巻1200節余、『葉隠』あるいは『葉隠集』と略称される。巻一、巻二は武士の心得修養を講じ、巻三は鍋島藩祖・直茂、巻四は初代藩主・勝茂、巻五は二代目藩主・光茂(山本常朝の主君)およびその嫡子すなわち三代目・綱茂、巻六は鍋島藩古来の事蹟を講じ、巻七、巻八、巻九は鍋島藩武士の「武勇奉公」の言行を講じ、巻十は他藩の武士の言行、巻十一は補遺である。
『葉隠』が表現する武士道精神は果断に、いささかの未練もためらいもなく死ぬことである。一般の人びとは生命に執着するが、武士道はそれに否定的態度をとり、死だけが誠で、その他の功名利禄は幻だと考える。一人の人間が名利を捨てて、「死身」を以て義勇奉公する際に、この世の真実が見える。武士が標榜したのは精神上の優越である。つまり、心理的にまず己に勝ってはじめて他人に勝つことができるのである。まず「自分の命をいらなくする」ことができてはじめて「他人の命をもらう」ことができる。これは日本の武士に人一倍強い道徳律だった。「命がいらない」ことと「人の命をもらう」ことは密接に関わっており、「葉隠」の教訓は非常に残酷な武士の論語だった。
たとえば佐賀鍋島藩祖直茂はその子勝茂に、「斬首に慣れるには、罪人を斬首することから始めるように」と言って、西の門内に十人並ばせ、斬首を試させた。勝茂は続けて九人の首を切って、十人目が健康そうな若者であるのを見ると、「もう十分斬った。こいつは生かしてやれ」、と言ったので、この男は斬られずに済んだ。日本の軍人が中国を侵略した際の「百人斬り」の残酷な典型をここに見ることができる。
『葉隠』の著述者・山本常朝一家の典故も髪の毛を逆立てさせるものである。
山本常朝の異母兄山本吉左衛門は父親山本神右衛門の指示通りに、5歳で犬を殺し、15歳で罪人を斬殺した。[昔の]武士たちは14、15歳から斬首の実習を始めた。このように武士は子供の頃から刀を身につけて成長し、人を斬殺しても気にしないような精神を養った。
武士道の本義は日本の戦前の教育勅語の教えのように、「義勇公に奉じ」を最高原則とし、これは武士が「人に奉公する」ための心の準備で、非常に残酷で非人道的だった。例を挙げると、佐賀鍋島藩四代目吉茂は若いとき非常に粗暴で、家臣の中で気に入らぬ者の妻の悪口を扇に書いて付きの者に渡し、「この扇を見せてどんな反応をするか報告せよ」と言った。家臣は扇を見た後で誰が書いたかも知らず、すぐに扇を破った。付きの者はありのままを報告した。吉茂公曰く、「主人が書いたものを引き裂くとは無礼者。切腹を命ず。」武士道の世界では、「切腹は武士道の最も忠義の証」である。山本常朝も、武士が尽くすべき忠義は殉死を以て最高とする、と言っている。
身の毛がよだつような話がある。江戸屋敷の倉庫見張り番・堀江三右衛門は倉庫にあった金銀を盗み、逮捕され供述を迫られた後で、「大罪人につき拷問死」の命が下された。まず体中の体毛を焼き尽くし、爪を剥ぎ、足の筋を切断し、きりなどの道具で責め苛んだ。しかし、彼は泣き叫ぶようなことはせず、顔色一つ変えなかった。最後に背骨を立ち割り、煮えたぎった醤油をその上にかけると、彼は体を反らせて死んだ 。
武士道は義、忍、勇、礼、誠、名誉、忠義などの徳目を重んじると伝えられているが、実際には残酷無情で、見るに忍びないものだった。中世の鎌倉時代、源氏一族の親兄弟(源義朝、源為義、源為朝)は、骨肉の殺戮の末、正式な跡継ぎが途絶えていた。北条氏の策謀により功臣たちの命脈も途絶えた。日本の戦国時代の無情は血なまぐさい殺戮史がその証拠である。主君殺しには、将軍義輝に反逆して殺した松永弾正、父親殺しには、父齋藤道三を殺した齋藤義龍、兄弟殺しには、家主の地位を継ぐために長兄の死後次兄およびそれを支持するすべての家臣を殺した今川義元、実の子殺しには、織田信長の言うことを聞いて実の長男徳川信康を自害に追い込んだ江戸幕府初代将軍徳川家康がいる。日本の武士の残酷さ、非人道性はそこここに見られ、武士道精神のもう一つの真実を見ることができる。
3.迷走する武士道「旅順大虐殺」
甲午戦争[日清戦争]は第一次中日戦争(1894-95年)とも呼ばれるが、当時の日本の陸軍大将・大山巌が第二軍を指揮し、1894年11月21日に中国[清]北洋海軍基地旅順港への攻撃開始後、旅順大虐殺事件が起こった。『日本外交文書』では「旅順口虐殺事件」と称し、英米はPort Arthur AtrocitiesあるいはPort Arthur Massacreと称している。これは日本の武士道精神の中国での最初の発威だったかもしれない。
旅順大虐殺の犠牲者数はいったいどれぐらいだったのか。
1895年、遼東半島をめぐる「三国干渉」により旅順が中国[清]に返還され、中国[清]の遼東接収委員・顧元勲は、旅順の遺骨、遺灰埋葬地に「万忠墓」をつくった。記録された受難者は約一万八千人だった。1948年「万忠墓」再建の際、記載された犠牲者数は二万人余だった。中国の歴史学者・孫克復、関捷編著『甲午中日陸戦史』(黒龍江人民出版社、1984年)は、これにもとづき犠牲者数は二万人余であると主張した。1994年3月、「旅順万忠墓紀念館」建設時、万忠墓を再発掘、整理し、「日本軍は旅順市区に侵入後、手に寸鉄を持たぬ平民庶民に対して四日三夜の野蛮な大虐殺を行い、二万近い無辜の同胞が惨殺された」と記載した 。
当時の旅順市の居住人口は約二万人余だった。1895年3月号の『北米評論月刊』(North American Review)の報道によれば、「旅順市街に残った中国人は36人だけだった」という。彼らは死体の搬送、埋葬に使われたのである。
日本軍第二軍の法律顧問として従軍した日本の国際法学者・有賀長雄は、彼の著作『日清戦役国際法論』(陸軍大学校、1896年)において、当時市街にあった死体の総数は約二千であり、非戦闘員約五百体を含んでいた、と述べている。もちろん日本側は加害者であり、日本軍に非戦闘員(平民)の虐殺があったことを隠蔽しようとした。明治天皇が宣戦の詔勅で「苟モ国際法ニ戻ラサル限リ各々権能ニ応シテ一切ノ手段ヲ尽クスニ於テ必ス遺漏ナカラシムコトヲ期セヨ」と、日本の軍人に戦時国際法を厳守し、日本は「文明国」であるとして欧米に重視させるよう求めていたからである。しかし、旅順には日本軍と行動をともにしていた4人の外国特派員記者がおり、旅順大虐殺事件を目撃した。
欧米の従軍記者の中で、アメリカとフランスのヘラルド(Herald)のガーヴァー(Garver)が買収されて日本を擁護する立場に立った以外、その他のイギリスのタイムス(Times)のコーエン記者(Thomas Cohen)、スタンダード(Standard)のウィリヤース記者(Villiers)、アメリカのワールド(The World)のクリールマン記者(James Creelman)の3人は語気に若干の違いはあるが、日本軍が犯した虐殺の罪行を強烈に非難している。
たとえば、1894年11月20日にニューヨークで発行されたWorldの編集標題は「旅順港の惨殺で少なくとも二千人の手に寸鉄を持たぬ人びとが日本軍に虐殺された」というもので、日本軍の暴行を激しく批判、日本人は文明の皮膚をまとい、野蛮な筋骨をもった怪獣であり、「日本は今や文明の仮面を脱ぎ捨て、野蛮な本性をあらわにした」と攻撃する内容だった。さらにイギリスのタイムス(Times)の記者も、日本軍は捕虜を縛ったまま虐殺し、平民とくに女性も虐殺した事実があることを明らかにした。
日本人自身の証言によれば、日本郵船の貨物船遠江丸の一等運転手林治寛の体験は、「旅順口陥落ノ時上陸セシニ、死屍相積、三畳々散ヲナシ実ニ酸鼻ノ残(惨)状ヲ見シ。内ニ老アリ、幼アリ、婦人アリ、稚児アリ。未ダ死ニ至ラサルモノ伸(呻)吟ノ声、今ニ猶ホ耳ニ存スト」というものだった。
当時の日本の外相・陸奥宗光は、日本軍の虐殺のスキャンダルが国際社会に伝わらないように、手を尽くして外国通信社を買収した。たとえば、機密電報で駐英代理公使・内田康哉にイギリスのCentral Newsを金銭で買収し、タイムスの旅順大虐殺報道と異なる論調を提起させ、旅順市民に対するある種の残虐さは中国人逃亡兵の仕業と言わせるよう指示した。内田が返電で買収資金の不足を伝えると、外務省は予備金から日本円2000円を為替で送ると回答した。イギリスのCentral Newsは日本の情報工作にサービスする十分な報酬を得た。
他方、ロイター通信社(Reuters)の買収は当時の駐独公使・青木周蔵によって行われた。陸奥外相は「ロイター電信会社」(Reuters Telegram Company)が日本のために有利な情報を流すことで606ポンドの報酬を与えることを承諾した。当時横浜にあったジャパン・メール社も『Japan Mail』と『Japan Weekly Mail』を発行していた。社長のブリンクリーはロイター社の通信員でもあった。陸奥外相は内閣書記官長・伊東巳代治に、ジャパン・メール社に対して日本政府が毎日流す戦争情報をロンドンに電送するよう求めさせた。ブリンクリーへの陸奥の働きかけが成功すると、日本政府は補助金の名目で毎月ジャパン・メール社に一定の補助金を与えた。甲午戦争[日清戦争]後の論功行賞で日本政府はブリンクリーに「勲三等旭日章」ならびに恩賞金5000円を授与した。
しかし、ロイター社にはReuters Telegram CompanyとReuters International Agencyとがあり、日本政府は前者と契約を結んで金を与えて買収していたが、後者は相変わらず日本に不利な虐殺の情報を伝えていた。当時『時事新報』を掌握していた世論の泰斗・福沢諭吉は「旅順の殺戮 無稽の流言」を書いて弁解した。お雇い外国人ハウス(Edward House)を通して欧米の通信社、ワールド等に弁解が提示され、虐殺事件の沈静化を図り、日本国内でも虐殺事件の存在が忘れられた 。日本政府は、虐殺事件の徹底調査を行わないうちに、「旅順口占領に関する誤聞」として、ドイツ駐在青木公使、イギリス駐在内田公使、アメリカ駐在栗野公使、ロシア駐在西公使、フランス駐在曽祢公使、イタリア駐在高平公使等、欧米の各駐外公使に対して、各国への弁解のための弁明書を伝達した。
しかし、英米の新聞の、旅順大虐殺を目撃した記者の報道により、日本の大本営も、参謀総長から大山巌軍司令官に宛てた公文を持たせた人員を旅順に派遣し、きちんとした説明を求めざるをえなかった。大山の返信は11月21日の旅順市内の兵士と人民に対する殺戮を認めたが、旅順の住民の多くは中国軍と関係があって抵抗を試みのだとか、黄昏時ではっきり見えずに殺戮が生じたなどと弁明していた。この他、捕虜の殺害については、反抗、逃亡に対する懲戒だと強弁し、日本軍と関係のある略奪行為は一概に否認した。要するに、参謀本部に対する大山巌の弁明書からわかることは、虐殺の規模の大小、虐殺の原因には弁解がなされているが、日本軍第二軍司令部は「旅順虐殺」の事実の存在をやはり認めているということである。
当時の首相・伊藤博文は「旅順大虐殺」事件のことで大本営と協議した結果、日本が戦勝した以上、日本軍の士気を保ち、この事件の真相を調査して首謀者を懲戒してはならず、一貫して弁明する方針で国際世論に対応することを決定した。
日本政府が日本軍による中国の庶民の虐殺を追究せず、ひたすら列強に対して日本が「文明国」だと弁明し、中日甲午戦争[日清戦争]は「文明国」の日本が「野蛮国」の中国を打ち負かしたのだと一貫して宣伝して以後、日本軍はさらに憚ることなく中国人を虐殺できるようになったのである。
日本の武士道はここに至って、欧米列強に尻尾を振って金を送り嘘でごまかし、弱国中国に対しては反対に虐殺凌辱しても恬として恥じないというところまで堕落してしまった。
4.武士道が台湾で威を振るう
『台湾総督府警察沿革誌』等の資料によれば、日本は台湾占領後の数年間に、少なくとも以下の数件の大虐殺を行っている。これは日本の武士道の台湾での発威というべきである。
一.大??の大放火、殺人 1895年、馬関条約[下関条約]後、日本軍は台湾に上陸した。台北と新竹の間の大??渓沿岸の地区には猛者汪国輝、三角湧樟脳製造業者蘇力、樹林地主王振輝らがいて、それぞれ「住民自警団」を率いて自衛していた。7月12日、日本軍がこの地区に進軍すると、汪らは抵抗した。7月16日以後、日本軍の援軍が到着して、虐殺を繰り広げた。日本軍は大??以東、三角湧までの間のすべての村を抗日義軍とみなし、大??街を放火するよう命令を下した。かくして、4万人前後の繁華街は、7月22日から連続して3日間、遥か三角湧街にまで延焼し、20数里絶え間なく、あたり一面、寒々とした焦土へと変わり、焼失した住宅は合計1500戸余、死傷者は260人だった。抗日のリーダー汪国輝は日本軍に武士道のやり方で斬殺された 。
二.大?林の婦女暴行 1895年8月30日、日本軍は雲林地方に入り、9月2日大?林、すなわち今の嘉義県大林鎮に到達した。この地のリーダー簡精華は装備戦力が日本軍の相手にならないことをよく知っており、人びとが塗炭の苦しみをなめるのが忍びなかったので抵抗を放棄し、住民に道路を清掃し、食物を提供して日本軍を歓迎するよう命令した。ところが、予期に反して日本軍は簡に200人の女性を差し出すよう要求した。簡が応じなかったところ、日本軍は簡氏一族の女性60人余を強姦、殺害した。簡氏は激怒し、雲林の民衆を招集し、9月3日から弓矢、棍棒、落とし穴、自作の銃で日本軍を襲撃した。その後、簡精華は辜顕栄の誘いを受け、苦痛を忍んで帰順を受け入れたが、1ヶ月経たないうちに、自ら左手の血管を切り、自宅で失血死した。地元の人びとはその忠義に感動し、「簡忠義」として偲んだ 。
三.蕭壟街の惨殺 1895年10月10日、日本軍混成第四旅団が布袋嘴(嘉義地方)に上陸すると、当地の義軍のリーダー林崑岡は決死隊の勢いで郷里を守った。しかし、武器が粗悪で相手にならず、蕭壟街(今の台南県佳里鎮)まで退いた。そこで、日本軍は大がかりな捜索を行い、千人近い村民が渓谷のそばの雑木林の天然の溝や谷に隠れたが、嬰児の泣き声で発見されてしまった。日本軍は兵を派遣して長い坑の頭尾両端を遮断し、坑内に向けて一斉に20分近く激しく銃撃した。凄まじい叫び声と泣き声はこの世の地獄のようで、坑に避難した台湾人は一人として災いを逃れられず、嬰児、女性も一人として生き残らなかった。真に残酷さの極みであった 。
四.雲林大虐殺 台湾中部の雲林地方に「大坪頂」と呼ばれる山地があり、三面は渓谷に囲まれ、東南は険しい山地につながり、地勢は険しく、柯鉄率いる柯氏家族が住んでいた。日本軍が北から南下した際に、簡義ら抗日分子が続々と風雨を避けてこの地に来た。1896年4月1日、雲林県地方は台中県に併合され、雲林支庁が斗六に設けられた。6月10日、日本軍混成第二旅団の守備隊が雲林地方に進駐を開始した。当時大坪頂には抗日分子千余名が集結しており、決死の覚悟で抗日を誓い、大坪頂を「鉄国山」と改名し、全島に檄文を発し、日本人を台湾から駆逐するよう呼びかけた。6月16日、日本軍の一連隊が斗六に進入すると、「鉄国山」の抗日軍はその鋭鋒を避け、深山に退いた。それから6月22日に至るまで、日本軍は雲林地方で血なまぐさい虐殺を行い、全部で4295戸の民家が焼かれ、六千人の民衆が惨殺された。日本軍を歓迎した約50人の順民までもが殺された。
当時の台湾高等法院院長高野孟矩は雲林大虐殺事件について次のように証言している。「漫然兵隊ヲ出シテ六日間ヲ費シ七十余庄ノ民屋ヲ焼キ良匪判然タラサル民人三百余人ヲ殺害シ附近ノ民人ヲ激セシメタルハ全ク今般暴動蜂起ノ基因ト認メラル故ニ土匪何百人又何千人ト唱フルモノ其実際ヲ精査スレバ多クハ良民ノ父ヲ殺サレ母ヲ奪レ兄ヲ害セラレ又子ヲ殺サレ妻ヲ殺サレ弟ヲ害セラレタル其恨ニ激シ又家屋及所蔵ノ財産悉皆ヲ焼尽サレ身ヲ寄スル処ナク彼等ノ群中ニ投シタルモノ実ニ十中七ハニ位シ真ニ強盗トシテ兇悪ヲ極ムル輩ハ十中二三ニ過キサル。」
1896年7月4日香港の英字紙『Daily Press』が日本軍の6月16日から6月22日までの雲林大虐殺事件を明らかにしたことにより、日本軍が台湾民衆を虐殺した事実が国際的な関心を引き起こした。日本政府はしばしば関係部局に、香港の新聞の土匪に関する報道を取り消すよう訓令し、また拓殖務次官に外事新聞に(作り上げた)事実を掲載するようにし、外国の新聞ではこのことを隠蔽するようにした。しかし、雲林大虐殺を契機として、台湾各地では連鎖的に日本の統治に対する不満が爆発し、各地で抗日運動が起こった。国際世論の圧力の下で、第二代の台湾総督桂太郎が退任を余儀なくされた。皮肉なことに、就任した第三代の総督乃木希典は甲午戦争[日清戦争]の旅順大虐殺で責任を負うべき旅団長だったのである。
五.阿公店大虐殺 第四代台湾総督・児玉源太郎と民政長官・後藤新平は「台湾近代化」の生みの親で、彼らは台湾に「懐柔政策」を実行した「能吏」だ、と讃えるものがいるが、彼らにはもつれた麻を切るごとく人を切る日本の武士道の本性があり、大虐殺によって抗日台湾人を鎮圧して台湾統治の基礎を確立したことを見落としている。児玉は1898年に台湾総督に就任、11月12日からの、台湾中南部の抗日軍に対する、日本人が「大討伐」と呼んだ大規模攻撃の展開を決定した。この「大討伐」は台南県知事が台湾総督に提出した報告によれば、殺害した人数は2053人に達し、負傷者は数え切れない。焼かれた民家数は、全焼が2783戸、半焼が3030戸だった。家屋の全焼、半焼、家財の焼失などの損害は、当時の貨幣価値で3万8千円余に達した。中でも被害がもっとも残酷だった阿公店地方には、安平、打狗(高雄)に住む外国人がおり、日本軍の残虐暴力に議論が沸きおこり、イギリス長老教会牧師ファーガソン(Duncan Ferguson)等は『香港日報』(Daily News)に投書し、日本軍の人間性を喪失した大虐殺の人道問題を提起して、国際世論の非難を巻き起こした 。
六.帰順式場に誘き出しての惨殺事件 児玉と後藤の台湾中南部の抗日勢力への対応は、軍警の大規模な「討伐」以外に、投降を呼びかけ、誘き寄せて殺す策略を使った。これがいわゆる「土匪招降帰順政策」であり、画策者は児玉長官、立案参与者は後藤民政長官、総督府事務官阿川光祐、策士は白井新太郎で、中でも雲林の騙し討ちが抗日軍でもっとも人を驚かせる事件だった。1902年、斗六庁長・荒賀直順は警務課長・岩元知と投降を呼びかけて殺戮する計画を密かに画策した 。
5月14日、斗六庁長・荒賀と当地の守備隊長、憲兵分隊長は5月25日に帰順式を開いて騙し討ちすることを画策した。5月18日、岩元警務課長は林?埔、?頭?、土庫、他里霧、下湖口の5人の支庁長を招集し、帰順式典を行う真意と段取りを指示し、斗六、林?埔、?頭?、西螺、他里霧、内林の6ヶ所を式場とすることを決定、各市庁長に十分な準備をするよう命じた 。
帰順の意思を示した抗日の各リーダーに対しても、表面的には甘言を弄し、彼らの帰順を許したが、内心では徹底的な殲滅を企てていたので、張大猷以下265人の抗日分子をこの年の5月25日に誘い出すことを決め、6ヶ所でそれぞれ帰順式を行うと公言した。すなわち、一.斗六式場60余人、二.林?埔式場63人、三.?頭?式場38人、四.西螺式場30人、五.他里霧式場24人、六.林内式場39人である。その後、機関銃で6ヶ所同時にすべて殺戮した。このような投降を誘い、騙して殺戮した事件に関して、日本人は口実を設け、5月25日、帰順式場での妄動により、一斉に殺戮したと説明しただけであり、騙して殺した事実を隠蔽した。
七.??<口+年>大虐殺 1915年余清芳が台南の西来庵「食菜堂」を中心として抗日運動を推進、展開していた頃、日本軍警は誘き出して殺す計略を使って、台南??<口+年>(玉井)付近の後?、竹圍、番仔?、新化、内庄、左鎮、茶寮等二十余村落住民3200余人を、老幼を分けず、次々に殺戮した。日本人はこのような世にも悲惨な大殺人に対して隠蔽の限りを尽くした。たとえば、秋澤次郎が著した『台湾匪誌』は「匪賊の暴動」と「聖恩が洪大で果てしない」ことを饒舌に叙述している以外に、前述の騙し討ちの事実を示していない。しかし、その文中には騙し討ちのかすかな手がかりを覗き見ることができる。たとえば、文中で「斯くて残匪の誘出終るや総督府に於ては、彼等の中で罪状最も重く大正四年十一月の大赦の恩典に浴する能はざる者は假令投降したとはいえ、国法を抂げて刑を全免するが如きは国家の威信を傷くるものであるから、夫等の者に対しては厳粛なる処刑の必要を認めたのである。」と書いており、抗日リーダー江定らはこのように投降を呼びかけられて処刑されたのである。
後藤新平は『日本植民政策一斑』で彼が台湾を統治していた五年間に法にもとづいて「殺戮した匪徒の数」は11950人に達したと公然と述べている。日本のいわゆる「匪徒」とは、いうまでもなく、すべて「抗日」の台湾人のことだった。
台北市文献委員会副主任委員・王国?編著『台湾抗日史』によると、「台湾が日本人の手に落ちて五十と一年になろうとしているが……わが同胞で虐殺に遭った総数は約40万人近く、焼かれた家屋は乙未年(1895年)内だけでも三千余に達し、婦女の淫虐、壮丁の奴役にいたっては、その精神上の損失はさらにはかりがたい。」
現在、日本の右翼分子はしばしば日本の五十年の台湾植民地統治の成功を「近代化」と称賛し、多くの台湾の学者も追随して台湾の「植民地化」は「近代化」であるといっている。もし台湾の日本への割譲後、日本の武士道が台湾で威を振るい、台湾ではじめて「近代化」の成果があったのであれば、台湾人は腰抜けで、台湾人自身には「近代化」の能力がない、というに等しいのではなかろうか。
5.新渡戸はなぜ英文版『Bushido』を出版したのか
新渡戸はなぜ1899年に『Bushido』を著して武士道に新たな解釈をしたのか。『武士道』の出版はどのように新渡戸の登竜門となり、富貴栄華を獲得する足がかりとなったのか。もっとも主要な秘訣はアメリカ人女性メリー(自称「万里」Marry Patterson Elkinton 1857-1938)を妻としたことである。当時日本は甲午戦争[日清戦争]で中国に勝利し、二億三千万両、ほぼ三億六千万円に相当する賠償金と台湾植民地を獲得したが、日本軍には「旅順大虐殺」、「領台大虐殺」の残虐行為があり、列強は依然として日本を野蛮国と見なしていた。日本は日本軍の行為は「武士道」の行為であり、一種の崇高な品徳であると国際的に説明しなければならなかった。
新渡戸は1884年アメリカに留学し、アメリカのボルティモアに新設されたジョンズ・ホプキンス大学に入学した。同学には後の大統領ウイルソン(Woodrow Wilson)がいた。彼は在学期間中の1886年アメリカ人女性メリーと知り合った。メリーはフレンド派の信徒(通称クエーカー教徒)で愛国者であり、新渡戸も愛国者で、メリーを追うために彼もフレンド派の信徒になった。メリーの父親は日本人を野蛮な民族と考え、メリーと新渡戸との結婚に反対したが、二人は5年間交際した後、1891年に結婚した。当時メリーは33歳、新渡戸は28歳で、年齢差は5歳だった。結婚後二人は東京に居を構えたが、日本という海の中に漂う孤島のようなもので、居住環境は完全にアメリカ式だった。メリーは初めて日本人と結婚したアメリカ人女性で、日本語を話さず、日本人の考え方や行動様式にもかまわず、文化的にも心理的にも、元通りアメリカ人の行動様式(American way of life)のままに日本で生活した。しかし、彼女は夫の英文書『Bushido(武士道)』に協力し、日本の伝統と欧米を比較し、日本の武士道と欧米の騎士道の相似性を詳述して、日本の切腹、敵討等は決して野蛮ではないと弁解した。美しく上品な英文の助けを借りて、この書は欧米読書界を風靡し、新渡戸稲造の名前は瞬く間に世界に伝わった。かくして、「武士道」を語ることは「新渡戸」を語ることであり、「新渡戸」を語ることは「武士道」を語ることになり、その名は天下に知れ渡った。これ以後、新渡戸は京都帝国大学教授(1904年)、第一高等学校校長(1906年)、アメリカのカーネギー財団(Carnegie Foundation)交換教授(1911年)、東京帝国大学教授(1915年)、東京女子大学校長(1918年)、国際連盟事務次長(1919年)等、一段一段階段を登りつめた 。
新渡戸は『Bushido』初版序説で、「この小著の直接の端緒は、私の妻が、かくかくの思想もしくは風習が日本にあまねく行なわれているのはいかなる理由であるかと、しばしば質問したことによるのである」と述べている。武士道の掟は西洋人から見ると野蛮で、円滑に説明する方法を考えなければならなかったので、彼女に理解させ、彼女を納得させることができるまで、再三討論した。新渡戸のこの著作は他にアメリカの女性の友人アンナ(Anna C. Hartshorne)の協力を得ている。彼女と彼女の父親ヘンリー(Henley Hartshorne)は1893年に日本を訪れ、新渡戸の家で何年も暮らした。アンナが残した手紙は彼女が『Bushido』の著述に深くかかわっていたことを証明している。残されている記録によると、新渡戸の手が震えて書き続けられなくなったとき、アンナは新渡戸の口述を聞き取り、彼に替わって筆記したという。新渡戸はこの書の序の末尾でアンナに対する感謝の気持も明らかにしている 。
このように英文で新たな解釈を示した『武士道』が、義和団事件が発生した1900年、アメリカのフィラデルフィアで出版された。フィラデルフィアはペンシルバニア州にあり、ギリシア語で「友愛」の意味をもつ。植民地時代からフレンド派の信徒ペン(William Penn)
が建設を指導し、1776年にアメリカ独立宣言、翌年、憲法が発布された歴史的記念都市となった。この書の出版は折りしも欧米人が「日本精神」と中国の「義和団」(西洋人はBoxerと称した)を比較評価する機会となった。この書は日露戦争勃発後の1904年、アメリカ人の協力により、比較的大きな出版社から再版された。日露戦争で日本はロシアの白色人種に勝利したおかげで、国際的に日本への関心と興味が深まり、英文版の『武士道』はベストセラーになった。新渡戸はこのときから日本精神、日本倫理学の権威となり、世界にその名をあげた。1905年日露戦争戦勝の年、明治天皇はとくに『武士道』の作者新渡戸を宮中に召見したが、当然メリー夫人も随行して皇居で拝謁した。
日本が日露戦争でロシアを打ち負かすことができたのは、実際にはアメリカ金融資本の援助に依拠していた。当時ドイツ系ユダヤ人が創設した投資銀行クーン・レーブ商会(Kuhn, Loeb & Co.)の社長は、ドイツ生まれでアメリカに移住、帰化したシフ(Jacob H. Schiff)であり、彼は彼のヨーロッパのユダヤ系金融資本家の友人ロスチャイルド(Lord Rothschild)とともに、ロンドンとパリでロシアが戦債を工面しようとしているのを封鎖し、シフのクーン・レーブ商会が責任をもって日本の日露戦争時の四回の外債募金を行い、合計三億五千万米ドルを募金で獲得した。これは日露戦争時の日本の戦費のほぼ半分である。シフは戦後の1906年日本に赴いた。明治天皇が召見し、日露戦争の挙債の功労に感謝して「勲一等瑞宝章」を贈った。シフは対露戦争の協力者だったからこそ明治天皇が召見し、新渡戸夫婦は日本が対外戦争に従事する際、「武士道」精神で包装した功労により召見を得たのである。
新渡戸稲造が明治天皇に呈上した『上英文武士道論書』からも、彼が武士道を著した真意を完全に理解できる。
「伏て惟るに、皇祖基を肇め、列聖緒を継ぎ、洪業四表に光り、皇沢蒼生に遍く、声教の施す所、徳化の及ぶ所、武士道?に興り、鴻謨を輔けて、国風を宣揚し、衆庶をして、忠君愛国の徳に帰せしむ。斯道卓然として、宇内の儀表たり。然るに外邦の人猶ほ未だ之を詳にせず、是れ真に憾むべきことなりとす、稲造是に於て武士道論を作る。」
「稻造短才薄識加ふるに病羸、宿志未だ成す所あらず、上は聖恩に背き、下は父祖に愧づ。唯僅に卑見を述べて此書を作る。庶幾くは、皇祖皇宗の遺訓と、武士道の精紳とを外邦に伝へ、以て国恩の萬ーに報い奉らんことを。 謹で此書を上り、乙夜の覧を仰ぎ奉る 誠惶頓首。」
明治三十八年(1905年)四月京都帝国大學法科大學教授從五位勳六等農學博士新渡戸稻造 再拜白
この書は1899年に出版後、数回の増訂、再版を経て盧溝橋事変翌年の1938年、矢内原忠雄によって翻訳された日本語版が岩波書店で出版され、日本の『武士道』論の決定版となった。この書の第十六章「武士道は尚生くる乎」は「武士道は我国の活動精神、運動力であったし、又現にさうである」と断定している 。
「王政復古の暴風と国民的維新の旋風との中を我国船の舵取りし大政治家たちは、武士道以外何の道徳的教訓を知らざりし人々であった」。「現代日本の建設者たる佐久間、西郷、大久保、木戸の伝記、又伊藤、大隈、板垣等現存せる人物の回顧談を繙いて見よ――然らば彼等の思索及び行動は武士道の刺戟の下に行なはれし事を知るであらう」 。
たしかに、佐久間、西郷、大久保、木戸、伊藤、大隈、板垣らは、日本の「王政復古」の維新事業を推進し、日本が「上下一体の皇国」となることを促した志士であり、しかも、日本も甲午戦争[日清戦争]、日露戦争を経て「皇国を世界第一等の強国」にした。しかし、日本の「内政」の成果はアジア隣邦への「外征」の犠牲の上に成り立っていたのである。
佐久間象山は「東洋道徳、西洋芸術」論を提唱した思想家で、彼はイギリスが発動したアヘン戦争をひたすら自己の利益を図り、礼儀廉恥を知らないと評した。彼の理想は日本という「皇国が世界第一等の強国となる」ことであり、日本の志士が「開国進取」の方向へ向かうよう啓蒙することだった。佐久間は最後に幕府の上層一橋慶喜および将軍徳川家茂に拝謁し、「開国」の時流を語り合ったが、「倒幕」、「攘夷」の志士に暗殺された。
西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允は「王政復古」明治維新の三大功臣である。西郷は「征韓論」が有名で、不平士族に擁立されて謀反を起こし、戦いに敗れて自刃した。大久保は明治初年欧米視察の機会を得、欧米列強が虎視眈々としている様子を見て、「内治」を先行させることを主張し、「征韓」に反対したが、1874年「征台」、「台湾処分」の主張に転じ、中国への「強硬外交」の推進へと至った。1878年、不満士族に暗殺された。木戸孝允は「尊皇攘夷」の志士で、初めは「征韓論」を唱え、下級武士の不満の捌け口を作ったが、1872年に岩倉外交使節団に随って欧米を巡歴して帰国後、態度を改めて「征韓」に反対し、「征台」にも反対した。西南戦争中に死亡した。伊藤は日本の内閣制の創設と明治憲法制定の功臣であり、第二次組閣時に海軍を拡張し、中日甲午戦争[日清戦争]を挑発、強行し、日露戦争後、韓国併合のために日韓協約を締結し、初代韓国総監に任命されたが、韓国の愛国志士安重根に暗殺された。
大隈は1874年日本が「征台」に出兵したときの事務局長官で、第一次世界大戦時に組閣して対独宣戦、中国に対して二十一ヶ条の要求を突きつけ、山東におけるドイツの特殊権益を日本に移すことにつとめたが、日本の右翼玄洋社社員来島恒喜に爆弾を投げられて片足を失った。板垣は「征韓論」の首脳で、征韓論の失敗により下野し、後に愛国公党、自由党等各種政党を組織し、政治活動に参加、対内的に「自由民権」を主張したが、対外的に「征韓」、「対中国開戦」を主張した。
以上の歴史から見て、日本の武士道思想の影響下の大政治家は日本にとってたしかに明治維新の功臣だったが、隣邦の民衆にとっては明らかに対外武力侵略の元凶だったことがわかる。もし隣邦の被侵略者の立場から見るなら、日本の武士道思想は否定されるべきものである。
新渡戸の「武士道」論の中で中日甲午戦争[日清戦争]をいかに論じているかを見てみよう。
「矮小ジャップ」の身体に溢るる忍耐、不撓並に勇気は日清戦争に於て十分に証明せられた。「之れ以上に忠君愛国の国民が有らうか」とは、多くの人によりて発せられる質問である。之れに対して「世界無比!」と吾人の誇りやかに答え得るは、之れ武士道の賜である 。
日本人にとっては武士道の賜だとしても、旅順で大虐殺に遭った中国人、日本が台湾を占領したときに大虐殺に遭った台湾同胞も日本人と同じように武士道の残酷さを讃えるだろうか。
新渡戸は再度強調している。
「鴨緑江に於て、朝鮮及び満洲に於て戦勝したるものは、我々の手を導き我々の心臓に搏ちつつある我等が父祖の威霊である。之等の霊、我が武勇なる祖先の魂は死せず、見る目有る者には明らかに見える。最も進んだ思想の 日本人にてもその皮に掻痕を付けて見れば、一人の武士が下から現はれる」 。
日本の武士道の武力や権勢の魂魄刀の下の中国人、朝鮮人、琉球人、原住民族は、もし独立した自由意志をもつ人間であれば、日本帝国主義の蹄鉄の下に屈服を願うはずはないのである。
新渡戸は1920年から国際連盟事務局次長を7年間つとめ、日本の国際的宣伝工作の責任を負った。帰国後、貴族院議員に就任、太平洋問題調査会理事として瀋陽事変[満洲事変]後、日本軍の中国東北出兵に弁解し、1933年死去した。彼のアメリカ人の夫人メリーは盧溝橋事変の翌年の1938年に亡くなった。彼ら夫婦は1904年から05年の日本の対露戦争を支持しただけではなく、1931年の瀋陽事変[満洲事変]以来、1930年代に、一貫して日本軍の中国での軍事行動は正しいと弁護した。換言すれば、「武士道」新解釈の意図は、欧米列強に対して、日本の東アジア侵略の理論を弁解し正当化することだった。
6.結論
新渡戸は台湾製糖業の改革において重要な役割を演じた。彼は台湾総督府の招請を受け、1901年2月、台湾総督府技師に就任、5月、民政部殖産課長に昇格、11月、新設の殖産局局長に任命され、1902年6月、臨時台湾糖務局新設時、局長も担当、1903年10月、京都大学法科教授に転任、台湾で三年四ヶ月を過ごした。
彼の台湾での具体的功績は1901年9月に「糖業改革意見書」を提出し、最大の課題が保守的な農民に新品種、新技術を採用させることであるとの考えを示したことで、児玉源太郎、後藤新平に対し、プロイセンに馬鈴薯を普及させるために強制力による実行を厭わなかったプロイセンのフレデリックU世(1712-1786)のように、台湾の専制啓蒙君主となることを進言した。かくして、新渡戸の提案の下で、「台湾糖業奨励規則」が作成され、総督府が奨励金を支出し、外国から甘蔗の新品種を取り入れ、蔗苗と肥料を購入する費用、開墾費用、灌漑および排水費用、製糖機械器具費用等各種の手厚い補助を与える一方、臨時糖務局を設立、台湾伝統の糖<广+部>を淘汰し、糖業の「近代化」を進めた。しかし、その結果は、台湾人自営の糖業を駆逐して日本本土の糖業資本を台湾に侵入させ、台湾の製糖業を独占することだった。
新渡戸は植民地主義を肯定し、植民地は新領土であると認識していた。彼はイギリスの保守党の指導者ソールズベリー(Robert Salisbury 1830-1903)の「膨張的国民は生きる国、非膨張的国民は死ぬる国である。国家はこの二者中その一に居る」との論点を肯定し、活力をもつ国民は必ず膨張して領土獲得を求めると考えた。したがって、新渡戸の植民政策は、客観的には日本の統治の理論を正当化することにあった。新渡戸は九一八事変[満洲事変]後さらに帝国主義の方向に向かい、1932年の「満洲国建国」時、「満洲国」は「民族自決」だといい、故ウイルソン大統領さえ満足するはずだと述べた。彼が勤めた国際連盟に対して、日本が1933年3月に脱退したとき、彼は、国際連盟は政治機関たるべきなのに、どうして司法機関のように日本を糾弾する誤謬に陥っているのかと批判し、一貫して日本の行動を弁護した。このときの新渡戸は明らかに国際主義の擁護から帝国主義の擁護へと転じていた。
戦後、日本銀行が1984年に紙幣の図案設計を変更した際に、福沢諭吉像を一万円、新渡戸稲造像を五千円、夏目漱石像を千円の図案に採用した。この三人は武士道への積極的称賛を示しており、三人の見方は一致していたとはいえ、微妙な差が存在していた。しかし、明治期の日本人がかなり武士道の影響を受けていたことも示している。
福沢は1884年10月の中国分割図において、日本が台湾を割取することを予言し、新渡戸稲造は日本の台湾割取後の1899年、「武士道―日本人の魂」を著し、甲午戦争[日清戦争]で鴨緑江、朝鮮、満洲戦役に打ち勝ったのは日本人の祖先の霊魂であると褒め称えた。以上二人の侵略精神は侵略、植民された人民からいえば、日本人に追随して称賛する道理はない。
夏目漱石の武士道に対する積極的評価は1910年日本海軍の潜水艇で事故が起こり、14人の船員全員が脱出できず、艇内で死亡したことと関連する。夏目は艇長佐久間勉の遺書に「小官ノ不注意ニヨリ陛下ノ艇ヲ沈メ部下ヲ殺ス 誠ニ申訳無シ サレド艇員一同死ニ至ルマデ皆ヨクソノ職ヲ守リ沈着ニ事ヲ処セリ」と書かれていたことと、以前イギリスの潜航艇が同様に不幸な事故に遭遇したときに船員が死を免れるために争って窓のほうへ逃げようとして遺体が折り重なっていた状況とを比べて、間違いなく日本の武士道のすばらしさに感動したのである。日本海軍の一指揮官は武士であり、「陛下ノ艇ヲ沈メ」、「部下ヲ殺」したことに、かくも責任を痛感したことこそ、文学者夏目漱石を感嘆させたのであり、これこそ武士道が敬慕を受けるところなのかもしれない 。
 
鎌倉武士

 

衣笠城落城に際して撤退作戦についてゆかない人物があった。総帥衣笠義明・・89才になる老将であった。子供達が退城を促しても、彼は毅然としてこれをはねつけた。 
「俺はここに残る。お前達は急いで城をぬけだして、殿(頼朝)の在否をたずねてまいれ」 
なぜそうするかについて、彼は凛(りん)としておのが思いを語る。 
「三浦は源家代々の家人だ。幸いもう一度源氏が再興しようとするときにめぐりあったことは何たる喜びであろう。俺ももう80過ぎ、残る命は知れたものだ。いまこの老いの命を武衛のために投げうって、子孫の手柄にしたいと思う」 
「老命を武衛に投じ、子孫の勲功を募らんと欲す」 
ここでは、義明は二つのことを言っている。 
「命を捧げること」「それを子孫の功績にすること」 
この二つをワンセットにして言っているのだ。もっとはっきりいうならば、彼は単に頼朝のために死にさえすれば本望だ、と言っているのではない。ちゃんとこれを子孫の手柄として、ひきかえに褒美を貰うつもりだ、と言っているのだ。 
これまでの鎌倉武士のイメージは後世作られたものであって、この時代の武士の素顔を伝えるものではないのである。 
むしろ、彼らは「戦うこと、そして死ぬこと」と「褒美を貰うこと」を端的に直結させ、これを根本ルールとして主張しているのだ。 
義明はただ源家再興を手放しで喜び、無償の奉仕、無償の死を遂げようとしているのではない。精神の美学としての無償はたしかに感動的だが、「子孫の勲功」の部分を無視して、犠牲的な死だけを見ようとするのは、この時代に対する歴史的理解とは言えない。むしろ大事なのは、後半の部分である。 
なぜなら、東国武士団は、これまで常に奴隷的な無償の奉仕を続けてきた。今度の旗揚げは、その奴隷的な境涯から脱するための第一歩である。義明は、はっきりこれまでの境涯への訣別を語っている。それが「子孫の勲功を募らんと欲す」という言葉になって現れているのだ。 
戦死を含めたさまざまな奉仕が、必ず見返りとして恩賞を伴う。・・これを当時の言葉で言えば「御恩と奉公」である。つまり彼らの死には保証があるのだ。彼らは決して死に損にはならない。命を投げ出して戦ったものの子孫には必ず報いがある。この時代の恩賞の対象となる手柄には二通りある。一番乗り、あるいは名ある敵の首を上げること。これを積極的な手柄とすれば、戦死は消極的な手柄なのである。 
少し時代は下がるが、合戦注文とか軍忠状とか呼ばれるものがいろいろ残っている。どこでどんな戦いをしたかという報告書で、そこには、どんな傷を受けたかということまで細かく書いてある。これを戦(いくさ)奉行が承認すると、恩賞にあずかることができる。はっきりいえば、まさに、「一傷いくら」なのだ。まして戦死は大変な犠牲だから、遺族には必ず恩賞の沙汰がある。 
敵に勝ち、所領を奪い、その分け前に預かるまでは、東国武士は屍を乗り越え乗り越え戦うのだ。ここには「御恩と奉公」の倫理が筋金入りで通っているのである。 
もしこれを余りにも功利的な見方だという人があるとすれば、その人は、江戸時代的な武士道観(主君が一方的に奉公を強いるゆがんだ精神主義)に毒されているのだ。 
頼朝に命を捧げる所だけ意味を持たせるのは歴史的理解ではないし、また「子孫の勲功を募る」という言葉を、「名誉なことをする」とか、「手柄話として子孫の語りぐさにする」というくらいにしかとらない見方があるのは、我々が後生のいわゆる武士道的解釈にとらわれすぎているからだ。 
この「御恩と奉公」は命強くも、その後長く生き続ける。戦国武士が命がけで働いたのもそのためだ。 
江戸時代には、これがやや変質する。徳川幕府が日本全国を掌握してしまったために、それ以後の侍たちは、巧妙手柄をたてる余地もなくなってしまったし、もし功績があっても、新たに「御恩」が加えられることはほとんど不可能になってしまったのだ。そうなったとき、徳川幕府は新しい抜け道を考える。 
「奉公したとしても御恩がないのはあたりまえ。武士は恩賞など目当てに働くものではないぞ」 
いわゆる「武士道」が確立するのはまさにこの時点からである。鎌倉の起点から見ればむしろ後退したかに見えるこの考え方は、徳川300年を支配する。 
そして明治維新を迎えたときに、面白いことに、「御恩と奉公」は装いを新たに復活してくる。
武芸の鍛錬 
鎌倉時代の武士たちは、武芸の鍛錬をたいへん重視し、「弓矢を射ること」「馬に乗ること」は、子どものころからきびしくきたえられた。館の内外では、笠懸(かさがけ)・流鏑馬(やぶさめ)・犬追物(いぬおうもの)・巻狩(まきがり)など、武芸の訓練をかねた遊びがさかんに行われた。 
笠懸とは、笠を的にし、馬を走らせながら矢を射るものだ。笠は直径50cmくらいの檜の板を皮につつみ、中に綿がつめてあった。笠懸は平安時代の終わりごろに始まり、鎌倉時代に特にさかんになった 。 
流鏑馬とは、馬を走らせながら、一定の間隔をおいて立てられた、四角い板の的をつぎつぎに矢で射ていくものだ。的は3つ立てられるのが普通であったようで、これも平安時代の終わりごろに始まり、鎌倉時代にさかんになった。現在も、各地の神社のお祭りなどの際、行われている。 
犬追物とは、長さ40mほどの縄を輪にし、この中に放した犬を、とりかこんだ四騎の武士が矢で射るというものだ。鏃(やじり)ははずしてあるとはいうものの、当たればかなりの苦痛をともなったことだろう。犬追物では「動く的」を射るから、馬の乗り方、弓矢の使い方などを訓練するには、たいへん役立ったそうだ。 
巻狩とは、獲物のいそうな野山をかこみ、棒や大声で獲物を追いこみながら、馬上から弓矢で射て、しとめるというもので、狩猟である。 
武士たちはつねに戦いに備えた暮らしをしていた。京で行われていたような文化や遊びは、彼らの間にはあまり広がらなかった。ふつうの武士たちの学問のレベルも、都の公家たちなどと比べると、たいへん低い水準にとどまっていたようだ。 
一方で、武士の生活に合った、武士独特の道徳が形づくられていった。この武士の道徳は、当時、「武士のならい」「兵(つわもの)の道」などとよばれ、主従関係の基礎となる「忠(ちゅう)」と、一門の団結を保つための「孝(こう)」という考え方が基本になっていた。具体的には、武勇・礼節・廉恥・正直・倹約・寡欲などを大切にしていた。これらの道徳は、武士がきびしい毎日をおくるうちに自然と生まれてきたものだ。この時代に生まれたこれらの武士の道徳は、時代をへ、江戸時代になると「武士道」とよばれるものへと発展した。
 
武士道・諸話

 

徳川家康 / 分断支配
「君、君たらずとも、臣、臣たれ」という、使う側にとっては非常に都合のいい論理が走者することになる。この論理が"武士道"として、日本の全武士に適用された。使う側の権力は一段と強くなった。使われる側は、結局は上を見ずに下ばかり見るようになる。
これは、信長・秀吉の両先輩が残していった日本社会を、ローリング(修正)を加えながら長期維持管理するための家康としては、どうしてもそうならざるを得なかった。家康の得意な組織と人事の管理法は、「分断支配」である。家康自身、「ひとりの人間にすべての能力がそなわっているなどということは考えられない。人間には必ず長所もあるが、欠点もある」と告げていた。したがって、「仕事は、複数の人間の組み合わせによってはじめて成功する」という考えを貫いた。かれは少年時代から青年時代にかけて、駿河の今川家の人質になっていた。人間の実態をよくみた。そのためにかれの人生観は有名な、「人の一生は重き荷を負いて遠き道をゆくがごとし。必ず急ぐべからず」という根気強いものになる。同時にこのころかれは、「人間不信の念・・・
伊達政宗 / 不動明王のような心で危機を脱した
「恐れてはなりませぬ。不動明王は、この世の悪に対する怒りを退治すべく、自分の体から炎を吹き立てているのでございます」と説明した。そして、「若君も、一隻眼を恥じてはなりませぬ。この不動明王のように、悪を退治するお人におなりあそばせ」といった。あの一言によって政宗はそれ以前の自分とは変わった人間になったことを感じた。
つまり、「あの日からおれは生まれ変わった」という自覚が持てた。眠れぬ夜を、箱根山中の底倉の一室で送りながら、政宗は振転反測した。不動明王の姿がちらついて日の裏から離れない。政宗は反省した。
(あの日、虎哉宗乙師に教えられた初心を、おれはずっと持ち続けていたのだろうか)という疑問だ。師僧は、「世の悪を退治するために、一隻眼をご活用なさい」と告げた。おれは確かにあの日以来、はじらいの気持ちを捨てて、自信を持つ活動家に変わった。しかしその活動の内容は、果たして師僧のいった、「この世の悪を退治する」ということに集中していたのだろうか。
「おれ自身の野心・野望の達成にあったのではないのか」という思いが湧いてきた。こんなことは今までない。かれは目的を達成するたびに、さらに自信を深めた。が、今、「では、その目的は誰のためのものか」と開かれれば、はたと答えに迷う。政宗は、「今までの行動は、すべておれ自身のためではなかったのか」と思いはじめていた。あの恐ろしい不動明王が、炎を吹き立て剣を撮るって、自分に迫って来るような気がする。不動明王は叫ぶ。
「政宗よ、おまえの敵はおまえだぞ」その三日が政宗の脳天を打ち砕いた。衝撃は今も去らない。しかし、その衝撃が改宗の、「助かりたい」というひたすらな思いを遮断した。政宗は己を取り戻した。前田利家と徳川家康は確かに豊臣秀吉の側近であり豊臣政権の実力者だ。しかし、ここで嘆願の姿勢を取って、命乞いをするのはいやだった。
(最後まで、自分を貫き通したい)それがおれの武士道なのだと改宗は自分に言い聞かせた。
敵討ちの意識  
江戸初期には財政的に豊かで留守宅への扶持も十分あり余裕を持って仇討ちの旅に出られた。しかし、中期以降になると武士道が形骸化し「酒の席の喧嘩」や「囲碁、将棋での争い」などつまらないことが原因による殺人事件が増加、敵討ちの届けも増加する。一巻・雨の鈴鹿橋の後藤伊織が上司の天野半兵衛に職場内のいじめに逆上し殺してしまったようなこともあっただろう。  
しかし、四巻・鰻坊主の善空こと津田庄之助は兄が敵の妻を犯して殺されたなど被害者に非があり敵を恨む気持ちがなくとも敵討ちをしない限り家督が継げない。津田の場合は兄は他人の妻を犯して殺されたのだから自業自得なのだが、藩の重役と関係があったのか兄の汚行をもみ消し敵が兄を殺したという処理がなされたのだろう。  
敵討ちは私事という考え方が定着し、届けを出すと停職になり俸禄が取り上げられる。御役目を務めていない者に俸禄を出すだけの財政面で余裕がなくなったのだろう。敵討ちの旅は親類・知人の援助に頼るしかなかったが本懐が遂げられずに長年経つと援助を頼みにくくなるだろう。  
本懐を遂げれば帰参し武勇が讃えられ十六巻・浮沈で登場する滝久蔵のよう加増されることもある。浪人なら忠臣蔵の中山安兵衛のように評判となり腕が買われ仕官の道が開けることがある。ただ、みっともない討ち方では体面上帰国するできず最悪帰参が適わないこともあったそうだ。  
四巻・夫婦浪人の高野十太郎の敵である村尾が公金横領犯など藩に関わる不正を犯し逃げた場合は藩からの経済的な援助や情報提供が期待できた反面、十一巻・助太刀で中島伊織が藩家老縁者である渡辺九十郎を討って帰参しても歓迎されなかったように政治が敵討ちに絡むことがあり大名や家老の縁者が殺人事件を起こしても被害者の親族へ金や役職を与えて「なかったこと」ということにして解決することもあっただろう。  
徳川家光の報復を享受した老職・青山忠俊
家光がここまで育ったのは、もちろん青山忠俊の功績が大きい。しかし忠俊はそうは思わない。というのは、家光自身が最近忠俊に対し、非常に悪感情をつのらせていることを知っていたからだ。忠俊にすれば、あいかわらず死んだ家康から命ぜられた、「竹千代に勇武の道を叩きこめ」ということを至上命令として励んでいる。家光が将軍になったからといって手加減はしない。あいかわらず厳しい諌言を行う。そのたびに家光は嫌な顔をする。まわりの者がハラハラして、「青山殿、もはや家光公は天下人だ。少しひかえられてはいかが」と言うが聞かない。
「これが俺の役割なのだ」と言って、自己の信条を絶対に曲げなかった。本当なら家光も、自分の私感情を抑えて長年世話になった息俊を、例えば正式に幕府の老中に任命するとかの通があったはずだ。しかし家光はそうはしなかった。逆に、私感情による報復行為に出た。家光は将軍になってから二か月後、突然、青山忠俊に次のような命令を下した。
「本丸老職を解任する。領地のうち二万五〇〇〇石を没収する」
江戸城内は大騒ぎになった。中には良識派もいる。その連中は、「家光公は恩を知らない。あのいくじなしの竹千代様が、今日のような立派な天下人になれたのは、青山息俊殿のお蔭ではないのか」そうささやき合った。しかし忠俊は二言も弁明はしなかった。固く口を結んだまま、黙って家光の命令に従った。
家光の報復はそれだけではすまなかった。二年後の寛永二年(一六二五)には、「領地はすべて没収する。遠江(静岡県)小林の地において、蟄居を命ずる」と言われた。連座制がとられて、長男の宗俊も同じように蟄居を命ぜられた。
一説によれば、この処分は、家光の父秀忠の指示によるものだといわれる。秀忠は、家光が将軍になった後もあいかわらず厳しい諌言をやめない忠俊に腹を立てていた。秀忠の考えは、「昔ならいざ知らず、天下人に対して大勢の人間の前で性懲りもなく諌言を行うなどというのは、不忠の臣である」と断定した。もっと勘繰れば、「青山忠俊は、あたかも自分が家光を将軍にしたという意識があるのだろう。依然として諌言をやめないのは、それを天下にひけらかしているのだ」と感じた。青山息俊にそんな気は全くない。しかし彼は、「俺が進んでこういう目にあうことが家光様の天下人としての地位を安定させる」と思っていた。だから、いってみれば、「自分からク″見せしめ″の役を買って出る」という心持ちだったのである。
蟄居の地にあって、二言も弁明もせず沈黙を守り続ける忠俊の姿に、多くの武士が感動した。家光もさすがに考えた。そこでまず手はじめに、同じ蟄居を命じた忠俊の息子宗俊を呼び出し、旗本に登用した。そして、それを一種の謝罪の意味として息俊に使いを出した。
「一時の怒りに任せて蟄居を命じすまないと思っている。蟄居を解くので、もう一度、私の側にきて仕えてはくれぬか」と申し出た。しかし、忠俊は使者にこう答えた。
「ありがたいお言葉ではございますが、お受けするわけには参りません。なぜなら、蟄居を許されて私が江戸城にもう一度まかり出れば、世間では上様(家光)が、過ちを犯されたと噂をいたします。絶対にそんなことはあってはなりません。上様は、私が死ぬまで蟄居の刑を解いてはなりませぬ。さようお伝えください」
使者からこのことを聞いた家光は初めて、「浅はかであった」と深く反省した。忠俊はそのまま蟄居を続け、寛永二十年(一六四三)に相模国(神奈川県)今泉村で死んだという。彼の信念は、「沈黙こそ、武士道の真髄だ」というものであった。  
中村藩士問答の諭し
伊東発身、斎藤高行、斎藤松蔵、紺野織衛、荒専八等、侍坐す。皆中村藩士なり。翁諭して曰く、草を刈らんと欲する者は、草に相談するに及ばず。己が鎌を能く研(と)ぐべし。髭(ひげ)を剃(そ)らんと欲する者は、髭に相談はいらず、己が剃刀(かみそり)を能く研ぐべし。砥(と)に当りて、刃の付ざる刃物が、仕舞置きて刃の付し例(ためし)なし。古語に教えるに孝を以てするは、天下の人の父たる者を敬する所以(ゆえん)なり。教るに悌を以てするは、天下の人の兄たる者を敬する所以なり、と云えり。教わるに鋸(のこぎり)の目を立てるは、天下の木たる物を伐(き)る所以なり。教るに鎌(かま)の刃を研ぐは、天下の草たる物を刈る所以也。鋸(のこぎり)の目を能く立てれば天下に伐れざる木なく、鎌の刃を能く研げば、天下に刈れざる草なし。故に鋸の目を能く立れば、天下の木は伐れたると一般、鎌の刃を能く研げば、天下の草は刈れたるに同じ。秤(はかり)あれば、天下の物の軽重は知れざる事なく、桝(ます)あれば天下の物の数量は知れざる事なし。故に我が教えの大本、分度を定る事を知らば、天下の荒地は、皆開拓出来たるに同じ。天下の借財は、皆済(かいざい)成りたるに同じ。これ富国の基本なればなり。予、往年貴藩の為に、この基本を確乎と定む。能く守らばその成る処量(はか)るべからず。卿等能く学んで能く勤めよ。

孝経 広至徳章「教以孝所以敬、天下之為人父者也、教以弟所以敬、天下之為人兄者也」(教えるに孝をもってするは、敬をもって天下の為の人を父とするものなり。教えるに弟をもってするは、敬をもって天下の為の人を兄とするものなり)。 
尊徳は、この説話で、努力の対象を間違わぬよう諭している。尊徳の仕法事業にあっては、それは分度の決定であった。分度が決定していなければ、基がぐらつくわけであるから、末端でどれだけ頑張ってみても成功には到達しない。烏山藩の仕法が、良いところまで進みながら瓦解してしまったのも、分度が決まらなかったことによった。それを招いたのも、仕法の責任者であった家老の菅谷八郎衛門が、最後の決断をわが身に代えてでもという強い意思で、藩主達に迫らなかったからであった。決断をしなければならない時には、責任者はわが身に代えてでもという意志を持ってトップに相対することが必要である。葉隠れ武士道の「武士道とは、死ぬことと見つけたり」の意味に通ずる。 
山鹿素行の感化
赤穂城が没収せられた際、藩士の数はすべて=.百数十人であった。この内籠城または殉死を申合せた者が百余人であったに、二十一ヵ月の後、仇家に討入って亡君の恨みを晴らした者は四十七人だったので、世人はその中途に逃げ出した臆病老や、背信漢の多いのを憤慨するが、しかし、あの人心儒弱、風俗淫靡を以て有名な元禄時代に、三百余人の藩士中四十七人が、生命を投げ出してあの義挙を遂行したということは、むしろその人数の多いのに驚くべきではないか。
なおまた世人は、四十七人中にはいろいろの性格、いろいろの事情があるに、それを統一して一致の行動をとらしめた大石良雄(よしたか)の威望と手腕とを嘆称するが、しかし大石いかに威望と手腕とを具えていても、藩士の多くが大野九郎兵衛父子のごとき人物であったら、到底あのような義挙を見ることはできない。四十七人が死を覚悟して亡君の仇を報ずることに終始したのは、忠義の精神が一藩に行き渡り、大野父子のごとき人間は武士の風上に置くべきでないとする気風が、藩中を支配していたので、大石はその気風を巧に指導し、その精神を中心に人々を統率して、ついにあの武士道の花を咲かせたのである。
だから、義挙は大石を中心として決行され、大石なくしてはあのような見事な成果を得ることは不可能だったと断言し得られるが、しかし大石以下をしてこの義挙に出でしめた力は、別に存在していたことを知らねばならぬ。それは山鹿素行(やまがそこう)の感化である。素行が内匠頭の祖父長直に聰せられて、前には八年間江戸藩邸で在府藩士のために文武の学を講じ、後には幕府の忌誰(きい)に触れて、赤穂の地に調(たく)せられ、更に九年間また在国の藩士に書を講じ、忠孝節義の重んずべき事を説いたのが、一藩の人心に強い感化を与え、世はいわゆる元禄時代の華奢柔弱の時代だったに拘わらず、赤穂藩には質実剛健の気風が満ち、忠孝の精神が人々の頭を支配していたので、素行が去ってから二十六年後に、四十七士の義挙となったのである。大石内蔵助その人すら、素行の感化によって人格の根本を築いたものであること、殆んど疑う余地もない。だから、赤穂義士を知るには山鹿素行を知らねばならぬ。教育の力の偉大さは、山鹿素行と赤穂義士との関係に於て最も明白に証拠だてられる。では、山鹿素行とはどんな人物か。
素行の本名は甚五右衛門といい、素行は号である。先祖は肥後の山鹿(やまが)にいたので、地名を氏にしたのである。父の玄庵は江戸で医者をしていた。素行は幼時から頭脳明敏、六歳にして経史を学び、九歳の時林羅山の門に入り、十一歳の時すでに、小学 ・論語・貞観政要などを人のために講義したが、その弁論が堂々老大家のようだったので、驚かない者はなかったという。十八の時、武田流の兵学者北条安房守氏長に入門して兵法を学んだが、五年の間に数多い弟子の中で首席となり、二十二で秘伝奥義をスッカリ伝授された。そして後に山鹿流の兵法を創始した。
当時幕府は儒学を奨励していたが、それは林道春(羅山)の系統を引いた朱子学であった。朱子学というのは、儒教を哲学的に解する朱烹(しゆき)の学派で、深遠とはいえようが、元々儒教は実生活の実行に重きをおいたものなのに、朱子学は兎角空理空論に走る嫌いがあった。それで素行は朱子学を排斥し、官学の林家と相対時し、門人が三千人を超えるに至った。そのため、幕府の誤解を招いた。
また当時の漢学者は、中国を孔孟の本国として、日本よりも一段上に位する国柄のごとく心酔する傾きにあったが、素行は、日本こそ貴い神の国で、日本の国体こそ万国無比のものである。我国の学問はこの国体を擁護するものでなければならぬという意味を説いた。それらが、幕府には気味わるく聞かれたに相違ない。
これよりさき赤穂藩主浅野長直(内匠頭長矩の祖父)とくに素行の人物と学問に傾倒し、初めは門人となって教えを受けたが、後には礼を厚うしてこれを招聴し、禄千石を給した。
『浅野内匠頭分限牒』によると、家老の大石内蔵助千五百石を筆頭として、次は岡林杢之助、奥野将監、近藤源八の各千石、その次は八百石が五人、六百五十石が二人という割になっている。祖父長直の時代に於ても、藩の所領が同じである以上、家士の禄高も大差なかったに相違ない。しかるに、山鹿素行を聴して千石を給したのは、随分思い切った優遇である。しかも素行はその時まだ三十一歳であった。三十一の青年、いかに名声が高くとも、これを招聰して、藩中第二位の高禄を給することは、恐らく藩士の大部分が反対したであろうから、長直は非常な決意を以て家臣の反対を押切り、素行招聴の希望を実現したのだろうと察せられる。従って素行も、この君公の知己の恩に感激し、藩士教育のために心力を尽すこと、一般の賓儒とは異なっていたこというまでもない。
素行が浅野藩の人となったのは、承応元年十二月で、その翌年赤穂城縄張のため】度赤穂へ行って、数ヵ月滞在したことはあるが、その他はズット江戸の藩邸で、藩士のために士道を講ずること満八年、万治三年九月に致仕(ちし)した。
ところが、それから六年の後、寛文六年十一月、素行の著『聖教要録』が幕府の忌誰(きい)に触れて、素行は赤穂の地へ調(たく)せられ、浅野侯にお預けとなった。幕府が素行を、他所へやらずに赤穂に講したのは、前に長直が高禄を以て抱えていたのみならず、今なお尊信しているので、双方のために好都合であろうとの、当局者の同情ある計らいだったのだろう。というのは『聖教要録』が、林大学頭を中心として多くの人に信奉せられている朱子学を攻撃したために罪を獲たのであるが、本来学問上の議論で、しかも、素行の主張にかなり共鳴老もあるので、罪にはしても普通の罪人扱いにはせず、とくに便宜を計ったものと考えられる。
この素行の赤穂調居を、藩主長直がどれほど喜んだか知れぬ。早速二の丸の大石頼母助(内蔵助の祖父良欽の弟で家老)の隣邸に迎え、旧師として尊敬した。爾来満九年間素行は赤穂に止って、表面謹慎中の罪人であるが、実際は賓儒のごとき待遇を受け、藩士の教育に力を注いだ。大石頼母助のごときは,毎日訪問を欠かさず、一日二回副菜物を贈って九年間絶たなんだ。
藩主長直は寛文十二年に卒去し、子長友が嗣いで太守になったが、在任僅かに四年で延宝三年他界。そのあとへ八歳の長子長矩が立った。この年、前将軍家光の二十五回忌に相当したので、素行は赦免せられ、赤穂を立って江戸へ帰った。
素行の赤穂調居は四十五歳から五十四歳までで、一生中最も膏の乗り切っていた時代であり、その名著『中朝事実』1この書は明治時代に、乃木大将によって翻刻せられ、天皇陛下に献上せられたーもこの間に書かれたのであるから、藩士に与えた感化の偉大であった事も想像されよう。
素行の赤穂を去った時、大石内蔵助は十七歳、吉田忠左衛門は三十五歳、間喜兵衛は四十一歳、堀部弥兵衛は四十九歳だった。その他小野寺十内、原惣右衛門、村松喜兵衛、貝賀弥左衛門らは、いずれも二十五から三十前後だったから、皆相当の感化を受けたに相違ない。
四十七義士の出現は、山鹿素行と、素行を尊信した藩主長直の力であること疑うベき余地もない。素行の墓は、東京牛込区弁天町の宗参寺にあり、毎年素行会(会長井上哲次郎博士)で祭典を行う。
明治維新とキリスト教
キリスト教のことである。前編で、同志社を設立した教育者で牧師の新島襄と、日本海軍を創始した立役者で政治家の勝海舟が一見全く違うジャンルで活動していたように見えるが、実はキリスト教を介して深い交友関係にあったことに触れた。
新島襄と勝海舟
また、新島襄がキリスト教を標榜する同志社を、京都という旧来日本文化の中心地に開くことが出来たのは、森有礼、田中不二麿、木戸孝允たちの明治新政府の指導者たち、あるいは山本覚馬のような京都府における指導者と深い交友関係が築けたためであるが、彼らは新島襄のキリスト教思想に共感を示し、中には自ら洗礼を受けた者がいることも、以前のウェブログ「新島襄と同志社」で触れた。
新島襄と同志社
つまり、キリスト教は、五か条のご誓文に続いて出された五榜(ごぼう)の掲示の、第三札「切支丹邪宗門ノ儀ハ堅ク御制禁タリ 若不審ナル者有之ハ其筋之役所ヘ可申出御褒美可被下事 慶應四年三月 太政官」を見てもわかるように、明治維新の時点では依然として禁制であったにもかかわらず、それに拘らなかった明治期の指導者がいたということである。
もちろん岩倉使節団の欧米訪問により、キリスト教を禁制したままでは不平等条約改正が不可能と悟って、いわば外圧によってその不利を理解した向きも多いのだが、幕末に生を受け、武士道や儒学、国学、漢学等の素養を身につけて育った幕臣や藩士たちの中から、キリスト教精神に親近感をもった勝海舟や新島襄、さらには内村鑑三や新渡戸稲造のような人物が出たことは考えてみれば不思議でもある。
所感
なぜ、幕末に生を受け、武士道や儒学、国学、漢学等の日本的な素養を身につけて育った幕臣や藩士たちの中から、キリスト教的精神や、藩を越えた国民という視点に親近感をもった勝海舟や坂本竜馬、さらに新島襄たちが生まれたのだろう、ということの疑問から、司馬遼太郎の解釈に接し、その結果、カッテンディーケにまで来てしまった。
昔の日本を西欧人の目で見た書として、以前のウェブログ「イザベラ・バードの日本奥地紀行を読む」でイギリス人のイザベラ・バードの見た日本に触れた。彼女の見た日本は明治維新後の1878(明治11)年の日本であったが、オランダ人のカッテンディーケの見た日本は、イザベラ・バードよりさらに20年余り前の、まだ江戸時代の日本である。しかもイザベラ・バードは日本の中でも文化の浸透が遅かった東北や蝦夷日本を見、カッテンディーケは日本の中では最も国際化されていた長崎を見たということになる。
イザベラ・バードの日本奥地紀行
両方の書を読んで感じるのは、「事実をありのままに見る」という公平な観察態度である。イザベラ・バードの時もプライバシーを保てない生活の中でも、物事を観察する態度は冷静であり、その本質を見ようとする観察態度に強い感銘を受けたが、カッテンディーケも来日前には事前勉強をしっかりしていて、着任してからの日本を見る目は非常に客観的である。
イザベラ・バードは、どうも短足胴長の日本人男性より、背も高く彫りの深い顔立ちのアイヌ人男性の方に好みがいったようであり、日本男子の読者としてはやっかみも出る部分があったが、カッテンディーケは日本酒の美味しさをワインと比べて礼賛しているところもあり、かなり日本びいきになっていたことは間違いないように思われる。
肥前藩の防護施設を視察した後の食事で、「食事はヨーロッパ風の料理に葡萄酒などを揃えて出したが、その葡萄酒の味ときたらとても不味くて、何べんも何べんも繰り返される乾杯には、むしろ日本酒をもって答えたくらいであった。日本人は一度始めるときりがない。私はその折、日本酒も此処のように良いものならば、ずいぶん多量に飲んでも、決して害がないことを経験した。」
「いやしくも正直なヨーロッパ商人なるかぎり、どうしてあのような葡萄酒を、日本人に売りつけられようか。私には全くの謎である。しかもそればかりではない。彼らヨーロッパ商人は、日本人がサン・ジュリアンとかカンタメアルなどという葡萄酒よりも、日本酒のほうを好む理由が解せないとさえ、日本人に向かって言っているのだから、ただ驚くの外ない。」と、日本酒を擁護してくれている。
たしかに司馬遼太郎の観るように、江戸日本の気質と、オランダのプロテスタンティズムおよび国民や市民の概念が結びついて、幕末の一部の日本人に、幕府解体以降の日本の進むべき道を照らしたことは間違いないのであろう。日本の皇室はオランダ皇室と今も深い交友関係を結ばれているが、一般の日本人も日本が近代化するにあたってのオランダの貢献を忘れてはなるまい。 
 
会津武士道 / 「ならぬことはならぬ」の教え

 

白虎隊の里  
山川健次郎の故郷、会津若松はなんといっても白虎隊の里である。  
戊辰戦争のとき、健次郎とほぼ同年代の少年たちが、城下を見下ろす飯盛山で自刃した。墓前は焼香が絶えず、会津若松を訪れる人は、必ずといっていいほどここに参拝する。  
墓前に立つと、人間の死がいかに厳粛で尊厳に満ちているかをいつも感じる。  
山川健次郎は国家をもっとも大事にした人間だった。  
戊辰戦争に破れた会津の人は亡国の民だった。国を追われ、放浪の生活を余儀なくされた。そこからはいあがった健次郎は、国家のために命をささげた白虎隊の若者たちを、生涯忘れることはなかった。  
幕末、悲劇の会津戦争を体験した。  
会津藩は幕府の命令で京都守護の大役を仰せつかり、年間1千人もの兵を京都に送った。京都には革命の嵐が吹き荒れていて、すべての人が尻込みをした。あえて火中の栗を会津藩が拾った。  
薩摩、長州との確執が深まると、兵員は2千人近くにもなる。失費も大変で、会津の領内は疲弊した。  
朝廷と幕府との間に立って懸命に努力をしたが、西郷隆盛や大久保利通、木戸孝允、岩倉具視らとの政争に敗れ、朝敵の汚名を着せられ無念の帰国となった。  
いきつくところは戦争だった。  
会津藩は老若男女も参戦し、必死の戦いを繰り広げたが、3千人の死者を出して惨敗した。  
武士の社会では、戦争もありだった。だが、この戦争には武士の情けがなかった。女分捕り隊や物品略奪隊まで編成し、城下を荒らし回り、死者の埋葬も許さない冷酷無残な戦争であった。それが、人情を大事にする会津人の心をひどく傷つけた。 
郡長正の自刃  
会津藩の教育制度は非常に厳格だった。  
サムライは上、中、下の3つの階級に分かれ、上士の者は下士の者を切り捨てる権利を持っていた。これはえらいことだった。自分の判断で相手を切り捨てることができた。しかしそのときの状況が一方的だったり、逆に上士に誤りがあったりした場合は、切腹だった。サムライには責任があった。たとえ子供であっても刀を差したら、悪ガキではすまなかったのである。  
会津戦争後のことだが、壮絶な切腹をした少年がいた。  
旧家老萱野権兵衛の次男郡長正、16歳である。  
権兵衛は戦争の責任を負って自刃、萱野姓は剥奪され、遺族は郡姓を名乗った。  
会津藩は消滅となり、青森県の地に斗南藩を創設し、会津藩の再興を期したが、極寒の地で困苦を強いられ、とても勉学どころではなかった。  
そこで豊前豊津藩に依頼し、明治3年、6人の少年を豊津藩校育徳館に内地留学させた。長正は「食べ物がまずい」と母親宛てに手紙を書いた。不覚にもその手紙を落とし、育徳館の生徒に読まれてしまった。「会津藩の恥辱」として留学生仲間からも糾弾された長正は、豊津藩と会津藩の剣道の試合で完勝したあと、「武士の名誉を汚した」と潔く自刃した。同じ会津の留学生が介錯した。  
武士の対面を汚した場合、たとえ少年であれ、腹を切る。そうした道徳、倫理観が徹底していた。  
育徳館は現在、福岡県立豊津高校となっており、校庭の一画に長正の碑がある。  
「まことに気の毒なことだった。しかし豊津高校生は、そのことを肝に命じ、今でも長正を慕っている」  
卒業生の一人はそう話し、この人は山川健次郎の胸像建設運動が起こったとき、九州地区の募金を担当した。 
遊びの什  
会津藩の子供は六歳から勉強を始める。  
午前中は近所の寺子屋で論語や大学などの素読を習い、いったん家に戻り、午後、一カ所に集まって、組の仲間と遊ぶのである。一人で遊ぶことは禁止だった。孤独な少年は皆無だった。  
仲間は10人1組を意味する「什」と呼ばれ、年長者が什長に選ばれた。年長者が複数の場合は人柄や統率力で什長が選ばれた。  
遊びの集会場は什の家が交替で務めた。  
1歳違いまでは呼び捨て仲間といって、互いに名前を呼び捨てにすることができた。什には掟があり、全員が集まると、そろって8つの格言を唱和した。  
一、年長者のいうことを聞かなければなりませぬ。  
一、年長者にお辞儀をしなければなりませぬ。  
一、虚言をいうてはなりませぬ。  
一、卑怯なふるまいをしてはなりませぬ。  
一、弱い者をいじめてはなりませぬ。  
一、戸外で物を食べてはなりませぬ。  
一、戸外で婦人と言葉を交わしてはなりませぬ。  
そして最後に、「ならぬことはならぬものです」と唱和した。  
この意味は重大だった。駄目なことは駄目だという厳しい掟だった。6歳の子供に教えるものだけに、どの項目も単純明快だった。  
遊びの什は各家が交替で子供たちの面倒をみたが、菓子や果物などの間食を与えることはなかった。夏ならば水、冬はお湯と決まっていて、そのほかは一切、出さなかった。今日ならば様相はまったく違うだろう。団地の町内会が子供を交替で預かるとする。家によって対応はまちまちになるだろうが、おやつにケーキが出るかもしれないし、アイスクリームが出るかもしれない。  
家によって格差が出てくる。しかし会津藩の場合は、全員平等である。これはきわめていい方法だった。間食はしないので、夕ご飯も美味しく食べることができた。唱和が終わると、外に出て汗だくになって遊んだ。普通の子供と特に変わりはなく、駆けっこ、鬼ごっこ、相撲、雪合戦、氷すべり、樽ころがし、なんでもあった。変わったものに、「気根くらべ」というのがあった。お互いに耳を引っ張り、あるいは手をねじり、または噛みついて、先に「痛い」といった方が負けになった。これは我慢のゲームだった。  
年少組のリーダーである什長は、普通は8歳の子供だった。  
このようにして6歳から8歳までの子供が2年間、什で学びかつ遊ぶことで、仲間意識が芽生え、年長者への配慮、年下の子供に対する気配りも身についた。喧嘩の強い子供、賢い子供、人を引きつける子供、さまざまなタイプの子供がいて、それらの子供が混然と交わることで、お互いに競争心も芽生えた。当然、子供の間には喧嘩や口論、掟を破ることも多々あった。 
厳しい罰則  
その場合、罰則が課せられた。罰則は3つあった。  
一、無念、軽い罰則は「無念」だった。  
「皆に無念を立てなさい」と什長がいうと、子供が皆に向かって「無念でありました」と、お辞儀をして詫びた。  
二、竹箆(しっぺ)、これは手の甲と、手の平のどちらかをびしっと叩く体罰である。手の平の方が重かった。これも什長や年長者が決めた。  
三、絶交、「派切る」と称した。もっとも重い罰だった。これは盗みとか刀を持ち出すとか武士のあるまじき行為の場合に適用された。一度、適用されると、その子供の父か兄が組長のところに出かけ、詫びをいれなければ、解除されなかった。これはひどく重罪で、子供の心を傷つけることもあり、滅多になかった。派切ることは子供ではなく最終的には大人が決めた。何事によらず年長者のいうことには絶対服従だったのだ。  
罰則はたとえ門閥の子供でも平等で、家老の嫡男であろうが、十石二人扶持の次三男であっても権利は同じだった。門閥の子供はここで仲間の大事さに目覚め、門閥以外の子供は無批判で上士に盲従する卑屈な根性を改めることができた。  
「ならぬことはならぬ」という短い言葉は、身分や上下関係を超えた深い意味が存在した。  
会津藩の子供たちは、こうして秩序を学び、服従、制裁など武士道の習練を積んでいった。教育がいかに大事かがよくわかる。それをいかに手間隙かけて、大人たちが行なっていたかである。家庭教育と学校、そして地域社会が一体となって教育に当たった。  
なぜこれほどまでに、きめ細かに教育したのか。その理由は幼児教育の重要性だった。当時は士農工商の階級社会である。武士は農工商の模範でなければならなかった。武士はそれだけではない。一朝、事あるときは、君主のために命を投げ出さなければならないのだ。その覚悟が求められた。もっとも恥ずべきことは弁解や責任逃れのいい訳だった。 
凛々しい母親  
幼児教育は母親が受け持った。どこの母親も子供を厳しく育てた。  
母親たちは素読の稽古から帰ると、子供を先祖を祭る神前か仏壇の前に座らせ、「武士の子は死を恐れてはなりませぬ」と切腹の稽古をさせた。武士はいつでも主君のために命を捨てる覚悟が必要だった。会津人の芯の強さ、頑なさは、こうした武士道教育にあった。  
「婦人と言葉を交わしてはなりませぬ」という一節は、昨今の女性からは「封建的」とすこぶる評判が悪いが、これもこの時代では当たり前の社会風潮だった。  
男女の規範は薩摩も長州も同じである。男子は塾や学校があったが、婦女子は家庭で教育を受けた。親は娘に「凛々しくあれ」と説いた。子供たちは、そのような母親から教育を受けた。  
そして娘が嫁ぐとき、父親は娘に懐剣を渡した。一つは身を守るためだが、もう一つは、何事かあれば、家名を汚すことなく、命を絶てという意味だった。  
主君松平容保が京都守護職に就任した文久2年(1862)以降、母親の力はさらに強くなった。男たちが京都に出かけ、母子家庭になったためである。  
当初は1年交替だったが、薩摩や長州との抗争が激化するとともに、1年が2年になり2年が3年になり、父親の長期不在の家庭が増えた。必然的にこれらの少年の監督は、母親が受け持った。  
実はここが重要なところだった。母親や祖父、祖母が教師がわりだったので、頑固さの中にも優しさがあった。  
会津藩の格言の多くは、どれも現代に通じるものばかりだった。  
煙草のポイ捨て、ゴミの投棄、犯罪の多発、こういうことの戒めを盛り込んだ新「ならぬことはならぬ」を幼児教育に取り入れれば、日本の混乱を救うことができるのではなかろうか。そう思わざるを得ないのである。 
柴司の切腹  
切腹は武士道精神の華といわれた。  
「武士道というは、死ぬことと見つけたり」と『葉隠』にあるように、切腹と武士道は密接不可分の関係になった。  
京都で会津藩士柴司が切腹していた。まだ20歳の青年だった。  
新撰組が池田屋を急襲し、薩長土佐などの浪士を斬った。元治元年(1864)六月五日のことである。風の強い日に京都の町に火を放ち、その混乱に乗じて会津藩の本陣や新選組の屯所を襲い、御所に乱入して孝明天皇を拉致し、革命政権を起こさんとする陰謀を画策していた。これを未然に防ぎ、会津藩と新選組の名前は一気に高まった。  
その5日後の6月10日、祇園に近い茶屋明保野亭に長州勢が集まり密議をこらしていると急報があった。会津藩から柴司ら五人、新選組から15人ほどが茶屋に向かった。  
司は柴五郎の家の分家筋の家柄で、兄弟3人で京都に来ていた。  
明保野亭を取り囲むと、突然、2階から一人の男が刀をふりかざしてかけ降りて来た。男は垣根を飛び越えて逃げようとした。司がその男を追い詰めた。男が抜刀し、今にも切りかからん勢いである。司は槍の名手だった。司は咄嗟に男の胸を突いた。鈍い音がして男は倒れた。  
「拙者は土佐藩の麻田時太郎である。なにゆえの狼藉か」  
男が土佐藩と名乗ったことで、司は愕然とした。長州ではなかったのだ。  
「なぜ逃げられたのか」  
司の問いに麻田は黙ったままだった。  
麻田の懐中に鏡があり、司の槍はそれをかすめて脇腹を刺したので、決して重傷ではなかったが、即刻、土佐藩に知らせなければならない。  
会津藩から土佐藩邸に使者が飛び、状況を説明した。土佐藩は意図的に刺されたとして会津藩に厳重な抗議が申し込まれた。  
土佐藩の兵士のなかには会津藩本陣に攻め込め、と叫ぶものもいる、という。  
会津藩は再三、公用人を土佐藩邸に送り、偶発的な事件であり、土佐藩に対する悪意はまったくないと弁明し、麻田を見舞った。  
ところが土佐藩には戦いで手傷を負わされた者は、自ら切腹する習慣があった。武士にはいずこにも厳しい掟があったのである。  
このことが会津藩に伝えられ、事態は深刻になった。麻田が自刃すれば、司もこのままではすまない。事態を沈静化させるためには、司も自刃せざるを得ないことになる。  
司には何ら問題はなかった。  
しかし土佐藩の事情によって事態は意外な方向に発展し、結局、司も自刃に追い込まれた。武士とはそのようなものであった。兄たちは号泣した。  
藩当局はそのかわり次兄外三郎に10石3人扶持を与え、司に代わりて新規召し出しとした。  
長兄幾馬が母に宛てた次の手紙が残されている。  
母上さま、皆様にはいかばかりか、お嘆き遊ばされたと存ずるが、切腹の儀も残すところなく立派に終わることができました。君のために身命を投げ捨てたことが、諸家にも追々伝わり、皆、感嘆いたしております。このように天下へ英名を顕し、かつ外三郎が召し出しに成り、一家を起こすことができたのは異例のことです。これもひとえに司が士道に生きたために、かような御賞誉に預かったのです。誠に身の余りありがたき次第です。かようなことなので、司のことはあきらめてくださるよう願い奉ります。  
現代語に訳すと、このような手紙だった。母は耐えなければならなかった。このことも、あっという間に城下に伝わった。武士の妻にとって、切腹は他人事ではなかった。いつ自分の子供にふりかかるかわからない身近な問題だった。会津藩では妻たちも覚悟が必要だった。 
安川財閥  
健次郎は生粋の教育者だった。  
人を育てることが、好きだった。現場で生徒や学生と触れ合うことに、喜びを感じた。  
明治39年(1906)9月のことである。  
東京の健次郎の自宅に財界の大物が来ていた。  
北九州の大実業家安川敬一郎である。  
安川は旧福岡藩士の家に生まれ、後、安川家の養子になり、福沢諭吉の慶応義塾に学び、石炭の採掘、販売で成功し、日支鉱業を起こし、日清戦争前後から海外に雄飛した。  
この日の用件は九州に、新しい実業専門学校をつくることだった。健次郎に総長就任を要請するため安川が上京したのである。  
安川がなぜ専門学校設立を考えたのか。  
1つは安川の知性である。安川は藩命によって京都、静岡に留学し、勝海舟に洋書の手ほどきを受け、福沢諭吉に学んだ経歴は、当時の社会では、希有のものだった。  
目にとまった森鴎外の論文にも啓発された。  
明治33年頃、鴎外は第12師団の軍医部長として九州小倉に来ていた。  
鴎外は福岡日々新聞に、「吾れもし九州の富人たらしめば」と題し、国の発展によってもたらされた財は、ため込んだり、無駄使いしたりするのではなく、国益のために使うべきだと訴えた。  
鴎外は日清、日露戦争の特需で利潤をあげた貝島、麻生、安川の「筑豊御三家」と呼ばれる炭田王に世の中のために金を使えと注文をつけた。  
安川はこの記事にも刺激を受けた。  
「これからの日本にとって、大事なことは人材の育成です」  
安川はおのれの信念を述べ、「その学校の総裁になっていただきたい」と単刀直入に、健次郎に協力を求めた。  
子孫のために美田を残すのではなく、国家のために貢献したいという安川の考えに健次郎は共感した。  
かねて私学の振興を考えていた健次郎は、全面的に協力すると安川に約束した。  
アメリカの財界人は教育に利益を還元するが、日本にはそういう気風がない。 
明治専門学校開設  
健次郎は東京帝大の全面的な支援のもとに、総裁として学校の建設に着手、明治42年(1909)、明治専門学校(現在の九州工業大学)を開校させる。  
財界人としての安川と、教育者の健次郎が見事に合体した専門学校だった。  
旧制中学校の卒業生、2百人が受験した。英語の試験は健次郎が自ら担当した。  
英語読解の試験に突然、やせ型の老人が現れたと思うと、流暢な英語で、飛行機が飛んだという新聞記事を読みあげた。それが健次郎だった。はじめて聞く本物の英語に受験生はただポカンと口を開けて老人を見つめるだけだった。  
第1回の人学生は採鉱科20人、冶金科15人、機械科20人の55人だった。  
競争率は4倍、優秀な学生を確保することができた。  
官立の高等工業学校は3年制だが、ここは4年制である。1年多くしたのも高度な技術者を養成するためだった。しかも、ここは全寮制だった。  
4年間、全校生徒が日夜をともにして、人間性豊かな技術者を養成せんと、健次郎が決めたのである。学生は毎朝5時にラッパの音で起床、全員で浴槽に飛び込んで冷水摩擦を行ない、それから朝食、授業開始という規律ある日々だった。  
東京帝大総長を務めた教育界の大御所が、朝から寮につめて生徒の育成指導に当たるのだ。  
周囲の人々は、その熱意に打たれた。  
健次郎でなければ、とてもできないことだった。  
会津藩の出身者のなかで、自分は恵まれた立場にある。  
その恩を社会に還元しなければならない。その思いが、健次郎の情熱をかきたてた。  
日本の近代化は、薩長だけでなしえたものではない。  
会津も頑張っていることを、世に示したかった。  
健次郎は教育方針として、徳目8カ条を定めた。それは会津藩校日新館の教えがベースになっていた。  
一、忠孝を励むべし。  
一、言責を重んずべし。  
一、廉恥を修むべし。  
一、勇気を練るべし。  
一、礼儀を濫るべからず。  
一、服従を忘るべからず。  
一、節約を励むべし。  
一、摂生を怠るべからず。  
列強に伍して世界に飛躍するために、必要なことばかりだった。明治専門学校の仮開校式で健次郎は、生徒と父兄に徳目8カ条を詳しく説いた。 
智育と徳育  
生徒諸君、入学おめでとう。  
本校は官立の高等工業学校に、決してひけはとらない学校である。  
諸君は設立者の安川氏の恩を決して忘れてはならない。  
わが校の方針は智育と徳育である。  
従来、学校は橋をかける人、鉄道を敷設する人、船に乗る人、法律に明るい人、鉱山を開く人など仕事のできる人の養成に当たってきた。しかし智育に重きを置き過ぎた結果、道義心がひどく悪くなった。そこで、わが明治専門学校は技術に通じたジェントルマンを養成することになった。諸君はこのことを、くれぐれも忘れないでもらいたい。  
本校の重点事項は、次の通りである。  
一、忠孝を励むべし。  
忠君と孝行は人間、片時も忘れてはならない。今日の若者は孝行を間違えている。父母に対して愛と敬をもたなければならない。世界の強国はイギリス、ロシア、イタリア、オーストリア、ドイツ、フランス、アメリカ、日本である。このなかで国力は日本が一番下である。しかし愛国心は一番である。愛国心を失ったとき、日本民族は滅亡する。  
一、言責を重んずべし。  
いったん口に出したことは、必ず実行することである。日本国民は士族平民の区別なく、国防の任に当たっているから皆、武士である。武士に二言はない。これを忘れてはならない。外国から日本人は当てにならないといわれてはならない。  
一、廉恥を修むべし。  
卑怯なことをしてはならない。おのれの利益のために、他人の利益を顧みず、不正なことをしてはならない。何事も、自分の良心に従って行動することである。  
一、勇気を練るべし。  
勇気は決して粗暴の振る舞いではない。国家のために一命をなげうつ勇気である。勇気を練るには、狼狽しないこと、我慢すること、おのれに克つこと、考えることである。  
一、礼儀を濫(みだ)るべからず。  
礼儀を軽く見てはならない。江戸時代、礼儀は大変重いものだった。ところが明治維新の戦乱で、社会の秩序がくずれ、礼儀を重んずることが薄れた。  
一、服従を忘れるべからず。  
学校では師を敬わなければならない。わが明治専門学校の生徒は、先生に絶対服従である。それを忘れたときは、相当の処分を課す。  
一、節約を励むべし。  
奢侈は亡国のもとである。ローマは大昔、盛んであったが、人民が奢侈に流れたため、滅びた。日本は貧乏国で20幾億という借金がある。同胞の数が5千万とすると、ひとり40円の借金である。もし明治37年に20幾億の借金があったなら、ロシアに対して、どうすることもできなかったであろう。ロシアは日本に対して復讐を考えており、わが国は節約し、いざという場合の国難に備えなければならない。  
一、摂生を怠るべからず。  
第一に飲食に注意する。第二に清潔にする。第三に運動をする。これが大事である。追々、剣術、柔術、弓道場、テニスコート、水泳プールを整備する。  
一、兵式体操  
諸君はいったん緩急あれば、国防に従事しなければならない。兵式体操はもっとも大事な教科である。  
一、英語  
官立高等工業学校の英語は、申し訳程度のものである。わが校は英語を重視している。それは外国語を知らずして、新しい知識を得ることはできないからである。諸君は中学校で英語を学んでいるのだから、英語、フランス語などを自由に使えるようにしなければならない。諸君の入学試験の英語の答案はわが輩が調べたが、英語の力が弱かった。学校としては、1クラスの生徒数を30人から25人に減らし、英語の勉強に力を入れるので、生徒は十分に勉強してもらいたい。  
これらの方針に不同意の者は、入学を取り消してもらいたい。健次郎の訓示は、厳しいものだった。新入生は緊張して健次郎に見いった。学校の方針に従わない者は退学させる、と健次郎は厳しくいった。父兄も度肝を抜かれた訓示だった。こうして明治専門学校は開校した。寮生活を通じて先輩、後輩の結び付きも強く、この学校は独特の校風を形成していった。
 
京都新撰組

 

所属/会津藩>幕府 隊長/近藤勇 勢力/13>130名
文久二年頃より、京の都は「天誅」と称した勤王浪士による暗殺事件が多発していた。京都所司代では対応不可能となり、幕府は京都守護職を新設し会津藩をその職に着ける一方で、将軍警護の名目で江戸の浪士を幕府で召し抱えれば良いという清川八郎の意見を採り入れて浪士組を作った。
清川八郎は、京都へ到着するやいなや、浪士組の目的は将軍警護ではなく、朝廷直轄の尊皇攘夷軍となる事だと公表し、浪士組を幕府から引き離そうとする。これに不満を唱えた芹沢鴨と近藤勇の各派は、浪士組を離脱した。彼らは京都守護職会津藩を頼り、会津藩の預かりとして新撰組という組織を発足させる。これ以後、京都に跳梁跋扈する勤王の志士を相手に、治安維持の最前線で血みどろの戦いを繰り返していった。
剣に腕のたつ者によって結成された新撰組は、幕末最強の剣客部隊として活躍する。特に「武士道」に重きをおき、血の掟「局中法度」による隊内統制を行う事で、烏合の衆と化す事を阻止している。新撰組においては、全員が同志同格という意識の元、実力次第で出世するという方式だった為、食い詰め浪士多数が入隊し、一時期は大勢力となっていた。その一方で、思想統制は行われなかった為、佐幕派と尊皇派が入り交じっており、新撰組の力は隊内粛正という方向にも向けられてしまう。隊内では、近藤一派と芹沢一派との勢力争いがあり、その課程で土方歳三が血の掟「局中法度」を定めた。芹沢一派は、局中法度違反として近藤一派から排除された。
元治元年に起こった池田屋事件で天下にその名を轟かせ、尊皇派から憎悪される。
薩長同盟の成立と第二次長州征伐の失敗は、政治と軍事の両面において幕府の致命傷となり、とりわけ政治的に追い詰められてしまう。
一方、新撰組では尊皇派であった伊東甲子太郎らが佐幕派である新撰組からの離脱を計り、高台寺党を結成した。土方歳三は、高台寺党との対決姿勢を強め、策を弄して伊東一派を壊滅に追いやるが、この時期には、幕府側が大政奉還に踏み切るという政治的劣勢に追い込まれ、結局第十五代将軍徳川慶喜が京都を出て大阪城へ下がると、新撰組も京都から伏見へと下がらざるを得なかった。
慶応四年に起こった鳥羽伏見の戦いに参戦し、刀槍を武器に薩長軍と戦うが薩長軍の持つ洋銃には勝てず、壊滅的打撃を被って敗北し、新撰組は事実上壊滅した。この時、土方歳三は「刀はもうダメだ。」と呟いたという。
この後も、新撰組残党は会津新撰組として会津戦争に参加。続いて函館にも函館新撰組として参加しているが、組織の体質としては京都新撰組とはまったく異質な組織となっている。
 
新渡戸稲造が伝えた「武士道」

 

新渡戸稲造と「武士道」 まずは著者である新渡戸稲造について簡単に。
「文久2年(1862年)、南部藩士、新渡戸十次郎の三男として誕生。幼少期は武士の家の子の教育を受けてきた。札幌農学校(北海道大学の前身)で学び、アメリカ・ドイツに渡って農政学等を研究。帰国後、東京帝大教授、東京女子大学長などを務めて、青年の教育に情熱を注いだ。」
そんな彼が、「武士道」を著すきっかけとなった事件が、その冒頭にこのように記されております。
『1889年頃、ベルギーの法学者・ラヴレー氏の家で歓待を受けている時に宗教の話題になった。ラヴレー氏に「あなたがたの学校には宗教教育というものがないのですか?」と尋ねられ、ないと答えると「宗教なしで、いったいどのようにして子孫に道徳教育を授けるのですか?」と繰り返された。私はその質問に愕然とし、即答できなかった。』
その後、彼は現代日本(現在から見れば「近代日本」だろうか)の道徳観念は封建制と武士道が根幹を成していることに気付き、整理したものを書物という形にして世に出すことになったそうです。
原著は1898年、アメリカ滞在中に英文で書かれたもの。1900年にフィラデルフィア(アメリカの最初の首都)の出版社から刊行され、1905年には増訂版が出されたそうです。日本でも、フィラデルフィア版と時を同じくして英文版が出版されました。この版はほとんど残っていない模様ですが、国会図書館に2,3冊所蔵されているそうです。
その後、日本語訳されたものがいくつか出版されましたが、一番有名な版は、昭和13年(1938年)に岩波文庫版として刊行された矢内原忠雄訳の「武士道」とのことです。新渡戸自身が日本語で著した版は存在しないようです。元々、諸外国に日本独自の道徳概念を紹介することが目的であったようなので、日本語では著さなかったのかもしれません。そういう目的であったため、本文中には外国の歴史上の人物・故事を例に出して説明したり、キリスト教と比較するなど、日本人にはわかりにくい例えが目立つのも事実です。なので、拙者自身よくわかっていないところもあります。
1.武士道とは何か
「武士道」を一言で表現するならば、「騎士道の規律」であり、「高貴な身分に付随する義務」と言える。武士が守るべきものであり、道徳の作法である。「武士道」は成文化された法律ではない。その多くは、有名な武士の手による格言で示されていたり、長い歴史を経て口伝で伝えられてきた。それだけに、「武士道」は実際の武士の行動に大きな拘束力を持ち、人々の心に深く大きく刻まれ、やがて一つの「道徳」を作り出していった。ある有能な武士が一人で考え出したものではなく、ある卓抜した武士の生涯を投影したものでもない。長い時を経て、武士達が作り出してきた産物なのである。
武士道がいつ確立されたのか、時と場所を明確に指定することはできないが、武士道が自覚されたのは封建制の時代であった。つまり、封建制の始まりと武士道の始まりは一致すると考えられる。日本で封建制が確立されたのは、源頼朝が武家政権を開いた時期であるが、封建的な社会的要素はそれ以前から存在していた。よって、武士道の要素も同様に、それ以前から存在していたと考えられる。武士道の源流を生み出した階級「侍」は、戦闘によってその特権的な地位を得た。長い戦いの歴史の中で、弱い者は淘汰され、強い者が生き残った。彼らが地位と名誉を獲得し、それに伴う義務を帯びるようになると、彼らに共通した行動規律が必要になってきた。その原点は、戦闘における「フェア・プレイ」である。子供じみた幼稚な考えであると、大人は笑うかもしれないが、これこそ壮大な倫理体系の「かなめの石」であろう。
戦闘は野蛮で残虐な行為を含んでいるが、「臆病者」「卑怯者」という言葉は、少年のように健全で単純な性質の人間にとっては、この上ない侮辱であった。少年達はこの観念をよりどころとして、人生を歩み始めるのである。武士道も同様であった。しかし、時代が変化するに従って彼らの行動は、より高次の権威と、より道理にかなった判断に基づいたものを求められるようになった。そのため、武士道の源流は戦闘のみならず、いくつかの拠り所を持っていたのである。
2.武士道の源
武士道の拠り所の一つは仏教である。仏教は、運命に対する信頼、不可避なものへの静かな服従、禁欲的な平静さ、生への侮蔑と死に対する親近感を与えた。
もう一つは神道である。神道は、主君に対する忠誠、先祖への崇敬、孝心などをもたらした。
道徳的な教義に関しては、儒教が豊かな源泉となった。孔子の政治道徳の格言の数々は、支配階級であった武士にとってふさわしいものであり、不可欠なものであった。
次いで、孟子の思想も大きな影響を及ぼした。その人民主権的な理論は、思いやりのある武士たちに特に好まれた。孟子の理論は既存の社会秩序の破壊を招くものであるとして、その書物は長い間禁書とされてきたが、この言葉と思想は武士の心の中に永遠に住みつくようになった。
「論語読みの論語知らず」という言葉がある。孔子の言葉を振り回すだけの人を嘲っているものである。武士道では、知性とは道徳的感情に従うものであると考えられていた。つまり、知識とは、人生における知識適用行為と同一のものなのである。知識とは、本来は知恵を得るための手段なのである。どんなに豊富な知識を持っていようとも、それが彼の行動に結びつかなければ、何の意味もないものであった。この思想は、中国の思想家・王陽明が何度も説いた「知行合一」の精神に詳しく解説されている。
このように、武士道の源泉となったものはいくつか存在するが、武士道が吸収したものはわりと少なく、単純なものであった。武士の先祖達は、健全ではあっても洗練されているとは言いがたい気質の持ち主であったが、彼らは上記の思想や断片的な教訓を糧として彼らの精神に取り込み、それぞれの時代に要請された刺激に応じて、独得の「男らしさ」の型を作りあげていったのである。
3.義
「義」とは、サムライの中でも最も厳しい規律である。裏取引や不正行為は、武士道が最も忌み嫌うものである。幕末の尊攘派の武士・真木和泉守(まき いずみのかみ:筑後久留米水天宮の祠官であったが、尊王攘夷論の影響を受け、脱藩して尊攘活動の指導者となる。蛤御門の変に敗れて自刃)は、義について以下のように語っている。
「士の重んずることは節義なり。節義はたとへていはば、人の体に骨ある如し。(中略)されば人は才能ありても学問ありても、節義なければ世に立つことを得ず。節義あれば不骨不調法にても士たるだけのことには事かかぬなり。」
また、孟子は「仁は人の安宅なり、義は人の正路なり」と言った。つまり「義」とは、人が歩むべき正しい、真っ直ぐな、狭い道なのである。封建制の末期、長く続いた泰平の世が武士に余暇をもたらし、悪辣な陰謀とまっかな嘘がまかり通っていた時代に、主君の仇を報じた47人の侍がいた。私たちが受けた大衆教育では、彼らは義士であり、その素直で正直で男らしい徳行は最も光輝く宝の珠であった。
しかし、「義」はしばしば歪曲されて大衆に受け入れられた。それは「義理」という。「義理」とは「正義の道理」なのであるが、それは人間社会が作り上げた産物といえるだろう。人間が作り上げた慣習の前に、自然な情愛が引っ込まなければならない社会で生まれるものが、義理だと思うのである。この人為性のために、「義理」は時代と共にあれこれと物事を説明し、ある行為を是認するために用いられた。人間の自然な感情に反する行為でも、それを社会が求めているのならば、その行為を正当化する道具として「義理」があらゆる場所で用いられたのである。もし「武士道」が、鋭敏で正当な勇気と、果敢と忍耐の感性を持っていなかったとすれば、「義理」は臆病の温床に成り下がっていただろう。
4.勇
孔子は論語の中で「義を見てせざるは勇なきなり」と言っている。肯定的に言い換えると「勇気とは正しいことをすることである」となる。つまり、「勇」は「義」によって発動されるものである。水戸光圀(黄門)は、こう述べている。
「一命を軽んずるは士の職分なれば、さして珍しからざる事にて候、血気の勇は盗賊も之を致すものなり。侍の侍たる所以は其場所を退いて忠節に成る事もあり。其場所にて討死して忠節に成る事もあり。之を死すべき時に死し、生くべき時に生くといふなり。」
つまり、あらゆる危険を冒して死地に飛び込むだけでは「匹夫の勇」であり、武士に求められる「大義の勇」とは別物なのである。
勇とは、心の穏やかな平静さによって表現される。勇猛果敢な行為が動的表現であるとすれば、落ち着きが静的表現となる。真に勇気のある人は、常に落ち着いており、何事によっても心の平静さを失うことはない。危険や死を目前にしても平静さを保つ人、詩を吟じる人は尊敬される。その心の広さ(余裕という)が、その人の器の大きさなのである。優れた武将として名高い太田道灌(おおた どうかん:室町時代の関東の武将。主家である扇ヶ谷上杉家を支えて武威を奮った。)は、讒言によって暗殺された時も、槍を突き刺した刺客が投げかけた上の句を受けて、息も絶え絶えの状態で下の句を続けたという挿話がよく知られている。
同様の例は他にもある。戦国時代、武田信玄と上杉謙信という二人の戦国大名が激しく争っていた。ある時、他国が信玄の領地に塩が入らないように経済封鎖を行い、信玄が窮地に陥った。この信玄を救ったのが、宿敵であるはずの謙信であった。彼は「貴殿と争うのは弓矢であって、米塩ではない。今後は我が国から塩を取り給え。」と手紙を寄せ、自国で取れた塩を商人の手によって、信玄の領地にもたらしたのである。
「勇」がこの段階まで高まると、価値ある人物のみを平時に友とし、そのような人物を戦時の敵として求めるのである。「勇」には、相手と競い合うようスポーツのような要素を含んでいる。そのため、合戦とは単なる凄惨な殺し合いではなく、命を懸けた競争のような要素を含んでおり、戦の最中に歌合戦を始めたり、当意即妙な応対を讃えるなど、凡人には理解しがたい知的な勝負でもあった。
5.仁
「仁」とは、思いやりの心、憐憫の心である。それは「愛」「寛容」「同情」という言葉でも置き換えられるものである。「仁」は人間の徳の中でも至高のものである。孟子は「不仁にして国を得る者は之有り。不仁にして天下を得る者は未だ之有らざるなり」と言い、「仁」が王者の徳として必要不可欠なものであることを説いた。
「仁」は優しい母のような徳である。だから、人は情に流されやすい。しかし、侍にとって「仁」があり過ぎることは歓迎できないことだった。伊達政宗は「義に過ぐれば固くなる。仁に過ぐれば弱くなる」と言い、慈愛の感情に流されすぎることを戒めている。「武士の情け」とは、盲目的な衝動ではなく、ある心の状態を表現しているものでもない。生殺与奪の力を背景に持ち、正義に対する適切な配慮を含んでいるものであった。一の谷の戦いで、熊谷直実が自分の子と同年代の若き武者平敦盛を泣く泣く斬る場面は、その代表例である。歴史家は、この話は作り話めいていると言うが、か弱いもの、敗れた者への仁は侍にふさわしいものとして奨励され、血なまぐさい武勇伝を彩る特質であった。
武士には詩歌音曲をたしなむことが奨励された。合戦におもむく武士が歌を詠んだり、討死した武者の鎧や衣服から辞世の歌を記した書付が見つかることは珍しいことではない。日本では、音楽や書に対する親しみが、「仁」の心、すなわち他人に対する思いやりの気持ちを育てた。
6.礼
「礼」とは
長い苦難に耐え、親切で人をむやみに羨まず、自慢せず、思い上がらない。自己自身の利益を求めず、容易に人に動かされず、およそ悪事というものをたくらまない
ということである。「礼」には、相手を敬う気持ちを目に見える形で表現することが求められた。それは、社会的な地位を当然のこととして尊重することを含んでいる。言い換えれば、「礼」は社交上必要不可欠なものとして考えられていた。品性の良さを失いたくない、という思いから発せられたならば、それは貧弱な徳であると言えるだろう。ただし、「礼」も度が過ぎることは歓迎されないことであった。伊達政宗は「度を越えた礼は、もはやまやかしである。」と言い、仰々しいだけで心のこもっていない「礼」を軽視した。「礼」は細分化され、挨拶や座り方なども細かく決められており、特殊な場合は礼の専門家によって指導されることもあった。西洋人の一部は、これらの決められた行儀作法を、自由な発想を奪うもの、として批判している。確かにそのような面があることは私も認めざるを得ない。しかし、「礼」を厳しく遵守する背景には道徳的な訓練が存在しているのである。
代表的な例は茶道である。茶道は喫茶の行儀作法以上のものである。それは芸術であり、詩であり、リズムを作っている理路整然とした動作である。そして、精神修養の実践方式なのである。礼とは動作に優雅さを添えるものであるが、礼に乗っ取った動作は礼儀のほんの一部分に過ぎない。かつて孔子は「音が音楽の一要素であるのと同様に、見せかけ上の作法は、本当の礼儀作法の一部に過ぎない。」と言った。動作も重要なものであるが、それだけでは「礼」ではない。「礼」に必要な条件とは、泣いている人と共に泣き、喜びにある人とともに喜ぶことである。「礼」とは慈愛と謙遜から生じ、他人に対する優しい気持ちによってものごとを行われるので、いつも優美な感受性として表れる。その感受性は、日常生活の些細な動作の中に顔を出すのである。
7.誠
「誠」とは「言」と「成」という表意文字の組み合わせである。武士にとって、嘘をつくことやごまかしなどは、臆病なものと蔑視されるべきものであった。商人や農民よりも社会的身分が高い武士には、より高い水準の「誠」が求められていると考えていた。「武士に二言はない」という有名な言葉があるが、ドイツでも同様の意味の言葉がある。「Ritterwort(リッターヴォルト):騎士の言葉」(Ritterとは騎士。wortは言葉)である。この言葉には、嘘偽りがない言葉、という意味も持っている。断言した武士の言葉は、真実であるということを十分に保障するものであった。「二言」のために、壮絶な最期を遂げた武士の話は、いくつも存在している。
そのため、武士同士の約束はたいてい証文などはとらなかった。言葉に嘘がない以上、改めて証文をとる必要がないからである。むしろ、証文を書かされることは武士の体面に関わることである、と考えられた。「誓うことなかれ」というキリストの教えを、多くのキリスト教徒日常茶飯事に破り続ける一方で、真のサムライは「誠」に対して並々ならない敬意を払っていたのである。
しかし、武士が「誓いを立てる」という行為を一切行わなかったわけではない。八百万の神々に誓いを立てることもあれば、誓いを補強するために血判を押すこともあった。ただし、彼らの誓いは決してふざけた形式、大げさな祈りなどには堕落しなかった。
キリスト教世界と異なるところはもう一点ある。武士にとって嘘をつくことは、罪悪というよりも「弱さ」の表れであると考えられたことである。そして、「弱い」ということは武士にとってたいへん不名誉なことであった。言い換えるなら、「誠」がない武士は不名誉な武士であり、「誠」がある武士こそが名誉ある武士、と言えるのである。
8.名誉
「名誉」は、幼児の頃から教え込まれるであり、侍の特色の一つである。武士の子供は「人に笑われるぞ」「体面を汚すなよ」「恥ずかしくないのか」という言葉で、その振る舞いを矯正されてきた。「名誉」という言葉自体はあまり使われなかったが、その意味は「名」「面目」「外聞」などの言葉で表現されてきた。新井白石は
「不名誉は樹の切り傷の如く、時はこれを消さず、かえってそれを大ならしむるのみ」
と言った。名誉は、誠と同様に、武士階級の特権を支える精神的な支柱の一つであった。
しかし、武士の名誉の名の下に、些細な事件や侮辱されたという妄想から、悲惨な刃傷事件が発生することも多かった。その多くは、武士という階級に重きを置くための創作であったが、武士の「名誉」に端を発する事件は数多く起きていた。そうなると、名誉はかえって武士を残忍にさせるものに成りかねなかったが、それは「寛容」と「忍耐」で補足されていった。些細なことで腹を立てたりすることは「短気」という言葉で嘲笑される素となったのである。寛容、忍耐の境地に達した人は稀であるが、その一人の西郷隆盛は
「道は天地自然の物にして、人はこれを行なふものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給ふゆえ、我を愛する心を以て人を愛する也」
と、教訓を残している。
9.忠義
忠義の観念は、個人主義思想の西洋と武士道が育った日本では幾分異なっている。西洋の場合、父と子、夫と妻という家族関係の間柄にも、それぞれ個別の利害関係があることを認めていた。この思想の下では、人が他に対して負っている義務は著しく軽減されている。個々に権利が認められると同時に、責任が負わされるためである。武士道の場合、一族の利害と一族を形成する個々の利害は一体のものであった。この、侍の一族による忠義が、武士の忠誠心に最も重みを帯びさせているのである。ある個人に対する忠誠心は、侍に限ったものではなく、あらゆる種類の人々に存在するものである。武士道では、個人よりもまず国が存在する。つまり、個人は国を担う構成成分として生まれてくる、と考えているのである。同様の考え方は、古代ギリシャの高名な哲学者・アリストテレスや現代の社会学者の一部にも見られるものである。換言すれば、個人は国家のために生き、そして死なねばならないのである。同じく、古代ギリシャにおいて先駆の哲学者であったソクラテスは、国家あるいは法律に次のように言わしめた。
「汝は我(国家・法律)が下に生まれ、養われ、かつ教育されたのであるのに、汝と汝の祖先も我々の子および召使でない、ということを汝はあえて言うか」
武士道が抱えていた思想は、西洋においてもそれほど突飛な思想とは言えない。ただ、武士道の場合、国家や法律に相当するものは主君という人間の人格であった。
グリフィスは「中国では、儒教の倫理は父母への従順を人間の第一の責務としたが、日本では忠義が優先された」と言ったが、正しい表現であろう。「忠」と「孝」の板ばさみに合った時、多くの侍は「忠」を選んだ。また、侍の妻女たちは、忠義のためには自分の息子を諦める覚悟ができていたのである。また、そのような逸話は数多く日本に存在しているのである。
真の忠義とは何であろうか?武士道は主君のために生き、そして死なねばならない。しかし、主君の気まぐれや突発的な思いつきなどの犠牲になることについては、武士道は厳しい評価を下した。無節操に主君に媚を売ってへつらい、主君の機嫌をとろうとする者は「佞臣」と評された。また、奴隷のように追従するばかりで、主君に従うだけの者は「寵臣」と評された。家臣がとるべき忠節とは、主君が進むべき正しい道を説き聞かせることにある。
10.武士とお金
武士の教育にあたって、まず第一に重要とされたことは、その子の品性を高めることであった。武士の教育科目には、剣術、弓術、柔術(やわら)、乗馬、槍術、戦略戦術、書、道徳、文学、儒学、歴史などで構成されていたが、これらを学ぶことによって身についた知識などは第二義的なものとして考えられていた。本来、侍とは行動の人である。学問は、侍がその職業上必要な範囲に限って利用された。それ以上の学問は、侍ではなく学者の仕事であった。特に儒学は、その子の品性を高めるための実践的な補助手段として利用されたものであり、決して儒学者を養成するためではない。
宗教や神学においても、それを究めるのは僧侶や神官の仕事であり、侍は勇気を鼓舞するためにこれらを利用した。ある英国の詩人は「人間を救うのは教義ではない。教義を正当化するものは人間である」と言ったが、多くの武士はこれに賛同するであろう。
武士の教育科目の中で、軍事上必要不可欠であると考えているものが欠けている。それは「算術」であった。出陣、合戦、恩賞、知行など、侍の生活の中にも数の知識は必要なものであったのにも関わらずである。その理由は、封建時代の戦闘には、必ずしも科学的な正確さは必要ではなかった、ということもあるが、最たる理由は、武士の教育上、数の概念を育てることは甚だ都合が悪いことであったから、である。
武士道では、損得勘定で物事を考えない。金銭そのものさえ忌み嫌い、むしろ足りないことを誇りに感じていた。お金を貯めることもせず、理財に長けることなどは嫌うべきものであった。そのような手段は不正利得と考えられていた。もちろん、武士の生活にも組織にも金銭は必要なものであった。そのため、金銭計算などは身分の低い武士の仕事とされた。江戸時代の多くの藩でも、藩財政は小身の武士か僧侶に任されていた。有能な武士は、金銭の重要性を認めてはいたが、金銭の価値を「徳」の境地にまで引き上げることはなかったのである。江戸時代の藩では、こぞって質素倹約が奨励されたが、それは理財のためではなく、節制の訓練のためである。豪奢な生活は、人格の形成に大きな影響を及ぼす最大の脅威であると考えられていた。そのため、武士には厳格で質素な生活が要求されたのである。
現代では、頭脳訓練は主に数学の勉強で行っているが、当時は文学の解釈や道義的な議論がその役割を担っていた。しかし、上記の通り、教育の目的はあくまで品性を高めることにあったため、教師という職業はできた人格を求められ、ある意味では聖職者的な色を帯びてきた。そのため、教師は武士の見本として尊敬されてきたのである。武士の本性は、算術では計算できない名誉を重んじることに特質がある。品性を育むという精神的な価値に関わる仕事の報酬は、金銭で酬いられるべきことではなかった。無価値だからではない。尊すぎて、価値がはかれないからである。武士は、無償・無報酬の仕事を実践していたのであった。ただし、弟子たちが師匠にある程度の金銭や品物を持参するという慣習は認められていた。清貧な教師たちは貧乏であったので、この贈り物を喜んで受け取った。彼らは自ら働くには威厳があり過ぎ、物乞いをするには自尊心が高すぎた。貧しい生活にも高貴な精神で耐え抜く彼らの姿は、鍛錬を重ねる自制心を持った生きた手本であり、その自制心は侍に必要とされたものであった。
11.武士の感情
武士にとって、自分の感情を顔に表すことは、男らしくないことだと考えられた。武士が鍛錬してきた勇気、礼の教えは、自分の苦しみ・辛さを表情に出すことによって、他人の平穏をかき乱すことがないように、という他人への配慮のためであった。感情を表情に出さないことは「喜怒を色に表さず」という言葉で賞賛の対象となったのである。
ある青年が「アメリカ人の夫は人前で妻に口づけをし、私室で打つ。日本人の夫は人前で妻を打ち、私室では口づけをする」と言ったが、この言葉には真実が含まれているだろう。
12.切腹
切腹は、武士階級のみに通じる一つの法制度であり、死の儀式であった。それは、自分の罪を償って過去を謝罪するためであったり、友や一族を救うためであったり、武士が忌み嫌う不名誉の烙印を押されることから免れるためであったり、自分の誠実さを証明するためであったりと、目的は様々であった。なぜ「腹」を切るのかというと、古い解剖学では、霊魂と愛情は腹に宿ると考えられていたためである。その考えは日本に限らったものではない。古代ギリシャでも同様であり、現代フランス語でも「entraile(腹部)」という言葉が、「思いやり」「愛情」という意味でも使われているのである。
切腹は武士にとって、栄光ある死であった。そのため、「名誉」を得ることが計算されたうえで、多くの若い侍が死を急ぐように切腹して果てた事実は否めない。しかし、真の侍は、いたずらに死に急ぐことは卑怯なことと同じだと考えていた。戦国時代の中国地方に山中鹿之助幸盛(やまなか しかのすけ ゆきもり)という武将がいた。彼の主家は戦に敗れて滅んだが、彼は主家の再興を志してたいへんな苦境を戦い抜いてきた。その彼は、下記の歌を詠んだという。
憂き事の なほこの上に 積れかし 限りある身の 力ためさん
ありとあらゆる困難と苦境に、忍耐と高潔な心を以って立ち向かうことを武士道は教えている。そうすることで初めて真の名誉を得ることができるのである。真の名誉は、天から自分に与えられた使命をまっとうすることである。そのために死すことは不名誉なことではないが、天が与えようとするものから逃げようとすることは卑怯なことであった。17世紀、ある高名な僧侶は以下のように言っている。
「平生何程口巧者に言うとも、死にたることのなき侍は、まさかの時に逃げ隠れするものなり」
「一たび心の中にて死したる者には、真田の槍も為朝の矢も透らず」
次に、切腹の姉妹関係といってもいい制度「仇討ち」について考えてみよう。「仇討ち」は「復讐」と言い換えることができる。現代のように刑事裁判所がない時代においては、殺人は罪ではなかった。殺人を防ぎ、社会秩序を保っていたのは、被害者の縁者による復讐だけであっただろう。日本の場合、「親の仇」と「主君の仇」が、仇討ちの中でも最も上位に位置していた。
復讐には、復讐者の正義感を満足させる「もの」がある。それは、死すべき理由のない者の命を奪った行為を悪とみなし、被害者の血肉を受け継いだ一族が殺人者に制裁を加えるという、自分の行為を正当化できるわりと単純な論理が動機となるからである。そういう意味では、この動機は人間の中に存在する普通の感覚、言うなれば人間の常識といえるだろう。この人間の常識が、武士道に仇討ちという制度を作らせたのである。普通の「定め」に従っていては裁きができないような事件でも、「仇討ち」という手段に訴えることができた。
「忠臣蔵」の物語で知られる、江戸時代中期の47名の赤穂浪士の仇討ちの話は、現代の日本でも多くの人々の感動を呼んでいる。47士の主君・浅野内匠頭長矩(あさの たくみのかみ ながのり)が切腹を申し付けられた時、控訴できる上級法廷は存在せず、十分な取調べを受けることもできずに、その命を散らした。そのため、忠義あふれる彼の家臣たちは、唯一の最高法廷とでも言うべき「仇討ち」に訴え出ることしか道は残されていなかった。仇討ちを果たした後、47士は一般の定めによって有罪とされ、切腹を命じられた。(管理人注:実際に切腹を命じられたのは46名。詳細はこちら)しかし、一般大衆は彼らに対して別の判断を下した。彼らが重んじた武士の名誉、主君への忠義の心は、民衆をして彼らに「義士」の称号を与えたのである。
13.武士の魂「刀」
「刀は武士の魂である」という言葉はあまりにも有名である。刀は、武士道の力と武勇の象徴として扱われた。刀を作るのは刀匠と呼ばれる鍛冶屋であるが、刀匠は単なる鍛冶屋ではない。彼らは、仕事を始める前に必ず神に祈りを捧げ、身を清めていた。その作業場は神聖な領域といっても過言ではないだろう。彼らが刀を鍛える作業は、ただの物理的な行為に留まらなかったのである。そのように作られた刀は、持ち主に深く愛され、さらには尊崇の対象にも成り得た。そのため、刀に対する侮辱は持ち主に対する侮辱とみなされ、他人の刀を跨いだりすることは、持ち主に対する大きな侮辱にもなったのである。
このように、武器以上の意味を持った刀に対して、武士道は適切に扱うことを強調している。不当な使用を激しく非難し、やたらと刀を振り回して威を見せる者は、卑怯者、虚勢をはる者として蔑まれた。心が洗練されている武士は、自分の刀を使うべき時をしっかりと心得ていた。また、その時はめったに訪れない稀な場合であることを知っていた。幕末の混乱期に活躍した傑物に勝海舟(かつ かいしゅう)という人物がいた。彼は身分の低い武士であったがその実力を認められ、幕府の要職を歴任した。そのため、多くの暗殺者に命を狙われたが、後に彼はこの頃の様子を回顧録にこう記している。
「私は一人も斬ったことがない。腕の立つ河上彦斎は何人も斬ってきたが、最後は人に斬られて殺された。私が殺されなかったのは、一人の刺客も殺さなかったからだ。」
「負けるが勝ち」「血を流さない勝利こそ最善の勝利」という格言がいくつかある。幾人もの人を斬り続ける道は、真の勝利にはたどり着かないことを意味している。つまり、武士道が求めた究極の理想とは「平和」だったのである。しかし残念なことに、武士は武芸に励むことばかりが優先され、究極の理想について追求することはほとんどなかった。そういう仕事は、僧や道徳家が担っていた。
14.武士道が求めた女性の理想像
武士道は男性のために作られたものである。その武士道が求めた女性の理想像は、家庭的であると同時に、男性よりも勇敢で決して負けないという、英雄的なものであった。そのため武家の若い娘は、感情を抑制し、神経を鍛え、薙刀を操って自分を守るために武芸の鍛錬を積んだ。この鍛錬の目的は戦場で戦うためではなく、個人の防衛と家の防衛のためであった。武家の少女達は成年に達すると「懐剣」と呼ばれる短刀を与えられた。その短刀は、彼女達を襲う者に突き刺さるか、あるいは彼女達自身の胸に突き刺さるものであった。多くの場合、懐剣は後者のために用いられた。女性といえども、自害の方法を知らないことは恥とされていたのである。さらに、死の苦しみがどんなに耐え難く苦しいものであっても、亡骸に乱れを見せないために両膝を帯紐でしっかりと結ぶことを知らなければならなかった。
武家の女性には、家を治めることが求められた。彼女達には、音曲・歌舞・読書・文学などの教育が施されたのも、その目的は、普段の生活に彩と優雅さを添えるためであった。父や夫が家庭で憂さを晴らすことができればそれで十分だった。娘としては父のため、妻としては夫のため、母としては息子のために尽くすことが女性の役割であった。男性が忠義を心に、主君と国のために身を捨てることと同様に、女性は夫、家、家族のために自らを犠牲にすることが、たいへん名誉なことであるとされた。自己否定があってこそ、夫を引き立てる「内助の功」が認められたのである。ただし、武士階級の女性の地位が低かったわけではない。女性が男性の奴隷でなかったことは、男性が封建君主の奴隷ではなかったことと同様である。対等に扱われなかったのは事実であるが、それは男女の間に差異が存在するためであり、不平等ではなかった。例えば戦場など、社会的、政治的な存在としては、女性はまったく重んじられることはなかったが、妻として、母としての家庭での存在は完全であった。父や夫が出陣して家を留守にしがちな時は、家の中のことはすべて女性がやりくりしていた。子女の教育もその仕事の一つである。時には、家の防備を取り仕切ることもあった。
日本の結婚観は、キリスト教の結婚観よりもはるかに進んでいると思われる。アングロ・サクソン系の個人主義のもとでは、夫と妻は別の二人の人間である、という考え方から抜けることができない。そのため、二人がいがみ合う時は、それぞれに「権利」が認められることになる。日本の場合、夫と妻は独りでは「半身」の状態であり、夫妻がそろうことで一個の形になると考えている。言わば、お互いがお互いの一部になっているようなものである。社交上、夫が自分の妻を「愚妻」と表現することがあるのは、妻に対して蔑みの言葉を投げているのではなく、自分の半身を謙遜しているからなのである。
このような武士道独特の徳目は、武士階級だけに限られたものではなかった。時と共に、それ以外の階級の日本人たちも武士道に感化されていき、日本の国民性というものが形成されていったのである。
15.大和魂
武士は一般庶民を超えた高い階級に置かれていた。かつてどの国でもそうであったように、日本にも厳然とした身分社会が存在していた。その中で、武士は最上位に位置づけられていたのである。江戸時代、日本人の総人口における武士階級の割合は決して多くはなかったが、武士道が生み出した道徳は、その他の階級に属する人間にも大きな影響を与えたのである。農村であれ都会であれ、子供たちは源義経とその忠実な部下である武蔵坊弁慶の物語に傾聴し、勇敢な曾我兄弟の物語に感動し、戦国時代を駆け抜けた織田信長や豊臣秀吉の話に熱中した。幼い女の子であっても、桃太郎の鬼が島征伐のおとぎ話などは夢中で聞いていた。このように、大衆向けの娯楽や教育に登場した題材の多くは武士の物語であったのである。武士は自ら道徳の規範を定め、自らそれを守って模範を示すことで民衆を導いていったのである。「花は桜木、人は武士」という言葉が産まれ、侍は日本民族全体の「美しい理想」となった。「大和魂」は、武士道がもたらしたもの、そのものであった。
日本民族固有の美的感覚に訴えるものの代表に「桜」がある。桜は、古来から日本人が好んで来た花であった。桜を愛でる心は、西洋人がバラの花を愛でる心と通い合えるところはほとんどない。まず、バラには桜が持つ純真さが欠けている。さらに、甘美さの裏にトゲを隠している。桜はその裏にトゲを隠し持っているようなことはない。そして、バラは散ることなく茎についたまま枯れ果てる。それはあたかも生に執着し、死を恐れるかのようである。しかし、桜の花は散る。自然のおもむくままに、散る準備ができている。その淡い色合は華美とは言えないが、そのほのかな香りには飽きることがない。このように美しく、はかなげで、風で散ってしまう桜が育った土地で、武士道が育まれたのもごく自然なことであろう。
16.最後に 武士道は甦るか
上記のように、武士道は「武士」と呼ばれた階級に属した人々により形成され、その心は日本人全体に受け継がれていった。しかし、明治維新によって「武士」階級は姿を消し、武士道が育まれた土壌は消え去ってしまった。では、武士道はこのまま消えてしまうのか?答えは「否」である。欧米諸国から「小さなジャップ」と侮られた日本人は、この数十年間で様変わりした。「小さなジャップ」が弱くか細い存在でないことは、先の日清戦争の勝利で証明されている。日清戦争の勝利は、近代軍備の力とか近代教育の効果とか言われているが、それらは事実の半分にも到達していない。武器だけで戦争に勝てるだろうか。学問だけで勝てるだろうか。何より大切なものは、民族の精神であろう。維新を進め、新たな近代国家「日本」を作り上げた原動力となった人々は、紛れもない「侍」たちであった。
武士道は、一個の独立した道徳として復活することはないかもしれない。はっきりとした教義を持たないからである。しかし、武士道が残してきた徳目の数々は、決して消え去ることはないだろう。西洋諸国の文化の中にも、武士道と同じ徳目が息づいているからだ。
時代が流れ、武士道は城郭・武具と共に崩壊した。既に、その役目を終えたかのようでもある。しかし、不死鳥は自らの灰からのみ甦ることができるのだ。武士道の栄誉は再び息を吹き返し、散った桜の花のように風に運ばれ、その香りは人々を祝福し続けるだろう。
 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
大和撫子

 

 
大和撫子 1

 

1
ナデシコの別名。日本女性の清楚な美しさをほめていう語。
2
ナデシコの別名。 [季] 秋。日本女性の清楚な美しさをたたえていう語。
3
植物。ナデシコ科の多年草、薬用植物。ナデシコの別称
4
植物「なでしこ(撫子)」の異名。《季・秋》。※古今(905‐914)秋上・二四四「我のみやあはれとおもはんきりぎりすなく夕かげの山となでしこ〈素性〉」。日本女性の清楚な美しさをたたえていう語。※人情本・春色恋白波(1839‐41)序「倭(ヤマト)なでしこ漢よもぎと冠字の対をならべたれども、〈略〉漢土の貴姫を、本朝の処女風にそだて」
5
日本人女性を指す昔の呼称。漢字で「大和撫子」と書き、植物「カワラナデシコ」(河原撫子)の異名としても用いられる言葉。「大和」とは日本の異名だが、大倭・大日本(おおやまと)という美称も指す。大和政権が五畿の一つ大和(現在の奈良県)に在ったことに由来する。元々は「倭」と書いたが、元明天皇の時に「倭」と通じる和の字に「大」を付けて「大和」と書くよう定められた。植物/ヤマトナデシコナデシコ科ナデシコ属の多年草「カワラナデシコ」の異名。
6
日本の女性の清楚な美しさ(飾りけがなく、清らかな美しさ)を讃えていう語をいいます。これは、日本の古称を意味する「大和(やまと)」と、撫でるように可愛がっている子を意味する「撫子(なでしこ)」からなる用語で、またナデシコ科の多年草(可憐で綺麗な花が咲く、秋の七草の一つ)の別名を指し、女性を"ナデシコの花"に見立てて言う美称となっています。一般に大和撫子の明確な定義はありませんが、古き良き日本(明治時代〜昭和時代)のイメージで言えば、常に控えめで目立たず、自己主張は決して強くないものの、基本的な教養や素養を備え、かつ礼儀と気品(上品さ)があって、イザという時に男性を助けたり、家族を守ったりできる、しっかりとした女性といった感じでしょうか?昨今は、社会が西洋化(欧米化)したせいか、大和撫子タイプの女性はいなくなった感じもしますが、決して絶滅した訳ではありません。日本の古き良き女性の伝統は、人間教育のしっかりとした一部の家庭において、「大和撫子」として誇りを持つ祖母から母、母から娘へと今でも引き継がれています。
7
日本古来の強さと奥ゆかしさを兼ね揃えた女性の美称。日本人女性を讃える言葉。花のなでしこの別名。日本の固有種であるナデシコの総称で、その中のカワラナデシコの異名に当たる。 「撫でるように愛しい子(女性)」という意味の「撫でし子」から、女性や子供にたとえられて、『万葉集』や『枕草子』などで女性や秋の七草の一つとして和歌に詠まれた。そして、その派手さの無い淡紅色の美しい花と、か弱くも慎ましく控えめで、清らかで凛とした美しい日本女性の理想像が重なって、女性の美称の意味になった。戦国時代に入ると家でも安心して暮らせない環境となり、この時代の女性にはただ器量と美しさを求めるだけでなく、主人が戦で留守の間に家を護る「勇ましさ」「力強さ」も求められるようになった。そういった世情の変化から戦国時代以降は「大和撫子」にも「女性らしい強さ」が求められるようになったのである。その強さの中には女性として、また大名の妻として恥を晒すことなく自ら命を絶つ方法や覚悟も含まれていた。そんな大和撫子も第二次世界大戦終結後に西洋の文化や思想、特にフェミニズムが入ってきたことにより急速に数を減らし、もはや一部のご老体を除き、絶滅してしまった。時代錯誤の女言葉、ダサピンク現象(ネットスラング)などに代表される誤った大和撫子の定義が横行していただけで、本来の意味の大和撫子は絶滅してないという説もある(大和撫子に代表される品格のある女性像がメディアの誤報道により「頼りない女性」「時代錯誤な女性」「召使いのような女性」「Aラインの服しか着ない女性」等々と誤解されてしまい、その風潮に反抗する為に横暴に振る舞う女性が増えてしまった)。元々女性はカマトトで、お淑やかさと同じぐらい横暴さも特徴で、ネットが出る前はそこが有名じゃなかっただけ、とする説もある。
イメージ
気丈で教養のある女性のことで、外見内面とも美しさが求められます 。控え目で男性を立てられることも重要です。
常に控えめで目立たず、自己主張は強くないものの、基本的な教養を備え、かつ礼儀と気品(上品さ)があって、イザという時に男性を助けたり、家族を守ったりできる、しっかりとした女性
日本の女性の清楚な美しさ(飾りけがなく、清らかな美しさ)を讃えていう語のことをいいます。
「(か弱いながらも、りりしい所が有るという意味で)日本女性の美称」
『やまとなでしこ』とは、記紀神話に出てくるクシナダヒメに由来します。そのお姫様は、撫でるように大事に育てられた姫で、これが語源になったと言われているそうです。
やはり「マナーの守れる女性」とか「品のある女性」ですね。
清楚でありつつも、強さを内に秘め、いざというときにはその強さを発揮できるような人だと思います。
相手の意見の半分は受け入れる(そして相手に流されない)
撫子の花の様に繊細で気品のある伝統的美人
露出度の高い服装の場合、崩した座り方はしない。
「肌が白くて美しい伝統的美人で、謙虚で控えめな女性」
酔っ払って大声で話さない。
控えめな女性
 
大和撫子 2

 

大和撫子とは
大和撫子という言葉は、日本人であれば一度は聞いたことがあるでしょう。しかし、どのような意味を持つのか詳しく理解されている方は、実は少ないのではないでしょうか。大和撫子とは、日本人女性の美しさを撫子(ナデシコ)という植物の花に例えて、奥ゆかしさや内に秘めた強さを兼ね備えた女性を意味する日本で昔から使われている言葉です。
「大和撫子」の語源/由来
大和撫子は、日本女性を撫子に例えているということでした。昔から使われている言葉というのはわかりましたが、具体的にいつ頃から使われてる言葉なのでしょうか。諸説ありますが、あの有名な「万葉集」でも日本女性を大和撫子に例えていたそうです。10世紀頃には、そのような意味で使われていたということになります。そんなに前の言葉が今でも使われているということは、よほど意味のある言葉ということでしょう。
「大和撫子」の使い方
では、実際どのように使ったらよいのでしょうか。現代の日本は男女平等がうたわれていますが、戦時中の日本では男尊女卑の考えが強くありました。男性は自分よりも弱い女性や子どもを守るべきであり、女性はそんな男性を陰ながら支え、心を強く持ちつつ控えめで自己主張をしない、そんな姿を求められていました。これを踏まえると、「彼女は上品で立ち居振る舞いも本当に素晴らしく、大和撫子と言える。」などという使い方をすることができます。
「大和撫子」の意味
大和撫子は、日本女性への賛辞の言葉です。一方で、「大和撫子は絶滅した」と言う人も多いです。一般的なイメージとしては、外見の美しさとともに、内面の美しさが求められています。上品でおしとやかですが、芯があり凛としている女性であり、男性を立てることのできる控えめな女性を意味しています。大和撫子は、いざという時に男性や家族を守ることができる女性です。そのためには、教養や礼儀も必要になってきます。
大和撫子とはどんな女性か
大和撫子とは具体的にどのような女性なのでしょうか。現代では女性の社会進出が進み、大和撫子は昔の概念だという人もいます。混在されがちですが、男性に依存することと男性を立てることは根本的に異なります。大和撫子の反対語や類義語の意味なども踏まえたうえで、理解を深めていきましょう。以下をご覧ください。
男性が憧れる大和撫子
いつの時代も男性が憧れるのは大和撫子なのでしょう。やはり、自立した女性や男女平等といわれていても日本古来の美意識に惹かれてしまうものなのでしょう。また、時代に沿った大和撫子の姿があるのも事実です。男性を立てることは、その男性の能力を伸ばすことにもつながります。海外の男性も、日本人女性は優しいというイメージがあったり、尽くしてくれるイメージがあるそうです。
大和撫子の特徴
大和撫子の特徴とは、具体的にどのようなものがあるのでしょうか。大和撫子の女性は、態度や表情も穏やかな傾向にあります。人が見ていないところでも、それは変わることがありません。また、内面だけでなく外見にも特徴があります。外見が派手だったり奇抜だと、大和撫子というイメージはもたれません。
大和撫子の反対語
ところで大和撫子の反対語には、どのようなものがあるのでしょう。イメージとしては、男の中の男といったところでしょうか。大和撫子は、男性の後ろを歩く控えめな女性を意味します。それを踏まえると、大和撫子の女性に支えられる男性ということになります。どのような男性のことを指すのでしょうか。また、そのような言葉は存在するのでしょうか。
益荒男(ますらお)
益荒男(ますらお)という言葉の意味をご存知でしょうか。大和撫子の反対語としてこの言葉をご紹介します。これは、立派な男性、勇気がある男性、強い男性を意味します。いわゆる男の中の男です。いい男を意味することもあります。語源としては、かつて朝廷に仕える官僚のことをこう呼んだことからきているそうです。
大和撫子の類義語の意味
大和撫子は有名な言葉ですが、類義語があることをご存知でしょうか。同じく日本女性の立ち居振る舞いや、清楚な美しさを褒める言葉です。代表される「立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花」についてご紹介します。少し長い言葉ですが、似たような意味があります。
立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花
立てば芍薬(しゃくやく)座れば牡丹(ぼたん)歩く姿は百合の花とは、芍薬も牡丹も美しい花であり、百合は清楚な花であることから、美人の姿や立ち居振る舞いを花に例えている言葉です。芍薬は立ってみるのが一番美しい、牡丹座ってみるのが一番美しい、百合は歩きながら見るのが一番美しいといわれていることから、このような言葉が生まれました。大和撫子と同じような意味です。
大和撫子の特徴
大和撫子の特徴とは、具体的にどのような特徴があるのでしょうか。ここでは、代表的な10個の特徴についてご紹介します。意味と特徴を理解して、大和撫子への理解を深めましょう。
1:肌が白い
一つ目の特徴は、肌が白いということです。最初から肌が白い人もいますが、日頃のケアによって色白を目指すことは可能です。色白は七難を隠すという言葉があるように、色白というだけで、美しくみえます。また、肌が綺麗に見えると美しくみえます。遺伝の要素もありますが、何もケアしないよりは紫外線対策やUV対策をした方が良いでしょう。美しい白肌を目指しましょう。
2:美しい髪
二つ目の特徴は、美しい髪です。美しい髪の毛に憧れる人はとても多いのではないでしょうか。こちらも遺伝要素はありますが、日頃のケアを怠っているようでは美しい髪の毛になることは難しいでしょう。また、年代によっても髪質は変わります。ツヤや手触り、パサつきなどに注意をして、しっかりとケアをしましょう。場合によっては、美容院などで取り扱っているサロン製品を使用してみることも良いでしょう。
3:凛とした佇まい
三つ目の特徴は、凛とした佇まいです。具体的に、凛としているとはどういうことなのでしょうか。凛というのは、態度や姿が凛々しい(りりしい)ことを表しています。凛としている人は、物事に動じない、周囲に媚びない、またストイックであり、何より自分に自身を持っています。つまり自分を律するコツを自分で理解しているころを意味します。自分なりに考えて出した答えがある人ということでしょう。
4:控えめな仕草
四つ目の特徴は、控えめな仕草です。控えめとは、遠慮がちな振る舞いをしたり、でしゃばらないことです。ここでは、控えめな仕草についてご紹介します。まず、何をするにも、がさつにすることは今すぐ止めましょう。同じ仕草でも、丁寧に行うことで控えめにみえます。また、自分の意見をいうときも周囲の人の気持ちを考えて発言しましょう。ただおとなしくしていればいいわけではありません。
5:清楚
五つ目の特徴は、清楚ということです。清楚という言葉も、イメージすることはできても具体的な特徴が分かりづらいでしょう。清楚とは、清らかですっきりとしていることを意味します。もちろん、メイクはナチュラルメイクをおすすめします。しかし服装やメイクなどの外見だけ清楚にしても、内面がともなっていないと清楚とは判断されません。言葉遣いや姿勢に気をつけると良いでしょう。
6:洗練されたファッション
六つ目の特徴は、洗練されたファッションです。洗練されているとは、垢抜けていて磨きがかかっていることを意味します。全体のバランスとして無駄がないようなイメージをもつと良いでしょう。無駄がないということは、すなわちシンプルであることを意味します。自分に合うものを理解して着こなすことができると素敵です。サイズ・カラーは人によって似合うものが異なります。パーソナルカラーを調べてみるのも良いでしょう。
7:美しい言葉遣い
七つ目の特徴は、美しい言葉遣いです。ただ標準語を話せば良いというものではありません。丁寧語にまつわる本を読んでみるのも良いでしょう。言葉遣いとは癖のようなものなので知らないうちに誰かを不快にさせていることがあります。言葉遣いには育ちが出るともいわれます。さまざまな人と接する上で、失笑をかっている可能性があります。イギリスでは昔から、発音でどの階級か分かってしまうと言われています。
8:きちんとした教養
八つ目の特徴は、きちんとした教養があるということです。教養というのは、学歴の話ではありません。また、知識をひけらかすことでもありません。時と場合によっては、知っていることでもあえて黙っていることも必要です。単なる物知りということではなく、一人一人が身につけた創造的な理解力のことを意味しています。
9:つねに男性を立てる
九つ目の特徴は、つねに男性を立てるということです。漠然と、男性を立てると男女の関係はスムーズにいくようだと理解している方は多いことでしょう。では、具体的な意味をご存知でしょうか。男性を立てる方法としては、男性に頼る、男性を褒めるというものがあります。また、色気などではない女性の恥じらいの部分を見せるというのも効果的です。男性の男としての存在を尊重する意味があるともいえるでしょう。
10:内に秘めた気丈さ/強さ
最後の特徴は、内に秘めた気丈さ/強さです。これは、心がしっかりとしていることを意味します。精神的な強さともいえるでしょう。気持ちが落ち込んでいても、気丈に振舞えるように普段から自分の弱さと向き合い、どのようにしたら自分を奮い立たせることができるのか、自分で答えを出しましょう。
皆に愛される大和撫子になろう
大和撫子の意味や特徴についてご紹介いたしました。漠然としたイメージの大和撫子も、深く理解してみると本当に魅力的な女性だということがわかります。古い概念だという人もいますが、現代版の大和撫子というと、イメージしやすいのではないでしょうか。いつの時代も、皆に愛される女性というのは素敵です。ぜひ、意味と特徴を理解し、現代版の大和撫子を目指してみてください。
素敵な女性になるために
いつの時代も素敵な女性は必要とされます。外見も内面も両方の魅力をもった女性を目指しましょう。周囲も自分自身も幸せにする存在は素敵です。人は、自分自身を理解することで自信がもてるようになります。自信がもてると余裕が生まれます。余裕が生まれると周囲のことを考えて行動できるようになります。そうすることで自然と周囲から感謝されるようになり、素敵な女性になれます。
 
大和撫子 3

 

「大和撫子」とは
「大和撫子」は「やまとなでしこ」と読みます。まずはその詳しい意味や言葉の由来から紹介しましょう。
日本女性を「撫子」の花に例え、称賛する表現
そもそも、「撫子(なでしこ)」は花の名前です。「大和撫子」の「大和(やまと)」は「日本」を意味する言葉で、多品種な撫子のうち、日本古来のものを区別するために「大和撫子」と称したのが始まりとされています。「撫子」という呼び名には、幼い子が撫でたくなるような花・思わず撫でてしまうほど可憐な花という由来があります。現代でも、花を指して「大和撫子」ということもありますが、一般には、撫子の花の美しさにならい、日本女性の美しさを褒めたたえる意味で使われる表現です。
「大和撫子」は女性の奥ゆかしさ・内なる強さを意味する
日本では、古くから「男性を立てる女性」を称賛する風習が根強くありましたが、そうした一歩下がってついていくように控えめで奥ゆかしい女性を指して「大和撫子」言います。また、「大和撫子」は、単に奥ゆかしいだけでなく、しなやかな中にも芯の強さがうかがえるような女性という意味もあります。女性の強さをたたえるようなニュアンスも含まれているのです。
「大和撫子」の使い方と例文
「大和撫子」という言葉の使い方を紹介します。使用例文と併せて参考にしてみてください。
女性に対する褒め言葉として使われる
「大和撫子」という言葉は、女性に対する褒め言葉であることは先述した通りで、女性の特徴に言及する際に使います。たとえば、
 彼女の上品な立ち居振る舞いはまさに「大和撫子」そのものだ
 「大和撫子」とはきっと、彼女のように芯の強い女性をいうのだろう
 「大和撫子」のイメージにぴったりな、おしとやかな女性が僕のタイプだ
といった表現が可能です。いずれも、女性をほめる文脈で使用しています。
「大和撫子」のキャラクター、人物像の特徴は?
褒め言葉として使用される「大和撫子」とは、具体的にはどういった女性を指すのでしょう。「大和撫子」には以下のような特徴が挙げられます。
態度・物腰などが穏やかな女性を指す
「大和撫子」と称される女性は、穏やかな女性を指す場合が多いのが特徴です。表情や物言いが柔らかく、優しく、品のあるふるまいをする女性を「大和撫子」と言います。遠慮がちであるなど、控えめな様子も特徴的です。ファッションやメイクも控えめで、清楚な装いの女性が「大和撫子」と呼ばれるタイプです。一方、派手な女性には「大和撫子」という言葉は使いません。
外見の美しさも「大和撫子」の条件のひとつ
「撫子」の花の美しさを例えとした「大和撫子」は、外見の美しさも重要な要素です。外見の美しさや醸し出される上品な雰囲気から、「大和撫子」ということもよくあります。
礼儀や教養も重要なポイント
「大和撫子」と呼ばれる女性は、礼儀や知識・教養が身についていることも一つの条件です。ただし、知識を備えていても、ひけらかしたり、上から目線で話したりする女性は「大和撫子」とは言えません。
内なる強さを持つのも「大和撫子」の条件
先述したように、「大和撫子」は単に清楚でおしとやかというわけではありません。気丈で落ち着いた態度など、芯が強く、内に秘めた強さを持つのも「大和撫子」の大きな特徴です。
「大和撫子」の類語
「大和撫子」はどういった言葉に言い換えられるのでしょう。似た意味の表現を紹介します。
「美人」「清楚」などが「大和撫子」の類語
「大和撫子」の類語には、「美人」や「清楚」といった言葉が挙げられます。他にも、女性の美しさを褒める際に使用する「絶世の美女」なども、「大和撫子」の類語と言えるでしょう。
「立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花」も類似表現
慣用表現としては、「立てば芍薬座れば牡丹、歩く姿は百合の花」が「大和撫子」と似た意味の表現としてよく挙げられます。ここでは、「芍薬(しゃくやく)」「牡丹(ぼたん)」は美しい花の代名詞として、「百合」は清楚なイメージの花として使用されていて、女性の姿や立ち居振る舞いを美しい花に例えた表現です。
「大和撫子」の対義語
一方、「大和撫子」の対義語にはどういった言葉があるのでしょう。反対の意味の言葉を紹介します。
「大和男児」が「大和撫子」の対義語
日本の美しい女性を表す「大和撫子」の対義語は、「大和男児」です。「大和男児(やまとだんじ)」とは、日本人らしい男性、いわゆる「日本男児」と呼ばれるような男性を意味します。使用シーンによって意味は多少異なりますが、元々は、国を守り家を守るために必要な忍耐力・精神力を備えた男性を指した表現です。一方、「大和撫子ではない女性」という意味では、「型破りな女性」などということもできます。「清楚」の対義語である「濃艶」を使い、「濃艶な女性」という表現も可能です。
「益荒男」も対義語のひとつ
「大和撫子」と反対の意味を持つ言葉には、「益荒男」もあります。「益荒男(ますらお)」とは、堂々とした男性・強く立派な男性といった意味の言葉です。「益荒男」は「大和撫子」の対義語として紹介されることもありますが、厳密には、「手弱女(たおやめ:しなやかで優美な女性の意味)」が「益荒男」の対義語とされています。
「大和撫子」は英語で何という?
日本女性を称賛する言葉として使用される「大和撫子」は、英語にするとどうなるのでしょう。「大和撫子」の英訳を紹介します。
英語では「理想的な日本女性」と表現することも
「大和撫子」は英語で「Yamato Nadesiko」と表記することもありますが、「日本人らしい日本女性」という意味で「the ideal Japanese Woman」という表記も可能です。「ideal」とは、「理想的な」という意味の英単語で、直訳すると「理想的な日本女性」という意味です。なお、植物の「撫子」は、英語では「pink」となります。「ピンク色」と同じスペルです。あまり知られていませんが、豆知識として紹介しておきましょう。
まとめ
「大和撫子」は、日本女性の持つ奥ゆかしさや内に秘める強さなど、日本女性らしい美しさをほめる意味の言葉です。単に「おしとやかな美人」という意味で使われることもあれば、芯の強さを褒めるニュアンスでも使われます。元々は「夫を支える女性像」のイメージが強い言葉ですが、時代の変化とともに、今後はさらにそのイメージも変化していくかもしれません。
 
なでしこと大和撫子 4

 

サッカー女子日本代表がワールドカップ優勝の快挙を成し遂げ、「なでしこジャパン」の文字が各紙を席巻しました。「なでしこ」は「大和撫子(やまとなでしこ)」に由来するものと思われますが、「日本女性の清楚な美しさをほめていう語」(大辞林)のイメージと、時には激しくぶつかりあうサッカーという競技との落差に少し違和感を抱いた人もいたようです。
いかに優美と賞されるプレーであっても、そもそも足を使ってボールを蹴るスポーツというのは、古来の「大和なでしこ」とはかけ離れているようにも思えます。
「なでしこジャパン」は2004年アテネ五輪のときに一般公募で選ばれた愛称。「女子代表の持つひたむきさ、芯の強さにぴったり」という理由だそうです。
花の「ナデシコ」の語源はいくつか説がありますが、「花が小さく、色も愛すべきものであるところから、愛児に擬してナデシコ(撫子)といったもの」(日本国語大辞典)というのが代表的です。これだと、試合での「強さ」には結びつきそうもありません。
「はいからさんが通る」(大和和紀、1975〜77)で、主人公・紅緒は、自転車を乗り回し、剣術の腕は並みの男を上回る、さらに酒乱というおよそ伝統的日本女性像とはかけ離れた大正時代の「女学生」です。もし女学校にサッカー部があれば入部していたかもしれません。そんな彼女が戦地に行った婚約者を待ちながら思うのは、「花嫁修業」をして「女らしくなるのだわ・・・・・・最高のやまとなでしこに」。ここでは、型破りな女性像の対極のものとして「やまとなでしこ」が使われています。
田中真紀子さんが外相になったときには、「根強い男性社会にあって、堂々と自分の信念を口にし、海外に対しても、日本女性イコール大和なでしこのイメージを打ち破ったところが、スカッと心地よく感じられる」という投書がありました(朝日新聞2001年5月27日大阪本社版声欄「真紀子さんはわれらの代表」)。
「サザエさんが受けている一番のポイントは、『男勝り』なところ。世間で求められる『大和なでしこ風』な女性像に反する部分に、読者や視聴者がこっけいさを感じる」(栗田真司・山梨大助教授〈肩書きは当時〉=朝日新聞2005年1月24日山梨版「『サザエさん』で男の生き方考える」)といったところが、一般的な「大和なでしこ」像だったのではないでしょうか。
「女子代表の躍進ぶりからして、『なでしこ』の呼び名も卒業の時かもしれない」という意見もあります(愛媛新聞7月11日「地軸 なでしこジャパン」)。
一方、「大和撫子という語には、単なる美しさだけでなく、凜とした強さが内包されていると理解していた」(やくみつるさん=毎日新聞7月16日夕刊「楚々と凜・・・よくぞ名付けた『なでしこジャパン』」という見方もあります。やくさんの引用する「新明解国語辞典」(三省堂)は「〔か弱いながらも、りりしい所が有るという意味で〕日本女性の美称」としています。
「可憐な花を咲かせるだけでなく、生命力が非常に強い」(産経新聞7月16日「男まさりの『なでしこ』たち」)、「花言葉には『純愛』のほかに『大胆』があるという」(東京新聞7月20日「『大胆』が呼んだ進化」)も、「なでしこ」には、強くて勇敢というもう一つのイメージがあるという説です。
なでしこジャパンの活躍によって、これまで隠れていた「強さ」のイメージが現れてきた、あるいは新しいイメージが付け加えられたのでしょうか。
「女性は成功により『女らしさ』を失うと恐れ、能力をセーブする傾向にあったが、最近は活躍することでこそりりしく、美しくなれるという考えから力を発揮しているのでは」(碓井真史・新潟青陵大大学院教授=産経新聞7月20日「希望を与えた日本の女子力」)という分析もあります。
監督像も昔とは変わっています。佐々木則夫監督は、おやじギャグで緊張を和ませるムードメーカーとされています。 「鬼の大松」こと大松博文監督率いる1964年東京五輪優勝の女子バレーチームや、マンガでは「エースをねらえ!」(山本鈴美香、73〜80)のように、男性の監督・コーチに絶対の信頼をおいて従っていく姿とはずいぶん違います。
これは「女の子が人類のために戦うアニメ」(それ自体、きわめて現代的なものですが)の変容にも通じるものがあるかもしれません。「(90年代のヒット作)セーラームーンは男性に魅力を振りまいていたが、プリキュアは違う。女の子が主体となって戦い、問題解決していく姿が受けたのでは」(フェリス女学院大の高田明典さん=毎日新聞2010年5月25日「プリキュア人気の秘密」)と言われるように、子供たちの世界でも自立した女性の存在があたりまえになっている時代です。
1984年、小泉今日子が「ヤマトナデシコ七変化」と歌ったのは、変わりつつあったイメージを象徴しているのかもしれません。「大和撫子」は「ヤマトナデシコ」になり、「しとやかなふり」をしていても「ひと筋縄じゃいかない」女性として描かれています。
25年前の幼稚園時代、クラブの監督に「『サッカーは女のやるスポーツではない』と吐き捨てるように」言われて傷ついたと体験を語る女性がいます(朝日新聞7月18日声欄「『女がサッカー!?』と言われて」)。この時代とはもはや隔世の感があります。
しかし、まだ古来の「大和なでしこ」のイメージをどこかにひきずっていると思われる発言もあります。「勝利の笑顔がはじける彼女たちの素顔を見ると、古来の優美な花になぞらえたネーミングの素晴らしさをあらためて思う」(東京新聞7月19日「筆洗」)。NHKの解説者(男性)も、試合後のインタビューを見ながら「(表情が和らいで)なでしこらしい顔になった」という意味のことを言っていました。
果たして、人々の抱く「なでしこ」イメージはどうなっていくのでしょうか。もし、今後の試合で、勝利のために、ラフと思われるプレーをすることがあったら、「なでしこらしくない」と非難されたりするのでしょうか。ピッチの外で奔放な言動をする選手が現れたらどう言われるのでしょうか。
米国の女子サッカー事情を見てみると、人気自体はあまり高くありませんが、「米国が重んじる『男女平等』や『勤勉』を象徴するスポーツとして位置づけられた」(読売新聞7月19日「なでしこ 世界が称賛」)という文化的背景があるようです。1972年の教育修正法が「大学部活動などでの性差別を禁じ、女子サッカー部誕生のきっかけとなった」(同)、「男子だけを優遇することは認められないので、予算も同じようにつく」(朝日新聞7月18日「女子サッカー 米出身指導者に聞く違い」)というように、きちんと制度が整っています。「女性のスポーツ参加者は30年後、高校で40倍、大学で20倍に増えた」(毎日新聞7月25日「余録」)とのことです。
また、北欧のチームが強いことについては、「女性の社会参画度と比例している」との指摘もあります(ノンフィクションライターの木村元彦さん=東京新聞7月27日夕刊「環境と闘った『なでしこ』」)。ノルウェーのサッカー協会は、理事の8人中3人が女性で「常時女子サッカーのことを考えている」そうです。
「強いなでしこ」のイメージが日本で受け入れられたとしても、それを支えるシステムが整っていかなければ、さらなる発展への道はけわしくなります。
そんな一抹の不安を抱きつつ、選手たちが今後、ピッチの中でも外でも素晴らしい活躍することを祈っています。
 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
特攻精神

 

 
特別攻撃隊

 

必死あるいは決死の任務を行う部隊。略称は「特攻隊」。
特別攻撃隊は多様な形態があり、定義も様々である。 組織的な戦死前提の特別攻撃を任務とした部隊を意味することもあるが、語源は太平洋戦争の緒戦に日本海軍によって編成された特殊潜航艇「甲標的」の部隊に命名された「特別攻撃隊」の造語からであり、これは一応の生還方法を講じた決死的作戦であった。日本海軍が定めた神風特別攻撃隊の場合は、戦死前提の爆装体当たり攻撃隊の他に掩護、戦果確認の部隊も含めた攻撃隊を意味する。
特攻は「体当たり攻撃」とも呼称される。航空機による特攻を「航空特攻」、回天や震洋のような艦艇による特攻を「水中特攻」「水上特攻」と呼称されることもある。沖縄の敵中に突入作戦を行った水上部隊は「海上特攻隊」と命名されている。
戦後の出版物でも様々に定義される。第二次大戦中に体当たり攻撃を行なった日本の航空部隊と定義するものもある。また、特別に編成された攻撃部隊、特別な任務を帯びた攻撃を目的として編成される部隊と定義するものもある。第二次世界大戦末期の独空軍におけるゾンダーコマンド・エルベのような海外の体当たり攻撃部隊を特攻隊と呼称することもある。
歴史
戦死前提以前 / 日本海軍
決死の特攻
日露戦争の旅順閉塞隊や、第一次世界大戦の青島の戦いで、会前岬(灰泉角)砲台に設置された24cmや15cmのドイツ軍要塞砲に対して、モーリス・ファルマン水上機により飛行将校の山本順平中尉が体当たりを志願するなど(実現せず)、特攻的決死戦法思想は古くからあったが、最高指揮官は攻撃後の生還収容方策手段を講じられる時のみ計画、命令したものであり、1944年10月以降に行われた特攻作戦とは本質的に異なる。
1934年(昭和9年)、第二次ロンドン海軍軍縮会議の予備交渉において日本側代表の一人山本五十六少将(太平洋戦争時の連合艦隊司令長官)は新聞記者に対し「僕が海軍にいる間は、飛行機の体当たり戦術を断行する」「艦長が艦と運命を共にするなら、飛行機も同じだ」と語った。
1941年(昭和16年)12月の真珠湾攻撃で出撃した甲標的の部隊が「特別攻撃隊」と命名され、後日広く報道された。1941年11月11日、第六艦隊において、首席参謀松村寛治中佐の発案で、長官の清水光美中将が命名した。清水によれば「日露戦争のときは決死隊とか閉塞隊という名も使われたが、特殊潜航艇の場合は連合艦隊司令長官も慎重検討の結果成功の算あり収容の方策もまた講じ得ると認めて志願者の熱意を受け入れたのだからということで、決死等という言葉は避け特別攻撃隊と称することに決まった。」とのことであった。その後も甲標的による特別攻撃隊は、1942年4月に「第2次特別攻撃隊」が編成され、オーストラリアのシドニー湾とマダガスカル島のディエゴ・スアレス港への攻撃がおこなわれ、タンカーと宿泊艦を撃沈し戦艦ラミリーズを大破させた。これらの出撃では生還者がいなかった。
1942年7月には、それまでの潜水艦を母艦とし港湾を奇襲攻撃する作戦を止め、占領地の局地防衛用として運用されることとなり、キスカ島に6隻の甲標的が配備された。しかし、ガダルカナル島の戦いが始まると、アメリカ軍の輸送船団を攻撃するため、従来同様に潜水艦を母艦とし敵泊地を奇襲攻撃する目的で「第3次特別攻撃隊」が編成され、アメリカ軍輸送船団を攻撃し2隻の輸送船を大破・座礁させたが、戦局好転せず12月には作戦は中止された。第3次特別攻撃隊は、今までの出撃とは異なり、8隻の甲標的が出撃したが5隻が生還し、この後の甲標的の運用に貴重な戦訓をもたらした。 第3次特別攻撃隊後の特殊潜航艇は、ラバウル、トラック島、セブ島、沖縄など重要拠点の局地防衛のため地上基地に配備されることとなり、「特別攻撃隊」の名前は使われなくなったが、後の特攻隊に名前は受け継がれた。
水上・水中特攻の研究
連合艦隊主席参謀としてモーターボートによる特攻の構想(後の震洋)を軍令部に語っていた黒島亀人が軍令部第二部長に就任すると、1943年8月6日戦備考査部会議において突飛意表外の方策、必死必殺の戦を提案し、一例として戦闘機による衝突撃の戦法を挙げた。1943年8月11日には第三段作戦に応ずる戦備方針をめぐる会議で必死必殺戦法とあいまつ不敗戦備確立を主張した。
同時期に第一線からも、戦局を挽回する秘密兵器として同時多発的に人間魚雷の構想がなされた。その中で、甲標的搭乗員の黒木博司大尉は、甲標的が魚雷で攻撃するのではなく、敵艦に体当たりしそのまま自爆すれば効果が大きいと考え「必死の戦法さえ採用せられ、これを継ぎゆくものさえあれば、たとえ明日殉職するとも更に遺憾なし」と自らその自爆攻撃に志願するつもりであったが、後に海軍潜水学校を卒業し、同じ呉市倉橋島大浦崎の甲標的の基地訓練所(P基地)に着任した仁科関夫中尉と同じ部屋に同居することになると、仁科も黒木の考えに同調し共に人間魚雷の実現に向けて研究を行うこととなった。
人間魚雷を構想した内の1人、駆逐艦桐の水雷長三谷与司夫大尉は、卓越した性能を持ちながら戦局の悪化で活躍の機会を失っていた「九三式三型魚雷(酸素魚雷)」の体当たり兵器への改造を上層部に血書嘆願していたが、黒木と仁科の研究も甲標的の自爆から、九三式三型魚雷の改造に変更し、鈴川技術大尉の協力も得て設計を終えると、その構想を血書で軍令部に上申したが、この兵器があまりにも非道と考えた軍令部は黒木・仁科の上申を却下した。
一旦は人間魚雷の上申を却下した軍令部であったが、1944年2月17日のトラック島空襲で大損害を被るなど、戦局の悪化に歯止めがかからなくなったことを重くみて、1944年2月26日初の特攻兵器となる「人間魚雷」の試作を決定した。
海軍の組織的な特攻は航空特攻に先駆けて水中特攻から正式な計画が開始されたが、ここから組織的特攻に動き出した。
人間魚雷試作決定後の1944年4月4日、軍令部第二部長の黒島より提案された「作戦上急速実現を要望する兵力」の中には、体当たり戦闘機、装甲爆破艇(震洋)、1名速力50節航続4万米の大威力魚雷(回天)という特攻兵器も含まれており、軍令部はこれを検討後、他の兵器とともに「装甲爆破艇」「大威力魚雷」の緊急実験を海軍省に要望し、海軍省海軍艦政本部と海軍航空本部は仮名称を付して担当主務部定め特殊緊急実験を開始した。 仮名称は番号にマルを付けたもので、4番目の装甲爆破艇はマルヨン、6番目の大威力魚雷はマルロクと呼ばれた。1944年4月初めに装甲爆破艇マルヨンは艦政本部第4課で開発が開始されると、1944年5月27日には試作艇による試験が可能となった。開発速度を上げるためエンジンはトラックのエンジンが転用され、船体をベニヤ製とし軽量化を図った。試験により判明した問題点を修正し、1944年8月28日に新兵器として採用され「震洋」と名付けられた。制式採用時点では震洋には操舵輪を固定する装置が付いており、搭乗員は敵艦に狙いを定めた後は舵を固定して海に飛び込んで退避することが可能であった。
マルロクの大威力魚雷は既に黒島の提言前から開発が開始されていたが、開発決定前に海軍潜水艦部長三輪茂義中将が「搭乗員が命中500m前に脱出できない限りは、この兵器について検討もなされないであろう。」と苦言を呈した通り、海軍中央部の開発許可条件は脱出装置の設置であった。しかし、1944年7月25日に最初の航走実験を行ったマルロクの試作型には特別な脱出装置は装着されておらず、脱出も可能なハッチが操縦席下部に設置されているだけであった。訓練中の事故で操縦席下部ハッチを開けて脱出した例はあったが、実戦では脱出しても1,550kgの炸薬の爆発で生き残れる望みはなく、下部ハッチを脱出に使用した例はなかった。特別な脱出装置が設置できなかったのは、九三式三型魚雷を利用して作ったマルロクを更に大規模に改造しなければいけないからであった。試作型のテストに成功したマルロクは8月に海軍特攻部長に就任した大森仙太郎中将により幕末の軍艦回天丸より「回天」と命名された。
マリアナ沖海戦の敗北を受け、1944年6月25日元帥会議が行われた。その席で永野修身元帥が「状況を大至急かつ最小限の犠牲で処置する必要がある。なかでも航空機の活動がもっとも必要であり、陸海軍を統一して、どこでも敵を破ることが肝要である。」と発言した。これは既に陸海軍ともに特攻を開始すべく特攻兵器の開発を行っており、この元帥会議はその方針を確認するものであり、航空特攻開始の意を含んでいたと見る者もいる。それを受けて伏見宮博恭王が「陸海軍とも、なにか特殊な兵器を考え、これを用いて戦争をしなければならない。戦局がこのように困難となった以上、航空機、軍艦、小舟艇とも特殊なものを考案し迅速に使用するを要する」と発言し日清・日露戦争時の例も出し、特殊兵器の開発を促し、陸軍の参謀本部総長東條英機は「風船爆弾」と「対戦車挺身爆雷」他2〜3の新兵器を開発中と答え、海軍の軍令部総長嶋田繁太郎も2〜3考案中であると答えた。これは特攻を兵器と採用することの公式な承認を意味し、この具体的に説明しなかった2〜3の兵器が陸海軍とも特攻兵器のことであるとする意見もある。
元帥会議後に、軍令部総長兼海軍省大臣の嶋田繁太郎は、海軍省に奇襲兵器促進班を設け、実行委員長を定めるように指示する。1944年7月1日、海軍水雷学校校長大森仙太郎が海軍特攻部長に発令される(正式就任は9月13日)。大森の人選は、水上・水中特攻を重視しての人選であり、大森は全権を自分に委ねてどの部署も自分の指示に従うようにするという条件を出して引き受けた。1944年9月13日、海軍省特攻部が発足。特攻兵器の研究・調査・企画を掌握し実行促進を行う。
1944年7月10日、特攻兵器回天の部隊として第一特別基地隊の編成が行われる。1944年7月21日、総長兼大臣の嶋田繁太郎は連合艦隊司令長官豊田副武に対して特殊奇襲兵器(「回天」)の作戦採用が含まれた「大海指四三一号」を発令した(水中特攻のみで航空では夜間の奇襲作戦が採用されている)。回天の量産は8月に開始され、同時期に搭乗員の募集が開始された。海軍兵学校卒の士官については、一部の志願者を除き海軍人事部からの辞令により、通常の転勤として隊員となったが、予備士官や海軍飛行予科練習生に対しては「この兵器(回天)は生還を期するという考えは抜きにして作られたものであるから、後顧の憂いなきか否かをよく考えるように」という特攻兵器であることを説明の上で志願を募り、志願者は募集人員を大幅に上回った。例えば甲種飛行予科練習生13期生では2,000名の卒業生の内熱望が94%、望が5%、保留が1%で熱望・望の約1,900名以上の中から100名が選抜された。1944年9月1日、山口県大津島に回天訓練所が開所されたが、8月中に量産型100基の生産を予定していたにも関わらず、生産は捗っておらず、訓練所に配備された回天は試作型の3基だけであった。試作型は試験の結果改善される予定であった欠点もそのままだったので、回天発案者の黒木が訓練中の事故で殉職するなど、搭乗訓練は進まず、回天の実戦への投入時期は遅れていくこととなった。
回天と比較すると構造が簡単な震洋は製造が順調に進み、制式採用前の7月中には既に300隻の完成が見込まれており、内50隻が訓練用として水雷学校のある横須賀田浦に送られ、7月中には震洋の訓練が開始された。震洋の搭乗員は志願制とされ、司令官の大森が「決死の志願者が集まるか」と心配していたが、募集をかけると予想以上の志願者が集まり安心したという。訓練は田浦の沖長浦湾で行われた。横須賀港の海軍砲術学校沖に完成したばかりの空母信濃が係留されると、教育中の震洋隊は巨大な信濃を訓練の標的代わりにして、中にはあやうく激突しそうになった艇もあった。田浦で震洋の部隊編成も行われた。1個震洋隊は55隻の震洋が配備され、他に整備要員や事務を行う主計兵、通信兵、衛生兵など約195名で編成されていたが、これは陸軍の同じ特攻艇のマルレの1個戦隊よりは少ない人数である。後に長崎県の川棚町の臨時魚雷艇訓練所で震洋の訓練が行われるようになった。編成された震洋隊の内5隊は小笠原諸島に送られたが、次にアメリカ軍が侵攻してくる可能性が高いと判断されたフィリピンには9隊が送られた。しかし、海上輸送中に積載していた輸送艦がアメリカ軍潜水艦の餌食となり大損害を被り、戦う前に戦力が半減してしまった。
航空特攻の研究
1943年6月末、侍従武官城英一郎が航空の特攻隊構想である「特殊航空隊ノ編成ニ就テ」を立案する。内容は爆弾を携行した攻撃機による艦船に対する体当たり特攻で、専用機の構想もあった。目的はソロモン、ニューギニア海域の敵艦船を飛行機の肉弾攻撃に依り撃滅すること、部隊構成、攻撃要領、特殊攻撃機と各艦船への攻撃法、予期効果がまとめられている。城は航空本部総務部長大西瀧治郎中将に相談して「意見は了とするが未だその時にあらず」と言われるが、城の決意は変わらず、上の黙認と機材・人材があれば足りると日記に残している。その後、軍令部第二部長黒島の提案や1944年春に海軍省兵備局第3課長大石保から戦闘機による大型機に対する体当たり特攻が中央に要望されていたが、1944年6月マリアナ沖海戦敗北まで中央に考慮する動きはなかった。
マリアナ沖海戦敗戦後は、通常航空戦力ではもはや対抗困難という判断が各部署でなされ、特攻検討の動きが活発化しており、城から機動部隊長官小沢治三郎、連合艦隊司令部、軍令部に対して航空特攻採用の上申が行われている。1944年6月19日、341空司令岡村基春大佐は第二航空艦隊長官福留繁中将に「戦勢今日に至っては、戦局を打開する方策は飛行機の体当たり以外にはないと信ずる。体当たり志願者は、兵学校出身者でも学徒出身者でも飛行予科練習生出身者でも、いくらでもいる。隊長は自分がやる。300機を与えられれば、必ず戦勢を転換させてみせる」と意見具申した。数日後、福留は上京して、岡村の上申を軍令部次長伊藤整一中将に伝えるとともに中央における研究を進言した。伊藤は総長への本件報告と中央における研究を約束したが、まだ体当たり攻撃を命ずる時期ではないという考えを述べた。また、また7月サイパンの失陥で国民からも海軍省、軍令部に対して必死必殺の兵器で皇国を護持せよという意見が増加した。
マリアナ沖海戦前後に海軍省の航空本部、航空技術廠で研究が進められていた偵察員大田正一少尉発案の航空特攻兵器「桜花」を軍令部も承認して1944年8月16日正式に桜花の試作研究が決定する。1944年10月1日に桜花の実験、錬成を行う第七二一海軍航空隊(神雷部隊)を編制。この編制ではまだ特攻部隊ではなく、普通の航空隊新設と同様の手続きで行われている。
1944年10月12日に開始された台湾沖航空戦で、日本軍は大戦果と誤認したが、実際には巡洋艦2隻を大破しただけだった。攻撃隊の指揮を執った第26航空戦隊司令官有馬正文少将は、戦果判定が過大であることを認識しており、報道班員の新名丈夫に対し「もはや通常の手段では勝利を収めることは不可能である。特攻を採用するのは、パイロットたちの士気が高い今である」と語り、1944年10月15日の午後に、自ら攻撃部隊の空中指揮を執るために、参謀らの制止を振り切って一式陸上攻撃機に搭乗した。有馬は常々「戦争では年をとったものがまず死ぬべきである」と主張しており、一身を犠牲にして手本を示そうとしたものという意見もある。午後3時54分に有馬機からの「敵空母に突入せんとす、各員全力を尽くすよう希望する」という電報をニコルス基地が受信した後に連絡が途絶えたが、敵空母に突入することはできず、接近前に艦載戦闘機の迎撃で撃墜されている。しかし有馬の戦死は、「敵正規空母に突入しこれを撃沈した」「有馬少将の戦死は、部下の特攻への激しい要望に対する起爆剤となった」と公式発表され、特攻開始の空気の醸成に寄与することとなった。
戦死前提以前 / 日本陸軍
決死の特攻
日本陸軍は日露戦争において、白襷隊といった決死隊を臨時に編成したことはあったが、これは決して生還を期さない任務ではなく、ただ決死の覚悟で極めて困難で危険な任務を果たすというものであった。
第二次大戦末期に組織的な特攻が始まる以前より、現場で自発的な自爆攻撃(特攻)の必要性が訴えられたり、あるいは実施した事例があった。1943年3月初旬、ラバウルの飛行第11戦隊の上登能弘准尉は、防弾装備が整った大型のB-17爆撃機は弾丸を全弾命中させても撃墜できないため体当たり攻撃が必要、体当たり攻撃機を整備すべきと現地の上級部隊司令部に上申したが、陸軍中央へは届かなかった。5月上旬、同じ第11戦隊の小田忠夫軍曹はマダン沖でB-17に体当たりして戦死している。同年11月9日、ビルマ方面の重爆隊である飛行第98戦隊第2中隊長西尾常三郎大尉は、機体に500kg爆弾を装備しての組織的な体当たり攻撃を計画すべしと日記に記している例もある。
1944年(昭和19年)4月14日、アンダマン諸島へ向かう陸軍輸送船「松川丸」を護衛中の飛行第26戦隊の一式戦闘機「隼」(操縦石川清雄曹長)が、アメリカ海軍の潜水艦が発射した魚雷3本を発見、機銃掃射しつつ魚雷目掛け海面に突入し戦死するも爆破に成功した。
同年5月27日、ビアク島の戦いで来攻したアメリカ海軍艦隊に対し飛行第5戦隊長高田勝重少佐以下二式複戦「屠龍」4機は独断による自爆攻撃を実施。「屠龍」4機は超低空飛行で艦隊に接近し、2機が撃墜され1機は被弾撤退するも、残る1機は上陸支援を行う第77任務部隊司令官ウィリアム・フェクテラー少将の旗艦である駆逐艦サンプソン(英語版)に接近。被弾のためサンプソンへの突入はわずかに逸れ、付近の駆潜艇SC-699に命中し損害を与えた。また現地で艦船攻撃に際し爆弾投下前に被弾し生還が望めない場合、機上で信管を外し体当たりできるように改修するものもあった。同年中後半、ビルマ方面の防空戦闘で陸軍戦闘隊は、新鋭爆撃機として投入されていたB-29に一式戦「隼」で数次の体当たりを行っていた。これらの訴えは飛行機への体当たりであり、一部破壊(撃破)でも墜落する可能性があり生還する余地もあった。
水上特攻の研究
陸軍船舶司令部の司令官であった鈴木宗作中将が、陸軍中央で航空特攻が本格的に検討され始めた1944年4月ごろに「陸軍も海上交通の重要性を認識すべき」と考え、敵の輸送船団に大打撃を与えるためモーターボートを改造して攻撃してはと構想した。鈴木がこの構想を持ったのと同時期に大本営陸軍部も肉薄攻撃艇開発の検討が始まっていた。1944年4月27日に陸軍兵器行政本部に肉薄攻撃艇開発の命令が下され、肉薄攻撃艇の名称は「四式肉薄攻撃艇」と決定したが、情報秘匿のため正式名称は伏せられ「四式連絡艇」と称され、頭文字をとって「マルレ」とも呼ばれるようになった。
開発は1944年5月に姫路市に新設された第10陸軍技術研究所で開発が進められたが、海軍の特攻艇「震洋」の開発が進んでいるとの情報を知った船舶司令部司令官の鈴木は、開発責任者の内山鉄夫技術中佐に開発の加速を命じ、内山はそれに応えわずか2週間で設計を終え、試作艇が作られた。しかし、開発時点では「マルレ」は海軍の「震洋」とは異なり、初めから体当たり攻撃前提の特攻艇ではなく、あくまでも肉薄攻撃艇であり、敵輸送艦近くに爆雷を投下して退避するという運用を想定していたが、試作艇でデモンストレーションをした結果、爆雷が爆発して生じる大きな水柱をどうやって回避すべきかという問題が浮上した。開発を命じた大本営はUターンして避けるべきと主張したが、技術陣の方から「それは机上の空論だ、体当たりしたほうが戦果は確実だ」との反論がなされ、結局、技術陣の主張が通り、海軍の「震洋」と同様も体当たりも可能な設計とすることとした。しかし、投下・体当たりいずれも選択できるよう、操縦者がハンドルを引くか、ペダルを踏むと搭載されている250kgの三式爆雷が投下され、爆雷を抱いたまま体当たりすると艇首に設置している棒で爆雷の安全ピンが外れ海中に落下し7秒後に爆発するようにセットされていた。しかし、体当たりの際には搭乗員はマルレの舵を固定し水中に脱出することとなっており、その前提で大本営は採用を許可したが、実戦では脱出せずにそのままマルレごと体当たりする搭乗員が多かった。
マルレ開発開始とほぼ同じ時期の1944年5月に香川県豊浜で訓練が開始され、後に小豆島にも訓練施設が設けられた。1944年8月には訓練を受けた搭乗員によりマルレを運用する部隊、陸軍海上挺進戦隊が編成された。1個戦隊は100隻のマルレで編成され、特攻艇の搭乗員100名の他に整備班や医務班や警備艇を警護する重機関銃を装備した歩兵部隊など900名の大所帯となった。編成された海上挺進戦隊はアメリカ軍の侵攻が予想されるフィリピンに30個戦隊が送られた。しかし、海軍の「震洋」部隊と同様に、海上輸送中にアメリカ軍潜水艦により第11、第14戦隊が海没するなど、フィリピンに到着前に多大な損害を被った。
航空特攻の研究
1943年(昭和18年)春、日本軍は超重爆 B-29の情報を掴み、「B-29対策委員会」を設置した。4月17日、東條英機陸軍大臣は敵情判断や本土防空の心構えについて語り、ハワイより飛来するであろう超々重爆撃機に対し「これに対して十分なる対策を講じ、敵の出鼻を叩くため一機対一機の体当たりで行き、一機も撃ち洩らさぬ決意でやれ。海軍はすでに空母に対し体当たりでゆくよう研究訓練している。」と述べ、特攻精神を強調した。
陸軍中央では1944年初頭に組織的な航空特攻の検討が始まった。陸軍はそれまでも前線からの切実な要望を受けて 浜松陸軍飛行学校が中心となって艦船に対する攻撃法を研究していた。まずは陸軍重爆の雷撃隊への改修を決定し、1943年12月に海軍より九六式陸上攻撃機の提供を受けて訓練が実施された。同時に四式重爆撃機「飛龍」の雷撃機改修も行われた。後に雷撃訓練は海軍指導のもとに行われ、陸軍の技量は向上したが、その頃には航空機による通常雷撃がアメリカ艦隊に対してほぼ通用しなくなりつつあった。また連合軍が採用し、ビスマルク海海戦などで成果を挙げていた反跳爆撃なども研究が行われ、1944年4月浜名湖で陸軍航空審査部との合同演習が行われ、8月には那覇で沈船を目標にした演習が行われ一定の成果はあったが、爆弾の初速が低下することや、航空機の軽快性を確保するためには大重量の爆弾を携行できないことが判明した。その後、実際に運用もされたがめぼしい成果を挙げることはできなかった。
以上の実績も踏まえて、陸軍中央航空関係者の間で 圧倒的に優勢な敵航空戦力に対し、尋常一様な方策では対抗できないとの結論に至り、1944年3月には艦船体当たりを主とした航空特攻戦法の検討が開始され、春には機材、研究にも着手した。1944年3月28日、陸軍航空本部には特攻反対意見が多かったことから、内閣総理大臣兼陸軍大臣兼参謀総長東條英機大将は航空総監兼航空本部長の安田武雄中将を更迭、後宮淳大将を後任に据えた。1944年春、中央で航空関係者が特攻の必要に関して意見を一致した。当初は精鋭と器材で編成し一挙に敵戦意をそぐことを重視した。そこでまず九九式双軽爆撃機と、四式重爆撃機「飛龍」を改修することになり、中央で2隊の編成準備を進めた。特攻隊の編成にあたっては、参謀本部の「特攻戦法を中央が責任をもって計画的に実行するため、隊長の権限を明確にし、その隊の団結と訓練を充実できるように、正規の軍隊編制とすることが必要である」という意見と陸軍省(特に航空本部)の「軍政の不振を兵の生命で補う部隊を上奏し正規部隊として天皇(大元帥)、中央の名でやるのはふさわしくない。現場指揮官の臨機に定めた部隊とし、要員、機材の増加配属だけを陸軍大臣の部署で行うべきである」という意見で議論が続けられたが、後者で実施された。また同年5月、体当たり爆弾桜弾の研究が第3陸軍航空技術研究所で開始される。
マリアナ沖海戦の敗北後開催された1944年6月25日の元帥会議で、伏見宮博恭王が「陸海軍とも、なにか特殊な兵器を考え、これを用いて戦争をしなければならない。戦局がこのように困難となった以上、航空機、軍艦、小舟艇とも特殊なものを考案し迅速に使用するを要する」と発言し、陸軍の参謀本部総長東條英機と海軍の軍令部総長嶋田繁太郎は2〜3考案中であると答えた。サイパンの玉砕を受けると、1944年7月7日に開催された参謀本部の会議で航空参謀からもう特攻を行う以外にないとの提案があり、1944年7月11日、第4航空技術研究所長正木博少将は「捨て身戦法に依る艦船攻撃の考案」を起案し、対艦船特攻の方法を研究し、6つの方法を提案した。
1944年7月、鉾田教導飛行師団に九九双軽装備、浜松教導飛行師団に四式重爆「飛龍」装備の特攻隊を編成する内示が出た。8月中旬からは九九双軽と四式重爆「飛龍」の体当たり機への改修が秘かに進められた。9月28日、大本営陸軍部の関係幕僚による会議で「もはや航空特攻以外に戦局打開の道なし、航空本部は速やかに特攻隊を編成して特攻に踏み切るべし」との結論により、参謀本部から航空本部に航空特攻に関する大本営指示が発せられる。
フィリピン戦 / 日本海軍
航空特攻
1944年10月5日、大西瀧治郎中将が第一航空艦隊司令長官に内定した。大西は「震洋」「回天」「桜花」など海軍が特攻兵器の開発を開始していることを知っており、航空特攻を採用しようと考えていた。大西はフィリピンに出発する前に海軍省大臣米内光政に現地で特攻を行う決意を語り承認を得て、軍令部総長及川古志郎に対しても決意を語り、「決して命令はしないように。戦死者の処遇に関しては考慮します。」「指示はしないが現地の自発的実施には反対しない」と及川の承認も得た。大西は「中央からは何も指示をしないように」と希望した。また大西は発表に関する打ち合わせも行い、事前に中央は発表に関して大西からの指示を仰ぐ電文も用意し、事後に発信している。
フィリピンに進出する前に大西は台湾に立ち寄り、連合艦隊司令長官豊田と共に台湾沖航空戦の戦局を見守っていたが、台湾新竹上空で繰り広げられた零戦とF6Fヘルキャットの空戦を見て、日本軍の不利を悟って、不利を克服して勝機を掴むのは敵空母に対する体当たりしかないと意を強くした。10月15日に敵空母に特攻をおこなった有馬の行動も大西を後押しするかたちとなり、豊田と特攻戦術採用について「単独飛行がやっとの練度の現状では被害に見合う戦果を期待できない、体当たり攻撃しかない、しかし命令ではなくそういった空気にならなければ実行できない」と自分の考えを述べるなど、長い時間打ち合わせした後に、10月17日にフィリピンのマニラに向け出発した。フィリピンに到着すると前任者である寺岡謹平に特攻隊の構想を打ち明けて同意を求めたが、寺岡は後任の大西に一任した。
大西は1944年10月19日夕刻に第201海軍航空隊司令部のあるマバラカットを訪れ、司令部として借上げていた洋館に副長玉井浅一中佐や1航艦首席参謀猪口力平中佐ら航空隊幹部を招集し、「戦局はみなも承知の通りで、今度の捷号作戦にもし失敗すれば、それこそ由々しい大事をまねくことになる。従って、1航艦としては、是非とも栗田部隊のレイテ突入を成功させねばならないが、そのためには敵の機動部隊を叩いて、少なくとも1週間ぐらい、敵の空母の甲板を使えないようにする必要があると思う。」「そのためには、零戦に250kg爆弾を抱かせて体当たりをやるほかに、確実な攻撃法はないと思うが・・・どうだろうか?」と自分の考えを披瀝(ひれき)した。航空隊幹部らもかねてから同じようなことを考えていたが、玉井は即答を避け、一度席を外し先任飛行長の指宿正信大尉と協議した後、大西の意見に同意した。玉井はさらに「攻撃隊の編制については、全部航空隊に任せて下さい。」と人選については一任を申し出、大西の承諾を得た。玉井は士気を高揚させるために指揮官となる士官は海軍兵学校出身の現役士官がいいと考え、戦闘機搭乗員の菅野直を考えたが東京出張中であったので、艦上爆撃機搭乗員の関行男大尉ではどうか?と猪口に聞き、海軍兵学校時代に関の教官であった猪口も同意した。猪口と玉井は関を士官室に呼ぶと特攻隊の指揮官となることを打診し、関は少し考えた後応諾した。
翌10月20日午前10時、大西は編成された特攻隊4部隊敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊の全特攻隊員24名を前にして、「日本は正に危機である。しかも、この危機を救い得る者は、大臣でも大将でも軍令部総長でもない、もちろん自分のような長官でもない。それは諸子の如き純真にして気力に満ちた若い人々のみである。従って自分は一億国民に代わり、皆にお願いする。どうか、成功を祈る。皆は、既に神である。神であるから欲望はないであろう、が、あるとすれば、それは自分の体当たりが、無駄ではなかったか、どうか、それを知りたいことであろう。しかし皆は永い眠りに就くのであるから、残念ながら知ることもできないし、知らせることもできない。だが、自分はこれを見届けて必ず上聞に達するようにするから、そこは、安心して行ってくれ・・・しっかり頼む。」と訓示した。訓示の後、大西は涙ぐみながら隊員の1人1人と熱い握手を交わした。
日本海軍では、航空機による体当たり攻撃を「神風特別攻撃隊」として統一名で呼称した。名称は猪口の発案によるもので、郷里の古剣術の道場「神風(しんぷう)流」から名付けたものである。一方で第201航空隊飛行長中島正少佐の証言では「かみかぜ」と読む。
神風特別攻撃隊の初出撃は1944年10月21日であった。全24機が出撃したが悪天候などに阻まれ、ほぼ全機が帰還したが、大和隊隊長久納好孚中尉が未帰還、23日に大和隊佐藤馨上飛曹が未帰還となっている。関は酷い下痢で絶食しており疲労感が見て取れたが、25日の出撃前に「索敵しながら南下し、発見次第突入します。」と自ら提案し確実に突入する覚悟を示した。その日に4度目の出撃で関率いる敷島隊の6機は、サマール沖海戦を戦った直後のタフィ―3を発見し突入した。内1機がアメリカの護衛空母セント・ローを撃沈、大和隊の4機、朝日隊の1機、山桜隊の2機、菊水隊の2機、若桜隊の1機、彗星隊の1機等が次々に突入し、護衛空母を含む5隻に損傷を与える戦果を挙げ、直援機であった西沢広義飛曹長によりその戦果が確認された。これを大本営海軍部は大々的に発表し、新聞は号外で報じた。敷島隊指揮官であった関は軍神と呼ばれ、母が住む実家の前には「軍神関行男海軍大尉之家」と書いた案内柱が立てられて、多くの弔問客が訪れた。
10月26日、及川軍令部総長が神風特攻隊の戦果を奏上し、昭和天皇(大元帥)から 、「そのようにまでせねばならなかったか。しかしよくやった。」と御嘉賞のお言葉を賜った。また、10月30日には米内海軍大臣に、「かくまでせねばならぬとは、まことに遺憾である。神風特別攻撃隊はよくやった。隊員諸氏には哀惜の情にたえぬ。」と仰せられた。大西はこの昭和天皇のお言葉を、作戦指導に対する叱責と感じて恐れ入り、翌27日、参謀の猪口に「こんなことしなければならないのは日本の作戦指導がいかにまずいかを表している。統帥の外道だよ。」と語っている。
神風特攻隊編成当初は、参謀の猪口が「特攻隊はわずか4隊でいいのですか?」と訊ねたのに対し、「飛行機がないからなぁ、やむをえん。」と特攻は一度きりで止めたいとの意向を示していた大西であったが、10月23日の時点で大西の第1航空艦隊は連日の戦闘による消耗で、戦闘機30機、その他20機の合計50機まで稼働機数が激減していたため、もはや特攻を軸に戦う外ないという考えに至った。10月23日にクラーク基地に進出してきた第二航空艦隊(350機)の福留繁第2航空艦隊長官に大西は特攻採用を強く説いたが、福留は特攻採用による搭乗員士気の喪失を懸念、従来の大編隊による通常攻撃に固執し大西の申し入れを拒否している。
10月23日〜25日まで第1航空艦隊の特攻と並行して、第2航空艦隊は250機の総力を投じ従来の航空通常攻撃を行ったが、軽空母プリンストンを大破(後にアメリカ軍により処分)、アシュタブラ(タンカー)(英語版)大破、駆逐艦ロイツェ損傷の戦果に対し、大量の航空機を喪失した。少数の特攻機で第2航空艦隊を上回る戦果を挙げた大西は、再度福留に「特別攻撃以外に攻撃法がないことは、もはや事実により証明された。この重大時期に基地航空部隊が無為に過ごすことがあれば全員腹切ってお詫びしても追いつかぬ。第2航空艦隊としても特別攻撃を決意すべきだと思う」と迫った。福留は幕僚と協議し10月26日に特攻を行うことに同意した。
第1航空艦隊と第2航空艦隊が特攻を採用したため、よりその機能を発揮させる目的で、両航空艦隊を統合した連合基地航空隊を編成し、先任の福留を司令官とし大西が参謀長となった。10月27日、大西によって特攻隊の編成方法、命名方法、発表方針などが軍令部、海軍省、海軍航空本部など中央に通達された。 連合基地航空隊には北東方面艦隊第12航空艦隊の戦闘機部隊や、空母に配属する予定であった第3航空艦隊の大部分などが順次増援として送られ特攻に投入されたが、戦力の消耗も激しく、大西は上京し、更なる増援を大本営と連合艦隊に訴えた。大西は300機の増援を求めたが、連合艦隊は、大村海軍航空隊、元山海軍航空隊、筑波海軍航空隊、神ノ池海軍航空隊の各教育航空隊から飛行100時間程度の搭乗員と教官から志願を募るなど苦心惨憺して、ようやく150機をかき集めている。これらの隊員は猪口により台湾の台中・台北で10日間集中的に訓練された後フィリピンに送られた。
大西の強引な特攻隊拡大に批判的な航空幹部もいたが、大西は「今後俺の作戦指導に対する批判は許さん」と指導している。大西は大阪毎日新聞特派員後藤基治からの「なんで特攻を続けるのですか?」という質問に対して、幕末会津藩の白虎隊の例を出して、「ひとつの藩の最後でもそうだ」「ここで青年が起たなければ、日本は滅びるだろう。青年たちが国難に殉じていかに戦ったかということを歴史が記憶しているかぎり、日本人は滅びることはないだろう。」と答え、その後も特攻を推進していった。しかし大西は深い憂鬱に囚われており、副官の門司親徳大尉へ「わが声価は、棺を覆うて定まらず、100年ののち、また知己を得ないだろう」とつぶやいている。
少数の特攻機が大きな成果を挙げたことはアメリカ軍側に大きな衝撃を与えた。レイテ島上陸作戦を行ったアメリカ海軍水陸両用部隊参謀レイ・ターバック大佐は「この戦闘で見られた新奇なものは、自殺的急降下攻撃である。敵が明日撃墜されるはずの航空機100機を保有している場合、敵はそれらの航空機を今日、自殺的急降下攻撃に使用して艦船100隻を炎上させるかもしれない。対策が早急に講じられなければならない。」と考え、物資や兵員の輸送・揚陸には、攻撃輸送艦(APA)や攻撃貨物輸送艦(AKA)といった装甲の薄い艦船ではなく、輸送駆逐艦(APD)や戦車揚陸艦(LST)など装甲の厚い艦船を多用すべきと提言している。またアメリカ軍は、最初の特攻が成功した10月25日以降、病院船を特攻の被害を被る可能性の高いレイテ湾への入港を禁止したが、レイテ島の戦いでの負傷者を救護する必要に迫られ、3時間だけ入港し負傷者を素早く収容して出港するという運用をせざるを得なくなった。
フィリピンの戦いを指揮した南西太平洋方面軍(最高司令官ダグラス・マッカーサー大将)のメルボルン海軍部は、指揮下の全艦艇に対して「ジャップの自殺機による攻撃が、かなりの成果を挙げているという情報は、敵にとって大きな価値があるという事実から考えて(中略)公然と議論することを禁止し、かつ第7艦隊司令官は同艦隊にその旨伝達した」とアメリカとイギリスとオーストラリアに徹底した報道管制を引いた。これはニミッツの太平洋方面軍も同様の対応をしており、特攻に関する検閲は太平洋戦争中でもっとも厳重な検閲となっている。南西太平洋方面軍は更に、休暇等で帰還するアメリカ・オーストラリア兵士に対しても徹底した緘口令(かんこうれい)を敷いている。
アメリカ軍兵士の士気に与えた影響も大きく、パニックで神風ノイローゼに陥るものもいた。特攻開始後に、空母ワスプの乗組員123名に健康検査を行ったところ戦闘を行える健常者が30%で、他は全部精神的な過労で休養が必要と診察された。本来アメリカ海軍は、艦内での飲酒を固く禁じていたが、カミカゼの脅威に対峙(たいじ)する兵士の窮状を診かねた軍医から第7水陸両用部隊司令ダニエル・バーベイ(英語版)少将へ、兵士らのカミカゼへの恐怖を振り払わせるために艦内での飲酒解禁の提案があり、兵士らは貯蔵してあったバーボン・ウィスキーを士気高揚剤として支給されている。酔った勢いの空元気は、カミカゼに対抗するために利用された一つの武器となった。それでも、精神病を発症するアメリカ海軍兵士は増加し、開戦後1,000人中9.5人の発症率であったのが、1944年の特攻開始時では1,000人中14.2人に跳ね上がっている。この要因を合衆国艦隊司令長官・海軍作戦部長アーネスト・キングは「現代戦のテンポの早さが兵士を疲労させたことと、予想もされない恐怖(特攻)によるものである。」と分析していた。アメリカ軍は特攻兵器を扱う日本軍兵士を、特別な素質を持った軍人と考え、陸軍参謀総長のジョージ・マーシャルは陸軍省に特攻の報告をおこなう際に、「もし、敵の勇気を軽視するようなことがあれば、わが軍の勝利を危うくすることになろう。」という意見を添えている。
その後も特攻機は次々とアメリカ軍の主力高速空母部隊第38任務部隊の正規空母に突入して大損害を与えていった。1944年10月29日イントレピッド、10月30日フランクリン 、ベローウッド 、11月5日レキシントン、11月25日エセックス、カボット が大破・中破し戦線離脱に追い込まれ、他にも多数の艦船が撃沈破された。 特攻機による空母部隊の大損害により、第38任務部隊司令ウィリアム・ハルゼー・ジュニアが11月11日に計画していた艦載機による初の大規模な東京空襲は中止に追い込まれた。ハルゼーはこの中止の判断にあたって「少なくとも、(特攻に対する)防御技術が完成するまでは 大兵力による戦局を決定的にするような攻撃だけが、自殺攻撃に高速空母をさらすことを正当化できる」と特攻対策の強化の検討を要求している。
フィリピン戦での特攻による損害を重く見たアメリカ海軍は、最初の特攻被害からわずか1か月後の1944年11月24日から26日の3日間に渡り、サンフランシスコにて、ワシントンからアメリカ海軍省首脳と、真珠湾から太平洋艦隊司令部幕僚と、フィリピンの前線から第三艦隊司令ハルゼーと第38任務部隊司令ミッチャー少将の海軍中央から実戦部隊までの幕僚らが一堂に会して、異例とも言える特攻対策の集中会議を行った。その会議で様々な特攻対策が検討され、一部は実現されていった(#特攻対策を参照)。その中の一つで、12月14日〜12月16日まで500機の戦闘爆撃機と40機の夜間戦闘機により、日本軍の特攻基地を集中攻撃する「ブルーブランケット」作戦が行われ、アメリカ軍は170機の特攻機を地上で撃破したと主張したが、特攻は衰えることなく、ミンドロ島やルソン島に侵攻してくるアメリカ軍艦隊に襲い掛かり、1945年1月4日に護衛空母オマニー・ベイを撃沈するなど、フィリピン戦の期間を通じてアメリカ軍の艦船22隻を撃沈、110隻以上を損傷させた。
フィリピンでの特攻が最高潮に達したのが、1945年1月6日に連合軍がルソン島上陸作戦のためリンガエン湾に侵入したときで、フィリピン各基地から出撃した32機の特攻機の内12機が命中し7機が有効至近弾となり連合軍は多大な損害を被った。戦艦ニューメキシコには、イギリス海軍太平洋艦隊司令ブルース・フレーザー大将と、イギリス陸軍観戦武官のハーバード・ラムズデン中将が乗艦していたが、その艦橋に特攻機が突入、ラムスデン中将とフレーザー大将の副官が戦死し、上陸作戦を指揮した南西太平洋方面最高司令官ダグラス・マッカーサー大将が衝撃を受けている。マッカーサー自身が乗艦していた軽巡洋艦ボイシも甲標的と特攻機に攻撃されたが損害はなかった。マッカーサーは特攻機とアメリカ艦隊の戦闘を見て「ありがたい。奴らは我々の軍艦を狙っているが、ほとんどの軍艦は一撃をくらっても耐えうるだろう。しかし、もし奴らが我々の軍隊輸送船をこれほど猛烈に攻撃してきたら、我々は引き返すしかないだろう。」と感想を述べている。日本軍の攻撃目標選定のミスを指摘しながらも、特攻がルソン島の戦いの帰趨(きすう)を左右するような威力を有していると懸念していたものと思われる。
水上・水中特攻
フィリピンにどうにか到着した震洋は300隻まで減っていたが、1944年12月23日にコレヒドール島に配置されていた第7震洋隊が、艇の整備途中に燃料のガソリンに引火し、その後搭載爆雷が爆発し火災が広まると、次々と震洋が誘爆し、第7震洋隊他の75隻の震洋を喪失し、150名の震洋隊隊員が事故死した。震洋のエンジンはトラックのエンジンを強引に転用したもので、気化したガソリンによる爆発事故が頻発しており、戦後の1945年8月16日にも高知県香南市の震洋基地で爆発事故が発生し111名が事故死している。リンガエン湾などで戦果を挙げていた陸軍海上挺進戦隊に対し、海軍の震洋は事故とアメリカ軍の空襲と艦砲射撃により、殆ど戦闘をしていないのにも関わらず壊滅状態に陥っていた。
ようやく好機が到来したのは1945年2月15日の夜で、バターン半島のマリビエルに部隊を上陸させようとしたLST5隻が日没までに作業が完了せず、次の高潮を待って残りの物資を揚陸しようと海岸に停泊しており、その護衛の特攻艇対策部隊の上陸支援艇LCS5隻とともに残されることになった。コレヒドールの震洋隊司令官小山田正一少佐は残った震洋50隻全部でこれを叩こうと決め、全震洋に出撃を命じた。LCSはボフォース 40mm機関砲2連装3基とエリコンFF 20 mm 機関砲4基もしくはロケット発射機10基と大きさ(排水量300トン前後)の割には重武装で、突進してくる震洋を次々と撃破したが、数が多すぎたため接近を許し、LCS5隻の内3隻を撃沈、1隻を擱座させ、生き残ったのはたった1隻だった。一矢報いたこの攻撃で震洋は全滅し、残った搭乗員や震洋隊隊員は上陸してきたアメリカ軍と陸上戦を戦い玉砕した。
一方、回天は、フィリピンにアメリカ軍が侵攻してくる前の1944年9月12日、軍令部の検討会で藤森康男中佐らの研究の結果として、大型潜水艦8隻(内2隻は予備)回天32基によって、メジュロ、クェゼリン、ブラウンの空母を奇襲攻撃する計画がなされ、後に目標がマーシャル諸島、アドミラルティ諸島、マリアナ諸島もしくはパラオに変更、攻撃日も11月上旬となり、作戦名は玄作戦と決定した。しかしフィリピンにアメリカ軍が侵攻してくると、その迎撃のために大型潜水艦隊はフィリピンに送られ、玄作戦の参加兵力は第15潜水隊の伊36潜、伊37潜、伊47潜の3隻の潜水艦と12基の回天に縮小された。
1944年11月7日に第6艦隊の司令官に就任していた三輪が自ら出撃回天隊員に対し訓示を行った。三輪は黒木・仁科らから人間魚雷の提言があったときは否定的な意見を述べていたが、皮肉にも回天の初陣を見送る立場となり、その見送られる隊員の中には、事故死した黒木の位牌を抱いた仁科もいた。第一回の回天部隊は菊水隊と命名された。目標は伊36潜、伊47潜がウルシー環礁で伊37潜がパラオのコッソル水道であったが、伊37潜は回天射出前の1944年11月19日に防潜網敷設艦ウィンターベリー(英語版)に発見され、通報により駆け付けた2隻の護衛駆逐艦に撃沈された。伊36潜、伊47潜は無事にウルシーに到着し、1944年11月20日早朝4時15分の仁科艇が最初に出撃し伊47潜搭載の4基は全基出撃したが、伊36潜の回天は故障などで1基しか出撃できなかった。合計5基の回天の内1基が大型給油艦ミシシネワに命中した、ミシシネワは40万ガロンの航空ガソリン、85,000バレルの重油、9,000バレルのディーゼル燃料の3種類の燃料を満載しており、燃料に引火し大火災を起こした後横転沈没し、150人以上の死傷者を出した。
この攻撃は、安全なはずのウルシーを震撼させ、当時ウルシーで休養していた第38.3任務群司令フレデリック・C・シャーマンは「我々は一日終日、そして次の日も、今にも爆発するかもしれない火薬庫の上に座っている様なものだった。」感想を述べているが、損失は大型給油艦1隻のみであった。しかし日本軍はウルシーで空母2隻、戦艦2隻、コッソル水道で空母1隻を撃沈したと戦果を過大判定し、「回天はかくも絶大な威力をもっているのだから、さらに玄作戦を二次、三次と続けるべきだ」というムードを作り上げてしまった。そのためこの後も「菊水隊に続け」と、「菊水隊」より大規模な大型潜水艦6隻、回天22基で「金剛隊」が編成され、「菊水隊」と同様にアメリカ軍の泊地に対する奇襲攻撃を行ったが、歩兵揚陸艇1隻撃沈、 マザマ(弾薬輸送艦)(英語版)を大破、他輸送艦1隻を損傷の戦果に対し伊48潜を失っている。菊水隊の攻撃でアメリカ軍の泊地は防潜網などで厳重に防備されており、奇襲は望めなくなっていることを海軍首脳部は認識し、回天作戦を泊地で停泊している艦船への攻撃から、侵攻してくるアメリカ軍艦隊を洋上で攻撃する戦術に変更した。
アメリカ軍が硫黄島に侵攻し硫黄島の戦いが始まると、「千早隊」と「神武隊」の合計4隻の潜水艦が回天作戦で出撃したが、回天警戒のため編成されていた護衛空母アンツィオとツラギと駆逐艦18隻の 対潜水艦部隊に、「千早隊」の伊368潜、伊370潜が撃沈され、戦果もなかった。これまで回天作戦中の母艦の潜水艦は通常魚雷で攻撃することを禁じられていたが、「神武隊」の伊58潜の橋本以行艦長が、目の前を航行する敵艦を攻撃する絶好の機会を逃したことから、海軍上層部に回天作戦中の通常魚雷での攻撃の許可を求める意見書を提出したところ認められた。このことが後の重巡洋艦インディアナポリスに撃沈に繋がることになった。
フィリピン戦 / 日本陸軍
航空特攻
陸軍の特攻は鉾田教導飛行師団の万朶隊と浜松教導飛行師団の富嶽隊によって最初に行われた。通常の編成は航空本部から電文で命令されるが、命令は天皇を介するため、任命電報が送れず、菅原道大中将が編成担当者に任務を与えて派遣した。富嶽隊と万朶隊は、梅津美治郎参謀総長が藤田東湖の「正気の歌」から命名した。
万朶隊は、1944年10月4日航空総監部から鉾田教導飛行師団に九九双軽装備の特攻隊編成の連絡があった。10月13日、師団長今西六郎中将は航空総監と連絡して特攻部隊の編成を打ち合わせ、中旬に九九双軽の特攻改修機が到着した。特攻改修機とは、機首の風防ガラスから3mの起爆管3本を突出させ、爆弾を操縦席から投下できないようにしたものであったが、後に前線基地にて手動索で投下できるように改造された。
10月20日、参謀本部から編成命令が下され、21日岩本益臣大尉以下16名が決定した。22日、航空総監代理による総監訓示が行われ、今西師団長も訓示を行う。26日、九九双軽の特攻隊はフィリピンのリパに到着。29日、万朶隊と命名された。
万朶隊は初出撃を待つが11月5日、第4航空軍の命令で、作戦打ち合わせに向かった岩本の操縦する九九双軽がアメリカ軍戦闘機に撃墜され、同乗中の将校を含めて5名全員が戦死した。万朶隊は岩本が「航法の天才」と呼ばれていたなど、全員が鉾田教導飛行師団の精鋭をもって組織されていたため、出撃前の大損害となった。11月12日に田中逸夫曹長以下4機が、岩本らの遺骨を抱いてレイテ湾に出撃し、全機未帰還、戦艦1隻、輸送艦1を撃沈したとして、南方軍司令官寺内寿一大将より感状が授与された。しかしこの戦果は、海軍の神風特別攻撃隊が空母を撃沈したという戦果発表に張り合って陸軍は戦艦を撃沈したという過大戦果発表であり、実際にアメリカ軍がこの日に被った損害は工作艦2隻の損傷のみであった。この日出撃した万朶隊の4機は全員戦死と思われていたが、後に佐々木友次伍長が敵艦に体当たりせず通常攻撃を行い、ミンダナオ島のカガヤン飛行場(英語版)に生還していたことが判明している。佐々木はこの後も合計9回出撃しながら敵艦に突入せず、いずれも生還している。
富嶽隊は、浜松教導飛行師団長川上C志少将が特攻隊編成の内示を受けると、同師団の第1教導飛行隊を母隊として編成し、1944年10月24日から特別任務要員として南方へ派遣した。26日、参謀総長代理菅原道大航空総監が臨席して出陣式が行われ、富嶽隊と命名された。四式重爆撃機飛龍には海軍より支給された800kg爆弾2発を搭載する代わりに、軽量化のために爆撃装備や副操縦席に至るまですべてが撤去され、機首と尾部の風防ガラスをベニヤ板に変えられた特攻専用機「ト」号機を配備された。四式重爆撃機には通常8名(機長、操縦士、整備兵2名、通信士、爆撃手機銃手など4名)が搭乗するが、「ト」号機には操縦者と機関員(ないし通信員)の2名のみが搭乗した。富嶽隊もフィリピンに到着後、こちらも待機していたが11月7日早朝、初出撃した。この出撃は空振りに終わり、山本中尉機が未帰還となった。富嶽隊は13日に、隊長西尾常三郎少佐以下6名が米機動部隊に突入して戦死し、戦果確認機より戦艦1隻轟沈と報告され、南方軍より感状が授与された。残った富嶽隊は、1945年1月12日まで順次出撃を繰り返した。
1944年11月6日、陸軍中央は海軍が小回りの利く零戦などの小型機による特攻で成果を挙げていることを知り、明野教導飛行師団で一式戦闘機などの小型機を乗機とする特攻隊を編成し、「八紘隊」と名付けてフィリピンに投入した。名前の由来は日本書紀(淮南子)の「八紘をもって家となす」(八紘一宇)による。アメリカ軍のレイテ上陸により、一時司令部をネグロス島に移転していた第4航空軍司令官の富永恭次中将が11月7日にマニラ軍司令部に戻ると、「八紘隊第1隊」「八紘隊第2隊」などと呼ばれていた各隊を八紘隊、一宇隊、靖国隊、護国隊、鉄心隊、石腸隊と命名し、「諸子のあと第4航空軍の飛行機が全部続く、そして最後の1機には富永が乗って体当たりをする決心である。安心して大任を果たしていただきたい。」と訓示激励し、軍司令官自ら隊員一人一人と握手し、士気を鼓舞している。後に八紘隊は、明野教導飛行師団・常陸教導飛行師団・下志津教導飛行師団・鉾田教導飛行師団などにより合計12隊まで編成され、丹心隊、勤皇隊、一誠隊、殉義隊、皇魂隊、進襲隊と命名された。
八紘隊各隊は「十神鷲十機よく十艦船を屠る」と称されたほど、陸軍特攻隊では最も大きな戦果を挙げた部隊と言われている。以下はすべて確実な戦果として、11月27日に八紘隊(一式戦闘機「隼」)が戦艦「コロラド」、軽巡洋艦「セントルイス」、軽巡洋艦「モントピリア」に突入して損害を与え、駆潜艇「SC-744」を撃沈。11月29日、靖国隊(一式戦「隼」)が戦艦「メリーランド」、駆逐艦「ソーフリー」、駆逐艦「オーリック」に突入し、損害を与えている。さらに12月13日には一宇隊(一式戦「隼」)あるいは海軍特別攻撃隊第2金剛隊が軽巡洋艦「ナッシュビル」に、1月5日には重巡洋艦「ルイビル」に石腸隊あるいは進襲隊(九九式襲撃機)、1月8日には軽巡洋艦「コロンビア」に鉄心隊あるいは石腸隊(九九式襲撃機)、1月9日には戦艦「ミシシッピ」に一誠隊(一式戦「隼」)がそれぞれ突入し、損害を与えた。なかでも、靖国隊の一式戦「隼」が40.6cm砲(16インチ砲)を備える主砲塔に突入した戦艦「メリーランド」は大破炎上し、修理のために翌1945年3月まで戦列を離れている。メリーランドに突入した一式戦「隼」は、雲の中から現れて急降下で同艦に突入する寸前に機首を上げて急上昇をはじめ、尾翼を真下に垂直上昇してまた雲に入ると、1秒後には太陽を背にしての急降下でメリーランドの第2砲塔に突入した。その間、特攻機はまったく対空射撃を浴びることはなかった。その見事な操縦を見ていたメリーランドの水兵は、「これはもっとも気分のよい自殺である。あのパイロットは一瞬の栄光の輝きとなって消えたかったのだ」と日記に書き、その特攻機の曲芸飛行を見ていたモントピリアの艦長も「彼の操縦ぶりと回避運動は見上げたものであった」と感心している。
水上特攻
大損害を被りながらフィリピンに到着していた海上挺進戦隊は出撃の機会がないままに空襲や艦砲射撃により損害を重ねていたが、1945年1月9日にルソン島上陸のためにリンガエン湾に来襲したアメリカ軍輸送艦隊に高橋功大尉率いる海上挺進第12戦隊の90隻のマルレが攻撃した。1月10日の午前3時にスゥアルの基地から発進したマルレは1艇あたり2名〜4名の搭乗員を乗せ、機銃や小銃を射撃しながら警戒が不十分だったアメリカ軍輸送艦隊に襲い掛かり、わずか1.45トンのマルレの攻撃で385トンの上陸支援艇LCI-974を撃沈し、6,200トンの攻撃輸送艦ウォー・ホーク(攻撃輸送艦)(英語版)1,625トンのLST-925、LST-610(この2隻はそのまま放棄)LST-1028を大破させ、LCI-365他6隻に損傷を与えた。第12戦隊はこの戦いで壊滅したが、アメリカ軍はこの損害で特攻艇への警戒を強化せざるを得なくなった。
アメリカ軍はPTボートをかき集めると、魚雷を下ろす代わりに40mm、37mm、20mmといった機関砲やロケット砲を可能な限り搭載したPTボートで編成した特攻艇対策部隊を編成した。PTボートの他にも上陸支援艇や歩兵揚陸艇も機銃やロケット砲などで武装させパトロールに当たらせた。この特攻艇対策部隊と特攻艇の間の戦いが激化し、多数の特攻艇が攻撃前に撃破された。しかし1月31日にはマニラ湾のナスプで上陸船団の護衛艦隊に20隻の特攻艇が襲い掛かり、PC-1129(英語版)を撃沈している。また護衛艦隊の駆逐艦ローフとカニンガムがPTボートを特攻艇と誤認し射撃を加えた。慌てたPTボートは味方識別信号を送ったが、駆逐艦はこれを日本軍の謀略と判断しPT-77とPT-79の2隻を撃沈してしまった。アメリカ軍の記録によれば「これは日本の特攻艇の勝利である。日本の特攻艇が、アメリカ軍水兵を不安に陥れた結果である。」と記された。しかし、陸軍の特攻艇による組織的な攻撃はここまでで、アメリカ海軍は2月11日にリンガエン湾での特攻艇の脅威はなくなったと宣言した。
成果
海軍航空隊はフィリピン戦で特攻機333機を投入し、420名の搭乗員を失い、陸軍航空隊は210機を特攻に投入し、251名の搭乗員を失ったが、アメリカ軍はレイテ島、ミンダナオ島、ルソン島と進撃を続け、特攻は遅滞戦術に過ぎなかった。フィリピン戦末期には四式戦闘機「疾風」の集成戦闘部隊として戦っていた第30戦闘飛行集団にて特攻隊である精華隊が編成され、250kg爆弾2発を装備した四式戦が1945年1月8日に護衛空母「キトカン・ベイ」に、同月13日には護衛空母「サラマウア」に突入、それぞれ大破の戦果を残した。この13日の精華隊の出撃でフィリピンでの特攻作戦は終結した。1月17日に陸軍第4航空軍司令官の富永は、一式戦4機の護衛を付けて九九式軍偵察機で台湾台北に脱出したが、脱出に際し上級司令部の許可はとっていなかったため、予備役に編入された。
海軍第1航空艦隊は1月6日のリンガエン湾攻撃により陸軍より先に航空機をほぼ全て消耗してしまったため、司令の大西はルソンの山中で陸戦隊としてアメリカ軍を迎え撃つべく陣地の構築を命じ、第2航空艦隊の福留らには台湾への撤退を提案した。大西は201空の玉井と中島に、神風特攻隊の戦績を報告するために台湾への脱出を命じ、自分らはルソン山岳地帯への移動の準備をしていたが、連合艦隊より第1航空艦隊は台湾に転進せよとの命令が届いた。大西は躊躇したが、猪口ら参謀の説得に応じて、第1航空艦隊司令部と生存していた搭乗員は台湾に撤退することとなった。1月10日に陸軍航空隊より一足早く第1航空艦隊の一部はルソン島から台湾に移動したが、整備兵や地上要員など多くの兵士がそのまま残されて後に地上戦で死ぬ運命に置かれた。残った兵士らは、杉本丑衛26航戦司令官の指揮下で「クラーク地区防衛部隊」を編成し地上戦を戦ったが、大西は残してきた兵士らに気を揉み、台湾に転進後も常々「いつか俺は、落下傘でクラーク山中に降下し、杉本司令官以下みんなを見舞ってくるよ」と部下に話していた。
日本軍からは特攻の戦果の確認が困難だったために、直援戦闘機などからの戦果報告は、実際に与えた損害より過大となり、その過大報告がそのまま大本営発表となった。NHKや新聞各社は、連日新聞紙上やラジオ放送などで、大本営発表の華々しい戦果報道や特攻隊員の遺言の録音放送など一大特攻キャンペーンを繰り広げた。国民はその過大戦果に熱狂し、新聞・雑誌は売り上げを伸ばすために争うように特攻の「大戦果」や「美談」を取り上げ続けた。やがてこの過大戦果は、軍の中で特攻に反対していた人々の意見を封殺するようになっていった。
フィリピン戦時点では、特攻による損失機数は戦闘における全損失機数の14%に過ぎなかったように、日本軍の航空作戦の中心は特攻ではなかった。アメリカ軍も、「特攻が開始されたレイテ作戦の前半には、レイテ海域に物資を揚陸中の輸送艦などの「おいしい獲物」がたっぷりあったのに対して、アメリカ軍は陸上の飛行場が殆ど確保できていなかったので、非常に危険な状況であったが、日本軍の航空戦力の主力は通常の航空作戦を続行しており、日本軍が特攻により全力攻撃をかけてこなかったので危機は去った。」と評価していた。しかし次の決戦地は沖縄になると考えていた軍令部第一部長兼大本営海軍部参謀富岡定俊少将らにより、過大な戦果判定を判断の材料として、沖縄戦では特攻戦法を軸にして戦うという方向性が示された。
対空特攻
1944年6月から中国大陸を基地とするアメリカ陸軍航空軍のB-29が、九州北部を中心とする日本本土への爆撃を開始した。排気タービン過給機を装備し、高高度を平然と飛行するB-29に対する日本軍戦闘機の迎撃は困難を極めていた。苦戦する日本軍の防空戦闘機が、自発的な体当たり攻撃をすることがあり、1944年8月20日の八幡空襲において、迎撃に出た飛行第4戦隊の二式複座戦闘機「屠龍」の搭乗員野辺重夫軍曹と後方射手高木伝蔵伍長は、搭載のホ203(37mm機関砲)で、第794爆撃飛行隊の「ガートルードC」号を攻撃するも撃墜できなかったため、「ガートルードC」に体当たり攻撃を敢行し、激突した両機は空中爆発し墜落、またその破片の直撃を受けた僚機の「カラミティ・スー」号も墜落した。体当りに成功した野辺・高木は戦死したが、屠龍1機で2機のB-29を撃墜することに成功している。
サイパン島が陥落し、首都圏へのB-29による空襲の懸念が高まると、B-29の必墜を期す戦術が求められた。1944年10月に首都防空部隊であった第10飛行師団師団長心得吉田喜八郎少将ら幕僚は、武装、防弾装備や通信アンテナなどを外して軽量化した戦闘機による体当たり攻撃がもっとも効果的と結論し、これまでのような搭乗員の自発的なものではなく、組織的な体当たり攻撃隊を編成することとした。吉田は隷下部隊に対し「敵機の帝都空襲は間近にせまっている。師団は初度空襲において体当たり攻撃を行い、大打撃を与えて敵の戦意を破砕し、喪失せしめんとする考えである。」と訓示し、体当たり攻撃の志願者を募った。
昭和19年11月7日に吉田から、隷下1部隊各4機ずつ体当たり機の編成命令が発令された。この対空特攻部隊は震天制空隊と命名された。初出撃は同年11月24日、サイパン島より東京に初来襲したB-29に対するものであった。この戦闘で飛行第47戦隊所属の見田義雄伍長が二式複戦「屠龍」で体当たりを敢行し1機を撃墜して戦死。同じく飛行第53戦隊入山稔伍長は突入間際に機体が空中分解し戦死するなど、特攻機以外の戦闘機も含め6機を喪失したのに対し、B-29の損失は2機であった。(日本軍は5機撃墜、8機撃破と主張)第10飛行師団の目論見は外れて、東京空襲を防げなかったことにより、震天制空隊は各隊4機から8機に倍増し、強力に対空特攻を推進していくこととした。また、この後、大都市圏の防空任務部隊を中心に空対空特攻部隊が組織されていくこととなる。  
全軍特攻 

 

沖縄戦前
日本海軍
ここまで航空特攻は現地部隊の自発による編成の形式をとっていたが、1945年1月19日に陸海軍大本営は「帝国陸海軍作戦計画大綱」の奏上で、天皇に全軍特攻化の説明を行い、1945年2月10日には第5航空艦隊の編成で軍令部、連合艦隊の指示・意向による特攻を主体とした部隊編成が初めて行われた。5航艦司令長官となった宇垣纏中将は長官訓示で全員特攻の決意を全艦隊に徹底させた。 フィリピンでの大量損失で大打撃を受けていた海軍航空隊も再編成が進められ、3月上旬までに第5航空艦隊600機、第3航空艦隊800機が準備可能と見込まれていた。
1945年2月4日、軍令部の寺内義守航空部員は、松浦五郎とともに従来の訓練を止め命中の良さから特攻に集中すべきと主張した。田口太郎作戦課長は練習生が練習機で特攻を行う方法の研究を求め、寺崎隆治も練習機「白菊」が多数あることから戦力化が必要と発言した。1945年2月、硫黄島の戦いが開始されたことを受けて、全航空隊特攻化計画が決定する。同年3月1日、海軍練習連合航空総隊を第10航空艦隊に改編し、特攻隊員訓練のため一般搭乗員の養成教育を5月中旬まで中止した。第10航空戦隊は4月末を目途に、通常の作戦機700機と練習機1,100機を戦力化する計画であった。 1945年5月15日、中止されていた新規搭乗員教育が再開したが、戦闘機搭乗員の他は特攻教育が主になった。
台湾に転進した大西ら第1航空艦隊は台湾でも特攻を継続し、残存兵力と台湾方面航空隊のわずかな兵力により1945年1月18日に「神風特攻隊新高隊」が編成された。台南海軍航空隊の中庭で開催された命名式で大西は「この神風特別攻撃隊が出て、万一負けたとしても、日本は亡国にならない。これが出ないで負けたら真の亡国になる」と訓示したが、幕僚らは「負けても」という表現を不思議に感じた。この訓示を聞いていた201空の中島は、この時点で大西は目先の戦争の勝敗ではなく、敗戦した場合の日本の悠久性を考えていたのだろうと戦後に述懐している。1月21日に台湾に接近してきた第38任務部隊に対し「神風特攻隊新高隊」が出撃、少数であったが正規空母 タイコンデロガ に2機の特攻機が命中し、格納庫の艦載機と搭載していた魚雷・爆弾が誘爆し沈没も懸念されたが、ディクシー・キーファー(英語版)艦長が自らも右手が砕かれるなどの大怪我を負ったが、艦橋内にマットレスを敷き横になりながら、12時間もの間的確なダメージコントロールを指示し続け、沈没は免れた。
1945年2月6日に陸軍が沖縄方面で大規模な航空作戦をおこなうことを(大陸指第2382号)海軍に提案、当初海軍は陸軍の提案に難色を示していたが、3月1日に大本営により陸海軍の調整により「航空作戦に関する陸海軍中央協定」が結ばれ「海軍は敵機動部隊、陸軍は敵輸送船団」を主攻撃目標とする方針が決められ、作戦名は天号作戦と名付けられた。天号作戦は敵を迎え撃つ海域に応じた番号が付され、沖縄方面の場合は「天一号作戦」台湾方面は「天二号作戦」東シナ海沿岸方面を「天三号作戦」海南島以西を「天四号作戦」と呼称することとしたが、海軍は次に連合軍は沖縄に攻めてくる公算が大きいと考えており、3月20日に南西諸島の緊張が高まりつつあるのを受けて大本営海軍部は「帝国海軍当面作戦計画要綱」を発令し、沖縄での航空決戦に舵をきっていくことになった。
硫黄島の戦いには航空特攻の「第二御盾隊」と回天の「千早隊」「神武隊」が栗林忠道中将率いる小笠原兵団の支援のために送られた。「第二御盾隊」は32機と少数であったが、護衛空母ビスマーク・シーを撃沈、正規空母サラトガに5発の命中弾を与えて大破させた他、キーオカック(防潜網輸送船) など数隻を損傷させる戦果を挙げた。特攻によるアメリカ軍の被害は硫黄島からも目視でき、第27航空戦隊司令官市丸利之助少将が「敵艦船に対する勇敢な特別攻撃により硫黄島守備隊員の士気は鼓舞された」「必勝を確信敢闘を誓あり」と打電している。またこの成功を聞いた大西は特攻作戦について自信を深め、その後就任した軍令部次長として特攻を推進していく動機付けともなった。
1945年2月17日、豊田副武連合艦隊司令長官はアメリカ艦隊をウルシー帰着の好機をとらえて奇襲を断行する丹作戦を命令した。宇垣纏5航艦司令長官は陸上爆撃機「銀河」を基幹とする特攻隊を編成し菊水部隊梓特別攻撃隊と命名した。3月11日からウルシーに帰投した米機動部隊の正規空母を目標に24機の銀河で特攻が行われたが、途中で脱落する機が続出し、1機が 正規空母ランドルフに命中し中破させたに終わった。
1945年3月17日、海軍大臣の内令兵第八号をもって、正式に兵器として採用された桜花は、3月18日に開始された九州沖航空戦が初陣となった。3月21日に第五航空艦隊司令宇垣纏中将が、第七二一海軍航空隊に第58任務部隊攻撃を命令したが、5航艦はそれまでの激戦で戦闘機を消耗しており、護衛戦闘機を55機しか準備できなかった。そこで第七二一海軍航空隊司令の岡村基春大佐が攻撃中止を上申したが、宇垣は「この状況下で、もしも、使えないものならば、桜花は使う時がない、と思うが、どうかね」と岡村を諭し、出撃を強行している。野中五郎少佐に率いられた一式陸攻18機の攻撃隊は、途中で護衛の戦闘機の多くが故障で脱落する不幸にも見舞われ、岡村に懸念通り、アメリカ空母に接近することもできずに全滅した。
日本陸軍
1944年末、陸軍航空総監部は『航空高級指揮官「と」号部隊運用の参考』の作成に着手、これは1945年4月ごろ関係部隊に配布された。1945年1月19日陸海軍大本営は、「帝国陸海軍作戦計画大綱」の奏上で、天皇に全軍特攻化の説明を行う。1945年1月29日陸軍中央は『「と」号部隊仮編成要領』を発令。2月6日参謀本部は特攻要員の教育を『「と」号要員学術科教育課程』の通り示達。2月23日、中央はと号部隊の第二次編成準備を指示。3月20日実行発令。
陸軍航空隊は天号作戦に際し3月上旬までに1,830機の稼働機を準備したが、陸軍航空隊の主力第6航空軍は大陸命第一二七八号(1945年3月19日) にて連合艦隊司令長官の指揮下に置かれ、海軍と一体の特攻作戦を推進していくこととなった。連合艦隊の「天一号作戦計画」で、陸軍の特攻は「第6航空軍はおおむね沖縄本島以北の南西諸島及び九州方面に展開し、主として輸送船団を補足撃滅す。なお、なしうる限り一部をもって敵空母群撃滅に協力す。」と主に機動部隊主力を攻撃目標とした海軍と役割分担が定められた。
陸軍も海軍同様に天号作戦では特攻戦術に重点を置く決定をしていた。戦後の米国戦略爆撃調査団の事情聴取に対し、第6航空軍の高級参謀はその理由として下記の4つを挙げている。
1.オーソドックスな方法を使用していては、航空戦で勝利を得る見込みがなかった。
2.特攻はオーソドックスな攻撃よりも効果が大きい。その理由は、爆弾の衝撃が飛行機の衝突によって増加され、またガソリンの爆発で火災が起きる。さらに、適切な角度でおこなえば通常の爆撃よりもスピードが大きく、命中率が高くなる。
3.特攻は、地上部隊と日本人全体に精神的鼓舞をあたえる。
4.特攻は、限定された訓練しかうけていない要員でおこなわなければならない攻撃のタイプのなかでは、たったひとつの確実で信頼できるものである。
アメリカ軍はこの証言を聞いて「日本空軍はフィリピン作戦がはじまるころまでに、オーソドックスな航空戦力として存在ができなくなるほど、叩きのめされていたのである。」と分析し、この第6航空軍の決定に対して「冷静で論理的(ロジカル)な軍事的選択の結果」と評価している。
6航軍航空参謀倉澤清忠少佐によると、当時の陸軍では部隊を天皇の命令で戦闘をする直結の「戦闘部隊」と志願によって戦闘する「特攻部隊」に区別されたと言う。決号作戦のために航空機を温存するため、また操縦が容易な機体である九七式戦闘機といった旧式機や九九式高等練習機などの練習機も特攻に投入されたが、 同時に三式戦闘機「飛燕」や四式戦闘機「疾風」といった主力戦闘機も多数特攻に投入されている。(詳細は#特攻兵器陸軍戦闘機を参照)第6航空軍所属の各振武隊と第8飛行師団所属の各誠飛行隊が次々と編成され、出撃していった。また飛行第62戦隊の重爆撃機による特攻も行われた。このうち、6航軍司令官は菅原道大中将が務め、知覧・都城などを基点に作戦が遂行された。
沖縄戦
航空特攻
日本軍は沖縄本島にアメリカ軍が上陸した1945年4月1日に「天一号作戦」を発動し、海軍は「菊水作戦」、陸軍は「航空総攻撃」という作戦名で九州・台湾から航空特攻を行った。特攻作戦が最大規模で実施されたのは、沖縄戦中の1945年4月6日の菊水一号作戦発動時であり、翌7・8日と合わせて陸海軍合わせて300機近くの特攻機が投入され、多大な戦果を挙げている。第54任務部隊(司令モートン・デヨ少将)は9隻の戦艦・巡洋艦と7隻の駆逐艦で作戦中に特攻機による集中攻撃を受けたが、まずは戦艦などの主力艦外周3,500mに展開していた駆逐艦隊が最初の目標となった。その様子を旗艦の戦艦テネシーに乗艦していたサミュエル・モリソン少将が目撃しているが、駆逐艦ブッシュとコルホーンが撃沈され、駆逐艦ニューコム とロイツェ が再起不能となる深刻な損傷を被った。ニューコムはスリガオ海峡海戦で西村艦隊の戦艦への魚雷攻撃を指揮した、アメリカ軍駆逐艦の中でもっとも敢闘精神が旺盛な艦と評されていたが、特攻機が戦艦ではなく自分たちへ突入したことに対し、乗員が「どうして我々なんだ?」と困惑していたという。
この戦闘のように、駆逐艦に損害が集中したのが沖縄戦の特攻作戦の特徴である。アメリカ軍はフィリピン戦での特攻による大損害を分析して様々な特攻対策を講じたが、その一つが戦艦や空母といった主力艦隊の外周にレーダー搭載の駆逐艦などのレーダーピケット艦を配置し、特攻機が主力艦隊に到達する前に効果的な迎撃を行うというものであった。この対策により、空母などの主力艦への突入機数は減少したが、逆にレーダーピケット艦の損害は増大することとなり、「弱いヤギ(ピケット艦)を犠牲に、狼(特攻機)から群れ(主力艦艇)を守るようなもの」とか「まるで射的場の標的の様な形で沖縄本島の沖合に(駆逐艦が)配置されている」と揶揄(やゆ)されている。アメリカ海軍水陸両用部隊司令リッチモンド・K・ターナー中将の幕僚は、「艦隊より優秀な艦を選んでレーダーピケット艦としたが、それはそのピケット艦と乗組員に対する死刑宣告も同然だった」と述懐している。デヨは駆逐艦の消耗があまりに激しいため、「駆逐艦の消耗具合が容易ならざる水準に達している」と危機感を募らせている。あまりに特攻がレーダーピケット艦を攻撃してくるので、駆逐艦ラフィーの乗組員の1名が「Carriers This Way(空母はあちら)」という意味の矢印を書いた大きな看板を掲げたこともあったが、ラフィーはニューコムと同じく5機の特攻を受けて大破した。レーダーピケット艦の消耗により、早期警戒網を突破して主力艦隊に突入する特攻機も増え、戦艦・空母といった主力艦の損害も次第に増加していくこととなった。4月12日には第54任務部隊の旗艦戦艦テネシーにも2機の特攻機が命中し、死傷者199名の甚大な損傷を受けている。デヨも艦橋目がけて突入してきた特攻機が直前で撃墜され、九死に一生を得ている。その際、集中射撃してもなかなか撃墜できなかった特攻機を見て「彼奴らの体は何でできているのだろうか」と驚嘆している。
アメリカ海軍は日本軍による航空特攻を少しでも和らげようと、アメリカ陸軍航空軍戦略爆撃機部隊のB-29による航空支援の要請を行っている。海軍の申し入れに対して第20空軍司令官カーチス・ルメイ少将は、日本の都市への焼夷弾による絨毯爆撃を一旦中止し、B-29を九州を中心とする航空基地爆撃の戦術爆撃任務に回すことを了承し、延べ2,000機のB-29が日本の都市や工業地帯への絨毯爆撃から九州の航空基地への攻撃に転用されている。九州の各基地に配置されていた戦闘機部隊がB-29の迎撃を行ったが、海軍航空隊はB-29の迎撃に不慣れであったため、陸軍航空隊が主力となてその戦闘機による対空特攻も行われた。4月18日に太刀洗飛行場に来襲した112機のB-29のうちの1機「ゴナ.メイカー」機には、飛行第4戦隊で編成された特別攻撃隊「回天制空隊」の指揮官である山本三男三郎少尉搭乗の二式複座戦闘機屠龍が体当たりし、撃墜した。5月7日にも同じ第4戦隊の村田勉曹長機が「エンパイアエクスプレス」機に特攻して撃墜しているが、B-29がこれまで爆撃目標にしてきた大都市や産業施設と比べると、九州の航空基地は高射砲や戦闘機による迎撃は少なく損害は軽微であった。
しかし、B-29は分散していた特攻機に十分に損害を与えることができず、九州や台湾の航空基地にすぐに埋め戻される穴を開けたに過ぎなかったため、失望したアメリカ海軍は5月中旬にはルメイへの支援要請を取り下げ、B-29は都市や産業への戦略爆撃任務に復帰しているが、B-29が特攻機対策を行った1か月以上の期間は、都市や産業施設への戦略爆撃は軽減されることとなった。
初出撃が失敗に終わった桜花も沖縄戦に投入され、4月12日の3回目の出撃で駆逐艦マナート・L・エベールを撃沈した。アメリカ軍は桜花に自殺する愚かものが乗る兵器という意味で「BAKA」というニックネームを付けたが、一度発射されればほぼ迎撃は不可能であり、アメリカ艦隊には桜花に対する恐怖が蔓延した。しかし、その後は母機の脆弱性が制限要素となり、戦果は3隻の駆逐艦を大破(2隻は除籍)させたに止まり、アメリカ軍からは「この自殺兵器の使用は成功しなかった。」と評された。
特攻で損傷した艦艇は、8隻の工作艦が配置された慶良間諸島沖で応急修理がなされていたが、常に多数の損傷艦で溢れ、駆逐艦の墓場と呼ばれていた。それでも修理できない甚大な損害を被った艦は群れをなし、ハワイ・アメリカ本土に向けて太平洋を渡っていった。そして損傷した艦や負傷した兵士の代わりとして、アメリカ本土や大西洋から新鋭艦や兵士が沖縄に送られていった。
従軍記者ハンソン・ボールドウィンは「毎日が絶え間ない警報の連続だった。ぶっつづけに40日間も毎日毎夜、空襲があった。そのあと、やっと、悪天候のおかげで、短期間ながらほっと一息入れられたのである。ぐっすり眠る、これが誰もの憧れになり、夢となった。頭は照準器の上にいつしか垂れ、神経はすりきれ、誰もが怒りっぽくなった。艦長たちの目は真っ赤になり、恐ろしいほど面やつれした。敵の暗号を解読しその意図を判断する暗号分析班の活躍により、敵の大規模な攻撃を事前に予測することができた。時には攻撃の前夜に、乗員たちに戦闘準備の警報がラウンドスピーカーで告げられた。しかし、これはやめねばならなかった。待つ間の緊張、予期する恐怖、それが過去の経験によっていっそう生々しく心に迫り、そのためヒステリー状態に陥り、発狂し、あるいは精神消耗状態におちいった者もあったのである。」と当時の様子を語っている。
菊水作戦は第10号まで行われ、アメリカ海軍は沖縄戦において艦船36隻沈没、368隻損傷、航空機768機、人的損害として1945年4月から6月末で死者4,907名、負傷者4,824名を失ったが、これはアメリカ海軍の第二次世界大戦上で最悪の損害であった。沖縄戦でのアメリカ海軍の人的損失は、わずか3か月の間にヨーロッパ戦線・太平洋戦線全体を併せたアメリカ海軍の第二次世界大戦における人的損失の20%に達したという統計もある。沖縄戦でのアメリカ海軍、特にピケット艦の任務は、ドイツ軍のUボートの脅威に晒された大西洋の輸送船団護衛任務より遥かに厳しかったとの評価だった。第5艦隊内では、幕僚などから沖縄よりの一時撤退が話題に上ったほどであったが、第5艦隊司令のレイモンド・スプルーアンス大将は激怒し、アメリカ艦隊は特攻による大損害に耐えて沖縄に止まった。
一方、沖縄戦での特攻はアメリカ軍の特攻対策が強化されたことにより、有効率が下がって日本側の犠牲も多かった。そのため、特攻の効果があったのは奇襲的効果のあったフィリピン戦のみで、末期の沖縄戦の特攻は効果もないのに軍の面子や惰性で続けられたとする表現も多く、日本では過小評価されがちであるが、有効率がフィリピン戦26.8%から沖縄戦14.7%で12%減に対し、攻撃機数は約3倍(フィリピン戦650機、沖縄戦1,900機)であり、アメリカ海軍の損害は沖縄戦の方が遥かに大きかった。
特攻で海軍艦艇が大損害を被った沖縄戦はアメリカ軍にとって大戦で最大級の衝撃であり、沖縄戦での特攻作戦を「十分な訓練も受けていないパイロットが旧式機を操縦しても、集団特攻攻撃が水上艦艇にとって非常に危険であることが沖縄戦で証明された。終戦時でさえ、日本本土に接近する侵攻部隊に対し、日本空軍が特攻攻撃によって重大な損害を与える能力を有していたことは明白である。」と総括している。また、アメリカ海軍は公式文書で特攻に対して「この死に物狂いの兵器は、太平洋戦争で最も恐ろしい、最も危険な兵器になろうとしていた。フィリピンから沖縄までの血に染まった10ヶ月のあいだ、それは、我々にとって疫病のようなものだった」と率直に苦しみぬいた状況を吐露している。モリソンは沖縄戦での特攻を「ゼウス神の電光の様に青空からうなり出てくる炎の恐怖」や「かつてこのような炎の恐怖、責め苦の火傷、焼けつくような死に用いられた兵器は無かった」と表現し、その特攻と戦ったアメリカ軍の駆逐艦乗りに対して「沖縄の戦いの中で、来る日も来る日も、これらの艦船の乗組員が示した持続する勇気、臨機応変の才、敢闘精神は海軍の歴史にいくつもの類例を残している」と称賛している。
特攻機が命中すると「何百メートルもの高さに達する火柱」が上がり、沖縄本島上でアメリカ軍の陸海空の重囲下で戦う第32軍の将兵を勇気づけたという。特攻機の活躍を一目見ようと日本兵は洞窟陣地から飛び出し、特攻機が命中すると歓喜の声を上げて感謝の涙をこぼした。特攻機の活躍を見る行為を兵士らは「特攻隊を拝みに行く」という表現を用い、「やったなぁご苦労さん」と地面に手をついて沖の方を拝んだ。ただ、いくら特攻で損害を与えても一向に減ることのないアメリカ軍艦艇を見て、次第に将兵の中にも失望感が芽生え、1機でも2機でもいいから陸上のアメリカ軍を攻撃して欲しいと願う将兵が増え、第32軍の参謀が方面軍参謀長宛てに航空部隊による地上支援の要請の打電を行ったこともあった。
陸海で、アメリカ軍が第二次世界大戦最大級の損害を被った沖縄戦がようやく終わると、イギリスのウィンストン・チャーチル首相はアメリカのハリー・S・トルーマン大統領に向けて「この戦いは、軍事史の中で最も苛烈で名高いものであります。我々は貴方の全ての部隊とその指揮官に敬意を表します」と慰労と称賛の言葉を送っている。
水中・水上特攻
フィリピン戦では陸軍の特攻艇マルレと比較すると活躍できなかった震洋であったが、沖縄戦でも石垣島にアメリカ軍が上陸してくると海軍は予想していたため、5隊を石垣島に送り、沖縄本島にはたった2隊しか配置されておらず、最初から戦力不足であった。海軍の予想に反しアメリカ軍は石垣島に上陸せず沖縄本島に進攻してきたが、アメリカ軍は更に陽動作戦をしかけ、実際には上陸しない沖縄本島東岸の中城湾に輸送船等からなる9隻の囮船団を近づけてきた。海軍根拠地隊の司令官大田実少将はまんまとこの囮作戦に引っかかってしまい、1945年3月27日に12隻、29日には全震洋に出撃を命じたが、囮船団は海岸近くまでは接近してこなかったため攻撃する機会はなく、そのまま基地に帰投した。その様子を偵察機で偵察していたアメリカ軍により震洋の発進基地は特定され、艦載機による空襲で、アメリカ軍上陸前にわずか20隻の震洋を残すのみとなってしまった。しかし太田指揮の他の海上部隊は活躍しており、第27魚雷艇部隊はスカイラーク(掃海艇)(英語版)を撃沈し、特殊潜航艇部隊の蛟竜もしくは甲標的丙型が ハリガン(駆逐艦)(英語版)を撃沈する戦果を挙げている。
震洋の最後の出撃の機会はアメリカ軍が沖縄本島に上陸した後の1945年4月3日に訪れた。南部の糸満市沖に2隻の特攻艇対策部隊の40mmボフォースと25mmエリコンの機関砲を搭載した歩兵揚陸艇が現れたため、太田司令は残った14隻の震洋に出撃を命令したが、出撃用の運搬車も空襲で破壊されており、わずか4隻しか出撃できなかった。わずか4隻しか出撃できなかったので搭乗員が各艇に2人ずつ搭乗していたが、重さのために速度が出ず、2隻の内LCI-82は撃沈したが、もう1隻の14ノットしか出ない低速の歩兵揚陸艇に逃げられてしまった。この戦闘後残った震洋は自沈し、石垣島や奄美大島に配置されていた震洋隊で沖縄本島を攻撃しようとしたが空襲で阻止され、フィリピンに続き沖縄でも海軍の特攻艇は十分な成果を挙げることなく壊滅した。
フィリピンに引き続き沖縄でもマルレは投入されたが、沖縄本島上陸前の3月26日に3個戦隊300隻のマルレを配備していた慶良間諸島にアメリカ軍が上陸してきた。日本軍の作戦としては、沖縄本島に上陸してきたアメリカ軍の輸送艦隊を、慶良間の海上挺進戦隊が背後から叩く計画であったが、その作戦を立てた第32軍高級参謀八原博通大佐の懸念が的中し、沖縄のマルレ部隊の主力は、戦う前に壊滅し部隊巡視中の第32軍船舶隊長大町大佐も戦死した。マルレの多くは爆破されたが、一部が接収されたのと沖縄におけるマルレの配置図と戦術教本も発見され、アメリカ軍はこれらを特攻艇対策に大いに役立てている。PTボートなどによる特攻対策部隊と教本を元にした秘密特攻艇対策で、沖縄本島に配置されていたマルレは次々と撃破されたが、それでも中型揚陸艦LSM-12を撃沈、ハッチンス(駆逐艦)(英語版)と特攻対策部隊のパトロール艇LCS-37を大破させ両艦ともそのまま廃棄に追い込み、チャ―ルズ・A・バジャー(駆逐艦)(英語版)を大破航行不能にさせ、リバティ輸送船カリーナ大破他数隻に損傷を与えるなどの損害を与えた後に組織的戦闘力を喪失し、残存艇は第32軍による逆上陸作戦の兵員輸送や補給・通信任務に転用された。
「多々良隊」「天武隊」「轟隊」と、日本海軍のわずかに残った潜水艦で回天攻撃隊が次々と編成され、沖縄に侵攻してきた艦隊への攻撃や、沖縄とサイパンやウルシーなどのアメリカの後方基地との通商破壊作戦を実施したが、洋上での回天の運用は困難で、母艦の潜水艦の損失が増えるばかりで目ぼしい戦果は無かった。沖縄戦での日本軍の敗北が確定した1945年7月に、日本海軍が残存潜水艦戦力の総力を挙げて6隻の「多聞隊」を編成し、沖縄と後方基地の通商破壊作戦を行った。その内の伊53潜は1945年7月24日、ルソン島沖でLST7隻と冷凍船1隻とそれを護衛する護衛駆逐艦アンダーヒル他合計17隻の敵輸送船団を発見。勝山淳中尉(海兵73期)搭乗の回天を発射し、アンダーヒルを撃沈した。またその後の7月28日には、伊58潜が発射した回天の爆発でロウリー(駆逐艦)(英語版)が損傷しており、この損害は日本軍潜水艦がまだフィリピン海域で活動していることを示していたが、この損害によりアメリカ軍が警戒を強化することはなかった。
広島、長崎へ投下予定の原子爆弾用の部品と核材料を、急ぎテニアン島へ運ぶ極秘任務を終えた重巡洋艦インディアナポリス(インディアナポリスは1945年3月31日に沖縄戦において陸軍特別攻撃隊誠第39飛行隊の一式戦1機の突入を受け大破。修理のためアメリカ本土に後送されたのちに与えられたのが当任務)は、7月28日にグアム島からレイテ島に向かっていた。艦長のチャールズ・B・マクベイ3世には多聞隊出撃の情報も、アンダーヒルの沈没やロウリーの損傷の情報も知らされていなかったことから、対潜警戒のジグザグ航行も隔壁の閉鎖の措置も取っていなかった。インディアナポリスを発見した伊58潜は残る3基の回天の発射準備を行っており、艦長の橋本に回天隊員らは何度も電話で「早く出撃させて下さい」と督促したが、橋本は通常魚雷で撃沈可能と判断し、「わざわざ人命を犠牲にする必要はない」と回天隊員らの督促を黙殺して、九五式酸素魚雷を合計6本を全門発射し、3本が右舷に命中、艦内第二砲塔下部弾薬庫の主砲弾が誘爆させ、わずか12分後に転覆、沈没した。橋本は撃沈したのをアイダホ級戦艦と誤認したまま暗号で戦果報告をしたが、これをアメリカ軍は傍受し暗号を解読したにも関わらず、橋本が戦艦撃沈と誤認報告していたため、インディアナポリスのこととは気が付かなかった。救助活動は沈没後84時間経過してからようやく開始され、撃沈時に戦死したのが約350名だったのに、海上を漂流している84時間の間に500名以上が死亡し全体の戦死者は883名にも上り、アメリカ軍の第二次世界大戦でのもっとも悲惨な損害と言われた。伊58潜はこの後も回天で駆逐艦・水上機母艦・工作艦などを攻撃後(戦果はなし)無事に日本に帰投している。「多聞隊」は1隻の潜水艦を失うことなく、回天の初陣となった「菊水隊」を超える戦果を挙げ、回天作戦の有終の美を飾るものであり、アメリカ軍からも、戦争終結前の日本海軍の大きな成功と評された。
決号作戦
海軍大臣の米内光政は決号作戦の準備として、全海軍部隊を指揮できる海軍総隊を新設し、その司令長官に連合艦隊司令長官豊田を兼務させ強力な権限を与えて本土決戦準備を進めた。また5月29日には豊田は軍令部総長に任じられ、連合艦隊司令長官には、軍令部次長の小沢治三郎中将が親補された。そして小沢の後任には「特攻生みの親」大西を任命した。米内は講和派であったが、陸軍の主戦派らの不満を抑え込むため、講和派の井上海軍次官更迭に加えておこなわれた人事であった。海軍内でも軍令部富岡作戦部長のような講和派からは煙たがられたが、作戦課長の田口らは本土決戦に向けてこの人事を歓迎している。
沖縄戦の大勢も決した1945年6月8日に、本土決戦の方針を定めた「今後採ルヘキ戦争指導ノ基本大綱」が昭和天皇より裁可されたが、その御前会議の席で参謀本部次長河辺虎四郎中将が「皇国独特の空中及び水上特攻攻撃はレイテ作戦以来敵に痛烈なる打撃を與えて来たのでありますが累次の経験と研究を重ねました諸点もあり今後の作戦に於きまして愈々其の成果を期待致して居る次第であります。」と、特攻を主戦術として本土決戦を戦う方針を示した。軍令部総長豊田は「敵全滅は不能とするも約半数に近きものは、水際到達前に撃破し得るの算ありと信ず」と本土に侵攻してくる連合軍を半減できるとの見通しを示したが、これは豊田自身も過大と自覚しており、隣席していた昭和天皇が一言も発さなかったのを見て、相当不満であったと感じている。
この豊田の御前会議での上陸部隊半数を洋上で撃破という言葉がそのまま決号作戦における海軍の方針となり、6月12日には軍令部で「敵予想戦力、13個師団、輸送船1,500隻。その半数である750隻を海上で撃滅する。」という「決号作戦に於ける海軍作戦計画大綱」が定められたが、その手段は、7月13日の海軍総司令長官名で出された指示「敵の本土来攻の初動においてなるべく至短期間に努めて多くの敵を撃砕し陸上作戦と相俟って敵上陸軍を撃滅す。航空作戦指導の主眼は特攻攻撃に依り敵上陸船団を撃滅するに在り」の通り、特攻であった。
海軍総隊参謀長兼連合艦隊参謀長であった草鹿龍之介によれば、本土決戦では九州に上陸してくる連合軍に対し、「六分の一が命中すれば上々」として、約1,000機を一波とし、これを10派、10,000機の特攻機で攻撃をかける目算であった。内命された時点ですでに九州南部に、訓練中のものを含めて5,000機が用意されていたという。
大本営の目論見では、フィリピンでも沖縄でもできなかった、連合軍の迎撃を無力化するほどの十分な数の特攻機を集め、陸海軍交互に300機 - 400機の特攻機が1時間ごとに連合軍艦隊に襲い掛かる情景を描いていた。その為に稼働機は練習機であろうが旧式機であろうがかき集めて全て特攻機に改造するつもりであった。
米国戦略爆撃調査団の戦後の調査では終戦時の日本軍の特攻機を含めた航空戦力は以下の通りであった。
(中略)
米国戦略爆撃調査団は沖縄戦での練習機などの低速機・旧式機による攻撃の有効性を見て(#練習機による特攻参照)「連合軍の空軍がカミカゼ(航空特攻)を上空から一掃し、連合軍の橋頭堡や沖合の艦船に近づかない様にできたかについては、永遠に回答は出ないだろう(中略)終戦時の日本軍の空軍力を見れば連合軍の仕事は生易しいものではなかったと思われる」と評価し、特攻機による撃沈破艦が990隻に達すると分析していた。
水中・水上特攻兵器も大量に投入される計画であった。生産が容易な震洋は1945年7月までに2,500隻を整備する計画であったが、物資の不足や空襲の激化により計画の21%しか生産できなかった。また、地上基地から発射される基地回天や特殊潜航艇海龍や蛟竜の生産も並行してこちらは計画の41%であった。それでも連合軍のオリンピック作戦に備えて整備された水上・水中特攻兵器は、特殊潜航艇100隻、回天120基、特攻艇4,000隻(陸軍マルレを含む)にもなり、連合軍の上陸が予想される南九州から四国にかけての各基地に配備された。主なものでは、鹿児島には海龍20隻、震洋500隻、宮崎の油津には海龍20隻、回天12基、震洋325隻、大分佐伯には海龍20隻、高知宿毛には海龍12隻、回天14基、震洋50隻、高知須崎には海龍12隻、回天24基、震洋175隻などである。またコロネット作戦に備えて、海龍180隻、回天36隻、震洋775隻が東京を中心とする関東一円に配備されていた。
また、潜水服を着用した兵士が、柄の付いた爆雷で敵上陸用舟艇を攻撃する特攻兵器伏龍も準備され、650名からなる伏龍部隊が編制された。海軍は連合軍が侵攻してくるまでに4,000名の伏龍部隊を訓練しておく計画であった。伏龍は元々はB-29が投下した機雷を除去する目的で、海軍工作学校研究部員清水登大尉らにより開発されていた潜水服であったが、沖縄戦中の1945年5月に清水らに、特攻兵器として開発するように命令が下っている。編成された伏龍部隊の訓練中の1945年7月24日に、九十九里浜に敵軍が上陸を開始したという通報により出撃準備がなされたことがあったが、夜明けの前には誤報と判明し、一度も実戦投入されることはなかった。
終戦
十次に渡る菊水作戦が終了し、沖縄が連合軍に占領されると、本土決戦に向けて戦力温存策で出撃のペースは鈍化しており、沖縄方面への特攻は1945年8月11日、喜界島に最後まで残っていた第2神雷爆戦隊岡島四郎中尉以下2機の爆戦が米機動部隊突入を行い途絶えた。本土からの特攻は1945年8月15日、百里原基地からの第4御楯隊の「彗星」8機、木更津から第7御楯隊の流星1機によって行われたが全機未帰還。これが玉音放送前の最後の出撃であった。
終戦間際になると、東日本を統括している第1航空軍の指揮下で各神鷲隊が編成された。これらの隊は主に太平洋側に配備され、大戦最末期の1945年(昭和20年)8月9日には第255神鷲隊(岩手より釜石沖に出撃)が、13日には第201神鷲隊(黒磯より銚子沖に出撃)、第291神鷲隊(東金より銚子沖に出撃)、第398神鷲隊(相模より下田沖に出撃)と3隊が出撃している。また、東南アジア地域でも侵攻してきた戦艦ネルソンや護衛空母アミールなどで編成されたイギリス軍艦隊に対して、わずかに残存していた陸軍航空隊による特攻が行われた。7月25日には教育飛行隊の練習機である九七式戦闘機3機がタイのプーケット沖で、イギリス軍艦載機の迎撃を掻い潜って突入しイギリス海軍の掃海艦 ヴェステル(英軍掃海艦)(英語版)を撃沈した(イギリス軍は特攻機をソニアこと九九式襲撃機と誤認)。他にも数機が巡洋艦サセックスとアミールに突入しようとしたが、いずれも対空砲火に撃墜され、うち1機の破片がサセックスの側面に激突して、飛行機型の傷をつけたにとどまった。更にイギリス軍が計画していたシンガポールやマレー半島奪還作戦(ジッパー作戦(英語版) )に対抗する為に残存航空兵力を特攻隊として編成している途中で終戦となった。
ポツダム宣言が連合国より日本に通告され、その後の原爆投下とソ連対日参戦により、戦争終結に向けての動きが加速していく中で、大西は徹底抗戦を唱え続け、1945年8月13日には東郷茂徳外相に「我々は戦争に勝つための方策を陛下に奉呈して、終戦の御決定を考えなおしてくださるようお願いしなければなりません。」「我々が特攻で2,000万人の命を犠牲にする覚悟をきめるならば、勝利はわれわれのものとなるはずです。」と訴えた。大西は全国民が特攻戦術を取るならば、日本は滅びない、これは日本民族の名誉にかかる問題であると考えていたが、東郷は「一つの戦闘に勝つことが、我々にとって戦争で勝利をおさめることにはならないだろう」と大西の訴えを拒否している。大西は内閣書記官長の迫水久常に対しても同じような訴えをした後、翌14日に友人の矢吹一夫宅を訪れた。矢吹は大西が死ぬ気だと悟り、思いとどまるように説得したが、大西は「俺はあんなにも多くの青年を死なせてしまった。俺にようなやつは無間地獄に墜ちるべきだが、地獄のほうが入れてはくれんだろうな」と答えている。大西は玉音放送の翌日の8月16日に「特攻隊の英霊に曰す」という遺書を遺して自決した。
1945年8月15日、敗戦を迎え菊水作戦の最高指揮官であった5航艦司令長官宇垣纏中将は、玉音放送終了後8月15日夕刻、大分から「彗星四三型」11機で沖縄近海のアメリカ海軍艦隊に突入をはかったが(うち3機は、途中で不時着)、伊平屋島に墜落して同乗していた中津留達雄大尉と遠藤秋章飛曹長共々戦死した。
また、陸軍航空本部長寺本熊市中将が「天皇陛下と多くの戦死者にお詫びし割腹自決す」と遺書を残して自決、他にも航空総軍兵器本部の小林巌大佐、練習機『白菊』特攻隊指揮官、高知海軍航空隊司令加藤秀吉大佐など58名の将官級を含む航空隊関係者が自決がした。なかでも第4航空軍の参謀長として、フィリピン戦で敵前逃亡に等しい戦場離脱で予備役に回された司令官の冨永(その後第139師団長として現役復帰、終戦後にシベリア抑留)の下で特攻を指揮した隈部正美少将は、フィリピン戦後に更迭されて陸軍航空審査部総務部長という閑職にあったが、8月15日の夜に、母親、妻、19才と17才の2人の娘と最後の夕食を囲んだ後、家族5人で多摩川の川べりに赴き、隈部が自分の拳銃で全員を射殺した後、自分もその拳銃で自決した。特攻作戦への責任と、冨永の補佐をできなかったことへの悔恨に基づく自決とされる。
終戦後の自発的な体当たり攻撃として、8月18日北千島の陸海軍航空部隊によって占守島に侵攻してきたソ連赤軍艦艇や輸送船団に対する反撃が行なわれ、九七式艦上攻撃機が赤軍掃海艇КТ-152に命中し撃沈、特攻による連合軍最後の損害となった。同18日には、ウラジオストクに停泊していたソ連タンカータガンログに鎮海海軍航空隊塩塚良二中尉の操縦する二式水上戦闘機が特攻をしかけるが、対空砲火で撃墜されている。
8月19日には、満州派遣第675部隊に所属した今田均少尉以下10名の青年将校が、婚約者の女性2名を同乗させて、満州に侵攻してきたソビエト連邦軍の戦車隊に特攻している(神州不滅特別攻撃隊)。  
戦術

 

空中特攻
対艦船特攻
本来であれば、航空機で敵艦艇に攻撃するためには、まず敵の護衛戦闘機隊の迎撃を、次いで目標艦艇とその僚艦による対空砲火の弾幕を掻い潜らなければならない。こうした敵艦隊の防空網を突破するためには、本来なら最新鋭の機体に訓練を積んだ操縦者を乗せ、敵迎撃機を防ぐ戦闘機を含む大部隊が必要であり、攻撃機が雷爆撃を成功させるためには十分な訓練による技量が必要であった。さらに太平洋戦争後半には、レーダーによる対空管制、優秀な新型戦闘機による迎撃、また戦闘機の迎撃を突破しても、近接信管の対空砲や多数の搭載対空機関砲による対空弾幕が待ち構えており、攻撃の難易度はさらに上昇し、マリアナ沖海戦や台湾沖航空戦の様に通常の攻撃では、日本軍攻撃機が連合国軍の艦隊に接近することも困難になっていた。
それまでに熟練搭乗員を大量に喪失していた日本軍は、補充の搭乗員の育成が間に合わず、搭乗員の質の低下が止まらなかった。1943年1月に海軍航空隊搭乗員の平均飛行訓練時間は600時間であったが、1944年1月には500時間と100時間減少し、1年後の1945年1月には250時間と半減、終戦時には100時間を切っていた。そのような状況下で特攻は、熟練搭乗員でなくとも戦果を挙げることが可能であり、積極的に推進されることとなった。また訓練についても通常の搭乗員と比較すると簡単な課程で足り、陸軍航空隊は飛行時間70時間、海軍航空隊は30時間で出撃可能と考えられ、搭乗員の大量育成が可能なのも推進された理由であった。
最初の航空特攻隊となった神風特攻隊の目標は、連合艦隊による捷号作戦成功のため、創始者の大西瀧治郎中将の「米軍空母を1週間位使用不能にし捷一号作戦を成功させるため零戦に250キロ爆弾を抱かせて体当たりをやるほかに確実な攻撃法はないと思うがどうだろう」との提案通り、空母を一時的に使用不能とすることであったが、最初の特攻で大きな戦果があり、特攻の効果が期待より大きかったために、その後日本軍の主戦術として取り入れられ、目標に敵主要艦船も加えられた。そして1945年1月下旬には全ての敵艦船が目標になった。しかし、日本軍は過大な戦果報道とは裏腹に、特攻の命中率は現実的な評価をしており、沖縄戦の戦訓として当時の日本軍は航空特攻の予期命中率について対機動部隊に対しては9分の1、対上陸船団に対しては6分の1と判断していた。
特攻機の攻撃隊は、偵察機と特攻機と護衛の直掩機から編成されていた。まずは偵察機が敵艦隊まで誘導し、直掩機は戦場まで特攻機を護衛し、戦場に到達した後は特攻機による突入を見届けた後、帰還して戦果の報告を行った。しかし、台湾で陸軍航空隊の特攻を指揮した第8飛行師団司令部は、直援機にも艦船攻撃をせるために「直援機は爆装」との命令を出している。直援機は特攻機を護衛中に敵戦闘機と接触すると、爆弾を投棄して迎撃したが、爆装したまま敵艦隊と接触した場合は、特攻機と共同で敵艦船を攻撃した。直援機は敵艦船を爆撃したら帰投する計画であったが、そのまま敵艦に特攻する直援機もあった。また、爆装していない直掩機も特攻機とともに連合軍艦隊の防空圏に突入を行うわけであり、特攻隊とともに未帰還になる機体も少なくなかった。
偵察機は陸軍一〇〇式司令部偵察機や海軍彩雲の高性能機が充てられたが、数が少ない上に、偵察機を操縦できる搭乗員も不足しており、十分な運用ができなかった。菊水作戦で偵察飛行をおこなっていた第一七一海軍航空隊の偵察第4飛行隊は、菊水作戦中に24機の彩雲の内10機が未帰還となり、116名の搭乗員の内30名が戦死している。  
日本海軍
海軍航空隊は特攻機による接敵法として「高高度接敵法」と「低高度接敵法」を訓練していた。
高高度接敵法
高度6,000m - 7,000mで敵艦隊に接近する。敵艦を発見しにくくなるが、爆弾を搭載して運動性が落ちている特攻機は敵戦闘機による迎撃が死活問題であり、高高度なら敵戦闘機が上昇してくるまで時間がかかること、また高高度では空気が希薄になり、敵戦闘機のパイロットの視力や判断力も低下し空戦能力が低下するため、戦闘機の攻撃を回避できる可能性が高まった。しかし敵のレーダーからは容易に発見されてしまう難点はあった。敵艦を発見したら、まず20度以下の浅い速度で近づいた。いきなり急降下すると身体が浮いて操縦が難しくなったり、過速となり舵が効かなくなる危険性があった。敵艦に接近したら高度1,000m - 2,000mを突撃点とし、艦船の致命部を照準にして角度35度 - 55度で急降下すると徹底された。艦船の致命部というのは空母なら前部リフト、戦闘艦なら艦橋もしくは船首から長さ1⁄3くらいの箇所であったが、これは艦船に甚大な損傷を与えられるだけでなく、攻撃を避けようと旋回しようとする艦船は、転心を軸にして回るため、その転心が一番動きが少ない安定した照準点とされた。
低高度接敵法
超低高度(10m - 15m)で海面をはうように敵艦隊に接近する。レーダー及び上空からの視認で発見が困難となるが、高度な操縦技術が必要であった。敵に近づくと敵艦の直前で高度400m - 500mに上昇し、高高度接敵法の時より深い角度で敵艦の致命部に体当たりを目指す。突入角度が深ければ効果も大きいため、技量や状況が許すならこちらの戦法が推奨された。複数の部隊で攻撃する場合は「高高度接敵法」と「低高度接敵法」を併用し、敵の迎撃の分散を図った。他にも特攻対策の中心的存在であった連合国軍のレーダーを欺瞞する為に、錫箔を貼った模造紙(電探紙、今で言うチャフ)をばら撒いたり、レーダー欺瞞隊と制空部隊ら支援隊と特攻機隊が、別方向から敵艦隊に突入する「時間差攻撃」を行ったりという戦法などで対抗している。海軍航空隊における特攻の教育日程は、発進訓練(発動、離陸、集合)2日、編隊訓練2日、接敵突撃訓練3日を基本に、時間に応じこの日程を反復していた。 
日本陸軍
陸軍航空隊は1945年5月に作成した「と號空中勤務必携」という陸軍特攻隊員用の教本なども使用しながら特攻隊員を教育・訓練していた。敵艦への突撃法については、奇襲と強襲の場合に分けている。
強襲の場合
高高度より敵艦に接近し、逐次降下しながら、突撃開始点までに1,200 - 1,500mまでに下降する。その後角度を35度 - 40度、初速を300km/hで急降下し、敵艦の致命部を目指す。
奇襲の場合
奇襲、夜間攻撃、雲底が低い場合は、超低空水平攻撃を実施する。高度は800m - 1,200mで初速は270 - 300km/hで加速しながら艦船の中央部を目指す。水平で体当たりするか、降下するかは、敵艦に至った時点の高度で決まる。衝突点は、急降下突入か水平突入かで分けている。
急降下突入の場合
空母の場合 エレベーター部分、無理であれば飛行甲板後部 / 他の艦船 甲板中央部(艦橋と煙突の間)もしくは煙突内  艦橋と砲塔は装甲が厚いから避ける
超低空水平突入の場合
喫水線より少々上部 / 空母の場合 格納甲板入口 / 煙突の根本 / 後部推進機関部位
以上のような技術面での訓練や指導の他に、生活面や心得などについての教育も重視されており、「と號武隊員の心得」として「健康に注意せよ」「純情明朗なれ」「精神要素の修練をなせ」「堅確なる意志を保持せよ」などが説かれている。また、乗機に対する愛情も強調されており、「愛機を悲しませるな」として「愛機に人格を見いだせ、出来るだけ傍に居てやれ、腹が減ってはいないか、怪我はしていないか、流れる汗は拭いてやれ」と機体のメンテナンスを率先して行うように指導している。
陸軍航空隊の、特攻機搭乗員訓練カリキュラムは、重装備による薄暮の離着陸、空中集合、中隊の運動に10時間、前述の攻撃法の訓練に10時間、海上航法に6時間とされており、他に地上での訓練や講習を含めても約1カ月という短期間で育成されていた。  
特攻機の航法
「特攻では敵艦に突入するから搭乗員は全員即死と決めてかかって片道の燃料しか積んでいなかった」との主張があるが、これは沖縄戦における陸軍特別攻撃隊員の宿舎で『振武寮』と呼ばれた施設に対する、エンジントラブル等で引き返した隊員は懲罰的に監禁されていたとする認識などに伴う誤解で、あたかも特攻隊員が一度出撃したら引き返すことができないような認識をされていることがあるが、海軍の最初の神風特攻隊「敷島隊」は、悪天候に悩まされ1944年10月22日の初出撃以降3回連続で帰還し、陸軍航空隊の「富嶽隊」も初回の出撃では5機中4機が帰還するなど、特攻最初期から会敵できずに帰還する特攻機が存在するのは認識されており、事実誤認である。フィリピンで海軍航空隊最初の特攻隊を出撃させた第201航空隊の第311飛行隊長横山岳夫中尉は、部下隊員に「例えば100の燃料があるなら、50まで行って敵が見えんかったら帰って来い。」「仮に戻れない場合は、燃料が尽きる前に陸地に不時着しろ。」と帰還の指示までおこなってから出撃させている。その理由は「目標が見つからなければ、燃料が尽きて墜落するだけだから、出撃させる以上は無駄には死なせたくない。」といった至極当然の理由であったという。陸軍の下志津教導飛行師団においては、特攻隊員の教本「と號空中勤務必携」により帰還する方法や心得まで定められていた。
内容は「中途から還らねばならぬ時は 天候が悪くて自信がないか、目標が発見できない時等 落胆するな 犬死してはならぬ小さな感情は捨てろ 国体の護持をどうする 部隊長の訓示を思い出せそして 明朗に潔く還ってこい」「中途から還って着陸する時は 爆弾を捨てろ 予め指揮官から示された場所と方法で 飛行場を一周せよ 状況を確かめ乍らたまっていたら小便をしろ(垂れ流してよし) 風向は風速は 滑走路か、路外か、穴は 深呼吸三度」というもの。実戦でも、飛行第62戦隊が九州沖航空戦中の1945年3月18日に、新海希典戦隊長が率いる特攻専用機「ト」号機3機で浜松基地から沖合150kmに発見した敵機動部隊に向けて特攻出撃したが、機動部隊を発見できず出撃機の内2機が帰還しているが(新海の戦果確認機は未帰還)、地上で迎えた部隊指揮官は「ご苦労。よく帰ってきた。急いで死ぬばかりが国のためではない。よく休みなさい」と帰還機搭乗員らの労をねぎらっている。沖縄戦においては、沖縄の制空権を完全にアメリカ軍に握られていたので、索敵も早朝に出した索敵機の報告に頼らざるを得ず、特攻機が到着するころには報告された海域から移動しているケースが殆どであったため、日本軍は初めから特攻機を数機ずつに分けて、報告のあった海域を中心に扇状の飛行コースで飛ばして、敵と接触した隊だけ突入するという戦術にせざるを得なかった。これを索敵と攻撃を同時に行うことから「索敵攻撃」と呼称したが、敵と接触できないことの方が多く、4回〜5回覚悟を決めなおして出撃を繰り返す者もいた。日本海軍航空隊のエース・パイロット角田和男少尉は、特攻機ではなく直掩機として20回に渡り特攻機と出撃したが、そのうち敵機動部隊と接触したのはたった2回であった。
角田は「一生懸命探しているんですが、なかなか見つからないものなんです」と述べているように、実際は初めから多くの特攻機が帰還することを前提の出撃となっていた。特攻隊員たちが憂いなく出発できるように、出撃機には可能な限りの整備がなされたとも言われるが、現実問題として日本の工業生産力はすでに限界に達しており、航空機の品質管理が十分ではなかったことや、代替部品の欠乏による不完全な整備から、特攻機の機体不調による帰投は珍しいことではなかった。沖縄戦での特攻では、日本本土から沖縄周辺海域までの距離は、鹿屋からでも約650km。レーダーピケット駆逐艦や戦闘機による戦闘空中哨戒(CAP)を避ける意味からも、迂回出来るならば迂回して侵入方向を変更するのが成功率を上げるためにも望ましく、また先行して敵情偵察や目標の位置通報を行うはずの大艇や陸攻もしばしば迎撃・撃墜され、特攻機自らが目標を索敵して攻撃を行わざるを得ない状況もあり、燃料は「まず敵にまみえるために」必要とされた。レーダーを避けるための低空飛行と爆弾の積載のために、満タンの燃料でも足りなかったこともあるくらいで、出来る限り多くの燃料が積み込まれた。
陸軍の一式戦は機体燃料タンクに加えて左翼下に燃料200L入りの統一型落下タンクを懸吊して出撃している。増槽内の燃料が減ってくると、右翼下には250kg爆弾が懸吊してあるため、爆弾の重量で機体が右に傾き操縦が困難になったという。陸軍第六航空軍の青木喬参謀副長が「特攻隊に帰りの燃料は必要ない」と命令していた姿も目撃されているがその様な動きはむしろ例外で、陸軍第六航空軍の高級参謀は、戦後の米戦略爆撃調査団からの尋問で「特攻は通常攻撃より効果が大きい、その理由は爆弾の衝撃が飛行機の衝突によって増加され、また航空燃料による爆発で火災が起こる」と燃料による火災を特攻の大きな効果として認識しており、米戦略爆撃調査団による戦後の調査においても「命中時の効果を高める為、ガソリンが余分に積まれていた」ということが判明している。アメリカ軍も「特攻機は爆弾を積んでいなくてもその搭載燃料で強力な焼夷弾になる。」と、特攻機の燃料による火災を特攻の効果の一つとして挙げている。特攻機が片道燃料しか搭載しなかったという誤った情報が広まった経緯について、知覧特攻平和会館の初代館長で、自らも振武隊員として特攻出撃した経験のある板津忠正は、「基地で丹念に機体を整備している整備員が、燃料がこれだけあれば十分だと言って満タンにせずに送り出せると思いますか?当時の整備員はできれば一緒に乗って行きたい心境でしたし」と、片道燃料で出撃させられたという事実を否定し、「戦場に着き、特攻が成功すれば、片道燃料だけですむということが戦後、一人歩きして、帰りの燃料は積まなかったと思われるようになったのです。片道燃料という説は、大きな誤りです。」と指摘している。 
対空特攻
アメリカが入手した文書によれば日本軍は1939年12月から1942年7月にかけて戦闘機と志願パイロットによって空中衝突実験を行っている。その結果、敵に衝突することが最も効果的な方法という結論を得ている。
日本陸軍航空隊第10飛行師団で編成された対空特攻隊の震天制空隊で、中心戦力となった飛行第47戦隊の二式戦闘機「鍾馗」は、高高度性能が悪かったため、武装や防弾鋼板から燃料タンクの防弾ゴムに至るまで不要な部品を取り除いても、B-29の通常の来襲高度と同水準の10,500mまでしか上昇できなかった。B-29は特攻機を含む日本機の接近を知ると、目標の有無にかかわらず、全ての機銃で弾幕を張り、半径300mを機銃弾で覆い包んでしまったという。しかし唯一の死角がB-29の前下方で、そこから対進で攻撃するのが理想的であったが、一瞬のうちに接敵するため照準が困難で、特攻に失敗すると上昇姿勢となるため急速に失速し、B-29の銃座から恰好の目標となってしまうこと、またうまく離脱できても、高高度でのB-29と鍾馗の速度差から再度の攻撃が困難だという欠点があったという。
日本海軍でも日本陸軍と同様に、難敵B-29に対して自発的な空対空特攻が行われている。日本陸軍空対空特攻隊の初出撃に先駆けること3日前の昭和19年11月21日、第三五二海軍空所属の坂本幹彦中尉が零戦で迎撃戦闘中、長崎県大村市上空でB-29に体当たりして撃墜、戦死している。その後には組織的な対空特攻がおこなわれたが、日本陸軍と比べると小規模で、第二二一海軍航空隊が1944年12月にルソン島でB-24爆撃機迎撃のために編成した「金鵄隊」と、訓練のみで終わった天雷特別攻撃隊にとどまった。金鵄隊は250kg爆弾で爆装した零戦6機で編成されたが、3度の出撃で体当りに成功しないまま3機未帰還となり、残機は対艦特攻任務へと切り替えられた。
大型攻撃機の編隊の中に突入して爆弾で自爆する特攻戦法も考案された。天雷特別攻撃隊においては零戦52型に3号爆弾を装備しB-29の編隊に前から50 - 60度の角度で侵入し敵一番機をかわした時に自爆ボタンを押し爆弾を爆発させる。直径250 - 300メートルの範囲でダメージを与えられると想定していた。戦闘機にやられず、味方にも被害がないように誘導機1機と特攻機1機の単機攻撃が原則であった。312空でも秋水によって同様の自爆特攻が予定されていた。
百中百死の対艦特攻と異なり、対空特攻ではB-29に特攻しても生還できた搭乗員も少なからず存在している。2回体当たりして2回とも生き残り、遂には沖縄艦船特攻で戦死した飛行第244戦隊の四之宮徹中尉や、同じくB-29に2回体当たりを敢行して生還した中野松美伍長のような例もあり、搭乗員は落下傘降下やもしくは損傷した機体で生還できる可能性があったため、対艦船特攻のように100%死を覚悟しなければならないものではなかったが、死亡率は極めて高く、やはり特攻であることに変わりは無かった。
なお、これらの特攻は衆人環視の中で行なわれたものであったため、ラジオ放送では、敵機に体当たりしての戦死は名誉の戦死であり、青年は特攻隊員に志願すべきと呼びかけるなど戦意高揚に利用された。また、戦果の翌日は写真付で新聞紙面を飾ることが少なくなかったが、新聞の論説の中には、B-29のパイロットは全員打ち首にすべきであり、撃墜されてパラシュートで降下したアメリカ軍パイロットを見かけた場合は、報告する様にと国民によびかけるものまであった。
だが、一部では1機で2機を体当たり撃墜したような戦果もあったものの、全体的に見ると重防御を誇るB-29は、体当たりを受けて垂直尾翼が切断されながらも生還できた機体があったように、総合的な戦果はあまり芳しくなかった。B-29は日本本土空襲に延べ31,347機が出撃し、494機が任務中に失われたが、(日本本土爆撃において1回の攻撃あたりの最大の損失率は15.9%、平均1.38%であったと言われる。)その中で、対空特攻により撃墜したB-29は62機とも推定されている。しかし、こうした苦心の策を講じても、アメリカ軍による航空特攻を含む日本軍の本土防空戦力への評価は『poor(貧弱)』であった。
その後、硫黄島が占領され、B-29がP-51を初めとする優秀な最新鋭戦闘機を護衛に引き連れてくるようになると、さらに対空特攻は困難となっていった。また、日本本土決戦に備えて航空戦力の温存が図られるようになると、組織的な空対空特攻隊の編成は下火となっていった。しかし、そのような状況の中でもわずかながら戦果を挙げている。  
空挺特攻
生還が極めて困難なエアボーン方式のコマンド作戦が行われた例があり、特別攻撃隊として評価されることがある。いずれも敵飛行場に航空機を用いて強行着陸し、地上部隊を突入させるものであった。最初の実行例は、レイテ島の戦いで高砂義勇兵によって編成された「薫空挺隊」を輸送機で強行着陸させようとした「義号作戦」である。同じレイテ戦では、正規空挺部隊である挺進部隊の大規模空挺作戦の「テ号作戦」でも、一部が海岸地帯の生還困難な飛行場へ強行着陸を試みている。沖縄戦でも一時的に飛行場を制圧して対艦特攻を間接支援する目的で、挺進連隊の一部が「義烈空挺隊」として強行着陸を行っており、これも「義号作戦」と呼称している。沖縄戦中の1945年5月24日に12機の九七式重爆撃機に分乗した136名の義烈空挺隊が沖縄の読谷と嘉手納の飛行場に攻撃を謀ったが、激しい対空射撃で強行着陸できたのは読谷飛行場の1機のみであった。しかし搭乗していたわずか12名の空挺隊員は戦闘機3機・爆撃機2機・輸送機3機を完全撃破、他22機にも損害を与え、約70,000ガロンの航空燃料を焼き払い、海兵隊に22名の死傷者を出させた後に全滅した。同飛行場は丸一日使用不能に陥っている。このほか、マリアナ諸島の飛行場および原爆貯蔵施設を標的とした剣号作戦が計画されたが、終戦で実行に至らなかった。  
水中特攻/水上特攻
水中特攻、水上特攻は、回天、震洋などの特攻兵器を使用した敵艦船を目標とする体当たり、自爆攻撃のことである。
水上特攻は陸海軍とも当初は搭乗員の戦死が前提ではなく、陸軍の四式肉薄攻撃艇は敵艦近くの海中に爆雷を投下し、そのまま退避するのが前提であったが、実際に試作艇で試験してみると爆発時に生じる水柱の回避が困難なことが判明し、技術陣からそのまま体当たりした方が効率がいいという指摘がなされて、体当たり攻撃も可能な装備が付けられた。しかし、陸軍の原則はあくまでも爆雷投下後退避であり、1945年に作成された教範では、四式肉薄攻撃艇が「敵艦の側面に真っ直ぐ突進して爆雷を投下しUターンして退避する」とか「敵艦後方から両側から挟む様に2隻の特攻艇が敵艦に接近し、爆雷を投下してそのまま前進して退避する」とか「斜め後方より敵艦に接近し爆雷投下後直角に退避する」とかの攻撃法が図入りで説明されていた。実戦でも沖縄戦中の1945年4月9日に駆逐艦チャ―ルズ・A・バジャーを攻撃した四式肉薄攻撃艇は、まだ暗い早朝4時に暗闇に紛れて気付かれず同艦に接近し爆雷投下後無事に退避している。この爆雷はチャ―ルズ・A・バジャーのすぐそばで爆発し、艦体全体が湾曲し後部ボイラー室と機械室に大量に浸水し航行不能に陥る大損害を被った。一方で、同日夜に輸送艦スターを攻撃した四式肉薄攻撃艇は、退避が遅れて自分の爆雷の爆発で吹き飛んでいる。爆雷は4秒の時限信管付きで、投下後4秒間沈下し、水面下10mで直上の敵艦艇に最大の打撃を与えられた。しかし敵艦から10m離れると著しく威力が減少するため、実戦でも爆雷の投下までできたが敵艦に軽微な損傷しか与えられなかったケースが多くあった、そのため、自ら体当たりを選ぶ搭乗員も多かった。
一方で海軍の震洋は初めから体当たり攻撃用に開発されていたが、海軍中央は体当たり前の脱出を前提に開発を進めるよう要望している。昭和19年8月16日の特攻兵器に関する会議で連合艦隊参謀長草鹿龍之介中将が「せめて10分の1生還の途を考えてもらいたい」と意見し、海軍次官井上成美大将も捨身戦法は有益であるが、脱出装置は準備すべきと意見を述べている。これらの海軍の方針もあり、震洋の操舵輪には固定装置が付けられ、搭乗員は敵艦に命中する様にコースをセットしたら後ろから海に飛び込む様に設計されており、訓練所のあった海軍水雷学校で訓練したところ、走っている艇より海中に飛び込むことは容易で、スクリューに巻き込まれる事もなく安全であることが判明している。しかしこの固定装置は初期生産型のみの設置で、水雷学校で行われていた体当たり前に海中に脱出する訓練は、水雷学校の分校である長崎県川棚町の魚雷艇訓練所に訓練場所が移った後は行われなくなり、また訓練を受けている隊員たちもそのまま体当たりするのが当然と考えていた。  
海上特攻
戦艦の巨砲で敵地へ突入し玉砕する戦法は海上特攻と呼ばれた。
海上特攻隊はマリアナ沖海戦の敗北後から神重徳大佐によって主張されていた。坊ノ岬沖海戦で行われた戦艦大和以下によって行われたものについて、豊田副武連合艦隊長官は「大和を有効に使う方法として計画。成功率は50%もない。うまくいったら奇跡。しかしまだ働けるものを使わねば、多少の成功の算あればと思い決定した」という。草鹿龍之介少将は大和の第二艦隊司令長官伊藤整一中将に「一億総特攻のさきがけになってもらいたい」と説得した。 戦艦の突入による玉砕攻撃は、豊田副武によって「海上特攻隊」と命名された。
海上特攻は、片道燃料での出撃を命じられていた。具体的には軍令部より2,000トンの重油が割り当てられ、連合艦隊もこれを了承、軍令部第一部長の富岡少将は連合艦隊参謀副長の高田少将にこれを厳守するよう命じていた。しかし連合艦隊の現場側は「はらぺこ特攻」を容認せず(参加駆逐艦長は「死にに行くのに腹いっぱい食わさないという法があるか!」と叫んだという)、呉鎮守府補給担当、徳山燃料廠まで巻き込み、責任追及を受けた場合には「命令伝達の不徹底であり過積載分は後日回収予定であったが果たせなかった」との口裏合わせまで行って燃料を補給し当初予定の5倍の燃料が搭載された。  
陸上特攻
末期に日本陸軍では戦車に対戦車地雷を取り付けて敵戦車に体当たりする戦法や、歩兵が爆弾を抱えて敵戦車に体当たりする戦法が行われることが多数あった。
戦車による対戦車特攻
日本軍戦車による対戦車特攻の実例としては、ルソン島の戦いの末期の1945年4月、第14方面軍の軍司令部の置かれていたバギオに連合軍が迫ってきた際に、司令官山下奉文大将が、司令部直轄戦車隊であった戦車第10連隊第5中隊の残存戦車3輌にアメリカ陸軍戦車部隊の侵攻阻止を命じたことから、中隊長の桜井隆夫中尉が、アメリカ軍の主力戦車であるM4中戦車と日本軍戦車の戦力差を考慮し、体当りでM4中戦車を撃退するため戦車特攻隊を編成したことがあげられる。
桜井は、丹羽治一准尉以下11名に、九五式軽戦車、九七式中戦車各1両での戦車特攻隊の編成を命じたが、その2輌の戦車には前方に先端に20kgの爆薬を装着した長さ1mの突出し棒を取付けてあるという異様な姿であった。また、2輌の戦車内に搭乗しきらなかった4名の戦車兵は、1輌に2名ずつタンクデサントすることとなったが、その車外戦車兵は各々爆雷を入れた雑嚢を抱え、手榴弾数発を腰から下げて肉弾で体当たり攻撃するつもりであった。
丹羽ら2輌に分乗した戦車特攻隊は、軍司令官山下見送りを受けた後、バギオ近郊のイリサンまで進出すると、戦車を擬装し、アメリカ軍戦車隊を待ち受けた。17日午前9時、イリサン橋西北200mの曲がり角に差し掛かったアメリカ陸軍のM4中戦車に対して、擬装していた丹羽戦車隊が奇襲。不意の出現に慌てたアメリカ陸軍の先頭戦車は操縦を誤り50mの崖下に転落。さらに丹羽戦車隊の2両が後続車に体当り攻撃を仕掛けるため突進、M4中戦車の砲撃が丹羽が搭乗する九五式軽戦車の砲塔に命中し砲塔が吹き飛ばされたが、それに構わず2輌の日本軍戦車はそのままM4戦車に体当たりした。タンクデサントをしていた戦車兵らも、戦車の体当たり直前に戦車から飛び降り。戦車が突入すると同時にM4中戦車に体当たり攻撃をした。生き残った日本軍戦車兵は、M4中戦車から脱出しようとするアメリカ軍戦車兵に手榴弾を投擲したり、軍刀を抜刀して斬り込みした。
双方の戦車4両が爆発炎上して、その残骸がアメリカ軍戦車隊の侵攻路を妨害することとなったが、イリサン近辺の道路は狭隘であったために、戦車残骸の除去は難航、アメリカ陸軍は約1週間の足止めを受け、その間にバギオの司令部は、大量の傷病兵や軍需物資と共に整然と撤退することができた。日本の公刊戦史ではこれを「戦車の頭突き」と称している。
歩兵による対戦車特攻
日本軍歩兵は連合軍が大量に投入してきた戦車に対して、相応の距離で阻止できる速射砲や野砲といった火砲や歩兵携帯の対戦車装備(他国ではアメリカのバズーカやドイツのパンツァーファウスト、イギリスのPIATとして大戦中に使用)を十分に保有していなかったため、戦車との近接戦闘を工夫せざるを得なくなった。
さまざまな形式の対戦車挺身肉弾攻撃が行われているが。制式装備による近接攻撃としては、九九式破甲爆雷を戦車の装甲板に吸着し爆発させる攻撃があった。日本軍歩兵は九九式破甲爆雷を持って敵戦車に肉薄し、車体に磁力で吸着させると、安全ピンを引き抜いて約5秒後に爆発する仕組みとなっていた。手榴弾のように投擲して使用することもあった。装甲板に吸着できた場合、1個の爆雷で約20mm、2個の爆雷を吸着しても30mmの貫通力と、決して破壊力があるとは言えなかったが、軽戦車には十分な威力であり、ビルマの戦場では判明しているだけで1か月間で6輌のM3A3戦車が撃破され、アメリカ陸軍情報部の報告書では「最近のビルマの戦闘経験に照らして、この報告(九九式破甲爆雷による損害)は、明らかに連合軍戦車に対する日本軍の主要な脅威の1つになるだろう。」と分析していた。また破甲爆雷は、沖縄の飛行場に突入した義烈空挺隊も使用しており、航空機撃破に威力を発揮している。
1944年末、沖縄を含む南西諸島に連合軍侵攻の懸念が高まると、陸軍参謀本部後宮次長が、第32軍八原高級参謀らの各軍参謀に「わが対戦車砲は数が少なく、しかも熾烈な敵の砲撃により直ちに破壊されてしまう。貧乏人が金持ちと同じ戦法で戦えば、負けるに決まっている。そこで日本軍には「新案特許」の対戦車戦法が発案された。それは10kgの火薬を入れた急造爆薬を抱えて、敵戦車に体当たりして爆破するのだ。実験の結果によると、この10kg爆薬をもってすれば、いかなる型の敵戦車でも撃破可能である。」との特攻戦術を披歴した。第32軍は後宮の戦術を参考に、段ボール大の木箱に爆薬を詰め込んだ急造爆雷を多数準備した。やがて沖縄に連合軍が上陸してくると、日本兵はこの急造爆雷をアメリカ軍戦車のキャタピラに向けて投げつけるか、もしくは爆雷をもったまま体当たり攻撃をかけた。この特攻戦術は効果があり、激戦となった嘉数の戦いでは、この歩兵による体当たり攻撃で1日に6輌のM4中戦車が撃破され、アメリカ陸軍の公式報告書でも「特に爆薬箱を持った日本軍兵士は、(アメリカ軍)戦車にとって大脅威だった。」と警戒していた。
アメリカ軍戦車兵は、急造爆雷や九九式破甲爆雷で対戦車特攻を行ってくる日本兵を警戒し、戦車を攻撃しようとする日本兵を見つけると、優先して車載機銃で射撃したが、日本兵が抱えている爆雷に銃弾が命中すると爆発し、周囲の日本兵ごと吹き飛ばしてしまうこともあった。また、戦車内に多数の手榴弾を持ちこみ、対戦車特攻の日本兵が潜んでいそうな塹壕を見つけると、戦車のハッチを開けて塹壕に手榴弾を投げ込み、特攻するため潜んでいた日本兵を掃討している。
しかし、アメリカ軍戦車にとっての一番の脅威は対戦車特攻ではなく、一式機動四十七粍砲や九〇式野砲といった対戦車砲か九三式戦車地雷であったという。対戦車特攻で主に使用された急造爆雷は、爆風が外に広がり戦車に大きな損傷を与えないケースも多かった。他にも、刺突爆雷といって円錐状の成形炸薬弾頭を棒の先に取り付け、敵の戦車を文字通り刺突し爆発させるという兵器も開発して、実際に運用していたが効果は不明である。
対戦車特攻を含めた連携により、沖縄戦で第32軍はM4中戦車だけで、272輌(陸軍221輌海兵隊51輌)を撃破している。  
効果

 

戦果
特攻の戦果は、航空特攻で撃沈57隻 戦力として完全に失われたもの108隻 船体及び人員に重大な損害を受けたもの83隻 軽微な損傷206隻(元英軍従軍記者オーストラリアの戦史研究家デニス・ウォーナー著『ドキュメント神風下巻』)。 航空特攻で撃沈49隻 損傷362隻 回天特攻で撃沈3隻 損傷6隻 特攻艇で撃沈7隻 損傷19隻 合計撃沈59隻 損傷387隻(イギリスの戦史研究家Robin L. Rielly著『KAMIKAZE ATTACKS of WORLD WAR II』)など諸説ある。 アメリカ軍の特攻損害の公式統計は、「44カ月続いた戦争のわずか10カ月の間にアメリカ軍全損傷艦船の48.1% 全沈没艦船の21.3%が特攻機(自殺航空機)による成果であった」。「アメリカが(特攻により)被った実際の被害は深刻であり、極めて憂慮すべき事態となった」とアメリカ軍の損害が極めて大きかったと総括している。
自らもイギリス軍の従軍記者として、空母フォーミダブルで取材中に特攻で負傷した経験を持つデニス・ウォーナーは「航空特攻作戦は、連合軍の間に誇張する必要もない程の心理的衝撃を与え、またアメリカ太平洋艦隊に膨大な損害を与えた。アメリカ以外の国だったら、このような損害に耐えて、攻勢的な海軍作戦を戦い続ける事はできなかったであろう。」「そして、日本軍の特攻機だけがこのような打撃を敵(アメリカ海軍)に与える事が可能であったことだろう。」と結論付けている。
人員
特攻の効果で、連合軍を苦しめたものの一つが、大きな人的損失であった。
大日本帝国の版図を拡げるという戦争目的を維持し存続するために特攻隊員の命は費やされたのにも関わらず、結局日本は敗戦しその目的は果たされなかったので、特攻隊員は無駄死にであったなどと評価をされることもあるが、それは特攻した側の日本の戦後社会で幅を利かせた、戦争の現実を分析せずに思想や理念を優先させる考え方であって、受ける側のアメリカ軍は、たった1人の死を顧みない攻撃によって艦船であれば数百名以上の人員が危険に晒されており、「日本軍の機体とパイロットが100%失われたとしても、我々が耐えられない損害を当たえるのに十分だったであろう。」と評価していた。
連合軍の人的損失については、特攻のみによる死傷者の公式統計はないため推計の域は出ないが、アメリカ軍の公式記録等を調査したRobin L. Rielly著『KAMIKAZE ATTACKS of WORLD WAR II』では特攻によるアメリカ軍の戦死者6,805名負傷者9,923名合計16,728名、 Steven J Zaloga著『Kamikaze: Japanese Special Attack Weapons 1944-45』では戦死者7,000名超と集計している。他にイギリス軍、オーストラリア軍、オランダ軍でも数百名の死傷者が出ている。連合軍全体では、戦死者12,260名、負傷者33,769名に達したという推計もある。日本側が特攻兵器に費やした人員よりも米軍側の損害が大きかった可能性がある。
アメリカ海軍の太平洋戦域での戦闘における(除事故・病気等の自然要因)死傷者のアメリカ軍公式統計は、特攻が開始された1944年以降に激増し、1944年から1945年8月の終戦までで45,808名に上り、太平洋戦争でのアメリカ海軍の死傷者合計71,685名の63.9%にも達したが(1945年の8か月だけでも26,803名で37.4%)、1944年以降のアメリカ軍艦船の戦闘による撃沈・損傷等は約80%以上が特攻による損失であり特攻がアメリカ海軍の死傷者を激増させた大きな要因となったことがうかがえる。
その内、特攻が開始された1944年10月以降の、アメリカ海軍兵士の直接の戦闘による戦死者だけでも下記の通りとなる。
戦死者 10,835名 / 負傷により後日死亡 557名 / 小計 11,392名
また上記の海軍以外でも、輸送艦などに乗艦していた、陸軍・海兵隊の兵士や輸送艦の船員なども多数死傷している。
特攻による被害艦は、重篤な火傷を負った負傷者が多い事も特徴であった。航空燃料で生じた激しい火災による火傷の他に、特攻機や搭載爆弾の爆発で生じる閃光による閃光火傷を負う負傷者も多かった。フィリピンで特攻で大破した軽巡洋艦コロンビアでは100名以上の閃光火傷の負傷者が生じている。後送される特攻による負傷者は、包帯を全身に巻かれミイラの様になっており、チューブで辛うじて呼吸し、静脈への点滴でどうにか生き延びているという惨状であった、また、火傷が原因で後日死亡する負傷者も多かった。
沖縄戦で撃沈されたモリソン(駆逐艦)(英語版)の乗組軍医は「(特攻による)負傷者処置には、どのような標準的治療設備もその機能を発揮する事ができなかった。駆逐艦の艦上における負傷者治療についての規定や、入念に作り上げられているアメリカ海軍の要綱は、この異常で野蛮的な戦法に対して何ら用をなさない。衛生科はもはや訓練された隊として活動する事はできなかった。(中略)士官室や作戦室を艦内の最も安全な場所として応急治療室として選ぶのはバカげている、その理由は(特攻から)艦内で安全な場所なんてどこにも存在しないからである。」と特攻に対しては従来の負傷者処置ができなかったと述べている。
その為、アメリカ海軍は水兵に対して「対空戦闘に必要最低限の人数以外は退避させる」「一か所に大人数で集まることを禁止」「全兵員が長袖の軍服を着用し袖や襟のボタンをしっかりとめる、顔など露出部には火傷防止クリームを塗布する」「全兵員のヘルメット着用義務化」「対空戦闘要員以外はうつ伏せになる」など事細かに特攻による兵員の死傷の防止策を指導していた。
特攻による死傷者の中には高級将官も多く含まれていた。第二次世界大戦でのイギリス陸軍且つ特攻で戦死した最高位の軍人となるハーバード・ラムズデン(英語版)中将や、アメリカ海軍最高位の戦死者セオドア・チャンドラー(英語版)少将らである。(同じアメリカ海軍少将の戦死者としては真珠湾攻撃でのアイザック・C・キッド少将、第三次ソロモン海戦でのダニエル・J・キャラハン少将とノーマン・スコット少将の3名がいる)ラムズデン中将が戦死した戦艦ニューメキシコの艦橋には、イギリス海軍太平洋艦隊(東洋艦隊 (イギリス)から改編)司令のブルース・フレーザー大将も同乗していたが、少し席をはずした際に、特攻機が命中したため難を逃れている(ただし副官が戦死)。東洋艦隊 (イギリス)はマレー沖海戦で前任者である司令のトーマス・フィリップス提督が戦死しており、2代に渡って大英帝国海軍の艦隊司令が太平洋戦域で戦死するところであった。
また沖縄戦で旗艦の空母バンカー・ヒルで艦載機の発艦準備を視察していた第58任務部隊司令マーク・ミッチャー中将のわずか6mの至近に特攻機が突入した。奇跡的にミッチャー自身は無傷であったが幕僚13名が戦死し、また司令官個室も破壊され機密文書からミッチャー個人の私物まですべて焼失してしまった。その後旗艦を空母エンタープライズとしたが、同艦も特攻攻撃を受け大破し、空母ランドルフに再び旗艦を変更せざるを得なくなった。ミッチャーはこの後も特攻対策で心労が重なり、体重は45kgと女性並みまで落ち込み、舷側の梯子を単独では登れないほどまで心身ともに追い込まれ、上官のスプルーアンスと同じように、沖縄戦途中に異例の艦隊指揮交代となっている。
アメリカ軍は日本本土侵攻作戦となるダウンフォール作戦では毒ガスの使用も検討していた。フランクリン・ルーズベルト大統領は毒ガスの使用は報復の場合に限るとしていたが、ハリー・S・トルーマン大統領は日本軍が731部隊などで毒ガスや生物兵器を研究しているという情報を掴んでおり、毒ガスの使用を禁じてはいなかった。アメリカ軍が毒ガスを使用した場合には、報復として日本軍が特攻機に化学・生物兵器の搭載する可能性があると考えて、その場合はより大きな人的損失が発生することが懸念されていた。
有効率
日米双方の調査における有効率
戦史叢書、安延多計夫(最終階級は海軍大佐)の算定による。ただし陸軍の機数が集計未完成につき確実性を欠く。
   被害艦数 358隻
1945年2月14日から菊水十号作戦(6月22日)までの、日本海軍航空隊の出撃機数は以下の通り(機数は延べ機数)。
   特攻機合計 1,868機
特攻の定義や用いられた資料により、出撃回数・出撃機数・帰還機数・戦果といった算定は変わる。航空特攻の命中率に関しては以下のような主張がある。全期間を通じての命中率一六・五%とする説、出撃総数約3,300機、敵艦船への命中率11.6%、至近突入5.7%、命中32隻、損傷368隻とする説、出撃機数2,483機、奏功率16.5%、被害敵艦数358隻とする説などがある。
攻撃を受けたアメリカ側の米国戦略爆撃調査団統計による特攻作戦有効率は以下の通り。
   有効率 18.6%
1944年10月 - 1945年3月(沖縄戦前)特攻機の有効率推移
   1944年10月   58%
   1944年11月   53%
   1944年12月   47%
   1945年1月    64%
   1945年2月    59%
   1945年3月    56%
       合計    56%
特攻と通常攻撃との有効率の比較
特攻の有効率は、特攻に一番近い攻撃法とされた急降下爆撃の、日本軍主張の命中率と比較しても著しく低く、特攻の戦術としての有効性は低かったとする意見もある。ただし下表のとおり、日本軍主張の急降下爆撃の命中率は、攻撃を受けたアメリカ軍やイギリス軍の被害報告に基づく実際の命中率とはかけ離れていた。
太平洋戦争初期の主要海戦における急降下爆撃命中率
   セイロン沖海戦で2隻の重巡洋艦に対する攻撃 34%
   珊瑚海海戦で2隻の空母に対する攻撃       9%
   ミッドウェー海戦でヨークタウンに対する攻撃    17%
日本軍主張の命中率は過大ではあったが、それでも太平洋戦争の序盤は多大な成果を上げていたことにかわりはなく、アメリカ軍も「彼ら(日本軍)の開戦初期の成功は、非常によく訓練され、組織され、装備された航空部隊が連合軍の不意をついて獲得したものであった」と評価していた。しかし、ミッドウェーの敗戦からソロモン諸島などでの航空消耗戦で弱体化していく日本軍航空戦力を「日本軍の航空戦力がソロモン諸島、ビスマルク諸島、ニューギニアで消耗されると、それらに匹敵する後継部隊を手に入れることができなくなり、日本の空軍力は崩壊しはじめ、ついに自殺攻撃が唯一の効果的な戦法となった。」と評価していた。
日本軍の航空戦力の弱体化に対して、アメリカ軍側の防空システムは1943年までの日本軍との諸海戦の戦訓により各段に進歩しており、特に1943年以降大量に就役したエセックス級航空母艦の艦隊配備が進歩を加速させた。エセックス級空母各艦は航空母艦群の旗艦となり、搭載された対空捜索用SKレーダー、対水上捜索・航空機誘導用SGレーダー、航空管制用の測高用SMレーダー、予備の対空捜索用SC-2レーダー、射撃用のレーダーとしてMk.37 砲射撃指揮装置と一体化した距離測定用Mk.12レーダーと、高度測角用Mk.22レーダーを活用した戦闘指揮所 (CIC) が、迎撃戦闘機の誘導や新兵器VT信管を駆使した対空射撃など、対空戦闘を総合的に統制し、マリアナ沖海戦では一方的に日本軍通常攻撃機を撃墜し、殆どの日本軍通常攻撃機がアメリカ軍艦隊に到達することができず、命中弾は戦艦サウスダコタへの1発のみと、のちに「マリアナの七面鳥撃ち(The Marianas Turkey Shoot)」と揶揄されたぐらいに、対空システムは完成の域に達していた。
日本軍が特攻を主要戦術として採用した背景をアメリカ軍は、マリアナ沖海戦以降の航空作戦の苦境で「大本営に、陸海両空軍が正規の航空軍としては敗北したことが明白になったとき絶望的戦術として使用した」「自殺攻撃が開始された理由は、冷静で合理的な軍事的決定であった。」と分析していた。
こうして、敵機動部隊に有効な攻撃を行うには必殺体当たり攻撃しか道は残されていないと判断した日本軍は特攻に舵をきっていくことになるが、特攻の開始によりアメリカ軍艦隊の損害は激増していった。アメリカ軍は大戦末期となるフィリピン戦から沖縄戦までの、アメリカ艦艇の対空装備の射程内に入った日本軍航空機による特攻攻撃と通常攻撃の有効率の比較をしている。
1944年10月 - 1945年4月(沖縄戦初期)アメリカ艦艇の対空装備の射程内に入った特攻機と通常攻撃機の有効命中率
   フィリピン戦(1944年10月 - 45年1月)    特攻機 31.9%  通常攻撃 3.3%
   硫黄島戦・沖縄戦初期(1945年2月 - 4月) 特攻機 23.5%  通常攻撃 1.9%
   1945年4月までの合計              特攻機 27.6%  通常攻撃 2.7%
攻撃機数は特攻が約1⁄3の機数であるが、攻撃命中数は約4倍であり、命中率は10倍であった。
フィリピン戦において同じ命中弾(12機)を与えるために必要な総攻撃機数と損失数の比較
   爆撃機と雷撃機   220機損失 12機命中
   特攻機         60機損失 12機命中
1944年10月 - 1945年6月(沖縄戦末期)特攻機と通常攻撃機の有効性の比較
   特攻機        命中率  27%
   通常攻撃機     命中率  2.7%
以上、統計を取った時期によって多少の数字の違いはあるが、通常攻撃に対し特攻の方が、命中弾を与えるのに必要な攻撃機数は1⁄5、命中までに要する攻撃回数1⁄10、実際に攻撃できた場合の命中率5倍 - 10倍、命中を与えるまでの損失機数は約1⁄3 - 1⁄2と、攻撃の有効性は圧倒的に上回っていた。
特攻攻撃が通常攻撃より有効であった理由として、アメリカ軍は特攻を「自爆攻撃(特攻)は、アメリカ軍艦隊が直面したもっとも困難な対空問題」指摘した上で下記のように分析していた。
従来の対空戦術は特攻機に対しては効力がない。
特攻機は撃墜されるか、操縦不能に陥るほどの損傷を受けない限りは、目標を確実に攻撃する。
目標となった艦船の回避行動の有無に関わらず、損傷を受けていない特攻機はどんな大きさの艦船にでも100%命中できるチャンスがある。
また、他の資料では下記のようにも分析している。
   特攻機は片道攻撃で帰還を考慮しないため、攻撃距離が長い。
   突っ込む直前まで操縦できるため、命中率が高い。
   特攻機パイロットは精神的にタフである。
   特攻機は爆弾を積んでいなくてもその搭載燃料で強力な焼夷弾になる。
米国戦略爆撃調査団作成の公式報告書『UNITED STATES STRATEGIC BOMBING SURVEY SUMMARY REPORT (Pacific War) 』では「日本軍パイロットがまだ持っていた唯一の長所は、彼等パイロットの確実な死を喜んでおこなう決意であった。 このような状況下で、かれらはカミカゼ戦術を開発させた。 飛行機を艦船まで真っ直ぐ飛ばすことができるパイロットは、敵戦闘機と対空砲火のあるスクリーンを通過したならば、目標に当る為のわずかな技能があるだけでよかった。もし十分な数の日本軍機が同時に攻撃したなら、突入を完全に阻止することは不可能であっただろう。 」と述べられている。従来の対空戦術では護衛機や対空砲火によって牽制すれば相手に爆撃を諦めさせることもできたが、生存を意図しない特攻機は敵が見えたならば必ず攻撃するため、牽制に効果がなかった。通常の航空爆撃と異なり、対空攻撃によって特攻機の乗員が負傷したり死亡したり翼が破損するなどしても、いったん命中コースに入ってしまったならば、その攻撃を止めることはできなかった。特攻機は命中するまで操舵を続けるため、投下する爆弾や魚雷を避けることを前提とした艦船の回避行動はほとんど意味がなかった。
1999年作成アメリカ空軍報告書『PRECISION WEAPONS, POWER PROJECTION, AND THE REVOLUTION IN MILITARY AFFAIRS』において、特攻機は現在の対艦ミサイルに匹敵する誘導兵器と見なされて、当時の連合軍艦船の最悪の脅威であったと指摘されている。そして特攻機は比較的少数でありながら、連合軍の作戦に重大な変更を強いて、実際の戦力以上に戦況に影響を与える潜在能力を有していたとも評価している。
台湾沖で、神風特攻新高隊の零戦2機の特攻攻撃を受け大破炎上、144名戦死203名負傷の甚大な損害を被り、自らも重傷を負った空母タイコンデロガのディクシー・キーファー艦長は、療養中にアマリロ・デイリー・ニュースの取材に対して「日本のカミカゼは、通常の急降下爆撃や水平爆撃より4 - 5倍高い確率で命中している。」と答えている。また、「通常攻撃機からの爆撃を回避するように操舵するのは難しくないが、舵を取りながら接近してくる特攻機から回避するように操舵するのは不可能である。」とも述べている。またイギリスの著名な戦史・軍事評論家のバリー・ピッドは「日本軍の特攻攻撃がいかに効果的であったかと言えば、沖縄戦中1900機の特攻機の攻撃で実に14.7%が有効だったと判定されているのである。これはあらゆる戦闘と比較しても驚くべき効率であると言えよう・・・米軍の海軍士官のなかには、神風特攻が連合軍の侵攻阻止に成功するかもしれないと、まじめに考えはじめるものもいたのである」との評価をしている。 
特攻対策

 

1944年11月24日から26日までアメリカ本土で、アメリカ海軍省首脳、太平洋艦隊司令部、第三艦隊司令部による特攻対策会議がおこなわれた。その席で、アメリカ海軍諜報部航空諜報部が特攻の成功の要因を「日本軍はアメリカ軍がこれまで遭遇した最も新しく、かつ最も恐るべき問題を提起した。この捕捉しがたい接近と自殺攻撃は、ジャップの狂信的精神のみならず、それより遥かに危険な事には、防空や航空管制のレーダーと複雑性について完全に理解しているパイロットや戦闘要員が(特攻)志願している事である。」と分析した。海軍省のトム・ブラックバーン少佐は「カミカゼに対する最も有効な手段は、敵がパイロット切れになることだ」とも述べており、特攻作戦開始当初のアメリカ海軍の苦悩ぶりがうかがえる。
その後も、第三次ソロモン海戦で勝利に貢献した、レーダー砲術の権威ウィリス・A・リー中将を責任者とする特攻対策研究の特殊部隊を編成するなど、アメリカ軍は特攻対策に大きな力を注いだ。
整備された主な航空特攻対抗策としては以下が挙げられる。
   レーダーピケットライン
   戦闘機による迎撃
   射撃指揮レーダーや近接信管を駆使した対空砲火
   回避運動
   特攻機の出撃基地に対する攻撃
これらの対策により、特攻攻撃に対抗したため、日本軍搭乗員の練度の低下とも相まって、大多数の特攻機は目標突入以前に撃破され、戦局に影響を与えるほど戦果をあげることはできなかった。
レーダーピケットライン
沖縄本島の残波岬を中心点とし、沖縄本島を取り囲むように16ブロックの海域に分け、各ブロックに複数の対空レーダーを装備した駆逐艦等のピケット艦を配置した。
さらに各ブロックは、中心点より70 - 100km離れた遠距離ブロックと、15 - 50kmの近距離ブロックに分けられた。そのブロックに、駆逐艦数隻と駆逐艦より多数の補助艦艇で編成されたピケットチームが配置されたが、各艦は警戒網に穴が出来ないように、ブロック海域内に円状に展開していた。また沖縄本島から離れた海域に展開していた第58任務部隊周囲にも、多数のピケット艦を配置した。ピケット艦が特攻機の接近を探知すると、その情報を旗艦の空母に連絡して艦隊の警戒を強化、やがて空母の充実したレーダーが特攻機を探知すると、設置された戦闘指揮所(CIC)で対空戦闘の指揮をとる戦闘機指揮管制士官(FDO)が、艦隊に所属する迎撃戦闘機を最適位置に迎撃に向かわせた。FDOは太平洋戦争開戦時から各空母に配属されていたが、それまでの戦訓からより権限が強化されて、指揮系統を一元化して効果的な対空戦闘の指揮ができるように、艦隊旗艦のFDOが艦隊全体の迎撃戦闘機の指揮権限を有することとなっている。また同時に、ピケット艦と戦艦・巡洋艦を特攻機進入海域に集中させ、対空砲火を濃密にした。
その為に沖縄戦では、常に多数の敵戦闘機が待ち受け、その追撃は執拗(しつよう)であったと海軍航空隊参謀安延大佐が回想している。
しかし、一部で誤解されているようにレーダーピケットラインに対して特攻機が何ら対策を取らず無力化されたわけでなく、以下の対策をこらしてアメリカ軍のピケットラインに対抗している。
ピケットライン分断のためにレーダーピケット艦を攻撃目標とする。
船首・船尾まで超低空飛行で接近し、突入直前に急上昇し目標の環境に突入を図る。
陸地を利用しレーダー探知を避けながら目標に接近する。
レーダー探知範囲の死角(海面スレスレなど)から接近する。
識別を困難とする為、アメリカ軍機の近くや後方からアメリカ軍機に紛れて接近する。
雲に隠れて進入するまたは太陽の方面から進入する。
最高速で一気に進入する。
複数機で接近し、囮機が迎撃や対空砲火を引き付けている間に他の機が突入を図る。
日本軍のこれらのピケット対策に対し、アメリカ軍はピケット艦自身に護衛機を付けたり、更なる早期警戒能力強化のため、沖縄本島の北部と沖縄周辺の小島に、レーダーサイトを多数設置するなどして対抗するなど日米両軍の間で激しい駆け引きが行われた。
沖縄戦でレーダーピケット艦として、アメリカ軍駆逐艦隊は特攻の矢面に立たされたため、特攻機の目標となることが多かった。アメリカ海軍は駆逐艦と上陸用舟艇などの小型艦艇を共同行動を取らせ、対空戦闘が開始されると、駆逐艦が沈められた時に生存者の救出を図るため、駆逐艦の周りを小型艇でびっしりと囲ませていた。そのためアメリカ海軍兵士はそのような小型艦艇のことを『棺桶の担い手』と呼んでいたが、実際にレーダーピケット艦の駆逐艦はつぎつぎと特攻で粉砕されていった。
沖縄戦中にアメリカ海軍は駆逐艦16隻を沈められ、18隻が再起不能の損傷を受けて除籍される甚大な損害を被ったが、文字通り自らを犠牲にして主力艦隊や輸送艦隊を特攻から守り切った。その働きぶりはアメリカ海軍より「光輝ある我が海軍の歴史の中で、これほど微力な部隊が、これほど長い期間、これほど優秀な敵の攻撃を受けながら、これほど大きく全体の為に寄与したことは無い」と賞されている。
しかし、レーダーピケット艦を早期警戒網に組み入れている限りは、レーダーピケット艦の犠牲は避けられず、アメリカ海軍はより有効な特攻対策を迫られることとなった。その対策とは『CADILLAC』と呼ばれた早期警戒機とデータリンクシステムを結合させた新システムであり、これまでレーダーピケット艦が担っていた役割を早期警戒機が担い、機上レーダーで特攻機を探知すると、そのデータをビデオ信号に変えて、旗艦空母のCICの受信機上にリアルタイムで投影するようにした。このデータリンクにより、旗艦空母は自らのレーダーが探知できていない目標に対しても効果的な対策を講じることができた。早期警戒機としてAN/APS-20早期警戒レーダーを搭載したTBM-3Wが開発され、データリンクシステムも1945年5月にはテストを終えて、1945年7月からエセックス級空母各艦に設置されていったが、本格的に運用する前に終戦となった。この必要に迫られて開発された極めて先進的なシステムは、その後もさらに洗練されて現在のアメリカ軍空母部隊にも受け継がれている。
戦闘機による迎撃
第38任務部隊司令ミッチャー少将は特攻対策には艦載戦闘機の増強がもっとも効果が大きいと考え、会議で各方面に訴えた。
その提案を受けて、正規空母の標準搭載機の艦上爆撃機と艦上攻撃機を減らし、艦上戦闘機を倍増した。
艦爆・艦攻減による攻撃力低下は、艦戦(VF)の一部を戦闘爆撃機(VBF)として運用することによって対応し、増加搭載する戦闘機は海兵隊戦闘機(VMF)より補充した。しかし、海兵隊のパイロットは空母の発着艦ができないため、急遽集中訓練が行われたが、事故が多発し、空母エセックスだけでも、最初の9日間で13機の戦闘機が訓練中の事故で失われ、7名の海兵隊パイロットが事故死している。
沖縄では増強された大量の艦載戦闘機と、占領した沖縄の飛行場に進出した海兵隊の戦闘機部隊が前述の戦闘機指揮管制士官(FDO)に誘導されて、特攻機を優位な位置で迎撃する事ができたのに対し、一方の特攻機は、重い爆弾を搭載していた上に、操縦訓練も十分に行っていない促成搭乗員が増えたせいもあり、アメリカ艦隊にたどり着く前に次々と撃墜された。 アメリカ軍戦闘機対特攻機の空戦を見た従軍記者ロバート・シャーロッド(英語版)は「特攻機は退避運動も満足にできず、真っ直ぐ飛ぶだけだった。」「ジャップ撃墜は赤ん坊の手をねじる様に簡単な事だった。」と報道したほどであった。
ユージンA.バレンシアジュニア(英語版)中尉の12.5機撃墜(総撃墜数23機 アメリカ海軍3位の撃墜数)を初めとして、沖縄だけで5機以上撃墜したエースが93名も出ている。特に特攻対策として増強されたF4U コルセアが特攻機撃墜に威力を発揮し、「カミカゼ・キラー」とも呼ばれた。F4U コルセアの日本軍機との空中戦によるキル・レシオは、アメリカ軍側の主張によれば1:11であるが、撃墜した多くの日本機が特攻機であった。
それでも沖縄戦序盤は、大量に来襲する特攻機を防ぎきれず多くの特攻機のアメリカ艦船への攻撃可能範囲内への突入を許している。例えば1945年4月6日 - 4月7日の菊水一号作戦においては、特攻未帰還機356機の内200機までに沖縄周辺海域への突入を許している。また出撃機数が減った沖縄戦後半以降は、複数の編隊による陽動作戦や、早暁や日没前後の視界が十分でない時間に攻撃の軸を移すなどの対策で、アメリカ軍戦闘機の迎撃を分散させている。
アメリカ軍戦闘機パイロットは、艦隊まで進入を許した特攻機に対して、艦隊上空でも味方からのフレンドリー・ファイアも恐れず徹底的に追い回した。とあるF4U コルセアは特攻機を追撃しすぎて駆逐艦ラフィーのレーダー・アンテナに接触し、それを叩き落としたこともあった。
対空砲火
下表(略)はアメリカ軍が比島戦時に通常攻撃と特攻に対して、対空砲火の有効性を判定したものである。ただしアメリカ軍側からのみの判定であり、特攻と通常攻撃が一部混同されている可能性が高いことを付記しておく。
一般的に特攻に対して絶大な効果を挙げたと評価されている5インチVT信管が、実際には特攻に対して大きな効果を挙げておらず、対してボフォース 40mm機関砲は通常攻撃より少ない投射弾数で撃墜判定に至っていることがわかる。つまり通常攻撃機は追い払うか攻撃を失敗させれば良いが、特攻機は突入を図ってくるため確実に撃墜しなければならないこと、高角砲のレンジ(射程)では有効な打撃を与えきれずにボフォース 40mm機関砲のレンジへの突入をしばしば許していることがこの判定結果に現れている(さらに言えば撃墜判定数が少ない場合は小数機に多数の砲が集中されているということであり、結果的に消費弾量が大きく増加している)。
その為、近接火力を強化すべくボフォース 40mm機関砲が大幅に増設された。エセックス級空母では、当初は4連マウント×8基=32門だったのが、最多で18基=72門まで増設された。ボフォース 40mm機関砲は先進的なMk.51 射撃指揮装置 により射撃管制されていた。最接近する特攻機に対してはMk.IV 20o対空機関砲(エリコンFF 20 mm 機関砲のアメリカ海軍仕様)の大幅増設と連装化で対抗した。竣工時46門であった同機関砲も、特攻の脅威が増大した1945年には76門上と大幅増になっている。さらに、エセックス級空母では一旦は搭載が見送られたM45四連装対空機関銃架も応急的に設置して対空火力の強化をはかった。
これら近接用の対空火器は相応の効果を上げたが、アメリカ軍は決死の覚悟で突入してくる特攻機に対して、小口径砲弾では十分な破壊力がないと考えた。より威力のある近接用の対空火器が必要と考えたアメリカ軍は、Mk 33 3インチ砲の開発を開始したが、配備は大戦に間に合わず、戦後にアメリカ海軍艦艇は、大半のボフォース 40mm機関砲以下の機関砲や機銃を取り外し、Mk 33 3インチ砲を装備している。
これらの対空火器を使用した対空戦闘については、対空火器の1基ないし数基が固定照準器を用いて個別射撃をしていた日本軍と違い、アメリカ軍は捜索・測定・照準用のレーダーを導入し、先進的な射撃指揮装置を使用した艦全体での統制射撃をおこなったため、射撃の精度は非常に高かった。各射撃要員にはマニュアルのほか、理解しやすいように動画を使用した教育も行われたが、個別の専門的な技術に加えて、「とにかく撃ちまくれ」と徹底されている。
沖縄戦で、特攻機を撃退しようとして大艦隊の10,000門を超す大小の火砲が信じられない速度で一斉に砲弾を打ち上げる様子は、我を忘れて見とれるほど壮観だったという。とあるアメリカ兵は夜間攻撃をかけてきた特攻機に対し一斉に打ち上げられた高射砲の曳光弾で空が真っ赤に染められているのを見て「独立記念日の花火を何百も併せたようなもので、何とも素晴らしいカーニバルだった」と感想を述べている。また白昼に攻撃してきた特攻機に何百万発という対空砲火が撃ちこまれ、その砲煙や爆煙で昼なのに空は薄暗くなっていたという。またアメリカ軍自身も想定外の量の対空砲火であったため、対空砲弾の破片が艦隊に降り注ぎ、中には艦艇が対空砲弾の破片により損傷したり火災を起こしたりすることもあった。また、その落下してきた破片により4月6日だけでアメリカ軍水兵が38名も死傷したほどだった。
特攻機の方も激化する対空砲火対策のため戦術を工夫しており、少数の特攻機で多大な戦果を挙げた硫黄島の戦いで、第2御盾隊の攻撃を受け大破した正規空母サラトガの戦闘報告によると「この攻撃はうまく計画された協同攻撃であった。攻撃が開始されたとき、4機の特攻機が同時にあらわれたが、各機は別々に対空砲火を指向させなければならないほど、十分な距離をとって分散していた。もしこれが自殺攻撃による一つの傾向を示しているのであれば、自殺機のなかには対空砲火を指向されないものが出てくる可能性があり、対空射撃目標の選定について混乱を生じさせることは確実なので、この問題はおざなりにできない」とあり、特攻機数機が連携をとりながら対空砲火を分散させる巧みな戦術で攻撃したことがうかがえる。第2御盾隊はサラトガに接近する際も、真っ直ぐサラトガには向かわず、同艦の真横35マイルに達した時点で、急角度で方向転換して、同艦の上空を覆っていた雲の中から降下し迎撃されることなく接近に成功している。
既存の対空火力では特攻対策に不十分と考えたアメリカ軍とイギリス軍は艦対空ミサイルの開発を本格的に進めた。先に開発されたのがイギリス軍のフェアリー・ストゥジであったが、実戦への投入は間に合わなかった。アメリカ軍は1945年7月に地対空ミサイルKAN リトルジョーを試作した。これは近接信管を装備し手動指令照準線一致誘導方式の指令誘導ミサイルであったが、性能が軍の要求を下回った上に、完成後まもなく終戦となったため、その後開発が中止されている。また、より先進的なセミアクティブ方式の誘導ミサイルとなったラーク(SAM-N-2 Lark) (英語版)の試作は太平洋戦争中に間に合わず、完成したのは1950年になってからだった。特攻対策で開発が加速した艦対空ミサイルは、その後ジェット機や対艦ミサイルに対抗するために高速化されるなど進化を続け、現在では高射砲に取って代わり艦隊防空システムの中枢に位置することとなった。
回避運動
航空特攻による被害が問題になると、アメリカ海軍のオペレーションズ・リサーチ部門はただちに特攻機の攻撃を受けた艦のデータ収集に着手した。短期間のうちに477件が収集され、このうち有効なデータは365件であった。分析に当たっては、攻撃を受けた艦を大型艦(空母・戦艦・重巡洋艦)と小型艦軽巡洋艦・駆逐艦等に層別化して、まず艦の回避運動の有無に応じて、特攻機の突入成功率と、対空砲火による撃墜率を分析して、下表のような結果が得られた。
要すれば、大型艦では回避運動をとった方が突入を受けにくいのに対して、小型艦ではむしろ回避運動をとった方が突入を許しやすく、かつ、これは対空砲火による撃墜率と相関しているとの結果であった。この結果は、下記のような理由に基づいていると考えられた。
1.特攻機の阻止には回避運動よりも対空砲火による効果のほうが大きい
2.大型艦では回避運動中でも艦が安定しているため、対空砲火に与える影響が小さいのに対して、小型艦では艦の動揺が激しく、対空砲火の射撃精度への悪影響が大きい
また特攻機の攻撃経路(急降下か低空か、艦のどの方位から攻撃してきたか)に応じた突入成功率を分析した結果、艦首・艦尾方向から急降下突入を受けた場合には突入を許す危険性が増大すること、また艦の真横方向から低空突入を受けた場合にも同様の傾向が見られるとの結果が得られた。
急降下突入の場合は艦首・艦尾方向から入射すると対空砲火が減少すること、低空突入の場合は対空砲火が減っても突入面積が減る艦首・艦尾を向けた方が有利であることが理由だと思われる。
これらの分析結果に基づき、下記のような勧告がなされたことにより、勧告に従った艦艇に対する突入成功率は29%に低下した。なお勧告に従わなかった艦艇に対する突入成功率は47%という高率を保っていた。
大型艦には回避運動を推奨する一方、小型艦には対空砲火に悪影響を与える回避運動を避けさせる。
特攻機が高空から攻撃してきた場合には艦腹を、低空から攻撃した場合には艦首尾線を向けさせる。 
特攻隊員

 

構成と戦死者数
1945年1月25日までのフィリピンでの航空特攻は、特攻機数は海軍333機、陸軍202機。戦死者は海軍420名、陸軍252名であった。沖縄への航空特攻は海軍1026機、1997名、陸軍886機、1021名を数える。
特攻隊は主に現役士官/将校(含む海軍特務士官)と予備役士官(将校)と准士官、下士官で構成されていた。
海軍では現役士官は主に海軍兵学校卒業生と下士官からの昇進者である特務士官からなり、陸軍では主に陸軍士官学校・陸軍航空士官学校(士官候補生)の卒業生と准士官・下士官のうち陸士に短期間学び少尉に任官した者(少尉候補者)で構成されていた。予備役士官は海軍は主に飛行予備学生、陸軍は主に甲種幹部候補生と特別操縦見習士官出身者から構成されていた。下士官は主に海軍は海軍予科飛行練習生、陸軍は主に陸軍少年飛行兵出身であり、特攻出撃人数は圧倒的に多く、特攻隊編成上の主軸となった。
特攻隊員で最年少は海軍甲種飛行予科練習生第12期後期生の西山典郎2飛曹であり、1945年3月18日に所属の762空攻撃262飛行隊で編成された「神風特別攻撃隊・菊水銀河隊」の一員として、指揮官松永輝郎大尉の乗機銀河の電信員で特攻出撃した時の年齢は16歳であった。最高齢且つ最高位は、玉音放送後に沖縄に突入して消息不明となった宇垣纏中将で、享年55歳であった。
第4航空軍司令官として特攻を含むフィリピン航空戦を指揮した冨永恭次陸軍中将の長男である冨永靖を始め、阿部信行朝鮮総督(陸軍大将、第36代総理大臣)、松阪広政司法大臣といった陸軍および政府高官の子息も特攻隊員ないし特攻で戦死している。
海軍の全航空特攻作戦において士官クラス(少尉候補生以上)の戦死は769名。その内飛行予備学生が648名と全体の85%を占めた。これは当時の搭乗員の士官における予備士官の割合をそのまま反映したものといえる。
あ号・捷号・天号作戦期間中の海軍搭乗員の戦死者数を下表に挙げる。比島戦期間中の数字には同時期に行われた501特攻隊・第一御盾隊の戦死者数が含まれる。
※海軍の戦死者の内、特攻戦死者として認定されたのは捷号作戦期間中戦死者数1,873名中419名(22.4%)、天号作戦期間中戦死者数2,866名中1,590名(55.5%)。
顕著に増加したのは天号作戦期間中の予備士官の戦死である。これは、海兵・陸士出身の現役航空士官がそれまでの激戦で多大な戦死者を出し枯渇していたのに対し、この頃から予備士官の実戦配備が軌道にのり、天号作戦時点では士官の数的主力を占めていた為である。
下表は昭和20年4月1日と7月1日現在の海軍航空隊の搭乗員構成比率である。すでに予備士官は現役士官の5倍近い数に達しており、この後さらに終戦までに海兵出身士官の補充0名に対して予備士官は実に6279名が新たに戦列に加わった。終戦時点で海兵出身士官1034名に対して予備士官は8695名にも及んでおり、全体の9割を占めるに至っていた。
一部で海兵や陸士の現役士官/将校は、予備役士官/将校と比較し温存されていたとの指摘があるが、特攻主体の作戦となった、捷号作戦や天号作戦の搭乗員戦死者の現役士官と予備士官の構成率は、上記の通りの大戦末期の海軍航空隊士官における、現役士官と予備士官の構成率と変わらず、数字を比較する限りでは現役士官が温存されていたという事実は読み取れない。特攻に限らず海兵卒業生の戦死率は非常に高く、海兵68期卒業生288名の内191名が戦死し戦没率66.32%、海兵69期卒業生343名中222名戦死し戦没率64.72%、70期は433名中287名戦死し戦没率66.28%と高水準となっている。特に、航空士官の死亡率が高く、例えば1939年に卒業した第67期は全体では248名の同期生の死亡率は64.5%であったが、そのうち86名の航空士官に限れば66名死亡で死亡率76.6%、特に戦闘機に搭乗した士官は16名のうちで生存者はたった1名、艦爆搭乗の士官の13名に至っては全員死亡しており、温存という言葉とはかけ離れている。これらは陸軍でも同様である。
なお、回天搭乗員については、海軍兵学校と海軍機関学校卒の現役士官の戦没者数が予備士官の戦没者数を上回っており、戦没率も約2倍に達している。
   特攻隊員戦死者数 合計:3,948名
      航空特攻海軍航空特攻隊員:2,531名
      陸軍航空特攻隊員:1,417名
   海中特攻 合計:546名
      回天特攻隊員:106名
      特殊潜航艇(甲標的・海竜)隊員:440名
   海上特攻 合計:1,344名
      震洋特攻隊員:1,081名
      海上挺進戦隊員(マルレ):263名  
選抜方法

 

日本海軍
海軍では、特攻は志願を建前に編成していたが、募集方法や現場、時期、受け取り方により実態は異なっていた。中島正飛行長によれば、特攻の編成はだいたいこれだと思うものを集めて志願を募っていたという。「たとえ志願者であっても、兄弟の居ない者や新婚の者はなるべく選考から外す」とされたが、戦局が極度に悪化した沖縄戦後半頃の大量編成時には、その規定が有名無実化した部隊もあった。また大戦末期には、飛行隊そのものが「特攻隊」に編成替えされた。
終戦後のアメリカ戦略爆撃調査団の事情聴取で、海軍兵学校卒の現役士官4名、学徒出陣の予備士官2名が、アメリカ軍ヘラー准将の「特攻は強制であったか、志願であったか?」との質問に対し、兵学校出身の現役士官は「全て志願であった、しかしフィリピンでは戦況によって部隊全部が特攻出撃したこともある。」「内地で募集した際も殆ど全員が熱望し、中には夜中に学生から何度も起こされて自分を第一番にしてもらいたいと言われたこともある。また一人息子だから対象者から外したら、母親から息子を特攻隊員にしてほしいとの嘆願書が来たこともあった」と答えている。また学徒出陣の予備学生の2名も「学徒出陣の我々は軍人精神を体得した者とは言えないが、一般人として戦況を痛感し、特攻が最も有効な攻撃法と信じた。我々が身を捧げる事により、日本の必勝を信じ、後輩がよりよい学問を成し得るようにと考えて志願した」と答えている。このやり取りの中で「アメリカの青年には到底理解できない。生還の道を講ずることなく、国家や天皇の為に自殺しようとする考え方は考える事ができない」と言っていたヘラー准将も、最後には「特攻隊の精神力をやや理解できた。君らのいう事は理に適っており、アメリカ人にも理解できると思う」と話している。
特攻兵器の部隊は比較的早い段階から特攻要員が集められ、実験や訓練に従事していた。
坂本雅俊(回天要員)は戦局を挽回する兵器とだけ知らされ志願したという。竹森博(回天要員)によれば、志願は希望する者は○を、しないものは白紙を出し、志願したのに選出されなかったものは教官に詰め寄ったという。決まった後も回天を見せられ、特攻の説明があり、もし嫌なら原隊へ返すと説明されたという。
桜花搭乗員の募集は、1944年8月中旬から始まっており、海軍省の人事局長と教育部長による連名で、後顧の憂いのないものから募集するという方針が出されている。台南海軍航空隊では、司令の高橋俊策大佐より、搭乗員に対して「戦局は憂うべき状況にあり、中央でとても効果が高い航空機が開発されているが、それは死を覚悟した攻撃である」との説明があり、「確実に命を落とすが、現状打破にはこの方法しかない、海軍としてはやむを得ない選択であり志願を募る」と告げた。ただし妻帯者、一人っ子、長男はその中から除外された。3日間の猶予を与えられたが、鈴木英男大尉は「自分の命を引き換えに日本が壊滅的な状況になる前に、有利な講和交渉に持ち込める一助になれば」という気持ちで志願したという。他の桜花搭乗員では、佐伯正明によれば一人ずつ呼ばれ説明を受け行くか聞かれて志願したという。湯野川守正によれば、詳細は伏せられて、必死必中兵器として募集があり、志願したという。
最初の神風特攻隊編成では、編成を一任された玉井浅一によれば、大西の決意と特攻の必要性を説明して志願を募ると、皆喜びの感激に目をキラキラさせ全員もろ手を上げて志願したという。しかし当時の志願者の中には、特攻の話を聞かされて一同が黙り込む中、玉井中佐が「行くのか行かんのか」と叫び、さっと一同の手が上がったと証言するものもいる。志願した浜崎勇によれば「仕方なくしぶしぶ手をあげた」という。志願者した山桜隊の高橋保男によれば「もろ手を挙げて志願した。意気高揚した。」という。志願した佐伯美津男によれば強制ではないと説明されたという。志願者の井上武によれば、中央は特攻に消極的だったため現場には不平不満がありやる気がうせていた、現場では体当たり攻撃するくらいじゃないとだめと考えていた、志願は親しんだ上官の玉井だからこそ抵抗もなかったという。
特攻第一号の隊長関行男大尉は海軍兵学校出身者という条件で上官が指名したものであった。人選に関わった猪口力平によれば副長の玉井浅一が関大尉の肩を抱くように軽く叩きながら「零戦に250kg爆弾を搭載して敵に体当たりをかけたい(中略)貴様もうすうす知っていると思うが、この攻撃隊の指揮官として貴様に白羽の矢を立てたい」と涙ぐみながらたずねると、関大尉は両肘を机の上に付き頭を両手で支え、5秒程度黙止熟考した末に、静かに頭を持ち上げながら「ぜひやらせてください」とよどみのない明瞭な口調で答えたという。しかし、その玉井浅一によれば関は「一晩考えさせてください」と即答を避け翌朝受けると返事をしたという。報道官に関は「KA(妻)をアメ公(アメリカ)から守るために死ぬ」と語った。
フィリピンの201空の奥井三郎は志願は氏名を書き封筒に入れ提出する方法で募集されたという。クラーク基地で神風特攻隊の志願者は前へと募集がかかると全員志願したため、多いので選考し連絡するということになった。志願者杉田貞雄によれば葛藤もあったが早いか遅いかの違いで行くものは誇るように残るものは取り残された気分になったという。
菅野直大尉は特攻に再三志願したものの技量が高く直掩、制空に必要なため受理されなかった。杉田庄一は笠井智一とともに、玉井浅一司令に特攻を志願したが、却下され、代わりに墓参りを頼まれて内地への帰還命令があった。
角田和男少尉によれば特攻出撃前日の昼間に喜び勇んで笑顔まで見せていた特攻隊員たちが、夜になると一転して無表情のまま宿舎のベッドの上でじっと座り続けている光景を目の当たりにし、部下に理由を尋ねたところ、目をつぶると恐怖から雑念がわいて来るため、本当に眠くなるまであのようにしている。しかし朝が来ればまた昼間のように明るく朗らかな表情に戻ると聞かされ、どちらが彼らの素顔なのか分からなくなり割り切れない気持ちになったという。角田少尉は1944年11月11日に神風特別攻撃隊「梅花隊」「聖武隊」の誘導任務に就く予定であったが、搭乗予定の零戦のエンジンが不調で飛行できないために、僚機に「俺が行くから、お前が残ってくれ」と何機かに声をかけたが、どの特攻隊員も出撃を譲らなかった。仕方なく航空隊指揮官に隊長名で誰か交代する者を指名して欲しいと申し出したが、隊長の尾辻中尉は「我々は死所は一つと誓い合ってきた者同士です。今ここで誰かに残れと言う事は私にもできません。分隊士(角田少尉の事)は他部隊からの手伝いですから残ってください。(中略)長い間ご苦労さまでした。」と征く者の方からご苦労さまと言われた角田少尉は、「梅花隊」「聖武隊」の不動の決意を思い知らされ、出撃を見送る時は、自分の不甲斐なさを一生後悔すると言う気持ちがわき上がったという。
高知海軍航空隊は練習機白菊による搭乗員訓練の航空隊であったが、戦局も逼迫した1944年末に横須賀鎮守府より特攻隊編成の訓示があり、航空隊司令加藤秀吉大佐から各員に「特別攻撃隊を編成するから、志願する者は分隊長に申し出るように」との指示があった。一応は各人の意志に委ねられた形式で積極的に志願した者もいたが、搭乗員である以上は勇ましい志願をせざるを得なかったと言う。それでも分隊長代理木村芳郎大尉は、一人息子や長男は“技量未熟”との名目で特攻隊に編成せず訓練隊になるべく残すようにした。司令の加藤秀吉大佐は終戦後の1945年8月20日の高地空解隊まで司令として残務をこなすと、8月30日に責任をとって自決している。
桑原敬一は、民間航空機搭乗員を希望して乙種海軍飛行予科練習生第18期生として土浦海軍航空隊に入隊したが、ある日他の搭乗員と共に講堂に集合させられ、参謀より「戦局悪化により特攻隊編成を余儀なくされたので、諸君らの意思を確認したい。各人に用紙を渡すから明日までに特攻志願する場合は所属部隊名と氏名を用紙に書き、志望しない場合は白紙で出すように」と言われた。各隊員は来るべきものが来たという気持ちで、複雑な心境ながら翌日に大多数は志願したが、一部白紙で提出した隊員もいたという。しかし参謀からの言葉は「諸君の意思は全員熱望であり、一人の白紙もなかった」という意外なものであった。その言葉を聞いた桑原は憤りで頭にカアッと血が上ったと言う。桑原はこの自分の体験により、末期の特攻志願は似たような「志願の強制」事例が横行していたと推量している。
早稲田大学より学徒出陣した江名武彦少尉は、ある日突然に黒板に特攻隊に指名すると書いてありそれを見て血の気がサーッと引いたという。その後上官より訓示があり、日本のため家族のためと覚悟し命令した軍を恨む気持ちはなかったが、やはり死について割り切れず未練が出てきたとのこと、江名は以上の経緯より自分に関しては特攻出撃は「命令」であったと証言している。
末期にはパイロットはすべて特攻要員に下命されたが、田中国義は何度でも行くからせめて爆撃をやらせてほしかったが誰にも言えることではなかったという。清水芳人によれば、海上特攻は否応なしの至上命令であったという。
日本陸軍
陸軍は、特攻隊を志願者をもって充当することを根本方針とし、必死の攻撃であるから要員は特攻実施の熱意が旺盛で家庭的にも係累の少ない若年者を選ぶという考え方が基本的となった。特攻隊の志願は増大に伴い、調査が形式的になり、その場の空気に押されて表面的に志願であっても内心は熱意が乏しいものも含まれていた。第6航空軍司令官菅原道大中将によれば、特攻の志願は、部隊の状態、時期、部隊長の性格などによって千差万別であり、時日の経過に従い減少したが、反面に時局は要員の増加を要求し、志願を建前とする中央と指示の部隊数を編成しなければならない部隊長の間に問題が生じる余地があり、各隊各様の状態を生んだという。また、「いずれの場合も家庭の事情を十分に考慮するのは一般的であった」「有形無形の雰囲気の中で起居する関係者は少なからぬ圧迫を感じたことであろう」という。
陸軍初の特攻隊の1つ富嶽隊の選出方法は「志願を募ればみんな志願するので指名すればそれでいい」というものであった。終戦後、アメリカ戦略爆撃調査団からの質問に対して、陸軍航空本部次長の河辺虎四郎中将は「志願者に不足することはなかった」と証言している。
もう1つの万朶隊については、1944年10月4日、鉾田教導飛行師団長今西六郎中将に特攻部隊編成の準備命令があったが、今西中将は特攻に批判的であり、この命令に苦悩していた。その後10月13日に隊員の人選方法について部隊幹部と協議したが、結論は出なかった。しかし10月17日にレイテにアメリカ軍が来襲し捷号一号作戦が発令されると、20日には編成命令があり、今西中将は苦悩の末、最初の特攻は確実を期さなければいけないと判断し、陸軍航空隊きっての操縦技量を持ち、特攻には批判的で反跳爆撃の研究に携わっていた岩本益臣大尉(53期)を中隊長とした精鋭16名を指名し、飛行隊長が面接を行い志願を募っている。岩本ら士官には今西ら司令部から特攻についての説明はあったが、下士官以下には「特殊任務」という曖昧な説明しかなかった。のちに、風防ガラスから3本の角を突き出すような異様な姿に改造された九九式双発軽爆撃機を前にして、士官らから「特殊任務」とは体当たりのことで、突き出た3本の角が搭載爆弾の信管であると説明を受けて動揺している。万朶隊隊長の岩本はフィリピンに移動した後、マニラの第4航空軍司令部に出頭する際に操縦機がアメリカ軍の戦闘機に撃墜され出撃前に戦死した。岩本大尉は新婚であったが、未亡人となった妻和子は亡くなるまで岩本大尉の遺品を大事に保管していており、死後に有志により、岩本大尉の故郷である福岡県豊前市に遺品が寄贈された。
藤井一中尉は、熊谷陸軍飛行学校の少年飛行兵の教官であったが、教え子が次々と特攻出撃し戦死する中で、自らも教え子と共に特攻出撃をする事を願い陸軍に二度に渡り特攻を志願するが、妻子があることや操縦技量を持った操縦者ではなかったためいずれも却下された。夫の固い決意を知った妻女は「私たちがいたのでは後顧の憂いとなり、十分な活躍ができないと思いますので、一足先に逝って待ってます。」との遺書を遺し、子供2人と入水自殺を遂げた。その後3回目の志願を血書で陸軍に提出、陸軍もようやく藤井中尉の志願を受理し、昭和20年5月28日第45振武隊快心隊の隊長として機体に同乗し出撃し戦死している。
陸士57期の吉武少尉は九九式軍偵察機の搭乗員であったが、軍偵班全員に特攻隊編成の命令があっている。従って「志願」ではなかったが、当時の気持ちを同僚の軍偵班・市原哲雄少尉の言葉を借りて「戦局いよいよ最高潮に達し皇国の興廃を決せんとする時、選ばれてその一戦力となり得るは、誠に栄光の至りにして男子の本懐たり」と感じ、軍偵班全員同じ気持ちであったと述べている。吉武少尉は石腸隊として1944年12月12日に出撃したが、途中でF6Fに迎撃され被弾しながらも巧くかわし、その後どうにか海軍基地に不時着し九死に一生を得ている。そのような経験をしてもなお当時の思いを振り返り、戦後に平和な時代の価値観で特攻隊員に向けられた「特攻隊員は軍国主義の被害者だ」とか「国家に騙された可哀想な人たち」という評価を真っ向から否定し、「当時は国の為に命を捧げる事に大いなる価値があった」とし「現代の若者も、もしあの時代に生きていれば、我々と同じ心境になったはず」と述べている。
同じく陸士57期堀山久生中尉は、躊躇なく特攻志願しているが、その理由を「陸軍士官学校では、戦争が危急の際は率先して陸軍士官学校出の将校が危険な任務に就くべきと叩きこまれており、それが現役士官の取る道と考え、全員が志願した」と述べている。
満州で搭乗員の訓練を行っていた関東軍第5練習飛行隊は、8月15日の玉音放送の後に関東軍司令部より戦闘停止命令が届いたが、ソ連軍による葛根廟事件などの虐殺事件を目の当たりにし、「このまま降伏すれば葛根廟の悲劇がここでも繰りかえされる」や「戦いもせずにおめおめとソ連軍に降伏できるか」との思いで結束し、ソ連軍に一撃を加え居留民の避難する時間を稼ぐこととしたが、練習飛行隊に残った練習機ではソ連軍の重戦車相手に体当たり攻撃しか通用しないため、異例の戦車に対する特攻を計画した。計画の中心であった二ノ宮清准尉が賛同者を募ったところ士官である少尉ばかり10名が賛同し(二ノ宮をいれると11名)二ノ宮らは自らを「神州不滅特別攻撃隊」と名付けた。その中の谷藤徹夫少尉は妻女朝子を、大倉巌少尉は婚約者スミ子同乗させての出撃を申し出た。一般女性を作戦機に搭乗させるのは軍規違反であったが、二ノ宮らは敢えて同乗を許している。2人の女性が特攻機に同乗を希望した経緯は不明だが、特攻出撃当日の8月19日に、2人の女性は白いワンピースを着て日傘をさして飛行場に現れ、それを見送りと勘違いした基地の兵士が日傘をさしていることを咎めると、朝子は涼しい顔で「女性ですから、日焼けはしたくないんです。」と冷静に切り返したとこから覚悟はできていたものと思われる。神州不滅特別攻撃隊は故障で墜落した1機を除き、2人の女性を乗せた10機でソ連軍の戦車部隊に向かったが、特攻が成功したかは不明である。この攻撃は玉音放送後の戦闘行動、さらに2名女性を同乗させた軍紀違反の理由により、特攻扱いにはならず、また戦死扱いにもなってなかったが、谷藤少尉の両親ら関係者の尽力により、1957年に神州不滅特別攻撃隊の全員が厚生省より戦死認定された。1967年に神州不滅特別攻撃隊の碑が建立された事をきっかけにして朝子の名誉回復の運動も行われ、1970年には朝子も死因はソ連軍戦車によるものとする死亡告知書が青森県庁に認定され、夫婦ともに戦後25年を経てようやく名誉回復された。
太平洋戦争当時、東京大学文学部より学徒出陣で陸軍の二等兵となった後の読売新聞グループ本社会長・主筆渡邉恒雄は、太平洋戦争終盤に行われていた特攻に関して、従来よりほとんどが暴力による強制であったという認識であり、ニューヨーク・タイムズのインタビューに答えて、「彼らが『天皇陛下万歳!』と叫んで勇敢に喜んで行ったと言うことは全て嘘であり、彼らは屠殺場の羊の身だった」「一部の人は立ち上がることが出来なくて機関兵士達により無理矢理飛行機の中に押し入れられた」と語っている。
戦後に多数の特攻隊指揮官から隊員の生存者まで尋問した米国戦略爆撃調査団の出した結論は「入手した大量の証拠や口述書によって大多数の日本軍のパイロットが自殺航空任務に、すすんで志願した事は極めて明らかである。機体にパイロットがしばりつけられていたという話は実際にそういうことが起きたとしても、一度だけだったであろう。また、戦争最後の数週間前までに、もっとも熱心なパイロットは消耗されつくしたか、あるいは出撃を待っている状態だった事も明らかである。陸海軍両軍とも、新米で訓練不足のパイロットを自殺部隊に割り当てる、つまり志願者を徴集する段階に到達していた。」と原則志願制ながら、それが既に限界に達しつつあったと分析していた。
反対・拒否
陸軍飛行第62戦隊隊長石橋輝志少佐は、大本営作戦課から第62戦隊を特攻部隊に編成訓練するよう要請されると「部下を犬死にさせたくないし、私も犬死にしたくない」と拒否した。石橋少佐はその日のうちに罷免された。この後、第62戦隊は特攻専用機に改造された四式重爆撃機を装備して特攻攻撃に借り出されている。
第三四三海軍航空隊では特攻を出していない。司令の源田実大佐は空戦による制空権奪回を目指し特攻の指導をせず、空中特攻の命令にも司令自らが特攻することを決めている。また、特攻の打診があった際も、行けと言ってくる参謀が最初に来るならやると上に伝えてほしいという飛行長志賀淑雄少佐の意見に源田司令も賛同している。
海軍の芙蓉部隊の指揮官の美濃部正少佐は、夜間攻撃を重視し、練習機で特攻を行う計画に反対した。しかし、美濃部は特攻そのものを拒否をしていたわけではなく、硫黄島の戦いの際には部下に特攻を命令して戦死者も出している。美濃部は、対敵機動部隊の戦術として「敵の戦闘機隊が十分な行動ができない未明に、まず芙蓉部隊機が敵空母甲板上の敵機をロケット弾で攻撃し、発艦前に打撃を与えて友軍特攻機突入を援護する。最後には、芙蓉部隊機も搭乗員諸共敵空母甲板上に特攻し、敵空母甲板上の艦載機を一掃する。」との特攻戦術を考案しており、終戦間際に特攻を計画した際には自ら指揮官として出撃する予定であった。
陸軍航空隊初の特別攻撃隊となった万朶隊のうち、佐々木友次伍長が敵艦に体当たりせずに通常攻撃を行い、ミンダナオ島のカガヤン飛行場に生還している。この後も帰還を続ける佐々木に第4航空軍第4飛行師団参謀長の猿渡篤孝大佐が「爆撃で敵艦を沈めることは困難だから、体当たりをするのだ。体当たりなら確実に撃沈できる」と次回出撃時は確実に体当たりするよう諭したが、佐々木は「私は必中攻撃で死ななくてもいいと思います。その代わり、死ぬまで何度でも行って、爆弾を命中させます」と反論している。上官に対する明白な反抗で本来であれば軍法会議行きでもおかしくなかったが、この時はさらに諭されただけで不問とされている。佐々木はこの後も合計9回出撃しながら、敵艦に突入することなくいずれも生還しているが、罵倒されただけで処罰されることはなかった。航空機を失った第4航空軍の他の操縦士は台湾に撤退したが、佐々木には台湾への撤退命令は出なかったため、ルソン島山中に立てこもり終戦を迎えている。佐々木は特攻しなかった理由として「日露戦争で金鵄勲章を受賞した父親や、戦死した万朶隊隊長岩本大尉の死ぬなという言葉が支えになった」「乗機(九九式双発軽爆撃機)が乗りやすい飛行機で、これに乗って自爆はしたくないという気持ちがあった」と述べている。
特攻を出している部隊でも反対があったという証言もある。第二〇三海軍航空隊の飛行長岡嶋清熊少佐は、特攻を唱える201空の飛行長中島正少佐と対立し、203空から特攻を出すことに反対した。203空の飛行長進藤三郎少佐も司令に反対意見を述べた。第三四一海軍航空隊の飛行隊長藤田怡与蔵少佐も新鋭機の部隊であることを理由に特攻に反対した。
また、特攻の志願が募られた際、岩本徹三海軍少尉は「死んでは戦争は負けだ。戦闘機乗りは何度も戦って相手を多く落すのが仕事だ。一回の体当たりで死んでたまるか。俺は否だ。」と志願しなかった。
特攻隊員の待遇
特攻隊は、各部隊から原則は志願により選抜された特攻要員が予定戦力となり、特攻配置の部隊、あるいはそれに準じる部隊に移動して、出撃が決まると隊名が付されて特攻隊員となり、特攻隊が編成される。特攻により戦死した搭乗員は、特別進級(特進)の栄誉を受けることが原則であった。大西瀧治郎中将は特攻隊員の心構えの厳粛化に特に注意しており、宴会に招いたりして特別な待遇はしないことや、正式な特攻隊として編成された者以外の勝手な体当たりの禁止などを強く指導した。
特攻隊員ら航空機の搭乗員は普段から、白米、肉、魚など特別メニューがあたえられていたが、特攻隊員の出撃前日の食事はさらに豪勢になることもあり、菊水作戦初期には、何段も重なった豪華な幕の内弁当やデザートのゼリーの他に、酒もワイン、ウィスキーの角瓶などが準備され、沢の鶴の樽酒も軍司令官から届けられた。また皇室からは菊の御紋入りの煙草も支給された。しかし、そのような豪勢な食事でも喉に通らず、ただ酒をあおる特攻隊員も多かったという。
出撃当日も、時間帯によっては出撃前にも食事が出されることがあったが、ある日、昼過ぎに特攻出撃が決まっていた部隊が、急遽時間を繰り上げて出撃したことがあり、特攻隊員は準備されていた昼食も食べずに出撃した。それを知った飛行長が激怒し主計長を呼び出し「これから敵艦に突入しようとする隊員を空腹のまま出撃させたとは何事か!最後の飯ぐらいゆっくり腹いっぱい食わしてやれんのか。お前らは我々戦闘員を何と心得ているのか」と特攻隊員みんなの前で大喝した事もあった。出撃時には海苔巻きやサイダーなどの軽食が機内食として支給された。夜間出撃の際には緑茶の粉末を砂糖で固めた『居眠り防止食』も支給されている。
特攻隊が編成されるまでは隊員は特攻基地にて待機することとなるが、出撃がいつ命じられるかは解らず、早い隊員で2 - 3日で出撃していったが、なかなか出撃とならない隊員にとっては毎日が昼夜の区別もなく極度の緊張だったという。出撃待機中は基本的に食事以外はすることがなく単調な毎日であった。ある程度の自由はあったようで、海軍特攻串良基地より九七式艦上攻撃機で2度も特攻出撃しながら、いずれも機体の故障で九死に一生を得た桑原敬一によれば、緊張をほぐすためか串良基地ではコックリさんが流行しており、戦争の行方や自分の出撃日などを占って気晴らししていたとのことであった。また飲酒も自由で麻雀や花札で遊ぶ隊員も多かった。また、しばしば外出をして他の特攻隊員と共に深夜まで酒宴を開いていたという。
高知海軍航空隊は練習機白菊による搭乗員訓練の航空隊から、白菊を爆装しての特攻隊となったが、特攻隊員たちは飛行科を志望した時に死を覚悟していたが、実際に死が現実的になると、ちょっとしたことで腹を立てたり、些細な事で喜んだりケンカ早くなったりと情緒不安定になったという。それでもしばらくすると覚悟を決めて落ち着いたように見えたが、眼光が人を射抜くような鋭さになっていたという。また特攻隊員は夜目を鍛えるため、黒い眼鏡をかけることが命じられたり、遺髪を遺すために丸刈りにせず頭のてっぺんに少しだけ髪を残しておく風習があったので、眼光の鋭さもあって人相・風体が悪くなり愚連隊と間違えられ、小料理屋に行っても仲居さんが近付いてこないほどになり、当時は人気があった海軍の搭乗員であったのに全く女性からモテなかったという。天候不良が続き訓練飛行ができないときは、近所の農家で農作業の手伝いを行い、お礼に卵や果物をもらったが死を覚悟した隊員にとってはよい息抜きになった。特攻出撃が決まると、子供を残すために結婚すべきか否かについて隊員らで熱っぽく討論を行ったが、結局終戦までに誰も結婚しなかったということであった。
江名武彦少尉は早稲田大学在学中に学徒動員で海軍航空隊の特攻隊員となったが、江名によれば海軍での生活は、物資は十分だったので食事には事欠かず、金曜日には海軍カレーが出され、ウィスキーも倉庫に沢山あり酒に困ったことはなかったとのこと。また手紙についても軍事郵便で出せば検閲があったが、一般の郵便局から郵送すれば検閲もなく、大半の兵士は一般の郵便局から手紙などを郵送していた。
東京大学より学徒出陣した手塚久四によれば、食糧も酒も豊富であったが献立で出てくるサメの煮つけがアンモニア臭くて不味かったとのこと、本土決戦での特攻要員として香川の観音寺基地に配属される途中で終戦となったが、その前には5日間の休暇が与えられ実家に帰省を許されたという。
陸軍航空隊の特攻隊「振武隊」の知覧基地では知覧高等女学校の女生徒が勤労奉仕隊として振武隊員の寝床作りから食事、掃除、洗濯、裁縫、などで身の回りの面倒を見ていた。彼女らは「なでしこ隊」と呼ばれ、当初は18人であったが、振武隊員が増えるに従って順次増員され延べ人数は100人になったという。打ち解けるに従って隊員は彼女らを妹の様にかわいがり、彼女らも隊員と一緒に談笑したり、手作りのマスコットを送ったりと隊員の心の支えになっていた。彼女らに家族への遺書を託したり、自分の夢や本心を打ち明けたりする隊員もいたという。海軍にはなでしこ隊の様な女性の勤労奉仕隊はいなかったため、特攻出撃しながら機体の不調で知覧基地に不時着した海軍の江名武彦少尉は、なでしこ隊ら女性が知覧基地で働いているのを見て部下と「陸軍はいいな」と驚いたという。
知覧には鳥濱トメが営む陸軍指定の食堂「富屋食堂」があり、多くの特攻隊員が食事に来店していた。トメはできうる限り特攻隊員の面倒を見ようと思い、家財を処分してまで食材を仕入れて隊員のどのような注文にも応えようとし、多くの隊員も足繁く富屋食堂に通っていた。また隊員もそんなトメを慕っており、いつしか「特攻の母」と呼ばれるようになった。特攻隊員は富屋食堂で出撃の数日前から盛大な酒宴を催したが、トメに家族への遺書や言付けを預ける隊員も多かった。トメは、戦後に放棄された知覧基地跡に知覧特攻平和観音堂の建立の旗振り役となったり、遺族へ特攻隊員の言付けを伝えたり、生前の姿を聞かせたり、知覧を訪れる遺族のために旅館を買い取って宿泊させたり、知覧基地の語り部になったりと特攻隊員の慰霊に尽力している。
特攻隊員の多くが訓練を受け、後に特攻隊も編成された下志津教導飛行師団の搭乗員らは、銚子の馬場町にあった「伊藤屋」という料亭に毎日のように入り浸っていたという。この料亭の女将の大塚蝶子は当時30半ばであり、若い軍人らを我が子の様に可愛がり、食糧事情の悪化で乏しくなった中でも、酒や食糧をどうにかやりくりしながら搭乗員たちに饗し、特攻隊員らに親身になって応対し、将校相手にでも歯に衣を着せず厳しいことを言ったりしていたので、搭乗員らも大塚蝶子を「お蝶さん」と言って母のように慕ったという。
桜花を運用する神雷部隊では、司令の岡村基春大佐の方針で放任主義であり、隊員は出撃まで自由に生活していた。それを見かねた中島正中佐が岡村大佐にもっと規律を厳正にするよう苦言を呈したが岡村大佐は「自分は部下を信じている。私の指導・指揮は間違っていない。いざという時はみんな黙って命令に従ってくれる」と取り合わなかった。桜花搭乗員の鈴木英男大尉によれば、出撃までは毎日の日課があったが、内容としては航空機の操縦訓練と座学(机の学習)があり、座学ではアメリカ艦艇のシルエットを見て艦名を覚える学習をしたり、精神訓話と称して各人がスピーチをしたが、特に内容の制限もなく、くだけたスピーチでみんなが笑うことも多かったという。また空いた時間にはバレーボールや野球といったスポーツも盛んに行っていた。桜花隊員は他の特攻隊員と異なり純粋な志願者ばかりだったので、訓練所も落ち着いた感じだったと言う。休日もあり、みんなで映画を観に行ったり下宿でのんびり過ごしたり、遠くの親戚を訪ねる隊員もいた。また、近隣の街の軍の後援者が自宅を隊員に開放しており(海軍は下宿やクラブと呼んでいた)後援者の家で御馳走になったり、世間話をしたり、各々が自由に休日を楽しめたという。
特攻隊の軍律の乱れが蔓延していたとの指摘もある。特攻第一号となった関大尉ら敷島隊以来、特攻隊員の取材を続けてきた従軍記者の小野田記者によれば、大戦末期の九州の特攻基地の雰囲気は、関大尉らの当初の様な純粋さは無くなり、参謀らは戦意高揚のための芝居っ気ばかりが先行していたと指摘している。また、一部の特攻隊員は白昼から酒に酔い抜刀して暴れるものもいたが、憲兵は参謀らより、特攻隊員は明日なき命なのだから好きなことをさせよとの指示を受けており、見て見ぬふりをしていた状況を目撃している。また第256飛行隊の清水正邦一飛曹によれば、海軍串良基地の特攻隊員については、軍律が乱れ、無断外出が大っぴらに行われており、番兵も咎めなかったが、明日をも知れない命だから、どうしても足が自然と外に向いてしまったと回想している。また、服装は乱れ、好きな時に起き好きな時に食事をするなど、自由気ままに生活していたと言う。厳正だった出撃の際にも軍律の乱れが及び、中には真偽不明ではあるが無線で「海軍のバカヤロー」叫びながら出撃した隊員や、出撃後に司令官室に向けて突入するふりをした隊員もいたという。
陸軍でも状況は同じで、大刀洗陸軍飛行場に隣接した料亭経の娘は、黙々と酒を飲む組と、軍指導部を批判して荒れる組の二種類に分かれ、憲兵ですら手が出せず、朝まで酒を飲んで出撃していったと証言している。そんな中で特攻隊員の精神的な動揺も広がっており、1945年5月に陸軍航空本部が六航軍の特攻隊員へ面接やアンケート調査を行ったところ、1⁄3の隊員が特攻に対して決心が固まっておらず、精神に動揺をきたしていると判定されている。
陸軍特攻振武隊員1,276名のうち、機体故障などの理由によって帰投した605名の内の一部が福岡県の振武寮(福岡女学院女子寮)に収容された。振武寮は、小説月光の夏でその存在が広まったが、存在した期間は1か月余、収容された人数も最大で80名とされている。またその振武寮に滞在した期間は、第6航空軍参謀で、振武寮運営の中心人物とされる倉澤清忠が保管していた「振武隊異動通報」によれば、1945年6月5日 - 6月19日までの間に“在福岡”(振武寮行きの事)となった振武隊隊員のほとんどは1945年6月23日 - 6月25日に、明野教導飛行師団や鉾田教導飛行師団へ本土決戦に備えて異動となっているが、“在福岡”の期間が一番長い隊員で18日、一番短くて3日であった。振武寮では、収容者は担当者だった倉澤らによって再教育と称し、反省文の提出、軍人勅諭の書き写し、写経などをさせられ「人間の屑」「卑怯者」「国賊」と罵倒されるなど、差別的待遇を受けた。その存在は秘匿されていたとの事で、軍の公式資料では詳細を確認できない。振武寮の中心的人物とされ多くの証言を残している倉澤ですら、「振武寮」という名称の施設の存在を否定している。
また、倉澤は「当時航空軍としては、決死の特攻隊員が目的を果たさずに生きて帰って来るなどとは、考えていなかったのです。」と証言したとされるが、振武隊が編成される前のフィリピン戦や九州沖航空戦で、陸軍航空隊の特攻機多数が天候の問題や会敵できず帰還していた上に、陸軍航空隊の特攻隊員らを教育・訓練していた下志津教導飛行師団が1945年5月に作成した「と號空中勤務必携」という特攻隊員の教本により、「中途から還らねばならぬ時は」や「中途から還って着陸する時は」など、隊員らは帰還の際の心得や具体的手順について教育されており、倉澤の証言と矛盾する。その運用状況も、隊員らが反省文の提出を強要されたり、激しい罵倒を浴びせられたり、外部との接触は一切禁止されていたという証言もある一方で、収容された隊員が福岡女学院の女子学生の慰問を受けたり、九州帝国大学の学者の講話を受けたりしており、詳細は不明である。
特攻隊員に選抜されながら戦争を生き残った元隊員らの多くは、戦後の復興に大きく貢献したが、ごく一部に戦後に目標を見失い自暴自棄となり反社会的行為に身を染める元隊員も出ていた。彼らは「特攻くずれ」と呼ばれたが、戦中は多くの国民から特攻隊は「軍神」と崇められたのに、敗戦による国民の価値観の激変により、特攻は軍国主義の象徴として叩かれる対象となり、いわれのない差別を受ける事なったのも、「特攻くずれ」が一般社会に適合できない大きな要因となった。その内、特攻とは関係のない無法者が、特攻隊員の軍装をし元特攻隊員と偽り犯罪を起こすケースも増えて「特攻くずれ」は新聞等でも激しくバッシングされることとなり、特攻隊員の印象の悪化させることにもなった。
支給品
陸軍は航空医学に基づく「航空糧食」に力を入れており、航空病を予防し、パイロットに能力を最大限発揮させる栄養食品を作る事を目的に莫大な陸軍予算を投じていた。当時の東條英機首相もかなり期待していた模様で、首相以下 近衛文麿、広田弘毅、若槻禮次郎といった元老らなど、軍や政治の中枢を首相官邸に集めて、航空糧食の講演会が開かれており、当時の政府や軍の期待度の大きさが覗える。東條失脚後も陸軍の方針は変わらず、陸軍航空技術研究所が東京大学などの協力も受けて「航空ビタミン食」「腸内ガス無発生食品」「航空元気酒」「疲労回復酒」「防吐ドロップ」「早急出動食」「無火無煙煙草」など多数の栄養食品や機能付食品や嗜好品が作られ、前線のパイロットに支給されていった。特攻隊員でも、1944年12月14日にクラーク基地からパラワン島近海に出撃した、陸軍特攻菊水隊一〇〇式重爆撃機の搭乗員が出撃時に「航空元気酒」の小瓶や、酸素不足予防のための鉄分を含む「鉄飴」を支給され、「航空元気酒」で乾杯して出撃している。
特攻隊員の間では特攻花と称し、機内に桜、テンニンギクほか日本の花(テンニンギクは外来種)を持ち込み、その花を本土(大隅、薩摩半島の岬)から離れる瞬間に投げたり、そのまま胸に抱いて戦場へということがあった。
特攻隊員が出撃に際して覚醒剤(ヒロポン)を投与され、判断力や恐怖心を強制的に失わせた上で出撃させられていたという話が一部で広まっているが、これは正確な表現ではなく、日本軍事史や日本軍の戦争犯罪に詳しい日本近現代史学者吉田裕教授からも「よく戦後の特攻隊に関する語りの中で、出撃の前に覚醒剤を打って死への恐怖感を和らげて出撃させたんだという語り・証言がたくさんあるんですけれども、これは正確ではないようです。覚醒剤を使っていたのは事実のようです。日本のパイロットは非常に酷使されていて(中略)疲労回復とか夜間の視力の増強ということで覚醒剤を大量に使っていて」との指摘もあっている。
戦後の参議院の予算委員会の質疑において、厚生省の政府委員によれば「大体、戦争中に陸軍・海軍で使っておりましたのは、全て錠剤でございまして、飛行機乗りとか、或いは軍需工場、軍の工廠等におきまして工員に飲ませておりましたもの、或いは兵隊に飲ましておりましたものはすべて錠剤でございました、今日問題になっておりますような注射薬は殆ど当時なかったと私は記憶しております。」との答弁通り、戦時中の覚せい剤は広い範囲で使用されており、特攻隊員に限定的に使用されてはいなかった。
また、軍による覚醒剤の使用目的についても、厚生省薬務課長が戦中の覚醒剤の製造認可についての質問に対し「ヒロポン等につきましては、特別に製造許可をいたしました当時は、戦争中でありましたので、非常に疲労をいたしますのに対して、急激にこれを回復せしめるという必要がございましたものですから、さのような意味で特別な目的のため許したわけでございます。」と答弁しており、軍による覚醒剤の使用目的は「疲労回復」であったとしている。
特攻隊員が覚醒剤を使用していたという話が蔓延した経緯として、戦後のGHQによる日本軍の貯蔵医薬品の開放指令により、旧日本軍の貯蔵医薬品と一緒に大量に開放された覚せい剤は、一般社会へ爆発的に広まり中毒者が激増し社会問題化したが、他の多くの社会問題と同様に覚せい剤も暗黒時代であった戦時中の象徴であったとする主張がなされるようになり、事実とは異なる証言や回顧が巷に氾濫する事となった。その一例として、自らも薬物中毒で苦しんだ経験を持つフランス文学者平野威馬雄が、戦時中に軍需関係の会社の従業員していた人物より戦後の1949年に聞いた「頭がよくなる薬が手に入った。これは部外秘というやつで、陸海軍の特攻隊の青年だけに飲ませる“はりきり”薬で、ヒロポンという名前だ。長くない命に最後まで緊張した精神を維持させる薬だ。」という話を紹介しているが、一般に流通していたヒロポンを「部外秘」としたり、特攻隊の青年だけに飲ませていたといったような事実に反した話が広まっていたことがうかがえる。これは軍部を非人道的機関と位置づけ、覚醒剤禍の元凶として批判すべき対象とした際に、特攻隊員がその象徴として利用されていたことの例の一つであったと思われる。
第二次世界大戦参戦各国の覚せい剤使用状況を見ても、同じ枢軸国側のナチス・ドイツは、日本のヒロポンより先に1938年より市販されていたメタンフェタミンの錠剤「Pervitin」と「Isophan」を1940年4月 - 7月のわずか4カ月の間に3,500万錠を製造しドイツ陸海空軍の兵士に大量に支給するなど熱心に使用していた。連合軍のアメリカ・イギリスも、メタンフェタミンを使っており、主にドイツや日本への本土戦略爆撃機パイロットに、長時間飛行の疲労回復剤や眠気解消剤として支給していた。またアメリカ軍は、覚醒剤のアンフェタミンを現代に至るまで主にパイロットに使用している。最近でもアフガニスタン紛争 (2001年-)での誤爆事件(ターナックファーム事件(英語版))で、アメリカ空軍が疲労回復剤として、アンフェタミンの錠剤の服用をパイロットに強制していたことが明らかになっている。従って、日本軍の覚醒剤の使用については、当時の参戦各国での使用目的や実績と変わらない水準の使用であったと思われる。
特攻隊員の思想
大日本帝国とナチス・ドイツは、共に枢軸国として特攻隊を有し、敗戦国となったこともあって比較されてきた。バード大学教授イアン・ブルマおよびヘブライ大学名誉教授アヴィシャイ・マルガリートの研究書『反西洋思想』によると、特攻隊志願兵たちは、大多数がエリート大学の人文学系の学生だった(理系の学生は文系よりは重宝されていた)。志願兵たちの手紙が示すところでは、彼らはドイツの哲学、文学、社会主義、マルクス主義、さらにはロマン主義や自殺の哲学、「死に至る病」に通じており、少数の隊員はキリスト教徒でもあった。
確かに日本では、「切腹」という自己犠牲の儀式的形が存在していたが、それは武士階級のみに許された特権であり、しかも戦争行為ではなかった。特攻隊員たちの自己犠牲は、武士道や天皇崇拝の結果というより、ロマン主義的なナショナリズムの表れとなっていた。例えば隊員の佐々木八郎は
「 なお旧資本主義態制の遺物の所々に残存するのを見逃すことはできない。急には払拭できぬほど根強いその力が戦敗を通じて叩きつぶされることでもあれば、かえって或いは禍を転じて福とするものであるかも知れない。フェニックスのように灰の中から立ち上がる新しいもの、我々は今それを求めている。 」
と述べている。文化人類学者の大貫・ティアニー・恵美子によると、「破壊の灰の中から立ち上がるフェニックス」という隠喩は、佐々木など当時の知識人がしばしば用いていた。かつて神話・哲学・文学などにおける「破壊の後の復活」は、「第三帝国」と関連付けられており、ナチズム(国家社会主義)の中でヒトラーやゲッベルスが多用していた。例えばゲッベルスの主張は、「破壊の後の奇跡的な復活」や、自国再生のための「衛生的な破壊」などだった。
もともと日本では、「復活の前提としての暴力的な死」を掲げるナチズムやドイツロマン主義とは縁薄かったが、日本ロマン派(日本浪漫派)はこうした「テーゼ」を重視した。特攻隊員の日記にはこのテーゼや「フェニックス」の象徴が続出しており、佐々木はその一例となっている。また、特攻隊員以外の学徒兵にも同様の傾向があり、例えば「熱心なマルクス主義者」を自称していた林尹夫は、詩で「フィナーレ、タブー、崩壊」を切望し、「カオス」「破壊」「再生」という表現も多用していた。林はまた、ドイツ語混じりの「絶望」についての論考で、「唯心論者」と自称している。
読書はこうした学徒兵たちの生活の核心にあった。主だった四人である佐々木、林尹夫、中尾、和田の鑑賞した作品としては、確認できる文献だけでも1355冊あり、洋楽や映画もある(キリスト教徒の特攻隊員だった林市造の場合、聖書や『死に至る病』について、日記・手紙で頻繁に言及していた)。とりわけ隊員たちが言及した作品の中でも、ドイツの戦争宣伝映画は日本に浸透していた。
特攻隊員は、「近代」(西洋)から影響されると同時に、「近代」を超越する動きを体現していた。そうした彼らの体験の大部分は、ドイツなどで大流行し、日本にも届いたロマン主義だった。世界各地でロマン主義はマルクス主義と同様、「資本主義や物質主義に対抗する運動」でもあった。このため、「マルクスやレーニンはロマン主義の中の少なくともいくつかの要素を重視していた」という。様々なロマン主義は各社会で、「近代の超克」の一部を担い、かつ、国民国家間の武力衝突に向き合っていた。  
評価

 

日本軍
日本軍では、東条内閣発足以来「生きて虜囚の辱めを受けず」(「戦陣訓」)という、捕虜に対する強い否定的意識が兵隊に訓育されていたことや、真珠湾攻撃時に日本軍捕虜第一号となった酒巻和男少尉の存在を隠匿した海軍上層部(海軍省)に見られるように、陸海軍共に捕虜となることは恥であるとされ、負傷や乗機の損傷によって帰還が絶望的な場合は、自爆や敵への突入を選択をする者が多かった。
航空特攻を開始した大西瀧治郎海軍中将は、機材、人数から餌食にされるだけの戦局で部下に死所を与えるのは主将としての役目で大愛と考えていた一方でこんなことしなければならないのは日本の作戦指導がいかにまずいかを表している。統率の外道とも考えていた。軍需局の要職にいたためもっとも日本の戦力を知っておりもう戦争を終わらせるべきだと考え講和を結ぶ必要を考えたが、戦況も悪く資材もない現状一刻も早くしなければならないため一撃レイテで反撃し講和を結び満州事変のころまで日本を巻き戻す。フィリピンを最後の戦場とする。特攻を行えば天皇陛下も戦争を止めろと仰るだろう。またこの犠牲の歴史が日本を再興すると考えていた。
昭和天皇の特攻に対する思いは複雑なものがあったようで、特攻開始当初は、戦果を上奏した米内海軍大臣に、「かくまでせねばならぬとは、まことに遺憾である。神風特別攻撃隊はよくやった。隊員諸氏には哀惜の情にたえぬ。」と仰せられるなど戸惑っていたが、『一撃講和』を考えていた昭和天皇は、アメリカ軍に一撃を加える手段としての特攻に期待を抱き始めており、神風特別攻撃隊『第2御盾隊』が硫黄島戦で護衛空母ビスマーク・シーを撃沈し正規空母サラトガを大破させる大戦果を挙げたことを上奏した梅津参謀総長に対し、硫黄島へ再度の特攻出撃をさせよとの御言葉を述べられている。 その後の沖縄戦では日本軍は多数の特攻機を出撃させ、毎日夕刻に侍従武官から受ける特攻の戦果の上奏に対して昭和天皇は「そうか、本当によかった」と心から喜ばれている風であったが、ある日、侍従武官が地図を広げて陛下に戦況を説明していた際に、侍従武官の髪に何か触れるものがあったので、いぶかしんで武官が顔を挙げると、昭和天皇が特攻隊が突入した地点に深々と最敬礼をされていた。その様子を見て侍従武官は、陛下が懸命に耐えている悲痛な心の一端を示されたのだと察したという。昭和天皇には、軍の最高指揮官大元帥として部下将兵の戦果を褒めたたえる面と、天皇として臣民を十死零生の非情の作戦に従事させ悲しむ面の両面を、両立させざるを得ない立場にある苦悩があったという指摘もある。昭和天皇は戦後に沖縄戦への評価に関連し特攻に対して「所謂特攻作戦も行つたが、天候が悪く、弾薬はなく、飛行機も良いものはなく、たとへ天候が幸ひしても、駄目だつたのではないかと思ふ。特攻作戦といふものは、実に情に於て忍びないものがある、敢て之をせざるを得ざる処に無理があつた。」という思いを述べている。
終戦時の内閣総理大臣鈴木貫太郎は、内閣総理大臣秘書官から連合軍が特攻機のことをSuicide plane(自殺機)と呼んでいると聞かされると落胆し「こうした戦術でなければ体勢が挽回できぬとは、一体、いままで大本営はどんな戦略戦術を練っていたのか。これでは戦争は明らかに負けである。何が大和魂か。これはもう日本精神のはき違えと言うほかない」と怒りを露わにしている。
零戦の主任設計者堀越二郎は、特攻開始直後の1944年12月の初めに朝日新聞社が「神風特攻隊」という本を出版するにあたって、零戦の主任設計者として特攻を讃える短文を寄せてほしいとの依頼を受けたが、自分が設計した零戦がなんでこんな使い方をされなければならないのか?とのやるせなさや、多くの前途ある若者が、零戦に乗り込んでけっして帰ることのない体当たり攻撃に出撃していく光景を思い浮かべて胸がいっぱいとなって筆が進まず、1か月以上経った1945年1月にようやくこの戦争で肉親を失った人々全員に送るつもりで「敵は富強限りなく、わが生産力には限界あり、われは人智をつくして凡ゆる打算をなし、人的物的エネルギーの一滴に至るまで有効に戦力化すべき凡ゆる体制を整へ、これを実行しつくしたりや、内にこれを実行し、外神風特攻隊あらばわれ何ぞ恐れん・・・」という短文を朝日新聞社に寄せた。当時の時勢がらで直接的な表現はできなかったが、本当になすべきことをなしていれば、特攻という非常な手段に訴えなくてもよかったのではないか?という疑問の気持ちがこの短文には秘められていたという。
搭乗員淺村淳は当時の戦局は乾坤一擲の作戦に爆弾を落として当たらなかったと言える次元の話ではなかった、ぶつかるのが確実だったという。搭乗員岩本徹三中尉は特攻を勝算のない上層部のやぶれかぶれの最後の悪あがきで士気は低下したと語っている。
陸軍初の特攻隊の編成にあたった鉾田教導飛行師団長今西六郎陸軍中将は特攻隊の編成化は士気の保持が困難、低下するだろう。現地の決意であるべきで常時編成しておくようなものではない。慣熟や団結を考えてのことだろうが、慣熟が必要な機種(九九式双発軽爆撃機)でもないし、団結もなくなる。機材を用意しておくだけでよく、人の心の逡巡や天候不良など想定し生還可能性は残すべきだという。しかし今西はフィリピンでの特攻の成功を知ると、特攻容認に姿勢を変えており「諸士、最後の御奉公の秋至る。諸士よ征け。征きて一死を以て皇恩に酬いよ。日本男子の本懐を遂げよ」や「當部隊は全員本年を以て人生の最後の年と心得よ。本日唯今先づ死すべし。然る後、霊を以て各任務に就くべし。全員、本元日を以て生きたる命は先づ死なしめよ。霊の力のみにて、今後の御奉公を励まん。」と激烈な訓示をフィリピンに向かう特攻隊員や鉾田教導飛行師団の搭乗員にしている。
特攻に反対した美濃部正海軍少佐は「戦後よく特攻戦法を批判する人がいるが、それは戦いの勝ち負けを度外視した、戦後の迎合的統率理念にすぎない。当時の軍籍に身を置いた者にとって負けてよい戦法は論外である。不可能を可能とすべき代案なきかぎり特攻もまたやむをえないと今でも思う。戦いの厳しさはヒューマニズムで批判できるほど生易しいものではない。」と語っている。
岩井勉中尉によれば、甲飛4期生の某准士官が、特攻出撃前に宇垣纏第五航空艦隊司令のはなむけの言葉があった後に「本日の攻撃において、爆弾を100%命中させる自信があります。爆弾を命中させたら帰ってきて良いですか?」という質問をしたのに対し宇垣中将は即座に「まかりならぬ」と一喝したということであった。その准士官は宇垣中将の回答を聞くと、搭乗前に「今、聞いて頂いた通りです。あと二時間半の命です。ではお先に」と岩井中尉に言い残して出撃して行った。大戦を生き延びた岩井中尉は、宇垣中将が終戦の日に沖縄に突入し戦死したことを知り「若い特攻隊員を見送るとき、既に覚悟ができておられたので、あのような厳しい命令を下す事ができたのだ」と感じたという。
連合軍
特攻が開始される1944年後半のフィリピン戦前の時点では、それまでの太平洋戦域における日米航空戦の戦績により、アメリカ軍の日本軍航空部隊や搭乗員に対する評価は地に落ちており、アメリカ軍公式の評価では「1944年夏までには日本軍は何処においてもアメリカ空軍に太刀打ちできないということが、日本空軍司令官らにも明らかになっていた。彼等の損失は壊滅的であったが、その成し遂げた成果は取るに足らないものであった。」とされていた。
連合軍太平洋方面軍・アメリカ太平洋艦隊司令チェスター・ニミッツ元帥も、日本軍パイロットは未熟で訓練不足と認識しており、それがマリアナ沖海戦の勝因だったと分析し、マリアナ沖海戦でアメリカ軍艦隊を率いた第五艦隊司令レイモンド・スプルーアンス大将も、日本軍パイロットはアメリカ軍パイロットの敵ではなく、アメリカ軍は日本軍航空部隊の攻撃を打ち砕いたと評価していた。
ソロモン諸島やニューギニアで日本軍航空隊と戦ってきた、マッカーサー元帥の指揮下の第5空軍司令のジョージ・ケニー(英語版)中将などは「日本国民のあまりに多くの人々が、水稲稲作者・漁師・車夫といった農民階級で、彼等はあまりにも愚鈍、余りに考え方がのろくて、機械的な知識や適応性に全く欠けている」とし、戦闘機パイロットになる素質を持った日本人はアメリカ人と比較して遥かに少ないと、人種偏見に満ち日本軍を侮った報告をアメリカ陸軍航空隊司令ヘンリー・アーノルド元帥に送っている。
その後にフィリピン戦で特攻が開始され、アメリカ軍に大きな損害が生じると、ニミッツは「特攻隊パイロットの飛行技術の明白な改善は、日本軍に対する連合軍の海軍作戦の前途に横たわる危機の不吉な前兆を示していた。」と日本軍搭乗員の技術を再評価し、今後の戦況への不安を口にするほどであった。アメリカ海軍第7水陸両用部隊司令ダニエル・バーベイ(英語版)少将は「日本航空部隊の実力に対して何の疑問もなかった。オルモック湾(フィリピン戦)での特攻による戦果が日本航空部隊の実力に対する疑問を残らず拭い去った」と日本軍航空隊の操縦技術に対するこれまでの低評価に異議を唱え、また「日本軍は自殺機という恐るべき兵器を開発した。日本航空部隊がその消耗に耐えられる限り、アメリカ海軍が日本に近づくにつれて大損害を予期せねばならない。」と今後の戦局を予想し、その予想通り沖縄戦でアメリカ海軍は第二次世界大戦最大の損害を被ることになった。
またアメリカの諜報機関Office of Strategic Services(略称OSS、CIAの前身)も「日本人には視力障害があるから良いパイロットになれないという意見があるが、これは間違っている。日本人は高高度飛行ができないという意見も正しくない。(中略)日本軍パイロットが優秀な飛行技術を身に着けているということは、特攻パイロットたちが、厚木や鹿屋で受ける訓練形式によって証明されている。」と分析している。
終戦後に調査したアメリカ軍は「日本が(特攻で)より大きな打撃力で集中的な攻撃を持続し得たなら、我々の戦略計画を撤回若しくは変更させ得たかもしれない」や「日本人によって開発された唯一の、最も効果的な航空兵器は特攻機(自殺航空機)であり、戦争末期数か月に日本全軍航空隊によって、連合軍艦船に対し広範囲に渡って使用された。」という見解を報告している。
1945年7月2日ヘンリー・スティムソン陸軍長官は、日本上陸計画を準備しているが、特攻が激しくなっており、この調子では日本上陸後も抵抗にあい、アメリカに数百万人の被害が出ると話し、天皇制くらい認めて降伏勧告をすべきと大統領に意見した。合衆国陸海軍最高司令官(大統領)付参謀長ウィリアム・リーヒ提督は、無条件降伏に固執せず、被害を大きくするべきではないと意見した。
軍や軍高官が戦術としての特攻の手ごわさについて評価する一方で、第一線のアメリカ兵の多くが、自らの西欧的価値観からは信じがたい、他人を殺すために自らも死ぬといった戦術である特攻について「不可解」や「非人間的」や「狂信的」という印象を抱き、日本兵に対する憎しみや偏見を募らせていた。特攻ほど日本軍が恐るべき敵であると思い知らせたものはなかったとの指摘もある。第一線の兵士は特攻機に対し、「カミカゼクレイジー」「デビルズバード」「バードオブヘル」「ゾンビ」「カッツェンジャマー・キッド(酔っぱらい小僧)」等思いつく限りの蔑称や禍々しいあだ名を付けていた。
特攻機との戦闘後には、アメリカ軍艦艇上には特攻機の部品や特攻隊員の遺体の一部が散乱していたが、海軍の水兵は「日本のおみやげ」と称し、機体の部品や特攻隊員の遺品を拾い回った。中には遺体や遺骨の一部を本国に持ち帰る者もいた。軽巡洋艦モントピリアの水兵の1人は、本国の妹が欲しがっているとのことで、特攻隊員の肋骨を持ち帰っている。モントピリアの水兵ジェームズ・J・フェーイーは艦に散乱している特攻隊員の遺体を見て、特攻隊員がアメリカやアメリカ軍艦艇と一緒に自分自身も滅ぼしたがっていると感じ、日本軍を意気阻喪させたり、あきらめさせたりするのは無理で、ヨーロッパ戦線での連合軍空軍によるドイツ本土に対する戦略爆撃なんて、アメリカ海軍が特攻隊相手にやっていることに比べたらたわいのないもので、ドイツも頑張っているが日本ほどではないという思いを抱いている。
しかし軍隊における自己犠牲の精神はアメリカやドイツといった西欧諸国でも万国共通であり、特攻に近いような行為もしばしば行われていた。(詳細は#海外の特攻を参照)その為、特攻隊員を称賛するアメリカ兵もおり、1945年4月11日に戦艦ミズーリに特攻し戦死した石野節雄二飛曹について、ミズーリの艦長であるウィリアム・キャラハン大佐(第三次ソロモン海戦で戦死したダニエル・J・キャラハン少将の弟)は「祖国の為に命を投げうってその使命を敢行した勇敢な男には、名誉ある水葬をもって臨むべきである。死した兵士はもはや敵ではない。翌朝、勇者の葬儀を執り行う」と石野二飛曹を称賛し、異例とも言える敵兵の水葬を行っている。その際わざわざミズーリの水兵が手作りで作った旭日旗で石野二飛曹の遺体を覆い、礼砲まで撃って礼を尽くしている。
チェスター・ニミッツ元帥(太平洋方面最高指揮官・太平洋艦隊司令)
連合軍太平洋方面軍・アメリカ太平洋艦隊司令チェスター・ニミッツ元帥は、レイテ沖海戦での大勝利を第二次世界大戦でのトラファルガーの海戦と評価し、叩きのめされた日本海軍は、まともに戦えなくなったと判断していたが、その勝利ムードに冷や水を浴びせたのが特攻となった。フィリピン戦での特攻での損害を見て「神風特別攻撃隊という攻撃兵力はいまや連合軍の侵攻を粉砕し撃退するために、長い間考え抜いた方法を実際に発見したかのように見え始めた」と特攻が大きな脅威になったと述懐している。
また、ニミッツの太平洋艦隊広報はこの後沖縄戦後に至るまで、特攻に関するニュースを全て検閲していた。特攻の成功を絶対に日本軍に知らせまいとするニミッツからの指示であった。逆に大和を撃沈した際は大々的に広報し、戦意高揚のために陸軍記念日の演説で全部隊に放送している。
沖縄戦でも、沖縄近海で特攻により激増する損害を懸念したニミッツは、日本軍の固い防衛線に苦戦し、中々進軍できない沖縄方面連合軍最高指揮官の第10軍司令官サイモン・B・バックナー・ジュニア中将の作戦に苛立ちを覚え、指揮を混乱させかねないため現場の指揮には一切口を出さないと言う自らの不文律を犯して、作戦指導への介入のために4月23日に沖縄にてバックナーと会談している。
そこでニミッツはバックナーに「海軍は、毎日1.5隻ずつ艦船を失っている。その為、五日以内に第一線が動かなければ、このいまいましいカミカゼから逃れる為に、他の誰かを司令官に変えて前進させるぞ。」と、異例とも言える更迭を匂わせての早急な進撃を促している。結局この時ニミッツはサイパンの戦いでの「スミスVSスミス」事件での陸海軍海兵隊3軍対立の二の舞いを恐れて強権は発動しなかったが、この後も陸軍の進撃速度は上がらず、予定の3倍の90日にも及んだ沖縄戦で海軍が特攻で受けた損害は莫大なものとなった。しかし、沖縄戦末期の6月上旬ごろには、日本軍の本土決戦準備による戦力温存もあって、特攻による損害も減少し「神風特攻の脅威を自信をもってはね返すとこまで来ていた」と胸を張っていたが、その要因として「カミカゼの方では、最後の突入から戻ってきてその体験を報告するパイロットがいなくなったために、改善の基礎となるデータを発展させることができなかった。」と分析していた。
沖縄戦が終わると「我が海軍が(沖縄戦で)被った損害は、大戦中のどの海戦よりもはるかに大きかった。沈没30隻、損傷300隻以上、9000人以上が死亡、行方不明または負傷した。この損害は主に日本の航空攻撃とくに特攻攻撃によるものであった。」と沖縄戦での特攻を総括している。フィリピンと沖縄で特攻に多数の艦船を奪われたニミッツらアメリカ海軍指導部は、日本本土への侵攻作戦において、多数の特攻を受け、莫大な損失を出すことを恐れ悲観的な予測に傾いていた。ニミッツは海軍作戦部長キングに「日本を侵攻する場合は、われわれは甚大な被害を受け入れる覚悟をしなければなりません。食料状態が悪く、ろくに補給も受けていない日本軍はわれわれの圧倒的な空と陸からの行動でうちのめされましたが、その成功も、敵の通信経路が短く、敵の物資がより豊富な日本本土で直面する抵抗を推しはかるただひとつの基準としては使えないでしょう」という報告書を提出している。アメリカ軍全体でも、日本本土決戦になっていた場合の想定として「オリンピック作戦(九州上陸作戦)に対抗して、九州防衛のための特攻機が準備され、これより規模の小さい準備がジッパー作戦に対抗してシンガポール防衛のためになされた。これらの特攻機の使用により、上陸作戦時の連合軍艦隊が、連合軍が計画した多様な効果的対策に関わらず大きな損害を受けたであろうことは疑問の余地はない。」と特攻により大損害を被るという予測をしていた。
しかし、ダウンフォール作戦は開始されることなく、日本のポツダム宣言の受諾により戦争は終結し、太平洋戦争後に母校アメリカ海軍大学(英語版)で講演したニミッツは「日本との戦争において起きたほとんどのことは、この教室(War Gaming Department)において多くの学生らにより想定されており驚くことはなかったが、唯一大戦末期のカミカゼだけが予測できなかった」と述べている。
レイモンド・スプルーアンス(第五艦隊司令)
第五艦隊司令レイモンド・スプルーアンス大将は「特攻は非常に効果的な兵器で、我々はこれを決して軽視することはできない。私は、この作戦地域内にいたことのない者には、それが艦隊に対してどのような力を持っているか理解する事はできないと信じる」と第五艦隊参謀長でもある親友のカール・ムーア大佐に送った手紙に書きつづっている。また、当時潜水艦の艦長だった息子のエドワードと、グアムで面会した際に「神風特別攻撃隊が沖縄の沖合で、アメリカ艦隊にあたえた恐るべき人命と艦艇の損害について非常に憂慮している。日本本土に向かって進攻することになったならば、さらに大きな打撃をうける事になるであろう」と語り、エドワードは「父は今まで会った中でもっとも憂慮している様子だった」と感想を述べている。
またスプルーアンス大将は、増え続ける特攻からの損失に音を上げて「特攻機の技量と効果および艦艇の喪失と被害の割合がきわめて高いので、今後の攻撃を阻止するため、利用可能なあらゆる手段を採用すべきである。第20空軍を含む、投入可能な全航空機をもって、九州および沖縄の飛行場にたいして、実施可能なあらゆる攻撃を加えるよう意見具申する」 という、海軍上層部への切実な戦況報告と意見具申をしている。
沖縄戦にあたって、第20空軍のB-29は海軍の強い要請により日本本土の都市や工場等への戦略爆撃任務から、九州の特攻機基地への戦術爆撃任務に振り向けられていたが、第20空軍は戦略爆撃任務に戻りたがっていた。しかしスプールアンス大将の切実な意見具申を受けて海軍作戦部長の アーネスト・キングが陸軍航空隊に対し「陸軍航空隊が海軍を支援しなければ、海軍は沖縄から撤退する。陸軍は自分らで防御と補給をすることになる」と脅迫し、引き続き第20空軍による特攻基地爆撃継続を応諾させている。その為、1か月半に渡って日本本土への戦略爆撃が特攻により軽減されることとなった。
スプルーアンス自身も沖縄戦で二度に渡って座乗していた旗艦に特攻攻撃を受けている。一度目は重巡洋艦インディアナポリス座乗中に艦尾に特攻攻撃を受け損傷、インディアナポリスは応急修理の失敗もあり航行不能となりその後本土で修理され、旗艦として復帰する帰路にテニアン島へ原爆を輸送したが、原爆を揚陸後伊号第五十八潜水艦に撃沈された。その後、臨時旗艦戦艦ニューメキシコに座乗するが、ニューメキシコも特攻攻撃を受け戦死54名、負傷者119名の大損害を被った。スプルーアンスは艦内を移動中に、物陰に隠れて難を逃れたが、一時は行方不明になり、幕僚らが混乱状態に陥っている。スプルーアンスは沖縄戦途中で異例のウィリアム・ハルゼーへの指揮権交代をしているが、その際にハルゼーの幕僚らはスプルーアンスの幕僚らのやつれ具合にショックを受けている。
戦後に沖縄戦を振り返ったスプルーアンスは、「沖縄に対する作戦計画を作成していたとき、日本軍の特攻機がこのような大きな脅威になろうとは誰も考えていなかった。」と回想している。
スプルーアンスは、負傷もしくは機体の損傷によって死が避けられないならば、敵に損害を与える可能性が高い体当たりの方が合理的で効果がきわめて高いと分析していた。
ウィリアム・ハルゼー(第三艦隊司令)
艦隊指揮官として、最初に特攻の洗礼を受けたのはハルゼー大将であった。ハルゼー大将は、1944年11月29日に配下の 第三艦隊の高速空母群に次々と特攻機が損害を与えるのを見て「いかに勇敢なアメリカ軍兵士と言えども、少なくとも生き残るチャンスがない任務を決して引き受けはしない」「切腹の文化があるというものの、誠に効果的なこの様な部隊を編成するために十分な隊員を集め得るとは、我々には信じられなかった」と衝撃を受けている。また、「情報部から我々に対して、カミカゼが編成されたという警告が送られてきたが、我々の内大半の者はそれをこけおどしやPaper tiger(英語版)(張子の虎)であると受け取っていた」と自分らの見通しが甘かったとも述べている。
またこの頃にハルゼーは、指揮下の艦隊に蔓延するカミカゼショックに危機感を抱き「カミカゼの成功率は1%以下である」と事実に反する発表を部下将兵に行い(フィリピン戦での特攻有効率は26.8%)沈静化を図ったが、あまり効果はなかった。
沖縄戦では、特攻により心身疲労したスプルーアンスに代わり、5月26日より艦隊の総指揮をとることになったが、あまりの艦隊の惨状にショックを受け、特に甚大な損害を受けていたレーダーピケット艦を問題視して、なぜこのような大殺戮に遭う必要があったのか?早くにレーダーサイトを建設していれば、こんなに損害を受けることはなかったと怒りを露わにしている。
ダグラス・マッカーサー元帥(南西太平洋方面最高司令官)
海軍以外でもダグラス・マッカーサー元帥は、フィリピン戦で特攻の猛威を目のあたりにすると「カミカゼが本格的に姿を現した。この恐るべき出現は、連合軍の海軍指揮官たちをかなりの不安に陥れ、連合国海軍の艦艇が至るところで撃破された。空母群はカミカゼの脅威に対抗して、搭載機を自らを守る為に使わねばならなくなったので、レイテの地上部隊を掩護する事には手が回らなくなってしまった」と指摘している。
その後の沖縄戦では、「大部分が特攻機から成る日本軍の攻撃で、アメリカ側は艦船の沈没36隻、破壊368隻、飛行機の喪失800機の損害を出した。これらの数字は、南太平洋艦隊がメルボルンから東京までの間に出したアメリカ側の損害の総計を超えている」と沖縄戦での特攻による大損害を回顧しているが、そのマッカーサー自身もフィリピンのリンガエン湾で、軽巡洋艦ボイシ座乗中に 特殊潜航艇の雷撃と特攻機の攻撃を受けている。
雷撃はボイシの巧みな操艦で回避し、特攻機は接近中に対空砲火で撃墜され難を逃れたが、当のマッカーサーは雷撃回避の際は甲板上に仁王立ちし戦闘を眺め、特攻機撃墜時は艦内の喧噪を他所に、居室で眠っていた。マッカーサー配下の第七艦隊の兵士らは、それまでの特攻の猛攻で恐怖が頂点に達していたのに、その指揮官のマッカーサーの剛胆ぶりに担当軍医のエグバーグ医師は驚かされている。
その他
特攻は、上層部が命令しても簡単にできるわけではなく、かなりの意志力に加え、ドイツ軍、ロシア軍などの海外における同様の例の影響があったとする意見、特攻は大和魂の行動美学の実践であるという意見もある。また、戦争における不条理な死として特攻死を挙げ、末期の日本軍全般についてはもはや戦略や打算を超越した別次元での発想と考えるのが適切として、阿南陸相の口ぐせは「死中自ら活あり」だったが、「頼むは石に立つ矢の念力のみ」(宮崎中将)とか「勝利か、しからずんば全軍玉砕かの信念」(原中佐)に至っては、絶望の悲鳴なのか、滅亡への讃歌なのか見きわめがつかないという意見もある。
多くの指揮官は特攻隊員に「自分たちも後から必ず行く」と訓示していたが、戦後は復興が重要と約束を破り、守ったのは大西と宇垣などわずかであったことを批判する声もある。戦後生き残った特攻隊員には、戦中に嫌だと言える空気でなかったが戦死した隊員や遺族を思い生きていても地獄と思いながら生き、特攻を命令した陸軍参謀は、自分の命は惜しいから現に生きて恩給を貰い、特攻は本人志願と語っているものもいたという批判もある。戦後間もない1950年代に、交通法規を無視してスピード違反などの無謀な運転をするタクシーやトラックが神風タクシーや神風トラックと呼ばれていたのも、特攻に対する国民の印象を物語っていたという指摘もある。
海外からの評価は次の通り。
フランス文化相・アンドレ・マルローは「日本は太平洋戦争に敗れはしたが、そのかわり何ものにもかえ難いものを得た。それは世界のどんな国でも真似できない神風特別攻撃隊である。彼らには権勢欲とか名誉欲などはかけらもなかった。祖国を憂える貴い熱情があるだけだった。代償を求めない純粋な行為、そこにこそ真の偉大さがあり、逆上と紙一重のファナチズムとは根本的に異質である。人間はいつでも、偉大さへの志向を失ってはならないのだ」と語った。またマルローは内閣閣僚として日本を訪れた際、昭和天皇との会談で、特攻隊について触れ、その精神への感動を伝えている。
ビルマ(現:ミャンマー)元大統領・バー・モウは、タイクアン・アパイウォン首相主催の晩餐会(ばんさんかい)の席上で、流暢な英語で特攻隊の崇高な精神と愛国的熱情について熱く語っているうちに涙で声が詰まり、それを聞く晩餐会出席者もまた感涙に堪えなかったという。
他には「散華した若者達の命は…無益であった。しかしこれら日本の英雄達はこの世界の純粋性の偉大さというものについて教訓を与えてくれた」と述べ評価している。且つ「西洋文明においてあらかじめ熟慮された計画的な死と言うものは決して思いもつかぬことであり、我々の生活信条、道徳、思想と言ったものと全く正反対のものであって西欧人にとって受け入れがたいものである」という意見、特にアメリカ人や西洋人一般にみられた嘲笑や中傷を否定し、『きけ わだつみのこえ』を基に特攻隊員が軍閥の言いなりではなく「正しいものにはたとえ敵であっても、誤りにはたとえ味方であっても反対する」という崇高な念に殉じたと彼らに称賛の意を示す意見がある。
2001年に発生したアメリカ同時多発テロ事件において、欧米のマスコミの中には世界貿易センタービルに突入するハイジャックされた航空機を「カミカゼ」、「パールハーバーと同じだまし討ち」と表現するものもあった。これは「生還を考えない体当たり戦法」から、「カミカゼ(=旧日本軍の特攻隊)のようだ」と報道されたものである。実際、「(強者に一矢報いるための)自殺行為同然の突撃」を代名する表現として「KAMIKAZE」の語が用いられることは多い。
これに対し日本国内では、「特攻はあくまでも敵兵と軍事標的のみが目的。民間人を標的とする「卑劣なテロ」とは違う」という反論も生じた。しかし、日本国外では「有志による自爆攻撃=カミカゼ」という意識がなお根強く、またミサイル駆逐艦コールへの自爆攻撃等、武装組織が正規軍へなんらかの武力抵抗を行った場合の評価、そして武装組織とテロ組織の「線引き」自体が曖昧で、国際的な議論、再評価を巻き起こすには至っていない(戦時国際法では武装勢力(含むテロ組織)は正規軍に準じる存在と位置づけられ、戦闘員の身分は基本的に保証されているが、「テロとの戦い」が「戦時」に該当するか、戦時国際法が適用されるかどうか自体が曖昧である)。また正規軍の民間人に対する武力行使は戦時国際法で厳格に禁止され、罰則対象になっているが、この条項自体が事実上空文化している(代表的なところではアメリカ軍の原爆投下や無差別絨毯爆撃(じゅうたんばくげき)、イラク戦争の掃討作戦、イスラエル軍の入植地攻撃、ロシアのアフガン、チェチェン侵攻など)ため、この辺りもテロ行為と特攻の線引きを難しくしている。さらには当の武装勢力(含むテロ組織)のタミル・イーラム解放のトラやハマスでも、なぜ自爆テロを行なうのかとの問いには「カミカゼ」の答えが返って来ることがある。  
 
特攻の精神  

 

「 カミカゼを、我々西欧人は笑ったり、哀れんだりしていいものであろうか。むしろそれは偉大な純粋性の発露ではなかろうか。日本国民は(特攻を)あえて実行したことによって、人間の偉大さ、人生の真の意義を示した世界で最後の国民となったと著者は考える。 」 太平洋戦争を研究したベルナール・ミローの言葉です。
戦時中特攻第一号となった敷島隊の関大尉は軍神となり、お母さんも軍神の母として讃えられていましたが、戦争が終ると、「特攻隊員は軍国主義によって洗脳された若者たち」であり、戦死した隊員は「犬死」、特攻に行き損ねた隊員は「特攻くずれ」と手のひらを返したように冷たくされたのです。
関大尉のお母さんも生活に困窮し、草餅を作って売り歩きましたが、石を投げつけられたり、関大尉の墓を作ることも許されなかったそうです。縁あって私の住む街にお墓を作りました。
6000人もの若い命を犬死だなんて本当に酷い仕打ちです、英霊の名誉を回復しなければなりません。
「 カミカゼ特攻はすべての世界史に記録の例のない壮挙であり、(略)その背後にあった理念は、(略)世界の秩序と平和の確立をひたむきに願い、その実現のため散華したことです 」
フィリピン・マバラカットの日本軍飛行場跡には、特攻隊戦没者の祈念碑の碑文(英字)です。
海外ではこのような肯定的な評価を受けているのですが、戦後教育を受けた人たちが覚醒できていないだけなのです。いたずらに平和を唱える教育だけが持て囃された結果が今の日本です。
特攻隊を教育現場に取り入れた素晴らしい記事があります

“荒れた中学”変えた「特攻隊」、非行生徒らは明らかに変わった…3年生210人が演じた「特攻劇」、教師も親も泣いた
荒れた中学校が特攻隊をテーマにした劇を契機に大きく変わろうとしている。大阪府東大阪市の市立花園中学。現3年生は入学時、髪を染めたり、ピアスをしたりといった生徒が「普通」で、暴力、喫煙など非行が絶えなかった。それが、熱血教師らの指導もあって、バラバラだった学年が劇制作などを通じて一つにまとまり、下級生にも「いい影響」が広がりつつあるのだ。卒業を控えた3年生と教師の軌跡をたどる。
 ■体育館を包んだ嗚咽
昨秋、開かれた文化祭。3年生210人全員参加で作り上げた劇「青空からの手紙」が終わるころには、会場の体育館のあちこちで嗚咽が漏れていた。
テーマは第2次大戦末期の特攻隊員の悲劇と生き方。結婚して子供が生まれたばかりの主人公・中村正は、海軍で出会った友人の坂本から「お前には家族がいる。ここは俺に任せろ」と志願を止められたが、「自分だけが生き残るわけにはいかない」と先に志願した友人に続く。結局、先に出撃したのは中村の方で、そのまま終戦を迎えることに。終戦後、生き残った坂本が遺族の元に届けた遺書には、家族の幸せを願う中村の思いがつづられていた…。
ロングラン公開中の映画「永遠の0」を思わせる内容だが、劇を制作・上演したころはまだ映画は公開されていない。指導・監修にあたった福島哲也教諭(32)は「まだ中学生ですから、原作の本も読んでいない者がほとんどだったでしょう。図らずも、話題の映画と同じテーマの劇を学年全体が一丸となって制作できて、教師も生徒もみな感動しています」と話す。
感動したのは3年生と教師だけではない。「いつもはざわざわと私語が絶えない1、2年の生徒も静かに劇に見入っていました」と福島教諭。保護者の多くも目を真っ赤に泣き腫らし、後日、劇を収録したDVDを見た付近の高齢者の中には「号泣される方もおられました」という。
 ■グレる生徒、まじめな生徒…互いに疎外感
3年前、現3年生が入学してきたとき、花園中はかなり荒れていたという。
1年のときから現3年を担当している福島教諭は「この子らも、喫煙、夜遊びは当たり前で、上級生に暴力をふるったり、学校のものを壊したり、教師に暴言を吐いたり…。それほどグレてない子でも髪を染めたり、ピアスをつけて学校に来たりしていました」と振り返る。
「もちろん、まじめな子も多かったのですが、いわゆるサイレントマジョリティーで、グレている生徒とは距離を置き、非行を目にしても教師に伝えることをせず、関わり合いになることを避けていました」
当時、同校に赴任したばかりで、学年主任となった福島教諭は、まず校則違反から正していった。ピアスや髪染めなど目に見える違反は、保護者も交えて話し合って改めさせた。またサイレントマジョリティーのまじめな生徒に、非行やいじめがあれば教えるよう依頼した。
生活指導を受ける生徒は当然、反発したが、「彼らは、どうせオレなんて、私なんて、という疎外感をどこかにもっている。教師の側が腹をくくって接していれば、自分たちは見捨てられていないということを必ずわかってくれると信じていました」。
 ■きっかけは特攻資料館
そして、次に打った手が1年時から計画をスタートすることになっている修学旅行。平和学習ということで長年、定番旅行先だった長崎ではなく、福岡県の特攻資料館「大刀洗平和記念館」に決めた。
「原爆投下や大空襲だけが悲惨な戦争体験ではないでしょう。家族のため、国のために特攻に志願せざるをえない状況に追い込まれ、尊い命を犠牲にした若者がたくさんいたことを生徒たちに知ってもらいたいと思ったんです」と福島教諭。
事前に特攻に関する資料を調べるなどの学習をさせ、迎えた昨年6月の修学旅行当日。生徒たちの多くは、命を散らせた特攻隊員らが出撃前にしたためた遺書や遺品、特攻関係の資料を前に無言のまま釘付けになった。「生徒は特攻はおろか、戦争のことをほとんど知らなかったでしょうが、彼らなりに何かを感じ取ったようでした」
 ■劇制作通じ固い絆…教頭も「闇まぎれ感涙」
旅行後、その「何か」が具体的に形になっていく。「特攻をテーマにした劇を文化祭でやりたい」。教師たちが助言したわけではなく、自然発生的にそんな声が上がり、キャスト、ナレーター、道具係、衣装係、音響、照明、パネル、合唱など、学年全員が何らかの役割を負った。夏休み中には、オーディションで選ばれたキャストの生徒9人が稽古を重ね、2学期が始まるころにはすべてのせりふを覚えていた。
制作委員の一人である生徒は「現代では考えられないような悲惨なことが、そんなに遠くない昔に実際に起きていたということにショックを受けました。そして、そういう人たちの犠牲の上に、今の自分たちの平和があるんだ、と強く感じました。そんなメッセージを伝えられたら、という思いで劇を作りました」と話す。
そして迎えた9月の文化祭本番。劇の完成度は高く、榎本欣弥教頭は「私も泣きました。生徒たちに見られたら恥ずかしいので、暗闇に紛れて…」とそのときの感動を語る。
「1年のころはツッパリだった生徒も喜んで裏方の仕事をやっていました。どの子も自分が自分が、というのではなく、それぞれの役割を黙々と果たし、学年が一つになっていました。こいつらすごい、と思いましたね」
 ■校長にも元気よく挨拶…そして卒業
3年生の影響を受け、他学年も変わりつつある。赤壁英生校長によると、校内ですれ違ってもあいさつどころか、目を合わせようともしなかった生徒たちが「あいさつをするようになりました」。また、以前は委員会活動に生徒が参加することはなく、実質、教師だけで行っていたが、最近は積極的に生徒も参加するようになってきたという。
「まじめにやったら損する、悪いことをして正直に言ったら怒られる、という考えが改まってきたように感じます。今の3年が作ってくれたいい雰囲気を全生徒にもっと広げ、引き継いでいくことがわれわれの仕事だと思っています」と赤壁校長。
受験のまっただ中にある3年生は2月末、自分たちで実行委員会を立ち上げ自主的に「冬の運動会」を実施した。「少しでも勉強する時間が惜しいでしょうに、まるで名残を惜しむかのように取り組んでいました」と福島教諭。
固い絆で結ばれた3年生は14日に卒業式を迎える。学年主任の福島教諭は旅立つ彼らに「サプライズ」を用意しているという。

学校でヒロシマやナガサキを教えるより、特攻隊を教えるほうが遥かに大切だと思います。また、特攻隊員は軍国主義によって洗脳された若者たち、狂気の沙汰、集団ヒステリー、非人間的な強制行為とのイメージを覆す記事がこちらです。

90歳の元海軍少尉 英語で回顧録 カミカゼ志願は命令でなかった
学徒出陣して海軍飛行科予備士官となり、特攻隊の募集に「望」と答えた90歳の元海軍少尉が、英語で「カミカゼと日本文化 回顧と再評価」と題する草稿をまとめた。「特攻志願は“命令”ではなかった」と強調する元少尉は、「カミカゼ」を民間人も標的にする現代の狂信的な「自爆テロ」の源流だと認識しがちな外国人に特攻隊の本質を理解してもらおうと健筆を振るった。
 ■熱望・望・否の3択
草稿をまとめたのは、メキシコ南バハ・カリフォルニア州ラパス在住の渡辺啓三郎さん(90)。
渡辺さんは、昭和18年12月、学徒出陣して広島県の大竹海兵団に入団。19年2月に第1期海軍飛行専修予備生徒として三重航空隊に入隊した。
約3カ月間、飛行訓練を受けながら適性検査を受け、ナビゲーションを担当する偵察士要員となった。鈴鹿航空隊に転属し、同年5月から約半年間、偵察士としての訓練を終えた同年11月ごろ、上官から特攻隊に志願する意思があるかどうか紙に書くように命じられた。制限時間5分以内に「熱望」「望」「否」の3択から選ぶというもので、返事をしない選択肢はなかった。渡辺さんは、迷わず、「望」を選択した。
しかし、配属されたのは無線兵器(戦闘機電話・電波探信儀)の整備員を養成する藤沢航空隊だった。選抜で書いた「望」は「熱望」につながると考え、命令が来れば、いつでも特攻として出撃すると覚悟してレーダーの実験飛行などを続けたが、終戦となった。
選抜で「望」としながら前線の実施部隊に派遣されなかったことを疑問に感じていたが、特攻隊として、前線に配属されたのは「熱望」と答えた者だったことを戦後知った。実際、特攻隊として南の空に散った同期生はいずれも「熱望」と答えていた。20人いた同じ班で「熱望」と書いた3人が出撃しながら3人とも飛行機故障などで生還した。
大多数が「望」と回答した中で、「否」と書いた者もいた。上官から呼び出されたが、「故郷の村で唯一の大学卒業生なので生きて帰りたい」と伝えると、容認され、罰則を受けることはなかった。
 ■日本文化そのもの
終戦後、31歳で貿易商社を立ち上げ、「カミカゼ・サバイバル」のビジネスマンとして戦後を生き抜いた渡辺さんは、特攻の選抜について「俗説のような命令による強制ではなく、忠臣蔵の四十七士のように自発的に窮地の祖国に尽くそうとする各人の意思を重んずるかたちで行われた。和を重んずる日本文化そのものだ」と語る。
また敗戦後にインドネシアで2千人以上の残留日本軍兵士が独立戦争に関わったことなどをあげて、「アジアの白人支配からの解放も目的の一つだった」と述べ、英語で脱稿した回顧録を上梓(じょうし)する出版社を探している。

特攻隊員は「望」と書く前から覚悟していたのでしょう。ですから出撃直前に満面の笑顔を見せていたのです、これこそ日本武士道の精神ではないでしょうか。
 
神風特別攻撃隊  

 

「神風特別攻撃隊」の戦果
「特攻の記憶」
目の前に、「桜花」を抱いた一式陸上攻撃機(一式陸攻)が飛んでいた。護衛のゼロ戦に乗っていた野中剛(1925年生まれ)は突然、「耳元でバケツを打ち鳴らされたような音を聞いた」。そして機体後部に「ガン」という衝撃を感じた。
1945年3月21月。海軍鹿屋基地(鹿児島県)から特攻隊が飛び立った。一式陸攻18機を基幹とする「神雷部隊」である。護衛のゼロ戦は30機。敵は九州沖南方の米機動部隊(航空母艦=空母を基幹とした艦隊)であった。一式陸攻は爆弾、魚雷も搭載できる軍用機だが、この日は初めての兵器を胴体に抱いていた。
その兵器こそ特攻のために開発された「桜花」である。重さ2トン。機体の前身に1・2トンの爆弾を積んでいる。ロケットエンジンで前進し、小さな翼でグライダーのように飛ぶ。車輪はない。つまり一度空中に放たれたら、着陸することはほぼ不可能であった。
「普段は前三分、後ろ七部なんですが」。護衛30機のパイロットの一人だった野口は、70年近く前の体験を振り返って筆者にそう証言してくれた。
ゼロ戦のような戦闘機に限らず、撃墜される場合は死角である後方から攻撃されることが多い。このため、搭乗員は前方よりも後方を強く意識するのだ。「しかしあの時は前の編隊(「桜花」を抱いた一式陸攻の部隊)を守る意識が強すぎて、後方がおろそかになりました」。
第二次世界大戦末期、大日本帝国海軍は航空機が搭載した爆弾もろとも敵艦に突っ込む「神風特別攻撃隊」(特攻隊)を編成した。現在は「カミカゼ」と読まれがちだが、当時は「シンプウ」と呼ばれることが多かった。また「神風」は海軍側の呼称であり、海軍に続いて特攻隊を送り出した陸軍は、「神風」という言葉を組織としては使わなかった。
呼称はともかく、海軍も陸軍も爆弾を搭載した飛行機もろとも敵艦に突っ込む、という点では同じだ。成功すれば搭乗員は必ず死ぬ。「九死に一生」ではなく、「十死零生」である。飛行機も必ず失う。
爆撃機でいえば、通常の作戦ならば搭乗員は敵艦に爆弾をあてて帰還し、さらに出撃する。その繰り返しである。もちろん、その過程で戦死することは多々あるが、あくまでも前提は生還することである。
特攻は、そうした戦争の原則から大きく逸脱するものだ。筆者がカッコつきで「作戦」と書くのはそのためである。
その「作戦」は、前回みたように1944年10月、フィリピン戦線で始まった。海軍の「敷島隊」5機によって米空母1隻を撃沈、ほかの1隻にも損害を与えた。
第二次世界大戦において、帝国海軍は戦艦12隻を擁していた。「大和」「武蔵」はよく知られている。帝国海軍の実力は、艦船数や総トン数などでみるかぎりアメリカとイギリスに継ぐ第3位であった。しかし戦艦部隊の実力に関する限り、それは世界第一位であったといっていい。
敗戦時、12隻のうち何とか海に浮かんでいたのは「長門」だけ。ほかの11隻は撃沈されるか、航行不能だった。戦果と言えば、戦艦が米空母で沈めたと思われるのはたったの1隻(レイテ沖海戦における護衛空母「ガンビア・ベイ」)だった。「思われる」というのは、「ガンビア・ベイ」を撃沈したのが日本軍戦艦だったのか、あるいは巡洋艦だったのか判然としないからだ。
ともあれ、世界に誇る12隻の戦艦群が沈めた敵空母が、最大でも1隻でしかなかったことは事実である。「敷島隊」の戦果から半年後、「世界最強」と謳われた戦艦「大和」は瀬戸内海から九州東南を経て沖縄に向かったが、米軍機の空襲が始まってからわずか2時間余で撃沈された。
敵空母を撃沈するどころか、その姿をみることもなく、かすり傷一つ与えることはなかった。
そうした現実からみると、たった5機の「敷島隊」による戦果は巨大であった。海軍内部には、特攻に対する抵抗もあった。前述の通り、作戦ではなく「作戦」だからであり、まさに「統率の外道」(特攻創設者とされてきた大西瀧治郎・海軍中将の特攻評)だからである。
しかし「敷島隊」の大戦果によって、海軍は特攻を本格的に進めた。陸軍も、同じフィリピン戦線で特攻を始めた。「外道」が「本道」となり、「特別攻撃隊」が「普通の特別攻撃隊」になったことを、確認しておこう。
子供の玩具のような特攻機 
当初は確かに戦果を挙げた。なぜなら、米軍を初めとする連合軍は、爆弾を積んだ飛行機が飛行機もろとも自分たちに突っ込んでくる行為が、継続的かつ組織的に行われることを予想していなかったからだ。このため日本軍の特攻への対処が遅れ、被害が拡大した。日本軍からみれば戦果が拡大した。
特攻隊が「敷島隊」のような戦果を挙げ続けたら、第二次世界大戦の流れは変わっていたかもしれない。しかし、現実は違った。
米軍は、特攻の意図を知って対処を進めた。特攻機の第一目標は航空母艦(空母)であった。レーダーを駆使し、空母群と特攻隊の進路の間に護衛機を多数、配備する。戦艦なども多数配置する。こうした結果、特攻隊は目標に体当たりするどころか、近づくことさえ困難になった。
また、そうした護衛部隊をかいくぐってなんとか米空母群付近にたどり着いたとしても、そこにはさらなる護衛機群があって、艦船からは十重二十重の迎撃弾が吹き上がってくる。日本軍機は、一般的に少ない燃料で航続距離を伸ばすため軽量化を図り、その反面防御力を犠牲にした。
大戦後半、米軍機が日本軍の機銃を浴びても分厚い装甲がそれをくいとめ、墜落を免れることがあった。一方、ゼロ戦を初めとする日本軍機は敵機の一撃が致命傷となり得た。
さて特攻機は、出撃したものの機体の故障のため帰還することが少なくなかった。なぜか。
以下は大戦末期に連合艦隊司令長官、つまり帝国海軍の現場の最高責任者だった豊田副の証言である(『最後の帝国海軍』)。米軍が沖縄に上陸した1945年4月以後の状況だ。
「沖縄戦がだんだんと進行してゆくと、次は内地の本土決戦以外には考えようがないので、専ら本土決戦準備に、陸海軍とも狂奔し、すべてこの兵力の整備とか建直しをやつた」。ところが「今まで百機持つておつたのに、更に五十機来たとして、今までの可動五十機だつたのが、今度は三十機乃至二十機になるという始末」だった。
豊田は航空部隊で、「新型飛行機」の完成品をみた。「それは新型戦闘機で、まるで子供が悪戯に作つた玩具のようなもので、一見リベットの打ち方もなつていない。実にひどいものだつた」。
つまり生産機数が落ちているだけではなく、できあがった飛行機の質も著しく低下していたのだ。さらに言えば、精密機械である飛行機を維持するには、プロの整備兵が必要だ。しかし国を挙げての総力戦が長引くうち、パイロットのみならずその整備兵も不足していった。
また南方の石油産出地域を占領していたものの、その石油を運ぶルートの制空権と制海権を米軍に抑えられているため、石油を十分に輸送することができなかった。このため、オクタン価の低い航空燃料で飛行機を飛ばすことになった。
要するに、飛行機の生産数が減っていき、せっかく生産された飛行機は少なからずポンコツで、そのポンコツに粗悪な燃料を積み、その上十分な整備もなされないまま前線に送り出された航空機が多かった。それは特攻機としても動員されただろう。
さらに言えば、1941年12月の対米戦開戦より前、日中戦争から使われていた老朽機も特攻に投入された。出撃したものの、引き返すケースが多いのは当然だった。
1隻沈めるのに、81人の命
ところで特攻といえば、一般的には「家族や国を守るため、自らの命を投げ出した若者たち」という印象が強いだろう。それゆえ特攻はそれが終わってから71年が過ぎた今も、多くの人たちの心を打つ。
筆者はこれまで、たくさんの特攻隊員、しかも実際に出撃した特攻隊員を取材してきた。彼らの証言を聞き、あるいは戦死した人たちの遺書、親や妻、子どもたちに書き残したそれを読むと涙を禁じ得ない。
「そうした尊い犠牲の上に、今日の日本の平和がある」という感想を、しばしば聞く。筆者はその感想にも同意する。同意するが、新たな疑問が生じてくるのだ。「なぜ、だれが未来有望な若者たちをポンコツ飛行機に乗せて特攻に送り出したのか。戦果が期待したほど上がらないと分かった時点で、どうして特攻をやめなかったのか」と。
ともあれ、海軍による特攻「作戦」は当初、既存の航空機に爆弾を搭載していた。しかし軍が期待したほどの戦果は上がらなかった。前述のハードルを越えて敵艦に突っ込んでも、そもそも飛行機には浮力があるため、高高度から放たれた爆弾のような衝撃力はなかった。さらに爆弾が爆発する前に機体がくだけてしまい、肝心の爆弾が不発なこともあった。
そうした中で開発されたのが、機体そのものが爆弾といっていい「桜花」である。搭乗員は必ず死ぬが、命中すれば敵の損害は大きい。しかしこれも敗戦まで、大きな戦果を挙げることはなかった。
そもそも、ただでさえ動きが鈍く防御力の乏しい一式陸攻に2トンもの「桜花」を積んだら動きがさらに鈍くなり、敵戦闘機の餌食になるのは必定であった。実際、冒頭にみた、野口が護衛した「神雷部隊」の一式陸攻18機もすべて撃墜された(「桜花」を搭載していたのは16機)。 
敵艦は一隻も沈んでいない。被弾した野口機は、何とか帰還したが、「作戦」自体は大失敗だった。
敗戦まで、航空特攻の戦死者は海軍が2431人、陸軍が1417人で計3830人であった(人数には諸説がある)。一方で敵艦の撃沈、つまり沈めた戦果は以下の通りである(『戦史叢書』などによる)
正規空母=0/護衛空母=3/戦艦0/巡洋艦=0/駆逐艦=撃沈13/その他(輸送船、上陸艇など)撃沈=31
撃沈の合計は47隻である。1隻沈めるために81人もの兵士が死ななければならなかった、ということだ。しかも戦果のほとんどが、米軍にとって沈んでも大勢に影響のない小艦艇だった。
この中で大きな軍艦といえば護衛空母だが、商船などを改造したもので、もともと軍艦ではないため防備が甘く、初めから空母として建造された正規空母より戦力としては相当劣る。特攻が主目的とした正規空母は一隻も沈まなかったという事実を、我々は知らなければならない。
「撃沈はしなくても、米兵に恐怖を与えて戦闘不能に陥らせた」といった類いの指摘が、しばしばある。そういう戦意の低下は数値化しにくく、戦果として評価するのは難しい。それは特攻=「必ず死ぬ」という命令を受けたか、受けるかもしれないと思って日々を過ごしている大日本帝国陸海軍兵士の戦意がどれくらい下がったのかを数値化できないとの同じだ。
我々が知るべきは、特攻の戦果が、軍上層部が予想し来したものよりはるかに低かった、ということだ。むろん、特攻で死んでいった若者たちに責任は一ミリもない。
押し付けられた責任
ところで、「特攻隊を始めたのは誰だ?」。そういう問いに対してはしばしば、大西瀧治郎海軍中将の名が挙がる。実際1944年10月、フィリピン戦線で最初の特攻隊を見送ったのは大西だ。しかし、前出の豊田は言う。
「大西が特攻々撃を始めたので、この特攻々撃の創始者だということになっておる。それは大西の隊で始めたのだから、大西がそれをやらしたことには間違いないのだが、決して大西が一人で発案して、それを全部強制したのではない」
特攻は、大西一人の考えで始まったものではなかった。たとえば軍令部第二部部長の黒島亀人である。同部は兵器を研究開発する部署であった。奇抜な言動から「仙人参謀」と呼ばれた黒島は、戦争中盤から特攻の必要性を海軍中央に訴えていた。
黒島以外にも、海軍幹部たちが特攻を構想・準備していた証拠はある(拙著『特攻 戦争と日本人』)。しかし戦後、特攻を推進した者たちは、自分が果たしたであろう役割を語らなかった。
大西は敗戦が決定的となった1945年8月、自殺した。若い特攻隊員を送り出した将軍のなかには「自分も後から続く」などと「約束」しながら、敗戦となるとそれを破って生き延びた者もいる。そして大西以外の特攻推進者たちは、「死人に口なし」とばかり、大西に責任を押しつけた。
巨大組織である海軍には様々な部署があったが、メインストリームは砲術つまり大砲の専門家であり、あるいは雷撃すなわち魚雷の専門家であった。そうした中、大西の専門は創設間もない航空であった。自分が育てた航空部隊への思い入れはひときわ強く、部下思いでもあった。
その大西がなぜ、航空特攻を推進したのだろうか。
終戦まで「特攻」を止められなかった理由
「お前ら、覚悟しろ」
「特攻隊を志願しましたか?」
筆者がそう問うと、江名武彦さん(1923年生まれ)は答えてくれた。
「いえ。意思を聞かれることはありませんでした」
早稻田大学在学中の1943年12月、江名さんは学徒出陣で海軍に入った。航空機の偵察員となり、茨城県の百里原航空隊に配属された。前任地の静岡県・大井海軍航空隊から百里原に到着したとき、上官が言った。
「お前たちは特攻要員で来たんだ。覚悟しろ」
特攻隊員になるかどうか、聞かれたことはなかった。そして江名さんは南九州・串良基地から特攻隊員として2度出撃し、生還した。
1944年10月に最初の神風特別攻撃隊を送り出した大西瀧治郎中将は、大日本帝国海軍航空部隊を育てた一人である。しかも、航空特攻を「統率の外道」と認識していた。それでもなぜ、大西は特攻を推進し、続けたのだろうか。
まず言えるのは、大西のみならず海軍全体、そして陸軍にも共通することだが、1944年10月の時点では、米軍を主軸とする連合国軍に対して通常の作戦では太刀打ちできなくなっていた、ということだ。
たとえば特攻が始まる1944年10月に先立つ7月、サイパン近海で両海軍が激突した「マリアナ沖海戦」では、帝国海軍は9隻、約450機の搭乗機をそろえ米海軍に決戦をいどんだ。
しかし空母16隻、900機を擁する米海軍に惨敗した。ほぼすべての航空機と、虎の子の正規空母2隻を含む空母3隻を撃沈された。一方、敵艦は一隻も沈まなかった。世界の海戦史に残る惨敗であった。
大西はこの惨敗の後、日本ほどからフィリピンに赴任する前、台湾で面談した連合艦隊司令長官・豊田副武に語ったという(豊田、『最後の帝国海軍』)。
「中には単独飛行がやっとこせという搭乗員が沢山ある、こういう者が雷撃爆撃をやっても、ただ被害が多いだけでとても成果は挙げられない。どうしても体当たりで行くより外に方法はないと思う」
「ヨチヨチ歩き」でも出撃
ところで、飛行機搭乗員が独り立ちするまでどれくらいの時間がかかったか、ご存じだろうか。
特攻の実情を精密に分析した小沢郁郎によれば、何とか飛ぶことができる程度になるまで300飛行時間程度が必要で、それは「人間で言えばヨチヨチ歩きの段階」(『つらい真実・虚構の特攻神話』)であった。赤ちゃんのようなヨチヨチ歩きまで、毎日3時間飛んでも、100日もかかったのだ。
当時「血の一滴」と言われた航空燃料も相当費やす。そうして膨大な時間と大切な燃料を費やして育てた搭乗員を、ただでさえ劣勢な戦場に送っても、戦果は一向に上がらず反比例するように戦死者が増えるばかりだ。
おなじ戦死するならば、命中率が高いと思われた特攻に踏み切ろう、という判断だったと思われる。前述のようにはじめに大戦果をあげたため、さらに拡大していった。
しかし米軍側が対策を整えるにつれ敵艦に突っ込むどころか敵艦隊に近づくことすら難しくなった。当然、戦果も期待したようにはならなかった。
それでも大西を初めとする海軍首脳は特攻を続けた。敵にダメージを与えられる戦術がそれしかなかった、ということもあるが、それ以外にも理由はありそうだ。 
なぜ「続けざるを得なかった」のか
1944年10月、大西が第一航空艦隊司令長官としてフィリピンに向かう前のことである。大西は多田力三中将(軍需省兵器総局第二局長)に特攻構想について話した。
多田が「あまり賛成しない」と述べたところ、大西は「たとえ特攻の成果が十分に挙がらなかったとしても、この戦争で若者達が国のためにこれだけのことをやったということを子孫に残すことは有意義だと思う」と話した(『日本海軍航空史(1)用兵編』)。
また毎日新聞記者で、海軍に従軍していた新名丈夫の証言をみてみよう。
大西は「もはや内地の生産力をあてにして、戦争をすることはできない。戦争は負けるかもししれない。しかしながら後世において、われわれの子孫が、先祖はかく戦えりという歴史を記憶するかぎりは、大和民族は断じて滅亡することはないであろう。われわれはここに全軍捨て身、敗れて悔いなき戦いを決行する」と話していたという(『一億人の昭和史3 太平洋戦争 昭和16〜20年』)。
二人が残した大西証言がその通りだったとしたら、大西にとって大切だったのは戦果だけではない。後世の人々に、自分たち先祖がどう戦ったかを記憶してもらうこと、いわば「民族的記憶遺産」を託すことであった。
大西はもう一つ、特攻を続ける理由があったのかもしれない。それは、その「作戦」を続けていれば、いずれ昭和天皇が停戦を指示するだろう、という期待だ(この大西の心情については、角田和男『修羅の翼 零戦特攻隊員の真情』などに詳しい)。
天皇は、特攻をどう受けとめていたのだろうか。
海軍に続いて陸軍が航空特攻を始めたのは11月12日。フィリピン・マニラ南方の飛行場から「万朶(ばんだ)隊」の4機が飛び立った。大本営は翌13日、「戦艦1隻、輸送艦1隻撃沈」と発表した。
同日、梅津美治郎参謀総長が、昭和天皇に戦況を上奏した。天皇は「体当リキハ大変ヨクヤッテ立派ナル成果ヲ収メタ。命ヲ国家ニ捧ケテ克(よ)クモヤッテ呉レタ」(『昭和天皇発言記録集成』掲載、「眞田穣一郎少将日記」)と述べた。
これに先立つ同月8日にも、天皇は梅津に対して「特別攻撃隊アンナニタマヲ沢山受ケナガラ低空テ非常ニ戦果ヲアケタノハ結構デアッタ」と話している(同日記)。
「あんなに敵弾を受けて」云々という内容からして、天皇は特攻の写真もしくは動画をみたのだろうか。いずれにしても、これらの史料からは天皇が特攻の戦果を喜んでいることが分かる。
ちなみに、2014年に完成し公開された「昭和天皇実録」には、特攻に関する記述がある。それによれば、天皇は梅津からの報告に対して「御嘉賞になる」(同日)とある。「実録」は、1990年から宮内庁が国家事業として作成したものである。
四半世紀の時間と莫大な税金を投じただけあって、歴史研究の貴重な資料となるものだが、特攻の場面から分かる通り、天皇の生々しい肉声が削られている憾みが残る。筆者は毎日新聞オピニオン面のコラム「記者の目」で、具体的な例をあげてこの問題を指摘した(2014年8月18日)。
ともあれ、先に見た大西の狙いは、かりにそれが事実であったとしたら完全に外れた。
後世の日本人に残すため
さて、特攻と言えば航空機によるそれがよく知られている。しかし軍艦などによる水上特攻もあったし、改造した魚雷に人間が乗る水中特攻、さらには上陸してくる敵戦車などに、爆雷を抱いて突っ込む陸上特攻もあった。実際は、航空特攻の死者よりこれらの死者の方がはるかに多かった。
たとえば1945年4月、沖縄に上陸した米軍を撃退すべく出撃した戦艦「大和」以下10隻の艦隊を、海軍首脳は「水上特攻」と認識していたし、命令は「片道燃料」であった(実際は現場の判断で往復可能な燃料が積まれた)。この「大和」艦隊の死者だけで3000人を超える。今回は紙幅の事情で詳細は省くが、機会があればこれらの特攻のことも書きたいと思う。
敗戦が決まった翌日の同年8月16日、大西瀧治郎は割腹自殺した。遺書の中で、死んでいった特攻隊員たちに感謝し、かつ彼らと遺族に謝罪している。
「特攻隊の英霊に曰す/善く戦ひたり深謝す/最後の勝利を信じつゝ肉/彈として散華せり然れ/共其の信念は遂に達/成し得ざるに至れり/吾死を以て旧部下の/英霊とその遺族に謝せんとす」
大西はさらに「一般青壮年」に向けて
「(前略)諸子は國の寶なり/平時に處し猶ほ克く/特攻精神を堅持し/日本民族の福祉と世/界人類の和平の為/最善を盡せよ」
とつづった。
大西は後世の日本人が「特攻精神」を継承することを、最後まで望んでいたことが分かる。
大西の願いは叶ったのか?
ところで、大西が前述の多田力三中将に特攻構想を明かした際、多田が強く反対していたら、どうなっていただろうか。それでも、まず間違いなく、特攻は遂行されただろう。なぜなら、特攻は一人大西だけでなく海軍上層部の意思だったからである。
いかに海軍航空部隊育ての親の一人といえども、大西は一中将である。大西一人では、作戦の成功=死という「作戦」を始めることはできたとしても、それを組織的に継続することは不可能であっただろう。
たとえば1944年10月25日に「敷島隊」が突っ込む前の同月13日、軍令部作戦課参謀だった源田実が起案した電報には、「神風特別攻撃隊」の隊名として「敷島隊」「朝日隊」等が記されている。
また軍令部作戦部長だった中澤佑少将によれば、大西はマニラ着任前、及川古志郎軍令部総長に会い、特攻の「諒解」を求めた。同席した中澤によれば、及川は「諒解」し、「決して命令はして呉れるなよ」と応じた(『海軍中将 中澤佑』)。
この席で本当に大西から航空特攻を申し出たかどうかは、疑問も残るところだ。いずれにしても、海軍の実質的最高責任者である軍令部総長が遂行に同意していたことは確かだ。
さらに言えば、実は航空特攻以外の特攻は、「敷島隊」のずっと前から決まっていた。「人間魚雷」回天の試作が始まったのは1944年2月である。
「自分も後から続く」と約束しながら、長い戦後を生き延びた将軍に比べれば、いや比べる意味がないほど、大西は潔かった。
その大西の願い、「民族の記憶」は実現したと言える。敗戦から71年が過ぎた今日まで、特攻はときに祖国愛や同胞愛を語り振り返る文脈のなかで語られ、現代人の感動をよんでいるからだ。
それは「家族や国を守るため、自ら命を投げ出した若者たち」に対する共感や同情であり、「戦争でなくなった人たちの尊い犠牲の上に、今日の繁栄、平和がある」という歴史観にも通じる。
本当に死者たちを悼むならば
こうした「『尊い犠牲=今日の繁栄と平和』史観」は、戦没者の追悼式で、来賓の国会議員などがしばしば口にするフレーズだ。
筆者はこの歴史観に同意する。同意するが、そのフレーズには危険性があることも感じている。それはたくさんの犠牲者たちを悼むあまり、追及すべき責任を追及させなくさせる呪文になり得るからだ。
本当に死者たちを悼むならば、以下のことを考えるべきだと、筆者は思う。
たとえばたくさんの人たちが死んだ戦争を始めたのは誰なのか。あるいはどの組織なのか。敗戦が決定的になっても降伏しなかったのか誰なのか。そしてそれはなぜだったのか。特攻でいえば、それを始めたのは誰だったのか。責任者は責任をとったのか、とらなかったのか、と。
「特攻は志願だった」
戦後、特攻隊を送り出した上官らによって、特攻はそう物語られてきた。しかし、冒頭にみた江名さんのように、意思をまったく聞かれないまま特攻隊員にされていた人もたくさんいる。筆者は水上特攻として動員された戦艦「大和」の生還者20人にインタビューしたが、「作戦」参加の意思を聞かれた人はただの一人もいなかった。
そして注目されがちな航空特攻と違い、忘れられた特攻隊員も、たくさんいる。たとえば、満州の荒野で押し寄せてくるソ連軍戦車に爆雷を抱いて突っ込んだ兵士たちだ。
他の民族がそうであるように、私たち日本民族も、自分たちの歴史を誇らしいものとして記憶しがちだ。それゆえ、特攻も美しい物語として記憶されてゆくだろう。そういう側面があったことは確かだが、そうではなく、強制されて死んでいった若者たちがたくさんいたこと、さらにはそうした死の多くが忘れ去られてしまっていることも事実だ。
 
特攻の真実

 

攻撃の成功がそのまま死につながる「十死零生」という、世界の戦争史の中でも稀な作戦ゆえ、戦後70年を超えても未だ評価の定まらない「特攻」。ある者は、「究極の愚策」と罵り、ある者は、国に殉じた若者たちの美談を讃える。そうなってしまった背景には、生き残った負い目から口を閉ざした元隊員たちの一方で、自己正当化をはかった一部の指揮官たちの存在が影響しているのは間違いない。実際に、この作戦はいかに採用され、いかに実行されたのか。神立氏が集めた数百人の元搭乗員、関係者の証言とデータから、その実像に迫る。
■元隊員の間でさえ、特攻への評価に温度差がある
太平洋戦争末期の、日本陸海軍の飛行機、舟艇、戦車などによる体当たり攻撃、いわゆる「特攻」は、「あの戦争」の一つの象徴として、いまなお論考が重ねられ、関連書籍が出版され続けている。
かくいう私も、「特攻生みの親」とされる大西瀧治郎海軍中将の親族、副官、特攻を命じた側の参謀、命じられた搭乗員、見送った整備員、そして家族を喪った遺族……数百名の関係者に直接取材を重ね、『特攻の真意――大西瀧治郎はなぜ「特攻」を命じたのか』を上梓(2014年。単行本版は2011年)した。
10数年かけて当事者を訪ね歩き、資料を漁り、本を著す作業のなかで気になったのは、任務の遂行すなわち「死」を意味する戦法の異常性ゆえか、特攻関連の情報がいくつかの傾向に偏っていて、中正な立場から書かれたものが皆無に近いことだった。
――特攻がいかに愚策だったかを強調し、「上層部」を罵倒するために史料や数字を恣意的に引用しているもの。それとは逆に、命じる側の自己正当化のため、あるいは「右寄り」の論調を補強するための美化。さらに、「特攻の母」鳥濱トメさんのエピソードのように、情緒に訴え、「泣かせる」読み物。そして、「国のためではなく愛する者のため」と、戦後世代に耳あたりのいい価値観で、隊員たちの精神性を一括りにする物語。
特攻当事者が編纂した戦没学徒の遺稿集も、たとえば『きけ わだつみのこえ』(1949年)と『雲ながるる果てに』(1952年)では、それぞれ「左」と「右」に分けられるほどにニュアンスが違う。当の特攻隊員の間でさえ、「特攻」への評価や意識にはかなりの温度差があったのだ。
二度出撃して、敵艦に遭わず生還したある元特攻隊員は、私のインタビューに、
「特攻が嫌だと思ったことは一度もない。俺たちがやらないで誰が敵をやっつけるんだ。私の仲間には渋々征ったようなやつはいない。それだけは、覚えておいてくださいよ」
と言い、また、四度の出撃から、これも敵艦と遭わずに還ってきた別の元特攻隊員は、
「死ぬのがわかってて自分から行きたいと思うやつはいないでしょう。みんな志願なんかしたくなかった。私も志願しなかったけど、否応なしに行かされたんです」
と言った。また、直掩機(特攻機の護衛、戦果確認機)として、爆弾を積んだ特攻機(爆装機)の突入を見届けた元特攻隊員のなかには、
「離陸してから突入するまでずっと、爆装機の搭乗員の顔は涙でくしゃくしゃで、かわいそうでした……」
と回想する人もいる。その直掩機も、もし途中で敵戦闘機に遭遇したら、爆装機の盾となって、命に代えても突入の掩護を全うすることを求められていたのだ。
人それぞれ、置かれた状況も違えば、感じ方、捉え方も全然違う。「生存本能」と「使命感」のはざま、言葉を替えれば「個体保存の本能」と「種の保存の本能」がせめぎ合う、人の生死の極限状態であり、当事者の数だけ異なった捉え方があるのは当然である。一人の心の内にも、そのとき、そのときでさまざまな感情が去来することを思えば、元隊員たちのどの言葉にもウソはないと思うし、逆にそれが全てではないとも思う。
現在の視点で歴史上の事実を分析することは大切だが、それには常に、当時の価値観を俎上に乗せこれと比較するのでなければ、事実が真実から遊離してしまうし、批判も的外れなものになってしまう。紙を読み、頭で考えるだけでなく、当事者への直接取材が欠かせないゆえんである。
特攻作戦にいたるまでの道のりについてはここでは省き、私の取材範囲は主に海軍なので、海軍を例にとって、特攻についての的外れな批判、ないしは間違った通説をいくつか挙げてみる。――「海軍を例にとって」と、わざわざ断りを入れるのは、陸軍の特攻隊と海軍の特攻隊は、手段は同じでも成り立ちが違い、それを一緒にしてしまうと間違いが生じるからだ。
■離陸後、指揮所に機銃をぶっ放してから出撃した者も
まず、特攻隊員が選ばれたのは「志願」か「命令」か。これをどちらかに決めてしまおうとする議論が目立つが、無駄なことである。実際にはケースバイケースで、特攻隊が出撃する以前の昭和19(1944)年8月、日本内地の航空隊で、「必死必中の体当り兵器」(のちの人間爆弾「桜花」や人間魚雷「回天」などを指す)の搭乗員が募集されたときには、はっきりと志願の形がとられているし、志願しても長男や妻帯者は外すような配慮もなされた。
だが、同年10月17日、フィリピン・レイテ島の湾口に位置するスルアン島に米軍が上陸、日本の主力艦隊のレイテ湾突入を掩護するため、敵空母の飛行甲板を一時的に破壊する目的で神風(しんぷう)特別攻撃隊が編成される段になると、なにしろ敵はもうそこまで攻めてきているわけだから、編成には急を要する。
第二〇一海軍航空隊(二〇一空)で、最初の特攻隊指揮官に選ばれたのは、満23歳、母一人子一人で新婚の関行男大尉である。特攻隊編成を命じた大西瀧治郎中将の副官を務めた門司親徳主計大尉は、筆者のインタビューに、
「大西中将としても、死を命じるのが『命令』の域を超えているのはわかっている。だからこそ、最初の特攻隊は志願によるものでなければならず、『指揮官先頭』という海軍のモットーからいっても、指揮官は海軍兵学校出身の正規将校でなければならない。大西中将は、真珠湾攻撃以来歴戦の飛行隊長・指宿正信大尉に手を上げてもらいたかったんです。
ところが二〇一空の飛行長・玉井浅一中佐が、指宿大尉を志願させなかった。指宿大尉が出ないとなると、当時二〇一空に海兵出の指揮官クラスは関大尉と、もう一人の大尉しかいなかった。もう一人の大尉は、戦闘に消極的で部下からやや軽んじられていたこともあり、関大尉しか選びようがなかったんでしょう」
と、語っている。関大尉は玉井中佐からの、限りなく強制に近い説得に応じて、特攻隊の指揮官を引き受けた。残る下士官兵搭乗員も、体当り攻撃の話に一瞬、静まり返ったが、玉井が「行くのか、行かんのか!」と一喝すると、全員が反射的に手を上げた。
支那事変(日中戦争)、ソロモン、硫黄島と激戦を潜ってきた角田和男少尉は、昭和19(1944)年11月6日、部下の零戦3機とともに飛行中、エンジン故障で不時着した基地で、
「当基地の特攻隊員に一人欠員が出たから、このなかから一人を指名せよ」
と命じられ、
「このなかから一人と言われれば、自分が残るしかない」
と覚悟して特攻隊を志願した。角田さんは、
「昭和15(1940)年、第十二航空隊に属し、漢口基地から重慶、成都空襲に出撃していた10ヵ月の間、搭乗員の戦死者は一人も出なかった。それが、昭和17(1942)年8月から18(1943)年にかけ、ソロモンで戦った第二航空隊(途中、五八二空と改称)は、補充を繰り返しながら一年で壊滅、しかし一年はもちました。
昭和19(1944)年6月に硫黄島に進出した二五二空は、たった三日の空戦で全滅し、10月、再編成して臨んだ台湾沖航空戦では、戦らしい戦もできなかった。そんな流れで戦ってきた立場からすると、特攻は、もうこうなったらやむを得ない、と納得する部分もありました」
と言う。それまでの苦戦の軌跡を十分に知る角田さんは、特攻を否定することができなかったのだ。
志願書に「熱望」と書いて提出した搭乗員のなかには、周囲の目から見ても、本心から志願したに違いない、と伝えられる例もあれば、出撃直前、零戦の操縦席から立ち上がり、
「お母さん! 海軍が! 俺を殺す!」
と叫んで離陸していったという例もある。さらに、離陸後、超低空に舞い降りて、指揮所上空で機銃弾をぶっ放して飛び去って行ったという例もある。角田氏は、出撃前夜の搭乗員が、目を瞑るのが怖くて眠くなるまでじっと起きている姿と、笑顔で機上の人となる姿をまのあたりにして、
「そのどちらもが本心であったのかもしれない」
と回想している。
特攻が常態化してからは、隊員の選抜方法も、「志願する者は司令室に紙を置け」というものから、「志願しない者は一歩前に出ろ」などという方法がまかり通るようになり、そしてついには、志願の手順もなく特攻専門の航空隊が編成された。
特攻隊は志願か否か、突き詰めることに意味はない。仮に志願だとしても、積極的志願か、消極的志願か、環境による事実上の強制による志願か、やぶれかぶれの志願か、志願して後悔したのか……その本心は、当事者自身にしかわからないし、現に「命令」で選ばれたことが確実な例もあるからだ。
■特攻部隊より通常部隊のほうが戦死率が高かった
また、よく言われる俗説に、
「身内の、海軍兵学校卒のエリート士官を温存し、学生出身の予備士官や予科練出身の若い下士官兵ばかりが特攻に出された」
というのがあるが、これも全くナンセンスである。特攻で戦死した海軍の飛行機搭乗員のうち、少尉候補生以上の士官クラスは769名(資料によって差がある)、うち予備士官、少尉候補生は648名で全体の85パーセントを占める。確かに、数字からは俗説にも理があるように見える。だが、この数字には母数がない。
海軍兵学校出身者のうち、一部の例外をのぞき特攻隊員となったのは、昭和13(1938)年に入校、昭和18(1943)年に飛行学生を卒業した69期生から、昭和16(1941)年に入校、昭和20(1945)年に飛行学生を卒業した73期生までで、その間に養成された飛行機搭乗員は1406名。うち795名が戦死している。
戦死率は56.5パーセント。いっぽう、特攻作戦の主力になった予備学生13期、14期、予備生徒1期の搭乗員は合わせて8673名にのぼり、うち戦没者は2192名。戦死率25.2パーセント。
つまり、海兵69〜73期と、予備学生13期、14期、予備生徒1期の搭乗員を比べると、総人数比で86パーセントを占める予備士官、少尉候補生が、特攻戦没士官の85パーセントを占めるのは、単に人数比によるものと見た方が妥当である。
総戦没者数に対する特攻戦死者数の割合は、海兵が15.2パーセント、予備士官、少尉候補生は29.6パーセントだが、これも、特攻作戦開始以前に戦没した海兵出身士官の人数287名を除くと、海兵の数字は23.8パーセントとなり、「特攻に出さず温存されていた」と言われるほどの差は出てこない。沖縄作戦に投入された海軍機はのべ7878機、うち特攻機はのべ1868機で、出撃機数に対する特攻機の割合は23.7パーセントだから、それとほぼ同じ数字である。
士官と下士官兵搭乗員の、特攻戦没者の人数比も同様に説明がつく。「軍隊=身内をかばう悪しき組織」とした方が、特攻を批判するには都合がよいのはわかるけれど、母数を無視するのはフェアな態度ではない。
「十死零生」の特攻隊と、生きて何度でも戦うほかの部隊とで、隊員の精神状態を比較することはむずかしい。だが、単純に部隊の戦死率を比較すると、意外な数字が出てくる。
たとえば、昭和17(1942)年から18(1943)年にかけ、ラバウルで戦った第二〇四海軍航空隊の、18年6月までに配属された零戦搭乗員101名の消息を追ってみると、76名がそこから出ることなく戦死し、残る25名のうち、13名がその後の戦いで戦死。生きて終戦を迎えたのは12名のみである。ラバウルでの戦死率はじつに75パーセント、終戦までの戦死率は88パーセントにのぼる。
それに対して、昭和20(1945)年2月5日、沖縄戦に備え、特攻専門部隊として台湾で編成された第二〇五海軍航空隊は、103名の搭乗員全員が、志願ではなく「特攻大義隊員を命ず」との辞令で特攻隊員となったが、終戦までの戦死者は35名で、戦死率は34パーセントである。
さらに、二〇五空と同じ時期、昭和20年4月から終戦まで九州、沖縄上空で戦った戦闘三〇三飛行隊は、特攻隊ではないが、89名の搭乗員のうち38名が敵機との空戦で戦死、戦死率は43パーセントにのぼっている。戦闘三〇三飛行隊長は、「特攻反対」を貫いた岡嶋清熊少佐である。
――数字だけで語れるものではないことは承知している。だが、沖縄へ特攻出撃を繰り返した特攻専門部隊より、通常の部隊の方が戦死率が高かったという、一面の事実がここにはある。
特攻出撃で、一度の出撃で戦死した隊員も多いが、たいていは数時間前の索敵機の情報をもとにしたり、自ら敵艦隊を探しながらの出撃となるので、4回や5回、出撃して生還した隊員はいくらでもいる。そもそも、特攻作戦最初の、関大尉率いる「敷島隊」からして、4度めの出撃で敵艦隊に突入したものだ。
いっぽう、特攻隊以外の航空隊について、零戦搭乗員の戦友会であった「零戦搭乗員会」が調査したところ、「搭乗員が第一線に出てから戦死するまでの平均出撃回数8回、平均生存期間は3ヵ月」だったという。初陣で戦死した搭乗員も多かった。開戦劈頭の真珠湾攻撃に参加した搭乗員も、終戦までに80パーセント以上が戦没している。何度も出撃し、戦果を挙げて生きて還ることのできる搭乗員は、実際には稀だったと言っていい。
ここまで冷徹な数字が並んでは、どちらが人道的だとか酷いとか、議論しても始まらないように思える。歴戦の搭乗員である角田和男さんが、特攻に直面し、「もうこうなったらやむを得ない」と納得してしまうのも、こんな素地があったからこそなのだ。
■特攻は味方より敵の戦死者が多い稀な戦果を挙げた
では、特攻隊が挙げた「戦果」をどう評するべきだろうか。この点、日本側の記録にも不備があり、戦後長い間、連合軍側の情報も限られていたことから、ややもすれば過少に見積もられていた。
連合軍側の死傷者数にも諸説あるが、米軍の公式記録などから、航空特攻によるとおぼしき戦果を拾い上げると、撃沈55隻、撃破(廃艦になった23隻をふくむ)198隻、死者8064名、負傷者10708名にのぼる。日本側の特攻戦死者は、「(公財)特攻隊戦没者慰霊顕彰会」によると、海軍2531名、陸軍1417名、計3948名である。
これをどのように捉えるか。
「敵艦一隻を沈めるのに70名以上が犠牲になった」「巡洋艦以上の大型艦が一隻も沈んでいない」「隻数ではなく総トン数で表すべき」との識者の声もあるが、これらの意見についても、「海兵出を温存していた」説と同様の偏りがみられる。
特攻隊編成以前、日本の航空部隊が、巡洋艦以上の大型艦を撃沈したのは、昭和18(1943)年1月30日、ソロモン諸島レンネル島沖で、陸攻隊が米重巡「シカゴ」を撃沈したのが最後である。特攻隊編成後(ただし最初の突入前日)の昭和19(1944)年10月24日、艦上爆撃機「彗星」が、米空母「プリンストン」に急降下爆撃で命中弾を与え、撃沈しているが、昭和18年、ソロモン諸島をめぐる戦い以降の、日本のどの航空作戦よりも大きな戦果を挙げたのが、ほかならぬ特攻だった。
日本海軍機動部隊が米海軍機動部隊と互角以上にわたりあった最後の戦い、昭和17(1942)年10月26日の「南太平洋海戦」では、米空母「ホーネット」、駆逐艦一隻を撃沈、ほか四隻に損傷を与えた。日本側の沈没艦はなく、損傷四隻、搭乗員の戦死者148名、艦船乗組員の戦死者約300名。
「敵艦を〇隻沈めるのに〇人が犠牲になった」という論法にたてば、このときも、敵艦一隻を沈めるために特攻と同様、70数名の搭乗員が戦死している。米軍戦死者は航空機、艦船あわせて266名だから、沈没艦こそ出なかったものの、人的損失は日本側の方が多かった。
それが、特攻作戦では、結果論とはいえ、死者数だけをとっても、敵に特攻戦死者の二倍以上の損失を与えている。特攻だけに気をとられていると気づきにくいことだが、味方が失った人命より敵の死者の方が多いという例は、太平洋戦争においては稀である。
現代の日本人が感情的に受け入れがたいのは承知であえて言うと、戦闘の目的は、より多くの敵の将兵を殺傷し、敵の戦闘力を弱体化すること。そう捉えれば、特攻隊の挙げた戦果はけっして小さなものではなかった。
また、最初の特攻隊の目的が「敵空母の飛行甲板を破壊」することだったように、そもそも大型艦を250キロや500キロ爆弾を積んだ飛行機の体当たりだけで撃沈できるとは、特攻作戦の渦中にいた者でさえ思っていない。沈まないまでも戦列を離れさせればよかったわけで、「撃沈した艦船の総トン数」で戦果を評価するのは、当時の実情とは大きくズレた見方と言える。
特攻隊員を、「特攻兵」や「兵士」と呼ぶのも正しくない。陸海軍の階級は、下から兵、下士官、准士官、士官(尉官、佐官、将官)となり、下士官以上は「兵士」ではないからだ。元軍人の多くが存命だった20年前なら、うっかりこのような表記をすれば当事者から注意を受けたものだが、いまやチェックする人もほとんどいなくなってしまった。
ではどう呼ぶか。「特攻隊員」、「将兵」である。「士官」であれば、たとえ任官したばかりの若い少尉でも「将」であって「兵」ではない。これらを「兵士」と一括りにするのは、警察官に例えると、巡査部長も警部補も警部も警視もみな「巡査」と呼ぶのに等しい、かなり乱暴なことである。
昨今の「兵士」という言葉の使われ方からは、「搾取する側(上層部)」と「搾取される側」をことさらに分けようとする、プロレタリアートな階級史観の匂いが感じられる。だが、「上層部」はつねに愚かで無能、「兵士」はその被害者、と雑に分けてしまうと、責任の所在がかえって曖昧になってしまうのではないか。
■「俺は死ぬ係じゃないから」
「上層部」や「司令部」を批判し、糾弾するのは簡単だし、俗耳にも入りやすい。陸海軍は73年前に消滅しているから、いくら悪口を言っても身に危険が及ぶ心配もない。しかし、「上層部」や「司令部」の「誰が」「どのように」命令をくだしたかまで掘り下げなければ、いつまでも批判の矛先が曖昧模糊としたままで終わってしまう。
海軍の特攻でいえば、その方針を最初に決めた軍令部第一部長(作戦担当)・中澤佑少将(のち中将)、第二部長(軍備担当)・黒島亀人大佐(のち少将)の存在は、もっと注目されてよい。昭和19(1944)年4月4日、黒島大佐は中澤少将に、人間魚雷(のちの「回天」)をふくむ各種特攻兵器の開発を提案、軍令部はこの案を基に、特攻兵器を開発するよう海軍省に要請した。
8月には人間爆弾(のちの「桜花」)の開発もはじまり、9月、海軍省は軍令部からの要望を受けて「海軍特攻部」を新設している。「回天」も「桜花」も、もとは現場の隊員の発案によるものだが、中澤、黒島の二人が同意しなければ、形になることはおそらくなかった。
中澤は、「策士」「切れ者」と評されるが、自ら主導したマリアナ沖海戦の大敗に見るように、作戦家としての能力には疑問符がつく。大西瀧治郎中将が日本を発つ前、東京・霞が関の軍令部を訪ね、「必要とあらば航空機による体当たり攻撃をかける」ことを軍令部総長・及川古志郎大将に上申し、認められたという、よく知られた話がある。
及川は、「ただし、けっして命令ではやらないように」と条件をつけたと伝えられる。だが、このことを、その場にいたかのように書き残した中澤は、実際にはその日、台湾に出張していて不在だったことがのちに判明している。
黒島は、昭和16(1941)年、聯合艦隊司令長官・山本五十六大将の腹心として、真珠湾攻撃作戦を事実上立案したことで知られるが、昭和17(1943)年、ミッドウェー海戦敗戦の責任の一端は彼にもある。この黒島が、特攻兵器の開発を中澤に提案した。
では、戦場の「上層部」はどうだったか。フィリピンで、大西中将の第一航空艦隊に続いて、福留繁中将率いる第二航空艦隊からも特攻を出すことになり、大西、福留両中将が一緒に特攻隊員を送り出したことがある。このときの特攻隊の生還者のなかには、
「大西中将と福留中将では、握手のときの手の握り方が全然違った。大西中将はじっと目を見て、頼んだぞと。それに対して福留中将は、握手もおざなりで、隊員と目を合わさないんですから」
という声がある(このシーンは現在、NHKのWebサイト、「戦争証言アーカイブス」の「日本ニュース」第241号―昭和20(1945)年1月―で見ることができる)。当事者ならではの実感のこもった感想だろう。昭和20年5月、軍令部次長に転じた大西中将は、最後まで徹底抗戦を呼号し、戦争終結を告げる天皇の玉音放送が流れた翌8月16日未明、渋谷南平台の官舎で割腹して果てた。
特攻で死なせた部下たちのことを思い、なるべく長く苦しんで死ぬようにと介錯を断っての最期だった。遺書には、特攻隊を指揮し、戦争継続を主張していた人物とは思えない冷静な筆致で、軽挙を戒め、若い世代に後事を託し、世界平和を願う言葉が書かれていた。
大西の最期については、多くの若者に「死」を命じたのだからという醒めた見方もあるだろう。しかし、特攻を命じ、生きながらえた将官に、大西のような責任の取り方をした者は一人もいなかった。
中澤佑少将は、台湾の高雄警備府参謀長に転出し、台湾から沖縄へ出撃する特攻作戦を指揮した。その中澤(終戦後、中将に進級)が、大西の自刃を聞き、
「俺は死ぬ係じゃないから」
と言い放ったのを、大西中将が軍令部に転じたのちも台湾に残った副官・門司親徳さんが耳にしている。門司さんは、
「大西中将は、『俺もあとから行くぞ』とか『お前たちだけを死なせはしない』といった、うわべだけの言葉を口にすることはけっしてなかった。しかし、特攻隊員の一人一人をじっと見つめて手を握る姿は、その人と一緒に自分も死ぬのだ、と決意しているかのようでした。
長官は一回一回自分も死にながら、特攻隊を送り出してたんだろうと思います。自刃したのは、特攻を命じた指揮官として当たり前の身の処し方だったのかもしれない。でも、その当たり前のことがなかなかできないものなんですね」
と回想する。
戦後、昭和21(1946)年から平成17(2005)年まで、特攻隊が最初に突入した10月25日に合わせ、東京・芝の寺にかつての軍令部総長や司令長官、司令部職員や元特攻隊員が集まり、「神風忌」と称する慰霊法要が営まれていた。
参列者の芳名帳には、及川古志郎、福留繁、寺岡謹平をはじめ、特攻に関わった「上層部」の指揮官たちの名前が、それぞれ生を終える直前まで残され、良心の呵責を垣間見ることができる。だが、中澤佑、黒島亀人という、最初に「特攻」を採用したはずの軍令部第一部長、第二部長の名はそこにはない。
■無駄死にではなかったことの根拠
特攻作戦を実行するとき、大西瀧治郎中将が、腹心の参謀長・小田原俊彦大佐に語った「特攻の真意」が、前出の元特攻隊員・角田和男さんを通じて残っている。大西中将は昭和9年、角田さんが予科練に入隊したときの教頭、小田原大佐は昭和16年、角田氏に計器飛行を一から教えた飛行長で、いずれも浅からぬ縁のある上官だった。
小田原大佐はその後、戦死したが、特攻出撃を控えた角田さんに、
「教え子が、妻子をも捨てて特攻をかけてくれようというのに、黙って見ていることはできない」
と、大西中将から「他言無用」と言われていたというその真意を話してくれたのだ。それは、要約すれば、特攻は「敵に本土上陸を許せば、未来永劫日本は滅びる。特攻は、フィリピンを最後の戦場にし、天皇陛下に戦争終結のご聖断を仰ぎ、講和を結ぶための最後の手段である」というものだった。
しかもこのことは、海軍砲術学校教頭で、昭和天皇の弟宮として大きな影響力を持つ海軍大佐・高松宮宣仁親王、米内光政海軍大臣の内諾を得ていたという。つまりこれは、表に出さざる「海軍の総意」だったとみて差し支えない。
角田さんは戦後、戦没者の慰霊行脚を続けながら、慰霊祭で再会した門司親徳さんとともに、大西中将の真意の検証を続け、ついに最初の特攻隊編成に立ち会った第一航空艦隊麾下の第二十六航空戦隊参謀・吉岡忠一元中佐と、大西中将夫人・淑惠さんから、間違いないとの証言を得た。
特攻隊員たちの死を「無駄死に」であったとする論評もあるが、それは戦争の大きな流れを無視した近視眼的な見方によるものだ。
「フィリピンを最後の戦場に」という大西の(つまり海軍の)思いは叶わなかったが、和平を促す「ポツダム宣言」が連合国側から出されたこと、日本が、それを多数決でなく「天皇の聖断」という形で受諾したことは、日本本土を敵の上陸から救い、「和平派」と「抗戦派」との間で起こりかねなかった内乱も防ぎ、多くの国民に復興と平和をもたらした。若者たちが、命を捨てて戦ったからこそ、瀬戸際で講和のチャンスが訪れ、日本は滅亡の淵から甦ることができた。
――ただし、それは、あの無謀な戦争を防ぐことができたなら、払う必要のなかった大きすぎる犠牲であったことは確かである。
戦没者に「無名戦士」などいない。一人一人に名前があり人生があり、家族があり、もしかしたら恋人もいたかもしれない。そんな一人一人がもし命永らえていたら、どれほどのことを成し遂げたかを思えばなおのこと、戦争の惨禍は想像を絶する。
日本を、あの無謀な戦争に導いた為政者や陸海軍上層部、それを煽り続けたマスメディアの責任、そして戦争に一時は熱狂して後押しした国民の姿は、「政府が」とか「世間が」という漠然とした議論ではなく、「どこの誰が、どうした」というところまで、これからも掘り下げていかねばならないだろう。
過ちを繰り返さないために、反省することは大切だ。しかしその反省は、あくまで「事実」に基づいたものではならない。現代の高みから感情的に特攻隊員を無駄死に呼ばわりしたり、逆に美化したりするところからは、教訓など生まれてこない。
「われわれは英雄でも、かわいそうな犠牲者でもない。ただ自分の生きた時代を懸命に生きただけ。どうか特攻隊員を憐憫の目で見ないでほしい」
――数年前に亡くなった、学徒出身のある元特攻隊員が遺した言葉である。
 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
紫式部の大和魂 

 

 
紫式部の大和魂

 

紫式部の大和魂 1
「大和魂」 という言葉が文学の上で一番さきに出て来るのは、『源氏物語』 で、それ以前にはありません。
源氏の息子の夕霧が大学へ入ります。
あの頃は大臣の息子なら、大学などへ入らなくても、出世はきまっていた。だから、大学へなど入らなくてもよいという反対も随分あった。
その時源氏が 「才(ざえ)を本(もと)としてこそ、大和魂の世に用ひらるる方も、強う侍(はべ)らめ」 と言うのです。
「才」 とは学問ということです。大和魂をこの世でよく働かせる為には、やはり根底に学問がある方がよろしかろうというのです。
「大和魂」 と 「才」 とは対立するのです。大和魂とは学問ではなく、もっと生活的な知恵を言うのです。
 『源氏物語』 より大分あとになりますが、『今昔物語』 にも 「大和魂」 という言葉が使われています。
或る博士の家に泥棒が入り、家の物を全部取って逃げてしまった。
博士は床下に隠れてのぞいていたのですが、余りに口惜しいので、泥棒に向って 「貴様らの顔はみんな見た。夜が明けたらすぐ警察へ届けるから覚えていろ」 と大きな声でどなった。
そうしたら、泥棒たちは引き返して来て、博士を殺してしまった。
そういう話があって、『今昔物語』 の作者は、こういう批評を下していうのです。
「才はめでたかりけれども、つゆ大和魂なかりける者にて、かかる心幼き事をいひて死ぬるなり」 と。
学識がある事と、大和魂を持つことは違うのです。今の言葉でいうと、生きた知恵、常識を持つことが、大和魂があるということなのです。
紫式部の大和魂 2
オリンピックの時とか、ワールドカップの日本人のサポーターとか見ていると、応援の一環で、 たまに(いやしょっちゅうか) 鉢巻をしている人がテレビの画面に映ったりします。
で、その鉢巻の中に「大和魂」って書いてある鉢巻を見たりすることがあります。
おそらくみなさんも大和魂の鉢巻をしている人を見たことがあるんじゃないでしょうか。
ところで質問なのですが、大和魂の言葉の意味、知ってます?
武士道とか、日本人の持つ不屈の精神とか闘争心とか根性とかああいう精神を表現したような意味のように思っていませんか?
そう思っているのであればそれは間違いです。それは大和魂の意味ではありません。
そもそもが大和魂という言葉で一番古い記述はいまのところ誰か書いたものか知ってます?
紫式部さんなんですよ。源氏物語の中にその大和魂が出てきます。
式部さんは光源氏に「才を本にしてこそ大和魂の世に用いらるる方も強うはべらめ」と言わせました。 
大和魂をこの世でよく働かせるためには学問があったほうがよろしいでしょう。」ということです。
みなさんのよく知っている逸話に枕草子を書いた清少納言と紫式部は非常に仲が悪かった、という話がありますよね。
紫式部日記に清少納言のことを「ちょっとくらい漢字を知ってるからと言って得意げにあちこちでワーワー喋り捲って、自分が教養があるのをやたら誇示しまくっていけ好かない女だわ。」と書いてあります。
で、そういう清少納言のように漢字を知って漢籍の(中国の詩文)読めるような教養を漢才(からざえ)と言いました。
それに対して、そうした中国のものでもなく、加えて学問でもなくて、ちょうどその180度対角線上にあるような日本人としての生活の知恵とか心遣いのこと を式部さんは大和魂と呼んだのです。
そういう生活上の知恵があるとか、細かな心配りができる人間になるためにはまずその人に学問とか教養というようなものがきちんとあってその上にはじめて成り立つものだから「大和魂を働かせるためには学問があったほうがよい」と紫式部さんは言ったわけです。
繰り返しますが大和魂とは決して日本人が持つ根性とか不屈の精神というような意味なんかではありません。言ってみれば生活の上での気配りとか生活の知恵のようなもののことを大和魂、と言ったのです。大和魂とはそういう意味です。
謙譲の精神とか、相手に対する心配りのようなものなのであって闘争心とか根性とかそういうようなものとは全然違うものです。
ひょっとしたら一番スポーツなんかとは縁遠い言葉かもしれません。
大体が大和魂、という言葉の用例も、そういうふうに最初、紫式部とか今昔物語といった中古文学(平安時代の文学)で遣われた後、とんと用例がなくなってしまいます。
中世には大和魂という言葉は出てきません。それからずいぶんが経過して江戸時代ですから近世になって再び用例が出てきます。
それでもまだ、近世の大和魂は、中古の意味を持っていたのですが、、。それでもあの時代は武士道、というものがありましたからそれと結びついて少しずつ意味が変わってきていたのでしょう。
それがはっきりと大和魂の意味が変わったのは江戸期に国学があって少しずつ変化をしていたのが明治になってから近代国家になっていく過程で富国強兵政策をとるようになってから一気に変化をしたのだと思います。
だから本当の大和魂というのは最近のことでいえば、ワールドカップの試合後に自分たちのいた観客席のゴミの清掃をして世界中から称賛されたあの行為とかおもてなしの心とか、ああいうようなもののことを指すのです。
よく漢字の意味を知らない外国人が、日本人から見て理解不能な熟語のTシャツを着ていたり、意味不明な四文字熟語をタトゥしている人のことを日本人が変だ、って面白がっている記事を見かけますが、、。
でもね、ネイティブな日本人だって大和魂の意味でさえ結構誤解しているような人がすごく多いので、外国人のことは言えないんじゃない?って思ったりするんですけれども。
「源氏物語」と大和魂 3
「才を本としてこそ大和魂の世に用ひらるる方も侍らめ」と紫式部はその著『源氏物語』乙女の巻の中で<大和魂>という用語を用いている。
歴史学者の上田正昭さんは“日本の古典でもっとも早く大和魂について述べている”と指摘している。
ここで用いられる<大和魂>とは“日本人の教養や判断力を指しての大和魂”であると述べ、“「才」とは「漢才」のことで文学者である紫式部は漢詩・漢文学を内容とする「漢才」を意味した。私なりにいえば、漢才すなわち海外からの渡来の文化をベースにしてこそ、大和魂がより強く世の中に作用してゆく”と解説している。
「日本人の教養や判断力」この“まことの「大和魂」をいまのわれわれは失念してしまったのではないか”と述べているのは興味深い。
「和魂漢才」 その意味“権力者のみずからを守るためのたわごとに惑わされてはならない”、何度読み返しても尽きることはない。
大和魂とは 4
大和魂は、近年というか、戦前の軍事教育に代表されるように、「決してあきらめない」とか、「自らの命を張って国を護る」精神の象徴のように表現されてきた。
しかし、「大和魂」と言う言葉が、我が国の最初に登場した文献としては、源氏物語の「少女」の帖になる。太政大臣の娘、葵の上と光源氏の子供である夕霧が元服の儀を行い、いざ官位の設定を行うにあたり、父源氏をはじめとして世間の大方は「四位から」と考えたが、父源氏が考え直してしまった。
「夕霧はまだ弱年なのに、いくら自分(光源氏)の思いのままになる世の中だからといって、いきなりそうした高い位を与えたりするのも、かえってありふれたことになる」として、思いとどまり、「六位」を与えたのである。
源氏としては、
「権勢におもねる世間の人から、内心では鼻であしらわれつつ、表面では追従されて、ご機嫌をうかがわれながら付き従われているうちに、自分自身は知らず知らず尊大となってしまう(本来の実力もないのに)」
「時勢が変わり、後ろ盾もいなくなると、運勢も落ち目になることが多い」
「それだから、学問を基本として、(大和魂)実務の才を磨き、世間から自然に重んぜられることが、やがては国家の柱石となるような心構えが大切」という理屈である。
この中で表現されるのは、大和魂とは、「知恵とか実務」の力になり、これこそが本来の意味になる。
これに対して「漢才」は、大唐伝来の「知識」になる。
つまり、源氏(作者紫式部)の意識としては、大唐からの知識以上に、我が国の実情にあうような知恵や才覚を意識していたと思われる。
尚、現在、「天神さま」として名高い菅原道真は「漢才」の典型的な人物、菅原道真を「追放した」とされる藤原時平は「大和魂」の持ち主であったと言われている。
歴史というか民間伝承上は、評価は逆転してしまったが、実際は「漢才」に優れるがゆえに、優柔不断な道真と、応用力抜群で度胸もあり、臨機応変の時平の関係だったらしい。
紫式部の人物設定の中に、この関係の掌握があったのか、それは計り知れないけれど。
 
紫式部・諸話

 

紫式部の学問観
紫式部の学問観は、「少女」の巻で大学教育を夕霧に受けさせた条によく述べられています。夕霧が十二歳になり元服するとき、親王の子は四位に、一世の源氏の息は五位に叙する慣例を破り、六位に叙して、浅黄(うす緑)の袍(ほう)で、もと殿上童でしたから、再び殿上の間に出仕できる、還(かえり)昇殿をするということにしたのです。そうしたのは、大学での学問を学ばせるためです。
源氏は二条の東院に大学寮の博士や教官を招き、字(あざな)を付ける儀式や入学式を行ない、『孝経』や『論語』『史記』以下の漢籍を学ばせます。聡明で努力家の夕霧は、大学寮での寮試に合格して、擬文章生となり、翌春には式部省の課試をとき、文章生(進士)となり、秋には晴れて五位(紅色)に叙せられ、侍従に任命されます。
当時の貴族の子弟は元服の折、なんなく四位・五位を授けられるのですから、苦労して学問などする者はほとんどおりませんでした。源氏自身も父の桐壺帝から習ったものの、根本から学習したわけではないと謙遜しています。そして「はかなき(学問のない頼りない)親に賢き子のまさる例は」めったになく、それが子々孫々につづいていけば、将来は心細い状態になってしまうだろうと心配します。
つぎに、気ままに遊んで、思いのままの官職位を授けられて昇進しても、権勢におもねる人々は、内心鼻であしらいながらも、お追従を言います。しかし時勢が移って、頼っていた人が亡くなったりすると、人から軽んぜられても、学問のない悲しさ、なんの対応もとれずに没落すると語っていますが、これは当時の貴族社会の人々の怠慢さへの紫式部の痛烈な批判であるといえます。
結論として、式部は「才をもとしてこそ大和魂の世に用いらる方も強う侍らめ」と述べています。才は漢才(学問)で、大和魂はその学問をもとに発揮する実務の才を言います。学問があるからこそその実務の才が世間から重んじられると言っているのです。
源氏物語の「もののあはれ」
よく『源氏物語』は「あはれ」の文学であり、『枕草子』は「をかし」の文学であると言われます。「をかし」は動詞「招(を)き」の形容詞形。好意をもって招き寄せたい気がするの意が原義。招き寄せたい、興味が引かれて面白い、美しくて心が引かれる、かわいらしい等々の意味になります。実は『源氏物語』の「をかし」の用例の方が『枕草子』の用例数より多いのですが、『枕草子』は『源氏物語』の五分の一ほどの頁数ゆえに、「をかし」の出て来る頻度が大きいので、「をかし」の文学とも称されるわけです。
「あはれ」は本居宣長の『源氏物語玉の小櫛』に、「『あはれ』といふは、もと見るもの聞くもの触るる事に心の感じて出づる嘆息(なげき)の声にて、今の俗言(よのことば)にも、『ああ』といひ、『はれ』といふ、これなり」とあるように、感動詞「あ」と「はれ」との複合した語です。その原義は広く喜怒哀楽すべてにわたる感動を意味しました。平安時代以後は、多く悲しみやしみじみした情感、あるいは仏の慈悲なども表すようになりました。なお、「もののあはれ」の「もの」は広く漠然というときに、その語の上に添えることばで、「もののあはれ」といっても本質的には「あはれ」と同じことだと宣長は説いています。
『源氏物語』には「もののあはれ」の情調が至るところにあふれています。自然描写といい、人事描写といい、文章や和歌の表現といい、どこを取り上げても感動しないというところはありません。「(ものの)あはれ」の文学といわれるゆえんです。
源氏物語にあらわれた宿世観
「宿世(すくせ)」とは、過去の世を意味し、転じて宿世の因縁の意に用います。つまりこの世の事実はすでに生まれる前において運命づけられているものだとする思想です。過去の因は現在の果となり、それはまた当然未来にも及ぶものと考えられたわけです。
『源氏物語』には、全編にわたって、この「宿世」の語が六八回、「御宿世」が四六回、それに「宿世宿世」他が七回、合計一一九回も使用されています。(『源氏物語大成』索引篇による)。 女が男を恨んで姿を隠したものの、「宿世浅からで、尼にもなさで、(男が女を)尋ね取りたらむも」(帚木)とあるのは、トラブルがあっても、男女が別れずにすんだのは、前世からそう定められていたからだと言うのです。
夕顔の四十九日の法事を比叡山の法華堂で源氏が誰の法事とも明かさずに催したところ、僧侶たちは、「かう思(おぼ)し嘆かすばかりなりけむ宿世の高さ」と言ったとあります(夕顔)。源氏をこれほどまでに嘆かせるのも、前世の因縁がとりわけ高かったのであろう、つまりこの故人(=夕顔)と源氏とのこうなるはずの前世からの因縁が、とりわけ深かったのであろうと、僧侶たちは言っているのです。
「若紫」巻の明石入道の噂が話題になっているところで、「『その心ざし遂げず、この思ひ置きつる宿世違はば、海に入りね』と常に(娘に)遺言し置きて侍るなる」とあるのは、入道が娘に自分のかねて思い定めた運命のとおりにならなかったら、海に投身せよと言っているのです。そう入道が考えたのも、これすべて前世からこうなるべく定められていたからなのです。
これらの例を通してわかることは、この世における事実が痛切で、人間の考えではとうてい理解できないような場合には、そのもとは前世によってもう決まっていたという宿世観で乗り切ることになります。強引に男が女と契りを結んだような場合、「これも宿世なめり」ということになって、男は自分の行為を宿世だといって女を説得し、逆に女もこうなったのは前世から定められていた宿世なのだと、あきらめるのです。
したがって「宿世観」によれば困難な状況も、人知の及ばぬ前世の因縁によるものだとして、そう深刻にはならぬという長所があります。一方、困難な問題・状況を真剣に考えることもなく、無反省になるという短所もあるということになります。王朝貴族の決断力のなさや無分別な行動をとる向きもあるのは、こういう宿世観が信じられていたからなのです。
紫式部の生涯
紫式部は円融天皇の天延元年(973)に生まれました。父は式部丞藤原為時、母は常陸介藤原為信の娘です。父方も母方も式部が生まれた当時は、いわゆる受領階級で、中流貴族の家柄でありました。姉と弟惟規のほか、異母弟二人と異母妹一人がおります。
式部は幼時より聡明で、父為時が弟の惟規に漢詩文を教えていた時、傍で聞いていて、惟規よりも早く覚えたので、「そなたが男の子だったらな」と、父を嘆かせたと『紫式部日記』に記されています。
母は早世したようですが、一条天皇の長徳二年(996)父為時が越前守に任じられ、式部も弟惟規とともに同行。福井県武生(たけふ)の国司館に居住。その間親戚でもあり、また父の以前の役所の上役でもあった左衛門権佐藤原宣孝(のぶたか)から求婚を受け、長保元年(999)上京して結婚。このとき式部は27歳、宣孝は48歳でした。
この年一人娘の賢子(大弐三位〈だいにのさんみ〉)が生まれましたが、同三年(1001)宣孝が病死。そのころから『源氏物語』を執筆。式部の才能が認められて、寛弘二年(1005)十二月鷹司殿倫子(左大臣藤原道長室)の要請で一条天皇中宮彰子(あきこ)に出仕しました。女房名は藤式部(とうしきぶ)。
寛弘五年(1008)十一月一日の敦成(あつなり)親王御五十日(いか)の賀宴で、当時の文壇の大御所の左衛門督藤原公任(きんとう)から「若紫やさぶらふ」と声をかけられ、これがきっかけで、のちには紫式部と呼ばれることになりました。翌六年『源氏物語』五十四帖完成。同七年(1010)には『紫式部日記』を、長和二年(1013)には『紫式部集』を著わしました。
長和三年(1014)清水寺に参詣して皇太后宮彰子の病気平癒の灯明を献上。同年二月42歳の生涯を終えました。
紫式部の名の由来
『源氏物語』の作者とされる紫式部の呼称は、実は彼女が長和三年(1014)に亡くなって、その後『源氏物語』が広く世間に知られるようになってからのニックネームです。彼女自身は自分が紫式部と呼ばれたことは知らなかったのです。
紫式部は一条天皇の寛弘二年(1005)十二月二十九日に、彰子中宮の許に出仕したのですが、そのときの女房名は、藤式部と称されました。これは父藤原為時が花山朝(984‐86在位)で蔵人式部丞の任にあったので、その姓と官職名をふまえて、藤式部と呼ばれたのです。
『源氏物語』より百年近くあとに成立した『栄花物語』には紫式部として登場します。この紫式部の呼称の由来は、寛弘五年(1008)十一月一日の後一条天皇生誕五十(いか)日の儀の饗宴の席上で、当時の文壇の指導者であった藤原公任が式部に「わか紫やさぶらふ」と話しかけた事実にもとづいたものと思われます(『紫式部日記』参照)。ヒロイン紫の上の物語の作者として、紫式部の呼称はふさわしいものとされ、時代とともに知られていったのでしょう。
なお、紫式部の本名はわかっておりません。当時の風習として、結婚以前は為時の大君とか中の君・三の君などと呼ばれていたことでしょう。紫式部には早世した姉がいたとされます。成人式のときに披露された名前は、当時の慣例で父の為時の字をもらって、長女が為子、二女の式部は時子といわれた可能性はあります。
紫式部の教養
村上天皇の宣耀殿女御芳子(―967)は姫君のとき、父の小一条左大臣師尹(もろただ)から、「一つには御手を習ひ給へ。つぎには琴(きん)の御琴をいかで人に弾きまさらむと思せ。さて『古今』の歌二十巻を皆うかべさせ給はむを御学問にはせさせ給へ」と言われたといいます(『枕草子』)。当時の姫君は、書道と音楽と和歌をマスターすることが教養の基本であったことがわかります。
『源氏物語』でもこの三つが教養の基本であったことは明白ですが、女性の場合、裁縫や染色の技術なども重視されています。「帚木」巻の雨夜の品定めに登場する左馬頭の妻であった指食い女は、染色は秋の女神の立田姫に、裁縫は七夕の織姫にもたとえられるほどの上手であったと称えられています。
紫式部も自室で、「内匠(たくみ)の蔵人は長押(なげし)の下にゐて、あてきが縫ふものの、かさね・ひねりなど、つくづくとしゐたるに」(『日記』寛弘五年十二月条)と記していることから推しても、裁縫には相当自信があったことでしょう。
管絃(音楽)の場面は『源氏物語』の至る所に記されていますが、『紫式部集』には知人から「参りて、御手より得む」と、筝の琴の教授を依頼されたことが記されています。彼女の演奏の腕前が想像されます。
式部の和歌の実力が抜群であったことは、『後拾遺集』以下の勅撰集に六十一首も採られており、『源氏物語』中の約八百首も含めて、千首近くの詠草が残されている事実によっても証明されます。和泉式部を「まことの歌よみざまにこそ侍らざめれ」と評し、赤染衛門を「われかしこげに思ひたる人」とも評しています。
紫式部は囲碁や漢詩文にもすぐれていました。あの高名の清少納言を「真名書き散らして侍るほども、よく見れば、まだいとたへぬこと多かり」と批判しています。漢詩文に断然自信のあったことがよくわかります 。
紫式部と藤原道長
紫式部は寛弘二年(1005)十二月二十九日に、時の権力者左大臣藤原道長の長女の一条天皇中宮彰子に出仕しました。もっとも厳密にいうと、道長の北の方の鷹司殿倫子家の女房として迎えられ、中宮彰子の女房として仕えたのです。
『紫式部日記』寛弘六年(1009)夏条によると、式部が渡殿の局に寝た夜、一晩中道長に戸をたたかれたけれども、「恐ろしさに、音もせで、明かした」その朝に、
「 夜もすがら水鶏(くひな)よりけになくなくぞ真木の戸口にたたきわびつる(一晩中水鶏にもまして泣く泣く真木の戸口をたたきあぐねたことだ) 」
返し
「 ただならじとばかりたたく水鶏ゆゑあけてはいかにくやしからまし(そのままではすますまいと熱心に戸をたたく水鶏〈道長様〉のことゆえ、戸を開けたらどんなに後悔することになったでしょう) 」
という歌の贈答が行なわれています。
同じ『日記』に、式部は道長から「すきもの」と言われたり、式部の気持ちしだいで愛してあげようといった類の贈答も見えています。
さらに後世のものですが、『尊卑分脈』には、式部一家の系図が載っており、式部につけられた注記の中に「御堂関白道長妾云々」という一条があります。
そこで一部の人の説に、紫式部は道長の愛人だったというのがあるのです。ただし先述の『紫式部日記』には、式部が道長の求愛を受け入れたなどとは、どこにも書かれておりません。さらに『日記』寛弘五年十一月一日条に若宮の御五十日(いか)の日、酔った道長に同僚と一緒にとらえられたとき、紫式部は思わず「いとわびしく恐ろしければ」と書いているのです。この一言だけでも式部が道長を愛していたなどとは考えられないことがよくわかります 。
紫式部の墓
紫式部の墓は、四辻善成の『河海抄』(1362〜68年ごろ初稿本成立)に、
「 式部墓所ハ在雲林院。白毫院の南、小野篁ノ西也。 」
と書いてあります。現在地は下鴨神社の方から来ている北大路と、南北に通ずる堀川通りとが交差したところ、堀川の西、そこが紫式部の墓地とされています。ここはノーベル賞を受けた田中耕一博士が勤めておられる島津製作所の敷地の一角で、ここだけが京都市に寄贈され、公共の場所となっている所です。
ここには、紫式部墓と、その右側手前に小野相公(篁、802〜52)墓との二つが並んでいます。
実はこの篁はあの世に行ってからは閻魔庁の第二の冥官として、閻魔大王の側近になったとされているのです。善良な行ないをした人などが早死にすると、篁は閻魔さんに申し上げて、その人を生き返らせてくれていたと言われています。
篁がかかわったとされる寺の一つに、船岡山の西麓近くに引接寺(いんじょうじ)があって、当寺のご本尊も閻魔さんであります。しかも境内には紫式部の供養塔があります。紫式部が小野篁に関わっていることがよくわかりますね。
紫式部は人々をたぶらかす狂言綺語の『源氏物語』を書いたために地獄に堕ちたという“堕獄説”があります。一方に石山寺伝説のように、式部は観音菩薩だという説もあります。前者の堕獄説は『源氏物語』の熱烈なファンにとっては大変心配なタネとなり、遂には地獄に堕ちた式部を、冥官である小野篁に救ってもらおうということになったのです。
したがって堀川通りの側にあった紫式部の墓は、中世以降、紫式部堕獄説が盛んになってから作られたものであろうと推定されます。
それでは、紫式部のほんとうの墓はどこにあったのか? おそらく当時の風習で、式部は母方の実家の宮道(みやじ)氏の墓に入ったことでしょう。それは現在の京都市山科(やましな)の勧修寺の近隣の、宮道神社のある周辺にあっただろうと考えられます。
紫式部堕獄(だごく)説
紫式部は『源氏物語』に、むやみと浮薄でなまめかしい話を書き集めて、多くの読者を堕落させたので、地獄に堕ちて苦しんでいるという伝説です(『今鏡』参照)。平安末期から鎌倉時代にかけて盛んに説かれました。
『源氏物語』は現在でこそ世界的な名作の一編として尊重されていますが、実はこの作品は光源氏の好色物語であるという見解も、この物語の成立当初からあったのです。
たとえば『源氏物語』が全部完成した直後の寛弘六年(1009)夏ごろ、左大臣藤原道長は中宮彰子(あきこ)の前にある『源氏物語』を見て、「すきものと名にし立てれば見る人の折らで過ぐるはあらじとぞ思ふ」(そなたは好き者だと評判に立っているから、見る人が自分のものにしないで、そのまま見過すことはあるまいと思うことだ)と、紫式部によみかけています(『紫式部日記』参照)。
もちろんこれは冗談で言ったのですが、『源氏物語』が正当に評価されなかった一面を伝えています。これが平安末期以降になると、前述の堕獄説に発展するのです。
紫式部のファンたちはこの堕獄説に心を痛めました。地獄に堕ちている式部を救済しようと、『源氏一品経(いっぽんきょう)』(永万二年〈1166〉直後成立)のようなお経を作って、式部の善行を称え、『法華経』を書写して、平安な成仏を祈願しました(『宝物集』『今物語』参照)。
また閻魔(えんま)庁の役人になった小野篁(たかむら)に救ってもらうために、篁の墓の傍に紫式部の墓を作ったり(京都市北区西御所田町に所在)、篁ゆかりの千本閻魔堂に式部の供養塔を設けたりしているのです。
紫式部観音化身説
『源氏物語』のすぐれていることを強調して、女性の紫式部が一人でこんな大作品を書けるはずはない。これは観音菩薩などが、式部に変身してこの物語を書き、その教えを説いているのである。紫式部は実は観音様なのだという説です。
平安時代末期、末法思想なども流布して、仏教の信仰が盛んになった時代に考えられた説なのです。嘉応二年(1170)に書かれたことになっている『今鏡』に、紫式部が女の身で、あれほどの源氏物語を書いたのは、妙音菩薩や観音菩薩などが女性に変身して、仏法を説いて、人を導いているのだろう、と記されたのが、この説の最初です。
つづいて『無名草子』(1200年ごろ成立)に、「この『源氏』作り出(い)でたることこそ、思へど思へど、この世一つならず(前世の因縁にもよろうかと)めづらかにおぼほゆれ。まことに、仏に申し請ひたりける験(しるし)にや(仏に祈願したお蔭)とこそおぼゆれ」とあります。仏が変身したわけではありませんが、仏の力で『源氏物語』は出来たもののようです。
さらに『源氏物語』の注釈書である『河海抄』(1362年ごろ成る)にも石山寺に参籠して、観音菩薩によい物語が書けるようにとお祈りをしていたところ、十五夜の月が湖水に映って心は清澄。突如「須磨」巻の着想を得たので、仏前にあった『大船若経』の料紙を借用して、これを書いたとあります。この場合、観音様が紫式部に乗り移ったようでもあります。
紫式部を観音の化身とする考え方は、能作者によって一般化され、『源氏供養』には、「紫式部と申すは、かの石山の観世音」とあります。観音様は現世の利益(りやく)をかなえてくれるといいます。『源氏物語』を読めば、何かご利益があるようです。
 

 

 
源氏物語 「乙女」 紫式部 與謝野晶子訳

 

雁(かり)なくやつらをはなれてただ一つ初恋をする少年のごと  (晶子) 
春になって女院の御一周年が過ぎ、官人が喪服を脱いだのに続いて四月の更衣期になったから、はなやかな空気の満ち渡った初夏であったが、前斎院はなお寂しくつれづれな日を送っておいでになった。庭の桂かつらの木の若葉がたてるにおいにも若い女房たちは、宮の御在職中の加茂の院の祭りのころのことを恋しがった。源氏から、神の御禊みそぎの日もただ今はお静かでしょうという挨拶あいさつを持った使いが来た。
今日こんなことを思いました。
かけきやは川瀬の波もたちかへり君が御禊みそぎの藤ふぢのやつれを
紫の紙に書いた正しい立文たてぶみの形の手紙が藤の花の枝につけられてあった。斎院はものの少し身にしむような日でおありになって、返事をお書きになった。
藤衣きしは昨日きのふと思ふまに今日けふはみそぎの瀬にかはる世を
はかないものと思われます。
とだけ書かれてある手紙を、例のように源氏は熱心にながめていた。斎院が父宮の喪の済んでお服直しをされる時も、源氏からたいした贈り物が来た。女王にょおうはそれをお受けになることは醜いことであるというように言っておいでになったが、求婚者としての言葉が添えられていることであれば辞退もできるが、これまで長い間何かの場合に公然の進物を送り続けた源氏であって、親切からすることであるから返却のしようがないように言って女房たちは困っていた。女五にょごの宮みやのほうへもこんなふうにして始終物質的に御補助をする源氏であったから、宮は深く源氏を愛しておいでになった。
「源氏の君というと、いつも美しい少年が思われるのだけれど、こんなに大人らしい親切を見せてくださる。顔がきれいな上に心までも並みの人に違ってでき上がっているのだね」
とおほめになるのを、若い女房らは笑っていた。西の女王とお逢いになる時には、
「源氏の大臣から熱心に結婚が申し込まれていらっしゃるのだったら、いいじゃありませんかね、今はじめての話ではなし、ずっと以前からのことなのですからね、お亡なくなりになった宮様もあなたが斎院におなりになった時に、結婚がせられなくなったことで失望をなすってね、以前宮様がそれを実行しようとなすった時に、あなたの気の進まなかったことで、話をそのままにしておいたのを御後悔してお話しになることがよくありましたよ。けれどもね、宮様がそうお思い立ちになったころは左大臣家の奥さんがいられたのですからね、そうしては三の宮がお気の毒だと思召して第二の結婚をこちらでおさせにはなりにくかったのですよ。あなたと従妹いとこのその奥様が亡くなられたのだし、そうなすってもいいのにと私は思うし、一方ではまた新しく熱心にお申し込みがあるというのは、やはり前生の約束事だろうと思う」
などと古めかしい御勧告をあそばすのを、女王は苦笑して聞いておいでになった。
「お父様からもそんな強情ごうじょう者に思われてきた私なのですから、今さら源氏の大臣の声名が高いからと申して結婚をいたしますのは恥ずかしいことだと思います」
こんなふうに思いもよらぬように言っておいでになったから、宮もしまいにはお勧めにならなかった。邸やしきの人は上から下まで皆が皆そうなるのを望んでいることを女王は知って警戒しておいでになったが、源氏自身は至誠で女王を動かしうる日は待っているが、しいて力で結婚を遂げるようなことをしたくないと女王の感情を尊重していた。
故太政大臣家で生まれた源氏の若君の元服の式を上げる用意がされていて、源氏は二条の院で行なわせたく思うのであったが、祖母の宮が御覧になりたく思召すのがもっともで、そうしたことはお気の毒に思われて、やはり今までお育てになった宮の御殿でその式をした。右大将を始め伯父君おじぎみたちが皆りっぱな顕官になっていて勢力のある人たちであったから、母方の親戚からの祝品その他の贈り物もおびただしかった。かねてから京じゅうの騒ぎになるほど華美な祝い事になったのである。初めから四位にしようと源氏は思ってもいたことであったし、世間もそう見ていたが、まだきわめて小さい子を、何事も自分の意志のとおりになる時代にそんな取り計らいをするのは、俗人のすることであるという気がしてきたので、源氏は長男に四位を与えることはやめて、六位の浅葱あさぎの袍ほうを着せてしまった。大宮おおみやが言語道断のことのようにこれをお歎きになったことはお道理でお気の毒に思われた。源氏は宮に御面会をしてその問題でお話をした。
「ただ今わざわざ低い位に置いてみる必要もないようですが、私は考えていることがございまして、大学の課程を踏ませようと思うのでございます。ここ二、三年をまだ元服以前とみなしていてよかろうと存じます。朝廷の御用の勤まる人間になりますれば自然に出世はして行くことと存じます。私は宮中に育ちまして、世間知らずに御前で教養されたものでございますから、陛下おみずから師になってくだすったのですが、やはり刻苦精励を体験いたしませんでしたから、詩を作りますことにも素養の不足を感じたり、音楽をいたしますにも音ね足らずな気持ちを痛感したりいたしました。つまらぬ親にまさった子は自然に任せておきましてはできようのないことかと思います。まして孫以下になりましたなら、どうなるかと不安に思われてなりませんことから、そう計らうのでございます。貴族の子に生まれまして、官爵が思いのままに進んでまいり、自家の勢力に慢心した青年になりましては、学問などに身を苦しめたりいたしますことはきっとばかばかしいことに思われるでしょう。
遊び事の中に浸っていながら、位だけはずんずん上がるようなことがありましても、家に権勢のあります間は、心で嘲笑ちょうしょうはしながらも追従をして機嫌きげんを人がそこねまいとしてくれますから、ちょっと見はそれでりっぱにも見えましょうが、家の権力が失墜するとか、保護者に死に別れるとかしました際に、人から軽蔑けいべつされましても、なんらみずから恃たのむところのないみじめな者になります。やはり学問が第一でございます。日本魂やまとだましいをいかに活いかせて使うかは学問の根底があってできることと存じます。ただ今目前に六位しか持たないのを見まして、たよりない気はいたしましても、将来の国家の柱石たる教養を受けておきますほうが、死後までも私の安心できることかと存じます。ただ今のところは、とにかく私がいるのですから、窮迫した大学生と指さす者もなかろうと思います」
と源氏が言うのを、聞いておいでになった宮は歎息たんそくをあそばしながら、
「ごもっともなお話だと思いますがね、右大将などもあまりに変わったお好みだと不審がりますし、子供もね、残念なようで、大将や左衛門督さえもんのかみなどの息子むすこの、自分よりも低いもののように見下しておりました者の位階が皆上へ上へと進んで行きますのに、自分は浅葱あさぎの袍ほうを着ていねばならないのをつらく思うふうですからね。私はそれがかわいそうなのでした」
とお言いになる。
「大人らしく父を恨んでいるのでございますね。どうでしょう、こんな小さい人が」
源氏はかわいくてならぬと思うふうで子を見ていた。
「学問などをいたしまして、ものの理解のできるようになりましたら、その恨みも自然になくなってまいるでしょう」
と言っていた。
若君の師から字あざなをつけてもらう式は東の院ですることになって、東の院に式場としての設けがされた。高官たちは皆この式を珍しがって参会する者が多かった。博士はかせたちが晴れがましがって気おくれもしそうである。
「遠慮をせずに定きまりどおりに厳格にやってください」
と源氏から言われたので、しいて冷静な態度を見せて、借り物の衣裳いしょうの身に合わぬのも恥じずに、顔つき、声づかいに学者の衒気げんきを見せて、座にずっと並んでついたのははなはだ異様であった。若い役人などは笑いがおさえられないふうである。しかもこれは笑いやすいふうではない、落ち着いた人が酒瓶しゅへいの役に選ばれてあったのである。すべてが風変わりである。右大将、民部卿などが丁寧に杯を勧めるのを見ても作法に合わないと叱しかり散らす、
「御接待役が多すぎてよろしくない。あなたがたは今日の学界における私を知らずに朝廷へお仕えになりますか。まちがったことじゃ」
などと言うのを聞いてたまらず笑い出す人があると、
「鳴りが高い、おやめなさい。はなはだ礼に欠けた方だ、座をお退ひきなさい」
などと威おどす。大学出身の高官たちは得意そうに微笑をして、源氏の教育方針のよいことに敬服したふうを見せているのであった。ちょっと彼らの目の前で話をしても博士らは叱しかる、無礼だと言って何でもないこともとがめる。やかましく勝手気ままなことを言い放っている学者たちの顔は、夜になって灯ひがともったころからいっそう滑稽こっけいなものに見えた。まったく異様な会である。源氏は、
「自分のような規律に馴なれないだらしのない者は粗相をして叱りまわされるであろうから」
と言って、御簾みすの中に隠れて見ていた。式場の席が足りないために、あとから来て帰って行こうとする大学生のあるのを聞いて、源氏はその人々を別に釣殿つりどののほうでもてなした。贈り物もした。式が終わって退出しようとする博士と詩人をまた源氏はとどめて詩を作ることにした。高官や殿上役人もそのほうの才のある人は皆残したのである。博士たちは律の詩、源氏その他の人は絶句を作るのであった。おもしろい題を文章博士もんじょうはかせが選んだ。短夜のころであったから、夜がすっかり明けてから詩は講ぜられた。左中弁さちゅうべんが講師の役をしたのである。きれいな男の左中弁が重々しい神さびた調子で詩を読み上げるのが感じよく思われた。この人はことに深い学殖のある博士なのである。こうした大貴族の家に生まれて、栄華に戯れてもいるはずの人が蛍雪けいせつの苦を積んで学問を志すということをいろいろの譬たとえを借りて讃美さんびした作は句ごとにおもしろかった。支那しなの人に見せて批評をさせてみたいほどの詩ばかりであると言われた。源氏のはむろん傑作であった。子を思う親の情がよく現われているといって、列席者は皆涙をこぼしながら誦ずした。
それに続いてまた入学の式もあった。東の院の中に若君の勉強部屋が設けられて、まじめな学者を一人つけて源氏は学ばせた。若君は大宮の所へもあまり行かないのであった。夜も昼もおかわいがりにばかりなって、いつまでも幼児であるように宮はお扱いになるのであったから、そこでは勉学ができないであろうと源氏が認めて、学問所を別にして若君を入れたわけである。月に三度だけは大宮を御訪問申してよいと源氏は定めた。じっと学問所にこもってばかりいる苦しさに、若君は父君を恨めしく思った。ひどい、こんなに苦しまないでも出世をして世の中に重んぜられる人がないわけはなかろうと考えるのであるが、一体がまじめな性格であって、軽佻けいちょうなところのない少年であったから、よく忍んで、どうかして早く読まねばならぬ本だけは皆読んで、人並みに社会へ出て立身の道を進みたいと一所懸命になったから、四、五か月のうちに史記などという書物は読んでしまった。もう大学の試験を受けさせてもよいと源氏は思って、その前に自身の前で一度学力をためすことにした。例の伯父おじの右大将、式部大輔だゆう、左中弁などだけを招いて、家庭教師の大内記に命じて史記の中の解釈のむずかしいところの、寮試の問題に出されそうな所々を若君に読ますのであったが、若君は非常に明瞭めいりょうに難解なところを幾通りにも読んで意味を説明することができた。師の爪つめじるしは一か所もつける必要のないのを見て、人々は若君に学問をする天分の豊かに備わっていることを喜んだ。伯父の大将はまして感動して、
「父の大臣が生きていられたら」
と言って泣いていた。源氏も冷静なふうを作ろうとはしなかった。
「世間の親が愛におぼれて、子に対しては正当な判断もできなくなっているなどと私は見たこともありますが、自分のことになってみると、それは子が大人になっただけ親はぼけていくのでやむをえないことだと解釈ができます。私などはまだたいした年ではないがやはりそうなりますね」
などと言いながら涙をふいているのを見る若君の教師はうれしかった。名誉なことになったと思っているのである。大将が杯をさすともう深く酔いながら畏かしこまっている顔つきは気の毒なように痩やせていた。変人と見られている男で、学問相当な地位も得られず、後援者もなく貧しかったこの人を、源氏は見るところがあってわが子の教師に招いたのである。たちまちに源氏の庇護ひごを受ける身の上になって、若君のために生まれ変わったような幸福を得ているのである。将来はましてこの今の若君に重用されて行くことであろうと思われた。 
大学へ若君が寮試を受けに行く日は、寮門に顕官の車が無数に止まった。あらゆる廷臣が今日はここへ来ることかと思われる列席者の派手はでに並んだ所へ、人の介添えを受けながらはいって来た若君は、大学生の仲間とは見ることもできないような品のよい美しい顔をしていた。例の貧乏学生の多い席末の座につかねばならないことで、若君が迷惑そうな顔をしているのももっともに思われた。ここでもまた叱しかるもの威嚇いかくするものがあって不愉快であったが、若君は少しも臆おくせずに進んで出て試験を受けた。昔学問の盛んだった時代にも劣らず大学の栄えるころで、上中下の各階級から学生が出ていたから、いよいよ学問と見識の備わった人が輩出するばかりであった。文人もんにんと擬生ぎしょうの試験も若君は成績よく通ったため、師も弟子でしもいっそう励みが出て学業を熱心にするようになった。源氏の家でも始終詩会が催されなどして、博士はかせや文士の得意な時代が来たように見えた。何の道でも優秀な者の認められないのはないのが当代であった。
皇后が冊立さくりつされることになっていたが、斎宮さいぐうの女御にょごは母君から委託された方であるから、自分としてはぜひこの方を推薦しなければならないという源氏の態度であった。御母后も内親王でいられたあとへ、またも王氏の后きさきの立つことは一方に偏したことであると批難を加える者もあった。そうした人たちは弘徽殿こきでんの女御にょごがだれよりも早く後宮こうきゅうにはいった人であるから、その人の后に昇格されるのが当然であるとも言うのである。双方に味方が現われて、だれもどうなることかと不安がっていた。兵部卿ひょうぶきょうの宮と申した方は今は式部卿しきぶきょうになっておいでになって、当代の御外戚として重んぜられておいでになる宮の姫君も、予定どおりに後宮へはいって、斎宮の女御と同じ王女御で侍しているのであるが、他人でない濃い御親戚関係もあることであって、母后の御代わりとして后に立てられるのが合理的な処置であろうと、そのほうを助ける人たちは言って、三女御の競争になったのであるが、結局梅壺うめつぼの前斎宮が后におなりになった。女王の幸運に世間は驚いた。
源氏が太政大臣になって、右大将が内大臣になった。そして関白の仕事を源氏はこの人に譲ったのであった。この人は正義の観念の強いりっぱな政治家である。学問を深くした人であるから韻塞いんふたぎの遊戯には負けたが公務を処理することに賢かった。幾人かの腹から生まれた子息は十人ほどあって、大人になって役人になっているのは次々に昇進するばかりであったが、女は女御のほかに一人よりない。それは親王家の姫君から生まれた人で、尊貴なことは嫡妻の子にも劣らないわけであるが、その母君が今は按察使大納言あぜちだいなごんの夫人になっていて、今の良人おっととの間に幾人かの子女が生まれている中において継父の世話を受けさせておくことはかわいそうであるといって、大臣は引き取ってわが母君の大宮に姫君をお託ししてあった。
大臣は女御を愛するほどには決してこの娘を愛してはいないのであるが、性質も容貌ようぼうも美しい少女であった。そうしたわけで源氏の若君とこの人は同じ家で成長したのであるが、双方とも十歳を越えたころからは、別な場所に置かれて、どんなに親しい人でも男性には用心をしなければならぬと、大臣は娘を訓おしえて睦むつませないのを、若君の心に物足らぬ気持ちがあって、花や紅葉もみじを贈ること、雛ひな遊びの材料を提供することなどに真心を見せて、なお遊び相手である地位だけは保留していたから、姫君もこの従弟いとこを愛して、男に顔を見せぬというような、普通の慎みなどは無視されていた。乳母めのとなどという後見役の者も、この少年少女には幼い日からついた習慣があるのであるから、にわかに厳格に二人の間を隔てることはできないと大目に見ていたが、姫君は無邪気一方であっても、少年のほうの感情は進んでいて、いつの間にか情人の関係にまで到いたったらしい。
東の院へ学問のために閉じこめ同様になったことは、このことがあるために若君を懊悩おうのうさせた。まだ子供らしい、そして未来の上達の思われる字で、二人の恋人が書きかわしている手紙が、幼稚な人たちのすることであるから、抜け目があって、そこらに落ち散らされてもあるのを、姫君付きの女房が見て、二人の交情がどの程度にまでなっているかを合点する者もあったが、そんなことは人に訴えてよいことでもないから、だれも秘密はそっとそのまま秘密にしておいた。后きさきの宮、両大臣家の大饗宴きょうえんなども済んで、ほかの催し事が続いて仕度したくされねばならぬということもなくて、世間の静かなころ、秋の通り雨が過ぎて、荻おぎの上風も寂しい日の夕方に、大宮のお住居すまいへ内大臣が御訪問に来た。大臣は姫君を宮のお居間に呼んで琴などを弾ひかせていた。宮はいろいろな芸のおできになる方で、姫君にもよく教えておありになった。
「琵琶びわは女が弾ひくとちょっと反感も起こりますが、しかし貴族的なよいものですね。今日はごまかしでなくほんとうに琵琶の弾けるという人はあまりなくなりました。何親王、何の源氏」
などと大臣は数えたあとで、
「女では太政大臣が嵯峨さがの山荘に置いておく人というのが非常に巧うまいそうですね。さかのぼって申せば音楽の天才の出た家筋ですが、京官から落伍らくごして地方にまで行った男の娘に、どうしてそんな上手じょうずが出て来たのでしょう。源氏の大臣はよほど感心していられると見えて、何かのおりにはよくその人の話をせられます。ほかの芸と音楽は少し性質が変わっていて、多く聞き、多くの人と合わせてもらうことでずっと進歩するものですが、独習をしていて、その域に達したというのは珍しいことです」
こんな話もしたが、大臣は宮にお弾きになることをお奨すすめした。
「もう絃いとを押すことなどが思うようにできなくなりましたよ」
とお言いになりながらも、宮は上手に琴をお弾きになった。
「その山荘の人というのは、幸福な人であるばかりでなく、すぐれた聡明そうめいな人らしいですね。私に預けてくだすったのは男の子一人であの方の女の子もできていたらどんなによかったろうと思う女の子をその人は生んで、しかも自分がつれていては子供の不幸になることをよく理解して、りっぱな奥さんのほうへその子を渡したことなどを、感心なものだと私も話に聞きました」
こんな話を大宮はあそばした。
「女は頭のよさでどんなにも出世ができるものですよ」
などと内大臣は人の批評をしていたのであるが、それが自家の不幸な話に移っていった。
「私は女御を完全でなくても、どんなことも人より劣るような娘には育て上げなかったつもりなんですが、意外な人に負ける運命を持っていたのですね。人生はこんなに予期にはずれるものかと私は悲観的になりました。この子だけでも私は思うような幸運をになわせたい、東宮の御元服はもうそのうちのことであろうかと、心中ではその希望を持っていたのですが、今のお話の明石あかしの幸運女が生んだお后の候補者があとからずんずん生長してくるのですからね。その人が後宮へはいったら、ましてだれが競争できますか」
大臣が歎息するのを宮は御覧になって、
「必ずしもそうとは言われませんよ。この家からお后の出ないようなことは絶対にないと私は思う。そのおつもりで亡なくなられた大臣も女御の世話を引き受けて皆なすったのだものね。大臣がおいでになったらこんな意外な結果は見なかったでしょう」
この問題でだけ大宮は源氏を恨んでおいでになった。姫君がこぢんまりとした美しいふうで、十三絃げんの琴を弾いている髪つき、顔と髪の接触点の美などの艶えんな上品さに大臣がじっと見入っているのを姫君が知って、恥ずかしそうにからだを少し小さくしている横顔がきれいで、絃いとを押す手つきなどの美しいのも絵に描いたように思われるのを、大宮も非常にかわいく思召おぼしめされるふうであった。姫君はちょっと掻かき合わせをした程度で弾きやめて琴を前のほうへ押し出した。内大臣は大和琴やまとごとを引き寄せて、律の調子の曲のかえって若々しい気のするものを、名手であるこの人が、粗弾あらびきに弾き出したのが非常におもしろく聞こえた。外では木の葉がほろほろとこぼれている時、老いた女房などは涙を落としながらあちらこちらの几帳きちょうの蔭かげなどに幾人かずつ集まってこの音楽に聞き入っていた。「風かぜの力蓋けだし少なし」(落葉俟二微※(「風+(火/(火+火)」、第3水準1-94-8)一以隕らくえふびふうをまつてもつておつ、而風之力蓋寡しかうしてかぜのちからけだしすくなし、孟嘗遭二雍門一而泣まうしやうがようもんにあひてなく、琴之感以末きんのかんもつてすゑなり。)と文選もんぜんの句を大臣は口ずさんで、
「琴の感じではないが身にしむ夕方ですね。もう少しお弾きになりませんか」
と大臣は大宮にお勧めして、秋風楽を弾きながら歌う声もよかった。宮はこの座の人は御孫女ごそんじょばかりでなく、大きな大臣までもかわいく思召された。そこへいっそうの御満足を加えるように源氏の若君が来た。
「こちらへ」
と宮はお言いになって、お居間の中の几帳を隔てた席へ若君は通された。
「あなたにはあまり逢いませんね。なぜそんなにむきになって学問ばかりをおさせになるのだろう。あまり学問のできすぎることは不幸を招くことだと大臣も御体験なすったことなのだけれど、あなたをまたそうおしつけになるのだね、わけのあることでしょうが、ただそんなふうに閉じ込められていてあなたがかわいそうでならない」
と内大臣は言った。
「時々は違ったこともしてごらんなさい。笛だって古い歴史を持った音楽で、いいものなのですよ」
内大臣はこう言いながら笛を若君へ渡した。若々しく朗らかな音ねを吹き立てる笛がおもしろいためにしばらく絃楽のほうはやめさせて、大臣はぎょうさんなふうでなく拍子を取りながら、「萩はぎが花ずり」(衣がへせんや、わが衣は野原篠原しのはら萩の花ずり)など歌っていた。
「太政大臣も音楽などという芸術がお好きで、政治のほうのことからお脱ぬけになったのですよ。人生などというものは、せめて好きな楽しみでもして暮らしてしまいたい」
と言いながら甥おいに杯を勧めなどしているうちに暗くなったので灯ひが運ばれ、湯漬づけ、菓子などが皆の前へ出て食事が始まった。姫君はもうあちらへ帰してしまったのである。しいて二人を隔てて、琴の音すらも若君に聞かせまいとする内大臣の態度を、大宮の古女房たちはささやき合って、
「こんなことで近いうちに悲劇の起こる気がします」
とも言っていた。
大臣は帰って行くふうだけを見せて、情人である女の部屋にはいっていたが、そっとからだを細くして廊下を出て行く間に、少年たちの恋を問題にして語る女房たちの部屋があった。不思議に思って立ち止まって聞くと、それは自身が批評されているのであった。
「賢がっていらっしゃっても甘いのが親ですね。とんだことが知らぬ間に起こっているのですがね。子を知るは親にしかずなどというのは嘘うそですよ」
などこそこそと言っていた。情けない、自分の恐れていたことが事実になった。打っちゃって置いたのではないが、子供だから油断をしたのだ。人生は悲しいものであると大臣は思った。すべてを大臣は明らかに悟ったのであるが、そっとそのまま出てしまった。前駆がたてる人払いの声のぎょうさんなのに、はじめて女房たちはこの時間までも大臣がここに留まっていたことを知ったのである。
「殿様は今お帰りになるではありませんか。どこの隅すみにはいっておいでになったのでしょう。あのお年になって浮気うわきはおやめにならない方ね」
と女房らは言っていた。内証話をしていた人たちは困っていた。
「あの時非常にいいにおいが私らのそばを通ったと思いましたがね、若君がお通りになるのだとばかり思っていましたよ。まあこわい、悪口がお耳にはいらなかったでしょうか。意地悪をなさらないとも限りませんね」
内大臣は車中で娘の恋愛のことばかりが考えられた。非常に悪いことではないが、従弟いとこどうしの結婚などはあまりにありふれたことすぎるし、野合の初めを世間の噂うわさに上されることもつらい。後宮の競争に女御をおさえた源氏が恨めしい上に、また自分はその失敗に代えてあの娘を東宮へと志していたのではないか、僥倖ぎょうこうがあるいはそこにあるかもしれぬと、ただ一つの慰めだったこともこわされたと思うのであった。源氏と大臣との交情は睦むつまじく行っているのであるが、昔もその傾向があったように、負けたくない心が断然強くて、大臣はそのことが不快であるために朝まで安眠もできなかった。大宮も様子を悟っておいでになるであろうが、非常におかわいくお思いになる孫であるから勝手なことをさせて、見ぬ顔をしておいでになるのであろうと女房たちの言っていた点で、大臣は大宮を恨めしがっていた。腹がたつとそれを内におさえることのできない性質で大臣はあった。
二日ほどしてまた内大臣は大宮を御訪問した。こんなふうにしきりに出て来る時は宮の御機嫌きげんがよくて、おうれしい御様子がうかがわれた。形式は尼になっておいでになる方であるが、髪で額を隠して、お化粧もきれいにあそばされ、はなやかな小袿こうちぎなどにもお召しかえになる。子ながらも晴れがましくお思われになる大臣で、ありのままのお姿ではお逢いにならないのである。内大臣は不機嫌な顔をしていた。
「こちらへ上がっておりましても私は恥ずかしい気がいたしまして、女房たちはどう批評をしていることだろうかと心が置かれます。つまらない私ですが、生きておりますうちは始終伺って、物足りない思いをおさせせず、私もその点で満足を得たいと思ったのですが、不良な娘のためにあなた様をお恨めしく思わずにいられませんようなことができてまいりました。そんなに真剣にお恨みすべきでないと、自分ながらも心をおさえようとするのでございますが、それができませんで」
大臣が涙を押しぬぐうのを御覧になって、お化粧あそばした宮のお顔の色が変わった。涙のために白粉おしろいが落ちてお目も大きくなった。
「どんなことがあって、この年になってからあなたに恨まれたりするのだろう」
と宮の仰せられるのを聞くと、さすがにお気の毒な気のする大臣であったが続いて言った。
「御信頼しているものですから、子供をお預けしまして、親である私はかえって何の世話もいたしませんで、手もとに置きました娘の後宮こうきゅうのはげしい競争に敗惨はいざんの姿になって、疲れてしまっております方のことばかりを心配して世話をやいておりまして、こちらに御厄介やっかいになります以上は、私がそんなふうに捨てて置きましても、あなた様は彼を一人並みの女にしてくださいますことと期待していたのですが、意外なことになりましたから、私は残念なのです。源氏の大臣は天下の第一人者といわれるりっぱな方ではありますがほとんど家の中どうしのような者のいっしょになりますことは、人に聞こえましても軽率に思われることです。低い身分の人たちの中でも、そんなことは世間へはばかってさせないものです。それはあの人のためにもよいことでは決してありません。全然離れた家へはなやかに婿として迎えられることがどれだけ幸福だかしれません。従姉いとこの縁で強しいた結婚だというように取られて、源氏の大臣も不快にお思いになるかもしれませんよ。それにしましてもそのことを私へお知らせくださいましたら、私はまた計らいようがあるというものです。ある形式を踏ませて、少しは人聞きをよくしてやることもできたでしょうが、あなた様が、ただ年若な者のする放縦な行動そのままにお捨て置きになりましたことを私は遺憾いかんに思うのです」 
くわしく大臣が言うことによって、はじめて真相をお悟りになった宮は、夢にもお思いにならないことであったから、あきれておしまいになった。
「あなたがそうお言いになるのはもっともだけれど、私はまったく二人の孫が何を思って、何をしているかを知りませんでした。私こそ残念でなりませんのに、同じように罪を私が負わせられるとは恨めしいことです。私は手もとへ来た時から、特別にかわいくて、あなたがそれほどにしようとお思いにならないほど大事にして、私はあの人に女の最高の幸福を受けうる価値もつけようとしてました。一方の孫を溺愛できあいして、ああしたまだ少年の者に結婚を許そうなどとは思いもよらぬことです。それにしても、だれがあなたにそんなことを言ったのでしょう。人の中傷かもしれぬことで、腹をお立てになったりなさることはよくないし、ないことで娘の名に傷をつけてしまうことにもなりますよ」
「何のないことだものですか。女房たちも批難して、蔭かげでは笑っていることでしょうから、私の心中は穏やかでありようがありません」
と言って大臣は立って行った。幼い恋を知っている人たちは、この破局に立ち至った少年少女に同情していた。先夜の内証話をした人たちは逆上もしてしまいそうになって、どうしてあんな秘密を話題にしたのであろうと後悔に苦しんでいた。
姫君は何も知らずにいた。のぞいた居間に可憐かれんな美しい顔をして姫君がすわっているのを見て、大臣の心に父の愛が深く湧わいた。
「いくら年が行かないからといって、あまりに幼稚な心を持っているあなただとは知らないで、われわれの娘としての人並みの未来を私はいろいろに考えていたのだ。あなたよりも私のほうが廃すたり物になった気がする」
と大臣は言って、それから乳母めのとを責めるのであった。乳母は大臣に対して何とも弁明ができない。ただ、
「こんなことでは大事な内親王様がたにもあやまちのあることを昔の小説などで読みましたが、それは御信頼を裏切るおそばの者があって、男の方のお手引きをするとか、また思いがけない隙すきができたとかいうことで起きるのですよ。こちらのことは何年も始終ごいっしょに遊んでおいでになった間なんですもの。お小さくはいらっしゃるし宮様が寛大にお扱いになる以上にわれわれがお制しすることはできないとそのままに見ておりましたけれど、それも一昨年ごろからははっきりと日常のことが御区別できましたし、またあの方が同じ若い人といってもだらしのない不良なふうなどは少しもない方なのでしたから、まったく油断をいたしましたわね」
などと自分たち仲間で歎なげいているばかりであった。
「で、このことはしばらく秘密にしておこう。評判はどんなにしていても立つものだが、せめてあなたたちは、事実でないと否定をすることに骨を折るがいい。そのうち私の邸やしきへつれて行くことにする。宮様の御好意が足りないからなのだ。あなたがたはいくら何だっても、こうなれと望んだわけではないだろう」
と大臣が言うと、乳母たちは、大宮のそう取られておいでになることをお気の毒に思いながらも、また自家のあかりが立ててもらえたようにうれしく思った。
「さようでございますとも、大納言家への聞こえということも私たちは思っているのでございますもの、どんなに人柄がごりっぱでも、ただの御縁におつきになることなどを私たちは希望申し上げるわけはございません」
と言う。姫君はまったく無邪気で、どう戒めても、訓おしえてもわかりそうにないのを見て大臣は泣き出した。
「どういうふうに体裁を繕えばいいか、この人を廃すたり物にしないためには」
大臣は二、三人と密議するのであった。この人たちは大宮の態度がよろしくなかったことばかりを言い合った。
大宮はこの不祥事を二人の孫のために悲しんでおいでになったが、その中でも若君のほうをお愛しになる心が強かったのか、もうそんなに大人びた恋愛などのできるようになったかとかわいくお思われにならないでもなかった。もってのほかのように言った内大臣の言葉を肯定あそばすこともできない。必ずしもそうであるまい、たいした愛情のなかった子供を、自分がたいせつに育ててやるようになったため、東宮の後宮というような志望も父親が持つことになったのである。それが実現できなくて、普通の結婚をしなければならない運命になれば、源氏の長男以上のすぐれた婿があるものではない。容貌ようぼうをはじめとして何から言っても同等の公達きんだちのあるわけはない、もっと価値の低い婿を持たねばならない気がすると、やや公平でない御愛情から、大臣を恨んでおいでになるのであったが、宮のこのお心持ちを知ったならまして大臣はお恨みすることであろう。
自身のことでこんな騒ぎのあることも知らずに源氏の若君が来た。一昨夜は人が多くいて、恋人を見ることのできなかったことから、恋しくなって夕方から出かけて来たものであるらしい。平生大宮はこの子をお迎えになると非常におうれしそうなお顔をあそばしておよろこびになるのであるが、今日はまじめなふうでお話をあそばしたあとで、
「あなたのことで内大臣が来て、私までも恨めしそうに言ってましたから気の毒でしたよ。よくないことをあなたは始めて、そのために人が不幸になるではありませんか。私はこんなふうに言いたくはないのだけれど、そういうことのあったのを、あなたが知らないでいてはと思ってね」
とお言いになった。少年の良心にとがめられていることであったから、すぐに問題の真相がわかった。若君は顔を赤くして、
「なんでしょう。静かな所へ引きこもりましてからは、だれとも何の交渉もないのですから、伯父おじ様の感情を害するようなことはないはずだと私は思います」
と言って羞恥しゅうちに堪えないように見えるのをかわいそうに宮は思召おぼしめした。
「まあいいから、これから気をおつけなさいね」
とだけお言いになって、あとはほかへ話を移しておしまいになった。これからは手紙の往復もいっそう困難になることであろうと思うと、若君の心は暗くなっていった。晩餐ばんさんが出てもあまり食べずに早く寝てしまったふうは見せながらも、どうかして恋人に逢おうと思うことで夢中になっていた若君は、皆が寝入ったころを見計らって姫君の居間との間の襖子からかみをあけようとしたが、平生は別に錠などを掛けることもなかった仕切りが、今夜はしかと鎖とざされてあって、向こう側に人の音も聞こえない。若君は心細くなって、襖子によりかかっていると、姫君も目をさましていて、風の音が庭先の竹にとまってそよそよと鳴ったり、空を雁かりの通って行く声のほのかに聞こえたりすると、無邪気な人も身にしむ思いが胸にあるのか、「雲井の雁もわがごとや」(霧深き雲井の雁もわがごとや晴れもせず物の悲しかるらん)と口ずさんでいた。その様子が少女らしくきわめて可憐かれんであった。若君の不安さはつのって、
「ここをあけてください、小侍従はいませんか」
と言った。あちらには何とも答える者がない。小侍徒は姫君の乳母めのとの娘である。独言ひとりごとを聞かれたのも恥ずかしくて、姫君は夜着を顔に被かぶってしまったのであったが、心では恋人を憐あわれんでいた、大人のように。乳母などが近い所に寝ていてみじろぎも容易にできないのである。それきり二人とも黙っていた。
さ夜中に友よびわたる雁がねにうたて吹きそふ荻をぎのうは風
身にしむものであると若君は思いながら宮のお居間のほうへ帰ったが、歎息たんそくしてつく吐息といきを宮がお目ざめになってお聞きにならぬかと遠慮されて、みじろぎながら寝ていた。
若君はわけもなく恥ずかしくて、早く起きて自身の居間のほうへ行き、手紙を書いたが、二人の味方である小侍従にも逢うことができず、姫君の座敷のほうへ行くこともようせずに煩悶はんもんをしていた。女のほうも父親にしかられたり、皆から問題にされたりしたことだけが恥ずかしくて、自分がどうなるとも、あの人がどうなっていくとも深くは考えていない。美しく二人が寄り添って、愛の話をすることが悪いこと、醜いこととは思えなかった。そうした場合がなつかしかった。こんなに皆に騒がれることが至当なこととは思われないのであるが、乳母などからひどい小言こごとを言われたあとでは、手紙を書いて送ることもできなかった。大人はそんな中でも隙すきをとらえることが不可能でなかろうが、相手の若君も少年であって、ただ残念に思っているだけであった。
内大臣はそれきりお訪たずねはしないのであるが宮を非常に恨めしく思っていた。夫人には雲井の雁の姫君の今度の事件についての話をしなかったが、ただ気むずかしく不機嫌ふきげんになっていた。
「中宮がはなやかな儀式で立后後の宮中入りをなすったこの際に、女御にょごが同じ御所でめいった気持ちで暮らしているかと思うと私はたまらないから、退出させて気楽に家うちで遊ばせてやりたい。さすがに陛下はおそばをお離しにならないようにお扱いになって、夜昼上の御局みつぼねへ上がっているのだから、女房たちなども緊張してばかりいなければならないのが苦しそうだから」
こう夫人に語っている大臣はにわかに女御退出のお暇を帝みかどへ願い出た。御寵愛ちょうあいの深い人であったから、お暇を許しがたく帝みかどは思召おぼしめしたのであるが、いろいろなことを言い出して大臣が意志を貫徹しようとするので、帝はしぶしぶ許しあそばされた。自邸に帰った女御に大臣は、
「退屈でしょうから、あちらの姫君を呼んでいっしょに遊ぶことなどなさい。宮にお預けしておくことは安心なようではあるが、年の寄った女房があちらには多すぎるから、同化されて若い人の慎み深さがなくなってはと、もうそんなことも考えなければならない年ごろになっていますから」
こんなことを言って、にわかに雲井の雁を迎えることにした。大宮は力をお落としになって、
「たった一人あった女の子が亡なくなってから私は心細い気がして寂しがっていた所へ、あなたが姫君をつれて来てくれたので、私は一生ながめて楽しむことのできる宝のように思って世話をしていたのに、この年になってあなたに信用されなくなったかと思うと恨めしい気がします」
とお言いになると、大臣はかしこまって言った。
「遺憾いかんな気のしましたことは、その場でありのままに申し上げただけのことでございます。あなた様を御信用申さないようなことが、どうしてあるものでございますか。御所におります娘が、いろいろと朗らかでないふうでこの節邸やしきへ帰っておりますから、退屈そうなのが哀れでございまして、いっしょに遊んで暮らせばよいと思いまして、一時的につれてまいるのでございます」
また、
「今日までの御養育の御恩は決して忘れさせません」
とも言った。こう決めたことはとどめても思い返す性質でないことを御承知の宮はただ残念に思召すばかりであった。
「人というものは、どんなに愛するものでもこちらをそれほどには思ってはくれないものだね。若い二人がそうではないか、私に隠して大事件を起こしてしまったではないか。それはそれでも大臣はりっぱなでき上がった人でいながら私を恨んで、こんなふうにして姫君をつれて行ってしまう。あちらへ行ってここにいる以上の平和な日があるものとは思われないよ」
お泣きになりながら、こう女房たちに宮は言っておいでになった。ちょうどそこへ若君が来た。少しの隙すきでもないかとこのごろはよく出て来るのである。内大臣の車が止まっているのを見て、心の鬼にきまり悪さを感じた若君は、そっとはいって来て自身の居間へ隠れた。内大臣の息子たちである左少将さしょうしょう、少納言しょうなごん、兵衛佐ひょうえのすけ、侍従じじゅう、大夫だいふなどという人らもこのお邸やしきへ来るが、御簾みすの中へはいることは許されていないのである。左衛門督さえもんのかみ、権中納言ごんちゅうなごんなどという内大臣の兄弟はほかの母君から生まれた人であったが、故人の太政大臣が宮へ親子の礼を取らせていた関係から、今も敬意を表しに来て、その子供たちも出入りするのであるが、だれも源氏の若君ほど美しい顔をしたのはなかった。宮のお愛しになることも比類のない御孫であったが、そのほかには雲井の雁だけがお手もとで育てられてきて深い御愛情の注がれている御孫であったのに、突然こうして去ってしまうことになって、お寂しくなることを宮は歎なげいておいでになった。大臣は、
「ちょっと御所へ参りまして、夕方に迎えに来ようと思います」
と言って出て行った。事実に潤色を加えて結婚をさせてもよいとは大臣の心にも思われたのであるが、やはり残念な気持ちが勝って、ともかくも相当な官歴ができたころ、娘への愛の深さ浅さをも見て、許すにしても形式を整えた結婚をさせたい、厳重に監督しても、そこが男の家でもある所に置いては、若いどうしは放縦なことをするに違いない。宮もしいて制しようとはあそばさないであろうからとこう思って、女御にょごのつれづれに託して、自家のほうへも官邸へも軽いふうを装って伴い去ろうと大臣はするのである。宮は雲井の雁へ手紙をお書きになった。 
大臣は私を恨んでいるかしりませんが、あなたは、私がどんなにあなたを愛しているかを知っているでしょう。こちらへ逢いに来てください。
宮のお言葉に従って、きれいに着かざった姫君が出て来た。年は十四なのである。まだ大人にはなりきってはいないが、子供らしくおとなしい美しさのある人である。
「始終あなたをそばに置いて見ることが、私のなくてならぬ慰めだったのだけれど、行ってしまっては寂しくなることでしょう。私は年寄りだから、あなたの生おい先が見られないだろうと、命のなくなるのを心細がったものですがね。私と別れてあなたの行く所はどこかと思うとかわいそうでならない」
と言って宮はお泣きになるのであった。雲井の雁は祖母の宮のお歎なげきの原因に自分の恋愛問題がなっているのであると思うと、羞恥しゅうちの感に堪えられなくて、顔も上げることができずに泣いてばかりいた。
若君の乳母の宰相の君が出て来て、
「若様とごいっしょの御主人様だとただ今まで思っておりましたのに行っておしまいになるなどとは残念なことでございます。殿様がほかの方と御結婚をおさせになろうとあそばしましても、お従いにならぬようにあそばせ」
などと小声で言うと、いよいよ恥ずかしく思って、雲井くもいの雁かりはものも言えないのである。
「そんな面倒めんどうな話はしないほうがよい。縁だけはだれも前生から決められているのだからわからない」
と宮がお言いになる。
「でも殿様は貧弱だと思召おぼしめして若様を軽蔑けいべつあそばすのでございましょうから。まあお姫様見ておいであそばせ、私のほうの若様が人におくれをおとりになる方かどうか」
口惜くちおしがっている乳母はこんなことも言うのである。若君は几帳きちょうの後ろへはいって来て恋人をながめていたが、人目を恥じることなどはもう物の切迫しない場合のことで、今はそんなことも思われずに泣いているのを、乳母はかわいそうに思って、宮へは体裁よく申し上げ、夕方の暗くらまぎれに二人をほかの部屋で逢わせた。きまり悪さと恥ずかしさで二人はものも言わずに泣き入った。
「伯父おじ様の態度が恨めしいから、恋しくても私はあなたを忘れてしまおうと思うけれど、逢わないでいてはどんなに苦しいだろうと今から心配でならない。なぜ逢えば逢うことのできたころに私はたびたび来なかったろう」
と言う男の様子には、若々しくてそして心を打つものがある。
「私も苦しいでしょう、きっと」
「恋しいだろうとお思いになる」
と男が言うと、雲井の雁が幼いふうにうなずく。座敷には灯ひがともされて、門前からは大臣の前駆の者が大仰おおぎょうに立てる人払いの声が聞こえてきた。女房たちが、
「さあ、さあ」
と騒ぎ出すと、雲井の雁は恐ろしがってふるえ出す。男はもうどうでもよいという気になって、姫君を帰そうとしないのである。姫君の乳母めのとが捜しに来て、はじめて二人の会合を知った。何といういまわしいことであろう、やはり宮はお知りにならなかったのではなかったかと思うと、乳母は恨めしくてならなかった。
「ほんとうにまあ悲しい。殿様が腹をおたてになって、どんなことをお言い出しになるかしれないばかしか、大納言家でもこれをお聞きになったらどうお思いになることだろう。貴公子でおありになっても、最初の殿様が浅葱あさぎの袍ほうの六位の方とは」
こう言う声も聞こえるのであった。すぐ二人のいる屏風びょうぶの後ろに来て乳母はこぼしているのである。若君は自分の位の低いことを言って侮辱しているのであると思うと、急に人生がいやなものに思われてきて、恋も少しさめる気がした。
「そらあんなことを言っている。
くれなゐの涙に深き袖そでの色を浅緑とやいひしをるべき
恥ずかしくてならない」
と言うと、
いろいろに身のうきほどの知らるるはいかに染めける中の衣ぞ
と雲井の雁が言ったか言わぬに、もう大臣が家の中にはいって来たので、そのまま雲井の雁は立ち上がった。取り残された見苦しさも恥ずかしくて、悲しみに胸をふさがらせながら、若君は自身の居間へはいって、そこで寝つこうとしていた。三台ほどの車に分乗して姫君の一行は邸やしきをそっと出て行くらしい物音を聞くのも若君にはつらく悲しかったから、宮のお居間から、来るようにと、女房を迎えにおよこしになった時にも、眠ったふうをしてみじろぎもしなかった。涙だけがまだ止まらずに一睡もしないで暁になった。霜の白いころに若君は急いで出かけて行った。泣き腫はらした目を人に見られることが恥ずかしいのに、宮はきっとそばへ呼ぼうとされるのであろうから、気楽な場所へ行ってしまいたくなったのである。車の中でも若君はしみじみと破れた恋の悲しみを感じるのであったが、空模様もひどく曇って、まだ暗い寂しい夜明けであった。
霜氷うたて結べる明けぐれの空かきくらし降る涙かな
こんな歌を思った。
今年源氏は五節ごせちの舞い姫を一人出すのであった。たいした仕度したくというものではないが、付き添いの童女の衣裳いしょうなどを日が近づくので用意させていた。東の院の花散里はなちるさと夫人は、舞い姫の宮中へはいる夜の、付き添いの女房たちの装束を引き受けて手もとで作らせていた。二条の院では全体にわたっての一通りの衣裳が作られているのである。中宮からも、童女、下仕えの女房幾人かの衣服を、華奢かしゃに作って御寄贈になった。去年は諒闇りょうあんで五節のなかったせいもあって、だれも近づいて来る五節に心をおどらせている年であるから、五人の舞い姫を一人ずつ引き受けて出す所々では派手はでが競われているという評判であった。按察使あぜち大納言の娘、左衛門督さえもんのかみの娘などが出ることになっていた。それから殿上役人の中から一人出す舞い姫には、今は近江守おうみのかみで左中弁を兼ねている良清朝臣よしきよあそんの娘がなることになっていた。今年の舞い姫はそのまま続いて女官に採用されることになっていたから、愛嬢を惜しまずに出すのであると言われていた。源氏は自身から出す舞い姫に、摂津守兼左京大夫である惟光これみつの娘で美人だと言われている子を選んだのである。惟光は迷惑がっていたが、
「大納言が妾腹の娘を舞い姫に出す時に、君の大事な娘を出したっても恥ではない」
と責められて、困ってしまった惟光は、女官になる保証のある点がよいからとあきらめてしまって、主命に従うことにしたのである。舞の稽古けいこなどは自宅でよく習わせて、舞い姫を直接世話するいわゆるかしずきの幾人だけはその家で選んだのをつけて、初めの日の夕方ごろに二条の院へ送った。なお童女幾人、下しも仕え幾人が付き添いに必要なのであるから、二条の院、東の院を通じてすぐれた者を多数の中から選より出すことになった。皆それ相応に選定される名誉を思って集まって来た。陛下が五節ごせちの童女だけを御覧になる日の練習に、縁側を歩かせて見て決めようと源氏はした。落選させてよいような子供もない、それぞれに特色のある美しい顔と姿を持っているのに源氏はかえって困った。
「もう一人分の付き添いの童女を私のほうから出そうかね」
などと笑っていた。結局身の取りなしのよさと、品のよい落ち着きのある者が採られることになった。
大学生の若君は失恋の悲しみに胸が閉じられて、何にも興味が持てないほど心がめいって、書物も読む気のしないほどの気分がいくぶん慰められるかもしれぬと、五節の夜は二条の院に行っていた。風采ふうさいがよくて落ち着いた、艶えんな姿の少年であったから、若い女房などから憧憬あこがれを持たれていた。夫人のいるほうでは御簾みすの前へもあまりすわらせぬように源氏は扱うのである。源氏は自身の経験によって危険がるのか、そういうふうであったから、女房たちすらも若君と親しくする者はいないのであるが、今日は混雑の紛れに室内へもはいって行ったものらしい。車で着いた舞い姫をおろして、妻戸の所の座敷に、屏風びょうぶなどで囲いをして、舞い姫の仮の休息所へ入れてあったのを、若君はそっと屏風の後ろからのぞいて見た。苦しそうにして舞い姫はからだを横向きに長くしていた。ちょうど雲井くもいの雁かりと同じほどの年ごろであった。それよりも少し背が高くて、全体の姿にあざやかな美しさのある点は、その人以上にさえも見えた。暗かったからよくは見えないのであるが、年ごろが同じくらいで恋人の思われる点がうれしくて、恋が移ったわけではないがこれにも関心は持たれた。若君は衣服の褄先つまさきを引いて音をさせてみた。思いがけぬことで怪しがる顔を見て、
「天あめにます豊岡とよをか姫の宮人もわが志すしめを忘るな
『みづがきの』(久しき世より思ひ初そめてき)」
と言ったが、藪やぶから棒ということのようである。若々しく美しい声をしているが、だれであるかを舞い姫は考え当てることもできない。気味悪く思っている時に、顔の化粧を直しに、騒がしく世話役の女が幾人も来たために、若君は残念に思いながらその部屋を立ち去った。浅葱あさぎの袍ほうを着て行くことがいやで、若君は御所へ行くこともしなかったが、五節を機会に、好みの色の直衣のうしを着て宮中へ出入りすることを若君は許されたので、その夜から御所へも行った。まだ小柄な美少年は、若公達わかきんだちらしく御所の中を遊びまわっていた。帝をはじめとしてこの人をお愛しになる方が多く、ほかには類もないような御恩寵おんちょうを若君は身に負っているのであった。
五節の舞い姫がそろって御所へはいる儀式には、どの舞い姫も盛装を凝らしていたが、美しい点では源氏のと、大納言の舞い姫がすぐれていると若い役人たちはほめた。実際二人ともきれいであったが、ゆったりとした美しさはやはり源氏の舞い姫がすぐれていて、大納言のほうのは及ばなかったようである。きれいで、現代的で、五節の舞い姫などというもののようでないつくりにした感じよさがこうほめられるわけであった。例年の舞い姫よりも少し大きくて前から期待されていたのにそむかない五節の舞い姫たちであった。源氏も参内して陪観したが、五節の舞い姫の少女が目にとまった昔を思い出した。辰の日の夕方に大弐だいにの五節へ源氏は手紙を書いた。内容が想像されないでもない。
少女子をとめごも神さびぬらし天つ袖そでふるき世の友よはひ経ぬれば
五節は今日までの年月の長さを思って、物哀れになった心持ちを源氏が昔の自分に書いて告げただけのことである、これだけのことを喜びにしなければならない自分であるということをはかなんだ。
かけて言はば今日のこととぞ思ほゆる日かげの霜の袖にとけしも
新嘗祭にいなめまつりの小忌おみの青摺あおずりを模様にした、この場合にふさわしい紙に、濃淡の混ぜようをおもしろく見せた漢字がちの手紙も、その階級の女には適した感じのよい返事の手紙であった。
若君も特に目だった美しい自家の五節を舞の庭に見て、逢ってものを言う機会を作りたく、楽屋のあたりへ行ってみるのであったが、近い所へ人も寄せないような警戒ぶりであったから、羞恥しゅうち心の多い年ごろのこの人は歎息たんそくするばかりで、それきりにしてしまった。美貌びぼうであったことが忘られなくて、恨めしい人に逢われない心の慰めにはあの人を恋人に得たいと思っていた。
五節の舞い姫は皆とどまって宮中の奉仕をするようとの仰せであったが、いったんは皆退出させて、近江守おうみのかみのは唐崎からさき、摂津守の子は浪速なにわで祓はらいをさせたいと願って自宅へ帰った。大納言も別の形式で宮仕えに差し上げることを奏上した。左衛門督さえもんのかみは娘でない者を娘として五節に出したということで問題になったが、それも女官に採用されることになった。惟光これみつは典侍ないしのすけの職が一つあいてある補充に娘を採用されたいと申し出た。源氏もその希望どおりに優遇をしてやってもよいという気になっていることを、若君は聞いて残念に思った。自分がこんな少年でなく、六位級に置かれているのでなければ、女官などにはさせないで、父の大臣に乞こうて同棲どうせいを黙認してもらうのであるが、現在では不可能なことである。恋しく思う心だけも知らせずに終わるのかと、たいした思いではなかったが、雲井の雁を思って流す涙といっしょに、そのほうの涙のこぼれることもあった。五節の弟で若君にも丁寧に臣礼を取ってくる惟光の子に、ある日逢った若君は平生以上に親しく話してやったあとで言った。
「五節はいつ御所へはいるの」
「今年のうちだということです」
「顔がよかったから私はあの人が好きになった。君は姉さんだから毎日見られるだろうからうらやましいのだが、私にももう一度見せてくれないか」
「そんなこと、私だってよく顔なんか見ることはできませんよ。男の兄弟だからって、あまりそばへ寄せてくれませんのですもの、それだのにあなたなどにお見せすることなど、だめですね」
と言う。
「じゃあ手紙でも持って行ってくれ」
と言って、若君は惟光これみつの子に手紙を渡した。これまでもこんな役をしてはいつも家庭でしかられるのであったがと迷惑に思うのであるが、ぜひ持ってやらせたそうである若君が気の毒で、その子は家へ持って帰った。五節は年よりもませていたのか、若君の手紙をうれしく思った。緑色の薄様うすようの美しい重ね紙に、字はまだ子供らしいが、よい将来のこもった字で感じよく書かれてある。 
日かげにもしるかりけめや少女子をとめごが天の羽袖にかけし心は
姉と弟がこの手紙をいっしょに読んでいる所へ思いがけなく父の惟光大人が出て来た。隠してしまうこともまた恐ろしくてできぬ若い姉弟きょうだいであった。
「それは、だれの手紙」
父が手に取るのを見て、姉も弟も赤くなってしまった。
「よくない使いをしたね」
としかられて、逃げて行こうとする子を呼んで、
「だれから頼まれた」
と惟光が言った。
「殿様の若君がぜひっておっしゃるものだから」
と答えるのを聞くと、惟光は今まで怒っていた人のようでもなく、笑顔えがおになって、
「何というかわいいいたずらだろう。おまえなどは同い年でまだまったくの子供じゃないか」
とほめた。妻にもその手紙を見せるのであった。
「こうした貴公子に愛してもらえば、ただの女官のお勤めをさせるより私はそのほうへ上げてしまいたいくらいだ。殿様の御性格を見ると恋愛関係をお作りになった以上、御自身のほうから相手をお捨てになることは絶対にないようだ。私も明石あかしの入道になるかな」
などと惟光は言っていたが、子供たちは皆立って行ってしまった。
若君は雲井の雁へ手紙を送ることもできなかった。二つの恋をしているが、一つの重いほうのことばかりが心にかかって、時間がたてばたつほど恋しくなって、目の前を去らない面影の主に、もう一度逢うということもできぬかとばかり歎なげかれるのである。祖母の宮のお邸やしきへ行くこともわけなしに悲しくてあまり出かけない。その人の住んでいた座敷、幼い時からいっしょに遊んだ部屋などを見ては、胸苦しさのつのるばかりで、家そのものも恨めしくなって、また勉強所にばかり引きこもっていた。源氏は同じ東の院の花散里はなちるさと夫人に、母としての若君の世話を頼んだ。
「大宮はお年がお年だから、いつどうおなりになるかしれない。お薨かくれになったあとのことを思うと、こうして少年時代から馴ならしておいて、あなたの厄介やっかいになるのが最もよいと思う」
と源氏は言うのであった。すなおな性質のこの人は、源氏の言葉に絶対の服従をする習慣から、若君を愛して優しく世話をした。若君は養母の夫人の顔をほのかに見ることもあった。よくないお顔である。こんな人を父は妻としていることができるのである、自分が恨めしい人の顔に執着を絶つことのできないのも、自分の心ができ上がっていないからであろう、こうした優しい性質の婦人と夫婦になりえたら幸福であろうと、こんなことを若君は思ったが、しかしあまりに美しくない顔の妻は向かい合った時に気の毒になってしまうであろう、こんなに長い関係になっていながら、容貌ようぼうの醜なる点、性質の美な点を認めた父君は、夫婦生活などは疎おろそかにして、妻としての待遇にできるかぎりの好意を尽くしていられるらしい。それが合理的なようであるとも若君は思った。そんなことまでもこの少年は観察しえたのである。大宮は尼姿になっておいでになるがまだお美しかったし、そのほかどこでこの人の見るのも相当な容貌が集められている女房たちであったから、女の顔は皆きれいなものであると思っていたのが、若い時から美しい人でなかった花散里が、女の盛りも過ぎて衰えた顔は、痩やせた貧弱なものになり、髪も少なくなっていたりするのを見て、こんなふうに思うのである。
年末には正月の衣裳いしょうを大宮は若君のためにばかり仕度したくあそばされた。幾重ねも美しい春の衣服のでき上がっているのを、若君は見るのもいやな気がした。
「元旦だって、私は必ずしも参内するものでないのに、何のためにこんなに用意をなさるのですか」
「そんなことがあるものですか。廃人の年寄りのようなことを言う」
「年寄りではありませんが廃人の無力が自分に感じられる」
若君は独言ひとりごとを言って涙ぐんでいた。失恋を悲しんでいるのであろうと、哀れに御覧になって宮も寂しいお顔をあそばされた。
「男性というものは、どんな低い身分の人だって、心持ちだけは高く持つものです。あまりめいったそうしたふうは見せないようになさいよ。あなたがそんなに思い込むほどの価値のあるものはないではないか」
「それは別にないのですが、六位だと人が軽蔑けいべつをしますから、それはしばらくの間のことだとは知っていますが、御所へ行くのも気がそれで進まないのです。お祖父じい様がおいでになったら、戯談じょうだんにでも人は私を軽蔑なんかしないでしょう。ほんとうのお父様ですが、私をお扱いになるのは、形式的に重くしていらっしゃるとしか思われません。二条の院などで私は家族の一人として親しませてもらうようなことは絶対にできません。東の院でだけ私はあの方の子らしくしていただけます。西の対たいのお母様だけは優しくしてくださいます。もう一人私にほんとうのお母様があれば、私はそれだけでもう幸福なのでしょうがお祖母ばあ様」
涙の流れるのを紛らしている様子のかわいそうなのを御覧になって、宮はほろほろと涙をこぼしてお泣きになった。
「母を亡なくした子というものは、各階級を通じて皆そうした心細い思いをしているのだけれど、だれにも自分の運命というものがあって、それぞれに出世してしまえば、軽蔑する人などはないのだから、そのことは思わないほうがいいよ。お祖父様がもうしばらくでも生きていてくだすったらよかったのだね、お父様がおいでなんだから、お祖父様くらいの愛はあなたに掛けていただけると信じてますけれど、思うようには行かないものなのだね。内大臣もりっぱな人格者のように世間で言われていても、私に昔のような平和も幸福もなくなっていくのはどういうわけだろう。私はただ長生きの罪にしてあきらめますが、若いあなたのような人を、こんなふうに少しでも厭世えんせい的にする世の中かと思うと恨めしくなります」
と宮は泣いておいでになった。
元日も源氏は外出の要がなかったから長閑のどかであった。良房よしふさの大臣の賜わった古例で、七日の白馬あおうまが二条の院へ引かれて来た。宮中どおりに行なわれた荘重な式であった。
二月二十幾日に朱雀すざく院へ行幸があった。桜の盛りにはまだなっていなかったが、三月は母后の御忌月おんきづきであったから、この月が選ばれたのである。早咲きの桜は咲いていて、春のながめはもう美しかった。お迎えになる院のほうでもいろいろの御準備があった。行幸の供奉ぐぶをする顕官も親王方もその日の服装などに苦心を払っておいでになった。その人たちは皆青色の下に桜襲さくらがさねを用いた。帝は赤色の御服であった。お召しがあって源氏の大臣が参院した。同じ赤色を着ているのであったから、帝と同じものと見えて、源氏の美貌びぼうが輝いた。御宴席に出た人々の様子も態度も非常によく洗練されて見えた。院もますます清艶せいえんな姿におなりあそばされた。今日は専門の詩人はお招きにならないで、詩才の認められる大学生十人を召したのである。これを式部省しきぶしょうの試験に代えて作詞の題をその人たちはいただいた。これは源氏の長男のためにわざとお計らいになったことである。気の弱い学生などは頭もぼうとさせていて、お庭先の池に放たれた船に乗って出た水上で製作に苦しんでいた。夕方近くなって、音楽者を載せた船が池を往来して、楽音を山風に混ぜて吹き立てている時、若君はこんなに苦しい道を進まないでも自分の才分を発揮させる道はあるであろうがと恨めしく思った。「春鶯囀しゅんおうてん」が舞われている時、昔の桜花の宴の日のことを院の帝はお思い出しになって、
「もうあんなおもしろいことは見られないと思う」
と源氏へ仰せられたが、源氏はそのお言葉から青春時代の恋愛三昧ざんまいを忍んで物哀れな気分になった。源氏は院へ杯を参らせて歌った。
鶯うぐひすのさへづる春は昔にてむつれし花のかげぞ変はれる
院は、
九重を霞かすみへだつる住処すみかにも春と告げくる鶯の声
とお答えになった。太宰帥だざいのそつの宮といわれた方は兵部卿ひょうぶきょうになっておいでになるのであるが、陛下へ杯を献じた。
いにしへを吹き伝へたる笛竹にさへづる鳥の音ねさへ変はらぬ
この歌を奏上した宮の御様子がことにりっぱであった。帝は杯をお取りになって、
鶯の昔を恋ひて囀さへづるは木こづたふ花の色やあせたる
と仰せになるのが重々しく気高けだかかった。この行幸は御家庭的なお催しで、儀式ばったことでなかったせいなのか、官人一同が詞歌を詠進したのではなかったのかその日の歌はこれだけより書き置かれていない。
奏楽所が遠くて、細かい楽音が聞き分けられないために、楽器が御前へ召された。兵部卿の宮が琵琶びわ、内大臣は和琴わごん、十三絃げんが院の帝みかどの御前に差し上げられて、琴きんは例のように源氏の役になった。皆名手で、絶妙な合奏楽になった。歌う役を勤める殿上役人が選ばれてあって、「安名尊あなとうと」が最初に歌われ、次に桜人さくらびとが出た。月が朧おぼろに出て美しい夜の庭に、中島あたりではそこかしこに篝火かがりびが焚たかれてあった。そうしてもう合奏が済んだ。
夜ふけになったのであるが、この機会に皇太后を御訪問あそばさないことも冷淡なことであると思召おぼしめして、お帰りがけに帝はそのほうの御殿へおまわりになった。源氏もお供をして参ったのである。太后は非常に喜んでお迎えになった。もう非常に老いておいでになるのを、御覧になっても帝は御母宮をお思い出しになって、こんな長生きをされる方もあるのにと残念に思召された。
「もう老人になってしまいまして、私などはすべての過去を忘れてしまっておりますのに、もったいない御訪問をいただきましたことから、昔の御代みよが忍ばれます」
と太后は泣いておいでになった。
「御両親が早くお崩かくれになりまして以来、春を春でもないように寂しく見ておりましたが、今日はじめて春を十分に享楽いたしました。また伺いましょう」
と陛下は仰せられ、源氏も御挨拶あいさつをした。
「また別の日に伺候いたしまして」
還幸の鳳輦ほうれんをはなやかに百官の囲繞いにょうして行く光景が、物の響きに想像される時にも、太后は過去の御自身の態度の非を悔いておいでになった。源氏はどう自分の昔を思っているであろうと恥じておいでになった。一国を支配する人の持っている運は、どんな咀のろいよりも強いものであるとお悟りにもなった。
朧月夜おぼろづきよの尚侍ないしのかみも静かな院の中にいて、過去を思う時々に、源氏とした恋愛の昔が今も身にしむことに思われた。近ごろでも源氏は好便に託して文通をしているのであった。太后は政治に御註文ちゅうもんをお持ちになる時とか、御自身の推薦権の与えられておいでになる限られた官爵の運用についてとかに思召しの通らない時は、長生きをして情けない末世に苦しむというようなことをお言い出しになり、御無理も仰せられた。年を取っておいでになるにしたがって、強い御気質がますます強くなって院もお困りになるふうであった。
源氏の公子はその日の成績がよくて進士になることができた。碩学せきがくの人たちが選ばれて答案の審査にあたったのであるが、及第は三人しかなかったのである。そして若君は秋の除目じもくの時に侍従に任ぜられた。雲井くもいの雁かりを忘れる時がないのであるが、大臣が厳重に監視しているのも恨めしくて、無理をして逢ってみようともしなかった。手紙だけは便宜を作って送るというような苦しい恋を二人はしているのであった。
源氏は静かな生活のできる家を、なるべく広くおもしろく作って、別れ別れにいる、たとえば嵯峨さがの山荘の人などもいっしょに住ませたいという希望を持って、六条の京極の辺に中宮ちゅうぐうの旧邸のあったあたり四町四面を地域にして新邸を造営させていた。式部卿の宮は来年が五十におなりになるのであったから、紫夫人はその賀宴をしたいと思って仕度したくをしているのを見て、源氏もそれはぜひともしなければならぬことであると思い、そうした式もなるべくは新邸でするほうがよいと、そのためにも建築を急がせていた。春になってからは専念に源氏は宮の五十の御賀の用意をしていた。 
落おとし忌いみの饗宴きょうえんのこと、その際の音楽者、舞い人の選定などは源氏の引き受けていることで、付帯して行なわれる仏事の日の経巻や仏像の製作、法事の僧たちへ出す布施ふせの衣服類、一般の人への纏頭てんとうの品々は夫人が力を傾けて用意していることであった。東の院でも仕事を分担して助けていた。花散里はなちるさと夫人と紫の女王にょおうとは同情を互いに持って美しい交際をしているのである。世間までがこのために騒ぐように見える大仕掛けな賀宴のことを式部卿の宮もお聞きになった。これまではだれのためにも慈父のような広い心を持つ源氏であるが御自身と御自身の周囲の者にだけは冷酷な態度を取り続けられておいでになるのを、源氏の立場になってみれば、恨めしいことが過去にあったのであろうと、その時代の源氏夫婦を今さら気の毒にもお思いになり、こうした現状を苦しがっておいでになったが、源氏の幾人もある妻妾さいしょうの中の最愛の夫人で女王があって、世間から敬意を寄せられていることも並み並みでない人が娘であることは、その幸福が自家へわけられぬものにもせよ、自家の名誉であることには違いないと思っておいでになった。
それに今度の賀宴が、源氏の勢力のもとでかつてない善美を尽くした準備が調えられているということをお知りになったのであるから、思いがけぬ老後の光栄を受けると感激しておいでになるが、宮の夫人は不快に思っていた。女御にょごの後宮の競争にも源氏が同情的態度に出ないことで、いよいよ恨めしがっているのである。
八月に六条院の造営が終わって、二条の院から源氏は移転することになった。南西は中宮の旧邸のあった所であるから、そこは宮のお住居すまいになるはずである。南の東は源氏の住む所である。北東の一帯は東の院の花散里、西北は明石あかし夫人と決めて作られてあった。もとからあった池や築山つきやまも都合の悪いのはこわして、水の姿、山の趣も改めて、さまざまに住み主の希望を入れた庭園が作られたのである。南の東は山が高くて、春の花の木が無数に植えられてあった。池がことに自然にできていて、近い植え込みの所には、五葉ごよう、紅梅、桜、藤ふじ、山吹やまぶき、岩躑躅いわつつじなどを主にして、その中に秋の草木がむらむらに混ぜてある。中宮のお住居すまいの町はもとの築山に、美しく染む紅葉もみじを植え加えて、泉の音の澄んで遠く響くような工作がされ、流れがきれいな音を立てるような石が水中に添えられた。
滝を落として、奥には秋の草野が続けられてある。ちょうどその季節であったから、嵯峨さがの大井の野の美観がこのために軽蔑けいべつされてしまいそうである。北の東は涼しい泉があって、ここは夏の庭になっていた。座敷の前の庭には呉竹くれたけがたくさん植えてある。下風の涼しさが思われる。大木の森のような木が深く奥にはあって、田舎いなからしい卯うの花垣はながきなどがわざと作られていた。昔の思われる花橘はなたちばな、撫子なでしこ、薔薇そうび、木丹くたになどの草木を植えた中に春秋のものも配してあった。東向いた所は特に馬場殿になっていた。庭には埒らちが結ばれて、五月の遊び場所ができているのである。菖蒲しょうぶが茂らせてあって、向かいの厩うまやには名馬ばかりが飼われていた。北西の町は北側にずっと倉が並んでいるが、隔ての垣かきには唐竹からたけが植えられて、松の木の多いのは雪を楽しむためである。冬の初めに初霜のとまる菊の垣根、朗らかな柞原ははそはら、そのほかにはあまり名の知れていないような山の木の枝のよく繁しげったものなどが移されて来てあった。
秋の彼岸のころ源氏一家は六条院へ移って行った。皆一度にと最初源氏は思ったのであるが、仰山ぎょうさんらしくなることを思って、中宮のおはいりになることは少しお延ばしさせた。おとなしい、自我を出さない花散里を同じ日に東の院から移転させた。春の住居すまいは今の季節ではないようなもののやはり全体として最もすぐれて見えるのがここであった。車の数が十五で、前駆には四位五位が多くて、六位の者は特別な縁故によって加えられたにすぎない。たいそうらしくなることは源氏が避けてしなかった。もう一人の夫人の前駆その他もあまり落とさなかった。長男の侍従がその夫人の子になっているのであるからもっともなことであると見えた。女房たちの部屋の配置、こまごまと分けて部屋数の多くできていることなどが新邸の建築のすぐれた点である。五、六日して中宮が御所から退出しておいでになった。
その儀式はさすがにまた派手はでなものであった。源氏を後援者にしておいでになる方という幸福のほかにも、御人格の優しさと高潔さが衆望を得ておいでになることがすばらしいお后きさき様であった。この四つに分かれた住居すまいは、塀へいを仕切りに用いた所、廊で続けられた所などもこもごもに混ぜて、一つの大きい美観が形成されてあるのである。九月にはもう紅葉もみじがむらむらに色づいて、中宮の前のお庭が非常に美しくなった。夕方に風の吹き出した日、中宮はいろいろの秋の花紅葉を箱の蓋ふたに入れて紫夫人へお贈りになるのであった。やや大柄な童女が深紅しんくの袙あこめを着、紫苑しおん色の厚織物の服を下に着て、赤朽葉くちば色の汗袗かざみを上にした姿で、廊の縁側を通り渡殿わたどのの反橋そりはしを越えて持って来た。お后が童女をお使いになることは正式な場合にあそばさないことなのであるが、彼らの可憐かれんな姿が他の使いにまさると宮は思召したのである。御所のお勤めに馴なれている子供は、外の童女と違った洗練された身のとりなしも見えた。お手紙は、
心から春待つ園はわが宿の紅葉を風のつてにだに見よ
というのであった。若い女房たちはお使いをもてはやしていた。こちらからはその箱の蓋へ、下に苔こけを敷いて、岩を据すえたのを返しにした。五葉の枝につけたのは、
風に散る紅葉は軽し春の色を岩根の松にかけてこそ見め
という夫人の歌であった。よく見ればこの岩は作り物であった。すぐにこうした趣向のできる夫人の才に源氏は敬服していた。女房たちも皆おもしろがっているのである。
「紅葉の贈り物は秋の御自慢なのだから、春の花盛りにこれに対することは言っておあげなさい。このごろ紅葉を悪口することは立田たつた姫に遠慮すべきだ。別な時に桜の花を背景にしてものを言えば強いことも言われるでしょう」
こんなふうにいつまでも若い心の衰えない源氏夫婦が同じ六条院の人として中宮と風流な戯れをし合っているのである。大井の夫人は他の夫人のわたましがすっかり済んだあとで、価値のない自分などはそっと引き移ってしまいたいと思っていて、十月に六条院へ来たのであった。住居すまいの中の設備も、移って来る日の儀装のことも源氏は他の夫人に劣らせなかった。それは姫君の将来のことを考えているからで迎えてからも重々しく取り扱った。 
 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
戦艦大和

 
大和

 

大和型戦艦の1番艦(ネームシップ)。2番艦の武蔵とともに、史上最大にして、唯一46センチ砲を搭載した戦艦である。呉海軍工廠にて建造され、昭和20(1945)年4月7日、特攻作戦に参加し沈没。
軍艦 大和は、大和型戦艦の1番艦。大和の艦名は奈良県の旧国名の大和国に由来する。艦名は、明治・大正時代の海防艦/特務艦大和に続いて二代目。
大和は戦艦として史上最大の排水量に、史上最大の46cm主砲3基9門を備え、防御面でも重要区画(バイタルパート)では対46cm砲防御を施した軍艦で、設計はもちろん、ブロック工法の採用など施工においても当時の日本の最高の技術が駆使された。しかしその存在、特に、46cm主砲の搭載が最高軍事機密であったので、建設時から秘匿に力が注がれ、また完成が数日差ながらすでに戦時中になっていたこと、さらに敗戦直後に設計図含め多くの記録が焼却処分されたために、その姿をとらえた現存写真は非常に少なくなっている。
太平洋戦争(大東亜戦争)開戦直後の1941年(昭和16年)12月16日に就役。1942年(昭和17年)2月12日に連合艦隊旗艦となった(司令長官山本五十六大将)。6月上旬のミッドウェー作戦が初出撃となった。1943年(昭和18年)2月、司令部設備に改良が施された同型艦の武蔵がトラック島に進出し、同艦に連合艦隊旗艦任務を移譲。同年末、大和は輸送作戦中に米潜水艦の雷撃で小破した。 修理後、1944年(昭和19年)6月の渾作戦、マリアナ沖海戦に参加した。同年10月中旬以降の捷一号作戦で、アメリカ軍の護衛空母部隊に対し46cm主砲砲撃を実施した(レイテ沖海戦)。1945年(昭和20年)4月7日、天一号作戦において第二艦隊(第一航空戦隊)旗艦として麾下の第二水雷戦隊と共に沖縄方面へ出撃したがアメリカ軍の機動部隊の猛攻撃を受け、坊ノ岬沖で撃沈された。  
 
 
 
 
 
沿革・艦歴 
建造
ロンドン海軍軍縮条約の失効を1年後に控えた1937年(昭和12年)、失効後にアメリカ・イギリス海軍が建造するであろう新型戦艦に対抗しうる艦船を帝国海軍でも建造することが急務とみた軍令部は、艦政本部に対し主砲として18インチ砲(46センチ砲)を装備した超大型戦艦の建造要求を出した。この要求を満たすべく設計されたのが「A140-F6」、すなわち後の大和型戦艦である。「A140-F6」型は2隻の建造が計画され、それぞれ「第一号艦」「第二号艦」と仮称された。しかし当時すでに航空主兵論が提唱され始めていたこともあり、飛行将校からはそうした大型艦の建造が批判されていた。
1937年(昭和12年)8月21日、米内光政海軍大臣から第一号艦製造訓令「官房機密第3301号」が出ると、5年後の1942年(昭和17年)6月15日を完成期日としてここに第一号艦の建造が始動した。同年11月4日には広島県呉市の呉海軍工廠の造船船渠で起工。長門型戦艦1番艦長門や天城型巡洋戦艦2番艦赤城(空母)を建造した乾ドックは大和建造のために1メートル掘り下げて、長さ314メートル、幅45メートル、深さ11メートルに拡張された。イギリスやアメリカにこの艦を超越する戦艦を作られないように建造は秘密裏に進められ、設計者たちに手交された辞令すらその場で回収される程だった。また艦の性能値も意図的に小さく登録された。
機密保持は厳重を極めた。造船所を見下ろせる所には板塀が設けられ、ドックには艦の長さがわからないよう半分に屋根を架け、船台の周囲には魚網などに使われる棕櫚(しゅろ)を用いたすだれ状の目隠しが全面に張り巡らされた。全国から膨大な量の棕櫚を極秘に買い占めたために市場での著しい欠乏と価格の高騰を招き、大騒ぎになったという逸話が残っている。建造に携わる者には厳しい身上調査が行われた上、自分の担当以外の部署についての情報は必要最小限しか知ることができないようになっていた。造船所自体が厳しい機密保持のために軍の管制下に置かれた。建造ドックを見下ろす山でも憲兵が警備にあたっていた。しかし海軍関係者の間で巨大戦艦建造の事実そのものは公然の秘密だった。海軍兵学校の生徒を乗せた練習機が大和の上空を飛び、教官が生徒達に披露したこともあったという。大和型戦艦建造の際の機密保持については、多くの建艦関係者が行き過ぎがあったことを指摘している。
1940年(昭和15年)3月3日、海軍はマル3計画1号艦の艦名候補として『大和』と『信濃』を挙げ、3月6日に昭和天皇は『大和』を選択した。軍艦の命名は、海軍大臣が複数の候補を選定して天皇の治定を仰ぐことが定められていた。天皇の決定をうけて吉田善吾海軍大臣は「第一号艦」を大和(やまと)と命名した。なお同日附でマル3計画の各艦艦名、武蔵(2号艦)、翔鶴(3号艦)、瑞鶴(4号艦)も決定している。
同年8月8日進水。ただし進水といっても武蔵(三菱長崎造船所建造)のように陸の船台から文字通り進水させるのではなく、大和の場合は造船ドックに注水してから曳船によって引き出す形で行われた。しかも機密保持からその進水式は公表されることもなく、高官100名と進水作業員1000名が見守るだけで、世界一の戦艦の進水式としては寂しいものだった。昭和天皇が海軍兵学校の卒業式出席という名目で大和進水式に行幸する予定が組まれ、造船関係者は社殿風の進水台を制作する。結局は天皇の義兄にあたる久邇宮朝融王海軍大佐(香淳皇后の兄、当時海防艦八雲艦長)臨席のもとで進水式は行われた。海軍大臣代理として式に臨んだ嶋田繁太郎海軍中将は、それまで仮称「一号艦」と呼ばれていたこの巨艦のことを初めて、ただし臨席者にも聞き取り難いほどの低い声で、大和と呼んだ。造船関係者は葛城型スループ2隻(大和、武蔵)が既に廃艦になっていることから新型戦艦(本艦)の艦名を大和と予測、橿原神宮と千代田城二重橋を描いた有田焼の風鈴を500個制作、関係者のみに配布した。 8月11日、帰京した朝融王は天皇に大和進水式について報告した。
大和進水後のドックでは大和型4番艦111号艦の建造がはじまったが、大和の艤装工事に労力を割いたため111号艦の進捗は遅れた。一方の大和は前述のように1942年6月の竣工を目指して艤装工事を続けたが、日本海軍は本艦の完成時期繰り上げを命令。
1941年(昭和16年)10月18日、土佐沖で荒天(風速南西20m)の中で速力27.4ノットを記録。続いて30日に全力公試27.46ノットを記録、11月25日には山本五十六連合艦隊司令長官が視察に訪れた。12月7日、周防灘で主砲射撃を実施した。真珠湾攻撃の前日だった。12月8日、南雲機動部隊の収容掩護のため豊後水道を南下する戦艦6隻(長門、陸奥、扶桑、山城、日向、伊勢)、空母鳳翔、第三水雷戦隊以下連合艦隊主力艦隊とすれ違う。 呉帰投後の第一号艦(大和)は12月16日附で竣工した。同日附で第一戦隊に編入された。艦艇類別等級表にも「大和型戦艦」が登録された。大和の1/500模型は昭和天皇と香淳皇后天覧ののち海軍省に下げ渡され、海軍艦政本部の金庫に保管されたという。
大和には当時の最新技術が多数使用されていた。日本海軍の軍艦では最初に造波抵抗を打ち消す球状艦首を用いて速力向上をはかり(竣工は翔鶴が先)、煙突などにおける蜂の巣構造の装甲、巨大な観測用の測距儀の装備など、進水時には世界最大最精鋭の艦型だった。就役当初レーダーは装備されていなかったが、その後電波探信儀が漸次装備されていった。  
連合艦隊旗艦
1942年(昭和17年)2月12日、大和は連合艦隊旗艦となった。参謀達はそれまで旗艦だった長門に比べ格段に向上した本艦の居住性に喜んでいる。 3月30日、距離38100mで46cm主砲射撃訓練を行う。第二艦隊砲術参謀藤田正路は大和の主砲射撃を見て1942年5月11日の日誌に「すでに戦艦は有用なる兵種にあらず、今重んぜられるはただ従来の惰性。偶像崇拝的信仰を得つつある」と残した。5月29日、大和はミッドウェー作戦により山本五十六連合艦隊司令長官が座乗して柱島泊地を出航したが、主隊として後方にいたため大和が直接アメリカ軍と砲火を交えることはなかった。6月10日、アメリカ軍の潜水艦に対して二番副砲と高角砲を発砲した。同6月14日柱島に帰投する。
大和が機動部隊と同行しなかったのは、戦前からの艦隊決戦思想と同じく空母は前衛部隊、戦艦は主力部隊という思想の元に兵力配備をしたからであり、艦艇の最高速度との直接的な関係はなかった。実際、主力空母のうち最も低速の空母加賀の速度差は殆ど0、飛鷹型航空母艦は25ノットで大和型戦艦より劣速である。ただ、飛鷹型空母は民間客船を改造した艦で、正規空母ではなく、航空母艦の護衛はより高速な艦が必要だったのは事実である。実際、空母の護衛には戦艦の中では高速戦艦に分類される金剛・比叡・榛名・霧島が用いられることが多かった。日本海軍の主戦力が空母と認識されたのはミッドウェー海戦での敗戦を受けてのことであり、この時点では少なくとも編成上は戦艦が主力の扱いであった。
1942年(昭和17年)8月7日、アメリカ軍がガダルカナル島に来襲してガダルカナル島の戦いが始まった。8月17日、山本長官以下連合艦隊司令部を乗せた大和は、空母大鷹(春日丸)、第7駆逐隊(潮、漣、曙)と共にソロモン方面の支援のため柱島を出航する。8月21日、グリメス島付近を航行し、航海中に第二次ソロモン海戦が勃発した。航空機輸送のため2隻(大鷹、曙)をラバウルに向かわせたのち、3隻(大和、潮、漣)は8月28日にチューク諸島トラック泊地に入港したが、入泊直前に大和はアメリカの潜水艦フライングフィッシュから魚雷4本を撃ち込まれた。2本は自爆、1本を回避している。その後、トラック泊地で待機した。 9月24日、ガダルカナル島への輸送作戦をめぐって陸軍参謀辻政信中佐が大和に来艦、山本連合艦隊長官と会談する。辻は大和の大きさに感嘆した。だが、大和が最前線に投入されることはなかった。ヘンダーソン基地艦砲射撃に参加する案も検討されたが取りやめとなった。 第三次ソロモン海戦では、老艦の金剛型戦艦霧島が大和と同世代のアメリカの新鋭戦艦であるサウスダコタとワシントンとの砲撃戦により大破、自沈した。この点で、大和型戦艦の投入をためらった連合艦隊の消極性とアメリカの積極性を比較する意見もある。  
昭和18年の行動
1943年(昭和18年)2月11日、連合艦隊旗艦任務は大和の運用経験を踏まえて通信、旗艦設備が改良された大和型戦艦2番艦武蔵に変更された。2月20日には第八方面軍司令官今村均陸軍中将が大和を訪問し、連合艦隊首脳陣と南東方面(ニューギニア方面、ソロモン諸島方面)作戦について懇談した。第八方面軍は海軍の潜水艦による輸送を依頼した。これは三式潜航輸送艇(通称「まるゆ」)開発につながる動きである。5月8日、空母2隻(冲鷹、雲鷹)、重巡2隻(妙高、羽黒)、駆逐艦4隻(潮、夕暮、長波、五月雨)と共にトラック出航、各艦は18日に呉や横須賀の母港へ戻った。呉では対空兵器を増強し、21号電探と22号電探などレーダーを装備する。
8月16日、主力部隊(戦艦3隻〈大和、長門、扶桑〉、空母〈大鷹〉、巡洋艦3隻〈愛宕、高雄、能代〉、駆逐艦部隊〈涼風、海風、秋雲、夕雲、若月、天津風、初風〉)は呉を出撃し、トラックへ向かう。 ソロモン諸島では激戦が行われ戦局が悪化していたが、大和はトラック島の泊地に留まったまま実戦に参加できなかった。居住性の高さや食事などの面で優遇されていたこともあいまって、他艦の乗組員や陸軍将兵から「大和ホテル」と揶揄されている。作戦行動を終えた駆逐艦が大和に横付けし、駆逐艦乗組員が大和の巨大で整った風呂を利用することも多かったという。10月中旬、マーシャル諸島への出撃命令が下った。アメリカ海軍の機動部隊がマーシャルに向かう公算ありとの情報を得たからである。旗艦武蔵以下、大和、長門などの主力部隊は決戦の覚悟でトラックを出撃した。しかし、4日間米機動部隊を待ち伏せしても敵は来ず、10月26日にトラック島に帰港する。
昭和18年12月、大和は戊一号輸送部隊に参加する。これは本艦と駆逐艦が横須賀から宇都宮編成陸軍独立混成第一連隊と軍需品を日本からトラック泊地へ輸送する作戦である。 12月12日、6隻(大和、翔鶴、山雲、秋雲、風雲、谷風)はトラックを出発、17日に横須賀へ帰着した。
12月20日、3隻(大和、山雲、谷風)は横須賀を出発したが12月25日、トラック島北西150浬でアメリカの潜水艦スケート (USS Skate, SS-305) より魚雷攻撃を受け、主砲3番砲塔右舷に魚雷1本を被雷した。4度の傾斜を生じたが約770トンの注水で復元、速度を落とさず速力20ノット前後でトラック泊地へ向かった。魚雷命中の衝撃を感じた者はおらず、わずかに傾斜したため異常に気づいたという。一方、すぐに魚雷命中と気がついた、乗り込んだ陸軍の兵士が衝撃に驚いて大騒ぎになったという乗員の証言が残されている。爆発の衝撃で舷側水線装甲背後の支持肋材下端が内側に押し込まれ、スプリンター縦壁の固定鋲が飛び、機械室と3番砲塔上部火薬庫に漏水が発生する被害を受けた。浸水量は3000-4000トンである。敵弾が水線鋼鈑下端付近に命中すると浸水を起こす可能性は、装甲の実射試験において指摘はされていたが重大な欠陥とは認識されていなかった。工作艦の明石に配属されていた造船士官によれば、トラック泊地着後の大和は明石に「右舷後部に原因不明の浸水があり調査して欲しい」と依頼、工作部員達は注排水系統の故障を疑ったものの異常はなかった。そこで潜水調査をしたところ右舷後部に長さ十数m・幅五mの魚雷破孔を発見し、驚いたという。トラックで応急修理を受けた後、内地への帰還を命じられた。  
レイテ沖海戦まで
1944年(昭和19年)1月10日、3隻(大和、満潮、藤波)はトラック泊地を出発する。15日に瀬戸内海へ到着した。 被雷により明らかになった欠陥に対して、浸水範囲をせばめるための水密隔壁が追加されたが、装甲の継手と装甲の支持鋼材の継手とが一致してしまっているという根本的欠陥は補強する方法もなく(支持鋼材の継手に角度をつけることでクサビ効果があると設計では考えられていたが、そのとおりには機能しなかった)、元のとおりに修理されただけであった。この工事と並行して、両舷副砲を撤去し、高角砲6基と機銃を増設して対空兵装の強化を図った。 なおスケートによる雷撃の2ヶ月後、トラック基地の偵察飛行で撮影されたネガフィルム上に見慣れぬ巨大な艦影を発見したアメリカ軍は、捕虜の尋問によってそれが戦艦大和・武蔵という新型戦艦で主砲についても45cm(17.7インチ)であると資料を纏めている。
4月22日、大和と重巡洋艦摩耶は駆逐艦4隻(島風、早霜、雪風、山雲)に護衛され瀬戸内海を出撃した。山雲は豊後水道通過後に護衛をやめて平郡島に戻った。早霜も途中で護衛を切り上げて横須賀に向かった。 大和隊は4月26日マニラ着、29日に同地を出発する。5月1日、リンガ泊地に到着した。
5月4日、第一戦隊司令官宇垣纏中将は長門から大和に移乗し、大和は第一戦隊旗艦となった。6月14日、ビアク島に上陸したアメリカ軍を迎撃するため渾作戦に参加するが、アメリカ軍がサイパン島に上陸したことにより渾作戦は中止となった。渾作戦部隊(第一戦隊〈大和、武蔵〉、第五戦隊〈妙高、羽黒〉、第二水雷戦隊〈能代、沖波、島風〉、第10駆逐隊〈朝雲〉、第4駆逐隊〈山雲、野分〉)は北上し、小沢機動部隊と合流した。6月15日、マリアナ沖海戦に参加。大和は栗田健男中将指揮する前衛艦隊に所属していた。6月19日、前衛艦隊上空を通過しようとしていた日本側第一次攻撃隊を米軍機と誤認、周囲艦艇とともに射撃して数機を撃墜するという失態も犯している。大和は発砲していないという証言もある。同日、日本軍機動部隊はアメリカ潜水艦の雷撃により空母2隻(大鳳、翔鶴)を失った。 6月20日、アメリカ軍の攻撃隊に向けて三式弾27発を放った。大和が実戦で主砲を発射したのはこれが最初である。6月24日に日本に戻る。10日ほど在泊したのち、陸軍将兵や物資を搭載して第四戦隊・第七戦隊・第二水雷戦隊と共にシンガポールへ向かう。7月16日、第一戦隊(大和、武蔵、長門)、駆逐艦3隻(時雨、五月雨、島風)はリンガ泊地に到着した。この後3ヶ月間訓練を行い、10月には甲板を黒く塗装した。  
レイテ沖海戦
1944年(昭和19年)10月22日、大和はレイテ沖海戦に参加するため第二艦隊(通称栗田艦隊)第一戦隊旗艦としてアメリカ軍上陸船団の撃破を目指しブルネイを出撃した。だが、23日早朝に栗田艦隊の旗艦・重巡愛宕がアメリカの潜水艦の雷撃で撃沈されたため、大和に座乗の第一戦隊司令官の宇垣中将が一時指揮を執った。夕方に栗田中将が移乗し第二艦隊旗艦となったが、2つの司令部が同居したため艦橋は重苦しい空気に包まれた。
24日、シブヤン海でアメリカ軍艦載機の雷爆撃により大和の姉妹艦である武蔵が撃沈された。このとき、大和にも艦前部に爆弾1発が命中している。25日午前7時、サマール島沖にてアメリカ護衛空母艦隊を発見し、他の艦艇と共同して水上射撃による攻撃を行った。
この戦闘で、大和は主砲弾を32,000mの遠距離から104発発射した。この砲撃に対しカリニン・ベイは「射程距離は正確だが、方角が悪い」と評している。当時大和砲術長だった能村(後、大和副長)によれば、射撃した前部主砲6門のうち徹甲弾は2発のみで、残る4門には三式弾が装填されていたと証言している。都竹卓郎が戦後両軍の各文献と自身の記憶を照らしたところによれば、『戦藻録』の「31キロより砲戦開始、2、3斉射にて1隻撃破、目標を他に変換す」が概ねの事実で、最初の「正規空母」は護衛空母ホワイト・プレインズで、次の艦はファンショー・ベイである。至近弾による振動でホワイト・プレインズは黒煙を噴き、大和ではこれを「正規空母1隻撃破」と判断して他艦に目標を変更したものらしい。アメリカ軍側の記録では、ホワイト・プレインズは命中の危険が迫ったために煙幕を展開したとしている。能村副長は、第一目標に四斉射した後「アメリカ軍の煙幕展開のため目標視認が困難となり、別の空母を損傷させようと目標を変更」と回想している。また、軍艦大和戦闘詳報第3号でも敵空母が煙幕を張り大和から遠ざかる様に回避したため目標を他に移したと報告されている。
戦闘中、大和はアメリカ軍の駆逐艦が発射した魚雷に船体を左右で挟まれ、魚雷の射程が尽きるまでアメリカ軍空母と反対方向に航行することになった。さらにアメリカ軍駆逐艦の効果的な煙幕や折からのスコールによって、光学測距による射撃は短時間に留まった。戦闘の後半で、仮称二号電波探信儀二型を使用したレーダー射撃を実施した。この戦闘では、大和右舷高角砲と機銃が沈没する米艦と脱出者に向けて発射され、大和の森下艦長と能村副長が制止するという場面があった。
アメリカ軍の護衛空母ガンビア・ベイに大和の主砲弾1発が命中して大火災を起こしたと証言もあるが、利根型重巡洋艦1番艦利根艦長黛治夫大佐は、著書で「戦艦部隊の主砲弾で敵空母が大火災を起こしたような事実はなかった」と強く反論している。アメリカ側の記録にも該当する大火災発生の事実はなく、ガンビア・ベイは午前8時15分に重巡羽黒と利根の20.3センチ砲弾を受けたのが最初の被弾とされている。ガンビア・ベイへの命中弾という説は大岡昇平も「よた話」として採り上げている。
アメリカ側では0725-0730頃、駆逐艦ホーエル、ジョンストンが戦艦からの主砲・副砲弾を受けた。アメリカ側が両艦を砲撃した戦艦としている金剛では0714に砲撃を開始し、2射目が有効であったとしているが、0715には大和、長門、榛名も駆逐艦、巡洋艦を目標に砲撃を行っている他、ホーエルが艦橋に命中弾を受け通信機能を失った0725には、大和が巡洋艦を目標に砲撃を行い撃沈を報じている。このため、0728にジョンストン、0725にホーエルに命中したのは大和、長門、金剛、榛名いずれかの主砲弾である可能性がある。また、第五戦隊(羽黒、鳥海)、第七戦隊(利根、筑摩)もホーエル、ジョンストンを砲撃しており、特にホーエルは0750以降に重巡部隊と大和、長門による集中砲火を浴び、40発の命中弾を受け、0830にその内の8インチ砲弾一発がエンジンルームを破壊して航行不能に陥ったが、0834に大和は他艦と共にこのホーエルに対して追撃を加え、0835にはホーエルは船尾より沈み始め、0855に遂に転覆する事となった。ジョンストンは0725の砲撃で被害を受けたものの、スコールに退避する事に成功したため、応急修理を行った後再び戦闘に復帰していたが、0845に軽巡矢矧を先頭に第十戦隊が空母群に魚雷攻撃を仕掛けようと、急速に接近している事を認めたジョンストンは矢矧に砲撃を加え水雷戦隊が空母群に接近する事を防ぐ事に成功したものの、0940に包囲され集中砲火を浴び沈没した。このため、この海戦で大和が単艦で敵艦を葬った可能性はないという事になる。なおこの海戦で、0850以降に大和が重巡洋艦鳥海を誤射したという説もあるが、大和は0834以降は砲撃を行っておらず、唯一0847に金剛が砲撃を行っていたのみであるため、大和が鳥海及び筑摩を誤射した可能性は無い。
2015年の雑誌『丸』にて、当時の羽黒乗組員である石丸法明が鳥海の被弾を羽黒艦橋で目撃した元良勇(羽黒通信長)、被弾した鳥海からの通信を羽黒電信室で受信した南里国広(二等兵曹、信号兵)、および当時の戦艦金剛乗組員3人の証言から、「金剛による誤射だった」という説を提唱している。
アメリカ軍の損害は、護衛空母ガンビア・ベイと駆逐艦ジョンストン、ホーエル、護衛駆逐艦サミュエル・B・ロバーツが沈没というものだった。この直後、関行男海軍大尉が指揮する神風特攻隊敷島隊が護衛空母部隊を急襲、体当たりにより護衛空母セント・ローが沈没、数隻が損害を受けた。
アメリカ戦史研究家のRobert Lundgrenの研究によれば、この海戦による大和による砲撃の効果は以下の通り。
ホワイト・プレインズ (護衛空母) : 至近弾とはいえ、本艦は大きく揺さぶられて機関室が破壊された。駆逐艦ジョンストン (USS Johnston, DD-557) :46cm砲弾3発被弾、15cm砲弾3発被弾。
サマール島沖砲撃戦の後、栗田長官は近隣にアメリカ機動部隊が存在するとの誤報を受けてレイテ湾に突入することなく反転を命じた。宇垣中将の著作には、当時の大和艦橋の混乱が描写されている。引き返す途中、ブルネイ付近でアメリカ陸軍航空隊機が攻撃にきた。残弾が少ないため近距離に引き付け対空攻撃をし、数機を撃墜した。
往復の航程でアメリカ軍機の爆撃により第一砲塔と前甲板に4発の爆弾が命中したが、戦闘継続に支障は無かった。砲塔を直撃した爆弾は、装甲があまりにも厚かったため、天蓋の塗装を直径1メートルほどに渡って剥がしただけで跳ね返され、空中で炸裂して付近の25ミリ機関砲の操作員に死傷者が出た。第二砲塔長であった奥田特務少佐の手記によると、爆弾が命中した衝撃で第二砲塔員の大半が脳震盪を起こし倒れたと云う。また前甲板の爆弾は錨鎖庫に水面下の破孔を生じ、前部に3000トンの浸水、後部に傾斜復元のため2000トンを注水した。
10月28日、大和はブルネイに到着した。11月8日、多号作戦において連合軍空軍の注意をひきつけるためブルネイを出撃、11日に帰港したが特に戦闘は起きなかった。11月16日、B-24爆撃機15機の襲撃に対し主砲で応戦、3機を撃墜する。同日夕刻、戦艦3隻(大和、長門、金剛)、第十戦隊(矢矧、浦風、雪風、磯風、浜風)とともに内地に帰還したが、台湾沖で金剛と駆逐艦浦風が米潜水艦の雷撃により撃沈されることとなった。11月23日、呉に到着。宇垣中将は退艦、森下信衛5代目艦長にかわって有賀幸作大佐が6代目艦長となった(森下は第二艦隊参謀長として引き続き大和に乗艦)。
大和の姉妹艦武蔵の沈没は、大和型戦艦を不沈艦と信じていた多くの乗組員に衝撃を与え、いずれ大和も同じ運命をたどるのではと覚悟する者もいた。宇垣中将は戦藻録に「嗚呼、我半身を失へり!誠に申訳無き次第とす。さり乍ら其の斃れたるや大和の身代わりとなれるものなり。今日は武蔵の悲運あるも明日は大和の番なり」と記した。
レイテ沖海戦で日本の連合艦隊は事実上壊滅した。大和型戦艦3番艦を空母に改造した信濃も呉回航中に米潜水艦の襲撃で沈没、結局大和と信濃が合同することはなかった。大和以下残存艦艇は燃料不足のため満足な訓練もできず、内地待機を続けている。
1945年(昭和20年)3月19日、呉軍港に敵艦載機が襲来、大和は事前に安芸灘に出たが攻撃を受け、直撃弾はなかったものの、測距儀が故障、陸あげ修理を要した。その後、すでに安全な場所でなくなった呉軍港から徳山沖に疎開した。
同年3月28日、「第二艦隊を東シナ海に遊弋させ、大和を目標として北上して来たアメリカ軍機動部隊を基地航空隊が叩く作戦」(三上作夫連合艦隊作戦参謀)に向け、大和(艦長:有賀幸作大佐、副長:能村次郎大佐、砲術長:黒田吉郎中佐)を旗艦とする第二艦隊(司令長官:伊藤整一中将、参謀長:森下信衛少将)は佐世保への回航を命じられ呉軍港を出港したが、米機動部隊接近の報を受けて空襲が予期されたので回航を中止し、翌日未明、徳山沖で待機となった。
3月30日にアメリカ軍機によって呉軍港と広島湾が1,034個の機雷で埋め尽くされ、機雷除去に時間がかかるために呉軍港に帰還するのが困難な状態に陥った。関門海峡は27日にアメリカ軍によって機雷封鎖され通行不能だった。  
 

 

海上特攻隊の準備
4月2日、第二水雷戦隊旗艦の軽巡洋艦矢矧での第二艦隊の幕僚会議では、次の3案が検討された。
1. 航空作戦、地上作戦の成否如何にかかわらず突入戦を強行、水上部隊最後の海戦を実施する。
2. 好機到来まで、極力日本海朝鮮南部方面に避退する。
3. 揚陸可能の兵器、弾薬、人員を揚陸して陸上防衛兵力とし、残りを浮き砲台とする。
この3案に対し古村少将、山本祐二大佐、伊藤中将ら幕僚は3.の案にまとまっていた。伊藤は山本を呉に送り、連合艦隊に意見具申すると述べた。4月3日には、少尉候補生が乗艦して候補生教育が始まっていた。
一方連合艦隊では、連合艦隊参謀神重徳大佐が大和による海上特攻を主張した。連合艦隊の草鹿龍之介参謀長はそれをなだめたが神大佐は「大和を特攻的に使用した度」と軍港に係留されるはずの大和を第二艦隊に編入させた。司令部では構想として海上特攻も検討はされたが、沖縄突入という具体案は草鹿参謀長が鹿屋に出かけている間に神大佐が計画した。神大佐は「航空総攻撃を行う奏上の際、陛下から『航空部隊だけの攻撃か』と下問があったではないか」と強調していた。神大佐は草鹿参謀長を通さずに豊田副武連合艦隊司令長官に直接決裁をもらってから「参謀長意見はどうですか?」と話した。豊田司令長官は「大和を有効に使う方法として計画した。50%も成功率はなく、上手く行ったら奇跡だった。しかしまだ働けるものを使わねば、多少の成功の算あればと決めた」と言う。一方の草鹿参謀長も「決まってからどうですかもないと腹を立てた」という。淵田美津雄参謀は「神が発意し直接長官に採決を得たもの。連合艦隊参謀長は不同意で、第五航空艦隊も非常に迷惑だった」という。
神は軍令部との交渉に入ったが、作戦課長富岡定俊少将は反対であった。富岡は「この案を持ってきたとき私は横槍を入れた。大和を九州方面に陽動させて敵の機動部隊を釣り上げ、基地航空部隊でこれを叩くというなら賛成だが、沖縄に突入させることは反対だ。第一燃料がない。本土決戦は望むところではないが、もしもやらなければいけない情勢に立ち至った場合の艦艇燃料として若干残しておかなければならない。ところが私の知らないところで小沢治三郎軍令部次長のところで承知したらしい」と話している。神の提案を軍令部総長及川古志郎大将は黙って聞いていたが、軍令部次長小沢治三郎中将は「連合艦隊長官がそうしたいという決意ならよかろう」と直接許可を与えた。戦後、小沢は「全般の空気よりして、その当時も今日も当然と思う。多少の成算はあった。次長たりし僕に一番の責任あり」という。第五航空艦隊長官の宇垣中将は戦時日誌に、及川軍令部総長が「菊水一号作戦」を昭和天皇に上奏したとき、「航空部隊丈の総攻撃なるや」との下問があり、天皇から『飛行機だけか?海軍にはもう船はないのか?沖縄は救えないのか?』と質問をされ「水上部隊を含めた全海軍兵力で総攻撃を行う」と奉答してしまった為に、第二艦隊の海上特攻も実施されることになったとして及川軍令部総長の対応を批判している。
4月5日、神参謀は草鹿参謀長に大和へ説得に行くように要請し、草鹿は大和の第二艦隊司令部を訪れ、長官の伊藤整一中将に作戦命令の伝達と説得を行った。なかなか納得しない伊藤に「一億総特攻の魁となって頂きたい」と言うと、伊藤中将は「そうか、それならわかった」と即座に納得した。連合艦隊作戦参謀の三上作夫中佐によれば、自身も作戦に疑問を持っていた草鹿参謀長が黙り込んでしまうと、たまりかねた三上が「要するに、一億総特攻のさきがけになって頂きたい、これが本作戦の眼目であります」と説明したという。草鹿参謀長は「いずれその最後を覚悟しても、悔なき死所を得させ、少しでも意義ある所にと思って熟慮を続けていた」と回想している。この特攻隊は連合艦隊長官豊田副武大将によって「海上特攻隊」と命名された。
大和では命令受領後の4月5日15時に乗組員が甲板に集められ、「本作戦は特攻作戦である」と初めて伝えられた。大和の高角砲員であった坪井平次によれば、しばらくの沈黙のあと彼らは動揺することなく、「よしやってやろう」「武蔵の仇を討とう」と逆に士気を高めたが、戦局の逼迫により、次の出撃が事実上の特攻作戦になることは誰もが出航前に熟知していたという。4月6日午前2時、少尉候補生や傷病兵が退艦。夕刻に君が代斉唱と万歳三唱を行い、それぞれの故郷に帽子を振った。
4月5日、連合艦隊より沖縄海上特攻の命令を受領。
「【電令作603号】(発信時刻13時59分) 8日黎明を目途として、急速出撃準備を完成せよ。部隊行動未掃海面の対潜掃蕩を実施させよ。31戦隊の駆逐艦で九州南方海面まで対潜、対空警戒に当たらせよ。海上護衛隊長官は部下航空機で九州南方、南東海面の索敵、対潜警戒を展開せよ。」「【電令作611号】(発信時刻15時)海軍部隊及び六航軍は沖縄周辺の艦船攻撃を行え。陸軍もこれに呼応し攻撃を実施す。7日黎明時豊後水道出撃。8日黎明沖縄西方海面に突入せよ。」
4月6日、
「【電令作611号改】(時刻7時51分)沖縄突入を大和と二水戦、矢矧+駆逐艦8隻に改める。出撃時機は第一遊撃部隊指揮官所定を了解。」として、豊後水道出撃の時間は第二艦隊に一任された。第二艦隊は同日夕刻、天一号作戦(菊水作戦)により山口県徳山湾沖から沖縄へ向けて出撃する。この作戦は「光輝有ル帝国海軍海上部隊ノ伝統ヲ発揚スルト共ニ、其ノ栄光ヲ後昆ニ伝ヘ」
を掲げた。
大和は菊水作戦で沖縄までの片道分の燃料しか積まずに出撃したとする主張が存在したが、記録、証言から約4,000(満載6,500)トンの重油を積んでいたことが判明している。戦闘詳報でも大和の出撃時の燃料搭載量は4000tと表記されており、生存者の三笠逸男は出撃前に燃料担当の同僚と会い、周囲のタンクなどからかき集めて合わせて4000t程大和に搭載する事を聞いている。
第二艦隊は大和以下、第二水雷戦隊(司令官:古村啓蔵少将、旗艦軽巡洋艦矢矧、第四十一駆逐隊(防空駆逐艦の冬月、涼月)、第十七駆逐隊(磯風、浜風、雪風)、第二十一駆逐隊(朝霜、初霜、霞)で編成されていた。先導した対潜掃討隊の第三十一戦隊(花月、榧、槇)の3隻は練度未熟とみて、豊後水道で呉に引き返させた。
アメリカ軍偵察機F-13『スーパーフォートレス』(B-29の偵察機型) により上空から撮影された出撃直後の大和の写真が2006年7月にアメリカにて発見された。当時の大和の兵装状態は未だ確定的な証拠のある資料はなく、この写真が大和最終時兵装状態の確定に繋がると期待されている。
天一号作戦の概要は、アメリカ軍に上陸された沖縄防衛の支援、つまりその航程で主にアメリカ海軍の邀撃戦闘機を大和攻撃隊随伴に振り向けさせ、日本側特攻機への邀撃を緩和させることである。さらに立案者の神重徳参謀の構想では、もし沖縄にたどり着ければ、自力座礁し浮き砲台として陸上戦を支援し、乗員は陸戦隊として敵陣突入させることも描いていたとされる(神大佐は、以前にも戦艦山城を突入させ浮き砲台としサイパンを奪還すると具申して、中沢佑軍令部作戦部長に「砲を撃つには電気系統が生きてなければならない」と却下されたことがある)。沖縄の日本陸軍第三十二軍は、連合艦隊の要請に応じて4月7日を予定して攻勢をかけることになっていた。なお、大和を座礁させて陸上砲台にするには、(1)座礁時の船位がほぼ水平であること、(2)主砲を発射するためには、機関および水圧系と電路が生きており、射撃管制機能が全滅していないこと、の2点が必要であり、既に実行不可能とされていた。実際、レイテ沖海戦で座礁→陸上砲台の案が検討されたが、上記に理由で却下されている。また、現実を見ればアメリカ軍の制海権・制空権下を突破して沖縄に到達するのは不可能に近く、作戦の主意は、攻撃の主役である菊水作戦による航空特攻を支援するための陽動作戦であった。戦争末期には日本海軍の暗号はアメリカ軍にほとんど解読されており、出撃は通信諜報からも確認され、豊後水道付近ではアメリカのスレッドフィン、ハックルバックの2隻の潜水艦に行動を察知された。4月6日21時20分、ハックルバックは浮上して大和を確認、ハックルバックの艦長のフレッド・ジャニー中佐は特に暗号も組まれずに「ヤマト」と名指しで連絡した。この電報は大和と矢矧に勤務していた英語堪能な日系2世通信士官に傍受され、翻訳されて全艦に連絡された。
当初、第5艦隊司令長官レイモンド・スプルーアンス大将は戦艦による迎撃を考えていた。しかし大和が西進し続けたため日本海側に退避する公算があること、大和を撃沈することが目的であり、そのために手段は選ぶべきではないと考え、マーク・ミッチャー中将の指揮する機動部隊に航空攻撃を命じたという。しかし実際には、スプルーアンス大将が戦艦による砲撃戦を挑もうとしていたところをミッチャー中将が先に攻撃部隊を送り込んでしまった。武蔵は潜水艦の雷撃で沈んだという噂があり、ミッチャー中将は何としても大和を航空攻撃のみで撃沈したかったのだという。またミッチャー中将は、各部隊の報告から大和が沖縄へ突入すると確信し、スプルーアンスに知らせないまま攻撃部隊の編成を始めた。なお、スプルーアンス大将はアメリカ留学中の伊藤中将と親交を結んだ仲であった。  
坊ノ岬沖海戦
4月7日6時30分ごろ、大和は対潜哨戒のため零式水上偵察機を発進させた。この機は鹿児島県指宿基地に帰投した。九州近海までは、レイテ沖海戦で大和に乗艦していた宇垣中将率いる第五航空艦隊第二〇三航空隊(鹿児島県南部笠、原飛行場)の零式艦上戦闘機が艦隊の護衛を行った。能村副長はF6Fヘルキャット3機を目撃したのみで、日本軍機はいなかったと回想する。一方、日本軍機の編隊を見たという証言もある。実際に護衛は行われたが、天候不良で第二艦隊を発見できず引き返す隊や、第二艦隊の壊滅により発進中止となる隊があるなど、急遽決定した特攻作戦のため準備不足の中途半端な護衛になってしまった。
その数機単位の護衛機も4月7日昼前には帰還し、入れ替わるようにアメリカ軍のマーチン飛行艇などの偵察機が艦隊に張り付くようになる。スレッドフィンが零戦の護衛を報告し、ミッチャーが零戦の航続距離を考慮した結果ともいわれる。アメリカ軍の記録によれば、8時15分に3機のF6Fヘルキャット索敵隊が大和を発見した。8時23分、別のヘルキャット索敵隊も大和を視認した。このヘルキャット隊は周辺の索敵隊を集め、同時にマーチン飛行艇も監視に加わった。大和は主砲以外の対空火器で砲撃したが、アメリカ偵察機を追い払うことはできなかった。
4月7日12時34分、大和は鹿児島県坊ノ岬沖90海里(1海里は1,852m)の地点でアメリカ海軍艦上機を50キロ遠方に認め、射撃を開始した。8分後、空母ベニントンの第82爆撃機中隊(11機)のうちSB2C ヘルダイバー急降下爆撃機4機が艦尾から急降下する。中型爆弾500kg爆弾8発が投下され、アメリカ軍は右舷機銃群、艦橋前方、後部マストへの直撃を主張した。大和は後部指揮所、13号電探、後部副砲の破壊を記録している。後年の海底調査ではその形跡は見られないが、実際には内部が破壊され、砲員生存者は数名だった。前部艦橋も攻撃され、死傷者が出た。また、一発が大和の主砲に当たり、装甲の厚さから跳ね返され、他所で炸裂したという説もある。同時に、後部射撃指揮所(後部艦橋)が破壊された。さらに中甲板で火災が発生、防御指揮所の能村副長は副砲弾庫温度上昇を確認したが、すぐに「油布が燃えた程度」と鎮火の報告が入ったという。建造当初から弱点として問題視された副砲周辺部の命中弾による火災は、沈没時まで消火されずに燃え続けた。実際には攻撃が激しく消火どころではなかったようで、一度小康状態になったものが、その後延焼している。前部中甲板でも火災が発生したとする研究者もいる。清水副砲長は沖縄まで行けるかもしれないと希望を抱いた。
アメリカ軍は戦闘機、爆撃機、雷撃機が大和に対し同時攻撃を行った。複数方向から多数の魚雷が発射される上に、戦闘機と爆撃機に悩まされながらの対処だったため、巨大な大和が完全に回避する事は困難だった。ベニントン隊に続きホーネットの第17爆撃機中隊(ロバート・ウォード中佐)が大和を攻撃した。艦首、前部艦橋、煙突後方への直撃弾を主張し、写真も残っている。12時40分、ホーネット (CV-12) の第17雷撃機中隊8機が大和を雷撃し、魚雷4本命中を主張した。「軍艦大和戦闘詳報」では12時45分、左舷前部に1本命中である。戦後の米軍対日技術調査団に対し、森下参謀長、能村副長、清水副砲術長は爆弾4発、宮本砲術参謀は爆弾3発の命中と証言。魚雷については、宮本砲術参謀は3本、能村副長は4本、森下参謀長は2本、清水福砲術長は3本(全員左舷)と証言した。これを受けて、アメリカ海軍情報部は艦中央部左舷に魚雷2本命中と推定、アメリカ軍攻撃隊は魚雷命中8本、爆弾命中5発と主張し「風評通りに極めてタフなフネだった」と述べている。大和では主要防御区画内への浸水で左舷外側機械室が浸水を起こし、第八罐室が運転不能となっていた。左舷に5度傾斜するも、これは右舷への注水で回復した。
13時2分、第二波攻撃が始まった。アメリカ軍攻撃隊94機中、大和に59機が向かった。第83戦闘爆撃機中隊・雷撃機中隊が攻撃を開始。雷撃隊搭乗員は、大和が主砲を発射したと証言している。射撃指揮所勤務兵も、砲術長が艦長の許可を得ずに発砲したと証言するが、発砲しなかったという反論もある。いずれにせよアメリカ軍機の阻止には至らず、エセックスの攻撃隊が大和の艦尾から急降下し、爆弾命中によりマストを倒した。さらに直撃弾と火災により、大和からアメリカ軍機を確認することが困難となった。アメリカ軍機は攻勢を強め、エセックスの雷撃隊(ホワイト少佐)が大和の左右から同時雷撃を行い、9本の魚雷命中を主張した。バターンの雷撃隊(ハロルド・マッザ少佐)9機は全発射魚雷命中、もしくは4本命中確実を主張した。バンカーヒルの雷撃隊(チャールス・スワッソン少佐)は13本を発射し、9本命中を主張した。キャボットの雷撃隊(ジャック・アンダーソン大尉)は、大和の右舷に照準を定めたが進行方向を間違えていたので、実際には左舷を攻撃した。魚雷4本の命中を主張し、これで第一波、第二波攻撃隊が大和に命中させた魚雷は29本となった。これは雷撃隊が同時攻撃をかけたため、戦果を誤認したものと考えられる。
大和の防空指揮所にいた塚本高夫艦長伝令、渡辺志郎見張長はアメリカ軍が見た事のない激しい波状攻撃を行ったと証言している。宮本砲術参謀は右舷に魚雷2本命中したとする。大和の速力は18ノットに落ち、左舷に15度傾いた。左舷側区画は大量に浸水し、右舷への注水でかろうじて傾斜は回復したが、もはや限界に達しようとしていた。左舷高角砲発令所(左舷副砲塔跡)が全滅し、甲板の対空火器が減殺された。
13時25分、通信施設が破壊された大和は初霜に通信代行を発令した。
13時30分、イントレピッド、ヨークタウン、ラングレーの攻撃隊105機が大和の上空に到着した。13時42分、ホーネット、イントレピッドの第10戦闘爆撃機中隊4機は、1000ポンド爆弾1発命中・2発至近弾、第10急降下爆撃機中隊14機は、雷撃機隊12機と共同して右舷に魚雷2本、左舷に魚雷3本、爆弾27発命中を主張した。この頃、上空の視界が良くなったという。
大和は多数の爆弾の直撃を受け、艦内では火災が発生した。大和の艦上では、爆弾の直撃やアメリカ軍戦闘機の機銃掃射、ロケット弾攻撃により、対空兵器が破壊されて死傷者が続出する。水面下では、アメリカ軍の高性能爆薬を搭載した魚雷が左舷に多数命中した結果、復元性の喪失と操艦不能を起こした。「いったい何本の魚雷が命中してるかわからなかった」という証言があるほどである。後部注排水制御室の破壊により注排水が困難となって状況は悪化した。船体の傾斜が5度になると主砲、10度で副砲、15度で高角砲が射撃不能となった。また13時30分に副舵が故障し、一時的に舵を切った状態で固定され、直進ないし左旋回のみしか出来なくなった。このことに関して、傾斜を食い止めるために意図的に左旋回ばかりしていたと錯覚する生存者もいる。また、大和が左舷に傾斜したため右旋回が出来なくなったとする見方もある。船舶は旋回すると、旋回方向と反対側に傾斜する性質があり、左傾斜した大和が右旋回すると左に大傾斜して転覆しかねなかったという。これらのことにより、アメリカ軍は容易に大和に魚雷を命中させられるようになったが、15分後に副舵は中央に固定された。左舷にばかり魚雷が命中していることを懸念した森下参謀長が右舷に魚雷をあてることを提案したが、もはやその余裕もなく、実行されずに終わった。
また、傾斜復旧のために右舷の外側機械室と3つのボイラー室に注水命令が出されているが、機械室・ボイラー室は、それぞれの床下にある冷却用の配管を人力で壊して浸水させる必要があり、生存者もいないため実際に操作されたかどうかは不明である。しかしながら14時過ぎには艦の傾斜はおおむね復旧されていたのも事実である。
14時、注排水指揮所との連絡が途絶し、舵操舵室が浸水で全滅した。大和の有賀艦長は最後を悟り、艦を北に向けようとしたが、大和は既に操艦不能状態だった。大和は艦橋に「我レ舵故障」の旗流を揚げた。14時15分、警報ブザーが鳴り、全弾薬庫に温度上昇を示す赤ランプがついたが、もはや対処する人員も時間もなかった。護衛駆逐艦からは航行する大和の右舷艦腹が海面上に露出し、左舷甲板が海面に洗われるのが見えた。
大和への最後のとどめになった攻撃は、空母ヨークタウンの第9雷撃機中隊TBF アベンジャー6機による右舷後部への魚雷攻撃であった。14時10分、トム・ステットソン大尉は、左舷に傾いたため露出した大和の艦底を狙うべく、大和の右舷から接近した。雷撃機後部搭乗員は、艦底に魚雷を直撃させるために機上で魚雷深度を3mから6mに変更した。4機が魚雷を投下、右舷に魚雷2-4本命中を主張する。やや遅れて攻撃した2機は右舷に1本、左舷後部に1本の命中を主張した。後部への魚雷は、空母ラングレー隊の可能性もある。
この魚雷の命中は、大和の乗員にも印象的に記憶されている。艦橋でも「今の魚雷は見えなかった…」という士官の報告がある。三笠逸男(一番副砲砲員長)は、「4機編隊が攻めてきて魚雷が当たった。艦がガーンと傾きはじめた」と証言している。黒田吉郎砲術長は「右舷前部と左舷中央から大水柱があがり、艦橋最上部まで伝わってきた。右舷に命中したに違いない」と証言した。坂本一郎測的手は「最後の魚雷が致命傷となって、船体がグーンと沈んだ」と述べた。呉海事博物館の映像では、5本の魚雷が投下されたが回避することが出来ないので有賀艦長は何も言わずに命中するまで魚雷を見つめていたという生存者の証言が上映されている。
このように14時17分まで、大和はアメリカ軍の航空隊386機(戦闘機180機・爆撃機75機・雷撃機131機)もしくは367機による波状攻撃を受けた。戦闘機も全機爆弾とロケット弾を装備し、機銃掃射も加わって、大和の対空火力を破壊した。ただし艦隊の上空に到達して攻撃に参加したのは309機。その中から大和を直接攻撃したのは117機(急降下爆撃機37、機戦闘機15機、戦闘爆撃機5機、雷撃機60機)である。
『軍艦大和戦闘詳報』による大和の主な被害状況は以下のとおり。ただし、「大和被害経過資料不足ニテ詳細不明」との注がある。また大和を護衛していた第二水雷戦隊が提出した戦闘詳報の被害図や魚雷命中の順番とも一致しない。例えば第二水雷戦隊は右舷に命中した魚雷は4番目に命中と記録している。
  ○ 12時41分 後部に中型爆弾2発命中。電探室および主計課壊滅
  ○ 12時45分 左舷前部に魚雷1本命中。
  ○ 13時37分 左舷中央部に魚雷3本命中、副舵が取舵のまま故障。
  ○ 13時44分 左舷中部に魚雷2本命中。
  ○ 13時45分 副舵を中央に固定。応急舵で操舵。
  ○ 14時00分 艦中央部に中型爆弾3発命中。
  ○ 14時07分 右舷中央部に魚雷1本命中。
  ○ 14時12分 左舷中部、後部に魚雷各1本命中。機械右舷機のみで12ノット。
    傾斜左舷へ6度。
  ○ 14時17分 左舷中部に魚雷1本命中、傾斜急激に増す。
  ○ 14時20分 傾斜左舷へ20度、傾斜復旧見込みなし。
    総員上甲板(総員退去用意)を発令。
  ○ 14時23分 大和、沈没。(左舷側へ大傾斜、転覆ののち、前後主砲の弾火薬庫の誘爆による大爆発を起こして爆沈)。死者2740名、生存者269名。
最後の複数の魚雷が大和の右舷に命中してからは20度、30度、50度と急激に傾斜が増した。能村副長は防御指揮所から第二艦橋へ上がると有賀艦長に総員最上甲板を進言し、森下参謀長も同意見を述べた。伊藤長官は森下参謀長と握手すると、全員の挙手に答えながら、第一艦橋下の長官休憩室に去った。森下参謀長は第二艦隊幕僚達に対し、駆逐艦に移乗したのち沖縄へ先行突入する事を命じ、自身は大和を操艦するため艦橋に残った。有賀艦長は号令機で「総員最上甲板」を告げたが、すでに大和は左舷に大傾斜して赤い艦腹があらわになっていた。このため、脱出が間に合わず艦内に閉じ込められて戦死した者が多数いた。有賀艦長は羅針儀をつかんだまま海中に没した。第一艦橋では、茂木史朗航海長と花田中尉が羅針儀に身体を固定し、森下参謀長が若手将兵を脱出させていた。昭和天皇の写真(御真影)は主砲発令所にあって第九分隊長が責任を負っていたので、同分隊長服部海軍大尉が御真影を私室に捧持して鍵をかけた。一方、艦橋測的所の伝令だった北川氏の証言によれば、腰まで海水に浸かり脱出不能となった主砲発令所で中村中尉が御真影を腹に巻いているという報告があったのちに連絡が途絶えたとされる。  
沈没
14時20分、大和はゆっくりと横転していった。艦橋頂上の射撃指揮所配置の村田元輝大尉や小林健(修正手)は、指揮所を出ると、すぐ目の前が海面だったと証言している。右舷外側のスクリューは最後まで動いていた。左舷の高角砲も半場海水に浸かり、砲身を上下させる隙間から乗員が外に出た。艦橋周囲の手すりには乗員が鈴なりにぶら下がっていた。14時23分、上空のアメリカ軍攻撃隊指揮官達は大和の完全な転覆を確認する。「お椀をひっくりかえすように横転した」という目撃談がある。
大和は直後に大爆発を起こし、船体が3つに分断されて海底に沈んだ。
大和の沈没時刻について「軍艦大和戦闘詳報」と「第17駆逐隊戦時日誌」では14時23分、初霜の電文を元にした「第二水雷戦隊戦闘詳報」は14時17分と記録している。爆発によって吹き飛ばされた破片は海面の生存者の上に降り注ぎ、それによって命を落とした生存者も少なくなかった。
所在先任指揮官吉田正義大佐(冬月、第四一駆逐隊)は、沖縄突入より生存者の救助を命じた。軽巡矢矧から脱出後、17時20分に初霜に救助された古村啓蔵少将は一時作戦続行を図って暗号を組んでいたものの、結局は生存者を救助のうえ帰途についた。
14時50分、冬月と雪風が駆けつけ、甲板から垂らしたロープや縄梯子、短艇(内火艇)を使って大和の生存者の救助を開始した。冬月は艦橋から望遠鏡で海上を探索し、2隻の内火艇に指示を出して救助を進めた。森下参謀長、石田第二艦隊副官は冬月の内火艇に発見され救助された。
頭頂部に裂傷を負った能村副長は森下参謀長から少し離れた海上を漂っていた。副長補佐の国本中尉が「副長ここにあり」と周囲の生存者を呼び集め、負傷者を中心に輪になって救助を待つと、雪風がボート(内火艇)を下して能村副長ら負傷者の救助を始めた。元気な者は縄梯子で甲板に上り、国本中尉は雪風の負傷兵と交代して配置についた。小林修正手も彼を救助した雪風が2隻の内火艇を降ろして、重傷を負って殆ど口と鼻だけ水面に出して浮いている兵や、体力を完全に使い果たし自力では動けない兵などを救助していたのを目撃している。能村副長は漂流中に意識を失い、雪風の水兵が一所懸命気付の張り手を加えても覚醒しなかった。大佐の襟章も重油で汚れていて本人確認が難しく、気絶したまま雪風軍医長の縫合を受けて生還した。
冬月、雪風による大和の救助作業は16時半頃に切り上げられた。雪風艦上では救助切り上げ、ボートの回収を命令した駆逐艦長に対して大和の士官が「まだ生存者が残っている」と救助の継続を訴えたが、日没が近くなり潜水艦の行動が活発化する恐れがあったこと、損傷艦を救援する作業が控えていたことから、そこで打ち切られた。冬月は霞、矢矧の救助を行った後、涼月の探索のため19時2分に先行して海域を離れ、雪風は矢矧の救助後、23時頃まで磯風の救援に当たった。冬月は潜水艦の追跡を受け、同じく雪風は潜水艦から雷撃されたが、両艦とも被害はなく、4月8日午前、救助した大和の生存者と共に佐世保に入港した。
大和では伊藤整一第二艦隊司令長官(戦死後大将)、有賀艦長(同中将)以下2,740名が戦死、生存者269名または276名、第二水雷戦隊戦闘詳報によれば、準士官以上23名・下士官兵246名、第二艦隊司令部4名・下士官兵3名であった。
うまく沖縄本島に上陸できれば乗組員の給料や物資買い入れ金なども必要とされるため、現金51万805円3銭が用意されていた(2006年の価値に換算して9億3000万円ほど)。大和を含めた各艦の用意金額は不明だが、少なくとも浜風に約14万円が用意され、同艦轟沈により亡失したことが記録されている。
4月9日、朝日新聞は一面で「沖縄周辺の敵中へ突撃/戦艦始め空水全軍特攻隊」と報道したが、大和の名前も詳細も明らかにされることはなかった。
大和沈没の報は親任式中の鈴木貫太郎首相ら内閣一同に伝えられ、敗戦が現実のものとして認識されたという。同様の感想は、大和の沈没を目撃した米軍搭乗員も抱いている。終戦後の1945年(昭和20年)8月31日、戦艦4隻(山城、武蔵、扶桑、大和)、空母4隻(翔鶴、信濃、瑞鶴、大鳳)は帝国軍艦籍から除籍された。
4月30日、昭和天皇は米内海軍大臣に「天号作戦ニ於ケル大和以下ノ使用法不適当ナルヤ否ヤ」と尋ねた。海軍は「当時の燃料事情及練度 作戦準備等よりして、突入作戦は過早にして 航空作戦とも吻合せしむる点に於て 計画準備周到を欠き 非常に窮屈なる計画に堕したる嫌あり 作戦指導は適切なりとは称し難かるべし」との結論を出した。
12月9日、GHQはNHKラジオ第1放送・第2放送を通じて『眞相はかうだ』の放送を開始、この中で大和の沈没を『世界最大のわが戦艦大和と武蔵の最後についてお知らせ下さい』という題で放送した。アメリカ軍の認識であるため、大和は排水量4万5000トンの戦艦として紹介されている。  
 
 
 
 
沈没要因 

 

大和が爆発した際の火柱やキノコ雲は、遙か鹿児島でも確認できたという。だが、視認距離を求める公式 L 1 ( k m ) = 116.34 × ( h o ( k m ) + h t ( k m ) ) {\displaystyle L1(km)=116.34\times ({\sqrt {ho}}(km)+{\sqrt {ht}}(km))} {\displaystyle L1(km)=116.34\times ({\sqrt {ho}}(km)+{\sqrt {ht}}(km))}(L1は水平線上の最大視認距離、ho は水面からの眼高。ht は目標の高さ。坊の岬最高点は96.9m 爆煙が雲底到達した高度は1,000m)に当てはめてみると視認距離は152.6kmとなり、計算の結果は213km以上も離れた鹿児島県からは確認できないこととなる。徳之島から見えたという伝承がある。
爆発は船体の分断箇所と脱落した主砲塔の損傷の程度より、2番主砲塔の火薬庫が誘爆したためとされる。アメリカ軍と森下参謀長、清水副砲術長は後部副砲の火災が三番主砲弾薬庫の誘爆に繋がったと推論したが、転覆直後に爆発している点などをふまえ、大和転覆による爆発とする説のほうが有力である。能村副長は「主砲弾の自爆」という表現を使っている。戦後の海底調査で、艦尾から70mの艦底(機関部)にも30mほどの大きな損傷穴があることが判明している。これはボイラーが蒸気爆発を起こした可能性が高いとされるが、三番主砲弾薬庫の爆発によるものであるとする報告もある。
同型艦の武蔵が魚雷20本以上・爆弾20発近くを被弾しながら9時間程耐えたのに比べ、大和は2時間近くの戦闘で沈没した。いささか早く沈んだ印象があるが、これは被弾魚雷の内1本(日本側記録では7本目)を除いては全て左舷に集中した、低い雲に視界を遮られて大和側から敵機の視認が困難を極めた、武蔵に比べアメリカ軍の攻撃に間断がなく、さらにレイテ沖海戦の時よりも攻撃目標艦も限られていたなど、日本側にとって悪条件が重なっていた。また有賀艦長は1944年(昭和19年)12月に着任、茂木航海長(前任、戦艦榛名)は出撃の半月前の着任である。新任航海長や、小型艦の艦長や司令官として経験を積んだ有賀艦長が巨艦・大和の操艦に慣れていなかった事が多数の被弾に繋がったという指摘もある。1945年(昭和20年)以降の大和は燃料不足のため、満足な訓練もできなかった。有賀艦長も海兵同期の古村第二水雷戦隊司令官に、燃料不足のため主砲訓練まで制限しなければならない窮状を訴えている。これに対し、大和操艦の名手と多くの乗組員が賞賛する森下参謀長は「大和のような巨艦では敏速な回避は難しく、多数の航空機を完全回避することは最も苦手」と語っている。航海士の山森も、沖縄特攻時のアメリカ軍攻撃の前では、森下の技量でも同じだったとした。その一方で、森下参謀長ならば沖縄まで行けたかもしれないと述べる意見もある。
アメリカ軍航空隊は武蔵一隻を撃沈するのに5時間以上もかかり手間取った点を重視し、大和型戦艦の攻略法を考えていたという。その方法とは、片舷の対空装備をロケット弾や急降下爆撃、機銃掃射でなぎ払った後、その側に魚雷を集中させて横転させようというものだった。だが、意図的に左舷を狙ったというアメリカ軍記録や証言は現在のところ発見されていない。
さらに、アメリカ軍艦載機が提出した戦果報告と日本側の戦闘詳報による被弾数には大きな食い違いがある。艦の被害報告を受けていた能村副長(艦橋司令塔・防御指揮所)は魚雷命中12本と回想。中尾(中尉、高射長付。艦橋最上部・防空指揮所)は魚雷14本。戦闘詳報では、魚雷10本・爆弾7発。アメリカ軍戦略調査団は、日本側資料を参考に魚雷10本、爆弾5発。アメリカ軍飛行隊の戦闘報告では、367機出撃中最低117機(戦闘機ヘルキャット15機、戦闘機コルセア5機、急降下爆撃機ヘルダイバー 37機、雷撃機アベンジャー60機)が大和を攻撃し、魚雷30-35本、爆弾38発が命中したと主張。第58任務部隊は魚雷13-14本確実、爆弾5発確実と結論づけている。アメリカ軍の戦闘記録を分析した原勝洋は、日本側の戦闘詳報だけでなく、アメリカ軍記録との照合による通説の書き換えが必要だと述べた。アメリカ軍の被害は6機が墜落、5機が帰還後に破棄、47機が被弾した。 
戦後 
記念碑他
呉市の旧海軍墓地(長迫公園)に「戦艦大和戦死者之碑」がある。大和が建造された旧呉海軍工廠(現在はジャパン マリンユナイテッド)のドックを望む丘の上にも艦橋の高さの1/10の記念碑が設立された。徳之島にも戦艦大和慰霊塔が建立されている(塔の高さは艦橋の高さと同じ)。建造されたドックは埋め立てられているが、機密保持のために設けられた屋根はそのまま残されている。修繕に使用された北側のドックは2017年現在も稼働中である。  
海底調査
戦闘詳報による大和の沈没地点は北緯30度22分 東経128度04分。だが実際の大和は、北緯30度43分 東経128度04分、長崎県の男女群島女島南方176km、鹿児島県の宇治群島宇治向島西方144km、水深345mの地点に沈んでいる。
戦後4回の海底探査が行われている。1982年の探査で最初に大和と思われる船体が発見された。様々な資料を検討して沈没点を推定し、広範囲の海底スキャンが行われた。その結果、通常見られる海底の起伏地形とは異なる反応を得た。引き続き無人探査機を降ろして海底の探査を行ったが、沈船らしき映像が写ったものの途中から天候が悪化したためにその船体が大和かどうか確認できないまま調査を終了している。また、海底の物体の全長が大和と比較して明らかに短いことも指摘されていた。
1985年、戦後40年目の節目ということもあり、大和の発見を目指して「海の墓標委員会」が組織され有人海底探査船が同年7月29日より開始された。探査には大和会や遺族会、民間企業の出資で行われた。探査船はイギリスから空輸された3人の乗りの「パイセスII」が使用された。7月29日より調査が開始され7月30日には巨大な艦尾とスクリューが確認された。7月31日に主砲弾や艦首部分の菊の紋章が発見され、その直径を測定することで沈没船が大和であると確定された。同日中に艦橋や艦の前半部分も発見されたが、船体が大きく2分割されていることや主砲塔がすべて脱落していることも判明した。この探査ではパイセスIIが把持できる範囲の重量の遺品が海底から収集され回収された。
1999年にも潜水調査が行われ、海底に散乱した部品の地図が作成された。それを元に海底の様子を再現した模型が作成され、大和ミュージアムで展示された。2009年(平成21年)1月になって大和の母港であった呉市海事歴史科学館・呉商工会議所・中国新聞・日本放送協会広島放送局等、広島の経済界やマスコミが中心となって寄付を募って引き揚げる計画を立ち上げ、数十億円規模の募金を基に船体の一部の引揚げを目指したが、その後話が立ち消えとなった。
2016年5月、呉市の依頼で深田サルベージ建設が「はくよう」を投入して調査が行われた。総費用8000万円のうち、呉市が6400万円を拠出した。5月10日に調査船は鹿児島を出港し、5月11日より洋上での記念式典の後に調査が開始された。「はくよう」は無人探査機で、ハイビジョンカメラが使用された。調査には呉の大和ミュージアムの学芸員も同席した。この調査では遺品の回収は行われなかった。50時間の映像と7000枚の写真が撮影され、そのデータを元に海底の大和の9分間の3D動画が作成された。動画は大和ミュージアムの企画展示として公開されている。  
海底の大和
大和の艦体は1番主砲基部と2番主砲基部の間を境に、前後2つに分かれている。艦首部より2番主砲塔前(0 - 110番フレーム付近、約90m)までは、右に傾いて北西(方位310度)に向いて沈んでいる。艦中央部から艦尾まで後部(175 - 246番フレーム付近、約186m)は、転覆した状態で東(方位90度)方向を向いている。双方をあわせると全長276mとなる。後部も大きく破損しており、破断状態に近いために「大和の船体は3つに分断されている」とする出典もある。その他に、激しく損傷した中央部分と思われるブロックが3つの起伏となり艦尾艦首の70m南に沈んでいる。
艦首部分
艦首部分は右に傾いて沈んでいる。1番主砲塔は脱落しているが、バーベットは無傷で保たれており、1999年や2016年の調査でも潜水艇がバーベットの穴の内部の撮影を行っている。1番主砲塔直後より船体は切断されており2番主砲塔のバーベットは残っていない。艦首部分の右側側面は激しく損傷しており、ほぼ右舷側が吹き飛ばされて存在しない状態となっている。大きく右側に傾斜して海底に沈んでいるので、1番主砲塔横の最上甲板がそのまま海底に繋がっている。バルパスバウは確認できるが、直後で船体に大きな亀裂があり艦首部分は座屈して半壊した状態となっている。菊の紋章は残っているが、以前の探査で確認された金箔が2016年の探査では剥離して失われていた。船首部分の先端は崩壊しており周囲は大きく形を崩しており、過去数度の海底探索で鋼板の劣化により艦首部分の崩壊が次第に進行していることが確認されている。艦橋は船体から脱落して艦首バルパスバウ近くの右舷の下敷きとなっている。艦橋の上に右舷が覆いかぶさっている状態で、15m測距儀や射撃指揮所が遠方から観察できるが細かい観察は出来ない。
艦尾部分
転覆した状態で、ほぼ海底に水平に沈んでいる。4本のスクリューのうち、3本は船体に無傷で付いているが右舷外側の1本は脱落して海底に突き刺さっている。沈没時の爆発でスクリューシャフトが折れて、脱落したものと思われる。主舵および副舵には損傷はなく、共に正中の位置となっている。艦尾部分のブロックの左舷側の艦底-左舷にかけては艦の正中を超える非常に大きな破壊孔があり、この孔のためにそれより前側と後側では正中線がずれており破断状態に近い。孔の中には艦内を走行するスクリューシャフトが観察されている。また缶(ボイラー)なども発見されている。後部艦橋も船体から脱落して船尾部分の横、海底に突き刺さったスクリューの傍に沈んでいる。
兵装
大和の主砲と副砲はすべて転覆時に脱落した。3基の主砲塔は、海底の同一線上に沈んでいる。これは主砲の脱落が、転覆直後に起こったことを意味しているとされたが、2016年の探査で、沈んでいる順番は北から順に第2主砲(船尾部分の北側)、第3主砲(船尾部分の北側に接する)、第1主砲(船尾部分の南側)ということが判り、艦に設置されていた状態と位置が交差している。9本の砲身はいずれも泥に埋まるなどして確認できていない。主砲塔のうち最も保存状態が良いのは1番主砲塔である。1番主砲塔は上下逆になって海底に塔のように直立しており、上部および下部給弾室なども破壊されていない状態で綺麗に観察できる。一番下になっている砲塔本体の装甲も少なくとも側面の装甲はそのまま残っており、測距儀もカバーごと砲塔についたままである。2番主砲塔は大きく損傷しており、給弾室は斜めに傾斜している。沈没時に2番砲塔の弾薬庫が爆発したことを示す証拠とされている。測距儀は残っているがカバーが外れて本体が剥きだしになっている。3番主砲塔は片側半分が海底に埋まっている。副砲のうち1基は3本の砲身が確認されているが、中央の砲身の先端が破裂している。もう1基の副砲は砲身が海底に埋まっていて確認できない。
 
戦艦大和 1

 

戦艦大和、その誕生
第二次世界大戦当時、世界最大の戦艦を日本が建造したことをご存知でしょうか。その戦艦は「大和」(やまと)といいます (1)、(2)。アジ歴では、戦艦大和に関する当時の生の資料を見ることができます。その資料には、大和の戦いはどのように記録されているのでしょうか。
戦艦大和の構想は、第一次大戦後に遡ります。大正11年(1922年)にワシントン海軍軍縮条約、続いて大正5年(1930年)にロンドン海軍軍縮条約が締結され、日本海軍の装備はアメリカ・イギリスの6〜7割までとすることが決定され、主力艦の建造が中止されました。
海軍軍縮条約の期限は昭和11年(1936年)末でした。海軍の装備を制限する条約がなくなり、各国間での軍艦の建造競争となった場合、日本は総合的な国力で他の有力な国々に劣るため不利とならざるを得ません。そこで海軍は、艦船の数で勝負するのではなく、他国に勝る性能を有する戦艦を備えることを考えました。この際に重視されたのが、主砲の大きさでした。アメリカ海軍は、太平洋と大西洋を行き来する際にパナマ運河を通過していました。しかし、この運河の門の幅は33メートルであるため、ここを通り抜けることのできる艦船も幅がこれ以下の規模のものにほぼ限られました。戦艦で言えば、主砲の大きさが41センチ未満のものという計算になります。そこで日本海軍は、これを上回る大きさの主砲を備えた戦艦をアメリカ海軍が建造する可能性は低いだろうと判断し、さらに大きな46センチの主砲を備えた大戦艦の建造を計画したのです。こうして造られたのが戦艦大和でした。
戦艦から航空機へ
昭和16年(1941年)12月8日、空母6隻を柱とする機動部隊がハワイ・真珠湾のアメリカ太平洋艦隊を奇襲し、二度にわたる攻撃によって停泊中の戦艦8隻のうち4隻を撃沈、3隻を大破させました。そのわずか二日後、日本海軍航空部隊は、マレー沖でイギリス東洋艦隊の主力戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」を撃沈します。
日本のこの緒戦の勝利は、皮肉にも戦いの主役が大和のような戦艦から航空機へと移ったことを証明することになります。大和は「大艦巨砲主義」、すなわちより大きな砲弾をより遠くへ飛ばす戦艦を軸に海軍を編成するという作戦思想の産物でした。しかし、各国の航空機の性能が飛躍的に向上し、さらに洋上の基地となる航空母艦が主力になります。この状況の変化により、大和が必勝を目指していた戦艦による艦隊決戦自体が行われなくなりました。
昭和16年(1941年)12月の竣工後、大和は連合艦隊に編入され、昭和17年(1942年)6月のミッドウェー海戦で初陣を迎えます。その後、マリアナ沖海戦(米軍呼称はフィリピン海海戦、昭和19年(1944年)6月19日〜20日)、比島沖海戦(米軍呼称はレイテ海戦、同年10月23日〜25日)はともに対空戦闘に終始したため、大和の主砲が威力を発揮することはありませんでした。しかし唯一、比島沖海戦中、サマール島沖で米護衛空母部隊と交戦した際に敵艦に対して砲撃が行われ、この時が、大和が敵艦に向けてその主砲を放った最初で最後となりました。
戦艦大和、最後の戦い
そして昭和20年(1945年)4月5日、大和に海上特攻隊としての出撃命令が下りました (3)。目的地はアメリカ軍が上陸を始めた沖縄でした。 (4) はこの作戦の時の軍艦大和の戦闘詳報です。戦闘詳報とは、後の作戦指導を適切に行うために、一つの戦闘終了後にその戦闘の状況を詳しく上級指揮官に報告する文書のことです。同画像の右上には「軍極秘」の文字があります。
(5) のページ以下に、この時の大和の詳細な作戦行動が記されています。大和は4月6日15時20分に出撃します。出撃する艦艇は10隻、第二艦隊旗艦大和以下、軽巡洋艦矢矧、駆逐艦冬月・涼月・磯風・浜風・雪風・朝霜・霞・初霜。 (5) の下の「記事」には、その配置図が記されています。
隊形を整えた艦隊に対して、伊藤整一第二艦隊司令長官は指揮下の各艦に対し「神機将ニ動カントス。皇国ノ隆替懸リテ此ノ一挙ニ存ス。各員奮戦敢闘、全敵ヲ必滅シ、以テ海上特攻隊ノ本領ヲ発揮セヨ」、との訓示を伝えました(戸一成『戦艦大和に捧ぐ』)。
4月7日の8時40分、大和は米軍の航空機の編隊を視認しました。12時34分に「敵艦上機一五〇」に対し射撃を開始しました。しかし、数多くの米軍機からの攻撃を受け、およそ2時間後の14時23分に「前後部砲塔誘爆沈没」しました。 (6) によれば、大和の戦果は撃墜3機、撃破20機、その被害は「沈没(戦死艦長以下2498名)」と記されています。 (7) は大和の被害状況を絵図としてまとめたもの、(8) は戦闘詳報の中に収録されている大和の行動図です。
生還者達の残した言葉
4月7日の海戦は、日本側では「坊の岬沖海戦」と呼ばれています。10隻からなる艦隊は、大和のほか矢矧・磯風・浜風・朝霞・霞の計6隻が沈みました。帰還した4隻のうち、涼月は大破、冬月・雪風は被弾もしくは至近弾を受け、初霜はほぼ無傷でした。
生還者達は、この戦いをどのように書き記しているのでしょうか、(9) の「参考事例(戦訓)」には、次のようなことが記されています。
戦況が行き詰まった際には、焦燥感にかられ計画準備に余裕がないということがしばしばであるが、特攻兵器を別として、今後残存駆逐艦等によるこの種の特攻作戦を成功させるためには、慎重に計画を進め、準備をできるだけ綿密に行う必要があり、「思ヒ付キ」作戦は精鋭部隊をもみすみす無駄死にさせてしまう、と書かれています。
また、大和を護衛した「第二水雷戦隊」の戦闘詳報では、作戦はあくまで冷静にして打算的でなければならない、いたずらに特攻隊の美名を冠して強引なる突入戦を行うのは失うところが多く、得るところは非常に少ない、と作戦そのものに対する厳しい批判が書かれています (10)。
大和沈没とその後
4月7日の海戦の同日、後に戦争の幕引きを行う鈴木貫太郎内閣が誕生し、親任式が行われました。その親任式のあと、鈴木首相は控え室で大和の沈没を知らされたと言われています。
『戦史叢書 大本営海軍部・連合艦隊(7)戦争最終期』によると、4月30日、昭和天皇は、米内光政海軍大臣に対し下問され、「天号作戦ニ於ケル大和以下ノ使用法不適当ナルヤ否ヤ」と問われています。これに対し海軍人事局三戸壽少将と富岡第一部長は関係資料をもとに話し合い、「作戦指導ハ適切ナリトハ称シ難カルベシ」と結論付けました(防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 大本営海軍部・連合艦隊(7)戦争最終期』)。
そして、この作戦の4ヶ月余り後、日本は終戦を迎えることになります。
 
戦艦大和 2

 

世界最大・最強を謳われた戦艦「大和」は、日本海軍がアメリカ艦隊に対抗するための最終兵器として開発した戦艦でした。攻撃力のみならず、各所に当時の最先端の技術が盛り込まれていました。しかし、既に時代は戦艦を中心とした海戦を必要としなくなっていました。日本の期待を一心に背負って生まれた大和は、なすすべもなく悲劇の象徴となっていくことになります。
戦艦の役目
太平洋戦争以前の戦争では、敵の軍艦をより遠くから、強力に攻撃できる軍艦が求められていました。「戦艦」は軍艦の中でも特に大型で、大きな砲を積んでいるものを指します。戦艦からサイズを下っていくと、巡洋艦(じゅんようかん。その中でもサイズ別に重巡洋艦・軽巡洋艦に分かれる)、駆逐艦(くちくかん)、となります。強力な砲を搭載した戦艦は、戦闘において敵を倒すという目的以外にも、その国の威信の象徴であり、また、技術力・工業力の高さの指標ともなっていました。
戦艦大和の基本コンセプト
戦前の日本では、ソ連とアメリカが主な仮想敵国でした。海軍が主役となる海における戦いは、太平洋を隔てて接しているアメリカとどのように対戦するかが大きな課題でした。アメリカは資源が豊富で、かつ日本よりもはるかに高い工業生産力を持っていたため、日本海軍は、物量で勝負するのは不利だと考えました。そのため、アメリカの戦艦の大砲が届かない距離から、強力な大砲を撃つことのできる戦艦を開発し、一つひとつの艦の「質」を高めることでアメリカと対抗するというのが日本にとっては重要であると考えられました。
その点日本は、有利な点が一つありました。アメリカは東海岸を大西洋と、西海岸を太平洋と接しています。軍艦を大西洋と太平洋で共に使えるようにするには、パナマ運河か、南米大陸をはるかに下って回り込まないといけません。南米大陸を回り込む航路は、パナマ運河を通るよりもおよそ2万km余計に進まないといけず、回航に多くの時間と労力、燃料がかかります。2万kmというのは東京・大阪間を直線距離で約20往復分であり、当時の戦艦の全速力に近い50km/hで走り続けても、約17日間かかります。そのため、基本的にアメリカの軍艦はパナマ運河を通れるように、パナマ運河の最も狭い部分である、幅33.5m以下になるように抑えられていました。
戦艦は大きな砲を積めば積むほど重くなり、その重さを支え、バランスを取るには必然的に艦の幅も大きくする必要があります。また、砲の威力が大きくなると、発射時の反動も大きくなり、発射時に艦をなるべく安定させるためにも幅を大きくすることは必要でした。そこで、日本海軍は、戦艦にそれまでよりもさらに大型の大砲を何門も積むことを考えました。それを進めていけば、いずれ艦の幅は33.5m以上にならざるを得ず、必ずアメリカよりも強力な戦艦になると考えました。大和には46センチ砲という、それまで主力とされていた40センチ砲と比べて6センチも口径が大きい大砲を9門(3連装×3基)搭載しています。この大砲は1基(3門セット)が全体で普通の駆逐艦以上の重さがあるという、巨大なものでした。その結果、大和の幅は一番太いところで38.9mとなっており、まさに「パナマ運河を通れない」軍艦であるばかりか、世界最大・最強の戦艦となりました。
この他にも大和には様々な特徴が盛り込まれた戦艦であり、当時の日本の技術力の結晶であると言えるでしょう。以下に大まかに大和の特徴を解説します。
特徴
世界最大の46センチ砲
大和の主砲(その艦で一番大きな大砲)の直径は46センチありました。この大砲は、最大の射程が出るように発射されると、砲弾は高さ1万1900メートル(富士山=標高3776mの3倍以上)まで上がり、90秒後に4万1千メートル(41q)の地点に落下しました。この距離はアメリカ戦艦で最大の射程を持つ40センチ砲と比べても、5000m(5q)遠くまで飛び、破壊力は1.6倍ありました。
大和の主砲の射程は、東京駅から発射したとすると、西は八王子のあたりまで、北は川越や春日部を通り超え、東は千葉市や市原市を含み、南は横浜を通り超え、横須賀の手前まで到達します。この距離を90秒で飛びました。
大阪駅から発射したとすると、北東方向には京都駅の手前、西へは神戸をはるかに通り越して明石の手前、南は泉佐野を通り越す範囲に届きます。
工夫を加えた砲弾
さらに大和の46センチ砲は、砲弾にも工夫が凝らされていました。「九一式徹甲弾」(きゅういちしきてっこうだん、下写真左)は、砲弾の先に帽子状のキャップがついています。通常の砲弾は海面に着弾すると、飛び跳ねるか、まっすぐに沈んでしまうのに対して、九一式徹甲弾はこのキャップが外れ(下写真右の状態)、水面下をある程度の距離直進し、命中後艦の内部で爆発するように仕掛けてあります。そのため、敵の艦船の手前に着弾した場合でも、九一式徹甲弾だと命中し敵艦にダメージを与えられる確率が高まります。
もう一つが「三式弾」(さんしきだん、下写真中央)で、これは事前に設定していた地点に到達すると弾が破裂し、中から小さな弾が扇状に発射されるようになっています。主に上空から襲ってくる航空機に対して使用されました。小型の航空機に対しては大きな砲弾を当てる必要はなく(またそれは極めて難しい)、撃墜するには中から出る小さな弾で十分です。この三式弾が対航空機用の砲弾としてアメリカ軍にも恐れられました。
しかし、46センチ砲は威力が大きい分発射時の爆風がものすごく、艦上に人がいると吹き飛ばされ、命の危険すらあるほどでした。発射には慎重を期す必要のある、ある意味で危険な大砲でもありました。
徹底した防御
戦艦が実際の戦闘を行う相手は、戦艦などの軍艦か、陸上の砲台が主に想定されていました(航空機による攻撃は、太平洋戦争が始まるまであまり重視されてきませんでした)。つまりこちらだけが一方的に撃つというよりは、大砲や魚雷の打ち合いになる可能性が高く、敵の砲弾や魚雷がある程度命中しても、艦を守ることができ、安定性に支障が出にくくすることが求められます。
大和は防御を強化するため、厚い装甲板で覆われていました。自らの46センチ砲を2万〜3万5千メートルの距離から撃たれた場合でも、10発まで耐えられるように設計されています。中でも、砲塔、弾薬庫・火薬庫、機関部などの特に重要な部分は集中的に分厚い装甲板で覆われ、最も厚い部分で65センチ(砲塔)もの装甲板が使われていました。
また、艦内はいくつもの細かい区画に仕切られ、一部分が浸水しても全体に進水が及ばないように設計されていました。片方の側(片舷)が浸水したら、反対側にも同じ量の海水を注入し、バランスを一定に保つようになっています。このような工夫により、打撃に強く、浸水の場合もバランスを崩しにくい工夫が凝らされていました。
サイズと速度のバランスを追究
船は一般的に、同じ重さであれば幅は狭くした方が水の抵抗が少なくなり、速度が出ます。しかし、幅を狭くするということは、浮力を得るために長さを長くする必要があるということにもなります。大和の場合は、重量級のため、幅を狭くし長さを長くすると艦の面積が大きくなり過ぎてしまい、敵の攻撃を受けやすくなります。そこで、太めの幅の設計が採用されました。上から見ると多少ずんぐりむっくりな様子が分かります。
大和の水面下の艦首(かんしゅ=艦の先頭)部分ですが、丸く出っ張っていることがわかります。これは「バルバス・バウ(球状艦首)」と呼ばれる設計で、船が進むときに生まれる水の抵抗を少なくする構造です。大和以前からありましたが、当時としてはこのように大きなバルバス・バウは世界でも珍しいものでした。設計の段階で大きな模型を50種類以上作り、バルバス・バウの最適な大きさを検討した結果、海面に接する部分から3m突き出すのが良いということが分かりました。
このバルバス・バウのおかげで、水の抵抗が少なくなり、より小型化することに成功したほか、燃費が向上しました。
大和とイギリス・アメリカ戦艦 スペック比較
それでは、大和と、太平洋戦争中のイギリス・アメリカの代表的な戦艦とのスペックを比較してみます。数値は様々な条件で多少変わってくるため、あくまで参考としてください。
「プリンス・オブ・ウェールズ」…イギリス。新鋭艦として期待されたが、開戦初頭の「マレー沖海戦」で日本海軍航空部隊の攻撃で爆弾と魚雷数発を受け、「巡洋戦艦レパルス」と共に沈没。
「アイオワ」…アメリカ。太平洋戦争中盤に就役した戦艦で、この中では最も新しい。高速と長大な航続距離が特徴。
艦の重さを示す排水量を見ると分かるように、大和は他の2艦よりもずば抜けて大きく、アイオワの約1.3倍、プリンス・オブ・ウェールズの約1.7倍あります。しかし、全長はプリンス・オブ・ウェールズよりも40m長いものの、アイオワよりも7m短く、幅はアイオワよりも6m、プリンス・オブ・ウェールズよりも7m太くなっており、この排水量の艦としては、長さが短く、幅が太いのが特徴と言えます。
最高速度はアイオワが最も速く、これは主に機関の出力に起因しているものと思われます。以下の表にはありませんが、各艦の出力を並べると、大和15万4千馬力、プリンス・オブ・ウェールズ12万5千馬力、アイオワ21万5千馬力となっており、アイオワが最も強力な機関を備えていました。
最後に武装ですが、上述したように主砲は大和が最も大きく、副砲(その艦で2番目に大きな砲)も大和は最も大きなものを積んでいます。この表では大和の武装は最終時のものになっていますが、元々副砲はこの倍あり、代わりに高角砲や機銃はこれよりもかなり少なくなっていました。戦況が進むにつれ、航空機からの攻撃に対して防御できるようにすることが、敵の艦船を砲撃するよりも重要であるということがはっきりしてきたため、小回りの利きにくい大きな砲を下ろし、上空を飛ぶ航空機への攻撃に有効な小規模の火器を大量に積むようにしたのです。
期待・栄光・悲劇―すべてを背負った「浮沈艦」大和
大和は日中戦争がはじまった年の1937(昭和12)年11月に建造が始まり、完成したのは太平洋戦争が開戦した直後の1941(昭和16)年12月16日でした。この間、連合艦隊の山本五十六司令長官は空母と航空機を主体にした攻撃法の開発を推し進め、41年12月8日の真珠湾奇襲攻撃、12月10日のマレー沖海戦で、これからは航空機が戦闘の主体であることを世界に向けて強烈に印象付けました。奇しくも、大和を生んだ日本海軍の手で、巨大戦艦大和の出る幕はないということを暗示されていたのかもしれません。
大和ホテル
大和の開発はアメリカ・イギリスに対する秘密兵器として厳密に秘密にされ、国民にもその存在は隠されてきました。また、海軍部内でも艦隊決戦(日本・アメリカ双方の艦隊が撃ち合い、勝敗を決すること)の最終兵器として温存され、前半の数少ない戦艦が活躍する場面でも大和が投入されることはありませんでした。
大和は瀬戸内海や西太平洋トラック諸島の連合艦隊停泊地に長い間とどまったままでした。大和には当時の軍艦としては珍しく空調が整えられ、食事も他艦と比べると贅沢であったりと、他の軍艦よりもかなり良い居住環境でした。そのような大和が3000名の乗組員と共にずっと戦闘に出ないため、前線の部隊からは「大和ホテル」と皮肉を込められて呼ばれていました。
活躍の場のなかった大和
日本軍空母4隻が撃沈されたミッドウェー海戦では、大和は空母部隊のはるか500q後方におり、戦闘とは無縁の場にいました。機動部隊が壊滅したマリアナ沖海戦に出撃したものの、砲戦はありませんでした。
大和がその自慢の主砲を初めて敵艦に向かって撃ったのは、敗戦の色が濃くなった1944(昭和19)年10月25日の「レイテ沖海戦(サマール沖海戦)」です。この時、大和を中心とする日本艦隊(栗田艦隊)は、アメリカ軍の護衛空母部隊(商船を改造した小型空母で構成され、機動部隊や輸送部隊に対して補助的な役割を果たす)に対して砲戦を挑み、護衛空母1隻、駆逐艦2隻を撃沈しました。
自殺的な「水上特攻」により鹿児島沖で撃沈
レイテ沖海戦で目的を果たせぬまま連合艦隊の残存艦は日本本土に戻りました。その後も戦況は悪化の一途をたどり、1945(昭和20)年3月末、ついに沖縄諸島へ連合国軍が上陸を始めました。レイテ沖海戦で空母はほぼ壊滅し、残った航空機の多くは九州や台湾などの基地からの特攻攻撃につぎ込まれる状況で、上空の防衛は期待できませんでした。また、期待していた南方からの燃料も、アメリカ軍の潜水艦や航空機の攻撃によりわずかしか届かなくなり、軍艦を動かす重油(じゅうゆ)もままならない状態に陥りました。もはや、世界最大の戦艦「大和」を効果的に運用する余地はもうどこにもないことは明らかでした。
軍部は、国民全員で天皇陛下を中心とした国を守るため、使えるものは何でも特攻攻撃に投入する「一億総特攻」の方針を強めていました。瀬戸内海の砲台と化した大和にもその順番が回ってきました。1945年4月7日、大和は沖縄本島に向け「水上特攻」として突撃をしている最中、魚雷約10本、8発の爆弾を受け、海に沈んでいきました。
日本が明治維新を経て、西洋に負けない海洋国家として国づくりを目指して77年。「大日本帝国」繁栄の希望の結晶として生まれた戦艦大和は、今も沖縄の北、水深350mの海底に眠っています。
 
生還兵

 

1 上官がくれた命 戦艦「大和」生還兵の証言
憧れの海軍に
旧日本海軍が建造した世界最大の戦艦「大和」。太平洋戦争末期の昭和20(1945)年4月7日、沖縄海上特攻の途中、米艦載機の猛攻撃を受け、鹿児島県坊ノ岬沖で沈没した。乗組員3332人のうち、生還者は276人。
敵機との距離を測る測的手だった八杉康夫さん(87)=広島県福山市=は、沈没寸前の大和から海中に飛び込んだ。溺れかけたとき、上官に「頑張って生きろ」と丸太を渡され、生き残ることができた。

昭和2(1927)年秋、広島県福山市の豆腐屋で生まれました。小学校でピアノに出会い、中学校に入った時にアコーディオンを買ってもらいました。当時はとても高価な楽器でしたから、夢中になって練習しました。学校の勉強はできる方でした。
太平洋戦争が始まったのは中学生のときです。陸軍は荒っぽいが、海軍はさっそうとしていて格好が良く、ひかれました。海軍が志願兵を募集していることを知ったときは、迷うことなく飛びつきました。
昭和18(43)年に大竹海兵団に入りました。「軍人である前に立派な人間になれ」という団長の言葉を聞き、海軍に入って良かったと思いました。その後、横須賀の砲術学校に配属になりました。そこでは、敵の艦隊や飛行機に大砲を撃つために距離を割り出す「測的」をひたすら勉強しました。成績優秀者だけが選ばれる補修員にも選ばれました。
ある日、分隊士に呼ばれました。昭和20年1月3日のことです。通常なら、上官とは1メートル離れて立たなければいけないのですが、分隊士は「いいから前へ来い。耳を貸せ」と言います。反射的に殴られるのかと身構えると、「いいか、お前の行き先は大和じゃ。良かったな」と耳打ちされました。
「あの船は絶対に沈まない。大和が沈むときは日本が沈むときだ」。憧れの大和乗艦を命じられ、涙が出るほどにうれしかったです。その時は17歳の上等水兵でした。
大抜てきの測的手
大和は全長263メートル、46センチの3連装砲塔3基を搭載した史上最強の戦艦です。とても大きくて、初めて見たときは島かと思いました。
任務は、主砲を撃つため、艦橋の最上部にある測距儀(そっきょぎ)で敵艦隊や敵機との距離を測り、砲手に指示を送ること。測的手とも言います。
当時の測距儀では5万メートル先まで測れ、主砲の最大射程距離は4万メートルでした。大和の測距儀は長さが15メートルもあり、とても大きかったですね。
そこに、5人で配置に就く。艦橋の一番上で、海面から30メートルの高さにあります。重要な任務に17歳で大抜てきされたこともあり、一目置かれる存在になりました。
昭和20年3月29日、大和は沖縄戦に向け呉を出港します。4月6日には三田尻沖(現・山口県防府市)を出て、みんなで皇居の方に向かって敬礼し、国歌を斉唱しました。さらに「海行かば」を歌い、故郷にも別れを告げるよう命じられました。
「こういう歌い方、別れ方をさせるのか」と思いましたね。
3月26日には特攻を意味する「天一号作戦」が発動されていましたが、この別れで、特攻であることを改めて実感しました。世界一の戦艦で特攻したら日本は終わりだと思っていましたから、特攻はあり得ないと信じていました。
【戦艦「大和」】 昭和16(1941)年12月に呉海軍工廠(こうしょう)で竣工(しゅんこう)。全長263メートル、最大幅38.9メートル、最大速力は27.46ノット。世界最大の46センチ3連装砲塔を3基搭載。同型艦の「武蔵」に引き継ぐまで連合艦隊旗艦を務めた。
襲い掛かる魚雷
4月7日は朝から曇っていました。飛行機が雲に隠れると測的が難しいので、「嫌だな」と思ったのですが、お昼におにぎりを食べながら、「来るなら来い。1機残らず撃ち落としてやる」と自分を奮い立たせました。
昼食中に見張りが敵機を発見。すぐに測距儀に飛びつき、レンズをのぞくと無数の飛行機が迫ってきました。あまりに多かったため、真っ黒な塊に見えました。
距離を測ろうとしたとき、敵機は高度を上げて厚い雲に隠れました。そうなると測れません。打つ手がないのです。「何のための訓練だったのか」と、とても悔しかったです。
午後0時半ごろ、米軍機は真上から突っ込むように攻撃を始めました。主砲は距離があるときに撃つのが目的ですが、距離が測れなかったため、結局、最後まで放たれることはありませんでした。最初に使ったのは史上最大の主砲でも副砲でもなく、機銃だったのです。
米軍は大和の左舷を狙って魚雷を撃ち込んできました。攻撃は第一波、第二波、第三波、第四波とどんどん続き、その度に艦が大きく揺れます。砲術学校では15度傾いたら船は限界と習っていましたが、巨艦は15度、25度と傾いていきます。
大和には注水システムがあったので、片方から水が入るともう片方にも水を入れ平衡を保つようになっていました。そのため、いったんは平衡になり、「やっぱり沈まないのだ」とうれしくも思いましたが、攻撃を受け続け、結局、どんどん傾いていきました。
艦橋から後部を見ると、白煙が上がっていました。甲板は死傷者であふれ、衛生兵が吹き飛んだ腕や足を海に放り投げていました。
沈没、そして重油の海へ
50度ほど傾いたときだったと思います。海軍では持ち場を離れることは許されていないのですが、ついに「逃げろ」を意味する「総員、最上甲板へ」という命令が出ました。
海に飛び込むしかないと思ったときです。目の前にいた少尉が戦闘服を脱ぎ、ベルトを外しました。戦闘帽を日本刀に巻き、腹に刺したのです。少尉は一気に腹をかっさばき、大量の血が噴き出した。当時は割腹の方法も習っていましたが、その通りに実行しました。
「やめてください」と言いたいが、凍りついて声が出ません。世話になった少尉の割腹は、17歳の自分には信じられない光景でした。震え上がったまま、静かに敬礼しました。気付くと艦は90度まで傾いていて、波が目の前まで来ていました。
艦橋から海に飛び込みましたが、今度は沈む大和がつくる大きな渦に巻き込まれました。水圧で胸が締め付けられ、息ができません。午後2時23分、大和は沈没し、爆発。その衝撃で海面に浮き上がったのですが、鉄片で右足を負傷しました。爆発後、しばらく気を失っていたと思います。
泳ぎは得意だったのですが、傷を負ったこともあり、重油があふれる海で溺れだしました。「助けてくれ」と思わず叫んでしまい、すぐにしまったと後悔しました。
すると、そばにいた高射長が近づいてきました。怒られるのかと思ったのですが、高射長は「落ち着け。もう大丈夫だ」と優しく声を掛けてくれました。そして「お前は若い。頑張って生きろ」と、つかまっていた丸太を渡してくれたのです。礼を告げた後、しばらくの間、泣いていました。
死を選んだ高射長
海で4時間ほど漂流しました。その間、大和の鋼鉄の破片に当たって死ぬ人や、渦に巻き込まれる人、冷たい海に体力を奪われ力尽きる人が大勢いました。
生き残った者で簡単ないかだをつくり、それにつかまっていました。海はものすごく冷たく、そのうちに睡魔に襲われました。
「死んでもいいから眠りたい」と思うほどの睡魔です。自分より年下の水兵は睡魔に負けて眠ってしまいました。そばにいた上官が「眠ったら死ぬぞ」とその水兵を殴りました。彼は「申し訳ありません」と目を覚ましましたが、またすぐ眠ってしまいます。
そのうちに、別の上官が「もう眠らせてやれ」と言いました。彼は海の中へ沈んでいきました。かわいそうでしたが、どうすることもできません。そして、次は自分の番だと思いました。
夕方に駆逐艦「雪風」「冬月」が来ました。生き残った者たちは一斉に救助のロープに群がりました。人が殺到している場所を避け、艦の後部に回ったところ、そこに丸太をくれた高射長がいたのです。
「高射長」と声を掛けると、高射長はあごで「行け」と合図をしました。そして、駆逐艦に背を向け、大和が沈んだ方へ泳いでいきました。海の中へと消えていく姿に「高射長」と何度も叫びました。
あんなに大きな声を出したことは、生涯でありません。力の限りの声を振り絞り、何度も叫びました。
自分に「生きろ」と言った人が、自分の目の前で死を選ぶ。その姿を見届けたときの気持ちは言葉では言い表せませんが、空の攻撃から大和を守る最高責任者だった高射長は、大和と運命を共にすることを選んだのだと思います。そして、自分に命をくれたのだと思っています。
被爆直後の広島で
その後、呉に戻りましたが、重油も動ける戦艦もありませんでした。間もなくして陸戦隊に入りましたが、本土決戦を控え、銃さえ十分になかったのです。このとき「日本はもう駄目だ」と痛感しました。5月に水兵長に昇格し、呉鎮守府の第23陸戦隊に配属になりました。
夏になりました。8月6日、広島に爆弾が投下されたときは呉にいました。朝8時ごろ、B29が1機だけ飛んでいきました。その数分後、パァーと光りました。直後に猛烈な風が吹き、防空壕に飛び込みました。
翌7日、広島駅の復旧作業のため、広島に向かいました。駅の周辺には男女の区別がつかない真っ黒な死体がごろごろとありました。死体置き場になっていたのです。
8日は部下2人を連れて、市内に偵察に入りました。現在の原爆ドーム付近や爆心地にも行きました。京橋川の土手にはたくさんの死体が横たわっていました。
その様子をスケッチにして、帰ろうとしたときです。子どもに両足をつかまれたのです。小学4〜5年生くらいの少年でした。か細い声で「兵隊さん、水をください」と言いました。当時、重傷者には水を与えてはいけないと教えられていたため、「戻ってくるから待っておれよ」と言い聞かせ、その場を離れました。
その後、少年のところには戻りませんでした。あの子はきっと自分が水を持って戻ってくるのを待ちながら死んだはずです。なぜ、水をあげなかったのか。水を飲ませて死なせてあげればよかった。70年たった今でも、悔やんでいます。
「頑張って生きました」
戦後はアコーディオン奏者になり、NHKで始まったのど自慢大会での伴奏を任されました。その後、調律師になりました。被爆の影響から輸血が必要な時期もありました。大和のことが忘れられず、1980年代に入った頃、海中に眠る大和探しにも携わりました。
日本は平和ぼけなどとも言われていますが、殺人事件なども絶えない中、戦争を知らない若い人たちに平和について考えてほしいと思うようになりました。たった数十年前に、日本で何が起こっていたのか、そのことについて考えてもらいたいです。
不沈戦艦の沈没は、晴天の霹靂(へきれき)でした。大和と死ぬのは名誉だと信じていましたが、自分は生き残りました。
生き残ったことに対する罪悪感にさいなまれながら、生きたくても生きられなかった仲間のため、生涯をかけて大和のことを世に残そうと語り部になりました。これまでに全国で600回以上の講演を行いました。
今年の秋、88歳になります。死ぬのは怖くありません。大和が沈んだとき、死んでもおかしくなかったのですから。死んだら仲間に会えると思っています。みんなに胸を張って会いたいです。そして「頑張って生きました」と高射長に伝えたいです。 

・志願兵にも試験があり、国語、歴史、数学、身体能力、鉄棒にぶら下がったり、走ったり、片手でロープに20秒以上ぶら下がるというのもあり、その試験結果から通常は甲乙丙に分けられるが、めったにない「甲上」の判をもらう。
・海軍では「罰直」といって、「精神注入棒」などと書かれたバットを少し細くしたような木の棒で尻をしたたかに殴る制裁があった。
・海軍の「総員起こし」は15分前から始まり、次が「総員起こし5分前」そして「起床ラッパ」で起きなければならない。目が覚めたからといって先に起きたら駄目とのこと。
・大和には3連装が3つの計9門の口径46cm長さ21mの主砲があるが、並んだ3門を一斉に撃つと、弾同士の空気圧で、弾道がずれてしまうため、0.3秒ほどずらして撃つ
・戦闘配置は艦橋のてっぺんで、海面からは30m以上、甲板からも24m以上。
・大和の艦内は防水区画などで細かく区切られていて迷路のため、最初の1週間は「新乗艦者」という腕章を腕に巻く。「艦内旅行」という試験があるが、筆者は1時間半で帰ってこれたが、半日経っても戻ってこない新乗艦者が2名いて、艦内スピーカーから「何某が行方不明、総員手分けして捜索せよ」という号令があってようやく見つかった。
・大和の測距儀は日本光学(現ニコン)が命をかけて作ったもので、直径60cm、長さ15mもあり、その中にはレンズが多数組み込まれていて5万mまで測定でき、4千から5万まで目盛がある。飛行機は5万mに近づく前に見つけられる。最初は「現在、測距不能」となるが5万m以内に寄ってくると「測的開始、測距始めえ」となる。
・大和の食事は素晴らしかった。なぜか肉じゃがが多かった。金曜はカレーライスで人気があった。鯖の煮付けも美味しかった。
・大和の風呂には上等兵は自由に入れた。2つの浴槽があり、1つは海水、1つは真水の湯だった。「洗面器3杯」の真水制限があった。
・大和乗艦は秘密で、自分から電話をかけてはいけない。軍の盗聴もあった。
・上陸の際は、「衛生サック」というコンドームを渡される。性病の蔓延を防ぐため。ネイビーブルーの袋に桜と錨の模様で「突撃一番」と書かれていた。
・昭和20年4月2日か3日ごろ「艦内の可燃物、すべて、陸揚げせよ」との命令があり、イス、机から燃えるものはすべて「団平船」という船に積み込む。従って、博物館などで大和の司令長官のイスなどが残っている。
・4月5日は最後の酒盛りの「酒保開け」がある。夕飯は午後5時に終わり、宴は午後9時まで続く。ワイン、チーズ、饅頭が出てくる。日本酒は広島のもので「賀茂鶴」「千福」「酔心」だった。
・4月5日には3月末に兵学校を卒業したばかりの候補生44名と経理学校の主計候補生2名が足手まといとなるため、横付けされた駆逐艦「花月」に降ろされる。
・4月6日には最後の郵便物、肉親への遺書作成があり正午が締め切りだった。郵便運搬船が運ぶ。
・沖縄特攻について「大和は片道燃料だった」と言われるが、たしかに命令書は片道とあったが、立ち会った機関科の兵曹の話では、燃料を徳山で入れて4300tあったようで、16〜17ノットで大体沖縄を充分に一往復できる燃料があったとのこと。
・運命の4月7日は全天が雲に覆われ、雲高千m、雲量10だった。朝7時ごろゼロ戦約20機が艦橋の周囲を回り、バンクで挨拶し、パイロットは手を振ってくれる。その1時間後には敵のグラマン数機が現れ、大和と同じ方向に飛ぶ。9時45分ごろゼロ戦が戻ってくる。その10分後に敵偵察機のマーチン大艇が現れる。
・10時ごろ「戦闘配食、急げ」と声がかかる。主計兵が大量のごま塩の握り飯を作る。大和には相撲部があり、相撲部員用は大きい握り飯だった。
・曇りのため敵機は雲の上から現れるため主砲はまったく使えず、最初に使われた大和の武器は25mmの機銃だった。最後に使うはずだった武器がいきなりの接近戦でダダダッと火を噴いた。すぐに護耳器をつける。耳栓のようなものだが、人の声は聞こえるすぐれもの。
・およそ200機と言われる敵機の第1波は4月7日の12時40分ごろだったが、襲われて5分もしないうちに後部艦橋へ爆弾2発が落ちる。250kg爆弾と言われたが、筆者はその破壊力から500kg爆弾と推測する。そこにあった副砲は油圧装置が故障して動かなくなり、後部13号電探室にいた電測兵は肉片ひとつ残らずに吹っ飛び、通信も駄目になり、僚艦の駆逐艦「初霜」が大和の通信艦となる。
・大和に魚雷が命中すると測距儀が激しく揺れ動く。爆弾と違って艦全体が盛り上がる感じになる。
・第1波が去ったあとに、上から甲板を見ると地獄で、応急員がホースで甲板の血を流していた。負傷者や死体を衛生兵が走り回って運んでいたが、ちぎれた腕や足はぼんぼん海へ投げ捨てていた。
・第1波が去ったあと、10分ぐらいで第2波がきた。午後1時半ごろで約150機。雷撃機が多く、大和は左舷に3本の魚雷を受けてしまう。
・第2波が去ったあと小便に行きたくなる。第3波の空襲が始まり、魚雷があたる振動が起きるが震度5ぐらいの感じで、9発当たったように感じる。実際は左舷に9発、右舷に1発。ついに大和は左へ25度も傾くが、「傾斜復元を急げ」という声がすると大和は反対側に海水を入れて元に戻る。
・午後1時50分ごろ「軍医官は総員戦死した。負傷者を救護所へは運ぶな。その場で処置せよ」という放送がある。
・そこへ第4波の空襲があり、その時には傾斜角は40度にもなり、喫水線もどんどん下がり、もう戻らなかった。
・沈没の最中、筆者は恩人の日本刀による割腹の場面を見てしまう。
・大和が傾いていくときの鋼鉄のきしむ音はウォーン、ウォーンという音に近い。ギーッというような感じではない。まるで遠くでエコーが響くようなファンタジックともいえる音で不気味な音だった。
・ほどなく大和は90度まで傾き、筆者は必死で海へ飛び込む。海面上38mの高さだった艦橋の頂上が海水面から1mくらいになっていた。しかしすぐに巨大な渦に巻き込まれ、他の兵隊が左肩にばーんとぶつかって、何十メートルの深さまで沈んだかわからない。水圧のせいで胸に焼け火箸をつっこまれて引っ掻き回されるような痛さだった。「もう終わりだ」と観念したとき、深い群青色の海に突然ぶわーっとオレンジ色の強い閃光が走り、その後意識を失う。
・大和大爆発の原因は、主砲弾の爆発かと言われていたが、沈没から40年後に坊ノ岬沖東シナ海の海底に大和が発見されたとき、主砲弾はそのまま海底にごろごろあったことから、砲弾を撃ち出すための膨大な量の火薬類に引火したのが真相の模様。
・海中深くから爆発のために偶然にも海面に押し上げられた筆者は、ぽっかりと浮き上がり、同時に意識が戻る。そこは重油に覆われた海だった。空一面にはアルミ箔をちぎったようなものが、きらきらと輝いていたが、それはアルミ箔ではなく大和の鋼鉄の破片で、泳いでいた多くの兵が目の前でその鉄片に当たり声もなく沈んで行った。鉄片で頭を割かれて一瞬で顔が真っ二つになったり、両足を切断されたり手首を落とされおぼれていく人もいた。筆者も右足に当たり、立ち泳ぎで泳いでいるのにどうしても体が斜めになってしまう。当たったあたりを触るが感覚がなかった。周囲には火薬庫の断熱材に使われていたコルクの破片がいっぱい浮いていた。
・まだ4月はじめなので、寒さで体が震えだしてきて、そして震えも止まり、今度は激しい睡魔が襲ってきた。1期後輩の少年が丸太を枕のようにして顔を海水面すれすれにして眠っていたが、上官が気付いて顔をびんたで張り飛ばして起こし、そのたびに少年はぱっと目を開けて「申し訳ありません」と答えるがすぐに眠ってしまう。少年は丸太に頬を擦り付けるようにして静かに海中に消えていった。
・上半身を10度前に倒してズボンの中へ小便すると、温くなり生き返った気がした。
・ちょうどその時、駆逐艦の「雪風」と「冬月」が救助に来る。待ちきれずに服を着たままクロールで2人泳ぎ出すが、消耗が激しすぎるため、2人とも半分もいかないうちに海面から消えてしまう。
・駆逐艦からは縄梯子やロープが下ろされるが、地獄の争いとなり、引きずり落とされて二度と浮かばない人もいた。筆者は恐怖感を覚え一人で「雪風」の後部の方へ泳ぎだす。そのとき浮き輪つきのロープが投げられ、必死に体を通すと、運悪く1機の敵飛行機が現れ、「雪風」は70km/hの全速力で逃げ出し、飛び魚のようにジャンプしてしまう。「今度こそ、もう駄目だ」と思うが敵機は去り、艦が止まってくれて最後に助けられる。救助された兵は安心して死んでしまうことがあるので、殴って気合を入れられる。「貴様あー、良かったなあ、よかったなあー」と、ぼろぼろ涙を流しながら筆者を殴り続けてくれる。
・タオルで顔を拭いてくれ、毛布をもらい、「赤玉ポートワイン」をもらうがそれは罠で、ゲーゲー吐いてしまうが重油やコルクがいっぱい出てくる。残ったワインで口をゆすぐ。吐き終わったあと、新しいふんどしをもらい、消化できるよう柔らかい握り飯をもらう。助けてくれた命の恩人の名前を聞くが、安堵感からか記憶を吹き飛ばしてしまう。戦後も調べるが恩人は未だに分からない。
・「雪風」は帰路に航行不能となった「礒風」に魚雷を命中させて沈める。「冬月」は「霞」を同じように沈める。米軍に捕獲されて機密が漏れるのを防ぐため。
・敵の潜水艦の魚雷が、「雪風」の帰り際に発射されるが、旋回して魚雷をかわす。
・4月8日午前10時前ごろ、佐世保へ帰る。 
2 大和沈没から生還した男 引き揚げ話に「そっとしておいて」
戦艦「大和」の元乗組員、疇地哲(あぜち・さとし)氏。沈没後、漂流する海の中で「米軍に負けてなるものかと思った」と語る91歳の生き証人は、不沈艦の最期を体験して何を思ったのか。
昭和19年(1944年)3月に第96期普通科砲術練習生を首席で卒業した私は、第一志望の不沈艦「大和」に乗り組むことができた。
水兵長となっていた私の配置は、右舷第11機銃群の従動照準器射手。21番・23番機銃の照準を行うこの従動照準器には、指揮官・器長・伝令と射手の私の4人がつく。艦首方向を0度とし、時計回りに160〜180度(右舷最後部)が受け持ち範囲だった。
敵機の速度や進入角度を入力すると、機銃の発射角度が自動的に計算される。少しでも時間があれば、新田器長が砲術学校高等科でとっていたノートを見て勉強した。12基ある従動照準器の射手のうち、高等科卒業の下士官でないのは私だけだった。居住区ではベッドで寝られて、トイレも洋式で水洗。すべてが特別だったと分かったのは、実は戦後である。
マリアナ沖海戦(昭和19年6月)では、「大和」に損害はなかった。最新鋭の空母「大鳳」が沈んで、小型空母もやられたと聞いたが、負けたとは思わなかった。
レイテ沖海戦(同年10月)では、シブヤン海で同型艦「武蔵」が撃沈される。「大和」も前部に直撃弾を受けたが、揺れさえしなかったので戦闘中は気付かなかった。敵は高度2000mくらいを水平飛行しているが、機銃の射程は1500mくらいなので届かない。だから、敵機が急降下爆撃する時には、突っ込んで来る先で当たるようにタイミングを見計らって撃った。
激しい戦闘でレイテ湾突入直前に反転(※注)したことは分からず、ブルネイに戻ってきてから知った。〈※注/当初作戦では「大和」など第一遊撃部隊が敵上陸部隊を殲滅するためレイテ湾に突入する予定だったが、レイテ湾目前で反転し、「謎の反転」と呼ばれた。〉
そして最後となる沖縄特攻(昭和20年4月)では、出撃前に一番砲塔の上から能村副長が「4月8日黎明に中城湾に突撃して浮き砲台になる」と訓示した。一番砲塔横の黒板に、「総員 死ニ方用意」と書かれていたのを覚えている。いったん軍隊に入れば、お国のために命を捧げるのが当然の務めであり、親孝行でもあると当時は思っていた。
4月6日出撃の際には、日本の見納めだとは思っても、自分が死ぬとはなぜか考えなかった。4月7日は朝から曇っており、午前11時頃に戦闘配置となる。そのあと電探(レーダー)から「左舷に大編隊」、しばらく経ってから「機種はグラマンF6F(艦上戦闘機)」と知らせてきた。やがて敵機が見えてきて、右舷30度のあたりで大きな白い綿雲に入ったり出たりしながら、向かって右方向へ進んでいる。その頃から天気が悪くなった。
ついに敵機が雲から出て右舷160度(艦尾)から急降下してきたので、対空射撃が開始される。距離は2500mくらいで、右舷からは急降下爆撃が来た。こちらが撃った機銃弾が命中したかどうか分からず、敵機が爆弾を落とすたび、続く二番機か三番機を狙った。撃墜された敵機が、右舷後部の海面に突っ込んでいくのを一度だけ見た。(敵は大和の左舷に攻撃を集中させたが)左舷から集中的に来た雷撃機は、こちらからは見えなかった。
沈没したのは午後2時23分だが、その30分以上前からすでに対空兵器は全部使用不能であった。魚雷や爆弾の命中で、もう電路がいかれて傾斜している。「総員退去」命令の前に、最上甲板の半分が沈んで浸水していた。機銃が撃てなくなったので配置を離れ、左舷側に傾いて海面上にむき出しになった“赤腹”まで歩いて行って靴を脱いだ。この期に及んで、初めて「大和」は助からないと思ったものである。
後部から海に飛び込んで、500〜600mほど離れたところで、大爆発が起こる。3番砲塔の弾庫が誘爆したように見えたが、火柱が収まった時に「大和」の姿はなかった。防舷物(当時は竹製)が流れてきたので、5〜6人でつかまった。
服は着たままで、「大和」から流れてきた重油で真っ黒。でも最後まで死ぬとは思わず、「米軍に負けてなるものか、必ず生きて帰るんだ」と自分に強く言い聞かせる。どこを見ても水平線なので、もう味方のフネは全滅だと思っていた。
3時間くらい経った日没前、「雪風」が近くに来てくれた。ジャコップ(縄梯子)を垂直によじ登って救助されると、露天甲板で衛生兵が目の消毒だけやってくれた。
4月15日に呉へ帰ると、「『大和』のことはしゃべるな」と厳命される。しかし下宿に戻ると「あんたは本物の疇地さんか?『大和』が沈んで全員戦死って聞いた」と言われた。
砲術学校を首席卒業して学校長から拝領した時計は、今も2時23分を指している。70年以上たっても忘れられず、4月7日その時刻に南西の方角へ向かって手を合わせている。海底の「大和」が発見されて引き揚げようという話になった時は、東海地区大和会もみんな反対だった。戦友がたくさん死んだ身としては「大和」を枕に安らかに休んでほしい、そっとしておいてほしいという思いである。 
3 命が削られる音がした…」沖縄水上特攻・生還者たちの証言 
時代遅れの巨大戦艦「大和」とともに
「何とか生きて帰ろう」と思ったが…
「燃料は半分。飛行機の護衛はない」
今から73年前の1945年4月、駆逐艦「雪風」の寺内正道艦長は、西崎信夫さん(91)たち乗員にそう話した。「特攻だ」と。
「母親から『是が非でも生きて帰ってきなさい。それでこそ立派な兵隊ですよ』と言われていました。だから、『何とか生きて帰ろう』と思っていました」
実際、西崎さんは1944年、かつて世界最強を謳われた、連合艦隊の機動部隊が壊滅したマリアナ沖海戦、その連合艦隊自体が事実上壊滅したフィリピン沖海戦、さらには護衛していた巨大空母「信濃」が米潜水艦に撃沈された海戦からも生きて帰った。しかし「特攻」と聞いた時は「『いよいよこれはダメだ』と」。
第二次世界大戦末期、劣勢の大日本帝国陸海軍が進めた特別攻撃隊=「特攻」について、筆者は昨年3回、現代ビジネスに寄稿した。いずれも戦闘機や爆撃機などが爆弾もろとも敵艦に突っ込む「航空特攻」について取り上げたものだ。
しかし、特攻にはそれ以外にも水上の軍艦による特攻(水上特攻)や小型潜水艦などによる特攻(水中特攻)があった。
ドラマや小説、ノンフィクションでも繰り返し描かれてきた航空特攻ほどは知られていないだろう。だが、これらの特攻では航空特攻に匹敵するほど多くの兵士たちが死んでいった。
「水上特攻」の代表は、戦艦「大和」など10隻による沖縄水上特攻がそれである。筆者はこれまで、「大和」を中心にこの特攻から生還した人たち30人近くに取材をしてきた。本稿では、この「特攻・大和艦隊」のことを振り返ってみたい。
「世界最強」のはずが…
1941(昭和16)年12月に始まった米英などとの戦争で、大日本帝国は当初、勝利を重ねた。だが連合国軍が体制を整え本格的な反攻を始めると、劣勢に転じた。決定的だったのは1944年。ことに7月、サイパンやグアムなどマリアナ諸島を米軍に占領されたことだ。米軍がここを拠点に、大型爆撃機B29による日本本土爆撃が可能になった。
そのことを、日本の為政者たちは知っていた。だが、戦争をやめなかった。そのため被害は拡大した。戦争による日本人死者310万人のうち、実に9割が1944年以降と推算されている。
同年10月には、フィリピン戦線で航空特攻が始まった。「大和」など連合艦隊の主力が、フィリピン・レイテ島に上陸した米軍を撃退すべく、航空機の援護がないままに出撃した乾坤一擲の戦いであった。
「大和」は開戦間もない1941年12月16日に竣工した。全長263メートル、全幅38・9メートル。基準排水量6万5000トン。「世界最大」の戦艦であった。また戦艦の存在価値は主砲で決まる。「大和」の主砲は四六センチ砲九門で、最大射程距離は四二キロ。同時代の、他のどの国の戦艦より主砲が大きく、射程距離は長かった。
「大和」は「アウト・レンジ」戦法、つまり敵艦の砲弾が届かないところから、その巨砲で一方的に攻撃することができるはずだった。「世界最強」と謳われた所以である。
これは、敵味方の戦艦が主砲を打ち合って雌雄を決する(たとえば1905年、日露戦争の日本海海戦)という戦術思想に基づくものである。また、航空機は戦艦を沈められない、という前提もあった。ところが航空機の発達により、海戦の主力は戦艦から航空機とそれを積む航空母艦(空母)を中心とした機動部隊に移っていった。
「大和」は、誕生した時点で時代遅れの巨大兵器だった。帝国海軍が期待したような、アウト・レンジで敵艦隊を撃滅することはなかった。そもそも、「大和」にはそういう戦闘場面すらなかった。
「大和」が期待された戦果を挙げられなかったのは、海軍が使い道を対水上艦隊にこだわり続けたせいでもある。たとえば早くから機動部隊の護衛として、あるいは上陸した米軍を艦砲射撃で叩くことに使用されていれば、それなりの戦果を挙げただろう。
水上部隊だけ何もしないわけには
ともあれ戦局の大きな節目となった1944年は、帝国海軍にとっても最悪の年になった。まず7月、前述のマリアナ諸島を守るべく出撃したマリアナ沖海戦で米海軍に惨敗。かつて世界最強だった機動部隊が壊滅した。さらに10月には、前述のレイテ島を巡る海戦で連合艦隊そのものが事実上壊滅した。「大和」とともに「浮沈艦」と言われた姉妹艦の「武蔵」も撃沈された。
為政者たちがずるずると勝ち目のない戦いを続けるうち、敵は日本本土に近づいてきた。そして1945年4月1日、米軍が沖縄に上陸した。この米軍を撃退するために出撃したのが「大和」特攻艦隊である。「大和」以下、軽巡洋艦「矢矧」、駆逐艦「磯風」「濱風」「朝霜」「霞」「冬月」「涼月」「雪風」「初霜」からなる「第二艦隊」の10隻であった。
航空機の援護を持たない艦隊は、敵の機動部隊には勝てない。勝てないどころか惨敗を喫する。そのことは、ほんの半年前、フィリピン近海で学んでいたはずだ。
さらに沖縄近海を遊弋する米海軍の戦力は、機動部隊以外でも「大和」艦隊を桁外れに上回っていた。たった10隻でそこに殴り込んでも、勝算はほとんどない。そもそも沖縄にたどり着くことすら極めて難しい。無謀そのものの「作戦」だった。
このため海軍内部では反対論が強かった。第二艦隊でも伊藤整一司令長官以下、なかなか賛成しなかった。
こうした、失敗の可能性が極めて高い特攻が発令されるには、いくつかの背景がある。まず、底が見えてきた燃料事情だ。開戦直後に侵攻した、東南アジアの石油産出地域は占領を続けていた。しかしそれを運ぶ補給路を連合国軍に押さえられているため、運ぶことができない。備蓄の燃料が少なくなる中、膨大な燃料を消費する巨艦は「厄介もの」扱いされつつあった。
さらに連合艦隊参謀長だった草鹿龍之介の証言によれば「一部の者は激化する敵空襲に曝して何等なすところなく潰え去るその末期を憂慮し、かつまた全軍特攻として敢闘している際、水上部隊のみが拱手傍観はその意を得ぬというような考えから、これが早期使用に焦慮していた」(『聯合艦隊』)という雰囲気があった。
つまり、このままでは敵の空襲でなにもしないままやられてしまう。あるいは航空特攻を初めとして「全軍特攻」を標榜する中、水上部隊だけがなにもしないというわけにはいかない、といった危機感だ。
昭和天皇への「忖度」
さらに、昭和天皇の影響もあった。
2014年9月、宮内庁が公開した『昭和天皇実録』(『実録』)には以下の記述がある(1945年3月26日の項)。
「御文庫において軍令部総長及川古志郎に謁を賜う。なおこの日午前十一時二分、聯合艦隊司令長官は天一号作戦の発動を令する」と記されている。「天一号作戦」とは、沖縄方面での航空特攻を主体とするもの。及川が作戦の詳細を説明したとみられる。
さらに4日後の30日、天皇は及川に会い「天一号作戦に関する御言葉への連合艦隊司令長官よりの奉答を受け」(『実録』)た。
及川が答えを言うからには、昭和天皇から何か質問されたはずだ。『実録』はその内容を記していない。しかし、その会話をうかがうヒントがある。宇垣纏(まとめ)海軍中将の日記『戦藻録』だ。1945年4月7日、つまり「大和」が撃沈されたその日に以下の記述がある。
「抑々(そもそも)茲(ここ)に至れる主因は軍令部総長奏上の際航空部隊丈の総攻撃なるやの御下問に対し、海軍の全兵力を使用致すと奉答せるに在りと伝ふ」
宇垣によれば、沖縄の作戦に関し及川から説明を受けた天皇は「航空部隊だけか」という趣旨の「御下問」をした。「水上部隊はどうするのだ。『大和』は出撃しないのか」と催促したわけではない。しかし、及川は大元帥=昭和天皇の意志を忖度した。それが第二艦隊の特攻につながったとみられる。
とはいえ、昭和天皇の言葉だけで特攻が決まったわけではない。前述のように、もともと海軍の一部には、「大和」を特攻させたい勢力があった。昭和天皇の一言は、そうした勢力を後押ししたのだ。
しかし、第二艦隊は特攻に納得しなかった。連合艦隊からは説得のため、草鹿龍之介参謀長(中将)を山口県・徳山沖に停泊する「大和」に向かわせた。納得しない伊藤らに対し、草鹿は言った。
「要するに、一億総特攻のさきがけになってもらいたい」
一億=国民すべてが本当に特攻したら、国家も民族も消滅する。それでは戦争を続ける意味がない。「一億総特攻」は比喩でしかない。草鹿の言葉はおよそ論理的ではないが、論理を超えた説得力があったようだ。「とにかく特攻したほしい」。そういう連合艦隊の本音に対し、伊藤は「そうか、それなら分かった」と応じた。
自分の命が削られていく音
1945年4月6日、午後3時45分。豊田連合艦隊司令長官は第二艦隊に電文を発した。
「(前略)帝国部隊ハ陸軍ト協力 空海陸ノ全力ヲ挙ゲテ沖縄島周辺ノ敵艦船ニ対スル攻撃ヲ決行セントスル。
皇国ノ興廃ハ正ニ此ノ一挙ニアリ 茲ニ殊ニ海上特攻隊ヲ編成 壮烈無比ノ突入作戦ヲ命ジタル(後略)」
この「特攻」を「命令」していることを確認しておきたい。というのは戦後、特攻を指揮した将官などが「特攻は兵士たちの意志だった」といった旨の発言をし、今日に至るまでそう信じられているむきがあるからだ。
自らの意志で特攻に飛び立った兵士は、確かに多かった。しかし、そうではない兵士もたくさんいた。
筆者はこれまで、実際に特攻で出撃した兵士30人に取材してきた。この中に、特攻するかしないか選択を任された者は1人もいなかった。特攻「大和」艦隊の人々がそうであるように、初めから特攻と決まった「作戦」に送り出された者がいたのだ。
根拠もなく「意志だった」と言い張る将官は、そうでないと自分の責任が追及されることを恐れてのことか、そうでなければ自分に催眠術をかけて罪の意識から逃れようとしたのだろう。
艦隊による「特攻」を知った「雪風」の西崎さんは、居住区で瞑想していた。
「父の形見の腕時計をしていたんです。ふだんは聞こえない、『カチカチ』という音、秒針の音が聞こえました。自分の命が削られていく気がしました」
1942年に海軍特別年少兵一期生として入団した西崎さんはこのとき19歳。「酒も女も知らないで死ぬのか」と戦友に話すと「俺は国のためではなく、家族のために戦う」と言った。「おれも家族、それに友だちのために戦おう」と応じた。
同4月6日、前述の10隻からなる第二艦隊が沖縄を目指して山口県・徳山沖を出撃した。開戦前、米英とならぶ世界屈指の軍事力を誇った帝国海軍が、最後に送り出した艦隊となった。沖縄の陸軍は米軍に押されつつあったが、翌日反転攻勢に出る計画であり、特攻「大和」艦隊はこれに呼応する狙いもあった。
連合艦隊の方針では、航空機による援護はしないことになっていた。だが翌7日、かつて「大和」に乗っており、この時は鹿児島県鹿屋を基地とする第五航空艦隊司令長官だった宇垣は、自身の判断で特攻「大和」艦隊の直衛機を出した。しかしわずか10機。時間は午前6時から10時までだけだった。
そのわずかな護衛機がいなくなるのを見計らったように、米軍機の空襲は正午ごろから始まった。
水上特攻の成果は…
「世界最強」と謳われた戦艦「大和」は実質2時間程度の戦闘で撃沈された。乗員3332人のうち、伊藤司令長官ら3056人が戦死した。生還者は276人。一割にも満たなかった。軽巡洋艦「矢矧」と駆逐艦「磯風」、さらに「濱風」「朝霜」「霞」も沈んだ。艦隊全体では4044人が死んだ(前掲『戦艦大和 生還者たちの証言から』)。たった。
この水上特攻で米軍が直接的に被ったのは戦闘機3、爆撃機4、雷撃機3の計10機の損失と戦死が12人。これが「大和」以下六隻と、4044人の命と引き替えた、直接的な戦果である。鉄板に卵を投げつけたような戦いだった。沖縄を取り巻く米軍を蹴散らすどころか、敵艦の陰すらみることはなかった。
無残な失敗の責任は、もちろん4044人にはかけらもない。この「作戦」を進めた海軍上層部にこそある。そしてその責任を負うべき者たちは、決して第一線には行かなかった。さらに陸軍が予定していた4月7日の反転攻勢は延期された(12日に実施し失敗した)。
宇垣は、この戦いについて海軍上層部を激しく批判した。
「全軍の士気を高揚せんとして反りて悲惨なる結果を招き痛憤復讐の念を抱かしむる外何等得る処無き無謀の挙と云はずして何ぞや」(前掲『戦藻録』)
士気を高めるためだったが、悲惨な結果となった。「復讐してやる」という気持ちを抱かせただけで、何も得るところがない無謀なことだった。そういう意味だ。
さらなる苦難
さて沈没する「大和」などから離れ助かった兵士たちには、さらなる苦難があった。
「大和」大爆発の後、あたり一面は重油の海となった。生き延びるためには、その海を漂いながら駆逐艦に救助されなければならない。疲れ切り、あるいは負傷した兵士たちには酷に過ぎた。駆逐艦側も、敵の制空権内に長く留まるのは極めて危険だった。
西崎さんの乗った「雪風」は舷側からロープを下ろして兵士たちを収容した。人間一人をひっぱりあげるのは相当な苦労だ。しかも、西崎さんは戦闘中、機銃弾が左足を貫通する傷を負っていた。それでも「火事場の馬鹿力」を振り絞った。
助けられる方は「疲れているし、重油ですべるからなかなか上がってこられない」。1本のロープに2人がぶらさがった。とても引き上げられない。「そういう時は、棒で一人の腕を叩きました」。叩かれた兵士は海に落ちた。その後どうなったのかは分からない。「そういう業(ごう)があるんですよ……」。西崎さんは70余年前のその光景を今も脳裏に刻んでいる。
特攻「大和」艦隊のように、船もろとも沈んだ遺体はほとんどの場合、回収されない。第二次世界大戦ではおよそ30万人もの日本人がこうした「海没遺骨」となった。無謀な作戦を遂行した者たちが、陸地で寿命を全うし、人によっては国会議員などになり再び国策遂行に関わったことを考え合わせると、戦後日本のありようが立体的に見えてくるだろう。
さて昭和天皇は敗戦後、この「大和」特攻について語っている。沖縄戦を振り返る中で、「とつておきの大和をこの際出動させた、之(これ)も飛行機の連絡なしで出したものだから失敗した」とし、「作戦不一致、全く馬鹿馬鹿(ばかばか)しい戦闘であつた」と断じた(『昭和天皇独白録』)。 
4 戦艦大和からの帰還 
S氏は1944年(昭和19年)4月の20歳のときに学徒動員で召集され、広島の大竹海兵団で2ヶ月訓練を受けたあと、6月に戦艦大和に配属となりました。所属は航海科で航行・信号・見張・操舵に関する任務を主とするそうです。戦闘態勢に入ったときにS氏が配置に付くのは司令塔の一番上のデッキ、つまり戦艦大和の一番高いところに立つのです。そしてここでS氏に与えられた任務は終始双眼鏡で敵機の来襲方向を見極め、すぐさまそばの機銃係りに伝達することなのです。S氏が乗艦してすぐさま始まったマリアナ沖海戦では双眼鏡で見える敵機が全部自分に向かって目掛けてくるように思われ、恐怖で思わず目をつぶっていたそうですが、有名なレイテ湾海戦の激戦では戦闘中にすっかり度胸がついてしまって敵機が双眼鏡から姿を消して頭上を過ぎ去って行くときもまったく目を閉じなくなったそうです。
マリアナ沖海戦では回りには味方の護衛艦、上空では味方の迎撃戦闘機も沢山飛び交って護衛していたので敵機も大和にはなかなか近づかなかったのに比べ、レイテ湾海戦では味方の護衛戦闘機が極端に少なくなって激しい敵雷撃機や戦闘機の銃撃を浴びながらも平気だったとは、「人間、何だって慣れるものなんですね」とS氏は笑って仰いました。
「レイテ湾海戦はもうとにかく凄い戦でした」とS氏が言われるので鹿児島沖の大和最後の戦いのときと比べて如何でしたか?と尋ねると、「鹿児島沖のときは戦艦大和と数隻の護衛艦だけですから、それに敵機が集中するだけですが、レイテのときはとにかく空を覆うばかりに敵機が飛び交い、味方戦闘機もほとんど無い状況の中、日本艦隊を攻撃し、日本の艦船も応戦するのです。大和にも敵機がどんどん攻撃をかけてき、とにかく艦船の大砲、高射砲、機関銃の音に飛行機の爆音、銃撃音、魚雷の爆発音ともの凄い騒音のなかで私は必死になって観測をしたものでした。
このときに私は近づいてくる敵機からの機銃掃射の発射した瞬間、光が横に棒状になっているときは別の方向に飛んで行き、それが点になっているとき自分に向かってくることに気づき、わずかの身のひるがえし方で顔のすぐ横を弾が飛び去っていったり、そのうちの一つが双眼鏡を持つ左手をかすったという経験をしました。このように今でも手に大きく傷の跡が残っています」
そう語って、S氏は手を見せてくれましたが、手の甲の指の根元の関節のところにこぶのようなものが盛り上がっていました。
恐ろしい、とは思わなかったのですか?と尋ねると、「そのときは無我夢中で、どんなだったかは今はよく覚えていないのですが、ただ、いつまで続くのだろうか、と思ったことだけは覚えております。それと、戦闘中に艦橋に配置されたものは全員、拳銃と短剣を帯びることを許されたのですが、飛行機相手には何の役にも立たないその武器二つを腰にしているという思いだけで凄く心強かったこともよく覚えております。不思議な心理ですね」「戦艦大和の主砲は仰角を45度にすると富士山の高さを越え、40キロの距離も飛ぶ脅威の大砲でありながら、実際に軍艦同士で撃ち合うことは無かったので無用の物のように思われていますが、この主砲を空中に向かって射撃すると、敵機もその発射音と弾道音の凄まじさに精神的に萎縮するのか大和への攻撃の手を緩める効果はあったようでした」S氏の話によれば主砲の射撃が始まるときは身近の乗組員は耳栓をするそうですが、それでも凄い音は振動と共に体に伝わるそうです。
レイテ湾海戦のときに偶然遭遇した敵空母に大和が主砲で撃沈したあと敵空母の乗組員が海上に浮かんでいるのを戦闘で興奮している大和の乗組員たちが機銃掃射するのを見て艦長が激怒し、すぐに止めさせたそうですが、これは後で私が調べてみると米空母は損傷はしたけれど沈没はしていないようで、戦闘中に海に落ちた乗組員が大勢いたのを見てS氏は勘違いされたのだろうと思います。ちなみに、このときの砲撃が戦艦大和の初めにして最後の敵艦船への主砲攻撃となりました。
S氏の話によればレイテ湾海戦で撃沈された大和の姉妹艦武蔵は、実際は航行不能に陥った時点で軍艦の秘密を守るため自軍の手で沈没させられたそうで、それは戦争が終わるまで極秘の事項だったとのことです。
これについてはその事実について私はいささか疑問に感じる面がありますが、S氏のお人柄を考えると、これは戦艦大和の乗組員の中ではその話が事実として伝わったのだろうと思います。
この自軍の飛行機が全然飛ばなかったレイテ湾海戦を経験してからS氏は日本軍にはもう飛行機が無くなったことを知り、この戦争は負けるな、と実感したそうです。このときのレイテ湾海戦で日本の海軍は事実上消滅したと言われております。
そして最後の沖縄への出撃です。
出撃前に片道の特攻作戦であることは知らされていたのですか?との私の問いに、「今は定かには覚えておりませんが、多分知らされていたと思います。出撃前夜は艦内で祝宴をやるのが日本海軍の慣例となっており、いつもですとみんな大いに浮かれて宴を楽しむのですが、この沖縄行きのときは宴が通夜のように静かだったことを覚えています」
「鹿児島から出撃されたのですか?」
「いいえ、徳山からです。忘れもしません、4月6日、徳山を出港して豊後水道を通過するとき島々の桜が咲いているのを見て、『桜が見送ってくれてるぞ〜』と皆々が声をあげて別れを惜しんだ光景が今でもありありと私の心の中に残っております。私は毎年4月になって桜を見るたびにいつもあの光景が蘇り、戦死していった二千数百人の乗組員たちのことを思わずにはおれないのです」
S氏のお宅は西宮市のあの桜並木で有名な夙川の河畔に建っているのです。このお話をお聞きしながら私は胸をこみ上げてくるものがあり、危ういところで落涙を防ぎ得ました。
戦艦大和には片道の燃料しか積まれなかったと言われてますが本当だったのですか?の私の問いかけに「違います。燃料は満タンでした。大和は沖縄で海に浮かぶ砦として長い期間、アメリカ軍と闘う任務を負わされており、艦船の機能を持続するためにも動力の必要があったのです。食料もかなり豊富に積まれておりました」とS氏はきっぱりと答えられました。
「それにしても、帰還をまったく考慮していないこの沖縄への突入作戦はひどい話です。艦長以下、誰もが理不尽さを抱いていたと思います」
「Sさんは大和の艦長に近くで会われたことがあるのですか?」の問いかけに、「私は気象状況を艦長に伝達する役目を仰せつかっていたのでしょっちゅう会っておりました」
「どんな方でした?」
「ひとつも威張ったところが無く、温厚で軍人というよりも文人肌の人でした。S君、明日の天気はどんなもんやろうな、と気さくに語りかけてこられてとても親しみの持てる方でした」
この艦長も当時の海軍軍人なら当然のこととして大和と運命を共にしております。
鹿児島沖での最後の戦いで印象深かったことは意外にも最初に雲間から現われたいくつかの敵機の姿だったそうです。
この敵機の姿が見えたとき、いよいよ最後のときが来たな、と思われたとか。不沈戦艦、海の要塞と言われた大和は沈められる、と若干20歳の青年でさえも感じたそうです。戦艦大和への集中攻撃は間断無しに行われたように思われがちですが、実際は途中で米航空隊は引き返し、30分ほどしてからまた再来し、このときの猛攻撃で大和は撃沈されたのだそうです。
大和の傾斜の度合いがひどくなり退艦命令が出されたのが午後2時ころとのこと。
「海に飛び込んだのですか?」
「私の場合は振り落とされました。大和がひどく傾いていたおかげで海面まで10メートルくらいだったと思います」
戦艦大和は最後は大爆発して沈没しますが、それまでにS氏はどうやって十分な安全地帯まで泳ぎ着くことができたのだろうかと尋ねたところ、「私を振り落とした大和は航行速度は落としておりましたがどんどん私の浮かんでいるところから離れて行きました。だから渦にも巻き込まれなかったのです。航行不能となってから退艦命令が出ていたらあの大爆発の巻き添えを食い、渦に巻き込まれて恐らく生存者はもっと少なかったことでしょう」
「大爆発の様子はどんなでしたか?」
「覚えておりません。大和から離れ去ることばかりを思いながら必死に泳いでいたから爆発の瞬間は見ていないのだと思います。後に写真で見る原子爆弾のきのこ雲によく似ている雲が漂っていたのはかすかに覚えております。それと凄い大音響も」
「ライフジャケットをされていたのですか?」
「いいえ。ただ、海に散乱している色々な浮遊物があり、それらの小さいのをポケットやズボンの間に入るだけ入れて浮き具代わりとしました」
「どうやって救出されたのですか?」
「護衛の駆逐艦のランチがやってきて私たちを引き上げてくれました。そばに上官がいたので多分、一緒に助けられたのだろうと思います。もっと遠くにも大勢浮いていたはずですが、私たちを救出すると急いでランチは引き上げて行きました。大和が撃沈された今、アメリカ軍の再三の攻撃がある前に急ぎ戦場から離脱するためだったのではないか、と思います」
「と言うことは沈没を免れた駆逐艦が時間をかけて救出活動をすればもっと生存者はいた可能性があったのですね?」
「はい。私は本当に運が良かったのだと思います。私と違って艦底深くにいた乗組員たちの中には大爆発の前に安全地帯までたどり着くのが間に合わなかった者も大勢いたのではないかと思うのです。本当に戦争はむごいものです」
「乗った駆逐艦は鹿児島に行ったのですか?」
「いえ、佐世保の軍港です」
「そこでSさんはお役目御免となったのですか?」
「いえ、とんでもない。戦艦大和の沈没は国民の戦意を喪失させるため極秘とされたのです。佐世保の海軍療養所に乗組員全員が隔離されました。ただし、戦艦大和の生き残りとして皆から大切にされながら治療を受け静養をし、すっかり元気になったあと、徳山に戻されました」
「また、軍務につかれたのですか?」
「はい。しかし、徳山で招集兵の教官を命じられ、二度と戦地へ駆り出されることはありませんでした」
ここまで話されてS氏はおかしそうに言われます。
「招集兵と言いましてもその頃に入隊してくるのは40代や50代の人が多いのです。みんな私よりはるかに人生の先輩の方であるのに、一様に私に尊敬の眼を寄せるのです。どうも上官たちがSはマリアナ沖、レイテ湾の大海戦を経験してきた海軍の猛者なんだ、と吹き込んでいたのに違いありません」
そこで私は言いました。
「それもあるでしょうが、戦艦大和の司令塔の上で最初は恐怖ですぐに目をつぶっていたSさんがレイテ湾、鹿児島沖と凄まじい激戦の中で冷静におれるようになったその身に付いた度胸が風貌に表れて人の畏敬を招いたのだろうと思います」
S氏は一つの編纂されたアルバムを持ってこられました。
戦艦大和乗組員の中の航海科に所属した仲間たちで作った航友会のアルバムで毎年、生き残った仲間たちで集まって一緒に旅行されるその記念写真が沢山載っておりました。十数人の男女が写っている去年の写真の中のご自分とその後にいる人物を指差して、「この二人が大和最後のときに乗艦していたのです。戦艦大和沈没時の生き残りはどんどん減っていっております」
どの写真にも「戦艦大和・航友会」の旗が一緒に写っており、私は尋ねました。
「旅先や旅館でこの旗を見た人たちがみんな尋ねませんか?戦艦大和の乗組員だったのですか、と」
「はい、しょっちゅう尋ねられます。皆さん、戦艦大和にはそれぞれ色々な思い入れを持っていらっしゃるようですね。感に堪えぬ表情をされます」
アルバムにはこの航友会が靖国神社に献燈した模様の写真も掲載されていました。
それについてS氏は言われました。
「私は個人的には靖国神社を肯定しているわけではありません。しかし、あそこに我々の戦友が祀られている以上、弔いに行かなければなりません。そういう意味で私たちは献燈したのです」
S氏のお話を聞いていて言葉の端々に戦争は残酷なもの。二度と戦争なんて起こしてはいけない、の反戦の思いだけでなく、大東亜戦争への否定の気持ちが伺われます。
お聞きしませんでしたが、今度のイラク戦争に対してもS氏は私とは違った反応をされたことでしょう。
しかし、戦争で死んでいった同胞への鎮魂は絶対に忘れてはならない、という強い思いも感じられました。
S氏は最後に、こう言われました。
「今までに何度も戦艦大和の話をして欲しい、と講演を頼まれましたが、すべて断ってきました。生き残りの1人が講演しているのを聞いたことがありますが、自慢めいた話で聞いていて不愉快でした。戦艦大和を民族の魂のように考えたり、英雄視するような風潮は好ましいものではありません。私がそのように思っていることは是非、あなたの心の中に留めておいてください」
私の受け応えから愛国的心情と戦争も場合によってはやむを得ず、という私の考え方を敏感にもS氏は察知したようなそのご発言でした。
私は複雑な思いでS氏のお言葉を受け取ってお宅をあとにしました。
S氏と私では政治的思想・信念で若干の相違があることは事実のようです。mitiko姉の私と仲の良かった亡夫と私の間にも相違があったように。
私はS氏の感動的なお話をお聞きしたからとて私の信念、考え方を変えるつもりはありません。私にとって戦艦大和はやはり日本人としての心の琴線に触れる類の存在です。間違った戦争と言われますが大東亜戦争は日本人が民族の存亡をかけて戦った戦であり、負けましたが一方的に我が日本が悪いとは決して思わない、その私たち日本人の誇りを失いたくない、その象徴が戦艦大和だと私はやはり思います。
しかし、S氏も私の義兄も軽率な戦後進歩的文化人や安易な反戦運動をやる輩とは全然違うタイプの人たちです。
戦艦大和の最後に立会ったS氏、そして戦争末期、家族からは引き離されて鹿児島でいつ出撃か、いつ自分の確実な死が身近にやってくるのかと脅えながらの予科練の訓練中に敗戦を迎えた義兄たちの激しい戦争への反撥に対して私は反論するべき言葉を失います。こういう方々へにはやはり敬意を表し、そのお気持ちを尊重します。
S氏は戦後、西宮市の小学校の教師になったそうですが、教え子たちにとって大変印象深く、大きな良き影響を与えた教師に違いない、と確信しております。  
5 三大海戦からの生還 池田武邦さん 
海軍兵学校に入学
──池田さんは大正13(1924)年生まれの現在92歳とのことですが、子どもの頃はどんな暮らしだったのですか?
元々僕の父母が住んでいた家は鎌倉にあったんですが、大正12(1923)年の関東大震災で倒壊しちゃって静岡県に避難しました。僕は翌年の1月、その避難先で生まれました。その後、2歳の時に神奈川県藤沢市に引っ越して、中学校まで過ごしました。当時の藤沢は田んぼと畑が広がり、池や小川が流れるのどかな田園地帯で、人々の暮らしや子どもたちの遊びも江戸時代とそれほど変わらない感じでした。その頃住んでた家も江戸時代の家と同じような感じの家でね。これが後の僕の人生に大きく影響することになるんですけどね。それはまた後でお話しましょう。
子どもの頃から海が大好きで、父も海軍士官で山本五十六と同期で明治37、8(1905、6)年の日本海海戦(日露戦争)にも参戦しているから、大きくなったら海軍に入りたいと思っていました。中学入学の翌年に二・二六事件が起こったので、子ども心にも世の中が不穏な空気に包まれていることは何となく感じていましたね。
中学5年生の時、かねてから希望していたとおり、江田島の海軍兵学校に入学。兵学校はそれはもう厳しかったですよ。毎日理由もなく最上級生からぶん殴られてましたからね。しかし、そこには戦場で死に直面した中でも冷静に行動しうるための修練の意味があったと僕は考えています。
太平洋戦争が始まったのは入学の翌年です。もうアメリカとの戦争は近いと肌で感じていたので、いよいよ始まったかと気が引き締まる思いでした。開戦すれば我々は最前線に出撃していく立場ですからね。ただ、真珠湾攻撃があった日、兵学校の井上校長が「戦争は始まったけれど、今は戦争のことは考えずにひたすら兵学校の生徒としての本分を尽くすことに専念せよと」という訓示を述べられた。いまだに覚えてますね。
ただ、戦争が始まったことで、本来なら4年で卒業するのが2年8ヶ月に縮まり、そのせいでアメリカまで船で行く遠洋航海実習がなくなったことが残念でしたね。今はみんな当たり前に飛行機で太平洋を横断するけど、当時は船でしか横断できなくて、横浜からシアトルまで2週間かかったんですよ。飛行機で太平洋横断しようと特別な飛行機を設計してチャレンジした若者が3、4人いたけどみんな行方不明になってたしね。そんな技術力でよくもまあアメリカのような大国と戦争しようなんて考えたよね。
卒業後は、当時建造中だった帝国海軍最新鋭の軽巡洋艦「矢矧(やはぎ)」の艤装員として配属されたんだけど、「矢矧」は超極秘裏に建造された船だったから、完成して進水式をした時も「矢矧」という名前は出さないで矢と萩の葉をあしらった手ぬぐいが振る舞われた。僕が着任したときもまだ矢矧という正式名称は公にされていなかったんだ。
マリアナ沖海戦
何度かの訓練を経て、昭和19(1944)年6月、マリアナ沖海戦へ出撃。当時僕は20歳の海軍少尉で、これが初めての実戦となった。連合艦隊の水雷戦隊の旗艦として駆逐艦8隻を率いた矢矧の任務は、第一航空戦隊の護衛だった。その時、帝国海軍が誇る連合艦隊は健在で、巨大戦艦「大和」「武蔵」をはじめ、「翔鶴」「瑞鶴」などの空母も全部そろってた。連合艦隊は各艦の距離1000m〜1500mくらい離れて編隊を組んで航行するんだけど、矢矧の艦橋から前を見ても後ろを振り返っても水平線の彼方まで日本海軍の艦が見えたんだよ。それは勇壮な景色だったねぇ。この無敵の連合艦隊がこの時からわずか1年足らずで全滅しちゃうんだから。あれほどの負け戦はないと思うし、この時は想像すらできなかったよ。
──矢矧でどのような職務を担っていたのですか?
僕は航海士として、船位測定、操舵、見張り、信号、戦闘の記録、敵潜水艦のスクリューの水中聴音など、航海長をサポートするための仕事は全部やってた。
──戦闘はどんな感じだったのですか?
戦場は「惨憺」という言葉しか思い浮かばないような残酷な現場だった。矢矧はほとんど無傷で、大鳳や翔鶴など他の船の負傷した兵を救助して手当てをしたり、戦死した兵を水葬したりしていたんだ。当時はよく新聞で「壮烈なる戦死を遂げ」なんていう言葉が使われたけれど、そんな華々しさは微塵もなく、実態はこれ以上むごたらしいものはないというくらい全部むごたらしい死だった。だから「壮烈なる戦死」という言葉がいかにイメージを変えるかということだよね。初陣となったマリアナで、戦争ってこういうものなんだということが初めてわかったんだ。
この時、戦闘記録も取ってたんだけど、後で読み返したら誤字脱字が多くて恥ずかしい思いをしたなあ。矢矧自体はほとんどやられていないにも関わらずだよ。自分では平気なように思っていても相当緊張していたんだろうね。いかに修業が足りないか痛感したよ。
結果は、空母3隻と搭載機のほぼすべてに加えて、多くの潜水艦も失う壊滅的敗北だった。これにより、西太平洋の制海権と制空権を完全に失うことになった。だから、今から考えたらこの時点で勝敗は決していたといえるかもしれないね。
レイテ沖海戦
その4ヶ月後のレイテ沖海戦の時も矢矧の航海士(中尉)として参戦したんだけど、この時はもうほとんど航空機もないし勝てるなんて思ってないよね。戦(いくさ)をどのくらい長引かせるかということしか考えてなかった。連合艦隊はアメリカ海軍の航空機と潜水艦の両方からやられたからひどいもんだったよ。出撃してから帰還するまで1週間くらいだったけど、その間敵の猛攻にさらされて立ちっぱなし。仮眠なんてとてもできなかった。いつ敵の攻撃が来るかわからないから。
──よく体力と精神力がもちましたね。
いやいや、そりゃあ当然だよ。そのために兵学校からずっと鍛えてるんだからもたなきゃおかしいんだよ(笑)。
戦闘の方は、今度は矢矧も敵の攻撃を受けて、兵学校のクラスメートや上官が次々と目の前で死んでいった。戦争で死ぬというのはね、交通事故なんて比べ物にならないくらいむごたらしいものだよ。そこら中に手足や肉片や内臓が飛び散って、甲板なんてまさに血の海。でも僕らは戦闘中はそれを放置したまま戦わなきゃいけない。血と硝煙の匂いがすごいんだ。
敵機の爆撃が収まった少しの合間に応急食料の乾パンを食べようとしたら赤黒い色になってるんだよ。爆撃や機銃でやられた仲間の血糊で染まってたんだ。その中から血がついていないものを選んでかじりながら戦闘記録を取ったり、艦の位置を海図に記してた。
死体を処理したり内臓を集めてバケツに入れたりしていると、生と死が紙一重すぎて同じことのように感じるんだよ。立ってる位置が10センチ違っただけで生死が別れる世界。戦場における人の生き死になんて完全に運だよ。どこにいたら安全なんてことは全くない。今目の前にある死体が自分であっても何の不思議もない。本当に生も死も一緒。だから自分は今日は生き延びられたけど、明日はダメだろうという感じだった。
──そういう状況の中で死に対する恐怖は全く感じなかったのですか?
死の恐怖なんて全くなかったなあ。そんなことよりも強烈にもっていたのは使命感かな。軍人として国を守るという職務を全うしなきゃならんという使命感だよ。
この時の戦闘記録は、大した爆撃もなくて全員無傷だったのに誤字脱字だらけだったマリアナ沖海戦と正反対で、かなりやられて修羅場だったのに客観的にしっかり書けていたんだよ。マリアナからわずか数ヶ月しか経っていないのに。たぶん、マリアナの時は死の恐怖なんて感じてないつもりだったんだけど、本当は心の奥底では感じていたんだろうね。レイテの時は自分自身はちっとも変わっていないと思うんだけど、ちゃんと書けてた。やっぱりね、1回実戦を経験すると人間ががらっと変わっちゃうんだろうね。度胸がつくのかな、かなり冷静になった。これは自分でもびっくりしたし、随分自信がついたんだ。だから平時に何年もかけて一所懸命修業するよりも、わずか数日間でも死と直面する実戦を若い時にどんどん経験した方が別物になるくらい成長するってことだよね。
結局この史上最大の海戦は武蔵をはじめ愛宕、摩耶など戦艦、空母、巡洋艦、駆逐艦合わせて約30隻が沈められ、事実上連合艦隊は壊滅。矢矧もボロボロにやられて戦死者・行方不明者合わせて47名も出してしまった。
沖縄海上特攻
──昭和20(1945)年4月の日本海軍最後の戦い、沖縄海上特攻(坊ノ岬沖海戦)に出撃する時はどういう心境でしたか?
この時はね、測的長という、主として電探を担当する最高指揮官の職責で大和はじめ駆逐艦8隻で沖縄に向かったんだけど、上層部からは特攻だから片道分の燃料で行ってこいと命令された。死んでこいと言われているのはよくわかっていたよ。その頃はわずかに残った戦闘機も特攻で出撃していたけど、こっちは軍艦による特攻だよね。今度こそ間違いなく死ぬと思ったけど、さっきも話した通り死ぬ覚悟なんてものはもうとっくの昔にできているから別にどうということはなかったよ(笑)。戦争が始まって、本当に自分の命に未練はないか確かめたくて刀を抜いて自分の腹に当てたことがあったけど、いざというときは躊躇なく切腹して死ねるなと思った。だからこの出撃の時も、これでやっと終わるなという非常にさわやかな気持ちだったね。遺書も書いてない。
海軍が、撃沈されるとわかっていても大和を出撃させたのは、敗戦後大和が残っていたらアメリカに拿捕されて見世物にされてしまう。それを防ぐためだった。大和は日本帝国海軍の象徴だったからね。僕ら矢矧と駆逐艦8隻の使命は大和を守ること。もし沖縄本島まで到達できたら湾に艦を押し上げて最後まで撃てと命じられていた。だからどこに押し上げたらいいかを考えていた。でも沖縄に辿り着く前に鹿児島沖で敵機に発見されたんだ。
矢矧、大和、轟沈
矢矧は大和の盾になろうとしたけど敵航空機の猛攻で直撃弾12発、魚雷7本を受けて船は大きく左に傾いた。もはや操縦不能となって、水兵が脱出用のボートを降ろそうとしたんだけどものすごく傾斜してるからボートの滑車がうまく機能せず、なかなか降ろせなかったんだ。そんな中でも敵機が爆弾を落としてくるし機銃掃射もすごかった。それでたまりかねて僕が指揮して降ろそうとしたんだけど、水兵に大声で怒鳴ってもバンバン大砲を撃ってるから聞こえない。それでラッタルを降りて現場に行って、ボートのところで指図してようやく着水させた。やれやれと思ってるところに敵機の爆弾が降ってきて、3、4人乗ってたボートが吹っ飛んだんだ。矢矧自体も傾いているところにさらに魚雷が直撃。それで最後は傾いてる側が逆に上を向いて沈み始めた。そして4月7日午後2時5分、完全に沈没。僕ら生き残っていた兵たちは燃料の重油が漂う海に飛び込んだ。
海に入って数十分ほど経ったとき、大和が巨大なキノコ雲に覆われたのが見えた。さしもの世界一の巨大戦艦も数百機の航空機に一斉攻撃されたらひとたまりもなく、被雷8本以上、直撃弾10発以上を食らって沈没。その大和が沈みゆく姿は今でもはっきりと覚えてるよ。
わずか1年で連合艦隊全滅
──目の前で大和が沈むのを見たときはどういうお気持でしたか?
沖縄の前に、レイテ沖海戦で大和と双璧をなしていた巨大戦艦・武蔵がやられて、最後に大和でしょ。僕らが世界最高だと思っている戦艦が目の前でどんどん沈んでいく。それはね、ショックというよりは、さもありなんという感じだったよ。だって、当時の海戦はすでに空母、航空機の時代。マリアナ沖海戦以降、日本側には航空機がほとんどなかった。船を護衛してくれる航空機がいないってことは丸腰で戦いに赴くのと同じだからね。でも、航空機が戦艦なんかよりも強いと最初に真珠湾攻撃で証明したのは日本の方だったんだから皮肉なもんだよね。
そもそも沖縄海上特攻の時の彼我の戦力差は15倍。刀しかもっていない武士が近代兵器を装備した軍人に挑むようなもの。いかに大和が宮本武蔵級の最高の剣豪だとしても、機関銃をもった軍人相手ではどうにもならんよ。
僕の初めての実戦だったマリアナ沖海戦の時には勇壮を誇っていた日本帝国海軍の連合艦隊がわずか1年足らずでほぼ全滅するのを全部目の前で見たわけですよ。それがショックといえばショックだったかな。
──海に投げ出された後はどうやって生き延びたのですか?
僕自身も当然、助けられるとは全く思っていなかった。海面を漂っていたら米軍の航空機が僕たち目掛けて執拗に機銃掃射してきてね。この野郎と怒りが湧いてきた。僕らはそういうことは武士道に反すると思って絶対にしなかったからね。周りでもどんどん仲間が撃たれて、あるいは力尽きて海の底に沈んでいった。
僕には運よく当たらなかった。敵の航空機が去った後、最初は浮遊物に捕まっていたんだけど、徐々に浮力がなくなって使い物にならなくなり、立ち泳ぎをせざるをえなくなった。立泳ぎもけっこう疲れるんだよ。そのうちだんだん冷えて感覚がなくなってきてね。当時は4月だから海の水がすごく冷たくてね。苦しいという感覚すらもなくなるんだよ。ああ、凍死というのはこういうものか、こういう感じで死ぬのかなと静かに死を待つという心境だったな。だからもう立ち泳ぎもやめようかなと思ったんだけど、人間、なかなか自分からは死ねないもんだよね。それで結局5時間半くらい漂っていたところで、生き残っていた冬月という駆逐艦に救助された。作戦が中止になって、司令部から10隻中4隻残った船に生存者を救出して帰れという命令が出たんだ。船から救助ロープを降ろしてくれたんだけど、もう体力は限界だし、重油で滑るしでなかなか登れないんだよ。でも何度か挑戦して何とか登りきれた。その時点まで生きていたけど登りきれずに海中に沈んでいった仲間もいたよ。結局矢矧の乗組員のうち、446人が戦死してしまった。
──よく生き延びられましたね。
これはもう運だよね。本当に、運以外の何物でもないと思うよ。
矢矧が沈んだ日が自分の命日
──ロープを登りきって船に上がったときの心境は?
よかったとかほっとしたとか、これで助かったという安心の感情はこれっぽっちもなかったよ。負け戦というのはこういうもんかと、逆にみじめな気持ちだった。
──多くの戦友が亡くなったのに自分は生き残ってしまったというような感情ですか?
いや、そういうことよりもともかくみじめだったな。つらかったのは、船に救助はされても佐世保港に帰還する間に息絶えた戦友もたくさんいた。通常ならご遺体はちゃんとお棺に入れて陸揚げして埋葬するんだけど、矢矧に関することはすべて極秘事項で、一般の人に見せちゃいけないから大きな釘樽の中にご遺体を押し込めて物資を輸送しているように偽装して陸揚げしたんだ。死体とはわからないように。それが悲しかったな。
──沖縄海上特攻の様子も非常に克明に覚えていらっしゃいますが、やはり冷静に記録なさってたのですか?
うん。沖縄の時も非常によく見えていて、戦闘中も、矢矧が沈む時も、戦死者の状況も、海に放り投げられて泳いでいる時も実に客観的に見てよーくわかるわけ。この時も実戦に放り込まれたら修行なんてしなくても人間が変わるんだなという実感があったね。
──港に着いたときはどういうお気持ちでしたか?
佐世保港に着いた時、燃え尽きて抜け殻状態だった。20歳で死ぬ覚悟を決めて出撃したのに死にきれなくて、連合艦隊も全滅しちゃったからね。生きる目的を完全に失ってしまってた。矢矧が沈んだあの日が僕の命日で、これからの人生は余生だなって思った。まだ21歳だったけどね。
何かに生かされたとしか思えない
──マリアナ、レイテ、沖縄の三大海戦に全部参加して生き延びたのは奇跡としかいいようがないですよね。
そうね。これはちょっと考えられないよね。生きてるのが不思議なくらいだったよ。3つの海戦に全部出て最後は船もめちゃくちゃになって沈んでるのに生き残ってるんだからね。兵学校のクラスメートの中で僕1人ですよ。何かに生かされたとしか思えなかった。戦場での生き死には自分の意志でどうにかなるものじゃないからね。
顔に大やけどを負う
──ケガはなかったのですか?
矢矧に命中した魚雷がすぐそばで爆発した時、とっさに軍手をした手で顔を覆ったけど、爆風で顔が焼けただれちゃってね。軍手は焼けてなくなって顔に手の跡がついていた。それほどの大やけどなら普通はケロイド状に火傷の痕が残るんだけど、佐世保に着いて海軍病院の軍医に診てもらったら最高の応急処置をしてますねと褒められた。軍医の言うことには、やけどを負った時、やるべきことは2つ。1つは患部から空気を遮断すること。もう1つは冷やすこと。これが応急処置だと。その時は激戦のまっただ中だからもちろんそんなことは何にもできなかったんだけど、その2つとも偶然にもやってたらしいんだな。
──どういうことですか?
1つ目は、魚雷を食らって海に投げ出されたんだけど、その海は沈没した船の重油であふれていたからやけどを負った顔も重油で覆われていたこと。2つ目は、まだ4月で海水の温度が低体温症になるほど冷たかったこと。この2つの偶然が最高の応急処置になったんだ。
ただ困ったのは眉毛が燃えてなくなったこと。眉毛ってなかなか生えないんだよ。救助されて半年間、鉛筆で眉毛を描いてた。それとね、長時間重油の海を漂っていたから毛穴に重油が染みこんじゃってなかなか取れなかった。重油って風呂に入って石鹸で洗ったくらいじゃ落ちないんだよ。海軍病院から退院して、数ヶ月経っても「池田は重油くさい」っていろんな人に言われたもんね(笑)。
潜水学校の教官に
──傷が癒えた後は?
もう乗る艦がないけどどうするんだろうと思ってたら、広島の大竹にあった潜水学校の教官を命じるという辞令が降りた。僕は潜水艦なんて乗ったこともないのにどうして教官をやれなんていうんだろうと思ってたら、当時の潜水学校では予備学生を特攻潜水艇の乗組員にするための教育をしてたんだ。
──特攻潜水艇といえば「回天」が有名ですがそのような船の乗組員ですか?
そうそう。海の特攻隊だよ。当時の日本は最後の最後まで戦争をやめようとしなかったからね。
原爆が落ちた日
その教官をしているときに原爆が落ちた。1945年8月6日午前8時15分。その日のこともよく覚えてるよ。潜水学校は爆心地から30kmくらい離れているんだけど、ちょうど朝の授業を始めるという時間だった。学校の自分の机で今日はどんな講義をしようかと考えていた時、突然部屋がビカッ! と光ったんだよ。どこかの電線がスパークしたのかと思って机の下をのぞいた瞬間、ズシーンと衝撃が来た。その時は海軍が極秘で近くの山をくり抜いて火薬庫を作っていたからそれが爆発したのかと思った。もちろん原爆なんて知らなかったからね。
僕らは内火艇を出して瀬戸内中を走り回って、ご遺体の収容作業に当たった。河口付近は流されてきた真っ黒焦げのご遺体であふれててね。まさに地獄だったよ。また、当時勤労動員で大勢の一般のおばさんたちが広島に行ってて、そういう人たちがみんな被曝して夕方、帰ってくるんだけどもう惨憺たる状態でね。そういう人たちのお世話もしたんだけど、みんな大やけどをして、皮膚が剥がれ落ちちゃっているんだよね。そこに白いものがたくさんついてる。よく見るとウジ虫でね。ウジ虫ってあっという間に湧くんだよ。そのウジ虫をね、傷口からずいぶん割り箸で取ったりした。そういう覚えがあるんですよ。
終戦
──終戦の日はどのように迎えたのですか?
潜水兵学校で12時から重大な放送があるから教官室に集まれというアナウンスがあった。でもあの頃、重大な放送といったって負け戦ばっかりしてたから、また気を引き締めてやれというようなくだらない訓示だろうと思ってサボっちゃった。それがあの終戦の詔勅だったんだ。だから直接は聞いてないんだよ。部下が伝えに来て初めて日本が負けたことを知ったんだ。
──その時はどういうお気持ちでしたか?
周りはみんな悔しがってたりショックを受けてたりしてたけど、僕はホッとしたね。なぜかというとね、教官をやってるときに、日曜日に外出するとそこらへんでまだ4、5歳の子どもたちが無邪気に遊んでるわけ。当時はよもや日本が敗北を認めるなんて想像すらしてなかったから、当然本土決戦になって敵がどんどん上陸してくるだろうと思っていた。そうなったとき、この子たちはどうなってしまうんだろうと、非常に子どもたちのことが気になったのをよく覚えてる。もうその子たちも70歳くらいになってるけどね(笑)。また、戦争が終わった以上、僕が教えていた生徒も特攻に出ていたずらに命を落とすこともない。だから「これで町の子どもたちも、若者たちも大丈夫だ」と思ってホッとしたんだよ。
そして、生き残ったからには国のため、死んでしまった戦友のために何かせにゃならんなと思ったね。
──大本営への恨みとか怒りとかはなかったんですか?
そんなものはないない(笑)。そもそも大本営なんて雲の上の存在であんまり知らないしね。僕らはひたすら海の上で使命を果たすということしか考えていなかったから。 
 

 

6 戦艦大和の最期
昭和二十年四月六日、戦艦大和は沖縄に向けて出撃し、翌日、鹿児島・坊ノ岬沖で海の底へ沈んだ。艦橋から奇跡的に生還した十七歳の兵隊は、四ヶ月後、広島で再び壮絶な経験をする。
「お前の行先は戦艦大和じゃ。よかったのぉ。あの船が沈む時は日本が沈む時じゃ」
上官に赴任先を告げられ、嬉しさのあまり泣きました。広島県福山市に生まれた私は十五歳で海軍に志願入隊。昭和二十年一月に戦艦「大和」へ乗りこんだときは、まだ十七歳でした。持ち場は海面から三十四メートルにもなる艦橋の一番上です。長さ十五メートルという世界一の測距儀を使って、敵との距離や角度を計算する測距員の一人でした。
赴任から三ヶ月後、大和は沖縄への「海上特攻」に出撃しました。
四月六日の夕方、別府湾沖を航行中に「当直を残して手空き総員前甲板」と命令がありました。整列している私たちを前に、有賀幸作艦長が連合艦隊司令部からの命令書を読みあげ、続いて能村次郎副長から訓示がありました。その後、左舷の皇居方向に向かって最敬礼して「天皇陛下万歳」を三唱。その後に君が代と「海ゆかば」を歌いました。最後に、
「各自、故郷の方向へお別れしろ」
と言われたので、隊列を崩してそれぞれの故郷へ向かい、ある者は合掌し、ある者は黙礼をしていました。あちこちから「さようならー」という声が聞こえます。能村副長の「遠慮はいらんぞ、大いに泣け」という言葉に涙を流している人もいました。私自身は上官のはからいで、最後の上陸日に母と会うことができたため、涙は出ませんでした。
上官の自決を目の前で
運命の四月七日は一面の曇り空でした。十一時過ぎに「目標捕捉、敵の大編隊接近す」という見張り員の叫び声を聞き、測距儀を覗いて驚きました。レンズの中が真っ黒になるほどの大編隊が迫ってくるのが見えるのです。主砲の射程四万メートルに敵が入るのを興奮しながら待っていましたが、敵機は雲の上に消えていきました。こうなるとお手上げで、測距儀で見えなければ大砲は撃てません。
敵の爆撃機や戦闘機は雲を抜けて、ほぼ真上から襲ってきました。近すぎて主砲も副砲も使えません。機銃で応戦しましたが、後部艦橋に爆弾二発が命中して副砲が破壊されました。低空で襲ってきた雷撃機の放った魚雷が一発、左舷前部に命中しました。
この第一波が去った後に上から甲板をみると地獄のようでした。あちこちに穴が空き、首がないもの、腹から内臓が飛び出しているもの、手足が吹き飛んで人間の形をしていない肉片が散乱していました。甲板の血を応急員がホースで洗い流している横を、衛生兵が走り回って負傷者や死体を運んでいましたが、ちぎれた手や足はポンポンと海へ投げ込まれていました。
そうした光景を見て動転しているところに第二波、第三波が来ました。魚雷が命中するたびに震度五ぐらいの強い揺れがあり、次第に艦は左へ傾いていきました。後日、魚雷は左舷に九発、右舷に一発当たったと聞きました。艦を水平に復元するためには、艦内右舷側の部屋をいくつも閉鎖して海水を注水しますが、傾きが大きくなったので、ついには兵隊が残っている部屋にまで海水が注がれたそうです。こうした犠牲を払っても大和の傾きは戻らず、十四時過ぎには壁に手足をついて体を支えるのがやっとの状態になりました。総員退去の命令が出たらしく、気が付くと周囲には誰もいません。が、筒状の測距儀の向こうに、直属の上司である保本政一少尉がいるのに気が付きました。
声をかけようとした瞬間、保本少尉は戦闘服を肌着ごと引き裂き、戦闘帽を刃に巻いて握った日本刀を左の脇腹に突き立てたのです。すごい勢いで血が吹き出し、保本少尉は一瞬、目を見開いた後に崩れ落ちました。血で染まった肌着は、従兵だった私が前の晩にアイロンをかけて届けたものです。そのとき「お前には世話になったなあ」と言葉をかけてくれました。その優しい上官が目の前で切腹したのです。私は声も出せずに、その場で硬直してしまいました。
その間も大和は傾きつづけ、ついには横倒しになってしまいました。海面から三十メートル以上の高さにあった測距室の二、三メートル下まで海面が迫っています。我に返った私は海に飛び込んで泳ぎ始めましたが、二メートルも進まないうちに、沈む大和が作りだした巨大な渦に巻き込まれてしまいました。二十メートルほど沈んだでしょうか。海中でオレンジ色の閃光が走りました。大和が爆発したのです。その直後に私は意識を失い、気が付くと海に浮かんでいました。爆発の圧力で海面へ押し出されたようです。あたり一面には重油が浮き、波間に数百人の生存者が漂っています。
上空に敵機はいませんでしたが、赤やオレンジ色にキラキラと光ったり、鉛色になったりする物体が、満天を覆っているのが見えました。爆発で吹き上げられた大和の破片です。爆発の熱で真っ赤になっていたんですね。それが次々と降ってくるのです。五メートルほど前に浮いていた兵隊の頭が突然、二つに割れて膨れ上がり、声もなく海中に消えていきました。手足を切断された人もいました。
私の右足にも厚み一センチ、一辺の長さが二十センチほどの三角形の鉄片が刺さりました。水泳には自信がありましたが、右足がマヒしてしまい、溺れてしまいました。
「助けてくれぇ」
重油とコルクの浮いている海水を飲みながら、とっさに声が出ました。すると近くにいた士官が、抱えていた丸太を私の方へ押し流してくれました。川崎勝己高射長でした。高射長とは対空砲火の責任者です。
「落ち着け。もう大丈夫だぞ。お前は若いのだから頑張って生きろ」
高射長はそう励ますと、波に揺られて離れていきました。最後に高射長を見たのは、四時間後に駆逐艦「雪風」が救助に来たときです。みんなが怒号をあげながら、下ろされた縄梯子を奪い合っている中、高射長は大和が沈んだ方向へ一人、泳いでいきました。
「コーシャチョー、コーシャチョー」
と私が声を限りに叫んでも、振り返ることはありませんでした。
原爆投下の翌日、広島へ
呉に戻った私は陸戦隊へ配属されました。本土決戦に備えて、呉市の山奥で新兵を鍛えることになったのです。
昭和二十年八月六日の朝、小隊長の訓示を聞いていると、上空を一機のB-29が飛んでいきました。それから三分ほど経ったとき突然、周囲が青白く光り、直後に猛烈な風が吹きました。広島市からは二十三キロも離れているのですが。午後には特殊爆弾が落ちたという情報が届いていました。
翌日、広島駅の復旧作業を命じられ、百六十名を率いて広島市内へ向かいました。当時、西日本一と言われていた鉄筋三階建ての駅舎は外壁だけが残り、天井は地面まで落ちていました。その下に手や足、つぶれた頭があるのが見えました。駅の周辺にも何千、何百という死体がありました。死体置き場になった駅裏の東練兵場には異様な臭いが漂っていました。暑さのため腐敗が進んだ死体の腹がパンパンに張り、そこかしこで死体がポン、ポンと放屁しているのです。その臭いは言葉に出来ません。
翌朝、偵察を命じられた私は部下を連れて、被害状況をスケッチで記録していきました。市内南部にある御幸橋周辺の記録を終えて立ち去ろうとした瞬間に右足をつかまれました。とっさに軍刀へ手をかけながら足元をみると十歳ぐらいの少年が手を伸ばしていました。顔がドロドロに焼けただれていたので、てっきり死体だと思っていたのですが、まだ息があったのです。
「兵隊サン、ミ、ズ、水ヲ下サイ……」
少年が弱々しく呟きました。このとき私の水筒には水が入っていましたが、「重体者に水を与えると死ぬ」と言われていましたし、「負傷者の救助はするな」という命令も出ていました。私は「待っておれよ、また戻ってくるからな」と言って、その場を立ち去りました。
ごめんなさい。あのとき、私が水をあげて死なせてやればよかったのです。ごめんなさい。思い出すたびに涙が出てきます。いまでも御幸橋を通るときは必ず両手を合わせます。 
7 元兵士たちの「最後の証言」
毎年夏、各紙に登場する「戦争もの」。「8月のジャーナリズム」などと揶揄されようと、欠かせない定番記事だ。中日新聞で昨年夏から1年間にわたった「太平洋戦争 最後の証言」も当初は8月の単発企画の予定だった。それが、今年7月までの年間企画(6部構成、計41回)へと発展したのは、地獄のような戦場から生還した元兵士たちの証言の迫力に押された結果だった。
従来の「戦争もの」では、空襲体験者の記憶や、広島・長崎の原爆、旧満州からの引き揚げの苦難などの話が中心だった。戦場での兵士たちの証言は断片的であり、局地戦に絞った企画が多かった。
今年は戦後67年。従軍当時は20代の若者だった兵士たちも、80代後半から90代の高齢者ばかりだ。社会部取材班にとって時間という大きな壁と向き合う覚悟が求められた。この連載でデスクを担当した鈴木孝昌遊軍キャップ(現・経済部長)は「(元兵士たちには)この先残された日々を数え、どこかで(自分の戦場体験を)話しておかなければ……という切羽詰まった思いがあった」と振り返る。
取材の取っかかりは東海地方出身者で結成された「陸軍歩兵第228連隊」の連隊史や名簿をもとに取材対象を割り出す作業から始めた。1942年11月、南方で攻勢に転じた連合軍を阻止するため南洋ガダルカナル島に上陸した2500人のうち、生還者はわずか300人余という悲劇の連隊だ。その生還者も年々鬼籍に入り、少なくなっている。「最後の証言」という言葉に重い現実感が伴う。
ところが、いざ取材にかかるとすごい手応えがあった。―戦友を見捨てた。人間の肉を焼いて食べた。血をすすってのどを潤した。仲間を射殺した。連合軍の圧倒的な火力を前に、敗走を続ける日本兵。華々しい戦闘で命を失うのではなく、飢餓と熱病で倒れる兵士が多かった。暗く忌まわしい記憶をたぐるように、とつとつと記者に語る元兵士たちは、微に入り細をうがち、その情景を描写した。万感迫ると、声を上げて泣いた。
インタビューに何日も通うこともあり、一人当たり十数時間に及んだ。取材班は「迫力ある証言が得られ、彼らの発した言葉を、そのまま記録しよう」と考えた。「戦場の音や臭い、熱帯の空気、感覚、それらをリアルに再現しよう」と試みた。それが昨年8月10日付朝刊から「餓島からの帰還〜名古屋・歩兵二二八連隊最後の証言」(5回)として結実した。
その最終回に、次のような戦友の射殺場面が描かれている。
―「歩けない者は自決せよ」。撤退を前に、小隊長が同年兵の荒巻勉=当時24歳、岐阜県恵那市=に命令した。栄養失調で動けず、塹壕に残っていた。「こ、殺さんでくれ」。小隊長が向けた銃口に手を合わせ、命を乞う。はって逃げようとした瞬間、銃弾が後頭部を撃ち抜いた。
連載第2弾の「戦艦大和の遺言〜中部の乗組員たちの記憶」には、海に落ちた兵たちを救助する場面がある。沈没を免れた駆逐艦から下ろされた救助の縄ばしごに皆が必死にしがみつく。その重みで綱の一方が切れた。「わしのはしごや。大勢つかまるな」。元兵士がそう思ったとたん、もう一方の綱もぷつりと切れ、再び海に投げ出された。「まるで芥川竜之介の『蜘蛛の糸』やった」。
第5弾の「捨て石の島〜陸軍石部隊と島人(しまんちゅ)の沖縄戦」では、寄せ集めの兵士100人ほどを従えた名古屋市昭和区の伍長、神谷五郎(90)が米軍の戦車にダイナマイトごと体当たりする兵の指名をする場面がある。
―暗い洞窟の中で、近くに見える兵から「次はおまえだ」と指名していく。拒む者はいない。(中略)同期の上等兵に突撃を命じた時だった。
「俺を使うのか。覚えておけよ」と、同じ名古屋出身の戦友はにらみつけた。神谷は一瞬たじろいだが、黙って見送るしかなかった。(中略)神谷は、死を命じた兵隊たちへの慚愧(ざんき)の思いを、戦後ずっと抱き続けることになる。
第6弾の「果てなき白骨街道〜インパール作戦敗走の記録」では、高熱に倒れた「加藤」という戦友を撤退途中に置き去りにした証言が掲載された。後日、愛知県愛西市の大河内寿満子さん(68)が「私の父ではないか」と名乗り出た。証言したのは名古屋市中川区の秋田豊久さん(90)。取材班の仲介で大河内さんと親族が秋田さんの自宅を訪ねた時の様子が、連載終了後に掲載された。
同僚を見捨てた記憶にうつむく秋田さんに、寿満子さんは「やっと父の最期が分かりました。ありがとう」と声をかけた。秋田さんは復員後、戦病死した戦友宅を訪ね、遺族に最期の様子を報告してきた。「ただ、加藤のことだけは無理だった。置き去りにしたなんて、とても言えんから」。秋田さんの長く苦しい沈黙が終わった瞬間だった。
「これが10年前だったら(取材は)違っていたと思う。悲惨な記憶は墓場まで持って行こう、と誰もが思っていたし、家族にも話していなかった。記者が何度も通ううちに、重い口を開いてくれた」と鈴木は語る。6人の記者が取材した元兵士や遺族は合計300人近くに上った。
戦闘で腸が飛び出した、傷口にうじがわき、それを食べた―など「映像が浮かぶように」リアルに表現した。「朝食前にこんな文章を読めるか」という非難の声もあった。「表現をマイルドにしたら、実名で証言してくれた元兵士に失礼だと思う。だから、言葉はそのまま生かした」と鈴木は言う。  
8 「大和」元乗組員 「間違いなく世界一の艦だった」
深井俊之助氏は、大正3年生まれの104歳。部屋の中を杖もつかずに歩き、座る姿勢は背筋がピンと伸び、驚くべき記憶力で理路整然と語る。
深井氏は戦前、海軍の通信技術者だった父親の影響から海軍兵学校に入り、終戦まで戦艦乗組員として活動した。そして、いくつかの艦を乗り継ぎ、昭和19年3月、少佐として世界最大と謳われた戦艦「大和」の副砲長を命じられた。
深井氏がその当時を振り返る。
「『大和』は遠くから見るものであって、自分が乗るものとは思ってもいなかった。いざ乗船してみると、その大きさに驚くばかり。なかは迷路のようで、艦の後方に行くとどこにいるのかわからなくなるので、そんなときは階段を上って甲板に出て、艦橋を見上げて確認しました。
艦内は冷暖房完備。艦橋はビルのような高さでしたが、士官や伝令などはエレベータを利用できた。副砲長は艦の序列では上から5番目です。『大和』の乗員約3300名のうち250名が私の部下でした。
進路の指示をした時は足が震えるほどの緊張を感じました。漁船をよけようと思って『取舵15度』と指示しても、艦が大きいから全然曲がらない。いざ曲がり出して舵を戻しても、今度は元に戻せない。どうしようかと思いましたよ。
『大和』は間違いなく世界一の艦だったと思います。今後、これ以上の艦は建造し得ないと思っていたし、当時のすべての米艦船より優れていた。
主砲の46cm砲はいうまでもなく世界一ですが、私が指揮した15.5cm副砲も優れていた。砲弾の初速は毎秒920mと世界最高クラスで、命中精度も極めて高かった。
待遇でも『大和』は優遇されていました。士官の夕食は洋食のフルコースで、ステーキも出た。アイスクリームを食べられるのは『大和』だけで、他の船からも“大和ホテル”だと言ってアイスクリームを食べに来る乗組員がいたほどです」(深井氏、以下「」内同)
深井氏は「アイスを食べよう」と言い出し、頬張りながらの取材となった。話はいよいよ「大和」の戦いに及んだ。
「昭和19年10月25日の朝、フィリピンのレイテ島に向かう途上で米空母部隊を発見し、戦闘になったとき、駆逐艦が突進してきて煙幕を張り始めた。こういう補助艦艇をつぶして、目標が見えるようにするのが私の仕事でした。
一隻目を撃ったんだけど、やっぱり、緊張してるんだね、当たらない。そこで、『600m下げろ』と。距離9000mで撃っているのを8400mにしろといって撃ったが、当たらない。すると、この600mの間に敵艦があることは分かる。これは法則通りで、今度は『300m上げろ』と徐々に詰めて、4発目で当たった。次の駆逐艦も3発目で当たった。
一発当たるたびに、艦内ではわーっと歓声が上がった。あれは痛快だったね。男冥利に尽きます。
『大和』の砲弾は空母『ガンビア・ベイ』にも当たりました。これは商船を改装した護衛空母で、装甲が薄かったので、『大和』の高速な砲弾は船体に当たっても爆発せず、貫通してしまったほどです。そのまま『ガンビア・ベイ』の横を通過しましたが、敵兵は撃ちませんでした。彼らは救助に一生懸命で、こっちもそんな手負いの船を撃ったってしょうがないと思って見逃しました」 
9 「戦艦大和ノ最期」の真実
戦艦大和の沈没の様子を克明に記したとして新聞記事に引用されることの多い戦記文学『戦艦大和ノ最期』(吉田満著)の中で、救助艇の船べりをつかんだ大和の乗組員らの手首を軍刀で斬(き)ったと書かれた当時の指揮官が産経新聞の取材に応じ、「事実無根だ」と証言した。手首斬りの記述は朝日新聞一面コラム「天声人語」でも紹介され、軍隊の残虐性を示す事実として“独り歩き”しているが、指揮官は「海軍全体の名誉のためにも誤解を解きたい」と訴えている。
『戦艦大和ノ最期』は昭和二十年四月、沖縄に向けて出撃する大和に海軍少尉として乗り組み奇跡的に生還した吉田満氏(昭和五十四年九月十七日、五十六歳で死去)が作戦の一部始終を実体験に基づいて書き残した戦記文学。
この中で、大和沈没後に駆逐艦「初霜」の救助艇に救われた砲術士の目撃談として、救助艇が満杯となり、なおも多くの漂流者(兵士)が船べりをつかんだため、指揮官らが「用意ノ日本刀ノ鞘(さや)ヲ払ヒ、犇(ひし)メク腕ヲ、手首ヨリバッサ、バッサト斬リ捨テ、マタハ足蹴ニカケテ突キ落トス」と記述していた。
これに対し、初霜の通信士で救助艇の指揮官を務めた松井一彦さん(80)は「初霜は現場付近にいたが、巡洋艦矢矧(やはぎ)の救助にあたり、大和の救助はしていない」とした上で、「別の救助艇の話であっても、軍刀で手首を斬るなど考えられない」と反論。
その理由として
(1)海軍士官が軍刀を常時携行することはなく、まして救助艇には持ち込まない     .
(2)救助艇は狭くてバランスが悪い上、重油で滑りやすく、軍刀などは扱えない      .
(3)救助時には敵機の再攻撃もなく、漂流者が先を争って助けを求める状況ではなかった
−と指摘した。
松井さんは昭和四十二年、『戦艦大和ノ最期』が再出版されると知って吉田氏に手紙を送り、「あまりにも事実を歪曲(わいきょく)するもの」と削除を要請した。吉田氏からは「次の出版の機会に削除するかどうか、充分判断し決断したい」との返書が届いたが、手首斬りの記述は変更されなかった。
松井さんはこれまで、「海軍士官なので言い訳めいたことはしたくなかった」とし、旧軍関係者以外に当時の様子を語ったり、吉田氏との手紙のやり取りを公表することはなかった。
しかし、朝日新聞が四月七日付の天声人語で、同著の手首斬りの記述を史実のように取り上げたため、「戦後六十年を機に事実関係をはっきりさせたい」として産経新聞の取材を受けた。
戦前戦中の旧日本軍の行為をめぐっては、残虐性を強調するような信憑(しんぴょう)性のない話が史実として独り歩きするケースも少なくない。沖縄戦の際には旧日本軍の命令により離島で集団自決が行われたと長く信じられ、教科書に掲載されることもあったが、最近の調査で「軍命令はなかった」との説が有力になっている。
松井さんは「戦後、旧軍の行為が非人道的に誇張されるケースが多く、手首斬りの話はその典型的な例だ。しかし私が知る限り、当時の軍人にもヒューマニティーがあった」と話している。
松井さんは、大和沈没後、より危険な特殊潜航艇への乗船を志願し、同艇長で終戦を迎えた。戦後は東大に入学し直し、司法試験に合格、弁護士として活躍してきた。
今回の証言について「戦中戦後の出来事を否定するあまり、当時の人間性まで歪められて伝えられることが多い。本当にそうなのか、考え直すきっかけになれば」と話している。
松井さん「爆沈・・・今もまぶたに」
バーンという大音響、舞い上がる火柱、空中に吹き飛ぶ将兵ら・・・。駆逐艦初霜の通信士、松井一彦さん(80)か゛目の当たりにした戦艦大和の最期は、壮絶なものだった。一瞬にして三千人の命が道連れになった光景は、「今もまぶたに焼きついて離れない」という。松井さんは昭和十九年九月、海軍中尉で初霜に乗り組み、二十年四月六日、大和とともに沖縄突入作戦に出撃した。しかし、七日午後零時四十一分、米軍機が攻撃をしかけ、二時間にわたる死闘が展開された。
戦闘中、初霜は大和の右斜め後方千五百メートルの位置で護衛に努め、甲板上の松井さんは、戦闘の一部始終を悲痛な思いで見つめていた。雲の切れ間から米軍機がパッ、パッと現れ、「雲の中に敵機が充満しているようだった」と振り返る。
大和の周囲にいた駆逐艦などが魚雷や直撃弾で相次いで沈没するなか、大和は十本前後の魚雷と四発の直撃弾を受けても航行を続け、「不沈戦艦の名に恥じない威容だった」。しかし、午後二時ごろから、左にの傾斜が激しくなった。
最期が近づいていることは誰の目にも明らかだった。敵機も攻撃の手を緩め、上空で様子をうかがっている状況。そんななか、雷撃機がすうっと下りてきてとどめの魚雷を放った。
左舷に水柱が上がった。大和はほとんど横倒しになり、赤い船腹の上に無数の将兵がはい上がるのが見えた。その時、大爆発が起こり、将兵らが吹き飛んだ。爆風は松井さんにも届き、顔面に強烈な熱気を感じた。
松井さんは連合艦隊司令部に「大和、更ニ雷撃ヲ受ケ、一四二三左ニ四五度傾斜シテ誘爆、瞬時ニシテ沈没ス」と電報を打った。乗員3,332人中、救い出されたのはわずか276人だった。 
10 父 吉田満の遺言
21歳の海軍少尉として戦艦大和の撃沈から生還し、若くして戦争文学の名作『戦艦大和ノ最期」の著者となった父吉田満は、昭和54年の9月17日に56歳で亡くなった。父の葬儀は、彼が理事を務めていた東洋英和女学院で行われた。多彩な参列者の列は、六本木駅にまで達した。父はよきクリスチャンであり、よき銀行マンであり、よき家庭人であり、人脈家として交際家として、短い人生を駆け抜けた。家族に対するときはよき家庭人に徹して、それ以外の側面はほとんどみせなかった。父は大いなる書き手であったが、語り手というよりは聞き手に廻ることが多く、短いセンテンスに込められた一瞬の機微を好んだ。一言でいえば父は−旧日本海軍のスピリットを体現した—「スマート」な紳士であった。
よく「父から聞いた特別の戦争に関する思い出を」、と聞かれるが、戦争の思い出を父から直に聞いたことは、ほとんどない。反戦づいた高校生の私が、良心的兵役拒否について父の意見を聞いたときも「まぁ、いろいろとあるんだよ」と父は言葉を飲み込んだ。この歳になってよくわかるのは、「しいて語らずとも自分の生き方を見よ」という父の心持である。しかしスマートだけではない父の側面も確かにあった。父はめったに歌を歌わなかったが、歌わなければならないときは必ず「同期の桜」を選んだ。私も小学校4年生のときに転勤先の青森で、父の「同期の桜」を聞いたことがある。銀髪で温厚円満な風貌の父は、目をつぶり、肩を振り、万感の思いを込めて絶唱をした。宴会は、一瞬しーんと静まった。父は今は亡き戦友たちと肩を組んで歌い、人々は楽しい宴会にいきなり現れた死者の大群に、驚きあわてたのだろう。歌い終わって父は少しだけ恥かしそうにしていたが、やがて笑顔で隣の人に語りかけ、また喧騒が始まった。
この、戦友が今も生きているという幻影は、戦後父にずっとつきまとっていた感覚ではないだろうか。以下は、父が亡くなる直前に書いた『散華の世代からの問い』というタイトルの文章の一節である。
「私は今でもときおり奇妙な幻覚に捕らわれることがある。それは戦没学徒の亡霊が、戦後三十数年を経た日本の上を今、繁栄の頂点にある日本の町をさ迷い歩いている光景である。死者が今際のきわに残した執念は容易に消えないものだし、特に気性の激しい若者の宿願はどこまでもその望みを遂げようとする。彼らが身を持って守ろうとしたいじらしい子供たちは、今どのように成人したのか?彼らの言う日本の清らかさ、高さ、尊さ、美しさは、戦後の世界にどんな花をさかせたのか。それを見届けなければ、彼らは死んでも死にきれないはずである。彼らの亡霊は今何を見るか、商店の店先で、学校で、家庭で、国会で、新聞のトップ記事に今何を見出すだろうか」
戦後日本の成長にあわせて幸せな家庭と世俗の成功を手にした父は、若き死者たちの宿願を、いつも身近に感じていたのではなかったか。この文章を読む限り、父は80年代に日本が彷徨いこむバブルの迷い道を、正しく予見していた。成功や繁栄や拡大は、必ずその社会に歪を残す。明治からひた走った戦前日本の成長の歪は、太平洋戦争につながった。しかし若き戦死者たちは、その歪をこの世からあの世に持ち去り、若すぎる彼らの死を悼む痛切な気持ちが、日本を、再び真っ当な道にもどしたかに見えた。今、戦後の高度成長や繁栄のもたらした歪を持ち去る死者はいない。残ったのは、腐敗と老醜と倦怠である。「今の日本を見るのが嫌で父はあの世に行ってしまったのか・・・」新聞のトップ記事に唖然とするたびに、私が感じる慨嘆である。
父は死の一ヶ月前に吐血し、そのまま入院して亡くなった。私が大学4年、就職が決まる直前の夏である。入院してすぐに、父の死がそれほど遠くはないことを医師から知らされ、私は一ヶ月間のほとんどの時間を、父の病室で過ごした。「あの雲を見てごらん・・・」自在に変化する鮮烈な夏雲を病窓から眺めながら、私たちはとりとめのない会話を交わした。父の遺言のなかには面白い一言があった。「望、銀行には行くなよ・・・」日本銀行で35年間近くを過ごしてきた父の言葉である。が、この言葉にも説明はなかった。また私もその意味を聞きかえすほどには、世の中に通じていなかった。私はその言葉に従ったということではなかったが、自分の本能の命じるままに大手広告代理店を選び、就職した。父の遺言は謎というか、むしろ間違っていたと、私は長らく思っていた。というのもその後バブルが崩壊するまで、優秀な同朋・後輩の多くが銀行に就職し、私よりもはるかに成功しているように見えたからである。しかしバブル後の日本経済の「失われた10年」の間に、いつのまにか銀行業は、人生の帳尻としてはなかなかあわない職業となった。父は正しかったのである。
今から2年ほど前、私は父の遺言の意味をもう一度よく考え、ある結論に達した。それは「世の中には数十年で訪れる成功のリスクがある。そのリスクは誰にも予想されないが、長い眼で見れば必ずいつかは来る現実となる」ということである。成功した業界、儲かることがあたりまえになった業界はささいなリスクを避けるようになる。政治の原理が幅を利かせ、儲けることよりもいかに分配するか、が大事になる。組織から志や覚悟が次第に失われ、努力と成果のバランスが悪くなり、最後には巨大なリスクに見舞われる。大蔵省、公共事業、建設、銀行、保険、流通、みんな同じではないか。そして戦前の日本も今の日本もある意味では同じ道を歩んだのではないだろうか。
私が広告・メディア産業もそうではない、とはいい切れない。私は父の遺言をかみしめて、自発的失業という小さな自分だけのリスクをとってみようと決意した。そして44歳を目前に、20年間勤めた会社を退社し独立した。無我夢中の2年間を過ごし、かろうじてサバイバルを果たしたようだ。父の死の歳までに私に残された期間はあと10年。天下に恥じざる人生を過ごすことをもって父への鎮魂にささげたい、と願う今日この頃である。  
 

 

11 戦争の残照 旧日本兵の証言
大海原に鳴り響く汽笛は、どこか悲しげだった。
2006年4月7日、九州の南方海洋。元海軍2等兵曹、山林正直(86)=島原市中堀町=は、白波を立てて進むチャーター船の甲板にいた。旧海軍の沖縄特攻作戦で散った将兵たちの海上慰霊祭だった。戦争末期の1945年のこの日、沖縄へ出撃した世界最大級の戦艦「大和」を含む10隻が米空母部隊の猛攻撃を受け、大和など6隻があえない最期を遂げた。艦隊全体で約4千人が戦死したともいわれている。山林は巡洋艦「矢矧(やはぎ)」の生き残りだ。撃沈から約6時間後、奇跡的に救助された。
遺族や戦友を乗せたチャーター船は、各艦の沈没場所へ、沈没時刻に合わせて航路をたどった。「あん時は、大変だったなあ」−。「矢矧」が沈んだ場所で海に花束を投げ、艦と運命をともにした仲間たちに語り掛けた。甲板に吹き込む海風が肌寒かった。
撃沈されたのは1度ではない。44年11月9日にも、乗艦していた護衛艦「長寿山丸」が沖縄県の那覇を出航後に魚雷攻撃を受け、約11時間、漂流した。「二度の生還」を果たした山林は「海軍特別年少兵」出身だ。正式には「海軍特別練習兵」だが、部内では「特年兵」と呼んだ。海軍が中堅幹部の養成を目的に創設した兵だ。採用資格は「14歳以上、16歳未満の者」と規定された。海軍特年会編「海軍特別年少兵」によると、教育中に終戦を迎えた4期生を含めて全国に約1万8千人。山林は実戦配属された2期生だった。
スパルタ教育
南高神代町(今の雲仙市国見町神代)で、貧しい小作農の家に生まれた。世の中には「非常時」の言葉が氾濫し、山林も小旗を振って出征兵士を見送る軍国時代の少年だった。
学業は優秀だった。神代国民学校は学年2番で卒業。進学した同校高等科で、特年兵の受験を勧められた。試験には将来の海軍士官を夢見て、各校から応募が殺到した。「あこがれの海軍に入って、軍艦に乗りたかった。地元の試験会場だった旧制島原中(今の島原高)には島原半島内から何百人と来ていた」。神代の高等科から、難関を突破したのは山林1人。母ケシは一人息子が軍人になるのを反対したが、時代にはあらがえなかった。
43年7月1日、水兵科特年兵として、今の陸上自衛隊相浦駐屯地に置かれていた佐世保第二海兵団に入団。2等水兵となった。九州、四国各地から集まった同期800人が各教班に分けられ、それぞれに担当下士官の教班長が付いた。特年兵は文武両道の秀才ぞろい。入団後、ある教班で、教班長が「学校を5位以内で卒業してきた者は手を挙げろ」と聞いたところ、全員が手を挙げた、とのエピソードがある。
海兵団では海軍伝統のスパルタ教育が待っていた。就寝はハンモック。早朝、スピーカーから鳴り響く起床ラッパと、当直下士官の号令で1日が始まる。ハンモックの両端はフックに引っ掛けており、これを外して大急ぎでたたんで袋に入れ、高い位置にある格納庫にしまうのが最初の日課であり、訓練だった。少しでもまごつくと班全員が罰直(制裁)を受けた。ビンタは序の口。「精神棒」で思いっきり尻をたたかれる。青あざが絶えなかった。学科に加え、午後からは小銃の装塡(そうてん)教練、実弾射撃、水泳訓練、短艇訓練、武技−。「なんだ、そのざまは。それでも帝国軍人か」。教班長の怒声が飛ばない日はなかった。
「夜、寝静まると、兵舎に並んだハンモックから忍び泣く声がよく聞こえた。『おっ母、おっ母』って」。しごきに耐えかね、脱走する特年兵もいた。
1個の消耗品
海兵団での基礎教育を終えると、兵種に応じた術科学校への入校を命じられ、専門教育を受けた。山林は横須賀海軍砲術学校で、目標物までの距離を測り出す測的班練習生になった。戦局は日に日に悪化していた。中堅幹部養成という当初の方針は転換され、特年兵たちは最低限の教育を受けると、戦況不利な前線へと、急ぎ投入されていった。1個の消耗品だった。
軍籍に入って以来、希望調査には「第一志望 巡洋艦」と書き続けた。「機動力に優れ、任務も多い巡洋艦は花形だった」。44年11月、「矢矧」乗り組みを命じられた時は天にも昇る思いだった。「長寿山丸」撃沈からわずか6日後。
「長寿山丸では乗員約100人のうち、助かったのは自分も含めて9人。そんな目に遭ったばかりだったのに、『やったあ』なんて…」と遠くを見詰める。
沖縄特攻艦隊
45年4月1日、米軍がついに沖縄上陸。これを受け、陸海軍共同の沖縄作戦が発動する。沖縄を決戦場と考えた海軍は最後の総力を傾けた沖縄特攻艦隊を編成した。戦艦「大和」、巡洋艦「矢矧」、駆逐艦「冬月」「涼月」「朝霜」「初霜」「霞」「磯風」「浜風」「雪風」の10隻。援護機は付かないことも伝えられた。「飛行機も操縦士も(神風)特攻で残っていなかった。海上作戦を実行する上で援護機が付かないというのは、もはや作戦ではない。勝ち目がないことは分かっていた」。出撃を翌日に控えた5日夕、爪と髪の毛を封筒に入れ、遺品として託した。古里が目に浮かんだ。「1隻でも、1機でも」。覚悟を決めた。
6日午後3時20分、山口県の三田尻沖を出撃。翌7日は朝から曇り空で視界不良だった。「対空戦闘には苦労するな…」。伝令員として艦橋にいた山林の耳に、幕僚のつぶやきが聞こえた。懸念は的中する。
雲の切れ間から米軍機の大編隊が現れた。「敵は100機以上」。甲板の見張り員が叫ぶ。「矢矧」は速度を上げながら全砲門を開いて応戦。だが、曇天と砲門の煙幕で視界はさらに狭くなり、主砲、高角砲とも機能しない。「魚雷近い」。左舷見張り員が緊迫の声を上げた。3本ぐらいの航跡を描いた魚雷のうち1本が、スクリュー付近に命中。水煙とともに火柱が上がり、山林は衝撃で吹き飛んだ。 
12 戦艦大和の遺言
旧日本海軍が技術の粋を集めて建造した史上最大、最強といわれる戦艦「大和」。太平洋戦争末期の1945(昭和20)年4月、沖縄への海上特攻に出撃する途中で、米軍機の一方的な攻撃を受けて東シナ海に沈んだ。乗組員3332人のうち、中部地方出身者が2割の約700人を占めていた。兵士たちはどのような思いで戦い、死んでいったのか。生存者や遺族の証言から、大和最期の航跡をたどる。
艦首に掲げた菊の紋章が、海面に漬かり始めた。十数本の魚雷を浴びた大和の姉妹艦「武蔵」が、263メートルの巨体を前のめりにし、速力を失っていく。黒煙を上げる甲板では機銃が爆風で曲がり、銃身が裂けている。積み重なる死体の山に、米軍の急降下爆撃機SB2Cヘルダイバーが、容赦なく爆弾を落としていく。
1944(昭和19)年10月、フィリピンに上陸した米軍の進攻を阻むレイテ沖海戦。日本海軍は大和、武蔵、長門など残された軍艦の総力を投入した。大和が率いる第1部隊14隻のうち、集中攻撃を受けて漂う武蔵に米軍機が群がる。
武蔵の後部主砲にいた浜松市北区の上等兵曹縣(あがた)賢次(89)にとっては初めての戦闘体験だった。甲板に出て、ちぎれた手首を拾った。火炎で焼けただれ、指で触れると皮がべろっとめくれた。たたきつけられたカエルのように、人間が壁に張りついている。歯ががちがちと鳴り、手足が震えるのを止められない。
ミッドウェーやマリアナ沖海戦で敗北を重ね、航空部隊は壊滅状態。米艦船に向けて神風特攻隊が初めて出撃したが、自国艦隊を守る戦闘機は来ない。
武蔵の前方にいた大和は、「操艦の名手」と言われた愛知県常滑市出身の艦長(少将)、森下信衛(のぶえい)の指揮で何とか魚雷の直撃をかわしている。
艦橋の最上部にある吹きさらしの防空指揮所に怒号が飛び交う。「飛行機や大砲、機銃の音が入り交じり、爆弾の破片が飛んでくる。これで死ぬのかと思った」。森下の後ろで見張りを務めた愛知県設楽町の水兵長原田久史(90)は言う。
「ぐうぇ」といううめき声で原田は振り返った。隣の水兵が右肩にもたれ掛かってくる。「どうしたっ」。爆弾の破片であごから首を貫かれ、血があふれている。抱きかかえた原田の白い戦闘服が赤く染まる。気がつけば自分の手足からも鮮血が流れていた。
後方で機銃のスコープをのぞく水兵長畦地哲(さとし)(85)=名古屋市守山区=が、機影を確認した。急降下するヘルダイバーの腹が開き、爆弾が迫ってくるのが見える。「あー、今度こそ死ぬ」
機銃にとりつく兵士が腰から上を吹き飛ばされた。仲間たちが弔いのために、飛び散った肉片をヘルメットにかき集めている。
愛知県新城市出身の一等水兵戸田文男(84)は、頭のまゆ毛から上が吹き飛んだ戦友の遺体を見た。25、6歳だった。「故郷に帰って先生をやりたい」といつも言っていた。額のない頭に軍帽をかぶせてやると、涙が止まらなかった。
戦闘がやんだ。後の記録で20発の魚雷、17発の爆弾を浴びた武蔵は、艦隊と離れていく。甲板にいた水兵に向かい、大和の戸田らは帽子を振って別れを告げた。
大和と並ぶ「不沈艦」のはずだった武蔵が沈む。「連合艦隊はもうおしまいだ」。森下の隣で武蔵を見送った原田の脳裏を「敗戦」の文字がよぎった。
日が沈み、シブヤン海を3時間以上漂った武蔵は、艦首を海に突き立てた。乗員がぱらぱらと雨のように海に落ちる。煙突が海面に隠れたとたん、大爆発を起こした。(敬称略)
【戦艦大和】 広島県呉市の呉海軍工廠(こうしょう)で1937(昭和12)年着工し、太平洋戦争開戦直後の41年12月16日に完成。全長263メートル、最大幅38・9メートルで、名古屋駅のJRセントラルタワーズ(245メートル)より大きい。基準排水量は6万4000トン、9門の内径46センチ主砲も世界最大で、射程は42キロを誇った。日本の軍艦保有を列強より少なく定めたワシントン、ロンドンの軍縮条約延長に応じず、「量の不足を質で補う」として建造された当時の最新鋭艦。同型艦に「武蔵」「信濃」(建造途中で空母に変更)がある。45年4月に九州南西沖で沈没。生還者は276人のみだった。
レイテ沖海戦で日本は残存艦隊83隻を動員したが大敗。連合艦隊は事実上消滅した。
過酷な「豪華ホテル」
震える指が躊躇(ちゅうちょ)しながら、触れた。手垢(あか)と油が染み込んだ樫(かし)の丸太に「軍人精神注入棒」の文字が読み取れる。「これで何発もやられたんだ」
16歳で戦艦大和に乗った愛知県新城市出身の元一等水兵、戸田文男(84)は今月5日、記者に請われて旧海軍通信学校跡を訪れ、戦後初めてその棒を見た。「本当は見たくなかった」。目尻のしわを涙が伝い、怯(おび)える水兵の記憶がよみがえる。
消灯後、薄明かりの兵員室に戸田はいた。大和が広島・呉港に停泊していた1944(昭和19)年3月。分隊の一人が上陸休暇から戻る時刻に遅れた。連帯責任だと、水兵25人が呼び出され、1列に並べられた。
「貴様らはたるんでいる」。古参兵曹が精神注入棒で尻を打ちつける。悲鳴を上げれば、数が増える。打ち所を誤ると脊椎を損なう。戸田は尻を突き出し、歯を食いしばった。「尻がイチジクのように腫れ上がり、どす黒い血が白いふんどしにべっとりとついた」
夜ごと、鈍い音が響いた。返事が悪い、ポケットに手を入れた、ごみの出し方が違う…。上官は戸田らに「おまえらは消耗品。物なら捨てられるけど、もっと使い勝手が悪い」と言った。
冷暖房に3段ベッド、エレベーター。士官にはクリーニングや理髪店もあり、食事は洋食フルコースも。「大和ホテル」と称された巨艦の華やかな生活は、階級の低い水兵には過酷なものだった。
一日は、甲板掃除で始まる。西太平洋トラック島の停泊地では、半分に割ったヤシの実がたわし代わり。焼けつく日差しの下、ヒノキの甲板が陽光をまぶしく反射するまでこする。
戸田の分隊では7、8人の若い水兵が、下士官50人の世話をした。3度の食事を炊事場から運び、衣類を洗う。下士官が眠った後は、脱ぎ捨てられた靴を磨いて並べる。便所掃除をして寝られるのは午後11時すぎ。「命はいらない。雑務のない戦闘が続いてほしい」と心底願った。
戸田が表情を緩めたのは、乗艦中に1回だけあったラムネ製造当番の思い出話。艦内でつくるラムネの配給は上官優先で末端まで届かない。当番だけは自由に飲めるから、前夜から「わくわくして眠れなかった」。作業の合間に10本以上も飲み、腹がパンパンになった。その夜は寝小便をした。でも「次はいつ飲めるか分からない」。その甘い匂いもありがたく嗅いだ。
南方では「スコール浴び方」の号令も待ちわびた。真水は貴重で水兵たちの入浴はせいぜい3日に1度。水を汚さぬよう両手を上げて湯船につかる。天然シャワーなら遠慮はいらない。スコールが降ると、素っ裸で甲板を跳びはね、せっけんを体に塗りたくった。
連合艦隊が起死回生をかけたレイテ沖海戦で敗れ、大和は呉港に戻る。スコールはもう来ない。精神注入棒の制裁もなくなり、うさ晴らしや息抜きの余地はなくなっていく。
明けて45(昭和20)年。呉の街から戻った愛知県一宮市の二等兵曹、野村義治(91)が甲板へのはしごを駆け上がる。入り口横にある連絡用の黒板に一行の命令があった。「総員死に方用意」。後がない出撃の日が近づいていた。(文中敬称略)
【大和の乗員】 他艦での経験者に加え、志願と徴兵による新兵が配属された。新兵は広島の呉、大竹海兵団で基礎教育を受けた後、一部が大和に乗った。呉を母港とした大和は、本州西部の出身者が中心。横須賀を拠点とした武蔵には、主に東日本出身者が乗った。年齢は20代が大半を占め、未成年も100人近くいた。沈没時の乗員3332人のうち中部地方出身の戦死者(判明分)は、愛知が303人、三重179人、岐阜166人、長野31人、静岡22人、石川9人、福井4人、滋賀1人、富山1人。
戻れない航路 突撃
死を覚悟 故郷に別れ
大和は、戻ることのない航路についていた。瀬戸内海を出る間際、乗員が甲板に集められた。一九四五(昭和二十)年四月六日の夕刻。「故郷に向かい、いままで育ててもらった両親にお礼をせよ」。ささやかな別れの時間が与えられた。
前日、沖縄への出撃命令が下った。米軍は一日に沖縄本島に上陸し、本土決戦の脅威が迫る。「一億総特攻の先駆けに」との期待を背負い、駆逐艦など九隻を率いて山口県徳山湾外を出航した。
東海へ、九州へ、黙礼する水兵の頭がぶつかる。「やっぱり、もう帰れんのか」。三重県名張市の水兵長、北川茂(87)は、はっきりと悟った。東に頭を下げ、まぶたを閉じる。 最後
の帰郷は、休暇をもらった前年の暮れだった。二十歳の北川に、母はすき焼きを用意してくれた。軍の機密で何も話せない。母は何も聞かなかった。苦労して手に入れた地元名産の牛肉を「どんどん食べや」と勧めてくれた。
十八歳で海軍に志願すると、「長男なのに何で行くねん」と泣いて反対した。その母から広島・呉の下宿に千人針が届いていた。出撃が近いことは分かっていたのだろう。母と妹が千人の女性から集めた縫い玉一つ一つ。手で触れると、無事を祈る思いが響いた。名前の刺しゅうが「キタガハ」なのは明治女らしい。「田舎のことは心配せず、国のために働きなさい」と書かれた紙片に、母の覚悟が添えられていた。
「呉に会いに来てほしい」。三重県紀北町の二等兵曹、水谷宏也=当時(24)=は出撃前、事前に打ち合わせてあった暗号を使い、父に手紙を出した。父は「よう行かん」と尻込みし、四歳下の妹田鶴(たづ)(86)と母が呉の下宿を訪ねた。
宏也は「極秘やけど、もう日本に軍艦はほとんど残ってないんや」と打ち明けた。帰路につく列車のデッキで、田鶴は兄と別れた。見送りのホームで兄は言葉もなく、ぼろぼろ涙をこぼしていた。
遅れて、遺書が届く。「父と母を頼む。国の礎となり、家族を守るために私は死ぬ」。数カ月後、宏也は戦死を告げる紙切れ一枚で帰ることになる。船底の弾庫にいた兄。「最期は大和と一緒にこっぱみじんやったんやろうか」。田鶴は今も胸が締めつけられる。
愛知県一宮市の上等水兵、柴垣宗吉(87)は出撃前の一月に砲術学校入学が決まり、大和を降りることになった。当時二十九歳の兄政三(まさぞう)が、一週間前に乗ってきたばかりだった。
「これ持って行け」。宗吉が発(た)つ朝、政三は身の回り品を包む木綿の風呂敷をくれた。兵籍番号が入っている。「大事に使うわ」。それが最後の会話になった。「兄がわしの身代わりになってくれた」と、宗吉は思い続ける。
小艇で大和を離れると、見送りの列に兄がいた。ほかの乗員が立ち去った後も、ずっと弟を見つめていた。

「配置につけ!」。次の号令がかかり、北川は故郷の記憶から呼び戻された。高さ二十メートルの階段を全力で駆け上がる。並んで走る仲間たちも、皆泣きはらしていた。その夜に大和は、敵潜水艦が待ち受ける海域へと入っていった。 (文中敬称略)
【沖縄特攻の経緯】 連合艦隊は1945(昭和20)年3月26日、米軍を沖縄で迎撃する「天一号作戦」を発動。陸軍守備隊、航空特攻と連動し、大和と巡洋艦1隻、駆逐艦8隻による沖縄突入を検討した。4月5日、豊田副武(そえむ)司令長官は、大和を擁する第二艦隊に「海上特攻隊ハ(中略)Y日黎明(れいめい)時沖縄西方海面ニ突入 敵水上艦艇並ニ輸送船団ヲ攻撃撃滅スベシ Y日ヲ八日トス」と命令。護衛機がなく、無謀として第二艦隊司令長官の伊藤整一中将は抵抗したが、連合艦隊の草鹿龍之介参謀長の説得で受け入れた。伊藤中将は「われわれは死に場所を与えられた」と部下を静めた。片道分の重油しか与えられなかったとされるが、実際は残っていた重油を集め、往復可能な量があったとの説が有力。
敵機の大群、集中砲火 
低い雲が、春の海に垂れ込めていた。霧雨が甲板をぬらす。
水平線の上に小さな機影が現れた。十数機ごとに上昇し、厚い雲間に消えていく。
「目標、大編隊。接近してくる」。正午すぎ、岐阜県多治見市の水兵長小林健=当時(21)=のいる主砲射撃指揮所に、レーダー室からの大声が響いた。早めに昼食をとっていた兵たちは、最後のにぎり飯とたくあんをのどに詰め込み、持ち場へ散る。
1945(昭和20)年4月7日、鹿児島・坊ノ岬沖。9隻の味方艦と沖縄へ出撃した大和の前に、米軍の航空部隊が現れた。
緊迫した艦内の様子を、小林が手記に書き残している。
「目標は5機、10機、いや50機以上」「敵は100機以上。突っ込んでくる!」「撃ち方、始め」
出撃前に艦長に就任した大佐、有賀幸作=長野県辰野町出身=が叫ぶと、大和の機銃、副砲、高角砲が一斉に火を噴いた。
「敵は雷爆混合。敵は雷爆混合」。魚雷を積む雷撃機と急降下爆撃機が同時に襲ってくると、兵士が叫ぶ。
米軍は367機が作戦に参加していた。大和を守る日本の飛行機は1機もない。米爆撃機が四方から突っ込み、その下から雷撃機が魚雷を放つ。
波間を跳ねるように、魚雷が迫る。厚さ40センチを超す鉄の装甲をえぐる鈍い音がとどろく。反対側の高角砲にいた三重県熊野市の一等兵曹坪井平二(88)には、衝撃が腹まで響いた。魚雷を受けた左側へ、艦が傾く。
坪井がのぞく窓に、敵機が飛び込んでくる。わし鼻をした操縦士の赤ら顔がはっきりと見える。甲板から火が上がった。焼けた機銃の周囲に、兵士の首がいくつも転がる。「あっ」「うっ」と苦痛でゆがめた口のまま、宙を見つめている。
「撃て、撃て、撃ちまくれ」。爆音の中、休みなく弾を撃ち続けることが、恐怖を抑える唯一の術(すべ)だった。
艦尾の機銃にいた三重県いなべ市の水兵長渡辺正信(89)の後ろに、首と胴体が別々に飛んできた。裂けた腹から腸が垂れ下がっている。「腸ってこんなに長いんか」
弾の補充に来た炊飯係の兵が耳打ちした。「大和はこれで最期かもしれんで、夕食の赤飯を準備中です」
大和が誇る世界最大の主砲を、撃てない。雲の下から飛び出す敵機に、長距離砲は役に立たない。撃てば砲煙で敵を見失う。
「艦長、主砲を撃ちます。撃たせてください」。耐えかねた主砲の砲術長が叫んだ。
「撃つな、撃ってはならん」。有賀艦長が即座にはね返す。
「今主砲を使わないで、何のための大和ぞ。乗組員にとってこれ以上の悔しさはない」と小林は記す。
10本の魚雷を浴び、うち8本が艦の左側に集中した。大和がぶるぶると震える。左への傾きが増してきた。
あまりの傾斜で、立っていられない。坪井は高角砲のハンドルにしがみついた。砲塔の窓から、海水が流れ込む。「もうだめだ」。海水をかぶったほおを、涙が伝う。
「傾斜復元の見込みなしっ」。報告が司令部に伝わった。「総員、最上甲板。総員、最上甲板」。声をからして退避を促す伝令兵の声が聞こえてきた。
大爆発、船体真っ二つ 
傾いた甲板を、ちぎれた手足や機銃弾の箱、空の薬きょうが転がり落ちる。迫りくる海から逃れようと、はい上がる乗組員たち。倒れた兵は甲板に爪を立てるが、ずるずると滑り落ちていく。
米軍機から魚雷と爆弾の集中攻撃を受けた大和は、左に30度以上も傾いていた。黒こげになった機銃が、頭上に落ちてくる。絶叫が、海に響いた。
左側艦尾の機銃にいた三重県いなべ市の水兵長渡辺正信(89)の眼前に、海面が近づいていた。「退避、退避」と伝令兵が叫ぶ。死を覚悟し、涙が出る。隣の若い兵は恐怖のあまり失禁し、ズボンをぬらしている。
ひざ下まで海水がきた。靴を脱ぐ。体が海へ吸い寄せられる。脳裏に、母の顔が浮かんだ。かすりの着物ともんぺ姿。「おかあさーん」。首まで水に漬かり、体が浮いた。
司令部のある艦橋の方位測定室にいた三重県桑名市の上等水兵山口甚之助(83)は、同期生の「岸本」と一緒に外へ出た。主砲がすでに水に漬かっている。傾いた壁に足をかけると、革靴が滑った。左手で艦橋の窓枠をつかむ。滑り落ちた岸本が、山口の右手にぶら下がった。
左手1本で2人の体重を支える。渦が近づく。頭が真っ白になった。「がんばろうなー」。渦にのまれ、つないだ手が離れた。
「戦闘中止。直ちに退去せよ」。敵との距離を測る測距儀にいた三重県名張市の水兵長北川茂(87)は、甲板の下にある中部指揮所の仲間に電話で伝えた。ヘッドホンから、沈んだ声が聞こえた。「水が入ってドアが開かない。出られない」
ヘッドホンからパン、パンと銃声が聞こえた。自殺したのだろう。艦底のボイラー室や弾薬庫にいた多くの兵が、同じように閉じ込められていた。
「北川、最後のたばこ吸わんか」。同僚が出撃前にもらった恩賜のたばこを取り出した。2人で火をつけた後、海に落ちた。
艦はさらに左に傾く。滝のように海水が甲板に降り注ぐ。大和はついに横倒しになり、艦の赤い下腹があらわになった。
♪海行(ゆ)かば 水漬(みづ)く屍(かばね) 山行かば 草生(くさむ)す屍
船べりにつかまった数百人が「海行かば」を歌いだした。包帯を頭に巻き、軍服を引きちぎられた男たち。国のために死ぬのは本望という歌詞を、声を限りに叫んでいる。
100人ほどが一列に並んで両手を挙げた。「ばんざーい、ばんざーい、ばんざーい」。声が途切れたとたん、大和がごう音を立てて裏返しになった。兵も一緒に海に落ちる。直後に、艦の中央で大爆発が起きた。
1945(昭和20)年4月7日午後2時23分。戦艦大和は中央で真っ二つに割れ、九州南西沖の海底350メートルに沈んだ。
一緒に戦っていた駆逐艦「磯風」の二等兵曹、戸谷永吉(85)=岐阜県下呂市=は、2、300メートルの黒煙が噴き上がるのを見た。
戸谷は大和が好きではなかった。いつも後方にいて、戦わない。自分たちが敵から大和を守っていた。でも、この日は違った。戸谷は大和に向かい、無意識に敬礼していた。(敬称略)
【大和の海底調査】 1980年代から潜水調査が行われ、沈没地点の確認や、ラッパ、どんぶりなどの遺留品が引き揚げられた。85年には、「男たちの大和」で知られる作家の故・辺見じゅんさんと弟の角川春樹氏らが「海の墓標委員会」を組織し、艦首にある菊の紋章の海底撮影に成功した。2008年に広島県呉市の地元経済界が船体の引き揚げ計画を立てたが、「大和は海の墓標」「見せ物にするのは許せない」という反対や、費用の問題があり、事実上、計画が止まっている。
漂流、縄ばしごに殺到 
沈みゆく大和の巨大な渦が、兵士たちを道連れにする。三重県名張市の水兵長、北川茂(87)は、手足が張り付いたようで動けなかった。水圧で、耳や鼻が鉄の火箸を突っ込まれたように痛む。その瞬間、海がオレンジ色に染まった。
ボン、ボンと二度爆音がして、尻を強く押し上げられる。気がつくと海面に顔を出していた。
大和から流出した重油が、海面を厚さ10センチも覆っている。漂う木材や畳、軍服の間に、人の手足や内臓が浮かぶ。重油で真っ黒の顔がポコポコと水面に浮かび上がってきた。目と歯の白さが際だつ。目玉が動き、生きている仲間だと分かる。
穏やかに見えた海も、落ちてみれば小山のようなうねりが襲う。北川は流れてきた丸太にしがみついた。
溺れそうな兵士が近寄ってくる。後頭部が裂け、ピンク色の断面がのぞく。北川は丸太の片側を差し出したが、体に覆いかぶさってきた。思わず逃げる。妻か妹か、女性の名を数人呼び、沈んでいった。
自力で立ち泳ぎしていた石川県加賀市の二等兵曹、川潟光勇(みつゆう)(90)の足に誰かがしがみついた。海中に引きずり込まれる。川潟はからみつく腕を蹴り離した。「悪いと思ったが、しゃあない。わしも沈んでしまう」
聞き慣れたエンジン音が近づいてくる。チャチャチャと海面を打つ軽い音。米軍機が溺れる兵士に機銃掃射を浴びせる。浮かんでいた頭が次々消える。三重県いなべ市の水兵長、渡辺正信(89)は、海面すれすれを飛ぶ搭乗員の顔を見た。「笑いながら撃っていた。あの顔は一生忘れん」
2時間近く漂流した。重油で目がかすみ、眠気が襲う。顔を互いにひっぱたき、軍歌を大声で歌う。4月の海はまだ冷たい。体の芯まで凍えてきた。「寒かったら小便せえ」。遠くで叫ぶ声に、三重県桑名市の上等水兵、山口甚之助(83)は従ってみた。「腹や胸の辺りがぬくーっとして気持ち良かった」
沈没を免れた駆逐艦の「雪風」「冬月」が救助に現れた。「ワレ発見セリ」。艦上からの手旗信号が、生への希望を届けてくれた。
救助のロープが下ろされる。甲板までの高さは5メートルほど。山口はしがみつくが、重油で滑って登れない。
川潟の前に縄ばしごが下りてきた。両腕の力を振り絞って、重い体を引き上げた。途中で下を見ると、3、4人が続いている。
重みで縄ばしごの一方の綱が切れた。綱1本になった縄ばしごは左右に大きく振れる。皆が必死にしがみつく。「わしのはしごや。大勢つかまるな」。川潟がそう思ったとたん、もう一方の綱もぷつりと切れ、再び海に投げ出された。「まるで芥川竜之介の『蜘蛛(くも)の糸』やった」
「将校はいないか」。上から声がする。「こんな時にも階級か」。名古屋市守山区の水兵長、畦地哲(さとし)(85)は腹が立った。「誰も助けるつもりはない。自分のことで精いっぱいだった」。われ先にと、甲板を目指した。
日没が迫る。敵機襲来を恐れ、救助が打ち切られた。本土へ帰る航跡が消えた後も、いくつもの人影が波間を漂っていた。(文中敬称略)
【生還後の大和乗員】 救助された乗員276人は、長崎・佐世保港に戻り、幹部将校以外は近くの小島などで軟禁生活を強いられた。4カ月後、海上特攻を指揮した第二艦隊司令長官の伊藤整一中将の戦死が公表されたが、大和の沈没は終戦まで伏せられた。乗員の隔離は秘密漏えいを防ぐ意図があったとされる。その後、広島・呉で次の部署に配属された。陸戦隊となり、原爆が落とされた広島で救援作業に当たった乗組員もいた。1944(昭和19)年10月のレイテ沖海戦で沈没した姉妹艦の武蔵は乗員2399人中、1376人が救助された。しかし、フィリピンの市街戦に回されたり、輸送船が沈没したりして大半が戦死した。
兵の無念、背負い続け 
男は、何事もなかったように玄関口に立っていた。ただ出かけた時とは違い、軍服も短刀も真新しい。死んだと思っていた娘2人が「お父さん、足があるね」と驚いた。
1945(昭和20)年4月に大和が沈み、1カ月ほどすぎたころ。元艦長の少将、森下信衛(のぶえい)が神奈川県逗子市の自宅に戻った。沖縄特攻では、第2艦隊参謀長として大和に乗った。水中で気を失い、従兵に助けられていた。家族には「また転勤になったよ」とだけ言ったが、妻ふさ子は服装で「大和が沈んだな」と分かっていた。
愛知県常滑市の生まれ。多くの政財界要人を輩出した知多の名門私塾「鈴渓(れいけい)義塾」に通い、名古屋市の明倫中(現明和高)から海軍兵学校へ。軍艦を渡り歩き、48歳で大和艦長になる。
「操艦の名手」と名声を高めたのは、44年10月のレイテ沖海戦。米軍の猛爆下、くわえたばこで屋根のない防空指揮所に立った。全長263メートルの巨艦は舵(かじ)を切って、動きだすまで1分以上かかる。上空からの爆弾、海からの魚雷。先を読みながら指示を出し、直撃をかわす。森下の後ろで見張りを務めた愛知県設楽町の水兵長原田久史(90)は「神様以上。この人についていけば大和は沈まない」と心酔していた。
撃沈した米空母で助けを求める兵士に、大和の機銃が照準を合わせた。「やめんか」。森下の怒声が響く。「船が沈めばよい。人は殺すな」と諭した。
大和が沈む前は「自分一人で大和を沖縄に持って行く」と叫び、船に残ろうとした部下を先に逃がした。
戦後は故郷に近い愛知県武豊町に住んだ。もう誰も英雄視はしない。民間会社の面接試験を受けたが、不採用に。農業もうまくいかない。「父の飲み代がかさみ、貯金がなかった」と長女幹子(82)。母は晴れ着を米に換えて家計を支えた。
地元産のエビを使ったえびせんべいを焼いて売ったが、もうからない。「兵隊がいればなあ。兵隊は一言えば十理解してくれる」。次女茂子(80)は「兵隊は私だけだったからね」と哀れんだ。
「大和で死ねばよかった。一生の不覚だ」。森下は会う人ごとにこぼしている。
大和沈没から9年後の4月7日。広島・呉で初めての乗組員慰霊祭が開かれた。脳梗塞で倒れ、左半身がまひした森下は、妻の肩を借りて駆けつけた。あいさつで、部下への思いに触れる。「死んでこいというような無謀な命令にも、何ら不平をもらさず従っていった…」。遺族を前に号泣していた。
「飛花に触れ 遺族の前に声は出でず」
思いを俳句に託した。舞い落ちる桜の花びらに若き兵士らの命が重なる。自分は生きて帰り、遺族に何を語れるというのか。
名古屋市緑区の生田徳子(66)は、生後間もないころ、大和で父を亡くした。けがをして船底で動けない状態だったという。「水が迫ってくる時、どんな気持ちだったのか」。「私にとって大和は英雄や美談じゃない。3000人を墓場に連れて行った鉛の物体です」
兵士の無念や遺族の悲痛を背負い、森下は寝たきりになるまで、慰霊祭に足を運び続けた。(文中敬称略)=終わり(この連載は、社会部の鈴木孝昌、栗田晃、浅井俊典が担当しました)
【大和の歴代艦長】 大和の艦長は5人いた。初代艦長の高柳儀八大佐が1941年11月に就任し、第2代は松田千秋大佐、第3代は大野竹二大佐が引き継いだ。森下は第4代艦長として、44年1月から10カ月間務めた。沖縄特攻時の艦長となった第5代の有賀(あるが)幸作大佐(戦死後中将)は44年11月に就任。長野県辰野町出身で、森下とは海軍兵学校の同期生。沈没時には、防空指揮所の羅針盤に体を縛り付け、大和と運命をともにしたと伝えられる。
癒えぬ傷、今も 生存者、遺族ら証言
太平洋戦争末期、3332人の兵士を乗せて沖縄への特攻作戦に出撃した世界最大の戦艦「大和」。本紙社会面で連載した「戦艦大和の遺言−中部の乗組員たちの記憶」は、乗員の2割を占めた中部地方出身者の証言から、残酷な戦争の実相と兵士らの最期に迫った。生存者や遺族、専門家の話をもとに、「戦艦大和とは何だったのか」を考えてみたい。
3000人乗せ特攻 ばかな戦い
三番高角砲水兵長(岐阜県七宗町) 亀山利一さん(89)
沖縄への特攻出撃前に柱島(山口県岩国市)の沖合で停泊していた時、「故郷に荷物を送りたい者は送れ」と指示があった。帰ることのない戦いに行くんだと悟った。日本にはもう軍艦や戦闘機を動かす重油は残っていなかったから。特攻とは大和を沈めに行くことだと思った。
命令が出た翌日の朝、家族にお別れをしようと、自分の配置だった三番高角砲の前で故郷の方角を向いた。手を合わせ、家族の名を呼んだ。「お父さん、お母さん、おじいさん、おばあさん、キサ子、かね子、宏、秀子、なお、鉄夫、幸三。おれはきょう、靖国神社に行くで、銃後は守ってくろ」と祈った。
千人針を初めて巻いたのもその時。氏神さまのお守りと一緒に母が持たせてくれた。家族や故郷に守られている気がした。
大和が沈んだ後、呉で残務処理をした。沈没したことを知らない乗組員の家族からの手紙を整理する担当だった。多くの手紙に、「家の前で靴音がしたので、あなたが戻ってきたと思ったのに違っていた」「帰ってきた夢を見た」ということが書かれていた。それを読んで、「みんなの魂が帰って行ったんだな」と感じた。
時がたつにつれ、怒りが込み上げてきた。戦争をしなければいけない状態に追い込まれていたのは分かるが、何のための戦争だったのか。3000人の兵士を乗せて大和が特攻しなければならない理由は何だったのか。いま考えると、あんなばかな戦いはないと思う。
引き金 引き続けた
機銃分隊水兵長(名古屋市守山区) 畦地哲さん(85)
大和での記憶は、ずっと体に染みついてる。水が貴重だったから、いまだに思い切り蛇口をひねれず、すぐ止めてしまう。青空の白い雲を見上げると、そこから米軍機が出てきそうな気がする。
海軍に志願したのは士官の制服に憧れていたから。師範学校にも行きたかったが「軍隊の方が給料がいい」と聞いて、16歳で故郷の三重県紀北町を離れた。砲術学校を卒業し、大和の乗組員募集に応じた。希望がかない、うれしかった。
沖縄への特攻が告げられても、大和は絶対沈まないと信じていた。戦闘が始まると、あっという間に、空にウジが湧いたように、敵機がひしめいた。米軍の急降下爆撃機はとても優秀だった。角度4、50度ぐらいで降りてくる。感覚としては、垂直に突っ込んでくるようだった。
機銃の射程は本来、1500メートルくらいだが、敵機を引きつける余裕はなく、機銃の引き金を引きっぱなし。一応照準を合わせていても、命中したかなんて分からなかった。でも「これで終わりだな」とは思わなかった。怖いというより、われわれは命令通り動くロボットと同じだから。
沈没した時は「アメリカに負けてたまるか。絶対生きて帰る」と思っていた。日没になり、漂流していた乗員の救助が打ち切られた。まだ、待っている戦友もいたんだろうな、と思った。自分だってたまたま駆逐艦が近くを通らなかったら、海の藻くずとなっていた。自分だけ、助かったのは申し訳ないという気持ちはある。
命の代わりに失明 
五番高角砲一等兵曹(三重県熊野市) 坪井平二さん(88) 
地元の日進国民学校で教員を1年やった後、大和に乗艦した。
沖縄特攻では、けがをした仲間が「ギャーッ」と叫んでのたうち回っても介抱する余裕はなく、歯が痛くなるほど食いしばって弾を撃ち続けた。魚雷と爆弾のえじきになって、もうだめだと思った時は、砲を握る手のひらにべっとりと脂汗がにじんだ。
沈没時に大和が爆発し、水中で頭に衝撃を受けた。そのためか、左目の視力をほとんど失った。命の代わりに目を沈めたのだと思う。
空襲続き たえず治療
軍医中尉(名古屋市名東区) 祖父江逸郎さん(90)
レイテ沖海戦は空襲が続き、治療も休む間がなかった。やっかいなのは貫通銃創。爆弾の破片が腹から胸へ、胸から腹へと抜ける。
破片が内臓を破ると、短時間で死亡する確率が高い。開腹手術の余裕はない。止血し、傷口が膿(う)まないよう消毒剤を塗って、包帯を巻いてやることぐらいしかできなかった。
感染症も怖い。フィリピン停泊中に赤痢患者が2、3人出た。拡大を防ぐため、トイレに人を立たせて便を調べたこともあった。
水不足 風呂も入れず
主砲発令所二等兵曹(愛知県一宮市) 野村義治さん(91)
砲術学校を出るとき、第1希望に大和と書いた。みんな大和にあこがれていた。ほかの船がハンモックで寝るのに3段ベッド。冷房も効いていた。レイテ沖海戦の後に大和を下りたので、自分は運が良かったと思う。
ただ水には困った。夜食が終わると、バルブが閉まるので、蛇口の下に飲み水用のコップを置いて、ぽつりぽつりと落ちてくるのを受けたりしてね。南方では風呂に入った覚えもない。僕は皮膚が弱かったから、かゆくて仕方なかった。
いいようもない死臭
第二通信室上等水兵(岐阜県下呂市) 丹羽英一郎さん(88)
レイテ沖海戦のとき、負傷兵の応急処置室が私のいる通信室の前にあった。手がちぎれてうめくような人や血なまぐさいにおいがずっとしていた。中にいたのは、死にかけた人ばかりだった。
一番つらかったのは、攻撃で浸水したポンプ室に取り残されて死んだ兵士2人の水葬に立ち会ったこと。遺体が運ばれるのを艦内の通路で見送ったが、それだけで臭いが鼻につき、ご飯が食べられなくなった。死臭は何ともいいようのない臭いだった。
海中で水を飲み楽に
防空指揮所二等兵曹(石川県加賀市) 川潟光勇さん(90)
急降下爆撃機が雲の中から突然現れ、爆弾を落とした後、機銃掃射していく。機銃の弾はどこに跳ね返るか分からん。同じ見張りの兵が倒れたのを見ると、弾が突き抜けたようで、左目の眼球から血が流れていた。
大和が横倒しとなり、高さ30メートル以上の防空指揮所も沈んだ。「海中では息を全部吐き、海水を少し飲むと楽になる」と先輩から聞いていた。海水を飲むと本当に楽になった。その後、爆発で体を押し上げられ、助かった。
死体踏み越え歩く
戦艦武蔵二番副砲一等水兵(愛知県東海市) 依田功さん(85)
大和の姉妹艦「武蔵」に乗り、レイテ沖海戦を戦った。艦の通路には死体が浮かび、その上を踏み越えて歩いた。神経がまひし、かわいそうだと思う感情もわかなかった。
武蔵が沈んだ後、ドラム缶に捕まって海を漂ったが、後ろから誰かに肩をつかまれた。私も沈んでしまい、仕方なく、右足で蹴ってその兵をどかした。人が人でなくなる精神状態だった。大和を含め、戦争の犠牲者になるのは兵や弱い市民たちばかりだった。
生き残り言い出せず
三番主砲二等兵曹(愛知県新城市) 故滝本保男さんの妻・富さん(85)
今年1月に亡くなった夫とは、本人が南方にいるときに結納した。私は地元で帰りを待っとった。終戦から1カ月後、沈没から生還した夫が帰郷して結婚式ができた。
戦後、仲間の墓参りに行き、遺族に「おまえはいいな。うちのだけ沈んで、どうやって逃げたんだ」と言われたらしい。帰ってきて「俺も大和と一緒にいかないかんかったかな」とこぼした。70歳をすぎるころまで、自分から大和の生き残りとは言わなくなった。
父が作詞 艦歌が遺品
一番主砲分隊長(大尉)(岐阜県高山市) 故坂井保郎さんの長男・暁さん(78)
父は主砲の分隊長で、大和の艦砲射撃は「あれが戦争でなかったら、花火よりきれいだ」と話していた。沖縄特攻に出撃する前に帰宅し、「勝てる見込みはない。日本はどうなるか分からない」と母に言っていた。大和は横倒しになり、主砲は裏返った状態で沈んだ。中にいた父は脱出することもかなわなかったと思う。
父は艦歌の公募で「戦艦大和の歌」の歌詞を書いた。戦後にレコード化され、今でも大切にしている。  
13 戦艦大和からの生還
戦艦大和は、旧日本海軍が当時の最先端技術を結集して極秘裏に建造した世界最大の戦艦です。
全長二六三メートル、最大幅約四十メートル。四六センチの主砲九門を搭載し、重さ約一。五トンの砲弾を射程四二キロで撃つことができる巨大な鉄の城でした。
一九四五(昭和二十)年春、大和は呉軍港を出港し、沖縄特攻作戦に向かう途上、米艦載機の猛攻撃を受け沈没、乗組員三二三二名のうち三〇五六名が大和と運命を共にしました。大和から奇跡的に生還した二七六人の中に、加賀市山代温泉在住の川潟光勇さんがいました。
母にも知らせず海軍志願 日の丸の小旗に見送られ出征
一九四一(昭和十六)年の初春。大阪の家具店で働いていた当時二十歳の川潟さんは、 一枚の海軍志願兵募集の張り紙を目にし、大阪で別々に暮らす母親にも知らせず入隊を志願したそうです。国のために戦争に行くことが誇りとされていた時代です。川潟さんの二人の兄も、それぞれ満州とソ連国境で軍務についていました。
大和に乗艦後の日々を川潟さんは記憶を辿るようにして私たちに話し始めました。
昭和十二年の五月、私は日の丸の小旗に見送られて故郷大阪を後にしました。神奈川県横須賀の海軍航海学校を卒業し、掃海艇の任務を経て四三(昭和十八)年二月、見張科の信号兵として大和に乗艦しました。艦橋で双眼鏡をのぞき、「大和の目」となったのです。戦局は急激に悪化していました。大和に乗艦した翌年のフイリピン沖海戦では、重巡洋艦「摩耶」が撃沈されるのを目の当たりにしました。浮沈戦艦と謳われた「武蔵」も海底深く沈み、連合艦隊は壊滅的な打撃を受けていました。
戦艦大和、特攻作戦最大の悲劇へ出航
四五(昭和二十)年四月六日夕刻、大和は軽巡「矢矧(やはぎごと人隻の駆逐艦に伴われて山口県の徳山沖を離れました。「夜陰に乗じて沖縄を攻略した米軍艦隊を攻撃する」というのが作戦の骨子で、燃料は片道分のみ、航空機の援護もない水上特攻でした。生きて再びふるさとの土を踏むことはないだろうと誰もが覚悟しています。船上から眺める瀬戸内の山々には、山桜が自くほころび始めていました。海上生活ばかりで桜など愛でる機会はなかった。これが見納めになるだろうと心の中で桜に別れを告げました。
宮崎沖にさしかかった頃、すでに海は蒼茫と暮れていました。星明かりひとつない夜、艦隊は漆黒の海上を走ります。ここから全速で甑島(こしきじま)列島を西に抜け、沖縄列島の機雷敷設原の左端を大きく東シナ海に突破し、針路が黄海にあるように見せかけて反転直下南に向かい、沖縄の米軍泊地を急襲する戦略でした。米軍の上空吟戒、潜水艦の日、電探(レーダー)の網をくぐり抜けることができるかどうか。作戦の成否はまずこの一点にかかっていました。
午後八時三十分、駆逐艦「朝霜」より「ワレセンスイカンノムデンフキク」と連絡が入りました。まもなく「朝霜」が米潜水艦から傍受している無線電話がそのまま艦橋に流れました。早日の英語の会話の中に、「ヤマト」という言葉が数度聞き取れました。私の全身に電流のようなショックが走りました。「大和はすでに米軍の網の中にいる―」。参謀は、「長官、つけられましたな」と落ち着いた声で一言。伊藤整一司令長官と有賀幸作艦長は沈黙を守りました。艦隊はそのまま任務を続行します。重苦しい空気の漂う中で、数多くの計器の夜光塗料だけが青白く、にぶい光を放っていました。
艦隊は大隅海峡を抜け、まだ明けきらぬ太平洋へ。私は「水上戦闘配置につけ」の号令とともに艦橋のひとつ上の防空指揮所に上がりました。海面は比較的穏やかでしたが、いつ魚雷が自い航跡を引いて襲ってくるかと、乗組員三千人の目は血走っていました。甑島列島の左端が見え始め、今しばらくで米国機の哨戒圏外に出られるという七時四十分、低くたれこめた雲の切れ日に、米軍マーチン哺戒飛行艇二機が姿を見せました。すかさず各艦の対空砲火が火を吐きます。マーチンは姿を消しますが、もう偽(ニセ)航路で敵を欺く作戦に意味はありません。
「一路南下せよ」との指令が発せられました。
米軍戦闘機による波状攻撃開始
張り詰めた時間が流れます。「朝霜」から「艦爆見ゆ、機数四十機」と無電が入りました、やがて四、五十機ずつの爆撃機が数群、疾風のように現れ、ごうごうと艦隊の上空を回り始めました。敵機は一機、二機と雲間から急降下で襲い掛かってきます。艦隊も機銃、高角砲で応戦し、あたりは爆裂音と水柱に包まれました。「矢矧」は至近から爆撃を受け、くるくる回りながら艦隊から離れていきます。魚雷をまともに受けた駆逐艦「浜風」は、船体が真っ二つに折れて海中へ。大和も後部マスト付近に爆弾二発が命中し、もうもうたる黒煙に包まれました。あちこちで戦傷者のうめき声が起こり、飛び散る肉片が艦橋近くにまで上がってきました。
第一陣の攻撃は三十分ほどで潮のように引きました。各艦が大和のもとに集まってきましたが、すでに駆逐艦二隻が欠けていました。それでも艦隊は二十二ノットの速力で南の一点に舶先を向けて進みます。
第二陣の攻撃は午前十一時過ぎ、また百数十機が来襲しました。先の攻撃で大和の左舷対空砲火がおとろえていることを看破した米軍機は、執拗に左から回り込んで左舷に攻撃を集中させました。中型爆弾二発によって左舷後部対空砲火はほとんど破壊され、上、中甲板後部マスト付近は火の海となりました。
「副砲弾庫火炎に包まれるL左舷中部魚雷命中」「左舷罐室浸水」―。防空指揮所には次々と危急を告げる電話が入ってきます。突然、艦橋へと迫り来る攻撃機が私の視界に入りました。私のすぐ隣にいた若い乗組員が声も無く足元から崩れ落ちました。銃撃を受けて一瞬で絶命していたのです。
これは戦闘ではない連合艦隊の葬列だ
第二陣が去った後の艦上には数知れぬ重傷者が身を横たえ、戦死者の遺体が始末もつかぬまま放り出されていました。戦闘の恐怖に耐え切れず、正気を失ったのでしょう、飛び去って行く攻撃機を指差して「突っ込んでくる、突っ込んでくる」と叫び続ける下士官もいました。かつての整然とした大和の勇姿は跡形もなく、血と硝煙の匂いの中で、次の戦闘に備えて応急食が配られました。次が艦隊の最後になるだろうと誰もが覚悟していました。それはもう戦闘ではありませんでした。連合艦隊の墓場への葬列でした―。
新手の攻撃機が水平線に姿を現しました。海面すれすれに飛ぶグラマン雷撃機が左右から十数機一度に放ってくる魚雷が、くもの巣のように大和の巨体を提えました。万事休す。魚雷は続けざまに左舷に五発命中。大和の優れた注排水装置を駆使しても、左に著しく傾斜した艦体を立て直すことはもはやできませんでした。
艦内下部にいる乗組員に退避の号令がかかりました。しかし汗と油にまみれて這い上がつてきた者は、ほんの一部に過ぎませんでした。艦が傾斜しているため通路が確保できず、千数百名に及ぶ乗組員は、生きたまま艦内に閉じ込められてしまったのです。
不沈艦・戦艦大和の最期
いよいよ大和が最期を迎えるというとき、私は水上から二十四メートルの高さの防空指揮所に艦長らとともに立っていました。その手に恩賜のたばこが手渡されました。 一本取って次に回します。やれるだけのことはやったという安堵と諦めの交じった思いで、私は大きくたばこをふかしました。もう普通に立っていることすらできない状態でしたが、誰も一言も語りませんでした。空を見上げればすでに一機の飛行機の影もありません。上甲板に目を落とすと、数百名の兵員が滑り込むように海中に身を躍らせていました。有賀艦長は「諸君はできる限り頑張つて生き残ってくれ」と言い残し、軍刀を下げて艦長室に姿を消しました。
四月七日午後二時三十分、大和は大きく左に傾き、紺碧の海に横倒しになりました。私は足元から勢いよく上がつてきた海水に全身を包まれました。いったん海中から空中に押し上げられ、再び海中へ―。呼吸を止めて十数秒、真っ黒な海水を通して稲妻のような閃光が眼底に差し込んできました。大和に積まれた弾薬が海中で誘爆を起こしたのです。強烈な水圧のため、私の胸はちくちくと痛み始めました。どうにもならなくなって海水を一口。「もう二、一二回続けて海水を飲めば死ねるかもしれない」。しかしその苦痛は受け入れ難いものでした。過去の出来事が私の頭の中を走馬灯のように走り抜けます。「おかあさん―」。
隣り合う生と死
途端、すっと体が浮き上がるのが感じられました。本能的に手足をばたつかせると、海面にぽつかりと頭が出ました。「ああ、助かった」。胸いっぱいに吸い込む空気のおいしかったこと。私は再びこの世に生を得た思いがしました。
海面は重油に一面覆われていたものの、激しい戦闘がうそのように静まり返っていました。海面のうねりの間には仲間の真っ黒な顔がぽつぽつと見えました。
私が後で聞いたところによると、大和の爆発によつて海上に頭を出していた兵士の頭上に容赦なく大小の鉄片が降りかかり、頭を割られたり手足を切断されたりした者が少なくなかつたといいます。海中に深く巻き込まれていた者だけがこの災いから免れることができたのです。
海中には多くの兵士がもがき苦しんでいました。私の腰や足にしがみついてくる者もいましたが、助ける術もなく、振り放すしかありませんでした。生への執着。これが真実でした。
あてのない救助を待つ静かな時間が流れました。「どのくらい持ちこたえられるだろう」。すると静寂を破って誰かが軍歌を歌い出しました。「海行かば水漬く(みづく)屍(かばね)、山行かば草むす屍―」。それに合わせて歌い出す者が続き、三曲、四曲と合唱は続きました。やがて歌声はだんだん小さく細くなり、もとの静かな、黒い海に戻りました。
突然、前方に駆逐艦「雪風」が姿を現しました。しかし救助に来た様子ではありません。甲板に立つ兵員たちは海中に漂う者に向って別れを告げるように帽子を振っています。私は、駆逐艦だけでも沖縄に突入するのだとすぐに了解しました。そして水中から大きく手を振り返しました。「しっかりやつてきてくれ、さようなら」。
いよいよ助かる見込みは絶たれました。時が経つにつれ、波間に沈むのか、うねりに流されるのか、海上に出ていた仲間の真っ黒な顔もひとつ、ふたつと減っていきました。
「くもの糸」の如き救助の手
どれだけ漂流したでしょう。見送ったはずの「雪風」が幻のように姿を現しました。 一度は沖縄に向ったものの、生き残った兵士を救助して帰港するよう指令が出されたのです。しかし米軍の攻撃を警戒して停止はせず、ロープや縄梯子を下ろしたのみでした。私は艦までの百メートルほどを無我夢中で泳ぎ、縄梯子を掴みました。ここにはもう七、人名が寄り集まっていました。私は縄梯子の下に体を入れ「背中を踏んで上がれ」と促しました。
三、四人が私を踏み台にして上つていきます。「さあ替わるぞ」と声を掛けてくれた人がいました。私はその背中を借りて縄梯子を上りますが、もう少しで甲板に手が届くというところで縄の片方が切れました。下を見ると片方切れた縄梯子に、数人がぶら下がつていました。その重みに耐え切れず、もう片方の縄も「くもの糸」のようにぶっつり切れ、私達は海中になだれ落ちました。
次に海上に頭が出た時は、ゆっくり前進する駆逐艦の最後部に架けられていた本の梯子が見えました。ァ」れでこそ本当に最後だ」と、私は必死で梯子にしがみつき、鉛のように重い体を甲板に引き上げてもらいました。
海中に取り残されて漂流する者がいれば、甲板にたどり着きながらもそこで息絶えた者もいます。どちらに目を向けても凄惨な光景がありました。日没まで間近。撃ごは一路、佐世保軍港へと向いました。
以上が九死に一生を得た川潟さんの歴史的な体験談です。
 

 

生き残った者の義務を果たしたい
その後、川潟さんは終戦まで広島県。呉の海兵団で過ごしますが、生き残った罪悪感に苛まれる日々が続いたといいます。大和沈没の事実は軍機として秘密にされました。
大和での体験を文章に残そうと思ったのは、戦後三十年余りが経ってからのことだそうです。
「大和から生還した者には、悲惨な教訓を後世に語り継ぐ義務があるのではないか」と、生々しいエピソードを綴った『戦艦大和と共に』を執筆、出版されました。(昭和五十八年)
加賀市の子どもたちに体験を話すこともあります。「悪夢のような戦争によってどれほど多くの若い命がゴミのように捨て去られたか。戦争を知らない世代に伝えていきたい」。海の底に眠る数千人の戦友の思いを、川潟さんはこれからも代弁していきます。  
 

 

 
 

 

 ■戻る  ■戻る(詳細)   ■ Keyword 


出典不明 / 引用を含む文責はすべて当HPにあります。