邪宗門

芥川龍之介 / 「邪宗門」説明評論・・・
高橋和巳 / 高橋和巳と邪宗門評論私論1私論2・・・
北原白秋 / 「邪宗門」「第二邪宗門」詩にみる切支丹南蛮趣味と浪漫主義北原白秋集邪宗門秘曲「東京景物詩」白秋について邪宗門序文の詩論・・・
諸話 / 寺山修司「邪宗門」と虚構世界三田文学「邪教問答」「天皇陛下にさゝぐる言葉」「女神」新宗教1新宗教2葬式仏教日本仏教は「葬式仏教」か新宗教批判道院と世界紅卍字会の教義形成
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神道 [出口王仁三郎関連]
細川ガラシャ [日本キリスト教史]

雑学の世界・補考

「邪宗門」 芥川龍之介

一  
先頃大殿様(おおとのさま)御一代中で、一番人目(ひとめ)を駭(おどろ)かせた、地獄変(じごくへん)の屏風(びょうぶ)の由来を申し上げましたから、今度は若殿様の御生涯で、たった一度の不思議な出来事を御話し致そうかと存じて居ります。が、その前に一通り、思いもよらない急な御病気で、大殿様が御薨去(ごこうきょ)になった時の事を、あらまし申し上げて置きましょう。
あれは確か、若殿様の十九の御年だったかと存じます。思いもよらない急な御病気とは云うものの、実はかれこれその半年ばかり前から、御屋形(おやかた)の空へ星が流れますやら、御庭の紅梅が時ならず一度に花を開きますやら、御厩(おうまや)の白馬(しろうま)が一夜(いちや)の内に黒くなりますやら、御池の水が見る間に干上(ひあが)って、鯉(こい)や鮒(ふな)が泥の中で喘(あえ)ぎますやら、いろいろ凶(わる)い兆(しらせ)がございました。中でも殊に空恐ろしく思われたのは、ある女房の夢枕に、良秀(よしひで)の娘の乗ったような、炎々と火の燃えしきる車が一輛、人面(じんめん)の獣(けもの)に曳かれながら、天から下(お)りて来たと思いますと、その車の中からやさしい声がして、「大殿様をこれへ御迎え申せ。」と、呼(よば)わったそうでございます。その時、その人面の獣が怪しく唸(うな)って、頭(かしら)を上げたのを眺めますと、夢現(ゆめうつつ)の暗(やみ)の中にも、唇ばかりが生々(なまなま)しく赤かったので、思わず金切声をあげながら、その声でやっと我に返りましたが、総身はびっしょり冷汗(ひやあせ)で、胸さえまるで早鐘をつくように躍っていたとか申しました。でございますから、北の方(かた)を始め、私(わたくし)どもまで心を痛めて、御屋形の門々(かどかど)に陰陽師(おんみょうじ)の護符(ごふ)を貼りましたし、有験(うげん)の法師(ほうし)たちを御召しになって、種々の御祈祷を御上げになりましたが、これも誠に遁れ難い定業(じょうごう)ででもございましたろう。
ある日――それも雪もよいの、底冷がする日の事でございましたが、今出川(いまでがわ)の大納言(だいなごん)様の御屋形から、御帰りになる御車(みくるま)の中で、急に大熱が御発しになり、御帰館遊ばした時分には、もうただ「あた、あた」と仰有(おっしゃ)るばかり、あまつさえ御身(おみ)のうちは、一面に気味悪く紫立って、御褥(おしとね)の白綾(しろあや)も焦げるかと思う御気色(みけしき)になりました。元よりその時も御枕もとには、法師、医師、陰陽師(おんみょうじ)などが、皆それぞれに肝胆(かんたん)を砕いて、必死の力を尽しましたが、御熱は益(ますます)烈しくなって、やがて御床(おんゆか)の上まで転(ころ)び出ていらっしゃると、たちまち別人のような嗄(しわが)れた御声で、「あおう、身のうちに火がついたわ。この煙(けぶ)りは如何(いかが)致した。」と、狂おしく御吼(おたけ)りになったまま、僅三時(わずかみとき)ばかりの間に、何とも申し上げる語(ことば)もない、無残な御最期(ごさいご)でございます。その時の悲しさ、恐ろしさ、勿体(もったい)なさ――今になって考えましても、蔀(しとみ)に迷っている、護摩(ごま)の煙(けぶり)と、右往左往に泣き惑っている女房たちの袴の紅(あけ)とが、あの茫然とした験者(げんざ)や術師たちの姿と一しょに、ありありと眼に浮かんで、かいつまんだ御話を致すのさえ、涙が先に立って仕方がございません。が、そう云う思い出の内でも、あの御年若な若殿様が、少しも取乱した御容子(ごようす)を御見せにならず、ただ、青ざめた御顔を曇らせながら、じっと大殿様の御枕元へ坐っていらしった事を考えると、なぜかまるで磨(と)ぎすました焼刃(やきば)の(にお)いでも嗅(か)ぐような、身にしみて、ひやりとする、それでいてやはり頼もしい、妙な心もちが致すのでございます。  

 

御親子(ごしんし)の間がらでありながら、大殿様と若殿様との間くらい、御容子(ごようす)から御性質まで、うらうえなのも稀(まれ)でございましょう。大殿様は御承知の通り、大兵肥満(だいひょうひまん)でいらっしゃいますが、若殿様は中背(ちゅうぜい)の、どちらかと申せば痩ぎすな御生れ立ちで、御容貌(ごきりょう)も大殿様のどこまでも男らしい、神将のような俤(おもかげ)とは、似もつかない御優しさでございます。これはあの御美しい北の方(かた)に、瓜二(うりふた)つとでも申しましょうか。眉の迫った、眼の涼しい、心もち口もとに癖のある、女のような御顔立ちでございましたが、どこかそこにうす暗い、沈んだ影がひそんでいて、殊に御装束でも召しますと、御立派と申しますより、ほとんど神寂(かみさび)ているとでも申し上げたいくらい、いかにももの静な御威光がございました。
が、大殿様と若殿様とが、取り分け違っていらしったのは、どちらかと云えば、御気象の方で、大殿様のなさる事は、すべてが豪放(ごうほう)で、雄大で、何でも人目(ひとめ)を驚かさなければ止まないと云う御勢いでございましたが、若殿様の御好みは、どこまでも繊細で、またどこまでも優雅な趣がございましたように存じて居ります。たとえば大殿様の御心もちが、あの堀川の御所(ごしょ)に窺(うかが)われます通り、若殿様が若王子(にゃくおうじ)に御造りになった竜田(たつた)の院は、御規模こそ小そうございますが、菅相丞(かんしょうじょう)の御歌をそのままな、紅葉(もみじ)ばかりの御庭と申し、その御庭を縫っている、清らかな一すじの流れと申し、あるいはまたその流れへ御放しになった、何羽とも知れない白鷺(しらさぎ)と申し、一つとして若殿様の奥床しい御思召(おおぼしめ)しのほどが、現れていないものはございません。
そう云う次第でございますから、大殿様は何かにつけて、武張(ぶば)った事を御好みになりましたが、若殿様はまた詩歌管絃(しいかかんげん)を何よりも御喜びなさいまして、その道々の名人上手とは、御身分の上下も御忘れになったような、隔てない御つき合いがございました。いや、それもただ、そう云うものが御好きだったと申すばかりでなく、御自分も永年御心を諸芸の奥秘(おうひ)に御潜めになったので、笙(しょう)こそ御吹きになりませんでしたが、あの名高い帥民部卿(そちのみんぶきょう)以来、三舟(さんしゅう)に乗るものは、若殿様御一人(おひとり)であろうなどと、噂のあったほどでございます。でございますから、御家の集(しゅう)にも、若殿様の秀句や名歌が、今に沢山残って居りますが、中でも世上に評判が高かったのは、あの良秀(よしひで)が五趣生死(ごしゅしょうじ)の図を描(か)いた竜蓋寺(りゅうがいじ)の仏事の節、二人の唐人(からびと)の問答を御聞きになって、御詠(およ)みになった歌でございましょう。これはその時磬(うちならし)の模様に、八葉(はちよう)の蓮華(れんげ)を挟(はさ)んで二羽の孔雀(くじゃく)が鋳(い)つけてあったのを、その唐人たちが眺めながら、「捨身惜花思(しゃしんしゃっかし)」と云う一人の声の下から、もう一人が「打不立有鳥(だふりゅううちょう)」と答えました――その意味合いが解(げ)せないので、そこに居合わせた人々が、とかくの詮議立てをして居りますと、それを御聞きになった若殿様が、御持ちになった扇の裏へさらさらと美しく書き流して、その人々のいる中へ御遣(おつかわ)しになった歌でございます。
   身をすてて花を惜しやと思ふらむ打てども 立たぬ鳥もありけり
三 

 

大殿様と若殿様とは、かように万事がかけ離れていらっしゃいましたから、それだけまた御二方(おふたかた)の御仲(おんなか)にも、そぐわない所があったようでございます。これにも世間にはとかくの噂がございまして、中には御親子(ごしんし)で、同じ宮腹(みやばら)の女房を御争いになったからだなどと、申すものもございますが、元よりそのような莫迦(ばか)げた事があろう筈はございません。何でも私(わたくし)の覚えて居ります限りでは、若殿様が十五六の御年に、もう御二方の間には、御不和の芽がふいていたように御見受け申しました。これが前にもちょいと申し上げて置きました、若殿様が笙(しょう)だけを御吹きにならないと云う、その謂(い)われに縁のある事なのでございます。
その頃、若殿様は大そう笙を御好みで、遠縁の従兄(いとこ)に御当りなさる中御門(なかみかど)の少納言(しょうなごん)に、御弟子入(おでしいり)をなすっていらっしゃいました。この少納言は、伽陵(がりょう)と云う名高い笙と、大食調入食調(だいじきちょうにゅうじきちょう)の譜とを、代々御家に御伝えになっていらっしゃる、その道でも稀代(きだい)の名人だったのでございます。
若殿様はこの少納言の御手許で、長らく切磋琢磨(せっさたくま)の功を御積みになりましたが、さてその大食調入食調(だいじきちょうにゅうじきちょう)の伝授を御望みになりますと、少納言はどう思召したのか、この仰せばかりは御聞き入れになりません。それが再三押して御頼みになっても、やはり御満足の行くような御返事がなかったので、御年若な若殿様は、一方ならず残念に思召したのでございましょう。ある日大殿様の双六(すごろく)の御相手をなすっていらっしゃる時に、ふとその御不満を御洩しになりました。すると大殿様はいつものように鷹揚(おうよう)に御笑いになりながら、「そう不平は云わぬものじゃ。やがてはその譜も手にはいる時節があるであろう。」と、やさしく御慰めになったそうでございます。ところがそれから半月とたたないある日の事、中御門の少納言は、堀川の御屋形(おやかた)の饗(さかもり)へ御出になった帰りに、俄(にわか)に血を吐いて御歿(おなくな)りになってしまいました。が、それは先ず、よろしいと致しましても、その明くる日、若殿様が何気なく御居間へ御出でになると、螺鈿(らでん)を鏤(ちりば)めた御机の上に、あの伽陵(がりょう)の笙と大食調入食調の譜とが、誰が持って来たともなく、ちゃんと載っていたと申すではございませんか。
その後(のち)また大殿様が若殿様を御相手に双六(すごろく)を御打ちになった時、
「この頃は笙も一段と上達致したであろうな。」と、念を押すように仰有(おっしゃ)ると、若殿様は静に盤面(ばんめん)を御眺めになったまま、
「いや笙はもう一生、吹かない事に致しました。」と、冷かに御答えになりました。
「何としてまた、吹かぬ事に致したな。」
「聊(いささ)かながら、少納言の菩提(ぼだい)を弔(とむら)おうと存じますから。」
こう仰有(おっしゃ)って若殿様は、じっと父上の御顔を御見つめになりました。が、大殿様はまるでその御声が聞えないように勢いよく筒(とう)を振りながら、
「今度もこの方が無地勝(むじがち)らしいぞ。」とさりげない容子(ようす)で勝負を御続けになりました。でございますからこの御問答は、それぎり立ち消えになってしまいましたが、御親子の御仲には、この時からある面白くない心もちが、挟まるようになったかと存ぜられます。  

 

それから大殿様の御隠れになる時まで、御親子(ごしんし)の間には、まるで二羽の蒼鷹(あおたか)が、互に相手を窺いながら、空を飛びめぐっているような、ちっとの隙(すき)もない睨(にら)み合いがずっと続いて居りました。が、前にも申し上げました通り若殿様は、すべて喧嘩口論の類(たぐい)が、大御嫌(だいおきら)いでございましたから、大殿様の御所業(ごしょぎょう)に向っても、楯(たて)を御つきになどなった事は、ほとんど一度もございません。ただ、その度に皮肉な御微笑を、あの癖のある御口元にちらりと御浮べになりながら、一言二言(ひとことふたこと)鋭い御批判を御漏(おも)らしになるばかりでございます。
いつぞや大殿様が、二条大宮の百鬼夜行(ひゃっきやぎょう)に御遇いになっても、格別御障りのなかった事が、洛中洛外の大評判になりますと、若殿様は私(わたくし)に御向いになりまして、「鬼神(きじん)が鬼神に遇うたのじゃ。父上の御身(おみ)に害がなかったのは、不思議もない。」と、さも可笑(おか)しそうに仰有(おっしゃ)いましたが、その後また、東三条の河原院(かわらのいん)で、夜な夜な現れる融(とおる)の左大臣の亡霊を、大殿様が一喝して御卻(おしりぞ)けになった時も、若殿様は例の通り、唇を歪(ゆが)めて御笑いになりながら、
「融の左大臣は、風月の才に富んで居られたと申すではないか。されば父上づれは、話のあとを打たせるにも足らぬと思われて、消え失せられたに相違ない。」と、仰有(おっしゃ)ったのを覚えて居ります。
それがまた大殿様には、何よりも御耳に痛かったと見えまして、ふとした拍子(ひょうし)に、こう云う若殿様の御言葉が、御聞きに達する事でもございますと、上べは苦笑いに御紛(おまぎら)わしなすっても、御心中の御怒りはありありと御顔に読まれました。現に内裡(だいり)の梅見の宴からの御帰りに、大殿様の御車(みくるま)の牛がそれて、往来の老人に怪我させた時、その老人が反(かえ)って手を合せて、権者(ごんじゃ)のような大殿様の御牛(みうし)にかけられた冥加(みょうが)のほどを、難有(ありがた)がった事がございましたが、その時も若殿様は、大殿様のいらっしゃる前で、牛飼いの童子に御向いなさりながら、「その方はうつけものじゃな。所詮(しょせん)牛をそらすくらいならば、なぜ車の輪にかけて、あの下司(げす)を轢(ひ)き殺さぬ。怪我をしてさえ、手を合せて、随喜するほどの老爺(おやじ)じゃ。轍(わだち)の下に往生を遂げたら、聖衆(しょうじゅ)の来迎(らいごう)を受けたにも増して、難有(ありがた)く心得たに相違ない。されば父上の御名誉も、一段と挙がろうものを。さりとは心がけの悪い奴じゃ。」と、仰有ったものでございます。その時の大殿様の御機嫌の悪さと申しましたら、今にも御手の扇が上って、御折檻(ごせっかん)くらいは御加えになろうかと、私ども一同が胆(きも)を冷すほどでございましたが、それでも若殿様は晴々と、美しい歯を見せて御笑いになりながら、
「父上、父上、そう御腹立ち遊ばすな。牛飼めもあの通り、恐れ入って居(お)るようでございます。この後(のち)とも精々心にかけましたら、今度こそは立派に人一人轢き殺して、父上の御名誉を震旦(しんたん)までも伝える事でございましょう。」と、素知(そし)らぬ顔で仰有ったものでございますから、大殿様もとうとう我(が)を御折りになったと見えて、苦(にが)い顔をなすったまま、何事もなく御立ちになってしまいました。
こう云う御間がらでございましたから、大殿様の御臨終を、じっと御目守(おまも)りになっていらっしゃる若殿様の御姿ほど、私どもの心の上に不思議な影を宿したものはございません。今でもその時の事を考えますと、まるで磨ぎすました焼刃(やきば)の(にお)いを嗅ぐような、身にしみてひやりとする、と同時にまた何となく頼もしい、妙な心もちが致した事は、先刻もう御耳に入れて置きました。誠にその時の私どもには、心から御代替(ごだいがわ)りがしたと云う気が、――それも御屋形(おやかた)の中ばかりでなく、一天下(いってんか)にさす日影が、急に南から北へふり変ったような、慌(あわただ)しい気が致したのでございます。 

 

でございますから若殿様が、御家督を御取りになったその日の内から、御屋形(おやかた)の中へはどこからともなく、今までにない長閑(のどか)な景色(けしき)が、春風(しゅんぷう)のように吹きこんで参りました。歌合(うたあわ)せ、花合せ、あるいは艶書合(えんしょあわ)せなどが、以前にも増して度々御催しになられたのは、申すまでもございますまい。それからまた、女房たちを始め、侍どもの風俗が、まるで昔の絵巻から抜け出して来たように、みやびやかになったのも、元よりの事でございます。が、殊に以前と変ったのは、御屋形の御客に御出でになる上(うえ)つ方(がた)の御顔ぶれで、今はいかに時めいている大臣大将でも、一芸一能にすぐれていらっしゃらない方は、滅多(めった)に若殿様の御眼にはかかれません。いや、たとい御眼にかかれたのにしても、御出でになる方々が、皆風流の才子ばかりでいらっしゃいますから、さすがに御身を御愧(おは)じになって、自然御み足が遠くなってしまうのでございます。
その代りまた、詩歌管絃の道に長じてさえ居りますれば、無位無官の侍でも、身に余るような御褒美(ごほうび)を受けた事がございます。たとえば、ある秋の夜に、月の光が格子にさして、機織(はたお)りの声が致して居りました時、ふと人を御召しになると、新参の侍が参りましたが、どう思召したのか、急にその侍に御向いなすって、
「機織(はたお)りの声が致すのは、その方(ほう)にも聞えような。これを題に一首仕(つかまつ)れ。」と、御声がかりがございました。するとその侍は下(しも)にいて、しばらく頭(かしら)を傾けて居りましたが、やがて、「青柳(あおやぎ)の」と、初(はじめ)の句を申しました。するとその季節に合わなかったのが、可笑(おかし)かったのでございましょう。女房たちの間には、忍び笑いの声が起りましたが、侍が続いて、
「みどりの糸をくりおきて夏へて秋は機織(はたお)りぞ啼く。」と、さわやかに詠じますと、たちまちそれは静まり返って、萩模様のある直垂(ひたたれ)を一領、格子の間から月の光の中へ、押し出して下さいました。実はその侍と申しますのが、私(わたくし)の姉の一人息子で、若殿様とは、ほぼ御年輩(ごねんぱい)も同じくらいな若者でございましたが、これを御奉公の初めにして、その後(のち)も度々難有(ありがた)い御懇意を受けたのでございます。
まず、若殿様の御平生(ごへいぜい)は、あらあらかようなものでございましょうか。その間に北の方(かた)も御迎えになりましたし、年々の除目(じもく)には御官位も御進みになりましたが、そう云う事は世上の人も、よく存じている事でございますから、ここにはとり立てて申し上げません。それよりも先を急ぎますから、最初に御約束致しました通り、若殿様の御一生に、たった一度しかなかったと云う、不思議な出来事の御話へはいる事に致しましょう。と申しますのは、大殿様とは御違いになって、天(あめ)が下(した)の色ごのみなどと云う御渾名(おんあだな)こそ、御受けになりましたが、誠に御無事な御生涯で、そのほかには何一つ、人口に膾炙(かいしゃ)するような御逸事と申すものも、なかったからでございます。 

 

その御話のそもそもは、確か大殿様が御隠れになってから、五六年たった頃でございますが、丁度その時分若殿様は、前に申しあげました中御門(なかみかど)の少納言様の御一人娘で、評判の美しい御姫様へ、茂々(しげしげ)御文を書いていらっしゃいました。ただ今でもあの頃の御熱心だった御噂が、私(わたくし)どもの口から洩れますと、若殿様はいつも晴々(はればれ)と御笑いになって、
「爺よ。天(あめ)が下(した)は広しと云え、あの頃の予が夢中になって、拙(つたな)い歌や詩を作ったのは皆、恋がさせた業(わざ)じゃ。思えば狐(きつね)の塚を踏んで、物に狂うたのも同然じゃな。」と、まるで御自分を嘲るように、洒落(しゃらく)としてこう仰有(おっしゃ)います。が、全く当時の若殿様は、それほど御平生に似もやらず、恋慕三昧(れんぼざんまい)に耽って御出でになりました。
しかし、これは、あながち、若殿様御一人に限った事ではございません。あの頃の年若な殿上人(てんじょうびと)で、中御門(なかみかど)の御姫様に想(おも)いを懸けないものと云ったら、恐らく御一方もございますまい。あの方が阿父様(おとうさま)の代から、ずっと御住みになっていらっしゃる、二条西洞院(にしのとういん)の御屋形(おやかた)のまわりには、そう云う色好みの方々が、あるいは車を御寄せになったり、あるいは御自身御拾いで御出でになったり、絶えず御通い遊ばしたものでございます。中には一夜(いちや)の中に二人まで、あの御屋形の梨(なし)の花の下で、月に笛を吹いている立烏帽子(たてえぼし)があったと云う噂も、聞き及んだ事がございました。
いや、現に一時は秀才の名が高かった菅原雅平(すがわらまさひら)とか仰有る方も、この御姫様に恋をなすって、しかもその恋がかなわなかった御恨みから、俄(にわか)に世を御捨てになって、ただ今では筑紫(つくし)の果に流浪して御出でになるとやら、あるいはまた東海の波を踏んで唐土(もろこし)に御渡りになったとやら、皆目御行方(かいもくおゆくえ)が知れないと申すことでございます。この方などは若殿様とも、詩文の御交りの深かった御一人で、御消息などをなさる時は、若殿様を楽天(らくてん)に、御自分を東坡(とうば)に比していらしったそうでございますが、そう云う風流第一の才子が、如何(いか)に中御門の御姫様は御美しいのに致しましても、一旦の御歎きから御生涯を辺土に御送りなさいますのは、御不覚と申し上げるよりほかはございますまい。
が、また飜(ひるがえ)って考えますと、これも御無理がないと思われるくらい、中御門の御姫様と仰有(おっしゃ)る方は、御美しかったのでございます。私が一両度御見かけ申しました限でも、柳桜(やなぎさくら)をまぜて召して、錦に玉を貫いた燦(きら)びやかな裳(も)の腰を、大殿油(おおとのあぶら)の明い光に、御輝かせになりながら、御眶(おんまぶた)も重そうにうち傾いていらしった、あのあでやかな御姿は一生忘れようもございますまい。しかもこの御姫様は御気象も並々ならず御闊達(ごかったつ)でいらっしゃいましたから、なまじいな殿上人などは、思召しにかなう所か、すぐに本性(ほんしょう)を御見透(おみとお)しになって、とんと御寵愛(ごちょうあい)の猫も同様、さんざん御弄(おなぶ)りになった上、二度と再び御膝元へもよせつけないようになすってしまいました。 

 

でございますからこの御姫様に、想(おもい)を懸けていらしった方々(かたがた)の間には、まるで竹取(たけとり)物語の中にでもありそうな、可笑(おか)しいことが沢山ございましたが、中でも一番御気の毒だったのは京極(きょうごく)の左大弁様(さだいべんさま)で、この方(かた)は京童(きょうわらんべ)が鴉(からす)の左大弁などと申し上げたほど、顔色が黒うございましたが、それでもやはり人情には変りもなく、中御門(なかみかど)の御姫様を恋い慕っていらっしゃいました。所がこの方は御利巧だと同時に、気の小さい御性質だったと見えまして、いかに御姫様を懐(なつか)しく思召しても、御自分の方からそれとは御打ち明けなすった事もございませんし、元よりまた御同輩の方にも、ついぞそれらしい事を口に出して、仰有(おっしゃ)った例(ためし)はございません。しかし忍び忍びに御姫様の御顔を拝みに参ります事は、隠れない事でございますから、ある時、それを枷(かせ)にして、御同輩の誰彼が、手を換え品を換え、いろいろと問い落そうと御かかりになりました。すると鴉の左大弁様は、苦しまぎれの御一策に、
「いや、あれは何も私(わたし)が想(おもい)を懸けているばかりではない。実は姫の方からも、心ありげな風情(ふぜい)を見せられるので、ついつい足が茂くなるのだ。」と、こう御逃げになりました。しかもそれを誠らしく見せかけようと云う出来心から、御姫様から頂いた御文の文句や、御歌などを、ある事もない事も皆一しょに取つくろって、さも御姫様の方が心を焦(こが)していらっしゃるように、御話しになったからたまりません。元より悪戯好(いたずらず)きな御同輩たちは、半信半疑でいらっしゃりながら、早速御姫様の偽手紙を拵(こしら)えて、折からの藤(ふじ)の枝か何かにつけたまま、それを左大弁様の許へ御とどけになりました。
こちらは京極の左大弁様で、何事かと胸を轟かせながら、慌(あわて)て御文を開けて見ますと、思いもよらず御姫様は、いかに左大弁様を思いわびてもとんとつれなく御もてなしになるから、所詮かなわぬ恋とあきらめて、尼法師(あまほうし)の境涯にはいると云う事が、いかにももの哀れに書いてあるではございませんか。まさかそうまで御姫様が、思いつめていらっしゃろうとは、夢にも思召(おぼしめ)さなかったのでございますから、鴉の左大弁様は悲しいとも、嬉しいともつかない御心もちで、しばらくはただ、茫然と御文を前にひろげたまま、溜息(ためいき)をついていらっしゃいました。が、何はともあれ、御眼にかかって、今まで胸にひそめていた想(おもい)のほども申し上げようと、こう思召したのでございましょう。丁度五月雨(さみだれ)の暮方でございましたが、童子を一人御伴に御つれになって、傘(おおかさ)をかざしながら、ひそかに二条西洞院(にしのとういん)の御屋形まで参りますと、御門(ごもん)は堅く鎖(とざ)してあって、いくら音なっても叩いても、開ける気色(けしき)はございません。そうこうする内に夜になって、人の往来(ゆきき)も稀な築土路(ついじみち)には、ただ、蛙(かわず)の声が聞えるばかり、雨は益(ますます)降りしきって、御召物も濡れれば、御眼も眩(くら)むと云う情ない次第でございます。
それがほど経てから、御門の扉が、やっと開いたと思いますと、平太夫(へいだゆう)と申します私(わたくし)くらいの老侍(おいざむらい)が、これも同じような藤の枝に御文を結んだのを渡したなり、無言でまた、その扉をぴたりと閉めてしまいました。
そこで泣く泣く御立ち帰りになって、その御文を開けて御覧になると、一首の古歌がちらし書きにしてあるだけで、一言もほかには御便りがございません。
   思へども思はずとのみ云ふなればいなや思はじ思ふかひなし
これは云うまでもなく御姫様が、悪戯(いたずら)好きの若殿原から、細々(こまごま)と御消息で、鴉(からす)の左大弁様の心なしを御承知になっていたのでございます。 

 

こう御話し致しますと、中には世の常の姫君たちに引き比べて、この御姫様の御行状(ごぎょうじょう)を、嘘のように思召す方もいらっしゃいましょうが、現在私が御奉公致している若殿様の事を申し上げながら、何もそのような空事(そらごと)をさし加えよう道理はございません。その頃洛中(らくちゅう)で評判だったのは、この御姫様ともう御一方、これは虫が大御好きで、長虫(ながむし)までも御飼いになったと云う、不思議な御姫様がございました。この後(あと)の御姫様の事は、全くの余談でございますから、ここには何も申し上げますまい。が、中御門(なかみかど)の御姫様は、何しろ御両親とも御隠れになって、御屋形にはただ、先刻御耳に入れました平太夫(へいだゆう)を頭(かしら)にして、御召使の男女(なんにょ)が居りますばかり、それに御先代から御有福で、何御不自由もございませんでしたから、自然御美しいのと、御闊達なのとに御任せなすって、随分世を世とも思わない、御放胆な真似もなすったのでございます。
そこで噂を立て易い世間には、この御姫様御自身が、実は少納言様の北の方(かた)と大殿様との間に御生まれなすったので、父君の御隠れなすったのも、恋の遺恨(いこん)で大殿様が毒害遊ばしたのだなどと申す輩(やから)も出て来るのでございましょう。しかし少納言様の急に御歿(おな)くなりになった御話は、前に一応申上げました通り、さらにそのような次第ではございませんから、その噂は申すまでもなく、皆跡方(あとかた)のない嘘でございます。さもなければ若殿様も、決してあれほどまでは御姫様へ、心を御寄せにはなりますまい。
何でも私が人伝(ひとづて)に承(うけたま)わりました所では、初めはいくら若殿様の方で御熱心でも、御姫様は反(かえ)って誰よりも、素気(すげ)なく御もてなしになったとか申す事でございます。いや、そればかりか、一度などは若殿様の御文を持って上った私の甥(おい)に、あの鴉の左大弁様同様、どうしても御門の扉を御開けにならなかったとかでございました。しかもあの平太夫(へいだゆう)が、なぜか堀川の御屋形のものを仇(かたき)のように憎みまして、その時も梨の花に、うらうらと春日(はるび)が(にお)っている築地(ついじ)の上から白髪頭(しらがあたま)を露(あらわ)して、檜皮(ひわだ)の狩衣(かりぎぬ)の袖をまくりながら、推しても御門を開こうとする私の甥に、
「やい、おのれは昼盗人(ひるぬすびと)か。盗人とあれば容赦(ようしゃ)はせぬ。一足でも門内にはいったが最期(さいご)、平太夫が太刀(たち)にかけて、まっ二つに斬って捨てるぞ。」と、噛みつくように喚(わめ)きました。もしこれが私でございましたら、刃傷沙汰(にんじょうざた)にも及んだでございましょうが、甥はただ、道ばたの牛の糞(まり)を礫(つぶて)代りに投げつけただけで、帰って来たと申して居りました。かような次第でございますから、元より御文が無事に御手許にとどいても、とんと御返事と申すものは頂けません。が、若殿様は、一向それにも御頓着なく、三日にあげず、御文やら御歌やら、あるいはまた結構な絵巻やらを、およそものの三月あまりも、根気よく御遣(おつかわ)しになりました。さればこそ、日頃も仰有(おっしゃ)る通り、「あの頃の予が夢中になって、拙(つたな)い歌や詩を作ったのは、皆恋がさせた業(わざ)じゃ。」に、少しも違いはなかったのでございます。 

 

丁度その頃の事でございます。洛中(らくちゅう)に一人の異形(いぎょう)な沙門(しゃもん)が現れまして、とんと今までに聞いた事のない、摩利(まり)の教と申すものを説き弘(ひろ)め始めました。これも一時随分評判でございましたから、中には御聞き及びの方(かた)もいらっしゃる事でございましょう。よくものの草紙などに、震旦(しんたん)から天狗(てんぐ)が渡ったと書いてありますのは、丁度あの染殿(そめどの)の御后(おきさき)に鬼が憑(つ)いたなどと申します通り、この沙門の事を譬(たと)えて云ったのでございます。
そう申せば私が初めてその沙門を見ましたのも、やはり其頃の事でございました。確か、ある花曇りの日の昼中(ひるなか)だったかと存じますが、何か用足しに出ました帰りに、神泉苑(しんせんえん)の外を通りかかりますと、あすこの築土(ついじ)を前にして、揉烏帽子(もみえぼし)やら、立烏帽子(たてえぼし)やら、あるいはまたもの見高い市女笠(いちめがさ)やらが、数(かず)にしておよそ二三十人、中には竹馬に跨った童部(わらべ)も交って、皆一塊(ひとかたまり)になりながら、罵(ののし)り騒いでいるのでございます。さてはまた、福徳の大神(おおかみ)に祟られた物狂いでも踊っているか、さもなければ迂闊(うかつ)な近江商人(おうみあきゅうど)が、魚盗人(うおぬすびと)に荷でも攫(さら)われたのだろうと、こう私は考えましたが、あまりその騒ぎが仰々(ぎょうぎょう)しいので、何気(なにげ)なく後(うしろ)からそっと覗(のぞ)きこんで見ますと、思いもよらずその真中(まんなか)には、乞食(こつじき)のような姿をした沙門が、何か頻(しきり)にしゃべりながら、見慣れぬ女菩薩(にょぼさつ)の画像(えすがた)を掲げた旗竿を片手につき立てて、佇(たたず)んでいるのでございました。年の頃はかれこれ三十にも近うございましょうか、色の黒い、眼のつり上った、いかにも凄じい面(つら)がまえで、着ているものこそ、よれよれになった墨染の法衣(ころも)でございますが、渦を巻いて肩の上まで垂れ下った髪の毛と申し、頸(くび)にかけた十文字の怪しげな黄金(こがね)の護符(ごふ)と申し、元より世の常の法師(ほうし)ではございますまい。それが、私の覗(のぞ)きました時は、流れ風に散る神泉苑の桜の葉を頭から浴びて、全く人間と云うよりも、あの智羅永寿(ちらえいじゅ)の眷属(けんぞく)が、鳶(とび)の翼を法衣(ころも)の下に隠しているのではないかと思うほど、怪しい姿に見うけられました。
するとその時、私の側にいた、逞しい鍛冶(かじ)か何かが、素早く童部(わらべ)の手から竹馬をひったくって、
「おのれ、よくも地蔵菩薩を天狗だなどと吐(ぬか)したな。」と、噛みつくように喚きながら、斜(はす)に相手の面(おもて)を打ち据えました。が、打たれながらも、その沙門(しゃもん)は、にやりと気味の悪い微笑を洩らしたまま、いよいよ高く女菩薩(にょぼさつ)の画像(えすがた)を落花の風に飜(ひるがえ)して、
「たとい今生(こんじょう)では、いかなる栄華(えいが)を極めようとも、天上皇帝の御教(みおしえ)に悖(もと)るものは、一旦命終(めいしゅう)の時に及んで、たちまち阿鼻叫喚(あびきょうかん)の地獄に堕(お)ち、不断の業火(ごうか)に皮肉を焼かれて、尽未来(じんみらい)まで吠え居ろうぞ。ましてその天上皇帝の遺(のこ)された、摩利信乃法師(まりしのほうし)に笞(しもと)を当つるものは、命終の時とも申さず、明日(あす)が日にも諸天童子の現罰を蒙って、白癩(びゃくらい)の身となり果てるぞよ。」と、叱りつけたではございませんか。この勢いに気を呑まれて、私は元より当の鍛冶(かじ)まで、しばらくはただ、竹馬を戟(ほこ)にしたまま、狂おしい沙門の振舞を、呆れてじっと見守って居りました。 

 

が、それはほんの僅の間(ま)で、鍛冶(かじ)はまた竹馬(たけうま)をとり直しますと、
「まだ雑言(ぞうごん)をやめ居らぬか。」と、恐ろしい権幕(けんまく)で罵りながら、矢庭(やにわ)に沙門(しゃもん)へとびかかりました。
元よりその時は私はじめ、誰でも鍛冶の竹馬が、したたか相手の面(おもて)を打ち据えたと、思わなかったものはございません。いや、実際竹馬は、あの日の焦(や)けた頬に、もう一すじ蚯蚓腫(みみずばれ)の跡を加えたようでございます。が、横なぐりに打ち下した竹馬が、まだ青い笹の葉に落花を掃(はら)ったと思うが早いか、いきなり大地(だいち)にどうと倒れたのは、沙門ではなくて、肝腎の鍛冶の方でございました。
これに辟易(へきえき)した一同は、思わず逃腰(にげごし)になったのでございましょう。揉烏帽子(もみえぼし)も立(たて)烏帽子も意気地なく後(うしろ)を見せて、どっと沙門のまわりを離れましたが、見ると鍛冶は、竹馬を持ったまま、相手の足もとにのけぞり返って、口からはまるで癲癇病(てんかんや)みのように白い泡さえも噴いて居ります。沙門はしばらくその呼吸を窺っているようでございましたが、やがてその瞳を私どもの方へ返しますと、
「見られい。わしの云うた事に、偽(いつわ)りはなかったろうな。諸天童子は即座にこの横道者(おうどうもの)を、目に見えぬ剣(つるぎ)で打たせ給うた。まだしも頭(かしら)が微塵に砕けて、都大路(みやこおおじ)に血をあやさなんだのが、時にとっての仕合せと云わずばなるまい。」と、さも横柄(おうへい)に申しました。
するとその時でございます。ひっそりと静まり返った人々の中から、急にけたたましい泣き声をあげて、さっき竹馬を持っていた童部(わらべ)が一人、切禿(きりかむろ)の髪を躍らせながら、倒れている鍛冶(かじ)の傍へ、転がるように走り寄ったのは。
「阿父(おとっ)さん。阿父さんてば。よう。阿父さん。」
童部(わらべ)はこう何度も喚(わめ)きましたが、鍛冶はさらに正気(しょうき)に還る気色(けしき)もございません。あの唇にたまった泡さえ、不相変(あいかわらず)花曇りの風に吹かれて、白く水干(すいかん)の胸へ垂れて居ります。
「阿父さん。よう。」
童部(わらべ)はまたこう繰り返しましたが、鍛冶が返事をしないのを見ると、たちまち血相を変えて、飛び立ちながら、父の手に残っている竹馬を両手でつかむが早いか、沙門を目がけて健気(けなげ)にも、まっしぐらに打ってかかりました。が、沙門はその竹馬を、持っていた画像(えすがた)の旗竿で、事もなげに払いながら、またあの気味の悪い笑(えみ)を洩らしますと、わざと柔(やさ)しい声を出して、「これは滅相な。御主(おぬし)の父親(てておや)が気を失ったのは、この摩利信乃法師(まりしのほうし)がなせる業(わざ)ではないぞ。さればわしを窘(くるし)めたとて、父親が生きて返ろう次第はない。」と、たしなめるように申しました。
その道理が童部(わらべ)に通じたと云うよりは、所詮この沙門と打ち合っても、勝てそうもないと思ったからでございましょう。鍛冶の小伜は五六度竹馬を振りまわした後で、べそを掻いたまま、往来のまん中へ立ちすくんでしまいました。 
十一

 

摩利信乃法師(まりしのほうし)はこれを見ると、またにやにや微笑(ほほえ)みながら、童部(わらべ)の傍(かたわら)へ歩みよって、
「さても御主(おぬし)は、聞分けのよい、年には増した利発な子じゃ。そう温和(おとな)しくして居(お)れば、諸天童子も御主にめでて、ほどなくそこな父親(てておや)も正気(しょうき)に還して下されよう。わしもこれから祈祷(きとう)しょうほどに、御主もわしを見慣うて、天上皇帝の御慈悲に御すがり申したがよかろうぞ。」
こう云うと沙門は旗竿を大きく両腕に抱(いだ)きながら、大路(おおじ)のただ中に跪(ひざまず)いて、恭(うやうや)しげに頭を垂れました。そうして眼をつぶったまま、何やら怪しげな陀羅尼(だらに)のようなものを、声高(こわだか)に誦(ず)し始めました。それがどのくらいつづいた事でございましょう。沙門のまわりに輪を作って、この不思議な加持(かじ)のし方を眺めている私どもには、かれこれものの半時もたったかと思われるほどでございましたが、やがて沙門が眼を開いて、脆いたなり伸ばした手を、鍛冶(かじ)の顔の上へさしかざしますと、見る見る中にその顔が、暖かく血の色を盛返して、やがて苦しそうな呻(うな)り声さえ、例の泡だらけな口の中から、一しきり長く溢れて参りました。
「やあ、阿父(おとっ)さんが、生き返った。」
童部(わらべ)は竹馬を抛り出すと、嬉しそうに小躍りして、また父親の傍へ走りよりました。が、その手で抱(だ)き起されるまでもなく、呻り声を洩らすとほとんど同時に、鍛冶はまるで酒にでも酔ったかと思うような、覚束ない身のこなしで、徐(おもむろ)に体を起しました。すると沙門はさも満足そうに、自分も悠然と立ち上って、あの女菩薩(にょぼさつ)の画像(えすがた)を親子のものの頭(かしら)の上に、日を蔽う如くさしかざすと、
「天上皇帝の御威徳は、この大空のように広大無辺じゃ。何と信を起されたか。」と、厳(おごそ)かにこう申しました。
鍛冶の親子は互にしっかり抱(いだ)き合いながら、まだ土の上に蹲(うずくま)って居りましたが、沙門の法力(ほうりき)の恐ろしさには、魂も空にけし飛んだのでございましょう。女菩薩の幢(はた)を仰ぎますと、二人とも殊勝げな両手を合せて、わなわな震えながら、礼拝(らいはい)いたしました。と思うとつづいて二三人、まわりに立っている私どもの中にも、笠を脱いだり、烏帽子を直したりして、画像(えすがた)を拝んだものが居ったようでございます。ただ私は何となく、その沙門や女菩薩の画像が、まるで魔界の風に染んでいるような、忌(いま)わしい気が致しましたから、鍛冶が正気に還ったのを潮(しお)に、梶X(そうそう)その場を立ち去ってしまいました。
後で人の話を承わりますと、この沙門の説教致しますのが、震旦(しんたん)から渡って参りました、あの摩利(まり)の教と申すものだそうで、摩利信乃法師(まりしのほうし)と申します男も、この国の生れやら、乃至(ないし)は唐土(もろこし)に人となったものやら、とんと確かなことはわからないと云う事でございました。中にはまた、震旦でも本朝でもない、天竺(てんじく)の涯(はて)から来た法師で、昼こそあのように町を歩いているが、夜は墨染の法衣(ころも)が翼になって、八阪寺(やさかでら)の塔の空へ舞上るなどと云う噂もございましたが、元よりそれはとりとめもない、嘘だったのでございましょう。が、さような噂が伝わりましたのも、一応はもっともかと存じられますくらい、この摩利信乃法師の仕業には、いろいろ幻妙な事が多かったのでございます。 
十二

 

と申しますのは、まず第一に摩利信乃法師(まりしのほうし)が、あの怪しげな陀羅尼(だらに)の力で、瞬く暇に多くの病者を癒(なお)した事でございます。盲目(めしい)が見えましたり、跛(あしなえ)が立ちましたり、唖(おし)が口をききましたり――一々数え立てますのも、煩わしいくらいでございますが、中でも一番名高かったのは、前(さき)の摂津守(せっつのかみ)の悩んでいた人面瘡(にんめんそう)ででもございましょうか。これは甥(おい)を遠矢にかけて、その女房を奪ったとやら申す報(むくい)から、左の膝頭にその甥の顔をした、不思議な瘡(かさ)が現われて、昼も夜も骨を刻(けず)るような業苦(ごうく)に悩んで居りましたが、あの沙門の加持(かじ)を受けますと、見る間にその顔が気色(けしき)を和(やわら)げて、やがて口とも覚しい所から「南無(なむ)」と云う声が洩れるや否や、たちまち跡方(あとかた)もなく消え失せたと申すのでございます。元よりそのくらいでございますから、狐の憑(つ)きましたのも、天狗の憑(つ)きましたのも、あるいはまた、何とも名の知れない、妖魅鬼神(ようみきじん)の憑きましたのも、あの十文字(じゅうもんじ)の護符を頂きますと、まるで木(こ)の葉を食う虫が、大風にでも振われて落ちるように、すぐさま落ちてしまいました。
が、摩利信乃法師の法力が評判になったのは、それだからばかりではございません。前にも私が往来で見かけましたように、摩利の教を誹謗(ひぼう)したり、その信者を呵責(かしゃく)したり致しますと、あの沙門は即座にその相手に、恐ろしい神罰を祈り下しました。おかげで井戸の水が腥(なまぐさ)い血潮に変ったものもございますし、持(も)ち田(だ)の稲を一夜(いちや)の中に蝗(いなむし)が食ってしまったものもございますが、あの白朱社(はくしゅしゃ)の巫女(みこ)などは、摩利信乃法師を祈り殺そうとした応報で、一目見るのさえ気味の悪い白癩(びゃくらい)になってしまったそうでございます。そこであの沙門は天狗の化身(けしん)だなどと申す噂が、一層高くなったのでございましょう。が、天狗ならば一矢に射てとって見せるとか申して、わざわざ鞍馬の奥から参りました猟師も、例の諸天童子の剣(つるぎ)にでも打たれたのか、急に目がつぶれた揚句(あげく)、しまいには摩利の教の信者になってしまったとか申す事でございました。
そう云う勢いでございますから、日が経(ふ)るに従って、信者になる老若男女(ろうにゃくなんにょ)も、追々数を増して参りましたが、そのまた信者になりますには、何でも水で頭(かしら)を濡(ぬら)すと云う、灌頂(かんちょう)めいた式があって、それを一度すまさない中は、例の天上皇帝に帰依(きえ)した明りが立ち兼(か)ねるのだそうでございます。これは私の甥が見かけたことでございますが、ある日四条の大橋を通りますと、橋の下の河原に夥(おびただ)しい人だかりが致して居りましたから、何かと存じて覗(のぞ)きました所、これもやはり摩利信乃法師が東国者らしい侍に、その怪しげな灌頂の式を授けて居(お)るのでございました。何しろ折からの水が温(ぬる)んで、桜の花も流れようと云う加茂川へ、大太刀を佩(は)いて畏(かしこま)った侍と、あの十文字の護符を捧げている異形(いぎょう)な沙門とが影を落して、見慣れない儀式を致していたと申すのでございますから、余程面白い見物(みもの)でございましたろう。――そう云えば、前に申し上げる事を忘れましたが、摩利信乃法師は始めから、四条河原の非人(ひにん)小屋の間へ、小さな蓆張(むしろば)りの庵(いおり)を造りまして、そこに始終たった一人、佗(わび)しく住んでいたのでございます。  
十三

 

そこでお話は元へ戻りますが、その間に若殿様は、思いもよらない出来事から、予(かね)て御心を寄せていらしった中御門(なかみかど)の御姫様と、親しい御語いをなさる事が御出来なさるように相成りました。その思いもよらない事と申しますのは、もう花橘(はなたちばな)の(におい)と時鳥(ほととぎす)の声とが雨もよいの空を想(おも)わせる、ある夜の事でございましたが、その夜は珍しく月が出て、夜目にも、朧(おぼろ)げには人の顔が見分けられるほどだったと申します。若殿様はある女房の所へ御忍びになった御帰り途で、御供の人数(にんず)も目立たないように、僅か一人か二人御召連れになったまま、その明るい月の中を車でゆっくりと御出でになりました。が、何しろ時刻が遅いので、人っ子一人通らない往来には、遠田(とおだ)の蛙(かわず)の声と、車の輪の音とが聞えるばかり、殊にあの寂しい美福門(びふくもん)の外は、よく狐火の燃える所だけに、何となく鬼気が身に迫って、心無い牛の歩みさえ早くなるような気が致されます。――そう思うと、急に向うの築土(ついじ)の陰で、怪しい咳(しわぶき)の声がするや否や、きらきらと白刃(しらは)を月に輝かせて、盗人と覚しい覆面の男が、左右から凡そ六七人、若殿様の車を目がけて、猛々(たけだけ)しく襲いかかりました。
と同時に牛飼(うしかい)の童部(わらべ)を始め、御供の雑色(ぞうしき)たちは余りの事に、魂も消えるかと思ったのでございましょう。驚破(すわ)と云う間もなく、算(さん)を乱して、元来た方へ一散に逃げ出してしまいました。が、盗人たちはそれには目もくれる気色(けしき)もなく、矢庭(やにわ)に一人が牛の韁(はづな)を取って、往来のまん中へぴたりと車を止めるが早いか、四方から白刃(しらは)の垣を造って、犇々(ひしひし)とそのまわりを取り囲みますと、先ず頭立(かしらだ)ったのが横柄に簾(すだれ)を払って、「どうじゃ。この殿に違いはあるまいな。」と、仲間の方を振り向きながら、念を押したそうでございます。その容子(ようす)がどうも物盗りとも存ぜられませんので、御驚きの中にも若殿様は不審に思召されたのでございましょう。それまでじっとしていらっしったのが、扇を斜(ななめ)に相手の方を、透かすようにして御窺いなさいますと、その時その盗人の中に嗄(しわが)れた声がして、
「おう、しかとこの殿じゃ。」と、憎々(にくにく)しげに答えました。するとその声が、また何となくどこかで一度、御耳になすったようでございましたから、愈(いよいよ)怪しく思召して、明るい月の光に、その声の主(ぬし)を、きっと御覧になりますと、面(おもて)こそ包んで居りますが、あの中御門の御姫様に年久しく御仕え申している、平太夫(へいだゆう)に相違はございません。この一刹那はさすがの若殿様も、思わず総身(そうみ)の毛がよだつような、恐ろしい思いをなすったと申す事でございました。なぜと申しますと、あの平太夫が堀川の御一家(ごいっけ)を仇(かたき)のように憎んでいる事は、若殿様の御耳にも、とうからはいっていたからでございます。
いや、現にその時も、平太夫がそう答えますと、さっきの盗人は一層声を荒(あらら)げて、太刀の切先(きっさき)を若殿様の御胸に向けながら、
「さらば御命(おんいのち)を申受けようず。」と罵ったと申すではございませんか。  
十四

 

しかしあの飽くまでも、物に御騒ぎにならない若殿様は、すぐに勇気を御取り直しになって、悠々と扇を御弄(おもてあそ)びなさりながら、
「待て。待て。予の命が欲しくば、次第によって呉れてやらぬものでもない。が、その方どもは、何でそのようなものを欲しがるのじゃ。」と、まるで人事のように御尋ねになりました。すると頭立(かしらだ)った盗人は、白刃(しらは)を益(ますます)御胸へ近づけて、
「中御門(なかみかど)の少納言殿は、誰故の御最期(ごさいご)じゃ。」
「予は誰やら知らぬ。が、予でない事だけは、しかとした証(あかし)もある。」
「殿か、殿の父君か。いずれにしても、殿は仇(かたき)の一味じゃ。」
頭立った一人がこう申しますと、残りの盗人どもも覆面の下で、
「そうじゃ。仇の一味じゃ。」と、声々に罵り交しました。中にもあの平太夫(へいだゆう)は歯噛みをして、車の中を獣のように覗きこみながら、太刀(たち)で若殿様の御顔を指さしますと、
「さかしらは御無用じゃよ。それよりは十念(じゅうねん)なと御称え申されい。」と、嘲笑(あざわら)うような声で申したそうでございます。
が、若殿様は相不変(あいかわらず)落ち着き払って、御胸の先の白刃も見えないように、
「してその方たちは、皆少納言殿の御内(みうち)のものか。」と、抛(ほう)り出すように御尋ねなさいました。すると盗人たちは皆どうしたのか、一しきり答にためらったようでございましたが、その気色(けしき)を見てとった平太夫は、透かさず声を励まして、
「そうじゃ。それがまた何と致した。」
「いや、何とも致さぬが、もしこの中に少納言殿の御内(みうち)でないものがいたと思え。そのものこそは天(あめ)が下(した)の阿呆(あほう)ものじゃ。」
若殿様はこう仰有(おっしゃ)って、美しい歯を御見せになりながら、肩を揺(ゆす)って御笑いになりました。これには命知らずの盗人たちも、しばらくは胆(きも)を奪われたのでございましょう。御胸に迫っていた太刀先さえ、この時はもう自然と、車の外の月明りへ引かれていたと申しますから。
「なぜと申せ。」と、若殿様は言葉を御継ぎになって、「予を殺害(せつがい)した暁には、その方どもはことごとく検非違使(けびいし)の目にかかり次第、極刑(ごっけい)に行わるべき奴ばらじゃ。元よりそれも少納言殿の御内のものなら、己(おの)が忠義に捨つる命じゃによって、定めて本望に相違はあるまい。が、さもないものがこの中にあって、わずかばかりの金銀が欲しさに、予が身を白刃に向けるとすれば、そやつは二つとない大事な命を、その褒美(ほうび)と換えようず阿呆ものじゃ。何とそう云う道理ではあるまいか。」
これを聞いた盗人たちは、今更のように顔を見合せたけはいでございましたが、平太夫(へいだゆう)だけは独り、気違いのように吼(たけ)り立って、
「ええ、何が阿呆ものじゃ。その阿呆ものの太刀にかかって、最期(さいご)を遂げる殿の方が、百層倍も阿呆ものじゃとは覚されぬか。」
「何、その方どもが阿呆ものだとな。ではこの中(うち)に少納言殿の御内でないものもいるのであろう。これは一段と面白うなって参った。さらばその御内でないものどもに、ちと申し聞かす事がある。その方どもが予を殺害しようとするのは、全く金銀が欲しさにする仕事であろうな。さて金銀が欲しいとあれば、予はその方どもに何なりと望み次第の褒美を取らすであろう。が、その代り予の方にもまた頼みがある。何と、同じ金銀のためにする事なら、褒美の多い予の方に味方して、利得を計ったがよいではないか。」
若殿様は鷹揚(おうよう)に御微笑なさりながら、指貫(さしぬき)の膝を扇で御叩きになって、こう車の外の盗人どもと御談じになりました。 
十五

 

「次第によっては、御意(ぎょい)通り仕(つかまつ)らぬものでもございませぬ。」
恐ろしいくらいひっそりと静まり返っていた盗人たちの中から、頭(かしら)だったのが半(なかば)恐る恐るこう御答え申し上げますと、若殿様は御満足そうに、はたはたと扇を御鳴らしになりながら、例の気軽な御調子で、
「それは重畳(ちょうじょう)じゃ。何、予が頼みと申しても、格別むずかしい儀ではない。それ、そこに居(お)る老爺(おやじ)は、少納言殿の御内人(みうちびと)で、平太夫(へいだゆう)と申すものであろう。巷(ちまた)の風聞(ふうぶん)にも聞き及んだが、そやつは日頃予に恨みを含んで、あわよくば予が命を奪おうなどと、大それた企てさえ致して居(お)ると申す事じゃ。さればその方どもがこの度の結構も、平太夫めに唆(そそのか)されて、事を挙げたのに相違あるまい。――」
「さようでございます。」
これは盗人たちが三四人、一度に覆面の下から申し上げました。
「そこで予が頼みと申すのは、その張本(ちょうぼん)の老爺(おやじ)を搦(から)めとって、長く禍の根を断ちたいのじゃが、何とその方どもの力で、平太夫めに縄をかけてはくれまいか。」
この御仰(おんおお)せには、盗人たちも、余りの事にしばらくの間は、呆れ果てたのでございましょう。車をめぐっていた覆面の頭(かしら)が、互に眼を見合わしながら、一しきりざわざわと動くようなけはいがございましたが、やがてそれがまた静かになりますと、突然盗人たちの唯中から、まるで夜鳥(よどり)の鳴くような、嗄(しわが)れた声が起りました。
「やい、ここなうっそりどもめ。まだ乳臭いこの殿の口車に乗せられ居って、抜いた白刃を持て扱うばかりか、おめおめ御意に従いましょうなどとは、どの面下げて申せた義理じゃ。よしよし、ならば己(おの)れらが手は借りぬわ。高がこの殿の命一つ、平太夫が太刀ばかりで、見事申し受けようも、瞬く暇じゃ。」
こう申すや否や平太夫は、太刀をまっこうにふりかざしながら、やにわに若殿様へ飛びかかろうと致しました。が、その飛びかかろうと致したのと、頭だった盗人が、素早く白刃を投げ出して、横あいからむずと組みついたのとが、ほとんど同時でございます。するとほかの盗人たちも、てんでに太刀を鞘におさめて、まるで蝗(いなむし)か何かのように、四方から平太夫へ躍りかかりました。何しろ多勢(たぜい)に無勢(ぶぜい)と云い、こちらは年よりの事でございますから、こうなっては勝負を争うまでもございません。たちまちの内にあの老爺(おやじ)は、牛の韁(はづな)でございましょう、有り合せた縄にかけられて、月明りの往来へ引き据えられてしまいました。その時の平太夫の姿と申しましたら、とんと穽(わな)にでもかかった狐のように、牙ばかりむき出して、まだ未練らしく喘(あえ)ぎながら、身悶えしていたそうでございます。
するとこれを御覧になった若殿様は、欠伸(あくび)まじりに御笑いになって、
「おお、大儀。大儀。それで予の腹も一先(ひとまず)癒えたと申すものじゃ。が、とてもの事に、その方どもは、予が車を警護旁(かたがた)、そこな老耄(おいぼれ)を引き立て、堀川の屋形(やかた)まで参ってくれい。」
こう仰有(おっしゃ)られて見ますと盗人たちも、今更いやとは申されません。そこで一同うち揃って、雑色(ぞうしき)がわりに牛を追いながら、縄つきを中にとりまいて、月夜にぞろぞろと歩きはじめました。天(あめ)が下(した)は広うございますが、かように盗人どもを御供に御つれ遊ばしたのは、まず若殿様のほかにはございますまい。もっともこの異様な行列も、御屋形まで参りつかない内に、急を聞いて駆けつけた私どもと出会いましたから、その場で面々御褒美を頂いた上、こそこそ退散致してしまいました。  
十六

 

さて若殿様は平太夫(へいだゆう)を御屋形へつれて御帰りになりますと、そのまま、御厩(おうまや)の柱にくくりつけて、雑色(ぞうしき)たちに見張りを御云いつけなさいましたが、翌朝は梶X(そうそう)あの老爺(おやじ)を、朝曇りの御庭先へ御召しになって、
「こりゃ平太夫、その方が少納言殿の御恨(おうらみ)を晴そうと致す心がけは、成程愚(おろか)には相違ないが、さればとてまた、神妙とも申されぬ事はない。殊にあの月夜に、覆面の者どもを駆り催して、予を殺害(せつがい)致そうと云う趣向のほどは、中々その方づれとも思われぬ風流さじゃ。が、美福門のほとりは、ちと場所がようなかったぞ。ならば糺(ただす)の森あたりの、老木(おいき)の下闇に致したかった。あすこは夏の月夜には、せせらぎの音が間近く聞えて、卯(う)の花の白く仄(ほのめ)くのも一段と風情(ふぜい)を添える所じゃ。もっともこれはその方づれに、望む予の方が、無理かも知れぬ。ついてはその殊勝なり、風流なのが目出たいによって、今度ばかりはその方の罪も赦(ゆる)してつかわす事にしよう。」
こう仰有(おっしゃ)って若殿様は、いつものように晴々と御笑いになりながら、
「その代りその方も、折角これまで参ったものじゃ。序(ついで)ながら予の文を、姫君のもとまで差上げてくれい。よいか。しかと申しつけたぞ。」
私はそのときの平太夫の顔くらい、世にも不思議なものを見た事はございません。あの意地の悪そうな、苦(にが)りきった面色(めんしょく)が、泣くとも笑うともつかない気色(けしき)を浮かべて、眼ばかりぎょろぎょろ忙(せわ)しそうに、働かせて居(お)るのでございます。するとその容子(ようす)が、笑止(しょうし)ながら気の毒に思召されたのでございましょう。若殿様は御笑顔(おえがお)を御やめになると、縄尻を控えていた雑色(ぞうしき)に、
「これ、これ、永居は平太夫の迷惑じゃ。すぐさま縄目を許してつかわすがよい。」と、難有(ありがた)い御諚(ごじょう)がございました。
それから間もなくの事でございます。一夜の内に腰さえ弓のように曲った平太夫は、若殿様の御文をつけた花橘(はなたちばな)の枝を肩にして、這々(ほうほう)裏の御門から逃げ出して参りました。所がその後からまた一人、そっと御門を出ましたのは、私の甥(おい)の侍で、これは万一平太夫が御文に無礼でも働いてはならないと、若殿様にも申し上げず、見え隠れにあの老爺(おやじ)の跡をつけたのでございます。
二人の間はおよその所、半町ばかりもございましたろうか。平太夫は気も心も緩みはてたかと思うばかり、跣足(はだし)を力なくひきずりながら、まだ雲切れのしない空に柿若葉の(におい)のする、築土(ついじ)つづきの都大路(みやこおおじ)を、とぼとぼと歩いて参ります。途々通りちがう菜売りの女などが、稀有(けう)な文使(ふづか)いだとでも思いますのか、迂散(うさん)らしくふり返って、見送るものもございましたが、あの老爺(おやじ)はとんとそれにも目をくれる気色(けしき)はございません。
この調子ならまず何事もなかろうと、一時は私の甥も途中から引き返そうと致しましたが、よもやに引かされて、しばらくは猶も跡を慕って参りますと、丁度油小路(あぶらのこうじ)へ出ようと云う、道祖(さえ)の神の祠(ほこら)の前で、折からあの辻をこちらへ曲って出た、見慣れない一人の沙門(しゃもん)が、出合いがしらに平太夫と危くつき当りそうになりました。女菩薩(にょぼさつ)の幢(はた)、墨染の法衣(ころも)、それから十文字の怪しい護符、一目見て私の甥は、それが例の摩利信乃法師だと申す事に、気がついたそうでございます。  
十七

 

危くつき当りそうになった摩利信乃法師(まりしのほうし)は、咄嗟(とっさ)に身を躱(かわ)しましたが、なぜかそこに足を止めて、じっと平太夫(へいだゆう)の姿を見守りました。が、あの老爺(おやじ)はとんとそれに頓着する容子(ようす)もなく、ただ、二三歩譲っただけで、相不変(あいかわらず)とぼとぼと寂しい歩みを運んで参ります。さてはさすがの摩利信乃法師も、平太夫の異様な風俗を、不審に思ったものと見えると、こう私の甥は考えましたが、やがてその側まで参りますと、まだ我を忘れたように、道祖(さえ)の神の祠(ほこら)を後(うしろ)にして、佇(たたず)んでいる沙門の眼(ま)なざしが、いかに天狗の化身(けしん)とは申しながら、どうも唯事とは思われません。いや、反(かえ)ってその眼なざしには、いつもの気味の悪い光がなくて、まるで涙ぐんででもいるような、もの優しい潤いが、漂っているのでございます。それが祠の屋根へ枝をのばした、椎の青葉の影を浴びて、あの女菩薩の旗竿を斜(ななめ)に肩へあてながら、しげしげ向うを見送っていた立ち姿の寂しさは、一生の中にたった一度、私の甥にもあの沙門を懐しく思わせたとか申す事でございました。
が、その内に私の甥の足音に驚かされたのでございましょう。摩利信乃法師は夢のさめたように、慌しくこちらを振り向きますと、急に片手を高く挙げて、怪しい九字(くじ)を切りながら、何か咒文(じゅもん)のようなものを口の内に繰返して、堰X(そうそう)歩きはじめました。その時の咒文の中に、中御門(なかみかど)と云うような語(ことば)が聞えたと申しますが、それは事によると私の甥の耳のせいだったかもわかりません。元よりその間も平太夫の方は、やはり花橘の枝を肩にして、側目(わきめ)もふらず悄々(しおしお)と歩いて参ったのでございます。そこでまた私の甥も、見え隠れにその跡をつけて、とうとう西洞院(にしのとういん)の御屋形まで参ったそうでございますが、時にあの摩利信乃法師の不思議な振舞が気になって、若殿様の御文の事さえ、はては忘れそうになったくらい、落着かない心もちに苦しめられたとか申して居りました。
しかしその御文は恙(つつが)なく、御姫様の御手もとまでとどいたものと見えまして、珍しくも今度に限って早速御返事がございました。これは私ども下々(しもじも)には、何とも確かな事は申し上げる訳に参りませんが、恐らくは御承知の通り御闊達な御姫様の事でございますから、平太夫からあの暗討(やみう)ちの次第でも御聞きになって、若殿様の御(ご)気象の人に優れていらっしゃるのを、始めて御会得(ごえとく)になったからででもございましょうか。それから二三度、御消息を御取り交(かわ)せになった後、とうとうある小雨(こさめ)の降る夜、若殿様は私の甥を御供に召して、もう葉柳の陰に埋もれた、西洞院(にしのとういん)の御屋形へ忍んで御通いになる事になりました。こうまでなって見ますと、あの平太夫もさすがに我(が)が折れたのでございましょう。その夜も険しく眉をひそめて居りましたが、私の甥に向いましても、格別雑言(ぞうごん)などを申す勢いはなかったそうでございます。  
十八

 

その後(ご)若殿様はほとんど夜毎に西洞院(にしのとういん)の御屋形へ御通いになりましたが、時には私のような年よりも御供に御召しになった事がございました。私が始めてあの御姫様の、眩しいような御美しさを拝む事が出来ましたのも、そう云う折ふしの事でございます。一度などは御二人で、私を御側近く御呼びよせなさりながら、今昔(こんじゃく)の移り変りを話せと申す御意もございました。確か、その時の事でございましょう。御簾(みす)のひまから見える御池の水に、さわやかな星の光が落ちて、まだ散り残った藤(ふじ)の(におい)がかすかに漂って来るような夜でございましたが、その涼しい夜気の中に、一人二人の女房を御侍(おはべ)らせになって、もの静に御酒盛をなすっていらっしゃる御二方の美しさは、まるで倭絵(やまとえ)の中からでも、抜け出していらしったようでございました。殊に白い単衣襲(ひとえがさね)に薄色の袿(うちぎ)を召した御姫様の清らかさは、おさおさあの赫夜姫(かぐやひめ)にも御劣りになりはしますまい。
その内に御酒機嫌(ごしゅきげん)の若殿様が、ふと御姫様の方へ御向いなさりながら、
「今も爺(じい)の申した通り、この狭い洛中でさえ、桑海(そうかい)の変(へん)は度々(たびたび)あった。世間一切の法はその通り絶えず生滅遷流(せいめつせんりゅう)して、刹那も住(じゅう)すと申す事はない。されば無常経(むじょうきょう)にも『未[四]曾有[三]一事不[レ]被[二]無常呑[一](いまだかつていちじのむじょうにのまれざるはあらず)』と説かせられた。恐らくはわれらが恋も、この掟ばかりは逃れられまい。ただいつ始まっていつ終るか、予が気がかりなのはそれだけじゃ。」と、冗談のように仰有(おっしゃ)いますと、御姫様はとんと拗(す)ねたように、大殿油(おおとのあぶら)の明るい光をわざと御避けになりながら、
「まあ、憎らしい事ばかり仰有(おっしゃ)います。ではもう始めから私(わたくし)を、御捨てになる御心算(おつもり)でございますか。」と、優しく若殿様を御睨(おにら)みなさいました。が、若殿様は益(ますます)御機嫌よく、御盃を御干しになって、
「いや、それよりも始めから、捨てられる心算(つもり)で居(お)ると申した方が、一層予の心もちにはふさわしいように思われる。」
「たんと御弄(おなぶ)り遊ばしまし。」
御姫様はこう仰有って、一度は愛くるしく御笑いになりましたが、急にまた御簾(みす)の外の夜色(やしょく)へ、うっとりと眼を御やりになって、
「一体世の中の恋と申すものは、皆そのように果(はか)ないものでございましょうか。」と独り語(ごと)のように仰有いました。すると若殿様はいつもの通り、美しい歯を見せて、御笑いになりながら、
「されば果(はか)なくないとも申されまいな。が、われら人間が万法(ばんぽう)の無常も忘れはてて、蓮華蔵(れんげぞう)世界の妙薬をしばらくしたりとも味わうのは、ただ、恋をしている間だけじゃ。いや、その間だけは恋の無常さえ忘れていると申してもよい。じゃによって予が眼からは恋慕三昧(れんぼざんまい)に日を送った業平(なりひら)こそ、天晴(あっぱれ)知識じゃ。われらも穢土(えど)の衆苦を去って、常寂光(じょうじゃっこう)の中に住(じゅう)そうには伊勢物語をそのままの恋をするよりほかはあるまい。何と御身(おみ)もそうは思われぬか。」と、横合いから御姫様の御顔を御覗きになりました。 
十九

 

「されば恋の功徳(くどく)こそ、千万無量とも申してよかろう。」
やがて若殿様は、恥しそうに御眼を御伏せになった御姫様から、私の方へ、陶然となすった御顔を御向けになって、
「何と、爺(じい)もそう思うであろうな。もっともその方には恋とは申さぬ。が、好物(こうぶつ)の酒ではどうじゃ。」
「いえ、却々(なかなか)持ちまして、手前は後生(ごしょう)が恐ろしゅうございます。」
私が白髪(しらが)を掻きながら、慌ててこう御答え申しますと、若殿様はまた晴々と御笑いになって、
「いや、その答えが何よりじゃ。爺は後生が恐ろしいと申すが、彼岸(ひがん)に往生しょうと思う心は、それを暗夜(あんや)の燈火(ともしび)とも頼んで、この世の無常を忘れようと思う心には変りはない。じゃによってその方も、釈教(しゃっきょう)と恋との相違こそあれ、所詮は予と同心に極(きわ)まったぞ。」
「これはまた滅相な。成程御姫様の御美しさは、伎芸天女(ぎげいてんにょ)も及ばぬほどではございますが、恋は恋、釈教は釈教、まして好物の御酒(ごしゅ)などと、一つ際(ぎわ)には申せませぬ。」
「そう思うのはその方の心が狭いからの事じゃ。弥陀(みだ)も女人(にょにん)も、予の前には、皆われらの悲しさを忘れさせる傀儡(くぐつ)の類いにほかならぬ。――」
こう若殿様が御云い張りになると、急に御姫様は偸(ぬす)むように、ちらりとその方を御覧になりながら、
「それでも女子(おなご)が傀儡では、嫌じゃと申しは致しませぬか。」と、小さな御声で仰有いました。
「傀儡(くぐつ)で悪くば、仏菩薩(ぶつぼさつ)とも申そうか。」
若殿様は勢いよく、こう返事をなさいましたが、ふと何か御思い出しなすったように、じっと大殿油(おおとのあぶら)の火影(ほかげ)を御覧になると、
「昔、あの菅原雅平(すがわらまさひら)と親(したし)ゅう交っていた頃にも、度々このような議論を闘わせた。御身も知って居(お)られようが、雅平(まさひら)は予と違って、一図に信を起し易い、云わば朴直な生れがらじゃ。されば予が世尊金口(せそんこんく)の御経(おんきょう)も、実は恋歌(こいか)と同様じゃと嘲笑(あざわら)う度に腹を立てて、煩悩外道(ぼんのうげどう)とは予が事じゃと、再々悪(あ)しざまに罵り居った。その声さえまだ耳にあるが、当の雅平は行方(ゆくえ)も知れぬ。」と、いつになく沈んだ御声でもの思わしげに御呟(おつぶや)きなさいました。するとその御容子(ごようす)にひき入れられたのか、しばらくの間は御姫様を始め、私までも口を噤(つぐ)んで、しんとした御部屋の中には藤の花の(におい)ばかりが、一段と高くなったように思われましたが、それを御座(おざ)が白けたとでも、思ったのでございましょう。女房たちの一人が恐る恐る、
「では、この頃洛中に流行(はや)ります摩利の教とやら申すのも、やはり無常を忘れさせる新しい方便なのでございましょう。」と、御話の楔(くさび)を入れますと、もう一人の女房も、
「そう申せばあの教を説いて歩きます沙門には、いろいろ怪しい評判があるようでございませんか。」と、さも気味悪そうに申しながら、大殿油(おおとのあぶら)の燈心をわざとらしく掻立(かきた)てました。 
二十

 

「何、摩利(まり)の教。それはまた珍しい教があるものじゃ。」
何か御考えに耽っていらしった若殿様は、思い出したように、御盃を御挙げになると、その女房の方を御覧になって、
「摩利と申すからは、摩利支天(まりしてん)を祭る教のようじゃな。」
「いえ、摩利支天ならよろしゅうございますが、その教の本尊は、見慣れぬ女菩薩(にょぼさつ)の姿じゃと申す事でございます。」
「では、波斯匿王(はしのくおう)の妃(きさい)の宮であった、茉利(まり)夫人の事でも申すと見える。」
そこで私は先日神泉苑の外(そと)で見かけました、摩利信乃法師(まりしのほうし)の振舞を逐一御話し申し上げてから、
「その女菩薩の姿では、茉利夫人とやらのようでもございませぬ。いや、それよりはこれまでのどの仏菩薩の御像(おすがた)にも似ていないのでございます。別してあの赤裸(あかはだか)の幼子(おさなご)を抱(いだ)いて居(お)るけうとさは、とんと人間の肉を食(は)む女夜叉(にょやしゃ)のようだとも申しましょうか。とにかく本朝には類(たぐい)のない、邪宗の仏(ほとけ)に相違ございますまい。」と、私の量見を言上致しますと、御姫様は美しい御眉(おんまゆ)をそっと御ひそめになりながら、
「そうしてその摩利信乃法師とやら申す男は、真実天狗の化身(けしん)のように見えたそうな。」と、念を押すように御尋ねなさいました。
「さようでございます。風俗はとんと火の燃える山の中からでも、翼に羽搏(はう)って出て来たようでございますが、よもやこの洛中に、白昼さような変化(へんげ)の物が出没致す事はございますまい。」
すると若殿様はまた元のように、冴々(さえざえ)した御笑声(おわらいごえ)で、
「いや、何とも申されぬ。現に延喜(えんぎ)の御門(みかど)の御代(みよ)には、五条あたりの柿の梢に、七日(なのか)の間天狗が御仏(みほとけ)の形となって、白毫光(びゃくごうこう)を放ったとある。また仏眼寺(ぶつげんじ)の仁照阿闍梨(にんしょうあざり)を日毎に凌(りょう)じに参ったのも、姿は女と見えたが実は天狗じゃ。」
「まあ、気味の悪い事を仰有(おっしゃ)います。」
御姫様は元より、二人の女房も、一度にこう云って、襲(かさね)の袖を合せましたが、若殿様は、愈御酒(いよいよごしゅ)機嫌の御顔を御和(おやわら)げになって、
「三千世界は元より広大無辺じゃ。僅ばかりの人間の智慧(ちえ)で、ないと申される事は一つもない。たとえばその沙門に化けた天狗が、この屋形の姫君に心を懸けて、ある夜ひそかに破風(はふ)の空から、爪だらけの手をさしのべようも、全くない事じゃとは誰も云えぬ。が、――」と仰有(おっしゃ)りながら、ほとんど色も御変りにならないばかり、恐ろしげに御寄りそいになった御姫様の袿(うちぎ)の背を、やさしく御さすりになりながら、
「が、まだその摩利信乃法師とやらは、幸(さいわ)い、姫君の姿さえ垣間見(かいまみ)た事もないであろう。まず、それまでは魔道の恋が、成就する気づかいはよもあるまい。さればもうそのように、怖がられずとも大丈夫じゃ。」と、まるで子供をあやすように、笑って御慰めなさいました。  
二十一

 

それから一月ばかりと申すものは、何事もなくすぎましたが、やがて夏も真盛りのある日の事、加茂川(かもがわ)の水が一段と眩(まばゆ)く日の光を照り返して、炎天の川筋には引き舟の往来(ゆきき)さえとぎれる頃でございます。ふだんから釣の好きな私の甥は、五条の橋の下へ参りまして、河原蓬(かわらよもぎ)の中に腰を下しながら、ここばかりは涼風(すずかぜ)の通うのを幸と、水嵩(みかさ)の減った川に糸を下して、頻(しきり)に鮠(はえ)を釣って居りました。すると丁度頭の上の欄干で、どうも聞いた事のあるような話し声が致しますから、何気なく上を眺めますと、そこにはあの平太夫(へいだゆう)が高扇(たかおうぎ)を使いながら、欄干に身をよせかけて、例の摩利信乃法師(まりしのほうし)と一しょに、余念なく何事か話して居(お)るではございませんか。
それを見ますと私の甥は、以前油小路(あぶらのこうじ)の辻で見かけた、摩利信乃法師の不思議な振舞がふと心に浮びました。そう云えばあの時も、どうやら二人の間には、曰(いわ)くがあったようでもある。――こう私の甥は思いましたから、眼は糸の方へやっていても、耳は橋の上の二人の話を、じっと聞き澄まして居りますと、向うは人通りもほとんど途絶えた、日盛りの寂しさに心を許したのでございましょう。私の甥の居(お)る事なぞには、更に気のつく容子(ようす)もなく、思いもよらない、大それた事を話し合って居(お)るのでございます。
「あなた様がこの摩利の教を御拡(おひろ)めになっていらっしゃろうなどとは、この広い洛中で誰一人存じて居(お)るものはございますまい。私(わたくし)でさえあなた様が御自分でそう仰有(おっしゃ)るまでは、どこかで御見かけ申したとは思いながら、とんと覚えがございませんでした。それもまた考えて見れば、もっともな次第でございます。いつぞやの春の月夜に桜人(さくらびと)の曲を御謡いになった、あの御年若なあなた様と、ただ今こうして炎天に裸で御歩きになっていらっしゃる、慮外ながら天狗のような、見るのも凄じいあなた様と、同じ方でいらっしゃろうとは、あの打伏(うちふし)の巫子(みこ)に聞いて見ても、わからないのに相違ございません。」
こう平太夫(へいだゆう)が口軽く、扇の音と一しょに申しますと、摩利信乃法師はまるでまた、どこの殿様かと疑われる、鷹揚(おうよう)な言(ことば)つきで、
「わしもその方に会ったのは何よりも満足じゃ。いつぞや油小路(あぶらのこうじ)の道祖(さえ)の神の祠(ほこら)の前でも、ちらと見かけた事があったが、その方は側目(わきめ)もふらず、文をつけた橘の枝を力なくかつぎながら、もの思わしげにたどたどと屋形の方へ歩いて参った。」
「さようでございますか。それはまた年甲斐もなく、失礼な事を致したものでございます。」
平太夫はあの朝の事を思い出したのでございましょう。苦々しげにこう申しましたが、やがて勢いの好(よ)い扇の音が、再びはたはたと致しますと、
「しかしこうして今日(こんにち)御眼にかかれたのは、全く清水寺(きよみずでら)の観世音菩薩の御利益(ごりやく)ででもございましょう。平太夫一生の内に、これほど嬉しい事はございません。」
「いや、予が前で神仏(しんぶつ)の名は申すまい。不肖(ふしょう)ながら、予は天上皇帝の神勅を蒙って、わが日の本に摩利(まり)の教を布(し)こうと致す沙門の身じゃ。」  
二十二

 

急に眉をひそめたらしいけはいで、こう摩利信乃法師(まりしのほうし)が言(ことば)を挟みましたが、存外平太夫(へいだゆう)は恐れ入った気色(けしき)もなく、扇と舌と同じように働かせながら、
「成程さようでございましたな。平太夫も近頃はめっきり老耄(おいぼ)れたと見えまして、する事為す事ことごとく落度(おちど)ばかりでございます。いや、そう云う次第ならもうあなた様の御前(おまえ)では、二度と神仏の御名(みな)は口に致しますまい。もっとも日頃はこの老爺(おやじ)も、余り信心気(しんじんぎ)などと申すものがある方ではございません。それをただ今急に、観世音菩薩などと述べ立てましたのは、全く久しぶりで御目にかかったのが、嬉しかったからでございます。そう申せば姫君も、幼馴染のあなた様が御(ご)無事でいらっしゃると御聞きになったら、どんなにか御喜びになる事でございましょう。」と、ふだん私どもに向っては、返事をするのも面倒そうな、口の重い容子(ようす)とは打って変って、勢いよく、弁じ立てました。これにはあの摩利信乃法師も、返事のしようさえなさそうにしばらくはただ、頷(うなず)いてばかりいるようでございましたが、やがてその姫君と云う言(ことば)を機会(しお)に、
「さてその姫君についてじゃが、予は聊(いささ)か密々に御意(ぎょい)得たい仔細(しさい)がある。」と、云って、一段とまた声をひそめながら、
「何と平太夫、その方の力で夜分なりと、御目にかからせてはくれまいか。」
するとこの時橋の上では、急に扇の音が止んでしまいました。それと同時に私の甥は、危く欄干の方を見上げようと致しましたが、元より迂闊(うかつ)な振舞をしては、ここに潜んでいる事が見露(みあらわ)されないものでもございません。そこでやはり河原蓬(かわらよもぎ)の中を流れて行く水の面(おもて)を眺めたまま、息もつかずに上の容子へ気をくばって居りました。が、平太夫は今までの元気に引き換えて、容易に口を開きません。その間の長さと申しましたら、橋の下の私の甥(おい)には、体中の筋骨(すじぼね)が妙にむず痒(がゆ)くなったくらい、待ち遠しかったそうでございます。
「たとい河原とは申しながら、予も洛中に住まうものじゃ。堀川の殿がこの日頃、姫君のもとへしげしげと、通わるる趣も知っては居(お)る。――」
やがてまた摩利信乃法師は、相不変(あいかわらず)もの静かな声で、独り言のように言(ことば)を継(つ)ぐと、
「が、予は姫君が恋しゅうて、御意(ぎょい)得たいと申すのではない。予の業欲(ごうよく)に憧るる心は、一度唐土(ひとたびもろこし)にさすらって、紅毛碧眼の胡僧(こそう)の口から、天上皇帝の御教(みおしえ)を聴聞(ちょうもん)すると共に、滅びてしもうた。ただ、予が胸を痛めるのは、あの玉のような姫君も、この天地(あめつち)を造らせ給うた天上皇帝を知られぬ事じゃ。されば、神と云い仏(ほとけ)と云う天魔外道(てんまげどう)の類(たぐい)を信仰せられて、その形になぞらえた木石にも香花(こうげ)を供えられる。かくてはやがて命終(めいしゅう)の期(ご)に臨んで、永劫(えいごう)消えぬ地獄の火に焼かれ給うに相違ない。予はその事を思う度に、阿鼻大城(あびたいじょう)の暗の底へ逆落しに落ちさせらるる、あえかな姫君の姿さえありありと眼に浮んで来るのじゃ。現に昨夜(ゆうべ)も。――」
こう云いかけて、あの沙門はさも感慨に堪えないらしく、次第に力の籠って来た口をしばらくの間とざしました。 
二十三

 

「昨晩(ゆうべ)、何かあったのでございますか。」
ほど経て平太夫(へいだゆう)が、心配そうに、こう相手の言(ことば)を促しますと、摩利信乃法師(まりしのほうし)はふと我に返ったように、また元の静な声で、一言(ひとこと)毎に間を置きながら、
「いや、何もあったと申すほどの仔細はない。が、予は昨夜(ゆうべ)もあの菰(こも)だれの中で、独りうとうとと眠って居(お)ると、柳の五つ衣(ぎぬ)を着た姫君の姿が、夢に予の枕もとへ歩みよられた。ただ、現(うつつ)と異ったは、日頃つややかな黒髪が、朦朧と煙(けぶ)った中に、黄金(こがね)の釵子(さいし)が怪しげな光を放って居っただけじゃ。予は絶えて久しい対面の嬉しさに、『ようこそ見えられた』と声をかけたが、姫君は悲しげな眼を伏せて、予の前に坐られたまま、答えさえせらるる気色(けしき)はない。と思えば紅(くれない)の袴の裾に、何やら蠢(うごめ)いているものの姿が見えた。それが袴の裾ばかりか、よう見るに従って、肩にも居(お)れば、胸にも居る。中には黒髪の中にいて、えせ笑うらしいものもあった。――」
「と仰有っただけでは解(げ)せませんが、一体何が居ったのでございます。」
この時は平太夫も、思わず知らず沙門(しゃもん)の調子に釣り込まれてしまったのでございましょう。こう尋ねました声ざまには、もうさっきの気負った勢いも聞えなくなって居りました。が、摩利信乃法師は、やはりもの思わしげな口ぶりで、
「何が居ったと申す事は、予自身にもしかとはわからぬ。予はただ、水子(みずご)ほどの怪しげなものが、幾つとなく群って、姫君の身のまわりに蠢(うごめ)いているのを眺めただけじゃ。が、それを見ると共に、夢の中ながら予は悲しゅうなって、声を惜まず泣き叫んだ。姫君も予の泣くのを見て、頻(しきり)に涙を流される。それが久しい間続いたと思うたが、やがて、どこやらで鶏(とり)が啼いて、予の夢はそれぎり覚めてしもうた。」
摩利信乃法師がこう語り終りますと、今度は平太夫も口を噤(つぐ)んで、一しきりやめていた扇をまたも使い出しました。私の甥はその間中鉤(はり)にかかった鮠(はえ)も忘れるくらい、聞き耳を立てて居りましたが、この夢の話を聞いている中は、橋の下の涼しさが、何となく肌身にしみて、そう云う御姫様の悲しい御姿を、自分もいつか朧げに見た事があるような、不思議な気が致したそうでございます。
その内に橋の上では、また摩利信乃法師の沈んだ声がして、
「予はその怪しげなものを妖魔(ようま)じゃと思う。されば天上皇帝は、堕獄の業(ごう)を負わせられた姫君を憐れと見そなわして、予に教化(きょうげ)を施せと霊夢を賜ったのに相違ない。予がその方の力を藉りて、姫君に御意得たいと申すのは、こう云う仔細があるからじゃ。何と予が頼みを聞き入れてはくれまいか。」
それでもなお、平太夫はしばらくためらっていたようでございますが、やがて扇をつぼめたと思うと、それで欄干を丁(ちょう)と打ちながら、
「よろしゅうございます。この平太夫はいつぞや清水(きよみず)の阪の下で、辻冠者(つじかんじゃ)ばらと刃傷(にんじょう)を致しました時、すんでに命も取られる所を、あなた様の御かげによって、落ち延びる事が出来ました。その御恩を思いますと、あなた様の仰有(おっしゃ)る事に、いやと申せた義理ではございません。摩利(まり)の教とやらに御帰依なさるか、なさらないか、それは姫君の御意次第でございますが、久しぶりであなた様の御目にかかると申す事は、姫君も御嫌(おいや)ではございますまい。とにかく私の力の及ぶ限り、御対面だけはなされるように御取り計らい申しましょう。」  
二十四

 

その密談の仔細を甥の口から私が詳しく聞きましたのは、それから三四日たったある朝の事でございます。日頃は人の多い御屋形の侍所(さむらいどころ)も、その時は私共二人だけで、眩(まば)ゆく朝日のさした植込みの梅の青葉の間からは、それでも涼しいそよ風が、そろそろ動こうとする秋の心もちを時々吹いて参りました。
私の甥はその話を終ってから、一段と声をひそめますと、
「一体あの摩利信乃法師(まりしのほうし)と云う男が、どうして姫君を知って居(お)るのだか、それは元より私にも不思議と申すほかはありませんが、とにかくあの沙門(しゃもん)が姫君の御意を得るような事でもあると、どうもこの御屋形の殿様の御身の上には、思いもよらない凶変でも起りそうな不吉な気がするのです。が、このような事は殿様に申上げても、あの通りの御気象ですから、決して御取り上げにはならないのに相違ありません。そこで、私は私の一存で、あの沙門を姫君の御目にかかれないようにしようと思うのですが、叔父さんの御考えはどういうものでしょう。」
「それはわしも、あの怪しげな天狗法師などに姫君の御顔を拝ませたく無い。が、御主(おぬし)もわしも、殿様の御用を欠かぬ限りは、西洞院(にしのとういん)の御屋形の警護ばかりして居(お)る訳にも行かぬ筈じゃ。されば御主はあの沙門を、姫君の御身のまわりに、近づけぬと云うたにした所で。――」
「さあ。そこです。姫君の思召しも私共には分りませんし、その上あすこには平太夫(へいだゆう)と云う老爺(おやじ)も居りますから、摩利信乃法師が西洞院の御屋形に立寄るのは、迂闊(うかつ)に邪魔も出来ません。が、四条河原の蓆張(むしろば)りの小屋ならば、毎晩きっとあの沙門が寝泊りする所ですから、随分こちらの思案次第で、二度とあの沙門が洛中(らくちゅう)へ出て来ないようにすることも出来そうなものだと思うのです。」
「と云うて、あの小屋で見張りをしてる訳にも行くまい。御主(おぬし)の申す事は、何やら謎めいた所があって、わしのような年寄りには、十分に解(げ)し兼ねるが、一体御主はあの摩利信乃法師をどうしようと云う心算(つもり)なのじゃ。」
私が不審(ふしん)そうにこう尋ねますと、私の甥はあたかも他聞を憚(はばか)るように、梅の青葉の影がさして居る部屋の前後へ目をくばりながら、私の耳へ口を附けて、
「どうすると云うて、ほかに仕方のある筈がありません。夜更けにでも、そっと四条河原へ忍んで行って、あの沙門の息の根を止めてしまうばかりです。」
これにはさすがの私もしばらくの間は呆れ果てて、二の句をつぐ事さえ忘れて居りましたが、甥は若い者らしい、一図に思いつめた調子で、
「何、高があの通りの乞食(こつじき)法師です。たとい加勢の二三人はあろうとも、仕止めるのに造作(ぞうさ)はありますまい。」
「が、それはどうもちと無法なようじゃ。成程あの摩利信乃法師は邪宗門(じゃしゅうもん)を拡めては歩いて居ようが、そのほかには何一つ罪らしい罪も犯して居らぬ。さればあの沙門を殺すのは、云わば無辜(むこ)を殺すとでも申そう。――」
「いや、理窟はどうでもつくものです。それよりももしあの沙門が、例の天上皇帝の力か何か藉(か)りて、殿様や姫君を呪(のろ)うような事があったとして御覧なさい。叔父さん始め私まで、こうして禄を頂いている甲斐がないじゃありませんか。」
私の甥は顔を火照(ほて)らせながら、どこまでもこう弁じつづけて、私などの申す事には、とんと耳を藉しそうな気色(けしき)さえもございません。――すると丁度そこへほかの侍たちが、扇の音をさせながら、二三人はいって参りましたので、とうとうこの話もその場限り、御流(おながれ)になってしまいました。 
二十五

 

それからまた、三四日はすぎたように覚えて居ります。ある星月夜(ほしづくよ)の事でございましたが、私は甥(おい)と一しょに更闌(こうた)けてから四条河原へそっと忍んで参りました。その時でさえまだ私には、あの天狗法師を殺そうと云う心算(つもり)もなし、また殺す方がよいと云う気もあった訳ではございません。が、どうしても甥が初の目ろみを捨てないのと、甥を一人やる事がなぜか妙に気がかりだったのとで、とうとう私までが年甲斐もなく、河原蓬(かわらよもぎ)の露に濡れながら、摩利信乃法師(まりしのほうし)の住む小屋を目がけて、窺(うかが)いよることになったのでございます。
御承知の通りあの河原には、見苦しい非人(ひにん)小屋が、何軒となく立ち並んで居りますが、今はもうここに多い白癩(びゃくらい)の乞食(こつじき)たちも、私などが思いもつかない、怪しげな夢をむすびながら、ぐっすり睡入(ねい)って居(お)るのでございましょう。私と甥とが足音を偸(ぬす)み偸み、静にその小屋の前を通りぬけました時も、蓆壁(むしろかべ)の後(うしろ)にはただ、高鼾(たかいびき)の声が聞えるばかり、どこもかしこもひっそりと静まり返って、たった一所(ひとところ)焚き残してある芥火(あくたび)さえ、風もないのか夜空へ白く、まっすぐな煙(けぶり)をあげて居ります。殊にその煙の末が、所斑(ところはだら)な天の川と一つでいるのを眺めますと、どうやら数え切れない星屑が、洛中の天を傾けて、一尺ずつ一寸ずつ、辷る音まではっきりと聞きとれそうに思われました。
その中に私の甥は、兼ねて目星をつけて置いたのでございましょう、加茂川(かもがわ)の細い流れに臨んでいる、菰(こも)だれの小屋の一つを指さしますと、河原蓬の中に立ったまま、私の方をふり向きまして、「あれです。」と、一言(ひとこと)申しました。折からあの焚き捨てた芥火(あくたび)が、まだ焔の舌を吐いているそのかすかな光に透かして見ますと、小屋はどれよりも小さいくらいで、竹の柱も古蓆(ふるむしろ)の屋根も隣近所と変りはございませんが、それでもその屋根の上には、木の枝を組んだ十文字の標(しるし)が、夜目にもいかめしく立って居ります。
「あれか。」
私は覚束(おぼつか)ない声を出して、何と云う事もなくこう問い返しました。実際その時の私には、まだ摩利信乃法師を殺そうとも、殺すまいとも、はっきりした決断がつかずにいたのでございます。が、そう云う内にも私の甥が、今度はふり向くらしい容子(ようす)もなく、じっとその小屋を見守りながら、
「そうです。」と、素っ気なく答える声を聞きますと、愈太刀(いよいよたち)へ血をあやす時が来たと云う、何とも云いようのない心もちで、思わず総身がわななきました。すると甥は早くも身仕度を整えたものと見えて、太刀の目釘を叮嚀に潤(しめ)しますと、まるで私には目もくれず、そっと河原を踏み分けながら、餌食(えじき)を覗う蜘蛛(くも)のように、音もなく小屋の外へ忍びよりました。いや全く芥火の朧げな光のさした、蓆壁にぴったり体をよせて、内のけはいを窺っている私の甥の後姿は、何となく大きな蜘蛛のような気味の悪いものに見えたのでございます。  
二十六

 

が、こう云う場合に立ち至ったからは、元よりこちらも手を束(つか)ねて、見て居(お)る訳には参りません。そこで水干(すいかん)の袖を後で結ぶと、甥の後(うしろ)から私も、小屋の外へ窺(うかが)いよって、蓆の隙から中の容子を、じっと覗きこみました。
するとまず、眼に映ったのは、あの旗竿に掲げて歩く女菩薩(にょぼさつ)の画像(えすがた)でございます。それが今は、向うの蓆壁にかけられて、形ははっきりと見えませんが、入口の菰(こも)を洩れる芥火(あくたび)の光をうけて、美しい金の光輪ばかりが、まるで月蝕(げっしょく)か何かのように、ほんのり燦(きら)めいて居りました。またその前に横になって居りますのは、昼の疲れに前後を忘れた摩利信乃法師(まりしのほうし)でございましょう。それからその寝姿を半蔽(なかばおお)っている、着物らしいものが見えましたが、これは芥火に反(そむ)いているので、噂に聞く天狗の翼だか、それとも天竺(てんじく)にあると云う火鼠(ひねずみ)の裘(けごろも)だかわかりません。――
この容子を見た私どもは、云わず語らず両方から沙門(しゃもん)の小屋を取囲んで、そっと太刀の鞘(さや)を払いました。が、私は初めからどうも妙な気おくれが致していたからでございましょう。その拍子に手もとが狂って、思わず鋭い鍔音(つばおと)を響かせてしまったのではございませんか。すると私が心の中で、はっと思う暇(いとま)さえなく、今まで息もしなかった菰だれの向うの摩利信乃法師が、たちまち身を起したらしいけはいを見せて、
「誰じゃ。」と、一声咎(とが)めました。もうこうなっては、甥を始め、私までも騎虎(きこ)の勢いで、どうしてもあの沙門を、殺すよりほかはございません。そこでその声がするや否や、前と後と一斉に、ものも云わずに白刃(しらは)をかざして、いきなり小屋の中へつきこみました。その白刃の触れ合う音、竹の柱の折れる音、蓆壁の裂け飛ぶ音、――そう云う物音が凄じく、一度に致したと思いますと、矢庭に甥が、二足三足後(うしろ)の方へ飛びすさって、「おのれ、逃がしてたまろうか。」と、太刀をまっこうにふりかざしながら、苦しそうな声でおめきました。その声に驚いて私も素早く跳(は)ねのきながら、まだ燃えている芥火の光にきっと向うを透かして見ますと、まあ、どうでございましょう。粉微塵になった小屋の前には、あの無気味な摩利信乃法師が、薄色の袿(うちぎ)を肩にかけて、まるで猿(ましら)のように身をかがめながら、例の十文字の護符(ごふ)を額にあてて、じっと私どもの振舞を窺っているのでございます。これを見た私は、元よりすぐにも一刀浴びせようとあせりましたが、どう云うものか、あの沙門(しゃもん)の身をかがめたまわりには、自然と闇が濃くなるようで、容易に飛びかかる隙(すき)がございません。あるいはその闇の中に、何やら目に見えぬものが渦巻くようで、太刀の狙(ねら)いが定まらなかったとも申しましょうか。これは甥も同じ思いだったものと見えて、時々喘(あえ)ぐように叫びますが、白刃はいつまでもその頭(かしら)の上に目まぐるしくくるくると輪ばかり描(か)いて居りました。  
二十七

 

その中に摩利信乃法師(まりしのほうし)は、徐(おもむろ)に身を起しますと、十文字の護符を左右にふり立てながら、嵐の叫ぶような凄い声で、
「やい。おのれらは勿体(もったい)なくも、天上皇帝の御威徳を蔑(ないがしろ)に致す心得か。この摩利信乃法師が一身は、おのれらの曇った眼には、ただ、墨染の法衣(ころも)のほかに蔽うものもないようじゃが、真(まこと)は諸天童子の数を尽して、百万の天軍が守って居(お)るぞよ。ならば手柄(てがら)にその白刃(しらは)をふりかざして、法師の後(うしろ)に従うた聖衆(しょうじゅ)の車馬剣戟と力を競うて見るがよいわ。」と、末は嘲笑(あざわら)うように罵りました。
元よりこう嚇(おど)されても、それに悸毛(おぞけ)を震う様な私どもではございません。甥と私とはこれを聞くと、まるで綱を放れた牛のように、両方からあの沙門を目蒐(めが)けて斬ってかかりました。いや、将(まさ)に斬ってかかろうとしたとでも申しましょうか。と申しますのは、私どもが太刀をふりかぶった刹那に、摩利信乃法師が十文字の護符を、一しきりまた頭(かしら)の上で、振りまわしたと思いますと、その護符の金色(こんじき)が、稲妻のように宙へ飛んで、たちまち私どもの眼の前へは、恐ろしい幻が現れたのでございます。ああ、あの恐しい幻は、どうして私などの口の先で、御話し申す事が出来ましょう。もし出来たと致しましても、それは恐らく麒麟(きりん)の代りに、馬を指(さ)して見せると大した違いはございますまい。が、出来ないながら申上げますと、最初あの護符が空へあがった拍子に、私は河原の闇が、突然摩利信乃法師の後だけ、裂け飛んだように思いました。するとその闇の破れた所には、数限りもない焔(ほのお)の馬や焔の車が、竜蛇のような怪しい姿と一しょに、雨より急な火花を散らしながら、今にも私共の頭上をさして落ちかかるかと思うばかり、天に溢れてありありと浮び上ったのでございます。と思うとまた、その中に旗のようなものや、剣(つるぎ)のようなものも、何千何百となく燦(きらめ)いて、そこからまるで大風(おおかぜ)の海のような、凄じいもの音が、河原の石さえ走らせそうに、どっと沸(わ)き返って参りました。それを後に背負いながら、やはり薄色の袿(うちぎ)を肩にかけて、十文字の護符をかざしたまま、厳(おごそか)に立っているあの沙門(しゃもん)の異様な姿は、全くどこかの大天狗が、地獄の底から魔軍を率いて、この河原のただ中へ天下(あまくだ)ったようだとでも申しましょうか。――
私どもは余りの不思議に、思わず太刀を落すや否や、頭(かしら)を抱えて右左へ、一たまりもなくひれ伏してしまいました。するとその頭(かしら)の空に、摩利信乃法師の罵る声が、またいかめしく響き渡って、
「命が惜しくば、その方どもも天上皇帝に御詫(おわび)申せ。さもない時は立ちどころに、護法百万の聖衆(しょうじゅ)たちは、その方どもの臭骸(しゅうがい)を段々壊(だんだんえ)に致そうぞよ。」と、雷(いかずち)のように呼(よば)わります。その恐ろしさ、物凄さと申しましたら、今になって考えましても、身ぶるいが出ずには居(お)られません。そこで私もとうとう我慢が出来なくなって、合掌した手をさし上げながら、眼をつぶって恐る恐る、「南無(なむ)天上皇帝」と称(とな)えました。  
二十八

 

それから先の事は、申し上げるのさえ、御恥しいくらいでございますから、なる可く手短に御話し致しましょう。私共が天上皇帝を祈りましたせいか、あの恐ろしい幻は間もなく消えてしまいましたが、その代り太刀音を聞いて起て来た非人(ひにん)たちが、四方から私どもをとり囲みました。それがまた、大抵(たいてい)は摩利(まり)の教の信者たちでございますから、私どもが太刀を捨ててしまったのを幸に、いざと云えば手ごめにでもし兼ねない勢いで、口々に凄じく罵り騒ぎながら、まるで穽(わな)にかかった狐(きつね)でも見るように、男も女も折り重なって、憎さげに顔を覗きこもうとするのでございます。その何人とも知れない白癩(びゃくらい)どもの面(おもて)が、新に燃え上った芥火(あくたび)の光を浴びて、星月夜(ほしづくよ)も見えないほど、前後左右から頸(うなじ)をのばした気味悪さは、到底この世のものとは思われません。
が、その中でもさすがに摩利信乃法師(まりしのほうし)は、徐(おもむろ)に哮(たけ)り立つ非人たちを宥(なだ)めますと、例の怪しげな微笑を浮べながら、私どもの前へ進み出まして、天上皇帝の御威徳の難有(ありがた)い本末(もとすえ)を懇々と説いて聴かせました。が、その間も私の気になって仕方がなかったのは、あの沙門の肩にかかっている、美しい薄色の袿(うちぎ)の事でございます。元より薄色の袿と申しましても、世間に類(たぐい)の多いものではございますが、もしやあれは中御門(なかみかど)の姫君の御召し物ではございますまいか。万一そうだと致しましたら、姫君はもういつの間にか、あの沙門(しゃもん)と御対面になったのでございましょうし、あるいはその上に摩利(まり)の教も、御帰依なすってしまわないとは限りません。こう思いますと私は、おちおち相手の申します事も、耳にはいらないくらいでございましたが、うっかりそんな素振(そぶり)を見せましては、またどんな恐ろしい目に遇わされないものでもございますまい。しかも摩利信乃法師の容子(ようす)では、私どももただ、神仏を蔑(なみ)されるのが口惜(くちお)しいので、闇討をしかけたものだと思ったのでございましょう。幸い、堀川の若殿様に御仕え申している事なぞは、気のつかないように見えましたから、あの薄色の袿(うちぎ)にも、なるべく眼をやらないようにして、河原の砂の上に坐ったまま、わざと神妙にあの沙門の申す事を聴いて居(お)るらしく装いました。
するとそれが先方には、いかにも殊勝(しゅしょう)げに見えたのでございましょう。一通り談義めいた事を説いて聴かせますと、摩利信乃法師は顔色を和(やわら)げながら、あの十文字の護符を私どもの上にさしかざして、
「その方どもの罪業(ざいごう)は無知蒙昧(もうまい)の然らしめた所じゃによって、天上皇帝も格別の御宥免(ごゆうめん)を賜わせらるるに相違あるまい。さればわしもこの上なお、叱り懲(こら)そうとは思うて居ぬ。やがてはまた、今夜の闇討が縁となって、その方どもが摩利の御教(みおしえ)に帰依し奉る時も参るであろう。じゃによってその時が参るまでは、一先(ひとまず)この場を退散致したが好(よ)い。」と、もの優しく申してくれました。もっともその時でさえ、非人たちは、今にも掴みかかりそうな、凄じい気色を見せて居りましたが、これもあの沙門の鶴の一声で、素直に私どもの帰る路を開いてくれたのでございます。
そこで私と甥とは、太刀を鞘におさめる間(ま)も惜しいように、梶X(そうそう)四条河原から逃げ出しました。その時の私の心もちと申しましたら、嬉しいとも、悲しいとも、乃至(ないし)はまた残念だとも、何ともお話しの致しようがございません。でございますから河原が遠くなって、ただ、あの芥火の赤く揺(ゆら)めくまわりに、白癩どもが蟻(あり)のように集って、何やら怪しげな歌を唄って居りますのが、かすかに耳へはいりました時も、私どもは互の顔さえ見ずに、黙って吐息(といき)ばかりつきながら、歩いて行ったものでございます。  
二十九

 

それ以来私どもは、よるとさわると、額を鳩(あつ)めて、摩利信乃法師(まりしのほうし)と中御門(なかみかど)の姫君とのいきさつを互に推量し合いながら、どうかしてあの天狗法師を遠ざけたいと、いろいろ評議を致しましたが、さて例の恐ろしい幻の事を思い出しますと、容易に名案も浮びません。もっとも甥(おい)の方は私より若いだけに、まだ執念深く初一念を捨てないで、場合によったら平太夫(へいだゆう)のしたように、辻冠者どもでも駆り集めたら、もう一度四条河原の小屋を劫(おびやか)そうくらいな考えがあるようでございました。所がその中に、思いもよらず、また私どもは摩利信乃法師の神変不思議な法力(ほうりき)に、驚くような事が出来たのでございます。
それはもう秋風の立ち始めました頃、長尾(ながお)の律師様(りっしさま)が嵯峨(さが)に阿弥陀堂(あみだどう)を御建てになって、その供養(くよう)をなすった時の事でございます。その御堂(みどう)も只今は焼けてございませんが、何しろ国々の良材を御集めになった上に、高名(こうみょう)な匠(たくみ)たちばかり御召しになって、莫大(ばくだい)な黄金(こがね)も御かまいなく、御造りになったものでございますから、御規模こそさのみ大きくなくっても、その荘厳を極めて居りました事は、ほぼ御推察が参るでございましょう。
別してその御堂供養(みどうくよう)の当日は、上達部殿上人(かんだちめてんじょうびと)は申すまでもなく、女房たちの参ったのも数限りないほどでございましたから、東西の廊に寄せてあるさまざまの車と申し、その廊廊の桟敷(さじき)をめぐった、錦の縁(へり)のある御簾(みす)と申し、あるいはまた御簾際になまめかしくうち出した、萩(はぎ)、桔梗(ききょう)、女郎花(おみなえし)などの褄(つま)や袖口の彩りと申し、うららかな日の光を浴びた、境内(けいだい)一面の美しさは、目(ま)のあたりに蓮華宝土(れんげほうど)の景色を見るようでございました。それから、廊に囲まれた御庭の池にはすきまもなく、紅蓮白蓮(ぐれんびゃくれん)の造り花が簇々(ぞくぞく)と咲きならんで、その間を竜舟(りゅうしゅう)が一艘(いっそう)、錦の平張(ひらば)りを打ちわたして、蛮絵(ばんえ)を着た童部(わらべ)たちに画棹(がとう)の水を切らせながら、微妙な楽の音(ね)を漂わせて、悠々と動いて居りましたのも、涙の出るほど尊げに拝まれたものでございます。
まして正面を眺めますと、御堂(みどう)の犬防(いぬふせ)ぎが燦々と螺鈿(らでん)を光らせている後には、名香の煙(けぶり)のたなびく中に、御本尊の如来を始め、勢至観音(せいしかんのん)などの御(おん)姿が、紫磨黄金(しまおうごん)の御(おん)顔や玉の瓔珞(ようらく)を仄々(ほのぼの)と、御現しになっている難有(ありがた)さは、また一層でございました。その御仏(みほとけ)の前の庭には、礼盤(らいばん)を中に挟(はさ)みながら、見るも眩(まばゆ)い宝蓋の下に、講師読師(とくし)の高座がございましたが、供養(くよう)の式に連っている何十人かの僧どもも、法衣(ころも)や袈裟(けさ)の青や赤がいかにも美々しく入り交って、経を読む声、鈴(れい)を振る音、あるいは栴檀沈水(せんだんちんすい)の香(かおり)などが、その中から絶え間なく晴れ渡った秋の空へ、うらうらと昇って参ります。
するとその供養のまっ最中、四方の御門の外に群って、一目でも中の御容子(ごようす)を拝もうとしている人々が、俄(にわか)に何事が起ったのか、見る見るどっとどよみ立って、まるで風の吹き出した海のように、押しつ押されつし始めました。  
三十

 

この騒ぎを見た看督長(かどのおさ)は、早速そこへ駈けつけて、高々と弓をふりかざしながら、御門(ごもん)の中(うち)へ乱れ入った人々を、打ち鎮めようと致しました。が、その人波の中を分けて、異様な風俗の沙門(しゃもん)が一人、姿を現したと思いますと、看督長はたちまち弓をすてて、往来の遮(さまたげ)をするどころか、そのままそこへひれ伏しながら、まるで帝(みかど)の御出ましを御拝み申す時のように、礼を致したではございませんか。外の騒動に気をとられて、一しきりざわめき立った御門の中が、急にひっそりと静まりますと、また「摩利信乃法師(まりしのほうし)、摩利信乃法師」と云う囁き声が、丁度蘆(あし)の葉に渡る風のように、どこからともなく起ったのは、この時の事でございます。
摩利信乃法師は、今日も例の通り、墨染の法衣(ころも)の肩へ長い髪を乱しながら、十文字の護符の黄金(こがね)を胸のあたりに燦(きらめ)かせて、足さえ見るも寒そうな素跣足(すはだし)でございました。その後(うしろ)にはいつもの女菩薩(にょぼさつ)の幢(はた)が、秋の日の光の中にいかめしく掲げられて居りましたが、これは誰か供のものが、さしかざしてでもいたのでございましょう。
「方々(かたがた)にもの申そう。これは天上皇帝の神勅を賜わって、わが日の本に摩利の教を布(し)こうずる摩利信乃法師と申すものじゃ。」
あの沙門は悠々と看督長(かどのおさ)の拝に答えてから、砂を敷いた御庭の中へ、恐れげもなく進み出て、こう厳(おごそか)な声で申しました。それを聞くと御門の中は、またざわめきたちましたが、さすがに検非違使(けびいし)たちばかりは、思いもかけない椿事(ちんじ)に驚きながらも、役目は忘れなかったのでございましょう。火長(かちょう)と見えるものが二三人、手に手を得物提(えものひっさ)げて、声高(こわだか)に狼藉(ろうぜき)を咎めながら、あの沙門へ走りかかりますと、矢庭に四方から飛びかかって、搦(から)め取ろうと致しました。が、摩利信乃法師は憎さげに、火長たちを見やりながら、
「打たば打て。取らば取れ。但(ただし)、天上皇帝の御罰は立ち所に下ろうぞよ。」と、嘲笑(あざわら)うような声を出しますと、その時胸に下っていた十文字の護符が日を受けて、眩(まぶし)くきらりと光ると同時に、なぜか相手は得物を捨てて、昼雷(ひるかみなり)にでも打たれたかと思うばかり、あの沙門の足もとへ、転(まろ)び倒れてしまいました。
「如何に方々。天上皇帝の御威徳は、ただ今目(ま)のあたりに見られた如くじゃ。」
摩利信乃法師は胸の護符を外して、東西の廊へ代る代る、誇らしげにさしかざしながら、
「元よりかような霊験(れいげん)は不思議もない。そもそも天上皇帝とは、この天地(あめつち)を造らせ給うた、唯一不二(ゆいいつふじ)の大御神(おおみかみ)じゃ。この大御神を知らねばこそ、方々はかくも信心の誠を尽して、阿弥陀如来なんぞと申す妖魔(ようま)の類(たぐい)を事々しく、供養せらるるげに思われた。」
この暴言にたまり兼ねたのでございましょう。さっきから誦経(ずきょう)を止めて、茫然と事の次第を眺めていた僧たちは、俄(にわか)にどよめきを挙げながら、「打ち殺せ」とか「搦(から)め取れ」とかしきりに罵り立てましたが、さて誰一人として席を離れて、摩利信乃法師を懲(こら)そうと致すものはございません。 
三十一

 

すると摩利信乃法師(まりしのほうし)は傲然と、その僧たちの方を睨(ね)めまわして、
「過てるを知って憚(はばか)る事勿(ことなか)れとは、唐国(からくに)の聖人も申された。一旦、仏菩薩の妖魔たる事を知られたら、梶X(そうそう)摩利の教に帰依あって、天上皇帝の御威徳を讃(たた)え奉るに若(し)くはない。またもし、摩利信乃法師の申し条に疑いあって、仏菩薩が妖魔か、天上皇帝が邪神か、決定(けつじょう)致し兼ぬるとあるならば、いかようにも法力(ほうりき)を較(くら)べ合せて、いずれが正法(しょうぼう)か弁別申そう。」と、声も荒らかに呼ばわりました。
が、何しろただ今も、検非違使(けびいし)たちが目(ま)のあたりに、気を失って倒れたのを見て居(お)るのでございますから、御簾(みす)の内も御簾の外も、水を打ったように声を呑んで、僧俗ともに誰一人、進んであの沙門の法力を試みようと致すものは見えません。所詮は長尾(ながお)の僧都(そうず)は申すまでもなく、その日御見えになっていらしった山の座主(ざす)や仁和寺(にんなじ)の僧正(そうじょう)も、現人神(あらひとがみ)のような摩利信乃法師に、胆(きも)を御挫(くじ)かれになったのでございましょう。供養の庭はしばらくの間、竜舟(りゅうしゅう)の音楽も声を絶って、造り花の蓮華にふる日の光の音さえ聞えたくらい、しんと静まり返ってしまいました。
沙門はそれにまた一層力を得たのでございましょう。例の十文字の護符をさしかざして、天狗(てんぐ)のように嘲笑(あざわら)いますと、
「これはまた笑止千万な。南都北嶺とやらの聖(ひじり)僧たちも少からぬように見うけたが、一人(ひとり)としてこの摩利信乃法師と法力を較べようずものも現れぬは、さては天上皇帝を始め奉り、諸天童子の御神光(ごしんこう)に恐れをなして、貴賤老若(ろうにゃく)の嫌いなく、吾が摩利の法門に帰依し奉ったものと見える。さらば此場において、先ず山の座主(ざす)から一人一人灌頂(かんちょう)の儀式を行うてとらせようか。」と、威丈高(いたけだか)に罵りました。
所がその声がまだ終らない中に、西の廊からただ一人、悠然と庭へ御下りになった、尊げな御僧(ごそう)がございます。金襴(きんらん)の袈裟(けさ)、水晶の念珠(ねんず)、それから白い双の眉毛――一目見ただけでも、天(あめ)が下(した)に功徳無量(くどくむりょう)の名を轟かせた、横川(よかわ)の僧都(そうず)だと申す事は疑おうようもございません。僧都は年こそとられましたが、たぶたぶと肥え太った体を徐(おもむろ)に運びながら、摩利信乃法師の眼の前へ、おごそかに歩みを止めますと、
「こりゃ下郎(げろう)。ただ今もその方が申す如く、この御堂(みどう)供養の庭には、法界(ほっかい)の竜象(りゅうぞう)数を知らず並み居られるには相違ない。が、鼠に抛(なげう)つにも器物(うつわもの)を忌(い)むの慣い、誰かその方如き下郎(げろう)づれと、法力の高下を競わりょうぞ。さればその方は先ず己を恥じて、梶X(そうそう)この宝前を退散す可き分際ながら、推して神通(じんずう)を較べようなどは、近頃以て奇怪至極(きっかいしごく)じゃ。思うにその方は何処(いずこ)かにて金剛邪禅(こんごうじゃぜん)の法を修した外道(げどう)の沙門と心得る。じゃによって一つは三宝の霊験(れいげん)を示さんため、一つはその方の魔縁に惹(ひ)かれて、無間地獄(むげんじごく)に堕ちようず衆生(しゅじょう)を救うてとらさんため、老衲(ろうのう)自らその方と法験(ほうげん)を較べに罷(まか)り出(いで)た。たといその方の幻術がよく鬼神を駆り使うとも、護法の加護ある老衲には一指を触るる事すらよも出来まい。されば仏力(ぶつりき)の奇特(きどく)を見て、その方こそ受戒致してよかろう。」と、大獅子孔(だいししく)を浴せかけ、たちまち印(いん)を結ばれました。 
三十二

 

するとその印を結んだ手の中(うち)から、俄(にわか)に一道の白気(はっき)が立上(たちのぼ)って、それが隠々と中空(なかぞら)へたなびいたと思いますと、丁度僧都(そうず)の頭(かしら)の真上に、宝蓋(ほうがい)をかざしたような一団の靄(もや)がたなびきました。いや、靄と申したのでは、あの不思議な雲気(うんき)の模様が、まだ十分御会得(ごえとく)には参りますまい。もしそれが靄だったと致しましたら、その向うにある御堂(みどう)の屋根などは霞んで見えない筈でございますが、この雲気はただ、虚空(こくう)に何やら形の見えぬものが蟠(わだか)まったと思うばかりで、晴れ渡った空の色さえ、元の通り朗かに見透かされたのでございます。
御庭をめぐっていた人々は、いずれもこの雲気に驚いたのでございましょう。またどこからともなく風のようなざわめきが、御簾(みす)を動かすばかり起りましたが、その声のまだ終らない中に、印を結び直した横川(よかわ)の僧都(そうず)が、徐(おもむろ)に肉(しし)の余った顎(おとがい)を動かして、秘密の呪文(じゅもん)を誦(ず)しますと、たちまちその雲気の中に、朦朧とした二尊の金甲神(きんこうじん)が、勇ましく金剛杵(こんごうしょ)をふりかざしながら、影のような姿を現しました。これもあると思えばあり、ないと思えばないような幻ではございます。が、その宙を踏んで飛舞(ひぶ)する容子(ようす)は、今しも摩利信乃法師(まりしのほうし)の脳上へ、一杵(いっしょ)を加えるかと思うほど、神威を帯びて居ったのでございます。
しかし当の摩利信乃法師は、不相変(あいかわらず)高慢の面(おもて)をあげて、じっとこの金甲神(きんこうじん)の姿を眺めたまま、眉毛一つ動かそうとは致しません。それどころか、堅く結んだ唇のあたりには、例の無気味(ぶきみ)な微笑の影が、さも嘲りたいのを堪(こら)えるように、漂って居(お)るのでございます。するとその不敵な振舞に腹を据え兼ねたのでございましょう。横川(よかわ)の僧都は急に印を解いて、水晶の念珠(ねんず)を振りながら、
「叱(しっ)。」と、嗄(しわが)れた声で大喝しました。
その声に応じて金甲神(きんこうじん)が、雲気と共に空中から、舞下(まいくだ)ろうと致しましたのと、下にいた摩利信乃法師が、十文字の護符を額に当てながら、何やら鋭い声で叫びましたのとが、全く同時でございます。この拍子に瞬く間、虹のような光があって空へ昇ったと見えましたが、金甲神の姿は跡もなく消え失せて、その代りに僧都の水晶の念珠が、まん中から二つに切れると、珠はさながら霰(あられ)のように、戞然(かつぜん)と四方へ飛び散りました。
「御坊(ごぼう)の手なみはすでに見えた。金剛邪禅(こんごうじゃぜん)の法を修したとは、とりも直さず御坊の事じゃ。」
勝ち誇ったあの沙門は、思わずどっと鬨(とき)をつくった人々の声を圧しながら、高らかにこう罵りました。その声を浴びた横川(よかわ)の僧都が、どんなに御悄(おしお)れなすったか、それは別段とり立てて申すまでもございますまい。もしもあの時御弟子たちが、先を争いながら進みよって、介抱しなかったと致しましたら、恐らく満足には元の廊へも帰られなかった事でございましょう。その間に摩利信乃法師は、いよいよ誇らしげに胸を反(そ)らせて、
「横川(よかわ)の僧都は、今天(あめ)が下(した)に法誉無上(ほうよむじょう)の大和尚(だいおしょう)と承わったが、この法師の眼から見れば、天上皇帝の照覧を昏(くら)まし奉って、妄(みだり)に鬼神を使役する、云おうようない火宅僧(かたくそう)じゃ。されば仏菩薩は妖魔の類(たぐい)、釈教は堕獄の業因(ごういん)と申したが、摩利信乃法師一人の誤りか。さもあらばあれ、まだこの上にもわが摩利の法門へ帰依しょうと思立(おぼした)たれずば、元より僧俗の嫌いはない。何人(なんびと)なりともこの場において、天上皇帝の御威徳を目(ま)のあたりに試みられい。」と、八方を睨(にら)みながら申しました。
その時、また東の廊に当って、
「応(おう)。」と、涼しく答えますと、御装束の姿もあたりを払って、悠然と御庭へ御下(おお)りになりましたのは、別人でもない堀川の若殿様でございます。
(未完 / 大正七年十一月)  
 
邪宗門

 

「邪な宗門」、つまり現代風に言えば「邪悪な宗教」といった意味の言葉・表現で、豊臣政権及び徳川幕府(江戸幕府)が用いた一種の政治用語である。
「邪宗門」というのは、宗教用語や学術用語とは言い難い用語であり、あくまで時の権力者が彼らから見て敵対していると感じられたり都合が悪いと考えられた宗教にまとめてレッテルを貼るための政治的な用語であり、よく知られるところでは豊臣秀吉や徳川家康によってキリスト教がそれとされたり、また民こそが国の主役であると考え正義を重視することで、豊臣・徳川らの命令への非服従を貫いた日蓮宗不受不施派が「邪宗門」とされた。また宗門改などを通じた宗教統制に入らなかった民間宗教、新宗教なども徳川幕府によって「邪宗門」に分類された。
戦国時代、人々は現世利益や、葬式を中心とした冠婚葬祭への期待から、仏教に帰依するようになった。16世紀半ばにフランシスコ・ザビエルがキリスト教カトリックを伝えたが、キリスト教は仏教徒の教義の類似性から、当時の日本において仏教の一種と誤解され、当時の日本人に受容されやすく、キリシタン大名も生まれた。当時の織田信長が実権を握った当時は、キリシタンは九州地方に多く、近畿地方には少なかった。信長の勢力圏ではキリシタンは有害な存在とみなされなかったため、信長はキリスト教を保護した。信長の家来の中から頭角を現し、信長亡き後権力を握った豊臣秀吉は、天正17年(1589年)にバテレン追放令を出して以後、「(太陽神・天照大神の末裔とされる)天皇と天皇によって任命され政治的な正統性を付与された関白及び将軍(幕府)の至上性を認める宗門のみが日本における正法(正しい宗教)であり、これを認めない宗門は日本の正統な国家秩序を破らんとする「邪法」を奉じる宗門である」すなわち「邪宗門」とした。江戸幕府もこの方針を継承し、一般民衆に対して「キリスト教=邪宗門」とする観念を植え付け、多数のキリスト教徒を迫害し、島原の乱など信者による反乱も発生した。
明治維新の直後、明治政府から出された五榜の掲示第三札には、当初「切支丹邪宗門」の禁止が掲げられていた。この文言があることを知った欧米諸国は明治政府に猛抗議を行ったため、慌てた明治政府はただちに「切支丹」と「邪宗門」それぞれを禁止する、と訂正した。
明治6年(1873年)のキリスト教解禁において、300年近くにわたって「キリスト教=邪宗門」との観念を植え付けられてきた一般民衆の間には、解禁に対して不安や恐怖を覚える者もあったとされる。その不安と蔑視はキリスト教解禁後も続き、政府及び民衆からの様々な圧迫が日本のキリスト教徒に対して加えられる要因となった。 
 
芥川龍之介の邪宗門 評論 

 

評論 1
芥川龍之介の未完の小説である。大正7年(1918年)10月から『大阪毎日新聞』に連載された。『大鏡』や『栄花物語』などを基に、芥川独自のストーリーで書かれている。
芥川の小説『地獄変』に登場した堀川の大殿の子、若殿が主人公である。『地獄変』と同一人物と思われる語り部により物語が進むが、本作では語り部自身も本編に登場する。時代は平安時代、本編に出てくる「摩利の教」は山田孝三郎の景教という説が有力。物語は中盤、いよいよ主人公が邪宗の沙門と対決するところで未完となっている。未完の理由については芥川の体調不良とされているが、展開に行き詰まった点を理由とする向きもある。

堀川の大殿様の子である若殿様は、父親とは容姿、性格、好みすべて正反対で、優しく物静かな人物であった。その生涯は平穏無事なものであったが、たった一度だけ、不思議な出来事があった。
大殿様の御薨去から5、6年後、洛中に摩利信乃法師という名の沙門が現れ、障害や怪我に悩む人々を怪しげな力で治してまわり、信奉者を増やしていた。ある時、建立された阿弥陀堂の供養の折、沙門が乱入し、各地より集まった僧に対し法力対決をけしかけた。大和尚と称されていた横川の僧都でも歯が立たず、沙門がますます威勢を振りまく中、堀川の若殿様が庭へと降り立った。(未完)
評論 2
芥川龍之介と云う作家は少し変わった作家である。「文学者」として教科書にも登場するのでその評価は非常に高いものであると思われているが生前からその死後数十年に亘って文壇では高く評価されていなかったと云うことは意外な事実である。橋本治によれば「芥川をいじめ殺した当時の文壇」(「三島由紀夫とは何者だったのか」)と書かれている。ちくま版全集1巻の中村真一郎氏も文壇での評価の低さと一般読者からの評価の高さについて書かれている。これは私にはかなり意外なことであった。
芥川の魅力はその人工的で審美的な文体にあろう。特に初期の王朝ものをはじめとする格調高い文体はその溢れんばかりの才能と共に美しい。ただその芸術至上主義、物語性(これは後に芥川本人によって否定される)、児童文学の執筆、そして短編がメインであった事が文壇での評価に繋がらなかったのであろう。更に「私小説」に重きを置く近代日本文学では芥川のような才能は相容れなかったのかも知れない。志賀直哉が絶賛したとかいう「一塊の土」や晩年の私小説などは文壇を意識して書かれたものかもしれない。しかし私はやはり日夏耿之介の指摘通り初期から中期にかけて書かれたものが芥川のベストではないかと考えている。
芥川龍之介は私が初めて全集で全作品を読み通した作家である。35歳と云う短い生涯に残された作品はそう多くなく「全集読み」のしやすい作家である。先にあげた「一塊の土」や晩年の自伝的私小説などは好きではないがそれはそれで興味深い。「王朝もの」の中では「好色」がユーモアと皮肉が綯い交ぜで不思議な読後感がある。また「神々の微笑」のような日本人の文化に鋭く切り込んだ作品も忘れがたい。キリスト教伝来の頃、日本の南蛮寺にたたずむオルガンティーノ。日本での布教活動は好調でこうして寺院まで建つに至ったがその顔は浮かない。そこへ日本古来の八百万の神々が現れる。神々はオルガンティーノに「お前の祈っている神と日本人の祈っている神は違う」と言う。日本人は外から入ってきたものを「自分のもの」にしてしまうと指摘する。オルガンティーノの浮かない顔、それは日本人との根本的な文化の差であった。芥川はこの作品によって日本人の文化を鮮やかに分析して見せた。晩年の「河童」は明らかに「ガリバー」中の「ヤフー」に想を得ており両者の読み比べは面白い。
ちなみに「トロッコ」の主人公と私の名前は漢字も同じ同名である。あの走って帰る帰り道の夜景、それは人生の残影であろうか、それをある雑誌社の社員となった主人公が回想する巧みな構成を理解し味わうのには随分と時間がかかったものである。文学とはどのように読んでも面白いものであると思う。
「邪宗門」は未完の長編小説である。「地獄変」の姉妹編として書かれその格調高い文体と多彩な物語で読むものを魅了する。近代文学の最も優れた伝奇小説のひとつであると思う。未完であるのが惜しい作品である。読んでいただくと判るがまさに一番盛り上がったところで「おあずけ」をくう様な作品である。おそらく芥川龍之介と云う人は生粋の短編の名手であったのだろう。三島由紀夫が「文章讀本」の中で森鴎外を「短編の文章」として紹介しているように芥川もまた「短編の文章」の名手であって長編向きではなかったのあろう。しかし本作では立派に「長編の文章」であると思う。尤も三島が例に挙げる鏡花程の長編向きの文章であるとは言えないが。
「文芸的な、余りに文芸的な」で芥川と激しく論争した谷崎潤一郎であるが谷崎もまた「残菊物語」という優れた伝奇小説を未完のまま残している。未完でありながらその面白さ、文章の美しさは比類が無い。両者がどのような結末を考えていたのかは判らないがあれこれ想像して見るのも一興であろう。
評論 3
「地獄変」の続編といった体裁。語り手は同じ。前回は堀川の大殿様時代の話で今度はその若様の話。いったい堀川の大殿様とは誰なのか?吉田精一氏によれば「邪宗門」は「大鏡」、「栄花物語」あたりから材料を得ているらしいという。そこで堀川の大殿様は藤原道長で若殿は藤原頼通を想定しているようだ。だがこれは推測ではっきりしていない。中断した訳は芥川によれば病気のためということだが、構成上の失敗があったようだ。これも本人が弁解している訳ではないから、あくまでも推測である。この点については後ほど…
「邪宗門」では「地獄変」で解らなかった語り手の性別と年代が解った。繊細な語り口で女官と思っていたが、実はいい年をした男である。この男の身分は不明だが、二代の殿様の近いところで使えていたのは間違いがない。
「邪宗門」では大殿はすでに亡くなっている。大殿と若殿の人間の違いが物語りの違いにもなっていると思う。大殿は大兵満で男らしい神将のような面影で、気性は豪傑で雄大でなんでも人目を驚かさなければやなないという。牛車を焼く所業は豪傑でなければ、恐ろしくて出来ない。若殿は中背のどちらかと云えばやせすぎで、容貌は眉の迫った、眼の涼しい、心もち口もとに癖のある女のような顔立ちという。性格はどこまでも繊細でどこまでも優雅な趣がある。
武者的で怪奇な「地獄変」に比べ「邪宗門」は貴族的で妖気だ。二対で一つの作品を目論んだのかもしれない。
あらましは、大殿が亡くなって五、六年も経ったころである。若殿は中御門の小納言の一人娘の美しい姫に想いを寄せた。が、この姫はかぐや姫のような所があって、なかなか落ちない。それでも手練手管の末、親しくなることが出来た。その頃、都には麻利の教えなるものを説く異形の沙門が現われた。麻利の教えとは文庫注によればキリスト教の一種であるらしいが、よくわからない。この沙門、麻利信乃法師と言うが、妖術を使って信徒を増やしていく。
ところで、麻利信乃法師と中御門の小納言の娘が幼なじみという話を耳に入れた語り手(「地獄変」では完全な傍観者であったが今回は事件に関る)は姫に危害が及ぶのを恐れ、甥を伴ない殺しに行くが、麻利信乃法師の操る幻に恐れおののいて逃げ帰ってくる。
それから暫らくして、
長尾の律師が嵯峨に阿弥陀堂を建てたときのことである。御堂供養の当日、多くの人に交じって麻利信乃法師が現われたのである。邪教の教えを広めるためにだ。
検非違使たちがからめとろうとするが敵わない。僧都たちに向かって法力比べをしようと申し立てるが誰も名乗りを上げなかった。
が、横川の僧都(天が下に功徳無量の名をとどろかせたという)が名乗りを上げる。…僧都の法力は麻利信乃法師の法力に敵わなかった。誇らしげな麻利信乃法師であったが、
(以下「邪宗門」より)
『「応(おう」と、涼しく答えますと、ご装束の姿もあたりを払って、悠然とお庭へおおりになりましたのは、別人でもない堀川の若殿様でございます。』(未完)
― 活劇のクライマックスで停電に会ったようなもので残念!いったいどのように麻利信乃法師をからめたのかは永遠に謎である。若殿が勝ったのは間違いがないだろうが。
麻利信乃法師とは何者か?麻利信乃法師と姫の関係は?若殿と姫のその後は?いくつかの謎が残された。作者以外は知る由もない。三好行雄氏によると姫を抜きにして若殿と麻利信乃法師の対決に至ったせいと推測する。構成上の失敗と言えばそれまでだが、流石に芥川だ、こだわる。普通の作家ならそのまま書いてしまうと思う。 
 

 

 
高橋和巳と「邪宗門」

 

第一節 「世なおし」思想の極限化に至る思考実験
まず第5章の本論に入るまえに、戦後を代表する思想家・詩人である吉本隆明は、中山みきの生きざまと「おふでさき」について、その思想を彼なりに「近代の古典的思想の実践例」として読み切っていたのではないかと確信させる『高橋和巳作品集4 邪宗門』(河出書房新社)の「あとがき」に寄稿している「新興宗教」(641 〜 659 頁)があるということを紹介しておきたい。つまり、本稿最終章であつかう吉本の『思想のアンソロジー』(ちくま学芸文庫)に《解説》された「中山みき『おふでさき』」の文章の背景には、天理教原典や、高橋和巳の『邪宗門』の背景をなす緻密な大本教史や天理教史の和辻哲郎が言う「あらわにされた」「出来事」研究がなされていたと思われるからである。また、吉本隆明と松岡正剛が応酬する『遊』(1982 年9月特大号・特集・「日本する」)も、「こと」的世界観への未来像構築に勇気を与えうる貴重な文献になるであろう。
さて、『邪宗門』は高橋和巳(1931 〜 1971)の小説の中で2千枚のもっともながい大河小説であり、『朝日ジャーナル』1965 年1月3日号から翌年の5月29 日まで連載された。宗門としてあってはならないものが「あらわにされた」「こと」であるところの「邪宗門」の「もの」がたりである。歴史的には邪宗門は、江戸時代の禁制の文脈からキリスト教を指していた。誤解と白眼視に堪え、いかほどに世の立替え、立直しを叫びつづけても、社会や国家から邪宗門は徹底的に排除される。偏狭な軍国皇道政治につきすすむ戦争前夜、昭和10 年12 月には、大正10 年の第一次大本事件につづいて、第二次大本教弾圧事件が勃発。綾部、亀岡両巨大聖地本部破壊には、武装した430余人の警官の包囲をうける。苑内にいた教主出口王仁三郎や本部役職員ほか100 人余りが検挙され京都に護送されたり、亀岡署に拘置された。両本部にはダイナマイト数千発がぶち込まれ、鉄骨はガスで焼き切られ、樹木は切りたおされ、石段さえも削りつぶされて、一帯は見る影もない荒野と化してしまったという。日本史上類を見ない大弾圧を受けた戦争前夜の教団大本。数多くの新宗教を生んだ丹波篠山盆地の一教団があたえたその宗教思想的影響はいまも小さくはない。教主出口には『霊界物語』(全72 巻)、『聖師歌日記』(全53 巻)のほか数種の書物がある。第二次大本教弾圧事件につづいて、昭和11 年9月27 日には「PL教団」初代教主御木徳一が教祖の地位を譲った翌日に警察に拘引され、「ひとのみち事件」がはじまった。  
一方、天理教では昭和11 年に教祖五十年祭、翌12 年には立教百年祭の両年祭が執行された。教祖五十年祭直後には2・26 事件が発生。このころより軍隊が国家の主導権をにぎりはじめ、同13年には「泥海古記に関連ある一切の教説は之を行わず」と、軍部によって強制された「諭達第八号」の「革新指令」が発布された。天理教団が執拗な追求と攻撃をうけた理由は、「元の理」が近代天皇制のもとで絶対化された記紀神話とは根本的に異質であり、そのひろめは記紀神話の権威を脅かすものであったという点にある。教説の受難史の詳細については拙著『中山みき「元の理」を読み解く』(日本地域社会研究所、第1章第2節)を参照されたい。
これら両宗教を素材にしたであろう高橋和巳の『邪宗門』は、若者に発表当時おおきな衝撃をあたえ、学生運動にかかわる彼らがバイブルのように読んだと言われ、「東大教官がすすめる100 冊」では、世界の数々の名著をおさえ第8位の評価をうけている。『邪宗門』は文学というアプローチで描かれた日本の精神史でもあった。高橋はこの本になにを込めようとしたのか。彼は「あとがき」において次のように述べる。
「 発想の端緒は、日本の現代精神史を踏まえつつ、すべての宗教がその登場のはじめには色濃く持っている〈世なおし〉の思想を、教団の膨張にともなう様々の妥協を排して極限化すればどうなるかを、思考実験をしてみたいという事であった。表題を「邪宗門」と銘うったのも、むしろ世人から邪宗門と黙される限りにおいて、宗教は熾烈にしてかつ本質的な問いかけの迫力を持ち、かつ人間の精神にとって宗教はいかなる位置をしめ、いかなる意味をもつかの問題性をも豊富にはらむと常々考えていたからである……。
繰り返しをおそれずに言えば、私の描かんとしたものは、あくまで歴史的事実ではなく、総体としての現実と一定の対応関係を持つ精神史であり、かつ私の悲哀と志を託した宗教団体の理念とその精神史との葛藤だったためである。私が自らを確め、自らを深めるためには、私が生まれ育ったこの日本の現代精神と私の夢とを、人間をその総体において考究しうる文学の領域において格闘させることが必要だったのである。 」
高橋が日本に現存する新宗教団体の二三を遍歴、その世なおしの教えや教史を研究し、そこから若干のヒントを得たという、いわゆる「邪宗門」と対立せざるをえない国家の本質とはなにか。こうした問いかけは史観によって答えられることがおおい。史観とは「なぜこのような日本の社会や国家ができあがったのか」という説明であるとされる。「史観」が制度史に限定されるなら「史実」と照合しやすい。しかし、この問いかけへの回答がむずかしいのは、その問題の対象に精神史、つまり精神の歴史がひそむからである。人々の内面に存在する精神は、さまざまな事件の表層からは見えてこない。精神史は複数の事象の整合的なまとめよりも、信仰や教理などを簡素なモデルとして提出する必要がある。天理教でいえば「泥海古記」や「おふでさき」「みかぐらうた」などから抽出された人間世界創造・救済をのべた簡潔な教典類、他の新興宗教にあっては天国や浄土の確信、あるいは奇跡や聖者への帰依などだ。こうしたモデルは国家からすればその簡素さゆえに思想ではなく、虚構に近いとみられる。この意味において精神史は文学にかぎりなく接近する可能性を得ることができるともいえよう。文学によって前近代から近代の日本の精神史を描き出すこころみは数おおくなされてきたが、高橋和巳の『邪宗門』は、そのスケールにおいても突出しているというのが識者一般の評価である。
天理教も天保9年の立教以来、中山みき教祖の17、18 回にもおよぶ官憲の召喚問答、および投獄がつづき、第二次世界大戦がおわるまで、組織が巨大化するに比例して国家が敵対し排除する「邪宗門」として弾圧され、「つとめ」や神名までも強制変更、原典『おふでさき』などは国家により全教会から没収された。それはあたかも国家にとっては「邪宗門」が、「天皇制」という「国家共同幻想」を映し出す鏡像であるかのように国家の精神性を対照的に映し出す。この逆転鏡像から精神史の史観のモデルを描きだすことで、日本国家の精神的な呪縛である「共同幻想」というものの正体を暴露することが可能になる。高橋和巳の『邪宗門』はこの課題(国家共同幻想の暴露)に、小説としての豊穣さをふくめながら真正面に挑んだ作品でもあり、近代日本の精神的な呪縛の仕組みを逆説的に描きだしてもいる。しかもこの逆説には、さらにもう一段の逆説がくわわり、国家に反逆する反国家精神や批判もまた、結果的に倒錯した共同幻想の問題をふくむことをあきらかにした。この課題、つまり国家批判の倒錯性は戦後、いわゆる左翼勢力・マルキシズムが倒錯していく傾向をなぞってさえいる。くわえてそれはまた信仰の自由を法的に獲得した戦後の諸新興宗教、維新前後の新興宗教教団にも通底する問題をも包括しているといえる。その意味で『邪宗門』は、「共同幻想」を極限化させるとどのように成るかという思考実験でもあったと評価されるであろう。  
第二節 国家と宗教の共同幻想
天理教は、終戦直後において中山正善二代真柱により「復元」が提唱されたが、高橋和巳の暗喩する戦前の「共同幻想」の倒錯性からの脱却に成功しているかどうかは、いまだに疑問である。達成された「復元」と、未完の「復元」の領域をただしく認識区分し、それをあきらかにして民主的に議論する知恵と勇気が、真の「練り合い」「談じ合い」の意味するところであるにもかかわらず、その実践がシステムとして「元一日の精神」にかえる教団改革刷新にむけられていないという批判もある。
いうまでもなく、吉本隆明と高橋和巳の二人は、60 年安保闘争の学生たちのカリスマ的存在であった。高橋は『邪宗門』巻末の秋山駿との「私の文学を語る」というインタビュー(629 頁)の中で、大学での友人が就職運動に奔走しはじめたころ、自分には将来設計とかいうことは全然なく、ほんとうに食い詰めていて、母親がある新興宗教(天理教)の信者だったから、私のそういうのめり込み型(内面の葛藤、その葛藤の起伏がおおきいことがそれ自体充実しているという心的状態)の精神を直してやろうという気もあったかも知れなかったが、「天理教の修養科」という固有名詞こそ出てはこないが、あきらかに9回の「別席」とよばれる信者(ようぼく)の資格があたえられる講話も聴いている。そのときの天理での修行・研究のようすは次号において紹介するが、秋山との対談で高橋はつぎのように告白している。
「大学を出ても何も仕事もないものですから、たまたまその教団で教祖の編纂事業みたいなものをやっているわけです。雑誌も出していましたし、多分そういう仕事に予定されたんでしょう、そこへ行けといわれましてね。ただ宗教団体なものですから無条件で仕事に参加できるわけではなく、教義の講義を受け信徒ないしは信徒なみの認定を受けなければならないわけですね。それでその講義を受けに行った(中略)。あれは九回講演を受けて、その教義を飲み込んで試験のようなものを受け、さらに一定期間の共同生活と奉仕をすませますと、資格が与えられるわけです。」と紹介した後、天理教教理について、「教義は割合合理化されておりまして、天地創造からはじまる教典にもそうおかしいところはなく、何回か実にいろんな階層の人々が、実にいろんな悩みを背負ってきているその間にはさまって説教師の言うことを聞いているわけですけれども、あれは面白かったんだけれども、ただ最後に独特の祈祷の形式がありまして、手踊りをしなければいけない。宗教ですから、理解だけではだめで祈りがなされなければ信徒ではない。信徒にならなければ就職はできない。これは何というのですかね、どうしても踊れないのですよね。」と告白し、踊ろうとすると、「背中にだらだらと冷汗が流れてきて、単にはずかしいとか、そういうことではないのです。食っていくためにはある程度はずかしさみたいなものはかなぐり捨てなければならないことぐらいは知っています。」とつづけ、「このぐらいのことができると逆にやってやろうというような気もするのですが、とにかく、全身硬直みたいになって、どうしても体が動かないのですね。」というわけである。
しかし、なぜ全身硬直状態になったかを文章化するのが文学者としての役割ではないかというのがわたくしの疑問である。つまり、入信を拒否した高橋の論拠としてはきわめて軽薄な弁解であると思われる。この疑問への回答は後に述べる彼の異例の究極的文学観にあるはずだ。
一方、高橋和巳が白川静の招きで立命館大学文学部の講師をしていた1963(昭和38)年、彼の受講生であり、高橋が京大助教授に招かれたのち同人誌の飲み友達でもあった高橋の下宿のそばに住む村井英雄は、その著『闇を抱きて─高橋和巳の晩年』(阿部出版)において高橋が反日共系の過激派と総称される全共闘系学生を1969(昭和44)年に支持表明し、京都大学文学部助教授を辞職した後の、彼の孤独と苦悩と病、そしてその酒豪ぶりや、執筆状況など、日常会話についてもくわしく紹介している。「論理の導くところ、いずこへなりとも行こうではないか」というプラトンの言葉をよく引用していたとも回想しているが、それは高橋が、思想的な敵対関係や人間関係が憎しみ合う状況に至っても、往来の礼儀を尊び、問題は論理的に対決すべきであるという信念を抱いていたからだろうというわけである。ある夜、風呂桶を手にのろのろとうつむき加減になにかをふかく考えながらせまい道を歩いている身長180 センチもある高橋が、道端の電信柱にぶつかりかけて「あっ失礼」と電信柱を人とまちがえ、謝罪しているのを村井が目撃したなどというエピソードもある。
『邪宗門』の巻末に紹介されている秋山駿のインタビューのあとに、吉本の「新興宗教について」という論文が掲載されている。この16 頁に及ぶ論考の大半は「元の理」の全文引用をふくめた、教祖論と「天理神」の吉本自身の解釈からなっており、このときは「注記」として論文の最後に追記されているように、すでに高橋は病床にあり、この書の出版後1年足らずして氏は没している。ということは、吉本は前出の『思想のアンソロジー』出版の30 数年前には「おふでさき」をすでに読み込んでいたことになる。『邪宗門』のテーマの通奏低音となっている〈新興宗教〉・天理思想による歴史観と国家体制との関わりにおいてもその意義を的確に把握していたにちがいない。したがって、この吉本の巻末論文は『邪宗門』を評価する思想的根幹を示しているといえるだろう。くわえて、高橋の天理での身体的修行は頓挫したとしても、天理の教えの土俗的表現に隠された宗教思想的根源への思索は、教祖「ひながたの道」のさまざまな史実を知るにおよんで『邪宗門』という作品に活かされていたにちがいない。
『邪宗門』は、夫にも6人の子供たちにも叛かれ、半狂乱の彷徨の果てに一種の悟達の境地に達した下層農民出身の開祖・行徳さまによってはじめられた明治の土俗的な新興宗教、ひのもと救霊会を主題にした小説である。その発生から二代目教主行徳仁二郎の手腕による教団の整備と拡張、そして戦時下の大弾圧、くわえて敗戦期に「世なおし」を希求する三代目教主千葉潔に率いられた信徒たちの武装蜂起の結果による決定的壊滅という筋道をたどる教団史が小説の骨格である。その物語の骨格をおおう生命の臓器は、国家と宗教の関係性、「家父長制と家族制度の被害を集中的にひっかぶった下層民の母親だ」という女性の性と家からの解放、死の自由と自殺の黙認、男女の性の関係における葛藤、親子兄弟姉妹・近親関係における不和と闘争に譬えられる。人間を破局までおいつめるこれら凶暴な諸情念の浄化は宗教にとって可能か、つまり宗教によるユートピアの実現にはいかなるハードルを越えなければならないかというのが作者高橋和巳の宗教論の主調低音になっている。  
 
高橋和巳の邪宗門 評論 

 

評論 1
1966年に出版された高橋和巳の小説『邪宗門』。発表当時、若者に衝撃を与え、その後も学生運動に関わる若者がバイブルのように読んだという本書。現在でも、絶版にもかかわらず「東大教官がすすめる100冊」では、世界の数々の名著を抑え8位という評価を受けています。出版の5年後に39歳で亡くなった早世の作家・高橋和巳は、この本になにを込めようとしたのか。

日本の社会や国家の本質は何か。こうした問いかけは史観によって答えられることが多い。史観とは「なぜこのような日本の社会や国家ができあがったのか」という説明である。史観が制度史に限定されるなら史実と照合しやすい。だが、この問いかけの対象には精神史が潜む。精神の歴史である。人々の内面に存在する精神は各種事件の表層からは見えない。しかも精神史は複数の事実の整合的なまとめよりも、信仰や教理など簡素なモデルとして提出する必要がある。天国や浄土の確信、あるいは奇跡や聖者への帰依などだ。こうしたモデルはその簡素さゆえに虚構に近い。ここで精神史は文学に接近する。文学によって前近代から近代の日本の精神史を描き出す試みはいくどとなく試みられてきた。そうした試みの一つとして読むとしても、高橋和巳『邪宗門』は壮大なスケールをもっている。
「邪宗門」という言葉は字義的には「邪悪なる宗門」である。「宗門」は宗教とは微妙に異なる。いま日本人の大半に「あなたの宗教は?」と問えば無宗教と暢気に答えるだろうが、続けて「あなたの家のご宗派は?」と問えば、親の葬式も出したことがない若者を除けば、浄土真宗、曹洞宗、真言宗といった宗派名を何の矛盾も感じることなく答えるにちがいない。この「ご宗派」が「宗門」であり、宗門としてあってはならないものが「邪宗門」である。社会や国家から邪宗門の人は排除される。
歴史的には「邪宗門」は、江戸時代の禁制の文脈から、キリスト教(切支丹)を指してきた。「五箇条の御誓文」発布の翌日に発された最初の禁止令「五榜の掲示」の第三札にも「切支丹邪宗門ノ儀ハ堅ク御制禁タリ若不審ナル者有之ハ其筋之役所ヘ可申出御褒美可被下事(キリスト教邪宗門については禁止する。不審者を役所に通告すれば報償を出す)」とある。なお「切支丹邪宗門」という表現については、キリスト教がイコール邪宗門か、キリスト教と邪宗門は二項なのか、解釈に余地があるが、いずれも広義に邪宗門であることは変わりなく、国家秩序に反する敵と見なされていたのはまちがいない。
国家が敵対し排除する邪宗門には国家の精神性が対照的に映し出される。あるいは邪宗門こそが天皇制という国家幻想を炙り出す鏡像である。この像から精神史の史観のモデルを描き出すことで、日本国家の精神的な呪縛、「共同幻想」というものの正体を暴露することが可能になる。高橋和巳の『邪宗門』はこの課題(国家共同幻想の暴露)に、小説としての豊穣さを含めながら真正面に挑んだ作品でもあり、近代日本の精神的な呪縛の仕組みを逆説的に描きだしてもいる。しかもこの逆説には、さらにもう一段の逆説が加わり、国家に反逆する反国家精神や批判もまた、結果的に倒錯した共同幻想の問題を含むことを明らかにした。この課題(国家批判の倒錯性)は戦後、いわゆる左翼勢力が倒錯していく傾向をなぞってさえいる。

戦前から戦後にかけて、ある架空の新興宗教団体の軌跡を描いた本作。そのモデルになったと思われる団体との比較や、当時の精神性を振り返ることで描かれた物語の意味をあぶりだします。
『邪宗門』はよく練られた三部から構成されている。第一部は、明治30年代に大衆から自然発生した新興宗教「ひのもと救霊会」が、最終的な弾圧の段階を迎える昭和6年から昭和7年頃までを克明に描いている。
物語は、餓死寸前の14歳の少年・千葉潔が信者であった母の遺骨を下げて教団本部のある山陰の神部という村を訪問することから始まる。救護された少年は教団と深い関わりのある家庭・堀江家で暮らすようになる。
前年の昭和5年、「ひのもと救霊会」は国家からの弾圧を受け、神殿なども破壊され、教主も不敬罪と治安維持法違反で逮捕されたため、教団の人々は残された教主の妻・行徳八重を中心にひっそりと暮らしていた。堀江家はまた、開祖・行徳まさに使えた老婆・堀江駒が、教主・行徳仁二郎の娘で小児まひの残る小学生・行徳阿貴の面倒をみていた。駒の息子で教団の幹部だった堀江真輔は教主らとともに逮捕されたので、嫁の菊乃と小学生の娘・民江も駒と一緒にひっそりと暮らしていた。
物語の主人公は千葉潔であると言ってよいが、同じく教主の娘で、妹の阿貴とは正反対の性格の姉・阿礼もまた主人公と見られる。他に教団に関わる群像が壮大な物語を支えていく。
第一部では、一時釈放された教主が国家からの宗教弾圧に耐える様子や弁護にまつわる弁舌などで濃厚に思想的な叙述が続くなか、教団の最高顧問・加持基博の命を受けて潔が天皇直訴に及ぶ事件や、五・一五事件を絡めて緊張した展開が続く。最終的には国家側の陰謀と見られる口実からさらなる弾圧を受け、仕掛けられたと見られる火災で教団組織は壊滅した。信者の信仰は社会から隠れることになった。

高橋和巳の小説『邪宗門』評、後編です。前編では、作者自身や物語が描かれたころの時代背景を、中編ではなぜ国家の近代的な共同幻想と民衆の土着の共同幻想が衝突することになったのか、物語を追いながらその必然性を論じてきました。中編の最後では、宗教団体を描いた物語でありながら「内面には、教義・教理・信仰は内在化されてはいない」ということが示されました。作者高橋和巳はなにを意図していたのでしょうか。
なぜ高橋和巳は、主人公のふたりの思想を宗教から切り離したのだろうか。高橋としてはこのような設定にせず、潔と阿礼を狂信家にすることも可能だっただろう。狂信的な信仰を理性的に受け止めて武装蜂起を直線的に結びつけることもできたはずだ。しかしこの物語はそうなってはいない。そもそも、こうした新興宗教の共同幻想の持つ、本質的な国家との齟齬は、戦後の国家幻想の消滅期間より、国家幻想が剥き出しになっていた戦争に至る時期、この物語でいうなら第二部で展開されるのが妥当である。「第二次ほんみち不敬事件」のように、その期間での衝突として描くほうが自然でもあったはずだ。政治家や軍人に信徒を増やすような展開にすれば容易に可能だった。むしろなぜ、この物語では、大衆を率いた武装蜂起が戦後という時代に設定されたのだろうかという疑問がわく。
おそらく「ひのもと救霊会」として語られている対象は、新興宗教というより、土着の社会主義・共産主義の革命の理念であり、憶測の部類にはなるが、この物語が書かれたころの、日本の社会主義者・共産主義者を少なからずを熱狂させた中国の文化大革命への憧憬からではないだろうか。
土着の社会主義・共産主義の革命の理念は、戦後、といっても1951年だが、日本共産党による第4回全国協議会(四全協)の反米武装闘争方針となったものだった。この方針によって、日本共産党は武装集団として山村工作隊を形成した。これは中国共産党の抗日戦術を模倣し、山村地区の農民を中心に武装化を図って、農村地帯に「解放区」を形成しようとしたものだった。戦後の共産党の革命理念でもあった。
山村工作隊的な武装理念の本質がどのようなものか。この小説は「世なおし」の暗喩を隠れ蓑に残酷なまでに暴露して見せている。
「 戦争は、彼我の拠っている地域の境界が敵味方の岐れ目である。巨大な破壊力を、より大きく投入したものの方が勝つ。だが世なおしは、同じ国内、同じ地域、同じ職場、同じ家庭に、敵味方が入り乱れるもの。大量殺戮の武器もそこでは役立たない。それ故に、いかに多くの人々を抗争の中に捲き込むかによって、事の成敗は決まる。罪なき人を捲き込むこと、それが、世なおしの必須条件なのだ。 」
世なおしの理念が実現するためには、無辜の人を大量に犠牲に巻き込むことが必要条件であるとされる。これこそが、山村工作隊が消滅しても、新左翼として戦後社会主義運動に隠された奥義であった。しかも活用できる武力が不足しているなら、天変地異や大規模事故を活用してもよい。無辜の人々の犠牲を多数巻き込むことが世なおし、イコール革命の前提条件として肯定されてきたのだった。
評論 2
この本が何であるかを的確に表現する文章が、著者本人のあとがきにありました。
「 発想の発端は、日本の現代精神史を踏まえつつ、すべての宗教がその登場のはじめには色濃く持っている〈世なおし〉の思想を、教団の膨張にともなう様々の妥協を排して極限化すればどうなるのかを、思考実験をしてみたいということにあった。 」ということです。
簡単にあらすじを書きますと、「ひのもと救霊会」という宗教団体の昭和初期から戦後すぐまでの盛衰を三つの時期の三部構成で描いています。背景となる時代は、第一部が、五・一五事件をモデルにした部分がありますので昭和6、7年、第二部が太平洋戦争前夜の昭和15年頃、そして第三部が敗戦後の進駐軍占領時期ですので昭和20年頃です。
明治期に開教した「ひのもと救霊会」は、開祖行徳まさ、そして二代目教主行徳仁二郎により100万の信徒を抱える巨大宗教団体となっていたのですが、昭和に入り、国家弾圧により、神殿は破壊され、非合法化されます。すでに開祖まさは他界しており、仁二郎や主だった幹部は逮捕されているところから物語は始まります。
各部がいくつかの章に分かれており、それぞれ主に語られる人物が変わっていきますので群像劇のスタイルとも言えます。囚われた教主の代理を務める妻の行徳八重、秘蔵っ子的に育てられたらしい勝ち気な長女の阿礼、小児麻痺による障害をもち、幹部の堀江家に預けられている次女の阿貴、教団内の若手のホープ的な植田文麿、克麿兄弟、兄の文麿は陸軍士官学校生です。その他、阿貴を預かる堀江家の駒、民江など多くの人物のことが語られます。そして、序章として最初に登場する千葉潔、貧困ゆえに、自らの肉を食って生きよと言い残して餓死した母の遺骨を持って「ひのもと救霊会」にやってきます。潔は堀江家で暮らすことになり、阿礼、阿貴の姉妹から好意を持たれた存在として、この小説の軸となる人物だと予想させます。
第一部では、そうした登場人物の背景や人となりを語ることで「ひのもの救霊会」の全体像を明らかにしていくわけですが、中に、幹事会や長老会議、そして弾圧のために分派していった他派との宗教論争といった章があり、やや文学書の枠を超えるような、もちろん超えていけないわけではありませんが、思想書のような部分もあり、冒頭に引用した著者の「日本の現代精神史を踏まえ」たものをという意識が強く感じられます。
「ひのもと救霊会」というのはどんな宗教団体か、大雑把にいいますと、神道をベースにしていますが、それが当時の国家思想、国体へと結びつくものではなく民間信仰として民衆との結びつきを重要しており、具体的には農村、農民重視、労働者との共闘という形として現れます。
また組織論としては、教主を頂点とした原始共同体的なものであり、本部のある(架空の)神部地域全体が教団そのものであり、また組織内には製糸工場(記憶違いかも)や新聞や教書を発行する出版部、そして病院まで持つ自給自足志向の強い団体です。もうひとつ重要なのが、男女平等、女性の開放を(著者が)強く押し出していることです。開祖が女性であることをその理由のひとつとしていますが、国体思想が男系概念で構築されていることに相対するものとして強調されているのだと思います。こうした思想は、神道系とはいえ、当時の日本が進めていた万世一系の天皇を不可侵とする国家神道と対立する概念ですので、当然国家弾圧を受けることになります。つまり、終局的には「世なおし」を志向する集団ということであり、各所に革命集団を思わせる記述が出てきます。
あらためて思い返してみれば、上に昭和初期から戦後までの「盛衰」と書きましたが、「盛」の時期は過去のものとして書かれるだけで、第一部が弾圧により耐え忍ぶ時期、第二部は、皇国救世軍として勢力を伸ばした教団の分派が教主代理となった長女阿礼との婚礼という形での吸収を迫り、それを受け入れるという屈辱の時期、そして第三部は、戦後急激な復活を成し遂げたがために政府や進駐軍と対立し、ついには武装蜂起するも三日天下となり壊滅するという、言ってみれば苦難の時代のみが書かれていることになります。
第三部の武装蜂起については、正直、かなり唐突な印象を受けるのですが、そうした行動へ導いていくのが、千葉潔という存在に象徴され、全編を覆っている「ニヒリズム」という概念です。
「 「正義なく勝つ者の、勝利を無意味にする方法は、いまはただ一つ」千葉潔が言った。
   貧者とは何ぞや、支配されるものなり
   支配とは何ぞや、悪業なり
   悪業とは何ぞや、欲望なり
   欲望とは何ぞや、無明なり
   無明とは何ぞや、執着なり
   ああ、如何にして執着をのがれんや、ただ信仰によってのみ
   信仰とは何ぞや、救済なり
   救済とは何ぞや、死なり
   死とは何ぞや、安楽なり
誰が誦するともなく、門外不出の奥義書がとなえられはじめた。そう、千葉潔がその政治主義を救霊会にもちこむまでもなく、救霊会は確かに〈邪宗〉だった。 」
「ひのもと救霊会」は、ある種理想郷を目指しつつ、その裏側に常に破滅的な自己破壊欲望をもっている存在だということです。
この相対する概念を並列させるという手法は、この小説の全般に見られることであり、それは、二代教主の娘二人阿礼と阿貴がそうであり、植田兄弟もまたしかり、また、二代教主は獄中で亡くなるのですが、その教主の遺書が二通あり、一方が穏健な宗教的な光であれば、もう一方は影、ある種蜂起のアジテーションとも言える内容になっています。
簡単にあらすじをと言いながら、ここまで来ていしまいましたが、とにかく、ここに書いたことはこの小説のほんの一部、大筋だけです。壮大な大河小説の趣ですので、当然様々な世の動きの記述も多いですし、五・一五事件に参画した青年将校の挫折と没落、戦時中南洋諸島へ布教と称して追いやられた女性の悲哀、スラム街や炭鉱に生きる人々の話、教団内の性的関係も含んだ制度の話などなど、多くの問題をはらみつつもすべて現代に通じる話ばかりです。
評論 3
400字詰め原稿用紙にしておよそ2千枚になる分量、さらには宗教弾圧という重いテーマ…。覚悟を決めると、仕事を整理してこの小説だけに没頭できる時間を確保した。それでも読了するのに5日かかった。読後感は「打ちのめされた」のひと言。数年後に還暦を迎える人間(筆者のこと)に、人間と世界を見る目がわずかながらも深まったと感じさせる作品など、そうそうあるものではない。20歳前後にこの作品を読んでいたら、それまで築いてきたちっぽけな人生観と世界観は大きく揺さぶられ、その後の人生が変わったかもしれないと思う。それほどの魔力を備えた作品だ。東大教官が新入生に薦める本の上位に入っているが、ちょっと危険すぎやしないか。

物語はひとりの少年が京都にほど近い神部(かんべ)という山村に現れるところから始まる。時代は大正末期。神部は、江戸末期に貧農の3女として生まれ、現世のあらゆる労苦を味わった女性が、明治中期に神がかりとなって興した教団「ひのもと救霊会」が本拠を置く町。このころには救霊会は跡を継いだ男性教主の才覚もあって100万人を超える信徒を抱えるようになっていたが、不敬罪および治安維持法違反の容疑で国家から激しい弾圧を受けていた。少年、千葉潔は極限の飢餓の中で母の言葉に従い、亡くなったばかりの母の肉を食らって命をつなぎ、はるばる救霊会を訪ねたのだ。
大東亜戦争へと突き進む時代のなかで教団は壊滅状態に追い込まれる。敗戦後、生き残った信徒たちが再興をめざすなか、千葉は獄死した教主の長女と謀って教主の座を簒奪(さんだつ)する。ここから教団は一気に急進化し、国家からの独立を求めて武装蜂起、警察と進駐軍を相手に破局へと突き進むのである。

日本近代の歴史を少しでも知っている者なら、救霊会が国家による過酷な弾圧を受けた大本教をモデルにしていることにすぐに気付くだろう。一橋大学名誉教授の安丸良夫氏は大本教の開祖を描いた『出口なお−女性教祖と救済思想』(岩波現代文庫)の中で、《大本教の成立過程は、日本資本主義の成立にほぼ対応し、没落してゆくなおたちの生活が、じつは確立してゆく日本資本主義の特質を逆照射するような性格をもっていたのである》と書いているが、高橋の書いた救霊会壊滅の物語は、ファシズムに収斂(しゅうれん)していく昭和の日本社会の特質を逆照射し、その武装蜂起は、かつての敵国から与えられた「解放」に対する命懸けの異議申し立て、と読むことができるだろう。
一点強調しておきたいのは、教主の座を簒奪した千葉潔は、その育ちと、従軍中に捕虜を射殺するという罪を犯すことで、完全にニヒリズムに支配されていたということだ。ニヒリズムに主導された運動が向かうのは、破滅以外にない。

本書はリアルな昭和史を背景に描かれたリアリズム小説である。簡単に言えばそうなる。だが、本書の本質は何と言っても「対論」にあると考える。教団を弾圧する国家、教団から分離独立して逆に救霊会を併呑しようとする皇国救世軍にも理屈はあり理もあるのである。高橋は人間観、宗教観、国家観、さらには教団の運動論をめぐり鋭く対立する考えを、犀利(さいり)な筆致で一方に与(くみ)することなく丁寧に描いてゆく。それが作品にこれ以上はない深みと厚みを与えている。それゆえ読む者に「あなたならどう考え、どう行動する」と、本書は静かに問いかけてくるのである。その意味で、本書は観念小説でもある。
現代は「対論」なき時代と言ってよいだろう。思想の異なる者は互いに取り合わず、討論会で席を同じくしても、非難の応酬だけできちんと向き合った真摯(しんし)な議論にはならない。何も深まっていかない悲しすぎる時代である。たとえば雑誌「正論」と「世界」が激突し、ともに考えていく共同企画があってもよいではないか。
本書がしばらく絶版状態にあったのは、そんな時代状況を反映しているのだろう。だからこそ今夏、これを復刊した河出書房新社の英断に拍手を送りたい。

高橋和巳 / 昭和6年、大阪市生まれ。京都大学文学部中国文学科卒。同大学大学院博士課程満期退学。立命館大学講師、明治大学助教授をへて42年に京都大学助教授に就任するものの、44年大学紛争のさなか学生側を支持して辞職。46年、39歳で死去。小説の代表作に『悲の器』『我が心は石にあらず』『憂鬱なる党派』など。「苦悩教の始祖」と呼ばれた。『邪宗門』は40年から41年にかけて「朝日ジャーナル」に連載された。
評論 4
――彼らは屍体になろうとする。その意志をみとめようではないか。この死人たちがめざめないように、この生ける棺桶をうち壊さないように、用心しようではないか。――(ニーチェ『ツァラトゥストラかく語りき』)

かねてから懸案であった高橋和巳(一九三一〜一九七一)の長編小説『邪宗門』(一九六六)を一読した。若い頃、法学を志したこともあって、彼の文壇デビュー作『悲の器』を何度も読んで感動した記憶があった。今でも、戦後が生んだ数少ない名作の一編という思いは変わらない。本書、分厚い文庫本二冊にもなる一大長編を読み終わり、がっかりしたというのが率直な感想である。あれから五十年以上も経過した、私の気持ちのありようも大きく変容したことを踏まえても、期待を裏切られたと感じている。本書『邪宗門』を未読の読者のために、ごく簡単に物語の概要を記せば、明治期に雨後の竹の子のように発生した新興宗教の一つである〈ひのもと救霊会〉の大正期・昭和、そして戦後と、左翼運動と同様に、絶対天皇制の国家権力から激しい弾圧に遭い、施設の徹底的な破壊、幹部の検挙・投獄にめげずに、戦後までなんとか命脈を保ち、戦後、一転して、新憲法も未だ発布されない進駐軍制下の政府に反逆して無謀な武力闘争の末に殲滅される宗教団体の消息を延々と綴られる。

モデルに近い教団――出口王仁三郎(一八七一〜一九四八)の大本教――は存在する。類似は、前半部分の外形だけといって良い。著者が、小説による思考実験と称しているように、歴史的な現実をリアリティとして踏まえながら、いわば空想的な観念小説である。読みどころは、現実の日本近代史の中で、観念的な可能性を探ることが狙いである。だが、両者の密接なつながりを保つためには、歴史のリアリティに徹しなければならず、観念的な思考に重点を移せばリアリティが失われるという背反的な関係にある。著者は、この無謀な企てを思考実験と名付けていると思われる。まず、読んでいて気になるのは、主要な登場人物ばかりでなく、人物の性格や容姿などの描写が類型的で繰り返しが多く、心理的な実在感に欠けていること。いわば膨大な固有名詞の羅列の物語である。
例えば、主人公と思われる千葉潔少年は、不幸な来歴を秘めて教団に迷い込む、死に神のような、陰鬱な性格に設定されている。登場する女性達の誰もが、彼に惹きつけられるのだが、人物像が最後まで不透明で捉えどころがない。彼は、一部の教団仲間の感化を受けて、伊勢神宮で、天皇への直訴を敢行、それに失敗した後、官憲の追求を逃れ、教団本部のある神部の街に極秘の内に舞い戻る。以降、彼が再登場するのは、京都三高のボード部のリーダーとしてである。いったいその間、宿無しの少年がどういう経過を辿ったのか、重要な形跡が描かれていない。後に、従軍したらしく、南方の戦線で捕虜の処刑に関与したにもかかわらず、そこにくわしい記述がない。敗戦後帰国、また、教団に舞い戻り、教団の権力を簒奪して教主までなる。が、彼のイニシアチブが充分に描かれていない。もともと彼は指導者というよりも参謀役なのだ。
一方のヒロインであるべき、初代教主の行徳仁二郎に甘やかされて育てられた、長女の阿礼は、ヒステリー的な傲慢な性格とエゴイスティックな行動が付与されて、著者は、やたらに胸の豊満さを強調するなど稚拙な描写に終始している。事ほどさように、すべての登場人物が、役柄と外形的な特徴――小児麻痺で足を引きずるとか、寡黙であるとか、思わせぶりな性格付け以外に、行動に至る心理を克明に描かれることはない。
教団という組織の役割に重点が置かれていて人物描写は常に後手に回っていると云えよう。じつは、組織の名称――長老会・幹事会・組織・宣教・財務・企画・機関誌・青年部・婦人部・顧問など――があるとはいえ、その実体となると雲を掴むような図式的な概念に過ぎない。さらにストーリー展開は、切り貼りのように次々と場面と登場人物が入れ替わり、その間の記述の欠落部分は、読み手の想像力に委ねられている。教団の下部組織と労働団体との提携にしても、具体的な実体となると、組織が人間を度外視して、図式的に進行しているに過ぎない。彼らの組織は、かつて集団農場や作業所、病院、植物園を保有し、布教のために都市の貧民窟での診療や瀬戸内海のレプラ隔離棟への医師派遣・果ては開拓団に参加して満州渡航、南海の玉砕の島にまで活動範囲が及ぶ。しかし、〈ひのもと救霊会〉なる教団の全国的な規模の活動諸点や信者の数なども、恣意的で捉えどころがない。

長大な小説の目次を挙げてみよう。いくらかの参考にはなろう。
序章・第一部――廃墟・再建会議・薪造り・疑惑と苦渋・慎ましい日常・予審決定・晦日から新年へ・保釈・病床指令・ストライキ・繭と剣・湯崎温泉・失踪・四面楚歌・公判1・諫暁・召集・公判2・死の影・宗教と生・闇から闇へ・教姉教弟・農村改革案・生(エロス)と死(タナトス)の情熱・正統と異端・暗殺・清野作戦・壊滅。
第二部――かくれ宗教・貧民窟・湖畔・本部・闇の思想・牢獄・南洋・参禅・廃者の島・再会・捕虜・西と東・感傷旅行・満蒙開拓団・特赦・産業報国会・吉報?・甘美な惑い・夢幻の能・総転向。
第三部――一九四五・虚脱と悲哀・七哀詩・死の釈放・残党・兄弟・進駐軍・姉妹・失われた時・復員・学校騒動・冬・喪中の正月・再生・不吉な前進・供養塔・世代交代・宗教裁判・節分・強制寄進・誓約・抗議デモ・突発事故・白虹・簒奪・あり得ざりし歴史・三日天下・浮城・破局・餓死・終末――は、戦後の武力闘争と敗北の部分をなしている。
掲げた章は、いずれも二つか三つの部分に区切られて構成されていて、映画の場面転換に似ている。この長編小説は、劇画のコマ割りや映画の手法に類似した章割なのだ。
人物描写も劇画的に類型化されていて、書かずもがなの常套的な心理的描写そのものが図式化されている。主役の千葉潔自体が、劇画の登場人物にふさわしい、思わせぶりなキャラクターであって、好意的に読んでも、そこに思想性を見出すのは難しい。
だが、第一部の章に「生と死の情熱」があるように、〈エロスとタナトスの欲動〉の葛藤が、大きな意味の小説の主題であり、「死」の衝動に導かれ、教団に壊滅をもたらす役割は、死に神のような千葉潔である。生の衝動を、わずかに示しているのが、教主行徳仁次郎の次女阿貴であろう。だが、存在感は、姉の阿礼と比べると極めて薄い。
教主仁二郎の獄死後の教団の混乱は、獄中で伝えられた二つの相反する遺言、教団の存続を熱望する「生」の遺言と怨念に充ちた「死」の遺言によってもたらされたといえよう。千葉は「死」の遺言の実行者なのだが、必ずしも積極的なアジテーターではなく、教団に染みこんだタナトスの衝動を顕在化させるための活動家に過ぎないと見なすことも出来る。物語の終末で、阿礼は壮絶な自殺を遂げる。一方、千葉潔は、潔い戦死を回避して、死に装束で落ち延び、餓死を選ぶのにも、つねに生者につきまとうタナトスの必然性が見える。二人の主人公にいささかの共感も覚えないのはこの文学作品の致命的な欠陥だろう。

私は必ずしも、この長大な小説を否定的にばかり捉えているわけではない。戦後文学を代表する陰鬱な小説群の総括として、『邪宗門』があるとすれば、後に大流行した劇画ブーム、そして今日のアニメ全盛時代の心理的な下地として、戦後文学が位置しているのではないかと疑っている。アニメ的な世界観――画一化・映像化・短絡化――に耐えがたい違和感を持っているとはいえ、劇画や映像芸術を侮るような文学的な視点にいるわけではない。
もともと死体である組織を生きかえらせる作業で組織は成り立つ。組織とは、死体なのであって、実体ではない、それは作家の執筆というエクリチュール作業に似ている。高橋和巳は『邪宗門』において、〈ひのもと救霊会〉なる組織をでっち上げるために心血を注いで書き続けたのだ。だが、エロスを代表するはずの行徳阿礼は、時代の閉塞状況の中で突破口を奪われ、そこへ、タナトスの千葉潔という著者の分身を紛れ込ませる事によって、必然的な破滅の途を選んだ。思考実験は失敗に帰した。だが、文学の両義性は、その欠陥をも前向きに捉え得るとだけ指摘しておこう。

ラカンの鏡像段階論を参照すると、高橋和巳の思考実験は、象徴的な脱皮を遂げることなく、精神病の様相に終わったと云えようか。(「鏡像段階においては、主体は鏡のなかの像を自らの存在として予知的に掴むことで現在の欠如を隠そうとしているに過ぎない」向井雅明『ラカン入門』)
それも人間の一つの側面であることに変わりがない。障害者施設を襲って「彼らは生きている価値がない」と重度障害者十九名を殺害した男も実在している。もちろん、ペンで書くのと、麻薬中毒を疑われようが現実に手を下すのとの相違を承知の上でだが。
ただし、私が詩や文学に求めているのは、紙とペンで描くエクリチュールの道であって誤解を恐れずに書けば、秘教的で、ごくマイナーなものであることを断っておきたい。(了)
評論 5
私がまだ学生だった頃、大学で知りあった尊敬すべき先輩が、とある新興宗教の信者だったことがあった。その頃はメディアでも、心霊現象やミステリーサークルといった超常現象企画がさかんに取り上げられていて、いわゆる「オカルトブーム」だった時代であるが、それと関連してか、たしかに大学の構内や駅の近くに、ごく普通に「人の幸せを祈る人々」の姿があったりしたものだった。だが、知らず知らずのうちにその先輩とともに、とある新興宗教の集会に参加させられたこと、そして何より、尊敬すべき先輩が他ならぬ新興宗教に傾倒していたことに気づいたときは、相当にショックだったのをよく覚えている。
新興宗教の信者は、たいてい非常に穏やかな表情をしている。まるで、この世に悩むべきことなど何ひとつない、と信じて疑っていないかのような穏やかな微笑は、しかしそれゆえにこそどこか人間離れしていて、そのときの私にとってはただただ不気味に映っただけだった。だが、あれから多少なりとも人生の酸いも甘いも知り、世の中の不条理の前に、成すすべもなく立ちすくんだことのある今なら、その先輩にかぎらず、新興宗教に走っていった人たちの気持ちが、何となく理解できるように思う。人間は、誰しもが弱い生き物なのだ。そして誰もが、自分がこの世に生きていることに対して、それを無条件に肯定できるような心のよりどころを――けっして揺らぐことのない強い心のよりどころを求めている。
本書『邪宗門』では、「ひのもと救霊会」と呼ばれる架空の新興宗教が登場する。新興宗教というと、今ではオウム真理教が引き起こした一連の事件のおかげですっかり悪い印象をともなう言葉となってしまったが、ひのもと救霊会の場合、明治の中頃にごく平凡な女性だった行徳まさを開祖に、その後を継いで行徳姓となった仁二郎を教主として、わずか30年程度の活動実績しかない宗教団体でありながら、小作農や女工といった、文明開化の恩恵を受けられない底辺層の人々の圧倒的な支持を得て、昭和初期の時点で全国に百万人の信者を持つまでの勢力に成長している、という設定となっている。だが、物語全体に漂う雰囲気は非常に沈痛で暗く、救いのないものであり、その前兆は、教主をはじめとする教団幹部の不当な逮捕という形で、すでに物語の冒頭から現われている。
そもそも強烈な終生観、宿命論をもち、現世の世なおしを標榜するひのもと救霊会は、二代目教主の時代には独自の自給自足の共同体――労働と信仰を結びつける原始共産的な運動へとシフトしていったものの、労働者こそが革命の担い手であるとする共産主義同様、国家にとって思想的統一をさまたげる団体のひとつとして、けっして無視できない存在となっていた。本書は大きく昭和初期、戦前、終戦直後の三部構成となっているが、そこに描かれているのは、国家権力や他の宗教団体による弾圧や誹謗との戦いの歴史であり、組織が大きくなるにつれて政治的色彩の濃くなった教団内部の対立、分裂の歴史であり、また不当に搾取される側に、人間としてあたりまえの幸せをもたらすために、最終的には極端な方法をとらざるを得なかったひとつの理想の、挫折と破滅の歴史でもある。
何が必要か? 結論は簡単だった。無理な工業化政策をとる必要のない<平和>。そして農村の、他の何ものにも指導されない自治。そして労働者や中産層組織との、互いに犯しあうことなき自由連合。
ひとりひとりでは弱き人間たちが集団を組むことで形成されていった「社会」は、その集団性という特性ゆえに、どうしても支配・被支配の構造、つまり人間が人間を支配し、その行く手を導いていくという階級構造から脱却できずにいる。それはカリスマ的な王族や支配者による封建統治から、議会制民主主義による行政統治へと移行してもけっして消え去ることのないものであり、この日本においても、近世における江戸幕府の支配体制が明治維新、大正デモクラシーによって変革されてはいったが、けっきょくのところその支配者層が領主から資本家、そして国家そのものへと代わっていっただけのことでしかなかった。そうした昭和初期から終戦直後における政治の移り変わりをリアルに描いた、という意味で日本近代史的な価値をもつ本書であるが、より重要なのは、本書の視点が徹底して被支配者層の側に置かれている、という点であろう。時代が変わり、体制が入れ替わっても、農民や労働者たちが常に搾取され、虐げられる立場であることは変わらない――農民や女工たちを取り込んで成長していった「ひのもと救霊会」は、まさに被支配者側の代表なのだ。
誰かが誰かを一方的に支配するようなことのない、そんな理想的な社会を実現させるためには、どのような方法をとるべきなのか――著者である高橋和巳は、よく左翼知識人の代表として、かつて全共闘時代を戦ってきた活動家のあいだで熱烈な支持を得ていた、というきわめて政治的な部分がクローズアップされがちな作家であるが、私が本書を読んで感じたのは、マルクス主義とか現行の社会構造の解体、あるいは自己変革とかいったこととは無関係に、ひたすらよりよい社会の実現を願ったひとりの人間だったのではないか、ということだった。著者があえて宗教団体を物語の主体においたのも、理想社会のひとつの形として、人間の理性や思考によって生み出された体制には限界がある、と悟っていたからだと考えると、本書が書かれた理由としても納得がいくし、また本書で「ひのもと救霊会」がたどることになる悲劇についても説明がつく。
はたして「神」は実在するのか――私は宗教についてはけっして明るいほうではないのだが、ひとつの考え方としてあるのは、たとえば人間が世の中のあらゆるものに対して名前をつけ、そのことによって世の中を自分たちの認識の内にとりこんでいったように、「神」という概念もまた、「人はなぜ生きるのか」という究極の問いに対する、ひとつの名づけの行為なのではないか、ということである。未知である、というのは、人間にとっては恐怖の対象だ。であれば、自分という存在がたしかにここにあるにもかかわらず、その理由がわからない、という状態もまた、一種の恐怖である。その恐怖を克服するために、ほかならぬ人間が生み出した概念こそが宗教であるとすれば、かつてのオウム事件をふりかえるまでもなく、究極的には宗教もまた「人間が人間を支配する」という構造に陥らざるを得ない。
そういう意味では、本書の壮絶な悲劇は、すでにその最初から運命づけられたものであったと言えるが、本書ではさらに、千葉潔という少年を物語の主要人物とすることで、その悲劇性をさらにはっきりとしたものに仕上げた。彼は母親の死後、その遺言にしたがって「ひのもと救霊会」の本山である神部を訪れ、そこではからずも教主の娘たちをはじめとするさまざまな信者や幹部たちと知り合うことになるのだが、彼はけっきょくのところ最後まで「ひのもと救霊会」の信仰を心から信じることはなかった。父の失踪、母の餓死――人が幸せに暮らしていくにはあまりに貧しい環境のなかで、人として許されない禁忌を犯してまで無様に生きつづけている自分は、ほんとうに生きていていい存在なのか? 本書がただよわせている沈痛さは、教団の運命というよりも、むしろ千葉潔個人がいだいていた、あまりに潔癖な自己への問いかけによるところも大きい。
人間は想像力をあたえられた唯一の生物であるが、何かを想像すること、考えをめぐらせることは、同時に悩み、苦しむことでもある。おそらく、千葉潔は物質的な飢餓もさることながら、自分の生を肯定したいという精神的飢餓にさいなまれつづけていたのだろう。そういう意味では、本書は「人はなぜ生きるのか」という究極の問いかけを真っ向から受け止め、その答えを導こうとした作品であり、またそのことによって生じる、他の人間との関係について問いただす作品でもあるだろう。結果的に、千葉潔の行動は宗教によって結ばれていた連携を破壊し、宗教そのものをも否定することになったが、それが「想像」することを運命づけられた人間の本質であるとするなら、それはなんという悲劇であろうか。
本当は誰も信じていなかった。それは千葉潔自身が一番よく知っている。ただ彼の孤独は無為と寂寞のうちに解消させるには、あまりにも深すぎた。――(中略)――むろん彼の記憶の灰色の幕にも、人の慈悲に胸つかれ、なにかの喜びに胸ふくらんだ一齣一齣も映らぬわけではなかった。――(中略)――だが彼に報恩すべき地盤がなかった以上、それは常に負債にしかなりようはなく、結局は苛立たしい心のしこりとなった。
現在、全共闘による社会革命は水泡に帰し、宗教による救いの道も絶たれた。そして世の中は確固とした価値観を見出すことができないままに、今もなお迷走をつづけ、その歪みがさまざまなところで噴出しはじめている。かつて、新興宗教の信者だった尊敬すべき先輩が今、どこで何をしているのか、また彼女がその過去において何を抱えていたのかも、今ではもう知りようもないことだが、自身の生に対してゆるぎない心のよりどころを求めざるをえない何かがあった、という意味において、おそらく著者も同じであったのだろうと思う。もし、今という時代において、本書を読むという行為に価値観を求めるなら、それは真に理想的な社会のあり方を模索しつづけ、そして挫折していった人々の真摯な思いを受けとる、ということにこそあるのではないだろうか。 
私論 1 

 

高校2年生の頃だったか、ある日、放課後の正門を出た歩道で、緑色のヘルメットをかぶった二人の「活動家」が下校する生徒にビラを配っていた。その「活動家」たちのすぐそばには、中年の見知らぬ男性が二人ほど立って様子をうかがっている。たぶんその二人の「活動家」はオルグに来た他校の高校生らしく、中年の男性は物腰からして刑事なのだろう。刑事と活動家たちは顔見知りのようだった。活動家たちは、校門を出る生徒にむかってアジ演説したりチラシを配ったり、屈託なさそうに何か話しかけたりしている。デモ参加への呼びかけだった。二人の演説の内容は、もう忘れた。
刑事たちとヘルメット姿の二人の間には、なぜかあまり緊張感は感じられない。むしろ、刑事たちも「子どものやんちゃ」をじっと見守っているような風情にさえ見えた。それどころか、刑事の「立会い効果」を楽しんでいるかのような「活動家」の軽い振る舞いには、ある種「自己陶酔」の気分が漂っていた。私はしばらく話を聞いていたが、やがてその場を去った。
あの頃の同世代の中には、ヘルメット学生の呼びかけに応じてデモに参加した人もいたようだ。東大安田講堂の攻防戦や、連合赤軍の浅間山荘事件が世間を騒がせた頃だが、私の田舎の高等学校は、それでもまだ比較的「平穏」だったように記憶する。
数年後、東京の大学の受験当日の朝。
その大学の正門前には、ものものしい装備の機動隊がずらりと並び、ジュラルミンの盾の間を縫って受験会場に入った。左右には新左翼のタテ看板が並んでいた。あの独特なクセのある画一的な字体の、硬直的なアジ演説調の言葉の羅列。自分には何か場違いのような感じがした。
味気ない受験勉強をやっと終えて、せっかく入ったものの、大学はなんとなく荒廃したキャンパスムードだったように思う。大学紛争はすでに峠を越え、我々の大学時代は校内が次第に「正常化」「体制化」された頃だった。学生の一般的態度は「しらけ」を気取ることだった。
だから、団塊の世代の先輩たちからは「飽食世代」「陽だまり世代」「ノン・ポリ」「保守派」などと揶揄されたように思う。マルクス・レーニン主義の関連本が古書店に溢れていた。面白かったのは、神田のパチンコ屋の景品ににまで左翼の古書籍があったことだった。
その団塊世代の間でさかんに論議された作品のなかに、高橋和巳の小説「邪宗門」や吉本隆明の「共同幻想論」などがあった。今の若者の間ではほとんど口の端にものぼらないが、マルクス主義の諸文献とともに、「活動家学生」たちの必須本だったそうだ。私もとりあえす手にとってはみたが、難解で読みきれなかったのだろう、詳細はあまり記憶にないが、ともかく、「希望のない物語」、「悲観的な議論」が多いという印象だけが残っていた。
最近になって、その小説「邪宗門」をもう一度読み返してみた。関心のきっかけは、高橋和己と同じ昭和6年生まれの篠田正浩監督の「映画ゾルゲ」を観たことや、昭和3年生まれの手塚治虫の漫画「アドルフに告ぐ」を読んだりしたことの延長線上にある。
それにしても、今から思えば、こんなに暗鬱な小説が学生運動家たちの必読本だったとは、あの運動の結末を予め暗示していたかのようだ。
著者の高橋和巳自身も、学生運動家たちに寄り添うようにして39歳の若さで亡くなったという。そこには、「知的に誠実な人」というイメージがあったのだろうか。
ある程度覚悟はしていたが、「邪宗門」を読み進むにしたがって、物語の暗澹たる展開に、こちらの気分も滅入ってくるような思いだった。ともかくも我慢して最後まで読了してみた。そしてその根の暗さはやはり、昭和初期に生まれた世代に共通の時代背景を反映しているのだろうと思った。
リヒャルト・ゾルゲがドイツ向けの雑誌に報告していたように、昭和初期の東北地方の農村の、極端な貧窮が「邪宗門」の主人公━千葉潔の悲惨な生い立ちに強く投影している。彼は餓死した母親の遺言に従って、その遺体の一部を食べて生きのびたという、想像するだに胸の悪くなるような「原罪」を背負った人物に設定されている。
その母親は新興宗教「ひのもと救霊会」の熱心な信者で、その遺言にしたがって遺骨を納めるために、はるばる東北の農村から京都府下にある架空の田舎町「神部」の教団本部にやっとたどり着いた、というところから話が始まる。これ以上はない「悲惨」を主人公に背負わせて展開する大部の小説は、著者が中国文学の専門家だったからだろうが、難解な漢語が多くて読みにくい。それでなくても全体のトーンが陰鬱なので、漫画がこれだけ普及した今の若者世代に、広く読まれる作品かどうか私にはわからない。わずか半世紀で、若者の文化状況も大きく変化したものだと思う。今は、どちらかというと内容のない軽薄なお笑いが多いように思う。「思想」は流行らない。
思潮という言葉があるが、この時代の左翼過激派もいまどき人気のタカ派右翼も、所詮は流行に過ぎないのだろうか。季節に合わせて人が着替える、気軽な衣のように。
しかし、いまだに団塊の世代の人々には高橋和巳の「邪宗門」を高く評価する人がいることも事実だ。これほど世代によってその評価に大きな落差のある作品も珍しい。高橋自身は篠田監督と同じ年に生まれた人だから、最後の「軍国少年」だったのだろう。その屈折感の根っ子には、やはり敗戦による価値観の大変動があるのだろうか。
その作品を熱心に読み込んだ世代は、大学をはじめ大人の作った世界をいかがわしいものと決め付け、「ノー」を突きつけて大暴れした世代だった。だからそこには、ことの成否は別として、それ相応に戦後社会を考えるための示唆が含まれているのだと思う。
私には文学を専門的に評価する力はないが、まずは著者自身の言葉(あとがき)で執筆意図を確認しておこう。
「・・・・発想の端緒は、日本の現代精神史を踏まえつつ、すべての宗教がその登場のはじめには色濃く持っている<世なおし>の思想を、教団の膨張にともなう様々の妥協を排して極限化すればどうなるかを、思考実験してみたいということにあった。表題を『邪宗門』と銘打ったのも、むしろ世人から邪宗と目されるかぎりにおいて、宗教は熾烈にしてかつ本質的な問いかけの迫力を持ち、かつ人間の精神にとって宗教はいかなる位置をしめ、いかなる意味をもつかの問題性をも豊富にはらむと常々考えていたからである。 ・・・・ ここに描いたものは、あくまで『さもありなむ、さもあらざりしならむ』虚実皮膜の間の思念であり、事件であり、人間関係である。・・・」
高橋和巳は大阪市浪速区生まれ、実母は熱心な天理教の信者だったらしい。「邪宗門」を執筆するにあたって天理教、大本教、創価学会など戦前・戦中に弾圧された教団史を綿密に取材したようだ。
小説に登場する架空の神道系新興宗教「ひのもと救霊会」は、外形的には大本教を主たるモデルとしているが、著者によると「あくまでも、さもありなむ、さもあらざりしならむ、虚実皮膜の間の」思考実験なのだという。「世直し」を標榜する新興宗教の叛乱は、学生運動家の期待する「反体制」的な要素をはらみながら出発するので、教団が次第に膨張する過程で必ず権力との葛藤に晒される。これを徹底して非妥協的に突き進めると、どうなるか。それを高橋和巳の観念の中で展開してみた、ということなのだろう。自由奔放な大衆宗教運動の下からの伸長と、反対に上から民衆を管理しようとする権力の本質との間には、原理的な対立関係が発生するということのなのだろう。たちまち異論が出てきそうだが、まずは著者に敬意を表して謙虚に読み解きたい。
特に作品中で、第3代教主の千葉潔の時代に絶望的な武装蜂起を試みて「三日天下」で鎮圧され壊滅した顚末が、後の「オウム真理教」を予言するような展開だったので、一時話題にもなった。私は、高橋が中国文学の専門家であったことから、大陸の王朝交代期に登場する農民暴動にヒントを得たのではないだろうかと想像していた。
また、私自身の記憶に鮮明なのは、高校生のとき、三島由紀夫との対談が創価学会系の月刊雑誌「潮」(69年11月号)に掲載されたことがあって、とても興味深く読んだこと。当時の私には、どちらかというと豪華絢爛たる三島由紀夫の作品のほうに魅力があった。ちょうど「憂国」を読了して日にちもたたないときに、あの「割腹事件」が勃発したので、尚更印象深い。「こんなこと、本気で考えるような人は、畳の上では死ねないだろうな」と思っていたからだ。
確か「潮」編集長の後日談(あとがきだったか)によると、屈託なく食事をしながら語る三島に対して、病み上がりなのかジュースしか飲めない体調の高橋だった」というような回顧談の記憶がある。 私の印象は、明朗快活な三島に対して、高橋という作家は(それまでまったく知らなかった)奥歯にものの挟まったような暗い口吻で、なにかすねたインテリ風だった。当時17歳の私は、あまりよくわかっていなかったのだろう。
そして、その直後(確か翌年)に三島由紀夫が突然の自決、さらに高橋和巳も結腸癌で死去したのだった。二人の存在は戦後を対極的に象徴していたのだろうか。共通しているのは、二人とも「70年安保」を前後して死んでしまったことだ。それがひとつの時代の区切りだったのかもしれない。
これ以降の日本の若者文化は、社会意識や思想性がしだいに退潮して、何か弛緩した「低迷期」に陥ったのかもしれない。
そうすると、さしずめ私などは、その「低迷期のはしり」にあるのだろうと思う。

たぶん、小学校の6年生の頃だったか、我が家のすぐ裏隣に、不思議な初老の男性がひとりで住んでいた。
そこは鳩小屋のような外見の狭い住居で、金網のようなものが軒下に張り巡らされていて、戸外と室内とを分けていた。その人は金網の内側から、日がな一日じっと外を凝視して座っていることが多かったように思う。白髪交じりで伸び放題の長髪を後ろに束ね、からだは小太り、眼は猛禽類のように炯々として鋭かった。部屋は日中でもうす暗く、汗臭いすえた匂いがした。
この「変なおじさん」の奇怪な話を聞くのが面白いので、学校が終わった後よく遊びに行ったものだ。子供らしい怖いもの見たさだったのだろう。
話の内容はあらかた忘れてしまったが、このおじさんは山奥で修行に励んで神通力のようなものを得たのだという。今から思えば、いわゆる山岳宗教の「修験者」(行者)だったのかもしれない。
その話によると、人の病の原因は悪霊(悪い「気」か)のしわざで、その悪霊を取り除く術を身につけたのだという。見ていると、人の病気を治すため患部にに掌をあて、半眼で一心になにかを念じる。呪文を唱えていたかもしれない。すると反対側の手をすっぽり包んでいるビニール袋が少しづつ膨らんでゆくのだ。病人の患部にあてている手から悪霊が吸い取られて反対側の手に移動するのだ。患部に当てている手のひらからおじさんの腕や両肩、そして背中を経由して、反対側の手を包むビニール袋に移るのだという。不思議なことに、確かにその黒いビニール袋が、時間をかけてゆっくり膨らんでいくのだ。これは何回も実際に見た。
このとき悪霊(悪気)がおじさんの背中を通過するので、本人はその冷気でぞくぞくすると言っていた。私の目には何もみえないのだが、おじさんは、ありありと感じているようだった。何回見ても、子供だましのトリックなのか、本当に起きていることなのか、判断はつかない。子供心にも「インチキ」ではないかと疑ったが、どうしてもごまかしは発見できなかった。膨らんだビニール袋の中に「悪霊」を閉じ込めたのだという。部屋の中には、その膨らんだビニール袋が無造作にいくつか転がっていた。あの袋がその後どう処理されたのか、記憶にない。おじさんは、いわゆる「拝み屋」さんだったのだろうか。手かざしではない。不思議な光景だった。
この人は近くの銭湯でもよく見かけたが、その場で出会った見知らぬ他人にいきなり言葉をかける癖があった。そして、その相手の人がいま何を考えているのか、あるいは何に心を奪われているのか、何か困ったことがあるのか、好きな食べ物、来歴など、その場でぱっと即座に言い当てるので、気持悪がられているような様子だった。脱衣場で親子でいたとき、私が「あんたのお父さんは頭がいいなぁ」と言われて、父はまんざらでもない気分のようだったことが、今思い出しても微笑ましい。なにの根拠もない。
ある日遊びに行くと、見知らぬ白髪老齢の女性が、くだんのおじさんが住む「鳩小屋」の前の、小さな家庭菜園風の庭を箒で掃除していた。見かけぬご老人なので、何をしているのかと思って見ていたからだろう、子どもの私に向かって「・・・お陰で病気を治してもらったから、せめてものお礼に掃除をさせてもらっているのよ」というようなことを話しかけてきた。和服姿で、品の良い老婆だったことを記憶している。おじさんの「鳩小屋」の隣は、キリスト教の教会で、牧師の娘は中学校の同級生だった。
この「修験者」(行者)のおじさんはある時、自分はいずれ東京の国会議事堂に出て国民向けに大演説することになっているのだと、真顔で私たち子どもに語っていた。
あれから半世紀以上は経たから、もうその「修験者」もこの世にはいまい。(あるいは神通力で、今もどこかに生きているのだろうか)もちろん、国会で演説などはしていないに違いない。
高橋和巳が「邪宗門」を創作するに当たって、大本教の創始者出口なおや、教祖の出口王仁三郎などの「霊能者」をモデルにしていることは良く知られている。
出口なおは、現在の京都府福知山市に天保年間に生まれた。極端な貧困と、言うに言われぬ家庭の不幸のなか、明治25年頃に「神がかり」になって、さまざまな宗教や行遍歴の後に、大本の信仰対象となる「お筆先」と呼ばれる言葉を多数残したという。「神がかり」という言葉で、子どもの頃に見た、あの行者を思い出した。
大本の信仰は、開祖なおの不思議な神がかり体験がひとつの原点なのだろうと思う。その後継者になった出口王三郎という人は、様々な人生遍歴を積んだスケールの大きな人物だったようで、正規の神道儀礼も学んだらしい。そしてなおと出会い、末娘と結婚した。なおの教えは、この非凡で多彩な能力を持つ義理の息子を得て、教団に組織化され急速に発展したようだ。教団自身の説明によると
「・・・・大正初年における大本は、信徒数1000人にみたない綾部(京都府)の一地方教団にすぎなかった。しかし、第一次世界大戦後の変動期において、大本は異常なまでの成長をとげた。1917年(大正6)年の1月に機関紙『神霊会』を発刊していらい、『大正維新』をスローガンとして、鎮魂帰神とはげしい予言・警告にもとづく強力な宣伝を展開した数年の間に、大本はめざましい躍進をとげ、その発展ぶりには目をみはるものがあった。・・・・」(「大本事件史」 昭和45年8月刊)
「世直し」を標榜した大本の、教団発展を担った王仁三郎という人物は「邪宗門」では「ひのもと救霊会」の教主、「行徳仁二郎」のモデルとなった。
江戸時代の末から明治期に至る激しい社会変動や、過酷な自然災害、飢饉、疫病の発生などで塗炭の苦しみにあった民衆の願いに応じて、黒住教、金光教、天理教、丸山教などの新興宗教が続々登場して多くの信者を得たことはよく知られている。その宗教現象については、専門的な研究の蓄積があるようだ。幕藩体制の権力構造に組み込まれ、体制に保障され既成化してしまった伝統教団が、生きた宗教としての救済力を失っていたからでもあるだろう。
いわゆる専門家の研究態度は、宗教が発揮した社会現象を犀利に分析しているのだろうが、信仰や呪術そのものの内容について、とくにその不可思議な「効果」については、用心深く立ち入らない。合理的な説明がつかないから扱いにくいのだろう。宗教的な体験は、学問の対象とは別次元と考えられているのだろうと思う。小説「邪宗門」も信仰の内容には、あまり深い入りしてはいないと思う。
いわゆる「啓蒙主義」は、合理的に説明のつかないことを、学問の世界からきれいに排除した。とくに西洋の合理主義が紹介された明治以降はむしろ、「いわしの頭も信心から」と揶揄する言葉があるように、宗教を非科学的な「迷信」とみなす傾向が根強い。新興宗教の膨張を無智な民衆の「ご利益信仰」などと侮蔑することが多い。
こうした「科学的」な態度は、新興宗教の発展を社会現象のひとつとみなして、合理的説明を試みるものの、それはひとつの側面を突いているに過ぎないと思える。主観的な「信仰」それ自体を解明する方法ではないからだ。逆にいうと、なぜ新興宗教がかくも広汎な民衆の心をつかんだのかを、すっきりと納得できる説明はできないのではないだろうか。隔靴掻痒で、不全感が残る。
むしろ「客観性」を装う安全地帯から、高みの見物をしているようにすら見える。「信仰と合理的精神は両立しない」という考えが疑問の余地の無い前提になっているからだろう。しかし、本当にそうだろうか。
「科学的合理主義」の限界が指摘されて久しい。宇宙や自然の不思議は未だに何も本質的には解明されていない。むしろ、ますます謎は深まっているといえるのではないだろうか。人生や社会は不合理に満ちているし、一瞬先のことも予測不能だ。だから不安の種は尽きないし、我々はいつ襲ってくるかわからない「大災害」にいつも怯えている。だから「不安」を煽る詐欺商売まである。
科学は眼の前にある事実の「時系列的な因果関係」を精緻に説明できるが、なぜそうであるのか、という存在論的な疑問にはまったく無力だ。hawは説明できてもwhyにはきちんと解答できないことのほうが多い。
以前、テレビでたまたま「大本教の弾圧事件」をテーマにした教養番組を興味深く見たことがあるが、弾圧の原因について、専門家の客観的な説明はなるほどよく分かったものの、ある種の本質的な説明が抜けているようにも感じた。うまく表現できないが、社会科学的な視点からの分析だけでは、信仰そのものの持つ生々しい「迫力」があまり伝わってこないからではないだろうか。宗教現象を「客観化」する操作過程で何か大切なものがすっぽり抜け落ちている。客観性の盲点なのだ。ちょうど本来は信仰の対象である仏像を美術品として鑑賞する行為に似ている。わかったようで実はわからない。
国家権力が血相を変えて弾圧しなければならなくなったほどの存在感を、なぜ宗教教団が持ったのだろうか。
公共の電波だから、信仰の内容まで立ち入ることには限界もあるだろう。
つまらない難癖をつけるつもりはないが、肝心なものを欠いた説明では、「さもありなん」という程度の感想に終わってしまう。
宗教の究極は信仰という「主観体験」の世界だろうから、客観的な説明に限界があるのはやむを得ないと思うが、実は人間にとって本当に切実なのは、なまなましい存在実感の話なのだろう。生身の人生は「剥製品」を眺めているようなわけにはいかない。私たちの人生は「一人称」なのだ。他人の話ではない。信仰心は温かい血肉の通った、当事者の生身の話なのだ。人生の切実な問題を他人事や二人称で語ることには限界があるだろう。
なぜ自分がこんな矛盾に苦しまねばならないのか。こんな不条理な世になぜ生まれ会わせたのか・・・・こうした存在論的な疑問や問いかけに対して「精子と卵子の合体」などという生物学的な説明を与えても、本当は何も答えていないに等しい。自分自身が「人生ゲーム」の駒なのだから。
この分野に科学的態度は無力に近い。むしろ、お門違いと言うべきか。核分裂から膨大なエネルギーを取り出す技術を開発できたものの、それが使い方次第で自らの大厄災になって還って来るという事態は、人間存在の深淵に潜む「矛盾」が潜んでいるというべきなのだろう。「想定外」という都合の良い言葉が3.11で使われたが、なぜ「想定外」に見舞われる人とそうでない人の差があるのだろう。自分が被害者なら「想定外」という説明では納得できない。
生きることに困難を感じている 人は、自らの腑に落ちるような理由(いわれ)や、切実な救い(苦しみからの解放)を求めている。だから神話や伝説の役割は大きい。いわゆる「因縁話」も大事な場合があるのだろう。そのとき、眼に見えない世界への感受性が大きな意味を持つツールになるのではないだろうか。今起きている現象を動的に直感し理解する感性も必要だろう。しかも安易な主観主義に陥らない方法を宗教は「修行」や「作法」(儀礼)として育ててきたのではないだろうか。
宗教が説く世界では、人生に偶然や例外はない。すべてが厳密な因果関係にある。すべてが必然の理の顕現とみる(実感する)のだろうと思う。そうでないと存在の不安や空虚感は根本的に解決しない。いな、すべてが偶然だとする主張もある得るだろうが、これをたんなる情緒ではなくて意思的な虚無観として貫徹し生きることには、かなり大きな心的ストレスが伴うだろう。その緊張感や孤独に耐えられる人は少ないと思う。「苦しいときの神頼み」と揶揄されても、やはり神仏に祈願する行為はなかなか捨てられない。「はやぶさが」が軌道から消えたとき、最先端の科学者がすべての人事を尽くしたうえで、神社に祈願したことは興味深い。
優れた宗教経典がしばしば象徴的な「物語り」とか「韻文」であるのは、そのメッセージが宇宙と人生の存在理由を説き、救いを与えるためのひとつの有効な方法だからなのかもしれない。大本や天理教の場合、それは開祖の「お筆先」に該当するのだろうか。そして、その解釈が教義に発展したのだろう。
宗教には必ずなんらかの「修行」や「儀礼」を伴う。観念の操作だけでは、人は何も変わらない。道徳や精神修養、あるいは教訓話などは、おのずから限界があるだろう。そんなものでは、変わったと錯覚するか、「したり顔の偽善」に陥る危険性を排除できないように思う。
あらゆる宗教の核心部分には、まことに生々しい心身全体的な体験があると思われる。自分が体ごと没入して、「実感」を得るしかないのものだろうと思う。ただ、人格の根本的な変容を起すわけだから、ある面とても危険で、場合によっては「命」をともなうような行為だと思われる。きちんとした指南役が必要なのだろうと思う。だから、修行は必然的に「師弟関係」で導かれる。「先達」が必要なのだろう。
難しいのは、「神がかり」と「狂気」との境界が、いかにも曖昧に見えることだ。
高橋和巳は勃興する宗教勢力には、個人の救済だけではなくて、広く「世直し」への強烈な志向性が顕現する場合が多いと指摘する。文字もまともに読み書きできないような庶民がこれと思い定めて、その強い信心への情熱を結集したとき、これを巨大な「体制変革」のエネルギーに汲み上げる組織家が登場する場合があると考えた。学生運動家たちの関心の所在も、ここにあったのだろうか。
幕末から明治、大正、昭和初期にかけての変動期に登場した様々な新興宗教は、時代の闇が深ければ深いほどに、苦悩する民衆の間で新鮮な「信仰の威力」を蓄積したのだと思う。それを「歴史の裏側」などと見下すのは、自分を不遜な「高み」に置いて、民衆を見下した態度ではないだろうか。いわゆる「歴史」の表面の記述に載らない「民衆の真実」は、社会科学的な分析手法だけでは十全に掬いきれないのだろうと思う。
子どもの頃に見た、くだんの修験者のような話は昔の庶民の間ではもっと多かったのだろう。切実な苦悩のなかで、藁をもつかむ思いで拝んでもらったり、自ら修行したり祈ってみたら、病が治ってしまったなどという主観的な「実体験」が本当にあったのだろう。だからこそ、新興宗教がこんなに大きくなったのだと、ひとまずは素直に事実を受け入れるほうが、よほど「科学的」「合理的」な態度だと言えないだろうか。そうしないと、こんなに隆盛した原因を、それこそ「科学的」に説明できない。
確かに、いかがわしい似非宗教や詐欺商法も多いので、「主観」だけに閉じる危険性はある。映画「自転車泥棒」にも、大戦直後のイタリアの貧困のなかで、いかがわしい占い師が登場していたが、決してすべての信者が愚かな「迷信」に嵌って騙されている、ということだけでもないようにも思う。
もちろん、宗教を判断することはとても難しい。普遍妥当的で理性的に洗練された判定基準のようなものがないからだろう。そこで俗悪週刊誌が、これは売れるとばかりに、鵜の目鷹の目で新興宗教を書き立てる。あるいは「ひのもと救霊会」のように、当局側の意図的なネガティブ・キャンペーンに動員される。
子どもの頃に見た「修験者」の、摩訶不思議な呪術や洞察力、あるいは信心の威力のような、合理的に説明のつかないものの「効果」については、「ある」とも「ない」とも即断しないという抑制的な態度が、とりあえずは合理主義の適切な姿勢ではなのだろう。全共闘運動の理論的な根拠だった「マルクス・レーニン主義」という思想の大前提は「唯物論哲学」なので、「唯心論」の典型みたいな「宗教」は、不合理な因縁話や因果論を説く「迷信」だと単純に見下げられていた。だから、宗教はもはや淘汰されるべき「過去の遺物」に過ぎないという考えが当時の学生一般の通念だった。しかもそれは、現実の階級矛盾からしばしば民衆の関心を彼岸の世界にそらす「反動的な装置」、つまり「阿片」だと、よく糾弾されていたと思う。
マルクスは「ヘーゲル法哲学批判・序説」のなかで、「・・・宗教上の不幸は、一つには現実の不幸の表現であり、一つには現実の不幸にたいする抗議である。宗教は、なやめるもののため息であり、心なき世界の心情であるとともに精神なき状態の精神である。それは民衆のアヘンである」と指摘した。小説「邪宗門」でも第14章「四面楚歌」に典型的なマルクシストの批判が記されている「・・・・・中国の王朝交替の歴史が教示するごとく、黄巾の乱、白蓮教徒の乱、さらには太平天国など、道教、仏教、キリスト教などの宗教家に指導された百姓一揆は、それが何ほどかの成功をおさめた際にも、遂に社会経済史的な何らの変革をもたらしえないことは、歴史がこれを証明する。いっさいの宗教は、これが宗教であるかぎりにおいて、被搾取者に忍従を教え、結局は権力者と取りひきして私腹をこやす以外のなにごとをもなしえない。民衆の憤激を組織化するかにみえてその方向をそらせ、教化するかにみえて愚蒙をおしつけるもの━それは宗教である・・・」この批判は、確かに現在でも相応に説得力があるとは思う。
無知蒙昧の「民草」は意識が低いので、まずは目覚めた「前衛党」が先頭に立って革命を指導するのだ、というような考えだった。
しかし、個人の救済に留まらず広く「世直し」「立て替え」を果敢に唱えて急拡大する新興教団の勢いは、現にある体制を根柢から揺るがすパワーを持っている。大本教が過酷で大規模な弾圧を受けた原因も、ここにあったようだ。流行の学生運動など足元にも及ばない。それは広範な民衆の生存に深く根を下ろして活力を汲み上げるからだろう。そこに宗教としての「威力」があった。
小説「邪宗門」が朝日ジャーナルに掲載されていた頃、学生の間では「唯物論」が優勢だった。にもかかわらず、この小説はなぜか当時の多くの活動家学生から熱心に読まれ、議論されていたのも興味深い現象だった。
しかし、学生の間で流行した「史的唯物論」は、「流行」である限りおいて、やがてあっさりとキャンパスから退潮した。そして活動学生のなかには立派な「モーレツ社員」に「変身」した人が多かった。やがて「マルクス・レーニン主義の総本山」ソ連は崩壊消滅し、実利を大切にする中国大陸の人々は「社会主義市場経済」などという論理矛盾の国策を、恬として恥じない「おとな」の経済大国になった。
いっぽう「宗教」は今もなお、しばしば世界秩序を揺るがす威力を失ってはいない。むしろ、よくみると、ますます世界規模で人心を揺るがすパワープレーヤーのひとつなのだ。

高橋和巳が創作した「ひのもと救霊会」の宗教的な原点には、開祖である行徳まさの「神がかり体験」がある。その「神がかり」を促した背景には、彼女の言語に絶する悲惨な人生があった。
彼女を含め、当時の農家の貧困は、明治中期の日本がとった松方財政によるデフレ政策が一因だった。このため米をはじめとする農産物価格が暴落し、やむなく土地を手放して小作人に転落したり、都会に貧民として流れ込む農民が多数発生したという。この時期には全国各地で、追い詰められた農民の大規模で絶望的な暴動事件も頻発した。その犠牲のうえに「富国強兵」策が強行されたのだという。
行徳まさの身に起きた不幸に託して、今日では想像しがたいほどの貧窮ぶりが描かれている。つい90年ほど前までの、いわば「日本社会の底辺」のリアルな実像を映しているのだろう。
・・・安政2年生まれの行徳まさは、この時代の日本のどこにでもいそうな平凡な農婦だった。
悲惨な生い立ち、家庭の不和、絶望的な貧窮に追い詰められた挙句に、「・・・彼女は6つになる児をつれて山中をさまよい、虫を食い蛇をとらえて食い、そして次に山から降りてきた時、子供の姿はなく、目をらんらんと輝かせて、何かわけのわからぬことを叫びながら町を歩いた。もっとも常時錯乱状態にあったのではない。平静にもどると、彼女は遊里に売り飛ばされた長女や質屋にあずけられた長男や、姉にあずけた次男、子守に出した次女・・・・とたずね歩いた。だが、遊里の長女は母に会おうとはせず、長男は奉公先から出征して日清戦争で死に、次男は姉の家を飛びだして行方不明になり、次女は奉公先の虐待にたえず縊死していた。・・・・」という地獄絵図。
やがて「・・・半狂乱の女がつぎつぎと(寺社を)叩いてまわる姿がみられた。病を治してくれというのでもなく、自分が救われたいというのでもなく、奇妙な質問を執拗に発し続けるのである。6人の子を生んで、4人に先立たれ、残った子にも背かれた母親の命になんの意味があるのだろうか、と。なぜ長男は戦死したのか。なぜ長女は娼婦になり病毒におかされて死んだのか。なぜ次男は行方知れずになったのか。なぜ次女は地主の納屋で首をくくったのか。なぜ三女は末子を餓死させたのか。その三女は山でどうなったのかを彼女は言わなかったが、それよりそんな奇妙な質問をまともに答えてやる者はだれもいなかった。宗教家のところだけでなく、教育者や社会事業家、あるいは政党の演説会にも、その乞食女は現われて、弁士に向かって、とつとつと、しかしある迫力をもった声で同じことを問いかけるのだ・・・」
21世紀に生きる我々には、ややどぎつい描写かもしれないが、こうした生存ラインギリギリの境界線上を彷徨した人は、これまでの人間の歴史に、実際数え切れないくらいたくさんいたのだろうと思う。だから中世の「地獄草子」や「餓鬼草子」には、そうした生々しさが描かれている。決して空想の産物ではないのだろう。
そして今も、世界を広く見回せば、この物語が決して昔話とは言えないような、まさに地獄絵図さながらのなかで呻吟している人々は多いと思う。しかも貧困や自然災害だけではない。最近の中東やアフリカで見られるように、長期化した内戦で大量に発生した難民の余りにも惨めな姿は、あきらかに「人災」であり、それはただいま同時進行の出来事だ。
まるで民族大移動を彷彿させるような、危険な海を渡る大規模な「逃避行」。どれほどの恐怖と苦しみだろうか。自分だったら耐えられない。
不安や絶望が深ければ深いほど、信仰が先鋭化し、過激な行動に走る人も出るだろう。そして、なかにはある種の人格変容や精神の変調を起こす人がいたとしても、少しも不思議ではない。その中からまた新しい「武装過激派」が生まれのだろうか。これを力だけで抑え込もうとしても、やはり限界があると思う。
本文にもどろう。 「・・・やがてふたたび開祖(まさ)は山に入って姿を消し、今度あらわれたときには、怪しく人をひきこむ抑揚で、人の悩みを射当て、人の病を癒す祈祷師となっていた。・・・」
開祖まさの行った神がかりの祈祷や身替わりの法については、具体的な記述は少ないが、私は子どもの頃に怖いもの見たさで瞥見した、あの男性の行者を思い出す。そして実は、仏教やキリスト教のような高度で普遍的な宗教でも、それはお化粧を施された今日の姿であって、そもそもの原点には、こうした土俗的な神秘体験や奇蹟が基本にあったのではないかと思う。そこに信仰のある種、威力があるはずだ。
いずれにせよ、自然災害や社会矛盾のしわ寄せを一番被る最も弱い立場の人々に、温かい救いや蘇生の癒し、そして前途への希望を与える救いは、宗教の原点なのだろう。それは生身の生活のなかに息づく。それを「ご利益信心」と、高みから冷笑することには、一種の「傲慢」があるのはないだろうか。
もちろん、歴史の試練に堪えて生き残った普遍宗教は、ただたんに土俗性に閉じこもるのではなくて、深い思想性を開拓し、質的に洗練された姿なのだろう。それでもなおかつ、核心には生身の人間の救いに直結した熱く純粋な「信仰の炎」を継承しているのではないだろうか。日本では江戸時代の寺請け制度によって制度化され身分保障されたために、宗教としの救済力を失い信仰が形骸化して魅力を失ったことが伝統教団の低迷の原因だった、と学んだおぼえがある。政治的には体制の補完勢力に転落して堕落した。
小説「邪宗門」は、昭和初期という暗い世相の日本を舞台に発生した、想像上の教団の運命を描いたものといえる。
著者は、北京都の大本教を基本のモデルに創作したそうだが、その他の幕末・明治期に登場した新興宗教の発生過程や、専門である中国史上の、信仰を纏う農民暴動なども考えあわせて創造したのだろう。だから宗教とはいっても、かつて国家護持を担った仏教のような、整然たる体系化された教義はない。若干の末法思想を色づけしてはいるけれども、従来からひろく民間にあった土俗的で素朴な自然崇拝や、超常体験を含む雑多な信仰儀礼を構成要素にしているようだ。従って、先行する新興宗教の雑多な神概念や、山岳信仰の修行などの要素も混交している。主に戦後に登場した都市型の新宗教とは違って「ひのもと救霊会」は、北京都という農山村地域を基盤に発生した教団だったことも、その性格を構成するひとつの要素なのだろう。当時、国民の60パーセントが農民だった。
だからこそ、民間に深く根ざしているともいえるが、そこにはある面で不合理な「迷信」とみなされる非合理性も介在するのだろう。当時の支配的な社会通念や常識、あるいは道徳観念(それらがすべて超時代的に正しいとはかぎらないが)からみて、その許容範囲を逸脱しているとみなされやすく、そこを意図的に衝こうと狙う側からは、容易く「淫し邪教」のレッテルを貼られ攻撃される弱点もあった。その場合、ことに大衆の劣情におもねる興味本位のマスコミが悪宣伝を垂れ流す。そのうえに「異端」「少数派」に対する地域や職場の偏見や差別の圧力が増幅する。最初期の「ひのもと救霊会」に集団入信した人々のなかには「新平民」の人々が多かった。それが排除の感情をなおさら煽った。こうしていったん「非国民」と烙印されたとたんに、教団はもとより信者個人も容赦なく周囲から厳しい差別に晒され、孤立・疎外させられた有様が描かれている。
「ひのもと救霊会」は、すでに故人となっていた開祖・行徳まさと現教主の行徳仁二郎の2代、わずか30年余の歴史で急拡大した教団だった。そしてかつての封建領主の城郭跡を買い取って、そこに教団本部の大規模な神殿を荘厳するまでに発展していた。
開祖まさの神秘体験や加持祈祷だけにたよる宗教活動は、まだいわゆる「拝み屋」の段階だったが、これを後継した第二代の行徳仁二郎の時代には名実共に「教団」へと発展したのだった。それは仁二郎の非凡な事業経営能力が発揮されたからだった。確かに彼は世俗に通じ、多彩にして融通無碍、変幻自在の姿を演じる組織者のように描かれている。
仁二郎は、青年時代に家出して10年に渡る詳細不明の流浪生活を経たらしい。その素性にはある種いかがわしさがあるが、それを曖昧に糊塗して粉飾し、逆に自己の「神秘化」に利用するという才知を持っているようにも見える。大衆の組織指導者としての統率力や包容力、事にあたっての決断力に恵まれた男は、同時に人情の機微に通じた巧みな人心収攬術を備えた人物でもあった。つまり、典型的な「新興宗教」のカリスマ指導者らしく描かれている。それはある面で「詐欺師」すれすれのキャラクターだ。
信徒数100万を呼号する大教団は、当然ながら治安当局の警戒心を大いに刺激したのだった。権力の側に立つものの思いあがった「お上」意識がある。ましてや折からの世界不況のなか、戦争への道をひた走るための統制・・・・国家総動員体制を、一層強化せねばならないご時世にあった。
民間から立ち上がった新興宗教で、個人の救済に留まらず開祖以来「世直し」や「立て替え」を唱えて急速に膨張した教団は、出方しだいでは「国体」を脅かす危険性を疑われた。一般の大衆信者だけでなく、教主周辺のブレーンには帝国大学の教壇にあった学者、医師などのインテリ、士官学校出身の軍人もいて、折からの「昭和維新」とも気脈を通じている気配もある。病院を経営し、信者相互の協同による工場生産現場を構え、場合によっては信者の多い職場の労働争議にも関与するといった、社会的影響力のある存在だった。
「ひのもと救霊会」は、こうして治安維持を司る特高の過酷な弾圧を蒙ることとなった。昭和6年に2回目の大弾圧を受けた教団は、不敬罪、治安維持法違反などを問われ、教主行徳仁二郎と幹部、地区司祭(都道府県の支部長格)ら9名が検挙された。そして開祖まさの「神がかり」が生んだ口述の聖典「お筆先」の文言が国体に沿わないという理由から、その一部改竄を獄中の仁二郎自身が当局に妥協して許容し、事実上「転向」してしまったのだった。「お筆先」は絶対帰依の信仰対象であるだけに、教団の存立基盤を揺るがす深刻な事態であった。
こうして父仁二郎が獄中で「転んだ」とは知らない長女阿礼17歳やその妹阿貴のもとに、身元不明の14歳の少年・千葉潔が転がり込んでくるところから物語は始まる。
「・・・この(ひのもと救霊会が所在する)町は元来、絹織物の産地として知られ、木材をはじめこの地方の集散地として発展した。・・・だが、たび重なる不幸な事件(弾圧)のために、・・・(今は)まったく活気が」ない。
「・・・不幸の第一は昨年、つまり昭和5年の全国的な豊作飢饉だった。・・・昨年、米の収穫高の予想が、過去5ヵ年の平均の一割を上回る豊作だと発表されたのをきっかけに、米価が大暴落をはじめ、・・・失業して帰省した働き手を無為にかかえこんで(ひのもと救霊会を含む)近郊の農村はよどんだように動かなくなった。・・・」
ストーリーは、国家権力の弾圧に呻吟し動揺、やがて衰退しゆく「ひのもと救霊会」の人々と、心に深い「原罪」を背負っていながらとうとう最後まで信仰を持ち得なかった信者2世の千葉潔が、それにもかかわらずある目的をもって3代教主を「僭称」し、教団全体を破滅的な武装蜂起に導く滅びの物語だった。
暗い出だしで、前途の希望のなさが予測できるし、読んでいてしばしば心が塞ぐような救いのなさを禁じえない。それは未曾有有の敗戦へと向う、昭和初期の日本社会の閉塞感・衰亡観をも反映しているからかもしれない。
とともに、著者の視野は本筋の周辺に多角的な社会テーマを配した様々なメニューを啓蒙的に提供してくれている。当時の読者の多くが大学生など若い世代であったことも反映しているのだろうが、今日からみても、ひとつひとつが相応の思考実験に値するテーマだと思った。 
 
私論 2 

 

原発立地自治体の首長は、自分勝手じゃないか
今朝の朝日新聞一面・三面には、原発再稼働について「周辺自治体の同意を必要とするどうか」についての自治体の長に対するアンケート結果が掲載されていました。
周辺自治体に聞くと、必要が54%、不要が15%、立地自治体に聞くと必要が9%(3自治体)不要が38%(12自治体)とのことです。他は選択せずという回答で、多分判断保留ということでしょう。
判断保留という首長は、無責任だと思います。周辺自治体首長の不要15%というのは私には理解できません。判断留保(お任せ)と言うことかなと思います。判断保留を除いて、多数で言いますと、周辺自治体が「俺たちにも判断させろ」と言っているのに、立地自治体が、「いやおれたちで決める。君たちは口出すな」と言っていることだと思います。
立地自治体の首長の意見は、自分勝手と思います。一旦事故が起これば、周辺自治体に被害が及ぶのは明らかです。福島第一の事故は、周辺自治体どころか遠くの自治体の住民まで影響を及ぼしました。日本自体の評価の低下や電気料の値上げを考慮しますと全国民に影響しました。
全国民への影響と後世代への負担(放射性廃棄物の処理ー現在見通しまったくなし)を考えるなら、国民投票で決めるべきことです。立地自治体の脱原発の支援もしなければならないからです。なぜなら、全国民の多数意思で脱原発と決定すれば、これまでの原発推進からの大転換ですから、立地自治体の不利益も生じるだろうからです。
日本国民は、国民投票で決定する運動すべきです。私は、次の選挙では、原発全廃を言う政党を支持しますが、国民投票で決定するという政党も場合により支持します。
現政権は再稼働を目指しています。そのため、再稼働に関しては、「自治体の理解を得る」となっていますが、法的には不必要とのことで、自治体の範囲も明示してないそうです。(朝日新聞11/4キーワード)
まったくずるい無責任な政府です。安全面は、原子力規制委員会に任せ、地元の同意は、どこまでの同意が必要か明示しません。しかも避難計画もは地元任せです。実際完璧な避難なんて出来っこありませんよ。そうすると事故なんて起きないよ、と言う安全神話の復活ですか。こんな政府をつくった政党を支持するのは止めましょう。
話を戻しましょう。こんな国民やこんな政府のもとで大変申し訳ないのですが、それでもやはり、立地自治体の長は、周辺自治体の意見も聞くべきなんじゃないでしょうか。繰り返しますが、事故が起これば周辺自治体に迷惑をかけます。避難では周辺自治体のお世話になるはずです。立地自治体に入るお金は、全国民の電気料金からもらっているものです。
原発停止で原発関連の雇用は失われているでしょう。その雇用が生む需要も落ち込んでいるでしょう。困ることだと思います。
しかし、「俺たちは困っている。だからこうする、周りは何も言うな」は、身勝手すぎると思うんです。周辺自治体が、再稼働に反対となったとします。そしたら周辺自治体と一緒に、電力と日本国に「俺たち、他に迷惑かけたくないんで再稼働認めない。だから脱原発のため、支援してくれ」と言えばいい。国民はそれを応援すると思います。脱原発を支援する、そんな政府を作ればいいと思うんです。
少なくとも周辺自治体の意見は聞いてください。
話は変わって、(本当はこちらを書くつもりだったのですが)高橋和己「邪宗門」について書きます。
ブログ知人のエポム様に古処誠二を紹介され、読んでいく中で「ルール」に当たりました。これは、太平洋戦争フィリッピン戦線での人肉食の話です。いや正確には、軍隊の本質とか人間のあり方とかを人肉食という極限状態から描いたものと言えると思います。
この人肉食の話で、高橋和己「邪宗門」を思い出し、今再再再読をしています。「邪宗門」は、大学4年の時、二日二晩ほぼぶっ続けに読んだ本でした。そんな経験は、それ以前もそれ以後もありません。その後壮年時代に2度読みました。今高齢者の入口に立ち、読み始めましたが、まだ半分くらいしか読み進んでいません。
「おなつかしゅう」「おかえり」・・・この小説の舞台である新興宗教「ひのもと救霊会」(勿論仮想の宗教団体です)の挨拶です。この宗教集団では、初対面の人に対しての挨拶もこうなんです。
20数年ぶりに「邪宗門」を読んで私は、懐かしい人々にあったと思いました。特に女性です。行徳まさ、行徳八重、行徳阿礼、行徳阿貴、堀江駒、堀江民江、赤木かずこ、・・優しく強い、あるいは強く優しい(阿礼は強く強くかな)人々でした。男では、佐伯医師、西本園長、植田克麿、吉田秀夫。主人公千葉潔、教団第二代教主行徳仁次郎、新聞顧問中村鉄男、最高顧問加地基博、足利正、・・・教団の運命を左右した男たち、その思想・行動は、ある意味尊敬しますが、一方私は、身構えてしまいます。・・・俺は、このようには出来ないなあと。
そうです。この「ひのもと救霊会」は、戦前、大日本帝国の理念とぶつかり徹底的に弾圧され、戦後は、本当の自立・自由・平等・連帯を求めて米国占領軍とその手下日本国政府と真正面からぶつかり、壊滅した仮想の宗教集団です。
それにしても高橋和己は、すごい作家です。これを書いた時は、30代半ばです。知の巨人とは、彼のことでしょう。いや、知識・教養ではないんです。売らんかなじゃ絶対ありません。全身全霊で、自分の生き方を問いつつ書いているという気がします。
私は、高橋和己をよく知りません。読んだのは「邪宗門」と「悲の器」だけです。中国文学を専攻し、大学紛争時代全共闘を支持した京大助教授だったそうです。「邪宗門」の思想から言えば、さもありなんと思えます。その後40歳でがんで死亡とのことです。生きていて欲しかった。その後どれだけのことを書いたか?しかし、それは、高橋和己にとって苦悩の一生だったに違いありません。
「もしその時、その老婆が通りかからなければ、いや通りかかったとしても老婆に背負われた少女が発見しなければ、その少年の命はそこで終わり、一つの苦悩は蕾のままで朽ち果てていたはずだった」(少年・・千葉潔、老婆・・堀江駒、少女・・行徳阿貴(序章、その一の1)
高橋和己は、昭和史のなかでの日本人の幸せを考えるという巨大な苦悩の人であったとおもいます。 
道徳教育
現政権が道徳教育に力を入れる傾向に危険を感じる。現政権は、道徳を「特別の教科」とする方つもりのようだ。「特別の教科」とはどんなものかよく知らないが、力を入れていることに間違いないだろう。
現政権に限らず、政治が教育のことに口出しするのは、胡散臭い。その時の政権の正当性を子どもに教え込もうとする可能性がある。子ども達を特定の考えに導くのは、マスコミを抑え込もうとするよりも簡単だ。政治とは、権力行為である。権力の行為の正当性は、国民多数の意志がそれを支持したからである。しかし、多数が正しいとは限らない。何が正しいかは、多数決では決まらない。何が正しいかは簡単には決まらないだろうが、少なくともある権威が一方的にこうだと決めるものではない。いろんな考えのぶつかり合いから、より正しいものがきまると思う。子どもたちは将来の主権者である。彼らがどのような考えを選ぶかは、彼らの自由である。大人は彼らに判断材料を与えるだけの存在だと思う。
今日(11.6)の朝日新聞の声欄に女子高校生の投書が載っていた。小学校三年の時の道徳で、先生の考えの押しつけがあったことを指摘していた。「売れないマジシャンが大きな仕事を断り、先に約束をしていた子どもにマジックを見せに行く」という題材で、どちらをとるか聞かれた彼女は、「子どもをとります」、と答えたそうだ。すると先生は怒ったような声で「本当にそうしますか」と聞く。次の生徒が「仕事をとる」と答えると「正直でよろしい」と言ったそうだ。これはまずい。それぞれの勝手だろう。それぞれの選択でいいのは当然だ。どちらが正しいなんていえない。権力や多数や権威者が決めることじゃない。ただ、どちらが正しいかを話し合う価値は大いにある。ある行動は、どういう考えのものかを理解し合うことはとても大事だ。イスラム国の連中の主張だって知らなきゃいけない。在特会の主張もどんなもんか知らないといけない。韓国の従軍慰安婦についての主張も知らないといけない。たとえそれを否定するにしても。
高橋和己「邪宗門」の大きな特徴は、いろんな考えかたの対立を深く描いているということである。戦前の日本国家と「ひのもと救霊会」の考えの対立、「救霊会」とキリスト教や共産主義勢力や既成仏教の考えの対立、戦後の革命について「救霊会」と左翼思想の対立、・・・。全編が問答集のような小説だ。一人の心の葛藤も克明に描いている。
その中で、一番私が興味をひかれるのは、戦後追いつめられた「救霊会」が武装闘争を決断する時の対立である。肯定派=千葉潔・行徳阿礼・足利正と否定派=吉田秀夫・行徳阿貴・松葉幸太郎の対立である。千葉と吉田は旧制三高ボート部以来の友人、阿礼と阿貴は姉妹、足利正と松葉幸太郎は志操堅固の宗教人である。いずれも互いに信頼を寄せ合うペアである。この六人とも互いに信頼し合う仲間である。いずれの人も自分の利益で動く人たちではない。こんな人々が、米占領軍・日本政府と武装闘争に入る。
高橋和己は、一つの思想・行動に対して別な思想・行動をぶつけている。だからこそ深みがある。だからこそ感動がある。だからこそ納得させられる。
我々もまた自分と違う考えを知らなければならない。自分と違う考えを「見解の相違」なんて簡単に切り捨てちゃいけない。とは言うものの、それは難しいけどね。
朝日新聞の投書に出てきた先生は、「子どもをとります」と言う投書主に「それじゃ、お金もらえなくていいの」と問うべきだし、「仕事をとる」という子に対しては、「子どもが泣いていいの」と問うべきだ。子ども達がどちらをとるにしても、より深い考えのもとに行動するだろう。自分と違う行動をする人の気持ちもわかるだろう。それが先生の役目なんだと思う。それ以上じゃ決してない。勿論知識の伝授と言う点では別と思うが。
「見解の相違」なんて簡単に切り捨てる首相を持つ政権は、教育なんぞに口出しするな。そんな資格はない。 
「ひのもと救霊会」が求めたもの
「邪宗門」を読み終えた。そろそろ、「邪宗門」からの卒業論文を書かねばならぬと思う。備忘のために。
高橋和己が作った仮想宗教団体「ひのもと救霊会」の根本要締は、三行・四先師・五問・六終局・七戒・八請願とまとめられる。(第一部第二〇章)三行とは、歩行・誦行・水行の修行のしかたである。(第一部第三章)七戒とは、殺してはならぬ、姦淫してはならぬ、盗んではならぬなど、仏教やキリスト教と共通する倫理項目である。宗教に限らず人の世の生きるための共通の道徳である。四先師とは、開祖行徳まさを導いた四人の恩人である。キリスト教・イスラム教・仏教各派もそれぞれの「先師」を持つ故これも特に変わったことではない。ただ、これは言っておかねばならない。4先師とは、開祖に読み書きを教えた酒のみ坊主、開祖に水と握り飯を与えた名も知れぬ樵、間引きされそうになった開祖に乳を与えた白痴の女、娼婦となった開祖の子を助けた娼婦と言うことである。あくまでも庶民、しかも身分・地位のない貧民なのである。(第一部第一章の1)
「ひのもと救霊会」を特徴づけるのは、五問、六終局、八請願である。
五問とは、開祖行徳まさが他の宗教家や教育者・社会事業家に問うた五つの問いである。それは、一生懸命生きながら、六人の子を産んで四人に先立たれ、残った子にもそむかれた母の命に何の意味があるかと言う問いである。「何故長男は戦死したか、何故長女は娼婦になり病毒に侵され死んだか、何故次男は行方知れずになったか、何故次女は地主の納屋で首をくくったか、何故三女は末っ子を餓死させたのか」(序章その二の1)
これをまともに問えば、当然社会の仕組みのあり方の問題に行きつく。開祖行徳まさの時代であれば、明治の国家社会の中の根本=寄生地主制、資本主義、男尊女卑の封建制の遺構、それと不可分であった天皇制絶対主義国家の問題に行きつく。人の平凡な幸せを追求して行けば、当然社会体制の変革=世直しを求めることとなる。その世直しのイメージは、六終局にある。これは、開祖行徳まさの予言でもある。
最後の一人に到る最後の殉難
最後の愛による最後の石弾戦
最後の悲哀を産む最後の舞踏
最後の快楽に滅びる最後の飲酒
最後の廃墟となる最後の火の玉
そして宇宙一切を許す最後の始祖(第一部第二章の2)
つまり最初から、「ひのもと救霊会」は、国家権力と正面からぶつかり武装闘争も辞せず、その結果崩壊する性格を持つ。
そして、破局の末の理想の社会のイメージは、宗旨の最大の特徴である八請願にある。
たとえ花ひらき、無量光輝く天国の眼前にあろうとも、此岸に一人の不幸に涙するものあり、一人の餓鬼畜生道の徒ある限り、我らは昇天せじ
たとえ黄金珊瑚あり、真珠瑪瑙の輝きあるとも、此岸に一人の亡者あり一人の貧者ありて、その光を眺め得ぬ限り、我らもまたその宝を見じ
たとえ目くりぬかれ耳ふさがれ、手足もぎとらるとも、此岸に一人の不義の徒あり、人を支配し、徭役し、その手の血に穢るる者ある限り、我らこの世を寛恕せじ
たとえ劫億の未来世においても、そこに一瞬のそねみの心あり、人の禍を楽しむ一点の邪心の残る限り、我ら安心立命することなからん
たとえこの世に安楽の花の満るとも、祖霊に供養されざる一人の無縁の霊あり、精霊に慈悲かけられざる一個の怨霊のある限り、我ら成仏せず
たとえ身は業病に朽ち果つるとも、たとえ金の鎔け、陽の東に没し、川の逆流するとも、我らの信心に一点の動揺あらば、神よ、我らを救いたもうことなかれ
たとえこの世栄え、積善余慶あり、万人の生活自在なるをうるも、応報の理に一点の障礙ある限り、この世はむしろ呪われてあれ 
たとえこの世の破滅し、この世の永遠に呪われてあるとも、己一人にて救わるる心あらんよりは、むしろ世とともに呪われてあらん
   (第一部第十章の1)
この宗教の目指すところをまとめれば、次のように言える。死後の幸福(極楽往生、死後の永遠の生など)を願うものでなく、此岸(この世)での理想社会を作ろうとする宗教。一人の貧者の存在も悪とし、人が人を支配することを否定する宗教。(自由・平等・豊か)生きている人全てが救われることを望み、自分ひとりだけの幸福を望まない宗教。(信頼・連帯)換言すれば、全ての人が、言葉通りの「自由で平等で豊かな連帯」社会を作ろうという宗教と言える。その方法とそれをになった人々の奮闘と悲劇が、この小説である。行徳仁二郎、八重、堀江駒、堀江民江、松葉幸太郎、強く優しい人々である。行徳阿礼、足利正、強く強い人である。行徳阿貴、優しい優しい人である。佐伯医師、西本園長、円満な常識的な優しい人である。植田克麿は、善意の人である。植田文麿、加地基博は、正義の人である。第三部の主人公千葉潔は、・・・わからぬ。これらの人々に共通するのは、誠実と言うことだと思う。中村鉄男、吉田秀夫は、作者高橋和己の分身ではないか。
この宗教は、戦前には二度にわたって弾圧されて殆ど壊滅する。弾圧の主体は、国家権力であるが、左翼勢力、キリスト教、仏教側からも批判される。と言うことは、逆に言えば、戦前の国家権力、左翼勢力、キリスト教、仏教もまた正しいのかどうか問われることとなる。戦後はどうか、戦後も「ひのもと救霊会」は、言葉通りの自由・平等・相互信頼・連帯を求めるが、占領軍・日本政府に弾圧され、絶望的武装蜂起をして完全に壊滅する。(第三部)左翼勢力・キリスト教・仏教側からも批判される。ということは、占領軍や戦後の左翼勢力、キリスト教、仏教が正しいかどうかも問われることとなる。それ以上に、「ひのもと救霊会」を見殺しにした庶民も問われることとなる。ただし、崩壊したのは昭和二一年二月と言う設定である。この時期は、日本国憲法の原案がGHQから政府に示され押し付けられた頃である。日本国憲法体制について高橋は触れていない。この時期に設定したのは、日本国憲法信奉者である私には、高橋和己の逃げではないかと思うのである。つまり、日本国憲法原案を知っていれば、「ひのもと救霊会」は、絶望的武装闘争に陥らなかったのではと思うのである。武装蜂起の直前、武力闘争を考える千葉潔とそれを否定する吉田秀夫は、緊迫した討論をする。
吉田は言う。「何度も繰り返すようだが、俺は別の方法があると思う。血を流さず、教団が志向する理想社会を徐々に築いていくこともできると思う。たとえば選挙法さえ改正されれば、選挙によって、全国的には無理だろうが、この神部地区、うまくいけば府下(京都)一帯の地方自治に救霊会の意向を反映させることもそう困難ではない。・・・それを全国に推し広めていけば・・・」
千葉「いや、それは無理だろうな」
吉田「だとしても、君の考えてる方法が可能とも思えんがね」・・・
吉田「もう血を流すのは十分じゃないか。・・・日本人はいやと言うほど血を流してきた。・・・日本人は平和のイメージを持っていない。この悲しい民族を、多少の不徹底は残しながらも、いま、宗教は、平和に耐えうる存在にするために力を尽くすのが本道だ。ひのもと救霊会は、宗教団体なんだから」
千葉「今日本人は、確かに戦いに敗れたばかりだから、もう戦争はこりごりと思っており、もう戦争など、この日本にも世界にもありえないと思っている。その希願の痛切さを認めぬわけではない。・・・今九九歩まで来ている。だがあと一歩を怠れば元の黙阿弥になる・・・」
吉田「その通りと思う。しかしねえ、君の考えたことの実現、それも非常に可能性の乏しい実現のために救霊会の人々を矢面に立たせるのは、あまりにも無残と言う気がする。・・・救霊会が過去にも現在にも特色ある一つのまとまりを持ちえたのは、それが自然発生的な地域共同体に立脚していたからだと思う。人為的な人工的な国家の権力に反抗する感情的基盤が自然に備わっていた。だが同時にそれは救霊会の踏み越えてはならぬ限界も示していると思うのだ。・・・救霊会は、資本家が牛耳ろうと共産主義者が主人公になろうと、ひたすらに集中しようとする国家権力に対する抵抗基体として、政治的には消極的なしかし生活と精神の自由は断固と売り渡すことのない団体として活躍するよう助力すべきと思う。・・・
千葉「一つの思想と言うものは、まず少数の精神に宿り、やがてその思想の実現のため、特定の団体に委任される。クリストにとっては、心貧しき人々、マルクスにとっては、プロレタリアート、・・・委任された側は、委任された理想の実現のために苦しみを負っても、その理想によって勇気づけられた半面を持つ以上・・・」
吉田「そう、その委任と言うことだ、つらいのはね、君がね、・・・君が救霊会の人々と同じ信仰を持っているなら、その委任も倫理性があるんだが、・・」
千葉「マルクスもレーニンももともとプロレタリアートじゃなかった」
吉田「それはそうだが、君だけじゃなく・・メンバー全員がやはりまず平信徒になるべきであり・・・・」
千葉「君の言うことの方が本当だろうな。・・・実際俺は今悪魔的なことを考えている。・・・」・・・
   (第三部第二三章の1)
現在の我々は、この吉田の言う「選挙による理想の実現と言う方法」を基本としている。しかし、GHQと日本国民の意思を表現した現憲法下でも、21世紀の現在になっても、真の自由・平等・豊かさ・連帯があるとは、まったく思えない。「ひのもと救霊会」の人々の問いかけは、二一世紀の今も生きている。 
安楽死
近頃米国の若い女性の安楽死が一つの話題になっている。安楽死は、尊厳死と違って自然な死ではない。尊厳死は、延命治療を断って自然に死ぬことであり、安楽死は、何らかの理由と何らかの手段による自殺死である。安楽死は、薬物等により文字通り楽に死のうとすることである。私は、自分がどう生きるか=どう死ぬかは、各人の自由と思う。家族のため十分な治療を受けての死もある。尊厳死もあるだろう、許されれば安楽死もあるだろう。自殺もあるだろう。安楽死の問題は、社会が厳密な条件をつけてそれを認めるかどうかである。結局は、医師の苦痛や犯罪(殺人ほう助罪)を回避するかどうかの問題じゃないか。
高橋和巳の<邪宗>「ひのもと救霊会」の他宗との違いの一つは、安楽死を認める宗教と言うことである。いや違うな、安楽死じゃないな。自殺そのものを肯定する。その意味では、もともと邪宗かもしれない。戦前の第二次弾圧の時、教団本部の建物から出火した。ハンセン氏病が進み全身衰弱してほとんど歩けない老人は、嫌がりもせず自分を背負って救出してくれた青年部員に感謝の礼を言い、どうか下ろしてほしいという。そして焔の中にはうように身を没する。
「なにをする、爺さん。」
「わしはこの病院が焼けては生きてはゆけんでのう」異形の頬をひきつらせて微笑すると
最後の力で背筋を伸ばし、指のかけた掌を合わせて、自ら焔の中へ入って行った。
救いとは何ぞや、安眠なり
荘厳とは何ぞや、自己滅却なり
希望とは何ぞや、虚無なり
開祖まさと教主の問答録の一節を高唱しながら、焔の前に立ちはだかり、みるみる黒こげになっていった。
   (第一部第二八章の2)
自殺を肯定する「ひのもと救霊会」は、だから、ある部分危険な面を持つ。救霊会の支部ともいえる癩病患者の島は、救霊会への弾圧と活動禁止のため維持困難になる。救霊会本部も息絶え絶えで、救霊会から救霊会を否定して分離独立し、国家主義に転じた皇国救世軍から合体の申し出がある。合体とはいっても、救霊会の根本を自ずから捨てるものだ。その相談が癩の島にもたらされる。食うために心を売り渡すかどうか?食えずに主義主張を通すか?意見は厳しく対立する。その中で、もと本部員(刑期を終え出獄)で、もと医師(医師免許はく奪)の高倉佳夫は、合体に反対して次のように言う。
「・・・私はもし、教団本部が、教団は自滅した、お前たちも自滅せよと言うなら、殺人の罪を一身に背負って、回復の見込みもなく、人間らしい生活を送れない重症患者全てに、青酸カリを与えてもいいと思っている。・・・」
   (第二部第9章の2)
高倉佳夫は、教団の精神を守ることを第一義にして、殺人と分かっていながら薬物投入をも、思想的には肯定する。これは、もし同意を得ぬなら明らかに殺人である。教団の7戒の第一不殺生戒に違反する。同意を得た場合はどうか?本人の同意を得て、絶対治る見込みがないということが証明されて、苦痛がひどい場合、安楽に死ねる薬物を投与することを、殺人罪や殺人ほう助罪に問わないというのが安楽死である。青酸カリを投与するのは、安楽と言えない。だから高倉は、現代の安楽死を認める考えにも反する行為である。
自殺でも妙に納得できるのが、戦後の武力蜂起に敗れた千葉潔達の自ら望んだ餓死である。千葉潔・堀江民江達数名の残党は、大阪のスラム街に現れる。彼らは、食事を与えられても、それを食べることを拒否する。
(佐伯)医師には、神部から逃れてきた救霊会の残党がどうするつもりなのかははっきり分かった。瞑目したまま、この世の汚濁の一切から厭離し、何も語らず、何も食わず、餓死して果てようとしているに違いなかった。医師は知っていた。救霊会は他の宗教と異って、苦しみの果てに自殺することを許す宗教であり、沈黙は、この世に終着を残さぬため、絶食は罪なき動植物を食ってきた人間存在そのものの根元(ママ)悪に対するわずかな謝罪として、むしろ密かに称揚してきたことを。医師が救霊会の経営する愛善病院長をしていた時代にも、回復の見込みのない患者の多くが、このようにして死んだのを彼は見ていた。自ら意志した平静な餓死ーそれは自己の業を断ち切って二度と苦海に生まれ変わることのない死、まったくの虚無に帰さんとする人間存在の最後の祈願として認められていたのだ
   (第三部第三十章の2)
この自ら意志した平静な餓死は、尊厳死じゃないか。いや違うな、尊厳死は、死が不可避のものとなった場合、延命治療を拒否するということだからな。人間は、罪なき動植物の命を奪い自らの命を維持するしかない存在である。救霊会の言うとおり、これは根本悪である。「命を提供してくれた他の生命体に感謝していただこう」なんて言うが、これは誤魔化しのように思う。じゃー、餓死すればいいか。いやしんぼの俺には、安楽死の真逆の最高級の苦痛死だ。生きていたんだから、仕方ないか。誰かは言った。「死と太陽は見詰めることが出来ない」と。多分孔子は言った。「われ生を知らず、いずくんぞ死をしらんや」、しかし他の命をもらって生きているなんてすぐわかるじゃないか、孔子さんよ。誤魔化しじゃないのか。・・・どうも「邪宗門」から卒業出来そうもない。 
運命共同体としての国家/日本国憲法前文
弾圧されたひのもと救霊会から、九州地区が、国家主義の宗教集団として、分離独立する。皇国救世軍である。その軍父(中心人物)小窪徳忠(元救霊会九州地区司祭)と救霊会教主行徳仁二郎は、公開討論会に臨む。息詰まる真剣勝負である。この小説のメインテーマの一つである。その討論は、結局は、国家と宗教の衝突に行きつく。軍父小窪徳忠は、開祖まさの思想を批判して言う。
「国には国の道、我らには我らの道と開祖まさは言っておりますけれども、その道がもし皇国の将来に対して全く無責任であろうとするなら、宗教人であると同時に日本人であるものとして、それを非難せざるを得ないのであります。・・・このアジアの現状にあって、神の子としての日本人の今なすべきことは、女性的な厭戦の思想から平和を唱え、強者におこぼれを乞うことでなく・・・」「・・・ひのもと救霊会のように、いたずらに女性的忍従を説くだけでは、何一つ問題は解決しないのみならず、やがては、身を滅ぼし国を滅ぼす悲運を自ら招くのであります。・・・」
行徳仁二郎は、言う。「なるほど開祖まさは女性であり、・・・女性の思想と言うべきもの特質を濃厚にもっているかもしれません。・・・男たちのいわゆる思想、つまりは支配のための思想が虚偽に満ちたものだからである。・・・不具に生まれたわが子に注ぐ愛は、全世界を睥睨する君主の仁政よりもなお、神の心に近い。・・・政治はその本質において、治めるものと治められる者とからなり、しかも、治める者が辛苦して働き、治める者が治められる者に養われながら、しかも権力を行使するものである。かかるものは、一片の正義を与えてはならぬ」「弁士中止」・・・
小窪徳忠「宗教は誓約共同体にて、国家は運命共同体。自らが自らの運命を進んで担うことなくして運命の開けることもなく、運命の開けることもなき誓約に何の意味ありや。共に苦しみともに泣き、ともに誓約するは、全てのより大いなる共同体のためならずや」
行徳仁二郎「国家は、その版図内の民に対して、その国民たるを欲すると欲せざるにかかわらず、義務を課し租庸調を徴収し、生殺与奪の権を握る。・・・その運命は人為的、強制的運命であり、我らの宗教の自覚回心による入信と誓約より、明らかに下位。・・・現在において、尚国家が運命共同体であることは認めるにしても、その運命は、我々の使命とは相いれず・・・」「弁士中止」
長々と引用しました。
開祖まさの「国には国の掟(道)、我らには我らの道」は、強烈です。戦前にこれを貫くことのいかに難しいか、想像がつきます。日本国憲法のもと思想良心の自由の保障された今でも、何かの集会で「国歌を歌います。御起立ください」と放送があって、皆が立つとき、一人座っているのは、なかなかきついものがあります。さて、国家と宗教どちらが上か?小窪は、国民の運命も国家によって左右される故、個人も集団も、国家の運命に奉仕せよという。行徳は言う。国家は、各人が自覚して作ったものでなく、(つまり作ろうとして作ったのでなく)、作ろうとして作った宗教団体より下位の存在だという。難問です。行徳も認めるように、国家によって国民の運命は左右される、国家は、今も運命共同体です。この難問を解くカギは、日本国憲法の前文にあると思います。日本国憲法前文冒頭第一文は、「日本国民は、・・・この憲法を確定する」とあります。憲法に忠実に政治が行われれば、次のように言えると思います。日本国は、誓約団体でありかつ運命共同体であると。西洋的知識で言えば、日本国憲法成立後の日本国は、社会契約説で出来た国家と言うことになると思います。我々が作った国と言えると思います。ただし、国民の意思がちゃんと反映されていればですが。これに反して、2012年に作られた自由民主党憲法時改正案冒頭は、「日本国は、・・・統治される」とあります。誰がそんな中味を決めたのかを明示していません。つまり国家が国民より先にあるという考えです。いかに自民党改正案は、民主主義的言葉を連ねても、民主主義を嫌うものです。この一点からだけで、私は、自民党を軽蔑し、絶対投票はしません。自民党の考えでは、運命共同体と各種の誓約共同体の対立と言う不幸が生じるからです。仮想宗教団体とは言え、優しく誠実な「ひのもと救霊会」の人々の、ひどい不幸とついには自殺を肯定せざるを得ないる運命をもたらすと思うからです。 
ひのもと救霊会が達成した理想社会
高橋和巳は、数日達成された理想社会を次のように描写する。
まずは、外部の二人の目から見て
植田文麿:町の中心部の商店、散髪屋、外食券食堂の全てに店舗の共有化ないしは公私合弁の張り紙が貼られていた。人々は活気に満ちて、あちこちで立ち話をし、あるいは討論していた。人々の服装は昔道り質素で汚れていた。・・だがもう誰が誰に命令することもなく、誰が誰にペコペコすることもなかった。・・・人々は隣人愛に満ち溢れて見えた。全ての人は尚貧しかったが、どの一人としてもはや「もの言う道具」ではなく「二本足の機械でもなかった」
   (第三部第二八章の1)
吉田秀夫:私は・・・わずかな期間ながらも、達成されたその自治の形態を見る僥倖を得た。私はそれをあえて僥倖と呼ぶ。そこには確かに武装反乱に伴う、最も悲しい人間の悲劇、血と野望、陰謀と暴力が介在したことも事実だったが、しかしまたそこには事物や生産関係や権力が事を決するのでなく、人間が事を決する本来の「自治」なるものの姿があることも事実だった。・・・彼らが(救霊会)政府にそして占領軍に圧しつぶされたのは、自由、平等、文化、平和、ほかならぬ彼ら為政者の口にすることどもをほんとうに実行しようとしたからである。
   (第三部第三一章の3=最終章)
それはどのような社会であったか?目標も含めてまとめる。
元々信徒部落は土地共有、共同労働、分配は労働量と必要の法則により制定(これが戦前治安維持法の「私有財産否定」に当たるとして処罰の原因)(第一部第6章の1)
解放区内の大地主、官僚、資本家等の土地財産没収。高利貸しの財産没収。男子成人に七反、その家族に五反の土地を給与。農作物は、農民組合が管理、労働組合、都市居住住民自治体を通じて配給。
神部(解放区)の国有林は救霊会が接収。従業員五〇人以上の企業は全て自治体所有化。その企業の株式配当に相当する額を自治体収入とし、それに伴う税の廃止。娼家の破壊、娼婦の解放。未開放部落民を官公庁に収容。孤児、孤独老人、寡婦等は中小企業体からの事業税で自治体が養う。治安は、救霊会特設青年隊が担当。
まとめれば、これらは農村共同体を基礎にした労農連携の共産主義的社会と言えると思う。この小説の書かれた一九六〇年代半ばは、高度成長期半ばで、農村共同体が壊れつつあったころである。しかし、この小説の描いた敗戦直後は、農村共同体が機能していた。敗戦直後は労働組合も極めて盛んで、労働組合と農村共同体の連携があれば、あるいは達成し得たかもしれない。あるいは、小説内でも触れられているが、英ソ中のどの一国かが救霊会に対して中立で米国を抑えようとすれば、革命は成ったかもしれない。あるいは、突発的事故が起きなければ、準備整い、革命は成ったかもしれない。その革命の結果は、どのような社会か。ソ連が長い苦闘の末資本主義に戻ったように、あるいは中国が共産党独裁のまま、資本主義を導入したようになったかもしれない。日本国民の資質によりソ連や中国と違う理想的な共産主義国家が出来たかもしれない。それ以前に土地を得た農民の保守化のため、革命は中途で挫折したかもしれない。全てはありえなかった歴史である。現実の日本の歴史は、米ソ冷戦下米国の指導のもと独占資本主義国家として復活し、大発展し現在に至っている。日本の良いことも悪いこともその現実の中にある。別の良さは、東日本大震災の時に見られた日本人の良さ、侵略戦争の罪の反映である平和国家ブランドである。
二一世紀の現在は、農村共同体は、殆ど機能を失っている。しかも人口の多くは都市に住み、第二・第三次産業に従事している。我々は、ひのもと救霊会の理想を実現する基礎を現在全く欠いてる。我々はどこから何から真の自治・自由・平等・文化・平和を作り出すべきか?これまた「邪宗門」から卒業するのが難しい。 
女と男
ひのもと救霊会は、男女関係に特別な制度を持っている。教姉教弟(あねおとうと)という制度である。未亡人や棄婦、結婚の機会を逃した女工等に、婦人側に優先的選択権のある、青年部独身者との法律関係外の男女関係を許可していた。それは、単なる身の回りの世話で終わってもよいし、それ以上の関係に進んでもよい。女性の側の優先的選択権の代償は、青年が結婚するときは、女性の側から身を引くと言うことである。勿論青年は、教姉を結婚相手に選んでもよい。それは、当時の男尊女卑の制度と精神から女性を救おうという考えだからである。
○人類最初の階級闘争である雌雄葛藤の末の、男性による女性の制覇、・・・、それを正当化するためのイデオロギー。それが、三歳の児童にも見抜ける嘘を全世界に普遍させ、何千年かの真理となった
○宗教が人を救おうとするものである以上、男による女の抑圧を、その秘密の性の面においても解消としなければ、それは宗教の名に値しない
○女だけに要求される貞操観念や処女崇拝も家柄を重んじ私有財産制を守らねばならぬ支配層の動議に過ぎず、公娼制度がその裏返しの糊塗策とおしえられ、独特の廃娼運動が展開された
   (いずれも第一部第二十章の1)
私は、この制度を理屈ではいい制度と思うけれど、気分的には受け入れがたい。女から選ばれるというのがいやだ。男のがわに拒否権があるのかどうか判然としない。多分ないのであろう。結婚では男に選択権があるから、世話してもらうのは、そして単なるセックスの相手としては、いいのかもしれない。それでも俺はいやだな。男は、惚れて勇を決して申し込み大抵振られる存在でいい。俺はやはり、「男はつらいよ」の寅に近いんだな。好きでも嫌いでもない女から選ばれるのはいやだな。どうするか困る。好きな女から選ばれるというのはどうだろう。やっぱり、あまりよろしくないな。何故だろう?古い感覚を持っているのだろう、俺は。古事記の初めのころ国産みの話がある。女神から「ああいい男」と申しこんで国を産んだら、流れてしまって、男神の方から「ああいい女」と申し込んで国を産んだらうまく国土が生まれたという話である。読んだ当時、男尊女卑思想と思ったが、やはり俺もそのけがあるのかも知れぬ。幸い?わが人生において、女性から好きよと言われたことがないので、こういう局面にであったことがない。・・・ひょっとしたら、案外メロメロだったかもな。今の若者たちは、どちらが選ぶかなんてまったく関係なさそうだ。お互い選び合い、棄てあう。元彼、もとかの、・・・それでいいさ。その方が自然だ。戦後日本国憲法が施行された時、農村の青年たちが一番歓迎したのは、憲法9条の平和主義ではなく、憲法の「、男女の合意のみによる結婚」いう考え方だったそうだ。さもありなん。戦前「野菊の墓」のような、どれほどの男と女の涙が流れたか。
閑話休題。話がそれた。開祖が女であり、女を大切にしようと言う教団であるので、この小説では、女の活躍が目立つ。そしてそれが素晴らしい女性たちなのである。女たちに比べて男達は、思想に囚われ、意地を張り、自滅していくかに見える。教団の最高の知性、元京大教授・新聞社主幹中村鉄男の公判での理路整然とした分析、かつ毅然とした態度、それはすごいと思う。そして学問を実践に移そうとして大学を辞め、ひのもと救霊会に自分の理想をかけた。学問馬鹿じゃない。これは尊敬に値する。(第一部第18章の1)しかし、単なる意地っ張りじゃないかとも思える。教主行徳仁二郎と分離独立した皇国救世軍の小窪徳忠の討論内容は深い。が、生活から離れた思想の上滑りじゃないか。教団の最強の志操の堅固の足利正は、立派と思うが、思想にとらわれ過ぎていないか。周りを見てないんじゃないか。女達から見るとそう見えるのではないか。教団が弾圧され、教主以下幹部が逮捕され、牢屋に入っている時、教団が公的活動を禁止された時、細々ながら支えたのは女たちである。行徳仁二郎の奥様八重、長女阿礼、次女阿貴彼女らが教主代理、継主として教団を支えた。その周りには農民の女たちがいた。素晴らしい女たちである。
たとえば八重。
行徳仁二郎は、獄中で妥協をしてしまう。(これにより私はかえって、仁二郎を身近に感じる)それが検察の作戦で、明らかになっていく。温泉での二人のすがた。
しかし、隠しようもなく、傷ついた野獣のように布団の中をのたうちまわる夫の姿が映った。
「わしは耐えに耐えた。しかし、わしは、・・・」
「お静かになさいませ」無限の悲哀をこめて八重は言った。「言葉でしか身を守るすべのない時に、ただ一つか二つ心にもないこと言ったからとて、何を愧ずる必要があります。いえ、たとえ恥ずかしいことがあっても、それを人に見せてはなりませぬ。御うろたえなさいますな」おう、と仁二郎は悲鳴を上げた。・・・「あなたの御気持ちを鎮めるためなら、私はここで裸踊りでもいたしましょう。屈辱も苦しみも、女に注げば幾分は癒えるもの。教徒には私が何とでもつくろいます。さ、私を弄びなさいませ」
   (第一部第12章の2)
佐伯医師は、八重について言う。
「今も頭に残っている情景がある。わしだけじゃなく、神部の人々が百二十人も一度に警察に捕らわれた時・・・、警察官がその人をとらえようとした時、朱の緞子の覆いに包んでいつも帯の間に挟んでいた短刀を抜いて、自分のくびに当てながら、女には身だしなみと言うものがあります。着替えてまいります。お待ちなさい、と言った。空気を引き裂くように良く響く声だった。警官たちも気おされてね、よう近寄らなんだ。そのままの姿勢で、残る人々に後事をてきぱきと依頼し、そして焼け残った屋敷へと消えていった。ああいうのが、ほんとの大和撫子なんだな。日頃は月の光のようにやさしくて、控え目で、しかし夫が病気に倒れると、でしゃばりもせず、うろたえず、やるべきことはやっていた。久しくあわんが、その後、どうされたか」
   (第二部第1章の2)
佐伯医師は、八重のことが好きだったのだと思う。それが、佐伯をひのもと救霊会にとどめおいた理由かもしれない。
とどめ置くといえば、吉田秀夫は、阿貴にひかれて結局、考えの違う千葉と行動を共にする。
吉田は言う。「正直に言ってくれてもいいと思うね、千葉。君が立ち去りかねている理由と、君が高校時代から温めていた理念を救霊会に委任しようとする衝動が一番不幸な形で結びつくのは良くない。・・・一所不在の生活を何なら一緒にやってもいいと思っている。しかし、救霊会に定住したのは、明らかに別の原理、原理と言って悪ければ愛着のためだった。いや、君だけのことを言っているんじゃない。俺自身がそうだ。阿貴さんが、いや継主がいなければ・・・いや同じ援助を依頼されるにしても武骨な男に頼まれたなら君との関係はあっても、おそらくここにはいないだろう」
   (第3部第23章)
阿貴は、教主の家に生まれながら小児まひのため堀江家で育てられる。しかし、素直な控えめな普通の女らしい女の子だ。優しい人だ。吉田でなくとも、可愛く思う。男から見て可愛いひとだ。保護したく思う。彼女は、小さいときから、堀江駒に拾われた千葉潔が好きだった。大きくなってもそうだ。長女の阿礼は、違う。強烈な意志と誇りを持った女だ。教師をやりこめる女学生の阿礼。学生のストライキの応援に単身乗り込む阿礼。彼女が弾圧後の教団を渾身の力を込めて支えていく。女では、阿礼が一番良く描けているのではないか。ヒステリーを起こす阿礼。教団を守るため、教団を裏切った皇国救世軍に嫁ぐ阿礼の苦悶。そして、教団の規則を破り、教団を裏切り、妹を裏切り、千葉潔に教団を与える。危機が迫っても千葉に寄り添い嫣然と微笑む。阿礼の最後は、壮絶である。阿礼は、植田文麿と千葉潔を愛した。・・・千葉潔は、誰を愛したのだろう。
思えば、この小説には悪人と思える人が登場しない。裏切り者小窪徳忠だって、保身と時流に乗ったにすぎない。足利正が宗教裁判で糾弾する特高警察梅田も立身出世を目指しただけだ。正門検事もその仕事を果たしたに過ぎない。悪人がいないのは、高橋和己が登場人物の行動の背景・心理に分け入り説明するからだ。(高橋和巳は、本質的に優しい人なのだと思う)悪を悪と知っていながら行うのが悪人とするなら、悪人は、千葉潔、その人だろう。千葉は言う。>「悪を根絶するのは、・・・おそらく悪のみ」<(第3部第27章の1)理想の実現のため、殺人・暴虐と言う悪につながる革命は、許されるか?巨大な問題である。母の肉を食って生きのびた千葉潔だから許されると思うのだ、と思う。他の人はどうだろうか。
阿貴や千葉少年と一緒にある時期生活した堀江民江は、千葉潔をよくわかりながら、かつ否定する。堀江民江は、無口な百姓娘である。忍耐強く運命に逆らわない女性のように思える。堀江民江は、千葉と阿礼の陰謀に気付く。彼女は、革命の惨状を恐ろしいと批判する。私は、民江が京都に行って千葉潔を神部へ連れてくる場面が好きだ。無口なまま、嫌がる千葉を連れてくる。根負けした千葉が頭にきてぶとうとする。民江はぶたれるのが当然と言う風に目をつぶって、微笑して待つ。すごい。これは、自分のためじゃない。阿礼のために、千葉を神部に戻すためだ。こんな女もいる。この場面で千葉の優しさも感じる。そうだ、千葉も人間的な面を実はところどころで見せている。最後に民江は、千葉潔の餓死に殉死する。何故殉死するのだ。民江もまた千葉を好きだったのか?そう、前は好きだった。しかし、いや、そんなレベルじゃないな。民江もまた救霊会の信者。苦しみの最後に、自殺も認める。全ての罪業を打ち消すために。千葉は最後に何か言おうとした。民江は、そっと優しくうなずいた。千葉は何を言おうとしたんだろう。民江は何を受け止めたのだろう。
「邪宗門」の魅力は、真の自由・平等・自治とはどういうものか、それをどのようにして達成するか、あるいは、あるべき宗教の姿を追求した魅力である。それを昭和と言う舞台で追求した力作である。その格闘が魅力である。今から約50年も前の本なのに、東大教官が新入生に読むことを勧める本の第8位(いつのだか、どんな部門なんだか、知らず、未確認情報)にあるという。さもありなん。いろんなことを考えさせてくれる本であるから。しかし私にとって、一番の魅力は、登場人物たちの魅力である。前期高齢者の入口にたつ私が、今後また読むかどうかわからない。今回読んだ記念に長々感想を書いた。さよなら、救霊会に集う人々よ。 
 

 

 
「邪宗門」 北原白秋

 

父上に献ぐ
父上、父上ははじめ望み給はざりしかども、児は遂にその生れたるところにあこがれて、わかき日をかくは歌ひつづけ候ひぬ。もはやもはや咎め給はざるべし。

邪宗門扉銘
ここ過ぎて曲節(メロデア)の悩みのむれに、
ここ過ぎて官能の愉楽のそのに、
ここ過ぎて神経のにがき魔睡に。

詩の生命は暗示にして単なる事象の説明には非ず。かの筆にも言語にも言ひ尽し難き情趣の限なき振動のうちに幽かなる心霊の欷歔をたづね、縹渺たる音楽の愉楽に憧がれて自己観想の悲哀に誇る、これわが象徴の本旨に非ずや。されば我らは神秘を尚び、夢幻を歓び、そが腐爛したる頽唐の紅を慕ふ。哀れ、我ら近代邪宗門の徒が夢寝にも忘れ難きは青白き月光のもとに欷歔く大理石の嗟嘆也。暗紅にうち濁りたる埃及の濃霧に苦しめるスフィンクスの瞳也。あるはまた落日のなかに笑へるロマンチツシユの音楽と幼児磔殺の前後に起る心状の悲しき叫也。かの黄臘の腐れたる絶間なき痙攣と、ヴィオロンの三の絃を擦る嗅覚と、曇硝子にうち噎ぶウヰスキイの鋭き神経と、人間の脳髄の色したる毒艸の匂深きためいきと、官能の魔睡の中に疲れ歌ふ鶯の哀愁もさることながら、仄かなる角笛の音に逃れ入る緋の天鵞絨の手触の棄て難さよ。

昔(むかし)よりいまに渡(わた)り来(く)る黒船(くろふね)縁(えん)がつくれば鱶(ふか)の餌(ゑ)となる。サンタマリヤ。   『長崎ぶり』

例言
一、本集に収めたる六章約百二十篇の詩は明治三十九年の四月より同四十一年の臘月に至る、即最近三年間の所作にして、集中の大半は殆昨一年の努力に成る。就中『古酒』中の「よひやみ」「柑子」「晩秋」の類最も旧くして『魔睡』中に載せたる「室内庭園」「曇日」の二篇はその最も新しきものなり。
一、予が真に詩を知り初めたるは僅に此の二三年の事に属す。されば此の間の前後に作られたる種々の傾向の詩は皆予が初期の試作たるを免れず。従て本集の編纂に際しては特に自信ある代表作物のみを精査し、少年時の長篇五六及その後の新旧作七十篇の余は遺憾なく割愛したり。この外百篇に近き『断章』と『思出』五十篇の著作あれども、紙数の制限上、これらは他の新しき機会を待ちて出版するの已むなきに到れり。
一、予が象徴詩は情緒の諧楽と感覚の印象とを主とす。故に、凡て予が拠る所は僅かなれども生れて享け得たる自己の感覚と刺戟苦き神経の悦楽とにして、かの初めより情感の妙なる震慄を無みし只冷かなる思想の概念を求めて強ひて詩を作為するが如きを嫌忌す。されば予が詩を読まむとする人にして、之に理知の闡明を尋ね幻想なき思想の骨格を求めむとするは謬れり。要するに予が最近の傾向はかの内部生活の幽かなる振動のリズムを感じその儘の調律に奏でいでんとする音楽的象徴を専とするが故に、そが表白の方法に於ても概ねかの新しき自由詩の形式を用ゐたり。
一、或人の如きは此の如き詩を嗤ひて甚しき跨張と云ひ、架空なる空想を歌ふものと做せども、予が幻覚には自ら真に感じたる官能の根抵あり。且、人の天分にはそれそれ自らなる相違あり、強ひて自己の感覚を尺度として他を律するは謬なるべし。
一、本来、詩は論ふべききはのものにはあらず。嘗て幾多の譏笑と非議と謂れなき誤解とを蒙りたるにも拘らず、予の単に創作にのみ執して、一語もこれに答ふる所なかりしは、些か自己の所信に安じたればなり。
一、終に、現時の予は文芸上の如何なる結社にも与らず、又、如何なる党派の力をも恃む所なき事を明にす。要は只これらの羈絆と掣肘とを放れて、予は予が独自なる個性の印象に奔放なる可く、自由ならんことを欲するものなり。
一、尚、本集を世に公にする事を得たる所以のものは、これ一に蒲原有明、鈴木皷村両氏の深厚なる同情に依る、ここに謹謝す。
  明治四十二年一月   著者識  
■魔睡
余は内部の世界を熟視めて居る。陰鬱な死の節奏は絶えず快く響き渡る……と神経は一斉に不思議の舞踏をはじめる。すすりなく黒き薔薇、歌うたふ硝子のインキ壺、誘惑の色あざやかな猫眼石の腕環、笑ひつづける空眼の老女等はこまかくしなやかな舞踏をいつまでもつづける。余は一心に熟視めて居る……いつか余は朱の房のついた長い剣となつて渠等の内に舞踏つてゐる………   長田秀雄
邪宗門秘曲
われは思ふ、末世(まつせ)の邪宗(じやしゆう)、切支丹(きりしたん)でうすの魔法(まはふ)。黒船(くろふね)の加比丹(かひたん)を、紅毛(こうまう)の不可思議国(ふかしぎこく)を、色(いろ)赤(あか)きびいどろを、匂(にほひ)鋭(と)きあんじやべいいる、南蛮(なんばん)の桟留縞(さんとめじま)を、はた、阿刺吉(あらき)、珍酡(ちんた)の酒を。
目見(まみ)青きドミニカびとは陀羅尼(だらに)誦(ず)し夢にも語る、禁制(きんせい)の宗門神(しゆうもんしん)を、あるはまた、血に染む聖磔(くるす)、芥子粒(けしつぶ)を林檎のごとく見すといふ欺罔(けれん)の器(うつは)、波羅葦僧(はらいそ)の空(そら)をも覗(のぞ)く伸(の)び縮(ちゞ)む奇(き)なる眼鏡(めがね)を。
屋(いへ)はまた石もて造り、大理石(なめいし)の白き血潮(ちしほ)は、ぎやまんの壺(つぼ)に盛られて夜(よ)となれば火点(とも)るといふ。かの美(は)しき越歴機(えれき)の夢は天鵝絨(びろうど)の薫(くゆり)にまじり、珍(めづ)らなる月の世界の鳥獣(とりけもの)映像(うつ)すと聞けり。
あるは聞く、化粧(けはひ)の料(しろ)は毒草(どくさう)の花よりしぼり、腐(くさ)れたる石の油(あぶら)に画(ゑが)くてふ麻利耶(まりや)の像(ざう)よ、はた羅甸(らてん)、波爾杜瓦爾(ほるとがる)らの横(よこ)つづり青なる仮名(かな)は美(うつ)くしき、さいへ悲しき歓楽(くわんらく)の音(ね)にかも満つる。
いざさらばわれらに賜(たま)へ、幻惑(げんわく)の伴天連(ばてれん)尊者(そんじや)、百年(もゝとせ)を刹那(せつな)に縮(ちゞ)め、血の磔(はりき)脊(せ)にし死すとも惜(を)しからじ、願ふは極秘(ごくひ)、かの奇(く)しき紅(くれなゐ)の夢、善主麿(ぜんすまろ)、今日(けふ)を祈(いのり)に身(み)も霊(たま)も薫(くゆ)りこがるる。
   四十一年八月
室内庭園
晩春(おそはる)の室(むろ)の内(うち)、暮れなやみ、暮れなやみ、噴水(ふきあげ)の水はしたたる……そのもとにあまりりす赤(あか)くほのめき、やはらかにちらぼへるヘリオトロオブ。わかき日のなまめきのそのほめき静(しづ)こころなし。
尽(つ)きせざる噴水(ふきあげ)よ………黄(き)なる実(み)の熟(う)るる草、奇異(きゐ)の香木(かうぼく)、その空にはるかなる硝子(がらす)の青み、外光(ぐわいくわう)のそのなごり、鳴ける鶯(うぐひす)、わかき日の薄暮(くれがた)のそのしらべ静(しづ)こころなし。
いま、黒(くろ)き天鵝絨(びろうど)のにほひ、ゆめ、その感触(さはり)………噴水(ふきあげ)に縺(もつ)れたゆたひ、うち湿(しめ)る革(かは)の函(はこ)、饐(す)ゆる褐色(かちいろ)その空に暮れもかかる空気(くうき)の吐息(といき)……わかき日のその夢の香(か)の腐蝕(ふしよく)静(しづ)こころなし。三層(さんかい)の隅(すみ)か、さは腐(くさ)れたる黄金(わうごん)の縁(ふち)の中(うち)、自鳴鐘(とけい)の刻(きざ)み……ものなべて悩(なや)ましさ、盲(し)ひし少女(をとめ)のあたたかに匂(にほひ)ふかき感覚(かんかく)のゆめ、わかき日のその靄に音(ね)は響(ひゞ)く、静(しづ)こころなし。
晩春(おそはる)の室(むろ)の内(うち)、暮れなやみ、暮れなやみ、噴水(ふきあげ)の水はしたたる……そのもとにあまりりす赤くほのめき、甘く、またちらぼひぬ、ヘリオトロオブ。わかき日は暮(く)るれども夢はなほ静(しづ)こころなし。
   四十一年十二月
陰影の瞳
夕(ゆふべ)となればかの思(おもひ)曇硝子(くもりがらす)をぬけいでて、廃(すた)れし園(その)のなほ甘(あま)きときめきの香(か)に顫(ふる)へつつ、はや饐(す)え萎(な)ゆる芙蓉花(ふようくわ)の腐(くさ)れの紅(あか)きものかげと、縺(もつ)れてやまぬ秦皮(とねりこ)の陰影(いんえい)にこそひそみしか。
如何(いか)に呼(よ)べども静(しづ)まらぬ瞳(ひとみ)に絶(た)えず涙して、帰(かへ)るともせず、密(ひそ)やかに、はた、果(はて)しなく見入(みい)りぬる。そこともわかぬ森かげの鬱憂(メランコリア)の薄闇(うすやみ)に、ほのかにのこる噴水(ふきあげ)の青きひとすぢ……
   四十一年十月
赤き僧正
邪宗(じやしゆう)の僧ぞ彷徨(さまよ)へる……瞳据(す)ゑつつ、黄昏(たそがれ)の薬草園(やくさうゑん)の外光(ぐわいくわう)に浮きいでながら、赤々(あか/\)と毒のほめきの恐怖(おそれ)して、顫(ふる)ひ戦(をのゝ)く陰影(いんえい)のそこはかとなきおぼろめきまへに、うしろに……さはあれど、月の光の水(み)の面(も)なる葦(あし)のわか芽(め)に顫(ふる)ふ時。あるは、靄ふる遠方(をちかた)の窓の硝子(がらす)にほの青きソロのピアノの咽(むせ)ぶ時。瞳据(す)ゑつつ身動(みじろ)かず、長き僧服(そうふく)爛壊(らんゑ)する暗紅色(あんこうしよく)のにほひしてただ暮れなやむ。
さて在るは、曩(さき)に吸(す)ひたる Hachisch(ハシツシユ) の毒のめぐりを待てるにか、あるは劇(はげ)しき歓楽(くわんらく)の後の魔睡(ますゐ)や忍ぶらむ。手に持つは黒き梟(ふくろう)
爛々(らん/\)と眼(め)は光る……
   ……そのすそに蟋蟀(こほろぎ)の啼く……
   四十一年十二月
WHISKY
夕暮(ゆふぐれ)のものあかき空(そら)、その空(そら)に百舌(もず)啼(な)きしきる。Whisky(ウイスキイ) の罎(びん)の列(れつ)冷(ひや)やかに拭(ふ)く少女(をとめ)、見よ、あかき夕暮(ゆふぐれ)の空(そら)、その空(そら)に百舌(もず)啼(な)きしきる。
   四十一年十一月
天鵝絨のにほひ
やはらかに腐れつつゆく暗(やみ)の室(むろ)。その片隅(かたすみ)の薄(うす)あかり、背(そびら)にうけて天鵝絨(びろうど)の赤(あか)きふくらみうちかつぎ、にほふともなく在(あ)るとなく、蹲(うづく)み居れば。
暮れてゆく夏の思と、日向葵(ひぐるま)の凋(しを)れの甘き香(か)もぞする。……ああ見まもれどおもむろに悩(なや)みまじろふ色の陰影(かげ)それともわかね……熱病(ねつびやう)の闇のをののき……
Hachisch(ハシツシユ) か、酢(す)か、茴香酒(アブサン)か、くるほしく溺(おぼ)れしあとの日の疲労(つかれ)……縺(もつ)れちらぼふWagner(ワグネル) の恋慕(れんぼ)の楽(がく)の音(ね)のゆらぎ耳かたぶけてうち透(す)かし、在(あ)りは在(あ)れども。
それらみな素足(すあし)のもとのくらがりに爛壊(らんゑ)の光放(はな)つとき、そのかなしみの腐(くさ)れたる曲(きよく)の緑(みどり)を如何(いか)にせむ。君を思ふとのたまひしゆめの言葉(ことば)も。
わかき日の赤(あか)きなやみに織りいでしにほひ、いろ、ゆめ、おぼろかに嗅(か)ぐとなけれど、ものやはに暮れもかぬれば、わがこころ天鵝絨(びろうど)深くひきかつぎ、今日(けふ)も涙す。
   四十一年十二月
濃霧
濃霧(のうむ)はそそぐ……腐(くさ)れたる大理(だいり)の石の生(なま)くさく吐息(といき)するかと蒸し暑く、はた、冷(ひや)やかに官能(くわんのう)の疲(つか)れし光――月はなほ夜(よ)の氛囲気(ふんゐき)の朧(おぼろ)なる恐怖(おそれ)に懸(かゝ)る。
濃霧(のうむ)はそそぐ……そこここに虫の神経(しんけい)鋭(と)く、甘く、圧(お)しつぶさるる嗟嘆(なげき)して飛びもあへなく耽溺(たんでき)のくるひにぞ入る。薄ら闇、盲唖(まうあ)の院(ゐん)の角硝子(かくがらす)暗くかがやく。
濃霧(のうむ)はそそぐ……さながらに戦(をのゝ)く窓は亜刺比亜(アラビヤ)の魔法(まはふ)の館(たち)の薄笑(うすわらひ)。麻痺薬(しびれぐすり)の酸(す)ゆき香(か)に日ねもす噎(む)せて聾(ろう)したる、はた、盲(めし)ひたる円頂閣(まるやね)か、壁の中風(ちゆうふう)。
濃霧(のうむ)はそそぐ……甘く、また、重く、くるしく、いづくにか凋(しを)れし花の息づまり、苑(その)のあたりの泥濘(ぬかるみ)に落ちし燕や、月の色半死(はんし)の生(しやう)に悩(なや)むごとただかき曇る。
濃霧(のうむ)はそそぐ……いつしかに虫も盲(し)ひつつ聾(ろう)したる光のそこにうち痺(しび)れ、唖(おうし)とぞなる。そのときにひとつの硝子(がらす)幽魂(いうこん)の如(ごと)くに青くおぼろめき、ピアノ鳴りいづ。
濃霧(のうむ)はそそぐ……数(かず)の、見よ、人かげうごき、闌(ふ)くる夜(よ)の恐怖(おそれ)か、痛(いた)きわななきにただかいさぐる手のさばき――霊(たま)の弾奏(だんそう)、盲目(めしひ)弾き、唖(おうし)と聾者(ろうじや)円(つぶ)ら眼(め)に重(かさ)なり覗(のぞ)く。
濃霧(のうむ)はそそぐ……声もなき声の密語(みつご)や。官能(くわんのう)の疲(つか)れにまじるすすりなき霊(たま)の震慄(おびえ)の音(ね)も甘く聾(ろう)しゆきつつ、ちかき野に喉(のど)絞(し)めらるる淫(たは)れ女(め)のゆるき痙攣(けいれん)。
濃霧(のうむ)はそそぐ……香(か)の腐蝕(ふしよく)、肉(にく)の衰頽(すゐたい)、――呼吸(いき)深く※[「口+哥」]※[「口+羅」]仿謨(コロロホルム)や吸ひ入るる朧(ろう)たる暑き夜(よ)の魔睡(ますゐ)……重く、いみじく、音(おと)もなき盲唖(まうあ)の院(ゐん)の氛囲気(ふんゐき)に月はしたたる。
   四十一年十月
赤き花の魔睡
日(ひ)は真昼(まひる)、ものあたたかに光素(エエテル)の波動(はどう)は甘(あま)く、また、緩(ゆ)るく、戸(と)に照りかへす、その濁(にご)る硝子(がらす)のなかに音(おと)もなく、※[「口+哥」]※[「口+羅」]仿謨(コロロホルム)の香(か)ぞ滴(したた)る……毒(どく)の※[「言+墟のつくり」]言(うはごと)……
遠(とほ)くきく、電車(でんしや)のきしり……………棄(す)てられし水薬(すゐやく)のゆめ……
やはらかき猫(ねこ)の柔毛(にこげ)と、蹠(あなうら)のふくらのしろみ悩(なや)ましく過(す)ぎゆく時(とき)よ。窓(まど)の下(もと)、生(せい)の痛苦(つうく)に只(たゞ)赤(あか)く戦(そよ)ぎえたてぬ草(くさ)の花亜鉛(とたん)の管(くだ)の湿(しめ)りたる筧(かけひ)のすそに……いまし魔睡(ますゐ)す……
   四十一年十二月
麦の香
嬰児(あかご)泣く……麦の香(か)の湿(しめ)るあなたに、続(つゞ)け泣く……やはらかに、なやましげにも、香(か)に噎(むせ)び、香(か)に噎(むせ)び、あはれまた、嬰児(あかご)泣きたつ……夏の雨さと降(ふ)り過(す)ぎて新(あらた)にもかをり蒸(む)す野の畑(はた)いくつ湿(しめ)るあなたに、赤き衣(きぬ)一(ひと)きは若(わか)く、にほやかにけぶる揺籃(ゆりご)や、磨硝子(すりがらす)、あるは窓枠(まどわく)、濡(ぬ)れ濡(ぬ)れて夕日(ゆふひ)さしそふ。
   四十一年十二月
曇日
曇日(くもりび)の空気(くうき)のなかに、狂(くる)ひいづる樟(くす)の芽(め)の鬱憂(メランコリア)よ……そのもとに桐(きり)は咲く。Whisky(ウイスキイ) の香(か)のごときしぶき、かなしみ……
そこここにいぎたなき駱駝(らくだ)の寝息(ねいき)、見よ、鈍(にぶ)き綿羊(めんやう)の色のよごれに饐(す)えて病(や)む藁(わら)のくさみ、その湿(しめ)る泥濘(ぬかるみ)に花はこぼれて紫(むらさき)の薄(うす)き色鋭(するど)になげく……はた、空(そら)のわか葉(ば)の威圧(ゐあつ)。
いづこにか、またもきけかし。餌(ゑ)に饑(う)ゑしベリガンのけうとき叫(さけび)、山猫(やまねこ)のものさやぎ、なげく鶯(うぐひす)、腐(くさ)れゆく沼(ぬま)の水蒸(む)すがごとくに。そのなかに桐は散(ち)る…… Whisky(ウイスキイ) の強きかなしみ……
もの甘(あま)き風のまた生(なま)あたたかさ、猥(みだ)らなる獣(けもの)らの囲内(かこひ)のあゆみ、のろのろと枝(え)に下(さが)るなまけもの、あるは、貧(まづ)しく眼(め)を据(す)ゑて毛虫(けむし)啄(つ)む嗟歎(なげかひ)のほろほろ鳥(てう)よ。
そのもとに花はちる……桐のむらさき……
かくしてや日は暮(く)れむ、ああひと日。病院(びやうゐん)を逃(のが)れ来(こ)し患者(くわんじや)の恐怖(おそれ)、赤子(あかご)らの眼(め)のなやみ、笑(わら)ふ黒奴(くろんぼ)酔(ゑ)ひ痴(し)れし遊蕩児(たはれを)の縦覧(みまはり)のとりとめもなく。
その空(そら)に桐(きり)はちる……新(あたら)しきしぶき、かなしみ……
はたや、また、園(その)の外(そと)ゆく軍楽(ぐんがく)の黒(くろ)き不安(ふあん)の壊(なだ)れ落ち、夜(よ)に入る時(とき)よ、やるせなく騒(さや)ぎいでぬる鳥獣(とりけもの)。また、その中(なか)に、狂(くる)ひいづる北極熊(ほつきよくぐま)の氷なす戦慄(をののき)の声(こゑ)。その闇(やみ)に花はちる…… Whisky(ウイスキイ) の香(か)の頻吹(しぶき)……桐の紫(むらさき)……
   四十一年十二月
秋の瞳
晩秋(おそあき)の濡(ぬ)れにたる鉄柵(てすり)のうへに、黄(き)なる葉の河やなぎほつれてなげくやはらかに葬送(はうむり)のうれひかなでて、過ぎゆきし Trombone(トロムボオン) いづちいにけむ。
はやも見よ、暮れはてし吊橋(つりばし)のすそ、瓦斯(がす)点(とも)る……いぎたなき馬の吐息(といき)や、騒(さわ)ぎやみし曲馬師(チヤリネし)の楽屋(がくや)なる幕の青みをほのかにも掲(かゝ)げつつ、水(み)の面(も)見る女(をんな)の瞳(ひとみ)。
   四十一年十二月
空に真赤な
空(そら)に真赤(まつか)な雲(くも)のいろ。玻璃(はり)に真赤(まつか)な酒(さけ)の色(いろ)。なんでこの身(み)が悲(かな)しかろ。空(そら)に真赤(まつか)な雲(くも)のいろ。
   四十一年五月
秋のをはり
腐(くさ)れたる林檎(りんご)のいろになほ青(あを)きにほひちらぼひ、水薬(すゐやく)の汚(し)みし卓(つくゑ)に瓦斯(がす)焜炉(こんろ)ほのかに燃(も)ゆる。
病人(やまうど)は肌(はだ)ををさめて愁(うれ)はしくさしぐむごとし。何(な)ぞ湿(しめ)る、医局(いきよく)のゆふべ、見(み)よ、ほめく劇薬(げきやく)もあり。
色(いろ)冴(さ)えぬ室(むろ)にはあれど、声(こゑ)たててほのかに燃(も)ゆる瓦斯(がす)焜炉(こんろ)………空(そら)と、こころと、硝子戸(がらすど)に鈍(に)ばむさびしさ。
しかはあれど、寒(さむ)きほのほに黄(き)の入日(いりひ)さしそふみぎり、朽(く)ちはてし秋(あき)のヴィオロンほそぼそとうめきたてぬる。
   四十一年十二月
十月の顔
顔なほ赤(あか)し……うち曇り黄(き)ばめる夕(ゆふべ)、『十月(じふぐわつ)』は熱(ねつ)を病(や)みしか、疲(つか)れしか、濁(にご)れる河岸(かし)の磨硝子(すりがらす)脊(せ)に凭りかかり、霧の中(うち)、入日(いりひ)のあとの河(かは)の面(も)をただうち眺(なが)む。
そことなき櫂(かい)のうれひの音(ね)の刻(きざ)み……涙のしづく……頬にもまたゆるきなげきや……
ややありて麪包(パン)の破片(かけら)を手にも取り、さは冷(ひや)やかに噛(か)みしめて、来(きた)るべき日の味(あぢ)もなき悲しきゆめをおもふとき……
なほもまた廉(やす)き石油(せきゆ)の香(か)に噎(むせ)び、腐(くさ)れちらぼふ骸炭(コオクス)に足も汚(よ)ごれて、小蒸汽(こじやうき)の灰(はひ)ばみ過(す)ぎし船腹(ふなばら)に一(ひと)きは赤(あか)く輝(かが)やきしかの※[「窗/心」]枠(まどわく)を忍ぶとき……
月光(つきかげ)ははやもさめざめ……涙さめざめ……十月(じふぐわつ)の暮れし片頬(かたほ)をほのかにもうつしいだしぬ。
   四十一年十二月
接吻の時
薄暮(くれがた)か、日のあさあけか、昼か、はた、ゆめの夜半(よは)にか。
そはえもわかね、燃(も)えわたる若き命(いのち)の眩暈(めくるめき)、赤き震慄(おびえ)の接吻(くちつけ)にひたと身(み)顫(ふる)ふ一刹那(いつせつな)。
あな、見よ、青き大月(たいげつ)は西よりのぼり、あなや、また瘧(ぎやく)病(や)む終(はて)の顫(ふるひ)して東へ落つる日の光、大(おほ)ぞらに星はなげかひ、青く盲(めし)ひし水面(みのも)にほ薬香(くすりが)にほふ。あはれ、また、わが立つ野辺(のべ)の草は皆色も干乾(ひから)び、折り伏せる人の骸(かばね)の夜(よ)のうめき、人霊色(ひとだまいろ)の木(き)の列(れつ)は、あなや、わが挽歌(ひきうた)うたふ。
かくて、はや落穂(おちぼ)ひろひの農人(のうにん)が寒き瞳よ。歓楽(よろこび)の穂のひとつだに残(のこ)さじと、はた、刈り入るる鎌の刃(は)の痛(いた)き光よ。野のすゑに獣(けもの)らわらひ、血に饐(す)えて汽車(きしや)鳴き過(す)ぐる。
あなあはれ、あなあはれ、二人(ふたり)がほかの霊(たましひ)のありとあらゆるその呪咀(のろひ)。
朝明(あさあけ)か、死(し)の薄暮(くれがた)か、昼か、なほ生(あ)れもせぬ日か、はた、いづれともあらばあれ。
われら知る赤き唇(くちびる)。
   四十一年六月
濁江の空
腐(くさ)れたる林檎(りんご)の如き日のにほひ円(まろ)らに、さあれ、光なく甘(あま)げに沈む晩春(おそはる)の濁(にごり)重(おも)たき靄の内(うち)、ふと、カキ色(いろ)の軽気球(けいききう)くだるけはひす。
遠方(をちかた)の曇(くも)れる都市(とし)の屋根(やね)の色たゆげに仰(あふ)ぐ人はいま鈍(にぶ)くもきかむ、濁江(にごりえ)のねぶたき、あるは、やや赤(あか)きにほひの空のいづこにか洩(も)るる鉄(てつ)の音(ね)。
なやましき、さは江(え)の泥(どろ)の沈澱(おどみ)よりあかるともなき灰紅(くわいこう)の帆のふくらみに伝(つた)へくる潜水夫(もぐりのひと)が作業(さげふ)にか、饐(す)えたる吐息(といき)そこはかと水面(みのも)に黄(き)ばむ。
河岸(かし)になほ物見(ものみ)る子らはうづくまり、はや倦(う)ましげに人形(にんぎやう)をそが手に泣かす。日暮(ひくれ)どき、入日(いりひ)に濁る靄(もや)の内(うち)、また、ふくらかに軽気球(けいききう)くだるけはひす。
   四十一年八月
魔国のたそがれ
うち曇(くも)る暗紅色(あんこうしよく)の大(おほ)き日の魔法(まはふ)の国に病(や)ましげの笑(ゑみ)して入れば、もの甘(あま)き驢馬(ろば)の鳴く音(ね)にもよほされ、このもかのもに悩(なや)ましき吐息(といき)ぞおこる。
そのかみの激(はげ)しき夢や忍(しの)ぶらむ。鬱黄(うこん)の百合(ゆり)は血(ち)ににじむ眸(ひとみ)をつぶり、人間(にんげん)の声(こゑ)して挑(いど)み、飛びかはし鸚鵡(あうむ)の鳥はかなしげに翅(つばさ)ふるはす。
草も木もかの誘惑(いざなひ)に化(な)されつる旅のわかうど、暮れ行けば心ひまなくえもわかぬ毒(どく)の怨言(かごと)になやまされ、われと悲しき歓楽(くわんらく)に怕(おそ)れて顫(ふる)ふ。
日は沈み、たそがれどきの空(そら)の色青き魔薬(まやく)の薫(かをり)して古(ふ)りつつゆけば、ほのかにも誘(さそ)はれ来(きた)る隊商(カラバン)の鈴(すず)鳴る……あはれ、今日(けふ)もまた恐怖(おそれ)の予報(しらせ)。
はとばかり黙(つぐ)み戦(をのの)くものの息(いき)。色天鵝絨(いろびろうど)を擦(す)るごとき裳裾(もすそ)のほかは声もなく甘く重(おも)たき靄(もや)の闇(やみ)、はやも王女(わうぢよ)の領(し)らすべき夜(よ)とこそなりぬ。
   四十一年八月
蜜の室
薄暮(くれがた)の潤(うる)みにごれる室(むろ)の内(うち)、甘くも腐(くさ)る百合(ゆり)の蜜(みつ)、はた、靄(もや)ぼかし色赤きいんくの罎(びん)のかたちしてひそかに点(とも)る豆らんぷ息(いき)づみ曇る。
『豊国(とよくに)』のぼやけし似顔(にがほ)生(なま)ぬるく、曇硝子(くもりがらす)の※[「窗/心」]のそと外光(ぐわいくわう)なやむ。ものの本(ほん)、あるはちらぼふ日のなげき、暮れもなやめる霊(たましひ)の金字(きんじ)のにほひ。
接吻(くちつけ)の長(なが)き甘さに倦(あ)きぬらむ。そと手をほどき靄の内(うち)さぐる心地(こゝち)に、色盲(しきまう)の瞳(ひとみ)の女(をんな)うらまどひ、病(や)めるペリガンいま遠き湿地(しめぢ)になげく。
かかるとき、おぼめき摩(なす)る Violon のなやみの絃(いと)の手触(てさはり)のにほひの重(おも)さ。鈍(にぶ)き毛(け)の絨氈(じゆうたん)に甘き蜜(みつ)の闇(やみ)澱(おど)み饐(す)えつつ……血のごともらんぷは消ゆる。
四十一年八月
酒と煙草に
酒(さけ)と煙草(たばこ)にうつとりと、倦(う)めるこころを見まもれば、それとしもなき霊(たま)のいろ曇(くも)りながらに泣きいづる。
なにか嘆(なげ)かむ、うきうきと、三味(しやみ)に燥(はし)やぐわがこころ。なにか嘆(なげ)かむ、さいへ、また霊(たま)はしくしく泣きいづる。
   四十一年五月
鈴の音
日は赤し、窓(まど)の上(へ)に恐怖(おそれ)の烏(からす)ひた黙(つぐ)み暮れかかる砂漠(さばく)を熟視(みつ)む。
今日(けふ)もまたもの鈍(にぶ)き駱駝(らくだ)をつらね、一群(ひとむれ)のわがやから消(き)えさりゆきぬ。もの甘き鈴の音(おと)、ああそを聴(き)けよ。からら、からら、ら、ら、ら……
暮(く)れのこるピラミドの暗紅色(あんこうしよく)よ。そが空のうち濁(にご)る重き空気(くうき)よ。いづこにか月の色ほのめくごとし。からら、からら、ら、ら、ら……
かの群(むれ)よ、靄(もや)ふかく、いまかひろぐる色鈍(にぶ)き、幽鬱(いううつ)の毛織(けおり)の天幕(てんと)。駱駝(らくだ)らのためいきもそこはかとなく。からら、からら、ら、ら、ら……
もの青く暮れてみな蒸しも見わかね。饐(す)え温(ぬ)るむ空(そら)のをち、薄(うす)らあかりに、ほのかにも此方(こなた)見るスフィンクスの瞳。からら、からら、ら、ら、ら……
あはれ、その静(しづ)かなるスフィンクスの瞳。ああ暗示(あんじ)……えもわかぬ夢の象徴(シムボル)。またくいま埃及(えじぷと)の夜(よ)とやなるらむ。からら、からら、ら、ら、ら……
烏いまはたはたと遠く飛び去り、窓(まど)にただ色あかき燈火(ともしび)点(とも)る。
   四十一年八月
夢の奥
ほのかにもやはらかきにほひの園生(そのふ)。あはれ、そのゆめの奥(おく)。日(ひ)と夜(よ)のあはひ。薄(うす)あかる空の色ひそかに顫(ふる)ひ暮れもゆくそのしばし、声なく立てる真白(ましろ)なる大理石(なめいし)の男(をとこ)の像(すがた)、微妙(いみ)じくもまた貴(あて)に瞑目(めつぶ)りながら清(きよ)らなる面(おも)の色かすかにゆめむ。
ものなべてさは妙(たへ)に女(をみな)の眼(め)ざしあはれそが夢ふかき空色(そらいろ)しつつ、にほやかになやましの思(おもひ)はうるむ。そがなかに埋(う)もれたる素馨(そけい)のなげき、蒸(む)し甘き沈丁(ぢんてう)のあるは刺(さ)せどもなにほどの香(か)の痛(いた)み身にしおぼえむ。わかうどは声もなし、清(きよ)く、かなしく。
薄暮(たそがれ)にせきもあへぬ女(をんな)の吐息(といき)あはれその愁(うれひ)如(な)し、しぶく噴水(ふきあげ)そことなう節(ふし)ゆるうゆらゆるなべに、いつしかとほのめきぬ月の光も。その空に、その苑(その)に、ほのの青みに静かなる欷歔(すすりなき)泣きもいでつつ、いづくにか、さまだるる愛慕(あいぼ)のなげき。
やはらかきほの熱(ほて)る女の足音(あのと)あはれそのほめき如(な)し、燃(も)えも生(あ)れゆくゆめにほふ心音(しんのん)のうつつなきかな。大理石(なめいし)の身の白(しろ)み、面(おも)もほのかに、ひらきゆくその眼(め)ざし、なかば閉ぢつつ、ゆめのごと空仰(あふ)ぎ、いまぞ見惚(みほ)るる。色わかき夜(よる)の星、うるむ紅(くれなゐ)。
   四十一年七月

かかる窓ありとも知らず、昨日(きのふ)まで過(す)ぎし河岸(かはきし)。今日(けふ)は見よ、色赤き花に日の照り、かなしくも依依児(ええてる)匂ふ。あはれまた病(や)める Piano(ピアノ) も……
   四十一年九月
昨日と今日と
わかうどのせはしさよ。さは昨日(きのふ)世をも厭ひて重格魯密母(ぢゆうクロヲム)求(と)めも泣きしか、今朝(けさ)ははや林檎吸ひつつ霧深き河岸路(かしぢ)を辿る。歌楽し、鳴らす木履(きぐつ)に……
   四十一年十一月
わかき日
『かくまでも、かくまでも、わかうどは悲しかるにや。』
『さなり、女(をみな)、わかき日には、ましてまた才(さい)ある身には。』
   四十一年十一月 
■朱の伴奏
凡て情緒也。静かなる精舎の庭にほのめきいでて紅の戦慄に盲ひたるヴィオロンの響はわが内心の旋律にして、赤き絶叫のなかにほのかに啼けるこほろぎの音はこれ亦わが情緒の一絃によりて密かに奏でらるる愁也。なげかひ也。その他おほむね之に倣ふ。
謀坂
ひと日、わが精舎(しやうじや)の庭(には)に、晩秋(おそあき)の静かなる落日(いりひ)のなかに、あはれ、また、薄黄(うすぎ)なる噴水(ふきあげ)の吐息(といき)のなかに、いとほのにヴィオロンの、その絃(いと)の、その夢の、哀愁(かなしみ)の、いとほのにうれひ泣(な)く。
蝋(らふ)の火と懺悔(ざんげ)のくゆりほのぼのと、廊(らう)いづる白き衣(ころも)は夕暮(ゆふぐれ)に言(もの)もなき修道女(しうだうめ)の長き一列(ひとつら)。さあれ、いま、ヴィオロンの、くるしみの、刺(さ)すがごと火の酒の、その絃(いと)のいたみ泣く。
またあれば落日(いりひ)の色(いろ)に、夢燃(も)ゆる、噴水(ふきあげ)の吐息(といき)のなかに、さらになほ歌もなき白鳥(しらとり)の愁(うれひ)のもとに、いと強き硝薬(せうやく)の、黒き火の、地の底の導火(みちび)燬(や)き、ヴィオロンぞ狂ひ泣く。
跳(をど)り来(く)る車輌(しやりやう)の響(ひびき)、毒(どく)の弾丸(たま)、血(ち)の烟(けむり)、閃(ひら)めく刃(やいば)、あはれ、驚破(すは)、火とならむ、噴水(ふきあげ)も、精舎(しやうじや)も、空も。紅(くれなゐ)の、戦慄(わななき)の、その極(はて)の瞬間(たまゆら)の叫喚(さけび)燬(や)き、ヴィオロンぞ盲(めし)ひたる。
   四十年十二月
こほろぎ
微(ほの)にいまこほろぎ啼(な)ける。日か落つる――眼(め)をみひらけば朱(しゆ)の畏怖(おそれ)くわと照(て)りひびく。内心(ないしん)の苦(にが)きおびえか、めくるめく痛(いた)き日の色眼(め)つぶれど、はた、照りひびく。
そのなかにこほろぎ啼ける。
とどろめく銃音(つゝおと)しばし、痍(きず)つける悪(あく)のうごめきそこここに、あるは疲(つか)れて轢(し)きなやむ砲車(はうしや)のあへぎ、逃げまどふ赤きもろごゑ。
そのなかにこほろぎ啼ける。
盲(めし)ひ、ゆく恋のまぼろし――その底に疼(うず)きくるしむ肉(ししむら)の鋭(するど)き絶叫(さけび)、はた、暗(くら)き曲(きよく)の死(し)の楽(がく)霊(たましひ)ぞ弾きも連(つ)れぬる。
そのなかにこほろぎ啼ける。
あなや、また呻吟(うめき)は洩(も)るる。鉛(なまり)めく首のあたりゆ幽界(いうかい)の呪咀(のろひ)か洩るる。寝(ね)がへれば血に染み顫(ふる)ふわが敵(かたき)面(おも)ぞ死にたる。
そのなかにこほろぎ啼ける。
はた、裂(さ)くる赤き火の弾丸(たま)たと笑ふ、と見る、我(われ)燬(や)き我ならぬ獣(けもの)のつらね真黒(まくろ)なる楽(がく)して奔(はし)る。執念(しふねん)の闇曳き奔(はし)る。
そのなかにこほろぎ啼ける。
日や暮るる。我はや死ぬる。野をあげて末期(まつご)のあらび――暗(くら)き血の海に溺(おぼ)るる赤き悲苦(ひく)、赤きくるめき、ああ、今し、くわとこそ狂へ。
微(ほの)になほこほろぎ啼(な)ける。
   四十年十二月
序楽
ひと日、わが想(おもひ)の室(むろ)の日もゆふべ、光、もののね、色、にほひ――声なき沈黙(しじま)徐(おもむろ)にとりあつめたる室(むろ)の内(うち)、いとおもむろに、薄暮(くれがた)のタンホイゼルの譜(ふ)のしるしながめて人はゆめのごとほのかにならぶ。
壁はみな鈍(にぶ)き愁(うれひ)ゆなりいでし象(ざう)の香(か)の色まろらかに想(おもひ)鎖(さ)しぬれ、その隅に瞳の色の窓ひとつ、玻璃(はり)の遠見(とほみ)に冷(ひ)えはてしこの世のほかの夢の空かはたれどきの薄明(うすあかり)ほのかにうつる。
あはれ、見よ、そのかみの苦悩(なやみ)むなしく壁はいたみ、円柱(まろはしら)熔(とろ)けくづれて朽(く)ちはてし熔岩(ラヴア)に埋(うも)るるポンペイを、わが幻(まぼろし)を。ひとびとはいましゆるかに絃(いと)の弓、はた、もろもろの調楽(てうがく)の器(うつは)をぞ執る。
暗みゆく室内(むろぬち)よ、暗みゆきつつ想(おもひ)の沈黙(しじま)重たげに音(おと)なく沈み、そことなき月かげのほの淡(あは)くさし入るなべに、はじめまづヴィオロンのひとすすりなき、鈍色(にびいろ)長き衣(ころも)みな瞳をつぶる。
燃えそむるヴヱスヴィアス、空のあなたに色新(あたら)しき紅(くれなゐ)の火ぞ噴(ふ)きのぼる。廃(すた)れたる夢の古墟(ふるつか)、さとあかる我(わが)室(むろ)の内、ひとときに渦巻(うづま)きかへす序(じよ)のしらべ管絃楽部(オオケストラ)のうめきより夜(よ)には入りぬる。
   四十一年二月
納曾利
入日のしばし、空はいま雲の震慄(おびえ)のあかあかと鋭(するど)にわかく、はた、苦(にが)く狂ひただるる楽(がく)の色。また、高※[「窗/心」]の鬱金香(うこんかう)。かげに斃(たふ)るる白牛(しろうし)の眉間(みけん)のいたみ、憤怒(いきどほり)。血に笑(ゑ)む人がさけびごゑ。
さあれ、いま納曾利(なそり)のなげき……鈍(にぶ)き思(おもひ)の灰色(はひいろ)の壁の家内(やぬち)に、吹(ふ)き鳴らす古き舞楽(ぶがく)の笙(せう)の節(ふし)、納曾利(なそり)のなげき……
納曾利(なそり)のなげき、ひとしなみおほらににほふ雅楽寮(うたれう)の古きいみじき日の愁(うれひ)、納曾利(なそり)の舞(まひ)の人のゆめ、鈍(にぶ)くものうき足どりの裾ゆるらかに、おもむろの振(ふり)のみやびの舞(まひ)あそび、納曾利(なそり)のなげき……
くりかへし、さはくりかへし、ゆめのごと後(しりへ)に連(つ)るる笙(せう)の節(ふし)、笛(ふえ)のねとりもすずろかに、広(ひろ)き家内(やぬち)に、おなじことおなじ嫋(なよび)にくりかへし、舞(ま)へる思(おもひ)の倦(う)める思(おもひ)のにほやかさ、ゆるき鞨皷(かつこ)の音(ね)もにぶく、古(ふる)き納曾利(なそり)の舞(まひ)をさめ……
今(いま)しも街(まち)の空(そら)高(たか)く消(き)ゆる光(ひかり)のわななきに、ほのかに青(あを)く、なほ苦(にが)く顫(ふる)ひくづるる雲(くも)の色(いろ)。また、浮(う)きのこる鬱金香(うこんかう)。暮(く)れて果(は)てたる白牛(しろうし)の声(こえ)なき骸(むくろ)。人(ひと)だかり、血(ち)を見(み)て黙(もだ)す冷笑(ひやわらひ)。
   四十一年七月
ほのかにひとつ
罌粟(けし)ひらく、ほのかにひとつ、また、ひとつ……
やはらかき麦生(むぎふ)のなかに、軟風(なよかぜ)のゆらゆるそのに。
薄(うす)き日の暮るとしもなく、月(つき)しろの顫(ふる)ふゆめぢを、
縺(もつ)れ入るピアノの吐息(といき)ゆふぐれになぞも泣かるる。
さあれ、またほのに生(あ)れゆく色あかきなやみのほめき。
やはらかき麦生(むぎふ)の靄に、軟風(なよかぜ)のゆらゆる胸に、
罌粟(けし)ひらく、ほのかにひとつ、また、ひとつ……
   四十一年二月
耽溺
あな悲(かな)し、紅(あか)き帆(ほ)きたる。聴(き)けよ、今(いま)、紅(あか)き帆(ほ)きたる。
白日(はくじつ)の光の水脈(みを)に、わが恋の器楽(きがく)の海に。
あはれ、聴け、光は噎(むせ)び、海顫ひ、清(すが)掻(がき)焦(こ)がれ眩暈(めくる)めく悲愁(かなしみ)の極(はて)、苦悶(もだえ)そふ歓楽(よろこび)のせてキユラソオの紅(あか)き帆(ほ)ひびく。
弾(ひ)けよ、弾(ひ)け、毒(どく)のヴィオロン吹けよ、また媚薬(びやく)の嵐。あはれ歌、あはれ幻(まぼろし)、その海に紅(あか)き帆(ほ)光る。海の歌きこゆ、このとき、『噫(あゝ)、かなし、炎(ほのほ)よ、慾(よく)よ、接吻(くちつけ)よ。』
聴けよ、また苦(にが)き愛着(あいぢやく)、肉(しゝむら)のおびえと恐怖(おそれ)、『死ねよ、死ね』、紅(あか)き帆(ほ)響(ひゞ)く、『恋よ、汝(な)よ。』
弾(ひ)けよ、弾(ひ)け、毒のヴィオロン吹けよ、また媚薬(びやく)の嵐。
一瞬(ひととき)よ、――光よ、水脈(みを)よ、楽(がく)の音(ね)よ――酒のキユラソオ、接吻(くちつけ)の非命(ひめい)の快楽(けらく)、毒水(どくすゐ)の火のわななきよ。狂(くる)へ、狂(くる)へ、破滅(ほろび)の渚(なぎさ)、聴くははや楽(がく)の大極(たいきよく)、狂乱(きやうらん)の日の光吸(す)ふ紅(あか)き帆の終(つひ)のはためき。
死なむ、死なむ、二人(ふたり)は死なむ。
紅(あか)き帆(ほ)きゆる。紅(あか)き帆(ほ)きゆる。
   四十年十二月
といき
大空(おほそら)に落日(いりひ)ただよひ、旅しつつ燃えゆく黄雲(きぐも)。そのしたの伽藍(がらん)の甍(いらか)半(なかば)黄(き)になかばほのかに、薄闇(うすやみ)に蝋(らふ)の火にほひ、円柱(まろはしら)またく暮れたる。
ほのめくは鳩の白羽(しらは)か、敷石(しきいし)の闇にはひとり盲(めしひ)の子ひたと膝つけ、ほのかにも尺八(しやくはち)吹(ふ)ける、あはれ、その追分(おひわけ)のふし。
   四十年十二月
黒船
黒煙(くろけぶり)ほのにひとすぢ。――あはれ、日は血を吐く悶(もだえ)あかあかと濡れつつ淀(よど)む悪(あく)の雲そのとどろきに燃え狂ふ恋慕(れんぼ)の楽(がく)の断末魔(だんまつま)。遠目(とほめ)に濁る蒼海(わだつみ)の色こそあかれ、黒潮(くろしほ)の水脈(みを)のはたての水けぶり、はた、とどろ撃(う)つ毒の砲弾(たま)、清(すず)しき喇叭(らつぱ)、薄暮(くれがた)の朱(あけ)のおびえの戦(たゝかひ)に疲れくるめく衰(おとろへ)ぞああ音(ね)を搾(しぼ)る。
黒煙(くろけぶり)またもふたすぢ。――序(じよ)のしらべ絶(た)えつ続きつ、いつしかに黒(くろ)き悩(なやみ)の旋律(せんりつ)ぞ渦(うづ)巻(ま)き起る。逃(に)げ来(く)るは密猟船(みつれうせん)の旗じるし、痍(きずつ)き噎(むせ)ぶ血と汚穢(けがれ)、はた憤怒(いきどほり)おしなべて黄ばみ騒立(さわだ)つ楽(がく)の色。空には苦(にが)き嘲笑(あざけり)に雲かき乱れ、重(おも)りゆく煩悶(もだえ)のあらびはやもまた黒き恐怖(おそれ)のはたためき海より煙る。
黒煙三すぢ、五すぢ。――幻法(げんぱふ)のこれや苦(くる)しき脅迫(おびやかし)いと淫(みだ)らかに蒸し挑(いど)む疾風(はやち)のもとに、現れて真黒(まくろ)に歎(なげ)く楽(がく)の船、生(なま)あをじろき鱶(ふか)の腹ただほのぼのと、暮れがての赤きくるしみ、うめきごゑ、血の甲板(かふはん)のうへにまた爛(たゞ)れて叫ぶ楽慾(げうよく)の破片(はへん)の砲弾(たま)ぞ慄(わなゝ)ける。ああその空にはたためく黒き帆のかげ。
黒煙終に七すぢ。――吹きかはす銀(ぎん)の喇叭もたえだえに、渦巻き猛(たけ)る楽(がく)の極(はて)、蒼海(わだつみ)けぶり、悪(あく)の雲とどろとどろの乱擾(らんぜう)に急忙(あわたゞ)しくも呪(のろ)はしき夜(よ)のたたずまひ。濡れ焙(い)ぶる水無月ぞらの日の名残(なごり)はた掻き濁し、暗澹(あんたん)と、あはれ黒船(くろふね)、真黒なる管絃楽(オオケストラ)の帆の響(ひゞき)死(し)と悔恨(くわいこん)の闇擾(みだ)し壊(くづ)れくづるる。
   四十一年二月
地平
あな哀(あは)れ、今日(けふ)もまた銅(あかがね)の雲をぞ生める。あな哀(あは)れ、明日(あす)も亦鈍(にぶ)き血の毒(どく)をや吐かむ。
見るからにただ熱(あつ)し、心は重し。察(はか)るだにいや苦(くる)し、愁(うれひ)はおもし。
かの青き国(くに)のあこがれ、つねに見る地平(ちへい)のはてに、大空(おほぞら)の真昼(まひる)の色と、連(つ)れて弾(ひ)く緑(みどり)ひとつら。
その緑(みどり)琴柱(ことぢ)にはして、弾きなづむ鳩の羽の夢、幌(ほろ)の星(ほし)、剣(つるぎ)のなげき、清掻(すががき)はほのかに薫(く)ゆる。
さては、日の白き恐怖(おそれ)に静かなる太鼓(たいこ)のとろぎ、昼(ひる)領(し)らす神か拊(う)たせる、ころころとまたゆるやかに。
また絶えず、吐息(といき)のつらねかなたより笛してうかび、こなたより絃(いと)して消ゆる、――ほのかなる夢のおきふし。
しかはあれ、ものなべて圧(お)す南国(なんごく)の熱病雲(ねつやみぐも)ぞ猥(みだ)らなる毒(どく)の※[「言+墟のつくり」]言(うはごと)とどろかに歌かき濁(にご)す。
おもふ、いま水に華(はな)さき、野(の)に赤き駒(こま)は斃(たふ)れむ。うらうへに病(や)ましき現象(きざし)今日(けふ)もまたどよみわづらふ。
あな哀(あは)れ、昨(きそ)の日も銅(あかがね)のなやみかかりき。あな哀(あは)れ、明日(あす)もまた鈍(にぶ)き血の濁(にごり)かからむ。
聴くからにただ熱(あつ)し、心は重し。思ふだにいやくるし、愁は重し。
   四十年十二月
ふえのね
ほのかに見ゆる青き頬(ほ)、あな、あな、玻璃(はり)のおびゆる。
かなたにひびく笛のね、……青き頬(ほ)ほのに消えゆく。
室(むろ)にもつのるふえのね、……ふたつのにほひ盲(し)ひゆく。
きこえずなりぬふえのね、……内(うち)と外(そと)とのなげかひ。
またしも見ゆる青き頬(ほ)。あな、また玻璃(はり)のおびゆる。
   四十一年二月
下枝のゆらぎ
日はさしぬ、白楊(はくやう)の梢(こずゑ)に赤く、さはあれど、暮れ惑(まど)ふ下枝(しづえ)のゆらぎ……
水(みづ)の面(も)のやはらかきにほひの嘆(なげき)波もなき病(や)ましさに、瀞(とろ)みうつれる晩春(おそはる)の※[「窗/心」]閉(とざ)す片側街(かたかはまち)よ、暮れなやむ靄の内皷(うちつづみ)をうてる。いづこにか、もの甘き蜂の巣(す)のこゑ。幼子(をさなご)のむれはまた吹笛(フルウト)鳴らし、白楊(はくやう)の岸(きし)にそひ曇り黄(き)ばめる教会(けうくわい)の硝子※[「窗/心」](がらすまど)ながめてくだる。
日はのこる両側(もろがは)の梢(こずゑ)にあかく、さはあれど、暮れ惑(まど)ふ下枝(しづえ)のゆらぎ……
またあれば、公園(こうゑん)の長椅子(ベンチ)にもたれ、かなたには恋慕(れんぼ)びと苦悩(なやみ)に抱く。そのかげをのどやかに嬰児(あかご)匍(は)ひいで鵞(が)の鳥(とり)を捕(と)らむとて岸(きし)ゆ落ちぬる。
水面(みのも)なるひと騒擾(さやぎ)、さあれ、このとき、驀然(ましぐら)に急ぎくる一列(ひとつら)の郵便馬車(いうびんばしや)よ、薄闇(うすやみ)ににほひゆく赤き曇(くもり)の快(こころよ)さ、人はただ街(まち)をばながむ。
灯(あかり)点(とも)る、さあれなほ梢(こずゑ)はにほひ、全(また)くいま暮れはてし下枝(しづえ)のゆらぎ……
   四十一年八月
雨の日ぐらし
ち、ち、ち、ち、と、もののせはしく刻(きざ)む音(おと)……
河岸(かし)のそば、黴(かび)の香(か)のしめりも暗し、
かくてあな暮れてもゆくか、駅逓(えきてい)の局(きよく)の長壁(ながかべ)灰色(はひいろ)に、暗きうれひに、おとつひも、昨日(きのふ)も、今日(けふ)も。
さあれ、なほ薫(くゆ)りのこれる一列(ひとつら)の紅(あか)き花(はな)罌粟(けし)かたかげの草に濡れつつ、うちしめり浮きもいでぬる。
雨はまたくらく、あかるく、やはらかきゆめの曲節(めろでい)……
ち、ち、ち、ち、と絶えずせはしく刻(きざ)む音……角※[「窗/心」]の玻璃(はり)のくらみを死(し)の報知(しらせ)ひまなく打電(う)てる。さてあればそこはかとなく
出でもゆく薄ぐらき思(おもひ)のやからその歩行(あるき)夜(よ)にか入るらむ。
しばらくは事もなし。かかる日の雨の日ぐらし。
ち、ち、ち、ち、ともののせはしく刻(きざ)む音(おと)……さもあれや、雨はまたゆるにしとしと暮れもゆくゆめの曲節(めろでい)……
いづこにか鈴(すゞ)の音(ね)しつつ、近く、はた、速のく軋(きしり)、待ちあぐむ郵便馬車(いうびんばしや)の旗の色(いろ)見えも来なくに、うち曇る馬の遠嘶(とほなき)。
さあれ、ふと夕日さしそふ。瞬間(たまゆら)の夕日さしそふ。
あなあはれ、あなあはれ、泣き入りぬ罌粟(けし)のひとつら、最終(いやはて)に燃(も)えてもちりぬ。
日の光かすかに消ゆる。ち、ち、ち、ち、ともののせはしく刻(きざ)む音(おと)……雨の曲節(めろでい)……
ものなべて、ものなべて、さは入らむ、暗き愁に。あはれ、また、出でゆきし思のやから帰り来なくに。
ち、ち、ち、ち、ともののせはしく刻(きざ)む音(おと)……雨の曲節(めろでい)……
灰色(はひいろ)の局(きよく)は夜(よ)に入る。
   四十一年五月
狂人の音楽
空気(くうき)は甘し……また赤し……黄(き)に……はた、緑(みどり)……
晩夏(おそなつ)の午後五時半の日光(につくわう)は※[「日/咎」](かげり)を見せて、蒸し暑く噴水(ふきゐ)に濡(ぬ)れて照りかへす。瘋癲院(ふうてんゐん)の陰鬱(いんうつ)に硝子(がらす)は光り、草場(くさば)には青き飛沫(しぶき)の茴香酒(アブサント)冷(ひ)えたちわたる。
いま狂人(きやうじん)のひと群(むれ)は空うち仰ふぎ――饗宴(きやうえん)の楽器(がくき)とりどりかき抱(いだ)き、自棄(やけ)に、しみらに、傷(きず)つける獣(けもの)のごとき雲の面(おも)ひたに怖れて色盲(しきまう)の幻覚(まぼろし)を見る。空気(くうき)は重し……また赤し……共に……はた緑(みどり)……
オボイ鳴る……また、トロムボオン……狂(くる)ほしきヴィオラの唸(うなり)……
一人(ひとり)の酸(す)ゆき音(ね)は飛びて怜羊(かもしか)となり、ひとつは赤き顔ゑがき、笑(わら)ひわななく音(ね)の恐怖(おそれ)……はた、ほのしろき髑髏舞(どくろまひ)……
弾(ひ)け弾(ひ)け……鳴らせ……また舞踏(をど)れ……
セロの、喇叭(らつぱ)の蛇(へび)の香(か)よ、はた、爛(たゞ)れ泣くヴィオロンの空には赤子飛びみだれ、妄想狂(まうさうきやう)のめぐりにはバツソの盲目(めしひ)小さなる骸色(しかばねいろ)の呪咀(のろひ)して逃(のが)れふためく。
弾け弾け……鳴らせ……また舞踏(をど)れ……
クラリネッ卜の槍尖(やりさき)よ、曲節(メロヂア)のひらめき緩(ゆる)く、また急(はや)く、アルト歌者(うたひ)のなげかひを暈(くら)ましながら、一列(ひとつらね)、血しほしたたる神経(しんけい)の壁の煉瓦(れんぐわ)のもとを行(ゆ)く……
弾け弾け……鳴らせ……また舞踏(をど)れ……、
かなしみの蛇(へび)、緑(みどり)の眼(め)槍(やり)に貫(ぬ)かれてまた歎(なげ)く……
弾け弾け……鳴らせ……また舞踏(をど)れ……
はた、吹笛(フルウト)の香(か)のしぶき、青じろき花どくだみの鋭(するど)さに、濁りて光る山椒魚(さんしようを)、沼(ぬま)の調(しらべ)に音(ね)は瀞(とろ)む。
弾け弾け……鳴らせ……また舞踏(をど)れ……
傷(きずつ)きめぐる観覧車(くわんらんしや)、はたや、太皷(たいこ)の悶絶(もんぜつ)に列(つら)なり走(はし)る槍尖(やりさき)よ、※[「窗/心」]の硝子(がらす)に火は叫(さけ)び、月琴(げつきん)の雨ふりそそぐ……
弾(ひ)け弾(ひ)け……鳴らせ……また舞踏(をど)れ……
赤き神経(しんけい)……盲(めし)ひし血……聾(ろう)せる脳の鑢(やすり)の音(ね)……
弾け弾け……鳴らせ……また舞踏(をど)れ……
空気(くうき)は酸(すゆ)し……いま青し……黄(き)に……なほ赤く……
はやも見よ、日の入りがたの雲の色狂気(きやうき)の楽(がく)の音(ね)につれて波だちわたり、悪獣の蹠(あなうら)のごと血を滴(たら)す。
そがもとに噴水(ふきゐ)のむせび濡れ濡れて薄闇(うすやみ)に入る……
空気(くうき)は重し……なほ赤し……黄(き)に……また緑(みどり)……
いつしかに蒸汽(じようき)の鈍(にぶ)き船腹(ふなばら)のごとくに光りかぎろひし瘋癲院(ふうてんゐん)も暮れゆけば、ただ冷(ひ)えしぶく茴香酒(アブサント)、鋭(するど)き玻璃(はり)のすすりなき。
草場(くさば)の赤き一群(ひとむれ)よ、眼(め)ををののかし、躍(をど)り泣き弾(ひ)きただらかす歓楽(くわんらく)のはてしもあらぬ色盲(しきまう)のまぼろしのゆめ……午後の七時の印象(いんしやう)はかくて夜(よ)に入る。
空気は苦(にが)し……はや暗(くら)し……黄(き)に……なほ青く……
   四十一年九月
風のあと
夕日(ゆふひ)はなやかに、こほろぎ啼(な)く。あはれ、ひと日、木の葉ちらし吹き荒(すさ)みたる風も落ちて、夕日(ゆふひ)はなやかに、こほろぎ啼く。
   四十一年八月
月の出
ほのかにほのかに音色(ねいろ)ぞ揺(ゆ)る。かすかにひそかににほひぞ鳴る。しみらに列(なみ)立(た)つわかき白楊(ぽぴゆら)、その葉のくらみにこころ顫(ふる)ふ。
ほのかにほのかに吐息(といき)ぞ揺る。かすかにひそかに雫(しづく)ぞ鳴る。あふげばほのめくゆめの白楊(ぽぴゆら)、愁(うれひ)の水(み)の面(も)を櫂(かい)はすべる。
吐息(といき)のをののき、君が眼(め)ざしやはらに縺(もつ)れてたゆたふとき、光のひとすぢ――顫(ふる)ふ白楊(ぽぴゆら)文月(ふづき)の香炉(かうろ)に濡れてけぶる。
さてしもゆるけくにほふ夢路(ゆめぢ)、したたりしたたる櫂(かい)のしづく、薄らに沁(し)みゆく月のでしほほのかにわれらが小舟(をふね)ぞゆく。
ほのめく接吻(くちつけ)、からむ頸(うなじ)、いづれか恋慕(れんぼ)の吐息(といき)ならぬ。夢見てよりそふわれら、白楊(ぽぴゆら)、水上(みなかみ)透(す)かしてこころ顫(ふる)ふ。
   四十一年二月 
■外光と印象
近世仏国絵画の鑑賞者をわかき旅人にたとへばや。もとより Watteau の羅曼底、Corot の叙情詩は唯微かにそのおぼろげなる記憶に残れるのみ。やや暗き Fontainebleau の森より曇れる道を巴里の市街に出づれば Seine の河、そが上の船、河に臨める 〔Cafe'〕 の、皆「刹那」の如くしるく明かなる Manet の陽光に輝きわたれるに驚くならむ。そは Velazquez の灰色より俄に現れいでたる午后の日なりき。あはれ日はやうやう暮れてぞゆく。金緑に紅薔薇を覆輪にしたりけむ Monet の波の面も青みゆき、青みゆき、ほのかになつかしくはた悲しき Cafin の夕は来る。燈の薄黄は Whistler の好みの色とぞ。月出づ。Pissarro のあをき衢を Verlaine の白月の賦など口荒みつつ過ぎゆくは誰が家の子ぞや。   太田正雄
冷めがたの印象
あわただし、旗ひるがへし、朱(しゆ)の色の駅逓(えきてい)馬車(ぐるま)跳(をど)りゆく。
曇日(くもりび)の色なき街(まち)は清水(しみづ)さす石油(せきゆ)の噎(むせび)、轢(し)かれ泣く停車場(ていしやば)の鈴(すゞ)、溝(みぞ)の毒(どく)、昼の三味(しやみ)、鑢(やすり)磨(す)る歌、茴香酒(アブサン)の青み泡だつ火の叫(さけび)、絶えず眩(くる)めく白楊(やまならし)、遂に疲れてマンドリン奏(かな)でわづらふ風の群(むれ)、あなあはれ、そのかげに乞食(かたゐ)ゆきかふ。
くわと来り、燃(も)えゆく旗は死に堕(お)つる、夏の光のうしろかげ。
灰色の亜鉛(とたん)の屋根に、青銅(せいどう)の擬宝珠(ぎぼしゆ)の錆(さび)に、また寒き万象(ものみな)の愁(うれひ)のうへに、爛(たゞ)れ弾(ひ)く猩紅熱(しやうこうねつ)の火の調(しらべ)、狂気(きやうき)の色と冷(さ)めがたの疲労(つかれ)に、今はひた嘆(なげ)く、悔(くい)と、悩(なやみ)と、戦慄(をのゝき)と。
あかあかとひらめく旗は猥(みだ)らなるその最終(いやはて)の夏の曲(きよく)。
あなあはれ、あなあはれ、あなあはれ、光消えさる。
   四十年十一月
赤子
赤子啼く、
急(はや)き瀬(せ)の中(うち)。
壁重き女囚(ぢよしう)の牢獄(ひとや)、鉄(てつ)の門(もん)、淫慾(いんよく)の蛇の紋章(もんしやう)くわとおびえ、水に、落日(いりひ)に照りかへし、黄ばむひととき。
赤子(あかご)啼(な)く、急(はや)き瀬(せ)の中(うち)。
   四十一年六月
暮春
ひりあ、ひすりあ。しゆツ、しゆツ……
なやまし、河岸(かし)の日のゆふべ、日の光。
ひりあ、ひすりあ。しゆツ、しゆツ……
眼科(がんくわ)の窓(まど)の磨硝子(すりがらす)、しどろもどろの白楊(はくやう)の温(ぬる)き吐息(といき)にくわとばかり、ものあたたかに、くるほしく、やはく、まぶしく、蒸し淀(よど)む夕日(ゆふひ)の光。黄(き)のほめき。
ひりあ、ひすりあ。しゆツ、しゆツ……
なやまし、またもいづこにか、なやまし、あはれ、音(ね)も妙(たへ)に紅(あか)き嘴(はし)ある小鳥らのゆるきさへづり。
ひりあ、ひすりあ。しゆツ、しゆツ……
はた、大河(おほかは)の饐(す)え濁(にご)る、河岸(かし)のまぢかをぎちぎちと病(や)ましげにとろろぎめぐる灰色(はいいろ)黄(き)ばむ小蒸汽(こじようき)の温(ぬ)るく、まぶしく、またゆるくとろぎ噴(ふ)く湯気(ゆげ)いま懈(た)ゆく、また絶えず。
ひりあ、ひすりあ。しゆツ、しゆツ……
いま病院(びやうゐん)の裏庭(うらには)に、煉瓦のもとに、白楊(はくやう)のしどろもどろの香(か)のかげに、窓の硝子(がらす)に、まじまじと日向(ひなた)求(もと)むる病人(やまうど)は目(め)も悩(なや)ましく見ぞ夢む、暮春(ぼしゆん)の空と、もののねと、水と、にほひと。
ひりあ、ひすりあ。しゆツ、しゆツ……
なやまし、ただにやはらかに、くらく、まぶしく、また懈(た)ゆく。
ひりあ、ひすりあ。しゆツ、しゆツ……
   四十一年三月
噴水の印象
噴水(ふきあげ)のゆるきしたたり。――霧しぶく苑(その)の奥、夕日(ゆふひ)の光、水盤(すゐばん)の黄(き)なるさざめき、なべて、いまものあまき嗟嘆(なげかひ)の色。
噴水(ふきあげ)の病(や)めるしたたり。――いづこにか病児(びやうじ)啼(な)き、ゆめはしたたる。そこここに接吻(くちつけ)の音(おと)。空は、はた、暮れかかる夏のわななき。
噴水(ふきあげ)の甘きしたたり。――そがもとに痍(きず)つける女神(ぢよじん)の瞳。はた、赤き眩暈(くるめき)の中(うち)、冷(ひや)み入る銀(ぎん)の節(ふし)、雲のとどろき。
噴水(ふきあげ)の暮るるしたたり。――くわとぞ蒸(む)す日のおびえ、晩夏(ばんか)のさけび、濡れ黄ばむ憂鬱症(ヒステリイ)のゆめ青む、あなしとしとと夢はしたたる。
   四十一年七月
顔の印象 六篇
A 精舎
うち沈む広額(ひろびたひ)、夜(よ)のごとも凹(くぼ)める眼(まなこ)――いや深く、いや重く、泣きしづむ霊(たまし)の精舎(しやうじや)。それか、実(げ)に声もなき秦皮(とねりこ)の森のひまより熟視(みつ)むるは暗(くら)き池、谷そこの水のをののき。いづこにか薄日(うすひ)さし、きしりこきり斑鳩(いかるが)なげく寂寥(さみしら)や、空の色なほ紅(あけ)ににほひのこれど、静かなる、はた孤独(ひとり)、山間(やまあひ)の霧にうもれて悔(くい)と夜(よ)のなげかひを懇(ねもごろ)に通夜(つや)し見まもる。
かかる間(ま)も、底ふかく青(あを)の魚盲(めし)ひあぎとひ、口そそぐ夢の豹(へう)水の面(も)に血音(ちのと)たてつつ、みな冷(ひ)やき石の世(よ)と化(な)りぞゆく、あな恐怖(おそれ)より。
かくてなほ声もなき秦皮(とねりこ)よ、秘(ひそ)に火ともり、精舎(しやうじや)また水晶と凝(こご)る時(とき)愁(うれひ)やぶれて響きいづ、響きいづ、最終(いやはて)の霊(たま)の梵鐘(ぼんしよう)。
   以下五篇――四十一年三月
B 狂へる街
赭(あか)らめる暗(くら)き鼻、なめらかに禿(は)げたる額(ひたひ)、痙攣(ひきつ)れる唇(くち)の端(はし)、光なくなやめる眼(まなこ)なにか見る、夕栄(ゆふばえ)のひとみぎり噎(むせ)ぶ落日(いりひ)に、熱病(ねつびやう)の響(ひびき)する煉瓦家(れんぐわや)か、狂へる街(まち)か。
見るがまに焼酎(せうちう)の泡(あわ)しぶきひたぶる歎(なげ)くそが街(まち)よ、立てつづく尖屋根(とがりやね)血ばみ疲(つか)れて雲赤くもだゆる日、悩(なや)ましく馬車(ばしや)駆(か)るやから霊(たましひ)のありかをぞうち惑(まど)ひ窓(まど)ふりあふぐ。
その窓(まど)に盲(めし)ひたる爺(をぢ)ひとり鈍(にぶ)き刃(は)研(と)げる。はた、唖(おふし)朱(しゆ)に笑ひ痺(しび)れつつ女(をみな)を説(と)ける。次(つぎ)なるは聾(ろう)しぬる清き尼(あま)三味線(しやみせん)弾(ひ)ける。
しかはあれ、照り狂ふ街(まち)はまた酒と歌とにしどろなる舞(まひ)の列(れつ)あかあかと淫(たは)れくるめき、馬車(ばしや)のあと見もやらず、意味(いみ)もなく歌ひ倒(たふ)るる。
C 醋の甕
蒼(あを)ざめし汝(な)が面(おもて)饐(す)えよどむ瞳(ひとみ)のにごり、薄暮(くれがた)に熟視(みつ)めつつ撓(たわ)みちる髪の香(か)きけば――醋(す)の甕(かめ)のふたならび人もなき室(むろ)に沈みて、ほの暗(くら)き玻璃(はり)の窓ひややかに愁(うれ)ひわななく。
外面(とのも)なる嗟嘆(なげかひ)よ、波もなきいんくの河に旗青き独木舟(うつろぶね)そこはかと巡(めぐ)り漕ぎたみ、見えわかぬ悩(なやみ)より錨(いかり)曳(ひ)き鎖(くさり)巻かれて、伽羅(きやら)まじり消え失(う)する黒蒸汽(くろじようき)笛(ふえ)ぞ呻(うめ)ける。
吊橋(つりばし)の灰白(はひじろ)よ、疲(つか)れたる煉瓦(れんぐわ)の壁(かべ)よ、たまたまに整(ととの)はぬ夜(よ)のピアノ淫(みだ)れさやげど、ひとびとは声もなし、河の面(おも)をただに熟視(みつ)むる。はた、甕(かめ)のふたならび、さこそあれ夢はたゆたひ、内と外(そと)かぎりなき懸隔(へだたり)に帷(とばり)堕(お)つれば、あな悲し、あな暗(くら)し、醋(す)の沈黙(しじま)長くひびかふ。
D 沈丁花
なまめけるわが女(をみな)、汝(な)は弾(ひ)きぬ夏の日の曲(きよく)、悩(なや)ましき眼(め)の色に、髪際(かうぎは)の紛(こな)おしろひに、緘(つぐ)みたる色あかき唇(くちびる)に、あるはいやしく肉(ししむら)の香(か)に倦(う)める猥(みだ)らなる頬(ほ)のほほゑみに。
響(ひび)かふは呪(のろ)はしき執(しふ)と欲(よく)、ゆめもふくらに頸(うなじ)巻く毛のぬくみ、真白(ましろ)なるほだしの環(たまき)そがうへに我ぞ聴(き)く、沈丁花(ぢんてうげ)たぎる畑(はたけ)を、堪(た)へがたき夏の日を、狂(くる)はしき甘(あま)きひびきを。
しかはあれ、またも聴く、そが畑(はた)に隣(とな)る河岸(かし)側(きは)、色ざめし浅葱幕(あさぎまく)しどけなく張りもつらねて、調(しら)ぶるは下司(げす)のうた、はしやげる曲馬(チヤリネ)の囃子(はやし)。
その幕の羅馬字(らうまじ)よ、くるしげに馬は嘶(いなな)き、大喇叭(おほらつぱ)鄙(ひな)びたる笑(わらひ)してまたも挑(いど)めば生(なま)あつき色と香(か)とひとさやぎ歎(なげ)きもつるる。
E 不調子
われは見る汝(な)が不調(ふてう)、――萎(しな)びたる瞳の光沢(つや)に、衰(おとろへ)の頬(ほ)ににほふおしろひの厚き化粧(けはひ)に、あはれまた褪(あ)せはてし髪の髷(まげ)強(つよ)きくゆりに、肉(ししむら)の戦慄(わななき)を、いや甘き欲(よく)の疲労(つかれ)を。
はた思ふ、晩夏(おそなつ)の生(なま)あつきにほひのなかに、倦(う)みしごと縺(もつ)れ入るいと冷(ひ)やき風の吐息(といき)を。新開(しんかい)の街(まち)は※[「金+肅」](さ)びて、色赤く猥(みだ)るる屋根を、濁りたる看板(かんばん)を、入り残る窓の落日(いりひ)を。
なべてみな整(ととの)はぬ色の曲(ふし)……ただに鋭(するど)き最高音(ソプラノ)の入り雑(まじ)り、埃(ほこり)たつ家(や)なみのうへに、色にぶき土蔵家(どざうや)の江戸芝居(えどしばゐ)ひとり古りたる。
露(あら)はなる日の光、そがもとに三味(しやみ)はなまめき、拍子木(へうしぎ)の歎(なげき)またいと痛(いた)し古き痍(いたで)に、かくてあな衰(おとろへ)のもののいろ空(そら)は暮れ初む。
F 赤き恐怖
わかうどよ、汝(な)はくるし、尋(と)めあぐむ苦悶(くもん)の瞳(ひとみ)、秀でたる眉のゆめ、ひたかわく赤き唇(くちびる)みな恋の響なり、熟視(みつ)むれば――調(しらべ)かなでて火のごとき馬ぐるま燃(も)え過ぐる窓のかなたを。
はた、辻の真昼(まひる)どき、白楊(はこやなぎ)にほひわななき、雲浮かぶ空(そら)の色生(なま)あつく蒸しも汗(あせ)ばむ街(まち)よ、あな音もなし、鐘はなほ鳴りもわたらね、炎上(えんじやう)の光また眼(め)にうつり、壁ぞ狂(くる)へる。
人もなき路のべよ、しとしとと血を滴(したた)らし胆(きも)抜(ぬ)きて走る鬼、そがあとにただに餞(う)ゑつつ色赤き郵便函(ポスト)のみくるしげにひとり立ちたる。
かくてなほ窓の内(うち)すずしげに室(むろ)は濡(ぬ)るれど、戸外(とのも)にぞ火は熾(さか)る、………哀(あは)れ、哀(あは)れ、棚(たな)の上(へ)に見よ、水もなき消火器(せうくわき)のうつろなる赤き戦慄(をののき)。
盲ひし沼
午後六時(ごごろくじ)、血紅色(けつこうしよく)の日の光盲(めし)ひし沼にふりそそぎ、濁(にごり)の水の声もなく傷(きずつ)き眩(くら)む生(なま)おびえ。鉄(てつ)の匂(にほひ)のひと冷(ひや)み沁(し)みは入れども、影うつす煙草(たばこ)工場(こうば)の煉瓦壁(れんぐわかべ)。眼(め)も痛(いた)ましき香(か)のけぶり、機械(きかい)とどろく。
鳴ききたる鵝島(がてう)のうからしらしらと水に飛び入る。
午後六時、また噴(ふ)きなやむ管(くだ)の湯気(ゆげ)、壁に凭(よ)りたる素裸(すはだか)の若者(わかもの)ひとり腕(かいな)拭(ふ)き鉄(てつ)の匂にうち噎(むせ)ぶ。はた、あかあかと蒸気鑵(じようきがま)音(おと)なく叫び、そこここに咲きこぼれたる芹(せり)の花、あなや、しとどにおしなべて日ぞ照りそそぐ。
声もなき鵞鳥(がてう)のうから色みだし水に消え入る
午後六時、鵞鳥(がてう)の見たる水底(みなぞこ)は血潮したたる沼(ぬま)の面(も)の負傷(てきず)の光かき濁る泥(どろ)の臭(くさ)みに疲(つか)れつつ、水死(すゐし)の人の骨のごとちらぼふなかにもの鈍(にぶ)き鉛の魚のめくるめき、はた浮(うか)びくる妄念(まうねん)の赤きわななき。
逃(に)げいづる鵞鳥(がてう)のうから鳴きさやぎ汀(みぎは)を走(はし)る。
午後六時、あな水底(みそこ)より浮びくる赤きわななき――妄念の猛(たけ)ると見れば、強き煙草に、鉄(てつ)の香(か)に、わかき男に、顔いだす硝子(がらす)の窓の少女(をとめ)らに血潮したたり、歓楽(くわんらく)の極(はて)の恐怖(おそれ)の日のおびえ、顫(ふる)ひ高まる苦痛(くるしみ)ぞ朱(あけ)にくづるる。
刹那、ふと太(ふと)く湯気(ゆげ)吐き吼(ほ)えいづる休息(やすらひ)の笛。
   四十一年七月
青き光
哀(あは)れ、みな悩(なや)み入る、夏の夜(よ)のいと青き光のなかに、ほの白き鉄(てつ)の橋、洞(ほら)円(まろ)き穹窿(ああち)の煉瓦(れんぐわ)、かげに来て米炊(かし)ぐ泥舟(どろぶね)の鉢(はち)の撫子(なでしこ)、そを見ると見下(みおろ)せる人々(ひとびと)が倦(う)みし面(おもて)も。
はた絶えず、悩(なや)ましの角(つの)光り電車すぎゆく河岸(かし)なみの白き壁あはあはと瓦斯も点(とも)れど、うち向ふ暗き葉柳(はやなぎ)震慄(わなな)きつ、さは震慄(わなな)きつ、後(うしろ)よりはた泣くは青白き屋(いへ)の幽霊(いうれい)。
いと青きソプラノの沈みゆく光のなかに、饐(す)えて病むわかき日の薄暮(くれがた)のゆめ。――幽霊の屋(いへ)よりか洩れきたる呪(のろ)はしの音(ね)の交響体(ジムフオニ)のくるしみのややありて交(まじ)りおびゆる。
いづこにかうち囃(はや)す幻燈(げんとう)の伴奏(あはせ)の進行曲(マアチ)、かげのごと往来(ゆきき)する白(しろ)の衣(きぬ)うかびつれつつ、映(うつ)りゆく絵(ゑ)のなかのいそがしさ、さは繰りかへす。――そのかげに苦痛(くるしみ)の暗(くら)きこゑまじりもだゆる。
なべてみな悩(なや)み入る、夏の夜(よ)のいと青き光のなかに。――蒸し暑(あつ)き軟(なよ)ら風(かぜ)もの甘(あま)き汗(あせ)に揺(ゆ)れつつ、ほつほつと点(と)もれゆく水(みづ)の面(も)のなやみの燈(ともし)、鹹(しほ)からき執(しふ)の譜(ふ)よ………み空には星ぞうまるる。
かくてなほ悩み顫(ふる)ふわかき日の薄暮(くれがた)のゆめ。――見よ、苦(にが)き闇(やみ)の滓(をり)街衢(ちまた)には淀(よど)みとろげど、新(あらた)にもしぶきいづる星の華(はな)――泡(あわ)のなげきに色青き酒のごと空(そら)は、はた、なべて澄みゆく。
   四十一年七月
樅のふたもと
うちけぶる樅(もみ)のふたもと。薄暮(くれがた)の山の半腹(なから)のすすき原(はら)、若草色(わかくさいろ)の夕(ゆふ)あかり濡れにぞ濡るる雨の日のもののしらべの微妙(いみじ)さに、なやみ幽(かす)けき Chopin(シオパン) の楽(がく)のしたたりやはらかに絶えず霧するにほやかさ。ああ、さはあかれ、嗟嘆(なげかひ)の樅(もみ)のふたもと。
はやにほふ樅(もみ)のふたもと。いつしかに色にほひゆく靄のすそ、しみらに燃(も)ゆる日の薄黄(うすぎ)、映(うつ)らふみどり、ひそやかに暗(くら)き夢弾(ひ)く列並(つらなみ)の遠(とほ)の山々(やまやま)おしなべてものやはらかに、近(ちか)ほとりほのめきそむる歌(うた)の曲(ふし)。ああ、はやにほへ、嗟嘆(なげかひ)の樅(もみ)のふたもと。
燃えいづる樅(もみ)のふたもと。濡れ滴(した)る柑子(かうじ)の色のひとつらね、深き青みの重(かさな)りにまじらひけぶる山の端(は)の縺(もつ)れのなやみ、あるはまたかすかに覗(のぞ)く空のゆめ、雲のあからみ、晩夏(おそなつ)の入日(いりひ)に噎(むせ)ぶ夕(ゆふ)ながめ。ああ、また燃(も)ゆれ、嗟嘆(なげかひ)の樅(もみ)のふたもと。
色うつる樅(もみ)のふたもと。しめやげる葬(はふり)の曲(ふし)のかなしみの幽(かす)かにもののなまめきに揺曳(ゆらひ)くなべに、沈(しづ)みゆく雲の青みの階調(シムフオニヤ)、はた、さまざまのあこがれの吐息(といき)の薫(くゆり)、薄れつつうつらふきはの日のおびえ。ああ、はた、響け、嵯嘆(なげかひ)の樅(もみ)のふたもと。
饐(す)え暗(くら)む樅のふたもと。燃えのこる想(おもひ)のうるみひえびえと、はや夜(よ)の沈黙(しじま)しのびねに弾きも絶え入る列並(つらなみ)の山のくるしみ、ひと叢(むら)の柑子(かうじ)の靄のおぼめきも音(ね)にこそ呻(うめ)け、おしなべて御龕(みづし)の空(そら)ぞ饐(す)えよどむ。ああ、見よ、悩(なや)む、嗟嘆(なげかひ)の樅(もみ)のふたもと。
暮れて立つ樅(もみ)のふたもと。声もなき悲願(ひぐわん)の通夜(つや)のすすりなき薄らの闇に深みゆく、あはれ、法悦(ほふえつ)、いつしかに篳篥(ひちりき)あかる谷のそら、ほのめき顫(ふる)ふ月魄(つきしろ)のうれひ沁みつつ夢青む忘我(われか)の原の靄の色。ああ、さは顫(ふる)へ嗟嘆(なげかひ)の樅(もみ)のふたもと。
   四十一年二月
夕日のにほひ
晩春(おそはる)の夕日(ゆふひ)の中(なか)に、順礼(じゆんれい)の子はひとり頬(ほ)をふくらませ、濁(にご)りたる眼(め)をあげて管(くだ)うち吹ける。腐(くさ)れゆく襤褸(つづれ)のにほひ、酢(す)と石油(せきゆ)……にじむ素足(すあし)に落ちちれる果実(くだもの)の皮、赤くうすく、あるは汚(きた)なく……
片手(かたて)には噛(かぢ)りのこせし林檎(りんご)をばかたく握(にぎ)りぬ。かくてなほ頬(ほ)をふくらませ怖(おづ)おづと吹きいづる………珠(たま)の石鹸(しやぼん)よ。
さはあれど、珠(たま)のいくつはなやましき夕暮(ゆふぐれ)のにほひのなかにゆらゆらと円(まろ)みつつ、ほつと消(き)えたる。ゆめ、にほひ、その吐息(といき)……
彼(かれ)はまた、怖々(おづおづ)と、怖々(おづおづ)と、……眩(まぶ)しげに頬(ほ)をふくらませ蒸(む)し淀(よど)む空気(くうき)にぞ吹きもいでたる。
あはれ、見よ、いろいろのかがやきに濡(ぬ)れもしめりて円(まろ)らにものぼりゆく大(おほ)きなるひとつの珠(たま)よ。そをいまし見あげたる無心(むしん)の瞳(ひとみ)。
背後(そびら)には、血しほしたたる拳(こぶし)あげ、霞(かす)める街(まち)の大時計(おほどけい)睨(にら)みつめたる山門(さんもん)の仁王(にわう)の赤(あか)き幻想(イリユウジヨン)……
その裏(うら)をちやるめらのゆく……
   四十一年十二月
浴室
水落つ、たたと………浴室(よくしつ)の真白き湯壺(ゆつぼ)大理石(なめいし)の苦悩(なやみ)に湯気(ゆげ)ぞたちのぼる。硝子(がらす)の外(そと)の濁川(にごりがは)、日にあかあかと小蒸汽(こじようき)の船腹(ふなばら)光るひとみぎり、太鼓ぞ鳴れる。
水落つ、たたと………‥灰色(はひいろ)の亜鉛(とたん)の屋根の繋留所(けいりうじよ)、わが窓近き陰鬱(いんうつ)に行徳(ぎやうとく)ゆきの人はいま見つつ声なし、川むかひ、黄褐色(わうかつしよく)の雲のもと、太皷ぞ鳴れる。
水落つ、たたと…………両国(りやうごく)の大吊橋(おほつりばし)はうち煤(すす)け、上手(かみて)斜(ななめ)に日を浴(あ)びて、色薄黄(き)ばみ、はた重く、ちやるめらまじり忙(せは)しげに夜(よ)に入る子らが身の運(はこ)び、太皷ぞ鳴れる。
水落つ、たたと…………もの甘く、あるひは赤く、うらわかきわれの素肌(すはだ)に沁(し)みきたる鉄(てつ)のにほひと、腐(くさ)れゆく石鹸(しやぼん)のしぶき。水面(みのも)には荷足(にたり)の暮れて呼ぶ声す、太皷ぞ鳴れる。
水落つ、たたと…………たたとあな音色(ねいろ)柔(やは)らに、大理石(なめいし)の苦悩(なやみ)に湯気(ゆげ)は濃(こ)く、温(ぬ)るく、鈍(にぶ)きどよみと外光(ぐわいくわう)のなまめく靄に疲(つか)れゆく赤き都会(とくわい)のらうたげさ、太皷ぞ鳴れる。
   四十一年八月
入日の壁
黄(き)に潤(しめ)る港の入日(いりひ)、切支丹(きりしたん)邪宗(じやしゆう)の寺の入口(いりぐち)の暗(くら)めるほとり、色古りし煉瓦(れんぐわ)の壁に射かへせば、静かに起る日の祈祷(いのり)、『ハレルヤ』と、奥にはにほふ讃頌(さんしよう)の幽(かす)けき夢路(ゆめぢ)。
あかあかと精舎(しやうじや)の入日。――ややあれば大風琴(おほオルガン)の音(ね)の吐息(といき)たゆらに嘆(なげ)き、白蝋(はくらふ)の盲(し)ひゆく涙。――壁のなかには埋(うづ)もれて眩暈(めくるめ)き、素肌(すはだ)に立てるわかうどが赤き幻(まぼろし)。
ただ赤き精舎(しやうじや)の壁に、妄念(まうねん)は熔(とろ)くるばかりおびえつつ全身(ぜんしん)落つる日を浴(あ)びて真夏(まなつ)の海をうち睨(にら)む。『聖(サンタ)マリヤ、イエスの御母(みはは)。』一斉(いつせい)に礼拝(をろがみ)終(をは)る老若(らうにやく)の消え入るさけび。はた、白(しら)む入日の色にしづしづと白衣(はくえ)の人らうちつれて湿潤(しめり)も暗き戸口(とぐち)より浮びいでつつ、眩(まぶ)しげに数珠(じゆず)ふりかざし急(いそ)げども、など知らむ、素肌(すはだ)に汗(あせ)し熔(とろ)けゆく苦悩(くなう)の思(おもひ)。
暮れのこる邪宗(じやしゆう)の御寺(みてら)いつしかに薄(うす)らに青くひらめけばほのかに薫(くゆ)る沈(ぢん)の香(かう)、波羅葦増(ハライソ)のゆめ。さしもまた埋(うも)れて顫(ふる)ふ妄念(まうねん)の血に染みし踵(かがと)のあたり、蟋蟀(きりぎりす)啼きもすずろぐ。
   四十一年八月
狂へる椿
ああ、暮春(ぼしゆん)。
なべて悩(なや)まし。溶(とろ)けゆく雲のまろがり、大(おほ)ぞらのにほひも、ゆめも。
ああ、暮春。
大理石(なめいし)のまぶしきにほひ――幾基(いくもと)の墓の日向(ひなた)に照りかへし、くわと入る光。ものやはき眩暈(くるめき)の甘き恐怖(おそれ)よ。あかあかと狂ひいでぬる薮椿(やぶつばき)、自棄(やけ)に熱(ねつ)病(や)む霊(たま)か、見よ、枝もたわわに狂ひ咲き、狂ひいでぬる赤き花、赤き※[「言+墟のつくり」]言(うはごと)。
そがかたへなる崖(がけ)の上(うへ)、うち湿(しめ)り、熱(ほて)り、まぶしく、また、ねぶく大路(おほぢ)に淀(よど)むもののおと。人力車夫(じんりきしやふ)はひとつらね青白(あをじろ)の幌(ほろ)をならべぬ。客を待つこころごころに。
ああ、暮春。
さあれ、また、うちも向へるいと高く暗き崖(がけ)には、窓(まど)もなき牢獄(ひとや)の壁の長き列(つら)、はては閉(とざ)せる灰黒(はひぐろ)の重き裏門(うらもん)。
はたやいま落つる日ひびき、照りあかる窪地(くぼち)のそらのいづこにか、さはひとり、湿(しめ)り吹きゆく幼(をさな)ごころの日のうれひ、そのちやるめらの笛の曲(ふし)。
笛の曲(ふし)…………かくて、はた、病(や)みぬる椿(つばき)、赤く、赤く、狂(くる)へる椿(つばき)。
   四十一年六月
吊橋のにほひ
夏の日の激(はげ)しき光噴(ふ)きいづる銀(ぎん)の濃雲(こぐも)に照りうかび、雲は熔(とろ)けてひたおもて大河筋(おほかはすぢ)に射かへせば、見よ、眩暈(めくるめ)く水の面(おも)、波も真白に声もなき潮のさしひき。
そがうへに懸(かか)る吊橋。煤(すす)けたる黝(ねずみ)の鉄(てつ)の桁構(けたがまへ)、半月形(はんげつけい)の幾円(いくまろ)み絶えつつ続くかげに、見よ、薄(うす)らに青む水の色、あるは煉瓦(れんぐわ)の円柱(まろはしら)映(うつ)ろひ、あかみ、たゆたひぬ。
銀色(ぎんいろ)の光のなかに、そろひゆく櫂(オオル)のなげきしらしらと、或(あるひ)は仄(ほの)の水鳥(みづとり)のそことしもなき音(ね)のうれひ、河岸(かし)の氷室(ひむろ)の壁も、はた、ただに真昼の白蝋(はくらふ)の冷(ひや)みの沈黙(しじま)。
かくてただ悩(なや)む吊橋(つりはし)、なべてみな真白き水(み)の面(も)、はた、光、ただにたゆたふ眩暈(くるめき)の、恐怖(おそれ)の、仄(ほの)の哀愁(かなしみ)の銀(ぎん)の真昼(まひる)に、色重き鉄(てつ)のにほひぞ鬱憂(うついう)に吊られ圧(お)さるる。
鋼鉄(かうてつ)のにほひに噎(むせ)び、絶えずまた直裸(ひたはだか)なる男の子真白(ましろ)に光り、ひとならび、力(ちから)あふるる面(おもて)して柵(さく)の上より躍(をど)り入る、水の飛沫(しぶき)や、白金(はつきん)に濡(ぬ)れてかがやく。
真白(ましろ)なる真夏(まなつ)の真昼(まひる)。汗(あせ)滴(した)るしとどの熱(ねつ)に薄曇(うすくも)り、暈(くら)みて歎(なげ)く吊橋のにほひ目当(めあて)にたぎち来る小蒸汽船(こじようきせん)の灰(はひ)ばめる鈍(にぶ)き唸(うなり)や、日は光り、煙うづまく。
   四十一年八月
硝子切るひと
君は切る、色あかき硝子(がらす)の板(いた)を。落日(いりひ)さす暮春(ぼしゆん)の窓に、いそがしく撰(えら)びいでつつ。
君は切る、金剛(こんがう)の石のわかさに。
茴香酒(アブサン)のごときひとすぢつと引きつ、切りつ、忘れつ。
君は切る、色あかき硝子(がらす)の板を。
君は切る、君は切る。
   四十年十二月
悪の窓 断篇七種
一 狂念
あはれ、あはれ、青白(あをじろ)き日の光西よりのぼり、薄暮(くれがた)の灯のにほひ昼もまた点(とも)りかなしむ。
わが街(まち)よ、わが窓よ、なにしかも焼酎(せうちう)叫(さけ)び、鶴嘴(つるはし)のひとつらね日に光り悶(もだ)えひらめく。
汽車(きしや)ぞ来(く)る、汽車(きしや)ぞ来(く)る、真黒(まくろ)げに夢とどろかし、窓もなき灰色(はひいろ)の貨物輌(くわもつばこ)豹(へう)ぞ積みたる。あはれ、はや、焼酎(せうちう)は醋(す)とかはり、人は轢(し)かれて、盲(めし)ひつつ血に叫ぶ豹(へう)の声遠(とほ)に泡(あわ)立つ。
二 疲れ
あはれ、いま暴(あら)びゆく接吻(くちつけ)よ、肉(ししむら)の曲(きよく)。……
かくてはや青白く疲(つか)れたる獣(けもの)の面(おもて)今日(けふ)もまた我(われ)見据(みす)ゑ、果敢(はか)なげに、いと果敢(はか)なげに、色濁(にご)る窓(まど)硝子(がらす)外面(とのも)より呪(のろ)ひためらふ。
いづこにかうち狂(くる)ふヴィオロンよ、わが唇(くちびる)よ、身をも燬(や)くべき砒素(ひそ)の壁(かべ)夕日さしそふ。
三 薄暮の負傷
血潮したたる。
薄暮(くれがた)の負傷(てきず)なやまし、かげ暗(くら)き溝(みぞ)のにほひに、はた、胸に、床(ゆか)の鉛(なまり)に……
さあれ、夢には列(つら)なめて駱駝(らくだ)ぞ過(す)ぐる。埃及(えじぷと)のカイロの街(まち)の古煉瓦(ふるれんが)壁のひまには砂漠(さばく)なるオアシスうかぶ。その空にしたたる紅(あか)きわが星よ。……
血潮したたる。
四 象のにほひ
日をひと日。日をひと日。
日をひと日、光なし、色も盲(めし)ひてふくだめる、はた、病(や)めるなやましきもの※[「窗/心」]ふたぎ※[「窗/心」]ふたぎ気倦(けだ)るげに唸(うな)りもぞする。
あはれ、わが幽鬱(いううつ)の象(ざう)亜弗利加(あふりか)の鈍(にぶ)きにほひに。
日をひと日。日をひと日。
五 悪のそびら
おどろなす髪の亜麻色(あさいろ)背(そびら)向け、今日(けふ)もうごかず、さあれ、また、絶えずほつほつ息しぼり『死』にぞ吹くめる、血のごとき石鹸(しやぼん)の珠(たま)を。
六 薄暮の印象
うまし接吻(くちつけ)……歓語(さざめごと)……
さあれ、空には眼(め)に見えぬ血潮(ちしほ)したたり、なにものか負傷(てお)ひくるしむ叫(さけび)ごゑ、など痛(いた)む、あな薄暮(くれがた)の曲(きよく)の色、――光の沈黙(しじま)。
うまし接吻(くちつけ)……歓語(さざめごと)……
七 うめき
暮(く)れゆく日、血に濁る床(ゆか)の上にひとりやすらふ。街(まち)しづみ、※[「窗/心」]しづみ、わが心もの音(おと)もなし。
載(の)せきたる板硝子(いたがらす)過(す)ぐるとき車燬(や)きつつ落つる日の照りかへし、そが面(おもて)噎びあかれば室内(むろぬち)の汚穢(けがれ)、はた、古壁に朽ちし鉞(まさかり)一斉(ひととき)に屠(はふ)らるる牛の夢くわとばかり呻(うめ)き悶(もだ)ゆる。
街(まち)の子は戯(たはむ)れに空虚(うつろ)なる乳(ち)の鑵(くわん)たたき、よぼよぼの飴売(あめうり)は、あなしばし、ちやるめらを吹く。
くわとばかり、くわとばかり、黄(き)に光る向(むか)ひの煉瓦(れんぐわ)くわとばかり、あなしばし。――
   悪の※[「窗/心」]畢   四十一年二月

おほらかに、いとおほらかに、大(おほ)きなる鬱金(うこん)の色の花の面(おも)。
日は真昼(まひる)、時は極熱(ごくねつ)、ひたおもて日射(ひざし)にくわつと照りかへる。
時に、われ世(よ)の蜜(みつ)もとめ雄蕋(ゆうずゐ)の林の底をさまよひぬ。
光の斑(ふ)燬(や)けつ、断(ちぎ)れつ、豹(へう)のごと燃(も)えつつ湿(し)める径(みち)の隈(くま)。
風吹かず。仰ふげば空(そら)は烈々(れつれつ)と鬱金(うこん)を篩(ふる)ふ蕋(ずゐ)の花。
さらに、聞く、爛(ただ)れ、饐(す)えばみ、ふつふつと苦痛(くつう)をかもす蜜の息。
楽欲(げうよく)の極みか、甘き寂寞(じやくまく)の大光明(だいくわうみやう)、に喘(あへ)ぐ時。
人界(にんがい)の七谷(ななたに)隔(へだ)て、丁々(とうとう)と白檀(びやくだん)を伐(う)つ斧(をの)の音(おと)。
   四十年三月
華のかげ
時(とき)は夏、血のごと濁(にご)る毒水(どくすゐ)の鰐(わに)住む沼(ぬま)の真昼時(まひるどき)、夢ともわかず、日に嘆(なげ)く無量(むりやう)の広葉(ひろは)かきわけてほのかに青き青蓮(せいれん)の白華(しらはな)咲けり。
ここ過(よ)ぎり街(まち)にゆく者、――婆羅門(ばらもん)の苦行(くぎやう)の沙門(しやもん)、あるはまた生皮(なまかわ)漁(あさ)る旃陀羅(せんだら)が鈍(にぶ)き刃(は)の色、たまたまに火の布(きれ)巻ける奴隷(しもべ)ども石油(せきゆ)の鑵(くわん)を地に投(な)げて鋭(するど)に泣けど、この旱(ひでり)何時(いつ)かは止(や)まむ。これやこれ、饑(うゑ)に堕(お)ちたる天竺(てんぢく)の末期(まつご)の苦患(くげん)。見るからに気候風(きこうふう)吹く空(そら)の果(はて)銅色(あかがねいろ)のうろこ雲湿潤(しめり)に燃(りも)えて恒河(ガンヂス)の鰐(わに)の脊(せ)のごとはらばへど、日は爛(ただ)れ、大地(たいち)はあはれ柚色(ゆずいろ)の熱黄疸(ねつわうだん)の苦痛(くるしみ)に吐息(といき)も得せず。
この恐怖(おそれ)何に類(たぐ)へむ。ひとみぎり地平(ちへい)のはてを大象(たいざう)の群(むれ)御(ぎよ)しながら槍(やり)揮(ふる)ふ土人(どじん)が昼の水かひも終(を)へしか、消ゆる後姿(うしろで)に代(かは)れる列(れつ)はこは如何(いか)に殖民兵(しよくみんへい)の黒奴(ニグロ)らが喘(あへ)ぎ曳き来る真黒(まくろ)なる火薬(くわやく)の車輌(くるま)掲(かか)ぐるは危嶮(きけん)の旗の朱(しゆ)の光絶えず饑(う)ゑたる心臓(しんざう)の呻(うめ)くに似たり。
さはあれど、ここなる華(はな)と、円(まろ)き葉のあはひにうつる色、匂(にほひ)、青みの光、ほのほのと沼(ぬま)の水面(みのも)の毒の香も薄(うす)らに交(まじ)り、昼はなほかすかに顫(ふる)ふ。
   四十年十二月
幽閉
色濁(にご)るぐらすの戸(と)もて封(ふう)じたる、白日(まひるび)の日のさすひと間(ま)、そのなかに蝋(らふ)のあかりのすすりなき。
いましがた、蓋(ふた)閉(とざ)したる風琴(オルガン)の忍(しの)びのうめき。そがうへに瞳(ひとみ)盲(し)ひたる嬰児(みどりご)ぞ戯れあそぶ。あはれ、さは赤裸(あかはだか)なる、盲(めし)ひなる、ひとり笑(ゑ)みつつ、声たてて小さく愛(めぐ)しき生(うまれ)の臍(ほぞ)をまさぐりぬ。
物病(や)ましさのかぎりなる室(むろ)のといきに、をりをりは忍び入るらむ戯(おど)けたる街衢(ちまた)の囃子(はやし)、あはれ、また、嬰児(みどりご)笑ふ。
ことことと、ひそかなる母のおとなひ幾度(いくたび)となく戸を押せど、はては敲(たた)けど、色濁る扉(とびら)はあかず。室(むろ)の内(うち)暑く悒鬱(いぶせ)く、またさらに嬰児(みどりご)笑ふ。
かくて、はた、硝子(がらす)のなかのすすりなき蝋(らふ)のあかりの夜(よ)を待たず尽きなむ時よ。あはれ、また母の愁(うれひ)の恐怖(おそれ)とならむそのみぎり。
あはれ、子はひたに聴き入る、珍(めづ)らなるいとも可笑(をか)しきちやるめらの外(そと)の一節(ひとふし)。
   四十一年六月
鉛の室
いんきは赤し。――さいへ、見よ、室(むろ)の腐蝕(ふしよく)にうちにじみ倦(うん)じつつゆくわがおもひ、暮春(ぼしゆん)の午後(ごご)をそこはかと朱(しゆ)をば引(ひ)けども。
油じむ末黒(すぐろ)の文字(もじ)のいくつらね悲しともなく誦(ず)しゆけど、響(ひび)らぐ声(こゑ)は※[「金+肅」](さ)びてゆく鉛(なまり)の悔(くやみ)、しかすがに、
強(つよ)き薫(くゆり)のなやましさ、鉛(なまり)の室(むろ)はくわとばかり火酒(ウオツカ)のごとき噎(むせ)びして壁の湿潤(しめり)を玻璃(はり)に蒸す光の痛(いた)さ。
力(ちから)なき活字(くわつじ)ひろひの淫(たは)れ歌(うた)、病(や)める機械(きかい)の羽(は)たたきにあるは沁み来(こ)し新(あた)らしき紙の刷(す)られの香(か)も消(き)ゆる。
いんきや尽きむ。――はやもわがこころのそこに聴くはただ饐(す)えに饐(す)えゆく匂(にほひ)のみ、――はた、滓(をり)よどむ壺(つぼ)を見よ。つとこそ一人(ひとり)、
手を棚(たな)へ延(の)すより早く、とくとくと、赤き硝子(がらす)のいんき罎(びん)傾(かた)むけそそぐ一刹那(いつせつな)、壺(つぼ)にあふるる火のゆらぎ。
さと燃(も)えあがる間(ま)こそあれ、飜(かへ)ると見れば手に平(ひら)む吸取紙(すひとりがみ)の骸色(かばねいろ)爛(ただ)れぬ――あなや、血はしと、と卓(しよく)に滴(したた)る。
   四十年九月
真昼
日は真昼(まひる)――野づかさの、寂寥(せきれう)の心(しん)の臓(ざう)にか、ただひとつ声もなく照りかへす硝子(がらす)の破片(くだけ)。そのほとり WHISKY(ウヰスキイ) の匂(にほひ)蒸(む)す銀色(ぎんいろ)の内(うち)、声するは、密(ひそ)かにも露吸ひあぐる、色赤き、色赤き花の吐息(といき)……
   四十一年十二月 
このさんたくるすは三百年まへより大江村の切支丹のうちに忍びかくして守りつたへたるたつときみくるすなり。これは野中に見いでたり。
天草島大江村天主堂秘蔵
天草雅歌
四十年八月、新詩社の諸友とともに遠く天草島に遊ぶ。こはその紀念作なり。
   「四十年十月作」
天艸雅歌
角を吹け
わが佳※[「耒+禺」](とも)よ、いざともに野にいでて歌はまし、水牛(すゐぎう)の角(つの)を吹け。視よ、すでに美果実(みくだもの)あからみて田にはまた足穂(たりほ)垂れ、風のまに
山鳩のこゑきこゆ、角(つの)を吹け。いざさらば馬鈴薯(ばれいしよ)の畑(はた)を越え瓜哇(ジヤワ)びとが園に入り、かの岡に鐘やみて蝋(らふ)の火の消ゆるまで無花果(いちじゆく)の乳(ち)をすすり、ほのぼのと歌はまし、汝(な)が頸(くび)の角(つの)を吹け。わが佳※[「耒+禺」](とも)よ、鐘きこゆ、野に下りて葡萄樹(じゆ)の汁(つゆ)滴(した)る邑(むら)を過ぎ、いざさらば、パアテルの黒き袈裟(けさ)はや朝の看経(つとめ)はて、しづしづと見えがくれ棕櫚(しゆろ)の葉に消ゆるまで、無花果(いちじゆく)の乳(ち)をすすり、ほのぼのと歌はまし、いざともに角(つの)を吹け、わが佳※[「耒+禺」](とも)よ、起き来れ、野にいでて歌はまし、水牛(すゐぎう)の角(つの)を吹け。
ほのかなる蝋の火に
いでや子ら、日は高し、風たちて棕櫚(しゆろ)の葉のうち戦(そよ)ぎ冷(ひ)ゆるまで、ほのかなる蝋(らふ)の火に羽(は)をそろへ鴿(はと)のごと歌はまし、汝(な)が母も。好(よ)き日なり、媼(おうな)たち、さらばまづ祷(いの)らまし賛美歌(さんびか)の十五番(じふごばん)、いざさらば風琴(オルガン)を子らは弾け、あはれ、またわが爺(おぢ)よ、なにすとか、老眼鏡(おいめがね)ここにこそ、座(ざ)はあきぬ、いざともに祷(いの)らまし、ひとびとよ、さんた・まりや。さんた・まりや。さんた・まりや。拝(をろが)めば香炉(かうろ)の火身に燃えて百合のごとわが霊(たま)のうちふるふ。あなかしこ、鴿(はと)の子ら羽(は)をあげて御龕(みづし)なる蝋(らふ)の火をあらためよ。黒船(くろふね)の笛きこゆいざさらばほどもなくパアテルは見えまさむ、さらにまた他(た)の燭(そく)をたてまつれ。あなゆかし、ロレンゾか、鐘鳴らし、まめやかに安息(あんそく)の日を祝(ほ)ぐは、あな楽し、真白(ましろ)なる羽をそろへ鴿(はと)のごと歌はまし、わが子らよ。あはれなほ日は高し、風たちて棕櫚(しゆろ)の葉のうち戦(そよ)ぎ冷(ひ)ゆるまで、ほのかなる蝋(らふ)の火に羽をそろへ鴿(はと)のごと歌はまし、はらからよ。
※[「舟+虜」](ろ)を抜けよ
はやも聴け、鐘鳴りぬ、わが子らよ、御堂(みだう)にははや夕(よべ)の歌きこえ、蝋(らふ)の火もともるらし、※[「舟+虜」](ろ)を抜(ぬ)けよ。もろもろの美果実(みくだもの)籠(こ)に盛りて、汝(な)が鴿(はと)ら畑(はた)に下り、しらしらと帰るらし夕(ゆふ)づつのかげを見よ。われらいま、空色(そらいろ)の帆(ほ)のやみに新(あらた)なる大海(おほうみ)の香炉(かうろ)採(と)り籠(こ)に※[「火+主」](た)きぬ、ひるがへる魚を見よ。さるほどに、跪き、ひとびとは目(ま)見(み)青き上人(しやうにん)と夜に祷(いの)り、捧げます御(み)くるすの香(か)にや酔ふ、うらうらと咽ぶらし、歌をきけ。われらまた祖先(みおや)らが血によりて洗礼(そそ)がれし仮名文(かなぶみ)の御経(みきやう)にぞ主(しゆう)よ永久(とは)に恵みあれ、われらも、と鴿(はと)率(ゐ)つつ祷らまし、帆をしぼれ。はやも聴け、鐘鳴りぬ、わが子らよ、御堂(みだう)にははや夕(よべ)の歌きこえ、蝋(らふ)の火もくゆるらし、※[「舟+虜」](ろ)を抜けよ、
汝にささぐ
女子(をみなご)よ、汝(な)に捧(ささ)ぐ、ただひとつ。然(しか)はあれ、汝(な)も知らむ。このさんた・くるすは、かなた檳榔樹(びろうじゆ)の実(み)の落つる国、夕日(ゆふひ)さす白琺瑯(はくはふらう)の石の階(はし)そのそこの心の心、――えめらるど、あるは紅玉(こうぎよく)、褐(くり)の埴(はに)八千層(やちさか)敷ける真底(まそこ)より、汝(な)が愛を讃(たた)へむがため、また、清き接吻(くちつけ)のため、水晶の柄(え)をすげし白銀(しろかね)の鍬をもて、七つほど先(さき)の世(よ)ゆ世を継(つ)ぎてひたぶるに、われとわが採(と)りいでし型(かた)、その型(かた)を汝(な)に捧(ささ)ぐ、女子(をみなご)よ。
ただ秘めよ
曰(い)ひけるは、あな、わが少女(をとめ)、天艸(あまくさ)の蜜(みつ)の少女(をとめ)よ。汝(な)が髪は烏(からす)のごとく、汝(な)が唇(くち)は木(こ)の実(み)の紅(あけ)に没薬(もつやく)の汁(しゆ)滴(したた)らす。わが鴿(はと)よ、わが友よ、いざともに擁(いだ)かまし。薫(くゆり)濃(こ)き葡萄の酒は玻璃(ぎやまん)の壺(つぼ)に盛(も)るべく、もたらしし麝香(じやかう)の臍(ほぞ)は汝(な)が肌の百合に染めてむ。よし、さあれ、汝(な)が父に、よし、さあれ、汝(な)が母に、ただ秘(ひ)めよ、ただ守れ、斎(いつ)き死ぬまで、虐(しひたげ)の罪の鞭(しもと)はさもあらばあれ、ああただ秘(ひ)めよ、御(み)くるすの愛(あい)の徴(しるし)を。
さならずば
わが家(いへ)のわが家(いへ)の可愛(かあ)ゆき鴿(はと)をその雛(ひな)を汝(なれ)せちに恋ふとしならば、いでや子よ、逃(のが)れよ、早も邪宗門(じやしゆうもん)外道(げだう)の教(をしへ)かくてまた遠き祖(おや)より伝(つた)ヘこし秘密(ひみつ)の聖磔(くるす)とく柱より取りいでよ。もし、さならずばもろもろの麝香(じやかう)のふくろ、桂枝(けいし)、はた、没薬(もつやく)、蘆薈(ろくわい)および乳(ちち)、島の無花果(いちじゆく)、如何に世のにほひを積むも、――さならずば、もしさならずば――汝(なれ)いかに陳(ちん)じ泣くとも、あるは、また護摩(ごま)※[「火+主」](た)き修し、伴天連(ばてれん)の救(すくひ)よぶとも、ああ遂に詮(せん)業(すべ)なけむ。いざさらば接吻(くちつけ)の妙(たへ)なる蜜(みつ)に、女子(をみなご)の葡萄の息(いき)に、いで『ころべ』いざ歌へ、わかうどよ。
嗅煙艸
『あはれ、あはれ、深江(ふかえ)の媼(おば)よ。髪も頬(ほ)も煙艸色(たばこいろ)なる、棕櫚(しゆろ)の根に蹲(うづく)む媼(おば)よ。汝(な)が持てる象牙(ざうげ)の壺(つぼ)はまた薫(くゆ)る褐(くり)なる粉(こな)は何ぞ。また、せちに鼻つけ涙垂れ、あかき眼(め)擦(す)るは。』このときに渡(わたり)の媼(おうな)呻(によ)ぶらく。『わが葡萄牙(ほるとがる)、こを嗅(か)ぎてわかきは思ふ。』『さらば、汝(な)は。』『責(せ)めそ、さな、さな、養生(やしなひ)を骸(から)はただ欲(ほ)れ。さればこそ、この嗅煙艸(かぎたばこ)。』

わかうどなゆめ近よりそ、かのゆくは邪宗(じやしゆう)の鵠(くぐひ)、日のうちに七度(ななたび)八度(やたび)潮(うしほ)あび化粧(けはひ)すといふ伴天連(ばてれん)の秘(ひそ)の少女(をとめ)ぞ。地になびく髪には蘆薈(ろくわい)、嘴(はし)にまたあかき実(み)を塗(ぬ)る淫(みだ)らなる鳥にしあれば、絶えず、その真白羽(ましろは)ひろげ乳香(にふかう)の水したたらす。されば、子なゆめ近よりそ。視よ、持つは炎(ほのほ)か、華(はな)か、さならずば実(み)の無花果(いちじゆく)か、兎(と)にもあれ、かれこそ邪法(じやはふ)。わかうどなゆめ近よりそ。
日ごとに
日ごとにわかき姿(すがた)して日ごとに歌ふわが族(ぞう)よ、日ごとに紅(あか)き実(み)の乳房(ちぶさ)日ごとにすてて漁(あさ)りゆく。
黄金向日葵
あはれ、あはれ、黄金(こがね)向日葵(ひぐるま)汝(みまし)また太陽(ひ)にも倦(あ)きしか、南国(なんごく)の空の真昼(まひる)をかなしげに疲(つか)れて見ゆる。
一※[「火+主」]
香炉(かうろ)いま一※[「火+主」](いつす)のかをり。あはれ、火はこころのそこに。
さあれ、その一※[「火+主」](いつす)のけむり、かの空(そら)の青き龕(みづし)に。 
■青き花
南紀旅行の紀念として且はわが羅曼底時代のあえかなる思出のために、この幼き一章を過ぎし日の友にささぐ。
   「四十年二、三両月中作」
青き花
そは暗(くら)きみどりの空にむかし見し幻(まぼろし)なりき。青き花かくてたづねて、日も知らず、また、夜(よ)も知らず、国あまた巡(めぐ)りありきしそのかみのわれや、わかうど。
そののちも人とうまれて、微妙(いみじ)くも奇(く)しき幻(まぼろし)ゆめ、うつつ、香(か)こそ忘れね、
かの青き花をたづねて、ああ、またもわれはあえかに人(ひと)の世(よ)の旅路(たびぢ)に迷ふ。

かかる野に何時(いつ)かありけむ。仏手柑(ぶしゆかん)の青む南国(なんごく)薫(かを)る日の光なよらに身をめぐりほめく物の香(か)、鳥うたひ、天(そら)もゆめみぬ。
何時(いつ)の世か君と識(し)りけむ。黄金(こがね)なす髪もたわたわ、みかへるか、あはれ、つかのまちらと見ぬ、わかき瞳(ひとみ)ににほひぬるかの青き花。
桑名
夜(よ)となりぬ、神世(かみよ)に通ふやすらひに早や門(かど)鎖(とざ)す古伊勢(ふるいせ)の桑名(くわな)の街(まち)は路(みち)も狭(せ)に高き屋(や)づくり音(おと)もなく、陰森(いんしん)として物の隈(くま)ひろごるにほひ。おほらかに零落(れいらく)の戸を瞰下(みおろ)して愁ふるがごと月光(げつくわう)は青に照せり。参宮(さんぐう)の衆(しゆう)にかあらむ、旅(たび)びとの二人(ふたり)三人(みたり)はさきのほどひそかに過(す)ぎぬ。貸(かし)旅籠(はたご)札(ふだ)のみ白き壁つづきほとほと遠く、物ごゑの夜風(よかぜ)に消えて、今ははた数(かず)添(そ)はりゆく星くづの天(そら)なる調(しらべ)やはらかに、地は闌(ふ)けまさる。
時になほ街(まち)はづれなる老舗(しにせ)の戸少し明(あか)りて火は路(みち)へひとすぢ射(さ)しぬ。行燈(あんどう)のかげには清き女(め)の童(わらは)物縫(ものぬ)ふけはひ、そがなかにたわやの一人(ひとり)髪あげて戸外(とのも)すかしぬ。――事もなき夜(よ)のしづけさに。

――汽車のなかにて――
わが友よ、はや眼(め)をさませ。玻璃(はり)の戸にのこる灯(ひ)ゆらぎ、夜(よ)はわかきうれひに明けぬ。順礼はつとにめざめてあえかなる友をかおもふ。清(すず)しげの髪のそよぎに笈(おひづる)のいろもほのぼの。
わが友よ、はや眼(め)をさませ。かなた、いま白(しら)む野のそら、薔薇(さうび)にはほのかに薄(うす)く菫よりやや濃(こ)きあはひ、かのわかき瞳(ひとみ)さながらあけぼのの夢より醒(さ)めてわだつみはかすかに顫(ふる)ふ。
紅玉
かかるとき、海ゆく船にまどはしの人魚(にんぎよ)か蹤(つ)ける。美くしき術(じゆつ)の夕(ゆふべ)に、まどろみの香油(かうゆ)したたり、こころまたけぶるともなく、幻(まぼろし)の黒髪きたり、夜(よ)のごともわが眼(め)蔽(おほ)へり。そことなくおほくのひとのあえかなるかたらひおぼえ、われはただひしと凝視(みつ)めぬ。夢ふかき黒髪の奥(おく)朱(しゆ)に喘ぐ紅玉(こうぎよく)ひとつ、これや、わが胸より落つるわかき血の燃(もゆ)る滴(したたり)。
海辺の墓
われは見き、いつとは知らね、薄(うす)あかるにほひのなかに夢ならずわかれし一人(ひとり)、ものみなは涙のいろに消えぬとも。ああ、えや忘る。かのわかき黒髪のなか、星のごと濡れてにほひし天色(そらいろ)の勾玉(まがたま)七つ。
われは見ぬ、漂浪(さすら)ひながら、見もなれぬ海辺の墓にうつつにも眠れる一人(ひとり)そことなき髪のにほひのほのめきも、ああ、えや忘る。いま寒き夕闇(ゆふやみ)のそこ、星のごと濡れてにほへる天色(そらいろ)の露草(つゆくさ)七つ。
渚の薔薇
紀(き)の南(みなみ)、白良(しらら)の渚(なぎさ)、荒き灘(なだ)高く砕(くだ)けて天(そら)暗(くら)う轟(とどろ)くほとり、ひとならび夕陽(ゆふひ)をうけて面(おも)ほてり、むらがり咲ける色紅(あか)き薔薇(さうび)の族(ぞう)よ。
瞬(またた)く間(ま)、間近(まぢか)に寄せて崩(なだ)れうつ浪の穂を見よ。
今しさと滴(したた)るばかり激瀾(おほなみ)の飛沫(しぶき)に濡れて、弥(いや)さらに匂ひ閃(ひら)めく火のごとき少女(をとめ)のむれよ。
寄せ返し、遠く消えゆく塩※[「さんずい+區」](しほなわ)暗き音(ね)を聴け。
ああ薔薇(さうび)、汝(なれ)にむかへばわかき日のほこりぞ躍る。薔薇(さうび)、薔微(さうび)、あてなる薔薇(さうび)。

海の霧にほやかなるに灯(ひ)も見ゆる夕暮のほど、ほのかなる旅籠(はたご)の窓に在(あ)るとなく暮(く)れもなやめば、やはらかき私語(ささやき)まじり咽(むせ)びきぬ、そこはかとなく、火に焼くる薔薇(さうび)のにほひ。
ああ、薔薇(さうび)、暮れゆく今日(けふ)をそぞろなり、わかき喘(あへぎ)に図(はか)らずも思ひぞいづる。そは熱(あつ)き夏の渚辺(なぎさべ)、濡髪(ぬれがみ)のなまめかしさに、女(をみな)つと寝(ね)がへりながら、みだらなる手して結びし色紅(あか)き韈(くつした)の紐(ひも)。

蜜柑船(みかんぶね)凪(なぎ)にうかびて壁白き浜のかなたはあたたかに物売る声す。波もなき港の真昼(まひる)、白銀(しろがね)の挿櫛(さしぐし)撓(たは)みいま遠く二つら三つら水の上(へ)をすべると見つれ。波もなき港の真昼、また近く、二つら三つら飛(とび)の魚すべりて安(やす)し。

あたたかに海は笑(わら)ひぬ。花あかき夕日の窓に、手をのべて聴くとしもなく薔薇(さうび)摘(つ)み、ほのかに愁(うれ)ふ。いま聴くは市(いち)の遠音(とほね)か、波の音(ね)か、過ぎし昨日(きのふ)か、はた、淡(あは)き今日(けふ)のうれひか。
あたたかに海は笑ひぬ。ふと思ふ、かかる夕日(ゆふひ)に白銀(しろがね)の絹衣(すずし)ゆるがせ、いまあてに花摘(つ)みながらかく愁(うれ)ひ、かくや聴(き)くらむ、紅(くれなゐ)の南極星下(なんきよくせいか)われを思ふ人のひとりも。
羅曼底の瞳
この少女はわが稚きロマンチツクの幻象也、仮にソフィヤと呼びまゐらす。
美(うつ)くしきソフィヤの君(きみ)。悲(かな)しくも恋(こひ)しくも見え給ふわがわかきソフィヤの君(きみ)。なになれば日もすがら今日(けふ)はかく瞑目(めつぶ)り給ふ。美(うつ)くしきソフィヤの君(きみ)、われ泣けば、朝な夕(ゆふ)なに、悲(かな)しくも静(しづ)かにも見ひらき給ふ青き華(はな)――少女(をとめ)の瞳(ひとみ)。ソフィヤの君(きみ)。 
■古酒
こは邪宗門の古酒なり。近代白耳義の所謂フアンドシエクルの神経には柑桂酒の酸味に竪笛の音色を思ひ浮かべ梅酒に喇叭を嗅ぎ、甘くして辛き茴香酒にフルウトの鋭さをたづね、あるはまたウヰスキイをトロムボオンに、キユムメル、ブランデイを嚠喨として鼻音を交へたるオボイの響に配して、それそれ匂強き味覚の合奏に耽溺すと云へど、こはさる驕りたる類にもあらず。黴くさき穴倉の隅、曇りたる色硝子の※[「窗/心」]より洩れきたる外光の不可思議におぼめきながら煤びたるフラスコのひとつに湛ゆるは火酒か、阿刺吉か、又はかの紅毛の※[「酉+珍のつくり」]※[「酉+蛇のつくり」]の酒か、えもわかねど、われはただ和蘭わたりのびいどろの深き古色をゆかしみて、かのわかき日のはじめに秘め置きにたる様々の夢と匂とに執するのみ。
恋慕ながし
春ゆく市(いち)のゆふぐれ、角(かく)なる地下室(セラ)の玻璃(はり)透きうつらふ色とにほひと
見惚(みほ)れぬ。――潤(う)るむ笛の音(ね)。
しばしは雲の縹(はなだ)と、灯(ひ)うつる路(みち)の濡色(ぬれいろ)、また行く素足(すあし)しらしら、――あかりぬ、笛の音色(ねいろ)も。
古き醋甕(すがめ)と街衢(ちまた)の物焼く薫(くゆり)いつしか薄らひ饐(す)ゆれ。――澄みゆく紅(あか)き音色(ねいろ)の揺曳(ゆらびき)
このとき、玻璃(はり)も真黒(まくろ)に四輪車(しりんしや)軋(きし)るはためき、獣(けもの)の温(ぬる)き肌(はだ)の香(か)過(よ)ぎりぬ。――濁(にご)る夜(よ)の色。
ああ眼(め)にまどふ音色(ねいろ)のはやも見わかぬかなしさ。れんほ、れれつれ、消えぬる恋慕(れんぼ)ながしの一曲(ひとふし)。
   四十年二月
煙草
黄(き)のほてり、夢のすががき、さはあまきうれひの華(はな)よ。ほのに汝(な)を嗅(か)ぎゆくここち、QURACIO(キユラソオ) の酒もおよばじ。
いつはあれ、ものうき胸に痛(いたみ)知るささやきながら、わかき火のにほひにむせてはばたきぬ、快楽(けらく)のうたは。
そのうたを誰かは解(と)かむ。あえかなる罪のまぼろし、――濃(こ)き華の褐(くり)に沁みゆく愛欲(あいよく)の千々(ちぢ)のうれひを。
向日葵(ひぐるま)の日に蒸すにほひ、かはたれのかなしき怨言(かごと)ゆるやかにくゆりぬ、いまも絶間(たえま)なき火のささやきに。
かくてわがこころひねもす傷(いた)むともなくてくゆりぬ、あな、あはれ、汝(な)が香(か)の小鳥そらいろのもやのつばさに。
   四十年九月
舗石
夏の夜(よ)あけのすずしさ、氷載せゆく車のいづちともなき軋(きしり)に、潤(うる)みて消ゆる瓦斯(がす)の火。
海へか、路次(ろじ)ゆみだれて大族(おほうから)なす鵞(が)の鳥鳴きつれ、霧のまがひにわたりぬ――しらむ舗石(しきいし)。
人みえそめぬ。煙草(たばこ)のただよひ湿(しめ)るたまゆら、辻なる※[「窗/心」]の絵硝子(ゑがらす)あがりぬ――ひびく舗石(しきいし)。
見よ、女(め)が髪のたわめき濡れこそかかれ、このときつと寄(よ)り、男、みだらの接吻(くちつけ)――にほふ舗石(しきいし)。
ほど経て※[「窗/心」]を閑(さ)す音(おと)。枝垂柳(しだれやなぎ)のしげみを、赤き港の自働車(じどうしや)けたたましくも過(す)ぎぬる。
ややあり、ほのに緋(ひ)の帯、水色うつり過(す)ぐれば、縺(もつ)れぬ、はやも、からころ、かろき木履(きぐつ)のすががき。
   四十年九月
驟雨前
長月(ながつき)の鎮守(ちんじゆ)の祭(まつり)からうじてどよもしながら、雨(あめ)もよひ、夜(よ)もふけゆけば、蒸しなやむ濃(こ)き雲のあしをりをりに赤(あか)くただれて、月あかり、稲妻(いなづま)すなる。
このあたり、だらだらの坂(さか)、赤楊(はん)高き小学校の柵(さく)尽きて、下(した)は黍畑(きびばた)こほろぎぞ闇に鳴くなる。いづこぞや女声(をみなごゑ)して重たげに雨戸(あまど)繰(く)る音(おと)。
わかれ路(みち)、辻(つじ)の濃霧(こぎり)は馬やどののこるあかりに幻燈(げんとう)のぼかしのごとも蒸し青(あを)み、破(や)れし土馬車(つちばしや)ふたつみつ泥(どろ)にまみれてひそやかに影を落(おと)しぬ。泥濘(ぬかるみ)の物の汗(あせ)ばみ生(なま)ぬるく、重き空気(くうき)に新しき木犀(もくせい)まじり、馬槽(うまぶね)の臭気(くさみ)ふけつつ、懶(もの)うげのさやぎはたはた暑(あつ)き夜(よ)のなやみを刻(きざ)む。
足音(あしおと)す、生血(なまち)の滴(した)りしとしととまへを人かげ、おちうどか、ほたや、六部(ろくぶ)か、背(せ)に高き龕(みづし)をになひ、青き火の消えゆくごとく呻(うめ)きつつ闇にまぎれぬ。
生騒(なまさや)ぎ野をひとわたり。とある枝(え)に蝉は寝(ね)おびれ、ぢと嘆(なげ)き、鳴きも落つれば洞(ほら)円(まろ)き橋台(はしだい)のをち、はつかにも断(き)れし雲間(くもま)に月黄(き)ばみ、病める笑(わら)ひす。
夜(よ)の汽車の重きとどろき。凄まじき驟雨(しゆうう)のまへを、黒烟(くろけぶり)深(ふか)き峡(はざま)は一面(いちめん)に血潮ながれて、いま赤く人轢(し)くけしき。稲妻す。――嗚呼夜(よ)は一時(いちじ)。
   三十九年九月
解纜
解纜(かいらん)す、大船(たいせん)あまた。――ここ肥前(ひぜん)長崎港(ながさきかう)のただなかは長雨(ながあめ)ぞらの幽闇(いうあん)に海(うな)づら鈍(にぶ)み、悶々(もんもん)と檣(ほばしら)けぶるたたずまひ、鎖(くさり)のむせび、帆のうなり、伝馬(てんま)のさけび、あるはまた阿蘭船(おらんせん)なる黒奴(くろんぼ)が気(き)も狂(くる)ほしき諸ごゑに、硝子(がらす)切る音(おと)、うち湿(しめ)り――嗚呼(ああ)午後(ごご)七時――ひとしきり、落居(おちゐ)ぬ騒擾(さやぎ)。
解纜(かいらん)す、大船あまた。あかあかと日暮(にちぼ)の街(まち)に吐血(とけつ)して落日(らくじつ)喘(あへ)ぐ寂寥(せきれう)に鐘鳴りわたり、陰々(いんいん)と、灰色(はいいろ)重き曇日(くもりび)を死を告(つ)げ知らすせはしさに、響は絶(た)えず天主(てんしゆ)より。――闇澹(あんたん)として二列(ふたならび)、海波(かいは)の鳴咽(おえつ)、赤(あか)の浮標(うき)、なかに黄(き)ばめる帆は瘧(ぎやく)に――嗚呼(ああ)午後七時――わなわなとはためく恐怖(おそれ)。
解纜(かいらん)す、大船(たいせん)あまた。――黄髪(わうはつ)の伴天連(ばてれん)信徒(しんと)蹌踉(さうらう)と闇穴道(あんけつだう)を磔(はりき)負ひ駆(か)られゆくごと生(なま)ぬるき悔(くやみ)の唸(うなり)順々(つぎつぎ)に、流るる血しほ黒煙(くろけぶ)り動揺(どうえう)しつつ、印度、はた、南蛮(なんばん)、羅馬、目的(めど)はあれ、ただ生涯(しやうがい)の船がかり、いづれは黄泉(よみ)へ消えゆくや、――嗚呼(ああ)午後七時――鬱憂(うついう)の心の海に。
   三十九年七月
日ざかり
嗚呼(ああ)、今(いま)し午砲(ごはう)のひびきおほどかにとどろきわたり、遠近(をちこち)の汽笛(きてき)しばらく饑(う)うるごと呻(うめ)きをはれば、柳原(やなぎはら)熱(あつ)き街衢(ちまた)はまた、もとの沈黙(しじま)にかへる。
河岸(かし)なみは赤き煉瓦家(れんぐわや)。牢獄(ひとや)めく工場(こうば)の奥ゆ印刷(いんさつ)の響(ひびき)たまたま薄鉄葉(ブリキ)切る鋏(はさみ)の音(おと)と、柩(ひつぎ)うつ槌と、鑢(やすり)と、懶(もの)うげにまじりきこえぬ。
片側(かたかは)の古衣屋(ふるぎや)つづき、衣紋掛(えもんかけ)重き恐怖(おそれ)に肺(はひ)やみの咳(しはぶき)洩(も)れて、饐(す)えてゆく物のいきれに、陰湿(いんしつ)のにほひつめたく照り白(しら)み、人は黙坐(もくざ)す。
ゆきかへり、やをら、電気車(でんきしや)鉛(なまり)だつ体(たい)をとどめてぐどぐどとかたみに語り、鬱憂(うついう)の唸(うなり)重げにまた軋(きし)る、熱(あつ)く垂れたるひた赤(あか)き満員(まんゐん)の札(ふだ)。
恐ろしき沈黙(しじま)ふたたび酷熱(こくねつ)の日ざしにただれ、ぺんき塗(ぬり)褪(さ)めし看板(かんばん)毒(どく)滴(た)らし、河岸(かし)のあちこちちぢれ毛(げ)の痩犬(やせいぬ)見えて苦(くる)しげに肉(にく)を求食(あさ)りぬ。油(あぶら)うく線路(レエル)の正面(まとも)、鉄(てつ)重(おも)き橋の構(かまへ)に雲ひとつまろがりいでてくらくらとかがやく真昼(まひる)、汗(あせ)ながし、車曳(ひ)きつつ匍匐(は)ふがごと撒水夫(みづまき)きたる。
   三十九年九月
軟風
ゆるびぬ、潤(うる)む罌粟(けし)の火はわかき瞳の濡色(ぬれいろ)に。熟視(みつ)めよ、ゆるる麦の穂のたゆらの色のつぶやきを。
たわやになびく黒髪の君の水脈(みを)こそ身に翻(あふ)れ。――うかびぬ、消えぬ、火の雫(しづく)匂の海のたゆたひに。
ふとしも歎(なげ)く蝶のむれころりんころと……頬(ほ)のほめき、触(ふ)るる吐息(といき)に縺(もつ)るれば、色も、にほひも、つぶやきも、
同じ音色(ねいろ)の揺曳(ゆらびき)に倦(うん)じぬ、かくて君が目も。――あはれ、皐月(さつき)の軟風(なよかぜ)にゆられてゆめむわがおもひ。
   四十年六月
大寺
大寺(おほてら)の庫裏(くり)のうしろは、枇杷あまた黄金(こがね)たわわに、六月の天(そら)いろ洩るる路次(ろじ)の隅、竿(さを)かけわたし皮交り、襁褓(むつき)を乾(ほ)せり。そのかげに穢(むさ)き姿(なり)して面子(めんこ)うち、子らはたはぶれ、裏店(うらだな)の洗流(ながし)の日かげ、顔青き野師(やし)の女房ら首いだし、煙草吸ひつつ、鈍(にぶ)き目に甍(いらか)あふぎて、はてもなう罵りかはす。凋(しを)れたるもののにほひは溝板(どぶいた)の臭気(くさみ)まじりに蒸し暑(あつ)く、いづこともなく。赤黒き肉屋の旗は屋根越に垂れて動かず。はや十時、街(まち)の沈黙(しじま)をしめやかに沈(ぢん)の香しづみ、しらじらと日は高まりぬ。
   三十九年八月
ひらめき
十月(じふぐわつ)のとある夜(よ)の空。北国(ほつこく)の郊野(かうや)の林檎実(み)は赤く梢(こずゑ)にのこれ、はや、里の果物採(くだものとり)は影絶えぬ、遠く灯(ひ)つけてただ軋(きし)る耕作(かうさく)ぐるま。鬱憂(うついう)に海は鈍(にば)みて闇澹(あんたん)と氷雨(ひさめ)やすらし。灰(はひ)濁(だ)める暮雲(ぼうん)のかなた血紅(けつこう)の火花(ひばな)ひらめき燦(さん)として音(おと)なく消えぬ。沈痛(ちんつう)の呻吟(うめき)この時、闇重き夜色(やしよく)のなかに蓬髪(ほうはつ)の男蹌踉(よろめ)き落涙(らくるゐ)す、蒼白(あをじろ)き頬(ほ)に。
   三十九年八月
立秋
憂愁(いうしう)のこれや野の国、柑子(かうじ)だつ灰色のすゑ夕汽車(ゆふぎしや)の遠音(とほね)もしづみ、信号柱(シグナル)のちさき燈(ともしび)淡々(あはあは)とみどりにうるむ。
ひとしきり、小野(をの)に細雲(ほそぐも)。南瓜畑(かぼちやばた)北へ練(ね)りゆく旗赤き異形(ゐぎやう)の列(れつ)は戯(おど)けたる広告(ひろめ)の囃子(はやし)賑(にぎ)やかに遠くまぎれぬ。
うらがなし、落日(いりひ)の黄金(こがね)片岡(かたおか)の槐(ゑんじゆ)にあかり、鳴きしきる蜩(かなかな)、あはれ誰(たれ)葬(はふ)るゆふべなるらむ。
   三十九年八月
玻璃罎
うすぐらき窖(あなぐら)のなか、瓢状(ひさごなり)、なにか湛(たた)へて、十(とを)あまり円(まろ)うならべる夢(ゆめ)いろの薄(うす)ら玻璃罎(はりびん)。
静(しづ)けさや、靄(もや)の古(ふる)びを黄蝋(わうらふ)は燻(くゆ)りまどかに照りあかる。吐息(といき)そこ、ここ、哀楽(あいらく)のつめたきにほひ。
今(いま)しこそ、ゆめの歓楽(くわんらく)降(ふ)りそそげ。生命(いのち)の脈(なみ)はゆらぎ、かつ、壁にちらほら玻璃(はり)透(す)きぬ、赤き火の色。
   三十九年八月
微笑
朧月(ろうげつ)か、眩(まば)ゆきばかり髪むすび紅(あか)き帯してあらはれぬ、春夜(しゆんや)の納屋(なや)にいそいそと、あはれ、女子(をみなご)。
あかあかと据(す)ゑし蝋燭(らふそく)薔薇(さうび)潮(さ)す片頬(かたほ)にほてり、すずろけば夜霧(よぎり)火のごと、いづこにか林檎(りんご)のあへぎ。
嗚呼(ああ)愉楽(ゆらく)、朱塗(しゆぬり)の樽(たる)の差口(だぶす)抜き、酒つぐわかさ、玻璃器(ぎやまん)に古酒(こしゆ)の薫香(かをりか)なみなみと……遠く人ごゑ。
やや暫時(しばし)、瞳かがやき、髪かしげ、微笑(ほほゑ)みながらなに紅(あか)む、わかき女子(をみなご)。母屋(もや)にまた、おこる歓語(さざめき)……
   三十九年八月
砂道
日の真昼(まひる)、ひとり、懶(ものう)く真白なる砂道(さだう)を歩む。市(いち)遠く赤き旗見ゆ、風もなし。荒蕪地(かうぶち)つづき、廃(すた)れ立つ礎(いしずゑ)燃(も)えて烈々(れつれつ)と煉瓦(れんぐわ)の火気(くわき)に爛(ただ)れたる果実(くわじつ)のにほひそことなく漂(ただよ)湿(しめ)る。
数百歩、娑婆(しやば)に音なし。
ふと、空に苦熱(くねつ)のうなり、見あぐれば、名しらぬ大樹(たいじゆ)千万(ちよろづ)の羽音(はおと)に糜(しら)け、鈴状(すずなり)に熟(う)るる火の粒潤(しめ)やかに甘き乳(ち)しぶく。楽欲(げうよく)の渇(かわき)たちまちかのわかき接吻(くちつけ)思ひ、目ぞ暈(くら)む。
真夏の原に
真白(ましろ)なる砂道(さだう)とぎれてまた続く恐怖(おそれ)の日なか、寂(せき)として過(よ)ぎる人なし。
   三十九年八月
凋落
寂光土(じやくくわうど)、はたや、墳塋(おくつき)、夕暮(ゆふぐれ)の古き牧場(まきば)はなごやかに光黄ばみてうつらちる楡(にれ)の落葉(らくえふ)、そこ、かしこ。――暮秋(ぼしう)の大日(おほひ)あかあかと海に沈めば、凋落(てうらく)の市(いち)に鐘鳴り、絡繹(らくえき)と寺門(じもん)をいづる老若(らうにやく)の力(ちから)なき顔、あるはみな青き旗垂れ灰(はひ)濁(だ)める水路(すゐろ)の靄に寂寞(じやくまく)と繋(かか)る猪木舟(ちよきぶね)、店々の装飾(かざり)まばらに、甃石(いしだたみ)ちらほら軋る空(から)ぐるま、寒き石橋。――鈍(にぶ)き眼(め)に頭(かしら)もたげて黄牛(あめうし)よ、汝(な)はなにおもふ。
   三十九年八月
晩秋
神無月、下浣(すゑ)の七日(しちにち)、病(や)ましげに落日(いりひ)黄ばみて晩秋(ばんしう)の乾風(からかぜ)光り、百舌(もず)啼かず、木の葉沈まず、空高き柿の上枝(ほづえ)を実はひとつ赤く落ちたり。刹那(せつな)、野を北へ人霊(ひとだま)、鉦(かね)うちぬ、遠く死の歌。君死にき、かかる夕(ゆふべ)に。
   三十九年五月
あかき木の実
暗(くら)きこころのあさあけに、あかき木(こ)の実(み)ぞほの見ゆる。しかはあれども、昼はまた君といふ日にわすれしか。暗(くら)きこころのゆふぐれに、あかき木(こ)の実(み)ぞほの見ゆる。
   四十年十月
かへりみ
みかへりぬ、ふたたび、みたび、暮れてゆく幼(をさな)の歩(あゆみ)なに惜(をし)みさしもたゆたふ。あはれ、また、野辺(のべ)の番紅花(さふらん)はやあかきにほひに満つを。
   四十年十二月
なわすれぐさ
面※[「巾+白」](ぎぬ)のにほひに洩(も)れて、その眸(ひとみ)すすり泣くとも、――空(そら)いろに透(す)きて、葉かげに今日(けふ)も咲く、なわすれの花。
   四十一年五月
わかき日の夢
水(みづ)透(す)ける玻璃(はり)のうつはに、果(み)のひとつみづけるごとく、わが夢は燃(も)えてひそみぬ。ひややかに、きよく、かなしく。
   四十一年五月
よひやみ
うらわかきうたびとのきみ、よひやみのうれひきみにもほの沁むや、青みやつれて木のもとに、みればをみなも。な怨みそ。われはもくせい、ほのかなる花のさだめに、目見(まみ)しらみ、うすらなやめばあまき香(か)もつゆにしめりぬ。さあれ、きみ、こひのうれひはよひのくち、それもひととき、かなしみてあらばありなむ、われもまた。――月はのぼれり。
   三十九年四月
一瞥
大月(たいげつ)は赤くのぼれり。あら、青む最愛(さいあい)びとよ。へだてなき恋の怨言(かごと)は見るが間(ま)に朽ちてくだけぬ。こは人か、何らの色(いろ)ぞ、凋落(てうらく)の鵠(くぐひ)か、鷭(ばん)か。後(しりへ)より、冷笑(れいせう)す、あはれ、一瞥(いちべつ)。我(われ)、こころ君を殺(ころ)しき。
   三十九年七月
旅情
――さすらへるミラノひとのうた。
零落(れいらく)の宿泊(やどり)はやすし。海ちかき下層(した)の小部屋(こべや)は、ものとなき鹹(しほ)の汚(よ)ごれに、煤(すす)けつつ匂(にほ)ふ壁紙(かべがみ)。広重(ひろしげ)の名をも思(おもひ)出づ。
ほどちかき庖厨(くリや)のほてり、絵草子(ゑざうし)の匂(にほひ)にまじり物(もの)あぶる騒(さや)ぎこもごも、焼酎(せうちう)のするどき吐息(といき)針(はり)のごと肌(はだ)刺(さ)す夕(ゆふべ)。
ながむれば葉柳(はやなぎ)つづき、色硝子(いろがらす)濡(ぬ)るる巷(こうぢ)を、横浜(はま)の子が智慧(ちゑ)のはやさよ、支那料理(しなれうり)、よひの灯影(ほかげ)にみだらうたあはれに歌(うた)ふ。
ややありて月はのぼりぬ。清らなる出窓(でまど)のしたをからころと軋(きし)む櫓(ろ)の音(おと)。鉄格子(てつかうし)ひしとすがりて黄金髪(こがねがみ)わかきをおもふ。
数(かず)おほき罪に古(ふ)りぬる初恋(はつこひ)のうらはかなさはかかる夜(よ)の黒(くろ)き波間(なみま)を舟(ふな)かせぎ、わたりさすらふわかうどが歌(うた)にこそきけ。
色(いろ)ふかき、ミラノのそらは日本(ひのもと)のそれと似(に)たれど、ここにして摘(つ)むによしなき素馨(ジエルソミノ)、海のあなたに接吻(くちつけ)のかなしきもあり。
国を去り、昨(きそ)にわかれて逃(のが)れ来し身にはあれども、なほ遠く君をしぬべば、ほうほう……と笛はうるみて、いづらへか、黒船(くろふね)きゆる。
廊下(らうか)ゆく重き足音(あしおと)。みかへれば暗(くら)きひと間(ま)に残(のこ)る火は血のごと赤く、腐(くさ)れたる林檎(りんご)のにほひ、そことなく涙をさそふ。
   三十九年九月
柑子
蕭(しめ)やかにこの日も暮(く)れぬ、北国(きたぐに)の古き旅籠屋(はたごや)。物(もの)焙(あ)ぶる炉(ゐろり)のほとり頸(うなじ)垂れ愁(うれ)ひしづめば漂浪(さすらひ)の暗(くら)き山川(やまかは)そこはかと。――さあれ、密(ひそ)かに物ゆかし、わかき匂(にほひ)のいづこにか濡れてすずろぐ。
女(め)あるじは柴(しば)折り燻(くす)べ、自在鍵(じざいかぎ)低(ひく)くすべらし、鍋かけぬ。赤ら顔して旅(たび)語る商人(あきうど)ふたり。傍(かたへ)より、笑(ゑ)みて静かに籠(かたみ)なる木の実撰(え)りつつ、家(いへ)の子は卓(しよく)にならべぬ。そのなかに柑子(かうじ)の匂(にほひ)。
ああ、柑子(かうじ)、黄金(こがね)の熱味(ほてり)嗅(か)ぎつつも思ひぞいづる。晩秋(おそあき)の空ゆく黄雲(きぐも)、畑(はた)のいろ、見る眼(め)のどかに夕凪(ゆふなぎ)の沖に帆あぐる蜜柑(みかん)ぶね、暮れて入る汽笛(ふえ)。温かき南の島の幼子(をさなご)が夢のかずかず。
また思ふ、柑子(かうじ)の店(たな)の愛想(あいそ)よき肥満(こえ)たる主婦(あるじ)、あるはまた顔もかなしき亭主(つれあひ)の流(なが)す新内(しんない)、暮(く)れゆけば紅(あか)き夜(よ)の灯(ひ)に蒸(む)し薫(く)ゆる物の香(か)のなか、夕餉時(ゆふげどき)、街(まち)に入り来(く)る旅人がわかき歩みを。
さては、われ、岡の木(こ)かげに夢心地(ゆめここち)、在(あ)りし静けさ忍ばれぬ。目籠(めがたみ)擁(かか)へ、黄金(こがね)摘(つ)み、袖もちらほら鳥のごと歌ひさまよふ君ききて泣きにし日をも。――ああ、耳に鈴(すず)の清(すず)しき、鳴りひびく沈黙(しじま)の声音(いろね)。
柴(しば)はまた音(おと)して爆(は)ぜぬ、燃(も)えあがる炎(ほのほ)のわかさ。ふと見れば、鍋の湯けぶり照り白らむ薫(かをり)のなかに、箸とりて笑(ゑ)らぐ赤ら頬(ほ)、夕餉(ゆふげ)盛(も)る主婦(あるじ)、家の子、皆、古き喜劇(きげき)のなかの姿(すがた)なり。涙ながるる。
   三十九年五月
内陣
ほのかなる香炉(かうろ)のくゆり、日のにほひ、燈明(みあかし)のかげ、――
文月(ふづき)のゆふべ、蒸し薫(くゆ)る三十三間堂(さんじふさんげんだう)の奥(おく)空色(そらいろ)しづむ内陣(ないぢん)の闇ほのぐらき静寂(せいじやく)に、千一体(せんいつたい)の観世音(くわんぜおん)かさなり立たす香(か)の古(ふる)びいと蕭(しめ)やかに後背(こうはい)のにぶき列(つらね)ぞ白(しら)みたる。
いづちとも、いつとも知らに、かすかなる素足(すあし)のしめり。
そと軋(きし)むゆめのゆかいたなよらかに、はた、うすらかに。
ほのめくは髪のなよびか、衣(きぬ)の香(か)か、えこそわかたね。
女子(をみなご)の片頬(かたほ)のしらみ忍びかの息(いき)の香(か)ぞする。
舞ごろも近づくなべに、うつらかにあかる薄闇(うすやみ)。
初恋の燃(も)ゆるためいき、帯の色、身内(みうち)のほてり。
だらりの姿(すがた)おぼろかになまめき薫(く)ゆる舞姫(まひひめ)のほのかに今(いま)したたずめば、本尊仏(ほんぞんぶつ)のうすあかり静(しづ)かなること水のごと沈(しづ)みて匂ふ香(か)のそらに、仰(あふ)ぐともなき目見(まみ)のゆめ、やはらに涙さそふ時(とき)。
甍(いらか)より鴿(はと)か立ちけむ、はたはたとゆくりなき音(ね)に。
ふとゆれぬ、長(たけ)の振袖(ふりそで)かろき緋(ひ)のひるがへりにぞ、
ほのかなる香炉(かうろ)のくゆり、日のにほひ、燈明(みあかし)のかげ、――
もろもろの光はもつれ、あな、しばし、闇にちらぼふ。
   四十年七月
懶き島
明けぬれどものうし。温(ぬる)き土(つち)の香を軟風(なよかぜ)ゆたにただ懈(たゆ)く揺(ゆ)り吹くなべに、あかがねの淫(たはれ)の夢ゆのろのろと寝恍(ねほ)れて醒(さ)むるさざめ言(ごと)、起(た)つもものうし。
眺むれどものうし、のぼる日のかげも、大海原(おおうなばら)の空燃(も)えて、今日(けふ)も緩(ゆる)ゆる縦(たて)にのみ湧(わ)くなる雲の火のはしら重(おも)げに色もかはらねば見るもものうし。
行きぬれどものうし、波ののたくりも、懈(たゆ)たき砂もわが悩(なやみ)ものうければぞ、信天翁(あはうどり)もそろもそろの吐息(といき)して終日(ひねもす)うたふ挽歌(もがりうた)きくもものうし。
寝(ね)そべれどものうし、円(まろ)に屯(たむろ)して正覚坊(しやうがくばう)の痴(しれ)ごこち、日を嗅(か)ぎながら女らとなすこともなきたはれごと、かくて抱けど、飽(あ)きぬれば吸ふもものうし。
貪(むさぼ)れどものうし、椰子(やし)の実(み)の酒も、あか裸(はだか)なる身の倦(た)るさ、酌(く)めども、あほれ、懶怠(をこたり)の心の欲(よく)のものうげさ。遠雷(とほいかづち)のとどろきも昼はものうし。
暮れぬれどものうし、甘き髪の香も、益(えう)なし、あるは木を擦(す)りて火ともすわざも。空腹(ひだるげ)の心は暗(くら)きあなぐらに蝮(はみ)のうねりのにほひなし、入れどものうし。
ああ、なべてものうし、夜(よる)はくらやみの濁れる空に、熟(う)みつはり落つる実のごと流星(すばるぼし)血を引き消ゆるなやましさ。一人(ひとり)ならねど、とろにとろ、寝(ね)れどものうし。
   四十年十二月
灰色の壁
灰色(はいいろ)の暗(くら)き壁、見るはただ恐ろしき一面(いちめん)の壁の色(いろ)。臘月(らふげつ)の十九日(じふくにち)、丑満(うしみつ)の夜(よ)の館(やかた)。龕(みづし)めく唐銅(からかね)の櫃(ひつ)の上(うへ)、燭(しよく)青うまじろがずひとつ照(て)る。時にわれ、朦朧(もうろう)と黒衣(こくえ)して天鵝絨(びろうど)のもの鈍(にぶ)き床(ゆか)に立ち、ひたと身は鉄(てつ)の屑(くず)磁石(じしやく)にか吸はれよる。足はいま釘(くぎ)つけに痺(しび)れ、かの黄泉(よみ)の扉(と)はまのあたり額(ぬか)を圧(お)す。
灰色(はひいろ)の暗(くら)き壁、見るはただ恐ろしき一面(いちめん)の壁の色(いろ)。暗澹(あんたん)と燐(りん)の火し奈落(ならく)へか虚(うつろ)する。表面(うはべ)ただ古地図(ふるちづ)に似て煤(すす)け、縦横(たてよこ)にかず知れず走る罅(ひび)青やかに火光(あかり)吸ひ、じめじめと陰湿(いんしつ)の汗(あせ)うるみ冷(ひ)ゆる時、鉄(てつ)の気(き)はうしろよりさかしまに髪を梳(す)く。はと竦(すく)む節々(ふしふし)の凍(こほ)る音(おと)。生きたるは黒漆(こくしつ)の瞳のみ。
灰色(はひいろ)の暗(くら)き壁、見るはただ恐ろしき一面(いちめん)の壁の色(いろ)。熟視(みつ)む、いま、あるかなき一点(いつてん)の血の雫(しづく)。朱(しゆ)の鈍(にば)み星のごと潤味(うるみ)帯(お)び光る。聞く、この暗き壁ぶかにくれなゐの皷(つづみ)うつ心(しん)の臓(ざう)刻々(こくこく)にあきらかに熱(ほて)り来(く)れ。血けぶり。刹那(せつな)ほとかすかなる人の息(いき)。みるがまに罅(ひび)はみなつやつやと金髪(きんぱつ)の千筋(ちすぢ)なし、さと乱(みだ)る。
灰色の暗き壁、見るはただ恐ろしき一面(いちめん)の壁の色。なほ熟視(みつ)む。……髣髴(はうふつ)と浮びいづ、女の頬(ほ)大理石(なめいし)のごと腐(くさ)れ、仰向(あふの)くや鼻(はな)冷(ひ)えてほの笑(わら)ふちひさき歯しらしらと薄玻璃(うすはり)の音(ね)を立つる。眼(め)をひらく。絶望(ぜつまう)のくるしみに手はかたく十字(じふじ)拱(く)み、みだらなる媚(こび)の色きとばかり。燭(しよく)の火の青み射(さ)し、銀色(ぎんいろ)の夜(よ)の絹衣(すずし)ひるがへる。
灰色(はひいろ)の暗(くら)き壁、見るはただ恐(おそ)ろしき一面(いちめん)の壁(かべ)の色(いろ)。『彼。』とわが憎悪心(ぞうをしん)
むらむらとうちふるふ。一斉(いつせい)に冷血(れいけつ)のわななきは釘(くぎ)つけの身を逆(さか)にゑぐり刺(さ)す。ぎくと手は音(おと)刻(きざ)み、節(ふし)ごとに械(からくり)のごと動(うご)く。いま怪(あや)し、おぼえあるくらがりに落ちちれる埴(はに)と鏝(こて)。つと取るや、ひとつ当(あ)て、左(ひだり)より額(ぬか)をまづひしひしと塗(ぬ)りつぶす。
灰色(はひいろ)の暗き壁、見るはただ恐ろしき一面(いちめん)の壁の色。朱(しゆ)のごとき怨念(をんねん)は燃(も)え、われを凍(こほ)らしむ。刹那(せつな)、かの驕(おご)りたる眼鼻(めはな)ども胸かけて、生(なま)ぬるき埴(はに)の色ひと息に鏝(こて)の手に葬(はうむ)られ生(い)きながら苦(くる)しむか、ひくひくとうち皺む壁の罅(ひび)、今、暗き他界(たかい)より凄きまで面(おも)変(かは)り、人と世を呪(のろ)ふにか、すすりなき、うめきごゑ。
灰色(はひいろ)の暗(くら)き壁、見るはただ恐ろしき一面(いちめん)の壁の色。悪業(あくごふ)の終(をは)りたる時に、ふとわれの手は物握(にぎ)るかたちして見出(みいだ)さる。ながむれば埴(はに)あらず、鏝(こて)もなし。ただ暗き壁の面(おも)冷々(ひえびえ)と、うは湿(しめ)り、一点(いつてん)の血ぞ光る。前(さき)の世の恋か、なほ骨髄(こつずゐ)に沁みわたるこの怨恨(うらみ)、この呪咀(のろひ)、まざまざと人ひとり幻影(まぼろし)に殺したる。
灰色(はひいろ)の暗(くら)き壁、見るはただ恐ろしき一面(いちめん)の壁の色(いろ)。臘月(らふげつ)の十九日(じふくにち)、丑満(うしみつ)の夜(よ)の館(やかた)。龕(みづし)めく唐銅(からかね)の櫃(ひつ)の上(うへ)燭(しよく)青(あを)うまじろがずひとつ照る。時になほ、朦朧(もうろう)と黒衣(こくえ)して天鵝絨(びろうど)のものにぶき床(ゆか)に立ち、わなわなと壁熟視(みつ)め、ひとり、また戦慄(せんりつ)す。掌(て)ひらけば汗(あせ)はあな生(なま)なまとさながらに人間(にんげん)の血のにほひ。
   三十九年十二月
失くしつる
失(な)くしつる。さはあるべくもおもはれね。またある日には、探(さが)しなば、なほあるごともおもはるる。色青き真珠(しんじゆ)のたまよ。
   四十一年七月

1909年(明治42年)3月、白秋が24歳のときに発表した処女詩集。明治39年4月から41年末に書いた121の作品を収録しています。
「今後の新しい詩の、基礎となるべきものだ」白秋と親交のあった歌人・石川啄木は、この詩集を読んで、日記にこう綴っています。二人は、当時開園したばかりの浅草の遊園地近くで、啄木は白秋の詩人としての成功を、白秋は啄木の就職を、互いに黒ビールで祝い合ったといいます。 
 
「第二邪宗門」 

 

■円燈 
飢渇
あな熱し、あな苦し、あなたづたづし。
わが熱き炎の都、都なる煉瓦の沙漠、沙漠なる硫黄の海の広小路、そのただなかに、饑(う)ゑにたるトリイトン神の立像(たちすがた)、水涸れ果てし噴水(ふきあげ)の大水盤の繞(めぐり)には、白琺瑯(はくはうらう)の石の級(きだ)ただ照り渇き痺(しび)れたる。
そのかげに、紅(あか)き襯衣(しやつ)ぬぎ悲しめる道化芝居の触木(ふれぎ)うち、自棄(やけ)に弾くギタルラ弾者(ひき)と、癪持(しやくもち)と、淫(たはれ)の舞の眩暈(めくるめき)、さては火酒(ブランデイ)かぶりつつ強ひて転(ころ)がる酔漢(ゑひどれ)と、笑ひひしめく盲(めくら)らは西瓜をぞ切る。
あな熱し、あな苦し、あなたづたづし。
既に見よ、瞬間(たまゆら)のさき、仄(ほの)かなる愁(うれひ)の文(あや)にしみじみと竜馬(りうめ)の羽うらにほひ透き、揺れて縺(も)つれし水盤の水ひとたまり。あるはまた、螺を吹く神の息づかひ焔に頻吹(しぶ)きひえびえと沁みにし歌も今ははや空(から)びぬ、聴くは饑(う)ゑ疲れ鉛になやむ地の管(くだ)の苦しき叫喚(さけび)。
あな熱し、あな苦し、あなたづたづし。
虚空(こくう)には銅色(あかねいろ)の日の髑髏(どくろ)転(まろ)びかがやき、雲はまた血のごと沈黙(しじ)に鎔(とろ)けゆき影だに留めず。ただ病める東南風(シロツコ)のみぞ重たげに、また、たゆたげに、腐れたる翼(つばさ)の毒を羽ばたたく。七月末の長旱(ながひでり)、今しも真昼、煉獄の苦熱の呵責(かしやく)そのままに火輪車(くわりんしや)駛(はし)り、石油泣き、瓦斯の香(か)喊(わめ)き、真黒げに煙突震ふ狂ほしさ、その騒かしさ。
誰(たれ)ぞ、また、けたたましくも、朱(あけ)の息引き切るるごと、狂気なす自動車駆るは。
あな熱し、あな苦し、あなたづたづし。
狂気者(きちがひ)よ、人轢(ひ)き殺せ。癪持(しやくもち)よ、血を吐き尽せ。掻き鳴らせ、絃(いと)切るるまで。打ち鳴らせ、木の折るるまで。飛びめぐれ、息の根絶えよ。酔へよ、また娑婆(しやば)にな覚めそ。盲(めしひ)らよ、その赤き腸(はらわた)を吸へ。あはれ、あはれ、この旱(ひでり)つづかむかぎり、汝(な)が飢渇(きかつ)癒えむすべなし。
あな熱し、あな苦し、あなたづたづし。
わかき喇叭
苦しげに喇叭(らつぱ)吹く息(いき)、苦しげに喇叭(らつぱ)吹く息(いき)、汝はゆきていづくにかへる。
心臓のあかきくるめきそを洩れて吹きいづるなる。なやましき霊(たま)のひとすぢいと冷(ひ)やき水の音色(ねいろ)に。
毒(どく)ふかき邪欲(じやよく)の谷に淫楽(いんらく)の蝮(くちばみ)まとふ、はたや身は痺(しび)れとろけて断(た)ちがたきほだしに悩(なや)む。
狂念(きやうねん)のめくらむ野辺(のべ)ゆ挑(いど)み搏(う)つ硫黄(いわう)の炎(ほむら)、また苦(にが)き檻(をり)のおびえにくれなゐの破滅(はめつ)をさそふ。
さまだるる恋慕(れんぼ)のあへぎ蒸しよどみ、かくてなやめどわれは吹く、息もほつほつうらわかき霊(たま)の喇叭(らつぱ)を。
かげ暗(くら)き恐怖(おそれ)の垂葉(たりは)そのなかに赤き実熟るる。わが夢(ゆめ)はあなその空に濡(ぬ)れつつも燃(も)ゆる悲愁(かなしみ)。
濡れつつも燃(も)ゆるかなしみそが犠牲(にえ)に吹きいづるなる。かぎりなき生命(いのち)の苦痛(くつう)かぎりある胸(むね)の力(ちから)に。
あはれ、なほ、喇叭(らつぱ)吹く息(いき)、あはれ、なほ、喇叭(らつぱ)吹く息(いき)、汝(な)はゆきていづくにかへる。
青き葉の銀杏のはやし
青き葉の銀杏(いてふ)の林、細(ほそ)らなる若樹(わかき)の林。
はた、青き白日(ひる)の日(ひ)かげに、葉も顫(ふる)ふ銀杏(いてふ)の林。
そのもとを北へかすめる、ひややけき路(みち)のひとすぢ、
かすかにも胡弓(こきゆう)まさぐり、ゆめのごと、われはたどりぬ。
青き葉の銀杏(いてふ)の林行き行けど路(みち)は尽きなく。
細(ほそ)らなる若樹(わかき)のはやし、頬白(ほほじろ)の鳴(な)く音(ね)もきかず。
すすりなく愁(うれひ)の胡弓(こきゆう)、葉の顫(ふる)ひ、青き日かげ。
さはひとり、われとさすらひ、われと弾(ひ)き、聴(き)きもほれつつ、
日もすがら涙さしぐむ、青き葉のかげをゆく身は。
それとなきもののかぜにも、弱(よわ)ごころ耳しかたむけ。
たちとまり、ながめ、みかへり、あはれさの絃(いと)をちからに。
ひそやかに、また、しづやかに、にほやかに尋(と)めもなやめば。
薄(うす)らなる青の絹衣(すずし)も、いつしかに露にしなえぬ。
さあれ、なほ弾(ひ)きゆく胡弓(こきゆう)、はてもなき路(みち)のゆく手に。
いつまでかかくて泣きつつ、いつまでかかくもあるべき。
あはれ、あはれ、銀杏(いてふ)の林、青き青き若樹(わかき)の林。
森の奥
森の奥ほのかにくらし。
夏のすゑ、長月はじめ、あはれ、日も薄らうすらに、
薄黄(うすぎ)なる歎(なげき)沁みゆく浮羅爛勤(はうのき)の広葉の青み、
あるはまた大木(おほき)の胡桃(くるみ)、憂愁(わづらひ)のかげのふかみに、
燃(も)えのこる熱き日ざしは黄に透かし暮れて薫れる。
そのなかに妙(たへ)にしづかに物おもふ白馬(はくば)のあかり。
それやはた、夏の日の神夕ぐれに騎(の)りやわすれし。
紅(くれなゐ)の手綱の色も、白がねの鐙も、鞍も、
いとほのに夢の照妙(てるたへ)ただ白し、ほのかに白し。
そをめぐり秋の笙(しやう)の音(ね)蕭(しめ)やかにひそかに愁ふ。
響かふは角(つぬ)の音色(ねいろ)か、病める果(み)か、饐(す)えゆく歌か。
かくてまた暗き葉越に鳩の笛沁みはわたれど。
薄黄(うすぎ)なる光の透かし、ひとすぢの昨(きそ)のほめきに、
ほの白う暮れてたたずむ物おもふ色のしづけさ。
森はいまほのかにくらし。
円燈
薄暮(くれがた)の谿間(たにま)の恐怖(おそれ)。今宵(こよひ)またかなたに点(とも)る紅(くれなゐ)の円(まろ)き燈(ともしび)。
そを知るや、知らずや、なほもなやましきにほひの奥(おく)にうづくまり黙(つぐ)むひとむれ。
真白(ましろ)なるゆめの水牛(すゐぎう)、しかはあれど、なべて盲(めし)ひし獣(けもの)らの重(おも)き起伏(おきふし)。
盲(めし)ひしは瞳のみかは、ものにぶく、闇(やみ)にくぐもるもろもろのこころごころも。
かくてあな幾夜(いくよ)か経(へ)にし。言(もの)いはず、かうべもあげず、さあれども物(もの)待(ま)つごとし。
深(ふか)みゆく恐怖(おそれ)の沈黙(しじま)。そのなかに今宵(こよひ)も消(き)ゆる紅(くれなゐ)の円(まろ)き燈(ともしび)。
   四十一年六月
尋(と)めゆくあゆみ
いと高くいと深くいと静(しづ)にいと蕭(しめ)やげる夜(よ)の森のかげ、暗(くら)く冷(ひやゝ)なる列(つらね)のもとを、われはあゆむ。
いと高くいと暗くいと密(みつ)にいとほのかなる細(ほそ)らなる赤楊(はんのき)の列(つらね)、そのもとの底の底をわれはあゆむ。
いと高くいと深く沈みたる憂愁(うれひ)のもとを、真素肌(ますはだ)のましろなる、衣(きぬ)つけぬ常若(とこわか)の矜(ほこり)もてわれはあゆむ。
赤楊(はんのき)のとある梢ありとしも見へぬ空のけはひ、あはれその枝に色紅き小鳥の如(ごと)も星の見ゆる。あはれひとつ
いと高くいと深くいと静(しず)にいと蕭(しめ)やげる夜(よ)の森のかげ、暗く冷(ひやや)なる列(つらね)のもとを、われはあゆむ。
さあれ今言(もの)いはぬ獣(けもの)忍びやかに蹤(つ)きぞ来(き)ぬる。昨日(きのふ)より去年(こぞ)より生(あ)れしより、否(あらず)、前世(さきのよ)より蹤(つ)きか来ぬる。
かかる夜(よ)のとある梢哀(あは)れその空に星の見えつ。紅き星紅き星ほのかにもわれは知れり、かかるゆめも。
いと高くいと深くいと冷(ひや)にいと蕭(しめ)やげる夜(よ)の森のかげ、ふとし、あな、路(みち)は落つる。あらぬ谷間。
哀(あは)れ哀(あは)れあらぬ谷にいと暗(くら)く霊(たま)や落つる。真素肌(ますはだ)の悲哀(かなしみ)よ血の香(か)する荊棘(いばら)のなかをいかにわけむ。
足音(あのと)のす、言(もの)いはぬ獣(けもの)忍(しの)びかにひき帰(かへ)すらし。哀(あは)れまたひとつ星、見もあへぬ闇のかなたにはたや消ゆる。
忽(たちまち)にものの呻吟(うめき)、やはらなる足に触(ふ)れつつそこここの血の荊棘(いばら)あなやその暗(くら)き底より赤子啼きいづ。
   四十一年六月
我子の声
われはきく、生(うま)れざる、はかりしれざる子(こ)の声(こゑ)を、泣(な)き訴(うた)ふ赤(あか)きさけびを。いづこにかわれはきく、見えわかぬかかる恐怖(おそれ)に。
かの野辺(のべ)よ、信号柱(シグナル)は断頭(くびきり)の台(だい)とかがやき、わか葉(ば)洩(も)る入日(いりひ)を浴(あ)びてあかあかと遙(はる)に笑(わら)ひき。汽車(きしや)にしてさてはきく、轢(し)かれゆく子らの啼声(なきごゑ)。
はた旅(たび)の夕まぐれ、栄(は)えのこる雲(くも)の湿(しめり)に、前世(さきのよ)の亡(な)き妻(つま)が墓(はか)の辺(べ)の赤埴(あかはに)おもひ、かくてまた我(われ)はきく追懐(おもひで)の色とにほひに、埋(う)もれたる、はかりしれざる子(こ)の夢(ゆめ)を、胎(たい)の叫(さけび)を。
帰(かへ)りきてわれはきく、ひたぶるに君抱くとき、手力(たぢから)のほこりも尽(つ)きて弱心(よわこゝろ)なやむひととき、たちまちに心(こゝろ)つらぬく赤き子の高(たか)き叫(さけび)を。
   四十一年六月
声なき国
声(こゑ)もなき薄暮(くれがた)の国、追憶(おもひで)のこなたなるほの暗(くら)き闇(やみ)、哀(あは)れ、さは冷(ひやや)けき世の沈黙(しじま)、恐怖(おそれ)の木(こ)かげ、何処(いづこ)より見ゆるともなく出(いで)て来(こ)し思(おもひ)の女(をみな)清(きよ)らなる真素肌(ますはだ)の身の独(ひとり)ほのかに暮(く)るる。
声(こゑ)もなき国の白楊(はくやう)、列(つら)長(なが)う両側(もろがは)に顫(ふる)へわななき、色(いろ)青(あを)き蝋(らふ)の火のほの暗(くら)みおびゆるごとく、広(ひろ)きより狭(せば)み暮れゆく其果(そのはて)の遠(とほ)き切目(きれめ)に、仄(ほの)かなる噴水(ふきあげ)の香(か)ぞひとり密(ひそ)かに泣ける。
声(こゑ)もなき国のさかひにすすり泣くそのゆめよ、水のひとすぢかすかにも色(いろ)映(うつ)り消えも入る吐息(といき)する時、哀れ、さは光(ひかり)匂(にほ)はぬ色(いろ)もなく声(こゑ)もなき野に、ただ寒(さむ)う涙垂れ熟視(みつ)めぬる女(をみな)の思(おもひ)。
声(こゑ)もなき国のかなたはあかあかと色(いろ)わかき追憶(おもひで)の空。歓楽(くわんらく)の楽(がく)の音(ね)よ、悩(なや)み添(そ)ふ甘き悲哀(ひあい)よ、猛(たけ)り狂(くる)ふ恋慕(れんぼ)の夢(ゆめ)の此方(こなた)には聞(きこ)えこそ来(こ)ね、雲(くも)はただ昨(きそ)のごと紅(くれなゐ)の色にただるる。
声(こゑ)もなき女(をみな)の思、熟視(みつ)めつつ、ややにまた暮(く)れもいためど、ただ密(ひそ)に頼(たの)みてし噴水(ふきあげ)のにほひとだえて、存命(ながらへ)し悩(なやみ)の夢の曲節(めろぢあ)も見るによしなみ、真素肌(ますはだ)の身は悲し冷(ひやや)けき石(いし)になりゆく。
声(こゑ)もなき薄暮(くれがた)の国。かくていま、追憶(おもひで)の空(そら)はあかあか、血のごとも雲(くも)は顫(ふる)へ楽(がく)の音(ね)の慄(わなな)くなかに、閃(ひら)めくは聖体盒(せいたいごう)の香(か)の曇(くもり)、骨も斑(まば)らに白白(しらじら)と浮(うか)びちり、あはれ早や沈み暈(くる)めく。
幽潭
あはれ、こはもの静(しづ)かなる幽潭(いうたん)の深(ふか)みの心(こゝろ)――おもむろに瀞(とろ)みて濁る波もなき胎(たい)のにほひの水の面(おも)。をりをり鈍(にぶ)き蛇のむれ首もたぐれどいささかの音(おと)だに立てず、なべてみな重(おも)たき脳(なう)の、幽鬱(いううつ)の色して曇る。
さるほどに日も暮がたとなりぬれば、あたりの樟(くす)の薄(うす)ら闇(やみ)しのびにつのる灰色の妖女(えうぢよ)の冷(ひや)やきうすわらひ。さあれど、ゆるにしづしづと髪曳きうかぶ底(そこ)の主(ぬし)面(おもて)はかたく縛(しば)られて、ただほの白(しろ)き身をなかば、水よりいづる。
ややありて、息吹(いぶき)のゆめもやはらかに、盲(めし)ひし空をうちあふぎ、管(くだ)かたぶけて吹きいづる石鹸(しやぼん)の玉(たま)の泡(あわ)のいろひとつびとつに円(まろ)らかに紅(あか)みてのぼる、これやかの若(わか)くいみじき血のにほひ。かくしてものの静(しづ)やかにひとときあまり。
ふと、ひらく汀の瞳(ひとみ)くろぐろと、冷やにならびうかがへる妖女(えうぢよ)のつらね肋骨(ろつこつ)の相摩(あいす)るごとき笑(わらひ)して灰色(はひいろ)の髪(かみ)音(おと)もなくさばくと見れば、そこここに首もたげゆく蛇のむれ、ああまたもとの幽鬱(いううつ)に主(ぬし)消えしづむ。
かくてまた、鈍(にぶ)く曇れる水の面(おも)、濁れる胎(たい)のもの孕(はら)む音(おと)ともなしに、静寂(じやうじやく)の深(ふか)みに呻(うめ)く夜の色。ほど経(へ)て声も消えゆけば、ああ見よ、いまし幽潭(いうたん)の鈍(にぶ)める空にあかあかとのぼれる玉か、数しれぬ幾千万(いくせんまん)の新星(にひほし)の華(はな)。
   四十一年六月
急瀬
『暗い。』『暗い。』聴け、夜に叫ぶ髑髏(されかうべ)、急瀬(はやせ)の小石、熟視(みつ)むるは死よりも暗き鴆毒(ちんどく)の発作(ほつさ)に頻吹(しぶ)く水の面(おも)、聴け、わなわなとかたかたと千万(ちよろづ)歎く。時は冬、熊野の川の川上の如法の真闇、峡(かひ)の底。
『暗い。』『暗い。』聴け、はや叫ぶ髑髏(されかうべ)、急瀬(はやせ)の小石。さてはまた、聴け、歯を洗ふ血の流真黒(まくろ)に滴(した)る音ささとはた、きしきしと泡たぎち噎(むせ)びぬ、まさに丑満の黒金雲(くろがねぐも)の棺衣(たれぎぬ)は七岳(ななたけ)めぐり、風顫ふ。
『暗い。』『暗い。』聴け、また叫ぶ髑髏(されかうべ)、急瀬(はやせ)の小石、熟視(みつ)むれど喚(わめ)けど、水は蝮(くちばみ)の腹なし、縞もひた黒に磨りては走る夜(よ)の恐怖(おそれ)、この夜(よ)もさらに琅※[「王+干」](らうかん)の断崖(きりぎし)づたひ投網(とあみ)うつ漁(いさり)の翁(おぢ)の火も見えず。
『暗い。』『暗い。』聴け、ひた叫ぶ髑髏(されかうべ)、急瀬(はやせ)の小石、今はかの末期(まつご)の苦患(くげん)ひたひたとわななきほそる一刹那、鯱(しやち)より疾(はや)く、棹あげて闇より闇へ、火もつけず、声せず、一人(ひとり)丈長(たけなが)の髪吹き乱し舟(ふね)きたる。
『暗い。』『暗い。』聴け、今叫ぶ髑髏(されかうべ)、急瀬(はやせ)の小石、一斉(ひととき)に驚破(すは)と慄くひたおもてかとこそ噛めば竜骨は血の香(か)滴る鋸を鑢(やすり)の刃(は)もて磨る如く、白歯をきしと一文字に、傷きながら逃れさる。
『暗い。』『暗い。』聴け、なほ叫ぶ髑髏(されかうべ)、急瀬(はやせ)の小石、瞬間(たまゆら)の膏油と熱き肉(しし)の香(か)に狂へる慾は護謨の火の断(ちぎ)るるがごとひたわめく、呪詛(のろひ)と飢(うゑ)と悔(くい)と死と真黒に噎(むせ)ぶ血の底に歯を噛みながら熟視(みつ)めたる。
『暗い。』『暗い。』聴け、なほ叫ぶ髑髏(されかうべ)、急瀬(はやせ)の小石、熟視(みつ)むれど天蝎(てんかつ)宮の光だに影せぬ冥府(みやうふ)、わなわなと喚(わめ)けどさらに蝮(くちばみ)は腹磨り奔り、絶えずまた泡だち落つる血はささとその戦慄(わななき)に噎(むせ)ぶのみ。
『暗い。』『暗い。』聴け、夜に叫ぶ髑髏(されかうべ)、急瀬(はやせ)の小石、熟視(みつ)むるは死よりも暗き鴆毒の発作(ほつさ)に頻吹(しぶ)く水の面(おも)、なほ、きしきしとかたかたと嘆けど、哀(あは)れ、億劫(おくごふ)の窮(きはまり)あらぬ闇に堕ち闇に饑ゑゆく人の群。
二つの世界
色あかき世界のなかにうららにも小鳥さへづり、色白き世界のなかにものにぶき駱駝(らくだ)は坐(すは)る。
ものにぶき駱駝(らくだ)の見るは白き砂、白き思の星、えもわかぬ髑髏(どくろ)のなげき、ピラミドのたそがれの色
うららなる小鳥のうたはまた遠く、ひと世(よ)へだてて脳(なう)の内、もだえの熱(ねつ)に、謔言(うはごと)のかずかずうたふ。
かなたには隊商(カラバン)の鈴、こなたにはあかきさへづり。今日(けふ)もまた境し立てるスフインクスひとりしづかに。
スフインクス、恐怖(おそれ)の沈黙(しじま)、そが胸の象形文字(しやうけいもじ)の謎(なぞ)も、あな、半(なかば)しろく、はた赤く、聴耳(ききみみ)澄(す)ます。
あはれ、いま、白き世界のゆふまぐれ。しかはあれども色あかき世界の真昼(まひる)。スフインクス、こころは惑(まど)ふ。
   四十一年八月
暮れなやむ心のあそび
晩夏(おそなつ)の暮れなやむ日のわがこころ球突(びりああど)をばもてあそぶ、脳のくもりにうしろより煙草のくゆり病ましげに、なにともわかぬ思きて覗(のぞ)く心地す。
玉ふたつわれの好(この)める色したる、また玉ふたつうち曇る白の円(まろ)みす。棒(きう)とりていづれか突かむ。うち見れば萌黄の羅紗の台(だい)の面(おも)ほのに顫へる。
その嘆(なげ)き、おぼろげながらわれぞ知る。いつのゆふべとわかねども負傷(てお)ひし胸のそのにほひ、棒(きう)とりながらわれぞ知る。かくてもやまぬわがあそび、色入りまじる。
そを見つつ後(うしろ)にけぶすかの思なにしか笑(わら)ふ。さあれども暮(く)るるこころは色あかき玉もてあそびうちなやむ。重き煙草にまどはしく眩暈(めくら)みながら。
いづこにかものなやましきはなしごゑあるはきこゑて、ものあかくあかる心地す。わが脳のなかにか、室(むろ)のうつつにか、火点(とも)るごときそのけはひ、遊戯(あそび)夜に入る。
   四十一年八月
※[「金+襄」]工
静(しづ)やかに泣きつつあれば、わがこころ※[「金+襄」]工(もざいく)なしぬものとなく、――正方形(せいはうけい)の※[「金+襄」]工(もざいく)のその壁(かべ)をしも見まもればそはものにぶき顔の面(おも)、面(おも)のなかばを、やはらかき茎のうねりや、あかあかと蔽(おほ)ひ燃(も)ゆめる罌粟(けし)のゆめ
そのかげに、そのかげに、盲(めし)ひたる白き眼ふたつ。あはれその白き眼ふたつ、なにか見る、夕(ゆふ)ぐれのもののしじまに。
天幕の中
色にぶき毛織(けおり)の天幕(てんと)、そがなかにわがおもひひとりしあなる、あはれ、盲(し)ひたる白き目に花とりあてて、そが紅(あか)き色見むものと燥(あせ)りつつ、さは燥(あせ)りつつ、色にぶき毛織(けおり)の天幕(てんと)いつまでかわれの思(おもひ)のひとりしあなる。
   四十一年八月
髑髏は熟視(みつ)む
髑髏(どくろ)は熟視(みつ)む、きゆらそおの血の酒甕(さかがめ)の間(あひだ)より、髑髏(どくろ)は熟視(みつ)む、命(いのち)なくただうち凹(くぼ)む眼(まなこ)して、髑髏(どくろ)は熟視(みつ)む、忘(わす)れたる思ひいでんとするが如(ごと)、髑髏(どくろ)は熟視(みつ)む、寝(ね)そべりて石鹸玉(しやぼんだま)吹く女(め)が面(かほ)を。
   四十一年六月  
■樟の合奏 
樟の合奏
初夏(しよか)の空(そら)。灰白色(くわいはくしよく)の雲のもと。水沼(みぬま)のほとり。
ひと叢(むら)の樟(くす)のわか葉(ば)の黄金(こがね)いろ梢(こずゑ)も高く、濡(ぬ)れ濡(ぬ)るる雨後(うご)の夕(ゆふべ)のひとあかり、入日(いりひ)に燃えて潤(しめ)やかに、華(はな)やかに、調(しら)べあはするかなしみの、よろこびの、くるしみの香(か)も狂(くる)ほしき生(せい)の曲(きよく)……夢(ゆめ)の合奏(がつさう)……
そのかげに、赤(あか)き煉瓦(れんぐわ)の変圧所(へんあつじよ)、心(こゝろ)盲(めし)ひし高圧(かうあつ)の電気(でんき)の叫喚(わめき)音(おと)もなく、斜(ななめ)に走(はし)る銅線(はりがね)のかきむしりゆく火の苦悩(なやみ)。はたやオゾンの香(か)のしめり、渦巻(うづま)き縺(もつ)れ、昼(ひる)も、夜(よ)も、間(ま)なく、時(とき)なく、ひたぶるに暈(くる)めき、醸(かも)す死(し)の恐怖(おそれ)、列(つら)ね立てたる柱(はしら)には、『触(ふ)るる者(もの)かく死(し)すべし。』と髑髏(どくろ)あり、ひたと黙(つぐ)める。
また、見よ暗(くら)くとろとろと、曇(くも)り濁(にご)れる鈍色(にびいろ)の水沼(みぬま)の面(おも)を。病(や)める壁(かべ)、樟(くす)の調楽(てうがく)映(うつ)せども映(うつ)すともなきものの色。ただに声(こえ)なく、命(いのち)なく、鈍(にぶ)く、重(おも)たく、波(なみ)たたず、淀(よど)みもせなく、なべてこれこの世(よ)ならざる日の沈黙(しじま)。鈍(にぶ)く、ぼやけし忘却(ばうきやく)の護謨(ごむ)の面(おもて)を圧(お)すごとく、掌(て)に圧(お)すごとく、たまにのみ、太(ふと)き最低音(ベース)ぞ呻(うめ)くめる。
しかあれ、初夏(しよか)の夕(ゆふ)あかり、灰白色(くわいはくしよく)の雲(くも)の裏(うら)ゆ金覆輪(きんぷくりん)に噴(ふ)きいづる光の楽(がく)のさと赤(あか)く、照(て)りかへし、湿潤(しめり)に燃(も)ゆるひとときよ、あはれ斉(ひと)しく、はた高(たか)く、しめやかに、華(はな)やかに、調(しら)べいでぬる管絃楽(オオケストラ)の生(せい)の曲(きよく)――かなしみに、よろこびに、くるしみに狂(くる)ひかなづる、狂(くる)ひかなづる、狂(くる)ひかなづる狂(くる)ひかなづる樟(くす)の合奏(がつさう)……死(し)のオゾン………
さてしもあはれ、夜(よ)とならば夜とならば如何(いか)にかすらむ。
いま、夕焼(ゆうやけ)の変圧所(へんあつじよ)嘲(あざ)けるごとく、はたや、かの虐殺(ぎやくさつ)の血(ち)を浴(あ)びしごと、あかあかと笑(わら)ひくるめく……
   四十四年五月
晩夏
くわと照らす夕陽(ゆふひ)の光、噴水(ふきあげ)の霧のしぶきよ。
湿(しめ)らひぬ、蒸(む)しぬ、ひかりぬ、さは、苑(その)の若木のたわみ、花の叢(むら)、草葉のかをり、――さまざまの薫るおもひに。
こぼれちる水のにほひよ。日のひかり、雲のうつろひ、栄(は)えしぶく麝香の真珠(またま)、――絶えず、わが夢かしたたる。
ふくらかに霧にうもれて燃えたわむ色のうれひよ、うつろひぬ、蒸しぬ、しめりぬ、――ゆふぐれの胸のなごみを。
くわと照らす晩夏の光、尽きせざる夢のしぶきよ。

胸に、はた、夕日の幹(みき)に、つと来り、蜩(かなかな)なげく。
かなかなかなかな……かなかなかなかな……
黄金(こがね)なす細き旋律せはしげに、また、かなしげに。
かなかなかなかな……かなかなかなかな……。
かくて、また鳴きつつ熟視(みつ)む、栄(は)えあかる思より、梢より、実のひとつ落ちむとするを。
かなかなかなかな……かなかなかなかな……
   四十一年六月
夏の夜の舟
虫(むし)啼(な)ける。
りんりんすりりん……りんりんすりりん……
あはれわが小舟(をぶね)ぞくだる。痍(きず)つけるわかうどの舟(ふね)。
りんりんすりりん……りんりんすりりん……
はてもなう向(むか)ひてかすむ白壁(しらかべ)のほのかなる列(つら)。そのかげを小舟はくだる、蒸(む)し挑(いど)む靄のふるへに。
りんりんすりりん……りんりんすりりん……
いまし、また水路(すゐろ)のはてに、落ちかかる弦月(げんげつ)あかく、そこここのくらみの奥(おく)に寝(ね)おびれて倦(う)めるものごゑ。
りんりん……すりりん……
某(それ)の夏(なつ)、かかる夜(よ)の港(みなと)にききし
二上(にあが)りの音(ね)じめはすれど、あはれそをいづことわかむ。あたりやや暗(くら)みふけつつ、血のごとく顫(ふる)ふ月(つき)しろ沈(しづ)みゆくその香(か)のなごり。あなしばし、虫啼(な)きしきる。
りんりんすりりん……りんりんすりりん……りんりんすりりん……りんりんすりりん……りんりんすりりん……りんりんすりりん……
いつしかと真闇(まやみ)のにほひ、深(ふか)みゆく恐怖(おそれ)につれてはたと虫(むし)息(いき)をひそめぬ。蒸(む)しあつし、また息(いき)ぐるし。
………………………………………………
舟はなほ重(おも)たくくだる。ふと※[「窗/心」]に蝋(らふ)の火(ひ)あかり、病人(やまうど)の顔ぞいでたる。内部(うちら)には時計の響(ひびき)。
ぎいすちよつ……………………
重(おも)き咳(せき)ふたたびみたび、真黒(まくろ)なる帷(とばり)は落ちぬ。あはれ闇夜(やみよ)。
ぎいすちよつ……………………ぎいすちよつ……………………
かくてなほ小舟(をぶね)はくだる。いづくにかはてなむ旅(たび)ぞ、そも知(し)らね、水(みづ)のひとすぢ、白壁(しらかべ)のはてしなき夜(よ)を。
ぎいすちよつ……がちやがちや……ぎいすちよつ……
たちまちに閉(とざし)の扉(とびら)、かげ暗(くら)き大黒金(おほくろがね)の壁(かべ)のもと、小舟(をぶね)はなづむ。あなあはれ、ものなべて見わかぬ闇(やみ)よ、内(うち)にはた悩(なや)みか伏(ふ)せる幾百(いくひやく)の沈黙(もだ)の大牛(おほうし)。最終(いやはて)か、恐怖(おそれ)の淀(よど)か、舟は、あな、音なく留(と)まる。
りんりん……………………すりりん……
否(あらず)、また、おのづからなる抵抗(あらがひ)のすべなき力その水に舟押しながる。
ぎいすちよつ………ぎいすちよつ………がちやがちやがちや……ぎいすちよつ……がちやがちやがちや……がちやがちやがちや……がちやがちやがちやがちや……がちやがちやがちやがちや……はてもなう小舟(をぶね)はくだる。
大曲『悶絶』
色赤きものごゑあまた脳(なう)をいで、とどろと奔(はし)る。――逃れゆくわれの足音(あのと)か、もの鈍き毛織(けおり)の黝(ねずみ)蹈みにじり、蹈みにじり…………
ら、りら、ら、りら、ほのかに雲雀(ひばり)。
あはれいま砥石(といし)のひびき、鈍刀(なまくら)のすべるひらめき。
そのなかを赤きものごゑ血を滴(たら)し、とどろと奔(はし)る。
もの鈍き毛織(けおり)の夢を蹈みにじり、踏みにじり…………
ら、りら、ら、りら、かすかに雲雀。
はたと、あな、足音(あのと)絶え入り、ただひびく緩(ゆ)るく鈍刀(なまくら)。
しづかなる皐月(さつき)の真昼、白雲はゆるかにのぼり、軟(なよ)ら風ゆらにゆらるる。
ら、りら、ら、りら、さへづる雲雀。
いづこにかいづこにか揺曳(ゆらび)ける絃(いと)の苦悩(なやみ)の………『……ああはれ、よしなや、われらがゆめぢ、かなしきその日の接吻(くちつけ)にも………』
緩(ゆ)るやかにねぶたき砥石(といし)。
『……かなしきその日の接吻(くちつけ)にも、さまたげ難(がた)かる「我」のほこり、ひたぶる抱きて涙すれど恐怖(おそれ)と苦悩(なやみ)の………』さあれなほものうき砥石(といし)。
『……ああはれ、よしなや、肉(にく)のおびえの――汝(な)が火のまなざし、わが血のいどみ、殺さむ死なむと朱(あけ)に顫(ふる)ふ………』
ら、りら、ら、りら、ほのかに雲雀。
『………殺さむ死なむと朱(あけ)に顫(ふる)ふ………、』
聴くとなき黒ヴオロンの火のきざし見る見る野辺(のべ)に渦巻きて悶絶(もんぜつ)すれば、くわとあがる血しほの烟(けむり)、そのなかをわれのものごゑまた見えてとどろと奔(はし)る。
忍びかにひややかに清(きよ)らなる水のさらめき――
さらめきに角※[「竹かんむり/甬」](つのぶえ)あかり、かなしみの音(ね)の吐息(といき)ほのかにおこる。
はたと、また、足音(あのと)絶え入り、野はなべて黄昏(たそがれ)の色。
ほのかなるにほひのそらに、やや赤く地平は光り、そこここの水面(みのも)より水牛(すゐぎう)いづる。
水牛(すゐぎう)のしづけさや、しづかなる角(つの)の音(ね)に物をしおもふ。
しかあれ、鈍刀(なまくら)のすべる音(おと)、――砥石(といし)のひびき――
ら、りら、ら、りら、ほのかに雲雀。
しづかにも坐(すは)る水牛(すゐぎう)、戦慄(わななき)の、かなしみの唸(うなり)あげつつ、おもむろにおもむろにあかる不思議(ふしぎ)のいと赤き西天(さいてん)ながめ、恐ろしき、あるものの迫(せまり)にふるふ。
いづこにか洩れきたるヴオロンのゆめ………
『……そぞろ、あはれ、そぞろ、あはれ恋の帆船(ほぶね)の――空色(そらいろ)の帆もちぎれ、波にぬれて――今日(けふ)また二人(ふたり)、今日また二人、かなしき島根をさしてかへる………』
また鈍き砥石(といし)のひびき
『かなしき光に艫(ろ)のためいき、かなしき海ゆくわかき夢(ゆめ)のみそらにほのめく星の光、ああいますべなく、われら帰る。……』
ふと起る、この面(も)彼面(かのも)に嘲笑(あざわら)ふ人の諸(もろ)こゑ。
『……苦(くる)しき挑(いど)みにせきもあへぬ恋慕(れんぼ)の吐息(といき)に顫(ふる)ふこころ、嗚呼(ああ)このなやみをいかにかせむ。さあれど、すべなく帰る二人(ふたり)。……』
高みゆく砥石(といし)の響――鈍刀(なまくら)の増(ふ)えゆくすべり――
『……朱(あけ)なる接吻(くちつけ)、痛(いた)き怨言(かごと)、ああまた再度(ふたたび)抱き泣けど………』
また近く暗(くら)き嘲笑(あざけり)。
『……ああかなし、かなしき光、われらの光、内心(ないしん)のかなしき瞳………』
たと跳(をど)り逃(に)ぐる水牛(すゐぎう)あな、赤(あか)き血浴びしごとも啼き狂ひ絶望(ぜつまう)の唸(うなり)に奔(はし)る。
大空は見る見る月の面(おも)となり、たちまち赤き半円の盲(めし)ひし如(ごと)も広(ひろ)ごれば、一時(いちじ)に響く野の砥石、数(かず)かぎりなき刃(は)のにほひ――
はた、赤き此面(このも)彼面(かのも)の嘲笑(あざわらひ)……あまる空なくおほらかに広み尽くせる、大月(たいげつ)の恐怖(おそれ)の面(おもて)、爛(ただ)れたる眩暈(くるめき)三度(みたび)、くわつとして悶絶(もんぜつ)すれば見るが間(ま)に血烟(ちけむり)あがり、逃(のが)れゆく我(われ)のものごゑまた見えてとどろと奔る。
水牛(すゐぎう)の声………千万(せんまん)の砥石の響………苦(にが)き嘲罵(あざけり)………はたや、なほ奔(はし)る足音(あしおと)………
ら、りら、ら、りら、ほのかに雲雀。
はたといま聾(ろう)しぬる。色…………音…………光…………
   四十一年八月
大太皷の印象
跳(おど)りいづ、赤き獣(けだもの)、どんどん………とみかう見、円(まろ)らに笑ひ、はた跳(おど)る。どんどん………あなやいま街(まち)の角(かど)より人曲(まが)る。どんどん………また来(きた)る。どんどん………赤き獣(けもの)はふと消えて幼子(をさなご)となり、どんどん………電車線路を匍(は)ひめぐる。人また見ゆる。どんどん………あな、うち転(まろ)ぶ人のむれ、音(おと)もころころ。どんどん………幼子(をさなご)のうへに重なる。また転(まろ)ぶ。どんどん………逃げんと呻(うめ)く間(ひま)もなく、ひびきものうく、どんどん………鈍き電車は唸(うな)り来(く)る。はた、轢(し)き過(す)ぐる。どんどん………時に真白(ましろ)の雲の団街(たままち)よりのぼり、どんどん………かき消(き)ゆる人のあとよりどんどん………また跳(おど)る赤き獣(けだもの)どんどん………とみかう見、盲(めし)ひて笑ひ、はた、傲(おご)る。どんどん………
   四十一年八月
眼ふたげば
眼(め)ふたげば鳥は囀(さへづ)る。盲(めし)ひたる色赤き世界のなかに、疲れたる鳥は囀(さへづ)る。
盲(めし)ひたる色赤き世界のなかに、また見るは肋(あばら)のにほひ光なく、力なく、さあれほのめく。
肋骨(あばらぼね)泣(な)きかつ訴(うた)ふ。『わが骨(ほね)はわが骨(ほね)は色(いろ)あかき心(こころ)の楯よ。かくてはや終(つひ)の墓碑(おくつき)。』
鳥(とり)は囀(さへづ)る。
『婆羅門(ばらもん)の婆羅門(ばらもん)の塩を嘗(な)めつる咎(とが)ゆゑに昼(ひる)も夜(よ)もかくは啼(な)くめる。』いづこにか、さはきりぎりす。
盲(めし)ひたる色赤き世界のなかに、力なきうめきのやから騒(さは)ぎ立(た)ち、鳥はさへづる。はた消えてふと見ゆる顔。
その顔はあてに痩せたるかの少女(をとめ)。少女(をとめ)のなげく。『あはれ、君、われはもや倦みも死(し)なまし。』
鳥は囀(さへづ)る。
少女(をとめ)の顔はややありて白き手となり、疲れたる、葡萄酒を注(つ)ぐ顫(ふるへ)して『紅(あか)き酒、そはわが血潮、ほどほどに吸(す)ひて去(い)ねかし。』
鳥(とり)は囀(さへづ)る。
はと眼(め)ひらけば、わがまへに赤(あか)くちりかふ光線(くわうせん)の光(ひかり)の団(たま)のめくるめき。
鳥(とり)は囀(さへづ)る。
また眼とづれば、泣(な)きいづる骨(ほね)の揺曳(ゆらびき)、人の顔(かほ)。はた、きりぎりす。
鳥(とり)は囀(さへづ)る。
かうほね
きけ、あけぼのの香炉に、連弾(つれひ)く夜半(よは)のそらだき薄らひ、ほのにあかれば、清掻(すががき)、やがてもはらにひとつの香(かう)のいろのみ薫(く)ゆりぬ、――あはれ、水(み)の面(も)の後朝(きぬぎぬ)、――誰(た)をかかへすと、さは水無月(みなづき)のつくゑに香(かう)の火※[「火+(麈−鹿)」]くや、かうほね。  
■青き酒 
十呂盤
大いなる――聞け、大いなる黒金(くろがね)の巨人(きよじん)の指は絶えずわが紅玉(こうぎよく)の数(かぞへ)の珠(たま)を弄ぶ。
何時(いつ)よりか、知らず、左の掌(たなぞこ)の脈搏(う)つ上に水晶の星彫(きざ)む白壇の桁(けた)横たへつ。
見るは、ただ、蛇腹(じやばら)に似たる掌(たなぞこ)の暗き彫刻(ほりもの)弾(はじ)く指、また昼(ひる)と夜(よ)とも分かたぬ天(そら)の色。
わが珠(たま)の上(あが)れば、ひとつ、劫(がふ)の世に惑星うまれ、下る時、億年(おくねん)の栄華(えいぐわ)は滅ぶ加減則(かげんそく)。
斯くて、わが運(はこび)正しき紅玉の妙音楽は極みある命数(めいすう)の大歓楽に鳴りひびく。
光明の大千世界ひとときに叫喚つくる恐怖(おそれ)の日、はた、知らず、われと音(ね)に酔ふ星の桁。
聞くは、ただ、宏大無辺天空の寂寞(じやくまく)遠く筆走り、たまたまに『差引』記(しる)す夢の音。
さては、また、わかき巨人が黒金(くろがね)の高胸(たかむね)へだてわれは聞く、おほどかに鼓(つづみ)うつなる心(しん)の臓(ざう)。
はばたき
聞けとある大海原(おほうなばら)のただなかは終日(ひねもす)重(おも)きあかがねの霧たちこめてゆたゆたに濤(なみ)こそうねれ、日輪は凄まじ、黒き血の塊(くれ)と焦げて暈(くる)めく。
みるかぎり赤道下の炎熱に鉛のごとき鹹水(しほみづ)は炎(ほのほ)と燃えて、海蛇(うみへび)の鎌首高く、たまたまに煌(きら)めき、さてはづぶづぶと青く沈みぬ。
物なべて気懶(けだる)し重し、わだのはら溶(とろ)けたゆたふ鬱憂のうねりに疲れ夜のごとも深まる吐息。しかすがに、大寂静(だいじやくじやう)の空高く濃霧(のうむ)をわけて東より霊智の光しらしらと見え、かつ、消えぬ、大鳥(おほとり)の強きはばたき。
青き酒
青き酒、――など、汝は否(いな)む。これやわが深みの炎(ほのほ)、また永久(とは)の秘密の徴(しるし)、われと聴く激しき恋の凱歌(かちうた)に沈みにし色。
ただ刹那、千年(ちとせ)に一度(いちど)現るるかの星こそは、われとわが醸(か)みにし酒の火の飛沫(しぶき)、――濃き幻のしたたりに天(そら)さへ燬(や)けむ。
こを飲まば刹那の刹那、歎く血の歓楽(よろこび)にこそ、――痛ましき封蝋色(ふうらふいろ)の汝(な)が胸も、
焦げつつ聴かめ、この夜半(よは)に音(おと)なく響く管絃楽(オケストラ)、虚無より曳ける青き火の丈長髪(たけながかみ)を。
空罎
葡萄酒罎の上包(うはづつみ)、霊(たま)なるころも、何の魔か、飽くなき慾の痙攣(ふるへ)もてかく引き裂(ちぎ)り、むざむざと歩み棄てけむ。――火の片(きれ)ぞ素足にわれと泣かしむる。
いづくに行かば得らるべき命の糧(かて)ぞ。踏むはただ鉛の路の火の飛沫(しぶき)、死の色つづく高壁(たかかべ)のつらねのそこを蟻のごと匍ひもとほらむ末のすゑ。――
たちまち薫る酒の歌、蒸すかと見れば赭(あか)ら頬(ほ)の想(おもひ)の族(ぞう)らとりどりに、はや、酔ひしれて狂(たは)れきぬ、あな、わが血にぞ。
かくて、見よ、わが幻(まぼろし)に転(まろ)ぶもの吸い尽くされし空(から)の罎(びん)、――空(から)なる命、最終(いやはて)の辻の恐怖(おそれ)に、ふと青む。
炎上
焦げに焦がるる我心(わがこころ)、そことしもなく聞ゆるは執着(しふちやく)の日の喚叫(さけびごゑ)、黒ずむ悪の火の羽ぶき、油日照(あぶらひでり)の四辻(よつつじ)は凄惨として音もなく、雲なき空に電流の渦まき消ゆる断末魔。
もそろもそろに滞(とどこほ)る鉛の電車、一片(ひとひら)の命の紙と蝋づけの薄葉鉄(ぶりき)の人を吊るしつつ、黒き煉瓦の息づみにひたぶる咽(むせ)ぶ輪のほめき。事こそ起れ、いづこにか、早鐘すらむ物の色。
驚破、炎上(えんじやう)の火の光、見れどもわかぬ日ざかりにみるみる長く十字劃(か)きゐすくむ帯の※[「糸+條」]色(さなだいろ)、あなと、昏(くら)めば、後(しりへ)より、戞戞戞(かつかつかつ)と※[「足へん+鉋のつくり」](だく)ふませ、
隙(すき)こそあれや、たとばかり、鞭ひらめかし、驀然(まつしぐら)、黒き甲(かぶと)と朱の色の蒸汽喞筒(ぽむぷ)の馬ぐるま、跳(をど)りぞ過ぐれ、湯は釜に飛沫(しぶき)くわつくわと沸(たぎ)りたる
紅火
夜(よる)なり。二人、臨終(りんじう)の寝椅子(ねいす)に青み、むかひゐて毒酒(どくしゆ)を杯(はい)に。紅(くれなゐ)の燭(しよく)こそ点(とも)せ。まのあたり、無言(むごん)に凝視(みつ)め赫耀(かくえう)の波動(はどう)を聴(き)けば、夢心地(ゆめごこち)、浄華(じやうげ)のわかさ、身(み)も霊(たま)も紅(あか)く縺(もつ)るる赤熱(しやくねつ)よ。
火(ひ)は葡萄染(えびぞめ)の深帳(ふかとばり)、花毛氈(はなもうせん)や、銀(ぎん)の籠(かご)、また、羅(ら)のころも、緑髪(みどりがみ)、わかき瞳に炎上(えんじやう)の匂香(にほひが)熱(あつ)く、『時(とき)』の呼吸(いき)、瞬(またた)き燻(くゆ)る『追懐(おもひで)よ。『恋(こひ)』は華厳(けごん)の寂寞(じやくまく)に蒸し照る空気うち煽(あふ)る。
時(とき)経(へ)ぬ唇(くち)は『楽欲(げうよく)』の渇(かわき)に焦(こが)れ、心(しん)の臓(ざう)喘(あへ)げば、紅火(こうくわ)『煩悩(ぼんなう)』の血彩(ちいろ)薫(くん)ずる眩暈(くるめき)よ。朱(しゆ)の蝋涙(ろふるい)は毒杯(どくはい)の紫(むらさき)擾(みだ)し照り雫(しづ)く。
今こそ蝋(ろふ)は琺瑯(はうろう)に炎(ほのほ)のころもひき纏(まと)ひ、音(おと)なく溶(と)くる白熱(びやくねつ)に爛(ただ)れ艶(えん)だつ弱(よわ)ごころ、無言(むごん)に泣けば『新生(しんせい)』の黄金光(わうごんくわう)ぞ燃(も)えあがる。
暮愁
暮れぬらし。何時(いつ)しか壁も灰色(はひいろ)に一室(ひとま)はけぶり、盤上(ばんじやう)の牡丹花(ぼたんくわ)ひとつ血のいろに浮び爛(ただ)れて、散るとなく、心の熱も静寂(じやうじやく)の薫(くゆり)に沈み、卓(しよく)の上両手(もろて)を垂れて瞑目(めつぶ)れば闇はにほひぬ。
※[「窗/心」]の外(と)は物(もの)古(ふ)りし街(まち)、風湿める香(かう)のぬくみに、寺寺の梵音うるむ夕間暮、卯月つごもり、行人(かうじん)の古めく傘に、薄灯(うすひ)照り、大路(おほぢ)赤らみ、柑子(かうじ)だつ雲の濡いろ、そのひまに星や瞬く。
わが室(むろ)は夢の方丈、匂やかに名香(みやうかう)なびき、遠世(とほよ)なる暮色(ぼしよく)の寂(さび)に哀婉の微韻(ゆらぎ)を湛へ、髣髴と女人(ぢよにん)の姿光さし続く幾むれ、白鳥(はくてう)の歌ふが如く過ぎゆきぬ、すべる羅(ら)の裾。
そのなかに君は在(おは)せり。緑髪(みどりがみ)肩に波うち、容顔の清(すが)しさ、胸に薔薇色(ばらいろ)の薄ぎぬはふり、情界の熱き波瀾に黒瞳(くろひとみ)にほひかがやき、領巾(ひれ)ふるや、夢の足なみ軽らかに現(うつゝ)なきさま。
ああ、それも束(つか)の間(ま)なりき。花祭ありし夕(ゆふべ)か、群衆(ぐんじゆう)のなだれ長閑かに時花歌(はやりうた)街(まち)を流れて辻辻に山車(だし)練る日なり、行きずりに相見しばかり、高華なる君が風雅(みやび)も恋ふとなく思ひわすれき。
今行くは追憶(おもひで)の影――黄金なす幻追ひて、衰残の心の大路(おほぢ)暮れゆけば顧みもせぬ人生の若き旅びと、――くづをれて匂ゆかしみ我愁ふ、追慕の涙綿綿と青む夜までも。 
■乱れ織 
無花果の園
なにか泣く、野より、をとめよ、無花果(いちじゆく)の汝(な)が園遠くわれは来ぬ。いざ眼をあげよ。
今日(けふ)もまた葉かげ、実(み)がくれ、甘き香の風に日あびて語らまし。いざ手を交せ。
さは泣くや、夜にか、をとめよ。汝(な)が園は焼けぬと。草も、無花果(いちじゆく)の樹も実も無しと。
おお、なべて園はいたまし。葉も幹も、ああ、実も香(か)もか、草の床(とこ)――恋の巣までも。
さあれ、よし。白※[「巾+白」](しらぎぬ)やはにうるはしき汝(な)が頬(ほ)の涙まづぬぐへ。すみれのにほひ。
曾て汝(な)は春のほこりに、なに誓ひ、いづれ惜みしこの恋と、その古園(ふるぞの)と。
ああ、園は野火(のび)に焼かれて今は無し。――美(うま)し追憶(おもひで)ただ胸の香(か)にこそにほへ。
さば尋(と)めむ、恋(こひ)の歓楽(よろこび)。今日(けふ)よりは、野山(のやま)に、谷(たに)に、百合(ゆり)、さうび、花(はな)の日(ひ)の栄(はえ)。
ああ、かくて、終(つひ)の愛欲(あいよく)。火(ひ)と燃(も)えて身(み)を焼(や)く夜(よ)にも、汝(な)は泣(な)くや、いかにをとめよ。

燕は翔(かけ)る、水無月(みなづき)の雲の旗手(はたて)の濡髪に。――暗き港はあかあかと霽(は)れぬ、滴(したた)る帆の雫。
燕は翔る、居留地の柑子色(かうじいろ)なす※[「窗/心」]玻璃(まどがらす)ななめに高く。――ほつほつと霧に湿(しめ)らふ火のにほひ。
燕は翔(かけ)る、葉煙草とヴオロン薫(く)ゆる和蘭(おらんだ)の酒楼のまへを。――笛あまた暮れつつ呻(によ)ぶ海の色。
燕は翔(かけ)る、花柘榴(はなざくろ)――濡るる埠止場(はとば)の火あかりに。かくてこそ聴け、艶女(やしよめ)等が猥(みだ)らにわかきさざめごと。
珊瑚切
午(ひる)さがり、渚(なぎさ)に緩(ゆる)き波の音。少女(をとめ)はやがてあてやかに『何(な)ぞ。』と答(いら)へぬ、伏眼(ふしめ)して、紅き珊瑚の枝あまた撰(えら)みつ、切りつ、かろらかに鋸の歯のきしろへば、ほそき腕(かひな)と頬(ほ)のうへに薔薇(ばら)いろの靄さとけぶる。
ややありて、渚(なぎさ)に緩(ゆる)き波の音。男は燃ゆる頬を寄(よ)せて『君をおもふ。』と忍びかに、さては手速(てばや)にうしろより珊瑚細工の車の柄(え)かろく廻せば、ためらへる白(しろ)の上衣(うはぎ)と髪の毛に薔薇(ばら)いろの靄さとけぶる。
のびやかに渚(なぎさ)に緩き波の音。少女(をとめ)は、さいへ、あからみて『吾も。』とばかり、海の日を玻璃に透かしつ、やうやうに形(かたち)ととのふ恋の珠(たま)磨きつ、吹きつ、をりをりに車(くるま)まはせば、美しく薔薇いろの靄さとけぶる。
乱れ織 ――天草雅歌――
わが織るは、火の無花果(いちじゆく)を綴りたる花※[「口+多」]※[「口+羅」]※[「口+尼」](はなとろめん)の猩猩緋(しやうじやうひ)。とん、とん、はたり。
さればこそ絶えず梭(をさ)燃え、乱れうつ火の無花果(いちじゆく)の百済琴(くだらごと)。とん、とん、はたり。
聞き恍(ほ)れて、何時(いつ)か、我が入る、猩猩緋(しやうじやうひ)花※[「口+多」]※[「口+羅」]※[「口+尼」](はなとろめん)のまぼろしに。とん、とん、はたり。
乱れ織、落つる木の実のすががきにふとこそうかべ、銀の楯。とん、とん、はたり。
飜へす貝多羅葉(ばいたらえふ)の馬じるし花※[「口+多」]※[「口+羅」]※[「口+尼」](はなとろめん)のまぼろしに。とん、とん、はたり。
また光る白き兜(かぶと)の八幡座(まちまんざ)、火の無花果(いちじゆく)の百済琴(くだらごと)。とん、とん、はたり。
乱れ織、つと空ゆくは槍の列(つら)。花※[「口+多」]※[「口+羅」]※[「口+尼」](はなとろめん)のまぼろしに。とん、とん、はたり。
さては見つ、火の無花果(いちじゆく)のすががきに君が鎧の猩猩緋(しやうじやうひ)。とん、とん、はたり。
われは、また花※[「口+多」]※[「口+羅」]※[「口+尼」](はなとろめん)のまぼろしに白き領巾(ひれ)ふる。百済琴(くだらごと)。とん、とん、はたり。
そのときに、馬は嘶く、しらしらと、火の※[「口+多」]※[「口+羅」]※[「口+尼」](とろめん)の無花果(いちじゆく)に。とん、とん、はたり。
あはれ、いま花※[「口+多」]※[「口+羅」]※[「口+尼」](はなとろめん)のすががきに再び擁(いだ)く、君と我。とん、とん、はたり。
天(そら)も見ず、被(かつ)ぐは滴(した)る蜜の音、君が鎧の猩猩緋(しやうじやうひ)。とん、とん、はたり。
こは夢か、刹那か、尽きぬ幻(まぼろし)か、花※[「口+多」]※[「口+羅」]※[「口+尼」](はなとろめん)の梭(をさ)の音。とん、とん、はたり。
高機 ――天草雅歌――
高機(たかはた)に梭なげぬ。きり、はたり。
その胸に梭なげぬ。きり、はたり。
その高機に、その胸にきり、はたり。
顛末 ――天草雅歌――
『花ありき、われらが薔薇(さうび)、摘まれにき、われらが薔薇(さうび)。かくて、また、何時(いつ)としもなく凋みにき、われらが薔薇(さうび)。』あはれ、炉(ろ)に凭(よ)ればかならず、顛末(もとすゑ)はかかりきといふわが媼(をうな)、その日の薔薇(さうび)、『何ゆゑ。』と問へば、かくこそ、火にいぶる紅き韈(したうづ)つと退(ひ)きて噎(む)せ入りながら、『子らよ、そは、ああ、その薔薇(さうび)あまりにも紅(あか)かりしゆゑ。』
ためいき
今しがた、夜会(やくわい)ははてぬ。花瓦斯(はながす)のほそきなげきに絹帷(きぬとばり)紅(あか)き天鵝絨(びろうど)、散(ち)り藉(し)ける花束(はなたば)のくづ、おぼろげに室(むろ)は青(あを)みて、うらわかき騎士(きし)が拍車(はくしや)の音(ね)の乱(みだ)れ、舞(まひ)の足(あし)ぶみ、頬(ほ)のほてり、かろきさざめき、髪(かみ)あぶら、あはれ、楽声(がくじやう)、あたたかに交(まじ)りみだれてゆめのごと燻(くゆ)りただよふ。
そのなかに、水(みづ)のつめたさちらぼひぬ、これや、一夜(ひとや)を伴(つれ)もなく青(あを)みしなへし女子(をみなご)がわかきためいき。
時鐘
身にか沁(し)む。――『わが世がたりもはや尽きぬ。興(きよう)もなき事(こと)。わかうどよ、紅(あか)き炉(ろ)の火に美しき足袋をな焼きそ。かの宵の恋にもましてうそ寒き夜にもあるかな。』老媼(をうな)かくつぶやきながら力なう柴折りくべぬ。そともには雪やふるらむ。燃ゆる眼にわかきは見あげ、言葉なく、またうつぶきぬ。ひとしきり、沈黙(しじま)やぶれて、煤(すす)けたる江戸絵の壁に禁軍の紅帽(こうばう)あかり、はちはちと火(ひ)の粉(こ)飛(と)びちり、しづまりぬ。九時にかあらむ。ああ今、目白僧園の鐘鳴りやみぬ。
若し
炉(ろ)の椅子に我ありとせよ、また火あり熾(さか)れりと見よ。棚の上(へ)の小さき自鳴鐘(めざまし)鳩いでて三つと鳴かぬ間、わが唇(くち)は汝がくちに、頸(うなじ)まき、ただ火のもだえ、また韈(たび)の焦ぐるも知らね、さいへ、夏、我やはた、火の気(け)なき炉(ろ)に椅子もなし、人妻よ、安かれ、汝(なれ)も。
たはれ女
『やよ、しばし、そのうつくしきわかうどよ、君はいづこへ。』『君は、など。』『美男(うましを)、あはれ、いつの日か君に見えけむ。』『しかはあれ、われはえ知らず。』『さな去にそ、その御瞳(みひとみ)のうつくしさ、いかで忘れむ。』『さあれ、など、』『まづ、おきたまへ、原のぬし?』『いな、』『さは知りぬ、蜂須賀の君か。』『いな、いな。』『ほ、ほ、さても、御歳(みとし)は。』『十九。』『はしけやし、法科のかたか。』『いな。』『いなと、さらばいとよし。さて、君はいづこへ。』『麻布、君は、また。』ほほ、わすられぬ情人(こひびと)を招ぎに。』とばかり、かたへなる自働電話の火のとびらたわやに開(あ)けて、つと入りぬ。
驢馬の列 ――かかる詩の評家に――
驢馬の列(つらね)ぞ街(まち)をゆく。見よ、のろのろの練足(ねりあし)に、鼻も眼もなきひとやから載せて、うなだれ、呻(によ)びたる。
驢馬の列(つらね)ぞ街(まち)を行く。鳴くは通草(あけび)の変化(へんげ)らか、また、耳もなきひとやから口のみあかくただれたる。
驢馬の列(つらね)ぞ街(まち)をゆく。あはれ、終日(ひねもす)、手さぐりに生灰色(なまはひいろ)の怪(け)のやから、のへらのへらと鞭ふれる。
驢馬の列(つらね)ぞ街(まち)をゆく。もとより、人の身ならねば、色もにほひも歌ごゑも嗅(か)ぐすべはなし、罵れる。
驢馬の列(つらね)ぞ街(まち)をゆく。ただ戸に咲ける罌粟(けし)ひとつ知らえぬ汝等(なれら)、いかで、さは深き館(やかた)の内心(ないしん)を。
驢馬の列(つらね)ぞ街(まち)をゆく。すでに罵る汝(な)が敵(あだ)は白馬(はくば)に抱く火の被衣(かつぎ)千里(せんり)かなたのくちつけに。 
■落雷 
落雷
静まりてなほもしばらく霧のぼる高原(たかはら)つづき爛(ただ)れたる「時」ははるかに、恐ろしき苦悩をはこぶ。驟雨(にはかあめ)またひといくさ、走りゆく雲のひまよりかろやかに青ぞら笑ひ、日の光強く眩しく野はさらに酷熱のいろ。腥(なま)くさきオゾンのにほひ雫(しづく)する穂麦のしらみ、今裂けし欅(けやき)の大木(おほぎ)燥(い)るがごと疼(うづ)くいたでに脂(やに)黒くしたたるみぎり、油蝉ぢぢと鳴き立つ。根がたには蝮(まむし)さながら髪あかき乞食(こつじき)ひとり仰向けに面桶(めんつう)つかみ、見よ、死せり。雷火(らいくわ)にゆがむ土いろの冷(ひや)き片頬に血の雫――濡れて仄めく一輪の紅きなでしこ。
長月の一夜(初稿)
長月の鎮守の祭(まつり)夜もふけて天(そら)は険しく雨もよひ、月さしながら稲妻す、濃雲をりをり鉛いろ赤く爛れて野に高き軌道を照らす。
このあたり、だらだらの坂赤楊(はん)高き小学校の柵尽きて、下は黍畑こほろぎぞ闇に鳴くなる。いづこぞや、女声して重たげに雨戸繰(く)る音。
大師道、辻の濃霧(こぎり)は、馬やどのくらめきあかりに幻燈のぼかしの青み蒸しあつく、ここに破(やれ)馬車七つ八つ泥にまみれて、ひつそりと黒う影しぬ。
泥濘(ぬかるみ)は物の汗ばみ生(なま)ぬるく、重き空気に新らしき木犀(もくせい)まじり馬槽(うまぶね)の臭気(くさみ)ふけつつ、懶(もの)うげのさやぎはたはた夏の夜の悩(なやみ)を刻む。
足音す、生血のにじみしとしとと、まへを人かげおちうどか、はたや乞食か、背に重き佩嚢(どうらん)になひ、青き火の消えゆくごとく呻きつつ闇にまぎれぬ。
嗚呼今か畏怖(おそれ)の極み、轡虫(がちやがちや)は調子はづれに噪(わ)めきつつ、はたと息絶え、落ちかかる黄金(こがね)の弦(ゆづる)心臓の喘(あへぎ)さながらまた黒き柩(ひつぎ)にしづむ。
終列車とどろくけはひ。凄まじき大雨のまへを赤煉瓦高きかなたは一面に血潮ながれて野は紅(あか)く人死ぬけしき、稲妻す、――嗚呼夜は一時。

海ちかき真闇(まやみ)の狭間(はざま)、夜(よ)の火の粉まひふるなかに酒の罎(びん)とりて透かしぬ、はしりゆく褐色(くりいろ)の顔、汽車ぞいま擦れちがひぬる。かたむけぬ、うましよろこび、いな、胸にしらべただるる煉獄の火のひとしづく。時に、誰(た)ぞ、こん、こん、か、かん、槌つらね、蹠(あなうら)うつは。糸崎と子らがよぶこゑ。
そぞろありき
風寒き師走月(しはすづき)、それの港をわれひとり、夕暮のそぞろありきす。薄闇のほのかなる光のなかに老舗(しにせ)立つひと町は寡婦(やもめ)のごとくわれゆゑに面変(おもがは)り、かくや病みけむ。人あまた、はかなげにそともながめて石のごと店店(みせみせ)に青みすわりき。たまたまに、灯(あかり)さす格子(かうし)はあれど柩(ひつぎ)うつ槌(つち)の音(おと)ただにせはしく、煉瓦つむ空地(あきち)には、あはれ誰が子ぞ、心中(しんぢう)の数へぶし拙(つた)なげながら音(ね)もうるむ連弾(つれびき)のかなしきしらべ、いつになく旅人の足をとどめて、灯(ひ)は青く柳立つ闇にともりき。
港には浪の音(ね)も鈍(にぶ)にひびらぎ、灰だめる氷雨雲(ひさめぐも)空にみだれてすそあかる黄(あめ)いろの遠(をち)に、海鳥(うみどり)煙(けぶり)濃(こ)き檣(ほばしら)の闇に一列(ひとつら)朱(しゆ)の色の大き旗鳴きもめぐりぬ。船はまた鐘鳴らし、かくて失(う)せにき。そのゆふべ君のかげ消えしかなたに、さてしもや、みえそめぬ海のかなたにけふも見よ、木星の青ききらめき。
暗愁
なにごとぞ、夕まぐれ、人はさわさわ、新開(しんかい)のはづれなる坂のあき地にうづくまる。そこ、ここに煉瓦(れんぐわ)、石灰(いしばひ)、高草(たかくさ)の黄(き)にまじり、風ぞ冷えたる。
灰色(はひいろ)のまろき石子(いしこ)らはまろがし据ゑ、やをら爪(つま)立ちぬ、爺(おぢ)が肩よりのぞき見(み)す。――様様(さまざま)のくらき呼声(よびごゑ)世のほかの町の闇ひさぐ気遠(けどほ)さ。
古井(ふるゐ)あり、桁(けた)はみなくづれゆがみて桔槹(はねつるべ)ギロチンの骨(ほね)とそびやぎ、血はながる。赤ばみし蛇のぬけがらさかしまに下(した)はこれ暗き死の洞(ほら)。
人はみなめづらかに首(くび)つきいだしおづおづと環(わ)ぞ退(しざ)る。あはれ男子(をのこ)ら三人(みたり)まで影薄う青み入りぬれ、そよとだに腰綱(こしづな)の端(はし)もひびかず。
時や疾(と)し、ひよろひよろの青洋服(あをやうふく)はわと前へ面(おも)がはり、のめり泳ぎつ。と見ぬ、いま、むくむくと臭き瓦斯の香(か)町や蔽(おほ)ふ、みるがまに黄ばむ天色(そらいろ)。
驚破(すは)と、見よ、街道へまろびなだれて西日する町の屋根、高き耶蘇寺(でら)、ふりあふぎ人はみな面(おもて)冷(ひ)えぬれ。風さらにひややかに草をわたりぬ。
灯(ひ)ぞともる、支那床(どこ)の玻璃に人見え、あかあかと末広(すゑひろ)に光(ひかり)凍(こほ)れば、古煉瓦(ふるれんぐわ)うづだかき原のくまぐま、ほそぼそとこほろぎの鳴く音(ね)洩れぬる。
地獄極楽
『御覧(ごらう)ぢやい、まづ。』と濁(だみ)ごゑ屋根低き山家の土間は魚燈油のくすぶり赤く、人いきれ、重き夜霧に朦朦と地獄の光景(けしき)現(げん)じいづ。―あはれ鞭指(さ)し、案内者(あないじや)は茶いろの頭巾殊勝げに念仏ぞすなる。
木戸にまた高く札うち、蓮葉(はすは)なる金切(かなきり)ごゑと老いたるが絶えず客よぶ、――と見る、ただ赤丹(あかに)剥(は)げたる閻魔王、青き牛頭(ごづ)馬頭(めづ)、講釈のなかばいちどにがくがくと下顎(したあご)鳴らす。――『評判の地獄極楽。』胸わるき油煙のにほひ女子らが汗に蒸されて、焦熱のこころあかあか火の車、または釜うで、餓鬼道の叫喚(わめき)さながら人人が苦悩を醸す。さはれ、なほ爺(おぢ)は真面目(まじめ)に諳誦す、業(ごふ)の輪廻(りんね)を。
盂蘭盆の寺町通、猿芝居幕のあひまか喇叭節みだらに囃(はや)す。――うち湿(しめ)る沈(ぢん)の青みを稚子(ちご)あそぶ賽(さい)の河原は、長長と因果こそ説け、『なまいだぶ。』こゑもあはれに、かたのごと、涙を流す。
ひと巡(めぐ)り、はやも極楽、絵灯籠紅(あか)き出口は華やげ楼閣そびえ、頻伽鳥(びんがてふ)鳴けり。この時、酒の香(か)す、懐(ふところ)がくり徳利嘗め、けろり鐸(すず)ふる、太鼻の油汗見よ。『先様(せんさま)はこれでお代り。』
熊野の烏
夜は深し、熊野の烏旅籠(はたご)の戸かたと過ぐ、一瞬時(いつしゆんじ)、――燈火(ともしび)青(さを)に閨を蔽(おほ)ふかぐろの翼(つばさ)煽(あほ)り搏(う)つ羽(は)うらを透(す)かし消えぬ。今、森(しん)として冷えまさる恐怖(おそれ)の闇に身は急に潰(つひ)ゆる心地(ここち)。「変らじ。」と女(をみな)の声す。ひと呻(うめ)く、熊野の烏。丑満(うしみつ)の誓請文(きしやうもん)今か成る。宮のかなたは忍びかに雨ふりいでぬ。『誓ひぬ。』と男の声す。刹那、また、しくしくと痙攣(つりかが)む手脚のうづき、生贄(いけにへ)の苦痛(くつう)か、あなや、護符ちぎる呪咀(のろひ)のひびき。
はたと落つる、熊野の烏。と思へば、こは如何(いか)に、身は烏、嘴(くちばし)黒く黒金の重錘(おもり)の下に羽(はね)平(ひら)み、打つ伏(ぶ)す凄さ。はた、固く、痺(しび)れたる血まみれの頭脳(づなう)の上ゆ、暗憺と竦(すく)まりながら魂(たま)はわが骸(むくろ)をながむ、

時は冬、霜月(しもつき)下旬(げじゆん)、夜(よ)の一時(いちじ)、真闇(まやみ)の海路(うなぢ)。玄海か、朝鮮沖か、知らず。ただ波涛(はたう)の響※[「革+堂」]鞳(だうたふ)と※[「窗/心」]うつ暗(くら)さ。門司(もじ)いでて既に幾時(いくとき)。いとど蒸す夜来(やらい)の空は、雨交(まじ)り雹さへ乱れ、灘(なだ)遠く雷(らい)するけはひ。不安(ふあん)いま、黒き旗(はた)して死の海を船ゆく恐怖(おそれ)、深沈(しんちん)の極(きは)み真黒(まくろ)に点鍾(てんしよう)の悲音(ひおん)たまたま、天候(てんこう)の険悪いよよ、闇憺(あんたん)とわが夜はくだつ。
一室(いつしつ)に見知る顔なし。何ごとぞ、宵(よひ)のほどより、紅毛(こうもう)の羅面絃弾者(ラベイカひき)は白眼(しろめ)むき絶えず笑へり。陰翳(いんえい)は彼が肋(あばら)に明暗(めいあん)す一張一弛(いつちやういつし)、カンテラの青み吸ひつつ、縞蛇(しまへび)の喘(あへ)ぐが如し。深夜(しんや)なり。疫病顔(えきびやうがほ)に、衆人(しゆうじん)は疲れ黄ばみて銭(ぜに)ひとつ投ぐる者なし。乱撃(らんげき)よ、早鐘(はやがね)急に、甲板は靴音高く、『驚破(すは)。』『風ぞ』『誰(た)そ巻け』『倒せ。』『綱(つな)投げよ。』一時に水夫(かこ)ら狼狽(らうばい)の銅羅声(どらごゑ)擾(みだ)し、『飛沫(しぶき)』『それ辷るな』『立て。』と口口に、巻き、投げ、昇り、立ち騒ぐ刹那か、颯(さつ)と暴風の襲来迅く、帆の半、帆ばしら、帆桁、折れ、唸り、はためき、倒れ、動揺す、奈落へ、天へ、激瀾(おほなみ)の鳴号凄く
轟(ぐわう)轟と頭上に下に、刻刻の不穏等(ひと)しく一室は歯の根もあはず、惨たりな、垂死(すゐし)の境(さかひ)。
紅毛は笑ひつつあり。ふと見れば何らの贄(にへ)ぞ、わが膝は眩(まば)ゆきばかり乱髪(らんぱつ)の女人に温み、華奢ながら清き容顔夢(ゆめ)みるか、青うゑまひぬ。恋びとか、あはれ、抱けば軽軟(けいなん)の吐息すずろに頬(ほほ)触れぬ、薔薇(さうび)のにほひ。嗚呼暫時(しばし)流離の胸も脈絡の炎(ほのほ)に爛れ、痛楚なる人が呻吟(うめき)も、念仏も悲鳴も知らず、情界の熱き愉楽に、わが霊(れい)は喘(あへ)ぎ焦(こ)がれぬ。
何ごとぞ、一時に音し、※[「毬」の「求」に代えて「鞠のつくり」]のごと五体は飛べり。瞬く間、危急の汽笛一斉(せい)の叫喚(けうくわん)――うつつ、秒(べう)ならず、後甲板(こうかんぱん)は懸命の格闘黒く、『咄(とつ)、放せ』短艇(ボウト)に魔あり、櫂あげて逃路を塞ぐ。目前の障碍(さまたげ)――知らず紅毛か、水夫(かこ)か、女か、他人なり――死ねやとばかり、発止(はつし)、余は短銃(ピストル)高く一発す、続いて二発、三発す。あはや横波驀地(まつしぐら)頭上を天へ、舳(ぢく)なかば傾く刹那、しやしやしやしやと水晶簾ぞ落下すれ、苦鳴もろとも闇中の渦巻分時、微塵なり。――水天裂けて髣髴と白光走る。
眼ひらけば、小春のごとも麗らかに空晴れわたり、身辺は雑木(ざわき)踈(まば)らに、名も知らぬ紅花叢(むら)咲き涼風(すずかぜ)の朝吹く汀(みぎは)、砂雲雀(すなひばり)優にあがれり。ああ、神よ、他人は知らじ、我はわが生命(いのち)の真珠全きを今もながめて、満腔の歓喜(よろこび)高く大音に感謝しまつる。
吐血
罌粟畑(けしばたけ)日は紅紅(あかあか)と、水無月の夕雲爛(あか)れ、鳥鳴かず。顔火のごとく花いづるわかうど一人(ひとり)、黒漆のわかき瞳に楽欲(げうよく)の苦痛を湛へ、大跨に一歩ふりむく。極熱の恋慕の郊野蒼然と光衰へ、草も木も瀕死の黄ばみ、夜のさまに凄惨たりや。う、とばかり、刹那膝つき、絶望に肺はやぶれて吐息しぬ――くれなゐの花。 
■柑子咲く国 
南国
ああ、君帰(かへ)れ、故郷の野は花咲きてわかき日に五月(さつき)柑子(かうじ)の黄金(こがね)燃(も)え、天(そら)の青みを風ゆるう、雲ものどかに薄べにのもとほりゆかし。――帰(かへ)れ君、森の古家(ふるや)の蔦かづら花も真紅(しんく)に、飜(ひるが)へれ、君はいづこに、――北のかた柩(ひつぎ)まうけの媼(おうな)さび、白髪(しらが)まじりの寒念仏(かんねぶつ)、賢(さか)し比丘(びく)らが国や追ふ。ああ鬱憂(うついう)の山毛欅(ぶな)の天(そら)、日さへ黒ずみ、朽尼(くちあま)が涙眼(いやめ)かなしむ日の鉦(かね)に、畠(はたけ)の林檎紅(べに)饐(す)えて蛆(うじ)こそたかれ。帰れ、君、――筑紫平の豊麗(ほうれい)に白(しろ)がね鐙(あぶみ)、わか駒(ごま)の騎士も南(みなみ)へ、旅役者、歌の巡礼、麗姫(ひめ)、奴(やつこ)、絵だくみ、うつら練(ね)り続(つづ)け。なかに一人(いちにん)、街道(かいだう)や藤の茶店(ちやみせ)の紅(あか)き灯に暮れて花揺(ゆ)る馬ぐるま、鈴の静(しづ)けさ、四(よ)とせぶり、君も帰らふ夕ならば靄の赤みに、夢ごころ、提灯(ともし)ふらまし。朝ならば君は人妻、野に岡に、白き眼つどへ、ものわびし、われは汀(みぎは)の花菖蒲(はなあやめ)、風も紫(ゆかり)の身がくれに御名や呼ばまし、逢見初(あひみそ)め忍びしわかさ薄月に水の夢してほそぼそと、ああさは通(かよ)へ、翌(あけ)の日も、山吹がくれ雨ならば金糸(きんし)の小蓑(みの)、日には※[「足へん+鉋のつくり」](だく)、一の鳥居を野へ三歩、駒は木槿(むくげ)に、露凍(つゆしみ)の忍び戸(ど)、それもほとほとと牡丹花(ぼたんくわ)ちらぬほど前へ、そよろ小躍(をど)れ薔薇(いばら)みち、蹈めば濡羽(ぬれは)のつばくらめ、飛ぶよ外(と)の面(も)の花麦(はなむぎ)に。あれ、駒鳥のさへづりよ。籬(まがき)根近し、忍び足、細ら口笛(くちぶえ)琴やみぬ、衣(きぬ)のそよめき、さて庭へ、(それと隠れぬ。)そら音(ね)かと、(空は澄みたれ、また鳴(な)らす。)ほほゑみ頬(ほほ)に、浮(うけ)あゆみ楝(あふち)、柏(かしは)の薄ら花ほのにちる日(ひ)の君ならばそぞろ袂もかざすらむ。はや午(ひる)さがり、片岡(かたをか)の畑(はた)に子(こ)ら来て、早熟(はやなり)の和蘭覆盆子(おらんだいちご)紅(べに)や摘む歌もうらうら。――風車(かざぐるま)めぐる草家(くさや)は鯉のぼり吹きこそあがれ、ここかしこ、里の女(をんな)は山梔(くちなし)の黄にもまみれて糯(もち)や蒸(む)す、あやめ祭のいとなみに粽(ちまき)まく夜のをかしさか、頬(ほ)にも浮(うか)べてわかうどは水に夕(ゆふべ)の真菰刈(まこもがり)、いづれ鄙びの恋もこそ。君よ。われらは花ぞのへ、夕栄(ゆふばえ)熱(あつ)き紅罌粟(べにげし)の香(か)にか隠(かく)れて筒井(つつゐ)づつ振分髪(ふりわけがみ)の恋慕びと君(きみ)吾(われ)燃ゆる眼(め)もひたと、頬(ほほ)ずりふるへそのかみの幼(をさ)な追憶(おもひで)――君知るやフランチエスカの恋語(こひがたり)――胸もわななけ、人妻(ひとづま)か、罪か、血は火の美しさ、激しさ、熱(あつ)さ、身肉(しんにく)の爛(ただ)れひたぶるかき抱(いだ)き犇(ひし)と接吻(くちつ)け死ぬまでも忘れむ、家も、世も、人も、ああ、南国の日の夕。
恋びと
ああ七月(しちぐわつ)、山の火ふけぬ。――花柑子(はなかうじ)咲く野も近み、月白ろむ葡萄畑(ぶだうばたけ)の夜(よ)の靄に、土蜂(すかる)の羽音(はおと)、香(か)の甘さ、青葉の吐息(といき)、情慾の誘惑(いざなひ)深く燃(も)え爛(ただ)れ、仰げば空の七(なな)つ星(ほし)紅(あか)く煌(きら)めき、南国の風さへ光る蒸し暑さ。はや温泉(ゆ)の沈黙(しじま)――烏樟(くろもじ)の繁み仄透(ほのす)き灯(ひ)も薄れ、歓語(さざめき)絶えぬ。――湯気(ゆげ)白う、丁字湯(ちやうじゆ)薫る女(をんな)の香(か)、湿(しめ)りただよひわが髪へ、吹けば艶(えん)だつ草生(くさぶ)なか。露みな火なり。白百合は喘(あへ)ぎうなだれ、花びらの熱(ねつ)こそ高め。頬(ほ)に胸にああ息づまる驕楽(けうらく)の飛沫(しぶき)ふつふつ抱擁(だきしめ)に人死ぬにほひ、血(ち)も肉(にく)もわななきふるふ。
ああ七月(しちぐわつ)、ふと、われ、ききぬ――忍び足熱(あつ)きさやぎを水枝(みづえ)照る汀(みぎは)の繁木(しげき)そのなかに。さは近づくは黄金髪(こがねがみ)、青きひとみか、また知(し)らぬ、亜麻(あま)いろ髪か、赤ら頬(ほ)か、ああ、そのかみの恋人か、謎の少女(をとめ)か。遠つ世の匂香(にほひが)あまき幻想(まぼろし)に耳はほてりぬ。うつうつと眼さへ血ばみて、極熱(ごくねつ)の恋慕(れんぼ)胸うつくるほしさ。風いま燃(も)えぬ。ゆめ、うつつ、足音(あのと)つづきぬ。身肉(しんにく)のわづらひ、苦(にが)き乳(ち)の熱(ねつ)に汗ばみ眠(ぬ)れば心の臟(ざう)、牡丹花(ぼたんくわ)の騒ぎ瞬(またたく)く間(ま)、あな頬(ほ)は爛(ただ)れ、百合のなか、七尺(しちしやく)走(はし)る髪の音、ひたと接吻(くちつ)け、紅(くれなゐ)の息、火の海の、ああ擾乱(じようらん)や、水脈(みを)曳(ひ)き狂ふ爛光(らんくわう)に、五体(ごたい)とろけて身は浮きぬ。牡丹花(ぼたんくわ)ひとつ、血(ち)の波(なみ)を焦(こ)がれつ、沈(しづ)む。
霊場詣
行けかし、さらば南国の番(ばん)の御寺(みてら)へ。春なれば街(まち)の少女(をとめ)が華(はな)やぎに、君も交りて美しう、恋の祈誓(きせい)の初旅(はつたび)や笈摺(おひずる)すがた鈴(すず)ふりて、大野(おほの)のみなみ、菜の花の黄金(こがね)海(うみ)透(す)く筑紫みち列(つら)もあえかのいろどりに御詠歌(ごえいか)流し麗(うら)うらと練(ね)りも続(つづ)く日、軟(なよ)かぜに絵日傘あぐる若菜摘、法師(ほふし)、馬上の騎士たちも照りつ乱れつ菅笠に蝶も縺(もつ)るる暖かさ。はじめ御山(みやま)の清水寺(きよみづじ)。風雅(みやび)古(ふ)る代(よ)の絵すがたか、杉の深みの薄ざくら花も散りかふ古(ふる)みちを、六部(ろくぶ)、道心(だうしん)、わか尼(あま)のうれひしづしづ鉦(かね)うつや、袖も湿(うるほ)ふゆきずりに霊場詣(れいぢやうまうで)、杖かろく、番の歌(うた)ごゑ華(はな)やかに、巡礼衆が浮(うけ)あゆみ、峡(かい)は葉洩れの日のわかさ、風も霞(かす)みて、春の雲白ういざよふ静けさに鶯鳴けば、ちらちらと対(つゐ)の袂(たもと)へ笈摺(おひずる)へ、薄ら花ちるうららかさ。かくて霊地(れいち)の荘厳に古(ふる)き杉立つ大木(たいぼく)の霧の石階(いしきだ)ほの青み、白日(ひる)の灯(ひ)ともる奥深(おくふか)さ、遠みかしこみ絵馬堂へ、――桜またちる菅笠や、音羽(おとは)の滝に紅(くれなゐ)の唇(くち)も嗽(そそ)がむ街少女(まちをとめ)、思もわかき瞳して御堂(みだう)のまへの静寂に鈴ふりならびぬかづくや、金(きん)の香炉(かうろ)の薄けぶり、羅蓋(らがい)蓮華(れんげ)の闇(やみ)縫(ぬ)うてほのかにそらへ星の如(ごと)仏龕(みづし)に光る燈明(みあかし)の不断(ふだん)の燻(くゆ)り、内陣(ないぢん)の尊(たふと)さ深さ、先達(せんだつ)に連れて献(ささ)ぐる歌ごゑも後世(ごせ)安楽(あんらく)の願かけて巡(めぐ)る比丘(びく)らが罪ならず、恋の風流(ふうりう)の遍歴(へんれき)に、心も空も美しうあこがれいでし君なればそぞろ涙も薫(かを)るらむ。――あるは月夜の黄金(こがね)みち、菜の花ぞらの星あかり朧ろ煌(きら)めく野の靄に、鬢(びん)の香(か)吹かれ仄白(ほのじろ)う急ぐ楽しさ、灯(ひ)は街に、――しだれ柳(やなぎ)の※[「木+越」]路(なみきぢ)は紅提灯(べにちやうちん)の軒(のき)つづき、桃も鄙(ひな)めく雛祭、店のあかみに伏眼(ふしめ)して奉謝(ほうしや)を乞(こ)はむ巡礼(じゆんれい)の清(すず)しさ、わかさ、夕霧に若人(わかうど)忍ぶそぞろきも艶(なま)めかぬほど、頬(ほ)にゑみて鈴(すず)もほそぼそ「普陀落(ふだらく)や」練(ね)れば戸ごとの老御達(ねびごたち)春のひと夜の結縁(けちえん)に招(せう)ぜむ杖と白髪(しらが)ふり、転(まろ)び、袖(そで)とる殊勝(しゆしやう)さや。――行けかし、さらば南国の番の御寺へ春なれば街の習慣(ならはし)美しむ恋の祈誓(きせい)の初旅や、母にわかれて少女らと、朝な夕なの花巡り、やがて遍路の悲愁(かなしみ)に雲も騒立(さわだ)ち花ちらふ卯月とならば故さとへ、ああ妻なよび髪ねびて、我(わが)恋(こ)ひ待てる新室(にひむろ)に帰りこよかし、いざさらば、弥生(やよひ)はじめの燕(つばくらめ)、袖(そで)すり光る麗(うら)ら日(び)を、君も行くかよ、杖あげて、南無(なむ)や大悲(だいひ)の観世音(くわんぜおん)、守らせたまへ、朝風(あさかぜ)に、ああ巡礼の鹿島立(かしまだ)ち。
花ちる日
日も卯月(うづき)、ひとりし行かば――水沼(みぬま)べの緑のしとね、身はゆるに寝(ね)なまし。風の散花(ちりばな)に、水生(みづふ)の草に、さざら波、ゆめの皺みの口吻(くちづけ)に香にほふ夕(ゆふべ)。つねのごと花輪(はなわ)編みつつ君おもひ水にむかへば、遠霞む山の、古城(ふるしろ)市(いち)の壁、森の戸までも、白寂(しらさび)の静けさ深さ、いと青に天(そら)も真澄(ます)みぬ。ああ、君よ、ゆめみる人(ひと)の夕ながめ――汀(みぎは)白(しら)みて、木原(こばら)みち、薄ら花踏む里乙女、六部、商人(あきうど)文(ふみ)づかひ――それも恋路の浮(うけ)あゆみ、誰(た)へか――目守(まも)れば雲照らふ落日(いりひ)の紅(あけ)に水の絵の彩(あや)も乱れて眼(め)も病まむ、ややに古代(ふるよ)のうれひして影ちり昏みはや暮れぬ。市(いち)は点燈夫(ひともし)せはしげに走すらし。さあれ葦かびの闇(やみ)には鳰のほのなよび。小野の鈴の音、夕づつのほのめき、ゆめの頬白のみやびやすらに、風ぬるみ、髪にはさくら、くさに地(ち)の歔欷(すすり)ふけつつ、仄(ほの)に灯(ひ)は君が館(やかた)に、妻琴の調べ澄む夜ぞ、花やかに朧ろに耳はそのかみの日をしも薫(く)ゆれ。ああ平和(なごみ)、我はも恋のさみし児か、神に斎(いつ)きの環も成りぬ。靄の青みに静ごころ君思(も)ふ暫時(しばし)涙もろ、あたりの花に頬をうづめ泣かましものか。
ああ、二人(ふたり)。――君よ暮春(ぼしゆん)の市の栄(はえ)、花に幕うち、紅(くれなゐ)の花氈(くわせん)敷く間の遊楽や、大路(おほぢ)かがよひ潮する人数(にんず)、風雅(みやび)の衣彩(きぬあや)に乱れどよむ日。縦(よ)しや、また花の館(やかた)に恋ごもれ、君が驕楽(けうらく)琅※[「王+干」]のおばしま、銀の両扉(もろとびら)、※[「王+累」]※[「王+田」](らでん)の室屋(むろや)、早や飽きぬ、火炎の正眼(まさめ)、肉の笑(ゑみ)、蜜の接吻(くちづけ)、絵も香も髪も律呂(しらべ)も宝玉(はうぎよく)も晴衣(はれぎ)も酒もあくどしや、今こそ憎め。(楽欲(げうよく)は君がまにまに)ああ君よ、賤(しづ)の児(こ)なれば我はもや自然の巣へと花ちる日、市をはなれて、鄙(ひな)ごころ、またと帰らじ。
郊外
悄悄(しほしほ)と我はあゆみき。畑(はたけ)には馬鈴薯(ばれいしよ)白う花咲きて、雲雀の歌も夕暮の空にいざよひ、南ふく風静やかに、神輿(こし)の列遠く青みき。かかる日のかかる野末を。
嗚呼暮色微茫のあはひ、笙(せう)すずろ、かなたは町の夜祭(よまつり)に水天宮の舟(ふな)囃子。――夕ごゑながら乾(ひ)からびし黄ぐさの薫(かをり)、そのかみも仄めき蒸しぬ、温かき日なかの喘息(あへぎ)。
父上は怒りたまひき、『歌舞伎見は千年のち。』と。子はまたも暗涙せぐるかなしさに大ぞらながめ、欷歔(ききよ)しつつ九年母(くねんぼ)むきぬ。酸(す)ゆかりき。あはれそれよりわれ世をば厭ひそめにき。――

人みな往にぬ、うすらひぬ。森の御寺の夕づく日、ほの照り黄ばむさみしらにやがて鉦(かね)うつ一人(いちにん)のその夜ぞこひし、野も暮れよ、あはれ初秋、日もゆふべ、落穂ふみつつ身はまよふ。 
 
北原白秋の詩にみる切支丹

 

「天草雅歌」と「邪宗門秘曲」
白秋の処女詩集『邪宗門」の冒頭には、この詩集を象徴する「邪宗門秘曲」がある。「邪宗門秘曲」とは、切支丹に寄せたあこがれの情緒をうたったもので、白秋のキリスト教へのあこがれと文学的耽美を宣言したものである。だが、この冒頭の詩に先駆けて、白秋には、明治40年10 月作の「天草雅歌」のなかで、すでに「邪宗」について次のようにうたったものがある。
 さならずば
 わが家の
 わが家の可愛ゆき鳩を
 その雛を
 汝せちに恋ふとしならば、
 いでや子よ、
 逃れよ、早も邪宗門外道の教、
 かくてまた遠き祖より伝へこし秘密の聖磔
 とく柱より取りいでよ。もし、さらずば    
 もろもろの麝香のふくろ、
 桂枝、はた、没薬、蘆会
 および乳、鳥の無花果、
 如何に世のにほひを積むも、――
 さならずば、
 もしさならずば――
 汝いかに陳じ泣くとも、あるは、また
 摩蛙炷き修し、伴天連の救よぶとも、
 ああ遂に詮業なけむ。いざさらば
 接吻の妙なる蜜に、
 女子の葡萄の息に、
 いで『ころべ』いざ歌へ、かうどよ。
 
 わかうどなゆめ近よりそ、
 かのゆくは邪宗の鵠
 日のちに七度八度
 潮あび化粧すといふ
 伴天連の秘の少女ぞ。
 地になびく髪には蘆会、
 嘴にまたあかき実を塗る
 淫らなる鳥にしあれば、  
 絶えず、その真白羽ひろげ
 乳香の水したたらす。
 されば、子なゆめ近よりそ。
 視よ、持つは炎か、華か、
 さならずば、実の無花果か、
 兎にもあれ、かれこそ邪法。
 わかうどなゆめ近より そ。
この二篇の詩の中で用いられた「邪宗」の語句は、「逃れよ、早も宗門外道の教」「かのゆくは邪宗の鵠」というかたちの、異教徒である立場から「外道」とみられ、「邪宗の鵠」 とおとしめられて歌わ れている。ところが、「邪宗門秘曲」になると次のように「邪宗」が捉えられ、うたわれている。
 邪宗門秘曲
 われは思ふ、末世の邪宗、切支丹でうすの魔法。
 黒船の茄琵苴を、紅毛の不可思議國を、
 色赤きびいどうを、匂鋭きあんじやべいいる、
 南蛮の桟留縞を、はた、阿刺吉、珍靤の酒を
   目見青きドミニカびとは陀羅尼誦し夢にも語る、
   禁制の宗門神を、あるはまた、血に染む聖磔、
   芥子粒を林檎のごとく見すといふ欺罔の器
   波羅葦僧の空をも覗く伸び縮む奇なる眼鏡を。
 屋はまた石もて造り、大理石の白き血潮は、
 ぎやまんの壺に盛られて夜となれば火点るとい
 かの美しき越歴機の夢は天鵝絨の薫にまじり、
 珍らなる月の世界の鳥獣映像すと聞けり。
   あるは聞く、化粧の料は毒草の花よりしぼり、
   腐れたる石の油に画くてふ麻利耶の像よ、
   はた羅甸、波爾杜瓦爾らの横つづり青なる仮名は
   美くしき、さいへ悲しき歓楽の音にかも満つる。
 いざさらばわれらに賜へ、幻惑の伴天連尊者、
 百年を刹那に縮め、血の磔背にし死すとも
 惜しからじ、願ふは極秘、かの奇しき紅の夢、
 善主麿、今日を祈に身も霊も薫りこがるる。
「われは思ふ、末世の邪宗、切支丹でうすの魔法」「禁制の宗門神を、あるはまた、血に染む聖磔」「善主麿、今日を祈りに身も霊も薫りこがるる」すなわち、「末世の邪宗、切支丹でうすの魔法」といい「血に染む聖磔」といいながら「今日を祈に身も霊も薫りこがるる」と、こうなるのである。「邪宗」へのまったき否定から、あこがれを表出する肯定への行程は、白秋にとって決して遠い道のりではなかった。ここで言うところの「邪宗」の徒は、文学者としての自己を「邪宗」に見立てて共感したものであり、キリスト教への憧憬と受容はこの詩の中のリズムとして奔騰しているのみである。ならば処女詩集『邪宗門』とは、一体どういう詩集なのか、考察してみることにする。
『邪宗門』について
北原白秋の処女詩集『邪宗門』は天金の上質紙で、表紙は紙と赤クロース布を使った豪華本である。さらに初版は、「フランス綴」になっている。この詩集の出た頃について室生犀星は、次のように言っている。
明治四十二年三月、北原白秋の処女詩集『邪宗門」が自費出版された。早速私は注文したが、金沢市では一冊きりしかこの『邪宗門』は、本屋の飾り棚にとどいていなかった。金沢から二里離れた金石町の裁判所出張所に私は勤め、月給八円を貰っていた。月給八円の男が一円五十銭の本を取り寄せて購読するのに、少しも高価だと思わないばかりか、毎日曜ごとに金沢の本屋に行っては、発行はまだかというふうに急がし、それが刊行されると威張って町じゅうを抱えて歩いたものである。誰一人としてそんな詩集などに眼もくれる人はいない、彼奴は菓子折を抱えて何の気で町うろついているのだろうと、思われたくらいである。(室生犀星「北原白秋一一我が愛する詩人の伝記」昭和46年12月)
これは、出版された当時を回想して書かれたものであり、多少の思い違いなどあるものの、北原白秋の存在が、いかに当時の若者を席捲していたかということをリアルに描出していて参考になる。「月給八円の男が一円五十銭の本を取り寄せて購読」したというところに先ずは驚嘆する。初版『邪宗門』は、厳密には「明治四十二年三月十五日」発行となっており、定価も「壱圓」となっている(なお、初版『邪宗門』には、表紙や目次の場所などが違う「異版」も存在する)。給料の8 分の1 をさいて、室生犀星はじめ当時の若者が貴重な詩集を買い求めていたのである。発行資金や発行部数については、藪田義雄氏が次のように述べられているのが参考になる。「白秋の処女詩集『邪宗門』は明治四十二年三月、書肆易風社から刊行された。蒲原有明の世話で、半ば自費の形であった。前年の冬ちかく有明と鈴木鼓村(琴の楽人) に同道してもらって飯田町のその社に赴き、出版上のとりきめが出来たのだが、坊ちゃん気質のぬけきらない白秋は、そうした交渉事になるとまるで不得手で、ろくろく口もきけなかったらしい。国許の父から二百円送ってもらって、その金を有明に預け、部数五百部として足りないところは発行所で負担してもらうことに話がまとまったのである。ところで年末になっても見本刷が出たきりで一向に仕事が進めてくれない。また五十円もっていって、天金にしてもらえまいかと遠まわしの催促をするのがやっとだった」(藪田義雄『評伝 北原白秋』)。
発行部数は「五百部」で白秋は、自費出版として結局は「弐百五拾円」支払ったことになる。「父上に献ぐ」とまず、「扉」においたこの詩集は、没落寸前の北原家の父から出してもらったものであった。「パン(PAN )の会」で親しくなった石井柏亭に装曠と挿画を頼み、山本鼎に木版の彫刻、木下杢太郎に挿画を貰うといった熱の入れようであった。
二年後の明治44 年ll 月に東雲堂書店から、高村光太郎の装幀となって「改訂再版」の『邪宗門』が出された。再版本には挿し絵がなく表紙も紙装になり、作品も「酒と煙草に」「赤き恐怖」が削除され「蜩」「我子の声」が加えられている。大正5 年7 月に「改訂三版」も出ている。
『邪宗門』のリズムに
『邪宗門』は明治42 年3 月に発行され、明治39 年4 月より41 年12 月までの作品119 篇が「魔睡」「朱の伴奏」「外光と印象」「天草雅歌」「青き花」「古酒」の六つの章に分けられおさめられている。続く詩集『思ひ出』の「断章」などは、『邪宗門」の時期と重なり、「創作の順位からいえば或いは「思ひ出」の方が先にだすべきであったかもしれない」(藪田義雄「評伝北原白秋』) という意見もあり、この両詩集は踵を接している。
本集に収めたる、六章約百二十篇の詩は明治三十九年の四月より同四十一年の朧月に至る、即最近三年間の所作にして、集中の大半は殆昨一年の努力に成る。就中「古酒』中の「よひやみ」「柑子」「晩秋」の類最も舊くして「魔睡』中に載せたる「室内庭園」「曇日」の二篇はその最も新しきものなり。(例言)と言っているが、北原白秋にはその前に「文庫」投稿時代の詩人・白秋と歌人・白秋がいた。選者であった河合酔名は、「「文庫』に於ける白秋最初の進出は目覚ましかつた。大抵の投書家は歳月を経るに従つて本領を発揮するものだが、白秋だけはさうでなく、初めから天才現はるの感じがした。だから彼の作は一篇も没書にはなつてゐない。明治三十六年十二月号『文庫』所載の『恋の絵ぶみ』がはじめである」(『文庫詩抄』の「解説」・昭和25 年6 月) と言っている。この「文庫」時代に投稿された詩は、「75 調」を中心において書かれている。それが、『邪宗門』にきて、「予が、象徴詩は情緒の諧謔と感覚の印象とを主とす。故に、凡て予が據る所は僅かなれども生れて享け得たる自己の感覚と、刺激苦き神経の悦楽とにして、かの初めより情感の妙なる震慄を無みし只冷かなる思想の概念を求めて強ひて詩を作為するが如きを嫌忌す。されば予が詩を読まむとする人にして、之に理知の闡明を尋ね、幻想なき思想の骨格を求めむとするは謬れり。要するに予が最近の傾向はかの内部生活の幽かなる振動のリズムを感じその儘の調律に奏でいでんとする音楽的象徴を専とするが故に、そが表白の方法に於ても概ねかの新しき自由詩の形式を用ゐたり」(例言) と白秋自身言うように「新しき自由詩の形式」であると白負する5 音と7 音を中心に組み合わせた自由な定型へと移行していく。集中「最も舊くして」という「よひやみ」は、初期の75 調から「57 調」へと変わる。
 よひやみ
 うらわかきうたびとのきみ
 よひやみのうれひきみにも
 ほの沁むや、青みやつれて
 木のもとに、みればをみなも。
 な怨みそ。われはもくせい、
 ほのかなる花のさだめに、
 目見しらみ、うすらなやめば
 あまき香もつゆにしめりぬ。
 さあれ、きみ、こひのうれひは
 よひのくち、それもひととき、
 かなしみてあらばありなむ、
 われもまた。――月はのぼれり。
そして、『邪宗門』の「最も新しき」という「室内庭園」あたりの作品にくると、
 室内庭園
 晩春の室の内、
 暮れなやみ、暮れなやみ、噴水の水はしたたる……
 そのもとにあまりりす赤くほのめき、
 やはらかにちらぼへるヘリオトロオブ。
 わかき日のなまめきのそのほめき静こころなし。 (六聯中の一聯)
という具合に、そのリズムは、555584547 …… という具合に、5 音を中心に自在な韻律でうたわれるようになり、55 調、57 調、75 調の律の他、5 音を中心にした56 、57 、58 、54 といった自在な律が駆使される、ことになる。
フランス綴の『邪宗門』
初版『邪宗門』は「フランス綴」になっていると先に書いたが、一枚の紙に16 ページ(あるいは8 ページ)分を一度に印刷したものであり、その折り目折り目を裁断して本にするのであるが、裁断しないで折ったままの状態で綴じたものをフランス綴と言うのである。読者は、その本を初めて手にして、折り目に沿ってペーパーナイフを入れて、綴じられたページを初めてみることができ、作品にただ一人ふれることができるのである。
『邪宗門』の場合、「父上に献ぐ」の献字があり、底のところの折り目にペーパーナイフを入れると右のページに「父上、父上ははじめ望み給はざりしかども、児は遂に生れたるところにあこがれて、わかき日をかくは歌ひつづけ候ひぬ。もはやもはや咎め給はざるべし」とあって、左のページには、かの有名な、ダンテの『神曲』中の「地獄界」の冒頭部分のパロディと言われる次の言葉が載せられている。
 邪宗門扉銘
 ここ過ぎて曲節の悩みのむれに、
 ここ過ぎて官能の愉楽のそのに、
 ここ過ぎて神経のにがき魔睡に。
そして、次をはぐれば、右のページに、詩の生命は暗示にして単なる事象の説明には非ず。かの筆にも言語にも言ひ尽し難き情趣の限なき振動のうちに幽かなる心霊の欷歔をたつね、縹渺たる音楽の愉楽に憧がれて自己観想の悲哀に誇る、これわが象徴の本旨に非ずや。されば我らは神秘を尚び、夢幻を歓び、そが腐爛したる頽唐の紅を慕ふ。哀れ、我ら近代邪宗門の徒が夢寝にも忘れ難きは青白き月光のもとに欷歔く大理石の嗟嘆也。暗紅にうち濁りたる埃及の濃霧に苫しめるスフィンクスの瞳也。あるはまた落日のなかに笑へるロマンチツシュの音楽と幼兒磔殺の前後に起る心状の悲しき叫也。かの黄臘の腐れたる絶間なき痙攣と、ヴィオロンの三の絃を擦る嗅覚と、曇硝子にうち噎ぶウヰスキイの鋭き神経と、人間の脳髄のいうしたる毒艸の匂深きためいきと、官能の麻酔の中に疲れ歌ふ鶯の哀愁もさることながら、仄かなる角笛の音に逃れ入る緋の天鵝絨の手触の棄て難さよ。
という、上田敏に少しく影響されながらも独自に作り上げた象徴詩論と「我ら近代邪宗の徒」としての覚悟を見事に開示した文が載せられている、という具合である。
最初の詩である「邪宗門秘曲」からは、16ページ分を一度に印刷された「フランス綴」になっている。5 聯中の1聯目である、「邪宗門秘曲」の題と1聯目の4 行が左のページに見えるように置かれている。
 邪宗門秘曲
 われは思ふ、末世の邪宗、切支丹でうすの魔法。
 黒船の加比旦を、紅毛の不可思議國を、
 色赤きびいどろを、匂鋭きあんじやべいいる、
 南蛮の桟留縞を、はた、阿刺吉、珍靤の酒を
この冒頭の4 行が、先ず作品の一ページ目に「末世の邪宗」「切支丹でうす」「黒船の加比旦」「紅毛の不可思議國」「色赤きびいどろ」「匂鋭きあんじやべいいる」「南蛮の桟留縞」「阿刺吉」「珍靤の酒」と言った南蛮趣味や異国情緒を彷彿させる珍奇な語彙が彩なして現れるのである。そして、2 聯目以降は隠され、初版購入者のみがペーパーナイフで二ページ以降(これも下だけの綴じ方と下と横の両方が綴じられた二種類がある) を開封して5聯からなる「邪宗門秘曲」の詩に初めて出あうという仕掛けになっている。  
 
北原白秋『邪宗門』 南蛮趣味と浪漫主義 

 

要旨
北原白秋の第一詩集『邪宗門』(1909)のうち「邪宗門秘曲」(以下「秘曲」と記す)と「謀叛」を取り上げ、それらの作品から南蛮趣味の詩的形象化がいかになされているかを考察してみた。また、そのような形象化の核として浪漫的な要素が潜んでいる点にスポットを当てることにした。
当時は、木下杢太郎の他、白秋の周辺に九州旅行に端を発した南蛮趣味が広がっていた。杢太郎によると、南蛮趣味とは江戸浮世絵趣味、印象派の様式、西洋の高踏派や象徴派の詩の影響も加えられているから、きわめて広範な領域に渡ることになる。白秋において「南蛮」とは南方から来たポルトガル人やスペイン人などの他、渡来品など西洋風なものなどが含まれることはまず間違いないだろう。白秋のスタンスは、それらの異文化的表象への単純な驚きと共感を示しつつ、それらに耽溺する歓びに対して無自覚な当時の日本と向き合っていたのであり、それらの文化的受容者享受者としての情熱をあたかも隠れ切支丹のようにそれらに殉ずる覚悟として披瀝しているのである。それゆえに、自らを「近代邪宗門の徒」として自認していたのである。
他方、「秘曲」は作者の時代その身辺と周囲に実在しないある時代や過去、あるいは雰囲気などに向かって強く激しい憧憬をいだいてそれを現地点から歌い上げた点で、薄田泣菫の『白羊宮』(1906)に収められた「ああ大和にしあらましかば」と主題の性質が似ている。いずれも、時空を超えて遠きより現れ出る風景に憧れる心情において等価であり、ともに浪漫主義的であると思う。白秋はそこで、歴史上の一場面を仮構し、そこに自己の真実を吹き込んでいたのである。
「謀叛」においては、精舎の平穏が、戦車の響きと、弾と血煙と、紅蓮の火と刀の修羅場と化する様相を描いているが、感情と理性の激しい軋みのうちに、理性の側が敗退していくわけで、秩序と論理に反対するロマン主義的な要素と言っていいだろう。また、その激情は「秘曲」において、美のために死をも惜しまぬ激情に通じている。
以上、二篇を通して南蛮趣味の道具立てを借りて、自らのロマンテックな心情を歌い上げた若き白秋の面影を垣間見る思いであった。白秋は当時の日本において「近代邪宗門の徒」と名乗り、自明のもののように厳然としていた既成の美の秩序や論理にゆさぶりをかけ、美の革命の火花を散らしたのだ。筆者はそこに白秋における浪漫主義の発現を見る。
T. はじめに
北原白秋の第一詩集『邪宗門』は1909年易風社から刊行された。25歳の処女詩集であった。いち早く白秋の盟友․木下杢太郎が「詩の一新詩体であると同時に現代日本の一精神的産物」と言って高く評価したが、その新しさのゆえか、批判も多かったようである。また、白秋の作品としては、その難解さのせいか、第二詩集『思ひ出』(1911)ほどには人々に愛されることはなかった。しかし、「時代を画するほどの処女詩集でなければ世に問ふものではない」という若き白秋の情熱が傾けられた詩集であった。
この詩集の構成は製作発表の順とは逆に、新しい作品から古い作品へ遡行する形で編集されている。それらは、白秋が東京新詩社で機関誌『明星』を中心に新たな活動を始めた1906年4月から1908年末に至る約3年間に発表されたものである。その間、白秋は1908年1月『明星』を脱退して、その主催者として詩界に権威的な地位をもつ与謝野寛と一線を画している。その年、表題『邪宗門』につながる「邪宗門秘曲」(以下「秘曲」と記す)などの作品を生み出しているところは興味深い。ともあれ、全体は六章からなり、順に『魔睡』、『朱の伴奏』、『外光と印象』、『天草雅歌』、『青き花』、『古酒』と題が付され、119篇が収められている。
『邪宗門』の特徴としては、白秋みずから「邪宗門新派体」と名づけ、詩集の「例言」に「予が象徴詩は情緒の諧楽と感覚の印象を主とす」と記している。しかし、その詩は象徴詩というより象徴的感覚詩とか、象徴的官能詩と呼ばれることが多かった。象徴詩か、否かの問題はここでは扱わない。本稿では、代表的な作品二篇を改めて読み返し、難解な語彙の解釈にとどまらず、それらの作品の方法、影響関係、さらには作品の底に流れる詩魂にまで考察の手を伸ばしてみたい。作品は『魔睡』の章から「秘曲」を、『朱の伴奏』の章から「謀叛」を取り上げてみることにする。その際に、南蛮趣味と浪漫主義を作品理解のキーワードとして考察を加えてみたいと思う。
U.南蛮趣味について
ここで南蛮趣味の南蛮について、語義を確認しておきたい。南蛮とは1(むかし中国で)南方の野蛮人。南方の異民族。2近世、日本でシャム(=タイ)․ルソンなど南方諸国を呼んだ言葉。また、その方面から来たポルトガル人․スペイン人の称。32の「南蛮」からの渡来品。また、西洋ふうなこと(もの)、である。詩に表れる事物を見ると、2と3の意味と重なるだろう。坪井秀人は1に含まれる「野蛮人」という面をも南蛮のうちに見ていたが、白秋においてそれが適当であるかどうか分からない。白秋においては南蛮とは南方から来たポルトガル人やスペイン人などの他、渡来品など西洋風なものなどが含まれることはまず間違いないだろう。
白秋は死の前年「象徴詩集『邪宗門』は南蛮文学の先駆を為した。弱冠の私はこの詩集によつてはじめて個の風体を確立した」と語っている。『邪宗門』の南蛮文学としての先駆性については、すでに野田宇太郎と重松泰雄によって論じられているが、野田宇太郎は南蛮文学の創始者は木下杢太郎であり、白秋はその影響下で詩作したとして、白秋の偶像化に対して一石を投じた。その後、重松泰雄も南蛮文学の先駆性は白秋だけでなく、当時の白秋に影響を与えた木下杢太郎にも共有されるべきであると主張した。それ以前、木下杢太郎は「明治末年の南蛮文学」という文の中で、次のように語っている。
「 われわれ《杢太郎․白秋ら》の間に「南蛮」趣味が起つたのは明治四十年夏与謝野寛․吉井勇らとおこなつた九州旅行が機縁であつたが、その後も、上野の図書館などに行つて関係書をあさり「それに出てくるめづらしい言葉や短い挿話をさがし出す」のを仕事とした。そして北原白秋君、長田秀雄君の家などに集まり夜は鴻の巣といふ小さい西洋料理店などに行き、ひるまのうちに読んだものを発酵させて家にかへつて詩に作りました。然しわたくしは寧ろ材料を集める方で、どうもうまくそれが詩に発酵しませんでしたが、北原白秋君はそんな語彙を不思議な織物に織り上げました 」
当時は、杢太郎の他、長田秀雄など白秋の周辺に九州旅行に端を発した南蛮趣味が広がっていたことが知られる。白秋に詩材をもたらした杢太郎は「南蛮紅毛趣味、江戸浮世絵趣味、印象派の様式ーさういふものがわれわれの南蛮文学の基本調でした」と述べている。さらに、西洋の高踏派や象徴派の詩の影響も南蛮趣味の一要素として加えている。こうしてみると、南蛮趣味はきわめて広範な領域に渡ることに気づくだろう。さらに、彼らに注目された近世初頭の南蛮と江戸(浮世絵)、そして近代フランス(印象派)等、地域も時代も流派も折衷的な混沌とした領域。東京に対する江戸、日本に対するフランスというように、南蛮趣味というモードにはあらゆる異国趣味の様式を動員して<いま・ここ>の現実を超克しようとする野心がこめられていた。
こうして見ると、『邪宗門』は従来、耽美主義、象徴主義、南蛮趣味など、それぞれの性格を一面で表すと考えられてきたが、南蛮趣味の一語のうちにそれらの性格を集約することができそうである。以下、作品分析を通じて、南蛮趣味を表す物事を検証しながら、そのような道具立てを借りた意味なども考えていきたい。
V.「邪宗門秘曲」考
「秘曲」の初出は『中央公論』(1908・9)である。その初出には題名の後に「この一篇は『邪宗門新曲』と題する他の姉妹篇とともに、併せてわが詩集『邪宗門』序詩也」という詞書がある。したがって、『邪宗門』発刊前から全体の序詩にと構想されていたことが知られる。
まず題名についてふれておくことにする。1549年のザビエル来航、すなわち天明年間キリスト教の伝来以来、日本ではその信徒と宗門そのものを指して切支丹と呼んでいた。それ以降、豊臣秀吉のキリスト教禁令など、たびたびの禁令の後、江戸時代に入るとさらに禁教制度は厳重になる。近世初期にあたる1636年に厳禁され、それ以後江戸時代を通して禁じられた。そこで、キリスト教は地下にもぐることになり、一般にこれを「邪宗」、あるいは「邪宗門」と呼ぶようになった。
白秋はその教えの正邪を問題にしたのではなく、キリスト教が「邪宗門」と呼ばれた時代への憧憬、あるいは好奇心を示したと見ていいだろう。伊藤信吉はこの詩集の特徴として、「その見かけは宗教的の道具立を多分に借りているが、宗教的感情というようなものは全篇のどこにもあるのでなく、一途に作者の当時の異国趣味を歌い上げたもの」と語っている。すなわち、「邪宗」=「異国・異文化」、「邪宗門」=「異国・異文化の入り口」というニュアンスを持っていたと考えられまいか。しかも、「邪宗」とは「序」の詩論に「我ら近代邪宗門の徒」と名乗っていることからもわかるように、新しい美の創造に命をかける詩人の心情を、切支丹渡来当時の人々の異国の宗教をはじめ文物に対する畏怖と好奇心、さらには未知の国への憧憬などに託した比喩でもある。それにまつわる胸の底に隠していた願いを告白した詩であるから、「秘曲」と題したのである。それでは、詩の世界に具体的に分け入ってみよう。
われは思ふ、末世の邪宗、切支丹でうすの魔法。/黒船の加比丹を、紅毛の不可思議国を、/色赤きびいどろを、匂鋭きあんじやべいいる、/南蛮の桟留縞を、はた、阿刺吉、珍たの酒を。(第一連)
目見青きドミニカびとは陀羅尼誦し夢にも語る、 /禁制の宗門神を、あるはまた、血に染む聖磔、/芥子粒を林檎のごとく見すといふ欺罔の器、/波羅葦僧の空をも覗く伸び縮む奇なる眼鏡を。(第二連)
屋はまた石もて造り、大理石の白き血潮は、/ぎやまんの壷に盛られて夜となれば火点るといふ。/かの美しき越歴機の夢は天鵞絨の薫にまじり、/珍らなる月の世界の鳥獣映像すと聞けり。(第三連)
あるは聞く、化粧の料は毒草の花よりしぼり、/腐れたる石の油に画くてふ麻利耶の像よ、/はた羅甸、波爾杜瓦爾らの横つづり青なる仮名は/美くしき、さいへ悲しき歓楽の音にかも満つる。(第四連)
いざさらばわれらに賜へ、幻惑の伴天連尊者、/百年を刹那に縮め、血の磔脊にし死すとも/惜しからじ、願ふは極秘、かの奇しき紅の夢、/善主麿、今日を祈に身も霊も薫りこがるる。(第五連)
以下、特殊な用語に彩られた詩篇を先行研究を参考に解読を試みることにする。「末世の邪宗」の「末世」とは仏教から出た用語では、釈尊滅後千年を正法、次の千年を像法、それ以降を末法といい、仏道がすたれた末法の世のことを指し、道衰えた滅びの時代の比喩として用いられる。当時の白秋が心酔していた西洋世紀末詩人の影響から世紀末の世という意味もかけて用いられたのであろう。切支丹はポルトガル語でcristaoのことで、先にも記したように明治以前のカトリックとその信徒を指す。その切支丹信仰を末世の現象とし、「切支丹」=「邪宗」を慕うというところに、世間通常の倫理に反抗して「神秘」「夢幻」「腐爛したる頽唐」を夢見る新しい詩人の美意識が標榜されるのである。そこには、既成の詩歌に反抗しようという自負もあったであろう。同時に、末世は現在を、「邪宗」は象徴主義を暗示し、「われ」は過去の時代のうちに<現在>を見ていると察せられる。
「でうすの魔法」の「でうす」はラテン語のDeusで、造物主、天主などに当たる。切支丹の宣教師が理化学を応用した文明の器具や技術を未開地における布教の方便に用いたので、それらが宗教の持つ超自然的な「魔法」に見えたのである。また、その切支丹は、魔法を使って良民をたぼらかすなどの伝説が、明治頃までどこの土地にも伝承していたということである。明治以降も頑迷な老人たちは電気やガス灯を切支丹の魔法として恐れたという。とすれば、「切支丹でうすの魔法」は一般民衆には恐怖をもって疎まれた不思議な何かであった。それをこの詩の一行は「われは思ふ」と憧憬するのであるから、世俗の常識を逆手にとる書き出しであった。とはいえ、発表時は明治末の1900年代後半であるから、邪宗や魔法といった意識は稀薄になりつつあったと言えよう。そこで、その一行の真に言わんとしたのは邪宗も魔法も無知や無理解から怖れられた、また恐怖とともに珍しがられた、その驚異の感情、当時のその鮮やかな気持の一面を、「我は思ふ」と言っていると考えられる。また、鎖国が行われた江戸時代において大罪に当たるキリスト教への接近が、明治(近代)になって西洋への入り口の役割を果たし、新たな好奇心と驚異を持って迎え入れられていたことも考えあせておきたい。
「切支丹でうすの魔法」を受けて、まずそれを運んできた「黒船」、その船に乗った「加比丹」(キャプテン)、すなわち船長から、「紅毛」を連想する。つづいて、想像は翼を広げ、赤毛の人々が住む「不可思議国」、そして、その国の器物である「色赤きびいどろ」、すなわち、赤い硝子、または硝子製品、またその国にあって深紅の花を咲かせる植物「あんじやべいいる」が連想される。「あんじやべいいる」はカーネーションの一種、オランダセキチクという植物で強い芳香を放つ。ここで視覚に嗅覚が加わる。ここまでは先にも触れたが、色彩を主とする感覚表現が見事である。「黒船」と「紅毛」「色赤きびいどろ」「あんじやべいいる」の黒と赤の対照が鮮やかである。
「桟留縞」はインド東岸のサントメSan Tome から渡来したいわゆる唐桟といわれる赤または浅黄を交えた縞目の織物で、表はつややかな光沢があり触覚にも訴える。「阿刺吉」Arakはオランダ渡来の刺激の強い蒸溜果実酒、「珍だの酒」Vinho-Tintoはポルトガル渡来の赤葡萄酒である。ここで味覚が加わる。切支丹がそれらの品々とともに日本に出現した当時において、異文化との出会いに人々が驚嘆した気持ちを感情移入して珍らかに懐かしく思うというのである。ちなみに、「びいどろ」、「あんじやべいる」、「桟留縞」、「阿刺吉」、「珍だ」は、いずれも「スバル」派の詩歌人に愛用された題材であった。いずれも異国を表象する内容とともに、語感の美しさが詩趣をそそったのである。
以上のように、第一連において感覚に訴える南蛮的物象を並べることから切り出される。それを受けて、第二連では、いわゆる切支丹伴天連の徒が渡来し新宗をひろめた時代の驚きを、やはり異国表象の小道具を借りながら再現していく。
「ドミニカびと」はジェズイットに対して起ったカトリックの一派Dominicanで、聖どみにく派の聖職者を指す。常に黒い衣をまとっていたことから黒袍僧の異名がある。ここでは、その黒衣の異様な印象と語感の美しさを借りたもので、集中に収められている石井柏亭の版画「澆季」の伴天連上陸図も、この「ドミニカびと」を表している。
その「ドミニカびと」が「陀羅尼」を誦すとはいかなることであろうか。陀羅尼は真言密教で尊ばれている。ここではおそらくラテン語の耳慣れない祈祷の響きを表すのに、用いられたのであろう。第一連の「でうすの魔法」と同様に、神秘的な要素が付されているようである。その「ドミニカびと」の夢にまで現れて語るのは、当然主イエスについてであろう。そこで「禁制の宗門神」と「血に染む聖磔」、すなわち血に染まった十字架がまず表れる。すなわち、これは聖者殉教の暗示か、あるいは殉教したイエスを暗示しているのであろう。また、事情は禁教後の隠れ切支丹という見立てであるから、ただの「宗門神」ではなく「禁制の」と加えられている。
後の二行は当時の人々の驚嘆の情を機器の説明に借りて、描き出している。まず、切支丹たちがもたらした「欺罔の器」=顕微鏡や「奇なる眼鏡」=望遠鏡についてふれている。「欺罔」というのは「たぶらかす」というほどの意味で、「魔法」という表現に通じている。つまり、南蛮から持ち込まれた文明の利器を「魔法」の典型として驚嘆しているのである。『切支丹宗門来朝実記』に、伴天連オレガンチノが織田信長に謁見したときに献じた「第一に七十五里を一目に見る遠見鏡、第二は芥子を玉子の如く見する近眼鏡」という記述が見られるが、これが「欺罔の器」とほぼ重なる。白秋はおそらくこの資料に拠ったものと思われる。伴天連がそれらの品物を示しながら、それらについて説明する。おそらくそのような情景を「われは思ふ」というのである。
「波羅葦僧」Paraiso(ポルトガル語)は普通「波羅葦増」「波羅葦増雲」などと記述され、天国を意味し、切支丹文献に頻出する語である。白秋は上田敏の『海潮音』に訳出されたオオバネルの「故国」のうちに「うまれの里の波羅葦増雲」とうたわれ、「『故国』の訳に波羅葦増雲とあるは、文録慶長年間葡萄牙語より転じて一時、わが日本語化したる基督教法に所謂天国の意なり」と注記されたものを参考にしたのであろう。ほかにも、切支丹文献に実例は多く、「世界とぱらいそとは誠に天地の懸隔也。(略)ここは聖人、凡夫の借屋也。かしこは善人と天人の本国也。ここは後悔とぺにてんしやの所也。かしこは快楽悦びの所也」(『ぎや・ど・ぺかえる、上、第八』)「『はらいそ』ト云ハ、日本ノ言葉ニナラバ極楽ト云心ニテ侍」(『妙貞問答下巻』)などとある。白秋は別のところでも「波羅葦僧その空ゆめみ鴎われほのかにのぼる海の香炉に」(『明星』1909・11)と歌っている。また同時期の木下杢太郎にも「この絵画のいずくにか在る、/汝がいふ波羅葦僧の国は」(「波羅葦僧」1909・12)などの例がある。 
第三連は、第二連に続き伴天連を取り巻く情景が綴られていく。主格が曖昧になってくるなかで、好奇の眼と耳に映じる奇怪さを誇張して表現している。石造家屋や石油ランプのようなものなどが神秘的に描写される。
「大理石の白き血潮」とは、大理石と共通する感覚を持ちながらすぐ溶けてしたたる石蝋を、その血に見たてたものである。大理石のごとき石蝋が、ぎやまん=ガラスの壷に盛られ、夜になるとともされたその火影が妖 しく揺れている。大理石の冷たくなめらかな肌触りは、白秋も最も愛した感覚の一つだったのであろう。集中幾度となく表れる。
「越歴機」はElectriciteitの訛で電気のことであるが、当時の隠れ切支丹といえども電気器具や電灯を持っていたとは考えられない。日本においても江戸時代の末に蘭学者が関連して、発電器がもたらされたのである。よって、執筆時点での空想が入り交じったものと察せられる。次の一行と見合わせて考えると、幻灯機のようなものであろうが、この部分は時代考証が安易であったと言わざるを得ない。
さて、その「夢」が「天鵞絨の薫にまじり」という表現は、白秋特有の感覚表現であろう。普通私たちは「天鵞絨」からイメージされる柔らかい手触り、すなわち触覚を連想するのであるが、嗅覚に転じられるのである。「序」に表れた「ギオロンの三の絃を擦る嗅覚」という表現にも、普通想定されるイメージとの置き換えがなされる。これも、その白秋の方法のバリエーションなのである。それはともかくとして、この「天鵞絨」は垂れ巡らされた遮断幕かと思われる。夜の闇に溶け込むかのような深い色彩の天鵞絨の幕に、「月の世界の鳥獣」の映像が映し出されることが夢想される。
第四連は第三連を受けて、さらに不可思議な世界に分け入っていく。まず一行目は、『旧約聖書』に化粧の科として蘆薈を用いたとあるのに拠ったのであろう。香木を「毒草」といい、油絵具を「腐れたる石の油」と表現したところに、詩人の頽唐趣味がうかがえる。また、「腐れたもの」で聖母マリアを描くということによって、一種涜神的な、それだけに深い畏敬をひそめた官能が生じる。プロテスタントではマリア崇拝は禁じられているが、カトリックではマリアが崇拝されている。当時の日本にはないそのような化粧と油絵があると聞いたというのである。
次に「青なる仮名」は青インクで書かれた文字とも考えられるが、おそらく横書きされたラテン語、ポルトガル語の文字を青く感じたのであろう。そのロマンティックな視覚的印象から、「美くしき、さいへ悲しき歓楽の音」というどこか痴情の響きが込もった情緒が導かれるわけである。この「歓楽の音」こそ白秋が「切支丹でうすの魔法」に求めていたものに他ならない。
最後の第五連一行目の「いざさらばわれらに賜へ」は、次にくる主題を引き出す働きをする。「幻惑の伴天連尊者」はこれまでに述べられた様々な不思議を成しうるから「幻惑の」と呼ばれ、冒頭の「切支丹でうすの魔法」と対応する。「伴天連尊者」はPadre(ポルトガル語)の訛で神父のことである。「尊者」という語は、仏教語であるが、伝道の便宜から「でうす如来」「ぽうろ大師」などの借用語が作られたのと同様、当時の日本の切支丹の間では通用していたものと思われる。『天草本平家物語抜書』にはパードレとある。
二、三行目の「百年を刹那に縮め、血の磔脊にし死すとも/惜しからじ、願ふは極秘/かの奇しき紅の夢」という部分は、新しい美を求める精神の高揚とストイシズムを極限的に表わしたものである。ここに見いだされるのは、頽唐美、感覚性への憧れとともに、己れの命を賭してもというところに高揚した精神の高ぶりと既成のものへの反抗、すなわちロマン主義の精神である。「われ」はそこで「頽唐の紅」に通じる「奇しき紅の夢」のために百年の命を瞬間に縮め、磔の刑に処されても、惜しくはない、願いは「極秘」であると言う。その「夢」のために、切支丹禁制時代の殉教者が架けられて血まみれになっているその同じ磔の刑に処されても惜しくはない、と言うのである。そこに、キリスト教の伝道に命を懸ける彼らと同じく、新しい美の伝導に憧れる「邪宗門」の徒であるという自負が表される。この死を賭した美の追求とロマン精神の一体化に若き美の殉教者・白秋の独自性を見いだされる。
また、この部分は「美くしき、さいへ悲しき歓楽の音」に象徴される生の「極秘」に対する願いを告白したもので、「切支丹でうすの魔法」を思うのも、それらの裏に情緒を感じるという一面の吐露でもあるのである。さらに、これは遠い未知なるものにひかれる者の心情であると言っていいだろう。これが、この詩の主題の一面でもある。南蛮趣味も変形された異国趣味に他ならないことが知れるだろう。また、そのような情緒を端的に表すのが「紅の夢」という幻惑で、その渦のなかで溺れるように身をまかせたいというのである。また、これは、世の秩序をなす理性の枠組みを踏み破っても、美へ殉じるという激情を示しているのであり、その魂に筆者はディオニソス的な神性、日本においては荒魂の激情を見るのである。
四行目の「善主麿」はゼスス(Jeses)またはゼス・キリスト(Jesus Christo)とも呼ばれる。すなわちイエスのことで、イエスのごとく自分も「今日を祈に身も霊も薫りこがるる」というのである。この詩では宗教上の敬虔など最初から問題にしていなかったので、イエスに自らを擬しても信仰とは関係のない次元で語られているのである。つまり、「身も霊も薫りこがるる」というのは、はげしい憧憬とともに、密室、もしくは祖神前に立ちくゆる香煙のゆらめきのようなものが想像される。「幻惑の伴天連尊者」という語と対応して、幻想と奇異に陶酔しようとする青年の心情を表現したのである。また、「薫り」というのは忘我的な状態を表すとともに、香煙たちこめる密室で、ひそかに「邪宗」の神を祀る妖しいイメージを伴っている。 
ところで、坪井秀人は「秘曲」に'B6表れる小道具について、次のような解釈を施している。
「 この詩には顕微鏡(欺罔の器)や望遠鏡、電気(越歴機)といった、新しいオプティカルな技術が風俗として取り入れられているが、それらは進化した文明の表象として映し出されているわけではない。合理主義や科学主義の所産ではなく、まがまがしい力を期待させる<魔法>ーそれらはむしろオリエンタリズムの視線によって投射された野蛮なるものの表徴なのだ。<世紀末の邪宗>とは木下杢太郎が「南蛮寺門前」の色調として想定していたヨーロッパの世紀末デカダニズム(すなわち進化の果ての退化=末世Degeneration)の謂にほぼ等しい。テクストの中の<われ>の欲望とは近代世紀末の同時代モードとしての頽廃に投身することに他ならない。 」
坪井が世界同時性の文脈のうちに、「秘曲」を位置づけたのは見事としか言いようがないが、白秋のそれらに対するスタンスは、それらの珍かなる異文化的表象への単純な驚きと共感を示しつつ、それらに耽溺する歓びに対して無自覚な当時の日本と向き合っていたのであり、それらの文化的受容者享受者としての情熱をあたかも隠れ切支丹のようにそれらに殉ずる覚悟として披瀝しているのである。それゆえに、自らを「近代邪宗門の徒」として自認していたのである。
他方、「秘曲」は作者の時代その身辺と周囲に実在しないある時代や過去、あるいは雰囲気などに向かって強く激しい憧憬をいだいてそれを現地点から歌い上げた点で、薄田泣菫の『白羊宮』(金尾文淵堂1906)に収められた「ああ大和にしあらましかば」と主題の性質が似ている。「ああ大和にしあらましかば」は奈良朝廷の文化絢爛たる時代を夢想し、古代への憧憬を歌ったものであった。それは、いわば仮想願望の表現であって、定着するに値する世界が架空の国にしかなかったためである。その点は白秋も同様6178 で、「秘曲」も、過ぎ去った一つの世界への追慕ではあったが、そこには多分に異国の文物に憧れる好奇心、いわゆる南蛮趣味、異国情緒が盛られることになった。泣菫の求心を、時間的な隔たりを置いた彼方への憧憬というならば、白秋のは時間に加えて空間的な隔たりを置いた彼方への憧憬ということもできよう。しかしいずれも、時空を超えて遠きより現れ出る風景に憧れる心情において等価であり、ともに浪漫主義的であると思う。
すなわち、「秘曲」は単なる異国趣味の発見を示すにとどまらない。白秋が天草旅行で見い出した切支丹の寺が廃虚であったことは事実だし、そこから発した「秘曲」を含む『邪宗門』の世界は廃虚に古の物語りを織る姿勢で一貫されているからである。その立場において、根をなしているのはもはや現前しない風景に対する喪失感と枯渇感と言ってよく、失われつつある故郷を「水に浮いた灰色の柩」と喩えたた次作『思ひ出』までも深く通じているのである。
磯田光一は、これらの象徴詩が現れる背景として、日露戦争後の急速な近代化に対するアンチテーゼの一つとして捉えている。それは、「寺院」や「僧院」といった素材だけでなく、文体においても言えることである。白秋も泣菫も古語を多用しているが、白秋は「新しい自由詩」(「例言」)を訴える一方で、散文的な現実描写に
傾斜した自然主義隆盛の時期に、文語にこだわったことにも、通じている。
すなわち、白秋は近世初期の南蛮を新奇な異国情緒で染め上げ、キリスト教(新思想)の布教に命を懸けた神父との接触に自らの詩への決意を仮託しつつ、実際は、過去にその素材を求めることで、眼前の時代風景に一歩先んじようとした。要するに、近代に対する反近代的アプローチを試みていたことになる。そこにはまた、近代における歴史上の一場面を仮構し、そこに自己の真実を吹き込んでいたのである。したがって、「秘曲」はデカダニズム等の西洋世紀末詩人の詩風だけでなく、現前する日本近代に対して歴史的な事象を仮構する方法で自己の<今・ここ>を巧みに表現された詩であると言っていいだろう。
W.「謀叛」考
「秘曲」が収められた第一章「魔睡」の章が後の第三詩集『東京景物詩及び其他』(東雲堂書店1913)につながる都会的感覚詩への移行を示しているとすれば、ここに取り上げる「謀叛」の収められた第二章「朱の伴奏」の章と第三章「外光と印象」の章は本格的な象徴詩を目指して作られたもので、いわゆる「邪宗門新派体」の主調をなすものと言われる。そこには、頽唐頽廃の傾向が最も著しく表れている。
「謀叛」は『朱の伴奏』の章の冒頭を飾る作品で、初出は第一次『新思潮』(1908・1)である。その雑誌は小山内薫によって創刊され、反自然主義の一翼を担った芸術雑誌である。「謀叛」はその第四号に、蒲原有明の「黒き靄」、薄田泣菫の「鎌鼬」と並べて載せられた。そこから、新進の白秋が二大家と同等に評価され始めていることを感じ取れる。『邪宗門』の中で象徴意識が最も明確に打ち出されている作品であり、同時代の象徴詩を代表するものである。心の中に沸き起こる悪の情念を修道院の庭の情緒によって暗示している。三好達治・伊藤信吉編の「本文及び作品鑑賞」には、
「 詩の冒頭「ひと日、わが精舎の庭に」というのを、ひたすら抽象的に、即ち作者の胸裡そのものと見て、ーある一つの感情がそこにおいて、次第に強度を増してゆく息苦しい思いを経験し、ついにヴィオロンの盲いるようなぐあいに、破壊的な点に至るというのが、この詩の構造である。詩中の感情は「秘曲」とともに、極めて熱っぽくパッショネートなものである。 」
と記されている。村野四郎も「その想像力のスケールにおいて、また、その象徴力のエネルギーにおいて、白秋の他の作品に見られない異常な詩的空間をもっている」と絶賛している。以下、第一連から順次「謀叛」の詩的世界を見ていくことにする。
ひと日、わが精舎の庭に、/晩秋の静かなる落日のなかに、/あはれ、また、薄黄なる噴水の吐息のなかに、/いとほのヴィオロンの、その絃の、/その夢の、哀愁の、いとほのにうれひ泣く。(第一連)
蝋の火と懺悔のくゆり/ほのぼのと、廊いづる白き衣は/夕暮に言ものなき修道女の長き一列。/さあれ、いま、ヴィオロンの、くるしみの、/刺すがごと火の酒の、その絃のいたみ泣く。(第二連)
またあれば落日の色に、/夢燃ゆる噴水の吐息のなかに、/さらになほ歌もなき白鳥の愁のもとに、/いと強き硝薬の、黒き火の、/地の底の導火焼き、ヴィオロンぞ狂い泣く。(第三連)
跳り来る車両の響、/毒の弾丸、血の烟、閃めく刃、/あはれ、驚破、火とならむ、噴水も、精舎も、空も。/紅の、戦慄の、その極の/瞬間の叫喚焼き、ヴィオロンぞ盲ひたる。(第四連)
まず、第一連一行目の「わが」というところから、「精舎の庭」とは自身の心の暗喩であることが知れよう。二行目は静かな夕暮、そして、三行目は噴水のしぶきが夕陽に照らされて、そこはかとなくほのめいている様を印象的に映している。そこから、物わびしいだけでなく、何か満ち足りず、今にも何かが起りそうな気配を伝えている。四行目、五行目は精舎の庭の雰囲気をヴァイオリンの旋律としてとらえたもので、忍び泣くような心情の暗喩である。「ヴィオロン」の暗喩は『海潮音』所収のヴェルレーヌの「落葉」(『明星』1905・5)を参照したものであろう。参考までに、ここに引用しておく。
   秋の日の/ヴィオロンの/ためいきの/身にしみて/ひたぶるに/うら悲し。
   鐘のおとに/胸ふたぎ/色かへて/涙ぐむ/過ぎし日の/おもひでや。
   げにわれは/うらぶれて/ここかしこ/さだめなく/とび散らふ/落葉かな。
「落葉」の「秋」と「ヴィオロン」(ヴァイオリン)という絶妙な組合わせを、白秋は「謀叛」の中に、借用している。
第二連では、より情感を込めて秋の夕暮の描写がなされている。一行目の「蝋の火」とは祭壇に燃える火で、そこから立ち上がる香煙に「懺悔」の情緒を感じたものであろうか。あるいは、「懺悔」という抽象的な心理を「くゆり」という可視的なイメージに還元して「螻の火」と対照させてていると考えられる。二行目の「ほのぼのと」は「懺悔のくゆり」と「廊いづる」の双方にかかる。「白き衣」は三行目の「修道女」をイメージを端的にかつ的確にとらえている。「修道女」は初出では「素童女」と記されている。夕暮に白く映える修道女の列が第一連の物わびしい心情に、ある悩ましい何か言いたげな心が「蝋」に灯された火のごとく「くゆり」のごとく忍び出てきたことを暗示している。四行目、五行目は、ヴァイオリンの音色に託して鋭く心情に痛みが走る様を、また、「火の酒」、すなわち度数の高い洋酒に喉を焼かれるがごとく、心痛の響きを表現している。
第三連は、「いたみ」に覆われた心情が次第に表面的には鎮静されていくように思われる。一行目、二行目は夕陽の赤色に、噴水のしぶきの色が染まっていることを表わしている。そこでは第一連の「薄黄なる」噴水のしぶきの時点から、時間が経過したこと暗に示している。また、わびしい思いから、「夢」が表象する憧れへと心情も変化していることを表わす。三行目の歌うことのできない「白鳥の愁」は、第二連の「白き衣」を着した「修道女」の「一列」と対応している。四行目、五行目は心のうちの強烈な火薬にたとえられる。くすぶりはじめたどず黒い情念の炎が、心の底の導火線を焼きはじめたことを、ここでもヴァイオリンの響きに託して洗練された表現に練り上げている。その響きは得たいの知れない欲求にもだえ狂う心情を暗示している。
最後の第四連はいわば導火線が燃えつき、爆発をおこす場面である。一行目、二行目は、車両(戦車)が轟音とともに頭上を駆けすぎるように激しい戦慄が体をかすめ、情念のうずまく戦場のような修羅場を一瞬心に感じたもので、赤く爛れた夕やけ空に触発された幻覚を表わしている。「血の烟」は初出では「血の煙」となっている。三行目の「あはれ、驚破」は、第一連の「あはれ、また」、第三連の「さらに、なほ」と同様に、音調の上からふと口をついて出たような趣きがあり、白秋の詩にいくつか見られる用例である。「驚破」は突然のことに驚いて発する感動詞である。「噴水」も「精舎」も「空」も、すべてが「火」に包まれ、第四連の「紅」にかかり、「紅」は続く「戦慄」にもかかって感覚的色彩を映し、極限に至る。五行目は「叫喚」に象徴される耳鳴りするような幻覚幻聴が瞬時に焼き尽され、「ヴィオロンぞ盲ひ1@たる」は焼け跡から一筋の煙が立ち上がるような、悔恨の忍びの音の暗喩として表現された。ヴァイオリンの失明とは、その音の乱れ、あるいは消滅を意味する。「謀叛」の詩情は、この終りから再び冒頭に返り、幾度でも同じ悔恨が繰り返されていく。これは、白秋詩のほとんどに見られる構成である。
この第四連のイメージは蒲原有明の「智慧の相者は我を見て」(『文章世界』1907・6)の最終行「よしさらば、香の渦輪、彩の嵐に」に相当すると言われる。その主題は感情と理性の対立についてであり、「謀叛」と同じである。詩の価値はその思念がどう形象化されているかで、そこに二人の個性の違いが表れている。「智慧の相者は我を見て」においては、「智慧」が理性を擬人化してものとして用いられ、「謀叛」においては、「ヴィオロン」が理性を象徴していると見ていいだろう。
第三連までは、重苦しく静まった晩秋の空気の中に、しだいに高まってくる不吉と危機の予感を描いているが、第四連になると、突如としてこの精舎の平穏が、戦車の響きと、弾と血煙と、紅蓮の火と刀の修羅場と化する様相を展開している。これらは、感情対理性の図式に引き寄せて考えると、激しい感情を表象していると見ることもできるだろう。そして、この戦慄の巷では、もはや、今まで痛ましく泣きしきっていたヴァイオリンの音も失われてしまった、というのである。ヴァイオリンは理性を表象しているので、感情と理性の激しい軋みのうちに、理性の側が敗退していくと見ていいだろう。これは、秩序と論理に反対する浪漫主義的な要素と言っていいだろう。また、一方の感情は「秘曲」において、美のために死をも惜しまぬ激情に通じている。つまり、これもディオニソス的な魂のなせる技であり、日本古来の荒魂を想起させうる。
また、第三連から第四連にかけてのきな臭いイメージは『海潮音』所収のエミール・ヴェルハーレンの「火宅」からも示唆を受けたものと考えられている。
嗚呼、欄壊せる黄金の毒に中りし大都会/石は叫び烟舞ひのぼり、/驕慢の円蓋よ、塔よ、石柱よ、/虚空は震ひ、労役のたぎら沸くを、/好むや、汝、この大畏怖を、叫喚を、/あはれ旅人、/悲しみて夢うつつ離りて行くか、濁世を、/つつむ火焔の帯の停車場。
中空の山けたたまし跳り過ぐる火輪の響。/なが胸を焦す早鐘、陰々と、とよもす音も、/この夕、都会に打ちぬ。炎上の焔、赤々、/千万の火粉の光、うちつけに面を照らし、/声黒きわめき、さけびは、妄執の心の矢声。/満身すべて涜聖の言葉の捩れ、/意志あへなくも狂瀾にのまれをはんぬ。/実に自らを埃りつつ、将、詛ひぬる、/あはれ、人の世。ー「火宅」 
この西欧の都会詩人の作品は毒された大都会崩壊の幻影が描いたものであるが、「火」の効果をふんだんに用いたファンタジーの類似性は指摘できるだろう。 
さらに、「謀叛」を音律の面から見ると、五七、五五七、五五五七、五五五、五五五五、というようになっていて、それらの音をたたみかけていくことによって内面に揺れ動き、次第に切迫していく呼吸を効果的に表わしている。「ヴィオロン」の旋律に託された各連後半の二行では、無意味な「の」の音も作用して特によくその情動が表わされていると言えよう。 
「謀叛」において、前半の二連に「精舎」、「修道女」など、キリスト教的な道具立てが並ぶのであるが、後半の二連でほとんどが「火」のイメージの内に無化されていく。その流れは「秘曲」において南蛮趣味的な道具立てが「紅の夢」に還元されていく様子と似ていなくはない。しかし、「秘曲」に比べ「謀叛」の道具立ては抽象度が高いようである。
X. おわりに
以上、本稿では『邪宗門』について、代表的な2作品を中心に論じてみた。そこから、南蛮趣味の道具立てを借りて、自らのロマンテックな心情を歌い上げた若き白秋の面影を垣間見る思いであった。ここに言う南蛮趣味とは、「秘曲」において素材として取り上げられた切支丹の神父と、ともにもたらされた物品などにとどまらない。広義においては、「謀叛」においてその影響がうかがえたヴェルレーヌやエミール・ヴェルハーレンなど西洋世紀末頽唐派詩人たちの情緒も含むものと考えられる。
白秋は当時の日本において「近代邪宗門の徒」と名乗り、自明のもののように厳然としていた既成の美の秩序や論理に覆い隠されていた美の在りかを求めて激する感情を「秘曲」に託している。その素材として江戸時代の禁制下の切支丹が選ばれたところに、白秋の独創性があった。そこから異国や異文化への憧れが浮き織りにされ、その禁じられた世界から何かを得られるのなら、「磔」の刑に処されても惜しくはないというところから、詩人として殉ずる覚悟を披瀝しているように感じる。『邪宗門』には、近代初期にもたらされた合理主義や啓蒙主義とは趣きを異にする若き個性の主張があり、空想の自由な飛翔があり、感情の解放があった。そこに、筆者は白秋における浪漫主義の発現を見た。また、「秘曲」と「謀叛」からは、夢のためには死をも恐れぬ激情の発露と激烈な破壊衝動が見られ、そこにディオニソス的な詩魂がうかがわれた。その点も、浪漫的と感じられたところである。
当時、詩の分野において、『新体詩』以来、『於母影』の森鴎外、『若菜集』の島崎藤村、また象徴主義の先達である泣菫、有明等はあまりにも、伝統の美に寄りかかりすぎていた。その美に対する疑いがなかったのである。美は伝統の上に厳然として輝いていたのである。白秋の『邪宗門』の試みは行き詰まっていた詩壇に新しい文学意識を生じさせたのである。そこから、河村政敏はこの作品が詩史上に果たした最大の功績として、「美による価値の転換」をあげている。もっともなことであるが、むしろ私には<美の価値の転換>、すなわち感性の革命を通してあらわれた美そのもの概念に揺さぶりをかけ、美の内部からその領域を拡大したようにも思えるのである。そんな白秋も後年、口語自由詩の行き過ぎに警鐘を鳴らし、自ら伝統美の世界へと沈潜していく。それは、『邪宗門』の頃の白秋が、西洋近代の美意識を意識的に受容しながらも、一方で文語にこだわっていたことに通じる。
ところで、白秋の芸術における志向は、西洋最新の芸術思潮を意識的に追求しながら、詩の世界に閉ざされた自足的なものであったと言わざるを得ない。そこから、白秋の詩に「社会的関心の希薄さ、思想性の欠如、近代精神についての無理解」と批判する声があがるのもうなずける。だからといって、この作品の価値を否定するのは酷であろう。  
 
北原白秋集

 

ぼくの年代では、北原白秋はまずもって“童謡をたくさんつくったおじさん”だった。子供のころの数年で、いったいどのくらい唄ったか、どのくらい聴かされたか。昭和25年くらいから昭和33年くらいまでのことだ。「待ちぼうけ、待ちぼうけ、ある日せっせと野良かせぎ」「からたちの花が咲いたよ、白い白い花が咲いたよ」「土手のすかんぽ、ジャワ更紗」は、新町松原の修徳小学校で唄った。「大寒、小寒、山から小僧が飛んできた」「雪のふる夜はたのしいペチカ。ペチカ燃えろよ、お話しましょ」「赤い鳥、小鳥、なぜなぜ赤い。赤い実をたべた」は、ガキどもとがらがら唄った。「この道はいつか来た道、ああそうだよ、あかしやの花が咲いてる」「海は荒海、向こうは佐渡よ」「揺籃のうたをカナリヤが歌う、ねんねこ、ねんねこ、ねんねこ、よ」は、綺麗な声の母に教わった‥‥。ぼくは、これらをすべてナマで聴き、その全部を歌って育ったのだ。なかで、その歌を母が唄ってくれると必ずや胸が詰まって、ううっと涙が溢れてくる定番があった。『ちんちん千鳥』『里ごころ』、『雨』である。「ちんちん千鳥の啼く夜さは」で始まるのは、千鳥が啼くと硝子戸をしめても寒いんだよ、千鳥の親はいないんだよ、ちんちん千鳥はだから眠れないんだよ、という歌詞である。母がこれを唄い出すと、とても寝付きの悪い子であったぼくは、途中からもう泣きべそになっていた。近衛秀麿のメロディである。いまはあまり知られていないかもしれない「里ごころ」のほうは、こういう歌詞だ。佐々木すぐるの曲が、またもの哀しい。
   笛や太鼓にさそわれて、
   山の祭に来てみたが、
   日暮はいやいや、里恋し、
   風吹きゃ木の葉の音ばかり
   母さま恋しと泣いたれば、
   どうでもねんねよ、お泊りよ。
   しくしくお背戸に出てみれば
   空には寒い茜雲。
   雁、雁、棹になれ。前(さき)になれ。
   お迎いたのむと言うておくれ。
この歌は「どうでもねんねよ、お泊まりよ」から「しくしくお背戸に」にさしかかるところで、もうがまんができず、「雁、雁、棹になれ」の「か〜り、か〜り、さぁおになぁれ」の先まで、母の美しい声を聴けたためしはなかった。そして、「雨が降ります、雨がふる」の『雨』だ。作曲は弘田竜太郎。この歌には格別の思い出があって、そのことがあってから自分ではからっきし唄えなくなった。一番の「遊びにゆきたし、傘はなし。紅緒の木履(かっこ)も緒が切れた」や、二番の「雨がふります雨がふる。いやでもお家で遊びましょう。千代紙折りましょう、たたみましょう」までは、まだいい。だいたい、この歌は女の子の歌である。だから男の子は泣かない。泣いちゃいけない。けれどもあるとき、この歌をいとこの眞知子と一緒に唄っているとき、4番の「雨がふります、雨がふる。お人形寝かせどまだ止まぬ。お線香花火も、みな焚いた」で、眞知子がぐすぐすしはじめたのだ。そして最後のコーダ、
   雨がふります、雨がふる。
   昼もふるふる、夜もふる。
   雨がふります、雨がふる。
というふうに、ただ雨ばかりが降りつづけ、その「昼もふるふる、夜もふる」という空漠たる不条理に、ぼくが親戚中でいちばん好きだった眞知子が泣き崩れてしまったのだった。これがトラウマになった。以来、何度、「雨がふります」と唄いはじめても、その最後の「昼もふるふる、夜もふる」の曲と詞と眞知子の高く細く引き裂く憂いの声とが重なった思い出が忘れられず、ぼくはいっかな唄えなくなってしまったのだ。このことは、いま思うだに重大なことだった。まだ6つか7つの少女が、「昼もふるふる、夜もふる」で憂愁の本来というものに泣いたのである。嗚咽したのだ。ぼくはそれを知ったことを子供ごころに重大な秘密に立ち会えたと思ったのだ。もっともそのことを、のちに山口小夜子や萩尾望都や木村久美子に尋ねてみると、「あら、その通りよ、少女はそのころときどき大人になって泣いているのよ」と、異口同音に言われてしまった。はい、はい、しかしそうだとしてもですね、ではそのように男の子を泣かせ、女の子を嗚咽させる一人の白秋がいなければ、そんなことはおこらなかったのである。
北原白秋とは、わが少年期の童謡においてすでに、こういうフラジリティを極め、ヴァルネラヴィリティに差し迫った詩人なのである。子供に対しても、決して哀傷を辞さない詩人なのである。どんなふうに哀傷を辞さなかったのか、ちょっと啄みながら、解説してみよう。さきほどあげた『里ごころ』でいうのなら、「笛や太鼓にさそわれて、山の祭に来てみたが」の、「が」がめっぽう早いのだ。最初から逆接の提示なのである。ついで、「日暮はいやいや、里恋し」に「風吹きゃ木の葉の音ばかり」の「ばかり」がすぐに追い打ちをかけてくる。子供に向かって「音ばかり」とは何事か。ほかに、何もない。そのうえでさらに、「恋しい母」と「お泊まり」の矛盾が突きつけられる。
これはもはや行き場がない。それでもやっと一転、「しくしくお背戸に出てみれば」で全景がさあっと広がるのだけれど、しかしそこはもう、もはや取り戻し不可能な、あの「雁、雁、棹になれ。前になれ」になっている。こういうぐあいなのである。いやいや童謡についてなら、雨情にも八十にも露風にもこういう芸当はあったけれど、しかし白秋にはその芸当が、のちに「白秋百門」といわれたごとく、徹底して広く、また深かった。つまりこの芸当は童謡だけでなく、近代詩にも短歌にも、そして長歌にも歌謡曲にも民謡にも彫琢されていた。
雨にまつわる詩歌だけをとりあげても、白秋は多彩の表意と多様の意表なのである。詩の『雨の日ぐらし』では、「ち、ち、ち、ち、と、ものせはしく刻む音。河岸のそば、黴の香のしめりも暗し」とあって、「かくて、あな、暮れてもゆくか、駅逓の局の長壁」と、言葉が近代都市の一郭を抉(えぐ)っていく。短歌では「長雨の蒼くさみしく淫(たは)れしてその日かの日もいまは戀しき」というふうに、青年の淫する日々を雨に回顧する。「ほのぼのと人をたづねてゆく朝はあかしやの木にふる雨もがな」といった相対静寂の雨もある。一方、男たちの濫賞に向けては、「雨‥雨‥雨‥雨。雨は銀座に新しく、しみじみとふる、さくさくと、かたい林檎の香のごとく、敷石の上、雪の上」というふうに男バカボンドの歌謡に乗せる。白秋の表意と意表は綺語歌語縁語の宗匠というほどに、幅がある。だいたいこの時期、近代詩人で長歌に凝った者などいなかった。白秋は折口信夫と「親類つきあひ」をした人であったのだが、その折口が唯一、長歌をものしたくらいなのである。のちに萩原朔太郎は「日本に幾多の詩人はあるが、概ね詩歌俳句等の一局部に偏するのみで、白秋氏の如く日本韻文学の殆んどあらゆる広汎な全野に渡つた、英雄的非凡の大事業を為した人はいない」と評した。
こういう広範きわまりない白秋を、さてぼくはどのように読んだかというと、これは子供のころにオルガン童謡、アカペラ童謡で育ったこととは、まったく異なってくる。
最初に活字として読んだのは第二詩集『思ひ出』だった。高校3年くらいのころだったろうか。しかし、これで思いは存分なほどに打擲された。おおげさにいえば、この詩集でぼくのフラジリティをめぐる感覚は劇的に発端したといってよい。
とりわけ「蛍」で比喩の美に凌辱されて、「青いとんぼ」で極微の表現に幽閉された。青年は、子供のころの寂しい日々の印象に戻っていいんだ、そこからしか寂しい本質の何物かに触れうるはずはないんだ。そういう負の確信をもてたのが『思ひ出』だったのだ。なかでも「蛍」は、昼の蛍を夏の日なかのヂキタリスに譬え、その小さな形象を五感に刻んでいくようになっていて、どぎまぎさせられた。とくに「そなたの首は骨牌(トランプ)の赤いヂャックの帽子かな」の2行に、とっくり、まいった。昼の蛍の首筋の赤に目をとめ、幼児の記憶に戻って「赤いヂャックの帽子かな」の換喩に遊んでいるのが、ああ、ひたすらに羨ましいかぎりだった。
もっと驚いたのが「青いとんぼ」である。「青いとんぼの眼を見れば 緑の、銀の、エメロウド、青いとんぼの薄い翅、燈心草の穂に光る」の出だしはともかく、「青いとんぼの奇麗さは 手に触るすら恐ろしく、青いとんぼの落つきは 眼にねたきまで憎々し」とあって、こういうふうに蜻蛉にでも赤裸々な感情移入ができるものかと思った瞬間、次の2行の結末に、わが17歳の精神幾何学の全身にビリビリッと電気が走っていた。
こういう結末の2行だ、「青いとんぼをきりきりと夏の雪駄(せった)で踏みつぶす」。嗚呼!
それからは、白秋を読み耽ったというより、その精神の電撃を眼で拾うために、白秋の詩集や歌集のページの中をうろつきまわったというに近い。これはいま憶えば、白秋が「幼年期の記憶の再生」をもって、新たな感覚のフラジリティの表現を獲得したことを追走したかったのだろうとおもう。この、「幼年に戻る」ということ、「幼な心にこそ言葉の発見がある」ということが、ぼくが白秋から最初に学んだことだったのである。そのことは『思ひ出』冒頭の「わが生ひたち」の、そのまた冒頭に白秋自身がちゃんと書いている。明かしている。「時は過ぎた。さうして温かい苅麦のほのめきに、赤い首の蛍に、或は青いとんぼの眼に、黒猫の美くしい経路に、謂れなき不可思議の愛着を寄せた私の幼年時代も何時の間にか慕はしい思ひ出の哀歓となつてゆく‥」。また、こうもはっきり書いている。「‥玉蟲もよく捕へて針で殺した、蟻の穴を独楽の心棒でほぢくり回し、時には憎いもののやうに毛蟲を踏みにじつた。女の子の唇に毒々しい蝶の粉をなすりつけた。然しながら私は矢張りひとりぼつちだつた。ひとりぼつちで、静かに蠶室の桑の葉のあひだに坐つて、幽かな音をたてて食み盡す蠶の眼のふちの無智な薄褐色の慄きを凝と眺めながら、子供ごころにも寂しい人生の何ものから触れえたやうな氣がした」。これでフラジリティの国への断呼たる出立がなくてどうするか。白秋にとっては背水の、そういう文章だ。
おそらく詩集なら、いまでも『思ひ出』がいちばん好きだろう。山本健吉も三島由紀夫も、そんなことを言っていたかとおもう。
ついで早稲田に入ってしばらくして、第一詩集の『邪宗門』をやっと読んだけれど、これは、言葉の耽美主義の錬磨が果報であったことに目を奪われたくらいなのもので、それほどの衝撃はなかった。ぼく自身が白秋と同じ早稲田の学生になったこと、しかし白秋は青春に甘んずることなく早稲田を放り捨て、『天地玄黄』で世を震撼とさせた与謝野鉄幹主宰の新詩社の門をくぐり、さらに晶子の放埒がめざましい『明星』に入って、かつそこから離脱するにいたったことなど、ぼくのほうも白秋に関する知識も近代詩についての知識もふえていて、そういう経緯に詳しくなったことが邪魔なフィルターになり、まともな耽読に向かわなかったのだろうと憶う。しかしそれでも、白秋をとりまく詩魂たち機運に押され、ぼく自身の日々が叱咤されているような気になった時期の『邪宗門』なのである。
学生時代、そこまで白秋が気になったことについては、実はちょっとした理由もあった。ひとつは同じ早稲田に入ったというどうでもよいことだが、もうひとつは白秋もぼくも同じく1月25日に生まれていたということだ。
これもどうでもいいようなことだが、そうではない。いま初めて言うのだが、ぼくには、歴史の中の逸材とこそ伴走する癖があった。
そもそもぼくには、誰かと競いあうという競争意識がまったく欠けている。小中高を通じていっさい誰とも競わなかったし、その後も誰かをライバル視することも、貶めたいとおもうことも、あいつには負けられないと思ったことも、ない。その後も、誰が成功しようと、誰が大儲けしようと、まったく関係がない。嫉妬もない。また、挑まれたこともなく(そういう相手がいたとしても気づかない)、誰かを選んで挑んだこともない。そのかわり、ここがなぜだか妙なことなのだが、歴史の中を遊弋した人物にはめっぽう惹かれて、その歴史の活動の奥に分け入っては、まるでその時代の息吹を同時代でうけているかのように、その者たちとともに、当時の熱情や哀愁や、また革命や孤立に駆り立てられてしうまうのである。ぼくには、そういう性癖がある。早稲田時代は、いまおもえば、ブルームズベイリー・グループやゲバラや、明恵・大日能忍・道元や、ガンジーやアンベードカルや、またド・ブロイやハイゼンベルクやシュレディンガー、あるいはディアギレフやルドルフ・サリなどとともに、白秋やその周辺が、そういうぼくを伴走に駆り立てる群像だったのである。まして、二人は同じ誕生日‥‥。
白秋がその早稲田に入ってきたのは明治37年の19歳のときである。それまではずっと北九州屈指の水都・柳河にいた。海産問屋と酒造りを営んでいた素封家のトンカ・ジョン(大きな家の子)で、病弱で寂しがり屋の、何の苦労もない子供時代と見える。むろんそんなことは見かけ上のこと、実際には妹がチフスで亡くなり、明治23年のコレラの流行に脅えたりして、不安きわまりない少年期をすごしている。柳河ですら、白秋自身は「廃市」と呼んでいた。そういう白秋が傾きつつある家業から逃れて、親や周囲の反対を押し切って早稲田に入ってきた。英文予科だった。同級に若山牧水がいて、土岐善麿、佐藤緑葉、安成貞雄がいた。白秋はあっさり授業を捨ててこの破格の友人たちと語らい、図書館にこもって鴎外の『即興詩人』を、上田敏の『海潮音』を、さらに『大言海』の単語を片っ端から繰っていく。牧水と同じ部屋に下宿もした。早稲田にはまた、相馬御風、人見東明、野口雨情、三木露風、加糖介春らのいずれ劣らぬ綺羅星がいて早稲田詩社が結成されていた。
時はまさに鉄幹の「明星」全盛期。鉄幹はすでに明治25年には正岡子規・大町桂月・落合直文らと浅香社で新派和歌運動をおこし、30年代にはこれに佐佐木信綱・土井晩翠・外山正一・矢田部良吉が加わって新体詩会をかまえて、第一歌集『東西南北』では虎剣調とよばれた男性的謳歌を、第二歌集『天地玄黄』では万葉調の浪漫主義を標榜、その牽引力は絶顛ぎりぎのところまで達していた。そこへ晶子が飛びこんで、『明星』は新たな星菫調をもって女だてらのソフィスティケーションをおこしつつあったところだった。白秋も短歌や詩を寄稿しているうち、この歌壇新撰組組長ともいうべき偉大な大丈夫(ますらお)に目をつけられて、たちまち詩壇歌壇の麒麟児ともくされた。それが弱冠22歳のときである。白秋は夜な夜な、鉄幹、晶子、木下杢太郎、吉井勇、まもなく死ぬことになる石川啄木らの、才能ほとばしる詩才たちと語らうことになる。ぼくがそこにこそ参画して伴走したかったと思ったのは、明治40年7月下旬から1カ月をかけて、与謝野鉄幹、平野万里、木下杢太郎、吉井勇と連れ立って、故郷柳河を振り出しに、佐賀・唐津・佐世保・平戸・長崎・天草・島原・熊本・阿蘇を遊歴したという、例の「五足の靴」の旅である。このときの「天草雅歌」こそ第一詩集『邪宗門』の頂点を飾っていく。そんな「五足の靴」の経緯を知ったとき、ぼくは思わず「ちくしょう!」と叫んだはずだ。
このあとの白秋については、ぼくはその軌跡を追いかけなかった。白秋が鴎外の観潮楼の歌会に招待されたこと、そこで佐佐木信綱・伊藤左千夫・斎藤茂吉と知りあった直後、木下杢太郎・吉井勇・長田秀雄らと「明星」を脱退したこと、そこに石井柏亭・森田恒友・山本鼎らの青年画家が加わって浪漫異風の「パンの会」を結成したこと、翌年の明治42年の「スバル」創刊に『邪宗門新派体』の総題で「天鵝絨のにほひ」ほか七編を発表したこと、そこからは白秋こそが「スバル」を代表する詩人になったことなどについては、追いかけたい白秋には見えなくなったのだ。そんなこんなで、白秋を読まなくなった日々が10年ほどあったろうか。そのころのぼくはどちらかといえば、たとえば蒲原有明や薄田泣菫などの、むしろ白秋以前の近代短詩型の異端児を徘徊していたのだ。それがあることがきっかけで、『桐の花』を読むことになったのである。白秋が「またまた、御免よ」と帰ってきた。
あることというのは、テレビで美空ひばりの「城ヶ島の雨」を、ふーん、やっぱりひばりは絶品だ、こんなふうにこの歌を唄うなんて、すごい、凄い、サイコーだと思って聞き終わり、スタジオで司会の誰かが「えー、これは北原白秋の作詞ですよね」と言ったとたんのことである。
ここで白秋が急に蘇ったのだ。それにしても、またもや“雨”の白秋だった。
   雨はふるふる、城ヶ島の磯に、
   利休鼠の雨がふる。
   雨は真珠か、夜明の霧か、
   それともわたしの忍び泣き。
   舟はゆくゆく通り矢のはなを、
   濡れて帆あげた主の舟。
   ええ、舟は櫓でやる、櫓は唄でやる、
   唄は船頭さんの心意気。
   雨はふるふる、日はうす曇る。
   舟はゆくゆく、帆はかすむ。
曲は梁田貞。完璧な歌詞である。一聯ずつのトランジットが抜群にいい。最初に城ヶ島に「利休鼠の雨がふる」と、独特の水墨イメージを切り取っておいて、「真珠・霧・忍び泣き」のメタファー3発を並べて見せつつ、ついでは「わたしの忍び泣き」という自他の橋懸かり。その光景に舟を走らせ、そこからは「舟は櫓でやる、櫓は唄でやる」の返しがえし。そのくせ「唄は船頭さんの心意気」という親しみのこもった呼びかけが入って、あとはふたたび遠水幽帆の水墨画なのである。ぼくは白秋がどうしてここまでモノクロームな烟語をつかいきれるかと思って、久々に白秋を読みたくなっていた。本屋に走った。このとき、近所の本屋には白秋の詩集はたしか新潮文庫の『からたちの花』しかなく、よく探しはしなかったのだろうけれど、そのほかは講談社「日本現代文学全集」の『北原白秋・三木露風・日夏耿之介集』があっただけだったので、これを買った。そこに『邪宗門』『思ひ出』全詩のほか、『真珠抄』『白金ノ独楽』『水墨集』の抄録とともに、『桐の花』全歌が収められていたのである。
勿体なくもこのときまで、ぼくは白秋が短歌の名人でもあることを知らなかったのだ(岩波文庫の『北原白秋歌集』もまだ出ていなかった)。が、この歌集で“わが知らざる白秋の絲”ともいうべきものに切りきりきり、切りまわされた。
『桐の花』の歌集名は、「わが世は凡て汚されたり、わが夢は凡て滅びむとす。わがわかき日も哀楽も遂には皐月の薄紫の桐の花のごとくに消えはつべき‥云々」にもとづいている。白秋は桐の花の薄い咲き方、はかない散り方を三十一文字の歌に託していた。ぼくは、まず花の歌に目をやった。
   いやはてに鬱金(うこん)ざくらのかなしみの
      ちりそめぬれば五月(さつき)はきたる
   廃(すた)れたる園に踏み入りたんぽぽの
      白きを踏めば春たけにける
   桐の花ことにかはゆき半玉(はんぎょく)の
      泣かまほしさにあゆむ雨かな
   君と見て一期の別れする時も
      ダリヤは紅しダリヤは紅し
   男泣きに泣かむとすれば龍膽(りんどう)が
      わが足もとに光りて居たり
   どれどれ春の支度にかかりませう
      紅い椿が咲いたぞなもし
このなかで「ダリヤは紅しダリヤは紅し」だけは、高校時代に誰かが放課後の黒板に書き残していて、白秋の歌と知らずに心の隅にひっかかっていた歌だった。ぼくは「桐の花」と「かはゆき半玉」が根本対同した歌に感服した。
が、こういう花の歌もよいのだが、この歌集でぼくをふたたび白秋に向かわせるきっかけになったのは、「秋思五章」に歌われた“絲”の音である。きりきり、きりり、こんな音がする短歌だ。
   清元の新しき撥(ばち)君が撥
      あまりに冴えて痛き夜は来ぬ
   手の指のそろへてつよくそりかへす
      薄らあかりのもののつれづれ
   微かにも光る蟲あり三味線の
      弾きすてられしこまのほとりに
   円喬のするりと羽織すべらせる
      かろき手つきにこほろぎの鳴く
   太棹のびんと鳴りたる手元より
      よるのかなしみや眼をあけにけむ
   常磐津の連弾(つれびき)の撥いちやうに
      白く光りて夜のふけにけり
第2首をのぞいて、とくに仕上がりがよい歌ではない。白秋にしてまだ未成熟のままであるけれど、それをこえて常磐津や清元の絲の音がする。のみならず、歌集全首がその三絃に切り結んで、魂を裸にさせている。いったいどうしてこのような『桐の花』になったのか。ぼくはふたたび白秋の「パンの会」のあとを追う気になった。そして、意外なことを知ったのだ。それは明治末年のことである。28歳の白秋は前年に原宿に転居したときに隣家の人妻松下俊子と知りあい、その後に熱烈な恋愛に落ちている。ここまでならよくあることだが、運悪くというのか、白秋は俊子の夫に姦通罪で告訴され、市ケ谷の未決監に放りこまれてしまったのだ。つい先だっては『思ひ出』が上田敏によって激賞されて栄光に包まれたのだし、高踏文芸誌「朱欒」(ざぼん)を創刊して気勢をあげたのだった。名声まっただなかの事件なのだ。事件はさいわい、1カ月後に無罪免訴となったのだが、白秋はそうとうに苦しんだ。一時は発狂寸前まで追いこまれ、憂悶のあまりふらふらと木更津あたりをさまよいもしている。ここで詠んだのが『桐の花』の哀傷短歌群なのである。それを詠んで白秋は三浦海岸に渡り、死を決意する。そんなことがあったのだ。
結局、白秋は死を選べない。そのかわり敗残者の烙印を秘めて、心の巡礼者になることを誓う。そこへ夫に離別され、胸も病んでいた俊子から助けを求められ、白秋は新生を求めて結婚、死にそこなった三浦の三崎町の異人館に転居する。ああ、そうだったのか、そういうめぐりあわせかと思ったのは、このとき三浦三崎の臨済宗見桃寺に仮寓していた白秋が、一気に仕上げたのが『城ヶ島の雨』だったということだ。だからこその、♪舟はゆくゆく通り矢のはなを、濡れて帆あげた主の舟‥‥。詩壇の寵児白秋は、あっというまの無一物なのである。それでも白秋はまだ心の巡礼を始めたばかりの日々。そこで、あえて船上の人となり、小笠原の父島にまで渡って俊子の療養にあたる。白秋が白秋自身を「寂寥コワレモノ」の極限にまで追いこんだのだ。けれども、俊子は耐えられずに東京に帰ってしまう。一人白秋はそのまま貧窮を厭わず父島に留まった。大正3年のことである。そう、白秋にして、そんな絶海の孤島にいたことがあったのだ。
以上のことは最初から白秋のことを調べていれば、容易にわかったことではあるけれど、ぼくは幸か不幸か、これらを『桐の花』とともに知り、その後は三崎時代に詠んだ歌を収めた『雲母集』や『雀の卵』を見開いて、うーむ、白秋はやっぱりただならないと、そんな溜息をついていた。その『雀の卵』には、「南海の離れ小島の荒磯辺に我が痩せ痩せてゐきと傳へよ」などという歌とともに、こんな文章も入っている。「我もとより貧しけれど天命を知る。我は醒め、妻は未だ痴情の恋に狂ふ。我は心より畏れ、妻は心より淫る。我未だ絶海の離島小笠原にあり‥」。
俊子に文句をつけているところが気にくわないものの(白秋には根本的にフェミニズムが欠けている。白秋の女性は母と少女と人形なのだ)、白秋その人はあまりに切々と痛々しい。それから大正8年の35歳あたりまで、さすがに白秋は窮乏のなかにいた。けれども、裸になれば人の世はときに大きく旋回したり寄り戻してくるもので、事態はしだいに変わっていく。まずは、「朱欒」に育った室生犀星・萩原朔太郎・大手拓次が“白秋三羽烏”として頭角をあらわし、次々に白秋に序文を求めて、傑作『月に吠える』などに結晶していった。
また、『城ヶ島の雨』は島村抱月によって芸術座の舞台で唄われ、つづいて中山晋平が曲をつけた『さすらひの唄』が大ヒットした。例の、「行こか戻ろか、北極光(オーロラ)の下を、露西亜は北国(きたぐに)、はてしらず。西は夕焼、東は夜明、鐘が鳴ります、中空(なかぞら)に」に始まる、一度口ずさんだら、胸をかきむしって離れぬ歌だ。このあと経済的にも復活し、白秋は平塚雷鳥のもとに身をよせていた大分の江口章子と結婚する。それで、やっと安定を得ると家を建てるのだが、その地鎮祭の夜に章子に逃げられ、ふたたび「心の巡礼」の杜撰であったことを思い知る。が、それも大正10年にはまたまた新たな大分の女性佐藤菊子と、今度こそはと結んで、子供を生むにいたった。このあとの白秋がいよいよ童謡に磨きをかけたのである。三好達治だったか、白秋の作品では童謡が最もすぐれていると言っていたのは言うまでもなく当然のこと、こうした激越な天罰の果てでの童謡ポイエーシスだったのである。
さて、ここまでがぼくの拙(つたな)い白秋遍歴であって、その後はときおり白秋に対座する夜がつれづれあって、そのつど、白秋百門に唸る、ちょんちょん読む、考えこむ、飽きてくる、また唸る、黙って読みたい、なんだか胸騒ぎがしてくるという、そんな断続にすぎない。そうしたなか、いま書いておきたいとおもうのは、ひとつには、白秋はついに“雅俗”を分離しなかったということ、その言葉の旋律はつねにノスタルジアとフラジリティに接しようとして生まれていたこと、それが歳を食むごとに「無常の観相」や「もののあはれ」にまで結びついたことである。「鳴かぬ小鳥のさびしさ、それは私の歌を作るときの唯一無二の気分である」と白秋自身は書いた。白秋は「欠如からの表意」に賭けたのだ。が、これらのことはいまさら説明するまい。
もうひとつは、そのことを書いて今宵の白秋と別れたいとおもうのだが、白秋には特別のオブジェの感覚に寄せる眼があったということだ。オブヂェと綴ったほうがいいだろうか。むろんいっぱしの詩人や歌人や俳人なら、なにかしら事物や物体に注意のカーソルが細かく動くのであるけれど、それが白秋ではやや風変わりだった。けれども、ぼくが白秋を贔屓にしたいのは、実はこの風変わりなのである。たとえば、カステラのことだ。そもそも『桐の花』には序文があって「桐の花とカステラ」が綴られている。そこで白秋は、夏の帽子をかぶるころ、眼で見るカステラの感触がわずかに変化するのが好きなんだと言い、触れぬのに感じるタッチというものの渋みこそ、自分が表現したかったものだと告白する。カステラの端の茶色が筋となって切れるところにも、眼を寄せる。こういう感覚は、舌出し人形の赤い舌、テレビン油のしめり、病いのときに一口だけ飲むシャンペンの味、銀箔の裏の黒、恍惚に達する寸前の発電機、堅い椅子に射す光、いままさに汽車が駅に入ってくるときの匂い、日曜の朝の蕎麦、背後の花火の音、そして、白金浄土のキリギリスというふうに、どんどん滑っていく。
これはシュルレアリスムのオブジェ感覚なんかではない。おお、ほろろん白秋、ほろろんの白秋オブジェのぢぇぢぇ、なのだ。たとえては、「一匙(ひとさじ)のココアのにほひなつかしく訪(おとな)ふ身とは知らしたまはじ」という、そのココアと一瞬だけ交わった眼の言葉、タッチの渋みなのである。この感覚は風の変わりというものだ。風変わりとは、そのことだ。その場を魂が立ち去る直前の風趣の変わりというものだ。いえいえ、それこそが郷愁という風趣、さもなくば風趣というオブヂェたちなのである。晩年、白秋は水墨山水の画境や老荘思想や黄表紙の戯れにも、さらにはついに「ほそみ」の趣向にさえ入っていくのだが、その趣向はすでにハッカの味がするオブヂェ感触の、風の去来に発端していたのではあるまいか。
しかしそれはまた、次の文章に秘められた白秋の風趣の極北を暗示していたともいうべきだった。「つくづく慕はしいのは芭蕉である。光悦である。北斎である。利休である。遠州である。また武芸神宮本玄心である。私もどうかしてあそこまで行きたい」。そうなのだ。白秋は昭和の戦争の渦中、ひたすら日本回帰の人となり、日本語だけがもつ風来ばかりに耳を澄ませていたようにも想われる。
では七夕は、こんなふうに良寛と響きあう二つの白秋を贈って、黒の夜を締めたい。ひとつはごく僅かな星の歌から一首、もうひとつは『他ト我』という、こんな詩が白秋にあったとはほとんどが気がついてない、こういう詩だ。
   寂しくも永久(とは)に消ゆなと離るなと
      仰ぎ乞ひのむ母父(おもちち)の星
   二人デ居タレド マダ淋シ。
   一人ニナツタラナホ淋シ。
   シンジツ二人ハ 遣瀬(やるせ)ナシ。
   シンジツ一人ハ 堪ヘガタシ。
附記 / 七夕さらさら、軒端にゆれて、オホシサマひとつ、金銀砂子。たいそう遅れましたね。でも、これがぼくの白秋です。『思ひ出』にしようかと思いましたが、それはこの七夕の夜の文間すべてに撒いて、あえて白秋の律動のちんちん千鳥の啼く夜だけにしました。だって、きっとそうでしょうが、いったい誰が今夜、慕える人と銀漢を眺めあえるでしょう? みんなみんな、本当にしたいことなんて、いつもできないのです。そう、七夕のこの夜だって。北原白秋とは、それでいいじゃないかと言いつづけた切実の人でした。良寛、思い出されます。 
 
邪宗門秘曲

 

邪宗門秘曲 1
   われは思ふ、末世の邪宗、切支丹でうすの魔法、
   黒船の加比丹(かぴたん)を、紅毛の不可思議国を、
   色赤きびいどろを、匂い鋭(と)きあんじゃべいいる、
   南蛮の桟留縞(さんとめじま)を、はた、阿刺吉(あらき)、珍陀(ちんだ)の酒を。
      目見(まみ)青きドミニカ人は陀羅尼(だらに)誦(づ)し夢にも語る、
      禁制の宗門神を、あるはまた、血に染む聖磔 (くるす)、
      芥子粒を林檎のごとく見すという欺罔(けれん)の器(うつは)、
      波羅葦僧(はらいそ)の空をも覗(のぞ)く伸び縮む奇なる眼鏡を。
昭和22-23年、私が初めてこの詩を読んだときの印象は未だに忘れられない。
日射しの強い、暑い夏のことであった。寮の一室でこの詩を初めて読んだとき、その意味はさっぱり判らないのに、まるで天然色映画を見たように眼前に色が散りばみ、音ならぬ音を 聞いたような幻想にとりつかれたことを、想い出す。戦後の荒廃の中で我々がアメリカ文化を、GIとJAZZと映画を通じて受け入れたときの心情は、我らの先祖が、安土・桃山時代に南欧の文化と情景を、不安と憧憬ををもって迎え入れた時の心情に、似ていたのであろうか。 
夏の強烈な日射しは、今も、白秋の「邪宗門」を初めて読んだときの想い出に繋がる。
北原白秋。日本が生んだ近・現代における最高の詩人の一人である。彼は明治43年にその処女詩集[邪宗門」を発表した。この詩集は、欧州印象派絵画の持つきらびやかな色彩感覚を、韻律に富んだ修辞に託して、官能的・耽美的な神秘の世界として展開している。白秋は、詩、短歌、童謡、民謡その他、詩歌の広い領域にその活動範囲を広げ、そのあらゆる分野で第一人者の評価を受けた。常に新境地を求めて、豊饒で美しい韻律と修辞をもって活躍し、同世代や後世代の文人に多大な影響を及ぼし続けた。
昭和17年、白秋は第2次世界大戦の激化する中、58歳でその生涯を閉じた。
   いざさらばわれらに賜へ、幻惑の伴天連(ばてれん)尊者、
   百年(ももとせ)を刹那に縮め、血の磔(はりき)背にし死すとも
   惜しからじ、願ふは極秘、かの奇しき紅(くれない)の夢、
   善主麿(ぜんすまろ)、今日を祈りに身も霊(たま)も薫りこがるる。
邪宗門秘曲 2
音楽と云えば洋楽、それもHR/HMしか聴かない。昔、音楽を聴き始めた頃は邦楽もよく聴いていたけれど、そのほとんどがロックだったため自然な流れでアメリカのロックに関心は移り、現在、邦楽は全く聴かない生活となった。
その理由はいくつかあって、ひとつは邦楽の歌詞の幼稚さ。あまりに無邪気な言葉が大の大人によって綴られては当然、気持ち悪いものを感じないわけにはいかない。一方、洋楽であれば歌詞は英語であるのだから多少、内容に乏しいものであっても゛音楽的″に楽しめたりする。いずれにせよ、日本の楽曲の歌詞はあまりに幼稚だ。
そう私が考える根拠は、それなりの判断基準があるからである。例えばボードレールの詩、それを一片でも読んでいれば、詩とはいかなるものか、かくあるべき詩とは何かが誰でもわかるだろう。多分に狡いことかもしれないが、ボードレールの詩を愛する私には、邦楽の歌詞はとても詩とは云えないのだ。詩を構成する言葉のひとつひとつの未熟さ、語られる思惑の幼児性。人は読んで気恥ずかしくならないのだろうか。
なにもペダンティックにボードレールを持ち出さなくても、日本には結構素晴らしい詩がある。高村光太郎の詩もそのひとつだろう。『週刊文春』6月8日号の高島俊男「お言葉ですが・・・」を読んで知った北原白秋の詩もまた、カッコイイ詩の代表だ。(なるたけ旧字体を使用。)
   われ思ふ、末世の邪宗、切支丹でうすの魔法。
   K船の加比丹を、紅毛の不可思議國を、
   色赤きびいどろを、匂鋭きあんじやべいいる、
   南蠻の棧留縞を、はた、阿剌吉、珍酡の酒を。
      目見きドミニカびとは陀羅尼誦し夢にも語る、
      禁制の宗門神を、あるはまた、血に染む聖磔、
      芥子粒を林檎のごとく見すといふ欺罔の器、
      波羅葦僧の空をも覗く伸び縮む奇なる眼鏡を。
   屋はまた石もて造り、大理石の白き血潮は、
   ぎやまんの壺に盛られて夜となれば火點るといふ。
   かの美しき越歴機の夢は天鵝絨の桙ノまじり、
   珍らなる月の世界の鳥獣映像すと聞けり。
      あるは聞く、化粧の料は毒草の花よりしぼり、
      腐れたる石の油に畫くてふ麻利耶の像よ、
      はた羅甸、波爾杜瓦爾らの横つづりなる假名は
      美くしき、さいへ悲しき歡樂の音にかも満つる。
   いざさらばわれらに賜へ、幻惑の伴天連尊者、
   百年を刹那に縮め、血の磔脊にし死すとも
   惜しからじ、願ふは極秘、かの奇しき紅の夢、
   善主麿、今日を祈に身も靈も桙閧アがるる。
意味はわからなくても日本語のリズムのよさは誰でもわかるし、言葉のかっこよさもずば抜けている。詩は文語体が最良だが、現代語でも不可能ではないはず。そんな詩を読んでみたいもんだ。
ところで。おなじ高島氏の連載で知った真実。ご多分に漏れず「予言」と「預言」は別物だと思っていたのだが、なんと、同じ言葉だったとは。「豫」の簡略体が「預」と「予」であるから、「予言」と「預言」を別の意味にとるのは全くのデマだとか。辞書も間違っているらしい。これには驚いた。

「東京景物詩」 北原白秋

 

東京景物詩及其他 北原白秋
わかき日の饗宴を忍びてこの怪しき紺と青との
詩集を“PAN”とわが「屋上庭園」の友にささぐ  
■東京夜曲 
公園の薄暮
ほの青き銀色(ぎんいろ)の空気(くうき)に、そことなく噴水(ふきあげ)の水はしたたり、薄明(うすあかり)ややしばしさまかえぬほど、ふくらなる羽毛頸巻(ボア)のいろなやましく女ゆきかふ。
つつましき枯草(かれくさ)の湿(しめ)るにほひよ……円形(まろがた)に、あるは楕円(だゑん)に、劃(かぎ)られし園(その)の配置(はいち)の黄(き)にほめき、靄に三つ四つ色淡(うす)き紫の弧燈(アアクとう)したしげに光うるほふ。
春はなほ見えねども、園(その)のこころにいと甘き沈丁(ぢんてう)の苦(にが)き莟(つぼみ)の刺(さ)すがごと沁(し)みきたり、瓦斯(ガス)の薄黄(うすぎ)は身を投げし霊(たましひ)のゆめのごと水のほとりに。
暮れかぬる電車(でんしや)のきしり……凋(しを)れたる調和(てうわ)にぞ修道女(しゆうだうめ)の一人(ひとり)消えさり、裁判(さばき)はてし控訴院(こうそゐん)に留守居(るすゐ)らの点(とも)す燈(あかり)は疲(つか)れたる硝子(がらす)より弊私的里(ヒステリイ)の瞳(ひとみ)を放(はな)つ。
いづこにかすずろげる春の暗示(あんし)よ……陰影(ものかげ)のそこここに、やや強く光劃(かぎ)りて息(いき)ふかき弧燈(アアクとう)枯(かれ)くさの園(その)に歎(なげ)けば、面(おも)黄(き)なる病児(びやうじ)幽(かす)かに照らされて迷(まよ)ひわづらふ。
朧(おぼろ)げのつつましき匂(にほひ)のそらに、なほ妙(たへ)にしだれつつ噴水(ふきあげ)の吐息(といき)したたり、新(あたら)しき月光(つきかげ)の沈丁(ぢんてう)に沁(し)みも冷(ひ)ゆれば官能(くわんのう)の薄(うす)らあかり銀笛(ぎんてき)の夜(よ)とぞなりぬる。
   四十二年二月
鶯の歌
なやましき鶯のうたのしらべよ……ゆく春の水の上、靄の廂合(ひあはひ)、凋(しを)れたる官能(くわんのう)の、あるは、青みに、夜(よ)をこめて霊(たましひ)の音(ね)をのみぞ啼(な)く。
鶯はなほも啼く……瓦斯(ガス)の神経(しんけい)酸(さん)のごと饐(す)えて顫(ふる)ふ薄き硝子(がらす)に、失(うしな)ひし恋の通夜(つや)、さりや、少女(をとめ)の青ざめて熟視(みつ)めつつ闌(ふ)くる瞳(ひとみ)に。
憂欝症(ヒステリイ)の霊(たましひ)の病(や)めるしらべよ……コルタアの香(か)の屋根に、船のあかりに、朽ちはてしおはぐろの毒の面(おもて)に愁ひつつ、にほひつつ、そこはかとなく。
ヴオロンの三(さん)の絃(いと)摩(なす)るこころか、ていほろと梭の音(おと)たつるゆめにか、寝ねもあへぬ鶯のうたのそそりのかつ遠(とほ)み、かつ近み、静(しづ)こころなし。
夜もすがら夜もすがら歌ふ鶯……月白き芝居裏、河岸(かし)の病院、なべて夜の疲(つか)れゆくゆめとあはせて、ウヰスラアーの靄の中音(うちね)に鳴き鳴きてそこはかとなし。
   四十二年一月
夜の官能
湿潤(しめり)ふかき藍色(あゐいろ)の夜(よ)の暗(くら)さ……酸(す)のごとき星あかりさだかにはそれとわかねど濃(こ)く淡(うす)き溝渠(ほりわり)の陰影(かげ)に、青白き胞衣会社(えなぐわいしや)ほのかににほひ、※[「窗/心」]多く、而(しか)もみな閉(とざ)したる真四角(ましかく)の煙艸工場(たばここうば)の煙突の黒(くろ)みより灰(はひ)ばめる煤(すす)と湯気(ゆげ)なびきちらぼふ。
橋のもと、暗(くら)き沈黙(しじま)に舟はゆく……なごやかにうち青む砥石(といし)の面(おも)をいと重き剃刀(かみそり)の音(おと)もなく辷(すべ)るごとくに、舟はゆく……ゆけど声なくありとしも見えわかぬ棹取(さをとり)の杞憂(おそれ)深げに、ただ黄(き)なる燈火(ともしび)ぞのぼりゆく……孤児(みなしご)の頼(たよ)りなき眼(め)か。
つつましき尿(ねう)の香(か)の滲(し)み入るほとり、腐(くさ)れたる酒類(さけるゐ)の澱(おど)み濁(にご)りてそこここの下水(げすゐ)よりなやみしみたり、白粉(おしろい)と湯垢(ゆあか)とのほめく闇にも青き芽(め)の春の草かすかににほふ。
湿潤(しめり)ふかき藍色(あゐいろ)の夜(よ)の暗(くら)さ……かへりみすればいと黒く、はた、遠き橋のいくつのそのひとつ青うきしろひ、神経(しんけい)の衰弱(つかれ)にぞ絶間(たえま)なく電車過ぎゆき、正面(まとも)なる新橋(しんばし)の天鵝絨(びろうど)の空(そら)の深みにさまざまの電気燈(でんき)の装飾(かざり)、そを脱(ぬ)けて紫の弧燈(アアクとう)にほやかにひとつ湿(しめ)れる。あはれ、あはれ、爛壊(らんゑ)のまへの官能(くわんのう)のイルユミネエシヨン。
しかはあれども、湿潤(しめり)ふかき藍色(あゐいろ)の夜(よ)の暗(くら)さ……溝渠(ほりわり)の闇(やみ)の中(うち)病院(びやうゐん)の舟は消えゆき、青白き胞衣会社(えなぐわいしや)にほふあたりに、整(ととの)はぬ鶯ぞしみらにも鳴きいでにける。
   四十二年三月
片恋
あかしやの金(きん)と赤とがちるぞえな。かはたれの秋の光にちるぞえな。片恋(かたこひ)の薄着(うすぎ)のねるのわがうれひ「曳舟(ひきふね)」の水のほとりをゆくころを。やはらかな君が吐息(といき)のちるぞえな。あかしやの金と赤とがちるぞえな。
   四十二年十月
露台
やはらかに浴(ゆあ)みする女子のにほひのごとく、暮れてゆく、ほの白き露台(バルコン)のなつかしきかな。黄昏(たそがれ)のとりあつめたる薄明(うすあかり)そのもろもろのせはしなきどよみのなかに、汝(な)は絶えず来(きた)る夜(よ)のよき香料をふりそそぐ。また古き日のかなしみをふりそそぐ。
汝(な)がもとに両手(もろて)をあてて眼病の少女はゆめみ、欝金香(うこんかう)くゆれるかげに忘られし人もささやく、げに白き椅子の感触(さはり)はふたつなき夢のさかひに、官能の甘き頸(うなじ)を捲きしむる悲愁(かなしみ)の腕(かひな)に似たり。
いつしかに、暮るとしもなき※[「窗/心」]あかり、七月の夜(よる)の銀座となりぬれば静こころなく呼吸(いき)しつつ、柳のかげの銀緑の瓦斯(ガス)の点(とも)りに汝(なれ)もまた優になまめく、四輪車の馬の臭気(にほひ)のただよひに黄なる夕月もの甘き花(はな)※[「木+危」]子(くちなし)の薫(くゆり)してふりもそそげば、病める児のこころもとなきハモニカも物語(レヂエンド)のなかに起りぬ。
   四十二年七月 
■S組合の白痴 
雑艸園
悩ましき黄の妄想の光線と、生物の冷(ひや)き愁と、――霊(たましひ)の雑艸園の白日(はくじつ)はかぎりなく傷(いた)ましきかな。たとふればマラリヤの病室にふりそそがれし香水と消毒剤と、……※[「窗/心」]の外なる蜜蜂の巣と、……そのなかに絶えず恐るる弊私的里(ヒステリイ)の看護婦の眼と、霖雨後(りんうご)の黄なる光を浴びて蒸す四時過ぎの歎(なげき)に似たり。
見よ、かかる日の真昼にして気遣(きづか)はしげに点(とも)りたる瓦斯の火の病める瞳よ。
かくてまた蹈み入りがたき雑艸の最(もと)も淫(たは)れしあるものは肥満(ふと)りたる、頸輪(くびわ)をはづす主婦(めあるじ)の腋臭(わきが)の如く蒸し暑く、悲しき茎のひと花のぺんぺん草に縋りしは、薬瓶(くすりびん)もちて休息(やす)める雑種児(あいのこ)の公園の眼をおもはしむ。また、緩(ゆる)やかに夢見るごときあるものは、午後二時ごろの 〔Cafe'(カツフエ)〕 に Verlaine(ウエルレエヌ) のあるごとく、ことににくきは日光が等閑(なほざり)になすりつけたる思ひもかけぬ、物かげの新しき土(つち)の色調。またある草は白猫の柔毛(にこげ)の感じ忘れがたく、いとふくよかに温臭(ぬるくさ)き残香(のこりが)の中に吐息しつ。石鹸(シヤボン)の泡に似て小さく、簇(むらが)り青むある花はひと日浴(ゆあ)みし肺病の女の肌を忍ぶごとく、洋妾(らしやめん)めける雁来紅(けいとう)は吸ひさしの巻煙草めきちらぼひてしみらに薫(く)ゆる朝顔の萎(しぼ)みてちりし日かげをば見て見ぬごとし。
見よ、かかる日の真昼にして気遣はしげに瞬(またた)ける瓦斯の火の病める瞳よ。あるものは葱の畑より忍び来し下男のごとく、またあるものは轢かれむとして助かりし公証人の女房が甘蔗のなかに青ざめて佇むごとき匂しつ。ことに正しきあるものはかかる真昼を饐(す)え白らみたる鳥屋(とや)の外に交接(つが)へる鶏(とり)をうち目守(まも)る。
噫(ああ)、かかるもろもろの匂のなかにありて薬草の香(か)はひとしほに傷(いた)ましきかな、哀(あは)れ、そは三十路女(みそぢをんな)の面(おも)もちのなにとなく淋しきごとく、活動写真の小屋にありて悲しき銀笛の音(ね)の消ゆるに似たり。
見よ、かかる日の真昼にして気遣はしげに黄ばみゆく瓦斯の火の病める瞳よ。
あはれ、また知らぬ間(ま)に懶(ものう)きやからはびこりぬ。ここにこそ恐怖(おそれ)はひそめ。かくてただ盲人(まうじん)の親は寝そべり、剃刀(かみそり)持てる白痴児(はくちじ)は匍匐(はらば)ひながら、こぼれたる牛乳の上を、毛氈を、近づき来る思あり。またその傍(そば)に、なにとも知れぬ匂して、詮(せん)すべもなく降(くだ)りゆく、さあれ楽しくおもしろきやぶれかかりし風船の籠に身を置く心あり。あるは、また、かげの湿地(しめぢ)に精液のにほひを放つ草もあり。
見よ、かかる日の真昼にして気遣しげに青ざめし瓦斯の火の病める瞳よ。
悩ましき黄の妄想の光線と、生物の冷(ひや)き愁と、霊(たましひ)の雑艸園の白日(はくじつ)の声もなきかがやかしさを、時をおき、揺り轟かし、黒烟(くろけぶり)たたきつけつつ、汽車飛び過ぎぬ、かくてまたなにごともなし……。
   四十二年十月
瞰望
わが瞰望はありとあらゆる悲愁(かなしみ)の外に立ちて、東京の午後四時過ぎの日光と色と音とを怖れたり。
七月の白き真昼、空気の汚穢(けがれ)うち見るからにあさましく、いと低き瓦の屋根の一円は卑怯に鈍(にぶ)く黄ばみたれ、あかあかと屋上園に花置くは雑貨の店か、(新嘉坡の土の香(か)は莫大小(メリヤス)の香(か)とうち咽ぶ。)また、青ざめし羽目板(はめいた)の安料理屋の※[「窗/心」]の内、ただ力なく、女は頸(うなじ)かたむけて髪梳(くしけづ)る。(私生児の泣く声は野菜とハムにかき消さる。)洗濯屋(せんたくや)の下女はその時に物干の段をのぼり了り、男のにほひ忍びつつ、いろいろのシヤツをひろげたり。
九段下より神田へ出づる大路(おほぢ)にはしきりに急(いそ)ぐ電車をば四十女の酔人(よひどれ)の来て止(とど)めたり。斜(はす)かひに光りしは童貞の帽子の角(つの)か。
かかる間(ま)も収(をさ)まり難き困憊(こんぱい)はとりとめもなくうち歎(なげ)く。その湿(し)めらへる声の中覇王樹(サボテン)の蔭に蹲(うづく)みて日向ぼこせる洋館の病児の如く泣くもあり。煙艸工場の煙突掃除のくろんぼが通行人を罵る如き声もあり。白昼を按摩の小笛、午睡のあとの倦怠(けだる)さに雪駄ものうく白粉(おしろひ)やけの素顔して湯にゆくさまの芸妓あり。交番に巡査の電話、広告(ひろめ)の道化(どうけ)うち青みつつ火事場へ急(いそ)ぐごときあり。また間(ま)の抜(ぬ)けて淫(みだ)らなる支那学生のさへづりは氷室の看板(かんばん)かけるペンキのはこび眺むるごとく、印刷の音の中、色赤き草花凋(しな)え、ほどちかき外科病院の裏手の路次の門弾(かどびき)はげにいかがはしき病の臭気こもりたり。
(いま妄想の疲れより、ふと起りたる薬種屋内の人殺、下手人は色白き去勢者の母。)
何かは知らず、人かげ絶えてただ白き裏神保町の眼路遠く、肺病の皮膚青白き洋館の前を疲れつつ、「刹那」の如く横ぎりし電車の胴の白色(はくしよく)は一瞬にして隠れたり。いたづらに玩弄品(おもちや)の如き劇場の壁薄あかく、ところどころの※[「窗/心」]の色、曇れる、あるはやや黄なる、弊私的里性(ヒステリイせい)の薄青き、あるは閉せる、見るからに温室の如き写真屋に昼の瓦斯つき、(亡き人おもふ哀愁はそこより来る。)獣医の家は家畜の毛もていろどられ、歯科病院の帷(カーテン)は入歯のごとき色したり、その真中(ただなか)にただひとつ、研(と)ぎすましたる悲愁(かなしみ)か、冷(ひや)き理髪(りはつ)の二階より、剃刀(かみそり)の如く閃々と銀の光は瞬(またた)けり。
あらゆるものの疲れたる七月の午後、わが瞰望の凡ての色と音と光を圧すごとく、凡ての上にうち湿(しめ)る「東京の青白き墳墓(はか)」ニコライ堂の内秘(ないひ)より、薄闇(うすぐら)き円頂閣(ドオム)を越えて大釣鐘は騒がしく霊(たましひ)の内と外とに鳴り響く。鳴り響く、鳴り響く、……
   四十二年十月 
■心とその周囲 
T 窓のそと

わが※[「窗/心」](まど)のそと、黄(き)なる実(み)のおよんどんのちまめは小(ちひ)さなる光の簇(むらがり)をつくり、葉かげの水面(みのも)は銀色(ぎんいろ)の静寂(しづけさ)を織(お)る。白くして悩める眼鏡橋(めがねばし)のうへを鉄輪(かなわ)を走らしつつ外科医院(げくわゐゐん)の児は過ぎゆき、気の狂ひたる助祭(じよさい)は言葉なく歩み来る。
鐘を撞け、鐘を撞け、恐ろしき銀色(ぎんいろ)の鐘を……
この時、近郊(きんかう)を殺戮(さつりく)したる白人(はくじん)の一揆(いつき)は更にこの静かにして小(ちひ)さなる心の領内(りやうない)を犯さんとし、すでにその鎗尖(やりさき)のかがやきはかなたの丘の上に閃(ひら)めけり。
正午過ぎ……一分……二分……三分……日は光り、そよとの風もなし。

ある日、わが※[「窗/心」]の硝子(がらす)のしたに、覆(くつがへ)されたる蜜蜂の大きなる巣(す)激(はげ)しく臭(にほ)ひ、その周囲(めぐり)に数(かず)かぎりなき蜂の群(むれ)音(おと)たてて光りかがやき、粗末(そまつ)なる木(き)の函(はこ)へすべり入り、匍(は)ひめぐる。かがやかしき歓喜(くわんき)と悲哀(ひあひ)!すべてこの銀色(ぎんいろ)の光のなかに太(ふと)くしてむくつけき黒人(こくじん)の手ぞ働(はたら)ける……甘き甘きあるものを掻きいださんとするがごとく。
その前に負傷(ふしやう)したる敵兵(てきへい)三人(みたり)、――あるものは白き布(ぬの)にて右の腕(かひな)を吊(つる)したり――日に焼けたる絶望(ぜつまう)の顔をよせてそこはかとなきかかる日の郷愁(ノスタルヂヤア)に悩むがごとく珍(めづら)かにうち眺めたる……足もとの黄色(きいろ)なる花湿りたる土の香(か)のさみしさに※[「日/咎」](かげ)りつつうち凋(しを)る。
鐘は鳴る……銀色(ぎんいろ)の教会(けうくわい)の鐘……
硝子※[「窗/心」](がらすまど)のなかには薄色(うすいろ)の青き眼(め)がねをかけたる女、かりそめのなやみにほつれたる髪かきあげて、薬罎(くすりびん)載せたる円卓(ゑんたく)のはしに肱(ひぢ)つきながら金字(きんじ)見ゆるダンヌンチオの稗史(はいし)を閉(とざ)し、静かなる杏仁水(きやうにんすゐ)のにほひにしみじみときき惚(ほ)れてあり。
ああ午後三時の郷愁(ノルタルヂヤア)……
U S組合の白痴
夕まぐれ、石油問屋(せきゆどひや)のS組合(エスくみあひ)の入口に、つめたき硝子戸(がらすど)のそと、うち潤(しめ)る石油色(せきゆいろ)の陰影(いんえい)の中(うち)、薄(うす)ら光(ひか)る銀(ぎん)の引手(ひきて)のそばに薄白痴(うすばか)のわかきニキタは紫の絹ハンケチを頸(くび)にむすび、今日(けふ)もまたのんべりだらりと立(たち)ん坊(ぼう)の河岸の便所に凭(もた)るるごとく、のろまなその鈍(にぶ)き容態(なりふり)のいづこにか猾(ずる)き眼(め)を働(はた)らかせにやにやと笑ひつつあり。
日は向(むか)う河岸(がし)の家畜病院(かちくびやうゐん)の頽(すた)れたる露台(バルコン)を染め、入口の硝子戸の前に薬(くすり)塗(ぬ)らるる色黄(き)なる狂犬(きやうけん)を染め、隣(とな)れる健胃固腸丸(けんゐこちやうぐわん)の広告に苦(にが)き光を残しつつ沈みゆく。
S組合の薄白痴(うすばか)は石油ににじむ赤き髪(け)に雑種児(あひのこ)の矜(ほこり)を思ひ、けふの夜食(やしよく)も焼(やき)パンにジヤムと牛乳(ミルク)を購(か)はんとぞ思ふ。かかる間(ま)も白銅のこひしさに通(とほ)りすがる肥満女(ふとつちよ)の葱(ねぎ)もてる腕(かひな)に倚(よ)りてうち挑(いど)む。薄暮(くれがた)の河岸(かし)のあかしや、二本(ふたもと)の海岸(かし)のあかしや、その葉のゆめの金糸雀(かなりや)のごとくに散(ち)るころを、またしてもくちずさむ、下品(げひん)なる港街(みなとまち)の小唄(こうた)。青き青き溝渠(ほりわり)の光は暮れてゆく……
わかきニキタはぼんやりと薄笑(うすゑみ)しつつ、……十月の枯草(かれくさ)の黄(き)なるかがやき、そがかげのあひびきの浮(うは)つきし声のかすれを思ひいで、また外光(ぐわいくわう)の紫(むらさき)に河岸(かし)の燕(つばめ)の飛び翔(かけ)りながら隙見(すきみ)する瞳(ひとみ)青きフランス酒場(さかば)の淫(たは)れ女(め)が湯浴(ゆあみ)のさまを思ひやり、あるはまた火事ありし日の夕日のあたる草土堤(くさどて)にだらしなく擁(かか)へ出されて薫(かを)りたる薄黄(うすき)の、赤の乳緑(にふりよく)の、青の、沃土(えうど)の、催笑剤(わらひぐすり)や泣薬(なきぐすり)、痲痺剤(しびれぐすり)や惚薬(ほれぐすり)、そのいろいろの音楽(おんがく)の罎。さて組合の禿頭(はげあたま)のトムソンが赤つちやけたる鹿爪(しかつめ)らしき古外套(ふるぐわいたう)ををかしがり、恐ろしかりし夏の日のこと、どくだみの臭(くさ)き花のなかに「キ…ン…タ…マ…が…い…た…い」と白粉(おしろい)厚(あつ)き皺(しは)づらに力(ちから)なく啜(すす)り泣きつつ、終(つひ)に斃れし旅芸人(たびげいにん)のかつぽれが臨終(りんじゆう)の道化姿(どうけすがた)ぞ目に浮ぶ。
今瓦斯(ガス)点(つ)きし入口の撻(ドア)押しあけて石油の臭(にほひ)新らしく人は去る、流行(はやり)の背広(せびろ)の身がるさよ。いつしかに日は暮れて河岸(かし)のかなたはキネオラマのごとく燈(あかり)点(つ)き、吊橋(つりばし)の見ゆるあたり黄(き)なる月嚠喨(りうりやう)と音(ね)も高く出でんとすれど、あはれなほS組合の薄白痴(うすばか)のらちもなき想(おもひ)はつづく……
V 泣きごゑ
わが寝ねたる心のとなりに泣くものあり――夜(よ)を一夜(ひとよ)、乳(ち)をさがす赤子のごとく光れる釣鐘草(つりがねさう)のなかに頬をうづめたる病児(びやうじ)のごとく、あるものは「京終(きやうはて)」の停車場(ていしやば)のサンドウヰツチの呼びごゑのごと、黄(き)にかがやける枯草の野を幌(ほろ)なき馬車に乗りて、密通(みつつう)したる女(をんな)のただ一人(ひとり)夫(をつと)の家(いへ)に帰(かへ)るがごとく、げにげにあるものは大蒜(にんにく)の畑(はたけ)に狂人(きやうじん)の笑へるごとく、「三十三間堂」のお柳(りう)にもまして泣くこゑは、ネル着(つ)けてランプを点(とも)す横顔(よこがほ)のやはらかき涙にまじり理髪器(バリカン)の銀色(ぎんいろ)ぞやるせなき囚人(しうじん)の頭(かしら)に動(うご)く。そのなかに肥満(ふと)りたる古寡婦(ふるごけ)の豚ぬすまれし驚駭(おどろき)と、窓外(まどそと)の日光を見て四十男の神官(しんくわん)が死のまへに啜泣(すすりなき)せるつやもなく怖(おそろ)しきこゑ。
ああ夜(よ)を一夜(ひとよ)、わが寝(ね)たる心のとなりに泣くもののうれひよ。
W 銀色の背景
わが悲哀(かなしみ)の背景(バツク)は銀色(ぎんいろ)なり。そは五月(ごぐわつ)の葱畑(ねぎばたけ)のごとく、夏の夜の「若竹(わかたけ)」の銀襖(ぎんぶすま)のごとく青白き瓦斯(がす)に光る。
そのまへに、――弊私的里(ヒステリイ)の甚しきは私通(しつう)したる※[「さんずい+自」]芙藍色(さふらんいろ)の[「※[「さんずい+自」]芙藍色(さふらんいろ)の」は底本では「泊芙藍色(さふらんいろ)の」]女の声もなき白痴(はくち)の児をば抱きながら入日を見るがごとくに歩(あゆ)み、かの苦(にが)く青くかなしき愁夜曲(ノクチユルノ)……ある夜(よ)のわれは恐ろしくして美しき竹本小土佐の「合邦(がつぽう)」の玉手御前(たまてごぜん)の悲歎(なげき)をば弾語(ひきがたり)する風情(ふぜい)に坐(すわ)り、暗き暗き欝悶(うつもん)は鈍銀(にぶぎん)の引(ひ)かれゆく幕の前に、指組(ゆびく)める「仁木(につき)」のごとく隈(くま)青き眼(め)の光烟(けぶり)とともにスツポンの深き恐怖(おそれ)よりせりあがる。……
何時(いつ)も何時(いつ)もわが悲哀(かなしみ)の背景(バツク)には銀色(ぎんいろ)の密境(みつきやう)ぞ住む。そのなかに鳴きしきる虫の音よ、匂(にほひ)高き空気(くうき)の迅(はや)き顫動(せんどう)、太棹(ふとざを)と、鋭(するど)き拍子木(ひやうしぎ)、ああああわが凡(すべて)の官能(くわんのう)は盲(めし)ひんとして静かに光る。
X 神経の凝視
日は暮るる、日は暮るる、力(ちから)なき欝金(うこん)の光……
ゆき馴(な)れし一本(ひともと)の楡(にれ)のもと、半(なかば)壊(こは)れし長椅子(ベンチ)に、恐ろしき病室(びやうしつ)を抜(ぬ)けいでたるわがこころの神経(しんけい)の疑(うたがひ)ふかき凝視(ぎようし)……
足もとの、そこここの小さき花は長く長く抱擁(はうえう)したるあとの黄色(きいろ)なる興奮(こうふん)に似て光り……なげき……吐息(といき)し……沈黙(ちんもく)したる風は生前(せいぜん)の日の遺言状(ゆゐごんじやう)の秘密(ひみつ)のごとくに刺草(いらくさ)の間(あひだ)に沈み、美(うつく)しき絶望(ぜつまう)のごとたまさかに蜥蜴(とかげ)過(す)ぎゆく。
近郊(きんかう)の鐘は鳴る……修道院(しゆだうゐん)晩餐(ばんさん)の鐘……
神経の澄(す)みわたる凝視(ぎようし)はつづく――その青くして何物(なにもの)にも吸ひ取らるるがごとき瞳(ひとみ)は身をすりよする異母妹(いぼまい)の性(せい)の恐怖(おそれ)より逃(のが)れんとし、親(した)しき友人の顔に陋(いや)しき探偵(たんてい)の笑(わらひ)を恐れ、色黄(き)なる醜(みにく)き悪縁(あくゑん)の女(をんな)を殺(ころ)さんとし、さらにわが生(せい)を力(ちから)あらしめんがために砒素(ひそ)を医局(いきよく)の棚より盗み、終(つひ)にまた響(ひびき)も立てぬ霊(たましひ)の深緑(しんりよく)の瞳(ひとみ)にうち吸はれ、わが心の深淵(しんゑん)に突き落されし処女(ヴアジン)の銀(ぎん)の咽(むせ)びをきく。
この時(とき)、病院の青白き裏口(うらぐち)の戸に佇める看護婦は携へし鳥籠(とりかご)の青き小鳥の鳴くこゑをさびしみながら、角(かく)吹ける乗合馬車の遠き遠き黄(き)のかがやきをなつかしむ。
日は暮るる、日は暮るる、力(ちから)なき欝金の光……
   四十三年二月
物理学校裏
Borum. Bromun. Calcium. Chromium. Manganum. Kalium. Phosphor. Barium. Iodium. Hydrogenium. Sulphur. Chlorum. Strontium. ……
(寂しい声がきこえる、そして不可思議な……)
日が暮れた、淡(うす)い銀と紫――蒸し暑い六月の空に暮れのこる棕梠の花の悩ましさ。黄色い、新しい花穂(ふさ)の聚団(あつまり)が暗い裂けた葉の陰影(かげ)から噎(む)せる如(やう)に光る。さうして深い吐息(といき)と腋臭(わきが)とを放つ歯痛(しつう)の色の黄(きな)、沃土ホルムの黄(きな)、粉つぽい亢奮の黄(きな)。
……蒼白い白熱瓦斯の情調(ムウド)が曇硝子を透して流れる。角窓のそのひとつの内部(インテリオル)に光のない青いメタンの焔が燃えてるらしい。肺病院の如(やう)な東京物理学校の淡(うす)い青灰色(せいくわいしよく)の壁にいつしかあるかなきかの月光がしたるる。
……静かな悩ましい晩、何処かにお稽古(けいこ)の琴の音がきこえて、崖下の小さい平家(ひらや)の亜鉛屋根にコルタアが青く光り、柔(やは)らかい草いきれの底に Lamp の黄色い赤みが点る。その上の、見よ、すこしばかりの空地(あきち)には湿(しめ)つた胡瓜と茄子の鄙びた新らしい臭(にほひ)が惶(あわ)ただしい市街生活の哀愁(あいしゆう)に縺れる……
汽笛が鳴る……四谷を出た汽車の Cadence(カダンス) が近づく……
暮れ悩む官能の棕梠そのわかわかしい花穂(ふさ)の臭(にほひ)が暗みながら噎(むせ)ぶ、歯痛の色の黄、沃土ホルムの黄、粉つぽい亢奮の黄。
寂しい冷たい教師の声がきこえる、そして不可思議な……そこここの明(あか)るい角※[「窗/心」]のなかから。……棕梠のかげには野菜の露にこほろぎが鳴き、無意味な琴の音の稚(をさ)なびた Sentiment は何時までも何時までもせうことなしに続いてゆく。汽笛が鳴る……濠端(ほりばた)の淡(うす)い銀と紫との空に停車(とま)つた汽車が蒼みがかつた白い湯気を吐いてゐる。静かな三分間。
悩ましい棕梠の花の官能に、今、蒸し暑い魔睡がもつれ、暗い裂けた葉の縁(ふち)から銀の憂欝(メランコリイ)がしたたる。その陰影(かげ)の捕捉(とら)へがたき Passion の色、歯痛の色の黄(きな)、沃土ホルムの黄(きな)、粉つぽい亢奮の黄(きな)。
……
   四十三年三月
骨なし児と黒猫
そは恐(おそ)ろしきXなり。淫(みだ)らにして不倫(ふりん)なる母(はは)のごとく、汝(な)が神経(しんけい)と知覚(ちかく)とは痛(いた)ましきほど慄(わなな)けども、力(ちから)なき骨(ほね)なし児(ご)よ。終日(ひもすがら)、わづらはしき病室(びやうしつ)の白葡萄酒(はくぶどうしゆ)の如(ごと)き空気(くうき)に呼吸(こきふ)し、霊(たましひ)のうつらぬ瞳(ひとみ)は唯(ただ)狂(くる)はしき硝子戸(がらすど)の外(そと)をうち凝視(みつ)む。
そが背後(うしろ)の棚(たな)の上(うへ)、やや青(あを)みたる陰影(いんえい)の中(うち)、ニツケルの産科(さんくわ)の器械(きかい)鵞(が)のごとき嘴(はし)して光(ひか)り、薄(うす)く曇(くも)れる硝子(がらす)のなかにとりあつめたる薬剤(やくざい)の罎(びん)、その青(あを)く赤(あか)くおぼめける劇薬(げきやく)のエチケツテ……鋭(するど)く、苦(にが)し。
ああ骨(ほね)なし児(ご)よ。この薄暮(くれがた)の反射(はんしや)に、柔軟(やはら)かにして悩(なや)ましき汝(な)が衾(ふすま)は銀(ぎん)の潤沢(しめり)に光(ひか)れど、冷(ひや)やかなる鉄(てつ)の寝台(ねだい)の上(うへ)、据(す)ゑられし木造(きづくり)の函(はこ)は、汝(な)が身(み)を入(い)れたる小(ちひ)さき牢獄(ひとや)は山葵色(わさびいろ)の曇(くもり)にうち歎(なげ)く。
大人(おとな)びたる顔(かほ)の白(しろ)き白(しろ)き白粉(おしろい)の恐(おそ)ろしさよ。なよなよと凭(もた)せたる身体(からだ)のしまりなさ。霊(たましひ)の青(あを)さ、いたましさ、生温(なまぬ)るき風(かぜ)のごと骨(ほね)もなき手(て)は動(うご)く――その空(そら)に※[「金+肅」]銀(しやうぎん)の鐘(かね)はかかれり。
ああ、ああ、今(いま)しがたまでぞ、この硝子戸(がらすど)の外(そと)には五時(じ)ごろの日(ひ)の光(ひかり)わかわかしき血(ち)のごとくふりそそぎ、見(み)えざる窓下(まどした)のあたりより、抑圧(おさ)えあへぬ抱擁(はうえう)の笑(わら)ひ声(ごゑ)きこえしか――葱畑(ねぎばたけ)すでに青(あを)し。
※[「金+肅」]銀(しやうぎん)の鐘(かね)よりは一条(ひとすぢ)の絹(きぬ)薄青(うすあを)く下(さが)りて光(ひか)る。その端(はし)をはづかに取(と)りたる手(て)は、その瞳(ひとみ)は、ああ、すべて力(ちから)なし。――さらにさらに痛(いた)ましきはかかる青(あを)き薄暮(くれがた)の激(はげ)しき官能(くわんのう)の刺戟(しげき)。
聴(き)け、遂(つひ)に、彼(かれ)は泣(な)く。……あらず、そは馴染(なじ)みたる黒猫(くろねこ)なりき。ふくらなる身(み)を跳(おど)らせて、銀色(ぎんしよく)の衾(ふすま)の裾(すそ)にのぼりつつ背(せ)を高(たか)めたる。黄(き)ばみたる青葱色(あをねぎいろ)の眼(め)の光(ひかり)来(きた)る夜(よ)の恐怖(おそれ)にそそぐ。
かくてただ声(こゑ)もなし。青(あを)く光(ひか)る硝子戸(がらすど)に真白(ましろ)なる顔(かほ)ふりむけて、哀楽(あいらく)の表情(へうじやう)もなく親(した)しげに畜類(ちくるゐ)の眼(め)と並(なら)びつつ何(なに)をか凝視(みつ)む。ああ、暗(くら)き暗(くら)き葱畑(ねぎばたけ)の地平(ちへい)に黄(き)なる月(つき)いでんとして、※[「金+肅」]銀(しやうぎん)の鐘(かね)は鳴(な)る……幽(かす)かに、……幽(かす)かに……やるせなき霊(たましひ)の求(と)めもあへぬ郷愁(ノスタルヂヤア)。
   四十三年二月
雪ふる夜のこころもち
今夜(こんや)も雪が降つてゐる。……
Blue devils よ。酔ひ狂つた俺(おれ)の神経が――Sara …… sara ……とふる雪の幽かな瞬(またたき)を聴きわけるほど――ひつそりと怖気(をぢけ)づく、ほんの一時(いちじ)の気紛(きまぐれ)につけ込んで、汝(おまへ)はやつて来る……顫(ふる)ひながら例(れい)の房のついた尖帽(せんぼう)をかぶつて、掻きむしつた亜麻色(あさいろ)の髪(け)の、泣き出しさうな青い面(つら)つきで、ふらふらと浮いた腰の、三尺(さんじやく)ほどの脚棍(たけうま)に乗つて、ひよつくりこつくり西洋操人形(あやつりにんぎやう)のやうにやつてくる。
硝子の閉(しま)つた青い街(まち)を、濡れに濡れた舗石(しきいし)のうへを、ピアノが鳴る……金色(きんいろ)の顫音(せんおん)の潤(うる)むだ夜の空気に緑を帯びて消えてゆく。
雪がふる。……湿(しめ)つた劇薬(げきやく)の結晶(けつしやう)、アンチピリンの(頓服剤(ねつさまし)の)、粉末(ふんまつ)のやうに――それがまた青白い瓦斯(ガス)に映(うつ)つて弊私的里(ヒステリー)の発作(ほつさ)が過ぎた、そのあとの沈んだ気分(きぶん)の氛囲気(ふんゐき)に落(お)ちついた悲哀(かなしみ)の断片(だんぺん)がしみじみと降りしきる。
そのとき、酒場(さかば)の薄い硝子からむちやくちやになつた神経が、馬鹿にしろといふ調子で、それでも沈まりかへつて、恐怖(おそれ)と可笑(をかしさ)の眼を瞠(みは)つたまま、ふる雪を、Blue devils の歩行(あるき)を眺めてゐる。ひよつくりこつくり顫(ふる)へてゆく……ピアノに合せた足どりの、ふらふらと両手(りようて)を振つて、あかしやの禿げた並木をくぐりぬけ、三角形(なり)の街燈(がいたう)の鉄の支柱(ちゆう)によろけかかつて腰をつき、そそくさと、そそくさと、内隠(かくし)から山葵色(わさびいろ)の罎(びん)を取り出し、こくこくと仰向(あふむ)いて、苦(にが)さうな口のあたりに持てゆく。
雪がふる……白く……薄青く……
それが罎(びん)を収(しま)つてひよいと此方(こちら)を見る。涙の一杯たまつた眼に張(はり)のない痲痺(まひ)しきつた笑(わらひ)を洩らしながら、克明(こくめい)な霊(たましひ)のかたわれがひよつくりこつくり道化(だうけ)た身振に消えてゆく。
ああ、静かな夜(よる)、何処(どこ)かに幽かに杏仁水(きやうにんすゐ)のにほひがして疲れた官能が痺れてくる……
濡れたあかしやが銀(ぎん)の恐怖(おそれ)に光つて、一ならび青い硝子に反射する――そのほかは声もせぬ通の長い舗石(しきいし)のうへを痺(しび)れて了(しま)つたピアノの顫音(せんおん)が、ふる雪の断片が、活動写真のまたたきのやうに音もなく瓦斯の光に顫へてゐる。
雪がふる。Sara …… sara …… sara …… sara …… sara ……薄ら青い、冷(つめ)たい千万の断片が落ついた悲哀(かなしみ)の光が、弊私的里(ヒステリー)の発作(ほつさ)が過ぎた、そのあとの沈んだ気分(きぶん)の氛囲気(ふんゐき)に、しんみりとしたリズムをつくつてしづかに降りつもる。Sara …… sara …… sara …… sara …… sara ……
   四十三年六月
解雪
わが憂愁は溶(と)けつつあり、黄色(きいろ)く赤くみどりに、屋根の雪は溶けつつあり、光りつつ、つぶやきつつ、滴りつつ……
日はすでにまぶしく、菓子屋の煙突よりは烟(けむり)のぼり、病犬は跛(ちんば)曳きつつ舗石(しきいし)をゆく、そのなかに溶(と)けつつあるものの小歌(リイド)。
やはらかによわく、ほそく、そは裁縫機械(ミシン)のごとく幽かに、いそがしく、さまざまの光を放ちつつ滴(したた)る。
喪心(さうしん)のたのしさを聴け。薄暗き地下室(セラ)の厨女(くりやめ)よ、湯沸(サモワル)の湯気の呼吸(いき)も玉葱のほとりにしづごころなし。
丸の内の三号、その高き煉瓦より、筧より、また廂より、かくれたる物の芽に沁(し)みたる無数の宝玉の溶解(ようかい)、温かに劇薬のながれ湿(しと)る音楽……
わが憂愁は溶(と)けつつあり、黄色く、赤く、みどりに、屋根の雪は溶けつつあり、光りつつ、つぶやきつつ、滴(したた)りつつ……
   四十三年六月 
■青い髯 
青い髯
五月(ごぐわつ)が来た。硝子と乳房との接触(せつしよく)……桐の花とカステラ……春と夏との二声楽(ヂユエツト)、冷めたい冬……
とりあつめた空気の淡(うす)い感覚に、硝子戸のしみじみとした汗ばみに、さうして、私の剃(そ)りたての青い面(かほ)の皮膚(ひふ)に、黄緑(くわうりよく)の Passion を燃えたたせ、顫はす日光の痛(いた)さ、その眩(ま)ぶしい音楽は負傷兵(ふしやうへい)の鳴らす釣鐘のやうに、恢復期(くわいふくき)の精神病患者がかぎりなき悲哀(ひあい)の Irony に耽けるやうに、心も身体(からだ)も疲(つか)らしたその翌日(あくるひ)の私の弱い瞼(まぶた)のうへに、キラキラとチラチラと苦(にが)い顫音(せんおん)を光らす、強く絶えず、やるせなく……
午前十一時半、公園の草わかばの傷(いた)みに病犬(びやうけん)の黄(きいろ)い奴(やつ)が駈けまわり、禿げた樹木(じゆもく)の梢がそろつて新芽(しんめ)を吹く、螺旋状(らせんじやう)の臭(にほひ)のわななきと、底力(そこぢから)のはづみと、Whiskey の色に泡(あわ)だつ呼吸(いき)づかひと……而(さう)して、わかい男の剃りたての面(かほ)の皮膚の下から青い髯が萠える……
五月が来た。どこかしらひえびえとした微風(びふう)が閃(ひら)めく噴水(ふんすゐ)の尖端(さき)からしづれて、ニホヒイリスや和蘭陀薄荷(おらんだはつか)のしめりを戦(そよ)がせ、ぢつと、私が凝視(みつ)むる、小酒杯(リキユグラス)の透明な無色(むしよく)の火酒(ウオツカ)を顫はし、黄緑(くわうりよく)の外光(ぐわいくわう)を浴(あ)びた青年の面(かほ)のうへを、なめらかに砥石(といし)のやうな青みを、Poe の頬のやうな手ざはりを、すいすいと剃刀(かみそり)のやうに触れる、
私は無言(むごん)で冷(つめ)たい小酒杯(リキユグラス)をとりあげ、しみじみと赤い唇(くちびる)にあてる……
五月が来た、五月が来た。楠(くす)が萠え、ハリギリが萠え、朴(ほう)が萠え、篠懸(すずかけ)の並木が萠える。そうして、私の新しいホワイトシヤツの下から青い汗(あせ)がにじむ、植物性の異臭(いしゆう)と、熱(ねつ)と、くるしみと、……芽でも吹きさうな身体(からだ)のだらけさ、(何でもいいから抱(だ)きしめたい。)萠える、萠える、萠える、萠える、青い髯がウオツカの沁み込む熱(あつ)い頬(ほ)の皮膚(ひふ)から萠える。……
くわつとふりそそぐ日光、冷(つめ)たい風、春と夏との二声楽(ヂユエツト)、……緑(みどり)と金(きん)……
   四十三年五月
五月
新しい烏竜茶(ウーロンちや)と日光、渋味もつた紅(あか)さ、湧きたつ吐息(といき)……
さうして見よ、牛乳にまみれた喫茶店(きつさてん)の猫を、その猫が悩ましい白い毛をすりつける女の膝の弾力(だんりよく)。
夏(なつ)が来(き)た、静(しづ)かな五月(ぐわつ)の昼(ひる)、湯沸(サモワル)からのぼる湯気(ゆげ)が、紅茶(こうちや)のしめりが、爽(さわや)かな夏帽子(なつばうし)の麦稈(むぎわら)に沁(し)み込(こ)み、うつむく横顔(よこがほ)の薄(うす)い白粉(おしろい)を汗(あせ)ばませ、而(さう)してわかい男(をとこ)の強(つよ)い体臭(にほひ)をいらだたす。
「苦(くる)しい刹那(せつな)」のごとく、黄(き)ばみかけて痛(いた)いほど光(ひか)る白(しろ)い前掛(まへかけ)の女(をんな)よ。「烏竜茶(ウーロンちや)をもう一杯(ぱい)。」
   四十三年五月
銀座花壇
赤(あか)い花(はな)、小(ちひ)さい花(はな)、石竹(せきちく)と釣鐘艸(つりがねさう)。かなしくよるべなき無智(むち)……
瓦斯(ガス)の点(つ)いた勧工場(くわんこうば)のはいりくち、明るい硝子棚、紗(しや)の日被(ひよけ)、夏は朝から悩ましいのに花が咲いた……あはれな石竹と釣鐘草(つりがねさう)。
わかい葉柳(はやなぎ)の並木路(アベニユ)、撒水(みづまき)した煉瓦道(れんぐわみち)、そのなかの小(ちひ)さな人口花壇(じんこうくわだん)、(疲(つか)れた瞳(ひとみ)の避難所(ひなんしよ))その方(はう)二尺(しやく)のかなしい区劃(しきり)に、夏(なつ)がきて花(はな)が咲(さ)いた、小(ちひ)さい細(ほそ)い石竹(せきちく)と釣鐘艸(つりがねさう)。
絶(た)えず絶(た)えず電車(でんしや)が通(とほ)る……おしろい汗(あせ)を吹(ふ)く草(くさ)の葉(は)に、裁縫器(ミシン)の幽(かす)かな音(おと)に、よせかけた自転車(じてんしや)の銀(ぎん)のハンドルの反射(はんしや)日(ひ)は光(ひか)り、かるい埃(ほこり)が薄(うす)い車輪(しやりん)をめぐる……赤い花、小さい花、石竹と釣鐘草。
さうして女がゆく、すずしい白(しろ)のスカアトその手(て)に持(も)つた赤皮(あかがは)の瀟洒(せうしや)な洋書(ほん)、いつかしら汗(あせ)ばんだこころに異国趣味(エキゾチツク)な五月(ぐわつ)が逝(ゆ)く……新(あたら)しい銀座(ぎんざ)の夏(なつ)、かなしくよるべなき人工(じんこう)の花(はな)、――石竹(せきちく)と釣鐘艸(つりがねくさ)。
   四十三年五月
六月
白い静かな食卓布(テエブルクロース)、その上のフラスコ、フラスコの水にちらつく花、釣鐘草(つりがねさう)。
光沢(つや)のある粋(いき)な小鉢の釣鐘草(つりがねさう)、汗ばんだ釣鐘草、紫の、かゆい、やさしい釣鐘草、
さうして噎(むせ)びあがる苦い珈琲(カウヒイ)よ、熱(あつ)い夏のこころに私は匙を廻す。
高※[「窗/心」]の日被(マルキイズ)その白い斜面の光から六月が来た。その下の都会の鳥瞰景(てうかんけい)。
幽かな響がきこゆる、やはらかい乳房の男の胸を抑(をさ)へつけるやうな……苦い珈琲よ、かきまわしながら静かに私のこころは泣く……
   四十三年六月
新聞紙
一九一〇、六月(ぐわつ)、はじめの月曜(げつえう)冷(つ)めたい朝(あさ)の七時(じ)、つつましい馭者台(ぎよしやだい)のうへに、ただひとり爽(さわや)かに折(を)りかへす新聞紙(しんぶんし)の緑(みどり)の薄(うす)い反射(はんしや)……
微(かす)かな鉄分(てつぶん)をふくんだ空気(くうき)にまだ青味(あをみ)を帯(お)びた棕梠(しゆろ)の花(はな)がかよわい薄黄色(うすぎいろ)に光(ひか)り、ちらほらと夏帽子(なつぼうし)の目(め)につくなつかしいだらだら坂(さか)の下(した)のH分署(ぶんしよ)の前(まへ)の通(とほり)……せはしい電車(でんしや)の鐸(ベル)……
撒水夫(みづまき)の喞筒(ポムプ)を動(うご)かすさびしさ、濠端(ほりばた)の火(ひ)の消(き)えた瓦斯燈(がすとう)に白マントルが顫(ふる)へ、その硝子(ガラス)の一点(てん)に日光(につくわう)の金(きん)が光(ひか)つてる。
わかい馭者(ぎよしや)は窓(まど)のないカキ色(いろ)の囚人馬車(しうじんばしや)を梧桐(あをぎり)のかげにひき入(い)れたまま、しづかに読(よ)み耽(ふけ)る……
こころもち疲(つか)れた馬(うま)の呼吸(こきふ)……短(みじか)く刈(か)つた栗毛(くりげ)の光沢(つや)から沁(し)み出(で)る臭(にほひ)の奇異(ふしぎ)な汗(あせ)ばみ、その上(うへ)にさしかくる新聞紙(しんぶんし)の新(あたら)しい触感(しよくかん)、わか葉(ば)の薄(うす)い緑(みどり)の反射(はんしや)。新(あたら)しい客(きやく)を待(ま)つ間(あひだ)、やすらかな五分時(ふんじ)が過(す)ぎゆく……
   四十三年六月
畜生
やはらかにかなしきは畜生のこころなれ。
赤き日はアカシヤのわか葉にけぶり、※[「くさかんむり/(束+束)」]肉(にんにく)の黄なる花ちらちらと噎(むせ)ぶとき怖々(おづおづ)と投げいだし、眠りたる霊(たましひ)の人間の五官にもわきがたきいと深きかなしみ……そのゆめはこころもち汗ばみて傷(きず)つきし銀毛(ぎんまう)の耳に痛(いた)き花粉は沁(し)み、やるせなき肉体の憂欝(いううつ)に柔かにかろく魘(うな)さるれど、汝(な)が母を犯したる霊(たましひ)の不倫をば知るよしもなし。
五時過ぎて暮ちかき夏の日は血に染(そ)みし呼鈴(よびりん)の声のごとくふりそそぎ、嫋(なよ)やかなる風は蜜蜂の褐色(かちいろ)に、蜜蜂のつぶやきはかろく花粉を落す。
汝(な)が微(かす)かなる寝息は腐れたる玉葱のにほひにも沁(し)み、快(こころよ)く荒(すさ)みゆく性(せい)の秘密にや笑ふらん。匍(は)ひよりし毛虫の奇異(きい)なる緑にも汝(な)は覚(さ)めず……ひとみぎり園丁の鍬の刃はかなたに光り、掘りかへさるる土の香の湿潤(しめり)吹き来る。
あはれ、かかる日に病みて伏すやはらかにかなしき畜生(ちくしやう)の捉(とら)へがたき微温(びをん)の、やるせなきそのこころ……
   四十三年六月
隣人
隣人(りんじん)は露西亜の地主(ぢぬし)のごとく、素朴な黒の上衣(うはぎ)に赤木綿のバンドを占め、長靴を穿(は)き、禿げた頭(あたま)のきさくから他(よそ)の畑を見回(みまは)る。
隣人はよく蚕豆(そらまめ)のなかに立ち、雨に濡れた黄花※[「くさかんむり/(束+束)」]肉(きのはなにんにく)を眺める。自慢らしい手つきで喞(くは)えたパイプの雁首(がんくび)をぽんとはたく。
隣人は見え坊だ、そりばつてん、どうかすると吝嗇漢(しみつたれ)だ、世界苦(せかいく)の気欝(ふさぎ)から、馬鈴薯(じやがいも)を食(た)べすぎた食傷(もたれ)から。
隣人は女房を恐れる、長崎うまれの肥満女(ふとつちよ)の息の臭い、馬鹿力のある、それでよく小娘のやうにかぢりつく、牛肉(ビイフ)と昼寝の好きな飲酒家(のんだくれ)。
隣人は日に一度黒い蒸汽をながめる、その悲しい面(かほ)に※[「さんずい+自」]芙藍(さふらん)のやうな黄いろい日が光り、涙がながれる。さうして悄然(しほしほ)と御燈明(みあかし)をあげにゆく。
隣人の宣教師、混血児(あひのこ)のベンさん気まぐれな禿頭、青い眼鏡をかけては街(まち)を歩行(ある)き、日曜の日には御説教。
“Changhang-deki no Mariya Sanna Ne wa yasuka-batten, utsukushikaken, 〔Minasan yo_ ogan de wokinasare.〕”お精がでます、茂助。
   四十三年六月
雨の気まぐれ
雨はふる。……雨はふる……やるせない春機発動期(しゆんきはつどうき)の憂欝病(いううつびやう)……神経の哀(かな)しい衰弱……黄色い胃病患者の腐つた気分にふりそそぐ雨。私通した小娘(こむすめ)の青い悪阻(つわり)の秘密と恐怖とにふりそそぐ雨。泥酔漢(のんだくれ)のおくびと、殺人(ひとごろし)の温(ぬ)るい計画(たくらみ)とにふりそそぐ雨。
しとしとと、しとしとと、絶間なく雨はふる、ふりそそぐ、にじむ、曳く、消ゆる、滴(したた)る。わが暗い霊(たましひ)の霖雨季(りんうき)の長いひと月、日がな終日(ひねもす)、昼も夜(よ)も、一昨日(をととひ)も、昨日(きのふ)も、今日(けふ)も乱次(だらし)ない雨はふる、ふりそそぐ、にじむ、曳く、消ゆる、滴(したた)る。酸(す)つぱい麦酒(ビール)のやうな気の抜けた雨。いそぎんちやくの液(しる)のむづかゆい雨。黴(かび)くさいインキいろの青い雨。雨……雨……雨……雨はふる……雨はふる……酸敗(す)えかかつた橡(とち)の葉の繊維(せんゐ)に蛞蝓(なめくじ)の銀線(ぎんせん)を曳き、臭(くさ)い栗の花の白金(プラチナ)を腐らし、鉄粉(てつぷん)のやうに光る芝生の土に沁み込み、青い古池の面(おもて)に怪(あや)しい笑(わらひ)を辷らせ、せうことなしに雨はふる、ふりそそぐ、何時までも何時までも小止(をや)みなく……
陰気な黴くさい雨、長い雨……日ぐらしの雨……ともすると疲(つか)れきつた悲愁(かなしみ)の裏(うら)から微(ほの)かな日光の金(きん)を投げかくる雨。雨のふる廃園(はいゑん)の木立の暗(くら)い緑(みどり)色の空間(スペース)。その洞(ほら)のやうな葉かげの恐怖にふりそそぐ雨。……折から、ひよいと、花やかに地(ち)より身軽(みかろ)なひるがへり、躍り出したる怪(け)のものが突拍子(とつぺし)もないひと躍り、……
Kappore! Kappore! Amacha de Kappore! Shiwocha de Kappore! Yoito na! Yoi! Yoi!
緋のだんだらの尖帽(せんばう)に戯姿(おどけすがた)の道化師(だうけし)が恐ろしきほど真白(まつしろ)く白粉(おしろい)つけた呆(とぼ)けがほ。
   ……略……
目も動かさず、白々(しらじら)と悪(わる)く澄(す)ましたくはせ者、燥(はしや)ぎくるめく廉(やす)ものの蓄音機から絞(しぼ)りだす囃(はやし)――黄色(きいろ)な甲高(かんだか)の三味(しやみ)の笑(わらひ)に挑(いど)まれて、戯(おど)けつくした身のひねり、突拍子(とつぺし)もないひと躍り……
Ichi kake, Ni kake, San kake te, Shi kake te, Go kake te, Hasyo kake te, Kawai Okata wo ……
ふいと消えたる変化(へんげ)もの、白粉(おしろい)の濃(こ)い、手の白い、素足(すあし)の白い、唇(くちびる)の赤(あか)い沈黙(ちんもく)……
雨はふる……雨はふる……陰気な黴くさい雨……長い雨……日ぐらしの雨……気まぐれな不摂生(ふせつせい)のあとの痛(いた)ましい寂寥(さびしみ)、幻影(イリユージヨン)の消え失せた雰囲気(ふんゐき)の暗(くら)い緑に、むづ痒(か)ゆいやうな、気の抜けた、さみしい、弱い、せうことなしの雨はふる……雨はふる……本能と神経の黄昏時(たそがれどき)。
しとしとと、しとしとと、絶え間なく雨はふる、ふりそそぐ、葉から葉へ、しとと滴(したた)る。深緑(しんりよく)の闇(くら)い夜(よる)――ふる雨の黒いかがやき、廃(すた)れたる橡(とち)の葉に古池に霊(たましひ)の底の秘密へ、日がな終日(ひねもす)、昼間(ひるま)から、今日(けふ)の朝から、昨日(きのふ)から、遠い日の日の夕(ゆふべ)から、ふりつづく長い長い憂欝(いううつ)の単音律(モノトニー)、その青い雨……黴くさい雨……投げやりの雨……辛気くさい静かな雨、かなしいやはらかな……生温(なまぬ)るい計画(たくらみ)の雨。雨……雨……雨……
   四十三年六月
葱の畑
寥(さび)しい霊(たましひ)が鳴(な)いて居る。そこここの湿(しめ)つた黒(くろ)い土(つち)のなかで昼(ひる)の虫(むし)が幽(かす)かな、銀(ぎん)の調子(てうし)で鳴(な)いてゐる。
疲(つか)れた日光(につくわう)が五時半(ごじはん)ごろの重(おも)い空気(くうき)と、湯屋(ゆや)の曇硝子(くもりがらす)とに、黄色(きいろ)く濡(ぬ)れて反射(はんしや)し、新(あたら)しい臭(にほひ)のなかに弱(よわ)つてゆく。
寂(さび)しい霊(たましひ)が鳴(な)いてゐる。
毛(け)なみのいい樺(かば)と白の犬が交(つる)んだまま葱(ねぎ)のなかにかくれてる。眩(まぶ)しさうに首だけ覗(のぞ)いて淀(よど)んだ瞳(ひとみ)に何物(なにもの)をか恐(おそ)れてゐる。――息(いき)がしづかに茎(くき)の尖頭(さき)を顫(ふる)はす。
何処(どこ)かで百舌(もず)が鳴きしきる。疲(つか)れた、それでも放縦(ほしいまま)な三十(さんじふ)過(す)ぎた病身(びやうしん)の女(をんな)らしい、湯屋(ゆや)の硝子戸(がらすど)を出ると直(す)ぐ石鹸(しやぼん)のにほひする身体(からだ)をかがめて嬰児(あかんぼ)に小便(しつこ)をさしてる。
寥(さび)しい霊(たましひ)が鳴いてゐる。……
母(はは)の眼(め)と嬰児(あかんぼ)の眼(め)が一様(いちやう)に白(しろ)い犬(いぬ)の耳(みみ)に注(そそ)がれる。可愛(かあ)いいちんぽこから小便(しつこ)が出る。その尿(ねう)と、濡(ぬ)れた西洋手拭(タヲル)と、束髪(そくはつ)と、無意味(むいみ)な眼(め)つきと、白つぽい葱(ねぎ)の青(あを)みに、しみじみと黄色(きいろ)な光(ひかり)がうつる。
しだいに反射(はんしや)がうすれて外光(ぐわいくわう)が青(あを)みを帯(お)びた。煙突(えんとつ)から薄(うす)い煙(けぶり)がたなびき畑々(はたけ/\)の葱(ねぎ)の尖頭(さき)には銀色(ぎんいろ)の露(つゆ)が光(ひか)つてくる。そしてなほ、湿(しめ)つた黒(くろ)い土(つち)のなかでは寥(さび)しい虫(むし)が、幽(かす)かな昼(ひる)の調子(てうし)で鳴(な)いてゐる。
寂しい寂しい寂しい畑。
   四十三年一月
八月のあひびき
八月の傾斜面(スロウプ)に、美くしき金(きん)の光はすすり泣けり。こほろぎもすすりなけり。雑草の緑(みどり)もともにすすり泣けり。
わがこころの傾斜面(スロウプ)に、滑りつつ君のうれひはすすり泣けり。よろこびもすすり泣けり。悪縁(あくゑん)のふかき恐怖(おそれ)もすすり泣けり。
八月の傾斜面(スロウプ)に、美くしき金(きん)の光はすすり泣けり。
   四十三年八月

日曜の朝、「秋」は銀かな具(ぐ)の細巻の絹薄き黒の蝙蝠傘(かうもり)さしてゆく、紺の背広に夏帽子、黒の蝙蝠傘(かうもり)さしてゆく、
瀟洒にわかき姿かな。「秋」はカフスも新らしくカラも真白につつましくひとりさみしく歩み来ぬ。波うちぎはを東京の若紳士めく靴のさき。
午前十時の日の光海のおもてに広重(ひろしげ)の藍を燻(いぶ)して、虫のごと白金(プラチナ)のごと閃めけり。かろく冷(つめ)たき微風(そよかぜ)も鹹(しほ)をふくみて薄青し、「秋」は流行(はやり)の細巻の黒の蝙蝠傘さしてゆく。
日曜の朝、「秋」は匂ひも新らしく新聞紙折り、さはやかに衣嚢(かくし)に入れて歩みゆく、寄せてくづるる波がしら、濡れてつぶやく銀砂の、靴の爪さき、足のさき、パツチパツチと虫も鳴く。
「秋」は流行(はやり)の細巻の黒の蝙蝠傘さしてゆく。
   四十四年十月 
■槍持 
おかる勘平
おかるは泣いてゐる。長い薄明(うすあかり)のなかでびろうど葵の顫へてゐるやうに、やはらかなふらんねるの手ざはりのやうに、きんぽうげ色の草生(くさぶ)から昼の光が消えかかるやうに、ふわふわと飛んでゆくたんぽぽの穂のやうに。
泣いても泣いても涙は尽きぬ、勘平さんが死んだ、勘平さんが死んだ、わかい奇麗な勘平さんが腹切つた……
おかるはうらわかい男のにほひを忍んで泣く、麹室(かうじむろ)に玉葱の咽(む)せるやうな強い刺戟(しげき)だつたと思ふ。やはらかな肌(はだ)ざはりが五月(ごぐわつ)ごろの外光(ぐわいくわう)のやうだつた、紅茶のやうに熱(ほて)つた男の息(いき)、抱擁(だきし)められた時(とき)、昼間(ひるま)の塩田(えんでん)が青く光り、白い芹の花の神経が、鋭くなつて真蒼に凋れた、別れた日には男の白い手に烟硝(えんせう)のしめりが沁み込んでゐた、駕にのる前まで私はしみじみと新しい野菜を切つてゐた……
その勘平は死んだ。
おかるは温室(おんしつ)のなかの孤児(みなしご)のやうに、いろんな官能(くわんのう)の記憶にそそのかされて、楽しい自身の愉楽(ゆらく)に耽つてゐる。
(人形芝居(にんぎやうしばゐ)の硝子越しに、あかい柑子の実が秋の夕日にかがやき、黄色く霞んだ市街(しがい)の底から河蒸気の笛がきこゆる。)おかるは泣いてゐる。美くしい身振(みぶり)の、身も世もないといふやうな、迫(せま)つた三味(しやみ)に連(つ)れられて、チヨボの佐和利(さはり)に乗つて、泣いて泣いて溺(おぼ)れ死にでもするやうにおかるは泣いてゐる。
(色と匂(にほひ)と音楽と。勘平なんかどうでもいい。)
   四十二年十月
雪の日
淡青(うすあを)い雪は冷(つ)めたい硝子戸のそとに。……
紫の御召(おめし)をひきかけた浜勇は東の桟敷に。
薄い襟あしの白粉(おしろい)も見よきほどにこころもち斜(なゝめ)に坐つて。うつむき加減(かげん)にした横顔の淡青い雪の反射。
静かに曳かれてゆく幕そとの、立三味線、仁木の青い目ばりの凄さ。
暮れかかる東京のそらにはほんのりと瓦斯が点(つ)き淡青い雪がふる。
半玉は冷(つ)めたい指をそろへて、引込(ひきこみ)の面(つら)あかりをながめ、なにかしらさみしさうに。
淡青い雪は冷(つ)めたい硝子戸のそとに。
幽かな音、幽かな色、幽かなささやき……
   四十三年七月
種蒔き
パツチパツチと鳴く虫の昼のさびしさ、つつましさ、……葱の畑のそこここに銀の懐中時計(とけい)を閉(し)める音。
けふも彼岸(ひがん)のあかるさに、誰に見しよとか、権兵衛は青い手拭、頬かぶり、桝を小腋(こわき)に、ひえびえと畝(うね)のしめりを踏んでゆく。畝(うね)の光に蒔く種はかなしみの種、性(せい)の種、黒稗(くろひえ)の種。
パツチパツチと鳴く虫の昼のさびしさ、しをらしさ、……強い日射(ひざし)のそこここに若いこころの咽(むせ)ぶ音。
ほんに一日(いちにち)齷齪(あくせく)と歎き足らひで、権兵衛が青いパツチに縄(なは)の帯、及び腰してひとすぢに土の臭(にほひ)を嗅(か)いでゆく午後(ごご)の光に蒔く種はかなしみの種、性(せい)の種、黒稗(くろひえ)の種。
パツチパツチと鳴く虫の昼のさびしさ、なつかしさ。……黒い鴉(からす)の嘴(くちばし)に種のつぶれてなげく音。
若い身そらの内密事(ないしよごと)、ひとり苦(く)に病(や)む権兵衛が、歩みののろさ、手の痛(いた)さ、腰の痛(いた)みにしみじみと明(あか)き其夜を泣いてゆく。銀(ぎん)の秘密(ひみつ)に蒔く種はかなしみの種、性(せい)の種、黒稗(くろひえ)の種。
パツチパツチと鳴く虫の昼のさびしさやるせなさ。……常に啄(つ)まれて生れ得ぬ種の、嬰児(あかご)の、なげく音。
妻も子もない醜男(ぶをとこ)の何時(いつ)も吝嗇(つまし)い権兵衛が貧(ひん)の盗みか、一擁(ひとかゝ)え葱を伏せつつ、怖々(こは/″\)と畝(うね)の凸(たか)みを凝視(みつ)めゆく、伏せたこころに蒔く種はかなしみの種、性(せい)の種、黒稗(くろひえ)の種。
パツチパツチと鳴く虫の昼のさびしさおそろしさ。……黒い眼玉が背後(うしろ)からぢつと睨んで歩む音。
欲(よく)のつかれか、冷汗(ひやあせ)か、金が唸(うな)れば権兵衛の野暮(やぼ)な胸さへしみじみと、金(きん)の入日の凌雲閣(じふにかい)傷(いた)みながらに蒔いてゆく。けふの恐怖(おそれ)に蒔く種はかなしみの種、性(せい)の種、黒稗(くろひえ)の種。
パツチパツチと鳴く虫の昼のさびしさ、情(なさけ)なさ。……黒い鴉(からす)につぶされて種の凡(すべて)の滅(き)ゆる音。
   四十三年十月
忠弥
雪はちらちらふりしきる。
城の御濠(おほり)の深みどり、雪を吸ひ込む舌うちのしんしんと沁(し)むたそがれに、鴨の気弱(きよわ)がかきみだす水の表面(うはべ)のささにごり知るや知らずや、それとなく小石投げつけ、――ひつそりと底のふかさをききすますわかき忠弥か、わがおもひ。
君が秘密の日くれどき、ひとり心につきつめてそつとさぐりを投げつくる深き恐怖(おそれ)か、わが涙――千万無量の瞬間(たまゆら)に雪はちらちらふりしきる。
   四十五年十一月
歌うたひ
悲しいけれどもわしや男、いやでもお酒をさがしませう、赤いセエリイもないならば飲んだふりして就寝(やす)みませう。みすぎ世すぎの歌うたひ。
   四十三年十一月
槍持
槍は※[「金+肅」](さ)びても名は※[「金+肅」]びぬ、殿(との)につきそふ槍持の槍の穂尖(ほさき)の悲しさよ。
槍は槍持、供揃(ともぞろへ)、さつと振れ、振れ、白鳥毛。
けふも馬上の寛濶(くわんくわつ)に、殿は伊達者(だてしや)の美(よ)い男、三国一の備後様、しんととろりと見とれる殿御(とのご)。槍は槍持、銀(ぎん)なんぽ。供(とも)の奴(やつこ)さへこのやうに、あれわいさの、これわいさの、取りはづす、やあれ、やれ、危(あぶ)なしやの、槍のさき。
槍は※[「金+肅」]びても名は※[「金+肅」]びぬ、殿のお微行(しのび)、近習(きんじゆ)まで身なりくづした華美(はで)づくし、槍は九尺の銀なんぽ、けふも酒、酒、明日(あす)もまた、通ふしだらの浮気(うはき)づら、わたる日本橋ちらちらと雪はふるふる、日は暮れる、やあれ、やれ冷(つめ)たしやの、槍のさき。
槍は槍持、供ぞろへ、さつと振れ、振れ、白鳥毛。
雪はふれども、ちらほらと河岸(かし)の問屋の灯(ひ)が見ゆる、さてもなつかし飛ぶ鴎(かもめ)、壁のしたには広重(ひろしげ)の紺のぼかしの裾模様、殿の御容量(ごきりやう)に、ほれぼれとわたる日本橋、槍のさき、槍は担(かつ)げど、空(うは)のそら、渋面(しふめん)つくれど供奴(ともやつこ)、ぴんとはねたる附髭(つけひげ)に、雪はふるふる、日は暮れる。やあれ、やれ、やるせなの、槍のさき。
槍は槍持、供ぞろへ、さつと振れ、振れ、白鳥毛。
槍は※[「金+肅」]びても名は※[「金+肅」]びぬ。殿につきそふ槍持の槍の穂さきの悲しさよ。いつも馬上の寛濶に、殿は伊達者のよい男、さぞや世間(せけん)の取沙汰に浮かれ騒ぐも女なら。そこらあたりの道すぢの紺の暖簾(のれん)も気がかりな。槍は九尺の銀なんぽ、槍を持つ身のしみじみと、涙流すもつとめ故、さりとは、さりとは、供奴(ともやつこ)、雪はふるふる、日は暮れる。やあれ、やれ、しよんがいなの、槍のさき。
   四十五年三月
CHONKINA.
“Chonkina! chonkina! Chon-chon kina-kina! Chon ga nanoso de, Cho-chon ga yoi! ……”
「赤(あか)い夕日(ゆふひ)、活動写真(くわつどうしやしん)見(み)たいなキラキラが、あのやうに、あれ、御覧(ごらん)な。お向(むか)ふの三層楼(さんがい)の高(たか)い部屋(へや)の障子(しやうじ)に、何時(いつ)までも何時(いつ)までも照(て)りつける辛気(しんき)くささ、寝(ね)まきや、長襦袢(ながじゆばん)の、如何(どう)したんだらうねえ、まあ、両肌(りやうはだ)なんか脱(ぬ)いだりさ、欄干(てすり)に腰(こし)かけたり、跨(また)いだり、自堕落(じだらく)な、あれさ、落(おつ)こつたらどうするの、気(き)まぐれも大概(たいがい)になさいなね、あれ、あの手(て)も真赤(まつか)な狐拳(きつねけん)!」
“Chon-aiko! chon-aiko! ……”
「華魁(おいらん)、ちよいと、御覧(ごらん)なさいな、久(しさ)し振(ぶり)で裏門(うらもん)が開(あ)いたと思(おも)つたら、大変(たいへん)ですわねえ、あれ、あんなに水(みづ)が、随分(ずゐぶん)しどい音(おと)だこと、堤(どて)をもう越(こ)したんですとさ。竜泉寺(りゆうせんじ)、山谷(さんや)、今戸(いまど)のわたし、そりやもう大変(たいへん)な騒(さわぎ)よ、おやおや、まあ、素(す)つ裸(ぱだか)で、揚屋町(あげやまち)の通(とほり)を伝馬(てんま)担(かつ)いで奔(はし)るなんて銀(ぎん)ちやん、威勢(ゐせい)がいいことねえ。」
“Chon-aiko! chon-aiko! ……”
「華魁(おいらん)、何(なに)をそんなに見(み)てお出(い)でなの、くよくよとさ、黄色(きいろ)いふたつの高張(たかはり)に赤(あか)い日(ひ)が、あのやうに射(さ)しかけて、ぴちやぴちやと濁水(にごりみづ)が凄(すご)いわねえ、あら、ちよいと、そんな処(とこ)でおちんこなんか捲(ま)くるもんぢやありませんつたら、小児(こども)は罪(つみ)が無(ない)ことねえ、ほほほ。まあ。」
“Chonkina! chonkina! Chon-chon, kina-kina, Chon ga nanoso de, Cho-chon ga yoi, Aiko de yoi,…… Chon-aiko! chon-aiko ……”
吉原(よしはら)の中店(ちうみせ)のお職(しよく)「小主水(こもんど)」とて、愁(うれ)ひ顔(かほ)の寥(さみ)しい、どうしたことやら、白粉(おしろい)もまだつけぬ青(あを)いいろの、なつかしい眼(め)つきの女(をんな)、疲(つか)れたやうに、藍色(あゐいろ)の薄(うす)いネルを着(き)ながして新造(しんぞう)と二人(ふたり)、――ひとりは立膝――華魁(おいらん)は灯(ひ)のつかぬ五時(ごじ)ごろの薄暗(うすぐら)い角店(かどみせ)の二重(にぢゆう)に腰(こし)かけて、何(なに)とやら澄(す)まぬ顔(かほ)、左(ひだり)の人(ひと)さし指(ゆび)の薄(うす)い繃帯(ほうたい)に金(きん)いろの背後(うしろ)の附立(ついたて)が、支那彫(しなぼり)の唐獅子(からしし)の、冷(つめ)たい光(ひかり)を投(な)げかくる。そのさだまらぬ陰影(かげ)のかげのそのなかの幽(かす)かなためいき……
“Chonkina! Chonkina! ……”
格子戸越(かうしどご)しに、赤(あか)い日(ひ)が高(たか)い屋並(やなみ)の不思議(ふしぎ)な廂(ひさし)にてりかへし、洪水(こうすゐ)の音(おと)がきこえる。欄干(てすり)では何時(いつ)までも何時(いつ)までも気(き)まぐれな狐拳(きつねけん)。
“Chon-aiko! chon-aiko, Chon-chon aiko-aiko, Chon ga nanoso de Cho-chon ga yoi ……”
“Chonkina! chonkina! ……”
   四十三年七月
鬼百合
夏の日の東京に歌沢(うたざは)のこころいき……
しみじみと身にしみてきく年増(としま)、すらりとした立姿(たちすがた)の中形の薄青さ、それしやの粋(いき)なこころに。
日がそそぐ……銀色(ぎんいろ)のきりぎりす浮気男(うはきをとこ)を殺した昼寝(ひるね)の夢の凄さ、たてひきの憎(にく)さ、かなしさ、つらさ、くるしさ、日がそそぐ……わかいお七の半鐘か、死ぬるきりぎりすか。銀(ぎん)の光の細かな強いすすりなき。
大河(おほかは)をまへに、唇(くち)に啣(くは)えた帯留の金(きん)――手をうしろにまはして、暑(あつ)さうなものごしの、なにかしら寂(さみ)しさうに、きりきりと締(し)め直す黒い繻子(しゆす)の一筋(ひとすぢ)。
けだるげな三味線があれ、またもあのやうに、……青みもつ目のふちの疲(つか)れからなにを見るとなし熟視(みつ)むる黒い瞳の深さ、酸(す)いも甘いも噛みわけた中年(ちゆうねん)の激しい衝動(シヨツク)……その底のさみしさ、つらさ、かなしさ。
黒い繻子の手ざはりがきゆつ、きゆつと……
暑い、苦しい、くるしい日、渋い鬼百合の赤さ、鮮(あざや)かな臭(にほひ)の強さ、湿(しめ)つた褐色(かちいろ)の花粉(くわふん)の細(こま)かにちる……背後(うしろ)の床の間(ま)の大輪(たいりん)。
触(さは)る帯の繻子、やはらかな粉(こな)、こころもきゆつきゆつと……
夏の日のさる河岸に歌沢のこころいき。
ええまあ、奈何(どう)すりや宜(い)いつてんだらうねえ。
   四十三年七月
道化もの
ふうらりふらりと出て来(く)るはルナアパークの道化(だうけ)もの、服(ふく)は白茶(しらちや)のだぶだぶと戯(おど)け澄ました身のまわり、あつち向いちやふうらふら、こつち向いちやふうらふら、緋房のついた尖(とん)がり帽子がしをらしや。
鉛粉(おしろい)真白(まつしろ)けで丸(まる)ふたつ頬紅(ほべに)さいたるおどけづら、円(まる)い眼ばりもくるくると今日(けふ)も呆(とぼ)けた宙がへり。かなしやメエリイゴラウンド、さみしや手品の皿まわし、春の入日の沈丁花(ちんちやうげ)がどこやらに。
ひとが笑へばにやにやと、猫のなきまね、烏啼き、たまにやべそかき赤い舌、嘘か、色眼(いろめ)か、涙顔。鳴いそな鳴いそ春の鳥、鳴いそな鳴いそ春の鳥、紙の桜もちらちらとちりかかる。
薄むらさきの円弧燈(アークとう)、瓦斯と雪洞(ぼんぼり)、鶴のむれ、石油のヱンヂンことことと水は山から逆(さか)おとし、台湾館の支那の児足の小さな支那の児、しよんぼり立つたうしろから馬鹿囃子(ばかばやし)。
ぬうらりしやらりと日が暮れてまたも夜(よ)となる、道化もの、あかい三角帽をちよいと投げてひよいと受けたら禿頭(はげあたま)。あつち向いちやくうるくる、こつち向いちやくうるくる、御愛嬌(ごあいきやう)か、またしてもとんぼがへり。
   四十四年三月
あそびめ
たはれをのかずのまにまにじだらくにみをもちくづし、おしろいのあをきひたひにねそべりてひるもさけのみ、さめざめとときになみだし、ゆふかけてさやぎいづとも、かなしみはいよよおろかに、ながねがひいよよつめたし。あはれよのしろきねどこのまくらべのベコニヤのはな。
   四十五年五月
南京さん
李(リイ)さん、鄭さん、支那服さん、あなたの眼鏡はなぜ光る、涙がにじんで日に光る。鳥屋の硝子も日に光る。目白、カナリヤ、四十雀、鶉に文鳥に黒鶫(くろつぐみ)、鳥もいろいろあるなかにおかめ鸚哥(いんこ)はおどけもの焦(ぢ)れて頓狂に啼きさけぶ。さてもいとしや、しをらしや、けふも入日があかあかとわかい南京(ナンキン)さんは涙顔。
   四十四年十月
蝮捕り
旅のすがたの蝮(まむし)捕り。紺の脚絆に紺の足袋、紺の小手あて、盲縞(めくらじま)。羽織、腹掛しやんとして草鞋つつかけ忍びあし。
わかい男の忍びあし、まがひパナマに日が射せば、苦(にが)みばしつた横顔のことにつやつや蒼白く、ほそく割(さ)いたる青竹に蝮挟みてなつかしく、渚のほとり、草土手の曼珠沙華さくしたみちを、九月午後(ひるすぎ)、忍びあし。
静かにゆるき潮鳴(しほなり)は、夏と秋との伴奏(ともあはせ)、五十三次、広重(ひろしげ)の海の匂もまだ熱く、眉にかがやく忍びあし、……蝮の腹もいと青く。
けふのこの日の蝮捕り、――渡りあるきの生業(なりはひ)の昨日(きのふ)の疲(つか)れ、明日の首尾(しゆび)、案じわづらふ足もとに飛んで跳(は)ねたはきりぎりす。疲れた三味が鳴るわいな。
意気な年増の手ずさみか、取り残された避暑客の後(あと)の一人の爪弾か、離縁(さ)られた人か、死ぬ人か、思ひなしかは知らねども、昨日あがつた心中の男女(をとこをんな)の忍び泣き、……あれ三味が鳴る、昼日なか、知らぬ都のふしまはし。
わかい吐息の忍びあし、そつと留(とゞ)めて、聞惚れて、なにをおもふや、うつとりと、蝮の腹の青縞の博多帯めくつややかさ、きゆつきゆと白き指つけて、拭(ふ)きつ、さすりつ、薄笑みつ、九月、午後(ひるすぎ)、日の光――こころの縞もいと青く。
蝮よ、蝮よ、やはらかな、熱(あつ)い冷(つめ)たい手触(てさは)りの、そなたも三味にきき惚れて身をうねらすや、やるせなく、……平首(ひらくび)、竹に挟まれて、されどゆかしく、あどけなく、無心に瞠(みは)る眼のいろは空と海との水あさぎ。蝮よ小さい尾のさきの、匂の肌をつまぐれば、毒ある汗はいきいきと、神経のごと細(こま)やかに、朱の斑(ふ)なまめく褐(くり)と黄(き)の波斯(ペルシヤ)模様の美くしさ、それか、怪しき淫(たは)れ女(め)の閨(ねや)の麝香(じやかう)の息づかひ。
九月午後(ひるすぎ)、日の光――あれ三味が鳴る、きりぎりす、飛んで死んだがましかいな。
   四十四年九月 
■雪と花火 
夜ふる雪
蛇目(じやのめ)の傘(かさ)にふる雪(ゆき)はむらさきうすくふりしきる。
空(そら)を仰(あふ)げば松(まつ)の葉(は)に忍(しの)びがへしにふりしきる。
酒(さけ)に酔(よ)うたる足(あし)もとの薄(うす)い光(ひかり)にふりしきる。
拍子木(ひやうしぎ)をうつはね幕(まく)の遠(とほ)いこころにふりしきる。
思(おも)ひなしかは知(し)らねども見(み)えぬあなたもふりしきる。
河岸(かし)の夜(よ)ふけにふる雪(ゆき)は蛇目(じやのめ)の傘(かさ)にふりしきる。
水(みづ)の面(おもて)にその陰影(かげ)にむらさき薄(うす)くふりしきる。
酒(さけ)に酔(よ)うたる足もとの弱(よわ)い涙(なみだ)にふりしきる。
声(こゑ)もせぬ夜(よ)のくらやみをひとり通(とほ)ればふりしきる。
思ひなしかはしらねどもこころ細かにふりしきる。
蛇目(じやのめ)の傘にふる雪はむらさき薄くふりしきる。
柳の佐和利
ほの青(あを)い雪(ゆき)のふる夜(よ)に、電車(でんしや)みちを、酔(よ)つて、酔(よ)つて、酔(よ)つぱらつてさ、ひよろひよろと、ふらふらと、凭(もた)れかかれば、硝子戸(がらすど)に。〔Yo_i! …… Yo_i! …… Yo_itona! ……〕
ほの青(あを)い雪(ゆき)はふり、店(みせ)のなかではしんみりと柳(やなぎ)の佐和利(さわり)、酔(よ)つて、酔(よ)つて、酔(よ)つぱらつてさ、ふらふらと、ひよろひよろと首(くび)をふれば太棹(ふとざを)が……〔Yo_i! …… Yo_i! …… Yo_itona! ……〕
ほの青(あを)い雪(ゆき)の夜(よ)の蓄音機(ちくおんき)とは知(し)つたれど、きけばこの身(み)が泣(な)かるる。酔(よ)つて酔(よ)つて酔(よ)つぱらつてさ、ひよろひよろと、ふらふらと投(な)げてかかれば、その咽喉(のど)が……〔Yo_i! …… Yo_i! …… Yo_itona! ……〕
ほの青(あを)い雪(ゆき)のふる人(ひと)ひとり通(とほ)らぬこの雪(ゆき)に、まあ何(なん)とした、酔(よ)つて酔(よ)つて酔(よ)つぱらつてさ、ふらふらと、ひよろひよろと、しやくりあぐれば誰やらが、〔Yo_i! …… Yo_i! …… Yo_itona! ……〕
   四十四年一月
春の鳥
鳴きそな鳴きそ春の鳥、昇菊の紺と銀との肩ぎぬに。鳴きそな鳴きそ春の鳥、歌沢(うたざは)の夏のあはれとなりぬべき大川の金(きん)と青とのたそがれに。鳴きそな鳴きそ春の鳥。
   四十三年四月
かるい背広を
かるい背広を身につけて、今宵(こよひ)またゆく都川、恋か、ねたみか、吊橋の瓦斯の薄黄(うすぎ)が気にかかる。
   四十三年七月
薄あかり
銀(ぎん)の時計のつめたさは薄らあかりのZ(しち)の字に、君がこころのつめたさは河岸(かし)の月夜の薄あかり。
薄いなさけにひかされて、けふもほのかに来は来たが、心あがりのした男、何のわたしに縁があろ。
空の光のさみしさは薄らあかりのねこやなぎ、歩むこころのさみしさは雪と瓦斯との薄あかり。
思ひ切らうか、切るまいか、そつと帰ろか、何とせう。いつそあの日のくちつけを後(のち)のゆかりに別れよか。
水のにほひのゆかしさは薄らあかりの鴨の羽、三味のねじめのゆかしさは遠い杵屋の薄あかり。
かるい背広を身につけてじつと凝視(みつ)むる薄あかり。薄い涙につまされて、けふもほのかに来は来たが。
銀の時計のつめたさは薄らあかりのZの字に、君がこころのつめたさは青い月夜の薄あかり。
恋か、りんきか、知らねども、ほんに未練な薄あかり。思ひ切らうか、たづねよか、ええ何とせう、しよんがいな。
   四十三年三月
金と青との
金と青との愁夜曲(ノクチユルヌ)、春と夏との二声楽(ドウエツト)、わかい東京に江戸の唄、陰影(かげ)と光のわがこころ。
   四十三年五月
雨あがり
やはらかい銀の毬花(ぼやぼや)の、ねこやなぎのにほふやうな、その湿(しめ)つた水路(すゐろ)に単艇(ボート)はゆき、書割(かきわり)のやうな杵屋(きねや)の裏(うら)の木橋に、紺の蛇目傘(じやのめ)をつぼめた、つつましい素足のさきの爪革(つまかは)のつや、薄青いセルをきた筵若のそれしやらしいたたずみ……
ほんに、ほんに、黄いろい柳の花粉のついた指で、ちよいと今晩(こんばん)は、なにを弾かうつていふの。
   四十三年七月
水盤
そなたの移した水盤(すゐばん)に、薄い硝子の水の微(かす)かな光、新内のながしも通るのに、ほんとに睡(ね)ちやつたの。
そなたの冷(つ)めたい手はわたしの胸に、薄いセルは微(かす)かな涙に、ほんとに睡(ね)ちやつたの。
そなたの寝息は桐の花のやうに、やるせないこころをそそのかし、捉(とら)へかぬる微(かす)かな光。ほんとに睡(ね)ちやつたの。
そなたのけふ入れた緋鮒(ひぶな)か、それとも陶器(やきもの)の金魚かしら、なにかしら寂(さみ)しい力(ちから)の薄い硝子に触(さは)るやうな……ほんとに睡(ね)ちやつたの。
そなたの知つてる男はみんな薄情ものだ。さうしてそなたが眠(ね)むつてから何時でもこんな風にささやく、ほんとに睡(ね)ちやつたの。
   四十三年七月
心中
あはれなる心中のうはさよりわが霊(たま)は泣き濡れてかへりゆく、花つけしアカシヤの並木のかげを、嫋(なよ)やかなる七月のおとづれのごとく。
やすらかに平準(な)らされしこころはあるものの抑圧(おさへ)のかげにありて、つねにかかる微顫(ふるへ)をこそのぞみたれ。いみじく幽かなるその Lied(リイド) よ。
附(つ)きやすき花粉(くわふん)のしめりのごとく、そはまた※[「目+匡」](まぶた)の汗のごとくに顫(ふる)へやすし。護謨輪(ごむわ)のゆけばためらひ、吊橋の淡黄(うすき)なる瓦斯(がす)のもとを泣きゆく。
新道(しんみち)を抜(ぬ)けては※[「木+解」]の芽のむせびをあはれみ、御神燈のかげをばそれしやの浴衣(ゆかた)ともすれちがふ。
とある河岸(かし)のおでんやには寄席(よせ)のビラのかなしく、薄汗(うすあせ)の光る紙に水菓子の色透くがいとほし。
あはれなる心中のうはさよりわが霊(たま)は泣き濡れてかへりゆく、微風(そよかぜ)の吹くままに過ぎゆく嫋(なよ)やかなる七月のおとづれのごとく。
   四十三年七月
花火
花火があがる、銀(ぎん)と緑の孔雀玉(くじやくだま)……パツとしだれてちりかかる。紺青の夜の薄あかり、ほんにゆかしい歌麿の舟のけしきにちりかかる。
花火が消ゆる。薄紫の孔雀玉……紅(あか)くとろけてちりかかる。Toron …… tonton …… Toron …… tonton ……色とにほひがちりかかる。両国橋の水と空とにちりかかる。
花火があがる。薄い光と汐風に、義理と情(なさけ)の孔雀玉(くじやくだま)……涙しとしとちりかかる。涙しとしと爪弾(つまびき)の歌のこころにちりかかる。団扇片手のうしろつきつんと澄ませど、あのやうに舟のへさきにちりかかる。
花火があがる、銀(ぎん)と緑(みどり)の孔雀玉……パツとかなしくちりかかる。紺青(こんじやう)の夜に、大河に、夏の帽子にちりかかる。アイスクリームひえびえとふくむ手つきにちりかかる。わかいこころの孔雀玉(くじやくだま)、ええなんとせう、消えかかる。
   四十四年六月
放埒
放埒(はうらつ)のかなしみはひらき尽くせしかはたれの花のいろの、にほひの、ちらんとし、ちりも了らぬあはひとか。
かかる日の薄明(はくめい)に、しどけなき恐怖(おそれ)より蛍ちらつき、女の皮膚(ひふ)にシヤンペンの香(にほひ)からめば、そは支那の留学生もなげくべき尺八の古き調子(てうし)のこころなり。
うら若き芸妓(げいしや)には二上りのやるせなく、中年(ちゆうねん)の心には三(さん)の糸下(さ)げて弾(ひ)くこそ、下(さ)げて弾くこそわりなけれ。
かくて、日のありなし雲の雨となり、そそぐ夜(よ)にこそ。おしろい花(ばな)のさくほとり、しんねこの幽(かす)かなる音(ね)を泣くべけれ。
放埒(はうらつ)のかなしみはひらき尽(つ)くせしかはたれの花のいろの、にほひの、ちらんとし、ちりも了らぬあはひとか。
   四十三年八月
紫陽花
かはたれに紫陽花(あぢさゐ)の見ゆるこそさみしけれ。うらわかき盲人(まうじん)のいろ飽(あく)まで白く、そのほとりに頬を寄(よ)するは――かろくかさねし手のひらの弾(はぢ)く爪さき、それとなく隆達(りゆうたつ)ぶしの唱歌など思ひ出づるはいとかなし。
誰かつくりし恋のみち、いかなる人も踏み迷ふ……よしやわれにも情(なさけ)あれ。寮の日くれの、あ、もの憂(う)や、何(なん)とせうぞの。蜩(かなかな)の金(きん)の線条(はりがね)顫(ふる)はす声も、縁(えん)さへあらばまたの夕日(ゆふひ)にチレチレまたの夕日に時雨(しぐ)るる。
おはぐろどぶのかなしみは岐阜堤燈(ぎふぢやうちん)のかげうつる茶屋のうしろのながし湯の石鹸(しやぼん)のにほひ、黴(かび)の花、青いとんぼの眼(め)の光。
よひやみの、よひやみの、いづこにか、赤い花火があがるよの、音(おと)はすれども、そのゆめは見えぬこころにくづるる……
ほのかにも紫陽花(あぢさゐ)のはな咲けば、新(あらた)にかけし撒水(うちみづ)の香(か)のうつりゆくしたたり、さて、消えやらぬ間の片恋。
   四十三年八月
カナリヤ
たつた一言(ひとこと)きかしてくれ。カナリヤよ、たんぽぽいろのカナリヤよ、ちろちろと飛びまはる、ほんに浮気なカナリヤよ。おしやべりのカナリヤよ。たつた一言(ひとこと)きかしてくれ、丁度(ちやうど)、弾きすてた歌沢の、三の絃(いと)の消ゆるやうに、「わたしはあなたを思つてる。」と。
彼岸花
憎い男の心臓を針で突かうとした女、それは何時(いつ)かのたはむれ。
昼寝のあとに、ハツとして、けふも驚くわが疲れ。
憎い男の心臓を針で突かうとした女、――もしや棄てたら、キツとまた。
どうせ、湿地(しめぢ)の彼岸花、蛇がからめば身は細(ほ)そる。
赤い、湿地(しめぢ)の彼岸花、午後の三時の鐘が鳴る。
   四十四年十一月
もしやさうでは
もしやさうではあるまいかと思うても見たが、なんの、そなたがさうであろ、このやうなやくざにと、――胸のそこから血の出るやうな知らぬ偽(いつはり)いうて見た。
雪のふる日に赤い酒をも棄てて見た。知らぬふりして、ちんからと鳴らしたその手でさかづきを。
   四十四年十一月
片足
花が黄色で、芽がしよぼしよぼで、見るも汚(きた)ない梅の木に小鳥とまつて鳴くことに、――あれ、あの雪の麦畑(むぎばた)の、つもつた雪のその中に、白い女の片足が指のさきだけ見えて居る。
はつと思つて佇めば、小鳥逃げつつ鳴くことに、――何時(いつ)か憎いと思うたくせに、卑怯未練な、安心さしやれ、あれは誰かの情婦(いろ)でもなけりや、女乞食の児でもない。一軒となりの杢右衛門(もくよむ)どんの唖の娘が投げすてた白い人形の片足ぢや。
   四十四年十二月
あらせいとう
人知れず袖に涙のかかるとき、かかるとき、ついぞ見馴れぬよその子があらせいとうのたねを取る。丁度誰かの為(す)るやうにひとり泣いてはたねを取る。あかあかと空に夕日の消ゆるとき、植物園に消ゆるとき。
   四十三年十月
あかい夕日に
あかい夕日につまされて、酔うて珈琲店(カツフヱ)を出は出たが、どうせわたしはなまけもの明日(あす)の墓場をなんで知ろ。
   四十三年十月 
■銀座の雨 
銀座の雨
雨……雨……雨……雨は銀座に新らしくしみじみとふる、さくさくと、かたい林檎の香のごとく、舗石(しきいし)の上、雪の上。
黒の山高帽(やまたか)、猟虎(ラツコ)の毛皮、わかい紳士は濡れてゆく。蝙蝠傘(かうもり)の小さい老婦も濡れてゆく。……黒の喪服と羽帽子(はねばうし)。好(す)いた娘の蛇目傘(じやのめがさ)。しみじみとふる、さくさくと、雨は林檎の香のごとく。
はだか柳に銀緑(ぎんりよく)の冬の瓦斯点(つ)くしほらしさ、棚の硝子にふかぶかと白い毛物の春支度。肺病の子が肩掛の弱いためいき。波斯(ペルシヤ)の絨氈(じゆたん)、洋書(ほん)の金字(きんじ)は時雨(しぐれ)の霊(たまし)、〔Henri(アンリイ) De(ド) Re'gnier(レニエ)〕 が曇り玉(たま)、息ふきかけてひえびえと雨は接吻(きつす)のしのびあし、さても緑の、宝石の、時計、磁石のわびごころ、わかいロテイのものおもひ。絶えず顫へていそしめるお菊夫人の縫針(ぬいばり)の、人形ミシンのさざめごと。雪の青さに片肌ぬぎのたぼもつやめく髪の型(かた)、つんとすねたり、かもじ屋に紺は匂ひて新らしく。白いピエロの涙顔。熊とおもちやの長靴は児供ごころにあこがるるサンタクロスの贈り物。外(そと)はしとしと淡雪(うすゆき)に沁みて悲しむ雨の糸。
雨は林檎の香のごとくしみじみとふる、さくさくと、扉(ドア)を透かしてふる雨はVerlaine(ヴエルレエイヌ) の涙雨、赤いコツプに線(すぢ)を引く、ひとり顫へてふりかくる辛(から)い胡椒に線(すぢ)を引く、されば声出す針の尖(さき)、蓄音器屋にチカチカと廻るかなしさ、ふる雨に酒屋の左和利、三勝もそつと立ちぎく忍び泣き。それもそうかえ淡雪(うすゆき)の光るさみしさ、うす青さ、白いシヨウルを巻きつけて鳥も鳥屋に涙する。椅子も椅子屋にしよんぼりと白く寂しく涙する。猫もしよんぼり涙する。人こそ知らね、アカシヤの性の木の芽も涙する。
雨……雨……雨……雨は林檎の香のごとく冬の銀座に、わがむねに、しみじみとふる、さくさくと。
   四十四年十二月

雪でも降りさうな空あひだね、今夜もほら、もう降つて来たやうだ、その薄い色硝子を透かして御覧。なつかしい円弧燈(アークとう)に真白なあの羽虫のたかるやうに細(こま)かなセンジユアルな悲しみが、向ふの空にも、橋にも柳にも、水面にも、書割のやうな遠見の、黄色い市街の燈にも、多分冷たくちらついてゐる筈だ。それとも積つたかしら。幽かな囁き……幽かなミシンの針の薄い紫の生絹(きぎぬ)を縫ふて刻むやうな、色沢(いろつや)のある寂しいリズムの閃めきが、そなたの耳にはきこえないのか……湯から上つて、もう一度透かして御覧、乳房が硝子に慄へるまで。
曇つたのぼせさうな湯殿に、白い湯気のなかに、蛍が飛ぶ……燐のにほひの蛍が、ほうつほうつと……あれ銀杏がへしのつんと張つた鬢のうらから肩から、タオルからすべつて消える。ほうつほうつと。
さうではない、さうではない、すらりとした両(ふた)つのほそい腕から、手の指の綺麗な爪さきの線まで、何かしら石鹸(シヤボン)が光つて見えるのだ、さうして魔気のふかい女の素はだかの感覚から忘れた夏の記憶が漏電する。ほうつほうつと蛍が光る。不思議な晩だ、まだ鋏を取つたまま何時までも足の爪を剪(き)つてゐるのか、お前は※[「さんずい+自」]芙藍湯(サフランゆ)の[「※[「さんずい+自」]芙藍湯(サフランゆ)の」は底本では「泊芙藍湯(サフランゆ)の」]温かな匂から、香料のやはらかななげきから、おしろいから、夏の日のあめも美しく女は踊る、なつかしいドガの Dancer
雪がふる……降つてはつもる……しめやかな悲しみのリズムのしんみりと夜ふけの心にふりしきる……ほうつほうつと、蛍が飛ぶ……あれごらんな、綺麗だこと、青、黄、緑、……さうしてうすいむらさき、雪がふる……降つてはつもる……そつとしておきき、何処かでしめやかな三味線が、あれ、もう消えて了つた、鳴いたのは水鳥かしら、硝子を透してごらん、小さな赤い燈がゆつくらと滑つてゆく、河上の方に紀州の蜜柑でも積んで来たのかしら……何だか船から喚(よ)んでるやうな……ひつそりとしたではないか、もう一度、その薄い硝子からのぞいて御覧、恐らく紺いろになつた空の下から、遠見の屋根が書割のやうに白く青く光つて疲れた千鳥が静な水面に鳴いてる筈だ。サラリとその硝子を開(あ)けて御覧……スツカリ雪はやんで星が出た、まあ何て綺麗だらうねえ、あれ御覧、真白だ、真白だ。まるでクリスマスの精霊のやうに、ほんとに真白だねい。
   四十四年十一月
冬の夜の物語
女はやはらかにうちうなづき、男の物語のかたはしをだに聴き逃(のが)さじとするに似たり。外面(そとも)にはふる雪のなにごともなく、水仙のパツチリとして匂へるに薄荷酒(はつかさけ)青く揺(ゆら)げり。男は世にもまめやかに、心やさしくて、かなしき女の身の上になにくれとなき温情を寄するに似たり。すべて、みな、ひとときのいつはりとは知れど、互(かた)みになつかしくよりそひて、ふる雪の幽かなるけはひにも涙ぐむ。
女はやはらかにうちうなづき、湯沸(サモワル)のおもひを傾けて熱(あつ)き熱(あつ)き珈琲を掻きたつれば、男はまた手をのべてそを受けんとす。あたたかき暖炉はしばし息をひそめ、ふる雪のつかれはほのかにも雨をさそひぬ。
遠き遠き漏電と夜の月光。
   四十四年一月
キヤベツ畑の雨
冷(ひえ)びえと雨が、さ霧(ぎり)にふりつづく、キヤベツのうへに、葉のうへに、雨はふる、冬のはじめの乳緑のキヤベツの列(れつ)に葉の列に。
あまつさへ、柵の網目の鉄条(はりがね)に白い鳥奴(とりめ)が鳴いてゐる。雨はふる、くぐりぬけてはいきいきと、色と匂を嗅ぎまはる。
ささやかな水のながれは北へゆく。キヤベツのそばを、葉のしたを、雨はふる。路もひとすぢ、川下(かはしも)の街(まち)も新らし、石の橋。
キヤベツ畑のあちこちにかがみ、はたらき、ひとかかえ野菜かついではしるひと、雨はふる。けふもあをあを夏帽子。
小父(をぢ)さんが来る、真蒼(まつさを)に、脚(あし)も顫へて、お早うがんす。山※[「木+査」]子(さんざし)の芽もこわごわと泥にまみるる。立ちばなし。雨はふる。しつかと握る水薬の黄色の罎の鮮やかさ。
「阿魔(あま)つ子(こ)がね昨夜(ゆんべ)さ、いいらぶつ吃驚(たま)げた真似(まね)仕出(しで)かし申してのお前(まへ)さま。」雨はふる。光(ひか)つては消(き)ゆる、剃刀(かみそり)で咽喉(のど)を突いた女の頬。
「だけんどどうかかうか生きるだらうつて、医者どんも云やんしたから。」まづは安心と軍鶏屋(しやもや)の小父(をぢ)さん胸をさすればキヤベツまでほつと息する葉の光。
鳥が鳴いてる……冬もはじめて真実(しんじつ)に雨のキヤベツによみがへる。濡れにぞ濡れて、真実に色も匂もよみがへる。
新らしい、しかし、冷(つめ)たい朝の雨、キヤベツ畑の葉の光。雨はふる。生きて滴(したゝ)る乳緑のキヤベツの涙、葉のにほひ。
   四十四年一月

春と夏とのさかひめに生絹(きぎぬ)めかしてふる雨はそれは「四月」のしのびあし、過ぎて消えゆく日のうれひ。
蕨の青さ、つつましさ、花か、巻葉か、知らねども、その芽の黄(きな)さ、新らしさ……庭の井戸から水揚げて、しみじみと撰(え)る手のさばき、見るもさみしや、ふる雨に。
ひとりは庭のかたすみに、印半纏着てかがみ、ひとりはほそき角柱(かくばしら)、しんぞ寥(さみ)しう手をあてて、朝のつかれの身をもたす古い宿場の青楼(かしざしき)。
しとしとしととふる雨に柱時計の羅馬字も蓋(ふた)も冷(つめ)たし、しらじらと針のWを差すその面(おもて)。
ひとりはさらに水あげて、さつと蕨の芽にそそぎ、ひとりはじつと眼をふせて、楊枝(やうじ)つかへり弊私的里(ヒステリー)の朝のつかれの身だしなみ。
空と海との燻(いぶ)し銀(ぎん)、けふの曇りにふる雨はそれは涙のしのびあし、青い台場の草の芽に沁(し)みて「四月」も消えゆくや、帆かけた船も、白鷺もましてさみしやふる雨に。
もののあはれにふる雨は、さもこそあれや、早蕨(さわらび)のその芽に茎に渦巻きてはやも「五月」は沁(し)むものをなにかさみしきそのおもひ。
春と夏とのさかひめに生絹(きぎぬ)めかしてふる雨はそれは「四月」のしのびあし、過ぎて消えゆく日のうれひ。
   四十四年四月

蒼ざめはてたわがこころ、こころの陰(かげ)のひとすぢの神経の絃(いと)そのうへに、薄明(ツワイライト)のその絃(いと)に、
薄明(ツワイライト)のその絃(いと)に、ちらと光りて薄青く、踊るものあり、豆のごと……雨は涙とふりしきる。
見れば小さな緑玉(エメラルド)、ひとのすがたのびいどろの、頬にも胸にもふりしきる、涙……かなしいその眼つき。
声もえたてぬ奇(あや)しさは夜半(よは)に「秘密」の抜けいでて、所作(しよさ)になげくや、ただひとり、パントマイムの涙雨。
月の出しほの片あかり、薄き足もつびいどろの、肩に光れどさめざめと、歎き恐れて、夜も寝ねず。
金(きん)のピアノの鳴るままに、濡れにぞ濡るれすべもなく、神経の上、絃(いと)のうへ、雨は涙とふりしきる。
   四十四年十月
新生
新らしい真黄色(まつきいろ)な光が、湿(しめ)つた灰色の空――雲――腐れかかつた暗い土蔵の二階の※[「窗/心」]に、出※[「窗/心」]の白いフリジアに、髄の髄までくわつと照る、照りかへす。真黄な光。
真黄色だ真黄色だ、電線(でんせん)から忍びがへしから、庭木から、倉の鉢まきから、雨滴(あまだれ)が、憂欝が、真黄に光る。黒猫がゆく、屋根の廂(ひさし)の日光のイルミネエシヨン。
ぽたぽたと塗りつける雨、神経に塗りつける雨、霊魂の底の底まで沁みこむ雨雨あがりの日光の欝悶の火花。
真黄(まつき)だ……真黄(まつき)な音楽が狂犬のやうに空をゆく、と同時に俺は思はず飛びあがつた、驚異と歓喜に野蛮人のやうに声をあげて匍ひまはつた……真黄色な灰色の室を。
女には児がある。俺には俺の苦しい矜がある、芸術がある、而して欲があり熱愛がある。古い土蔵の密室には塗りつぶした裸像がある、妄想と罪悪とすべてすべて真黄色だ。――心臓をつかんで投げ出したい。
雨が霽れた。新らしい再生の火花が、重い灰色から変つた。女は無事に帰つた。ぽたぽたと雨だれが俺の涙が、真黄色に真黄色に、髄の髄から渦まく、狂犬のやうに燃えかがやく。
午後五時半。夜に入る前一時間。何処(どつか)で投げつけるやうなあかんぼの声がする。
   四十四年十月
四十四年の春から秋にかけて自分の間借りして居た旅館の一室は古い土蔵の二階であるが、元は待合の密室で壁一面に春画を描いてあつたそうな、それを塗りつぶしてはあつたが少しづつくづれかかつてゐた。もう土蔵全体が古びて雨の日や地震の時の危ふさはこの上もなかつた。
黄色い春
黄色(きいろ)、黄色、意気で、高尚(かうと)で、しとやかな棕梠の花いろ、卵いろ、たんぽぽのいろ、または児猫の眼の黄いろ……みんな寂しい手ざはりの、岸の柳の芽の黄いろ、夕日黄いろく、粉(こな)が黄いろくふる中に、小鳥が一羽鳴いゐる。人が三人泣いてゐる。けふもけふとて紅(べに)つけてとんぼがへりをする男、三味線弾きのちび男、俄盲目(にわかめくら)のものもらひ。
街(まち)の四辻、古い煉瓦に日があたり、窓の日覆(ひよけ)に日があたり、粉(こな)屋の前の腰掛に疲れ心の日があたる、ちいちいほろりと鳥が鳴く。空に黄色い雲が浮く、黄いろ、黄いろ、いつかゆめ見た風も吹く。
道化男がいふことに「もしもし淑女(レデイ)、とんぼがへりを致しませう、美くしいオフエリヤ様、サロメ様、フランチエスカのお姫様。」白い眼をしたちび男、「一寸、先生、心意気でもうたひやせう」俄盲目(にわかめくら)も後(うしろ)から「旦那様や奥様、あはれな片輪で御座います、どうぞ一文。」春はうれしと鳥も鳴く。
夫人(おくさん)、美くしい、かはいい、しとやかなよその夫人(おくさん)、御覧なさい、あれ、あの柳にも、サンシユユにも黄色い木の芽の粉(こ)が煙り、ふんわりと沁む地のにほひ。ちいちいほろりと鳥も鳴く、空に黄色い雲も浮く。
夫人(おくさん)。美くしい、かはいい、しとやかなよその夫人(おくさん)、それではね、そつとここらでわかれませう、いくら行(い)つてもねえ。
黄色、黄色、意気で高尚(かうと)で、しとやかな、茴香(うゐきやう)のいろ、卵いろ、「思ひ出」のいろ、好きな児猫の眼の黄いろ、浮雲のいろ、ほんにゆかしい三味線の、ゆめの、夕日の、音(ね)の黄色。
   四十五年三月
汽車はゆくゆく
汽車はゆくゆく、二人(ふたり)を載せて、空のはてまでひとすぢに。今日は四月の日曜(どんたく)の、あひびき日和(びより)、日向雨(ひなたあめ)、塵にまみれた桜さへ、電線(はりがね)にさへ、路次にさへ、微風(そよかぜ)が吹く日があたる。街(まち)の瓦を瞰下(みを)ろせばたんぽぽが咲く、鳩が飛ぶ、煙があがる、くわんしやんと暗い工場の槌が鳴るなかにをかしな小屋がけのによつきりとした野呂間顔(のろまがほ)。青い布(きれ)かけ、すつぽりと、よその屋根からにゆつと出て両手(りやうて)つん出す弥次郎兵衛姿(すがた)、あれわいさの、どつこいしよの、堀抜工事の木遣(きやり)の車、手をふる、手をふる、首をふる――わしとそなたは何処(どこ)までも。
汽車はゆくゆく、二人を乗せて都はづれをひとすぢに。鳥が鳴くのか、一寸と出た亀井戸駅の駅長も芝居がかりに戸口からなにか恍然(うつとり)もの案じ、棚に載(の)つけたシネラリヤ、紫の花、鉢の花、色は日向(ひなた)に陰影(かげ)を増す。悪戯者(いたづらもの)の児守さへ、けふは下から真面目顔(まじめがほ)、ふたつ並べたその鼻の孔(あな)に、眇眼(すがめ)に、まだ歯も生えぬただ揉(も)みくちやの泣面(なきつら)のべそかき小僧が口の中(うち)蒸気噴(ふ)きつけ、驀進(まつしぐら)、パテー会社の映画(フイルム)の中の汽車はゆくゆく、――空飛ぶ鳥のわしとそなたは何処(どこ)までも。
汽車はゆくゆく、二人を乗せて、広い野原をひとすぢに。ひとりそはそは、くるりくるくる、水車(みづぐるま)廻る畑(はたけ)のどぶどろに、葱のあたまがとんぼがへりて泳ぎゆく、ちびの菜種の真黄(まつき)いろ堀に曳きずる肥舟(こえぶね)の重い小腹にすられゆく。さても笑止や、垣根のそとで障子張るひと、椿の花が上に真赤に輝けば張られた障子もくわつと照る、烏勘左衛門、烏啼かせてくわつと吹くよかよか飴屋のちやるめらもみんなよしよし、粉嚢(こなぶくろ)やつこらさと担(かつ)いで、禿げた粉屋(こなや)も飛んでゆく。蒸気噴(ふ)き噴き、斜(はすかひ)に汽車はゆくゆく……椿が光る。わしとそなたは何処(どこ)までも。
汽車はゆくゆく二人を乗せて空のはてまでひとすぢに。硝子窓から微風(そよかぜ)入れて、煙草吹かして、夕日を入れて、知らぬ顔して、さしむかひ、――下ぢや、ちよいと出す足のさきついと外(そら)せばきゆつと蹈む、――雲のためいき、白帆のといき河が見えます、市川が。汽車はゆくゆく、――空飛ぶ鳥のわしとそなたは何処までも。
   四十五年四月
梨の畑
あまり花の白さにちよつと接吻(きす)をして見たらば、梨の木の下に人がゐて、こちら見ては笑うた。梨の木の毛虫を竹ぎれでつつき落し、つつき落し、のんびり持つた*喇叭で受けて廻つては笑うた、しよざいなやの、梨の木の畑の毛虫採のその子。
* 紙製の喇叭見たやうなもの
   四十五年四月
河岸の雨
雨がふる、緑いろに、銀いろに、さうして薔薇(ばら)いろに、薄黄に、絹糸のやうな雨がふる、うつくしい晩ではないか、濡れに濡れた薄あかりの中に、雨がふる、鉄橋に、町の燈火(あかり)に、水面に、河岸(かし)の柳に。
雨がふる、啜泣きのやうに澄(す)みきつた四月の雨が二人のこころにふりしきる。お泣きでない、泣いたつておつつかない、白い日傘(パラソル)でもおさし、綺麗に雨がふる、寂しい雨が。
雨がふる、憎くらしい憎くらしい、冷(つめ)たい雨が、水面に空にふりそそぐ、まるで汝(おまへ)の神経のやうに。薄情なら薄情におし、薄い空気草履の爪先に、雨がふる、いつそ殺してしまひたいほど憎くらしい汝(おまへ)の髪の毛に。
雨がふる、誰も知らぬ二人の美くしい秘密に隙間(すきま)もなく悲しい雨がふりしきる。一寸おきき、何処かで千鳥が鳴く、歇私的里(ヒステリー)の霊(たましひ)、濡れに濡れた薄あかりの新内。
雨がふる、しみじみとふる雨にうち連れて、雨が、二人のこころが啜泣く、三味線のやうに、死にたいつていふの、ほんとにさうならひとりでお死に、およしな、そんな気まぐれな、嘘(うそ)つぱちは。私(わたし)はいやだ。
雨がふる、緑いろに、銀いろに、さうして薔薇(ばら)色に、薄黄に、冷たい理性の小雨がふりしきる。お泣きでない、泣いたつておつつかない、どうせ薄情な私たちだ、絹糸のやうな雨がふる。
   四十五年五月
そなた待つ間
チヨンキナ、チヨンキナ、チヨンキナ踊を、けふの踊をひとをどり。
そなた待つとて、いそいそと、岡を上(のぼ)れば日が廻(まは)る、雲も草木もうつとりと、それかあらぬか、わがこころ円(まる)い真赤(まつか)な日が廻(まは)る。
チヨンキナ、チヨンキナ、チヨンキナ踊を、岡の草木がひとをどり。
そなた待つとて、ピンのさき池に落せばくるくると、生きて駈けゆく水すまし、それかあらぬか、投げ棄てたマニラ煙草の粉(こ)の光。
チヨンキナ、チヨンキナ、チヨンキナ踊を、池の面(おもて)がひとをどり。
そなた待つとて、夏帽子投げて坐れば野が光るほけた鶯すみればな、それかあらぬかたんぽぽか、羽蟻飛ぶ飛ぶ、野が光る。
チヨンキナ、チヨンキナ、チヨンキナ踊を、楡(にれ)の羽蟻がひとをどり。
そなた待つとて、そはそはと風も吹く吹く、気も廻る。空に真赤な日も廻る。それかあらぬか、足音か、胸もそはそは気も廻る。
チヨンキナ、チヨンキナ、チヨンキナ踊を、白い日傘がひとをどり。
* チヨンキナの繰返しはやはりチヨンキナの囃子にて歌ふ。
   四十五年五月
薄荷酒
「思ひ出」の頁(ペエジ)にさかづきひとつうつして、ちらちらと、こまごまと、薄荷酒を注(つ)げば、緑はゆれて、かげのかげ、仄かなわが詩に啜り泣く、そなたのこころ、薄荷ざけ。
思ふ子の額(ひたひ)にさかづきそつと透かして、ほれぼれと、ちらちらと、薄荷酒をのめば、緑は沁(し)みて、ゆめのゆめ、黒いその眸(め)に啜り泣く、わたしのこころ、薄荷ざけ。
   四十五年四月
白い月
わがかなしきソフイーに。
白い月が出た、ソフイー。出て御覧、ソフイー。勿忘草(わすれなぐさ)のやうなあれあの青い空に、ソフイー。
まあ、何(な)んて冷(ひや)つこい風(かぜ)だらうねえ、出て御覧、ソフイー。綺麗だよ、ソフイー。
いま、やつと雨がはれた――緑いろの広い野原に、露がきらきらたまつて、日が薄(うつ)すりと光つてゆく、ソフイー。
さうして電話線の上にね、ソフイー。びしよ濡れになつた白い小鳥がまるで三味線のこまのやうに留つて、つくねんと眺めてゐる、ソフイー。
どうしてあんなに泣いたの、ソフイー。細(こま)かな雨までが、まだ、新内のやうにきこえる、ソフイー。――あの涼しい楡の新芽を御覧。
空いろのあをいそらに、白い月が出た、ソフイー。生きのこつた心中のちやうど、片われででもあるやうに。
   四十五年四月
芥子の葉
芥子は芥子ゆゑ香もさびし。ひとが泣かうと、泣くまいとなんのその葉が知るものぞ。
ひとはひとゆゑ身のほそる、芥子がちらふとちるまいと、なんのこの身が知るものぞ。
わたしはわたし、芥子は芥子、なんのゆかりもないものを。
   四十五年五月 
■余言 
本集名づけて東京景物詩と呼べども、その実は「邪宗門」以後に於けるわが種々雑多の異風の綜合詩集にして、輯むるに殆ど何等の統一なし。ただ何れもわがひと頃の都会趣味をその怪しき主調とせるは興趣相同じ。作品の多数は四十三年「PAN」の盛時に成れるものの如く、且つ又邪宗門系の象徴詩より一転して俗謡の新体を創めたるも概ねその前後なり。なお最近大正の所作はこれに加へず。此集もと昨春或はその前年末にも公にすべかりしも、人生災禍多く些か上梓の時機遅れたるを憾みとす。
東京、東京、その名の何すればしかく哀しく美くしきや。われら今高華なる都会の喧騒より逃れて漸く田園の風光に就く、やさしき粗野と原始的単純はわが前にあり、新生来らんとす。顧みて今復東京のために更に哀別の涙をそそぐ。
   大正二年 初夏   相州三崎にて
   著者識  
北原白秋と『東京景物詩』
明治37年、19歳の時に上京した白秋は明治41年に木下杢太郎、上田敏らと文芸懇話会「パン(ギリシャ神話の牧畜、狩猟の神の意)の会」を起こし、隅田川河畔で日夜芸術論を戦わすなど、正に白秋にとって青春の花期にあたる時期を送った。処女詩集『邪宗門』(明治42年刊)、『思ひ出』(明治44年刊)、『東京景物詩』(大正2年刊)には、「パンの会」時代に書かれた東京を中心とした官能的、唯美的傾向の詩が収められている。
第2詩集『思ひ出』が、郷土や幼少への愛着が基底となっていたのに対し、『東京景物詩』は、表題どおりに都会や青春に対する情緒が中心となっており、享楽的な面も多い。しかし、その享楽は『邪宗門』ほどには濃厚でもどぎつくもなくて、よりやわらかく軽く、ダンディなものである。近代的な東京風物をモチーフとしたり、一時代前の江戸情緒的要素を加味して下町的な気分を表現したりすることにより生まれたもので、白秋が多用した新俗謡体は、民謡、歌謡のスタイルでより情緒的に都会を描写するのに適していた。「片恋」の詩の<ちるぞえな>や組曲に収められている「カステラ」の<ほんに、何とせう、>のような江戸時代の言葉を思わせるゆるやかな語感とひらがなの表記が、やわらかい情緒をおぼえさせる。この「片恋」について、<わが詩風に一大革命を惹き起こした−私の後来の新俗謡体はすべてこの一篇に萌芽して、広く且つ複雑に進展して居つたのである>と白秋自身、書いている。
またこの詩集では、1人の人妻と恋に落ちたことも題材になっている。明治43年9月原宿へ転居した白秋は、隣家の人妻松下俊子と知り合い、不幸な結婚生活を送る俊子への同情の気持ちも相俟って恋に落ちる。その秘恋への悩みは切々と詩に綴られている。苦悩して居を転々と移す白秋のもとに、明治45年離婚を宣言されたと俊子が訪れるが、彼女の夫は法的に離婚は未だ成立せずと白秋を姦通罪で告訴。白秋と俊子は市ヶ谷未決監に2週間拘束される。これにより白秋の盛名は一時に失墜した。しかし、世間の指弾以上に白秋は罪の意識に苦しみ、しばらくは狂気寸前の錯乱状態となり、8月飄然と木更津に渡ることになる。大正2年、俊子と正式に結婚し、新生を求め三崎へ移住。そして7月『東京景物詩及其他』の刊行となった。
白秋自身、<この詩集は種々雑多の異風の綜合詩集であり、何ら統一はない>と言っている。しかしそこには白秋の東京への深い思い入れが感じられる。
1.あらせいとう / 1人であらせいとうのたねを取る子どもに、俊子を幸福にできない苦しみに涙を流す自分の姿を託している。2人でよく行った植物園に、赤い夕日が沈む情景がさらに哀しみを誘う。
2.カステラ / 当時あまり口にすることのできなかったカステラの甘さとふちのしぶさ、そして、カステラを食べる嬉しさとほろほろとこぼれる粉から連想する眼からこぼれ落ちる涙の対比が、恋することの喜びとそれに付き物の恋の苦さを物語っている。
3.八月のあひびき / 不幸な人妻俊子に恋をしてしまった白秋は、転居を繰り返したが、その思いを振り切ることができず、傾斜面を滑り落ちるように、深みにはまってゆく。俊子への同情の思いと許されない恋愛関係への迷いで、万物がすすり泣いているような幻想に襲われる。
4.初秋の夜 / 嵐が去った夜。その名残で、稲妻がまだ幽かに聞こえ、海は轟いてはいるものの、空には星、綿雲、そして十六夜の月。そして一面の虫の音が聞こえてくる。遠近の対比と視覚的、聴覚的描写が、やや肌寒い初秋の夜を想像させる。
5.冬の夜の物語 / 寄り添うようにして男の話を聞く女。そして、一時の偽りとは知りながら、女の愛に応える男。寒い雪の夜の白秋と俊子を映画のように視点を近づけたり遠ざけたりして物語的に描写することが、同情から生まれた煮え切ることのない愛を暗示する。
6.夜ふる雪 / 「邪宗門」の系譜から一転した俗謡調の詩。七五調のフレーズが4分の5拍子のリズムに乗って、津々と降りしきる雪を表している。そして、その雪降る夜の闇の中へ「見えぬあなた」を思いつつ1人寂しく白秋は遠ざかってゆく。  
 
北原白秋について 美輪明宏

 

さて今日は1月25日。私も大好きな日本の偉大な詩人で同様作家、北原白秋の生誕130年の記念日でございます。素敵な叙情歌の歌詞をたくさんお作りになった方ですよ。
「♪あめあめ ふれふれ かあさんが じゃのめで おむかい うれしいな ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン」これは作曲家が中山晋平という作曲家で、この方もまぁ量産して素晴らしい曲をたくさん作った方ですね。
その他は『この道』という曲もご存じでしょう、みなさま?「この道はいつか来た道ああ そうだよ」作曲家は山田耕作さん。山田耕作さんとの曲が多いんですけど、本当に短い歌詞でありながら、すばらしい多くのものを表現する。そういう詩でございましたし、韻を踏んでたり、五七五になってたり、とても歌いやすく作ってありますね。簡単な詞の中に多くの意味を含めてる。素晴らしい詩ですね。
北原白秋、この方は1885年、明治18年に生まれて1942年57歳で亡くなりました。昭和に手掛けた童謡作品は1200編以上ですよ。すごいですね。「♪この道は…」っていうのとか、あと「♪まちぼうけ まちぼうけ」「♪ゆりかごの歌を カナリヤが歌うよ」とかね。「♪海は荒海 向こうは佐渡よ…」『砂山』など。
作詞は曲作りの中でも一番難しいんですよね。言葉をいかに平易で分かりやすく作るか。ちっちゃい子どもでも分かり易いようなのを選ばなくちゃいけない。それでいて非常に純文学に近いような気品のある言葉選び、並べ方。そういうことを考えて作ってあるんですね。
詩人としての評価も超一流でございまして、森鴎外とか芥川龍之介、石川啄木。こういった文豪たちに絶賛されまして、この方は色んな他の芸術家とも交流があって、一緒に九州をずーっと旅して歩いて、素晴らしい作品をその間にお作りになったりしてるんですね。
なかでも有名な詩集は『邪宗門』。ご存知の方も多いと思います。これは私の故郷の長崎に訪れたのちに、南蛮文化に感動して書いた作品なんですね。
白秋の作品に魅かれるところは、まず本当に読んでて聴いてて、優しくなるということですね。これは、文学の持っている役目って言うのはそういうことなんですね。つまり本来持っている人間の優しさを取り戻す。そういうものがこういう童謡なんですね。  
 
白秋『邪宗門』序文の詩論について

 

明治の所謂新体詩は新しい様式の主張であるゆえに、明治期に刊行されたその集の序文には作者の詩論のうかがえるのが目につく。その中で白秋の『邪宗門』の序文は象徴詩について述べていることにより、有明の『春鳥集』自序とあわせて考えられるふしがあるはずであるが、同じように象徴詩とはいうものの時期と個人差とがどのようにその詩論を性格づけ関係づけているのであろうか。
白秋は例言の終りに『邪宗門』刊行が有明の好意による旨を明らかにしており、とにかく何かの意味でこの序文に記す所は有明の主張を意識していると推測できるであろう。尤も刊行当時はどの文芸上の結社にも党派にもくみせずそれによる「覊絆と掣肘とを放れて、予は予が独自なる個性の印象に奔放なる可く、自由ならんことを欲する」とも述べてその自立性の強いのを明らかにしている。しかしこれは新詩社を脱退して自らの道をゆこうとした事情が最も強く映され、作品と詩論とに直接かかわることではない。詩論と直接かかわる文章はまず例言中の三番めと四番めとであるが、それも詩論だけを述べようとはせず、当時の他の詩人達にまた批評家に対して自らを主張しようとの意識が非常に強く働いている。従って白秋の象徴詩論を究めるには、彼が反撥しようとした詩や批評というものを探らねばならぬであろう。
まず表面だけを眺めて手がかりをえ易い集中での形式については「そが表白の方法に於ても概ねかの新しき自由詩の形式を用ゐたり。」と述べていて、当時の詩界の志向する所に迎合したことを示すと考えられる。所で白秋には改造社刊の『日本文学全集』第三七巻にのせた「明治大正詩史概観」があるが、それによるとこの例言とつながる自由詩はその提唱と推移のありかたとより口語自由詩のはずなのである。しかし、制作年代も新しく而も巻頭にのせてこの集を代表すると思われる「邪宗門秘曲」の第一節をみると、七五五七、五五五七、五五五七、五七五七の四行よりなる。言葉も文語である。また件の概観中にも明治の定型律の例として藤村の七五、五七、八七、泣菫の八六、七四、六五、有明の五一二、三三・四一二、一三ニ・三回、四七六などと並べて、集中に「天草雅歌」の総題のもとに収めた「角を吹け」の五五五の形をあげている。明治四十一年十一月の『明星』にのせたこれは、制作年代はやや古いが邪宗門詩風の曙となったのである。尤も言葉の排列については有明のなどよりもっとやわらかみが考えられてはいるが、相馬御風が最も強く主張したという自由詩とはへだたっているだけでなく、後年彼自身も定型律の中に入れた『邪宗門』中の詩篇についてこう強く自由詩としたのには詩界の動向についての非常な配慮があるのではなかろうか。定型律の批判に伴なう自由詩の提唱に際して最も注目すべき詩集となった『有明集』に対する批評のうち『帝国文学』のそれは、新体詩界の結社なり党派にはよらず『帝国文学』という雑誌のもつ文学全体の指導という客観的立場よりの批判としてよくその性格と位置とを捉えているだけに、これの内容が例言の文章とつながるのに注意される。即ち新鮮な感情を理知で処理するという思索の弄びすぎのために切実な興趣を喚起せず、「ウエルレエヌを始め仏関西象徴詩派の人にそれから現英のイエエツなどのに見ても、音楽のひびき声調のうねりが貫いて居るのに反し、有明氏の詩歌には声調の美は甚だ乏しい」とはうらを返せばそのまま例言での主張となる。そのうえ、一方では小説中心に自然主義ということが盛んになってぎた明治四十一年頃に於て新体詩界の第一人者は有明と明言してそれは広い意味での自然主義の勝利と述べられている(生田長江「自然主義論」明治四一年一一一月『趣味』所収、『現代文学論大系』二巻による) だけではなく、『有明集』を批判はしてもまだそれにかわる新しい詩が確立しておらず一種の混乱別であったことが『帝国文学』の雑報欄やまた衰退を示しはじめた『明星』のありかたなどにうかがえる。そうした時に『有明集』批判を地盤としてそれにかわる詩の主張を意図することは新体詩界の注目をあびるはずである。そのための誇張がこのような白山詩という言葉の使用に表われたと思える。となると『有明集』の批判の言葉ときわめて密接につながる情緒万能の無思想性と音楽的象徴との主張にも実際とは異なる誇張がありはせぬか。
白秋は先にも引用した後年の「概観」に有明のことを「明治の全期を通じて最も近代額唐の燕習深く、万法に照応し、常に象徴詩林の首座に在った詩宗はおそらくこの人であろう。」といい、『有明集』を評しては有明を象徴する彼の最高の集成芸術として「いささか理智と思念に工み、悪の秘存を趣味し、或は霊蝕の陰影を濃く彫塑し過ぎたかも知れぬ。然し乍ら、この詩人のごとく、日本語葉の音韻を聴き、微妙の響と色とを黒髪のごとく生かして綜ね絢うた名匠は新体詩草創以来曽て無かったと言ってよい。」とまでいう。もとより青年客気の際と齢不惑をすぎて反省的態度をとれるようになったのとでは感じかたや語調に変化を来すのは当然であるが、白秋の詩人としての秀れた豊かな感受性を考えると、有明への評価がそれほど大きな変化を米すとは思えぬ。古典などについては経験のつみ重ねにより次第にその本質を会得するようになるのはあるものの、同時代の同じ詩作に努める者として僅かに先技後続の関係にある時にはやはりその作品の表われた当時のほうが新鮮な感覚によって味わいえたはずであろう。そのうえ、彼自身その詩人的出発当時を客観的に「白秋は『文庫』の典型と戸調とに倦厭たると共に自己の美辞麗句詩をも一蹴し」て『明星』へ飛躍したが「彼はまた先進の光耀と楽調とに多々恵まれた者の一人であった。彼、朱の阿前陀帆船の舵機は目まぐるしく動いた。彼は海湖立日の新航路に於て危ふく有明の黒船に衝突しようとした。云々」(「明治大正詩史慨観」)と記しているのは軽く見すごせぬのではなかろうか。この文章のとおりに解釈すると、末梢的な技巧だけで詩的情感をもたぬ彼自らの作品の否定が『邪宗門』の諸作品となっているのがうかがえるだけではなく、象徴詩の創作に努めたことで有明の詩に対抗しようとしたかにうけとれる。しかし、先人がすでに詩の世界に於て蹄しい道を聞いてくれたのにやす/\と乗ることができたのをものべている次第で、単純な判断は下せぬのである。文章表現のうえでは、その登場の時期の詩の状況を考えて『有明集』を強く否定する努勢をとるものの実際には有明を学んで象徴詩を作ったとするのが正しいと思える。それでは白秋の有明より学んだものは何か、白秋自身の純粋な象徴詩の主張は何か。
『邪宗門』ではいろ/\な総題のもとに各詩篇がまとめられているが、その総題の解説のようなぐあいで散文がつけられている。その体裁よりこれらは序文の言葉を更に補うとうけとれる。その中で「魔臨」と「外光と印象」とは長田秀雄と太田正雄とがかいているが、文章の調子と内容とがはっきりまとまっていることとその体裁が巻頭と「朱の伴奏」という白秋の主観調の文章で緊張をやわらげてその後におかれたと思えることとより最も重要な意味をもっとみられる。『有明集』刊行当時を回想した有明の文章に「川路氏の口語詩は河井酔若氏が出してゐられた「詩人」誌上で発表されたのであるが、強烈な外光の下で種々雑多な色と音とを交錯反映する港の印象的の描写などを見て、わたくしは確かに新芸術が生れたと思った。」(大正一一年『有明詩集』自註)とあるのは、外光の印象拙写が有明の象徴詩にはなく新しい詩歌の最も鮮かな特色とな司たのを示す。その典拠がフランス印象派の絵画であることは太田正雄の件の文章に明らかである。所で、文学と絵画との関係はすでに有明にも画家詩人ロセッチに傾倒し藤島武二・青木繁などの画を素材とするのがあり、『明星』にも画の展覧会の批評があるほか鴎外にも西欧の絵画の流派の紹介や解説があるというぐあいに明治の新しい文学は西欧の新しい絵画に学ぼうとして展開してきている。しかしそれはどこまでも附随的なのに比し、『邪宗門』に於ては積極的に手法の採用を宣言し強烈な真夏の外光の状景などをうたう。
「魔眼」のほうは当時の『帝国文学』をのぞくだけでもうかがえるマアテルリンクの作品の紹介と関係がありはせぬか。「現代青年の悲京」(四O年四月「雑報」欄)がかかれ、世紀末ということも輸入されているのがしられるだけではなく、激石や木下尚江などの小説に藤村操の哲学的自殺が云々されるなど日本でも転換期の不安が或程度の現実性を以て青年達に感じられていたと想像できる。心のうちに陰併な死の節奏を感じるという長田秀雄の文章の背後にはそうした時勢の不安の感情がひそむと思えるが、ここで注意せねばならぬのは陰部といい死というものの長田秀雄の文章には少しも不安のかげはみられぬことである。つまり「魔限」の文章は普遍的な底辺を時勢にもつが、個人的にはその末梢部分の現象だけがうけとられたのを示している。となれば件の文章中の何らかの象徴らしく綴られる「すすりなく黒き部破、歌うたふ硝子のインキ輩、云々」との言葉はただ感覚を刺戟するだけの道且円であるにすぎぬ。それだけに一層神経を麻梓させるほど刺戟的であることが必要で「魔睡」ということになるわけである。そして巻頭の「邪宗門秘曲」中の刺戟的なエキゾチックな言葉はことんt・、くこの要求に応じている。
とにもかくにも、このように時勢などとの関係で今までのものを更に進めた積極的な主張が白秋の二人の友人の文章によって示されるのに比し白秋自身の言葉はどうであろうか。単に紀行中の作であるのをいうだけの文章を除くと「朱の伴奏」と「古酒」とが詩論とつながる。そのうち「古酒」はこの詩集中では古い時期の作品であるのを示し、その内容は上田敏らによりすでに紹介されてむしろ象徴詩をしる者には常識であるはずの官能交錯の実際を述べ自らの習作ともいえる詩篇の象徴のほのかなにおいを示そうとしたもので、白秋のまとまった言葉は何もない。「米の伴奏」は「凡て情緒也。」というが、『明星』の終刊号(四一年一一月)に太田水穂が「最近文芸史上に於ける明星詩派の位置」と題して「明星詩派」を概観し維新以後の明治の新しい文芸はロマンチックの趣をもつが「此の内ことにその特性を発揮して空想の跳躍に委した趣のあるのが、明星詩派であるのだ。明星詩派は真にわが国最近に於ける情緒主義の田町騰的極致と云へよう。」と記している。つまり情緒万能は今吏のように述べるまでもなく『明星』中心に特に培われているのは周知のことなので為る。情緒というだけではこのように何ら積極的な主張の意味はないが、続けて心の動き情緒のあらわれを「紅の戦慨に盲ひたるヰオロンの響」として、あるいは「赤き絶叫のなかにほのかに出叩けるこほろぎの音」として捉えている所に音楽的象徴としての主張があるかと思われる。更に「紅の戦傑」「赤き絶叫」など心理現象に色をみることに独自性を示そうとしたとうけとれぬでもないが、もと/\官能の交錯は近代象徴の手法として上田敏が紹介し、有明が強く示している。ただ特にとりたてて音楽と結びつけようとせぬだけである。尤もこの音楽的象徴ということは先にもふれたように『有明集』批判の意識とも強く結びついているのは否めぬ。しかし、白秋の作品そのものの系列を眺めるとうたえるようなリズムのあるのが多い。『邪宗門』中の詩篇は白秋の生来的なものを自由にうたいあげた『思ひ出』の詩篇と比較するとかなりかたいが、それでもうたえる調子がひそむのは見逃せぬ。要するに音楽的象徴とは、理論的に自己の主張として究めていったのではなく、白秋に生来的なうたえるリズム感が正面におしだされたという非常に個人的な好みと資質とを強い支えとすることがいえると思う。市もそれが丁度時をえたということがあたかも新しい象徴詩の理論のように装わしめたといえるのであろう。
以上のようにみてくると、積極的な主張は友人によるのであって白秋自身のは非常に消極的で倒人の本来的なものに根ざしていることになる。この二人の友人は白秋によれば白秋と共に「昼革派の延長であった『明星』にとっては異様新装の外来人であった。」のであり、長田秀雄は「若きに似ず、グロテスクな一種の桃成派で」「深沈と狙ひ、工みて構成し」太田正雄は「医科大学生であり、洋画のアマチコアであり、美、殊に近代趣味の探究者であった」(「明治大正詩史概観」)と記している。この文章より世代的に共通でゐる三人が同じ新しい詩歌の創作に努めつつそれぞれの性質と学殖とを補いあう関係にあるとしられ、白秋のもちあわさぬ新知識の愉入と理論構成とをこの二人がうけもつ形になっているのが『邪宗門』を成立させることになったとみられるのである。このようにして、『邪宗門』中の直接作品とつながる文章の検討に於て白秋個人の詩人的資質が詩についての知識と理論以外に非常に強く働きそれが今までの詩にない新鮮さをもつのがうかがえたが、序文中の特に作品と密着してそれの効果をみめげるよう留意され而もその象徴詩論めいたものを述べた文章には、なおのこと白秋の生来的なものがその詩の新しさとなって主張されているのがうかがえるはずと思える。
それは「邪宗門扉銘」とあわせて考えねばならぬが、この扉銘がダンテの『神曲』の地獄界三歌の地獄門上の彫文に則っているのは−見して明らかである。文章表現の上では上田敏の『詩聖ダンテ』の解説と鴎外の『即興詩人』中の訳とを換骨奪胎したといわれているが、そういうのは単に文章だけの問題ではなくかなり重要な意味があるように思える。もと/\『神曲』が早くわが新体詩人達にもしられていたことは夙に有明などの回想に記されているが、明治三十四年に刊行された敏の『詩聖ダンテ』が好著として迎えられて正確な知識をあたえることになり、近代象徴詩の方法の一端も示されたのである。そして『めざまし草』などにのった鴎外の解説も有明の象徴詩に大きな導きとなっていることは『飛雲抄』中の諸文章に明らかである。鴎外訳の『即興詩人』の刊行が明治三十五年であるのを考えると、この主人公の『神曲』への傾倒感激は時宜に応じて新しい文学に志す者達の心の糧となったに違いない。それを裏付けるかのように『邪宗門』中の詩篇には件の『即興詩人』より何らかの材や暗示をえたかと思える作品がみられるのである。つまり一郎銘の文章の表現には新しい詩歌の動きの系譜がうらうちされているといえる。一扉銘の内容はといえば、これにつづく文章の内容を最も端的に示している。従ってその内容の説明は後の文章にあることになるが、この文章の表現の限りではこの文章の性質は説明することでも主張することでもないと考えられる。極めて主情的に感動をあらわすのに重点をおいた文章とうけとれるのである。構造内容を分析検討してみると、表現商だけで感じとれる主情性は実際の作品と相侠って白秋の象徴詩の特色をしりうる鍵となるのではないか。
冒頭の「詩の生命は暗示にして単なる事象の説明に非ず。」は一応一般的な詩のありかたを述べたとうけとれるが、文章全体の中での位置をみると、これだけが遊離している。このような書きかたは以下に展開されるはずの本論のいとぐちとして普通なのであるが、この序文ではこの言葉をもととして詩論はくみたてられず限の多い心のうちが象徴と結びつけて語られる。このような性質を異にする文章が安易に結びあわされているのは何故であろうか。もと/\詩に於て暗示の妙をつくすことが目標であるのは倣の『詩型ダンテ』中にすでに自明のようにかかれている。有明が『春鳥集』自序で説いた象徴詩論も陥示の妙をつくすための方法が採られているのである。新体詩、その中でも特に象徴詩を創ろうとする者は当然心えておらねばならぬ事柄のゆえに、白秋の頃にあっては一層理論的意識なしに本性的にうけとられることは推測できる。そうした性質の言葉となれば主情性の文章とはすなおに結びつくのである。それにつづく「わが象徴の本旨」と述べた文章が序文中の中心であるのは序文のもつ意義より明らかである。しかし、これだけではその主情性のゆえに論理のすじをおいがたいが、『海湖音』の序文の象徴の用を云々した文章とつながるふしがあるように思える。『海湖音』での「詩人も未だ説き及ぼさざる言語道断の妙趣」が「詩人の観想に類似したる一の心状を読者に与」えることを意図する象徴の方法によって表わされるとする解釈により、白秋のいう所を文章にも言葉にも表現しがたい情趣が心のすすりなきと音楽のたのしみとによって表わされようとするのがその象徴詩としているとすれば意味が明らかにとおるのである。先にみた例言のいう所とも通じるのであるが、この三者を比べてみると、『海糊音』のは最も論理的で普遍客観的に象徴詩の効用を説明している。『邪宗門』の例言では白秋が用いた象徴の方法は示され一応その作品を客観的に扱う所よりのべられているのに比し、象徴詩を創る心の経過が作者のがわより述べられるのがここの文章で、「わが象徴の本旨」とは象徴詩創作を求める白秋の心そのものであるのに気がつく。普遍的な象徴詩の概念に根ざして白秋の解釈し主張しようとする象徴の本質ということは意味せぬのである。尤もここの文章より白秩の創造の心とその作品との関係にうかがえる特色を客観的に把えることはできるのであって、それを感傷と享楽とで表現できるのではなかろうか。
それにつづく「されば我らは神秘を尚び」以下の文章は、集中の作品に示された白秋の好むままのうたいぶりと素材とを述べていることは一見して明らかである。しかし「神秘を尚び」「夢幻を歓」ぶことは「腐欄したる額唐の紅を慕ふ」のとどうつながるであろうか。文章の表現面と作品との関係より眺めて、「波霧」という作品を背景にして「青白き月光のもとに歌献く大理石の咲歎」は神秘のかげをもまとう頼れた官能を表わし、「暗紅にうち濁りたる挨及の濃霧に苦しめるスフィンクスの随」は題名と表現とに特に音楽的効果を狙っている「鈴の音」により人生の不可思議に思い至った詩人の哀愁が幻想的象徴をここにえたものとしられる。「落日のなかに笑へるロマソチッシュの音楽」とはタγホイザlの楽劇によって醸される幻想に心のうちを表わす「序楽」という作品を意味するものであろう。このようにして実際の作品を媒介にして神秘を尚ぶことと額唐の紅を慕うデカダンスとは極めて密着しているとしられるが、「幼児疎殺の前後に起る心状の悲しき叫」のばあいは、ここに挿入された石井柏亭の「幼児傑殺」と題する版画とつながる。そして幼児棟殺だけでキリスト誕生時のヘロデ王によるそれを想いおこす。白秋もそれをいうとは件の版画の示す所で、かくてキリスト教が邪宗とされた昔の事より『邪宗門』という題名及び白秋らの詩の仲間を「我ら近代邪宗門の徒」とすることとの密接な関係を考えねばならぬこととなる。その際手がかりとなるのは同時に創作の秘密をもうかがわせるものとして巻頭の「邪宗門秘曲」という作品をあげうる。ここではキリスト教の本質と歴史とには何の関係もないただ文字どおりの邪宗という言葉にまつわる幻想の展開だけがある。キリスト及び殉教者の流した血は末梢感覚を強烈に刺戟するものとして魔法という怪奇な幻惣の道具だてとなるにすぎぬa 而もその幻想は色彩的には極めて鮮かな美麗さと輝きとをもち感触・呑気に於ても非常に豪華に展開されているのである。従って幼児疎殺はへロデ王のことと本質的関係はなく現象面だけで邪宗との結びつきに一層の怪奇と残虐性をおびたものとして刺戟的に用いられたと容易に解釈できるu 心状の悲しき叫も要するに刺戟性の感覚的なものにすぎず、近代邪宗門の徒も好んで末制感覚の刺戟をうたう者を立味することも自ずから明らかとなる。更にここに至って、個々の作品を主にふまえて述べていたのが詩集全体のもつ感じを縁はありながら作品中にそのままでは求められぬ言葉でもっと刺戟的に語る姿勢をとるようになっているのも認められる。このような姿勢の変化は、一応は文章構成の上より最後のまとまりをつけるためのもりあげを図ったとするのが正しいように思える。かくて「黄蝋の腐れたる絶間なき痩鯵」「ヰオロγの=百絃を擦る峡覚」「公硝子にうち嘘ぶウキスキイの鋭き神経」「人間の脳髄の色したる毒草の匂深きためいき」「官能の施睡の中に疲れ歌ふ鴬の哀愁」はそういう姿勢のもとにつづられた言葉ではなかろうか。
腐れたものをうたうのは「腐れたる石の油に画くてふ」(邪宗門秘曲)「わかき日のその夢の呑の腐蝕」(室内庭園)「腐れたる曲の緑」(天鵡紋のにはひ)などと非常に多いが、ヰオロソを伯明党で把えるのは「かかるとき、おぼめき摩る Violon のなやみの絃の手触のにほひの重さ」(蜜の室)をあげるえようか。円以硝子とウイスキーの配合は実作にはなく欄熱をうらうちした陰岱を表わすものとして公硝子をとりあげ都会的な感覚をウイスキーで表わすのがみられる。毒草も魔睡も『邪宗門』中の主な素材ながら序文中の言葉と密着する用例はみえぬ。而も序文での言葉のほうが作品よりも更に刺戟的なのである。もと/\序文は本文を解説してその効果をあげる役をなすもので従属性のものでなければならぬ。所がここの文章は元来散文詩の趣をもっ序文全体の中で特に醜と怪奇と欄れとに徹し最も額廃的で、起される幻想に伴なう感傷は他の部分より少い。つまりこの部分は単に詩篇にだけ地盤をもっとは考えられぬ独自的な強さが認められる。となるとこれが何によりかかっているかを探らねばならぬが、そこで考えられるのは自然主義文学との関係である。
この序文のかかれた明治四十二年一月当時はすでに小説の世界では『破戒』のあと『部団』に一応自然主義小説としての完成をみ、自然主義文学についての評論が最も盛んに行われている。そしてこの序文執筆に何らかの意味で最も影響を及ぼしたはずの四十一年には白鳥の『何処へ』花袋の『一兵卒』『生』虚子の『俳諮師』藤村の『春』荷風の『あめりか物語』激石の『三四郎』などが発表され、ここには所謂自然主義文学とはされぬのも含まれそれん\ニュアンスを異にしつつ青年の虚無性が共通に潜む。その虚無性は現象的には本能の快楽だけをおい末梢感覚の刺戟を弄するだけのことと直接に結びつくものである。要するにこれはヨーロッパの自然主,義文学とある程度かよう文学的地盤がわが国にもいろいろな社会状勢との関係ででき、それが非常に強く文学全般に影響するようになったことの表われとみられる。従って白秋もこうした文学的地盤にたつはずで、散文形式に於て本能の追究が充分開かれたのに容易にのりえて自由に述べえたのではなかろうか。韻文形式では、自然主義の主張を結突させようとする過程にあって白秋のいう自由詩もまだそれまでの定型律にもとづくのは先にもふれた所である。とにかく文学形式の歴史的条件の差が序文と詩篇との聞にはあると思える。
結びの「仄かなる角笛の音に逃れ入る緋の天鵡紋の手触の棄て難さ」はこの言葉だけで考える限りでは前の文章に対して自然主義的ありかたとは違うものにひかれ歌うのを明らかにしているのではなかろうか。これの内容は作品中の用語例より牧歌的な味わいと豪華にして夢幻的な姉きと触覚とに人間の官能の喜びをうたわずにはおられぬことを述べたとみられ、従ってそれは醜怒怪奇などとは異質であるが、感傷と享楽性とが感じとれる。所で、もと/\感傷と享楽とは白秋のいう象徴の本旨に於ても貫かれている性格であった。そして白秋の文章としては他の部分より感傷性は少いというものの「悲しき叫」とか「哀愁」とかの感傷的な言葉がなまで使われているのがわが国の自然主義文学を直接の地盤としていると思える文章中にもみられる。もともとわが自然主義文学も非常にベシミスティックなことは先にあげた諸作品の虚無性にもうかがえるが、集中の「魔雌」に示す長田秀雄の文章と比べると、白秋の資質には特に感傷性が強いと思われる。このように白秋の主張を一示す文章と具体的に作品の傾向を示す文章との性格の一致は、白秋が自ら意識している好みと実作の性格が一致しているのを表わすこととなり、とにかく『邪宗門』は白秋の生来的なものが地盤をえて結実したと認められるのである。
所で、以上にみてきた文章の内容を簡潔に示すものとして「邪宗門扉銘」は一応文字どおりそのままうけとれるが、「曲節の悩み」「神経のにがき魔眠」の悩みやにがきがどの程度の重みをもつであろうか。「曲節の悩み」は音楽性の強調を意味することにもとづくと思えるが、白秋のいう音楽的象徴は先にみたようにそれまでの象徴詩に全然ない性質ではなく本来あるはずの音楽性が充分に表わされぬことへの批判に彼の資質が適合して唱えたにすぎぬ。そのゆえに本来的な意味での抵抗は認められぬ。従ってここの悩みは新体詩もしくはその中の象徴詩という全体的な様式の問題にかかわらぬ個人の技巧上の苦心にとどまるとみられる。神経のにがきという言葉は例言中にも「刺戟苦き神経の悦楽」と使われている。尤も例言の言葉では悦楽に最も重点があり一以銘では魔睡に重みがあるはずで、魔睡も長田秀雄の文章を考えあわせると全然不安の念のない快楽のためのものであるにすぎぬ。しかしここで考えねばならぬのは、正しくは麻酔か痢酔であるべきなのに魔艇とあることなのである。邪宗などと考えあわせて悪魔に魂をうり渡すこととのつながりでこのような字に無意識か有意識かでひかれたのではなかろうか。となるとかなり人間存在の不安に徹しているとも思われ、世紀末の不安にもとづく神経の鋭い働きを意味することとなる。所が、象徴詩論として例言をも含めて序文全体を有明の『春鳥集』に示したのと比べると、個人の好みの枠内にとどまる感じが強い。有明の詩論は実作での試みを裏づけとしつつ因襲的方法への対決として自然観芸術観までつながるのがはっきり・意識されている。こうして開拓された有明の象徴詩がわが国の新体詩史のうえに於て、官能解放の突をあげ対象把握の方法とそれの直接的な表現に今までの概念的な因襲を打破して近代西欧文学とかよう画期的な役割を果したことは別に検討した所である(『文学史研究』第十号に掲載予定)。それに比し白秋の説く姿勢と内容とは既にみたように論理的な普遍性をもたず個人の好みと資質とによる象徴詩であり方法であるゆえに、芸術観自然観とは全然結びつかぬのが認められる。このような性質であるのに扉銘の件の言葉だけが世界観と結びつく普遍性をもっとは考えられぬ。長田秀雄の文章のばあいにも直接の反映はないが当時の状勢に地盤をもつのが認められたが、白秋のもそれと同じように解釈できるのではなかろうか。もとより彼ら二人には個人差があるはずである。白秋に生来の感傷性が著しいのに比し、秀雄のには感傷はない。そこで世紀末の不安とつながる神経のにがさを白秋が感じるのは、その資質の感傷性が世界観などとしては把めぬものの本能的に不安を感じとっているのにもとづくのではないかと思える。やはり当時の文学環境と社会状勢とがはっきり地盤になっているのは否めぬのであろう。
かくて白秋の個人の好みを強調したその象徴詩もつきつめてゆくと、新体詩展開の方向を把えて普遍的な地盤を正しくふま与えているといえる。唯そのふまえかたが論理的に客観的に理論をたててっきつめることはせずに、より多くその本来の資質を支えとしたために日本人の日本語の詩としては代表的な結突を一示しえたが、象徴詩の理論そのものには何もつけ加えず従って象徴詩を展開させることとはならなかったのが序文のありかたよりはっきりしられるのである。しかし、象徴詩及び詩論としての独立性をもっ有明の『春鳥集』のばあいは、西欧の象徴詩が自然主義文学を地盤としているのを個人の知識で獲得して創りあげたのであって、その当時の文学的環境と社会状勢とにはまだ自然主義文学の地盤はできて、はおらぬ。このような現実に地粧をもたぬという文学的事情は、やはり心情の自由な発露を妨げて有明の詩のかたさとむつかしさとの原因の大きな要素となっているのは否定できぬであろう。それに比べて客観的な立場よりする時は、論理性をもたぬうえに独自の主張が認められぬゆえに詩論としての独立性をもたぬものといえる『邪宗門』の序文は、現実に地盤をもっている点に於てはるかに創作と享受とを含む実際の詩史展開のうえには力をもっとせねばならぬ。同じ象徴詩論とはいいつつ『春鳥集』のと『邪宗門』のとでは、地盤との関係、因襲との関係が異質なのが明らかにできる次第であるが、それは有明より白秋へというわが国の象徴詩の推移に断周があるのを示すのにほかならぬであろう。 
 
寺山修司の『邪宗門』とルイジ・ピランデッロの創造的虚構世界

 

1 まえおき
俳優で劇座主宰者の天野鎮雄氏は、2010年名古屋の千種小劇場でルイジ・ピランデッロの『あなたがそう思うならそのとおり』を公演したが、上演後に「『あなたがそう思うならそのとおり』は、芥川龍之介の『薮の中』に似ている」と語った。観客は、劇の中では、誰が言っている事が正しいのか分からなくて煙にまかれている様子であった。
しかし、ピランデッロの『あなたがそう思うならそのとおり』は他のピランデッロの作品『作者を探す六人の登場人物』と比較するならば、少なくとも、一見込み入っているように見える謎が解ける手掛かりが得られる。
或いはまた、寺山修司が、存命の母はつがいたのに短歌で母を死んでいると歌ったり、妹や弟がいないのに俳句や短歌に歌ったりするのはピランデッロの『あなたがそう思うならそのとおり』に見られる虚構世界と関係があるのかもしれない。
さて、このピランデッロの劇を演出した本島勲氏は、『ピランデッロの不条理はその仕掛けがわりと単純であるが、ハロルド・ピンターの不条理劇の方はその仕掛けの仕組みが難解なので容易には解けない』と、かつて語った事がある。
また、本島氏は、『ピンターの不条理劇は、フィクションのように見えるが、実は、リアリズムで出来ているから、単なる作りごとのフィクションとして片付ける事が出来ない』とも述ベた。
ピンターのドラマが不条理劇でありながら、同時に、リアリズムでもあるというのは、一見すると相矛盾しているように見える。だが、かつて、萩原朔美氏が、2007年栄中日文化センターの講座『寺山修司の47 年』で語ったことであるが、『どんな、芝居でも、劇場の仕組みに則って書かれている』と論じたことがある。
演出家のレオン・ルビン教授は、2006 年愛知芸術センターリハーサル室で、シェイクスピアの『十二夜』をミュージカル風に演じたり、不条理劇風に演じたり、歌舞伎風に演じたり、新劇風に演じたりする課題を与えたことがあった。これは、ロンドン大学演劇学部のセミナーでも行われたエクササイズでもある。かつて、筆者は、1995 年ロンドン大学のデヴィッド・ブラッドビー教授のセミナーで、ベケットの『ゴドーを待ちながら』をパントマイムで演じたことがある。
つまり、不条理劇を様々のドラマスタイルで上演する事は可能である。けれども、実際不条理であると同時にリアリズム仕立てにしてドラマ化する事は難しい。たとえば、不条理劇で幽霊を描くのは、フィクションとして描くのは比較的容易であるが、同時にリアリズムでも描くのは難しい。(例としてイプセンの『幽霊』はウイルスが息子の遺伝子に感染し息子は発狂する。)ピランデッロは劇自体が不条理なので比較的上演可能であるが、ピンターは、劇を不条理で同時にリアルに描くのでいわばフィクションとリアルを両立させなくてならないところが難しいのである。ところで、ピランデッロは『作者を探す六人の登場人物』を、舞台でフィクションとリアルとを並行させてドラマ化している。だから予めフィクションとリアルに別けて芝居を観ておれば混乱する事はない。けれども、『作者を探す六人の登場人物』は、ピンターの『昔の日々』のように、ドラマがフィクションであると同時にリアルであるようには描かれていない。警えれば、ピランデッロの『作者を探す六人の登場人物』は正常者と異常者とがちょうど舞台中央に鏡を立てて双方を眺めているように並立してドラマ化されている。だが、ピンターの『昔の日々』は正常者が同時に異常者でもある。だから人物を鏡ではなくていわば重層的に見ていなければならない。ピンターの場合、どうしてそれが可能であるかといえば、レヴィ=ストロースが『悲しき熱帯』で描いた未開文明の人のように、現代人の眼で見ると未開文明の人の生活は異常であるが、未開文明の人の眼で見れば正常であるという観方がピンターの劇には存在するからである。
けれども、ピランデッロの不条理劇が今なおインパクトがあるのは、正常者が異常者によって混乱させられる事態が実際にしばしばあるからである。例えば、イヨネスコは劇『犀』でナチスの圧政下の状況を寓意化している。つまり、条理や道理が通らない場所では、正常者は不条理と対時しなくてはならなくなるのである。
さて、寺山修司が海外公演で、日本語の分からない観客に、日本語の台詞に、七五調のリズムをつけたり、方言のリズムで発話したり、歌舞伎の節回しで、所作をつけたりして公演したという。また筆者が『邪宗門』を英訳していた時に気付いたことがある。それは、脚本が、七五調のリズムをつけたり、方言で発話したり、歌舞伎の節目しで所作があったりして、劇全体が万華鏡のようにバラエテイに満ち溢れていて、一体こんな芝居を上演して海外の観客は混乱しないだろうかと思った事がある。しかし、外国では、観客は日本語が分からないから、言葉に変わる方法で、気持ちを観客に伝達しなければならない。それで、脚本には、七五調のリズムや、方言や、歌舞伎の節目しが折り込まれていたのである。
或いはまた、ロンドン大学演劇学部のセミナーでは、単なる散文でも、様々な声のサウンドをつけて、発話すると、言葉が、音楽に変わるのを体験した事がある。
後になって、ジョン・ケージのチャンス・オペレーションを知ったとき、当時、寺山が一人わけの分からない劇を上演していたわけではない事を知るに及んだのである。
ピランデッロにせよ、ピンターにせよ、劇場だけでなく、ラジオドラマや、テレビドラマや、映画に携わっていた。殊に、ピンターは、メディァ媒体と『金枝篇』の呪術の世界をクロスオーバーして、ドラマを書いた。
だが、ピンターのドラマの複雑さに較べると、ピランデッロのドラマは、主として劇場に限定した作品が比較的多いので、劇場の仕組みを熟知した演出家であれば、幾分分かりやすいことになるという事があるのかもしれない。
たとえば、ピランデッロの作品『作者を探す六人の登場人物』は、あくまでも、ドラマの内容が舞台での出来事なので理解しやすい。だが、ピンターの『昔の日々』は、舞台の生人間と映画の光媒体が同次元で語られたり、メディア媒体と『金枝篇』の呪術がパラレルに展開したりするので、多分野にわたって多角的な視点を幾っか持っている必要がある。しかも、逆説的ではあるが、ピンターは、ドラマを、多次元の異相の中に組み立て、劇場の仕組みを建築家の設計図のように細かく組み立てているので、その意味からみていくと、不条理劇をリアリズムの尺度で再構成をしなければならなくなるのである。
或いはまた、矛盾しているように見えるが、ピンターの芝居は、不条理劇をリアリズムの観点に立って上演してこそ、ピンターのオリジナルは冴え冴えとして輝きわたるのであり、極めて緊張感を要するのである。従って、本島勲氏がピンターの『昔の日々』を演出したとき、音響(BGM) なしで台詞だけに集中して劇を構成した。その演出態度は、ケージが~ 3分55秒』で、行った気配で感じる音楽を連想させた。
更に又、寺山の場合も、劇の中で、ピランデッロやピンターのドラマツルギーを各所に取り入れコラージュしているので、双方のドラマツルギーを熟知しておく必要がある。本稿では、殊に、ピランデッロのドラマツルギーを探求しながら、寺山の劇にある劇作術をパラレルに解明する事を目指す。
2 ピランデツ口の『あなたがそう思うならそのとおり』に於けるフィクションとリアリティー
演劇評論家の田之倉稔氏は専門がイタリア語であるがこれまで寺山修司の芝居を数多く観劇しており、寺山に関するエッセイも『十三の砂山J i見世物は幻想に対するくのぞきカラクリ)J などを書いている。そのエッセイには寺山の逆転の発想が見られる。ピランデッロは『あなたがそう思うならそのとおり』でも、意表を突く逆転に継ぐ逆転が続き次第に迷路へと導いていく。ピランデッロの迷路はカオスの世界であり、或る意味では子宮回帰に繋がっている。この点が、ピランデッロと寺山が類似している点でもある。次に、田之倉氏は、寺山の『観客席』を例に挙げる。
まず寺山とピランデッロの関係は結構あるとおもいます。『観客席』はきわめてピランデツロ的です。
或いは、また、田之倉氏は、寺山とピランデッロの共通項として、虚構と現実、つまりフィクションとリアリテイの両面性を指摘している。
寺山一ピランデッロは虚構の現実性という基本的な点で共通性があるのではないでしょうか。
さて、ピランデッロは『あなたがそう思うならそのとおり』の中で、先ず、ポンザ氏が、彼の母親のポンザ夫人が狂人だと証言する。
   ポンザ ……フローラ夫人は頭が狂っております。
続いて、ポンザ氏は、フローラ夫人の娘が4年前に死んだと言い、彼女が自分の娘の死を知らないと証言するのである。
   ポンザ ……彼女の娘は4年前に死んでいるというのに。
ところが、ポンザ氏によると、フローラ夫人は彼女の娘の死を認めたがらず、しかもこの事実に直面しようともせず、彼女が娘に会いたいと思っていると言うのである。
   ポンザ ……それに彼女が気遣いなのは、この私が彼女を彼女の娘に会わせたくないと信じさせようとしているからなのです。
更に、ポンザ氏は、話を続けて、自ら前妻が4年前に亡くなった後、それから、2年後になってから初めて2年前に再婚したと告白する。だから、ポンザ氏が一緒にいるのは2度目の妻であると証言する。
   ポンザ 2年前に結婚しました。あれは2度目の妻です。
さて、ポンザ氏が2度目の妻を実母のフローラに会わせたくない理由は、彼女の娘が死んではいず生きていると信じているからだという。ところが、問題が込み入って複雑になるのは、肝心のフローラ夫人が姿を表して、彼女は『自分の娘が4年前に死んだ』事実を知っていると証言するからである。
   フローラ ……私の娘は4年前に死んで、私はそれが分からない哀れな気遣いで、だから私に会わせたくないのだとそんなこと言えるものでしょうか?
そこで、このフローラの証言によって、ポンザ氏の2度目の妻は、死んだ筈のフローラの娘とは異なる全く別人という事になる。だが、仮に、前ポンザ夫人がフローラの娘でなく別人であるとすると、ポンザ氏がその間ず、っと無用な隠し立てをして嘘をついていた事になる。だが一体何故ポンザ氏は嘘をつく必要があったのか。それとも、2度目の妻は、この世のものではなくて幽霊のような存在であるという事になるのだろうか。もしもそうだとすればポンザ氏はその事実を隠、す必要がある。だが、遂に、終幕になってから、漸く肝心のポンザ夫人自身が姿を表す。先ず、ポンザ夫人は『自分がフローラ夫人の娘で、す』と自己紹介する。これで、どうやら彼女が幽霊ではないことが明らかになる。
   ポンザ夫人 ……私は、はい、フローラ夫人の娘です。
ともかく、死んだ筈のポンザ夫人が幽霊ではなくて現存するという事実は不気味である。というのは、ポンザ夫人は、死んだ筈の『フローラ夫人の娘で、す』と答えたからである。それだけではない、次いで、ポンザ夫人は彼女が『ポンザの二度目の妻で、す』とも答える。すると、彼女が言った事が真実であるとするなら、いわば彼女は死者でいながら、別人の2度目のポンザ夫人の身体の中に乗り移り姿を表した事になり、つまり彼女は『二重人格者』であることを認めた事になる。ということは、言い換えれば、ポンザ夫人は一人の女性の中に、二人の女性が同居している事を認めた事になる。更に、ポンザ夫人は、続けて言う。
   ポンザ夫人 ……そしてポンザの二度目の妻です。
ここで、今一度、三人の前述の証言を整理すると、ともかく、ポンザ夫人の証言によって、先ず、ポンザ氏が『フローラの娘が死んだ』といった告白が嘘になり、またポンザ氏が、『フローラは彼女の娘が死んだことが分かつていない』といった告白も嘘である事を暴露したことになる。しかも当然フローラは彼女の娘が死んだことが知っていると言ったことも嘘になる。ところで、肝心なのは、当人のポンザ夫人は『死んだはずのフローラの娘であるだけでなく、ポンザ氏の2度目の妻でもある』と述べたことである。つまり、要約すると、ポンザ夫人の発言は、死んだ筈の娘が生きている事自体がおかしなことになるだけでなく、死んだ筈の娘が前夫であるポンザ氏の2度目の妻でもあることになってしまう。すると、このポンザ夫人は一体何者なのかという問題になる。しかも、彼女は全く不条理で馬鹿馬鹿しい返答をする。
   ポンザ夫人 (続けて)……それに、私自身、誰でもないのです。
つまり、ポンザ夫人の証言は、お能でいう幽玄の世界か、或いは、狂言のように、狐が彼女に化けて人を編すような話のようである。というのは、彼女は、死んだ娘であり、前夫の妻であり2番目の妻でもあるというからである。しかも、彼女はその矛盾に応えて、今度は全く意表をついて『私自身、誰でもないので、すJ とさえ、返事するのである。そればかりでない。次いで、ポンザ夫人は『私自身は、人が思う通りの人で、す』と答えて、またしても前言を覆し、結局のところ『私自身、誰でもないので、す』と、応じるのである。ということは、ポンザ夫人は、ポンザ氏の言ったことも、母親のフローラが言ったことも、更に、ポンザ夫人自身が、たった今言ったばかりの証言さえも否定したのであり、彼女の発言は悉く嘘だということになる。
   ポンザ夫人 いいえ、私自身は、人が思う通りの人です。
こうして、ポンザ夫人は、彼女自身という存在は他人が勝手に想像する人物であると認めてしまう。先に紹介したように、田之倉氏は『寺山一ピランデッロは虚構の現実性という基本的な点で共通性があるのではないでしょうか』と指摘した。つまり、寺山にしてもピランデッロにしても、様々な現象的な側面から二人のドラマを見ていると、元々現実性には確実性というものはないことに思い至る。だからこそ、彼らは『虚構が現実性』になることもありうるというドラマを描いていたのである。また、仮に嘘をつくにしても意識的にする嘘と無意識的にする嘘がある。ピランデッロの場合、嘘が意識的なのか無意識的なのか分からないことがある。ところで、この矛盾で想い出すのは、ピンターの『昔の日々』である。問題の同劇では、二人の女性アナとケイトが同じ一人の物の中に入っているようなキャラクターなのである。しかも、更にピンターは、同劇中、現実と映画の映像との交流を求めるシーンを描いているので、更に、現実と映画の虚構との境目が分からなくなってしまうのである。
さて、ピランデッロは『あなたがそう思うならそのとおり』で、観客が、劇を見ている最中に、そのシーンはフィクションなのに、そのフィクションをリアリティーとして見てしまうところに陥穿がある事を教えてくれる。つまり、ピランデッロの『あなたがそう思うならそのとおり』を『作家を探す六人の登場人物』と較べると明らかなのだが、『作家を探す六人の登場人物』は、フィクションとリアリティーを、あたかも舞台の真中に鏡を立ててあるかのように完全に二つに別けている。だから、フィクションとリアリティーの境目が理解しやすい。ところが、『あなたがそう思うならそのとおり』はフィクションとリアリティーの境目が分かりにくい。そこで、予め、誰がフィクションで誰がリアリティーなのか別けて芝居を観ていかないと混乱してしまう。ポンザ夫人が虚構(フィクション)の人であり、しかも、ポンザ氏とフローラ夫人が嘘(フィクション)をついているとすれば、ポンザ夫人とポンザ氏とフローラ夫人はフィクションという鏡の中の人であり、他の登場人物はリアリティー(現実)の人である事が容易に図式化出来る。
そこで、あたかも舞台の中央に鏡を立てて、『あなたがそう思うならそのとおり』を『作家を探す六人の登場人物』と比較すると、虚構の人と現実の人とは区別がつきやすい。
けれども、実際、フィクションとリアリティーの境目は、それほど理解しやすいものではない。ユングによると、現実は海面に突きでている氷山の一角で、無意識や夢の世界は殆ど水の中に埋もれており、底なしの見えざる氷山のようなものである。たとえば、プルーストは既に死んで失われた記憶が『心の間歌』によって覚醒することがある事を指摘している。そうした記憶が突如として間欠泉のように心の中で蘇るのである。またプルーストは生物だけではなく無機物にも記憶があると指摘している。フ。ルーストの『失われた時を求めて』の冒頭『コンブレー』では、無機質のマドレーヌや菩提樹のお茶に唇が触れた瞬間、長い間眠っていた失われた記憶が突然蘇る。つまり、マルセル(フ。ルースト)が菩提樹のお茶にマドレーヌを浸した小片を唇に触れた瞬間すっかり忘却の彼方に沈んでいた記憶が蘇ることになる。従って、ポンザ夫人とポンザ氏とフローラ夫人はフィクションの世界の人であるが、実は、彼らが、夢の世界の住民であり、『幽霊』のように惨い無意識の住民であるとしたら、どうだろうか。
また、しばしば、ピランデッロはイプセンと比較されるが、イプセンの『幽霊』では、人間の目に見えない遺伝子やウイルスが、気付かないうちに、しかも無意識のうちに、生身の人聞を襲ってくる。
或いは、ジョイスの意識の流れのように、夢や無意識の観念が、現実の人間の心に宿ると、くねくねと広大な無意識の世界がこの世に降りてくる。
そして、また、ピンターの『昔の日々』のように、現実と映画の境目を越えて『起こらなかったことも起きたことのひとつ』として、虚構が現実を侵食し始める。
更にまた、寺山の実験映画『ローラ』はピンターの『昔の日々』よりも一層過激に現実と映画(フィクション)との境目を暖味にしてしまう。
それ故に、ポンザ夫人とポンザ氏とフローラ夫人はフィクションの世界の人であり、しかも、寺山の実験映画『ローラ』やピンターの『昔の日々』のように、現実とフィクションとがお互いに浸食し合っているのである。
3 ルイジ・ピランデツ口の『作者を探す六人の登場人物』
ピランデッロは芝居『作者を探す六人の登場人物』を描き、その幕開きでは、舞台にもうひとつ芝居があって、そこではリハーサルの最中で、ある。こうして、ピランデッロはいわば芝居稽古のワークショップを見せてくれる。そこへ或る家族の父親役が稽古の途中に入ってきて、彼らの芝居の作者を探し始める。かくして、芝居が始まろうとする。
   父親 (前ヘ進み階段の下まで来る。他の者も続く)私達は作者を探しているんです。
実は、このような作者探しは、寺山も『邪宗門』の中で引用している。さて、ピランデッロの芝居では、継娘役が登場し新しい芝居を紹介する。
   継娘 (急いで階段を駆け上がり、興奮して)それが良いのよ。ずっとね。私たちが新しい芝居なの。
こうして、メタ・シアターのように、或る芝居のリハーサル中に他の芝居がもうひとつ割り込む。そこで、座長役が他のグルーフを排除しようとする。
   座長 どうか出て行ってください。気遣いを相手に時間を無駄にしている暇はない。
ともかく、先ず、座長役は、世間の常識を尺度にして、閲入者を撃退しようとする。ところが、父親役が他人の芝居の中で、自分の存在を強く主張し始める。
   父親 私が言いたいのは実際に狂気は評価できるのでして、物事を逆にするんです。
つまり、こうして見ていくと芝居の方物事を逆転するらしい。このようにして、リアルな世界からフィクションの世界に入っていく。そのとき、どうやらフィクションの世界へは狂気を介して入っていくしかないらしい。更に、父親役は、狂気は、物の見方を一新すると主張する。
   父親 (前に進み、決然と)驚いていますよ。どうして信じていただけないのでしょうか。多分、作家によって生み出された登場人物が生きている姿で飛び出して来るのを見るのに慣れていないのでしょうかね。それとも、多分、私たちには脚本がないからでしょうかね。
この場面で、父親役はこの芝居のフ。ロンプターを指差す。或る意味で、このフ。ロンプターの存在は俳優が台調の奴隷であることを表している。ところが、この芝居には、台本がないのである。そこで、台本の作者探しが始まる。この点で見ていくと、この劇は寺山のドラマツルギーの原点を表しているように見える。何故なら寺山は、台本は、稽古を通して作るからである。つまり、寺山は、舞台は、台本の指示通り作るのではなく、役者のワークショップを通して台本を舞台で、作っていくものだと考えていたようだ。
   父親 いいですか。芝居は一緒にするために準備ができています。もし、あなた方が準備していただければ、私たちは一緒に芝居ができるのです。
従って、最初から父親役には脚本がないことは明らかだ。この芝居の座長役は台本のない芝居に慣れていないようだ。
   座長 脚本はあるのか。
   父親 私どもの中にあります。
そこで次第に、座長役は、父親役の提案に混乱していく。その結果、芝居が始まるけれども、脚本がないので、即興的な会話が続いていく。妻役の愛人らしき男性が死に、別れた妻役が家族と一緒に戻ってくるところへと舞台のドラマは発展していく。
   父親 きっと分かつてくれると思いますよ。私たちは舞台のために生まれた。
どうやら父親役の家族には何か問題があるらしい。つまり、別れた妻役が戻ってきたので父親役との対立が発生し葛藤が生じてドラマが生まれる。ところで、寺山は、『事件がドラマだ』といっている。一方、座長役は父親役のコンセプトが分からないので父親役たちを『アマチュアか』と尋ねる。
   父親 いいえ、私たちは舞台のために生まれた、何故って・・・
もしも事件がドラマだとするならば、事件の真相を知っている当事者の父親役が本物に近いことになる。ところが、座長役は問題のこのドラマには作者がいないと言って父親役たちに反論する。
   父親 十分じゃあないんですか。見たように、私たちはドラマを生きている
   座長 多分そうでしょう。でも、必要なんです。誰かがそれを書かないと
ところで、寺山には、作者が脚本を半分書いて半分を俳優が作るという持論があった。さて、座長役は、父親役が主張する芝居のコンセプトが分からなくて、あくまでも完成台本を要求する。とにかく完全台本がなければ、芝居は即興でやるしかない。
   別の俳優 5分で芝居を組み立てるつもりかい。
   若手の俳優 そうだよ。昔のコメディアデァルテのように!
前述の台詞のやり取りのように、この芝居は複雑なので、事件をドラマとして構築するためには、コメディアデァルテのテクニックだけでは不十分である。けれども座長役はあくまで台本に頼ろうとする。
   座長 登場人物は脚本の中にいるわけです
むろん、座長役は、コメディアデァルテのテクニックだけでは不十分であると判断したのだから、当然のようにあくまで完成台本に固執する。それに対して父親役は台本ではなく劇は仕上がって実際目の前にあるという。
   父親 そうです。脚本はないが、俳優の方は幸運にも生きている登場人物を自の前に見ることカまできるのだから・・…・
父親役が主張する劇は、脚本+俳優のことである。だが、その場合、脚本は未完成ということになる。また台本がないのは他にも理由があるらしい。
   父親 どう説明したらいいのでしょうか……嘘に聞こえるでしょうし、私の言葉も誰か他の人のように聞こえるでしょうし、
この場合、父親役は、自分以外に父親役には成れないと主張する。一方、座長役はプロの役者は父親役を上手く演じることができると反論する。
   父親 はい、でも、声や仕草は……
つまり、父親役は自分以外の俳優の演技は模倣に過ぎないと主張するのである。
   父親 それに、私が自分で感じる私ではありません。
父親役は、フ。ロの俳優には、この父親役を演じることが出来ても、生の父親という人物は自分のように感じることは出来ないと主張する。そこヘ、マダーマ・パーチェ役が現れる。彼女はとてもひどい説りなので、他の俳優では彼女を演じることは殆ど不可能に見える。ところが奇跡が起こり、マダーマ・パーチェ役が実際に舞台に現れるのである。彼女は、ひと通り、自分自身をそのまま演じた後で退場する。
   主演女優 ゲームでしょう。手品の真似でしょう。
   父親 待ってください。どうして奇跡を台無しにしようとなさるのですか。事実に過ぎないのに。
主演女優は、演技だけでは“生"の演技が表現できないので、このマダーマ・パーチェ役に向かつて『手品を使ったのだろう』というのである。だが、父親役は、手品でもなんでもなく、『普通に話しただけだ』と答える。そして、役者と現実の人物について、父親役は『同じではない』と主張する。
   主演男優 こんにちは、お嬢さん。
   父親 (我慢できなくて)違う。
つまり、フ。ロの俳優が、継娘に話しかけたが、実は、この俳優は継娘の中身を全く知らないで話しかけるから紋切り型の挨拶になってしまう。つまり、継娘はプロの俳優に向かつて態度とか口調とかは、プロの発話なのだが、でも、感じがぜんぜん違うというのである。
   継娘 でも、私が誰かにあんな風にあんな声で『こんにちは』と言われたら吹き出すわ。
   父親 (彼も少し前に出て)そう。彼女が正しい。全体の態度とか……声とか……
継娘役と父親役は俳優たちと初対面である。だから、プロの俳優であっても、継娘役と父親役との親子としての心の動きが全然分からないのは当然である。かつて、寺山はチェーホフのドラマに登場するロシア人を日本人が演じた事に対して批判したことがある。
   父親 私は、あなた方俳優を、この紳士も(主演男優に)そしてこの女優にも(主演女優に)尊敬しています。でも、私たちとは違うんです。
父親役が俳優に向かつて『違う』というのは、素人的な見方と玄人の演技にも不満があるという見方の両方がある。しかし、例えば、日本人のようなアジア人にとっては、素人は無論の事としても、ともかく、西洋人をプロの日本人俳優が演じても、西洋人に成れない。この場合、父親役の発言はある異国人が他の異国人を演じるほどの違いを言っているのであろう。
   父親 俳優さんはどうにかやっているようですがどうも私たちのとは違うようだ。
どうやら、父親役は座長役の演技メソードを批判して発言しているようである。しかし、座長役は“生"の生活と舞台の演技との違いを認め始めたようだ。
   座長 ……しかし、あなたにも分かつて欲しいのですが、舞台ではあのような場面を本当には表現できないのです。
つまり、俳優を舞台にのせる事と、日常生活者を舞台にのせる事とは違う。だが継娘役はあくまでも『あたしのドラマ』と言って自己主張をする。
   継娘 ……でも、私のドラマを見せたいのです。私のを!
こうしてドラマの中では、形勢は徐々に逆転し始めた様子である。つまり、ある家族がプロの俳優よりも迫真性を発揮して演技し始めたのである。次いで、父親役と継娘役が抱擁する。
すると、それを見た母親役は、絶叫する。
   継娘 (父親の胸に顔をうずめ、肩を上げてあたかも叫びを聞くまいとする。息の詰まるような苦悩の声で付け加える)叫んで、あの時叫んだように!
   母親 (彼等を引き離すために突進する)いけない。彼女は私の娘なんです。私の娘(彼から彼女を引き離し)けだもの、けだもの、彼女は私の娘よ!
父親役と継娘役の愛は、家族の紳を超えた愛であるが、家族の紳に呪縛されている母親役は二人の愛に反対する。さて、ここのところで、座長役は劇を中断する。そして幕間となる。ところで、寺山は『青ひげ公の城』の中で、舞台監督役が芝居をしばしば中断するように工夫して劇を構成している。それはさておき、やがて、父親役がイリュージョンを問題にしていくと、次第に演劇のイリュージョンと現実の関係が焦点になってくる。
   父親 不真面白ではないのです。つまり、本当にゲームではなくて芸術であり、あなたがたった今言ったように現実の完全なイリュージョンを作り出そうというのです。
ここで、父親役が劇をゲームではなく芸術と主張するのは注意をする必要がある。つまり現実生活のゲームと芸術との違いは、警えるなら炭素とダイアモンドの違いのようなものであり、更に、また比除的に言えば炭素(ゲーム)がダイアモンド(芸術)に変わる瞬間をイリュージョンと言ってもよいのかも知れない。そのうえ、父親役は、俳優の仕事を遊びのように考えているようだ。
   父親 その通り、笑いだ、なぜならここでは全てがゲームですから。(座長に)実はあなたはゲームだからこそ、あの紳士は(主演男優を指差す) 『彼自身』でありながら、『私』に成らねばならず、逆に、『彼』は『私自身』でもあるわけです。ねえ、畏にかかったでしょう。
ここで、もう一度、父親役と父親役の俳優との違いを、炭素とダイアモンドに当て依めてみる。すると、炭素(父親役の俳優)はダイアモンド(父親役)に昇華しなければならない。だが、元々、炭素(父親役の俳優)はダイアモンド(父親)と同じ成分で出来ている。ここに見られるのは、父親役と父親役の俳優とは違うが、化学変化を起こして父親役の俳優は父親役になることが出来るのである。しかし、見方を変えて、劇を逆様に見れば、元々、ダイアモンドは炭素から出来ているのだから同じ成分である。従って、同じ成分であるという観点からみると父親役の俳優は父親役でもあるわけである。けれども、父親役がかけた畏は単なる笑いではない。
   父親 あなたは誰ですか。
この父親役の質問の真意は、いわば、炭素がダイアモンドに変わる美的な化学変化の意識がない普通の俳優や座長のことを言うのであろうか。ところで、このピランデッロの台詞のように、いつも、寺山は質問した。『あなたは誰ですか』と。つまり言い換えれば、このような質問は今日の現実も、明日になれば惨いイリュージョンに過ぎなくなるとも言える。
   父親 舞台が足元から崩れるように感じませんか、また、地面そのものが崩れるように感じませんか。つまり、今日の現実も明日にはイリュージョンであるかのように感じるようになるのではありませんか。
こうして父親役は、ここで再び観方を逆転してしまい、毎日、与えられた役を何の疑問もなく平然と変えて演じる身元不明な俳優に批判の矢を向ける。父親役は『今日の現実も明日になればイリュージョンになる』と言って、俳優が、何時までも、いわば炭素のままで居る現実に反論するのである。
   父親 私たちは変わることのない現実です。変わることのない現実のおかげであなたたちは私たちの近付くだけで身震いすべきなのです。
つまり、言い換えるならば、父親役は、ここで、変わる現実と変わらない現実を出してきて議論している。だから、この場合、リアル、つまり、変わる事のない現実とは芸術作品を指しているのであろう。もう一度、炭素とダイアモンドの比聡を使って考えると、変わる現実は炭素であろうし、変わらない現実とはダイアモンドとなるだろう。やがて、舞台では、話は作者探しに戻る。
   継娘 (夢うつつのように進み出て)そうよ、私も行ったわ、何とか説得しようと、夕暮れの、陰気な書斎で彼が明かりのスイッチをつけるのも忘れ、部屋に閣が広がるまま、肘掛け椅子に静かに座っているときにね、影が私たちに群がるなかを、私たちは彼を説得しに行ったのよ。
“生"の舞台で上演するドラマは、映画の一回性とは異なり、何回も繰り返し再生産しなければならない。そして、繰り返し上演する度に、いわば、作者は新しく美的化学変化を起こさなければならないわけである。さて、寺山の『邪宗門』にも作家が出てくる。それはさておき、舞台での『嘘』については、ピランデッロはまるで舞台の出来事が皆嘘だと告発しているかのようだ。
例えば、母親役と息子役は離れない。すると、継娘役は二人の関係を『嘘』と言う。また、母親役と息子役は部屋にいる。すると、息子役もこの二人の関係を『嘘』と言う。やがて、『嘘』はピストルの音となる。
ピストルの音。
ピストルの音は自殺か殺人を想起させる。ところが、舞台上の自殺も殺人も元々、『嘘』である。だからチェーホフの『かもめ』のラストシーンでピストル自殺があっても、舞台上では『嘘』の出来事である。或いは、フェリーニの映画1F81/2 .!lのラストシーンでピストル自殺があるが、それが『嘘』なのは、演劇の『嘘』と同じ仕組みで出来ている。こうして、ピランデッロは舞台の出来事は皆『嘘』であることを強調している。そして、俳優は『嘘』を連呼する。或いはまた、寺山の『青ひげ公の城』でもしばしば『嘘』を連呼する。
   主演女優 死んだわ、可哀想な坊や、死んだのよ。なんて恐ろしいことでしょう。
   主演俳優 何だって、死んだって。嘘だよ。恥ずかしい。死んでいないよ。信じるなよ
   右から出てきた俳優 嘘だって、本当だよ。本当だとも。死んだんだ。
   左から出てきた俳優 違う。死んでなんかいない。ふりをしているんだ。みんな嘘だ。
   父親 何だって、嘘だって。
ある家族の息子役がピストル自殺したのは舞台の作り事であり、その作り物の中では、本当でも、舞台上の出来事は皆嘘である。だから、皆が現実とは反対の『死んだ』と言っておきながら、それぞれが、正しいことを言っているのである。座長役は舞台の本当は現実の嘘である事に混乱し始める。
   座長 (もう何もかも構わないで)嘘だって、本当だって。いい加減にしてくれ。明かりだ!明かりをつけてくれ!
座長役は、ドラマの約束事では作り物であっても本当であるが、舞台上の出来事では現実では『嘘』であることが分からず、ドラマを中断させてしまう。
   突然に舞台と客席に煌々とした明かりに照らし出される。座長は悪夢から目覚めたように息をつく。一同顔を見合わせてなんとなく落ち着かない。
半睡で、眠っている人が、夢の出来事が真実であると思いつつ、無意識の内に、夢のような出来事だと思うように、舞台の出来事は半睡の人の夢の世界に似ている。だから、舞台が中断されると、生の現実が目の前に広がる。
   座長 なんてことだ! こんなことは初めてだ! 丸一日むだにしてしまった!
前述の座長の告白は、夢から覚めた人の気持ちを表している。また、フ。ルーストの『スワンの恋』で、スワンが『一生を棒に振ってしまった』と言った言葉を想い出す。
要約すると、六人の登場人物が突然舞台に現れ、勝手に喋り舞台で生活をはじめる。そして次第に演劇向きの人間になり、ユーモラスな状況が生まれ、ドラマが形成される。稽古中に紛れ込んだ6人が、このドラマを上演したいという。しかも、母親役が倒れると、他の俳優たちも興味を惹かれる。俳優たちは、父親役、継娘役、息子役、母親役がそれぞれ対立する情念をぶつけ合う。彼らは座長役を相手にして、このような絶望的な戦いを繰り広げ、疑似家族という普遍的な価値観を見出していく。六人が、てんでに生きる情熱や苦悩を語るうちにやがて、悲劇的葛藤が生じドラマが生まれる。
なかでも、六人のうち、父親役と継娘役が、お互いの葛藤の中に、永遠に変わらない本質を見抜き、父親役が罰を、継娘役が復讐を認める。一方座長役は演出の都合から変更や歪曲を目論むが、父親役と継娘役の二人は反発する。六人は同じレベルにあるけれども、父親役、継娘役、息子役は精神的であり、母親役は自然に振る舞う。息子役は何もせず、娘役はそこにただいるだけである。殊に、六人の中で、生き生きとして創造的なのは父親役と継娘役である。このような擬似家族というファンタジーの中で喜劇が生まれるのである。
このようにして、六人は舞台に登場し、芝居を始めたかったのであるが、肝心な作者がいないのである。そこで六人は、空しく作者を探す。しかも、その行為自体が喜劇なのである。六人は、作者を探す者として、次第にこのファンタジーに受け入れられていく。だが、結局、作者はドラマを拒絶してしまう。言い換えると、六人はこのドラマに関心があるが、作者には関心カまないらしいのである。
事実、ドラマがないと如何なる芸術上の創造物も存在しない。つまり、ドラマは生命機能であり、必要不可欠なのである。従って、生きたいと思う父親役と継娘役はドラマを必要としている。だから、二人は作家を探す。
確かに、六人の登場人物は時には作者自身でもある。だが父親役は、作者を探すけれども、創作が出来ない。父親役は、作者が与える存在理由を受け入れ、座長役を舞台から放り出してしまう。一方、母親役は、彼女自身が生きていないということを疑わないでいる。何故なら、彼女は、自然性であり精神的な働きがないからだ。彼女は全くの受身の女性だ。但し彼女は劇中一度だけ反抗する。というのは彼女が母性本能に目覚めたからだ。結局彼女は母という姿を借りた自然そのものだ。彼女は母親らしく振舞っているだけで、心の動きというものがない。彼女は、感じているだけで意識してはいないのである。父親役と継娘役は、精神面を表し、母親役は自然そのものを表わしている。ドラマの葛藤は老いが問題となっており、また生きるものは生きているがために形式をもつことになる。だからこのドラマでは、芸術派だけが永遠の命を持つことになる。彼らだけが創造の瞬間を見せたのであり、この創造的瞬間こそが作品の全生命と必要性を支えているのである。
また、このドラマには混乱がある。ドラマが整然と進行しないからだ。つまり、舞台でドラマが混沌とした展開の中で繰り広げられる。というのは、しばしば、舞台は中断し、わき道にそれ、矛盾に満ちているからである。
父親役と継娘役は、息子役を拒否する登場人物であり、しかも作者を探す登場人物としてのみ生きている。しかも、実は彼らの求めるのは劇作家ではない。彼らはドラマに混乱と無秩序をもたらしロマンチックな対立の原因になっている。だが、混沌を上演することは明快でもある。というのは、結局混乱は秩序を求めるからである。それに、このドラマでは、精神に価値を見出す作者を求める事をしなければ、上演できない事も示している。つまり、この劇は、自分自身の作品を創造する事を訴えている。一方座長役や息子役が暗示することは意味を持たないので舞台から消えてしまうのである。結局、この劇では、詩人がドラマを創造する事を暗示している。
4 芥川龍之介の『薮の中』
スティーヴン・スピルパーグは黒澤明の映画に描かれた不条理な時間に関心を示した。その理由のひとつには、恐らく『羅生門』に描かれた三人の錯綜した心の時間に関心を抱いたからであろう。或いはまた、スピルパーグは『羅生門』の異なる時間の処理の仕方と幾分似た寺山修司の『田園に死す』の錯綜した時間の処理の仕方にも興味を示したであろう。それほどまでに、『羅生門』と『田園に死す』は時間の錯綜した処理の仕方が似ている。寺山が『田園に死す』を映画化するときに、 黒澤が『羅生門』で描いた三人の錯綜した時間の処理の仕方が念頭にあった筈である。例えば、黒澤の『羅生門』に出て来る死んだ武士、金沢武弘の恨みを代弁する亙女がいるが、その亙女のように、『田園に死す』では、恐山のA女のいたこによって、セレベス島で戦病死した父が家族を思う気持ちを語る。
ところで、黒澤が『羅生門』を映画化したときに、特に工夫したのは、原典の芥川龍之介が『薮の中』に描いた錯綜した時間を、今度はどのように映像化するかであったろう。つまり、 黒澤は、芥川がビアスの『月明かりの道j] (The Moonlit Road) に描いた三人の錯綜した視点、を如何に映画化するかが重要だと考えた筈である。いっぽう、寺山は『田園に死す』の映画化をするにあたり、 黒澤が『羅生門』で描いた錯綜した時間を念頭に置いて更に、H ・G ・ウエルズの『タイム・マシーン』やボルヘスの『エルフ』の時間処理にー工夫加えて映画を仕上げたと考えられる。
或いはまた、スピルバーグが、黒澤の『羅生門』の錯綜した時間の描写に暗示を受け、また寺山の『田園に死す』の異次元空間からもヒントを得て、やがて、所謂タイム・マシーンに乗り、錯綜した異次元を自在に飛び回る『E.T..』や『パック・トゥ・ザ・フューチャー』を映画化したと仮定できる。殊に、スピルパーグは、ディズニー・アニメのピーター・パンが時空を自由に飛びまわるファンタジーを加え、寺山の『田園に死す』の映像からコンセプチュアル・アートとしてアイデアをコラージュしたようにも思われる。そこで、寺山とスピルパーグが映画で示した錯綜した時間の処理と、寺山の『田園に死す』とスピルパーグのI『E.T.』や『パック・トゥ・ザ・フューチャー』にある未知との遭遇の共通点を見つけることができる。殊に、寺山やスピルパーグが自作の映画を国際映画祭に出展した背景から類似性が見られる。
さて、日本映画が国際映画祭で評判になったのは、黒澤明が、1951年のヴェネチア国際映画祭に『羅生門』を出品しグランプリを受賞したことであろう。『羅生門』は、圏内では殆ど評判にはならなかった。元々芥川が『薮の中』の中で描いた三人の錯綜した時間を 黒澤が映像で表した作品であった。原典となった芥川の『薮の中』は、ビアスが『月明かりの道』で描いた三人の異なった視点で、小説化したといわれる。さて、寺山は、1975年にカンヌ映画祭で『田園に死す』を正式招待として出品した。ところが『田園に死す』の国内の新宿ATG映画館では不評であった。ともかく、寺山は『田園に死す』の評判が園内で不評であっても、国際映画祭に出品して、 黒澤のように国際的な評価を得ることは可能だという思いがあったかもしれない。そうした思いを懐きながら、寺山が『田園に死す』で、黒澤の『羅生門』の錯綜した時間を念頭におき、更に、H.G・ウエルズが『タイム・マシーン』やボルヘスの『エルフ』の時間処理に、シュルレアリスティックな味付けを加えて映画化していった。
実は、寺山が『田園に死す』をカンヌ映画祭に出品する前年の1974 年に、スピルパーグ自身は『続・激突カージャック』で脚本賞を獲得している。同年に篠田正浩監督も『卑弥呼』を出品している。もしスピルパーグが篠田の『卑弥呼』を通して、篠田と知人だった寺山や日本映画に注目していたら、寺山の『田園に死す』に関心を持って観たかもしれなかった。
何れにせよ、フランソワ・コッポラやジョージ・ルーカスは、黒澤の映画が好きだったから黒澤に協力して『影武者』を製作し、1984 年カンヌ国際映画祭で、パルム・ドール賞を受賞した。それらの経緯を考えると、もしかしたら、スピルパーグが 黒澤や寺山の迷宮的な日本映画に注目して映画を観たかもしれない。
ところで、寺山は、篠田正浩監督の映画『乾いた湖』で脚本を書いただけでなく、次いで、演劇『血は立ったまま眠っている』の台本を書き、映画界や演劇界へと関心を広げていた。当時、篠田は、大島渚、羽仁進、吉田喜重らと並んで日本のヌーベルバーグの映画監督であった。寺山もジヤン・リュック・ゴダールやフランソワ・トリュフォーのヌーベルバーグの映画に影響を受け『書を捨てよ、町ヘ出ょう』を自主制作したのである。また、当時、ATG映画は低予算で質の高い映画を作るという方針で、映画制作を行っていたが、寺山は『書を捨てよ、町ヘ出ょう』や『回閣に死す』製作の際、このATG (日本アート・シアター・ギイルド)映画に、フランス映画の制作技法を取り入れた。たとえば、ゴダールの映画『気狂いピエロ』はビデオ撮りした技法が見られるが、寺山の『書を捨てよ、町へ出ょう』にもビデオカメラで撮るワンショット・ワンシーンの場面が数多く見られる。
また、スピルパーグはデジタルでCG技法を使うよりも、カメラフィルムの撮影に拘っていたといわれる。これはゴダールの映画撮影技法を雰繋させる。更に、ゴダール自身も、スピルノfーグの映画に強い関心を常に抱いたといわれている。ところで、寺山の自主映画『書を捨てよ、町へ出ょう』には、撮影技法がゴダールから影響を受けた色合いが見られる。
更にまた、スピルパーグは『未知との遭遇』で、映画監督のトリュフォーを俳優として使っているが、その際、トリュフォー監督は、スピルパーグが『子供の視点で映画を撮るように』と助言されたという。トリュフォーはパリの友人セルジ、ュ・ルソー宛にも次のように書いている。
   子供時代の夢が実現するからだ。
そして、実際、スピルパーグはトリュフォーの助言を取り入れたのであろう。スピルパーグは『E.T.』では子供の視点で捉えた映画を生み出すことになった。
また、寺山は『書を捨てよ、町ヘ出ょう』で、今村昌平のドキュメンタリー映画『人間蒸発』に感化を受け、独自のドキュメンタリー技法で『ドキュラマ』を生み出した。因みに、アメリカの映画監督マーチン・スコセッシは、今村昌平の『豚と軍艦』から、強い感化を受けたと証言している。
或いはまた、寺山は、フェデリコ・フェリーニの映画『甘い生活』や『8 1/2』から感化を受け、祝祭的な異空間を取り入れた。例えば寺山は『田園に死す』でサーカスの巡業を挿入し空気女を描いている。これは寺山が0"81/z.l]の祝祭的雰囲気を『田園に死す』にコラージュした例である。スピルパーグもローマでフェリーニに会い、フェリーニの映画『道』に大いに感化を受け、『道』の女芸人ジェルソミーナの孤独をスピルバーグは『E.T.』で使い、E. T. が仲間の宇宙人に見捨てられた孤独な表情をコラージュしたといわれる。それに、スピルバーグにとって、コッポラやスコセッシらは先輩の映画監督であったから彼らの映画技法を綴密に研究していたのは当然のことであった。
このようにして、1970 年代の国際的な映画界を僻撤して、世界各国の映画監督たちの様々な映画監督活動をみていると、寺山とスピルパーグを取り巻く映画の環境の中で、互いに彼らが影響し感化しあっていた映画環境が透けて見えてくる。
或いはまた、黒澤明がコッポラ、スコセッシ、スピルパーグに感化を与えたのは、黒澤の映画が欧米映画の技法をコラージュしているからであるとしばしばいわれる。その意味で、寺山は『田園に死す』の制作で、 黒澤の『羅生門』の映画技法をコラージュしているが、更に 黒澤以外にも実に多くの欧米映画の技法やSF 映画の技法をコラージュしている。だから、ゴダールの『気狂いピエロ』を見ていると、寺山の『書を捨てよ、町ヘ出ょう』を思い出すのである。そしてまた、全く反対に、スピルパーグのO"E. T..I]を見ていると、これまた、寺山の『田園に死す』を思い出してしまうのである。
更に、寺山は、後年自作の全映画作品を南カリフォルニア大学でも上映しているが、この情報をスピルパーグが知っていたら『田園に死す』を観たかもしれない。ともかく、H ・G ・ウエルズ、の『宇宙戦争』のコンセプトが、少なくとも寺山やスピルパーグの映画の根底にあるから、スピルパーグの『E.T.』や『未知との遭遇』や『パック・トゥ・ザ・フューチャー』の宇宙人や宇宙船を見ると、寺山の『田園に死す』に出て来る霊場の恐山や墨女のいたこを思い出すのである。
さて、スピルパーグが、もしも『田園に死す』の恐山のシーンで少年が亙女のいたこを通して霊界の父と会話する場面を見たとするなら、スピルパーグの『未知との遭遇』や『E.T.』に出てくる宇宙人から、共通したコンセプトが見えてくる。その共通点は、未知との遭遇という不条理な時間であろう。殊に、ほぼ同じ時期に前後して、寺山は『田園に死す』で、スピルノfーグは『E.T.』で、孤独な少年と未知との遭遇を共感の念を抱いて描いた。寺山にしてもスピルバーグにしても、『田園に死す』や『E.T.』以外の作品では、宇宙からの襲撃を不条理な恐怖として描いた。寺山は宇宙人襲来のパニックを『大人狩り』に描いてきたが、『田園に死す』で未知との遭遇に共感を持って描いた。一方、スピルパーグは『未知との遭遇』や『E.T.』では未知との遭遇に共感を持って描いた。だが、スピルパーグは、『E.T.』以後、宇宙の襲撃で、パニックを引き起こす映画『宇宙戦争』に傾斜していく。
少なくとも、この『田園に死す』と『E.T.』には、他の作品にはない、未知との遭遇や憧れと、思慕の念があり、そのような意味で、両作品には共通して子宮回帰が描かれているようにも思われるのである。
5 八口ルド・ピンターの『昔の日々』に於けるタイムレス
寺山はオスヴアルト・シュペングラーが『西洋の没落』で『起こらなかったことも歴史のひとつである』と言っているのをしばしば引用している。このアナグラムは、ハロルド・ピンターが『昔の日々』でアナの台詞をコラージュしたものと類似している。殊に、『昔の日々』の中で、アナは映画『邪魔者は殺せ』の出来事でさえ劇の中で『起こらなったかもしれないけれども、覚えていることがある』と言っているのである。
   決して起こらなかったかも知れないけれども、覚えていることが幾つかある。
ピンターの『昔の日々』では、やはり、20 年前の出来事と1970 年代の出来事が絶えず行き来しながら劇が進行するのである。寺山の『田園に死す』が製作されたのは、1974 年であるが、ピンターが『昔の日々』を書いたのは1970年であるから、恐らく寺山はピンターの『昔の日々』を読んでいたようだ。
こうして、寺山は、映画『田園に死す』の結末でセットの中での出来事が作られた虚構に過ぎないことを示すために、セットを崩して、セットの後ろから1970年代の白昼の東京の街並みが映し出した。
映画セットの屋台崩しは、今村昌平の『人間蒸発』の最後の場面にも見られる。寺山と今村の映画のセット崩しはフェリーニの『8 1/2』のラストシーンでセットが取り壊されるシーンからのコラージュでもある。
さて、フェリーニの『8 1/2』のセットはロケット発射台だったが、見方をH.G・ウエルズ、のタイム・マシーンのように設定して考え直すと、『田園に死す』は20 年前の霊場恐山から、20 年後の1974 年の東京新宿に一瞬にしてタイムトラベルしたと考えることが可能である。この場合、霊場恐山はH ・G ・ウエルズの宇宙船で、あり墨女のいたこは宇宙人ということになる。そして、映画『田園に死す』では、タイムマ・シーンの代わりに、恐山の舞台装置が崩れる。このシーンは、ちょうどロケットが、大気圏に突入した後、ロケットからパイロットが地上に現れるように、『田園に死す』のラストシーンでは、一挙に、20 年間の時間を飛び越えて1970 年の東京新宿の町並みが現れるのである。
寺山は、映画撮影の製作費は安いが、質の高い映画作りを目指したATG映画の事情もあったが、先ず、何よりも寺山自身が歌人であり、『田園に死す』で俳句や短歌をスクリーンにインポウズして見せ、更に、スピルパーグの玩具のようなタイム・マシーンではなく、目に見えないが、人間の想像力だけが見える、透明なタイム・マシーンを舞台崩しの場面で、使って、異次元空間を瞬時に見せたのである。また、歌人の寺山が、極限の三十一文字の世界を紡ぎだす詩人として、しかも、劇作家として、また、ステージを熟知したアルチザンだったので、ぎっしりと詰め込まれた不条理な異次元空間の妙味を現すのに、舞台の暗転のような効果を、映画のスクリーンに 使った。
6 バーナード・ショーの『ファニーの処女作』に於けるファンタジー
ショーは『ファニーの処女作』をドラマ化しているが、この劇構成はピランデッロの『作者を探す六人の登場人物たち』を想い出す。英国近代演劇の研究者の升本匡彦が2005 年9月4日、名古屋学院大学さかえサテライトで『ファニーの処女作』の研究を話した。その際、升本はショーの『ファニーの処女作』とピランデッロの『作者を探す六人の登場人物たち』についてその類似性に触れた。劇の作中人物である批評家が、同じく作中人物のファニーが書いた戯曲『ファニーの処女作』は、劇作家のショーが書いたものだという。従って作者を探すとういう点では、ショーの『ファニーの処女作』もピランデッロの『作者を探す六人の登場人物たち』も或いは寺山の『邪宗門』も類似している。しかも、舞台が劇の中にもう一つ劇があるというメタシアターの視点、からも似ている。劇中劇という観点、からみれば『ハムレット』や『かもめ』などの先行作品がある。また、舞台と観客席との間にある壁を突き破るというドラマであればメタシアターとなってしまい、観客は劇を見ながらフィクションの世界に巻き込まれることになる。さて、天野天街氏は、愛知トリエンナーレの催し物で、諏訪哲司氏の芥川賞小説『りすん』を脚色し演出したが、舞台の最前列に役者を並べて終幕でステージの役者と一緒に合唱する工夫をした。こうした天野氏の演出によって舞台と観客の境目は無くなり、劇場全体がメタフィクション化し、観客は小説『リスン』の世界に入り込んで一緒になって小説を読んでいるという感覚に陥るのである。作者が観客をドラマに巻き込むという戦略からすれば、ショー、ピランデッロ、寺山修司、天野天街氏の意図する実験演劇のドラマツルギーの内面が案外容易に見えてくる筈である。
7 寺山修司の『邪宗門』
『邪宗門』の中で登場人物たちが、終幕近くで、この芝居を誰が作ったのかと言っている。結局、新高恵子氏が『作者よ』という。この台詞は、直ちに、ピランデッロの『作者を探す六人の登場人物たち』を想い出してしまう。『邪宗門』は意図的にこの芝居が作り物である事を提示している。黒子が大勢登場し、しかも役者が“生"人間でなく人形であることを強調している。そして、終幕で、役者たちは“生"人聞から人形化し、更に、黒子は黒い衣装を脱いで生人間として姿を表す。
   山太郎……だとすれば、その黒子を操っていたのは一体誰なんだ。
   新高それは、言葉よ。
   佐々木じゃあ、その言葉を操っていたのは一体誰なんだ。
   新高それは、作者よ。そして、作者を操っていたのは、夕暮れの憂欝だの、遠い国の戦争だの、一服のたばこのけむりよ。
前述の台詞は、先ず、新高恵子氏が黒子の衣装を脱いで“生"人間になり、ドラマがフィクションから現実へ変換した事を暴露する。しかも、ここで注意しなければならないのは、それまで、劇中人物であった山太郎が、俳優の佐々木英明自身に変わって“生"人間として話し始める場面である。この変化は、かつて、佐々木氏が映画『書を捨てよ、町ヘ出ょう』の冒頭シーンで、“生"人間としてスクリーンの中から観客に話しかけ、それから映画の中に入って行く場面を想い出す。そして、映画の終わりになって、佐々木氏は再びフィクションの北村英明から現実の佐々木英明自身に戻るのである。
そればかりではない、寺山は、『邪宗門』の終幕で舞台そのものを破壊して、劇場も破壊して市街をみせる。まるでパンドラの箱の中身が空中に霧散して消えていくように、舞台のキャラクター達は皆拡散して、遂には、あたかも、ウイルス菌のように、観客の心に感染していくのである。
8 寺山修司の『観客席』
前にも紹介したように、田之倉稔氏は『まず寺山とピランデッロの関係は結構あるとおもいます。『観客席』はきわめてピランデッロ的です。』と述べておられる。また、かつて、守安敏久氏が、『『観客席』を観劇中に、客席にボートが現れてびっくりした』と語った事がある。その場面は、『観客席』の『6 とびだす救命ボート』のト書に指示が次のように書かれている。
ふいに、観客Kの10 を突き破って、巨大な救命ボートがとびだす。一瞬とぴあがるKIO の客!
前述のト書は、現実とフィクションとが交錯した場面である。観客は、現実の場である観客席にいるので救命ボートが突然フィクションが異次元の世界から噴出したように驚くのである。そこで、田之倉氏は『寺山一ピランデッロは虚構の現実性という基本的な点で共通性があるのではないでしょうか。』と述べたのであろう。
9 まとめ
ピランデッロは『あなたがそう思うならそのとおり』や『作者を探す六人の登場人物たち』の中で、虚構の現実性を描いている。だが、寺山の場合には、更に、パラドックスがあるから、現実は嘘にもなるし、嘘も現実になる。
さて、映像作家の安藤紘平氏によると、寺山の映画のスクリーンにいったん、入り込むとそこから出られなくなるという。けだし、ピランデッロの『あなたがそう思うならそのとおり』は、寺山が示す映画のスクリーンの世界を想い出させる。いったん、観客が映画のスクリーンの世界に入り込むと、映画の世界では、ポンザ夫人は、一旦は、死んだフローラの娘でもあるが、次の瞬間にはポンザの第二の妻にもなる。つまり、映画は、虚構の世界であり、嘘の世界であり、夢の世界であり、また幽霊が住む世界でもある。だから、映画の不連続な世界の視点、から見ると、ピランデッロの『あなたがそう思うならそのとおり』は、何の矛盾も起こらない。しかし、あくまでも、現実の世界に拘ると、ピランデッロの『あなたがそう思うならそのとおり』は、矛盾に満ちているので、遂には、不条理の世界に迷い込んでしまうのである。
結局、ピランデッロの『あなたがそう思うならそのとおり』は、フィクションとして見続ける限り、ポンザ夫人の言っている事も彼女の存在も少しも矛盾しない。その尺度の基本となっているのはピランデッロの『作者を探す六人の登場人物』である。仮に舞台の真中に鏡を立てると、現実世界の人物と舞台の登場人物がパラレルに登場する。従って、予め、現実とフィクションとを並列して見ている限り、矛盾が起こらない。しかし、『あなたがそう思うならそのとおり』では観客がこの舞台中央に立てである鏡を無視し、現実とフィクションを一直線に同列化しようとしたり、現実の視点だけで全ての現象を見ようとしたりすると、訳の分からない芝居になってしまう。
但し、一般の観客はピランデッロの『あなたがそう思うならそのとおり』が、事件の当事者以外には虚構という真実が客観的に分からないので、『作者を探す六人の登場人物』に比べると少し複雑で分かりにくくなっている。言い換えれば、ピランデッロの芝居は、観客を、舞台に巻き込むように仕掛けた装置になっている。だから、~ß_、観客が舞台に巻きこまれると、現実とフィクションの境目が取り払われてしまい矛盾した世界に巻き込まれ、迷宮の世界に墜ちこんでしまうのである。しかし、舞台の出来事が、映画のスクリーンに映る虚構の世界だと思えば、矛盾は取り除かれ、難問は解決する。
しかしながら、逆に映画の世界が、現実を飲み込む宇宙空間だと思うと、もはや、現実の尺度は役に立たなくなる。なぜなら、現実の人間社会を含めた時間は150 億年の宇宙の歴史から見ればほんの一瞬であり、おまけに、この現実は、宇宙と全く無関係ではなく深く繋がっているからである。寺山修司は『壁抜け男一レミング』で次のように言っている。
   世界の涯てとは、てめえ自身の夢のことだ 
寺山は、宇宙を夢と同じ大きさで出来ていると考えていた。宇宙がビッグノてンで誕生したとすれば、人間の意識の底にある潜在意識は、その人自身の生命の誕生と深く関係してくる筈である。というのは、人間の心の奥底に眠る潜在意識は、宇宙の誕生と関わってくるはずだからである。しかも、人間の潜在意識は宇宙の誕生にまで遡る事が出来る筈であるが、寺山は、それを夢によってそれが可能だと述べている事になる。ピランデッロの虚構の世界もこの人間の潜在意識と関係してくる。『あなたがそう思うならそのとおり』では、ポンザ氏もフローラもポンザ夫人の記憶も、気まぐれで定かでない潜在意識から立ち昇ってくる。そんな不条理な咳きであるとすれば、それはロジカルではない子宮の世界が宇宙の縮図となる。そうだとすると、ポンザ氏もフローラもポンザ夫人の虚言も、覚醒し目覚めた意識では決して測定できない言辞である事を表している事になる。
さて、寺山は『邪宗門』で、現実の舞台を破壊しようとするが、元々、台詞も舞台も虚構である事を示している。だから、この逆転は、いわば、現実の舞台を破壊することが、創造でもある事を示しているのである。
   どんな鳥だって、想像力よりも高く飛べない (p126.)
鳥は現実を象徴しており、大気圏よりも遠い彼方ヘ飛んで、行けない事を表している。だが、逆説的に、想像力は、成層圏を突き破って宇宙の涯てまで飛んでいく事が出来る事を示しているのである。従って、『あなたがそう思うならそのとおり』の世界も、逆説的にみれば、現実の出来事よりも、不条理で脈絡のない人間の想像力の方が遥かに真実を含んでいる事を表しているのである。 
 
三田文学  

 

明治43(1910)年、永井荷風を主幹として誕生した『三田文学』は、七度の休刊及び活動休止を経験しながらも、平成22(2010)年に創刊100年の節目に達し、いまも力強い歩みをつづけています。
創刊以来『三田文学』は、慶應義塾の文学科顧問に就任した森鷗外、上田敏、さらに塾出身の佐藤春夫、水上瀧太郎、久保田万太郎らが健筆を揮う舞台となるだけではなく、泉鏡花、谷崎潤一郎のような反自然主義の作家たちの拠点として、あるいは若き井伏鱒二、丹羽文雄、坂口安吾ら塾外の才能にとっての登竜門として、日本の近代文学史上きわめて重要な役割を担ってまいりました。また文学の公器たらんとする編集方針にもとづき、小山内薫の伝統を継ぐ演劇人、西脇順三郎、折口信夫をはじめとする学匠詩人、そして同時代西欧の文学、思潮の翻訳・紹介に積極的に誌面を提供してきたことは、『三田文学』の顕著な特色でした。近年、日本の近代文学や文化に対する関心が世界的なひろがりを示しておりますが、そのような傾向も本誌の資料的な価値をいよいよ高めているとも言えるでしょう。
しかしここに問題が生じてまいりました。『三田文学』が刻んでまいりました100年は、近代的な製紙技術の紙の寿命とされる時間とほぼ合致しております。とくに、用紙確保の非常に困難なときに懸命に刊行を持続しておりました第二次大戦期の『三田文学』は、紙質の劣化が著しく、資料としての保全が喫緊の課題となってまいりました。
そこでこれを救うため、そして資料としての公共化をともに図るため、このたび『三田文学』創刊100周年を記念する企画の一環として、創刊号(1910年5月号)から、太平洋戦争期の空襲による刊行途絶(1944年11月号)までの397冊を、デジタル資料というかたちで復刻することと致しました。これまでの紙及びマイクロフィルムとは異なり、カラー画像で撮影されましたデジタル資料は、洗練された『三田文学』の表紙そして誌面を鮮明に再現いたします。
若く瑞々しい感受性による創作、そしてなによりも歴代の編集長、編集にたずさわってこられた方々との情熱に報いつつ、『三田文学』という貴重な資産を広く研究者等にも提供をし、20世紀の文化の香りと記憶を刻んだアーカイブとして活用していただくことを祈りつつ、『三田文学』100年の歴史にあらたな1ページを開きたいと考えております。
永井荷風時代(1910.5〜1916.5)
1910(明治43)年春、慶應義塾文科刷新を象徴し体現するメディアとなるべく、『三田文学』は創刊された。奥付上の発行日は1910年5月1日。当時30歳の永井荷風が編集主幹となり、彼を推輓した森鷗外と上田敏が顧問として名を連ねることも発表された。発行元は、慶應義塾理財科の卒業生で、すでに『三田学会雑誌』の刊行実績があった籾山仁三郎の籾山書店が引き受けた。ちょうどこの前後の時期は、夏目漱石『それから』『門』、田山花袋『田舎教師』、泉鏡花『歌行燈』、北原白秋『邪宗門』、石川啄木『一握の砂』が相次いで刊行され、『スバル』『白樺』『新思潮』(第二次)が創刊された、日本近代文学史上特筆すべき豊饒な実りの季節でもあった。そんな中、『三田文学』は、坪内逍遥=島村抱月ラインが取り仕切る『早稲田文学』の存在を強烈に意識しながら、新しい文学の一拠点たるべく船出したのである。
新雑誌の編集主幹・永井荷風が担うことになった職責は、決して容易なものではなかった。何しろ、それまで同時代の文学創作とはてんで縁のなかった場所で、一から文学雑誌を作りはじめるのである。しかもこれは、創刊号に福沢諭吉の言葉を戴いた学校の雑誌でもある。だから、所属する教員や学生たちを書き手として登用し、育成していく道すじともならねばならない。そこで荷風が選択したのは、近い未来の文学・芸術の創造を支える基盤となるような、総合的な文芸誌を志向することだった。
そうした意図は、荷風がピック・アップし、決定した執筆者の人選からも観察できる。顧問である鷗外の人脈をたどって、木下杢太郎・北原白秋・吉井勇・長田秀雄ら『スバル』執筆グループを基本的な軸として据え、彼らの師匠筋にあたる与謝野晶子には小説や戯曲を書いてもらう。井上唖々や生田葵山(生田葵)ら古い友人たちに対する義理を忘れない一方で、同僚の小山内薫が創設した新しい演劇運動「自由劇場」を二度にわたる特集号(1910年11月号、1912年4月号)で支援したり、泉鏡花や谷崎潤一郎を積極的に登用したりするあたりには、同時代の文壇的な勢力図を意識したジャーナリスティックな狙いが明白である。当の荷風自身はと言えば、いくつかの変名を用いながら、芸術と社会との関係について、日本社会の根底的な排他性について、日々折々の生活の中でのちょっとした気づきについて、機知と皮肉と情味とを自在にとりまぜたエッセイを掲げつつ、評論や紹介・研究的文章にも手を拡げて、慶應義塾の教員たちが誌面に登場する余地を作った。こうした編集方針に平仄を合わせるように、『スバル』創刊以後旺盛な執筆活動を再開していた鷗外は、「普請中」(1910年5月号)「沈黙の塔」(1910年11月号)「灰燼」(1911年10月号〜1912年12月号)など、力作・問題作を次々と寄稿、文字通りの大黒柱としてこの新しいメディアを支えた。以上のような荷風の差配からは、『三田文学』を、小説・詩・演劇・評論・随筆・翻訳・研究といった文芸各ジャンルのいずれをも排除しない、視野と幅の広い媒体として育て上げていこうとする意図を窺知できるように思う。
雑誌としてはひとまず順調に出発した『三田文学』だったが、記録を見る限り、慶應義塾の学生募集にはまるで結びつかなかったようだ。それでも、荷風らを招請した一連の刷新は、一部の学生たちに決定的な刺激を与えたことは確実である。荷風の教授時代を知る書き手の回想からは、授業以外の場での談論を含む、少人数ならではの濃やかな交流が、一種のサロンにも似た雰囲気を醸成していたらしいことが読みとれる。学内では実に勤勉な教員だったらしい荷風の薫陶を受けた教え子たちは、互いの顔が見えるこうした環境を、自己の文学的出発点としていたのである。
早くも創刊2年目には、編集の補佐役として荷風を支えた井川滋「逢魔時」(1911年3月号)を嚆矢として、「朝顔」(1911年6月号)の久保田万太郎、「山の手の子」(1911年7月号)の阿部省三=水上瀧太郎が相次いで登場、予科の同級生だった堀口大学と佐藤春夫も、堀口が「女の眼と銀の鑵と」、佐藤が「憤」で、万太郎・滝太郎と同月号でそれぞれ誌面にデビューしている。のちに水上瀧太郎は、「学校の使命は人を育てるにある」が、慶應義塾は「純文学の方面においては、永井先生のすっきりとした長身が三田山上にあらわれてから、ようやく一人前の人間を生むことができた」と書いた(「『三田文学』の復活」『時事新報』1926年3月6日〜24日)。この言を踏まえて言うなら、瀧太郎を含む学生作家たちの登場とその後の活躍によって、『三田文学』は、慶應義塾が出資する雑誌から、文字通りの意味で「三田山上」の文学雑誌として根づきを始めたのである。
だが、荷風が主幹として存分に手腕を振るえた時期は長くは続かなかった。はじめ『三田文学』は、鷗外の示唆もあって、当時としては高額の原稿料を支払っていた。慶應義塾が拠出した資金について、荷風には相当の裁量の余地が与えられていたようだ。しかし、『三田文学』にとって二度目の発禁となった谷崎潤一郎「颷風」(1911年10月号)を契機として、慶應義塾当局からの誌面への干渉が本格化したらしい。その翌月号に荷風が寄せた「谷崎潤一郎氏の作品」(1911年11月号)は、谷崎評価を長きにわたって決定づけた重要な評論とされてきたが、久保田万太郎によれば「“発売禁止”にからんでの学校当局に対するおもむろなる“回答”とわれわれには感じられた」(久保田万太郎「よしやわざくれ」)という。タイミングと内容を考え合わせれば、むべなるかなと言うべきだろう。
1911年12月8日付け小山内薫宛荷風書簡には、『三田文学』に、学校側の「検閲」があったことが記されている。こうした手続きがいつから始まったかは不明だが、「颷風」以降、学校当局のまなざしが厳しくなったことは事実だろう。雑誌の売れ行きが停滞した1914年ごろからは、会計的にも締め付けが行われたらしい。編集の独立性と雑誌経営の自律性を奪われてしまえば、主幹とは単なる現場責任者の謂に過ぎないものとなる。『夏すがた』発禁をめぐる事情もふくめ、荷風の心は『三田文学』から離れていった。1915年3月号から、奥付の編集発行人欄に永井壮吉の名前が消える。翌1916年2月には、荷風は『三田文学』と慶應義塾文科から立ち去ったのだった。
なお、『三田文学』創刊から荷風時代の誌面については、先掲の武藤康史「三田文学の歴史」が、詳細かつ丹念にたどり直している(『三田文学』2000年夏季号〜2013年秋季号)。合わせて参照されたい。
編集担当者について
永井荷風 1879(明治12)年〜1959(昭和34)年
東京生まれ。本名は永井壮吉。高等商業学校附属外国語学校清語科除籍後、アメリカ・フランスに約5年間滞在。帰国後は海外での生活時に培った文学的素養と独自の見識を活かし、『あめりか物語』(1908)『ふらんす物語』(1909=発禁処分)『歓楽』(1909=発禁処分)など多くの作品を発表、自然主義全盛期の文壇で特筆すべき活躍を見せた。1910(明治43)年2月、森鷗外・上田敏の推薦で慶應義塾大学部文科教授に着任、『三田文学』初代主幹となる。ちなみに父・久一郎はかつて慶應義塾で学び、当時の塾長鎌田栄吉とも相識る関係だった。『三田文学』には「紅茶の後」(1910年5月号〜11月号)「大窪日記」(「大窪だより」とも。1913年9月〜1914年7月号)「日和下駄」(1914年8月号〜1915年6月号)といったエッセイや小品・評論を多く寄稿した。『三田文学』発売元となった籾山書店の籾山仁三郎とは親しく交わり、慶應義塾辞職後は、旧友井上唖々と籾山とを誘って雑誌『文明』を創刊、『三田文学』時代には書かなかった長篇小説「腕くらべ」を連載するなど、自在の筆を揮った。「夜の車」(1931年8月号)以降『三田文学』に登場することはなかったが、1959年の逝去時には「永井荷風追悼号」が編まれ、荷風在職当時を知る教え子たちを含む30名の論文・回想を掲げて、故人の貢献を偲んだ。
沢木四方吉時代(1916.6〜1925.3)
1916(大正5)年、初代編集長であった永井荷風が『三田文学』の運営方針を巡って慶應義塾当局と対立し、教授職を辞した後、三田文学会主幹は同年3月にフランス留学を終え、慶應義塾大学部文学科の教員に着任したばかりの沢木四方吉に引き継がれた。
第一次世界大戦中であった欧州から戻った沢木主幹の下、『三田文学』誌上には太宰施門、竹友藻風、井汲清治等の文芸評論が目立つようになった。これには、沢木自身が日本における最初期の西欧美術史家として慶應義塾で教鞭を執っていたことが影響しているであろう。先に挙げた井汲清治や、沢木主幹時代の『三田文学』に頻繁に寄稿した南部修太郎、小島政二郎、宇野四郎、三宅周太郎等は、帰国後の慶應義塾における沢木の教え子でもあった。後の水上時代の『三田文学』を支えた作家・編集者の勝本清一郎もまた、沢木の着任と同時に設置された美術史科の第一期生であった。このように、慶應義塾の文学科教員を中心とした執筆者、並びにその教え子たちによる評論、随想が増え、アカデミックな様相を呈するようになったのが、この時期の『三田文学』の特徴の一つである。また、沢木とほぼ同時期にアメリカ、ヨーロッパに留学していた水上瀧太郎も1916年に帰国し、明治生命に就職していたが、同年12月号から随筆「海上日記」の連載を始めていた。この水上もまた、沢木とは慶應普通部時代からの知己であり、友人であった。水上は、この沢木主幹時代の1918(大正7)年1月号から、その代表作である随筆「貝殻追放」の連載も開始している。
『三田文学』の記事が学術寄りになったのには、1920(大正9)年に、慶應義塾が正式に「大学」となったことも影響していると考えられる。それまで、卒業生に学位を授与する権限を持っていたのは帝国大学に限られていたが、明治末から大正期にかけての進学率の上昇に伴い、旧制高校と大学数の不足が懸念されたため、政府は1918年に高等学校令を改正し高等学校を増設し、1919年には大学令を公布して、国公立専門学校や私立学校の大学化を認めたのである。この結果、慶應義塾は慶應義塾大学となり、それまでの「学科」を「学部」に改組し、文・経済・法・医の四学部を抱える総合大学となったのである。そして、『三田文学』主幹の沢木はこの時文学部教授となった。
主幹の沢木自身は「沢木梢」の筆名を用いて『三田文学』に寄稿し、欧州滞在記、美術史評論を発表していた。また「レオナルド・ダ・ヴィンチ」の連載も行った。それらは後に『美術の都』『レオナルド・ダ・ヴィンチ その前半生』として出版され、両書は沢木の代表的著作となる。
『三田文学』創刊当初から寄稿していた野口米次郎(当時、英米文学科教授)は、この時期も引き続き誌面に登場している。当初は英語詩が主だったが、荷風主幹時代末期から評論・随想が多くなり、沢木主幹時代は殆どが評論・随想で、詩作の発表はわずかとなっていた。慶應義塾大学三田キャンパスにあった萬来舎は、父である野口がかつて教鞭をとっていた慶應義塾を訪れたイサム・ノグチがデザインしたものである。
また、荷風の推薦により、『三田文学』誌上にデビュー作を発表していた邦枝完二は、この時期も断続的に短編小説を発表していた。その多くは短編の時代小説で、後の人気時代小説家の萌芽の時期を、ここに見ることができる。
この沢木時代の『三田文学』は、1925(大正14)年3月号をもって突然休刊という事態を迎えた。編集主幹の沢木は当時病気療養中で大学も休職していたが、塾側の休刊決定について、彼には事前の相談もなかった。病中の沢木は、親友であり当時の『三田文学』の「精神的支柱」でもあった水上を後任の主幹にして刊行継続を求めたが、塾側は塾の教職員以外の人物を主幹に据えることを拒んだという。水上は、1926(大正15)年に『時事新報』紙上で『三田文学』休刊の事情に触れているが、水上の見解は、永井荷風を喪い塾側の熱が冷めたこと、沢木時代には塾からの補助金が横ばいで、満足な原稿料が払えなくなったこと、そのために一流の作家の原稿が望めなくなったこと、沢木が文学・哲学・美術に特化した雑誌にする改革案を提示したが、才能のある哲学者が若くして世を去ってしまったこと、などを挙げている。
編集担当者について
沢木四方吉 1886(明治19)〜1930(昭和5)年
現在の秋田県男鹿市生まれ。沢木梢、若樹末郎、LL生の筆名がある。生家は資産家で、沢木は兄弟達と同じ慶應義塾へ進学した。兄たちは理財科に進んだが、末子で体の弱かった沢木は文学科に進むことが許された。1906(明治39)年に慶應義塾本科文学科へ進んだ四方吉は、三年次に『三田評論』に評論、小説を続けて発表し(1908年)文名を挙げ、この頃から一学年下に在籍していた小泉信三との交友も始まった。1909(明治42)年、慶應義塾大学部を卒業すると、沢木は普通部の英語教員として採用された。この年5月、『三田文学』が創刊され、沢木は「沢木梢」の筆名で同年8月号・10月号に「ニィチェの超人と回帰説」を寄稿している。1912(明治45)年には、文学科留学生としてドイツへ派遣された。この留学は3年8ヶ月間に及び、その途中に第一次世界大戦が勃発し、同じくドイツに留学中であった小泉等と共に危ういところでロンドンへ脱出するといった出来事もあった。1916(大正5)年、帰国した沢木は慶應義塾大学部と予科の教員となり、同年、永井荷風に代わって『三田文学』の編集主幹に就任した。1920(大正9)年、大学となった慶應義塾大学文学部の美術史科教授となる。一方、『三田文学』等で発表してきた論文・評論をまとめた『美術の都』(1917年)『レオナルド・ダ・ヴィンチ』(1925年)『ギリシャ美術概観』(1929年)といった著書も発表した。しかし、留学時代からよくなかった病が悪化し一時休職、その間に『三田文学』は休刊(1925年3月)となり、沢木は主幹を辞すことになった。その後、復職・休職を繰り返したが、病状は好転せず、1930(昭和5)年、43歳の若さで死去した。
水上瀧太郎時代(1926.4〜1933.12)
1926(大正15)年1月20日、「「三田文学」復活講演会」は慶應義塾内大ホールに於いて、700人の文学青年たちの熱気の中で開催された。編集委員・水上瀧太郎、久保田万太郎、井汲清治、南部修太郎、西脇順三郎、小島政二郎、水木京太、石井誠、横山重、編集担当・勝本清一郎が中心となって奔走した結果、休刊後僅か一年で不死鳥の如く復活したのである(第3次『三田文学』)。塾当局によって瀧太郎の主幹就任は拒まれ、編集委員制をとったのであった。復活講演会の席上久保田万太郎は物心両面にわたって牽引役を果たした水上瀧太郎を「我等の精神的主幹」と声明した。永井荷風時代の創刊は文科の機関誌として手厚い支援を受けたが、第3次の復活は塾当局と距離をおき(僅かな補助金があった)、文学青年たちの結集によって実現したことは特筆すべきことであった。瀧太郎は社業の多忙のため(勤務先明治生命保険の取締役に就任した)1933年12月をもって編集委員を辞退するが、彼の「精神的主幹の時代」は多くの新進作家が活き活きと活躍し、雑誌の資金的基盤を築いた正に「輝く『三田文学』の時代」であった。この間、編集担当は勝本、平松幹夫、和木清三郎と三代を数えるが、瀧太郎の存在と個性的な三人の編集担当者を得た事は復活『三田文学』にとってはこの上ない幸運であった。
復活号は澤木四方吉時代の歴史、哲学分野を切り離しているので、純文学関係だけで160頁余の頁数は文学雑誌としてはかなりの増頁であった。従来から重視された小説・戯曲・詩のジャンルを堅持し、一方で復活号から瀧太郎時代を特色付ける編集の基本方針がはっきりと打ち出された。新人の作品を積極的に取り上げることこそ復活の最大目標であった。復活講演会で瀧太郎は『三田文学』は「新進作家を生む為に存在する」と宣言したが、復活号は加宮貴一、久野豊彦、木村庄三郎を登場させ新進作家の活躍の場としての雑誌使命を内外に明示した。もはや荷風色(反自然主義、耽美派)は一掃されて三田派の結集を印象付けるものであった(荷風の寄稿は別誌用のものを転載したもの)。三田派の同人雑誌ではあるが、外部の新進作家を捲き込みつつ以後発展してゆく。また、海外文学の紹介は従来から特色の一つであるが、西脇、井汲などの論文や翻訳・評論の紹介、「海外文壇消息」欄など外国文学への目配りがなされている。表紙には新進画家の富澤有為男や鈴木信太郎などが登場するが、画家たちにとっても『三田文学』は画壇進出の場であった。変革は雑誌の資金集めにも現れ、前金購読者の勧誘、寄附金の依頼?広告の募集(デパート・化粧品・洋服店などに拡大)などを推進し、瀧太郎自身も「貝殻追放」や「六号雑記」で協力を要請した。平松によれば赤字から黒字に転換できたのは瀧太郎が「「三田文学」編集委員隠居の辞」(1933年12月号)を書いた頃だった。
第3次『三田文学』のもう一つの大きな特色は純文学路線の堅持である。復活号が出た大正末期から昭和初頭の文学界は、既成文学を打倒しようとする二つの流れ、即ちモダニズム文学とプロレタリア文学の流れと純文学と大衆文学の流れが輻輳した時期であった。商業的雑誌の創作欄は既成の作家で占められ、新人登場の余地は限られたものであった。こうした中で『三田文学』がこれらの流派には加担せず、「只管忠実におのれ一個の道を拓いて進む」(「人真似」)純文学の立場を貫徹しつつ新人にも場を提供した意義は大きい。
瀧太郎時代に活躍した執筆陣は三田派(荷風時代に登場)瀧太郎、万太郎、春夫を始め新三田派(澤木時代に登場)では南部修太郎、小島、井汲、演劇評論・三宅周太郎、劇作家・水木京太、詩の西脇順三郎、など多彩な顔ぶれが揃う。新々三田派(復活号以降)は、詩・蔵原伸二郎、加宮貴一、勝本清一郎、木村庄三郎、久野豊彦、倉島竹二郎、勝本英治、石坂洋次郎、平松幹夫、杉山平助、庄野誠一、丸岡明、今井達夫、劇作家・宇野信夫、南川潤、評論・矢崎弾など枚挙にいとまがない。紅野敏郎は「『三田文学』今昔」(『三田文学』1970年6月号)で「昭和初期から戦争下、水上さんが亡くなられるあの前後」が、創刊以降もっと面白い時期である」と結論付けている。冊子『三田文学創刊100年展図録』(2010年)が「「三田文学」の恩人、水上瀧太郎」として称賛する所以である。
編集担当者について
水上瀧太郎 1887(明治20)年〜1940(昭和15)年
東京生まれ、本名阿部章蔵。1912年慶應義塾大学理財科卒業、同年9月から4年間に亘り米英仏に留学。帰国後、直ちに明治生命保険に入社。サラリーマンと作家の「一身にして二生を経る」(福澤諭吉)生涯であった。処女作「山の手の子」が荷風の推挙で、創刊間もない『三田文学』に掲載された感動を「私のはなやかならぬ文筆生活も二十二年の久しきに及んだが「三田文学」はその揺籃であり、苗床であり、母の懐であつた」(「「三田文学」編輯委員隠居の辞」)と述懐している。熱意ある主幹の存在、新人に門戸を開いた雑誌、この二点は復活号以下を貫徹する瀧太郎の熱い思いであった。また純文学路線の堅持も瀧太郎の信念であった。関東大震災直後の「所感」(1923年10月号)で西洋近代の思想を無批判に受け入れ(未来派、表現派、ダダイズム、プロレタリアなど)、使い捨てる文壇の浮薄な風潮を厳しく論断した。作家自身の練磨と鞭撻と反省によって「今度こそは顧みて恥ぢない道を歩むべきである」と決意を披歴した。復活『三田文学』は瀧太郎の信念を具現化したものである。瀧太郎は毎号執筆を実践する一方、新人の発掘と育成に務め庄野誠一、丸岡明、杉山平助や義塾外でも藤原誠一、大江賢次、早川巳代治、井伏鱒二などを見出すとともに、それらの作品に適確な批評の筆を執った。毎月「水曜会」を開催し同人の懇親と切磋琢磨する場を提供した。『三田文学』は「水上瀧太郎追悼号」(1940年5月号)、「水上瀧太郎全集刊行記念」(1940年10月号)、「水上瀧太郎一周年記念特輯」(1941年4月号)によって哀悼の意を表した。
勝本清一郎 1899(明治32)年〜1967(昭和42)年
東京生まれ。1923年慶應義塾大学美術史科卒業、1925年同大学院修了。『三田文学』復活に際して初代編集担当となり、1927年11月号まで1年7ヶ月の短期間ではあったが、勝本のもとに『三田文学』の方針は具体化され創意溢れる雑誌が実現した。倉島竹次郎、木村庄三郎、杉山平助など新人登用を積極的に進めた。早くも1926年7月号では「新進の創作・六篇」の特集を試みている。ここに収録された久野豊彦、富田正文・高橋宏、葛目彦一郎はそれぞれ「葡萄園」、「青同時代」、「橡」の同人であるが、『三田文学』は周辺の同人雑誌を巻き込んだことは注目すべきである。長篇小説の連載など紙面の工夫がなされる一方で同人雑誌にありがちな馴れ合いを排除し、掲載作品の質的向上を追求した。「勝本氏も気性の勝つた、他に屈しない人であるが、編集者の立場を顧みて、よく不愉快を忍んでくれた。もう厭だといひ出した事もあつて、それをなだめるのも私の仕事だつた」と瀧太郎は回顧している。初代編集担当が勝本であったことは幸先良いスタートであった。勝本自身は1921年評論「お夏狂乱」で『三田文学』でデビューした。編集担当後も小説や評論に健筆を振るったが、中でも瀧太郎の「大阪の宿」を批評した「随筆的心境」(1926年12月号)は瀧太郎文学の批判として注目される。戦前はプロレタリア作家同盟の論客としても活躍したが、戦後は日本近代文学の実証研究に転じ『透谷全集』(全三巻、岩波書店)など成果をあげた。
平松幹夫 1903(明治36)年〜1996(平成8)年 
東京生まれ。1926年慶應義塾大学英文科卒、1928年同大学院修了。 勝本と急遽交代して1927年12月号から編集担当に就任したが、大病のため1929年3月号をもって退いた。義塾を卒業した直後で創作経験も少ない上に、雑誌編集は未経験であった。このため独自色を打ち出すまでには至らなかった。小品・随筆・評論、アンケート集約形式で多くの執筆者に出番を与え紙面を賑わしている。平松時代、「UP―TO―DATE」で杉山平助の時事批評を掲載したことは注目される。杉山は菊池寛の目にとまり、『文藝春秋』の匿名原稿や『朝日新聞』の「豆戦艦」に活躍の場を広げた。小説では新興芸術派の旗手・龍胆寺雄が瀧太郎の求めに応じて「A・子の帰京」(1928年9月号)で登場し、以後も作品を発表した。また、井伏鱒二は「鯉」(1928年2月号)、「たま虫を見る」(同年5月号)、「遅い訪問」(同年7月号)などの小説で文壇的にスタートしたことは注目される。平松自身は「汗の味」(1926年12月号)でデビューするが以後、主に評論・随筆を数多く寄稿する。『水上瀧太郎全集』(岩波書店)の編集にあたった。『三田文学』と敬慕する瀧太郎に関する時々の随筆は、同時代の証言者としての役割をよく果たしている。慶應義塾大学教授の他、戦後は日本ペンクラブ理事、日本翻訳家協会会長、日豪学術文化センター所長を歴任した。
和木清三郎時代(1934.1〜1944.3)
この時期の『三田文学』でまず特筆すべきは、新進の作家・評論家の積極的な登用である。それは和木自身が「しょっちゅう傍系でしたよ、「三田文学」は。だから、傍系でないようにするために〔いわゆる文壇に―尾崎注〕接近するような方法をとりましたね」(「座談会『三田文学』今昔」(『三田文学』1970年6月号))と証言したように、彼の意志に基づく編集方針であった。
英文科出身の原民喜が「貂」(1936年8月号)で、また、文学部予科に在学中の柴田錬三郎が「十円紙幣」(1938年6月号)で登場し、評論では和木が久野豊彦から紹介された十返一や、帝大文科卒業直後の保田與重郎が共に1934年5月号に登場して以降、継続的に執筆した。保田は日本浪曼派のマニフェストとも言える評論「日本浪漫派(ママ)のために」(1935年2月号)を発表している。和田芳恵は「樋口一葉」を連載(1940年6月号〜1941年8月号)、彼のライフワークとなる一葉研究の端緒を開いた。また、塾内からは山本健吉(本名・石橋貞吉)が初めてこの筆名で「文芸時評」を執筆(1940年4〜6月号)、山本と同じ国文科出身の戸板康二は1935年5月号以降、歌舞伎を中心とした演劇論の発表を開始した。
新進に限らずとも、高見順、上林暁や、既に『三田文学』に登場していた井伏鱒二や丹羽文雄ら早稲田出身の作家たちもこの時期に作品を発表している。和木の門戸開放路線によって、『三田文学』は追加注文に間に合わないと「編輯後記」に度々記されるほどの活況を呈することとなった。
誌面構成上の特徴は、「六号雑記」の復活(1934年4月号〜)、毎号一誌につき一頁を充てた主要雑誌の批評などがあるが、なにより多様な特輯を挙げられる。創作特輯はもとより、1937年から毎年8月号で組まれた随筆特輯は43年まで続いた。これは読者が避暑先で雑誌を気軽に読めるようにとの和木の配慮による。また、フランス文学、イギリス文学、美術といった学問分野でそれぞれ特輯号が出され、それらが研究者の寄稿で占められたことは、沢木四方吉時代に強まったアカデミックな傾向の再来だといえる。日米開戦以降は帰還作家報告、愛国詩、慰問文といった戦時色の濃厚な特輯が編まれた。
追悼号が多く編まれたことも、和木時代の『三田文学』の特色であろう。南部修太郎(1936年8月号)、水上瀧太郎(1940年5月臨時増刊号)、馬場孤蝶(1940年9月号)と続き、特に水上瀧太郎追悼号の執筆者は136名に及び、1940年7月には再版もされている。『三田文学』復刊のために奔走し、復刊後は毎月のように寄稿するなど、『三田文学』を献身的に支えた「精神的主幹」水上の死を、和木たちはこうした形で悼んだ。
また、1935年には1926年の『三田文学』復刊から十年を迎えた。1935年5月号は復活十周年記念と銘打たれ、小泉信三「三田文学と私」や宇野浩二「「三田文学」と私」が掲載されたほか、「三田文学復活十周年記念講演会」の開催が告知された。この会は時事新報後援のもと、水上瀧太郎、久保田万太郎、小島政二郎、西脇順三郎といった三田ゆかりの人物に加え、菊池寛、里見ク、佐藤春夫といった作家たちが登壇した。また、「復活十周年記念三田文学バラエティ」の開催も同時に告知された。これは映画、芝居、講談など諸芸能の上映・公演企画である。6月号には砧五郎「復活十周年記念「文藝講演会」見聞記」が掲載、7月号では小特集「三田文学祭の夜」が組まれ、二つのイベントの報告もつぶさになされた。これらに先立ち和木は「時事新報」1934年11月15日にて、「この雑誌が同人雑誌と呼ばれるのには多少不満がある」との談話を出しており、「文学の修練場」を超えた場の提供への意欲が強くあったことが窺える。
この時期の作品で注目されるのは、石坂洋二郎「若い人」の完結と、岡本かの子「肉体の神曲」の連載である。
「若い人」は1937年12月号で「続篇」が完結した。1937年中に改造社から単行本が刊行、また、豊田四郎監督により映画化され、双方ともヒットした。『三田文学』誌上では各企画の進捗状況や評判が逐一報告された。
また、「若い人」は第一回三田文学賞(1936年1月号で発表)を受賞した。同賞制定の経緯に触れておきたい。まず、「三田文学十周年記念短篇小説懸賞」(以下「懸賞」)の募集が1935年2月号で告知された。すると、このことを激励する「塾員一匿名氏」から年500円ずつ十年間の寄附金の申し出があった(1935年3月号にて報告)。続く4月号では「懸賞」と別に「三田文学十周年記念賞金」(以下「賞金」)の告知がなされ、これが「賞金五百圓」、発表が「昭和十一年一月号」誌上とある。ゆえに、寄附金が三田文学賞制定の遠因になったと考えられる。結果的に、「懸賞」は一次選考までしか行われず、「賞金」が三田文学賞と名前を変えたのである。
岡本かの子「肉体の神曲」(1937年1〜12月号)は、彼女にとって『三田文学』誌上に発表された五作目の小説である。前年に「鶴は病みき」で話題を呼んだかの子だが、『三田文学』での小説発表は「売春婦リゼット」(1932年8月号)にまで遡れる。この号の「編輯後記」で和木は「新人」としてかの子を紹介した。小説家・かの子の発掘は、編集者・和木の手腕が発揮された結果にも見えるが、二人の私的な関係性の影響も考慮できる。それというのも、和木は岡本家に寄寓していた恒松安夫と慶應義塾の同級生であり、その縁で1918年頃にはかの子を知っていたのである。和木にとってかの子は姉のような存在だったという。「岡本かの子の死を悼む」(1939年4月号)で和木は「僕は余りかの子さんの近くにゐた。そして、かの子さんの好いところばかりを知り過ぎてゐた」と綴った。
このように眺めてみると、和木清三郎の『三田文学』は新進の書き手の誕生を助ける一方で、先人の葬送を司りながら展開したといえるだろう。そして、昭和戦前・戦中期の文学状況にあって、命脈を保ち、豊かな文学的成果をもたらしたのである。
編集担当者について
和木清三郎 1896(明治29)年〜1970(昭和45)年
広島生まれ。本名は脇恩三。1923年3月、慶應義塾大学文学部国文科卒業の直前に、主任教授だった与謝野寛の推薦で改造社に就職、『改造』編集部に入った。『三田文学』の編集には1929年4月号から参加し、1934年1月号より編集主幹の任に当たった。それ以前にも同誌上で「江頭校長の辞職」(1921年10月号)をはじめとして創作を発表していたが、主幹在職期間には「早慶野球快勝記」(1935年12月号)、「リーグ戦見聞記」(1941年7月号)といった大学野球に関するエッセイを多く残した。水上瀧太郎に全幅の信頼を寄せ、編集面でも彼に伺い立てをしていた和木にとって、1940年3月の瀧太郎の死は大きな痛手となったが、瀧太郎関連の講演会を主催し、一周忌記念特輯(1941年4月号)を組み、その死を悼んだ。水上に続き和木を励ましたのは小泉信三であり、二人の親交は小泉の逝去の時まで続いた。1941年10月に和木も関わるかたちで創設された三田文学出版部は、経済的統制の進む出版業界の情勢と相俟って雑誌の運営を圧迫した。そして、事業整備を機として、『三田文学』1944年3月号をもって和木は15年にわたる『三田文学』の編集生活に幕を下ろすこととなった。敗戦を南京で迎えた和木は1946年5月に帰国したのち、小泉信三の協力を得て『新文明』(1951年9月号〜1970年6月号)を発行した。水上瀧太郎、小泉信三という二人の先達の後ろ盾を得つつ、雑誌編集者としての生涯を歩んだのである。
戦時末期(1944.4〜10)
当時の情報局による指導・監督のもと、《出版新体制》下の出版業者を束ねる組織として1940年12月に設立された日本出版文化協会は、1943年11月、統制団体「日本出版会」として再編され、法的な根拠にもとづく強力な権限を有することになった。アジア・太平洋各地域での戦局の悪化を受け、決戦体制構築のための「出版報国」を一義的な目標に掲げた日本出版会の最初の大仕事は、戦略物資としての紙をより〈有効に〉活用するための、出版事業者と雑誌メディアの整理・統合であった。
用紙統制が本格化した1941年以降、『三田文学』のページ数は、他の雑誌同様に減少の一途をたどっていた。1943年に入ると各号100ページを割り込み、1943年12月号・1944年1月号では30ページ台にまで薄くなった。そんな状態でも、どうにか『三田文学』の刊行は続けられた。1943年末から開始された戦時末期の雑誌メディアの統廃合の際にも『三田文学』は、ライバル誌『早稲田文学』とともに、存置される文芸文学雑誌の一つとして、辛うじて生き延びたのだった。
この決定後、1944年3月号をもって、長く『三田文学』の顔として活躍した編集主任・和木清三郎は退任、久保田万太郎、太田咲太郎、片山修三、庄野誠一、柴田錬三郎、富田正文、戸板香實、長尾雄、丸岡明、南川潤の慶應義塾関係者・『三田文学』出身作家10名が編集委員となり、発行人の名義も西脇順三郎から富田正文に交代、養徳社を新たな発行所として、1944年11月号まで刊行が続けられた。また、実際に発売されることはなかったが、1944年12月号〜1945年3月号の4冊については、当該号の目次を掲げた新聞広告の存在が確認されている。『三田文学』は、日本帝国の敗戦直前まで編集作業を続けていた数少ない文学雑誌の一つだったのである。
ただし、こうした編集体制の変更が、『三田文学』の誌面に小さくない影を落としたことは確実である。そもそも日本出版会による雑誌の整理は、用紙の割り当てを受けていた他の雑誌を「買収」「統合」することを条件としていた。生き残りがかかった『三田文学』が、どの雑誌を「統合」したかは正確には分かっていない。しかし、当時の編集委員だった庄野誠一は、「同じ塾内で刊行されていた三田評論その他の雑誌を統合した」と回想している(「戦時中の三田文学」『三田文学』1960年3月号)。とすれば、戦時末期の『三田文学』は、実質的に慶應義塾の雑誌になっていたことになる。
そう考えると、和木退任後の新体制下での誌面にほぼ毎号登場する小泉信三をはじめ、高橋誠一郎、峯村光郎、後藤末雄ら、慶應義塾の教員によるエッセイや学術的文章が多く掲げられていることが説明できる。事実、1944年4月10日付けの『三田新聞』には、和木時代の『三田文学』について、慶應義塾内部から「性格について疑点がさしはさまれていた」こと、当時文学部の教員だった井汲清治を中心に、三田文学会の新たな組織に向けた準備が進められるだろうと伝える記事が掲げられている。柴田錬三郎は、1944年8月号の編集後記の中で、上林暁から「数少ない文学雑誌だから立派に育てて欲しい」と激励されたことを紹介しているが、そんな言葉に込められた思いとは裏腹に、同じ1944年8月号は、『文学報国』の匿名座談会(1944.11.20)で「何だか文学雑誌ではないようですね。三田随筆とかいうものにしたらどうでしょうかね。相当えらい人が随筆を書いて居るのです」と、文芸雑誌としての「編集方針」に対する疑問が提出されるほど、いわゆる「創作」は圧迫されてしまっていた。
それでも、『三田文学』での文学の灯火が完全に消えたわけではなかった。確かに、視点人物の女性を中心とした人間関係の微細な変化を描く作品を多く書いた阿部光子や、「上海もの」を得意とした池田みち子ら、和木時代の後期を彩った女性作家たちは誌面から姿を消している。しかし、石坂洋次郎はフィリピンを舞台に、民族運動家の娘とヘミングウェイ好きの作家と元ジャズ・シンガーらのフィリピン人と日本人軍人と嘱託の文学者から成る奇妙な宣伝部隊の活動を描き(「湖水」1944年6・7月号)、原民喜は、現実感覚を失って、妄想めいた連想がとめどなく続いていくありようを切々と訴える「四十近い」母親の「手紙」を、あっけらかんと掲げてしまう(「手紙」1944年8月号)。編集委員の筆頭として名前の挙がった久保田万太郎は、関東大震災後、ささやかながら銀座の復興に立ち上がろうとした小料理屋の店主と、そこに集う人々を共感を込めて活写した水上瀧太郎の「銀座復興」を戯曲にリライトし、戦時末期に最後に刊行された号(1944年10・11月号)で完結させた。
万太郎の「銀座復興」は、敗戦直後の1945年10月、尾上菊五郎一座が帝国劇場で上演し、おそらくは1944年の万太郎が願ったように、戦後の銀座の復興を祈念し、改めて誓い直す作品となった。また、刊行されなかった幻の『三田文学』の広告には、北原武夫「マタイ伝」、山本健吉「美しき鎮魂歌」など、戦後第一次の『三田文学』復活を支えた作品の名前が挙げられている。列島の各都市が灰燼に帰し、アジアと日本の多くの生命と文化が失われた戦争の中で、三田の文学の灯火は消えることなく、次代に確かに手渡されていたのである。  
 
「邪教問答」 坂口安吾 

 

璽光(じこう)様の話がでるとみんなが笑う。双葉山が小娘の指一本でひっくりかえったり、世直しの後には璽光内閣の厚生大臣であったり、京浜地方へ落ちるはずの神罰大天災が一向に起らなかったり、愛きょうがある。
けれども璽光様ははじめから邪教の様式で登場したからお笑い草ですんでいるだけのことで、人ごとではない、璽光様はわれわれの心に住んでいるのである。
大東亜戦争という、これが璽光様にほかならないではないか。八紘一宇という、科学的な推論じゃなしに、神話の中から民族の理想と予言をひきだしてくる、何々教のお筆先、璽光様の世直しの御理想と全然異るところがないじゃないか。
璽光様が当局の呼び出しを受けたというので双葉関や呉八段が天璽照妙、隊をねって歩いたという。けれども戦争中の日本人は国民儀礼と称する奇々怪々なオツトメをやらされ、朝々ノリトのような誓いの言葉を唱え、その滑稽の度において天璽照妙と全く甲乙のないことをやっていたのである。
何百人の人々が一夜に家を失ったときも、明治神宮の拝殿だけは一週間ぐらいで再建する、国民共は米も魚も拝んだことがないのに、農村から敬々(うやうや)しく献上米が殺到する、これ皆々今日璽光様の身辺に行われていることゝ変りはない。
つまり日本全体が八紘一宇教という邪教徒であったわけで、教祖の東条尊者と璽光様も殆んど甲乙はない。御両者ながら自らの邪教性についてはとんと御反省の素質が欠けており、英雄のつもり、神様のつもりでいらっしゃる。
今度『朕』という奇妙な言葉がなくなったのは当り前のこと、朕だの天皇服、皇后服などと天皇というものが特別な人柄であるような何かゞ残っている限り、天皇自らが国民的邪教の教祖たる性格をとゞめていることを意味している。
大正年間、僕が小学校のころは、朕という言葉は子供のたわむれの言葉でいわばそんな奇妙な言葉があるために天皇が子供たちの悪フザケに恰好の遊び道具となったようなものだった。実質の伴わない架空な威厳、形式的な威厳によっては人は心服するはずはなく、あべこべに戯画となり、子供の遊び道具となる。つまり朕だの天皇服などゝいうものは、璽光様の御尊厳と同じ性格のものなのである。
天皇は国民のアコガレなどとは苦しいコジツケで、天皇は日本の一番古い家柄、それだけの事実にたよるのがもっとも正しく、事実そのもののもつ『つつましやかな』国民的敬意にたよっておれば、永遠に問題はない。事実そのものにのみ実際の力が即しているのだから。
天皇が関西方面へ旅行する、沿道の歓迎が大変だったという。多くの人が泣いていたという。
私はそれをやっぱり璽光様の同類と見るのである。八紘一宇教の残党で、国民儀礼という天璽照妙の一類型が、カンコ、バンザイという略式に変ったゞけ、日本人の胸にすみ太古さながらの邪教性には、敗戦による反省、進歩がないという証拠にすぎない。
直訴などということ璽光尊の世直し以上の馬鹿らしさ、これを滑稽奇怪と見ずに、国民忠誠のあらわれだの、ジュンボクなる心のあらわれなどと見る、かかる国民感情それ自体が驚くべき邪教性そのものであり、璽光尊様を笑うどころの段ではない。
天皇家、日本で最も古い家族、これはたゞそっとしておくべきもの、それだけの事実によっていたわり敬愛すべき性質のもの、日本はまず国民的邪教性からぬけでなければ、璽光尊も熊沢天皇も笑うわけにゆかぬ。 
 
「天皇陛下にさゝぐる言葉」 坂口安吾  

 

天皇陛下が旅行して歩くことは、人間誰しも旅行するもの、あたりまえのことであるが、現在のような旅行の仕方は、危険千万と言わざるを得ない。
「真相」という雑誌が、この旅行を諷刺して、天皇は箒(ほうき)である、という写真をのせたのが不敬罪だとか、告訴だとか、天皇自身がそれをするなら特別、オセッカイ、まことに敗戦の愚をさとらざるも甚しい侘しい話である。
私は「真相」のカタをもつもので、天皇陛下の旅行の仕方は、充分諷刺に値して、尚あまりあるものだと思っている。
戦争中、我々の東京は焼け野原となった。その工場を、住宅を、たてる資材も労力もないというときに、明治神宮が焼ける、一週間後にはもう、新しい神殿が造られたという、兵器をつくる工場も再建することができずに、呆れかえった話だ。
こういうバカらしさは、敗戦と共にキレイサッパリなくなるかと思っていると、忽ち、もう、この話である。
私のところへは地方新聞が送られてくるから、陛下旅行の様子は手にとる如く分るが、まったく天皇は箒であると言われても仕方がない。
天皇陛下の行く先々、都市も農村も清掃運動、まったく箒である。陛下も亦、一国民として、何の飾りもない都市や農村へ、旅行するのでなければ、人間天皇などゝは何のことだか、ワケが分らない。
朕(ちん)はタラフク食っている、というプラカードで、不敬罪とか騒いだ話があったが、思うに私は、メーデーに、こういうプラカードが現れた原因は、タラフク食っているという事柄よりも、朕という変テコな第一人称が存在したせいだと思っており、私はそのことを、当時、新聞に書いた。
私はタラフク食っている、という文句だったら、殆ど諷刺の効果はない。それもヤミ屋かなんかを諷刺するなら、まだ国民もアハハと多少はつきあって笑うかも知れないが、天皇を諷刺して、私はタラフク食っていると弥次ってみたところで、ヤミ屋でもタラフク食っているのだもの、ともかく日本一古い家柄の天皇がタラフク食えなくてどうするものか、国民が笑う筈はない。これが諷刺の効果をもつのは、朕という妙テコリンの第一人称が存在したからに外ならぬのである。
朕という言葉もなくなり、天皇服という妙テコリンの服もぬがれて、ちかごろは背広をきておられるが、これでもう、ともかく、諷刺の原料が二つなくなったということをハッキリとさとる必要がある。
人間の値打というものは、実質的なものだ。天皇という虚名によって、人間そのものゝ真実の尊敬をうけることはできないもので、天皇陛下が生物学者として真に偉大であるならば、生物学者として偉大なのであり、天皇ということゝは関係がない。況(いわ)んや、生物学者としてさのみではないが、天皇の素人芸としては、というような意味の過大評価は、哀れ、まずしい話である。
天皇というものに、実際の尊厳のあるべきイワレはないのである。日本に残る一番古い家柄、そして過去に日本を支配した名門である、ということの外に意味はなく、古い家柄といっても系譜的に辿りうるというだけで、人間誰しも、たゞ系図をもたないだけで、類人猿からこのかた、みんな同じだけ古い家柄であることは論をまたない。
名門の子供には優秀な人物が現れ易い、というのは嘘で、過去の日本が、名門の子供を優秀にした、つまり、近衛とか木戸という子供は、すぐ貴族院議員となり、日本の枢機にたずさわり、やがて総理大臣にもなるような仕組みで、それが日本の今日の貧困をまねいた原因であった。つまり、実質なきものが自然に枢機を握る仕組みであったのだ。
人間の気品が違うという。気品とは何か。たとえば、天皇という人は他の誰よりも偉いと思わせられ、誰にも頭を下げる必要がないと教育されている。又、近衛は、天皇以外に頭を下げる必要はないと教育されている。華族の子弟は、華族ならざる者には頭を下げる必要がないと教育されている。
一般人は上役、長上にとっちめられ、電車にのれば、キップの売子、改札、車掌にそれぞれトッチメラレ、生きるとはトッチメラレルコト也というようにして育つから、対人態度は卑屈であったり不自由であったり、そうかと思うと不当に威張りかえったり、みじめである。名門の子弟は対人態度に関する限り、自然に、ノンビリ、オーヨーであるから、そこで気品が違う。
こんな気品は、何にもならない。対人態度だけのことで、実質とは関係がない。対人態度に気品があって堂々としていても、政治ができるわけじゃない、小説が書けるわけじゃない、相撲が強いわけでもない。それでショーバイができるのは、実際のところ、サギぐらいのものだ。
ところが、日本では、それで、政治が、できたのだ。政策よりもそういう態度の方が政治であり、政党の党主の資格であり、総理大臣的であった。総理大臣が六尺もあってデップリ堂々としていると、六尺の中に政治がギッシリつまっているように考える。六尺のデップリだけでも、そうであるから、公爵などゝなると、もっと深遠幽玄になる。
ヨーロッパでも、サロンなどゝいう有閑婦人の客間では、やっぱり、こういう態度が物を言う。昔はヨーロッパでも同じことで、サロンが政治につながっていたころは、日本と同じようなものでもあったが、だいたい、こういう態度、育ちの気品というようなものが、女の魅力をひく、それぐらいなら、何も文句はない。天下の美女がみんな惚れても、我々がヤキモチをやくのはアサハカで、惚れるものは仕方がない。
然し、一国の運命をつかさどる政治というものが、サロンの御婦人の御気分なみでは、こまるのである。
自分の恋する人を、天下特別の人、自分の子供は特別の子供、なんでも、人間の群をぬいて神格視したがるのが、これが、そもそも御婦人の流儀で、アナタ負けちゃアいけないよ、しっかりしてちょうだい、日本一になるんですよ、などゝ、たゞもう亭主をたきつけ、自分は又亭主を日本一にしようと思ってワイロを持って廻ったり、だいたい日本の政治官僚の在り方は、これ又、婦人の流儀であったようだ。
日本は男尊女卑だなどゝいうけれども、そうじゃない。金殿玉楼では亭主関白の膳部のかたわらに女房が給仕に侍し、裏長屋ではガラッ八の野郎が女房お梅をふんづける。これが表向きの日本であったが、実は亭主は外へでると自信がないから、せめて女房に威張りかえるほかに仕方がなく、内実は女房の手腕で、ワイロが行きとゞいたり、女房の親父の力でもかりないとラチがあかない有様で、男は女に対して威張っているが、男に実質的なものがなくて、女の流儀に依存しているのが実状であった。
これに比べると、女尊男卑的な表てむきの方がよっぽど実質的で、男は実力があるから、女を保護し、いたわる。この方が、よっぽど、男性的であり、男性がその自主的自覚によって構成した風習なのである。
ところが、日本式の御婦人流儀のやり方であると、実質はどうでもいい、なんでもかでも、亭主を偉くし、偉く見せねばならぬ。
この流儀の奥儀をきわめた張本人が宮内省というところで、天皇服をこしらえたり、朕という第一人称を喋らせたり、特別な敬語を使わせたり、たゞもうムヤミに、実質のないところに架空な威厳をあみだして、天皇を人間と違わせようと汲々たるものだ。
その結果は実はアベコベとなるものなのである。朕という言葉があるから、朕はタラフクたべている、いらざる不敬問題が起きる。私が少年時代、朕という言葉は、子供たちの遊び言葉で、おかげで我々は少年時代に、余分に笑うことができた。天皇服などゝいうものがある限り、又メーデーに天皇服の人形がとびだして、我々を余分に笑わせてくれるであろう。
実質なきところに架空の威厳をつくろうとすると、それはたゞ、架空の威厳によって愚弄され諷刺され、復讐をうけるばかりである。
私は日本最古の名門たる天皇が、我々と同じ混乱の客車で旅行せよとは言わぬ。たとえ我々の旅行がどのように苦難なものであるとはいえ、天皇の旅行のため、特別の一車を仕立てることに立腹するほど、我利我利でありたいとは思わない。
然し、特別に清掃され、新装せられた都市や農村の指定席を遍歴するなどゝいうことは、これはもう、文化国に於ては、ゴーゴリの検察官の諷刺の題材でしかないのである。これに類するバカらしさは、中国に於ても「官場現形記」という小説によって、カンプなく諷刺せられておる。
このような指定席を遍歴し、キョーク感激の代表選手にとりかこまれて、天皇陛下は御満足であるのか。
国民たちの沿道の歓呼というようなものを、それを日本の永遠なる国民的心情などゝお考えなら、まことに滑稽千万である。
一種の英雄崇拝であるが、英雄とは、天皇や軍人や政治家には限らない。映画俳優もオリムピック選手も英雄であり、二十歳の水泳選手は、たった一夜で英雄となり、その場に於ては、天皇への歓呼以上に亢奮感動をうけ、天皇と同じように、感動の涙を以てカッサイせられる。
これを人気という。人気とは流行である。時代的な嗜好で、つまり、天皇は人気があるのだ。特に、地方に於て人気がある。田中絹代嬢と同じ人気であり、それだけのことにすぎない。
ところが、田中絹代嬢の人気は、彼女自身が自らの才能によって獲得したものであるのに、天皇の人気は、そうではない。たゞ単に時代自身の過失が生んだ人気であって、日本は負けた、日本はなくなった、自分もなくなった、今までのものを失った、その口惜しさのヤケクソの反動みたいなもので、オレは失っていないぞと云って、天皇をカンバンにして、虚勢をはり、あるいは敗北の天皇に、同情したつもりになってヒイキにしている、その程度のものだ。
然し、日本は負けた、日本はなくなった、実際なくなることが大切なのだ。古い島国根性の箱庭細工みたいな日本はなくなり、世界というものゝ中の日本が生れてこなければならない。
天皇の人気というものが、田中絹代嬢式に実質的なものならよろしいけれども、現在天皇が旅行先の地方に於て博しつゝある人気は、朕に対する人気、天皇服に対する人気で、もう朕と仰有(おっしゃ)らず私と仰有る、オカワイそうに、我々と同じ背広をきて帽子をふってアイサツして下さる、オカワイそうに。まったくバカバカしい。朕という言葉がなくなり、天皇服などゝいう妙テコリンの服装が奇ッ怪千万だということを露ほどもさとらぬ非文化的、原始宗教の精神によって支持せられ、人気を博しているにすぎないのである。
このように、実質によらず、天皇という昔ながらの架空な威厳によって支持せられるということが、日本のために、最も悲しむべきことであるということを、天皇はさとることが出来ないのであろうか。
田中絹代嬢の人気は、まだしも、健全なる人気である。実質が批判にたえて、万人の好悪の批判の後に来た人気だからだ。
天皇の人気には、批判がない。一種の宗教、狂信的な人気であり、その在り方は邪教の教祖の信徒との結びつきの在り方と全く同じ性質のものなのである。
地にぬかずき、人間以上の尊厳へ礼拝するということが、すでに不自然、狂信であり、悲しむべき未開蒙昧の仕業であります。天皇に政治権なきこと憲法にも定むるところであるにも拘らず、直訴する青年がある。天皇には御領田もあるに拘らず、何十俵の米を献納しようという農村の青年団がある。かゝる記事を読む読者の半数は、皇威いまだ衰えずと、涙を流す。
かく涙を流す人々は、同じ新聞紙上に璽光(じこう)様を読み笑殺するが、璽光様とは何か、彼女はその信徒から国民儀礼のような同じマジナイ式の礼拝を受けたり、米や着物を献納されたり、直訴をうけたりしており、この教祖と信徒との結びつきの在り方は、そっくり天皇と狂信民との在り方で、いさゝかも変りはない。その変りのなさを自覚せず、璽光様をバカな奴めと笑っているだけ、狂信民の蒙昧には救われぬ貧しさがあります。
超人間的な礼拝、歓呼、敬愛を受ける侘びしさ、悲しさに気付かれないとは、これを暗愚と言わざるを得ぬ。
人間が受ける敬愛、人気は、もっと実質的でなければならぬ。
天皇が人間ならば、もっと、つゝましさがなければならぬ。天皇が我々と同じ混雑の電車で出勤する、それをふと国民が気がついて、サアサア、天皇、どうぞおかけ下さい、と席をすゝめる。これだけの自然の尊敬が持続すればそれでよい。天皇が国民から受ける尊敬の在り方が、そのようなものとなるとき、日本は真に民主国となり、礼節正しく、人情あつい国となっている筈だ。
私とても、銀座の散歩の人波の中に、もし天皇とすれ違う時があるなら、私はオジギなどはしないであろうけれども、道はゆずってあげるであろう。天皇家というものが、人間として、日本人から受ける尊敬は、それが限度であり、又、この尊敬の限度が、元来、尊敬というものゝ全ての限度ではないか。
地にぬかずくのは、気違い沙汰だ。天皇は目下、気ちがい共の人気を博し、歓呼の嵐を受けている。道義はコンランする筈だ。人を尊敬するに地にぬかずくような気違い共だから、正しい理論は失われ、頑迷コローな片意地と、不自然な義理人情に身もだえて、電車は殺気立つ、一足外へでると、みんな死にもの狂いのていたらく、悲しい有様である。
天皇が人間の礼節の限度で敬愛されるようにならなければ、日本には文化も、礼節も、正しい人情も行われはせぬ。いつまでも、旧態依然たる敗北以前の日本であって、いずれは又、バカな戦争でもオッパジメテ、又、負ける。性こりもなく、同じようなことを繰り返すにきまっている。
本当に礼節ある人間は戦争などやりたがる筈はない。人を敬うに、地にぬかずくような気違いであるから、まかり間違うと、腕ずくでアバレルほかにウサバラシができない。地にぬかずく、というようなことが、つまりは、戦争の性格で、人間が右手をあげたり、国民儀礼みたいな狐憑きをやりだしたら、ナチスでも日本でも、もう戦争は近づいたと思えば間違いない。
天皇が現在の如き在り方で旅行されるということは、つまり、又、戦争へ近づきつゝあるということ、日本がバカになりつゝあるということ、狐憑きの気違いになりつゝあるということで、かくては、日本は救われぬ。
陛下は当分、宮城にとじこもって、お好きな生物学にでも熱中されるがよろしい。
そして、そのうち、国民から忘られ、そして、忘れられたころに、東京もどうやら復興しているであろう。そして復興した銀座へ、研究室からフラリと散歩にでてこられるがよろしい。陛下と気のついた通行人の幾人かは、別にオジギもしないであろうが、道をゆずってあげるであろう。
そのとき、東京も復興したが、人間も復興したのだ。否、今まで狐憑きだった日本に、始めて、人間が生れ、人間の礼節や、人間の人情や、人間の学問が行われるようになった証拠なのである。
陛下よ。まことに、つゝましやかな、人間の敬愛を受けようとは思われぬか。
たゞ今の旅行のようでは、狐憑きの信仰がふえる一方に、帽子を握って手をふる背広服の人形がメーデーに現れたり、「アヽ、ソウ」などというような流行語が溢れて、不敬罪が流行ハンランするに至るであろう。 
 
「女神」 太宰治

 

あらすじ
細田氏は、大戦の前は愛国悲詩とでもいったような甘い詩を書いたり、ハイネの詩などを訳したり、女学校の臨時教師などをしたりして生活をしていた。大戦が始まると、彼は奥さんを連れて満州に行き、出版会社に夫婦共に勤めていた。満州から一枚葉書を頂いてからそれっきり付き合いは絶えたが、去年の暮れに細田氏は突然「私」の三鷹の家を訪れる。
「実は、あなたと私とは、兄弟なのです。同じ母から生れた子です。それから、これは、当分は秘密にして置いたほうがいいかも知れませんが、私たちには、もうひとりの兄があるのです。その兄は、」
ここで細田氏は、いかに言論の自由とは言っても、ここに書くのがはばかりのあるくらいの、大偉人の名を彼は平然と誇らしげに述べた。
「この我々三人の兄弟が、これから力を合せて、文化日本の建設に努めなければならぬのです。これを私に教えてくれたのは、私たちの母です。おどろいてはいけませんよ。私たち三人の生みの母は、実は私のうちの女房であったのです。女房は、男性衰微時代が百年前からはじまっている事、これからはすべて女性の力にすがらなければ世の中が自滅するだろうという事、その女性のかしらは私自身で、私は実は女神だという事、などいっさいの秘密を語り明かされたというわけなのです」
「私」は細君のもとに送りとどけるのが最も無難だと思い、彼と共に省線に乗った。彼の家は立川市とのことであった。
細君は健康そうな普通の女性であった。普通の女の挨拶を述べるばかりで、少しも狂信者らしい影がなかった。  

れいの、璽光尊(じこうそん)とかいうひとの騒ぎの、すこし前に、あれとやや似た事件が、私の身辺に於いても起った。
私は故郷の津軽で、約一年三箇月間、所謂(いわゆる)疎開(そかい)生活をして、そうして昨年の十一月に、また東京へ舞い戻って来て、久し振りで東京のさまざまの知人たちと旧交をあたためる事を得たわけであるが、細田氏の突然の来訪は、その中でも最も印象の深いものであった。
細田氏は、大戦の前は、愛国悲詩、とでもいったような、おそろしくあまい詩を書いて売ったり、またドイツ語も、すこし出来るらしく、ハイネの詩など訳して売ったり、また女学校の臨時雇いの教師になったりして、甚(はなは)だ漠然たる生活をしていた人物であった。としは私より二つ三つ多い筈(はず)だが、額(ひたい)がせまく漆黒(しっこく)の美髪には、いつもポマードがこってりと塗られ、新しい形の縁無し眼鏡をかけ、おまけに頬(ほお)は桜色と来ているので、かえって私より四つ五つ年下のようにも見えた。痩型(やせがた)で、小柄な人であったが、その服装には、それこそいちぶのスキも無い、と言っても過言では無いくらいのもので、雨の日には必ずオーバーシュウズというものを靴の上にかぶせてはいて歩いていた。
なかなか笑わないひとで、その点はちょっと私には気づまりであったが、新宿のスタンドバアで知り合いになり、それから時々、彼はお酒を持参で私の家へ遊びに来て、だんだん互いにいい飲み相手を見つけたという形になってしまったのである。
大戦がはじまって、日一日と私たちの生活が苦しくなって来た頃、彼は、この戦争は永くつづきます、軍の方針としては、内地から全部兵を引き上げさせて満洲に移し、満洲に於いて決戦を行うという事になっているらしいです、だから私は女房を連れて満洲に疎開します、満洲は当分最も安全らしいです、勤め口はいくらでもあるようですし、それにお酒もずいぶんたくさんあるという事です、いかがです、あなたも、と私に言った。私は、それに答えて、あなたはそりゃ、お子さんも無いし、奥さんと二人で身軽にどこへでも行けるでしょうが、私はどうも子持ちですからね、ままになりません、と言った。すると彼は、私に同情するような眼つきをして、私の顔をしげしげと見て、黙した。
やがて彼は奥さんと一緒に満洲へ行き、満洲の或(あ)る出版会社に夫婦共に勤めたようで、そのような事をしたためた葉書を私は一枚いただいて、それっきり私たちの附合いは絶えた。
その細田氏が、去年の暮に突然、私の三鷹(みたか)の家へ訪れて来たのである。
「細田です。」
そう名乗られて、はじめて、あ、と気附いたくらい、それほど細田氏の様子は変っていた。あのおしゃれな人が、軍服のようなカーキ色の詰襟(つめえり)の服を着て、頭は丸坊主で、眼鏡も野暮(やぼ)な形のロイド眼鏡で、そうして顔色は悪く、不精鬚(ぶしょうひげ)を生(は)やし、ほとんど別人の感じであった。
部屋へあがって、座ぶとんに膝(ひざ)を折って正坐し、
「私は、正気ですよ。正気ですよ。いいですか? 信じますか?」
とにこりともせず、そう言った。
はてな? とも思ったが、私は笑って、
「なんですか? どうしたのです。あぐらになさいませんか、あぐらに。」
と言ったら、彼は立ち上り、
「ちょっと、手を洗わせて下さい。それから、あなたも、手を洗って下さい。」
と言う。
こりゃもうてっきり、と私は即断を下した。
「井戸は、玄関のわきでしたね。一緒に洗いましょう。」
と私を誘う。
私はいまいましい気持で、彼のうしろについて外へ出て井戸端に行き、かわるがわる無言でポンプを押して手を洗い合った。
「うがいして下さい。」
彼にならって、私も意味のわからぬうがいをする。
「握手!」
私はその命令にも従った。
「接吻(せっぷん)!」
「かんべんしてくれ。」
私はその命令にだけは従わなかった。
彼は薄く笑って、
「いまに事情がわかれば、あなたのほうから私に接吻を求めるようになるでしょう。」
と言った。
部屋に帰って、卓をへだてて再び対坐し、
「おどろいてはいけませんよ。いいですか? 実は、あなたと私とは、兄弟なのです。同じ母から生れた子です。そう言われてみると、あなたも、何か思い当るところがあるでしょう。もちろん私は、あなたより年上ですから、兄で、そうしてあなたは弟です。それから、これは、当分は秘密にして置いたほうがいいかも知れませんが、私たちには、もうひとりの兄があるのです。その兄は、」いかに言論の自由とは言っても、それは少しここに書くのがはばかりのあるくらいの、大偉人の名を彼は平然と誇らしげに述べて、「いいですか? これは確実な事ですが、しかし、当分は秘密にして置いたほうがいいでしょう。民衆の誤解を招いてもつまりませんからね。この我々三人の兄弟が、これから力を合せて、文化日本の建設に努めなければならぬのです。これを私に教えてくれたのは、私たちの母です。おどろいてはいけませんよ。私たち三人の生みの母は、実は私のうちの女房であったのです。うちの女房は、戸籍のほうでは、三十四歳という事になっていますが、それはこの世の仮(かり)の年齢で、実は、何百歳だかわからぬのです。ずっとずっと昔から、同じ若さを保って、この日本の移り変りを、黙って眺めていたというわけです。それがこの終戦後の、日本はじまって以来の大混乱の姿を見て、もはや黙すべからずと、かれの本性を私に打ち明け、また私の兄と弟とを指摘して兄弟三人、力を合せて日本を救え、他の男は皆だめだと言ったのです。私たちの母の説に依(よ)れば、百年ほど前から既に世界は、男性衰微(すいび)の時代にはいっているのだそうでして、肉体的にも精神的にも、男性の疲労がはじまり、もう何をやっても、ろくな仕事が出来ない劣等の種族になりつつあるのだそうで、これからはすべて男性の仕事は、女性がかわってやるべき時なのだそうです。女房が、いや、母が、私にその事を打ち明けてくれたのは、満洲から引揚げの船中に於いてでありましたが、私はその時には肉体的にも精神的にも、疲労こんぱいの極に達していまして、いやもう本当に、満洲では苦労しまして、あまりひもじくて馬の骨をかじってみた事さえありまして、そうして日一日と目立って痩(や)せて行きますのに、女房は、いや、母は、まことに粗食で、おいしいものを一つも食べず、何かおいしいものでも手にはいるとみんな私に食べさせ、それでいて、いつも白く丸々と太り、力も私の倍くらいあるらしく、とても私には背負い切れない重い荷物を、らくらくと背負って、その上にまた両手に風呂敷包(ふろしきづつみ)などさげて歩けるという有様ですので、つくづく私も不思議に感じ、引揚げの船の中で、どうしてお前はそんなにいつも元気なのかね、お前ばかりでなく、この引揚げの船の中に乗っている女のひと全部が、男のひとは例外なく痩せて半病人のようになっているのに、自信満々の勢いを示している、何かそこに大きな理由が無くてはかなわぬ、その理由は何だ、とたずねますと、女房はにこにこ笑いまして、実は、と言い、男性衰微時代が百年前からはじまっている事、これからはすべて女性の力にすがらなければ世の中が自滅するだろうという事、その女性のかしらは私自身で、私は実は女神だという事、男の子が三人あって、この三人の子だけは、女神のおかげで衰弱せず、これからも女性に隷属する事なく、男性と女性の融和を図(はか)り、以(もっ)て文化日本の建設を立派に成功せしむる大人物の筈である事、だからあなたも、元気を出して、日本に帰ったら、二人の兄弟と力を合せて、女神の子たる真価を発揮するように心掛けるべきです、とここにはじめて、いっさいの秘密が語り明かされたというわけなのです。それを聞いて私は、にわかに元気が出て、いまはもう二日ものを食わなくても平気になりました。私たちは、女神の子ですから、いかに貧乏をしても絶対に衰弱する事は無いんです。あなたもどうか、奮起して下さい。私は正気です。落ちついています。私の言う事は、信じなければいけません。」
まぎれもない狂人である。満洲で苦労の結果の発狂であろう。或(ある)いは外地の悪質の性病に犯されたせいかも知れない。気の毒とも可哀想とも悲惨とも、何とも言いようのないつらい気持で、彼の痴語を聞きながら、私は何度も眼蓋(まぶた)の熱くなるのを意識した。
「わかりました。」
私は、ただそう言った。
彼は、はじめて莞爾(かんじ)と笑って、
「ああ、あなたは、やっぱり、わかって下さる。あなたなら、私の言う事を必ず全部、信じてくれるだろうとは思っていたのですが、やっぱり、血をわけた兄弟だけあって、わかりが早いですね。接吻しましょう。」
「いや、その必要は無いでしょう。」
「そうでしょうか。それじゃ、そろそろ出掛ける事にしましょうか。」
「どこへです?」
三人兄弟の長兄に、これから逢(あ)いに行くのだという。
「インフレーションがね、このままでは駄目なのです。母がそう言っているんです。とにかく、一ばん上の兄さんに逢って、よく相談しなくちゃいけないんです。母の意見に依りますと、日本の紙幣には、必ずグロテスクな顔の鬚(ひげ)をはやした男の写真が載っているけれども、あれがインフレーションの原因だというのです。紙幣には、女の全裸の姿か、あるいは女の大笑いの顔を印刷すべきなんだそうです。そう言われてみると、ドイツ語でもフランス語でも、貨幣はちゃんと女性名詞という事になっていますからね。鬚だらけのお爺さんのおそろしい顔などを印刷するのは、たしかに政府の失策ですよ。日本の全部の紙幣に、私たちの母の女神の大笑いをしている顔でも印刷して発行したなら、日本のインフレーションは、ただちにおさまるというわけです。日本のインフレーションは、もう一日も放置すべからざる、どたん場に来ているんですからね。手当が一日でもおくれたらもう、それっきりです。一刻の猶予(ゆうよ)もならんのです。すぐまいりましょう。」
と言って、立ち上る。
私は一緒に行くべきかどうか迷った。いま彼をひとりで、外へ出すのも気がかりであった。この勢いだと、彼は本当にその一ばん上の兄さんの居所に押しかけて行って大騒ぎを起さぬとも限らぬ。そうして、その門前に於いて、彼の肉親の弟だという私(太宰)の名前をも口走り、私が彼の一味のように誤解せられる事などあっては、たまらぬ。彼をこのまま、ひとりで外へ出すのは危険である。
「だいたいわかりましたけれども、私は、その一ばん上の兄さんに逢う前に、私たちのお母さんに逢って、直接またいろいろとお話を伺ってみたいと思います。まず、さいしょに、私をお母さんのところに連れて行って下さい。」
細君の許(もと)に送りとどけるのが、最も無難だと思ったのである。私は彼の細君とは、まだいちども逢った事が無い。彼は北海道の産であるが、細君は東京人で、そうして新劇の女優などもした事があり、互いに好き合って一緒になったとか、彼から聞いた事がある。なかなかの美人だという事を、他のひとから知らされたりしたが、しかし、私はいちどもお目にかかった事が無かったのである。
いずれにしても、その日、私は彼の悲惨な痴語を聞いて、その女を、非常に不愉快に感じたのである。いやしくも知識人の彼に、このようなあさましい不潔なたわごとをわめかせるに到らしめた責任の大半は彼女に在るのは明らかである。彼女もまた発狂しているのかどうか、それは逢ってみなければ、ただ彼の話だけではわからぬけれども、彼にとって彼の細君は、まさしく悪魔の役を演じているのは、たしかである。これから、彼の家へ行って細君に逢い、場合に依っては、その女神とやらの面皮をひんむいてやろうと考え、普段着の和服に二重廻しをひっかけ、
「それでは、おともしましょう。」
と言った。
外へ出ても、彼の興奮は、いっこうに鎮(しず)まらず、まるでもう踊りながら歩いているというような情ない有様で、
「きょうは実に、よい日ですね。奇蹟の日です。昭和十二年十二月十二日でしょう? しかも、十二時に、私たち兄弟はそろって母に逢いに出発した。まさに神のお導きですね。十二という数は、六でも割れる、三でも割れる、四でも割れる、二でも割れる、実に神聖な数ですからね。」
と言ったが、その日は、もちろん昭和十二年の十二月の十二日なんかではなかった。時刻も既に午後三時近かった。そのときの実際の年月日時刻のうちで、六で割れる数は、十二月だけだった。
彼のいま住んでいるところは、立川市だというので、私たちは三鷹駅から省線に乗った。省線はかなり混んでいたが、彼は乗客を乱暴に掻(か)きわけて、入口から吊皮(つりかわ)を、ひいふうみいと大声で数えて十二番目の吊皮につかまり、私にもその吊皮に一緒につかまるように命じ、
「立川というのを英語でいうなら、スタンデングリバーでしょう? スタンデングリバー。いくつの英字から成り立っているか、指を折って勘定(かんじょう)してごらんなさい。そうれ、十二でしょう? 十二です。」
しかし、私の勘定では、十三であった。
「たしかに、立川は神聖な土地なのです。三鷹、立川。うむ、この二つの土地に何か神聖なつながりが、あるようですね。ええっと、三鷹を英語で言うなら、スリー、……スリー、スリー、ええっと、英語で鷹を何と言いましたかね、ドイツ語なら、デルファルケだけれども、英語は、イーグル、いやあれは違うか、とにかく十二になる筈です。」
私はさすがに、うんざりして、矢庭(やにわ)に彼をぶん殴(なぐ)ってやりたい衝動さえ感じた。
立川で降りて、彼のアパートに到る途中に於いても、彼のそのような愚劣極まる御託宣をさんざん聞かされ、
「ここです、どうぞ。」
と、竹藪(たけやぶ)にかこまれ、荒廃した病院のような感じの彼のアパートに導かれた時には、すでにあたりが薄暗くなり、寒気も一段ときびしさを加えて来たように思われた。
彼の部屋は、二階に在った。
「お母さん、ただいま。」
彼は部屋へ入るなり、正坐してぴたりと畳に両手をついてお辞儀をした。
「おかえりなさい。寒かったでしょう?」
細君は、お勝手のカーテンから顔を出して笑った。健康そうな、普通の女性である。しかも、思わず瞠若(どうじゃく)してしまうくらいの美しいひとであった。
「きょうは、弟を連れて来ました。」
と彼は私を、細君に引き合した。
「あら。」
と小さく叫んで、素早くエプロンをはずし、私の斜め前に膝をついた。
私は、私の名前を言ってお辞儀した。
「まあ、それは、それは。いつも、もう細田がお世話になりまして、いちどわたくしもご挨拶(あいさつ)に伺いたいと存じながら、しつれいしておりまして、本当にまあ、きょうは、ようこそ、……」
云々(うんぬん)と、普通の女の挨拶を述べるばかりで、すこしも狂信者らしい影が無い。
「うむ、これで母と子の対面もすんだ。それでは、いよいよインフレーションの救助に乗り出す事にしましょう。まず、新鮮な水を飲まなければいけない。お母さん、薬缶(やかん)を貸して下さい。私が井戸から汲(く)んでまいります。」
細田氏ひとりは、昂然たるものである。
「はい、はい。」
何気ないような快活な返事をして、細君は彼に薬缶を手渡す。
彼が部屋を出てから、すぐに私は細君にたずねた。
「いつから、あんなになったのですか?」
「え?」
と、私の質問の意味がわからないような目つきで、無心らしく反問する。
私のほうで少しあわて気味になり、
「あの、細田さん、すこし興奮していらっしゃるようですけど。」
「はあ、そうでしょうかしら。」
と言って笑った。
「大丈夫なんですか?」
「いつも、おどけた事ばかり言って、……」
平然たるものである。
この女は、夫の発狂に気附いていないのだろうか。私は頗(すこぶ)る戸惑った。
「お酒でもあるといいんですけど、」と言って立ち上り、電燈のスイッチをひねって、「このごろ細田は禁酒いたしましたもので、配給のお酒もよそへ廻してしまいまして、何もございませんで、失礼ですけど、こんなものでも、いかがでございますか。」
と落ちついて言って私に蜜柑(みかん)などをすすめる。電気をつけてみると、部屋が小綺麗(こぎれい)に整頓(せいとん)せられているのがわかり、とても狂人の住んでいる部屋とは思えない。幸福な家庭の匂いさえするのである。
「いやもう何も、おかまいなく。私はこれで失礼しましょう。細田さんが何だか興奮していらっしゃるようでしたから、心配して、お宅まで送ってまいりましたのです。では、どうか、細田さんによろしく。」
引きとめられるのを振り切って、私はアパートを辞し、はなはだ浮かぬ気持で師走(しわす)の霧の中を歩いて、立川駅前の屋台で大酒を飲んで帰宅した。
わからない。
少しもわからない。
私は、おそい夕ごはんを食べながら、きょうの事件をこまかに家の者に告げた。
「いろいろな事があるのね。」
家の者は、たいして驚いた顔もせず、ただそう呟いただけである。
「しかし、あの細君は、どういう気持でいるんだろうね。まるで、おれには、わからない。」
「狂ったって、狂わなくたって、同じ様なものですからね。あなたもそうだし、あなたのお仲間も、たいていそうらしいじゃありませんか。禁酒なさったんで、奥さんはかえって喜んでいらっしゃるでしょう。あなたみたいに、ほうぼうの酒場にたいへんな借金までこさえて飲んで廻るよりは、罪が無くっていいじゃないの。お母さんだの、女神だのと言われて、大事にされて。」
私は眉間(みけん)を割られた気持で、
「お前も女神になりたいのか?」
とたずねた。
家の者は、笑って、
「わるくないわ。」
と言った。
 

 

 
新宗教 1 

 

 天理教大本生長の家天照皇大神宮教璽宇立正佼成会霊友会
 世界救世教神慈秀明会真光系諸教団世界真光文明教団PL教団創価学会
 真如苑阿含宗金光教霊波之光教会幸福の科学オウム真理教顕正会
 白光真宏会世界紅卍字会
伝統宗教と比べて比較的成立時期が新しい宗教のこと。国ごとに言葉の意味や捉え方が異なる。新興宗教とも呼ばれる。日本では、幕末・明治維新による近代化以後から近年(明治・大正・昭和時代戦前・戦後〜)にかけて創始された比較的新しい宗教のことをいう。実に多種多様な団体を包括した用語であり、すべての団体にあてはまる概念、背景等の共通点は、成立時期のほかには存在しない。また、伝統宗教と比べて比較的新しいというだけで、江戸時代に起源をもつところもあり、それなりの歴史と伝統を確立している団体も多い。2000年代以後の現在、日本において一定規模で持続的に宗教活動を展開している新宗教の教団は、350〜400教団ほどと考えられ、新宗教の信者は、日本人のおよそ1割を占めると推定される。宗教が平和運動や福祉、ボランティア活動と関わる際に、新宗教は重要な役割を果たしてきた。一方、現代日本においてはオウム真理教事件などの負の側面、新宗教と政教分離について、特に創価学会と公明党や幸福の科学と幸福実現党に関する議論が強調されることも多い。
カルト(英; cult)に代わる中立的な用語として使用されるようになったnew religious movementを、日本では新宗教と呼ぶ。アメリカ合衆国では、「19世紀(1801年〜1900年)に基礎を確立した宗教」を指す場合が多く、ヨーロッパでは「1960年代以降に発展した宗教」を新宗教とよんでいる。ただし、歴史的、宗教的背景の相違から、意味内容や対象とする年代に若干のずれがある。
日本の宗教学では、近現代(近代・現代)に誕生した宗教を指す価値中立的な用語として新宗教を用いている。正確な範囲は論者によって異なるが、日本では、19世紀中頃の幕末・明治維新期以降に成立した宗教のうち、既成の宗教組織を継承していないもの、また新たな教義を掲げて伝統宗教から自立したものを新宗教と呼ぶ。
学問上の便宜的な用語であり、新宗教であることを否定する創価学会、天台宗との伝統を強調し新宗教ではないとする孝道教団、新宗教ではなく一切の宗教科学を包容した超宗教であると主張する生長の家のように、教団自体は自らを新宗教とは位置付けてはいないことも多い。
宗教研究者が用いる新宗教という言葉には、とりわけ「近代化」という時代背景が考慮されている。都市化、産業化、家族形態の変化、マスメディアの登場、交通の発達、学校教育の普及といった近代化によって、初めて可能となった教団の組織形態、布教形態を有する点が特徴的とされ、新宗教は近代以前に生まれた各時代における「新しい宗教」とはそれらの点で異なると見られている。
第二次世界大戦以前の日本においては、仏教宗派、キリスト教、教派神道が「公認宗教団体」とされ、文部省宗務局(現在の文部科学省、文化庁文化部宗務課に相当)の管轄であったのに対し、新宗教は、「類似宗教」として、内務省警保局(現在の国家公安委員会、警察庁に相当)の管轄であった。
新宗教は、いわゆる国家神道体制下で、「新興類似宗教団体」、「疑似宗教」等と呼ばれて淫祠邪教視され、警察の監視、取り締まりの対象とされていた。新宗教への弾圧を繰り返した政府は、その都度、ラジオ・新聞・出版などマスコミを使って大々的な邪教キャンペーンを展開して弾圧を正当化した。これらの宣伝が、国民の新宗教への邪教視、低俗視を抜きがたいものにしている。
日中戦争(支那事変)の最中にあった1940年(昭和15年)4月、当時の米内内閣(海軍大将、米内光政首相)下で「宗教団体法」が成立・施行されると、新宗教は、宗教結社として初めて宗教行政の対象となった。一方で、戦時体制により、政府による宗教統制はさらに厳しいものとなり、戦争推進協力に積極的であった生長の家、霊友会等の一部の新宗教を除き、大半の新宗教は、ほとんど活動の余地を奪われて、逼塞状態となった。新宗教が初めて活動の自由を獲得したの戦後(第二次世界大戦敗戦後)である。
明治〜大正時代までは、新宗教の勢力は小規模なものであった。現在の新宗教の大教団では、昭和初期以後、1930年(昭和5年)に創価学会(発足当時の名称:創価教育学会)と霊友会、1938年(昭和13年)に立正佼成会が創立され、戦後から1970年(昭和45年)頃までに急成長を遂げた。
戦前においては、新宗教や新興宗教という言葉は使われることがなかったわけではないが、一部にとどまり一般化はしなかった。そうした新しい宗教に対して用いられていたのが、邪教というイメージを伴う「類似宗教」という言葉であった。戦後の1950年代から60年代にかけて、新しい宗教団体の活動が活発化、爆発的な拡大を始め、「新興宗教」という言葉が一般に広く使われるようになった。1970年代半ば以降、新興宗教という表現には蔑視するニュアンスがあるとして、新宗教という表現が研究者やジャーナリストの間で一般化した。
特に、1970年代以降に台頭してきた宗教を新新宗教と呼ぶ学者もいる。これは宗教社会学者の西山茂、宗教ジャーナリストの室生忠などが提唱した概念で、既存の教勢が停滞する一方で、幸福の科学や旧統一協会(または統一教会、名称変更以後は世界平和統一家庭連合)などが急速に拡大した現象に注目したものである。しかし、新新宗教については、研究者によって多種多様な提唱があり、具体的にどの団体を指すのかも、何をもって新しいとするかの具体的基準も、明確に定まってはいない。どこまでを新新宗教に含めるか、他の新宗教と区別する意義は何か、といった議論があり、広辞苑や大辞泉にも独立単語として掲載されていない。
形態
ひとつの典型的な形態としては、ある人物の天啓や神がかりにより運動が創始され、既存の伝統的な宗教から影響を受けつつ、新たな宗教としての体裁をなし、組織的教団となっていく例があげられる。または、宗教的修行者のもとに病気治療や人生相談を要求する人々が集結し、組織が拡大して教祖的な位置に至る場合もある。通常は、霊能祈祷師的人物の周りに定期的にお祓いなどを求める信者が集まっているだけでは、新宗教とは呼ばれない。この集団が教義を次第に整え、多くの人に布教を始め、近代的組織ができてくると、新宗教とみなされるようになる。
新宗教の教祖の経歴は多様であり、宗教家をもつ家庭環境に誕生し育った人よりも、普通の生活をしていた人が宗教的回心によって教祖になる例が圧倒的に多い。信者たちにとって教祖は、尊敬されつつも、一般に考えられているよりは比較的身近で親しみの持てる存在として受け止められている。その一つとして、伝統宗教がその創始において教祖が家族を俗として否定したのに対し、多くの新宗教では教祖は家族を否定せず、家族関係を保持したまま家ぐるみで聖化されるストーリーを提示している。他方で、既成宗教の再生運動とみられるもの、あるいは道徳・倫理・修養団体とさほど違いのないような運動・教団も数多く存在する。
新宗教は、伝統宗教と比較すると、難しい教学をさほど重視せず、実生活に即した分かりやすい説明を大事としていることが多い。伝統的な神仏等を崇拝対象としつつも、事実上は教祖が崇拝されており、伝統宗教の教えを踏まえた上で、教祖による独自の教えが付け加えられている。新宗教の信者は、自分の日常に起こる出来事に関して、教団の教えに沿った解釈をし、考え方や行動パターンに共通点が多くなる。伝統宗教の信者にもある程度その傾向がみられるものの、新宗教の信者は概して思考の統一性が非常に高い。
また、布教方法は、伝統宗教と大きく異なり、伝統宗教では基本的に地縁・血縁による単純再生産がなされるのに対し、新宗教では、積極的に布教を実施しない姿勢の教団も少数あるが、布教師だけでなく一般信者も布教に尽力する教団が多く、新たな信者獲得に努める姿勢が見られる。伝統宗教が年中行事や人生儀礼に関わる比重が高いのに対し、新宗教では、日常生活で遭遇する現実的な問題解決に熱心である。人生の様々な悩みについて、信者たちは教団の指導を仰いだり、信者同士で話し合いの機会を持つ。伝統宗教に比べ、専従者と非専従者の境界がそれほど重要とされないのも特徴である。
かつて伝統宗教も分裂を繰り返してきたように、新宗教もカリスマ性を喪失するなどして分派することも多い(霊友会系教団、真光系諸教団など)。
平成期〜2000年代以後現在の新宗教の信者の大半は、二世信者以降となっており、誕生して幼い頃から家庭環境やコミュニティの影響等によりその宗教に接しているため、特別な入信動機は存在しないことが多い。初代の信者の入信動機で最も広くみられるのは、「病気による苦境」である。かつての新宗教の入信動機は、貧困といった経済的事由、病気をはじめとした健康問題、人間関係のトラブル(いわゆる「貧・病・争」)といった精神的苦痛が、多数を占めていた。しかし、戦後の高度経済成長期の終盤を迎えるころから、入信動機に精神的な満足や充足を求める割合が増えている。こうした変化はあるものの、依然として、新宗教においては貧病争の解消といった現世利益的なものが重要な役割を占めている。新宗教では、苦難に遭遇した理由や原因を説明することも多く、こうした悩みに対し、既存の伝統宗教にも共通する神仏への信仰のみならず、特別な力を持つとされる教祖への個人崇拝的信仰、勤行読経・唱題、手かざし、先祖供養等の方法により、悩みを直接的に解決できると打ち出すことも多いが、多くの場合、もっとも重要とされるのは本人の「心なおし」である。過去の心の在り方を反省し、心の持ち方を改め、他者に常に善意と感謝を持って対することが最も重要とされている点は、多数の新宗教教団に共通している。新宗教の教えとは「心なおし」の教えといってよいほど、多数の教団の教えの核心部分にこの「心なおし」が関わっている。
日本最大の新宗教教団である日蓮・鎌倉仏教系創価学会が戸田城聖同会第二代会長時代に(当時は既存仏教宗派の一つである日蓮正宗の信徒団体)、「謗法払い」と称して他の宗教・宗派の崇拝対象を撤去させたので、新宗教の信者は伝統宗教に対して攻撃的であるというイメージが形成されたが、大半の新宗教では、伝統宗教への関わりは肯定的である。
戦前から戦後しばらくまで、伝統宗教側では、新宗教は人々を惑わす低級な宗教だという評価が一般的であった。他方で、新宗教の急激な信者増加に注目し、その現象を見極めようとする動きも生まれた。その後、新宗連が結成され、新宗教の側から宗教協力が推進されたことで、伝統宗教との摩擦を小さくする努力が行われた。新宗教の信者たちは、日常生活の悩みについては自分の入会している教団を訪れるが、葬儀や法事等は伝統的な仏教宗派に依頼し、新宗教と伝統宗教との間には、暗黙裡に一種の役割分担、棲み分けが行われている例がよく観察される。一方で、伝統宗教である日蓮正宗と、創価学会、顕正会、正信会のように激しい対立に至る事例もある。
神道系───
国家神道系 招魂社
教派神道系
純教祖系 黒住教/金光教
山岳信仰系 丸山教/御嶽教/実行教/扶桑教
禊系 禊教/神道禊教/神習教
儒教系 神道修成派/神道大成教
復古神道系 神道大教/出雲大社教/神理教
大本系 大本(大本教)/三五教(あなないきょう)/神道天行居
世界救世教系 世界救世教/神慈秀明会/救世主教/救世神教
真光系 世界真光文明教団/崇教真光/神幽現救世真光文明教団/陽光子友乃会/真光正法之會/ス光光波世界神団
生長の家系 生長の家/白光真宏会
天理教系 天理教
その他神道系 松緑神道大和山/祖神道/霊波之光/ワールドメイト/皇道治教/神命愛心会(神命大神宮)/箱根大天狗山神社/紀元会(大和神社)/皇祖皇太神宮天津教(竹内文書を教典とする)/璽宇/神国教/荒薙教/玉光神社/平和教
仏教系───
法華系
日蓮宗系 本門佛立宗/日本山妙法寺大僧伽/釈尊会/国柱会/日蓮宗葵講/法師宗
霊友会系 霊友会/霊法会/立正佼成会/佛所護念会教団/妙智会教団/妙道会教団/大慧會教団/正義会教団/思親会/希心会(分派)/正導会/在家仏教こころの会/日本敬神崇祖自修団
日蓮正宗系 顕正会/正信会/創価学会/正理会/妙観講
天台宗系 念法眞教/孝道教団(霊友会系に分類することもある)/鞍馬弘教
浄土系
浄土真宗 浄土真宗華光会/浄土真宗親鸞会/浄土真宗一の会/仏眼宗/真宗長生派/浄土真宗同朋教団/仏教真宗/門徒宗一味派
その他浄土系 念佛宗三寶山無量壽寺
真言宗・密教系/真如苑-真言宗醍醐派から独立/辯天宗-大森智辯を宗祖とする宗派。高野山真言宗から独立/中山身語正宗-真言宗泉涌寺派から独立/一切宗-木原覚恵を創始者・宗祖とする宗派教団/光明念佛身語聖宗-中山身語正宗と創設者同一/肥後修験総本山六水院(教祖を下ヨシ子氏とする密教)/海命寺
禅系 如来宗/救世教/三宝教団/一畑薬師教団(一畑寺)
その他仏教系 幸福の科学/新生佛教教団/圓佛教(韓国系)/ホアハオ教(ベトナム系)/オウム真理教/真言宗金剛院派(前身は皇道治教で真言宗とは全く無関係。照真秘流を自称)/阿含宗 - 根本仏教系新宗教/日本テーラワーダ仏教協会
キリスト教系───   
セブンスデー・アドベンチスト教会/末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教)/エホバの証人/世界平和統一家庭連合(「家庭連合」、旧称「世界基督教統一神霊協会」(「統一協会」または「統一教会」)、韓国では「統一教」)/キリスト教福音宣教会(摂理)/全能神/聖神中央教会/聖イエス会/キリストの幕屋(原始福音)(神道とキリスト教を融合)/イエス之御霊教会/道会(儒教・道教とキリスト教を融合)/クリスチャン・サイエンス/ニューソート/人民寺院/ユニティ派/ユニテリアン主義/ユニテリアン・ユニヴァーサリズム 
新宗教 総論 

 

まず昨今使用されていた言葉「新興宗教」という言葉は、どこか差別的な印象がつきまとうということで、現在研究者を中心に「新宗教」と呼ぶようになったそうです。新興宗教とはその名の通り、戦後急速に拡大していった既存の宗教から分派した宗派のことで、戦後成長期と事を共にするようにエネルギッシュに台頭してきたことからその名で呼ばれたそうです。ちなみに戦前においては、「類似宗教」「諸教」と言い方で呼ばれたこともあります。そういう意味で著者が本書を書く内容と目的として、10教団を選んだ理由を、すぐれた宗教というわけではないし、評価を意図したものでもなく、正しい新宗教というわけでもなく、過去における社会的な影響力や教団の規模から選んだとしています。また、社会的な影響力は大きくても、反社会的な性格を示していたり、社会の一般的な価値観と対立するような教えを含んでいるような教団やカルトと呼ばれる教団については、取り上げていないそうです。
著者が前書きで書いているところによると、その新宗教の教義と一般社会の乖離によって話題になる新宗教も少なくありません。前政権で連立与党となった公明党自体が新宗教である創価学会であることも、人々に新宗教への関心を高め、他の新宗教の事件、例えば長野県小諸市の神道系新宗教「紀元会」の信者による集団暴行事件の発覚し、それにともない、この教団の様々な問題が指摘されるようになりました。また最も衝撃的な新宗教の事件としては、オウム真理教によるものでしょう。1995年の前年、長野の松本市内で猛毒のサリンを撒き、多数の死傷者を出したオウムのメンバーは、この年の3月20日東京都内の地下鉄でサリンを撒き、再び多数の死者を出しました。このような宗教を背景としたテロは、2001年9月11日の同時多発テロのさきがけとなるものでした。
1999年11月には、ライフスペースの事件が起こっています。ライフスペースはもともとバブル経済の時代の自己開発セミナーの一つでしたが、次第に宗教化しました。リーダーである高橋弘二は、インドの宗教家で、オウム事件の前には日本でもブームになった、インドの宗教家サイババから「シャクティパット・グル」に指名されたと主張していました。しかし、サイババ側は、この事実を否定しています。シャクティパットは、オウムでも同名の技法が存在しましたが、ライフスペースでは頭部を手で叩く宗教的な病気治療の方法として利用していました。ところが、このシャクティパットが効力を発揮せず、高橋の信者が連れてきた男性が死亡してしまいました。しかし、高橋は死者はまだ亡くなっていないとして信者もそれを信じました。遺体は時間の経過と共にミイラ化していき、信者たちはその様子を写真などに撮り記録し続けていました。その後、ホテル側が不審な長期滞在に疑問を持ち警察に届けたところ発覚し、高橋や男性の長男などが逮捕されました。
2003年の4月から5月にかけては、白装束集団ことパナウェーブ研究所のことが大きな話題になりました。パナウェーブ研究所は、千野正法会とも呼ばれ、教祖は千野裕子という女性でした。千野はGLAの創立者高橋信次の後継者を自称していたそうですが、実際にはGLAとはまったく関係がありませんでした。千野の説く教えは、様々な宗教からの寄せ集めのようで、体系性を欠いていたと著者は書いています。ただし、共産主義を否定し反共色を打ち出したことで、一部の人たちから支持されていました。そのパナウェーブ研究所では、共産主義勢力からスカラー派という電磁波によって攻撃されていると主張しました。そのスカラー派を防ぐために、白い服やマスク、長靴などを着用していたことから白装束と呼ばれました。彼らは、日本各地を転々としていて、移動のために使われていた車にはスカラー波を防ぐための渦巻き模様を大量に貼り付けていました。実は騒動になるまで、7年間もキャラバンを続けていました。最終的に福井市に落ち着いたものの、その後、信者の大学助教授が施設内で死亡するという事件が起き、集団のメンバーが竹刀などで暴行した疑いが強まり、5名が傷害容疑で逮捕され、暴力行為法違反罪で罰金刑を受けました。リーダーの千野裕子は、当時末期がんを主張していましたが、2006年10月に死亡しているそうです。
そして2007年の5月にはエホバの証人の信者である女性が、妊娠し、帝王切開の際に大量出血したにもかかわらず、教団の教えに従って輸血を拒否したことから死亡するという出来事が起こりました。生まれた子供は無事でしたが、病院側は、死亡した本人から、輸血をしないで不測の事態が起こったとき病院側の責任は免責するという同意書を得ており、家族も本人の意思を尊重しました。また1985年には、川崎市で交通事故にあった小学校5年生の男児に対して、エホバの証人の信者だった両親が輸血を拒否し、男児が死亡するという事件が起こりました。これによってエホバの証人の輸血拒否が大きな話題になり、医学会はこの問題に苦慮するようになりました。1992年には、免責の同意書に署名していたにもかかわらず、患者の生命に危険が生じたときには輸血をするという方針で手術に臨んだ医師が、その方針を患者に説明していないまま輸血を行ったことで損害賠償を請求され、それが2000年に最高裁で認められるという事件も起こっています。彼らの信仰する神は輸血を禁じていると信じています。医師の側にとって、とくに判断が難しいのが、患者が子供の場合で、判断力の乏しい子供に対しては、親が反対しても行う方針で臨んでいる医師も少なくありません。いずれの新宗教も教祖の言うことをそのまま信じているのです。
2005年に起こった次世紀ファーム研究所をめぐる事件も、その一例で、この研究所は一種の宗教団体で、堀洋八郎という人物が代表でした。この研究所では、健康食品の販売の会社も設立し、光合堀菌という正体不明の菌をもとにした「真光元」という食品を販売していました。ところが、その施設内で、真光元を食べれば病気が治ると言われ、それを服用した糖尿病の女児が死亡するという事件が起こっています。注目されるのは、代表の堀が、創価学会の元会員である点です。堀は高校生のときに創価学会に入会し、活動していましたが、30代なかばで脱会しました。彼は、宗教団体を運営するノウハウや金の集め方、信者勧誘の方法は創価学会で学んだとしており、創価学会の名誉会長である池田大作に対しては憧れの気持ちをもっていることを告白しています。つまりは、多くの新宗教がすでに勢力を拡大している新宗教からそのノウハウを学び独自に新宗教を立ち上げるというパターンが古くから定着しているのです。
また新宗教といっても、あらゆる宗教は、最初、新宗教として社会に登場するといえます。仏教は、インドの伝統宗教、バラモン教のなかに出現した新宗教でありました。キリスト教も、ユダヤ教のなかに生まれた新宗教で、だからこそ、「聖書」のうち「旧約聖書」にかんしては、どちらの宗教においても聖典として教えの中心に位置づけられています。イスラム教の場合には、「アッラー」という独自な神を信仰し、その点では、同じ一神教でもユダヤ教やキリスト教とは異なる宗教であるように見えます。しかし、アッラーは、アラビア語で神を意味する普通名詞で、固有名詞ではありません。しかも、イスラム教の考え方では、預言者ムハンマド(マホメット)が信仰する神は、「旧約聖書」の冒頭にある「創世記」に登場するアブラハムが信仰していた神と同じだと考えられています。つまりイスラム教は、ユダヤ教やキリスト教と同一の神を信仰する宗教であり、先行する2つの宗教の影響を強く受けています。イスラム教の聖典である「コーラン」には、ユダヤ教のモーゼもキリスト教の救世主イエスもともに登場します。その点では、イスラム教は、ユダヤ教やキリスト教を生んだ宗教的な伝統の中から生まれた新宗教なのです。
そして日本では、無宗教という宗教観が多くの人の意識にあります。それは明治に入って近代化するまで「宗教」という概念がありませんでした。宗教という言葉はあっても、それは宗派の教えという意味で現在の宗教とは意味が違いました。明治に入って、宗教という概念が欧米から導入され、神道と仏教とが2つの宗教に分離されたにもかかわらず、日本人は、片方の宗教を選択できなかったため自分たちを無宗教と考えるようになったのです。
新宗教の大きな特徴は、分派が多いことと、教団同士の間に対立が起こりやすいということにあります。新宗教では教団を生んだ特定のカリスマ的教祖がいることが多く、そのカリスマ性が教団を統合しています。ところがいくら神格化されても、人間ですから寿命を全うすると、新宗教の教団にとってはもっとも大きな危機であり、それを契機に、後継者争いが起こったり、分派が生まれたりします。特に分派が生まれやすいのは、教祖が生前神懸かり(かみがかり)をし、信者に神のお告げを下していたような教団の場合です。教祖が亡くなれば、新たに神のお告げを媒介する存在が求められます。創価学会と立正佼成会、霊友会は、みな日蓮系、法華系の教団で、高度成長の時代に教団が急拡大していた時には、信者の獲得合戦で激しく対立しました。現在、それぞれの教団は、世界平和の実現を説き、平和運動に熱心ですが、強調して平和運動にあたるようなことにはなっていません。 
天理教 

 

奈良県天理市は一大宗教都市だといいます。天理教の独特な建物が市内のいたるところに立ち並んでいるといいます。中心には巨大な教会本部の建物が建っており、「ぢば」と呼ばれ、その中の中心は「かんろだい」が据えられています。天理教の教えでは、このぢばは、人類が発祥した場所であるとされています。したがって、天理市を訪れ教会本部に礼拝に行くことは、「おぢばがえり」と呼ばれ、駅には「お帰りなさい」という看板が立っています。
天理教が誕生したのは、幕末維新のことです。天理教の教団では、1838(天保9)年10月26日を立教の日と定めています。この頃には天理教の他にも如来教、黒住教、禊教、金光教などが誕生しています。新宗教の発祥時期は幕末維新の頃や、教団が急速に拡大していく戦後だとするのか議論がありますが、最も有力な19世紀の終わりから20世紀の初めの頃に発祥を求めるとすれば、大方の宗教は新宗教でなくなります。その場合には既成宗教と新宗教の中間的な形態として「民衆宗教」といった呼び方が使われます。その一因は、宗教の発生時期と、拡大していく時期にずれがあるためです。創価学会の場合は80年の開きがあるとされています。
その天理教ですが、誕生した時代には、天理教関係の施設もなく、そこには丹波市という村であり、教会本部も教祖が嫁いだ中山家の屋敷にすぎず、周囲も農村で信者が急速に増えることもなかったといいます。天理教が立教の日を定めているのは、その日、教祖である中山みきが「神の社」に定まるという決定的な出来事が起こったからです。神の社が何を意味するかは教団の中でも議論がありますが、単純化すると、みきが神そのものになったと考えていいとされています。天理教の主宰神である天理王命は、人類全体を生み出した存在であることから「親神」であるとされていて、みきもこの親神と同一視されています。つまり立教の日は神(みき)がこの世に出現した日と考えられているそうです。
立教の日に先立つ10月23日、みきの長男秀司が足の病にかかり、修験者が中山家に呼ばれて、祈祷が行われました。その際に、神が降る巫女の代理をみきがつとめたところ、「元の神、実の神」と名乗る神が降り、みきを神の社としてもらい受けたいと言い出しました。この申し出を受け入れるなら、世界中の人間を救うが、拒むなら、中山家を破滅させるというのです。そこからみきに降った神と中山家の人々との間で問答が繰り広げられ、家族が申し出を拒むと、みき自身が苦しみました。そこで、みきの夫、善兵衛は、26日に、みきを神の社として差し上げると返答し、それでみきの苦しみも治まったのです。
実際、神の社と定まったはずのみきは、すぐには宗教家として救済活動をはじめることはなく、周辺地域で妊婦をお産の苦しみから救う「お産の神様」として知られるようになるのは、そのおよそ20年後のことで、教団組織が誕生するまでには、さらに20年の歳月がかかっています。みきは、妊婦を救う際に、「をびやゆるし」と呼ばれる行為を行いました。妊婦のお腹に三度息を吹きかけ、三度お腹をなでるというもので、まじないと変わりませんでした。それでも、それで救われた人間たちがみきの信者となり、その名が地域に広まっていきました。
明治に入ってしばらくの間、天理教は周囲からの迫害もなく、比較的穏やかに活動を展開していました。しかし時代が変わるごと次第に警察の取り締まりを受けるようになっていきます。確かに、天理教には、ぢばが人類発祥の地であることを根拠づける独特の神話が存在し、それは、「古事記」や「日本書紀」の記述とまったく異なっていました。一部の共産系研究者は天理教が近代天皇制に反対したからだとしていますが、実際に、取り締まりを受けたのは、天皇制に反対したからではありませんでした。取り締まりは、1873(明治6)年に教部省から出された禁厭祈祷を禁止する法令に基づいていました。翌74年には、教部省から、「禁厭祈祷ヲ以って医薬ヲ妨グル者取締ノ件」という布達が出され、呪術的な信仰治療に頼って医者や薬を否定することが禁止されていたため、医者や薬を拒絶し、祈祷や呪いによる信仰治療が実践されていた天理教は取り締まりの対象となりました。
さらに1880年には、今の軽犯罪にあたる大阪府の「違警罪」の一項にも違反し取締りの対象となり教団にとってはさらなる痛手でした。しかも教祖は高齢で逮捕・拘禁はその健康を害する危険性を持っていました。そこで刑法が改正された同年には、既成仏教宗派である真言宗の傘下に入り転輪王構社を長男秀司を中心に結成し迫害を避けようとしました。ところが結成の翌年その試みの中心を担っていた秀司が亡くなるという出来事がおこります。
その翌年頃から丹波市の周辺に奇怪な老婆が出現するようになります。彼女は自ら転輪王と名乗り「万代の世界を一れつ見はらせば、棟の分かれた物はないぞや」といった言葉や、自分を信仰する者には百五十年の長命を授けるといった言葉を言っていました。近隣の住民からは「お出まし」と呼ばれていました。通常の感覚からすれば、みきの振る舞いは尋常なものではなかったでしょうが、信者たちは、みきが激しい神懸り(かみがかり)を繰り返す姿を見て、その前提の上にみきのふるまいを解釈し、そこから意味を引き出し、救済の可能性を見出していったのです。その当時で信者数は200名以上を抱えていました。
みきは、警察による拘留を繰り返し経験していましたが、中には12日間の拘留もあり最低気温が4.2℃を記録することもあり、1887年2月18日にみきは90歳で亡くなっています。みきの死は、普通なら長寿をまっとうしたことになりますが、みきは生前、人間の寿命は百十五歳までと公言していて、信者たちはそれを信じきっていました。予想が外れたためです。
彼女の決まっていた後継者は、大工の棟梁だった飯降伊蔵という人物でした。彼はみきの生前から神懸りをし、その死後は、天理王命のことばを伝える役割を果たすようになっていました。その伊蔵に、みきの葬儀が行われた翌日の2月24日に神が降り、みきが百十五歳の寿命を二十五年縮めて信者たちの救済にあたるのだという意味の言葉を下しました。これで教団の決定的な危機を回避することに成功したのです。これはキリストの死の場面でも同じことがいえます。
そのみきがいなくなったことで、眞之亮を中心とした教団の幹部たちは、動きやすくなりました。みきの生前の1885年に、神道本局部属六等教会の設置を認可されたのを皮切りに、教派神道としての独立をめざす運動を繰り広げていきました。教団では「教則三条(三条の教憲)」の中にある、「天理人道を明らかにすべき事」という言葉に基づいて、その名称を天理教に改め、1891年には、神道本局直轄一等教会に昇格し、1908年にはようやく悲願だった独立を果たし、教派神道として公認されることになります。
公認を得る前から、天理教は、社会的に認知されることを求めて、政府に協力していきました。戦争が起これば、航空機などを寄付し、志願兵の応募に積極的に応じ、満州国が誕生すれば満蒙開拓団にも参加し、国家神道の体制に迎合するものに改めて布教も展開しました。これは「明治経典」と呼ばれ、現在の経典とは区別されており、天皇とその先祖を神として祀ることを強調する内容になっていました。
その太平洋戦争に突入する頃には信者数が30万人に増え、大正の終わりから昭和のはじめにかけて急増しています。天理教が拡大を見せていた時代、天理教は「搾取の宗教」とも言われていたそうです。信者の大半は庶民ですが、信仰の証として布教活動にすべてを費やし、稼いだ金はみな教団に献金してしまったからです。
その背景には、「貧に落ちきれ」という天理教の教えがありました。「稿本天理教教祖伝」には、神の社となったみきが、際限の無い施しを続け、それによって中山家は没落したと記されているためです。しかし、みきが際限のない施しをしたという証拠は存在しないそうです。
戦後の天理教はみきのひ孫にあたる二代目真柱、中山正善でした。彼は東大出のインテリで皇族ともつきあいがありました。そのこともあって、戦後の天理教は、創価学会などとは異なり、膨大な庶民を信者として取り込むことには必ずしも成功しませんでした。現在天理教は公称で百九十万人程度なんだそうですが、実際の信者数は五十万人程度だと著者は書きます。
天理教には分派が多くみきの跡を継いだ飯降伊蔵の後、神の言葉を取り次ぐ存在が、天理教のなかに途絶え、誰もが天理王命の啓示を受けたと主張できるようになったためです。最も名高いのは大西治郎が大正時代のはじめに創立した「ほんみち(当時は天理研究会)」です。また戦前において最も大きな新宗教であり、熱狂的な布教活動を展開したことで、社会からの反発も大きく、さまざまな形で天理教批判が繰り広げられました。戦後は創価学会などが活発化し注目はあまり集まらなかったといいます。それだけ定着したともいえるし活力を失ったともいえます。著者は天理教に限らず新宗教の課題は、その活力をいかに継続させていくかにあるといいます。 
天理教

 

日本で江戸時代末に成立した新宗教の一つ。中山みきを教祖とする宗教団体である。狭義には奈良県天理市に本拠地を置く包括宗教法人(宗教法人天理教)およびその傘下の被包括宗教法人(教会本部及び一般教会)を指すが、広義には中山みきが伝えた教義そのものを指す場合があり、信仰する単立の宗教法人もある。
「宗教法人天理教」及びその被包括法人である「宗教法人天理教教会本部(略して教会本部)」は奈良県天理市にあり、またその傘下にある一般教会は各地に点在する。
神名(かみな)は天理王命(てんりおうのみこと)で「親神」、「親神様」とも呼称される。教会本部、各地の一般教会では、天理王命とともに教祖と御霊の社を置き礼拝しているが、一神教(一つの神のみを信仰する宗教)である。「陽気ぐらし」という世界の実現を目指している。教祖は中山みき。天理教では「教祖」と書いて「おやさま」と呼称している。明治20年(1887年)に、教祖・みきは90歳で死去したが、天理教では目に見える存在の「現身(うつしみ)を隠した」のであり、その魂は今でも「元の屋敷(現在の教会本部)」に留まっており、人々の暮らしを見守り守護しているとしている「教祖存命の理」が、天理教信仰の根本的な精神的支柱となっている。 現在の統理者は真柱(しんばしら)・中山善司。
天理教では、人間の命の発祥地の中心を「ぢば」(地場)と称し、明治8年(1875年)6月29日(陰暦5月26日)に教祖の「ぢばさだめ」という啓示でその場所を定めている。二代真柱の中山正善によれば「ぢば」という言葉には特別に意味は無く、教祖はあくまで「場所」という日本語のニュアンスで使用していたとさし、その後の教勢の発達と時間的な経過とともに「ぢば」は天理教義的な観点から「人間の宿し込みの地点」と意味が明示され、場所な視座ではその証拠として据えられている「かんろだい」のある特定の地点と定義されるようになったとされる。この「ぢば」は「元なるぢば」「かんろだいのぢば」の意味もあり、天理教の信仰の対象であり、中心であるとされている。このようなぢばの意義は「ぢばの理」と呼ばれている。現在の天理教教会本部は、この「ぢば」を中心に建られており、神殿の四方に建てられたすべての建物を「かんろだい」の礼拝所とし、全国の各教会の神殿も「ぢば」の方向にむけて建てられている。通常は、丁寧語の「お」をつけて「おぢば」と呼び、人がこの地を訪れることは、故郷に帰ることであるから、「おぢばがえり」と呼んでいる。そのため天理駅や天理市内の関係者の宿泊施設である信者詰所などには「お帰りなさい」や「ようこそおかえり」などという看板が見られる。
「ぢば」の中心には、人間創造のあらわす六角形の「かんろだい」(甘露台)が置かれた「神殿」が建てられ、四方から囲むように信者等が礼拝する四つの「礼拝場」(らいはいじょう)がある。そのほか教会本部には、教祖が存命のまま暮らしているとされる「教祖殿」(きょうそでん)、御霊を祀る「祖霊殿」(それいでん)などがあり、信仰に関係なく誰もが自由に出入りすることができ、南礼拝場は24時間開かれている。「神殿」では、毎日朝晩に「おつとめ」という定時定例の礼拝が行われており、また毎月26日は、「月次祭」(つきなみさい)という礼拝が行われる。傘下にある一般教会などにおいても、その例に倣い、「親神」「教祖」「御霊」を祀る御社を設置し、「おつとめ」や「月次祭」の礼拝が行われている。
「おつとめ」の「お」は丁寧語としてつけられたもので、天理教での公式な呼称は「つとめ」であり、その定義や種類は複数存在する。特にこの朝晩におこなう「つとめ」は「朝勤・夕勤」「朝夕のつとめ」などと呼ばれ、礼拝する際には、信者は「あしきをはろうてたすけたまえてんりおうのみこと」などと唱え、そこに定まった手振りを加え、主神の親神天理王命に感謝したり祈りをささげている。
かつて教派神道の一派として公認され活動していた(詳細は後述)ため、葬儀式などに見られるように神道の影響を大きく受けており、現在も「神道系宗教」とみなされることが多いが、教団側では新宗教諸派と称しており、宗教法人としての届けは「諸教」としてなされている。文化庁の宗教年鑑では「諸教の諸教団」として分類されている。
天理教は「かなの教え」とも説かれる。教祖である中山みきが、民衆にも分かりやすく説きたいとの意思から、『おふでさき』『みかぐらうた』が仮名で書かれている。教義などに使われる言葉の多くが「かな表記」にされている。
基本的に信者達は、ハッピを平服の上から着用する。明治22年(1889年)に、奈良県秋津村(現・御所市)の新道開削のために地元の信者数百人が揃いの法被を着用したのがはじまりとされている。その後に「ハッピ」と表記されるようになり、昭和2年(1927年)にその表記が統一され、基本的に黒地で、背中には「天理教」「TENRIKYO」の文字が、襟表には所属団体名などが白字で記載されている。現在では、祭典などの公的行事のほかひのきしんやにをいがけなどの活動時などにも着用し、天理教のトレードマーク、象徴となっている。
教義・教理
天理教の教典の一つである『天理教教典』の第三章「元の理」には、天理教の根本教義が示されており、「この世の元初まりは、どろ海であった。月日親神は、この混沌たる様を味気なく思召し、人間を造り、その陽気ぐらしをするのを見て、ともに楽しもうと思いつかれた。」と書かれている。親神が人間を造ったのは、泥海と表現されるような混沌と化した状態であった世界を面白くなく感じて、人間が明るく勇んで暮らす「陽気ぐらし」を見て、人間とともに「よろこび」「たのしみ」たいと思ったからであり、親神の守護と恵みにより、人間は生かされており、天然自然が存在すると説かれている。人間の役割は、親神が見たいと説く陽気ぐらしの実現にほかならず、親神によって生かされているという謙虚な気持ちを持ち、欲を捨て、嘘をつかず、平和で豊かな世界を目指すことが重要であるとされる。
改訂天理教事典によれば、天理教には「この世は神のからだ」、「いちれつ兄弟姉妹」、「身の内のかしもの・かりもの」、「ほこり」、「いんねん」の主に5つの教理が存在する。 このうち「この世の中は神のからだ」「身の内のかしもの・かりもの」「ほこり」は中心的な教説であり、この世の中は親神の守護の世界であり、人間の身体的生命(身上)をはじめとして、一切の物事は親神の「かしもの」であり親神からの「かりもの」であるという天理教独自の教理が存在し、心だけが自分のものとして自由に使うことが許されているとされる。親神の教えに反する心遣いを埃(ほこり)にたとえて「ほこり」と呼称し、心の使い方次第でこれがたまると説き、自己中心的な心遣いを慎むよう、また親神の思いにそって身体を使うことが重要であり、常日頃から「ほこり」を払う(掃除)ように説いている。 「いちれつ兄弟姉妹」の教えでは、人間はすべて親神天理王命を親とする同一兄弟姉妹であるとされ、互いに助け合い信心和楽の陽気世界の実現を目指し、弛むことなく努力を続けるべきだとされる。天理教のこの教えは、キリスト教の「隣人愛」や「兄弟愛」に類似する点があるが、天理教では単に同信、同宗のみならず、他宗教や敵対する人々も兄弟姉妹とみなしており、その点では異なる。 「いんねん」(因縁)は元は仏教用語であり、天理教での教理としては現在の事象が過去の事象に基づいて存在するという考えや、現在の事象のもととなる過去の事象をさす一般的な用法に近いとされる。天理教ではうまれかわりが教義として存在するため、因縁は一代かぎりではなく、前世のもの、あるいは末代の理とされ、陽気暮らし世界実現のために人間を創造した親神の「元のいんねん」を自覚し、懺悔し、その悪しき心遣いといんねんを納消しなければならないととかれている。
また、天理教では人間社会の根本的な基盤として親子・夫婦関係が重要視されている。人間創造の経緯を示した「元初まりの話」や、教典のひとつでもある『みかぐらうた』の中にも夫婦について言及した部分は多い。 結婚観については基本的に男女の両性が愛し合うことが前提とされており、2015年度に発行された信仰の指導文書である『諭達』でもその保守的な立場を堅持している。離婚についての否定は存在せず、教典『おさしづ』には夫婦の縁は切れても、「いちれつ兄弟姉妹の理」は忘れてはならないとの記述がある。
天理教の教理には「かしもの・かりものの理」があるため、誕生は親神から体を借りることであり、死は借りた体を返すだけであるという死生観が存在する。教義では、死ぬことは終わりではなく最初から新しく「出直す」のであり、死は「出直し」と呼称される。体を借りる主体者は「魂」(心)であり、その実在の場は「この世」以外にないとし、主体者である自己の同一性は魂によって存続すると説かれている。
「人たすけたらわがみたすかる」という教祖の言葉が重んじられるように、天理教では「人助け」が基本理念にあり、それは「自らが真にたすかる道」とされている。
信者の積極的な神恩報謝の行為をすべて「ひのきしん(日の寄進)」と呼ぶ。「ひのきしん」は天理教信仰を具現化、行為化、した姿そのものであると説かれている。日々健康に生きられることを親神に感謝し、その感謝の意味を込めて、親神のために働くことをいう。歴史的には天理教草創期から存在し、元治元年(1864年)の「つとめ場所」の棟上げからはじまり、その後の神殿や教祖殿、「おやさとやかた」など教団関係施設の建設の普請につながっている。現在では、教会本部や傘下の一般教会での清掃活動をはじめ、地域における奉仕活動、災害時における「災害救援ひのきしん隊」の派遣などが行われている。
天理教の祭典の中心の行事となるのが「つとめ」であり、幾つかの種類が見受けられる。教義上で最も重要とされるものは親神天理王命に「たすけ」(救済)の実現を祈る「つとめ」であり、その中でも「神楽面」を被り「元初まりの理」や親神の守護の様子を表現する「かぐらづとめ」は特別視され、現在では教会本部でしか行われておらず、一般教会で面をつけることは禁止されている。一般教会でも執り行われるのが「てをどり」と呼ばれる「つとめ」であり、『みかぐらうた』の「十二下り」をつとめる。これは親神への感謝を捧げ、世の中が陽気世界への建て替わっていくことを祈ることを意味している。「かぐらづとめ」は12通りあるものの、現在ではほとんどの場合そのうちの一種類が行われ、これと「てをどり」をあわせて「よろづたすけのつとめ」と称している。
教勢
天理教の信者数は明治末から大正・昭和初期にかけて大きく増加し、最も多かった時期である昭和初期の昭和13年(1938年)の『時事年鑑』には信者数4,559,000人の記述があり、多いときには300万人から500万人以上にのぼったといわれている。特に教祖30年祭及び40年祭が執行された大正から昭和初期頃にかけて行われた「教勢倍加運動」によって信者を獲得しており、時を同じくして分派団体が多く発生している(分派については後述)。また、当時の日本であった朝鮮半島や台湾においても布教が進み、現地人の信者が増加した(海外布教については後述)。戦前においては新宗教の中で最も大きな教団に成長した。終戦後は、戦後復興期には増加の傾向が見られたものの、その後は減少の一途を辿り、平成4年末での公称では185万人程度としている。この中には、他宗教に帰依した状態で天理教の信仰を行なっている者の数も含まれている。みさと原典研究会の代表で天理教御里分教会長をつとめる植田義弘によれば、統計を比較した場合に、ようぼく(天理教の布教伝道者、後述)の誕生数が、信者の増加を目指した「1・3・3運動」が展開された教祖80年祭(1966年)の最盛期(年間3万7681 人)と比べて、2014年度のようぼくの誕生数(5850 人)は85%減少しており、実際には多く見積もっても50〜100万人程度ではないかと指摘している。文化庁の『宗教年鑑 平成29年版』では119万9955人となっている。 教会数は2015年末の教内統計で16677とされている。
沿革
教祖在世時代
天保9年10月23日(1838年12月9日)の夜四ッ刻(午後十時)、長男・秀司の足の病の原因究明と回復のために、修験道当山派内山永久寺の配下の山伏、中野市兵衛に祈祷を依頼した。その時市兵衛が災因を明らかにするためにする憑祈祷の依り坐が不在だったために、みきが依り坐、加持代となる。この時、みきの様子は一変し、まったく別人になったかのような、著しい変化があり、いわゆる憑依状態に入った。このことを天理教では「月日(神)のやしろ」に召される、と呼んでいる。このときに憑依を悟った市兵衛が「あなたは何神様でありますか」と問うたところ、みきは「我は天の将軍なり」あるいは「大神宮」とこたえたとされる。市兵衛があらためて「天の将軍とは何神様でありますか」というと「我は元の神・実の神である。この屋敷にいんねんあり。このたび、世界一れつをたすけるために天降った。みきを神のやしろに貰い受けたい。」あるいは「我はみきの体を神の社とし、親子諸共神が貰い受けたい。」と語り、親神(おやがみ)・天理王命(てんりおうのみこと)がみきに憑依し天啓を受けたとされている。中山家は古くから村の庄屋や年寄といった村役人をつとめる家であり、同時に質屋業を営んでおり、みきの伝記である稿本天理教教祖伝には「子供は小さい、今が所帯盛りであるのに神のやしろに差上げては、後はどうしてやって行けるか善兵衞としても、元の神の思召の激しさに一抹の懸念は残るが、さりとて、家庭の現状を思えば、どうしてもお受けしようという気にはなれないので、又しても、一同揃うて重ねてお断り申し、早々にお昇り下さい。」とあるように、再三辞退を続けたが、みきが「元の神の思わく通りするのや、神の言う事承知せよ。聞き入れくれた事ならば、世界一列救けさそ。もし不承知とあらば、この家、粉も無いようにする。」と申し出を受け入れるならば、世の人々を救済するが、拒めば中山家を滅ぼすとこたえ、最終的にみきの家族の反対を振り切る形で、10月26日(同年12月12日)になって、夫の善兵衛がみきを「月日(神)のやしろ」となることを承諾した。そのときのみきは「満足、満足」とこたえて、憑依が終わったとされている。みきの三男で後の初代真柱・中山眞之亮の手記に「御持なされる幣を振り上げて紙は散々に破れ御身は畳に御擦り付けなされて遂に御手より流血の淋漓たる」と書かれているように、この間のみきは衰弱していた。天理教では、この日を「立教の元一日」と称し、ここから天理教の歴史が始まったとされる。 こうして天理教が立教されたが、みきはしばらくすると屋敷内の内蔵にこもりがちになり、遂には終日出てこずに内蔵に籠った教祖が誰もいないはずの蔵の中で誰かと話をするかのように眩く声が蔵の外まで漏れて聞こえてくることもあった。次第に中山家の評判は悪化し、史実でも庄屋中山善兵衞の名前は天保10年(1838年)3月晦日付「宗旨御改帳」を奉行所へ提出したのを最後に地方文書から消えている。
その後、みきは天理王命の神命に従い、例えば、近隣の貧民に惜しみなく財を分け与え、自らの財産をことごとく失うことがあっても、その神命に従う信念は変わらなかったとされる。
41歳で「月日のやしろ」に定まったみきの精神状態は不安定で、幾度か池や井戸などに身を投げようとしたこともあったみきだが、その後、内蔵に篭ることもなくなり、精神状態は回復したものの、家財や道具を貧民に施したり、屋敷を取り払い、母屋や田畑を売り払えといったみきの言動は家族や親戚のみならず、村人や役人までもが不信感を抱くようになり、天保13年(1842年)には夫・善兵衛をはじめ多くの親族が、みきの行為を気の狂いか憑きものとして、元に戻るように手を尽くしている。
この後、長らく具体的な布教は行われず、嘉永6年(1853年)に夫・善兵衛が死去すると、当時17歳であった五女のこかんに浪速(現在の大阪)・道頓堀へ神名を流させに行かせたとされているが、これについては後に教団が信者から献金を受けるために事実が歪曲化、脚色されたという説が存在して。翌年、三女・はる懐妊の際にみき自ら安産祈願の儀式的行為である「をびや(おびや)許し」をはじめて施した。これが従来の毒忌みや凭れ物、腹帯といった慣習に従わなくても、容易に安産できるとして次第に評判を呼び、これをきっかけとして近隣の住民の信仰を集め、また人々の病気を治すなどの奇跡を起こし、みきの評判や教えは広がっていた。
元治元年(1864年)ごろにはみきを慕うものも増え、旧暦10月26日に専用に「つとめ場所」を建築。またこの年春ごろより、天理教の救済手段とされる「さづ(ず)け」のはじめとして、みきが信者に授けた扇によって神意をはかることができるとする「扇のさずけ」と「肥のさずけ」を開始、この頃には辻忠作、仲田儀三郎、山中忠七ら古参として教団形成に影響を与えた人物や、みきから唯一、「言上の許し」を与えられて神意を取り次いだ後の本席である飯降伊蔵夫妻が入信している。しかし信者らは、天理教への信仰さえあれば、みきから「をびや許し」や「たすけ」を受けられ、医者から治療を受ける必要はないと説いたために大和神社の神官や地元の僧侶、村医者などが論難にくるようになり、これは明治7年(1874年)に教部省から出された「禁厭祈疇ヲ以テ医薬ヲ妨クル者取締ノ件」という布達に違反、また明治13年(1880年)に制定され、翌年から施行された当時の大阪府の違警罪の一項「官許を得ずして神仏を開帳し人を群衆せしもの」にも違反し、警察からの取り締まりを受けるなど権力との対立が表面化していった。こうしたなかで、信者らは各地に出向き布教を行いはじめ、みきも慶応2年(1866年)、『あしきはらひ たすけたまへ てんりん(てんり)おうのみこと』の歌と手振りを教示、翌年には『御神楽歌(みかぐらうた)』の製作を開始し、手振りのほかにも鳴り物の稽古もはじめた。地元住民からも苦情が相次ぐ中で、側近達は、教団としての認可活動を得ることを試みたが、親神は教会の認可活動を認めず、幾度と無く反対の意思を示している。同年に長男・秀司が京都神祇管領吉田家に願い出て、7月23日に布教認可を得て公認となり迫害は収まった。その間にみきは神命に従い、明治元年(1868年)には、『みかぐらづとめ』を完成、翌明治2年(1869年)正月から『おふでさき』を書き始め、第一号(正月)と第二号(3月)を執筆、翌年には『ちよとはなし』『よろづよ八首』の教授、同6年には飯降伊蔵に命じての「甘露台(かんろだい)」の雛形(模型)製作、同8年6月29日(旧暦5月26日)の「ぢば定め」など、天理教の基を築いていった。
しかしながら、このころより官憲の取締りが再び活発化、神具の没収に続いて信仰差し止めの誓約書の署名を強いられた。この中でもみきは天命を貫き通し、1875年(明治8年)には奈良県庁より呼び出しがあり、秀司らとともに留置される。そして明治15年には「かんろだい石」の没収、および『みかぐらうた』の一部改変が断行される。取締りが厳しくなった1880年にはみきの長男・秀司が既成宗教に傘下に入ることを試み、高野山真言宗へ願い出て、光台院末寺の金剛山地福寺のもとに「転輪王講社」を結成したが、翌年に活動の中心を担っていた秀司は死去している。眞之亮は神道の一派として講社を立ち上げることを試み、1885年(明治18年)5月23日に、神道本局傘下の六等教会「神道天理教会」として認可されたが、大阪地方局の認可が下りず、6月18日に教会設置が却下されている。その後もみきだけではなく、信者や家族も度々留置、拘留を受け、1886年(明治19年)には「最後の御苦労」と呼ばれるみき最後の12日間の拘留を受ける。こうした動きを止めようと眞之亮らをはじめ、古参信者らが教会設置公認運動を展開する中、その認可を見ることなく翌年2月18日(旧暦1月26日)午後二時ごろに90歳で死去した。
教団の組織化・国家統制時代・戦後
教祖死亡後は、教祖の生前中からの側近であり、本席に定められた飯降伊蔵と後に初代真柱となる教祖の孫、中山眞之亮が教団運営の中心となった。
みき死去の翌年1888年(明治21年)4月10日に東京府より神道の一派として「神道天理教会」として公認されたが、引き続き神道本局のもとに置かれていたため、教団としては独立が悲願であった。1900年(明治33年)8月から5回に及んだ請願と政府の意向に配慮した「明治教典」などの編纂を行うなど各方面で努力をした結果、1908年(明治41年)11月27日に神道本局から別派として独立し、教派神道となった。眞之亮は天理教管長に就任し、天理教教庁を設置した。しかし、悲願であった別派への独立を果たしたものの、昭和期に入っていくにつれて官憲による、いわゆる国家神道以外の宗教に対する弾圧が表面化、日中戦争勃発後は、文科省が国家非常時体制を期し、全宗教団体に対して、全面協力を依頼、天理教でも中山正善二代真柱が招請され、遂に内務省や文部省宗教局の指示により教団運営に関してさまざまな制限、改変が加えられた。主なものに、三原典の内『おふでさき』と『おさしづ』の使用を禁止(各教会から回収)し、天理教教典(明治36年編集の明治教典)のみを教義とすることや『みかぐらうた』から「よろづよ八首」、「三下り目」、「五下り目」を削除すること。泥海古記、「元初まりの話」に関する教説配布の禁止。全国各教会を通しての鉄材、金物の供出協力。天理教輸送部への満州、南方作戦の軍事物資と軍隊の輸送協力など指示された。教団側はこれらの内、特に『みかぐらうた』の改変や泥海古記の禁止などに難色を示したが、これより前に宗教界では大本事件に対する危機感から主立った宗教は諸手を上げて国家へ協力さぜるを得ない空気が流れ込んでおり、天理教でも二代真柱の中山正善が諭達第7号、第8号を相次いで公布、全教一丸となって軍部、国家へと協力するようにという指示はその後、『諭達』第14号まで出されている。
諭達第8号公布日の昭和13年12月26日、教団では13名の委員からなる「革新委員会」が設置され、二代真柱列席の元に於いて内務省と文部省宗教局より指示された事項に全て従うという決定が為された。この決断を天理教内では「革新」と呼称している。
以降、教団内ではかぐらづとめに於ける十柱面の着用中止。『みかぐらうた』から「よろづよ八首」、「三下り目」、「五下り目」を削除した『新修御神楽歌』の刊行、文部省の指示に則った「天理教教典衍義」の発表、『おふでさき』、『おさしづ』の引用自粛と冊子自体の回収。青年会や婦人会、教師会などを統合した天理教一宇会の結成、天理市内の「詰所」の名称使用を中止し「寮」に改め、軍関係の宿泊施設として提供。「革新教理」と称して、軍部の要請に合わせての戦争協力教理を説明する「革新講習会」の定期的な開催。全国各地に「いざ・ひのきしん隊」の結成を奨励(老若男女を問わず各地で炭坑掘りひのきしんが行われた)など、強制、自発問わずあらゆる形で戦争へ突き進む国家への協力が終戦まで続けられた。
1945年(昭和20年)8月に第二次世界大戦が終戦、即日、二代真柱は終戦の詔書に関する『諭達』第15号を発布、同年10月の秋季大祭で「かぐらづとめ」「十二下り」が復元され、終戦によって政府からの干渉から完全に解放され、教祖・中山みきの教えに基づく、本来の天理教の姿に戻る宣言が二代真柱よりなされた(この動きを天理教内では「復元」と呼称している)。昭和45年(1970年)4月には、教派神道から脱退している。現在では特定政党に関与はしていない。
原典
教義の基礎は、『おふでさき』(御筆先)、『みかぐらうた』(神楽歌)、『おさしづ』(御指図)の3種類の啓示書で示されている。天理教では教理と信仰を表明した『天理教教典』の編纂の原(もと)となった書物という意味で「原典」と称している。
○ 『おふでさき』は、「原典(一)」と通称されている。教祖が1869年(明治2年)から82年(同15年)までの13年間を掛けて執筆した、1711首の歌による書物。親神の教えを和歌の形で記してあり、「大和言葉」が特色とされる。教会本部内教義及史料集成室に直筆のものが現存する。教祖の直筆で複写されたもので当時の信者に渡されたものを「外冊」といい、昭和43年に二代真柱が上梓した『外冊「おふでさき」の研究』にて見ることができる。現在刊行されている「おふでさき」の原本は「正冊」と呼ばれ様々な形で目にすることが出来る。「外冊」にて「正冊」に対応しない和歌が11首あり、特別に「号外おふでさき」と呼ばれている。
○ 『みかぐらうた』は「かぐら」と「てをどり」の地歌を合わせた、つとめの地歌の書きもの。「原典(二)」と称される。「陽気ぐらし」を目指す天理教の教えを誰でもわかりやすく記したもので、最初に作られた時期とそれぞれの内容から五つの部分(節)に分けられる。教祖によって1866年(慶應2年)から1882年までの間に断続的に形作られ書かれたものとされるが、未だに原本が見つかっておらず、草創期の迫害干渉の時期に紛失したと考えられている。現存する数種類の筆写本を考証し、教祖から教えられたとするものが確認されている。
○ 『おさしづ』は教祖、または本席と呼ばれ、教祖によって神意の取次ぎを認められていた飯降伊蔵の口を通して、神の指図を側にいた書取人が速記したものを編集して成立した書物(そのため、同音異義語の問題がある)。通称、「原典(三)」。日常生活における現実的な心構えや具体的な解決方法、指導の弁を記したもの。明治20年から同40年に至る20年間の世界と道の事情に対する刻限のお言葉および個人の身上・事情に対する伺いさしづの筆録でもあり、当時筆録されたものが現存する。現在、公刊使用されているものは、教祖80年祭(1966年)の記念出版として、1963年(昭和38年)10月から翌年4月までに公刊されたものであり、「改修版」、その冊数から「7巻本」などと呼ばれている。それまでは、1936年(昭和11年)に教祖50年祭と立教百年祭を記念して刊行された「8冊本」が使用され、それ以前は「33冊本」が使用されていた。
3つの原典を呼ぶ順番は天理教内では『おふでさき』『みかぐらうた』『おさしづ』の順である。原典の内容に優劣があるわけではないが成り立ちから優先順位があり、教祖直筆であることから、天理教内で使われる言葉のつづりは『おふでさき』が最優先である。例としては、天理教の布教活動の事を「にをいがけ」とつづる。『おふでさき』では「にをいがけ」、『みかぐらうた』では「にほいかけ」となっているが、優先順位にもとづき、この様に定まっている。
教祖には神が入り込んでいたと考えられており、また本席・飯降伊蔵は「言上の許し」と言われる神の言葉を取り次ぐ許しが与えられていた。そのため、この3つの原典は全て「神意をあらわしているもの」であり、「人間の考えが混じっていない」、と考えられている点で、天理教内の他の書物とは全く異なるものであると考えられている。
天理教教典
天理教の書物の一つ。天理教教典は、3つの原典を基に教会本部が編述した教義の大綱を示す文書である。一派独立請願運動の中で形成された「旧教典(明治教典)」と、現在は使用されている「教典」の二種類がある。現在の教典は第二次大戦後に二代真柱・正善が唱えた「復元」の際に新しく編纂され、1949年(昭和24年)10月26日に裁定されたもの。3つの原典の中に示された親神の救済意思と、救済実現の筋道を体系的に説明したもので、前篇5章、後篇5章の全10章で構成されている。
泥海古記
天理教の書物「こふき本」に書かれた教説全体を指す言葉で「元初まりの話」を指している。また教祖がくりかえし口授した話を「こふき話」と言い、文として書き表したものを「こふき本」または「こふき話写本」と言い、それに書かれている教説全体を指す言葉として昭和10年代までは広く用いられていた。戦時中の体制に協力した「革新」の際にはその使用と、泥海古記、「元初まりの話」に関する教説配布が禁止された。こふき本は長い間出版されずにいたが戦後に二代真柱の「こふき本の研究」(昭和32年初版、道友社)が刊行されている。
稿本天理教教祖伝
天理教の書物の一つであり、中山みきの伝記。大正期に教祖50年祭を記念して完成した『御教祖伝史実校訂本』が基となっている。教祖70年祭を記念し、二代真柱の指導の下で、編集され改訂されたものが『稿本天理教教祖伝』として1956年(昭和31年)10月26日に教会本部より発刊された。その後、1981年(昭和56年)、1986年(昭和61年)、2016年(平成28年)に三度の改訂が加えられている。  
天理教 2 

 

人類のふるさと
四季の移り変わりとともに、ゆったりとした時間が流れる天理。 この町を訪れる人は、誰もが「おかえりなさい」の言葉で温かく迎えられます。なぜでしょうか。ここ天理は、“親なる神様”によって人間が創造された地点「ぢば」がある、人類のふるさとだからです。
京都・大阪から、いずれも車や電車で約1時間。天理は、ゆるやかな山並みに囲まれた奈良盆地の東にあります。
名所旧跡が連なる日本最古の幹道「山の辺の道」が、奈良盆地の山ぎわを南北に通っています。かつて、古代王権の中心地であったこの一帯は、「まほろば(素晴らしい場所)」とたたえられる豊かで美しい土地です。悠久の歴史が育んできた風景は、懐かしさにも似た親しみを感じさせます。
日本の原風景が広がる大和の地に、天理教が始まったのは江戸時代末期。やがて、この一帯は、人間の“親なる神様”がいます里「親里(おやさと)」と呼び親しまれるようになりました。
天理教信仰の中心地「親里・ぢば」には、日本国内にとどまらず、広く世界各地からも多くの参拝者が訪れます。
親のいます里・天理 人間創造の元なる「ぢば」
教祖・中山みきは、人間をはじめ、この世界を創造された親神「天理王命(てんりおうのみこと)」の啓示(おつげ)を受けて、現在の神殿中央にある「ぢば」という地点を、親神様が人間を創造した元なる場所であると明らかにしました。
天理教信仰の中心である「ぢば」の一帯は、もとは大和の国の庄屋敷村(しょやしきむら)(現在の天理市三島町)という小さな村でしたが、やがて多くの人々が寄り来るようになり、「親里(おやさと)」と呼び親しまれるようになりました。
親里・天理は、子供である人間の“里帰り”をお待ちくださる“親なる神様”がいます、人類のふるさとなのです。
信仰となりたち 幕末の大和 神の啓示を受け
江戸時代末期の天保9年(1838年)、教祖・中山みきが神の啓示(おつげ)を受け、その教えを人々に伝えたのが天理教の始まりです。私たちは、教祖・中山みきのことを「教祖(おやさま)」と呼び慕い、あらゆる人々の救済に、自ら身をもってお働きになった教祖の生き方をお手本としています。こうした人間本来の生き方を伝え広めることによって、すべての人々が心を澄まし、たすけ合って仲良く暮らす「陽気ぐらし」世界の実現を目指しています。
教祖 中山みきの足跡
  心優しく、信心深く
天理教の教祖・中山みきは寛政10年(1798年)、大和国山辺郡三昧田村(やまとのくにやまべごおりさんまいでんむら)(現・天理市三昧田町)の前川(まえがわ)家の長女として生まれました。大庄屋の家柄に育ち、心優しく、信心深い子供だったと伝えられています。
  中山家へ嫁ぐ
13歳のみきは、庄屋敷村(しょやしきむら)(現・天理市三島町)の中山家へ嫁ぎます。嫁として妻として、村役を務める家をきりもりし、慈悲深く善行を施すみきの姿は、近隣の人々から敬愛されたといいます。
  神の啓示で貧に落ちきる道へ
天保9年(1838年)10月26日、41歳のみきは、神の啓示(おつげ)を受けます。みきの体に、世界と人間を創造した神様である親神・天理王命が入(い)り込んだのです。以来、教祖(おやさま)は人々に教えを説き、自ら身をもって人をたすける手本を示します。その手始めとして、近隣の貧しい人々に家財を施し、貧に落ちきる道を歩んでいきました。教祖(おやさま)は嘉永7年(1854年)、妊婦が安心して出産に臨めるよう「をびや許し」を始めました。安産はもとより、産前産後の健康もお守りいただけると近隣の評判を呼びます。これをきっかけに、天理教の教えは日本各地へ伝わっていきました。
  迫害のなか、さらなる救済の道へ
教祖(おやさま)を「生き神様」と慕って、多くの人々が「親里・ぢば」へ帰るようになると、これを快く思わない神社仏閣や官憲などから迫害干渉が加えられるようになります。しかし教祖(おやさま)は、そんな道中もいそいそと通られ、人々の救済に一層力を注ぎました。
  人間本来の生き方を示した50年
教祖(おやさま)が神の啓示(おつげ)を受けてからの道中は、親神様の教えを伝え、寄り来る人々を育てて、ひたすら救済する日々でした。その年月は、50年の長きに及びます。世界中の人々が心を澄まし、仲良くたすけ合う人間本来の生き方の手本を、自ら身をもって示されました。
いまなお慕われる存命の教祖
教祖(おやさま)が90歳を迎えるころ、迫害干渉はさらに激しさを増していきました。そして明治20年(1887年)陰暦1月26日、教祖(おやさま)は親神様の思召(おぼしめし)により、静かに現世での姿を隠します。教えを受けた人々は、教祖の姿を拝せなくなったと嘆き悲しみました。しかし、その魂は存命同様に世界の救済に働いていると知らされ、人々はますます布教伝道に奔走するようになります。こうして、天理教の礎が築かれていったのです。教祖(おやさま)はいまも存命であり、世界中の人々が仲良くたすけ合って暮らす「陽気ぐらし」世界の実現のうえに、昼夜の別なくお働きになっています。
みかぐらうた
天理教で行われている儀式、おつとめの地歌である。
天理教の儀式、おつとめで行われる「かぐら」・「てをどり」の地歌の書き物のことを指し、天理教の原典の一つである。一般には「よろづたすけのつとめ」といわれる地歌のことを指す。
天理教の教祖・中山みきは、慶応2年 (1866年) から、つとめの地歌であるみかぐらづとめを信仰者に教えはじめた。同年の秋には「あしきをはらひ たすけたまへてんりわうのみこと」の第一節を、「ちよいとはなし」の第二節を明治3年 (1870年) に、「あしきはらひ たすけたまへ いちれつすますかんろだい」の第三節は明治8年 (1875年)、「よろづよ八首」を明治3年に、「十二下り」は慶応3年 (1867年) の正月から8月にかけて教えて成立をみている。
教義原典としては、広い意味では「おふでさき」であると考えられているが、みかぐらうたも教祖の筆で書かれたものであり、つとめの地歌として重要な要素を持っているとされる。「つとめ」では鳴物の音律にあわして一定の手振りや足の動きなどで「おてふり」を行い、この地歌を歌うことには基本的な信仰の心得が集約的にうたいこまれていると教えられている。みかぐらうたは覚えやすい仮名遣いで親しみやすく、陽気な雰囲気で歌うことができ、なおかつそこから教理を学べるとされる。特に有名なのは「これは理の歌や。理に合わせて踊るのやで。ただ踊るのではない。理を振るのや。」と諭している。みかぐらうたは信仰者にとってもっとも身近な教理である。  
天理教 3 

 

創立 / 天保9年(1838年)10月
創始者 / 中山みき(教祖)
現継承者 / 4代真柱・中山善司
信仰の対象 / 親神天理王命、ぢば(親神が人間を創造した場所)、教祖(おやさま)・中山みき
教典 / 『おふでさき』『みかぐらうた』『おさしづ』
沿革
中山みきによって幕末に創立された、新興宗教の草分け的な教団です。
神がかり新興宗教の草分け
寛政10年(1798年)、現在の奈良県天理市に生まれた中山みきは、13歳で同市内の中山家に嫁ぎました。しかし中山家は裕福な家柄でしたが、夫・善兵衛はとても身持ちが悪く、夫婦仲も悪くなり、家運も落ちていきました。
みきが41歳の時、みき夫婦と長男の病気平癒(へいゆ)の祈祷を修験者(しゅげんじゃ)に依頼しましたが、祈祷の加持台(かじだい=神が降りる中継人)の代理になったみきが神がかりとなり、「この世のすべての人を救うため、神の住む社(やしろ)としてみきを差し出せ」「不承知ならこの家を元もこもないようにしてしまうぞ」と夫・善兵衛を脅しました。
結局これに善兵衛が応じ、みきを社として差し出しました。こうしてみきが「神のやしろ」と定まった天保9年(1838年)10月26日を、天理教では立教の日としています。
陽気暮らし
みきの神がかり以後、中山家は没落しはじめ、その日の食べ物もない状態になりました。これは、みきが神からの「貧に落ちきれ」という命令に従い、全財産を貧しい人に施したことによります。教団では、みきの行動は「どんな境遇でも心の持ち方一つで<陽気暮らし>ができるという手本である」としています。
嘉永7年(1854年)、みきの祈祷(をびや許し)によって三女が無事に出産したことが評判となり、近隣の妊婦にも祈祷をして「をびや神様」と呼ばれるようになり、この「をびや許し」と病気治しで、次第に信者が増えていきました。
そして、みきは慶応2年(1866年)から『みかぐらうた』を作って「つとめ」の形式を定め、明治2年(1869年)から『おふでさき』の執筆を開始して、教義の体系化を進めるようになりました。
その後の展開
明治13年、天理教は、明治政府の取り締まりを逃れるため、仏教宗派を偽装して転輪王講社を設立し布教しようとしましたが、計画は失敗し、みき他関係者は官憲に摘発されました。その後、明治19年までの間に、みきの逮捕・拘留は10数回におよびました。
そうして大阪府から教会設立許可が下りないまま、みきが明治20年に死去。中山眞之亮(しんのすけ)が初代の教団代表者「真柱(しんばしら)」に就任しましたが、実質的な教団の中心者は本席(みきの死後の神意の取り次ぎ者)・飯降伊蔵でした。
教団は明治21年に「神道天理教会」の設置許可を得ましたが、明治41年(飯降伊蔵死去の翌年)に「天理教」として独立しました。
その後、2代真柱・中山正善(しょうぜん)は昭和24年に『天理教教典』などを刊行して今日の教団の教義の基礎をつくり、3代真柱・中山善衛(ぜんえ)を経て、現在は善衛の長男の善司(ぜんじ)が4代真柱となっています。
教団ではみきを「教祖(おやさま)」と称し、それ以後の代表者は「真柱」と呼び、今日まで中山家の直系の男子によって教団が継承されています。
教義の概要
信仰の対象と教典
教団では信仰の対象を「目標(めど)」と称し、
(1)「ぢば」・・・親神が人間創造の際に最初に人間を宿した場所。現教団本部の神殿中央には、このぢばの目印として「かんろだい」が置かれている。
(2)「親神天理王命(おやがみてんりおうのみこと)」・・・人間をはじめ、世界を創造した根元の神。教祖みきの体を借りてこの世に現れ、世界中の人々を一切の苦から解放して、喜びずくめの生活(陽気暮らし)へと導き、すべての人々を守護する。
(3)教祖・中山みき・・・死後もその命を「ぢば」にとどめて永遠に存在していて、親神による人類救済はこのぢばを中心に行われているとする。
の3つを挙げています。なお、教会では天理王命の象徴として神鏡(しんきょう)を、教祖の象徴として御幣(ごへい)を祀(まつ)っています。また信者の家では「神実(かんざね)」という小さな神鏡を祀ります。
また教典としては、
(1)『おふでさき』・・・みきが親神の教えを歌形式で記したもの。
(2)『みかぐらうた』・・・みきが作った数え歌。人間が陽気暮らしを実現するための方法を示しているとする。
(3)『おさしづ』・・・教祖みきや本席・飯降伊蔵が親神の言葉として述べた内容を筆記したもの(ほとんどは伊蔵によるもの)。
の3つがあり、これら3原典に基づいて昭和24年に編集されたものが「天理教教典」です。
「つとめ」と「さづけ」
教団では、親神は人間を助ける方法として「つとめ」や「さづけ」を示し、陽気暮らしの世界をこの地上に実現するとしています。
(1)「つとめ」・・・「本づとめ」と「朝夕のつとめ」の2種。教団では、「本づとめ」によって心が澄みきり、親神と人間がともに陽気がみなぎり、全世界を陽気暮らしに立て替えていくと主張する。
(2)「さづけ」・・・病気治しの手段。決まった手振りをしながら「あしきを払うて助けたまえ」等と3回唱えて3回なで、これを3回繰り返す。
八つの埃(ほこり)
天理教では「心と肉体は別のもの」とし、肉体は親神からの借り物で、心だけが自分独自のものであるとしています。
人間は意識しないうちに、心に「をしい(惜)」「ほしい(欲)」「にくい(憎)」「かわい(可愛い)」「うらみ(怨)」「はらだち(怒)」「よく(貧)」「こうまん(慢)」の八つの埃(ほこり)を積んでおり、天理王命に祈ることによって、ホウキで塵(ちり)を払うごとく陽気暮らしに導かれるとしています。
貧に落ちきれ
教祖みきは、神からの「貧に落ちきれ」という命令に従って全財産を貧しい人に施(ほどこ)したといいます。そこで教団では、「教祖の行動は、どのような境遇でも心の持ち方一つで<陽気暮らし>ができるという手本(ひながた)である」と信者に教えます。
信者は欲の心を離れて、欲を起こす原因となる金銭を親神にお供え(おつくし)し、自分のために働く日常生活を離れて教会に行き(はこび)、人のために奉仕する(ひのきしん)ことを実践の徳目としています。 
天理教 4 「みかぐらうた」の成立 

 

要旨
日本の幕末期は、民衆の政治・経済への不安等が社会情勢の変化に同調するかのように、種々様々なかたちで現出した。そうした中、人々の信仰の主流で、あった仏教や神道に対して、民衆の悩みに直接関わってきたそれまでの民間信仰とは異なる民衆救済を説く人々が現れる。民衆宗教の誕生である。
1838 年に立教した天理教は、教祖中山みきの言動がj:~き物扱いされる一方、お産や病たすけの生き神様として流行神的に理解されてもいた。しかし、1864年につとめ場所ができ、1866年、世界たすけの「つとめJの実行が強く促され、その地歌であるみかぐらうたによる教理の明文化後、信者が急増すると共に激しい外部干渉が起きる。これは結果的に信者に信仰的な自信と自覚を喚起し、社会的に天理教公認と教団成立を促した。
ここでは、天理教の発展を当時の思想潮流を鑑み、聖典みかぐらうたを中心に考察する。
はじめに
本稿は2005年3月下旬に行われたIAHRの第四回大会(東京)における、 The Development ofFolkloric Beliefs in Sh泊toand Buddhismと題したパネル発表のひとつである。当初、「みかぐらうた」が音楽聖典であることの意味と、その表現形式があまりにも日本的といえる和歌体でありながらも、普遍性をもった聖典として日本人以外の人々にも受容されていることの意義について述べてみたいと考えていた。しかし、他の発表者との話し合いの中から、 日本の宗教伝統における天理教の成立の意味を考えてみることになった。すると、「みかぐらうた」は信者にとっては、信仰そのものを表現し実践するのにもっとも重要な聖典であること、また、「みかぐらうた」を唱え、踊り、奏でることは、信者にとっては直接「救しリへとつながっていくこと、また、天理教とし、う宗教集団の成立を「みかぐらうた」とそのっとめの完成がいわば促すものであったことなどが整理されてきた。したがって、本稿は「みかぐらうた」の持つ「音楽」という側面を直接には扱っていないが、その特徴を考察するための一側面であり、同時にそれは人々がどのように教えを受容していったかを考えるための端緒であることをご理解頂きたいと思う。
“日本文化"と日本人の信何
日本列島の歴史と文化は、内なる文化に外なる文化をたくみに結合し、変容して、日本に固有で、独自な文化を形成し「日本らしさ」とした。それは、日本の宗教構造では、仏教の土着化の過程に現れ、また、 日本人の基層信仰とされる神祇信仰と普遍宗教である仏教との習合として現れている。その結果、神棚と仏壇が平和的に共存してまつられることになった。日本人の多くはどこかの神社の氏子であり、どちらかの寺院の檀家である。なかにはさらに別の宗教の信者・信徒となっている人さえいる。一人一宗ではなくて、一人多宗であるといってよい。もっとも神仏対抗の動きもあったが、日本ではひとつの宗教が他の宗教と習合するシンクレテイズム(重層信仰)が、 日本の宗教史の基本的な流れであった。日本の場合は各地で横に別々に発達した信仰が融合したシンクレテイズムに加えて、そこには次々に縦型に、また、入れ子型に重なっていった重層的信仰が入り込んで、、アワセとカサネの両方がおこったといえる。そして、このアワセとカサネのうえに、全体を調整するソロエがおこった。このソロエは為政者に必要なことで、社寺に等級をつけ、順番をつけた。
こうして神道や仏教は、日本人の信仰を重層的に形成するいわば「大伝統」となった。一方で、個々の現実の悩みや苦しみに現世利益をもたらす「小さな神々」が同時に存在していた。「流行神」(はやりがみ)とも呼ばれた。人々の信仰の主流であった仏教や神道に対して、民衆の悩みに直接関わってきた民間信仰である。日本の幕末期は、 19世紀初頭からの対外的・対内的危機が進展し、民衆の政治的・経済的などの社会不安が、種々様々なかたちで現出し、 日本の社会や人々の意識が大きく変化する歴史的うねりを迎えていた時期ともいえる。そうした中、幕末期に創唱宗教と名付けられた信仰の多くは、「生き神信仰」に特徴付けられ、民衆の自己確立、自己解放を内包した民衆宗教である。一方、幕末期は、為政者側に「現人神」という思想を創出させ、これは後に民衆宗教を抑圧するという政治的な道具立てになる。
信何伝統の中の天理教
天理教は、現在の奈良県天理市に発祥し、本部が置かれている。ここは「山辺の道」として知られる日本最古の道のちょうど真ん中あたりで、 日本武尊(やまとたけるのみこと)が、「大和は国のまほろばたたなづく青垣山ごもれる大和うるわし」と、国偲び歌を詠んだ地域である。また、山辺の道は『万葉集』の舞台ともなっていて、「素朴で率直で人としてのまことを形象している」(米田勝『心の原風景万葉を行く』奈良新聞社、 2002 年、はじめに)土地と評価されている。
風土がそこに住む人々の思考や生み出した文化・宗教・価値観などに多大な影響を及ぼしているとは、多くの研究者によって指摘されてきた。山折哲雄は日本人の意識のなかには、 3000 メートル上空から眺めおろされた日本の風土、その日本の風土がはぐくんだ感性・文化に、その後の農業革命に伴って生じた稲作農耕社会の観念や世界観、宇宙観が重なり、さらにその上に明治以降の近代化革命によって生じた近代文明の観念や物の考え方が重なった、 3つの大いなる文化の層が重層的に畳み込まれていると指摘し(山折哲雄『日本の心、 日本人の心』) 、その上で、『万葉集』を「われわれの精神の核」とする。そして、 I多神教という宗教や多神教的な宗教感情」の根底にあるものこそ「天然の無常観」にほかならないといい、これこそが、 日本人の心の通奏底音だという(前掲書) 。これを大村英昭は、めぐまれた自然環境にはぐくまれた私たちの集合心性(大村昭英『日本人の心の習慣鎮めの文化論』)と表現する。
さて、山折は、寺田寅彦の指摘する日本人にとっての自然観について次のように紹介している。
「日本人にとっての自然は、一方では、ひとたび荒れ狂うと手がつけられないほどに凶暴な「厳父」のような存在だが、しかし一方で、は、われわれを豊かに包み込む「慈母」のような存在である。日本の文芸・学術・詩歌・美術の豊かな開花は、この慈母の如き自然との共存関係のなかで可能となった。慈母のごとき自然に接すると、我々自身がその自然の中に包摂される。慈母の如き自然にふれるとき、われわれは森の中に神の声を聞くようになる、山の中に人の声を聞くようになる。 」
そして、こうした意識こそ、最も普遍的な宗教意識ではないかという。
このような背景のなかで、 Iやまと」に生まれた天理教が、日本の伝統という文脈のなかで分析され、しばしば神道との関連において解説されるが、これは、天理教が生まれた「やまと」としづ風土や日本人の心性に呼応する和歌体で「おふでさき」や「みかぐらうた」が書かれているので万葉集と浄土和讃、ご詠歌の流れに位置づけ、 Iみかぐらうた」というその名称から神楽と神楽歌の伝統との関連でこれを理解しようとするものであろう。しかし、以上のことを踏まえたながらも、信者の信仰生活における「みかぐらうた」そのものを考えてみる時、 Iみかぐらうた」を習熟し、つとめを勤めることは信者の信仰生活に不可欠で、あり、それは教えの究極的な目標である「陽気ぐらし」世界実現に向かうもので、それゆえ、伝道における「みかぐらうた」の重要性はたすけ(救済)と直結していると考えられる。
天理教の成立と「みかぐらうた」
天保9年(1838)に立教した天理教は、教祖中山みきの言動が遍き物扱いされる一方、お産や病たすけの生き神様として流行神的に理解されてもいた。しかし、 1864年につとめ場所ができ、 1866年、世界たすけの「つとめ」の実行が強く促され、その地歌である「みかぐらうた」による教理の明文化後、信者が急増すると共に激しい外部干渉が起きる。これは結果的に信者に信仰的な自信と自覚を喚起し、社会的には天理教公認と教団成立を促した。天理教の発展を「みかぐらうた」を中心に考察すれば、そこに現出された「この地上での喜びの世界」が指摘される。
前述から理解されるように、 「みかぐらうた」は天理教の信仰者にとっては最も身近にある原典である。朝夕のおっとめに唱えられ、 うたに合わせて手がふられる。この毎日のおっとめでは拍子木・太鼓・すりがね・ちゃんぽんという鳴物に合わせて、 「みかぐらうた」の冒頭の3節が歌われ、月々の月次祭では、人間の9つの道具を象徴する9つの鳴物すべてがはいる。陽気づとめ、たすけづとめとも呼ばれ、教えの実践あるいは修養という点でもっとも重要な役割を担っている。
天保9年(1938)、中山みきが41歳で「神のやしろ」となり、天理教は立教する。この教祖の立場は、 「おふでさき」では以下のように、位置づけられている。
   ■いまなるの月日のをもう事なるわ
    くちわにんけん心月日や
    しかときけくちハ月日がみなかりて
    心ハ月日みなかしている   (おふでさき)
しかし、私財を投入した貧者への施しゃ神がかる教祖の姿は、狐つきなど想き物の扱いを受け、お産の神(女性救済)、癌癒の神(子どもの救済)、病たすけの神(病人救済)の評判が高くなり、どんなこともたすけてくれる「生き神」として知られるようになっても、当時の人々は流行神としてしか見ていなかった。元治元年(1864) につとめ場所ができた頃から後に信仰の中心となる人々の入信が相次ぐようになった。
教祖は世界たすけのっとめの実行を促し、その地歌である「みかぐらうた」を教えた。そこに表れる夫婦を核とし互いに助け合う世界観や鳴物・手振りの陽気さは、神と人との関係を親子とする神観や死を出直しと説く死生観と共に、天理教の独自性を表象し、天理教を天理教と位置づけていく。教理が明文化され、信者一人ひとりは教えられた新たな世界観や人間観を繰り返し確認でき、みずからの生き方を問い、反省することができるようになったのである。それは教えの実践であると同時に自己改革や自己解放を促すことになった。こうして、信者が急増した。信者はつとめの勤修に励むが、それこそが、外苦悶ミらの干渉の的となる一方、個々の信者に自らの信仰の自覚を促していった。結果的に天理教は信仰の公認獲得をめざし、教団へと組織化されていくことになったのである。
つとめと「みかぐらうた」
つとめは親神が人間を救済する手段であり、人間の側からすれば、親神の守護を受けるための祈念である。「つとめ」には天理教の信仰が凝縮されていると言える。口に「みかぐらうた」を唱え、さらに、その意味を手振りに表して、しかも皆が一手一つに陽気に勤める。教祖は「これは、理の歌や。理に合わせて踊るのやで。たゾ踊るののではない、理を振るのや。」また、 「つとめに、手がぐにや-----するのは、心がぐにやf 三して居るからや。一つ手の振り方間違ても、宜敷ない。このっとめで命の切換するのや。大切なつとめやで。」 と諭されている。
教祖は、慶応2年(1866)から、 「かぐら」と「ておどり」の「つとめの地歌」である「みかぐらうた」を教えはじめられた。「みかぐらうた」は教祖の直筆である。「つとめ」は、その完成(実現)がなによりも急がれた「たすけ一条」の道であるとされる。教祖は、 「この歌は、なんぼわしはよう字を知らんなどというても、 3人よるときっと読みが下る。分からんと思うていても、ひとりで、に分かつてくる。みながいつのまにやら調子づくのや」といわれる。「みかぐらうた」は本来、おっとめをつとめるなかから、歌う者も聞く者も、教理を、 しみじみと心に味わいつつ、身につけることができる唱え歌である。また、 「みかぐらうた」の言葉は、教祖が熟知し、使用していた言語で書かれているので、いわゆる「大和言葉」の特色がある。こうしたことは、 「みかぐらうた」が書かれた聖典であるだけでなく、パローノレ性に富んで、いることを示してもいる。また、和歌体であることから、詩的文体として暗示性・多義性・象徴性に富んでいることのほかに、特に「親(神)から子(人間)への言葉」として、神が人間に語りかける話を書物として残されたという特徴を持つ。
ところで、 「みかぐらうた」は、その漢字表記(御神楽歌)などから神道的な雰囲気を漂わせる。また、 「人から人へ、心から心へ向けての問いかけの様式としての短歌があり、五・七・玉・七・七という律の約束が、微妙に感情の波を表現する役割をはたしていた。このリズムに乗ったことばだけが、心の真実をかがやかすものであった。」といわれる和歌体表現は、 日本人の伝統的なリズム、耳に入りやすいリズムであり、和讃や俳句を継承しているともいえる。それは、ひらがな表記、唱え歌、数え歌とし、う表現上の特徴とともに、人々に受容されやすかったということだろう。しかしながら、 「つとめの地歌」であり、それを「唱え、踊る」ことによって、 「つとめ」を実践するという特徴は、おうたの内容(教え)を信者一人ひとりが受肉化することを意味し、自他の救済に直結し、「陽気ぐらし」としづ天理教の目指す世界の実現につながる。そして、信者は「みかぐらうた」に歌われている「喜び」「積極的な生き方」を発見し、体感し、体現していくことが期待されるのである。「みかぐらうた」の世界は、たとえば、次のようにうたわれる。
   ちょとはなしかみのいふこときいてくれ
    あしきのことはいはんで、な
    このよのぢいとてんとをかたどりて
    ふうふをこしらへきたるでな
    これハこのよのはじめだし   (みかぐらうた)
   かみがで与なにかいさいをとくならパ
    せかいーれついさむなり
    一れつにはやくたすけをいそぐから
    せかいのこ〉ろもいさめかけ   (みかぐらうた)
   とん------とんと正月をどりはじめハやれおもしろい
    二ツふしぎなふしんか〉れパゃれにぎはしゃ
    三ツみにつく
    四ツよなほり   (みかぐらうた)
ここに個人救済を実現しつつ民族を超える普遍宗教・伝道宗教の特徴が現れてくる。多くの人々は個々人の直接的な悩みの解決(現世利益)を契機として入信するが、信仰が進むと「みかぐらうた」(つとめ)の勤修によって、自己内省し、 「命の切換」をする。それは「生きながらにして生まれ変わる」という体験であり、換言すれば、 「自己解放」である。これは、当時の既成宗教や慣習、官憲からの干渉のもとになったが、それに対する教祖の厳然とした態度に支えられ、結果的に教えが広がった重要な素因のひとつとなったと考えられる。
おわりに
中島秀夫は、 「つとめを修するということは、親神の守護の世界にみずからの存在をあげて参入することであるし、また角度をかえて言うなら、自己存在の確認を、親神の守護に対する確信の中で得ていくことでもあるo ・・神の存在は無限定であり、親神はどこにでも存在し給う。しかし、ここで、あえて言えば、つとめこそ親神と人間とが、 じかに対面できる時間であり空間なのである0 ・・・つとめは最もすぐれた意味において、親神と人間との対話、呼応の場であると考えることができる。」 「体験をとおして『おつとめ』を考える」という。
また、高野友治は、初代の頃、 i天理教はおっとめで伸びた」といい、たとえば、大阪本田の真明組(井筒梅治郎)は「お手の講」(明治十年代)と呼ばれ、 i病人がいると聞くと、信者たちが、つとめの道具(鉦や太鼓など)をもって病人の家へゆき、みかぐらうたをうたい、てをどりを踊り、神に祈って、不思議なたすけをいただいていた」というような話をいくつも伝えている。
こうして、ひらがな表記(やまとことば)、和歌体、数え歌としづ特徴的な表記は、人々の受容を容易にしただ吋でなく、唱え、踊り、楽器(鳴物)を奏でることによって陽気ぐらし実現(救済)をめざす「みかぐらうた」が、信仰実践と直接かかわりをもつことは重要である。なぜならそれは,ここで教えられる天理教の信仰世界を自分の生活に日々映すという側面をもつだ、けで、なく,つとめが直接・間接に他の人々のたすけへと向かつてはたらく祈りにほかならなし、からである。 
天理教 5 みかぐらうた (御神楽歌十二下り) 

 

ここに、「御神楽歌」全文(但し、翻訳文)を誌すと次のようになる。史上最高の傑作中の傑作との評価に値すると拝察させていただく。要旨は、人生のよろず悩みの解決の道筋と、「お道」の形成の方向と、その際の道人の心構えを実にやさしく且つ内容豊かに歌い上げており、人々がこの教えに一筋にもたれて通るなら、豊かな実りが約束され、難渋を救い、遂には謀反と病の根を切り、国々所々の治まる平和な世の中になることを詠っている。まさに教祖流の「世直し」であり、「人々の心の入れ替え、胸の掃除を通じての『世の立て替え』(社会の再創造)」に特徴が見られる。但し、今日定式されているこの形式が教祖の教えたそれであったかどうかとは別である。
   ■神楽づとめの地歌
「座りつとめ」で表現される際の御歌である。
第1節、悪しき払いのつとめ
「悪しきを払うて助けたまへ てんりん王のみこと」
第2節、天地の理の諭しのつとめ
「ちょとはなし 神の云うこと聞いてくれ 悪しきのことは云わんでな この世の地と天とをかたどりて 夫婦をこしらえきたるでな これハこの世の始めだし、ようしようし」
第3節、たすけせきこみのつとめ
「悪しきを払うて助けせきこむ 一列澄まして甘露台」
   神楽づとめの手踊り、総歌「よろづよ八首」
「立ち手踊り」で表現される際の御歌である。「十二下り」を章歌とすれば、総歌的位置を占める。
第4節、よろづよ八首
「よろづ世の世界一列見はらせど 胸のわかりたものはない
その筈や説いて聞かしたことハない 知らぬが無理でハないわいな
このたびは神が表へ現われて 何か委細(一切)を説ききかす
この所大和の地場の神がた(館)と いうていれども元知らぬ
このもとを詳しく聞いたことならバ いかなものでも恋しなる
聞きたくバ訪ねくるなら云うて聞かす よろづ委細(一切)の元なるを
神が出て何か委細(一切)を説くならバ 世界一列勇むなり
一列に早く助けを急ぐから 世界の心も勇さめかけ」
   (解説) これを解説すれば、次のように云われていることになる。世間を見晴らせど、本当の真実を分かった者はいない。それも道理で、神はこれまで真実を明かされなかった。このたび神が現れ、この世の仕組み、人の在り方の元真実、本真実について教えることになった。神が現れたここ大和の地場は神の館である。神の話を聞きたければ訪ね来るが良い。一から十まで何なりとたっぷりと十分に聞かせよう。この話は聞けば聞くほどもっと聞きたくなり、勇むことになる。神は、世直し、世界の立て替えを願うから、世界の人々を勇まそうと思う。
   神楽づとめの手踊り、章歌「十二下り」
「立ち手踊り」で表現される際の御歌である。1年12ヶ月の暦になぞらえて、道人の成人の歩みを御歌で表現している。その思想の深さは驚きであり、普遍的ともいえるあらゆる組織原理ひいては社会原理の方程式を伝えているやに見える。れんだいこの思案はまだこれを読み解くのに覚束ない。(後半の推敲がまだできていない)
第5節、「十二下り」
一下り目から六下り目までの前半部は、主として個人としての信仰の立脚を歌う。七下り目から十二下り目までの後半部は、主として陽気暮らし世界創出に向けての道筋や道人の布教に於ける諭しとなっている。
一下り
一ツ 正月こゑ(肥え)の授けは やれ珍しい
二ニ にっこり授けもろたら やれ頼もしや
三ニ 散財心を定め
四ツ よのなか(世の中又は大和方言で「豊に」)
五ツ 理を吹く
六ツ 無性にでけまわす
七ツ 何かつくりとるなら
八ツ 大和は豊年や
九ツ ここまでついてこい
十ド 取りめが定まりた
   (教理) 「1・お道信徒の最初の歩み・入信祝い」をお歌で表現している。正月から説き始め、お道の信仰が「授け」を受けることから始まることを示唆している。「物の豊かさのご守護」を歌っている。お道では、授けを受けた者を「用木(ようぼく)」と云うが、用木は第一に「散財心を定める」よう諭している。「散財心」とは、世間常識的な物欲から離れた財の活用を云うものと思われる。従って、「散財心を定める」とは、物心崇拝的蓄財の執着心を捨て、我が身も財貨も「世の為人の為」に使い散じる気持ちになるというこを意味し、これが肝要と諭されていることになる。今風に言えば、ボランティア精神、縁の下の力持ち、革命精神の称揚という意味合いである。この心さえ身に付ければ、そこから筋道が拓けて無限に広がり、何をしても良い結果に繋がる。この道筋に世の「真の豊かさ」が始まると説く。この道に向かうのがお道信仰であるということになる。まさに字義通りの「有り難い教え」のように思われる。が、少し思案すると、我が身に直接的な福運を呼び込む為の信仰とは対蹠的であるように思われ興味深い。(解説) 一下り目と二下り目が手毬(まり)歌となっている。毬つき歌というよりはむしろお手玉歌の節回しのように思われる。この時代においては非常に盛んであった。
二下り
一ツ とんとんとんと正月踊りはじめは やれ面白い
二ツ 不思議な普請かかれば やれにぎわしや
三ツ 身につく
四ツ 世直り
五ツ いづれもつきくるならば
六ツ 謀反の根えを切らふ 
七ツ 難渋をすくひあぐれば
八ツ 病の根をきらふ
九ツ 心を定めゐやうなら
十デ ところのをさまりや
   (教理) 「2・お道信徒の次の歩み・身上事情のご守護と心定め」がお歌で表現されている。「授け」を受けたら次に「踊り」に取り掛かるよう示唆している。その際「面白い」のが肝要とも示唆している。その「踊り」と平行して「不思議な普請」に取り掛かるよう促している。その際「賑わしい」のが肝要とも示唆している。この二つの意味から、「踊りと普請」こそ道人の肝要な勤めであることが分かる。この二つが身につけば、「世直し」の始まりである。これに精進すれば、無用な争いや謀反が立ち消えることになる。困っている人の身上事情たすけに向かえば、助ける側の者の病も治る。この理を深く悟り、この道に向かう「心定め」するのが道人(みちびと)足る所以の要諦であり、「真の治まりの道」と諭されている。ここで気づくことは、お道の信仰が、単に頭脳内への教義の読誦ではなく、それをより身体的な踊りで確認しつつ、更に協働的な普請へと押し広げられていることである。非常に行動的といおうか立体的な信仰であることが分かり興味深い。
三下り
一ツ ひのもとしょやしきの 勤めの場所は世のもとや
二ツ 不思議な勤め場所は 誰に頼みはかけねども
三ツ 皆世界がよりあうて でけたちきたるがこれ不思議
四ツ ようようここまでついてきた 実の助けはこれからや
五ツ いつも笑われそしられて 珍し助けをするほどに
六ツ 無理な願ひはしてくれな 一筋心になりてこい
七ツ 何でもこれから一筋に 神にもたれて行きまする
八ツ 病むほどつらいことはない わしもこれからひのきしん
九ツ ここまで信心したけれど 元の神とは知らなんだ
十ド このたびあらはれた 実の神には相違ない
   (教理) 「3・お道信徒の次の歩み・教理とつとめとひのきしん」がお歌で表現されている。お道信仰の目標(めどう)は「つとめ」と「つとめの持続」であることが示唆されている。ここまで信仰が進むことにより「本当の助け」の展望が拓ける。世間から嘲笑され謗られようとも、しっかり神にもたれて、無理な願いをせずに利害得失から離れた「一筋心」で信仰しなさい。そうすれば、不思議なことや珍しい助けが起ると示唆している。「病むほど辛いことは無い」。気弱にならずむしろ「ひのきしん」に向かいなさい。「ひのきしん」とは、日々の寄進の意であり、それは普請労働であり多寡では無い真心込めた金銭ないし物資の寄進のことを云う。お道が根本に据えている神は元の神で、実の神である。この神の思いを聞き分けすれば、効能がもたらされる、と諭されている。
四下り
一ツ 人が何事云おうとも 神が見ている気をしずめ
二ツ 二人の心をさめいよ 何かのことをもあらはれる
三ツ 皆見てゐよそばなもの 神のすること為すことを
四ツ 夜昼どんちゃん勤めする そばもやかましうたてかろ
五ツ いつも助けがせくからに 早く陽気になりてこい
六ツ むらかたはやくに助けたい なれど心がわからいで
七ツ なにかよろづの助けあい 胸のうちより思案せよ
八ツ 病のすっきり根は抜ける 心はだんだん勇みくる
九ツ ここはこのよの極楽や わしも早々(はやばや)参りたい
十ド このたび胸のうち すみきりましたがありがたい
   (教理) 「4・お道信徒の次の歩み・心の澄ましと練りあいに向うべき信仰のあり方」がお歌で表現されている。お道信仰に必須なものは「心を治めること」、「陽気になること」であることが示唆されている。お道信仰の道中で世間から謗られることもあろうが、夫婦が心を合わせて陽気にしっかりつとめなさい、お道のつとめは賑やかなので周囲の者に迷惑かけようが、助けの通り道であるから心配するに及ばない。お道信仰を非難する者も含めて「なにかよろづの助けあい 胸のうちより思案せよ」。人と人とは「助け合い」に向かうべきである。ここのところが深く思案でき得心がいくに応じて、病が快方に向かい次第に元気が出てくる。お道信仰は、「この世の極楽や」。みんなこの極楽目指してやってくれば良い。このたびこういうことが分かり、心の中がすっきり澄み渡ったのがありがたい、と諭されている。
五下り
一ツ ひろい世界のうちなれば 助けるところがままあろう
二ツ 不思議な助けはこのところ おびやはうその許しだす
三ツ 水と神とは同じこと 心の汚れを洗ひきる
四ツ 欲のないものなけれども 神の前には欲はない
五ツ いつまで信心したとても 陽気づくめであるほどに
六ツ むごい心をうちわすれ やさしき心になりてこい
七ツ なんでも難儀はささぬぞへ 助け一条のこのところ
八ツ 大和ばかりやないほどに 国々までへも助けゆく
九ツ ここはこのよのもとの地場 珍しところがあらはれた
十ド どうでも信心するならば 講を結ぼやないかいな
   (教理) 「5・お道信徒の次の歩み・じばの理、匂い掛けと講の結成」がお歌で表現されている。お道の教えを広めるべく「匂いがけ」に向かいなさい。この道は「安産とほうそ」助けから始まった。心の汚れを洗い、欲から離れて、陽気な心になり、優しい心になるように。「助け一条」になるなら難儀はささない。信仰が深くなれば、国々所々世界中へ助けに行きなさい。更に、お道信仰を強めるために「講を結ぼやないかいな」と講の結成を諭されている。
六下り
一ツ 人の心と云ふものは 疑い深いものなるぞ
二ツ 不思議な助けをするからに いかなることも見定める
三ツ 皆世界の胸のうち 鏡の如くに映るなり
四ツ ようこそ勤めについてきた これが助けのもとだてや
五ツ いつも神楽や手踊りや 末では珍し助けする
六ツ むしやうやたらに願いでる 受け取る筋も千筋や
七ツ なんぼ信心したとても 心得違いはならんぞへ 
八ツ やっぱり信心せにゃならん 心得違いはで直しや
九ツ ここまで信心してからは ひとつの講をも見にゃならぬ
十ド このたび見えました 扇の伺いこれ不思議
   (教理) 「6・お道信徒の次の歩み・正しい信心と講の結成」がお歌で表現されている。神楽、手踊りが大事。「これが助けのもとだてや」。つとめを続けているうちにきっと珍しい助けが為される。但し、お道の教理に添ったものでないといけない。いくら信仰しても「心得違い」は最初からやり直しせねばならない。信仰がかなり深くなると道人たちで信心の発展系としての講を結成せねばならない。いくつもの講を早く見たい。「扇の伺い」はこれは不思議である、と諭されている。
七下り
一ツ 一言話しはひのきしん 匂いばかりを掛けておく
二ツ 深い心があるなれば 誰も止めるでないほどに
三ツ 皆世界の心には 田地のいらぬ者はない
四ツ 良き地があらば一列に 誰も欲しいであろうがな
五ツ いづれの方も同じ事 わしもあの地を求めたい
六ツ 無理にどうせと云わんでな そこは銘々の胸次第
七ツ なんでも田地が欲しいから 与えは何ほどいるとても
八ツ 屋敷は神の田地やで 蒔いたる種は皆はえる
九ツ ここはこの世の田地なら わしもしっかり種をまこ
十ド このたび一列に種を蒔いたるその方は 肥を置かずに作り取り
   (教理) 「7・お道信徒の次の歩み・真の種まき、匂い掛け、ひのきしん」がお歌で表現されている。とりあえず声を掛け、僅かでも話を取り次ぐ「匂い掛けひのきしん」が肝心だ。しっかり思案したものがあるならば、誰も邪魔できるものではない。世界中の人は皆田地を欲しがっている。同じ田地なら良いほうが良かろう。例えて云えば、お道はそういう最良の田地なのだ。無理に誘うのでは無く、このことを理解して貰いなさい。「屋敷は神の田地やで 蒔いたる種は皆はえる」。この神の田地に種を蒔け。自らが手本となって種を蒔きなさい。その先は実り豊かである、と田地に例えて諭されている。これを福田思想とも云う。
八下り
一ツ 広い世界や国中に 石も立ち木もないかいな
二ツ 不思議な普請をするなれど 誰に頼みはかけんでな
三ツ 皆段々と世界から 寄り来た事なら出けて来る
四ツ 欲の心を打ち忘れ とくと心を定めかけ
五ツ いつまで見合わせ至るとも うちからするのやない程に
六ツ 無性やたらに急き込むな 胸の内より思案せよ
七ツ 何か心が澄んだなら 早く普請に取り掛かれ
八ツ 山の中へと入り込んで 石も立ち木も見ておいた
九ツ この木切ろうかあの石と 思えど神の胸次第
十ド このたび一列に 澄み切りましたが胸の内
   (教理) 「8・お道信徒の次の歩み・本普請に取り掛かれ」がお歌で表現されている。「適材適所の世界作り」、「真の治まり難渋助け、適材適所の世を創る」ことの大事さが諭されている。世間から人材を探し出そう。お願いするのや無い、同心の同志を求めるのや。世界中の各地から次第に同志が結集するに応じて何事も出来る。欲の心を抑え捨て去り、世界たすけの精神を修めるのが肝心や。次に自主性が肝心や。得心したら世界たすけに乗り出そう。急ぐばかりではいけない。思案を練ることが肝心や。「何か心が澄んだなら 早く普請に取り掛かれ」。船出に当たって、みんなの心を澄ますことが肝心や。かねてより世間の中へ飛び込み人材の調査をしておけ。そして必要な人材を寄せよう。と諭されている。
九下り
一ツ 広い世界を内廻り 一せん二せんで助け行く
二ツ 不自由なきやうにしてやろう 神の心にもたれつけ
三ツ 見れば世界の心には 欲が混じりてあるほどに
四ツ 欲があるなら止めてくれ 神の受け取りでけんから
五ツ いづれの方も同じこと 思案定めてついてこい
六ツ 無理に出ようといふでない 心定めのつくまでは
七ツ なかなかこのたび一列に しっかり思案をせにゃならん
八ツ 山の中でもあちこちと てんり王の勤めする
九ツ ここで勤めをしていれど 胸のわかりた者はない
十ド とても神名を呼びだせば 早くこもとへ訪ね出よ
   (教理) 「9・お道信徒の次の歩み・心定めのつとめ、布教」がお歌で表現されている。いよいよ世間活動に向かう。「一せん二せんで助け行く」。神の心にもたれるなら自由自在が働いて不自由無い。世間は欲にまみれているので神の自由自在が働かない。この理は誰も同じで思案を定めるのが肝心だ。この心定めがついてからお助けに向かいなさい。この間「てんり王の勤め」が大事である。しかし、本当にお道教義が分かって勤めしているのか心もとない。本当の話を聞きたければ、「早くこもとへ訪ね出よ」と諭されている。
十下り
一ツ 人の心と云うものは ちょとにわからんものなるぞ
二ツ 不思議な助けをしていれど 現われ出るのが今始め
三ツ 水の中なるこのどろう 早くいだしてもらいたい
四ツ 欲に切り無い泥水や 心澄みきれ極楽や
五ツ いついつまでもこのことは 話しの種になるほどに
六ツ むごい言葉を出したるも 早く助けを急ぐから
七ツ 難儀するのも心から わが身恨みである程に
八ツ 病はつらいものなれど 元を知りたる者はない
九ツ このたび迄は一列に 病の元は知れなんだ
十ド このたび現われた 病の元は心から
   (教理) 「10・お道信徒の次の歩み・心澄みきれ極楽や」がお歌で表現されている。お道信仰の眼目は、欲の心を棄てて心を澄まし、親神の思いに叶うことにある。「欲に切り無い泥水や 心澄みきれ極楽や」。時に厳しいことを云うのも「早く助けを急ぐから」であり、致し方ない。当り障りの無いことばかり云っていては助けができない。「病の元は心から」の理が分からないから難儀が起っている。今までこのようにはっきりと述べた信仰は無いであろうが、このことを深く諭すのが肝要である、と諭されている。
十一下り
一ツ 日の元しょやしきの 神の館のぢば定め
二ツ 夫婦揃うてひのきしん これが第一もの種や
三ツ 見れば世界が段々と もっこ荷うてひのきしん
四ツ 欲を忘れてひのきしん これが第一肥えとなる
五ツ いついつまでもつちもちや まだあるならばわしもいこ
六ツ 無理に止めるやない程に 心あるなら誰なりと
七ツ 何か珍しつちもちや これが寄進となるならば
八ツ 屋敷の土を掘りとりて 所替えるばかりやで
九ツ このたびまでは一列に 胸がわからん残念な
十ド 今年は肥え置かず充分ものを作り取り やれ頼もしや有難や
   (教理) 「11・お道信徒の次の歩み・喜び勇んでひのきしん」がお歌で表現されている。世間へ向けてのお道の発展に応じて「神の館ぢば本部」の整備に向かう。この事業を道人の「ひのきしん」でやるのが良い。夫婦力合わせての「夫婦ひのきしん」が肝心で理想だ。欲を忘れての「もっこひのきしん」が一番功徳がある。この道中を喜び勇んで通るなら、例えて云えば肥料無しに作物が充分に出来るようなことになる。お道信仰は頼もしいし有り難い。
十二下り
一ツ 一に大工の伺いに 何かの事も任せおく
二ツ 不思議な普請をするならば 伺いたてて云いつけよ
三ツ 皆世界から段々と 来たる大工に匂いかけ
四ツ 良き棟梁があるならば 早くこもとへ寄せておけ
五ツ いづれ棟梁四人いる 早く伺い立てて見よ
六ツ 無理に来いとは云わんでな いずれ段々つき来るで
七ツ 何か珍しこの普請 しかけたことならきりはない
八ツ 山の中へと行くならば 荒き棟梁連れて行け
九ツ これは小細工棟梁や 建前棟梁これかんな
十ド このたび一列に 大工のにんも揃い来た
   (教理) 「12・お道信徒の次の歩み・四人の棟梁と共に」がお歌で表現されている。世界たすけを家の普請に例え促している。世界普請の仕切りは大工に任せている。この後の世界普請に向かうには大工と相談して為せ。寄り集う大工に「匂いかけ」し、良い棟梁を見つけたら寄せよ。棟梁は4名必要である。この仕組みえしっかり確立されればお道は磐石となる。この事業にはきりはない。困難待ち受ける世界には荒き棟梁が相応しい。その他小細工棟梁、建前棟梁と要る。今や大工が揃い踏みしている。さぁ、臆することなく世界普請に取り掛かれ。
   ■お歌考
このたびの「み神楽歌」の御作成について教理では次のように説く。「御神楽歌」は、教祖が、従来折に触れ事に当って、断片的にお口を通して説かれてきた教えを、わかり易くまとまった形に歌い上げており、ここに信仰の要領、目的、道人の在り様、布教の仕方等々が簡潔明瞭に指し示されることになり、当時の道人の心強い「目標」となった。
「十二下り」を通じて、溢れでているものは、親神様のお望み下さる、陽気暮らしの喜びの、如実の姿であり、その喜びに至る道を教え、早々と足並み揃えてその道に進むことの「おせき込み」である。同時に、「みかぐら歌」を拝聴する者は、誰もが皆、誰彼の区別なく、必ずこの「陽気ぐらし」の喜びを味わうことができるという、希望と楽しみを与えられる。逆にどんな悲境に打ち沈んでいる人でも、親に抱かれているような安らかさを与えられると共に、悲しみを越えて、奮い起つ勇気と力をお与え頂くことができる、喜びの「お歌」であった。ここには、過去30年にわたってなめてこられた嘲笑、離反の淋しさや、貧の生活の陰影など、何処にもない。また現に受けつつある身の危険など、何処にも感じらぬ、「お歌」となっている。
思えば、教祖は「月日のやしろ」としておなりくだされてより、親類縁者や友人知己からは見捨てられ、世間の人々からは笑われ、そしられ、誰一人訪れる者もない、貧のドン底にありながらも、常に明るい喜びを失わず、心一つでどんな中も喜び勇んで暮らすことの出来るひながたの道をお通りくだされること30年。ここにめでたくお迎えになったのが、慶応3年の新春であった。「月日のやしろ」とおなりくださるや、瞬時も早く、一列の子供に「たすけ一条」の道を教えてやりたいとの切なる「おせき込み」をお待ちくださっているはずの教祖が、30年の歳月を経た今、初めてこれお教えくださることになったのは一体どうしたことだろう。言うまでもなく、子供に聞き分けがなかったからである。聞き分けのない子供を相手に30年、聞き分けのつくまで、じっとお待ち下さった根気強さ。しかも単に手をつかねてお待ちくださったのではない。幾重の道を通って「陽気ぐらしのひながた」を示され、なお疑いの晴れない子供の前に、親神ならでは絶対お見せ頂くことの出来ない不思議な「たすけ」を示された。
これによって、ようやく疑い晴れて、親を慕い始めた子供たちに、今度は理の御用を与え、「ふし」を与えてお連れ通り下され、今ここに漸く聞き分けの付くまでの成人に到達さして頂いたのであった。すると今度は、教祖の評判と、お屋敷の賑わいをそねみ、ねたんで、乱暴狼藉を働く、暴徒の調跳梁するにまかさなければならぬ日々が続いた。考えてみると、何時なんどき白刃が降ってくるかわからぬ不安の明け暮れである。人間の常識からすれば、悠然と筆など執れるのどかな時ではなかった。けれども子供の聞き分けがつき、受け入れ態勢さえ出来れば外界の状況など、たとえどうあろうと、そんなことを気にかけられる教祖ではなかった。 
大本 (おおもと・おほもと) 

 

「邪宗門」で有名となった大本は、日本の新宗教のなかで、これほど高い評価を受けている教団はないと著者は書いています。大本は戦前「皇道大本」戦後には「愛善苑」を名乗っていましたが、現在の正式名称は大本(おおもと)です。
大本は大正と昭和の二度にわたって、権力による過酷な弾圧を受けたこともあり、権力に徹底して戦った新宗教として、特に反権力の傾向をもつ人々からは好感をもって迎えられてきていました。大本が、そうした高い評価を受けるにあたっては、前述した高橋和己の朝日ジャーナルに連載された小説「邪宗門」が大きな反響を巻き起こしたことで知られることとなりました。この単行本は政治運動、学生運動が勢いを増していた1966年に刊行されており、左翼の学生たちによく読まれました。そこから、大本=反権力、反天皇制の宗教というイメージが定着しました。しかし、小説のなかに登場するひのもと救霊会のイメージと、現実に存在した大本の実態との間には相当に開きがありました。
大本を描いた小説には、大本を語るうえではかかせない人物、出口王仁三郎が生きていた時代を徹底的に取材した出口王仁三郎の孫である出口和明著「大地の母」がありますが、全十二巻にわたる長大なもので、単なるフィクションとは思えない小説でした。大本には出口王仁三郎という常識をはるかにこえる人物が重要な役割を果たしました。王仁三郎は、有栖川宮熾仁親王の御落胤だという噂が広まっていて、王仁三郎自身も、歌のなかでそれを暗示していました。ところが弾圧によって裁判にかけられた際には、周囲がそう噂するだけだと御落胤説を否定しています。
王仁三郎という人物は、天衣無縫で、破格の人物であり、常識では計り知れないところがあったようだと著者は書いています。1935(昭和十)年の弾圧の時には、治安維持法と不敬罪に違反したとして裁判にかけられますが、法廷では珍問答を繰り返し、猥談を交えて、裁判官を煙に巻いたり、裁判にあきると、足や腹、頭が痛いと大騒ぎし、休廷に持ち込んだりしたそうです。極めつけは、この裁判の一審で無期懲役の判決を下されたときで、後ろをむくと、舌を出してあかんべーをしたといいます。こうした王仁三郎の天衣無縫とも言える魅力によって、大本には様々な人間が集まってきました。
大本はたんに宗教団体にとどまらず、精神革命、社会革命の運動としての性格があり、昭憲皇太后の姪である鶴殿ちか子が大本に入信するということもありました。彼女は鶴殿男爵の夫人で、岩下子爵や宮中顧問だった山田春三も入信しています。大本の場合、そこから後に宗教界のリーダー的な存在が輩出されている点にも特徴があります。浅野和三郎の場合、第1次大本事件の後に教団を離れ、心霊科学研究所を結成し、日本におけるオカルティズムの先駆者となりました。生長の家の創立者、谷口雅春も大本にいたことがありました。世界救世教の創立者、岡田茂吉も大本に入信していました。また神道天行居の創立者、友清歓真も大本に入信していたことがありました。大本から分かれた人間たちは、神懸りする教祖的な人格というよりも、心霊現象や神道に関心をもつインテリ宗教家であったところに特徴があるそうです。
大本の教祖であるなおは、天理教の中山みきが神懸りをするようになった天保年間、1836(天保7)年に、京都の福知山で桐村という大工の家に生まれました。しかし、生活は貧しく、なおが五十三歳の時には夫が亡くなり、生活は困窮します。そうした中で、なおは、みきと同じように神懸りするのです。最初に神懸りをしたのは、他家に嫁でいた三女で、初産がきっかけでした。続いて他家に嫁いでいた長女も神懸りし、長女の方は特に激しかったそうです。そして、なおは五十七歳の時に神懸りします。腹の中に強い力を発するものがいて、それが突如大きな声となって表に出てきたのです。なおの住む地域は陰陽道系の祟り神である金神で、教祖によって金神が本当は幸福をもたらす神であると解釈しなおし、信仰の対象としていた金光教が勢力を伸ばしていました。なおは、この金光教に影響され、自らに宿った神を「艮(うしとら)の金神」としてとらえました。注目されるのは、この艮の金神が、実は国常立命であるとされている点です。国常立命(尊)は、天理教の主宰神、天理(輪)王命を構成する神々の筆頭に位置づけられていました。つまり、名称は異なるものの、オーソドックスな神道でも、天理教や大本のような新宗教でも、神道系であれば、国常立命という同一の神を根源的な神として信仰の対象としていることです。
最初、なおは、金光教の枠のなかで宗教活動を展開していました。病気治しを行って、信者を増やすとともに、やがて、神懸りの状態で筆をとり、神の言葉を書き記すようになります。それが御筆先で、なおはその時点で字が書けなかったとされています。なおは、亡くなるまでの四半世紀にわたって御筆先を書き続けました。それをまとめたのが「大本神論」です。御筆先の内容は「さんぜんせかい いちどにひら九 うめのはな きもんのこんじんのよになりたぞよ」といったように金神が世に現れたことを説き、世の立て替え、立て直しを進めることを求めることでありました。しかし金光教には終末論的な世直しの傾向をもっていなかったため、なおは、1897(明治三十)年には金光教から独立します。
王仁三郎が表に立って活躍するにつれて、なおの方は、表舞台から退き、最後の段階では、御筆先さえ書かなくなります。そして、事件の起こる前の1918(大正7)年に83歳で亡くなっています。先に触れた出口和明の「大地の母」では、なおに降った天照大神と、王仁三郎に降ったスサノオノミコト、あるいはなおの側からは悪神とされた小松林命の間で激しい対立、抗争が繰り広げられたことになっています。そうした話は、大本についてあつかった他の書物には書かれていません。この事件の大打撃によって先に触れた浅野や谷口などは大本を去ることになりました。
王仁三郎は大陸進出を果たしていきます。それはやがて、第二次大本事件にも結びついていくのですが、大本を日本のみならずアジア全体に広めるのに貢献しました。大本には世の立て替えという考え方があり、社会変革の志向性がありました。そのため、1934(昭和9)年には、昭和維新を掲げて「昭和神聖会」が組織されます。昭和維新会は、反体制的な政治運動ではなかったものの、会の賛同者には、大臣や貴族院議員、衆議院議員、陸海軍の将校なども名を連ねていたため、国家権力にとっては脅威であり、1935年12月警察の大々的な取締りを受け、王仁三郎以下教団の幹部たちは不敬罪や治安維持法違反で逮捕されました。大本の施設は徹底的に破壊され、メディアは反大本キャンペーンをはることになります。これが第二次大本事件です。1940年、一審では王仁三郎に無期懲役の判決が下され、信者たちは有罪判決を受けます。王仁三郎は、6ヶ月にわたって獄につながれ、日本の敗戦によって控訴中に大赦となります。
戦後、大本教団は再建されますが、1948年に王仁三郎は亡くなっています。王仁三郎なきあとの教団は、すみや直日のもと、農業運動や平和運動に力を注ぐものの、王仁三郎生前の時代のように、運動として大きく発展することはありませんでした。しかも、内紛から分裂しその点でも力を失っているそうです。 
大本

 

(おおもと) 出口なおとその女婿出口王仁三郎によって立教された神道系新宗教である。一般に「大本教」と呼称されるが、大本側の正式名称は“教”を付けない。
1892年(明治25年)、なおに「うしとらのこんじん(艮の金神)」と名乗る神が憑依する。1898年(明治31年)、なおと王仁三郎が教団組織を作る。王仁三郎はなおの娘すみの婿となり、なおの養子となった。 なおには国常立尊の神示がお筆先(自動筆記)によって伝えられた。王仁三郎には豊雲野尊などの神懸りによって神示が伝えられていたが、なお没後には国常立尊の神懸りも加わり、『霊界物語』の口述を始めた。 1980年(昭和55年)、三代教主直日の後継者をめぐって内紛が起こる。王仁三郎の孫・出口和明が教団批判を行った。当初直日の後継者とされていた直日の長女・直美の夫である出口榮二が追放されたことを機に、教団全体を巻き込んだ抗争となり、裁判沙汰となった。最終的に大本は三女・聖子が継ぐことになった。直美を四代教主と仰ぐ一派は「大本信徒連合会」を結成、和明は王仁三郎のみを教祖とする宗教法人愛善苑を設立した。
教典
出口なお『大本神諭』
出口王仁三郎『霊界物語』
教義
『大本神諭』『霊界物語』による。
型の大本(大本内で起こったことが日本に起こり、日本に起こったことが世界に起こるという法則)
立替え・立直し(終末論と理想世界建設)
大本事件
第一次大本事件
1921年(大正10年)に起きた事件である。不敬罪と新聞紙法違反の容疑で王仁三郎が逮捕された。1927年(昭和2年)に恩赦(大正天皇大葬による)が行われ、裁判自体が消滅、事件は終結した。この間、一部の信者が教団を離脱した。生長の家を立教した谷口雅春は当時大本の信者であったが、明治55年(大正10年、1921年)に起こると予言された「立替え」が起こらなかったことに不信を抱き、事件に際して教団を去っている。
第二次大本事件
1935年(昭和10年)に起きた事件である。教団本部の建物撤去が行われた。
大本神諭 (おおもとしんゆ)
新宗教大本の教典。お筆先とも呼ばれる。
明治時代後期、大本の開祖出口なお(直)(以下なお(直)と表記)は天地の創造主神国常立尊の帰神から、1918年(大正7年)に逝去するまでの約27年間、自動書記により「お筆先」と呼ばれる一連の文章を残した。お筆先はほとんどひらがなで記されたが、これを娘婿にして大本の聖師の出口王仁三郎(以下王仁三郎と表記)が漢字をあてて発表したものが『大本神諭』である。「神のお告げ」による啓示系の教典である。現代文明に対する強烈な批判と、国常立尊の復活に伴う終末と再生を預言した。大本において『大本神諭』は、なお(直)の死後に発表された王仁三郎の『霊界物語』と併せ、大本二大教典の一つとして扱われる。
大本神諭は『三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の世になりたぞよ。神が表に現れて三千世界の立替え立直しを致すぞよ』という宣言を機軸とする。神の名前や啓示そのものは、当時のなお(直)が置かれた極貧生活や明治時代という社会情勢、金光教や九鬼家の影響が見られるが、それだけで解釈できない点もある。王仁三郎は、艮の金神の正体を古事記や日本書紀で国祖神とされる国之常立神(国常立尊)と審神した。国祖神の治世は厳格を極めたため、不満を募らせた八百万の神々により国常立尊は艮の方角(鬼門)に封印されて「艮の金神」となり、妻神豊雲野尊は坤の方角にこもって「坤の金神」となったという。神諭は、節分(豆まき)、鏡餅、門松など日本の多くの宗教的儀式に国常立尊を調伏・呪詛する目的が隠されていると指摘する。だが国常立尊が再び現れる日は迫っており、それにともない体主霊従の文明から霊主体従の文明へと、価値観が大転換すると説く。変革が行われたあとに到来する理想世界はみろくの世とされる。「水晶の神世」「松の世」とも表現される。独特の神話観と、個人的利益・救済の域を超えた強烈な終末論・千年王国思想は従来日本宗教の中でも特徴的である。
お筆先は、神懸かりしてから大正7年6月の最後の筆先まで約27年間、半紙20枚綴りで約1万巻を記述したが、二度の宗教弾圧(大本事件)により多くが散逸した。筆先は基本的にひらがなのみで構成される。それは、神の意志によりひらがなで記述されることが筆先の中に記されている。一つには、とかく学問に縁遠い当時の婦女子にも読めるようにという事において、二つには物質文明を支える知識学識万能主義に対する警告として、である。しかし句読点も漢字も当てられていないので、通読はしてもその意味は何通りにでも理解出来てしまい、王仁三郎以前の大本幹部達はその内容を整理できず教義を確立できなかった。ひらがなばかりの独特の書体は執筆当初から執筆を終える約27年間、ほとんど変化なく同じ筆圧、筆速、力強さも同じであり、一種の風格をえ、賛美する書家もある。断定的な表現と独特の文体は読者に強い印象を与えた。歴史家松本健一は、神諭の文体は王仁三郎の文章と比較して非常に厳しく男性的であり、「変性男子」にふさわしいと評している。
王仁三郎は大石凝真素美らを始めとする国学者らから習得した言霊学と古神道の知識を持っていた。彼は古事記の新解釈によってこの筆先に句読点と漢字を当て、かくして編纂した独特の神話『大本神諭』が誕生した。以前から筆先は綾部町の大本本部に参拝した信者達に読み聞かせるという形で公開されていたが、教団機関誌「神霊界」1917年(大正6年)2月号に始めて『大本神諭』として掲載され、1919年(大正8年)11月25日に『大本神諭・天の巻』が、1920年(大正9年)7月28日に『大本神諭・火の巻』が発刊された。ところが神諭の社会的影響力の強さを憂慮した政府により、同年8月5日に「火の巻」を不敬と認定、発禁となった。神諭にはアメリカとの戦争の予言や天皇への批判と受け取られる文面があり、治安当局に警戒されていたという事情がある。各所の伏字は秘密めいた異端説として終末観的期待を増幅させた。当局は第一次大本事件でも、神諭は天皇の尊厳を冒涜するものと認定すると、不敬罪で追求している。
歴史
1892年(明治25年)2月3日、京都府綾部市本宮町で極貧生活を送る無名の女性、出口なお(直)に、「艮の金神」と名乗る神の神懸かり現象が起きた。当初、周囲はなお(直)が発狂したと判断して大目にみていたが、放火犯と誤認逮捕したことがきっかけとなり、自宅の座敷牢に押し込める。この時、文盲のなお(直)が牢内で釘をつかって文字を刻んだのが「お筆先」のはじまりとされる。現存する最も古い筆先は明治26年旧7月12日付であるが、さらに古いものがあった可能性もある。当時、行政当局により宗教法人設立は厳しく監視され制限されていた。そこで金光教の傘下で活動したが、なお(直)はあくまで艮の金神を重要視し、同時に神の正体を見極めることを望んだ。現実社会における信仰を説く金光教と、現世を「けもの(獣類)の世」「われよし(利己主義)の世」と定義して終末論的な立替え立直しを訴えるなお(直)/艮の金神は、根本的な神学が異なったのである。
1898年(明治31年)10月と翌年7月、古神道の知識に長けた上田喜三郎(出口王仁三郎)がなお(直)を訪問し、艮の金神を審神(さにわ)する。審神とは憑霊状態が高次の神霊で、かつ善神によるものなのか、神格はどの程度なのか、あるいは動物霊や低級霊が憑依しているのかなどを審理・判断する行為をいう。従来の神道や仏教、天理教や金光教といった新宗教ですら艮の金神の正体を判別できず、審神のエキスパートであった喜三郎の知識と能力が必要とされていたのである。喜三郎は「艮の金神」を「国武彦命(国常立尊)」と審神する。なお(直)の教団に加わった喜三郎は、なお(直)の末子で後継者と決められていた出口すみ(澄)と養子婿結婚して出口王仁三郎と改名した。
なお(直)と王仁三郎の関係は複雑である。筆先によれば、なお(直)の守護神は「艮の金神」で厳霊(女性の肉体に男霊が宿った変性男子、天照大神)、王仁三郎の守護神は「坤の金神」で瑞霊(男性の肉体に女霊が宿った変性女子、スサノオ)であり、宗教上の夫婦関係は現実において養母・養子婿だった。非合法は覚悟で活動しようとするなお(直)と、公認宗教の下部組織として警察の干渉を避けようとする王仁三郎は対立する。これに従来幹部の権力争いが加わり、彼らは王仁三郎を厳しく攻撃した。王仁三郎は日露戦争終結後に一度教団を離れるが、教派神道の知識を身につけると再び綾部に戻り、教団の発展に尽力する。彼の守護神とされる「坤の金神」を公式に祭ったことでなお(直)との宗教的対立は終息した。1916年(大正5年)、なお(直)の筆先に「王仁三郎こそみろく大神」という啓示があり、初対面から18年後、なお(直)は王仁三郎の神格を認めた。これにより神聖とされた筆先を、王仁三郎の手で編集することが可能となった。
以前より大本の実質的指導者は王仁三郎だったが、新たな啓示により、宗教的な主導権も王仁三郎に移った。1918年(大正7年)11月、開祖・なお(直)が死去。末子の出口すみ(澄)が二代教主、夫の王仁三郎が教主輔に就任する。大本は大正日日新聞を買収してメディア展開を開始。社会構造の変化や都市化を背景に、京都府綾部・丹波の地方民間宗教団体から全国規模の教団へと飛躍する。同時に、大本の中で王仁三郎と新幹部浅野和三郎の間で対立が生じた。浅野を中心とした派閥は大本神諭を重要視する。なかでも「大正十年立替え説」(明治五十五年の立替え)という終末論を強く主張する。第一次世界大戦やロシア革命といった歴史的転換点の中で終末観は多くの人々の心を捉え、秋山真之海軍少将も大本を訪れている。教団本拠地である綾部や亀岡には神諭の終末論を信じた人々が続々と移住したが、彼らの思想と見通しは太平洋戦争の展開と驚くほど合致する。大本が大日本帝国陸軍・大日本帝国海軍・華族への影響力を強めていたことに危機感を抱いた大日本帝国は、1921年(大正10年)2月に不敬罪と新聞紙法違反を罪状に王仁三郎や浅野を逮捕して弾圧を加えた(第一次大本事件)。
保釈された王仁三郎は同年10月18日より、新たな教典『霊界物語』の口述筆記に着手する。なお(直)の「筆先/大本神諭」は強烈であるが具体性と論理性に乏しく、その内容を具体的に教義として確立させたものが王仁三郎の活動であり『霊界物語』とも言える。神諭が発禁となったため新教典が必要となったという切迫した事情があったとも言われている。王仁三郎の手法に失望した多くの幹部や信者が教団を去り、浅野は心霊科学研究会を、谷口雅春は生長の家を、友清歓真(友清の離脱は1919年)は神道天行居を設立した。第一次大本事件の後、王仁三郎は自らのカリスマと新教典『霊界物語』を中核に新たな展開を行なった。
大本神諭の正当性
『大本神諭』は開祖・なお(直)の「お筆先」を王仁三郎が編集したものであり、原文そのままではない。筆先にあった土俗性や神仏習合といった混沌が整理され、伝統的な日本神道への接近が意図されている。筆先を書かせた神は「艮の金神=国常立尊」の他にも天照皇大神、金勝要之神、竜宮の乙姫など複数存在した。「艮の金神」についても、綾部藩主九鬼家に伝わる『九鬼文書-鬼門呪詞』の主神「宇志採羅根真大神(ウシトラノコンジン)」に由来するという説もある。なお(直)の死後、王仁三郎が九鬼隆治(子爵、第21代)に宛てた書簡からもうかがえる。さらに『天理、金光、黒住、妙霊先走り、とどめに艮の金神現れて、世の立替えを致すぞよ』という表現もあり、なお(直)が先行した民衆宗教の影響を受けていることを示す。一方で、神諭の表現は立教の年代順と異なる。これは教義の親縁性による順の可能性があり、王仁三郎も大本神諭を天理教神諭と比較して両者の関係を考察した。
王仁三郎のみにしか筆先の編集作成は出来ないとされていたにも関わらず、浅野和三郎が筆先から神諭への編纂に携わったという逸話がある。1916年(大正5年)12月に入信した浅野が編纂した箇所がどの部分で、どれだけの量、またはどれだけのパーセンテージで編纂したのかも正確に判明していない。ただ浅野が「皇道大本」の教義形成、神諭の研究に没頭していたという事実はある。また王仁三郎が筆先から神諭へと編纂したと言われているが、当事者である王仁三郎も京都府警に対し『年月日と組立等を、開祖なおに尋ね乍ら書いたのであるから、誌上の稿になったものと同じお筆先は実際にはありません」』と大正8年に発言している。第一次大本事件における当局の追及に対しては、「筆先は神霊現象で人間に責任はなく、皇道大本に不敬の意図はない」と釈明している。
王仁三郎は、開祖・なお(直)(厳霊)の役割を洗礼者ヨハネ、自身(瑞霊)をスサノオ/救世主と位置づけている。1935年(昭和10年)の第二次大本事件を回顧した歌集(1942年10月)では「筆先は 神々教祖に 懸かられて しるし玉ひし 神言なりけり」「御神諭は 毛筋の横幅も 違はぬと 月座の教祖(王仁三郎)は 宣らせ給ひぬ」「人皆を 昔の神の 大道に 改めたまふ 神諭の主意なり」「善心で 読めば善なり 悪神で 読めば怪しく 見ゆる筆先」と詠う。新教典『霊界物語』第7巻総説では筆先について「1916年の神島開き(みろく神啓示)前の筆先は御修行中の産物であり、未成品」と述べ、12巻序文で「筆先は神々の言霊の断片を録したもの、演劇に例えると台詞書の抜書。霊界物語は、その各自の台詞書を集めて一つの芝居を仕組む全脚本。筆先は純然たる教典ではない」としている。第36巻序文においても、国常立尊は「大海の潮水」であり筆先は「手桶に汲み上げられた潮水」「神の演劇の台詞書のみを抜き出したもの」と定義する。平仮名のみの卑近な言であっても「神様の意志表示に就ては毫末も差支ないものである」とした上で、霊界物語は神諭を補完するものと述べている。なお(直)や王仁三郎の魂が国常立尊やスサノオ全体ではなく、その一部分であるとした。
王仁三郎は2つの和歌を残した。「みな人の 眠りにつける 真夜中に 醒めよと来なく 山ほととぎす」「梅の花 一度に開く 時来ぬと 叫び給いし 御祖畏し(みおやかしこし)」
大本神諭と予言
『大本神諭』は「神の申した事は、一分一厘違わんぞよ。毛筋の横巾ほども間違いはないぞよ。これが違うたら、神は此の世に居らんぞよ」「大本は世界の鏡の出る処であるから、世界に在る実地正味が、皆にさして見せてあるから」と主張する。神懸かり初期のなお(直)は周囲から「発狂した」「狐か狸がついた」と見られていたが、「綾部の金神さん」という評価を得るに至ったのは日清戦争の予言だった。ほかにも関東大震災や太平洋戦争を示唆する表現もある。特に1923年(大正12年)の関東大震災で東京が甚大な被害を受けると多くの人々が「神諭の予言が的中した」と受け取り、第一次大本事件により大打撃を受けていた大本は一転して熱烈な支持を受けることになった。
この後、1930年代の大本は王仁三郎の指導下で爆発的に発展すると、革命を起こしかねない危険勢力として1935年(昭和10年)12月に日本政府(岡田内閣)の徹底的な弾圧を受けた(第二次大本事件)。綾部と亀岡の本部は焼け野原状態となり、1942年8月に保釈された王仁三郎は廃墟となった亀山城址(大本聖地)を見て「このように日本はなるのや、亀岡は東京で、綾部は伊勢神宮や」と語ったとされる。松本健一は王仁三郎の発言について、なお(直)の「東京は元の薄野に成るぞよ。永うは続かんぞよ。東の国は、一晴れの後は暗がり。これに気の附く人民はないぞよ」という筆先を下敷きにしていると指摘した。
霊界物語
新宗教「大本」の教祖・出口王仁三郎が大正〜昭和初期に口述筆記した物語。開祖出口なお(直)の大本神諭と並ぶ同教団の根本教典の一つ。全81巻83冊ある。
明治時代後期に開祖出口なお(以下なお(直)と表記)の神懸かりによって誕生した新宗教大本は、なお(直)が養子婿として迎えた出口王仁三郎(以下王仁三郎と表記)の活動により、大正時代に教勢をのばした。
大日本帝国政府は、1921年(大正10年)に不敬罪を理由に弾圧を行った(第一次大本事件)。これにより従来の教典『大本神諭』が発禁となり、王仁三郎は同年10月18日から新たに『霊界物語』の口述筆記を開始した。
王仁三郎を通して啓示された教えには、ほかに「道の栞」「道の光」などの教典がある。
『霊界物語』は全81巻83冊に及ぶ大長編である。古事記に基づく日本神話を根底とするが、聖書、キリスト教、仏教、儒教、孟子、エマヌエル・スヴェーデンボリ、九鬼文書など、あらゆる思想と宗教観を取り込んでおり、舞台は神界・霊界・現界と全世界に及ぶ。王仁三郎によると、『霊界物語』には126種類の読み方があると述べていたとされ、予言書としての読み方も存在する。内容は、宇宙及び大地の創造の過程、超太古の神政の様子、現代社会への批判や風刺、未来の予言(第二次世界大戦なども示唆するという)など、多種多様。登場人物の言動や王仁三郎の解説を通じ人間の霊性について読み取ることが出来る。その一方、政治的なエピソードも盛り込まれており(後述)、戦前は安寧秩序紊乱との理由で一部発売頒布禁止処分を受け、第二次大本事件で全巻発禁処分、私蔵も禁じられていた。大本では『大本神諭』と共に二大根本教典とされており、現在は一般にも販売されている。
内容
全81巻、83冊からなる(第64巻が上下の2冊、特別篇として「入蒙記」が1冊)。第1巻は「子の巻」、第2巻は「丑の巻」というように順番に十二支の名前が付けられている。各巻はいくつかの「篇」に分かれ、最小単位として「章」がある。『霊界物語』が完結作品か未完作品かについては、立場や識者によって意見が異なる。予定では5巻完結、12巻完結ともされる。王仁三郎は第37巻序章にて、36巻を1集として48集、つまり1728巻書けという神命が下ったが、神に頼み120巻に縮小したと述べた。第74巻(昭和8年)の時点で残り46巻と述べたが、20巻出すことは難しいとも語る。1巻の分量は約300-400頁で、各巻100字詰め原稿用紙約1200枚。全巻原稿用紙換算約10万枚であり、中里介山の時代小説『大菩薩峠』と比較しても膨大である。王仁三郎と会見した大宅壮一も同様の感想を抱き「内容は別にしても、これだけのものがどうしてできたかは、興味のある問題である」と述べた。
1921年(大正10年)10月18日から『霊界物語』は著された。王仁三郎は30分ほど睡眠、目覚めると横たわったままある種のトランス状態で口述し、選抜した信者に筆録させるという形で著述された。主な口述筆録者は谷口雅春、加藤明子、桜井重雄、東尾吉雄など。筆録者の内崎照代は、わからない部分を聞き返すと「文章がカイコの糸のようにスルスルスルスルと出てくるので、途中で止められると糸が切れるようになるんじゃ」と叱られたと回想している。
村上重良は「王仁三郎の才能とエネルギーは人間離れしている」と評する。第1巻は10月18-26日で完成し12月30日に教団出版局から刊行された。1922年(大正11年)に5-46巻を、1923年(大正12年)7月までに47-65巻を完成させた。1924年(大正13年)2月、責付出獄中に植芝盛平たちを率いて日本を脱出、モンゴルに赴いた時には流石に中断となった。この冒険の直前に書かれた第64巻はキリストがエルサレムに再臨する展開であり、王仁三郎は「スサノヲの神の踏みてし足跡を 辿りて世人を治め行くかな」と詠っている。一方で冒険とモンゴル独立運動計画そのものは失敗、張作霖により処刑されかけるなど危機を乗り越えて10月に帰国した。11月に釈放されると口述を再開し、1926年(大正15年)5月22日に72巻完成、7月1日までに特別編「入蒙記」が完成した。発刊ペースは平均1月に1冊ほどで、1929年(昭和4年)4月に72巻が発刊となった。口述は暫く中断するものの、王仁三郎は各巻の細かい修正や加筆を行った。
1933年(昭和8年)10月4日(旧8月15日)〜翌年8月15日に73〜81巻「天祥地瑞」が書かれた。それまでの物語は楽な姿勢で口述していたが、天祥地瑞は緊張した雰囲気の中で行われ、亀岡では聖壇も用いられた。この篇は一章を一時間程で口述すると筆記者が復唱して、王仁三郎がミスを修正、休憩時間を取ると筆記者が変更して1日3-6章を完成させたという。その後、昭和9〜10年に王仁三郎自身の手によって全巻の校正がされた。
あらすじ
出口王仁三郎は霊界物語第1巻の冒頭「序」において、次のように述べている 「この『霊界物語』は、天地剖判の初めより天の岩戸開き後、神素盞鳴命が地球上に跋扈跳梁せる八岐大蛇を寸断し、つひに叢雲宝剣をえて天祖に奉り、至誠を天地に表はし五六七神政の成就、松の世を再建し、国祖を地上霊界の主宰神たらしめたまひし太古の神世の物語および霊界探検の大要を略述し、苦集滅道を説き、同胞礼節を開示せしものにして、決して現界の事象にたいし、偶意的に編述せしものにあらず。されど神界幽界の出来事は、古今東西の区別なく現界に現はれ来ることも、あながち否み難きは事実にして、単に神幽両界の事のみと解し等閑に附せず、これによりて心魂を清め言行を改め、霊主体従の本旨を実行されむことを希望す。」
つまり霊界物語の主人公は神素盞嗚大神(かむすさのおのおおかみ)であり、救世主神である神素盞嗚大神が八岐大蛇を退治して地上天国である「みろくの世」を建設し、太古の神代に邪神によって追放された艮の金神=国常立尊を再び地上神界の主宰神として復活させる物語と定義した。
実際のストーリーとしては、神素盞嗚大神が全巻を通し主役として活躍するわけではない。まず物語冒頭に王仁三郎が霊的に体験した天国と地獄の様相が述べられる。次に舞台は神話世界に移り、日本神話の創造神にして国祖国常立尊が物語の中核となる。霊主体従を原理とする国常立尊は、敵対する体主霊従(われよし)の盤古大神一派(ウラル教)・力主体霊(つよいものがち)の大黒主神一派(バラモン教)と争った末、八百万の神々の要求により地上神界の主宰神の地位を追放され世界の艮の方角に隠退、妻神豊雲野尊も坤の方角に隠退してしまう経緯が記されている。王仁三郎は、国常立尊こそなお(直)に懸かった「艮の金神」と定義している。
以下、伊邪那岐命と伊邪那美の国産み・神産み、アマテラスとスサノオの誓約や天の岩戸隠れ・開き、スサノオとヤマタノオロチの戦いなどが再構成されており、『霊界物語』前半は日本神話の影響が強い。王仁三郎は権力者達によって改竄された古事記を本来の姿にしたものが『霊界物語』とも語る。天照大神(万世一系の天皇)を正統とする従来の日本神話に対し、王仁三郎はスサノオこそ正統の神と読み返える事で「自分(スサノオ=王仁三郎)が世界を救う」と宣言したと指摘される。
神素盞嗚大神による世界救済の経綸が始まるのは、第15巻以降である。高天原を追放された神素戔嗚尊は贖罪神となり、悪神・悪人を言向け和し(改心させ)、地上を国常立尊の霊主体従世界(みろくの世)へと変えて行く。その過程で主神は三五教(あなないきょう)の宣伝使(せんでんし)と呼ばれる弟子たちを世界各地へ派遣した。彼らは八岐大蛇や金毛九尾の狐に代表される邪神・悪霊と戦う。そして悪霊由来のウラル教・バラモン教・ウラナイ教といった宗教の信仰者が、神素盞嗚大神の教えに帰順する様が描写されている。
日本語名を持つ神々や人物と、カタカナで表現される外国人のような人物が混在し、神獣や妖怪を交えた物語が世界規模で展開する。さらに実在した人物が登場することも特徴的であり、王仁三郎の分身や大本信者をはじめ、第71巻(戦前は発禁となり戦後は64巻下として発刊)ではレフ・トロツキーが出てくる。開祖・なお(直)は第2巻で稚桜姫、第15巻11章で手名椎命、第21巻第5章で初稚姫、特別篇「入蒙記」で国照姫として現れるという解釈もある。初稚姫は物語中盤以降、神覚に優れた絶世の美少女宣伝使として活躍する。ただしほとんどの登場人物は近代小説のように内面性を持たず、全巻を通じて言及される者は一部の神々を除いて存在しない。基本的に波乱万丈で、ムー大陸が登場し、ハルマゲドンを「黄泉比良坂の戦い」になぞらえるなど奇想天外であり、王仁三郎の得意とする駄洒落・語呂合わせ・戯詩が滑稽な口調と文体で表現されているが、そのことについて、王仁三郎自身は次のようにのべている。「本書は王仁が明治三十一年旧如月九日より、同月十五日にいたる前後一週間の荒行を神界より命ぜられ、帰宅後また一週間床縛り修業を命ぜられ、その間に王仁の霊魂は霊界に遊び、種々幽界神界の消息を実見せしめられたる物語であります。すべて霊界にては時間、空間を超越し、遠近大小明暗の区別なく、古今東西の霊界の出来事はいづれも平面的に霊眼に映じますので、その糸口を見つけ、なるべく読者の了解し昜からむことを主眼として口述いたしました。 霊界の消息に通ぜざる人士は、私の『霊界物語』を読んで、子供だましのおとぎ話と笑はれるでせう。ドンキホーテ式の滑稽な物語と嘲る方もありませう。中には一篇の夢物語として顧みない方もあるでせう。また寓意的教訓談と思ふ方もありませう。しかし私は何と批判されてもよろしい。要は一度でも読んでいただきまして、霊界の一部の消息を窺ひ、神々の活動を幾分なりと了解して下されば、それで私の口述の目的は達するのであります。 (中略)本書を信用されない方は、一つのおとぎ話か拙い小説として読んで下さい。これを読んで幾分なりとも、精神上の立替へ立直しのできる方々があれば、王仁としては望外の幸であります。」
第72巻までは「三十五万年前の太古の神代」という時代設定で小説と歌を中心に構成されているが、第73〜81巻(天祥地瑞)は趣きが異なり「紫微天界」という原初の宇宙が舞台であり、ほぼ連歌体と問答体の和歌で表現されている。
王仁三郎は1933年(昭和8年)11月19日皇道大本大祭・開祖十五周年大祭にて、天祥地瑞編は神代時代/霊国の事を描写し、読者に予備知識を与えるため・筆記者の育成をするため、連載再開まで7年間の期間を設けたと語った。
また本来のストーリーの流れとは若干異なる物語が随所に挿入されている。たとえば第37・38巻は王仁三郎の若い頃(20代後半〜40代前半)の自叙伝である。第60巻の後半には「三美歌」と呼ばれるキリスト教讃美歌の替え歌や、各種の祝詞、また「三五神諭」という「大本神諭」のリニューアル版を収録する。第61・62巻は「大本讃美歌」という567篇の歌が書かれている。第64巻上・下の2冊は現代のエルサレムが舞台。特別編入蒙記は大正13年に王仁三郎がモンゴルを行軍した実話である。第一巻冒頭は、第一次大本事件前の教団月刊誌「神霊界」に発表された文章を修正して掲載してある。同様に大正9年11月号に掲載された「古事記略解」が第12-15巻にかけて収録されている。
加えて第8巻や第54巻では階級制度の打破を明確にしたかのような表現など、政治的なエピソードも盛り込まれている。
第69巻では登場人物の境遇によせて万世一系に対し女系天皇の利点(浮気をしても女系なら血統は必ず続く)を解説していると解釈する人もいる。グロス島(グロテスクな大日本帝国という暗喩)を舞台とする第78巻では、主神由来の女神の活躍によりグロス島は葦原新国に改名され、島東部の桜ヶ丘から全島を治めていた天津神達が国津神に格下げ・島西部の国津神が格上げして天津神になるという地位逆転劇を描写している。
霊界物語に見られる天界と天使 / 霊界物語に登場する天界の天使たちは主に主たる神から発せられる信真と愛善によって生かされるとしていたが、天使たちは神の働きをしたものの、謝礼や感謝されることを拒む。理由は神から発せられているものであって、神が施す加護であり、天使はその指示に従ったにすぎず、すべて感謝するのは神のみにすべきであるということを天界を巡覧する宣伝使たちに告げている。王仁三郎は「祈りは天帝のみにすべきもの。他の神様は礼拝するもの。誠の神は一柱のみで、他はみなエンゼルである」と述べた。
天界 / 天界は主に霊国と天国に別れており、この二つの天国が天界全体を構成し、さらにこの天国は三つの階層によって構成され、最高天国、中間天国、下層天国に分類され、各天使たちはその智慧証覚の程度に応じて住居していると記載される。
歴史
成立の背景
1892年(明治25年)2月3日(旧正月5日)、京都府綾部町で極貧生活を送る無名の女性出口なお(直)に艮の金神を宣言する神が帰神(神憑り)した。病気治療や予言で「綾部の金神さん」の評判を得たなお(直)は金光教の傘下で活動したが、教義の違いから独立した。
1898年(明治31年)2月、丹波国桑田郡穴太村(京都府亀岡市)に住んで牧畜と牛乳販売業を営む青年・上田喜三郎が喧嘩で負傷、直後、富士浅間神社の祭神、木の花咲耶姫の命の天使、松岡芙蓉仙人に導かれて、近隣の高熊山で一週間の霊的修行を行う。この霊的体験が後年の『霊界物語』の原型となる。下山した喜三郎は駿河の稲荷講社総長長沢雄楯を尋ねて言霊学と古神道の知識を得た。同年10月と翌年8月、喜三郎は綾部の出口なお(直)を訪問する。喜三郎は「艮の金神」を「国武彦命」と審神(後に稚姫君命、国常立尊と神格が上がる)。なお(直)の信頼を得た喜三郎は後継者と定められた出口すみ(澄)(のち大本二代教主)と養子婿結婚して出口王仁三郎と改名した。
大本では、なお(直)を「女性の肉体に男神が宿った変性男子」、王仁三郎を「男性の肉体に女神が宿った変性女子」と定義し、なお(直)の「経、火、厳霊、艮の金神」と王仁三郎の「緯、水、瑞霊、坤の金神」の伊都能売(いづのめ)の御霊の働きで世界は救われると説く。だが神霊的には夫婦関係だったものの二人の性格と行動は正反対であり、当初は「火水の戦い」と呼ばれる宗教的大喧嘩を繰り返した。加えて教団内の権力闘争と教義解釈により王仁三郎は孤立。高熊山での神秘体験を一部原稿化したものの、従来幹部との対立から公表することはなかった。王仁三郎は一時教団を離れ京都皇典研究所(国学院大学)に入学、建勳神社や御嶽教に勤務しつつ、さまざまな宗教や人物と交流して見識を高めた。その後、綾部に戻り、なお(直)のエネルギーと王仁三郎の解釈をうまく合致させ、地方民間宗教団体だった大本を全国規模の教団に拡大させている。対照的な資質を持つ二人は大本に複雑な性格を与えた。1916年(大正5年)10月4日(旧9月8日)、「王仁三郎こそ五六七(みろく)神」という筆先が出現し、なお(直)は王仁三郎の神格を認めた。これによって筆先を王仁三郎の手で編集することが可能となった。1918年(大正7年)11月6日、なお(直)が死去。末子の出口すみ(澄)が二代教主、夫の王仁三郎が教主輔となる。
1920年(大正9年)8月、王仁三郎は大正日日新聞を買収、全国的メディア展開を開始した。この頃、大本筆頭幹部で王仁三郎に匹敵する信望と指導力を持つ浅野和三郎が「大正10年立替説」という終末論を唱えて大反響を引き起こした。当局は宗教団体が大手メディアを買収して権力者・体制批判を始めたことに危機感を抱いた。大日本帝国陸軍・大日本帝国海軍の高級軍人や華族が次々に入信したことも、当局の懸念をますます強くした。さらに終末論と黙示録的予言が社会問題化、従来マスメディアは大本を厳しく批判する。原敬総理大臣や床次竹二郎内務大臣も大本の勢力拡大を憂慮。1921年(大正10年)1月10日、平沼騏一郎検事総長は大本検挙命令を下し、2月12日に一斉検挙と捜索を開始、王仁三郎や浅野は拘束された。同年10月5日、第一審にて不敬罪と新聞紙法違反により王仁三郎に懲役5年、浅野に懲役10月、吉田祐定(機関誌発行兼編集人)に禁固3か月の判決が下った。その後控訴審が行われるが、昭和2年5月17日、大正天皇崩御による大赦令で免訴となった。これを第一次大本事件という。事件を契機に、教団内で王仁三郎(教主・大先生派)と浅野派(修斎会会長)、福島久派(開祖三女)の間で内紛が勃発した。
当局は、伊勢神宮に似ているため不敬との理由で、完成したばかりの綾部本宮山神殿を破壊するよう命じた。神殿破壊は当局により10月20日から開始される予定だったが、その2日前の10月18日、王仁三郎は綾部並松の松雲閣で『霊界物語』の口述筆記を始める。10月8日(旧9月8日)に神示が、10月17日になお(直)の霊が、それぞれ口述筆記を促したとされる。口述は神殿の破壊中にも続けられ、大本の教義はこの『霊界物語』をもって確立した。
大本神諭との関係
最初の神懸かりの翌年1893年(明治26年)、なお(直)は放火犯と誤認逮捕されたことがきっかけで、自宅の座敷牢に監禁された。この時、牢内で釘を使って書いた文章が「筆先」のはじまりとされる。文盲のなお(直)がつづった文章は平仮名と数字のみで構成され、限られた信者のみに清書することが許された。また漢字に置き換えることは神示によって王仁三郎だけに与えられた特権であり、彼の手により編集された筆先は1917年(大正6年)の機関誌「神霊界2月号」に『大本神諭』として発表された。多くの軍人や知識人を大本に入信させるほど強い影響力を持った書だが、1920年(大正9年)8月5日に『大本神諭・火の巻』が発禁処分となる。さらに文章を文字通りに解釈した浅野和三郎を始め多くの幹部・信者が終末論に走り全国に宣伝、第一次大本事件の一因となった。王仁三郎はなお(直)の権威で書かれた『大本神諭』を克服するために『霊界物語』を著したという指摘もある。一方『大本神諭』が発禁となり、終末論的な社会改革運動が弾圧されたことで、新たな教義と教典が必要になったという側面もある。教団の内部事情と当局からの弾圧が、複雑で曖昧な新教典を形成したといえる。安丸良夫は、王仁三郎と大本が『霊界物語』の教典化や国際的平和主義への対応、昭和初期の超国家主義運動団体化などさまざまな変貌を遂げつつ、千年王国主義的救済思想を維持し続けたと指摘した。
『霊界物語』では、『大本神諭』について「そもそも教祖の手を通して書かれた筆先は、たうてい現代人の知識や学力でこれを解釈することは出来ぬものであります。いかんとなれば、筆先は教祖が霊眼に映じた瞬間の過現未の現象や、または神々の言霊の断片を惟神的に録したものですから、一言一句といへども、その言語の出所と位置とを霊眼を開いて洞観せなくては、その真相は判るものではありませぬ。(中略)ゆゑに神様は、三千世界の大芝居であるぞよと、筆先に書いてゐられます。その各自の台詞書を集めて、一つの芝居を仕組むのが緯の役であります。ゆゑに霊界物語は筆先の断片的なるに反し、忠臣蔵の全脚本ともいふべきものであります。」と述べている。第36巻序文でも同様の事を述べ、「霊界の幾分なりとも消息が通じない人の眼を以て教祖の筆先を批評するのは、実に愚の至りであります。」と指摘している。
王仁三郎と霊界物語
多趣味多才の王仁三郎は『霊界物語』を演劇化する事にも熱心であり、王仁三郎自らが登場人物になって神劇を演じることも多かった。教義的な位置づけとして、第40巻序章で「霊界物語そのものは、つまり瑞月(王仁三郎)の肉身であり、霊魂であり、表現である」と強調している。読者には音読を推奨しており、平家物語のような口承文芸・日本の伝統的な語り文化を意図したと見られる。王仁三郎は「物語を読むには、なるべく音読がよい」と話していた。物語は王仁三郎の口を通じて出た言霊であって、言霊はそのまま霊界にも通じ、読者当人のみにとどまらず、多くの精霊たちにも聞かせることになり、霊魂の救済にも繋がるとした。大本では、黙読して頭で読むというよりも、臍下丹田に心を静めて、赤子の心となって魂で音読し、心の糧にするという方が望ましいとしている。
1924年(大正13年)にモンゴルへ電撃的に渡航した際には、娘婿・出口伊佐男に遺書「錦の土産」を託し、この中で「伊都能売の御魂霊国の天人なる大八洲彦命の精霊を充たし、瑞月(王仁三郎)の体に来たりて口述発表したる霊界物語は世界経綸上の一大神書ならば、教祖の伝達になれる神諭と共に最も貴重なれば、本書の拝読は如何なる妨害現はれ来るとも不屈不撓の精神を以て断行すべし。例え二代三代の言と雖もこの言のみは廃すべからず(以下略)」と厳命している。第二次大本事件後に出獄後は、周囲に物語の真意を語りだした。例えば第28巻は第二次大本事件そのもの、サアルボースやホーロケースという登場人物は西園寺公望と原敬と述べている。第57-58巻は太平洋戦争や東京裁判の隠喩と信者に語った。
松本健一は、『霊界物語』は古事記を筆頭に天皇制国家を支える神話を模倣しつつ「あるべき神の国(理想)」と「大日本帝国(現実)」の対比を描き出したと評し、王仁三郎は「霊魂的革命」を物語ることで現実世界の変革を訴えたのだと考えた。また村上重良は、直接的な表現をつかった『大本神諭』に対し『霊界物語』は抽象的表現で「立替え立直し」を表現し、読者に対し多様な解釈を暗示しているとした。  
大本 2

 

大本の概要と歴史
大本は、宇宙万物を創造された主神の愛善と信真にもとづく地上天国建設を目的としています。
諸悪の根元は、人心の利己主義(われよし)と弱肉強食(つよいものがち)にあるとし、人類が四大綱領【祭・教・慣・造】の本義にかえり、四大主義【清潔主義・楽天主義・進展主義・統一主義】の生活を実践することを説いています。
また、すべての正しき宗教や教えは究極の実在(一つの主の神)から出ていると説く“万教同根”の真理に基づき、各宗教宗派が大和協力するよう、活発な宗教協力・宗際化活動を行っています。
大本の歴史
明治25年(1892)
出口なお開祖に大地の主宰神、艮(うしとら)の金神=国祖・国常立尊(くにとこたちのみこと)が帰神して「三千世界の立替え立直し」を宣言、開祖が昇天する大正7年(1918)までに世界への預言・警告の筆先(半紙20枚綴り1万巻)を記しました。
明治31年(1898)
出口王仁三郎教祖は、神霊の導きにより、郷里の高熊山(京都府亀岡市)で1週間の霊的修業をし、現界・幽界・神界、三界の過去・現在・未来を洞察する神力を受け、救世の使命を悟りました。
明治32年(1899)
王仁三郎聖師は、神命を受け、大本に入り、開祖の五女出口すみこと結婚し、開祖とともに大本の基礎を築きました。
大正6年(1917)
開祖の筆先を『大本神諭』(全7巻)として発表。
大正8年(1919)
亀山城址を入手し、“霊国”の移写・神教宣布の中心(天恩郷)とし、発祥の地・綾部を“天国”の移写・祭祀の中心地(梅松苑)として二大聖地を築きました。
大本と丹波亀山城址(明智光秀公築城) / 丹波亀山城は、織田信長公の命をうけた明智光秀公が、丹波攻略の拠点として築城しました(天正5年ごろ)。「本能寺の変」後、豊臣時代には、その重要性から城内や城下町の整備がなされ、ついで江戸時代に入り、幕府が西国大名に命じ、「天下普請」により近世城郭として大修築がなされました。しかし、300年余り続いた丹波亀山城も明治初期に廃城令を受けて、天守はもとより、すべてが払い下げとなり、多くの遺構や石垣までもが分割売りされ、各地へと散りました。残された城址は荒れ果て、狐狸の巣くう丘陵台地となり、町の人々は「何がでるやら怖くて」通る人さえいない状態となっていました。大正8年(1919)、亀岡出身の宗教法人「大本」の教祖・出口王仁三郎師は、荒れゆく亀山城の様に憤慨し、待てしばし昔の城にかへさんと雄たけびしたる若き日の吾と歌に残した通り、亀山城址を買い取りました。出口王仁三郎師は、大本信徒を動員して、残った石を土中から掘り起こし、元の亀山城石垣を復元。そして、自然あふれる大本の聖地「天恩郷」として亀山城址をよみがえらせました。城址は今、平和な世界と人類の幸福を祈る場となっています。
同10年(1921)から、王仁三郎の高熊山修業の際、見聞した内容を口述した救世の書『霊界物語』(全81巻83冊)を刊行。
王仁三郎聖師が大本入りしてからは、大本の教勢は飛躍的に伸び、国家当局はその影響力を見のがすことができず、大正10年(1921)には第一次弾圧を、昭和10年(1935)には「大本をこの世から抹殺する」として第二次弾圧を加えます。
昭和20年(1945)
無罪判決により第二次大本事件は全面解決し、翌21年(1946)に「愛善苑」として再発足します。
同27年(1952)
出口直日(なおひ)(王仁三郎、すみこの長女)が三代教主を継ぎ、教団名を「大本」に復活、出口日出麿三代教主補とともに、人心の改造と世界恒久平和実現につとめました。
平成2年(1990)
出口聖子(きよこ)(直日、日出麿の三女)が四代教主を継承しました。
平成4年(1992)
開教百年を迎え、綾部・梅松苑には、天地の親神をまつる神殿「長生殿」が完成しました。
平成13年(2001)
4月29日、出口聖子四代教主の昇天により、出口紅(くれない)(聖子の養女、直日・日出麿の孫)が五代教主を継承しました。
21世紀をむかえるとともに、大本百年の基礎を経て大本神業は新たな段階を迎えています。
大本の祭神
大本では、天地のありとあらゆるもの、全大宇宙を生み、育てられている、根本の独一真神(主神)をはじめ、大地を造り固められた祖神である国常立尊(くにとこたちのみこと)<厳霊>、豊雲野尊(とよくもぬのみこと)<瑞霊>、その他正しい神々を「大天主太神(おおもとすめおおみかみ)」と仰ぎ、おまつりしています。
大宇宙の創造主神とは、永遠に変わることなく、絶対の存在として実在するただ一柱のみご存在になる根本の真の神のことで、古事記ではこの神のことを天之御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)、大本では大国常立大神(おおくにとこたちのおおかみ)というご神名で尊称しています。
世界の各宗教ではこの主神のことを、ゴッド、エホバ、アラー、天、天帝などいろいろな名称で呼んでいます。
主神は、天地万物を司るために、幾百もの神々を生み出され、それぞれに役目を仰せ付けられ、世界を守り開かれています。
大本では、主神をはじめその正しい神々を総称して、「大天主太神(おおもとすめおおみかみ)」としておまつりしています。
なお、大本では主神とともに、主神の手足となって活動している多くの天使(かみがみ)を神さまとしてあわせておまつりし、各家の祖先の霊魂も丁重におまつりしています。
大本の教祖
出口なお開祖、出口王仁三郎(おにさぶろう)聖師によって開教した大本には、二人の「教祖」がいます。
出口なお 開祖
出生と昇天 / 天保7年旧12月(1837年1月)現在の京都府福知山市で出生。大正7年11月6日、81歳で昇天。
幼少時代 / 貧困家庭のため寺小屋に通う機会もなかった。19歳の時、綾部市に住む叔母出口ゆりの養女となり結婚。夫のもとで8人の子女に恵まれその養育に苦労する。
神がかりの始まり / 大工の夫・政五郎の病気そして昇天の後、56歳(明治25年・1892年)の節分の夜、にわかに神感状態となる。本人の意思とは異なる別な力がこみ上げ、威厳に満ちた言葉が口から出る。
「筆先」の始まり / やがて「筆を持て」と言う神のお告げを受けて、開祖の手が自然に動き〈自動書記的に〉、和紙に文字を書き始める。昇天までの27年間に半紙約20万枚に達する。
大本神諭 / “ひらかな”で記された筆先に出口王仁三郎が漢字を当て、まとめた大本の根本教典。その内容は、大本出現の由来、神と人との関係、現実社会の批判、日本民族の使命、人類の将来に対する予言・警告を通して、「三千世界の立替え立直し」を断行し、永遠に変わらない地上天国「みろくの世」の到来が啓示されている。
出口王仁三郎聖師
出生と昇天 / 明治4年(1871)、京都府亀岡市で出生。昭和23(1948)年1月19日、78歳で昇天。
幼少時代 / 神童・八ツ耳と言われるほど特別な霊能力を持つ。〈幼名・上田喜三郎〉。小作農の家庭に生まれ小学校を中退。農業のかたわら書生やラムネ製造、牛飼いなど辛酸をなめる。
高熊山での修行 / 明治31年(1898)旧2月、郷里の霊山・高熊山にて1週間の霊的修行を行う。霊界の秘奥をきわめ、天眼通、天耳通、天言通、宿命通、自他心通などの高度な霊能力を体得。救世の大使命を自覚。
開祖との出会い / 「西北の方角をさして行け」との神示を受け、綾部の大本開祖を訪ねる。明治32年から開祖と力を合わせて神業を推進。やがて開祖の末子・すみこ(後の二代教主)と結婚。後に開祖とともに大本の教祖として大本の教えを説く。
霊界物語の口述 / 大正10年(1921)に出口王仁三郎は、人類の危機を救い、思想の混乱を正し、宗教・科学を真に生かし、人間の霊魂を改造すべく、永遠にわたる人類の指導書として81巻にわたる「霊界物語」を口述。霊界物語は開祖の筆先の真意を解きあかし、天地創造に始まる地上霊界の歴史を述べた、地上天国建設の設計書。
万教同根と宗際化 / 大正12年(1923)、国際語エスペラントを導入。同14年(1925)、北京において世界宗教連合会を発足。続いて人種・民族・宗教等あらゆる有形無形の障壁を越えて、人類の大和合を唱導するため人類愛善会を創立。ベトナムのカオダイ教やドイツの白色旗団、ブルガリアの白色連盟等、広く世界の新精神運動と提携した。今日に至る宗教協力活動の礎を築く。
芸術と耀盌(ようわん) / 王仁三郎は「芸術は宗教の母なり、芸術は宗教を生む」と主張し、「洪大無辺の大宇宙を創造したる神は大芸術家でなければならぬ。天地創造の原動力、これ大芸術の萌芽である」とのべた。さらに芸術と宗教の一体を説くとともに、自ら、自然を愛し芸術に親しんだ。文筆、書画、陶芸、詩・歌など、多方面にわたる膨大な数の芸術作品を残した。それら作品の中で、もっともつよく人々を驚かせたのは、晩年に全精力を注いだ手造りの楽茶わん3000個であった。フランス油絵のような鮮やかな色彩美により、昭和24年(1949)「耀わん」と名づけられた。のちに耀わんをはじめとする作品は、欧米6カ国13都市における海外芸術展「王仁三郎とその一門の芸術展」で展示され、大きな反響をよんだ。
大本の教え
神の実在
天地のすべてのものは、関連し統一されています。しかも、絶えず動いています。この複雑微妙な統一が偶然にできあがるものではありません。そこには、絶大な統一意志が働きかけているのです。この絶大な意志の所有者を「神」といいます。
生み出し導く力
宇宙には造化のはたらきがあり、あらゆるものが生み出され、守られ、導かれています。この宇宙造化のはたらき、大自然の力こそ神から出たものであり、その力が神そのものでもあります。時計でも、時計自身が自然に動いているようですが、実は人間がさまざまな部品を組み合わせ、動くように造っているのです。天地でも、自然に動いているようであり、偶然に関連し統一されているようですが、そこには神という大宇宙を造られ、天地間のすべてのものを関連させ統一しておられる存在があるのです。神は大宇宙そのもの、また大宇宙のすべてのものを創造されたのですから、私たち人間一人ひとり、小さくは細胞の一つひとつまで、また私たちの周りの草や木、山や川など動物、植物、鉱物一切、大きくは地球、太陽、また私たちの肉眼では見えない星にいたるまで、無限に広がる大宇宙すべてを創造され、守り、生かしておられるご存在です。
限りない神の恵み
神から生み出された存在として、私たち人間を例にとって考えてみましょう。人間は、自分自身で生きているように錯覚していますが、神の大きな恵みによって生かされているのです。当たり前のように呼吸をしていますが、空気が数分間止まったら私たちは生きていけません。私たちが食する物は、すべて神の恵みによるものです。農作物や海産物などは、日、土、水など神の恵みによって生み出されはぐくまれたもので、人間はそれを収穫するために労働したにすぎません。加工品でも、神の恵みによって生み出されたものに人が手を加えただけです。そして、意識をしなくても私たちの体内の臓器、一つひとつの細胞は生きて活動できるように日夜動き、働いています。それぞれの臓器、細胞の一つひとつを生かし動かしてくださっているご存在こそ、神なのです。
神は大創造主
神は、見ることはできませんが、感じることはできます。人間一人が生かされていることひとつとってみても、神の偉大さを感じずにはいられません。それが、小さくは人の細胞一つひとつ、地中の微生物、植物の葉脈の一本一本、大きくは天体の寸分狂いない運行など、すべて神によって生かし動かされているのです。空に輝く星の世界、その星の群のまた彼方に広がる星の群…。この大宇宙に整然とした秩序をつけ、動かしている神のお力を悟らせていただきましょう。神が創造された世界は、この物質的な世界だけでなく、目に見えない心の世界、私たちの死後の世界など、人間心では到底計り知れない霊的な世界をも創造され、守り育てておられるのです。
大本教旨
神人一致
神は万物普遍の霊にして 人は天地経綸の主体なり、神人合一して 茲に無限の権力を発揮す
大本は、神について、人について、神と人との関係について示した聖言を「教旨」としています。人は、神のみ心を腹の底から理解し、神のみ力を受け、神と人とが一体となって人類の理想の世界を築いていくことをうたっています。
「神は万物普遍の霊」とは、神はこの世一切を創造されたご存在であり、この世一切のものには神の普遍的な霊が宿っているということです。
天地経綸の天とは、地上に対する宇宙であり、現実世界に対する霊の世界をも意味します。ここでいう天地とは、霊界・現界を合わせた全宇宙を指します。経綸とは、整え治めることです。
私たち人間は神の代行者として、神の願われる理想世界の実現に向けて、宇宙全体を整え治めるために構想し、実践していく責任者です。
人間は神が創造されたすべてのものの霊長であり、神の願われる理想世界を実践していくために、神から絶大なる知恵と力を授けられているのです。
人はこのような雄大な使命を頂いていますが、その使命を果たすには、神人合一することが絶対の条件です。神の心を心とし、神の力を身に受けてこそ、この使命を遂行し、限りない権威と力徳を発揮することができるのです。
三大学則
大本は、独一真神が無限絶対な存在であり、広大無辺であることを悟るために、三カ条の学則を示しています。この三大学則は聖師のお示しであり、神の創造された宇宙のすべてのものは「霊・力・体」の三元から成り立っています。
神が創造された全大宇宙をじっくりと観察することにより、神の実在とご神徳、神性を悟ることができます。大自然は、無言の教科書です。人間的知恵で書かれた書物よりも、大自然、天地万物を心ひそめて観察することによって、神の霊・力・体を深く感じ、悟ることができるのです。神の黙示は、大自然のいたるところに満ち満ちています。
神は、霊・力・体の三元をもって万有一切を創造されました。したがって、宇宙にあるものはすべて、霊・力・体の三元よりほかにはありません。
三大学則の三カ条を拝しながら、神の霊・力・体について思考してみたいと思います。
三大学則
一、天地の真象を観察して、真神の体を思考すべし
一、万有の運化の毫差なきを視て、真神の力を思考すべし
一、活物の心性を覚悟して、真神の霊魂を思考すべし
天地の真象を観察して真神の体を思考すべし
肉眼で見える星の数は7,500余。天体望遠鏡を用いると、300億以上になるといいます。天の川は無数の星の集まりで、その端から端までの距離は30万光年あります。光の速さは、1秒間に地球を7回り半します。1光年とは、光の速さで1年かかって到達する距離ですから、30万光年という距離は驚異的です。
私たちの住む地球は、太陽系宇宙の小さな一惑星にすぎません。太陽系宇宙といっても、銀河系宇宙のほんの一部分です。その周りには数限りない宇宙が広がり、最も近い星雲でも70万光年あると言われています。神が創造された宇宙は無限に広がり、はかり知れません。
地球は、海があり陸があり、山があり川があって、60億の人類をはじめ、さまざまな動植物が太陽の光と土、水など大地の恵みによって生きています。生を受けた生物は、寿命を終えると一様にその亡きがらは大地に帰り、次の生命を養う栄養となります。
土の中にも数十億の微生物がおり、顕微鏡でしか見られない微生物、体内の細菌等にもはっきりとした組織があり、はたらきを持っています。極小のものとしては原子の世界があり、整然とした秩序、法則をもっています。
これらは一例ですが、極大の世界から極微の世界までを創造し、秩序・法則をもって生かしはぐくんでいる無限絶対のご存在が神なのです。
万有の運化の毫差なきを視て真神の力を思考すべし
天地間のものの中で、静止しているものはありません。大は天体から、小は原子まで、すべてが活動し、運化しています。そして、その動き方、うつり方にはみな一定の法則があり、軌道があります。このことが、宇宙間に大小さまざまな周期律をつくっています。
太陽系では太陽を中心に九つの惑星がそれぞれの軌道で回っています。地球が太陽の回りを1周する時間を1年、地球自体が1回転する時間を1日とし、それによって、1年の中に春夏秋冬が、1日の中に朝昼夜が巡ってきます。そして、悠久の太古から永遠の未来へと、一分の狂いもなく動き続けています。
すべてのものは物理的に運化しているだけでなく、質的にもうつり変わっています。たとえば大地に落ちた樫の実が芽を出したとしましょう。次第に幹ができ、枝が伸び、葉を付けます。やがて大きな木になり、花を咲かせ、実を結びます。そしてその実が落ち発芽して、新たな生命が誕生します。これが、樫の質的なうつり変わりであり、軌道です。
生物は独自の軌道を持ち、その軌道に従って生まれ、育ち、成熟し、生み、老い、死ぬという運化を繰り返し、この順序に狂いはありません。また、動物は空気中の酸素を吸い、二酸化炭素をはきます。植物は二酸化炭素を吸って酸素をはき出します。このように、それぞれの運化の中で双方が立ち栄えていっています。
生物だけではありません。大地の上の水は、絶えず水蒸気となって空にのぼり、やがて雲となり、雨や雪となって大地に還ります。
このように極大から極微まで、すべてがそれぞれ運化を続け、大調和のうちに、天地の生成発展に参画しています。そこには、神の絶大な力と、その力から分け与えられたそれぞれの分力がはたらいているのです。
活物の心性を覚悟して真神の霊魂を思考すべし
活物の心のはたらきの中で、最も基本的で共通していることは、生命を大切にする思い、生きようとする意欲です。この生存本能によって、すべての活物は呼吸し、光、熱を求め、食物その他生きるために必要な諸条件を求めています。生命を犯すものから逃れようとし、避けられない困難には打ち勝って、生き延びようとします。このような心性、本能を活物に与えたのは神であり、それによって活物は生き、栄えているのです。
いま一つ、活物すべてに基本的に共通しているのは、生殖本能です。それは、自己の子孫をつくり、自己の遺伝子を永遠に広げようとする営みです。それに関連していろいろな性情が現れ、異性に対する慕情が生まれ、やがて親子の深いきずなができてきます。
動物でも、親子の強い情愛があります。私たちの身近にいる雀を例に取ってみましょう。カップルができたら一生懸命に巣作りに励み、卵を産んだら親鳥はほとんど巣から離れることなく卵を温めます。雛がかえると親鳥自身はほとんど食べずに、エサを雛に運びます。外敵が来ると、身をもって雛を守り、大きい外敵にも立ち向かいます。
だれに教えられなくても、雛に対する愛情、育てる知恵、勇猛心、親和の情などの心のはたらきが備わっているのです。これは、動物に限らず植物にも言えることです。
広大無辺な宇宙に対し個々の活物は、比較にもならないほど小さな存在です。しかし、生きようとする力強い本能があり、親子の間にみられるような美しい愛を持っています。この本能は、神から分け与えられた尊い心性なのです。
四大主義
大道実践の原理 「四大主義」(しだいしゅぎ)
一、清潔主義 心身修祓の大道
一、楽天主義 天地惟神の大道
一、進展主義 社会改善の大道
一、統一主義 上下一致の大道
清潔、楽天、進展、統一の四項目からなる四大主義は、天国天人が実践している生活そのものです。地上天国を建設していくことが人生の目的であると教えられている私たちは、この四大主義の実践に努め、人として生まれさせていただいた使命を果たさせていただくことが最も大切です。
清潔主義 心身修祓の大道
清潔主義を実践することは、物質方面だけでなく、霊的な方面、心の方面をも祓い清めることです。私たちはとかく目に見える方面のみにとらわれがちですが、物質方面を祓い清めること以上に、霊的な方面のお祓いが大切です。
私たちは日常生活の中で、物質的な祓い清めは、意識的に、また無意識のうちに行っています。朝起きたら顔を洗いますし、窓を開け、掃除をします。風呂に入って体を洗うこと、日々の掃除で補いきれない部分の定期的な大掃除なども、修祓、潔斎ですし、身だしなみや、トイレに行くなど生理的現象による行動も、無意識のうちに行っている体内の浄化、潔斎です。
私たちの体内では、常に浄化作用が行われています。物を食べると胃腸で消化され、体内に必要な養分が吸収されると、残った部分は体外へと排泄されます。血液の循環も、胃腸で吸収した栄養分、呼吸器で取り込んだ酸素などを末端組織まで運び、使用された不要物を体外へ運び出して新陳代謝を行っています。
この体内での浄化作用のいずれかが障害を起こすと、体のバランスを崩し、健康を損なう原因となります。
  天地自然の潔斎
天地自然の潔斎は、大潔斎、中潔斎、小潔斎に分けられます。 大潔斎は、大地震、大洪水など、天地の大掃除です。中潔斎は国家、社会の大掃除で、戦争、火事、飢饉など。小潔斎とは一身一家の掃除のことです。大潔斎、中潔斎は、それらが起こることによって被害が伴います。神から見れば潔斎ですが、人間の小さな視野で見ると、これは災いであるとも言えます。聖師は、「大三災小三災の頻発も人の心の反映なりけり」と示しています。大三災とは風、水、火による天災、すなわち大潔斎のことで、小三災とは、飢、病、戦による人災を意味します。ここ数年、異常気象や大地震、アメリカ同時多発テロに端を発したアフガニスタンやイラクでの戦争など、大三災や小三災が頻発しています。このような災禍が起こるのは、人の心が反映しているのです。
  邪気が災害の原因に
清潔主義は、霊体不断の修祓です。霊的方面でみると、心の中に起こる地獄的な想念、恨み、ねたみ、憎しみといったものを絶えず祓い清め、常に清らかな気持ちで生活していなければ、清潔主義とは言えません。それができていないから、その心の反映として、大三災、小三災が起きているのです。すべての災害は邪気に原因があり、地獄的な想念が凝れば、それが社会全体へ影響して、災害を起こすのです。異常気象が起こるのも、社会に争闘があるのも、社会共同の責任であると認識しなければなりません。
  環境・食物が心に影響
出口日出麿尊師は、環境と食物が心に大きな影響を与えることを示しています。私たちの身近な環境を見てみましょう。便所のツボにはうじ虫がわき、溝には溝相応の物がわき、きれいな水にはきれいな魚が住んでいます。不衛生な場所には腐敗が生じます。きれいな花園にはその蜜を求めて蝶が飛び交い、美しさを求めて人が寄り、天国さながらの空間が現出します。このように、環境のいかんによって住むものも変わり、人間の気持ちも天国的になったり地獄的になったりします。食物も人間の心に大きな影響を与えます。肉食は精神的にも肉体的にもあまりよい影響を及ぼさないと示されています。特に日本人は、昔からあまり肉を食べなかったため、体質的にも肉食はふさわしくありません。腸の中で腐ると非常な毒になるそうです。また肉類を多く食すると、性欲が強くなったり、気持ちが荒くなったり、忍耐力がなくなります。食物は、植物性のものを主とした方が良く、植物性の物でも新鮮なものを摂取することが、体にも心にも良い影響を与えます。植物性のものは、その土地の気を含んでいて、新鮮なほど気が充満し、栄養価は高いです。しかし、現在店頭に並んでいる野菜の多くは、形は美しくても新鮮さが感じられません。食物は旬のものがよいのですが、その季節にしか収穫できないものが年中出回っていて、いつが旬かも分からない状態です。加えて、外国から輸入される果物や野菜、多量に農薬が使われているもの等も多く出回っています。自分の健康は自分で守っていかなければいけません。自身で無農薬有機農法で畑作を行ったり、害のない食物を求めるなど、体によいものを頂くよう心がけたいものです。
  良い言霊で浄化を
清潔主義とは心身修祓の大道であり、修祓はすべて祓戸の神のお働きです。 私たちが奏上する祝詞は、全大宇宙を清める祓戸の神に、神意に反すること、罪、汚れを祓い清めていただき、神々が祓い清めの神徳を発揮されることをお願い申し上げるものです。私たちは、祝詞を奏上するとともに、神人一致し、罪けがれを祓い清めるよう努めていかなければいけません。祝詞だけでなく神書、宣伝歌、愛善歌などはすべて神の言葉であり、天授の真理です。それらを声を出して発していくことで、大きな言霊の力によってその一帯が浄化されていきます。加えて、周りに対して善言美詞に努め、人をほめたたえ、気持ちの良い明るく前向きな言葉をかけていくことも大切なことではないでしょうか。
楽天主義 天地惟神の大道
一般的に楽天主義というと、自分自身が楽しければそれで良いというふうにとらえられがちです。しかし、自分の喜びを得るために周囲の人に不快な思いを与え、社会に害をなし、ひいては地球環境をも悪化させていることに気づかなかったり、気づいていても狭い範囲の喜びのために見て見ぬふりをしていることが、私たちの周囲には多いことも事実です。
楽天とは天命を楽しむことです。天命とは、神から与えられた天職使命であり、神からのお言いつけです。動物にも植物にも鉱物にも天命があり、いのちがあります。すべてのものがその天命にしたがって天地の化育に参加することが、真の楽天です。
  悪に陥りやすい特性
私たちの身の回りの動物、植物、鉱物は、天命にしたがって天地の化育に参加しています。与えられた境遇に不平を言うわけでもなく、与えられた天命を果たすために懸命に生きています。それに比べて、万物の霊長である人間はどうでしょうか。人間には、神から分け与えられた知能と霊性が備わり、動物に比べてずば抜けて優れています。それは、神の代行者として神の願われる理想世界を建設するために与えられたものです。しかし、その優れた知能、霊性が、逆に悪霊の欲望を満たすために発揮されてはいないでしょうか。現在、日本で、世界で起こっている現象を考えてみると、人間自身がより便利にしていこう、合理的にしていこう、開発していこうと行ってきたことが、オゾン層の破壊や地球温暖化現象などの世界的な異常気象につながり、神が造り上げられた美しい地球をも破壊してしまっています。また、優れた知能は、核を開発したり自然や人を破壊していくさまざまなものを生み出す方向へと、利用されてきているのです。人間は、神の入れ物になり得ると同時に、悪霊の入れ物にもなり得る特性を持ち合わせています。そのために起こる罪悪の心が、神のみ心に背く形として現れてきているのです。
  信仰的刹那最善主義
それでは、万物自然の心境である楽天的な気持ちで生きるには、どうしたらよいのでしょうか。大本では、信仰的刹那最善主義の実践こそが楽天主義だと教えています。すべてを神に任せ、刹那刹那に最善を尽くすことです。人間には、幅広い自由意思が与えられています。その自由意思を行えるのは、「今」という刹那だけしかありません。過ぎたことはいくら悔やんでもどうにもなりませんし、先のことはいくら思いわずらっても仕方ありません。すべてを神に任せ、その時その時を楽しみながら精いっぱい生きることが、真の楽天です。「今」というものは、過去が積み重なって「今」になったものですし、過去の結果があらわれたものです。また「今」が伸びていけば、未来になるものです。過去も未来も現在が積み重なり、また現在が造っていくものです。よく「人事を尽くして天命を待つ」と言われますが、すべてを神に任せて自身の最善を尽くす「天命を知って人事を尽くす」生き方の実践が、真の楽天主義の生活です。楽天主義を実践し、勇んで暮らすことによって、歓喜に満ちた生活が現出します。その生活こそが、地上天国なのです。
進展主義 社会改善の大道
進展とは、より良くなりたいという行動の希望です。天命を楽しむ「楽天主義」の実践には、行動が伴い、動きがあります。その動きには、すべてのものが良くなりたい、向上したい、進歩したい、開発したいという、前向きな希望を持っています。これは、私たちの周囲だけでなく、大宇宙のすべてにあるものです。
  消極は地獄、積極は極楽
人間だけでなく、動物も植物も鉱物も、完全なものはありません。完全でないから、より完全に近づくために、絶えず進展しようと努力し、生成化育を遂げています。そして、すべてのものは常に進展し続け、後戻り、し直しはしないのが真のあり方です。尊師は「消極は地獄であり積極は極楽である」と示し、生活の中で積極的に物事をなしていくことの大切さを説いています。信仰生活では省みることが大切ですが、省みることは消極的に考えられる向きがあります。省みるとは「少し上を見続ける」ことで、決して萎縮してしまったり、引っ込み思案になったりすることではありません。
  現実を向上させる
現実は、一足飛びに理想どおりにいくものではありません。少し上を見るということは、理想を見ながら今の現実を一歩ずつ着実に理想に近づけていくことです。私たちは、天授の真理である「教え」と現実を照らし合わせ、現実をより理想に近づけていくことに努めていくことが大切です。
  刹那最善主義の実践
そのために、常に内に省み、「教え」にそぐわない点は改善していく勇気が必要です。自己を改善していくには、理想にそぐわない自己というものを捨てることが大切です。自己を捨てることによって、より自己が拡大していくものです。そして、信仰的刹那最善主義を実践し、謙虚に自己を省みる心によって、霊性の上でも進歩向上していくことができるのです。この世の中は、一本の道筋の進展でなく、相反するものが順序よく行われていくことで進展していきます。一日の生活の中には、夜があって昼があります。呼吸をするにも、吐く息があって吸う息があります。食事を食べれば、必ず排泄という行為が伴います。これらが順序よく適度に行われ、進展があるのです。すべて、この+と−との無限の組み合わせによって、宇宙のすべてのものが生まれ、進展していっているのです。進展していく中には、目の前にハードルが立ちはだかる場合もあります。しかし、それを乗り越えると一気に道が開けることもよくあります。さまざまな試練に遭い、壁にぶちあたって苦しい思いをしながら、真剣に神に祈り、その壁を乗り切っていくことが、人間をより成長させていくことにつながります。神が創造したこの大宇宙は、無限の広がりをもちながらわずかな狂いもなく、一刻も休むことなく動いています。私たちの人体も、寝ている間も神の守護を受けて活動しています。私たちも、進展し続けるすべてのものに逆行することなく、常に前向きに進んでいきたいものです。
統一主義 上下一致の大道
統一主義は、四大主義の中でも最も重要なものです。すべてのものに統一がなかったら、そのものの存在自体がなくなってしまいます。
宇宙そのものが統一体
大宇宙そのものが、統一体をなしています。無限に広がる広大な宇宙の空間にある天体は、すべて統一されて動いています。その軌道が不規則になったり変更されたら、宇宙そのものの統一がなくなってしまいます。
また、人体やその細胞一つひとつ、分子、原子といった極小の世界まで、すべて統一が保たれています。
  中心帰向の調和相
統一とは、中心帰向の調和相です。すべてのものは統一体であり、それぞれに必ず中心があります。人間なら、頭が中心となって、頭の指令によって手足などの部分がその意思を把握し、体現しています。団体生活の中では特に、統一は不可欠です。団体なら必ず団体の長が中心になります。その長と団体を構成する人たちの気持ちが一つになって物事が行われたとき、その団体は繁栄していきます。
  神を中心とした統一体に
すべてのものは、神によって造られ、神によって生かされています。すべてのものにとって、神を中心とした統一体になることが、それぞれの真の幸福につながっていくのです。そのためには、「まつり」が不可欠です。私たちは、神からつくられたすべてのものとまつりあわせていくとともに、創造主である神を絶対の中心として統一し、まつりあわせていくことが大切です。そして、神のリズムである宇宙の普遍的なリズムにまつりあわせ、そのリズムにとけ込んだ生活を心がけていくことが、真の幸福につながる道なのです。神のもとにすべてのものが和合し、神が願われる理想世界建設のために、私たち一人ひとりがその神業に奉仕していくことが、統一主義の根幹です。
四大綱領
人類生活の原理 「四大綱領」(しだいこうりょう)
一、祭(まつり)惟神の大道
一、教(おしえ)天授の真理
一、慣(ならわし)天人道の常
一、造(なりわい)適宜の事務
人にはそれぞれ、神から与えられた本分(使命)があります。人生の本分をつとめあげるために必要な、日常生活の原理を四大綱領といいます。人はこの「祭」「教」「慣」「造」の原理にそって生きることによって、幸せな人生を送り、世の中を明るく平和にしてゆくことができるのです。
祭(さい・まつり) 惟神の大道
まつりとは「真釣り」の意味で、全く釣り合うことをいいます。神のみ心と自分の心がまったく釣り合った状態が神とのまつりの状態、神人合一の状態、無限の権力が発揮される状態です。
神とのまつりあわせは、経のまつりです。 同様に経のまつりとして、天界と地上世界のまつりあわせがあります。また緯のまつりとして、宇宙環境、地球自然環境、社会環境、人間環境のまつりあわせがあります。つまり、まつりとは神と人との間だけでなく、宇宙のすべてのものの間に行われているものであり、私たち人間相互の間にもまつりがあります。このまつりが崩れると、幸福はなく、調和が崩れ、平和は到来しません。
  人間相互のまつり
ここで、人間相互のまつりについて考えてみましょう。私たちの身近なところでは、まず夫婦のまつりあわせがあります。男女は同権ですが、大本では 夫唱婦随 と教えています。夫は家の大黒柱です。妻は夫をたて、夫に従いながら家を治めていく役割があります。縫い物にたとえると夫は針、妻は糸です。針である夫が縫い代をすすみ、その後を糸である妻が従ってすすんで、縫い上げられていきます。この 夫唱婦随 の基本が崩れると、夫婦のまつりが崩れてしまいます。親と子にも、まつりがあります。親は子を養い育てる義務があり、これをいい加減にしていると、子供の性格までもゆがんできます。一方子供は、養い育ててくれる親を愛し敬うのが、本来の姿です。家庭で起こる諸問題の多くは、親と子のまつりあわせができていないことに起因します。先生と生徒の間のまつりは、教える側と教わる側というけじめが大切です。これが師匠と弟子のまつりとなると、教える側と教わる側のけじめがより絶対的なものとなります。師匠の指導は絶対として素直に受け取ることで、弟子は師匠の技術のみならず精神までも吸収していくことができるのです。このほか、先輩と後輩、友人同士など、身近なところでいろいろなまつりがあります。それぞれそのまつりのあり方は異なりますが、正しいまつりあわせが行われていけば、そこには幸福があり、調和があり、平和なのです。
  自然とのまつり
動植物の世界にもまつりが行われています。草食動物は植物を食し、肉食動物は草食動物を食し、すべての生命は土に帰って植物の養分となり、それぞれが生成化育していっています。大自然の営みの中で、植物、草食動物、肉食動物の三者が見事にまつりあって、それぞれの子孫を残し、はぐくんでいるのです。宇宙大に目を移せば、宇宙の中では小さな存在である太陽系宇宙でも、太陽の周りを地球などの惑星が衝突することもなく、規則正しく運行しています。そのまつりが、無限に広がる宇宙の彼方まで絶妙に行われているのです。人体も小宇宙と言われ、あらゆる臓器が、すべての細胞が、まつりあって動いています。このバランスが崩れると体調を崩したり病気になったり、生命をむしばんでいきます。このように、まつりとは宇宙の普遍的リズムであり、すべてのものは大神さまの神格であるこのリズムによって動いているのです。
  神霊との和合
すべての組織には中心があります。全大宇宙の中心は、天地宇宙をお創りになった主の神です。この中心の主の神とまつりあわし、そのご恩に対して感謝の気持ちを表すことが、まつりであり、祭祀です。神をまつるあり方として、顕斎と幽斎の二つがあります。さまざまな形式を整え、荘厳にして美しく楽しく行うものを顕斎、神霊に対して自身の霊をもって行うものを幽斎と言います。日本の神道では、昔から祭を顕斎と幽斎に分けています。幽斎は、体的な対象なしに、あるいは形式なしに神に対するものです。顕斎は、ある一定の儀式にしたがってお祭りすることで、神さまの宮を作りお供えをしたり、朝夕のお礼をするということは、顕斎にあたります。顕斎は「祭るの道」、幽斎は「祈るの道」で、どちらも大切です。顕斎のみにかたよるのも、幽斎のみにかたよるのもよくないと示されています。
  正しいまつり
人は神に目ざめ、万物は神のみ心によって、神のみ恵みの中に生かし育てられていることを悟る時、おのずから、神さまに対する感謝の心がわき上がってくるものです。人の心の中にあることは必ず言動となって現れますが、この神さまに対する感謝の念は、神を斎きまつるというやむにやまれぬ心情となって現れるのです。また、神さまのみ心に真釣り合い、神のみ国をこの地上に移してゆくためには、まず、神さまに祈りをささげることからです。この感謝の心が行為となって現れたのが「祭り」です。
  大祓いの意義
神に仕えるには、修祓、潔斎が不可欠です。 大本の祭典は、種々の罪穢、科過を大麻(切火、塩水の祓いもあります)で、それぞれの心、身体を清めた上にも祓い清めて、祭典を始めます。そこには、神さまから付与されている霊魂を増殖させ、新しく祓い清められた霊魂に神さまのご守護をうけ、すがすがしく祭典に奉仕、参拝し、ご神徳を頂くものです。『大祓いはすなわち天地の真釣りなり』と示されていますが、信仰生活の第一歩は、祓いの実践からはじまります。朝夕奏上する祝詞は祓いの言葉であり、浄化・潔斎につながっていくものです。神を斎きまつるには、顕斎と幽斎の区別をわきまえ知らざるべからず。真如ここにそのことを証せん。顕斎は天津神、国津神、八百万の神を祭るものにして、宮あり、祝詞あり、供物あり、御弊ありて、神のご恩徳を称えて感謝の心をあらわす尊き業なり。幽斎は誠の神、天帝を祈るものなれば、宮も社もなく、祝詞もなく、御弊もなく、供物もなし。ただ願うところのことを霊魂をもって祈りたてまつる道なり。つづめていうときは、顕斎は祭るの道にして、幽斎は祈るの道なり。まことの神は霊なれば、その尊き霊に対して祈るは霊をもってせざるべからず。顕斎のみにかたよるも悪しく、幽斎のみにかたよりすぎるも悪しきなり。祭るには偶像も悪しからず、ただし偶像目あてにして幸わいを祈るはよろしからず。祈りは霊魂をもって天の御霊に祈るべきなり。 (出口王仁三郎)
教(きょう・おしえ) 天授の真理
大本の「教」は、天授の真理です。天とは神のことですから、天地を創造された神から授けられた真理を教えとしています。神は絶対的なご存在であり、大本の教えは、人間的な考えや私的な都合などはいっさい含まない、絶対的なものです。そして、大本の教えは、時、所、人を問わず、時代を問わず、また現界、霊界を問わず、どこでも、だれに対してでも、絶対的な真理なのです。
  教典・教説書・教書
特に二大教祖である出口なお開祖、出口王仁三郎聖師をとおしてまことの神から伝達された天授の真理が、根本の「教」です。大本では、開祖の筆先に聖師が漢字を当てた「大本神諭」(全7巻)、聖師が口述した「霊界物語」(全81巻83冊)を二大教典とし、聖師が示した「道の栞」「道の光」を加えて教典としています。教祖が直接示した教えが教典です。それ以外の聖師の論文、随想、道歌、歴代教主・教主補の教示を教説書、時代の教主の教示を教書としています。神書とは、教典、教説書、教書の総称です。
  強制の力が必要
教の方法は、外から内へ与えることと、内なるものを引き出すことの二方面があります。この二つの方法は、同時一体となって行われるべきです。前者は、教を豊かに学ばせるために外から与えることであり、後者は、生まれながらに宿っている神性を引き出し、それを成長させることです。出口日出麿尊師は 教えること について、「緒強う」という字を当て、「オは魂の緒で霊魂のこと、教というのは悪い方の魂の緒をだんだんと強いて良くしてゆくという意味であります。これは、悪い方を純化してゆく向上的な手段であります」と示しています。霊魂の悪い面は強いて抑え、良くしていくことです。また良い面は、困難を排してそれを引き出し、伸ばしていくことです。したがって、教には強制の力が必要です。「なくて七癖」と言われ、だれでも自分の考え方、価値観、また態度や動作に現れる癖があります。しかし、それが正しいとして自分勝手に生活していたのでは、この世に争いごとは絶えません。特に、自分の考え方、価値観の中には、神がもっとも戒めている「われよし」「強い者勝ち」という悪の要素が、多分に含まれています。大本の教えは天授の真理ですから、悪の要素が含まれていません。この教えを実践することによって、神が願われるみろくの世が実現していくのです。
  「感恩」「鍛錬」「順序」
尊師は、天授の真理である教の中で、、「感恩」「鍛練」「順序」の大切さを示しています。
まず「感恩」。いろいろの理屈を知ったり、知識を得ることよりも大切なことは、ありがたいという気持ちを持ち、また友情、誠とはどういう力であるかを知ることです。私たちの行動は、根底にある感謝の気持ちから発しているものです。人間は片時も、神の恵みなくしては生きてゆけません。しかし、私たちはこのみ恵みに慣れすぎていて、神のありがたさを忘れてしまいがちです。教えをとおして、改めて神の感恩を悟らせていただきましょう。
次に「鍛錬」。真の自分をつくり上げていこうと思えば、それだけ苦しまなければなりません。それだけ鍛錬されなければならないのです。
最後に「順序」。これは、物と物との関係、人間同士の上下、左右の区別などをしっかりとわきまえていないと、真の教え、物の道理がわからないということです。
  まず神書拝読から
教えを実践するには、まず神書を拝読することです。手を清め、口をすすいで、清らかな気持ちで神書に向かい、二拍手をして拝読しましょう。大切なことは、神の教えを素直に項くこと。そして、声を出して音読することです。音読することにより、自分の頭の中だけでなく、自分の中の守護神、また回りの霊にもみ教えが浸透していき、自分の血となり肉となっていきます。拝読をしたら、示されていることを実践していくことに努めましょう。大本の教典は普遍的な真理です。また、歴代教主の教えは、それらの教典を時代に即して分かりやすく説き、時代時代の神の経綸の柱となるものです。教えに基づいて、神の目から見て何が正しくて、何が間違っているかを判断し、神のみ心に添える行い、生活の実践に心がけていきたいものです。
慣(かん・ならわし) 天人道の常
慣とは「天人道の常」と示され、天道の常、すなわち神が定められたならわしと、人道の常、人としてのならわしをさしています。
神が創造した宇宙のすべてのものは、天道のならわしのもとに活動しています。すべての物の軌道は慣そのもので、地球と太陽、大宇宙と太陽系など、みな、神が定めた慣によって動いています。また人も、神が定めた慣が備わっています。そういう意味で、天道と人道は一体のものであると言えます。
人間はだれでも、さまざまな癖、いろいろな習慣を持っています。その中で、生まれながらにして先天的に持っている習慣があります。これは、五倫五常といわれる君臣、父子、夫婦、長幼、親友の守るべき道があります。また一霊四魂の働き、すなわち、五情の戒律といわれる省みる、恥る、悔いる、畏る、覚るという、人間の霊魂の中に備わっているものがあります。これらは、神から授かった人間の慣性です。
同時に、生まれてから日常生活の中で、後天的な慣性が身に付いてきます。それによって生活のリズムができ、規律が生まれ、社会で生きていくすべを身につけていきます。
尊師は「人を仕込むにも、教を先にしたらわからぬ。型からはいらせなくては身にしまない。真理に導くためには、慣ということは非常に大事なものであります」と示しています。口で言うよりも、実際に体験させることで、体にしみこんでくるのです。
私たちが信仰生活をしていく上で大切なことは、知らず知らずのうちに身に付いた癖を直すことです。よくない習慣は、生まれながらに神から授かった一霊四魂をも曇らせてしまうことになります。み教えに基づいて悪い慣を直し、良い慣をつくっていくよう心がけたいものです。
造(ぞう・なりわい) 適宜の事務
造は「適宜の事務」で、人の天職使命である地上天国建設のために適材適所に従事する職業のことです。尊師は「造は自分の思うままをつくること、創造すること、自己の自発的衝動のままに行うこと」と示しています。
慣や教にとらわれず造の生活をしているのは、赤ん坊です。神さまから頂いたままの清浄無垢な状態で、朗らかな生活をしていますが、人間として生まれた以上は、慣や教を身につけ、祭の境地まで進まなければいけません。造は慣を作り出します。造を悪く利用すると悪い慣が、造をよく利用すればよい慣ができます。造を行わせる力とは、人間の本能であり、神から頂いた先天的な意志です。
私たちは、なんらかの職業を持って生活しています。私たちが神から頂いている天職使命は、地上天国建設のご神業に奉仕することで、すべての人に共通しています。そして、それぞれの職業に従事し、その職業に励み、職業を通してこの天職を果たしていくことが、私たち人間に課せられた使命なのです。
一人ひとりが真の目的に向かってそれぞれの仕事に励むことで、世の中は一歩一歩みろくの世へと前進していきます。そして、生業の中で信仰生活を実践していくことが、私たち信仰者にとって最も大切なことです。  
生長の家 

 

生長の家の信者数ですが1980年に300万人としていたものの、数字を改める試みを行い、300万人に改めたそうです。それは公称の信者数と現実の間に大きな開きが生じたためです。生長の家は、戦前において、あるいは戦後の一時期、時代の空気をつかみ、その勢力を拡大しました。しかし、時代が変化することで、信者数を減らすことになってしまったそうです。
生長の家の創立者谷口雅春は、1893(明治26)年11月22日、現在の神戸市の谷口音吉・つまの次男として生まれました。本名は正治でした。子供時代にはきぬの夫である又一郎の石津姓を名乗っていました。やがて大阪市岡中に入学し早稲田大学に進みました。その時代の早稲田大学は直木三十五や西条八十などの文学のメッカで、プラグマティズム哲学やウィリアム・ジェームズの思想やオスカー・ワイルドの耽美主義、さらにはトルストイの人道主義に惹かれ、こうした文化や思想に関心を持っていました。
その後女性関係で身を持ち崩し、やむなく大学を中退することになり工場で低賃金の労働者として働くことになります。やがて資本主義の世界に対する疑問から、工場長と激論したことをきっかけに工場を辞めます。そして、心霊治療や催眠術に関心をもち、それは大本への入信につながります。
谷口はそれまでも雑誌に記事を翻訳し投稿して原稿料を得ていたこともあり、大本でも文才が認められ、機関紙の編集や聖典である「大本神論」の編纂作業に当たり、大本の霊学の体系化にも力を注ぎます。やがて第1次大本事件で逮捕を免れた谷口は、聖師、出口王仁三郎が勾留の執行停止で出獄中、「霊界物語」の口述などの筆記をはじめます。また開祖出口なおが神懸りで記した「御筆先」と王仁三郎が漢字混じりに書き直したものとを比較対照し、不敬罪に該当する箇所がないか調査する作業を依頼され、谷口は御筆先をすべて読むことになります。
しかし、第1次大本事件の半年後京都鹿ヶ谷にあった一燈園の活動に惹かれ、その生活や思想に影響を受けた谷口は、王仁三郎の意に沿わなかったようで、谷口は、大本で結ばれた夫人の輝子とともに脱退の意を固めます。すでに大本の教団のなかで最後の審判が起こると予言されていた1922(大正11)年5月5日には、何事もなく過ぎてしまっていました。
谷口は、出勤前に近くにあった本住吉神社に参拝するのを日課にしていました。ある日彼は、「色即是空」という言葉を思い浮かべながら静座して合掌瞑目していました。すると、どこからともなく大波のような低く、威圧するような声がして、「物質はない!」と聞こえます。続けて「色即是空」を思い浮かべると、また、「無より一切を生ず」という声が返ってきました。この問答を通して、彼自身がコントロールに苦労してきたこころというものが実在せず、その代わりに実相があり、その実相こそが神であると悟ります。そうすると、「お前は実相そのものだ」という天使たちが自分を讃える声が聞こえてきました。
谷口は、自らの悟りを広く伝えるために雑誌の刊行を考えます。そして、会社に勤務するかたわら旺盛な執筆活動を開始し、雑誌に文章を投稿します。正治から雅春へと改名したのも頃でした。谷口自身は新しい雑誌を創刊し運動を進めたいと思っていましたが、資金も時間的余裕もありません。そうすると例の声は彼に「今起て!」と呼びかけてきました。決して彼は無力ではなく、力を与えているというのです。彼が「実相はそうでも、現象の自分は・・・」と、戸惑いを見せると、頭の中では「現象は無い!無いものに引っかかるな。無いものは無いのだ。知れ!実相のみがあるのだ。お前は実相だ。釈迦だ、基督だ、無限だ、無尽蔵だ!」という声が鳴り響きました。
谷口は、こうして雑誌「生長の家」創刊号を刊行します。1929(昭和4)年の大晦日に1千部の雑誌が刷り上り、正月早々、「求道者の会」に賛同した仲間を中心に、「生長の家」を無料で進呈していく。生長の家の目的は、「心の法則を研究しその法則を実際生活に応用して、人生の幸福を支配するために実際運動を行ふ」こととされました。こうして新しい宗教運動が誕生しました。
谷口はその教養を生かして、仏教やキリスト教の思想を自らの教えに取り込み、世界の本来のあり方としてとらえた実相の世界を説いていきました。人間の「念のレンズ」は歪みその結果、神の世界と人間の世界とに不一致が生じた。谷口は、「汝ら天地一切の物と和解せよ」と言い、迷いという念のレンズの曇りがなくなれば、地上にも神の世界が現れると説きました。雑誌「生長の家」が神誌として受け入れられたのは、雑誌を読んだだけで病気が治ったという人間があらわれ、それに感謝する手紙が多数谷口のもとへ寄せられたからでした。こうして、生長の家は現世利益の側面を強調するようになっていきますが、それはあくまで実相という本質に気づいたことの証として哲学的に解釈され、他の宗教とはちがって特殊な祈祷などを行うことがなかったために、生長の家は哲学的でインテリ向きの宗教だというイメージを保持していました。そして「生命の実相」全集普及版全十巻を観光し、大々的に広告をうち、第1巻だけでも5万3千部も売れました。教祖の著作を大々的に宣伝し、売り上げをあげる手法の先駆けは生長の家でした。
しかし、ジャーナリスト大宅荘一は、生長の家の根本思想は、素朴で原始的な唯心論にあり、「病は気から」という俗説を「盲滅法」に普遍化し、それを神秘化して宗教に立ち上げ、徹底した商品化をめざしていると分析しています。
1940年に宗教団体法が施行され、生長の家が宗教結社として認められると、天皇信仰を強く打ち出します。「すべて宗教は、天皇より発するなり。大日如来も、釈迦牟尼仏も、イエスキリストも、天皇より発する也。ただ一つの光源より七色の虹が発する如きなり。各宗の本尊のみを礼拝して、天皇を礼拝せざるは、虹のみを礼拝して、太陽を知らざる途なり」と主張しました。太平洋戦争が勃発すると、谷口はそれが「聖戦」であると主張し、中国軍を撃滅するために「念波」を送ることを呼びかけた。しかし、聖戦と主張したものの敗戦したしたことで、雑誌の復刊が可能になり、「日本は負けたのではない」「ニセ物の日本の戦いは終わった」と敗戦を合理化しました。生長の家の教えには、「本来戦い無し」のことばがあるとし、成長の家が平和主義を説いていたと主張しました。
やがて60年安保などをめぐって、生長の家の天皇崇拝や国家主義、さらには家制度の復活などの主張を展開したことで保守勢力に支持され、社会的な影響力を発揮するようになりました。生長の家は海外にも進出し、ブラジルにおいてでは最も成功をおさめました。一方、日本の生長の家は、さらなる時代の変化によって衰退を余儀なくされていきます。谷口は1985年に亡くなり、彼が崇拝の対象とした昭和天皇も亡くなっています。また政治運動が衰退するにともなって、成長の家の存在意義も薄れていかざるを得ませんでした。 
生長の家

 

1930年(昭和5年)に谷口雅春により創設された新宗教団体。 その信仰は、神道・仏教・キリスト教・イスラム教・ユダヤ教等の教えに加え、心理学・哲学などを融合させている。正しい宗教の真理は一つと捉えている。宗教法人格を持つ。
1930年に谷口雅春によって創始された。『宗教年鑑 平成29年版』における国内信者数は、459,531人である。本部は山梨県北杜市。
現在の総裁は雅春の娘婿の谷口清超の二男谷口雅宣。2008年10月28日に父清超が89歳に死去したため、立教記念日の2009年3月1日付を以て雅宣が第3代生長の家総裁に就任した。
総本山として龍宮住吉本宮が長崎県西海市に、別格本山として宝蔵神社が京都府宇治市に各々ある。教典として『生命の實相』、『甘露の法雨』、「七つの燈臺の點燈者の神示」などがある。
保守的な教義をもちかつては自由民主党から組織内候補を擁立していたが、1983年から自民党と距離を置くようになり2016年からは明確に自民党への不支持を表明するようになった。またプロライフ・エコロジーの立場から現在も政治への発信は強めている。
教義
生長の家の教義は雅春の著作特に生命の実相と甘露の法雨を基礎とする。なお、生長の家は、神道や仏教、キリスト教、天理教、大本等諸宗教はその根本においては一致するという「万教帰一」という思想を主張・布教している。ただし、現総裁の雅宣が生長の家の経典を含む各宗教の聖典の原理主義的解釈を否定していることでもわかるように、例えばイスラム原理主義や創価学会の教義をそのまま認めている、というわけではない。
生長の家では、世界を実相と現象に分けて区別し、第一義的実在であるのは「善一元なる唯一絶対神」だけであって、それ以外のものは実相には存在しない、と考える。現象世界のものは、物質から霊的なものまで、すべて「第一義的実在に非ず」と説く。「物質は心の影」であると説く一方で、その「心」すらもなく、死者の霊も先祖供養等の対象とはするが、物質が存在しないというのと同じ意味で霊魂も存在しないといている。逆にいうと、例えば先祖供養の形式については、信徒は仏教やキリスト教、神道のいずれの方式で行っても、生長の家の教義に違反しない、ということであり、生長の家が信徒に対して改宗を求めない理由の一つとなっている。
唯神実相 / 生長の家の基本教義。「縦の真理」と呼ばれる。教団公式HPには「実相の世界は神の御徳が充満していて、人間は神の子であり、神と自然と人間とは大調和している世界です。つまり本当に存在するものは唯、神と神の作られた完全円満な世界だけであるという意味で「唯神実相」と呼んでいます。」と記されている。これに対して一般に「現実」と呼ばれる世界は「現象」と呼び「現象の世界は、全体の膨大な情報量のうち、人間の肉体の目、耳、鼻、口、皮膚で濾(こ)し取ったごく一部の不完全な情報を、脳が組み立て直して仮に作り上げている世界です。ですから、世の中には戦争やテロがあったり、病気などの不完全な出来事があるように見えますが、それらはすべて「現象」であって、本当にある世界の「実相」ではないと説いています。」と述べている。なお、生長の家の教義に「実相の日本は未だ敗戦をしていない」というものがあるが、これは住吉大神から谷口雅春に下った神示とされる「軍国日本の如きは本来無き国であるから滅びたのである」が出典であって、当初は「現象」における過去の日本と「実相」における本当の日本とを区別すべきという意味であり大東亜戦争肯定論を意味するものではなかった。(「軍国日本」は実相世界には存在しないことが前提であった。)今でも教団が公式に大東亜戦争肯定論を主張したことはないが、生長の家本流運動系の団体では大東亜戦争肯定論が主張されることがある。
唯心所現 / 教団の公式HPには「唯心所現の「心」とは「コトバ」であり、コトバには行動で表現する「身(しん)」、発声音で表現する「口(く)」、心の中で思う「意(い)」の3つがあり、これら身・口・意の三業を駆使することで、唯心所現の法則によって現象世界をいかようにでも作り上げることが出来るのです。」とある。
万教帰一 / 教団の公式HPには「宗教に違いがあるのは国や地域、民族によって服装が違うように、宗教も文化的な違いが現れているからだと言えます。目玉焼きに喩えると、中心部分の黄身を普遍的な根本真理と見立て、それぞれの宗教が共有していると考えます。一方、周縁部分である白身は、文化、民族、時代などの違いによって変化している部分だと考えると分かりやすいでしょう。世界の各宗教が、この中心部分(黄身)の共通性と周縁(白身)の多様性をお互いに認め合うことによって、宗教間の対立は消えることになります。それを端的に表わした言葉が「万教帰一」の教えなのです。」とある。
生長の家の教義と他の宗教の教義が直接に一致するという意味ではない。神については「第一義の神」「第二義の神」「第三義の神」が存在するとしており、第一の神が実相における唯一絶対神、第二義の神が現象における宇宙の法則やその具体化した姿、第三義の神が人格神であるとしている。例えば旧約聖書におけるエロヒムとヤハウェについては創世記でこの世界について「甚だ良し」と言ったエロヒムこそが第一義の神(=唯一絶対の神)であって、人類をエデンの園から追放したヤハウェは第二義の神であると説いている。仏教や神道についても、例えば谷口雅春に度々啓示を下す住吉大神は「第二義の神」であるとしている。
行法
行法は、「神想観」「大祓の人型」(年間二回)「浄心行」「写経」とよばれる「行法」のうちどれか一つでも一日に一回するのが望ましいとされている。
永代供養は、永代祭祀ともいい、供養される者の氏名を専用の「甘露の法雨」経典に書き供養する。生存者の場合は総本山龍宮住吉本宮の誠魂奉安筐に奉安され故人に為ると別格本山宝蔵神社の紫雲殿に遷され永代供養される。
人間観
生長の家では唯神実相の観点から生老病死・輪廻転生を遂げる人間・霊魂は実在しない「仮相人間」であり、生老病死・因果や法則を超越した存在こそ金剛不壊の真に存在する「実相人間」であると説く。その上でこの世、現象世界での生きるべき姿・処世術を説いている。
人間が実相を悟れば事態・環境・法則は自ずから無害有益なものに為り、真に無限供給の神の恵みを受ける事が出来るとする。
歴史
創始から終戦まで
創始者(生長の家では開祖や教祖の名称は使われない)の谷口雅春は、紡績会社勤務のときから1918年(大正7年)に大本の専従活動家になり、出口王仁三郎の『霊界物語』の口述筆記に携わった他、機関紙の編集主幹などを歴任した。同時期に大本の本部で活動していた江守輝子と出会い、1920年(大正9年)11月22日に結婚。
1922年(大正11年)の第一次大本事件を機に、大本から離脱した浅野和三郎と行動を共にし、翌1923年(大正12年)には浅野が旗揚げした『心霊科学研究会』に加わった。同年関東大震災で被災し、妻・輝子の実家である富山に疎開中の10月10日、長女の恵美子が誕生。
雅春は、外資系石油商ヴァキューム・オイル・カンパニー勤務の傍ら『心霊科学研究会』で宗教・哲学的彷徨を重ね、一燈園の西田天香らとも接触した。特に当時流行していたニューソート(自己啓発)の強い影響を受け、これに『光明思想』の訳語を宛てて機関紙で紹介した。
1929年(昭和4年)12月13日深夜、瞑想中に「今起て!」と神から啓示を受けたことを機に、1930年(昭和5年)3月1日に修身書として雑誌『生長の家』1000部を自費出版した(生長の家ではこの日を以て「立教記念日」としている)。
「人間・神の子」「実相一元・善一元の世界」「万教帰一」のニューソート流主張により、支持者・講読者を拡大。 『生長の家』誌で発表した雅春の論文は1932年(昭和7年)に『生命の實相』としてまとめられ、1935年(昭和10年)には購読者を組織して「教化団体生長の家」を創設する。各地に支部を設立し、また学校などでも生長の家の講演会が開かれるなど教勢を拡大した。
敗色濃厚な1944年(昭和19年)には紙の配給が止まり『生長の家』誌の発行も一時停止したが、軍国的な「皇軍必勝」のスローガンの下に、金属の供出運動や勤労奉仕、戦闘機を軍に献納するなど教団を挙げて戦争に協力し、天皇信仰・感謝の教えを説いた。一方で、海ゆかばの歌を歌うことに反対するなどの活動も行ったため、憲兵や特別高等警察と教団の講師がトラブルになることもあった。
生長の家および生長の家系列の宗教の書籍等では旧日本軍に生長の家信者が少なくなかったことが記される。宮城事件は信者の田中静壱が鎮圧した。根本博は生長の家の教義にしたがい終戦後も内モンゴルでソビエト連邦と戦った。
戦後の法人化と政治への参加
戦後は西洋思想家の著作の邦訳も行っていたが、その翻訳作業の助手の募集を見た者の中に、後に雅春の養嗣子となり、第2代総裁となった荒地清超(後の谷口清超)がいた。清超は1946年(昭和21年)に雅春の一人娘の恵美子と結婚する。
1949年(昭和24年)に「生長の家教団」として宗教法人格を得て、組織の再構築を行った。その後は妊娠中絶反対運動などでも積極的に政治活動を行うようになり、伊勢神宮の神器の法的地位の確立(一宗教法人の私物ではなく皇位継承と特別な関係のあるものと主張)や、靖国神社国家護持運動など右派活動を行った。さらに、建国記念の日の制定や、元号法制化に教団を挙げて協力した他、「優生保護法廃止(堕胎禁止・反優生学)」「帝国憲法の復原・改正」を掲げて生長の家政治連合(生政連)を結成し玉置和郎、村上正邦、田中忠雄、寺内弘子を自由民主党公認候補として参院選に送り込んだ(この付近の経緯は、公明党を生んだ創価学会とよく似ている。公明党の前身は創価学会文化部から出た無所属議員である)。
1978年(昭和53年)の第2回相愛会男子全国大会(日本武道館で開催)の時には、玉置和郎や中川一郎、黛敏郎また130名程の国会議員が参加し、渡米中だった、時の首相・福田赳夫から祝電が届いた。
また、学生運動が再高揚した1969年(昭和44年)には、生長の家学生会全国総連合(生学連)を中心に生長の家青年会・生長の家政治連合の後押しを受け、他の保守系諸団体と共に全国学生自治体連絡協議会(以下「全国学協」)を結成し、「学園正常化」と「YP体制打倒」「反近代・文化防衛」を掲げて、全国の大学で全日本学生自治会総連合と激しく衝突した。
日本青年協議会(以下日青協)はただし、組織的には生長の家教団とは全く無関係の組織である。また、日青協の学生組織である反憲法学生委員会全国連合(反憲学連)は、全国学協内の路線対立、分裂によって生まれた組織である。1973年(昭和48年)に、全国学協中執を中心とする一派が自立草莽・実存民族派路線、反米帝・民族解放路線を採択したのに対し、もう一派は、反ヤルタポツダム・反憲・民族自立路線の下に新たに反憲学連を結成した。
現在、日青協や、伊藤哲夫の興した「日本政策研究センター」は、「日本を守る国民会議」の後継団体である日本会議の加盟団体として、神社本庁やその傘下の神道政治連盟、念法眞教、仏所護念会、崇教真光、キリストの幕屋等、生長の家以外の保守的宗教団体と強い関係を構築している。保守的宗教団体に数えられることもある世界基督教統一神霊協会=原理研究会とも、全国学協の草創期に一時部分的に共闘したことがある。
生長の家は伊勢神宮や靖国神社を皇室に帰属させるべき、といった保守的な主張のみならず堕胎禁止を始めとするプロライフ的な主張を展開した。マザーテレサの著書を関連会社から出版するなど国際的な宗教右派との連携も展開していた。
こうした生長の家のプロライフ(生命尊重)の主張で特筆すべきは、第一にそれが1959年という他の団体と比べても初期に行われていたこと、第二にそれが胎児の権利のみならず動物の権利にも及ぶ徹底した生命尊重主義であったということである。谷口雅春はつぎのような主張を展開していた。
「人間が生物を殺して生きていながら、人類だけが殺し合いの戦争をしないで平和に生活したいと考えるのは、すべての業は循環する、一点一画と雖も、播いた種子は刈りとらなければならないと云う原因結果の法則に矛盾するのである。人類の平和は先ず生物を殺さないことから始まらなければならないのである。 — 限りなく日本を愛す」
「「世界の平和も、肉食の廃止から」といいたいのでありますが、政府が肉食を奨励して牛肉なども国費を使って大量に輸入しているのだから、我々の思想が政界を浄化しない限りは、国内の闘争も、世界の戦争もなかなかおさまりそうにないのであります。 — 心と食物と人相と」
しかし、このような徹底したプロライフの立場が政界に受け入れられることはなかった。
政治活動の撤退と「国際平和信仰運動」の提唱
1978年に雅春は生長の家総本山に移住し政治活動の一線から退いた。生長の家の政治運動には初期から内部での路線対立は存在したが、この頃から政治運動に積極的な「飛田給派」と否定的な「教団派」(本部派)の対立が激しくなる。しかし、1982年時点では教団派の理事長が更迭されるなど飛田給派の影響力が強かった。なお、飛田給派と本部派の名称の由来はその拠点となった場所がそれぞれ「生長の家飛田給道場」と「生長の家本部」だったからである。
1983年(昭和58年)、当時の理事長の徳久克己は飛田給道場の創設者ということもあり飛田給派の人間であると見られていたが、優生保護法改正を巡って自由民主党と対立したことを理由に、生長の家政治連合の活動を停止を決断した。1985年(昭和60年)6月17日に雅春が死去し、娘婿の清超が第2代の総裁に、妻の恵美子が第2代の白鳩会総裁に就任。同年、日本を守る国民会議から脱退し生長の家は自民党やその支持団体と距離を置くようになった。
1988年(昭和63年)4月26日には雅春の妻で初代白鳩会総裁の輝子が死去。その後1990年(平成2年)11月22日には、清超の次男の谷口雅宣が副総裁に就任し、清超と共に講習会への講師としての出講を行うようになっていく。1993年、「国際平和信仰運動」を提唱し推進、日本政府による大東亜戦争への反省や戦争責任の追及、人権感覚からの女系・女性天皇の推進を表明するなど、これまでの愛国・保守(=右翼)的教義から距離を置くような転換を積極的に進めている。1994年(平成6年)には雅宣の妻・谷口純子が白鳩会副総裁に就任。
近年では、地球環境問題や遺伝子操作・生命倫理問題、エネルギー問題などの現代科学に対し宗教右派の立場からの主張が多く、教団の教義にもその意向が強く現れてきている。一方、雅宣は自身のブログでは民主党への支持を表明するなどしたため、一部の信徒は雅宣を「左翼」と批判し、1998年から旧飛田給派の信徒らを中心に公然と教団に反対する生長の家本流運動の動きが生まれた。だが、実際には雅宣は例えば「非核三原則の堅持」を表明した民主党政権に対して「この問題は日本が単独で決定すべきものではない」「現状の国際関係にあっては、“アメリカの核の傘”がまだ必要だ」と述べるなど親米保守的な発言もしている。
また、「国際平和信仰運動」については、「政治力を用いない」ことが明記されており、現時点で生長の家政治連合の活動再開は、一切考えていない旨を明言した。過去に生長の家の推薦を受けて当選していた政治家も、KSD事件以来、全員が今では議員を辞めている。
現在
現在の生長の家は緑の保守主義色を全面に出すようになっている。2000年生長の家は環境マネジメントシステム“ISO14001”の導入を運動方針に決定し、「生長の家環境方針」を定めた。環境方針では、
「地球環境問題は、その影響が地球規模の広がりを持つとともに、次世代以降にも及ぶ深刻な問題である。今日、吾々人類に必要とされるものは、大自然の恩恵に感謝し、山も川も草も木も鉱物もエネルギーもすべて神の生命(イノチ)、仏の生命(イノチ)の現れであると拝み、それらと共に生かさせて頂くという宗教心である。この宗教心にもとづく生活の実践こそ地球環境問題を解決する鍵であると考える。 生長の家は、昭和5年の立教以来、“天地の万物に感謝せよ”との教えにもとづき、全人類に万物を神の生命(イノチ)、仏の生命(イノチ)と拝む生き方をひろめてきた。 生長の家は、この宗教心を広く伝えると共に、現代的な意味での宗教生活の実践と して環境問題に取り組み、あらゆるメディアと活動を通して地球環境保全に貢献し、未来に“美しい地球”を残さんとするものである。」
との「基本認識」を示し環境問題への取り組みが「現代的な意味での宗教生活の実践」であるとの認識を示した。
2001年には生長の家国際本部と生長の家総本山がISO14001を取得し、2008年までに国内の生長の家の全ての事業所がISO14001を取得している。海外では、2009年10月に生長の家ブラジル伝道本部が、2010年11月に生長の家アメリカ合衆国伝道本部が、同じくISO14001の認証を取得した。
清超は2005年(平成17年)頃より体調を崩し自宅にて療養・静養中であったが2008年(平成20年)10月28日に死去。それに伴い、2009年(平成21年)3月1日の立教記念日に「生長の家総裁法燈継承祭」が執り行われ、雅宣が第3代総裁、あわせて妻の純子が恵美子より白鳩会総裁職を譲り受け、第3代白鳩会総裁に就任した。
2011年には、教団として脱原発を支持する方針を明確にした。2013年には本部を東京都から山梨県に移動し、「自然とともに伸びる運動」の象徴的な建物として「森の中のオフィス」を建設、国際本部とした。さらに、2015年になると、青年会がこれまでの「青年会宣言」及び「青年会綱領」を規約から削除し、より環境主義的な色彩の強い「生長の家青年会ヴィジョン」を制定した。以降、生長の家は環境重視の路線を強めている。
生長の家から保守的な教義がなくなったわけではない。現在でも、生長の家の講習会その他の行事では、開会の際に国歌斉唱が行われる。また、皇居遥拝や天照大御神への祭祀も行われており、環境重視の路線についても決して「左翼思想に染まっているわけではない」とする証言もある。
また、安倍政権成立後は安倍政権や日本会議に否定的な主張も目立つ。2014年、生長の家は安倍政権による安保法制について立憲主義の観点から反対した。
2016年6月9日、生長の家は2016年の参議院選挙において、安倍首相の政治姿勢に反対の意思表明をするために、組織として「与党及びその候補者を支持しない」ことを決定した。また、元生長の家信者らの関与する政治組織・日本会議が政権運営に強大な影響を及ぼしている可能性があるとして、遺憾の想いと強い危惧を表明した。
2017年10月6日、生長の家は第48回衆議院議員総選挙に対する方針を発表し安倍政権が「政治姿勢が改まらないどころか、国民を無視した強引な政権運営を繰り返している」として再び与党への不支持を表明した。その中で生長の家は「環境・資源問題の解決を含めた安全保障の推進」を訴え「現在、地球温暖化の影響で、激しい気候変動が起こり、巨大ハリケーン、洪水や干ばつの頻発によって飢餓が発生し、難民が大量に流出しています。これらの問題は国家間の紛争の火種になっています。また、石油や天然ガスなどの枯渇資源に依存した文明に頼れば、これも資源の争奪による紛争・戦争を引き起こす可能性があります。私たちは、このような環境問題や資源問題を解決することが、世界の平和安定に大きく貢献するものであると確信しています。」と主張した。
主張
生長の家はかつて政治運動に積極的であったこともあり、社会問題に対して様々な主張をしている。
ノーミート
谷口雅春は「平和論をなすもの、本当に平和を欲するならば、肉食という殺生食をやめる事から始めなければならないのであります。」と主張していた。その内容は肉だけでなく魚や鶏卵、乳製品の摂取をも好ましくないというヴィーガニズムに近い考えであったが、生長の家が教団として信徒に対して徹底した菜食主義を行うように指導しているわけではない。しかし、谷口雅宣が副総裁になってから地球環境問題と家畜産業の関係が注目され、再び「食卓から平和を」をスローガンに肉食を減らすべきであるという主張を行うようになった。
政治的スペクトル
菅野完は生長の家について「三代目総裁・谷口雅宣のもと過去の「愛国宗教路線」を放棄し「エコロジー左翼」のような方向転換をして」いると述べているほか、雅宣が「『生命の実相』の長版を停止」するなどしていると主張しているが、実際には教団が『生命の実相』を出版しないのは著作権を管理している生長の家社会事業団が生長の家本流運動に参加して教団に出版を認めない方針になったためであり、菅野の発言は事実に反する。
また生長の家が「エコロジー左翼」路線に立ったという主張にも異議がある。例えば現総裁である谷口雅宣が発表した「天照大御神の御徳を讃嘆する祈り」には次のような記述がある。
「われは今、天照大御神の実相の光、与える愛の力の尊さをあらためて誉め讃う。われは今、実相世界の真の我を観ずる。天照大御神の御心われに流れ入りて、わが心を満たし給う。天照大御神の生命われに流れ入りて、わが生命となり給う。わが心は天照大御神の愛の心に満たされている、生かされている、満たされている、生かされている。天照大御神は「愛なる神」の別名である。キリストの愛の別名である。自ら与えて代償を求めない「アガペー」の象徴である。また、三十三身に身を変じて衆生を救い給う観世音菩薩の別名である。われは今、天照大御神と一体となり、地上のすべての人々、生きとし生けるものに愛を与えるのである。天照大御神の愛は無限であるから、われもまた無限に愛を与えてもなお減ることはないのである。 — 日々の祈り」
このように現在でも生長の家は保守的な教義を持っており、宝蔵神社で水子供養を行い堕胎や動物性集合胚に反対するなどプロライフな主張も展開している。2006年8月30日には人クローン胚の研究・利用に反対する意見書を文部科学省に送付している。 
生長の家 2 

 

概要
名称 / 生長の家(せいちょうのいえ)
立教 / 昭和5年3月1日
創始者 / 谷口 雅春
前総裁 / 谷口 清超
総裁 / 谷口 雅宣
本尊 / 生長の家の本尊は「生長の家の大神」と仮に称していますが、「生長の家」とは「大宇宙」の別名であり、大宇宙の本体者(唯一絶対の神)の応現または化現のことであります。正しい宗教の本尊は、この唯一絶対なる神を別名で呼んでいるものであるとして、いかなる名称の神仏も同様に尊んで礼拝します。また、生長の家では、本尊を現す像などは造らず、あらゆる宗教の本尊の奥にある「実相」(唯一の真理)を礼拝するため、『實相』と書いた書を掲げています。
信徒数 / 1,511,859人(日本国内:521,100人/日本以外:990,759人)
基本的な教え
生長の家の教えの主な特長は「唯神実相(ゆいしんじっそう)」「唯心所現(ゆいしんしょげん)」「万教帰一(ばんきょうきいつ)」の3つの言葉で表わすことができます。
唯神実相(ゆいしんじっそう)
「唯神実相」の「実相」とは本当にある世界のことであり、唯一にして絶対の神がつくられた世界のことです。実相の世界は神の御徳が充満していて、人間は神の子であり、神と自然と人間とは大調和している世界です。つまり本当に存在するものは唯、神と神の作られた完全円満な世界だけであるという意味で「唯神実相」と呼んでいます。 一方、人間の感覚器官で捉える世界を「現象」と呼んでいます。現象の世界は、全体の膨大な情報量のうち、人間の肉体の目、耳、鼻、口、皮膚で濾(こ)し取ったごく一部の不完全な情報を、脳が組み立て直して仮に作り上げている世界です。ですから、世の中には戦争やテロがあったり、病気などの不完全な出来事があるように見えますが、それらはすべて「現象」であって、本当にある世界の「実相」ではないと説いています。
唯心所現(ゆいしんしょげん)
「唯心所現」とは、この現象世界は人間の心によって作り出している世界であるという教えを表現しています。唯心所現の「心」とは「コトバ」であり、コトバには行動で表現する「身(しん)」、発声音で表現する「口(く)」、心の中で思う「意(い)」の3つがあり、これら身・口・意の三業を駆使することで、唯心所現の法則によって現象世界をいかようにでも作り上げることが出来るのです。唯心所現の法則は厳密かつ公平であり、悪いコトバを使えば、悪い世界が現象世界に現れてしまいます。従って善い世界を実現させようと思うなら、実相世界の善きコトバ、神様の御徳である、智慧・愛・生命をコトバで表現すればよいことになります。
万教帰一(ばんきょうきいつ)
「万教帰一」とは、万(よろず)の教えを一つ(生長の家)にするという意味ではありません。これは後ろから読んで、一つの教えが万の教えとして展開していると説いています。宗教に違いがあるのは国や地域、民族によって服装が違うように、宗教も文化的な違いが現れているからだと言えます。目玉焼きに喩えると、中心部分の黄身を普遍的な根本真理と見立て、それぞれの宗教が共有していると考えます。一方、周縁部分である白身は、文化、民族、時代などの違いによって変化している部分だと考えると分かりやすいでしょう。世界の各宗教が、この中心部分(黄身)の共通性と周縁(白身)の多様性をお互いに認め合うことによって、宗教間の対立は消えることになります。それを端的に表わした言葉が「万教帰一」の教えなのです。
沿革
生長の家の立教は昭和5年3月1日。これは創始者、谷口雅春が精神修養のための月刊誌『生長の家』を創刊した日にあたります。同誌に説かれた「人間・神の子」の教えによって、多くの人々が自己の神聖性と、すべての人に神性、仏性が宿ることに目覚め、天地の一切のものに感謝する生活を送るようになりました。その結果として病が癒され、家庭に調和が実現し、人間が本来持つ無限の能力が花開き、経済難が解消し、多くの事業が発展しました。
生長の家では、「真理の言葉」を掲載した月刊誌『生長の家』(現在では3種の普及誌と機関誌に分化・発展)や書籍を頒布する「文書伝道」と、総裁、白鳩会総裁が各地に出向いて直接講演を行う「講習会」を2つの柱として、布教活動を行ってまいりました。
全国に信徒が増えるに従ってそれらは組織化され、現在では、女性組織の「白鳩会」、男性組織の「相愛会」、及び青年組織の「青年会」の3つの組織を通じて伝道活動を活発に展開しています。またこれに加えて産業人組織の「生長の家栄える会」、教職員の組織として「生長の家教職員会(生教会)」があり、それぞれの分野で活動を行っています。
創始者、谷口雅春は昭和60年に昇天しましたが、その後、娘婿の谷口清超が法燈を継承して生長の家総裁となり、平成20年10月28日に昇天。また現在は、その子息の谷口雅宣が法燈を継承して生長の家総裁となり、数々の著作、講習会、インターネット上のブログなどを通して教えを宣布しています。
創始者・谷口雅春によって始められた、人類の生活の全面を光明化しようとする「人類光明化運動」は、谷口清超・前総裁、そして谷口雅宣・総裁へと継承され、現在は唯一絶対の神への信仰によって世界の平和をめざす、「国際平和信仰運動」を展開し、日本をはじめ北米、中南米、アジア・オセアニア、ヨーロッパなどの世界各国の拠点を通して、さらに力強く運動の輪を広げています。 
生長の家 3 

 

創立 / 昭和5年3月
創始者 / 谷口雅春(初代総裁)
現継承者 / 2代総裁・谷口清超(雅春の娘婿)
信仰の対象 / 生長の家大神(大宇宙の応現・化現)
教典 / 聖典『生命の實相』その他
沿革
生長の家(せいちょうのいえ)は、谷口雅春(たにぐち・まさはる)の「真理の書かれている言葉を読めば病が治る」等の主張によって、膨大な量の書籍を発行し、会員に購読させる、いわゆる「出版宗教」です。
また谷口雅春の思想には、宗教・哲学・心霊学・精神分析学などの教説が混ぜこぜに取り込まれていることから、「宗教のデパート」などとも呼ばれているものです。
女性との二股交際と性病
谷口雅春は、明治26年11月、兵庫県の農家に生まれました。
早稲田大学に進学したものの、女性問題を起こしたため養父母から仕送りを断たれて中退し、そして大正3年、大阪の紡績会社に勤めました。
ところが、会社の上司の姪(めい)と、色街の遊女の2人と二股交際をしたあげく、その遊女から性病を移されてしまいました。雅春は、その病気が上司の姪に移りはしないかと悩み続けたそうです(これが後に、病気治し宗教の原点となります)。しかしこの女性問題が原因で工場長と口論となり、紡績工場を退職しました。
その後、雅春は大本(当時は皇道大本。別項参照)が発行する雑誌に心を引かれ、大正7年に大本に入信しました。そして翌年には教団機関誌の編集員となり、大正9年には同じく信者の江守輝子と結婚しました。
そうした中、大正10年に「第一次大本事件(大本の項参照)」が発生。しばらくは出口王仁三郎の口述筆記なども担当していましたが、次第に大本の信仰に疑問を感じるようになり、ついに大正11年、雅春は大本教団を去りました。
『生長の家』の発刊・立教
某宗教思想家の著書を読んで、「不幸の存在を意識の圏外に追い出すことが、幸福になる道である」などという心の法則なるものを発見したという雅春は、昭和4年36歳の時、今度は神がかりとなり、「物質はない、心もない、実相がある」というような声がどこからか聞こえてきて、雅春は悟(さと)りに達したのだそうです。
そして翌年、自分が悟ったという内容を発表するために、月刊誌『生長の家』を創刊しました。教団では、この雑誌創刊日を立教の日としています。
その雑誌に「購読したら病気が治った」などの体験が掲載されると、購読者が増え始めました。また雅春は雑誌に「万教帰一の神示」など、自らの思想の核となる説を相次いで掲載し、さらにその内容を加筆・整理して、昭和7年から『生命の實相(じっそう)』と題して順次刊行し始めました。
昭和9年には信者の出資で、出版会社「光明思想普及会」を設立。昭和15年には宗教結社「教化団体 生長の家」を設立しました。
その後の展開
太平洋戦争中、雅春は「天皇中心の国家社会の実現こそ神の意志である」などと主張し、軍部による領土拡大を正当化し、軍部に積極的に協力。天皇の元首化や靖国神社の国家護持を提唱していました。
しかし昭和22年、GHQから雅春は戦争犯罪者とされ、公職追放処分となりました。これによって雅春は教主を辞任し、娘婿の谷口清超が第2代に就任しました。
昭和27年、宗教法人「生長の家教団」を設立し、昭和32年には「生長の家」と改称し、雅春が総裁となり、清超が副総裁となりました。
昭和50年には、生長の家の総本山として、長崎に「龍宮住吉本宮(りゅうぐうすみよしほんぐう)」を建設しました。教団では、長崎の総本山を祭祀(さいし)の中心地とし、東京本部は宗務および出版時・事務の中心地としています。
教義の概要
本尊と教典
総本山である龍宮住吉本宮には「住吉大神(神体として両刃の剣)」を祀(まつ)り、道場や集会所では「生命の実相」「実相」などと書かれた額や掛け軸を掲げています。しかし会員に対しては「実相とは唯一の真理であり、あらゆる宗教の本尊の奥にあるもの」としていて、各自の先祖伝来の神棚や仏壇をそのまま祀ることを認めています。
教典には『生命の實相』などがあり、そのほかに『白鳩』『光の泉』『理想の世界』などが信者用の機関誌として毎月発行されています。
教義
この教団は「デパート宗教」と呼ばれるだけあって、日本の神話、仏教、キリスト教などの教義に加え、西洋哲学やら日本の思想家の論なども混ぜこぜにして教義を形成しています。
教義の中心は「唯心実相哲学」なる教祖の教えで、
・タテの真理 / すべての人間が神の子であり、無限の生命・智恵・愛等のすべての善徳に満ちた久遠不滅(くおんふめつ)の存在である。これが人間の真実の相であるとする思想。
・ヨコの真理 / 心の法則のこと。現実世界はただ心の現すところであり、心によって自由自在に貧・富・健康・幸福等、何でも現すことができるという。
例えば病気にかかっても、「人間本来病気無し、病気は心のかげ」ということで、実相の完全さを信じるならば、すべての病は消え、完全な至福の世界が顕(あらわ)れるなどという原理。
というような教えです。
また「万教帰一」と言い、「すべての宗教は唯一の大宇宙(神)から発したものであり、さまざまな宗教や真理は、あくまでも時代性・地域性に照らして説かれたものである」などと主張しています。
信者の修行
教団では、「生命の実相」の真理を体得するためとして、
(1)毎日、必ず『生命の實相』などの教典を読む。
(2)先祖供養のために、聖経と称する『甘露(かんろ)の法雨』『天使の言葉』『続々甘露の法雨』を各々の神前・仏前で読誦(どくじゅ)する。
(3)毎日、「神想観(しんそうかん=「物質はない、肉体はない、人間は神の命そのものであり、神の子である」という人間の実相なるものを実感するための瞑想法らしきもの)」を実行する。
という3つの修行を信者に課しています。そしてさらに「人類を光明化(こうみょうか)」するという「布教活動」を奨励しています。 
「生長の家」諸話 

 

日本会議産みの親「生長の家」が安倍政権と日本会議の右翼路線を徹底批判!
〈来る7月の参議院選挙を目前に控え、当教団は、安倍晋三首相の政治姿勢に対して明確な「反対」の意思を表明するために、「与党とその候補者を支持しない」ことを6月8日、本部の方針として決定し、全国の会員・信徒に周知することにしました。〉
宗教法人「生長の家」が、昨日6月9日、ホームページにてこんな書き出しで始まる声明文を公開。安倍政治に真っ向から反対を宣言した。
生長の家は1930年に故・谷口雅春氏によって設立された宗教団体で、49年に法人化。当時は皇国史観や国粋主義的思想のもと「明治憲法復元」や反共を掲げ、政治家と結びついて積極的に政治活動を行っていた。
また、現在、安倍政権と一体化して、改憲を推し進めている極右団体「日本会議」も元生長の家の信者が中心になっている。その生長の家が、この声明文では、安倍首相の政治姿勢に対する明確なNOを突きつけているのだ。
〈その理由は、安倍政権は民主政治の根幹をなす立憲主義を軽視し、福島第一原発事故の惨禍を省みずに原発再稼働を強行し、海外に向かっては緊張を高め、原発の技術輸出に注力するなど、私たちの信仰や信念と相容れない政策や政治運営を行ってきたからです。〉
〈安倍政権は、旧態依然たる経済発展至上主義を掲げるだけでなく、一内閣による憲法解釈の変更で「集団的自衛権」を行使できるとする“解釈改憲”を強行し、国会での優勢を利用して11本の安全保障関連法案を一気に可決しました。これは、同政権の古い歴史認識に鑑みて、中国や韓国などの周辺諸国との軋轢を増し、平和共存の道から遠ざかる可能性を生んでいます。また、同政権は、民主政治が機能不全に陥った時代の日本社会を美化するような主張を行い、真実の報道によって政治をチェックすべき報道機関に対しては、政権に有利な方向に圧力を加える一方で、教科書の選定に深く介入するなど、国民の世論形成や青少年の思想形成にじわじわと影響力を及ぼしつつあります。〉(声明文より)
見ての通り、生長の家は、安保法の強行による民主主義と立憲主義の破壊だけでなく、原発再稼働や歴史修正主義、さらにメディアへの圧力行為まで、かなり全般的に安倍政権の政策を批判しているが、同教団がこれほどまでにはっきりと現政権との距離を明確にするのは、安倍首相と二人三脚でその極右的政策の数々を支援している「日本会議」の存在がある。
日本会議は、1997年に宗教右派が結集した「日本を守る会」と、「日本を守る国民会議」という二つの団体が合流して結成された国内最大の保守系団体。著述家・菅野完氏の労作『日本会議の研究』(扶桑社)に詳しいが、日本会議の事実上の事務方である右翼団体「日本青年協議会」は、かつての全共闘時代に民族派学生運動を牽引した生長の家関係者が組織したものだ。とりわけ、日青協会長の椛島有三氏は、現在日本会議の事務総長を務め、その前身から運動のオーガナイズに寄与してきたという。こうした同書が指摘する生長の家OBと安倍政権との関係について、声明文ではこのように書かれている。
〈最近、安倍政権を陰で支える右翼組織の実態を追求する『日本会議の研究』(菅野完、扶桑社刊)という書籍が出版され、大きな反響を呼んでいます。同書によると、安倍政権の背後には「日本会議」という元生長の家信者たちが深く関与する政治組織があり、現在の閣僚の8割が日本会議国会議員懇談会に所属しているといいます。これが真実であれば、創価学会を母体とする公明党以上に、同会議は安倍首相の政権運営に強大な影響を及ぼしている可能性があります。事実、同会議の主張と目的は、憲法改正をはじめとする安倍政権の右傾路線とほとんど変わらないことが、同書では浮き彫りにされています。〉(声明文より)
また、生長の家は60年代半ばには「生長の家政治連合」(生政連)を結成し、運動だけでなく、「参院のドン」と呼ばれた村上正邦氏らを通じて政界に影響力を及ぼしていた。しかし、生長の家内では、こうした政治偏重の一部信者らの姿勢に反発する動きも現れ、生政連は83年に活動停止。生長の家自体も同時期に政治活動から撤退し、近年では、環境問題への取り組みなどにシフトしている。そうした現教団から見て、日本会議と安倍政権の行いは「誠に慚愧に耐えない」ものだという。
〈当教団では、元生長の家信者たちが、冷戦後の現代でも、冷戦時代に創始者によって説かれ、すでに歴史的役割を終わった主張に固執して、同書(『日本会議の研究』)にあるような隠密的活動をおこなっていることに対し、誠に慚愧に耐えない思いを抱くものです。先に述べたとおり、日本会議の主張する政治路線は、生長の家の現在の信念と方法とはまったく異質のものであり、はっきり言えば時代錯誤的です。彼らの主張は、「宗教運動は時代の制約下にある」という事実を頑強に認めず、古い政治論を金科玉条とした狭隘なイデオロギーに陥っています。宗教的な観点から言えば“原理主義”と呼ぶべきものです。私たちは、この“原理主義”が世界の宗教の中でテロや戦争を引き起こしてきたという事実を重く捉え、彼らの主張が現政権に強い影響を与えているとの同書の訴えを知り、遺憾の想いと強い危惧を感じるものです。〉(声明文より)
“テロや戦争を引き起こす「原理主義」”というのは強烈な批判だが、これは、椛島氏ら一部OBへの決別宣言であると同時に、その影響を受けて戦前回帰的傾向を強める安倍政権への明確な拒絶に他ならない。声明文の最後はこのように締めくくられている。
〈私たちは今回、わが国の総理大臣が、本教団の元信者の誤った政治理念と時代認識に強く影響されていることを知り、彼らを説得できなかった責任を感じるとともに、日本を再び間違った道へ進ませないために、安倍政権の政治姿勢に対して明確に「反対」の意思を表明します。この目的のため、本教団は今夏の参院選においては「与党とその候補者を支持しない」との決定を行い、ここに会員・信徒への指針として周知を訴えるものです。合掌。〉
日本会議と安倍政権の関係者たちにこの言葉が響くとは思わないが、有権者には、彼らを生み出した当の宗教団体ですら、その右翼路線に危惧を抱いていることをぜひ認識しておいてもらいたい。 (2016/6)
日本会議と「生長の家」
「日本会議」のことが急に注目されるようになってきた。日本会議について論じた本がいくつも出版され、かなりの売り上げを見せている。それだけ世間は、この団体に注目していることになる。日本会議について扱った本では、この組織と新宗教の教団、「生長の家」との密接な関係が指摘されている。ただし、生長の家は日本会議の加盟団体ではないし、現在の教団はむしろ日本会議の路線に対しては批判的である。
生長の家の創始者は谷口雅春という人物で、雑誌『生長の家』を刊行し、その合本である『生命の実相』を刊行することで、「誌友」と呼ばれる会員を集めた。
新宗教のなかには、出版活動に重きをおいているところが少なくないが、生長の家はその先駆けである。
ただ、生長の家の特徴は、『生命の実相』を読めば、万病が治り、貧乏も逃げていくと宣伝したことにある。評論家の大宅壮一は、新聞に大々的に掲載された『生命の実相』の広告を見て、これほど素晴らしい誇大広告があっただろうかと皮肉っていた。
もう一つ、生長の家の特徴は、戦前においては天皇への帰一を説いて天皇信仰を強調し、さらには、太平洋戦争が勃発すると、それを「聖戦」と呼び、英米との和解を断固退けるべきだと主張したことにある。
中国を撃滅するために「念波」を送るよう呼びかけたところでは、まるでオカルトの世界である。
戦後になると、谷口は、「日本は決して負けたのではない」と主張し、生長の家の教えには「本来戦い無し」ということばがあるとして、本来は平和主義であると主張した。
まるで御都合主義で、節操がないとも言えるが、谷口の思い切った言い方は、多くの読者に共感をもって迎えられた。
彼は、早稲田大学の文学部で学んだインテリで、文才に恵まれていた。文章が書ける宗教家は珍しい。つまり、それまでの主張と合わない状況が生まれても、谷口は、それを文章の力で合理化できたのだ。
戦後谷口にとって好都合だったのは、冷戦という事態が生まれ、東西の対立が生まれた点である。
日本国内では、保守と革新、右翼と左翼が激しく対立するようになり、生長の家の天皇崇拝や国家主義、さらには家制度の復活などの主張は、保守陣営に支持され、社会的に大きな影響力をもった。
具体的には、明治憲法復元、紀元節復活、日の丸擁護、優生保護法改正などを主張したが、これが戦前の軍国主義の時代に教育を受け、戦後急に生まれた民主主義の社会に違和感をもった人々の考えを代弁するものとなったのである。
さらに生長の家は、「生長の家政治連合」を結成して、参議院に議員を送り込んだ。
また、生長の家学生会全国総連合という学生運動の組織を結成したが、これは、1960年代広範に盛り上がる新旧左翼の学生運動に対抗するためのものであった。ここに集った人間たちが、現在の日本会議の事務局を担っている。
新宗教はどこでもそうだが、その教団を作り上げた初代がもっともカリスマ的で、迫力があり、人を引きつける力をもっている。
生長の家の場合がまさにそうで、谷口のカリスマ性が多くの会員、支持者を集めることに結びついた。
しかし、そうしたカリスマ性を後継者も同じようにもつことは不可能である。
それに、谷口が活躍した時代は次第に過去のものとなり、冷戦構造は崩れ、左右の対立という構図も重要性を失った。生長の家の教団自体が衰退したのも、時代の変化ということが大きかった。
生長の家と日本会議の関係について、もう一つ注目する必要があるのが、谷口がかつて所属した大本のことである。
大本は、出口なおという女性の教祖が開いた新宗教の一つだが、教団を大きく発展させたのは、神道家で、なおの娘すみと結婚した出口王仁三郎である。
王仁三郎がいかにユニークな人物であるかは、拙著『日本の10大新宗教』(幻冬舎新書)でふれているので、それを参照していただきたいが、日本会議との関連で注目されるのは、この王仁三郎が1934年に組織した、「昭和神聖会」の存在である。
昭和神聖会は、昭和維新を掲げる団体で、その賛同者には、大臣や貴族院議員、衆議院議員、陸海軍の将校なども名を連ねていた。
この昭和維新会の綱領では、「皇道の本義に基づき祭政一致の確立を帰す」や「天祖の神勅並に聖詔を奉戴し、神国日本の大使命遂行を期す」といったことばが並んでおり、これは、谷口の主張、さらには日本会議の思想にも通じるものをもっていた。
王仁三郎は、全国を奔走し、組織の拡大につとめるが、国家権力の側は、昭和神聖会の急成長に警戒感を強め、それが1935年の大本に対する弾圧に結びつく。
警察は、大本が国体の変革をめざしているとして、王仁三郎などの教団幹部を逮捕し、教団施設を徹底的に破壊した(昭和神聖会については、武田崇元「昭和神聖会と出口王仁三郎」『福神』第2号を参照)。
日本会議の代表役員のなかに、手かざしで知られる新宗教、崇教真光の教え主岡田光央が含まれていて、崇教真光は日本会議の大会に大量動員を行うなど、熱心に活動している。
その崇教真光の創立者、岡田光玉は、世界救世教の元信者であったが、世界救世教の創立者、岡田茂吉は大本の幹部であった。
現在の大本は、教団のあり方も変わり、日本会議に加盟しているわけではないが、日本会議のルーツの一つなのである。
そうした側面から、日本会議を見ていくことも、今必要なことではないだろうか。
それにしても、日本会議についての本が立て続けに出版され、多くの読者を獲得している状況は不思議である。
実は私は、少し前に『日本会議と創価学会』といった本を書こうとして準備も少し進めていた。
ところが、「日本会議ブーム」が起こったことで、組織としての実態を必ずしも持っていないこの団体が、あたかも最近の日本を動かしてきたかのようなイメージが作られてしまった。
そうした予想外な事態が起こったので、『日本会議と創価学会』はとりあえずお蔵入りにしたのだが、本当に日本会議には、関連の書籍が指摘しているような力があるのだろうか。
私はたまたま、今年の3月、地震前の熊本で、日本会議の熊本支部が街頭で活動しているのを目撃した。ただ、全国で同じような活動が展開されているのかと言えば、そうではなく、むしろ熊本だけが熱心であるようだ(街頭で日本会議が活動している写真は必ず熊本である)。
日本会議が右派運動の中心という見方は、分かりやすいかもしれないが、事実とはずれている。私たちは、冷静に日本会議の存在意義を評価しなければならないだろう。
生長の家 芸能人・経済界の大物も信仰
2016年6月9日に宗教法人「生長の家」は参院選で与党の候補者を支持しない旨を発表しました。安倍政権の方向性に対して明確に反対するという趣旨だそうです。「生長の家」とは政治や選挙にどのような影響を与えているのでしょうか?
「生長の家」とは?
「生長の家」は1930年に「谷口雅春」氏が立ち上げた宗教団体です。
教義は「万教帰一」。
神道、仏教、キリスト教、天理教、大本等諸宗教はその根本においては一致するという考え方です。ただ全ての宗教が含まれるわけではなく、創価学会などの原理主義宗教とは一線を画しています。
教本は「生命の実相(せいめいのじっそう)」と「甘露の法雨(かんろのほうう)」で、「生命の実相」は約2,000万部近く発行されています。
「谷口雅春」氏は元々、戦前において有数の巨大宗教団体の1つである「大本(おおもと)」の信者でした。「大本」は神示を伝える宗教でいくつかの予言を残していました。しかし、主たる予言の1つが起こらなかったため、熱心な信者であり教主の右腕として活動していた「谷口雅春」氏は疑いを持ち退団。
自らも神示を受け「生長の家」を設立。
100万人を超える信仰者を抱える巨大宗教団体の1つに数えられています。
著名人の信者
信者には経済界関係者が多く、京セラの「稲盛和夫 」氏、ヤオハンの「和田一夫」氏、ハリウッド化粧品の「メイ牛山」氏など日本経済に影響を与えてきた著名人が名を連ねています。鳩山一郎元総理大臣も入信し、活動したことで病気が治癒したと言われています。
芸能人だと「竹内まりや」さんの名前が度々聞かれますが、父親が入信していた関係で、ご本人が機関紙のインタビューに答えた形であり、「竹内まりや」さん自身は入信していないと話しています。
日本会議との関係
「日本会議」とは1997年に設立された改憲運動を推進している国民運動団体で、安倍政権を支持しています。
こちらの事務総局幹部らは元々「生長の家」の信仰者でしたが、方向性の違いから離脱しています。
日本会議の考え方は「美しい日本の再建と誇りある国づくり」を理念として、
• 美しい伝統の国柄
• 新しい時代にふさわしい新憲法の制定
• 国の名誉と国民の命を守る政治
• 日本の感性をはぐくむ教育の創造
• 国の安全を高め世界へ平和貢献
• 共生共栄の心で結ぶ世界との友好を目指す
「生長の家」は安倍政権の現在の政策は「民主政治が機能不全に陥った時代の日本社会を美化している」とし、日本会議の方針は生長の家の現在の信念と方法とはまったく異質で時代錯誤的との見解から候補者を支持しないことを表明することとなりました。

「生長の家」は戦後、日本を立て直す気概が溢れていた時代に設立され、「万物に感謝する」という基本理念が人々を惹きつけ100万人を超える信仰者が集まりました。
その中に日本経済に影響力を持つ人物も含まれていたことから、政治的影響力も持つようになっていきました。
現在、3代目総裁である「谷口雅宣」氏はこのような右派よりな考え方から離れ、世界平和を願う「国際平和信仰活動」の推進へ舵を取ったため、今回の与党不支持を決定したというのが今回の背景にあります。 
「生長の家」考 

 

創始者である谷口雅春の死去を報じた週刊文春(1985年7月4日号)記事
・・・生長の家といえば、公称信者数300万人を擁する新興宗教の雄だが、その創立者・谷口雅春総裁が、このほど亡くなった。大正6年に大本教に入信。機関誌の編集にあたったが、大正11年大本教を去った。昭和4年、「物質はない、実相のみがある」との神示を受けたと称し、翌年雑誌「生長の家」を創刊。人生苦の解決と病気快癒の体験で評判になり、多数の読者を獲得した。戦時中は天皇中心主義、軍国主義を鼓吹して信者を増やしたが、終戦後は一転して自由と平和を唱える。講和後は再び右傾化。帝国憲法への復帰、国家神道の復活等を訴え、戦後の右翼運動の精神的な支柱の1人になった。(中略)この谷口雅春氏をどう評価するか。「あの人は文学青年でしたから、初期の頃の著作は大変ロマンチックで文章もうまかった。文学青年の段階でとまっていれば評価できるんですが、その後ウルトラ国家主義路線を打ち出して来た。過激な右翼青年を輩出した危険で有害な人だと思います。そういう路線は、私が考える本来の宗教とはなじまない。普遍性を持ち得ないから民族宗教に留まり、世界宗教たり得ない。教勢拡大のためには、ウルトラ国家主義では布教しにくいので、やや手直しをするのではないでしょうか。」・・・
「黒い宗教 その実態と悪の構図」石井岩重著
・・・ここで私が言いたいのは、谷口の一貫して変わらない体制順応主義、権力への迎合ぶりである。昭和12年に日華事変が勃発して、日本が軍国主義時代に突入して行った後、ほとんどの宗教団体はその存続を図るために、カーキ色を帯びはじめたが、谷口はより急進的だった。国家が広がることは“実相”が拡がることで、「日本軍の進むところ宇宙の経綸が廻る」と“念波”の一斉祈願で敵軍を圧迫するため「光明念波連盟」を結成し、天皇絶対化の度合が手ぬるいと文部大臣に公開状を送り、満州を講演旅行して歩いた。「非常時に労働争議を停止させ、反戦思想を抑圧するのに最も効果のあるのは光明思想である」(「生長の家」17年10月号)と、 いやはや大変なタカ派ぶりである。それはそれでかまわないし、ファシストなどと言うつもりはない。ところがである。敗戦後の谷口の態度はどう変わったか。「今や自由を得た。生長の家ほど平和愛好の教えはない」とこうだ。この臆面の無さはどうだ。恥ずかしくないのであろうか。そして、それまでの国家主義的な色彩を極力払拭し、急激にキリスト教的なものを強く打ち出している。それにもかかわらず、戦後しばらくして、公職追放組が解除されて権力の座にカムバックするようになると、とたんにまた、日本主義、 愛国主義、反共主義を打ち出したのだ。このような節操のない人物をはたして信用していいものだろうか。私が「生長の家」に対して抱く不信感は、以上のようなことに強く裏打ちされている。・・・
教義の概略
○ 全ての存在は、無限の愛、無限の知恵、無限の自由、その他あらゆる善きものであるところの完全なる生命、すなわち神が現れたものである。従って、人間の実相(本当の姿)は神の子であり、無限の愛、無限の知恵、無限の自由、その他あらゆる善きものに満ちた永遠不滅の生命である。
○ 人間の実相はあらゆる善きものに満ちた神の子であり、絶対唯一神が<全き善・無限知・無限力>で創った世界(生長の家はこの本来の世界を「実相世界」と呼びます。)は完全である、すなわち無限の幸福に満ちた世界なのであるから、「実相」を悟れば事態・環境・法則は自ずから無害有益なものに為り、真に「無限供給の神の恵み」を受ける事が出来る。つまり貧・富・健康・幸福等、何でも自由自在に現すことができる。
○ 我々が5官によって認識する世界は、心とは独立した客観的実在ではない。現象の世界は、全体の膨大な情報量のうち、肉体の5官で受け取ったごく一部の不完全な情報を、脳が組み立て直して仮に作り上げている世界である。物質はない、肉体はない、だから世の中に戦争やテロがあったり、病気などの不完全な出来事があるように見えるが、それらはすべて「現象」であって実在しない。心に思い描いたものが現れたものがこの物質現象界なのであるから、心のあり方によってどのようにでも現れる。
一見するとよい教えのように思われるかもしれませんが、これがなかなか危険な教えなのです。生き方を学んで自らの心がけを省みたりといった本来というか正しい宗教とは全く違うことがお分かり頂けると思います。生長の家の教えを理解し「神想観」という行法(これとて谷口が元いた大本教の「鎮魂帰神」という行法を真似たもの。戦前のことですが大本教が弾圧されそうになる気配が濃くなるや、それまで世話になった恩義などどこへやら、さっさと逃げ出しました。)を修しさえすれば人間の実相である「神の子」の本質が現れ、人格も神の如くに成り、健康、富も思いのまま、といったどちらかと言うと魔術に近いような宗教なのです。
昭和を代表する評論家である大宅壮一は著書「宗教を罵る」の中で次のように生長の家を批判しています。「人間はまず心に思って、それによって行動し創造するではないか。それでも判るように 心こそ主人、精神こそ肉体の支配者である。いや、本当に存在するのは心だけで、物はその影にすぎない。スクリーンに映じる万象が、実は存在せずフイルム面のしみの影にすぎないのと同じこと。この真理を悟って精神が肉体の束縛を離れれば、フイルム面のしみは消えて、スクリーン一杯に精神の光明が輝く。肉体無し、ゆえに病気も無い。病気は本来無い、と悟った時、すなわち病気は治っている……。」
‥‥どんな観念論者でも、盲人が気を取り直し悲しみを超越することと、実際に目が再生することとは別だ、ということを知っている。ところが谷口の「大真理」によると、目を生やすも無くすも心のまま、ということになる。‥‥要するに、ゴテゴテの観念論を漫画化したような教えにすぎないのだが、物質に対する観念の優位を説くためには、どんな観念論哲学でも、観念論を説いているどんな宗教の教義でも自由に借りてこられるわけで、唯物論をしっかり掴まず、哲学的な考えに慣れてもいない一般の読書層としては、谷口の巧みな話術に抵抗することは難しい。
「生長の家」以外の思想的知識をあまり持たないA君は盲信してしまった訳なのです。物質は究極的には実在しないものであるとは私も思います、私が「物質はあくまでも“本来”ないものだ」と言ってもA君は「物質はない!!」と言い張り、聞く耳を持ちませんでした。A君はよく素粒子の非実在を語っていました。確かに素粒子の次元ではそうかも知れませんが、素粒子を砂粒位の大きさだとすると人体は太陽系程の大きさになるそうです。つまり1臓器ですら地球より遥かに大きいことになります。素粒子の次元で非実在だからといって、それがいか程の意味があるでしょうか。原子、分子といった各次元で法則と働きが厳然とあるのです。
大宅氏の批判をさらに紹介すると
○ 太田某は、顔を剃ると必ずカミソリで1箇所は傷を作っていたが、生長の家に入ってからちっとも顔を切らなくなった。
○ 家ダニに困っている家で、神想観をして立ち去るように命じたが、去らない。そこで、「ダニだって住む所が必要なのだ」と反省して、家中の畳を剥いで6畳1室に積み重ね、「この室をあなた方の棲み家に提供しますから、これからどうぞこの部屋から出ないで下さい」と言って、また神想観をすると、それ以来ダニは刺さなくなり6畳の部屋に列を作って生活している。
○ 前橋のある養蜂家が「生長の家」に入って「神のお送りになったこの世界は無限供給であって、必ずよき成績が上がるものだ」と信じていると、去年の倍ほどの成績を上げることができたし、先日ひょうが降って桑の葉が傷めつけられた時にも、自分の畑だけは別に損害を蒙らなかった。
○ 五十嵐某は、隣の工場から出火し、折悪しく風下だったが、自分は「生長の家」だから、火事に焼けるなどということはない、と言って悠々としていると、途端に風向きが変わって風上になった。
○ 某の孫が疫痢にかかったとき「天地一切のものと和解せよ」という教えに従って「ばい菌よ、お前といえども生命である。生命は神から来たものであり、我々もまた生命であって神から来たものである。されば汝と我々とは神において兄弟ではないか。汝兄弟なるばい菌よ、私らは決して殺菌剤を使ったり、注射したりしてお前を殺そうとはしないから、お前もこの子供を殺さないでくれ」と和議を申し込むと、たちまち熱は下がって快癒した。
これに似た「実例」は「生命の実相」を始め生長の家の発刊物から無数に拾い出すことができる。これが、もし事実だとすれば今日までに人類が築き上げてきた科学も文明も、根こそぎ覆ってしまいそうな一大驚異だが、もしそうでないとすれば、人心を惑わすこと、これほど甚だしきはなく、正に詐欺以上である。
生長の家の教えを悟れば病気が治るという主張を谷口の著作から幾つか紹介すると
○ 不幸や病気が現れているのは、ただ眠って夢を見ているだけのことであります。だから、吾々は眼を覚ませばいいのです。初めから吾々は如来であり、初めから救われている。如来は眠って居っても如来である。眼を閉じて居っても盲目ではないのであります。病気のように見えていても健康なのであります。吾々は神の子であり、本来、如来でありますから未だ嘗て迷ったことはないのでありますが、勝手に心の眼を瞑って病気や不幸災難の夢を見ているのですから覚めればいいのであります。
○ 此の肉体の谷口雅春はまだ1人の病気も治したことはないのである。『肉体は無い』のであるから『無い谷口』がどうして病気を治したり出来るのであるか。また『病気は無い』のであるから『無い肉体谷口』がどうして『無い病気』を治し得よう。ただ『無い病気』を治す道は、真理の明るみの前に照らし出すだけで好いのである。手紙の返事よりも尚詳しい返事が聖典に書いてある。それを読んで理解する者は救われるのである。
○ 利己的目的で病気が治りたいだけには道場へ来ない方がよい。病気は物質に執着せる利己心の投影であるから、利己的に肉体に執して肉体を健康にしたいというのは要するに自己撞着である。そういう人は利己心の代価をしっかり医者に払うがよい。その方が医者救済になる。生長の家は医者と競争しない。病苦の中にも病苦を見ず、他を救おうとする決心のつく者のみ『生長の家』で救われる。『生長の家』の救いは『心』の全般的救いであって、肉体が治るのは心が治った反射に過ぎない。だから他動的に治して貰っても真理の書を読みこれを理解しようと勤めない者の病気は再発するのは当然である。
○ 「‥‥あなたのお子さんの扁桃腺が小さくならないのは、あなたが扁桃腺で苦しんでいるお子さんの姿を本当の姿だと認めて、それを治そう治そう、とあせっていられるからですよ。治すも治さぬもないではありませんか。肉体はないのです。つまり病気は本来ないのですから、本来ない扁桃腺炎をあなたが勝手にあると設計して、扁桃腺炎ばかりに捉われているから、その心が反映していつまでもお子さんの扁桃腺が腫れているのです。」
○ 「人に痛いことを言ふ人、キューと突く様な辛辣なことを言うやうな心の傾向のある人は、キューと突かれる、すなわち注射をされたりしなければならぬ病気に罹る訳であります。」「便秘はケチの心の影」、「ヘルニアはへそくりの心の影」 「舌ガンは嘘をつく心の影」、「咽喉ガンは悪い言葉の心の影」
次は「本当の生長の家を伝え遺す信徒連合」が開設している『今昔物語』というサイトにおいて谷口雅春の著作の中で述べられているエピソードから信者が「病気や不幸をいくら研究しても良きものは出て来ない。実相を追求してこそ良きものが出る。」と珍妙なタイトルで次のような見解を述べています。「 ある僧侶出身の自然科学書の著述家が谷口先生に「病気の存在を認めない生長の家が本を読んで病気が治るというのはインチキだ。」というような質問をした。「インチキによってでさえ治るのが病気なのだから、病気の存在こそまさにインチキだ」と谷口先生はお笑いになった。しかし「生長の家は肉体の病気治しではありません。私はまた病人に手も触れません。」「私は病人が治してくれと言って来ても治しません。病人は自分自身の心で病気を作っているのですから、私の話を聴いたり、私の書いた本を読んで心が癒れば、病気が自然に治るのです。」 」
砂糖の甘さは嘗めれば即座に解るのですが、そんな事ははしたないとして、化学者は砂糖の甘さは研究室で化学分析によって追及するのが理性ある学者の姿勢であると研究を続けます。そして砂糖の甘さの実際を知らないで一生を過ごすのであります。従って学者は「病・悩・苦」の現実的解決は出来ませんが、覚者は「病・悩・苦」の現実的解決を行なうのであります。学者は「悟り」は潜在意識で起きる、と考えますが、覚者は、「無の関門」を超えて「悟り」を成就された「霊的覚醒者」であり、心理学的にいえば、「悟り」とは、潜在意識・深層意識を超越し、意識の釜の底をぶち抜いた超高次元の超意識の世界(境地)で起きるもの、ということが出来るのであります。学者は、殊更に難解な言葉で理屈っぽく語りますが、覚者は、平易な分かりやすい日常の言葉で的を射た端的な言葉で語るのであります。学者と金持ち、後回しです。
奇蹟のない宗教では、医者や社会から見放された人々の”病・悩・苦“は救われません。開祖・谷口雅春先生が遺された<奇蹟の聖経『甘露の法雨』>には私たち個人個人の”病・悩・苦”を救う力があり、更に”国家”自体をも救う力があるのであります。‥‥「生長の家立教の使命」のために必要な今まで創造の根元世界の最深奥部に秘められていた霊的真理哲学体系の全相を、全人類の中から只1人の人・谷口雅春先生が選ばれまして、釈迦・キリストを超える完成の教えとして啓示されたということであります。
と、学者は無用の長物と言わんばかりに好き放題言っていますが、哲学と宗教は医学と民間療法の関係にも喩えられると思います。社会がまだ高度に発達していなかった時代ならともかく現代の先進国で医学や哲学思想を民間で広めないといけない理由が思いつかないのです。谷口の主張するように、あらゆる病気を治すことができる唯一無比最高の医学療法を発見した、つまり自分は人類史上最高の医学者であると思ったなら、どういう行動をとるでしょうか。まず医学界に正しさを認めてもらおうとするでしょう。
また彼が主張するように宇宙最高の思想であり全人類を救うものであるというのなら 哲学界等思想界でも認められようと考えるはずであり、認められれば 全世界の教育機関で教えられ、子供の頃からその思想を教育すれば、全ての人間が神の如き存在になり、病気や争いといった不幸がこの世界から一掃され、彼らの主張する『地上天国』とやらが到来するではないでしょうか。
仮に、ある犯罪行為に関して嫌疑をかけられている人がいるとします。自らの身の潔白を証明したいなら、裁判で決着を付けようとするでしょう。それをせず、事情を何も知らない人々に自らの身の潔白を説いて回り、「私の主張は正しいだろう?この私を罪人呼ばわりする人達の方が間違っているだろう? 私の身の潔白を人々に訴えよ。」と言ったりするでしょうか? やましいところがあると思われても仕方のない行動ではないでしょうか? 偏見あるいは何らかの利害関係から不当な扱いをアカデミズムから受けたなら、それを社会に告発する運動を起こすというのなら分かるのです。
「‥‥自分のかざす火は人類の福音の火、生長の火である。自分は此の火によって人類が如何にせば幸福になり得るかを示そうとするのだ。如何にせば境遇の桎梏から抜け出し得るか、如何にせば運命を支配し得るか、如何にせば一切の病気を征服し得るか、また、如何にせば貧困の真因を絶滅し得るか、如何にせば家庭苦の悩みより脱し得るか。‥‥今人類の悩みは多い。人類は阿鼻地獄のように苦しみ踠がきあせっている。あらゆる苦難を癒す救いと薬を求めている。しかし彼らは悩みに眼がくらんでいはしないか。方向を過っていはしないか。探しても見出されない方向に救いを求めていはしないか。自分は今彼らの行手を照す火を有って立つ。」(「生長の家」出現の精神、神誌『生長の家』創刊号、昭和5年3月1日発行)
○ 聖経『甘露の法雨』は素晴らしいお経である。小さくは個人の病いを癒し、大きくは国家の大病、世界の大病をも癒すことができるのである。
○ 私には全人類が一切の病・悩・苦から開放されて光明化生活を送れる日が来るまで休日というものは無い。自分は何も要らぬがただ時間だけが欲しい。
○ どうしたら全人類が速やかに光明化されるかということばかりを寝ても覚めても考えている。日本の現状を想うと夜も充分眠れぬ。
○ 私は哲学者としては、カント、フィヒテ、ヘーゲルに並べられても差し支えないところの哲学界に功績を残したとは思っている。
哲学の世界では谷口雅春という哲学者など聞いたこともないのですが、医学界ではいかがでしょうか?これほど救世の情熱に燃えながらも、学会に論文を提出する等、アカデミズムに認めてもらおうという行動だけはしなかったようです。言うまでもなく笑い者になって「大聖師」と崇め奉られる教祖様の地位から一気に転落してしまうことを谷口自身がよく解っていたからです。
信者を布教に駆り立てる論理もまた極めて巧妙です。
「人間は嬰児としてこの世に生まれて来た時、既に人類の想念の中に置かれるのであります。その想念を嬰児といえども感受しないというわけには行かないのであります。そこで嬰児も病気にかかるのであります。嬰児のみならず成人も、如何に自主独立の精神を持っていると自称するものも、やはり人類の想念の中に生きているものであるから、多少とも人類全体の想念の影響を受けないということは難しいのであります。だから吾々といえども常に毅然とした自主的自覚をもって「人間は神の子、無限に円満完全である。如何なる病気にも、一切の欠乏にも悩まされることはないのである」という想念を常に強固に把持して、その反対の精神波動の影響を拒否することが必要なのであります。そうでなくして、うっかり人類全体の想念の傾向に同調していたら、知らず識らずの中に病気に侵されるに到るのであります。だから、吾々は病気になるのに手間暇はかからない、ただうかうかと人類全体の病念と一緒に漂わされていたら病気に罹れるのであります。それに反して、常に人類の病的精神波動を感受しないようにするためには、正しき健康の想念を把持することが必要であり、その思想的根拠ある所の正しき哲学に対する理解が完全であることを必要とするのであります。何よりもまず大切なのは、実在するものは、神のみであるということであります。従って神より出でたる所のすべての実在は完全であるという事を信ずることが、自分自身を健康にし、自分の住む世界を幸福に楽しく愉快な善き世界ならしむる根本となるのであります。」『神癒への道』より
「物質肉体、物質世界が実在する」という人類共通の迷妄想念は大多数であるがゆえ強大なものであるのでこの世界から病気、争いといった不幸がいつまでも無くならない。生長の家の信仰のみが人間が本来の「神の子」という実相、物質は存在しないという実相を現わすことができる、つまりこの世界に様々な不幸が実在するという迷妄から覚まさせることができる唯一最高の真理であり、そのためには生長の家の教えを1人でも多くの人に信じさせ、迷妄想念を弱めなければならない、という論理なのです。
そしてこの論理をを国家観・世界観に適用し、「天皇信仰」に繋がっていきます。
「日本の国の実相顕現こそ真の宗教心」(『理想世界』昭和34年11月号)
政権行使の実力者が、織田、豊臣、徳川・・・・という風に変わり、又大戦後においてはその実力者がマッカーサー元帥という風に変わりましても国民統合の「中心」として厳然として変わることなく、歴代連綿として不変に続き給うのが日本天皇なのであります。こういう「国家の良心」たる「鏡的存在」が国家統合の「精神的中核体」として万世不変に連綿として続いている国家は日本国家のみなのであります。
一切の存在にはすべて、それを統合する中心に位する変わらざる中核者があることが宇宙の真理であります。(原子には原子核、細胞には細胞核、太陽系には太陽という中心、樹木には幹という中心があり、その中心が破壊すれば全体が死滅する)だから私達は日本国家を神意の発現する「真理国家」と認めざるを得ないのであります。真理とは「神が宇宙を秩序的に統一するための秩序的法則又は統一原理であります。」換言すれば神の御心であります。
神は「宇宙」という、大きな骨格≠竍卵の殻≠ンたいな輪郭≠セけを動かされるのではなく、宇宙の中にある一切のものを、どんな微小なものをも、この秩序的法則によって、全体的統一をあらしめておられるのであります。だから国家≠フ問題や人類の問題はもちろん、肉体の1個の細胞の中までも、神の叡智によるその統一原理は行き渡っているのであります。全てのものに、不変に続く統一原理なる中心は、万物にはただ1つあるのが原則であるのに、地球世界だけは諸国家の中心者が実力によって始終交代し、実力者の個人的恣意で相争い多数国家がばらばらに分かれて、ただ1つの連綿たる中核統一体がないのは、地上世界がまだ未完成であって、完成の途上にあるためだということができるでしょう。 
かかる諸国家の中において、政権担当の実力者が変わるとも、連綿として万世不変の「国家の良心」ともいうべき中心者たる天皇を有する国家は、最も完全に神の御心を地上に実現した国家だということができるのであります。世界にもし、このような天皇国家≠ェなくなるならば、神の御心の現れた国が全然地上から姿を消すことになるのであります。そういう真理を如実に体現した国家――神の御心が最も完全に現れた国家を護持することは、神の御心にかなうところの行為であり、最も高き宗教心の現れだと認め得るのであります。
宗教心とは、自分だけが極楽浄土へ行くために「南無阿弥陀仏」と唱えることだけではないのであります。むしろ、そのような自分だけが救われたいための宗教は、利己心養成の宗教であって、原始的低級宗教であります。私たちは、神意が地上世界に成就して地上に天国が成就するように、世界に唯一の「国家の良心」ともいうべき万世不変の中心を有する真理国家たる日本国家を護り育てて、全世界を永久平和の理想国家たらしめるための種子国家たらしめ、この神聖なる日本国の実相を顕し、ひいては全世界に地上天国をもたらすために協力する愛国の実践が宗教的実践であると考えるのであります。…(略)…『御心の天の成るが如く地にも成らせたまえ』とイエス・キリストが祈ったところの、その理想的天国世界を実現する、その使命を持っているのが皆さんであると私は思うのであります。この生長の家の『生命の実相』の哲学によって養われたところのその学徒でなければ本当に日本国を救うことはできないし、又、世界全体を救うこともできないと思うのであります。」
「生長の家系の天皇制右翼「反憲学連」が11月に入って教養部に登場し活動を活発化させている。 彼らは「反共・反安保・憲法9条解体」をスローガンに、全国の大学で右翼学生運動の建設を目指して活動している。とりわけ日本大学文理学部では、80年11月の武装登場以来、テロ・リンチを用いて学園の恐怖支配を行っている。「戦後史研究会」を名乗ってビラを配っていた彼らは、11月5日「真の戦没者慰霊を考える」を銘打って学内でシンポジウムを開催しようとしたが、急遽集まった学友の抗議の前にこれは断念せざるを得なかった。さらに11月25日、「三島由紀夫森田必勝憂国忌」ということで学内で集会をやろうと昼休みに登場し、多くの学友の目の前で、抗議する1人の学友に暴行を加えケガを負わせた。 彼らの主張は民族排外主義に貫かれたものであり、「大東亜戦争は聖なる戦いであった」「朝鮮人は天皇のために喜んで死んでいった」と侵略、虐殺行為を正当化し賛美するものである。 このところ原理研と並んで反憲学連(生長の家)が各地の大学で活動を活発化させている。恐ろしい時代になったものだね。」九州大学新聞(83年11月25日付)
生長の家の掲示板にも次のような批判がありました。
「‥‥生長の家の右翼的な主張や活動を実際に行っていた信者を見て、私は正しい宗教の持つ愛と献身の精神など彼らから微塵も感じることはできませんでした。生長の家の右翼学生の姿を実際に見たことも生長の家が邪教であると確信した理由の1つです。」
昭和59年、熊本大学に入学した私は学内でアンケート勧誘をしていた「日本文化研究会」なるサークルに入部しました。そこの部長を務めていたのがA君でした。A君は活動の内容をあまり説明しませんでしたが、その時はあまり疑問にも思わず、その名の通り日本の歴史や文化を学ぶサークルなのかなという軽い気持ちでした。「例会」なる勉強会が中心なのですが、天皇とか神風特攻隊の犠牲的な精神、あるいは明治維新の志士とかの内容が中心であり、宗教団体であるとは気付かせないような内容にしていたようです。部室には生長の家の書籍が揃えられており、しばらくするとA君は、生長の家の本を読むことをさも当然のように勧めてきました。
哲学や宗教に興味のあった私には、興味深い内容もあったのですが、「話が出来過ぎている、論理のトリックで丸め込もうとしている、こんな教えを実行できる人間などいるのだろうか」と思い、信じる気にはなれませんでした。狂信的に信じているA君を始め他の部員も教えを実行できているようには思えなかったことも疑念を抱いた理由でした。 
例えば、彼は、私が少し批判めいたことを述べると、「今まで一緒にやってきたではないか」と虫のいい事を言い(辞めなかったのはダミーサークルであることを隠していたからであるのに)、教義について正しいと思わないと思う旨を述べると「間違ってる言うんか!」怒ったりもしました。
数ヶ月経った頃、A君に「(このサークルは)勉強会ではないんだろう?」と尋ねたことがありました。「勉強会じゃないよ。お前はいつまでもその段階に留まっているではないか!」となじったのです。この期に及んでもサークルの目的は言わず、自分が信じている宗教を受け入れて布教活動(彼が意図していたのは反憲学連としての活動の方でしょう)に加わろうと思わないお前は劣った人間だ、と逆に非難したのです。(最後までサークルの目的は明かしませんでした。)まともな誠実さを持つ人間なら、カムフラージュしたサークルだ。今まで申し訳なかった、となるところでしょう。反憲学連と判れば辞められてしまうかも知れない。それは黙っておいて、信じてくれれば儲けもの、だめなら、はい、さようなら、といったところだったのでしょう。
生長の家本部からの連絡書をたまたま見て、自分以外の部員が皆、生長の家の信者であることを知り、そのことをある部員に話したところ「誰から聞いたのか!」とかなりの剣幕で詰問されたことがありましたので、宗教団体であることは教義を信じるようになるまでは明かさない方針であったことは間違いないようです。
数年前、教祖による女性信者への強姦が問題化した韓国のカルト宗教団体「摂理」は、スポーツや文化系サークルを装って学生に近付き、濃密な人間関係を築き辞めにくくさせ、徐々に教義を教え込むという手口だったそうですし、統一教会は、街頭で勧誘しビデオセンターに連れて行き最初は娯楽ビデオ、徐々に教義のビデオを見せ週末に泊り込みの洗脳合宿に誘うという手口でした。教義を信じるようになるまでは宗教団体としての正体を隠すというのはカルト宗教に共通した手口のようです。
A君に入信を執拗に誘われましたが、拒否し半年ほどで辞めました。
傑作なエピソードがあります。大学の近くに暴力団があるのですが、ある日、そこの2人組のチンピラにA君が大学内で因縁を付けられ恐喝されたことがありました。自転車を盗まれ見付けたら殴ってやろうと思っていたので、その悪い想念の報いとしてそういう目に遭った、と話していましたが、本当にそう思っていたのではないでしょう。帰ってから「人間神の子。彼らもまたそうである。許すべきである。」と祈った、でも戦おうと思えばできた、と強がっていましたが、暴力団員が喧嘩が弱い訳がなく、まして相手は2人で戦闘態勢であり武器を持っている可能性もあります。かなりの格闘技の心得がなければ勝ち目がないこと位分からない筈がないのです。
こういう嘘さえつかなければ実行できないような教えなのです。哀れさえ感じます。A君の話は到底信じられませんでしたが、普段反省などするようには思えない彼でも、他人に押し付けるからには、自ら教えを守らなければならないということだけは理解していたようです。
以上述べたA君の姿勢も生長の家の教えからすれば当然に思えます。「自らは神の子」と増長しますが「他人も神の子」と他人を同等に尊重するわけでは決してないのです。観念的に理解することと実際に行動に現わすことは明らかに別なのです。人間は現在の人格以下の行動も取れないのと同じく人格以上の行動も決して取れないからです。
生長の家の掲示板にも次のような批判がありました。
○ 宗教に入信してただ本を読んだだけでは、人間の人格は決して向上しない。 宗教に関わって、真理と称される受け売りを偉そうに垂れ流し、周りの人々を不愉快な気分に、ひいては宗教不信させている未熟な人格の愚劣漢のいかに多いことか。「人類光明化運動」なんて聞くと、使命感に燃えちゃって、その担い手になることは価値あることだと錯覚しちゃい、自分の意識レベルが上だとこれまた誤解する。こうして傲慢さが知らず知らずの内に身に付いてしまう。
○ 私は別に生長の家の教えのことを「自分だけが神の子だという教えだ」とは言っていない。「他人も神の子だ」と説いていることはもちろん承知している。その上で批判しているのだ。だからこそ他人の欠点にやたら目が行くのだろう。「あの人は私と違って神の子の自覚を得ていない。だからあんな風なんだ」と見下す。他人の世話をする前に自分の欠点を直せ。いくら神想観やったって「自分のこういう欠点が改まりますように」なんて祈ったことないだろう、あるはずがない。生長の家からはそういう教えが全く欠落しているから。念じるのは「自分は神の子だから完璧だ」という自己暗示。こんな信仰やってて傲慢な人間にならない方が不思議だ。
○ 私の小さい頃 町のドンがいてそいつが生長の家だった。町内会の人達は信じていないけど、 おっかながって生長の家の集まりに出ていたようだ。うちは引っ越したばかりだし、信じるつもりないから断ったら、私の家を村八分にし、私と妹をいじめの対象にしていじめ続けた。
○ 人間の努力や積み重ねを根底から否定し、お仕着せの真理を吹聴する宗教ヤクザ・生長の家の1日も早い崩壊と幹部クラスの逮捕を強く望みます。
「吾々の外部に見える生活というものは、全て自分の心の影である。『実相世界』には善しか存在しないのであるから、もし自分の周囲に悪い事があるように見えても、それは自らがまだ「神の子」としての実相を現わせずに心の持ち方が悪いのであって、それが相手に反映しているのだと思って、自分自身を振り返らねばならない。他人が悪いと思っても、それはきっと自分が悪いのである。 」という教えを説いているのですが.....。他の人が皆そうなってくれれば確かに自分は「地上天国」にいるかのようになりますよね、あくまでも“他の人”がですけどね。
彼等が信じているように本当に生長の家の教えが人間の「神の子」としての「実相」を現わし地上天国をもたらすものであるならば、私が疑義を唱えた際、怒ったりせず、「どこが納得できないのか? それはこうだから正しいのではないか?」ときちんと説明する筈ですし、また教えを押し付けずとも、接する人達が「この人達は他の人達とは人格レベルが全然違う。生長の家という宗教を信じている人達なのか。どれどれ、どんな教えなのか、なるほど、こんな素晴らしい思想を学んでいるからなのか。自分も学んでみよう。」となると思うのです。
宗教の布教に熱心な人達の熱心さを善意であると好意的に捉える向きもあるようですが、そうではないです。確かに社会を良くしたいという動機があることは否定しませんが、それはその人の人格、精神性の高さと同等のものであるはずであり、聖人君子の集団でもない彼等が人々を救いたいという情熱だけでそれほど熱心になれるわけがないのです。
『驚異と占有―新世界の驚き』という本を読まれたことがあるかもしれませんが、これは新大陸を発見したコロンブスの驚きは、なぜ必然的にその「土地の占有」と結びつくのかという、植民地化への心理機構を分析した内容なのですが、世界を席捲し支配するのは、富への欲望だけではなく、世界を自らと同じ信仰の色に染め上げてしまおうという、獰猛なまでの信仰心がエネルギー源である、思い込みの強さがある限り、どんな野蛮も合法化されるし正当化できてしまう、という分析を著者は行っていますが、その通りであると思います。
特段、精神性が高くもないのに、つまり自らが実行できもしない教えを「あなたを幸福にしたいのだ。」と他人に押し付けようとする熱心さにこれで説明がつきます。自らの思想を他人にも信じさせたいという「獰猛な欲望」に動かされているだけなのですが、自らは、正しい思想を広めている、人々を救う崇高な生き方をしているレベルの高い人間なのだ、と思い込んでいるので手に負えないのです。宗教が人類の歴史において対立と流血をもたらしてきたのも頷けます。
今度A君にお会いになったら「なぜ私達には『多くの人が生長の家を信じないからこの世界から病気が無くならないんだ。生長の家の本を読めよ。何だと!間違ってる言うんか? お前は程度が低いからこの真理を理解して布教するという崇高な生き方ができないのだ。病に苦しむ人々を救おうと思わないのか?』と言わないのか? 患者に対しては『病気など本当は存在しないのだ。生長の家の信仰をすればすぐ治るのだ。』となぜ言わないのか?」と是非尋ねてみて下さい。
それにしてもA君がオウムでなくてよかったですね。もしそうだったら皆さんも、もしかしたら今頃はこの世にいないかもしれません。 
天照皇大神宮教と璽宇 

 

1948(昭和23)年9月8日、数寄屋橋公園に「踊る宗教」なるものが出現しました。その模様を朝日新聞は次のように報じています。「ナニワ節みたいであり、筑前ビワのごときところもある奇妙なフシ回しで老若男女とりまぜて二十名ばかり、無念無想の面持ちよろしく踊りまくる図に銀座マンも笑っていいのか、カナシンでいいのかポカンと口を開けての人だかり・・・・」だったといいます。
この踊る宗教こと天照皇大神宮教の教祖である北村サヨは、当時48歳で、教団の中では「大神さま」と呼ばれていました。彼女の説法は、「朝日新聞」にあるように、ナニワ節を思わせる歌による説法で、それが延々四時間も続き、その間、大神さまは、水も飲まず、ぶっ通しで歌説法を続けます。
サヨはウジやウジのコジキといった表現をよく使いました。それは利己心に固まり、神のことを理解できない人間のことをさしています。この世界に起こる現象は、すべてそこに神が関わっていることから「神芝居」と呼ばれ、自らのことは「女役座」と称し、「同士」とも呼ばれる信者たちの先頭に立って、世直しのときが迫っていることを訴えました。
また数寄屋橋公園に出現する前の1946年、サヨは、食糧緊急措置違反に問われ、懲役八ヶ月、執行猶予三年の有罪判決を受けたことがありました。ウジムシに食わせる米はないと、信者たちに米の供出を拒否するよう呼びかけたからです。サヨは、法廷で、歌説法を行い、無我の舞を披露します。
彼女の肚には神が宿っていて、歌説法を含め、すべてはその神の言うことだとされていたからです。その神こそが、教団の名前にもなった天照皇大神宮で、それは天皇家の祖神とされる天照大神に由来します。なお、伊勢神宮の内宮は、皇大神宮と呼ばれています。終戦後天皇陛下が「人間宣言」を行ったため、自らがその空白を埋めようとしたといいます。
サヨは1920(大正9)年に田布施の北村清之進と結婚しています。清之進は、一時、ハワイに移民していたことがあります。それが後に天照皇大神宮教がハワイに進出するのも、そうした地理的な環境が影響していました。
1942年7月、家の離れ、あるいは納屋で不審火がありました。サヨは、その原因を突き止めようとして祈祷師のもとを訪れ、それから深夜に神社へ参拝する丑の刻参りなどを実践しました。1944年には、祈祷師から生き神になると告げられます。その年の5月4日には、彼女の肚のなかに入り込んだものと話をするようになりますが、それは命令を下すようになり、サヨがその命令を拒むと、体が痛み、命令に従うと、痛みが消えます。やがて、肚のなかのものは、サヨの口を使って直接語りだすようになります。そして天照皇大神宮という神であり、宇宙を支配する神であることを明らかにします。そして戦後サヨが公衆の面前で実践したように、ウジの世の中に対する厳しい批判をするようになったのでした。
肚の中に神が宿っているということは、サヨ自身が神であることを意味し、彼女は生き神として人々の信仰を集めるようになります。サヨに伺いをたてると、よく当たると言われ、生き神としてのサヨに祈れば、病気が治るとも言われるようになります。天照皇大神宮教は、もっぱらこの生き神としてのサヨの魅力によって信者を集めていきます。しかし、体系的な教義が作られ、洗練された儀礼が形成されていったわけではありません。
新宗教に厳しい大宅荘一も、天照皇大神宮教が信仰による金儲けをめざしていないことをさして、「ノン・プロ主義」と呼び、その点を評価しています。実際サヨは、神殿を建てる際、建設作業に従事するなどしていました。
天照皇大神宮教が踊る宗教として注目を集める前に、もう一つ、騒動を起こし注目をされた教団がありました。それが璽光尊(じこうそん)こと長岡良子を中心とした璽宇という教団でした。北村サヨは「第二の璽光尊」とも呼ばれました。その璽宇に不世出の横綱双葉山も傾倒していました。璽宇は幡を立てて「天璽照妙」と唱えながら、町中を練り歩き、神楽舞を披露したことから、人々の関心を呼び、メディアでも取り上げられました。警察は璽宇の動静に注目していて1947年1月18日、取締りの方針を決定します。そして、二十一日深夜、警察は検挙のために捜査に入ります。その際に、双葉山は大立ち回りを演じ、幹部とともに検挙されています。双葉山は翌朝、朝日新聞の記者にもらい下げられ、説得されて璽宇を離れることになります。璽宇の幹部たちは30日に釈放され、璽光尊については、金沢大学の精神科医が鑑定を行い、妄想性痴呆と診断されました。同じ医師は2007年に101歳で亡くなる直前、オウムの麻原と面会し、訴訟能力を欠いていると診断しています。
天照皇大神宮教と璽宇が似ているのは、単に社会的な騒動を起こした点だけでなく、璽光尊は国粋主義の傾向が強く、皇室を崇拝していましたが、戦時中、日本が敗色濃厚となるとき神としての自覚を持つようになり、自分が現人神として天皇を補佐することで八紘一宇が実現すると考えるようになりました。天皇陛下が人間宣言をすると、今度は皇室に変わって自らが世直しを代行するものと考えるようになり、璽宇のある場所を「皇居」引越しを「遷宮」家具や日常使う物までに菊の紋章をつけるようになりました。また璽宇ではアピールのために「行軍」あるいは「出陣」を行い、天璽照妙の幡を立て、天璽照妙と唱えながら、宮城前、靖国神社、明治神宮をめぐるようになりました。
璽宇は取り締まりこそ受けたものの、教祖も幹部も起訴されず、裁判にはかけられませんでした。しかし、メディアによって璽光尊は精神病者で、璽宇は邪教であるというイメージが広まりました。世間から白眼視され、各地を転々としていきます。流浪の旅は最終的に横浜に落ち着きました。
璽宇の前身となったのは、鉱山関係の実業家で、神道系の行者であった峰村恭平を中心とした皇道大教でした。この皇道大教が、1941年に璽宇に改称します。その時点で、二つのグループがそこに加わりました。一つは大本系のグループで、もう一つが璽光尊となる長岡良子を中心としたグループで、良子は真言密教系の霊能者として病気治しなどを行っていました。そして峰村は、病もあって、璽宇から退き、良子がその中心になっていったのです。
一方、天照皇大神宮教の方は、その後も活発に活動しています。1951年にサンフランシスコ講和条約が発効になると、日本の新宗教教団は海外布教に乗り出すのですが、天照皇大神宮教も、本部のある田布施と縁のあるハワイに進出します。進出したのは52年のことですが、到着するやいなや埠頭で歌説法を行い、無我の舞を披露しました。サヨは1967年に亡くなっていますが、その後は、孫の清和が継いでいます。彼女がサヨの後継者となったのは高校2年生の17歳のときのことで、教団内では「姫神さま」と呼ばれていました。しっかりとした後継者が定まったことで、天照皇大神宮教は教祖の死後にありがちな分裂を経験しないですみました。現在ではそれほど目立った活動を展開しているわけではありませんが、中規模の教団として存続しています。 
天照皇大神宮教

 

(てんしょうこうたいじんぐうきょう) 宗教法人格を有す新宗教団体の一つ。文化庁『宗教年鑑』の分類では「諸教」となっている。
信者数は国内で約48万人(2017年現在)。本部は、山口県熊毛郡田布施町大字波野10123。山口道場は、山口県山口市平井188。東京道場は、東京都千代田区九段北4丁目3-18。
教祖は熊毛郡田布施町の農婦、北村サヨ(大神様、1900年1月1日-1967年12月28日)(出生地:山口県玖珂郡日積村大里(現在の柳井市日積))。二代目教主はサヨの孫娘(サヨの長男北村義人(若神様、宗教法人天照皇大神宮教代表役員)の娘)、北村清和(姫神様、1950年4月27日-2006年6月7日)。三代目教主は清和の娘・北村明和(明和様、1990年1月9日-)。
サヨは農家の嫁であったが、1942年に自宅の納屋などが放火に遭い犯人捜しのために祈祷師に勧められた丑の刻参りと水行の修行を始めた。そして1944年に肚(はら)で自分以外の何者かがサヨに話しかけるようになり、サヨの口を使って人々に教えを説き始め開教した。1945年8月12日に宇宙絶対神(天照皇大神)が降臨したとしている。
昭和21年、教団ではこの年を「神の国の紀元元年」と呼び、独自の年号「紀元」を使用し始めた。
なお、教団の名称は、第二次大戦中の国粋主義的な歴史教育を受けた人々に対して、宇宙の最高神の教えであることを示すために呼称されたものであり、神道(皇大神宮・伊勢神宮)とも他の既成宗教や新興宗教ともまったく関係がない、と教団関係者は言っている。
そして、天照皇大神宮教の神とは、仏教でいう本仏やキリスト教でいう天なる神と同じ、宇宙絶対神であるとしている。
このことに該当する記述は、教団が出版している『生書』(「せいしょ」)第一巻によると、次のとおりである。「夜はまた夜で肚のもの(=教祖の肚に入った神―当編者補足)は、思いもよらぬことを教祖に話して聞かせるのである。『おサヨ、天照皇大神宮というのは、日本小島の守護神と思うなよ。宇宙を支配する神は一つしかありゃしない。キリストの天なる神、仏教の本仏というのもみな一つものぞ』と」。
教義
『生書』第一巻・第二巻によれば、その教義はおおよそ以下の内容である。
なお、『生書』は、人が日々生きる上で、指針としての具体的かつ生きた働きをする書という意味で、教祖によって命名されたとのことである。『聖書』とはたまたま読みが同じであるだけで、まったく関係はない。
教祖の肚(はら)に、宇宙絶対神が天降り、教祖・北村サヨの口を通して、人類に神の教えを授けた。その神の目的は、倫理が乱れた人の世を神の世にすること、すなわち、地上神の国建設である。
人生の目的は、心の掃除をして魂を磨き、神様に少しでも近い存在になることである。すなわち、日々刻々と心に浮かぶ邪念を打ち払い、自分の自我と悪癖(わるぐせ)・欠点を神に反省懺悔して真人間になろうとすることが、生きる目的である。
よって、「しんこう」とはただ信じ仰ぐのではなく、神に行く「神行」と理解すべきである。
悪霊(救われていない霊。霊界の地獄にいる霊、および、幽霊や地縛霊)や邪神の作用で、悩みや喧嘩や戦争が起きたり、ひどくなったりしている。
また、人は、前世、先祖、自分の半生による因縁因果によって、様々な出来事に遭遇する。中には、厳しい運命に直面する人もいる。
宇宙絶対神は、神の国建設の妨げとなる悪霊を済度し悪因縁を切る祈りを人類に授けることとなった。
人が、真に神に帰依し、利己的な願いのためではなく、世界平和・神の国建設のために、その祈りを祈るときに、宇宙絶対神は法力をくださる。
人間は、惜しい、欲しい、憎い、かわいい、好いた、好かれたの六つの魂でできているので、これらを清浄にして、反省しては懺悔することが大切である。
六魂とは、食欲・物欲など、物に関する「惜しい」、逆に求める「欲しい」、人を「憎い」と思ったり、逆に好感を持つ「かわいい」、異性に対して「好いた(好きだ)」あるいは「好かれた(い)」のことであり、人の日常生活ではこの六つの魂がいろいろと働いている。これらを禁欲して捨てきるのではなく、見ても、聞いても、不清浄な邪念を起こさないレベルまで、魂を磨くことが大切である。
この六魂清浄について、「欲望を捨てよということですか」と質問されて、教祖は次のように答えている。「捨てきれとは言わない。清浄にしろと言うのよ。金もない者が飲みたい飲みたい思うたら、女房に隠れてでも飲む。・・・・・・それが悪いと言うのよ」。
お祈り
『生書』第一巻によると、その法力ある祈りとは、「名妙法連結経」である。仏教の「南無妙法蓮華経」とたまたま似ているが、まったく関係がなく、真似たりもじったりしたものではないようである。
同じく『生書』第一巻によると、この祈りを教祖の肚に宿った神は、「少し名のある女が、天から法の連絡をとって結するお経」と説明したという。少し名のある女とは、救世主として世に知られることとなった教祖のことを指す、としている。
信者(同志)は、世界平和のために悪霊を済度すべく、この祈りをおよそ10分間、朝晩唱えている。
なお、天照皇大神宮教では、信者のことを「世界平和・神の国建設に志を同じくする者」であることから、同志と呼んでいる。
神の国
天照皇大神宮教では、「世界平和は己の心の平和から」と捉え、心が清らかで正しい人間になることが、まず大切であると説いている。
そして、個人の心の平和から、家庭の平和、学校の平和、職場の平和、地域の平和へと拡充していくことを目指している、という。
教祖の肚に入った神の目的は、地上神の国建設であり、教祖が説く教えを中心に、神行(しんこう)の日々を送る同志の世界ができたことで、「神の国ができた」としている。そして、この世界が広がることが、地上神の国建設である、と説明している。
教祖
教祖の北村サヨは、小学校6年間を経たのち、嫁いで農家の主婦であったが、放火の疑いのある自宅の火事を機に、丑の刻参りや水行を始めた。そして、1944年(昭和19年)5月4日、肚で何者かがものを言うようになり、人々に教えを説き始めた、という。
『生書』第一巻によると、教祖は、神から「世界が一目に見えるめがね」を授かり、宇宙一切のもの、そして、人の過去の行状から前世にいたるまで、見ることができたという。
その後、教祖は国内はもとより、世界各国に何度も巡教し、その教えを広めた。その様子は、『生書』の第一巻から第四巻までに記されている。
そして、昭和19年5月から死去するまでの24年間にわたり、教祖は日々、教えを説き続けたという。
教団の特徴
職業宗教家、すなわち、教えを伝え、教団活動をすることを生業(なりわい)とすることを教団は禁止している。その理由は、宗教に肩書きや免状は、意味がないからだという。すなわち、人の心は、日々刻々と向上したり、邪(よこしま)な方向に落ちたり、不安定なものであり、肩書きや免状で箔付けできるものではないからだという。よって、この宗教では、ただで教えを受けて、ただで伝道すべきである、と教団は規定している。
宗費を信者(同志)から取らない。すなわち、月々の会費や年会費を取られたり、出版物を割り当てで買わされることはない。ただし、本部道場の維持には費用がかかるので、信者(同志)はそれぞれの自由意志で、金額の定めのない「拠金」を維持箱(拠金箱)に入れるが、強制されることはないという。
人が死ぬことは、魂が肉体から離れてあの世に生まれるといったことなので、「おめでとう」と言ってよいとの教祖の言葉がある(『生書』第一巻、第11版、504頁)。「即身成仏ができて実相界(霊界)に誕生することができたら、おめでたいのじゃ」と教祖は述べたという(同上)。俗にいう「大往生(だいおうじょう)ですね」に相当する意味と思われる。しかし、最近の教団の葬式(告別式)で、遺族に「おめでとう」というケースはあまりなく、「ご苦労様です」という場合の方が多い。
人が死ぬと、その魂は霊界に行くのであって、骨壺や墓の中に魂が残ることはない、との教えから、天照皇大神宮教の告別式(葬式)では、収骨をせず、墓や位牌もない。しかし、先祖への感謝は重視されており、同志は亡くなった人への感謝のお祈りを折に触れて行っているという。
教団は、夫婦の魂と魂が結ばれるという意味で、結婚を結魂と表記している。信者(同志)どうしの結魂は、お見合いを希望する同志またはその親が、本部事務所に申請を出し、お見合いをして両者がよく納得したうえで、婚姻に至る。集団見合いや、見ず知らずのものと強制的に結婚させられることはない。
教祖在世中は、教祖が同志の「因縁と因縁を見て」縁組をするといったことがあった。「因縁と因縁を見て」とは、たとえば前世で夫婦であったという意味と思われる。  
天照皇大神宮教 2

 

創立 / 昭和20年8月
創始者 / 北村サヨ(大神様)
後継者 / 姫神様・北村清和
信仰の対象 / 天照皇大神宮
教典 / 『生書』
沿革
「踊る宗教」として有名な天照皇大神宮教(てんしょうこうだいじんぐうきょう)は、農家の主婦が突如として神がかって「神の言葉」なるものを語りだしたことに始まりました。
明治33年に山口県に生まれたサヨは、大正9年、20歳の時に北村清之助と結婚しました。
昭和17年、北村家の放火消失事件があり、それについてサヨが祈祷師にたずねたところ、「丑(うし)の刻参りと水行をせよ」と言われました。
それにしたがって行を続けていたところ、サヨは昭和19年に「自分以外の何者かが、肚(はら)の中でものを言い出した」などと言い出しました。
さらに翌20年には、宇宙の絶対神とする「天照皇大神の降臨を自覚した」として、自分のことを「皇大神という男神と、天照大神という女神を一体にして肚の中に納めている<天照皇大神宮>である」と宣言し、自身を「大神様(おおかみさま)」と称するようになりました。ちなみに「宮」とは、サヨの肚の中ということだそうです。
サヨは、無我の境地で自由に手足を動かす「無我の舞」を踊り、「歌説法」をするなかで、自らを磨かない人間を「蛆(うじむし)の乞食」と叫び、「蛆の乞食よ、目を覚ませ」などと訴えて、信者(同志)たちに無我の舞をさせました。これが、世間から「踊る宗教」と呼ばれた所以(ゆえん)です。
昭和21年には「肚の中の神からのお告げ」なるものによって法人設立を決め、翌年1月に宗教法人「天照皇大神宮教」を設立しました。教団では昭和21年を「神の国の紀元元年」と勝手に決め、独自の年号を使用するようになりました。また、徹底して既成宗教を批判し、在家教団を前面に打ち出しています。
活動としては、昭和39年に竣工された本部道場で、2と6を除く毎日2回、教祖サヨの語ったテープを信徒に聴かせ、修練および布教活動の指針としています。
昭和43年、サヨは孫娘の清和(姫神様)を後継者に定め、死去しました。
教義の概要
教典と信仰の対象
教祖サヨの言行録である『生書(せいしょ)』というものがあり、これのなかで儀礼化した既成宗教のあり方や、戦後の風潮を批判しています。さらに、組織的にまとめられた『神教』というものもあり、この2書が一応、教義のようです。
また拝む対象としては、天照皇大神を「最高の神」として、その札(ふだ)のみとし、他の一切の神仏は否定しています。
神の国の建設
教祖サヨは、独特の時代区分を述べ「人の世から神の世の転換にあたり、大神様の出現によって神の子となることができる(趣意)」と言い、これを受けて教団では「今はまさに神の世である」とし、神の国の建設を訴えています。
また教団では「現世は霊界との因縁によって結ばれている」などと言い、この世で多くの利己闘争が起きる原因は「宇宙が悪霊で充満しているから」だと主張しています。そこで、現世の乱れをなくすためには霊界の掃除、すなわち「悪霊を済度(さいど)」しなくてはならないのだそうです。
そして人間は、それぞれの因縁(いんねん)によって悪霊に取り憑(つ)かれているなどとし、煩悩(ぼんのう)・苦悩の原因である悪霊を断ち切れば苦悩から脱せられると言っています。
「六魂清浄」と「名妙法連結経」
教団では、神のところに行くためには「神行(しんこう)」が必要であるとし、「六魂清浄(ろっこんしょうじょう)」を説いています。教団の言う六魂とは「惜しい」「欲しい」「憎い」「かわいい」「好いた」「好かれた」であり、これらを罪の根元であるなどと主張しています。
この六魂を清浄するために「名妙法連結経(なみょうほうれんけっきょう)」と唱え、反省することが「神行」で、これによって神に気に入られ、住み良い神の世界が与えられるなどとしています。
この「名妙法連結経」は、教祖サヨの肚の神からのお告げによって決められた、ということで教団の題目となっています。教団では、これを一心に唱えれば自然と無我になり、手足も自由に動き、歌も歌うようになって、霊界とも通じ合うことができ、学ばなくても悟ることができるなどと主張しています。
この無我の境地になって踊る「無我の舞」によって、一切が救われるというのがこの教団の教えです。
先祖供養は不要
教団では天照皇大神以外の、一切の神仏を否定し、特に形骸化した既成宗教を金儲け主義であるとして厳しく非難しています。
その金儲け主義の要因は「墓」であると主張し、教祖サヨ自身が「墓を建てないように」などと遺言しています。さらに、先祖供養や死者に対する儀礼も不必要であるなどとしています。 
天照皇大神宮教 3

 

■教義
天照皇大神宮教は、山口県熊毛郡田布施(たぶせ)町の農家の主婦であった教祖・北村 サヨ氏によって、昭和19年より説き始められた教えです。
その教えは、宇宙絶対神が教祖の肚(はら)に天(あま)降(くだ)られて、教祖の口と心と体を使って、 世界平和・神の国建設のために、人類に授けられた神直々の教え、神教(みおしえ)です。
教団名は、第二次大戦中の国粋主義的な歴史教育を受けた人々に対して、宇宙の最高神の教えであることを示すべく呼称されたものであり、 神道、仏教、キリスト教、イスラム教などの既成宗教、または、他の新興宗教とは一切関係がありません。
教祖・大神様(おおがみさま)は、その教えの根本を下のようにお説きになりました。初めて読む人には、意味がわかりにくいかもしれませんので、 引用の後の解説もご覧ください。
「神行(しんこう)神(かみ)に行く、合正(がっしょう)正しく合う。神と人との肚(はら)が正しゅうに合うようになったら、 神人合一(しんじんごういつ)天使、神に使われる。油断したら邪の神に使われる。 邪神(じゃしん)は己の邪念じゃで、出てくる邪念を打ち払い、打ち払い、死ぬまでかかろうと構やせぬ。神のみ肚に合うように心の掃除をしてゆけば、 肚に入った神様が人間自由自在に人を使って世の中治めて取らなきゃならない時が来た」
人生の目的は、心の掃除をして魂を磨き、 神様に少しでも近い存在になることである。すなわち、日々刻々と心に浮かぶ邪念を打ち払い、心の掃除をして、自分の自我と悪癖(わるぐせ)・欠点を神様に反省懺悔し 真人間になることが、生きる目的である。
よって、「しんこう」とは、ただ信じ仰ぐのではなく、神に行く「神行(しんこう)」であると理解すべきである。
前世、先祖、自身の半生、これらの因縁因果によって、人は様々な出来事に遭遇するが、それらは、自分の魂を磨く行(ぎょう)の糧(かて)である。
すなわち、己の心を鍛え、成長させるとともに、悪癖(わるぐせ)・欠点を反省懺悔して直してゆくためのものと捉えるべきである。
悪霊(あくれい)(救われていない霊)の後ろ控えによって、人と人は喧嘩をし、国と国とは戦争し、病や悩みが生じている。
世界平和のために、悪霊を済度(さいど)する(霊を救済し、あの世に送る)法力(ほうりき)ある祈りを祈れ。
解説
宇宙絶対神
唯一無二の宇宙の最高神。仏教やキリスト教などでいうところの、本仏や天なる神と同じ。
大神様、釈迦、キリスト
宇宙絶対神に使われた三人の救世主。教えの内容に異なる点がある理由は、 宇宙絶対神が、それぞれの時代・場所・人々に応じて、わかりやすくお説きになったため。
心の掃除
日々刻々心の中に浮かぶ、悪しき思い(邪念)を打ち払い、神様に反省懺悔して、心の清らかな人間になろうとすること (詳細な説明は、このリンクを参照)。
魂を磨く
邪念を日々刻々打ち払い、反省懺悔して、法力ある祈りを祈り、 自分の自我と悪癖(わるぐせ)・欠点を直し、真人間(まにんげん)になろうとすること。
法力ある祈り
宇宙絶対神が大神様を通じて、人類に賜ったお祈り。一見、仏教の「南無妙法蓮華経」と似ているが、 たまたま音が似ているだけで、まったく無関係。世界平和、神の国建設のために、魂を磨き真人間になることを神様に誓った 者がこの祈りを祈るとき、宇宙絶対神が直々に法力をくださる。利己的な目的で祈っても、法力はない。 メニューの一つに挙げているので、詳細はそれをご覧ください。
■大神様
ご略歴
教祖・大神様(おおがみさま、北村 サヨ氏)は、明治33(1900)年1月1日に山口県の日積村でご生誕されました。 当時の初頭教育である尋常小学校6年間をご卒業、20才で熊毛郡田布施(たぶせ)町の北村家に 嫁がれました。
嫁を3年間に6人も取り替えるほどの難しい姑にお仕えになり、一人息子の義人氏(若神様)を産まれ、 農家の主婦として家庭を守り、地域に貢献し、実直で正義感の強い人生を歩んでおられました。
放火の疑いがあるご自宅の火事をきっかけに、丑の刻参りや水行(水をかぶる修行)をお始めになり、 ある日、肚で何者かがしゃべりはじめて、教祖としての活動が始まりました。
それ以来、肚の神様に命ぜられるままに救世主として行じ、説き続けられ、日本のみならず世界中に 神教を広められました。
紀元22(西暦1967)年12月28日にご昇天されるまで、世を救い人々に生きる道をお示しになるために、 骨身を削り、命をかけての毎日を送られました。ご昇天の前日の12月27日の夜まで、絶え絶えの息のままに、道場で ご説法をされました。
肚の神様と大神様
大神様の肚に天降(あまくだ)られた神様は、宇宙絶対神です。ご説法によると、宇宙絶対神は、男性の神様と女性の神様であり、 両神様が一体となって大神様の肚を宮(ぐう、すなわち、お宮。神様の御在所といった意味)として 天降られたそうです。
よって、大神様のご説法や神言の多くは、肚の神様が大神様の口をとおしてお説きになったものです。 また、宇宙絶対神は、宇宙そのものであるため、人間が心に思ったこと、しゃべったこと、行ったことのすべてを ご存知であり、大神様を通じて同志を日常生活にいたるまで、ご指導されました。
たとえば、ある同志が子供の頃に、学校の売店で お金を払わずに消しゴムを盗ってしまったことを指摘され、反省懺悔するよう促されたことなどが、教団の出版物 に記載されています(『天聲』、第771号、紀元73年3月、82頁)。
教祖として
大神様は、他の宗教団体に所属しておられたことはなく、そうした学習や取組みをされたこともありません。 つまり、神教は、人間が頭で作ったものではなく、大神様の肚に宿った神様から直々に人類に説かれた教えなのです。
天照皇大神宮教で使われる用語には、当時の言葉の同音異義語などがありますが、安易にもじったり真似たものではなく、 肚の神様が人々にわかりやすいようにとお使いになったものであり、どれも神教を体した深い意味をもった言葉です。 各用語については、「その他」のページをご覧ください。
大神様は、元々礼儀正しく、言葉使いも上品だったそうですが、肚の神様は、魂の腐りきった人々に対して、 やさしく上品な言葉で説いても目が醒めない状況を鑑(かんが)みて、 衝撃をもって受け取られ、そして広まるようにと、罵倒するような表現を数多くお使いにまりました。
たとえば、 世の人々を「蛆虫(うじむし)」と表現されました。人より上にのしあがろうとあがいている人間のことです。
便所の蛆虫が、他よりも上にあがろうとしてお互いにうごめいて、ついには団子になって一斉に転がり落ちる様にたとえたものです。
神言はしばしば辛辣(つんらつ)ながら、大神様のご日常は大変質素で、同志の真心にはいつも感謝と労いの言葉をかけてくださっていました。 時には慈母のごとく優しく、時には厳しく間違いをご指摘になり、同志をお導きいただきました。
開元当初の農家の主婦としての現職を持ちながら、教祖として教えを説いておられた様子を『生書』第一巻では、次のように記録しています。
「ある時は、大根の切り干しをされながら、ある時は、縁側で縫い物をされながら、またある時は、井戸端でうずたかくたまった洗濯物を洗われながら、 説法されるのであった。結局、大神様御自身には休日はないのである。・・・・・・家庭内のことはほとんど、大神様御自身でしておられた。漬物を漬けたり、 みそ、しょう油のこうじをねせたり、染め物、ぼろ繕いなど、殊に農繁期には朝昼晩の説法の合い間合い間に、ご飯炊きから後片付けまで、 御自身でやられる忙しさである」
日常生活そのものが、即神教実行であることを大神様は御身をもって示され、 生涯かけて貫かれました。奉答歌の歌詞にあるように、大神様のご足跡は、神そのものの神教です。
解説
大神様、釈迦、キリスト
肚の神様は、釈迦、キリスト、大神様以外に(宇宙絶対神が)使ったおぼえがないと仰せになりました。 大神様、釈迦、キリストの教えが異なるのは、それぞれの時代・場所・人々に 合うようにと神様がお説になったからだそうです。
文明科学の発達とともに、道義は地に堕ち人倫は乱れ、第二次大戦時にはますます末世の様相を呈しました。 その乱れに乱れた人の世を救うために、宇宙絶対神は三度(みたび、すなわち、三回目として)天降られて、 大神様を通じて人類に神直々の教えをお示しくださいました。
そして、これからの時代には、まさに天照皇大神宮教こそが 世の中を変え、人々を救っていく教えである、と大神様はお説きになりました。
ですから、仏教やキリスト教が間違っているとか、役に立たないという ことではありません。煩悩を捨てることを説いた仏教の教えによって、欲望に執着する 自分を反省して改める必要性を知る人はいるでしょう。神を深く信じて隣人を愛することを説いたキリストの教えを受けて、 心の平和を身につける大切さを痛感する人もいるでしょう。
大切なことは、各教義を比較して論じることではなく、心の掃除を実行することです。 日々、心の掃除をして法力ある祈りを祈ることで、一人一人の心の中から神の国が広がっていきます。  
■神の国
天照皇大神宮教の目的は、世界平和・地上神の国建設です。
世界平和という言葉は、様々な意味で使われていますが、 天照皇大神宮教では、「世界平和は己の心の平和から」との神言(みことば)に則して、自分の心の平和、家庭の平和をまず確立すべく取り組み、 学校、職場、地域社会、そして世の中全体に、そうした平和な世界が広まることを目指しています。
つまり、天照皇大神宮教でいう世界平和・神の国建設とは、人の心の中に生まれて、肚(はら)で育ってゆく性質のものであり、 神様を中心にして魂を磨く人々の集う世界(すなわち神の国)が、世界中に広がっていくことを意味しています。
人は皆、幸福な人生を歩むことを目指しているでしょう。しかし、何を「幸福」と考えるのかは人それぞれであり、 理想とする地位や名誉や金や財産やパートナーを獲得することを目指しているか、 または、そうした希望・欲望は持たないものの、愛に満ちた平穏かつ安定した暮らしを 送ることを希望している人もいるでしょう。
たとえば、ある地位を得ようとする人が複数いて、あからさまに、または、ひそかに心の中で、弱肉強食の修羅場を演じている様子は、多々目にします。 自由競争と市場原理は、社会の基盤として大切であり、切磋琢磨(せっさたくま)は必要ですが、個人として立身出世に魂を奪われるのは、人の生き方として浅まし限りであり、間違っています。
しかし、多くの人は、このように自分についての幸福だけを考えるのではなく、人や社会の役に立てたことに、喜びを感じたことがあるでしょう。 故事にも言うように、幼児がヨチヨチ歩きで井戸に落ちそうになっていたら、誰しもハッとして 助けようという気持ちが働く「惻隠の情」(そくいんのじょう)、すなわち、善なる魂を持っています。
自分の幸福を追い求めるのではなく、まずはより良い世界の実現のために貢献しようという肚(決意)を持つことが、 社会を良くしていく原点です。では、利他と相手を思いやる真心を持った人々が集うとき、その社会の規範は何でしょうか。
利己・自我、ひいてはその悪の華ともいうべき邪念・罪の正反対の世界は、清く正しい善の世界に他なりません。 そうした正義と清らかさの源は、神様の教えです。神様の教え、すなわち、神教(みおしえ)を人々が心と発言と行動の規範にして 集う世界こそ、神の国です。
解説
神中心
天照皇大神宮教は、開元当初(教祖・大神様が教えを説き始められた頃)より、大神様を中心に同志が集い、神様の教えを 基に魂を磨く人々の集団―すなわち、神の国が誕生したことを宣言しました。そして、同志は それぞれの家庭、学校、職場、地域において、神様の教えを実践・実行することによって、神の国の拡充に取り組んでいます。
同志
世界平和・神の国建設に志を同じくする者という意味で、天照皇大神宮教では信徒や信者といわずに同志と呼びます。 よって、教団の活動や行事に事情があって参加できなくても、日々の日常生活でこの教えを実行し、法力ある祈りを祈って、 清らかで平和な世界の到来に貢献している者は、同志です。
悪霊済度と世界平和・神の国建設
教義のページでも説明したように、悪霊や邪神の後ろ控えで、人と人とは喧嘩をし、国と国とは戦争をします。 ここ数世紀の間に起きた様々な戦争の歴史を思い起こせば、やむを得ない正当防衛としての国防は少なく、残忍な 殺戮、蛮行が行われてきました。まさに、悪鬼の所業です。世界平和・神の国建設を進めるためには、 悪霊を済度することが不可欠です。法力ある祈りを祈ることで、即世界平和に貢献できるのです。
■お祈り
天照皇大神宮教のお祈りには、悪霊(救われていない霊。すなわち、霊界の地獄にいる霊、および、幽霊や地縛霊)を済度する力、すなわち法力があります。
宇宙絶対神は、乱れに乱れた人間の世を神の世に変えていくために、大神様を通じて神直々の教えすなわち神教(みおしえ)を人類にお示しになりました。目的はあくまでも 地上神の国建設であり、お祈りはその目的のために神様が授けたもうたものなのです。大神様は「世界平和のために己れの利己、自我を捨て、無我で祈れ」と教えてくださっています。
すなわち、神の国建設のさまたげとなる悪霊を済度して、真の世界平和が進むようにと祈るものであり、個人的な目的―たとえば、 病気が治るようにとか、自分が苦境から逃れられますように―などの目的で祈るものではありません。
多くの宗教家が、法力を得ようとして、滝に打たれたり断食したりしていますが、そのように人間の努力と修行で得られる法力と、 天照皇大神宮教のお祈りの法力は、まったく異なります。難行苦行をせずとも、本当に神の国建設の役に立つのであれば、 神様が法力を授けてくださるのです。よって、小さな子供でも無我で祈れば、法力を授かります。
お祈りは、名妙法連結経(なみょうほうれんげきょう)です。それに付随しての難しい経文の類はありません。 「名妙法連結経」を何度も繰り返して唱えます。仏教の「南無妙法蓮華経」と大変似ていますが、たまたま音が似ているというだけで、 何の関係もありません。南無妙法蓮華経と似ていることを理由に批判する人がいますが、それに対しては 「FAQ」のページで 説明していますので、ご覧ください。
名妙法連結経の含意は、「少し名のある女が、天から法の連絡をとって結するお経」(『生書』第一巻、第11版、紀元62年、55頁)であると、宇宙絶対神は、教祖・大神様にお伝えになりました。 「少し名のある女」とは、教祖として名前を広く知られている大神様のことであり、「名妙」の字をよく見るとそうしたつくりになっています。
正しいお祈りの手順は下のとおりですが、大前提として「真人間(まにんげん)になれるよう、日々心の掃除に取り組み魂を磨いて、 世界平和・神の国建設のために少しでもお役にたてるような人生を歩みます」といった内容の誓いを心の中で神様にお伝えします。 これは、毎日毎回する必要があるということではなく、この神教に帰依する最初の誓い(つまり、神様との約束)という意味です。
もちろん、神様との約束ですから、安易に適当な気持ちでやるものではありません。教義に賛同したうえで、厳粛な気持ちで覚悟を持って行いましょう。
では、毎回のお祈りの手順です。まずお祈りの詞(ことば)を唱えます。これは、お祈りと一体の重要な前文です。 お祈りの詞もお祈りも、軽く目を閉じ、合正して背筋を伸ばし、正しい姿勢で唱えます。
  お祈りの詞(ことば)
  天照皇大神宮 八百万(やおよろず)の神
  天下泰平 天下泰平
  国民揃うて天地のお気に召しますうえは
  必ず住みよき神国(みくに)を与えたまえ
  六魂清浄(ろっこんしょうじょう) 六魂清浄
  わが身は六魂清浄なり
  六魂清浄なるが故(ゆえ)に
  この祈りのかなわざることなし
そして、名妙法連結経 名妙法連結経 名妙法連結経と繰り返します。名妙法連結経には、決まったリズム、メロディー、速さはありません。 お祈りの詞も含めて、おおよそ10分間唱えます。ただし、直面している状況によっては、長く祈る人もいます。
同志は、朝と晩の一日に二回、(お祈りの詞も含めて)10分間のお祈りをします。また、折に触れ、 それ以外の時間でもお祈りをします。食事の前後、入浴のときなども、そうした生きる糧を神様からいただいていることに 感謝が湧き、自然と口からまたは心の中でお祈りが出ます。出産や冠婚葬祭に際しても、もちろんです。大神様は「わしは、吸う息、吐く息、 名妙法連結経」と仰せのごとく、いつもお祈りをしておられました。 
解説
無我で祈るとは
お祈りは、合正(がっしょう)して目を閉じ、正しい姿勢で無我で唱えます。 この場合の無我とは、乳児が無心になって母乳を飲むんでいるときのような状態、と 大神様は教えてくださっています。何か心の中で、想念や言葉を発信するのではなく、心を無にして 祈ります。
八百万の神
大神様のご説法によると、宇宙絶対神は、唯一無二の宇宙そのものの神様であり、「自然即神、神即自然」すなわち 霊界も物質界も含めて、宇宙の法則そのものです。神言によると、宇宙絶対神には家来の神々がおられ、大神様は八百万の神と 表現されました。“八百万”とは、正確に数が800万という意味ではなく、“非常に多くの”という意味でしょう。
八百万の神といっても、『日本書記』など神道に登場する神々とは異なります。 古(いにしえ)より様々な宗教や記録の中で、天使とか諸仏などと人類が表現してきた霊的な存在のことです。
そして、魂を磨きぬいて神人合一のレベルになれば、人の肚に八百万の神が宿り、天使となりうるそうです。 逆に、邪念に耽溺して魂が腐りきると、邪神に憑りつかれ悪行を働いたり、自分自身を破滅させたりします。
「邪神は己の邪念。出てくる邪念を打ち払い、打ち払い、死ぬまでかかろうとかまやせぬ。心の掃除を怠るな」の神言のごとく、 魂を磨いて、神の器となる目標を大切にしたいものです。
六魂清浄
[1]食欲、物欲、金銭欲等にかかわるもの、つまり、何かを失いたくない、または、欲しいという欲望、[2]人に対して 憎い、または、友情や親近感を感じる、3異性に対して好きだ、または、好かれたい、という人間の六つの根源。
すなわち、「惜しい、欲しい、憎い、かわいい、好いた、好かれた、この六つの魂が根本になって人間は できている。それを捨て切れとは言わない、それを清浄にせよ」と大神様はお説きになりました。
「惜しい、欲しい」は自己保存の本能、「憎い、かわいい」は社会本能、 「好いた、好かれた」は種族保存の本能によるものだそうです。
管理人が理解した限りで、敷衍して例示しましょう。職場で共同で出しあっているお金で揃えられた共用のコーヒーやお茶を「自分もお金を出しているのだからいいだろう」などと解釈して、 (職場ではなく)自宅にこっそり持ち帰るのは、泥棒、すなわち「欲しい」が不清浄です。
腹を痛めて生んだ子供のみを愛し、継子(ままこ)を憎むことは、「憎い、かわいい」が、不清浄です。
また、他人の妻やパートナーに対して、異性としての好意を持つことは、「好いた」が不清浄です。
我々の日常生活を注意深く自省すると、この六魂が目まぐるしく働いています。それらを清らかなものへと磨き上げて いくことが、神行の第一歩です。
■六魂清浄・事例解説
六魂清浄
「お祈りの詞(ことば)」の中に六魂清浄があるように、神行の第一歩として六魂清浄は大切な取組みです。
大神様は次のようにお説きになりました。 「六魂清浄だけでも書いて教えるのになったら、三年書いても書ききれんほどある。あらゆる方面で、それが出てくるんじゃけえ。 それを書いて暗記せても少しも清浄にゃならん。理屈頭でこねまわしていくんじゃない、心の掃除せえ。あ、そうか、あ、そうかと 知らずに神の方へ向いて行ったら、あんたらの肚に神様が入って、その時、その都度教えるんじゃけえ」。
そこで、まず、六魂清浄とはどのような教義なのかを前半で概説します。そして、後半の「事例解説」で、当管理人が自己研修した限りでの、具体例を述べてみます。
惜しい、欲しい、憎い、かわいい、好いた、好かれた
六魂とは、「惜しい、欲しい、憎い、かわいい、好いた、好かれた」であり、この六つの魂がだいたいの根本となって人間はできている、と大神様は お説きになりました。
人間が肉体を持って物質界に生きていくためには、基本的な本能があり、それは自己保存本能、社会本能、種族保存の本能と言われています。 自己保存本能が、「惜しい、欲しい」つまり衣食住に関するものを発端とした本能、次に社会本能が「憎い、かわいい」つまり、 対人関係に関するものであり、三つ目が「好いた、好かれた」つまり異性に関する本能です。
「それらを捨て切らねばならないとしたら、人間を廃業しなければなりません。 しかし一方、六魂を浄化せず、放置しておくと、それは煩悩となり人生に苦をもたらし、人の幸福を害し、将来に罰の種を蒔くことになります」。
惜しい、欲しい
まず「惜しい、欲しい」について、大神様は、「惜しい、欲しいが、利己や自分中心で汚れるとケチや貪欲になる。 清浄になると物を大切にするが、ケチじゃなく、世のため、人のために物惜しみをしないということになる」とお説きになりました。
「宗教は利他」。簡潔ながら、ご説法で大神様はこうお示しになりました。大神様は、別のたとえで、次のようにも お説きになりました。すなわち、風呂の水を自分の方にかきよせようと思ってかきよせても、端から外に向かって流れる。外の方へやろうと逆に水をかいても、 自分の方に流れ込んでくるものだ、と。
物資や金・財産や地位や名誉や見栄や体裁(ていさい)を欲しい欲しいと個人の利益を追求してあがいても、それに何の意味があるのでしょう。 豪奢な家に住んでも、家族不和でギスギスした毎日を送れば、幸せではありません。貧しく慎ましい生活であっても、 人々や家族に感謝され、神中心の清らかで和やかな毎日を過ごす方が、よほど幸福です。
自分や自分の家族の欲望を満たすことに汲々として、一つ得られればさらに別の物を欲する という具合に、「惜しい、欲しい」を利己に染めていくと、ますます執着と欲望が強くなります。 そのような利己的な欲望に固まった人間同士の関係は、不和や妬みを往々にして引き起こします。
当管理人による事例紹介ですが、大金持ちになりたいと人生を賭けてきた人が、小金持ちにまでしかなれなかった場合、知り合いの大金持ちと接するとき、 表面は笑顔でも、心の中は妬みやコンプレックスに満たされ、敗北感を味わって不幸な心になることもあります。 また、ときには「見下しやがって」などと自己解釈して、相手に不清浄な「憎い」が働くこともあるでしょう。
それに対して、大神様は、「あってもぜいたくに流れな、なくて不平不満を言うな」「寒うさえなけりゃよい、 ひもじゅうさえなけりゃよい肚をつくれ」とお説きになりました(『天聲』、同上、42頁)。物資や金や財産や地位や名誉をどんなに 集めても、あの世には持っていけません。
人間の幸、不幸と所有の大小とが別でることがわかり、 物を大切にしつつも、無理のない範囲で、出しおしみをせずに世の中や人のために、自分の持てるものを役立てる方が、よほど さわやかで幸せです。
憎い、かわいい
「憎い、かわいい」は、すでに述べたように社会本能に由来するもので、 敵を憎み、味方を愛する防御本能、攻撃本能などの対人関係の本能がこれに属するとされています。
「かわいい」がなぜ不清浄になりうるのかについて、大神様は、自分の腹を痛めて生んだ子がかわいくて、 先妻の子が憎らしくて罪をつくる、との例でご説明されました。学校の先生が生徒をえこひいきすることも、同様でしょう。
「憎い、かわいい」が生じる原因は、肉体を持った人間が、その生存のために、自分や自分の家族・仲間を他と区別する ところにあるようです。つまり、自分や自分の家族や仲間に対する一体感、それ以外に対する差別感を人間も動物も持っています。

“たとえば、狼はいつも群れをなして生活しており、お互いは極めて仲が良いのですが、外の動物に対しては、 すぐ激しい憎しみを発揮します。人間は、まず自分を一番かわいがり、次に自分の身内をかわいがって、他人と差別します。 また、大きな集団になると、同じ共同体に属する者を愛し、他を排斥します。母校出身者を愛し、他校の出身者を排斥するような感情です。
この本能を、心理学では社会本能と呼びます。このような自己中心的本能は、浄化し、高められねばなりません。そうしなくては、 住みよい世界は達成されないし、自分も幸福な世界へ行くことはできません。
・・・・・・差別心は、あの人は嫌い、この人は好きというような情緒的な差別心となったり、自分に利益を与える者は好み、 そうでない者は嫌うという利己的、自己中心の差別心となります。これは自分のもうけ、これはあいつの得といったように分けて考え、 自分の利益のみを考える、寂しい考えになります。
人間は、本来自分を主体として考える傾向があり、自己本位の恣意、わがままがそこにあります。その我と我との衝突が、 自他の差別を徹底的なものとしています。そこに薄情な不和、不安に満ちた調和のない世の中になる根源があるのです。この世では、よそに倉が建つのを羨み、 人の喜びはしゃくの種となって、生霊(いきりょう)の飛ばし合いをして、傷付け合い自滅していくのです。
「憎い、かわいい」という差別心が浄化された慈悲、慈愛
人間は・・・・・・「憎い、かわいい」という愛憎の感情を持っております。愛は自然に湧いてくるものですが、 そのまま放っておくと、盲目愛となってしまいます。それゆえ、一方において憎しみを生じます。 これは生きとし生けるものの本能と言ってよいものであり、人間と人間との間においては、喜怒哀楽や争いという人間模様をつくりだします。
このような本能は、より純粋かつ高度なものに浄化されていかねばなりません。それが慈愛とか、慈悲という至純な愛で、これこそ動物的盲目愛が、 神のものにまで高められたものでありましょう。神の慈悲に差別はありません。一視同仁の愛で、そこにはえこもひいきもありません。 継子(ままこ)と自分の腹を痛めた子に対する差別心はなくなり、同じように愛することができるまで浄化されればなりません。神の国は一大家族と言われますが、 私たちの家族愛は、それまで広げられるべきであります。
大神様は、「人の田がよくできているのを見て喜べるような人間になれ」と仰せになります。すなわち人の喜びを自らの喜びとし、 人の苦しみを自らの苦と感じられるような人間になれと仰せになっております。親子の間では、子供の喜びを親は自分のことのように喜び、 子供の苦は自分のそれのように、共に苦しみます。それは前述のように、親子が一体だからです。しかし、世が末になると、 親子でさえ利害関係で争うようなことになってきます。
人の喜びを自分の喜びとすることは、難しいことです。なぜならば、それは利己、自我―自分中心の心を捨て、 自分を愛すると同じく人を愛せるようにならねばならないからです。無我―神と人との肚が正しく合った神人合一にまで人が高められたとき、自他の差別ない、 えこもひいきもない、人に対して慈愛をもつことができるようになります。そのときこそ、人の喜びを自分の喜びとし得ること必定であります。自我の愛から、 無我の慈愛へ、差別心から、広い一体感になることが、「憎い、かわいい」の面における心の行、六魂清浄の行でありましょう。
・・・・・・盲目の自我の愛から、一足飛びに無我の慈悲までには、なかなかなれません。そこに心の修錬が必要になってきます。 ことに、感情はなかなか人の意のままに動きません。人の喜びを共に喜んであげねばならないとわかっていても、何か喜ばせないものが心の中に残っています。 そこに、まだ自我、小我をかわいがる利己心が残っているからでありましょう。
また、差別心を少しでも少なくするよう努めねばなりません。それには、まず人を思いやることが大切です。小さな自我を離れ、人の身になってみる。 すると、相手を自分と同じように理解できるものです。そのとき、自分との一体感が生まれてきます。人と自分の間の固い壁が取れ、 悪意や感情がスムーズに溶け合うようになり、対立や争いも少なくなってくるものです。それだけでも、世の中がどれほど住みよくなるかわかりません。
「憎い、かわいい」の終着点は、やはり無我にあることがわかります。自分自身が神に帰一したとき、生きとし生けるものはすべて神より出て、 神に帰一すべきものである。すべてが我が兄弟であり、仲間であり、同根であるという一体感が、また分け隔てない愛情、慈愛が、すべてに対して油然(ゆうぜん) と起こってくることでしょう。
大神様のすべての人を真人間に導こうとされる慈悲には、えこもひいきもありません。心に一物なく、世間のどこに行かれても我が家と同じく、 どんな人にお会いになっても、差別ない慈悲で導かれる神姿―。これこそ、無我の神姿であり、神人合一の神姿であります。それこそ、三界は我がものと、 すべてのものと一体になられたみ神姿であります。ここに神行の理想像があるとともに、「憎い、かわいい」を清浄にした理想像があるのです。
自意識過剰症の病膏肓に至った(病気がひどくなって、治療のしようがないこと―当管理人、補足)現代人です。それが無我になるのは、たいへんな行であります。それについて、 大神様は三つの方法でみ教えくださっております。
第一は心の行です。心の掃除をして、六魂を清浄にしてゆくことであります。
第二はお祈りをすることです。お祈りは実相界の万能の武器であり、道具であります。これを唱え続けることで邪念を払い、 心の掃除をさせていただけますし、因縁も切っていただけますし、霊界の掃除もさせていただけますし、知らず知らずのうちに、神に帰一して合正、 無我の境に入らせていただけます。
第三は実行であります。自我を捨てた、素直な心になるために、具体的にまず「はい」という返事を実行させていただくことが大切です。 利他の行為を、どんな小さなことからでも真心で実行していき、小さな我を捨て、徳を実行で積み重ねると、自然に、美徳の根が養われます。すなわち、 具体的に現れている「行い」から精神を育てていくのであります。
神行は、以上三つのどれが欠けてもだめです。実行は肚によってなされ、心の行は真心(利他)が基本となり、 神と人とをつなぐ直接的な手段が祈りであります。”
好いた、好かれた
「好いた、好かれた」の根源は、種族保存の本能と称するもので、代表的には性欲であり、恋愛や夫婦愛に関係しています。
第一に、肉体的な面における「好いた、好かれた」を清浄にすることは、とても大切です。最近の性道徳の乱れは凄まじいものがあります。
世間では「見つからなければ不倫ではない」などという屁理屈を聞くこともありますが、神様はすべて見抜き見通し、天の写真帳にはすべてが 記録されています。心のなかで不倫をしただけでも、そうです。そうした邪念が起きたら、すぐに打ち払って反省懺悔し、「名妙法連結経」を唱えましょう。
第二に、精神的な面での「好いた、好かれた」を常に内省することが大切です。異性に対するものに限りません。 先生、上司、目上の人、部活動の監督・コーチ、などなどに気に入られたい、好かれたいという気持ち、逆に、好きだという気持ちを 人間は持つものです。この「好いた、好かれた」が不清浄になると、嫉妬や羨望といったマイナスの感情を生み出すことになります。
第三に、「人間は未完成なほど、愛されることや与えられることに満足感を覚えます。 子供など例外なく人の愛を求め、与えられることに満足します」。「好いた、好かれた」が清浄になると、 愛されることや与えられることよりも、見返りを求めずに愛すること、与えることが、できるようになります。
そして、愛するといっても、一方的に自分の気持ちを押し付けるのではなく、相手を思いやり、相手の立場に立ち、 相手を大切にする配慮に溢れた愛の表現をするようになることでしょう。
いくつか敷衍しましょう。六魂清浄について、「欲望を捨てよということですか」と質問されて、教祖は次のようにお答えになりました。 「捨てきれとは言わない。清浄にしろと言うのよ。金もない者が飲みたい飲みたい思うたら、女房に隠れてでも飲む。・・・・・・それが悪いと言うのよ」とあるように、禁欲や耐乏生活をするということではありません。
「金がない者が(酒を)飲みたい飲みたい」と思うのは、心を過度の欲望に占拠されています。その邪念に邪神が憑りついて常態化し、さらには肉体に 依存症が起きることもあります。そのような不清浄な「欲しい」ではなく、家計や健康に支障がない範囲で、慎ましくたしなむ程度であれば、清浄だということです。
事例解説
一例
同僚と出張したところ、ビジネスホテルの部屋で、その同僚は歯を磨くときに水を流しっぱなしにしながら、磨いていました。 翌朝も、寝起きにすぐ顔を洗うときも、その人は水を流しながらでした。
当管理人は、歯を磨くときはコップに水を入れて、液体歯みがきで少し歯ブラシを浸したりしながら磨きます。水を流しながらということは、まずしません。 洗顔のときも真冬でお湯になるまで時間がかかるまではある程度仕方ないものの、そのときは水をケトルに取って、その後、お湯になってから顔を洗います。
その同僚によると、“家では水を流しっぱなしにしない。ちゃんと倹約している。ここはホテルで、 水の使用量が自分の出費にかからないから、関係ない” とのことでした。
単に節約することと、物に対して「惜しい」が清浄であることは、異なることだとあらためて感じました。その人のいう「節約」とは、 自分の家計にとっての水道代の減少という意味であり、ホテルに宿泊しているときは、ホテルが水道代を支払うのだから、関係ないという不清浄なものです。
水に対しての真の「節約」「倹約」は、自分の家計にとって支払いがどうこうではく、他の客やホテルも含めて、社会・世の中のために、水を大切にすることを心にとどめているかどうか、 ということでしょう。
自分の家計にとってではなく、社会にとってという視点は、利己から利他への転換があります。そのことを体得すれば、ホテルであれ自宅であれ、 同じように水を大切に使おうという行動が身につくのではないでしょうか。「惜しい」を清浄にするための考えとして、やはり利己から利他への転換が必要であると 思いました。
無形物・サービス、および、お金に対する惜しい、欲しい
惜しい、欲しいは、有形の物だけに限定できるのか、それとも、無形のものでも対象なのかも大切な問題でしょう。 たとえば、音楽CDを買いたいということと、そのアーチストのライブに行きたいということは、どちらも六魂の一つ「欲しい」 の働きのようにも感じます。前者はCDという物を欲しいのであり、後者は有形物を手に入れたいのではなく、 ライブというサービスを購入したいと思っているわけです。
他の例として、隣人がよく海外旅行に行くことを聞いて、くだらない対抗心を燃やし見栄を張って、借金までして旅行することは、 「欲しい」が不清浄です。ただし、この場合「欲しい」のは有形物ではなく、旅行というサービスです。 もちろん、純粋に夫婦や家族の絆を深めたい、心のリフレッシュをしたい、いい思い出を作りたい、という目的で、無理な借金などせずに旅行をすること 自体は、不清浄ではないでしょう。
また、物を欲しいという場合、お金がないと買えません。物を欲しいという欲求が転じて、人はお金や財産を惜しい、欲しいと 感じる生き物です。上の引用のように、お金や財産、そして地位や名誉に対する「欲しい」も、浄化すべき「惜しい、欲しい」の対象です。
六魂は連動して働く
次は、理屈頭で余計なことをあれこれ考えてしまっているのかもしれません。六魂はそれぞれ単独で働いているわけでもなさそうです。 たとえば、異性との交際がもつれて、ストーカーに転じる例はよくあるでしょう。事件にまでならず報道されていないものの、 そうした事例は大変多くあると思います。
ストーカーもいろいろなタイプがあるのでしょうが、異性に対する「好いた」が急転直下、「憎い」に転じている恐ろしい場合もあります。
もともとの「好いた」が自己中心的で利己によるものだから、そうなるのでしょう。相手を本当に大切に思い、その幸せを願うという 利他の思いが根本にあれば、思い通りの展開にならないからといって、「憎い」にはならないだろうと思います。
利己・自我に由来して執着が起こり、邪念に耽溺して邪神がついてしまって悪循環、ますます邪念・邪神のおもちゃになる―そんな「恋愛」を数多く耳に します。
上記の神言「惜しい、欲しいが、利己や自分中心で汚れるとケチや貪欲になる」からわかるとおり、六魂を不清浄にする原因は 利己心やエゴイズムです。
たとえば、あるスポーツチームのコーチが、特定の生徒に対してとくに時間を割いて指導していたとします。えこひいきであると憤慨して、 そのコーチの行為に対して、怪しからんという気持になるのは、正義に則して判断した清浄な心の反応でしょうか。それとも、自分もかまってほしいのに、 という「好かれた」いという利己心・自我から生じた嫉妬という不清浄なのでしょうか。
そのコーチは、チームの勝利のためにはその生徒の実力を伸ばすことが不可欠であると 判断して、つまり、チームのため、そして全員のためという利他の気持ちからそうしていたのかもしれません。そうではなくて、その生徒がただ個人的に 「かわいい」と感じて、他の生徒の気持ちなどお構いなしに、そうしていたのかもしれません。同じ事態 であっても、双方の魂の状態によって、見え方も、理解も、展開も、そして清浄か不清浄かも異なるようです。
まさに、「三年書いても書ききれない」ほどであり、それぞれが心の掃除、とくに、利己と自分中心の自我を自分の中に見つけ出して魂を 磨いていくことこそが、大切なのだなあと、しみじみ思います。
さらに思いいたったこと[1]― 物を選ぶときの利他
ずっと昔、ある同志から聞きました。たとえば、果物が入っている籠を出されて、おひとつどうぞというときは、大神様は、一番形などが良くなく、 味も良くなさそうなものをおとりになっていた、とのことです。
その人の説明によれば、そうすることで他の人により美味しいものを取ってもらえるという 利他に徹しておられたから、とのことです。果物一つを選ぶにあたっても、どれを選ぶかというときに六魂の一つ「欲しい」が働き、 そこで利己から利他への実行の余地があるのだなあ、と痛感しました。
もちろん、人が真心からいいものを一つ選んで勧めてくれているのに、固辞して悪いものを取ることにこだわる過ぎるのは、 かえってやりすぎにもなりかねませんが。
さらに思いいたったこと[2]― 物以外を選ぶときの利他
上の[1]の話は、物を選ぶときの話ですので、六魂清浄の「欲しい」の話だということが、しっくり当てはまりそうです。
しかし、自分(達)にとっての何かを「選ぶ」という行為は、対象が物ではない場合も多々あります。そして選ぶ際のその基準いかんによって、利他と自我の分かれ道があるように感じます。
たとえば、ある若人の同志は、知人と居酒屋に行った際に、靴を脱いで靴箱に入れる場合には、自分の靴は一番下の靴入れに入れることを 心がけている、というか、身についていて自然とそうした行動になるそうです。人様に入れやすい上を空けておいて、自分を下にするのは当然であると親に教わった、と 言っていました。
何か物や無形財(サービス)を手に入れている行為ではなく、自分の靴の入れ場所を「選ぶ」ときの話です。よって、直接的には六魂清浄の話ではないかもしれません。 しかし、上記の[1]の話と同一線上にあるような気がします。
六魂清浄は、様々な神教実行につながっているのですね。
■反省懺悔
恨みが感謝に変わって初めて神行の道に入り、六魂を清浄にした上で、反省懺悔の日々を送る― 神行、神に行く日々を送るうえでのエッセンスです。
「神行の第一歩は六魂清浄」との神言にあるように、六魂が清浄でなければ、真の反省懺悔が出なかったり、 同じ罪を繰り返したりしてしまい、天の写真帳がいつまでも白地にならずに神に行く道を進めず、行きつ戻りつということになってしまいます。
六魂清浄に取り組んだうえで行う反省懺悔とは、具体的にどのようなものかを説明します。
懺悔についての神言
○天の計算係には、一分一厘の計算違いも、つけ落としもない。皆の言うたこと、やったことだけじゃない、心で思うたことまで、皆天の写真帳についておる。
○罪ありゃ行かれぬ天国なれば、誰も行かれはしないけど、反省しては懺悔なし、天の記録写真帳の黒地が白地になるまで、魂磨いて上がっておいでりゃ、誰でも行けます天国へ。
○死んで、閻魔(えんま)の前で、お前は地獄行きと言われたのでは、もう遅い。生きているうちに犯した罪は、皆懺悔せよ。
○一度罪を犯したら、懺悔しても、消しゴムで字を消すようなもの、元の白地にはならない。二度、三度、繰り返しておると、紙が破れてしまうように、いくら懺悔しても罪は消えりゃせぬ。
○死ぬまで己の反省懺悔ができなけりゃ、次々々に子孫に因果が残りいくことを知らずして、蛆の世界じゃ、信仰信仰いうたなら、己の利己を募らせるのが信仰じゃ思うたが、どっこい違います。
○神教より食い、拾い食い、ともすりゃおかげ信仰になりがちよ。神行の道を踏み、神のみ肚に合うているか、己のやっているそのことが神国大事をいう者の行じる道か、日夜反省懺悔ができなけりゃ、なんで行かりょうか、神の国。
○相手が悪いと思う間はまだだめ。
神行は、反省懺悔によって進ませていただくといっても過言ではありません。船に例えれば、その推進力であるスクリューが、反省懺悔であると言えましょう。
私たちは、その大切な反省懺悔が常に行われているか、またどのように反省懺悔してゆかねばならぬか、その実行点を掘り下げてみましょう。
反省懺悔といつも続けて用いますが、反省と懺悔は、それぞれ別の意義を持つ言葉であります。反省は自らを省みることであり、懺悔は、その反省の結果、気付かされた罪汚れを神に対しおわびし、悔い改めることであります。そこで、反省と懺悔を、まず別々に取り上げてみましよう。
反省について
一、反省心を養うこと
神行し、心の掃除をするためには、まず強い反省心を持つことが大切であります。自らの反省はせず、人の足元を見ることのみ多い、世の末の人々の姿に多く接する昨今であります。
相手を責め、自分のことは棚に上げておくのが常であります。「すみません」と自分を反省する代わりに、「相手の方が悪い」と人を責めるのです。まさに、神に行く神行の正反対で、お互い責め合う地獄行きであります。
反省するには、人に目を向ける前に、まず自分自身に目を向けることが必要であります。常に内に目を向けて内省する心を自分の個性となるまで養ってゆかねばなりません。それは、日頃の心の修錬であります。何につけても、すぐ自分を反省することが反射的に行われるまで、自己反省を繰り返していく以外ありません。
そこで、まず心せねばならないことは、神教を人のために聞かず、自分自身のために聞かねばならないということです。もし、人のために神教を聞いていると、人を神教で縛ることのみ上手になり、自分自身の反省の糧(かて)とはならず、神に行く神行どころか、地獄行きの上塗り(うわぬり)をすることになります。神教を自分の心の中にいただくとき、反省の元である自分の曇り果てた良心を覚ましてくれます。
良心とは、人間の心に与えられた神性であります。しかし、利己と自我とによって塗り潰され、あってないようなものになって、良心の働きさえ感じないようになっているのが、世の末の人々であります。
大神様を通して神に接し、神教を自分の心にいただくとき、自らの心を振り返らずにはおれない気持ちにかられ、その神言、神姿(みすがた)は常に生きた神として自分の心の中にあって、それが私たちの反省の鏡となり基準となるので、神行の第一歩は、この反省心を持たせていただくことであり、この反省により、常に心の掃除をして、罪を犯すことのないよう行じさせていただかねばなりません。
反省懺悔の実行は、まず反省心を養うこと。言い換えれば、心の目を緩みなく、いつも自分自身に向け、神教を基準に反省させていただくことであります。
二、反省を深めること
反省には、おざなりな反省と、深く掘り下げた反省があります。神教をいただいている私たちでありますから、邪念が湧いたり、邪神のおもちゃになったとき、気付きさえしたら、必ず、一応の反省はさせていただきます。しかし、その反省が浅いため、自分の奥底に潜んでいる本性や自我、利己心、悪癖などに気付かず、とおり一遍の反省に終わり、したがって、懺悔も、仕方がないかぐらいに終わって、結局、それらに気付かずにいる私たちではないでしょうか。
それではいつまでも反省の実を上げえません。そのため、反省は徹底的に掘り下げ、悪癖、欠点や自我本性に気付き、それを根底から直していかねばなりません。「あっ、しまった」と気付いたとき、それのみにとどまらず、もう一押し、その反省を掘り下げるよう努めさせていただきましょう。
例えば、夫婦げんかをしたとき、「しまった。悪いことを言ってしまった」と反省したとき、そのけんかは自分のどのようなところに原因があったか。例えば、「どういう真心に欠けていたか」「どういう邪念があり、邪神のおもちゃになったか」等を深く掘り下げて反省してみることが大切であります。そのような深い反省をさせていただくことによって、自分の本性や自己中心の邪念、悪癖に気付き、それを直す可能性が与えられるのです。
懺悔について
懺悔とは、反省によって自分の犯した罪に気付いたら、それを神に対しおわびし、悔い改めることであります。反省に伴って、この悔い改めが必ずなされなければなりません。その反省が浅く懺悔も出ないと、同じ罪を何度も犯すことになります。
懺悔とは、人間が神の前に自分の罪を意識して、真から謝罪の心が出たときの状態であると言えましょう。
これは、道徳的心情だけでなく、純粋な神に対するときの宗教的心情であります。そこには、自我の存在はありません。神の前に、自我が崩れ去ったときの心の状態と言えましょう。
人間は、利己や自我があるゆえに罪をつくります。そして、その罪を強く意識したとき、実は、その罪の根源である自我に気付きます。そのとき、真の懺悔が出てくるのであります。
懺悔が神によって受け入れられたとき、人の心を軽くし、より平和な、楽しい心境に上がらせてくださるものであります。反省ばかりして、懺悔が伴わない場合、偽善的小心者、小さく萎縮した、いわゆる職業宗教家的な臭みのある人間になってしまいます。罪に気付いたら、毒水を吐くような、心の底からの懺悔をさせていただいて、くよくよせず、すぐ次の行に移らせていただけるような人間を大神様はお好きになります。
正しい反省によって、清く、正しく、強く、明るい人間にならせていただかねばなりません。
反省懺悔の盲点(反省懺悔に自己弁護を交えないこと)
良心(神)と自我と、二つを共々に持った私たちは、多くの場合、一方では反省するとともに、必ず他方においては自己中心の考え方による自己弁護や言い分を持っているものであります。
同志が磨きの会などで、「懺悔させていただきます」との前置きで、よく自己弁護まじりの懺悔をされることがありますが、そのような場合、決して本当の懺悔は湧いてきません。反省の実が上がりません。真の懺悔をさせていただくためには、私たちは、その自己弁護させる自我や利己中心の心を捨て切らなければなりません。
反省は、神の側に立った絶対なる立場で行われなければならないものであります。この絶対なる神の側に立たせていただくことは、なかなか凡人にとって難しいことであります。「それでも・・・」と心の中のどこかで自己主張している自我は、なかなか取れません。
ここで気付かせていただくことは、大神様にお叱りをいただくことが、いかにありがたいかということであります。生ける神様にお叱りいただくことによって、神側に立っての、絶対なる反省を可能にしていただき、そのことによって、次に来る真の懺悔=悔い改めがさせていただけるのであります。
しかし、私たちは、大神様のお叱りを待つまでもなく真の反省懺悔をさせていただいて、神行、神に行く道を進ませていただかねばなりません。それが、一人歩きをさせていただくゆえんでもあります。
それでは、真の懺悔をさせていただく邪魔をする罪の根源の自我を、どのようにして捨てさせていただいたらよいでしょうか。それにはまず、同志間の徹底した共磨きとお祈りであります。
共磨きにより、自分の気付かないでいる自我を発見させていただくこと、どうしても捨てきれない自我を、神力(みちから)によって捨てさせていただくためには、お祈り以外ありません。
入教間もない人が、実に自然に、毒水を吐くような痛烈な懺悔をされることがあります。それはお祈りにより邪神が取れるとともに、純粋に神のみ前に、自我を投げ捨てられたからだと思わせていただきます。
反省懺悔の具体的実行点
以上のような反省懺悔に対する掘り下げから、具体的実行点を列挙すると、次のようなものになります。
○まず、反省懺悔の元である良心を磨かねばなりません。そして、何が罪で、何が自我の種であるか、その時その都度、反省できるようにならねばなりません。そのためには、ご説法、生書、天声、支部の磨きの会などで、常に神教に接し、心の中にいつも神教が生きているようにせねばなりません。
○自分がこれまでしてきた過去一切のことを反省し、神教に反し悪かったと思い当たることは、すべて反省懺悔を繰り返すこと。
○神様に対して反省懺悔させていただくとともに、迷惑をかけた相手がいる場合は、その人に向かって、「すみませんでした」と、肚から懺悔すること。物である場合はお祈りすること。
○今していること、これからしようとしていることで、良心のとがめることは、きっぱりやめること。それが難しいときは、必ずお祈りすること。
○一度懺悔したことは、二度としないこと。(肚)
○懺悔せねばならぬと気付きながら、どうしても心の底から懺悔が出ないときは、それが出るまで懺悔の祈りを繰り返しすること。祈りにより、邪神が払われ自我がなくなったとき、真の懺悔が出てきます。
○大きな悔い改めには、試錬や大きな行の相手、大神様のお叱りなど、大きな行が与えられることが常であります。その場合、自分に与えられている行の内容意義を早く気付かせていただいて、その行に取り組んでいくことです。
○神教は生きた宗教と言われるように、心の中の生ける神に、その都度突き出されて、反省懺悔させていただくので十戒といったようなものもありませんが、ごく一般的な懺悔の対象となるものは、
[1]神に対する罪として
  ・神教の冒涜(ぼうとく)をし、神の国破りをしたこと
  ・神の国の定め、しきたりを破ったこと
  ・神様を使いものにしたこと
[2]人に対する罪として
  ・人に迷惑をかけたこと
  ・泥棒をしたこと
  ・小言、人の悪口を言ったこと
  ・うそを言ったこと
  ・心の中で、人殺しをしたこと
  ・人の真心を踏みにじったこと
  ・自己中心のけんかをしたこと
  ・弱い者をいじめたこと
  ・感情や自我を張って、いやな思いをさせたこと
  ・人の行の妨げになったり、腐らしたりしたこと
[3]物に対する罪として
  ・物を粗末にしたこと
  ・物に対する感謝がなかったこと
以上、反省懺悔について書かせていただきましたが、要は、「お休みのそのときは、今日一日家内そろうて神国のお役に立ちましたやらと、祈りと反省に生きよ」との神言を文字どおり実行していくことであります。神国のお役に立つか、立っていないか、立っていないときは、必ず、その反対に罪を犯している私たちであることを銘記させていただきましょう。
■神歌
紀元13年の12月に、大神様は、神歌(みうた)の歌詞とメロディーとリズムを同志に示されました。神歌の歌詞には、神教の根本が込められており、 神歌は神教そのものです。大神様は、神歌について「神行の指針として、永久(とわ)に復唱してこい」と仰せになりました。 同志はあらゆる会合・行事の冒頭のお祈りの直後に、皆で歌います。
神歌
ああ美(うる)わしの神の国
世が乱れたるあかつきに
天なる神が天くだり
天が治めて天が取る
神のみ国ができました
    その時天父(てんとう)にめらとれて
    天なる神の大聖業に
    神の召集受けたる
    わが身の幸をよろこんで
    行じてゆけよ天国に
夜明けだ夜明けだ
神のみ国の世はあけた
早く心の目をさまし
人間いう名がついたなら
天に恥じない道をふめ
    人生行路が神に行く
    行の道中を忘れなよ
    肉体もったそのままで
    天国住まいができるよに
    心の掃除をおこたるな
おのれの肚さえできたなら
たれでもやれる国救い
やっておくれよ神国のために
世界平和の来る日まで
ともにやろうよ国救い
    名妙法連結経
    名妙法連結経
    名妙法連結経
神歌をいただいたことを契機に、同志は奉答歌を作りました。 つまり、奉答歌は、宇宙絶対神の教えをいただき、救われた感謝、大神様への尽きせぬ感謝を込めて、同志が作詞・作曲した歌です。 しかし、内実としては、神様がその同志を使ってできた曲であると、大神様は仰せになりました。
奉答歌
宇宙の夜明けの 鐘がなる
人の力で いかにとも
救うすべなき 世の末に
神のみ国を つくるため
天のつかわす 救世主
大神様の み姿を
今あおぎみる ありがたさ
    迷いに迷う 迷い子に
    そちらに行けば 生地獄(いきじごく)
    こちらに来れば 天国と
    神に行く道 さし示し
    夜に日をついで 説き給う
    大神様の みことばは
    人生行路の 羅針盤
この世に生(せい)を うけられて
われらと何の へだてなく
人間道(にんげんみち)を 歩みつつ
示され給う 行(ぎょう)の道
神の化身(けしん)で あればこそ
大神様(おおがみさま)の 御足跡(ごそくせき)
神そのものの 神教(みおしえ)よ
    神のみ国の 建設に
    尊き御身(おんみ)で ありながら
    骨身をけずり 命かけ
    先頭切って 進まれる
    神姿(みすがた)こそは かしこしや
    大神様の おおみわざ
    日毎夜毎(ひごとよごと)に 進み行く
とうときみ代に 生(せい)をうけ
大神様に 救われて
神教(みおしえ)うける 身の幸に
感謝のまこと 捧げつつ
世界平和の 来る日まで
命かけての 国救い
大神様の み跡(あと)慕わん
    名妙法連結経
    名妙法連結経
    名妙法連結経
解説
神歌・奉答歌
神歌も奉答歌も、出だしは世の中が大きく替わる画期のときであることを明言しています。宇宙絶対神が直々に天降り、 大神様を通じて神の国建設を始められたことが、歌詞からも如実に伝わってきます。
神歌は、神教の会合・行事の最初のお祈りの後に、皆で歌います。奉答歌は、会合・行事の最後のお祈りの後に、皆で歌います。
天父にめとられて、とは
神歌の歌詞の中に「その時天父にめとられて」とあります。この「めとられて」は文字としては 「娶られて」つまり嫁に行く、嫁としてもらわれる、ですが比ゆ的な表現です。 「神様にお引き寄せをいただいて」とか「神様の召集を受けて」といった意味です。
■言葉解説
踊る宗教
天照皇大神宮教は、「踊る宗教」という名称で広く知られました。開元当初、駅前や街頭で、同志が舞を披露したことによります。 踊ることで魂が救済されるという教義であると理解している人がいますが、誤解です。現在は、式典などの重要な行事のときと、月に一度の ご慰安日に、無我の歌と無我の舞が行われています。
無我の歌・無我の舞
開元当初、様々な霊的な現象が起きていました。同志に霊が宿り、口が動いて歌を歌ったり、手足が動いて舞を舞ったりしました。 歌詞もメロディーもリズムも舞の所作も事前に用意されたものではなく、霊的現象として出てきたとのことです。 現在、無我の歌と無我の舞は、式典のときや月に一度のご慰安日に行われます。メロディーやリズムや所作に決まりはなく、 めいめいが、心に浮かぶ歌と舞を行います。「踊る神様」の項目で説明したように、無我の舞をすることで魂が救われるという ことではなく、無我の歌と無我の舞は、式典とご慰安日の催しであり、神教をいただいた喜び、神教によって救われた感謝の気持ちから 、各人が自然に繰り出すものです。
肚(はら)
大神様は、まず肚を作ることが先決であり一番大切とお説きくださいました。ここでいう肚とは、決意とか意志といった意味です。 なお、「肚の神様」という場合は、大神様の肚に天降られた宇宙絶対神のことであり、上記の意味とは別です。また、 「神と人との肚が正しゅうに合うようになったら、神人合一、天使、神に使われる」の神言の意味は、 “人間の魂が、神様のレベルに合致するようになれば、八百万の神が人間の肚に宿り、天使として神の国建設のために人を使う”との意味です。
悪霊
悪霊(あくれい)とは、救われていない霊、すなわち、霊界の地獄にいる霊、そして、幽霊や地縛霊の ことでしょう。悪霊とか幽霊などと言うと、「まるでオカルト」「宗教は、そうやって怖がらせて人々を喰いものにする」などと 批判が聞こえてくるような気がします。
霊視ができるとか、霊体験があるかどうかは、魂を磨くこととは関係がありませんが、悪霊の作用で様々な問題が起きていると 知り、悪霊済度の法力ある祈り・名妙法連結経を唱えることの大切さを知ることは、非常に重要です。その一例を引用しましょう。
“お祈りしていると、家内の祖父と私の父の霊が目の前に出てくるようになりました。 祖父はいつもいい顔をしていましたが、父は屍臭ただよう死人の形相をしていました。十日以上も同じ祈りが続きましたが、最後には立派になった父が、祖父と花園で語らっている姿が見え、 「おまえのお陰で、こんなになれた。死んだ者には、名妙法連結経は 天国から美しい音楽のように聞こえてきて、ここまで這いあがることができた。ほかの祈りをなんぼうしても、我々の所には届かない。 ありがたいお祈りじゃ、しっかりやってくれ」と言いました。それまで、お祈りも半信半疑で唱えていましたが、こんなに法力が あるのだったかとわかり、またいくつかの霊の体験をさせていただき、ますます真剣に祈るようになりました。”
大神様は、「わしゃあ、よう生きちょる(=よく生きている)人間と幽霊とを見間違えることがあるよ」「幽霊が、生きちょる人間の三十六倍もいる」 「文明が進んで幽霊が出んようになったんじゃない。人間に幽霊を見る目がなくなったんじゃ」などなど、お説きになりました。
悪霊、邪神、生霊(いきりょう)について、大神様は次のように教えておられます。 「邪神は己の邪念、邪念に邪神がとりついて飛ぶのが生霊よ。悪霊とは救われていない霊」。
また、大神様は、動物にも物にも魂がある、と教えておられます。同志は、物を買って 初めて使うときは、「名妙法連結経」と感謝のお祈りをしてから使い始めます。使い終えて廃棄するときも、「名妙法連結経」を唱えます。
動物にも魂があることについては、次の引用の神言どおりです。“昔に、ここへ〇〇というのが「子供が病気で具合が悪い」と言うてきて、お祈りせよったところが、タコの大きな頭がパーッと黒いすす(すみ)を吐いてスーッと逃げるのを(肚の神様が大神様に神眼―しんがん―で )見せて、「おっさん、大きいタコを捕ったことはないか」と言や、自分はタコを捕るのが商売じゃけえ「ある」と言う。そのタコにでも因縁があるの、 それが子供に憑(つ)いちょるんよ。人間の幽霊だけじゃないよ。あらゆる獣(けだもの)ないと魚ないと鳥ないと虫ないと何ないと憑くよ」。
同志は、蚊やハエやゴキブリを駆除しても、「名妙法連結経、名妙法連結経、名妙法連結経、・・・・・・。今度生まれてくるときは 神国(みくに)のお役に立ちますように」と唱えます。動物の命に直接関係する職業の場合、こうした対応が常に必要でしょう。
また、家で料理をするときも、生命がある動物に包丁を入れたりボイルしたりするときも、同志はお祈りします。
神と仏は違う
「神仏」という表現。とくに区別しなくていいかな、と思う時にそうしていますが、 大神様の神言では、神と仏は異なるようです。
たとえば、ある同志の姑が昇天したことについて、大神様は次のようにお話になりました。 「おめでとう、成仏しておるで。この人間は、本当なら地獄へ行くべき運命であったが、お前が神行するので 成仏できた。神にはならぬが仏になった。一仏すれば七いとこのはしまで成仏するというのは、このことよ」。
大神様は、他の様々なケースについて、「成仏している」と仰せになることもあれば、「神になっちょるで」と仰せになったことも あります。霊界の詳細は当管理人にはわかりませんが、死後、天国に行けたとしても、その最上界ないしそれに準じるところに行けた場合に、 「神になっている」ということなのかな、と現時点では理解しています。
※宗教によって、神と仏についての言葉の使い方は千差万別です。上記の説明は、あくまで大神様がお説きになった内容に則したものです。 なお、ここまででいう「神」とは宇宙絶対神ではなく、天使、天人、諸仏などと人類が表現してきた霊的な存在のことです。
最後に、教祖の神言。「宇宙絶対なる神ちゅうたら、 神仏一体で、宇宙にひとつしかないのよ」。この場合の「神」そして「仏」とは、宇宙の最高神、そして、いわゆる本仏のことであろうと理解しています。つまり、単語は同じですが、人が霊界に行って、神になっているとか、 仏になっているという意味の神や仏とは異なると考えています。
神仏を使ってはならない
人間が個人的な願いをかなえたくて、神仏に祈りをささげることは、利己的な信仰であって、神様を使いものにすることであると、 大神様は諭されました。初詣のときなど、お賽銭を投げて「今年こそは結婚できますように」とか「仕事がうまくいきますように」 などと祈ることは、個人の幸福のみを考えています。個人的な願いをかなえてほしくて、神様にお金を投げて祈る・・・・・・ よく考えると、人間の身勝手な行動です。
逆に、初詣の際に、「今年は世界から少しでも戦争が減りますように」とか「自分が世のため人のために 貢献できますように」などと祈る人は、はたしてどれだけいるでしょうか。
誰でも、人からお金をポイと投げられて「あれしてくれ、これしてくれ」などと言われたら、失礼千万と思うでしょう。ましてや、神様に対してそんなことを しても、神様は見向きもしません。「神を求めるその前に、神の求める人となれ」と大神様は教えてくださいました。神様は見抜き見通し、 賽銭を投げたりしなくても、人間の願いや欲しいものを宇宙絶対神はすべてご存じです。
自分が正しい人の道を踏み行い、その良い影響が周囲に広がることで、ほんの少しでも地域の平和、組織の平和、世界の平和に貢献できるようにと肚固めをすることが、本当の神様への祈りと誓いです。 
なぜ、安倍総理は「神憑り」「霊能師」を信じるか 2015/5

 

毎年1月5日、総理大臣は三重県伊勢市の伊勢神宮を参拝する。安倍晋三首相もその例にもれず、参拝後の会見で「今年も経済最優先とし、1人でも多くの人にアベノミクスの果実を味わっていただきたい」と語った。
伊勢神宮は天皇家の氏神「天照大神」を祭る神社で、伊勢神宮年頭参拝は歴代首相による新年の恒例行事だ。安倍首相は会見で通常国会を「改革断行国会」と位置付け、原発再稼働を実現させる責任があるなどと決意を語った。
安倍氏は今年5月20日に首相在職1242日を迎え、戦後首相の中では、祖父の岸信介元首相を抜き第6位に浮上するが、悲願の憲法改正実現には、まだ時間が必要。伊勢神宮で首相は自身の政権の長期化を神に祈ったはずだ。“一寸先は闇”の政界に生きる政治家には、信心深い人物が少なくない。大平正芳元首相はクリスチャンだったし、池田勇人元首相も金光教信者の伊藤昌哉秘書官を通じて金光教教祖の意見によく耳を傾けていた。安倍氏の祖父の岸元首相も「踊る宗教」として知られる天照皇大神宮教(てんしょうこうたいじんぐうきょう)の開祖、北村サヨを敬い厚遇した。安倍氏周辺が語る。
「安倍首相は、以前から、踊る宗教のサヨに感心して“あの人はすごい人だ”と、よく話しています。山口県の農家に生まれたサヨは岸元首相の故郷・田布施町に嫁ぎ、戦後に神憑(かみがか)りして教団を起こした。岸氏が戦犯として巣鴨プリズンに入獄する前、サヨは岸氏に“あなたは10年以内に必ず首相になる”と予言して的中させました。
一方、サヨの予言を信じなかった人に“あんたは3年後に死ぬ”と言ったら、こちらもその通りになったのです。
このため岸氏はサヨの力を高く評価。岸政権誕生後、サヨが公邸を訪ねてきたときも、岸氏自らサヨを出迎えた。このとき普段着姿で“野菜を持ってきた”と言ったサヨを、衛視は“何だ、このバアさんは”と追い返そうとしたらしい。安倍首相は幼少時からこの話を岸氏によく聞かされていたので、今も北村家を大事にしています」
前回参院選に北村サヨの孫の北村経夫参氏が出馬したが、北村氏は安倍氏の全面支援を受けて当選し、安倍氏がいる清和会(細田派)に入った。
だが北村家に頼らずとも、安倍家じたいが、もともと霊能師の血筋を引いているという話もある。安倍家は映画「陰陽師」で有名な、あの呪術師の安倍晴明とルーツが同じというのである。
奈良県桜井市に「安倍文殊院」という寺院がある。大化の改新(645年)創建という由緒ある寺院だ。この寺院の一角に「安倍晴明堂」と安倍晴明に関係する資料の展示スペースがあって、平安時代に亡くなった安倍晴明を偲ぶ法要が定期的に行われているのだが、実は、この寺院には「第90代内閣総理大臣」と書かれた安倍氏の献灯碑もある。寺院の説明によると「2010年頃に安倍氏がお参りになって寄進していただいた」という。
「日本書紀に出てくる大彦命が安倍氏の祖で、その後、大化の改新で初代の左大臣になった阿倍倉梯麻呂(くらはしまろ)が当寺院の前身・安倍寺を建立しました。この倉梯麻呂が全国の安倍氏(阿部、安部などすべての『アベ』氏)の太祖で、安倍晴明も安倍首相の安倍家のルーツも倉梯麻呂です。遣唐使の阿倍仲麻呂も一族。当寺院にはかつて阿倍仲麻呂の屋敷もありました」(同寺院の説明)
安倍文殊院は「御祈祷の寺」として知られ、陰陽師の安倍晴明はとくに大事にされている。また同寺院で行われた法要に安倍首相の母の洋子さんが訪れ、「安倍晴明公を誇りに思います」と挨拶したこともある。
ちなみに阿倍倉梯麻呂の子孫に平安時代中期の東北の武将、安倍貞任、宗任の兄弟がいる。2人は前9年の役で朝廷軍と戦って敗北。貞任は死んだが、生きのびた宗任の子孫のうち、山口県に落ち延びた一族が安倍家の直接のルーツとされる。13年7月の参院選で岩手県入りした安倍首相は演説の中で「安倍貞任の末裔が私になっている。ルーツは岩手県」と話した。
荒俣宏の小説『陰陽師鬼談』で安倍晴明は「この世は魔道」ゆえに物の怪を払い、幸運を恵む陰陽師が必要とされると言った。政治という魔道を往く首相も陰陽師の力を借りたい? 
璽宇 (じう)

 

第二次世界大戦中にできた日本の宗教団体である。「璽宇教」という表現もあるが正しくない。鉱山事業家の峰村恭平が主宰する「篁道大教」という神道系の団体が母体となっている。篁道大教は「教業一致」を掲げ、鉱山事業を通じて教団の資金を捻出し、義弟の峰村三夫と組んで、東京四谷の自宅を拠点に、「御神示」によって経営方針を決定していた。
そこに大本系列の心霊研究団体菊花会と中国の新宗教・世界紅卍字会のグループが合流したことで、1941年(昭和16年)に「璽宇」と改めた。呉清源は紅卍字会のグループに属していた。
そして、東京蒲田で真言密教系の霊能者として活動していた長岡良子(後の璽光尊)グループも璽宇に合流した。長岡グループの信者のなかに鉱山経営者がおり、同業者である峰村恭平を紹介したことがきっかけであった。
峰村恭平はやがて病気を患うようになり、また鉱山経営も行き詰まったことで、教団に対する熱意を失っていった。一方、長岡良子が「真の人」という冊子の作成などで頭角を表し、信者の信望を集めるようになった。
1945年(昭和20年)5月25日の東京大空襲で、璽宇本部として使用していた峰村邸が焼失したことで、峰村恭平は別荘がある山中湖畔に疎開することになり、教団から身を引くことになった。これにより璽宇の指導者は事実上、長岡良子となった。
戦後の1945年(昭和20年)11月15日に、璽宇は発足式を開催し、再スタートした。
しかし翌年、昭和天皇が人間宣言を行ったことで、璽宇は一大転機を迎えることになった。
長岡良子は「天皇の神性」は自分に乗り移ったと宣言、「天璽照妙光良姫皇尊(あまつしるすてるたえひかりながひめのすめらみこと)」(略称:璽光尊)を名乗り、璽光尊の住まいを「璽宇皇居」と称した。独自の神示に基づき天皇制を組み替え宗教的世直し構想の実現に力を注ぐ。世直しの「天責者」とする天皇や皇族の参加も呼びかけ、マッカーサーへの二度の直訴も成功させた。
1946年(昭和21年)2月からは杉並区に本部を構え、法人化の手続きはとならなかったが宗教団体の体裁は整った。璽光尊の住居の移転を「御遷宮」などと称して、同年末「璽宇皇居」を石川県金沢市に「御遷宮」し、天変地異の預言を盛んに喧伝した。また、この喧伝に動揺した住民が白米等の貴重な食料を持って訪れたといい、璽宇側は、菊の紋の下に「松」「竹」「梅」と書いた三種類の私造紙幣を発行し、天変地異が起こった際に通用する様に成ると説いたという。1947年(昭和22年)1月21日に石川県警は世人を惑わすとして「璽宇皇居」を取締り、璽光尊と信者の双葉山を食糧管理法違反で逮捕した。
この事件を境に教勢は一気に衰え、双葉山がまず璽宇を去った。「璽宇皇居」は東京・横浜・青森・箱根を転々とする。呉清源夫妻は箱根仙石原の知人別荘に璽光尊と共にいたが、読売新聞に縁切りを発表。同別荘を買収した読売側に立ち退きを迫られ、横浜の信者宅に落ち着いたあと、最終的に神奈川県藤沢市に「御遷宮」した。また、ロンドン警視庁で柔道や合気道を指南していた信者・山田専太の影響で外国人信者も少数いる。1984年(昭和59年)の璽光尊死後は、1943年(昭和18年)以来璽光尊と共にいた最古参幹部の勝木徳次郎が照観の別名で同教の主宰者となるも、宗教活動は殆ど行っていない。現在も教団自体は存在するが、宗教法人格もなく、ほとんど勢力はない。
教団の世界観
璽宇では、人間は四つに分類されるという「人間四段階説」をとっていた。天責者璽宇が掲げる「世直し」を助ける存在である。全世界で30人いるとされている。地責者天責者を助ける存在である。全世界で3000人いるとされている。邪霊一般人のことで、魔霊に惑わされやすい存在とされている。魔霊諸悪の根源といえる存在で、全世界で3004匹いるとされている。璽宇では、その内の数匹を飼い馴らすことで、社会に害悪を流すのを防いでいるとしており、信者の何人かは「魔霊」とされている。
擬似国家
璽宇では璽光尊の住まいを「璽宇皇居」と称していた。「霊寿」という独自の年号を定め、「璽宇内閣」を組閣するなどしていた。
教団の宗教活動
璽宇では布教を禁止していた。そのようなことをせずとも、最終的には他宗教全てが璽宇に帰依するものという考えからである。また、教団の運営費は信者の自発的な寄附に委ねられており、寄附の強要はもちろん、勧誘すらしていない。
璽光尊
[ じこうそん 1903-1983 ] 璽宇(じう)の教祖。本名「長岡良子」。
璽光尊こと長岡良子は、1903年(明治36年)、岡山県御津郡江与味村(現久米郡美咲町江与味)に農家の娘として誕生した。当時の名前は大澤 ナカ(おおさわ なか、大澤 奈賀とも)。
璽宇の公式見解によると、璽光尊は旧岡山藩池田家第13代当主の侯爵池田詮政と安喜子夫人との間に生まれたご落胤なのだという。ただし「落胤」とは高貴な男性が配偶者ではない女性と関係して産ませた私生児のことを意味する語なので、この場合は意味が通じない。安喜子夫人は皇族の出自で、池田家へ降嫁する前は安喜子女王といった。久邇宮朝彦親王の第三王女で、香淳皇后(良子女王)の父・久邇宮邦彦王の姉にあたる。つまり璽光尊は自身と皇后良子女王が従姉妹同士と信じて疑わなかったのである。
高等小学校卒業後は「見習い看護婦」になり、眼科診療所に勤めた。20歳のときに正式な看護師となるため、神戸に出て看護婦養成学校に通った。卒業後は眼科診療所に戻っている。
25歳のとき、日本郵船社員と結婚し、「長岡ナカ」となった。結婚後3年ほど経つとたびたび原因不明の高熱に冒され、仮死状態になっては神のことを口にするようになった。診察の結果、「ハイネメジン氏病(一種の急性灰白髄炎)」と診断された。
1934年(昭和9年)、「永久不変の真理を説いて衆生を救済し、非常時国家に尽くせ」という神からの啓示を受けたと言い出す。
やがて長岡ナカは夫に離縁を迫り、また夫の方も妻を教祖扱いする信者が押しかけて結婚生活どころでなくなったため、1935年(昭和10年)ごろ別居した。
離婚後は、彼女を慕う信者とともに東京市蒲田区で加持祈祷をする傍ら、大本系の心霊現象研究グループ「菊花会」のメンバーで、事業家でもある峰村恭平に出会う。
峰村が1941年(昭和16年)に「璽宇」を創設すると、長岡ナカも参加した。しかし主宰者の峰村は事業に失敗し、弱気になったことでカリスマ性を失いつつあった。逆に長岡は落ち着いた威厳ある態度を示したことで、信者の信望を集めるようになった。なお、この頃には弟子を5、6人抱えていたという。
1945年(昭和20年)5月25日の東京大空襲で璽宇本部として使用していた峰村邸が焼失したことで、峰村は別荘がある山中湖畔に疎開することになり、璽宇は事実上、長岡が主宰する宗教団体へと変貌していった。このころ名前を「良子(ながこ)」に改名し、長岡 良子(ながおか よしこ)と名乗るようになる。この改名も皇后良子女王にあやかったものと考えられる。
同年6月25日、神からのお告げがあったとして自らを「璽光尊」と名乗る。
終戦後の1945年11月15日に教団結成式を行い、再スタートした。翌1946年(昭和21年)、昭和天皇が人間宣言を行ったことで天皇の身体から天照大神が立ち去り、自分の身体に移ったと宣言、自身が正統の皇位継承者であると主張した。そして自らを「天璽照妙光良姫皇尊(あまつしるすてるたえひかりながひめのすめらみこと)」(略称:璽光尊)、「神聖天皇」と名乗り、璽光尊の住まいを「璽宇皇居」と称した。
1946年5月、教団独自の元号を制定し、「昭和」を「霊寿」(れいじゅ)と改めたほか、国旗や憲法を制定し、私造紙幣まで発行した。教団内に「兵部卿」、「文部卿」などといった役職を作り、仮想的な内閣を組織した。さらに同年同月、マッカーサーに直訴をしている。
東京において「京浜地方に大地震が起こる」と繰り返し予言。危険だとして東京を離れ、「璽宇皇居」と呼ぶ教団本部を石川県金沢市に移す。当地でも終末思想を広め信者を増やしていった。璽宇を警戒するGHQの命令で日本の警察はスパイを潜入させた。
警察はポツダム命令違反や詐欺の容疑などで摘発を決定し1947年(昭和22年)1月21日に「璽宇皇居」を急襲、璽光尊と幹部らは食糧管理法違反で逮捕された。教祖を守るために警察に立ちはだかった熱心な信者時津風親方も「公務執行妨害」容疑で逮捕された。
同年11月、璽光尊は精神鑑定の結果「誇大妄想性痴呆症」と診断され、釈放された。食糧管理法違反容疑も「信者が自発的に拠出したもので違法性はない」と判断され、不起訴となった。
この事件を境に教勢は一気に衰え、璽光尊一行は東京・静岡・青森・箱根を転々としたあと、最終的には神奈川県横浜市に居を構えて少数の信者と共に晩年を過ごし、天皇に成りきったまま、80歳で死去した。
容姿
璽光尊は、普段「璽宇皇居」にこもり、めったに姿を現さなかったので実像は謎に包まれている。璽宇に出入りしたことのある徳川夢声によると、九条武子似の美人だったという。また、璽光尊を取り調べた石川県警察部の公安課長は、警視庁警察官時代に取り調べた阿部定に似ていたと評している。
交流のあった人物
双葉山定次(力士)/ 力士を引退した翌年の1946年に入信。1947年1月の事件の釈放後、「夢から醒めた気持ちだ」といい教団を離れた。
呉清源(棋士)/ 「昭和の棋聖」と呼ばれた囲碁の名手。双葉山と並ぶ教団の広告塔的存在であった。妻も教団の中心的役割を担っていた。
その他/ 、 川端康成(小説家)、亀井勝一郎(文芸評論家)、金子光晴(詩人)、下中弥三郎(平凡社の創業者)などの文化人とも交流があったといわれる。
璽光尊事件
1947年(昭和22年)1月21日に石川県金沢市で発生した事件である。
1946年(昭和21年)秋頃より新宗教の璽宇は、石川県金沢市に本拠地を構えた。
璽宇は璽光尊(長岡良子)が主宰する宗教団体で、太平洋戦争中に結成された創立されて間もない教団である。
璽宇は、当時連合国軍最高司令官総司令部によって無許可の掲揚が禁じられている日章旗を堂々と掲揚したり、天変地異が起きると喧伝するなど、奇異な言動が注目を浴びていた。そして元横綱の双葉山定次や囲碁の棋士として有名な呉清源も信者であったことから、全国的にも話題となっていた。
石川県警察部では、人心の不安を煽っていること、統制物資である米を大量に所持していたことから食糧管理法違反の疑いで璽光尊に出頭を求めた。しかし璽光尊本人は出頭せず、幹部が代わりに出頭した。
事件
1947年(昭和22年)1月21日午後10時頃になって、夜行列車で逃亡を図っていることが判明したため、警官隊は先手を打って本拠地を急襲した。本拠地では璽宇の信者が抵抗し、公務執行妨害で璽光尊や双葉山ら8人が逮捕された。特に双葉山は大暴れしたため、20人以上の警官で対応しても逮捕までに15分かかったという。
処分
璽光尊は精神鑑定にかけられ、「誇大妄想性痴呆症」と診断されたため、まもなく釈放された。食糧管理法違反も「違法性なし」と判断されて不起訴となった。大捕物の割りに厳罰にならなかったのは、有名人の双葉山や呉清源を「邪教」から救出する意図があったからとも言われている。とはいえ、戦前の国民的英雄だった双葉山に失望した国民も多かった。後に連続強姦殺人犯となる大久保清はこの時「双葉山は馬鹿なんだ」と言ったとされる。
諸話 1
長岡良子 璽光尊
先に言っておくが、この日本という国の日本人という民族ほど信仰や宗教の好きな国民はいないかもしれない。
戦争に負けるまでは信仰ありきの国家であった。天皇なんて「現人神(あらひとがみ)」と呼ばれていたのだ。特に明治天皇には、本当に神通力があったと言われており、確かに、その頃の日本は強かったし、国民の一体感があっただろう。
南方とか島国に多いのが「王様が好きな国民」「王様だから」と言うだけでなぜか安心感があったりするんだろうな。「王様が死んだら近隣の立派な国から新しい王様を呼ぼう・・・」そんなこんなで「王様=めでたい」みたいな人種はいるっちゃーいる。日本もその部類に入るのではないだろうか。
さて、昭和もちょっと過ぎた頃、日本は戦争に負けた。マッカーサーが来るまでは色々と自由のある国で、国民に活力があった。田舎に行けば必ずお地蔵さんがあったり、なにがしかの祠があったり。ちょっと前までは「狸や狐にばかされた」というお話しは結構残っていた。
いわゆる「目に見えないものに対する何か」の気持ちは本当に根強いもので、国民の半分以上の誰かが何かの信仰をしていたような感じだったろう。無神論と言いながら神社に願掛けとかする人は多かったのではなかろうか。今でも「パワースポットなら」と、ついつい行ってしまう人も多い。
昔、日本では目に見えないものや生き神に憧れてしまう熱狂的な時代があった。日本はとてもスピリチュアルな国だったのだ。出口王仁三郎の大本も下火になり、王仁三郎の預言通りに日本は戦争に負けて、人々は心のよりどころを必要としていた。天皇神話も崩れかけていた時代に、日本各地に色々な霊能者や教団が現れる。その中でも際立って異彩を放つ(今考えると面白い)霊能者がいた。かのGHQまで手玉に取ったと言われ、自らを璽光尊(じこうそん)と名乗った女。長岡良子(ながおかながこ)である。
生まれた時の名は大沢ナカ 岡山の農民の子である。看護師として働いていたが、25で結婚。結婚後数年でなぜか身体に異変がおき始める。原因不明の高熱が出て仮死状態になるような事が続く。この時、神の事を言葉にするようになる。「永久不変の真理を説いて 衆生を済度し、非常時に国家に尽くせ」神の啓示を口にするようになったが、医師の診断では急性灰白髄炎・・・いわゆる小児麻痺で片付けられた節がある。この頃からナカの熱狂的な信者のような人が集まってきて、夫も居辛い部分があったが、ナカの方から離婚を迫っているようだ。独身となったナカは出口王仁三郎の大本にも出入りするようになり、大本の事件後に璽宇(じう)の教団代表である峰村なる人物と接触。教団設立の流れとなる。やがて、峰村氏の影響力が無くなり、ナカの存在が強くなっていく。この頃には長岡良子を名乗り始める。
さて、運命式だが、わりと信憑性があるので出してみた。日干に魁ごうが出たな。 キャラは申し分ない。庚(かのえ)の隣に丙(ひのえ)があるな。 印星の強さと偏官と傷官の出方がなかなか濃い感じ。カリスマ性は申し分ないし、霊能者としてもいける腕を持っていただろう。教祖的、霊能者的でいいだろう。
長岡良子の功績は全然残っていない。「天変地異がやってくる」の一点張りで、民衆を恐がらせるだけの事しか残されていない。資料が無いので推察だけになるが・・・堂々としてハッキリした事を言うだろうし、おそらく「凄い人かもしれない」と思わせる雰囲気はあっただろう。それから、教義というものを判りやすくきちっと出している所に惹かれた人が多いだろう。
かつてのアイドル的人気であった力士の双葉山が入信しており、また、囲碁界の巨匠である呉清原(ごせいげん)も入信していた。今で言う信仰宗教の広告塔がしっかりしていたので、信者獲得にはそれほど苦労はしていないようだった。しかも教団への勧誘はご法度。この点が営利団体とは一線を画し、他宗教との違いをハッキリさせている。
布教禁止の理由として
「そんな事をしなくても最終的には他宗教も璽宇に帰依するのだから、必要無い」というのだから、いかにも本物っぽく聞こえる。しかし、現実に最盛期は30万人ほどの信者がいたのではないかと言われているので、いかにこの頃の日本人がめでたいか・・・いや、心のよりどころを日本人が求めていたかが判る。
さて、本格的に第二次世界大戦の戦況は悪くなる。そして、日本は戦争に負けて壊滅的な打撃を受ける。そして昭和天皇の人間宣言・・・人間宣言というのはマスコミが作り上げた造語であり、しかも実際に陛下自信は一言もあらためて自分が人間だとは言っていないし、過去に自分は神だとも言っていない。なんか色々と集団ヒステリー的な時代を想像してしまうが、そんな雰囲気が戦争をしていた時代のような感じである。
そこへ付け込んでかどうか判らないが、長岡良子は突然「神様宣言」してしまう。そして、璽光尊(じこうそん)を名乗るようになる。璽光尊の言い分・・・「人間宣言によって、昭和天皇は神聖を失った。 天照大神は璽光尊の身体に宿った。 だから璽光尊こそが正当な皇位継承者である。」 璽宇の主張によると「璽光尊は池田詮政侯爵と同夫人・安喜子女王との間に生まれたご落胤である」
農夫の子のはずですが・・・グループを組んだお告げ系霊能者の暴走。
しかししかし、璽光尊側は本気で国家再建を考えていた。まず、新しい元号を制定する。 昭和は終わり、「霊寿(れいじゅ)」と宣言する。GHQ監視下で日章旗はご法度なのにバンバンと日章旗を掲げ、あろう事かいたる所に菊のご紋を使い始める。璽宇の本部は皇居と呼ばれ、スリッパにまで菊のご紋を入れる徹底振りであった。国旗を定め、憲法まで制定して、さらに、璽宇内閣を組織している。極めつけは私造紙幣である。菊のご紋に松・竹・梅と入った紙幣を発行し、「天変地異が訪れた時にこれが通用する」と説く。しかもこの時「神聖天皇」を名乗っていた。
さすがにこうなると「もうおかしいよ」となるが、ちょっと面白いエピソードもある。
当時の日本では絶大な権力を持つマッカーサー元帥に対して、あくまでも神聖天皇として堂々と振舞うのである。「汝を大国主命に任命するからしてスターリン、トルーマン、毛沢東、そして双葉山、呉清源ら世界三十傑の一人として世直しに遷延せよ。 ついてはわが皇居に参内せよ」と来るから、占領下の日本国民がちょっと喝采してしまったというエピソードがある。本気でマッカーサーを呼びつけるのは凄いな。マッカーサーへの直訴をした人物は色々といるが、ここまでコケにしたのは璽光尊だけで、大いに目立ってしまった。
璽宇は強制的な布教はしなかったものの、「天変地異が来るが、信者なら助かる」と宣伝し始める・・・だんだんと本格的に思想もカルト化していく。
天皇を名乗り、GHQやマッカーサーもコケにするとなると、普通では収まらない。結局は警官隊出動となるわけであるが、米軍からの命令だからかどうか、大本の時とは違い、大規模な弾圧は無かったようだ。最初は別件逮捕というか、食糧管理法違反で璽光尊の代わりに幹部が出頭したというから、かなりソフトな印象である。神聖天皇であるから、警察も皇族を逮捕するのに躊躇・・・するわけない。
1947年1月「東京に地震が起きたから救出に向かう」と璽光尊は防空頭巾を被って救出活動の準備をする。実際には東京に地震は起こっていないが、信者共々防空頭巾を被って東京へ向かう準備を始めた。当時は璽宇に警察からのスパイが潜入しており、この騒動を「逃亡の準備」と判断したのか。1月21日の午後10時、警察は急襲する。現地での大捕り物では、元力士である双葉山が警官隊に立ちはだかった。「下界の俗物ども!・・・云々」言ってたようだが、元力士と現役の警官ではやはり全然お話しにならない。結局は取り押さえられて、璽光尊以下、幹部数名が御用となるわけである。防空頭巾を被ったままで警官隊に向き合う双葉山の写真が・・・ちょっと痛く感じる。
双葉山は食料管理法違反とはいえ、信者が自分から差し出した米の云々であったため、もともと違法性も何も無く、無罪で釈放。同じく防空頭巾姿の璽光尊はそのままの格好で取調べを受けたといわれるが、医師による「誇大妄想性痴呆症」という診断で無罪として釈放される。
さて、その後の双葉山だが、「夢を見ていたようだ」と語っている。新聞記者や周囲の説得により洗脳が解けたというか、目を覚ました後の言葉と言われている。その後弱体化した璽光尊の命により 璽宇は双葉山奪還に向けて呉清原を差し向けるが、きっぱりと双葉山は断ったそうだ。双葉山はその後相撲協会の理事になり、地道に人生を終えている。かつては右目が見えないながらも69連勝したという名横綱であるから、騒動さえ無ければふさわしい生涯であっただろう。
璽光尊は弱体したものの璽宇を率いて全国を転々とする。80で死去したと言われるが、霊能者としてはなかなか長命であったのではなかろうか。ほとんど世間に姿を見せなかったようで、神秘的なベールに包まれているが、若い頃はかなりの美人であったらしく、九条武子や阿部定に似ていたという伝説が残っている。美貌も信者獲得にはいい武器になったであろう。徹底した勧誘と布教の禁止という点では非常に評価できる。また、布施や食料も信者の自発に任せていたというから、わりと良心的ではないかと思う。霊感商法もまったく無いというから、何の罪も無い団体だったはずだが・・・「我こそは・・・・・」こういったのはマズかった。しかし、死の淵まで神聖天皇として振舞ったという。 
諸話 2
璽光尊 「自称天皇」の数奇な生涯
太平洋戦争終結から数年間、日本には幾人かの「自称天皇」が現れている。その多くは壇ノ浦で行方不明となった安徳天皇の末裔や南北朝時代の南朝末裔、また各地に流罪になった歴代天皇の御落胤といった「血筋」をその根拠にしているが、その中で「天皇の神霊が現天皇を離れ、自分を憑代とした」と称するものが存在した。今回は終戦の混乱時に騒動を巻き起こし、最後まで自称天皇であり続けた「璽光尊」を考察したい。
のちの璽光尊となる大沢ナカは明治36年、岡山県で農家の娘として誕生している。爾光尊と名乗るようになってから実家の血筋を大名家であった池田家のご落胤の血を引いていると話しているが、確認はされていない。幼少期から青年期にかけてのナカはごく普通の女性として過ごしたらしい。眼科に勤める看護婦を勤めた後25歳の時に結婚し長岡ナカと姓が変わっている。
ごく普通の生活を送っていたナカに変化が起こったのは結婚3年をすぎる頃からである。この時ナカは原因不明の高熱を発し、一時意識が混濁する。意識を取り戻したナカは周囲の人々に神について語るようになり心配した家族は精神科医の診断を受けさせる。その結果ナカは「ハイネメジン氏病」との診断を受ける。これはポリオウイルスの感染により発症する病気であるが、重症化することはほとんど無く風邪のような症状ですむ場合がほとんどである。しかしナカの場合かなり重症化してしまったようでこの後ナカの言動は次第にエスカレートしていくことになる。昭和9年頃からナカは「神からの掲示を受けた」と周囲に語り、さらに神からの掲示を周囲に説くようになる。この言動のためかナカは夫と離婚、自らの信者とともに上京し加持祈祷を行うようになる。やがてナカは心霊研究家であり事業家でもある峰村恭平に出会い、行動を共にするようになる。昭和16年に峰村が教団「璽宇」を結成するとナカも教団に参加する。しかし峰村が事業に失敗し教団活動を半ば放棄すると「璽宇」はナカの教団と化していく。さらに昭和20年5月25日の東京空襲で璽宇教団本部が焼失し、自宅でもあった教団本部を失った峰村は教団から完全に身を引き、代わってナカが教団を掌握する。この頃ナカは俗名を「良子」と改名する。これは時の皇后である香淳皇后にあやかって改名したと言われている。同年6月25日、ナカは自らを「璽光尊」と称することとし8月15日の敗戦を迎えることになる。
終戦後の昭和20年11月15日、教団「璽宇」は改めて璽光尊を中心とした新興宗教として旗揚げし、教団の本部を金沢市に移動させる。そして昭和21年元旦、昭和天皇の人間宣言を聞いた璽光尊は自らの「即位宣言」を行うのである。璽光尊によれば、昭和天皇の人間宣言により天照大神の神霊が昭和天皇の身体から離脱し、今度は自分の身体に宿ったという。これによって昭和天皇は天皇ではなくなり、替わって爾光尊が天皇になると宣言したである。この「詔」を受けて璽宇教団は昭和に変わる年号を制定、さらに内閣を組閣、はては独自の紙幣の発行まで行ったのである。どういったつながりがあったのか詳細は不明だが組閣した「内閣」には前年に引退した元横綱の双葉山、碁の名人呉清源といった著名人も含まれており、世間の注目を集めるには十分であった。終戦直後で今後の日本の体制が定かではない状況でもあり「新天皇」に期待する信者が急増することになる。当時の警視庁はこの教団に対する警戒を深め、GHQの指示もあり教団内に信者になりすましたスパイを潜入させ教団の実状調査を行う。内偵で教団が警察に監視されていることに危険を感じており、密かに逃亡の準備が進められていることを掴んだ警察は、ついに強制捜査に踏み切る。昭和22年1月21日夜、警視庁は璽宇教団に強制捜査を行う。この強制捜査では一部信者が抵抗し、特に双葉山は教団内に入った捜査官を投げ飛ばすなどの大立ち回りを演じることになったが結局教祖璽光尊、双葉山以下8名の逮捕者を出して騒動は終結する。強制捜査とその後の取り調べの結果、璽光尊は現在で言う「誇大性総合失調症」と診断され、不起訴処分となる。双葉山は公務執行妨害が問われたが、これも不起訴扱いになる。捜査の規模と騒ぎに対して比較的関係者の処分は軽かった。この扱いのためか強制捜査は双葉山、呉清源といった当代一流の人物を教団から救い出すため行われたという推測が一部から流れた。そしてこれを肯定するかのように双葉山は釈放後「夢から醒めた感じだ」といい教団を脱会、二度と教団には接触しなかったのである。
強制捜査とその後の調査が終了し、璽宇教団は罪こそ問われなかったものの、教団の規模は急速に縮小する。それでも璽光尊は少数の信者に囲まれ「自称天皇」のまま生きていくことになる。「皇居」を転々と移動させ、最後に落ち着いたのが横浜であった。璽光尊事件から30年以上過ぎた1983年夏、璽光尊は体調を崩す。自覚症状はあったらしいが現人神の自尊心か、はたまた信者が現人神が俗世の医学に汚されるのを拒絶したのか医療機関の診察を受けずに昭和58年8月16日璽光尊は「崩御」する。その亡骸は復活を信じる信者により残暑厳しい時期にも関わらず三日間床に横たえられていたという。
複数の天皇が現れ、そして消えていった中で、最後まで「天皇」であり続けた爾光尊、その「崩御」は一般的には惨憺たる最後に見えるが、ある意味この「現人神」にふさわしい最後であったかもしれない。 
諸話 3
璽光尊事件顛末
1946年(昭和21年)秋頃より新宗教の璽宇は、石川県金沢市に本拠地を構えた。璽宇は璽光尊(長岡良子)が主宰する宗教団体で、太平洋戦争中に結成された創立されて間もない教団である。
璽宇は、当時連合国軍最高司令官総司令部によって無許可の掲揚が禁じられている日章旗を堂々と掲揚したり、天変地異が起きると喧伝するなど、奇異な言動が注目を浴びていた。そして元横綱の双葉山や囲碁の棋士として有名な呉清源も信者であったことから、全国的にも話題となっていた。
石川県警察部では、人心の不安を煽っていること、統制物資である米を大量に所持していたことから食糧管理法違反の疑いで璽光尊に出頭を求めた。しかし璽光尊本人は出頭せず、幹部が代わりに出頭した。1947年(昭和22年)1月21日午後10時頃になって、夜行列車で逃亡を図っていることが判明したため、先手を打って本拠地を急襲した。
本拠地では璽宇の信者が抵抗した。特に双葉山は大暴れしたため、公務執行妨害で璽光尊や双葉山ら8人が逮捕された。
璽光尊は精神鑑定にかけられ、「誇大妄想性痴呆症」と診断されたため、まもなく釈放された。食糧管理法違反も「違法性なし」と判断されて不起訴となった。大捕物の割りに厳罰にならなかったのは、有名人の双葉山や呉清源を「邪教」から救出する意図があったからとも言われている。とはいえ、戦前の国民的英雄だった双葉山に失望した国民も多かった。後に連続強姦殺人犯となる大久保清はこの時「双葉山は馬鹿なんだ」と言ったとされる。
璽宇(じう)とは、第2次大戦中にできた宗教団体である。
終戦直後は一世を風靡した。「璽宇教」という表現もあるが正しくない。鉱山事業家の峰村恭平が主宰する「篁道大教」という神道系の団体が母体となっている。
篁道大教は「教業一致」を掲げ、鉱山事業を通じて教団の資金を捻出し、義弟の峰村三夫と組んで、東京四谷の自宅を拠点に、「御神示」によって経営方針を決定していた。
そこに大本系列の心霊研究団体菊花会と中国の新宗教・世界紅卍字会のグループが合流したことで、1941年(昭和16年)に「璽宇」と改めた。
呉清源は紅卍字会のグループに属していた。そして、東京蒲田で真言密教系の霊能者として活動していた長岡良子(後の璽光尊)グループも璽宇に合流した。長岡グループの信者のなかに鉱山経営者がおり、同業者である峰村恭平を紹介したことがきっかけであった。
峰村恭平はやがて病気を患うようになり、また鉱山経営も行き詰まったことで、教団に対する熱意を失っていった。一方、長岡良子が「真の人」という冊子の作成などで頭角を表し、信者の信望を集めるようになった。1945年(昭和20年)5月25日の東京大空襲で、璽宇本部として使用していた峰村邸が焼失したことで、峰村恭平は別荘がある山中湖畔に疎開することになり、教団から身を引くことになった。これにより璽宇の指導者は事実上、長岡良子となった。
戦後の1945年(昭和20年)11月15日に、璽宇は発足式を開催し、再スタートした。しかし翌年、昭和天皇が人間宣言を行ったことで、一大転機を迎えることになった。
長岡良子は「天皇の神性」は自分に乗り移ったと宣言、「天璽照妙光良姫皇尊(あまつしるすてるたえひかりながひめのすめらみこと)」(略称:璽光尊)を名乗り、璽光尊の住まいを「璽宇皇居」と称した。
独自の神示に基づき天皇制を組み替え宗教的世直し構想の実現に力を注ぐ。世直しの「天責者」とする天皇や皇族の参加も呼びかけ、マッカーサーへの二度の直訴も成功させた。
1946年(昭和21年)2月からは杉並区に本部を構え、法人の手続きはとならなかったが宗教団体の体裁は整った。璽光尊の住居の移転を「御遷宮」などと称して、同年末「璽宇皇居」を石川県金沢市に「御遷宮」し、天変地異の預言を盛んに喧伝した。また、この喧伝に動揺した住民が白米等の貴重な食料を持って訪れたといい、璽宇側は、菊の紋の下に「松」「竹」「梅」と書いた三種類の私造紙幣を発行し、天変地異が起こった際に通用する様に成ると説いたという。
1947年(昭和22年)1月21日に石川県警は世人を惑わすとして「璽宇皇居」を取締りを強行、璽光尊と信者の双葉山を食糧管理法違反で逮捕した。
この事件を境に教勢は一気に衰え、双葉山がまず璽宇を去った。「璽宇皇居」は東京・横浜・青森・箱根を転々とする。
呉清源夫妻は箱根仙石原の知人別荘を璽光尊と共にいたが、読売新聞に縁切りを発表。同別荘を買収した読売側に立ち退きを迫られ、横浜の信者宅に落ち着いたあと、最終的に神奈川県藤沢市に「御遷宮」した。また、ロンドン警視庁で柔道や合気道を指南していた信者・山田専太の影響で外国人信者も少数いる。
1984年(昭和59年)に璽光尊死後は、1943年(昭和18年)以来璽光尊と共にいた最古参幹部の勝木徳次郎が照観の別名で同教の主宰者となるも、宗教活動は殆ど行っておらず、現在も教団自体は存在するが、ほとんど勢力はない。璽宇では、人間は四つに分類されるという「人間四段階説」をとっていた。
天責者 璽宇が掲げる「世直し」を助ける存在である。全世界で30人いるとされている。
地責者 天責者を助ける存在である。全世界で3000人いるとされている。
邪霊 一般人のことで、魔霊に惑わされやすい存在とされている。
魔霊 諸悪の根源といえる存在で、全世界で3004匹いるとされている。璽宇では、その内の数匹を飼い馴らすことで、社会に害悪を流すのを防いでいるとしており、信者の何人かは「魔霊」とされている。
璽宇では璽光尊の住まいを「璽宇皇居」と称したり、「霊寿」という独自の元号を定めたり、「璽宇内閣」を組閣するなどしていた。璽宇では布教を禁止していた。そんなことをしなくても、最終的には他宗教全てが璽宇に帰依するものという考えからである。同時期に有名になった天照皇大神宮教と比較して教勢が振るわないのは、この「布教禁止」に由来している。また、教団の運営費は信者の自発的な寄附に委ねられており、寄附の強要はもちろん、勧誘すらしていない。そういう点で、オウム真理教とは著しく異なっている。
諸話 4
「璽光尊」 (下中彌三郎伝刊行会編『下中彌三郎事典』)
一 呉清源と下中彌三郎
NHK番組『あの人に会いたい』に、呉清源(1914-2014)が登場した。
「碁の神様」といわれた呉清源。独創的な新布石を生み出し、昭和の囲碁界に君臨した天才棋士である。大正3年(1914)、中国福建省生まれ。14歳の時、来日。木谷実四段と二人で、伝統の定石を一変させる新布石を編み出す。戦前戦後を通じ「打ち込み十番碁」で名だたる一流棋士をことごとく打ち込み、最強の打ち手と言われた。昭和59年(1984)引退し、後進の指導や囲碁の国際化に貢献した。囲碁一筋に生きた人生の神髄が語られる。
呉清源といえば、戦前戦後の一時期、世界紅卍会〈セカイコウマンジカイ〉という慈善団体、あるいは璽宇〈ジウ〉という新興宗教に深く関与していたことで知られている。
NHKが番組で、このあたりの活動についてどう触れるのか、注目しながら見ていたが、結局、ほとんど触れることはなかった。ただ、ナレーションで、ごく短く、日中戦争が始まったころから、一時期、「新興宗教」に救いを求めたことがあったということは、解説していた。
ところで、平凡社の創業者である下中彌三郎(1878-1961)は、この呉清源とある接点を持っていた。新興宗教「璽宇」の教祖・璽光尊(俗名・長岡良子)が、その接点である。
下中彌三郎伝刊行会編『下中彌三郎事典』には、「璽光尊」という項目がある。
「 璽光尊 / 璽光尊が有名になったのは、昭和二十一年(1946)金沢へ本部を構えてからである。当時、六十九連勝の偉業を成しとげた横綱双葉山(現、時津風相撲協会理事長)と、囲碁の天才をうたわれた棋士呉清源とが、相前後して璽宇教へ帰依し話題を賑わした。教祖の璽光尊は、戸籍上では神戸市に本籍をもつ高級船員長岡某の妻良子となっているが、彼女が次第に神懸り的になってからは夫婦は別居するようになり、昭和十六年(1941)に四谷区(現、新宿区)愛住町に璽宇教の着板を褐げたのが始まりである。しかし自らを天照皇大神の分身と思いこむようになったのは、戦後からである。
璽光尊は双葉山を素戔鳴大神の化身と称しその名も素彦と呼んだ。そして彼女は双葉山は世界に二、三人しかいない偉大な霊格者であると称揚し、彼を股肱の臣として寵愛していた。呉清源は、璽宇教の巫子をつとめていた旧姓中原和子と、やがて婚姻るのだが、当時璽光尊に帰依していた。その他幹部として勝木元彦、清水誠一、西口宗雄などが璽光尊の側近として活躍していたが、やがてこれらの幹部による璽宇内閣の組織、つづいて昭和を霊寿とする年号の改称などで話題は一層拍車をかけられた。そのうち璽光尊は神示と称し、近く日本の大半が潰滅するような大地震が起こる、という予言を行なった。このことが当局の忌避に触れ、璽光尊をはじめ璽宇教幹部の総検挙となった。現在の日本精神神経会理事長秋本波留夫(東大教授)は当時金沢大学教授であったが、このとき璽光尊の精神鑑定を行ない、誇大妄想狂と診断した。この事件は璽光尊と一部幹部の二十日間の留置で、証拠不十分で不起訴処分と決まったが、この事件を契機として読売新聞藤井記者らの運動もあって、双葉山は璽光尊の下を去り、璽宇教はついに再興の夢ならず、金沢から逃がれるようにして青森県の八戸へと本部を移していった。その間、マッカサー元帥への直訴、秩父宮邸乗り込みなどでジャーナリズムを再び賑やかしたが、信徒の多くは璽光尊を見すてて去っていった。わずかに中原和子、妹の叶子、呉清源をはじめとするさきの幹部の一行に、十八人の信徒が璽光尊の側近として従っていたにすぎない。
だが八戸も警察の弾圧のため本部を構えることができず、やがて箱根仙石原の呉清源宅へ遷宮ということになった。しかし呉清源宅は、当時読売新聞社社長の馬場恒吾の所有だった関係もあり、読売の尊属棋士である呉清源の立場をおもんぱかった読売側の処置として、直ちに家屋明渡しの提訴がなされた。やむなく璽光尊は昭和二十五年(1950)七月十八日、仙石原の呉清源宅を引き払った。このことのあった直後、最後の頼みにしていた呉清源夫妻も、ついに璽光尊から離れていった。今度は双葉山の場合とちがって呉清源夫妻は璽光尊に対して批判的な態度をとり、呉清源は間もなく紅万字に拠って、璽宇教否定の立場を明らかにした。その後の璽宇は東京の荻窪、祐天寺と転々と居を移していたが有力幹部は次々と脱離して浄き、璽光尊を守るものは、かつて璽宇内閣の総理に擬せられた勝木元彦ひとりという状態であった。その頃、たまたま横浜に住んでいた旧信徒の娘で小児マヒのため歩行ができなかったのを、祈祷で歩けるようにしたというので、両親の感謝をこめたたっての願いから、横浜市港北区師岡の農家へ璽光尊は迎え入れられた。ここを改装して璽宇仮宮と定めて今日に至っている。 」
二 璽光尊から神詔を受けた下中彌三郎
「 最近の璽宇教は、宗教団体でないということを強調しているが、思い出したように時たま璽宇を訪ねてくる旧信徒に対しては、<岩戸開き>いわゆる世直しの理想を神策と称して説いている。かつてジャナリズムの波に乗せられた璽光尊は、一切の報導関係者と会わないことにしているが、ときには神詔と称して平和に貢献する各界の人々に一書を送り、訪ねてくれば面接に応じることもある。もっともそういう人たちは璽光尊に言わせると、<地責者>とよび、神から選ばれた使徒で、現在世界に三千人いるという。下中弥三郎はその三千人の中でも、もっともすぐれた霊格者として璽光尊から神詔を受けたひとりである。この他、久邇宮朝融、吉田茂、マッカサー、インドのネール、亀井勝一郎、徳川夢声、宮崎白蓮など神詔を受けとった人々である。なかでもマッカサーは、丁重な返書を璽光尊に送っている。また吉田茂、マッカサー、ネールを除き、他はいずれも璽宇を訪れている。こうした人々を迎えるようになってからは、自費を投じて道路を建設したり、暗い道路に数十本の街灯をつけたりして、付近の人たちを喜ばしている。今日でも璽光尊は自らを天照皇大神の分身であると信じているが、璽光尊の神策なるものを要約すると、現在の末法の世相は、魔族の執念のつきるまで悪の花が咲ききらなくてはおさまらない。世界はかくして暗におおわれてから岩戸が開かれる。それを璽光尊は幽因現果とよんでいる。
下中に神詔伝達の使いをしたのは、璽宇の渉外をやっていた大久保弘一(二・二六事件の<兵に告ぐ>の告示を起草した陸軍大佐)だった。神勅を受けとった下中は、それなりの関心を抱いたようであった。璽宇から璽光尊がじきじき面接すると言ってきたので下中は昭和三十二年(1957)五月の初旬、師岡へ天野照子同伴でたずねている。後日、下中はこの時の動機について述懐しているが、かつては名力士の双葉山や、天才棋士の呉清源に熱烈な信仰を抱かせた璽光尊である。そこには何か常人にない力のようなものがあった筈だ。それを知りたいと思った、ということである。 」
以上で、下中彌三郎が「璽宇」と深い関わりを持っていたことは明白であろう。
下中彌三郎と呉清源との間に、個人的な交流があったか否かは詳しくない。しかし、ベストセラーとなった木谷実・呉清源・安永一の『囲碁革命・新布石法』は、昭和九年(1934)に、平凡社から出版されている。その当時から、下中と呉との間には、一定の交流があったと見るべきであろう。
三 亀井勝一郎 「璽光尊の言葉は神の声としてきけた」
「 日頃からひと一倍求道心の篤い下中は、どこそこに神を唱えるものがあるときけば、どんな遠い所へでもとんでゆく人である。それは決して冷かし半分や興味本位の場合は一度もなかった。璽光尊の場合も例外ではなく、しかも何か心に触れるものがあったのだろう。二度目の来訪のときには弥三郎窯で焼いた見事な花びんを持参した。その花びんには世直しを告げる夜明の意味を表わした、鶏鳴を告げる鶏の絵が描かれてあった。三回目はアジアの旅を終えた直後の忙しい時間をさいて来訪している。そのときには種々の土産の中で、下中にとって貴重な記念品と思われるナセル大統領の署名入りの銀のタバコケースを献上しているのである。これを見ても下中の璽光尊への傾倒ぶりがうかがえるのであるが、実業の世界社から発行されている『女性仏教』(昭和三十二年九月号)に「万魂救済こそ永遠の平和」という題で、天野照子に璽光導礼讃の一文を書かせている。さらに、璽光尊鑑定の意味からか宗教に明るい神田孝一をつれていったりしているが、昭和三十二年七月十一日にはクラブ関東へ璽光尊に会った亀井勝一郎、徳川夢声、当時の中外日報神奈川支局長桜井好光らをよび「璽光尊の印象を語る会」を開いた。璽宇教からの列席者として山田専太(現在、柔道普及のためイギリスに滞在中)が招かれた。(彼は後日、璽宇をでてから下中の私設秘書のような役目をつとめるようになる)この日の模様は昭和三十二年(1957)七月十七日付の『中外日報』(当時、今東光が社長)雑記帳欄にくわしいが、下中は、「璽光尊の印象はいずれも世に言われているような妄想狂や非常識ではなく、世直しの没々たる理想を説く神様は実に整然として頃聴に価するものがある」と、言っている。亀井勝一郎は「璽宇教で書かれた神詔や神示は、勿体ぶった文体で感心できなかったが、直接きく璽光尊の言葉は神の声としてきけた」と言っている、徳川夢声は毎月三、四回定例のように璽宇を訪れていたが、亀井勝一郎と大同小異の意見だった。璽光尊が果たして神であるか、ないかの是非はともあれ、下中の璽光尊観に嘘があろうとは思えない。その後、多忙のため璽宇を訪れる日が次第と少なくたっていったが、天野照子を通じて万葉の歌を書いた弥三郎焼きの皿を届けることは忘れなかった。或る日、奉書にしたためた左の一首が璽宇へひそかに寄せられた。
  人の世は神ごとながらせはしなく 遠ざかりゐる師岡の里  弥三郎  (桜井・一)
最後に、下中彌三郎の和歌が引かれている。
  人の世は神ごとながらせはしなく 遠ざかりゐるもろをかの里  彌 」
また、そのあとに、「桜井・一」とあるが、これは、この項を執筆した桜井一彦氏の署名である。『下中彌三郎事典』巻末の「執筆者紹介」によれば、桜井氏は、宗教の専門紙『中外日報』の神奈川支局長だったことがあり、下中彌三郎が璽光尊を訪問する際、「面接の労」をとったという。  
諸話 5
双葉山
少し酔っていたので名は秘すが、「土俵の鬼」こと元横綱初代若乃花の花田勝治氏が亡くなった後で、元親方の一人がしみじみ言った。「ほんとの豪傑だったよなあ。もうあんな人は出ないよ。今みたいに、あれしちゃいけないとか、これやっちゃ駄目だ、なんて言われたらさあ」 大麻事件や暴力団との関係を疑われるような賭博は論外だが、公益財団法人移行を目指す折でもあり、世間から厳しい目を向けられている相撲界。息苦しさを感じるのは分かる。朝青龍がトラブルを起こすたび、「品格」という言葉も盛んに使われた。
「品格」といえば、多くの人が真っ先に思い浮かべるのが双葉山だろう。このところ、九州場所で双葉山の69連勝に並ぼうとしている白鵬のおかげ で、双葉山の自伝「相撲求道録」などを読み返したり、資料映像を見たりしている。双葉山の時代と今とでは、力士の体格が違うから、白鵬には打っちゃりやつり出しこそないが、つかまえるも突っ張るも自在の立ち合いや、右四つからの寄り、上手投げは共通している。土俵入りも、雲竜と不知火で型こそ違うものの、両腕を広げてかしわ手を打つまでの動きなどがよく似ている。白鵬が映像を見てまねているようだ。
資料の多くは、双葉山がどれほど強く、いかに真摯に厳しく相撲道を追求したかを語っている。あまりに立派過ぎて、私のような者はただ 口を開けて雲の上を仰ぎ見ているような気分だが、工藤美代子「双葉山はママの坊や」、藤井恒男「双葉山と璽光尊事件」などは興味深く読んだものだった。
工藤さんの著書は、双葉山と何人かの女性との関係を追いながら、年上の女性たちに甘えるようにして、拠りどころや支えを求めた大横綱の別の一面 を描いた。当時の女性ファンたちが、アイドルのように双葉山を応援していた様子も分かる。
朝日新聞記者だった藤井氏の回想文は、双葉山と学生時代から個人的に親しかった著者が、璽光尊(じこうそん)事件で双葉山救出に当たった一部始 終を生々しく書いている。この事件は、終戦後の混乱期に「璽宇(じう)教」と名乗る新興宗教が起こした騒動で、教祖は「璽光尊」と呼ばれる女性 だった。1947年、璽光尊らは天変地異が起こると予言し、金沢市内の本部に幹部や信者が集結した。その中に、囲碁棋士の呉清源に誘われて入信した双葉山もいた。警察当局は、人心をかく乱したなどとして一斉手入れを行い、双葉山も検挙されている。
警察署に留置され、藤井氏の説得にようやくマインドコントロールが解けかけた双葉山の様子が、こう書かれている。
「じいっと聞いていた双葉山は、急に頭をさげ、涙をこぼしながら男泣きした。私はびっくりした。」
大スキャンダルだったが、事件そのものが「璽光尊」は心を病んでいたとして処理され、沈静化したこともあって、双葉山は相撲協会の職務に復帰した。工藤さんの著書に、時津風理事長となってからの双葉山を、知人が「もっとどんどん(協会を)改革してくださいよ」と激励した時に返ってきた、 人間くさい軽口が記されている。
「うん、でもなあ、あんまり急にやると、共産党だとか言われるだろうからな、そしたら俺(おれ)、また璽光尊のとこに行っちゃおうかな」
璽光尊事件は、引退後間もない双葉山が、敗戦のショックと混乱の中、多くの弟子を抱えて部屋運営や相撲協会、自らの指導者としての行方を思い悩んでいた時期に起きた。もともと信仰心が厚かった双葉山は、幕下時代にも尼僧に傾倒し、けいこを休んで教会に通い詰めたことがあるという。横綱になってから、関西大相撲の最中にこの尼僧が危篤になったので急きょ休場して上京したと伝えられている。宗教を離れたところでも、頼りにする年上の女性が何人かいたようだ。日本中の期待を背負って相撲道を極めようと苦悩する中で、すがるものが必要だったのだろう。
新人記者当時、これらの資料に接して双葉山の強さと表裏一体の弱さを知り、神格化された大横綱が少し身近に感じられた。横綱を語るときに、「品格」というよく分からない言葉を使わなくてもいいのだと考えるようになったのも、それからだった。白鵬のおかげで、そんなことも思い出した。 
立正佼成会と霊友会 

 

立正佼成会が巨大教団へと発展したのは、この高度経済成長の時代においてだった。立正佼成会が誕生する母体ともなった霊友会の場合も同じでした。そして立正佼成会の最大のライバルである創価学会が急成長したのも、やはり1950年代なかばからはじまった高度経済成長の時代においてでした。
ここで注目されるのは、立正佼成会もそうですが、霊友会も創価学会も、皆、日蓮系、法華系の教団である点でした。ほかに、日蓮系、法華系の新宗教としては、仏所護念会や妙智会などがあります。いずれも立正佼成会と同様に霊友会からの分派です。ここで見てきた天理教から璽宇までの教団は、仏教と混交はしているものの、どれも基本的には神道系の教団でした。仏教と関わりをもつ場合にも、真言密教の系統と結びついていました。ところが高度経済成長の時代に巨大教団に発展したのは、いずれも日蓮系、法華系の教団でした。
立正佼成会の創立者は、庭野日敬と長沼妙佼の2人でした。日敬の本名は鹿蔵で、長沼の方は政といいました。日敬は1906(明治39)年に新潟県の農家に生まれ、18歳の時に東京へ出てきます。また村へ戻ったり、4年にわたって海軍に入隊したりした後、東京中野の漬物屋で働くようになり、結婚し、独立して店をかまえます。
日敬に転機が訪れるのは、長女が中耳炎をわずらい、手術を受けた時で、その経過が思わしくなかったため、修験者を紹介され、不動信仰の修行を実践します。すでに日敬はそれ以前に易を学んでいて、修行を進めるのと並行して、姓名判断も学びます。そして、霊友会の支部長である新井助信の法華経の講義を聞いて感動し、熱心に布教活動を行い、新井支部の副支部長にも抜擢されます。
その後日敬は、子供を亡くし、自身子宮内膜炎に苦しんでいた妙佼と出会います。妙佼は、1889(明治22)年に埼玉県に生まれ、上京して二度目の結婚をし渋谷区の幡ヶ谷で働いていました。彼女は、日敬に出会ったときには、天理教を信仰していましたが、霊友会に移り、日敬とコンビを組んで積極的に布教活動を展開するようになります。
霊友会は久保角太郎と、その兄嫁である小谷喜美のコンビで発足します。男女のペアが創立者である点で、霊友会と立正佼成会は似ています。しかも、2人が夫婦でない点でも共通していました。これに似た例は大本があげられます。
霊友会のもとを作ったのは、西田無学という人物でした。本名を利蔵といい、三重県で生まれました。彼は横須賀に出て、法華信仰をもつようになり、仏所護念会という組織を作って、布教活動を展開するようになります。この仏所護念会は、後に関口嘉一・トミノ夫妻が霊友会から分かれて作った仏所護念会とは別の組織です。
無学の法華信仰の特徴は、法華経による先祖供養を強調したところにありました。その信仰が具体的にあらわれたのが、「総戒名」と呼ばれる戒名です。無学は、布施の額に応じて戒名に院号や院殿号がつけられている現状を批判し、すべての戒名に院号をつけることを主張しました。しかも、総戒名には、夫の祖先と妻の祖先の両方を含むものとし、その基本的な形式を定めました。
無学は1918(大正7)年に横浜で亡くなり、その教えは弟子の増子酉吉に受け継がれます。久保角太郎は、1892(明治25)年に日蓮と同じく千葉の阿房小湊に松鷹家の三男として生まれ、久保家に養子に出されますが、その前に一時酉吉のところに預けられていました。それが彼の宗教家としての道に進ませることにつながりました。角太郎は、喜美に宗教家としての能力があることを見出し、彼女にひたすら戒名を集めてこさせたり、断食させたりといった修行を実践させました。そのなかで、喜美は死者の霊のことばを聞くシャーマン的な能力を体得していきます。これまで見てきた女性教祖の場合には、精神の病をかかえることをきっかけに神懸りし、そこから教祖としての道を歩みはじめた自然発生的なものでしたが、喜美の場合には、意図的に教祖に仕立てあげられたともいえます。
大日本霊友会は1930(昭和5)年には赤坂伝馬町に本部をおき、その4年後には千名の会員をかかえるまでになります。37年には関西にも進出し、本部を麻布板倉に移し、百畳敷の講堂を建てるまで成長します。すでに日本は戦争の時代に突入していました。大日本霊友会は、体制に順応し戦争を積極的に支持したことから弾圧を受けることもありませんでした。また喜美の性格がきつく、また大日本霊友会の一つのベースになっているはずの法華経に対する理解がなかったために会を離れる人間も出てきました。1935年には理事だった岡野正道がぬけて考道会(現考道教団)を作り、36年には高橋覚太郎の霊照会(現日蓮誠宗三界寺)が、38年には井戸清行の思親会が独立します。
1940年に宗教団体が施行されたのにともない、宗教結社大日本立正佼成会となり、41年には妙佼のお告げで、本部を和田に移します。43年には妙佼の霊感指導が人心を惑わすとして、日敬と妙佼が警察に留置されるという事件も起こります。この時代の会員数はまだ千人前後にとどまっていました。1948年には、会の名称を立正佼成会に改め、宗教法人としての認証を受けます。そして高度経済成長の時代がはじまると、立正佼成会は急速に信者数を増やしていき、敗戦の1945年に1500人程度だった信者数は、50年に6万人に達し、55年には30万人にまで増えています。その際に、立正佼成会の布教の武器になったのが、先祖供養、妙佼の霊感と日敬の学んだ姓名判断の組み合わせ、そして法座でした。
法座とは立正佼成会が霊友会から受け継いだ方法であり、それは立正佼成会の活動の核になっています。法座には、十人から二十人くらいの会員が集まり、車座になって話し合いを行います。「法座は佼成会のいのち」とも言われているくらいです。
そして高度経済成長の時代には土地不法買占め事件を読売新聞にキャンペーン報道された「読売事件」も起こりました、他教団の場合でしたら購読ボイコットなどが起きてもおかしくない状況でも、立正佼成会は読売新聞は自分たちの行きすぎた行為を戒めてくれた「菩薩」と呼び摩擦には発展しませんでした。その後ライバル的な存在であった創価学会が政界へ進出するなどしているなか、立正佼成会は創価学会に対抗し、反創価学会系の新宗教教団が終結した新日本教団連合会(新宗連)の中心教団として活動を展開しました。
これに対して霊友会の方は、立正佼成会などが分かれていった後、1944年には久保角太郎が癌で亡くなります。霊友会の場合、喜美が神懸りする霊能者で、角太郎が組織をまとめる組織者でした。2人は役割分担をしながら教団の運営を進めてきたわけで、角太郎の死は大きな痛手でした。
そして1949年から53年にかけて次々と分派が生まれていくことになります。喜美の性格が災いしたともいわれますが、50年に金塊隠匿と脱税が、53年には赤い羽根募金の横領が発覚したことが大きかったといわれます。鹿島俊郎の普明会教団、宮本ミツの妙智会教団、関口嘉一の仏所護念会教団、石倉保助の大慧会教団、斎藤千代の法師会教団(現法師宗)、佐原忠次郎の妙道会教団、山口義一の正義会教団などが次々と分派しました。戦前の分派の場合は人数が少なかったものの、戦後の分派の場合はには、支部をまとめてあげている大幹部が多くの信者をともなって分派していったため、霊友会は大きなダメージを受けることになりました。
相次ぐ分派によって勢力をそがれた霊友会は、1971年に会長の喜美が亡くなると、久保の息子である久保継成が二代目会長に就任します。継成は東京大学の印度哲学科の博士課程を終了したインテリでした。継成は「インナートリップ路線」を掲げ、若年層をターゲットに宗教活動を展開していきます。ちょうど高度経済成長の時代から消費の時代に移り、個人としていかに生きるべきかを説く宗教への関心も高まっていきます。73年のオイルショック以降には、終末論や超能力の取得を売り物にするより新しい新宗教「新新宗教」が登場するようになりますが、霊友会のインナートリップ路線はそれを先取りするものでした。しかし時代は核家族化が進み霊友会系の先祖供養という武器は、十分に機能しなくなっています。インナートリップ路線はそのひとつの答えでしたが、現代の人間関係の希薄化の中で法座もなりたちにくくなり、その点で霊友会系教団は大きな転換点にさしかかっています。 
立正佼成会

 

霊友会から派生した日蓮系・法華系の新宗教である。文化庁『宗教年鑑 平成29年版』における信者数は、2,725,561人。
○ 本尊 久遠実成大恩教主釈迦牟尼世尊(立像または立画を表装したもの)
○ 経典 開結「法華三部経」(無量義経・妙法蓮華経・仏説勧普賢菩薩行法経)
○ 主な教義書 「新釈 法華三部経」「法華経の新しい解釈」「仏教の根本義」「仏教のいのち法華経」 他多数
西田無学が提唱した、在家が法華経によって先祖供養を行うという点では霊友会と同じだが、法華経に基づく教義や根本仏教に基づく教えを導入する点などに、教団独自の特色が出ている。人間の内面の修養を行いつつ、自他共に救われる修行を推奨(教団では「心田を耕す」と呼ぶ)している。
歴史
1938年 - 1957年
創立の1938年から1957年の長沼副会長死去までの20年間を『方便教化の時代』と呼んでいる。方便とは、まず現実の苦しみを救うことをいう。
霊友会の有力な信者であった庭野鹿蔵(新井支部・副支部長)と、庭野の勧誘で共に霊友会を信仰していた長沼政は、彼らが所属していた新井支部(当時は支部をまとめる責任者の名前で支部名が呼称されていた)支部長で法華経行者であった新井助信の勧めもあり、1938年3月5日に「大日本立正交成会」(現在の名前に改称されたのは1960年6月1日)を創立した。会の創立に当り、庭野鹿蔵は「日敬」、長沼政は「妙佼」と改名して戸籍登録した。庭野開祖会長は、霊友会を離脱した理由について、霊友会会長・小谷喜美の「法華経の講義なんか時代遅れだ、そんなことをするのは悪魔だ」という発言を聞き、法華経への理解をおろそかにして、真の供養を行えるとは到底思えないと感じたからだとしている。
「揺るぎない信仰心」が培われた時代とされ、庭野日敬開祖会長(当時)と長沼妙佼脇祖(当時・副会長)の姓名判断・霊能指導によって、「貧病争」の苦しみから救い、仏道精進に導くというスタンスで布教活動を行っていた。当時、第二次世界大戦の影響で多くの人々が苦しい生活を強いられていたため、それらの人々を救うためには、方便が必要であったという。
一方で、戦後急激に拡大した教勢がマスコミの注目を集め、1956年、読売新聞が本部用地の取得にあたる不正疑惑を報道した。庭野開祖会長が国会に召喚され、事態を説明するに至っている。
1958年 - 1977年
日本が復興し、経済力を身に着けていくと同時に、次なる段階に入った。1957年9月10日に長沼副会長が死去すると、宗教の役割は人生の悩みや苦しみを解決する事だけでは無く、人格の向上、幸せな家庭や平和な社会を築いていくことも重要と位置づけた。長沼副会長を筆頭に行っていた霊能指導を払拭し、根本仏教や法華経の研鑽への回帰を強く打ち出し、活動の中心も法華経を背景とする先祖供養・教学研修・人間修養へと移していく。長沼副会長没後 - 創立40年の期間を『真実顕現の時代』と呼称している。
他の宗派・教団との連携や交流も早くから着手し、交流も盛んに行った。また、庭野開祖会長が提唱した「宗教対話」の精神に則り、世界宗教者平和会議(WCRP)、新日本宗教団体連合会(新宗連)に創立メンバーとして参加した。
1978年 - 1997年
この時代を、『普門示現の時代』と呼んでいる。人々に法華経の教えを弘め、それまでの経典・教義教育・指導研鑽による人間修養を継続しつつ、地域社会・国家・世界平和の実現に向けて貢献していくことが目標となった。 これにより全国各地で「一食(いちじき)を捧げる運動」や「アフリカへ毛布をおくる運動」、「ユニセフ街頭募金」などが始まり、これらの市民運動化が目指された。また、WCRP(世界宗教者平和会議)を中心に軍縮や核兵器の廃絶運動など、宗教協力を基盤とした平和活動を展開した。
1998年 - 現在
教団創立60周年(1998年)を契機に、教団方針として「一人ひとりの心田を耕す」ことが新たに目的に掲げられた。これは、「無常」という仏教の真理(法)を認識し、いのちの尊さに目覚めていくことを意味する。その喜びを多くの人々に伝え、共に幸せを味わえる世界を築いていくことを目標とするとしている。

政治への考え方と関わり
政治的には、当初自由民主党を中心に旧新自由クラブや民社党の候補者も支援していた。しかし、1999年に自民党が創価学会を母体とする公明党と連立政権を組むと(小渕内閣第2次改造内閣以降)、創価学会との相反関係から自民党とは一定の距離を置き、教団としての統制を緩め選挙区単位で政策の方針・利害が一致する候補者を支援するようになった。
2001年の参院選では民主党の佐藤道夫(当選)を支援した他、新党・自由と希望を結党して出馬した白川勝彦(元:自民党衆議院議員・自治大臣)を支援したものの落選に終わっている。2004年の参院選では民主党から比例区で初出馬した藤末健三を支援し、当選後も機関紙に定期的に投稿するなど関係を強めている。他に、前朝鮮日報 (韓国4大新聞の一つ) 日本支社長の白眞勲も同時に推薦を受けて参院選に出馬・当選、タレントの蓮舫も支援を受け当選した。
2005年の衆院選では信者の自由投票となり、民主党への支援へと移行した。2007年の参院選ではいずれも民主党の風間直樹・大島九州男を支援した一方、自民党から出馬した元外務大臣の川口順子を支援し、3名とも当選した。2009年の衆院選では自由投票で自民党候補を支援する信者は極少数となり、2010年の参院選では藤末・白両議員を再選させた。2013年の参院選では民主党の党勢退潮から支援を大島に絞る(風間は新潟県選挙区に転出)一方で、自民党の方も引退する川口の後継として若狭勝を支援したが、当選は大島1人にとどまった。
民主党が維新の党と合併し民進党と改名後も引き続き民進党を支援。党勢がやや回復したことから2016年の参院選藤末・白両議員を比例区で出馬させ、2人合わせて約28万票でどちらも3選させた。
民進党が希望の党との統一会派結成構想がなされた際、風間は離党し立憲民主党に参加。その理由の一つに支援を受けている立正佼成会の意向も踏まえたものである事を明らかにしている。2018年5月、民進党と希望の党が合併し国民民主党が結成された際、白は離党し立憲民主党に参加したが大島は党に残留し組織内議員の対応が分かれた。
2017年に行われた第48回衆議院議員総選挙においては、自民党33人(当選33人)、希望の党73人(同31人)、立憲民主党48人(同36人)、維新1人(同0人)、社会民主党1人(同0人)、無所属27人(同19人)の候補を推薦し、推薦183人中119人の候補が当選した。
活動・動向
かつて創価学会と立正佼成会の信者獲得活動に対して、様々な行過ぎや人権侵害等、公共の福祉に反するという訴えが各方面より度々なされた。(創価学会の折伏大行進による数多のトラブルや人権蹂躙、佼成会による霊能指導は、多くの問題を生むこととなった)昭和20年代後半から40年代初頭に掛けて創価学会と立正佼成会間での非難合戦は熾烈を極めた。こうした動向が国会でも取り上げられる問題となり、衆議院の法務委員会の調査結果に基き、1956年3月6日、不当な宗教活動に対して警告を発する「不正なる宗教活動に対する決議」が満場一致でなされた。
1956年(昭和31年)教勢の急激な拡大による、佼成学園をはじめとする教団本部関連施設の建設用地取得に絡む不正取引などに始まる読売新聞の報道等によって、教団幹部を含む会員延べおよそ7万人の大量退会騒動が起きた。 また、霊能指導を行っていた長沼に対して「長沼教祖・庭野会長待望論」・「長沼新教団独立論」が水面下で一部の教団幹部より発せられ騒動になる(いわゆる「連判状事件」)。教団は、「第一の階梯」「第二の階梯」「第三の階梯」として、教団と会員同士の結束強化と教義の明確化・充実を図り、布教活動と機構の改革を行った。青年部内に「報道事実調査委員会」という内部組織を立ち上げ、読売新聞の報道を精査すると共に、会員の勧誘方法や運営に当たっての諸問題点を会長・教団に提言した(翌1957年〔昭32年〕9月10日に長沼副会長は死去する)。
「一食を捧げる運動」、「ユニセフ街頭募金」、「アフリカに毛布を送る運動」など教団の社会奉仕活動(または官民合同の慈善事業)と、各教会単位で行われる地域の清掃奉仕、施設慰問、障害者施設の奉仕活動などが活発に行われている。また、毎年5月の第3日曜日を「青年の日」とし、全国の青年部員が各教会単位で上記活動に加え、この日の正午に「平和の祈り」という黙祷を捧げている。また、「青年教育課程」となる仏教や佼成会の教えを学ぶ勉強会を行っている。
新宗連(新日本宗教団体連合会)や日宗連(日本宗教連盟)などを通じた他宗派や他宗教団体との協調・連携活動が活発である。WCRP(世界宗教者平和会議)においては、後方支援を行っている。日蓮宗、神社本庁、天台宗、PL教団、善隣教、妙智会教団、ローマ教皇庁などとの交流も盛んで、一部の日蓮・法華系の新宗教(創価学会、冨士大石寺顕正会など)に比べて、共調的な立場を取っている。
アメリカ合衆国、ブラジル、台湾、韓国、香港、オーストラリア、シンガポール、ロシア、スイス、イギリス、タイ、バングラデシュ、ネパール、スリランカ、インドに同会の拠点がある。ここ数年は東南アジア地域において教勢の伸出が盛んである。 
立正佼成会 2

 

創立 / 昭和13年3月
創始者 / 庭野日敬(開祖)、長沼妙佼(脇祖)
現会長 / 庭野日鑛(日敬の長男)
信仰の対象 / 久遠実成大恩教主釈迦牟尼世尊
教典 / 『妙法蓮華経』『日蓮聖人遺文』『法華三部経』
沿革
立正佼成会(りっしょうこうせいかい)は、霊友会の会員だった庭野日敬(にわのにっきょう)と長沼妙佼(ながぬまみょうこう)が同会から離脱して創立し、庭野の姓名判断・方位学・易学等と長沼の霊能を売り物に、戦後、急激に勢力を拡大した在家教団です。
何でもありの庭野日敬
明治39年に新潟に生まれた庭野日敬は、17歳の時に東京大久保の炭屋に丁稚(でっち)で入り、そこの主人の石原淑太郎から六曜(先勝・友引・仏滅等)や九星(一白・二黒・三碧等)、さらには易占いによる方位方角や、五行説等を学びました。
26歳の時には、長女の中耳炎を治そうとして真言密教系の女修験道(しゅげんどう)者の綱木梅野に弟子入りし、九字を切ったり加持祈祷(かじきとう)やら水行やらいろいろな修行を重ねて、ついには師範代にまでなりました。
またその後、小林晟高(せいこう)という人物からは、姓名判断と運勢鑑定を学び、のちに佼成会でこれを大いに利用したようです。
このように、霊友会に入信する以前の庭野は、とにかく何でもありで学びました。この当時の経験が、佼成会の方向性に大きな意味を持つことになります。日敬は佼成会発足後、教勢を拡大するにあたって、こうした迷信や俗信、占い、祈祷など何でも取り入れて布教の手段にしたのです。現在においても、多分にそのカラーが残っているようです。
庭野日敬と長沼妙佼の出会い
漬物屋を営んでいた庭野日敬は、子供の病気を予言されてそれが当たったのをきっかけに霊友会に入会し、その後に先祖の霊を祀(まつ)ったら子供の病気が治ったとして霊友会信仰にのめり込み、翌年には支部長になりました。
仕事は漬物屋から牛乳販売に転業した日敬でしたが、その配達先のお客のなかに、病気がちな焼き芋屋の奥さんがいました。その奥さんは病気を治したい一心で、日敬に勧められて霊友会に入会しました。それが長沼マサ(のちの妙佼)だったのです。焼き芋屋で働いていた甥っ子がある時腹痛を起こし、それが先祖供養で治ったということで、長沼妙佼は霊友会にのめり込んでいくことになります。
以後、庭野と長沼はコンビを組んで布教に励んでいましたが、ある時、全国支部長会議の席上で、霊友会会長・小谷キミが「法華経の講義なんて時代遅れだ。そんなことをするのは悪魔だ」などと発言しました。それを聞いた二人は霊友会からの脱会を決意し、昭和13年3月、「大日本立正交成会」を設立したのです。
その後の展開
昭和17年、東京杉並に新本部道場を作り、庭野の姓名判断や易学、それと長沼の霊感による病気治しを売り物にして布教を展開しました。しかし昭和18年、霊感指導が人心を惑わすという理由で二人は検挙され、この事件によってほとんどの支部長が脱会してしまいました。
また昭和31年には、読売新聞が「大日本立正交成会の土地(現本部の所在地)購入に関して不正行為があった」と報道して教団批判キャンペーンをやり、それによって庭野は国会に喚問されることになりました。
この事件の対処法などを巡って教団内に庭野批判が起こり、ついには「庭野を追放して長沼を教祖にしよう」というクーデターも計画されたましが、翌年に長沼妙佼が病気で死去したため、この騒ぎも沈静化していきました。
その後の昭和33年1月、庭野は突如として、教団創立から長沼の死去までを<方便時代>と規定し、今や<真実顕現の時代>に入ったと言い出しました。そして霊能中心の信仰から教学(きょうがく)重視の信仰への転換をはかるとともに、本尊を<久遠実成大恩教主釈迦牟尼世尊>にすることを宣言しました。
さらに昭和35年、庭野は教団の名称を「立正佼成会」と改め、昭和39年には本部に大聖堂を建てて、本尊である久遠実成大恩教主釈迦牟尼世尊の立像を安置しました。昭和40年、庭野は第二バチカン公会議に出席したのち、各宗との協力関係を重視するようになり、世界宗教者会議の開催に尽力したりしました。
庭野は平成3年になって長男の庭野日鑛に会長職を世襲し、自らは開祖と称していましたが、平成11年に死去しました。
教義の概要
本尊について
立正佼成会の本尊については、長沼妙佼の霊感によってコロコロ替わってきた経緯があります。
〔発足当初〕霊友会の曼荼羅(まんだら)に、守護神として毘沙門天を加えたもの
〔昭和15年〕中央に南無妙法蓮華経、その右に「天壌無窮」、左に「異体同心」と書いた旗
〔昭和17年〕上記の旗を掛け軸にし、守護神として大日如来を加えたもの
〔昭和20年〕庭野が「久遠実成大恩教主釈迦牟尼世尊」と書いたもの
〔昭和23年〕「日蓮聖人の大曼荼羅」と称して、庭野が書き写したもの
そして長沼が死去した翌年の昭和33年、庭野は「今までは方便の時代であり、今こそ、久遠実成大恩教主釈迦牟尼世尊を本尊とすべきである」と宣言しました。これで6種類目の本尊ということになります。
また会員の場合、総戒名のみを本尊とするのは入会当初のことで、信仰が進んでくると「御守護神」や釈迦の絵像を祀り、さらに幹部級になると「大本尊」といわれるものになります。
教義と実践
まず「教菩薩法 仏所護念」と書かれたタスキをかけ、仏壇に総戒名を祀(まつ)ってその前に霊鑑(過去帳)を置き、朝晩に「聖典」という教典を読んで先祖供養をする・・・このあたりまでは基本的に霊友会と同じです(霊友会の項参照)。
ただし具体的な修行方法は長沼の霊感によって決定されたり、真言の九字や水行などの密教的要素の強い修行も行います。さらには布教の手段として、庭野の姓名判断や易学なども用います。
また庭野は、昭和33年の「真実顕現」宣言と同時に、「法華三部経を日常生活に活かす」という主張を始めました。これは、根本仏教の四諦(したい)・八生道(はっしょうどう)・十二因縁(じゅうにいんねん)と、大乗仏教の示す六波羅密(ろっぱらみつ)の法門を用い、これによって「反省と精進を重ねて仏知見(ぶっちけん)を開き、菩薩道の実践を目指す」のだそうです。
また佼成会に入会しても、「それまでの宗教を捨てる必要はない」「自分の檀家寺や氏神を大切にするように」などと教えられます。これは別項の『生長の家』などと同じ「万教同根(すべての宗教は根っこは同じ)」的発想があり、他宗批判をしないというスタンスです。他宗を容認し、慈善事業や平和運動を推進するのも霊友会ゆずりと言えます。
入会したものは「法座」という少人数のグループ座談会の一員になり、会員はそこを信仰修練の場としています。幹部の指導を受けることを「結んでもらう」といい、また「病気にかかったり、災難にあったりするのは仏様の慈悲のムチである」として、ありがたい試練として自分の修行に取り入れていきます。これを「お悟り」といってます。
そうした修行の中でも、「お導き(=布教活動)」と「本部通い(=労働奉仕)」が特に強調される傾向があります。 
霊友会

 

法華系の新宗教である。信者数は公称3,556,997人。『宗教年鑑 平成29年版』における国内信者数は、1,272,581人とされている。
1920年 - 創立者の久保角太郎は西田無学の思想と行法を知り、それをきっかけとして本格的な法華経研究と在家による実践方法の模索に入る。
1924年 - 若月チセらと第一次「霊友会(南千住霊友会)」結成するが、若月らに菩薩行としての趣旨が理解されず、その後袂を分かつ。
1927年 - 兄夫婦の小谷安吉・小谷喜美らとともに「赤坂霊友会」として活動を開始。
1930年 - 小谷喜美を名誉会長とし、貴族院議員・永山武敏男爵を会長に迎え久保を理事長として「霊友会」として発会式を行う。永山は三ヶ月で辞任し、小谷喜美が会長に復帰する。「在家による法華経の菩薩行を実践する団体」として発展。
1936年 - 九条日浄を総裁に迎える。弾圧への配慮のためである。
1944年 - 久保角太郎他界。その後、小谷喜美を中心に戦後大きく教勢を伸ばしていくが、多くの分派を生むに至る。
1949年 - 教団本部がGHQの捜索を受け、金塊とコカインが押収される。翌年には小谷喜美が脱税の容疑で捜査を受け、麻薬所持で摘発される。この後普明会教団と妙智会教団、佛所護念会教団が分派していく。
井上順孝は、終戦直後の社会的混乱の中で、脱税を目的とする便乗教団が生まれたことを指摘している。1952年11月15日 - 宗教法人法による宗教法人となる。
1953年 - 小谷喜美が赤い羽根共同募金110万円の横領、闇ドル入手、贈賄などの容疑で検挙される。顧問弁護士木村篤太郎らの尽力で釈放される。なおこの闇ドル入手には、聖イグナチオ教会会計係の神父が関係していた。
1971年2月 - 小谷喜美死去後、久保角太郎の子息である久保継成が会長に就任。
1993年11月18日 - 久保継成は集団合議制を確立する為に会長職を辞任、理事長に就任。
1993年6月9日 - 霊友会本部釈迦殿(東京都港区麻布台)で行われている月例行事「在家のつどい」に久保継成が登壇。久保継成は自身が会長職に復帰する旨の宣言を一方的に発表する。これにより、久保継成、及び、久保が会長職への復帰を支持する幹部・役員・会員と、その他の霊友会幹部・役員・会員との内紛状態に入る。以降、久保継成及び久保を支持するグループによる霊友会本部、及び、関連施設への立ち入りが出来なくなる。
1996年9月4日 - 濱口八重(元会長補佐兼第22支部長)が後継会長に就任。久保継成は、久保継成を支持する第七支部の松本廣を中心とした独自の別グループを形成し、団体名称「Inner Trip REIYUKAI International」という国際団体として活動を開始。日本国内においては団体名称を「ITRI日本センター」とする。
2000年5月18日 - 濱口八重会長死去により大形市太郎(元理事)が会長に就任。
2003年 - 久保継成は「Inner Trip REIYUKAI International」及び「ITRI日本センター」から離れ、新団体「在家仏教こころの会」を設立し、以降、分派団体としての活動を行う。以降、「Inner Trip REIYUKAI International」及び「ITRI日本センター」の代表は、松本廣が担っている。
2013年4月8日 -大形市太郎会長死去により末吉将祠が会長に就任。
赤い羽根募金業務上横領事件 / 1953年、小谷喜美が赤い羽根共同募金110万円の横領、闇ドル入手、贈賄などの容疑で検挙された。この事件では、次の3件が裁判になった。1.赤い羽根募金業務横領事件―霊友会付属国友婦人会は、小谷を会長、Tを書記として募金の集計・保管などに従事していた。Tは1957年から28年の募金実額を不正に削減し、一部を業務上横領したもの。2.贈収賄事件―宗教法人認証の便宜を図るため、文部省宗務課長・篠原義雄に10万円を贈与したもの。3.外国為替および外国貿易管理法違反事件 / 1957年3月5日、東京地方裁判所で第1審の判決が下された。小谷は1で無罪、2・3で懲役1年罰金200万円執行猶予2年の有罪。Tは1で懲役8月執行猶予2年の有罪。篠原義雄は収賄で懲役8月執行猶予2年の有罪。その後、被告弁護側・検察側双方ともに判決を不服として控訴。1959年3月3日、東京高等裁判所は、すべての控訴を棄却する判決を出した。
教義
霊友会では、自分に繋がる父系・母系双系のすべての先祖を象徴した「総戒名」と呼ばれる、一種の時間軸における関係性の象徴を前にして、日々、「青経巻」と呼ばれる、法華三部経からの抜粋を中心に編纂された経巻を読誦する。これを霊友会では「先祖供養」と呼んでいる。この「先祖供養」という用語により、会の外部はもちろん、霊友会の会員自体の中にも大きな誤解が生じ、それが霊友会の本来の趣旨が正確に伝わらなかった大きな要因になったことは否定できない。
霊友会の趣旨では、先祖は祟るものでも依存する対象でもなく、父系母系双系のすべての先祖との関係性はDNAの例を見ても分かるとおり、現在の自分自身の中に集約されており、それら先祖の象徴である「総戒名」を前にして法華経を読誦すると言う行為は、広い意味での自分自身の象徴の前で、自身に対して経を聞かせるのと同義である。
分裂・分派発生
創立者の久保角太郎の子息である久保継成は、さまざまな改革を断行したが、結局、会内部での改革をあきらめ、改革の趣旨に賛同した会員達とともに、在家仏教こころの会という別団体を設立する事になる。
政治運動
これまで参議院の全国区・比例区選挙において内田芳郎、細川護熙、佐藤信二、町村金五、片山正英、扇千景、安西愛子、川上源太郎、源田実、田中正巳、久世公堯、石井道子、清水嘉与子、小野清子、石田昌宏、太田房江といった候補を支援してきた。
過去に実施された日本会議のイベントの受付では、霊友会を含む各種宗教団体別の受付窓口が設けられ、参加者を組織動員したこともあることが指摘されている。  
霊友会 2

 

創立 / 昭和5年7月
創始者 / 久保角太郎(創立者・久保恩師)、小谷喜美(初代会長・小谷恩師)
代表者 / 第4代会長・大形市太郎
信仰の対象 / 仏所護念の本尊(先祖諸霊)
教典 / 法華三部経・弥勒経・青経巻『南無妙法蓮華経・朝夕の、おつとめ』等
沿革
霊友会(れいゆうかい)は、久保角太郎が霊媒(れいばい)信仰・法華信仰・先祖供養を混ぜこぜにした新教団を作るために、兄嫁の小谷キミ(喜美)を霊能者に仕立て上げ創立した在家教団です。
西田利蔵への傾倒
久保角太郎は、兄の知人を介して西田利蔵(西田無学)なる人物の教えを知り、これに強い影響を受けました。この西田なる人物は、仏所護念会(関口嘉一が作った、現在の同名の会とは異なる)という新興宗教を立ち上げた人物です。
西田利蔵は、法華経の経文「平等大慧 教菩薩法 仏所護念」の「仏所」を亡くなった人間の霊がいるところと解釈し、「仏所護念」とは、霊のいる場所を護り、念ずることであり、これこそが「先亡諸精霊供養法」であると主張しました。そしてすべての霊を祀(まつ)り、供養するために「生・院・徳」の三文字を使った戒名を創案し、「祈願唱」なる祈り言葉を作りました。その西田の教えなるものは、
・出家を否定し、在家仏教を主張
・夫婦双方の先祖供養のため、「総戒名」という方式を用いる
・無縁墓地となった墓石を洗い、法名を写し帰って自分の家に祀り、供養する
・『無量義経』訓読(開)、回向唱、『観普賢菩薩行法経』訓読(結)、祈願唱などによる独自の経本を用いて読経・唱題(南無妙法蓮華経)する
というもの。霊友会の教義は、実際にはこの西田利蔵が作り上げた教えを、ほぼそのまま踏襲(とうしゅう)したものです(しかし霊友会では、この事実を特に公表していません)。
小谷キミと角太郎
小谷キミは、先述の通り久保角太郎の兄嫁にあたります。
大正14年、角太郎の兄・小谷安吉の後妻となったキミでしたが、その後二度にわたり安吉が腰痛を患って立てなくなり、そのたびに角太郎の指示に従って1日に5、6回も水をかぶり法華経による先祖供養を行ったところ、2度とも1週間ほどで安吉が立てるようになったらしいです。
こうしてキミは角太郎の指導のもとで、霊能者としての修行を始めました。
・真冬に1日中、浴衣1枚で生活する
・真夏に布団を首までかけて1日中過ごす
・毎日、数時間の水行(水かぶり)
21日間の断食
というようなことをしていたそうです。こうしてキミは霊能者に仕立て上げられました。
教団の変遷
昭和5年7月、久保角太郎と小谷キミは霊友会の発会式を挙行しました。
当初は氷山武敏という人物が会長となりましたが、3ヶ月で辞任したため、キミが後任の会長に就任しました。そしてキミの自宅を本部とし、角太郎は精力的に布教活動を続けるかたわら、女性信者を次々と霊能者に仕立て上げ、次第に勢力を広げていきました。
しかし昭和9年頃から、教団内部でキミの指導に対する反発が起こりはじめ、脱会して新しい教団を設立する者も出はじめた。また戦時中は、当局の新興宗教に対する弾圧から逃れるため、子爵・仙石家の娘を総裁に迎え、さらに教団行事として毎月1日に伊勢神宮への参拝まで行いました。
そして昭和19年11月、角太郎が53歳で死去したことにより、教団運営の全権はキミが握ることとなりました。しかし昭和24年、占領軍の捜索を受け、本部から金塊とコカインが摘発さたり、その翌年、脱税容疑で捜査が入り、麻薬所持でキミが検挙されるなどの事件が連続し、教団は分裂、多くの脱会者を出すこととなりました。さらにキミは昭和28年には赤い羽根募金110万円横領、闇ドル入手、贈賄容疑などで検挙され、霊友会への社会批判が集中しました。
昭和39年、伊豆に「聖地弥勒山(みろくさん)」を建設して弥勒菩薩像を祀(まつ)り、発会から30年以上も経ってから、新しい教典である「弥勒経」を創作して弥勒信仰を取り入れました。
昭和46年2月に小谷キミが死去したのちは、会長・久保継成(つぐなり)が「いんなぁ・とりっぷ」キャンペーンをやって教団の宣伝に努め、昭和50年には「釈迦堂」を完成させました。その後、濱口八重会長を経て大形市太郎が第4代会長に就任し、現在に至っています。
教義の概要
霊友会は仏教系を自称しながら「仏法僧の三宝」を立てないという不可思議な教団で(通常、仏教というものは、小乗教であれ方便大乗教であれ、必ずそれぞれに三宝を立てるものです)、いかにも霊能から出発した教団といった風情です。
本部には釈尊像を、伊豆の研修所には弥勒菩薩像を祀りながら、三宝を立てず、仏力・法力を信ずることもなく、自力による死者の供養こそ第一義として、新入信者にはまず総戒名という会員各自の祖霊(先祖の霊)を拝むことを教えるのがこの教団です(その後、十界の曼荼羅を授けられ、それを礼拝の対象とします)。
その総戒名ですが、教団では「天地のすべては妙と法の二つから成立している」といい、女性は陰にして妙、男性は陽にして法なのだとして、妙法がそろって初めて諸精霊(しょしょうりょう)に対する真の供養ができるのだと主張しています。
男女ともに分かる限りの先祖の名前を教団本部に提出させ、それを元に「生・院・徳」の文字の入った戒名を本部が付け、それを本部と家庭の両方で祀って供養しています。具体的には、各家庭においては「総戒名」というものを祀ります。霊友会ではこれを「仏所護念の御本尊」と呼んでいます。
これといっしょに先祖の法名を命日ごとに記した「霊鑑(過去帳のようなもの)」を仏壇に祀るわけですが、その法名も霊友会特有の、
○生院法○○徳善士(男性の場合)
○生院妙○○徳善女(女性の場合)
というものです(しかし前述の通り、本部の釈迦殿には釈迦像が、伊豆の弥勒山には弥勒菩薩像が祀られています)。
この総戒名と霊鑑の前に、コップに入れた水・線香・ロウソク、花・お供え物を置きます。そして、白地の片タスキ(前に「南無妙法蓮華経 霊友会本部」、後ろに「南無妙法蓮華経 教菩薩法仏所護念分別広説仏正」と書かれている)をかけて、朝夕30分くらいのお経と題目を唱えます。
お経は「青経巻」と呼ばれる経本『南無妙法蓮華経・朝夕の、おつとめ』を使います。これは「無量義経(むりょうぎきょう)」「法華経」「観普賢菩薩行法教(かんふげんぼさつぎょうぼうきょう)」の法華三部経(霊友会では一部経と呼んでいる)から勝手に抜粋した経文に、先祖供養のための「回向唱」、さらに「祈願唱」なるものを加えたものです。
活動としては、本部で毎月行われる「在家のつどい」やら「夕べのつどい」に参加したり、体験談を語り合う「法座」、さらには弥勒山での大祭、セミナーやら身延七面山恩師御宝塔参拝登山修行にも参加します。 特に「おみちびき」と呼ばれる布教活動は、最大の功徳(くどく)をもたらす修行と位置づけられています。 
世界救世教、神慈秀明会と真光系教団 

 

温泉地熱海の観光スポットの一つに、MOA美術館があります。最近では全国各地にさまざまな特色をもつ私立の美術館が建てられていますが、1982年に開館したMOA美術館はその先駆けです。そのMOAとは、“mokichi okada association”の略称です。岡田茂吉とは、世界救世教という新宗教の開祖です。MOA美術館の建設された場所は「瑞雲郷」と呼ばれていて、世界救世教の教団では、それを「地上天国」のモデルの一つとしてとらえています。日本にはもう一つ天国の美術館があります。滋賀県の信楽の里にあるミホ・ミュージアムです。ミホ・ミュージアムを作ったのは神慈秀明会というやはり新宗教の教団で、世界救世教からの分派なのです。ミホ・ミュージアムの名称は、神慈秀明会を創立した小山美秀子(こやまみほこ)に由来します。
神慈秀明会は、一時、街頭での布教で知られています。繁華街で信号待ちなどをしていると、信者が寄ってきて、「三分間、時間を下さい。あなたの健康と幸せを祈らせて下さい」と言ってきます。承諾すると、三分間、「手かざし」をするのです。この手かざしも、神慈秀明会が世界救世教から受け継いだもので、どちらの教団でも「浄霊」と呼ばれています。ただ、美秀子の長男で第二代会長だった小山壮吉が1984年に亡くなり、その後教団の体制が変わると、この街頭での浄霊は行われなくなりました。
過去の回で紹介した新宗教団体のように、世界救世教の場合も、開祖の岡田茂吉が、世界救世教の前身となる大日本観音会を結成する前に、大本の信者であったという経歴があります。手かざしの方法は、特別な修行も必要とされません。また教義による裏づけも必要とはされません。そのため、一度手かざしの手法を学び、その力を身につけた者は、自分で勝手にそれを活用することができます。大本、世界救世教に分裂、分派が多いのも、この手かざしのもつ特徴のためです。
岡田茂吉は、東京都浅草の露天商の家に生まれ、一時は画家を志しますが、肺結核となり十年にわたって闘病生活を送ります。その後、岡田商店という卸問屋を営みますが、第一次大戦後の反動的不況で、経営危機に見舞われます。その頃、茂吉も神田錦輝館(きんきかん)での大本の講演会に出かけ、興味を持つようになり、1920(大正9)年に大本に入信します。その後熱心に活動しますが、甥の彦一郎が修行に出かけたおり、水死したため、一時大本から離れます。しかし、茂吉から宗教に対する関心が失せてしまったわけではなく、大本の開祖である出口なおの「御筆先」を読み込み、そこに「東京はもとの薄野になるぞよ」という予言を見出します。
そんな茂吉の活動が独自性を発揮するようになったため、大本のなかで批判が起こり、1934年には、東京麹町の平河町で「岡田式神霊指圧療法」を開始し、大本を脱退して、翌年には大日本観音会という宗教結社を立ち上げました。そして戦争が終わると、熱海に日本観音教団を再建します。そこで浄霊を再開し、手かざしによる病気治しは、掌から光が出るとして、「お光さま」と呼ばれます。
世界救世教への改称は、観音信仰から脱皮をめざしてのことでした。岡田は、「観音の衣をかなぐり捨てたまい、メシアと現るる大いなる時」と述べ、観音に由来する大光如来を宇宙の創造神である大光明真神(みろくおおみかみ)へと改め、教団の近代化、現代化を進めていきました。その後美術館設立に結びつく美術品の収集、そして自然農法の普及といったことに力をいれていきます。農業共同体であるヤマギシ会は一部で世界救世教の土地を借りて農業を営み、そこで生産された食品を世界救世教系の自然食品店で販売してもらっていました。こうした自然志向も世界救世教系の個々の教団に受け継がれています。
神慈秀明会を創立した小山美秀子は、1910(明治43)年に大阪で河崎美秀子として生まれ、女学校を卒業した後、キリスト教主義にもとづく東京の自由学園で学びました。小山晃吉と結婚し、家庭に入りましたが、三人目の子供を出産する際に体調を崩し、岡田の弟子から浄霊を受け、大日本健康協会(世界救世教の前身)に入会します。その後、岡田の弟子になり、1949年には、自宅が布教所から教会に昇格し、それは秀明教会と呼ばれました。そして教会員を増やしていき、離脱する前の年、1969年には一万八千人を超えました。
自然農法への関心といったところで共通しているのが、世界真光文明教団や崇教真光といった真光系教団です。その創立者となる岡田光玉は、一時世界救世教の有力な信者、布教師でした。ただ光玉が世界救世教の影響を受けていることは間違いないにしても、教会ごと脱退しているわけではないので、分派とはいえません。
光玉は、1901(明治34)年、陸軍少将主計総監までつとめた岡田稲三郎の七人姉弟のただ一人の男の子として東京に生まれました。本名は良一で、父親は五十四歳で亡くなっており、その後、光玉は、陸軍士官学校へ入学し、日中戦争では仏領インドシナで実戦に加わり、陸軍中佐までのぼりつめたものの、胸椎カリエスと腎臓結石を患い、予備役に編入されました。このように光玉は、陸軍の元軍人であり、実力をともなった実業家でした。そして、光玉は五日間高熱にうなされ、人事不省に陥ったなかで神の啓示を受けます。「天の時至れるなり。起て、光玉と名のれ。手をかざせ。厳しき世となるべし」という啓示でした。そうして不幸の原因が悪霊による憑依によるものだととらえ、浄霊によってその霊障を取り除くことができると説き、浄霊を「真光の業」と呼びました。
しかし、1974年に光玉が七十三歳で亡くなると、後継者が決まっていなかったため、内紛が起こります。それは、裁判沙汰にまでなり、教団は高弟の関口榮が継承し、光玉の養女であった岡田恵珠が独立して、崇教真光を名乗ることになりました。世界真光文明教団からは、依田君美(よだきみよし)の神幽玄救世真光文明教団が独立しています。
一時真光系の教団は、新宗教としてはめずらしく若者を集めているということで注目されていました。それも、組織活動への参加を強く求めない点で、若者たちは比較的気軽に真光系教団にかかわっていくことができたからです。その点で、今日のスピリチュアル・ブームの先駆けとなったと評価することもできますが、簡単にかかわれるだけに、抜けていくのも簡単です。 
世界救世教

 

大本の幹部だった岡田茂吉が1935年(昭和10年)に立教した新宗教系の教団。世界救世教本体に世界救世教いづのめ教団・東方之光の2教派が包括される形で運営されている。現在、宗教法人としての世界救世教責任役員会と元四代教主岡田陽一の間で対立が見られ本来の規定通りの運営が行われていない(後述)。国内公称信者数は、2017年(平成29年)版の『宗教年鑑』によると、604,015人。
1935年に岡田茂吉が立教した。岡田は元々大本の信者で、心霊学を学び、自動書記を体験し、大本の鎮魂帰神法を熱心に習得した。すると周囲が岡田の周りに観世音菩薩が現れていると言うようになり、岡田自身も腹の中に光の玉が宿っていると感じるようになったという。1931年に夢の啓示を受けて千葉の鋸山に参詣してご来光を仰ぎ、「霊界において夜の時代から昼の時代への転換が起こった」と感じ、霊の世界で起こったことがそのあと現実に現れるという「霊主体従の法則」と、大本の御手代を発展させた浄霊法を確立していった。大本の活動で独自性を出すようになり批判を受け、大本を脱退、1934年に岡田式心霊指圧療法を開始、翌35年に宗教結社・大日本観音会を設立。医師でもないのに治療行為を行ったことで2度検挙され、大日本健康協会に改称し指圧に専念した。戦後は大日本浄霊療法普及協会を経て、熱海に大日本観音教団を設立して手かざしによる病気治し「浄霊」を行い、これは「お光さま」と呼ばれた。宗教学者の島田裕巳は、「お光さま」の背景には観音信仰があったと指摘している。
観音信仰からの脱皮を目指し、1950年に世界救世(メシヤ)教に改称、観音に由来する大光明如来を宇宙の創世神・大光明真神(みろくおおみかみ)に改めた。当時はメシヤ教と呼ばれており、岡田は自身を救世主と考えていた。改称直後の1950年5月29日、熱海の本部は脱税・贈賄などの容疑で捜索を受け、岡田茂吉が検挙された。(潔白であることがわかり無罪判決)。地上天国の建設や美術品の収集、自然農法の普及にも力を入れた。島田裕巳は、地上天国という考えは大本から取り入れられたと述べている。
戦前は当局の取り締まりを受けていたため、主な弟子たちがそれぞれ会を作って活動した。戦後は表面的には一つの教団にまとまったが、会の寄せ集めのような状態が長く続いた。1955年に岡田が死去すると、もともと統合が弱かったため独立するものが多く出た。様々な問題から組織の一元化の機運が高まり、教団執行部のリーダーシップでひとつにまとまったが、その過程で教会の離脱も多かった。神慈秀明会はその時の最も大きい分派である。一元化の後もトップの座を争っての権力闘争や急激な改革への不満などから教団は分裂。また世俗組織と宗教活動の実態のずれが分裂を促すこととなった。2018年1月まで、世界救世教は、世界救世教本体に世界救世教いづのめ教団(旧新生派)・東方之光(旧再建派)、主之光教団(旧護持派)の3教派が包括される形で運営されていた。島田裕巳は、手かざしには特別な修行や教義の裏付けが必要ないので、学んだものが好きに活用することができ、分派・分裂が起こりやすいと指摘している。手かざしを行う真光も、世界救世教の信者であった岡田光玉が始めた。
世界救世教の特徴的な宗教活動は、浄霊という手かざしの儀式的行為を各信者が行うこと、自然農法という農法を推進すること、芸術活動を行うことである。手かざしは間違った世界を浄化する手段という意味があり、自然農法も農薬や人工肥料を使う現在の農業への批判に基いている。
霊の世界の実在を主張しており、心霊主義の影響がある。岡田は霊査法という交霊を行っていたが、現在は霊との直接の交流は行われていない。転生を信じ、霊のレベルの上昇を重視する。
世界救世教の公称信者数は、2016年(平成29年)版の『宗教年鑑』によると、604,015人とされている。海外では99ヶ国で200万人の信者がおり、うち、タイには約70万人、ブラジルには約44万人の信者がいるとしている。しかし公的な調査の信者数とは開きがあり、ブラジルの2000年の国勢調査における信者数は109,310 人だった。タイ、ブラジルには、国内と同様、聖地と定めた神殿および庭園が建設されている。
世界救世教いづのめ教団は、熱海北部の開発と深く関わっている。
政治にも強く関与しており、これまで参議院の全国区・比例区選挙では糸山英太郎、竹内潔、堀江正夫、川上源太郎、命苫孝英、成瀬守重(再建派)、海江田鶴造(新生派)、阿南一成といった候補を応援してきた他、新進党から世界救世教役員の中川憲治を擁立する計画もあったが、公認を辞退している。また、非拘束名簿式となってからも、MOA(明るい社会をつくる会)が尾辻秀久、橋本聖子を、いづのめ教団がツルネン・マルテイを、主之光教団が有村治子をそれぞれ応援している。 
世界救世教 2

 

創立 / 昭和10年1月
創始者 / 岡田茂吉(明主)
現継承者 / 4代教主・岡田陽一
信仰の対象 / 大光明真神
教典 / 『天国の礎』『神示の健康』『祈りの栞』『美の世界』など
沿革
世界救世教(せかいきゅうせいきょう)は、大本(別項参照)の影響を強く受けた教団で、一般には「お光りさま」などと呼ばれています。
この教団は、「浄霊(じょうれい)」と称する「手かざし」を行うことが特徴で、自然農法による食品販売や、熱海市の「MOA美術館」を有することでも知られています。
岡田茂吉と大本
明治15年に生まれた岡田茂吉は、幼少から病弱で、20歳を過ぎるころまでさまざまな病気を患(わずら)い続けました。
闘病中に薬の効果があまりなかったということで、薬を使いすぎることはかえって毒であると考えた茂吉は、それ以来「薬に頼ることは人間本来の治癒力を弱める」という、「薬毒論」にいたりました。これが後に、教団の教義として「健康法」を取り入れる元になったようです。
大正9年に大本に入信した茂吉は、大本の『お筆先』を中心に神霊の研究に没頭。そうした中、昭和元年には、観音が自分の体に宿ったとして「私の腹中には光の玉がある」などと言い出し、さらに昭和6年には「霊界の昼夜転換」なる天の啓示とやらを受けたのだそうです。
観音に力による「浄霊」
昭和9年、大本を脱会した茂吉は「岡田式神霊指圧療法」なるものを始め、昭和10年には「大日本観音会」を創立しました。これは、茂吉の体に宿ったという観音の力による「浄霊」によって理想世界の建設を目的とするものだったそうです。
しかし、こうした心霊術と指圧による治療は、患者の体に直接触れるためいかがわしい行為とされ、昭和11年と15年の2回、茂吉は医師法違反で逮捕されています。
それでもかなりの財力を蓄えた茂吉は、教団の本拠地を東京から熱海に移し、以来「地上天国(霊界の昼夜逆転によって現世界が明るい昼に転換して、天国的な美の世界となる)」を目指し始めました。
そして「日本浄霊化普及会」、宗教法人「日本観音教団」などと推移した教団は、昭和25年に「宗教法人世界救世(メシヤ)教」となりました。
この時、茂吉は「観音の衣(ころも)をかなぐり捨てて、メシヤ(救世主)へと衣替えをした」などと言い始めましたが、この直後、脱税と贈賄の容疑で検挙され有罪判決を受けました。
茂吉の死去とその後のゴタゴタ
昭和30年に教祖・茂吉が死去し、妻である岡田よしが2代目に就任しました。しかしその直後に教団内に対立が起こり、いくつかの派生教団が生まれました。
昭和32年、教祖・よしは教団の名称を「世界救世(きゅうせい)教」と変更。仏教的な要素を薄めて、神道式の儀礼に統一していきました。その後、3代目教主(茂吉の三女)を経て、現在は4代目教主・岡田陽一となっています。
その間、教団の一元化などをめぐって各地の多数の教会が執行部に反発し、次々と独立して新教団を発足させました。その中には「世界真光文明教団」と、さらにその派生である「崇教真光」(共に別項参照)、「みろく真教」「救いの光教団」「黎明教会」「救世真教」などがあります。これらの教団では、浄霊の「手かざし」など共通点も多くあります。
また世界救世教は、病気治しの浄霊のほかに、自然農法の普及と自然食運動も重視しており、この関連には「伊豆・大仁農場」「自然農法国際研究開発センター」「MOA健康科学センター」など多くの施設があります。
さらに美術・芸術活動も盛んで、「箱根美術館」、熱海の「MOA美術館」などを持っています。その他、企業グループの「MOAトラベルサービス・MOA商事」なども設立し、積極的な事業展開もしています。
教義の概要
信仰の対象
世界救世教では、信仰の対象を「大光明真神(みろくおおみかみ)」としています。
茂吉は「神から心霊を与えられた」だの「私の腹中には光の玉がある」などと言い、またあるときは「観音菩薩の力を得た」と言ったかと思えば、そのあとには「観音の衣を脱ぎ捨ててメシヤになった」などと、神道・仏教を混ぜこぜにした発言を続けていました。
そして最終的には「釈迦・キリスト・マホメットの三大聖人も神人合一(しんじんごういち)ではない。しかし私は、神と人との区別がなく、真の神人合一である(趣意)」などと自著に述べているように、「自分は三大聖人を超越した神の立場である」と言い出しました。
現在の教団は、この真の神を「大光明真神」と称して祭神とし、これを一体化した教祖・茂吉こそ世界人類の救世主(明主)であるとしているのです。
地上天国
これは、教祖の茂吉が天の啓示を受けたとかいう「霊界の昼夜逆転」によるものです。
この世界には、人間の住む「現界(げんかい)」と、目に見えない「霊界」の二つがある。霊界には昼(善)と夜(悪)があり、今までは霊界の夜の時代であったが、これがまもなく転換して昼の時代となり、この霊界の善が現界におよんで、この世に地上天国が出現する・・・というのが「霊界の昼夜逆転」です。
そして、この一大転換期に世を救うために出現したのが教祖・茂吉なのだそうです。
浄霊
教団での儀礼の中心は「浄霊」というものです。
これは「私の腹中には光の玉がある」などとしていた茂吉が、相手に「光」の文字を書いた紙をたたんで懐(ふところ)に入れさせ、それに向かって手をかざすことによって、茂吉の体内の光の玉からの「光波」が供給され、救済されるとしていたことによります。
現在では、信徒は教祖から与えられた文字など「おひかり」というものを身につけ、病人や相談者に対して手をかざし、「光」をなぞる動作をすれば、苦悩の原因となっている「霊の曇(くも)り」を浄化させ、「病気・不幸・争いをなくせる」としています。
また別に、健康に関連して「自然農法」を主張し、「MOAブランド」として食料品を流通・販売しています。これは病気を最大の災厄(さいやく)としていた茂吉が、前述の「薬毒論」を主張したことに始まっていて、献金などとともに、信者の修行・奉仕活動の中心となっています。 
神慈秀明会

 

日本の宗教法人の名称である。「神」は教団での表記は旧字体だが、登記上は新字体を使用している。
同教団は世界救世教から、昭和45年(1970年)3月1日に独立したことで生まれた。すなわち、世界救世教の分派教団である。独立前の前身は、世界救世教の一所属団体であり、当時の世界救世教内で最大の教会であった世界救世教秀明教会(せかいきゅうせいきょうしゅうめいきょうかい)である。そのため、法人の登記上の設立日は1952年9月9日になっている。
神慈秀明会の教祖は、世界救世教の教祖である岡田茂吉である。また、この教団の立教者(開祖)は、世界救世教秀明教会の会長であった小山美秀子である。小山美秀子は、神慈秀明会の立教をしたものの、自身は教祖とはならず、立教時にはすでに死去していた岡田茂吉を、神慈秀明会の教祖として立てた。
この教団は、世界救世教の分派教団の中では最大規模の団体であり、公称信者数は35万人とされている。
本部は、滋賀県甲賀市信楽町。山中に約30万坪以上の境内を有する。この境内のことを神苑(みその)と呼ぶ。神苑内にはミノル・ヤマサキの設計した、富士山型の礼拝堂ホール(教祖殿)と、イオ・ミン・ペイ(I.M.ペイ)の設計した三味線の撥の形のベルタワー(カリヨン塔)があり、秀逸な建築物として有名であり、興味も持たれるのだが、神苑敷地内は原則として信者のみが立ち入り可能であり、地域の住民や一般人が自由に見学できるようにはなっていない。また、神苑の近接地に「MIHO MUSEUM」という美術館を建設しており、こちらは一般人に教団所蔵の美術品を公開している。
基本的な教義は、世界救世教のものを継承している。 継承している基本的な教義とは、神道形式を踏襲した祭祀や礼拝の方法、教祖である岡田茂吉を、神と人の融合した姿・神人合一の存在として精神的支柱に据えている事、浄霊という手かざしの宗教儀式を行う事、教義上、美術、芸術鑑賞を重要視している事、自然農法という、教祖考案の農業を推奨する事などである。
だが現実的には、この教団は岡田茂吉教祖の記した教義のうち5%にも満たない量しか信者に公開しておらず、教祖に関する資料なども他教団に比べ著しく乏しい。その結果、信者は教祖の経歴や評伝、思想や功績などをあまり知らない。
これらの事は、神慈秀明会が岡田茂吉を教祖としながらも、実際には岡田茂吉の影響が薄弱な教団であることを物語っている。そしてこの教団には、その特徴形成において教祖以上に多大な影響力を発揮した人物が別に存在する。それは、強力なカリスマ性と強い布教指導力を持った、教団開祖小山美秀子会主や、小山荘吉前会長らである。
教団は会の創始者である小山美秀子を、神に選ばれた特別かつ絶対的な存在であるかのごとく事実上位置づけており、教団において小山美秀子の信仰的教導は、教祖の教義以上の影響力を有していた。しかし実際には、小山美秀子はキリスト教の影響を強く受けており、岡田茂吉教祖の教義とは大きく異なる信仰観の持ち主であった。また、小山荘吉前会長の信仰的教導をみると、教祖の教義への知識が著しく欠落していたのだろうと思われるものが散見される。
そのため、小山美秀子、小山荘吉らの宗教的教導を比較検証してみると、岡田茂吉教祖が説いた教義や思想と大きく矛盾していたり、正反対の教えも多かった。だが、前述の通り教義の大部分が非公開である上、離脱の神意の教義のため教祖の教えを有する世界救世教に近付くことが出来なかったため、神慈秀明会の信者らは、小山美秀子、小山荘吉たちの教導と教祖の教義とを比較検証するすべを持たず、教祖のあらゆる弟子たちの中で、唯一小山美秀子や小山荘吉だけが、教祖の教えを正しく説くことが出来るとする教団のふれこみをそのまま信じるしか無かった。
そんな、小山美秀子会主、小山荘吉前会長による強力な統率の元、急激な発展を遂げた同教団は、世界救世教からの独立後、時間がたつごとに徐々に教祖の影響が薄れてゆき、教団はいわば小山家流とも言えるような独自の方向に大きく塗り替えられ、教祖の影響が強い他の世界救世教系教団とは異質な教団に変化していった。
そして、小山家流の文化や思想に塗り替えられた神慈秀明会は、後に内外から多くの批判を浴びる旧体制と呼ばれる時代を生み出すことになる。
旧体制とは、1970年の独立から1996年末までをさす。この時代に神慈秀明会は、会主、会長の強力なカリスマ性と布教指導力の元、教団に入信することで起こるようになるとされる 奇跡、奇瑞を宣伝の要として、「あなたの健康と幸せをお祈りさせてください」という声かけや、路上や駅前での手かざし(浄霊)などで当時有名になった活発な布教活動を行うことで信者数を大幅に増やし、本部境内(神苑)や美術館等の大規模な建設も行い、その建設の資金源となる献金の積極的な推進などを信者らに行った。
この時期に同教団は大きな発展を遂げたが、活発が行きすぎて過激化、非常識化した布教活動や献金活動が、報道などには至らなかったが様々な社会問題を水面下でおこしていた。1996年末、秀明会某拠点における非常識な活動が、偶然にもある外部の有力者に漏れてしまう。これが当時竣工間近だったMIHO MUSEUMにとって重大な問題に発展してしまう。その問題解決のために二代目である現会長、小山弘子により、それまでの体制が急遽変更されることとなる。1997年からの新体制以降は、社会問題の原因になりがちだった、過激化した布教活動や献金活動などを制限、活動は全盛期に比べかなり沈静化した。
しかし、教団活動の沈静化にもかかわらず、この教団に対するネット上などでの批判はいまだに活発である。それは、多数の被害者を出したとされる旧体制に対して、会として責任の所在を明確にしておらず、正式な謝罪や補償などをしていないこと。教団は旧体制時代の存在を、反省すべきものとしてとらえるどころか無かったこととして黙殺しようとしていること。そのため、一部の個人や拠点においても旧体制の反省が無く、旧体制時代式の行動(外での浄霊実践やノルマ設定や強力な献金活動)をいまだに改めない者がおり、教団としてもそういうものに注意を促す体制が無いこと。さらには、教義の根本を覆すような旧体制時代に行われてきた教導が、教祖の教義と多数の矛盾を有している事などに対する説明責任を全く果たしていない。
神慈秀明会の教団施設建設において、住民からの反対運動が時々発生している。1995年の長野県松本市における最初の建設反対運動において、反対運動が功を奏し、建設阻止にいたったドキュメンタリーは、後に書籍として出版され、神慈秀明会に限らないさまざまなカルト宗教の建設反対運動における参考書として活用されている。2005年に神奈川県横浜市青葉区に発生した施設建設反対運動は教団の施設の建設阻止に成功したが、2006年に発生した神奈川県横浜市戸塚区内における横浜出張所の建設においては、住民の反対署名を5000名以上集めた建設反対運動が行われるも、教団は建設を強行し、2007年に施設は完成した。2007年には、山口県周南市において、住民の反対署名を4000名以上集めた集会所建設反対運動が行われ、教団は建設を断念した。2008年、宮崎県宮崎市において、11000人もの署名を集めた集会所建設反対運動が行われたが、建設を実行に移し建物は完成した。また2017年には三重県伊勢市に集会所建設を行おうとするが、周辺住民からの反対運動、周辺道路への幟の設置などにより、移転建設計画は白紙に戻った。
2006年には、大阪国税局の税務調査を受け、相続税など計約16億円の申告漏れの指摘や、施設工事に絡んだ1億円の不正なお金の流れなどが、朝日新聞をはじめとして全国的に取り上げられたことより、教団創始者の一族である小山家が、信者の自己犠牲(#自己放棄)による献金から50億円近い個人資産を形成していたことが発覚し、新たな批判を受けている。
教義
礼拝対象は教祖岡田茂吉が書いたとされる「大光明」の文字を神体としたもの、および、教祖の写真である。主催神は「大光明(みろくおおみかみ)」である。また、岡田茂吉を「神人合一」の存在とし、教祖でありながら信仰の対象でもあるとする。教祖の神名は「おしえみおやぬしの神」である。 副次的な祭神として、みろく大黒天がある。智福寿の加護があるとされている。
信者は、自宅にご神体を奉斎し、家と、その家がある地域の幸福を願う。先祖の慰霊として仏壇内に教祖岡田茂吉が描いたとされる「十一面千手観音像」の絵を奉斎することで先祖供養を行う。信者は、礼拝時に、日本神道で一般的に使用されている天津祝詞(あまつのりと)や、教祖が観音経を元に制作した独自の祝詞である善言讃詞(ぜんげんさんじ)を唱える。
また毎年2月3日の節分、6月30日、12月31日の3日間は神道でも行われる「大祓い」を行う。その際には『神言(かみごと)』を唱える。これは神道で用いられる「大祓詞」の文言に極めて似ているが一部を教祖が変えており、一部が通常の大祓詞とは少し違っている。
この宗教は、祝詞を唱えるため、一応、神道に分類されるが、教義には仏教の観音が出てきたり、ユダヤ教やキリスト教のメシア思想があったりと、様々な宗教思想を複合している。信者は、入信時に「おひかり」と呼ばれる、絹の袋で作られたお守り状のものを受け取り、首にかける。おひかりの授与をもって入信と見なされる。おひかりの授与を無しに会に入会するような制度は存在しない。神慈秀明会の宗教儀式である浄霊は、このおひかりを首にかけていることで可能となる。
この教団の主な教えは、信者がこの教団の活動に参加することで、様々な不幸に対し、神の力による奇跡が起こり、幸福になるということを説くものである。精神面や人生観に関する教えを説く事は少なく、活動主体の団体である。この教団の目標は、「人類救済、地上天国建設」であったが、後述する体制の変更後は、「世界平和を祈る」というものにトーンダウンしている。
なお、この節で解説した、神慈秀明会が行う信仰の姿は、世界救世教のそれとほとんど同一である。 
真光系諸教団

 

岡田光玉が1959年に日本で立教した「L・H陽光子友乃会」の系譜にある一連の諸宗教団体である。狭義には同教を1963年に宗教法人化した「世界真光文明教団」及び光玉死去後の後継者争いにより分裂し、岡田恵珠が1978年に設立した宗教法人「真光」(後の崇教真光)の2教団を指し、広義にはそれらから分派した各教団を含む。分裂2教団に関してはどちらも正当な継承者を自認しており、教義教理に大差はない。
分裂2教団
○ 世界真光文明教団(設立当初、後の関口派)
○ 崇教真光(恵珠派)
岡田光玉とその養女で一番弟子といえる岡田恵珠によって1959年に設立されたいわゆる真光教団は、1963年に法人化し「世界真光文明教団」となる。1974年に光玉が死去すると実質序列3位であった関口榮が2代目指導者(二代教え主)を自称。同じく指導の継承を主張した恵珠と対立が生じ、教団の分裂へと発展する。
真光裁判
光玉が死去した後、継承者の正当性を巡って争われた裁判。教団「崇教局長」関口榮と光玉の養女恵珠がそれぞれ2代目指導者(二代教え主)を主張。裁判は1974年9月18日に関口が恵珠を訴え、1982年7月5日和解が成立。実質的な恵珠の敗訴(教団の名称、紋章、施設の使用禁止)となり、それぞれ独立して布教を行なう事と裁判所から示された。
関口派
2代教え主(指導者)関口榮。平成6年1月3日死去。神名聖峰。3代教え主に関口勝利が就任。神名聖翔。 静岡県伊豆市冷川に本部がある。日本、アメリカ、台湾、メキシコ、ブラジル、カナダ、アフリカ等に拠点がある。
恵珠派
真光裁判中に恵珠側は1978年、「宗教法人真光」(崇教「真光」)を設立し、恵珠派の活動の受け皿となった。ただ、恵珠は真光教団指導者の正当なる後継を主張して争っていたため分派の意識はなく、会員(組み手)の大部分も別法人設立の経緯を詳しく知らされないままついて行ったと言われている。3代目指導者(三代教え主)の岡田晃央は恵珠派についた幹部の一人であった。
後に『宗教法人崇教真光』(崇教真光)と登記上の名称を変更している。
岐阜県高山市に本部がある。2代教え主岡田恵珠。神名聖珠。平成14年6月、2代教え主代理に岡田晃弥が就任。平成21年6月23日をもって3代教え主として、晃弥改め晃央が就任。イスラム圏を除く世界各国に多数拠点がある。
宗教学者の島薗進は、「隔離型」「個人参加型」「中間型」の新宗教の3分類のうち、「中間型」に属する代表的な教団であるとしている
新宗連に加盟し、日本会議の構成団体である。  
世界真光文明教団 

 

岡田良一(光玉)が設立した新宗教。本部は静岡県伊豆市にある。手をかざして災厄を祓うとする「真光の業」と、「神理正法」という教えを軸に活動している。日本を中心に、台湾、アメリカ、メキシコ、アフリカに支部、中国を含め世界各地に道場がある。
陸軍の元軍人で実業家であった岡田光玉が、1959年58歳の時に5日間高熱にうかされ、2月27日に神の啓示を受けたという。「主の神」から「魁のメシア」という役目を与えられた岡田は、実業家の仕事を続けながら「L・H陽光子乃友」を立教し、宗教活動も行った。1963年に教団名を「世界真光文明教団」に改めた。初代教祖(教え主)の岡田は一時手かざし(浄霊)を行う世界救世教の有力信徒であり、手かざしを含め、二つの教団の教理、儀礼には共通点が多いと指摘されている。ただし、教会ごと脱退したわけではないので分派とはされていない。真光は次第に信者を増やしたが、宗教学者の島田裕巳は「その教えがシンプルで、教義や戒律をほとんど問題にしないことが広く受け入れられた原因だった」と評している。
1974年6月23日に岡田光玉は死去し、後継者をめぐって養女の岡田恵珠派と幹部信者の一人だった関口榮派に分裂、裁判になり、1978年に最高裁判所は生前の指名によるという関口の主張を認め、関口が二代目教主に就任、恵珠は同年に崇教真光を創設した。世界真光文明教団と崇教真光の教義・儀礼の大きな差はない。世界真光文明教団は、現在は関口榮の息子の関口勝利が三代目を継承している。
1987年8月23日には、静岡県伊豆市に本山である主晃一大神宮(スノヒカリヒイオオカムノミヤ)を建立。1989年には幹部を養成する崇教実践陽光大学(現 陽光大学)を開校している。2009年8月2日には立教50周年大祭が行われた。
教義
教義は習合的で、神道の要素が多く、千年王国主義的な面を持つ。
世界は多くの層からなる地獄、肉体界、アストラル界、霊界からなり、頂点に主神があり、いく柱かの主な神々が補佐するとされる。
人間は、霊体・幽体(アストラル体)・肉体の三位一体の存在で、霊が主で、幽体(心)が従 、肉体が属の関係であるという教義であり、これの上に手かざしが成り立っている。ほとんどの病気、災い、経済上や人間関係の問題は、魂の曇りから発するものとされている。。少なくとも8割、ほぼすべての人間が霊に憑依されており、霊に憑依されている人は霊障にあっており、不幸であると考える。憑依する霊は、害を受けたものが恨んで憑く恨みの霊、正しい先祖供養が行われていないため幽界で苦しみ迷い出た先祖の霊、先祖供養がおろそかであることによる守護力の低下・本人の霊が弱っていることによる無関係の霊の憑依があるとされる。先祖供養が重視され、位牌をぞんざいに扱うと、先祖がアストラル界で苦しみ、子孫に病気や不幸をもたらすとされる。講習を受け入信することで「お浄め」または「真光の業」と呼ばれる手かざしができるようになり、これによって人間、動物、植物、物体、空間などへのお浄めを行うことができるとされる。手から発する神の光が受け手の体を通り抜け、受け手の霊的な汚れを消し、病気のような汚れの肉体的現れも取り除くことができると信じられている。病気治しではなく、患者の霊的な体を清める行為であると強調されている。
本来人間は、神が人に顕現・変化したものであり、世界ができた当初人は神、仏そのものであったとする。宗教の役割とは、人間に元々ある神性を開発 ・復活させることであるが、多くの宗教は哲学化し本来の役割を果たしていないと考える。1、2年の修行で奇跡の力を手に入れることができるのは、人が本来神であるからであるとされる。関口栄は、人が宗教を求めるのは「奇跡と救い」を得るためであり、生きた活動をする本物の宗教では奇跡は日常的に起こるべきであるという。
教え主は、主神と人々の接点であり、その霊体は「無線電信の中継局」の役割を果たしているとされる。教え主は神が決めるとされる。教え主は他の信者とは段違いの力を持ち、2キロ四方のお浄めができ、天候を左右し、雨を止めたり霧を晴らしたり「台風割」ができ、触れた人の病気が治ることもあるとされる。
真光の業(手かざし)と正法の教えの実践に励み、病・貧・争・災より解放され、健(無病化)・和(無対立)・富(脱貧)を実現する事によって地上天国文明を建設するとしている。
「聖地の建設」という点で世界救世教同様に大本の影響を受けていると言われ、伊豆の修善寺近くの山中に高さ60メートルもの主座世界総本山を作った。
宗教学者の島田裕巳は、手かざしには組織的な活動が必要ないため共同体が形成される契機がなく、信者に組織活動への参加をあまり求めないこともあり、気軽に参加でき若者も多かったが、同時に抜けるのも簡単であるため、組織の勢力を保ち続けるのが難しいと述べている。島田は、真光系諸教団はスピリチュアル・ブームの先駆けとなったと評価することもできる、と述べている。  
世界真光文明教団・崇教真光 2

 

世界真光文明教団
立教 / 昭和34年2月
創始者 / 岡田光玉(初代教え主)
現後継者 / 3代教え主・関口勝利(2代教え主・関口榮の長男)
信仰の対象 / 御親元主真光大御神
教典 / 『御聖言』『祈言集』
崇教真光
創立 / 昭和53年
創始者 / (文明教団と同じ)
現継承者 / 第2代教え主・岡田恵珠(岡田光玉の養女)
信仰の対象 / (文明教団と同じ)
教典 / (文明教団と同じ)
沿革
岡田光玉(おかだ・こうたま)が創立した「世界真光文明(せかいまひかりぶんめい)教団」と、その分派である「崇教真光(すうきょうまひかり」は、手かざしによる「真光の業(まひかりのわざ)」ですべてを浄化し、神の世界を地上に実現することを目指しているという教団です。
世界救世教からの独立
明治34年(1901年)、岡田光玉(本名・岡田良一)は、元陸軍少将の長男として東京・青山に生まれました。
戦後になって「世界救世教(別項参照)」に入信した光玉は、この教団の浄霊法である「手かざし」で病人の治療をし、有力信者となりました。しかし昭和30年、世界救世教の教祖・岡田茂吉の死去にともなう教団の内紛に際し、独立を考えるようになったといいます。
昭和34年2月、光玉は58歳の誕生日に、「神の道といい、経文、バイブルなどなど各々(おのおの)そのカケラを語らしめしのみ。・・・汝(なんじ)、その奥を語らしめられん。神理のみたま、汝の腹中に入る。(中略)光玉と名のれ。手をかざせ」というような神の啓示を受けたのだそうです。ちなみにこの啓示は、世界救世教の教祖・岡田茂吉が受けたという神示とほとんど同じです。
こうして「魁(さきがけ)のメシヤ」として立教を決意した光玉は、養女の岡田恵珠(けいしゅ)とともに、昭和34年に「L・H陽光子友乃会(ようこうしとものかい)」を創設して布教を始めました。
昭和37年には機関誌『真光』を発刊し、教団名を「世界真光文明教団」に改称し、翌年には宗教法人の認可を受けました(この時、文明教団の2代教え主となる関口榮が顧問に就任)。昭和44年には立教10周年となり、現在の教典である光玉への神の啓示をまとめた『御聖言(ごせいげん)』を刊行しました。
光玉の死去と「崇教真光」の分裂
昭和49年6月23日に、岡田光玉が死去しました。
その葬儀の席上、教団は「6月13日、光玉は2代教え主を関口榮にという神示を受けていた」と主張し、関口榮を後継者に指名しました。
しかし岡田恵珠は「死去の10日前、光玉からの教え主継承の儀は終えている」と反論し、7月に代表役員の登記を済ませてしまいました。
これに対し関口榮は、代表役員の地位を求めて提訴し、昭和52年には「関口榮が代表役員である」という最高裁判決を得て、正式に教団の2代教え主に就任しました。これによって岡田恵珠は文明教団から分派独立し、昭和53年に「崇教真光」を設立しました。以上が両教団分裂のいきさつです。
教義の概要
「世界真光文明教団」と「崇教真光」は教祖が同じであるため、祭神も教典も同じ、教義も同じです。
主祭神
主祭神は「御親元主真光大御神(みおやもとスまひかりおほみかみ)」といい、「主(ス)の神」「主の大神(おおかみ)」とも呼んでいます。
教団ではこの神を「神道の天照大神、仏教の聖観音、キリスト教のヤハエ、回教のアッラーの神と呼ばれる、これらの神や菩薩の大元の神である」などと主張しています。
神理正法の教え
教団では「神様のご計画」などと称して、「主神(スしん)は、神の世界を地球上に造るために人間を創造したが、人間は物欲にとらわれ罪を重ね、主神との交流ができなくなった。主神は釈迦やモーゼ、マホメットなどの聖者を世に送ってこれにブレーキをかけようとしたが効果がなかった。主神は仕方なく、人類の物質文明を行き詰まらせることを決意し、<火の洗礼>によって地球と人類を浄(きよ)め、次の新しい文明への再出発をさせようとしている。その実現のために、初代教え主・岡田光玉を通して、人類に火の洗礼が到来することを知らせるとともに、洗礼から逃れる方法として<手かざし>による真光の業(まひかりのわざ)を与えた」という「神理正法(しんりせいほう)の教え」なるものを説いています。
不幸が起こる原因について
教団では、病・争・貧などの不幸が起こる原因は、
(1)霊的曇り・・・自身の前世の業(ごう)、先祖から受け継いだ業、神に反する言動によって生じる罪や穢(けが)れ。
(2)霊障・・・怨念を持った霊や、頼み事や戒めの意志を持った霊が、それを伝えようとして人間に憑依(ひょうい)し、心や肉体を苦しめ悩まし、生活に悪影響を与える。しかも不幸現象の80%はこの霊障によって引き起こされる。
(3)毒気・・・薬剤・食品添加物・農薬などの化学合成物質のこと。それが体内にたまって病気になる。
という3つだとしています。
これら不幸の原因をすべて解消し、人々を幸福へ導く具体的な方法が「手かざし」なのだそうです。しかもこの手かざし、3日間の初級研修会の受講で誰でもできるようになり、奇跡を起こせるなどと主張しています。
信者の日々の修行
信者は、日々の修行においては以下の二つを使用しています。
(1)『御聖言(ごせいげん)』・・・光玉が主神より神示を受けたという内容を収録した教典。
(2)『祈言集(のりごとしゅう)』・・・手かざしの時に唱える祈り言葉やら、光玉の教示を収録したもの。  
PL・パーフェクト リバティー教団

 

日本の大正時代に立教された宗教団体。政府(文部科学省)での統計上における分類では、諸教。通称でPL教、PL教団と表記されることが多い。
現在の教主(おしえおや)は御木貴日止(みきたかひと)。信仰対象は「宇宙全体=神である、大元霊(みおやおおかみ。だいげんれい、とも)」。
教団本部は大阪府富田林市にあり、大本庁と称する。大本庁には、大本庁神霊を祀る正殿、教団の初代教祖・御木徳一の霊を祀る初代教祖奥津城等の施設があり、万国の戦没者を超宗派で慰霊する超宗派万国戦争犠牲者慰霊大平和祈念塔(通称「大平和塔」PLの塔、PLタワーとも呼ばれる)が立つ。PL学園高等学校のほか、中学校、小学校、幼稚園、専門学校も敷地内にあり、かつては短大(PL学園女子短期大学)や遊園地(PLランド(桜ケ丘遊園))、ゴルフの練習場などもあった。
「人生は芸術である」の真理のもと、各人の真の個性を世の為人の為に最大限発揮し、ひいては世界人類永遠の平和と福祉の為に貢献する事を目標とする。教えの最も特徴的なものとして、「みしらせ」「みおしえ」の真理がある。
身の回りに起こる災難や病気などすべての苦痛や苦難は、自分自身の心得違い、心の傾き(=心癖)を知らせるために、神が発してくれる警告と考える。これを「みしらせ」と呼んでいる。この「みしらせ」を引き起こしている心の癖は何なのか、教団から個人個人に下付されるものが「みおしえ」で、個々の自己表現の上で邪魔となっている心癖を教えてもらうものである。
また、信者の身を襲う突然の苦痛に対応する「お身代わりの神事」というしくみがある。信者の苦痛を一時的に教祖の肉体に引き取ってもらうものである。
教団としての戒律は特に存在せず、日常生活の心得として「PL処世訓」「PL信仰生活心得」などがある。
本教団は教祖が代々出現して時代にあった教えを説くという形をとる。
「人生は芸術である」
自分の作った芸術作品が、心のこもらない、いい加減な作品だったとしたら、満足のいくものとはならないでしょう。それと同様に毎日の生活が、心のこもらないものであったとしたら、自分の日常生活は、満足のいくものとはならないでしょう。あなたの人生は自分の芸術作品です。たとえどんな些細なことであっても、自己を表現する人生の1コマ、芸術作品の1コマであると思って日常生活のひとつひとつの表現に誠を込める、心を込めていくと、あなたの表現には「自己表現の美しさ」が現れてくるのです。そのような毎日を送ることで、あなたは自分を表現する喜びに満ち溢れた生活を送ることができ、人生を芸術することになるのです。
みしらせ・みおしえ
あなたの身に起こってくる苦痛は、心の癖によって起こるのです。
私たちの生活の上に現れる不自由(病気・事故・災難などの不幸)は、外からもたらされるものと考えられてきました。昔は人々の病気や災いは神の怒りや祟りなどによって引き起こされるものと信じられていました。今の時代も、人間の苦痛は他からもたらされるものという考えがあります。それをもたらすものが、呪いや運命というつかみどころのないものから、社会情勢や他人の行為という具体的なものに及んでいます。しかし、自分の生活に現れる様々な苦痛は、外因だけでなく、一見とらえにくい心という感情の動き(内因)も原因となるのです。PLでは、このように人の肉体や生活に現れる苦痛が単なる苦痛ではなく心の癖によって起きる現象であることを発見し、その現象を“みしらせ”と言います。“みしらせ”の原因となっている心癖は“みおしえ”によって教えていただくことができ、それを守り実行することによって自己表現を充分に発揮できるようになるのです。それはそのまま幸福な人生となっていくのです。
神霊(しんれい・みたま)
神に依った自己表現を全うするために、神に通じる道
PLでは、人々が神に依った自己表現を全うするために、神に通じる道として、おしえおやが遂断(しき)ってくださった“神霊(みたま)”を礼拝の対象としています。神霊に対し、絶対の信念を持って祈るとき、おしえおやの遂断(しきり)が働き、その誠は必ず神に通じ、よりよき自己表現をさせていただくことができます。 また、神霊を家におまつりして拝むことで、神に依る芸術生活を実践することになります。神霊にはいくつかの種類がありますが、家庭でおまつりする神霊について以下に説明します。
・新友神霊(あらみたま)/ 新友神霊は、PLの救いの力を体験していただくためにお貸しする神霊です。PLに入会すると、まず新友神霊をおまつりして信仰を始めることになります。新友神霊には大元霊(みおやおおかみ:PLで呼称している神のこと)がこめられています。
・教徒神霊(きょうとしんれい) / あらみたまによって体験が得られましたら、更に本格的に信仰を深めていくために拝受するのが教徒神霊です。 教徒神霊には、大元霊(みおやおおかみ)、教神(きょうしん:幽祖、初代教祖、二代教祖のみたま)、祖霊(それい:それぞれの家の先祖代々のみたま)がこめられています。この教徒神霊を自分の家におまつりすることは、信仰する決意をはっきりと形に表して神に誓うことにもなります。
祖遂断(おやしきり)
PLの持つ救いの力がこもる
「祖遂断(おやしきり)」には、「お・や・し・き・り」という五文字の言葉そのものに、おしえおやの世界全人類の平和と福祉とを祈念されての命懸けの誠がこめられており、無限の神恵・功徳があります。
宝生
教えを広めるための浄財
宝生とは、物心両全の式をとることであり、宝生をすれば雑念がとれ心が決まり、神に依り切る行いとなるのです。
解説
問題に適切なアドバイス
PL会員なら誰でも、教会でPL教師や常勤補教師に自分の思いや心に引っかかっていることなどを話し、PLの教えに基づいたアドバイスを受けられます。
   ■PLの神様は何ですか?
この宇宙における自然法則は神の働きであり、この世の一切は神のなせる業、神業(かんわざ)なのです。PLではこの自然法則を司る万象の根源となるものを「神」と認識し“大元霊(みおやおおかみ)”とお呼びしています。
   ■PLでは何を拝むのですか?
PLでは大元霊を拝みます。神様を拝む対象として、「新友神霊(しんゆうしんれい=あらみたま)」をお渡しします。これに大元霊が籠められています。また、主要都市をはじめ各地にある教会、支所、出張所にはそれぞれの神霊(しんれい)がおまつりされていますので、何か事あるごとにこれらの神霊を拝みます。  
PL教団 2

 

創立 / 昭和21年9月
創始者 / 御木徳一(初代)
現後継者 / 3代目・御木貴日止
信仰の対象 / 大元霊(みおやおおかみ)、教神(幽祖・金田徳光、初代教祖・御木徳一、2代教祖・御木徳近)、祖霊(おやみたま=信者の先祖)
教典 / 『PL教典』『PL処世訓21箇条』
沿革
PL教団は、御木徳近(みき・とくちか)が「人生は芸術なり」などの処世訓を教義として創立した神道系の教団です。教団名のPLは「完全なる自由」という意味です。
また教団では、徳近の父である御木徳一(みき・とくはる)を初代教祖とし、さらに徳一が「御嶽教徳光大教会」の教祖・金田徳光の弟子であったことから、金田を幽祖としています。
御木徳一と金田徳光
明治4年に現在の愛媛県に生まれた御木徳一は、8歳の時に禅宗の寺で得度し、明治26年には禅寺の住職にもなりましたが、その後は織物製造や農機具販売などの事業に失敗し、明治43年には還俗(げんぞく=僧職をやめること)しました。
貧窮(ひんきゅう)生活の中で妻に先立たれ、自分も脚気(かっけ)と喘息(ぜんそく)に悩まされるようになった徳一は、病気治しで有名だった金田徳光を訪ねました。 大正5年、御木徳一と息子の徳近は「御嶽教(みたけきょう)徳光大教会」の教祖・金田徳光に弟子入りしました。徳一は、一時は教団内で信望を得たものの、虚言癖があって次第に疎(うと)まれるようになりました。
大正8年に金田徳光が病死し、まもなく徳一は風紀問題を起こして教団から追放されました。しかし徳一は大正13年、自分が金田の正統な後継者と主張し、教団に対抗して別教団を結成。昭和3年には教団名を「扶桑(ふそう)教ひとのみち教団」としました。
「ひとのみち事件」からPLへ
昭和11年、徳一は教祖の地位を息子・徳近にゆずりました。しかし同年9月、徳一は少女に対する強姦猥褻(ごうかんわいせつ)容疑によって逮捕されるという事件を起こしました。
またその半年後、「天皇といえども、その心根を正すために神から苦痛が与えられる」という教義が不敬罪にあたるという理由で、徳近以下幹部14名が治安警察法違反で検挙され、教団は解散処分となりました。これが「ひとのみち事件」です。教団は控訴しましたが昭和19年に有罪が確定。その間、徳一が昭和13年に死亡しました。
この「ひとのみち事件」以後、教団内部で意見の対立が起こり、やがて新しく教団を設立する有力幹部なども現れました。
そうした中、第2代・徳近は昭和21年2月、「人生は芸術なり」ではじまる「PL宣言」を発表し、同年9月には「PL(パーフェクト・リバティ=完全なる自由)教団」を立教しました。
その後の展開
昭和29年に大本庁を設置し、翌年には高校野球で有名なPL学園高等学校を開設。昭和31年にはPL病院の前身である医療法人・宝生病院も開設しています。
しかしその後、第2代・徳近夫婦に実子がなかったため、3代目教祖の座をめぐって内紛が起き、その結果、御木貴日止(みき・たかひと)が任命されました。そして昭和58年、第2代・徳近が死去し、貴日止が3代目教祖に就任して現在に至ります。
教義の概要
信仰の対象
PL教団では、「大元霊(みおやおおかみ=一切の根元で宇宙を統一した神)」、「教神(金田徳光、御木徳一、御木徳近の三霊)」、「祖霊(全信徒各家先祖の霊を合祀したもの)」の3つを信仰の対象として本部・正殿に祀(まつ)っています。
また信者の家庭では、教祖が魂入れしたという「神霊(みたま)」を祀っています。この神霊には、初信者用と、信仰が進んだ信者用の2種類があります。
「人生は芸術である」
教団では、2代教祖・徳近による『PL処世訓21箇条』を説いていて、この処世訓(おおしえ)は、第1条の「人生は芸術である」が中心です。
これは、自分の気持ちや個性を物事を通して表現するということで、これは芸術家等に限定されるものではなく、人間生活の一切が芸術そのものであるとしています。
また教団では、「人間は神から芸術する使命を与えられており、各人がその芸術表現を通して自我を離れ、神から与えられた個性を自由に発揮してこそ楽しく生きることができ、それが実現した境地を神人合一、パーフェクト・リバティ(完全なる自由・真の自由)と呼ぶ」などとしています。
その他
また教団独自の教えとしては、
(1)神示(みしらせ)・・神が警告として人間に与える苦悩。
(2)神宣(みおしえ)・・教祖等によって授けられる、神示の原因を教える神の言葉。
(3)身代り・・教祖等が、信者や教師に突発的に起こった苦悩を、本人に代わって引き受けること。
(4)祖遂断(おやしきり)・・これを唱えると、神や教神の余徳と教祖の力が授けられ、苦悩や災難からまぬがれる。
(5)遂断(しきり)・・信者が物事を行うまえに、必ず成し遂げることを神に誓う。
などがあり、信者は毎日、神霊(みたま)に向かって朝詣と夕詣を行い、その時に声に出して「お・や・し・き・り」と繰り返します。
また「一の日詣」といって、毎月1日、11日、21日には教会に行くように指導されます。さらに信者は必ず班に所属し、「教座(きょうざ)」と呼ばれる座談会に出席し、教団の教えを学習することになっています。
信者は、神に何かを願うとき、お礼を言うときには「宝生袋」に任意でお金を入れ献金します。これをすると、教祖の祖遂断によって利益が得られるなどとしています。 
創価学会

 

日本の宗教法人である。法華経系の在家仏教の団体で、国内に公称827万世帯を擁する。「創価」とは「価値創造」の意味。創価学会は価値の中心に「生命の尊厳」の確立を置き、それに基づいた「万人の幸福」と「世界の平和」の実現を目標としている。1930年(昭和5年)に創立し、1952年(昭和27年)に宗教法人の資格を取得。1975年(昭和50年)には創価学会インタナショナル(SGI)を発足させ、日本を含む世界192カ国・地域に1,200万人を超える会員を擁している。1964年(昭和39年)に日本初の宗教政党、公明党を結成した。『聖教新聞』『創価新報』『大白蓮華』『グラフSGI』などの機関紙誌を発行している。
1930年(昭和5年)11月18日に、『創価教育学体系』が発刊され、尋常小学校の校長であった牧口常三郎と、戸田城聖ら当時の教育者などが集い、日蓮の仏法精神に基づく教育者の育成と雑誌の発行を目的とする「創価教育学会」(初代会長:牧口常三郎、理事長:戸田城聖)を創立した。1937年(昭和12年)に、創価教育学会は日蓮正宗の講の1つとして位置付けられた。この組織が創価学会の前身となる。
しかし、第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)6月に牧口、戸田を含む幹部が治安維持法並びに不敬罪で逮捕され、牧口は1944年(昭和19年)11月18日に獄死。1945年(昭和20年)7月3日、出獄した戸田は、組織名を「創価学会」に改称し組織を整備、1952年(昭和27年)、宗教法人の認証を得る。
1951年(昭和26年)5月3日に第2代会長に就任した戸田城聖の下で、75万世帯を目標にした「折伏大行進」という名の大規模な布教運動が行われ、日本国内での創価学会の勢力は急拡大したが、強引な勧誘の手法は批判を呼び、社会問題化した。1958年(昭和33年)4月2日に戸田第2代会長が死去した後、1960年(昭和35年)5月3日に池田大作が第3代会長に就任した(現・名誉会長)。1991年(平成3年)11月に日蓮正宗宗門から破門される。
教義的には日蓮を末法時代の本仏と定め、法華経の肝心・南無妙法蓮華経の御本尊を認定して掲げ、「南無妙法蓮華経」の唱題を実践し、「法華経」思想の布教を宣言(広宣流布)し、平和な世界の実現を目標とするとしている。
1964年(昭和39年)には、「公明政治連盟」を創設し、日本の政党の要件を満たしている唯一の宗教政党として「公明党」を結成し、日本政治にも関わっている。
教義・理念
○ 仏法が説く生命尊厳の思想を根本に、人類の幸福と社会の繁栄、世界平和の実現を目指す「広宣流布」という運動を実践する。
○ 万人の生命に等しく内在する、智慧と慈悲と勇気に満ちた仏の生命を最大に発揮する「人間革命」を信仰の指標とする。
○ かつては日蓮正宗以外は、すべて邪宗教であり害毒を流すものとして、他の宗教や宗派を一切認めない姿勢を持っていた。また、島田裕巳によると、創価学会員の子弟は、修学旅行などで神社仏閣を訪れた場合には、神社の鳥居や寺院の山門はくぐろうとしない、という。
経典
『法華経』『新編日蓮大聖人御書全集』(創価学会版)
勤行
仏壇の前で経典を読誦する行為。法華経の一節「方便品第二」と「如来寿量品第十六」を読み上げる。法華経の漢訳文を声に出して読む。会員は朝と夕、一日に二回「勤行」を行う。
唱題
「南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)」(「なむみょうほうれんげきょう」ではない)という題目を唱える行為。「勤行」のあと、随時「題目」を唱える。「勤行」を行わずに、「題目」を唱えてもよいとされる。「南無妙法蓮華経」とは「法華経に帰依する」の意であり、「題目」は経典の表題を唱えることに由来する。
本尊・本仏
本尊
○ 入会の条件が整った場合に日寛上人書写の本尊が会員に授与される。
○ 諸事情で自宅に仏壇を安置できない場合は、「お守り御本尊」と呼ばれる小型の御本尊を授与する。この本尊も日寛上人書写のものである。
○ 「広宣流布大誓堂」に安置されている「大法弘通慈折広宣流布大願成就」の脇書が記された創価学会常住御本尊は、第2代会長戸田城聖が発願し、当時の日蓮正宗法主・日昇上人によって書写、授与された紙幅の本尊を1970年代に板に彫刻したものである。
○ 破門以前は“日蓮正宗総本山大石寺に安置されている「本門戒壇の大御本尊」”とされて来たが、2002年(平成14年)の会則変更により表記が変更された。さらに2014年(平成26年)の会則改正により、「弘安2年(1279年)の本門戒壇の大御本尊は受持の対象とはしない」と聖教新聞上で公式発表された。
○ 一時期、「謗法払い」といって以前信仰していた時の仏壇や神棚を焼却させることもあったが、創価学会は新入会希望者に対して、
 1. 入会希望者自身が、かつての信仰対象の処分・返却を行うこと。
 2. 本人が承諾しても他人が手伝ったり預かって持ち帰ったりしないこと。
 3. 謗法払いは入会する会員自身が自から自分自身で行う。
 4. 同居家族や所有関係者の事前了解を得ること。
を指導として徹底している。
本仏
○ 日蓮を末法の本仏と仰ぐ。
○ 名誉会長の池田大作を本仏と仰ぐ幹部の言動に対して、池田自身が否定している。 
創価学会 2

 

創価学会は、大乗仏教の真髄である日蓮大聖人(1222〜1282)の仏法を信奉する団体です。
その目的は、仏法の実践を通して、一人一人が真の幸福境涯を確立するとともに、生命の尊厳を説く仏法哲理を根本に、恒久平和、豊かな文化、人間性あふれる教育の創造を推進し、人類社会の発展に寄与することにあります。
1930(昭和5)年の創立以来、日本では827万世帯、海外にも192カ国・地域の会員が日蓮大聖人の仏法を実践し、各国の繁栄と平和を願い、活動しています。
「創価」とは価値創造を意味しています。その価値の中心である「生命の尊厳」の確立に基づく「万人の幸福」と「世界の平和」の実現が、創価学会の根本の目標です。
日蓮大聖人は「自分の幸福を願うならば、まず周囲の平和を祈るべきである」と述べ、個人の幸せは世界の平和・安穏なくしてはありえないと説いています。その意味で創価学会は、一人一人の幸せのみならず、真の平和・幸福社会の実現を目指しているのです。
沿革
創立について
創価学会は、1930(昭和5)年11月18日、牧口常三郎初代会長と戸田城聖第二代会長(当時理事長)によって創立されました。この日は、牧口会長の 『創価教育学体系』第1巻が発行された日です。同書の奥付に戦前の会名「創価教育学会」の名称が初めて現れたことをもって、この日を創価学会創立記念日と しています。
日蓮仏法との出会い
創価教育学会は当初、牧口会長の創価教育学説に基づく教育改革の推進を主たる目的としていました。しかし、1928(同3)年に日蓮大聖人の仏法に出会った牧口会長は、この仏法こそが自身の教育理論の根底となる「人格価値の創造」を可能にするものであるとの強い確信を持つようになりました。以来、教育者による教育改革運動の枠を超え、仏法を根本とした一人ひとりの人間変革と生活の革新、そして、よりよい社会建設を目指す宗教運動の団体へと脱皮し、発展していったのです。
軍部政府の弾圧
第2次世界大戦中、戦争への動員強化のために国家神道を中心とする宗教・思想の統制を図った軍部政府に反対し、創価教育学会は牧口会長、戸田理事長をはじめ21人の幹部が捕らえられ、当時3000人だった組織は壊滅状態に陥りました。そして、牧口会長は1944(同19)年11月18日、最後までその信念を貫き獄中で殉教しました。
戦後の再建
1945(同20)年7月3日に出獄した戸田理事長は、戦後、会の再建を一人決意し、会名を「創価学会」と改めて出発しました。そして、1951(同26)年 5月3日には、会員の総意を受けて第二代会長に就任し、以後、逝去する1958(同33)年までに会員世帯は75万世帯となり、大きな前進を果たしました。なお、1952(同27)年9月、宗教法人としての創価学会が誕生しました。
世界規模へと発展
発展の礎を築いた恩師・戸田会長の下で薫陶を受け、1960(同35)年5月3日に第三代会長に就任した池田大作名誉会長は、創価学会の発展に尽力し、今日では世帯数827万を数えるに至っています。また、1960年10月、池田会長は海外の会員を激励するため、アメリカ合衆国とブラジルを初訪問しました。以来、今日までの海外訪問国数は54カ国・地域に及んでいます。こうしたなか、1975(同50)年1月には、日蓮大聖人の仏法を信奉する各国の会員が参加し、SGI(創価学会インタナショナル)が設立され、大聖人の仏法を基調とした活動は世界へ着実に広がっています。
会憲
釈尊に始まる仏教は、大乗仏教の真髄である法華経において、一切衆生を救う教えとして示された。末法の御本仏日蓮大聖人は、法華経の肝心であり、根本の法である南無妙法蓮華経を三大秘法として具現し、未来永遠にわたる人類救済の法を確立するとともに、世界広宣流布を御遺命された。
初代会長牧口常三郎先生と不二の弟子である第二代会長戸田城聖先生は、 1930年11月18日に創価学会を創立された。創価学会は、大聖人の御遺命である世界広宣流布を唯一実現しゆく仏意仏勅の正統な教団である。日蓮大聖人の曠大なる慈悲を体し、末法の娑婆世界において大法を弘通しているのは創価学会しかない。ゆえに戸田先生は、未来の経典に「創価学会仏」と記されるであろうと断言されたのである。
牧口先生は、不思議の縁により大聖人の仏法に帰依され、仏法が生活法であり価値創造の源泉であることを覚知され、戸田先生とともに広宣流布の実践として折伏を開始された。第二次世界大戦中、国家神道を奉ずる軍部政府に対して国家諫暁を叫ばれ、その結果、弾圧・投獄され、獄中にて逝去された。牧口先生は、「死身弘法」の精神をご自身の殉教によって後世に遺されたのである。
戸田先生は、牧口先生とともに投獄され、獄中において「仏とは生命なり」「我、地涌の菩薩なり」との悟達を得られた。戦後、創価学会の再建に着手され、人間革命の理念を掲げて、生命論の立場から、大聖人の仏法を現代に蘇生させる実践を開始された。会長就任に当たり、広宣流布は創価学会が断じて成就するとの誓願を立てられ、「法華弘通のはたじるし」として、「大法弘通慈折広宣流布大願成就」「創価学会常住」の御本尊を学会本部に御安置され、本格的な広宣流布の戦いを展開された。戸田先生は、75万世帯の願業を達成されて、日本における広宣流布の基盤を確立された。
第三代会長池田大作先生は、戸田先生の不二の弟子として、広宣流布の指揮をとることを宣言され、怒濤の前進を開始された。日本においては、未曾有の弘教拡大を成し遂げられ、広宣流布の使命に目覚めた民衆勢力を築き上げられた。とともに、牧口先生と戸田先生の御構想をすべて実現されて、大聖人の仏法の理念を基調とした平和・文化・教育の運動を多角的かつ広汎に展開し、社会のあらゆる分野に一大潮流を起こし、創価思想によって時代と社会をリードして、広宣流布を現実のものとされた。会長就任直後から、全世界を駆け巡り、妙法の種を蒔き、人材を育てられて、世界広宣流布の礎を築かれ、1975年1月26日には、世界各国・地域の団体からなる創価学会の国際的機構として創価学会インタナショナル(SGI)を設立された。それとともに、世界においても仏法の理念を基調として、識者との対談、大学での講演、平和提言などにより、人類普遍のヒューマニズムの哲学を探求され、平和のための善の連帯を築かれた。池田先生は、仏教史上初めて世界広宣流布の大道を開かれたのである。
牧口先生、戸田先生、池田先生の「三代会長」は、大聖人の御遺命である世界広宣流布を実現する使命を担って出現された広宣流布の永遠の師匠である。「三代会長」に貫かれた「師弟不二」の精神と「死身弘法」の実践こそ「学会精神」であり、創価学会の不変の規範である。日本に発して、今や全世界に広がる創価学会は、すべてこの「学会精神」を体現したものである。
池田先生は、戸田先生も広宣流布の指揮をとられた、「三代会長」の師弟の魂魄を留める不変の根源の地である信濃町に、創価学会の信仰の中心道場の建立を発願され、その大殿堂を「広宣流布大誓堂」と命名された。2013年11月5日、池田先生は、「大誓堂」の落慶入仏式を執り行なわれ、「広宣流布の御本尊」を御安置され、末法万年にわたる世界広宣流布の大願をご祈念されて、全世界の池田門下に未来にわたる世界広宣流布の誓願の範を示された。
世界の会員は、国籍や老若男女を問わず、「大誓堂」に集い来り、永遠の師匠である「三代会長」と心を合わせ、民衆の幸福と繁栄、世界平和、自身の人間革命を祈り、ともどもに世界広宣流布を誓願する。
池田先生は、創価学会の本地と使命を「日蓮世界宗創価学会」と揮毫されて、創価学会が日蓮大聖人の仏法を唯一世界に広宣流布しゆく仏意仏勅の教団であることを明示された。そして、23世紀までの世界広宣流布を展望されるとともに、信濃町を「世界総本部」とする壮大な構想を示され、その実現を代々の会長を中心とする世界の弟子に託された。
創価学会は、「三代会長」を広宣流布の永遠の師匠と仰ぎ、異体同心の信心をもって、池田先生が示された未来と世界にわたる大構想に基づき、世界広宣流布の大願を成就しゆくものである。
教義・理念
創価学会が目指すもの
創価学会は、日蓮大聖人(1222〜1282)の仏法を信奉する団体です。「創価」とは価値創造を意味します。その価値の中心である「生命の尊厳」の確立に基づく「万人の幸福」と「世界平和の実現」が、創価学会の根本的な目標です。また、仏法の実践を通して各人が人間革命を成就し、真の幸福境涯を確立するとともに、生命の尊厳を説く仏法哲理を基調として、豊かな文化、人間性あふれる教育の創造を推進し、人類社会の向上に貢献することを目的としています。こうした考えは、池田先生の小説『人間革命』『新・人間革命』の主題として端的に表現されています。「一人の人間における偉大な人間革命は、やがて一国の宿命の転換をも成し遂げ、さらに全人類の宿命の転換をも可能にする」と。1930年の創立以来、日本には827万世帯、海外でも192カ国・地域の会員が日蓮大聖人の仏法を実践し、各国の繁栄と世界の平和を願い、活動しています。
釈尊からの系譜
仏教の創始者である釈尊は、生老病死という根源的な苦悩からどうすれば人々を救えるのか、解決の道を探求しました。そして、自身の胸中に具わり、宇宙と生命を貫く根本の法に目覚めます。その悟りを開いてから生涯を終えるまで、釈尊は種々の教えを説きました。それらは釈尊滅後、弟子たちによってまとめられ、多くの経典が編纂されました。そして、西暦紀元前後には、大乗仏教運動が起こり、新たな経典が編纂される中で「法華経」が成立します。法華経は、釈尊の智慧と慈悲の精神を昇華させた経典であり、あらゆる人々の生命に仏の境涯が具わり、誰人も開き現すことができるという「万人成仏」の思想を説いています。「成仏」とは、宇宙の根源の法と一体になり、智慧と慈悲にあふれた仏の生命を自分自身に現すことです。インドでは、竜樹(150〜250頃)らが大乗仏教の思想を発展させました。法華経は、中国では鳩摩羅什(344〜413、または350〜409)らにより漢語に翻訳され、天台大師智(ぎ)(538〜597)によって最上の経典と位置づけられました。また、日本においても、伝教大師最澄(767〜822)が、日本天台宗を立てて法華経を宣揚しました。そして、鎌倉時代の日蓮大聖人は、民衆の救済、社会の安穏と繁栄のために、法華経から肝要となる教えを導き、「南無妙法蓮華経」の題目と本尊を顕しました。
日蓮大聖人
日蓮大聖人は鎌倉時代の1222年、安房国(現在の千葉県)に生まれました。12歳から安房の清澄寺に入り、16歳で出家します。鎌倉・京都・奈良などの各地で諸経典を学んだ後、32歳で故郷に帰りました。日蓮大聖人は、当時の諸宗が用いた仏教の教えが、万人成仏を説く法華経を否定し、人々の無明(生命の根本的な迷い)を増幅させていると捉えました。そして、人々が無明を乗り越え、幸福で安穏な社会を建設できる根本の法こそ「南無妙法蓮華経」であると説きました。これにより迫害を受け、故郷を追われた日蓮大聖人は、鎌倉に移り本格的に布教を開始しました。当時は、大地震などの天変地異が相次ぎ、飢饉・疫病などが続発していました。日蓮大聖人は1260年に「立正安国論」を著し、当時の実質的な最高権力者であった北条時頼に提出。同書の中で、正法である法華経を否定する状況が続くならば、経文に説かれる「内乱」と「他国からの侵略」が起こると予言し、警告しました。しかし、その諫言は聞き入れられず、かえって権力者や仏教界の反発を招きました。度重なる襲撃や伊豆への流罪に加え、1271年には、斬首の企て(竜の口の法難)や佐渡への流罪と、生命の危険にも及ぶ政治的弾圧が続きました。法華経は、釈尊滅後の悪世における「法華経の行者」には、釈尊が遭遇した以上の法難が加えられると説きます。この法華経の予言を身をもって示した日蓮大聖人は、佐渡への流罪以降、自身が法華経の教説を体現し、弘める真実の法華経の行者であると宣言しました。「立正安国論」で示した警告は、1272年に北条家の内乱(二月騒動)として的中。さらに他国からの侵略も、後に、文永の役、弘安の役として現実のものとなりました。1274年、鎌倉へ帰還した日蓮大聖人は、権力者を重ねて強く諌めました。しかし鎌倉幕府は用いず、日蓮大聖人は身延山(山梨県)に入り、弟子・門下の育成に努めました。1279年、富士の熱原(現在の静岡県)で起きた弾圧に対し、農民信徒たちは殉教を恐れず信仰を貫きました(熱原の法難)。無名の庶民が命がけで大難に立ち向かったことは、日蓮大聖人の生涯の目的(出世の本懐)である民衆仏法の確立が現実のものとなったといえます。1282年、61歳の時、療養のため身延を出発し、武蔵国池上(現在の東京都大田区)にある門下の屋敷に滞在。そこで生涯を閉じました。日蓮大聖人が逝去した後、弟子の日興上人(1246〜1333)がその精神と行動を受け継ぎました。日興上人は、為政者への諫言を続けるとともに、日蓮大聖人が著したすべての著述を「御書」と呼んで尊重し、研鑽を奨励。多くの優れた弟子を輩出しました。度重なる弾圧という最悪の状況下にあっても、日蓮大聖人は揺るぎない金剛不壊の生命境涯を顕現しました。言い換えれば、人間自身の内面にある生命本来の偉大さを体現することによって、万人成仏の道を開いたのです。ゆえに創価学会では、日蓮大聖人を「末法の御本仏」として尊崇しています。
南無妙法蓮華経
「南無妙法蓮華経」とは、日蓮大聖人が覚知し、自身に体現した、宇宙と生命を貫く永遠普遍の根本の法です。そして、本来、万人の生命に具わる普遍の法でもあります。日蓮仏法の実践は、この「南無妙法蓮華経」の題目を御本尊に唱え、祈ることが根本です。これにより、誰人も自身の内なる仏の生命を開き現し、生命が浄化され、苦難を乗り越える力強い生命力を引き出すことができます。「南無妙法蓮華経」の「南無」とは、古代インドの言葉・サンスクリット語(梵語)の「ナマス」(namas)あるいは「ナモー」(namo)の音写で、「帰依」「帰命」を意味し、この法を自身の根本として生き、自らに体現していくことを示しています。「妙法蓮華経」とは、もとは法華経の正式名称ですが、、経典の題名の意味にとどまらず、法華経の肝要ともいうべき法の名でもあります。「妙法」とは、この根本の法が理解し難い不可思議な法であることを意味しています。そして、その妙法の特質を、植物の蓮華(ハス)に譬えています。蓮華は泥沼の中から清らかな花を咲かせ、つぼみの段階から花と実が同時に生長します。すべての人が苦悩渦巻く現実の中で、揺るぎない幸福境涯(仏の生命)を確立できることを蓮華になぞらえています。「南無妙法蓮華経」には、“宇宙と生命を貫く仏の生命を根本として生き、自身の生活・人生の上に仏の生命を発現させていく”という意味が含まれています。
御本尊
「本尊」とは「根本として尊敬するもの」を意味し、信仰の根本対象をいいます。創価学会では、日蓮大聖人が現した南無妙法蓮華経の文字曼荼羅を本尊としています。「曼荼羅」とは、サンスクリット語「マンダラ」の音写で、仏が覚った場(道場)、法を説く集いを表現したものです。御本尊は、法華経に説かれる「虚空会の儀式」の姿を用いて現されています。虚空会の儀式とは、巨大な塔(宝塔)が大地から出現し、全宇宙から諸仏が集まって、虚空(空中)で釈尊の説法が行われる儀式をいいます。曼荼羅の中央には「南無妙法蓮華経 日蓮」と大書され、その周囲に仏や菩薩、種々の境涯を示す衆生が並んでいます。このことは、すべての衆生が仏の智慧と慈悲の光に照らされて、生命本来のありのままの尊い姿になるとの意義を表しています。また、仏や菩薩をはじめ、あらゆる衆生が集い、末法の人々の平和と幸福を願うという法華経の世界観を表現しています。この御本尊を信じることによって、仏の生命を我が身に開き、いかなる苦悩も乗り越えていくことができます。また、一人一人がありのままの姿で自分らしく輝いていくことができます。法華経の虚空会の儀式には、末法という、争いと苦悩の社会にあって、万人の幸福を実現し、平和社会を築く誓いを立てた「地涌の菩薩」が登場します。日蓮大聖人が現した御本尊に祈ることは、地涌の菩薩の使命を呼び覚ます意義も含まれています。したがって、地涌の菩薩の誓いに生きることが、日蓮仏法の実践の根幹となっています。
御書(創価学会の聖典)
創価学会では、日蓮大聖人の著作や書状を「御書」と尊称し、信仰のあり方や姿勢が説かれた根本の聖典として学んでいます。日蓮大聖人は人々を教え導くため、生涯にわたって数多くの著作や書状を残しました。それらは今日、四百数十編が伝えられ、「立正安国論」「開目抄」「観心本尊抄」等の法門書や弟子・門下たちへの消息文(手紙)などがあります。日蓮大聖人の在世当時、仏教の論書は漢文体が普通でした。しかし、日蓮大聖人は多くの場合、庶民に分かりやすい仮名交じり文に、時には読み仮名も添えて記しています。門下からの供養や手紙に対しても、すぐに返事の筆を執り、譬喩や故事を織り交ぜながら、法門の内容を示しました。戸田先生の発願により、1952年に、『日蓮大聖人御書全集』を刊行。漢文体を書き下しにするなど、より広く現代に普及することを目指しました。
人間革命の実践
「人間革命」とは、自分自身の生命や境涯をよりよく変革し、人間として成長・向上していくことをいいます。戸田先生が理念として示し、池田先生が信仰の指標として展開しました。人間革命とは、現在の自分自身とかけ離れた特別な存在になることでもなければ、画一的な人格を目指すことでもありません。万人の生命に等しく内在する、智慧と慈悲と勇気に満ちた仏の生命を最大に発揮することで、あらゆる困難や苦悩を乗り越えていく生き方です。また、日蓮大聖人は、「冬は必ず春となる」「大悪を(起)これば大善きたる」などと、人生において直面するいかなる困難をも前向きにとらえ前進のバネとしていく変革の生き方を説いています。この哲学を根本に、会員は人間革命の実践に日々取り組んでいます。
自他共の幸福の実現へ
日蓮大聖人は、「立正安国論」の中で、「自分の幸福を願うならば、まず周囲の平和を祈るべきである」(趣意)と述べています。個人の幸せは、世界の平和と安定なくしてはありえないからです。また、日蓮大聖人は、「人のために火をともせば・我がまへ(前)あきらかなるがごとし」とも述べ、他者のために行動することは、自身の成長をももたらすと説いています。こうした思想のもとに会員は、積極的に他者に関わる生き方を通して、自他共の幸福の実現を目指しています。
世界平和——広宣流布と立正安国
<広宣流布> 「広宣流布」とは、仏法が説く生命尊厳の思想を根本に、人類の幸福と社会の繁栄、世界平和の実現を目指す運動のことです。会員は、自らの信仰体験や仏法思想を友人や知人に語り、日蓮仏法を基調とした人間主義の運動への理解と共感を広げる対話に取り組んでいます。また、よき市民として、それぞれが属する地域や共同体への貢献を大切にしています。創価学会は、平和・文化・教育の分野でも様々な活動を展開し、現代社会が抱える地球的な諸課題に取り組んでいます。核兵器の脅威を伝える展示や人権教育などの活動を通し、平和の大切さや生命の尊厳、人権の尊重などを訴え、環境保護に関する展示などを通し、地球環境の保全への意識啓発も推進しています。こうした運動は世界各国に広がっています。2013年11月には、創価学会の信仰の中心道場として、東京・新宿区信濃町に「広宣流布大誓堂(だいせいどう)」が完成。大礼拝室には、「広宣流布の御本尊」を安置し、全世界の会員が広宣流布の成就を誓い祈念する「広宣流布誓願勤行会」を開催しています。
<立正安国> 「立正安国」とは、「正を立て、国を安んず」と読みます。「立正」とは、一人一人が自身に内在する根本的な善性(仏の生命)に目覚め、「人間尊敬」「生命尊厳」の哲理を確立すること。「安国」とは、民衆が安心して暮らせる安穏で平和な国土の建設を目指すことです。日蓮大聖人が1260年に鎌倉幕府に提出した「立正安国論」の直接的な執筆の動機は、1257年の「正嘉の大地震」やその前後に相次いだ自然災害・飢饉・疫病により、極限的な状況に置かれた人々の姿を目の当たりにしたことにあります。日蓮大聖人は、民衆の苦悩を救う道を模索し、人間尊敬、生命尊厳の哲理を人々の心に確立することが、安穏な社会を建設する方途であることを「立正安国論」の中で示しました。日蓮大聖人の眼差しはあくまで民衆一人一人の幸福に向けられていました。「立正安国論」の中で用いられた「国」の文字の大半に「口(くにがまえ)」に「民」と書く「口民」をあてていることが、それを端的に表しています。 
初代会長 牧口常三郎
略歴・国家権力と対決した創価の厳父
初代会長 牧口常三郎 明治4年(1871年)6月6日(旧暦)、新潟生まれ。北海道尋常師範学校卒。同校の教諭兼舎監を経て、約20年間、東京・白金尋常小学校など6校の校長 を歴任。「子どもの幸福」を目的とする慈愛の教育に徹した。1928年(昭和3年)、日蓮大聖人の仏法を知り、1930年(同5年)11月18日に「創価 教育学会」(創価学会の前身)を創立。教育改革、仏法に基づく生活革新運動へと展開した。戦時下、宗教・思想の統制を図る軍部権力の手で1943年(同 18年)に治安維持法違反ならびに不敬罪容疑で検挙・投獄され、1944年(同19年)11月18日、獄中で逝去した。主著に『人生地理学』『創価教育学 体系』など。
苦学の青春——教育者への道程
明治26年、小学校の訓導に(2列目の右から3人目) 牧口は明治4年(1871年)6月6日(旧暦)、現在の新潟県柏崎市荒浜に、父・渡辺長松と母・イネの長男として生まれます。父・長松の消息が途絶えたため、6歳で叔母の嫁ぎ先であった牧口善太夫の養子となりました。
13歳のころ、荒浜と交流の深かった北海道に渡ります。小樽警察署の給仕として働きながら時間さえあれば読書・勉強する姿に、署員たちは「勉強給仕」と呼 び親しんだとも伝えられます。18歳で北海道尋常師範学校に入学するまでの苦学の体験は、教育の機会に恵まれない子どもや女性への目を向けさせ、その後の 女性向けの通信教育(大日本高等女学会)や半日学校制度の提唱へと昇華されます。
師範学校の卒業後は、同校付属小学校の訓導をへて、28歳の若さで同師範学校教諭兼舎監に就任。多数の教育論文を執筆し、若くして北海道教育会の評議員に選出、同会幹事になるなど北海道の教育界に将来を嘱望される存在となっていきました。
『人生地理学』を発刊——人道的競争を主張
大正11年、郷土会の人々と。牧口は前列左端。 「教育」とともに牧口の心をとらえていたのが、「地理」の研究です。牧口は北海道でははじめて文部省検定試験の地理科に合格していました。
30歳の春、牧口は意を決して教職を辞し、日頃書き溜めていた原稿を携えて上京。地理学者・志賀重昂(しが しげたか)のアドバイスを受け、1903年 (明治36年)に発刊したのが『人生地理学』です。「人生」すなわち人間の生活と「地理」の関係から世界を見つめた意欲作でした。
同書で牧口は、日本人の島国根性を痛烈に批判。日露戦争を目前にした国威高揚の時代にあって、「十五億万の一世界民たることを自覚する」と、世界市民を志 向していました。そして、世界は「軍事的競争」「政治的競争」「経済的競争」の時代から「人道的競争」の時代へと移らねばならないと訴えました。
近年の研究で『人生地理学』は、発刊の3年後には中国人留学生の手によって翻訳され、教科書としても使われていたことが明らかになっています。
牧口は地理研究者として、新渡戸稲造の「郷土会」にも参加、柳田国男らとも親交を深めました。
子どもの幸福こそ——初等教育の現場で
牧口は1913年(大正2年)、東京の東盛尋常小学校の校長に就任して初等教育の現場に戻りました。以後19年間、6校の校長を歴任。上意下達、知識の詰め込み型の教育の風潮に抗して、「子どもの幸福」を目的とする教育理論を実践しました。
不正や権力の横暴に対して断固とした態度をとった牧口。大正尋常小学校時代のこと、地元の有力者が訪ねてきて「自分の子どもを特別扱いしてほしい」と。牧口が拒否すると、それを恨みに思い、牧口を転任させた事件もありました。転任先の西町尋常小学校にもいやがらせは及びます。ここでは牧口の転任を惜しみ、教師たちは辞表を書き、父母は子どもを同盟休校させたほどです。実直・公平な牧口の人柄は児童・父母、教師から慕われていたのです。
北海道時代、冬の日は湯をたくさん沸かし、あかぎれになった子どもたちの手を洗ってあげたり、雪道では手を引いたり背負って、児童の登下校を助けた牧口。東京・三笠尋常小学校時代にも、弁当を持参できない貧しい児童のために、パンやみそ汁を用意しました。
約10年間校長を務めた白金尋常小学校時代、関東大震災が起こると(1923年=大正12年)、牧口は被災者救援のボランティアを組織し、呼びかけに集まった250人の子どもたちと活動しています。
創価教育学会の創立——『創価教育学体系』の発刊
「先生、私をぜひ採用してください。私は、どんな劣等生でも、かならず優等生にしてみせます!」——北海道から牧口校長を訪ねて来て、こう語った二十歳の青年がいました。後に創価学会の第二代会長となる戸田城聖です。牧口は戸田の熱意に打たれ、臨時代用教員として採用しました。
1928年(昭和3年)、牧口は日蓮大聖人の仏法に帰依します。それまで、自身の科学観、哲学観に照らして、信ずるに足る宗教を見いだせなかった牧口。「日常生活の基礎をなす科学、哲学の原理にして何等の矛盾がない」日蓮仏法との出あいは、「六十年の生活法を一新する」ものとなりました。愛弟子の戸田も、牧口のあとに続きます。
1930年(同5年)11月18日、牧口は書きためてきた自身の教育理論を戸田の協力を得てまとめ、『創価教育学体系』として発刊しました。創価教育学とは「人生の目的たる価値を創造し得る人材を養成する方法の知識体系」を意味しました。同書は発刊されるや教育界はじめ各界に波紋を呼び、新渡戸稲造は「日本人が生んだ、日本人の教育学説であり、しかも現代人がその誕生を久しく待望せし名著である」と述べています。
「創価教育学会」の創立は、この『創価教育学体系』発刊の日を淵源としています。
宗教改革と国家権力の弾圧
昭和17年冬、自宅にて 日蓮仏法の探求を深めるにともなって、牧口は社会・生活の全般を改革する必要性を感じ、教育法の改革は、その一部であると考えるようになりました。創価教育学会は教育者以外の賛同者も増え、日蓮仏法の実践を主軸とする、宗教改革の団体となっていきます。
牧口は高齢にもかかわらず、自ら活動の先頭に立ち、北は北海道から、南は鹿児島まで足を運んで、一対一の対話を実践。会員は全国に4000人を数えるまでになりました。
しかし、第2次世界大戦への坂を転げ落ちる日本は、国家神道によって宗教・思想の統制を図ろうとします。創価教育学会の座談会なども、思想犯の摘発に当たった特高(特別高等警察)の刑事が厳しく監視するようになりました。
弾圧を恐れて国家神道を受け入れた日蓮正宗宗門を牧口は厳しく諌め、軍部権力と敢然と対峙していきます。1943年(昭和18年)7月6日朝、牧口は訪問先の伊豆で、治安維持法違反・不敬罪の容疑で検挙され、同日朝、理事長だった戸田も東京で検挙。ともに逮捕・投獄され、会は壊滅状態となりました。牧口、戸田は、厳しい尋問にも屈せず、信念を貫く獄中闘争を続け、牧口は1944年(同19年)11月18日、創価教育学会創立から14年後のその日、老衰と極度の栄養失調のため、拘置所内の病監で逝去しました。満73歳でした。
牧口の思想は、1945年(同20年)に出獄した戸田によって受け継がれていきます。
世界に広がる牧口の思想
「小学校から大学まで、私の研究している創価教育学の学校ができるのだ」という牧口の構想は、弟子の戸田城聖(創価学会二代会長)をへて、創価学会三代会長の池田大作の手によって、創価学園はじめ創価大学、アメリカ創価大学等という形で具現化されました。
牧口、戸田が手がけた通信教育も、日本一の在籍者(2万人超)を持ち、2300を超える教員試験合格者を出している創価大学の通信教育部に受け継がれています。
牧口の『創価教育学体系』は今日、世界の人々から注目されるようになりました。既に英語、ポルトガル語、ベトナム語、フランス語、スペイン語、ヒンディー語の各国語版が出されています。なかでもブラジルでは全土200校以上で、のべ100万人の子どもが創価教育学に基づくプロジェクトで学んでいます。
また、イタリアやブラジルでは、牧口を「人間教育の偉人」として顕彰し、「牧口常三郎」の名前を冠した公園や通り、庭園も誕生しています。
万人が価値を創造し、幸福の人生を享受することを願った牧口の思想が、時代や国境を超えて評価されているのです。
第二代会長 戸田城聖
略歴・再建に立ち 創価の基盤を築く
第二代会長 戸田城聖 1900年(明治33年)2月11日、石川県生まれ。北海道での教員生活を経て上京し、牧口常三郎に師事した。1928年(昭和3年)、日蓮大聖人の仏法に帰依。1930年(同5年)、牧口とともに「創価教育学会」を創立し、理事長として教育改革、宗教改革に尽力。1943年(同18年)、宗教・思想の統制を図る軍部権力に検挙・逮捕され、2年余の獄中生活を強いられた。出獄後、「創価学会」と改称し、再建を開始。1951年(同26年)、第二代会長に就任して組織を整え、7年足らずで75万世帯に拡大した。この間、創価学会の平和運動の基礎となる「地球民族主義」の構想や「原水爆禁止宣言」を発表。1958年(同33年)4月2日、逝去した。主著に『推理式指導算術』、小説『人間革命』など。
青春時代
その人柄は豪胆にして細心。遠大な理想家、情熱家にして万般に通じた真の教養人。民衆を愛し、民衆から慕われた人間指導者。その人こそ戸田城聖でした。戸田は、1900年(明治33年)2月11日、現在の石川県加賀市塩屋で、父・甚七と母・すえの七男として生まれました。まもなく一家で新天地を求めて北海道・厚田村へ移り住みます。
厚田村の尋常小学校高等科を卒業後、家業を助けるために一度は進学を断念しましたが、後に札幌に出て商店で年季奉公をしながら、独学で勉強に励みました。1917年(大正6年)には尋常小学校準教員(准訓導)の資格試験に合格。翌年、夕張の真谷地尋常小学校の代用教員に。教壇に立ちながら、正教員の資格、化学、物理、代数、幾何などの免許を次々と取得していきました。
1920年(同9年)3月、退職して単身で上京。当時の日記に、「未だ、余は余の師人を見ず、余の主を見ず」とあるように、この上京は生涯の師を求めての旅立ちでした。
人生の師との出会い
1920年(大正9年)、東京・下谷区(今の台東区)の西町尋常小学校の校長を務めていた牧口を、ドテラのようなものを着た、背の高い青年が尋ねてきました。北海道から上京してきた戸田でした。牧口48歳、戸田19歳の時でした。「教師に採用してほしい」——牧口は、戸田の意欲あふれる姿にうたれ、同小学校の「臨時代用教員」として採用します。以後、戸田は、牧口を人生の師と仰いでいきます。
1923年(大正12年)、戸田は東京・上大崎に私塾「時習学館」を設立します。牧口の独創的な教育理論をもとにした授業は好評で、多くの塾生でにぎわいました。戸田は、1930年(昭和5年)6月には、時習学館で使ってきた算数のプリントを一冊にまとめ、『推理式指導算術』を出版。受験参考書として、100万部を超えるベストセラーとなり、“受験の神様”との異名までとりました。
1928年(昭和3年)、牧口が日蓮大聖人の仏法に帰依。愛弟子の戸田も牧口に続きました。1930年(同5年)11月18日、牧口が自身の教育理論をまとめた『創価教育学体系』を発刊した際、その編集と財政的支援を担ったのも戸田でした。同書の発刊をもって「創価教育学会」が創立され、1937年(同12年)1月、創価教育学会名簿が作成され約100人が名を連ねたのです。
国家による弾圧と覚醒
教育者の団体として出発した学会は、ほどなく、教育改革のみならず、日蓮大聖人の仏法に基づいて生活・社会全般を変革することを目的とするようになり、仏法の実践団体になっていきました。しかし、国内の宗教団体を統制下に置こうとする軍部政府は、創価教育学会の活動に対しても、特高(特別高等警察)の刑事を派遣するなど、厳しい監視を行います。それは、1943年(昭和18年)7月の学会幹部の一斉逮捕となり、6日朝、戸田も治安維持法違反、不敬罪の容疑で検挙されました。戸田は東京拘置所に移され、2年におよぶ獄中生活を強いられました。
獄中にあった戸田は1944年(昭和19年)の元朝から、毎日1万遍の唱題(南無妙法蓮華経と唱えること)に励み、法華経全巻を読み進めていきました。
法華経を3回繰り返し読み、4回目に入ったとき、一つの壁に突き当たりました。
それは法華経の序説(開経)にあたる無量義経徳行品第一の一節でした。
「其の身は有に非ず亦無に非ず 因に非ず縁に非ず自他に非ず……」と34の「非ず」が並んでいる個所です。「其の身」が仏の身を指していることは理解できましたが、34もの否定が何を表現しているのか分かりませんでした。
“この文は何を意味しているのか”
——戸田は深く悩み、唱題しては思索し抜く中、3月のある日、「仏とは生命である。自分の命にあり、また宇宙の中にもある、宇宙生命の一実体である」と直観したのです。
その後も法華経を読み続けるなかで、戸田は、仏から末法の広宣流布を託された「地涌の菩薩」の一人であるとの使命を深く自覚するとともに、生涯を広宣流布に捧げる決意を定めたのです。
学会の再建へ 会長就任
1945年(昭和20年)7月3日、戸田は2年におよぶ獄中生活に耐え、出獄しました。師匠の牧口は獄死。弾圧によって創価教育学会の幹部の多くが信仰を捨て、組織は壊滅状態でした。戸田は、ただ一人、牧口の遺志を継いで、仏法を弘めることを固く心に誓いました。
新出発にあたり、教育改革だけでなく、全民衆の幸福と世界の平和を目指す学会の目的に即して、「創価教育学会」の名称を「創価学会」に改めました。
1947年(同22年)には、池田大作(現・名誉会長)が入会。やがて池田は戸田の経営する出版社に入り、戦後の経済混乱に翻弄される事業を懸命に支えていきます。
1950年(昭和25年)、戸田は自身の事業の破綻の影響が、創価学会自体におよぶことを憂慮して、理事長職を辞任。翌1951年(同26年)春、事業の整理がなされ、事態が好転する兆しをみた上で、会長就任を決意します。
5月3日、多くの会員の推戴を受けて、第二代会長に就任。あいさつした戸田は、自身の誓願として、生涯のうちに75万世帯の弘教を達成することを宣言しました。当時の学会は約3000人。だれも信じられない大目標です。しかし、戸田の指揮によって、学会は本格的に仏法を弘める運動を開始していきました。
なお、会長就任直前の4月20日には、機関紙「聖教新聞」を創刊しています。
平和への叫び
学会の飛躍的な発展が注目されるなか、戸田は、後の創価学会の平和運動の基調となる宣言を発表しました。1957年(昭和32年)9月8日の「原水爆禁止宣言」です。
また戸田は、東西冷戦が激化するなか、「地球民族主義」の理念を提唱し、「全人類が一つの地球民族であるとの自覚を持つべき」と主張しました。
永遠の三指針
戸田が命に代えても達成すると宣言した「75万世帯」。その達成が報告されたのは、戸田が逝去する4カ月前、1957年(昭和32年)12月のことでした。戸田は病床にあって、同志のために残しておくべき指針を思索。それが「永遠の三指針」として今に受け継がれている、「一家和楽の信心」「各人が幸福をつかむ信心」「難を乗り越える信心」です。
翌1958年(同33年)3月16日、全国から男女の青年部員6000人が集いました。戸田は衰弱した体をおして式典に参加し、「創価学会は宗教界の王者である」と青年を励まし、池田をはじめ青年たちに創価学会の運動の一切を託したのです(広宣流布の記念式典)。
すべてを見届けた戸田は、同年4月2日、58歳の生涯を終えたのです。
第三代会長 池田大作
略歴
1928年(昭和3年)1月2日生まれ。東京都出身。富士短期大学卒。
1947年(同22年)、19歳で創価学会に入会。戸田城聖理事長(後の第二代会長)に師事する。1960年(同35年)、創価学会第三代会長に就任。約20年間の在任中に、創価学会の飛躍的・国際的な発展をもたらす。1979年(同54年)、名誉会長に就任。1975年(昭和50年)、SGI(創価学会インタナショナル)の会長に就任。
世界平和を希求する仏法者、人間主義の活動家として、これまで世界54か国・地域を訪問し、各国の指導者、文化人、学者等と会見、対談を重ねる。
創価学園・創価大学・アメリカ創価大学のほか、(財)民主音楽協会、(財)東京富士美術館、(財)東洋哲学研究所、牧口記念教育基金会、戸田記念国際平和研究所など教育・音楽・美術・学術の諸団体を創立。
「国連平和賞」をはじめ受賞多数。モスクワ大学、ボローニャ大学などから名誉博士号等の称号も贈られている。
主な著書に、小説『人間革命』(全12巻)、『二十一世紀への対話』(A・トインビーとの対談)など。また、『さくらの木』などの童話や、『青春対話』など青少年向けの著作も数多い。
苦闘の青春——生涯の師との出会い
池田大作(いけだだいさく)は1928年(昭和3年)1月2日、現在の東京都大田区で海苔製造業を営む一家の五男として生まれました。父は、子之吉(ねのきち)。母は、一(いち)。第2次世界大戦の渦中で過ごした少年時代。空襲の恐怖、長兄の戦死、悲しむ母の慟哭……多感な時期に心に刻まれた戦争への怒りが、池田の生涯の平和行動の原点となっています。
青春時代は、肺病と闘うなかで、トルストイ、ユゴー、ゲーテ、ホイットマンらの文学を読み、詩を創作し、人生の意義について思索をめぐらせる日々でした。
1947年(同22年)8月に、小学校時代の友人に誘われ、初めて創価学会の座談会に出席。そこで生涯の師となる戸田城聖と出会い、その人格に感銘を受け、創価学会に入会しました。19歳の時でした。
1年半後に戸田のもとで働くようになって以来、生涯、戸田に師事し、その逝去まで、事業をはじめあらゆる面で恩師を支え続けました。
平和活動とSGIの設立
1960年(昭和35年)5月3日、池田大作は戸田第二代会長の後を継ぎ、創価学会第三代会長に就任。同年10月に、当時世界に広がり始めていた学会員の激励のため、初めて北・南米を訪問し、世界への平和行動の第一歩をしるしました。
1974年(同49年)、第一次訪中の折、一人の少女が池田に尋ねました。「おじさんは、何をしに中国に来たのですか?」。池田は即座に「あなたに会いに来たのです!」と答えました。「その地に住む人々に会うために。市民と友情を結ぶために」——これが池田の平和行動の根本姿勢です。社会体制やイデオロギーの壁を超え、池田は中東諸国や当時のソ連なども訪問しています。
1975年(同50年)1月26日には、世界51か国・地域のメンバーがグアム島に集い、創価学会インタナショナル(SGI)が創立され、池田はSGI 会長に就任。国籍・民族を超えて世界の人々と語らい、友情を広げる対話行動に対し、「国連平和賞」などの栄誉が贈られています。
作家、詩人、哲学者として——小説『人間革命』の執筆
「戦争ほど、残酷なものはない。戦争ほど、悲惨なものはない」——池田大作は、小説『人間革命』の冒頭に記しています。
執筆は、沖縄の地で始められました。1964年(昭和39年)のことです。日本で唯一の地上戦を経験した沖縄。戦争の悲惨さを、いやというほど味わった地から、平和と幸福の波を起こしていこうとの決意からでした。
この小説は、恩師・戸田城聖の生涯と、創価学会が一大民衆運動へと発展していくドラマをつづった全12巻の作品です。「一人の人間における偉大な人間革命は、やがて一国の宿命の転換をも成し遂げ、さらに全人類の宿命の転換をも可能にする」との主題で、宿命に泣いていた人々が、信仰を根本として蘇生していく姿が描かれています。
1993年(平成5年)から、続編となる小説『新・人間革命』を執筆。現在も、聖教新聞紙上で連載中です。同書の冒頭に池田は、「平和ほど、尊きものはない。平和ほど、幸福なものはない。平和こそ、人類の進むべき、根本の第一歩であらねばならない」とつづっています。
また『法華経の智慧』をはじめとする仏法哲学の解説書も多数、出版。さらに池田は、数多くの長編詩を発表しており、1981年(昭和56年)、世界芸術文化アカデミーから「桂冠詩人」の称号を贈られました。池田の詩について、世界詩歌協会のスリニバス会長は、「極めて高い理想の啓発を受けたその詩歌は、それ自体が一つの宇宙です」との讃辞を寄せています。
教育者として——創価学園をはじめ教育機関の設立
「お父さん、お母さんを大切に!」「生涯、学びの道を!」——生徒たちに、いつもこう呼びかける池田大作。「知識の切り売りではなく、人間としての“幸福への道”をともに歩んでいくことが教育者の務め」との思いからです。
池田は「教育こそ、私の最後の事業」と語ります。“教育の第一義は、子どもの幸福にある”との「創価教育学」を打ち立てた牧口初代会長、そして戸田第2代会長の遺志を継ぎ、創価教育の学舎である「創価学園」(中学・高校)を東京に設立。その後、関西創価学園、大学、小学校、幼稚園を創立し、創価教育の同窓生は5万人を超えています。
各学校には、「英知を磨くは何のため 君よそれを忘るるな」(創価大学)などのモットーや建学の指針が掲げられ、学生・生徒らに「学問は民衆の幸福のためにある」との哲学を教示しています。
また、青少年向けの執筆も多く、主に中学生を対象とした対話集『希望対話』では、「“いじめ”は、いじめている側が100%悪い」などの主張を展開。「教育権の独立」「“社会のための教育”から“教育のための社会”へ」など、数々の教育提言も発表しています。
平和活動家として——世界の首脳、識者との対話
「21世紀に向かって、このような対話を続けていっていただきたい」——これは大歴史家トインビー博士が、池田大作に託した言葉です。1972年(昭和47年)のトインビー博士との対談から、池田の世界各国の首脳・識者・文化人との本格的な対話が始まりました。
中国の周恩来首相、ソ連のゴルバチョフ大統領ら首脳とは、「世界平和へ国家・民族を超えた友情の連帯」をめぐって、また、音楽家のメニューイン氏、美術史家のルネ・ユイグ氏らとは、「人間の精神性と芸術」を語らい、さらに、宇宙飛行士と「宇宙のロマン」の対談を繰り広げるなど、あらゆる分野の人物と対話をしています。
そうした「世界の知性」との対談集のうち、トインビー博士との対談集『二十一世紀への対話』は、28言語に翻訳・出版され、海外では大学の教材にもなり、“人類の教科書”との評価も受けています。
このほか池田は、ハーバード大学、モスクワ大学など世界の最高学府で講演も行い、人類の未来のためのメッセージを発信。また1983年(同58年)以来、毎年、「SGIの日」である1月26日に記念提言を発表し、「環境国連」や「核廃絶のための特別総会」の開催など、世界の平和と地球の未来へ向けての具体的提案を行っています。 
創価学会 3 創価学会はなぜ社会から嫌われるのか

 

「創価学会はなぜ嫌われるのか」というのが、本稿のタイトルである。そこでは、創価学会が嫌われているということが前提になっている。確かに、世の中には創価学会のことを嫌う人たちがいる。忌み嫌い、創価学会などなくなってしまえばいいと考えている人がいることは事実だ。
しかし、そうした創価学会に対する嫌悪感は、昔に比べればはるかに弱くなっているようにも思われる。
3年ほど前の秋のことである。私は講演をするために、広島県の三次(みよし)市を訪れた。
そのときは、最近の葬儀のあり方について地元の浄土真宗の人たちに話をしたのだが、送り迎えをしてくれた僧侶の人から興味深い話を聞いた。
昔は、創価学会といえば、地元で嫌われる存在だった。ところが最近では、学会の会員たちをいい人たちと言う人が増えているというのである。
浄土真宗の場合、日本の仏教宗派の中でも信仰に対して特に自覚的で、しかも、社会の支配階層ではなく、一般民衆に基盤を置いているため、創価学会とは対立する関係になり、創価学会批判にも積極的だった。
攻撃的でなくなった創価学会の勧誘
ところが最近の創価学会の会員は、昔とは異なり、地域に溶け込もうとして、ほかの人たちが嫌がるPTAや町内会の役員などを積極的に引き受けてくれる。しかも、地域のために活動する代わりに布教活動をやったりはしない。だから地域の人たちも、創価学会の会員たちはいい人たちだと認識するようになってきているというのである。
広島は、「安芸門徒」という言葉があるように、伝統的に浄土真宗の信仰が強い地域である。にもかかわらず、住民の間で、創価学会に対する好き嫌いの気持ちが変わったことは大きい。おそらくそれはほかの地域でも起こっていることだろう。その点では、創価学会は嫌われなくなった。あるいは、正確にいえば昔ほど嫌われなくなっているのである。
昔の創価学会は、現在とは比べられないほど攻撃的な姿勢を示していた。布教活動は「折伏(しゃくぶく)」と呼ばれ、相手を論破して、無理やり信仰を押し付けるというやり方が取られた。
家に地域の創価学会の会員が幾人も押しかけてきて、延々と折伏が続くようなこともあった。
それは、家庭だけではなく、ほかの宗教や宗派の宗教施設にも及んだ。キリスト教の教会に学会員がやってきて、イエス・キリストが復活するなど非科学的で、キリスト教の信仰は間違っていると議論を吹っかけてきたのである。
それまでの日本の新宗教(明治以後に成立した宗教)は、人が何か不幸や悩みに直面したとき、当人が自分の考え方を変えて、それを介して相手の気持ちも変えようというやり方を取っていた。
ところが創価学会には、そうした面はまったく見られなかった。何か問題が起きても、その解決策は相手を折伏することにあり、自分を反省する様子などみじんも見せなかった。
子どもたちの場合にも、当時の創価学会が密接な関係を持っていた日蓮宗の一派・日蓮正宗が、ほかの宗教や宗派の信仰をいっさい認めないという姿勢を取ったため、創価学会の家庭の子女は、修学旅行に行っても、神社の鳥居さえくぐらなかった。いくら言っても、それは「謗法(ほうぼう)」(間違った信仰)だと言って取り合わない。そうした信仰上のかたくなさも、創価学会が嫌われる原因だった。
もっともそこには、日本人一般の宗教観も影響していた。日本人は、多くが自分は無宗教だと考えているが、神社に行けば鳥居をくぐって参拝し、死ねば仏教式で葬儀を挙げる。そうしたやり方をするのが世間の常識だと考えていて、それに抵抗する人間は偏屈で間違っていると考え、時にはそれを攻撃する。
無宗教を標榜する一般の日本人と創価学会の会員との対立も、その点では、異なる宗教観に基づくものであり、そこでは小さな「宗教戦争」が起こっていたと見ることができる。創価学会の会員が嫌われるような態度を取ったということもあるが、一般の日本人が、一定の信仰を持ちつつ、それに無自覚だったことも、対立を激化することに結び付いた。
増幅された池田氏の悪のイメージ
創価学会が激しい嫌悪の対象になっていた時代において、池田大作という存在は極めて大きかった。
池田氏は、創価学会の第3代会長であり、会長を退いてからは名誉会長の地位にある。
池田氏が創価学会の会長に就任したのは、わずか32歳だった。60年安保の年のことである。
なぜそれほどの若さで、すでに巨大教団に発展していた創価学会の会長に就任できたのか。部外者には不思議に思えるかもしれないが、確かに池田氏には集団を率いるリーダーとしての素質が備わっていた。
「創価学会恐るべし」という印象の背景
それは、創価学会が参議院に初めて立候補者を立てた大阪での選挙の際にも表れていた。彼は、ずっと大阪に泊まり込んで、陣頭指揮に当たった。選挙で多くの票を獲得することは、会員を増やすということでもあり、池田氏は大阪で創価学会の基盤を確立するのに大きく貢献した。その後も、池田氏の大阪訪問は250回以上に及び、絶大な影響力を持ってきた。
創価学会が政界に進出する直前の1955年、北海道の小樽で行われた創価学会と日蓮宗との間の法論では、池田氏が創価学会側の司会を務めた。その法論では判定を下す第三者が不在だったにもかかわらず、池田氏は、最後に司会者の特権として創価学会が勝利したと言い放ったため、創価学会が法論に勝ったというイメージが作り上げられた。それは、「創価学会恐るべし」という印象を日蓮宗のみならず、宗教界全体に与えたのだった。
しかし池田氏の果たした役割は、創価学会の会員ではない一般の人間は知らない。そのため、池田氏は巨大教団に君臨する独裁者であるかのようにとらえられてしまう。
実際、それを裏づけるような報道が、週刊誌などを中心に集中的に行われたことがあった。それは、創価学会と公明党が、自分たちを批判した書物に対してその出版を妨害しようとする「言論出版妨害事件」が起こってからである。この事件は、69年から70年にかけての出来事だった。創価学会が、公明党を組織して政界に進出していなければ、こうした報道もそれほど盛んには行われなかったであろう。
それに関連してもう一つ重要な点は、創価学会を辞めた人間たちの存在である。宗教教団を辞めた人間は、その組織に対して不満を持ったからそうした行動に出たわけで、辞めた教団に対しては批判的である。
さらに、創価学会の元会員には、多額の寄進をしていた人間たちが少なくなかった。創価学会は、日蓮正宗の総本山・大石寺に正本堂という建物を建てるために寄進を募るなど、会員から多くの金集めを行ってきた。機関紙である聖教新聞を何部も購読し、それを会員以外に届けていた会員もいた。私の知り合いでも、創価学会に数千万円を寄進したという元会員がいる。
金(かね)にまつわる恨みほど恐ろしいものはないともいえるが、さらに彼らは、辞めるときに強い引き留め工作を受けたり、辞めてからかつての仲間に誹謗中傷されたりすることもあった。そのため、恨みはさらに増し、内情を暴露したり、池田氏を激しく批判したりして、そうした声が週刊誌に掲載されたりした。
世の中に伝えられる創価学会のイメージは、相当に恐ろしい教団というものであった。そうした時代がかなり長く続くことで、創価学会を嫌う人間が増えていった。
逆に、一般の人間にとって創価学会が存在するメリットは少ない。ただ、会員でなくても選挙の際には公明党に投票する「フレンド票」となれば、友好的に接してくれるし、何か困ったことがあれば公明党の地方議員が相談に乗ってくれたりする。
そうした手段を利用する非会員もいたが、その恩恵にあずからない人間からすれば、それもまた創価学会を嫌う理由になった。外側からは、自分たちの利益だけを追求する極めて利己的な集団に見えたのである。
ただ、こうしたことは、ほとんどが過去のことになった。創価学会が伸びている時代には、多額の金を布教活動に費やす人間が出たが、今はそうした雰囲気はない。多くは、生まれたときから会員になっている信仰2世や3世である。
連立政権入りで安定性が強化された
折伏は影を潜め、新しく会員になるのは、会員の家の赤ん坊ばかりである。聖教新聞には、かつては敵対する勢力や裏切り者を罵倒する言葉があふれていたが、今はそれもない。
公明党が自民党と連立政権を組んでいることも大きい。創価学会は、それを通して、日本社会に安定した地位を築いた。ことさら社会と対立するような状況ではなくなったのである。
週刊誌などが、創価学会にまつわるスキャンダルを暴くこともほとんどなくなった。池田氏も高齢で、その言動が世間をにぎわすこともない。
現在では、一般の日本人が創価学会を嫌わなければならない理由はなくなった。だからこそ、冒頭で述べたように、創価学会の人たちはいい人たちだという声が上がるのである。
しかし、世間から嫌われなくなった創価学会は、宗教教団としての活力を失ったともいえる。会員の伸びは止まり、公明党の得票数も選挙をやるたびに減りつつある。週刊誌が取り上げないのも、記事にしても読者の関心を呼ばないからだ。
はたしてそれが創価学会にとって好ましいことなのか。今、学会の組織はそうしたジレンマに直面している。嫌われてこそ、本来の創価学会なのかもしれないのである。 
   (2015年9月) 
創価学会 4

 

創立 / 昭和5年11月18日
創始者 / 牧口常三郎
代表者 / 池田大作(名誉会長)、原田稔(創価学会会長)
崇拝の対象 / 日蓮大聖人が図顕された曼荼羅本尊
教典 / 日蓮大聖人御書全集
沿革
創価学会の発足
初代会長の牧口常三郎は、昭和3年、常在寺(東京池袋)の法華講員であった三谷素啓に折伏(しゃくぶく)教化され、日蓮正宗に入信しました。そして後に2代会長となる戸田城聖も、牧口に続いて入信しています。
当時、小学校の校長をしていた牧口は「価値創造」を基とする独自の教育方法を考案し、これを「創価教育学」と名づけました。これに共鳴する教育者が次第に増え、牧口と戸田はそれらを折伏して日蓮正宗に入信させ、「創価教育学会」を発会しました。
しかし昭和16年、太平洋戦争の勃発(ぼっぱつ)にともない、軍部は国家神道を基とする国体思想の徹底を図りました。そうした中で、牧口・戸田や幹部らは治安維持法違反と不敬罪容疑で逮捕されました。
牧口はこの獄中において死亡しましたが、戸田城聖は昭和20年7月3日に出獄し、学会の再建に尽力しました。そして昭和21年1月、その名称を「創価学会」と改めたのです。
法人設立
終戦直後の混乱に乗じた折伏によって入信者は増え、昭和22年に池田大作が入信。昭和26年には戸田が第2代会長になり、活発な布教活動を全国に展開しました。
昭和26年、戸田は「総本山外護(げご)」と「布教をしやすくするため」という理由で、創価学会が独自の宗教法人を取得することを日蓮正宗に願い出ました。
これに対して日蓮正宗宗門は、
(1)折伏した人は信徒として末寺に所属させること。
(2)当山(日蓮正宗総本山)の教義を守ること。
(3)三宝(さんぼう=仏法僧)を守ること。
の三原則を法人設立の条件として提示し、学会は、この三原則と宗門外護の遵守(じゅんしゅ)を確約し、昭和27年、信徒団体という特殊な形態の、例外的措置によって宗教法人の認証を受け、設立されました。
池田大作の台頭
昭和33年に戸田城聖が死去し、昭和35年5月3日、池田大作が創価学会の第3代会長に就任しました。その就任式の席上、池田は、「わが創価学会は、日蓮正宗の信者の団体であります。したがって、私どもは大御本尊様にお仕え申し上げ、御法主上人猊下(ごほっすしょうにんげいか)にご奉公申し上げることが、学会の根本精神だと信じます」と述べて、本門戒壇(ほんもんかいだん)の大御本尊と御法主上人猊下に随順していくことが創価学会の精神であることを公表しました。
政界進出と正本堂(しょうほんどう)建立
昭和37年11月、創価学会は「公明党」を結成し、昭和40年7月の参議院選挙では20議席の勢力を有しました。
こうした中、創価学会の「言論出版問題(創価学会を批判する出版物発売を妨害した事件)」が表面化し、昭和45年に民社党は、これに関連して、池田大作の国会喚問(かんもん)を要求し、また共産党にも政教一致を追求されました。
これによって池田は、同年5月に行われた本部幹部会の席上、「言論・出版問題に関する謝罪」と「創価学会と公明党の政教分離」を表明しました。
また池田は、いまだ広宣流布が達成されていないにも関わらず、「自分が広宣流布を達成した証(あか)し」として、正本堂を「日蓮大聖人ご遺命(ゆいめい)の戒壇」とするよう宗門に迫りました。
しかし第六十六世・日達上人はそれを拒否され、訓諭(くんゆ)をもって正本堂について「大聖人御遺命の戒壇に準ずるもの」「現時における事(じ)の戒壇」と意義づけられ、昭和47年10月に正本堂が建立されました。
52年路線
この正本堂建立は、これに反発する「妙信講(後の顕正会)」問題や、創価学会の非法を執拗に攻撃する自称「正信会」の派生など、さまざまな問題が惹起(じゃっき)する要因となりましたが。
そしてこの正本堂建立を機に、池田の慢心は増長し、宗門支配を画策し、宗門に対してさまざまな圧力を加えはじめました。池田創価学会は、宗門を実質的に支配して乗っ取るか、それができなければ分離独立するという陰謀を企てるに至ったのです。
昭和52年には、学会に批判的な僧侶に対する多くの「つるし上げ事件」をはじめとした僧侶攻撃・宗門批判を行うとともに、日蓮正宗の教義から逸脱(いつだつ)し、ついには御本尊模刻という大謗法(だいほうぼう)を犯すに至りました。これが、いわゆる創価学会の「52年路線」です。
この時の教義逸脱の主なものは、
(1) 創価仏法の原点は、戸田会長の「獄中の悟達(ごだつ)」にある
(2) 唯授一人(ゆいじゅいちにん)の血脈(けちみゃく)の否定・途中の人師論師は無用・大聖人直結
(3) 『人間革命』は、現代の御書
(4) 池田会長に帰命(きみょう)・池田会長は主師親(しゅししん)三徳、大導師(だいどうし)、久遠(くおん)の師である
(5) 寺院は単なる儀式の場、学会の会館は広布(こうふ)の道場
(6) 謗法容認(祭りへの参加等)
(7) 供養は在家でも受けられる
などでした。
52年路線の収束
これらの謗法行為に対し、宗内僧侶を中心として学会批判の声が全国的に広がり、脱会者が続出。こうした状況に対し、池田は創価学会の崩壊につながることを危惧(きぐ)し、第六十六世・日達上人に謝罪し、事態の収束を願い出ました。
そして昭和53年、創価学会は「教義上の基本問題について」と題した、教義逸脱に関する訂正文を聖教新聞に掲載しました。しかしこれは、訂正内容が曖昧で、さらに会長である池田の責任を明らかにするものではありませんでした。
そしてこの頃、創価学会による本尊模刻も発覚し、同年9月、学会は急きょ、勝手に造った7体の模刻本尊を総本山に納めました。
窮地に追い込まれた学会は、同年11月、代表幹部2,000名による「創価学会創立48周年代表幹部会」(通称・お詫び登山)を開催し、そこに列席した宗内僧侶の面前で、公式に謝罪の意を表明しました。
しかしその後も、教義逸脱はまるで改められず、池田自身への責任追及の声が一層激しくなり、ついに池田は昭和54年、創価学会会長を辞任して名誉会長となり、法華講総講頭も辞任しました。これを受けて、第六十六世・日達上人は、学会が日蓮正宗の信徒団体としての基本を忠実に守ることを条件とされた上で、学会問題の収束を宣言されました。
その後、同年7月に日達上人が御遷化(ごせんげ)にともない、総本山第六十七世として日顕上人猊下が御登座(ごとうざ)され、日達上人の方針を引き継いで学会の善導に心を砕かれました。
平成の分離独立路線
平成2年11月16日、池田大作は全国の学会員に対して、衛星放送を通じて、御法主上人への誹謗(ひぼう)と宗門蔑視(べっし)のスピーチを行いました。それは、昭和53年の「お詫び登山」における反省・懺悔(さんげ)の言辞をすべて反古(ほご)にするものでした。
同年12月、宗門は学会との連絡会議の席上、「お尋(たず)ね」文書をもって、この池田スピーチの真意を確かめようとしましたが、学会は文書の受け取りすら拒否。そのため宗門は同文書を学会本部に送付しましたが、これに対し学会は誠意ある回答を示すどころか、敵意をあらわにした「お伺(うかが)い」という詰問(きつもん)書を送りつけるという不誠実ぶりでした。
再びの教義逸脱、そして破門へ
創価学会は、平成3年初頭から、全組織を挙げて御法主上人・宗門御僧侶への誹謗・中傷・嫌がらせを開始し、日蓮正宗の信仰の命脈である「下種三宝(げしゅさんぼう)」「血脈(けちみゃく)相伝」を否定し、さらに僧侶不要の「友人葬」の執行など、日蓮正宗の教義・信仰から大きく逸脱する謗法を犯すに至りました。
これに対し宗門は、日蓮正宗本来の信仰姿勢に立ち返るように訓戒を重ねましたが、創価学会はまったく聞き入れず、さらに誹謗を繰り返しました。
平成3年10月、宗門は「通告文」を送って強く反省を促しましたが、これに反発した学会はさらに誹謗・中傷をエスカレートさせていきました。そこで宗門は、同年11月7日、日蓮正宗の外護(げご)団体としての姿を失った創価学会に対し「解散勧告」を行いました。
それにさらなる反発をする学会……事ここに至り、宗門は、「もはや学会は本宗の信徒団体として認められない」と判断し、創価学会(およびSGI)を破門に処しました。
しかしこの破門は、あくまでも組織体に対する処分であり、学会員個々人については日蓮正宗信徒として破門するものではなく、信徒としての資格を残すというものでした。
池田大作の信徒除名と「ニセ本尊」配布
宗門は、創価学会の実質的責任者である池田大作に対し、弁疏(べんそ=弁明・釈明)の機会を与えましたが、池田はこれに対して無視を決め込み、そうした正式な手続きを経て、平成4年8月、宗門は池田を信徒除名(信徒としての破門)処分に付しました。
その翌年、創価学会は、浄圓寺(じょうえんじ=平成4年に日蓮正宗より離脱)所蔵の「日寛上人御書写の御本尊」を、改竄(かいざん)・コピーして会員に授与する旨を発表し、ついに創価学会は「ニセ本尊」を販売するという、驚愕の大謗法を犯すに至りました。
創価学会員の信徒資格喪失
宗門は、創価学会への組織破門から7年後の平成9年9月30日、「宗規」の一部改正を行い、「本宗の檀信徒が本宗以外の宗教団体に所属したときは、その資格を喪失し除籍される」こととしました。
そして2ヶ月の猶予(ゆうよ)をおいた同年12月1日を期限とし、創価学会にそのまま籍を置くものは信徒資格を喪失する旨、学会員に通告しました。しかし学会は、会員がこれに応じることのないように会員を指導し、ついに多くの会員が日蓮正宗信徒としての資格を喪失し、除籍となりました。
現在、学会員は、深く反省・懺悔(さんげ)の上で、末寺御住職の許しを得て勧誡式(かんかいしき)を受けることにより、日蓮正宗への復籍が許されています。
「規則」「会則」の改変
創価学会は、平成14年に文部科学省の認証を得て「規則」を改変し、それによって「会則」を変更しました。
その内容は、本尊や教義の裁定はすべて会長が行い、実質的には池田大作を「永遠の指導者」に定めるというものであり、本来、日蓮正宗の信徒団体として認可されながら、日蓮正宗と完全に分離した集団に改変するものでした。
以上の経緯により、創価学会は、日蓮正宗とは無縁の「新興宗教団体」と成り下がりました。 
「創価仏法」
これは、いわゆる「52年路線」と呼ばれた当時、創価仏法の原点は、戸田会長の「獄中の悟達(ごだつ)」にある。などという、教義逸脱・謗法(ほうぼう)路線において、学会が自ら、自分たちの信仰を表現したものです。
当たり前のことですが、日蓮正宗には「日蓮大聖人の仏法」以外には何もありません。当時、創価学会は日蓮正宗の信徒団体でありながら、まるで別の存在であるがごときスタンスだったのです。すでにこの時点で、学会は日蓮大聖人の仏法ではありませんでした。
しかし現在、学会は日蓮正宗とは縁のない新興宗教団体でありますので、この「創価仏法」なる表現が、実にしっくりくる感じがします。昔から、その「妙法観」も「本尊観」も、日蓮正宗本来の姿とはかけ離れた異質なものだったのです。
創価学会の妙法観
創価学会の「信心の狂い」「異流儀化」は、すべて「壊れた妙法観」に起因するといっても過言ではありません。そしてこれを根源として本尊観が狂い、平気でニセ本尊を偽造販売するに至ったのです。
さらには、唯授一人血脈付法の御法主上人猊下をも足蹴にする悪逆非道も、やはり妙法観の狂いによって「法勝人劣の邪義」を立て、御本仏・日蓮大聖人まで「凡夫本仏」などと貶(おとし)める学会であれば、たやすいことであると思います。
妙法=大宇宙の根本法則
池田大作が語る「妙法観」とは、例えば、「妙法こそ、大宇宙を貫く根源の法であり、(中略)根本中の根本の法則である」(昭和62年 第7回未来会総会) 「日蓮大聖人は宇宙の根本法則を一幅の曼荼羅に御図顕なされた」(昭和56年 SGIの日記念勤行会) 「宇宙のことごとくの運行、現象を引きおこす根源の力として、妙法がある」(昭和56年 パナマ信心懇談会) 「この大宇宙のいっさいの運行の源泉、法則こそが南無妙法蓮華経なのである。その南無妙法蓮華経を具現化なされたのが日蓮大聖人であり、その顕された御当体が根本尊敬の御本尊なのである」(昭和56年 メキシコ信心懇談会) 「すなわち、その根本法を仏が一幅の『曼荼羅(まんだら)』とされた。それに南無し帰命(きみょう)することによって、大宇宙の外なる法則と、己心の内なる法則が完全に合致し、さらに人生、生活が、正しきリズムにのっとったものとなる」(『仏法と宇宙を語る』)という感じです。
私(垢重丸)は入信して20年以上になりますが、その最初の頃から、「宇宙に遍満する法」だの何だの、そういう内容の指導を繰り返し聞かされた覚えがあります。こうした妙法観は、昔から現在に至るまで変わらぬ、創価仏法なるものの根源をなす思考です。
私が章の冒頭、総論で述べた「曇りガラスの向こうの御本尊様を拝している」ような違和感は、今にして思えば、こうした「ちょっと聞くと正しそうで、実はとんでもない邪義の妙法観」から生じたものだったのです。
創価仏法の妙法観は「邪義」
大まかにまとめると、池田大作のいう妙法観とは、「大宇宙の一切の運行や現象を引きおこし、あらゆる生命の働きを生じさせる根本の法則が『妙法』であり、その根本法則を日蓮大聖人が具現化し、一幅の『曼荼羅』と顕されたのが御本尊である。この御本尊に南無・帰命すれば、大宇宙のリズムと合致し、幸せになるのである」というような内容になります。これの何が邪義・邪説なのか、今も昔も、学会員には理解できていません。
この「創価仏法流・妙法観」の問題は、「まず初めに法ありき」である点です。一見、日蓮大聖人に関連づけているようなフリをしつつ、実は基本的に御本仏を無視して、仏から遊離した形での「宇宙の根源法」として考えているのです。
これが、根本的に大きな間違いです。
「御本仏様」と「法」は、最初から一体であります。それを「人法体一(にんぽうたいいつ)」といいます。「文底下種・独一本門の南無妙法蓮華経」は、本地難思・境智冥合の法であると同時に、その全体が即ち仏身(法報応の三身)なのです。
「御本仏様の仏身を離れた宇宙法界に、妙法の実体がある」と考えることは大きな誤りであり、邪見です。御本仏・日蓮大聖人の御心にのみ南無妙法蓮華経は在(あ)るのであり、その御本仏の御内証(ごないしょう)を、「人法一箇」の上から顕されたのが御本尊なのであります。決して、大聖人様の己心を離れたところの根本法則なるものを図顕された、などと考えてはいけません。
日蓮正宗本来の妙法観は「人法体一」
総本山第六十五世・日淳上人は、「仏法に於(おい)ては法華経寿量品の文底の南無妙法蓮華経が肝心の要法であって、此(こ)の要法は日蓮大聖人の所有遊(あそ)ばされるところである」(日淳上人全集) 「題目を主として御本尊を忽(ゆる)がせにする者が多いのであります。(中略)元来かような考へは南無妙法蓮華経は法であるとのみ考へるからでありまして宇宙に遍満(へんまん)する妙法の理が題目であるとするからであります。此は大変な誤りで南無妙法蓮華経は仏身であります。即ち法報応(ほっぽうおう)三身具足(さんじんぐそく)の当体であらせられ報身中に具し玉(たま)ふのであります。妙法の理は天地の間にありましてもそれは理性(りしょう)であります。実際には仏の御智慧のうちにのみ厳然として具(そな)はり玉ふのであります。」(日淳上人全集) 「久遠本有(くおんほんぬ)の妙法蓮華経は大聖人の具有(ぐゆう)し玉ふところであります。大聖人はその御境界を観心(かんじん)の本尊として建立し玉ふたのであります。くれぐれも此の報身を離れた妙法を以(もっ)て御本尊と考へてはならないのであります」(日淳上人全集) 等と、明確に御教示されています。
池田大作の唱える妙法観は、日蓮正宗本来の正しいそれと比べれば「まったく似て非なる邪説」となります。大聖人様の御内証を離れた「宇宙の根本法則」だの「宇宙に遍満する法」だのを求めても、そんなものは存在不明であり、実体がありません。
ましてや、「池田先生と呼吸を合わせるように唱題するんだ」などと指導するに至っては、それのどこが日蓮大聖人の仏法なのかと、学会員は違和感を感じないのかと、不思議でなりません(「先生と呼吸を合わせる唱題」というのは、私が学会時代に受けた迷指導です。破門のずっと以前からそんな調子でした)。
創価仏法で説く「宇宙の根源法」なるものは、日蓮大聖人の妙法ではありません。それをはっきりと認識しなければ、どこまでいっても邪見に堕(だ)します。創価学会は昔から、日蓮正宗の教義ではないものを学会員に教え込んでいたのです。
創価学会の本尊観
根本となる「妙法観」が上記のような有り様ですから、それによって「本尊観」も大きく変質し、根本的に狂いが生じてしまいます。それが52年路線における「本尊模刻事件」となり、破門後に「ニセ本尊を製造・販売する」という大謗法を平気でできる、まともな信心では考えられない「感覚」を育て上げたのかもしれません。
幸福製造機
学会では昔から、「御本尊は幸福製造機である」などということを言っていました。そして御宗門においては、これをあくまで「広宣流布進展の過程における方便」ととらえ、あえて黙認しておられたのです。
この「幸福製造機」という言葉は、実に不遜(ふそん)極まりないものであり、御本尊を「日蓮が魂」とまで仰せになった大聖人様の御心を踏みにじりかねない、凡愚の浅はかさがそこにあります。学会の、御本尊に対する認識の崩れは、すでにこの時点から始まっていたのです。
幸福製造機であるということは、御本尊は「モノ」だということです。言い換えれば「打ち出の小槌(こづち)」みたいなものであり、我々に金銭財宝その他の利益(りやく)をもたらすありがたい曼荼羅、という感じでしょうか。
そもそもが創価学会の信心は現世利益を主とする「御利益信心」「乞食信心」が中心です。
よく学会の婦人部あたりが「こんなに頑張ってるのに、まだ功徳が出ない」みたいなことをしょっちゅう愚痴(ぐち)っています。本来、功徳とは「積功累徳(しゃっくるいとく)」であり、出るとか出すとかいうものではなく「積む」ものなのですが、こういう愚痴が出ること自体、やはり今でも「打ち出の小槌」感覚なのだと見て取れます。
しかし、総本山第二十六世・日寛上人が、「亦復(またまた)当(まさ)に知るべし、若(も)し草木成仏の両義を暁(あきら)むれば、則(すなわ)ち今安置し奉る処(ところ)の御本尊の全体、本有無作(ほんぬむさ)の一念三千の生身(しょうしん)の御仏なり。謹んで文字及び木画(もくえ)と謂(おも)うこと勿(なか)れ云云」(観心本尊抄文段) と仰せのごとく、御本尊は「生身の御本仏・日蓮大聖人様の御当体」なのであります。それを学会のように「唯物本尊」扱いすることは、御本仏に対する冒涜(ぼうとく)であり、「摧尊入卑(さいそんにゅうひ=尊きをくだいて卑しきに入れる)」以外の何ものでもありません。
御本尊は象徴である
ニセ本尊の製造・販売以降、学会はさまざまな邪義・邪説を並べていますが、その一つが、「御本尊は仏としての実体ではなく、象徴である」というような狂った本尊観です。
つまり、「御本尊といっても、妙法の法理を象徴的に表しているに過ぎない。本体は自分自身の内にある。したがって、その自身に具わっている妙法十界互具の当体の上から、象徴である御本尊に向かって唱題することによって、自分の仏界を顕すことができる。これが『仏界涌現』である」ということです。ここでもやはり御本尊は「モノ」扱いで、我々の中にある仏界を涌現(ゆげん)するための道具として存在するに過ぎません。
御本仏・日蓮大聖人が、「日蓮がたましひ(魂)をすみ(墨)にそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ」(経王殿御返事) 「法華経の題目を以て本尊とすべし(乃至)釈迦・大日総じて十方の諸仏は法華経より出生し給えり。故に全く能生を以て本尊とするなり」(本尊問答抄) 「一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり」(草木成仏口決) 等々とお示しのごとく、御本尊様が「象徴である」などという御指南はどこにもありません。御本仏の御当体を「象徴」などと貶(おとし)めることは、とんでもない邪義に他ならないのです。
また「仏界涌現」ということも、上記の象徴論からすると変な話になってきます。あくまでも衆生の妙法の仏界を本体とし、御本尊はそれを現すための象徴であり道具と考えているわけですから、本来あるべき「境智冥合(きょうちみょうごう)」とはまったく違う大謗法になってしまいます。
日蓮正宗の信心においては、御本尊即ち御本仏大聖人様の御当体であり、御本尊を正しく仏様と拝して、一心欲見仏の信心において「境智冥合させていただく」ことが成仏の肝要であります。
総本山第二十六世・日寛上人が、「心に本尊を信ずれば、本尊即ち我が心に染(し)み、仏界即九界の本因妙なり。口に妙法を唱うれば、我が身即ち本尊に染み、九界即仏界の本果妙なり。境智既に冥合す、色心何ぞ別ならんや」(法華取要抄文段) と明確に御教示のごとく、御本尊様は「仏界」であり、私たち衆生は迷いの「九界(くかい)」なのです。その九界の我々が、仏界の御本尊を「仏様の御当体」と信じて南無妙法蓮華経と唱えるところに、仏界即九界、九界即仏界、十界互具となり、境智冥合となるのです。
学会では「仏界も十界互具(じっかいごぐ)なら我々も十界互具であり、どちらも仏界を有することに変わりはない」みたいなことを言っていますが、それは理上の話であります。もちろん、衆生が十界互具だからというのは当然のことですが、それは正しく御本尊を信じ、境智冥合させていただくところにのみ、我々の仏界を成(ひら=開)くことが叶うのです。
学会のごとく、御本尊を単なる「象徴」としか拝せない信心で「仏界を涌現する」などというのは、禅宗と同じで虚妄であります。
本門戒壇の大御本尊を貶(おとし)める
池田大作・創価学会にとって最も邪魔なのは、実は御法主上人猊下よりも御本仏・日蓮大聖人であり、同時に「弘安二年十月十二日御図顕の、本門戒壇の大御本尊」です。
池田にとっては、自分が「ただ一人の法華経の行者である」とするためには、御本仏様が邪魔なのであり、またニセ本尊製造・販売を正当化するためには、御法主上人猊下ただお一人による御本尊の書写・開眼の権能を否定し、さらに本門戒壇の大御本尊の御威光を忘れさせる必要があるのです。学会員がいつまでも、本門戒壇の大御本尊を渇仰恋慕(かつごうれんぼ)していたのでは、学会としては非常に都合が悪い。
そこでまず、平成4年頃に作成した「学会版勤行要典」では、二座の観念文を「一閻浮堤(いちえんぶだい)総与、三大秘法の大御本尊に南無し奉り、報恩感謝申し上げます」と改変し、「本門戒壇」の文字を削除しました。この狙いは、本門戒壇の大御本尊を恋慕する意識を徐々に薄めていくことでした。
また平成5年の5月3日、池田大作は、外道のカトリック教徒である上智大学教授の口を借りて、「宗教の究極は、板曼荼羅(いたまんだら)ではなく、久遠元初の法である」 などと、大聖人様の御当体である本門戒壇の大御本尊を蔑(さげす)む暴言を吐き、前述の「妙法観」よろしく、法だ法だと騒いでいます。
さらに池田は、平成5年9月7日の幹部会の席上、「『もし、一瞬の信心があれば、すなわち、この信心の一念に一念三千の本尊を具(そな)える』これは日寛上人、有名なところだ、本因妙抄(註;この御文は観心本尊抄文段であり、池田の間違い)。たとえば水のある池には、月がただちに映るようなものである。宗祖大聖人が、この御本尊もただ信心の二字におさまれり、と言われたのである。信心の二字の中にしか、本尊はないんです。本門戒壇・板御本尊、何だ、寛尊は『信心の中にしか本尊はない』。ただの物です、いちおうの、機械です。幸福製造機だもの。信心、大聖人の御書だ」と、あろうことか本門戒壇の大御本尊を「ただの物だ」と罵(ののし)り、またここでも「幸福製造機」などと言っています。これが池田の本音であり、いかに学会が会員たちを欺(あざむ)き「自分たちは大御本尊を信じている」ようなポーズをとっていても、それはウソ・偽りです。
御本尊はどれでも同じ
現在の学会員にとっては、本門戒壇の大御本尊も、かつて日蓮正宗よりお貸し下げいただいた御本尊も、さらには学会が勝手に製造・販売したニセ本尊も、「御本尊はどれでも同じ」なのでしょうか。だとしたら恐ろしい話です。
三大秘法の内、「本門の戒壇」には、「事の戒壇」と「義の戒壇」の立て分けがあります。「事の戒壇」とは言うまでもなく、唯一「本門戒壇の大御本尊様(総体)の住処」であり、御戒壇様以外のすべての御本尊御安置の所は「義の戒壇」です。
各家庭に御安置の御本尊はすべて「一機一縁の御本尊(別体)」であり、本門戒壇の大御本尊の分身散影(ふんじんさんよう)であるそれら御本尊の所住は「義の戒壇」であります。
日蓮正宗の信徒は、「義の戒壇の御本尊」たる各家庭の御本尊を通じて(窓口として)本門戒壇の大御本尊を拝んでいるのであり、功徳を積ませていただくのも利益(りやく)をいただくのも、すべて本門戒壇の大御本尊様からなのです。
学会員は昔から、自分の家の御本尊と本門戒壇の大御本尊を切り離して考え、自分の家の御本尊から功徳を頂戴(ちょうだい)しているように考えているフシがありましたが、それがそもそも間違いです。すべては御戒壇様なのです。
そして現在、日蓮正宗から破門された創価学会に籍を置き、御法主上人猊下や御宗門を誹謗中傷する立場にいる以上、「信心の血脈」は断絶してしまいます。自分の家の御本尊が学会製のニセ本尊でなくとも、それはもはや「事の戒壇に通ずる義の戒壇」ではなく、本門戒壇の大御本尊とは断絶しており、いくら拝んでも功徳・利益はありません。
卑近な例えで恐れ多いですが、家の電球のスイッチを入れても、そこに電気を流すはずの電線が切れてしまっていたら、その電球がキチンとした本物でも、絶対に光りません。本門戒壇の大御本尊から切り離された一機一縁の御本尊には、功徳も何もないのです。
ましてや、それが学会製のニセ本尊では最悪です。最初から「魔性の札(ふだ)」なのですから、真剣に拝めば拝むほど、災いを万里の外から招き寄せかねません(詳細は第4項にて)。
日蓮正宗の正しい信心に帰り、本門戒壇の大御本尊様に深く懺悔(さんげ)滅罪を祈らなければ、堕地獄は必定です。一日も早く信仰の寸心を改められ、創価学会の呪縛(じゅばく)から逃れられますよう、切に祈ります。  
真如苑

 

東京都立川市柴崎町の真澄寺(旧・真言宗立川不動尊教会)に本部を置く、真言宗系の在家仏教の僧団。戦後、宗教団体法の廃止に伴ない真言宗から独立した。1951年に大般涅槃経を所依の経典とし「真如苑」と改称。1953年、宗教法人として認証を受けた。
名称 / 真如苑
総本山 / 燈檠山真澄寺(とうけいざん・しんちょうじ)
立教 / 1936年2月8日。1951年に宗教法人法施行後、1953年に文部省により宗教法人として認証。
本尊 / 久遠常住釈迦牟尼如来(くおんしょうちゅう・しゃかむににょらい、開祖自刻の釈迦涅槃像。)
経典 / 大乗大般涅槃経(正依経、傍依として般若経と法華経等も重視、なお、般若・法華・涅槃をもって真如三部経と称呼する。)
開祖 / 伊藤真乗(いとう しんじょう、1906〜1989)、伊藤友司(いとう ともじ、1912〜1967)
苑主 / 伊藤真聰(いとう しんそう、1942〜)
現代表 / 米村彬(文部科学省所轄包括宗教法人代表役員)
信者数 / 733,191(H6/12/31現在)─ 931,141(H28/12/31現在)
所在地 / 東京都立川市柴崎町
略史
草創期
開祖・伊藤真乗(俗名・文明)と妻・伊藤友司は共に山梨県出身。真乗は、高等小学校卒業後、農業補習学校に進み卒業した。1923年、上京して東京中央電信局(現NTT)購買部で働きながら、正則英語学校普通科(1年制、現・正則学園高等学校)を卒業し、ついで高等科に進学するも、青年訓練所に入るため退学した。まもなく電信局を退職し、写真機材店に就職した。1926年の徴兵令により、東京・立川の近衛師団管下飛行第五連隊に入営し、航空写真の撮影等に携わった。
除隊後は、石川島飛行機製作所(のちの立川飛行機株式会社)に入社。勤務の傍ら、少年期に父から継承した、伊藤家家伝の易学研鑽のために大日本易占同志会に入会、易を学び、易占鑑定により人生相談に応じるなどした。真乗は易学研鑽の途上で知り合った真言行者の紹介で、雑司ヶ谷の天明教会(真言宗醍醐派修験道部)先達 浦野法海と縁を結んだ。真乗は、少年期に天理教信者であった母の影響で天理教に親しんだ。曹洞宗の禅寺の檀家総代であった父は、老師に就き参禅をしていた。真乗は父から禅を学び、甲陽軍鑑の流れという、伊藤家一子相伝の家学である易学を受け継いだ。上京後は、浄土教、法華経、また浅野和三郎の心霊科学にも触れ、1932年4月に遠縁の友司と結婚してのちは、夫婦でキリスト教会にも通った。妻・友司の祖母は法華行者で霊能家であり、明治初年、横浜で狐憑き落としなどの除霊を行っていたという。祖母の霊能を継承した伯母もまた2代目霊能家として活動していた。
1935年暮、信仰を深めるべく諸教を求め、真言密教を学ぶうちに本尊として仏像を迎えたいと考えていた伊藤夫妻は、東京市牛込区肴町(神楽坂上)の仏師宅で見つけた不動明王坐像を立川駅南口(東京府立川町南幸町)の自宅に勧請した。翌年2月4日、寒修行満願の夜、友司は入神状態となり、居合わせていた伯母から、祖母から続いた霊能を受け継いだことを告げられ、友司は祖母から数えて3代目の霊能家となった。これを受けて真乗は、4日後の1936年2月8日、会社勤務を辞し、宗教活動に専念することになった。現在、真如苑ではこの日をもって立教開創の日としている。この月、2月26日、二・二六事件が勃った。戒厳令下の3月28日、明治憲法による民法に沿い、自宅を成田山新勝寺講中とし「立照講」を届出、「立照閣」として合法活動を講じた。5月19日、真言宗醍醐派総本山醍醐寺に上り、三宝院道場にて佐伯恵眼座主戒師のもと出家得度の儀に臨み辞令を得た。初期の活動は、真乗の易占と醍醐寺で修める真言密教に拠る読経、滝行、加持祈祷によるものが主であった。その後、次第に友司を霊媒とした霊意を受けての指導が取り入れられていった。
1938年10月、醍醐派管長、東京府知事の認可を得て、後に「真澄寺」と呼ばれる道場が現在地に完成し、組織も「立照閣」から「真言宗醍醐派立川不動尊教会」へと改められた。1939年2月5日、真言宗総本山醍醐寺 特派阿闍梨大導師のもと、真乗願文奏上、浦野法海経頭による落慶法要が営まれた。道場建設場所(現在地)は、友司による霊意により選定された。
真乗は醍醐寺で、1939年10月、三宝院灌頂堂道場にて入壇、三宝院門跡佐伯惠眼大僧正大祇師のもと修験道当山派伝承の恵印灌頂(醐山に伝わる在家法流)を畢え、更に本宗部へと上行をかさね、1943年3月に 傳戒大阿闍梨 醍醐寺座主 三宝院門跡佐伯恵眼大僧正のもと、醍醐寺三宝院灌頂堂にて、三宝院流憲深方による伝法灌頂を畢め、阿闍梨となった。この間、1941年3月、真言宗醍醐派管長の命に、明治初年、新政府による祭政一致 神祇官再興の布告、神仏分離令(1868年)につづく廃仏毀釈の激化、修験道廃止令(1875年)以降、衰微していた東京府北多摩郡村山村(武蔵村山市)の修験寺院、「一住坊常宝院」の特命住職に任ぜられた。同年3月31日付、文部当局の意向に、仏教は十三宗五十六派から 十三宗二十七派 に統合、真言宗各派も合同し「大真言宗」となる。真乗が主管する二院も、合同真言宗第十五教区(東京府下 二市三郡)第二組に所属、立川・村山を往復し寺門運営に当たった。1942年4月、戦時下、統制がより厳しくなった宗教団体法による制約に、宗教結社「常宝会」を結成届出、篤信信徒に呼びかけ有縁の各地に支部を結成、常宝院主として復興に努め、特命住職の責を果たした。村山郷の古刹で、和銅3年(710年)、行基開基とされる龍華山真福寺の第八世 法範が醍醐三宝院より法流を相続、慶長18年、修験道法度発布(1613年)ののち当山派法流が村山に定着したのは元和年間とある。ここに、寛永年中、真福寺塔中六箇寺、上院坊 権大僧都法印 俊慶が萩ノ尾に引寺し「一住坊」と改正、以来、代々当山派修験職として継承した、堂刹三百年の法統を廃絶することなく護持し得た。この「常宝会」の同志的結集が戦後の独立、新たな宗団の形成に結んだ。僧階も律師から少僧都へと昇補した。1945年8月の終戦後、治安維持法廃止、神道指令につづく宗教団体法の廃止による合同解体決議、各宗各派は分派還元に向かう。12月28日、宗教法人令公布に伴ない、1946年2月、立川不動尊教会(真澄寺)は真言宗を離脱し、新たに宗団を形成し1948年には名称も「まこと教団」へと改められた。
1950年8月21日、まこと教団管長であった真乗と対立し教団を去った元教務総長の地位にあった青年僧が、前年の夏、修行を名目に暴行を受けたと真乗を訴えたことにより、真乗が逮捕された。真乗は以下4つの容疑で起訴された。
<1>一信者が教団金員を盗んだとして会堂内で、全治10日の打撲傷を負わせた。<2>同所において素行不良の信者を懲らしめる目的で、全治一週間の打撲を負わせた。<3>真乗の長女と婚約中の信者が別の女性A子と恋仲になったと思い込み、懺悔行と称して二週間の打撲傷を負わせた。<4>B子の姉が長女の婚約者の仲をとりもったと思い込み、懺悔行と称して婚約者・A子姉妹の3人に暴行を加えることを企て、2人の信者が真乗の意をくみ数名と共謀しA子姉妹に一ヶ月の打撲傷を負わせた。
1952年5月7日、一審・東京地方裁判所八王子支部では4件とも有罪と認定し、伊藤真乗に傷害罪懲役1年の実刑判決を下した。1954年1月30日、東京高等裁判所の控訴審判決では、<1><2>は宗教上の行為として無罪。<3><4>については、のちに真乗自身は暴力に関わっていなかったことが明らかになったが、教団の監督者としての責任を問われ、真乗に傷害罪懲役8月・執行猶予3年の判決を下し、確定した。
この事件は「まこと教団事件」と言われ、マスコミをにぎわせた。この事件は、一般に新宗教を淫祠邪教視する社会風潮によるものとする見解が有力である。真如苑が当時加盟していた新日本宗教団体連合会(新宗連)は、「当然無罪となるべき事件だったが、官憲やジャーナリズムを始め世間一般が、新宗教といえば実体を見極めずに邪教視、弾圧しようとした、そのころの風潮を露骨に示す実例」と総括した。真如苑を批判的な観点から洞察した経済学者三土修平もまた、「真如苑を研究している宗教評論家たちは、まこと教団事件に関して、おおむね教主側に同情的であり、伊藤の有罪判決は、新宗教を十把ひとからげに邪教淫祀扱いする戦前以来の日本官憲の偏見の犠牲になったものだ、との見方が有力である」としている。
教団存続が危ぶまれる事態に真乗の妻・友司が第3次吉田内閣の樋貝詮三国務大臣の自宅を訪れ、樋貝は弁護士を紹介した。その後、樋貝が死去した後、毎月の祥月命日には欠かさず墓参りに来たという。
真如苑としての出発
この事件による教団の打撃は大きく、教団は危機的状態になったが、立て直しをはかり、1951年に大般涅槃経を所依の経典とし「真如苑」と改称。1952年7月、文部省に宗教法人法に基づき、書類を提出し、翌年5月に認証された。真乗は管長を辞し教主となり、友司が苑主に就任した。
1957年3月、教主真乗が新道場の本尊となる丈六の大涅槃像を完成させ、翌年5月、新道場が落慶した。1966年3月、醍醐寺より、教主真乗に大僧正位、苑主友司に権大僧正位が贈られた。7月、タイ国・パクナム寺院より、仏舎利が奉戴された。11月、真如苑一行が、タイ国で開催された「第8回世界仏教徒会議」に日本代表として出席、その後はインドを巡り、仏跡を訪ねた。1967年6月には、「欧州宗教交流親善使節団」として欧州7ヵ国とイスラエルを訪問、6月28日、バチカンにおいて、ローマ教皇パウロ6世と面会した。欧州帰国後の8月、苑主友司が急逝した。友司には、醍醐寺より大僧正位が追贈された。
苑主・友司没後〜開祖死去まで
1967年8月、苑主友司の没後、教主真乗の再婚話が持ち上がり、再婚に反対する娘たちの間で対立が起こる。再婚に反対する次女・三女・四女は教団から離脱した。1969年、長女の教団離脱と入れ替えに、次女・三女・四女は教団に復帰した。1977年、次女は教団を離脱した。このお家騒動は、教勢が拡大し、信者数200万人と発表した80年代後半に、教団がメディアから注目され、過去のお家騒動が蒸し返される形で週刊誌の話題となった。真如苑は、真乗の死を期に、信者数を実数に合わせ、下方修正した。実数とかけ離れた信者数200万人という数字がメディアから注目され、批判的に取り上げられることが多かったため、実数を発表するようになったという。
1973年3月、真如苑初の海外支部がハワイ(アメリカ)に落慶した。1976年5月、醍醐寺金堂にて、真乗を導師として、醍醐寺開創一千百年慶讃法要が執行された。1978年10月、真乗がタイ国を訪問、上座部仏教と交流を深めた。1979年3月、立川総本部に十一面観世音菩薩を本尊とする発祥第二精舎が落慶した。6月には、真乗が欧州5カ国を巡教、1980年5月にはハワイ、アメリカ本土に巡教した。
1983年10月、真如法燈継承の儀により、三女伊藤真聰、四女真玲が法流を相乗した。1984年4月、醍醐寺金堂にて、真乗を導師として、弘法大師御入定一千百五十年御遠忌法要が執行された。1989年7月、教主真乗死去により、伊藤真聰が苑主・真澄寺首座を継承し、継主となった。
近年・開祖の死去以降
1992年3月、醍醐寺より、継主真聰に大僧正位が贈られ、1997年9月11日には、教主真乗が興した密教法流「真如三昧耶流」を顕彰する「真如三昧耶堂」が醍醐寺に建立された。
2002年、東京都武蔵村山市(一部立川市)の旧日産自動車工場跡地106ヘクタールを取得した。2006年3月、東京都立川市泉町に総合道場となる「応現院」が落慶した。
2008年3月、海外流出が懸念されていた鎌倉時代の仏師・運慶の作とみられる「大日如来像」(2009年、重要文化財指定)が、ニューヨークのクリスティーズでオークションにかけられた。真如苑は三越に依頼し1437万7千ドル(約14億円、手数料込み)で落札した。文化財としての調査と展示のため、その後7年間東京国立博物館に寄託された。また対外的には、文化財の海外流出を防いだと広報している。
2012年10月、東京都千代田区一番町に友心院ビルを落慶。2015年、仙台市青葉区定禅寺通りにあった三井アーバンホテルの跡地を寺院建設のために取得した。2018年4月、運慶作と推定される大日如来坐像(重要文化財)などの仏教美術品を一般公開する文化施設「半蔵門ミュージアム」を設立。
教義と修行体系
真言密教の伝統や儀式を重んじつつ、社会生活の中で他者と協調し、融和の精神と利他行の実践に努めて心を磨くことを重視する。真如苑の教えは、「伝燈法脈」、「大般涅槃経」、「真如霊能」の三つの柱からなる。「伝燈法脈」は、教主真乗が醍醐寺で修行し、醍醐寺座主から受け継いだ真言小野流の法脈である。のちにそれを基盤として、教主真乗は、1997年に醍醐寺より顕揚された真如三昧耶流といわれる流派、真言宗醍醐派岡田宥秀門跡が命名した法流血脈「真如密」を確立することとなる。「大般涅槃経」は、真如苑の所依の経典であり、教えの根本とされる。「大般涅槃経」の要旨は、如来は不滅であり、永遠に存在するという「如来常住」、生きとし生けるものはすべて仏になれる性質を持つという「一切衆生悉有仏性」、闡提でも成仏できるという「一闡提成仏」、さらに理想の境地とされる「常楽我浄」の4つからなる。「真如霊能」は、教主真乗が受け継いだ家伝易学による霊能と、苑主友司が祖母、伯母を通じて継承した霊能が一体となり湧出したものであり、今日の「接心」修行(後述)の基盤であるとされる。また、このときこの世とあの世は一つにつながっているという「顕幽一如」という教えが示された。あの世の諸霊は、その子孫や縁故者に対して影響を及ぼすことがあるとされる。あの世の諸霊に廻向をし、この世に生きている者が修行して因縁を清めていけば、その結果として現世の者も幸福が得られるという。真如苑では、六波羅蜜を集約したとする「3つのあゆみ」の実践が修行とされる。「3つのあゆみ」とは、「歓喜」(布施行)、「お助け」(布教活動)、「ご奉仕」(教団内外における奉仕活動)をいう。その他、朝夕の読経、法要参座、接心も主な修行とされている。
教義面では、密教の他に、諸宗教・スピリチュアリズム・易などの影響がみられる。護摩法要をはじめとする儀式面は真言宗醍醐派のそれに則ったものとなっている。
接心と霊位
真如苑では、「接心」と呼ばれる修行を行う。接心修行は、日常生活における自分の心の在り方や自分の持つ傾向性を霊能者(ミーディアムとも呼ばれる)を通して、見つめ直すもので、日常生活の中で覆われてしまった仏性が開発されるという。 接心には、有相接心・無相接心の2種類が存在する。有相接心では、霊能者と信者が対座し、霊能者から信者に対して、心を磨くために必要なアドバイスが「霊言」として伝えられる。 霊言の内容は、1.教えの内容を再確認するもの、2.先祖や近親者に不幸がないか問うもの、3.健康状態を確かめるもの、の3つに大別されるという。 接心において「障害霊」が指摘されたときは、「護摩」による「お浄め」が奨励される。霊能者から伝えられた霊言の内容を、自己反省し深め、日常生活の中で実践していくことを「無相接心」と呼ぶ。
真如苑では、大乗→歓喜→大歓喜→霊能という4つの霊位が設定されている。霊位向上のための「相乗会座」という修行に参加するには、各霊位によって所定の活動実績(入信させた信者数、歓喜・ご奉仕の継続的な実践等)を満たすことが条件である。「相乗会座」において祈りが深まり、相応しい境涯に達していると判定されることで次の段階の霊位を得られる。霊能者となることで、接心において「霊言」を受ける側から、与える側となる。
心霊科学者の梅原伸太郎は、真如苑の霊能者を用いる方法は、日本心霊科学協会やその前身に学んでいるとしている。
両童子・抜苦代受
真如苑では、伊藤夫妻の夭折した2人の息子を「両童子」と呼び、霊界の両童子が信者の苦しみを身代わりとなって引き受けてくれるとしている。これを「抜苦代受」と呼んでいる。真乗は、長男が病死した際に、長男は皆の苦しみを代わりに引き受けるために死亡したと解釈した。死んだ子供には救済者としての役割が与えられ、教団の宗教活動の中で重要な役割を担うようになった。ただし、当時は「身代わり」などと称し、「抜苦代受」の用語は使われていない。長男・次男の死後には、信者の病人が救われるなどの救いの力が示されたという。また、長男・次男の他界により、霊界との道交を開かれ、円滑な接心修行が可能となったとしている。  
真如苑 2

 

真如苑は、1936年に生まれた教団です。30歳で一大決心をして出家し、京都・醍醐寺で修行を修めた僧侶・伊藤真乗(いとうしんじょう)によって開かれました。現在は後継者として、女性の伊藤真聰(いとうしんそう)が指導しています。世界でおよそ100万人の人たちが、サラリーマンであったり主婦であったり、ふつうの生活をしながら、教えを学んでいます。
真如苑のはじまり
1936年、真如苑の開祖である伊藤真乗は、妻・友司と共にみ仏の道に入ることを決意し、同年、真言宗の醍醐寺にて得度を受け、正しい修行に踏み出しました。
1938年、東京都立川市にはじめてのお堂(真澄寺)を建立し、1943年には、真言密教のすべての法を受け継ぎました。
しかし、密教の教えは、出家して学ばなければ正しく意味を理解することはできません。僧侶だけでなく、より多くの人々がみ仏の教えを正しく修行できる道を目指した真乗は、1953年、ブッタの遺言の教え−大乗仏教の集大成ともいえる経典「大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)」を中心に(所依の経典とし)、誰もが修行できる信仰のあり方を体系化しました。
これが「真如苑」のはじまりです。
「真如」とは、さまざまな意味が含まれる仏教用語ですが、真如苑の「真如」には、今を生きる一人ひとりが、み仏の教えを学びながら、それぞれの生き方の中に幸せを見出していけるようにとの願いが込められています。現在、およそ20ヶ国に100を超える寺院があり、世界でおよそ100万人(国内およそ90万人)の信徒が活動しています。
真如開祖の想い
永遠かけて 不動のこころ拝受して 我、人々と道つらぬかん 伊藤真乗
真乗は、信仰心の篤い父母のもとで、好奇心旺盛な少年として育ちました。若くして上京すると、真乗は苦学をしながら英語をよく学び、ラジオと写真、そして科学に興味を広げていきました。やがて立川飛行機製作所に入社。技術部門にたずさわって7年が経つころのことです。
仲間の相談相手になるうちに、真乗夫妻の人柄と家伝の易学が評判を呼び、気がつけば、真乗の自宅には、多くの相談者が誘い合わせて集まるようになっていました。悩める人々、病む人々のために祈りを向ける日々。
人の役に立ちたい――真乗の胸に、その思いは日増しに強くなっていきました。
やがて縁あって、運慶作と口伝される不動明王を迎えます。
不動明王と対座し、また、人々と対座する――。そのなかで、妻・友司とともに宗教家として立つ覚悟が固まります。1936年2月8日のことでした。
修行にどこまでも徹する
戦前から戦後にかけて、世情の不安定な時代、真乗は一心に修行を重ねます。生活の困窮、二人の息子の他界、世間の無理解、そして愛弟子の裏切り。苦難の道が続くなか、ホンモノを極めていきます。
1936年5月19日、京都の醍醐寺にて出家得度。日々、戦争の色が濃くなり、わずかな人が集まることさえ、警察が目を光らしていた時代です。けれども、真乗夫妻を訪ねる人々は増え続け、ついには家からあふれるほどに。そうして、お寺建築の声があがりました。
1938年、祈りに祈って生まれたお堂、真澄寺は、立川の少し寂しい場所に建立されました。その地が今、真如苑の総本部となっています。1940年には宗教団体法が実施され、厳しい宗教統制が敷かれていきました。宗教活動が思うようにできないならと、開祖・真乗は自身の修行に打ち込みます。
当時の醍醐寺座主、佐伯恵眼大僧正猊下が、自らその修行を指導し、「修行者の態度は、常にかくあるべきもの、とってもってよく範とせよ」とご説示されたと、後に座主となる岡田宥秀大僧正猊下は当時を語っています。
真如苑――どんな人にも開かれた教団を生む
誰のなかにもあるよき心「仏性」が説かれる涅槃経をひもとくうちに、人々のよき可能性を開花させる一助となっていきたいという開祖の願いは、強くなっていきます。それが、在家教団としての出発となりました。
多くの相談相手に答えるところから出発した開祖。修行を極めたからこそ、出家で得られる心――境涯を実感していました。ここで、新しい悩みが生まれます。「ふつうの社会生活を営む在家の信者であっても、仏を求める心を持つ限りは、出家者と同じように仏道を歩むことができないか」度重なる苦悲のさなか、ひもといた大般涅槃経に説かれる「仏性」。そして、釈尊の入滅に、神仏とともに在家の人々が馳せ参じたとの一節。
この経典こそ、悩める人々、病む人々が、祈りと修行を重ね、出家と同じ境涯をめざす基盤となると開祖は確信しました。
「私は私なりの信念から、仏法の衣をぬぎ、素直に仏法を行ずる決心を固めた」髪を伸ばし、洋服をまとって、「真如苑」として一宗をおこし、歩み始めました。そうして、人々の心に仏の性を刻む祈りをこめて、開祖が自ら謹刻したのが、真如苑の本尊・涅槃像でした。出家していない者であっても、修行をすれば仏性を磨き出せる――この修行のあり方を広めた真乗の試みは、仏教の世界に導き出した革新的な方法でした。
融和――人々の安心立命のために
開祖は願いました。――宗教の背景も国境も文化も性別も越えて、多くの人とともに、お互いの持てるよき心を発揮することができないか。真如苑の「苑」は、くにがまえの「園」ではないのだから、囲いがない真如苑になろう――。
妻・友司を伴い、全国各地へおもむき、一人ひとりに膝をつき合わせて教えを説く開祖。
1967年、「欧州宗教交流国際親善使節団」団長として、ヨーロッパ8カ国を歴訪した開祖は、ローマ法王パウロ6世と会見し、日本人として初めてバチカン放送に出演しました。「仏教の精神はあくまでも"融和"であり、"融合"であります」と呼びかけた開祖。どれほど実現が困難であろうと、国や人種、宗教の違いを越えて融和する世界を目指し、"真如"を説き続けました。
「我、人々と道つらぬかん」出発にあたって、30才の開祖が残した言葉は、生涯をつらぬく一筋の道となって、今も真如苑に生きています。
真如継主の歩み
あなた自身がかけがえのない存在なのです。 伊藤真聰
伊藤真聰は、開祖・伊藤真乗の娘として生まれ、常に信徒に寄り添う父母の姿を拝して育ちました。父母から宗教家のあり方を学ぶとともに、女性でありながら開祖を師として伝統の修行を修め、僧としての最高位である大僧正となりました。
男性の多い世界で、女性の宗教指導者として生きることは簡単な道のりではありません。けれども、男女の区別なく修行を与えた師に応え、厳しい修行をつらぬきました。
1989年、開祖が他界し、伊藤真聰は「継主」として教団を継承。平易な言葉で日常に生きる教えを説き続け、教主が願う一人ひとりの救いを実現するべく、活動しています。
1997年、継主は京都の古刹・醍醐寺の金堂で、開山以来、初めて女性の導師として法要を修め、仏教界を驚かせました。
また、伝統を大切にしながらも、法要の職衆に海外の教徒や女性教徒を起用し、米国の戦没者記念日にハワイで行われる「ハワイ灯籠流し」をはじめ、より多くの人が祈りの場で心の安らぎを得られるよう、多様な形式を取り入れながら法要を行っています。
従来の枠を越え、他の宗教教団の施設で法要を行うなど、「祈りによる宗教交流」を広く展開し、文化や宗教の違いを越えて、「ともに祈る」ことで 融和のメッセージを発信しています。
2008年にはニューヨークのグランドゼロにほど近い教会で法要を厳修。
2012年、ケニアでは長く争いのつづいた複数の部族の若者とワークショップを実施して法要を作りあげ、2014年、ペルーでは、長い伝統を持つアンデス宗教の代表者、現地を征服した歴史を持つカトリックの代表者とともに、平和に向けた祈りを捧げる済摂護摩を行って、新たな法要の形を切り開きました。その威徳をたたえ、醍醐寺からも大僧正位が贈られ、スリランカ仏教界から栄誉称号も贈られています。
2014年、ニューヨークのリンカーンセンターで灯籠流しを主催し、会場に集ったニューヨーク市民に継主が語りかけたのはこのような言葉でした。
「一人ひとりの心のやすらぎも、社会の平和も実現は簡単ではないことを、誰もが痛感していることでしょう。けれど、私は人間の可能性を信じています。自分自身も、まわりの人も、かけがえのない一人であり、お互いがつながりあっていることを知ることです。そして、勇気をもって、あきらめない行動に踏み出すこと。その一歩が、世界を明るく温かく照らしていくことでしょう。」.
法要や祈りの交流を通し、参加する人々の心に明るい燈火が灯れば、その燈火がまた次の誰かを明るく照らすことができる――。一人ひとりが生き生きと、かけがえのない存在になっていくこと。それが継主の考える「世界平和」への歩みであり、継主の歩んできた道のりに宿った精神と言えます。
3つの特徴
日常に生かす――接心
「接心」は、自分と向き合う修行です。ありのままの自分を知り、自分を磨くヒントをつかんでいきます。その気づきを日常に生かすことが、真如苑の教えを歩む基本です。
このことは、古くから仏教のなかで大切なカギとされてきました。
真言宗の開祖・空海が、『大日経』というお経典を引いて、 悟りに向けては自らのありのままの心をみつめる「如実知自心」が大切であると説いたところとも重なるでしょう。
僧侶の始めた教団――法流
真如苑を開いた開祖・伊藤真乗は、真言宗の醍醐寺にて修行し、仏教の伝統の法――"法流"を修めて 真如苑を開きました。20世紀に始まった教団のなかではめずらしいかもしれません。
そのため、日常の祈りと同時に、何千年ものあいだ受け継がれてきた伝統の儀礼を大切に、修法を重ねています。
涅槃の教え――大般涅槃経
大乗仏教で読まれる大般涅槃経では、お釈迦様は在家信者の実践的な信仰を讃えています。その大般涅槃経をもとに、出家をしなくても日々の実践を通して信心を身につけ、前向きな境涯への道を説くのが、真如苑の特徴のひとつです。
大般涅槃経は、お釈迦様が悟りを完成されて、人間としての生涯を閉じるところを描く経典です。たくさんの宗祖が大切に取り上げてきましたが、学理的に読まれることが多く、教団の中心の経典とされることは、歴史的にはほとんどありませんでした。
開祖・真乗は、この経典を教えの中心におき、最後の説法を説くお釈迦様の姿を謹刻して真如苑の本尊としました。  
真如苑 3

 

創立 / 昭和11年2月
創始者 / 伊藤真乗・友司夫妻
現継承者 / 伊藤真聡(真乗の三女)
信仰の対象 / 教主が彫刻した久遠常住釈迦牟尼如来
教典 / 『大般涅槃経』
沿革
真如苑(しんにょえん)は、伊藤真乗(しんじょう)・友司(ともじ)夫妻が「誰でも霊能者になれる」と主張して設立した、真言宗系の在家教団です。
易鑑定からのスタート
伊藤文明(真乗の本名)は明治39年に生まれましたが、彼の生家には「甲陽流病筮抄(こうようりゅうびょうぜいしょう)」という易書が伝えられており、小学校に通う頃から父にこれを教え込まれました。
文明は23歳の時、「大日本易占同志会」に研究生として入会しました。そして昭和7年、27歳の時に又従兄弟(またいとこ)にあたる内田友司と結婚し、このころから易による鑑定や人生相談などを始めました。
昭和10年から11年にかけて、文明は成田山新勝寺と関係を結び、自宅にその講中(信徒組織)として「立照閣」を設立し、本尊を「大日大聖不動明王」と定めました。またこのころ妻の友司は一ヶ月の寒行を行い、その満願(まんがん)の日に神がかりとなり、霊能者になったのだそうです。
昭和11年2月、伊藤文明・友司夫妻は宗教一筋の生活に入ることを決意しました(真如苑では、この日を立教の日としています)。ところが同じ年の6月、3歳の長男・智文が風邪をこじらせて急死してしまいました。これは設立間もない教団にとっては大事件であり、この解決のために夫妻は高尾山にこもって荒行を行い、「長男の死は、他人の苦の身代わりになった(抜苦代受)」と勝手な結論を導き出しました。
「まこと教団」から「真如苑」へ
昭和13年、伊藤文明は現総本部の地に「真澄寺(しんちょうじ)」を建立し、真言宗醍醐派の「立川不動尊教会」を設立しました。そして同じころ、文明は京都にある真言宗醍醐派の総本山・醍醐寺三宝院で出家得度し、昭和16年には「大阿闍梨(だいあじゃり)」の位を得て、名前を文明から真乗に改めました。
そして昭和23年、伊藤真乗は大衆教化(たいしゅうきょうけ)を目的として「まこと教団」を設立しました。ところがその2年後、教団は元教団幹部から「教団内の修行場でリンチが行われている」と告訴され、真乗は検挙・起訴されました。これがいわゆる「まこと教団事件」です。この事件で、真乗は執行猶予付きの有罪判決を受けました。
そして教団は、この事件によるイメージダウンを回避するため、昭和26年6月に教団名をまこと教団から「真如苑」に改称し、真乗が教主に、友司が苑主に就任しました。
その後の展開
昭和27年7月、15歳の次男・友一が、カリエスで闘病の末に死亡しました。
このころから教団は、所依(しょえ)の教典を真言密教(しんごんみっきょう)経典から『大般涅槃経』に転換しました。そして昭和32年には、真乗が自らの手で身長約5メートルの涅槃像(寝釈迦像)を彫刻し、これを本尊としました。
そして昭和42年8月、妻の友司が急死。昭和44年には真乗の再婚問題をめぐって伊藤家内に利権争いが生じ、三女・真砂子が自殺未遂事件を起こし、結果として長女と次女が教団を離脱しました。
昭和58年、三女・真砂子が真聡と改名し、平成元年の真乗の死後、真聡が苑主となり、四女・真玲がそれを補佐する体勢で、現在に至っています。
教義の概要
いろいろな本尊
教団では、昭和32年に真乗が刻んだという「久遠常住釈迦牟尼如来(寝釈迦像)」を本尊としています。しかしこれは立川総本部内にある発祥第一精舎(ほっしょうだいいちしょうじゃ=道場)に祀(まつ)られていて、同本部内の真澄寺には「涅槃法身不動明王」と教団創立時の「大日大聖不動明王」を安置し、さらに発祥第二精舎には「十一面観世音菩薩」を祀っています。
教団ではこれらの立てわけについて、
(1)釈迦如来・・・真理身としての自性輪身
(2)観世音菩薩・・真理身は法を説かないので、正法輪身として教えを説く
(3)不動明王・・・教えを守らない者に強制的に守らせる教令輪身
というように定義し、これらの仏像等の建立によって「衆生の化導法(けどうほう)が整った(=三輪身満足)」などと言っています。
さらには「不動明王は真言密教(東密)の流れをくみ、十一面観音は天台密教(台密)と縁が深く、そこに涅槃経に即した涅槃像を祀ることにより、東密・台密・真如密の日本三密が成就した」ということも言っています。
教義と実践
真如苑は、釈尊(お釈迦様)最後の説法である『大般涅槃経』を根本の経典とし、この経典に説かれる「一切衆生・悉有仏性(いっさいしゅじょう・しつうぶっしょう)」の経文によって、誰もが仏性を有し霊能を具(そな)えていると定義し、その霊能を開発し霊位を向上させることによって「常楽我浄(じょうらくがじょう)」の歓喜の境涯(きょうがい)を顕(あらわ)すことができるとしています。
そのため教団では「三つの歩み」を信者に義務づけています。
(1)「お救(たす)け」・・・布教・勧誘活動
(2)「歓喜」・・・金銭の寄付
(3)「奉仕」・・・教団のさまざまな活動に労力を提供
これらを行うことによって、自身の持つ「悪因縁(あくいんねん)」を断ち切ることができるなどと教えています。
さらに、この三つの歩みを行う基盤となるのが、霊能者の指導により菩提心(ぼだいしん)の向上を目指す「接心」と呼ばれる修行です。
ちなみに真如苑でいうところの「霊能」「霊能者」というのは、世間一般や他の新興宗教・神道の概念とは少し違い、この教団では「霊能」について、
「接心修行を中心にして、そこに顕現される涅槃の正法に即した神通変化を示す力」
「人々の仏性をおおっている三毒の妄炎を吹き消して涅槃を示す智」
などと定義し、さらに「霊能者」については、
「迷いの中に生きる人々を、真如の教えを通して常楽我浄の世界に導く道標者」
などと意味不明の定義しています。
さて「接心」とは、信者が、教祖の長男・次男の霊と感応した霊能者と対座して、霊能者が話す霊言(ミディアム鏡)を聞き、問題を解決したり心を浄(きよ)めたり、霊能を開発するというものです。教祖の長男(智文=教導院)と次男(友一=真導院)は若年で死去しましたが、教団では「これは信徒の苦悩を代わりに受けて(抜苦代受)早くこの世を去ったのだ」と教えていて、信徒の病気が治ったり苦難から救済されるのはこの二人の働きによるとして、「両童子様」と呼んで祀っているのです。
またこの「接心修行」にはいくつかの種類があり、
(1)「向上接心」・・・自身の修行として月に1回は必ず参加する
(2)「相談接心」・・・霊告によってさまざまな悩みを解決するための指導を受けること
(3)「特別相談接心」・・・(2)を特別に行ってもらうもの
(4)「鑑定接心」・・・事業・縁談などについて、易で鑑定してもらうもの
などです。もちろんこれらの接心に参加するには、必ず寄付金が必要になります。
何百回もの接心や、霊位を向上させるための「大乗会」「歓喜会」「大歓喜会」「霊能会」という4段階の「相承会座(そうじょうえざ)」に参加することによって、信者は霊能を磨き、仏性を開発することができるというのが真如苑の教義なのです。
真如苑では、入信者に対して「小乗」→「大乗」→「歓喜」→「霊能」という段階的ステータスが用意されていて、これによって信者は競争意識を煽(あお)られ、ネズミ講のような形の中で信者集めに狂奔(きょうほん)し、お金を積み、行を重ねる、というようなシステムになっています。 
阿含宗

 

桐山靖雄(きりやませいゆう、本名:堤 眞壽雄(つつみ ますお、真寿雄)により1978年(昭和53年)4月8日に創設された根本仏教系の新宗教である。毎年2月の節分に「炎の祭典・阿含の星まつり」という修験道の儀式である護摩の一種大柴燈護摩供を京都・花山にて開催することでも知られる。
名称 / 阿含宗(あごんしゅう)
所在地 / 本山:京都市山科区北花山大峰町17-5
本山総 / 本殿:釈迦山大菩提寺
立宗 / 1978年(昭和53年)4月8日
教祖 / 桐山靖雄 (管長)
本尊 / 仏舎利(スリランカ国などより贈与されたもの(釈迦のご遺骨)。
依経 / 『阿含経』(あごんぎょう) 信者が行う日々の勤行では、大乗仏教経典の『凖胝観音経』、『般若心経』、『観音経』などと『阿含経』も読誦される。阿含経の教えを密教の様式に則って修行し、因縁解脱してニルヴァーナに入ることを目標としている。
拠点 / 国内74カ所、海外8カ所
毎月開催される例祭護摩修法と法話は全国の主要拠点に衛星中継とテレビ会議システムによる(新アゴンネットワークシステム)を利用して同時中継されている。
略史
1948年頃に桐山靖雄が横浜生麦に創設した観音慈恵会を前身とする阿含宗の名称である阿含(あごん)はゴータマ・ブッダ=釈迦とその弟子たちの教法を伝える唯一の経典とされる『阿含経』(アーガマ)を依経とするところから名付けられた。
桐山は運命学・『法華経』、観音信仰、密教へ進み、『阿含経』のなかにある七科三十七道品という成仏法(因縁解脱の法)を修行し成仏力を得たとされる。 真言宗金剛院派の北野惠宝の弟子として副管長をしていた時期がある。 阿含宗・桐山靖雄の知られざる正体 | 早川 和広 に昭和30年頃に得度したと北野惠宝師の発言がある。 桐山と反目した後に毎日新聞の記事(昭和51年6月24日付け朝刊)で卍教団の真木応瑞が北野は得度も灌頂も与えていないと証言しているが北野恵宝師が愛弟子であったと証言していたと「阿含宗の研究・桐山密教の内実」に北野師の元弟子A氏の証言にある。
チベット仏教より金剛・胎蔵両部の伝法灌頂を受け(ニンマ派からはギュルミ・ドルチェ・ドドルチェル〈一切万霊守護金剛〉の法号と金剛阿闍梨耶の僧位を授かり、その後、サキャ・ツァル派からンガワン・リクジン・テンペル〈智証光明大覚者〉の法号と金剛大阿闍梨耶の僧位を授かる)、ブータン仏教からカギュ派の無上タントラ瑜伽の法統を受け継ぐ。さらには南伝仏教のスリランカ仏教からもキールティ・スリ・サマ・ドゥータ(輝く平和の大王)という法号と名誉大僧正位を授かったと主張している。
念力で護摩木に火を点けるという「念力護摩」を宣伝効果をねらい実行したが、念力の護摩は関西本部、北陸本部、東京総本部の3カ所で実行された。桐山はクンダリニーヨーガのチャクラ開発の技法を取り入れることで求聞持法、念力の護摩を成就し、それが『阿含経』の「七科三十七道品」の修行達成につながった、と自称している。
「桐山密教」と言われたこともある。当時は密教を騙って修行による能力開発を強く打ち出していたが、阿含宗立宗に伴い、『阿含経』が釈迦が直接説いた内容をまとめた唯一の経典であることを前面に主張するようになる。 釈迦の生地であるインドやローマ教皇庁を訪問するなど国際的に活動する。実質的処女作は『変身の原理』(昭和46年刊)で、すでに七科三十七道品について言及している。 近年では、1996年モンゴル大柴燈護摩供、2000年の9・11後に行われたニューヨーク護摩法要、2003年パリ大柴燈護摩供、2006年アウシュビッツ大柴燈護摩供、2007年シベリア大柴燈護摩供、2008年イスラエル大柴燈護摩供、2009年ガダルカナル大柴燈護摩供など海外での法要を行う。 最近ではシベリア抑留犠牲者や南方戦線の戦死者など、太平洋戦争の戦死者・戦没者・殉難者の供養行事の集金が多くなっている。その要因は戦死した人の多くが桐山と同年代であり、その御霊を安らかにしたいという桐山の思いからである、という。
1980年代にはニューアカデミズムの流行に乗り、カジュアルなメディテーションをアピールし、東京青山他にニホンメディテーションセンターを開設運営した。また1983年のSIGGRAPHには阿含宗により製作されたCG「MANDARA'83」が出展されたり、広告代理店に依頼したメディア戦略をとっている。また東京神保町に「シャンバラ」というサロンを開設した。
1983年にはチベット仏教ゲルク派のダライ・ラマ14世は、1983年に仏舎利を寄贈したり、1984年に日本武道館における「第一回 オーラの祭典」で護摩壇を並べて、合同護摩を行った。また、1989年にノルウェーのオスロで開催されたノーベル平和賞授賞式にも阿含宗を招待した。
1991年(平成3年)、炎の祭典・阿含の星まつり修法地の隣接地境内(敷地約15万坪)に総本殿・釈迦山大菩提寺を建立、チベット仏教ニンマ派ミンドリン寺コチェン・トルク宗務総長一行を招き盛大に落慶法要を営む。
1994年(平成6年)より、それまで「金剛界」「胎蔵界」の大柴燈護摩供であったものを「神仏両界の秘法」による大柴燈護摩供と変更した。仏界の本尊に真正仏舎利、神界の主神として素戔嗚命を奉祭し神仏両界の護摩壇として毎年星まつりを行っている。
1999年(平成11年)からは毎年、桐山自身が日本棋院名誉八段であることから日本棋院主催の「阿含桐山杯全日本早碁オープン戦」に協賛している。
2016年(平成28年)8月29日、開祖の桐山靖雄が死去。
阿含経と阿含宗との教学上の齟齬
阿含宗では、会員が日々に行う一連の作法(勤行)のなかで、2種類の阿含経が読誦されている。 阿含宗では、上座部仏教である『阿含経』を依処にする理由について「シャカ以外の、どこのだれが書いたのか全く不明の偽りの経典(大乗仏教経典)を、シャカの説いた経典であるとして宗派をつくり教団を立てて、布教するのは正しくないことである、」「大乗仏教の経典には、内容的にも致命的な欠陥があることを桐山は発見しました。」「ところが、大乗仏教の経典には、どの経典にも、その修行の方法が一つも説かれていません。」と主張している。
阿含宗は、密教の様式を用いているので、大乗仏教経典である密教経典の『大日経』や『金剛頂経』を持論の根拠として掲げる。さらに後期大乗仏教の密教形式の儀式(護摩)を修する。 お釈迦様の悟りの一つである「空」を説く大乗仏教経典の『般若心経』や大乗仏教経典の『法華経』の一部である『観音経』も取り入れている。さらに日本の神々も奉っている。
(参考) 『阿含経』の時点では護摩については「バラモンよ。木片を焼いたから清らかさが得られると考えるな。それは単に外側に関することであるからである。」(サンユッタニカーヤ)これは、護摩を焚いただけでは清浄は得られず、日々の自らの心を見つめる事も怠るなと言う意味。占いについては「瑞兆の占い、天変地異の占い、夢占い、相の占いを完全にやめ、吉凶の判断をともにすてた修行者は、正しく世の中を遍歴するであろう。」(スッタニパータ)これは最終的には全てを捨て去ると言う意味。『増一阿含経』には、占星術を深く体得し吉凶を予知することに長けた第一人者として、ナーガサマーラ(那伽波羅)比丘の名前が挙げられ讃えられているところから、占星術は全否定されていたのではない、と主張する見解もある(森川真澄氏)。
また阿含宗では仏舎利を本尊としているが、釈迦は晩年弟子らに対して「総てのものには必ず終わりがある/私の亡き後は私の遺した法が皆の拠り所である。怠らず弁ぜよ」と語り、諸行無常は必然とした上で教義の伝承を最重要と説いている。
なお『阿含経』は文字として記録された仏典の中で最も古く、パーリ語仏典をカテゴリー分けした場合「経蔵」にあたる。上座部仏教の阿含経を依経としながら大乗仏教である密教形式をとることについて矛盾と批判があるが、桐山自身の言葉によると(BSフジ 番組内インタビューより)
『阿含経』は最古の経典であり、もっとも古い仏教であるが、それゆえ、形式というものをもたない。一方、密教は大乗仏教の最後に登場し、形式が最も整った仏教といえる。反面、形式化が進みすぎたきらいもある。現代において『阿含経』を布教するにあたり、密教の形式を借りるというかたちを、テーゼとして出したのが、阿含宗である。と述べている。
阿含宗の教学・・・因縁について
仏教の根本思想である「因縁果報」(全てのものは因から始まり、縁により生じた結果が、輪廻していくという教え)から、「縁」を変えれば「因」も変わるという因縁解脱を修行の目標とするとしている。阿含宗では、因縁を人生に当てはめ大まかに分類すると、32の運命的傾向になるとしている。
阿含宗で付けられる悪因縁
○横変死の因縁 / 事故、他殺、自殺のいづれかで亡くなる不幸な運命
○刑獄の因縁 / 犯罪などに係わり服役処罰を受ける運命
○肉親血縁の因縁 / 肉親同士が争い合う運命。酷い場合は殺しあう。
○家運衰退の因縁 / 家の運気が衰退し、活気がなくなる・没落する
○肉体障害の因縁 / 怪我 手術など、肉体に障害を持つ運命
○癌の因縁 / 文字通りガンになる運命
○循環器系障害の因縁 / 心臓、肝臓、腎臓など循環器に障害を持つ運命
○呼吸器系障害の因縁 / 肺や気道など呼吸器に障害を持つ運命
○脳障害の因縁 / 脳に病気や障害を持つ運命 精神病(者)も含まれる
○中途挫折の因縁 / ものごと7,8分で挫折する 男性に多い
○夫婦縁障害の因縁 / 結婚生活が不運である
○後家の因縁 / 30代くらいには、夫と生死別する
○色情の因縁 / 男女間の問題で苦しむ 恋愛 不倫
○運気不定浮沈の因縁 / 一生根無し草のような人生をあゆむ 路上生活 売春
○夫(妻)の運気を剋する因縁 / 配偶者の運気をはなはだしく悪くする
○逆恩の因縁 / 恩人にはなはだしく迷惑をかけ 孤立する
○財運水の因縁 / 金は入るがそれ以上に出て行く 無理に貯めると破綻する
○偏業の因縁 / 特定の職業以外では成功できない 芸能人 水商売 芸術家など
(阿含宗教学部『人はどんな因縁を持つか』より)また「生」「老」「病」「死」という別の表現法もある。 また、因縁の「因」の例として「癌や交通事故などで亡くなった親類縁者や水子が不成仏霊として現世に悪影響を及ぼす。」と主張している。
阿含宗に限らず、現世と死者との関連についての解釈は、宗教観により異なる。また唯物論的立場をとるか、死後の世界を認めるかによっても上記の教学についての見解は分かれるところであろう。
なお、『阿含経』自体には「死後の世界はあるか、ないか、霊魂はあるか、ないか、世界は常住か、無常か」という形而上学の問題についてはお釈迦様は答えず(無記)に、
「自分(お釈迦様)が法を解くのは苦しみから解き放たれるためだ。形而上の問題に惑わされ、またそのために苦しむな。」と教え戒められた毒矢の喩えがある。
ただし、『阿含経』の中に霊魂と思われる存在を指す「異陰」「魂神」「魂霊」「神識」「心識」などの言葉が登場するのも事実であり、輪廻転生に関する記述が大量にあるのも事実である。
年表
1954年(昭和29年) 観音慈恵会を設立
1959年(昭和34年) 「凖胝尊・因縁解脱千座行」を開始
1969年(昭和44年) 「大日山金剛華寺観音慈恵会」となる ※1967年の説有り
1970年(昭和45年) 初護摩にて「念力の護摩」を焚く、4月に大柴燈護摩供が始まる
1978年(昭和53年)4月8日 「阿含宗」立宗
1983年(昭和58年) ダライ・ラマ法王庁より真正仏舎利を拝受
1984年(昭和59年) 5月 東京・日本武道館において、第14世ダライ・ラマ法王と護摩を焚き、世界平和を祈る「オーラの祭典」を挙行
1985年(昭和60年) 3月 ローマンカトリックの総本山・バチカン市国での「国際青年平和集会」に招待を受け参加。バチカン市国使節団400人。この招待を受けたのは、日本の教団では阿含宗のみ。管長は、サン・ピエトロ大聖堂特別謁見室で、ローマ教皇ヨハネ・パウロII世に謁見。
1986年(昭和61年) 4月 スリランカで、ジャヤワルダナ大統領より真正仏舎利を拝受
1987年(昭和62年) スリランカより「聖菩提樹」を贈呈される
1988年(昭和63年) 2月 イスラム教の最高聖職者アブラドゥル・モネ・エル・ネムル法王及び学者を招き「世界平和への宗教フォーラム・イスラムと阿含宗の出会い」(京都)を開催
1990年(平成2年) 9月 第4回「世界宗教者平和会議」に出席バチカン市国に於いて、ローマ教皇ヨハネ・パウロU世と特別謁見
1991年(平成3年) 4月 阿含宗本山総本殿・釈迦山大菩提寺落慶法要 
阿含宗 2

 

阿含宗について
真正仏舎利を本尊とし、釈尊直説の成仏法を修行する
ヒトはみな、環境(国や時代、家族等)や性別、容貌、体質、性格等において、それぞれ異なる条件を持って生まれます。さらに、これらの条件の他に、生涯の流れの中で運命を決定するような条件もあるのです。それはたとえば必ずガンを発症する、離婚をする、横変死する、といったものです。
このような生まれつき持った人生上の条件を「因縁」と呼びます。
仏陀の法は、これらの「因縁」を断ち切ってヒトを自由にし、同時に最高の運命を創造する究極の力(成仏力)を修行者にもたらします。その究極の状態が「完全なる因縁解脱を成就する=仏陀になる」ことです。
お釈迦さまはまずご自身が修行によって仏陀になられ、その後、八十歳で入滅されるまでの生涯を、人々に仏陀になる教えと方法(成仏法)を布教して歩かれたのです。
どのような教団なのでしょうか
釈尊直説の唯一の経典を依経とする
阿含宗は、ゴータマ・ブッダ=釈迦が直説された唯一の経典「阿含経(あごんぎょう)」を依経(よりどころ)とする、仏教の一宗派です。仏教学上の分類では、根本仏教になります。この「阿含」というのは、梵語āgama(アーガマ)の音写であり「来きたる」という意味を持ちます。すなわち「伝承された教え」のことです。日本で一般にお釈迦さまの教えが説かれているとして知られている経典は、ほとんどすべてが大乗経典であり、これはお釈迦さまが亡くなられて数百年経ってから徐々に創作されたものです。つまり、仏陀直説といえる経典は阿含経だけなのです。
なぜ新しい宗派を立てたのか?
阿含宗は、開祖・桐山雄大僧正によって、1978年(昭和53年)4月8日に立宗されました。日本の仏教界に新しい宗旨が開創されたのは鎌倉時代(1192年〜1333年)以来です。
ではなぜ、阿含宗という新しい宗旨を立てなければならなかったのでしょうか?
阿含宗立宗までの約24年間、桐山管長は「観音慈恵会」という仏教教団を主宰していました。この観音慈恵会は、大乗仏教の経典「観音経」を依経としておりました。しかし、桐山管長は、お釈迦さまが説かれたはずの因縁解脱法(成仏法)を探求しつづけた結果、ついに大乗経典にはそれが無いことを知り、それまで小乗の経典と卑しめられていた「阿含経」こそが、お釈迦さまが直説された唯一の経典であり、この「阿含経」だけに成仏法が説き示されていることを知ったのです。
成仏法を抜きにした仏教は、たんなる哲学、倫理、道徳でしかありません。哲学・倫理・道徳でカルマからの脱出・因縁解脱などぜったい出来るはずがないのです。 たんにお釈迦さまの直説経典というだけではありません。仏教の目的である成仏するということ、つまり仏陀になるための方法が、阿含経にしか説かれていないのです。この事実を知りながら仏弟子として黙殺することはできません。そのために、艱難辛苦(かんなんしんく)を覚悟して阿含宗を立宗されたのです。この成仏のための修行法が、仏教学上、「七科三十七道品」と呼ばれているもので、桐山管長は、これを「ブッダになるための、七種のシステムと三十七種類のカリキュラム」と呼んでおられます。
阿含宗の「仏」「法」「僧」とは・・・
仏教における信仰は、仏法僧の「三宝」によって成り立つ
それまで、阿含経は小乗仏教とされて、大乗仏教の宗派から全くかえりみられることなく過ごしてきました。桐山管長が、その歴史上の誤りを正され、阿含宗を立宗してお釈迦さまが説かれた真実の仏教を信仰の面から世に弘めることになった意義は、まことに大きいものです。仏教における信仰は、「仏」「法」「僧」の三大要素によって成り立ちます。仏教教団は、この三つの要素が正しいものであると同時に、すべてそろっていなければなりません。つまり、正しい教団か否かは、それによって決定するわけです。
一、仏
その宗旨における信仰の絶対対象である仏を「本尊」と呼びます。阿含宗の本尊は、釈迦の聖霊(せいれい)が宿る聖物(せいもつ)として、昔から仏教徒の間で深く尊崇されている「真身舎利(しんじんしゃり)」です。
阿含宗では、これを「真正仏舎利尊(しんせいぶっしゃりそん)」と呼んでいます。
仏教徒にとって、ゴータマ・ブッダ=お釈迦さまのご聖骨である真正仏舎利は「生いける釈迦」そのものであり、仏教では唯一最高の本尊です。
想像や概念上の仏ではなく、木像や図像の仏でもなく、ブッダとして実在した釈迦の聖骨であり、仏教における最高の本尊です。
二、法
阿含宗には、三つの修行法があります。
「成仏法(じょうぶつほう)」
生者、死者を問わず、カルマ(業)を断ち切り、因縁解脱(成仏)してブッダ(真理に目覚めた人)になる方法です。釈尊が阿含経の中で説かれている、「七科三十七道品」がその成仏法です。
「如意宝珠法(にょいほうじゅほう)」 真言密教において、最高最奥義とされる秘法です。この法を修するためには真身舎利が必要です。真身舎利を奉安して如意宝珠法を修すると、真身舎利変じて如意宝珠となるのです。如意宝珠法とは、願うがままに、福徳宝生・因縁解脱の功徳を与えてくださる秘法です。
「求聞持聡明法(ぐもんじそうめいほう)」 古くから真言密教に伝わる、人を天才にする法です。しかし、これまでに多くの高僧たちがこの法を修してきましたが、そのほとんどは目的を達成することができませんでした。阿含宗の求聞持聡明法は、真言密教に伝わるものとはまったく異なる独自の法です。管長猊下は「求聞持聡明法」の原点が、釈迦の成仏法「七科三十七道品」の中にあることを発見されました。七科三十七道品の中の「四神足法(しじんそくほう)」こそ、人間の頭脳を改造し、凡夫をして仏陀のさとりに至らしめる法であることを発見、これを復元されました。
三、僧
僧とは、教団そのもの、または指導者を指します。阿含宗は、桐山靖雄管長を指導者として仰ぎ、真正仏舎利尊を本尊とする、サンガ(僧伽)、すなわち教団です。「すべてのカルマを断つ釈迦直説の成仏法」「解脱宝生の徳が授かる如意宝珠法」「新しい二十一世紀を創り出すホモ・エクセレンス※を輩出する求聞持聡明法」。阿含宗は、この三大秘法を有するサンガです。
※ホモ・エクセレンス= ホモ・サピエンスが持たない特別な能力をを身につけた「優秀なるヒト」
信徒はどのような修行をするのでしょうか
仏舎利宝珠尊解脱宝生行
阿含宗の信徒は、因縁解脱(成仏)のための修行として、「仏舎利宝珠尊解脱宝生行」を行います。この解脱宝生行は、成仏法「七科三十七道品」の入口です。この修行は、つぎの三つの行(実践)から成っています。
 1.仏舎利供養
 2.先祖供養
 3.心解脱行
仏舎利供養は、仏舎利をご供養して、1我が身の悪因縁を解脱し、2福運を身につける、3成仏法を成就する、という三つのご加護をお祈りします。この仏舎利供養は、礼拝(らいはい)供養と奉仕(みささげ)供養の二つから成り立ちます。礼拝供養とは、定められた「勤行」(経典読誦と真言詠唱)によって、一心に祈念してご加護をいただく行です。奉仕(みささげ)供養とは、仏舎利尊に自分の持っている何か価値のあるもの(物品、金銭、身の働き等)を懺悔と感謝の心をもって捧げ、ご加護をいただけるだけの徳を持つ行です。「報恩謝徳の行」であり「梵行(ぼんぎょう)」ともいいます。自分の持つ悪い因縁は、すべて過去(前生、前々生)における自分の不徳、不心得から来ています。その不徳、不心得を深く懺悔するところから、因縁解脱の道がはじまります。仏陀は、この不徳、不心得から来た悪業、悪因縁を断ち切ってくださいます。心から感謝申し上げねばなりません。
先祖供養は、不幸な運命のもとに悲惨な人生を送った先祖の怨念が、子孫の運命につよい悪影響をあたえるために、それを仏陀の成仏法によって消滅させるのです。
仏陀の成仏法によらない先祖供養は、霊を慰めるだけであり、これでは、霊障は消えません。仏陀の成仏法による解脱(げだつ)供養は、先祖の霊を完全解脱させて、すべての怨念を消滅させる力を持ちます。わけのわからない不運や不幸に見舞われている家庭は、まず、先祖の解脱供養をする必要があります。また、仏陀の成仏法による先祖供養には、もう一つ、冥徳(めいとく)供養があります。霊障を起こすまでにはいたらないが、成仏できずに苦しんでいる多数の不成仏霊に対する供養法です。この法を冥徳供養と呼ぶのは、この供養をした人に必ず、「冥徳」(祖霊(かげ)の助け)があらわれ、ふしぎに思いがけない幸運にめぐり合い、家運もよくなるからです。
心(しん)解脱行は、戒行ともいいます。自分自身を戒め、規制する行です。わたくしたちはだれでも自分の性格の上に欠点を持っています。それが「心の因縁」です。仏舎利供養、先祖供養を一心におこなって、福徳を身につけても、自分勝手なことをしたり、でたらめな生活をしていたら、せっかく得た福徳もたちまち失ってしまいます。よく「我がつよい」という言葉を聞きますが、この「我」というのが心の因縁なのです。これは徳を損ずること甚だしく、運を悪くするもとです。また、心の因縁は、からだの因縁、運命上の因縁と非常に緊密な関係があり、すべての因縁と表裏一体をなしています。たとえば、ガンの因縁を持つひとは、ガンの因縁を持つひと特有の、心の因縁(性格・気質・癖)があります。ですから、わるい因縁を断ち切り、不幸、不運をとりのぞくには、なによりもまず、この「心の因縁」から変えてゆかねばなりません。しかし、自分の力だけではとうていできるものではありません。前生、前々生、先祖代々から受けついだ因縁という深い根から出てきているものは、少々、心がけを改めたくらいでは、断ち切ることはできません。だからこそ、一心に仏舎利尊さまをご供養して福徳をいただき、先祖供養をしてご加護を願うことによって、はじめて、戒行がなんとかおこなえるようになるのです。
知慧の宗教「阿含仏教」
知能を高めるシステムを持つ智慧の宗教〞でなければ、だれもが渇望してやまない世界平和を実現させることはできません。
最高度の智慧を持つに至った人間は、当然の帰結として、正しい愛の心と、深い慈悲の心、高い道徳性を持つことになります。
智慧こそすべてです。人間どうし殺し合い、傷つけ合い、奪い合うというような、愚かしいことをするのは、すべて、智慧が足りないからです。
人類の不幸と悲劇は、すべて、愚かさに起因します。
桐山雄管長は、「智慧と愛と慈悲」の宗教こそが人類を破滅から救う新しい宗教であると確信し、信徒とともに世界平和実現のために努力をしているのです。
仏陀の成仏法
シャカの成仏法「七科三十七道品」
ニルヴァーナの智慧を獲得する修行法 「七科三十七道品」あるいは「三十七菩提分法(ぼだいぶんぽう)」 
神聖なる智慧を獲得するための七種類のシステムと、三十七種類のカリキュラム
ブッダの説かれた阿含の経典群の中には、ニルヴァーナを表現したと思われる経典、仏典を見出すことができるのです。それどころか、ニルヴァーナの智慧を獲得する修行法までも、発見できるのです。その修行法とは、「七科三十七道品」あるいは「三十七菩提分法」と名づけられた修行法です。これは、七科目・三十七種類にわたる教科目であり、桐山管長は、これを「神聖なる智慧を獲得するための七種のシステムと、三十七種類のカリキュラム」と呼んでいます。世の人々は、大乗仏教だけしか知らないために、仏教にこういう経典のあることをほとんど知りません。パーリ文「中阿含」第百三の kinti sutta につぎのように述べられています。ここに比丘らよ、われによりて法は悟られ、汝らに説かれたり。すなわち四念住・四正断・四神足・五根・五力・七覚支・八正道これなり。それゆえにすべての比丘らは相和し相欣び、争うことなくして、これを学ばざるべからず。ブッダによってさとられた智慧の獲得の修行法、実践法が、ここに明らかにのべられています。阿含経に説かれたこの七科目の修行法は、アビダルマ論師によって「七科三十七道品」あるいは「三十七菩提分法」と名づけられました。さとりにいたる三十七の修行法という意味です。
四念住法(しねんじゅうほう)
旧訳では四念処(しねんじょ)といいます。四念処観ともいいます。さとりを得るための四種の内観・瞑想法です。身念住(しんねんじゅう)・受念住(じゅねんじゅう)・心念住(しんねんじゅう)・法念住(ほうねんじゅう)の四つです。
四正断法(ししょうだんほう)
旧訳では四正勤といいます。断断(だんだん)・律儀断(りつぎだん)・随護断(ずいごだん)・修断(しゅだん)の4つの修行。
四神足法(しじんそくほう)
四如意足とも訳す。四つの自在力を得るための根拠となるもの。超自然的な神通力を得るための4種『欲神足(よくじんそく)・勤神足(ごんじんそく)・心神足(しんじんそく)・観神足(かんじんそく)』の修行法。
五根法(ごこんほう)
信根(しんこん)・精進根(しょうじんこん)・念根(ねんこん)・定根(じょうこん)・慧根(えこん)の五つ。根とは自由にはたらく能力をいう。仏法僧の三宝にたいする信と、精進・念・禅定(瞑想)・智慧が、ニルヴァーナに向かって高い能力を発揮する修行。
五力法(ごりきほう)
信力(しんりき)・精進力(しょうじんりき)・念力(ねんりき)・定力(じょうりき)・慧力(えりき)(または智力)。ニルヴァーナに至る高度な力を得る修行。
七覚支法(しちかくしほう)
択法覚支(ちゃくほうかくし)・精進覚支(しょうじんかくし)・喜覚支(きかくし)・軽安覚支(きょうあんかくし)・捨覚支(しゃかくし)・定覚支(じょうかくし)・念覚支(ねんかくし)の七つをいう。ニルヴァーナへみちびく七つの修行。
八正道法(はっしょうどうほう)(八聖道とも書く)
理想の境地に達するための八つの道『正見(しょうけん)・正思惟(しょうしゆい)・正語(しょうご)・正業(しょうごう)・正命(しょうみょう)・正精進(しょうじん)・正念(しょうねん)・正定(しょうじょう)』

以上が、「七科三十七道品」です。四念住法・五根法、これは、瞑想です。四正断法・五力法・七覚支法・八正道法は、実践と瞑想です。四神足法は、特殊な tapas( 練行)です。神足とは、神通力(超人的能力)のことで、この四神足法は、超自然的な神通力を得るための四種の修行法です。
仏陀の成仏法と霊魂
仏法とは、仏陀釈尊が生涯かけて 弟子たちに教えた成仏法、七科三十七道品
死後も生きつづける幽体(アストラル体)
アメリカ・ジョージア州立大学哲学科のロバート・アルメダー教授は、その著書『死後の生命』(TBSブリタニカ)の「まえがき」と「本文」において、つぎのように述べています。『私たちは今や、死後にもなんらかの生命が存在するという考え方を強力に裏づける、事実に基づいた一連の証拠を手にしている』(まえがきより)
『以上のように考えると、あらゆる人間は、“幽体”(すなわち、ある種の状況以外では肉眼には見えない物質類似の希薄な要素からなる第二の体)を持っているという、霊能力者がしばしば行う主張がある程度真実味を帯びてくる。この第二の体は、形状的には肉体と瓜二つで、肉体の死後も存在を続けるとされている』(本文より)
では、仏教では、どのように考えているのでしょうか。
人間は死ぬとどうなるのか?
仏教では、人間は、色〈しき〉(物質)・受〈じゅ〉(感覚)・想〈そう〉(表象)・行〈ぎょう〉(意志)・識〈しき〉(意識)の五つの要素からできていると考えます。この五つの要素を「五蘊(ごうん)」と呼び、この五蘊が仮に寄り集まって人間(自我・霊魂)ができあがっているのです。では、人間が死んだらどうなるのでしょうか? 日本の仏教者の大半は、釈尊が「霊魂」の存在を否定してしまったと考えています。つまり、死んだらすべてが消滅すると考えているのですが、これはまちがいです。死んだらすべてが消滅してしまうという考え方は仏教ではありません。釈尊直説の経典である『阿含経』を学び修行していないから、このような誤った見解を抱いているのです。釈尊は決して、霊魂の存在を否定しておられません。むしろ肯定しておられます。ただし、「霊魂」という名称ではなく、「異蘊(いうん)」という表現を用いておられます。
凡夫が死んで「五蘊」が滅しても我執(タンハー)のエネルギーによって「異蘊」(異なる構成要素)を生じて存在をつづけます。
雑阿含経の中の「仙尼経」において、釈尊は次のように説かれております。慢〈まん〉(我執〈がしゅう〉)断(だん)ぜざるがゆえに、この蘊〈うん〉を捨て已(おわ〉りて(死んで) 異蘊〈いうん〉相続して生ず。つまり、異蘊とは生きている人間の構成要素(五蘊=色・受・想・行・識)とは異なった構成要素(蘊=集積)という意味で、現代風にいえば「異次元の薀(存在)」ということです。また、雑阿含経「身命経」においても、「意生身(いしょうしん)」ということばで、死後の存在を説かれております。意生身とは意識(心)だけで出来た身体をいいます。このように釈尊は、人間は死んでも、我執煩悩(タンハー)が残るかぎり「なにか(異蘊・意生身)」が存在をつづけると説かれております。この死後の存在こそが霊魂なのです。そして我執(タンハー)が残った霊魂は、死後の世界を経て再生し、現世で成仏法の縁に逢わなければ、果てしなく輪廻転生を続けます。また、この我執が非常に強い場合は、不成仏霊や霊障のホトケとなって迷い、その怨念のバイブレーションが子孫の心に強く悪影響をおよぼします。
釈尊は、古代インドのバラモンが説いた「永遠に変化することも滅することもない自我(アートマン)(霊魂)」という考えは否定しておられますが、縁によって生じ、縁によって滅するという「縁起の法」の上での「死後の存在」は認められております。つまり、「永劫不変の自我(アートマン)」というものは存在しませんが、「無常(変化)の中や縁起において成立する自己(アートマン)」はあるのです。修行によって向上し、涅槃(ニルヴァーナ)に入る「自我(霊魂)」は存在するのです。「不変」ではなく縁によって「変化」するために、死んで(その霊魂・霊体が)異蘊となる縁に逢えば、異蘊となって輪廻転生し、成仏法の縁に逢えば、解脱して仏界に生ずるのです。死んだからといってまったく「無」になって消滅してしまうというのは、仏陀の説かれた縁起の法則に反するものです。
成仏法は、生者、死者を問わず、その霊魂を救済する
管長猊下は仏陀釈尊の説かれた成仏法のみならず、最高位のラマ僧として受け継がれたチベット密教の秘法「召霊法(しょうれいほう)」を体得しておられます。この召霊法は、ロバート・アルメダー教授が記述している幽体(アストラル体)だけでなく、その奥にある「霊体」も、自由に見ることができる秘法です。管長猊下はこの召霊法によって、生者も死者も、ともに霊体から成り立っており、本質的にはあまり違いがないことを霊視されております。仏陀の成仏法により、霊体は悪因縁、悪業、悪念から解放されます。完全に解放された霊体は、涅槃(ニルヴァーナ)に入ります。これを成仏というのです。しかし、成仏といっても、生者と死者によって、それぞれちがいます。生者の場合は、自分自身で成仏法・七科三十七道品(しちかさんじゅうしちどうぼん)を修行することができます。修行によって霊体(生者)は、清められ、高められ、しだいに悪因、悪業から解脱してゆきます。「シュダオン」「シダゴン」「アナゴン」という聖者の段階を経て、究極の大聖者「アラハン」(仏陀)に到達します。この世において、仏陀に到達できない場合は、つぎの世においても、ひきつづき成仏法の修行を続け、究極的にはかならず仏陀になるのです。死者の場合は、自分で修行することはできませんから、成仏法を成就した聖者に、成仏法をもって供養していただきます。つよい怨念や執念によって不成仏霊となり霊障を発し、迷っているホトケは、聖者の発する悟りのバイブレーションを受けて解脱し成仏します。ただし、この場合の成仏とは、完全に因縁・業煩悩といったものを解脱したという意味ではありません。成仏法を成就した聖者( 有余依涅槃(うよえねはん)の聖者)の霊的テレパシー(霊力)によって、聖者の悟りをそのまま受け止めて、迷い執念などを離れて、冥界(死者のほんとうの世界=安らぎの場)へ向かうということです。これが、仏陀釈尊の教えられた「仏法」です。
死者たちの怨念が、すべての人の深層意識を動かす
いま、この世界が壊滅の危機に瀕しているのは、この世界に充ち満ちている死者の怨念、悪念のバイブレーションが、すべての人の深層意識を動かしているためです。その結果、人類はますます衝動的、闘争的、反道徳的になり、結果的に自分自身を虐殺しようとしつつあります。まず、家庭が崩壊しはじめています。これらの苦しみに満ちた死者の霊魂に全き安らぎを与えないかぎり、生きている人間に全き安らぎは訪れません。仏陀釈尊の成仏法は、これらの苦しみを持ったまま死後生存している存在(霊魂)に安らぎをあたえ救済する力を持っているのです。
シャカの成仏法による「先祖供養」
仏陀釈尊の成仏法による先祖供養は、二つの法から成っています。
一、解脱供養法
解脱供養法は、つよい怨念(おんねん)を持つ霊障のホトケを、完全解脱させる法であり、「解脱成仏法」ともいいます。
つよい怨念を持つ霊障のホトケは、子孫に非常な悪影響をあたえる。
こういう先祖の霊を霊視してさがし出し、良い戒名をつけてあげて、導師が成仏法を修するのである。
霊障のホトケのいる家庭には、必ず、つよい「肉親血縁相尅(にくしんけつえんそうこく)の因縁」が生じて、家族の間に、いつも争いが絶えないことになります。あたたかい会話などほとんど交わされず、親子、兄弟、夫婦が、いつもいらいらしていて、ちょっとしたことで罵(ののし)り合い、どなり合う。つかみ合いのけんかが始まる。というように、争いが絶えません。この因縁は地獄界に属する因縁だから、家庭が地獄になってしまうのです。
また、霊障のある家庭は、つよい「家運衰退(かうんすいたい)の因縁」があるから、なにをやっても、うまくいかない。不運と挫折の連続である。病気や、怪我、人にだまされる、など、わけのわからない不幸や災難に見舞われる。そういうところから、家族間の争いは深刻を度を増してゆく。不幸な時ほど家族みんなが力を合わせ、仲よく協力し合って対処しなければならないのに、逆になってゆくのである。
解脱供養をすると、こういったことが、おどろくほど、変わってくる。とにかく、家庭を覆っていたトゲトゲしい空気、暗い空気がいっぺんになごんでいくのが実感される。てきめんに変わってくる。
二、冥徳供養法
これは、つよい霊障を起こすまでには至らないが、しかし、成仏できずに苦しんでいる、多数の不成仏霊にたいする成仏供養である。
安岡正篤先生は、「われわれの先祖は、二十代さかのぼると、百万人を越え、三十代さかのぼると十億を越えるという」とおっしゃっている。
わたくしの霊視によると、直接、霊障の影響をあたえるのは、三代ないし、四代くらい前までの先祖である。特殊な例をのぞいて、ふつう、それくらいである。
これにたいし、不成仏霊の影響は、七代、八代、ときに十代くらいにまで範囲がおよぶ。
いずれも「家運衰退の因縁」と、それにかかわる悪因縁のもとをなしている。
ときには、何代まえかわからない不成仏霊の漠然(ばくぜん)とした悪影響を感じることがある。
こういった場合、多くは、単体ではなく、数体、もしくは十数体もかたまっていることがあり、わたくしは、これはもう「因縁」ではなく、「業(ごう)」になっているな、と思うことがある。これらも、その家系(いえ)の運を悪くし、さまざまな災難のもとをなしているので、とりのぞかねばならないのである。
これらの不成仏霊にたいする成仏法が、「冥徳供養法」である。
この法が冥徳供養法と呼ばれるのは、この法によって、これらの不成仏霊を解脱してあげると、その供養をした人にかならず、「冥徳」があらわれるからである。冥徳とは、祖霊の冥(かげ)の助けを受ける徳をいう。
この冥徳供養をおこなうと、ふしぎに、思いがけない幸運にめぐり合うのである。家運もよくなる。
この冥徳供養は、解脱供養とちがって、導師の私だけが修法するのではなく、わたくしが修法した先祖の塔婆を、家の御宝塔前に奉安して、わたくしの教えた特別な「冥徳供養真言」をとなえて、解脱成仏と、冥徳を下さるように祈念するのである。
歴史
阿含宗の歩みは、仏陀の叡智をもとにした新しい文明に向かうための変革と創造の歴史です。その阿含宗と、創始者である桐山管長の道程が、いかに奇跡的な事跡に満ちているかをみれば、仏界の釈尊のご意志ご加護なくしてはとても実現できるものではない、と言えるのではないでしょうか。「仏陀釈尊の教団」と銘打ったゆえんです。
1954 「観音慈恵会(阿含宗の前身)」発足
1970 1月 初護摩にて「念力の護摩」を焚く
  4月 世界平和祈願の大柴燈護摩供を、霊峰・富士山の「天母台」にて初めて奉修
1975 2月 節分・星まつり大柴燈護摩供の修法開始
1978 4月8日「阿含宗」立宗開山式を挙行
1983 3月 ダライ・ラマ法王庁より真正仏舎利を拝受
  8月 チベット仏教ニンマ派僧位・法号「一切万霊守護金剛」を拝受
1984 5月 東京・日本武道館において、第14世ダライ・ラマ法王と護摩を焚き、世界平和を祈る「オーラの祭典」を挙行
1985 3月 ローマンカトリックの総本山・バチカン市国での「国際青年平和集会」に招待を受け参加。バチカン市国使節団400人。この招待を受けたのは、日本の教団では阿含宗のみ。管長は、サン・ピエトロ大聖堂特別謁見室で、ローマ教皇ヨハネ・パウロII世に謁見
1986 4月 スリランカで、ジャヤワルダナ大統領より真正仏舎利を拝受
  6月 日中友好世界平和の祈り護摩法要
1987 スリランカより「聖菩提樹」を贈呈される
1988 2月 イスラム教の最高聖職者アブラドゥル・モネ・エル・ネムル法王及び学者を招き、「世界平和への宗教フォーラム・イスラムと阿含宗の出会い」(京都)を開催
1990 9月 第4回「世界宗教者平和会議」に出席、バチカン市国に於いて、ローマ教皇ヨハネ・パウロU世と特別謁見
  11月 柏原聖地解脱宝生・鎮魂帰神大柴燈護摩供
1991 4月 阿含宗本山総本殿・釈迦山大菩提寺落慶法要
1992 11月 スリランカ仏教シャム派より、名誉大僧正の僧位を授受
1993 10月 伊勢神宮第61回式年遷宮奉祝・神仏両界大柴燈護摩供
  11月 チベット仏教 サキャ・ツァル派 金剛界・胎蔵界両部の伝法灌頂を授かり、チベット仏教の最高僧位「金剛大阿闍梨耶」を授受。法号は「智勝光明大覚者」
1994 4月 台湾における法要と講演
  2月 ミャンマー仏教界最高の僧位・法号を授受
1996 6月 モンゴル国立十一面観音開眼法要・世界平和祈念大柴燈護摩供
1997 12月 中国・国立中山大学にて講演・同大学の名誉教授に就任
1998 10月 台湾平安・世界平和阿含佛教大柴燈護摩供法會(台湾・嘉義市)
  11月 中国北京大学にて講演・国立佛学院の名誉教授に就任
1999 3月 印度聖地大柴燈護摩供
2000 11月 第1回ニューヨーク護摩法要と講演(ユニタリアン教会)
2001 10月 第2回ニューヨーク護摩法要と講演(リバーサイド教会)
2003 6月 世界平和祈念・パリ大柴燈護摩供
  6月 フランスのルーヴル美術館オーディトリアムで瞑想講演会開催
2004 11月 世界平和祈念・阿含宗東京大柴燈護摩供 関東大震災・東京大空襲被災者・殉難者成仏供養
2005 9月 被爆60周年・広島法要20周年・原爆犠牲者・太平洋戦争犠牲者成仏供養法要
2006 6月 世界平和祈念・アウシュヴィッツ大柴燈護摩供(ポーランド)
  7月 国立千鳥ヶ淵戦没者墓苑盂蘭盆会万燈先祖供養(以後通年行事)
  8月 阿含宗本山に「紺綬褒章」賜る
2007 7月 シベリア抑留犠牲者成仏供養法要 世界平和祈念シベリア大柴燈護摩供
2008 3月 「ガンダーラ美術とバーミヤン遺跡展」に出展協力
  9月 イスラエル建国60周年奉祝・世界平和祈念 イスラエル大柴燈護摩供
2009 10月 南太平洋戦没者成仏供養・世界平和祈念 ガダルカナル大柴燈護摩供
2010 5月 京都仏教音楽祭2010 〜祈り〜 特別協賛
  6月 チベット仏教カギュ派の伝法灌頂を授受し、「無上揄伽欄タントラ」の法、およびカギュ派に相承されている最高の秘伝と法号「智勝語自在勝法幢」を拝受
  11月「第2回オーラの祭典 世界平和祈念 マヤと阿含の合同法要」
2012 2月 日本の祈り 〜歌舞音曲で綴る日本の心の原風景〜 協賛
  5月 世界平和祈念 太平洋戦争戦没者成仏供養 洋上法要厳修
2013 1月 阿含の星まつり40回記念行事 「第2回京都仏教音楽祭・平和の祈りを世界へ〜」
  9月 聖地エルサレム仏舎利塔建立供養・中東平和祈念護摩法要
2014 10月 東日本大震災犠牲者成仏供養 震災復興・国土安穏祈念 神仏両界 福島大柴燈護摩供(福島県南相馬市・雲雀ヶ原祭場地)
  11月 マリアナ諸島戦没者成仏供養 世界平和祈念 神仏両界サイパン・テニアン大柴燈護摩供(サイパン島)
2015 6月 阿含宗本山ブータン堂 サンゲー・チューリン竣功 落慶護摩法要 奉修
  7月 終戦七十年 太平洋戦争戦没者成仏供養 管長猊下ご親修 千鳥ヶ淵万燈供養護摩法要 奉修
  10月 法務大臣から感謝状を授与
  11月 第30回阿含宗世界平和祈念 国難鎮護・神威示現・日本新生 神仏両界 沖縄大柴燈護摩供
2016 10月 阿含宗開祖 桐山雄大僧正 阿含宗葬
  11月 伊日阿含財団 阿含宗代表団がローマ教皇に謁見  
阿含宗 3

 

創立 / 昭和53年4月
創始者 / 桐山靖雄(管長)
信仰の対象 / 真正仏舎利
教典 / 阿含経
沿革
阿含宗(あごんしゅう)は、桐山靖雄(きりやま・せいゆう)が「阿含経の教説を密教の方式で実践することにより、誰でも超能力を備え、仏陀(ぶっだ)になれる」と主張し、設立した教団です。
犯罪者から教祖へ転身
桐山靖雄は、本名を堤真寿雄(つつみ・ますお)といい、大正10年、横浜に生まれました。
昭和14年、結核性の痔瘻(じろう)とカリエスにかかり病院に入院した真寿雄は、精神的安定を求めて宗教書を読みあさり、自ら考案した瞑想法やら数々の養生療法を試してみたそうです。そして終戦後に退院した真寿雄は、弟たちと始めた製粉機・精米機のヤミ販売で利益を上げ、さらに水産加工物販売にも手を広げました。
その後まもなく、水産加工物の事業に失敗して多大な負債を抱えた真寿雄は、首吊り自殺をしようとしました。そこでたまたま目にした『般若心経』『準胝(じゅんてい)観音経』などの経典を読み、死ぬことを思いとどまりました。これがきっかけで真寿雄は観音信仰に励む一方、運命学や因縁解脱(いんねんげだつ)などを学びました。
しかし昭和28年、合成ビールを密造販売した真寿雄は、酒税法違反と私文書偽造の容疑で逮捕され、一審で懲役1年6ヶ月・罰金5万円の実刑判決を受けました。控訴したものの7年後に有罪が確定し、真寿雄は刑務所に約1年間服役しました。
この逮捕をきっかけに、一から出直すことを決意した真寿雄は「観音慈恵会(かんのんじけいかい)」を設立。母方の姓を取って「桐山靖雄」と名を改めました。これが教祖・桐山靖雄の誕生です。
「阿含宗」にいたる経緯
借家で始めた「観音慈恵会」でしたが、収入が少なく家賃の滞納で追い出された靖雄は、東京の会員を頼って転々としながら全国各地を往復して会員を増やし、東京・大阪・愛知、石川等に支部や道場するまでになりました。
昭和30年に真言宗金剛院派の寺院で得度し僧籍を得たという靖雄は、昭和42年、「観音慈恵会」を「大日山金剛華寺観音慈恵会」と改称し、昭和44年には石川県で宗教法人を取得しました。
そして昭和45年には、静岡県富士宮において、第1回「大柴燈護摩供(だいさいとうごまく)」と称する世界平和祈願祭を行いました。これがそれ以降、教団の最大行事となる「炎の祭典 阿含の星祭り」のスタートです。
昭和46年、靖雄の著書『変身の原理』が、当時のオカルトブームに乗って世間の注目を集めると、さっそく靖雄は妻に(株)平河出版社を設立させて自著の密教解説書を次々と出版し、また昭和48年には(株)光和食品を設立して密教食を売り出すなど、教団関連会社を拡大していきました。
昭和50年代に入ると、靖雄は「密教には成仏の修行法が観念化されているが、『阿含経』には真実の成仏法が説かれている」と思い立ち、昭和53年4月に、『阿含経』を根本経典とする「阿含宗」を立宗。昭和56年には教団名を「阿含宗」と改称しました。
その後の展開
昭和61年、スリランカから予定外に「真正仏舎利(しんせいぶっしゃり=釈尊の遺骨)」が贈与されたことにより、靖雄は、本尊を従来の「準胝観世音」から「真正仏舎利」にコロッと変更してしまいました。
その翌年の昭和62年、(株)光和食品が無許可の漢方薬を原料とした密教食を販売したことによって摘発され、元会長の靖雄以下7名が、薬事法違反の罪でそれぞれ罰金20万円の略式命令を受けました。
平成2年、神戸に「メシヤ館」を、翌年には横浜に「占いの館・シャリーラ」を開設し、主に若者を対象にして、密教占星術による占いやカウンセリングを行っています。また毎年2月には教団最大の行事である「阿含の星祭り」を催しています。
教義の概要
本尊の変遷と経典
靖雄は「観音慈恵会」以来、たびたび本尊を変更しています。現在は「真正仏舎利」が総本尊ということになっていますが、過去の経緯を見てみると、
(1)観音慈恵会時代・・・「大白身如来最勝金剛仏母準胝観世音(だいびゃくしんにょらいさいしょうこんごうぶつもじゅんていかんぜおん)」
(2)昭和53年当時・・・「大白身如来最勝金剛仏母準胝観世音大菩薩」
(3)昭和54年の星祭り時・・・「大日如来・釈迦如来・準胝如来の三身即一(さんじんそくいつ)の如来」が炎の中に姿を現したらしい
(4)昭和61年・・・スリランカから贈られた「真正仏舎利」
ということになります。ただし現在でも、(3)も一応は本尊ということにはなっています。
また信者の各家庭には、「御宝塔(ごほうとう)」と呼ばれる金属製の仏舎利塔を祀(まつ)ります。これは靖雄の修法によって、真正仏舎利と同じ功徳力の備わったものだそうです。
教団の依経(えきょう=よりどころの教典)は、立宗以前は『準胝観音経』や『般若心経』でしたが、立宗後は『阿含経』に変更されています。
霊障を中心とした教義と修行
阿含宗では、「人間が不幸になる悪因縁(あくいんねん)は、執着や執念のために成仏できない<不成仏霊>、そのなかでも特に怨念の強い<霊障のホトケ>によって引き起こされる」などと主張しています。
教団では、これらの霊障を取り除き、さまざまな悪因縁から解放され(因縁解脱)、自由自在の境地になるためとして、
(1)「成仏法」……生者、死者の業(ごう)を断ち、因縁解脱して仏になる
(2)「如意宝珠法(にょいほうじゅほう)」……「真正仏舎利」の力によって因縁解脱成就へと導く
(3)「求聞持聡明法(ぐもんじそうめいほう)」……人の記憶力を数倍に高め、超能力を与え、凡人を天才にすると同時に、仏の悟りを得る
という、三つの実践法を教えています。これらは阿含経の教えに基づくと言っていますが、実際には密教様式を採用しているものです。
また信者には、
(1)「冥徳供養法」……不成仏霊を供養するもので、靖雄が供養した塔婆(とうば)を自宅の仏舎利塔に置き、真言を称(たた)える。そしてその塔婆を教団に返納して毎月、管長の靖雄が供養を続けることによって「守護霊」を持つことができる
(2)「解脱供養法」……霊障のホトケを供養するもので、靖雄が霊障のホトケを探り出し、戒名等を付け、そのホトケを完全解脱する
という二つをさせています。またこれ以外に、教団運営のための奉仕活動や布教を行う「梵行」、自身の欠点・短所を消滅させる「戒行」などの実践修行があります。 
金光教

 

日本の新宗教。教派神道連合会に属し、戦前の神道十三派の一つ。
安政6年(1859年)、備中国浅口郡大谷村にて赤沢文治(川手文治郎)、後の金光大神(こんこうだいじん)が開いた創唱宗教である。同じ江戸時代末期に開かれた黒住教、天理教と共に幕末三大新宗教の一つに数えられる。
現在の本拠地は岡山県浅口市金光町大谷である(旧町名由来の金光町という地名は金光教の本部があることから付けられた)。
祭神は天地金乃神(てんちかねのかみ)と生神金光大神(いきがみこんこうだいじん)である。
教主は金光平輝(こんこうへいき、五代金光様)、教務総長は西川良典(にしかわよしのり)である。日本を中心に約1600の教会・布教所、45万人の信者を有する。
教え
従来の金神思想では日柄方位の吉凶を重視し、厳密な日柄方位の遵守を求めたが、金光教祖は自身の体験から、そういう凶事は人間の勝手気ままから生じる神への無礼が原因であり、神への願いにかなう生き方や行動を行いさえすれば、すべてが神に守られた中での生活が行えると説いた。そして、神と人とは「あいよかけよ」の関係であるとした(人が助かるには神に願い、神の助けが必要だが、神もまた人が助かって欲しいという願いを持ち、人を助けることで神としての働きが出来るので助かっているという関係)。また、人はみな神のいとしご(氏子)であり、それぞれの宗教の開祖も、神のいとしごであるという教えから、他の全ての宗教を否定しないという思想を持つ。文化人の信者も多いが、こうした性格から布教活動的な言論は少なく、比較的最近の関連著作であるかんべむさし『理屈は理屈 神は神』などもかなりニュートラル、分析的な内容となっている。なお信者が日々唱える言葉は「生神金光大神(いきがみこんこうだいじん)天地金乃神(てんちかねのかみ)一心に願(ねがえ)おかげは和賀心(わがこころ)にあり、今月今日でたのめい」である。
特徴
信者は、本部および各教会の広前に設けられた結界の場において、生神金光大神の代理(てがわり)となる取次者を通じて、各人それぞれの願い・詫び・断り・お礼を天地金乃神に伝えることにより、その願い・祈りを神に届け、また神からの助かりを受ける。これを「取次」といい、金光教の特徴とされる。(本部広前の結界の場で金光教主は、年間を通して、一日の大半を取次業に専念している。)  
金光教 2

 

金光教あんない
私たちは、天地の恵みを受けて生きています。決して自分の力だけで生きているのではありません。それぞれの命があって、さまざまな人や物のお世話になって生きているのです。
例えば、赤ちゃんは自分でおむつを替えることはできません。家族や周囲の人に替えてもらったり、成長の過程で用をたす練習を繰り返して、ようやく一人で排便処理ができるようになっていきます。誰もが皆、回りの人のお世話になり、その中で心身の成長を頂き、日常生活での練習を通して、初めて「できる」ということにたどり着くわけです。
ところが、一人で「できる」ようになるとそれが当たり前になり、命そのものを授かっている事実や、天地の恵みに囲まれている事実、さらには、多くの人や物の支えがあって今の自分があるという事実を忘れがちになります。
金光教では、お世話になって「できる」ことや、さまざまな恩に報いる生き方を生活の中に現していくことを信心としています。
「心が豊かになる」とはどういうことでしょう?
「人が助かる」とは一体どうなることでしょう?このページでは、神様のご紹介をしながら、信心して生きることの尊さに触れていただきたいと思います。
天地金乃神 (てんちかねのかみ)
天地金乃神は、人間をはじめ、あらゆるものを生かし育む、大いなる天地のはたらきであり、私たち人間の親神(おやがみ)です。
一生死なない父母
金光教の教祖・金光大神(こんこうだいじん)は、神と人間との関係を実際の親子関係になぞらえて語っています。親は、子どもが言うことを聞かないからといって切り捨てることはなく、また、子どもが難儀をしていたら一日でも早い助かりを祈願します。神様のお心も、このように人間をかわいいと思う一心なのです。
「金乃神様から人体を受け、御霊を分けていただき、日々天地の調えてくださる五穀をいただいて命をつないでいる。昔から、天は父なり、地は母なりというであろう。天地金乃神様は人間の親様である。此方の信心をする者は、一生死なぬ父母に巡り合い、おかげを受けていくのである」と教えてくださった。
神様は、氏子を救い助けてやろうとこそ思うてござれ、このほかには何もないのじゃから、氏子の身の上にけっして無駄事はなされはせぬぞ。ご信心しておるがよい。みな末のおかげになるぞ。
神はわが本体の親ぞ。信心は親に孝行するも同じこと。
広い世間には、鬼のような心を持っておる者もないとは言えぬが、しかし人間であったら、気の毒な者を見たり難儀な者の話を聞けば、かわいそうになあ、何とかしてやったらと思うものじゃ。親神様のお心は、このお心ぞ。かわいいのご一心ぞ。
悪かったと自分に得心してお断りを申せば、神様は叱ってはくださっても、罰はお当てなさらない。すぐにお許しくださる。神様は、常に氏子かわいいとの思いでおられるのである。
「この大地もその他の物も、みな神様の御物であるのに、わが物である、わが金ですると思い、神様にお願い申さずにするから、叱られるのは無理もない。神様にお願い申して、神様のご地内をお借りし、今までのご無礼をおわびして建てれば、さしつかえない」と教えられた。その人は、この度は三階建てを建て、一番上は神様のお間とさせていただきますと約束して帰り、三度目の普請でおかげをいただいたということがあった。
人間あっての神
天地金乃神は、神の思いに沿わない人間を切り捨てるようなことはされません。むしろ、人間が天地の間に生かされて生きていることを忘れて悩み、苦しむ姿を憂う神様です。天地金乃神は「人あっての神、神あっての人」と教祖に伝えられ、神が人と離れて存在するのではなく、「人間がおかげ(神の助け、恩恵)を受けてくれなければ、神も金光大神も嬉しくない。人間がおかげを受けないで苦しんでいるようでは、神の役目が立たない。人間が立ち行かなければ、神も金光大神も立ち行かない」とも仰っています。
親は、心配さす不肖な子ほどふびんであろう。天地の神様も、神の心を知らずにいる者ほどかわいいと仰せになる。親の手もとへ頼って来る子には、うまい物でもやれるが、親の手もとへ来いと言っても、何かと逆らい、親を敵カタキのようにして、よそへ出てしまうと、親は、どうしているだろうかと思ってふびんになる。親がそうして子をかわいがるのも、天地の神様が氏子をかわいがってくださるのも、同じことである。
「『氏子の信心が足らぬためにおかげをよう受けぬのを、神のおかげがないように思うておる。これが神も情のうてならぬのじゃ』と仰せがあった」とお話しなされたことがある。神様は、こうまで、氏子がようおかげを受けぬのを残念にお思いになっておる。もったいないことじゃないか。親の心子知らずの信心ではならぬぞ。
みな、神様に捨てられた捨てられたと言いますが、神はめったに捨てはせぬ。みな、氏子から神を捨てますのじゃ。
宗旨嫌いをしない神
金光教では、万物の営みすべてが天地金乃神のおかげ(神の助け、恩恵)の中にあると考えています。また、教祖・金光大神も、どの神様仏様でも善し悪しはなく、それぞれが大事にする神様仏様を拝み、一所懸命に願っていく「一心」が大切であると説いています。
この金神は、神、仏をいとわない。神道の身の上も仏の身の上も、区別なしに守ってやる。神道も仏教も天地の間のものであるから、何派かに派などと、宗旨論をしたり凝り固まったりするような狭い心を持ってはいけない。心を広く持って、世界を広く考えて、手広くいかなければいけない。
どの宗旨もくさすことはない。みな、天地の神様の氏子である。あれこれと宗教が分かれているのは、たとえば同じ親が産んでも、大工になる子もあり左官になる子もあり、ばくちを打つ子もあり商売好きな子もあるというようなものである。みな宗教が分かれていると言っても、天台でも法華でも天地の神様の子で分かれているのである。そばの好きな者や、うどんの好きな者があり、私はこれが好きだ、わしはこれが好きだと言って、みな好き好きで立っているのであるから、くさすことはない。世界中、天が下の者は、みな天地の神様の子である。天地の神様のおかげは世界にいっぱい満ちている。そのおかげがなければ空気がないのと同じで、一時も人は生きてはおられない。
宗教以外のこと、たとえば他人の家のことで、あの所の嫁はどう、この所のだれはこうなどと、陰口を言う者もいた。「氏子らの中には、此方の前に来て、人のことをそしるばかりする者がある。 自分の産んだ子供の中で、一人は僧侶になり、一人は神父になり、神主になり、また、他は役人になり、職人になり、商人になりというように、それぞれいろいろになった時、親は、その子どもの中でだれかがそしられて、うれしいと思うだろうか。此方の前に来たら、他人のことを言うな。他人をそしるのは、神の機感(み心)にかなわないことになる。釈迦もキリストも黒住も、みな神の氏子である」
「とかく信心は真の心で、親に孝、人に実意丁寧、家業を大切にし、神仏を粗末にしないように。たとえ薮神小神でも、災いは下からということがあるから、どこの神仏も粗末にしてはならない」
ここへ信心せえと言うのじゃない。どこでもよい。お前方の好きな所へ信心すりゃ、それでよいのじゃ。何様ではおかげがないということはない。人間でも、いよいよ身も心も打ちこんで頼まれりゃ、どうでもこうでも助けてあげにゃならぬという心になって、わが力にかなわぬ時は人に頼んででも助けてあげようが。神も一つこと。ご自分でかなわぬ時は、神から神に頼んででも助けてくださるから、神に力がたらぬということはない。どこでもよいから一心に信心せよと言うのであるぞ。
生神金光大神(いきがみこんこうだいじん)
生神金光大神とは、教祖が天地金乃神から授けられたご神号(しんごう)です。
教祖は、文化11(1814)年、備中国占見村(現・岡山県金光町)にて生まれ、12歳の時、隣村大谷(おおたに)村の農家に養子入りしました。子どものころから信仰心に厚く、神仏参りを大切にして暮らしていました。その後、自身の大病やわが子の死など、相次ぐ苦難の中で、天地金乃神と出会い、いっそう信仰を深めていきました。やがて、46歳の時、天地金乃神から「農業をやめて、難儀な氏子(人間)を取り次ぎ助けてやってくれ」とのお知らせを受け、自宅を広前(参拝者の参り場所)とし、悩みや苦しみを抱えて参拝する人たちを受け入れ、信心して助かる生き方を説き続けました。
いつしか、参拝する人々は教祖のことを、親しみを込めて「金光様」と呼ぶようになりました。
取次(とりつぎ)
取次とは、金光教の教祖・金光大神によって始められた、参拝者の願いを神に届け、神の願いを参拝者に伝えて、神と人が共に助かる生き方を求めていく、本教の信仰活動の中心です。
金光大神は、安政6(1859)年、天地金乃神からのお頼みを受けられ、家業をやめ、人の願いを神に祈り、神の願いを人に伝える取次に、明治16(1883)年に死去するまでの24年間、自宅の広前(参拝者の参り場所)において専念し、難儀に苦しむ多くの人を助かりへと導きました。この神と人を結ぶ取次によって助かりを得た人々は、武士、農民、商人、大名など各層にわたり、その教えは時代の経過と共に各地へ広がっていきました。そして、現代まで絶えることなく受け継がれてきています。
人は生きていく上で、さまざまな問題に出遭います。そのような時、教会に参拝し、取次を願えば、取次者はその内容を神様に祈り、それぞれの問題や状況に応じて、神様の願うあり方を分かりやすくお話いたします。そうした営みは、あなたにとってきっと生きる力となるでしょう。
金光教の本部及び全国約1500の教会の広前(参拝者の参り場所)では、日々、この取次が行われており、いつでも、どなたでも、自由に取次を願うことができます。
教祖の生涯
出生
金光教(こんこうきょう)の教祖金光大神(こんこうだいじん)さまは、江戸時代の終わりごろ、文化11(1814)年8月16日(新暦9月29日)、備中国占見村(びっちゅうのくに うらみむら/現岡山県浅口市金光町)の農家、香取十平(かんどりじゅうへい)、しもの2男として生まれました。源七(げんしち)と名づけられ、実直で信仰心の厚い父と、慈愛に満ちた母のもとで、大切に育てられました。金光さまは、幼少のころから身体が弱かったので、父は暇を見つけてはわが子を背負い、村の氏神(うじがみ)である大宮神社(おおみやじんじゃ)をはじめ、近くの神社やお寺に参拝をしていました。そのため、父の着物は背中のあたりからすり切れてやぶれるのが常であった、と伝えられています。
養子入り
文政8(1825)年、12歳になった金光さまは、川をへだてた隣村の大谷村(おおたにむら)に住む川手粂治郎(かわてくめじろう)、いわの養子となりました。名前を源七(げんしち)から文治郎(ぶんじろう)と改め、周りからは文治(ぶんじ)と呼ばれるようになりました。養子入りの際、養父母から「好きなことは何か」とたずねられると、「神仏に参ることが好きなので、休日にはこころよう参らせてください」と答えました。また、「嫌いなものは」と聞かれて、麦飯が体質に合わなかった金光さまは、「麦飯がきらいです」と答えました。麦飯が常食であった当時の農民の暮らしから考えると、とんでもない答えでしたが、文治に期待と愛情を注ぐ養父母は、麦2斗(と)を米1斗※に換えてまで米のご飯を食べさせました。
手習い
農民に「読み書き」は不要とされていた時代でしたが、13歳になった金光さまは、養父のはからいによって、村の庄屋の小野光右衛門(おのみつえもん)から手習いを受けることになりました。2年という短い期間ではありましたが、読み書きそろばんをはじめ、倫理や道徳についても学びました。光右衛門は、天文・和算・測量・暦法・方位・鑑定などにすぐれ、また、村人からの信任もたいへん厚い人物でした。そのすぐれた人格にふれて成長した金光さまが物事の道理に明るい人となり、後年、自叙録など多くの記録を書き記すことができたのも、光右衛門との出会いに負うところが大きかったのです。
養父の死と相続・結婚
天保7(1836)年、金光さまが23歳の時に義弟の鶴太郎(つるたろう)が6歳で亡くなり、それから半月あまりの後、わが子の後を追うように養父粂治郎(くめじろう)が66歳で亡くなりました。金光さまは思いがけない義弟と養父の死にふれて、言いようのない悲しみや家の先行きに対する不安に襲われました。そうした中、家督(かとく)をついだ金光さまは、養父の遺言により姓を川手(かわて)から赤沢(あかざわ)に改め、一家のあるじとしての責任を果たすため、今まで以上に家業に努めていきました。そして、その年の12月、古くからの親戚筋にあたる、古川八百蔵(ふるかわやおぞう)の長女とせさまと結婚することになりました。金光さま23歳、とせさま18歳の時のことでした。
四国88か所めぐり
弘化3(1846)年、金光さまは33歳の厄年※を迎えました。当時の習慣では、親類縁者を招いて祝宴(しゅくえん)を開き、厄払いをするのが一般的でしたが、金光さまは、そのかわりに、四国霊場(しこくれいじょう)88か所を巡拝することにしました。巡礼者の多くは、けわしい山道を越えたり、深い谷を渡らなければならない札所(ふだしょ)にさしかかると、街道途中からの遥拝(ようはい)で済ましていましたが、金光さまは一つ一つの札所に足を運び、心をこめて丁寧に巡拝しました。
住宅の改築
次第に生活が豊かになり、家族も多くなったことから、これまでの小さな家を建て替えることにしました。嘉永2(1849)年の暮れ、隣村の住居購入の話を持ちかけられた金光さまは、日柄方角を見てもらい、その家を購入することにしました。しかし、翌年、小野光右衛門(おのみつえもん)から「年まわりが悪い」と指摘されました。すでに家を買い取っていたことから、再度、光右衛門に日柄方角を見直してもらうと、きびしい条件つきでようやく建築が許されました。金光さまは着工するにあたって、金神(こんじん)に無礼のないよう細心の注意を払って工事にのぞみましたが、その途中で2男の槙右衛門(まきえもん)が9歳で亡くなり、その後も、農家にとって大切な飼い牛が2頭死にました。思い起こせば、この15年あまりの間に、養父、義弟をはじめ、築いた墓は7つ。家が繁栄していく一方で、おそろしい「金神七殺(こんじんしちせつ)」を思わせる不幸に見舞われたのです。
厄晴れ祈願
安政2(1855)年、金光さまは男性の大厄とされる42歳を迎えました。この年の正月早々、金光さまは家に歳徳神(としとくじん)※をまつって1年の幸せを祈り、近くの神社に参拝して42歳の厄晴れを祈念しました。そして正月4日、片道30数キロの道のりを歩いて、備後(びんご・現広島県福山市)にある鞆津祇園宮(とものつぎおんぐう・明治4年、沼名前神社に改称)に参拝しました。また、14日には、備中(びっちゅう・現岡山県岡山市)の吉備津神社(きびつじんじゃ)に参拝して、「鳴釜(なるかま)※」の神事を仕えてもらい、さらにその足で備前(びぜん・現岡山県岡山市)の西大寺観音院(さいだいじかんのんいん)にも参拝して、裸祭りで知られる「会陽(えよう)」に参加し、往復100キロもの道のりを歩いて、15日に帰宅しました。金神(こんじん)のたたりに対して、あらゆる手だてを尽くしながらも、不幸をまぬがれることができなかった金光さまの切実な思いを込めた参拝でした。
  ※歳徳神(としとくじん):新しい年をもたらし、福徳を司る神。
  ※鳴釜(なるかま):釜のうなる音の強弱・長短で吉凶を占う神事。
42歳の大患
安政2(1855)年4月25日、金光さまは「のどけ」と呼ばれるのどの病気にかかり、生死の境をさまよいました。親類たちが集まり、病気回復の祈祷(きとう)を行うと、義弟の古川治郎(ふるかわじろう)に神がかりがあり、37歳のときに行った家の建築について「金神に無礼があった」という指摘がなされました。そして、ひたすらおわびをする金光さまに神様から、「その方の信心に免じて神が助けてやる」と告げられたのです。この出来事で金光さまは、はじめて神様に出会うとともに神様のおかげを受け、日柄方角にゆさぶられてきた人生を大きく変えることになりました。
神のたのみはじめ
安政4(1857)年10月、かねてより金神信仰をしていた実弟の香取繁右衛門(かんどりしげえもん)に神がかりがあり、金光さまに対して「金神の宮を建築してほしい」と頼まれました。実弟の口を通してとはいえ、金神様からはじめてお願いをされたことで、金光さまは、建築費用の一切を受け持ち、弟が安心して神様の御用ができるようにと心を配りました。翌年の正月、繁右衛門の広前※に参拝した金光さまは、弟の口を通して、「神の言うとおりにしてくれ、その上に神と用いてくれ、神もよろこぶ。これからは何事も神を一心に頼め」と告げられたのです。
  ※広前(ひろまえ):神様の御前という意味。神様のまつられている場所。
はだしの行
安政5(1858)年に入ると、金光さまは自宅の神前で、朝晩、一心に祈念をするようになりました。すると、その年3月には手の動きにより、ついで、7月には自分の口を通して、神様からの「お知らせ」を受けるようになりました。同年9月、金光さまは神様の「一乃弟子(いちのでし)」に取り立てられ、その手はじめとして、はだしでの農作業を命じられました。それを見た妻は「信心ばかりして、わらじの一つも作らないと人に笑われます」と反対しました。金光さまは農具にわらじをくくりつけ、たずねる人には「わらじが足にあわないので」と答え、妻の気持ちをくむことも修行としつつ、神様の教えどおりにしたがう生活をつらぬいたのです。
隠居
神様の「お知らせ」にしたがっていくうちに、金光さまは不思議なおかげを次々と受けるようになりました。そして、それを見聞きした人たちが難儀や悩みを抱えて、金光さまのもとを訪れるようになりました。安政6年(1859)、神様は金光さまに、「15歳になった息子の浅吉(あさきち)に家督をゆずり、隠居をするように」と告げました。これを受けた金光さまは、徐々に仕事を浅吉にゆずっていきました。この年の秋、神様は「浅吉に牛を使わせよ」と金光さまに命じ、それを妻が心配して、金光さまに使い始めをうながしました。しかし、牛は暴れて手におえず、「これは神様のお知らせに違いない」と思い直して浅吉に使わせると、牛は急におとなしくなりました。神様の教えにしたがうことの大切さを、今さらながら痛感した出来事でした。
立教神伝
安政6年(1859)年10月21日(新暦11月15日)、その年の麦まきがすべて終わったころ、神様は金光さまに五色の幣(へい)※をつくらせ、神前に供えるよう命じました。神様の言うとおりに幣を作ると、「家業である農業をやめて、世間で難儀をしている数多くの人たちを、取次ぎ助けてやってくれ」という願いが告げられました。金光さまはつつしんでこれを受け、自宅を神様の広前として、人を助け導く御用に専念するようになりました。教団では、このお知らせを「立教神伝(りっきょうしんでん)」とし、この日を金光教の立教としています。
  ※幣(へい):木の棒の先端に切り込みを入れた串に、特殊な断ち方をして折った紙や木綿、麻などの紙垂(しで)を差したもの。
広前・住宅の拡張
自宅の神前で取次※に従事するようになった金光さまのもとには、難儀を抱えた参拝者が次々と訪れるようになりました。当初は家族をはじめ、多くの者が心配し、反対する者さえありましたが、参拝者は増え、自宅は徐々に手狭になっていきました。文久元(1861)年1月、神様は、母屋の東にあった小屋を建て替えるよう金光さまに命じました。このお知らせは、間口や奥行き、柱の寸法、大工の名前などまで細かく指示されたものでした。周りが騒ぐ俗信(ぞくしん)にとらわれず、神様のお知らせのままに建築を進めていくと、これまでのような家内の不幸に出会うこともなく、無事にできあがったのです。
  ※取次(とりつぎ):人の願いを神様に、神様の思いを人に伝えて、神様と人とが共に助かっていく世界を顕現(けんげん)するための働き。
修験者の妨害
近くの修験者(しゅげんじゃ)たちは、金光さまの教えが各地に広がっていくことを、こころよく思っていませんでした。彼らは、広前にしばしばやってきては、金光さまが布教資格を持たないことを盾にして、神前の神具(しんぐ)や供え物を持ち去るなど、さまざまな嫌がらせをしました。金光さまは、「このお道は年々にご繁盛なさる。先で合点(がてん)せよ」と信者をさとしていきました。文久2(1862)年11月23日、神様は、新たに「金光大明神(こんこうだいみょうじん)」という神号(しんごう)を金光さまに授けられました。布教上の問題が大きく浮上していたこの時期に、「金光」を冠した新たな神号が下げられたのは、神様の光を世に現わした者として、さらなる願いがかけられたと言えるでしょう。
取次の宮建築
当時の金光さまの広前は、自宅の部屋がそのまま用いられており、およそ神様をまつる社殿(しゃでん)らしい建物とはかけ離れた、非常に質素なものでした。元治元(1864)年元日、「神の宮を建ててくれ」というお知らせが金光さまに下がりました。さらに、「神が宮に入っていたのでは、この世が闇になる」と言われる神性と、「取次の宮」であり「参拝者の願い礼場所」という、広前の意義が力強く示されました。これを受けた金光さまは、神様の願いのままに宮建築の手続きを進めていくことになりました。
神主職の取得
当時、農民が神事に仕えることや、新たに宮や社(やしろ)を建築することは禁止されていました。したがって、早急に神事に仕えることができる資格を得て、お上(政府)から宮建築の了承を得ることが必要でした。そこで、金光さまは京都の白川家※に代理人を使わし、神職入門の承認を得て、自宅で神事を仕える許状(きょじょう)を受けることができました。これよって、斎藤重右衛門(さいとうじゅうえもん)や高橋富枝(たかはしとみえ)など、各地で取次にしたがっていた金光さまの弟子たちも、公に布教できる資格を求めて次々と白川家に入門することになりました。元治元(1864)年10月、金光さまは「金光大権現(こんこうだいごんげん)」という新たな神号を許され、妻とせさまにも初めて「一子明神(いっしみょうじん)」という神号が初めて許されました。
  ※白川家(しらかわけ):朝廷の祭祀(さいし)を司る長官職の家柄で、神職への補任や各種神事に関わる許状の下付(かふ)、神職や祭神への叙位(じょい)や称号の下付を取り次ぐ神道宗家の一つ。
生神金光大神
宮建築の認可が下りたにもかかわらず、建築にあたる棟梁(とうりょう)の行いが神意(しんい)に沿わなかったために、中断を余儀なくされました。明治元(1868)年9月24日、金光さまは神様から「生神金光大神(いきがみこんこうだいじん)」の神号を授けられました。生きながらにして“人を助けて神になる”という信心を日々実現している金光さまに対しての、最後の神号でした。さらに、「『天下太平(てんかたいへい)、諸国成就祈念(しょこくじょうじゅきねん)、総氏子身上安全(そううじこみのうえあんぜん)』と書いた幟(のぼり)を立て、日々祈念をせよ」と命じられました。金光さまに改めて求められたのは、世の中と世の人々の立ち行きを祈念することでありました。
お道の伝播
明治3(1870)年10月、金光さまは神様から、「信心辛抱(しんじんしんぼう)の徳をもって、天地のしんと同根(どうこん)なり。神が礼を申す」とたたえられました。この年、失明がもとで金光さまのもとへ参拝して信心に触れ、後に開眼のおかげをうけた岡山の白神新一郎(しらかみしんいちろう)は、明治4(1871)年、本教で最初の布教文書となる「御道案内(おみちあんない)」を著しました。その書物の冒頭で、金光さまを「お道開きの親神様」と記し、「ご生質(しょうしつ)温和(おんわ)にして、威(い)あって猛(たけ)からず、農民よりいで給(たま)い、生きながら神とならせ給うことは、前代未聞(ぜんだいみもん)である」と、その威徳(いとく)をたたえました。この白神によって、近畿一円から東へと道が開かれていったのです。
神前撤去 (明治6年の改暦のため、ここからは新暦表記。)
明治政府による宗教政策が改変される中で、金光さまは実質的に布教資格を失うことになりました。そして明治6(1873)年には、大谷村戸長(こちょう)※により神勤行為が禁じられ、さらに神前のしつらえ一切を撤去するよう命じられたのです。金光さまは広前を退いて誰にも会わず、控えの間にあってひたすら神様に祈る生活に入りました。そんな金光さまに神様は、「力落とさず、休息いたせ」と仰せれました。金光さまは、約1か月間の休息の後、大谷村戸長の命により、黙認という形で布教が再開できるようになりました。そして、4月11日(旧暦3月15日)、神様から金光教の信心の要諦(ようてい)を示す「天地書附(てんちかきつけ)」がお知らせとして下げられ、続いて取次の座が示されました。さらに、その半月後、次のようなお知らせが下がりました。「天地金乃神(てんちかねのかみ)と申すことは、天地の間におっておかげを知らず、神仏の宮寺社、氏子の屋敷家宅建て、みな金神(こんじん)の地所、そのわけ知らず、方角日柄ばかり見て無礼いたし、前々の巡り合わせで難を受け。氏子の信心でおかげ受け。今般、天地乃神(てんちのかみ)より生神金光大神(いきがみこんこうだいじん)を差し向け、願う氏子におかげを授け、理解申し聞かせ、末々の繁盛いたすこと、氏子あっての神、神あっての氏子、上下立つようにいたし候(そうろう)」このお知らせは、神様が天地金乃神と名のること、神様が生神金光大神(金光さま)をこの世に差し向けた理由を明らかにし、世のすべての人々に天地金乃神様の願いを伝えようとされたものでした。
  ※戸長(こちょう):明治初期の町村の行政事務を行った役人。今の町村長にあたる。
御覚書の執筆
明治7(1874)年11月23日(旧暦10月15日)早朝、神様から「御覚書(おんおぼえがき)」の執筆を命じるお知らせが下がりました。金光さまは、すでに慶応3(1867)年ごろから、神のお知らせを中心に書きとめた「お知らせ事覚帳(おぼえちょう)」を記していました。それをもとにしつつ、「自らの生い立ちや信心はじめのころにさかのぼって、身のまわりでおきたことを記すように」という神様のご指示でした。「御覚書」は、金光さまが神様と感慨(かんがい)をともにしながら書き進めたものであり、記されている一つ一つが神様の思いにそって生きてきた金光さまの信心のあかしでした。
官憲による干渉
明治9(1876)年8月13日(旧暦6月24日)早朝、神から次のようなお知らせが下がりました。「金光大神、人が小便放(ひ)りかけてもこらえておれい。神が洗うてやる。人がなんと言うてもこらえておれい。天地の道がつぶれとる。道を開き、難渋(なんじゅう)な氏子助かることを教え」このお知らせの2か月後、鴨方(かもがた)の巡査2人が来て、金光さまに尋問を行いました。以後、金光さまはたびたび神勤のあり方に干渉を受けるようになりました。ちょうど、明治政府の警察組織が整いつつあったころです。これを心配した信者たちは、天照皇大神をまつり、国の方針にしたがった信心教育を施すとして、当面の神勤行為を認めてもらうための請願書を、金光さま名義で県庁に提出しました。この出願に対して一応の認可は下りたのですが、これは神様と金光さまにとって本意なものではありませんでした。
利をはかる神ではない
中断されていた宮建築が、明治10(1877)年になって再開されることになりました。村人からの働きかけによるもので、神様の願いを受けて進めてきた今までとは違った動きでした。翌年には「素戔嗚神社(すさのおじんじゃ)」と社号(しゃごう)が定められ、金光さまの4男萩雄(はぎお)が祠掌(ししょう)※に就任し、寄付を集める方法として木札や守り札が売られるようになりました。しかし、神様から「木札や守り札は出すな。貧しい人々が助からない」とのお知らせがあり、中止されました。明治12(1879)年11月8日(旧暦9月24日)早朝、神様は金光さまへのお知らせの中で、「天地金乃神は、人がおかげを受けて真心から供える物は受け取るが、利益を目的とする神ではない」と、あらためて明言され、守り札を求める人々に対しては、信心の目当てとして、「天地書附(てんちかきつけ)」が渡されるようになりました。
  ※祠掌(ししょう):神官の職名の一つ。
人代と神代
明治13(1880)年12月25日(旧暦11月24日)、金光さまは神様から、「昔は神代(かみよ)といったが、今は人代(にんよ)である」というお知らせを受けました。明治の世になって、鉄道や蒸気船、電話や電信など、さまざまな文明の利器が海外から持ち込まれるようになり、こうした目を見張るような時代の動きは、折々に金光さまの耳にも届いていました。しかし、神様の働きの賜物(たまもの)である天地の営みに対する敬いの心がうすれ、わが力に頼って生きることで難儀をしている「人代」の姿を神様は憂い、人々が神様と共に生きる「神代」に戻ることを金光さまに伝えたのです。
教紋
金光さまの広前の紋章(もんしょう)は、はじめ「丸に金の字」が用いられていました。文久2(1862)年、笠岡(かさおか)で取次に仕える斎藤重右衛門(さいとうじゅうえもん)が、この紋を染めた幕(まく)を神前にお供えしたのが始まりとされています。明治14(1881)年1月30日(旧暦1月1日)「ご紋を変えよ。八正金神(はっしょうこんじん)、八つ割りとせよ」というお知らせが下がりました。この時から、金光教をあらわす紋章として、「八つ波(やつなみ)の紋」が使用されることになりました。「金光(こんこう)とは、金光(きんひか)るということである。金は金乃神(かねのかみ)の金、光は天(あま)つ光である。天つ光があれば明るい。世界中へ金乃神の光を光らせておかげを受けさせるということである」という「金光(こんこう)」の意味内容が、この紋章には込められているのです。
世界救済の願い
明治15(1882)年11月24日(旧暦10月14日)早朝、金光さまは神様から次のようなお知らせを受けました。「天地の間のおかげを知った者なし。おいおい三千世界、日天四(にってんし)の照らす下、万国まで残りなく金光大神(こんこうだいじん)でき、おかげ知らせいたしてやる」金光さまのまわりには、さまざまな難儀が絶えず渦巻いていました。人間の我情我欲(がじょうがよく)や天地に対する無礼など、それらはすべて人間側の問題であり、神様への敬いがないところで起こる問題でもありました。そのような人間におかげを受けてもらいたいと、老いゆく金光さまのまなざしは、大谷の地や日本という国を越え、天地の間に住むすべての人たちへと向けられていったのです。
金光大神の死
金光さまが自宅の神前に奉仕するようになってから、24年が過ぎました。その間、人々の苦しみを聞いては神様に祈り、神様の願いを参拝者に伝える中で、たくさんの人々が助かっていきました。明治16(1883)年9月21日(旧暦8月21日)早朝、金光さまは神様から次のようなお知らせを受けます。「人民のため、大願の氏子助けるため、身代わりに神がさする、金光大神ひれいのため」 このお知らせから19日後の明治16年10月10日(旧暦9月10日)、金光さまは妻とせと娘のくらに見守られて、眠るようにこの世を去りました。70歳でした。金光さまは、生涯かけて世の難儀を救い続け、死を迎えた後も肉体の制約を超えて、永世(えいせい)生きどおしの神とお立ちくださることになったのです。
教祖の教え
神と人を結ぶ−取次
金光教の教祖(教祖生神金光大神、以下、金光大神と記す。)は、46歳のとき(1859年・安政6年)神様から、家業である農業をやめ、人の願いを神に祈り、神の願いを人に伝えて、人を救い神を助けてくれるようにと、「取次」を頼まれました。
金光大神の助かっていく姿に、世間の人々も心を動かされ、相次いで金光大神のもとにたずねてくるようになっていたからです。
金光大神は、人々の願い、苦しみをつぶさに聞き取って神に祈り、一人ひとりに懇切に、神と人とのかかわりを教え、人生のあらゆる営みに神のはたらきを受け現す生き方を諭したのでした。
人々は、金光大神の取次によって、人を助けずにはおかぬという天地の親神の切実な願いを身に体し、何事も神に祈って神とともに生きる信心にめざめ、次々に助かっていくことになりました。この神と人を結ぶ「取次」によって、神も助かり人も立ち行く世界が開かれたのです。
明治6年、金光大神は天地書附を世に示し、一人ひとりが自らも助かっていくと同時に、世の助かり、人の助かりを願い実現していく信心を確立するよう、人々に促していきました。
金光大神は、明治16年に亡くなるまでの24年間、神様一筋に仕え、神の心を人に取次ぐことに専念し、難儀に苦しむ多くの人々を救い助け、導いていきました。
晩年、金光大神は、「形がなくなったら、来てくれというところへ行ってやる」と語りました。今日もその通りに、世の人々のために、生神金光大神として、取次の働きが進められているのです。
日に日に生きる−信心
金光大神は、日々の生活における助かり、人間そのものの助かりを教えました。それは、「日に日に生きるが信心なり」と、信心にもとづく生活を進めること、生活がそのまま信心になる生き方を、たゆみなく求めつづけることなのです。
信心とはわが心が神に向かうことであり、その姿をもって日々の生活を送ることです。そこに神のおかげを受けることができ、生かされて生きている人間であることの自覚が深まっていくのです。
健康、経済、仕事、人間関係などの上に起こってくるさまざまな問題も、信心を進める上の大切な問題として、神様から差し向けられた事柄であると受けとめていき、いつでも、どこでも、どんな事柄でも神に祈り願って、日々神と共にある生き方を進めていくことが信心生活です。
金光大神は、「わが心に神がある」と語り、人間の心を大切にすること、そして人と人との真実の心のふれ合うことの大切さを説きました。
さらに金光大神は、この世に生を受けたもののつとめとして、「人を助ける身になれよ」「人の難儀を助けるのが有り難いと心得て信心せよ」と、人を助ける人間になることを願いつづけ、人を助けるのが人間である、と教えています。
「かわいい(ふびんでならぬ)という思う心が、神心である」との教えのように、難儀な人を見て、ふびんに思う神心は、だれにも神様から分け与えられています。この神心をもって、人を助ける使命に生き、そこに大きな喜びを見出していくのが、信心であります。
私たちは、けっして一人で生きているのではありません。多くの人の世話になり、物の恩恵を受けて生活を営んでいます。お互いが手をとりあい、心を開いて歩むのでなければ、人間の真の助かりは実現しません。難儀に苦しむ人々が、一人でも多く助かることが神様の悲願であります。
神の子であるお互いが、神様の悲願を身に体して、助け合って生きること、そして、「人を助ける」働きをしていくことが、人間の真実の姿であり、これを「生神(いきがみ)」といいます。
金光大神は、「生神ということは、ここに神が生まれることである」と語っております。
つまり、生神とは、特別の人のことではなく、信心すればだれでも生神になることができるのであり、時、所を問わず、どんな事柄についても、それに当たる人の心の中、働きの上に神が生まれることなのです。 
金光教 3

 

立教 / 安政6年(1859年)10月
教祖 / 赤沢文治(金光大神)
現教主 / 5代目教主・金光平輝
信仰の対象 / 天地金乃神、ならびに生神金光大神
教典 / 『金光教教典』
沿革
金光教(こんこうきょう)は、教祖の赤沢文治(あかざわ・ぶんじ)が、祟り神(たたりがみ)であった金神(こんじん)を「天地金乃神(てんちかねのかみ)」と名づけ、「これこそ人類を救済する神である」と主張し創立した、神道系の教団です。
関西以西では名の知れた教団ですが、関東以北ではあまり知られていません。しかし金光教そのものは全国区ではありませんが、この金光教と関わりの深かった出口なおは、別項の「大本」の教祖であり、その大本からは数多くの新興宗教が誕生しました。中でも「生長の家」「世界救世教」は大きな教団となっています(別項で掲載)。
金神信仰と赤沢文治
赤沢文治は文化11年(1814年)、現在の岡山県金光町に生まれました。
この地方は、昔から金神(こんじん)信仰が極めて盛んな土地でした。金神というのは、陰陽道(おんみょうどう)で説く「祟(たた)り神」で、年・月・四季に応じて住む場所を変え、この神のいる方位を侵(おか)して土木工事や建築、旅行などの行為をした人間は、身内が7人まで殺されてしまうと恐れられていました(金神七殺)。
つまり金神信仰とは、もともと怖い祟り神である金神を封じたり、除(よ)けたりしようと陰陽師(おんみょうじ)に祈ってもらうことから始まった信仰です。
さて、文治が29歳の時、まず長男が4歳で死亡しました。その6年後には、生まれて1年にも満たない長女が急死。その2年後、文治が37歳の時には9歳の次男が急死し、合わせて3人もの子供を亡くしました。
実は結婚の1年前には義弟と養父を亡くしており、今また我が子3人を亡くし、さらに三男と四男は重い疱瘡(ほうそう)にかかってしまいました。さらには、大事な飼い牛までもが2頭死んでしまいました。飼い牛2頭を加えれば、確かに7つの死。文治は「これぞ世に言う金神七殺の祟りに違いない」と思い込んだようです。
そして文治は42歳の時に、扁桃腺炎にかかり重体となりました。その病気平癒(へいゆ)を祈とう師に頼んだところ、その祈とう師が神がかり状態になり、「金神に無礼をしている」という神託(しんたく)が下ったのだそうです。文治がその非礼をひたすら詫びたところ、「神徳をもって助けてやる」と言われ、文治の病気も治ったのだそうです。
これを機に、文治はますます金神に執着するようになりました。
その2年後、まず最初に文治の弟に金神が取り憑(つ)いたといって、大騒ぎになりました。その乱心した弟の世話をしているうちに、とうとう文治自身が金神に取り憑かれてしまったそうです。
神命の取次(とりつぎ)
46歳になった文治は、金神から「世間に多くの難儀な氏子(うじこ)がいる。その氏子たちを取次ぎ、助けてやってくれ」という神命を受けたのだそうです。
この日から文治は、自宅の座敷を金神への取次の場所とし、人々の願いを金神に取り次ぐ生活に没頭するようになりました。金光教ではこの神命を「立教神伝」と呼び、この日(安政6年10月)を立教の日としています。
ある妊婦さんが文治の取次によって麻疹(ましん)を治したことが評判になり、次第に信者が増えて、立教から3年後には2カ所の出社を持つまでになりました。その後、神祇官長職白川家に入門し、神職補任状を授けられ、布教の公認を得ました。
明治元年(1868年)、文治は金神から「生神金光大神と名乗れ」と神託を受けたのだそうです。明治5年の戸籍法制定の時、「金光大神」という名前を届け出たものの受理されず、戸籍上は「大陣」となりました。
これ以降、文治は「金光大神」を名乗り、翌年には自分の信仰する神を「天地金乃神」と定めました。
また信仰の対象物として「天地書附(てんちかきつけ)」なるものを顕(あらわ)し、四男の萩雄と五男宅吉にもこれを書き写させ、信者に下附(かふ)するようになりました。
その後の展開
明治16年10月、金光大神(赤沢文治)が死去し、取次は五男の宅吉が継承しました。明治33年には、神道事務局の所属から「金光教」として別派独立し、「金光大陣」の名を受け継いだ四男の萩雄が管長に就任しました。
それからずっと時代が下り、昭和58年の「教祖100年祭」に本部総合庁舎を建設し、同時に「金光教教典」を発刊、さらに神社神道様式だった儀礼を教団独自のものに改めました。そして平成3年には、4代目教主・金光平輝が就任しています。
教義の概要
金光教では、「天地金乃神(てんちかねのかみ)」と教祖「生神金光大神(いきがみこんこうだいじん=赤沢文治)」を主祭神としています。
教会や信徒の家庭に掲げている信仰対象は、明治6年に文治が書き記した「天地書附(てんちかきつけ)」です。教団ではこれを「教祖が、信心の要諦(ようてい)を端的に示したもの」などと言っています。
教典は、昭和58年に発行した「金光教教典」です。これは教祖の著である「金光大神御覚書(おんおぼえがき)」と、弟子たちが教祖から聞いた教えの内容を収録した「金光大神御理解集一〜三」等をまとめて収録したものです。
教団では、「信仰の実践、人々の救済方法は取次にある」と主張しています。信徒は教会に行き、献金をして、願いを神に取り次いでもらい、教主・教会主の口を通して神からのお知らせの説明を受けます。
信者は、そのお知らせの通りに行動し、さらに信心を深め、自らも他人を助ける立場、すなわち「生神になる」ことを信仰の目的としています。 
霊波之光教会

 

霊波之光 (れいはのひかり)
千葉県野田市に本部がある宗教法人である。創始者(初代教主、教祖)は波瀬善雄(本名:長谷義雄、1915-1984)。現教主は波瀬敬詞(はせけいじ)。
「霊波」と教団が称する一種の神通力により、病や苦しみから救われ奇蹟が起こると教団は主張しており、「人類救済」「世界平和の実現」を目的としている。創始者である波瀬善雄は、教団では「神の分身」「救世主」とされており、「御守護神様」と称される。波瀬善雄が死去した1984年に波瀬敬詞が教主を継ぐ。現教主である波瀬敬詞は、教団では「二代様」と称されている。教団では波瀬善雄が誕生した1915年(大正4年)を霊波元年とする「霊波暦」という暦を採用している。教典は「御書」と称されている。
教団では信者になることを「御つながり」と称する。入信費は一世帯につき5,000円(年会費制、2016年現在)入信すると「御神体御札」と称される札が配布される。また、教団が発行する月刊誌が毎月送付されてくる。
年会費は前納制となっており、年末年始に会費を添えて「更新」の手続きが必要となる。「更新」を行わない場合は自動的に退会となり、新年度の札は配布されない。
教えは、「暖かい心はあいさつから。笑顔と思いやりに喜びと幸せ」など。
「御守護神様、二代様、我ら人類救済の道へあゆませ給え」と唱えて祈祷する。
教団職員や信者は、教団施設内で奉仕活動を行う際、白色の着衣を身に纏う。
信者が亡くなった場合の葬儀や墓について、教団特有の形式などは無く、教団は一切の関与をしない。そのため、仏式葬、神式葬、キリスト教式葬など、葬儀は他宗教の宗派により執り行われる。
沿革
1954年3月7日:霊峰山にて波瀬善雄が大宇宙神よりの啓示を受けたとされ立教する。
1956年2月:霊波之光讃仰会発足。
1957年
  9月23日:宗教法人として認証を受ける。
  12月31日:千葉県松戸市馬橋に仮本山を建立する。
1969年
  3月7日:千葉県野田市山崎北亀山に移転。3月9日旧聖神殿と旧礼拝堂の落成。
  7月17日:波瀬善雄、世界平和祈願を行なう。8月6日まで行われる。
1975年3月2日:天使閣落成。3月7日に波瀬善雄、天使閣に移転。
1982年7月2日:「御書」発刊される。
1983年11月2日:御由来「神への道」発刊。
1984年
  3月19日:波瀬善雄死去。
  7月2日:2代教主波瀬敬詞、霊波継承之御儀により霊波を継承。
1985年6月8日:総教司令本部落成。
2003年12月7日:新聖神殿落成。
2015年7月2日:新礼拝堂落成。 
霊波之光教会 2

 

霊波之光とは
1 「霊波之光」とはどのような宗教でしょうか?
霊波之光の目的は「人類救済と世界平和の実現」です。
人々が争うことなく、互いの幸せを祈る、暖かい心をもった平和な世界を築くことです。そのような世界を実現するために、真の神様、御守護神様は、私達人間を病気やもろもろの苦しみから救って下さるのです。
御つながり(入信)して、御神体御札を受けることにより、御力(霊波)に浴して幸せな人生をあゆむ道が開かれます。
2 幸せな人生をあゆみましょう
御守護神様から二代様を通して賜る霊波と御つながり(入信)した私達は、「御守護神様、二代様、我等人類救済の道へあゆませ給え」と唱える「結合の祈り」と、「御守護神様、御守護神様、御守護神様・・・」と唱える「感謝の祈り」を捧げ、御守護神様、二代様の御教えに沿って日々の生活を過ごすことが幸せへの近道です。
種々の悩みや問題を抱えている方のために、特別御祈願があります。尊き御力の注がれた御神酒、生命札、御祈願御札を頂き、14日間の御祈願に入ることで、悩みや苦しみが解決に向かい、感謝と喜びを得られます。
私達の霊魂を浄めて頂けます浄霊御祈願は、健康な方もお受けすることをお勧めします。病気の苦しみや心の苦しみとは別に、交通安全や商売繁盛等、種々の悩みに応じた御祈願があります。
3 目と耳で確かめて下さい!
幸せの道にあゆむ、信仰のあゆみの第一歩は参拝、御神域へ足を運ばれることです。霊波之光の真実の姿を、その一端でも見て頂きたいと思います。
一歩足を踏み入れたとたん、心がさわやかになった、体が軽くなったと喜ぶ方達がたくさんいます。そんな御神域にぜひ足を運んでみて下さい。ご自分の目で、耳で、肌で御神域の素晴らしさを感じて下さい。
御つながり (入信)
幸せの扉を開こう
幸せへの門(参門)
参門霊波之光の本部は、東武野田線(アーバンパークライン)「運河駅」の近くにあります。JR常磐線「柏駅」、または、つくばエクスプレス「流山おおたかの森駅」から東武野田線に乗り換え、「運河駅」で下車し徒歩7分で霊波之光の参門に着きます。参門前に立った時、目の前に広がる美しい御神域に誰もが目をみはることでしょう。サツキに覆われた祈りケ丘の向こうには、救いの城「天使閣」が望めます。午前9時、開門です。大きな参門が開いて参拝の人達が続きます。顔を輝かせ、足取りも軽く、参門を入るたくさんの人達に交じって、何か物思いに沈んだ方がいます。病気に苦しみ、悩み抜いた果てに、救いを求めてやって来られた人達です。そうした人達が再び参門を通る時には、喜びあふれる別人のように明るくなっていることでしょう。
参拝
参拝幸せへの入り口は、「参拝」からです。参門を通ると、広い御神域は青々とした芝生や色鮮やかな花々が咲いて、訪れた方の心を癒してくれます。どなたでも自由に参拝できますので、ご自分の目と耳と肌で確かめてみて下さい。霊波之光では大勢の方が喜びに浴しています。
御つながり(入信)
御つながり幸せに生きるために、生きるエネルギー(霊波)を頂くことが大切です。そのためには、大神様と人間をつなぐ御守護神様と御つながり(入信)することが必要です。御つながりすることにより、幸せへの道が開かれます。
神棚
神棚の中央に御神体御札を祀ります。神棚の無い方はタンスの上などに半紙を敷いて御神体御札をお祀りしてもかまいません。
お祈り
「人の喜びは我が喜び」が教えです。暖かい心で日々を過ごし多くの方が幸せになれますよう、お祈りを捧げることが大切です。お祈りの言葉は「御守護神様、御守護神様…」が感謝の祈りで「御守護神様、二代様、我等人類救済の道へあゆませ給え」が結合の祈りです。どちらのお祈りでも構いません。いつ、どのような場合でも、お祈りを忘れないで下さい。
御祈願
私達は生きていく中で悩みを抱えたり、問題に突き当たったりしますが、そうした時、一日も早く悩みや問題を解決して頂くために各種の特別御祈願があります。御祈願には、浄霊御祈願、当病平癒御祈願をはじめ交通安全、厄除、受験合格、安産、就職、旅行安全、金銭解決、大願成就、商売繁盛、事業成功、五穀豊穣などがあります。
幸せの道へあゆむ
手続き
御つながり(入信)は、本部の第二受付、支部、礼拝所で受付ています。感謝金5千円で御神体御札と月刊誌「THE REIHA」が頂けます。一家に一体お祀りすることにより、同居するご家族にも絶えず霊波が送られるようになります。
あゆみ
ご自分の幸せを確かなものとするために、日常の心のあり方を身に付けることが必要です。そのために御教えが説かれた「御書」などの出版物や、助け救われた方々の体験談が聞けるDVDが用意されています。また、幸せになられた方のお話をじかに聞く会合も各地で開かれています。御つながりした月から毎月1冊、月刊誌「THE REIHA」が郵送で各家庭に届き、希望する方には体験紙「生きる喜び」を、無料で役員さんからお渡しします。
御由来
1913年(大正2年)の春のこと、一日の畑仕事を終えた御母堂様が、疲れた御体を横にし、休もうとされた時でした。燦然と輝く御光とともに「汝に八人の子を授ける。五人は丈夫に育つべし。男子おそけれど、心して、大切に育てよ」という御言葉を頂いたのです。「夢ではない」。御母堂様は横になられましたが、まだ、眠りについていなかったのです。
こうした不思議なことがあってから2年後、1915年(大正4年)の7月2日、御言葉のとおり男子が誕生されました。この男の子が御守護神様です。女の子ばかりの中に生まれた初めての男の子。御両親にとっては、それこそ目の中に入れても痛くないほどかわいい男の子なのにどうしたわけか御体が弱く、御母堂様の御苦労は大変なものでした。しかし、病弱だった御守護神様も、小学校に入学する頃には御元気になられ、たくましく成長されます。
1936年(昭和11年)1月、軍隊へ。2年間の兵役が満期を迎えようという時、日支事変(日本と中国との戦い)が始まって、機械化部隊として中国に。そして間もなく、御守護神様はいくつもの重い病に侵されて、病院船で広島へ。陸軍病院から療養所に移されて治療が続けられました。しかし治る見込みもなく、ただ死を待つばかりと知った御守護神様は、療養所を自己退所して、懐かしい我が家に帰られます。御両親をはじめ御姉妹の手厚い看病を受けながらも、御守護神様の苦悩は少しも和らぐことはありませんでした。
往診の医師は「長くもってもあと一カ月」と宣告しました。そうしたある日、我が家の神棚と仏壇が目に留まりました。「昔から神様、仏様といわれている。しかし、本当に、神は、仏は、あるのだろうか」 御守護神様は神仏の有無を求め御旅立ちを覚悟されました。そして重病の御身で、山に入ると言い出され、御両親は強く反対されましたが、御守護神様の決意は変わりませんでした。御母堂様が差し出された杯には、冷たい水が注がれていました。別れの水杯です。1939年(昭和14年)6月8日の事でした。
東京駅から夜行列車で一路西へ。四国・高松に渡られた御守護神様は、霊峰山をめざされます。衰弱しきった御体を、夏の厳しい太陽が容赦なく照りつけます。御守護神様は、汗にまみれながら一歩一歩登り続けられました。あまりののどの渇きに水を求めて谷川に下りられた時、ついに喀血。見知らぬ老婆の親切に助けられたりしながら、霊峰山をめざされます。
そして、朽ち果てたお堂を見つけ、そこで21日間の座禅を組むことに決められました。しかし、骨と皮ばかりにやせ衰えられた御体では、座ることさえも耐え難い苦痛でした。
21個の小石を目の前に並べられ、夜が明ける度に1個ずつ捨てて日数を数えます。13日目、白髪の老人が現れ「まだ、まだ、不思議はこれからじゃよ」と、何か意味ありげなことをつぶやきながら姿を消しました。いよいよ21日目。最後の石が取り除かれました。ゆっくり立ち上がった御守護神様は、目の前の岩山を登られ、山頂で月に向かって生きる難しさを訴えられました。
下山し、力尽きて横になっていると、突然、空から白雲が舞い降り、御守護神様の御体の中に吸い込まれました。同時に、大宇宙神の御声が響きます。「汝生きよ。汝は神の使いなるぞ」「汝、神の道を行け。まっすぐな神の道を行け」と。
その時、御守護神様は、御体全体がすっと軽くなったと思われますと、死ぬような苦しみだった全身の苦痛が消え、まったく別人のような元気な御体になっていたのです。御守護神様の全身をむしばんでいた病気が一瞬のうちに消えたのです。この日がなんと、御守護神様が24年前、この世に産声を上げられた日と同じ7月の2日でした。
御元気になられた御守護神様は、山を下りられ医師の診断を求められました。医師は「やせてはいるが健康体」だと告げました。すっかり健康を取り戻して帰られた御守護神様に御家族は喜ばれます。しかし、御守護神様は、山中で聞かれた不思議な御声にひかれるように、再び山に向かわれたのです。
こうして、御守護神様の神仏を求めての御聖行が再び始まったのです。
そして、1954年(昭和29年)の3月7日。御守護神様は、大宇宙神より、神と人間をつなぐ使命を託された御分神であることを、教え悟されたのです。更に御守護神様は、今までの不思議な出来事、御守護神様の御苦しみなど全てが、大宇宙神の定めによるものであることも教え悟されたのです。御守護神様は、大宇宙神の御心をこの世に実現されるために、その後も厳しい御聖行を続けられました。
1957年(昭和32年)。救われた人達の手で、千葉県松戸市馬橋の小高い丘の上に仮本山が建立され、救いの御手が大きく広げられることになったのです。「霊波之光」の誕生です。救われた喜びの和は年を追うごとに大きく広がり、1969年(昭和44年)3月7日、御守護神様に仮本山から現在の野田市山崎の新聖地へ、御遷(うつ)り頂きました。
それから15年、更に喜びの和が大きく広がり続ける中、1984年(昭和59年)3月19日、御守護神様は、二代様に後を託されました。
永遠不滅の霊波、御光となられた御守護神様は、二代様を通して、私達に尊い御力を注いで下さっているのです。
質問 (F.A.Q)
霊波之光とは、どのような宗教ですか?
1915年(大正4年)7月2日、御守護神様(ごしゅごじんさま)が、人々を救うため、天と地をつなぐ、大宇宙神の御分神として、御生まれになりました。御守護神様、二代様の御教えに沿ってあゆめば、老若男女を問わず、悩み苦しみを解決して下さいます。重い病気が治り命を救われた方、事業の失敗を救われた方、学校や職場でのいじめが解消した方など、多くの方が幸せを頂いています。このように、御守護神様に御つながり(入信)した方、一人ひとりが幸せになり、そして、全ての人々の幸せを祈り、「人類救済」と「世界平和の実現」をめざすのが霊波之光です。
新興宗教なのですか。また、どの宗派に属するのですか?
霊波之光が宗教法人の認証を受けたのは、1957年(昭和32年)です。日本国憲法発布後に認証を受けた宗教法人は全て新興宗教と呼ばれます。霊波之光は、御守護神様によって初めて説かれた宗教です。どの宗派にも属しません。
死後の世界についてどのように教えていますか?
霊波之光では死後は、生命力である霊魂が肉体を離れ、大宇宙神の元へ帰霊していき大霊の中で一つになってしまうため、同じ霊魂が次の誰かに宿り生まれ変わるということはないという教えです。現世に生きる私達の悩み、苦しみを取って頂き、"生きる喜び"をもって幸せな人生をあゆむというのが霊波之光の信仰です。 
霊波之光教会 3

 

創立 / 昭和32年9月
創始者 / 波瀬善雄
現後継者 / 波瀬敬詞
信仰の対象 / 大宇宙神の分神(教祖)
教典 / 御書(波瀬善雄の言行録)
沿革
霊波之光(れいはのひかり)教会は、大宇宙神の分神を自称する波瀬(はせ)善雄が、「霊波による病気治し」を掲げて創設した教団です。
波瀬(はせ)善雄は、大正4年に東京に生まれました。20歳から陸軍に入隊した善雄でしたが、結核や腹膜炎を患い実家に帰りました。しかし実家での療養も功を奏さず、医者からは余命1ヶ月と宣告され、善雄は神仏に救いを求めて四国に渡りました。
善雄は、香川県にある五剣山中の小さな堂で3週間にわたって座禅を行い、そのあと山頂に登って極限状態になってしまったそうです。その時に「なんじ生きよ、なんじ、神の道を行け」というような神の声が聞こえ、たちまちに病気が治ったのだそうです。
その後も10数年にわたって自分の身に奇跡を起こした神を求め、善雄は苦行を重ねながら全国の山々を渡り歩いていました。そうしたところ、昭和29年に五剣山で苦行中に、光(霊波)が体内に吸い込まれるという神秘体験をし、善雄は自ら大宇宙神の分神であることを悟ったのだそうです。
このときに大宇宙神から、神と人間をつなぐ使命を託され、これ以来、身体から治療効果のある霊波を放射するようになったのだと主張しています。
昭和31年、善雄のもとに集まった信者たちによって「霊波之光鑽仰会」が発足し、翌年には「霊波之光教会」と改称して宗教法人の認可を得ました。さらに昭和44年には本部施設を建設し、礼拝堂の正面祭壇には、地球儀に乗った善雄の蔵を安置しました。
昭和59年に善雄が心筋梗塞で死去。その4ヶ月後には長男の敬詞が「霊波継承の儀」を執り行い、第2代に就任しました。ちなみに第3代には、敬詞の長男・敬仁(たかひと)がすでに内定しています。
教義の概要
信仰の対象
信仰の対象は、「祈り」と書かれた地球儀の上に立つ善雄の偶像です。教団では、善雄を「御守護神様」と称し、大宇宙神の分神・使者として全人類を救うのだと言っています。
信者の家庭には「御神体御札(ごしんたいおふだ)」なるものが神棚に祀(まつ)られています。これは善雄の身体から出る大宇宙神の霊波によって魂入れされたものだそうで、これで教祖や第2代とつながり、大宇宙神からの霊波が送られるなどと主張しています。
教典と教義
教典は、教祖・善雄の言葉をまとめた『御書』と称するものです。教団によれば、「善雄が、宇宙の真理と人間の生きるべき道を説き、人類の幸せと世界平和を実現するための教えを網羅したもの」というようなものだそうです。
善雄は、「生前の汚れによって迷っている多くの人々の霊魂が、生きている人に病気などの不幸をもたらす」と説いています。したがって、病気などの災難から逃れるためには、死者の霊魂を浄化しなければならないなどと主張しています。
そのために、毎年6月8日の「御聖旅祭(ごせいりょさい)」には、先祖や亡者の浄願祈願を行っています。具体的には、「浄願祈願御札」というものを本部内にある生命橋から聖神之池(せいしんのいけ)に流し、その後、生命橋から「天使閣」に向かって巡拝するという形式です。
またこれ以外の浄願祈願として、信者個々の願いに応じて有料で特別祈願があります。これは本人の霊魂浄化を目的とするもので、祈願札に祈願内容を書き込んで2週間かけて行います。
まず御神酒を全身につけ、次に「生命札」が与えられ、信者はその札に身代わりの意味を込めて病苦を移し、生命橋から聖神之池に流します。この後、2週間分の祈願札が与えられ、信者はそれを家庭の御神体御札のわきに2週間祀って祈るのだそうです。
また信者は、本部での行事に参加するほかに、班単位・組単位で集まって連帯活動をし、病人や怪我人のために祈りを行ったりします。そして集会では体験発表も行われ、治病の報告などもしています。
この他、教団本部では毎日、体験談やそれをドラマ化した「体験シリーズ」と称するビデオを放映し、宣伝活動を行っています。 
幸福の科学

 

日本発祥の宗教団体である。世界100カ国以上に会員組織がある。世界通称として「Happy Science」を使用。関連団体に日本国外の宗教法人56の他、幸福の科学出版、幸福実現党、幸福の科学学園、ニュースター・プロダクションなどがある。本尊は主エル・カンターレ。根本経典は『仏説・正心法語』。創始者・総裁である大川隆法の代表作『太陽の法』をはじめ、歴史上の人物や政治家、著名人などの霊言を含む多数の出版物による布教スタイルが特徴である。1991年ごろから大規模な広告キャンペーンを行った。また写真週刊誌『フライデー』の記事に虚偽の内容があると主張して出版元の講談社などへ抗議行動を行った。
幸福の科学は、大川隆法が1986年10月6日に、設立した新宗教である。幸福の科学によれば、仏法真理の流布による人類幸福化を掲げている。発足以前の1985年から、イエス・キリストや孔子などの歴史上の偉人・宗教家などが大川隆法の口を通じて語ると主張し、(チャネリング)という内容の書籍(霊言集)を多数出版している。最初の「霊言集」である『日蓮の霊言』のなかで用いられている「幸福科学」という言葉は、1年後の1986年に団体の名称の基となった。
その後1987年には『太陽の法』『黄金の法』『永遠の法』が出版された。桃山学院大学社会学部教授の沼田健哉は、書籍読者から数多くの信者が集まった、と述べ、またジャーナリスト 秋谷航平は、短期間で日本国内の全国組織ができあがった、と述べている。
1991年3月6日に宗教法人となった。この1991年は、講談社フライデーへの抗議行動と共にマスコミで盛り上がったことも相まって、年末には「チャネリング」が流行語大賞にノミネートされ、特別部門特別賞を受賞した。1994年からは日本国外の法人設立と支部展開が行われる。1996年には会員制度の変更や運営方針の転換が行われた。2009年には、宗教政党の設立と、学校法人の設立が行われた。
2007年のアメリカ・ハワイでの講演から以降、大川隆法の英語説法による海外講演会が世界各地で行われている。その後、ブラジル(2010年11月)、インド・ネパール(2011年3月)、フィリピン・香港(2011年5月)、マレーシア・シンガポール(2011年9月)、スリランカ(2011年11月)、ウガンダ(2012年6月)、シドニー(2012年10月)などで行われている。幸福の科学の発表では数千人数万人の規模だと報告している。幸福の科学によれば、インド・ネパールの講演では7紙のマスコミに紹介され、アフリカ・ウガンダの講演では、4紙のマスコミに紹介された、と報告している。 現在のところ、大川の著作は30言語以上に翻訳され、世界各国で出版されている。
設立
1981年、東京大学法学部を卒業した大川隆法は、総合商社トーメン(現豊田通商)に在職の傍ら、上記「霊言集」などを出版しながら教団設立の準備をしていた。1986年7月15日に退社後、具体的な団体設立の計画に着手。10月6日に任意団体として教団を設立した。その設立直前から、根本経典『正心法語』や基本書という宗教理論書『太陽の法』など短期間に多数の執筆を行い、これを機に書籍出版活動を活発に行った。これらの書籍が書店を通して日本各地に流通し、また入会する会員が増え、組織の全国展開へとつながった。1988年5月には関西支部が開所し、日本各地に支部展開が始まる。1991年3月7日に宗教法人格を取得した。
「幸福の科学」の英語名は 2008年2月までは The Institute for Research in Human Happiness であり、頭字語の IRH である略称を使用していた。ローマ字表記の Kofuku-no-Kagaku や Kōfuku-no-Kagaku 等も用いられる 2008年2月から、世界通称として英語による正式名称を Happy Science とした。これは、世界伝道において、解りやすい名称にしたとされている。
教義
宗教法人「幸福の科学」では、大川隆法が多数の法話で説いた「仏法真理」を教義とし、仏法真理の探究・学習・伝道を通じての「この世とあの世を貫く幸福」と地上ユートピアの建設を目指しているとする。
修行の実践については、現代の四正道として「愛・知・反省・発展」を提唱している。人間は神の子・仏の子であることを自覚した上で他者へ愛を与え、真理を探求し、自分の心を見つめ直し、社会全体を向上させる心構えを持つことを現世の「魂修行」とする。また、世界観として多元宇宙論を展開し、三次元世界(この世)は根源神に近づくための「魂の修行の場所」とされている。
本尊
宗教法人「幸福の科学」の本尊は、霊天上界に存在するとされる、至高神 エル・カンターレ(El Cantare)である。
組織・施設
1986年10月の教団発足当時、事務処理を行う寺社における寺務や社務所に相当する支部や本部を総括する「総合本部」は、東京都杉並区西荻南に事務所を設け設立した。1987年6月13日に杉並区松庵へ移転して一時的に「東京本部」とした後、1988年4月16日に西荻窪駅前のビル(右 写真1)杉並区西萩南へ移転して再び「総合本部」とした。
その後、総合本部は、1989年12月20日に千代田区の紀尾井町ビル(右 写真2)4階に移転後、1996年4月1日には自己資産ビルとしての品川区平塚の総合本部ビル(右 写真3)に移転、1999年10月31日には現状の品川区東五反田の新総合本部ビルに移転している。
また、1996年7月10日には、本格的な礼拝施設としての、総本山・宇都宮正心館(後に「総本山・正心館」に改称)が竣工され、8月に開山した。1999年10月までの一時期、総合本部の一部の機能をこの宇都宮に移転したことがあった。
組織
教団組織は、総裁である大川隆法に代表される。組織の分類では、会内で婦人部の総称として位置づけられている「女性部」。「青年部」「学生部」「中堅部」「親子の会」その他に、壮年部的な位置づけにあたる「百歳まで生きる会」(1997年3月発足)などがある。
施設
地方本部、支部、拠点、布教所などが日本国内・世界各地にあり、「支部精舎」と呼ばれる施設も数多く建立されている。国内の支部および支部精舎の所在地は、公式ホームページ内の「お近くの幸福の科学」等で公表されているが掲載されてないものも多い。
日本国内の支部数・拠点数:440ヵ所 (内、支部精舎数:240ヵ所)
布教所数:約8000ヵ所 (2018年1月現在)
上記以外の研修施設の歴史としては、1988年9月に幸福の科学研修ホール(東京都杉並区西荻南)を開設、1990年12月16日に四国研修道場(鳴門市、現・四国正心館の境内地内)を竣工、1991年8月1日には幸福の科学研修センター(東京都中野区弥生町)を開設した。1996年5月8日には、東京道場(旧東京正心館)を品川区大崎に開設したが、その後、総合本部ビルと呼ばれていた品川区平塚の施設へ移転し、戸越精舎として主に首都圏を中心に住む学生の会員が利用する研修施設となった。
大川の出身地である四国・徳島は「聖地」とされ、生誕地の徳島県吉野川市川島町には、参拝施設「川島特別支部」がある。鳴門市の聖地・四国正心館境内には、父で名誉顧問・善川三朗(本名:中川忠義、故人)を偲ぶ「善川三朗記念堂」がある。
その他の宗教施設としては、2006年4月15日、総本山・那須精舎(栃木県那須郡那須町)の境内に、「総本山・那須精舎付属 来世幸福園」が開園した。来世幸福園の中心には「大ストゥーパ」が建立され、幸福の科学の信仰の象徴となっている。「大ストゥーパ」の周辺には、3つの納骨堂(「在家菩薩堂」「三帰誓願堂」「涅槃堂」)が建立されている。 2011年5月には、聖地・四国正心館の隣接地にも「来世幸福園」が開園した。
2005年9月には、2005年日本国際博覧会(愛知万博「愛・地球博」)のネパール館で展示された貴重な文化遺産である(ハラティ・マタ寺院の復元物)を購入し、総本山・正心館の境内に建立された「ネパール釈尊館」の中に移設している。館内には寺院のほかに、釈尊への信仰に基づいた仏教美術が展示されており、一般公開されている。
2015年に千葉県に「幸福の科学大学(仮称)」を開学することを計画し、準備を進めていた。しかし、2014年10月、文部科学省の大学設置審議会は、同大学の設置を認めないことを文部科学大臣に答申した。さらに文部科学省は、「審査の過程で認可を強要するような不適切な行為があった」として、今後最長5年間にわたって、学校法人幸福の科学学園による大学の設置を認めない方針を決定した。これに対し、幸福の科学側は引き続き文科省に抗議を行うとともに幸福の科学大学を私塾として開設し、ハッピー・サイエンス・ユニバーシティとの名称で開校した。
日本国外
1990年7月『太陽の法』の英訳版『The Laws of the Sun』の発刊以降、海外在住の会員が増加し、1994年1月1日に海外初の法人として「幸福の科学USA (Kofuku-no-kagaku,U.S.A.)」が設立され、ニューヨーク支部の開所となる。続いてロサンゼルス支部、ハワイ支部などが開所される。同年さらにブラジルには、サンパウロ支部、イギリスのロンドンには、ヨーロッパ支部など各地で現地法人が設立される。世界130か国に支部・会員組織がある。
幸福の科学グループ
2009年5月、宗教法人 幸福の科学の外部組織として「幸福実現党」の設立により、組織として「幸福の科学グループ」を呼称するようになった。これにより、大川隆法は肩書きを「幸福の科学総裁」から「幸福の科学グループ創始者兼総裁」へと変更している。
宗教法人
日本国内の宗教法人のほか、世界60カ国に法人組織がある。USA、カナダ、メキシコ、ブラジル、ペルー、イギリス、フランス、ドイツ、フィンランド、オーストリア、ブルガリア、韓国、台湾、香港、フィリピン、タイ、マレーシア、シンガポール、インド、ネパール、スリランカ、ウガンダ、ナイジェリア、ガーナ、南アフリカ、ニュージーランド、オーストラリア、他
来世幸福園(霊園・納骨堂)
ヘレンの会(視聴覚障害者支援)
ネバー・マインド(不登校児支援スクール)
出版・及び各種メディア展開
幸福の科学出版株式会社
   IRH Press Co., Ltd.USA.(アメリカ合衆国の出版法人)
   このほか世界各地に「幸福の科学出版」の事務所が多数ある。
株式会社ブックスフューチャー (Web書店)
ブックスフューチャー(一般書店)
HS PICTURES STUDIO (映画制作は、ニュースター・プロダクションに移管)
ニュースター・プロダクション - 幸福の科学副理事長大川宏洋が代表の映画製作や劇団運営を行う会社。芸能プロダクションの機能もある。
   劇団「新星(しんせい)」
ARI Production(アリ・プロダクション) - 芸能プロダクション。千眼美子(清水富美加)や雲母(きらら)などが所属する。
学校法人など
学校法人幸福の科学学園
   幸福の科学学園中学校・高等学校 那須本校 - (栃木県)
   幸福の科学学園関西中学校・高等学校 関西校 - (滋賀県)
ハッピー・サイエンス・ユニバーシティ - 大学に準ずる教育を行う無認可校 - (千葉県、運営者は宗教法人の幸福の科学)
政治関連
幸福実現党
HS政経塾(社会人教育機関)
その他
来世幸福セレモニー株式会社 (葬儀社)
会員制度と信者数の推移
2009年の発表では、全世界80か国に1100万人の信者・会員がいるとされる。 2010年の発表では、86か国に1200万人とされる。
教団の刊行物「月刊幸福の科学」によれば、1986年11月23日に東京都の日暮里酒販会館で開催された幸福の科学発足記念座談会に集った人数は87名であった。 創設初期から入会試験制度があり、幸福の科学の書籍10冊を読み、入会願書に読書感想等を記入するものであり、合格率は4割程度であった。(入会試験は次第に簡略化され1994年頃に廃止された。
1987年3月8日の発足記念第1回講演会「幸福の原理」の聴講者は約400名であった。1989年4月に会の方針として伝道活動が許可されて「誌友会員」制度が発足した。これは入会試験の無い会員で従来の会員を「正会員」とした。
1989年11月26日に全国20会場で実施された「第1回全国統一神理学検定試験」の受験者数が2209人。 1990年7月には7万7千人とした。 1991年7月には会員数が150万人に達したとされている。
信者数が1000万人を突破したと公表されたのは1995年7月である。 1996年に会員制度が変わり、以前の「正会員」「誌友会員」を統合し「会員」とされるようになった。 2007年には新たな入会制度が導入され、入会申し込みの手続きで会員になれるように簡略化された「入会者」会員ができた。
活動
教義の内容を編纂して、書籍や月刊「ザ・リバティ」等の雑誌(幸福の科学出版より発行)、経典、CD、DVD、ビデオ、劇場用映画、布教誌「ザ・伝道」(会員の生の声をピックアップ)「ヤング・ブッダ」(中学生〜大学生を対象だがコラムがメイン)「ヘルメス・エンゼルズ」等を発刊している。
2012年10月3日、インターネットに、幸福の科学 体験談投稿サイト voicee(ボイシー)を開設した。幸福の科学の信者の体験談や生の声を集めたサイトである。
特に映画は宣伝活動にも力を入れており、過去には興行通信社調べによる全国の映画興行収入ランキングで複数回1位を記録したこともあった。
映画『ノストラダムス戦慄の啓示』(1994年・実写・東映配給)1995年朝日ベストテン映画祭・読者賞グランプリ受賞
映画『ヘルメス 愛は風の如く』 (1997年・アニメーション・東映配給)1997年毎日映画コンクール・日本映画ファン大賞2位、中央青少年団体連絡協議会推薦、優秀映画鑑賞会推薦
映画『太陽の法 エル・カンターレへの道』(2000年・アニメーション・東映配給)2001年朝日ベストテン映画祭・読者賞第1位、第25回報知映画賞・読者投票邦画部門第1位ぴあ映画満足度ランキング第1位、中央青少年団体連絡協議会推薦
映画『黄金の法 エル・カンターレの歴史観』(2003年・アニメーション・東映配給)ぴあ映画満足度ランキング第1位
映画『永遠の法 エル・カンターレの世界観』(2006年・アニメーション・東映配給)ぴあ映画満足度ランキング第2位
映画『仏陀再誕 The REBIRTH of BUDDHA』(2009年・アニメーション・東映配給)
映画『ファイナル・ジャッジメント』(2012年6月・実写・日活配給)
映画『神秘の法』(2012年10月・アニメーション・日活配給)ワールドフェスト・ヒューストン国際映画祭 REMI SPECIAL JURY AWARD受賞
映画『UFO学園の秘密』(2015年10月・アニメーション・日活配給)
映画 『天使に“アイム・ファイン”』(2016年3月・実写・日活配給)
映画『君のまなざし』(2017年5月・実写・日活配給)
映画『心に寄り添う。』(2018年5月5日・実写・東京テアトル)
映画『さらば青春、されど青春。』(2018年5月12日・実写・日活配給)
全国の精舎で研修や祈願、各種大祭や式典等の行事を開催。
世界各地の支部や拠点を中心に、「御法話拝聴会」、各種の大祭や式典、研修、祈願、集い等の行事を開催。
信仰形態の変遷
1986年教団設立当初は、霊言集の刊行などによる「霊知識」「霊的人生観」の普及を中心とした啓蒙活動が展開され、信仰に関することが説かれることはあまりなかった。後に、教団内で組織ができるようになるが、多くの会員は入会する前に持っていた信仰に従い、会を指導(支援)しているとされた「高級霊」(例:日蓮宗系の人は日蓮、浄土真宗系の人は親鸞)などを信仰していた。1989年からは、「三宝帰依」など信仰心について説かれるようになり、1990年「信仰と愛」「信仰と伝道」の法話が説かれ、1990年からは組織的な伝道活動が開始されるようになった。また、宗教法人となった1991年には、東京ドームでの「御生誕祭」7月15日に、大川隆法による「エル・カンターレ宣言」があり、信仰の中心がエル・カンターレに集約される基準点となった。1992年12月には、会員でも代理本尊の一つである「家庭御本尊」を安置することが可能となった。1994年4月10日には、大川隆法により「方便の時代は終わった」と宣言され、根本経典や基本書の『太陽の法』が改訂され、教団の運営体制の整備が進むとともに、エル・カンターレ信仰、三宝帰依を中心とする信仰へと移行し、1994年6月からは三帰誓願式が始まっている。1996年10月6日には、会員制度を変更して、「正会員」と「誌友会員」の名称を「会員」とした。1998年「エル・カンターレへの祈り」を制定し、研修施設「正心館・精舎」等で使用していたが、2010年に三帰誓願した信者まで下賜し「エル・カンターレへの祈り」で信仰を深めるようになった。
幸福の科学では、単純な一神教信仰ではなく、またフラットな形の多神教でもない。「多様な価値観を包摂しながらも、融合させ調和させてゆく」という立場をとっている。「霊天上界には、神格、つまり高級神霊としての格を持った人が大勢いる」とし、「神は一人だけ、あと他は全部間違いだ」という考えは明らかに事実に反するとしている。またその「格」の高低の違いについても「どれだけ多様な人々を救い・導きうるか」によって格付けが成されるとしている。そして至高神エル・カンターレの教えによって世界の宗教間の対立問題は解決し、お互いの融和をもたらすことになるとしている。
現代社会に適応し、かつ、人類の豊かな未来を開いてゆくための宗教として、新しい手法を「発展の原理」として投入し、イノベーション型の組織・信仰となっている。
社会運動、活動、事件等
1991年9月、幸福の科学会員らは写真週刊誌『フライデー』などに掲載された教団を批判する記事に抗議し、講談社に対するデモ行進や電話・ファクスによる抗議を実施した。9月6日には「講談社フライデー全国被害者の会」(会長・景山民夫、副会長・小川知子)が結成され、以後教団・大川隆法・幸福の科学出版および会員らは「精神的公害訴訟」と銘打った裁判など数多くの訴訟を提起し講談社と対立した(講談社フライデー事件)。教団はこの一連の活動を、9月15日に開催された講演会法話に因んで「希望の革命」と称している。この事件を機に、外国の報道機関を含め、テレビ、新聞、雑誌などからの取材や対談に応じることとなり、1991年10月27日のテレビ朝日の番組(サンデープロジェクト)内では、教祖・大川隆法への公開インタビューが生放送で放映された。講談社側と争った裁判にて、講談社刊行雑誌の一部の記事内容と抗議行動の双方に違法性が認められた。裁判の結果、勝訴の件数・賠償金の合計額で幸福の科学側の勝利といえる。
1995年フランス国民議会「アラン・ジュスト報告書」に「セクト」として記載されていたが、1999年の認定リストには記載されていない。
1994年には、誰でも手に取れる一般週刊誌等にも猥褻なヌード写真等が数多く掲載されていることにつき、問題を提起し、ヘア・ヌード反対運動として 同年11月に「マスコミ倫理研究会」を発足し、東京・渋谷(11月26日)や大阪・御堂筋(12月4日)でデモ行進を行なうなど、啓蒙活動を行なった。
1995年1月17日の阪神・淡路大震災では、地震発生当日から21日までに阪神地方に35ヵ所の救援拠点を設け、1月19日から炊き出しを始めてカレーなど1日あたり3万食を提供し、全国からの救援物資を届け、医師ボランティアによる医療活動のほか、特設浴場を開くなどした。
1995年2月28日に発生したオウム真理教による目黒公証人役場事務長仮谷清志拉致事件では、拉致の現場目撃者が幸福の科学会員だったこともあり、幸福の科学は、オウム真理教による犯行であることを行政や報道機関、政治家などに訴え、事件の早期解決を求めた。これが一連のオウム教犯罪の捜査の突破口になったと幸福の科学は主張している。
同年3月18日に東京都内などでオウム糾弾デモや街宣活動なども展開、破壊活動防止法適用を支持した。
1995年、幸福の科学が理想とする「哲人政治家」として、自由民主党の三塚博代議士を推薦するなど、積極的に政治に提言した。幸福の科学は政治に関しては「徳治主義的民主主義」を理想としており、思想的にはアメリカの共和党やイギリスの保守党に近い思想を持つとしている。1995年の御生誕祭(1995年7月10日、東京ドーム)で、幸福の科学政権の樹立を目指すとして三塚を推薦することを発表するなどしたが、8月には『三塚博総理大臣待望論』(小川空城編、幸福の科学出版)が刊行され、8月8日に日比谷公園の野外音楽堂で出版記念フェスティバルが開催された。
幸福の科学は、一貫して、宗教の立場から「霊的人生観」(宗教的真実を基礎におく人生観)を説いており、無宗教や唯物論・無神論を批判している。1997年から雑誌「ザ・リバティ」誌上で、脳死問題や臓器移植問題が宗教的真実を全く知らないで議論されているとして、問題点を指摘し、宗教的観点から解説している。霊的真実では「脳死」とされる段階では、まだ死んでいないとして、この段階で臓器移植を行うと、本人は生体解剖されているのと同様の痛みと心理的混乱を引き起こし、死後の世界への魂に重大な傷を負わせてしまうとしている。また臓器移植を受けた患者は、死亡した臓器提供者の魂の憑依を受ける確率が高くなり、人格の豹変などの危険があるとしている。
1998年からは、毎年増え続ける自殺者を減らすべく、雑誌「ザ・リバティ」誌上で「自殺防止キャンペーン」を開始、この運動は現在も継続しており、Web上や、全国で会員有志が街頭などでも「自殺者を減らそう」キャンペーンを展開している。
2001年、元信者が献金を強要されたとして提起していた裁判(幸福の科学が「強制献金捏造訴訟」と呼称するもの。強制の事実はないとして元信者側が敗訴)の関連で、虚偽の内容と知りつつ裁判を提起したとして、その弁護士山口広らを訴えた裁判(悪質な弁護士業務の逸脱行為として提訴)にて、威嚇目的のスラップ訴訟とされ幸福の科学側が敗訴。  
幸福の科学 2

 

創立 / 昭和61年10月
創始者 / 大川隆法(主宰・総裁)
信仰の対象 / エル・カンターレ(釈迦大如来=大川隆法)
教典 / 大川隆法・著『仏説・正心法語』など
沿革
幸福の科学は、大川隆法(おおかわ・りゅうほう)が自らを「釈尊(お釈迦様)の再誕にして、救世主たるエル・カンターレである」などと公言し、恒久ユートピアを建設すると称して設立した教団です。
大川の神がかり現象
大川隆法は、本名を中川隆といい、昭和31年に父・中川忠義と母・君子の間に生まれました。
父・忠義は、戦前にはキリスト教を、戦後は「生長の家(別項参照)」を信仰し、さらに昭和51年には「GLA」に入会し、高橋信次の教えを受けました。また母・君子は理容業を営むかたわら、霊媒師(れいばいし)としても活動していました。
中川隆は高校卒業後、2浪して東京大学法学部に入学。在学中は、高橋信次の本やさまざまな哲学書・思想書を読みふけっていたそうです。
昭和55年、隆は国家公務員上級試験と司法試験を受けるも不合格。翌年も再度受験しましたが、ともに失敗に終わりました。一流志向の強かった隆は激しい挫折感に苛(さいな)まれ、心身ともに疲れ果て、昭和56年3月に突然「神がかった」のだそうです。
この時、無意識に手が動いて文字を書く「自動書記現象」が起こり、紙にカタカナで「イイシラセ イイシラセ」から始まるいくつかの事柄を書き連ねたといいます。後年、隆は「このメッセージを送ってきたのは、日興上人(にっこうしょうにん)だったのです」などと述べ、またこの啓示によって「大悟(だいご)し、人類救済の大いなる使命を自覚した」などと説明しています。
霊言集の出版と教団の設立
隆は同年3月に大学を卒業し、総合商社に入社した後も、日蓮・高橋信次・キリスト・釈尊から霊言を受ける体験をしたなどと述べています。
昭和60年8月、隆は最初の霊言集として『日蓮聖人の霊言』を著しました。これは父・忠義の質問に隆が答えるという形式で構成され、著者名は父・忠義のペンネーム「善川三朗(よしかわ・みつあき)」となっています。その後も隆は、空海・キリスト・天照大神・ソクラテスなどの霊言集を順次出版しました。
隆は執筆活動に専念するため、昭和61年7月に総合商社を退社し、名前を「大川隆法」と改名しました。そして同年10月、釈尊の啓示と称するものをまとめた教典『仏説・正心法語』を発刊し、「幸福の科学」を設立しました。この教団名は、隆法が受けたという日蓮聖人の「これは宗教ではなく、幸福の哲学であり、幸福の科学なのだ」とかいう霊言に基づいているのだそうです。
平成3年、教団は宗教法人の認可を受け、同年7月、隆法は東京ドームで「御生誕祭」を行い、「自分こそ、大乗の仏陀(ぶっだ)、エル・カンターレである」と宣言しました。
この御生誕祭と前後して、週刊誌等に隆法批判が繰り返し報道されたため、同年秋に教団信者の著名人(作家・女優など)を中心とする会員3,000名が「被害者の会」を組織し、出版社に対して抗議行動やマスコミ批判を行いました。しかしこの行動が逆にマスコミから反発を買い、大きな社会問題に発展しました。
その後、教団は教団誌『幸福の科学』や布教誌『リバティー』などで盛んに他宗教を批判しながら、平成12年には『新・太陽の法』、平成15年には『黄金の法』といったアニメ映画を制作・上映し、映像メディアを用いての布教もしています。
教義の概要
信仰の対象
幸福の科学では、「エル・カンターレ」を自称する大川隆法を信仰の対象としています。
エル・カンターレとは「地球系霊団の最高大霊」、仏教で説く「久遠実成(くおんじつじょう)の仏陀や法身仏(ほっしんぶつ)と呼ばれる存在、神々の師である釈迦大如来」を意味するとし、それが地上に大川隆法として現れたなどと主張しています。
さらにインド応誕の釈尊等はエル・カンターレの「意識の一部分」であり、隆法は本体意識であるなどとしています。
そういうことで教団では、隆法の写真を本尊として祀(まつ)り、信者に拝ませています。
教典その他
教団の根本教典は、昭和61年に隆法が釈尊の啓示を受けて自動書記したとされている『仏説・正心法語』です。
また隆法著の『太陽の法』『黄金の法』『永遠の法』の三部作と、『釈迦の本心』『真説八正道』『仏陀再誕』など数百冊の出版物を教義の基本書としています。
教義その他について
・二十次元論
大川隆法は自分勝手な「二十次元論」なるものを主張しています。これは一般的な「線の一次元、平面の二次元、立体の三次元、立体に時間を加えた四次元」という数学的概念に、独自に「精神」「真理意識」「菩薩界」「慈悲」その他もろもろを継ぎ足して、「大宇宙の根本仏は二十次元以上の存在である」などというものです。
・四正道(よんしょうどう)
教団では、「正しき心の探究をしていくところに、この世とあの世を貫く幸福が実現する」などと主張し、「四正道(愛・知・反省・発展の探求)」がその具体的な方法であるとしています。この四正道の実践によって各人が幸福になり、それを社会全体に広げていくことで世界的にユートピアが実現するのだそうです。
・誌友会員と正会員
幸福の科学の会員は、教団誌『幸福の科学』の購読契約者である「誌友会員」と、『新・太陽の法』を読んで感想文を提出し、教団の審査に合格した「正会員」の2種があります。以前は、隆法の本を最低でも10冊以上読んで論文を提出しなければならず、それでも不合格や待機を言い渡されるケースもありました。
正会員になると、教団の教典である『仏説・正心法語』や『祈願文』をもらうことができ、教団のすべての行事に参加する資格が与えられます。
・悪霊撃退と病気癒(いや)し
正会員になると、「エル・カンターレ・ファイト」と呼ばれる悪霊撃退の修法と、「エル・カンターレ・ヒーリング」という病気癒しの修法を執り行うことができるそうです。
例えばヒーリングの場合、相手に向かって合掌した後、手を横に開いて頭の上に組んでから胸の前に突きだして「エル・カンターレ・ヒーリング」と叫びます。 
オウム真理教

 

かつて存在した日本の(新興)宗教団体で、宗教的思想に基づくテロリストでもある。坂本弁護士一家殺害事件、松本サリン事件、地下鉄サリン事件など多くの事件(オウム真理教事件)を起こし、教祖は1995年に逮捕され、1996年(平成8年)1月に宗教法人としての法人格を失ったが活動を継続。2000年(平成12年)2月には破産に伴い消滅した。同時に、後継となる宗教団体アレフが設立され、教義や信者の一部が引き継がれた。アレフは後にAlephに改称された。また、上祐史浩らの集団が別の宗教団体ひかりの輪を設立した。その他に、麻原への帰依を貫く零細団体である山田らの集団、ケロヨンクラブも設立された。
地下鉄サリン事件など多くの事件を起こした新興宗教団体である。教祖である麻原彰晃(本名:松本智津夫)はヒマラヤで最終解脱した日本で唯一の存在で空中浮揚もできる超能力者であり、その指示に従って修行をすれば誰でも超能力を身に付けることができるなどと言って若者を中心とする信者を多く獲得した。マスメディアではオウム真理教出家者が理系の高学歴者ばかりで構成されていたかのようなイメージで報道されたが、多くの宗教団体にありがちなように、実際は社会で普通に生きてゆくことに疑問を感じたり社会に居場所をなくした人たちや、DV被害者、被虐待児、精神疾患、発達障害、パーソナリティ障害などの社会的な弱者も多く、こうした社会的弱者の構成員も多かった。
教義的にはヒンドゥー教や仏教といった諸宗教に合わせ、ノストラダムスの予言などのオカルトもミックスした独特のものとなっていた。当初はヨーガのサークルに過ぎなかったものの次第に常軌を逸した行動が見え始め、出家信者に全財産を布施させたり、麻原の頭髪や血、麻原の入った風呂の残り湯などの奇怪な商品を高価で販売するなどして、多額の金品を得て教団を拡大させた。内部では懐疑的になって逃走を図った信者を拘束したり殺害するなどして、1988年から1994年の6年間に脱会の意向を示した信者が判明しているだけでも5名が殺害され、死者・行方不明者は30名以上に及び、恐怖政治で教祖への絶対服従を強いていた。「出家」や高額の布施を要求し信者の親族その支援者と揉め事が多く、当初より奇抜、不審な行動が目立ったため、信者の親などで構成される「オウム真理教被害者の会」(のちに「オウム真理教家族の会」に改称)により、司法、行政、警察など関係官庁に対する訴えが繰り返されたが、取り上げられることなく、その結果、坂本堤弁護士一家殺害事件をはじめ松本サリン事件、地下鉄サリン事件などのテロを含む多くの反社会的活動(詳細は「オウム真理教事件」を参照)を起こしたほか、自動小銃や化学兵器、生物兵器、麻薬、爆弾類といった教団の兵器や違法薬物の生産を行っていた。
1996年(平成8年)1月に宗教法人としての法人格を失ったが活動を継続。2000年(平成12年)2月には破産に伴い消滅した。同時に、新たな宗教団体「アレフ」が設立され、教義や信者の一部が引き継がれた。アレフは後に「Aleph」と改称され、また2007年(平成19年)5月に上祐史浩を中心とした別の仏教哲学サークル「ひかりの輪」が、2014年(平成26年)〜2015年(平成27年)頃にAleph金沢支部の山田美砂子(ヴィサーカー師)を中心とした「山田らの集団」と呼ばれる分派が結成された。後継組織も日本政府からは継続的に反社会的勢力と見做され続け、組織の動向を監視・追跡されている。
名称
「オウム(AUM)」とは、サンスクリット語またはパーリ語の呪文「唵」でもあり、「ア・ウ・ム」の3文字に分解できる。これは宇宙の創造・維持・破壊を表しており、その意味は「すべては無常である」、すなわちすべては変化するものであるということを表している。
また麻原自身の解説によれば「真理」の意味は、釈迦やイエス・キリストが人間が実践しなければならないものはこうであるという教えを説いたものであるが、その教えの根本であるものを「真理」と呼ぶ。特にチベット仏教や原始仏教の要素をアピールしたため仏教系とされることも多いが、あえて仏教を名乗らなかった理由は、「仏教」という言葉自体が釈迦死後に創作されたものであるからとしている。また真理と密接に関係のあるものが科学である。
しかし、実は命名には京都の私立探偵・目川重治が関わっていたという。目川は「松本智津夫」から天理教の全容の調査を依頼され、その調査結果を松本に手渡した。その際、目川があんりきょう、いんりきょう・・・と「あ」から続けていき、「しんりきょう」に至ったという。「オウム」は目川の家の向かいにあったオーム電機とオームの法則に由来し、目川が「オームなんていいんじゃないか?」と勧めたとされる。後に目川は松本が麻原彰晃であると知った。
時期は目川の手記では1978-1979年頃、ノンフィクションライターの高山文彦および東京新聞記者瀬口晴義の文献によれば1984年春頃とされている(詳細は「目川重治#オウム真理教」を参照)。高山は勢力を拡大し教団名が市の名前(天理市)にまでなるに至った天理教を自分の夢と重ねていたのではないかとする。
沿革
前史
ヨーガ教室
1984年(昭和59年)、超能力開発塾「鳳凰慶林館」を主宰していた麻原彰晃(本名・松本智津夫)は後に「オウム真理教」となるヨーガ教室「オウムの会」(その後「オウム神仙の会」と改称)を始めた。当時はアットホームなヨガ教室で、ヨガで超能力程度の軽いノリだった。この頃、オカルト系雑誌の『月刊ムー』が、このオウムの会を「日本のヨガ団体」として取材、写真付きの記事を掲載していた。麻原はこれらオカルト雑誌に空中浮揚の瞬間と称する写真を掲載したり、ヒヒイロカネについての記事や、『生死を超える』『超能力秘密の開発法』などの本を執筆するなどして宣伝した。
麻原と家庭
当時は松本家一家は千葉県船橋市に住み、貧しく家族全員で1つの寝室を共有していた。食事は野菜中心で肉の代りにグルテンを肉状にしたものを食べたり、ちゃぶ台の上にホットプレートを置き、「野菜バーベキュー」を楽しんでいた。この船橋の家には「瞑想室」があり、宗教画が掛けられ棚には仏像が置かれていた。麻原は日に1度は瞑想室にこもり修行をしていた。棚の前にはちゃぶ台があり、麻原はそれを祭壇と呼んでいた。「形は重要じゃない。心が重要なんだ。私にとっては」というのが麻原の口癖だった。後に教団が大きくなってからも、麻原はそれを祭壇として使っていた。当時、麻原はヨーガ教室を東京都渋谷区で開いていたため、家にいることが少なかった。たまに帰宅すると強度の弱視のためテレビにくっつくように野球中継を見ていた。1986年ころには世田谷区の道場に住み込むようになりほとんど家に帰らなくなる。たまに麻原が帰宅すると3人の娘たちが大喜びで玄関まで走って行き、姉妹で父を奪い合うような普通の家庭であった。次女は父の帰宅を「太陽のない世界に、太陽が来た」などと表現していた。しかし、妻の松本知子は麻原が滅多に帰宅しないことから精神不安定であり、麻原に向かってなじるようないさかいがあり、麻原はこれにほとんど抵抗をしなかった。3女松本麗華の目には、知子が麻原の宗教を信じているようには見えなかったが、知子は麻原の著書の代筆を深夜まで行っており、後の麻原の著書のいくつかは、知子が書いたものであった。麻原は子供に向かって「蚊に刺されると痒くていやだね。でも蚊も生きているんだよ」とか「お釈迦様によれば、私たちは死後生まれ変わり、もしかしたら蚊に生まれ変わるかもしれない」などと話していたが、一方妻の知子は蚊を平気で殺していた。
合法活動
オウム神仙の会からオウム真理教へ
1987年(昭和62年)、東京都渋谷区において、従前の「オウム神仙の会」を改称し、宗教団体「オウム真理教」が設立された。同年11月にはニューヨーク支部も設立。「真理教」の名前は石井久子以外には「いかにも新興宗教」と不評であり、もっと宗教色を隠さないと一般受けしないという意見もあったが、麻原は「救済活動をする為なのだから真理教にする」と拘った。宗教化後は多額の献金を要求するようになり、ワークも増え、会員の三分の一が脱会した。1989年(平成元年)8月25日に東京都に宗教法人として認証された(1993年以降の登記上の主たる事務所は東京都江東区亀戸の新東京総本部)。麻原は解脱して超能力を身に付けたといい、神秘体験に憧れる若者を中心に組織を急速に膨張させていく。さらに麻原は自らをヒンドゥー教の最高神の一柱である破壊神シヴァ神あるいはチベット密教の怒りの神「マハーカーラ」などの化身だとも説き、人を力尽くでも救済するこの神の名を利用し目的のためには手段を選ばず暴力をも肯定する教義へと傾斜していく。同年にはサンデー毎日で「オウム真理教の狂気」特集がスタートし、オウム批判、オウムバッシングが始まった。
ダライ・ラマを利用した宣伝
麻原はチベット亡命政府の日本代表であったペマ・ギャルポと接触し、その助力によって、1987年(昭和62年)2月24日ならびに1988年(昭和63年)7月6日にダライ・ラマ14世とインドで会談した。麻原側は両者の会談の模様をビデオならびに写真撮影し、会談でダライ・ラマ14世が「ねえ君、今の日本の仏教を見てみたまえ。あまりにも儀式化してしまって、仏教本来の姿を見失ってしまっているじゃないか。これじゃあいけないよ。このままじゃ、日本に仏教はなくなっちゃうよ。」「君が本当の宗教を広めなさい。君ならそれができる。あなたはボーディ・チッタを持っているのだから」と麻原に告げたとしてオウム真理教の広報・宣伝活動に大いに活用した。ペマ・ギャルポはその後まもなくオウム真理教と積極的に対立するようになり、チベット亡命政府に対しても今後は麻原と関係を持たないように進言した。ダライ・ラマと同様オウム真理教は教団の権威づけに多くのチベットの高僧やインドの修行者と接触し宣伝に利用していたが、事件後はマスコミの取材に対して軒並み深い関係を否定している。1995年4月5日来日したダライ・ラマ14世は記者会見で「(麻原と)会ったことはあるが、私の弟子ではない。彼は宗教より組織作りに強い興味を持っているという印象が残っている。私に会いに来る人には誰でも友人として接している。しかし、オウム真理教の教えを承認してはいない。私は超能力や奇跡には懐疑的だ。仏教は、一人の指導者に信者が依存し過ぎるべきではないし、不健全だ」と語った。この話はオウム真理教が江川紹子と出版社を相手取り損害賠償請求訴訟を行なった際の争点の一つとなったが、判決は「名誉毀損に当たらない」としてオウム真理教の請求を棄却した。江川紹子は「多額の寄付をしてもらえば、普通お礼はするし、多少のリップサービスをすることもある。麻原教祖はそうした相手の反応を利用し、(中略)オウムの権威や信用を高めようとしたのではないか」と推測している。
麻原の健康不安と死への願望
1988年10月頃、富士宮市人穴に総本部道場建設。この頃より麻原は体調を崩すことが多くなり、健康面に不安を感じ始め「自分が死んだら、教団をどうするのか」あるいは「私は長くてあと5年だ」「死にたい」などと洩らすようになる。肝硬変や肝臓がんだと大騒ぎになったりもする。高弟の前でも「もう死のうかな」と呟き、新実智光は「お供します」、早川紀代秀は「困ります」、上祐史浩は「残って救済活動をします」と答え、妻の松本知子は「勝手にすれば」と言ったという。3女松本麗華は、この頃から「麻原の死への願望は強まった」と考えている。解脱者が多くなりオウム真理教が世界宗教へと変貌し救済ができるとの真剣な思いがあったが、弟子の修業が思うように進まず、人間界が救われないという否定的な認識が麻原彰晃に芽生えたと見ている。
衆議院議員総選挙への出馬
1989年の参院選でマドンナ旋風が沸き起こったことから、1990年2月に行われる衆院選に、当初麻原は石井久子をはじめとした女性信者を出馬させる構想を立てたが、その後麻原自身が徳によって政を行い、地上に真理を広めるために1990年(平成2年)には真理党を結成して第39回衆議院議員総選挙へ麻原と信者24人が集団立候補。選挙に立候補するかどうかはオウムとしては珍しく幹部による多数決が採られた。結果は10:2で賛成派が勝利。反対した2人は上祐史浩と岐部哲也であった。しかし結果は惨敗し、当時立候補者1人あたり200万円だった供託金として計5,000万円が没収される。
海外への進出
麻原は自らの権威づけをかねて主要な弟子を引き連れて世界各地の宗教聖地を巡った。1987年には、「麻原の前世が古代エジプトのイムホテップ王であった」ということから、同王が埋葬されているピラミッドの視察目的でエジプトツアーを行った。後に麻原は自著において「ピラミッドはポアの装置だ」と述べた。1989年(平成元年)8月、所轄庁の東京都知事より宗教法人としての認可を得た後、日本全国各地に支部や道場を設置する一方、ロシアやスリランカなど海外にも支部を置いた。ロシアでは優秀な演奏者を集めキーレーンという専属オーケストラを所有、布教に利用した。日本では1989年(平成元年)に約1万人程度の信者が存在していたとされる。麻原は1991年(平成3年)を「救済元年」とし(教団内でこれを元号の如く用いた)、マスメディアを中心とした教団活動を活発化させた。1992年11月12日には、釈迦が菩提樹の下で悟りを開く瞑想に入ったとされる聖地、インド・ブッダガヤの大菩提寺にある「金剛座」に座り、地元の高僧に下りるように言われたが従わなかったため、警官に引き摺り下ろされた。麻原は日本では盛んにテレビ・ラジオ番組に露出し、雑誌の取材を受けたり著名人との対談などを行った。このほか講演会開催、ロシアや東南アジア諸国・アフリカ諸国などへの訪問や支援活動、出版物の大量刊行などを行った。図書館への寄贈・納本も行っており、麻原の著書を初めとするオウム真理教の出版物は現在も国立国会図書館等に架蔵されている。特に若い入信者の獲得を企図し、麻原が若者向け雑誌に登場したり、1980年代後半から行っていた大学の学園祭での講演会を更に頻繁に開催するなどした(東京大学、京都大学、千葉大学、横浜国立大学等)。1992年(平成4年)にはサリン事件後広範に知られるようになるパソコン製造などを行う会社「株式会社マハーポーシャ」を設立し、格安パソコンの製造販売を行うようになった。
オウム真理教放送の開始
ロシアでは、1992年4月1日にオウム真理教放送が開始される。日本語の他、英語やロシア語で放送を行っていた。当初は「エウアゲリオン・テス・バシレイアス」という番組名で、放送局名や放送時間、周波数等の告知すらなく、同年4月半ばからは「オウム真理教放送」と名乗る。ギリシア語では「エウアンゲリオン」が正しい発音だという聴取者の指摘により、8月1日の放送分より「エウアンゲリオン・テス・バシレイアス」に変更された。制作は富士山総本部で、録音テープをモスクワに空輸し放送していた。電波の受信状態が悪かったため12月1日からは富士山総本部のスタジオからの生放送に変更された。1992年6月15日にはモスクワ放送の英語ワールドサービスの時間枠を使用し、日本時間の5時30分と13時30分からそれぞれ約30分間、全世界に向けての英語放送を開始。1992年9月1日からは「マヤーク」という約25分間のロシア語放送が開始された。11月19日にはモスクワのテレビの2×2にて「真理探求」という番組が開始される。一連の事件が強制捜査を受けたことから、ロシア当局は放送の中止を決め、日本時間の1995年3月23日の放送が最後となった。翌24日もスタジオからは番組を発信したが、ロシア側が放送中止を決めたため、電波には乗らなかった。番組内では、麻原彰晃作曲とされる多くのオウムソングが流され、「超越神力」、「エンマの数え歌」、「御国の福音」第1楽章の一部や「シャンバラ・シャンバラ」などが放送されたほか、モスクワ大学での麻原彰晃説法の様子。麻原の3人の弟子として、アナウンサーのカンカー・レヴァタ(杉浦実)、ダルマヴァジリ(坪倉浩子)、アシスタント役にはマンジュシュリー・ミトラ(村井秀夫)が登場した。麻原夫人の松本知子(ヤソーダラー)が、かつてはアンチ宗教だったという衝撃的な発言にはじまり、夫人の考え方が変わってゆく様子なども流された。英語放送では麻原の英語のメッセージのほか、当初は朝のパーソナリティーをマイトレーヤ(上祐史浩)が、昼の放送はヤソーダラー(松本知子)が受け持っていた。1995年3月22日、オウム真理教に対する警察の強制捜査が行われ、翌23日にはこれに対する麻原自らの反論が放送された。音質から、第4サティアンのスタジオではなく、他の場所での収録と推測されている。1995年2月からは、麻原が「わたしは、君たちがわたしの手となり、足となり、 あるいは頭となり、救済計画の手伝いをしてくれることを待っている さあ、一緒に救済計画を行なおう そして、悔いのない死を迎えようではないか」と呼びかけるメッセージを送り続けていたが、3月23日の放送の最後にもこれが放送されオウム真理教放送最後のオンエアとなった。
非合法活動
暴走の起源
1988年(昭和63年)、在家信者死亡事件が発生。麻原は「いよいよこれはヴァジラヤーナに入れというシヴァ神の示唆だな」とつぶやいたという。隠蔽のため、1989年(平成元年)には男性信者殺害事件を起こし殺人に手を染める。
坂本弁護士事件と衆議院選の裏側
翌年の選挙戦など教団の活動の障碍になるとして、前年の1989年11月4日、オウム批判をしていた坂本堤弁護士とその一家を殺害(坂本堤弁護士一家殺害事件)。中川智正が殺害の際プルシャ(オウムのバッジ)を落としたためオウム犯行説が一時広まるが、任意の失踪の可能性があるなどとされこの頃はまだ事件性すら確定されていなかった。そして1990年、麻原は真理党を結成して第39回衆議院議員総選挙に出馬。選挙の際には信者が麻原のお面やガネーシャの帽子をかぶり、尊師マーチなど教祖の歌を歌うといった派手なパフォーマンスなど奇抜な活動が注目を浴び、修行の様子なども雑誌やテレビで報道され、徐々に知名度が上がっていく。この時には公職選挙法で定められた時間帯を大きく超える16時間/日に及ぶ街頭宣伝運動を繰り広げ、麻原彰晃の写真入りビラやパンフレット、雑誌を選挙区中に撒き、麻原そっくりのお面を大量に作って運動員に被らせた。これは違法で警視庁から警告を受けたが、運動にかり出された元信者は「もしも誰かから注意されたりしたら、『これは布教活動です』と言って逃れるように」と指示を受けていた。また他の候補者のポスターを剥がす、汚損するなどを麻原自身が勧め、深夜に信者を使って他の候補者を中傷するビラを配布させた。結果はこの選挙で最も得票の多かった麻原でさえ1,783票であり、惨敗を受け麻原は「票に操作がなされた」と発言し、「今の世の中はマハーヤーナでは救済できないことが分かったのでこれからはヴァジラヤーナでいく」として、ボツリヌス菌やホスゲンによる無差別テロ計画(オウム真理教の国家転覆計画)を指示する。このことからもこの選挙がオウム真理教の被害者意識をより一層高め、非合法活動を更にエスカレートさせたといわれている。
無差別テロ計画
麻原は選挙での惨敗を受け、オウム真理教の国家転覆計画を実行に移し始めた。教団内ではかねてから、現代人は死後三悪趣(地獄・餓鬼・畜生)に転生してしまうためこれを防がなくてはならないなどと教え込まれていたため、信者は麻原に従って武装化に協力していった。1990年4月、「オースチン彗星(英語版)が接近しているために、日本は沈没するが、オウムに来れば大丈夫」と宣伝し、在家信者だけでなく家族まで参加させ行き先も伝えないまま石垣島に連れて行き石垣島セミナーを開催した。セミナーの当初の目的は、オウム真理教が計画をしていたボツリヌス菌・ボツリヌストキシン散布によるテロから、オウムの信者を守ることであった。しかし村井秀夫、遠藤誠一らはボツリヌス菌の培養に失敗をしたためテロは実行されなかった。参加者によると、参加費は30万円であったが、会場はきちんと予約されておらず、天候が悪かったこともあり、「現在の東欧動乱は、1986年のハレー彗星の影響であり、今年のオースチン彗星の接近によって何かが起こる」とただそれだけの話があっただけで行事は予定を繰り上げてお開きになった。しかしこのセミナーで多数の出家者を獲得し、選挙での惨敗後に脱会者が続出した教団を蘇生することには成功した。これはその後「ハルマゲドンが起こる、オウムにいないと助からない」と危機感を煽って信者や出家者をかき集める方法の原点になった。
波野村の攻防
1990年(平成2年)5月、日本シャンバラ化計画の一環として熊本県阿蘇郡波野村(現在の阿蘇市)に進出するが、地元住民の激しい反対運動に会う。波野村進出の目的のひとつは武装化拠点の確保であった。しかし村民はオウムの進出に反発し、反対運動が激化した。村の反対運動の背景には、村長派と反村長派との対立があったともされる。また右翼団体なども扇動され激しい攻防があった。そして1990年10月22日、オウム真理教波野村の土地売買に関する国土利用計画法違反事件で強制捜査を受け、早川紀代秀、満生均史、青山吉伸、石井久子、大内利裕など教団幹部が続々と逮捕された。しかしオウムは熊本県警内の信者から情報を入手しており、強制捜査も1周間延期されていたものだったので、武装化設備を隠蔽することができた。後の1994年、結局波野村はオウムが5000万円で手に入れた土地を和解金という形式で9億2000万円で買い戻すことで合意、オウムの大きな資金源となった。
武装化の中断、妄想・幻聴の出現
国土法違反事件の影響もあり、1991年(平成3年)〜1992年(平成4年)はホスゲンプラント計画や生物兵器開発などの教団武装化を中断、テレビや雑誌への出演や文化活動などに重点を置いた「マハーヤーナ」路線への転換を図った。だが1992年頃より、「宇宙衛星から電磁波攻撃を受けている」などといった麻原の妄想、幻聴が現れ始める。「シヴァ大神の示唆では仕方ないな」とつぶやき、「内なる声」が自らの進みたい道とは違うことに苦しみ始め「いっそ死んでしまいたい」と言ったのを3女麗華が聞いている。麗華は麻原を統合失調症などの精神疾患に罹患していたのではないかと推測している。
教団の再武装化
1993年(平成5年)前後から再び麻原は教団武装化の「ヴァジラヤーナ」路線を再開。武力を保有するため、オカムラ鉄工を乗っ取りAK-74の生産を試みたり(自動小銃密造事件)、NBC兵器の研究を行うなど教団の兵器の開発を進めた。1993年以降は麻原がオウム真理教放送等を除くメディアに登場することはなくなり、国家転覆を狙った凶悪犯罪の計画・実行に傾斜してゆく。この中で土谷正実、中川智正、滝澤和義らの手によってサリンなど化学兵器の合成に成功。1993年より、これを利用した池田大作サリン襲撃未遂事件、滝本太郎弁護士サリン襲撃事件を起こし、敵対者の暗殺を試みた。さらに第7サティアンにおいてサリン70トンの大量生産を目指した(サリンプラント建設事件)。また生物兵器の開発も再開し、遠藤誠一、上祐史浩らが炭疽菌を用いて亀戸異臭事件などを起こしたが、こちらは成功しなかった。この頃には、アメリカから毒ガス攻撃を受けていると主張するようになり、車には空気清浄機を付け、ホテルでは大真面目に隙間に目張りをしていた。ヘリコプターが通過する際には、毒ガスだと言って車に駆け込み退避するよう命じる有り様だった。中川智正によると、この被害妄想は1993年10月頃に第2サティアンの食物工場から二酸化硫黄を含む煙が出た事故を、毒ガス攻撃と思い込んだことから始まったという。
洗脳の強化
過激化とともに布施の強化が図られ、社会との軋轢が増すにつれ、教団内部に警察などのスパイが潜んでいるとしきりに説かれ、信者同士が互いに監視しあい、密告するよう求められるようになる。麻原は信者に対して「教団の秘密を漏らした者は殺す」「家に逃げ帰ったら家族もろとも殺す」「警察に逃げても、警察を破壊してでも探し出して殺す」と脅迫していたという。教団内の締め付けも強くなり、薬剤師リンチ殺人事件、男性現役信者リンチ殺人事件、逆さ吊り死亡事件などが発生した。1994年からオウムでは違法薬物をつかったイニシエーションを次々と実行するようになり、LSDを使ったイニシエーションが在家信者に対しても盛んに行われた(LSDは麻原自身も試している)。費用は100万円であったが、工面できない信者には大幅に割引され、5万円で受けた信者もいる。LSDを使った「キリストのイニシエーション」は出家信者の殆どに当たる約1200人と在家信者約200〜300人、LSDと覚醒剤を混ぜた「ルドラチャクリンのイニシエーション」は在家信者約1000人が受けた。また、林郁夫によって「ナルコ」という儀式が開発された。「ナルコ」は、チオペンタールという麻酔薬を使い、意識が朦朧としたところで麻原に対する忠誠心を聞き出すもので、麻原はしばしば挙動のおかしい信者を見つけると林にナルコの実施を命じた。麻原は林に、信者達の行動を監視するよう命じ、信者が自分の仕事の内容を他の信者へ話すことすら禁じていた。林郁夫はさらに「ニューナルコ」と呼ばれる薬物を併用した電気ショック療法を使い始め、字が書けなくなったり記憶がなくなっている信者が見つかっている。他にも、村井秀夫によりPSIという奇妙な電極付きヘッドギアが発明され、教団の異質性を表すアイテムとなった。洗脳は出家信者の子どもにも及び、PSIを装着させたり、LSDを飲ませたり、オウムの教義や陰謀史観に沿った教育をしたりしており、事件後に保護されたオウムの子どもたちが口を揃えて「ヒトラーは正しかった、今も生きている」などと語っている光景も目撃されている。麻原本人は言葉巧みに若い女性信者を説得し、左道タントライニシエーションと称して性交を行っており、避妊も行っていなかったため妊娠・出産に至る女性も数多く現れた。
省庁制発足と松本サリン事件
1994年6月27日、東京都内のうまかろう安かろう亭で省庁制発足式が開かれ、これにより教団内に「科学技術省」「自治省」「厚生省」「諜報省」などといった国家を模したような省庁が設置された。3女松本麗華によれば、1994年6月に麻原の体調が悪化し、教団運営ができなくなる恐れが出たために、省庁制が敷かれたという。各省庁の責任者や大臣が大きな権限を持つようになり、3女は、11歳にして法皇官房長官に任命される。任命時に麻原は麗華に「お前はもう11歳だから大人だ」と言ったが麗華がふてくされていると「法皇官房は、私のことを一番に考える部署なんだ。お前は長官だから、私の世話をしっかり頼む」と言った。同日、オウムの土地取得を巡る裁判が行われていた長野県松本市において、裁判の延期と実験を兼ねてサリンによるテロを実行。死者8人、重軽傷者600人を出す惨事となる(松本サリン事件)。当初はオウムではなく第一通報者の河野義行が疑われ厳しい追及が行われるなど、後に捜査の杜撰さが指摘された。またマスコミによる報道被害も問題になった。
戦いか破滅か
1994年(平成6年)と1995年(平成7年)には特に多くの凶悪事件を起こす。そのうちいくつかの事件では当初より容疑団体と目され、警察当局の監視が強化された。オウム内ではビデオ「戦いか破滅か」や雑誌「ヴァジラヤーナ・サッチャ」などで危機感を煽った。「信徒用決意」という決意文にはこうある。「泣こうがわめこうがすべてを奪いつくすしかない」「身包み剥ぎ取って偉大なる功徳を積ませるぞ」「丸裸にして魂の飛躍を手助けするぞ」「はぎとって、はぎとって、すべてを奪い尽くすぞ」。さらに、決意V-2にはこうある。「たとえ恨まれようと、憎まれようと、どんなことをしてでも、真理に結び付け、救済することが真の慈愛である」「救済を成し遂げるためには手段を選ばないぞ」「そして、まわりの縁ある人々を高い世界へポワするぞ」。これらの教義は、信者の監禁事件へと発展していき、1994年には教団は拉致・監禁を平然と行うようになり、ピアニスト監禁事件、宮崎県資産家拉致事件、鹿島とも子長女拉致監禁事件といった多数の拉致監禁事件を起こし、サティアンに作られた独房や監禁用コンテナ、一日中麻原の説法テープを聞かせる部屋(ポアの間)に被害者を監禁した。さらに土谷正実が猛毒VXの合成に成功し、これを用いて敵対者の暗殺を計画、駐車場経営者VX襲撃事件、会社員VX殺害事件、オウム真理教被害者の会会長VX襲撃事件を起こした。麻原は「もうこれからはテロしかない」、「100人くらい変死すれば教団を非難する人がいなくなるだろう。1週間に1人ぐらいはノルマにしよう」、「ポアしまくるしかない」などと語っていた。
サリン事件は、オウムである
松本サリン事件後に「サリン事件は、オウムである」などと書かれた「松本サリン事件に関する一考察」という怪文書が出回り、さらにオウムを追っていたジャーナリストの江川紹子が何者かに毒ガス攻撃を受ける(江川紹子ホスゲン襲撃事件)など、オウムと毒ガスの関係性が噂され始めた。1994年11月には強制捜査接近の噂迫が教団内に流れ、サリンプラントの建設を中断するなどの騒ぎとなっていた。そして1995年(平成7年)1月1日、読売新聞が上九一色村のサティアン周辺でサリン残留物が検出されたことを報じ、オウムへのサリン疑惑が表面化、教団は「上九一色村の肥料会社が教団に向けて毒ガス攻撃をしているため残留物が発見された」と虚偽の発表をするとともに、隠蔽工作に追われることとなった。だが麻原は1995年1月17日の阪神淡路大震災で強制捜査が立ち消えになったものと考え、1995年2月28日、東京都内で公証人役場事務長逮捕監禁致死事件を起こす。この事件で教団信者松本剛の指紋が発見されたことにより、ようやく警視庁は公証人役場事務長逮捕監禁致死事件で全国教団施設の一斉捜査を決定したのであった。
地下鉄サリン事件と強制捜査
しかし教団はそれを察して警察より早く動き、強制捜査を遅らせるため1995年3月20日に地下鉄サリン事件を決行。13人の死者と数千人の負傷者が発生する大惨事となった。ただし、唯一地下鉄サリン事件が決定されたリムジン謀議の内容を詳細に証言している井上嘉浩によると、2014年2月4日の平田信公判において「サリンをまいても、強制捜査は避けられないという結論で、議論が終わっていた。しかし松本死刑囚は、『一か八かやってみろ』と命じた。自分の予言を実現させるためだったと思う。」、2015年2月20日の高橋克也の公判において「『宗教戦争が起こる』とする麻原の予言を成就させるために、事件を起こしたと思った」と証言しており、自身の「ハルマゲドン」の予言を成就させるためという説もある。いずれにせよ強制捜査延期には至らず、事件2日後の3月22日には、山梨県上九一色村(現・富士河口湖町)を中心とした教団本部施設への一斉捜索が行なわれ、サリンプラント等の化学兵器製造設備、細菌兵器設備、散布のためのヘリコプター、衰弱状態の信者50人以上等が見つかり、オウム真理教の特異な実態が明らかになった。以降、同事件や以前の事件への容疑で教団の幹部クラスの信者が続々と逮捕された。強制捜査の際、どこの現場でも「捜索令状をじっくり読む」「立会人を多数要求する」「警察官の動きをビデオや写真に撮る」という光景が見られた。また報道陣に対してもしつこくカメラを向け、突然の捜索に驚き慌てる様子は全くなく、事前に準備され訓練された行動のようであった。実際に弁護士で信者の青山吉伸から「絶対に警察の手に渡ってはいけない違法なものに限り持ち出し、露骨な持ち出しをしないように」「令状呈示のメモ及び録音で時間を稼ぎ、私服警察官に対しては警察手帳の呈示を求める」「水際で相手を嫌にさせて、捜索意欲をなくさせる」「排除等の暴行に及んで来たらビデオで記録化する」「施設の電源を落とす」「内鍵をして立て篭る」「勝手に触ると修法が台なしになると主張する、ほとんどのものを修法されているとする」という通達と、警察との想定問答が極秘に出されていた。もちろんこれは刑法104条の証拠隠滅罪に該当する。オウムの犯罪行為は一部の信者以外には秘密であったうえ、「オウムは米軍に毒ガス攻撃されている被害者」「不殺生戒を守り虫も殺さぬオウム信徒が殺人をするはずがない」と教わっていたため、事件を陰謀と考える信者の抵抗は大きかった。強制捜査後、上祐史浩らがテレビに出演して釈明を続け、サリンはつくっていないなどと潔白を主張した。一部の幹部は逃走し、八王子市方面に逃げた井上嘉浩、中川智正らのグループは村井秀夫から捜査撹乱を指示され、4月から5月にかけて新宿駅青酸ガス事件、都庁爆弾事件を起こした。また、その村井秀夫は1995年4月23日に東京南青山総本部前に集まった報道陣を前にして刺殺された(村井秀夫刺殺事件)。4月15日予言などオウムに関するデマも飛び交った。1995年(平成7年)5月16日には再び、自衛隊の応援を得て付近住民を避難させた上で、カナリアを入れた鳥かごを持つ捜査員を先頭に、上九一色村の教団施設の捜索を開始。第6サティアン内の隠し部屋に現金960万円と共に潜んでいた麻原彰晃こと松本智津夫(当時40歳)が逮捕された。また、証拠品の押収や、PSI(ヘッドギア)をつけさせられた子供たちを含む信者が確保された。
麻原逮捕後の活動
長老部体制
東京地検は麻原彰晃こと松本智津夫を17件の容疑で起訴した。1996年1月18日時点で、一連の事件に関与して逮捕された信者は403名、そのうち起訴183名。教団は村岡達子代表代行と長老部を中心として活動を継続していたが、1995年(平成7年)10月30日東京地裁により解散命令を受け、同年12月19日の東京高裁において、即時抗告が、翌1996年(平成8年)1月30日の最高裁において特別抗告がともに棄却され、宗教法人法上の解散が確定した。1996年(平成8年)3月28日、東京地裁が破産法に基き教団に破産宣告を下し、同年5月に確定する。1996年(平成8年)7月11日公共の利益を害する組織犯罪を行った危険団体として破壊活動防止法の適用を求める処分請求が公安調査庁より行われたが、同法及びその適用は憲法違反であるとする憲法学者の主張があり、また団体の活動の低下や違法な資金源の減少が確認されたこと等もあって、処分請求は1997年(平成9年)1月31日公安審査委員会により棄却されている。破防法処分請求棄却後により教団も活動を継続し、「私たちまだオウムやってます」と挑発的な布教活動や、パソコン販売による資金調達などを行った。一方、一連の事件については「教団がやった証拠がない」とし、反省や謝罪をせず、被害者に対する損害賠償にも応じなかった。この頃教団は、当時黎明期であったインターネット上に公式サイトを開設 (1999年、休眠宣言により事実上閉鎖。初期版/中期版/後期版)。麻原が毒ガス攻撃を受けていた、坂本弁護士一家殺害事件は弁護士事務所の者が怪しい、だんご三兄弟ヒットはフリーメイソンの陰謀などと主張したり、麻原や上祐が出てくる探索ゲーム「サティアン・アドベンチャー」、オウム×新世紀エヴァンゲリオンの二次創作があったりとやりたい放題の内容であった。さらに一部の熱心な信者は一般人を装って、ネット上にオウム事件陰謀説を流布していた。
休眠宣言
教団の姿勢は社会の強い反発を招き、長野県北佐久郡北御牧村(現・東御市)の住民運動をきっかけに、オウム反対運動が全国的に盛り上がりを見せ、国会でもオウム対策法として無差別大量殺人行為を行った団体の規制に関する法律(いわゆる「オウム新法」)を制定するに至った。予言されたハルマゲドンもなかったことから、教団は1999年9月に「オウム真理教休眠宣言」、12月1日は「正式見解」を発表し事件を形式的に認めた。
「 12月1日教団正式見解
9月末の休眠宣言以来、教団として、一連のいわゆるオウム事件に対する見解を発表すべく検討を重ねてまいりました結果、本日以下の見解を発表できる ことになりました。いわゆるオウム事件に関して、教団として現在まで裁判の進行を見守ってきた結果、当時の教団関係者の一部が事件に関わっていたことは否定できないと判断するに至りました。長老部のメンバーを代表とする現教団の信者たちにとって、一連の事件は知らないところで起こったこととはいえ、当時の教団にあって同じ団体に属した者 として、現在裁判で明らかになりつつあることが起こったことは大変残念であるとともに、被害に遭われた方々をはじめ、ご家族の方々に対し、心からお詫びを申し上げたいと思います。
(省略)
最後になりますが、現在「オウム新法」といわれる法律が成立しようとしており ます。わたしたちの関係者が関与した事件によって、憲法で保障された基本的人権を侵害する法律が制定されようとしていることは、大変遺憾なことであり、また国民の皆さまに対して申し訳なく思う次第です。この法律が、もし成立するとするなら、わたしたち以外の団体に決して適用されることがないよう心から願ってやみません。  — 1999年12月1日 教団代表代行 村岡達子 」
後継教団
アレフ系
Aleph
2000年(平成12年)2月4日、教団は破産管財人からオウム真理教の名称の使用を禁止されたため、前年に出所した上祐史浩を代表として「オウム真理教」を母体とした宗教団体「アレフ」へと名称変更した。同年7月、「アレフ」は破産管財人の提案により、被害者への賠償に関する契約を締結したが、その支払いは遅々として進んでいない。2003年(平成15年)には「アーレフ」、2008年(平成20年)にはさらに「Aleph」(アレフ)と改称した。2010年(平成22年)3月に公安調査庁は、サリン事件当時の記憶が薄い青年層の勧誘をしていることなどについて、警戒を強めている旨を発表した。
ひかりの輪
2007年(平成19年)5月にはアーレフから上祐派の信者たちが脱会、新団体「ひかりの輪」を結成した。この団体は麻原の教えからの脱却を志向していると主張し、またオウム被害者支援機構との協定により被害者への賠償金支払いを行っている。なお公安調査庁『内外情勢の回顧と展望』2010年1月版では、その活動が麻原の修行に依拠していることが報告されている。
山田らの集団
2014年(平成26年)から2015年(平成27年)頃、Aleph金沢支部の山田美砂子(ヴィサーカー師)を中心とした「山田らの集団」と呼ばれる分派が結成された。「山田らの集団」は公安調査庁の定めた便宜上の呼称であり、正式な団体名は不明。
その他
ケロヨンクラブ
「ケロヨンクラブ」は1995年(平成7年)のオウム事件後に結成された分派。代表の北澤優子が信者の死亡事件で有罪判決を受けた。
偽装脱会者
麻原の4女によると、偽装脱会者が「第二オウム」として陰謀論、占い、スピリチュアル、IT、福祉などを通じ陰の布教を図っているという。
教義
教義の概要
オウム真理教の教義は、原始ヨーガを根本とし、パーリ仏典を土台に、チベット密教やインド・ヨーガの技法を取り入れている。日本の仏教界が漢訳仏典中心であるのに対しあえてパーリ仏典やチベット仏典を多用した理由は、漢訳は訳者の意図が入りすぎているからとしている。
そして、「宗教は一つの道」として、全ての宗教はヨーガ・ヒンズー的宇宙観の一部に含まれる、と説く。その結果、例えばキリスト教の創造主としての神は梵天(オウム真理教では“神聖天”と訳す)のことである、等と説かれる。オウムでは、世界の宗教の起源は古代エジプトにあり、アブラハムの宗教もインド系宗教もエジプトから始まったと説く。
従って、オウム真理教に於いては儒教・道教・キリスト教・ゾロアスター教等ありとあらゆる宗教・神秘思想を包含する「真理」を追求するという方針がとられた。結果として、キリスト教の終末論も、ヒンズー教的な「創造・維持・破壊」の繰り返しの中の一つの時代の破滅に過ぎない、として取り込まれた。すべての宗教および真理を体系的に自身に包括するという思想はヒンズー教の特徴であり、麻原はそれを模倣した。
具体的な修行法としては、出家修行者向けには上座部仏教の七科三十七道品、在家修行者向けには大乗仏教の六波羅蜜、またヨーガや密教その他の技法が用いられた。特にヨーガにはかなり傾倒しており、その理由として釈迦もヨーガを実践していたからとする。
また、オウム真理教の教義には、ヘレナ・P・ブラヴァツキーに始まる近代神智学の影響も指摘されている。ブラヴァツキーの死後、神智学の組織である神智学協会はインドに本部を構え、ヨーガ理論とその実践による霊性の向上と霊能力開発を強調するようになったが、社会学者の樫尾直樹や宗教学者の大田俊寛は、こういった面を含めて近代神智学の構えはオウム真理教の諸宗教の編集の仕方に非常によく似ており、その影響が伺われると指摘している。たとえばオウムで用いられた「アストラル」「コーザル」は神智学の用語である。麻原が神智学の原典から直接学んだのか、麻原が一時はまったというGLAなどの新宗教の経典や出版物、オカルト雑誌などから間接的に教義を構築したのかは定かではない。
教義の柱
オウム真理教の「五つの柱」として、以下の点が挙げられており、「実践宗教」であることが強調されている。
1.最終地点まで導くグル(霊的指導者)の存在
2.無常に基づく正しい教義
3.その教義を実体験できる修行法
4.その教義を実際に実践して修行を進めている先達の修行者の存在
5.修行を進めるためのイニシエーションの存在
無常
オウム真理教では、修行による苦悩からの解放を説き、無常である欲望・煩悩から物理的に超越することを「解脱」、精神的に超越することを「悟り」と呼ぶ。「人は死ぬ、必ず死ぬ、絶対死ぬ、死は避けられない」という、仏教の無常観に即した麻原の言葉に象徴されるとおり、この世の中のすべての現象は無常である。よって今感じている喜びはいつか終わりが訪れた時にその喜びが失われることで苦しみを必ず生じさせる。また今は何も無くともいつか自分にとって嫌な現象が訪れた際にも同様に必ず苦しみが生じる。何かを欲求して得られなかった場合も同様に苦しみが生じる。したがって無常である煩悩的な喜びにとらわれることは必ず苦しみを生み出す。逆に、自己の煩悩を超越し、無常を越えた状態が、ニルヴァーナ(涅槃、煩悩破壊)である。また、そこに留まることなく、更に全ての魂を苦悩から解放し絶対自由・絶対幸福・絶対歓喜の状態に導くことによって自身も絶対自由・絶対幸福・絶対歓喜のマハーニルヴァーナ(大完全煩悩破壊)、あるいはマハーボーディニルヴァーナ(大到達真智完全煩悩破壊)へと至る。
シヴァ
オウム真理教の主宰神は、シヴァ大神である。オウム真理教に於けるシヴァは「最高の意識」を意味し、マハーニルヴァーナに住まう解脱者の魂の集合体であり、またマハーニルヴァーナそのものと同義としても扱われる。当時の教団内で麻原彰晃はこのシヴァの弟子であるとともにシヴァの変化身とも称されていた。ヒンドゥー教(インド神話)にも同名のシヴァ神があるが、これはシヴァ大神の化身の一つに過ぎないとされる。
輪廻転生
教団では輪廻転生が信じられていた。麻原は自らの出版物を通して、徳川家光、朱元璋など多くの前世を持つと称していた。中でも意識堕落天の宗教上の王は直前の生であったため、その世界で麻原に帰依していた人たちが多く転生し、現在の信者になっていると教団内では信じられていた。また、道場では「宿命通」というアニメビデオを放映し、麻原のエジプトでの前世の物語を展開していた。ジェゼル王の時代に彼は宰相のイムホテップとして王に宗教的指導を施し、最古のピラミッドである「ジェゼル王の階段のピラミッド」を造ったとしている。輪廻転生と関連してカルマの法則も信じられていた。虫500匹を殺すカルマが人1人を殺すカルマに相当する、接触しただけでカルマが交換される、スポーツやグルメを楽しむとカルマを負って低い世界に落ちるなどといった独特の教義があった。
エネルギー
オウムでは霊的エネルギー(気)を実在すると考え、これを強めるためとして様々な修行をしていた。麻原の爪や体毛を煎じて飲んだり、麻原の風呂の残り湯を飲んだりするのも「エネルギー」を高める目的があった。
ポア
ポア(ポワ)とは、ヨーガの用語で「意識を高い世界へと移し替えること」と定義されていた。これは実際の生死とは関わりなく意識の中の煩悩的要素を弱めて意識を高次元の状態に移し替えることと解釈されていた。このポアの中で最も重要なものは死の直後、中間状態にある意識の移し替えで、これは次の生における転生先を決定することになる。したがって、死の際の意識の移し替えが狭義の「ポア」となる。これが転じて、「積極的に(実際に)死をもたらし、より高位の世界へ意識を移し替え転生させる」という特殊な技法も「ポア」と呼ばれることがあり、これが「『ポア』なる言葉の下に殺戮を正当化する」と検察側が主張する根拠となっている(※これは、一連の犯行の際に、教団幹部らが教団内部で実際に使用した事例などに基づく解釈である)。オウムは人々の救済を説く一方、「ユダヤ=フリーメイソンに支配され物欲に溺れ動物化する人々、三悪趣に落ちる人々」と「霊的に進化する人々」を二分し、前者を粛清しようとする思考に陥っていたとされる。
ハルマゲドン
麻原は転輪王経やヨハネの黙示録、ノストラダムス・酒井勝軍・出口王仁三郎らの予言、占星術(大宇宙占星学)などをミックスし、第三次世界大戦・ハルマゲドンが迫っていると盛んに主張した。現代の人類は悪業を積んでいてこのままでは三悪趣に転生してしまうので、ハルマゲドンを引き起こすことも救済であると問いていた。麻原によるとハルマゲドンの原因は、フリーメイソン物質主義派とユダヤ勢力が物質崇拝やオウム迫害を広めてカルマが溜まっていることと、キリストと人類の進化を求めるフリーメーソン精神主義派及び米・中・露のバックにいるものたちの計画であり、大戦は中東の石油危機をきっかけとして1997年に始まり1999年8月1日ごろ激化する。この他、ナチス残党の第四帝国も参戦する。日本は不況のためファシズムに傾倒し東南アジアに侵攻、さらにアメリカと対立しNBC兵器やプラズマ兵器、電磁パルス攻撃などで蹂躙され殆どが死ぬが、「神仙民族」であるオウムが生き残り、2000年に日本から「6人の最終解脱者」が登場、オウムは地球を救い、旧人類を淘汰して超人による世界をつくるという、アニメ・漫画的ともいえるストーリーであった。オカルト本などが元ネタのひとつだった。とはいえ麻原はソ連崩壊を予言できず(当初は1995年にソ連があることになっていた)1999年を迎える前から破綻していた。麻原は逮捕後の1996年の破防法弁明手続において「1995年11月にラビン首相の暗殺によって世界の首脳がイスラエルに集まったため、これをもってハルマゲドンに集まったというプロセスは終了した」「私たちはハルマゲドンに出会うかもしれない。出会わないかもしれない。ハルマゲドンが起きるなどということはその中でも一言も言っていない」と予言を半ば撤回した。
疑似科学
麻原は宗教の教えと科学の理論をごちゃ混ぜにして話すことを得意とし、空中浮揚からビッグバンに至るまで疑似科学理論で説明していた。最先端の科学でも難しい「ビッグバン直後の世界」などのことでも、適当に誤魔化して説明できてしまうことから、多くの理系信者が惹きつけられた。
体系
オウム真理教では、修行の内容を3種類または4種類に分けて説く。小乗(ヒナヤーナ)、大乗(マハーヤーナ)、真言秘密金剛乗/秘密真言金剛乗(タントラ・ヴァジラヤーナ)で、厳密に説かれるときはタントラヤーナとヴァジラヤーナを分ける。ここでは4つの修行体系に分けて述べる。ただし、顕教が大乗を説くのに対して密教は金剛乗(ヴァジラヤーナ)を説くことは多いが、通常の仏教語の定義とは異なる。
ヒナヤーナ
ヒナヤーナ(小乗)とは、外界とは離れて、自己の浄化・完成を目指す道である。ヒナヤーナはすべての土台である。
マハーヤーナ
マハーヤーナ(大乗)とは、自己だけでなく他の多くの人たちをも高い世界に至らしめる道(衆生済度、救済)である。教団全体はマハーヤーナと規定される。ただし、完全なる自己の浄化(ヒナヤーナの完成)がなければ、真の意味でのマハーヤーナは成立しないともいう。オウム出版発行の機関紙の名前にも使われている。
タントラヤーナ
タントラヤーナ(秘密真言乗)とは、マントラを唱える等の密教的な修行を指す。ただし、左道タントラなど、現代日本では非倫理的・非道徳的とされる部分については、教団の公式見解において否定されていた。しかし麻原はイニシエーションとして性行為を行っていた。
ヴァジラヤーナ
ヴァジラヤーナ(金剛乗)とは、グルと弟子との1対1の関係においてのみ成り立つ道である。グルが弟子に内在する煩悩を突きつけ、それを理解できる状況を作り出し、その煩悩を越えさせるマハームドラーなどの激しい方法が含まれる。『カーラチャクラ・タントラ』などに見られるもので、麻原はカール・リンポチェと会ってからヴァジラヤーナを説くようになったという。警視庁はこのヴァジラヤーナの教義は殺人を正当化するものと解釈、オウム後継教団は現在もこの教義を根幹に据えていると見ている。
ヴァジラヤーナの教義の中には、「五仏の法則」と呼ばれるものがあった。
○ラトナサンバヴァの法則 - 財は善の為に使用されるなら盗んでも良い
○アクショーブヤの法則 - 輪廻に最適なタイミングであれば殺しても良い
○アミターバの法則 - 恋愛感情によって真理の実践を妨害している異性は奪っても良い
○アモーガシッディの法則 - 結果のためには手段を選ばない
○ヴァイローチャナの法則 - 時期尚早として麻原が明かさなかったため詳細不明。象の肉などが必要なので現代では無理
これは「一般的な戒律に反する行為・言動」が、完全に煩悩なく、完全に心において利他心のみであるときには認められるとするもの。「天界の法則であって人間界においてはなし得ない」という注釈のもとで説かれたこともあった。麻原は真言宗でも同じことを言っているとした。金剛乗とは密教のことを指す。日本に仏教を伝来した真言宗の開祖である空海の時代は、仏教は密教として扱われたこともあり、国内においては狭義の意味では金剛乗は真言宗のことを指す。真言宗のうちもっとも重要な経典の一つである金剛頂経は仏教学的分類においてはタントラ密教経典に分類される。金剛頂経は「金剛頂経瑜伽十八会指帰」にもある通り全十八会からなり、その内初会「真実摂経」のみが日本に伝わっているが、ニ会以降の内容では後期密教との過渡期の内容に踏み込み、上記の五仏の法則に近いと言える内容も実際に存在する。しかしこれはインド仏教がイスラム教と戦争状態にあった時代に、既存仏教伝統に対して向けられたカウンター的な側面をもつものであり、上祐史浩は五仏の法則を現代で文字通り解釈すべきでなかったとしている。
法則
世界観
この世界は、熱優位の粗雑な物質による愛欲界、音優位の微細な物質の世界である形状界、光優位のデータの世界である非形状界が重なり合っているとする。
チャクラと五大エレメント
チャクラ(チァクラ)と五大(五大エレメント)の理論を融合した形で導入している。体の上部にあるチャクラほど高い次元につながっているとされた。子供向けの自慰行為防止説法で、麻原は以下のように語っている。「 心臓と、おしっこするところは、どちらが上かな?もちろん、心臓のほうが頭に近いから、上だよね?体の下の部分に、心が集中するとね、その子は下の世界に生まれ変わるんだって。やだねえ (良い子の真理 3巻) 」
修行法
当初は、専らヨーガの手法を用いた修行が行われていた。その後、本来「秘技伝授」を意味する宗教用語であった「イニシエーション」という言葉を、オウム独自の「解脱者のエネルギーを伝授することで弟子を成就、解脱させる」という意味で使うことで信者を増やしていった。しかし一方で、麻原彰晃は終末思想を煽り、1994年前後には違法薬物や電気による様々な洗脳施策を取るようになった。
評価
著名人
教団は著名人との交流があったが、事件後は一変して多くの人物がオウム批判に転じている。
雑誌で好意的な対談を行った栗本慎一郎は事件後初めてオウム分析を週刊誌上で行い、オウムと北朝鮮、および世界基督教統一神霊協会との関係を指摘した。
ビートたけしはテレビ番組で麻原と対談し、その後雑誌で再び麻原と対談などしていたが、事件後は否定的な見解を取っている。
麻原の著書『生死を超える』の書評を書き、麻原を修行者として高く評価していた思想家の吉本隆明は、一般市民として大衆の原像を繰り込んでいこうとする立場から「オウムの犯罪を根底的に否定する」としながらも、なお「オウム真理教はそんなに否定すべき殺人集団ではない」「麻原は現存する世界有数の宗教家」などと述べた。
『ノストラダムスの大予言』の著者五島勉は、「(ただの新書を)まさかこんなに子どもたちが読むとは思わなかった。なんと小学生まで読んで、そのまま信じ込んじゃった。(略)当時の子どもたちには謝りたい」「一人の変なやつが命令を下して、しかも権力をやっつけるんじゃなくて、自国の国民にサリンをまいたわけでしょう。そこのところが、どう思うも何も間違いです」と答えている。
麻原彰晃や林郁夫らがかつて所属していた阿含宗の教祖桐山靖雄は、信者がオウムに流れていることに対して「あの若造め生意気な」と激怒していた。
学者
作家で宗教学者の島田裕巳はオウム真理教に宗教学の立場から取り組み、好意的な発言をしていたが、地下鉄サリン事件が同教団の組織的犯行であることが発覚するとメディアから批判を受け、地下鉄サリン事件へのオウムの関与を否定するコメントを出したことで江川紹子、有田芳生、浅見定雄らから批判を受けた。のちにオウムを批判する立場からの著作を出している。
同じく作家で宗教学者の中沢新一もオウムに好意的な発言をし、対談で麻原を「小学生のおもちゃ」と褒め、麻原も同意した。地下鉄サリン事件後はメディアから批判を受け、地下鉄サリン事件についてのコメントも批判を浴びた。島田や苫米地英人などが中沢を批判する著作を発表している。
島薗進は、新宗教における「隔離型教団」の代表的な例としてエホバの証人、統一教会、幸福会ヤマギシ会と共にオウム真理教をあげ、他宗教団体と比較した上で、とくに、人生の価値を非常に低く見る点を徹底した教えが説かれていると主張している。自分自身を仏教の系譜上に位置づけ、天皇への崇敬を示すことは全くないが、ハルマゲドンの危機に際し日本主導による未来を説いた。島薗は、オウムに見られる日本中心的な思考については、首尾一貫していないとしている。
宇宙戦艦ヤマトが元ネタの「コスモクリーナー」、超能力、ホーリーネーム、ハルマゲドンなどの漫画アニメ・SF・ゲーム的な要素、現実より虚構に重要性が置かれるといった点から、大澤真幸らによってオタク文化との比較が行われた。
今日的な影響
オウム真理教の教義は、元となっている宗教教義を誤って解釈したもの、意味を取り違えたもの、都合主義的な拡大解釈などが少なくない。しかし、密教を中心に原始仏教からキリスト教まで幅広い宗教から摂取して、オウム独自の体系化が図られたため、仏教学者やキリスト教神学者を含む宗教学者・宗教家が、事件から二十年を経た今でも論評・批判することは稀である。このため麻原の説教の録音テープや録画映像が、いまだに布教に用いられてアーレフの信者などに信奉されており、マスコミも折りにつけてそれを問題視した報道を行っている。
活動
1989年(平成元年)3月、東京都に対し宗教法人の認証を申請。6月、東京都は受理を保留したため、オウム真理教は鈴木俊一東京都知事を相手取り、行政の不作為の違法確認訴訟を東京地方裁判所に提起した。8月、東京都が宗教法人として認証。
宗教法人規則認証申請書の記載内容
設立  1989年8月29日
主たる事務所の位置  東京都江東区亀戸
○目的  
主神をシヴァ神として崇拝し、創始者の松本智津夫(別名麻原彰晃)はじめ、真にシヴァ神の意思を理解し実行する者の指導のもとに、古代ヨガ、原始仏教、大乗仏教を背景とした教義をひろめ、儀式行事をおこない、信徒を教化育成し、すべての生き物を輪廻の苦しみから救済することを最終目標とし、その目的を達成するために必要な業務を行う。
○規則  
代表役員は、9人の責任役員の互選により選任され、オウム真理教を代表し、その事務を総理する権限を有する。
責任役員は、信徒および大師のうちから、総代会の決議をへて、代表役員が選任する。
総代会を組織する総代は、信徒および大師のうちから、責任役員会の議決を得て、代表役員が選任する。
信徒とは、オウム真理教の教義を信奉する者で、代表役員の承認を受けたもの。
大師とは、オウム真理教の教義を信奉する者で、信徒を正しく指導できると、代表役員が認めたもの。
○役員等
代表役員:松本智津夫(麻原彰晃)
責任役員:松本知子、石井久子、大内早苗、上祐史浩、都澤和子、飯田エリ子、新実智光、大内利裕
監事:満生均史、別所妙子
本部
オウム真理教教団本部は上九一色村に多数点在するサティアンではなく、富士宮市の教団「富士山総本部」である。 また、東京方面での布教活動の総拠点となったのが東京、南青山の東京総本部である。
日本シャンバラ化計画
麻原は1987年、「日本シャンバラ化計画」を発表した。これによると、ゆくゆくは日本主要都市すべてに総本部を設置しそこから日本全土に布教活動をし、いずれは自給自足のオウムの村「ロータス・ビレッジ」を建設するというものだった。
公称信徒数・日本国内
1985年12月 - 15人 / 1986年10月 - 35人 / 1987年2月 - 600人 / 1987年7月 - 1,300人 / 1988年8月 - 3,000人 / 1990年10月 - 5,000人 / 1995年3月 - 15,400人(出家1,400人、在家14,000人) / 1997年 - 1,000人 / 1999年 - 1,500人 / (以降は後継団体)2000年 - 1,115人(教団が公安調査庁に報告した数) / 2002年 - 1,650人 / 2003年2月 - 1,251人(教団が公安調査庁に報告した数) / 2005年 - 1,650人 / 2008年 - 1,500人 / 2009年 - 1,500人(Aleph出家450人、在家850人。ひかりの輪出家50人、在家150人) / 2011年 - 1,500人 / 2014年 - 1,650人 / 2016年 - 1,650人(出家300人)
信者
教団の信者は在家信徒と出家修行者(サマナ)に分けられる。在家信者は通常の生活を行ないながら、支部道場に赴いて修行したり説法会に参加する。また、休暇期には集中セミナー等も開かれる。
このほか名目上の信徒である「黒信徒」がいた。黒信徒の入会金は信者の家族や知人が代わりに払っていたので一応信徒としてカウントし水増ししていた。
オウムの修行の最終的な目標は、現実世界を越えた真実に到達することで、サマナと呼ばれる出家修行者らはその目標に到達するために、激しい修行を行った。現実世界を超えるためには、この世界の価値観を超越し観念を壊す必要がある。社会の価値観に重きを置かない点で、最初からオウムは「狂気」の思想を内包していた。当初はこの狂気の割合が低く社会性も帯びていたものが、バッシングなどや終末思想などにより次第に崩壊をはじめ、社会性が薄れていった。
修行の達成度、精神性の度合いを示すものとして「ステージ」制度があり、時期によるが、1995年(平成7年)時点の出家者には、サマナ見習い、サマナ、サマナ長、師補、師(小師、愛師・菩師、愛師長補・菩師長補、愛師長・菩師長)、正悟師(正悟師、正悟師長補、正悟師長)、正大師の各ステージが存在した。師は「クンダリニー・ヨーガ」の成就者、正悟師は「マハームドラー」の成就者で仏教の阿羅漢相当、正大師は「大乗のヨーガ」の成就者と規定され、これらのステージに従って教団内での地位、役職等が定められた。
オウム真理教幹部には難関大学の卒業者も多く、教団の武装化を可能にした村井秀夫、土谷正実、遠藤誠一など理系幹部を多く抱えていた。また弁護士資格を持つ青山吉伸、公認会計士資格を持つ柴田俊郎、医師免許を持つ林郁夫や中川智正、芦田りら、佐々木正光、平田雅之、森昭文、小沢智、片平建一郎など社会的評価の高い国家資格を持つ者も多くいた。
他にも建設会社出身で教団の不動産建設やロシアとの交渉を手がけた早川紀代秀、元暴力団員の中田清秀、山形明など自衛隊員、松任谷由実のアルバム制作にも関わったことのあるデザイナーの岐部哲也、彰晃マーチなどを作曲したミュージシャンの石井紳一郎、盗聴技術を持っていた林泰男、元日劇ダンシングチームの鹿島とも子など幅広い層の信者を有していた。
以下に示すのはオウム真理教の雑誌ヴァジラヤーナ・サッチャが1995年6月28日(強制捜査・オウム事件発覚後)に行った出家修行者対象のアンケートデータである。
性別 男 459人(41%)女 661人(59%)計1120人
年齢 平均 30.1歳最多 26歳(102人)
他の宗教団体への入信経験 あり 35%なし 65%
学歴 大卒 37.8% 短大卒 7.0% 専門学校卒 16.7% 高卒 25.2%
入信動機 1位 本を読んで 273人 2位 勧誘 171人 3位 出家者・修行者の姿を見て 61人 4位 教義に納得して 52人
訴訟・嫌がらせ
教団には弁護士青山吉伸がおり、批判に対し多数の訴訟を乱発していた。毎日新聞、西日本新聞、熊本日日新聞など初期からオウム報道をしていたマスコミも訴訟のターゲットとなり、事件発覚までマスコミがオウムへの追及を敬遠する一因となった。
さらに敵対者や脱会活動に対しては、
ビラまき - 毎日新聞社の入るビルを25分の間にビラで埋め尽くしたこともあった / 通勤経路にオウムのポスターを貼る / 車を並べる / 無言電話 / いたずら電話 / 梵字による仄めかし / 盗聴 / 街宣 / オウム真理教の音楽を流す
などの嫌がらせを行い、これらはエスカレートし数々の襲撃事件に至った。
国外での活動
1991年(平成3年)には、麻原彰晃がロシアを初訪問した。当時のモスクワ放送もこの模様を伝え、クレムリン宮殿で宗教劇の上演が行われたことやアナトリー・ルキヤノフ最高会議議長と会談したことを報じた。モスクワにおいて麻原は、当時ロシア副大統領だったアレクサンドル・ルツコイやロシア連邦首相のヴィクトル・チェルノムイルジン、モスクワ市長のユーリ・ルシコフ等、ロシア政界の上層部と接触。翌年には後に安全保障会議書記となるオレグ・ロボフが来日し麻原から資金援助の申し出を受けるなど、オウムのロシア進出に拍車がかかった。
モスクワ放送(現・ロシアの声)の時間枠を買い取って「エウアンゲリオン・テス・バシレイアス」(御国の福音)というラジオ番組が1992年4月1日から1995年3月23日まで放送された。またロシアで「キーレーン」というオーケストラを組織。日本からロシアの施設での射撃訓練ツアーがオウム関連の旅行会社によって主催されたり、他にもロシアからヘリコプターなどが輸入されている。またロシアに数ヶ所の支部を開設。ソ連崩壊後に精神的支柱が揺らいでいた当時、ロシアの多くの若者がオウム真理教に惹きつけられた。
このためオウム事件後、実はオウムはロシアや北朝鮮のスパイだという陰謀説がまことしやかに語られるようになった。しかし一連の捜査・裁判により、化学兵器は土谷正実が中心となり自力でつくったことが発覚した。新アメリカ安全保障センターも、オウムのサリン合成プロセスはロシアで主流の方法ではなくナチス・ドイツの方法に由来していると分析している。
また上祐史浩は「麻原は自分が一番であり、利用することはあっても配下になるタイプではない」「(事件を陰謀としたい)Alephを助長している」と批判している。
2018年5月1日、ロシアのオウム真理教の中心人物とされるミハイル・ウスチャンツェフ容疑者が逮捕された。
事業
オウム真理教は、宗教活動のかたわら、多彩な事業を行っていた。業種は、コンピューター事業、建設、不動産、出版、印刷、食品販売、飲食業、家庭教師派遣、土木作業員などの人材派遣など多岐におよび、さながら総合商社の観を呈していた。数多くの法人を設立し、ワークと称して信者をほぼ無償で働かせていたため、利益率は高く、特に中心となっていたのはパソコンショップ『マハーポーシャ』の売り上げで、公安調査庁によると年間70億円以上の売り上げ(1999年当時)があり、純利益は20億円に迫る勢いであった。出家信者200人がそこで働いていた。95年11月からは「トライサル」「グレイスフル」「PCバンク→PC REVO」「ソルブレインズ」「ネットバンク」と名称を変えコンピューター事業を継続した。
様々な業種に進出し集まった社員を教団に勧誘したり、オウム系企業グループ「太陽寂静同盟」を結成するという構想もあった。
コンピューター関係 
マハーポーシャ / マハーポーシャ・オーストラリア / マハーポーシャ・台湾 / マハーポーシャ・ウクライナ / APC名古屋 / CPUバンク / 真愛、ヴァンクール - コンピュータソフトウェア企画設計 / ポセイドン - PCショップ「トライサル」、PC部品卸会社「ハイバーシティ」を経営。なお、「ハイパーシティー」は地下鉄サリン事件遺族高橋シズヱの住むマンションに店舗があった / オリエントエンジニアリング - PCショップ「PCバンク」「PC REVO」を経営 / ナスカ - 広告代理業、情報処理サービス
飲食業
オウムのお弁当屋さん / うまかろう安かろう亭 / うまかっちゃん / 運命の時
出版
オウム出版 / なあぷる - オウムとの関係を否定し滝本太郎に抗議した / 巧人館
その他
株式会社オウム - オウム神仙の会設立の年である1984年の5月28日に設立。出版業の他、ヨガ教室を開催したりしていた。土地購入のダミー会社としても使用し、これが松本サリン事件の一因となる / ドゥプニールミリオネール - ロシア射撃ツアーを企画。越川真一が代表。後に株式会社アレフとなる(びっくりドンキーを経営するアレフとは無関係) / 神聖真理発展社 - 資産隠し目的 / マハーサンパッティ - 1992年1月24日設立。宝石屋、弁当屋、テレクラを経営 / アルス総合建築事務所 / アルファ企画家庭教師派遣グループ / M24 - スーパーマーケット / マイトリーバ・ベビーシッター - ベビーシッター派遣会社。二ノ宮耕一が代表 / ファインウォーター - 浄水器販売 / シーディーコレクター / 日本健康クラブ - 化粧品・医薬品・食料品販売 / セシン - 建設業の人材派遣 / ドンファン - テレクラ / スーパースターアカデミー(SSA) - エアロビクス教室。鹿島とも子が校長 / ヴァジラクマーラの会 - 美人信者による修行教室 / エ・ヴェーユ - 大阪に設立した能力開発塾。派手な化粧をした女性信者で勧誘していた
偽装サークル
日本印度化計画 - 1994年の早稲田大学学園祭に出店。筋肉少女帯の同名の曲や日本シャンバラ化計画との関係は不明 / 近未来研究所、ヨーガ同好会、中国武術研究会、インド化計画―カレー研究会 -1994年設立の大学ダミーサークル / アクエリアスプロジェクト21、マイブーム研究会 - 東京大学 / 新世紀CIRCLE - 京都大学
薬品・武器関連のダミー会社
不動産取得目的のダミー会社
教団での麻原の絶対性
信者時代「大師」の肩書きを持っていた元信者によれば、「オウムでは、肝心なことは常に教祖が決めているんです。教祖が知らないなんていうことはありえない」と言っている。幹部であろうとも麻原の指示は絶対であり、オウム真理教附属医院の患者の入退院の判断すら麻原の指示を仰がねばできなかったという。さらに麻原含めた上司の指示は説明無しに従わなくてはならなかったため、信者はいつの間にか事件に関わっていたということが度々あった。
公安調査庁は信者の証言を引用して「正悟師以上になると尊師のロボット」「形式上はピラミッド形組織だが基本的には尊師と信徒は1対1の関係」としている。  
オウム真理教 2

 

創立 / 昭和62年7月
創始者 / 麻原彰晃(グル・尊師)
信仰の対象 / シヴァ大神
教典 / 『マハーヤーナ・スートラ』『原始仏教講義』『ヨーガ経典』
現団体名 / アーレフ、派生教団 / ひかりの輪
沿革
衆知のごとくオウム真理教は、世界史上にも例のない、サリンという毒ガスを使った「松本サリン事件」「地下鉄サリン事件」という無差別大量殺戮(さつりく)犯罪を起こし、それ以外にも多くの凶悪犯罪を繰り返した、驚くべき反社会的カルト教団です。
本来であれば、これほどの事件を起こし、広く世間に知れ渡った邪宗教ですから、今さらこのようなカルト邪宗教から派生した「アーレフ」や「ひかりの輪」といった教団に近寄る人などいないだろうということで、このサイトで取り上げる予定はありませんでした。
ところが、いまだに「アーレフ」「ひかりの輪」に新しく入信する人がいるという事実があり、また「邪宗教の害毒」の一側面が、これほど分かりやすい形で現れた例も珍しいということで、あえてこのサイトで改めて検証することにした次第です。
アーレフにせよひかりの輪にせよ、たとえ教祖・麻原と危険思想の教義を排除して生まれ変わったなどと言っても、その邪宗教としての本質は同じです。
オウム真理教(現・宗教団体アーレフ)は、麻原彰晃(あさはら・しょうこう)が、「ヨーガの修法」や「超能力の開発法」の伝受(でんじゅ)を宣伝文句にして信者を集め、創設した教団です。
この教団自体は、教祖をはじめほとんどの幹部が平成6年6月の松本サリン事件、同7年3月の地下鉄サリン事件などの無差別殺戮事件に関わったことが明らかになり、同7年12月、宗教法人の解散を命ぜられました。
その後、同教団の元幹部・上祐史浩が中心となり、「従来の体制を解体し、過去の反省や将来的な理念のもとに、まったく新しい団体に生まれ変わる」として、旧オウム真理教信者に呼びかけて結成したのが「宗教団体アーレフ」です。
しかしその後、上祐と古参幹部との間に対立が生じ、上祐はアーレフを脱退し、2007年5月に新団体「ひかりの輪」を設立して代表の座につきました。
上祐脱退後のアーレフは、野田成人が次期代表に就任したとされていましたが、実際には代表者を置かずに、複数の幹部で構成する会議で組織を運営する方針を決めたとの情報もあり、現在は代表者が存在していません。おそらくは教団内部の勢力争いの結果と考えられます。
ヨーガ教室から「オウム真理教」へ
オウム真理教の創始者・麻原彰晃は、本名を松本智津夫(まつもと・ちづお)といい、昭和30年に熊本県に生まれました。
生まれつき左目が見えず、右目も弱視だった智津夫は、鍼灸師(しんきゅうし)の資格を取り、昭和52年に22歳で上京。鍼灸のアルバイトをしながら予備校に通い、東大を経て政治家になることを夢見ていましたが、受験に失敗しました。
昭和53年、智津夫は石井知子と結婚し、千葉県内で鍼灸院と薬局を開設。このころから智津夫は、運命学(気学・四柱推命)を学び、その後は神仙術である仙道に凝(こ)り、また「GLA」の高橋信次の著作なども読みました。
昭和56年、智津夫は健康食品と漢方薬を扱う「BNA薬局」を開業しましたが、翌年にミカンの皮を使ったニセ薬を販売したことで薬事法違反で逮捕され、20万円の罰金刑を受けました。このころ「クンダリニー覚醒」という、ヨーガの独自の修法により神秘の力に接する体験をしたそうです。
この当時、智津夫は桐山靖雄の「阿含宗(別項参照)」に入信しましたが、昭和59年には脱会。同年には、智津夫は「オウム神仙の会」を発足させ、同時に麻原彰晃と名乗って、渋谷でヨーガ教室をはじめました。
昭和60年、麻原は「空中浮遊を行った」などと公言し、また突然「天から降りてきたシヴァ神から、シャンバラ(理想郷)王国を築けと啓示を受けた」などとも言い始めました。
翌昭和61年、麻原は「インド・ヒマラヤ山で修行中、最終解脱者(げだつしゃ)となった」などと宣言し、「世界で一番安全で、世界で一番確実で、宇宙で一番スピーディーな超能力開発法」などというキャッチフレーズで若者を取り込んでいきました。
同年、本部を世田谷に移転した麻原は、それを機に「出家制度」を採用し、弟子たちに厳しい修行を課すようになり、組織自体も従来のサークル的なものから急速に閉鎖的なものに変質していきました。
そして昭和62年、教団の名称を「オウム真理教」と改称し、富士宮市に富士宮総合本部道場を開設しました。
社会との軋轢(あつれき)と殺人集団への転落
このころから、信者やその家族から「多額の布施を要求された(当時、出家する信者に対しては、全財産の布施を求めていた)」「出家信者となった家族と連絡が取れない」などの声があがり、この教団の反社会性が表面化してきました。
そうした中、平成元年に東京都から宗教法人として認可されましたが、ほどなく週刊誌等で教団への批判記事が連載されるようになり、同年11月には、「オウム真理教被害対策弁護団」の中心者であった坂本堤弁護士一家が、教団幹部によって殺害される事件が起きていたのです。
平成2年には、麻原と幹部25名が衆議院議員選挙に立候補したものの全員落選。これによって社会に恨みを抱いた麻原は、「今の人類はポアするしかない」と、教義として無差別殺人を説き、幹部たちを煽動(せんどう)しました。
平成4年、麻原は各地の国立大学で講演し、「2000年までにハルマゲドン(世界最終戦争)が起こり、大都市では9割の人間が死ぬ。それを生き延びるには、修行によって<超人>になるべきだ」などと述べていました。
平成6年には「松本サリン事件」を起こし、またLSDや覚醒剤を使用したイニシエーション(秘儀伝受)をはじめました。そして平成7年には「公証役場事務長拉致監禁事件」を起こし、さらに「地下鉄サリン事件」という、世界史上初の凶悪テロ事件を引き起こしたのです。これによって、麻原と教団幹部7名が、殺人と殺人未遂の容疑で逮捕されました。
同年10月、東京地裁が宗教法人「オウム真理教」の解散命令を出し、12月に確定。教団は活動休眠宣言を経て、平成12年に教団名を「アレフ(後にアーレフ)」と変更しました。これはオウム元幹部の上祐史浩(じょうゆう・ふみひろ)が中心となって「従来の体制を解体し、過去の反省や将来的な理念の元に、まったく新しい団体に生まれ変わる」という趣旨で、旧オウム真理教信者に呼びかけて結成したものです。
その後、上祐と古参幹部の間に対立が生じ、上祐はアーレフを脱退。2007年に新たに「ひかりの輪」という宗教団体を立ちあげ、現在に至っています。
教義の概要
主宰神と教典等について
教団の主宰神は「シヴァ大神」というものです。麻原はこれを「すべての意識の根本」「真理勝者が到達する最終的な段階」などと主張しています。また教典は『原始仏教講義』『ヨーガ経典』を主としています。
ちなみに麻原は、教団の教法や修行について「原始仏典を土台として、それにチベット仏教を味付けし、そして密教的ヨーガを飾り付けたという、世界でも類を見ない最高の修行体系」などと自画自賛しています。
オウム真理教の世界観
オウム真理教の世界観は、下から順に、
(1)現象界・・・(欲六天…地獄・餓鬼・動物・人間・阿修羅界・天界)
(2)アストラル界・・・(色界…微細な物質世界)
(3)コーザル界・・・(無色界…光と想念の世界)
(4)マハーヤーナ・・・(絶対自由・絶対幸福・絶対歓喜の世界)
  マハー・ニルヴァーナ・・・(大完全煩悩破壊界)
  マハー・ボディ・ニルヴァーナ・・・(大到達真理完全煩悩破壊界)
という階層になっています。
救済のための修行
教団によれば、人間本来の自己は「真我(永遠・不滅・歓喜の三属性)」であり、もともとマハーヤーナ(上記の4)に安住していましたが、3グナというものの干渉によって苦界に迷い込んでしまっている…のだそうです。そこでオウムでは「救済」と称し、すべての魂を絶対自由・絶対幸福・絶対歓喜の世界に導くと主張しています。
そのための修行として段階的に、アーサナ(体位法)やブラーナーヤーマ(調気法)による瞑想(めいそう)、マントラ(真言)を唱える、断食、独房修行、イニシエーションなどが設けられています。
特に「イニシエーション」は、麻原が持つという物理的な力・エネルギー・情報を注ぎ込むとかいうもので、修行を飛躍的に進める神秘力があるなどとされていました。ちなみに麻原のイニシエーションには、次のような種類がありました。
(1)血のイニシエーション・・・麻原の血液を飲む(布施100万円以上)
(2)愛のイニシエーション・・・麻原のDNAを使用したもの(布施100万円以上)
(3)シークレット・イニシエーション・・・麻原のリンパ球を使用したもの(布施100万円以上)
(4)パーフェクト・サーベーション・イニシエーション・・・ヘッドギアを使用し、麻原の脳波を信者の頭部に流す(100万円のコースと、1000万円のコースの2種類あり)
終末思想
平成元年以降、麻原は「ノストラダムスの予言」や「ハルマゲドン(世界最終戦争)説」を繰り返すようになり、タントラヴァジュラヤーナ(金剛乗=最上級の教え)を強調するようになり、それが「ポア」であるとして、教団と対立的な人物や団体に対して危害を加えることを正当化しました。
現在、オウム真理教への解散命令の後に結成された宗教団体アーレフでは、教義書について「オウム真理教の教義のうち、古代ヨーガ・原始仏教・大乗仏教を根本に、危険とされる教義は破棄して、新たに編纂(へんさん)する」などとしています。 
顕正会

 

冨士大石寺顕正会 (ふじたいせきじけんしょうかい)
日本の仏教系宗教団体である。埼玉県さいたま市大宮区寿能町に本部を置き、公称会員数200万7900人を擁する。。宗教法人法に基づく届出名は宗教法人顕正会。日蓮正宗の信徒団体として1957年(昭和32年)に発足した「妙信講」が前身。機関紙『顕正新聞』がある。
歴史
第二次世界大戦下の1942年(昭和17年)、日蓮正宗妙光寺(東京都品川区)の総代だった浅井甚兵衞が初代講頭となり、妙光寺所属の法華講の一講中として東京妙信講を結成。当時は戦時下のため折伏弘通は困難を極めたが、甚兵衞は事業経営のかたわら、寸暇を惜しんでは講員を励まし、弘通を進めた。
浅井親子らは妙光寺から豊島教会(現・妙国寺。板橋区)へと所属変えを行い、その後に法道会(現・法道院。東京都豊島区池袋)へと所属を変えたが、住職の申入れを受け、法道会法華講と合併するため発展的に解散。その後に法道会から離脱し、妙信講を発足するが、やがて創価学会が中心となって寄進・建立した正本堂の教義上の位置づけをめぐり日蓮正宗・創価学会と激しく対立するようになる。
1958年(昭和33年)
 1月15日 妙信講設立。大石寺第65世法主堀米日淳の配慮により宗門内では極めて異例の認証式が行われ、妙縁寺(東京都墨田区吾妻橋)所属となった。講頭に甚兵衞、青年部長に甚兵衞の長男である昭衞、松本日仁と早瀬道応(後の日慈、大石寺第68世法主早瀬日如の実父)が指導教師に就任。本部は当時、東京都文京区にあった甚兵衞の自宅に置かれた。
1963年(昭和38年)
 10月31日 機関紙「顕正新聞」が日蓮正宗と創価学会からの圧力を受け、廃刊。これに代わる機関誌として月刊『富士』が創刊され、その編集長に昭衞が就任。
1967年(昭和42年)
 10月 正本堂発願式。席上、池田大作・創価学会会長は「夫れ正本堂は末法事の戒壇にして、宗門究竟の誓願之に過ぐるはなく、将又仏教三千余年、史上空前の偉業なり」と宣言。
1968年(昭和43年)
 1月 大石寺第66世法主細井日達が、「此の正本堂が完成した時は、大聖人の御本意も、教化の儀式も定まり、王仏冥合して南無妙法蓮華経の広宣流布であります」と発言。
1970年(昭和45年)
 3月25日 日蓮正宗の宗務役僧、及び創価学会首脳に対し、「正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う」を送付。
 4月3日 浅井父子が大石寺大奥の対面所で細井日達と対面。日達は、正本堂が日蓮大聖人の御遺命の戒壇ではないこと、御遺命の戒壇とは国立戒壇であることを認め、正本堂の誤りを訂正することを約束。
 5月29日 浅井父子が大石寺対面所で和泉覚・創価学会理事長及び秋谷栄之助副会長、森田一哉副会長と正本堂の意義につき論判。数日後、森田らは細井日達に対し、今後学会は「正本堂は御遺命の戒壇」「広布はすでに達成」とは言わない旨を誓約。
 9月11日 妙信講と創価学会との間で、「一、正本堂は三大秘法抄・一期弘法抄にいうところの最終の戒壇であるとは、現時において断定はしない」等と記載された「御報告」と題する書面を作成。
1971年(昭和46年)
 11月15日 池田大作・創価学会会長に対し、「正本堂に就き池田会長に糺し訴う」と題する書面を送付。
1972年(昭和47年)
 4月28日 細井日達が、「日達、この時に当って正本堂の意義につき宗の内外にこれを闡明し、もって後代の誠証となす。正本堂は、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なり。即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり」との訓諭を発布。妙信講は同日、池田会長に対し、正本堂の意義につき公場対決を申し入れる書状を送付。
 7月6日 浅井父子が妙縁寺で細井日達と対談。妙信講の申入れにより、日達は訓諭の内容を打ち消す解釈文を宗門機関誌「大日蓮」に掲載することを約束。
 7月19日 細井日達が大石寺において浅井父子に訓諭の訂正文を交付。日達は昭衞の指摘を受けて文言を数ヵ所修正し、「大日蓮」8月号に掲載することを約束。しかし、日達は後日、学会の働きかけを受け、この約束を取り消した。
 9月13日 浅井父子(主に昭衞)が学会代表の秋谷、教学部長・原島嵩、山崎との間で、宗門末寺常泉寺において、同月28日まで計7回にわたり、正本堂の意義につき論判。その結果、秋谷らは正本堂の意義を訂正する文を聖教新聞に掲載することを約束。
 10月1日 正本堂完工式。宗門・学会はこの席にキリスト教神父数名(バチカン市国の大使)を来賓として参列させた。
 10月3日 創価学会が聖教新聞(同日付)紙上に正本堂の意義を訂正する文を掲載。「現在は広宣流布の一歩にすぎない。したがって正本堂は、なお未だ三大秘法抄・一期弘法抄の戒壇の完結ではない。ゆえに正本堂建立をもって、なにもかも完成したように思い、ご遺命は達成してしまったとか、広宣流布は達成されたなどということは誤りである」等。
 10月12日 正本堂落慶法要。池田は聖教新聞(10月3日付)掲載の訂正文に反し、参列した全学会員に対し、副会長・福島源次郎を通して、「本日、七百年前の日蓮大聖人の御遺命が達成されました。ありがとう」とのメッセージを伝えさせた。
1973年(昭和48年)
 5月 久々に総本山大石寺への登山を願い出たところ、宗務院の早瀬総監より、「国立戒壇を捨てなければ登山は許されない。これは猊下の御意向である」との返事があった。
 7月15日 顕正新聞が復刊。
 12月22日 東京都板橋区常盤台に会館が完成。本部も甚兵衞宅から移転。
1974年(昭和49年)
 5月19日 妙信講第16回総会を開催。席上、昭衞は、「御遺命守護のご奉公未だ終わらず。徹底してその悪を断ち、法のため、国のため、国立戒壇を宗門の公論とせねばならぬ。師子王の心を取り出し、国立戒壇への怨嫉をこの際徹底して打ち砕き、さらに政府への詐わりの回答も断じて訂正せしめる」等と述べた。
 5月24日 学会の秋谷副会長に「公開討論申し入れ書」を手渡す。秋谷は10日後、公開討論を許否する旨を書面で返答。以後、「国立戒壇の正義を全学会員に教える以外にない」として、「御遺命守護」を特集した顕正新聞(第18号)を全国で配布。
 7月28日 明治公園で「立正安国野外集会」開催。3,000人が参加し、「八月十五日までに、国立戒壇を否定した政府への欺瞞回答を撤回せよ。さもなければ妙信講が政府に対し訂正をする」旨の池田宛ての「決議文」を決議。理事を通じて学会本部に直接届けた。
 8月12日 宗門管長の日達より講中解散処分を受ける。宣告書の処分理由には、「右妙信講は数年来、『国立戒壇の名称を使用しない』旨の公式決定に違反し、更にまた昭和四十七年四月二十八日付『訓諭』に対して異議を唱え・・・」と記載されていた。
 10月4日 男子部員12人が創価学会本部で「牙城会」のメンバーと乱闘したとして、警視庁機動隊に現行犯逮捕された。
 11月4日、講頭・甚兵衞、理事長・昭衞(いずれも当時の役職名)、幹部と男子部員ら33名が日蓮正宗から信徒除名処分にされる。
1975年(昭和50年)
 8月20日 甚兵衞が講頭を退き、第2代講頭に昭衞が就任。
1977年(昭和52年)
 4月14日 創価学会との法廷闘争で、東京地方裁判所において和解が成立。和解の内容は、1今後、妙信講の本部会館の御本尊の返還を求めないこと、2今後、「日蓮正宗妙信講」と書かれた本部会館の看板撤去を求めないこと、3新しい寺院(顕正寺)を妙信講のために立てること、の3つを条件として、創価学会からの訴え取下げに同意する、というもの。昭衞は同月26日の総幹部会において「まさに事実上の全面勝利である」と述べた。
1978年(昭和53年)
 3月5日 埼玉県和光市に顕正寺を建立、落慶入仏式を行う。住職に八木直道が就き、昭衞が導師を務める。
 9月14日 東京都生活文化局管理法人課の認証を受け、宗教法人「顕正寺顕正新聞社」(けんしょうじけんしょうしんぶんしゃ)設立。昭衞が会長に就任。
1982年(昭和57年)
 10月9日 日本武道館で1万人の総会を開き、名称を「日蓮正宗顕正会」に変更。
1985年(昭和60年)
 四者体制(男子部、女子部、婦人部、壮年部)となる。
1990年(平成2年)
 4月27日 顕正会20万達成を背景として、大石寺第67世法主・阿部日顕に対し、「正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む」と題する一書を送付。
 7月8日 横浜アリーナで2万人の大総会を開催。席上、昭衞は、「もし池田大作が本門寺改称を強行するならば、そのとき全顕正会員はこぞって大石寺に総登山しよう。二十万顕正会の全員が戒壇の大後本尊様の御前に馳せ参じ、大石寺の境内を埋めつくし、信心の力を以て本門寺改称を断固粉砕しようではないか」と述べた。
 10月12日 大石寺開創七百年慶讃大法要。席上、阿部日顕は、「大本門寺の寺号公称は、事の戒法の本義更に未来に於て一天四海に光被せらるべき妙法流布の力作因縁に依るべし」と発言。この発言を受けて、昭衞は同月の総幹部会において、「ここに本門寺改称の陰謀は、御本仏日蓮大聖人の御威徳と、大聖人に忠誠を誓い奉る顕正会の捨身の決意により、ついに粉砕された」と述べた。
1992年(平成4年)
 11月 阿部日顕に対し、「直ちに戒壇の大御本尊を清浄の御宝蔵に遷座し奉るべし。御遷座こそ誑惑の完全なる清算である」等と記した諌暁書を送付。
1996年(平成8年)
 11月18日 文部省(現・文部科学省。実務は文化庁文化部宗務課が担当)から認証を受け、改めて「宗教法人顕正会」が発足。登記簿上は、「顕正寺顕正新聞社」が名称変更した形となる。
 12月22日 総幹部会で「日蓮正宗顕正会」の名称を「冨士大石寺顕正会」に改めると発表。
1997年(平成9年)
 7月16日 第1回一国諌暁開始。諫暁書「日蓮大聖人に帰依しなければ日本は必ず亡ぶ」を発行。発刊にあたり、日本の主な新聞51紙に全面広告を打つが、朝日新聞東京本社広告局は受け付けなかった。この書籍は、顕正会員によって広く全国に配布された。
1998年(平成10年)
 4月5日 本門戒壇の大御本尊が正本堂から元の奉安殿に御遷座。
 4月10日 日蓮正宗が正本堂解体を決め、大御本尊を遷座したのを受けて、本部会館で「御遺命守護完結奉告式」を行う。昭衞は御宝前において、「大聖人様−。本門戒壇の大御本尊が恐れ多くも誑惑不浄の正本堂に居えられ奉ってより今日まで、実に二十六年の長き歳月が流れました。しかるところ、嗚呼ついに、本年4月5日の午後四時、大御本尊は、清浄なる奉安殿に還御遊ばされました」と言上。
 6月15日 顕正新聞で「御観念文の改正」を発表。新しい勤行要典が会員に配布される。
 7月 正本堂が撤去される。
1999年(平成11年)
 12月 埼玉県大宮市(現・さいたま市大宮区)に「青年会館」を開設。
2000年(平成12年)
 11月8日 本部をさいたま市大宮区に新築、移転。
2003年(平成15年)
 5月 顕正寺を改築し、「冨士大石寺顕正会典礼院」を建立。
 11月6日 公称会員数が100万人に達する。これをもって2度目の一国諫暁の準備が本格的に始まる。
2004年(平成16年)
 4月28日 第2回一国諌暁開始。諌暁書第2弾「日蓮大聖人に背く日本は必ず亡ぶ」を発行。新聞広告を全国5紙(読売・朝日・毎日・日経・産経)に打とうとするが、全社に拒否される。顕正会側は「学会の圧力があったのであろう」と主張。この書籍は、顕正会員によって全国に約1500万部配布された。
2005年(平成17年)
 3月25日 昭衞が阿部日顕に対し、公場対決を求める書面を送付。この書面には「勝負決着後の責務」として、「小生が敗れた時は、直ちに顕正会を解散する。貴殿が敗れた時は、直ちに御開扉を中止し、貴殿は猊座を退き謹慎する。」と記されていた。
 4月2日 対決申入書に対し、「日蓮正宗青年僧侶邪義破折班」名義で、「対決など受け入れるべき道理はない」旨の回答書が届いた。
 4月27日 昭衞が阿部日顕に対し、重ねて対決申入書を送付。
 5月4日 「日蓮正宗青年僧侶邪義破折班」名義で、再び対決を拒否する旨の回答書が届いた。
 8月28日 昭衞が阿部日顕に対し、「対決を逃避した阿部日顕管長に『最後に申すべき事』」と題する一書を送付。同書中、「これが小生の最後の諫めである。・・・以上、用捨は貴殿に任す。小生はただ慎んで御本仏日蓮大聖人に言上し奉り、御裁断を仰ぎ奉るのみである」と記し、重ねて不敬の御開扉中止と日顕の退座謹慎を迫る。
 11月7日 阿部日顕が大石寺で御開扉の導師を務めようとした際、須弥壇の大扉が開かず、御開扉が中止となる。
 12月15日 阿部日顕、退座。
2008年(平成20年)
 5月18日 中華民国(台湾)・台北市内に顕正会初の海外拠点となる「台北会館」を開設。
 12月23日 本部西隣に新青年会館を建設。
2009年(平成21年)
 4月 沖縄県那覇市に沖縄会館を建設。
2010年(平成22年)
 1月 総幹部会で城衞が理事長に就任。
 4月 横浜市港北区に神奈川会館を建設。
 9月 代表役員が浅井昭衛から次男の浅井城衞に変更される。
2011年(平成23年)
 1月25日 総幹部会で壮年部が廃止され男子部に統合される。四者体制から三者体制となる。
2014年(平成26年)
 11月7日 第6代創価学会会長・原田稔が全国総県長会議において、学会の会則第2条の「教義条項」改正について説明し、その際、「大謗法の地にある弘安2年の御本尊は受持の対象にはしない」と発言。昭衞は、同月の総幹部会において、この会則変更及び原田会長の発言につき、「これぞ極限の大謗法、無間地獄の業因」と述べ、学会員に対し、「早く悪師を捨て、成仏の叶う大道念に立て」と訴えた。
2015年(平成27年)
 1月25日 この日付の顕正新聞を「学会を救う特集号」と銘打ち発刊、以後、創価学会員に広く配布。
教義
日蓮大聖人を末法下種の本仏と崇敬し、日蓮出世の本懐たる弘安二年の「本門戒壇の大御本尊」を帰命依止の本尊とし、血脈付法の二祖日興上人を末法下種の僧宝と仰ぎ、日蓮の遺命たる広宣流布・国立戒壇建立を成就して、真の日本国安泰および世界平和を顕現することを目的としている。
「国立戒壇」とは、日蓮大聖人が門下に御遺命された「本門の戒壇」を指す。この「本門の戒壇」建立こそ、本門戒壇の大御本尊の妙用により、日本を仏国とする唯一の秘術であり、日蓮大聖人の唯一つの御遺命であると主張する。
仏法の実践
「末法の仏道修行は勤行と折伏に尽きる」とされている。勤行とは本尊を信じ南無妙法蓮華経と唱え奉る修行であり(自行ともいう)、これを人に勧めるのが折伏である(化他ともいう)。
勤行の実践、即ち日蓮の仏法上の名である「南無妙法蓮華経」 を、「お慕わしい」「有難い」との恋慕渇仰の信心で唱え奉ることで、直ちに体である本尊・日蓮に通じ、凡夫が本尊・日蓮と一体になり、仏にならせて頂ける。心法も変わり、宿命も変わることで、現世には幸せになり、臨終には成仏の相を現じ、後生も守られると説く。
会員は、朝夕の勤行に於いて、自宅から大石寺に安置されている戒壇の大御本尊を遥拝する勤行(遥拝勤行)を実践しているのも大きな特徴である。「遥拝勤行」とは、大石寺にまします本門戒壇の大御本尊を、わが家より遥かに拝み参らせる勤行であり、その功徳は御本尊の御前で行う勤行と全く同じであるとされている。
折伏の実践により、日蓮の格別の守護を頂き、本仏の眷属としての生命力が湧き、過去の罪障が消滅すると説かれている。
国立戒壇と本門戒壇
「本門の戒壇」とはいかなる戒壇か、その建立の時・手続・場所は、日蓮が「三大秘法禀承事(三大秘法抄)」「一期弘法付嘱書」に明示したとしている。
「三大秘法抄」には、「戒壇とは、王法仏法に冥じ仏法王法に合して、王臣一同に本門の三大秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か。時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是れなり。三国並びに一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法のみならず、大梵天王・帝釈等も来下して蹋み給うべき戒壇なり」という記述がある。
また、「一期弘法付嘱書」には「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す。本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てられるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂うは是れなり。就中我が門弟等此の状を守るべきなり」と記されている。
このように、御遺命の本門戒壇は、国家意志の表明を建立の必要手続とするゆえに、端的に「国立戒壇」と呼称されてきた。
日蓮正宗では、日蓮大聖人の御遺命を奉じて、この国家的に建立されるべき「本門の戒壇」の実現を700年来叫び続けてきた。以下、その一部を抜粋する。
二祖・日興:「広宣流布の時至り、国主此の法門を用いらるるの時、必ず富士山に立てられるべきなり」(富士一跡門徒存知事)
三十一世・日因:「国主此の法を持ち広宣流布御願成就の時、戒壇堂を建立して本門の御本尊を安置する事、御遺状(注「一期弘法付嘱書」)の面に分明なり」
五十六世・大石日応:「上一人より下万民に至るまで此の三大秘法を持ち奉る時節あり、これを事の広宣流布という。その時、天皇陛下より勅宣を賜わり、富士山の麓に天生ヶ原と申す嚝々たる勝地あり、ここに本門戒壇堂建立あって・・・」(御宝蔵説法本)
六十四世・水谷日昇:「国立戒壇の建立を待ちて六百七十四年今日に至れり。国立戒壇こそ本宗の宿願なり」(奉安殿慶讃文)
六十五世・堀米日淳:「大聖人は、広く此の妙法が受持されまして国家的に戒壇が建立せられる。その戒壇を本門戒壇と仰せられましたことは、三大秘法抄によって明白であります」(日蓮大聖人の教義)
六十六世・細井日達:「富士山に国立戒壇を建設せんとするのが日蓮正宗の使命である」。
また、創価学会もかつては日蓮正宗の信徒団体であったため、「国立戒壇」を唯一の目的としていた。学会2代会長の戸田城聖は「化儀の広宣流布とは国立戒壇の建立である」、3代会長の池田大作も「国立戒壇の建立こそ、悠遠六百七十有余年来の日蓮正宗の宿願であり、また創価学会の唯一の大目的なのであります」と述べていた。
顕正会は、創価学会第3代会長の池田大作が、1965年(昭和40年)に「正本堂」建立を切っ掛けに、国立戒壇論を捨てて、あたかも正本堂が御遺命の戒壇であると主張するようになったとの立場である。また当時日蓮正宗第66世の日達は、正本堂は御遺命の戒壇に準じた戒壇であると最終判断を下した。
これに対し、顕正会は富士門流系教団において唯一、日蓮の御遺命は「正本堂」ではなく「国立戒壇」であると主張し、学会・宗門を諫め続けている。
「日蓮大聖人に背く日本は必ず亡ぶ」との主張について
昭衞は「前代未聞の大闘諍」「他国来難」が迫っており、これを防ぐには広宣流布、国立戒壇建立以外にないと主張している。これは日蓮大聖人が『立正安国論』の中で仏法に背く罰として必ず「他国侵逼難」が起こること、及び同論奥書に「未来亦然るべきか」と示されることによる。
これらの災難が迫る原因につき、「一には 日本一同が未だに日蓮大聖人に背き続けていること」「二には 創価学会が政治のために、大聖人の唯一の御遺命たる『国立戒壇建立』を抛ったこと」と主張している。
昭衞は、顕正会が「日蓮大聖人に背く日本は必ず亡ぶ」と主張する理由につき、「この恐るべき亡国の大難が起きても、もしその起こる所以を知らなければ、人々はただ恐れ戦くのみで、これが『日蓮大聖人に背くゆえ』とは知るよしもない。したがって日蓮大聖人に帰依信順することもない。そうであれば、日本はそのとき必ず亡ぶ。よって日蓮大聖人の弟子として私は、前もってこれを全日本人に告げ知らしめて国を救わんと、本書を著した次第である」と記している。
他教団との関係と争点
日蓮正宗宗門、創価学会、正信会、日蓮宗など他の日蓮系教団のいずれとも教義上厳しく対立している。各教団ごとに主義主張(教義解釈)に違いはあるが、宗門および創価学会・正信会が共通して敵視しているのが顕正会であり、その理由の共通項は「国立戒壇」であるとされる。
創価学会に対しては、終戦後、僧侶が堕落している時に救国の折伏に立ち上がったことにつき、「私は、敗戦の廃墟の中に立ち上がった創価学会の弘通の功を、誰よりも認めている」と述べている。しかし、学会が「国立戒壇」を否定したこと、及び、2014年に会則の教義条項を改正して「大謗法の地にある弘安2年の御本尊は受持の対象にはしない」と決定したことは大謗法であると主張し、諫め続けるとともに、名誉会長の池田や現会長の原田稔らを「池田大作一党」と称し、痛烈に非難している。他方、一般の学会員に対しては、「同じく信心の力を起こしながら悪師に随うゆえに臨終に悪相を現ずること痛々しく思っております。何としても八百万学会員を救いたい」等と繰り返し述べている。
宗門に対しても、日蓮大聖人の御遺命は「国立戒壇」であると主張し、諫め続けている。なお、細井日達が1979年(昭和54年)7月22日午前5時、静岡県富士宮市のフジヤマ病院で突如激甚の心臓発作に襲われ、大事の「御相承」もなし得ず急死したことについては、「御遺命違背の罰」としている。即ち、貫首としての最大の責務は「御相承」であるところ、国立戒壇建立の御遺命に背けばすでに「貫首」ではなく、それゆえ日達は「授」の資格を失い、日顕には「受」の資格が無かったとして、「まさに御遺命違背という未曽有の大悪出来のゆえに、未曽有の異常事態が発生したのだ。すべては大聖人様の深き深き御仏意による。広布前夜には、このような”異常事態”も起こるのである」と主張している。 もっとも、「血脈」については「ただし、かかる不祥事があろうとも、血脈は断じて断絶しない。もし御遺命を堅持される貫首上人がご出現になれば、忽ちに血脈は蘇る。下種仏法の血脈は金剛不壊である。ここに大聖人様の甚深の御配慮がましますのである」と述べている。
政治的思想
王仏冥合・国立戒壇建立
王仏冥合・国立戒壇建立こそが、国家安泰と世界平和をもたらし、人々を真に幸福にする、究極の政治理念であると説く。これは日蓮の「立正安国論」における「汝早く信仰の寸心を改めて速やかに実乗の一善に帰せよ。然れば即ち三界は皆仏国なり、仏国其れ衰えんや」、及び「三大秘法抄」における「王法仏法に冥じ、仏法王法に合して、王臣一同に本門の三大秘密の法を持ちて、乃至、勅宣並びに御教書を申し下して、乃至、戒壇を建立すべき者か」との御指南に基づく。
この王仏冥合との対比においては、民主主義もまた、共産主義よりはすぐれているものの、究極の政治理念ではないとする。それは民主主義は権力の横暴に対し「民意を尊重せよ」との民衆の自己主張であるが、末法においてはその民衆が三毒強盛であるから、今度は衆愚政治になって国を亡ぼす、また、民主主義は多数決がその原理であるが、人の多さと正しさとは関係がない、との理由による。「所詮、独裁も民主主義も、正しい仏法を根底にしなければ、国土に三災七難を招き、人民が苦悩することにおいては同じ」と説く。
在野の諌暁団体
顕正会はいかなる政党にも与せず、権力に諂わず、自ら政治に出て権力を得ようとすることもなく、ただ信心の力をもって毅然と時の政治権力を諫め、国立戒壇を建立すべしと迫る、「在野の諌暁団体」との姿勢を取っている。
ただし、「国家権力立」戒壇建立という日蓮の御遺命に背いたと判断される政党ないしは政権は、顕正会による非難、攻撃の対象になる。創価学会を母体とする公明党への批判は、このことを根拠としている(後述)。
また特定の政権ないし政党であっても、国を亡ぼす「仏法上の失」がある場合には反対の立場を取るとしており、公明党が連立与党入りした後は自由民主党に対しても反対の立場を取るようになった。
安倍政権・公明党への反対
2012年(平成24年)に2度目の総理ポストに就いた内閣総理大臣安倍晋三に対しては、2017年(平成29年)のモリカケ問題発覚以降、即時退陣を求めると主張している。
昭衛は元々、公明党の与党入りを許す自公連立政権に批判的であったが、安倍が長期政権となってからは日本会議とその趣旨に賛同する議員連盟日本会議国会議員懇談会、神社本庁および傘下の政治組織神道政治連盟と一体になって憲法を改正し、国家神道を復活させ、日本を「神の国」にしようとしていると指摘し、このように主君たる日蓮の存在を無視して「神の国」を作らんとすることが国を亡ぼす「仏法上の失」になると理由付けた。また公明党が連立に参加していることについても、「二悪鼻を並べる」凶事だと厳しく非難した。
第48回衆議院議員総選挙直前の同年9月と10月には、2回に渡って顕正新聞を『「安倍政権崩壊」特集号』、『「安倍ペテン政権」特集号』と銘打って発行、自民党公認候補者の街頭演説会場などで配布した。この活動は2018年(平成30年)に入っても続いており、首都圏の駅前などで大きな富士山の写真を一面に持ってきた新聞の配布などを続けている。
また、創価学会を支持母体とする公明党に対しては、国立戒壇建立の御遺命に背き、「本門戒壇の大御本尊」を捨てるという「極限の大謗法」を犯したとの大義で存在自体に反対している。その上で昭衛は公明党の与党入りを以ての外と考えており、実際に与党入りした1990年代以後は連立相手となる政党にも批判的となった。
その他
2011年(平成23年)の東日本大震災とそれに伴う福島第一原子力発電所事故が発生してからは、「原発は日本を滅ぼす、即時廃絶せよ!」と主張し、原発に反対している。
日清・日露・アジア・太平洋(大東亜)戦争は日本による侵略戦争ではなく、大局的に見れば自衛のための祖国防衛戦争であったと主張している。
安全保障関連法には、「アメリカの戦争に協力するために、自衛隊を米軍の下請けに差し出すことは、かえって日本が戦争に巻き込まれる恐れがある」として反対している。
共謀罪(テロ等準備罪)には、「全国民を公安警察の監視下に置くこの悪法は、独裁政治の道具となる」として反対している。
活動
勤行 『法華経』のうち、方便品の冒頭から十如是までと、如来寿量品の長行と自我偈を読誦ののち、「南無妙法蓮華経」と題目を唱える。朝と夕方(夜)の毎日2回。特に毎週日曜日は朝の勤行を各会館に集合して一堂に行う「日曜勤行」が開催される。
会合 総幹部会(毎月下旬)/ビデオ放映会/御書講義(浅井昭衞が不定期に開催)
布教活動 顕正会では「折伏(しゃくぶく、「破折屈伏」の義)」と呼ばれている。
広布御供養 年1回12月に「広布御供養」と称して会員から寄付金を募っている。
教学の研鑽 会員は「基礎教学書 日蓮大聖人の仏法」(冨士大石寺顕正会)という書籍を中心に教学を学んでいる。同書には、「日蓮大聖人とはいかなる御方か」、「人生の目的と幸福論」、「十界論」、「三世常住の生命」、「仏法の実践」という仏法の基礎的な教義に加え、「日蓮大聖人と釈迦仏の関係」、「日蓮大聖人の一代御化導」、「冨士大石寺の歴史」、「日蓮大聖人の御遺命」という日蓮大聖人門下が身につけるべき基本の教学、さらに「御遺命守護の戦い」という顕正会の学会・宗門に対する諌暁の歴史が記されている。また、各自でその他の顕正会発行書籍(「立正安国論謹講」、「開目抄を拝し奉る」、「六巻抄」等)の拝読等を通じて教学研鑽に励んでいる。 毎年1月に教学試験が実施されており、会員には受験が奨励されている 。
顕正会会員による勧誘をめぐるトラブル
2001年(平成13年)
 7月2日 信者3人が本千葉駅前で、入信を断った男性に暴行を加えたとして、暴力法違反の疑いで千葉県警察千葉中央警察署に緊急逮捕された。容疑者1人は「もみ合いになっただけ」と容疑を否認。千葉会館は「当該の勧誘行為があったかどうかも知らない」とコメントした。
2002年(平成14年)
 5月2日 専門学校生の信者が、入信を断った男性の手首や服を引っ張るなどしたとして、暴行の疑いで愛知県警察熱田警察署に逮捕された。信者は容疑を認めたという。
2005年(平成17年)
 7月28日 強引な勧誘をしたとして、神奈川県警察警備部と瀬谷警察署が顕正会横浜会館を家宅捜索した。会員2名が監禁容疑で逮捕され、警察によると2人とも容疑を認めたという。
2009年(平成21年)
 12月 この月に「会員数名が女性に入信を強要し、逃げようとした女性に怪我を負わせたとして、千葉県警察が千葉会館を家宅捜索した」と顕正会自らが発表した。顕正会は会員を告訴した女性について「後に虚偽告訴であることを自白し、罰金刑を受けた。更に法廷尋問に於いて、創価学会の幹部と接触したことを認めた」としている。
2012年(平成24年)
 3月27日 脱会者に怪我を負わせたとして新潟県警察に逮捕された元少年が、不当逮捕だとして賠償を求めていた訴訟が棄却された。
2013年(平成25年)
 9月11日 信者2名が東京都内に住む男性に「入信しなければ五体満足でいられなくなる」「入信したことを家族に話したら大勢で(男性の自宅に)押しかける」などと言って強引に勧誘したとして、警視庁公安部は、強要と暴力行為等処罰ニ関スル法律違反の疑いで信者2名を任意で事情聴取するとともに、顕正会本部や東京会館など5箇所を家宅捜索した。警視庁への顕正会に関する相談件数は、2013年に入って80件超あったという。これに対して顕正会は「違法捜査だ」とコメントした。
 9月25日 この日開催された総幹部会で、「事情聴取を受けた会員の1人」と自称する信者が登壇し、容疑を否認した。また、取り調べの際にマスコミが報道した言葉を言ったか否かの尋問は無く、供述調書にも一切記載は無かったと述べた。昭衛は「創価学会の謀略である」「法的措置を採る」と述べた。顕正会に関する苦情が多数寄せられているという警視庁の発表については「創価学会が『K対策』と称する謀略を実行した結果である」と主張した。
2014年(平成26年)
 2月26日 2013年9月11日の家宅捜索の際に取り調べを受けていた男2人が書類送検された。1人は容疑を認め、更に脱会しているという。もう1人は現役会員で、現在も容疑を否認しているほか、家宅捜索を受けてから書類送検されるまでの間に会社を退職している。「人為的な罰もある」と脅していたという。
2015年(平成27年)
 10月5日 会員の男3人が、前日16時半頃に東京都台東区の上野公園で、19歳の男子大学生に「東京見物に行かないか」などと嘘を言って車に乗せ、同板橋区常盤台の東京会館の近くまで連れ去ったとして、未成年者誘拐の疑いで警視庁公安部に逮捕された。大学生は、車内で顕正会に入会するよう勧誘され、不安になったためLINEで母親に「何者かに連れ去られている」と連絡し、母親の通報を受けた警視庁の捜査員が、東京会館の近くで4人を確保した。1人は容疑を否認し、残る2人は容疑を認めている。容疑を認めた男の1人は「一緒に会員になり仏法をやってほしかった」などと供述している。教団本部は「事実確認をしている。不当な捜査と考えている」としている。
 10月8日 会員3人の逮捕を受けて警視庁公安部が本部や東京会館など、複数の教団施設を家宅捜索した。教団側のコメントについては読売新聞は「一切ノーコメント」、日本テレビとFNNニュースは顕正会側の主張を「不当な捜索」と報じている。
 10月15日 新たに会員の男2人が同じ容疑で警視庁公安部に逮捕された。1人は「男性を入信させるよう指示した」と容疑を認め、もう1人は「男性と話したことは間違いない」と供述し、5人とも自らを顕正会の会員であると説明している。警視庁公安部によると、教団の強引な勧誘をめぐる相談や通報が、2015年1月から9月末までに約90件あったという。また、教団は逮捕された5人が会員であるとした上で「会の信用を失墜させるための不当逮捕だ」とコメントしている。
 10月23日 東京地方検察庁が4日の件で逮捕された会員5人のうち28歳の男性ら3人を処分保留で釈放した。
 11月9日 10月5日・15日に逮捕された5人のうち4人が起訴猶予となり、19歳の会員が家庭裁判所に送られた。理由について東京地検は「犯行の態様、被害者の年齢が成人に近いことなどを考慮した」としている。教団は「今回の捜査は顕正会の信用を失墜させるためのものであり強く抗議する」とコメントした。 
顕正会 2

 

創立 / 昭和17年(妙信講)
創始者 / 浅井甚兵衛
代表者 / 浅井昭衛
本尊 / 本門戒壇の大御本尊
経典 / 法華経十巻
教典 / 日蓮大聖人御書、日興上人・日目上人・日寛上人遺文
沿革
顕正会は、かつて「妙信講」と称し、日蓮正宗法華講の一講中として活動していましたが、正本堂の意義付けを巡って創価学会と激しく対立し、やがて時の法主であった第六十六世日達上人の指南に背いたため、昭和49年に日蓮正宗より講中解散の処分に付された団体です。
妙信講の発足
妙信講は昭和17年、日蓮正宗妙光寺の総代であった浅井甚兵衛(じんべえ)が、妙光寺講中の一つとして設立したものです。しかし、講の中心者である浅井甚兵衛・昭衛(しょうえ)父子は独善的で身勝手な行動が多く、所属寺院の住職の指導も受け入れず、戦後の混乱期に法道会(法道院)に所属を変更しましたが、ここでも問題を起こし、昭和32年に法道会を離反しました。そののち宗門より昭和33年1月、妙縁寺所属の法華講として再認可されました。
昭和37年に全国法華講連合会が発足されましたが、妙信講は連合会に加入することを拒否したため、昭和39年8月19日以降の5年間、総本山に登山もできない状態となりました。
解散処分の発端
こうして妙信講は、やがて宗門より解散処分を受けることになります。その発端の一つに、正本堂の意義について宗門や創価学会と激しく対立したことが挙げられます。
当時、創価学会会長であった池田大作は、正本堂を『三大秘法抄』『一期弘法抄』に示される御遺命の事の戒壇堂であるとの断定発言をしました。その後、ことあるごとに、自分が会長の代に御遺命達成・広布達成を成し遂げたという発言を行ないました。
これに対し、妙信講の浅井は「大聖人の御遺命の戒壇は、天皇の勅宣と御教書(政府の令書)による日本一国総意の国立戒壇でなければならない。またその戒壇は天母山(あんもやま)に建てるべきである」と主張し、正本堂建立をもって「御遺命達成」とする池田に異議を唱えたのです。
国立戒壇に固執
この頃、創価学会の言論出版問題が起こり、これに付随して「国立戒壇」という名称に関しても、社会的に大きな問題となりつつありました。そこで宗門は、国立戒壇という名称を使うことは布教の妨げになるとの判断から、昭和45年5月、今後は国立戒壇という名称は使用しないことを宗内外に公表しました。
宗門はこれを機に、妙信講に国立戒壇に固執する考え方を改めさせようとしました。
また、池田の「正本堂をもって御遺命達成・広布達成」とする考え方に対しても、それを改めるべく、日達上人は昭和47年4月に正本堂の意義について『訓諭(くんゆ)』を発表されました。その中で、正本堂は現時における事の戒壇とされ、「現時にあっては未だ謗法の徒多きが故に、安置の本門戒壇の大御本尊は公開せず、須弥壇は蔵の形式をもって荘厳し奉るなり」と述べられ、本門戒壇に関する法義を示されて、宗内の和合統一をはかられました。
しかし妙信講は日達上人の意に背き、宗門や創価学会を非難・攻撃し続け、「流血の惨も辞さず」(昭和47年6月30日付)との脅迫文を送りつけるに至りました。そこで日達上人は、自ら妙縁寺に赴(おもむ)かれて浅井父子を説得され、ようやく無事に、同年10月の正本堂の落慶法要を奉修されたのでした。
そののち、この問題は一時収まりかけましたが、妙信講は執拗に国立戒壇を主張し続け、ついには文書の街頭配布やデモ行進を行うなど、事態はますますエスカレートしていくこととなりました。
講中解散処分
そこで宗門は妙信講に宛てて、宗門の公式決定違反に対する反省を促し、弁疏(べんそ)の機会を与えて返答を待ちましたが、妙信講からはその公式決定に従わない旨の返事がありました。宗門はこのような経過をふまえてやむを得ず、昭和49年8月12日、妙信講を解散処分に付しました。
しかしこれを不服とする浅井等は、宣伝カーで創価学会本部を襲撃し乱闘事件を起こすなど、過激な行為に至ったため、宗門は同年11月4日、浅井父子を中心とする信徒33名を除名処分としました。
顕正会への改称と化儀改変
こののち妙信講は昭和57年10月9日、日本武道館で10,000人の総会を開き、その名称を「日蓮正宗顕正会」と改めました。しかしその後、平成8年11月18日には宗教法人を取得し、その直後の総幹部会(12月22日)の折り、「冨士大石寺顕正会」と称することを発表し、現在に至っています。
さらに浅井昭衛は平成9年7月16日、一国諌暁(かんぎょう)などと称して、『日蓮大聖人に帰依しなければ日本は必ず亡ぶ』との書を著し、新聞各紙に誇大な広告を載せて会員を扇動しました。
そして平成10年4月、宗門が正本堂に御安置されていた本門戒壇の大御本尊を奉安殿に御遷座(ごせんざ)したことを聞きつけ、顕正会では勝手に、誑惑(おうわく)の正本堂から大御本尊様を守護できたとして「御遺命守護完結法要」を行った。さらに顕正会は、このときをもって新しい時代に入ったとして、勤行式を『方便品』『寿量品』の1座(1回)読誦と唱題のみとし、観念文も改変しました。またこのとき「儀礼室」なるものを設置し、法要執行職員として4名を任命しています。
主な主張
1.事の戒壇は、国立戒壇である
2.事の戒壇は、天皇の発願による
3.事の戒壇は、天母山に建立する
4.広宣流布以前は、本門戒壇の大御本尊安置の場所は義の戒壇である
5.遥拝(ようはい)勤行
顕正会員の勧誘方法
顕正会の勧誘方法は非常識極まりないものです。
例えば、学校の卒業者名簿を利用して無分別に電話し、相手と会えた時には、相手が嫌がろうと何時間でもねばって帰ろうとしない。また、夜の駅前などでグループを作り、通行人に声をかけ、相手を喫茶店などに誘い出しては名簿に署名させ、顕正会員とする。相手が顕正会を信じようが信じまいが、住所と名前さえ書かせれば、折伏できたとするのです。(顕正会では平成13年現在、会員が70万人いると公称しています)
特に今日、社会的に問題となっていることは、若年層をターゲットにした勧誘や、暴力的勧誘です。学校などで生徒が生徒を勧誘し、教師が注意しても聞かず、それによって退学させられたケースもあり、さらには顕正会員の教師が、学校で生徒に顕正会への入会を強要するなど、各地の教育委員会に多くの相談が寄せられています。
また暴力的な事例は枚挙にいとまなく、「入会拒否の男性を監禁」「勧誘を拒否した若者に暴力を加える」などによって逮捕者も出るほどで、新聞などにも報道され、警察には苦情が数多く寄せられています。
また、顕正会では「冨士大石寺顕正会」と自称し、正系門下の「日蓮正宗大石寺」と意図的に紛らわしい名称を使い、会員を惑わしています。  
浅井昭衛発言 1
(1)「顕正会で護持している御本尊は、すべて日蓮正宗妙縁寺住職・松本日仁尊能師より授与され、私が護持申し上げてきたものである。(中略)妙信講に解散処分が下されたとき、私は松本尊能師に将来の広布推進のため、御本尊を大量に御下げ渡し下さるよう願い出た。松本尊能師には私の意をよくお聞きくだされ、自ら護持されていた大幅の常住御本尊七幅と、日寛上人書写の御形木御本尊数百幅を私に託してくださった。この七幅の常住御本尊とは、二十八代日詳上人・五十四代日胤上人・五十五代日布上人・五十六代日応上人・六十代日開上人・六十四代日昇上人等の歴代上人御書写の御本尊であり、このうち日布上人書写の御本尊が高知会館に御安置されたのである」
(2)「私は数年以内に、全国四十七都道府県に会館を建てる決意をしている。会館こそ一国広布の砦である」
(3)「また顕正会で格護する日布上人・日昇上人の四幅の導師曼荼羅について等、大事な指導を長時間にわたってなされた」
(4)「ここに、松本尊能化は、妙縁寺に所蔵するところの歴代上人の御直筆御本尊七幅、それから日寛上人の御形木御本尊、ならびに日布上人の御形木御本尊を多数用意して下さったのであります」
(5)「ゆえに私は、将来の大規模な広宣流布の戦いに備えて、地方会館に安置し奉る大幅の日布上人の御形木御本尊と、自宅拠点に懸け奉るべき日寛上人の御形木御本尊を、松本尊能化にぜひ用意してくださるよう、敢えて願い出て、これを授与して頂いたのであります。このときさらに松本尊能化は『葬儀のとき困るでしょう』とおっしゃって、日布上人御書写の『大日蓮華山大石寺』の脇書がある導師曼荼羅の御形木御本尊まで、六幅授与して下さったのであります」 
浅井昭衛発言 2
(1)「『時の貫主たりと雖(いえど)も、仏法に相違して己義を構えばこれを用(もち)うべからず』と。たとえ管長の名を以って為されることであろうとも、仏法に相違していることは断じて用いるなと。そこに今回の解散命令は仏法相違のことであり、猊下の御本意ではないから、妙信講は日興上人の仰せに従い、これを用いないのであります」
(2)「本宗においては貫主の権威は絶対です。しかしその貫主であっても、もし大聖人の教えに背いて間違ったことを言ったならば、下の者はこれに随ってはならない。(中略)日蓮大聖人の御金言が正邪判断の基準なのだということです」 
浅井昭衛発言 3
「『法主』とは、ただ大聖人御一人に対しての呼称であり、このことは、大聖人が自ら仰せられていることなのです。いいですか。本因妙抄には『仏は熟脱の教主、某(それがし)は下種の法主なり』と。(中略)大聖人以外の誰人が『法主』と名乗れましょうか。(中略)日興上人は大石寺の歴代上人を『貫主』と称されているのです。日寛上人の御筆記を拝見しても、すべてそうです。(中略)実は本宗で貫主を『法主』と呼ぶようになったのは、ごく最近のことなのです。日興上人が定められたごとく、あくまでも『貫主』でなければなりません」 
浅井昭衛発言 4
(1)「浅井先生がひとり広宣流布の一切の重責を背負われ、脳(なずき)を砕き戦われるを眼前にする時、非力とはいえ、ただただ師弟相対に徹し、御奉公の誠を尽くさんと決意するものであります」
(2)「命かけた御遺命守護の御奉公と十万の死身弘法を以って、ここに大聖人様より発言の資格を給わり、本日、一国広布の最終地点を見据えた具体的な目標を、発表させていただくものであります」
(3)「細井管長は説法のたびに、『御相承に云く』という論法をしばしば用いた。そして前後の文を省略し、さまざまな切り文を引用したのです。『御相承』は一般僧侶・信徒の知るべからざるところだから、『御相承に云く』と云われれば、黙らざるを得ない。そして細井管長は『本門戒壇の深義は、法主意外には知り得ないのだ』という態度で、説法を繰り返したのであります。私は思い悩みました。(中略)しかし、悩みに悩み抜いたとき、、『御相承に云く』という文の出所も、そのたばかりも、自然とすべてを見抜くことができた。まさに大聖人様が教えて下さったのであります。そして、本門戒壇の御聖意は、三大秘法抄・御付属状をよくよく拝し、さらに日寛上人の御指南を拝すれば明々了々。まさに『天晴れぬれば地明らかなり』の思いでありました」 
浅井昭衛発言 5
(1)五座の勤行について 「広く大衆を教化し実践せしむる時においては、五座の形はあり得ない。(中略)私は、この五座の勤行というのは、広宣流布を待つ総本山の化儀、ひたすら時を待たれる歴代先師上人の、尊い御所作であると思っています」
(2)五座の勤行について 「(浅井先生から)初心者の勤行指導について、『略式五座』の勤行指導があり…」
(3)勤行の簡略化 「松野殿御返事に云く『御文に云く、此の経を持ち申して後、退転なく十如是・自我偈を読み奉り、題目を唱え申し候なり』。この御文の中に、大聖人様が当時入信の弟子達にどのような勤行の仕方を教えられていたか、このことがはっきりと示されている。すなわち方便品と寿量品を読み、お題目を唱える。そしてごく初心の場合には寿量品は自我偈だけでよろしい、と御指南されている」
(4)世界基準の勤行 「今回、『世界の人々に勤行を浸透させるためには、松野殿御返事の御指南のままに十如是・自我偈・唱題という勤行の形こそ最も時に叶ったもの』との、世界広布を見据えた浅井先生ご決断から、助行の二品は、方便品は十如是、寿量品は自我偈のみの掲載となっている。先生はこの台湾版「勤行要典」の出来について『文中の台湾という固有名詞を、それぞれの国に変えれば、全世界のお経本ができる。この台湾のお経本が出来たことは、世界広布の上からその意義はまことに大きい』と述べられた」
(5)御観念文の改変 「従来の宗門の御観念文は、表現がやや粗略で、意が尽くされていないところ、あるいは法門上紛らわしい箇所があった。私は何年も前から、日寛上人の御指南に基づき『ここはこのように観念しなければいけない』そして『時が来たら全顕正会員にもこのことを徹底させていきたい』と思っていた。(中略)新しい時代を迎えて、いよいよ御観念文を改正すべしと、決断したわけである」
(6)塔婆供養は不要 「これまでは、希望に応じて塔婆の申し込みを受け付けておりました。しかし今後は、顕正会においては塔婆は立てない、ということにしたいと思っております。なぜかというと、塔婆は仏法の本義から言って要らないのです。(中略)御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱え奉ること。この功徳を亡き父母、兄弟に、先祖に回し向ける、これが回向の本義であります」
(7)戒名は不要 「大聖人様が、死者に戒名を付けられたという記録があるかね。そんな事実は全くないではないか。大聖人様が門下の強信授けられた法号というのは、俗にいう戒名ではない。その純粋強盛な信心を賞し賜った、仏弟子としての名号ですよ。たとえば上野殿は「大行」と。たった二文字だ。(中略)ケバケバしい戒名なんていうものは、御在世には全くなかった。(中略)我々も、これでいいではないか。俗名のままでいいんです。(中略)本質において、俗名でもいいんだという見識を、顕正会員は持つべきであるということです」
(8)葬儀では在家が導師 「二人の宗門僧侶(浅井のいう宗門僧侶とは正信会僧侶のこと)に手伝ってもらったことがあった。(中略)このような信心のない職業僧侶に頼んでどうなるものか。袈裟・衣などという形にこだわってる自体おかしいではないか。(中略)信心強き顕正会の幹部が、広布途上に亡くなった同志を御本尊に祈り、送ってあげたほうが、どれほど御本尊に通ずるか。(中略)時が来たのである。こう思って五年前に儀礼室を設けたのである。(中略)儀礼室の委員は僧侶の代理ではないということ。『冨士大石寺顕正会・儀礼室』として、仏法に則って堂々の葬儀を行うのである。職業僧侶ではなく、信心ある幹部が導師を勤めることが、最も仏法の道理に叶った姿なのである」 
浅井昭衛発言 6
(1)「戒壇の大御本尊様は、『一閻浮提総与』です。地球上の全人類に、総じて授与して下さった御本尊様であります。ですから、私たち一人ひとりは、実にこの戒壇の大御本尊様に直接つながっている」
(2)「どんなに離れていても、恋慕渇仰の信心さえあれば、直ちに大聖人様に直ちに通じ」 
浅井昭衛発言 7
(1)「私はいま一度、御遺命守護の完結とはどのような姿を云うのか、またなぜそうしなければならないのかということについて、はっきりとさせておきたい。(中略)完結の姿とは、大聖人の御法魂たる戒壇の大御本尊を、汚れた正本堂より元の清らかなる奉安殿に御遷座申し上げることでございます」
(2)「このお寺は誰のものでもない。日蓮大聖人のものであり、御遺命守護完結のその日まで、私たちがお預かりしているに過ぎないのであります。よって、御遺命守護完結のその日には、この顕正寺は時の御法主上人猊下に御供養申し上げることになっています」
(3)「御本仏日蓮大聖人の尊前において、本日ここに、御遺命守護の完結を、報告し奉るものであります。(中略)大御本尊は、清浄にして堅固なる新奉安殿に、還御あそばされました。(中略)いまついに御本仏の御威徳により、誑惑(おうわく)は根底より清算され、不敬は完全に解消されたのであります。(中略)すでに不敬は解消し、またいかなる大地震にも大御本尊様は御安泰。いまや後顧の憂いは全くなし」
(4)「顕正会は、今の宗門には、もう求めるもの何ものもない。不敬さえ解消されればそれでよい。いかなる大地震にも大御本尊様が御安泰であれば、もう後顧の憂いはない」 
浅井昭衛発言 8
(1)「東海地震の発生は、早ければ2002年の暮れから、遅くとも2004年のうち、ということになる。誤差を入れても『数年以内』ということは間違いないと、私は思っています」
(2)「(東海地震は)本年発生するかどうかを別にして、2005年までに発生することは、ほぼ間違いないと思われる。まさに巨大地震と国家破産が同じ時期に発生するのであります」
(3)「二大氷山(巨大地震、国家破産)が同時に襲うということは、日本にとって容易なことではない。これまさしく、他国侵逼(たこくしんぴつ)の前ぶれであります」 
浅井昭衛発言 9
(1)「あと25年で広宣流布できなければ、核戦争によって人類は絶滅する」
(2)「いま顕正会は大聖人の御命令を感じ、あと25年で広宣流布が実現せねば日本も人類も亡ぶべしと、敢然と立ち上がっております」
(3)「大聖人様は口先だけの、口舌の徒の発言をお許しにはならない。顕正会は口舌の徒ではありません。命かけた御遺命守護の御奉公と十万の死身弘法を以って、ここに大聖人様より発言の資格を給り、本日、一国広布の最終地点を見据えた具体的な目標を、発表させて頂くものであります。私は、広宣流布までの目標を、三つの段階に分けて考えています。第一の目標は百万の達成であります。第二の目標は一千万。そして第三が一億までの弘通であります。まず第一の目標百万を、私は今後十年間で成しとげようと決意しています。そして百万から一千万までを次の七年で成しとげる。さらに一千万から一億の弘通を、次の七年で成しとげる。これが私の決意であります。非力の凡夫の成し得るところではないが、御本仏の御守護を頂ければ必ず成しとげられると、私は確信しております。(中略)いま広宣流布ができなければ日本は亡びる、世界は亡びる」 
浅井昭衛発言 10
(1)「寛尊の精美を極めた大事の御法門は、六巻抄および重要御書の文段に尽き、それ以外には絶対にない」
(2)「(御本尊七箇之相承の御文について)法体の付嘱を受け給うた嫡々代々の上人が書写し給うた御本尊は、ことごとく即戒壇の大御本尊、即日蓮大聖人の御魂と信ぜよとの御意であります。ゆえに私たちは、いかなる猊下の書写し給うた御本尊なりとも、即戒壇の大御本尊、と深く信じまいらせているのであります。このように、この御金言は、あくまでも御本尊書写に当たっての深意を仰せ給うたもので、決して猊下個人の肉身・振る舞いを指して〈日蓮大聖人と思え〉などと仰せられたものではありません。もちろん、大聖人と唯我与我の御境界であられた第二祖日興上人、そして第三祖日目上人、あるいは日寛上人・日霑(にちでん)上人等の御高徳の上人の振る舞いはまことに尊く、いかに尊敬申し上げるとも過ぎるということはない。絶対信を以て尊敬申し上げなくてはなりません。しかし数多き歴代上人の中には、ごくごく稀に御法門の展開あるいは身の振る舞い等において逸脱のあることもある。この時、猊下の仰せだからと云ってそれに従ったらどうなるか。あるいは時の猊下を思うままに操り、猊下の名を以て大聖人の仰せに違うことを強行しようとする悪人・野心家が出たらどうなるか。仏法そのものが危うくなります」
(3)「細井日達・阿部日顕の両貫主は、御本仏の御遺命を破壊せんとした師敵対の者ですよ。師敵対の者に、どうして大聖人の御魂を書写し奉る資格がありましょうか」 
浅井昭衛発言 11
(1)「まさしく、御遺命に背いた故にですね、細井管長は、御相承を授けることができなくなってしまった。次の阿部管長また、御遺命違背の失によってですね、これを受けることができなかった。すなわち、御相承の授受っていう、授ける受ける、この両方がですね、できなかったわけであります。まさに、七百年来、富士大石寺門流において、いまだかつてないっていうことが起きた。このことは宗門の奥の方、奥深くに起きたことであるから、一般の人はしらない」
(2)「大聖人様の万々の御配慮がまします。御相承というものは、口伝えとか、そのような一つのものではない、いかなることがあっても絶対断絶しないようにできてんです。故にもし、大聖人様の御心に叶う、正しい貫主上人が御出現になれば、その時たちまちに正系門下の血脈が蘇る。そういうことになってんです。いわんや、広宣流布の時には、すでに前生、前の世に御相承を所持された、日目上人御出現なさるんでしょう。ですから、少しもそのような断絶は心配する必要がないってことであります」 
浅井昭衛発言 12
(1)「今の宗門の『登山』というのは、大聖人の御意に叶わぬこと、内房尼御前の百千万億倍だ。なぜかといえば、国立戒壇に安置し奉るべき戒壇の大御本尊を、国立戒壇を否定するために建てた正本堂に居(す)え奉っているんだ。大聖人様を辱め奉ることこの上ない。大聖人様は御憤りあそばしておられる。しかるにもいま登山して御開扉申し上げるならば、不快の『見参(けさん)』を大聖人に強要し奉ることになるではないか」
(2)阿部管長はいま、正本堂の跡地に、奉安堂なる巨大な建物を建てんと企てている。(中略)戒壇の大御本尊様を利用して本山の収入を図るためであります。『いいかげんにしないか』と私はいいたい」
(3)「貴殿(日顕上人猊下のこと)が」いま為しているのは、『内拝』ではない。恐れ多くも戒壇の大御本尊を利用し奉っての『御開扉料稼ぎ』である。だから貴殿は常に法華講員に『登山せよ、登山せよ』と鞭を打つ。(中略)直ちに濫りの御開扉を中止し、近き広布のその日まで、日興上人の御心のまま、もっぱら秘蔵厳護し奉るべきである」 
浅井昭衛発言 13
(1)「もし日蓮大聖人の三大秘法が、一国の安泰、そして世界の平和、全人類の成仏のための唯一の正法であることが理解されたら、国家がこの仏法を守護するのは、当然の義務となりましょう。(中略)この大御本尊を、仏法有縁の国として日本国が、世界のため全人類のために、国運を賭しても守り奉る。これが国立戒壇建立の大精神であります」
(2)「そもそも三大秘法抄・一期弘法付属書は、戒壇建立の条件として三大秘法が国家的に受持された時、すなわち三大秘法が国教となった時を、明確に示しておられる。(中略)すなわち『国教でない仏法に国立戒壇はあり得ない』のではなく、『国教にすべき仏法であるから国立戒壇を建立せねばならぬ』のである」
(3)「御付嘱状の『国主此の法を立てらるれば』、また四十九院申状の『国主此の法を用いて』とは、まさに『国教にすべし』との御意ではないか。また三秘抄の、王法が冥ずる『仏法』、王臣一同が受持する『本門三大秘密の法』、勅宣・御教書を以って擁護(おうご)すべき『戒壇の大御本尊』とは、まさしく国教そのものではないか。そして、国家が根本の指導原理として三大秘法を受持擁護するその具体的発現が、国立戒壇の建立である。ゆえに、国教だからこそ国立戒壇が必要なのである」
(4)「現憲法に気兼ねして、『国教』を禁句のごとく扱う必要はない。第五十六代日淳上人は堂々と『真に国家の現状を憂うる者は、其の根本たる仏法の正邪を認識決裁して、正法による国教樹立こそ必要とすべきであります』と御指南されているではないか」
(5)「憲法改正は、国会議員の3分の2以上が賛成し、国民投票で過半数を得ればできるじゃないか。だから、国民の過半数が戒壇の大御本尊を信じ、国立戒壇を熱願すれば、御遺命はいよいよ実現するのです。国民の意志を無視して国会議員の身が持つかね」
(6)「すなわち広宣流布の時には、日蓮大聖人の仏法を基本原理とする憲法が制定されなくてはならぬ。この時が、本門戒壇建立の時なのである」
(7)「広宣流布達成の暁の憲法は、前文においても今のようなまやかしではない。(中略)すなわち『日本国は、国家の安泰と国民の幸福のために、日蓮大聖人の仏法を国教と定める』、まずこのことが謳われなければいけない。さらに、『日本国は、日蓮大聖人が全人類に授与された本門戒壇の大御本尊を、全人類のために守護することを国家目的とする』と」
(8)「『勅宣』とは国主である天皇陛下の正式のおことば、御教書とは時の政権運用の立場に在るものの意思表明であります」
(9)「もし国民が国主であるとすれば、日本には一億二千万人の国主がいることになる。国主は一人でなければ成り立たない。ゆえに報恩抄には『国主は但一人なり、二人となれば国土おだやかならず』とある」 
浅井昭衛発言 14
(1)「ただ『国立戒壇を云ってはいけないのに妙信講は云っている、だから解散だ』と。……物凄い理由ですね。なにも妙信講が今初めて『国立戒壇』を云っているんではない。歴代猊下が全部おっしゃっている」
(2)「三大秘法抄および先師の御指南を拝すれば、まさしく『国立戒壇は三大秘法抄の金言に赫々、歴代上人の遺文に明々』である。これを否定するのは、三大秘法抄の御聖意を蹂躙し死(ころ)した、汝(注:日顕上人のこと)以外にはないのである」
(3)「だが、私は確信している。正本堂の誑惑(おうわく)が崩れた次には、必ず国立戒壇の正義が顕れることを……。今後、宗門の中で国立戒壇に敵対する者あれば、在家・出家を問わず宗門から追放しなければいけない。日目上人の御出現が近くなれば、必ずそういう時が来る」  
浅井昭衛発言 15
(1)「創価学会池田会長は、政治・選挙の為か世間に諂(へつら)い、ついにこの大事の御遺命を曲げたのであります。即ち、世間に抵抗ある国立戒壇を抹殺し、俄(にわ)かに立てたる正本堂を『御遺命の戒壇』『宗門七百年の悲願の達成』と偽り、時の政府を文書で以って欺(あざむ)いたのであります。その上あろうことか、正本堂の完工式には邪法のキリスト教神父招いたとのこと、かかる所行すでに言語道断にして天魔の入りたる所為と断ぜざるを得ません」
(2)「ここに彼(池田大作)は国立戒壇を否定するのに『民衆立の戒壇・正本堂』という誑惑を思いついた。そして汝(日顕上人)に『国立戒壇論の誤りについて』と『本門事の戒壇の本義』という二冊の悪書を書かせ、あたかも正本堂が御遺命の戒壇に当たるかのたばかりをさせたのである」
(3)「まさしく妙信講は、国立戒壇の放棄と、正本堂を御遺命の戒壇とするとの、二つの仏法相違の『宗門の公式決定』に従わなかったから、死罪を受けたのであった」
(4)「国立戒壇はひとり日興上人に付属された御遺命、日蓮正宗だけの宿願である。しかるに田中智学この義を盗む。ところが日蓮正宗の全信徒は『国立戒壇は田中の義』として、かえってこれを捨てた」 
浅井昭衛発言 16
(1)「本門戒壇建立の霊地が富士山である事は門徒の末々まで知らぬ者はない。(中略)しかるに富士山と定め遊ばすは御本仏の鳳詔(ほうしょう)、されば広大な裾野の中には何処(いずこ)と定めるも後人の為すべからざる所、ここに二祖日興上人の御遺命厳として、天母山をついさして定め給うと聞き奉る。(中略)まさしく歴代上人は二祖上人のままに天母山を指さし伝え給う。(中略)ここに歴代先師の定め伝うるが如く、事の戒壇は天母山に立たざるべからずと堅く信じ奉るものである」
(2)「かかる国家的に公けに此の大法が信仰され、受持された時、初めて富士山のふもと天母山に大戒壇堂が建立され、戒壇の大御本尊がお出ましになられると歴代法主上人よりお聞きするものであります」
(3)「御遺命の戒壇はどこに立てられるべきなのか。(中略)日興上人の『大石寺大坊棟札』には、次のように明記されています。『国主此の法を立て被(ら)るる時は、当国天生原(あもうばら)に於て三堂並びに六万坊を造営すべき者なり』と。(中略)『天生原』とは、大石寺の東方4キロのところにある、冨士南麓の中にも最勝の地であります」
(4)「本門戒壇建立の場所は、日本国の中では富士山、富士山の中では南麓の勝地・天生原と、日興上人以来歴代上人に伝承されている。(中略)大石寺より東方4キロの小高い丘が『天母山』であり、その麓に広がる曠々たる勝地が『天生原』と呼ばれてきた。このように『大石原』と『天生原』は場所が異なるから、地名も異なったのである」
(5)「どうして宗務院が『天生山』を否定し『天生原』を主張するか不思議に思えるが、その理由は簡単です。(中略)正本堂を究極の戒壇と云う為には、どうしても天生原即大石が原・大石寺とこじつけねばならぬ。その場合、天生山では東方4キロのきまった地点だからこじつけようが無い、天生原と云えばふもとの広がりだから拡大すれば地続きで一体になるというわけです。まことに正本堂を御遺命の戒壇と詐(いつわ)るには、手のこんだたばかりをせねばならない」 
浅井昭衛発言 17
(1)「本宗の伝統教義の上からは、広布以前に戒壇の大御本尊まします所を『事の戒壇』とは絶対に云えないのである。(中略)三大秘法抄に定められた条件が整った時に事実の姿として建立される戒壇を『事の戒壇』といい、それ以前に本門戒壇の大御本尊まします所を『義の戒壇』と申し上げるのである」
(2)「もし大御本尊まします所を直ちに『事の戒壇』といえば、大聖人の御遺命は曖昧模糊(あいまいもこ)になってしまう。(中略)しかるにいま細井管長は、大前提となっている御遺命の事の戒壇をわざと隠し、広布以前の大御本尊の所住を直ちに『事の戒壇』といわれた。これ大事の御遺命を匿(かく)し、日開上人の文意を曲げ、池田の誑惑(おうわく)を助けるための曲会といわねばならない」
(3)「大聖人様は三大秘法抄と一期弘法付属書に、『戒壇を建立すべき者か。事の戒法と申すは是れなり』と、同じ表現でこう仰せられている。国立戒壇の建立が、そのまま事の戒法になる、ということです。『事の戒法』とは、戒壇の大御本尊の妙用(みょうゆう)により、一国全体が妙法化される、日本が仏国土になるということであります」
(4)「『国立戒壇建立』がそのまま『事の戒法』になると仰せられている。だからそれ以前は、戒壇の大御本尊ましますといえども義の戒法、事中の義ということです」 
白光真宏会

 

創始者 五井昌久
現継承者 西園寺昌美
信者数 約50万人
機関誌 白光
本部所在地 静岡県富士宮市
教団の沿革
創始者・五井昌久は、1916年11月22日東京の士族、五井満二郎、きくの四男として生まれる。幼少時、五井は病身だったが、非常に陽気な性格で、よく剽軽な踊りを踊っていたという。1923年、関東大震災を受け、バラックに住むようになる。その後義伯父に連れられ、新潟で暮らすようになる。高等小学校1年を終えると、織物問屋の店員になり、その後五井商店と言う店を開業した。
1940年、三兄の紹介により、日立製作所亀有工場に入社。労務課で文化運動の仕事をするようになり、高村光太郎や竹内てるよなどから教えを受けた。五井は一時腎臓を患っていたことがあり、事務員の女性から世界救世教の著書を借り、その事務員の女性の母親から、世界救世教の療法を受け、同教の理論に共感した。
1945年、終戦を迎え、人一倍愛国心が強かった五井は、玉音放送の後、工場長と相擁して泣き続けたと言う。その後日立を辞め、西洋古典音楽の音楽家を目指そうとするが、周りは五井の嫌っているジャズ楽団ばかりで、断念する。その後世界救世教の診療所を訪れ、岡田茂吉著の書籍を読むが、その内容には共感出来なかったものの、診療所の人の人柄に親しみを感じ、時折その人を訪ねたりした。また、それと同じ頃に、友人から借りたフェンイック・ホルムス著、谷口雅春訳の「百事如意」と言う本を借り、その本の内容に深い感銘を受けた。
ある日五井は、岡田茂吉の家を訪問し、当時世界救世教の病気治しを行っていた五井は、岡田の話に大きく共感した。それから時は流れ、五井は生長の家本部を訪れ、谷口雅春の講話を聞き、その後五井の先輩を会長。五井を副会長とし、葛飾信徒会を設立した。
しかし、五井は職についてなかったため、いくつかの出版社の採用試験を受け、その後某出版部員として、旬報の編集の仕事にあたった。
1948年、知人の紹介にて、某心霊現象の会の会員になる。ある夜、五井は生長の家信徒会に行き、自動書記を行い、同席していた共産党の人を驚かせてしまう。
1949年のある朝、釈迦から金色の珠と榊のような葉を5枚貰い、イエス・キリストが五井の体に入り、「汝は今日より自由自在なり、天命を完うすべし」と言う声を聞き、霊覚者になった。1951年、五井先生鑽仰会を発足。1956年、白光真宏会に改称。1968年、五井は宇宙人との調和を訴え、「宇宙子波動生命物理学研究所」を設立した。
1971年、琉球王国の王家・尚氏の末裔、尚悦子が五井の養女となり、五井昌美と改名。その後1974年10月18日、五井昌美は西園寺公望の曾孫、西園寺裕夫と結婚。西園寺昌美となる。1980年、五井は亡くなり、養女の西園寺昌美が跡を継いだ。
教団の教義・特色
世界平和の祈り、印、マンダラなどの同会独自の行を行う事によって救われると説く。
個人の邸宅や店、寺院でよく見かける「世界人類が平和でありますように」と言うステッカーやポールは、同会の関連団体、五井平和財団(会長:西園寺昌美、理事長:西園寺裕夫)のものであり、このポールは、日本をはじめ、海外でも様々な場所で見ることが出来る。余談であるが、このパロディーとして、テレビアニメ「俗・さよなら絶望先生」のヒロイン、関内・マリア・太郎が、七夕の笹に、「世界全人類が幸せでありますように」と書いてある短冊を吊るすと言うシーンがある。
他に、世界平和の祈りを唱えている団体に、森島恒吉代表の唯一会、尾崎元海代表のコスモス会、岩根和郎代表の自明会などがある。 
白光真宏会 2

 

目的
「個人の神性顕現と世界平和の実現をめざして」
白光(びゃっこう)とは、純潔無礙なる澄み清まった光、人間の高い境地から発する光をいいます。ホワイトスピリット、すなわち高級神霊の光です。
本会は、この光を自己のものとして働く愛と調和そのものの人間をたくさん育て、その光を世界人類に、真に宏(ひろ)め、平和を実現しようとする目的で設立されました。
創始者の五井昌久(ごいまさひさ)先生(1916〜80)は、「人間と真実の生き方」を説き、世界平和の祈りを提唱しました。
また、後継者の西園寺昌美(さいおんじまさみ)会長は、「印(いん)(我即神也(われそくかみなり)の印、人類即神也(じんるいそくかみなり)の印)とマンダラ(宇宙神マンダラ、地球世界感謝マンダラ、光明思想マンダラ)」を提唱し、また、呼吸法、言霊(ことだま)、「果因説(かいんせつ)」の教えを表わしました。
個人の運命も人類の運命も、一人一人が自らの心を高め上げることによって好転してまいります。この「世界平和の祈り」と「印」と「マンダラ」によって、自己の神性が開かれ、神そのものの自分を意識できるようになり、自らの力で自らの人生を切り開くことが出来るようになります。
さらに、人類の否定的な想念波動を拭い去り、人類に真理の目覚めを促し、生きとし生けるものとの調和を実現してゆくことが出来ます。
今日、世界各地で、人類の真の平和を願う人々が増えています。その中にあって、「世界平和の祈り」「印」、「マンダラ」は、国内及び海外で多くの人々に実践されています。
教え
1、人間と真実の生き方(教義)
『人間は本来、神の分霊(わけみたま)であって、業生(ごうしょう)ではなく、つねに守護霊、守護神(しゅごじん)によって守られているものである。この世のなかのすべての苦悩は、人間の過去世(かこせ)から現在にいたる誤てる想念が、その運命と現われて消えてゆく時に起る姿である。いかなる苦悩といえど現われれば必ず消えるものであるから、消え去るのであるという強い信念と、今からよくなるのであるという善念を起し、どんな困難のなかにあっても、自分を赦(ゆる)し人を赦し、自分を愛し人を愛す、愛と真と赦しの言行をなしつづけてゆくとともに、守護霊、守護神への感謝の心をつねに想い、世界平和の祈りを祈りつづけてゆけば、個人も人類も真(しん)の救いを体得出来るものである。』
創始者 五井昌久(ごいまさひさ)先生は、人類の一人一人が本当に幸せであるためには、世界が平和でなければならない、即ち、個人の幸せと世界の平和とは、まったく一つであるとして、「個人人類同時成道」の教えを提唱しました。その教えは、「人間と真実の生き方」に表わされています。
2、「我即神也(われそくかみなり)」と「人類即神也(じんるいそくかみなり)」の宣言文と印(いん)
人間は生命そのものであり、宇宙神(大生命)と一つにつながっています。そして内に無限なる能力、無限なる可能性を有しています。西園寺昌美会長は、そのことを徹底して意識することを勧め、「我即神也」「人類即神也」(宣言文)の教えを説きました。「我即神也」とは、自分自身に語りかけ、自らの本心に向かって宣言するものであり、「人類即神也」とは、すべての人の中の神性に向かって、人類すべてが“我即神也”に目覚めるよう、宣言しています。
我即神也(われそくかみなり)
『私が語る言葉は、神そのものの言葉であり、私が発する想念は、神そのものの想念であり、私が表わす行為は、神そのものの行為である。即ち、神の言葉、神の想念、神の行為とは、あふれ出る、無限なる愛、無限なる叡智、無限なる歓喜、無限なる幸せ、無限なる感謝、無限なる生命(いのち)、無限なる健康、無限なる光、無限なるエネルギー、無限なるパワー、無限なる成功、無限なる供給……そのものである。それのみである。故に、我即神也、私は神そのものを語り、念じ、行為するのである。人が自分を見て、「吾(われ)は神を見たる」と、思わず思わせるだけの自分を磨き高め上げ、神そのものとなるのである。私を見たものは、即ち神を見たのである。私は光り輝き、人類に、いと高き神の無限なる愛を放ちつづけるのである。』
人類即神也(じんるいそくかみなり)
『私が語ること、想うこと、表わすことは、すべて人類のことのみ。人類の幸せのみ。人類の平和のみ。人類が真理に目覚めることのみ。故に、私(わたくし)個に関する一切の言葉、想念、行為に私心なし、自我なし、対立なし。すべては宇宙そのもの、光そのもの、真理そのもの、神の存在そのものなり。地球上に生ずるいかなる天変地変、環境汚染、飢餓、病気・・・・・・これらすべて「人類即神也」を顕すためのプロセスなり。世界中で繰り広げられる戦争、民族紛争、宗教対立・・・・・・これらも又すべて「人類即神也」を顕すためのプロセスなり。故に、いかなる地球上の出来事、状況、ニュース、情報に対しても、又、人類の様々なる生き方、想念、行為に対しても、且つ又、小智才覚により神域を汚(けが)してしまっている発明発見に対してさえも、これらすべて「人類即神也」を顕すためのプロセスとして、いかなる批判、非難、評価も下さず、それらに対して何ら一切関知せず。私は只ひたすら人類に対して、神の無限なる愛と赦しと慈しみを与えつづけ、人類すべてが真理に目覚めるその時に至るまで、人類一人一人に代わって「人類即神也」の印を組みつづけるのである。』 
沿革
白光真宏会の草創期
創始者 五井昌久先生は、第2次世界大戦後、宗教活動を始めました。明るく気さくな人柄で、人生の様々な問題に対して、霊覚による適切な指導をする五井先生のもとには、毎日、相談やお浄めを受けるために多くの人々が集まりました。やがて、五井先生を師と仰ぐ人々によって、五井先生鑽仰会が発足し、白光真宏会に発展しました。
白光真宏会の発展期
1980年、五井先生が帰神(逝去)した後は、西園寺昌美現会長が後継者として、祈りによる世界平和運動を、世界的規模で発展させ、今日に至っています。また、西園寺会長は、印、マンダラを提唱し、神人養成プロジェクトを始めました。

1949年 五井昌久先生が神我一体を経験し、覚者となる。
1951年 五井先生を師と仰ぐ人々によって、五井先生鑽仰会が発足。千葉県市川市新田に新田道場が開設される。
1953年 『神と人間』(五井昌久著)が刊行される。
1955年 五井先生鑽仰会が宗教法人として認可される。(翌年、白光真宏会と改称)五井先生が世界平和の祈りを提唱し、祈りによる世界平和運動が始まる。
1958年 千葉県市川市中国分に「聖ヶ丘道場」が開設される。
1962年 宇宙子科学(宇宙子波動生命物理学)の研究が始まる。
1964年 平和ポスター(ピースステッカー)の貼付活動が始まる。〈注1〉
1965年 霊性開発のための「錬成会」が始まる。
1971年 「聖ヶ丘みたままつり」が始まる。(のちに「歴史の浄め祭」へと発展)
1972年 白光真宏会の本部が新田道場から聖ヶ丘道場へ移る。
1976年 世界平和祈願柱(ピースポール)の建立活動が始まる。〈注2〉
1980年 五井先生が帰神(逝去)、西園寺昌美現会長が後継者となる。静岡県富士宮市の朝霧高原に富士道場(現・富士聖地)が開設される。富士道場で「みそぎの会」が始まる。
1983年 聖ヶ丘道場で「世界各国の平和を祈る行事」が始まる。富士道場で世界各国の平和を祈る「富士野外道場特別統一会」(現・五月大行事)始まる。
1988年 祈りによる世界平和運動は、米国ニューヨーク市で設立されたワールド・ピース・プレヤー・ソサエティに移管された。
1992年 光明思想徹底行、地球世界感謝行が始まる。
1994年 西園寺昌美会長が我即神也の印を提唱する。
1996年 西園寺昌美会長が人類即神也の印を提唱する。
1997年 印による世界各国の平和を祈る行事が始まる。
1998年 白光真宏会の本部が聖ヶ丘道場から富士聖地へ移る。富士聖地において「新年祝賀祭」(前身は元旦祝賀統一会)、「7月大行事」、「歴史の浄め祭」が始まる。
1999年 富士聖地において「ピラミッド神事」、「五井先生感謝祭」(前身は五井先生ご降誕感謝祭)が始まる。聖ヶ丘道場が閉場。西園寺昌美会長が宇宙神マンダラを提唱し、神人養成プロジェクトが始まる。また、地球世界感謝マンダラ、光明思想マンダラを提唱する。
2001年 印による地球世界感謝行、印による光明思想徹底行が始まる
2003年 西園寺昌美会長が呼吸法をともなった我即神也・成就・人類即神也の唱名(呼吸法による唱名)を提唱する。
2004年 地球人類大浄化の年にあたり、呼吸法による唱名の神事が行なわれる。
2005年 「SOPP」(世界平和交響曲—宗教・宗派を超えて、共に世界の平和を祈る)が始まる。西園寺昌美会長が「呼吸法による人類即神也の印」を提唱する。
2006年 「地球黎明祭」(旧歴史の浄め祭)始まる。
2007年 「呼吸法の印による世界各国の平和の祈りの行事」が始まる。七月大行事も「呼吸法による人類即神也の印」で行なう。
2009年 七月大行事が「果因説による大成就の共磁場を創り上げる行事」となる。この行事の大成功により富士聖地は永遠に四次元の場となる。
2010年 新ピラミッド神事始まる。
2011年 東日本大震災にともない日本人を目覚めさせる神事をはじめ神社神事等が行なわれ日本から真の神性復活が始まる。西園寺昌美会長が祈りの言霊「すべては完璧、欠けたるものなし、大成就」を提唱する。
2012年 「シフトネットワークの呼びかけに応える祈りの会」が富士聖地で行なわれる。シフトネットワークで「世界各国の平和の祈り」が全世界同時配信される。
2013年 国連本部総会議場において総会議長ら主催による行事、「宗教間の調和を通じた平和の為の結束」でSOPPが開催される。  
白光真宏会 3 五井昌久

 

五井昌久
(1916-1980) 日本の宗教家。宗教法人白光真宏会(びゃっこうしんこうかい)の開祖。祈りによる世界平和運動を提唱した。
東京の浅草(現東京都台東区千束)に8人兄弟の4男として生まれる。7歳で関東大震災に遭い、家が焼けたため、一時、父の郷里新潟県に移り住み、近くの寺でお経を聞いたり、座禅をくむ経験をした。高等小学校1年を終え13歳で日本橋の小さな織物問屋の店員となった。数年後、その店をやめ、個人で五井商店を開業、音楽家をめざし、苦学して音楽の勉強をはじめた。また詩作にも励み、高村光太郎や竹内てるよにも教えを受けた。
1940年(昭和15年)、日立製作所の亀有工場に入社。文化活動の中心者として、学徒動員された青少年の心を癒そうとつとめた。
大戦終了後、日本のため、人類のために自分の命を捧げたいとの想いが湧き、宗教心が芽生える。岡田茂吉の霊線療法に興味を持ち、岡田の弟子に講習を受け病人の治療を開始する。また、生長の家の谷口雅春の教えに感銘を受け弟子になる。生長の家の講師として活動を開始するが、後には生長の家から離れることになる。
1949年(昭和24年)、厳しい修行の後、空の境地(悟り、正覚)を体得したとする。
1950年(昭和25年)7月、結婚。
1955年(昭和30年)2月、千葉県市川市に宗教法人「五井先生鑽仰会」を設立(なお、もともと「五井先生鑽仰会」は、五井を師と仰ぐ人々によって結成されたものである)。のちに「白光真宏会」と改称。
当初の活動は、人生指導や病気治療を主とした活動であったが、その根底にある思想は、人々の心が平和になることによる大調和世界(完全平和世界、地上天国)の実現であったとする。
1980年(昭和55年)8月死去。その活動は白光真宏会2代目会長・西園寺昌美(1971年に五井の養女に)に受け継がれた。
根本思想
1.人間は本来、神の分霊であって、業生ではない。
2.人間は守護霊・守護神によって常に守られている。
3.この世の中のいかなる苦悩も、現われれば必ず消えてゆく。苦悩は消え去ってゆくのであるという強い信念と、今からよくなるのであるという善念を起こし、どんな困難の中にあっても自分を愛し人を愛し、自分を赦し人を赦す愛と真と赦しの言行をなしつづけなさい。
4.自分を守っている守護霊・守護神への感謝の心を常に想い、世界平和の祈り(※)を祈りつづけなさい。
これを実行していると、個人も人類も真の救われ(正覚)を体得できる(個人人類同時成道)。
守護霊・守護神
五井の宗教は別名、守護霊守護神教とも呼ばれるくらい、守護霊・守護神の重要性を強調している。守護神とは神の救済面、愛の働き(神のもう一つの働きは法則である)の権化で、人類救済の任を帯びた偉大な光明体である。守護霊は、守護神によって救済され、個人守護の任を与えられた、先祖の悟った霊である。守護霊には、個人の主運を導く正守護霊と、仕事の面で補佐する副守護霊がある。人間が安心立命の心境に到達する第一歩は、自分の背後で見守っている守護霊・守護神の存在を認め、その守護に感謝することであると五井は説いている。  
世界紅卍字会 (せかいこうまんじかい)

 

道教系の宗教団体「道院」に付随する修養慈善団体。戦前の中華民国及び満州において赤十字社に準ずる組織として活動した。略称として「紅卍会」とも呼ばれる。
道院設立
世界紅卍字会の母体である宗教団体「道院」は、民国5-6年(1916年-1917年)頃に山東省濱縣知事であった呉福林と駐防衛長の劉紹基が県署の大仙祠に尚真人の祭祀壇を設け、祭祀壇前にて洪子陶と周徳錫を伴って伝統的な扶乩(フーチ、ふけい)を用いていたところ、ある日「至聖先天老祖(老祖)」降臨の御神託が下りたとされ、これが道院の起源と伝えられる。
道院設立にあたって、杜默清や中華民国第4代総統徐世昌の弟である除世光など有力者の一部が設立を支持している。 民国9年(1920年)、杜默清をはじめとする有力者48名の信者が神壇を済南府城内の劉紹基の自宅内に移し、宣教に従事、1921年(民国10年)に道院の設立に至る。
主祭神 - 黎明期は、扶乩(フーチ、ふけい)に依る乩示(けいじ) を御信託とした天啓宗教で、修養方法等は道教の流れを汲んでいたとされている。宇宙の独一眞神を「至聖先天老祖(老祖)」とし、最上位の神体に準じて、老子(道教)、項先師(孔子の師、儒教の祖)、釈迦(仏教)、マホメット(イスラム教)、キリスト(キリスト教)とされており、加えて歴史的な聖賢哲人を祭祀する包括信仰団体である。一宗一派に偏せず万教帰一の思想とする。
乩示 - 天啓として行われた道院の扶乩は、神位の前に置かれた砂上に天啓が現れるというものであった。砂の入った沙盤を90cm程の高さの机上に置き、向き合って立った2人が乩筆(けいひつ)と呼ばれる木製の棒を砂上に渡し、棒の中央に付いたT字型の枝先の動きによって砂上に表れたものを乩示とし、宣者が読み上げ、録者が記録、壇訓として掲げた。
世界紅卍字会などの付随組織が派生した頃には、宗教団体として組織化し、北京道院(中華民国内)及び新京道院(満州国)と2ヶ所の総院が各地域を代表し、設立期に利用された劉邸跡は済南道院と呼ばれ最上位機関としての役割を担っていた。
世界紅卍字会の設立
1922年(民国11年)、世界紅卍字会は中華民国山東省済南府において政府の批准により組織された。道院の付属施設機関であり、大網二項の宗旨に基いて慈善博愛の善行を挙弁する附帯事業の執行機関とされた。世界紅卍字会の赤色の印「卍」(「万」を当てることもあり、発音は共に wàn )は、「紅は赤誠を表徴し、卍は吉祥雲海と称して佛相を象徴させたもの」といわれる宗教的なシンボルである。
目的 / 一、各種学校の設立と各方面の人材育成 二、慈善を骨子とした簡単な絵本を編集し、宣講所に配布する 三、病院を設立による病気の伝播の防止と救済 四、工場の設立と小売業の資金貸与による失業者の救済 五、平和及び公益に対する政府協力
組織 / 「会長」の下に会長補佐として「副会長」を置き、副会長以下は6部門(総務、儲計、交際など)が置かれた。
会員 / 一般会員は、寄付額と寄与度により5つに区分された。 1、特別会員、終身特別会員・2、名誉会員、終身名誉会員・3、会員・4、終身会員・5、学生会員
入会条件 / 道院入会が原則とされ、道院入会より3ヶ月以上経た者で道名を有することであった
資金 / 維持管理費は入会者による会費及び寄付金で賄われており、入会者会費及び寄付金以外の不足分は道院が補填した。
発展
日中戦争(支那事変)当時は、上海などの一部地域を除けば世界紅卍字会のほうが赤十字社よりはるかに活動しており、認知度も高かった。満州事変以前から、日本では傀儡政権を担う組織に適していると考られていたふしがある。1937年の日本軍による南京占領の際には、日本の法政大学に留学した経験のある南京分会会長・陶錫三(陶宝普、陶錫山)が南京自治会長に任命された。ただし、病気を理由に執務はしなかった。
世界紅卍字会が行う慈善事業には恒久的のものと臨時のものがあり、恒久的事業として「医院」「平民学校」「貧民工廠」「惜字会」(字を粗末にしないという趣旨の会)「因利局」(貧民への無利子融資)「育嬰堂」(親が無力の嬰児を育てる施設)「残廃院」(身体に障害を持つ人のための施設)「卍日々新聞」「慈済印刷所」などのほか、いくつか慈善事業があった。
1929年9月、満州及び北平等の紅卍字会幹部が日本の京都嵯峨の人類愛善会訪問、翌年に人類愛善会が渡航し、宗教・国籍の違いを超えた世界平和実現活動を前提とした提携関係を築いた。
南京事件
南京事件で話題となる遺体の埋葬は「臨時的慈業」に属する。事変での傷病兵民の看護や埋葬は本来の事業ではない。末光高義『支那の秘密結社と慈善結社』に掲載されている「世界紅卍字會救済隊規定」において注目されるのは、「本會の救済隊員は出發に際し戦時公法に依り従軍救護するものとす」(第二條)とし、需用品を汽船汽車等に輸送する場合は「陸海軍人同等の特遇を受くるものとす」(第三條)とされている箇所である。世界紅卍字会には赤十字社に匹敵する特殊な地位が与えられていたことを示すものと考えられる。白地の楕円に紅の卍は人夫の制服の認識票であり(第十條・乙)、日中戦争の写真にみることができる。
現在
中国本土では共産党政権によって活動が抑制されており、現在では香港に本拠地を置いて、慈善事業に特化した一つの宗教組織として活動している。また学校を香港に2校、シンガポールに1校設立し教育活動も行っている。また日本を含め、東南アジア各所などに支部が置かれている。  
世界紅卍字会 2

 

道院・紅卍字会とは・・・・
本来、道院と紅卍字会とは別の組織で、道院は主に内修に勉め、紅卍字会は主に外慈を実践する場であります。
内修とは、静坐(先天の坐法)、経(道院に神界から下賜された特別のお経)、黙過(懺悔)に勉め、主に心を修める修道の場であります。その要旨は善を修め善を悟る事にあります。
また、外慈とは、世を哀れみ、貧困者や生活困窮者や罹災者などを救う活動をする場であり、現実的・物質的に世の中を救っていく活動であります。
そして、大正9年2月9日に中国の済南に最初の道院(母院)が設立され、大正11年2月4日に紅卍字会が設立され現在に至っています。現在では香港に本部(宗母総)が存在し、シンガポール、台湾、アメリカ、カナダ、マレーシア、日本など各国に道院の支所が存在し、各国で活動を展開しています。
修道とは
道というのは天地の間において、人々が公有(共有)する所のものであり、決してある特定の人だけが私有独占すべきものではないのである。道は人においては、貴賎、貧富、智愚の差別がなく、生まれると同時にあって、片時も離れることがでいないところの、すなわち心である。
人には皆心というものがあって、心がすなわち道であり、もし心を能く修めることができれば、それがとりもなさず道を修めることなのである。いわゆる道を修めるとは実は心を修めることなのである。このように説いてくると、心を修めることがすなわち道を修めることであって、別に何も深遠で奥深く不可思議なものではなく、又別に難しいことではないのである。それは時間を消費する必要もなく、
又場所も必要としないので、ましてや、深山幽谷に師匠や道友を訪ね求める必要もさらさらなく、何時でも、何処でも、何事においても、ただ自分から決心をして修めさえすれば、自然にだんだんと道に合するようになるのである。
この心とは及ち良心であり、又道心でもある。もし何事でも良心にそむくことがなければ、即ち道に合するのである。もし何事においても道に合致すれば、修める必要はないのであり、社会はこのように悪くならず、世界も又このように乱れることはなかったのではないだろうか。
今日における人心の悪化は言語を以って形容することではない、それを放任して社会の安定と世界の平和を願っても、それは不可能であるばかりではなく、逆に進めば進む程、安定や平和から遠ざかってゆくのである。
そこに必ず道を修めなければならないゆえんの重要な鍵は、すべてがこの人心にある。古人には心を治めるところの学問があり、それが世間の道徳を維持するところの不二の法門であったと言うことができる。
いまの人は道徳を破壊し、廉恥の心を失い、ただ私あるを知って、公があることを知らないのである。それは皆心を修めることを忘れているのであって、私恣のために幾重にも包囲されて、益々堕落の一途をたどっていくのである。万法(有形無形にわたる客観的存在)は皆心によって造り出され、万善(多くの善)は皆心によって生じ、万悪(多くの悪)は皆心によって造られる。したがって、聖賢と盗跖(大盗賊)の違い、肖と不肖の別れは、すべてが心を修めると修めないとにかかっているのである。
心を修めることは、別に何も難しいことではないが、今日の人類虚構に溺れて、財貨、利益、名誉、地位などのために心を奪われ、自分自身のことばかりを考え、人のことなど眼中にないのである。そこで、にわかに心を修めるとは言っても、一体どこから手を着けたらよいのかわからない状態である。
この修めるという字はすなわち日常の人として守るべき道や、人に応待し物に接する間に在って、片時も離れることはできないので、決して高尚な理論をもてあそんで、身近な事実を顧みないとうことではない。
世界紅卍字会とは
世界紅卍字会(せかいこうまんじかい)は、1922年に中華民国の道院という宗教組織の慈善博愛の善行を行う事業執行の付属施設の一つとして組織されたものであり、戦前の中華民国では赤十字社に準ずる組織として活動しておりました。
「世界紅卍字会と道院」の由来と「太乙北極真経」
道院の由来は1916年(大正5年)頃、中国山東省浜県の県公署内に昔から存在した、大仙祠(仙人を祀る大きなほこら)に於いて、時の県知事、呉福永と駐屯部隊長劉福緑、その幕僚 洪解空、周吉中等が神仙の神託を授かろうとして、中国に古来より伝わる「扶乩」という一種のお筆先で神示を仰いだことによります。
この壇にはいつも唐時代の聖者と伝えられている尚仙が降りられて、平素から詩や文章を用いて唱和され訓を垂れていました。そして何か事が起こり、悩み苦しんで神仙にお伺いをたてる度に、いつも適切明快な回答が示されていたのでした。
後に、1920年再び浜県の各氏が済南の首都に邂逅し再び扶乩の壇を設けました。壇に参列する人は徐々に増え、36人に上る頃より道院で最も貴重とされる経典『太乙北極真経』が伝授されました、この頃の訓示に「この経は 公共普救(一般社会をあまねく救う)の書なり。壇を設ける一事は、吾れ授経をおわれる後に於いては、常時に利禄(私利と棒禄)に向いて、密かに求める事を許さず。道を口実として世事を得れば(私利私欲を満たす)必ず大いなる災禍あり」この訓示に従い後に中国政府内務部に『太乙北極真経』の版権を認可登録を申請許可されました。
さらに道院の十二ケ条の規定を定め、同じように許可されました。
第一条
「本院は道徳を提唱し、慈善を実行することを以って宗旨と為し 名を定めて道院という」
第二条
「本院趣旨の重は、太乙北極真経に習静参悟するに在り、道教を専研する者とは別有り」
第三条
「凡そ誠心にて道に向かう者は、皆院に入りて修を進むることを得る、種族・宗教の区別なし、但し政治に関係せず、党派に連ならざるを以って必要となす」
などと謳っていました。
かくして、1922年の立春をもって正式の創立記念日と定め道院の創立を見ることができました。
道による教化はたちまち、天津、北京、済寧の三院が相次いで成立し、1年のうちに六十ヵ所の道院が設立され、後には全中国の二十三省に及ぶ四百数ケ所 そして信徒の数も六百万人を超えたとも云われております。
道院は中華民国大総統 余世昌と実弟 余世光や杜黙清 軍閥の張作霖、呉佩孚、中国最後の皇帝後の満州国皇帝でもあった溥儀の弟 溥傑など当代の名士が信徒として多く名を連れておりました。戦前において中国大陸に驚異的に布教され、中国満州で最大の宗教慈善団体であると称されることもありました。
誦経弭化について
道院では経典(『太乙北極真経』及び『太乙正経午集』)を誦経することにより災劫を無形に消弭(消滅)し、普く衆生を救うことができるとされています。
但し、誦経は必ず道院に於いて六人以上でなければならないとされています。
誦経弭化について「道徳精神華録」の誦経真諦の中の訓で「経の言は均しく金玉の言で一団の正気を蘊蔵(深く蔵する)している。故に虔誠にこれを誦すれば、人の正気と経の言とが合して悠弥(限りなく遠い)の境にむかい六合の内、宇宙の間に感ぜざるところはなくこれに応ずるのである。
各方の誦経でなければ、神これが為に駆使することができない。」また別の訓に「誦経は劫を弭(なくし)する。諸方はその効果を知っているが、効は篤き誠に在って、篤誠が極に至れば善気は自から凝り、善気が凝ればすなわち視C(悪気)と化する。
誦経者が少数であっても、よく大厄を解くことができる、この理は甚だ微妙である。
真経は純善の法言である。」など他にも多く誦経弭化の重要性を説いています。  
世界紅卍字会
世界紅卍字会は、道院という宗教の組織の付属施設の一つで、道院事務五則にいて慈善博愛の善行を挙弁する事業執行の機関として1922年に組織された。1921年に山東省で結成され、わずか2年間で中華民国全土に広がった道院は、「先天の大道」を中心に五大教(基、回、儒、佛、道)を奉ずる宗教団体で、日本の大本教は道院と同じ宗旨であるとして提携していました。
世界紅卍字会の赤色の印「卍」(「万」を当てることもあり、発音は共に wan )は、「紅は赤誠を表徴し、卍は吉祥雲海と称して佛相を象徴させたもの」といわれる宗教的なシンボルで、「紅十字会」(中国の赤十字社)の「十字」を「卍字」に置き換えたものではないかともいわれています。
日中戦争(支那事変)当時は、上海などの一部地域を除けば世界紅卍字会のほうが赤十字社よりはるかに活動しており、認知度も高かいものでありました。日本軍も世界紅卍字会の活動を認知していたものと思われる。満州事変以前から、日本では傀儡政権を担う組織に適していると考られていた説があります。
1937年の日本軍による南京占領の際には、日本の法政大学に留学した経験のある南京分会会長・陶錫三(陶宝普、陶錫山)が南京自治会長に任命されました。ただし、病気を理由に執務はしませんでした。
世界紅卍字会が行う慈善事業には恒久的のものと臨時のものがあり、恒久的事業として「医院」「学校」「貧民工廠」「惜字会」(字を粗末にしないという趣旨の会)「因利局」(貧民への無利子融資)「育嬰堂」(親が無力の嬰児を育てる施設)「残廃院」(身体に障害を持つ人のための施設)「卍日々新聞」「慈済印刷所」などのほか、いくつか慈善事業がありました。
いわゆる南京大虐殺で話題となる遺体の埋葬は「臨時的慈業」に属する。事変での傷病兵民の看護や埋葬は本来の事業ではありません。末光高義『支那の秘密結社と慈善結社』に掲載されている「世界紅卍字會救済隊規定」において注目されるのは、「本會の救済隊員は出發に際し戦時公法に依り従軍救護するものとす」(第二條)とし、需用品を汽船汽車等に輸送する場合は「陸海軍人同等の特遇を受くるものとす」(第三條)とされている箇所です。世界紅卍字会には赤十字社に匹敵する特殊な地位が与えられていたことを示すものと考えられています。白地の楕円に紅の卍は人夫の制服の認識票であり(第十條・乙)、日中戦争の写真にみることができます。 
道院の活動
内修ということ / 道院の活動の目的は信仰修養を目的とするものであり、具体的な実現方法として、修坐と誦経という手段を用いていています。
修坐(しゅうざ)
内修で最も重んじるものは修坐(坐禅 である。道院の坐法は「上元の坐」或いは「先天の坐」と称し、一般に流通している仏教やヨーガ、仙道などの坐法とは趣を異にしている。達摩仏(達磨大師)は道院の扶乩の壇に降りられ「坐は上中下の三法に分かれている。仏教の結跏趺坐の如きは中下の坐法であって、その効果は大したことがないばかりでなく、強制的な人為工夫があるため、(禅病などの)弊害を免れることができません。今わが師の至聖先天老祖は世人の真炁が淪亡してゆくのを哀れみ給いて、天界の秘中の秘である上元の坐を『太乙北極真経』にて伝播せられました。この坐法によって元炁を挽回してゆけば、先天に還ることができる」と示されております。
誦経(しょうきょう)
至聖先天老祖は「人を済度し、世を教化する道は第一に炁学を以て大本と為す。故に世界学説の本源を明らかにして派別の先入観を解除し、災劫の起きんとするを未然に消滅する」と訓示されました。そして『太乙北極真経』および『太乙正経午集』こそは、その本源を探求する炁学の最奥義に他なりません。修方はこれらの経典を誦することにより、その神秘の言霊の作用によって、未だ起きざる災劫を弭化(みか)することができるとされています。
扶乩(フーチ)
道院では、経典の形成は総て扶乩(フーチ)という神託法に依っていました。扶乩とは中国に古来より伝わる神示を仰ぐ方法で、道院の壇訓によれば、扶乩は今より三千年前に周公旦に依って創始され、周易の爻辞は周公旦が乩壇(扶乩の祭壇)に依って得たものであるといわれています。扶乩は、乩筆(木製の丸棒の中央に木筆を丁字形に取付けたもの)の両端を正纂と襄纂の両人で持ち、その木棒の下には砂盤と称する砂を平らに盛った盤を設ける。砂盤の北方上位に神位があり、正纂は砂盤の西側に東面し、襄纂は西側に東面する。両纂方は無念無想で何等の意念も交えない。初めは乩筆が動き出して円形を描いているが、そのうちに自ら神霊が降って乩筆が自然に砂盤の上に文字を現す様になる。道院の扶乩は、大道を闡明するという最高目的のためにこそ設けられたものであって、単に心霊現象を云々したり荒唐無稽の迷信者流と同列に見てはならないのです。
紅卍字会の活動
外修ということ / 紅卍字会は世界和平を促進し災患を救済することを宗旨としています。
道慈の不可分性
道院のあるところ、必ず紅卍字会が設置されています。これは道(内修)と慈(外行)が不可分の関係にあるからです。内修の結果、自ずから生ずる慈心を外形に現すことは当然のことで、紅卍字会の海外初の救済活動は、大正12(1923)年の関東大震災に際し、最も早く救済の活動をしたことに始まり、戦中戦後は中国大陸での日本人の保護・救済活動など枚挙に遑がありません。 
世界紅卍字会 3 諸話

 

『六祖慧能』
道院で修坐する時は坐院に参り礼拝してから修坐を行います。坐院には達磨仏を祀っています。
達磨仏はもともと南インドの国王の第三王子として生まれた仏教僧であり、後に中国に渡り嵩山少林寺で面壁九年の座禅を行い中国禅宗の開祖とされています。慧能は達磨仏より仏法を継承する六代目の祖師と認められた禅師でありますが、五祖の弟子の中で首座にいて32冊の経典を講義することのできた神秀をさしおいて、六祖は文字を識ず無学のいっかいの米つきにすぎませんでした。たびたびフーチの訓に慧能について述べたものがあります。以下訓文になります。
禅宗の黄梅(五祖弘忍大満禅師)の衣鉢が、当時七百有余の雲水の中で最高の上座に推されていた神秀に付与されずに、無学にして米つきの一居士に授与されたのは、本来提起された一悟道の偈だけによって鑑定して、その衣鉢を伝授したのではなくて、その黙契密授は早くから相見えて対話したときから許していたのである。
現代の人がみな知っているところの神秀の偈には「身は是菩薩樹、心は明鏡の台の如し、時々に払拭に勤めて塵埃を惹か使めること勿れ」とあり、この偈は尚未だ本性に徹していない、ただ門外に至つだけである。
これに対し一米つき居士の偈には「菩薩樹無く、明鏡亦台に非ず、本来無一物、何れの処にか塵埃を惹かんや」とあり、これこそはすでに自性に悟徹して、門内に入ることができたのである。
菩提を以って身に喩え、明鏡を以って心に喩えているのは、ただ仮設の字句にすぎないのである。明の朝代の儒者章本清は昔の聖賢が不滅の真理を伝へた経書を語るたびに非常に簡単明瞭であった。人がこれを問うと、答へて言うには、昔の読書は、あたかも物を以って鏡を磨くようなものであり、長い間磨いているうちには鏡は磨きぬかれて清浄で明かとなつた。ところが今の読書は、あたかも鏡を以って物をうつし照らすようなものであり、鏡が明らかであれば物は自ら見ることができると、これは乃ち比喩によつて学の進歩した境地を語つたものである。
鏡を以って心を比喩するのは、鏡の体は本来明らかであり、またその光によつて物を鑑すことができるからである。それがもし塵や垢にまみれてしまえば、それは不明で暗くて物の用に立たない。そこでこれを磨くことから着手し、その汚れをすべて取り除いて、はじめて本来の明らかな体を回復して、光明が顕現し、自ら能く物をうつすことができるのである。
荘子がいうには「至人(最高の人物)の心を用うるは鏡のごとく、将らず迎えず、応じて蔵さず、故に能く物に勝えて傷らず」と。蓋し心が浄ければ即ち霊となり、鏡が清ければ自ら明らかとなる。そこで物の本来に任せ、将らず迎えない(過ぎ去った事や未だ来ない先のことを鏡がうつさないように、心もそれらの過去や未来のことに心をわずらわせない)。それは本来自己の主観的私意や必ずやりとうそうとする我執によつて推察することがないからであり、その故に能くうつしていながら寂然としており、一切の相の生滅に任せて、これに応接して蔵すところなく、そして少しもその形迹を留めないのである。故に能く常に応じて常に静であり、たとえ万象が入り乱れて目前において千変万化しようとも、清明は自分自身にありて虚霊を昧ますことなく、物が来れば物に対処し、その妙応は尽きることがなく、自分が主体となつて物を自由に駆使しても、物によつて自分が動かされ使役されることがなければ、物が又どうして自分を傷なうことがあろうか、言う所の“鏡のごとし”とは、鏡に似て鏡に非ず、これ又たとえを借りて至人の心を用いるさまを語つたのである。
そもそも心というのは本来至極霊的なものであるが、鏡には霊が無いのである。心には真知があるが、鏡は実に無知である。大抵喩を引用するのは、ただ極めて似通つているだけであつて、すべてを包含して全く同一であるということは至難なことである。
羅近渓が言うには、吾が心の自覚による光明と塵垢はもともと二つの事柄ではあるが、吾が心の先に迷つて後で覚るというのは一つのことである。その覚る時に当たつては即ち迷つていた心が迷うのであり、覚りを除いて外に更に謂う所の迷いは無く、迷いを除いた外に又更に謂う所の覚りは無いのである。
故に浮雲が日光をおおい、塵垢が鏡の光を昏らましていることなどは、倶に比喩となすことはできないのである。この言葉と「明鏡亦台に非ず」とは頗る似通つているところがある。もし本来の無とする所に徹すれば、自らその固有のものを知ることができるのである。
しかし、心に自覚していない者は、多くが相にとらわれていることによる。そこで本心を明らかにしようとすれば、必ず先ずその執らわれを打破しなければならない。故に善く比喩する者は語るはしからその言を一掃し、打立てては打破り、それによつてその言や打立てたものに執着する弊害を打破していくのである。
ただ初修に対して語るのに鏡を以て喩となすのは、ただその物をうつすところの明を学ぶだけではなく、更にその光を内に返す回光の功を収めるべきである。鏡は即ち鑑であり、又鑒でもなる。謂う所の鏡考、鏡戒(共にいましめ、手本、かがみ)、亀鑑、殷鑒、及び張九齢の千秋金鑑、司馬光の資治通鑑などは皆古今を参考にし、往事(過去のこと)を引用して、それを戒めの助けとなしたのである。
秦の始皇帝にも方鏡があつたが、自らの心胆をうつすことができなかつた。唐の太宗は三鏡を並べており、それを用いて内なる己自身の過失を防いだのである。これを推してひろめて言えば「賢を見ては斉からんことを思い不賢を見ては内に自ら省る」(自分より優れた賢人を見れば、そのようになろうとこれを見習つて努力する。つまらない人物を見ては自分にもこのようなことはないかと反省する)、また「三人行けば必ず我が師有り、其の善なる者を択びてこれに従い、その不善なるものはこれを改む」と、これらはみな鑑によつて自分自身をうつし出し、これを己自身に求めたのである。これも又修子が自ら反て自ら覚り、自ら深く徹証すべきことである。 
『道心』
道院では修道するという言葉を多く使います。
道慈綱要大道編の中に道の字義、理には甚広でまた極めて精緻なる意味が含まれていると述べています。道についても詳しく書いてありますが、その中に道の分合として道を三つにわけています。
天道・地道・人道であります。
天道とは「天は虚空を以って形をなすものである。蒼蒼たる天は虚空無物である、天は無為為化である故によく天の秩序を守っている」
地道とは「地は博厚を以って質をなすものである。すべて一切萬物の成長を収蔵する。つまり地は道の至寧を得て地の生を主どっている厚徳の生である。」
人道とは「人は天と地の道を兼ねそなえ以って化生の体をなす。人は天と地の中に居り、道の至霊を得て萬物の霊長となしている。」
天と地と人をつなぐものが道であります。
又、人の心には魂と魄があり、魂は性を主どり魄は情を主どり善悪が分かれると訓にあります。
性とは先天の三宝の一つであり、道心とは魂の性のことであります、それは人の誰しも持っている良心であり善のことであります。
簡単にいうと人としての道徳であり慈悲の心であります。
修坐や誦経に於いても道心を堅持してなすことが重要であります。
人心と道心について述べた訓文があります。
尚書に示されている十六字の心伝、すなわち「人心惟れ危く、道心惟れ微かなり、惟れ一、允とに厥の中を執れ」を体得するには、必ず先づ人心と道心の危微の間において恐れ謹んで戒しめなければならない、それは従来天理が欲望の障りによっておおわれやすいことは明白である。
程子が言うには人心とは即ち人欲であり、道心とは即ち天理であると。そもそも心とは一つしかないのに、どうして二つに分けるのであろうか。それはその天理にしたがうものと人欲をほしいままにするものとによって。その名称が二つになるからである。
いわゆるこれ(この心)を操りて存するようにすれば即ち義理が明らかになり、これを捨てて亡ぼせば即ち物欲をほしいままにするようになる。人心もこれを収め回すようにすればすなわち道心となり、道心もこれを放矢すればすなわち人心となる。人心もその正を得るものは道心となり、道心もその正を失うものは人心となり、初めから二つの心があるのではないので、ただこの心の中に人為の偽りが雑っているか否かによって天と人と、理と欲が分かれてくるのである。
方寸(心)の間においては理と欲は並び立つことができず、刹那の念においても霊明となるか、それとも昧まされるか、自らその趣きを異にするのである。これを推して言へば義と利、公と私、正と邪、清と濁も、始めはほとんど微かな差が、終には天地の隔たりとなる、このようにその移り変わりや出入りの機とは、本来この心にねざしているのである。
そこで聖人の聖たるよゆえんは、それはただその心が天理に純粋であって人欲がないからであり、又道を学ぶ者が、その心が天理に純粋であって人欲がないからであり、又道を学ぶ者が、その学ぶゆえんも又たこの心心の人欲を取り去って天理を存することにあるだけである。この故に省察(心の動きが天理か人欲かを省察する)、克治(己自身の私欲を克服して邪念を治める)、在養(その心を操りて捨てることなく存し、その性を害なうことなくこれを養う)、拡充(拡大して充実させる)することは修子が己自身の問題として切実にして篤実に功夫を用いなければならない、これを実際に試練と体認を経ることによって潜伏している私欲の根を取り除くようにつとめれば、天理の精微は日に日にその真を現すようになり、長期の間に工夫が純熱してくれば、主宰がつねに一身に厳として存立するようになるのである。
それはあたかも舟に舵があるように、又網に綱があるように、一を提起すれば即ち一切を覚り、一を挙げれば全てを収めることができるのである。心を以て境(客観的待遇)を照らし、境を借りて心を練り、真を以って幻を破り、幻を借りて真を修め(肉体を借りて真心を修める又幻の世俗を借りて真実を修める)、道理を以て物事に応じ、物事に借りて道理を証し、その原因によってその結果が得られることを慎んで、その得られた結果を借りて反省し、その悪因をつくらないように始めを慎むのである。そして人欲によって擾すことができず、事実によっても怯やかすことができず、患難によっても動くことなく、富貴によっても惑わされることがないようにする。
そこで物は自ら物であり、我は自ら我であり、物によって我が動かされることなくして、物欲が全て滅び、しかして後にこの境地に至る、この境地に至れば自ら道と合うするのである。
ただ身は後天に生まれてきて、六根は六塵に相接し、世俗の共通の弊害は多く蔽われることを憂うるので、それは人欲の私心に蔽われ、天理の正しさを眛ますと、その道心の微を明らかにすることは難しくなり、人欲に蔽われると自ら人心の危きに陥いるようになるのである。
これはたとえて言えば稲につく虫は稲より生じて稲を害する。又ぶよという虫はすっぱいものより生じてすっぱいものを敗なうのである。このように欲望は心より生じるが、その心を蔽うものも欲望である。そこで霊智はだんだんと喪なわれ、魄惑がはびこってくるのでそれは一念が眛まし蔽われても自覚しないことによって、ついに生涯苦海に沈んで救うことができなくなるのである。
故に筍子の解蔽篇において、蔽い塞がるところの禍と蔽われないところの福とを挙げて人心の危きと道心の微かな幾を探っているのは心術の患を指摘し、これによっても禍が来るのは人が自らこれを生じ、福が来るのも人が自らこれを成すということがわかるのである。禍と福は同門であり、利と害は隣り合わせであり、すべてはこの心の欲をすてなくして天理を明らかにすることにあり、自らその心中に蔽われているものを解き放つことが実は人心の危と道心の微の枢機(かなめ)であり、禍と福のキーポイントでもある。
かつ又それは天が自分に与えてくれたもので、外からつけ足して加へたものではないのである、明らかにこの天理を得ることができれば、即ちそれが一生の主宰である。しかし、初めには本来善性を具えていても、それが後天の習性によって移り変わり、悪習に染まって権利を争うことのみ知って道の本を知らず、誠でなくなり、相互に相結んで偽りを為し、世俗の幻縁にとらわれ、私情にひかれ、六塵によって六識が汚染されて、それが濁の障りとなっているのである。
すべて財貨利益名誉地位、貪り嗔り、愚痴、煩悩、愛欲などは一たびこれらに執着すれば、自ら迷網に堕ちいり、これらに対しつねに欲望をもってこれを求めようとすれば、徒に障阻によって眛まされることを増すことになり、そこで本来の面目、固有の霊明は殆ど蔽われてしまい再び現れることができないのではなかろうか。
天理が人心にあることは、あたかも物体に元気が宿るようなものであり、元気が充実すれば邪気が消失し、邪気が退けば元気が復活するのである。天理と人欲の消長も又このとおりである。たとえ邪気が侵したとしても、元気が未だ渇きていなければ、いぜんとしてその生命の原を復活させることができる。たとえ人欲に蔽われていても、未だ天理が絶滅していなければ、陰湿暗黒の中においても、たまたま平旦清明の象が現れるのである。
物欲が一時的に停止して平静になった時には、ひそかに心に不安を感じ、顔を赤くして自らが恥じるのは、天理が時たま発動し、時にその一端を現わすからであり、このように天理があらわれたり啓いたりする機とは、本来生まれると同時に授かって来た天理良心であり、それが自分の不正行為を許さないのである。そこで、その桎梏(物欲による手かせ足かせ)を取り除き、その垣根を除去し、その塞がっているものをえぐり出すことができれば、もとより長期にわたって心を蔽っていた人心の欲望という偽心を一息の間に打破することができるのである。
とりわけこの天理を拡げてこれを充実させることを貴とび、ついでこれを推進するので、それはあたかも江河の堤防を決潰して、その水がごうごうとして猛烈な勢いで流れて、これを防ぎ止めることができないように進めていくのである。篤く道を修める者は、時々に人欲を去って、念々天理を存するようにし、功候が精純となれば、人欲のかすはすべて消へてしまい、進んで真源に調達し、潜かに通じ妙に合し、はじめて心即ち道、即ち人即ち天、心の欲するところに従って矩を踰へずという境地に至ることができるので、これが始一貫の徹底した徳を成し聖となるところの修練である。 
『神仏の加護』
最近ふと目にとまった昭和43年の月刊誌の記述があります、それは、
「尚道慈に精進すれば三代五代前の先祖が救われ三代五代後の子孫迄に福慶を蒙ると云われますが、昨年九月十七日北京で帰幽(享年61才)された清朝宣統皇帝(旧満州国康徳皇帝)は満州国帝位在任中、世界紅卍字会満州国総会の一修方として道名を『浩然』と賜り、道慈に尽力された功により九代の先祖が救われたと云うことは有名な話ではありますが…」です。
宣統皇帝とは、清朝最後の皇帝であり、後に日本の帝国主義によって建国された満州国皇帝溥儀であります。「ラストエンペラー」という映画にもなりました。
私はかねてから皇帝溥儀も道院の修方ではないかと思っていました。それは満州国ができその時溥儀の希望で宮廷通訳官になったのが林出賢次郎先生であり5年もの間その要職にあったからです。林出先生は中国で道院の高い道職を拝受しており、又戦後の日本紅卍字会の最初の統掌でもありました。
林出先生と道院の出会いは道院が創立されてまもなく大正十二年関東大震災がおこりその時、南京総領事であった林出先生が日本への支援物資を仲立ちしました。これを機に道院と大本教の出口聖師との縁をつなぐことにもなったのでした。林出先生のその頃についての手記があります。
「私が初めて道院に参拝して、フーチの神示を見ましたのは、大正十二年九月 南京下関の江寧道院でありました。私が参拝した時は恰かもフーチの神示の下って居る最中でありました。私が案内されて其室に入ると間もなく、私に対する神示が出て 七言の詩を賜りましたが、其私に賜りました神示の詩に『林使、今来って参観するのは深い因縁のあることである・・・』とあり
又、詩の後に『三島(日本)は旧遊、自ら還るべし・・・』とありました。神示の詩を頂いた当時は三島は旧遊云々の意味が能く判らなかったが、徐福の霊筆によって大幅の画を賜った後、三島は旧遊と言うのは、二千年前、我が霊が中国人として生まれ徐福の一家又は徐福の大探検隊に加わって海を渡り、遠く日本に来て紀州熊野浦又はその他の海岸に上陸し、遂に中国に帰らず日本に永住したのではないか・・・、そして今その霊が日本人として紀州熊野浦に近い所に生まれ青年時代から中国に渡りたいと希望してその目的を達して中国に渡り多くの中国人と親交を結び紅卍字会の信徒となり、老祖(至聖先天老祖)の弟子として道名を賜り、徐福の霊から大幅の画幅を賜ったのではないかと考えて見たことがありまた徐福とは始皇帝により不老不死の仙薬を探してくるように命じられた後に三千人を伴って蓬莱山に向けて航海したが再び戻らなかったと伝えられています。
又林出先生は日頃から常々 観音経をよく読経されていたそうで、神仏を篤く敬っていたと思います。
皇帝であろうと一修方であろうとも
神仏の加護は日々日常の心構えが大切です。
道徳精華録の中に次の訓があります。
大道は精神を重視して形式には重きをおかない、実行を重視して虚礼には重きをおかないものである。
そもそも聡明正直なるを神と謂うのである。故に神は善人の善事を為すをはげまし賞し悪人が悪事を為すを懲罰する所以である。人は神に対してはただひたすら崇めうやまうべく けがすべきではない。また真心を以って信じ奉るべく、迷信すべきではない。もし汝が能く困窮の人を救済して、危急な事態を助けたり、悪心を戒め悪事を除去して専ら善心をもって善事を為すことが出来たならば汝が必ずしも神箔を焚いて祈祷しに来なくとも神霊は自ら暗黙の中に於いて汝を護り助け汝に幸福を下賜されるのである。
仮に若し汝がただ頭を地につけて礼拝し焼香して神霊に対しておもねり媚びへつらいただ虚偽的に功徳をたたえて善く祈祷をすることのみを知っていても、義を見ても仁義のことを為さず、悪性をたよって悪心を改めず悪事を除去しないのに神霊が汝の焼香と祈祷を接受して汝にえこひいきして助けに来るとしたならば、これでなお聡明正直の神と称し得るであろうか。
凡そ吾が道院へ入修した各弟子は、必ず老祖様が普ねく衆生を救済せんとする心を以って心とし、善事を実行することを修道の根本としなければならない。
香火を焚く等の事に至っては必ずしも重要なことではないのである。道院の各弟子は勤めはげんで戒め慎しすを慎しむことを肝要と為すのである。 
『達人の心得』
私は武術はしませんが以前テレビで合気道の達人の演舞を観た事があります。数人あるいは10人以上の相手をいとも簡単に触れるか触れないと思いきや投げ飛ばしていました。
合気道の開祖は植芝盛平という方ですが道院の修方でもあります。植芝先生は、数々の武術を習得いたしましたが大元教の信者でありました。出口王仁三郎先生が中国満州に布教に行かれた時随行もいたしました。その時の逸話に、飛んでくる銃の弾丸の軌道が白く見え簡単に避けたと言われています。「合気とは敵と戦い、敵を破る術ではなく世界を和合させ、人類を一家たらしめる道である。」「合気とは、各人に与えられた天命を完成させてあげる道であり、愛の道である。」とも述べていたそうです。
また、インターネットで「道院」を検索すると日本少林寺拳法のサイトが検索されますが、各道場を道院と名乗ります、かつてその教義書の中に道院の名前の由来が中国済南に発祥した精神修養団体によるものであると書いてあった記憶があります。まさに紅卍字会であると思いました。日本少林寺拳法の創始者は宗道臣という日本人であります。宗道臣著の「少林寺拳法奥義」という本の中に宗氏の生い立ちと思想が書かれています。
少林寺拳法は武術ではありますが、その根本には正義と善の教えがあり、弱き者を助ける慈悲の心、仏道を説いています。宗氏自身が道院の修方であるかは定かではありませんが、宗氏の拳法との出会いは18歳の時中国大陸で陳良という老師の弟子となり中国武技にふれたことに始ります。又後に一.二年の命といわれた病を陳老師の医法によって救われ、そして数々の拳法を学び崇山少林寺本山の伝法の印可を受けたのでした。
この本の中でダーマという言葉が出てきます。
「ダーマは見ることも聞くこともできない存在であり、また祭祀の対象や礼拝の対象になり得るようなものでない。しかし、目や耳で認知することはできなくともそこになんらかのはたらきの存在を直感することができる。ダーマとは法則 真理 全宇宙を統一する力 正義 最高の存在などの宗教的、道徳的、社会的、倫理的の意味に用いられている。要約すれば宇宙最高の真理であり、最高の秩序であるということである。それはまた宇宙に存在する一切の現象の根源となっているものである」と述べています。達人の真髄は心の鍛錬と修養にあるのでしょう。宗氏が道院と名付けたのも、心の修養を重じ慈善を行っていた当時の道院のことをよく知っていたからだと思います。
この本の中にまた、宗氏の師である陳老師は軍閥の流れをくみ呉佩孚将軍の下で行動されたこともあると記述されています。呉将軍は有名な人物であり、道院の修方であります。道院の経典太乙正経午集の巻末にも張作霖と並んで道名と氏名が記されています。
笹目先生の本の中に呉将軍について次のような文章があります。
北京道院に属していた王鉄珊先生を、人よんで王鉄老と敬称していた。ある時“開封”に行ってこい、との壇訓があった。
開封!何の御用かあって行くのだろうか。その用命の内容については、何も示されていない。ただ行って来いというだけである。
考えに考えを練った結果、開封に道院を創れということだナ、と思った。しかしながら開封には誰一人親しい者もなく、何の手がかり脚がかりもなかった。
どうしたらよいものかと王先生は日夜考えぬいた。フト思い浮かんだのは、呉佩孚将軍の相貌である。この人は中国屈指の有力者であると同時に、仏教信者で有名である。中国仏教の会長であって、その宗教的会合に於いて二三度会ったことがある程度に過ぎなかったが、その呉佩孚将軍が開封督軍として河北個師の指揮監督権を有し、地方軍閥の実力者である。
とにかく行ってみよう。と考えを定めた王鉄老は、北京を発って京漢鉄路を、開封に旅立ったのである。
督軍公署の大看板のある衛門を訪ねると、銃剣の衛兵が毅然として起っていて、便服の一介の素浪人王鉄珊が案内を乞うには、あまりにもいかめしい衛門であった。入るにも入り難く、去るには忍び難い神命を胸に抱えて、行きつ戻りつしていると、衛兵からとがめられた。そこで王鉄珊は素直に言った。
「こんなみずぼらしい格好で、信じて貰えないかも知れないが、私は仏教会の会合で、しばしば大将軍にお目にかかっている者ですが、重要な問題を提議しようと思って、北京からわざわざやって来た者ですが、大将軍に王鉄珊という者が参った、とお取次ぎ願えないでしょうか」、と真心をこめて一平卒に過ぎない巡邏の衛兵に申し入れたのである。あたり前ならば、一喝の下に追い返されるのだが、不思議にもその巡邏兵は、門衛の日直将校に取り次ぎ、日直将校も亦素直に副官部に伝達したのである。王鉄老は、しばらく衛兵所に待たされたが、やがて呼び出されて案内兵に随行して中門を入ると、接待室の一室に通された。ここで待つこと久しくして副官が現れて用件を詳細に聴取された。
「燕京(燕京とは北京の古名である)の仏教会において、大将軍の尊顔を拝することしばしばですが、たまたま私用で当地に参りましたので、大将軍のご機嫌伺い方々、宗教上の問題で、大将軍のご教示を仰ぎ度い、と思って立ち寄った」と淀みなく副官に来意を告げた。
奥に消えた副官は、再び姿をあらわして王鉄珊を、呉佩孚将軍の居室に導いてくれたのであった。
王鉄珊!宗教上の問題って何かね、と尋ねられた。そこで王鉄老は一呼吸した上で、私は本来仏教徒でして、将軍の主宰する会の一員として、真面目な信仰を続けて居りますが、この数年来ご承知の済南に起こった道院の主唱する、天唯一神、至聖先天老祖の偉大なみ教えにも深く傾倒しているのです、と道院信仰の実体について縷々として述べたのであった。王鉄老は元来、弁舌の豊かな人ではないということは、定評の人である。その人が、仏教哲理にくわしい有数な時の権勢呉将軍の前で、何をしゃべったというのであろう、自分自身もさっぱり覚えていない。然るに将軍は応えいった。
王鉄老!若冠にして吾は釈尊の教理に開眼し、仏法の尊厳は知ってはいるが、未だ神威を知る機会はなかった。恰度今、この北支一体は大旱魃に見舞われ、この冬三尺の積雪を見ることが出来なければ、春耕は望むことが出来ないと、官民共に嘆声をあげている時だ。それ程偉大なるご神威の出現を説くならば、断固そのみ力の顕現を示して貰い度いと思う。若しこの目、この体を以って感得することが出来たならば、呉一個の力をもって、この地に大道院の創設を引受けよう。と、力強い言葉を聞いたのであった。だがその将軍の言葉の裏には、王鉄珊のひたむきな新興宗教礼賛を嘲笑するようなひびきが無いでもなかった。けれども王鉄珊は素直に将軍の言葉を腹中に納めて督軍公署を辞去し、その夜のうちに京漢線を北上し、北京道院に帰り着くと、正位ご神前に額づき、呉佩孚将軍との対談内容についてご報中を申し上げたのであった。
御神前を離れて道院の門前に起つと、摩訶不思議!チラホラ雪が降って来たではないか。厳然として王鉄老は門扉の逆木に腰を下ろし、食うことも飲むことも忘れて、一毛一厘と重なり積んでゆく雪を眺めて、夜を徹したのであった。一昼一夜にして積雪はなんと、六尺(二メーター弱)にも達したのである。
保線区の分担において、最大の人力を用いて除雪作業の結果、数日後にやっと開通した。
王鉄老は、再び監軍公署を訪れて呉佩孚将軍に閲したが、ただニコニコと笑顔を見せただけで何をいおうともしなかった。
呉佩孚将軍は言った。王鉄老 余は完全に貴下の軍門に降った。いや、貴下の説かれるご神威の前に膝まづくこともやぶさかではない。雪解けて民は春耕にいそしむ芽出度い頃、吾等は、約束通り宇宙最高神の道院創り始めよう・・・・」と。
かくして開封道院は出来上ったのである。 
『人生の借金』
先日の勉強会で経典の中にすい面盎背(すいめんおうはい)の詞を見つけました。以前東京総院の統掌であった青井会長が香港に参拝した折、フーチですい面盎背の相を現していると会長を褒めていました。その時はあまり語句の意味が分かりませんでしたが、演経録の注釈によりますと
「君子の本性とする所の仁義礼智は心に根ざして それが外に現れるや、清和潤沢の徳貌がその顔面にあらわれ、その背にあふれ手足にいきわたり四体はものを言わないが見る人は徳のあることがわかる」とあります。青井会長は終戦の時、真経一冊をふところに戴き着のみ着のままで大陸からひきあげてきたそうです。難難を乗り越えたお顔はいつも温和で温厚でありました。
また、同じく統掌の話しですが、台湾の古い資料に聖哲嘉言禄があります、その中にかっての中国の桂林道院の統掌であった方が台湾の高速道路で事故で亡くなられた呈判文がありました。
私は道院の長である統掌が不慮の事故で亡くなるのは意外に感じましたが。フーチでは過去の却よくない因縁を消すものであるとありました。すべてを因果因縁とみなすことは出来ませんが、目に見えないものを理解するのはとても難しいことです。
笹目先生がした話に、先生が東京道院で実務や道院の資料の翻訳をしていた昭和40年代に総院の事務をまかされた熱心な古い修方が道院の帰途 路上で倒れ他界されました、先生はこの時、道のため誠心誠意やっている人が、このような死に方をしてよいものかと強く思われたそうです。俗に日本では人を見下すときに「畳の上で死ねない者」と言います。その時の呈判文は天に抗議する気持ちでその修方の帰道した文面を書いたそうです。その時フーチによる訓示は次のものでありました。
誠修は帰道した。
生前、日本の道慈に服務し、ここに五年、心を尽くし、力を竭し、一切の打撃を甘んじて忍び、能く修めて怠らなかった。功行の在る所、枢冊では、時に応じて記録をなし、消えることはない。ここに日本の習俗では、道路で急病死したものは不善の人であるといい、又不善の結果だというが、それは未だ因果劫数清算のわけを知らないからである。
ここに。
老祖の命を奉じて、大略解釈しよう。吾々はこの世に生まれて、各聖神仙仏が発願して、世を救い人を渡うために、この世に降って生まれるような特別の人を除いては、皆輪廻にしばられているのである。「その人の因果の軽重多寡は、自然の原因があって自然の結果を得るものである。それは定まっていて変えることはない。」
たゞ、大善、大悪の者は改め、変わることがある。袁了凡は、自分が親しく身体を以て実行し、経験したので、善をなして定数を化すことの実際の証拠を作ることが出来た。言葉を換えて言えば、人生は誰でも、マイナスの因縁を持っているものである。冤罪を受ける債務、子供に対する債務など、知ってる人もあろうが、その他にもいろいろある。すべての友人に遭ったり、夫婦親子が一緒にいる事も、皆、縁があってのことである。だから、どんな痛苦困難があっても、また喜びや怒りを受けても、そこには皆、吾々の知らない原因があるのである。
例を挙げると、因縁債とは、男女の、癪、嗔、貧、恋、を包括し、追討債とは、金銭物資のだまし、ごまかしを包括し、痛苦債とは、気が不調で、お互い争い、罵り合い、憂うつ、不安になることを包括し、又生命債は、最も厳しい惨酷な打撃を受けて、その為に魂までも散らばってしまう事もある。このようにいろいろあって、いちいち例を挙げるわけにはいかない。
道を修め慈を行い、功を立てて行いを善くする。そして因を免じて、侯を進める。因を免ずるとは、過去のすべての因を免ずることであり、侯を進めるとは、修悟の功侯を進めることである。功侯の成ずる所があっても、前世からの悪い因縁が残っておれば、必ずそれを清算した上で、はじめて果位をいたゞくことが出来るのである。
一方に自分の努力があり、もう一方に、仙仏の援けがある、然し、その差がひどすぎると、仙仏もまた、愛していても助けることが出来ない。たとえば、ここに五千万円の債務があって、現在、五十万を支払った。そしてその数を清算しようと思っても、人間の裁判官でも赦、許すことは出来ないだろう。そして仙仏も、よく私を曲げて、之に従うことが出来きようか。智者を持たなくとも、明らかである。
今、誠修は、道に倒れるという却に応じて、因果の数を清算した。だからその功を奨することが出来たのである。必ず、この災難に合わして、因果ある所、こういう風にしなければ、輪廻をのがれて、清算することは出来ないのである。 
『道院の法門』
私が以前、済南母院を訪ねた折、次の目的地は済南から南へ60`の泰山でありました。泰山は五岳の筆頭で最も有名な山ですが、昔中国で皇帝になる時に、天と地の神々に天下泰平と人々の平安を願う封禅の儀式が行われた山であります。万里の長城で有名な秦の始皇帝や歴代の皇帝も封禅を行いましたが始皇帝以前にも72人の皇帝がこの儀式を行ったとされています。
道院の伝経が済南であるのも泰山とゆかりがあると経の中に示めされています。
人々の平安を願い祈ることは、どこの宗教 宗派でもあり、何千年前から脈々と続いているものです。道院の主旨には『道院は劫を化し他を救う為に設けられる』と、修坐須知の道旨簡言に述べられていますが、修道の基本は自分を磨き清めながら人々の平安を願うことと思います。また道院の主旨について古い訓文と道院の法門である坐と誦経についての訓文を示したいと思います。
老祖、訓。
道院は宗教なるや、曰く、非なり。宗教なるものは、宗に専らする所あり、教に依る所あり、只これに宜しくして彼には宜しからず、之れを宗教と謂うなり。
道院なるものは自然を以って帰依と為し、平易を以って習慣と為し、己のすぐれたるを誇らず、他人の短所を云わず、人の修するを強いず、自己の善をあらわさず、故に行くにも自然にして、止まるも自然なり。我は良く、人が悪いということなく、また人は善く、我が悪いということもない。
要するに善を以って、人と同じくする主旨で、およそ行う所あって善道に相合するものは皆我なり。
故に道院の設立するは、則ち世界宗教の純粋の意義を研究して、本源の一に復帰する場所の意であり、いわゆる統一して、これを教化するものではない。
各修方が若し能く世界の善修の士を集めて一箇所に聚合し、共に一正の帰する所を明らかにすれば、随処を皆道院と為すべきである。
黙真人訓。
坐と誦経は、修悟の本と為す。修悟は、成功の階段と為す。坐して悟らなければ、枯禅(頑空と同じ)に流れ何ものも無い。その理を悟っても、坐さなければ、空論に等しい。
故に必ず、須らく相輔けて並び進むべきである、蓋し、坐は実際に体験するためであり、悟りは天機をひらく道だからである。坐して恒があり、誦経して能く心が堅ければ、天機が活発になるのみでなく、知慧は増々益し、功養功候は、時と共に日に新たになる。坐は能く後天の汚染を洗滌し、気質を変化する。
誦経は能く其の心を定し、その気を養い、其の霊を清め、その炁を充たし、衆霊を老祖様の心に合しもろもろの劫を無形に化するのである。
誦経には、このようなはたらきと効果がある、その理は何処にあるか、吾々は誦経の時、心に他念があることをゆるさない、雑念の兆しがひとたび起これば、すぐに誦み間違える。無論、経文をどんなに熟練していても、皆このようである。
ひとたび間違った時には、たちまち警め覚えり、雑念の兆しを放棄して、継続して経文の接続の所を尋ねあてて誦みつづけるのである。
こういうわけで、心を放つことの出来ない。ひとたび放しても、すぐに取り戻す。こういう風に誦経して久しくなれば、自然に集中し、無心に集中することが出来る。
無心に集中出来れば、即ち形にとらわれる所が無く、気はこれによって養われ、更に心は集中する。霊はこれによって凝り且つ清く、炁はこれによって充実して化するのである。
清充の炁と気を以て、濁って悪い乱れた気を化すれば、万劫を無形に化することができる。然し濁った悪い気は、自身の身に多くある。そしてそれが外の汚れを引く媒体となる。
故に衆生の劫を化そうと思うならば、必ず先ず自分の悪い気を化さなければならない。
然らざれば、即ち薪を抱いて火を消すようなもので、人を救う所ではない。自分も一緒に燃えてしまうであろう、自分の身の濁りや悪い気を化すには、坐誦でなければ功がない。 
『修坐と毒素』
修道には本来他に妙は無く洗心浄慮(心や想念を洗い清める)を先となし、明心見性(心を明らかにして本性を見る)することが真の悟りであり、そしてはじめて一片の清霊が現れるのである。これはかって観音様が南京の女社でフーチで示さた一節であります。洗心浄慮とは、その心を虚にすることを以って基とする。虚であれば霊となり霊であれば真心が現れるし、元性が生じてくる。これが即ち明心見性の一端である。見性の性とは一片の空明で虚々渾々として、明らかに一物もない、これが性である、とも述べています。そのため修道には修坐により修心することが重要であるとされます。修坐は心を明らかにするだけではなく、身体の健康に対しても良い影響をを及ぼすと思われます。現在の医学や医療の進歩はすばらしいことと思いますが、病の治療よりも病にかからないことを誰もが望むでしょう。古い訓文ですが参考になれば良いと思います。
毒素という名称は早くからあり、先賢の医者は、病人の頭の頂きから足の先まで、いかなる部分であろうとも毒素の網がひろがったものを、即ち死症と名づけており、これに病名をつけることができないので、ただ、毒素と言っていたのです。
現代医学が盛んになって、五十年前に毒素を癌症と名づけるようになり、世界の各大国では財力と人力の限りを尽くして、この種の不治の病症を征服しようと取りくんでいます。癌は究極のところは、未だに正確に判明していませんが、一般の専門家は癌症と居住の環境及び酸素の欠乏が関係あるということを一致して説明しています。
空気のきれいに澄んだ農村には癌患者が少なく、工場の煤煙や自動車の排気ガス、及びその他の原因で汚れた空気の都市において癌患者が特に多いのは、人体が汚染された悪い空気を吸収すると、慢性的に血液中の酸素を破壊する原因となるためと思われます。
そこで、まだ特効薬が発明されていない現代では、人はできるだけきれいな空気と酸素の欠乏による危険性を充分に注意しなければなりません。
都市と農村に住む人の違いは、勿論、空気によるものだけではなく、考え方や享楽もまた異なっております。かつて農村の人は、田を耕したり遊牧をして、太陽と共に起きて働き、太陽が沈むと休息をとりました。粗衣粗食に甘んじ、享楽に対しても淡白で、労力を用いることが多く頭脳を用いることが少なかったのです。したがってこのような環境や生活状態のもとでは癌症の発生が特別に少なく、たまたま発生することがあっても、それは必ず特殊な因素があるのであります。
そこえゆくと都市ではそうはまいりません。一言でいうならば、都会の人間は何事も極限のトコトンまで消耗し尽くすのです。それは思考・妄らな貪り、享楽、趣味嗜欲を問わず、たとえ幻想であっても頭脳の限りを極め尽くすのでで、心身はこれらの負担に耐えることができない状態にあります。
富貴な人は、その富貴をながく維持しようとして、いろいろと思いをきわめ尽くし、貧困の人は、生活のために思いつめてあえぎ苦しみ、商人は利潤の追求にあくせくとし、技術者は技術の発展のために頭脳を酷使し、日雇い労働者はその仕事や賃金のために常に不安をおびえ、その他の職業の人々も、大きな災いに直面しているかのように、つねに緊張しているのです。
これらの環境や精神状態、さらに人身全体を機械に例えてみますと、みな余りに高速度を出していて、馬力の限界と、一定速度の熱エネルギーを超えてしまっているのです。そこで大量の酸素がつねに消耗されることになるのです。
従って憤りや怒りによって肝が傷なわれると、肝の神経細胞が正常でなくなり、酸素が欠乏すると肝癌症になるのです。飲食に節度がなく規則正しい食事をしないで、暴飲暴食をほしいままにしている人は、胃の細胞が正常でなくなり、酸素が欠乏すると胃癌になるのです。
その他については類似点によって推察することができるでしょう。
人身の肺は清虚で華蓋の府と言われ、一身の気化(気のはたらき)をつかさどっているところです。化学では、肺は酸素を吸入して動脈の血液を新鮮にし、炭酸ガスを吐き出して静脈の汚れを清めると言っていますが、道理はみな同じです。
わが道院の静坐は、清・静・平・黙によって、正常にして正しい軌道である自然の気の運行に適合することができます。そして私心を少なくし、慾を少なくして大脳の中枢神経を健康にすれば、肺の清虚なはたらきが能く行われるようになるので、全身の細胞や血液に酸素を十分に補給することができるのであります。そこで水火(陰陽)は相済い、六根六塵による汚染は取り除かれて内蔵は損傷を受けることなく、一切の疾病から免れることができるのです。
故に静坐が病から身を守り、寿命を延ばすことができるのは、静坐の最小限の効果であります。
大脳は身体の中で最も大切なところです。科学でも明らかにされているように、大脳皮質は神経の最高の中枢であって、人身の一切の神経や内蔵諸器官のすべてを主宰し指揮している箇所です。
もし、いずれかの部分に少しでも具合の悪いところがあれば、その部分を管理する神経が上に報告します。それが段々と上の方に伝えられて中枢である大脳に達します。大脳は重症か軽症かの程度を判断して、たちどころに処置の方法を決定し、それぞれの部分に命令を送って、その具合の悪いところを処置させます。その的確な判断と迅速な処置は、到底われわれの想像の及ぶところではありません。
どのような病気にかかろうとも、みな自然の療能がその治療をするのであって、薬を飲むということは、自然の療能を助けて苦悩の時間を短縮するのです。
もしかりに大脳皮質のその部分に疾病が起きれば、薬も滋養のある食物も共にその効果を期待することはできなくなります。
大脳皮質はこのように全身の神経と一切の部門を主宰しているだけではなく、人間の考えや聡明な智恵も司っています。したがって人間の考えや七情六慾、六塵六根はみな大脳の平静に影響を与えます。大脳の平静が失われれば、ただちに炁・気・霊・神はみな影響を受けて、その受けた影響の程度に応じて、疾病の状況も左右されることになるのです。
わが道院の静坐は、その大脳の平静を求めることによって、全身の神経や内蔵諸器官の働きを平静にもどし、脳髄や筋骨、気血、細胞を強壮にし、さらに先天の炁と後天の気の運行を自然に霊妙にさせるので、それによって先天と後天の三宝(炁霊性、精気神)は健全に保護されて、重大な不治の疾病が起こることを根本的に取り除き、また予防することができるのです。そこで静坐によって大脳の平静を求める努力精進が適切であれば、病を退けて長寿を保つことができ、またつねに身体は健康でいられるのです。これもまた静坐のもたらす最小限度の効能であります。 
『王性真先生の真骨頂』
王性真先生は、中国の道院が日本の大本教と提携した後に
東瀛布道団(檀訓の中に、しばしば、この瀛の字が出て来るが「おおうみ」をさいして言うのであって、東瀛は即ち日本の意である)が組織されて、昭和四年に、日本に大道宣布のためやって来られるのだが、王性真先生がその団長に任命されたのである。肩書きは東瀛道慈宗主とあって、大本教の出口王仁三郎先生を頼って大本教の京都綾部に来られたこともあります。
この時笹目先生は布道団の接待係を仰せ付けられていたそうです。その折りフーチで書画が絵描かれた壇があり、その時に果物がいくつも書かれ百果雑陳、取捨随意 。と書がかかれ秀和に賜う示され、この時にはからずも笹目先生は求修せずに道名を拝領したそうです。
王さんという人は、学もなく、財もなく、若い時から苦労を重ね、たたきあげてようやく四十、繭商いをやって、二・三万の金が蓄えられるようになった。そのとき、安東(朝鮮と中国の国境にある町)のキリスト青年会の一牧師が訪ねて来て、“今度キリスト青年団が発起して、青少年の職業補導所を造りたいと思うのですが、出来るだけでいいのですが、ご寄附願えないでしょうか”と、いってきた。どれ位かかるんだと聞いてみると、二万円集めたいといった。彼は三万足らずの貯蓄の中から、欲しいという金額二万を投げ出した、一ぺんに資金が出来たその青年牧師は、大喜びでその職業補導学校を造り上げ、王さんに是非キリスト教に入信して呉れとすすめるのであった。ところが王さんは“俺は神さんのあることを信じない”と断った。
どうして信仰を持ってないあなたが、このような多額の金(現在に換算すれば三千万円以上)を寄附する気になったのかを問うてみた、すると王さんは、世の中のため、人の為になることは、なんでもしたいと思っているだけのことだと”と答えて、ガンとしてキリスト教に入ることはだけは断った。このことが評判になって間もなく王さんは、安東の商業会議所の所長に選挙されることになる。仕事はつぎつぎに与えられ、すること為すことが、トントン拍子に進んで儲かってゆくが、王さんは十万円を貯蓄すると、それ以上のものは田舎で百姓をしている二弟三弟に分け与え、弟達の財産を作ってやると共に、社会奉仕を思い切りやった行った人である。
満州(今の中国東北三省)の王者張作霖にも認められて、官営の銀行以外に、辺業銀行の設立を命ぜられたりして、その手腕と人柄を広く買われていた。
満州事変(日本と張作霖満州政権との衝突)の直前、北京道院の程妙因先生が訪ねて来て、安東に道院を創りたいと王さんに相談をするのである。
“神さまのあることは信じられないが、人のためになることをするということなら、微力を尽くましょう”といって、王さんが発起人となって、安東道院は直ちに創立されるのである。そしてその開幕祝典の乩壇において、主神老祖が降壇され、王さんに十二年の寿命を賜ると仰せられたのである。
間もなく王さんは、足に「よう」が出来て満鉄病院に入院した。幾度か手術しても膿が止まらず痩せ細って、医者は手の施しようがなく、いわゆる匙を投げた。あらゆる漢方医も断念し、易を見てもらっても、最早生命は無いとのことだった。
老祖さまから“十二年の寿を賜る”と恵みのお言葉を頂戴して、まだ七〜八は残っている筈だが、神様の言われることにも、時にはくるいもあるものかと思いながら、細りゆく身が今にも消えゆく感を如何ともし難く、空しく病床に呻吟している時、北京の程妙因さんが伝え聞いて見舞いに駆けつけた。そして「統宝」(道院の護符)三尊を取り出し、これを頂戴させた。
その日其の時から気分は爽快となり、何ヶ月来の化膿は止まって、日毎に食は進み、肥え太って来て退院するに至り、初めて神さまの存在を知ったということである。
それ以来王性真先生は、安東道院のために一身を捧げる覚悟をもって、晩年を生き抜いた人であるが、爾来王さんの精進は、他人の目を驚かすものがある。毎朝未明に道院を参拝して修坐を励み、毎朝の誦経を指導して倦まざるものがあった。
その後、満州事変の直前の事であった。弟さんの子供二人、年齢も未だ十歳前後の兄弟が、馬賊のために連れ去られて脅迫状が来た。子供が欲しかったら十万円(今に換算すれば1億)を持って来い、というものである。弟は兄性真さんに相談すると、俺に考えがあるから、その十万円を俺のところへ持って来い、といった。弟は兄の手腕を知っているから、適切な処置をして呉れるものと思い、十万円を兄に渡したのである。ところが王さんはその金を、道院の慈善事業に使って知らぬ顔をしていた。その理由は、その金を馬賊に渡せば、二人の子供は助かるかもしれないが、金は悪い方に使われてしまう。二人を犠牲にしても、より多くの人を助ける方法に有効的に使うべきだと考えたのであった。弟は泣いて子供はどうしたらよいんかと問いつめた。
“老祖様にお任せしておけばよい“といって顧みなかった。
馬賊は更に強迫状を送って来て、何日何時までに持参しなければ、見せしめの為にいよいよ殺す、といって来た。弟は更に十万円を用意して来て“兄さんどうかこの十万円を持ってゆくことを御承知下さい。といって田舎からやって来た”いよいよお前はそれを渡すつもりか、それならその金は俺から渡す“といってその十万円を預かって、又も道院の慈善事業に使ってしまったのである。
馬賊の方では“なんと金持ちという奴は銭に穢ないのだろう。見せしめのために明晩、何時殺してしまおう”と馬賊は評議一決して、その通知を出し、馬賊の親分は、その子分に命じて殺す場所を指定し、子供の看守を厳重にさせた。ところがその看守役の三十ばかりの一人の馬賊が考えさせられた。こんなあどけない子供二人を殺さねばならない商売なんてひどいことだ、これじゃ此の世でもあの世に行っても浮かばれる筈はない。よし俺はこの子供を連れて逃げ出そう、そして親元へこの子供を渡して自首したら、なんとか俺は、助けてもらえるかもしれない(当時 馬賊は捕えられれば銃殺か、しばり首だった)と考えて、山寨の馬賊たちが酒宴の後、寝静まった機会を見はらかって逃げ出した。間もなくそれが判って追跡を受けた筈なのだが、どうしたことか遂に発見もされずに、安東にたどり着いて子供の自宅に届けられたのであった。
馬賊は子供と別れるとき、俺は今から一時間ばかりこの樹の下で休んでいる。その間にお前の親は、俺に感謝の言葉を述べに来るか、警察を連れて捕縛に来るか、どっちでも好きなようにしてくれと伝えてくれ、と言い渡して子供を帰したのであった。
子供が帰って来たので、弟の一家は天にも登る思いで、早速兄の許に駆けつけ、その馬賊の処置について相談した。王さんは、その樹下に座っていた馬賊の許に馳せ参じて、礼を言って自分の家に連れ帰り、真人間の生活に導いてやったことは当然である。 
善の解明
老子の第八章に「上善は水の如し、水はよく万物を利して争わず・・・」と善について書かれた一節は有名です。
修道では善をなすことは重要であり、同様に不善を遠ざける強い意志を養わないといけないと思います。
善と不善を見分けるのに道院では六箴があります。吾が道の六箴は方無く体無し。(姿や形、一定のものがない)要は自ら修めることを以て主と為し、修めるとは潜かに修めることであり、私を去って誠を存し、人の知ることを求めず、修養が到れば自ら効果があるので事理の講論にたよるのではないと言われています。
道院の訓文にも善について述べられたものがあり、又その文章の中には呂祖についても書かれています。呂祖とは俗に言う中国八仙人の中で最も名が知れた呂洞賓のことで、道院でも孚聖(ふせい)として神位を祀られています。
呂洞賓は三度科拳の試験に落ち、とある酒場で鍾離権(しょうりけん)の目にとまります、呂洞賓は鍾離権より様々な試練や苦難を与えられ、ついには仙人になるのであったが、気が付けば、先の酒場で目をさまし、そこへ雑炊が一杯運ばれてくる。「黄梁一炊の夢」の故事として広く伝わっています。
以下訓文になります。
善は一切の宗家
北極真経に曰く、真道有るは、「善途に他ならず」、又曰う「吾が善、体を養い、吾が善、根を修め、吾が善、気を練り、吾が善、行を践み、吾が善、霊を回するに如かず」と。
こうして修養一切に関して、わが老修は能く研鑽して実行したものである。
新しい修方においては只善の一字に対し徹底して明らかにせねばならない。
或は曰う、善の字は即ちよい事をすることであると、しかし誠心のある修方にとっては、善の一字はそう簡単な事ではないと覚える。われわれ修方は、善を以て一切の宗となす。つまり善におけるその範囲を詳細に分析、解明して新しい修方のために、ここに先覚の経験やその効果の大要を分析し、諸子と共にこれを討議、研鑽することにしようではないか。
善といってもその種類は多い。
善には真と偽がある。直と曲がある。陰と陽がある。是と非がある。偏と正、半と満、大と小、難と易のように、善にして、その理は際限がないものである。
善を行うにその真理を極めなければ、いくら自分は善を実行している積もりでも、豈はからんや罪を造る事になる。
折角の努力も水泡に帰してしまう。
何をもって真、偽と曰うか。
昔、儒教を学ぶ数人があった。天目山に参詣して、高僧、普応国師中峯和尚に質問し「仏教家は善悪応報は形に影が添うようなものだというが、今、ある人は善であったが、その子孫は必ずしも栄えなかった。これに反して悪人の家が隆盛となっているが。仏説は真実ではない」中峯答えて曰う「俗情はまだ洗われておらず、正しい眼識はまだ開かれていない。善を以て悪とみたり、悪を指して善となすは、己の是非が傾倒しているのを怨まずして、反って天の応報の違いを逆うらみするのか。
「人に益することは善であって、己に益することは悪である。人が益することならば、たとえ詈ろうと、殴ろうとこれはみな善である。これに反し己れに益することは、たとえ人を敬し、礼を尽くしてもみな悪である。人に益することは公である。公は即ち真となる。己に益することは私である。私は即ち偽である。又良心に根く者は真という。他人の形だけまねるのは偽である。無為にして為すのは、真、有為(人為)にして為すのは偽である。
人に益することと、己に益することと、これをよく分解して修行上の基準とするならば、一心の妙法は、その経験と思慮によって時々刻々、簡潔にして明白となるものである。
何を以って陰、陽と曰うか。
善を行っても、これを人に知らせないことは陰徳である。人に知らせたならば陽善である。陽善は世に名声を亨ける。陰徳は天から報われる。名声も幸いであるが、しか造物主は忌む所である。名声を亨けて、若し実が伴わなければ、必ず不測の禍があるものである。
これに反し、罪無くして悪名を被せられた者は、その子孫は急に栄えるものである。
何を以って半、満と曰うか。
易に曰う、「善は積もらなければ名を成すに足らず、悪は積もらなければ身を滅ぼすに足らず」積もるということは、満つることである。怠慢は即ち不満ということである。次のような話がある。
ある娘が寺に入った。施しをしたいと思い、身体のあちこちを探して僅かに二文の金を得た。それを全部施した。この時、大僧正は自らその娘の回向をしたのである。
後日、娘は富貴の身となり、数千金を携えて施しにやって来た時、大僧正は弟子に回向をやらせた。娘問うて曰う「昔、二文を施した時、大師は御自分で回向をして下さった。今、数千両を以って施したが、大師は弟子に回向させたのは何故か」大師は曰う「昔、二文を施した時その心は甚だ真である。私自らでなければその徳を報いられないからだ、今、多額を施すと雖もその心は二文の時程、真ではない。弟子で充分である。」これは二文が満であり、数千両は半である。
鐘離 呂祖に法授して曰う、この法によって鉄が金になる。金を持ちこれを以って世を救いなさいと、孚聖曰う「何時迄も変わらないか」鐘離曰う「五百年後には元通りに変わるものだ」孚聖曰う「この弊害は五百年後の人に及ぶ。吾はそのようなことは願わない。」
鐘離曰う「仙を修めるため、先ず三千の善行を為さねばならない。汝の一言は三千の善が円満となる。善を為さんとして、善に報われないならば、至る所で成就し、皆円満を得る。若し善に執着すれば、終日勤勉能く励んだとしても、得る所のものは半満である」
何を以って難、易と曰うか。
昔、二年を要して僅かに得た給金があった。人の夫妻を全うするた為にその給金を全部与えた。又十年蓄積したものを全部他人の借金に代わって返済し、人の妻子を活かせた。さらにある老人は子供がなく、幼女の奴隷がいたが、これも郷里に帰して了った。
これは昔、為し難い処を為し、忍び難い処を忍んだので、天は福を以って特に厚く報いるのである。
富と財がある者や勢力のある者は、徳を立てることは非常に容易なようでも、それを為さないのは、むしろ自暴である。貧賎の者は礼を作すことは難しい。この難しいなかを能く為せば、それは貴いことである。
根本問題は、いわゆる難とか、易とかの問題でなくすべては、これ一心にして、善行を実践するにしても、この一心を肯うか、否かにかかるのみである。 
台湾道院・世界紅卍字会
筆者は、平成14年6月、大本・人類愛善会の青年たちとともに台湾の道院を訪れた。
「フーチ」で神示を受ける
道院が正式に設立されたのは1920年だが、すでに1916年頃から、山東省北部の浜県の県知事・呉福林が、同志達とともに役所に神壇を設け、中国に数千年の古来から伝わる自動書記法「フーチ」を用いて、神示を受けていた。ある日、呉福森と劉紹基の壇に、尚真人が降臨し、「老祖久シカラズシテ世ニ降リ、劫ヲ救ヒ給フ、寔ニ是レ数蔓年遇ヒ難キノ機縁ナリ、汝等壇ヲ設ケテ之ヲ求メヨ」という神示があり、その数日後、老祖の降臨があった。やがてこの老祖が宇宙の主宰神であり、唯一最高の真神であることがわかったという。
道院の特徴は、五教同根である。「至聖先天老祖」(正確には「青玄宮一言真宗三元紀」)を最高の存在とし、その下に釈迦、老子、項先師(孔子の師で、儒教の祖)、マリア、ムハンマドという5大宗教の宗祖を祀っているのである。ただし、この五教のみに限定しているかといえば、決してそうではない。基本的に、あらゆる宗教は全て「同源不二」のものだと考える。
道院自らは、宗教ではなく、「大道を極め、それを社会に広げていくための団体」だとしている。遠藤秀造は、次のよう説明する。
「道院の道は即ち大道の意である。大道なるものは人の欲すると欲せざるとに拘らず、先天的に此の天地宇宙の間に実在するものである。故に道院は後天的教に依つて結合された処の所謂宗教ではないとして居る」、「即ち大道の何物なりやを究めて広く之を世界に宣布して社会の改良に資し、以つて世界人類の福祉に貢献せんとして居る純真なる信仰団体である」。
道院の目的は、道徳宗教の頽廃している現代社会を救済して人倫の本源に帰らせ、自修他済によって、人類の福祉完成に邁進することである。修行して大道を把握するだけでなく、それを人類の福祉に寄与することが求められているわけである。単に真理の把握で終わらないのは、自らが救われるだけでなく、社会を救うという発想が基本にあるからである。それは、「内外兼修」という言葉に示されている。
「内修とは静坐なり。即ち己を修むる工夫なり。外修とは善行なり、即ち是れ人を度するの事業なり。内修なければ以て本を立つるなく、外修なければ以て世を救ふなし。故に二者は偏廃すべからず」。
興亜宗教協会がまとめた『世界紅卍字会道院の実態』は、次のように説明している。
「道院の趣旨は内修外行である。即ち道を以て体と為し慈を以て用と為すのである。若し只内修のみを知つて外行を知らなければ自己の独善主義となり世界人類に対して毫も益する所がない。故に自己の性霊を修めんと欲すれば必ず先づ他人の性霊を救ふを以て最大の慈行となすのである」。
天の法則を現実社会にも適用しようという道院の発想は、この世に天国を築くことを意味する。人類の福祉、すなわち慈善活動を展開するために設けられたのが世界紅卍字会にほかならない。世界紅卍字会は、道院の分身として救世済人の実際的社会的活動を担当する慈善団体にほかならない。
大本教と道院
道院のフーチでは、神前において砂盤を中心に両方から2人が筆を支え、神の力によって砂の上に文字が書かれる。1923年、このフーチによって「救済のための円金と米を集めよ」という訓令があった。米4万石(60万キロ)と銀2万両(約2億)が集まり、ではこの米をどうするかと伺うと、「日本に送れ」とのことであった。こうして、道院・世界紅卍字会は、候延爽ら幹部2名を東京に派遣する。彼らが到着したのが、1923年8月31日だった。なんと、関東大震災が起こったのはその翌9月1日のことである。その救援物資ならびに救援金第1号として紅卍字会の名は記帳されることになった。そのとき、候延爽らには、「日本には道院と同種の宗教団体がある。それを探し当てて、提携をはかること」という神示が下っていた。そこで、彼らはいくつかの教団を訪れた。しかし、フーチの指示とは食い違う。諦めて一旦帰国することにして、神戸に来たときである。偶然にも、新聞記事で大本教(現大本)の存在に気づいたのである。帰国をとりやめて一行は、1923年11月3日、大本教を訪れ、王仁三郎夫妻と会見した。これが、彼らが説明する道院と大本教との出会いである。
ただし、実際には南京駐在の日本領事・林出賢次郎が両者の仲介に入ったとされている。1932年から1938年まで満州国大使館書記官に任ぜられ、溥儀の通訳を務めことに象徴されるように、林出は、外務省時代のすべてを中国各地の大使、公使、領事館に在勤し、中国の各界に様々なパイプを持っていたのである。後に、林出は世界紅卍字会満州総会の最高幹部に就いている。
1924年の王仁三郎の入蒙によって、大本教と道院・世界紅卍字会の絆も深まった。王仁三郎は、後にこう振り返っている。
「物質的に見た時は或は失敗かも知れぬが、精神的に見た時には、其後に起り来つた凡ゆる問題と、亜細亜と言ふ叫びのあがつて来たことを見ても自分の投じた一石が世界的に波紋を画がき、各方面に影響を齎して要る事が明かに観取出来る。世界紅卍字会との精神的連繋の出来たのも其顕著なる一つである如く、新精神運動の勃興に光明を与へたものである」。
やがて、大本教と道院・世界紅卍字会とは一心同体の関係になる。道院・世界紅卍字会の代表布教団が日本宣伝に来訪したとき、神戸道院を訪れ、次のように述べたという。
「日本愛善会の在る所は中国の卍字会の在る所、中国の卍字会の在る所は亦、即ち日本の愛善会の在る所也。道院、大本に至つても亦是の如きのみ。凡そ中国の会の在る所は亦即ち大本、愛善会の在る所、亦、名異ると雖も各方相親相睦、相結相合の心理は当に一にして別なき也」。
実際、1924年に神戸に道院が開設され、1929年には東京、大坂、亀岡に、1930年以後、関東、近畿、北陸、山陰、九州に合計37カ所に開設される。
神人合一の独立王国建設の夢
やがて、王仁三郎、内田良平らの興亜論者、道院・世界紅卍字会の三者によって、満州に理想郷を建設しようという運動が展開されるようになる。紅卍字会日本総会会長には王仁三郎が、責任会長には内田が、そして顧問には頭山が就いていた。内田は次のように書いている。
「現在の満蒙の天地に、神人合一の独立王国を建設せんとする信仰と理想なのである。神人合一の『明光帝国』を、荒涼蕭条たる往時の朔北、匈奴の地に樹立することは全紅卍字会員にとつては、次に来るべき、より偉大なる神人国の基礎であり、此の建設を通じて後始めて、支那本土の樹て直し日支両民族和同共栄の楔が打ち立てられるものと信じてゐるのである。斯くて、今次の満洲事変勃発するや、支那各地の紅卍字会有志は日本の卍字会有志と協力連繋して、満蒙自治独立自由王国建設のために、熱烈なる運動に着手するに至つたのである」。
ところが、中国華中師範大学で教鞭をとる沈潔氏は、内田の『満蒙の独立と世界紅卍字会』を紹介した上で、内田に関して「彼は、世界紅卍字会を利用して、中国人の人心を買収し」たと評価し、こう続ける。
「内田良平らが世界紅卍字会の活動に注目を注いだのは、同会は政治面で利用価値があるとの判断があったからであった。紅卍字会の会員は、中国の官吏や一流の商人が多く、各地で設立された分会の会長も県長によって兼任されたところも多い。満洲地区を含む中国全土から見ても、政治・経済に関わる有力な圧力団体だった。事実、『満洲国』建国後の世界紅卍字会の活動は、政治と関わる活動をさらに増加させる傾向になった」
しかし、内田自身は次のように語っていた。
「『惟神の天地の大道』に接し、全宗渾一融和の精神的大世界を発見する事を提唱すると共に世界人類の絶対的平和統一と大同団結を念願とするものである。従て実社会に対する外廓実践の社会改造運動団体たる世界紅卍字会は、道院の信仰たる『真神の世界の和同統一と大改造』の教旨を奉じて、先づ東亜民族の和平と満蒙の天地に自治自由の楽土建設を標榜するものであり、暴虐と圧制を絶滅するを神の意志として、今次の満蒙独立運動の必然性と完成とを信じてゐるからである。此の意味に於て、紅卍字会の実体と意義を理解する事は満蒙独立国家建設運動の内面的最深、最重の一契機を把握することゝもいひ得るのであらう」、「一面極めて純一無垢にして遠大なる理想と信念に燃ゆると共に、世界人類の絶対平和と福祉の楽園を地上に建設せんとして、日々常時、あらゆる機会をつかんで、着々穏建に而も極めて真摯に奉仕的な社会事業運動に活動してゐるのである」
「全宗渾一融和の精神的大世界を発見する事を提唱すると共に世界人類の絶対的平和統一と大同団結」、「福祉の楽園を地上に建設せんとすること」は、まさに興亜論者の夢でもあった。同一の夢を持っていたからこそ、協力が成り立っていたのではなかろうか。 
 

 

 
新宗教 2  

 

1 璽光尊事件の不幸な幕開け
ここに一葉の写真がある。昭和二十二年早春、雪の金沢。そこには六十九連勝記録をもつ元横綱双葉山、そして囲碁の天才呉清源らが写っている。手を合わせ、体を揺らし、深刻な面持ちのなかにもほのかな期待の笑みがうかがえる。ある程度の年代の方ならすぐわかるはずである。
璽光尊事件――それは敗戦まもない頃、神示に基づき、女性教祖の璽光尊率いる教団・璽宇が世直しを掲げて独自の内閣構想を打ち出し、「元号」を霊寿と改め、天皇や皇族、そしてマッカーサーに自らの「皇居参内」を命じ、やがて金沢に「遷都」し、そこで県警を相手に大立回りを演じた事件である。彼女は金沢で天変地異の預言を喧伝して私造紙幣を発行し、人々に少なからぬ影響を与えていた。そして数十名の警察隊による急襲と乱闘の末、璽光尊をはじめとする教団幹部は身柄を拘束された。璽光尊は精神鑑定により誇大妄想症と診断され釈放。双葉山、続いて呉清源は教団を去った。対馬路人関西学院大学教授は、大がかりな取締りのわりには事件が急速に収拾した背景には、検挙を急ぐ警察、宗教弾圧という形を避けるよう介入・指導したGHQ、双葉山奪還を目指すグループの思惑が複雑に錯綜していると指摘する。だが、いずれにせよ事件の一連の過程で、マスコミによる「璽光尊=狂人「璽宇=邪教」観が世に知れ渡り、この教団は各地を転々とし、今でも現存するものの社会的には葬り去られたといってよいだろう。
そして、これは璽宇だけの問題でなかった。この事件の翌年に天照皇大神宮教の北村さよが「踊る神さま」として世間の耳目を集めた。彼女が求めた、荒廃した人心の浄化のメッセージは取りあげられることなく、ただ歌説法というユニークな布教方法のみが興味本位で報道されていった。この北村さよ、そして手かざしの浄霊やMOAブランドで知られる世界救世教の岡田茂吉もやはりマスコミに「第二の璽光尊」と呼ばれた。璽宇に代表されるファナティックな信仰、世間を騒がせる厄介者のイメージは、ある意味で新宗教全体のレッテルとなったといってよい。むろん、これは戦前からの新宗教に対する猛烈な批判キャンペーンの連続ともとらえられるわけだが、少なくとも戦後の新宗教のイメージは、璽光尊から始まった。そしてこの新宗教観は今も変わっていない。いや、璽宇と同じように独自の省庁制や終末預言を特徴とするオウム真理教や霊感・霊視商法のの事件もあって、むしろ強まっているともいえよう。
――この連載では、日本近代の幕開けから現代に至るまでの新宗教の歴史を今の現状と重ねつつ、わかりやすく解説するものである。そうすることによってオウム真理教という一見特殊に見える教団の登場も、新宗教の流れのなかに位置づけられ、冷静にとらえかえすこともできるのではないだろうかと思う。
2 新宗教の源流
前回、戦後の新宗教には熱狂的な信仰や厄介者のイメージが常につきまとっていると述べた。特に「新興宗教」という言葉には、正統ではない、危ないといった侮蔑的な響きさえある。だが、新宗教といっても必ずしも「新」の要素だけではない。新宗教の歴史を注意深くみてると、意外に古い伝統や庶民性に根ざしていることがわかる。
例えば実行教・丸山教・扶桑教といった教団は富士山への信仰を要とし、教団組織は明治に入ってからだが、その信仰は江戸時代中頃までさかのぼることができる。当時は実際に富士山への登拝はできなくても、富士山を模した塚への礼拝やお籠りがリクリエーションとして盛んに行われていた。御嶽教も木曽御嶽山信仰を基盤としており、山岳宗教から発生した新宗教は少なくない。
江戸時代末期に創唱された黒住教・天理教・金光教は、教祖の教えの独自性が核となっているが、その背景に庶民信仰との影響関係をみることもできる。黒住宗忠は伊勢参りに熱心だったし、中山みきや金光大神はそれぞれ山伏行者や石鎚信仰の先達との交流のなかから自ら啓示を受けるようになっている。教団側では教祖の独自性や革新性を強調するばあいが多いが、いずれにせよ、当時の庶民信仰の要素を無視しては教祖の教えは理解できない。
こう考えると、新宗教、特に「第一次宗教ブーム」と呼ばれた幕末維新期の新宗教は、ある日突然新たな装いで現れたのではなく、こうしたごく普通の庶民の宗教的世界から生れ、組織化されたという見方もできる。教祖も宗教的なエリートではないし、信者もごく普通の人々が中心であった。その意味でこれらの教団に対して新宗教という呼称を用いず、むしろ民衆宗教という用語を好んで使う研究者もいる。教祖にせよ、信者にせよ、自分たちが何か特別なことをしているという意識はどれほどあったのだろうか。むしろ私たちが考えるより、ごく普通の生活感覚で信仰に関わっていたのではないかと想像するが、これなどは新宗教の 「新」とは何かを問い直すこととともに、新宗教研究の今後の課題といえよう。
3 国家と新宗教との対決
前回述べた幕末維新期、つまり第一次宗教ブームの教団が社会にそれなりに定着し始めた明治末から昭和初年。再び第二次宗教ブームともいうべき活発な新宗教の活動が見られる。これには教団の性格からいって三つくらの特徴が指摘できる。
まず第一に明治後期に生まれて大正期に拡大した大本と太霊道(たいれいどう)。この二教団は霊の操作による病気治しや社会への働きかけで注目を集めた。第二にこの大本と天理教の分派であるほんみち。これらは強い終末預言を唱えて世間の耳目を集め、大本は大正十年と昭和十年に、ほんみちは昭和三年と十三年に大規模な取締りを受けている。第三に昭和初年のひとのみち教団(現PL教団)と霊友会の大都市における発展があげられる。ひとのみち教団も昭和十一年に取締りを受けている。
第二次宗教ブームは西欧列強の仲間入りを果した日本が、太平洋戦争に突入しようとした時期でもある。現人神(あらひとがみ)天皇をいただく日本は極めて神権的国家の色彩が強く、旧憲法では「信教の自由」が認められていながらも、国家の論理と合い容れない性格や権威体系を有する教団は、不敬罪や治安維持法を中心に徹底的に取締られた。事実、新宗教のなかには天皇の権威や国家体制を否定する教義を掲げた教団もあったが、内務省のマル秘資料などをみると、宗教者一般の言動が厳しい監視や干渉の対象となっていたのがわかる。こうしてキリスト教や仏教の新興勢力もやはり打撃を加えられた。
昨年の宗教法人法改正やオウム真理教に対する破防法適応の議論の際に、国家による宗教団体の過度な統制の懸念が宗教界から出されたのは、このような「宗教弾圧」の苦い思い出に起因している。先の教団は太霊道以外はいずれも現在では数十万から数百万信者を誇る大所帯となっている。だが、その草創期は、決して楽なものではなく、この時期は他にも辛酸をなめた教団は多い。教団の中には崩壊したものもあれば、幹部が獄死しているばあいもある。新宗教が再び活発に運動を展開するようになるのは戦争の終結をまたねばならなかった。(12文字×73行)
4 都市のなかで
敗戦は日本にとって大きな打撃であったが、同時にこれは、それまで取締当局の監視と干渉のもとで活動がままならなかった新宗教教団が、満を持して布教に乗り出す好機でもあった。特に、昭和二〇年代、三〇年代には、現在、大教団と呼ばれる教団が急成長を遂げた。
敗戦直後には、この連載の最初にも述べた璽宇(じう)や天照皇大神宮教が登場するが、そのあとに霊友会、PL教団、生長の家、世界救世教、立正佼成会、創価学会といった教団が続いた。もっともこれらの教団はその起源を戦前に求めることができるが、大きく成長するのは主に戦後である。
例えば、立正佼成会は主婦層、中小経営者・労働者層を中心に祖先崇拝の実践と「法座」と呼ばれる信仰体験にそくした語り合いの小グループの魅力で進出した。創価学会も家庭集会である「座談会」と折伏(しゃくぶく)という積極的かつ多角的な布教展開で、やはり中小経営者・労働者層に強くアピールした。いずれも法華経を基盤に、貧しさ、病気、家庭不和などの解決といった現世利益(げんぜりやく)を力強く約束して都市部で教勢を伸ばした。
前回触れたように、霊友会と、戦前はひとのみち教団といったPL教団は、昭和初年に都市部でかなりの信者を集めていた。霊友会は東京でひとのみち教団は大阪で庶民層を中心に現世利益を掲げた布教を成功させていたのである。
この時期の特徴はやはり都市での運動展開であろう。農村から出てきて都会のかたすみでひっそりと暮らしている、どちらかという豊かではない人々に、こうした教団は個人と家庭の幸せを説いて、彼らの心をとらえた。この時期、第三次宗教ブームの都市での展開は、第一次宗教ブームの教団が農村から始まり、いわば 「村落宗教」の様相さえ呈していたのとも異なるし、天下国家を論じた大本やほんみちとも区別される。
むろん、こうした新宗教の活動が、日本の敗戦から朝鮮戦争特需をばねに、そして高度経済成長下で進行した都市化と核家族化の流れに照応しているのはいうまでもない。
5 社会を写す鏡
昭和二十年代から三十年代にかけて、霊友会、パーフェクト・リバティ教団、生長の家、世界救世教、立正佼成会、創価学会といった教団が躍進を遂げたことは前回述べた。社会学者の調査によれば、昭和二十年代前半の東京の立正佼成会では、入信理由は病気四八%、貧困一八%、家庭不和一八%。また、昭和三十七年の福岡市の創価学会員では、病気二八%、人に言われて二五%、家族関係一六%、お金一三%となっている。新宗教の入信理由は貧・病・争(人間関係)といわれ、これは当時のまだ貧しかったころの日本の社会状況を反映していた。
しかし、高度経済成長によって日本が曲がりなりも「豊かな社会」を実現したとき、貧・病・争の解決を掲げて活動をしてきた新宗教の存在基盤は危うくなった。事実、先の教団で過去二十年間教勢を伸ばし続けているところは少なく、多くは横ばいか低迷を余儀なくされている。
こうしたなか、新しいタイプの教団が急成長した。オウム真理教の麻原彰晃が一時期身を置き、「阿含 (あごん)の星祭り」で知られる阿含宗、手がざしの「真光の業」を重んじる崇教真光(すうきょうまひかり)や世界真光文明教団、幸福の科学の大川隆法やSF作家の平井和正らに大きな影響を与えた高橋信次のGLAなどがそうした教団である。これらが昭和四十八年のオイルショック以降教勢を拡大させ、霊現象と秘儀や奇跡を重んじるところから、西山茂東洋大学教授は「霊術系新宗教」と呼んでいる。一般には新新宗教、第四次宗教ブームと呼ばれる教団群である。
このころはノストラダムスの予言、エクソシスト(悪魔祓い師)、超能力など、科学では理解できないもが話題を集めた時期でもあった。第四次宗教ブームは、こうしたいわばオカルト文化を背景にしているとよく指摘される。確かに、崇教真光の青年信者の入信理由は霊界志向二四%、理由なし二三%、病気二二%、家庭の問題七%、終末観六%の順となっている。ここにもそれまでの新宗教にはない新しさがみられ、新宗教が当時の社会的風潮を写し出す鏡のような存在であることがわかるであろう。
6 手かざしの系譜
これまで新宗教教団の成立に従って四つの宗教ブームをみてきた。新宗教というと一つひとつが独立しているかのような響きがあるが、詳しくみていくと影響関係やがあるばあいが少なくない。
例えば大本とそこから分派した世界救世教。この二つの教団の影響は新宗教の世界では大きい。街頭でみかける手かざしの教団・神慈秀明会もこの系統である。そもそも大本では御手代 (みてしろ)と呼ばれるしゃもじをかざす病気治しがあった。大本の布教に専念していた、後の世界救世教教祖の岡田茂吉も、大本ででは扇を用いたり、また手をかざして病気治しを行っていた。
この手かざしの浄霊が世界救世教の拡大の原動力となり、この教団から独立して世界真光文明教団を設立した岡田光玉(かうたま)は手かざしを真光の業と呼んだ。茂吉の死後、世界救世教からは十を越える教団が分派したが、先の神慈秀明会をはじめ、茂吉を明主(めいしゅ)と仰いで浄霊を用いる教団は多い。
同じように大本も影響を与えた教団は十をくだらない。大本のエリート幹部の浅野和三郎は心霊科学研究会を開き、生長の家の教祖の谷口雅春は大本で編集の仕事に携わり、生長の家からは「世界人類が平和でありますように」の標語が有名な白光真宏会の五井昌久が出ている。
このように世界救世教系の教団群を含めると、神道を基盤にした霊術の実践や研究など、多くの教団が大本の影響を受けているのがわかる。このことは大本の開祖出口なおや聖師出口王仁三郎の懐の深さや人間としての幅の広さをも反映しているといえよう。
7 分派と影響関係―掴みずらいその実態
新宗教の分派と影響関係には二つのタイプがある。一つは支部や道場などが本部から組織的に分派するタイプ。もう一つは信者や教師が組織から離れて個人的に活動を始め、結果として新たな教団を興すことになるタイプ。前者の典型は霊友会で、ここからは孝道教団、立正佼成会、妙智会、妙道会などが独立している。
後者としては天理教系の教団があげられる。もちろん天理教にも組織的な分派は希にあるが、基本的には教会が強い親子関係で結ばれ、本部の聖地でしか行われない秘儀もあり、簡単には分派できない仕組みになっている。だが、時として教祖・中山みきの後を継ぐとして天啓者を自称する信者が組織から離れ、そこに人が集まり、新たな教団ができることがある。朝日神社やほんみちはそうした教団であり、また、ほんみちとその系統の天理三輪講 (さんりんこう)、天理神之口明場所(かみのくちあけばしょ)などは、戦前、天皇に代わる天啓者を強く待望したため、いずれも治安維持法違反で関係者が検挙されている。
戦後、天理神之口明場所からは霊能者を中心とする教団が十以上輩出され、そのなかには芹沢光治良の晩年の小説で重要な役割を果たす、中山みきの言葉を取り次ぐ「川口の伊藤青年」も含まれている。天理教の影響を受けた教団では、みきを教祖と仰いで天理教の用語や儀礼を踏襲することが多く、その意味で前回扱った大本系の特に世界救世教系教団と似ている。
この他、新宗教のなかではGLA、本門仏立宗(ほんもんぶつりゅうしゅう)、中山身語正宗(しんごしょうしゅう)、祖神道(そしんどう)といった教団の影響が大きくて系統の教団も多い。だが、研究者としては分派や影響関係については話題が微妙なだけに調査もしずらく、関心はあるものの実態がつかみずらいというのが本音である。
8 オカルト志向と新宗教
筆者は昭和三十八年生まれで、大学生の頃は大相撲の当時の新世代が三十八年生れだったことから「サンパチ組み」とか「新人類」のはしりとかと呼ばれ、最近では「オウム世代」といわれる世代に属する。仕事がらオウム真理教の信者に会うことがあるが、確かに彼らと世代的な共通点を感じる。特に男性のばあい、その共通点はオカルト志向と言い表せよう。
オウム信者が空中浮揚といった超能力やハルマゲドンの到来を信じてきたことが、どうも理解できないという人は多い。だが筆者らの世代では漫画などの若者文化の影響で、超能力やハルマゲドンといったオカルトの世界には小さい頃から慣れ親しんできた。昭和四十年代後半、永井豪「デビルマン」では人類が滅び去る過程と善と悪との最終戦争がモチーフとされ、つのだじろう「恐怖新聞」「うしろの百太郎」では心霊現象がリアルに描かれていた。学校ではこっくりさんが大流行し、テレビではユリ・ゲラーや同年代の少年のスプーン曲げが話題となり、『ノストラダムスの大予言』『日本沈没』の情報も耳には入っていた。
同時にこの頃はオイルショックによる高度経済成長の破綻で、将来に対する漠然とした不安を感じとっていたし、公害問題等で科学や産業が必ずしも人間を幸福にするとは限らないということも薄々わかりはじめていた。このようななかでオカルトの世界は現実とは別の「もう一つ世界」だったし、筆者のまわりでも、こうした世界があっても不思議ではないという雰囲気があった。
昭和五十年代になっても、『ムー』『トワイライトゾーン』『ハロウィン』『マイバースデー』といったオカルト、ホラー、占いなどの専門誌が創刊され、また大友克洋「アキラ」や宮崎駿「風の谷のナウシカ」をはじめ人類の破局や超能力を扱った漫画も人気を博し、こうしたオカルト志向は持続されていった。オウムの体験談や脱会信者の手記をみると、このような雑誌や漫画に影響された人が多いことがわかる。オカルト志向は明らかにオウムをはじめとする現代の新宗教の展開の土壌となっている。
9 自分探し志向と新宗教
前回、オウム世代の共通点として、男性のばあいはオカルト志向があると述べた。では女性のばあいはどうであろうか。もし単純化が許されれば、それは自分探し志向といえると筆者は考えている。
筆者が面談した二十九歳のオウム真理教の女性信者は入信の理由を「人生の虚しさ」と表現していた。特に不幸というわけではないが、まわりは結婚していくし、昔みたいにちやほやされなくなるし、仕事はつまらない。そのようななかで常に何か目標を持ちたいと思ってきたが、それが何だかわからなかったと彼女は話す。そして出会ったのがオウムだった。
こうした話は何もオウムに限ったことではなく、虚しさ、漠然とした不安、人生の意味を見出だせないといった理由は新宗教の入信動機として決して珍しくない。自分の存在が何だかわからず、本当の自分を追い求め悪戦苦闘する姿がそこには見え隠れしている。
統計によれば、青少年の約三割が自分が「嫌い」または「やや嫌い」と答え、筆者が教鞭をとる看護専門学校でも、アンケートで 「人間はずるい、きたない」といった否定的な人間観を示す学生が毎年だいたい三割程度いる。
こうした自分や人間そのものに対するある種の嫌気をバネに、「本当の自分」「もう一人の自分」の探求や潜在能力の開発についての関心が高まってきた。わずか数日間で魅力的になれるという自己啓発セミナー、潜在能力や多重人格に関する書籍の人気、女性誌を中心とした簡単な心理分析とその処方箋の特集、女優のような格好をしてプロの写真家が撮影してくれる変身写真館など、自分探し志向の諸現象はバブル期より目につきはじめ、現在も続いている。
そもそも宗教はこうした自分探しに応えることを得意としてきた。その中でもオウム真理教をはじめとする最近の新宗教はそれをわかりやすい形で、時には短期間かつ安直な方法で可能にすると約束し、若者の心をとらえてきた。「オウムで救われた」と、今もこの教団を離れえない信者がいる理由の一つはここにある。むろん、その内容が今問われてべきなのはいうまでもないが‥‥。
10 精神世界ブームの昂まり
これまで述べたように、オウム真理教登場の背景にはオカルト志向と自分探し志向が潜んでいる。青年層のこうした志向性をひっくるめて何と名付けるか、宗教学の分野でも話題になることが多い。日本のマスコミでは精神世界、アメリカではニューエイジという語が用いられる。島薗進東京大学教授は新霊性運動という用語を提唱するが、ここではニューエイジとよんでおこう。
オカルトや自分探しも含めて、神秘や精神性を探求する動向は一九六〇年代後半にアメリカでおこった。関連の書籍には「精神性の発達」「意識のルネッサンス」「霊的な目覚め」といった言葉がちりばめられ、意識変革を目指している点で共通している。そこには、今の人々の意識や社会のあり方とは全く異なった新たな世紀の到来への待望が感じられる。ニューエイジは特定の組織をもつわけではないが、時代の雰囲気として広く共有されているといみてよいだろう。
ニューエイジに関する情報は、日本では昭和四十年代後半には一部の青年層の間で知られていた。その後、特に六十一年のシャーリー・マクレーン『アウト・オウ・ア・リム』の翻訳と、そこで紹介されたチャネリング(宇宙意識との交流)の普及が、ニューエイジの大衆化に拍車をかけるきっけとなった。心の時代と呼ばれて二十年近く、バブル期に始まった自分探しブームから数えて約十年、日本でも着実にニューエイジは根づきつつある。
一方、新宗教ブームといわれて久しいが、実は新宗教教団で信者数を伸ばしているところはそう多くない。大教団では横ばいか下降といったところである。そうすると、青年層の広い意味での宗教的関心は新宗教ではなく、ニューエイジの方に向かっているとみていいかもしれない。宗教教団のようにお布施や修行といった拘束力をもたないニューエイジは、確かに個人主義的な傾向の強い青年層に受け入れられやすい。事実、原宿や渋谷や青山にある、ニューエイジ関連の書籍やグッズを扱う店(ニューエイジショップ)は、休みになるといつも若者でいっぱいである。
11 カルトと新宗教
個人主義が広がるなかで、その風潮に合致したニューエイジ運動が青年層に浸透し、従って新宗教ブームといっても、教団組織が大きくなっているとは限らないと前回は述べた。だが、新宗教教団のうち、幸福の科学などは、教団の拘束力が比較的弱く、これが青年層にウケている理由とも考えられよう。オウム真理教も、道場に行ってみるとわかるのだが、信徒は来たい時に道場に来て、全員で行う儀礼は少なく、暝想する人、作業する人、ヨーガをする人、皆ばらばらである。こうした点が信徒にとって干渉されない心地よさともなり、事実、うっとうしい人間関係を捨てて出家を選んだ理由ともなっている。
本来、人と人との密接な関係を基盤とする宗教にあっても、このように個人主義の影響を受けている。考えてみれば宗教に関する情報は巷にあふれ、現代人は特に教団に入らなくても宗教的欲求を満たすことができる。映画や小説を個々人の趣味で選ぶように、宗教も個々人の関心事に縮小されつつある。
だが、その反面、こうした個人主義的な傾向と相反する宗教的動向も現れている。自分たちだけの価値観を守り、全人格的な関わりを求めるカルトなどがそうである。宗教社会学ではカルトとは世俗からの逃避と神秘体験の性格を有する教団のタイプなのだが、現在、一般には熱狂的な崇拝やこれを行う集団に対して侮蔑的な意味を込めて、この用語は使われている。
カルトの存在を広く世界に知らしめたのは、チャールズ・マンソン率いるファミリーによる女優シャロン・テートらの惨殺(一九六九年)、南米ガイアナで起きたジム・ジョーンズの人民寺院九一二人の集団自殺(一九七八年)、テキサス州に本部を持つデイビッド・コレシュのブランチ・デヴィディアンの銃撃戦と集団死(一九九三年)、カナダとスイスで起きたリュック・ジュレが創始した太陽寺院教団の集団自殺(一九九四年)など、一連の凄惨な事件である。
現代宗教は個人の自由な関わりと、カルトのような尖鋭化の二つの方向に分極化している。なぜ相反する動向が同時に起きるのか。次回、この連載のまとめとともに説明していきたい。
12、新宗教の行方
個人主義的傾向が広く受け入れられていくなか、個々人の自由な関わりを旨とするニューエイジのような運動と、逆に個人の自由を否定し、メンバーを強くつなぎとめるカルトのような運動の二つの相反する方向に、今の宗教動向は分極化している。だが、その背景にはあるのは、絶対的な価値観を失い、個々人がそれぞれの生きる意味や人生の目的を模索していかなかればならないといった、現代社会の価値相対主義という点で共通している。
価値相対主義の現代では、人は林立する価値観のなかから自分の志向性に合ったものを選択すればいい。ニューエイジはもちろん、今の新宗教が行う、一般書店での書籍販売や、コンサートのようにチケットを購入して講演会を聞きに行くといった信者の自由なかかわりを強調する布教方法は、確かに現代人にとって気楽に宗教に触れる魅力となっている。お金を出せば「宗教」や「生きがい」を買える時代なのである。
自由に自分の生きる意味や人生の目的を探すのは意義のあることだが、その反面、それは険しい道であり、責任は自分でとらなければならない。そんな大変さから逃れて一つの価値観を信ずることができれば、どんなに楽だろうか。セックスやグルメやファッションなど、若者が自由を謳歌しているのを道徳の衰退とみなし、絶対的な価値観を前面に押し出すことによってカルトは価値相対主義を乗り越えるのだと主張する。新宗教でも、自由に欲望を満たそうとすることを苦の根本ととらえ、強く改心を迫るばあいが多い。
現代の価値相対主義をめぐって、ニューエイジ的傾向とカルト的傾向の二つの方向が同時進行していることを説明してきた。ニューエイジやカルトというと極端に聞こえるかも知れないが、今の新宗教も、これらの要素は多かれ少なかれ持っている。ニューエイジ、カルト、新宗教の垣根は低く、三者はなだらかに連なりながら現代の宗教動向を形成しているとみてよいだろう。価値相対主義の根本的な解決がないまま、混迷の度合いを深める現代にあって、ニューエイジやカルトを含めて広い意味での新宗教が度のような現れ方をするのか、その動向を見守り続けたいと思う。 

葬式仏教 

 

■葬式仏教 1
本来の仏教の在り方から大きく隔たった、葬式の際にしか必要とされない現在の形骸化した日本の仏教の姿を揶揄した表現である。この言葉が誰によって始められたかは不明であるが、1963(昭和38)年に出版された明治大学教授の圭室諦成(1902-1966)の著『葬式仏教』がきっかけとなって巷間に知られるようになった。
釈尊の葬送に関する記述として次のようなものがあり、葬儀否定論者の根拠ともされる。
「アーナンダよ。お前たちは修行完成者の遺骨の供養にかかずらうな。どうか、お前たちは、正しい目的のために努力せよ。正しい目的を実行せよ。正しい目的に向かって怠らず、勤め、専念しておれ。 — 大般涅槃経 」
釈迦は弟子に死後の遺骸の処置を問われた際に、僧侶は遺骸の供養等考えず真理の追求に専念すべきだ、供養は在家の信者がしてくれる、と答えたとされる。 ただし、アーナンダは阿羅漢果をまだ得ていなかった状況から、修行途中の弟子に対しての戒めであり、葬送儀礼そのものに出家者がかかわることを禁じたものとは言い難い。
また『浄飯王般涅槃経』では釈尊が父親である浄飯王の葬儀を行ったことや、また高弟であるシャーリプトラの遺骨を礼拝したなどの釈尊自身が葬送儀礼にかかわっていたことを示す記述がある。 『大般涅槃経』では釈尊は自身の卒塔婆を建立することや、葬儀の方法などをアーナンダに伝えており、その遺命によって在家信者によって転輪聖王の葬儀に準じた形で在家信者によって執り行われた。そして重要な荼毘の点火はマハーカッサパが行っているとあり、実際は出家者が葬儀にかかわっている。また初期仏教経典にも、釈尊が地域の風習や道徳で祖霊への供養を讃える箇所があり、先の記述は単純な葬式否定の根拠とはいえない。
そもそもバラモン教では手厚い葬儀を人生の通過儀礼と重視していたので、それに対し仏教教団は業思想を背景に火葬、土葬などで簡素に葬儀を行っていた。 インドから中国へと伝播し民衆へと教化が行われるうちに、漢民族の道教や儒教に由来する先祖供養の民間信仰と習合した、仏教の葬送儀礼が日本に伝わった。例えば位牌は、儒教の葬礼に用いられる神主(しんしゅ)が変化されたものだと考えられている。
仏教が日本に伝来したのは6世紀半ばの飛鳥時代の事である。仏教は豪族など上層階級の心を捉え、篤く信仰される様になった。
平安時代の貴族の葬儀は、仏教寺院で行い僧侶が念仏し墓に卒塔婆を立てる等、大きく仏教的な影響を受けたものになっていた。
鎌倉時代には庶民層にも仏教が広まり、庶民の間にも仏式の葬儀が行われる例が見られる様になる。
江戸時代
日本仏教が葬式仏教へと向かう大きな転機は、江戸幕府が定めた檀家制度である。
檀家制度は、民衆は何れかの寺院を菩提寺としてその檀家となる事を義務付けるものであり、カトリック教会や不受不施派に対して禁教令を発布して、信徒に対し改宗を強制した。それに抗したキリシタンは「隠れキリシタン」となり、踏み絵をする事を強いられる。
それまでの民衆の葬式は、一般に村社会が執り行うものであったが、檀家制度以降、僧侶による葬式が一般化した。
また、檀家制度は、寺院に一定の信徒と収入を保証する一方で、他宗派の信徒への布教や新しい寺院の建立を禁止した。これらにより、各寺院は布教の必要を無くし、自らの檀家の葬儀や法事を営み、定期的に布施収入を得るばかりの、変化のない生活に安住する様になっていった。
明治時代
また明治維新時、大日本帝国政府の国家神道政策による廃仏毀釈の推進と「肉食妻帯勝手たるべし」という布告により、それまでも浄土真宗以外の宗派では、現実的に破戒が常態であったのが、公然と妻帯が行われる様になっていった。このため戒律を順守する僧侶(比丘)ではなく、妻帯して僧職で生計を立てる(実質的に)者の子女が寺を継ぐという、世襲制度が他宗派でも一般化している。この事も葬式仏教化へと拍車をかけている一因と云える。
平成時代
2000年代(実際はそれ以前からと思われる)から、この様な葬儀や法事に依存した日本の仏教状況を批判する意味で、葬式仏教という言葉が使われる様になった。
仏教界内部からも、この状況を反省し改めるべきだとする活動が様々に行われている。伝統的な宗派に属する寺院でも、不登校の問題や自殺防止などに取り組んだり、宗教家の立場で人々の相談に乗ったりする寺院等、人々の心の問題に取り組もうとする動きが、伝統的な仏教界にもみられている。また、葬式仏教的な現状に飽き足らない人々の中には、既成の宗派の枠やしきたりを超えた活動や、アジアなど世界に仏教を伝播しようと目を向ける人々もいる。
また、近年では、過疎化等の進展で地域だけで葬儀が遂行できない事、逆に都市化やライフスタイルの変化、葬儀の在り方の多様化等により、「葬式仏教すら成り立たない」寺院も存在する。
お坊さん紹介サービス
2010年(平成22年)5月10日、大手流通業イオンが、浄土真宗(西、東)・浄土宗・曹洞宗・臨済宗・天台宗・日蓮宗と、主だった宗派には全て対応する、8宗派約600ヶ寺と連携しお坊さん紹介サービスを開始した。2009年(平成21年)9月から既に、イオンカード会員を対象に葬儀紹介サービス「イオンのお葬式」を展開、すでに「死」が商品化されていたにもかかわらず、これまで不透明だった葬儀費用や布施・戒名料金の全国統一価格を示すことで、商品として料金を明確化する姿勢を示した。
日本仏教会の反発
これに対して全日本仏教会は、第29期事務総長戸松義晴の名で『料金表示の削除』を求めた。こうした問題の背後にあるのは、直接的には社会構造の変化による人口の流動化で、江戸時代以降続いてきた檀家制度の完全な崩壊と、それに伴う多くの寺院の拝金主義的傾向だが、底流にあるのは、日本人の仏教に対する意識の希薄さであることが、改めて示された。
全日本仏教会は、「本来布施とは、慈しみの心にもとづいて行われる極めて宗教的な行為で、人々の苦しみや悲しみに寄り添い(無畏施)、人々と共に考え法を説く(法施)」と位置づけ、布施の額に関しては、布施をする人が決めるべきものという立場を示した。 
■葬式仏教 2
葬式仏教の意味(葬式仏教とは)
葬式仏教とは、葬式と法事だけを表面的にとりおこなう、現代の仏教界を批判して使われる言葉です。
本来の仏教は、葬礼を重視するような教えはなく、救済や真理を追究する宗教であったはずが、現代の日本においては、”葬儀のために寺があり僧侶がいる” といった状態になってしまっていることを、揶揄して使う表現でもあります。
葬式仏教の実際
寺院への批判には、江戸時代の檀家制度で収入が保証されたため、布教などの活動を行う必要がなくなり、葬式と法事だけを定期的に行うことで、収入を得ることができるようになったことや、明治以降の肉食妻帯が許されたことで、それ以前もあった戒律が公然と認められ、世襲制度によって寺院の存続が一般化したことなどを挙げる人もいます。
葬式宗教と言う言葉には、表面だけのビジネスとして存在する仏教寺院に対して、身近な人の死に際して宗教が担うべき心の問題がフォローされない不満が強くあらわれています。
「葬式仏教」は僧侶側だけの問題とはいえません。お寺や僧侶との付き合いをできれば避けたいと考える人が増加する一方で、葬儀の時はお経をあげてあげたいという考えは広く残っており、葬儀の時だけ僧侶との付き合いを望むという風潮も否定できません。
現代の宗教離れを揶揄する言葉として使われることが多い「葬式仏教」という言葉ですが、葬儀という機会が、数少なくなった宗教に触れる機会になっていることも事実です。宗教の意味を考え直し、根源的な価値観に触れることで、人生の価値観を広げる機会となる可能性も秘めています。 
■葬式仏教 3 著作に見る「なぜ葬式仏教は生まれたか?」
『「霊魂」を探して』鵜飼秀徳
『寺院消滅―失われる「地方」と「宗教」』(日経BP社、2015年)が大きな話題になった著者による最新刊です。現代日本人の死者とのかかわりや、「霊魂」観について、多面的に考察しています。特に、そこでの宗教者の役割に注目している点に、高いオリジナリティがあります。
東日本大震災の被災地で、「霊魂でもいいから、(亡くなった人と)会いたい」と語る人びとに出会った著者は、そうした死者に対する切実な思いを、現在の宗教者、とりわけ僧侶(著者自身も浄土宗僧侶です)がどう受けとめているのかについて、実態調査を試みようと決意します。僧侶1335人に対する「霊魂に関するアンケート調査」(有効回答は802人)や、新宗教も含めた教団への取材、さらには地域の拝み屋さん(霊能者)からの聞き取りなど、さまざまなアプローチがとられています。
僧侶へのアンケート調査については、宗派ごとの相違が際立っており、興味深いです。なかでも独特なのは、死者の霊魂の存在を、教義的に明確に否定している浄土真宗です。「あなたは「霊魂」の存在を信じますか」の問いに、「信じる」と回答した僧侶は、日蓮宗80%、真言宗75%、浄土宗62%、曹洞宗52%といずれも過半数を超えたのに対し、真宗僧侶は8%と、突出した低さです。
一方で、実際の現場で「供養」「鎮魂」「除霊」のような(霊魂の存在がたぶん前提となる)行為をしたことがあるかどうかについては、真宗僧侶も31%がイエスと回答しています。教義的な信仰と、現場での実践とのあいだに微妙なズレが生じているわけで、ますます興味深いです。
さらに、各宗教団体への取材結果を分析した部分では、「霊魂の存在を認める傾向が強い」か否かと、「宗教者に法力が備わると考える」か否かという、二つの指標に基づき、各教団をチャート化しています。このうち、どちらも肯定的なグループには、真言宗や日蓮宗など、密教や祈祷を重視する団体が入り、そしてその完全に対極の、いずれにも否定的なグループには、浄土真宗と創価学会がお隣どうしで並んでいます(この図、いろいろと面白いです)。
つまり、一口に現代日本の宗教者といっても、霊魂のとらえ方をめぐって、かなり多様な考え方があるということです。それは、上記したような大きめの教団に属する宗教者だけでなく、イタコなど、多くは個人営業している民間の宗教者の場合も同様です。たとえば、本書に登場するあるイタコさんは、死者の語りを取り次ぐ「口寄せ」について、「口寄せは日常の会話そのものだと思っています。生きている人も死んだ人も分け隔てなく語り合う。それが亡くなった人にとって、とてつもない喜びになる」と述べています。死者の存在を、生者と同じレベルでとらえているわけです。日本の宗教者の、一つの究極的なあり方でしょう。
こうした宗教者から見た死者・霊魂論のほかにも、現代の「空き家問題」の原因の一つに仏壇や神棚に宿る「魂」の処理問題があるとの指摘とか、あるいは「幽霊」の経験についての省察など、なかなか考えさせられる記述が盛りだくさんです。私たちの霊魂のゆくえを探る上での、示唆に満ちた一冊です。
『葬式仏教の誕生 / 中世の仏教革命』松尾剛次
日本ではなぜ、おもに仏教が葬式を担当しているのでしょうか? その歴史的背景を学ぶ上で、本書は今のところもっとも手軽な本かと思います。よりクラシカルで重要な本として、圭室諦成『葬式仏教』(大法輪閣、1963年)がありますが、ややとっつきにくいので、初学者はまず、こちらの新書から入るのが適当かと思います。
仏教伝来から後、日本では僧侶が葬式にかかわることが、ちょくちょくありました。しかし、そこまで密接な結びつきはありませんでした。というのも、地位の高い僧侶(官僧)たちが、死体から発せられる「穢れ」を嫌がったからです。死体の「穢れ」に感染したとされる僧侶は、しばらく謹慎した後でないと、寺院での重要な行事に参加することがゆるされなかったのです。これでは、葬式仏教など成立しそうもありません。
ところが、鎌倉時代のころから、仏教界での地位や対面よりも、自己や他者の救いを重んじる活動をしたいと願う僧侶(遁世僧)たちが出現します。そんな彼らが、宗教的なニーズが満たされていない人びとのために、葬儀や供養の実践に取り組みはじめます。たとえば、新しいかたちの法事を設計したり、迫力のある巨大板碑や五輪塔を造り上げるなどして、「穢れ」をものともしない、死者に対するケアのあり方を確立していくわけです。こうして、葬式仏教の基盤が形成されていきます。
こうした大転換を、本書の著者は「革命」だったと評します。日本の仏教は、もともと葬式のプロフェッショナルになる必然性はなかった。というより、日本的な「穢れ」の観念が、仏教と葬式を分断し続ける可能性もあった。しかし、死者のケアに仏教者のあるべき道を見出した、中世の僧侶たちがいた。彼らの仏教に対する強い信念が、葬式仏教という「仏教革命」を引き起こしたというわけです。
その「革命」の意義は、やがて江戸時代頃から葬式仏教が自明になっていくにつれ、見失われていきます。ある時期以降には、「葬式仏教」は日本仏教に対する批判的なレッテルにもなってしまいました。けれど、そのルーツをたどれば、そこには僧侶たちの仏教に対する真摯な問い直しの運動があった。そうした歴史を思い出すことは、現在の葬式仏教の価値を見直すことに、きっとつながってくるはずです。
『葬儀業界の戦後史 / 葬祭事業から見える死のリアリティ』玉川貴子
現代日本では、死者のプロフェッショナルの筆頭にあげるべきは、葬儀業界で働く方々でしょう。仏教(僧侶)が日本の葬祭文化の中心にいたのは昔の話で、いまでは葬祭業界こそが第一、仏教は同じ死者のプロとはいえ、重要度は相対的に低いと思います。
こうした現状は、いかにしてもたらされたのでしょうか。それを、戦後の葬祭業界の変遷についての社会学的な研究を通して明らかにしているのが、本書です。とりわけ、葬祭業界が「人の不幸でお金をとる」商売として批判されてきたという経緯を重んじながら、しかしなお、日本人の生活のなかに定着し、活躍の場を拡げていく過程を検証していきます。
たとえば、昨今でも結婚式には多額の費用を投入してハッピーな気分になれる人びとが、葬式にお金がかかると不機嫌になる場合が少なくないです。同じ儀式でも、「幸福」と「不幸」で価値判断が大きく違うわけで、後者のお客さんを相手にする葬祭業者は、ときに批判や差別を被ってきました。
この種の批判は、同様に「人の不幸でお金をとる」ところのある、仏教界にも向けられてきました。とはいえ、批判の度合いが全然違いました。僧侶が、死者とかかわる伝統を背景とし、また「宗教者」という特別枠に入れられているのに対し、葬祭業者は、無防備なまま死者と向き合うビジネスに取り組まなければならなかったからです。
たとえば、1960年代から販売されるようになった、とても立派な祭壇の例です。これは、おもに都会で亡くなった人の最期を美しく飾る新しい文化の創造でしたが、当然いままでになかった費用がかかり、人の不幸に乗じた「営利目的の行為」として、ときに批判されてきました。戦後に政府主導で開始された、新生活運動による葬儀の簡素化の奨励も、葬祭業界による新サービス開発への疑念を強める要因となったようです。
しかし、戦後一貫して進んでいった地域社会の解体は、葬祭業の役割を、大きく拡大させていきます。1980年代には既に、葬儀の際の「僧侶、神官、牧師の紹介」や、「お布施についての助言」といった宗教的に大事な部分を、葬祭業者がサポートするようになっています。のみならず、「正しい葬儀のやり方とは何か?」をめぐるノウハウや基準が、地域社会や僧侶ではなく、葬祭業者のもとに集中していくようになります。
こうして次第に、私たちの暮らしに必要不可欠な存在になっていった葬祭業ですが、依然として反感を買いやすいことは変わりません。結果、業界ではさまざまな困難を抱えながらの経営拡大が目指されます。たとえば、1980年代以降に建設ラッシュが見られた葬儀会館については、地域社会に嫌がられないよう外観に配慮し、また商業主義と見なされないよう、パンフレット等で顧客の「心」が何より大事といったアピールがなされます。
そして、こうした困難さの重荷が最もダイレクトにのしかかってくるのが、現場の職員の方々です。身内が亡くなったという、多くは不服な思いのもとに業者と向き合う顧客に対し、彼らの心のケアをしながら同時に、会社の利益のためにも「商品」を売りつけないといけない。こうした感情の負担の大きいハードな仕事は、職員一人ひとりの利他的な感性を磨く一方、ある種のやりがい搾取ももたらしうる。なかなか難しい問題です。
いずれにせよ、さまざまな困難を抱えながらも葬祭業界の存在意義は一貫して大きくなってきており、近年では介護事業に参入する業者も出てきました。死者だけでなく、現代人の死にゆく過程も含め幅広くサポートする仕事になる可能性があるわけです。仏教を上回る、死者に向き合うプロとしての重要度が、今後ますます高まっていくのではないでしょうか。
『日本鎮魂考 / 歴史と民俗の現場から』岩田重則
死者の性格は、その人の生き方によって変わり、また死に方によっても変わります。平均寿命を超えて大往生を遂げた死者と、災害や事故や戦争によって若くして亡くなった死者とでは、性質が大きく異なります。その相違に応じて、弔いや鎮魂の文化も、多様に展開してきました。本書は、そうした死者の文化の多様性について、歴史資料の分析と日本各地のフィールドワークの成果を組み合わせ、じっくりと考えを深めています。
特にクローズアップされているのは、まずもって江戸時代の死者をめぐる文化です。先に、中世において葬式仏教の基盤が形成されたと述べましたが、一人ひとりの死者が「ホトケ」として丁寧に供養され、お墓などで祈念/記念されるようになるのは、江戸時代になってからです。あるいは、豊臣秀吉や徳川家康をはじめ、生前にグレートな業績を残して逝った人びとを「カミ」として崇める風習も、江戸時代から盛んになりはじめます。
このうち、特に後者の風習が全面的に展開されるようになるのが、近代です。戦死者を「英霊」としてカミ扱いするシステムが、近代の国家権力によって創造されていったからです。彼ら戦死者たちの霊は、当初、通常の死者とくらべて、兵士としての個性を際立たせるかたちで顕彰される場合が多かったようです。ところが、戦争の時代が長く続き、やがてあまりにも多くの戦死者が出てくるのにつれ、その個性は薄れていきました。戦死者という「異常死者」が、無個性的になるほど大量に発生した、「異常」な時代がちょっと前の日本にはあったわけです。
こうした「英霊」の大量発生は、各地の寺院のなかにもその影響を及ぼしていきます。寺院境内の「忠霊殿」に、「忠」または「忠義」といった文言を組み入れた戒名の位牌が、無数に安置されていったのです。総力戦のさなか、忖度の大好きな仏教界が国家を全面支援していた事実はよく知られますが、そうした国家と仏教の結託は、寺院における死者供養の文化のなかにも見られたというわけです。
いずれにせよ、これら大量の戦死者たちは、先の東日本大震災の犠牲者の一部と同じく、若くしてその生を中断された者たちです。そうした者たちについて、著者は折口信夫が発した「未完成の霊魂」という言葉によりながら、よくよく意識を向けることの意義を説きます。
たとえ天寿をまっとうした人間であっても、彼や彼女の人間関係のあり方によっては、容易に無縁の存在となり、さまよえる霊魂となりうる。そうであれば、手厚い供養の対象となり続ける「完成した霊魂」ではなく、「未完成の霊魂」の視点から死者について考え続けることが、今後の私たちにとっては大事なのではないか。「無縁社会」が指摘されたりもする昨今、これは、非常に意義深い提言ではないかと思います。
『水子供養 商品としての儀式 / 近代日本のジェンダー/セクシュアリティと宗教』ヘレン・ハーデカー
1970年代、日本にかつて存在しなかった新しい宗教的風習ないしは儀礼が、急激に拡大し、全国各地に定着していきました。水子供養です。おもに霊能者たちがその必要性を語り出し、それを週刊誌などのメディアが大々的に宣伝したことで、寺院をはじめとする伝統宗教のなかでも、水子供養がたびたび行われるようになりました。
本書は、この新しい宗教文化が発生してくる歴史的・社会的背景をふまえた上で、それが日本の宗教史上、どのような意義をもっているのかを解明した本です。原著は1997年に英語で出版されており、部分的に少し古びた記述もありはします。しかし、水子供養という戦後に発明された死者儀礼の実態について、ここまで鋭く分析した著作は、ほかにないと思います。
日本の伝統的な信仰のなかに、中絶された胎児が祟りとかをもたらすので、供養しないといけない、といった発想は、ほとんどありませんでした。お地蔵さんが子どもを守護してくれるという考え方は、近代以前からかなり広まっていましたが、祟る胎児のために女性が地蔵にすがるような行動は、ほぼなかったわけです。
ところが戦後になると、「水子」が主体的に生者に害を及ぼすという信念が、生み出されます。一つの要因として、胎児写真の普及により、女性とお腹のなかの子どもの一体感が必ずしも自明でなくなり、胎児の自律性が高まったことがあります。そこに、戦後の「優生保護法」や産児制限の政策による、妊娠中絶経験者の激増があわさって、祟る胎児というイメージが、リアルに受けとめられやすい状況ができあがりました。
こうした文脈のもと、霊能者や、商売気の強い宗教者たちが、水子供養のススメを説くようになります。祟る胎児を供養せよという、センセーショナルなメッセージは、同時代のオカルト・ブームの後押しも受けて、週刊誌の恰好のネタになります。雑誌には、霊能者による水子供養の種類や料金表が掲載され、これらの情報に触れて「水子」の存在を思い描くようになった女性たちは、水子供養の消費者になっていきました。
水子供養のニーズは、やがて寺院に対しても向けられるようになります。僧侶は死者儀礼のプロなのだから、水子供養もできるに違いないという連想です。戦後の「新商品」である水子供養は、もちろん経典には書かれていないし、特に霊魂とか祟りといった発想をとらない浄土真宗を中心に、否定的な態度をとる僧侶が大半でした。しかし、供養を求める檀家や地域住民の願いを一刀両断するのも何なので、受け身的に「水子供養」してきた寺院も、少なからずありました。
死者をめぐる仏教的な文化が生まれるとはどういうことか、実に考えさせられる事態です。しかも、この供養文化は仏教のみならず、神道や修験道や新宗教のなかにも浸透していくのです。宗教や宗派を超えて普及したということは、やはり戦後の日本人の宗教的な感性に、強くうったえかけるところがあったからでしょう。
現在でも、水子供養は日本のあちこちで行われており、のみならず、台湾や韓国などにも伝播しています。かなり商業主義的な流れから生まれ広まった風習とはいえ、現代人の死者観の多様性や、その仏教とのかかわり方を理解する上で、依然として重要な文化としてあり続けているのかと思います。 
■葬式仏教 4 葬式の意味
現在、仏教というと、まず始めに葬式を思い出すほど、仏教イコール葬式のイメージが定着し、「葬式仏教」と批判を受けています。葬式とは一体何なのでしょうか?
葬式とは
葬式とは死んだ人を葬(ほうむ)る儀式です。「葬儀」ともいわれますが、「葬」送「儀」礼の略で、同じ意味です。親兄弟・子供など、家族が亡くなるほど悲しいことはありません。一緒に過ごしてきたありし日々のことが色々と思い出されますが、死は、もう二度とあえない永遠の別れとなります。どんな人も、死を免れることはできません。葬式は、故人との別れを惜しみ、死後の世界への旅立ちを見送る儀式なのです。では人生の最期、臨終を迎えてから葬式まで、どんな流れになるのでしょうか?
危篤・臨終から葬式までの流れ
危篤、臨終から、葬儀までに何をするのかという流れを、ここでは以下の10段階に分けて見てみましょう。
  1.危篤
最近は病院で亡くなることが多いので、医師から危篤を告げられると、悲しみの中にも家族や直系の血族やごく親しくしていた親族には連絡して集まります。
  2.遺言
危篤になっている人が何か言いたいときは、 枕元にいる人は書き留める用意が必要です。意識がハッキリしていて、遺言状を作りたいというときは、その準備をしてあげます。
  3.末期の水
死期が迫ると、「末期の水」を取らせる習慣があります。「死に水」とも言われ、死の直前か直後に亡くなった方の唇を割り箸に面を巻き付けたものや、小筆を使って水で濡らします。
  4.死亡通知
医師から臨終を告げられたら、危篤を知らせるような人が周りにいなければ葬式の日取りが決まらなくてもすぐに伝えます。それらの人が集まったら、菩提寺に連絡を取り、葬式の日取りを決めて、葬儀社に連絡します。その他、亡くなった方の学校や会社、関係する団体、隣近所にも知らせます。
  5.安置
病院で息を引き取ると、一度、霊安室に運ばれます。遠隔地での死去の場合は霊安室で通夜を行い、火葬場に運んで遺骨だけ自宅に持ち帰って葬式という場合もありますが、普通は自宅に運びます。自宅へ帰ってくると、また自宅で亡くなったときは、仏間か座敷に運びます。その場合は、北枕といって、頭が北になるように寝かせます。ブッダがお亡くなりになられるとき、頭を北にされていたと伝えられるからです。仰向けにして、「面布」といわれる白布を顔にかけておきます。
  6.枕飾り
遺体を安置したら、枕元に小さな机を置き、白布をかけて花瓶、香炉、燭台の三具足(みつぐそく)を用意します。そして花を飾り、灯明をともし、香を焚きます。そして、納棺までに僧侶に枕経をあげてもらいます。
  7.死に化粧
納棺の前に、湯灌をして死に化粧をします。湯灌は昔は文字通りお湯を使いましたが、現在ではほとんど使われず、ガーゼや脱脂綿に含ませたアルコールで拭き清められます。また、耳や鼻や口、肛門などら汚物が出ないように脱脂綿がつめられます。その後、女性なら薄く化粧をしたり、男性なら髭を剃ったりして死に化粧をします。
  8.死に装束
その後、経帷子を着せ、三角巾を額にあてます。三途の川の渡し賃といわれる六文銭の入った頭陀袋を首にかけます。手には手甲をつけて、杖を用意します。足には脚絆を巻いて、足袋、草鞋を履かせます。浄土真宗の場合は、冥土の旅に出ると考えないので、故人の好きだった服や浴衣を着せます。そして、手に数珠をかけて合掌させます。
  9.葬儀社との打ち合わせ
都市部では葬儀社に依頼するのが一般的になっており、 死亡通知、火葬場の手続き、車の手配、棺の用意、祭壇の写真など、あらゆる世話をしてくれますので、何を任せるのかを判断します。日程は、午前中になくなった場合は、その日にお通夜、翌日に葬式となり、午後に亡くなった場合は、翌日の晩にお通夜、その翌日が葬式となります。親類縁者や故人の生前縁のあった人たちができる限り参列できる日取りを選びますが、遺体の腐敗の問題があります。そのため、「本葬」を後にして、身内だけの葬儀を行い、遺体を火葬にする場合があります。これを「密葬」といいます。
  10.通夜
臨終から葬儀までの間に通夜が行われます。肉身や縁の深かった人が集まり、最後の一夜を静かに見守り、遺体の番をします。このときは、特に故人の死を通して、自分の人生にもやがて死がやってくることを考えさせられますので、僧侶によっては、通夜の席で法話があります。それによって、普段忘れがちですが、誰にとっても100%確実な死の問題を自分のこととしてとらえ、生きる意味を見つめ直す縁になります。その後、葬式となります。
葬式の流れ(式次第)
「生ある者は必ず死に帰す」といわれるように、どんな人も、最後は必ず死んでいかなければなりません。葬式は、故人との最後の別れを惜しみ、死後にはよい世界に生まれて幸せになって欲しいという冥福を祈る意味があることでしょう。それと同時に忘れてはならないのは、やがて自分も死後の世界に行かなければならない厳粛な無常を見つめて、人生を考える縁とすることです。葬式の式次第自体は、宗派によって様々ですが、一般的には以下のようになります。
1.遺族・親族・参列者入場、着席
2.導師入場
3.開式の言葉
4.読経
5.読経中に焼香
6.弔辞・弔電
7.法話
8.導師退場
9.遺族の挨拶
10.出棺
ところで、このような葬式は、ブッダの説かれたお経に何か根拠があるのでしょうか?
ブッダは葬式をされなかった
仏教を説かれたブッダの当時は、出家した人は、一般人の葬式は自分の親のみかかわることになっていました。
そのためブッダは、お父さんの浄飯王が亡くなられたとき、棺を担ごうとされたということや、『雑一阿含経』では、育ての親の棺を自ら担がれたということはありますが、それ以外では葬式らしきことをされたことは全くありませんでした。
ご自身の死についは、「世は無常であり、生まれて死なない者はない。今わたしの身が朽ちた車のように壊れるのも、この無常の道理を身をもって示すのである。いたずらに悲しんではならない。……仏の本質は肉体ではない。……わたしの亡き後は、わたしの説き残した法がおまえたちの師である」と説かれています。
さらに、ブッダがお亡くなりになるとき、お弟子の阿難に、遺体をどうしたらいいか尋ねられたときには、お前たはそんなことを心配しなくても、在家信者がやってくれるだろう。「出家の者はそんなことにかかわらず、正しい目的のために精進すべきである」とお答えになっておられます。
ですから、現代の日本で、僧侶が一般人の葬式を本職のようにしているのは、だいぶ仏教の教えとは異なります。仏教イコール葬式というのは、間違いなのです。
ではなぜ、日本の葬式は僧侶が行っているのでしょうか。
日本の葬式仏教の起源と歴史
日本語の「葬る」を「ほうむる」と読むのは、 放置するとか、放棄するという意味で、古代の日本では、豪族は古墳を作ったりしましたが、ほとんどの人は死体をそのまま捨てたり、土葬にするのが一般的でした。
大化の改新のときの、葬式やお墓を無駄に大きくしないための「薄葬令」を見ると、一般人の死体は放置したり散乱したりしてはいけないと定められていますので、当時はよく路傍にうち捨てられて散乱していたようです。
平安時代になると、仏教が広まっていき、 死んだら極楽浄土に往生したいと思う貴族が増え、仏式の葬式が増えてきます。ただし仏教には、臨終の儀式で極楽へ往けるという教えはありません。
やがて室町時代くらいになって農民が自立すると、一般人も葬式を行うようになります。日本人は、死を穢れとして極端に忌み嫌う傾向にあるのですが、この頃、僧侶が葬式を行うようになります。
一般的には寺と檀家の関係の確立する江戸時代中期以降に習慣として定着しました。
このように、葬式というのは、仏教の教えには根拠がなく、日本の習慣です。
日本の高僧たちの葬式に対する思い
ブッダは、2600年前のインドの方でこのような日本の習慣はご存じなかったのですが、日本の高僧はどう言っているでしょうか。3人見てみましょう。
  1.真言宗の空海
真言宗の開祖、空海は自らの死期を自覚すると、3月15日に弟子達を集めて遺言を残しました。それを『遺告真然大徳等』にこう記されています。「まさに今諸弟子等、あきらかに聴け、あきらかに聴け。われ生期今いくばくもあらず。汝らよく住して慎んで教法を守れ。われ永く山に帰らん。われ入滅せんと擬するは、今年3月21日寅の剋なり。諸の弟子等悲泣を為すことなかれ。われもし滅すとも帰住して両部の三宝を信ぜよ」
「三宝」とは仏教のことですから、「私が死んでも、帰って仏教を信じなさい」ということです。空海もまた、ブッダと同じような態度で死を迎えているのです。
  2.曹洞宗の道元
禅宗でも同じです。曹洞宗の開祖、道元の言葉を弟子達がまとめた『正法眼蔵随聞記』によれば、「忌日の追善中陰の作善なんどは皆在家に用うる所なり。衲子(のうす)は父母の恩の深きことをば実の如くしるべし。余の一切もまたかくの如しと知るべし。別して一日をしめて殊に善を修し、別して一人を分て廻向するは仏意にあらざるか」とあります。
「衲子(のうす)」とは、衲衣を来ている人のことで、禅宗の僧侶のことですから、道元が言っているのは、死者の追善供養や中陰法要といった儀式は、在家の人々がやっていることである。禅宗の僧侶の場合は、父母に恩はもちろん忘れてはならないが、特定の日の父母のために回向の儀式を行うことは、ブッダの真意にそわないのではなかろうか、ということです。これはブッダの心を汲んで、僧侶に対して葬式や法事を戒めているように聞こえます。
道元は「修証義」の最初に「生をあきらめ、死をあきらむるは、仏家一大事の因縁なり」と言っていますので、曹洞宗では、仏教の問題とするところは、葬式ではなく、自分が生死を解決して変わらない幸せになることだったのです。
  3.浄土真宗の親鸞
日本で最大の仏教の宗派である浄土真宗を開いた親鸞聖人も、「私は亡き両親の追善供養のためには、一巻のお経も、一回の念仏もとなえたことがないのだよ」(親鸞は父母の孝養のためとて念仏一返にても申したること未だ候わず・歎異抄)とか、「私が死んだら、賀茂河へ捨てて、魚に与えよ」(親鸞閉眼せば賀茂河へ捨てて魚に与うべし・改邪鈔)と言われています。
これは、ブッダが説かれた仏教の教えは、死んだ人を供養するためのものではなく、生きている人が、生きているときに本当の幸せになる生きている人のための教えなのだから、死んで葬式するよりも、生きているときに仏教を聞きなさい、ということです。
このように、ブッダをはじめ、一宗一派を開くような高僧方は、葬式よりも、生きている人が生きているときに本当の幸せになることを重視していたのです。
葬式の本当の意味は?
このように、仏教を説かれたブッダをはじめ、各宗派の祖師の方々が問題にされていないということは、葬式は無意味で無駄なものなのでしょうか?そうではありません。
現在の日本では、葬式が行われるとなると、会社さえも休んで親戚一同集まってきます。多くの人が集まる機会ですので、仏教を聞くご縁にすれば、正しい目的に向かうブッダの教えにもかない、葬式が大変有意義なものになるのです。
仏教は、生きている人が幸せになるための教えですから、葬式を行う意味は、「無常を観ずるは菩提心のはじめなり」と言われるように、 亡くなられた方をご縁に無常を見つめ、すでに本当の幸せになった人は仏教を伝えるご縁とし、まだ本当の幸せになっていない人は、仏教を聞くご縁とすることです。 
 

 

■葬式仏教 6 葬式仏教の由来
日本の仏教のことを「葬式仏教」と揶揄(やゆ)されます。
仏教の開祖、釈尊「ゴータマ・ブッダ」は、人々を苦しみから解放するために修行にはげみ、苦しみのもとである「煩悩」の先に「無明」があることを発見します。そして、苦しみの輪廻から解脱する方法をみいだし、悟りを得ます。
日本仏教の先達もまた、庶民を苦しみから解放するために仏教にまなび、修行にはげみました。
修行僧に葬儀について聞かれたブッダは、「そんなことを考える暇があるなら、修行しろ」と応え、「葬儀にはかかわるな」ともいわれたそうです。
仏教の経典は膨大にありますが、葬儀に関する教典はありません。仏教は、いかに煩悩から解放され、いかにこの苦しみの人生を生き抜くのかを問うだけです。
このため、葬儀に奔走する日本仏教のことを「葬式仏教」と揶揄されるのです。この「葬式仏教」はいつから、日本ではじまったのでしょう。
「葬式仏教」は、江戸時代から始まる。
「葬式仏教」は、江戸時代に徳川幕府が宗教統制の一貫として、キリスト教などを排除する「寺請制度」を発令したことに端を発します。
寺請制度(てらうけせいど)は、お寺が仏教の信者であることを証明する証文を発行し、それを庶民が請ける制度です。この証文を請けられなければ、キリスト教などの「邪宗門」の嫌疑がかけられ、厳しい拷問がまっています。
この証文を請けるためには、庶民は村のお寺を「菩提寺(ぼだいじ)」と定め、その檀家となることを義務づけられました。檀家制度(だんかせいど)のはじまりです。
檀家となった庶民のお葬式や供養・法事は、自動的に菩提寺が独占的にとりおこなうようになります。
「葬式仏教」は、死者をにわか出家者にしたてる。
ところが、それまでお坊さんは庶民のお葬式をあまり経験したことがありませんでした。
おなじお坊さんが他界したときに、その僧侶の戒名で葬儀をあげる経験しかありません。そこで妙案を思いつきます。
庶民が亡くなったときは、死者の頭の毛をそる(剃髪)など得度式(とくどしき/出家の儀式)を葬儀で再現し、出家した証しに戒名をさずけ、出家者の心得を読経する。こうして死者を「にわか出家者」と見なして葬儀をおこなう、そう「信仰心なき仏式葬儀」のシステムを編みだしたのです。
このシステムは、室町時代ごろから、修行僧が道半ばに他界したときに考えられた方法を土台にしたようです。
「葬式仏教」は、権力の片棒をかつぐ。
さらに寺請制度では、現在の戸籍にあたる「宗門人別帳(しゅうもんにんべつちょう)」をお寺の住職に作成させ、庶民の生活全般を管理させました。
庶民にとっては、寺請証文がなければ、結婚、就職、旅行などもままなりません。万が一、住職に睨(にら)まれれば、社会的な地位も生活基盤も失いかねません。
こうして寺院は、幕府の統治体制の一翼を担うようになり、各地のお寺は幕府の出先機関と化し、権力の片棒をかつぐことになります。
また寺請制度は、汚職の温床にもなり、俗化と腐敗の坂道を転がり落ちる僧侶もあらわれてきます。権力は、煩悩の炎を燃えたぎらせます。
「葬式仏教」は、信仰心より、忠誠心を植えつける!
寺請制度は、庶民を管理・統制するシステムです。
菩提寺の住職は、現場で庶民を統制する管理官です。住職(管理官)から寺請証文を発行してもらえなければ、庶民にとっては命取りです。庶民には、信仰心ではなく、住職(管理官)に対する忠誠心が求められたのです。
この忠誠心が、信仰心なき仏式葬儀「葬式仏教」を支えてきた原動力だったのです。
「葬式仏教」は、集団管理を助長する。
しかし、村にある菩提寺の住職さんだけで、村民を管理するのは骨が折れたことでしょう。
村人のなかには住職に付け届けをしながら、忠誠心の証しとして、あるいはお目こぼしを期待して、密告する輩もいたことでしょう。それが村内の相互監視につながり、集団管理を可能にします。村落共同体の集団管理は、村落共同体として菩提寺に忠誠心を誓うことで、より強固なシステムとなります。
武士は、殿様や藩に忠誠心を誓い、村民は村落共同体として藩と菩提寺に忠誠心を誓います。このような状態が明治維新まで約260年間つづきました。明治維新によって藩への忠誠心は解放されますが、村落共同体にこびりついた菩提寺への忠誠心は、共同体のしきたりや習慣として根づいていきます。
「葬式仏教」は、お墓で生きのびる?
時代が変わり明治になると、明治元年に政府は、仏教の特権をうばう「神仏分離令」を発令します。
この「神仏分離令」をきっかけに、仏教界に反発を抱いていた民衆が、全国の仏教施設を破壊するという「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」運動が高まり、多くの寺院仏閣、仏像、教典などが被害にあいました。
国家神道による宗教統制をめざす明治政府は、「神前結婚式」をヒットさせ、国民の間に定着させました。葬儀も神道バージョンの「神葬祭」を普及させようとしましたが、長年にわたって先祖のお墓を所有する寺院墓地の存在にその野望はくだかれます。
祖先崇拝という庶民の素朴な信仰は、仏教供養に組み込まれ、お墓参りなどに普及してきました。日本仏教は、そのお墓で生きのびてきたといえるかもしれません。 
葬祭ビジネスに活路
戦後になるとGHQの統制化で、「農地改革」がすすめられ、お寺が持っていた「寺社領」も没収されました。
それまで寺社領の農地では、小作人が働き、お寺の生活を支えていました。生活基盤を絶たれた戦後第一世代の住職は、ほかの仕事をさがして兼業するか、葬祭ビジネスに活路を見出すしか方法がありませんでした。
墓地は没収されなかったので、生き残った檀家を頼りに、悪戦苦闘をくり返しながら、高度成長期をむかえます。農村も都会も派手な葬儀を営み、戒名料もうなぎ登り。院居士で100万、200万。院殿居士で300万、500万円などの話もでます。さすがに高すぎるといった批判記事が新聞を賑わせたのもこのころです。
また、やり手の住職は、宗教法人の免税措置を活用し、幼稚園を開いたり、墓地経営を拡大したり、あるいは観光寺として寺院経営を立て直していきました。
こうして各お寺の住職は、りっぱな「寺院経営者」として再出発したのです。
戦後2世、3世は資産管理・運用者
やがて住職の後継者になる大卒の戦後2世、3世の時代が訪れます。先代の築いた財産を受けつぐ番になります。
もちろん、お寺の財産は宗教法人のものですが、住職は世襲制ですので、親の作った財産、お寺、墓地、土地、預金などは後継者の長男が譲り受けます。そこで長男坊は、この資産をどのように守るか、増やすか、何に使おうかと頭をめぐらせ、修行は二の次になります。
出家し、財産や資産などから縁を絶ち、俗世界の執着から離れ、悟りのために修行にうちこむ、そんな仏陀の姿はそこにありません。
資産管理者としての僧侶の姿が、檀家の前にあらわれます。「最近、老朽化が激しくて、ご本尊様に申し訳なくて、そろそろお寺も建て替え時かね」などと愚痴りながら、建て替え資金の協力を請います。
赤いスポーツカーのお坊さんも、転売価格の高い高級車に投資した正当な資産運用者なのかもしれません。「おやじ、いい買い物だろう」と自慢げに話す姿が想像できます。
もはや、寺院の後継者に最も求められるのは、仏心ではなく、物欲なのかもしれませんね。
時代の荒波に翻弄されてきた日本の仏教、無論そのなかで時代に抗い仏心を広めようとしてきた立派なお坊さんもいらっしゃることは存じています。  
■葬式仏教 7 葬式仏教についての私考  
ある有名仏教学者の論
仏教の教えというものは、つまるところ、−−なんだっていい・どちらでもいい−−というものだと思います。この「なんだっていい」「どちらでもいい」ということが骨の髄までわかれば、悟りが開けたことになる。そんなふうに、わたしは考えています。
しかし、わたしのこの言い方、どうも誤解されてしまうようです。
「なんだっていい」と言えば、「こうあらねばならぬ」と考えて、その理想の実現のために努力しているまじめな人が、自分の精進努力を否定されたように感じ、あるいは馬鹿にされたように思って、腹を立てるのですね。どうもまじめ人間は扱いにくいです。
わたしはときどき、「なんだっていい」と発言して袋叩きにあうことがあります。いつか、お葬式なんて、やってもいいしやらなくてもいい、なんだっていいんだと話して、お坊さんたちの集中砲火を洛びました。こういう発言は、お坊さんにとって営業妨害のように感じられるのでしょう。
でも、「どちらでもいい」ということは、お葬式を派手にやってもいいのです。やりたい人がやることに、わたしはけちをつけているわけではありません。
先祖供養だって同じです。先祖供養をしたい人が先祖供養をされる。熱心にやっておられる。それはそれで立派です。わたしはそれを非難しているのではありません。
ですが、先祖供養をしていない人も、それはそれでいいのです。なにも無理に先祖供養をする必要はありません。それが証拠に、浄土真宗の開祖の覿鸞聖人は、
《親鸞は、父母の孝養のためとて、一返にても念仏まうしたること、いまださふらはず》(『歎異抄』)と言っておられます。いや、そもそもわたしたちは死んだらすぐにお浄土に生まれるのです。
『即得往生』(無量寿経)であって、死んだ瞬間、すぐさま浄土に往き生まれる。それも、仏のほうから迎えてくださるので、子孫が先祖供養をしたからお浄土に往けるのではありません。そんなこと、仏教のABCです。したがって、先祖供養は「なんだっていい」のです。わたしはそう思います。
それじゃあ、おまえは、お葬式・先祖供養になんの意味も認めないのか?と詰問されそうですが、そう詰問する人のほうが、お葬式・先祖供養の意味をわかっておられないのです。
この点については、菩提達摩(インド名はボーディダルマ)の話があります。
菩提達摩は六世紀にインドから中国に禅を伝えた人物です。あの起き上り小法師、達磨人形のモデルになった禅僧です。達摩(後世の文献では達磨と表記されています)は中国に来て、最初に梁の武帝に会い、問答をしています。
武帝は達摩にこのように言っています。
《朕は即位以来今日まで、多くの寺院を造り、経巻を書写し、また僧尼たちを度してきた〔=出家させた〕。これらの行為には、いかなる功徳があるであろうか?》
写経をし、寺院を建立し、僧尼を援助する。すべてすばらしい行為です。それを武帝はやってきました。
だが、その問いに対する達摩の答えは、 『無功徳』  でした。「功徳なんてあるものか」というものです。
なぜ、でしょうか? わたしたちが功徳・ご利益を求めて何かの行為をすれば、その行為は楽しくなくなります。義務的になってしまいます。たとえば、満員電車で老人に席を譲ります。そのとき、老人から「ありがとう」の言葉(功徳)を求めていると、その老人が無言でいた場合、(こんな奴に譲るんじゃなかった)と不快になります。親切をして不快になるのであれば、親切はやめておいたほうがいいでしょう。達摩はそのことを言いたかったのだと思います。
「あんな、おまえさんが功徳を求めて写経をしているのであれば、やめとき。そんな写経に功徳なんてあるものか!」ということでしょう。
わたしたちは、写経が楽しいから写経するのです。親切にさせていただくことがうれしいから、そうするのです。親切そのものが功徳である、そういう親切をさせていただくわけです。
したがって、お葬式・先祖供養は、それが楽しいからさせていただくのです。″楽しいから″という表現はちょっとおかしいですが、楽しくない葬式・義務的にする先祖供養であれば、する必要はありません。(中略)お葬式や先祖供養は、あなたがあなたのためにするのです。そういうお葬式・先祖供養をすべきです。
だから、したい人だけがすればいいのです。先祖供養をしないと崇りがある、だからするというのでは、それこそご先祖さまを悪魔の類にし、冒漬していることになります。
私考
いきなりですが本題に入ります。この仏教学者の言っていることは、つまるところ「どちらもいい」と言いたいのでしょうが、「なんだっていい、どちらでもいいということが骨の髄までわかれば、悟りが開けたことになる」 というのはおかしい。「なんだっていい」「どちらでもいい」という理念とは、「どうあらねばならない」ということに「自分はとらわれていない」ということなのでしょうが、楽しいなら「する」、楽しくないなら「しない」というのは、凡たる好き嫌いの判断ですから禅においては病弊ともいえるでしょう。大乗仏教の根本思想は「空」であることには違いない。しかし、禅は行であって哲学ではない。空であるからと無執着となるようでは「無執着」も執着と観たお坊さん方の集中砲火だったのではないでしょうか。
禅では「無」に対して次のようなお示しがあります。厳陽尊者(ごんようそんじゃ)(嗣趙州)、趙州(じょうしゅう)に問う。「一物不将来(いちもつふしょうらい)の時いかん」(大意−私は無になりきって何も持っていませんが、どうですか?) 趙州曰く「放下著(ほうげじゃく)」(大意−そんなもの捨ててしまえ) 厳陽曰く「一物すでに不将来、この什麼(なに)をか放下せん」(大意−何も持っていないのに何を捨てろというのですか) 趙州曰く「恁麼(いんも)ならばすなわち坦取(たんしゅ)し去れ」 (大意−そんなに持っていない持っていないと言うのなら、かついで去れ!)  『五燈会元・四・厳陽章』 
この学者は「お正月やお盆などという日本民族に古来からあった行事を、仏教的行事としていっしょくたに取り入れたところの、ご先祖さまの崇拝、先祖供養は悪のりだ」「わたし自身は、死体なんてどうでもいいと思っている。死ねば、すぐに極楽浄土に往生できる。と、わたしは信じているからだ。だから、お葬式もする必要はないと考えている」と言うが、それこそ仏教評論の「悪のり」でしょう。「お墓参りというような死者を拝むことはおかしなこと」というのも同様です。脱線しますが、この評論家は「競争は悪である」として、「運動会の競争でもいやでいやでたまらない子もいるのだから、順番などつけるべきじゃない」という論を強く主張している。そんな主張が闊歩するから、ゴ−ルの手前で遅い子を待って、みんなで一緒にテ−プを切らせるというおかしな運動会が出現する。負けたらくやしいだろうが、負けて自分を強くする人生の意義も合わせ持っている。だからこそ昔から「若いときの苦労は買ってでもせよ」というのであろう。現今では子供をあまやかし過ぎて我慢することも教えられず、小さな成功や突破体験をさせないから自信もなく辛抱もできなくなっているのだろう。勝負の最大の相手とは相手ではなく自分であろう。勝ち負けにこだわる「自我」、「ばかにされた」と悶々とする自分を見つめ直し、自分に負けない教育でありたいものだ。
話を戻します。−− むかし学信上人の所へ、ある信者がきて「わたしは念仏申したくありませんが、申したくなるまで待っていてはどうでしょうか」と問うたそうです。学信上人は「お前のようなナマクラなものが、念仏申したくなるまで待っていたら一生涯、念仏申したくなるようなことはあらへん。念仏申したくなくとも申されよ」と示されたそうです。 いくら崇高な考えがあろうと阿呆行を行ずれば阿呆であるように、仏行を行ずれば「仏行」になるのです。いわゆる祖師のお墓を拝す僧侶の行とは「慕古」の仏行です。仏教でいう葬儀というものも一般的習俗ではなく仏教的精神を根幹とした儀式です。カトリックにも洗礼や聖餐という秘蹟(儀式)があります。しかし、ルタ−やカルバンは信仰によって成立するのがキリスト教の根本であるから、秘蹟などという儀式儀礼で救済されるという考えは異端であると主張しました。その理由は、すぐれた聖職者がキリスト教を広める為にはどうすればいいかということを考えた。その結果、聖職者はまことしやかに説教するようになり、いつのまにか堕落してしまった。 −− ルタ−もカルバンも非難したのは、そうした点ではなかったでしょうか。宗教的儀式であっても、この点はどの宗教であろうと心しなければならないところです。
当地の法事の情況を考えますと、信仰心ある旦那衆といえど、「昔からやってきたことだから」とか「世間体」「住職に悪く思われるのはどうも・・」等という次元からはじまり、幾度もの法事で仏縁を育み親族の話を聞き、祖先の生き方を学びながら杯を傾けるのは「稽古」と思うのです。霊の有無を論じるのではなく、ほとけ様に「行って来ます」と挨拶するその時、仏が仏さまに手を合わせている事実には間違いないのです。 「孝行をしたいと思うときには親は無し」という一般的世間にあって、油断して孝行を逸した親への慈悲心の発露でもある法事は素敵な仏事と思う。仏事とは「迷信や暗示」といった類のものではなく人生の稽古と拙僧は考えます。

無理に先祖供養をする必要はありません。それが証拠にという点についても・・・ 『 親鸞は、父母の孝養のためとて、一返にても念仏まうしたること、いまださふらはず 』 というのは、「念仏を申したことがない人でも、死んだらすぐにお浄土に生まれるから念仏や供養などいらない」ということではないでしょう。親鸞さまの示されようとするところは 亡き父母の為とか、亡き子の為、ああなってほしいこうなってほしいと念仏するのは、自我の入ったわがままな迷いの念仏になってしまう。人生にあれこれ注文つけずに念仏を申しなさい。「・・・の為」の念仏ではなく、一切の条件をつけず無条件で念仏を申しなさいということではないでしょうか。注文をつけない念仏というものは、そのままで念仏の功徳がすべて含まれるからです。念仏を積み上げて極楽に往生させて貰うのではなく、ただ念仏するから念仏なのです。念仏や先祖供養は必要ないといっているのではないと思います。親鸞聖人のお言葉に「よしあしの文字をもしらぬひとはみな まことのこころなりけるを 善悪の字しりがおは おおそらごとのかたちなり」とあります。理論や理屈を振り回さない人は、常に純粋に阿弥陀仏の法に信順しているが、知的にふるまう人々のこころは、いつも理屈に走って、本物の信心を見失っているというような意味でしょう。法然上人のお言葉にも「念仏を信ぜん人は、たとひ一代の御のりをよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無知のともがらにおなじくして、智者のふるまいをせずして、ただ一向に念仏すべし」と。いくら仏教を勉強研究しても「仏の行」がなければ仏行にはなりません。
葬儀や授戒会で必ず「衆生、仏戒を受くれば諸仏の位(くらい)に入る。位大覚(だいがく)に同うしおわる。まことに是れ諸仏の子(みこ)なり」と唱えられますが、これは世尊のことば(梵網経)とされています。ここでいう受戒とは「禅戒一如」とされるものでありますが、「帰依三宝」をはじめとしての受戒によって、仏と同じ妙法を自覚させられ、そして、その時、人は菩提心をおこすと解釈しています。「正法眼蔵」道心巻で「仏道を求むるには、まづ、道心をさきとすべし ・・・ ねてもさめても三宝の功徳をおもひたてまつるべし」 とあります。道心の「道」は覚と同じ意味ととらえてもいいでしょう。梵語では「阿耨多羅三藐三菩提」(あのくたらさんみゃくさんぼだい)、すなわち仏さまの境界「仏心」のことです。この「おもひ」は念仏の念の字にあたります。「念」とは、常に思う、とこしえに思って忘れないという意味ですが、大切なことは観念ではなく身口意の三業で念ずることです。そのような教えを仏縁薄い人に、葬儀や法事で仏法を知らしめることは大きな法縁です。 誤解を受けるかもしれませんが、真実この世の宝と言えば「仏法僧」の三宝以外に見つからないというところまで感得できなければ、仏教の真髄を語れるものではないと思います。「仏」と「法」は了解するが僧を敬う気がしないとも言っておられます。僧侶側としてはこれを謙虚に受け止め反省すべきではありますが、「帰依三宝」の功徳とは「一闡提」となっても三毒五蓋の煩悩にあってもついには善根をつぎ、その功徳を増長する。帰依三宝の功徳は不朽なりという心髄を感得してほしいものです。

それから、「無功徳」の解釈についてですが、梁の武帝は、こころのうちに、何か善い果報を求めて善根功徳をされたのでしょう。そうとすれば、それは人天の果報であって、善事を為して天上の楽果を得たとしても、その果報には限りがあります。その果報が尽きれば、また下界に沈まねばならない。本当の功徳とは、「善い果報を求めての善根功徳」ではなく、ただただ無心に黙々と深い心で善行を重ねるよろこびそのこと自体の中にある功徳ということ。故に、梁の武帝のされたことは、人天の善果、世間でいうところの福徳と呼ぶものであると看破して「無功徳」と示されたのでしょう。禅宗においては、この三字を「功徳無し」と訓読することをせず「無功徳(むくどく)」と音読する習わしになっています。しかして、無功徳の意味がわからない武帝は「それでは真の功徳とは何か」と再び問うのです。達磨大師は、「有所得の欲念を棄てて、浄智円妙なる佛性の本体を徹見し、空寂無相なる実相を証することが先決で、世間有漏の立場、 人天の小果では到底求めることができない」と諭されるのです。武帝はこれを理解できなかったのです。   あなたは?・・
ある寺の大般若会の法話であるお坊さんは「大般若に来られても皆さん!功徳なんかないですよ!」と大きな声で元気に説教していたが、お爺ちゃんお婆ちゃん方は一様に ・・・ とまどっていた。その空気を感じた坊さんは 「みなさん!本当ですよ!もし功徳があるという人がいたら私にその人を連れてきてください!」には 一同「 ・・・。」  オチが無いのなら、そんなことは言わない方がいい。「無功徳」とは功徳が「無い」というのではない。無功徳の「無」は「有」に対する「無」であろうはずがない。それが証拠にお説教の最後にその坊さん自身が「願わくはこの功徳を以てあまねく一切に及ぼし 我等と衆生と皆共に仏道を成ぜんことを」を唱えるじゃありませんか。 −− あるお師家さんが、般若心経の「無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法」の「無」も、否定的に天地のいのちを表しているのだと受け止めれば、肯定の方から、無の眼耳鼻舌身意有りということになる。「本来無一物」も、本来無の一物と読んだらどうかと示されている。これならわかりやすい。この見方で言えば、無功徳とは「無という功徳有り」、「無なる功徳有り」とも解釈できる。功徳の功は本来備わっている「本性」なるものを示し、徳とは本来備わっているものを自覚して自分のものにすることですから、「無量なる功徳」、「無尽なる功徳」、「無辺なる功徳」ともなることを学ばねばならないでしょう。
一般的には修行して「悟りを開く」というように考えるでしょうが、そのような修行は「有所得」です。徹底して無所得であるべき坐禅が「悟り」ということにとらわれる時には薬病(やくへい)を生じてしまうことになる。したがって、悟りとは骨の髄までわかれば悟りが開けたことになると考えるとしたら、それはマルクスの「宗教は阿片である」の世界になってしまう。坐禅にしても、悟ろう悟ろうと頑張る坐禅であっては、「あれ欲しい・悟りたい」の餓鬼禅になってしまう。 うつ病が流行っていますが、うつ病患者になんだっていい、どちらでもいいということが骨の髄までわかれば、悟りが開けたことになるなどと思量させるのではなく、「非思量」の坐禅が大切なところなのですから、うつ病を直すための妄想禅、我慢禅ではかえって悪化させてしまうでしょう。
正法眼蔵「海印三昧」に次の言葉があります。「得道入証(にっしょう)はかならずしも多聞によらず、多語によらざるなり。多聞の広学はさらに四句に得道し、恒沙の偏学つひに一句偈に証入するなり」−−−(大意−悟りというのは必ずしもたくさんの教えを聞き、言葉を覚えることではない。たくさんの教えを聞き広く仏教の学問をした人も、得道するには四句に得道し、ガンジス河の砂の数をかぞえるほどたくさんの学問をした人も得入するのは、たった一句の偈によるのである)・・・ 一句の豁然大悟というのは、さとりとか迷いとかの概念もすべて瓦解する一句のことです。正法眼蔵随聞記では古人の語録や公案を読んでいろいろ勉強するにしても、説教する為の材料の仕込みであるならば、その行為や学習は自行化他の為には無用であると示されます。むしろ「只管打坐して大事をあきらめ」ならばたとえ一字を知らなくても他に向かって無限に展開することができると示されるのです。善いことをするにも「せねばならぬ」というのでは道徳です。「せずにおれない」という心に気づかせるのが宗教です。先祖供養はしたい人がやればいい、という問題ではなく「せずにおれない」というところを気づかせようとの法事でありたいと拙僧は勤めています。

日本の仏教を葬式仏教と揶揄する人が昔も今もいますから、若い坊さんの中には教理仏教や葬式仏教との揶揄故に心痛める時期があるものです。時期ですから、そのような葛藤は昔からあったことことですし、これからも課題となるところのものが人生でしょう。ところで、「葬式などは僧侶が本来やるべきことではないのだ」という原理主義的発想はどこからきているのかを考察します。釈尊最後の旅路を描いた「大般涅槃経」というお経があります。この中で、お釈迦さまは弟子のアナンダに、「出家修行者は法を正しく実践することこそが釈尊を尊敬し供養する道であり、出家修行者は釈尊の葬式にかかわることよりも、正しい目的のために努力せよ。釈尊の葬式は在家信者のなすべきことだ」というようなところがあります。ここのところを、「釈尊は生きた人間の苦悩を解放せんがために正法を説かれたのであって、死んだ人間は管轄範囲外である。であるから、坊さんは葬式なんぞしてはいけない」というような文字の上だけで理解している仏教学者の解釈を鵜呑みにしてしまうところにあると思う。釈尊の大般涅槃時にアナンダは「それではお釈迦さまのご遺体はどのようにしたらいいのでしょう」と尋ねられるのですが、それに対し「私の遺体は王中の王である転輪聖王になぞらえて布や綿で幾重にも巻き、そして火葬にしなさい。荼毘後には舎利(遺骨)が残るから塔(スツーパ)を作って供養しなさい」と言い残されたそうであります。アナンダはこの指示を受けて、地元のマッラ族を指揮して、お釈迦さまのご遺体をたくさんの香木で荼毘に付したと伝えられています。つまり、お釈迦さまはご自分の遺体の火葬方法を示されアナンダはこれを守られたのです。−−  では、お釈迦さまの示される仏道主旨は何なのかということになりますが、『出家修行者というものは仏陀の遺骨を後生大事にしながら、いつまでも嘆き悲しむということではなく、正しい修行を求め精進せよ』、ということではないでしょうか。
遺骨についても、先の学者はある共著の中で「日本人は骨にやけにこだわっていますね。だけど、遺骨に執着しているから、霊界や幽界があるような気になるのじゃないか。骨なんかこだわるな、遺骨なんかいらん、死者は仏様の国に行ったんだと、どうして日本のお坊さんは遺族を安心させないのでしょうかね。◇織田信長は、頭蓋骨に漆を塗り、金粉を施して盃にし、正月それに注いで臣下に酒を飲ませたという話があります。古く日本でも、頭蓋骨は酒器に使われています。日本人は、骨にあまりこだわる必要はないんじゃないでしょうか。使えるものは使えばいいので、お酒を飲むのにちょうどいいじゃないかという感覚は、いいと思います。◇日本人の遺骨への執着は、私はお坊さんの怠慢だと思います。お坊さんは、自分はお寺で仏様の国を拝んでいるのだから、墓なんて参るバカがどこにいるか、と言えばいいんですよ」と云われる。同書の中で、相手の方が「禅宗では、労働を作務と言いますが、労働を神聖視していますね。なぜでしょう」の問いに対し、この学者先生は「昔の日本のお坊さんは、国家公務員でありました。国家から生活を保証されている。その負い目でしょうね。皆のお世話になっているんだから、自分でできることは自分でやらなければいけない、という思想だと思いますね。」という発言をしている。同学者は禅問答解釈の著書でも、「何事も自分で体験しなければわからないというのは低俗な体験主義である。禅や仏教を学ぶのに体験が絶対に不可欠とは言えない」と、この学者には昔の仏教の解釈未熟と共に、「仏道」の体解は無いように思われる。同学者はインドの葬送や風葬などを比較して云々していますが、ヒンズー教の教理と仏教の教理は違いますから遺骨についての認識も違って当然でしょう。更に仏教が伝えられた歴史や文化と融合した我が国の仏教文化が違うのはむしろ当然のこと、日本での祖先崇拝の「信仰」からいえば、遺骨を踏みにじることは日本人の良心を踏みにじることにもなる。人が亡くなった時の表現には「死体」と「遺体」があるが、「ご死体」とは言わない。名前がわかる場合は「遺体」です。遺体であれば葬儀に関する儀礼がほどこされるはずですが、犬や猫などのペットは遺体とはいわずに「死骸」です。「遺体」とは生前の人格がそのまま継続されているといえる。しかし、「埋葬許可書」や「火葬許可書」の無い骨壺が忘れもののように電車の網棚に置かれ、或いは、ゴミと一緒に夢の島まで運ばせる輩も出現。高速道路に散骨すれば、やがて粉々になり雨に流され自然に帰るなどとうそぶく −− 無信仰とは、そういうところに帰結してゆくことになるのです。
時宗の一遍上人は寂後の葬礼について「没後の事は、我が門弟におきては葬礼の儀式をととのふべからず。野にすててけだものにほどこすべし。但し、在家のもの結縁のこころざしをいたさんをば、いろふにおよばず」と言い残されたそうです。しかし、一遍上人が入滅されると出家の時衆たちは「野に捨てるのではなく」、ある意味で一遍上人の遺志に背くことではあるけれども、「念仏弘通の為」その後継者の集団が編成されました。葬儀法要儀式の反映ゆえに時宗の法灯が守られているともいえましょう。親鸞聖人も、自分が死んだら賀茂川の水に流して魚に与えよと申されたそうですが、現実には荼毘に付されたあと御遺骨を大谷本廟という形で祀りました。まさに親鸞聖人の遺骨から本願寺の信仰ができたといえるでしょう。古今東西、尊い方の遺骨を粗末にあつかった信仰者や教団はどこにもありませんし、縄文人は貝殻を添えて葬ったり、クロマニョン人の遺骨の傍には花の痕跡もあった如く手厚く葬ることは既に何万年も前から人間がおこなってきたことです。言うまでもないことですが、「王中の王である転輪聖王になぞらえて布や綿で幾重にも巻き、そして香木で火葬する」というような財がインドの出家求道者にあるはずがない。釈尊が「出家修行者は自分の葬式法事を大切にせよ」などと示されたらば問題になるでしょうが、「出家修行者は正しく法を実践することこそが釈尊を尊敬し供養する道であり、出家修行者は仏道に精進せよ」というのは当然のことでしょう。道元禅師は、仏道を学ぶ上で大切なことは無常を感ずることであると示されました。私たちが深く無常を感じるのはやはり親しい方との別れを通してのことを考えれば、和尚自身もしっかりと葬式、法事をすることはご供養を通して深くいのちをみつめ、生き方を学ばせていただく「下化衆生」の修行といえるでしょう。

次に、道元禅師の教えの中から在家葬儀を否定される意見があります。どのような箇所が指摘されているかと言いますと、「正法眼蔵 大修行」の巻で「百丈野狐」の話に関する説示があります。「百丈野狐」の話とは、百丈懐海が説法していたとき、一人の老人が説法を聞いていた。ある時、説法が終わっても老人は帰らないので百丈禅師が「そこにいるのはいったいだれなのか」と声をかけた。老人は「私は人間ではありません。私は大昔この山の和尚として住んでいた。ある日弟子の一人が私に質問をした。「仏道修行が良くできた人でも、やはり因果に落ちて苦しみますか」。私は答えました。「不落因果」(因果の法則に落ちることはない)。その途端に狐の身になって五百回も生まれかわりしているのです。和尚の力で救ってもらいたい」と。そしてもう一度老人は同じ質問をした。「禅の修行が良くできた人でも、因果の法則を免れることはできないのでしょうか?」。百丈禅師が答えられた「不昧因果」(因果の法則をくらますことはできない)。老人は和尚の引導香語によって大悟し礼拝して言った。「私はお陰で野狐の身を脱することができました。どうか修行僧が亡くなった時に行うやり方で葬式をしていただきたい」。そこで百丈和尚は寺の裏山で死んだ狐を亡僧法に依って火葬したというような話です。
これについて、道元禅師はそれをおそらくはあやまりであろうと示されるのです。その理由は、得戒せず修行の経験もない野狐が「亡僧」であるはずがなく、野狐を亡僧と同じようにあつかうようなことは正伝の仏法にはあらずと否定されておられるのです。さらに「たとえ国王大臣であれ、出家者ではない者が亡僧に対する儀礼を要請したとしてもみだりに応じるべきではなく、出家受戒して僧となるように勧めなければならない。仏法の功徳に結縁しようと思うのであれば、すみやかに出家授戒し僧となるべきである」と示されているのです。簡単に言えば、「野狐の葬儀を亡僧と同じように扱うということは非法である」ということでしょう。 「百丈野狐」の公案は野狐の葬儀の話ではなく、仏法の真理を示そうとの公案でしょうから、「在家からの要望があるからといって得戒していない野狐に亡僧儀礼で応じるとしたら法を乱すことになる」との教示に思うのです。
宗門の葬儀では「仏戒を受くれば、即ち諸仏の位に入る」と授戒を根本とします。そして宗門では最も重要な儀式として「授戒会」を位置づけているのです。いわゆる得戒なければ仏子ではないのですから、生前中に得戒の無かった在家信者に対して仏戒を授け仏の子(みこ)と為すは曹洞宗の葬儀の眼目です。「戒名」とは本来なら生前授戒によって授与されるべきではありますが、生前に授戒の縁が無かった方に、葬儀に際して授戒し付与しているのが現在の宗門の在家葬法であると言えます。授戒の時に渡す血脈の表書きには「仏祖正伝 菩薩大戒」と記されています。観音様や地蔵様と同格の仏教求道者として拝み、共に菩薩道を歩もうという儀式です。得戒の意義を忘れて「没後作僧」という言葉で自信を無くしたり、「授戒」の意義を軽んずることのないように念じること切です。
世俗の葬式批判とは「葬る」ことに対しての批判ではなく、葬儀を主催する宗教者側の問題として大きな反省が必要でしょう。「法」は正しく伝承されなければなりませんが、しかし、信者の外護がなければ教団は成立しえないところも無視はできません。インドでは釈尊をはじめとして、出家は在家信者の為の儀礼を司祭していなかったそうです。信者は釈尊や仏教行者から心安らかに生きる道を学び、日常儀礼はバラモン僧を呼んでおこなっていたらしい。布教的立場から見れば、仏教には精神性の高さはあるものの、インドで仏教がヒンズー教に吸収されてその立場を弱くしていったのも故なしとはいえないでしょう。永平寺においても「三代相論」と呼ばれる紛争が起こり、波多野氏の外護を失い永平寺は外面的には荒廃した時期があったと伝えられます。曹洞宗の仏法が今に相続されているところのものは、瑩山禅師や峨山禅師、明峰禅師をはじめ多くのお祖師さま方が全国に道元禅師の宗風を在家に広められたからこそでありましょう。菩薩道としての教化をはかられた儀礼は長年の間に実に洗練され現在に至っています。

ところで、あるお師家さまは、「葬祭は商売だから大いにやるべきで、それで教団を維持しながら、我々は一生懸命に坐禅すればよろしい」と言われたそうだが「商売」というのは「俗言」すぎる。葬祭を商売にするのであれば「商売坊主」でしょう。坐禅の境地が高くて葬祭というものは本来関係が無いのだと見下げるようならば、その態度をこそ慎むべきであろうと思う。葬祭は便法であり本義は坐禅であると言いたいのでしょうが、そんな安易な表現をするから彼の仏教評論家から「葬式・法事は坊主のする仕事にあらず、法事の慣習は徳川家康と天海による檀家制度、その上にアグラをかいた坊主による非仏教的行事である」などと揶揄されるのではないでしょうか。道元禅師は「世務は仏法をさゆとおもへるものは、ただ世中に仏法なしとのみ知りて、仏中に世法なきことをいまだしらざるなり(正法眼蔵辨道話)」その大意は−世間のいろいろな務めは仏法をさまたげる、世法には仏法はないなどと簡単にかたずけてはいけない。仏法というは一切法である−−ということでしょう。−− 出家的方向に精進した僧侶ほど、檀信徒の宗教心に訴える力もあり、修行力を身につけた僧侶ほど、霊をホトケに化す力を具えていると思うのです。
古来より、曹洞宗のお葬式とは「三帰戒」を授けて、仏の子として成仏を願い送る儀式です。本来、戒名というのはこの「仏戒」を受けた証の名号です。信士や信女・居士、大姉号などの位階とは出家名ではなく在家のままで御仏に帰依する者の為の授戒名なのです。「没後作僧」ではなく、在家のままで仏道を成ぜんことを願うものです。曹洞宗では生前の授戒会をもっとも重要視するところですが、この授戒の縁が無かった人に対する「授戒」が宗門葬儀の眼目です。仏祖が葬礼儀式を通じて「正法」を伝えられた原点を改めて思いを致したいと思うものです。もし、葬式仏教が批判され問題となるとすれば、それは、葬祭儀礼を司祭する僧侶の資質の問題ではないでしょうか。葬儀形式もどんどん変化する今、「法灯」を正しく未来に伝える為に何を大切にしなければならないかを感応道交すべきと考えます。
法事とは「首楞厳経」に「諸々の一切の難行の法事を行ず」とあるように、本来は教化・修行の仏教行事すべてを指す言葉です。青年仏教会で行われている「緑蔭禅の集い」の坐禅会も、歳末助け合い托鉢も、地域社会への行事参加も、恵まれない諸国への協力事業も立派な法事のはずです。故に、葬儀を催行する宗教者は、葬儀、仏事は「一切法の禅」「威儀即仏法の禅」として修していかなければならないでしょう。人の死という人間にとって最も悲しい時に、人生の無常と懺悔、正しい信仰のあり方を伝えられた歴代祖師方の「こころ」を切に研鑽し直したいものです。いうまでもなく、生活が派手で無慈悲な僧侶、世間的な有功徳価値観の僧侶であるならば、釈尊の原点に還って修行し直さなければならないことは申すまでもないでしょう。 
■葬式仏教 8 葬式は要らない?
宗教学者の島田裕巳さんが『葬式は、要らない』という本を出版し売れている。実はまだ読んでいないから感想や書評というわけではない。以前、島田さんの「戒名」についての本を読み考えさせられることが多かった。
氏はその後も私たち既成の仏教界・寺院に対して、概して手厳しい内容の書物を著しているから、今回もタイトルどおり、また新聞の大きな広告のとおりに、今日の葬送をめぐる寺院や僧侶また葬祭業者や、それらのビジネスに流されている現代人のあり方に対する批判的内容、そして「先進諸外国」との比較による『あるべき葬式』『新しい葬儀のスタイル』の提案であろう。きっと日本のお坊さんが嫌いなんだろうなあ。
そういえば、有名な白洲次郎さんは、「葬式無用、戒名不要」と遺言したという。かっこいい。でも、遺族と親しい友が集まって酒盛りをしたという。それは、葬式であろう。でも、彼を評して「風の男」って、それもある種の戒名であろう。だから、葬式は必要なのだ、戒名も必要なのだ、と威勢よくこの本のタイトルに文句をつけようというわけでは、ない。
ただ、こうした批判の矛先になっている僧侶や寺院、または業者のあり方が、日本全国津々浦々の全部の僧侶や寺院、業者のありようではないと思うのだ。都市型の問題意識が、全国にすっぽり該当するわけではないのに、大手の出版社の広告や記事は、全国に行き届いてしまう。メディアは、あんまり無頓着に都市型の事象や問題意識を流してほしくない。それは「寝た子を起こすな」と言うのではなくて、現代的な観点や価値観にのっとって批判しようとすれば、地方の文化などは、どれもこれも批判できるし、また逆に、「これでいいのだ」と言う肯定がしにくいものなのだ。ことに若い世代は、都市型のモードや論理や価値観に沿っていき易いから、面倒な人間関係や手続きや知識を必要とする地方の伝統的な文化や習俗は、その意義を吟味する猶予もなくまるで「文化大革命」みたいになってしまう。
東京を中心とする都市型のライフスタイルが生み出す問題意識は、都市化しつつも伝統的なライフスタイルを尊重する地方の地域社会には、必ずしも一致しないと思う。
また、日本の仏教が国家や貴族、武家などに依拠していた経済基盤を失っていく過程で、葬儀を重視してその祭祀を執り行うことを通じて経済的基盤を確立してきたことは、単に教団組織や寺院の伽藍を守るために既得権益をガードしてきたのではなく、仏教を守り伝えるという意識もあったし、またその仏法によって死者の霊が慰められ、祖先の供養ができると受け止めてきた、日本人の霊性の歴史的背景もあると思う。
どうしたら、死んだ人の魂が鎮まり、慰められるのかということについて、日本人は強い関心を抱き続けてきた。その長く強い問いと検証に耐え、日本の仏教の葬送文化は培われてきた。親族の亡魂をきちんと供養するという文化が、日本人に安定感のある精神の醸成を促してきた。そう私は思う。もしも、このまま、こうした文化を経済原理だけで端折り、簡略化を続ければ、日本人は、個々においてもまた社会全体においても、精神的な安定感を失ってしまうのではないだろうか。
うがった見方をすれば、怪しげな新宗教の跋扈にしても、現代人を悩ます精神的な不安や疾患なども、精神活動の基底を支えていた葬の文化、祖霊鎮魂の文化が崩れていることに、大きな遠因があるのではないか。

島田さんの本の主たる問題提起でもある葬儀の費用についてであるが、一般的な消費に関わる費用と比べて、時間的な金額が高額だと思える。確かに安くはない。しかしながら、それらが「功徳」となって亡き人に回向される、またそれによって地域の宗教空間(寄り合いの場、憩いの場、祖霊の鎮魂の場)が維持される、また現実的に各家庭や個人が引き受けている社会的な責任において、「故人に成り代わって生前の恩にお礼する」という意識から、関係者に贈答品や食事でその意を表す、、、。今時の住宅は葬式を想定していないし、葬式を想定した地域住民の態勢になっていないから、会場を借りなくてはならないし、各種の手続きも代行してもらわなくてはならない、、、、。
そんなふうにして、費用がかさんでいく諸要素のどれかが、「ムダ」とあたかも事業仕分けするかのような切り捨てられるだろうか。一番批判しやすいのは、お布施であろうが。。。。
また欧米の諸外国(なぜか学者は欧米を何もかもについて進んでいるという立場であるが、もうそういう辺境劣等意識に付け込むような啓蒙パターンは止めてほしい)と比較して葬式の費用がべらぼうに高いということも、その金額だけを取って一方的にダメだしをするのもどうかと思う。
例えば、アメリカ人は毎年クリスマスに一家族で3000ドルから5000ドル(約25万から45万)を家族や友人へのプレゼントに用いる。それを、諸外国と比較して異常であるといって批判してもしょうがない。葬式のスタイルも文化や民族によっていろいろだから、川に流す水葬や、鳥に食べさせる鳥葬が深い宗教的な文化を背景として行われているが、それを「アメリカの葬式はシンプルだ」という理由で批判するだろうか。
アメリカ人がクリスマスでその年に貯めた貯金の大半を使ってまで家族や友人たちに伝えたい心があるように、日本人には亡くなった人のために立派な葬式をすることによって、亡き人の例に向けて表現したいことや、故人に連なる人々に伝えたい思いがあるのではないのか。

もちろん、葬祭業者の競争の激化により、より安価でより楽な「商品」も出てくるし、「家族葬」とか「直葬」という新しい言葉が「発明」されてしまうことで、潜在的な需要を掘り起こすビジネス上の努力も盛んだ。
それらは常に新しい「葬の形」の提案かもしれないが、それらはいつも「遺族」に向けた提案ではなく「消費者」に向けた提案である。
「葬」は、死んでいく当人の意思と遺族の意思が大切であるが、消費者意識だけで葬儀を営めば、費用の抑制に成功しても終わった後でなんだか「これでよかったのか」と思うだろうし、遺族意識だけでとことんやれば費用もかさみ、今度は「これでよかったのだ」と思うに思えぬことにもなる。

かつての葬儀は、容易ならざる細かい慣わしによって行われていた。
遺族や親族が為すべきこと、地域社会が為すべきこと、または為してはならないこと、それらは故人との近親の距離によってその場で定められ、49日までさまざまな儀礼が行われた。それらの種々の儀礼や習俗は、それを勤め営むことによって、「やるだけのことはやった」という遺族に満足感を与える大きな「癒しの効果」があったであろう。
今我々は、その大半を端折り、棺おけの手配から、手続き万端を、業者に委託している。通夜振る舞いの食事を、自分たちで作ることはもうない。死者の為にしてあげられることが、ほとんどなくなったのだ。手触り感のない葬儀になったのだと思う。感触がない。いわば疑似体験に近い。
何もかもを業者任せにしてしまうと、葬式をやったはずなのにやったような気がしない、ということになり、そういうモヤモヤ感が「実感」や「感触」を知らず知らずに求めているのではないだろうか。数々あった儀礼や供養の作法を端折ってしまう分だけ、祭壇が大きくなり、死者の為に長く喪に服せなくなった代わりに大きな生花を上げる。おそらく、葬祭業者側にしても、顧客=遺族側の、「やるだけのことをやってやりたい」という部分をビジネスチャンスと捉えているであろうし(悪くいえば付け込んでいるであろうし)、そうやって遺族側は「気の済むように」しているのではないだろうか。
アメリカ人がクリスマスカードだけで済ませないように、日本人も簡素にし切れないのである。「親父が死にましたんで、よろしく」という葉書をもらって、「了解しました」で済むだろうか。亡き人にこの世での別れを告げ、何か弔意をこめた言葉やものを手向け、遺族に悔やみの言葉を伝えたい。
そのようなことを考えると、葬儀を簡素にするためには、今やっているものを安易にムダと切り捨てるのではなく、それらの諸要素が私たち遺族にとってどんな意味があるのかを知る必要がある。そして、誰かが亡くなったことによってもたらされる精神的、物理的、人間関係的な欠落を埋めていくトータルな葬・喪の行為として、現在行われている葬儀全般と同じ宗教的・世俗的・心理的な機能を有しつつなおかつ簡素なものを目指さなくてはならない。が、それは大変なことではないだろうか。大変だ大変だと、先送りしていたら、それこそ怠慢であるとまた批判されてしまうのだが、、、、。
一方で、葬儀には亡き人の霊を慰め、遺族を慰めるという大きなテーマと並行して、「昨日まで我々のネットワークの中に存在していた彼はもう今後はいないのである」ということを、関係者一同が強く確認しあう場面でもある。それは人間関係を再編成するための、大切な「儀式」であるし、祖先の知恵のたまものだと思う。彼の「社会的な死」を関係者が寄り集まって確認しあう辛くも冷徹な生者の場面なのだ。ある思想家は、葬儀を「社会的な殺人」とも評した。こういう深い働きを有する「場面」を、簡素化という観点からだけで新たに創出していくのは困難であろうし、仮にこうしたらどうかという提案をしても、大多数の合意には到らないのではないだろうか。
人は、完全に身元不明でない限り、何がしかの社会的な関係を有する存在であるから、その人の死を、その関係性にある人々が全体として承認しあえる場が必要であるし、そのための仕組みとして、今日の葬送のスタイルは不満や不備があっても、広い合意が得られていると思われる。
こういう広い合意というのはとても大切であると考えるが、知識人や、進歩的な人は、伝統的なことや十年一日のことを評価しないし辛らつに批判する。けれども、十年一日で進歩も変化も見られない物事というのは、それだけ「まあ、いろいろ不満もあるけれども、これでいいのではないか」という、流行に左右されない、時間的な検証に耐え、しかも同時代の広範な合意を得ているものではないだろうか。つまり大衆的な支持があるということだ。
本を出したりする人の多くは、広く深く勉強して、物事や世界や社会を鋭く観察・分析するが、そのためにかえって「普通」でなくなってしまう。中間層の意識から分離してしまうのではないか。
こう言うことをいえば、きっと「だから坊さんは保守的だ」とか「そういう全体の合意なんてものが"しがらみ"になって自由を奪い、個性を阻むのだ」という意見もあるだろう。でも、多くの人が概ね合意している葬の営みを自分もまた営むことによって、死者の霊を慰めることが出来た、と受け入れることが可能なのではないのか。その社会全体が、概ね合意している大きな死生観や霊魂間に沿った営みがあるから、私たちはそれをすることで安心できるのではないか。
進歩的知識人の問題意識と、無関心層の意識との間に広く暮らしいてる、普通の人々が「まあ、これでいいのではないか」というものが大切なのだと思う。
むろん、私も、華美に走る葬儀を肯定するわけではないし、遺族の癒しの機能を疎外する合理主義のプログラムや、葬儀の布施に大きく依存する日本の仏教界や寺の経済基盤のあり方が「正しい」と強弁するのではない。
それらが、巨大な市場になっていくのは、死者の争奪戦、人の死を待ち焦がれるというようなことになり、死者にたいする冒涜になっているし、携わる僧侶や葬祭業者一人ひとりの精神衛生上よろしくないばかりでなく、死を文化の根幹にすえてきた日本人の精神にとっても由々しきことだと思う。
その点では、我々僧侶一人ひとりはもとより、葬祭業者の皆さんには競争原理で葬儀を商品化するばかりでなく、自分たちが日本の精神文化の担い手であるという誇りを持ってほしいものである。実際、日本文化の根幹を支える仕事に他ならない。世界的にも誇れる、高度で深い死の文化の、担い手であり、伝承者なのである。映画『おくりびと』は、そんな葬に携わる人々や、日本人の死の文化そのものへの素晴らしいエールではないか。
「葬式仏教」は批判の言葉になっているが、人間の死の重みを真剣に考えるならば、日本人が葬式という重大な営みを仏教において為してきた意義を、僕ら僧侶自身が重く受け止めたい。死の場面をめぐる大切な勤めを、本気で、きちんと、心をこめて勤め、葬式仏教という言葉を批判するための言葉でないものとしたいものである。

それにつけても、何事も、批判する人、文句をいいたい人の声は大きい。ストレス社会の、憤まんのはけ口をビジネスチャンスにしているような商法もあり、特に既得権を持っているような業界(この場合は仏教界や葬祭業者)を叩く本の場合は、実際にそれらに対する問題意識を持っているかどうかより、社会全体に対してムカムカしている人が買っているケースが多いのではないか。
天下り叩き、相撲界叩き、教育界叩き、売れっ子叩きなど。民主党の選挙手法みたいな本の売り方だ。そんなわけで、そういうストレスのはけ口として売れている本は、都道府県別に売り上げの分布を公表してほしいものだ。で、その本の内容が、普遍的な問題意識を備えたものなのか、都市型のものなのか、地方型のものなのかも知りたい。そうしないで、50万部売れた、と言われても、もうよく分からない。
それに、真面目に、一生懸命葬式の導師を勤め、檀家の先祖の供養を日々に念じ、そのために修行もし勉強もし、地域の人々の幸福を祈り、伝えられてきた伝統を大切にし、お寺を守っているお坊さんもいるのです。同じように、一軒一軒のお客さんに、満足してもらえるように、厳粛に勤めている立派な葬祭の方もいるのです。
だから、声高に十把一絡げで、センセーショナルに批判するのはもう勘弁してほしい。すくなくとも、新聞社や出版社は、そういう「結果」になる売り方は、控えてほしいものである。 
■葬式仏教 9 葬祭仏教の問題点と行方
このところ仏教界の現場である地域単位の研修会で「葬祭仏教」がテーマとして取り上げられることが多い。今まで表の顔である教理仏教の陰で取り上げられることの少なかった葬祭仏教を正面から取り上げるべきだということが一つ、もう一つは寺の生活の基盤であった葬祭仏教が肝心の葬祭現場で力を失いつつあるという危機感からである。
表立っては唱えてないものの、僧侶になる剃髪を象徴する儀礼であるお剃刀を葬送儀礼に取り入れている浄土真宗も含め、大村英昭教授(関西学院大・浄土真宗)は、仏教各宗派の葬儀が「没後作僧(もつごさそう)」という考えを根底においていることを検討し直すべきことを提言している。没後作僧とは、死者を僧にする、つまりは死者を仏弟子として浄土(仏界)に送り出すということである。これは佐々木宏幹名誉教授(駒沢大・曹洞宗)が解明したように死者をホトケにすることである。死者をあの世に送り出すことに仏教葬儀の根幹はあったのであり、そのことがまた家族の喪失という危機を抱えた遺族の心情に応えるものであり、民衆からの葬祭仏教への強い支持を集めた理由でもあった。
ところが現況はと言うと、生活者、民衆の意識の中で、他界観、彼岸意識、あの世観が急速に衰退している。こうした現実の前で、仏教葬儀は意味を失いつつあるのだ。そもそも葬祭仏教とは仏教そのものではない。仏教が民衆の意識、民俗と習合したものである。それぞれの宗派による教理的背景をもって葬送儀礼は行われるが、生活者、民衆の「死者はどうなるのか」という死者の魂の行く末を案じる問い、関心に、教理的に詰めた議論なしに同化したものである。各宗派は魂の行き先についてそれぞれ示すが、民衆にとっては、死後の行き先が浄土であるのか、仏となることであるのか、浄土でも西方浄土であるのか霊山浄土、密厳浄土なのか、は問題ではない。安心できる行き先であればよかった。安心できる行き先を、民衆と共に生き、そしてそれ故に人の死の現場では聖化された存在となる寺の僧侶が導師となって保証してくれることが大切であった。
現況は、民衆もまた安心できる行き先を渇望する状況にない。大村教授が指摘するように、高齢社会となり、高齢化が家族分散の時代を迎えた家族、それを支援する地域社会の負担となっている。また近代合理主義が、あの世への夢と憧れを奪い去っていっている。他方、僧侶の側にも、儀礼を執行するものの、確信をもって安心できる行き先を示すことができないでいる。寺は民衆の生活に密接していないし、人の死という危機を差配する者として民衆の中で聖化された存在とは認識されていない。こうして見れば、葬祭仏教の環境は極めて厳しいものがあると言わねばならない。
ある僧侶が、導師としてではなく、一会葬者の立場で葬儀に参列して、後席に座って葬儀の行われる様を見ていて 「読経は告別式の単なるバックグラウンドミュージックに成り下がっていることを実感した」 という感想を寄せた。また、導師として葬儀に臨んだある僧侶は、 「遺族にも会葬者にも葬儀に対する緊張感が欠けている」 と嘆いたが、問題は遺族や会葬者側の意識だけにあるのではない。今や導師たる僧侶にも緊張がない。
こうして仏教葬儀は、ある葬祭業者の言を借りるならば「感動のない葬儀」の代名詞となりつつある。では「感動ある葬儀」というとどういうものを言うのであろうか。従来の一般的な(あくまでも)仏教葬儀に対して、生活者がもの足りなさや、わからなさ、そして退屈、不満を感じていることは確かである。民衆の日常生活と寺が疎遠になっただけでなく、家族の死者の弔いが(葬祭仏教の提示した)供養として行われることが薄くなってきていることもある。だから、お経が「異言」の如く聞こえ、参加できない層が増えてきている。
だが私は、近年の葬祭業者による「感動つくり」にも危うさを覚えている。初期の頃は葬祭業者も無宗教の葬儀にとまどい、「あんなのは葬儀ではない」「祭壇で利益を得ているのに祭壇を使わない葬儀などは自己否定のようなものだ」と悪評だった。しかし、近年は「変にお寺さんがいないほうがいい葬儀をつくれる」みたいな、自信のようなものが葬祭業者の一部に芽生え始めており、これを危惧する僧侶も少なくない。
その一部の葬祭業者は、 「宗教では感動を作れない。感動は自分たちの演出で作ろう」 とし、宗教儀礼を採用するにしても演出プログラムの一部と位置づけようとさえしている。  婚礼披露宴のスポットライトを浴び、司会者の涙や感動を促す、畳み込むような司会者の美辞麗句によって音楽と共に盛り上げる、両親への花束贈呈の儀式のようなものを、葬儀用に脚色変調し、とってつけたような暗い音調で悲しみの涙を煽るような司会での演出が幅を利かし始めている。しかし私には、感動を煽るような葬式が「いい葬式」だとは思えないのだ。
故人の人となりを葬式ではきちんと提示する必要がある。その意味では、どんな人が亡くなろうと、1セット何十万円の祭壇を飾って「これが葬式です」というスーパーの安売り商品のような葬式販売は否定されるべきである。僧侶などの宗教者が、そして葬祭業者が、亡くなった人に即して葬儀を執り行う必要性は、いくら強調してもし過ぎることはない。むしろ、まだまだこの点が不足しているだろう。
しかし、「個性化」を売り物にした商品化、感動を売り物にした商品化も危ういのだ。いき過ぎもまた警戒しなければならない。葬祭業には、サービス業とはいえ、そうした危うさがついて回っていることを、専門家と言われる人は知らねばならないと思う。死者の死の固有の事実とそれのもたらす近親者のグリーフの現実を、それをステレオタイプ化してとらえても、過剰に演出してもいけない。この事実、現実に対して、人間としての共感をもって向き合う場、それが葬式のあるべき姿ではなかろうか。近年の死と葬儀の危うさは、もう一つ、近親者がその死を前にして冷淡なことである。私は「死者の尊厳」ということを、最近痛切に考えるようになってきている。葬儀が遺族がなすグリーフワークとして適切に行われるためにも、葬儀では死者の尊厳を明らかにすべだろうと思う。
仏教が日本の民衆に受け入れられたのは、民衆一人ひとりの死を尊いものとし、その救済を唱え、行じたからではないのか。その人の死を尊いとするのは、その人のいのちが尊いということと同義である。反対にその人の死に冷淡であり軽視することは、その人のいのちに対する軽視である。そう断じていいと思う。それはどんな人がどんな状態で亡くなった場合でもである。
葬儀について、その意味づけに対してさまざまな議論がある。社会性―それは他の機会、手段によっても代替可能である。人と人の付き合いは大切であるが、そして、しばしば人の死において現実が露わにされるものであるが、生きている者同士の関係であれば、やり直しはできる。宗教者に多いのは布教の機会、伝道の機会、聞法の機会とするものである。それだって代替可能である。信教の自由の世に生きるわれわれが、何も葬儀の機会をその宗教宗派の教えを学ぶときとしなくともよい。これは仏教に限らずキリスト教でも言えることだが、こうした論理づけは、しばしば生きた人間に係わるべき宗教が死者に係わることの後ろめたさからきている。何で後ろめたいのか。
私はただ一つ、その人の死の尊厳に対峙することこそ重要であると思う。このことが、葬儀で「失われてはいけない」ものではないだろうか。そして、葬祭仏教の退潮は、この大切なことの軽視と深く関係しているように思う。私個人のことで言えば、仏教信者が少なくなることは、仏教徒でない私にはどうでもいいことである。無宗教葬が増えても個人的には何の問題もない。しかし、日本において葬祭仏教がもっていた文化的位置づけは、ホトケになると言い、いのちの源である世界に還ることであると言い、表現はさまざまであるが、葬儀の機会に死者の尊厳を断固として明かしめたことである。また、その人の死による家族の喪失の深さに比例するかのように、「供養」と言い、弔いの仕組みを提供したことであるように思う。
寺側の人間が葬祭仏教の退潮を理由づけるときに、それは家族や地域のコミュニティの崩壊に求めるべきではないだろう。それは客観的な社会変化であり、現実を左右していることは事実ではあるが、寺としての自覚的なものではない。求めるべきは、民衆との接点が葬祭、つまり人の死を弔うことであることを些事とし、そのもつ意味の大きさを自覚し得なかった問題である。退潮の危機に面して、その財政的基盤の喪失の危険を感じ、葬祭仏教のもっていた大きさに少し思いを寄せ、不安を感じるようになってきたが、これは主体的自覚としては遅すぎたものである。個々の僧侶・寺の中には、人の生き死にの現場にあって、対峙し、苦悩していた人はけっして少なくない。過去の歴史にもいたし、現在も少なからずいる。それはよくわかる。そうした目立つことのない多くの僧侶の真剣な営みが、民衆の葬祭仏教への信頼の底を支えてきたのだと思う。
だが教団は何をしたというのだろうか。そうした僧侶を支える教学や儀礼を提供しただろうか。ある宗派の儀礼は、かつて民衆の中に分け入り、その死に際して死者に添い続けたありさまを彷彿とさせるが、それを現代においては1時間の儀礼の中に再現して見せるだけの手抜きになっている。儀礼はその裏にあるものを象徴する。その象徴すべき実質を失えば儀礼もまた力を喪失するであろう。葬儀の習俗が民衆の死に対するアンビバレンツ(相反する)な感情を残しているのに対し、ある宗派は、近代的合理性で切って捨てている。民衆の死を前にして右往左往することによって生まれた習俗に、その心情に分け入り、共感することなく断罪するだけでは民衆の心に訴えないだろう。所詮、教団の教学や儀礼とは独立して発生し、民衆の中に定着した葬祭仏教である。その再生も教団の教学や儀礼とは別のところで行われるしかないのいかもしれない。 
都会の宗教的浮動層において仏教葬儀が減少していることは、そのこと自体が寺にとって問題ではないだろう。また、宗教的浮動層の仏教葬儀市場の獲得のために、偽僧侶紛いが暗躍したり、不透明な葬祭業者による僧侶斡旋も、ビジネスの世界にはありがちなことである。おかしなことは、いずれ賢明な消費者の指弾を浴び、淘汰されていくであろう。気に入らないことだが、社会の縮図と見れば、あって不思議なことではない。しかし、問題は宗教的浮動層を巡ってのことだけではない。地方や郡部にあって、一見磐石な寺檀関係を築いて見えるところであっても、胡坐をかいている寺ほど精神的には衰弱して見える。寺というのは、「信教の自由」の観点から言えば、一宗一派のものである。独立した宗教法人である。
しかし、地域文化、地域社会からすればそうではない。パブリックな存在としてあった。地域というコミュニティの核であり、地域コミュニティに支えられて存在したものである。寺檀もそうであるが、もっと深く民衆の宗教心が支えた。これは宗派の違いを問わない。寺という存在のもつ普遍性である。  キリスト教は、明治維新以来の歴史において、今なお1%に満たない。欧米の近代文明、戦後はアメリカ文化の先兵として日本上陸しても、最近でこそ結婚式で軽薄にもてはやされるものの、コミュニティに根付かなかったのは、教えを教える者と教えられる者との対比でとらえ、民衆との相互関係を築き得なかったことにあると思う。
葬祭仏教とは、寺と民衆の関係が相互的に成立しているものであり、それ故に、文化、何よりも人の死をとらえる共通基盤を、日本人の間につくり出したものである。人のいのちが単独で賄えないのと同じく、人の死も単独では賄えない。精神的紐帯とその柱を必要とする。それが文化としての死の装置である。その装置であった葬祭仏教の退潮は看過できることではない。今、われわれの社会は新たな文化装置を必要としているのだろうか。仮にそうであったとしても、その核には葬祭仏教の原点から見直しての再生が不可欠であると思う。葬祭仏教の隆盛を期待はしない。しかし、葬祭仏教の再生なくして日本人は死の文化装置を獲得し得ないことは確実であろう。  
■葬式仏教 10 仏教葬儀の由来
現在、日本の葬儀の9割以上が仏式であるといわれるが、仏式葬儀の形式のルーツはどこにあるのだろうか。各宗派は葬儀に経典を読むが、そこに書かれている内容は葬儀そのものと関係があるとは思えない。仏教とは釈尊の教えであり、釈尊自身は弟子に、「自分の葬儀は町の者がするから、出家した弟子たちはそれにかかわらずともよい」と述べているからである。しかし仏弟子たちは釈尊の葬儀に積極的に参加している事実も見逃せない。日本で現在行われている仏教葬儀で見られる慣習のルーツは、釈尊の涅槃直前の様子や釈尊の葬儀などを起源としているものといわれるので、それを見ていくことにする。釈尊は長い伝道生活のあと、老年を迎えて身体の衰えを隠せなくなった。自分の死期を感じ、南方のマガダ国から数百人の弟子を連れて北方に向かって最後の旅に出た。旅を続けて約半年後に、釈尊はクシナガラで死を迎えた。時に80歳であった。
釈尊の父の葬儀
釈尊が68歳の年、ヴェーサーリの大林精舎で雨期を過ごしていた。そこに釈尊の生まれたカビラ城から使者が来た。釈尊の父である浄飯王が自らの死期を予知し、息子に会いたいという知らせであった。釈尊は浄飯王の病いの知らせを受けると、弟子たちを伴いカビラ城へと出発した。釈尊は王を見舞い、宮中の人々に仏法を説いた。釈尊がカビラ城に着いてから7日目に王は息を引き取った。王が崩御されると、釈尊は重臣たちと葬儀の準備を進めた。たくさんの香料を溶かした汁で王のからだを洗い、きれいに拭きとったあと、絹の布で全身を覆い棺に納めた。7つの宝石で遺体を荘厳したあと、棺を台座の上に安置し、真珠で編んだ網を垂れめぐらした。そのあと華を四方に散らし、香をたいて死者を供養した。棺を葬場に送る際、釈尊は親の恩義に報いるために自ら棺をかついだ。釈尊の弟、子供、従弟も棺をかついだ。親に対する最後の孝行は、その遺体を最後まで守ることだろう。この棺をかついだ4人は、浄飯王の子供、甥、孫にあたる。日本の葬儀において、故人の実子、兄弟、孫と言った血縁の者が棺をかつぐ習慣がある。これは釈尊を始めとする因縁の深い人々が、浄飯王の棺を擔いで葬儀を営んだことに由来している。なおそのあと火葬に附しているが、これはインドの伝統的な葬法である。
湯かんの起源
遺体を棺に納める前に香水で洗浴する。これが仏葬における湯潅の起源である。遺体を洗う行事は原始仏教時代から行われたといわれる。経典の中に次のような記録がある。仏教を奉ずる僧侶が葬式から帰ったが、体を洗わない。俗人がそれを見て、「釈尊の弟子は浄潔を尊ぶと言うが、決して清浄ではない。葬式に列し、遺体に近づいたにも拘わらず、体を洗わないのがその証拠である」と非難した。釈尊はそれを聞いて、「体を清めないことはよくない。遺体に近づいた者は洗浴せよ」と言って、弟子たちに体を洗わせた。釈尊は、「遺体に触れた者は身体も洗い衣服も共に洗え、遺体に触れなかった者は、手と足を洗えばよろしい」と言った。インドでも遺体を不浄と考える習慣があったようである。インドの古代の法律である『マヌの法典』に、「死体に触れた者は10日後に清められる。その死せる師のために葬儀を行う学生もまた10日後に清められる。火葬場に死体を運ぶ者も同様なり」とある。
霊前読経の起源
『毘那耶雑事18』に、葬式の際に僧侶の中で経文や偈頌を読誦する事に長じた者が、『無常経』や偈を読誦し、死人のために咒願せよという記事がある。咒願というのは、死者への冥福を祈る意味で、現在の回向にあたる。早い時代から仏弟子が葬儀を行い、読経を行ったと考えられる。死者に法話引導することは、釈尊も行ったと思われる記録がある。死者の家庭を訪れ、親族の人々に対して説法されたことは、『法句譬喩経』にでている。浄飯王が崩御された時にも、釈尊は弟子、宮中の臣などの人々に説法している。このような釈尊の行動を見ると、檀家や信者が、死者のために誦経、供養や説法を依頼されることがあれば、その求めに応じることは衆生を導くための機会ともなった。
転輪王の葬儀
釈尊は阿難尊者に、3か月後に入滅するとの宣言をされた。阿難尊者はこの宣言を聞いて大変に驚いたが、それは変えられない事実であった。そして自分は釈尊の葬儀をしなければならない。そこで、釈尊にどのような葬儀をしたらよいかとの指示を仰いだところ、転輪王の葬儀を模範とするようにと答えた。転輪王とは、天下を統一する伝説上の帝王のことで、戦争に大変巧みな王のことである。この転輪王は俗世界を支配する王であるが、自分の葬礼はこの転輪王を模範として行えと言われたのである。では転輪王の葬儀はどのように行うのか。まず王の身体を絹綿で包み、その上を新しい麻布で包み、金棺を作ってその中に油を入れて死体を納める。さらに外側を鉄の棺で囲み、二重棺にするといわれている。そのあとあらゆる香木を焼いて火葬にした。わからないのは、鉄の棺では焼けないのではないかということだ。油を入れるというのは、遺体保存の役目もあるが、やはり火力を強めるためであろう。現在、ガンジス川河畔での火葬を見ていると、薪の上に直接遺体を乗せて焼いている。そして骨が完全に焼けないまま川にほうり込んでいる。
釈尊の死の告知
死の告知は、死が前もって知らされていなければならない。現代は医療の発達があって病名がはっきりしていれば、その経過もだいたい予測できる。仏教は真実を追及する教えであるため、死に直面することもいとわない。釈尊の場合、自分の死ぬ時期を告白した最初の相手は悪魔であった。悪魔は釈尊に向かい、あなたはすでに地上での役割を果たし、弟子たちもあなたの教えを守っていきますので、いまこそ涅槃に入ってくださいとお願いする。それに対して釈尊は「悪魔よあせるな。私はあと3カ月したら涅槃に入る」と。これを聞いて、悪魔が喜んだことはいうまでもない。
釈尊最後の食事とお斎
釈尊はマツラ族の住むパーヴァーに行って法話をした。法話は大変感動的なもので、これを聞いた鍛冶工のチュンダはお礼として釈尊を食事に招いた。食事は大変に豪華なものであり、かつめずらしいものであった。そしてなかに釈尊にしか消化できない料理が出てきた。そこで釈尊は弟子にそれを食べるなといい、自分だけはそれを口にした。そのあと釈尊はこの食事にあたり、死ぬほどの苦痛を生じた。この釈尊が食べた料理は謎とされているが、きのこ料理の一種であるといわれている。なおこの食事をささげたチュンダは、大変に後悔したが、釈尊はチュンダを許している。さて法事の食事を普通お斎(とき)という。インドで時食と非時食という言葉があり、時食は僧侶が食事をする時間であり、非時食は僧侶が食事をしてはいけない時間を指した。これが日本にも伝わり、時食が斎(とき)という言葉にかわっていったものと思われる。
末期の水の由来
家族や親戚の人が、臨終をむかえた人に末期の水をささげる習慣が現在にも残されている。筆先に水をつけて唇を湿らせたり、新しい綿に水をしめらせて唇をぬらしたりする。この末期の水をささげる行為は、釈尊の臨終に阿難尊者が水を差し上げたことにもとづいている。釈尊は旅の途中、食事にあたって苦しんでいた。彼が滞在していたパーヴァーという町は、小部落のために医者もいない。そこで長い道のりではあるが、医者のいるクシナガラまで帰ることになった。その途中、小さな川の辺で休憩を取られた。釈尊は喉が渇いて仕方がないので、同行の弟子の阿難に川の水を汲んで飲ませてほしいと頼んだ。しかし近くの川は水が濁っていたので、遠くの川に汲みに行くことを提案した。しかし釈尊は近くの川で汲むことを願った。釈尊にしたがってもう一度出かけでみると、すでに川はきれいになっていた。そこで阿難尊者は器になみなみと水を汲んで、釈尊に差し上げた。釈尊はおいしいと言って水を飲んだ。この水が釈尊の最後の飲物であった。
釈尊の死装束
仏式の葬儀では普通、納棺されるときに白の経かたびらを着る。これは巡礼の際に着る装束で、巡礼の途中に道で倒れるとその衣装のまま火葬にされた。さて釈尊の場合、マツラ族のプックサという人から、金色の衣装を贈られた。弟子の阿難はこれを釈尊に着させた。ビルマなどにある寝釈迦像の衣装が金色になっているのも、プックサから贈られた金色の衣装を着ているからである。この衣装はそのまま釈尊の死装束となったわけである。
沙羅双樹と紙華花の起源
釈尊は多くの修行僧と一緒に、クシナガラにむかって進んだ。クシナガラの入口にバツダイ河があり、その辺までたどり着いたが一歩も動けなくなってしまった。バツダイ河の東側の堤一体は、沙羅双樹の林となっており、釈尊はこの林の中で休みたいと言われた。阿難は沙羅双樹の林の中に石の台を見つけたので、ここに釈尊に休んでいただいた。そのとき沙羅双樹が一面に花開き、空からは白檀の花が降り注いだ。釈尊の涅槃の模様を描いた図では、横になっている釈尊の四方を大きな樹木が、4本あるいは8本描かれている。これが沙羅双樹である。根元が1本で途中から2本に分かれて描かれている。日本の葬儀には、この紙華花を用いる習慣が全国で見られる。これは、釈尊が沙羅双樹の木に囲まれて亡くなられたことから、一般の人の葬儀にも象徴として使っている。白い華にするのは、釈尊が横になったとき、沙羅双樹が白い花を咲かせて供養したことに由来している。ただし日本では、土葬のときに埋葬した土地の四隅にこれを置くことがあったから、魔避けなどの呪術的な用い方をしたことも考えられる。
頭北面西の由来
人が亡くなると、改めて布団の位置を変えて敷き直す。特に頭を北向きにして寝かせるという慣習がある。これは釈尊が入滅したとき、頭を北に向けて休まれたということに基づいている。バツダイ河は北に水源があり、南に向かって流れている。この河の東側にある沙羅双樹の林のなかで、釈尊は頭を北、足を南、右脇を下、顔を西に向けて休まれた。これを頭北面西といい、右脇を下にする寝方を獅子臥の法と言っている。
臨終の知らせと涅槃
阿難はクシナガラの町に行き、集会場で釈尊の死の近いことを告げた。町の人々はこれを聞くと、大勢の人々が最後の説教を聞きに釈尊のもとに集まった。釈尊の死を涅槃に入るという。涅槃の境地は覚者だけが到達できる境地であるので、凡人が亡くなっても涅槃に入ったとはいわない。釈尊がもうじき涅槃に入るという知らせを聞いて、土地に住む120歳の学者のスバドラも釈尊の教えを聞き、弟子になりたいと願った。釈尊は最後の教えを説くと、静かに涅槃に入った。阿難が釈尊の涅槃を人々に伝えると、大地が震え、天の太鼓が鳴り、そして花が降り注いだ。
釈尊の最期の言葉
釈尊は最期まで意識がはっきりしており、枕もとにいる修行僧たちに最後の言葉を残した。それは、「修行僧たちよ。お前たちに告げよう、『もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成させなさい』」これが最後の言葉であった。入滅したのは満月の夜といわれ、わが国では2月15日に涅槃会がいとなまれる。
最後のお別れと通夜
釈尊が亡くなると、人々は嘆き悲しんで、一目でもいいから仏を拝することを願った。阿難尊者は、この願いを聞き入れて、大勢の尼や女性信者たちに前に進むことを許した。そこで女性たちは遺体に近づき、さまざまな香や花をささげた。阿那律(あなりつ)をはじめ、多くの弟子たちは釈尊の遺体の左右にはべって、教えについて語りながら夜を明かした。
死の供養
阿難は早朝にマツラ族の集会場に行って、釈尊の死を告げた。これを聞いた人たちは悲しんで泣き、地面に倒れた者もあった。そこでマツラ族は従僕たちに「町にある香と花輪と楽器をすべて集めよ」と命じた。これを聞いた人々は、出来るだけ多くのお香と花輪と楽器と布地をもって、釈尊のいる沙羅樹の林に向かった。布でいくつもの傘を作り、幕を幾重にも張りめぐらした。そして釈尊を音楽と花輪と香で供養した。このようにしてその日は過ぎた。その日の夜、族長たちは阿難尊者に、釈尊のために7日間の供養を申し出た。阿難尊者から了解を得ると、マツラ族は翌日も同じように音楽で釈尊を供養した。こうして7日目に火葬をする日を迎えた。その日の昼、マツラ族は釈尊の遺体を音楽で供養しながら、南の町まで運んだ。人々は町を掃除し、道に浄水をそそいで到着を待った。そして遺体を乗せた御輿が城内に入ったとき、天からは華が雨のように降り、遺体のあとに多くの人々が従った。
釈尊の葬列
8人のマツラ族の指導者は頭から水をかぶって体を清め、新しい衣装をつけて釈尊の遺体をかついだ。しかし遺体がびくとも動かない。これは遺体を南に運ぼうとしたからである。そこで彼らは北の門を通って町の北に運び、北門から町の中央に向かい、そこから左に曲がって東門から外に出た。町を出て、川を渡って宝冠寺に至り、その堂に御輿を降ろした。
一本樒(しきみ)の由来
迦葉尊者が500人の弟子を連れて遠方にいたとき、釈尊の病気の知らせを聞いた。看病にと急いでクシナガラに向かう途中、手にまんだら華をもつ旅人に出会った。葬儀に長く枝のついた一本花を持つ習慣があるので、葬儀があったのであろう。そこで彼に釈尊のことを問いただすと、すでに一週間前に死亡し、その葬式に出てこの華をもらってきたと語った。これを聞いた迦葉は、火葬に遅れないようにと道を急いだのであった。日本にはまんだら華はないので、かわりに葬儀に一本樒を使う。樒の実はインド原産で、鑑真和尚が日本にもたらしたといわれている。
香木での火葬
インドでは火葬で香木を使うが、日本では、葬儀の時に抹香を焚いて焼香する。抹香を用いて焼香し、香木供養にかえるのであろう。インドでは釈尊の時代より火葬が行われていた。祭壇の火葬する所に香木を積み重ね、その上に棺を安置し、油を注いで火をつけて火葬にする。葬儀には花を捧げる他、12尺ほどの香木を持って死者を供養する習慣がある。この香木は火葬の薪に使用するのである。
釈尊の火葬
マツラ族は阿難に遺体の処理の仕方を尋ねた。そこで阿難は、釈尊から聞いた方法を彼等に告げた。そこでマツラ族の人々は、釈尊の遺体を新しい布で包んだ。次にほぐした綿で包んだ。次に新しい布で包んだ。このように500重に釈尊の遺体を包んで、鉄の油桶に納めた。宝冠寺の中庭に香木を積み、そこに釈尊を納めた桶を乗せ、転輪王と同じように鉄の缶でふたをした。そして香油をそそぎ、マツラ族の4人の族長が薪に火をつけようとしたが点火しなかった。それは、釈尊の弟子の迦葉尊者の到着を待っておられたからである。そのとき迦葉尊者は火葬場に到着した。彼は左肩だけにかけ直して、合掌して薪の回りを3回右にまわり、釈尊の足元に礼拝した。このとき棺に入っていた釈尊の足が姿をあらわしたという。このように迦葉と修行僧が礼拝したとき、火葬の薪は自然と炎をあげて燃え上がり、棺のなかの遺体を焼き上げた。
還骨法要のルーツ
こうして釈尊の灰もすすもきれいに燃え、棺のなかは遺骨だけになった。そのあと天から雨が降り注いで火葬の薪を消した。荼毘がすむと、マツラ族の人々は遺骨を集めて金のかめに入れ、集会場に運んだ。かめの回りを柵で囲むと、7日の間音楽と香で供養した。日本でも火葬を終わった遺骨を自宅の後飾り壇に安置して、還骨法要を行うが、そのルーツはここにあるといえる。
釈尊の舎利
釈尊の入滅が各地に報道されると、七つの国の王が、釈尊の舎利を分配してほしいとクシナガラへ要求した。こうして舎利は8分の1ずつ各国に分配された。分配がすんだあとに、モーリア族が同じように申し出をした。しかしすでに遺骨の分配は終わっていたので、使者は荼毘の灰を持ち返った。こうして釈尊の遺骨は8つの卒塔婆が作られてそこに納められた。またモーリア族は灰の塔を作って祀った。
卒塔婆の起源
釈尊の遺骨を祀る習慣はいつから始まったのだろう。仏教の卒塔婆の場合には、釈尊自身が阿難尊者に述べたことによる。釈尊は、自分の遺体を火葬にしたあと、四つ辻に卒塔婆を作るべきであると言っている。そして「そこに遺骨を納め、花輪または香料をささげて礼拝する。これは悟りを得た人の卒塔婆であると思うと多くの人の心は静まる。そして死後には天の世界に生まれることが出来る」 このように釈尊は語った。
仏舎利の発見
1898年、ネパールの国境近くのピプラーヴァで、フランス人の考古学者ペッペが舎利壷を発見した。その表面に「これは仏陀世尊の舎利を納める器である」と記されていた。 
 
日本仏教は「葬式仏教」か 一現代日本仏教を問い直す一 

 

一.問題の所在一「インド本来の仏教」と「日本の葬式仏教」との乖離
西洋文献学に基づく近代仏教学が描き出したインド仏教の姿は、総じて高度に哲学的な教義を持ち、極めて理性的、合理的、脱儀礼的、脱呪術的な性格を持つものであった。仏教の起源に置かれた歴史的人格としてのブッダ・シャーキャムニ(釈尊)は、宗教家というより哲学者・道徳家として扱われることとなり、また、仏教を解明する材料としても、南伝上座部所伝のパーリ仏典に代表される初期仏典(原始仏典)や、大小乗を問わず論書が好まれることとなった。大乗経典に表れる偉大な宗教家・救済者としての壮大なブッダのイメージや、その中に説かれる種々の儀礼や呪法は、初期仏典や論書から導かれる哲学者・道徳家としての歴史的ブッダ釈尊像、及び「哲学的、理性的、合理的、脱儀礼的、脱呪術的な仏教」の像にそぐわないものと見なされた。
当然の帰結として、そのような手続きのもとに描き出された、いわゆる「インド本来のオリジナルな仏教」と、漢訳された大乗経典を聖典として仰ぎ、そこに表れる壮大なブッダを尊崇し、そして葬儀や祈祷など種々の儀礼・呪法に携わる日本の伝統仏教との間には、極めて大きな溝、乖離が生み出されることとなった。日本仏教を「葬式仏教」と呼ぶとき、そこに「本来の仏教とはかけ離れ、変質し堕落した仏教」という侮蔑の意が、程度の差こそあれ込められていることが多いのは、このような事情を反映したものと言えよう、。さらに問題なのは、このような評価が日本仏教の根底を揺るがしかねないものであるにも関わらず、今日に至るまで、両者の間に横たわる溝を埋める作業や、両者の距離を定量的に評価する作業が充分になされてきたとは言い難いことである。その結果、日本の伝統仏教に携わる者たちは、誠実であろうとすればするほど、自らの勤行・修行はおろか、時には自らの信仰についてさえ、その正当性・正統性に疑問を抱き、苦悶することとなった。
しかし、本当にインド仏教は哲学的、理性的、合理的、脱儀礼的、脱呪術的であって、日本仏教はそれとはかけ離れた姿をしているのであろうか。また、仮にそうであったとしても、それはそのまま「日本仏教の変質、堕落」を意味するものなのだろうか。本稿は内外の最新の研究成果に導かれながら、「儀礼」を中心にインド仏教の実像を追うことによって、インド仏教と日本仏教との問に横たわる無用な乖離の解消を試みるものである。さらにその上で、あらためて現代日本仏教を問い直すきっかけを提示してみたい。
二.初期仏典を中心とした仏教-四例([1][2][3][4])
前述のように、初期仏典や論書に基づく仏教学からは、哲学的で合理的で脱儀礼的で脱呪術的な性格を持つ仏教が描き出されており、その例は枚挙にいとまがない。ここではパーリ語で記されている初期経典から典型的な例を四つほど、抄訳とともに紹介しておくこととする。
[1] 「祈祷は役に立たない」(『相応部経典(サンユッタ・ニ駐日ヤ)』より)。
〔村長アシバンダカプッタ〕「大徳よ、西の地方出身のバラモンたちがあって、彼らは水瓶を携え、苔草で作った花環を着け、沐常行をなし、火〔の神アグニ〕に仕えることで、死者を送り、慰め、天界に昇らせるそうですが、大徳よ、〔釈迦牟尼〕世尊・応供・等正覚もまた、一切世間の人が身体が壊れて死んで後に、善い来世である天界に転生させることができるのですか。」
〔世尊〕「然らば村長よ、あなたに尋ねよう。思った通りに答えてご覧なさい。
殺生をし、盗み、淫らな行いをし、嘘をつき、他人を中傷し、悪口を言い、おべっかを使い、貧欲で、怒りの心を持ち、邪見を抱く者がここにいたとしよう。そこに大勢の人が集まってきて、『この者が身体が壊れて死んで後に、善い来世である天界に転生せよ』と請い、礼讃し、合掌して動き回ったとしよう。村長よ、あなたはどう思うか。果たしてその者は、大勢の人が請い、礼讃し、合掌して動き回ったことで、身体が壊れて死んで後に、善い来世である天界に転生するであろうか。」
〔村長〕「大徳よ、そんなことはありません。」
〔世尊〕「さらにまた村長よ、ある者が巨大な石を深い池に投げ入れたとしよう。そこに大勢の人が集まってきて、『お一い、大石よ、浮かんでこい、揚がってこい、陸に昇ってこい』と請い、礼讃し、合掌して動き回ったとしよう。村長よ、あなたはどう思うか。果たしてその巨大な石は、大勢の人が請い、礼讃し、合掌して動き回ったことで、浮かんだり、揚がったり、陸に昇ったりするであろうか。」
〔村長〕「大徳よ、そんなことはありません。」
〔世尊〕「村長よ、まさにそれと同じことなのだ。殺生をし、(中略)邪見を抱く者があって、そこに大勢の人が集まってきて、『この者が身体が壊れて死んで後に、善い来世である天界に転生せよ』と請い、礼讃し、合掌して動き回ったとしても、その者は身体が壊れて死んで後に、苦しみのある、悪い来世である地獄に転生するであろう。」
[2] 「呪術に携わるな」(『経集(スッタニパータ)』より)。
〔世尊〕「〔私の弟子は〕アタルヴァ・ヴェーダの呪法も夢占いも相占いも星占いも行なってはならない。」
[3] 「出家者は葬式に関わるな」(『大般浬樂経(ディーガ・ニカーヤ所収のマハーパリニッバーナスッタンタ)』より)。
〔仏弟子アーナンダ〕「大徳よ、私たちは如来の遺体をどのようにしたらよろしいでしょうか。」
〔入滅間近の世尊〕「アーナンダよ、そなたたちは如来の遺体供養に関わるな。アーナンダよ、そなたたちはどうか自身の目的(利益)のために励んでもらいたい。自身の目的に専心すればよいのだ。自身の目的に勤め励み、専念しなさい。アーナンダよ、如来を信仰するクシャトリヤの中の賢者たち、バラモンの中の賢者たち、資産家の中の賢者たち、彼らが如来の遺体供養をなすであろう。」
[4] 「沐浴・水行は無意味だ」(『長老尼偶(テーリーが三門ー)』より)。
〔仏弟子プンニカー〕「バラモンよ、あなたは何を恐れて常に水に入っているのですか。あなたは手足を震わせながらひどい寒さを感じています。」
〔沐浴行をなすバラモン〕「プンニカーよ、私が善業を行い悪業を防いでいることを知りながらわざわざ尋ねるのか。老若〔男女〕を問わず、悪業を行ったとしても、沐浴をすればその悪業から逃れることができるのだ。」
〔プンニカー〕コ体どこのもの知らずが、もの知らず〔のあなた〕に向かって『沐浴をすれば悪業から逃れることができる』などと言ったのですか。〔もし本当にそうであるならば〕蛙や、亀や、竜や、蛇や、その他あらゆる水棲生物もすべて天界におもむくことになりましょう。(中略)また、もし河川があなたのなした悪業を運び去ってくれるなら、同時に善業をも運び去ってしまうではありませんか。」
これらの記述にそのまま従う限り、[1][2][3][4]に表されたインド仏教と、葬儀や種々の祈祷・呪法に携わり、沐浴・水行を実行する日本仏教との乖離は決定的であり、両者の差を埋めることなど到底不可能とも思えるほどである。
三.[1][2][3]に対する反論・反証
では、インド仏教では本当に儀礼や祈祷が禁止されていたのであろうか。実は決してそうではなかった。ここではまず先の四例のうち、[1][2][3]に対する反論・反証を示してみよう。
まず[1]に関しては、実はここで問われているのは「仏教はバラモンと同じことをするのか」ということであって、祈祷それ自体を否定したものではないとする解釈が可能である。例えば、在家者の徳目を説く『シンガーラへの教え』8において釈尊が、在家の青年シンガーラが儀礼を実行すること自体は否定していないのと同様に、この[1]においても釈尊は、バラモンたちが祈祷すること自体を否定したのではなく、ただ自分は別の道を歩むと宣言したものと理解して構わないだろう。その意味で[1]は、仏教とバラモンとの役割分担の表明とも言える。出世間的価値を志向する仏教と、在俗の宗教家であるバラモンとは、目指すところもそのありようも異なっていたためにお互いに共存できたのである。仏教とヒンドゥー・バラモン教との共存については、次章「四.インド仏教と儀礼」で扱うこととしよう。
次に[2]について言えば、これも「ヒンドゥー・バラモン教の呪術に携わるな」と言っているだけで、仏教独自の呪術を禁止しているわけではない。実際、南伝のパーリ仏教ではパリッタと呼ばれる厄除けの呪文が発達し、現在でも彼らは出家・在家を問わずこのパリッタを唱えている。そのために南伝仏教は「パリッタ仏教」と呼ばれることすらあるのである。
さらに[3]については、Schopen[1991]や佐々木[2003]によれば、葬送儀礼は、遺体の処理、火葬、遺骨の供養、という三段階に分けられ、ブッダが禁じたのは第一段階の遺体処理に関わる供養儀礼のみであり、しかもその禁止も、自分の修行が完成していないアーナンダに対する禁止に過ぎないという。事実、Schopen[1997]が明瞭に示したように、インド仏教の出家者は同僚の出家者の葬儀を執行し続けてきた。したがって、これまで流布していた「インド仏教の出家者は葬儀に携わらなかった」という説は、現在では大幅な修正を迫られているのである。ただし、彼らが出家者の葬儀は執行しても、在家者の葬儀は決して執行してこなかったこともまた事実である。
四.インド仏教と儀礼
インドの伝統仏教は、「剥離」という世俗を離れた究極目標を目指す出家者集団、いわば超俗的価値観を持った宗教エリートによって担われていたn。彼らの第一関心事は自己の修行の完成であり、在家者との関係も、威儀正しく振る舞うことによって自らを福田たらしめ、在家者からの尊敬、そして布施を獲得し、それによっていかに自分たちの修行生活を守るかという点に最大限の注意が払われていた。在家者の社会生活における、儀礼を含む種々の具体的行動規範については、出家者側からの積極的な発言や関与は控えられていたと言ってよい。したがってインドの在家仏教徒は、出家者を福田として尊敬し布施をしながらも、日常生活は自らの所属するカーストの義務に従いながら、ヒンドゥー社会の様々な儀礼に携わっており、出家者側もそれを容認、あるいは無視・放置していたと考えられている。もしそうでないのなら、現代の南アジア社会に見られるような、仏教独自の儀礼、とりわけ、結婚式や葬式などの通過儀礼を持った「仏教徒カースト」が古代インドにも存在していたはずであろう。ところが、そのようなカーストが存在していた痕跡は、現在まで認められないのである。ちょうど日本の多くの仏教徒が、葬式や年忌法要などの仏事の際には寺院を訪れても、結婚式は神前やキリスト教会で行ったり、地域の神社の祭礼に参加したりするように、古代インドの在家仏教徒も、種々の儀礼を含めた所属カーストの義務を果たしながら、同時に仏教徒として出家修行者たちを主に財政面から外護していたのである。
しかし日本の仏教徒でも、篤信家になればなるほど、お守りも神社のものではなく寺院のものを求めたり、葬式のみならず結婚式なども仏教式で実施したいと願うことがあるのと同様に、インドにおいても仏教に対する信仰が篤くなればなるほど、それが出家者であれば教義や瞑想などの「エリート的価値観」に関わるものに止まらず、そしてそれが在家者であれば聞法や布施をする段階に止まらず、以前まで「ヒンドゥー式」で実行していた種々の儀礼を「仏教式」で実施したいと願ったとしても不思議はない。実際、先に見たように、パーリ仏教にもパリッタと呼ばれる呪文があり、現在の南叩上座部仏教徒はそのパリッタを、撰災招福をもたらす儀礼として日常的に唱えている。宗教エリートを中心に伝授され、彼らの価値観に従って整理された聖典を持つ南伝上座部仏教であっても、「仏教の呪文で日常の厄除けを」という、出家者・在家者の別なく<頭で考えなくても自然と湧き上がってくる願い〉を無視することはできなかったのである。仏教史を見ても、そのような〈願い〉に応えながら、仏教は様々な儀礼や呪文を順次整備していったことが分かる。エリートの建て前だけでは済まされない、「宗教の世界」がそこにあると言える。
五.『金光明経』における沐浴儀礼の肯定的受容ー[4]に対する反証
ここで、先の四例のうち、保留となっていた[4]の反論・反証を行うこととしよう。最も強力な反論・反証の一つとしては、中期大乗経典に属する『金光明経』における、宗教儀礼・修行としての沐浴・水行の肯定的受容を挙げることができる。
「 〔弁才天〕「説法師である比丘たち(=出家者)と聞法獲たち(=在家者)の利益のため、呪句と薬草〔の名/薬効〕を伴った沐浴法を説いてあげましょう。〔その沐浴法によって〕遊星・天体・生死の苦、一切の闘争・反目・不快な心の乱れ・混乱・悪夢・悪鬼の苦、一切の悪霊や起屍鬼〔の苦〕は鎮まるでしょう。賢者たちが沐浴する際の薬草と呪事は次の通りです。」 」
以下、弁才天は、沐浴儀礼の執行法について詳細に説明していく。特に、[4]においては「もの知らず、無知」と評されていた沐浴行者が、『金光明経』では一転して「賢者」と呼ばれていることにも注意しておきたい。加えて、この沐浴作法が出家にも在家にも適用されることも看過できない点である。
さて、ヒンドゥーの代表的儀礼である沐浴を、『金光明経』が仏教に導入した背景を説明するにあたり、従来の研究の多くは[4]などに基づいて、「『金光明経』のこのような姿勢は、仏教がヒンドゥー教へ同化していく、あるいは吸収されていく傾向を示している」と解釈したり、ときには「仏教の変質、堕落」と断罪するような極端な例も皆無ではなかったようである。しかし本稿におけるこれまでの考察に従えば、『金光明経』が沐浴を肯定的に受容した背景も、従来はヒンドゥー社会に委ねて無視あるいは放置してきた沐浴儀礼を、「仏教の儀礼」として正当に位置づけようとしたく仏教徒の願い〉に求めるべきでろう。もし『金光明経』の態度が「ヒンドゥー教への同化だ」あるいは「仏教の堕落だ」と言われるならば、パリッタを含む初期仏教、すなわち、歴史的ブッダに最も近いと考えられている仏教も同様に断罪されなければならないはずである。専門家が自分の頭の中だけで「これ(だけ)が仏教だ」というものを作り上げてしまい、それにそぐわないものを仏教という枠から排除しようとすることは厳に慎まなければならないだろう。
以上の考察を通じて、大乗仏教に属する『金光明経』が沐浴を仏教に取り込んだ理由を、「仏教の儀礼として実行したい」というく仏教徒の願い〉に応えようとしたことに求めることが可能となった。それは同時に、インドの伝統仏教一いわゆる小乗仏教ーが〈願い〉に十分に応えていなかったことをも意味する。それゆえ『金光明経』の姿勢は、様々な教えを包含できる「大きくて立派な乗り物」としての大乗仏教の面目躍如たるものと言えよう。しかもインド社会における普及の度合いから判断すれば、沐浴・水行を仏教独自のものとして整備することは、他の儀礼を取り込むよりも、〈願い〉の充足という点で、はるかに大きなステップを踏むものであった。
しかし、伝統仏教・大乗仏教ともに、〈仏教徒の願い〉全てに応えることができたわけではなかった。その代表例が葬儀なのである。伝統仏教は出家者の葬儀は執り行うものの、在家者の葬儀には携わることがなく、そしてその姿勢は大乗仏教においても踏襲され続けた。在家者の葬儀は、どこまでもヒンドゥー社会の儀礼に委ねられていたのである。そこには、インド社会に生まれたインド仏教の限界があったと言える。なぜならば、日常儀礼や通過儀礼等を完備した集団は、実体のある独自の社会グループと見なされ、新たなカーストとしてインド社会に組み込まれてしまうからである。インド社会、すなわちピンドウー社会が、「何でも呑み込む底無しの胃袋」と讐喩される由縁のーつがここにある。
六.現代日本仏教の問い直しーサンスカーラの無常性に立脚して
そのように考えるとき、日本仏教が在家者の葬儀に携わり、それを執行していることは、「インド仏教との乖離」ではなく、「インドでは実現しようとしてもできなかった〈仏教徒の願い〉が日本で叶ったもの」と捉えるべきであろうη。ある宗教の信者でありながら、臨終に際してその宗教が面倒を見てくれないというのは、大変寂しいことであるはずだ。出家者向きの儀礼はあっても、在家者向きの儀礼を最後まで完備することのなかったインドの仏教は、宗教集団としてインド社会に本当の意味で根付くことはできず、歴史の流れの中で、ついにはインドからその姿を消していくこととなった。人々の切実な〈願い〉に応えられない宗教集団は、いかに高度な思想を振りかざそうとも、その社会に生き残ることはできないのである。そして〈願い〉に応えられない宗教が生き残れないのは、別段インドに限られるものではない。「日本仏教は葬式仏教だ、儀礼や祈祷ばかりだ」と言われることが多いが、儀礼や祈祷の背景にあるく人々の願い〉を考慮するとき、日本仏教がなぜ日本社会に根付いたのかがはじめて見えてくるのである。
しかしその一方で、〈願い〉に応えるだけでよいのかどうかという点にも常に注意を払う必要があるだろう。人間の欲望は果てしないものである。百万円儲けたとしても、それで満足することは稀で、次は二百万円、その次は五百万円、と際限がない。本当の意味での心の平和・平安・安心(あんじん)を与えることが仏教の使命であるとするならば、余りに身勝手な欲求を儀式や祈祷によって叶えようとすることは、欲望を煽ることでかえって安心を阻害し、結果として苦を増大させることになってしまう。
さらに今度は正反対の評価として、日本の伝統仏教が〈現代日本人の願い〉にきちんと応えていないのではないかという批判もある。新興宗教集団が次々と登場している現状は、その批判を裏付けるものの一つであろう。また、もしきちんと応えているのであれば、カルト集団Qやいわゆる「霊感商法」による被害や、心に悩みを抱えた方々の自殺pがこれほど起こらないのではないか、という意見に対しても、伝統仏教に携わる以たちは真摯に耳を傾けなければならないはずである。
実は、これら、
「ただ何でも〈願い〉に応えるだけでよいのか」
「日本仏教は〈現代日本人の願い〉にきちんと応えているのか」
という、一見すると相矛盾する問題を解く鍵を仏教は始めから持っている。それは「諸行無常」である。これは「全てのものは移り変わる」などという意味に限らず、「全てのサンスカーラ(自己を形成する力・作用)はいつまでも同じ状態にはない」を基本とする多義のことばであって、仏教を真に理解し、それを今に活かす要ともなっている・。。もし〈願い〉への応え方-具体的には説法、儀式、祈祷など種々の宗教行為一がサンスカーラの無常性に立脚しているならば、上記の問題を解き、仏教と似非宗教とを峻別する試金石ともなり、ひいては〈現代人の願い〉に真の意味で応えることもできるであろう。
以下に「諸行無常(サンスカーラの無常性)」に立脚した対応例を紹介するが、紙面の都合上、霊感商法と自殺問題の二例を挙げるに止めたい。
六-1. 「霊感商法」
鈴木でも論じたように、われわれが直面する問題は、理性や合理的手続きによって解決できる性質のものばかりとは限らない。例えば、真面目に働いてきたのに事業に失敗してしまったり、最愛の人を不慮の事故で亡くしてしまったり、難病に罹ってしまったり、先天的後天的を問わず心身に障害を負ってしまった場合など、「なぜ私〔だけ〕にこのような不幸が降りかかるのか」と人は苦悩し、何とかその答えを見つけようとするものである。しかし、そのような苦難には往々にして、明確な原因や理由が理性や経験によっては導かれないことが少なくない。この種の、理性で解決することが難しい形而上の問題に答えを与えようとする試みの一つに、人が長年に亘って育んできた宗教という文化があると考えられる。そして「霊感商法」は、宗教のこの働きを悪用するものといえる。その手口を見てみよう。
問題を抱えて苦悩している人に向かって、霊感商法はその問題を起こしている(とされる)原因を説明する。原因としては「先祖がなした悪業」「本人が過去世になした悪業」などが代表例であろう。その説明を受けた人は、「自分が苦悩しているのは、先祖がなした悪業のせいだ、自分が過去世になした悪業のせいだ」という世界(世界Bと呼称)を構築し、その世界の住人となってしまう。より正確に言えば、自分の抱える問題の原因を、先祖のなした悪業や自分が過去世になした悪業に帰する世界を信じる「自己」を形成してしまうのである。この自己形成作用こそサンスカーラに他ならない。そして霊感商法に誘導され、サンスカーラを悪い方向、マイナスの方向に発動し、世界Bの住人となってしまった人は、その世界のみに通用するルールに則り、「悪業を浄化するための」高価な商品や高額な祈祷に対して惜しげもなく金を払っていく。そしていつしか世界Bを離れこちらの世界(世界Aと呼称)に戻ってきたときに、はじめて自分が騙されていたことに気づくのである。
この問題を一層複雑にしているのは、世界Bに住み替えてしまった人に向かって、「そのような世界観は間違っている」と理性的・合理的な手続きのもとで説明したとしても、ほとんど効果がない点である。なぜならば、その人はもともと、理性的・合理的な手続きでは解決されない問題で悩んでいたからである。したがって世界Bの住人を救うには、「サンスカーラは様々に発動される(諸行無常)」に基づいて、今度は善い方向、プラスの方向のサンスカーラを発動させ、新たな世界Cに住み替えさせた上で、そこを迂回して世界Aに連れ戻す方法が有効である。具体的には、その人が信じている悪業(より正確に言えば、悪業を信じているその人自身)を否定せず、そのような集団に大金を納めなくても悪業を全て浄化できる祈祷がある、という世界Cを構築させてそこに住み替えさせ、その世界のルールに則って祈祷を行い悪業を浄化し、世界Bで植え付けられた不安を取り除くのである。もちろん、世界Cで必要とされる出費が、世界Aで通用する常識とかけ離れてはならないのは言うまでもない。また、世界Aと世界Cが相互に排他的でないならば、そのまま世界Cに住み続けたり、世界Aと世界Cを行き来しても構わないだろう。「サンスカーラを、一つの世界を構築する方向にだけ固定化する必要はない(諸行無常)」からである。
六-2.自殺問題
自殺の動機には様々なものが挙げられようが、こうであって欲しい自分(自分Bと呼称)と現実の自分(自分Aと呼称)との間にギャップがあり、そのギャップが埋めがたく、そのために自分Aを消してしまわざるを得ない、という構…造は共通していよう。例えば、
・ 難病に罹ってしまった自分Aと、健康な自分B
・ 尽くしてきた会社を解雇された自分Aと、その会社で働き続ける自分B
・ 自己の存在理由がつかめず生きている意味の分からない自分Aと、人生の目標に目覚め希望に燃えながら湛進ずる自分B
・ 生きていること自体が苦痛である自分Aと、生を満喫している自分B
これらの例ではいずれも、自分は自分Bでありたいという世界(世界B)をサンスカーラによって構築し(より正確かつ直裁に言えば、自分Bそのものを形成し)、その世界B・自分Bと現実の世界A・現実の自分Aとの間に埋めがたいギャップが生じてしまったことで、世界A・自分Aを受け入れがたいものへと変えてしまっている。このようにサンスカーラによって形成され、容易に埋めがたいギャップのことを、仏教では苦9算げ9と呼ぶ。そしてその苦に耐えきれないとき、人は自らの存在を世界B・自分Bへと全思郷し、世界Aに生きる自分Aを否定(=自殺)してしまうことがあるのである。
このような苦を感受している人に向かって、「自分A・世界Aを受け入れよ」と説いたところでほとんど意味をなさない。なぜならその人はすでにマイナス方向のサンスカーラを発動して、世界Aの否定体として位置づけられる世界Bの住人になってしまっているからである。したがってその人への対応策も、やはりサンスカーラの無常性(諸行無常)に立脚しなければならない。例えば、生きる意味を失っている人に対しては、人は客観的世界の中にぽつんと存在しているのではなく、人が自ら世界を構築していることを教えていく必要があるだろう。
「科学的・客観的」思考に偏り過ぎたせいで、客観的な世界がまず最初に(アプリオリに)あって、その中にただ独りで放り出されたような疎外感をわれわれは持ちがちである。そしてその疎外感を埋めようと、自分に様々な属性を付けて安定させようとする。いわく「どこそこの家族に所属している自分」「どこどこ会社に勤めている自分」「なになにができる自分」「誰それに愛されている自分」そして「なになにしなくてはならない自分」「こうであって欲しい自分」「こうでなければならない自分し「こうでなければ価値のない自分」と、自分を様々な属性で飾っていく。しかしこの傍点を付けた属性は全てサンスカーラの産物なのである。サンスカーラはいつまでも同じ状態にない(諸行無常)ために、時と場合によって姿を変えながら、それでも止むことなく次から次へと属性が付いてくる。現代人の抱える疎外感はサンスカーラの無軌道な発動に拍車をかけ、結果、われわれの属性への依存度はかってないほど強くなっていると言える。
しかし「諸行無常」の考え方に立てば、人が認識するのはあくまで「その人が認識した世界」であって、その人が認識していないものはその人の世界の構成要素には入ってこない。その人の世界はその人がサンスカーラで構築しているのであり、世界をそのように構築し認識する自分を作っているのである。
もう一度繰り返そう。人は自分で世界を作っている。客観的な世界が自分と他にあって、その中にぽつんと存在しているわけではない。人は自ら世界を作り、はじめからその「世界の中心」にいるのであるa。したがって「生きる意味」を仏教的に捉えれば、「存在すること(生きていること)、それ自体が生きる意味だ」ということになる。存在しているからその人の世界があるのであるから、その世界に存在することの意味は、存在すること自体に求められることになる。
人は「何かしなくてはならない」とサンスカーラを発動させて自らに属性を付与し、どんどん自分を限定していってしまいがちであるが、本当は「何かしなくてはならない」ようなものは何もないことになる。「諸行無常」に則れば、存在するだけで人には意味があるからである。それは言い換えれば、自己存在の絶対肯定に他ならない。
六-3. 巧みな方便ξ碧9冨誌巴冒
以上二つの問題について見てきたが、言うまでもなく、筆者が提示したのはあくまで考え方の基本線であって、その通りにマニュアル化して適応すれば済むという性質のものでは決してない。良医が患者の病状に合わせて様々な処方箋を出すように、「諸行無常」に則りながら、悩みを抱える人それぞれのケースに応じて、別々の対応をしなくてはならない。この、「諸行無常」という真理を、現実の世界において実効性を持つ手段・処方箋として機能させる能力のことを「方便ξ鋤巻」と呼ぶ。『法華経』に代表される大乗経典において「巧みな方便暑身β。犀聾鐙ξ僧」が称揚される理由はここにあるお。人々の抱える悩み(病状)が様々である以上、相手に応じて処方箋を出す能力である方便も、当然様々なものとなる以。「嘘も方便」などと、「その益しのぎの一時的手段」という意味で用いられることも少なくないが、本来方便は、それなくしては人々を救うことのできない唯一の能力・手段なのであって、「真実とは異なる便宜的なもの」では決してない。
かくして、日本の仏教が〈現代日本人の願い〉に真の意味で応えられるかどうかは、日本仏教に携わる者たちに、現代日本人に応じることのできる方便の能力があるかどうかに掛かっていると言ってよい。そしてこの能力は、教義をマニュアル化して得られるものではなく、彼らが「諸行無常」を本当の意味で理解し、「諸行無常」を実際に生きることで培う以外にはない。まことに「諸行無常(サンスカーラの無常性)」の理解と実践こそ、日本仏教の再生、そして更なる発展の要なのである。 
 
新宗教批判 

 

 天理教大本生長の家天照皇大神宮教璽宇立正佼成会霊友会
 世界救世教神慈秀明会真光系諸教団世界真光文明教団PL教団創価学会
 真如苑阿含宗金光教霊波之光教会幸福の科学オウム真理教顕正会
 白光真宏会世界紅卍字会 
天理教 
天理教 1
神がかりは精神分裂と同じ
大本や金光教などの項でも書きましたが、新興宗教に多く見られる「神がかり信仰」の、「神がかり」というのは何なのでしょうか。
精神医学では、この神がかりというものを「憑依妄想(ひょういもうそう)」と呼び、人間の主体性が失われて起こる「精神分裂病の一種」としています。
もし皆さんの家族がこのような状態になって「私は神のお告げを受けた」などと口走ったら、どう思いますか? 普通は「早く病院に連れて行かなきゃ」と大騒ぎになるでしょう。「神のお告げを受けたとは、何と素晴らしいことでしょう」などと信じる方がどうかしているわけです。
このような精神錯乱・精神分裂の妄想が出発点となっている宗教など、まともに信ずるに値(あたい)しませんし、誰もこれで救われることなどありません。
「万物創造の親神」などというものは、単なる妄想の産物です。
社会生活を破壊する「貧に落ちきれ」
「屋敷を払うて 田売りたまえ 天理王命」これは昔、世間の人々が天理教を揶揄(やゆ)したものです。
人は、特別な金持ちになる必要はなくても、「生活に最低限必要な金銭・財産は確保したい」と思うのが当たり前です。そうでなければ、当たり前の社会生活に破綻をきたすからです。
ところが天理教では「貧に落ちきれ」と言い、「どんな境遇でも心の持ち方一つで陽気暮らしができる」などと無責任な人生教訓を押しつけ、しかも「欲の原因となる金銭を親神にお供えしろ」と、教団への多額の布施を徹底しているのです。
あげくには「自分のために働く日常生活を離れて教会に行け」とまで言い、信者の社会生活を破綻に追い込みかねないことまで言っています。
これでは、信者は単なる「教団の奴隷(どれい)」でしかありません。こうして信者から集めた莫大な金で、真柱(しんばしら)やら教団幹部がどのような暮らしをしているのか、ぜひ見てみたいものです。彼らが貧に落ちているとは、とても思えません。
人間の本質を無視した「八つの埃」説
天理教では、「本来は清く正しい人間の心に八つの埃(ほこり)がつき、その埃がすべての病気や災害などの不幸の原因である」などと主張しています。
では、天理教で懸命に天理王命を信じて、「はらだち(怒)」が消えてなくなった人はいるでしょうか。いるはずがありません。すべての欲がなくなった人がいるでしょうか。いるはずがありません。
まったく怒りがない人間などいません。「病気を治したい」と願うことも欲です。こうした人間本来の姿を無視して、しかもそれがすべての不幸の原因であるなどとは、因果の道理を無視した妄説でしかありません。
「五欲を離れず」、「煩悩を即(すなわ)ち菩提(ぼだい=悟り)と転ずる」とする仏教と比べるまでもなく、天理教は人間の本質に暗い教団と呼ばざるを得ません。
天理教 2
天理教で教える万物創造の親神(おやがみ)は、天保9(1838)年、突如として出現して「中山みき」(教祖・おやさま)に取り憑(つ)きました。しかし、それでは親神さまは、それまで一体、どこで何をしていたのでしょうか? 親神の教えによって人間は始めて救われるというなら、1838年以前の人類は、いったい、誰が救ってきたというのでしょうか?。残念ながら万物創造の親神(おやがみ)(天理王命)は、現代に至るまで「中山みき」の空想世界にしか出現していません。怪(あや)しげな修験者の祈祷(きとう)がきっかけとなり、「中山みき」の心の中に生まれた妄想の産物〜それが親神(おやがみ)さまです。同じような神の出現(妄想)は、現代精神的医学の治療において、日常茶飯事に、多くの症例を見ることができることからも明白です。
天理教は、「元の理」と称して、親神が「どろ海中のどぢょうを皆食べて、その心根を味わい、これを人間のたねとされた」(天理教教典二十七ページ)と述べています。しかし、「どじょう」が人間の「たね」などとは、あまりにも非科学的、低級な思考と言えるのではないでしょうか。もしかすると、「中山みき」は、よほど「どじょう」料理が好きで、その大好物が忘れられず、シャーマン(狐憑(きつねつ)きのようなもの)となってからも心に染みついていたのかもしれません。いずれにせよ、そうした妄想(もうそう)を基とする信仰では、現実社会のなかで生死にかかわる重大な苦悩にあえぐ衆生を、心底から救済することは不可能と断言します。
天理教では、人間の肉体は親神(おやがみ)から借りたもので、心だけが人間個人の所有であるとします。そして親神(おやがみ)の心を知れば、どのような境遇(きょうぐう)でも、その心の持ち方ひとつで「陽気ぐらし」ができると教えます。しかし、自分では「何とか元気に暮らしていきたい」と願っていても、真の幸福を得られず、人生の意義、生きがいを見つけることができない。そんな厳しい時代だからこそ、我々は苦労するのです。「心根ひとつで、陽気(ようき)に暮らせる」などという「のんき」なことを言っている場合でないのが、末法時代(人々の心が暗闇に支配される)なのです。
天理教では、人間本来の心に、八つの埃(ほこり)がつき、その埃がすべての病気や災害を起こす原因であると教えます。しかし八つの埃(ほこり)それぞれを観察すると、そのすべては、誰でもが生まれながらに持っているものです。人間として生きていく以上、それらのすべてを取り除くことは到底不可能といえます。また、「欲」ということ一つ見ても、「悪い欲望」はともかく、「病気を治したい」「元気に働きたい」「家族をもっと幸せにしたい」と願うこともまた「欲望」の一つなのです。そんな前向きで素直な「欲」まで奪ってしまって、何が人間らしい人生と言えましょうか?
このような人間の本質を見抜くことができず、「八つの埃を払う」修行を必要不可欠であると説く天理教では、一切衆生を真の幸福へと導くことは不可能と知るべきなのです。 
 
大本 

 

大本
大本は、開祖・出口なおに「艮(うしとら)の金神」が神がかったとして立教した教団です。しかし、“神がかり”は、現代の精神医学では「憑依(ひょうえ)妄想(もうそう)」といい、人間の主体性が失われて起こる精神分裂症の一種とされています。11人もの子供を産み、そのうち3人に先立たれ、また夫も失った最困窮生活。「なお」は悲しさ、さみしさ、将来への不安にうちひしがれ、頼る者も無く、心細い生活を送っていくなかで、気の毒にも神経的におかしくなって妄想を抱くようになったのでしょう。彼女の悲惨な境遇には同情しますが、それと新宗教設立とは別問題です。まさに、一人の人間の妄想を基とする宗教に、人々を普遍的・根源的に救済する力が具わっているとは到底考えられません。
大本教団は、「霊主体従」といって、霊界こそが実体界であり、目に見える現界は霊界の移写であると主張します。しかし仏教では、死後の生命は法界に冥伏し、前世の因果を感じながら縁によってまた生ずると説き、因果を無視した霊界や霊魂の存在を徹底的に否定しています。「原因があって結果が生ずる」という道理に基づいた仏教の教えと、夢見物語や妄想で思いついた霊界の話と、どちらに人生を委ねるのか。おのずと答えは明らかといえましょう。
大本教団では、神意を伝えるものが“お筆先”とし、その開祖なおの最初の筆先を明治25年のものとしています。しかし大正8年5月、「京都日出新聞」に掲載された京都府警の調査報告書によると、警察が捜索した際、不思議にも、「明治25年のお筆先」そのものの現物は発見されなかったといいます。その点を出口王仁三郎に尋問すると、彼は、次のように答えたといいます。「筆先の原稿を作るときに、年月日と組み立て等を、開祖なおに訪ねながら、書いたのであるから、誌上の稿になったものと同じお筆先は、実際にはありません」と。このように教団の根本経典となっている「大本神諭」は、神の言葉を出口なお、無意識の中で伝えたというものではなく、出口なおと王仁三郎が相談しながら、話し合って原稿を書き上げたものだった、ということです。まったく、霊界だの、筆先だの、インチキであることを、警察署で自白してしまった、ということなのです。
胎教の必要性を問われた王仁三郎は、「必要やとも。妊娠したら、すぐ妊婦の部屋はきれいにして、きれいな絵を掛けておくと、きれいな子が出来る(中略)妊娠中に妊婦が火事を見ると本当にアザが出来る。だから妊娠中には火事を見るなと言うのや」と答えています。「火事を見たら、子供にアザができる」などと、あまりにも因果を無視した発言をする人が作り上げた新興宗教に、一人の人間を苦悩の根源から救っていく力など具わらないことは明白です。 
 
生長の家 

 

生長の家 1
本を読めば病気が治る?
この教団は、病気治しが教義の中心といっても過言ではありません。出版物の多くは、病気が治ったという御利益(ごりやく)話で大にぎわいで、「この本(生命の実相)を読んだだけで病気が治る」と、ハッキリと書かれています。
これは谷口雅春自身が「読めば治る」と言ったわけで、その根拠は、「人間は神の子である。神は病気など造らない。肉体は本来無いものだから、病気も無い。もしあると思うならば、それは妄想である。それが病気を生み、そして薬は病気があるとする悪念の所産(しょさん)である。病気は無い、肉体も無いと強く念ずるところの神想観が病気を治す」などというものです。これを教団では「メタフィジカル・ヒーリング(超物質的療法)」などと呼んでいます。
馬鹿言ってもらっては困ります。肉体は物質の集まりとして現実に確かに存在するものでありますし、物質である以上は、そこに時として傷(いた)みが生ずるのも当たり前です。病気になったら医者にかかればいいし、薬も飲めばいいのです。病気を自覚し、それを治そうと努める意志と自然治癒力があって、そこに医者の治療が加わるからこそ、病気は治るのです。
そもそも「病気は無いんだと想えば病気は治る」などというのは、「痛いの痛いの飛んでけー!」という、一昔前の親が子供にやった暗示と同じレベルのものであり、単なる思い込みのオマジナイです。こんな妄想が教義の中核なのですから、この教団の底が知れるというものです。
唯心偏重(ゆいしんへんちょう)主義の危険
教団では「現実世界はただ心の現すところであり、心によって自由自在に貧・富・健康・幸福等、何でも現すことができる」などと主張し、唯心に大きく偏(かたよ)った教えを説いています。
これは現実から目をそむけ、「悪事や災難は単なる妄想に過ぎない」と虚と実を逆転させ、逆におかしな妄想の世界をつくりだし、場合によっては精神に異常をきたしかねない、大変危険な教えです。
現実の世界をあるがままに捉(とら)えなければ、人間はマトモに生きていくことはできません。この教団のような「心だけを中心としてすべての現象を理解させる」偏った教えは、とんでもない邪説です。しかも、「人に痛いことを言ふ人、キューと突く様な辛辣(しんらつ)なことを言うやうな心の傾向のある人は、キューと突かれる、すなわち注射をされたりしなければならぬ病気にかかるわけであります」などという馬鹿げた唯心論です。幼稚すぎて話になりません。
要するに本を売って金儲け
医学者の中村古峡(なかむら・こきょう)氏は、雅春のことを「誇大妄想症」と断じていますが、その氏の著である『迷信に陥(おちい)るまで』には、「或(あ)る有力な新聞記者が、谷口雅春にぶつかって『果(はた)して君の本さえ読めば、君が大袈裟(おおげさ)に吹聴(ふいちょう)しているごとく、病気が実際になほるのかい』と問うたところ、彼は頭を掻(か)きながら『いや、あれは単に本を売り出すための方便に過ぎない。本を多く売るためには、先(ま)ず多くの人々を集めねばならぬ。多くの人々を集めるためには、何等(なんら)かの方便を用いなければならぬ』と答えたさうな」と記されています。
要するに谷口雅春は、本を売るために「読めば病気が治る」と宣伝しただけのことで、実際にはそんなことはないと、自身が認めているのです。つまり生長の家という教団は、単なる本の出版・販売を目的とする「営利団体」に過ぎないのです。
「万教帰一」の迷妄(めいもう)
教団では「万教帰一」といって、「すべての宗教は唯一の大宇宙(神)から発したものであり、さまざまな宗教や真理は、あくまでも時代性・地域性に照らして説かれたものである」などと主張し、「実相とは唯一の真理であり、あらゆる宗教の本尊の奥にあるもの」という妄説を吐いています。
これは、谷口雅春の独断と我見(がけん)に過ぎません。例えば仏教とキリスト教では、出発点も、修行法も、さらにはその最終目的とするところも、すべてがまったく違います。
これを「あらゆる宗教の根元は一つだ」などというのは、無知であり、迷妄であると言えます。
生長の家 2
谷口雅春は「神は宮の中にはおらぬ」と主張しながら、実際には、総本山龍宮住吉本宮という「宮の中」に「住吉大神」を祀り、崇めているというのは、自語相違ではないでしょうか?
生長の家では、「人間は心に思うことにより、自由自在に貧・富・健康・幸福等、なんでも現わすことができる」という唯心所現との教えを説きます。しかしこれは、色心二法という生命の実相からかけ離れ、心のみに焦点を当てて現象を理解させようという偏った思想であり、それを信ずるならば、激しい思い込みや妄想の世界を生じさせたり、精神異常を起こしかねません。たとえば、イジメなどを受けて悩み苦しむ人に対して、「あなたの心の持ちようによって、イジメも快く感ずることができる」などと励ませば、かえってその言葉が本人を追いつめ、「イジメが快く感じられないのは、仮の姿である肉体に痛みを生ずるからだ」として、色心二法のうちの色法である身体を傷つける行為(自傷行為や自殺)に追い込む危険性があります。
医学者である中村古峡(こきょう)氏は著書の中で、「ある有力な新聞の一訪問記者が、(生長の家の教祖である)谷口雅春にぶつかって、『果たして、君の本さえ読めば、君が大袈裟に吹聴(ふいちょう)してゐる如く、病気が実際になほるのかい』と問うたところ、彼は頭を掻(か)きながら『いや、あれは単に本を売り出すための方便に過ぎない。本を多く売る為には、先(ま)づ多くの人々を集めねばならぬ。多くの人々を集める為には、何等(なんら)かの方便を用(もちい)なければならぬ』と答へたさうな」と記しています。要するに、生長の家は本来、宗教による民衆救済という目的とはかけ離れた、書籍の出版を目的とする商売団体に過ぎないといわなければなりません。
生長の家では、「万教帰一」を主張し、「実相とは唯一の真理を意味し、あらゆる宗教の本尊の奥にある」とします。しかし、各教団や宗教にはさまざまな教えが説かれており、なかには、「オウム真理教」などのような自己中心的で突拍子も無いような教義を展開する教団もあるわけです。それら全ての宗教の教義を一つひとつ検討し、吟味することをしないで、安易に「どんな宗教でもかまないが、その宗教が本尊とする一番根本のところを解明し、教えるのが生長の家の教義である」などと自分勝手に主張することは、独断であり人々を誑惑(おうわく)するものといえるのではないでしょうか?。  
 
天照皇大神宮教 

 

天照皇大神宮教
神がかりは精神分裂と同じ
大本や金光教、天理教などの項でも書きましたが、新興宗教に多く見られる「神がかり信仰」の、「神がかり」というのは何なのでしょうか。
精神医学では、この神がかりというものを「憑依妄想(ひょういもうそう)」と呼び、人間の主体性が失われて起こる「精神分裂病の一種」としています。
もし皆さんの家族がこのような状態になって「私は神のお告げを受けた」などと口走ったら、どう思いますか? 普通は「早く病院に連れて行かなきゃ」と大騒ぎになるでしょう。「神のお告げを受けたとは、何と素晴らしいことでしょう」などと信じる方がどうかしているわけです。
「皇大神という男神と、天照大神という女神を一体(天照皇大神)にして肚の中に納めている」などというのは、何一つ証明のなされない、妄想の産物以外の何者でもありません。
このような精神錯乱・精神分裂の妄想が出発点となっている宗教など、まともに信ずるに値(あたい)しませんし、誰もこれで救われることなどありません。
そもそもこの神は、教祖・北村サヨ誕生以前は人類救済の働きをしてなかったことになります。ずいぶん怠慢(たいまん)な神様なようです。
「悪霊」だの何だの
教団では、この世の利己闘争の原因は「宇宙が悪霊で充満しているから」だと主張し、さらに人間は「悪霊に取り憑(つ)かれている」などとし、その悪霊が煩悩・苦悩の原因であるなどとしています。
悪霊だの何だの、まるでオカルトそのものです。世間の人々の、迷信的で漠然とした生命観・生死観につけ込んで惑わす、幼稚な妄説でしかありません。
他の項でも書いたことですが、物事にはすべからく「原因」があって「結果」が生じます。人々の不幸の原因は、それぞれの人が内奥(ないおう)に抱えているものであり、「悪霊が人間に取り憑いて苦悩の原因になっている」などというのは、まったく因果をわきまえない不条理そのものです。
自身を見つめることなく、この世や個人の不幸の原因を何でもかんでも悪霊の仕業(しわざ)にしてしまうのは、実に低劣で幼稚としか言えません。
「六魂清浄」
教団では「六魂清浄」なる珍説を掲げています。これは仏教で説く「六根清浄(ろっこんしょうじょう)」を勝手にもじっただけのものです。
本来の「六根清浄」とは、
(1)眼根(げんこん)の功徳・・・すべての事象が明らかに見え、物事の因果を正確に知ることができる。
(2)耳根(にこん)の功徳・・・あらゆる音声から、実・不実を聞き分けることができる。
(3)鼻根(びこん)の功徳・・・あらゆる臭いを嗅(か)ぎ分け、分別(ふんべつ)を誤ることがなくなる。
(4)舌根(ぜつこん)の功徳・・・優れた味覚を持ち、さらにその声は深妙(じんみょう)となり、聞く者を喜ばせることができる。
(5)身根(しんこん)の功徳・・・穏やかで健全な身体となり、外界の刺激に適合させ、自身を処することができる。
(6)意根(いこん)の功徳・・・心は清らかに、頭脳は明晰(めいせき)となり、智慧(ちえ)が深くなる。
ということであり、教団が言うような低級なものとは全然違います。「六魂清浄」のような盗作教義には何の意味もありません。まったく取るに足らない「大神様」です。
「名妙法連結経」
この「名妙法連結経」も六魂清浄と同じく、「南無妙法蓮華経」をデタラメにもじって勝手につくった造語でしかありません。教祖サヨは、「なという字は人の名を書け、みょうという字は女編に少しと書け、(中略)天から法の連結をとって結するお経ができるのじゃ」などという肚の神からのお告げがあったなどとしていますが、馬鹿馬鹿しくて語る言葉がありません。さらにサヨは「南無妙法蓮華経」について、「南無とは帰命(きみょう=自分の命を仏に奉るという意味)ではなく、南が無いという意味で、日本軍の南方侵攻が失敗し、南を失ってしまった時」などと言っています。
 
璽宇 

 

 
立正佼成会 

 

立正佼成会 1
コロコロと変わる本尊
立正佼成会には、これまでに6種類もの本尊が登場しました。現在でこそ「久遠実成大恩教主釈迦牟尼世尊」が本尊となっていますが、そこにいたる経緯は前述の通りです。佼成会は霊友会の祖霊信仰を受けついだ教団ですから、独自の本尊がもともとないのが当然ではありますが、それにしてもその雑乱(ぞうらん)ぶりは驚くべきです。
その要因は、副会長だった長沼妙佼の神がかり霊感によるものです。庭野日敬の自伝には、「霊友会では、降神して啓示(けいじ)を聞くことを重要な行としていた。(中略)下がってくる神は、不動明王、八幡大菩薩、毘沙門天、七面大明神、日蓮大菩薩が主だった」などと書かれています。神がかりだの霊感だのは、仏教とは何の関係もない外道です。法華経をあれこれと知りたげに語る日敬と佼成会ですが、その実は迷信・邪心に振り回されていたわけです。
日蓮大聖人は、こうした本尊雑乱について、「諸宗は本尊にまどえり。(中略)例せば、三皇已然に父をしらず、人皆(ひとみな)禽獣に同ぜしがごとし」と厳しく断じておられます。仏教においては、教理・経文をもって厳格に定められるべき本尊が、長沼の「神のお告げ」などという、いかがわしい外道義によって変遷してきた経緯だけを見ても、この教団が仏教、さらには法華経などとはまったく無縁のシロモノであると断定できます。
法華経を踏みにじる庭野
法華経の開経である無量義経には、「四十余年未顕真実」という経文があります。これは「四十余年には未(いま)だ真実を顕(あらわ)さず」と読みます。
釈尊(お釈迦様)は50年間にわたって八万法蔵(はちまんほうぞう)という膨大な教えを説きましたが、そのうち42年間はさまざまな方便の教えを説き、最後の8年間に法華三部経(法華経の開経である『無量義経』、真実の経である『法華経』、結経である『観普賢菩薩行法経』)と涅槃経を説きました。
「42年間に説かれた膨大な諸経は、教えを受ける相手の機根(きこん)に合わせ、それぞれの病気に応じて薬を与えるという方便の教説であり、仏の悟った真実の成仏の法ではない。これから説く法華経こそ一切を成仏に導く真実の教えである」というのが「四十余年未顕真実」なのです。そして『法華経』方便品には、「正直に方便を捨てて、但(ただ)無上道(むじょうどう=唯一最高真実の法、すなわち法華経)を説く」と示されているのです。ところが庭野日敬はこの「四十余年未顕真実」について、「ここで誤解してならないのは、今まで真実でないことをお説きになったというのではない。今までの説法もすべて真実には違いないのだが、まだ真実の中の真実を<すっかり>出しきってはいなかったという意味です」などと、信者が何も知らないのをいいことに、デタラメな解釈をして平気な顔をしています。これでは前述の、方便品の「正直に方便を捨てて」の意味が通らなくなってしまいます。真実ではないからこそ「捨てる」のです。
庭野の法華経解釈など一事が万事この調子で、佼成会で法華経の根本的な教義として教えている『四諦(したい)』『八生道(はっしょうどう)』『十二因縁(じゅうにいんねん)』と、大乗仏教の示す『六波羅密(ろっぱらみつ)』は、法華経の中では、ただ単に過去の方便の中でこういう教えがあったと紹介されているだけで、法華経の教えとはまったく違う小乗教・方便教の教理であります。それをあたかも仏の真実の教えのように信者に教え、精神修養を勧め道徳論を押しつける庭野は、法華経を踏みにじる者と言わざるを得ません。
他宗容認は法華に非(あら)ず
法華経には「正直捨方便」「不受余経一偈(余経の一偈(いちげ)をも受けざれ)」とあるとおり、方便経その他のあらゆる教えを捨てて法華経のみを信ずるよう説かれています。にもかかわらず庭野は、「それまでの宗教を捨てる必要はない」「自分の檀家寺や氏神を大切にするように」などと会員に教え、他宗・他教を容認しています。
これは法華経の精神にまったく背くものであり、不純物まみれの法華信仰となります。伝教大師が、「法華経を讃(さん)すと雖(いえど)も還(かえ)って法華の心を死(ころ)す」と言われたのは、まさに庭野のような者を指すのです。
日蓮大聖人の「南無妙法蓮華経」を盗む
これは霊友会も同じですが、佼成会では会員に、庭野が勝手に作った本尊に向かって題目を唱えさせています。
しかしこの五字・七字は、釈尊(お釈迦様)の法華経の文上にはいっさい説かれていません。末法(まっぽう)の時代に至って、日蓮大聖人が初めて説きいだされた本門三大秘法であります。したがって、釈尊の法華経を依経(えきょう=よりどころの教典)とする佼成会には何の関係もありません。
この題目は本門三大秘法の「本門の本尊(弘安2年10月12日御図顕の本門戒壇の大御本尊)」に具足する「本門の題目」であります。したがって、日蓮大聖人が顕(あらわ)された本門の本尊に向かい奉り唱えるところの題目です。
日蓮大聖人は、「あひかまへて御信心を出だし此の御本尊に祈念せしめ給へ」(『経王殿御返事』)「日蓮等の類の弘通(ぐづう)する題目は(中略)所謂(いわゆる)日蓮建立の御本尊、南無妙法蓮華経是(これ)なり」(『御講聞書』)と御教示であり、庭野が勝手に作った本尊などに向かって唱えるのは論外です。
日蓮大聖人を悪(あ)しく敬う
庭野日敬は日蓮大聖人について、「日蓮聖人は考えられました。禅も、念仏も、その他の宗派も、それぞれいい教えには違いないけれども、いずれも仏の教えを一点だけ集中的に見つめているだけで、円熟した完全さがない」(仏教のいのち 法華経)などと馬鹿げたことを言っています。
しかし日蓮大聖人は、念仏や禅宗他について、「念仏は無間地獄の業、禅宗は天魔の所為、真言は亡国の悪法、律宗は国賊の妄説」と一刀両断に斬り捨てられているのであり、庭野の言う「それぞれいい教えには違いない」どころではありません。まるで大聖人の御精神に理解が及んでいないのです。
また庭野は「『法華経』が最高の教えであることは間違いないのですけれど、それを讃(たた)えるために他の教典をけなしたりするのは心得ちがいといわなければなりません」などとも言っています。
しかし日蓮大聖人は、「謗法(ほうぼう)を責めずして成仏を願わば、火の中に水を求め、水の中に火を尋ぬるが如くなるべし」と仰せであります。いったい庭野は、この日蓮大聖人の御聖訓をどう解釈するつもりでしょうか。
立正佼成会 2
立正佼成会では、「本尊」を六度も変更しており、その都度、信者は本部から言われるままに、信仰の形を変えていかなければなりませんでした。信仰の根本である本尊がクルクル変わるような宗教は、教えが確定していないということです。日蓮大聖人が「諸宗は本尊にまどえり」と指摘されているように、立正佼成会が、いい加減な宗教であることの証拠と言えます。
立正佼成会では、長沼マサの「神のお告げ」によって、本尊を交換したといいます。しかし、信仰の根本である本尊が、いかがわしい「お告げ」によって簡単に変わること自体、信ずるに値しない邪教といえます。
庭野鹿蔵(日敬)は、久遠の釈迦像を本尊とし、それが釈尊の心であり、さらに日蓮大聖人の心でもあると語っています。しかし日蓮大聖人が「仏の御意は法華経なり。日蓮がたましひは、南無妙法蓮華経にすぎたるはなし」(御書685)と断言されているとおり、釈尊の本意は法華経であり、日蓮大聖人の御意は南無妙法蓮華経の御本尊にあるのです。どこにも「釈尊の像を、本尊として祀りなさい」などとは説かれてはおらず、庭野の説は、釈尊や日蓮大聖人の教えとは無関係の「思いつき宗」であると言えます。
法華経には「不受余経一偈」と書いてあります。これは、「法華経を信仰する者は、他の教えは、わずかでも信じてはならない」との法華経の根本精神を表わした言葉です。しかし立正佼成会では、「従来の檀家寺や氏神への信仰はそのまま続けて構わない」と教えています。この一点をとってみても、立正佼成会の教えは法華経に背いていることが明白です。
 
霊友会 

 

霊友会 1
「仏所護念」に関するデタラメな解釈
霊友会は先述の通り、西田利蔵が主張した「仏所護念」の意義付けをそのまま踏襲しています。まず、この意義付けからしてデタラメです。
「教菩薩法 仏所護念」は、訓読すると「菩薩を教うる法にして、仏の護念したまう所なり」となりますが、この「仏所護念」について天台大師が『法華文句』に、「仏所護念とは、無量義処(むりょうぎしょ)は是(これ)仏の証得(しょうとく)したまう所なり。是(こ)の故に如来(にょらい)の護念したまう所なり」と釈されているとおり、「仏所護念」とは「正覚(しょうかく)の仏(釈尊)が護(まも)り念じてこられたところの法(法華経のこと)」というのが正しい意味です。法華経の見宝塔品を見ると、「釈迦牟尼世尊、能(よ)く平等大慧・教菩薩法・仏所護念の妙法華経を以(もっ)て大衆の為に説きたもう。」とあります。これは「釈尊の説法はすべて真実である」と証明した多宝如来の言葉ですが、その意味は、「菩薩やあらゆる人々を平等に救うべき真実の法を、仏は長い間護り念じてきた。その護念してきた妙法を、釈尊は時来たって大衆に説くのである」ということです。
ところが西田利蔵は、「仏の護念したもう所の妙法」と読むべきを「仏の所を護念する」と読んでしまい、しかも仏を「先祖の霊のこと」と解釈するという信じがたい愚迷を犯しました。
このように西田は、「死んだ人の霊がいる所を護り、念ずること」というデタラメ勝手な解釈をして、独自の先祖供養法の根拠として主張したわけです。霊友会の教義はこうした誤った解釈を元としているゆえに、法華経を信奉しているようなフリをしながら、実は法華経の意(こころ)を殺すものです。
しかも霊友会は、「仏所護念」に関する西田のデタラメ解釈をはじめ、あらゆる西田流教義をほぼそのまま霊友会の教義として流用していながら、その事実を公表していません。霊友会の出版物のどこにも、西田利蔵の名は出てきません。そのことを知られたくないのでしょうか。
先祖の霊を本尊にする邪法
日本人は、死んだ人を「仏さん」と呼んだりして、死んだ人は仏であるがごとき誤解があります。日本人特有の優しさかもしれませんが、これは誤りです。
先祖といっても、今生きている私たちと同じ凡夫衆生(ぼんぷしゅじょう)であり、死んだからといって「正しい悟りを得て仏になる」わけではありません。したがって、死者の霊が子孫を守ったり苦悩から救うなどということはできません。その先祖を本尊に仕立て上げて祀(まつ)って祈願や礼拝の対象とすることは、仏法上、大きな誤りなのです。
これも日本人の多くが誤解しているかもしれませんが、仏教は「死んだ後も、個々人の我(が)が霊魂として永遠不滅に存続する」というような説を「常見(じょうけん)」と呼び、これを否定しています。これは内道(仏教のこと)ではなく、外道見(げどうけん)なのです。訳の分からない霊能者やら邪宗の坊さんやらが、テレビ等で好き勝手なことを言ったりしてますが、あれは実は仏教とは何の関係もありません。
そして法華経ではもちろん、先祖の霊を祀って本尊にしろなどとはどこにも書かれていません。西田無学から受けついだ、霊友会の邪説です。
しかも、各家庭では先祖の霊を祀らせながら、本部の釈迦殿には釈迦像が、伊豆の弥勒山には弥勒菩薩像が祀られている有り様で、この教団が何をしたいのか分かりません。
要するに死者の供養が第一義で、拝む対象など意味をなさないというのがこの教団の特色でありますが、宗教としての根本が欠落しています。
ちなみに、この教団から派生した教団に「霊法会」というものがありますが、ここなどは「自分たちは宗教ではない」などと称し、やはり霊友会流の先祖供養のみを第一義と立て、家の宗教はそのままでよいと言って勧誘していたりします。仏教だか神道だか分からない意味不明の祭壇を祀り先祖供養をさせるという、ここもまた珍妙な教団です。
生・徳・院
霊友会では総戒名を祀らせていますが、教団が信奉しているはずの法華経には、どこにも「生・徳・院の文字を使った戒名を付け、それを拝め」などとは説かれていません。言うまでもありませんが、霊友会の勝手な創作です。
仏教にしたがっているフリをしながら、実は勝手に教義をでっち上げて似ても似つかないものになるのは、この教団に限らず新興宗教の常であります。
日蓮大聖人の「南無妙法蓮華経」を盗む
「青経巻」と呼ばれる経本の表紙には、大きく「南無妙法蓮華経」と書かれています。
しかしこの五字・七字は、釈尊(お釈迦様)の法華経の文上にはいっさい説かれていません。末法(まっぽう)の時代に至って、日蓮大聖人が初めて説きいだされた本門三大秘法であります。したがって、釈尊の法華経を依経(えきょう=よりどころの教典)とする霊友会には何の関係もありません。
この題目は本門三大秘法の「本門の本尊(弘安2年10月12日御図顕の本門戒壇の大御本尊)」に具足する「本門の題目」であります。したがって、日蓮大聖人が顕(あらわ)された本門の本尊に向かい奉り唱えるところの題目です。
日蓮大聖人は、「あひかまへて御信心を出だし此の御本尊に祈念せしめ給へ」「日蓮等の類の弘通(ぐづう)する題目は(中略)所謂(いわゆる)日蓮建立の御本尊、南無妙法蓮華経是(これ)なり」等と御教示であり、霊友会のごとく先祖の戒名などに対して唱えるのは、日蓮大聖人の聖意(しょうい)に背くこととなります。
霊友会 2
霊友会では、「西田無学」が提唱した「仏所護念」の意義づけを利用しています。しかし、法華経に説かれる「仏所護念」の正確な意味は、「正しい覚りを開いた仏が護り、ずっと念じてきたところ」というものです。ところが西田は「死んだ人の霊がいる所を護り、念ずること」と間違った解釈をし、「亡くなった人の戒名を護り、常に念ずること」の必要性を説いているのです。霊友会の教えは、西田の間違った解釈を基としていることから、霊友会の「先祖供養の意義」もまた、間違っていると言えます。
霊友会は各自の先祖の霊を本尊とします。しかし、人は死ぬことによって、正しい覚りが得られるわけではありません。ですから、亡くなった先祖が、ただ亡くなるという変化だけで、仏や神のような絶大な力をもって子孫を苦悩から救えるような境界に至ることはできないのです。先祖を本尊として祀り拝むということは、苦しんでいる病人に向かって「がんばれ、がんばれ」と応援するようなものです。それでは病人の苦痛は一向に回復せず、むしろ病人自身にも執拗なストレスを与えて病状を悪化させることにもなりかねません。病人の回復を願うならば、まず第一に勝れた医者に診せるべきであり、それを先祖の供養に置き換えるならば、先祖の位牌などに向かって「どうか護ってください」とお願いするのではなく、最高の仏法の功徳を先祖の方々の精霊に追善回向してこそ、真に先祖も救われ、子孫である私たちも仏法の功徳に浴して幸せに過ごしていくことができる、というものです。したがって、霊友会のように、先祖を本尊として祀り、礼拝の対象としても、先祖を救うことはできませんし、我々が功徳・善根を積むことにもなりません。
先祖供養の方法について、霊友会では「総戒名を祀れ」と指導しています。しかし霊友会が教えの基本としている『法華経』には、どこにも「生・院・徳の文字を使った総戒名をつけて、それを崇めれば、先祖も自分も救われる」ことは、書かれていないのです。法華経を信仰するといいながら、法華経に背き、作り上げられた方式で供養しても、先祖が喜ぶはずはないのです。  
 
世界救世教 

 

世界救世教 1
神がかりと同様の妄想
茂吉は、観音が自分の体に宿ったとして「私の腹中には光の玉がある」などとしていましたが、ホントにそう思っていたのであれば、これは多くの新興宗教の教祖に見られる「神がかり」と同じものです。
精神医学では、この神がかりというものを「憑依妄想(ひょういもうそう)」と呼び、人間の主体性が失われて起こる「精神分裂病の一種」としています。
もし皆さんの家族がこのような状態になって「観音が自分の体に宿った」「私の腹中には光の玉がある」などと口走ったら、どう思いますか? 普通は「早く病院に連れて行かなきゃ」と大騒ぎになるでしょう。それを真(ま)に受けて信じる方がどうかしているわけです。
このような精神錯乱・精神分裂の妄想が出発点となっている宗教など、まともに信ずるに値(あたい)しませんし、誰もこれで救われることなどありません。
それに茂吉の場合、「神から力を授かった」と言いながら「自分は神と同じで三大聖人よりも上」とするなど支離滅裂(しりめつれつ)で、矛盾だらけの御都合主義です。
「手かざし」は幼稚な奇跡信仰
教団では、手かざしによって「霊の曇り」を浄化させ、これによって病気・不幸・争いをなくせるなどと言っています。これは「人の体に残留する汚物が毒素となり、霊の曇りとなる」のだそうですが、こんなものはまったく意味不明な、デタラメにこじつけた勝手な稚論(ちろん)でしかありません。
それに教団では、手かざしによって大漁や豊作になったり、故障したエンジンがなおったなどと奇跡を売り物にしています。
しかし現実には、手かざしをして、あらゆる苦悩の原因である霊の曇りをなくしたはずなのに、この教団では跡目(あとめ)争いや内紛が続き、たくさんの新教団に分裂したりしています。要するに、手かざしだの浄霊だの、そんなものは何の役にも立たないことを、教団自体が実証しているようなものです。
実体不明の神
教団では、教祖に力を与えたという観音について、「その本体は、天照皇大神(あまてらすおおみかみ)の慈悲による救世の代現神・伊都能売大神(いずのめのおおかみ)であり、これが仏身に姿を変えてインドに渡り、観音の立場として釈迦を悟りに導いた。したがって仏教の元は観音である。この伊都能売大神は大光明真神(みろくおおみかみ)の霊系である」などという、神道と仏教をゴチャ混ぜにした、何の脈絡もない意味不明の説明をし、大光明真神とつなぎ合わせようとしています。このデタラメな説明こそ、「大光明真神」が実体のない架空の存在であることを自白しているのと同じです。
霊写真事件
過去に、茂吉を写真に撮った際、「観音・お光り・竜」などが同時に写っていたという「霊写真」を宣伝したことがありました。
しかし後になって、読売新聞によって「二重写しの偽造写真」であることが明かされてしまっています。これらの写真を撮影したのは、茂吉と共謀した柴田延太郎という人で、彼は「観音様の掛絵を先に撮った二重写しが千手観音、窓から差し込んだ太陽光線が鏡に反射したのがお光り、タバコの煙が突風で渦巻になったのを撮ったのが竜」(趣意)と暴露してしまったのです。
世界救世教 2
世界救世教の教義は、教祖の腹の中に「光の玉」があるとしたり、仏教や神道、さらにはメシヤの教えを混ぜた、その場しのぎ、思いつくまま口から出たデマカセばかりで構成されており、ご都合主義の教えと言われても仕方がないものばかりです。また教祖は「神から授かった」といいながら、「神人合一」と称して、自分は釈迦・キリスト・マホメッドよりも上位で、神と同格にあるとも言っています。まさに、矛盾に満ちた内容ばかりで、支離滅裂、荒唐無稽の信仰と言っても過言ではありません。
世界救世教では、教祖に力を与えたという観音について「その本体は、天照皇大神の慈悲による救世の代現神・伊都能売大神であり、これが仏身に姿を変えてインドにわたり、観音の立場として釈迦を悟りに導いた。したがって仏教の元は観音である。この伊都能売大神は、大光明(みろく)真神(おおみかみ)の霊系である」などと、何ら脈絡のない意味不明な説明をしながら、大光明真神とつなぎ合わせようとしているのです。この説明こそ、教団で配布する「大光真神」は実体のない架空のものであることを、みずから明かしているといえます。また岡田茂吉を写真に撮影した際、“観音・お光・竜”などが同時に写っていたとする「霊写真」を宣伝したこともありましたが、後になって、二重写しの偽造写真であることが読売新聞(昭和25年6月1日付夕刊)に暴露され、教祖の欺瞞性が暴かれました。
「霊界の夜昼転換」により理想世界の「地上天国」が現われるといいますが、これは美術骨董の趣味・収集の欲望を満足させるため、茂吉自身の理想として創作したものに他なりません。その欲望のために奉仕し続ける信者こそ、最後に苦しい思いをすることは明らかです。
教団では「手かざし」によって、大漁や豊作になったり、故障したエンジンがなおったなどと、奇跡を売り物にしています。しかし、浄霊・手かざしを行なって、あらゆる苦悩の原因である霊の曇りを無くしたはずの世界救世教教団で、跡目争いや内紛が、次々と続くという姿を目の当たりにするにつけて、手かざしなどには、何ら効力がないことはあきらかといえます。  
 
神慈秀明会 

 

 
真光系諸教団 

 

 
世界真光文明教団 

 

世界真光文明教団・崇教真光 1
「手かざし」は幼稚な奇跡信仰
この「手かざし」なるものは、岡田光玉が立教前に入信していた「世界救世教」と同じ類(たぐい)のものです。
教団では「不幸の原因をすべて解消し、人々を幸福へ導く具体的な方法が<手かざし>だ」などと主張し、さらに「人だけでなく、食品や水、動物、機械その他に施しても効果があり、死にかけた動物がよみがえったり、動かなくなった機械や時計が動き出す」などと、常識では考えられない奇跡話を売り物にしています。
物事には、すべからく「原因」があって「結果」が生じます。この当たり前の道理を無視したものが「奇跡」で、原因のないところにいきなり結果が生じるという、実に非常識な、子供だましの俗信的発想です。人が正しく生きるためには、当たり前の道理を無視するような、幼稚な信仰は不要です。
それに、手かざしで不幸の原因を解消したはず人たちが、教団の跡目争いで分裂するなどお笑いです。これこそ、手かざしなどに何も効力がない一つの証左と言えます。
荒唐無稽(こうとうむけい)な仏教利用
岡田光玉は、「釈尊(お釈迦様)は、主神から遣(つか)わされた」などと勝手な主張をしていますが、釈尊が説いた八万法蔵といわれる膨大な経典のどこを見ても、そんな馬鹿げたことは一切述べられていません。
逆に仏教では、「<神>は、仏・菩薩が衆生済度(しゅじょうさいど)のために仮の姿として現れる存在(これを垂迹といいます)」と説かれており、光玉の主張とは正反対の立場なのです。
教団は、自分たちの主張が正しいというのであれば、釈尊の経巻のどこにそうしたことが書いてあるというのか、明確に示すべきでしょう。根拠となる証文がないならば、こうした好き勝手な妄言は吐かぬことです。
人々を惑わす霊魂思想
教団では、現実世界の背後に「先祖霊や怨霊・動物霊などの霊界がある」などという、霊界・霊魂説を盛んに主張しています。しかも、人間のあらゆる不幸現象のうち、80%がそれらの霊魂による「霊障」であるなどと、人々の俗信をさらに煽(あお)るようなことまで言っています。
しかしながら、もし仮にそういう霊魂が人間に憑依(ひょうい)して、さまざまな不幸をもたらすというのであれば、人生の幸・不幸のほとんどすべてが霊魂に支配されてしまうことになり、「現実世界の努力」など無意味なものになってしまいます。
何度でも書きますが、物事にはすべからく「原因」があって「結果」が生じます。霊魂が憑依してどうのこうのなどは、因果をわきまえない不条理そのものです。
人生の幸・不幸が霊によって決められてしまうなどという考え方は、むしろ「霊に取り憑かれている」という、一種の強迫観念を人間に与え、客観的な判断力を失わせることにもなります。普通の人間生活に支障をきたす、この霊魂思想こそが不幸の原因になりかねないのです。
世界真光文明教団・崇教真光 2
岡田光玉は「釈尊は、主神から遣わされた」と教えますが、釈尊が説いた八万法蔵と呼ばれる多くの教典をみても、そのようなことは一切述べられていません。むしろ仏教では、“神”は仏や菩薩が、衆生を救済するたえに仮の姿として現れる(垂迹)と説いています。このように、何ら根拠のない岡田光玉の教えをよりどころをする教団は、荒唐無稽な邪教と言われても、反論の余地はありません。
岡田光玉は、主神の教えを説く聖人の出現を、日蓮大聖人が「直弟子たちに伝えた極秘文書『三澤抄』の中で述べている」と主張しています。これは「三沢抄」という大聖人の御書の言葉を岡田が勝手に引用し、間違った解釈を基とした思想であり、日蓮大聖人は岡田光玉の出現など、どこにも預言などされていません。
教団では、現実世界の背後に先祖霊や怨霊(おんりょう)、動物霊などの霊界があると主張し、人間生活のあらゆる不幸現象は、80パーセントが霊障による、などとしています。しかし、仏教では死後の世界は法界にあって前世の因果を感じながら、縁によりまた生ずると説き、因果を無視した霊界や霊魂の存在を否定しているのです。岡田の教えは明らかに因果の道理を無視した、到底、信用に値しない外道思想であることは明らかです。  
 
PL教団 

 

PL教団 1
曖昧(あいまい)な神と礼拝対象物
教団では、宇宙の根本神を「大元霊」としていますが、この神が一体何者なのか、どこに存在するのか、また「教祖によって世の人々は真の救いを得た」などと主張し、教祖との優劣についても不明です。
また2代教祖・徳近は、礼拝対象物を日章マークにしましたが、その根拠も不明です。「私は自分で造形した神を、自分で決定した礼拝形式で私自身が拝みます」などと徳近自身が言っているとおり、すべては教祖の思いつきに過ぎません。
『新宗教の世界』という本で、ある教団幹部は、「端的(たんてき)に言っちゃえばですね、礼拝するには、何か対象がなければ格好(かっこう)がつきませんでしょう。それでこの形を創ったので(中略)だから何でもよかったわけで、古ゾウリでもよし、ちびたゲタでもよかったんです」などと語っています。
つまりこの教団は、信仰で最も大切である礼拝対象物(ご神体)ですら、このようにいい加減なものなのです。つまりこれは「この教団の信仰そのものがいい加減である」ということです。
「身代り」のデタラメ
教団では「身代り」の神事によって、信者たちの病気や惨事をすべて教祖自身に振り替えて解決するなどと主張しています。しかしこの「身代り」は、「御嶽教徳光大教会」の教祖・金田徳光がすでに行っていたもので、PL教団独自のものではありません。
しかも、初代・御木徳一は金田に喘息(ぜんそく)を治してもらったということになっていますが、徳一は終生、他人に隠れて喘息の薬を飲み続けていたという証言もあります。
仮に、教祖がそのような身代りをできるとするならば、現在、100万人を越すといわれる信者たちの病気や苦悩を背負って、教祖は常に病弱で苦悩まみれの境遇でなければならず、生きていることも不思議です。
教団自身が「おしえおやはあくまで人間であって神ではありません」と言っており、生身の人間である教祖にこのような身代りなどできるはずもなく、科学的検証にまったく耐えられないデタラメです。
2代教祖・徳近は「科学的根拠の無いような宗教は其れ自体虚偽」などと言っていますが、この言葉はそっくり自分たちに返ってくることを知るべきでしょう。
「神示(みしらせ)」の矛盾
教団では「神示」なるものを説き、「人の我(が)や個癖が原因になって引き起こされる自己表現のひずみが、病気・不幸・災難などの形となって現れる」などとし、「心の持ち方しだいで幸・不幸が決まる」などと主張しています。
しかしこの論法でいくと、生まれながらにして傷害や病気を持つ人の存在を説明できません。さらに、不慮の事故や災害でいきなり命を落とす人も多くいるのに、これを「神示」だというのであれば、PLの神というのは実に無慈悲(むじひ)な存在です。
低俗な処世訓
「人生は芸術である」が中心となる『PL処世訓21箇条』が、この教団の教義の中心になっています。
教団では「自我を離れ、自己を顕現していくところに人生の真義がある」などと主張していますが、「自我を離れる」などというのは人間には不可能なことであり、こういうことをもっともらしく語ること自体、この教団が人間の本質をまったく分かっていない証拠です。「五欲を離れず」「煩悩を即(すなわ)ち菩提(ぼだい=悟り)と転ずる」とする仏教と比べるまでもなく、人間性を無視した低俗な処世訓でしかありません。
また「自己を顕現する」だけで真の人生の幸福が得られるはずもなく、他の条目についても、まったく抽象的で底の浅い、ありきたりの言葉の羅列でしかありません。
■PL教団 2
曖昧な神と礼拝対象物
教団では宇宙の根本神を大元霊としていますが、この神の実体や所在、教祖との優劣関係については、まったく明らかにしていません。礼拝対象物がきわめて曖昧であるのに対し、「教祖によって世の人々は真の救いを得ることができるようになった」というように、教祖の絶対性だけが強調されています。しかしその教祖自体、普遍的な指針を打ち出すこともなく、無節操にも、教義や教団名、活動方針などが頻繁に変更されているのが現実です。徳近は、近年になって日章マークを礼拝対象物にしましたが、その根拠も、はっきりしていません。徳近は「私は自分で造形した神を、自分で決定した礼拝様式で、私自身が拝みます。これは我ながら見事なものだと思っています」(心を燃やす 46)といっているように、何から何まで教祖の思いつきが、そのまま教義になっているということです。礼拝物について教団のある幹部は「端的に言っちゃえばですね。礼拝をするには、何か対象がなければ格好がつきませんでしょう。それで、この形を創ったので(中略)だから何であってもよかったわけで、古ゾウリでもよし、ちびたゲタでもよかったんです」などと語っています。PL教団では、信仰のうえで最も大切であるはずの礼拝対象物(御神体)ですあら、このようにいい加減なものなのです。
「身代り」の邪義
PL教団では、「身代り」の神事によって、信者の病気や惨事をすべて教祖自身に振り替えて解決するとしています。しかしこの「身代り」はPL教団独自のものではなく、すでに「ひとのみやち」や「徳光教」で「お振替」と称して行なっていたものであり、教団では当初「転象(てんしょう)」と呼んでいました。「ひとのみち」教団発行の『信仰の本道』には、「をしえおやは、悩みを一身に引き受けることによって、毎月二十日頃から身体が役に立たないやうになってくる。人の苦しみを現実に、自分の肉体に引き取られるから、細胞組織の完全な身体ではなくなってくるのであります」(255)とまことしやかに述べています。しかしこれは、現代医学ではまったく通用しない、邪義そのものと言えましょう。仮に教祖にそのような身代わりができるとするならば、今日、100万人を超えると言われる教団の信者の病気や罪業をすべて背負って、教祖は常に病弱で苦悩にまみれた境遇を日々過ごしていることになるわけです。そんなことは人間が普通に耐えられるようなものではありません。ところが教団では一方で「もちろん、おしえおや(教祖)はあくまで人間であって神ではありません」といっており、矛盾ばかり目立つといえましょう。また、「御振替」によって昔、金田に喘息を治してもらったという初代教祖・徳一さえも、終生、他人に隠れて喘息の薬を飲み続けて生きながらえていたという証言もあります。徳近自身「科学的根拠の無いような宗教は、其れ自体虚偽」といっていますが、まさに科学的根拠もなく、何の裏付けもない自己矛盾の教団こそ、PL教団であると言えるのです。
「神示」の矛盾
PL教団では、「神示(みしらせ)」を説いて、人の「我」や個人的癖が原因となり、引き起こされる自己表現のひずみが、病気や不幸、災難などの形になって現れるとし、「心の持ち方次第で、幸不幸が決まる」と教えます。しかし、そうした理論が、もし通るならば、生まれながらにして障害や病気を持つ人の存在について説明することはできません。また、なかには不遇にも自己や災害で命を落とす人がいるのも現実であり、これも神の「神示」というならば、PLの神は大変無慈悲な存在といえます。
低俗な処世訓
教団で協議の中心に置くのは『PL処世訓』であり、その根本は「人生は芸術である」との条目です。教団では「自我を離れ、自己を顕現していくところに人生の真義がある」としていますが、煩悩が多い人間は、生命の浄化こそ大事であって、「自我を離れること」など到底不可能です。この条項はまさに、人間性を無視した教条であり、さらに「自己を顕現する」だけで真実の人生の幸福が得られるわけでもありません。したがって、PL教団でいうこれらの言葉はきわめて抽象的なものであり、その他の条目についても、ありきたりの言葉を羅列しただけのものに過ぎないのです。教祖の悟りと称するものが、この程度であるところに教団の教義の低俗さといい加減さがあるのです。それは、立教前の徳一が、何度も修行を頓挫しては、あちらこちらを転々とする人生を送り、いきついたさきで聞いた目新しい新興宗教を、自身の生活の糧とした姿から見ても、一目瞭然と言えましょう。 
 
創価学会 

 

創価学会 1 日蓮正宗から破門された理由
背景
あれは平成2年1月頃のことでした。当時はまだ、日蓮正宗と創価学会は、ともに広宣流布(こうせんるふ)の実現に向け、協調して信心していました。
人類の平和社会の理想である広宣流布の実現には、法華経に説かれた「令法久住・広宣流布」の姿が必要不可欠です。そのため
○ 日蓮正宗の出家僧侶が、まじめに正直に、本門戒壇(かいだん)の大御本尊を守り、日蓮大聖人の正しい仏法を正しく、ありのまま未来に伝えていくこと。
○ 創価学会などの在家信徒が、純粋(じゅんすい)な信心を行ない、生活に即した信仰活動を通じて広く社会に貢献(こうけん)し、折伏を推進していくこと。
つまり「僧俗一致・異体同心」という広宣流布の大前提を守りながら、おだやかに信心をしていた時代です。
さて、1月といえば総本山大石寺は年間を通してもっとも寒さ厳しい季節です。とくに、その日は西高東低の冬型で、大石寺周辺では夕方頃から強い北風が吹いていました。夜も更けて日が変わった午前2時。「本門大客殿」の雲板(うんばん)が厳(おごそ)かに鳴り響き、間もなく丑寅(うしとら)勤行(ごんぎょう)が開始されることを、大石寺の宿坊に宿泊していた創価学会員さんに知らせました。
丑寅(うしとら)勤行とは大石寺において、毎朝丑寅の時刻(=午前2時〜4時)に行なわれる五座の勤行(早朝勤行)のことで、日蓮正宗では重要な意義をもつ法要です。
大石寺を開創した第二祖日興上人は、第三祖日目上人への相伝書のなかで「大石寺は御堂と云ひ、墓所と云ひ、日目之を管領し、修理を加へ勤行を致して、広宣流布を待つべきなり。」と遺言(ゆいごん)されました。この中に出てくる「勤行(ごんぎょう)」とは、この「丑寅勤行」のことです。丑寅勤行では、丑寅の時刻という、一日のうちでもっとも静寂で空気も澄み切った時刻に、世界中の人々を成仏へと導く仏法僧の三宝尊へ深く感謝の祈りを捧(ささ)げ、同時に、日蓮大聖人の遺命であり人類究極の願いである広宣流布による世界平和を祈念されます。
第二祖日興上人が大石寺を開創されて以来、日蓮大聖人の仏法を守り伝えられる歴代の御法主上人は、この伝統を固く守って来られました。大石寺では、開創以来七百年以上にわたり、一日も欠かさず丑寅勤行が修されてきました。
昔、創価学会第二代戸田城聖会長は、太平洋戦争等の影響で疲弊した創価学会組織を立て直すにあたり、「大石寺に安置されている本門戒壇の大御本尊への信仰が、世界中すべての宗教・信仰の根源をなすものであり、末法唯一の大正法である」との深い信心に立ち返りました。そして、すべての創価学会員に大御本尊の功徳を得せしめるため、大石寺への団体登山会を開始しました。その結果、大石寺へ参詣した一人ひとりの学会員さんが多くの功徳をいただくとともに、創価学会組織も日本最大の信仰組織にまで大きく成長することができたのです。その原動力はすべて、大御本尊よりいただいた功徳であることは疑う余地もありません。
このように大石寺への参詣は、本門戒壇の大御本尊の御開扉を受けることにありますが、なかでも外国や国内の遠隔地から大石寺へ参詣した学会員さんが大石寺に宿泊する際、楽しみでもあり、心から願ってきたことが「丑寅勤行」への参列でした。
喧噪(けんそう)や雑音もなく、空気も澄み渡り、厳粛な信心を奮い起こさせる、あのすばらしい「丑寅勤行」。学会員さんたちは当時、丑寅勤行に参列して広宣流布の成就、悩みの解決や家族の幸せを、御法主上人猊下の尊い御声に会わせて読経・唱題しながら、心からご祈念したものでした。(※学会破門後も、大石寺では一日も欠かさず御法主上人の大導師により丑寅勤行が勤められています)
さて、お話を平成2年1月の大石寺へと戻しましょう。午前2時30分、出仕(しゅっし)太鼓が高らかに鳴り響くなか、御法主日顕上人が大客殿にお出ましになり、丑寅勤行がはじまりました。大石寺では「一夜番」といって、数名の僧侶が毎晩「寝ずの番」を交代で務め、大御本尊や日蓮大聖人の御書をはじめとする大石寺の重宝、境内の建物を火災などから守るため、見回りをするしきたりになっています。
丑寅勤行がはじまったので、大客殿を見回っていた一夜番僧侶が別の建物へ移ろうとした時、建物外の広場の暗闇に、たくさんの人影を発見しました。人数はそう、20人以上はいたはずです。みな地方から参詣していた学会員さんでした。北風が容赦なく吹きすさび、体感気温は氷点下だったでしょう。皆、ガタガタ震えながら建物の隙間から聞こえてくる読経の声にあわせて、一生懸命勤行をしていました。
「あれ? おかしいな」
一夜番僧侶が大客殿に戻って見てみると、200〜300人が参列していましたが、まだ収容には余裕があります。彼は創価学会の警備担当者に連絡をとりました。
「大広間に入れるのに、それが分からない方が外にいるようです…」
すると警備関係者はいいました。
「外にいるのは学会員です。彼らは民宿などに泊まっているフリーの登山者で、前もって丑寅勤行への参加を申し込んでいなかったようです…」
「えっ? 丑寅勤行は、日蓮正宗の信徒であれば、学会員さんでも法華講員さんでも、自由に参加できるはずですが…」
「詳しいことは分からないので、創価学会の輸送責任者に伝えておきます」
その後、何の知らせもないまま時間だけが過ぎていきました。一夜番僧侶も、自分の勝手な判断で、外にいる学会員さんを室内に招き入れることもできず、丑寅勤行は終わってしまいました。夜が明けると一夜番僧侶は、担当の上司に報告しました。その報告はさらに上へと伝わり、ついに日顕上人のお耳に入ることになりました。後日分かったことですが、創価学会では学会独自で作ったルールにのっとり、丑寅勤行の参加人数を決めていたようなのです。学会が人数制限をしていたことは、大石寺は、まったく知りませんでした。
それからしばらくして、日顕上人と池田大作名誉会長が面談する機会がありました。その際、日顕上人から池田氏に対して、「丑寅勤行の参加について、宿泊している学会員の何パーセントというような制限をするのではなく、参加を希望する学会員さんには、自由に出させてあげたらどうですか?そのかわり、参加したい人がいなければ、学会員さんの参列がゼロでも構いません」とお話をされました。
「真夜中に極寒の外で、立ったまま勤行に参加するなど、気の毒で仕方がない」と、学会員さんの信心を尊く思われた日顕上人のお言葉でした。
ところが、こうした何の問題もないような普通の話が、学会内部にはどのように伝わったと思いますか?「池田先生が日顕上人に呼び出され、『丑寅勤行に参加する学会員が少ない。もっと増やせ』と怒鳴(どな)られた」となってしまったのです。
一事が万事。平成3年以降、学会員さんが学会の会合で耳にしてる日蓮正宗の悪口、日顕上人の悪口のほとんどは、まったくの事実無根か、このように内容がスリ替えられた話ばかりなのです。
こうした誤った情報や誤認、デマや中傷が激しくなるにつれ、創価学会は、日蓮正宗や大石寺を攻撃する集団へと変わってしまいました。そしてついに平成3年2月頃になると、創価学会では日蓮正宗の寺院に願い出ることなく葬儀や法事を独自で行なうようになりました。
もはや「日蓮正宗は必要ない」ことを、威圧(いあつ)的な行動で示したのです。実際、破門通告された直後の秋谷栄之助第5代会長は、「破門された日は、“精神の独立記念日”である」などといって、「日蓮正宗から破門された」ことを、歓迎する談話を聖教新聞に発表していたほどです。
このように、一般の学会員さんが知らないところで様々な問題が発生し、結果として創価学会は日蓮正宗から破門されてしまいました。
日蓮正宗と創価学会とが協調し、和合しながら、ともに広布に向かっていた時代を知っている人間にとって、創価学会の破門が「正法を護持」するためとはいえ、誠に残念でなりませんでした。なお、創価学会が日蓮正宗から破門された理由の公式見解は以下の通りです。
理由(わけ)
創価学会設立の目的とは?
創価学会は、日蓮正宗の信徒であった牧口常三郎氏が中心となって、教育者信徒が集まり、昭和五年十一月に「創価教育学会」として創立されました。
その後、日蓮正宗の信徒団体となり、昭和二十一年三月、牧口氏のあとを受けた戸田城聖氏が「創価学会」と名称を改めて再建しました。
第二代戸田会長は、創価学会が「宗教法人」を取得するに際して宗門(日蓮正宗)に対し、
一、折伏した人は信徒として(日蓮正宗の)各寺院に所属させること
二、当山(日蓮正宗大石寺)の教義を守ること
三、三宝(仏・法・僧)を守ること
の三原則を守ると約束しました。そして、東京都知事より宗教法人の認証を受けたのです。
この時の「創価学会規則」には「この法人(創価学会)は、日蓮大聖人御建立の本門戒壇(かいだん)の大御本尊を本尊とし、日蓮正宗の教義に基づき…」とあり、総本山大石寺に厳護する本門戒壇の大御本尊を信仰の根本とし、日蓮正宗の教義に基づいて信仰する団体であることが明記されていました。これが、創価学会設立の目的です。
創価学会の本来の使命
牧口 常三郎氏 「大善生活が、いかにして吾々の如(ごと)きものに百発百中の法則として実証されるに到ったか。それには、仏教の極意たる妙法の日蓮正宗大石寺にのみ正しく伝はる唯一の秘法があることを知らねばならぬ」
戸田 城聖氏 「日蓮大聖人様から六百余年、法灯(ほうとう)連綿(れんめん)と正しくつづいた宗教が日蓮正宗である」「私たちは無知な人々をみちびく車屋である。迷っている人があれば、車に乗せて大御本尊様の御もとへ案内していくのが、学会の唯一の使命である」
池田 大作第三代会長 「わが創価学会は、日蓮正宗の信者の団体であります。したがって、私どもは、大御本尊様にお仕え申し上げ、御法主上人猊下に御奉公申し上げることが、学会の根本精神であると信じます」
日蓮正宗の教義に背反した創価学会
平成二年以降、創価学会は本来の使命と目的から大きく逸脱して、御法主上人および日蓮正宗をあらゆる手段を用いて攻撃し、本宗伝統の血脈(けちみゃく)相伝による下種仏法、化儀化法、信仰にも著しく背反したのです。
日蓮正宗は創価学会に対して再三にわたり教導しましたが、創価学会はこれを無視し、一片の反省懺悔もないまま、ますます誹謗(ひぼう)・攻撃を加えたため、平成3年11月に日蓮正宗から破門されました。
これによって創価学会は、日蓮大聖人の仏法から離れ、日蓮正宗の信徒団体ではなくなってしまいました。したがって、正法の血脈も流れ通わなくなり、御本尊の功徳も顕れなくなったのです。
このような創価学会に所属するかぎり、成仏は絶対にできません。自身や家族の成仏のため、人生に悔いを残さないためにも、日蓮正宗寺院に詣でて僧侶の話を聞き、一日も早く日蓮正宗信徒となって、清々しく総本山大石寺に登山いたしましょう。 
創価学会 2 創価学会の功罪
創価学会は、どのようにして誕生したのか?
初代会長・牧口常三郎氏は、昭和3年、日蓮正宗の法華講員であり常在寺信徒であった三谷素啓氏によって折伏され、日蓮正宗に入信しました。その後、のちの第2代会長・戸田城聖氏も牧口氏のすすめにより三谷氏に会って折伏され、入信したのです。
このように、創価学会(創価教育学会)の生みの親である牧口初代会長、戦後、創価学会を立て直し組織を大発展させた戸田第2代会長はともに、日蓮正宗の法華講員から折伏されて日蓮大聖人の仏法に帰依することができたのであり、創価学会は、日蓮正宗法華講がなければ、決して生まれることはなかったといっても過言ではないのです。
宗門の発展につくした創価学会
創価学会が、過去に日蓮正宗や総本山に尽くしてきたことは、日蓮大聖人の正しい仏法を外護する信徒団体として至極(しごく)当然のことであり、学会および全世界の創価学会員が、これまで日蓮正宗の発展のために多大な貢献をしてきたことを否定するものではありません。
実際に、日蓮正宗の僧侶は、組織にあっては育成や折伏に奔走(ほんそう)し、地元の日蓮正宗寺院に対しては、誠心誠意、運営に協力していた、学会壮年部、婦人部、青年部などの方々の信心に対して感謝こそすれ、学会員の広布への貢献を否定する者はひとりもいませんでした。
しかし、日蓮正宗は750年にわたって、本門戒壇の大御本尊の御威光のもと、御歴代上人による赤誠の御尽力により、今日まで日蓮大聖人の正しい仏法を護ってきたのであり、その日蓮正宗の尊い歴史があったからこそ、創価学会も繁栄でき、創価学会員の成仏も可能だったのす。
こうした大御本尊の功徳と、750年の宗門の歴史を蔑(ないがし)ろにして、「創価学会が日蓮正宗を大きくしてやった」などと主張することは、増上慢(ぞうじょうまん)の極み、恩知らずもは甚だしいというべきです。

現在、創価学会では「日顕上人や宗門が、創価学会の発展を妬(ねた)んで破門にした」などと吹聴していますが、「ともに広宣流布に向かって一致して歩む同志」と信じて疑わなかった創価学会の活動を、日蓮正宗がどうして妬む必要などありましょうか。そんなくだらない理由で、信心の尊い同志と信じていた学会組織を破門にするはずはないのです。
日蓮正宗にとって、もっとも大切なことは、日蓮大聖人の正法正義を守り抜き、謗法(ほうぼう)厳戒(げんかい)の精神を未来永劫に伝持していくことです。
 平成2年以降、創価学会が日蓮大聖人の正法から少しづつ逸脱(いつだつ)し、さまざまな過ちを犯したとき、日蓮正宗は毅然(きぜん)として、その過ちを指摘し、創価学会が正しい仏法の道を歩むよう説得しました。しかし、創価学会側は「宗門僧侶が言っていることは時代にそぐわない」「坊主は、黙って葬式をしていればいい」などとして、日蓮正宗による指導(しどう)を拒絶(きょぜつ)したため、日蓮正宗は断腸(だんちょう)の思いで創価学会を破門にしたのです。
 多くの創価学会員が、すべてをなげうって、広宣流布達成に向かって日蓮正宗に尽くしてきた功績を踏みにじり、あろうことか信仰の根源である御本尊を交換させ、日蓮大聖人の仏法の功徳まで奪い取っているのは、むしろ創価学会の方なのです。
それこそ、創価学会・池田氏の愚かな行為は、「御法主上人の威厳には、到底、かなわない」「本門戒壇の大御本尊は、未来永遠にわたって創価学会が手に入れることはできない」という日蓮正宗の絶対性に対する嫉妬を基とする以外の、なにものでもないといえましょう。
創価学会の現状〜三宝破壊の大謗法団体へ〜
かの聖徳太子は「篤(あつ)く三宝をうやまえ」と語ったとされています。
仏の教えを信ずる者は、いかなる者であっても、まずなによりも三宝、すなわち仏宝、法宝、僧宝の三つを敬うことが一番大切な修行です。
  日蓮大聖人の仏法においては、
  仏宝=久遠元初のご本仏・日蓮大聖人
  法宝=本門戒壇の大御本尊(総本山大石寺奉安堂に安置されている大御本尊)
僧宝=仏である日蓮大聖人より直接、仏法のすべてを授けられた日興上人を随一とし、第三祖日目上人以下現代に至るまで、大御本尊と大聖人の教えを正しく受け継がれている歴代の御法主上人です。
現在の創価学会では、
一、末法有縁のご本仏であられる日蓮大聖人を、信仰の根源である本門戒壇の大御本尊を建立された第一の法華経の行者と崇めるものの、法華経の功徳を世界中の人々に広めたのは池田大作であると規定し、池田大作は「第二の法華経の行者」であって、日蓮大聖人を「越えた」と讃えているのです。よって、末法万年の本仏であられる日蓮大聖人を「過去の仏」として排除する現今の創価学会は、仏宝破壊の謗法を犯しています。
二、池田大作は「曼荼羅(まんだら)っていっても、いつかはなくなっちゃう、物体だから」(趣旨)と指導し、「御本尊はどれも同じ」「物質としての御本尊にはこだわらない」「我等が心の中に御本尊がまします」などとして大御本尊の絶対性を否定しました。よって創価学会は、法宝破壊の謗法を犯したといえます。
三、創価学会では機関紙などを通して、日興上人以下、日蓮大聖人の仏法を正しく受け継がれる歴代の御法主上人(代々の大石寺住職)の悪口を言いふらしています。これは批判の定義を大きく逸脱(いつだつ)した御法主上人個人に対する人格攻撃以外のなにものでもありません。こうした姿は僧宝破壊そのものであり、謗法行為と断定できます。
よって、現在の創価学会は、仏法の一番大切な三宝を破壊する大謗法(ほうぼう)集団と言えるのです。  
 
真如苑 

 

真如苑
本尊に迷走する真如苑
昭和10年の不動明王に始まり、昭和32年には寝釈迦像、さらに昭和54年には十一面観音を加えて、「衆生の化導法(けどうほう)が整った(=三輪身満足)」などと主張した伊藤真乗ですが、それでは衆生の化導法が整う以前の信者たちというのは「救済されなかった」ということになります。その時々の思いつきで本尊を追加したりするから、こういうワケの分からないことになるのです。
信仰の根本である本尊がこの有り様では、どんなにもっともらしい理屈をこじつけても、ご都合主義の批判は免れません。
また、真如苑が依経(えきょう=よりどころの教典)としている『涅槃経』には、釈迦如来が久遠常住(くおんじょうじゅう)であるとか、不動明王やら十一面観音を本尊に立てて拝めなどとはいっさい説かれていません。やはりこれも伊藤真乗の勝手な思いつきであり、涅槃経の経旨(きょうし)にも背(そむ)くものです。
「霊能」は仏教とは無縁の外道義
真如苑では、「誰もが仏性を有し霊能を具(そな)えている」と定義し、その霊能を開発し霊位を向上させることを勧めています。
「一切衆生・悉有仏性(いっさいしゅじょう・しつうぶっしょう)」というのは「すべての人にはことごとく仏性(仏界)が有る」ということですが、この「仏性」と「霊能」は何の関係もありません。
仏法が説かれた目的は、すべての人々を成仏に導くことです。成仏とはもちろん死ぬことではなく、「成」とは「開く」の義であり、我が身そのままに仏界(仏性)を開くことを「成仏」というのです。そこには、霊能などという意味不明のいかがわしいモノはまるで関係ないのです。
教団の言う「常楽我浄(じょうらくがじょう)の歓喜の境涯」というのは、仏法ではこの成仏の境涯のことを指すのであり、霊能力を高めるだの霊位を向上させるだの、そういう馬鹿げたモノといっしょにされては困ります。
また教団では、霊能者の霊言を聞いたり指導を受ける「接心」なる修行がありますが、そもそも霊能などは、仏教とは何の関係もない外道(げどう)です。このようなモノには何も意味が無いどころか、逆にこのような妄言に悪影響を受けて人生が狂う例はいくらでもあります。
そもそもが、真如苑の霊能者にはマニュアルがあり、これにしたがって「霊言を述べている」ということなので、外道の霊言ですらないのです。こんなモノに耳を傾けるだけ損をします。
霊界だの霊魂だのは仏教ではない
真如苑では、「霊界にいる先祖の霊魂が苦しんでいるので、その霊のタタリで現在が良くない。これを除くために、真如苑で護摩や施餓鬼(せがき)の供養をするように」などと勧めています。
しかし、仏教では「死んだ後も、個々人の我(が)が霊魂として永遠不滅に存続する」というような説を「常見(じょうけん)」と呼び、これを否定しています。仏教では死後の生命は法界にあって前世の因果を感じながら、縁にあってまた生じると説き、因果を無視した「霊界」や「霊魂」の存在を否定しています。
霊魂「のようなもの」というのは確かにありますが、それはこの因縁の大原理によって変相流転する生命の一面をかいま見たに過ぎません。訳の分からない霊能者やら邪宗の坊さんやらが、テレビ等で好き勝手なことを言ったりしてますが、あれは実は仏教とは何の関係もない外道義なのです。
ましてや「真如霊界」などというものは、もちろん仏教典のどこにも説かれていない、真如苑が勝手に作り出した創作世界に過ぎず、何の根拠もない荒唐無稽なものです。 ついでに言えば「両童子様」などというものも、伊藤が若死にした息子のことを言いつくろうために創作した存在であり、それが信者を利益するなど、何の根拠もないデタラメです。
仏教では、個々の行為に因果の理を説くものであって、善悪の因の果報は、他人が身代わりになって受けることなどできません。つまり、この因果を無視した「抜苦代受」などは、仏教とは何の縁もない外道の邪説です。
霊界だの霊魂だのを持ち出すのは、その教団に幼稚な教義しかない証拠です。これは要するに、タタリだ何だと何も知らない信者を脅(おど)し、護摩や施餓鬼で信者から金を巻き上げたいだけのことです。
涅槃経(ねはんぎょう)を教典とする誤り
真如苑では、『大般(だいはつ)涅槃経』を釈尊の究極の教えであるとして、これを依経(えきょう=よりどころの教典)としています。
涅槃経という経は、8年間にわたって法華三部経(法華経の開経である『無量義経』、真実の経である『法華経』、結経である『観普賢菩薩行法経』)を説かれたのち、入滅に臨んで一日一夜で説かれたものです。
この経は、法華経の会座(えざ)より退去した5000人もの増上慢(ぞうじょうまん)の衆生、および釈尊一代50年の教化に漏れ、成仏できなかった人々のために説かれました。『涅槃経』の菩薩品には、「法華の中の八千の声聞(しょうもん)の記別を授かる事を得て大果実を成ずるが如きは、秋収冬蔵して、さらに所作なきがごとし」と説かれています。
すなわち、法華経がすべての人々を成仏させることを秋の収穫に譬(たと)えるのに対して、涅槃経はその後の落ち穂(おちぼ)拾いに譬えられているのであり、涅槃経そのものに「法華経こそが釈尊究極の教えである」と位置づけられているのです。
また、涅槃経には方便教の内容も重ねて説かれており、純然たる円教(えんぎょう)である法華経と比べれば、はるかに劣る教えに分類されるのです。
したがって、涅槃経を究極の教えであるとする真如苑は完全な誤りです。
真言宗の教義からも逸脱した愚迷
真如苑は、自分たちのことを「伝統仏教である」「真言密教である」と言い、真言宗醍醐派(醍醐寺)との密接なつながりを楯にして、「われわれは新興宗教ではない」と主張しています。しかし真如苑の教義等は、本来の真言密教とも全く違う、伊藤教祖の創作教義でしかありません。
なぜ涅槃経を依経とするのか / 前述のとおり、真如苑では『涅槃経』を依経としています。しかし真言宗といえば、『大日経』『金剛頂経』等の真言密教経典を用いるのが普通です。真言密教と涅槃経は、何の関係もありません。真如苑も、まこと教団と名乗っていた当時は、これら真言密教経典を使っていました。にもかかわらず、突如として「涅槃経は素晴らしい経典である」と、涅槃経を採用したのです。立教の日から、何と15年以上経過してのちのことです。これは、単なる伊藤教祖の思いつきでしかありません。伝統仏教の場合、まず拠り所となる経典(教え)があって、それによって宗旨が成立しますが、新興宗教の場合はまず教祖がいて、あとから教えが形成されていきます。真如苑もその典型です。
釈尊涅槃像を祀る不可解 / 真言宗という宗派は、釈尊を「迷いの位」とし、「大日如来の草履取りにも劣る」存在であると侮蔑(ぶべつ)します。そして大日如来を最高の仏として祀(まつ)ります。これが本来の真言宗です。にもかかわらず真如苑は、寝釈迦像を本尊として祀っています。こんなことは、真言宗の世界ではあり得ないことで、完全にその教義から逸脱しています。
醍醐寺からの系譜 / 真如苑では、醍醐寺から以下の系譜をもらったと自慢しています。久遠常住釈迦牟尼如来→法身大日如来→普賢菩薩→龍猛→龍智→金剛智→不空→恵果→空海→聖宝理源大使→佐伯恵眼→金剛真乗(伊藤真乗教祖)→伊藤真砂子(真聡) ここでも、大日如来の前に「釈迦牟尼如来(しゃかむににょらい)」がありますが、これも真言宗としては異常です。本来、真言宗で言う「付法の八祖」には、久遠常住釈迦牟尼如来などはありません。大日如来を最高の仏とするのが真言宗ですから、一番は当然ながら「大日如来」です。そして次が金剛菩薩となり、そして空海までで「八祖」となります。そもそも真言宗醍醐派というのは、高野山真言宗の他に古義・新義合わせて8派あるうちの一派に過ぎません。真如苑はこの系譜を「醍醐寺から正式に受けた」と得意満面ですが、こんな系譜は真言宗全体から見れば、単なる「余流の一つ」でしかありません。ましてや「真如密」などとは、論外中の論外です。真言宗全体では、まるで相手にされていない存在・・・それが真如苑です。このように、真如苑は自分たちを「真言密教である」等々とうそぶいていますが、実は真言宗の教義からも大きく逸脱した、まったく異質な存在なのです。そもそも真言宗自体が邪法であるのに、そこからさらに脱線してデタラメにウソを重ねる真如苑は、まぎれもない邪義・邪宗です。
伊藤真乗の本音
伊藤真乗は、次女(昭和44年に発生した教団内の利権争いにより教団を離脱)に対して常々、「貧乏人は創価学会へ行け。中流は立正佼成会。金持ちだけが真如苑に来ればいいんだ」と語っていたそうです。
 
阿含宗 

 

阿含宗
どこまでも詐欺師
桐山靖雄は、そもそもが詐欺師出身者です。その罪状は以下の通り。
1.詐欺、契約違反容疑(昭和20年)
2.手形詐欺容疑(同上)
3.酒税法違反(にせビール製造販売)
4.私文書偽造容疑(昭和28年)
これらの犯罪を、本当に心の底から反省したのなら大変結構なことですが、桐山はそうではありません。教祖となってからも、手品のトリックで世間と信者を欺(あざむ)き、いかにも自分は修行を積んだ超能力者であるかのごとく偽っているのです。その一例を見てみましょう。
○1 しっかり封をした、信者からの「御伺い書(質問書)」を、開封せずに超能力で透視して「御霊諭(返答)」を下す。これは、御伺い書の袋をアルコールにひたして中の文字を読み、アルコールはすぐに乾くのでもと通りになり、開封しなくても読むことができる、というだけのトリックでした。塚田康人という人が、この手品を桐山に教えたのだそうです。
○2 護摩壇(ごまだん)に点火する際、火を使わず、桐山の念力で発火・点火させる「念力護摩」これは、「無水クロム酸」という発火剤を使ったトリックです。奉書紙に道教の呪符(じゅふ)と梵字を書いたものを護摩壇の中央の炉の上に置くのですが、この梵字を発火剤で書いておくのです。ここに、散杖(さんじょう・護摩で使う道具)で水をかけると発火する、という仕組みです。つまり、いかにも桐山の念力で点火したように見える奇跡は、無水クロム酸と水による化学反応だったのです。以上のように、桐山はどこまでも不純な「宗教詐欺師」と呼ぶべきです。過去の犯罪に対する真摯(しんし)な反省など、この教祖には微塵もありません。
まともに決まっていなかった本尊・教義・修行
「教団を立てるとしたら、本尊の仏を決めなければならないが、それは、生身の釈迦とされる仏舎利以外あり得ない」
桐山靖雄はこう言いながら、準胝観音を本尊にしました。また教義・修行についても、「立宗時に、ある程度の教義が樹立されていたが、それが完成し、修行法までできあがるのには『熟成』の期間が必要である」とも言っています。実際、昭和53年の立宗以後、8年もたってから本尊を「真正仏舎利」に突如として変更し、それと同時に修行を「準胝尊・因縁解脱千座行」から「仏舎利宝珠尊・解脱宝生行」に変更しています。
すなわち阿含宗は、立宗時に本尊・教義・修行がまともに決まっていなかったという、実に珍妙な教団なのです。
理由なき本尊変更
前述の通り、阿含宗の本尊は「大白身如来最勝金剛仏母準胝観世音大菩薩」「三身即一の如来」「真正仏舎利」等と移り変わってきました。
しかし教団の依経である『阿含経』には、これらを本尊にしろなどとは書かれていませんし、これらの本尊には法義上の一貫性がまるでありません。靖雄は、「やたらに本尊や教義を変えるものではない」という質問に対して、「彼らは『なぜそうしたか』という理由など全然、知ろうとせず、ただ、本尊や教義は変えるものではないと、一方的に攻撃するのである」などと答えておきながら、その後、その「理由」なるものについて一切説明していません。実際に単なる思いつきで変更してきたのですから、理由などあるはずもなく、開き直るしかないというのが正直なところでしょう。
たまたま手に入った「真正仏舎利」
靖雄は「真正仏舎利」について、「これこそが真実の仏であり、仏教徒の総本尊である」などと言い放っております。
しかしこの真正仏舎利、実はたまたま入手できたに過ぎないのです。その経緯については靖雄自身が、「日本の某教団が舎利を受けることになり、その分骨式をスリランカの国家的行事として行ったが、相手の不都合により贈与が中止となった。しかし国家的に分骨式を行った手前、これまで仏舎利を持っていた寺院に戻すことはできず、急きょ、阿含宗に贈与されることになった」と言っています。
その「たまたま手に入った仏舎利」を、即座に教団の本尊にしてしまうデタラメさには驚ろかされます。実にいい加減な教団です。
オカルト教義で人心を惑わす
阿含宗では、「人間が不幸になる悪因縁(あくいんねん)は、執着や執念のために成仏できない<不成仏霊>、そのなかでも特に怨念の強い<霊障のホトケ>によって引き起こされる」などと主張しています。
不成仏霊のタタリだの怨念だの霊障だの、まるでオカルトそのものです。
しかし、仏教では「死んだ後も、個々人の我(が)が霊魂として永遠不滅に存続する」というような説を「常見(じょうけん)」と呼び、これを否定しています。訳の分からない霊能者やら邪宗の坊さんやらが、テレビ等で好き勝手なことを言ったりしてますが、あれは仏教とは何の関係もないオカルトであり、外道義なのです。
死んだ人々の霊魂にたたられ、今現在生きている私たちが不幸になるなどという邪説は、仏教には一切説かれていません。世間の人々の迷信的で漠然とした生命観・生死観につけ込んで、デタラメな教義をさも仏法であるかのごとく垂れ流し、信者から金を巻き上げるのが桐山靖雄の手口であると言えます。
また「求聞持聡明法(ぐもんじそうめいほう)」なる修行法によって超能力を与え、仏の悟りを得るなどと言っていますが、これも単なるオカルトです。超能力を得るということと、仏の悟りを得ることに、何の関係があるのでしょうか。超能力などというものは、仏教で説く「成仏」とは何ら関係ありません。
『阿含経』に即身成仏なし
靖雄は「自分の持つすべての悪い因縁(条件)をすべて無くしてしまった人を『仏』という」などと好き勝手な成仏論を主張しています。
しかし教団が依経としている小乗教の『阿含経』には、靖雄が言うような現世の成仏(即身成仏)などはまったく説かれていません。
 
金光教 

 

金光教
本尊は、あるのかないのか
この教団にはまともな教義らしきものがほとんど無く、したがって本尊についても、正直なところ明確な対象が定まっていません。
一応は、「天地書附(てんちかきつけ)」なるものを拝みますが、これも実際には本尊というよりは、拝む「目当て」ぐらいにしか考えていないようです。もともとが、信仰の対象として「絶対なる本尊が必要である」という教えがないからです。
信徒必携の『金光教の信心』には、「親神のご神徳は天地宇宙に満ちあふれているから、どちらを向いて拝んでも神に心は届く」「しかし、神を拝むには目当てがないと拝みにくい。柱でも、壁でも、生木でも、ここを御神体じゃと定めて拝めばよいのである」などと書かれています。
要するに金光教というのは、原始宗教的な自然崇拝・庶物信仰に近い、低級な宗教であることが明白です。
教義は、あるのかないのか
金光教は、立教から140年以上たっています。しかしこの教団が教典らしきものを作ったのは昭和58年、「教祖100年祭」に至ってようやく、です。
要するに、この教団には教義と呼べるようなものは存在しないのです。すべては取次による神の言葉「お知らせ」がすべてであり絶対で、日常生活のすべてを神の命ずるままに行動せよと教えているだけです。
その神というものも、もともとは単なる俗信上の祟り神だった「金神(こんじん)」を、立教15年にしてやっと「天地金乃神(てんちかねのかみ)」なる名称に決定し、しかもいつの間にか「全人類を救う神」に勝手に昇格させたものです。この金光教の主張にはまったく一貫性がなく、こんないい加減なものを信じてどうなるのでしょうか。 それに、その「取次」というのも、またいい加減で、「教祖がある時『お神酒をつけて接(つ)げば、割れた茶碗でも接げる』と言った。ある人が『それでは、私もいたしましょうか』と伺うと、教祖は『それでは茶碗接ぎの仕事がなくなって、飢えてしまう』と答えた」(教典) などという馬鹿馬鹿しいものです。所詮は人間の単なる思いつきの言葉でしかなく、こんなものに日常生活のすべてをゆだねても、誰も幸せになどなれません。
神がかりは精神分裂と同じ
金光教や大本など、新興宗教に多く見られる「神がかり信仰」ですが、この「神がかり」というのは何なのでしょうか。
精神医学では、この神がかりというものを「憑依妄想(ひょういもうそう)」と呼び、人間の主体性が失われて起こる「精神分裂病の一種」としています。
もし皆さんの家族がこのような状態になって「私は神のお告げを受けた」などと口走ったら、どう思いますか? 普通は「早く病院に連れて行かなきゃ」と大騒ぎになるでしょう。「神のお告げを受けたとは、何と素晴らしいことでしょう」などと信じる方がどうかしているわけです。
 
霊波之光教会

 

霊波之光教会 1
神がかり教祖
教祖・善雄は、苦行の果てに神の声を聞いたということになっていますが、これはいわゆる「神がかり」状態です。
精神医学では、この神がかりというものを「憑依妄想(ひょういもうそう)」と呼び、人間の主体性が失われて起こる「精神分裂病の一種」としています。善雄の場合、3週間も座禅を組み、そのあとに山頂に登るなどという苦行で極限状態になって、この憑依妄想になってしまったわけです。
このような精神錯乱・精神分裂の妄想が出発点となっている宗教など、まともに信ずるに値(あたい)しませんし、誰もこれで救われることなどありません。
安易な「病気治し宗教」
「病気治し」は新興宗教に多く見られる宣伝文句ですが、まさにこの教団も、病気という人の弱みにつけ込んで勢力を拡大しようという邪宗そのものです。
そもそも善雄の病気治しの手法は、当初は密教的な「九字を切る」というようなものであったのが、突如として「光(霊波)が体内に吸い込まれた」などと言いだして、善雄の霊波によって病気を治すというものに変わりました。
病気治しという、教団の中心的儀礼を簡単に、何の脈絡もなく変更するところが実に一貫性がなく、場当たり的です。
しかもこの教団は、特に教義と呼べるほどのものが無く、ただ「御守護神様におすがりすればどんな病気も治る」などと、安直に奇跡信仰を売り物にしています。
物事には、すべからく「原因」があって「結果」が生じます。この当たり前の道理を無視したものが「奇跡」というもので、原因のないところにいきなり結果が生じるという、実に非常識な、子供だましの俗信的発想です。人が正しく生きるためには、当たり前の道理を無視するような、幼稚な信仰は不要です。
教祖は「ただの人間」
教祖・善雄は当初、神仏に救いを求めて五剣山で座禅を組んでいました。しかし仏教の座禅を組んでいながらその後、神から天啓を受けたなどと言うこと自体、神と仏というものに関する概念の混乱があります。まるっきり素人の迷妄(めいもう)で、この出発点からすでにおかしいのです。
また教団では「大宇宙神」を根本にしているはずなのに、礼拝堂には「地球儀の上に立つ波瀬善雄」が祀られています。
波瀬善雄は、単なる悩み多き一人の人間であり、しかも病気治しを売り物にしている教団の教祖でありながら、善雄自身が心筋梗塞で急死しています。つまり、自分の身の上にすら奇跡の力を示すことのできなかったただの凡人であり、そのような者にすがりついて必死に拝んでも、何の利益(りやく)も無いばかりか、愚かな結果を招くことになります。
怠慢(たいまん)な神
教団では「神はエネルギーであり、直接人間に働きかけられないため、そこに人間と神をつなぐ媒介者が必要であり、それを通して働く神通力が<霊波>であり、その媒介者が教主・善雄である」などと主張しています。
それでは、教主出現以前には媒介者がいなかったのでしょうか? また教主以前の人類は理罪に苦しんでいたとも言っていますので、それまで大宇宙神は人類を救おうとしなかったことになり、実に怠慢で無慈悲な神様であると言えます。このような神様が、果たして人類の救済など本当にできると思いますか? 望むべくもありません。
脱臭剤みたいな信仰対象物
信者が各家庭に祀る「御神体御札」。何とこれ、有効期限が1年間です。
これはもう、毎年々々信者に買い換えさせて、お金儲けをしようという発想でしかありません。この御札を通して代々の教主につながるだの、守護神から霊波が送られるだのと偉そうなことを言ってみても、この御神体は結局、脱臭剤やなんかと同じ次元のシロモノということになります。信者を馬鹿にするのもたいがいにすべきでしょう。
無知蒙昧(むちもうまい)な霊魂説
教団では、「生前の汚れによって迷っている多くの人々の霊魂が、生きている人に病気などの不幸をもたらす」などと説いています。
何度でも書きますが、物事にはすべからく「原因」があって「結果」が生じます。霊魂が生きている人に不幸をもたらすなどというのは、因果をわきまえない俗信・妄説でしかありません。世間の人々の曖昧(あいまい)な死生観・生命観につけ込んで、こういう馬鹿なことを教え込もうとする教祖はたくさんいますが、相手にしないことです。
「浄願祈願御札」等は単なる演出
信者たちは、先祖の霊魂浄化や特別祈願で、「浄願祈願御札」や「生命札」を教団本部内の生命橋から聖神之池に流します。生命札には氏名が書かれますが、これによって悪因縁を切ったり、低級霊を除霊できるなどと信じられています。
しかしこれは、いわば「流し雛(びな)」みたいなもので、単なる気休めでしかありません。それに教団内の生命橋は昭和44年に造られたものなのですから、それ以前はどうやって悪因縁を切れたのでしょうか?
霊波之光教会 2
霊波之光教会では、安易な奇跡を売り物にしています!
「おぼれる者は、藁をもつかむ」といいますが、霊波之光教会は、病気という人の弱みにつけ込み、自分たちの勢力を拡大しようとする宗教詐欺的集団です。
病気なおしの方法は、最初は「密教的」な「九字を切る」というものでした。しかし、いつの間にか、波瀬善雄(教祖)自身の霊波(光)によって、悩める人々の病気を治癒するという形に変更されています。「病気なおし」こそ教団の中心的な儀礼であるというのに、その中心的儀礼が、状況によって変更されることからいっても、教団の教えや主張には一貫性はなく、場当たり的と批判されても仕方ありません。
霊波之光教会には、そもそも教義らしい教義もなく、ただ「御守護神様に、おすがりすれば、どんな病気も治る」と安直に奇跡を売り物にしているだけです。病気が平癒する因果関係については、まったく教義には説かれていないのです。
教祖「波瀬善雄」は、普通の凡夫にすぎません
義雄当初、神仏に救いを求めて四国の五剣山で座禅を行ないました。そもそも小堂で仏教の座禅を組み、そのあと、神様から天啓を受けたなどということ自体、仏教と神道との教えの違いを理解していないことの表われと言えましょう。
また霊波之光教会では、大宇宙神を根本としているはずなのに、「礼拝堂」には「地球儀の上に立った義雄の像」を祀っており、悩み多い普通の凡夫である義雄を拝むという矛盾もかかえています。
教祖の天啓と世襲制の矛盾
霊波之光教会では、教祖・義雄の跡継ぎとして、その長男・教詞が第二代となり、さらに三代目には、教詞の長男である敬仁に内定しているといいます。
教団内部で語れられるように、義雄が自身の病をきっかけに、各地の霊山を修行して歩き、やっとの思いで悟りを開いたのだとすれば、二代目・三代目は、どのような修行を通じて悟りを開いたというのでしょうか。代々の教主を、守護神・義雄が見守っているといいますが、それは、裏を返せば、身内と信者を分類し、死んだ義雄は信者は信者として扱い、自分の子供や孫には、特別扱いをして強烈に見守っているということになるではありませんか。こうしたことから見ても、義雄の教えは、身内の権利を守る、身内に宗教財産を特別に残していくという偏り、人間としてのあさましい強欲に包まれたものと言えるのです。
初代教祖・義雄が、神と人間をつなぐ媒介者であるという邪教
神はエネルギーであり、直接人間に働きかけられないため、そこに神と人間とをつなぐ媒介者が必要となり、それを通して働く神通力が霊波であり、その媒介者が、波瀬一家であるというのが、霊波之光教会の教えの骨格です。
教団では、「人類の親たる宇宙神から霊波を受けるには媒介者がなければ、受けられない」と説明していますが、それでは、教主・義雄が生まれてくる前には、神の力を受け取る媒介者はいったい誰だったというのでしょうか。また、教主以前の人類は、理罪に苦しんでいたといいますが、それまで大宇宙神は、まったく人類を救おうとはしなかったということであり、無慈悲といわなければなりません。人々が理罪を受けることは大宇宙神の罪というべきであり、こうした不安定・不確定な神が、本当に人類を救えるというのでしょうか。はなはだ疑問です。
消費期限付きのお礼
霊波之光教会の信者は、各家庭の神棚に「御神体御礼」を通して代々お教主とつながり、守護神からの霊波が送られてくるといいます。しかし、これは、御礼を購入させるための口実に過ぎません。しかもその御礼は「有効期限が一年間」とされているのです。まさに彼らの「浄く尊いお礼」は脱臭剤や乾電池などと同じ期限付きの品物であると、教団みずから告白しているようなものなのです。
「浄霊祈願御礼」や「生命礼」は単なる、お飾りの品もの
信者たちは、先祖の霊魂浄化や特別の祈願をしたいときに、浄霊祈願御礼や生命礼(身代わり礼)を教団本部内の聖神之池に流すという儀式を行ないます。生命礼には氏名が書かれますが、これによって悪い因縁を切ったり、低級霊を除去できる信じられていますが、これらは、「流し雛」や「みそぎ払い」を真似しただけのことで、単なる気休めに過ぎません。また生命橋ができる前は、どうすれば悪い因縁を切ることができたのか。結局、橋から礼を流して、信者に有り難がらせる演出をしているに過ぎないといえましょう。 
 
幸福の科学

 

幸福の科学
デタラメ霊言と、妄説・珍説の山
隆法の「霊言集」には、キリスト、釈尊、孔子、モーゼ、ノストラダムス、ニュートン、天照大神、親鸞(しんらん)、道元、出口王仁三郎、高橋信次、そして日蓮大聖人・・・というように、洋の東西を問わず、大変な人数が無制限に利用されています。
しかし表紙の名前を変えても中身は皆同じ。どこまでも大川隆法の稚拙(ちせつ)な妄言の羅列でしかありません。単なる自説の著作が、どうしたら大勢の人の目にとまるかを考え、その宣伝に各宗の教祖等を利用しただけのことです。
実際、『新・幸福の科学入門』で隆法自身が、「別に霊言集で問わなくても、私が書いてもかまわないのですが・・・大川隆法の名前で文章を書き、発表しただけでは、世の人々はなかなか信じてくれません」と告白しているのです。では、その霊言・妄説のごく一部を潰してみます。
(1)釈尊
隆法は釈尊になりすまし、「諸々(もろもろ)の比丘(びく=僧)、比丘尼(びくに=尼僧)たちよ、我はここに再誕す。我が再誕を喜べ、我が再誕にきづけ」などと述べています。しかし釈尊は『法華経』において、自身の滅後、末法の時代に法華経を広める役目を、上行菩薩を上首とする地涌(じゆ)の菩薩に付嘱(ふぞく)されているのであり、自らがこの地上に再誕するなどとはどこにも説かれていません。隆法の妄言が真実だとすれば、この法華経の教説がウソということになります。法華経がウソなのか、隆法が誇大妄想なのかは論ずるまでもないでしょう。
(2)日蓮聖人
隆法は『日蓮聖人の霊言』のなかで、「相手の現状を千里眼と宿命通力(しゅくめいつうりき)で分析したあと、日蓮上人におうかがいを立て、霊言として解答を・・・」などと述べています。しかし日蓮大聖人は『唱法華題目抄』に、「魔にたぼらかされて通を現ずるか。但(ただ)し法門をもて邪正をたゞすべし。利根と通力とにはよるべからず」と御教示されており、この末法の時代に通力(神通力)などを売り物にするのは魔の所業であると断じておられるのです。信者その他が日蓮大聖人の御法門をまったく知らないのをいいことに、デタラメの言い放題です。隆法は魔の権化(ごんげ)です。
(3)天台大師の一念三千
隆法は『太陽の法』に、「いまから一千数百年前に、天台智覬(てんだいちぎ)が、中国の天台山で一念三千論を説いていたのですが、そのとき、霊天上界において、彼を指導していたのは、実はほかならぬこの私でした」などと述べています。さらに天台大師を指導したその内容とは、「思い→想い→念(おも)いとだんだんに力を得てくるおもいの力があるわけですが、…人の心には、念いの針というものがある。この念いの針は、一日のうちで、さまざまな方向を指し示し、揺れ動いて、とまるところを知らない。…人の念いの針は、すなわち、これ一念三千、あの世の天国地獄に、即座に通じてしまうのだ」というものだそうです。また『幸福瞑想法』には、「人間の思いの性質、念の性質、これがどこにでも通じるという性質のことを一念三千と言います。三千というのは、割り切れない数、すなわち、数多いという意味です」などという珍説を述べています。天台大師も大変な人に教わったものです。この一念三千について、日蓮大聖人は『一念三千法門』で、「十界(じっかい)の衆生(しゅじょう)各互ひに十界を具足す。合すれば百界なり。百界に各々十如を具すれば千如なり。此(こ)の千如是(せんにょぜ)に衆生世間・国土世間・五陰(ごおん)世間を具すれば三千なり」と御教示されています。すなわち十界互具(じっかいごぐ)・百界千如(ひゃっかいせんにょ)・三千世間と広がる心を持つ衆生の一念を、一心三観(いっしんさんがん)・一念三千というのです。この法華経の大切な教義も、大川隆法の手にかかるとこの通りです。あまりにも幼稚で、これで「自分は大乗の仏陀(ぶっだ)、エル・カンターレである」などと言うのですから、驚くべき低次元の教祖様であります。
(4)法華最第一を批判する「釈尊の再誕」
大川隆法の『黄金の法』では、「法華経至上主義についてですが、釈迦の教えは何百何千の法門があり、法華経のみが正しく、他の経典は真理を伝えていないという考えは、間違っております」などと、法華経が唯一真実の正法(しょうぼう)たることを否定しています。しかし、法華経の序分にあたる開経の『無量義経』には、「四十余年未顕真実(しじゅうよねんみけんしんじつ)」すなわち「四十余年には未(いま)だ真実を顕(あらわ)さず」と説かれ、これまで42年間にわたって説かれた膨大な経典は、真実を説いたものではないと説いているのです。また『法華経』の方便品(ほうべんぽん)には、「唯(ただ)一乗の法のみ有り 二無く亦(また)三無し」「正直に方便を捨てて 但(ただ)無上道(むじょうどう=最高の教え)を説く」と説かれ、さらに『法華経』の法師品(ほっしほん)には、「我が所説の諸経 而(しか)も此(こ)の経の中に於いて 法華最も第一なり」と説かれ、法華経こそが正しい教えであると宣言されているのです。 隆法は「釈尊の再誕」なのに、どうやらこれらの教説を知らないようです。もしや忘れてしまったのでしょうか? 再誕だというなら、ぜひ思い出してほしいものです。
要するに営利出版企業
教団の主な収入源は、隆法や教団発行の数多くの出版物です。隆法の著作本は毎回ベストセラーとなり、隆法自身はしょっちゅう高額納税者番付に登場しています。しかしこれは、教団や信者が一般書店から多部数買い取っているからベストセラーになるのです。しかも教団では、この書籍販売数を信者数として数えています。
隆法に、昭和56年に初めて霊言を送ってきたのが日興上人(にっこうしょうにん=日蓮正宗の第二祖上人。世間一般には馴染みのない御方)で、最初に出版された霊言集が『日蓮聖人の霊言』であったというのは、要するに作為的に、創価学会員にターゲットをしぼれば、内容はどうあれ売れると考えたからです。
実際、創価学会を脱会した元幹部が幸福の科学に入会し、教団幹部になっています。また隆法の父・忠義が関わっていた「GLA」や「生長の家」の信者からも入会者が多く、GLAの高橋信次の霊言集は16回、生長の家の谷口雅春の霊言集は4回も発刊されています。
しかも当初、教団では、隆法の本を10冊以上読まないと入会できないことになっていたなど、いかに出版物の販売に力を入れていたかが分かります。まさに、「別に霊言集で問わなくても、私が書いてもかまわないのですが・・・大川隆法の名前で文章を書き、発表しただけでは、世の人々はなかなか信じてくれません」という隆法の言葉そのままであり、この教団は、宗教の名を借りた営利出版企業と断ずるべきものです。
デタラメな予言
隆法は『黄金の法』の中で、西暦2000年の世界について、ノストラダムスの予言に基づき、「世界の人々は、前年の夏に起きた衝撃的な悪夢からまだ立ち直れないでいます」として、世界各地の状況を述べ、ニューヨークは機能をなくして壊滅的になっていると言い、日本も復旧作業が続けられている…などと、まことしやかに予言しています。
しかし実際、何も起こらなかったことは衆知(しゅうち)の事実です。
結局、隆法は予言者でも霊能者でもなく、ノストラダムスの尻馬に乗って落馬した凡人でしかありません。まさに、宗教利用の詐欺師と呼ぶべきでしょう。
次元の低い「二十次元論」
大川隆法は自分勝手な「二十次元論」なるものを主張しています。これは一般的な「線の一次元、平面の二次元、立体の三次元、立体に時間を加えた四次元」という数学的概念に、独自に「精神」「真理意識」「菩薩界」「慈悲」その他もろもろを継ぎ足して、「大宇宙の根本仏は二十次元以上の存在である」などというものです。
しかし、これは論理にすらなっておらず、四次元までの数学的な概念と、隆法が主張する五次元以降の世界観はまるで別世界の異物で、世間の常識から見ても荒唐無稽(こうとうむけい)な、木に竹を接(つ)いだような愚論です。
このように支離滅裂(しりめつれつ)なものが根本教義だというのですから、教団の底の浅さとデタラメさが知れるというものです。
無意味な「四正道」
教団では「四正道(よんしょうどう=愛・知・反省・発展の探求)」を説き、これを幸福になる基本原理であるなどと主張しています。
また、これらを釈尊の説いた「八正道(はっしょうどう)」になぞらえています。隆法は『太陽の法』で、「天台大師よ、八正道は、まさしくこの一念三千論を基礎として生まれたのである」などと好き勝手なことを述べていますが、仏教で説かれる八正道というのは、小乗教の四諦(したい)法門のうち、道諦(どうたい)における八種の修行法のことであり、実大乗教たる『法華経』の、天台の一念三千法門とは何の関係もない、方便大乗教よりもさらに劣る教えです。
しかも隆法の説く「四正道」は、キリスト教の博愛主義の枠を出ない道徳論レベルのものであり、仏教の中でも低い教えである小乗教にもおよばない、さらに仏教とは何の関係もない、根拠のない外道論です。
 
オウム真理教

 

オウム真理教
オウムの起こした凶悪事件
「善悪の判断ができなくなり、自身の不幸すら自覚できない」……これも邪宗教の害毒の一端です。オウム真理教の場合、LSDや覚醒剤まで使っての「洗脳」によってそれを極端な状態にし、数多くの凶悪事件を引き起こしました。
○在家信者・真島照之氏が富士山総本部で修行中に死亡。遺体を総本部で焼却(昭和63年9月)
○上記目撃者の信者・田口修二氏を殺害(平成元年2月)
○坂本堤弁護士一家殺害(平成元年11月)
○信者・落田耕太郎氏をリンチ殺害(平成6年1月)
○滝本太郎弁護士をサリン襲撃(平成6年5月)
○松本サリン事件(平成6年6月)
○信者・富田俊男氏をリンチ殺害(平成6年7月)
○「オウム真理教被害者の会」会長・永岡弘行氏をVXで襲撃(平成7年1月)
○目黒公証役場事務長・仮谷清志氏を拉致監禁、殺害(平成7年2月)
○地下鉄サリン事件。死者11名、重軽傷者約3,700名(平成7年3月)
○教団幹部・村井秀夫刺殺(平成7年4月)
こうして列記してみると、あらためてその「狂気」に驚かされます。
麻原とは、LSDや覚醒剤を使用した修行や独房修行等で信者を洗脳し、彼らに指示してサリンやVXガス、さらに自動小銃や爆薬まで製造させ、ハルマゲドンを自作自演して地下鉄サリン事件という最狂のテロ事件を起こした、忌むべき人物です。
現在、宗教団体アーレフでは、「オウム真理教の教義のうち、古代ヨーガ・原始仏教・大乗仏教を根本に、危険とされる教義は破棄して」などと言っています。
しかし彼らはいまだに麻原を「グル(絶対的指導者)」として信奉しているのであり、教団の看板を掛け替えただけであって、「オウム真理教」としての本質は何も変わっていないと見るべきです。
この教団は「邪宗教の害毒」が、組織体の犯罪として暴発した顕著な事例です。しかしこれは極端ではあるにせよ、自分たちの組織に敵対する勢力に対して、暴力・いやがらせ等の攻撃に出る新興宗教は珍しくありません。
オウム真理教を特殊な事例として片づけるのは間違いです。
シヴァ神
教団の主宰神であるシヴァ神について、麻原は「すべての意識の根本」「真理勝者が到達する最終的な段階」などと主張しています。
しかしそのような定義は、仏教にもヒンズー教にも存在しません。ヒンズー教では「破壊の神」であり、仏教では「迷いの境界(きょうがい)を出ることのできない天界の神の一つ」とされています。要するに、麻原が勝手に祭り上げているだけのもので、何の根拠もない主宰神なのです。
終末思想を混ぜる
麻原は原始仏教だヨーガだといいながら、ノストラダムスの予言だのハルマゲドンだの、自宗の教義とは何の関係もない外道義を声高に叫び、凶悪犯罪を犯しました。
こうした終末思想を持ち出すのはカルト教団の常でありますが、このようなものを無節操に混ぜて平気な顔をしていること自体、この教祖と教義がまるで一貫性のない、デタラメな存在であることを露呈しています。
もっとも、「原始仏典を土台として、それにチベット仏教を味付けし、そして密教的ヨーガを飾り付けた」という教義体系なわけですから、それ以外に何が混入しても不思議ではありませんが、デタラメもたいがいにすべきでしょう。
小乗教を修する愚かさ
教団で教える階層的世界観の中で、最高位にあるのが「マハー・ボディ・ニルヴァーナ(大到達真理完全煩悩破壊界)」というものだそうです。
そういえば以前、上祐史浩がテレビのインタビューに答えて、「大乗教は、現代の人間には高尚で困難だから、オウムでは信者に対して、小乗教の修行から教える」というような趣旨の発言をしていました。
これはとんでもない誤りです。
小乗教というのは「小さな乗り物」「小船」ということで、自分のみの救済を求める者に対して、方便(ほうべん)として説かれた経であり、「すべての人々を成仏に導く」という、仏教本来の目的とはかけ離れた低級な教えです。
対して大乗教というのは「大船」であり、自分とともに多くの人々の救済を願う菩薩(ぼさつ)のために説かれた教えであり、小乗教には説かれない深遠(じんのん)な法理が明かされています。したがって、小乗教と大乗教を相対した場合には、より優れた教えである大乗教を選択するのが正しいのであり、小乗門から入るというのは何の意味もないことです。実際、古代インドにおいて、すでに小乗教は大乗教に打ち破られて決着しているのです。
さて上記に「完全煩悩破壊」なる表現がありますが、これは「煩悩を断じ尽(つ)くして空(くう)に入ったところが悟りの境地」と教える、小乗教からの発想です。
しかし「煩悩を破壊」だの「煩悩を断尽(だんじん)」だのは、人間には絶対に不可能なことです。これはあくまでも仏教初門の方便であって、真実の教えではありません。どんなに頑張って煩悩を無くそうとしても、それは誰にもできないのです(もちろん、麻原も上祐もです)。
仏法の真実たる『法華経』においては、「煩悩を即(すなわ)ち菩提(ぼだい=悟り)と開く」のであり、煩悩を無くそうなどというものではありません。 
 
顕正会

 

冨士大石寺顕正会
「事の戒壇は国立戒壇」と執拗(しつよう)に主張することが間違いです。
「国立戒壇(こくりつかいだん)」という名前は、日蓮大聖人の御書には、一カ所も出てきません。つまり、日蓮大聖人は「国立戒壇」という言葉を使用されていないのです。そもそも「国立戒壇」という言葉は、国柱会(こくちゅうかい)の創始者・田中智学(たなか・ちがく)という他宗派の人物が造った言葉です。「国民のすべてが、日蓮大聖人の仏法を信ずる」という広宣流布の姿を説明しやすいことから、一時期、日蓮正宗の僧俗も使用した時期がありました。しかし、日蓮正宗の公式見解としては、「国立戒壇」という言葉は、過去の歴史の中で、一度も使用されたことはありません。
御法主日達上人は、昭和45年5月3日、以下のように御指南されています。
「明治時代には、国立戒壇(こくりつかいだん)という名称が一般の人に理解しやすかったので本宗も使用したが、もとより明治以前には、そういう名称はなかったのである。よって、いらぬ誤解(ごかい)を招(まね)いて布教の妨(さまた)げとならぬよう、今後は国立戒壇という名称は使用しないことにする」
「国立戒壇」という言葉を、日蓮正宗では使用しなくなったからといって、日蓮正宗の教えから、「広宣流布の実現」「破邪顕正」の精神が無くなった訳ではありません。ただ、もともと、日蓮大聖人の仏法では使われてこなかった「国立戒壇」という単語を、単純に使わなくなった、というだけのことです。
「広布以前は、本門戒壇の大御本尊まします処は、義の戒壇」との顕正会の見解は間違っています。
顕正会では、「三大秘法のうちの本門の戒壇は、広宣流布の暁に初めて建立されるものであり、それ以前に大御本尊が安置せられる場所は、その意義が本門事の戒壇に通じるだけであって、本門事の戒壇とはいえない。したがって、『大御本尊まします処は、いつ何時なりとも本門事の戒壇』とする大石寺の立場は大聖人に違背している」と主張しています。
しかし、総本山第26世日寛上人は、「一大秘法とは即ち本門の本尊なり。此の本尊所住の処を名づけて本門の戒壇と為し…」と示され、また『三大秘法之事』の講義においても、「在々処々本尊安置之処ハ、理の戒壇也」「富士山戒壇ノ御本尊御在所ハ事の戒也」と仰せられています。
顕正会員の皆さんが、日蓮大聖人、日興上人、日目上人と並んで、尊敬している日寛上人が、「本門戒壇の大御本尊がまします所は、そのまま事の戒壇である」と仰せられているのです。
さらに、総本山第60世日開上人も「戒壇堂に安置し奉る大御本尊、今現前に当山に在す事なれば、此の処即ち是れ本門事の戒壇、 真の霊山、事の寂光土」と御指南されています。
これらの御指南のとおり、日蓮正宗における「事の戒壇」の意義は、終始一貫しており、なんら疑義を差し挟(はさ)む余地はありません。
日蓮正宗では古来、本門戒壇の大御本尊ましますところが、そのまま事の戒壇とし、そのうえで将来、広宣流布が達成された暁に、根本道場として大御本尊を御安置申し上げる戒壇堂が建立されるものと教えられてきました。これが、正しい御遺命(ゆいめい)の「本門事の戒壇」の意義です。
顕正会の基本的な誤りは、大聖人の御書の意味を、自分勝手に、一方的に判断するところにあります。これは、仏法の大師匠である御法主上人のお言葉であっても、「自分たちの意見と違う場合は、御法主の方が間違っている」という本末転倒の姿勢に起因するものといえましょう。
浅井会長の予言は当たりませんでした。
浅井会長はしきりに、「このままだと大地震が起こる」とか「戦争が起こる」「北東アジアが攻めてくる」などと予言を連発していましたが、今まで一度として、それらの予言が的中したことはありません。「い・つ・も予言が・は・ず・れ・る・」のですから、当然、会員から会長に対する疑問が起こってきます。その批判をかわすため、その都度幹部たちが、「浅井先生の一念によって、災難が回避された」と話がスリ替えられるのです。こうした不誠実な態度は、新興宗教の教祖がよく使う手口です。みなさんも、「どこか、おかしいな」と思っているのではないでしょうか。「おかしい」と思うことは、どんどん声に出して、顕正会の組織なり、直属の幹部なりに向かって、疑問点を問いただしていくことが大切です。また、そのように声に出し、疑問点を解決しようとする振る舞いについては、幹部たちは口をそろえて「魔が入った」「信心がたりない」などと批判することでしょう。しかし、「真実を知りたい」と思う素直な気持ちをあきらめたり、「罰が出る」などという脅しに屈することなく、顕正会内部にいる人でも、堂々と疑問は口にしていくべきです。
顕正会の勧誘方法が、まちがっています。
顕正会の勧誘活動は、日蓮大聖人が説かれる折伏(しゃくぶく)ではありません。折伏とは、折伏相手の方の謗法の念慮を捨てさせ、本門戒壇の大御本尊に帰依させる行為であり、大御本尊をもたない創価学会や顕正会では、どんなに励んでみても、「三大秘法の南無妙法蓮華経を弘める」こと、つまり、広布につながる折伏とはならないのです。
「事の戒壇は天母山に建立すべきである」との説が間違いです。
顕正会が主張する「天母山(あんもやま)戒壇(かいだん)説」は、もともと、日蓮大聖人の御書には書かれていませんし、古来、富士大石寺には存在しない伝説です。「天母山戒壇論」は、大石寺が開創された後、100年ほどたってから、京都要法寺流から入ってきた伝説と言われています。これについて日達上人は以下のように述べられています。「後世、天母山という説が出てきました。しかし、もっと古い日興上人や日目上人や日時上人等にはその名前はない、全然ない。天母原(あもうがはら)もなかった。それが、日有上人の晩年の頃に、左京日教という京都要法寺の方の僧侶であった方が、この富士の方を非常に慕われて、又日有上人に御法門を聞いたりして、この富士を慕われたあげく、天母原(あもうがはら)ということを言った。天母原というのは小さなところではなく、「大きい広い」という意味をとっておる。富士の麓の広大なる原を天母原という理想の名前に依(よ)って、自分等の考えておった理想を表したと思われるのである。その方が本山に来た後に、初(はじ)めて天母原という名前が出てくるのである。天母山(あんもやま)というのは、のちには天母山も天母原も混同しておるようでございますけれども、「天母山に戒壇を建てよう」というのは、要法寺系の日辰という人がやはり来られて、この人は大石寺とはあまり付き合いはなかったが、北山本門寺の方へ主におって、そこから天母山へ行って、そこへ戒壇を建てようとした。即ち、戒壇堂でもその時は仏像(ぶつぞう)であり、釈尊の像を立てて、この向こうの岩本の実相寺あたりへ仁王門を建てよう(と、日辰が言った)。仁王門といえば仁王さんをお建てするのだから仏像となる。釈迦仏となる。そういう様な(日辰という僧の)理想であった。ところがその人が当時においてなかなかの学者であった。その後、その人の書きものを大石寺の方の人が勉強せられて、その書きものが本山にたくさんある。そういう考えが残って、(釈尊の仏像を建てようなどという考えは残っていないが)本山においても後に天母原という名前(だけ)が大いに出てきたのであって、本当の古い時には、そういう名前はない。富士山に本門寺を建立ということは、『一期弘法抄』を拝してもわかることであるが、決して天母山という名前はない。ことにまた、天母山ということを言い出した為に、その後に天母山という名前が出てきておる。古来の文献にはないはずである。この前、富士宮の調査においても、古来においては(大石寺周辺には、天母山という名称は)なかったということを言われておる。いつから天母山ということになったかということも分からない。おそらく、そういう僧侶たちが来て、天母山と言い出したことが残った名前ではないかと思うのであります。いずれにしても、我々は戒壇の大御本尊を所持しておる。この富士の大石寺においてお護りしておる。このところこそ、戒壇の根源であるという深い信念を以て信心して頂きたいのである。そこに少しでも、事の戒壇だとか理の戒壇だとかいうことの、言葉のあやにとらわれて、そして信心を動かす様では、本当の信心とはいえないのであります」と御指南されています。要するに、今の顕正会で、執拗に固執(こしゅう)する「天母山戒壇論」は、本門戒壇の大御本尊や、日蓮大聖人の仏法とはかかわりなく、後年に作られた伝説なのです。
「66世日達上人から、67世日顕上人へ血脈相承された証拠がない」という主張は謗法の考えです。
顕正会では、「日達上人は急逝されたため、日顕上人へ正式な血脈相承の儀式を行なう時間がなかった」として、「血脈相承は途切れた」としています。しかし、「皆が知り得る儀式がなければ、血脈相承はなされていない」と言うなら、たとえば、日蓮大聖人から日興上人への血脈相承の儀式は、どのような形で行なわれたというのでしょうか? その詳細は、文献に残っておらず誰も知る術を持ちません。その事実に対して浅井会長は、「儀式が明確に行なわれていないから、日蓮大聖人から日興上人への血脈は流れていない」とでも言うのでしょうか? 現在、日蓮大聖人の御法魂の当体である本門戒壇の大御本尊は、第68世日如上人により大石寺に厳護されています。この「大御本尊は日蓮正宗が護り伝えている」という厳然たる事実こそ、日蓮正宗にこそ、大聖人の正しい法脈が流れ通っている、動かしがたい証拠であると言えましょう。それにひきかえ、創価学会や顕正会、正信会などの派生団体が、いかに自身の正当性を主張してみても、「本門戒壇の大御本尊を拝することができない」という動かしがたい事実=現証があります。この現証こそ、創価学会や顕正会、正信会などの組織は、すでに大聖人の正義、広宣流布とは無関係の団体であることを、如実(にょじつ)に物語っているのです。
「遙拝勤行こそ、最高の仏道修行」と言い張る顕正会員の方へ。
顕正会では、日蓮大聖人の仏法の根源である本門戒壇の大御本尊を内拝することができないため、空(から)の仏壇に向かって法華経を読むことを「遙拝勤行」と言っているようです。ですから、「仕方なく行なっている」ものは、ホンモノの仏道修行でないことは明らかです。もし、「遙拝勤行」に、どうしても「功徳が具わるすばらしい勤行」と言い張るなら、創価学会員であっても、「大御本尊を心に念じて、自宅で勤行」していれば、功徳がバンバン出てくる」というのでしょうか。顕正会員である皆さんは、創価学会員と同じなのです。しかし、その違いについては、細かい説明を受けられず、ただ「顕正会こそ正しい」と言い含められている不条理に、一日も早く気づくべきです。遙拝勤行は、むしろ「本門戒壇の大御本尊を信仰の根源とする」という心を奪い取ろうとする、間違った勤行であり、やればやるほど罪障を積む結果になるに違いありません。
顕正会の活動には、「道理」「文証」「現証」はそなわってはいません。
顕正会の浅井昭衛会長は、『三三蔵祈雨事』の「日蓮仏法をこころみるに道理と証文とにはすぎず、又道理証文よりも現証にはすぎず」との御文を引用し、以下のような指導を繰り返し行なっています。「大聖人は、あらゆる宗教の教義について、その正邪(せいじゃ)・善悪を厳(きび)しく検証判定されております。その時の検証する基準が「道理(どうり)」と「文証(もんしょう)」と「現証(げんしょう)」というこの3つですね。この3つの証拠を以って正邪を判定されたと。「道理」というのは、“正しい宗教、正しい仏法は必ず道理が通っているべきである”ということの理論上の一つの合理性、これから見ていくこと。次に「文証」というのは文献上の証拠である。ことに仏教の諸宗においては釈尊の経文こそ、その唯一の証拠であると。経文上にその教義の正当性が立証せられるかどうかということが「文証」。それから、「現証」というのは“その教えを実践してはたして功徳があったかどうか”ということなのであります。これはちょうど薬を論ずるのに薬が効くか効かないか、良い薬であるかどうかそれを判定するのにまず薬の成分を調べる。これが道理に当る。文証というのはその薬の文献上の証拠(しょうこ)を尋(たず)ねる。それから現証というのはその薬を飲ませて人体実験をして果たして効(き)くか効かないかということなのであります」
  ■1.道理について
たとえば、ある国が進むべき道を決定する「議会と議長」の役割について考えてみましょう。議会において、人々の意見を集約し、最終的な決定をくだすのは議長の役目です。もしその議会に、議長が2人も3人もいれば、議事の運営や議決などをスムースに行うことはできません。また、その議会を構成する議員たちが、なによりも、議長を信頼し、自分の意見を述べつつ、最終的には、議長の決断や議会の決定に従う良識がなければ、議会の運営は成り立ちません。議長のもとに決定された議決に従えない議会では、いくつもの派閥ができたり、活動がバラバラになって統制は乱れ、やがて、その議会は分裂することになるでしょう。もちろん、議長の信任のもと、幾人かの補佐役や議事運行係などの協力は必要不可欠です。しかし、一番大切な最終的意思決定は、ひとりの議長(責任者)が責任をもって下し、また、議員たちは、その決定には、少しの不服があったとしても従う義務があるのです。これは、日蓮大聖人の正法を伝持する和合僧団(わごうそうだん)でも同様のことが言えます。日蓮大聖人は、ご入滅に先立ち、滅後の教団運営などにそなえて6人の高弟を選定されました(六老僧)。しかしこれは、大聖人が六老僧全員に、均等に後を託された(血脈相承を授けられた)という意味ではありません。本門戒壇の大御本尊という日蓮大聖人の御法魂の当体、そして大聖人の代わりにすべての教義を説かれるという大権は、ただ日興上人だけが授与されました。よって他の五老僧たちは、日興上人の補佐役として、また、各地に点在する信徒や弟子たちをとりまとめ、常に日興上人へ向かわしめるという役割に過ぎなかったのです。ところが、五老僧たちは日興上人の御指南に従えず、自分勝手に活動していったため、現在でも、身延派日蓮宗には謗法の姿が見られるのです。日蓮正宗以外の、日蓮系教団の謗法は、すべて、日興上人以下、大石寺の御歴代上人の御指南に従えなかったことに起因(きいん)しています。
前置きが長くなりましたが、かつて日蓮正宗で信仰していた信徒の団体に、創価学会、顕正会、正信会(一部僧侶)があります。それらに所属する人々は、みな、「うちが一番正しい」「いや、うちこそが、大聖人のご精神を受け継ぎ、広布に邁進している」など、それぞれが、みずからの正当性(せいとうせい)を主張しています。本来、日蓮大聖人の仏法を広宣流布していくための組織は、ひとつに限られるはずです。それが、どうして、いくつにも分裂(ぶんれつ)し、それぞれがバラバラに活動するようになってしまったのでしょうか。その理由はただ一つ。顕正会も創価学会も、正信会も、みな、根本の大師匠である御法主上人の御指南にしたがえず、それぞれの組織が、自分勝手な判断で行動したからなのです。日蓮大聖人の仏法のなかで、どの活動が正しく、どの活動が間違っているのか。それを判断できるのは、時の御法主上人以外には、おられません。もし、その御指南が不服であったり、それに従えないから、「別の指導者(会長や名誉会長)の指導に従う」という人は、まさに、今の議長が気に入らない決議を決めたから、そいつをクビにして、別の議長を担ぎ上げ、自分に都合の良いような決定を出してもらおう、と企んでいるようななものなのです。そんな道理は、世間的にも仏法的にも通用しないことは、おわかりになりますよね。要するに、いかなる状況のもとであれ、御法主上人の御指南に素直に信伏随従して、信心に励んでいくべきこと。それが、日蓮大聖人の御心にかなう仏道修行の姿であるとするのが道理であり、この道理にしたがえない顕正会の人たちには、日蓮大聖人の仏法の正義は存在しないと言えます。
  ■2,文証
日蓮大聖人様の御書に 「但(ただ)し直授(じきじゅ)結要(けっちょう)付属は唯一人なり。白蓮阿闍梨日興を以て総貫首(そうかんず)と為(な)し、日蓮が正義悉く以て毛頭程も之を残さず、悉く付属せしめ畢(おわ)んぬ。上首已下並びに末弟等異論無く、尽未来際に至るまで、予が存日の如く、日興が嫡々付法の上人を以て総貫首と仰ぐべき者なり」とあります。この意味は、「私日蓮は、六人の高弟を六老僧と選定したが、ただし、私の仏法の一番大切な部分は、たった一人にしか譲らない。白蓮阿闍梨日興をもって、私の正当な後継者と定め、私の仏法の正義のすべてを、髪の毛一本も残さず、ことごとくすべて付属し終わっている。高弟から一般の弟子にいたるまで、日興上人が跡継ぎであるということに異論を唱えることなく、未来永遠にわたって、私・日蓮が生きているときのように、日興と、その後を継いでいく歴代の法主(貫首)をもって、総貫首と仰いでいくべきである」ということです。日蓮大聖人の御書という、「最高の文証」に明らかなことは、いつ、いかなるときであっても、大石寺の御法主上人を、「生きた日蓮大聖人」と拝して、その御指南にしたがい、自行化他に邁進していくことの大切さを教えられたものであり、現在の顕正会が、この大聖人の御遺言に背いていることは明らかです。
また、「文証」の二つ目としては、『日興遺誡(ゆいかい)置文(おきもん)』が挙げられます。『日興遺誡置文』とは、日興上人が第三祖日目上人に与えられた「遺言(ゆいごん)書」です。
その中に、次のような条文があります。「一、時の貫首たりと雖(いえど)も仏法に相違して己義を構へば之を用ふべからざる事」「一、衆義たりと雖も、仏法に相違有らば貫首之を挫(くじ)くべき事」
最初のお言葉の意味は 「一、時の御法主であっても、その方が、仏法に相違して己義を構えたならば、その己義を用いてはならない」ということです。顕正会や創価学会の人々は、この日興上人の御教示を引用し、「日達上人や日顕上人は、日蓮大聖人の仏法に背く己義(自分勝手な教義)を構えた。よって我々は、そうした謗法の法主に従わないことが、大聖人の正義を守ることになる。将来、日蓮大聖人の仏法を正しく説くすばらしい御法主が出現されたら、我々はふたたび日蓮正宗に戻るのであり、それこそ、日興上人が示された道だ」と言って、顕正会の意見をとりいれない人は、たとえ時の御法主上人であっても謗法と断定し、その言葉に従う必要がないことの「文証」として、この日興上人のお言葉を利用しています。
ところが、『日興遺誡置文』の、もうひとつの条項をよく見てみると、「一、たとえ、多数の意見であっても、それが大聖人の仏法に相違(そうい)していると御法主上人が判断されたならば、たとえ、多数決のような大衆の意見(創価学会や顕正会などの信徒の意見)であったとしても、その意見を用いてはならない」とあるのです。
さあ、果たして日興上人の正意は、「己義を構えた御法主には従ってはならない」のか、それとも、「たとえ、数十万人、数百万人の人の意見であっても、御法主が間違いと判断された意見は、取り入れてはならない」のか。一見すると矛盾(むじゅん)した遺言を残された日興上人は、いったい、どちらに本意(ほんい)があるというのでしょうか。
その答えを導きだすヒントは、「この日興上人の御書は、後継者である日目上人をはじめ、未来の御法主上人への戒めや、心構えを箇条書きにして書かれたものである」ということです。
よって、これらの日興上人の御教示は、将来、出現されるであろう御法主上人の「心構え」を書かれているのですから、これは「御法主上人が、御法主としての重大なお役目を果たされるにあたって、ご自身の身にあてはめて読まれるべき」ものであり、創価学会や顕正会の人々が、気に入らない御法主上人を批判する目的で悪用する「文証」ではない、ということなのです。
顕正会や創価学会の行為は、たとえば、他人が受け取った手紙を横取りして読み、「私からみれば、あなたは、親の言うことを聞かず、この手紙に書かれている事に従っていないから、あなたは、親からの遺産(いさん)を相続(そうぞく)するにふさわしくない」と勝手に判断し、赤の他人のくせに、他人の家の相続に口を出しているようなもので、余計(よけい)なお世話以外のなにものでもないのです。
そもそも、「大聖人の仏法に適合しているか、大聖人の教えから逸脱しているか」を判断するのが、御法主上人の大切なお役目の一つです。つまり、「何が謗法で、何が正義か」について、それを判断するのは顕正会の会長ではなく、御法主上人なのだ」ということです。
  ■3.現証
現在、本門戒壇の大御本尊を拝することができない顕正会に所属している限り、三大秘法の「本門の題目」を唱えることはできません。なぜなら、本門の題目は、本門戒壇の大御本尊(三大秘法中の本門の本尊)に向かって唱える題目のことを言うからであり、よって、「本門の題目」が唱えられない限り、どんなに布教活動に専念したとしても、過去遠々劫よりの謗法罪障を消滅することはできず、顕正会の方々は、気の毒ですが、成仏の功徳を積むことはできないのです。これは揺るがしがたい事実であり、誰が何と言おうと、顕正会の信心が、大聖人様の御心に叶ったものではない、明白な「現証」と言えましょう。
また、浅井会長は、「誑惑の正本堂から、本門戒壇の大御本尊が運び出され、正本堂が永遠にその姿を消し去ったとき〜その時こそ、我ら顕正会がふたたび、本門戒壇の大御本尊のもとに還える時である」との指導を、何度も何度も繰り返し吹聴していました。しかし、すでに正本堂は、日顕上人の大英断のもと、平成12年には解体されています。正本堂解体から十年以上経過した現在であっても、顕正会は、総本山に帰ることもできなければ、大御本尊と血脈付法の御法主上人のもとに、正しい信心をすることができていません。これこそ、残念ながら、現在の顕正会の活動が、まちがっている何よりの現証(げんしょう)といえましょう。
浅井昭衛氏は、「私たちは今この御大法に値えた。ありがたいことであります。しかし、大聖人様のもし心に背く、仰せに背くならば功徳はなくなってしまう」と語っています。まさに、大聖人様が仏法の正邪を判断する大切な指針として示された「理証」「文証」「現証」のすべてが整わない顕正会で信仰することは、大聖人様のお心に背いているのは明らかです。 
 
白光真宏会

 

白光真宏会
教団の祭神である宇宙神を「宇宙根源の大光明」と表現し、霊覚者である教祖・五指昌久を写真で撮影した際に写った「円光の写真」が、その「大光明」の証明であるとしています。でも、「大光明」が宇宙に遍満する神であるならば、いつ、どこで撮影したとしても円光が写るはずなのに、どうして五井を移した写真は数多くあっても、それが写っている写真が一枚しかないのでしょうか? 宇宙法界の法則・真理の絶対条件である「普遍性」とは、いつ、誰が行なっても、同じ結果が出てくることをいいます。そうした不思議な写真が、たった一枚しかないというのは、むしろ、たまたま光が入ったのか、合成写真などであると疑われても仕方がないのではありませんか?
教祖・五井は、すべての苦悩は「人間の過去世から現在にいたる誤てる想念が、その運命と現われて消えてゆく時に起こる姿である」との因果論を主張しています。そして各自の守護神や守護霊に感謝してさえいれば「いかなる苦悩といえど、現われれば必ず消えるもの」と信者に教えました。しかし、人生の苦悩の原因は、誤った想念に限ったものではありませんし、ただ守護霊に感謝しさえすれば、あらゆる過去の罪が消滅できるという、生やさしいものでもないのです。人生は、そんな甘くはないことは、誰でもが知っていることです。人生の苦悩の根源は、他人ではない。すべて自らの振る舞いや想念の結果もたらされるものであり、その罪障を消滅するための強力な力を有するものは、三世の大生命の本質を説き明かした仏道修行によらなければならないのです。
白光真宏会では、「世界平和の祈り」を続けていけば、個人も人類も真の救いを体得できると説きます。世界平和を心から祈ることは確かに大事なことですが、そうした平和への祈りが世界中で行なわれていても、現実社会ではいつまでたっても紛争が絶えません。ステッカーは標語程度にはなるでしょうが、それを弘めることが平和につながるという教えは、かえって人々を「真の平和実現のための仏道修行」から遠ざける悪果をもたらすのではありませんか?
第二代昌美会長は、初代五井昌久が平和の祈りのみの修行を説いていたのに対して、新しい修行方法を編み出しました。このように、会長が替わるたびに修行方法や信仰の形が変わるのは、一貫性がないと批判されても仕方がないのではありませんか?
五井昌久は、あるときは「釈尊の教え」を引用したり、あるときには「キリスト」や「宇宙神」などという言葉を巧みに使って信者を指導しました。自身が生前、拝むものは、世界救世教関係者から与えられたものであったり、自身の信者には「白光」と書いた文字を拝ませたりしています。やっていること、言っていることがチグハグで一貫性がなく、教えにも、真理が裏打ちされるような深い哲学思想さえも無く、まったくの思いつき信仰と非難されても仕方ないのではありませんか?
教団では、死者の霊が突然取り憑き、五井昌久の手を通じて書き出される“自動書記現象”が現われたと説明します。万一、それが本当に神の意志であり、神の代理として人々に神の言葉を伝える為だったとするならば、なぜ五井昌久はそれ以後も、自分の意志で文字を書くことができなくなるような、そんな状況に追い込まれる必要があったのでしょうか? 神は何のために、五井に、そんなことをさせ続けたというのでしょうか? むしろ、精神疾患のひとつとされる二重人格症状(現代では分裂症と呼ばれるようです)に五井自身、ずっと苦しめ続けていたと考えられるのではありませんか?  
世界紅卍字会

 

  
 

 

 
道院と世界紅卍字会の教義形成

 

■序章
第一節本論文の視角
(一)本論文の狙い:主題・範囲・方法
本論文は、中華民国期(一九一二年〜一九四九年)中国の「民間宗教教派」(後述する。以下「民間教派」ないし「教派」と略称する)における「近代的」言説――「宗教」、「迷信」、「慈善」など清末民初にかけて根付いていった語をめぐる言説を念頭に置いている――のあり様を、具体的な教派、主に道院・世界紅卍字会の教義に即して論じるものである。この作業を通じ、彼らの教義中に現れる、普遍的価値の主張――それは、自らが諸「宗教」を貫く真理性を有するという主張であり、加えて、社会貢献、平和実現等に資する公益性を帯びていることを強調する点に特徴があった――が、清末以降から現代に至るまで嵩じていく社会の反「宗教」主義――ここには反「迷信」主義も含まれる――1を内面化しつつ、それを相対化して克服しようとする「近代的」な「宗教」言説であったことが了解されるだろう。
「民間教派」を「近代化」という視点から捉えようとする態度は、近年の研究動向にも見いだされる。例えば、歴史研究を中心に用いられることの多い「救世団体(Redemptive society)」2という語は、従来守旧的な勢力として語られがちであった清末〜民国期に興った「民間教派」を、活動・教義内容に共通する新規性――旺盛な慈善活動や「宗教」的普遍主義の主張が注目されている――を有したグループとして、捉えなおす視点を提供している3。また、一般に封建性・落後性が強調されがちな「会道門」研究4でも、そうした新規性が「近代的」と形容されることはないものの、それまでにない時代的特徴として認識されている5。この意味で、先行研究は、「民間教派」の中に「近代化」の兆しを見出している、あるいは「近代化」の一部として「民間教派」の変化を捉えているといえる。
本論も、これと同じ視角をとるものである。ただし、先行研究の多くは、対象を総体的に把握して、共通して見える新規性に言及するに留まっており、それが個々の教派の具体的な文脈において、どのように形成され、変容し、どのような主張を伴ったのかについて、関心を払っていない。そのため、「民間教派」に生じた新たな傾向が、教義や実践として把握される以前の見えづらい変化を反映していることを、十分に説明しえていないという不満が残る。そこで本論は、道院・世界紅卍字会という具体的な教派の教義形成とその変容の検討を通じて、かかる新規性が、「宗教」・「迷信」・「慈善」といった価値領域をめぐる社会との交渉から、教派内に生じた深いレベルでの変化を表出したものであることを提示することを目標とする。以上のように、本論は、「民間教派」の新規性、つまり「近代化」の内容を、道院という個別の事例から充填していくアプローチをとるが、同時に、その新規性が他教派との関わりの中で獲得されていったことにも注目している。このようにして、民国期の「民間教派」の新規性が、どのようにして共有されていったのか、その一端を具体的に知ることができるであろう。
本論の主たる考察の対象となる道院・世界紅卍字会とは、青蓮教系教派同善社(清代中期青蓮教の流れに属する教派。一九一七年、彭泰栄が創立)の影響を受け、一九二一年に済南の乩壇(済壇)から改組して成立した教派である道院と、その道院が一九二二年に創設した慈善専従の下部組織である世界紅卍字会を指す。世界紅卍字会は、創設時より道院とは別に団体認可を受けていたが、本論第三章以降で触れるように一九二八年の南京国民政府下、「迷信機関」として取締りを受けた道院を内に抱える組織形態をとった。そこで、本稿では両者の一体性を鑑み、組織全体を指す場合には、道院・世界紅卍字会と併記し、それ以外の場合には適宜、道院、世界紅卍字会と個別に表記する。道院・世界紅卍字会は、中国の伝統的な降神・卜占の技法である扶乩6を核心的な実践としていた。扶乩の日常的な実行を通じて、残された多くの文書には、「宗教」、「迷信」、「慈善」等について論じた部分が少なくないのだが、そこには反「宗教」主義を意識した語りが度々あらわれる。「宗教」とはどのようなもので、どのような「宗教」であれば認められるのかという彼らの語りは、「迷信」として「宗教」の周縁に追いやられた当事者の立場にあったからこそ、民国期における「宗教」概念の外縁が、どのように線引きされたかを知る上で好個の事例ともなるだろう。
道院・世界紅卍字会は、民国期を通じて全国的な展開を遂げた。それは即ち、この団体が極めて広範囲に渡って、かつ複数の政権と関わりながら展開された運動であったことを意味する。そのため、道院・世界紅卍字会の活動や教義には、時期的、地域的な差異に由来する揺らぎが少なからず見出される。例えば、中国東北部での道院・世界紅卍字会は、「満洲国」建国後、中華民国の道院・世界紅卍字会から独立し、「満洲国」の「教化団体」としての役割を担わされた。孫江によれば、道院は、発足当時から政治的中立性を謳っていたのであるが、「満洲国」では統治に利用され、道院自身もそれに応じたのである7。本論は、かかる巨大な運動の、教義面での体系的な把握を試みようとするものであるが、第三章において詳細に論じるように、そこにも時期的・地域的な揺らぎの問題が存在する。そこで、本論では、道院・世界紅卍字会にとって特に重要とみなされる文書を主たる資料とし――資料は、一九一七〜一九四〇年にかけての、済南・北京・天津・瀋陽・南京・上海のものを中心とするため、必然的に考察の範囲もその中に留まる――、そこに共通する言説を組織全体の標準的教義として把握しつつ、その際に見いだされる揺らぎの意味にも注意を払い、時期的・地域的な背景の中でそれを考察していく。この教義の動態的把握という視点が、本研究の特徴の一つである。
付言するに、先行研究において、道院の教義に踏み込んだ考察が加えられたことはなく、酒井忠夫や吉岡義豊といった先人の研究における教義説明が踏襲されるに留まっている8。そのため、小さくは道院の儀礼、実践と教義の全体的な関連性が、大きくは中国宗教史上における同団体の位置付けが、いまだ十分に説明されないままである。そこで、本論は『太乙北極真経』のような経典や、乩文集(扶乩を通じて得られた文章)など、従来用いられてこなかった資料を用い、また道院に先行する教派との関係に目を配りつつ、「扶乩」、「坐功」、「慈善」や「五教合一」のような主要な実践や主張――これらは、民国期に複数の「民間教派」で重視された――が、教義レベルでどのように関連付けられ、意義付けられていたかを考察していく。近年、道院の下部組織である世界紅卍字会による社会的活動の研究が盛んであるが、一方でその母体である道院――特にその教義面――に対する検討が大きく不足している。本論によって、その不足の一部が補われるだろう。
(二)中国における「宗教」の「近代化」
次に、「近代化」と「宗教」の関わりを分析する上で、本論がとる基本的な視角について述べる。本論は、脱「宗教」、脱「迷信」化の政治・思想的趨勢――これを反「宗教」主義と総称する――との交渉が、個別の教派の内面に引き起こした変化に着目するのだが、それを「世俗化」、「合理化」を意味するいわゆる「近代化」に伴う副次的な変化として、単純に説明するわけではない9。本論は中国における「宗教」の「近代化」を、「宗教」概念の摂取・構築と、それを通じた「教」(儒教・仏教・道教に代表される中国の宗教伝統)の切り分けと再編として把握しており、道院・世界紅卍字会の教義中にその反映を見出している。そこで以下に、「近代化」、「宗教」、「教」の本論における理解に触れつつ、それが道院・世界紅卍字会を含む諸教派の教義形成の背景として重要であることを指摘しておきたい。
一九世紀後半から二〇世紀前半にかけて中国社会は、欧米・日本との持続的な接触を通じ、政治、文化、経済等の諸領域で構造的な変化、――「近代化」10を経験した。吉澤誠一郎は、「近代」という時代を「世界各地での類似性の拡大の傾向が多様化を凌駕してゆく時代」と表現し、それが理念的「西洋近代」の世界標準化によって惹起されたと述べる11。かくて「西洋近代」は、それを支える諸概念と共に摂取され、中国の社会構造に変化をもたらしていったのだが、本論が主題とする「宗教」の領域でも、それは見出される。すでに周知に属する事柄となったが、そもそも「宗教」という概念自体が、「西洋近代」の構築物であり、その枠組みはプロテスタント・キリスト教に基づくものであった12。この「宗教」なる領域が、実際的な議論や政策、運動を経て編成されていく経過そのものが、「近代化」の一部だったといえるのだが、中国においてそれは、すでに存在していた「教」の切り分け・再定位と並行して展開した。その簡明な事例が、儒教(儒家、儒学)である。伝統的「三教」(儒教、仏教、道教)のうち、仏教、道教が「宗教」に読み替えられていく中――仏教、道教にも自らを「宗教」以外のものとして再定位させる動き(「仏学」や「仙学」など)も存在したのだが――、儒教は常に「宗教」であるか否かが問題とされ続けた。
中国社会の深部に至るまで浸透していた儒教は、「近代化」の強い衝撃にさらされた。特に新文化運動で除くべき旧文化の象徴として批判を浴びて後、儒教が社会の様々な領域から追い立てられていったことは広く知られている13。ただし、袁世凱政権や新生活運動期の南京国民政府が、儒教を国民陶冶のための依るべき伝統とみなして、「尊孔読経」(孔子祭祀を国家が主導し、学制に儒経学習を組み込むこと)を推進したり14、「儒家道徳」を国民の日常的規範とすべきことを提唱したこともあったように、儒教は一挙に社会から退けられたわけではなかった。徐々に限定された領域に押し込まれていくこの過程で、社会における儒教の立ち位置は様々に議論されたのである。そこで繰り返されたのが「儒教は宗教か否か」という問いであった。それは伝統的に儒教が覆い、代表してきた価値領域である「教」が、「宗教」概念と近似しつつ、かつ大きく異なる性質を帯びていたためであると考えられる15。
池澤優は、伝統中国における「宗教」と近しい概念として「教」を挙げ、しかし、それが「本来的に思想・宗教的な運動にかかわる概念ではない。教化、教治といった単語が示唆するように、それは君主統治に関わるものであり続けた」16ことを指摘している。この意味で、「教」の典型は、官学として君主統治を支え続けてきた儒教ということになろう。また孫江は、一九世紀末から二〇世紀初めにかけて、中国で「宗教」の語が採用された経緯の一過程に注目し、当時の知識人が、伝統中国における「教」がreligionを指すものではなく、儒家的な教育・教化を意味するものであったことを明瞭に認識しており、キリスト教を意味するreligionの訳語に「教」あるいは「宗教」を充てることに否定的であったことを論証している17。しかし、結果として採用された「宗教」という訳語は、本来的に「教」に濃厚だった政治的概念としての性質を、捨象しようとする方向性を有していたのであった18。「宗教」概念による「教」の読み替えの際に生じるこの捻れが、必然的に生み出した問いが、前述の「儒教は宗教か否か」だったのである。
中華民国政府は、一九一二年三月一一日に公布した『中華民国臨時約法』において、人民に「宗教」を信じる自由があることを明言した19。「信教の自由」条項は、以降の約法・憲法においても、「法の範囲内で」と限定される、あるいは「孔子を尊崇する自由」と並置される場合もあったが、維持された20。「信教の自由」という国制の基礎的理念は、時の政権が、儒教を政策に摂取する際に、規範性を発揮した。つまり、各政権は、「信教の自由」の理念に鑑みて儒教を「宗教」だとはみなさない態度をとったのである21。例えば袁世凱は、孔教(孔子を教主とする「宗教」)22の国教化の可能性を模索したが、「信教の自由」との兼ね合いからこれを断念した。また、その後、「尊孔」・「読経」政策を推進し儒教を祭祀や学制に編入するに際しては、それを「宗教」ではないと主張した。同様の主張は、南京国民政府下で一九三四年から行われた新生活運動でも見られた。新生活運動は、国民生活に「礼儀廉恥」という儒教の徳目を取りこむことをスローガンの一つに掲げたのであるが、そこでも儒教はあくまで国民を陶冶する道徳だとされた。いずれも、儒教を政権が活用する際に「信仰の自由」の原則に照らして、儒教を「宗教」以外のもの――祭祀、学問、道徳――として、限定した事例といえよう。
このように、民国期における「宗教」概念の形成は、大勢として「教」の範たる儒教を非「宗教」的な領域に限定する形で進展したかに見えた。しかし、そこにはまた別の流れ――儒教を「宗教」に分類する――が見出されるのである23。近年、民国期の多くの教派が、程度の差こそあれ儒教道徳の復興と、救済を結び付けて主張したことが注目されている。例えば彭泰栄が一九一七年に創始し、全国的な展開を遂げた同善社は、救済思想中に儒教の徳目を摂取し、これを称揚した24。また段正元が一九一六年に起こした道徳学社は、儒教を中心に、キリスト教、仏教、道教、イスラームの教義を加えて「世界大同」を唱え、広範な社会階層に受容されたという25。こうした教派が共有した新たな教義の一つとしてよく知られるのが、儒教を諸「宗教」と並列しつつ、その教えに一定の価値を認める主張・「五教合一」論(儒教、仏教、道教、キリスト教、イスラームの五大「宗教」の一致の必要性を説く教え)である。早期の「五教合一」論的著作として知られる『息戦論』(一九一六年)――その著者とされる江鐘秀・江希張父子は、孔教運動に共鳴した人物だった――は、孔教をはじめとする諸「宗教」の一致によって、世界平和が達成できると説き、その主張はその他の教派に大きな影響を与えた。また第五章で触れるように、道院・世界紅卍字会も、「五教合一」論を主張した代表的な教派として知られる。彼らもやはり、儒教を含む、諸「宗教」の一致が世界平和を招来することを説いた。こうした主張を伴う団体を、「宗教性を備えた『民間儒教』」26と捉える研究動向も存在する。
以上を本論の視角から捉えなおせば、こう換言できるだろう。民国期の諸教派が唱えた「五教合一」という新たな教義は、単に中国的「宗教」普遍主義というだけではなく、「宗教」の形成と「教」の再定位という「近代化」を背景に、「儒教」の「宗教」としての定位を担う側面をも有していたのである。つまり、「民間教派」の教義も、「宗教」の「近代化」の議論の一部を担っていたということである。
(三)「民間宗教教派」について
本論は、道院をはじめとする様々な教派の総称に、「民間宗教教派」(「民間教派」・「教派」)を用いる。そこで以下に、この呼称を用いる理由を説明すると同時に、本用語のはらむ問題点について触れておきたい。
本論でこの語を採用するのは、道院・世界紅卍字会を中国宗教史上に位置付ける上で、簡明な理解――この語の利点でもあり、同時に問題点でもある――を提供しうると考えるためである。実のところ、近現代に正統な「宗教」とみなされず、そして伝統的に「三教」とみなされなかった諸教団をどのように呼びし、定義するかという問題は、いまだに定見が存在しない27。例えば、日本における「民間教派」研究は、戦前の中国大陸における「秘密結社」研究の一部として始まった経緯から、「宗教結社」――これに「民間」や「秘密」などが冠されることもある――という呼称が使用されてきた28。中国においては、「民間宗教」のほか、「秘密宗教」、「教門」や「会道門」など多様な用語があてられている。アメリカ(英語圏)では、「popular/folk religion(民間宗教)」(ここには、いわゆる「belief/cult(信仰・崇拝)」も包含されているので、教団を指す場合は、「sect(教派)」の語を伴う。または単に「sectarianism(教派主義)」とされる)のほか、近年では、「redemptive society(救世団体)」や「communal religious tradition(社区宗教伝統)」など、視角の刷新を伴った用語も現れている。こうした諸用語の中で、「民間教派」は、日中英語圏の研究で通用しており、かつ中国史・中国思想史・道教研究などの学際的に一定の認知を受けている用語の一つである。後述するように、分析概念としての有用性について批判があるが、なおも国際的・学際的に一定程度、認知・共用されており、統一的用語として妥当だと考える。
中国において「民間宗教」・「民間教派」を、歴史的諸教派に対する包括的な用語として周知させた代表的著作として、馬西沙と韓秉方の共著『中国民間宗教史』(一九九二年)が挙げられる。同書は、「民間宗教」を、「社会の中下層に流行し、当局の認可を経ていない多種の宗教の総称」29として捉えており――全体を通じて教団のみを考察の対象としていることから、そこにはいわゆる「民間信仰」は含まれていない――、後漢末から清末に渡る「数十種の民間教派」の特徴を、同時代資料・教派経巻の検討を通じて明らかにした上で、個別の教派と儒教、仏教、道教との関わり及び教派間の影響関係を系譜的に整理している。「民間宗教」・「民間教派」を、中国宗教史上で一定のまとまりを持った領域として説得的に提示した著作といえる30。特に、明代中期に現れた羅教(無為教)を、清末に至るまでに「道教の内丹派」、「白蓮教」、「摩尼教(マニ教)」、「弥勒教(弥勒信仰)」などを巻き込みながら、大乗教・青蓮教、斎教などの教派を産生していった一大道統として描き、この研究領域に基礎的な枠組みを与えている31。本論が取り上げる道院・世界紅卍字会も、中華民国期の成立ではあるが、武内房司が指摘したように、同善社を介して清代の教派、青蓮教の伝統と接続しており32、馬らが提示した「民間宗教」・「民間教派」中の道統の「近代」における一展開といえる。また、本論が道院・世界紅卍字会の独自性・新規性として着目する要素の、ある部分は、彼らが連なる教派伝統との異同を把握することで一層明瞭になる。本論が「民間教派」の語を採用するのは、道院・世界紅卍字会を、同時代史的な背景からだけではなく、教派的伝統の文脈からも把握しようという意図を代表させているのである。
一方、「民間教派」の語を用いる上で、注意を払うべき問題も存在する。第一に、「民間宗教」の含意していた、正統/異端の「宗教」、エリート/民衆の「宗教」といった二分法的理解の有効性の問題である。こうした二分法は、例えば前者であれば、論者の価値判断を前提にしている点が33、後者については、「民間宗教」を民衆のものとしてのみ捉える点などが34、繰り返し批判されてきた。その結果、現在では単純な「二分法」的アプローチによって「民間宗教」を捉えることはなく、多様な宗教伝統、様々な社会階層の乗り入れあう「場」として概念化されている35。この場合、儒教、仏教、道教そしてキリスト教、イスラームのような「教」・「宗教」も、その外縁――その他の宗教伝統や社会的勢力と接触の起こる領域――は「民間宗教」と同様に「場」として把握されるべきということになろう。第二に、本来歴史的・地域的に非常に幅のある様々な教派を、「民間教派」という単一の概念で包括する際に生じる実態と概念のギャップの問題である。包括的な用語とその定義が必然的にはらむこうした問題を乗り越えるアプローチとして、大きく二つの方向性が考えられる。一つは、用語は維持しつつ視角を刷新する方法である。例えば、孫江は、中国研究者や識者が戦前から使用してきた「秘密結社」という用語に、その語で呼ばれた様々な対象を総体的に捉えて、固有の歴史性を無視し本質論的な規定――例えば「反体制的」、「迷信的」など――を加えてきたという問題があることを指摘し、この用語を廃棄せずに使用する上の手続きとして、そうした規定が加えられてきた歴史過程に遡って、個別の「結社」の実態に迫り、語の意味を中立化させるべきことを提起している36。もう一つは、新たな用語を提起する方法である。例えば、デイヴィッド・オウンビーは、「セクト(教派)」の語が、西洋の歴史的経験から生み出された教団類型であり中国の状況に容易に適用できないこと、つまり中国にはウェーバー的な意味でのチャーチは存在せず、セクトとされる教団も、相対的に社会環境と緊張関係になく、包括的・混淆的教義を展開していることを指摘し、「セクト」に代わり「救世団体」の語を用いることで、チャーチ‐セクト・モデル理解がはらむ問題――正統/異端性の度合いや社会との緊張度を尺度とすること――を回避し、教団の特徴の考察に集中できると主張している37。二つのアプローチは、いずれも用語の帯びる本質論的な規定によって、考察対象についての理解が拘束を受けることを問題としているといえる。
そこで本論は、「民間教派」の用語を維持しつつ、それを単純に二分法的、本質論的に把握することはせず、対象の実際のあり方に即してできるだけ中立化させて用いる。すなわち、本論の「民間教派」は、「三教」や公認「宗教」、地域的信仰をも含む多様な宗教伝統を部分的に包摂しつつ、固有の名称を持つことで独自の団体として成立ないし分派した組織を指す。ここで、成員の社会階層や、政権による公認の有無に言及しないのは、本論の扱う「近代」の教派が、エリートの参加・主導を受けており、一時的にせよ政権の公認を得ていたことを考慮したためである。総じて、「民間教派」の概念内容は、決して固定したものではなく、個別具体的な教派研究の積み重ねによって充填され、塗り替えられていくものなのである。
第二節本論文の構成
本論文は、以下の各章より構成されている。
序章では、行論の前提となる視角と用語を解説した。本論は、中華民国期の「民間教派」、道院・世界紅卍字会の教義の形成と変化を、「宗教」、「迷信」、「慈善」を巡る反「宗教」主義との交渉に注目して叙述するものであるが、これを「宗教」の「近代化」の一部として把握している。すなわち本論は、「宗教」概念の摂取・生成と、それに伴う「教」の価値領域における再定位を、中国における「宗教」の「近代化」とみなし、「民間教派」の教義もこの変化の一部を担ったと捉えるのである。その視角の具体的な事例として、「民間教派」の「五教合一」論のような流行教義が、「教」の範たる儒教の再定位において、「宗教」としての儒教の定位という潮流を代表していたことを挙げた。
第一章では、地方官僚を主体とする独立した乩壇であった濱壇・済壇が、青蓮教系教派同善社との接触を経て確固たる教団組織を有する道院へと発展するまでを跡付け、乩壇期に胚胎した素朴な信仰世界が、教団化に伴い救済論とそのための実践法を伴ったものへ変化したことを明らかにした。同時に、扶乩によって教団を運営する「乩壇体制」を保持した点に、初期の乩壇からの連続性が見出される点も指摘した。
第二章では、中華民国期「民間教派」の中でも、ニューウェイブとして位置付けられる道院が、清代の内丹書『太乙金華宗旨』や青蓮教系教派同善社の信仰・実践内容の部分的採用を通じて、明清期の「民間教派」の伝統教義と一定程度連続性を有していたことを指摘し、それだけでなく独自の神話を備えた救済論を新たに唱えたことを、重要経典である『太乙北極真経』の検討を基に考察した。
第三章では、道院の救済論の社会的な側面である救劫論が、一九二八年の政府による取締りを経て強調点を変化させる過程を跡付け、非社会的な実践である坐功が、社会的な実践である慈善事業以上に救世のために役立つと強調されていく状況の意味を分析した。それは「宗教」の社会的価値を公益性に見出す「宗教」政策に対する、道院の教義的応答だったのである。
第四章では、中華民国期の代表的な慈善団体に数えられる世界紅卍字会が、一方で赤十字社等の慈善団体への対抗の論理として、慈善を不完全な救済方法だとする言説を繰り返していたことを指摘し、それを、「慈善」という新語の概念内容が脱「宗教」的なものとして合意を形成していく過程で生じた反発として捉えた。
第五章では、道院の五教合一論(「宗教」一致論)が、科学主義的「宗教」批判に対抗するレトリックとして、「科学と戦争」対「宗教一致と平和」という『息戦論』以来の図式に加え、「宗教性」(「迷信」性・排他性)を除いた「超宗教」という自己規定を用いていることを指摘した。特に、批判的な「宗教」言説を内面化しつつ、「超宗教的」的価値の標榜によって「宗教」批判を相対化させる発想に、五教合一論の「近代性」が見出される。
終章では、反「宗教」主義との格闘としての教義形成という視点から全体をまとめなおし、「宗教」批判の内面化によって、自らの「真実性」の根拠を非「宗教」的な価値に訴えざるを得ないことの「近代性」について指摘した。
1 本論では、「宗教」廃絶の立場だけでなく、「迷信」を排除し、合理的な「宗教」の構築を目指す反「迷信」の立場をも反「宗教」主義に含めている。それは、一つには、民国期を通じて、「宗教」と「迷信」が、重複する領域を持つ近似した概念とみなされていたこと、二つには、本論が「民間教派」として把握する諸教派、すなわち同善社や悟善社、道院が、南京国民政府下、「宗教」ならざる「迷信機関」として排除されようとしたことを理由としている。ラナ・ミッターは、国民党と共産党がともに「非宗教的」であったと断りつつ、「非宗教の立場は必ずしも、反宗教ではない。共産党は宗教それ自体に敵対的とはいえ、新生活運動は中国国内の宗教をカルトや迷信と区別したうえで公認しつつ、しかも精神世界を物質的・政治的な領分から切り離そうとした」と説明している。ミッター,ラナ、二〇一二(二〇〇四)年、一一二頁。しかし、これらの「民間教派」を「迷信」=非「宗教」にカテゴライズし、排除することを、単に反「迷信」であり、反「宗教」ではないと論ずることは南京国民政府が初めて設けた「宗教/迷信」という「行政上の枠組み」を無批判に再説することになる。南京国民政府の「迷信」政策を詳細に論じたレベッカ・ネドスタップは、道院等に対する取り締まりを「信教の自由」の否定とみなしている。この観点に立てば、南京国民政府の設けた「迷信機関」とは、「信教の自由」に反することなく「宗教」団体を禁止するために発明されたカテゴリーだといえるだろう。Rebecca Nedostup, 2009, P28.
2 プラセンジット・ドゥアラの提示した、一九一〇年代以降に多く現れた一群の「宗教」団体に対する呼称。ドゥアラは、代表的な「救世団体」として、道徳会、道院・世界紅卍字会、同善社、在理教、世界宗教大同会、悟善社、一貫道を挙げ、その特徴を以下のように説明する。「これらの諸団体は、その起源である特定の歴史的伝統と、一九一〇年代における同時代的グローバルな文脈との、複雑な相互作用という観点から理解されなければならない。この諸団体は、明らかにセクタリアニズム(*セクトの伝統――訳者)とシンクレティズムというという中国の歴史伝統から生じた。セクトの伝統と密接な関わりを持ち、仏教や民俗的神仏――無生老母のような――への信仰を取り込んだものもあったし、また後期帝政期のシンクレティックな伝統である三教合一――儒教、仏教、道教という三教を単一の普遍的信仰に統合したもの――を標榜しもした。後期帝政期のシンクレティズムは、世俗的な欲望を絶ち、道徳的行いの実行を促すものであり、一六世紀から一七世紀にかけて、儒教エリートや仏教・道教の在俗信徒の人気を獲得した。近代の救世団体はこのシンクレティズムから、普遍主義と道徳的自己改革の使命を受け継いでいる。同時に、これらの団体は、旧来のシンクレティクな諸団体と結びついた、セクト的伝統・民間の神仏・卜占=プランシェット=スピリット・ライティング(*扶乩――訳者)をも維持した。この点では、彼らは、中国の民間結社(「popular society」)との有機的な繋がりを維持し続けたのである」。Prasenjit Duara,2003, p.103. 以上のように、「救世団体」の理解のために欠かせない視点として、ドゥアラはセクト(教派)及び三教合一の伝統と、二〇世紀初めのグローバルな状況という歴史的文脈を挙げている。
3 例えば、デイビッド・パルマーは、「救世団体」をすこぶる民国期的な運動として捉えており、大陸や台湾で次なる「宗教」の潮流を生み出したものの、それ自体はすでに衰退しており、発生から衰滅までを見渡せる完結した運動として捉えている。David A. Palmer, 2011, p.p.40-43.
4 中華人民共和国は、一貫道、同善社のような信仰を紐帯にする「宗教」組織を、非合法組織として一括して反動的「会道門」と称し、取り締まってきた経緯がある。そのため、この用語によって、これらを把握する論者は、「封建性、落後性、および政治的な保守性と反動性」であることをその特性として捉えており、批判的に論じる傾向が強い。梁家貴、二〇〇八年、三頁。
5 瑚エ、一九九七年、一六四〜一六五頁。陸仲偉、二〇〇二年、一六〜二九頁。秦宝g、二〇〇四年、二二三〜二四六頁。一例として、瑚エは民国期の会道門に生じた新たな特徴として、1多くが社会団体として合法化されたこと、2三教合一論から五教合一論への拡充を図ったこと、3武装化を進めたこと、4慈善事業等の社会的機能を強化したことを挙げている。ただし、いずれの変化についても、「封建的」、「反革命的」な意図と結びついたものであると、説明が補足されている。
6 T字型あるいはY字型の乩筆を一人ないし二人の人が持って、砂・香灰を薄く敷いた盤に次々と文字を書いていく。乩筆は、持ち手の意思と関わりなく、神霊の意図によって動くとされ、こうしてできた文章は神や仙人、あるいは鬼(死者の霊魂)のお告げとされた。扶乩の発生は六朝〜宋代にまで遡る。時の王朝・政権から正統な実践として認められることはなかったものの、知識人――そこには科挙受験者から合格して官僚になった者まで含まれる――、あるいは道士、仏教者など広範な層に実践者を有していた。また扶乩は個人的な神託・卜占の技法を超えて、団体を組織させる凝集力を持った信仰を生み出しもした。一九世紀後半には、扶乩を行う乩壇・鸞堂は中国各地に遍在しており、中には善挙(伝統中国における慈善事業)を行うなど社会的に活発な動きを見せる団体も存在した。山田賢の指摘するように、善挙の実践は、劫(大災害)の到来を善行によって挽回することを奨める勧善書・「救劫の善書」の思想と密接な関係にある場合が少なくなかった。終末論と救済論の結合したこの「救劫」というアイディアは、様々な変種を生みつつ民国期以降も乩壇や「宗教」団体内で唱えられ続けたが、道院はそれを継承した団体の一つであった。扶乩の説明に関しては、David K. Jordan and Daniel L. Overmyer,1986.山田賢、一九九八年、志賀市子、一九九九年、鈴木健郎、二〇一〇年を参照した。
7 孫江、二〇一二年、一四〇頁。
8 酒井忠夫、二〇〇二年、吉岡義豊、一九七四年。かつ、その教義説明も、『道慈綱要』や『道慈問答』といった道院の教義書を紹介し、そこに若干の解説を加えたものであり、思想史的な検討は行われていない。酒井忠夫は、『道慈綱要』(一九二三年に瀋陽道院に付属する道慈研究所の講義録をまとめた道院初の体系的教義書)の抄訳を中心に、道院・世界紅卍字会の、坐功(静坐の工夫)、「五教合一」論、慈善活動といった教義や実践に若干の解説を加える。酒井の主張で注目されるのは、これら教義・実践が「民族的宗教の伝統」に属するものであり、それを超えたものではないと強調する点である。例えば、道院の静坐を、「仏教的な禅法及び道教的な胎息の法に通ずるものであるのみならず、両者混淆の民族的宗教の伝統に属する」(二六五頁)とし、「五教合一」論を「民族的伝統を超えた普遍宗教的なものではなく、道と五教の関係や内修外修の宗旨は記述の如く民族的宗教の伝統に属するものである」(二六六頁)とし、慈善活動については「その行慈の基礎に儒・仏・道三教合一の民族的信仰が流れている」(二七六頁)と説明している。いずれも、その新規性以上に、「民族的宗教の伝統」性を本来的なものとみなす見解に貫かれている。吉岡義豊は、道院入信者に最初に与えられる坐功の手引き書『修坐須知』と、道院が比較的後年に編んだと考えられる問答形式の教義解説書『道慈問答』の抄訳を載せて、教義解説に代えている(二四二〜二四八頁)。
9 例えば、南京国民政府期の「迷信」政策について研究したレベッカ・ネドスタップは、国民統合の障碍となる「宗教」的紐帯を「迷信」として排除し、それを国民意識や国民党・国家への信仰で代替させようとした南京国民政府の統治の発想を、「迷信レジーム」と表現することで、「近代化」を単に「世俗化」・「合理化」と見なすことがいかに硬直した見解であるかを指摘している。Rebecca Nedostup, 2009, p.p.3-4.
10 中国の近代を、天津という具体的な地域の歴史過程として実証的に提示した吉澤誠一郎は、近代化を特定の方向性を持った変化として目的論的に描くのではなく、地域の伝統と「西洋近代」の相互作用がもたらした具体的な歴史過程の中に見て取れる新たな傾向として提示している。本論も、目的論的に「近代化」を語る態度を取らない。吉澤誠一郎、二〇〇二年。
11 吉澤誠一郎、二〇〇二年、六頁。
12 「西洋近代」に発する「宗教」概念の歴史的構築性と、それが非西洋圏に浸透する際、彼我の権力的不均衡を背景に、現地の「宗教」伝統を切り分け、再編成していく様相を論じたタラル・アサドの論考が代表的である。アサド,タラル、二〇〇四(一九九三)年。
13 「民主」と「科学」を口号に掲げた新文化運動は、儒教批判を強力に行った。儒教(孔教)と政治や教育、道徳との関わりをめぐる論争を通じて、少なくとも表面的に儒教を社会から退潮させていき、いわば中国版「世俗化」――無論、比喩である――の試みを成功させた。しかし、儒教の退潮は、儒教の社会的な再定位の一部に過ぎない。例えば、当の新文化運動への反動として、儒教と西洋哲学との融合を図り、儒教の復権を唱える新儒家の潮流が発生したことは、中国思想史では常識に属する事柄である。また、「民間儒教」と呼ばれる流れでは、儒教は「宗教」として、その救済論的な役割が主張されもした。
14 森紀子、二〇〇五年、一八八〜一八九頁。
15 池澤優、二〇〇一年、六二頁。いささか極端なものいいになるが、「三教」の範たる儒教が、現代中国のいわゆる「五大宗教」(政府公認の仏教、道教、イスラーム、カトリック、プロテスタントを指す)に数えられていないことが――無論、それは儒教に信徒や職能者の組織がないことが主な理由だろうが――、「教」と「宗教」の違いを端的に表現している。
16 池澤優、二〇〇一年、六〇〜六二頁。
17 孫江、二〇一二年、一九〜五三頁。
18 もっとも、池澤によれば、「宗教」の語は当初、「教」概念が帯びた君主統治に関わるものというイメージを内包する「価値判断を含む政治的概念」として受容された可能性があったのであり、現代においても政治的な観点からは、「宗教」は依然として国家・社会に奉仕するものだという前提が存在しているという。池澤優、二〇一三年、七頁。
19 『中華民国臨時約法』第五条「中華民国人民、一律平等、無種族、階級、宗教之区別」、第六条(七)「人民有信教之自由」。
20 『中華民国約法』(一九一四年五月一日公布)第五条(七)「人民於法律範囲内、有信教之自由」。『中華民国憲法』(一九二三年一〇月一〇日公布)第一二条「中華民国人民有尊崇孔子及信仰宗教之自由、非依法律不受制限」。『中華民国訓政時期約法』(一九三一年六月一日公布)第一一条「人民有信仰宗教之自由」。『中華民国憲法』(一九四七年一月一日公布)第一三条「人民有信仰宗教之自由」。
21 広池真一、二〇〇三年、三八〜四一頁。
22 清末の変法運動を領導した政治家康有為は、『孔子改制考』(一八九七年)において、孔子を儒教の教主、改革者として位置付け、変法運動の理論的根拠とした。さらに、孔子を教主とする「孔教」を国教とすることによって民心を教化し、キリスト教の布教に対抗すべきことを、政治改革の一つの柱として主張している。村田雄二郎、一九九二年。その主張は、変法運動自体の失敗にも関わらず、清朝末期の尊孔政策に影響を与えたほか、民国期北京政府の政策にも流れ込んでいった。辛亥革命によって成立した中華民国が、当初、国制や学制から儒教を除こうとする動きを見せたことから、康有為、陳煥章らは、一九一二年一〇月に孔教会を発足し、孔教の国教化を訴えた。その際、陳煥章の発言にも見えるように、孔教は「宗教」であることが明瞭に主張された。森紀子、二〇〇五年、一八五〜一八八頁。
23 ドゥアラ,プラセンジット、二〇一一年、二〇五頁。
24 武内房司、二〇〇一年。
25 范純武、二〇一一年A。
26 范純武、二〇一一年B、二三〇頁。
27 小武海櫻子は、日中米の「宗教結社」関連分野の用語と概念を整理しつつ、近年の研究動向に、丹念な解説を加えている。それによれば、「秘密結社」研究の一部として始まった「宗教結社」研究は、「反体制・反社会的」、「秘密主義・排他的」といった本質主義的な「結社」像を、歴史的文脈の中で解体し、位置付け直してきたという。加えて、近年には「共同体の宗教伝統」や「救世団体」という、視角の刷新を伴う新たな用語が提出されていることも紹介している。小武海櫻子、二〇一〇年。
28 「宗教結社」の語は、中華民国期以降「秘密結社」の下位分類として、日本人識者・研究者の著作に登場したという経緯がある。孫江、二〇〇七年、四二〜五四頁。酒井忠夫は、一九四四年に『近代支那に於ける宗教結社の研究』(二〇〇二年に『近・現代中国における宗教結社の研究』として改訂されている)を著し、紅槍会や青幇などを「宗教的秘密結社」、悟善社・救世新教や道院・世界紅卍字会などの「新興宗教」を「宗教結社」と呼び、両者を区別した。戦後の研究では、「宗教結社」を、歴史的な教派をも包含する用語として用いることが一般化している。一例として、専著を挙げる。浅井紀の『明清時代民間宗教結社の研究』(一九九〇年)では、明清期の羅教や、聞香教、清茶門教、先天道(青蓮教)を、「民間宗教結社」という語で呼び、歴史的な教派の総称としてこれを用いている。こうした用法は、現在でも行われており、例えば日本における中国「結社」研究の代表的な概説書である野口鐵郎編著『結社が描く中国近現代』(二〇〇五年)でも、多くの研究者が「宗教結社」の語をこの意味で用いている。
29 馬西沙・韓秉方、一九九二年、一頁。
30 特に明清期以降の教派には、無生老母信仰や三期末劫論、内丹的修行法など、神格や終末論、修行法を共有する例が多く見られ、そこにゆるやかな体系を見出す研究もある。路遥、二〇〇〇年、二七〜三六頁。
31 馬西沙・韓秉方、一九九二年、一六五〜四〇五頁。
32 武内房司、二〇〇一年。青蓮教は、同善社や一貫道、先天道等の清末から民初にかけて現れた著名な教派を生んだ道統として知られる。特に、近代の諸教派に見られる、社会的活動の重視という特徴は、嘉慶・道光期に貴州・四川で活動した青蓮教の祖師の一人、袁無欺の「度己度人」説に淵源を持つと考えられる。袁無欺は、内丹的修行を通じて自己の救済を達成する「度己」だけでなく、布教を通じた他者の救済「度人」をも重視すべきという教説を行った。後年の青蓮教系教派において、内丹的修行と同様に、慈善活動のような社会的活動が重視されたのは、袁無欺以来の青蓮教の伝統にその根拠が見いだされるのである。武内房司、一九九二年、六一〜六三頁。
33 たとえばダニエル・オーバーマイヤーは、「民間教派」の正当性を部分的に肯定しつつ、全体に渡る正当性を認めない様々な態度を、「二元的」アプローチとして類型化し、その背後に、民間教派は正統宗教に劣るという研究者の価値判断が潜んでいる点を批判した。オーバーマイヤー,ダニエル、二〇〇五(一九七六)年、三一〜六五頁。
34 キャサリン・ベルは、エリートの宗教と対比される民衆の宗教という「民間宗教」説以外に、二つの新たなアプローチを紹介している。一つが、エリートと民衆のいずれもが共有する基盤として「民間宗教」を捉えるアプローチである。そして、もう一つが、「民間宗教」を多様な立場と価値観の乗り入れあう場、そこにおいて差異化と統合化が同時に進展するプロセスとして捉えるアプローチである。Catherine Bell, 1989. 森由利亜は、九〇年代以降のアメリカの「通俗宗教popular religion」をめぐる議論が、エリートと民衆の区別を相対化させる立場をすでに前提としており、加えて多様な宗教伝統が緊張をはらみながら複雑な統合を成立させていく「場」として「通俗宗教」を捉えなおす傾向にあることを指摘している。森由利亜、二〇〇二年。
35 たとえば、近年の「communal religious tradition(社区宗教伝統)」は、従来「民間宗教」とみなされてきた領域を、多様な宗教伝統の交流の場として説明し直したものである。ポール・カッツによれば、「communal religious tradition」とは、郷村・城鎮を含む生活の場(社区)における宗教伝統が、民間の神仏への地域的崇拝、民間教派、秘密結社だけでなく仏教、道教などの「制度宗教」といった異なる要素から形成されているとみなす研究の立場だという。康豹(Paul R. Katz)、二〇一二年、三四五頁。
36 孫江、二〇〇七年。
37 DavidOwnby, 2008.  
   
■第一章道院の成立:乩壇体制の維持と信仰の変化

 

第一節はじめに
道院の前身は、山東省濱県及び済南で地方官僚らが起こした小規模な乩壇1だった。前者を「濱壇」、後者を「済壇」と呼ぶ。
これまでの研究では、道院の最初期について、乩壇から発生したという概略が述べられるに留まっており、前身となる乩壇の活動・信仰内容等の詳細について論じられてこなかった――情報の少なさゆえか、いくつかの研究におけるこの時期の概説には、誤解も見受けられる2――。そのため、道院が乩壇から教団組織へと発展していく過程で、何が変わり、何が変わらなかったのか、検討に必要な材料すら十分に提供されていない。そこで本章では、まず同乩壇の成立過程、信仰・活動内容について詳述し、この乩壇がどのような変化を経て、道院へと改組したのかを跡付け、一方で道院においても、乩壇としてのあり方が維持されたことを明らかにする。
本論では、濱壇から道院成立後まで、扶乩を最高の権威の源とする組織運営のあり方――これを「乩壇体制」と呼ぶ――が維持されたことを、道院の組織的特徴として強調している。近年、Prasenjit Duaraの「救世団体(Redemptive Societies)」論を土台に、道院を含む中華民国期前後に勃興した一群の民間教派を、歴史的な、あるいは同時代の思潮や宗教的潮流との関わりの中で、捉えなおす研究が進みつつある。「救世団体」論は、一貫道、同善社、道院のような民間教派を、救済論や社会的実践に共通性を有する同じグループとして捉えるものだが、David A. Palmerは、それら「救世団体」と乩壇・鸞堂、斎堂、善会・善堂・慈善団体、道徳団体をはじめとする群小の集団との「有機的関係」(「「救世団体」が、それらを土壌に発生し、またそれらを自らの組織に組み込むという関係」)に注目し、近代のより広範な社会文化・宗教的潮流の中に、「救世団体」を位置付けようとする3。志賀市子は、地方の群小の鸞堂・乩壇も、確固たる教団組織を有し全国展開を遂げた「救世団体」もそこに通底する共通の思想(「地方の無名の扶鸞結社が編纂した鸞書と同様の思想」)があるとして――その事例として「道院世界紅卍字会」を挙げている――、十九世紀以来の「扶鸞結社運動」と、「救世団体」を連続的に把握すべきだとする4。これらの研究は、本論の道院理解にとっても示唆的な指摘を含んでいる。
しかし、同時代の民間教派を総体的に捉えようとする主張は、反面、団体間の異同――それは最も近しいとされる団体間にも存在する――や、団体の歴史的由来・思想的系譜に対する検討を十分に踏まえていない、あるいはそうした異同の要素を過度に捨象してしまっている。例えば、まさに、乩壇から発生した「救世団体」の代表といえる――上述の研究も道院をそのようなものとして言及している――道院の発生状況やその教義の来源について、これらの研究は検討を加えていない。具体的な経緯を追うことによって、なぜこの時期の民間教派の教義や宗教的・社会的実践が共通性を帯びているのかを、単に似通っているという指摘だけにとどまらず、明らかにしうるだろうし、また団体間の異同について論じることが可能になるだろう。本論が、道院・世界紅卍字会という一団体の個別研究を目指す所以である。
この作業を通して、ようやく「救世団体」論のいう、民間教派の歴史的・同時代的な位置づけや、社会文化・宗教的潮流との関わりを、具体的な相のもとで説明することが可能になるだろう。
第二節濱壇の信仰:尚仙乩壇の創出と変容
(一)濱県公署と大仙祠
本節では、濱県公署の大仙祠碑文5の内容をもとに、濱壇の成立状況とその信仰の内容および神仙世界の形成過程を確認していく。山東省濱県公署の裏庭には、同治年間の建立だという、由来の定かでない大仙祠が存在していた6。後にこの祠に祀られているのは唐代の人尚正和であり、清代にこの地に至って難民を救った仙人だと信じられるようになるのだが、実のところ民国当初は仙人の名前すら知られていなかった。しかし奉祀するところの神仙が何者であるか忘れられていたにもかかわらず、大仙祠は官民を問わず多くの人々の信仰を集めていたという。
「濱県公署の大仙祠は病気の処方箋の求めに応じ、病を癒し、その霊験は〔叩けば〕響くかのようだったため、長年参詣が非常に盛んだった。この地を治めるものは、必ず対聯の額を献じて懸げ、これを崇敬し各々心からの信仰を表した。…しかし〔大仙祠に祀られているのが〕いずれの神仙であるのか、当初は知られていなかった。福永らは宿世の縁によって、この時になって巡り合った。ある日木を削って筆を作り、砂をならして紙の代わりとし、本祠の大仙に〔おでましを〕願った。ついに真宗山人というお方が壇に降った。7 」
大仙祠を信仰していたのは民衆ばかりではなかった。上に引用した一文は一九一七年末に、県知事呉福森らが大仙祠脇に建立した碑文の内容である。文中に見える「福永」が、呉福森の道名である。碑文によれば歴任の知事も相応の敬意を大仙祠に払ってきたが――すなわち大仙祠は、官僚と庶民とが共に信仰する社だったのであり、県公署の敷地内にあったことから、あるいは元来官僚機構と密接な関わりにあったものだったと考えられる――、殊に新来(一九一五年着任)の知事だった呉福森は、ついには石碑を建てて顕彰するほどこれを篤く敬った。彼が歴任の知事を上回る崇敬を表したのは、扶乩を通じて大仙祠の仙人と個人的な誼を結んだためであった。彼が主催するようになった乩壇を「濱壇」と呼ぶ。後の「済壇」、道院へとつながる乩壇である。
さて濱壇、大仙祠の初期の様子は、後年の記録にも見える。
「県公署の裏庭には、もともと大仙祠があった。毎月一日と一五日になると、民間から遠近なく非常に多くの人々が大仙祠に来て、くじをひき、病気の処方を求めたり、尋ねごとをしたり、願ほどきしたりするのだった。これがすでに多年にわたる習慣になっており、歴任の知事はみな禁止することはなかった。…県署の大仙祠のそのいわゆる「大仙」は、尚大仙といい、彼ら(濱壇の信徒ら)が言うには一九一六年一一月二五日に初めて降壇した。そこで彼らはこの日を濱壇の正式な成立日とした。8 」
この口述によれば大仙祠には、月に二回、大勢の参拝者が「求方」や「問事」をするため訪れたという。大仙祠が長らく民間から一定程度の信仰を集めており、県公署もその状況を追認していた様子は窺えるが、それ以上のことは述べられていない。民間における大仙祠信仰の具体的な状況については不明のままといえる。しかし、一九一五年に県公署の新たな主となった呉福森が、主体的にこの信仰に関わるようになると、彼らによって比較的詳細な記録が残されるようになる。
呉福森は着任後、県公署の役人とともに扶乩を実践するようになった。扶乩に質す内容は様々だったようだが、そのうち大仙祠の主祀が誰なのかという問いも、発せられた。一九一六年一一月のことである。碑文に見えるように、はじめて降壇した際、大仙祠の主は「真宗山人」と名乗った。ほどなく大仙祠の前で、この仙人を崇敬するものたちによって、定期的な扶乩の集いが持たれるようになる。これが濱壇と呼ばれる乩壇の発生である。
呉福森の着任以前から続いていた大仙祠信仰と濱壇の信仰は、同じ仙祠の神仙に向けられたものという点で、ひとまずは連続したものだったといえる。ただし、濱壇の活動は少人数の県公署関係者によるものであり、乩壇が一般の民衆に対して開かれていたという記述も見当たらない。同じ神仙を祀っても、民衆の活動と地方官僚を主体とする濱壇には隔たりがあったと考えられる。
つまり、大仙祠は従来、官民が共に信仰していた正体不明の神仙の社であったが、扶乩によって創出された神格を中心とし、成員も官僚層に限定的であった濱壇は、それ以前の信仰のあり方から、距離をとった新たな信仰集団として立ち現れつつあったのである。
(二)濱壇の縁起
扶乩を媒介に、濱壇と大仙祠の真宗山人の仲は深まって行った。残された往時の乩文から、濱壇の参加者らがこの仙人にますます興味を覚えていった様子が窺われる。例えば彼らは、仙人の本当の名前を知りたがった。大仙が名前を明かした経緯は以下のように伝えられている。
「壇の前で、弟子の葛(葛風清)、呉(呉澄濤)の両君がひそかに議論して、「仙人の名前はおそらく本当ではあるまい、〔本当の名を〕示してもらおう」と話した。その場で扶乩を願うと、仙人は示して言った。「尚正和が私の本当の姓名だ(「尚正和是我真名的姓」)。この対聯を諸君らに続けてもらいたいのだが、どうか」。一同は皆、「いいえ、とてもできません」と答えた。そこで仙人は続けて言った。「私が自分で対聯を作ろう。忠信を主とし、人として品行を正しくせよ(「主忠信為人言矩行規」)」。9 」
壇の前でひそやかに話す信徒に、すぐさま扶乩を通じて仙人が挑むように応答する。扶乩を実践する場の情景が、生き生きと描写されている。ここで仙人(以下尚仙)は自らの名を明かしつつ、それを対聯にしてみせる。周知のように、即興で文字を記していく扶乩は文人にのみ可能な実践であり、乩壇には文人サークルとしての側面がある。扶乩によって神仙と参加者らがこのように対聯あるいは詩文を応酬することは、濱壇でも一般に見られた光景だったようである。尚仙に信徒らが詩や対聯を願ったという記述は、往時(一九一六〜一九二〇年)の乩文を集めた「濱壇紀要」中にも多く見られる。こうした乩壇の性格は、後年に成立する道院・世界紅卍字会にも引き継がれるものであった。
こうして名前も明らかになった尚仙は、一九一六年末以降、「惜しむことなく教え、信心に応えないことはなかった。遠まわしに用心を促す言葉で、人を大いに啓発した」10。そのため、乩壇の参加者は彼を師として拝するようになる。当時、弟子の数は呉福森と関係のある一二人だったと伝えられており11、小規模な私的サークルの範疇を越えるものではなかったようである。以下の内容からも彼らがどれほど扶乩に熱中していたかが、垣間見える。
〔尚仙の〕乩示は今や数万言である。わが師は道徳を蓄え、文章をよくし、答辞の詩歌は絶妙なものばかりである。医術は中でも霊験があり、同門の者で乩壇に処方と薬を請うものがいると、廬扁(名医扁鵲)であっても敵わない〔処方を下した〕。12
尚仙は弟子の求めに応じて、親しく「数万言」もの乩文を与えたという。尚仙がそれだけ「乩示」したということは、つまり、それだけ扶乩が頻繁に行われたということである。その乩文の内容は、未来の警告から詩文まで様々であったが、「医術は中でも霊験がある」と特筆されているように、その処方は篤い信仰を得ていたようである。上述の乩文集「濱壇紀要」も、尚仙が降した三例の処方を伝えている。病気に対して有用な心構えを諭す例13、有効な生薬の名前を示す例14、病気の診断をする例15である。病気癒しは、扶乩に対する信仰を支えた一つの柱であったと推測される。
さて主壇である尚仙に対する弟子たちの興味はなお尽きず、扶乩で彼の来歴を尋ねるということが繰り返された。そして、濱壇の信徒は一九一七年冬までに以下のような尚仙の事績を「発見」するに至る。尚仙は名を正和、号を履平という。真宗山人というのは別号である。六六四年、山西汾西県十字約尚家荘で生まれた。唐の開元年間(七一三〜七四一年)、八仙の一人張果の弟子として野にあった頃、玄宗皇帝から三度も召しを受けたがすべて辞去した(このくだりは、張果伝をもとにしていると思われる)16。睢陽西部に位置するという丹鉛山白鶴洞でその後も修行を続けた。一一四四年に仙人となる。明代になって丹鉛山を出た後は、天台山で護国虎威大将軍の位に封じられ、浙東を鎮守していた。しかし、清の咸豊同治年間に太平天国の乱が起こると、これを避けて濱県の官邸にやって来た。そこで医術を施して難民を救ったことがある。最近、天台鎮威護国将軍に封じられた17。
こうして尚仙の来歴が明らかになった。無論、それは濱壇によって創出された「来歴」であり、大仙祠が建立された経緯とは関わりがなかったようである18。しかし、それは県知事らの手によって大仙祠脇に建てられた石碑に刻まれ、官公認の新たな縁起とされたのである。加えるに、石碑には、これらの来歴が扶乩によって知らされたということや、濱壇の信徒たちによって立碑されたことが明記されている。したがって、この石碑は大仙祠の縁起を示すものであると同時に、県公署内に起こった新たな乩壇の縁起を伝えるものでもあったのである。
(三)濱壇の神仙世界
濱壇は尚仙を師とも、主壇ともする乩壇であるが、そこに現れた神仙は尚仙だけではない。「濱壇紀要」には尚仙のほかに、呂洞賓や済公といった扶乩と馴染みの深い名高い仙仏から、無名の神仙に至るまで、二〇を超える神仙聖仏の名が現れている。こうした神々、とくに多くの無名の神仙が登場することによって、濱壇には徐々に独自の神仙世界が築かれていった。
神仙が残した乩文には、自身の来歴を示したものがいくつか見られる。それは彼らが無名の神仙であって、降壇すると信徒らによって、まず誰何を受けたからである。そこで判明した仙人たちの来歴は、乩文以外に根拠がない場合もあれば、地元の伝承や石碑を基にしていることもあった。例えば、「濱壇紀要」に一度だけ現れる靳真人は、『濱州志』中に見える宋末金初の道士靳用章である19。靳用章は濱州安平鎮の高尚観で道長を務めた実在の人物とされる。「濱壇紀要」では、同地に残る靳用章の碑に触れ、彼が民衆を救ったという事績も紹介している20。ただ乩文には史書の記載と異なる点もあった。靳用章の師は実際には高尚観を開いた高尚真人劉卞功だが、乩文は呂洞賓――彼もまた八仙の一人である――が師だとする。
尚仙に次いで「濱壇紀要」に多くの乩文を残す王仙も無名の仙人である。上述の靳真人と異なるのは、扶乩の示す文章以外に来歴の根拠を持たない点である。彼の語る事績は、尚仙のそれとよく似ている。
「王仙が降壇して自らこう述べた。「名は維遇、号は清平、別号して雲峯仙子という。宋の処士で、江蘇泰県の人である。宋の徽宗四年(一一〇三年)から、浙江天台山厳岩峯で二百余年修行し、道を求めた。師伝というものがなかったので、明の太祖が金陵に都を建てた年(一三六八年)に、崆峒山に赴き呂祖(呂洞賓)に学んだ。清の康熙三十二年(一六九三年)、番匪の乱を避けて泰山天門洞に隠れた。咸豊十年(一八六〇年)に〔山東省〕済河県へやって来た。嘉慶年間(一七九六〜一八二〇年)の水害では、尚真宗山人(尚仙)とともにこの地で難民を救った。〔尚仙とは〕現在まですでに百年の付き合いだ。」21」
八仙の一人に師事し、兵乱を避けて他所から山東にやってきたという大枠のエピソードは尚仙と同一である。また、尚仙とともに濱県一帯の地域で難民を救ったという事績も語られている。扶乩の場に個々に立ち現れる仙人たちは、各々の関係を語りながら、徐々に濱壇における神仙世界の有様を明らかにしていったのである。しかし、このことが濱壇の信仰のあり方に微妙な変化を生じさせることになった。
「濱壇紀要」に収録されている五〇以上の乩文の内、実に半数近くが尚仙の降したものである。これは、その他の神仙による乩文の数と比べて、際立って多い。繰り返しになるが、濱壇が基本的には尚仙との師弟関係を核とする集まり、つまり「尚仙乩壇」とでも呼ぶべき集団だったからである。しかし、神仙世界が拡充し、その序列が明らかになるにつれて、尚仙の地位は徐々に低下していかざるを得なかった。尚仙や靳真人、王仙などの無名の仙人には、師である八仙が現れ、さらにこの八仙より上位の神仙も濱壇に現れたためである。八仙の師である太乙仙尊22や南極老人、そしてすべての神仙の中で最も高位にある神、太乙老人などがそれである。
「同門のなかで、宇宙の神・聖の中でいずれの神が最も尊いのかと尋ねる者がいた。尚仙が判じていった。「太乙老人が最も尊い。私にはお招きすることができないが、諸君らの敬虔さにめんじて、南極老人にお願いして私に代わってお呼び頂こう」。翌日扶乩を行ったところ、南極老人と太乙仙尊がまず現れ、しばらくして「太乙老人である」と〔砂盤に〕書く者があった。その訓誨の詞は、人々を警覚させた。在壇の諸子は、これを仙師とも老祖とも呼んだ。誠心から敬おうとしたが、初めてのことでその至尊無上なること、今崇奉する道院の老祖だとは知らず、当時の訓語はすでに多くが散逸してしまった。23 」
太乙仙尊および太乙老人は、同じ「太乙」という名を持つが別々の神であり、いずれも既存の神仙には同定されない濱壇独自の神格として解されたようである。特に、「最も尊い」神とされた太乙老人は、後の道院でも最高神、至聖先天老祖として祀られる重要な神格であるが、濱壇時の記録としてこの神の由来を示したものは管見の限りない。従って推測による以外ないが、当時濱壇では「太乙老人」に対する理解は、最高の神格という漠然としたものにとどまっていたと考えられる。なお、この神の来歴がようらく明らかにされるのは、一九二〇年の『太乙北極真経』においてであった。これについては、第二章で触れる。
さて、濱壇の神仙世界には、後年の道院が制定したような位階制は見られないが、徐々に神仙間の師弟関係が積み重なり明確な序列が出来ていったようである。そして、濱壇における尚仙と信徒の結ぶ師弟関係は、この中に巻き込まれていった。繰り返すが、それは相対的に尚仙の地位の低下を招いた。例えば、尚仙が現れない時期があった際、扶乩を行うと以下のような乩示が信徒たちに与えられた。
「通玄張祖師(張果)が臨壇された。同門の者は、尚仙が久しく降乩してくださらないので、今どちらにおいでなのかをお尋ねした。〔張果が〕判じていうには、「尚正和は魔によっていささか左遷されている。ほどなく本の地位に戻るだろう。お前たちはたびたび仙人を呼び出すが、そうすることで仙人と教化の仕事を損なうだけでなく、お前たちもこれから左遷されないとも限らないのだぞ」。24 」
尚仙の降壇しない時期、張果が現れた。尚仙の師である張果ならば、弟子の事情を知っているだろう質問したところ、「左遷中だ」という返答を得た、という内容である。尚仙は、俗世を超えた仙人であり、濱壇初期の主たる信仰対象ではあったが、複雑になっていく濱壇の神仙世界の中では、絶対的な存在ではいられなかった。
(四)小結
濱壇の神仙世界の形成は、旺盛な扶乩活動の結果、乩文に現れた無名/著名の神仙が、道教・民間信仰中の既存の仙人信仰と一部リンクしつつ、徐々に序列化されていく過程だったと要約することができるだろう。つまり、尚仙や王仙のように扶乩によって新たに見出された神仙たちであったが、それはまったく伝統的な信仰世界と無関係というわけではなく、八仙(張果、呂洞賓)や南極老人などの広く知られた神仙や、靳用章のような地方的信仰対象と結びつけられながら、ある程度秩序だった世界観を構成する部分へと落とし込まれていったのである。
ただし、尚仙にせよ、太乙老人にせよ重要な信仰対象が、濱壇独自の神仙であったという点は、注目に値するだろう。それは、濱壇が、既存の乩壇や民間教派などと確たる接点を持たない独立した乩壇だったことの一つの証といえる。また信仰対象がおなじ大仙祠の仙人である点では、濱壇以前から存在した大仙祠の民間信仰と共通するとはいえ、本節における検討を通じて明らかになったように、その信仰内容は官僚が主導し確立させたものであり、かつ民衆に対して開かれたものだったとは認めがたい。濱壇は独立性の高い乩壇であったと結論づけられる。
第三節地方官僚の乩壇:呉福森乩壇としての濱壇
(一) 幕友としての乩手
前節では、濱壇の成立から発展までを、尚仙信仰の確立や神仙世界の構造化といった信仰の変化から跡付け、団体の独立性について論じた。本節では、同じ経緯を、濱壇の信徒、特にその中心人物であった知事呉福森の活動から跡付け、濱壇の結末までを辿る。
濱壇の開設者は、当時濱県知事であった呉福森(一八七〇〜?)と県公署総務科長洪士陶(一八七九~一九二二)、駐防営長劉紹基(一八八〇〜?)といわれる。呉福森は字を幼琴といい、一八七〇年江蘇省常州府陽湖県(後に武進県)で生れた。清末に監生となり25、山東通判を務めたとされる26。更に清朝の末年宣統三年(一九一一年)に斉河県知県に着任しており、民国になっても知事として留任していた。斉河県における呉福森の事績は以下のように伝えられる。
「最初に牛角河上流に水路を通し、溜まった水をはけさせた。次いで学童の調査を行い、学校の所在地を選んで決めた。創設した初等学校は一五〇校あまりである。余暇になるとみずから学校を視察し、優秀な者には奨励金を与えた。ときおり強盗誘拐事件が起こったが、部隊を率いて掃討してしまった。みずから部隊の先頭に立つことがよくあり、逮捕者を即刻処刑したため、県内は粛然とした。在任期間は三年であり、濱県に異動となった。27 」
水路の開削、あるいは初等学校の開設に並んで、彼の業績として挙げられるのは犯罪の取締である。後節で触れるように、呉福森は犯罪者や土匪の取締りに長けた地方行政官であった。『斉河県志』は、「逮捕者を即刻処刑する」など、犯罪者の処断に苛烈な態度で臨んだことをあわせて記している。ただ、犯罪者を仮借なく処刑したことについて、悔いるところがあったのかもしれない。呉は後年になって、事の是非を濱壇の尚仙に質している。
「呉君幼琴も聞いた。「これまでの任務で人を殺めましたが、過ちはなかったでしょうか」。仙人が判じるには、「心に偏りがなく、道理に間違いがなく、国の法でもって処罰したのだから、永らく健康無事だろう」。28」
呉福森は一九一五年に濱県知事へ異動となる。次なる任地の濱県公署裏庭には、大仙祠があった。同署の総務科長洪士陶が扶乩をよくする人物だったこともあり、呉福森と彼と劉紹基で一九一六年末頃に大仙祠に乩壇を設けることとなった。それが、濱壇である。伝えられるところによれば、濱壇における主たる乩手は洪士陶であった。洪士陶という人物の事績についてはなお未詳の点が多いが、呉福森との関係は以下のようであったという。
「県総務科長洪士陶〈字亦巣、江蘇如皋人〉は生員出身であり、文学、医術ともにそれなりの腕であった。詩詞をよく作り、扶乩もできて察しもよかったので、呉福森から頗る信任を得ていた。…彼(呉福森)になにかしら判断のつかない問題があると、洪亦巣はここぞとばかりに、扶乩で神に尋ねて解決するよう勧めた。どんなことを尋ねても、洪は呉福森に信じさせることができた。29 」
呉福森は難事に直面すると洪士陶の扶乩を頼った。実際的な目で見れば、洪士陶は呉福森にとっての幕友の役割を果たしたといえる。その助言は乩示の形をとってなされるという特殊なものだったとはいえ、彼の文学や医術に関する造詣の深さが乩示の説得力を担保していたことは想像に難くない。呉福森が度々扶乩に頼ったという証言は、残された乩文からも裏づけることができる。呉は私事のみならず、公務についても扶乩の指示を仰ぐことがあったようである。以下にいくつか例を挙げたい。例えば、一九一七年春、県北部の水路工事に着手すべきか決めかね、呉福森は度々扶乩を行った。
「濱県と利津県の境界にある葍子溝は長い間土砂で塞がれたままになっていた。掘削してとにかく利便を良くしようという計画が議論されたが、長い間果たされなかった。濱県の知事である呉君幼琴は、何度もこのことを乩壇に相談した。
何仙が臨壇して判じていうには、「〔濱県ではここのところ〕飢饉があり旱魃もあったのだから、葍子溝の工事に、公金を使ってはならないし、また民を動員してもならない。水が来て自然と水路ができる日がくる。その時には、船が〔水路をとおって〕海に出るのを見るだろう」。
右龍神が降壇して判じて言った。「〔工事が完成したなら〕大きな功績は私にあるが、働いたのは民である。洪水や旱魃もあったが、資金があれば〔工事は〕完成するだろう。民は満足して、涙ながらに嘆声をもらすだろう。おまえは工事が完成する日を問うが、旭月が西に沈み黄鶏が鳴くときである。そのときになれば水路の出来たことの良さが〔民にも〕自然とわかるだろう」。30 」
乩文は、資金の不足と民衆の疲弊を理由に工事の実行に否定的であったり、一方では工事の完成について好意的な預言を与えていたりする。相反する内容であり、あるいは別々の日に下された乩文であるかもしれない。その後、葍子溝の掘削が実施されたかは不明だが、呉福森が満足いくまで行政上の問題を濱壇で相談していたということは了解される。
次にあげる乩文は、土匪の問題について語る内容のものである。一九二〇年以降、政情不安を受け、山東省一帯で一層の悪化を見る匪賊問題であったが、一九一〇年代当時から呉福森もこれに悩まされていたという。
「濱県西部には匪賊が多く出た。知事の呉君幼琴はこれに困り、〔扶乩に〕問うことにした。仙人が判じていうには、〔責任があると〕恥じて言うには及ばない。この辺りにはこういった賊も多いのだ。〔濱県〕西部は〔匪賊に〕虐げられた郷なのであり、賊は〔そこには〕いない。お前たちは〔匪賊を〕捕まえてから、私に賊のアジトはどこか聞きに来るのか。お前たちに賊を捕まえさせたのは私ではないし、お前たちに賊のところに行って捜査して捕まえさせたのも、私ではない。31 」
脈絡が判然としないが、呉が匪賊のアジトについて質問し、これに尚仙が答えた乩文である。これを見る限り、アジトの在り処についてははぐらかされて判明していない。尚仙の神通を期待した呉福森の信仰のあり方が見てとれるが、土匪の取締りに神助は得られなかったようである。
以上、知事としての呉福森と扶乩の関わりにまつわるエピソードを挙げた。扶乩に行政上の相談事を持ちかける呉福森と、扶乩を介してこれに答える洪子陶の関係が浮かび上がって見える。残された乩文から読み取れるのは、地方行政に携わる人々が業余に扶乩を行う団体としての濱壇のあり方である。そこで主題になるのは、行政上の問題も含む彼らの身の回りの事柄であり、後の道院が中心的な課題とした救劫(災劫からの救済)32のような世界の救いを対象とするようなものではなかった。
(二)扶乩を通じた交流
濱壇は、呉福森らと交流のあった者十数名が入れ替わり参加する私的な集いだった33。参加者の中には、確認できる限りにおいても、利津県知事潘晋、後任の濱県知事李振鈞、蒲台県知事張綬甫、濱県勧学所所長鄭欽、県公署役人周徳錫など、官職にあるものが複数いた。
無論、社交と心得て濱県知事の業余に付き合うだけのものもいたと考えられるが、利津県知事潘晋34のように夫婦揃って乩壇に関わるような熱心な参加者も見られる。「濱壇紀要」には、潘晋が呉福森や劉紹基と共に利津県に壇を設けて扶乩を行ったという例や35、夢の中に現れて自分の病を癒してくれた仙人が誰であるかを尋ねた例36、自分の前世を尋ねた例37、潘夫人李氏が父母の死後生の様子を尋ねた例38、などが伝えられている。
また、前述の劉紹基は、濱壇の開設者の一人であり、後年の道院の発足の立役者ともなった人物である。皖系の一軍人であり、濱壇開設時は濱県、利津県などに跨って駐留する新防第二営営長の任にあった39。劉紹基は以下のような経緯で県公署内の扶乩に加わったという。
「当時濱県県城には一大隊がおり、営長は劉紹基〈字綿蓀、安徽鳳陽人、秀才出身〉といった。彼の率いる部隊は多くが土匪を改編したもので、紀律が非常に乱れており、身代金誘拐をはたらくなど悪事の限りを尽くしていた。しかし県公署には打つ手がなかった。洪亦巣(洪士陶)は一計を案じ、劉綿蓀を乩壇の開設に引き込んだ。それから疎遠だった県公署と大隊本部の仲は親密になり、常々共同で乩壇を開いた。40 」
濱県の治安を乱す輩は、単なる土匪だけではなかった。この記録の通りであれば、濱壇は土匪まがいの駐防部隊と県公署の間を取り持つ上で一役買っていたということになる。その後、劉紹基は扶乩に並々ならぬ関心を寄せ、時には営内に乩壇を設置し、自ら扶乩を行うこともあったという41。そして、「濱壇は一九一六年、劉紹基と呉福森らによって、設立された」42といわれるように、濱壇の中心的なメンバーの一人に数えられるようになった43。
では、こういった信徒間の交流において、扶乩は具体的にどのような役割を果たしたのだろうか。信仰――扶乩儀礼が神霊との交流を可能にする方法であるという信仰――を同じくしつつ、扶乩儀礼を共同で行うことがそのまま連帯感を醸成したであろうし、また同じ神仙を師として仰ぐ同門弟子という意識も互いの間柄を一層親密に感じさせるものだったであろうことは想像に難くない。加えて、乩文が描き出す前世譚が、直接的に連帯に関わる内容を語っている点が注目される。
『濱壇紀要』には、参加者の前世譚が散見する。前世は、問事のテーマとして、よく取り挙げられたものだったのであろう。これらの乩文は、一つ一つを見れば単発的な前世譚なのであるが、そこで語られる地名や固有名称には共通点があり、そこに一つの前世世界が想定されていたことがわかる。特に重要だと思われるのは、呉福森との縁について語るものが多いという点である44。以下に数例を挙げたい。
「劉眠僧(劉紹基)、呉幼琴(呉福森)の二人は、浜県で同じく官の仕事をしているということで、前世の縁について質問した。仙人は絶句を示していった。「華峰片々たる間に雲の薄く、暮れに往きて朝に還るも各因あり。一つは雷霆と作り一つは霖雨なりて、一邦に相済くるは前身を証す(「華峰片片間雲薄、暮往朝還各有因、一作雷霆一霖雨、一邦相済証前身」)」。45 」
劉紹基と呉福森が前世の縁について質問したところ、不可解な絶句を示され、両者に宿縁があったことが暗示された、という内容である。この一文のみでは理解しがたいが、他の乩文を参照することで、絶句の意味するところが明らかになる。「華峰」とは、前世において呉福森をはじめとする信徒が修行した寺院の在り処を指している。
「1 陸君答山(陸春元。済壇の信徒)が人づてに前世と将来について聞いた。老祖が判ずるに、陸弟子の前世も、華山蓮花峯下にある三真寺の僧侶で、名を福Yという。修行に真摯であったが、終わりを全うしなかった。その憤懣不平の気が現世の身体にも表れているのだ。46 」
「2 姚君学周(本名等未詳)が、前世と今生の因果について詳しく示してほしいと求めた。老祖が判ずるに、お前の前世は華山三真寺の福成和尚である。修道の気持ちが極めて誠実であり、一一年の間修行を積んだが、酒と女色、金と怒りの四戒を受けていなかった。その時、褒斜道で洪水が起こり、人も物もすべて流されてしまった。おまえと福永和尚(呉福森の前世)は、田を売り救援に赴いた。その後、福永と共に青、斉、淮、魯一帯にやって来て、義捐金を募り難民を救った。〔その場所は〕二〇〇箇所を下らない。それから雲岩洞に帰り、福永と共に白衣大士(観音)に法を学んだ。47 」
劉紹基(福縁)、陸春元(福Y)、姚学周(福成)らは、前世において呉福森(福永)と同じ華山蓮華峰下の三真寺の僧侶であり、みな道号に「福」の字を持つ同門の兄弟弟子だったという。呉福森との関わりが前世から続くものだという乩文の内容は、信徒の関係性の理解にこの世ならざる背景を与え、濱壇(ないし済壇)が単なる同好の士の集いというだけではない、もっと長大な歴史的背景を有する集団だという自己理解を付与したであろう。また、前世譚が、主に呉福森との関わりに言及するものだったという点も興味深い。濱壇は、呉福森を中心に彼との関わりの強いもの――現世であれ「前世」であれ――集う、呉福森の乩壇とでもいうべきものだったと捉えることができるだろう。
(三)濱壇と呉福森のその後
濱壇の転機は早くに訪れた。まず一九一七年末から翌年はじめにかけての時期に、劉紹基が軍務の関係で済南に転出する。ほぼ同じ頃に常時参加者の一人であった周徳錫も済南へ異動になった。そして一九一八年七月には、主催者である呉福森が長清県知事に任じられ濱県を去る。長清県で猖獗を極める土匪の鎮圧を期待されての任命だったという。
開設後、わずか一、二年で中心的信徒が立て続けに去ってしまった濱壇は、存続が危ぶまれるかに見えた。しかし後任の濱県知事李振鈞は、留任した洪士陶とともに扶乩活動を引き継いだ。李振鈞の濱壇における活動については、僅かに以下のようなことが伝えられている。
「濱県では長く雨が降らなかった。知事の李君海荃(李振鈞)および全邑の官紳が雨を願い、乩壇(濱壇)でともに祈った。翌日から長雨が降り、十分に潤った。扶乩を願って感謝を述べると、太乙仙尊が判じていった。天が慈雨を下したのだ。〔我ら〕神仙になんの功があるだろうか。しかし思いが誠実であれば霊験はあるものだ。だからちょうどこの時に巡りえたのだ。48 」
呉福森が去った後の濱壇の活動は、未詳の部分が多いものの、しばらくの間扶乩活動は継続されていたと見てよいと思われる。しかし、後任の李振鈞も、一九一九年に利津県知事に転任し、さらに翌一九二〇年に済南へ異動してしまう。また、乩手であった洪士陶も一九一九年に、済南へと移っている。以降の濱壇の状況は、後年、道院が濱県道院を置くまで不明である。
一方、濱県を離れた呉福森は、次の任地長清県で土匪鎮圧に力を尽くしていた。果断な処置を実行し、「盗賊への処罰は厳しかったものの、その務めは道理にかなっていたので、捕えて斬った賊の数は数百いたが、冤罪の者はいなかった」49とされる。さらに、県内で土匪を取り締まっただけでなく、隣接する肥城県で起こった土匪の反乱をも鎮圧している。その際、土匪の首謀者たちを酒宴に招き謀殺するなど厳しい取締りを行ったため、土匪が他県から長清県へ侵入することはなくなったという50。濱壇における事績のみでは見えてこない地方官僚としての呉福森の姿である。公私を問わず扶乩に事を諮る知事はまた、いわば剿匪のエキスパートとして県志でその勇猛ぶりを称えられてもいるのである。
この間、呉福森が濱壇、あるいは済南に移った劉紹基主催の乩壇(済壇)と関係を持ち続けていたらしいことは「濱壇紀要」の記録から見てとれる51。しかし一九二一年の済壇が道院へと改組した際に信徒であった四八人の中に呉福森の名は見られない。一九二二年になってようやく信徒として認められ、名誉職を与えられたことが伝えられるのみである52。済壇発足から道院への改組に至るまでの過程で、呉福森が離脱した、ないし排斥されたということが予想される。これは、呉福森が済壇に参加していたことが往時の乩文から推測されるにも関わらず、道院の残した記録に呉についての言及がないことからも裏付けられる。そしてその後、道院における呉福森の活動は不詳である。道院は、もはや彼の開設した濱壇ではなかったのである。
(四)小結
以上に見てきたように、濱壇における扶乩は、単なる「問事」、「求方」のみにとどまらず、そこに現れる神仙と信徒たちが、師弟関係と呼びうる親密な交流を持つ手段であり、また信仰上の世界を創り出す行為でもあった。一方で、現実の生活者としての彼らが扶乩に求めたものは、主に、個々人の生活、仕事、人生上における私的な問題――成員は官僚が主体だったため、勢い行政上の問題も含まれたが――の解決を与えられることであった。繰り返しになるが、以上のような濱壇の信仰内容には、他の宗教団体や乩壇とのつながりを窺わせる要素は少なく、その後の済壇や道院などで重視される坐功や救劫といった実践、教説も見いだせない。信仰内容という観点から見た場合、濱壇と済壇・道院の間には、大きな隔たりがあったのである。
加えるに、濱壇を、大仙祠、尚仙・独自の神仙世界、呉福森という三つの要素から構成された乩壇だった考えた場合、済壇・道院には、大仙祠信仰としての濱壇、呉福森乩壇としての濱壇の性格は、継承されなかったといえる。それでは、残る尚仙・独自の神仙世界信仰――尚仙やその他神仙に対する信仰は、大仙祠信仰と重なる面もあるが、必ずしも大仙祠でなくても扶乩が行われさえすれば、尚仙達は降臨するため、分けて考えうる――としての性質は、どのように継承された/されなかったのだろうか。
第四節済壇から道院へ
(一)同善社との関係:救済論の獲得と乩壇体制の維持
前述のように離散した濱壇信徒であったが、彼らの扶乩活動は、済南において再開されることになる。早くに濱壇を離れた劉紹基と周徳錫は、転任先の済南においても扶乩を続けていた。この乩壇を済壇と呼ぶ。毎月三度壇を開き、扶乩の正手には劉紹基が就き、周徳錫が副手としてこれを支えたという。そのやり方は濱県におけるものと同じであったが、活動は濱壇の時ほど頻繁なものではなかった。ところが、一九一九年〜一九二〇年にかけて、濱壇の洪士陶と李振鈞が済南へ異動となり、劉紹基らと合流した。以降の扶乩では、洪士陶が主に乩筆を執り、劉紹基か李振鈞がそれを支えることが多かったという。すると済壇は徐々に信徒を増やし、新たに八人の参加者を得たとされる53。濱壇にせよ済壇にせよ、洪士陶が最も優れた乩手であり、乩壇の運営には彼の能力が欠かせなかったと考えられる。
この頃、済壇に、大きな変化を生じさせる出来事があった。同善社への参入である。済壇では、それまで通り「個人の事柄について尋ね、病気の処方を求める」54ことも行われていたが、新たな方向性が模索されてもいたようである。この様子を端的に示す記録として、修道のために何を読むべきかという劉紹基の質問に対して、太乙老人が答えた乩文が挙げられる。
「縁子(劉紹基)は、道を私(太乙老人)に問うている。私のいう道とは、すなわち孔孟の道である。私にはいまだ詳らかならざるところがあるが、孔孟の書はすでに私のためにそれを説いている。ただそれには伝えざる秘密があり、良き師の口授でなければその要旨は理解できない。それを養身保命ともいう。われわれのいう性命の学のことである。55 」
修道のために読むべき孔孟の書は、養生法を奥旨としており、これを習得するには師が必要だ、というのである。しかし、「養身保命」・「性命の学」を授けてくれる「良き師」とは、誰なのか。
済壇の始まる一九一八年初頭から、遅くとも一九二〇年夏以前――彼らが独自経典を編もうとし始めたのが旧暦七月(新暦八月中旬〜九月中旬)――のいずれかの時期に、劉紹基や郭兆棟をはじめとする済壇の信徒の「多くが〔同善〕社に入信し、その坐法を習う」という出来事が起こっている56。同善社とは四川人彭泰栄(一八七三〜一九五〇)が創始した民間教派である。青蓮教の流れを汲む清末の礼門を前身としており、一九一七年に北京で政府の認可を受けて同善社へ改名して以降、教勢をさらに拡大し、済南にも分社が存在していた。同善社は、修行として静坐だけでなく慈善活動をも重視し、救劫、つまり終末的大災害から救われることを説いた。この団体へ、済壇の信徒は、坐法を求めて身を投じたのである。済壇に生じた変化――それは遂に道院への改組にまでいたるのだが――は、同善社との接触によって生じたことはあらためて強調されるべきだろう。
信徒らが同善社へ参加したことは、済壇の独自性をおびやかす一つの危機であったかもしれない。しかし済壇は同善社から多くを習得しつつも吸収されることなく、ついには彼らと袂を分かつこととなる。決別の経緯や正確な時期については不詳であるが、それを象徴する出来事として、済壇が同善社から取り入れたまさにその坐法を梃子に、同善社との差異化を図ったことが伝えられている。彼らは同善社から習得した坐法を「深い悟りが進まない」57として退け、独自の坐法「上元坐式」を済壇内で教授するようなったのである。そしてそれを指示したのは、濱壇以来の神であった太乙老人だとされた。つまり扶乩である。
太乙老人は、上元坐式の練功に務める弟子らに次のように語りかけている。
「坐功とはどんなものか。諸君らの中に目を閉じても欠けるところのない光が見えるものはいるか。それならば、当を得ている。福子(呉福森?)の心の功夫は非常に深く、坐法も勘所を得ている。そのほか、智(李振鈞)、宣(郭兆棟)、華(高皋言)、和(王同海)は体得したところは似ているが、気がなお恐れている。さらに坐法を修行すれば理解に近づけるだろう。慧(蕭俊彩)は(坐法の修行が)欠けており話すことはない。吉(周徳錫)、解(洪士陶)、嬰(鄭宝慈)、敦(鄭宝善)は気息は平静だが、血気が鎮まっていない。みな、よく血気に気をつけよ。縁(劉紹基)と仏(薛丕沾)の二人は、坐功のこと、心功のことを両方とも悟っている。徐(不明)は外洩を患っている。……初めての坐法なので、皆最初に求められるべき程度を満たしていない。本来であれば坐功の審査などしないのだが、諸君らが修道に没頭しているので、明らかにしてその道を励まさざるをえないのである。58 」
師匠が弟子の修行を指導し励ます。師匠と弟子のやり取りが扶乩を介したものだということ以外は、普通の師弟関係である。彼らは同善社の彭泰栄を教主として頂くのではなく、あくまで扶乩によって神の指示を仰ぐという濱壇以来のやり取りを継続することを選んだのだった。結果的に見れば、「良き師」とは、太乙老人のことに他ならなかったのである。
こうして同善社からの離脱を果たした済壇であるが、一方で同善社から済壇へ身を投じる人間が現れる。それが杜秉寅(一八五四〜一九二三年)である。杜秉寅は、清末に山東省内で知県を歴任した地方官僚であり59、中華民国以降は官界から退いたがそのまま済南に留まった名望家であった。当時同善社の済南分社の幹部であった彼は自宅に乩壇を設けていたという60。道院の記述によれば、杜秉寅は済壇が太乙老人より、『太乙北極真経』(以下『真経』)なる経典を伝授されることを聞きつけて、一九二〇年一一月頃、済壇に加わったとされる61。あるいは、名声の高かった杜秉寅を劉紹基らが乞うて済壇へ引き入れたともいう62。杜秉寅の済壇への加入が比較的遅かったにもかかわらず、参入後まもなく劉紹基を差し置いて済壇の指導者となっていることから、杜の参入が乞われたものであるという説にも頷けるものがある。なお、杜秉寅は、済壇への加入・道院の発足を咎められ同善社を除名されている63。
一九二〇年末から一九二一年の初めにかけて済壇は独自の経典『真経』を扶乩によって編む。『真経』は坐功の実践と救劫を結びつけて説く救劫の内丹書とでも呼ぶべきものであった。それが、同善社との接触以前の濱壇・済壇の信仰・実践内容と、どれほど異なっているかは、本章の記述によって明らかであろう。この変化はさらに加速し、済壇は私的な乩壇から、救済論を掲げて伝道する教団、道院へと変貌を遂げる。
(二)唯一神の乩壇:五教合一論の採用と組織的神仙世界
済南上新街に居を定めた済壇は一九二一年二月九日に、済南道院として新たな一歩を踏み出した。一九二一年九月に『真経』の版権を取得し、一九二二年一月には政府内務部より団体の認可を受けた。本格的な教団化の進展は、神仙世界にも大きな変化を伴うものだった。
既述のように、濱壇あるいは済壇では、当初尚仙を師として仰いでいたが、後に太乙老人を最高位の神として祀るようになっていた64。主壇の交代がいつ行われたか、はっきりとした記録は見当たらないが、特に済壇においては、重要な乩文として太乙老人のものが多く伝えられており、尚仙による乩文は見られなくなっている65。濱壇が尚仙乩壇だったとすれば、済壇は太乙老人乩壇へと変化していたのである。
済南道院が設立された際、院内に設置される神位の中に、尚仙や太乙仙尊をはじめ、濱壇に現れた多くの神仙の名はなかった66。以下が道院成立時に定められた神位の一覧である。
「正位一〈老祖及び五教の教祖〉、配二位〈十二神聖:孔子、孟子、ヨハネ、ヨセフ、真武、南極、文殊、坦文丁沢、馬普、観世音、玄奘、先賢周敦頤〉、鎮壇将軍統掌籍位一〈孚佑帝君〉、監坐位一〈達磨祖師、普賢尊者〉、護経位一〈文殊菩薩、護経慧師〉67 」
最も尊崇されたのは、青玄宮一玄真宗三元始紀太乙老祖(引用文では「老祖」と省略されている)こと太乙老人である68。次いで項橐(伝説上の孔子の師)、釈迦、老子、キリスト、マホメットの五教教祖が祀られ、その下に孔子、孟子、ヨハネ、ヨセフ、周惇頣といった聖賢や、真武や観音、呂洞賓などの聖人や仙仏が据えられた。広く知られた中国の神聖仙仏に混じって世界宗教の教祖等が含まれているのはいかにも奇異な印象を与えるが、これは一九二〇年代を中心に民間教派中に流行を見せる――その発信源の一つは済南であった――新思想・五教合一論を反映したものであった。五教合一論は、世界五大宗教の一致を唱える宗教的平和主義・宗教的普遍主義をいい、そしてその主義の理念型こそが自団体であるという主張を主な内容とする思想をいう。これは、道院の創見というわけではなく、一九一六年に編まれた江希張の『息戦論』に由来すると考えられる(五教合一論の展開については、第五章で取り上げる)。
この五教合一論の採用によって、道院は、地方の一仙人の乩壇でもなく、由来不明の神の乩壇でもなく、唯一神の乩壇という「世界的な普遍性」を獲得したのだった。もとより、濱壇における太乙老人は、濱壇の神仙世界内での最高神として想定されたが、「初めは、(太乙老人が)現在道院が崇め奉るところの老祖のように、至尊無上であることを知らなかった」69と述べられているように、道院における最高神の特徴をまだ備えていなかった。これに対して、五教合一論を導入した道院では、太乙老人を「至尊無上唯一の真宰」として説明するに至る。
「そもそも神より尊いものはない。神は無二の神である。各教の教主が奉り、教えを受けたのは一つにして至尊無上唯一の真宰である。……真宰はかつて世に降りた神聖賢仏とはおのずから異なる。ゆえにイスラーム教は真宰の精義を認識しているといえる。しかし我が中国の「神」の字は広義に通用するので、霊明にして非常に輝かしいものをみな神と呼ぶのである。キリスト教、イスラーム教の「神」の字は狭義の意味でのみ用いられている。神という字で表せるものは真宰だけであり、他のものはみな天使と呼ぶのみである。70 」
太乙老人は数多の神々とは異なり、キリスト教、イスラーム教的な意味での神であると説明されている。つまり道院は太乙老人を世界の唯一の神――しかし超越的な神ではなく、壇に降り親しく乩示を与える神――として奉じるに至ったのである。
なお、道院の祀る神聖仙仏は、後年(些か時代は下るが、遅くとも一九三一年)までに道院の組織と対応する形で地位と職責を配され、明確な位階制が打ち立てられた。最高位には、「至聖先天老祖(太乙老人)」71が据えられ、これに五教教祖、つまり「儒教教祖兼統教掌籍孔聖(孔子)、道教教祖太上老君(老子)、釈教教祖釈迦如来、耶教教祖耶蘇(イエス)、回教教祖穆祖(ムハンマド)」が次いだ。孔子には、儒教教祖以外に「統教掌籍」、すなわち教を総べる役職が付与されており、教祖の中で孔子が特殊な地位を占めていたことがわかる。その下には、さらに「統院掌籍孚聖(呂洞賓)、統教副掌籍慧聖(劉勰)、鎮壇将軍関聖(関羽)、護壇将軍桓聖(張飛)、統院都巡使楊忠愍公(明の官僚楊継盛)」など、道院組織内の上位部門である統院を管轄する神仙が続く。統院は、下位部門に五院(坐院、壇院、経院、慈院、宣院)を従えるが、五院を管轄する神仙も定められている。「坐院掌籍達磨仏(達磨)・坐院副掌籍普静仏(五代の僧普静)、壇院掌籍尚真人(尚正和)・壇院副掌籍岳聖(岳飛)、経院掌籍文殊仏(文殊菩薩)・経院副掌籍普賢仏(普賢菩薩)、慈院掌籍済仏(済公活仏)・慈院副掌籍孫真人(孫思邈)、宣院掌籍亜聖孟子・宣院副掌籍先知施洗約翰(バプテスマのヨハネ)」である。そして、この他、「男道徳社社掌康聖(鍾離権)・女道徳社社掌蓮台聖(観世音菩薩)」が続く72。
扶乩の奔放・散漫な記述の総合として成り立った感の強い濱壇の神仙世界と比した時、道院の神仙世界が、五教合一論のような確たる思想に基づき、組織化を進めんとする意図から形成されていったであろうことが、看取される。
(三)乩壇体制:指導者の多頭体制
組織の整備が進められる一方で、信徒の縁故を通じた伝道も活発に行われ、各都市の有力者、名望家の参加を得て道院分院(支部)の設置が進んだ。一九二一年中に、天津、京兆(北京)、済寧の三都市に分院が開設されるに至っている。天津道院は、時の総統徐世昌の弟、徐世光(一八五七〜一九二九年)を代表に数人の発起により開院した。また北京の道院は李慶璋(前江蘇省徐海道道尹、前国会衆議院議員)の自宅に仮設された。済寧道院は杜秉寅と済寧出身の軍人高皐言が主導し開設に至った。当該地の分院における指導職は、彼らが分担してその任を負った73。
伝道は、必ずしも有力者、名望家だけを対象としたわけではないが、道院内での位階は、社会的地位に比例するものだったようである。済南道院の初代統掌(指導職)には、劉紹基ではなく杜秉寅が就いた。両者の立場の差は、やはり社会的地位の違いに起因していると考えられる。
「杜公黙靖、本名は秉寅、字は賓谷、江蘇淮安の人である。清末、山東の役人であった。候補道として営務処総辧の任にあたったが、その法律の執行は厳正であり、一本気で人に阿ることがなかった。もとは同善社に入り坐功を習っていたが、のちにわが院が真経を伝え坐功を授けることを聞くと、すぐさま入信した。恭しくその出来事(真経伝授)に参与し、初めて創院三六人の指導者となった。道院が成立すると、第一期統掌の職を務めた。この時、何公素璞(何澍)は済南におり、徐公素一(徐世光)は天津に、喬公素苞(喬保衡)は北京におり、みなが金蘭の誼を結んでいた。74 」
草創期の道院の発展には、清末山東省の官界に身をおき、知県・知州を歴任した杜秉寅の人脈が大きく寄与している。引用文中の「徐公素一」こと徐世光は、清末の山東で候補道、塩運使二品に至った地方官僚である。一九二一年六月、旧交のあった杜秉寅が道院を興したことに応じて、天津道院を開設し統掌を務めた75。徐以外にも呂海寰(一八四二〜一九二七)76のように同地の名望家が名を連ねた天津道院は、相応の社会的認知と実力を有する団体となった。一九二一年七月に山東利津県で起きた洪水被害77に際しては、天津道院が義捐金を十万元以上募り、道院が行った初めての災害救援活動を助けた78。さらに一九二二年初めに道院が政府内務部より団体登録の認可を得ることができたのも、徐世光の斡旋によるものであった79。
「何公素璞」こと何澍(一八七一〜一九四一)も、清末に山東の官界に身を投じ、長年治水工事の監司を務めた元官僚である。一九〇三年、利津県で堤防の決壊を食い止めた功績により、提法使三品に昇格している。一九一二年済東泰臨武道を辞して後は青島に隠棲していた。一九二一年、杜秉寅の紹介で道院の信仰へ入った。当初天津道院の院監として徐世光を助け、翌年には益都分院の開設に貢献し、同院の統掌をも兼任した80。徐世光と何澍、杜秉寅を介して入信したこの二人は、後に済南道院の統掌職――つまり道院全体の指導職――を継ぐことになる。
その杜秉寅が、一九二三年に突然逝去した。
「済南道院統掌黙靖が一二年癸亥二月一九日(一九二三年四月四日?)、自宅にて坐化された。みなは道務がいままさに発展するところであるのに、突然指導者を失ってしまったと思い、誰もが驚き恐れた。老祖は訓じておっしゃった。「お前たちは黙(杜秉寅)の未完の願いを受け継ぐことができる。〔道院の〕今後の発展もまさに洋々たるものがある。お前たちが何事も機に従って行うなら、将来おのずと成果があるだろう」。同時に素一(徐世光)をして新たに母院(済南道院)統掌の職務を引き継がせ、素璞〔益都統掌(何澍)〕と素苞〔京兆責任統掌喬保衡〕、福縁〔当時済南副統掌(劉紹基)〕、素定〔天津責任統掌謝嘉祐〕、性空〔済寧統掌呉長植〕に、輪番で一季ごとに素一の職務を代行させた。81 」
済南道院の統掌職は、天津道院統掌である徐世光が兼任することとなった。しかし、「素一の職務を代行させた」とあるように、徐世光の済南統掌職は名目上のものだったようである。実際の職務は各地道院のリーダーが代わる代わる担当したとされる。一九二三年二月当時、全国に六七箇所82の分院を有し、すでに全国的組織となりつつあった宗教団体道院は、都市部の支部の指導者による多頭体制によって運営されることになったのだった。それは、教祖を置かない乩壇が選んだ指導体制であり、都市の有力者を幹部に据えた当初の伝道のあり方の帰結でもあった83。
第五節おわりに
濱壇、済壇から道院への改組は、ただ規模の拡大の結果から、漫然と行われたわけではなかった。改組に先だって、あきらかに信仰対象(尚仙から太乙老人へ)、中心人物(呉福森から劉紹基、杜秉寅へ)、実践・信仰内容(扶乩に坐功がくわわり、個人の苦難の解決から世界の救済へ)に変化が生じていたのであり、改組はその結果だったのである。
三々五々、済南へと移動してきた濱壇の信徒たちは、同時期に済南で活動していた民間教派・乩壇と交流・競合した。道院が唐突に身に付け、またこれこそ核心的な実践・教えだとして打ち出した修養法(坐功)、救済論(救劫)や普遍主義(五教合一)は、この交流の中から、済壇の信徒が選び取ったものだったのである。濱壇が、扶乩のみを実践する団体であったことからすれば、済壇に生じた変化がまことに大きなものだったことが了解される。そして、その変化のすべてが内発的・自律的なものだったということはなく、他団体、特に同善社に大きく影響を受けた結果だったのである。「救世団体」間の共通性は、直接的にはこうした交流から生じていたのだ。
ただし、団体間には相違も存在した。改組までの経緯を追った時、道院は明らかに同善社の影響を蒙った団体といえるが、系譜的な観点からいえば、道院は独自性を主張しており同善社の系譜に接続するという教説をまったく行っていない。例えば、同善社は、教祖に至るまでの道統(伝道の系統)を重要視しており、自らの属する宗教伝統を明確に意識している。彭泰栄の指示によって編まれた同善社の道統を示す『祖派修正補遺』によれば、同善社の系譜は、初祖達磨から始まり、十祖呉子祥、十一祖何若、十二祖袁志謙、十三祖楊還虚、十四祖黎晩成、十五祖袁世河、そして十六祖となる彭泰栄へと続くとされる84。これに対し、道院では教主を立てなかったこともあり、道統ということを全く問題にしていない。
また道院は、扶乩によって運営される乩壇のあり方を原点とし、その体制を全国的な組織となった後も維持し続けた。扶乩の神意を上回る権威を持った個人、つまり教主を戴かず、重要事項を決定するに際して、扶乩による発意・指導を重んじ、有力な信徒たちが合議を行う「乩壇体制」を捨てなかったのである。
それは、道院と同じグループとして論じられることのある、同善社や悟善社・救世新教などとの違いとしても興味深い。同善社は、「師尊」彭泰栄が燃燈仏の下生として崇奉されており、組織運営や教義作成において彼に最大の権威があった。扶乩に対しては、いくつかの鸞書を重視していた一方で、異説の温床になりやすいことを問題視し、基本的に反対の立場を取っていたようである85。また悟善社は、道院と同じく乩壇(広善壇)から興った団体であるのだが、救世新教と改称後、「教統」江朝宗に一切の権限が集まる教主体制を導入しており、扶乩の影響を排除する方向へと舵を切っていく86。
これらの団体が組織の合理的な運営を目指して、扶乩からの脱却――必ずしも全面的なものではなかったが――を図ったのに対し、道院は幾度か扶乩停止論が持ち上がりながらも、一貫して乩壇体制を維持したのである。道院の扶乩信仰に対する熱意は、類似する民間教派の中でも際立っていたと言えるだろう。
1 乩壇は直接的には扶乩を行う壇の謂いであるが、本論では扶乩実践者達の集団を指す場合にも用いていることをことわっておく。
2 たとえば、中華民国期に慈善活動を行った「新宗教(NewReligion)」の代表例として道院・世界紅卍字会を取り上げたトーマス・デュボワは、濱壇の歴史に触れる中で、主壇であった「尚仙・尚真人」を、後に現れた「先天老祖」(正確には至聖先天老祖)と混同して説明している。Thomas David Dubois, 2011, p.80.また、デイビッド・パルマーは、道院の主要経典『太乙北極真経』を、「一九一七年」に「呂洞賓」によって著されたものであり、「先天道の内丹法に由来するテクストの一つ」と説明するが、実際は一九二〇年に「太乙老人」によって著されたものであり、直接的には『太乙金華宗旨』と同善社の内丹法に由来するテクストである。David A. Palmer, 2011, p.54.また、本邦において、いち早く道院・世界紅卍字会について研究を行った酒井忠夫や吉岡義豊は、濱壇の主催者の濱県知事を呉福林とするが、正しくは呉福森である。酒井忠夫、二〇〇二年、一五八頁、吉岡義豊、一九七四年、二二四頁。
3 Palmer, 2011, p.52.
4 志賀市子、二〇〇八年、四二頁。
5 碑文の内容は、「濱壇紀要」(『道徳雑誌』第二巻第二期、一九二二年、付録一〜二頁)所収のものによった。本節では、道院の下部組織である道徳社が一九二一年から発行していた『道徳雑誌』中の「濱壇紀要」を資料に、濱壇の概要を描写する。「濱壇紀要」は、濱壇期(一九一六年〜一九一七年)、一部済壇期(一九一七年〜一九二〇年)の乩訓を集めた、乩文集である。内容はまとまりにかけ、また乩文の降された日時が記されておらず、かつ時系列順に並んでいないという問題点がある。しかし、濱壇の様子を伝えるほぼ唯一の文献であり、また往時の信仰を知る手がかりとして、非常に有用な資料である。そこで本論では、可能な部分では時期を特定しながら引用するが、主として乩文に現れる信仰内容の共通性に注目し、濱壇の信仰世界を素描するためにこの資料を用いている。
6 『世界紅卍字会資料彙編』、二〇〇〇年、一五一頁。
7 『道徳雑誌』第二巻第二期、一九二二年、付録二頁。
8 初中池口述、一九八六年、一九二〜一九三頁。初中池口述「我所知道的済南道院」は一九三七年前後に道院に入信した元信徒、初中池の口述による。一九三七年に済南が日本軍の手に落ちると、初は経済的な困窮と日本軍の狼藉に怯える生活から逃れるため、道院に入信する。そこでいくつかの職を得て暮らしを立てたという。つまり「我所知道的済南道院」は、元信徒かつ専従職員でもある人間が内情を暴露したという体裁の文章である。同資料は、『文史資料選輯(山東)』(一九八六年)に収められたものであり、「反封建迷信」的な観点から、道院の信仰に対して否定的であり、かつ事実について述べた部分にも、単純な誤りや道院側の資料との食い違いが見られるなど問題がある。しかし、記憶違いやバイアスを差し引いても、未詳の事柄にまつわる多くの情報を提供していることに変わりはない。本章ではこの資料の性格に注意を払いつつ、濱壇の状況を肉付けする上で参照している。
9 『道徳雑誌』第一巻第一期、一九二一年、付録六頁。
10 『道徳雑誌』第二巻第二期、一九二二年、付録三頁。
11 『世界紅卍字会資料彙編』、二〇〇〇年、六五頁。
12 『道徳雑誌』第二巻第二期、一九二二年、付録三頁。
13 『道徳雑誌』第一巻第一期、一九二一年、付録六頁。
14 『道徳雑誌』第一巻第二期、一九二一年、付録七頁。
15 『道徳雑誌』第二巻第一期、一九二二年、付録三〜四頁。
16 八仙とは道教や民間信仰で、信仰をあつめる八人の高名な仙人を指す。尚仙の師として名が挙げられている張果は、『旧唐書』巻一九一、『新唐書』巻二〇四に伝も残る仙人であり、八仙の一人に数えられている。扶乩が語った尚仙にまつわる事績の一部、特に玄宗皇帝の招きを辞去した件は、明らかに張果伝を下地にしている。
17 「濱壇紀要」中、尚仙の事績については二つの記事がある。『道徳雑誌』第一巻第一期、付録五頁と、「大仙祠碑」の内容を記した『道徳雑誌』第二巻第二期、一九二二年、付録一〜二頁である。
18 民間に伝わる大仙祠の縁起によれば、清代濱州の州官がある夜、一匹の大きなハリネズミ(「刺猬」)を目にし、これを仙人の降臨だと考えた州官は、廟を立てて神像を作って祀ったという。『世界紅卍字会資料彙編』、二〇〇〇年、一五二頁。
19 咸豊『濱州志』巻十。
20 『道徳雑誌』第一巻第四期、一九二三年再版、付録二頁。
21 『道徳雑誌』第一巻第四期、一九二三年再版、付録四頁。
22 『大道篇』、一九三二年、一〇九〜一一〇頁。太乙仙尊が八仙の師というのは、濱壇独自の教えである。
23 『大道篇』、一九三二年、一〇六頁。
24 『道徳雑誌』第一巻第四期、一九二三年再版、付録一頁。
25 民国『斉河県志』、七二八頁。
26 民国『長清県志』、四一九頁。
27 民国『斉河県志』、八一二頁。
28 『道徳雑誌』第一巻第一期、一九二一年、付録九頁。
29 初中池、一九八六年、一九三頁。
30 『道徳雑誌』第二巻第一期、一九二二年、付録一頁。
31 『道徳雑誌』第一巻第二期、一九二一年、付録七〜八頁。
32 漢訳仏典に発する「劫波」・「劫」という語は、宇宙の生滅にかかる長大な時間(kalpa)を意味する。劫は、仏教のみならず、道教(開劫度人説)や民間教派(三仏応劫説)など、中国宗教の伝統的な歴史観の中に広く受け入れられていった。劫の終わりには宇宙の破滅があることから、劫には劫末の災難自体を意味する用法もあったようである。すでに初期の漢訳仏典中(例えば『大楼炭経』、『長阿含経』)にも、劫が災変を意味する用法が見られる。菊地章太、二〇〇九年、七五頁。道院における劫の用法も、時間と解するより災害と解する方が、ふさわしい場合が多いように見受けられる。
33 「濱壇紀要」には、以下二二人の名前が見える。呉幼琴、劉眠僧、呉澄濤、周暁涵、洪亦巣、潘翊庭、李海荃、林可亭、葛風清、鄭幼亭、黄祁夫、姚福成、斉戒凡、(鄭果橋)、(蕭星甫)、(陸答山)、(姚学周)、(姚学洲)、(王子豊)、姚静芝、游笏臣、張綬甫、周伯猷。()内は、済壇以降の参加者と思われる。
34 字は翊庭。湖南醴陵の生まれ。桓台県知事(一九一四年)、利津県知事(一九一六年)などを歴任した。
35 『道徳雑誌』第一巻第二期、一九二一年、付録六頁。
36 『道徳雑誌』第一巻第四期、一九二三年再版、付録四〜五頁。
37 『道徳雑誌』第二巻第一期、一九二二年、付録四頁。
38 『道徳雑誌』第一巻第四期、一九二三年再版、付録五頁。
39 後年、道院の運営に携わる一方で軍籍に身を置き続け、中将団長にまで至ったという。『済南市志』巻七、二〇〇〇年、三七四〜三七五頁によれば、劉紹基は、武備学堂の出身であり、軍務においては、歩兵三十二標営営長、曹州稽査処長、済南総稽査兼法官、山東左路辺防軍曹州教練所教官、歩兵第二営長等を歴任し、張宗昌が山東省督辦であった時期(一九二五〜一九二八年)に、中将団長に昇格したという。
40 初中池、一九八六年、一九三頁。
41 『道徳雑誌』第一巻第四期、一九二三年再版、付録四頁。
42 『道徳雑誌』第一巻第一期、一九二一年、付録五頁。
43 『大道篇』、一九三二年、一〇六〜一〇七頁。
44 『道徳雑誌』一巻三期、一九二一年、付録一〇頁。たとえば、このような例である。「呉君幼琴が河工局長王君子豊(王露洪。済壇の信徒)に代わって、その前世のことを尋ねた。老祖が判ずるに、王子の前世は、姓は李、名を長吉という。人柄は温厚で人望もあった。おまえ(呉福森)がここにやってきて救援物資を配った時〈呉君の前世は福永和尚といい、斉魯一帯で救援物資を配った〉、彼(王)は荷運び人夫を雇うのに、貯えていた銅銭二百束〈大銭二百串〉をほとんど使ってしまった。今生はその結果である」。
45 『道徳雑誌』第一巻第一期、一九二一年、付録九頁。
46 『道徳雑誌』第一巻第三期、一九二一年、付録九頁。
47 『道徳雑誌』第一巻第三期、一九二一年、付録九頁。
48 『道徳雑誌』第二巻第二期、一九二二年、付録一頁。
49 民国『長清県志』、四七〇頁。
50 民国『長清県志』、四六九〜四七〇頁。
51 一九二〇年頃済壇に参加したとされる王露洪と呉福森との交流が伝えられている。『道徳雑誌』第一巻第三期、一九二一年、付録一〇頁。
52 『道徳雑誌』第二巻第三期、一九二二年、付録二頁。同上、第二巻第四期、一九二二年、付録一六頁。
53 『大道篇』、一九三二年、一〇七、一一二頁。
54 『大道篇』、一九三二年、一一二頁。
55 『大道篇』、一九三二年、一一三頁。
56 『世界紅卍字会資料彙編』、二〇〇〇年、六五頁には、入信した者の名前として、特に劉紹基と郭兆棟の名が挙げられている。
57 『大道篇』、一九三二年、一一七頁。
58 『大道篇』、一九三二年、一一八〜一一九頁。
59 鄒県知県、高唐州知州、臨清直隷州知州を歴任している。『山東通志』巻五九・巻六二、二〇一二・二一一九・二一三一頁。
60 初中池、一九八六年、一九四頁。
61 『大道篇』、一九三二年、一二一〜一二〇頁。
62 初中池、一九八六年、一九四頁。
63 王見川は、杜秉寅の除名とその理由について、同善社の内部文書から引用している。「杜秉寅山東省社天恩、因自立旁門、屢勧不聴、於本年(一九二三年)二月初九日除名、恩字另発、旋於二月十九日身故」。「旁門」(道院)の創設が除名理由とされている。王見川、二〇一一年、一四〇頁。
64 こうした状況を、済壇と他の乩壇の競合に関連付けて説明する後年の記述もある。つまり、済壇は、済南の諸乩壇を圧倒するために、呂洞賓に名声の及ばない尚大仙に代わり、宇宙創造の神である太乙老人=老祖を作り出したというのである(初中池、一九八六年、一九三〜一九四頁)。ただしこの説は、太乙老人が現れたのは浜壇においてであるとする道院の見解と異なる。
65 『大道篇』、一九三二年、一一二〜一一九頁。
66 『大道篇』、一九三二年、一〇五〜一〇六頁。なお尚仙は、後に道院の神位に復帰している。
67 『大道篇』、一九三二年、一四三頁。
68 太乙老人の正式な名が「青玄宮一玄真宗三元始紀太乙老祖」に改まったのは、『真経』伝授の直前「庚申年一〇月九日開始、先二日」、つまり一九二〇年一一月一七日であった。同じ乩文内に、「五教教主蒞壇」という記述があることから、少なくとも当時までに五教合一論的な発想が済壇で採用されていたことが指摘できる。
69 『大道篇』、一九三二年、一〇六頁。
70 『道旨綱要』、一九四〇年、八頁。
71 『修座須知』(『世界紅卍字会道院の実態』、一九四一年、五三頁より再録)によれば、至聖先天老祖の名は、五教教主が共同して定めた尊号とされる。
72 『演教篇』、一九三二年、一五一〜二一八頁。
73 『大道篇』、一九三二年、一五二頁。
74 『大道之本五教同源』、一九八九年、二一六〜二一七頁。
75 「民国十年杜黙靖(杜秉寅)氏が済南において道院を創立した。道徳を行為としてあらわし、民衆を救済することを志そう、ということだった。府君(徐世光)は、それをこの世を救う良策だとして、呂鏡宇(呂海寰、元紅十字会長)、胡星舫(胡建枢、清末山東巡撫)、謝受之(謝嘉祐)らの諸氏とこれに呼応し、天津に道院を設立した。杜氏が没すると、府君は済南道院の事業および道徳社社長も代行するようになった。(中略)院・会が成立した当初、黄河が山東利津県の宮家壩で決壊した。府君は救援金十余万元を募集し、被災民四万余人を救った」。『貞恵先生逝世三週紀念徴文啓』、一九三二年、四頁。
76 清朝の高官であり中国紅十字会では会長(一九一一〜一九二〇年)も務めた。周秋光、二〇〇八年、三七〜三八頁。
77 一九二一年七月に斉河、済南、利津など山東省各地で黄河の決壊があったが、特に七月一九日に起きた利津県宮家壩での決壊が最も被害が重く、西の濱県、西北の沾化県までが被災し、被災民は五〇〜六〇万人に達した。翌年二月、四月にも濱県、利津県を襲う水災があった。王林、二〇〇四年、三八一〜三八二頁。
78 済南道院では、当初同人から義捐金を募集し、派遣された同人が済南で鍋餅を購入し被災地で配給したのみだった。その後、広く義捐金を募り、一二万元を集め、被災民に衣糧を配り、延べ四万人を救援した。同時に、済南に「貧民工作所」を設置し、被災地の児童を収容し生業を身につけるようにさせた。『世界紅卍字会賑救工作報告書』、一九三四年重印、一一頁。
79 『大道篇』、一九三二年、一四六頁。
80「(民国)十年辛酉二月、道院が済南において創設された。初代統掌である杜公黙靖は公(何澍)と親しく交際しており、(何澍は)彼を介して入信し道名を賜った。(中略)この年の夏六月、天津に道院が推設されると公は任命を受けて天津道院の院監となった。これが公の(道院における)任職のはじめである。」『済南道院統掌素璞何公栄哀録』、一九四一年、行状一頁。
81『済南道院統掌素璞何公栄哀録』、一九四一年、行状一〜二頁。
82 『道徳雑誌』二巻第十二期、一九二三年、同院一覧表(頁数なし)。
83 なお、有力者を幹部として迎えるという伝道方式は、同善社もこれを行っており、また全国伝道にあたって都市部に支部を設けることは、道院のみならず多くの宗教団体に見られる。王見川、一九九五年、六二頁。また陸仲偉、二〇〇二年、七〜八頁、二七頁。
84 陸仲偉、二〇〇二年、七三〜七四頁。
85 王見川、二〇一一年、一三六〜一三八頁。
86 吉岡義豊、一九七四年、二二二〜二二三頁。 
   
■第二章扶乩による経典:『太乙北極真経』の初歩的な検討

 

第一節はじめに
(一)狙い
道院の前身である済壇は、一九二〇年一一月から翌一九二一年一月にかけて、初の経典『太乙北極真経』(以下『真経』と略称する)を編んだ1。済壇から道院への改組は、この出来事の直接の結果として起こっている。
道院・世界紅卍字会に着目した研究の多くは、同団体の社会救済事業に関心を払っており、慈善団体としての社会的な側面について考察が進められてきた。一方で、道院の思想内容に注目する研究は殆どあらわれておらず、経典や乩文集に対する検討を行う研究は皆無に等しい。その結果、道院を明清期民間教派やその思想・実践と無関係なものと見なす――あるいは関係性に注目しないか、わずかに言及するのみ――論調が根強い2。それに対し、武内房司は、道院が清代「青蓮教」3の流れを汲む民間教派同善社を通して、救劫論や坐功といった教義・実践を継承していたことを明らかにし、同善社や道院等を明清期民間教派との連続性の中で把握した4。筆者も、道院の民間教派史上における位置づけを考える上で、先行する教団や思想との影響関係を検討することが必要だと考える。ただし、武内の一連の研究は、「青蓮教」、同善社を中心にしたものであり、道院の教義に対する分析を行っているわけではない。
そこで本章では道院の根本経典――最初の経典にして、教義の出発点という意味での――であり、かつ唯一公刊されている経典である『真経』の成立過程を後付け、同経典の提示する救済論を中心に検討しつつ、同善社や先行する経典の思想との関わりを考察する。これにより、1道院が連なる同善社(青蓮教系)の教義との異同、2『真経』の歴史観や救済論、3道院の救済論の核心的実践が坐功(静坐の功夫)にあることが明らかになるだろう。
1ついて。既に一章で確認したとおり、済壇は、青蓮教系民間教派同善社との接触・分離を経て道院へと改組した。道院は、武内の指摘の通り、救済論、坐功と慈善という主たる教義・実践内容についても同善社を模倣した点が見受けられる。しかし、一方で『真経』には、重要な部分で青蓮教系の教義内容と一致しない点も見受けられるのである。同善社から教義的な継承がどれほどあったのか/なかったのか、その異同を確認する。2について。「救贖団体」論は、団体間の救済観の共通性を指摘するが、異同を検討する前に、それぞれの団体が有する教義や信仰世界の内容が、まず明らかにされるべきであろう。道院は、知名度に比してその教義についての情報が非常に少なかった。その不足を補う。3について。本論文第三章において、道院の教義が数年かかって定まったものへ変化していく様子を跡付けるが、その出発点を明確にするために『真経』を検討することが必要となる。本章は、その前段階の考察となる。
(二)資料と方法
『真経』は一九二一年一月に成立した。題名である『太乙北極真経』の太乙とは、済壇・道院の最高神である太乙老人のことを指す。著者(乩手)は劉紹基と洪士陶の二人であるが、彼らが扶乩を用いて編んだものであり、信仰的には太乙老人(至聖先天老祖)の降乩による。なお本文中、難解な部分には頭注が付されており、その注も「老人(太乙老人)」5、「慧地(劉勰)」6、「堯夫(邵雍)」7の降乩によっている。内容は、道院の歴史観と救済論、それと関連した坐功(静坐の功夫)について述べるものである。なお『真経』公刊本には、『蔵外道書』所収のものと『道蔵精華』所収のものが存在するが、両者の本文に異同は見られない8。ただし、『蔵外道書』版の末尾には、信徒に『真経』の扱いを指示する「領経須知」が付されているのに対し、『道蔵精華』版にはそれがない。
本章では、「領経須知」にも言及する都合上、『蔵外道書』版『真経』を参照することとする9。なお、『真経』が成立に至るまでの経緯は、瀋陽道院が一九三二年頃に編纂した『道慈綱要大道篇』に詳しい10。
『道慈綱要大道篇』(以下『大道篇』)とは、『道慈綱要』シリーズの一巻である。『道慈綱要』は、瀋陽道院に一九三一年に付設された道慈研究所で行う講義を基にして編纂されたものであり、道院の教義を体系的に説明した最初の資料として重要である11。第三章で明らかになる通り、初期道院の教義には実のところ流動的な部分があり、教義を初めて固定化して――道院成立からおよそ一〇年後に――提示したものが『道慈綱要』だからである。同書は全六巻で構成されており、その内、『大道篇』・『道慈綱要卍慈篇』・『道慈綱要演教篇』・『道慈綱要禮儀篇』(以下「道慈綱要」を略する)の四巻の内容は、一九三二年初までに成立し12、残りの二巻、『道慈研究所溯源語録』と『道慈綱要續篇』は一九三二年中の成立と考えられる13。なお『大道篇』は、一九二一年以来の信徒である圓誠(楊承謀)14、『卍慈篇』は日本留学の経験もある厳勤(王曾悳)15、『演教篇』は奉豊(王徳鎔)16の編述である。『禮儀篇』は上記三人の共編になっている。このうち『大道篇』が『真経』成立過程について、記録を残している。
繰り返しになるが、『真経』は、道院・世界紅卍字会の重要経典に位置づけられているにも関わらず、従来の研究においては、その名称や構成が言及されるにとどまっており、その内容についての検討が一切なされてこなかった。確かに、『真経』は思想文献として読む上で解釈に困難がある。『真経』は、扶乩によって比較的短期間(約二か月間)で編まれたためか、全体としては一つの明確な達成目標に収斂していく語り口ではなく、部分としても文章の脈絡が判然としない部分があり、さらに独自の字義を付与した字17や造語18が頻出するといった問題点があるためだ。
しかし、だからといって、『真経』を取るに足らない資料と見なすわけにはいかない。『真経』は、信徒に日常的に参照・読誦されるよう求められており、教団内部の文書では、金言風に引用されるなど、信仰上常に重要な位置づけを与えられ続けてきたからである。道院の世界観・救済論などの基礎・出発点として、道院の宗教学的研究において、『真経』の検討は必須の手続きといえる。そこで、本章では、後発の経典や教義書に見える『真経』解釈を参照しつつ、道院の文脈の中で『真経』の内容を把握することを目指す。
(三)道院の経典について
このほか、道院において経典とみなされるものに、『真経』より後年に成立した『太乙正経午集』(一九二三年成立。以下『正経』と略称)、『太乙北極経随天集・人集』(一九二九年成立)がある。いずれの経典も道院の信徒以外には閲覧が禁じられており、第三者の手によって公刊されているのは『真経』のみである。道院の編纂した多くの乩文集の中で、経典が上記のものに限られるのは、以下の「道院院綱」の規定によって知られる。
「道院之設、始於伝経。最初有太乙北極真経副集。設院以後、次伝太乙正経午集。再次伝太乙北極経随。天集為炁子総化、人集為気母帰宗。修者研究各種経籍、各有其致力之不同。而宜以参悟太乙真経為主臬。(〔第一項総則第一目」〕道院の創設は、伝経より始まる。最初に、『太乙北極真経副集』があった。設院以後に伝授されたのが『太乙正経午集』である。その次に伝授されたのが『太乙北極経随』である。〔この中〕「天集」は「炁子総化」〔について述べたもの〕であり、「人集」は「気母帰宗」に〔について述べたもの〕である。修方(信徒)は各種経籍を研究するが、それぞれ努力の程度は異なる。『太乙真経』を参照して悟ることを標準とするべきである)。19 」
上の引用は経典間の優劣について語る内容ではないが、それでも、三つの経典の中で『真経』が重視されていることが了解されるであろう。ただし、『真経』と『正経』の関係はいささか複雑である。「老祖設道院、救人渡世、以坐為主旨。修者於黙参正副経之外、復得各種坐経坐義而研悟之。(思うに老祖が道院を創設なされ、人を救い世を済度されるのは、坐を主要な教えとしているのだ。修方は正副の経(『正経』と『真経』)を黙読参照する外に、また各種の坐経坐義を得てこれを研究して、悟るのだ)」20というように、『正経』の「正」に対し、『真経』は「副」という略称が与えられている。名称からすれば、副である『真経』が正である『正経』に劣ると予想されるが、それは必ずしも正しい理解とは言えないようである。「済南伝経、五千紀中為第二次。真経即前授之経、是従石門本経抽出之副冊。故亦称副経。…正経祇伝午集、為真経午集所自出、其他各集未伝。(済南における伝経は、五千紀の中で二度目のことである。『真経』とは前に授けた経、つまり石門の本経(「完全な真経」)から抽出した副冊である。それで副経とも呼ぶのである。…正経は午集のみが伝授されている。これは真経(「完全な真経」)午集より出たもので、その他の各集は未伝である。)」21。つまり、『真経』は三万年前に伝授された「完全な真経」全体から抽出された、いわばダイジェスト版とされる。そして『正経』は、この三万年前の「完全な真経」の「午集」という部分にあたると説明できる。
第二節『真経』の成立と民間教派の思想
(一)『真経』の成立と意義
『真経』成立過程の詳細は、上述の『大道篇』によって知ることが出来る。その内容は、すでに酒井忠夫による『大道篇』の抄訳によって紹介されているが22、行論の都合上、本節においても『大道篇』による『真経』成立の経緯の概要を追うことする。
一九一六年頃から始まった濱壇は、一九一七年末から一九二〇年頃までに主だった参加者の済南への移動によって、活動の中心を済南の劉紹基の寓宅に移していた。その済壇では、同善社への参入と決別を経て、上元坐式という坐功が扶乩により授けられており、皆でこれを実践するようになった。濱壇が扶乩活動を専らとする純粋な乩壇だったとすれば、済壇は坐功をも実践する複合的な活動内容を持つ集団へと変化していたのである。『真経』伝授は、その変化の頂点となる出来事だったといえる。
一九二〇年旧暦七月、太乙老人より『真経』なる経典を授けることが乩示され、その条件として信徒は、伝授までの期間内に、坐功に励むこと(毎日約一時間坐ること)が求められた。最高神が手ずから経典を著そうとすることに、相応しい畏敬の念が求められたのである。しかし、信徒が坐功に努めなかったため、二月後の旧暦九月に、さらに期限を一〇日間延ばすので打坐に努めるようにと、信徒を励ます乩示があった。この際、旧暦一〇月初旬に『真経』が伝授されることが予告された。
『真経』伝授の噂を聞きつけて、済壇にはさらに三〇人余りが加わり、『真経』成立時に信徒の数は、四八人になっていた。旧暦一〇月、『真経』伝授の直前となると、壇を清潔に保つよう乩示があり、伝授三日前には信徒は一同に会して坐功を行い、香をあげ、水を供えて請壇儀(降乩を願う儀礼)を行うようにとの指示があった。伝授二日前、太乙老人の正しい名前が「青玄宮一玄真宗三元始紀太乙老祖」23だと示され――だが、ここにおいても既知の神との同定はなされていない。彼が誰・何であるかは、『真経』においてはじめて明らかにされる――、同時に坐功についての規定である功則と、扶乩についての規定である壇則が与えられた。神格の確定、規則の制定といった組織整備を指示する乩示が矢継ぎ早に出されており、この時済壇の教団化の試みが始まっていたことが看取される。
授経は「庚申十月初九日」24(一九二〇年一一月一九日)から始まり、庚日毎(一〇日毎)に行われた。授経は約二ヶ月で完了するが、その間、扶乩を担当したのは劉紹基と洪士陶の二人だけであった。「春前十二日大寒節内」25(一九二一年一月二三日)に編纂が終わり、三六部が印刷された。『太乙北極真経』の成立後、済壇は急速に宗教団体としての組織化が進む。まず済壇は自団体の名を道院と改め、一九二一年九月に『真経』の版権を取得し、一九二二年一月には内務部より団体認可を受けた。認可を申請する際に付した「院章十二条」の第二条には、「本院道旨重在習静参悟太乙北極真経、与専研道教者有別。(本院の道旨が重んじるのは、『太乙北極真経』を習静参悟することにあり、道教を専ら研究するものとは別である)」26と定めており、道院が『真経』を教義の核心として据えていたことが分かる。
以上が『真経』成立の経緯である。経典の成立という出来事が、済壇という扶乩集団にとって、拠って立つ教義――対外的に主張できる一定程度まとまった教え――の確立、そして活動開始の契機となったことが、団体認可に至るまでの動きから了解される。
そもそも、扶乩というものは常に「神霊」との交流が可能であるが、問事・求方や詩詞のやり取りといった日常的な交流は、それを総合したとしても、教義へとは発展しがたい。また、扶乩に際して乩手がまちまちであれば、乩文の内容や体裁も統一性を欠いたものとなり27、やはり体系的な教えにはなりがたいであろう。これに対して、『真経』の降乩は、経典作成を目的とし、乩手を二人に限定し、かつ三ヶ月という期間に集中して行われた。降乩の様式に由来する内容の統一性が、教義の核心を成すものとして『真経』を経典たらしめているのである28。
『真経』成立は、済壇で生じていた信仰の変化の頂点となる出来事だった。すなわち、第一章でも述べたように、済壇は、当初、個人的な困難の解決を主な信仰内容としていたが、道院改組にあたっては世界の救済を主眼にしていた。その教えの源泉が、『真経』なのであった。そして彼らは、『真経』成立を契機にして「救世」の活動に当たるべく、道院へと改組したという認識を持っている。
「真経既伝竣。領経諸子、咸能仰体老祖降霊救世之微意、知斯経之伝、非此数十人所得而私也。僉謂宜宏修己渡人之願。普済群生、既不可以壇坫命名、復不得以一社一会之称相掲櫫。環叩以請、奉示定名曰道院。(『真経』は既に伝授が終わった。経を受け取った弟子たちは皆、老祖の霊を降して世を救わんとする玄妙な意図を身に沁みて感じ取り、この経が伝授されたのは、〔自分たち〕数十人が私得するためではないと知った。皆が自己を修め他人を済度するという願いを広めるべきだと話しあった。多くの人を済度するためには、壇坫という名を付けるべきではなく、また一社一會の名称を掲げるわけにもいかない。輪になって乩を請い、乩示を賜って道院と名づけた)。29 」
(二)『太乙金華宗旨』の影響
『真経』の民間教派思想上での位置づけを考える上で、まず重要なのは内丹書『太乙金華宗旨』(『金華宗旨』と略称)の影響である。『金華宗旨』とは、清初(一六六八年)に昆陵の呂祖乩壇である白龍精舎で初めて編まれた、内丹法「回光」を説く経典である30。済壇では『真経』制作以前から、坐功研究のために『金華宗旨』が読まれており、『真経』中でも言及が見られるほど重視された。数百年前の一道書にすぎない『金華宗旨』に、済壇が注目した理由は、やはり、同善社からの影響があった可能性が考えられる。王見川は、当時同善社が『金華宗旨』を刊行し、幹部信徒が序を寄せるなど、同書を内丹書として高く評価していたことを指摘している31。済壇が同善社から、具体的な技法(坐功)とともに、坐功の手引き書として『金華宗旨』をも、学び取った可能性は高い。
さて、『真経』中では、二か所において『金華宗旨』に対する言及・引用が見られる。まず『金華宗旨』への言及部分を二か所、確認しておこう。
「1 仏言霊台、道言祖土、儒言虚中、皆是。諸子読金華録者知之已(「仏教では霊台と言い、道教では祖土と言い、儒教では虚中と言う」32のは、すべてこれ(「玄関」)のことである。諸君の中で金華録を読んだ者はこれを知っている)。33 」
「2 回光、金華篇参観。自悟三竅合一、成一円霊之道耳(回光については、金華篇を参照せよ。〔この方法が〕三竅を合一して、一つの円満な覚りである霊妙な光を成就する道だということを自ずと悟るだろう)。34 」
「金華録を読んだ者」、「金華篇を参照せよ」という言及から、『金華宗旨』が坐功のためのテキストとして、――あるいは『真経』の副読本として――済壇内で参照されるよう求められていたことが看取される35。そのことは、道院の坐功の方法の中に『金華宗旨』由来と思われる要素が見出されることからも裏付けられる。たとえば、上の引用文中1の「仏教では霊台と言い…」の一節は、『金華宗旨』からの引用であり、眉間部の経穴(経絡上のポイント)について説明する箇所である。『金華宗旨』天心篇は、この経穴を「天心」・「玄関」と呼び、「回光」の際、意守(意識を集中)するように求めているのだが、道院の坐功においても、眉間部「祖窔」に意識を集中させることが説かれている36。
一層重要だと考えられるのは、『真経』に見られる、坐功によって得られる内的経験についての記述が、『金華宗旨』の記述に依拠している点であろう。『真経』には、「須坐久、而白生内府。(長い間坐るべきであり、すると白が内府に生じる)」37、「俄頃之功、生白定遊。(しばらくの工夫で、白が生じて止まったり動いたりする)」38のように、「白が生じる」、「白を生じる」という言い回しが、度々現れるのだが、これは「去垢而見光〈由坐者目中所見之白光〉。(欲望を離れれば光〈座るものの目より現れる白光〉を見る)」39、「即三度時、白光生室。(すなわち〔坐功が〕三度の〔段階に至った〕時、白光が室に生じる)」40というように打坐中に白光を見る境地を指す。また済壇では、『真経』伝授の直前に発表した功則において、「坐得三度者、白虚生室、不難定遊。(坐功を三度〔の段階〕まで心得た者は、白虚が室に生じ、止まるも動くも難しいことではない)」41と定めており、坐功の進歩した証験として白光を見ると説いている42。
こうした表現は、明らかに『金華宗旨』に由来している。元より「虚室が白を生じる」とは、『荘子』人間世篇中に見える静坐の境地を示した一節43が典拠である。これを、『金華宗旨』回光徴験篇では、「一則静中、目光騰騰、満前皆白、如在雲中。開眼覓身、無従覓視、此為虚室生白。(一つは則ち静中にして、目光騰騰として、満前皆白く、雲中に在るが如し。眼を開きて身を覓むるに、従い覓めて視るなし。此れ虚室白を生ずと為す)」と説明するように、回光の修行が進んだ証として、あたかも雲の中にいるかのように、眼前を白い光が覆うという現象だとしている。そして済壇では、「虚室能以生白、皆不出恒静二脳。(〔『金華宗旨』の言う〕虚室が白を生じうるということも、すべて恒常的であること、静まっていることの二つの要点を超えるものではない)」44というように、「虚室生白」を『金華宗旨』の要点として把握していたのである。
以上から、『真経』が坐功に関して重要な部分で『金華宗旨』の影響を受けていることが明らかであろう。ただし、その一方で注意すべきなのは、『真経』が採用しているのは、上述のような坐功の内容の一部に限られているという点である。例えば、『金華宗旨』は、経典を伝授してくれた呂洞賓への信仰を重んじており、また道統についても浄明道や全真教といった道教教団との連続性を主張するが、『真経』は太乙老人を信仰し、なんらかの道統に接続するという主張も一切見られない。
(三)同善社の教説との違い:無生老母信仰の不継承
再三、繰り返しているが、済壇は同善社から強く影響を受けた。坐功以外にも、なんらかの継承が見られるという予想に反し、『真経』は同善社の信仰内容――無生老母信仰、弥勒下生信仰、三期普度説など――にまったく言及せず、それとは関わりのない独自の神話を描き出すことに終始している。注目されるべきは、同善社が先行する青蓮教から継承してきた信仰内容、特に明清期、多くの民間教派に共有され一大思潮となっていた無生老母信仰を、『真経』が採用していないという点である。
一八世紀中頃に成立したと考えられる青蓮教は、一貫道や同善社といった近代の有力教団を生み出した民間教派の大きな流れの一つである。青蓮教の開祖とされる呉子祥(一七二三〜一七八四?)は、斎教(明中期羅教の分派)と金丹道(明末大乗円頓教の分派、あるいは明末金幢教の分派とされる)の教えを学んだ後、これらを併せた大乗教(別名五盤教。後代に青蓮教へと呼称される)を開いた45。そのため、青蓮教は、先行する民間教派から、伝統的な信仰の諸要素―無生老母信仰、弥勒下生信仰、三仏応劫説、通俗的内丹法などといった内容―を継承している。そして、これらの諸要素は青蓮教の道統に属する近代の民間教派、つまり同善社や一貫道などでも多少の改変を受けつつも受け継がれていく。
同善社、一貫道がともに主神として奉じる無生老母は、明代中期以降に盛行する宝巻(説唱形式の民間教派経典)に散見する最高神であり、明清期を通じて多くの民間教派に信仰された46。無生老母信仰は、多くの場合以下のような救済説を伴った。すなわち、人間は神である無生老母の子であったが、俗世にいるうちに神の子であることを忘れてしまい滅びの淵にある。彼らに本来の霊性を回復させ、自らのいる家郷に帰還させようと、神仏を俗世に下生させた、という救済説である。
そして、同善社も、この救済説を継承している。
「1 老母其初将無生宝地九十六億真種子、一斉播散下来…。以為這些真種子雖暫時遠離、好在遊必有方、将来嬰児見娘、骨肉重円、不過一弾指間耳。…不料発放以後、塵海飄流、天真汨没、上古・中古両次大開普度、僅僅収回四億、其余之九十二億、老母時常罣念胸中、涕涙悲泣、長嘆団集之日未識何月何年。(老母はその初めに無生宝地の九六億の真種子を、一斉にまき散らした…。これらの真種子はしばらくの間遠く離れているとはいえ、幸い行く先も告げてあり、将来子供らは母親にまみえ、肉親が再び一緒になるのであって、(離れているのは)束の間に過ぎない。…〔しかし〕思いもかけず、播かれて後、〔人間は〕この欲の世界をさすらい、無邪気さは埋もれてしまった。上古・中古の〔時期に〕二度にわたって普度が行われたが、わずかに四億人が取り戻されただけであった。残りの九二億のことを、老母は常に胸中気にかけており、涙を流しては悲しみ嘆き、皆が集まる日はいつになるかも分からないと、長いため息をついた。)47 」
「2 現在上天特開三期普度…、恐九二原人、迷失霊性、堕落沈淪、而不知返。是以上天特派弥勒古仏下凡、度回九二残霊。古仏又恐人心険詐、一時不易度回、於是又請諸天聖真仙仏、以及上古度回両億原人、中古度回両億原人、均一一斉下世幇忙…。即如我師是上古燃燈古仏化身下来、預将大道普伝於世、以期諸大原人、知所修持、同返古家郷。故一再展度。(今上天は、特別に三期の普度を行っているが…、九二億の原人が霊性を見失い、堕落し落ちぶれ、〔家郷に〕帰ってこないことを恐れている。そこで、上天は特別に弥勒古仏を派遣して、〔この世に〕生まれ変わらせ、九二億の残った霊を済度し帰らせようとした。古仏も、人心が陰険・狡猾なため、一時に済度し帰らせることが容易ではないことを恐れ、諸天の聖真仙仏や、上古に救済された二億の原人、中古に救済された二億の原人にまで、みな一斉にこの世に降って手助けしてくれるように願った。わが師(彭泰栄)は上古〔に二億人を救った〕燃燈古仏が化身したものであり、あらかじめ大道をこの世に述べ伝えることで、諸大原人が守り修めるべきことを知り、共になつかしい家郷に帰れるように望んでいるのである。ゆえに再び救済を行っているのである。)48 」
同善社の救済論は、無生老母に対する信仰を中心に、彼女に遣わされ人間に下生する救済者(弥勒仏、燃燈仏)に対する信仰、そして三期にわたって行われる救済の歴史、そして最高神と人類が母子関係にある、という要素によって構成されている。無生老母信仰は、下生信仰(中でも弥勒下生信仰)と結びつく場合が多く、教祖は、無生老母に遣わされ下界の人間を滅亡から救うために下生した神仏であると見なされる。同善社においては、教祖彭泰栄を燃燈仏――弥勒仏ではなく――の下生とみなす点に特徴があるが、親たる神の救済を代行・幇助する神仏=教祖という枠組みは、基本的に明清期民間教派の無生老母信仰のそれを継承していることが明らかである。
ところが『真経』の救済論は、この枠組みから外れている。『真経』の世界に、無生老母は存在せず――付言すれば、後年に至るまで無生老母が崇拝対象に加えられたことはない――、太乙老人なる神が、世界の根源・救済者として現れている。次節で述べるように、太乙老人は世界の根源的一気であり、かつ世界・人心の悪化を防ぎ劫――元来長大な時間を表す語であったが、道院においては、災害そのものを指す用法が多く見られる――を打ち消すために、太古において人間に経典を授け、救済へと導いた神なのである。
『真経』が編まれたのが、すでに済壇の成員が同善社に参加し、そこから分離した後であったことから、済壇の無生老母信仰の不継承は、確たる意図に基づいたものだったと推測されるのだが、『真経』をはじめ、済壇・道院において、このことに言及した資料は些かも見いだされない。そのため、不継承の理由は、推測による以外ないのだが、一つには信仰内容の面で、同善社、ひいては、そこに流れ込む明清期民間教派のそれとは異なる主張、独立した主張を掲げようとする意図があった点が考えられよう。
第三節『真経』の救済論
(一)『真経』の「歴史観」:三元説
『真経』の理解では、『真経』は一九二一年に太乙老人からの乩示によって成された経典であるが49、実はこの時に初めて現れたものではなく、三万年前(六万年前説もある)50にやはり太乙老人が「石門」51で授けた経典から抽出されたものだとされている52。石門で伝えられたこの経典には非常な威力があり、多くの劫から五〇万人もの人間を救い53、木石までも昇天せしめたという54。つまり『真経』の権威は最高神の手になる経典というだけでなく、過去、すでに多くの人を救い、救劫を成し遂げた実績によっても裏づけられているのである55。
さて『真経』は、独自の歴史、特徴的な歴史観の上に立って、現在を救済の新たな始まりとして位置付けている。『真経』独自の歴史とは、六万年前に根源的一炁・太乙老人より世界が始まり56、同じころ太乙老人の第二弟子にして、道教の始祖「平摩」が生まれ57、四万八千年前に仏教の始祖「果吒柰那」が誕生し輪廻から脱し58、三万年前に石門における『真経』の伝授があり五十万の人が救われ59、一万二千年前には人類を濁流から救った「救教」なる真教が存在し60、六千年前に「伽尼」と「老子」が修行を成就し61、三千六百年前には秦の南宮蘇豎の子徒元が、老子から『真経』の教えを学んで天仙と成り62、そして今再び『真経』が伝授されようとしている、というものである――師資相承の道統として語られるわけではないが、これを一応、道院の道統と呼ぶ――。このように『真経』は各所で、数万年から数千年前という比較的具体的な過去の年数を示して、出来事を語る傾向がある。
この『真経』独自の歴史は、特徴的な時間論と結びついている。『真経』は、歴史を上元、中元、下元の三つに区分し、この三つの時代が循環するという時間論(三元説)を持つ63。そして、「今、すでに下元は終りを告げ、上元が開始しようとしている」64というように、現在を下元から上元へと転換する端境期だと位置付ける。下元の終わりに――つまりまもなく――世界は劫に見舞われるのだが65、『真経』の力によって劫は払われ、上元に回帰するというのだ。
民間教派研究において、歴史を燃燈仏、釈迦仏、弥勒仏が治める三つの時期に区分し、各時代の終わりに訪れる大災害・末劫から人類を救済するのが、その三仏であるという教えを、三仏応劫説(三期三仏説・三期末劫説)66と呼ぶ。明末までに形成されていたと考えられるこの三仏応劫説は、清代以降の民間教派に広く受容され、同善社にも受け継がれていた。済壇・道院の三元説も、時代の三区分や劫からの救済を説く点で同善社の三仏応劫説67を部分的に受け継いだものと考えられるが、それとは異なる部分も見受けられる68。特に、三元説において、三期末劫から人類を救済するとされる三仏が登場しないことが、明確に異なる点として指摘できるだろう。『真経』において、救済の主体は太乙老人と『真経』、そしてその教えを実践する信徒たちなのである。
なお、『真経』において、三元の循環は、時間の経過によるというよりも、主に人間の道義性や気質の状態の優劣によって起こるように見える。なぜなら、上元・中元・下元の移り変わりに言及する時、『真経』は時間の経過によって元が移り変わるとは説明せず、「今已下元告末、上元開始。気質満不如前。…総不若上末至中時〈上元至中元〉、気厚而質阜。(今すでに下元は終わりを告げ、上元が始まろうとしている。〔しかし〕気質は以前のようではない。…やはり〔現在は〕上末から中(上元から中元)の時に、気が厚く性質も豊かだったのには及ばない)」69、のように、下元に近づくほど人心や気質が劣化していくと説明するのみだからである70。決定的なのは、下元から上元への回帰についての説明である。
「吾於二千五百紀前自妙山71出、救諸劫痛苦之数72、曾授石門経峪一次真語。皆従下末而返上始。(三万年前に、妙山から現れて、諸々の劫、痛苦の運命を救おうとして、かつて石門経峪において一たび真語(『真経』)を授けた。〔そして〕皆が、下元の終わりから上元の始めに返った。)73 」
三万年前、劫から人間を救おうと『真経』を授けられたことが語られている。『真経』によって、「皆(人間)」が、「下元」から「上元」に帰ったという時、「下元」、「上元」の意味は時代区分というだけでなく、人間の状態の形容に接近している。極論すれば、三元説とは、人間の気質の劣化と回復の歴史のことなのである。この考え方は、『真経』の救劫論と密接に関わるため、強調しておきたい。
以上から、『真経』の経典としての権威は、救済史の中で過去果たした、そして、まもなく果たすであろう役割から生じているので――しかも、救済に至る教えは過去も現在も経典の形で与えられた――、その前提として歴史が説明されざるをえないのである。
(二)気質の回復としての救済
次に、『真経』の救済論を、経典の展開を追う形で抽出・検討する。
本体部の導入である「首録」では、道院の歴史観と、『真経』伝授の意図が語られる。便宜上「首録」を歴史の展開に沿って三部に分けて見ていく。一部は三万年前、二部は三万年前から現在(一九二〇年)まで、三部はそれからのことである。
「吾老人74石門伝経〈石門、蜀中龍門〉。碣石75諸生76、能常宝精穀77、分火導水78、錬形成炁79、化万劫於無形80、求六合於一身81。炁成形散82。実者化為虚亡。虚実之間、錬亡而有。有則恒存83。(吾こと老人は、石門で経を伝えた〈石門とは蜀中の龍門である〉。石門の多くの門弟は、精気と穀気を常に宝のように大事にし、火(心の気)を分け水(腎の気)を導き、肉体を錬って炁(先天の気)と成して、多くの災劫を形になって現れる前になくしてしまい、世界を自分の身体の中に求めた。炁が完成すれば肉体は消散する。実なるものは変化して虚無となる。虚実の間にあって、無を錬ると有るようになる。有るとはつまり、永久に存在するということである)。84 」
一部では四川省の石門(龍門)において、遠い昔、太乙老人が経を弟子たち(『正経』では五三人の阿闍梨とされている)85に伝えて、世界の劫を解消したことが語られている。ここで注目すべきは、「精穀の気」、「火を分け水を導き、形体を錬って炁と成す」といった気の鍛練(坐功)について述べつつ、「多くの災劫を形になって現れる前になくし」たと示す点である。『真経』の伝える救劫の方法が、なんらかの形で坐功の実践と関わるものだと了解される。肉体を練って炁(先天の気)を完成させれば、後天的な肉体は消散し、やがて存在の永続という自己の救済に至るという。坐功という個人の修練が、救劫という全体の救済にどうつながるかはいまだ不明瞭だが、「世界を自分の身体の中に求めた」とあるように、世界の状態と自身の状態が相似として認識されていることは予想される。
では、このようにして過去一度は救われた世界に、なぜ再び『真経』が伝えられたのか、その過程は二部で述べられている。
「五千紀中〈一紀、十二年〉86、両授真経。前授此経、二千五百甲子87。年久亡存已。道徳経・太乙録諸書88。以旦昌卦爻89為稍得門径。後世不可多得解人90。得之邵堯夫、為吾門真伝。前半紀所伝之経、得道者半。今已下元告末、上元開始。気質満不如前。此次所伝、爾等内外両修諸子、多祗只二三十人。成大望者、多亦不過半数〈人数不可拘於本屆…〉。総不若上末中時〈上元至中元〉、気厚而質阜。所以前有五十万衆之吾道而成帰枢府91。(五千紀〈一紀は十二年である〉(六万年)92の間に、『真経』を二度授けた。前にこの経を授けたのは、二千五百甲子(三万年前)のことである。長い年月が経過してなくなった。『道徳経』(『老子』)や「太乙録諸書」、周公旦と文王姫昌の『易経』は、〔教えの〕初歩をいささか得たものである。後の世になると、〔教えの〕解った人を多く得ることはできない。これを得た邵堯夫93は、わが門の真伝である。前半紀に伝えたところの経によって、道を悟ることができた者は半分であった。今すでに下元は終りを告げ、上元が開始しようとしている。気質は前のように満ちてはいない。この度伝えるのは、汝等、内外の両方を修める弟子たち、ただ二、三十人だけである。大望を成就する者は、多くてもまた半数を過ぎない〈本期においては人数に拘るべきではない…〉。やはり〔現在は〕上末から中(上元から中元)の時に、〔人間の〕気が厚く性質も豊かだったのには及ばない。だから前には五十万もの多くの吾が道のものが、枢府に帰還を果たしたのである)。94 」
ここで、石門での授経が三万年前にもあったことが示される。その際授けられた経典は既に失伝したが、『老子』や『金華宗旨』などの道書、『易経』に多少の教えが残っているという。注目すべきは、北宋の儒者、「邵堯夫(邵雍。一〇一一年〜一〇七七年)」が真伝を得たとされていることである。邵雍は、著書『皇極経世書』において、一元(十二万九千六百年) 毎に世界が生滅を繰り返すという元会運世説を提示しており、彼への言及は上述した『真経』の三元説が、邵雍の元会運世説に由来することを示唆しているといえよう95。もっとも、『真経』では、一元の長さが明示されることはなく、また六万年前を世界の始まりと述べていることから分かるように、明らかに一元が十二万九千六百年以下であるという違いもある。さらに、一元毎に、世界の滅亡と再生があるとはされておらず、上元、中元、下元の違いは、人間の気質の差として語られるのみである。つまり、邵雍が「真伝」だという言及は、彼の学説を精確に踏襲することを意味するのではなく、広く知られた歴史論の著者への道統的接続の表現だったと捉えられる。
「今日一壇聚坐、與子等同参幽微96。出劫入壇。門戸洞闢、闢而即闔。祇此微妙光陰、世界永不変壊。亦祇有此吾道中諸子、修成霊円之炁包97而已。先天功夫、後天成之。後天不修、乃有寂滅98。吾言此経、在爾等善用悟心、成其気祖99〈気祖胎外皆是。散而不聚、修得自凝〉。此吾伝経爾等之本旨。(今日、一つの壇(済壇)に集まり坐し、諸君と奥深く微かな教えに共にあずかっている。劫から脱け出し壇に入っているのである。教えに通じる穴が開いたが、開いてすぐに閉じる。〔しかし〕このわずかな時間のみで、世界はとこしえに悪化することはなくなる。また、吾道の中にいる諸君だけが霊妙円満たる炁包(万物の根源)を修めて成就することができる。先天の功夫(坐功)は後天〔の今〕において完成されるのであり、後天〔の今〕において修行しなければ、永遠に滅びるだろう。吾がこの経を述べ、汝等がそれを善く用いて心を悟るならば、気祖〈気祖とは外に胎するものが皆これである。〔普通は〕散じて集まらないが、修練すれば自然と凝集できる〉を成就させるだろう。これが、吾が汝等に経を伝えた本旨である)。100 」
「首録」の終わりに、『真経』を伝えた意図が明確にされている。それは、まず世界を「とこしえに悪化することはない」ようにすることである。そしてこれと並んで信徒に「霊妙円満たる炁包を修めて成就」させることである。
「気」と「炁」の字は、いくつかの箇所では通用している例も見られるが101、概ね「炁」が先天の気・純一の気を指し、「気」は後天の気・分化した気を指すという区別が存在している102。「炁包」という単語は、『真経』中この箇所にしか見られないが、肉月の付いた「炁胞」という用語として『真経』中に頻出している103。炁胞は、「未分天地、先有炁胞。凡物亦何獨不然。(天地が分かれる前に、炁胞があった。あらゆる物もそうでない(炁胞に由来しない)ということがあるだろうか)」104、「炁胎之前、三元之始、合而為一者、皆炁胞也。此五千紀前妙山成形之象、如胎兒初孕日也。(炁胎の前、三元の始まりに、合わさって一つとなった。すべてが炁胞である。これは五千紀前に妙山が形となった象かたちであり、胎児が初めて宿った日のようなものである)」105、「如是天地人本一炁胞、一個炁胞天也、地也、物也、人也。(このように天・地・人は一つの炁胞に由来するのであり、一個の炁胞が、天であり、地であり、物であり、人なのだ)」106、「人初之炁、天地也、天地之炁炁胞也。(人の元来の炁は、天地であり、天地の炁は炁胞である)」107と説明されるように、人を含む万物の根源とされる一個の炁を指す。人の気質が劣化するのに伴って、世界のありようも悪化していくという『真経』の論理からすれば、人が気の原初の状態である炁包・炁胞を修行によって回復すること――直後の「気祖を成就する」という表現もこのことを意味するだろう――こそが、人と世界の救済へと結びつくということになる。事実、後節で触れるように『真経』は、救劫をそのようなものとして説いている。
以上が「経を伝えた本旨」なのである。総合すれば、『真経』は坐功によって気を原初の状態まで回復させること、それによって存在の不滅を獲得することを教える経典ということになる。
(三)人間全体の救済
「首録」で強調される『真経』の意義は、一つには、気質の衰え行く人間に、『真経』によって気質を回復する方法、つまり坐功を教えるところにあることだと述べた。そして、もう一点が、気質の回復と同時にあるいはその結果として、世界の災いや悪化、つまり劫をなくすことである。しかし前者と後者の関係は未だ不明瞭である。そこで以下では、二者の関係に焦点を絞って、『真経』の解説を追うこととする。まずは、『真経』が劫の原因をどのように考えているかを示す。
「道・儒・釈・救108及諸子百註萬家箋詰之学、皆発源於炁之一脈、衍述有異同。門戸有成見、善霊被縛、道魔109日争、而成乱離。劫不出数、数不離劫。炁走不守、是以水燃。若油若漆、遇風愈烈。而乾坤真宰是息、以劫削数〈数定於天、劫造於人。以後不可作一事講〉。(道教、儒教、釈教、救教、及び諸子百家とその諸註釈の学は、すべてが炁の一脈に源を発しており、その敷衍して述べるところに異同があるに過ぎない。〔にもかかわらず〕その教えに固定的な見解が生じ、善霊はこれに縛られて、道魔が日々に争うようになり、争い乱れてちりぢりとなった。劫は数(決まった運命)を超えることはなく、数も劫から離れない。炁が散佚して落ち着かないので、水(に譬えられる気)が燃えてしまうのである。油のように漆のように、風に遇っていよいよ烈しく燃える。世界の真宰(太乙老人)はやめさせようと、劫をもって数を削った〈数は天において定まるもので、劫は人から造られる。以後は同じ事として説いてはならない〉)。110 」
上記の引用文―特に「劫は人から造られる」の一節―は、この後、道院の劫に対する基本的な理解として定着することになる。『真経』は、劫(災害)は、我見に執着する人々――宗教や諸子百家、註釈の学派――の争いによって生じる、つまり人が作り出すものとみなす。こうした理解は、他所にも繰り返し見出される。「此季羣物私爭私逐、染化不誠、相率為偽。道息炁停、生物殆終。(この時、多くの生物が自らのために争い競いあい、悪い影響を受けて誠実ではなくなり、続けて偽りを行った。〔そのため〕道も炁も動きを止めてしまい、生物は殆ど終りを迎えようとしている)」111。人間の道義的悪化が道・炁を停止させてしまい、生物の終焉という現状を招いているという内容である。劫の原因が人間の道義的悪化だと、『真経』はいうのである。
『真経』中で、人が劫を作り出すのだから、やはり人が劫を払うべきだという救劫の論理が、最も明瞭に示されるのが、以下の部分である。
「此数千年来天地業障愈深、渾厚112之気少、真誠之学衰、道亡矣夫。道未亡也。人自亡道。地獄・萬劫・不生之苦海113、皆吾先天固有。同一気胎物質、何以善者常存114、悪者易滅。又何以悪者常、善者不祥。是聞我言。度一切衆生、衆生也。滅一切衆生者者、亦衆生也。滅不見滅、生不見生115。所謂度不自度、度自吾心。炁丹116還我一元真炁、而度此一切無量濁塵117、無光彩璀璨瑠璃之華麗魔障118険幕。有吾真道、不外善途。物自為物119、我自為我120、炁足神存、精結121色空、無疆楽土。衆生胥頼、無恒河沙億万千劫。脱離此節122、是在養気之充障123。障散邪従炁化。炁化則劫滅。劫滅則衆生度。(この数千年来、天地の業障はいよいよ深くなり、純朴な気風は少なくなり、真誠の学は衰えて、道は亡びてしまった。〔いや〕道はいまだ亡んでいない。人が自ら道を亡ぼすのだ。地獄・多くの劫・輪廻の苦しみは、すべてわが先天〔の気〕にもとから存在しているのだ。〔では〕同一の気をもとにしてできた物質であるのに、どうして善き者は永久に生き、悪しき者は滅び易いのか。またどうして悪しき者が永久であって、善き者が不運なのか。ここに我の言うことを聞け。一切の衆生を済度するのは衆生なのであり、一切の衆生を亡ぼすのもまた衆生なのである。〔ただ〕滅びるのに滅びる原因がわからず、生じるのに生じる原因がわからないのである。所謂、済度とは、自然に救われることではない。済度とは自分の心によるものなのだ。〔つまり〕炁でできた丹が我が本源たる真炁の状態に戻ることで、この一切無量の汚れを済度し、〔自分の心を覆う〕光り輝く瑠璃のように華麗に見える欲望という障り・危険な覆いをなくすのである。〔このように〕吾が真の道があれば、善い途から外れることはない。物は自ずと物であり、自分は自ずと自分であれば〔つまり外的対象に惑わされなければ〕、炁は充足して、神は留まり、精は凝結して、色は空となり、限りない楽土となる。衆生が協力しあえば、数え切れない程の劫もなくなる。本節〔にある問題〕を脱け出すには、気を養うことによって障りを充たし塞いで入れなくすることである。障りが散じれば邪は炁のはたらきによって消えてしまう。炁がはたらきかけることで劫は滅びる。劫が滅びれば衆生は済度される。124 」
ここにおいて、人間全体の災厄としての劫をなくし、衆生を救うというはっきりとした救劫が語られている。まず劫を招くのは人間であるという大前提が述べられ、その救済は心によってなされるとある。心による救済とは、直後にあるように坐功を修めること125によって、自分の心を覆う欲望を払うことである。そして、心の救済を広げて、「衆生が協力しあえば、数え切れない程の劫もなくなる」とする。後半では、この救劫までの動きを、気の作用として説明し直している。「気」を養うことによって、「炁」のはたらきを阻害する「障」をなくし、養われた「炁」がはたらくことで劫を滅ぼし、救劫が達成されるのだという。
人は気を養うことによって、その根源的な状態である炁を回復することができるというのは、前節で引用した「首録」でも見た通りである。以上から、気・炁を媒介にして個人と世界の救済が達成されるという坐功と救劫の関係が明瞭となったであろう。
(四)『真経』の使用法
これまでのところを総合すれば、『真経』は一種の自力救済を説いているかのように思われる。坐功を個々人が行うことによって、個人としても、世界全体としても、救済が果たされるというからである。ただし、それは救済には人間による坐功の修練が必要だという部分に限るのであって、坐功が太乙老人の授けた『真経』に基づいてなされるという前提からすれば、救済の根本的な主体はやはり太乙老人・『真経』ということになる。それは、済壇における坐功と扶乩という二大実践の関係性の反映としても捉えることが出来るだろう。坐功がいかに重要な実践として位置付けられようと、それによって乩壇本来の実践である扶乩の役割や乩文の権威が疎かにされることはないのである。
実際、『真経』は、坐功による救いではなく、経典自体に救いを与える力があることを強調してもいる。
「辰集以下、均要参看図説126與疑註127。豁然通悟128。較坐猶是一途也。(『真経』の辰集以下は、すべて図説と解説・注釈を参照する必要がある。カラリと悟りが開けるだろう。坐功と較べてもやはり、これは一つの手段である)。129 」
『真経』を詳細に読むことは、悟りを開く手段として、坐功に勝るとも劣らないというのである。『真経』の説くところを理解することが、自己の救済につながることは、他所にも見られる主張である130。
道院は、成立時の院章第二條に「本院道旨重在習静参悟太乙北極真経。(本院の道旨が重んじるのは、『太乙北極真経』を習静参悟することにあり)」131と定めた。では『真経』は具体的にどのように用いられたのであろうか。まずは、「習静参悟」、つまりその読み方と解釈の仕方から見てみよう。
「参経時黙参経文、不必誦読。有願解説者、或互推、或輪序、先後訳述。述者静気和声、虔宣要義。聴者黙坐清聴、細加参悟。但宜彼此交換益智、不可互相詰弁。遇有疑義、可另録筆記、留待詳参。再有不得真解之処、或請判示。但不可軽於涜請。仍以衆修自心参悟為宜。(参経時は黙って経文に参じ、音読する必要はない。解説を願う者があれば、互いに推測を述べるか、或いは順番に考えを述べて、順々に解説せよ。解説するものは、気を静め、声の調子を整え、要旨を謹んで陳べよ。聞くものは黙って座り静聴し、詳細に理解しようとせよ。ただ、彼我でやりとりして智恵を益すようにするべきであり、互いに詰って論争してはならない。疑問のある箇所があったなら、別に書き留めておき、後日、詳しく検討するようにせよ。再び真の解釈が得られなければ、扶乩で判別を願ってもよい。しかし、みだりに〔判示を〕請願してはならない。やはり、各修方が己の心で了得することが望ましい)。132 」
『真経』は、一読して容易ならざる経典であるが、これを理解することが救いに繋がるとして道院内では多いに研究された。例えば引用文に見られるように、理解できない部分を扶乩によって解釈することも実際に行われており、太乙老人の降乩による注釈書『未集坐経解釈』という乩文集も編まれている。修方はこうした注釈書以外にも、その他の乩訓に現れた解釈と照らし合わせて『真経』の意味を確定するなどしたようである133。つまり、難解な経典を読むためには扶乩による解釈の助けを借りる必要があり、そのことで確立された経典に対する扶乩の発言力が、解釈という形で保たれたのである。
上述のように用い方が想定された『真経』であるが、さらに本文中に指示されていないような使用法も現れた。
「遇有災患、可至経案前潔誠叩祷、黙誦聖号〈即至至聖先天老祖六字〉百遍。如有疾病、可将供水煎服(災難に遭遇してしまったら、経を置いた机の前に行き、心を潔め真心を込めて叩頭して祈り、黙って聖号〈すなわち至聖先天老祖の六字〉を心中で百遍唱えよ。もし疾病があれば、〔『真経』に〕供えた水を煎じて飲め)。134 」
『領経須知』の一節であるが、これなどは経典自体を一種の神位として礼拝・祈祷するように命じており、道院において経典が読解対象というだけでなく崇拝・信仰の対象にすらなっていたことを窺わせる。
さらに、『真経』の救済の力もますます強力なものになっていった。『道慈綱要』では、『真経』は読誦されることによって、亡霊の救済、救劫の効果を発揮するとされている。
「誦経分~事人~ママ二種。関於消災化劫、有奉判或請求判准者、謂之神事誦経。関於修方帰道、及其他因人事請求者、謂之人事誦経。…誦経以化劫弭災及助霊超度為義旨。(誦経は、~事人事の二種に分けられる。災いや劫を消すことに関して、〔扶乩によって〕判断を受けたり、あるいは許可を願ったりする〔ために誦経する〕ことを~事誦経という。修方の帰道(逝去)やその他、人事のことを願う〔ために誦経する〕ことは、人事誦経という。…誦経することは、劫や災いを消すこと及び霊の救済を助けることが意義・目的なのである)。135 」
『真経』は修行の上で精読される以外に、日常の困難、或いは家族の葬儀のような大きな事件に修方が遭遇した時、経典は読誦、祈祷の対象となるなど様々な用いられ方をして、問題解決のための機能を与えられていたのである。『真経』の権威は、信者とのこうした関わりの中で改めて認識され維持されていると言える。『真経』は教義を示すものであるだけではなく、道院中で最も尊ばれる宗教材の一つとして扱われていたのである。特に、救劫のために『真経』を読誦することは、後年坐功と並ぶ救劫の方法として定着していく(第三章において触れる)。
第四節終わりに
本論は、まず『真経』と先行する経典、教団との影響関係を明らかにした。『真経』の坐功は核心的な部分で、清初に成立した『金華宗旨』の記述を参照にしている。その『金華宗旨』を、済壇は同善社から坐功と共に吸収したと考えられるため、道院の坐功は同善社のそれに由来するものといえる。ただし、『真経』の内容からは、済壇が『金華宗旨』や同善社との系譜的な接続を考えていないことが明らかである。『金華宗旨』に見られる呂洞賓信仰や系譜意識、また同善社の無生老母信仰や道統意識は、『真経』中で一切言及されることはない。そして、それに代わる形で至聖先天老祖による救済の歴史が、詳細に、かつ秘儀的な表現方法で語られている。
以上から推測されるのは、『真経』制作者が教義について明瞭なビジョンを持っており、かつ同善社の教義に同意できなかった――それが無生老母信仰の不継承という形で表れている――ということである。結果として、『真経』は独立した教団であるという済壇の自己認識の教義的な――経典として明文化されたという意味で――表明になっている。
次に、『真経』の救済論を概観した。『真経』は個人の永生と救劫を坐功という同一の修行行為によって達成するように説いている。しかし坐功の意義を強調する一方で、『真経』は経典の意義――つまり乩文としての扶乩の意義――に言及することも忘れてはいない。たとえ坐功を修行の柱としていても、済壇はあくまで乩壇だからである。救いに至る教えは、過去も現在も経典の形で与えられるのであり、坐功と同じように経典の精読も悟りに繋がると『真経』は説く。結果として、後年、本文中で意図された機能以上の機能を『真経』は付与されていくこととなる。
最後に、『真経』中において、救劫とは坐功の実践であり、あるいは経典の読解であり、慈善活動のことでは全くなかった、ということを指摘しておきたい。次章以降において、道院・世界紅卍字会の教義展開を追うのだが、その際、救劫論の出発点が、上述のように経典に基づいた坐功の修養を重視するものだったことを認識しておくことは、必須の手続きである。
1 『太乙北極真経』(『蔵外道書』二二巻、巴蜀書社、一九九四年、四八五〜五二七頁所収)。目次は以下の通り。なお、引用文中の〈〉は原著者の割注を、()は引用者注を、〔〕は引用者の補則を表すこととする。訓語、箴首(守実箴、誡悪箴、去愚箴、守寂箴、居誠箴、警思箴)、誡首(去矜誡、去躁誡、去偏誡、去急誡)、銘語(其一、其二、其三、其四、其五、其六)、首録、子集巻一心水輪篇(第一節言意旨也、第二節發真言也、第三節道真経也)、丑集巻二炁輪心始篇(以下、各節の題は上に同じ)、寅集巻三脳髄輪天篇、卯集巻四形性命分篇、辰集巻五聲色空輪篇、巳集巻六塑走関性與梳堅定合篇、午集巻七上元圖説、未集巻八昧霊界輪天篇、申集巻九鬆拏穿素命天合篇、酉集巻十剰彀接適合篇、戌集巻十一尖離披合合篇、亥集巻十二気一成胞胞一天地合篇、語後、経語、領経須知。以下、『真経』の頁番号は、すべて『蔵外道書』二十二巻内の頁番号である。
2 例えば、中華民国期の社会活動を民間教派も積極的に担っていたことを、世界紅卍字会を事例にいち早く指摘した宋光宇は、道院の教義に対する検討を行わずに、「この教派は、明清時代のいかなる教派とも、一切伝承上の関係を持たない」と断じている。宋光宇、二〇〇二年(原一九九七年)、四八七頁。トーマス・デュボアは、濱壇・済壇について論究し、道院を扶乩活動の結果から生じた「新たな俗人(宗教)運動の典型」と指摘するのみであり、同善社の影響に関して、意を配っていない。DuBois, 2011, p.p.79-80.
3 「青蓮教」は、大乗教・五盤教に対して官側が与えた名称であるが、それゆえよく通行したことから、この名称を用いる。
4 武内房司、二〇〇一年、八〇〜八二頁。同上、二〇一〇年、一〇八頁。
5 三十一か所に見える。『真経』、四九〇、四九一、四九三、四九四、四九七、四九九、五〇〇、五〇二、五〇四、五〇五、五一七〜五二四頁。
6 劉勰は南朝梁の文人。文学理論書『文心雕竜』の著者として知られる。劉勰の名は、三十六か所に見える。『真経』、四九〇〜四九七、五〇〇〜五〇二、五〇四、五一二〜五一四、五一七〜五二三頁。
7 邵雍は北宋の儒者。本章第三節(二)において触れる。彼の名は、三か所に見える。『真経』、四九五、五〇二頁。
8 『蔵外道書』版(一九九四年、四八五〜五二七頁)は、巻末に「領経須知」(「壬午(一九二三年)」の記述が見える)が付されている。『道蔵精華』版(第十一集之五、二〇〇三年、一〜一六四頁)には、『道蔵精華』の編集者である蕭天石による「太乙北極真経序」が付されている。両書の文字に異同はなく、同一の版によるものと思われるが、両書ともに奥付がなく、刊行年は不明である。
この他、『真経』(中華民國十二年(一九二三年)五月鉛印版)の奥付を参照しておきたい。表紙および三頁が欠損している。奥付には「中華民國十二年五月鉛印」という年月の他、一五人の校正者の道名が記されている。「主校者」に「素一、素苞、素定、素璞、性空、福縁、玄機、悟淡、慧済、慧恵、円源」、「襄校者」に「宣望、仁性、吉中、素是」とある。「刷印者慈濟印刷所発行者濟南道院」とあり、末尾に「四平道院修方供奉」と朱筆がある。「領経須知」は付されていない。また、同版は『蔵外道書』版、『道蔵精華』版と字体が異なっており、異なる版によるものと判断される。なお、同経典は、松下道信氏(皇學館大学)の私蔵本を氏のご好意により閲覧させていただいたものである。
9 『蔵外道書』版『真経』の題字は「緒方弟子華善薫沐遵題」とある。華善は一九二一年当時、山東省の督軍(一九一九年一二月着〜一九二三年一〇月免)であった田中玉(一八六四〜一九三五。字を蘊山。直棣臨楡(現河北秦皇島、撫寧)の人) のことである。
10 最終巻『道慈綱要續篇』奥付に、「庚子年(一九六〇年)台湾道院重印」とあるが、原刊行年の記載はない。ただし、本論では刊行年を一九三二年とみなしている。
11 『大道篇』、一九三二年、五〜六頁。
12『道慈綱要續篇』序(一頁)と『道慈研究所溯源語録』(一二一頁)の乩訓より、「壬申年正月二十三日」(一九三二年二月二八日)までに『大道篇』以下の四冊が成立していたことがわかり、『道慈研究所溯源語録』(一〇九頁)の乩訓より、この四冊の基になる講義が辛未年十二月初八日(一九三二年一月一五日)までに終わっていたとわかることから、成立年を一九三二年頃とした。
13 『道慈研究所溯源語録』は壬申年旧暦五月二十一日(一九三二年六月二四日)までの乩訓を掲載しており、『道慈綱要續篇』は序文に「壬申春」(一九三二年)以降、年内の研究所の状況が記されていることから、一九三二年以降の成立とした。
14 楊承謀(一九三二年当時五〇歳)、字を孟襄、湖南長沙の人。清末に京曹(各部衙門司官以下の属官)から県令まで勤めた。劉紹基の紹介で入修した一九二一年以来の信徒である。まず道徳社の主編を勤め、二三年まで済南の道院・道徳社で文事に携わった。二七年までは北京、天津の道院で救済の諸務にあたった。それ以降、北京総院に常駐し、東北卍字新聞や道慈巡視団の創始に関わった。「職員修畧」『道慈研究所溯源語録』、一九三二年、一三頁。
15 第四章で触れる。
16 徳鎔は仮名、北京の人。何らかの事情により経歴を隠しているが、幼い頃より仏教(座禅)を独習していたという。四四歳に菩薩戒を受け、浄土を兼修したとあるから、居士ないし仏僧であったと考えられえる。五四歳で道院に入修し東北卍字新聞の記者を勤め、一九三二年(五六歳)にして、道慈研究所の研究主任となった。「職員修畧」『道慈研究所溯源語録』、一九三二年、一七頁。
17 一例を挙げる。頻出する「輪」字に「分」の意味を与えている。『真経』、四九一頁「輪字不可作虚字解。譬如太極図中S線、陰陽水火関係此間是分輪耳。抑輪分也」。
18 一例を挙げる。「心居」と「胞海」という経穴をつなぐ、「正充」という経絡について説明するが、いずれも造語である。『真経』、五二二頁「正充、任督主之。心居胞海所繫之正脈也」。
19 『大道篇』、一九三二年、二二二頁
20 『大道篇』、一九三二年、一七九〜一八〇頁。
21 『道慈要義』、一九八六年、八二頁。なお「石門」という地名については、本章第三節(一)を参照。
22 酒井忠夫、二〇〇二年、一五三〜二七一頁。
23 「青玄宮」は、太乙老人の天上における所在を表すと考えられるが、「太乙」の名称によって想起された呼称とも考えられる。『真経』中、太乙老人は一度だけだが「青玄老人」(四九九頁)と呼ばれる。道教において「青玄上帝(青玄九陽上帝)」は、「太乙救苦天尊」の別号として知られており、「太乙」が「青玄」という語と結びついた可能性がある。「三元始紀」については、「三元(本章第三節(一)を参照)之始、合而為一者、皆炁胞(根源的一気、すなわち太乙老人)也」(五〇六頁)とあるように、時間の初めを意味すると思われる。
24 『大道篇』、一九三二年、一二三頁。
25 『大道篇』、一九三二年、一二八頁。
26 『大道篇』、一九三二年、一四七頁。
27 六章で触れるように、各地の乩手によってなされた乩文の異同によって、道院内で不和が起こった事例があり、道院自体もこれを乩手の資質のばらつきが原因だと認めている。
28 例えば後年、南京道院で、各地の分院から寄せられた乩文を、テーマ毎にまとめた乩文集『道徳精華録』(一九二八年)、『道徳精華録続』(一九三三年)が編纂されたが、これらは神仙の乩示として尊ばれるものの、「経典」とはされていない。
29 『大道篇』、一九三二年、一四二頁。
30 『太乙金華宗旨』も、扶乩によって成立した経典である。同経典が成立に至るまでの経過を異なる版本の記述に即して跡付けた研究に、森由利亜、一九九八年、四三〜六四頁がある。
31 王見川、二〇一一年、一三一頁。
32 この一文は『太乙金華宗旨』よりの引用と考えられる。以下に、下線を施した部分と対応してる。『太乙金華宗旨』天心第一、「回光之功、全用逆法。注想天心。天心居日月中。黄庭経云、寸田尺宅可治生。尺宅面也。面上寸田、非天心而何。方寸中具有鬱羅蕭台之勝、玉京丹闕之奇、乃至虚至霊之神所注。儒曰虚中、釈曰霊台、道曰祖土、曰黄庭、曰玄関、曰先天竅」。
33 『真経』、四九九頁。
34 『真経』、五一二頁。
35 なお『金華宗旨』のこうした扱いは、現在まで続いており、台湾道院においては坐功研究のための経書として同書が挙げられている。游彌堅『宇宙的神秘力量』世界紅卍字会出版(原一九五一年、修訂二〇〇三年)。
36 「坐則説明」(『道慈要義』、一九八六年、九四〜九五頁)
37 『真経』、五一四頁。
38 『真経』、五二四頁。
39 『真経』、五一七頁。
40 『真経』、五二一頁。
41 『大道篇』、一九三二年、一三五頁。
42 なお坐功は六度の段階が最高とされており42、道院第二の経典である『太乙正経午集』においては、四度以降六度の段階までに「純白虚空之真実妙境(純白虚空の真実の妙境)」に至ることが説かれている。「太乙正経午集研悟心得」『道慈研究』一六二期、二〇〇九年、八九頁。
43 『荘子』人間世篇中「瞻彼闋者、虚室生白、吉祥止止」。
44 『大道篇』、一九三二年、一一四頁。
45 浅井紀、二〇〇五年、四二頁。斎教は、江南伝の羅教系諸教派に対する官側の概括的呼称である。信者が喫斎を守ったことが名称の由来とされる。これらの諸教派は、本流である羅教には見られない弥勒下生信仰、あるいは無生父母による救済論を説く点に特徴がある(馬西沙・韓秉方、一九九二年、三四〇〜三九一頁)。金丹道は、黄徳輝が清雍正年間に創立したとされる教派。明万暦年間に王佐塘が創始した金幢教の経典『仏説皇極金丹九蓮証性帰真宝巻』を参照し、内丹修煉を修行法として採用しているほか、流伝中に大乗教(大乗道人羅維行伝の羅教系教派)の影響を大きく受けたとされる(王見川、一九九六年、七七〜八九頁)。なお馬西沙は、黄徳輝を、明末に張姓の人物によって起こされたという大乗円頓教と大乗教とを合わせた円頓大乗教を起こした黄廷臣という人物と同定している(馬西沙・韓秉方、一九九二年、一〇九八〜一一〇四頁)。
46 無生老母信仰の起源については、諸説行われているが、明代中期に成立したと考えられる『銷釈悟明祖貫行宝巻』に、後年におけるものとほぼ同じ形で無生老母信仰が見られることから、少なくとも、明代中期には存在していたと考えられている。浅井紀、二〇〇七年。
47 彭泰栄講述・唐光先記述『了道秘録』、二〇〇〇年(原刊行年不明)、九五頁。
48 唐光先『回郷語録』(林立仁編、一九九四年(原一九三一年)、二四七〜二四八頁)。
49『真経』、五二五頁に「老人親授乩沙」とある。
50『真経』、五二五頁に「吾於二千五百紀前自妙山出、救諸劫痛苦之数、曾授石門経峪一次真語」とある。なお「一紀。十二年」(『真経』、四九〇頁)として計算する。ただし、『真経』のいくつかの教えは、後発の『正経』の記述と異なる部分がある。例えば『真経』伝授の年も『正経』では六万年前になっている。「太乙正経午集研悟心得」『道慈研究』一六一期、二〇〇九年、八九頁。
51 四川省広元市の東北に位置する山名。割注で石門とは「蜀中龍門」(『真経』、四九〇頁)だと解説されており、杜甫(「龍門閣」)や沈佺期(「過蜀龍門」)などによって詩に読まれている。
52 『真経』、五二六頁「即前授之経、皆従石門本経抽出副冊」。
53 『真経』、四九〇頁「所以前有五十万衆之吾道而成帰枢府」。
54 『真経』、五〇〇頁「師在石門授経、木石俱登天籍。経感之耳」。
55 神だけでなく、「経典」が、救済において核心的な役割を果たすという考えは、『真経』独自のものではない。伝統的な道教の信仰に類似の考え方が見られる。『隋書』「経籍志」は、「道経」が元始天尊と共に生じ、繰り返される世界の生滅の中で、幾度も仙人や人間の救済――仙人となり道と合一すること――を助けてきた、という道教の信仰について述べている(『隋書』巻三五、志三〇)。経典の救済力を重視する態度は、このような伝統的な信仰という側面からも説明されうるが、また乩壇の信仰のあり方という観点からも説明が可能だろう。つまり、教祖や指導者といった実在の人格に対する信頼や敬慕ではなく、壇上に現われた神仙の文章に対する驚嘆の念からはじまった信仰にとって、目の前の「乩文」=経典こそが何よりも直接的な救済者なのだ。
56 太乙老人の正体は、『真経』によって初めて明らかにされる。彼は、人類を救ってきた神であると同時に、万物の根源たる一炁として描かれている。『真経』、四九一頁「老人曰、此吾未成気形之一滴小胞耳」。『真経』、四九四頁「老人曰、吾在五千紀前、二儀未判時代、一炁元中、一分水精無他、一合質物耳。自気定形成、三元周旋、九宮成野、五方定序」。なお『正経』では、「五千万紀前(六億年前)」に、太乙老人によって宇宙が始まるとしており、より長大な歴史が導入されている。「太乙正経午集研悟心得」『道慈研究』一六七期、二〇〇九年、八八頁。
57 『真経』、四九四頁「道宗平摩〈平摩吾第二弟子、生於五千紀〉、得窺正貫、帰依妙山〈北極冰洋、今人所呼、古名妙山〉。後世清静寂滅之旨、始基於此」。
58 『真経』、四九四頁「果吒柰那一人而已〈此人生於四千紀前、講不生不滅之学者〉」。
59 『真経』、五二五頁「吾於二千五百紀前自妙山出、救諸劫痛苦之数、曾授石門経峪一次真語」。
60 『真経』、四九三頁「若救〈千紀前真教也。不伝久已。彼時物各相食。老人曾従世界濁流救物一次。後六百紀、有人群焉、皆救教之力也〉」。
61 『真経』、四九六頁「五百紀前、善修之物、只有二霊。仏士伽尼、道士李耳」。
62 『真経』、五〇〇頁「徒元胎列者、五千年前無知者。三百紀前、秦南宮蘇豎児也。学道于函谷李耳之門、得吾石門真経之旨、遂成天仙。惜史不伝」。
63 『真経』、四九〇頁「總不若上末中時〈上元至中元〉」。『真経』、五二五頁「皆従下末而返上始」。
64 『真経』、四九〇頁「今已下元告末、上元開始」。
65 『真経』、四九四頁「此季群物私争私逐、染化不誠、相率為偽。道息炁停、生物殆終。吾不下救、生従何蘇。教将不能一派存也」。
66 馬西沙は、この教義を、仏教の三世仏説と、道教に由来する三陽劫変説とが結合して生じたものとして説明し、「三仏応劫救世思想」と呼ぶ(馬西沙・韓秉方、一九九二年、六七頁)。劉平は黄天教、弘陽教、円頓教などの明清期民間教派で、「三仏応劫」説が、いくつかの異なるバリエーションを有しつつも、広く唱えられていたことを指摘している(劉平、二〇一〇年、二五七〜二六三頁)。
67 同善社は、時代を上古、中古、下古の三期に分け、それぞれに訪れる水劫、火劫、風劫から、燃燈仏、釈迦仏、弥勒仏によって救い出されると説いたという。秦宝g、二〇〇九年、三八七頁。
68 三元説は、末劫到来の恐怖を比較的強調しないという特徴がある。すでに酒井忠夫が、道院の三元説で説かれる末劫説はゆるやかなものであり、徹底的な破滅の到来を強調する同時代の「宗教結社」に見られる三期末劫説とは異なると指摘しているように(酒井忠夫、二〇〇二年、二七二頁)、道院の三元説は劫を払いうるとするところに強調点がある。
69 『真経』、四九〇頁。
70 付言すれば、『正経』においても、この時間論は明瞭に見出される「太乙正経午集研悟心得」『道慈研究』一七三期、二〇〇九年、二頁「上古之世、炁厚質醇、物物相安而無争。…中元以降、心慮日起、分群分倫、相戕相争、而淳樸醇厚之形質、亡其半已。…迨及下元、心愈巧已、智愈増已、詐偽険譎、争攘戕害。…淳樸之風、醇厚之炁、剥削殆尽。是亦人類自造之数、自成之劫」。
71 『真経』独自の地名であり、道院においては「天界・仙界」を意味する。『真経』、四九四頁「北極冰洋、今人所呼。古名妙山」。「専件」『道徳雑誌』第二巻第十一期、四頁、「統院院監、自妙山来」。
72 「数」を「運命」と解した。蘇洵『六国論』「斉人勿附於秦、刺客不行、良将猶在、則勝負之数、存亡之理、当与秦相較、或未易量」。
73 『真経』、五二五頁。
74 「吾老人」を「吾こと老人」と解した。少し不自然な気もするが――おそらく、最初の乩文においては「吾」のみだったものに、編集の段階で註として「老人」が挿しこまれたものであろう――、『真経』中で「吾」という一人称は、概ね「太乙老人」の自称であるので、ここはそういうこととして解釈する。なお、「吾」が「太乙老人」を指す例としては、「老人曰、此吾未成気形之一滴小胞耳」(『真経』、四九一頁)、「老人曰、吾先於石門授経」(『真経』、四九二頁)などの他、多くある。
75 「碣石」が「石門」を指すと解した。碣石は、史書では特定の山名を指す場合が多いが(『書経』禹貢「太行恒山、至于碣石、入于海」。『史記』秦始皇本紀「始皇之碣石、使燕人廬生求走蜊pセ。刻碣石門」)、いずれも四川省内の山ではないことから、ここでの「碣石」は石門の地形を表現していると解するのが、妥当であろう。
76 「諸生」を「多くの門弟」と解した。王安石『取材』「所謂諸生者、不独取訓習句讀而已、必也習典礼、明制度、臣主威儀、時政沿襲、然後施之職事、則以縁飾治道、有大議論則以経術断之是也」にみえる。
77 「精穀」を「精気と穀気」と解した。台湾道院が編纂した『真経』の用語解説書である『静修励行備忘録』(一九九一年)では「精穀者、浅言之為陰陽二気、於修人言、常保其言行動静、不失其常度、深言之、常保其炁霊於純一而不雑也」(一九一〜一九二頁)、「(一)精之源出於天、穀之本発於地。(正経三節三籙)、(二)精是真水、穀是真炁」(二五三頁)のように、「精穀」を二つに分け、陰陽、動静、天の精気と地の穀気として解釈している。
78 「火」を「心の気」、「水」を「腎の気」と解した。『雲笈七籖』巻六三、「在天地之間、配象五行。在人身田中、心為火蔵、在肺下、其数一。腎為水蔵、双居命門、其数二」。周知のように、内丹は、この二気の交合によって完成される。「分火導水」は、内丹の行気を指すと解した。道院の解釈としては、『静修励行備忘録』(一九九一年)「淞滬演経録中曰、火為二陽、由両衝而下、故曰分火、火能下降、水自上昇」とあるように、体前面に二つ走る衝脈を心の気が分かれて下降し、腎の気が上昇してくるという、行気を指している。
79 「錬形成炁」を気の鍛練の事として解した。『雲笈七籖』巻五六「九年是錬気為形、名曰真人。又錬形為気、気錬為神、名曰至人」。
80 災いを未然に防ぐという意味に解して訳した。『雲門山志』第五篇「雲公老和尚事略」、「公於滇中弘法度生外、有数事弭巨患於無形者、略挙如次」。
81 一身と対比される六合を「世界」と解釈するのは、程頤『易序』「遠在六合之外、近在一身之中」の例による。
82 気の完成と形体の分散と解した。『真誥』「霧氣是山沢水火之華精、金石之盈気也。久服之、則能散形入空、与雲気合身体」。
83 「恒存」を「常存」と解し、永久に存在すると訳した。『隋書』「経籍志」巻三五、「以為天尊之体、常存不滅」。
84 『真経』、四九〇頁。
85 「太乙正経午集研悟心得」『道慈研究』一六二期、二〇〇九年、八六頁。
86 一紀を十二年とする説は、古代より行われている。『国語』晋語四「文公在狄十二年、狐偃曰蓄力一紀、可以遠矣」、韋昭注「十二年、歳星一周為一紀」。
87 「二千五百甲子」を三万年としたのは、『真経』、五二五頁(注50にて引用済み)の記述による。
88 太乙の録したる諸書と解した。太乙の名が冠された道書群を指すと思われるが、前述のように『真経』では『太乙金華宗旨』のみが言及される。
89 旦昌を周公(姫旦)と文王(姫昌)に解し、卦爻は『周易』とした。『隋書』巻三二、志二七「周文王作卦辞、謂之周易。周公又作爻辞」。
90 「解人」を「〔教えの〕解った人」と解した。『三国志』巻五九、呉書一四「亮曰解人不当爾邪。乃赦宮中、基以得免」。
91 天界の役所を指す。もとは、王朝の中枢(内閣)を指すが(『清史稿』巻四〇一、列伝一九八「国家旧制、相権在枢府。鴻章与国藩為相、皆総督兼官、非真相」)、道院においては、天界での役所を意味した(『甲戌年終奨訓』奥付なし、一九三五年頃「加天霊七度、枢府晋一級記名也」)。
92 世界の開闢を六万年前とする説は、同善社でも行われていた。唐光先『回郷語録』(林立仁編、一九九四年(原一九三一年)、二六八頁)「天有十二運会、毎会有一万零八百年。自子到巳、為之六陽会。由午至亥、為之六陰会。現在已到午会之中…。刻下正在午会之中、自天開於子、地闢於丑、人生於寅、計算已有六万余年」。この考えは、邵雍の元会運世説に基づいている。
93 邵雍(一〇一一〜一〇七七)。字は堯夫、諡は康節。北宋河南共城の人。著書『皇極経世書』観物篇一によると、宇宙は一元のサイクルで生成〜消滅を繰り返すとされる。一元は十二万九千六百年。一元は子会から亥会までの十二会に分かれ、一会は一万八百年である。
94 『真経』、四九〇頁。
95 同善社においても、元会運世説に則った歴史の趨勢が語られており、この点においても『真経』は、同善社の影響下にあるということができる。
96 「幽微」を「奥深く微かな教え」と解した。『北斉書』巻四四、列伝三六「少受鄭易、探賾索隱、妙尽幽微、詩書三礼、文義該洽、兼明風角、妙識玄象」。
97 「炁包」は、他所では「炁胞」として、数か所に現れる用語である。「未分天地、先有炁胞。凡物亦何獨不然」(『真経』、四九三頁)、「炁胎之前、三元之始、合而為一。皆炁胞也。此五千紀前妙山成形之象、如胎児初孕日也」(『真経』、五〇六頁)、「如是天地人本一炁胞。一個炁胞、天也、地也、物也、人也」(『真経』、五二三頁)という説明から、万物の根源である炁の粒(受精卵のイメージ)を指すと解釈できる。
98 「寂滅」を「永遠に滅びる」と解した。悟りの意味の寂滅ではないと考えるのは、文脈上、寂滅がマイナスの意味でありかつ、『真経』中に、以下のような記述があるためである。『真経』、五二三頁「不是仏家寂滅之滅。是乃永墮地獄、不転輪廻之滅」。
99 字義通りならば、気を祖(はじめ、もと、おおもと)の状態に戻すことであるが、割注にあるように、身外にできる気で出来た「胎」=実体のようなものが想定される。『金華宗旨』回光守中にも「初行此訣乃有中似無。久之功成、身外有身、乃無中似有。百日専功、光纔真、方為神火。百日後、光中自然、一点真陽、忽生沉珠。如夫婦交合有胎」というように、類似の表現が見られる。なお玉皇大帝を「気祖」とみなす例に、『宋史』巻一四〇、志第九三「玉皇大帝先天気祖、魄宝御中宸、列位冠高真」がある。また「祖気」であれば、万物の根源的な気を指す。『雲麓漫鈔』巻八「唐置崇元学、専奉老氏、配以荘列道家者流、以謂天地未判有元始天尊為祖気、次有道君以闡其端、老子以明其道」。
100 『真経』、四九〇頁。
101 例えば「老人曰。天地本無物也。物物生生。始開於気」(『真経』、四九一頁)や、「老人曰。先天之気。渾渾灝灝。錚錚鑠鑠」(『真経』、四九三頁)、また「老人曰。炁胞之始。淺言言之。即天中之気是。未分天地。先有炁胞。凡物何獨不然」(『真経』、四九三頁)などは、「気」と「炁」の字が通用している。
102 例えば、欠けることなく充実した気を意味する「真炁」や、万物の根源を意味する「炁水」といった表現には、必ず「炁」の字が用いられ、わずかの例外を除いては「気」の字はあてられていない。一方、「形」や「体」といった「後天」に分類される言葉と併用される際には、ほぼ必ず「気」の字が用いられる。
103 「炁胞」と「炁包」には、厳密には違いがある。『真経』、五二二頁において、「這個炁胞之胞與包字、本不相同。有月是体、無月是気。一個未成、一個已成是也」とあるように、「胞」と「包」の字には、「身体」と「気」、あるいは「未成」と「既成」の違いがある。
104 『真経』、四九三頁。
105 『真経』、五〇六頁。
106 『真経』、五二三頁。
107 『真経』、五二三頁。
108 「救」は、『真経』独自の教名「救教」である。『真経』、四九三頁「若救〈千紀前真教也。不伝久已。彼時物各相食。老人曾従世界濁流救物一次。後六百紀有人羣焉、皆救教之力也〉」。
109 「道魔」は、「宗教の中の悪人」と解した。『王鳳儀言行録』第二十二節「道像灯芯、徳似灯罩。徳不足擋不住外界的悪風、没有道不能大放光明。所以說、有道無徳道中之魔、有徳無道一座空廟」。
110 『真経』、四九三頁。
111 『真経』、四九四頁。
112 「渾厚」を「純朴」と解した。『宋史』巻三八八、列伝一四七「浩天資質直、涵養渾厚、不以利害動其心。」
113 通常、輪廻の苦しみを「生死之苦海」と表現する。『重修曹谿通志』巻六「若仏弟子、不乗仏戒、将何以為修行之地。奈何以出生死之苦海乎」。
114 『隋書』巻三五、「以為天尊之体、常存不滅」とある。
115 「滅不見滅、生不見生」を「滅びるのに滅びる原因がわからず、生じるのに生じる原因がわからない」と解した。『無心論』頌「滅則不見其壊、生則不見其成」。
116「炁丹」を「炁でできた丹」と解した。『真経』中で「炁丹」に近い表現として「一炁成丹」(『真経』、四九六頁)や、「炁成丹実」(『真経』、四九七頁)がある。
117 「濁塵」は、仏教用語で「世の汚れ」を指す。「五濁」・「五濁塵」ともいう。『仏頂尊勝陀羅尼幢賛』「故大音伝於密教、茫茫五濁、客塵覆之、根識相縁、生滅相隨」。
118 「魔障」は、仏教用語で「修行の障り」を指す。原文では「無光彩璀璨瑠璃之華麗魔障」とあり、他所の類似した表現(「度一切璀璨宮室錦繍輿服之苦魔」(『真経』、四九一頁))から、「欲望という障り」と訳した。
119 「物自為物、我自為我」を、「物は自ずと物であり、自分は自ずと自分である」と解した。類似の言い回しが、以下の例文に見えるが、意味は異なる。『明儒学案』巻三九「楊氏為我、人自為人、物自為物、牛自為牛、馬自為馬、而不以我與之」。
120 『法句経』に見える。『法句経』第三四「我自為我、計無有我、故当損我、調乃為賢」。
121 「炁足」を「炁が充足する」と解した。『雲笈七籖』巻五九「晏坐安心、用元気排悪気出尽。然後依法服元気使足。即服丹田中気。気足即運気」。以下、「炁足、神存、精結」はすべて、気の鍛練の完成を指すと解した。『雲笈七籖』巻五七「是故須納気以凝精、保気以錬形。精満而神全、形休而命延」。
122 「此節」を「本節〔にある問題〕」と解した。注1に見えるように、『真経』は巻、篇、節から構成されている。『真経』中の「節」の使用法はこの最小の構成単位の節を指すものである。『真経』、四九二頁「吾得而為諸弟子於下節言之」。また『真経』、五一五頁「老人曰上節所言其旨在天」。
123「養気之充障」とは「気を養うことによって、障りを充たし塞いで入れなくする」ことである。ここでは「充」の字を、「充斥する」、「充塞する」という意味に取り、気を満たして魔障の入り込む隙をなくし、また追い払うこととして解釈した。類似した表現は、道院の他文書にも見られる。『道コ精華録』巻三、慈愛門上巻、一九二八年、一六頁「吾言化劫、大而化小、小而化無、其旨在乎充善。…而悪不足以為氏A観乎陰気充塞。天之由霾霧而現昏暗。皆気使然。人之充善而化氏A理亦猶是」。また気を養って、天地を塞ぐという話は、『孟子』公孫丑章句上「我善養吾浩然之気。敢問、何謂浩然之気。難言也。其為気也、至大至剛、以直養而無害、則塞于天地之間」に見える。
124 『真経』、四九四〜四九五頁。
125 気の修練は、坐功のことを示してる。「老人曰、前経皆吾老人與石門諸子所言炁解、一放万彌、万収一帰之旨。何者可成、何者可修。修従坐始、成亦従坐始」(『真経』、五二二頁)。
126 『真経』巻七は、「上元図説」と題され、上元における世界の生成を、十二の図に分けて解説している。
127 「疑」は、太乙老人がほどこした頭注である「定疑」・「定」を指し、「註」は、慧地のほどこした頭注である「箋註」・「註」を指す。
128「豁然通悟」を「カラリと悟りが開ける」と解した。『慧命経』自序「豁然通悟、乃知慧命之道即我所本有之霊物」。
129『真経』、五二五頁。
130 一例として、「吾今授爾等経言真詮。一明萬物皆成一致。…天姥退而與諸子言此真詮。数十萬衆胥出溺途、叩首九通。皆超登上帝之堂。…吾道弟子得解天姥石門問疑所悟之語、皆能入吾五宮玄関之門、或不致石門群石不審〈師在石門授経。木石倶登天籍。経感之耳〉」(『真経』、四九九〜五〇〇頁)という「故事」が挙げられる。
131 『大道篇』、一九三二年、一四七頁。
132 『道慈綱要禮儀篇』、一九三二年、七五〜七六頁。
133 例えば、前述の『靜修勵行備忘録』でも、解釈のため引用する乩訓は複数あり、その解釈も二通り、三通りとあることが多い。
134『真経』、五二六〜五二七頁。
135 『禮儀篇』、一九三二年、三七〜四〇頁。冒頭「人~」とあるのは、「人事」のあやまり。 
   
■第三章坐功による救劫:道院・世界紅卍字会の救済論1

 

第一節はじめに
本章では、道院の救劫論中における坐功の役割に注目して、教義の変遷を跡付ける1。この作業は直接的には、道院の教義と実践の動態的把握を内容としつつ、次章以降に共通するテーマの考察の一部をなしている。それは、「近代化」――序章でも触れたように、特に「迷信」2や「慈善」、「宗教」といった新たな概念の浸透を念頭に置いている――が民間教派の思考の枠組みをどのように変化させたのか/させなかったのかという問いである。
さて本章の目的の第一は、道院の救劫論に関する先行研究の理解を修正することである。多くの先行研究は、道院の救劫論の内容を、内外兼修(内的実践すなわち道院における修行――坐功はここに含まれる――と儀礼、外的実践すなわち慈善事業などの社会的な活動を、ともに修めること)に基づいており、世界紅卍字会の社会的活動の活発さから、とくに慈善を救劫の手段とみなす点に特徴があるとする3。しかし、道院の教説を動態的に把握した時4、慈善による救劫論とは強調点の異なる救劫論――慈善という社会的な実践以上に、坐功という非社会的な実践を強調する救劫論――が重視されていき、定着する様子が明瞭に見出されるのである。こうした内容は、あるいは一見したところ教義上の些細な変化にすぎないと思われるかもしれないが、本論はこの変化が、道院・世界紅卍字会をめぐる政治環境の変化によって生じたものだということも明らかにしている。本章と続く第四章でも論じる通り、南京国民政府の発した一連の宗教関連政策(破除迷信運動)は、道院等の民間教派の教義――言い換えれば信徒の内面――にも大きく影響した。「迷信」を除くという国家確立のためのプロジェクトが、個別の宗教団体の中でどのように受け止められ、反映されていったのかという事例として、道院の救劫論の変化は示唆に富むものなのである。
さて道院の救劫論の修正は、教義解説中に見られるある種の齟齬を解消することにもつながる。齟齬とは何か。例えば志賀市子は、道院の教義解説書『修坐須知』(の吉岡義豊による抄訳)より、救劫について論じる一節5を引用し、こう説明を加えている。「善行によって劫を化すとする道院の修法は、内修と外修の兼修を基本としていた。内修とは静坐、外修とは善行、すなわち人を救済する事業を指している。『修坐須知』によれば、「内修がなければ根本を立てることができず、外修がなければ世を救うことができない。両者はどちらも廃することはできない」という」(傍点は筆者による)6。つまり、道院の救劫は善行(静坐を含まない、人を救済する事業≒慈善)によって達成されるというのである。さらに後節においても、一九二二年の世界紅卍字会による資金募金状の一節「救劫の法は慈業にあり。紅卍字会とは慈業の基本なり。……中外の大慈善家を集め、同心合力するに非ざれば、此の至大至善の盛挙をなす能わず」7を挙げ、「ここにも、個人が力を合わせ、組織的に善をおこなうことを提唱した救劫の善書8の教えが受け継がれている」9と指摘し、「善行(≒慈善)による救劫」論を補強している。
道院の修行が内外兼修を重んずるものであり、世界紅卍字会設立当初、慈善による救劫論が唱えられたことは確かであり、その救劫論の内容が「救劫の善書」に連なるものだという指摘も妥当なものといえる。ここで問題となるのは、慈善を救劫の方法として強調する救劫論が、おそらく比較的後期に成立した『修坐須知』等の教義解説書に、ほとんど見出すことができなくなっている点である10。これらの文書では、慈善に触れることなく、坐功によって救劫が達成されることのみが語られている。例えば、志賀が道院の救劫論を示すものとして引用した『修坐須知』の一節も、慈善を救劫の方法とは語っていない。明言されていないが、題名が『修坐須知』であることから推測されるように、また本論で明らかになるように、「劫を無形の中に消化する」ことができるのは慈善ではなく、坐功なのである。道院が一貫して、慈善を救劫の方法として重視していたならば、これらの救劫論中に慈善が言及されないことが奇妙に思われる。
まとめるなら、道院は内外兼修や「善行(≒慈善)による救劫」を唱えつつ、一方で坐功による救劫論のみを――より正確には、本論で以下に見ていくように坐功の救劫の威力が慈善以上にあることを強調するあまり、慈善の意義を相対的に軽視して――説いていたことになる。つまり、慈善を坐功と同列に論じようとする一方で、慈善に対する坐功の優越を言い立てるという齟齬が生じて見えるのである。本章は、道院の教義を動態的に捉えることによって、この齟齬を教義の強調点の変化として説明するだろう11。
目的の第二は、第一の内容と不可分であるが道院の坐功の考察である。これまでの研究では、道院・世界紅卍字会が、慈善以上に重要な実践と目していた坐功について、ほとんど関心が払われたことはなかった。それは、民間教派の身体的実践というテーマが、歴史研究や道教研究といった研究領域の関心の狭間に落ちるものであるためであろう12。
しかし坐功は、伝統的には儒家の静坐、道教の内丹、仏教の坐禅から中華人民共和国の気功まで、久しく重視されてきた修養法の一つの柱である。一九五〇年代に、こうした修養法を脱宗教化し、医療(中医)の一分野として再編することからスタートした気功は、一九八〇年代を中心にブームとなり、広範な社会階層に実践者を生み出し、それまでにないほど修養法の大衆化を押し進めることになった。現代中国の宗教状況をも視野に入れた時、民間教派の身体的な実践の解明は、ますます現代的な意義を帯びつつあるといえよう。そして道院の坐功も、近代における民間教派の身体的な実践の展開13を追う上で意義のある事例となりうる。例えば、中国の静坐を通史的に研究した中嶋隆蔵も、こうした視角から、すなわち二〇世紀前半における中国大陸の静坐の一例として、道院のそれを紹介している。中嶋は、一九二四年に道院の定めた『坐則説明』を資料として、その中に見える「修己度人」の思想に、「修己と治人とを連続すると考える儒教、他者の救済成仏が完全に行われるまでは自己の成仏はあり得ないと考える大乗菩薩の請願などが、この坐旨の背景にあると認められるが、ことさらに、全体大用を坐功に求める、というところには、それを常に問題にする朱王両学の影響があるのかもしれない」14と解説を加えている。道院の坐功が、中国の静坐全体の中でどのように位置づけられるか、主流の宗教からどのような要素を受け継いでいるのかを考える上で示唆的な指摘である。道院の坐功は、それが直接的に世界の救済に寄与するという強い他者救済志向を帯びている点に特徴があるのだが、それは確かに朱子学・陽明学をはじめとした儒教の静坐観を思想的淵源の一つとしているだろう。
ただし、より近時代的に見た場合、道院の坐功は、同善社の坐功を基礎に扶乩によって定められたものであり、清代の内丹書『金華宗旨』を一部下敷きにした内容をもつ内丹的実践15であった。これは、既に第二章で検討したとおりである。宋代以降、外丹に代わる神仙術の新たなスタンダードとして発展してきた道教の内丹法は、同善社や『金華宗旨』の例を待つまでもなく、早くから民間教派中に流伝している。早期の例としては、明代の黄天道が修行方法として内丹法を重んじていたことがよく知られている16。また明清以来の一大思潮である無生老母信仰も、救済に与る上で必須の修練として内丹法を取り込んでおり17、これを継承した同善社を含む青蓮教系の民間教派においても、内丹の修練が行われていた18。済壇・道院の坐功も、こうした民間教派の事例に連なるものだと言えよう(同善社の坐功との対照は、本章第四節において行う)19。
第二節実践と教義の重層化
(一)扶乩、坐功、救劫
第一章で論じた通り、道院の前身、済壇は扶乩を専らにする乩壇から、坐功をも実修するようになっていた。彼らは当初、同善社から坐功を学び取ったが、ほどなくして独自の坐功、上元坐式(先天坐法)を行うようになった。その坐功は、深い悟りの得られない同善社の坐功に代わって、扶乩によって授けられたものと主張されている20。済壇の坐功が、同善社の坐功からどのように変化したのかについて述べた当時の記録は殆ど見当たらないものの、以下のような記述から外形上の違いは了解される。上元坐式には以下のような規格が与えられていた。
「坐則屈曲両膝、脚跟與墊斉、不必横盤、直立可耳。両手心分擱左右、手心下伏。(坐功〔のやり方〕は、両膝を曲げ、踵を敷き物と同じ高さにするが、(足は)倒して組む必要はなく、まっすぐに立ててよい。両手のひらは左右(の膝上)に分けて置き、手のひらは下に向ける。)21 」
後述するように道院の坐功は坐器(腰掛け)を用い、足を組まずに行う点に特徴がある。上元坐式も、足は組まずにまっすぐ立てて(立膝にして)よいとされており、また両手も分けて置くように指示されている。一方、同善社で行われていた坐功は、足を組んで坐り、両手で印を結ぶように求められたという(詳細は、第四節において触れる)。僅かな外形の変化ではあるが、後年においても道院・世界紅卍字会は、足を組む坐功を後天の坐と呼び、その弊害を説いていることから、この変化は当事者にとって大きな違いとして認識・強調されていたと考えられる22。
以上の経緯からして、済壇による新しい坐功の発明というこの出来事は、坐功を梃子に済壇が同善社との分離を図ろうとした試みとして捉えられる23。事実、済壇の活動は、同善社の模倣から始まったが、組織としては独立したものになっていった。
扶乩に加え、坐功をも実修する団体となった済壇は、一九二〇年末〜翌年初までに『太乙北極真経』を編んだ。『真経』は扶乩を通じて太乙老人から授かったものとされ、坐功によって長生と同時に、救劫をも達成することを説く点に特徴があった。以下に、同経典中から救劫について語る一節を引用する。
「衆生胥頼、無恒河沙億萬千劫。脱離此節、是在養気之充障。障散邪従炁化。炁化則劫滅。劫滅則衆生度。衆生度則我之真炁成形、而性命胥帰一致。形外之形24、悉成渣滓、不求升長25〈升同生〉、自能長升。為道即神、為禅即仏、為教即聖、為真人即仙。固気伏陽潜陰26、是謂水炁同化之源27。(衆生が協力しあえば、数え切れない程多い劫もなくなる。本節〔にある問題〕を脱け出すには、気を養うことによって障りを充たし塞いで入れなくすることである。障りが散じれば邪は炁のはたらきによって消えてしまう。炁がはたらきかけることで劫は滅びる。劫が滅びれば衆生は済度される。衆生が済度されれば自らの真炁が肉体を成す。そして性命はともに一致した状態に返る。〔真炁によって形成された〕形体以外の形骸は、ことごとく残りかすとなって、命の長らえることを求めなくても、自然と長生きすることができる。道を行えば神となり、禅を行えば仏となり、教を行えば聖人となり、真人を行えば仙人となる。(このように)気を固めて陽を〔陰の中に〕隠れさせ陰を〔陽の中に〕潜めさせること、これを水炁同化の源(世界の原初の状態)と謂うのだ。)28 」
ここでは、劫の消滅と長生の過程が一つの直線上にある出来事として語られている。救劫について語る部分はごく短いが、多くの人間の行う養気(=坐功)29が、気を媒介にして劫を消滅させるとする内容が読み取れる。以上に見える救劫論は、非常に短く『真経』の一部をなすにすぎないのだが、しかし『真経』の核心として受容され、その後の道院・世界紅卍字会の救劫論を規定することとなった。つまり、後年の乩訓、教義説明書において救劫が語られる際には、その手段として、まず坐功が挙げられるようになったのである。『真経』が坐功による救劫を説く経典として提示されていたことを示す後年の例として、以下の至聖先天老祖の乩訓を挙げることができる。
「伝経済壇、授以先天坐法、期得度抜群倫、免随浩劫之転移。不徒可免已形之劫、即未来之劫、亦将頼衆人坐修虔向、善気所凝、凶雌ッ化、災害自然隠弭。蓋世之所以乱、劫之所以興、悉由人心不静。…吾道救世、故先以修坐帰静為第一要義。(済壇に『真経』を伝授して、先天坐法を授けたのは、人々を救いだし浩劫(大災害)の成り行きに巻き込まれないように望むからである。すでに現れた劫を避けるだけでなく、いまだ現れざる劫も、また多くの人が坐功を修め敬虔であることによって、善なる気が集まり、凶悪・暴虐な気はともに消え、災害は自然に表に現れずに終わる。おもうに世が乱れる理由や劫が起こる理由はすべて、人の心が静まっていないからである。…〔だから、〕わが道の救世は、坐功を修めて心を静めることを第一の要点とするのだ。)30 」
『真経』の内容がより具体化していることがわかる。坐功を、多くの人が行うことで、善なる気が凝集し、災害を自然と消化させるというのである。こうして『真経』の説く坐功による救劫論は、『真経』自体の特徴であるとともに、それを根本経典とした道院・世界紅卍字会の教義の特徴ともなった。団体成立後、整備されていく教義へ与えた影響の強さという点で、『真経』の持つ意味は大きいといえる。
加えて、坐功が、善なる気を生み出す行為、つまり善行だと認識されている点も強調しておきたい。すでに指摘されているように、善行によって善なる気を生じ、劫の到来を招かんとする悪の気を中和・相殺しうる、という論理は清末に成立した「救劫の善書」中で盛んに説かれるものであった。この「善行による救劫」の発想が道院にも流れ込んでいるという先行研究の主張は、坐功をも善行であるとする道院の認識を踏まえたならば、より妥当性のあるものになるだろう。
さて『真経』伝授が終わった一九二一年初、済壇は名を済南道院と定め、宗教団体としての体裁を整えていく。同年中に北京、天津などに道院分院を三箇所開設した他、七月、山東省利津県等を襲った水害に際しては、被災者に物資を救援するなど、慈善事業にも着手する。一九二二年一月には、政府より団体認可を受け、同年立春日、正式な成立を見ることになった。その後も、山東省を中心に全国的に分院を設置、展開していく。
(二)慈善の位置付け
一九二二年十月、道院は慈善専従部門として、北京において世界紅卍字会を創設した(世界紅卍字会については第四章で取り上げる)。世界紅卍字会は、道院の下部団体であるが、道院とは別団体として政府より団体認可を得ている点が注目される。同会は戦災・自然災害等発生時に、現地における救済活動を行うことや、平時に福祉施設、教育機関を運営することを主な任務とした。世界紅卍字会という団体名称は、赤十字社(中国名では紅十字会)に因んでおり、特に戦時救済活動や国際的展開への志向性に赤十字社の影響が見出される。しかし、こうした活動は道院の説く教えと無関係なものではなく、その救劫論と関連付けられた。つまり慈善は、坐功と同じように、救劫の手段として意義付けられていたのである。
例えば、世界紅卍字会成立時に降された老祖の乩訓には「劫数可望収束。然収束之法、則以慈善為本。本立道生、庶乎有豸。卍字会即是大根本。(劫数(劫の運命)は収束させうる。そして収束の方法は、慈善を根本とする。根本が確立すれば道が生じて、収束の見込みがつくのだ。卍字会こそが大いなる根本なのである)」31とあり、劫数を収束させる方法の根本は、慈善にあると語られている。また同時に発表された募金呼びかけ文でも「真経云、劫不同数、数不離劫。註云、数定於天、劫造於人。是知人能造劫、人亦能救劫。救劫之方、在於慈業。世界紅卍字会者、慈業之基。…組成一公共慈善団体、以尽削数救劫之天職。(『真経』には、「劫は数(運命)と同じではなく、数も劫から離れない」とある。その註には、「数は天において定まるもので、劫は人から造られる」とある。こうして人が劫を造り、人がまた劫を救うことが出来るとわかる。救劫の方法は、慈善事業にある。世界紅卍字会は、慈善事業の基礎である。…公共慈善団体を組織し、数を削り劫を救うという天職を尽くすのだ)」32と述べるなど、慈善事業が救劫の方法だと明言している。
こうして道院・世界紅卍字会は、救劫の方途として、坐功と慈善という二つの実践を備えることとなる。坐功は内的実践、慈善は外的実践として区別されたが、両者は信徒にとって欠くべからざる修行とされた。これを内外兼修と呼ぶ33。ところで、宋光宇は、道院・世界紅卍字会が宗教活動以外に、あるいはその一環として、慈善事業に注力したことを評価して、「打座、養生、霊修を主に行う団体であったが、当時の天災人禍が頻繁に起こる状況下で〔しかも〕政府が闇弱であった時に、この教団は社会救済活動に積極的に従事することが修道だという新たな主張を提示した」と述べている。「内外兼修」理念の時代的な意義を端的に解説した表現として、感銘を与える。ただし、坐功を内的実践、慈善を外的実践と区分し、その両方を修行とみなす思想は、すでに同善社に見られ、道院・世界紅卍字会の創見ではない34。また、より広く見たとき、自己の修行と他者救済を、内的・外的なものとして分類しつつ、ともに必須の修行として全うすべきであるという主張(「内外両全」)は、金代に全真教が唱えて以来、長い伝統を持つ修行論であった35。
さて道院・世界紅卍字会内においても、坐功と慈善の関係は様々に語られたが、一定の傾向は存在した。一九二三〜一九二七年までに各地の道院分院で降ろされた乩訓を南京道院統掌の謝紹佐が編集した『道徳精華録』中に、その関係について語った例がいくつか見られる。「以静坐為宗、広慈為輔。坐定慧生。調元平息、心自淡定。無争無取、則劫不消而自消。(静坐を根本とし、慈善を押し広めることを補助とする。坐功が定を得れば智慧が生じる。元気を調え呼吸を平らかにすれば、心は自ずと落着きをえる。努力することもなく、劫は消さなくとも自ずと消えるのだ)」36というように、基本的に救劫の手段として坐功が主、慈善が補助とされた。
しかし、同時に「夫先天大道、内外両功、須要兼修。内功雖成、如不以外功継之、則流於出世之道。…独善其身、不合人情、如是之人、即令道得於心、與枯木朽株又何異焉。即令永存不滅、與世又何補哉。故必継之以外功。外功者何。善耳。何善也。即孔子所云見善不及之慈善事業也。(先天大道は、内外の両功を、兼修しなければならない。内功が成就したとしても、外功がその後に続かないならば、出世間の道へと流れてしまう。…その身を善くするだけで、人情に合わないのであれば、そのような人間は、道を心得したからといって、枯れ木や朽ちた株と何が違うのか。永存不滅をほしいままにしても世間に対して何の足しにもならない。これが、修道が必ず外功によって補われなければならない理由である。だから内功は必ず外功に繋げるべきだ。外功とは何であるか。善である。何が善なのか。孔子のいう『善を見ては及ばざるがごとくす』という慈善事業である)」37とする見解もあったようである。つまり、慈善との関係の中で捉えた時に、坐功に他者を益する力――つまりは救劫の力――を認めず、ただ「その身を善くする」だけの養生法にすぎないと位置付ける考え方があったということである。
悟りや永生を得たとしても、社会に裨益することがないならば無意味だという見解は、仏教・道教の出世間的理念に対する儒家からの伝統的な批判に見られる。例えば、静坐の工夫を重視した明代の儒者王陽明は、静坐の際に仏教・道教の説く「槁木死灰」38のような心の状況に陥ってはならないことを繰り返し戒め、実践に努めるべきことを説いている39。道院が、坐功を救劫の――つまり他者救済の――手段だと強調するだけでなく、慈善という社会的実践との接続を必須とした根拠の一つには、こうした儒家の伝統的見解が挙げられるだろう。
以上に見てきたように、道院・世界紅卍字会の組織の成立、整備過程は、儀礼、実践や教義が重層化していく過程でもある。道院は最初期、一乩壇にすぎなかったが、同善社との接触により組織化の動きをみせる。独自の坐功が発明され、その坐功を手段にした救劫を説く経典『真経』が編まれた。経典を核にして道院が成立した後には、慈善事業に着手し社会的機能をも獲得する。世界紅卍字会の創設をもって、慈善は救劫の一方途という意味付けを与えられたのだった。しかし、以上に見たように慈善の位置づけは、救劫の直接的手段であったり、あるいは坐功の補助であったり、それに社会性を付与するものであったりもした。この変則性は、団体内部における救劫の論理に一定の幅があったことを示す。つまり、教義はここをもって完成を見たというわけではなかったのである。
第三節教義の変化
(一)道院の取締りと世界紅卍字会の認可
道院・世界紅卍字会は、成立以来、各地に分院・分会を開設していった40。一九二三年には、日本の大本(大本教)との提携を果たし、翌年神戸に日本初の道院を開設している41。このように北京政府期、政権と良好な関係を保ち、順調に教勢を拡大した道院・世界紅卍字会だったが、南京国民政府の成立とともに状況が変化した。北伐を完了させたばかりの南京国民政府は、一九二八年一〇月、道院、同善社、悟善社等の「迷信機関」を閉鎖し、その財産を慈善公益の用に充てるよう、全国に通令した。
「案査悟善社、同善社及道院等迷信機関、設壇開乩、宣伝迷信、不但謡言惑衆、且於進化之理不合、亟応厳行査禁、以免淆惑聴聞。合行令仰各省市政府将悟善社、同善社等機関、即日関閉、並妥善処理其財産、作為慈善公益之用、並将辦理情形、随時具報等語。(調べによれば、悟善社、同善社及び道院等の迷信機関は、壇を設けて扶乩をなし、迷信を宣伝し、根拠のない噂で民衆を惑わせただけでなく、進化の理にも合わない。すみやかに厳しく取り締まり、もって民衆を惑わすことをなからしむるべきである。併せて各省市政府に悟善社、同善社等の機関を即日閉鎖せしめ、並びにその財産を宜しく処理し、慈善公益の用に充てるようにし、処理の情形は随時文書で報告せよとの通令である。)42 」
取締りのきっかけは、悟善社が刊行する『霊学雑誌』(第二巻第一一頁)上で、三民主義を批判したことであったとされるが43、それはまさにきっかけにすぎず、取締りは国民政府の宗教政策方針である「破除迷信(迷信打破)」、「廟産興学(寺廟の財産を教育・公益の用に充てる)」44に基づいて推進されたものであった45。「迷信機関」という呼称や、「財産」を「慈善公益の用に充てる」ようにせよという上記の指令の内容は、その方針と合致したものであった。
では、その宗教政策は、どのように展開していたのか。一九二八年一〇月一〇日に成立した南京国民政府は、国家建設の課題の一つとして、「破除迷信(迷信打破)」を掲げた。同時に、このスローガンに法律的根拠を与えるために条例等が整備されはじめる。同月中に発布された寺廟登記条例は、「廟産興学」方針を具体化するための下準備と目された。迷信打破の口号が運動として江南各地で展開されると、一部で先鋭化し、無差別な神像破壊や、僧道に対する還俗の強制、寺廟の財産没収などの行き過ぎを生じた。こうした動きを憂慮した中央政府は、一一月に、存続/廃止すべき神祠・寺廟の基準として神祠存廃標準を定め、行き過ぎた破除迷信運動に歯止めをかけようとした。しかし、地方では中央の意図とは逆に、神祠存廃標準が迷信打破活動のお墨付きと解されたため、運動はより激しいものとなったという。このため、政府は一九二九年一月に寺廟管理条例を、一一月には監督寺廟条例を発布し、廟産の保護に努め、事態の鎮静化を図った。道院等の取締りは、この一連の運動の初期に行われたものであった46。
条例などの文書において、「迷信」の根絶されるべき理由として、度々持ち出されたのは、それがまずもって「進化」の障害になるからだという論理であった。この場合の「進化」とは、生物学的なそれというよりも、社会進化論のことを指していた。清末以来、列強の圧力を受け続けていた中国において、国際関係に適者生存を当てはめ、その興廃を説明する社会進化論は、大きなインパクトをもって受容されていた。
例えば、上述の神祠存廃標準では、序文において「迷信が進化の障礙」であることに触れ、後文において「迷信」を放置することが招く危険をこのように説明している。
「若猶日日乞霊於泥塑木雕之前、以錮敝其聡明、貽笑於世界。而欲与列強争最後之勝利、謀民族永久之生存、抑亦難矣。(もし、なおまだ日々に土や木でできた像の前で霊験を乞い求め、その(民衆の)賢さを塞ぐならば、世界の物笑いになるだろう。列強と最後の勝利を争いたいと欲し、民族の永久の生存を図っても、そもそも〔それは〕困難だろう。)47 」
「迷信」は、進化を阻み、民衆を愚かなままに留めてしまうものであり、国と民族の未来を危うくする、したがって「迷信」の打破は正当な政策、政府の急務となるのである。明らかに社会進化論的な発想に基づいている。道院等、「迷信機関」の活動が「進化の理に合わない」とした禁止令の表現は、こうした文脈から発したものだったのである。
さて、道院の取締りには、もう一点重要な政治的な意図が存在した。道院は、創設から取締りを受ける一九二八年まで、いくつかの例外を除いて北洋政府の時の政権とは、良好な関係を保っていた。それは、道院に北洋政府の高官や北洋軍閥の指導者が多数入信・参加していたためでもあった48。南京国民政府からすれば、道院は対立勢力の温床のように思われたようである。以下の、北平特別市市政府密令(一九二八年一〇月二二日)所付上海特別市党部呈文には、道院取締りに関する政府の意図が明瞭に読み取れる。
「査尚有道院及悟善社両大迷信機関、設壇開乩、謡言惑衆、提唱迷信不残余力。…其中分子非軍閥政客既土豪劣紳、広収党羽以拡実業。…且道院組設一道生銀行、…該行股分大都為軍閥、土豪劣紳之逆産、万難任其逍遥法外。即希貴会(中央執行委員会)呈請中央通令各省将道院、悟善社一律査禁、並没収其財産以作賑災或教育之費。(調べによれば、道院及び悟善社の両大迷信機関はなおも、壇を設け扶乩を行い、謡言によって民衆を惑わし、迷信を提唱することに全力を尽くしている。…そのメンバーは軍閥政客でなければ土豪劣紳であり、広く徒党を組んで実業を拡大している。…しかも道院の創設した道生銀行は、…その株式のほとんどが軍閥、土豪劣紳ら反逆者の財産であり、それを法の外でのうのうとさせておくことは到底できない。貴会(中央執行委員会)が〔党〕中央に申請し、各省に道院、悟善社を一律に取締り、同時にその財産を没収して災害救援あるいは教育の用に充てるようにされたし。)49 」
これに対し道院は、団体認可を請願するため、信徒である元国務総理、熊希齢らを代表に立て南京へ派遣したが請願は聞き入れられなかった。その後、道院の再認可は一九三五年まで待たねばならなかった50。しかし一方で、世界紅卍字会は、一九二八年一一月に団体認可を受けることに成功している51。両者は母団体と下部組織であるにも関わらず、団体の認可については明暗が分かれた形になったのである。当時の北京における道院取締りの状況は、以下のように報告されている。
「又査道院付設在西飯寺世界紅卍字会内、従前亦有扶乩研究霊学情事、已於本年七月十八日停止。現在紅卍字会僅辦慈善事業。…各紅卍字分会従前付設道院、但各処情形不同、現在是否一律将道院撤銷、尚待調査。(また調べによれば、道院は西飯寺〔胡同内〕にある世界紅卍字会内に付設されており、以前は扶乩・霊学研究の事があったが、すでに本年七月十八日に停止している。現在紅卍字会は慈善事業を行うのみである。…各紅卍字分会は、以前は道院を付設していたが、各地によって事情が異なり、現在一律に道院が取り消されたかは、なお調査を待つ。)52 」
北京の道院は総院とも呼ばれ、済南道院に次ぐ地位にあった。同地における道院の活動が(正式な取締り令施行以前の七月から)停止を余儀なくされていたことから、同時期、主要な都市にある道院分院の活動も、似た状況にさらされたと推測される53。しかし、この報告からは、道院が付設しているにも関わらず、世界紅卍字会については活動の継続が許されている状況も読み取れる。一体であった両者の間に、政治的な線引きがなされたのであった。
(二)坐功の強調
こうして表向き「純粋慈善団体」54、世界紅卍字会として存続することを余儀なくされた道院・世界紅卍字会であったが、内向きには、慈善に対する修行・儀礼の優越を強調するような言説を見せていく。一九三二年に成立した教義書『道慈綱要』の卍慈篇には、坐功と慈善の関係について以下のような解説が行われている。
「有形者、或専事正本、或専治標、一挙不能兼籌並顧。無形者、既可消弭未形之劫、同時又可減軽已現之災。其余有形無形二者異同之点尚多、不遑枚挙。二者形有不同、而其為化則一也。且二者毎相因而生。如弁学校、医院、粥廠、救済隊、賑済隊等、均有形之慈也。受恵者往往感激之余、集而祈祷。一片祥和、消諸障氏B此因有形之慈、而生無形之慈。又如集坐、誦経、誦咒、祈祷、及勧人為善、往往有被感化而願出資弁理善挙者。是又因無形之慈、而生有形之慈矣。有形之慈、固可化劫。然較諸無形之慈、則不逮遠甚。(有形は、根本を正すことに専念するか、あるいは対症療法に専念するかであって、一挙に両方の準備をしてそれに関わるということはできない。無形は、未来の劫を消滅させ、同時にまたすでに起こった災害を軽減できるのである。そのほかに、有形と無形の両者には、なお多くの異同があり、枚挙にいとまがない。両者には形式の違いはあるが、化劫を行う上で一つなのである。しかも両者は互いを生み出しもする。例えば、学校や病院、施粥所、〔戦時〕救済隊、〔災害〕救援隊などの運営は、すべて有形の慈である。恩恵を受けた者は往々にして感激のあまり、集まって祈祷を行う。一片の和やかな気は、おおくの悪障を消す。これが有形の慈によって、無形の慈を生むということである。また集団での坐功、誦経、誦咒、祈祷および人に善を勧めることなどによって、感化されて善挙に出資したり携わったりすることを願う者が、往往にしてあらわれる。これも無形の慈によって、有形の慈が生じるということである。有形の慈であっても、もとより化劫は可能である。しかし、無形の慈と比べると、はなはだ及ばないのである。)55 」
ここでは、学校、医院等の運営といった慈善事業を有形の慈と呼び、集団で行う坐功、誦経等の活動を無形の慈として、両者の比較を行っている。なお、「誦経」とは、『真経』等の経典を斉誦する儀礼のことを指す。誦経には救劫の威力があるとされ、坐功、慈善に並ぶ実践として重視されるようになっていた56。注目されるのは、化劫の効果について、慈善事業は坐功等の修行・儀礼に遠く及ばないと述べる点である。慈善と比較することによって坐功の持つ救劫の効果を強調するこうした言説は、道院取締り以前には見られないものであり、時代状況を反映したものと考えられる。類似した言説は、他にも見られる。一九二八年以降各地の分院に降された乩訓を集めた『道徳精華録続編』(一九三三年刊)中に含まれる太乙老人の乩訓である。
「以慈善而救済有形之災劫、以内功而化渡無形之劫。有形者易化易救、無形者難渡難弭。無形者、気也。気之悪者也。気化気引之功、又非我各弟子以誠己誠人之功、行之於世界不可也。気之悪者、化為善、気之濁者、化為清。気化之功、惟有坐以調其内、堅57以調其息而已。坐到静定58之候、自然気和。…修道最重要之事、惟化免災劫之責而已。災劫既已成形、既已発現者、救之済之。有形之功行、甚易成立也。惟災劫之隠伏而未発現者、化之未形、弭之未発、甚難也。是功是行、勝於救済有形之災劫、千百倍不止也。(慈善によって有形の災劫を救済し、内功(坐功)をもって無形の劫を打消し救うのである。有形は打消しやすく救いやすいが、無形は救いがたく打消しがたい。無形とは気である。気の〔中の〕邪悪なものである。気を変化させ気を導く功は、またわが弟子たちが自分を誠実にし人をも誠実にする功であり、ぜひともこれを世界中に行わなければならない。邪悪な気を、善に変え、濁った気を、清く変える。〔この〕気を変化させる功は、ただ坐によって内面を調えるということであり、長く座ることで呼吸を整えるというだけのことである。坐が静・定の状態にまで至れば、自然と気が和する。…修道で最も重要な事は、ただ災劫を打消し挽回するという責務のみである。災劫がすでに形となり、すでに発生してしまったなら、これを救済する。〔そうした〕有形のおこないは、非常に成り立ちやすい。しかし災劫が隠伏してまだ起こっておらず、それを形となる前に打消し、発生するまえになくすというのは、非常に難しい。この功と行いは、有形の災劫を救済することに勝ること、何千何百倍しても足らない。)59 」
有形の災劫を救うよりも無形の災劫を除くことの方が遥かに困難であり、それゆえに優れているという主張、つまり無形の災劫を除く手段である坐功が重要であることが強調されている。ここでは、すでに災害として発現したものを有形の災劫とし、発現以前の悪気を無形の災劫として分類している。こうした分類の背景には、悪の気が現実の災害へと変わるという伝統的災劫観が存在しており、分類法それ自体は道院の創見とは言えない。ただ、有形、無形の災劫と、慈善、坐功を結びつけてその優劣を論じる点は、取締り後の道院に特徴的な言説の有り方のように思われる。
現実の災害の背後に、無形・未発の災劫が隠れており、これを「感化」によって解決しなければならないという同じ発想は、世界紅卍字会でも共有されている。一九三二年に発表された『世界紅卍字会宣言』中の一文には、こうある。
「災患為人群物類所同感之痛苦。有有形的、有無形的。有形如水火刀兵疫癘、以及困窮疾苦等類。必思有以救之済之。其無形者、更当思患而預防之60。或従無形処、有以感之化之、必使災患不生。而後人群物類、得以安其安、楽其楽。…此為卍字会宗旨之所由立。(災害は人類万物がともに苦痛に感じるものである。〔災害には〕有形のものがあり、無形のものがある。有形とは水災火災・戦争・疫病のようなものから、困窮・苦悩などのような類いである。必ずこれを救済しようと考えるべきである。無形のものは、一層発生を予想して予め防ぐようにすべきである。無形の処置によっては、感化があるのであり、〔それによって〕災害を発生させないようにすべきである。そうして人類万物が安んじて、楽しむことができるのだ。…これが卍字会の宗旨のよって立つ所である。)61 」
政治的状況から、明言されないものの「純粋慈善団体」である世界紅卍字会中にも、道院の救劫論は保持されていたのである。
以上に見てきたとおり、道院の取締りを経て、坐功(を代表とする宗教儀礼)と慈善との間に緊張関係が生じている。時の政権により、慈善団体としてのみ認可されたため、対外的には「純粋慈善団体」として振舞わなければならなかった道院・世界紅卍字会であるが、その反動として教義面では坐功を慈善事業よりも重視するなど、道院の重要性を強調するという動きが起こっていたのである。これが、本章冒頭に述べた齟齬の発生原因である。
しかし無論、言説上慈善より坐功が強調されたということが、そのまま実態として、あるいは恒久的に坐功が慈善以上に重視されたということを意味するわけではない。例えば、以下のように、坐功を疎かにすることを咎める太乙老人乩訓も存在する。一九三八年、済南道院に降ったものである。
「慈祥之功候者、則舎吾道之坐功、不為功也。所以老人降塵勗修、十余年来、以静坐為各地修子(信徒)勉者、幾至舌敝唇焦、苦口婆心。実願各修子既入吾門、必当従坐功以最要工夫也。…各修既自為身家計、則凡院会之救度及個人之一切重大責任均必置之不顧已。噫。各各所以如此者、均平時不知加坐。…各地修子及本院各掌監各職修、自今年始、凡欲尽其道慈之重任者、総当不忘坐功。又当加意静坐、以求功候之増進。不可以時局之紛擾、以為救済方殷、無暇及坐為詞。蓋吾道之坐、実為院会之根本、修養之正途。舎坐以求慈救之拡展、必不可能。(慈愛の功候(慈善事業)は、わが道の坐功を捨ててしまえば、成果が上がらない。だから老人(至聖先天老祖)は俗世に降臨して修行を励ますようになって、十数年の間、各地の信徒に静坐に励むよう、ほとんど舌が破れ唇が焦げるほど、老婆心から忠告してきたのだ。切に願うのは、信徒たちが、我が門に入ったからには、かならず坐功からはじめてそれを最重要の工夫とすべきことだ。信徒たちが自己と家のことをはかるならば、道院・世界紅卍字会による救済も個人のあらゆる重大な任務も、すべて放っておいて省みないだろう。ああ。すべてこのようなことは、普段坐功を行うことを知らないから〔おこること〕なのだ。…各地の信徒と本院(済南母院)の各掌監(指導職)、各職修(職付き・一般の信徒)は、今年から始めて、およそ道慈の重大任務を全うしようと思うものは、みな坐功を忘れてはならない。また静坐に特に意を配って、功候(慈善事業)が増進することを求めるべきだ。時局が混乱し、救済〔事業〕がまさに盛んであって、坐功を行う暇がないのだと、言い訳にしてはならない。それは、我が道の坐功が、実に道院・世界紅卍字会の根本であり、修養の正道だからである。坐功を捨てて慈善救済の拡大発展を求めても、〔それは〕絶対に不可能である。)62 」
太乙老人自らが、信徒に向かい坐功に勉めるべきことを強い調子で促す内容である。坐功を疎かにして慈善事業の発展はありえず、平時に坐功を行わないことが任務放棄を生む原因であるとして、坐功に対する信徒の不熱心な態度を譴責しているのである。坐功の重要性を懇切に説くこの一文は、道院における坐功の位置づけの高さを窺わせるものではあるが、その半面、こうした励ましが加えられる程度に、坐功が顧みられていない状況があった可能性も示唆している。
第四節現場における坐功
(一)坐功の形式
以上に述べてきた坐功は、では具体的にどのような実践だったのだろうか。まず道院・世界紅卍字会の坐功の形式や意義付けを確認し、同善社における坐功との若干の比較を行いたい。
道院における坐功の規定は、一九二一年の『真経』伝授直前に定められた「功則」63や、「功則」をもとに後年定められた「坐則」64によって知られる。坐則は、一九二四年に定められた「坐則説明」65によってさらに詳細が補足されており、坐功のおおよそについて知るのに便がある。たとえば、坐則第五目に短く述べられている坐功の姿勢・要領を、「坐則説明」では以下のように詳説している。
「照先天坐法、取自然之意。譬如胎児平坐気海、決非盤腿。正身端座即是自首至足、均要端正平穏。尤宜注意者、頭不可仰、亦不可俯、腰不可曲、亦不可挺。両手心加両膝上、取心腎相交、水火相済之意66。坐久気通、自能知覚。口軽閉、蓋恐呼吸由口出、気息不平也。舌軽抵上顎、不必捲舌抵至中間。但抵上牙之上可矣。此時如有痰涎宜吐出、吐時宜軽。若係津液、則徐徐咽下、不可猛、以防噎也。両目垂簾、就像垂簾子一様。不要太開、不要太閉、太開則散乱、太閉則昏沈。先視鼻端、是定一準則、以取正中。然後収視返聴、知窔不守、純任自然。注意返聴、亦是返聴祖窔。祖窔本無声可聴、惟将耳之根性、注於此耳。繋心一処、一処祖窔也。心無縄、何以曰繋。以意繋之。(先天の坐法に照らして、自然の意を取る。例えば、胎児が気海(胎内)で平らかに坐っているように〔座るので〕、決して趺坐にはならない。姿勢を正して座るには、首から足まで、どこも端正にし、穏やかにしなければならない。さらに注意すべきは、頭を反らせたり、また俯いたりせず、腰を曲げたり、また真っ直ぐにしすぎたりしないことである。両手の平を両膝の上に乗せ、心腎の気が相交わり、水火の気が相補うという意を取る。長い間坐っていれば気が通じて、〔それが〕自ずと感じられるようになる。口を軽く閉じるのは、口で呼吸すれば、息づかいが一定でなくなることを恐れるからである。舌は軽く上あごにつけるが、必ずしも舌を捲いて〔上あごの〕真ん中につける必要はない。ただ、上歯の上につければよい。この時もし痰が出れば吐きだすのがよいが、吐く時には軽くすべきである。もし唾液が出れば、ゆっくりと飲み下し、咽喉につまらないように、一気に飲んではならない。両目はまぶたを垂らすように閉じるが、まさに簾を垂らすかのようにする。開きすぎてはならないし、閉じすぎてもならない。見開けば、(集中が)乱れるし、閉じすぎれば、ぼんやりとしてしまう。まず鼻の先を見るようにして、これを標準にして、(視線の)正中とする。しかる後に外のものを見たり聞いたりせずに、「窔」(経穴に対応する箇所にあると想定される器官、あるいは経穴そのもの)を知っていても意守せず、まったく自然に打ち任すようにする。聴覚を内に向けることについて注意をしておくと、それは「祖窔」(眉間にあると想定される器官)に聴覚を向けることである。「祖窔」は本来、音もなく聴くことはできないが、耳の本来的性質(聴くこと)を、「祖窔」に注ぐのである。心を一箇所に繋ぎとめるのだが、その一箇所とは「祖窔」のことである。心に縄はないのに、何をもって繋ぐことができるのか。意を持ってこれを繋ぎとめるのである。)67 」
この引用文からも読み取れる、道院の坐功の最大の特徴は、身体に強制を加えないよう留意されている点である。先天的な坐法という表現の通り、胎児のように自然な姿勢が理想とされた。同善社式の結跏趺坐(盤腿)の形は退けられ、足を組まないように定められたが、それを可能にしたのが坐器(腰掛け)の使用である。「坐則」第二目に、坐器は高さ一尺未満(九寸六分・約30cm)、その上に更に柔らかく厚い敷き物を置くと定められており、坐功は丁度低い椅子に腰掛けるような姿勢で行われたのである。また、『金華宗旨』や同善社式坐功に見られる「意守」法、つまり坐功中、意識を身体のある一点(「窔」)に集中させる方法についても、自然に打ち任すように注意を加えている(ただ、付言しているように、意守するなといいつつ、「祖窔」に「聴覚を向ける」、「心を一箇所(祖窔)繋ぎとめる」ことも説いており、不自然な強制にならない程度には、意識を集中させることが求められたようである)。
このほか、「坐則」の内容追うと、それが、いかに負荷のないよう配慮されたものであったかが窺われる。例えば、自然呼吸で行うべきこと(第六目)、一日に一回行い、時間も初学の内は一六分(熟達しても六四分)までとすべきこと(第七目)、異常天候の時・旅行中・飢えた状態、満腹の時、坐功によって不調を来たした時には、免ぜられるべきこと(第八目)などである。ただし、負荷が少ないとはいえ、坐功は日々着実に実践することが求められた。特に入信希望者は、まず坐功指導書『修坐須知』、坐功実行記録表『庚表』を授けられ、一〇〇日間毎日一六分の坐功実習を行い、その後「証坐(坐功の正しさを確かめる儀礼)」を経て、ようやく入信が認められたという68。信徒たるものに第一に求められる実践が坐功だったことが、この一事からも了解されるだろう。
こうした道院の坐功の形式は、同善社の坐功に対する批判の上に、成立していたことは既に述べた。では、同善社における坐功の実践は、どのようなものだったのだろうか。そして、道院の坐功とどのような異同があったのだろうか。武内房司が紹介するそれを見る限り、やはり両者には大きなスタイルの差異があったようである。
「〔同善社の坐功は〕息をふいごのごとくに吹き、呼吸する。全身は皆動〔の状態〕に入り、〔気は〕全身を昇り降る。……信徒は朝晩この坐功をかなりの時間を費やして実践する。坐功の際に耳を赤くさせることができた者は二層のランクに、さらに身体健康となり常時耳を赤くさせている者は三層のランクに進み弟子を新たに入門させる資格を得ることができるのだという。69 」
同善社の坐功が激しい呼吸法を伴うものであり、自然呼吸を説く道院の坐功とは異なっていることが了解される。さらに重要な指摘と思われることは、坐功が教団内での信徒の位階上昇に結びついている点である。武内によれば、同善社は修行の到達度に応じた「厳格な位階制度」を設けており、その位階制度は一貫道、帰根門、先天大道などの青蓮教系諸派70とも共通していたという――それゆえ「青蓮教系」という呼称が成り立ちうる、といえよう――。一方で道院は、次章で紹介するように、修行年数や教団への貢献度に応じて、位階が上昇するシステムを有していたものの、必ずしも坐功の練度がそのまま位階の上昇へと反映されるものになっていない――また、位階の名称や役割は「青蓮教系」と共通するものではなかった――。
このほか、陸仲偉は、同善社の「静坐功法」の伝授内容とその順番を簡単に紹介している71。それによれば、一回の坐功は「休息」、「平視」、「守竅」、「下丹」という「四歩功程」からなるという。「休息」は坐功の準備の仕方、「平視」は坐功の姿勢の作り方、「守竅」は坐功中の要領、「下丹」は坐功の終え方を説明するものと要約できる。「守竅」が坐功の本体部分といえるが、その際の要求として「性竅、またの名を玄関といい、鼻梁の中央、眉間の間に位置し、「山根」と呼ばれる〔部分〕を意守し」、「手を重ねること、つまり重ね合わせて一つの太極図をつくり、左手の親指を薬指の指先に付け、右手で左拳を覆い、右手の親指を左手薬指の付け根に触れること、が求められる」を挙げている。意守法は道院の坐功の要求と似ているが、坐功中に印を結ぶ点は異なっている。さらに、陸仲偉は、同善社では坐功が「小さくは延年益寿を可能にし、大きくは成仙成仏・躱劫避難を可能にする」方法と見なされていた点を挙げている。これは、同善社の坐功も、救劫と関連付けられていたことを示唆する内容といえる。ただし、それが道院における救劫と同じ意味合いを持つものであったかは、疑問が残る。これについては後考に待つ以外にないが、同善社においては坐功を劫の消化と結び付ける救劫論よりも、各自が坐功を深めることによって災劫から逃れるという救済論が、比較的濃厚に存在していたと予想される。これは、同善社が三期末劫説を維持しており、信徒となれば末劫から逃れうるという信仰72を持っていたことと関係があるだろう。
(二)坐功の実践
最後に、信徒が、個人として集団として、坐功にどのようにして取り組んでいたのかを確認したい。
信徒個人が平素、坐功を行っていたことを示す事例として、例えば以下のような記事が挙げられる。世界紅卍字会の会長職にあった熊希齢が病に斃れた日の様子を、彼の夫人、毛彦文は以下のように記している。
「十二月二十四日夜十二時光景、先生把当天所有報紙看完、又写了四封信(中略)、然後開始打坐。往日打完坐、他就開門叫我。可是這夜過了一小時、没有声息、我自動開門一看、他已睡在床上。問他怎麼了、他説累了。(一二月二四日の夜一二時頃、主人(熊希齢)はその日の新聞をすべて読み終えて、さらに手紙を四通したため…、それから坐功を始めた。普段なら坐功が終わると、彼は戸をあけて私を呼んだのだが、その夜は一時間経っても、物音がしないので、私が自分で戸をあけて見てみると、彼はもうベッドで眠っていた。彼に、どうしたのと聞くと、彼は疲れたといった。)73 」
元国務総理でもあった熊希齢は、著名人ではあるが、決して名義のみの信徒ではなく、熱心に道院・世界紅卍字会の任務に携わっていたことで知られる。そんな彼が普段より坐功を行っていた様子が、身近な人物によって語られている。坐功が、篤信の者にとって決して忽せにできない実践だったということが理解できるだろう。
では、坐功は集団としては如何に取り組まれていたのであろうか。以下では、坐功による救劫論が、後年「聚霊化劫」74と呼ばれ、道院内で修方が集団で行う具体的な実践、儀礼となっていたことを指摘しておく。「聚霊」とは、修方が道院に集まって行う集団的な坐功のことを呼び換えたものであり、およそ毎日午後七時〜八時の間に行われていたという75。一九三九年、済南道院で降された太乙老人の乩訓は、このように述べている。
「各地院会及本院各職修方、正是努勉之時期。勉何以勉。聚霊合気、不可使之一日或欠也。果能気霊常常団聚、而又能凝結而為一、則劫氛自不難由有而化為無。清浄世界、万苦救済、在此一時。各掌監、各職修、但能択一日之間、有一二小時、来院合坐、或聚研慈救、則霊之団聚凝結者。必可見化弭之妙也。(各地の院・会及び本院(済南道院)の各職付き・一般の信徒は、まさに努力すべき時期である。なにを努めるというのか。聚霊・合気を、一日たりとも欠かしてはならない。気と霊を常に結集させ、凝結させ一つにしさえすれば、劫の気配が自ずと有から無に変化することも難しくない。世界を清浄にし、すべての苦を救済するのは、この時なのだ。各掌監(指導職)、各職修(職付き・一般の信徒)はただ一日の間を選んで、一二時間あれば、道院に来て合坐(集団坐功)をするだけでなく、あるいは集まって慈善救済について研鑽するならば、霊は結集し凝結し、〔劫を〕打消しなくす妙〔なる働き〕を必ず実現するだろう。)76 」
毎日一〜二時間、道院に集まり集団で坐功を行う、あるいは皆で慈善を研鑽することが信徒に求められている。そして、この行為が聚霊合気と呼ばれており、救劫に結びつけられていることが注目される。また、同年他日に、同じく済南道院で降された太乙老人の乩訓でも、聚霊はやはり集団で行う坐功のことを意味している。
「所以老人降訓無非命各地修子聚霊平気為要。但欲聚霊、非従坐中以求不可、但欲平気、非誦経不可也。…各地院会修子能明此意、則可知合坐誦経乃為此時之急務、化弭災劫之要道也(だから老人の降した乩文で、各地の信徒に命じて聚霊平気を行わせることを重要だとしないものはない。しかし、聚霊を欲するなら、坐功の中で求めるのでなければならず、平気を欲するなら誦経しなければならない。…各地の院・会の信徒がこの意味を理解するなら、集団で坐功を行い誦経を行うことが、今次の急務であり災劫を消滅させるための要道だと分かるだろう)。77 」
ここでも、集団で坐功を行い、経典を斉誦することが救劫の重要な手段であると述べられている――第二章でも触れたが、経典は単に教義を伝える媒体という以上に、神聖な乩文として非常に重視されており、読誦することで救劫を可能にする手段とされるに至っていた――。慈善や経典の斉誦などの要素と組み合わせて言及されているが、いずれにおいても集団による坐功は救劫の手段としての位置付けにあることが了解される。
『真経』中で救劫の手段として語られ始めた坐功は、集団で行う儀礼として定められ、こうして後年までその地位を保ち続けていたのである。
第五節おわりに
ここまで、道院・世界紅卍字会における救劫論の中で、坐功がどのように位置付けられていたか、とくに慈善との関係に注意を払いつつ跡付けてきた。そこで明らかとなったのは、以下のことである。
第一に、道院・世界紅卍字会において、坐功は単に永生のための修養法であるのみならず、直接的に劫を払う実践であった。それは同団体の根本経典『真経』に根拠を持ち、後年には集団的坐功の実践として具体化されていた。第二に、一九二八年頃を境に救劫論中で坐功の慈善に対する優位性が強調されだしたが、それは、南京国民政府による道院取締まりと、世界紅卍字会のみの認可という現実の緊張を反映したものと考えられる。
最後に改めて確認しておきたいのは、救劫論中における坐功の強調という変化が持つ時代的な意味である。上述のように道院取締りの背景となった迷信打破運動は、宗教勢力の財産を教育・慈善事業等、公益のための資源とみなす「廟産興学」を方針の一つとしていた。道院が「迷信機関」として取締られる一方で世界紅卍字会が慈善団体として存続認可を得たのも、この方針に則ったためだったといえる。これは逆に言えば、団体・活動が社会的に有用であり、公益に適うならば、存続を許される可能性があったことを意味した。実際、道院と同時に取締まりをうけた北京の悟善社(救世新教)は、社名を北平貧民救済分社と改め、慈善団体化することで、閉鎖を免れている78。また、例えば北平(北京)道院も、慈善事業の実績を考慮され、団体認可は得られないものの閉鎖を免じられたという79。宗教政策は、このように民間教派の組織としてのあり方に直接的な影響を与えた。
その影響は、教義の部分にも及んでいた。救劫論の変化は、本来、非社会的な実践であるはずの坐功を、慈善よりもなお一層――例え直接的に人を救うような行為でないとしても――社会的に有用であるとする主張を核心としている。繰り返すが、それは単に坐功それ自体が社会的有用性を帯びているという主張ではなく――それならば教義変化以前から存在していた――、慈善と比較して、慈善以上に、有用だという主張である。かくまで社会的な有用性を言い立てる心性が、坐功の意義を強調するために発された内向きの文書(信徒を対象とした乩文や教義書)に見出せるほどに、宗教政策の影響は深かったといえる。つまり、道院は慈善のみが認められる状況に反発し、坐功等が慈善よりも優れていることを主張したのだが、その根拠となる価値観は、公益への貢献を求める政策の意図に沿ったもの、あるいはそれを内面化したものだったということである。
1 救劫論は、道院・世界紅卍字会の救済論の社会的救済の側面を指す。当然のことであるが、救済・救いという言葉が指し示すものは、個々の宗教の文脈において異なる内容を持ちうる。道院・世界紅卍字会においてもそれは同様である。彼らの考える救済は、社会のレベルにおいては災害の解消・回避を達成すること、つまり救劫であったが、個人のレベルにおいては仙人としての死後生を得ること、つまり昇仙を意味した(昇仙については第四章で述べる)。そこで、本章ではまず前者の社会的救済の言説を取り上げることとし、これを全体的な救済論と区別するために救劫論と呼んでいる。
2 実害を伴う民衆の信仰習俗を、教化・啓蒙によって除こうとする意味での反「迷信」の動きは、既に清末から盛んになっていた。義和団の乱を経験した清末の知識人には、民衆文化を、非合理的であり時に暴力性を帯びるものとして、改善せんとする意識が強く見出されるという。吉澤誠一郎、二〇〇二年、三七六〜三七八頁。このように非合理的な側面から信仰習俗を把握する際の呼称として、二〇世紀前後から用いられ始めたのが、日本から導入された「迷信」の語であった。何を「迷信」とするかという判断基準として、もっとも参照されたのは、新文化運動において「民主」と並ぶ必須の価値の源泉として社会に大いに発信された「科学」であった。しかし、「哲学上の根拠もなく、また科学の得た結果と矛盾する」(周寿昌、一九二一年)ものを「迷信」とみなす立場からすれば、「宗教」も「迷信」とみなされうる。例えば、民国期の代表的な民俗学者である江紹原も、「近代科学」と矛盾する「概念」、「信念」、「振舞い」を「迷信」と定義し、そこには「宗教」が含まれると論じている。以上は、子安加余子、二〇〇八年、一二四頁を参照した。
3 例えば酒井忠夫は、道院の救劫論が「人が末世の災劫を挽救しなければならぬ。それには人が道慈積善を行うより外に方法はない」と説くものであると説明し、積善による救劫という考えを「伝統的善悪功過格思想が宋代以後には功過格的善書思想となったものと劫の思想が結合した思想である」と簡明に表現している。酒井忠夫、二〇〇二年、二七二頁。現代東南アジアの「扶鸞信仰」をもとにした「華人教団」徳教を研究した黄蘊も、「道院紅卍字会」救劫論を「伝統的な善堂(慈善活動を行う結社)、扶鸞結社のそれを受け継ぐところが多く、いわゆる善行によって劫を解消することを目標にしていた」と解説する。黄蘊、二〇一一年、一二四頁。
4 発生したての宗教団体は、当初から完成された教義を持っているわけではなく、教祖・指導者や信徒の思索の深まり、教団の実践や社会との関わりの中で、徐々に整合性のある教義体系が形成されていくものである。道院・世界紅卍字会の場合も、その例外にもれず、まとまった教義体系が即製されたわけではなかった。彼らの教義内容は、一定程度の期間に渡っていくつかの活動・信仰内容が取捨選択されていくなかで醸成されたのである。
5 「道院は劫を解消し、世を救うために設けられたものである。劫はどこからくるのかというと、人心からくるのである。人心が正常を失うと世変が起こり、劫が出現する。これを挽救する方法は、人々がよく本に帰り、初めに復することを知ることである。至善に帰して物欲に蔽われず、魔悪に動かされることがなければ、劫を無形の中に消化することができる。救世の根本はここにある」。吉岡義豊、一九七四年、二四二頁より再引。
6 志賀市子、二〇〇五年、二一三〜二一四頁。
7 酒井忠夫、二〇〇二年、二八三頁より再引。
8 「救劫の善書」とは、災劫の到来を善挙によって挽回することを説く清末を中心に盛行した善書をいう。山田賢、一九九八年・二〇〇〇年、志賀市子、二〇〇八年を参照。
9 志賀市子、二〇〇五年、二一四頁。
10 本章で取り上げる乩文集や教義書以外にも、例えば教義書『道慈問答』(志賀が『修坐須知』を引用した吉岡義豊の論文は、『修坐須知』のほか、この教義書の抄訳も載せている)のように、「故に災劫を挽救するためには習坐を必要とする。人の心が平らかに、気が和すれば、清霊が集まり、既生の災劫は次第に軽くなる。未生の災劫は無形のうちに消尽する」と、明瞭に坐功のみを救劫の手段として挙げるものもある。吉岡義豊、一九七四年、二四六頁より再引。
11 それにしても些細な問題だとみなされてしまうことを危惧して、付言する。道院の救劫論が「善行≒慈善」を重視するものだという先行研究の見解は、それが「救劫の善書」に連なることを説明するという点で、大いに頷けるものである。ただ本論が注目したいのは、慈善による救劫論が明瞭に説かれない状況の意味するところである。この教義の変化の中には、「近代的」意識を内面化せざるを得なかった教団の「苦闘」――それは道院のみならず、近代以降に多くの宗教が経験することになる「苦闘」と共通する――が見て取れるように思われるのだ。
12 李志鴻は、明清代の民間教派が道教(一部仏教)から「法術」(内丹・雷法を含む)や「儀礼」を取り込んでいることなどに着目し、道教研究と民間教派研究の接合の必要性について言及している。李志鴻、二〇〇八年、二四七〜二五一頁。
13 民国期中国のみならず、二〇世紀前半には日本においても岡田式静坐法が流行し、少なからず中国における坐功に影響を与えたとされる。吾妻重二、二〇〇四年、四一六〜四一七、また中嶋隆蔵、二〇〇八年、九頁。
14 中嶋隆蔵、二〇一二年、三二一頁。
15 『真経』は、内丹の手引きというには、論理的説明に欠ける嫌いがあるが、やはり一種の内丹書といえるだろう。確かに『真経』単体に注目した時、内丹の用語を多用するものの体系的な方法論を述べていないことから、坐功が内丹の煉成を内容としていると断言することは難しいかもしれない。ただし、『真経』が語る気の鍛練法=坐功は、道院内で、明らかに内丹のこととして解釈されていく。一九二三年に成立した道院第二の経典『正経』では、明瞭な形で小周天について語っており、少なくとも遡及的に『真経』のいう坐功が内丹であることは確定していたと考えられる。『道慈研究』一六七期、二〇一〇年、八九頁。
16 馬西沙・韓秉方、一九九二年、四四八〜四六〇頁。黄天道は、明嘉靖年間に李賓(道号を普明)によって立てられた教派。開祖李賓は、内丹の成就をもって黄天道を起こしたとされており、以降黄天道の道統では、内丹の修練が主要な修行として受け継がれていった。
17 浅井紀、二〇〇一年、三三〜三七頁。山田賢、二〇〇五年、五二〜五六頁。
18 武内房司、一九九二年。同、一九九四年a。武内によれば、同善社や一貫道、先天大道等が共通して祖師に数える袁無欺が、無生老母信仰を核とする教派、皇極金丹大道より内丹を修行法に摂取したという。
19 ただし本論は、道院の坐功の内丹理論を跡付けるものではないことを断っておきたい。その理由は一つには、本論の関心が坐功そのものではなく、坐功に担わされた社会的な意義に向いているからである。第二に、これが主たる理由であるが、資料的な不足である。道院の坐功の「高度な」内容(つまり内丹の理論)は、非公開の経典や坐功について論じた乩文集に集中して記述されているのだが、筆者は、それらの資料の一部分しか入手することができなかった。
20 『大道篇』、一九三二年、一一七頁。
21 『大道篇』、一九三二年、一一七頁。
22 『大道篇』、一九三二年、六七頁。
23 道院・世界紅卍字会の坐功の規定の詳細については、すでに酒井忠夫(二〇〇二年、一七〇〜一七三、一七八〜一七九、二四一〜二四七、二五一〜二五四頁)が紹介している。また、酒井は、一九二〇年当時、同善社に対する社会的な批判が高まりつつあったため、それに対する内省・改革の動きとして済壇の独立と、上元坐式の発明があった点を指摘している。
24 「形外之形」を「〔真炁からなる〕形体以外の形骸」と解した。直前に見える「真炁成形」の「形」以外の形であり、直後に「悉成渣滓」とあるように非本質的なものだと解せるためである。
25 「生長」を「命の長らえること」と解した。『呂氏春秋』重己「凡生之長也、順之也。使生不順者欲也。故聖人必先適欲」。
26 「伏陽潜陰」を「陽を〔陰の中に〕隠れさせ陰を〔陽の中に〕潜めさせる」ことと解した。『雲笈七籖』巻九三「陰潛陽内、陽伏陰中。陰得陽蒸、故能上昇。陽得陰制、故能下降。陽蒸陰以息気、陰凝陽以澄精。日月昇降、乾坤交泰、而萬化成焉」。
27 「水炁同化之源」を「世界の原初の状態」と解した。『真経』は、「自炁孕水、産而分離。母子相倚、生息之間、乾元開始」(四九三頁)というように、世界が炁から水が分離することから始まったと考えており、水と炁が同化するということは世界の原初の状態に戻ることを指す。
28 『真経』、四九五頁。
29 養気の具体的な方法が坐功であることは、『真経』中のいくつかの節から確認できる。「黙転妙霊、全在錬坐。坐堅気固、而后精結。精結而后神凝」(『真経』、四九四頁)、「求放心者、即老人所定坐功功則。始平而終于黙静、則全陰自能還吾全陽之炁胎已」(『真経』、五一一頁)、「欲修法必先練炁、練炁又必先善坐」(『真経』、五一五頁)、「老人曰、前経皆吾老人與石門諸子所言炁解、一放万弥、万収一帰之旨。何者可成、何者可修。修従坐始、成亦坐始」(『真経』、五二二頁)。
30 『道徳精華録』巻一、一九二七年、九八頁。
31 『卍慈篇』、一九三二年、一三一頁より再引。63
32 『卍慈篇』、一九三二年、一三六〜一三七頁より再引。
33 例えば、『道徳精華録』巻一、三四頁「此吾施度所定坐静行慈、内外兼修之旨、亦即修者必由之径。…偏坐無益、甚且害之。何也。坐而弗能存誠、坐養所得之功、用之於行、難免無邪。邪其行者、修坐所益、不勝行邪之害已。是以必兼外慈之修」。
34 武内房司、二〇〇一年。
35 横手裕、二〇〇〇年、一八五〜一八六頁。
36 『道コ精華録』巻一、一九二七年、三四頁。
37 『道コ精華録』巻三、一九二八年、六頁。
38 『荘子』斉物論に見える。道教においては、心の定まった望ましい状態を指す。『雲笈七籖』巻九四「夫定者、尽俗之極地、致道之初基、習静之成功、持安之畢事。形如槁木、心若死灰、無感無求、寂泊之至。無心於定而無所不定、故曰泰定」。
39 『伝習録』中に幾度も見られるが、たとえば『伝習録』巻上「只懸空静守、如槁木死灰、亦無用」、同書、巻中「今却欲前念易滅、而後念不生、是仏氏所謂断滅種性、入於槁木死灰之謂矣」。また、静坐によって入静の境地や悟りを求めるだけではならず、必ず実践を伴うべきであることを以下のように説いている。『伝習録』巻下「姑教之静坐。一時窺見光景、頗収近効。久之漸有喜静、厭動、流入枯槁之病。或務為玄解妙覚、動人聴聞。故爾来只説致良知。良知明白、随你去静処体悟也好、随你去事上磨練也好」。
40 『大道篇』、一九三二年、一五四〜一五五頁によれば、一九二八年までに全国の道院の数は二〇三箇所となっている。特に山東に七四(七五)箇所、直隷に三七箇所、江蘇に二四箇所、安徽に二三(二二)箇所が存在しており、道院が以上の地域を中心に勢力を伸張したことを窺わせる。なお山東と安徽の院数は、原典の各年の増加数の総計と合致しないため、()内に訂正した数字を補った。また『卍慈篇』、一九三二年、一五一頁によれば、世界紅卍字会は一九二八年までに、全国に約一五〇箇所の分会を設置したとある。
41『卍慈篇』、一九三二年、一七七〜一八〇頁。
42 宋光宇、二〇〇二年、五三九〜五四〇頁。
43 宋光宇、二〇〇二年、五四〇頁。
44 寺観や廟宇の財産を没収し、初中等教育の用に当てることを推進する政策。早くは清末に康有為が唱えており(村田雄二郎、一九九二年)、南京国民政府期のそれは、南京国立江蘇大学の教授邰爽秋が提唱した(大平浩史、二〇〇二年)。
45 なぜ、悟善社への問罪に、道院と同善社が連座させられたのだろうか。この三団体は、相互に影響関係があり、人的・教義的な共通性があったため、初期の内から一群の教団として見なされていたようである。すでに宋光宇も指摘しているが、梁啓超は一九二二年の講演「評非宗教同盟」の中で「同善社、悟善社、道院」を名指しして「下等宗教」と断じ、当時の反宗教運動者に、これらの宗教を打倒すべきことを説いている。梁啓超、一九二二年(一九八九年)、二四頁。同善社と道院の共通点については、既に述べた通りであるので、ここでは悟善社との関わりについて、いささか言及しておきたい。一九二四年、北京道院の総院への改組を協議した際、各地の道院分院代表者のほか「北京悟善社職方」が会議に加わったとされる。『大道篇』、一九三二年、一五八頁。この一文からも、両団体の人的交流があったことが明らかであるが、事実、道院・世界紅卍字会と救世新教の指導者層は、一部は重複していた。例えば、世界紅卍字会初代会長銭能訓は、悟善社の改組した救世新教の初代教統(指導者)であったし、後年救世新教の教統となる江朝宗も道院・世界紅卍字会の指導者層に属する一人であった。このほか、道院の「至聖先天太一老祖」(太乙老人)が悟善社・救世新教でも崇拝されていたことなどが指摘されており、信仰面での共通性も少なからずあったようである。吉岡義豊、一九七四年、二〇五・二二四頁。
46 一連の宗教政策がどのような関連性を持って発布されていったか、政令の意図とその理解のされ方のずれ、つまり国民政府中央部と地方党部たちとの間にあった意志のずれについては三谷孝の論考に詳しい。三谷孝、一九七八年。
47 「国民党中央執行委員会秘書処奉発『神祠存廃標準』致各級党部函」(中国第二歴史档案館編、一九九四年、五〇六頁)。
48 北洋軍閥からは、張作霖(奉天派)、王懐慶(直隸派)、曹錕(直隸派)、田中玉(安徽派)、呉佩孚(直隸派)、王承斌(直隸派)、何豊林(安徽派後奉天派)、盧永祥(安徽派軍閥)、蕭耀南(直隷派)、斉燮元(直隸派)らが道院・世界紅卍字会の指導職や名誉職についている。吉岡義豊、一九七四年、二五四〜二五五頁。また邵雍、一九九七年、一八四頁。また、黒龍江省督軍などを務めた軍人であった許蘭洲は、軍務から退いて後、世界紅卍字会会長の任に当たっている。
このほか、二代目済南道院統掌徐世光は、北京政府大総統徐世昌(在任一九一八〜一九二二年)の弟であった。また世界紅卍字会の初代会長に推された銭能訓や、同会会長職を三任連続する熊希齢は、北京政府期に国務総理(銭能訓は在任一九一八〜一九一九年、熊希齢は在任一九一三〜一九一四年)まで務めた政治家であった。大陸での最後の会長となった王正廷は、北洋政府期、国民政府期を通じて活躍した外交官・政治家であり中国のYMCAの幹事なども務めた人物である。
49 張天宇選編、一九九八年、八頁。
50 『大道篇』、一九三二年、一八六〜一八七頁。道院が政府当局より再度認可を受けたのは、一九三五年の済南道院が最初である。『済南道院立案文件彙録』(一五頁)によれば、済南道院は一九三五年七月六日に中央党部より正式に団体認可を受けている。
51 世界紅卍字会は、すでに一九二七年、北伐戦時に戦地救護活動を展開する中、国民政府軍事委員会より「各処軍警機関、一体保護」(『卍慈編』、一九三二年、一五一頁)の通令を得ている。国民政府に対する協力的姿勢が認可につながったと考えられる。
52 「公安局報告調査悟善社等処情形(一九二八年一一月三日)」。張天宇選編、一九九八年、一〇頁。
53 ただし「当十七八年之頃。〈戊辰己巳之交〉道務稍形滞阻。南方各地、均頼以慈護道。而黄河以北及東北三省等処、則生機暢茂。道慈両務、相與継長而増高。此関於形勢不同」(『大道篇』、一九三二年、一八八頁)とあるように、取締り令の影響は南北で大きな違いがあったようである。
54「純粋慈善団体」という自称は各処に見られるが、例えば一九三二年に発表された『世界紅卍字会宣言』にはこうある。「卍字会為純粋慈善団体。其根元発生道院。或者以為其中含有宗教之意味、不知吾人非不信仰宗教也。但不特立一宗、不拘於一教将融会各宗教之真理。(中略)本此道徳精神発而為慈善事業」(『世界紅卍字会宣言』、一九三二年、四頁)。
55 『卍慈篇』、一九三二年、十八〜十九頁。有形(慈善事業)より、無形(坐功等)を重んじる他の例として、「各方弟子、募賑款以救済劫余之衆生。有形之功行、亦甚大也。然不若以無形者為重」(『道コ精華録続編』巻三、一九三三年、七〇頁)がある。
56 『禮儀篇』、一九三二年、三七〜四〇頁。
57 「堅」を「堅坐」の「堅」と捉えた。『元史』巻一九九、列伝八六「恪好読周易、毎日堅坐」。
58 『雲笈七籖』巻九四「無復流浪、與道冥合、安在道中、名曰帰根。守根不離、名曰静定。静定日久、病消命復」。
59 『道コ精華録続編』巻三、一九三三年、四二頁。
60 『易』既済「君子以思患而豫防之」が出典である。
61 『世界紅卍字会宣言』、一九三二年、二頁。
62 『済南訓録』戊寅年(一九三八年)、一九八〇年重印、一〜二頁。
63 『大道篇』、一九三二年、一三四〜一三六頁。
64 山下晋司ほか編、二〇〇二年、三七〜四三頁。「坐則」成立の年は未詳であるが、「坐則説明」が一九二四年に定められていることから、それ以前に成立していたと推測される。
65 葉國禎編撰、一九八六年、九三〜九七頁。
66 中国医学や内丹説において、心は火を、腎は水を司っていると考えられており、両者が交わり補い合うことで、健康が維持されたり、内丹が生じたりすると説明される。『鍼灸甲乙経』五臓六府官「夫心者火也、腎者水也。水火既済、心気通於舌」。
67 葉國禎編撰、一九八六年、九四〜九五頁。
68 入信者は入信を願いでた際に『修坐須知』を与えられ、これに則り百日間坐功を行った。その間の坐功実行の有無は『庚表』という記録表に記し、道院に提出することが求められた。また、入信後満三箇月坐功を行ったものは、道院において坐功の正しさを確かめる証坐を受けたという。山下晋司ほか編、二〇〇二年、四〇〜四三頁。
69 武内房司、二〇〇一年、七八頁。
70 帰根門(帰根道とも)は、清咸豊年間に青蓮教より分派した教派。開祖は、湖南の曽子評(円明)とされる。清末から民国期にかけて、雲南、貴州、湖南、湖北、四川一帯に伝播した。帰根門については、武内房司、一九九四年bを参照のこと。先天大道(先天道)は、ここでは道光年間の青蓮教取締り後に、青蓮教の復興・改革を目指した彭徳源(超凡)の道統を指している。浅井紀、一九九〇年、三九一頁、および王見川、一九九六年、一〇一〜一〇七頁。但し、青蓮教の名称が官側から与えられた他称であることから、先天道の名称をもって青蓮教に代える研究者も多い。
71 陸仲偉、二〇〇二年、八〇〜八一頁。
72 陸仲偉、二〇〇二年、七五頁。また秦宝g、二〇〇四年、三〇〇頁。
73 毛彦文「沈痛的回憶」(周秋光、一九九六年、六七〇頁より転引。原『華北日報』一九四八年一月三日付記事)。
74 『道コ精華録続編』巻五(一九三三年、二九〜五八頁)に「聚霊化劫」の項目が立てられ、これに言及する各地道院の乩訓が収録されている。
75 遠藤秀造、一九三七年、四九〜五〇頁。
76 『済南訓録』己卯年(一九三九年)、一九八〇年重印、四頁。
77 『済南訓録』己卯年(一九三九年)、一九八〇年重印、一一〜一二頁。
78 張天宇、一九九八年。
79 『世界紅卍字会資料彙編』、二〇〇〇年、一八八頁。 
   
■第四章世界紅卍字会の慈善論:道院・世界紅卍字会の救済論2

 

第一節はじめに
道院を母体1として一九二二年に北京で発会した世界紅卍字会は、以来、山東省を中心に全国に支部を広げ、一九五〇年代の初めに「閉会」2するまで、各地で教育・福祉・医療施設等を運営したほか、戦時・災害時における救済活動をも精力的に行った。
本章は、中華民国期の代表的な慈善団体に数えられる同会の慈善論、特に慈善の意義付け、活動の動機づけを、宣言文、教義書や乩文集といった資料に即して考察することを目的とする。すでに第三章において、慈善は道院・世界紅卍字会の救劫論において、副次的な地位に追いやられる過程を確認しているが、本章においては、以下の視角からあらためて慈善論を検討する。1「慈善」という近代以降に流布した概念3を、「慈善団体」にカテゴライズされた当事者(世界紅卍字会)が、どのように論じているかに注目する。2また、個人にとっての慈善の意義を、道院・世界紅卍字会がどのように説明していたか、つまり慈善活動に対して信徒を如何に動機づけていたかという点に注目する。
近年の世界紅卍字会をめぐる諸研究の中で、同団体の活動内容を追ったものは多いものの4、慈善理念やその動機づけについて論じた研究は意外に少ない。後者の研究の代表的なものとして、武内房司、宋光宇の研究が挙げられる。
武内房司5は、世界紅卍字会の母体である道院が、青蓮教系の民間教派、同善社の強い影響下に成立しており、道院・世界紅卍字会の慈善活動を含む諸実践のひな形がすでに同善社に存在していた点を指摘し、彼らの慈善理念が清末以来の伝統的救済論(「劫運の挽回」=救劫論)を受け継ぐものであることを明らかにした。武内の考察で注目されるのは、同善社や道院といった慈善重視型の教派が現れた経緯を、以下のように青蓮教の歴史の中で捉えている点である。
青蓮教系各教派を、外功(社会的活動)を重視する流れ「寛容派」であるか、内功(禁欲的修行)を重視する流れ「禁欲派」であるかを基準に系譜的に位置付けると、同善社や道院は寛容派に分類される。禁欲的実践(「永続的な菜食主義と非婚主義」)を厳格に実行してきた青蓮教系教派の中で、禁欲を緩和・放棄した寛容派は、特徴的な分派といえる。寛容派の祖、黎晩成(同善社の道統で第十四祖に位置付けられる教主)は、一九世紀の中頃、厳格派が地域社会(四川省武勝県)で軋轢を生じる中――禁欲的実践が伝統的な社会倫理(孝の実践)と相反するためである――、その行き過ぎを是正する動きとして登場したという。この流れを汲む同善社は、青蓮教が救済のための手段として重視していた喫斎を放棄した一方で、儒教的徳目を思想の中に摂取しつつ、社会的活動への参加を「外果」として重視した6。武内によれば、同善社が社会的活動を重視したのは、本来救済手段としての役割を担っていた禁欲的実践を放棄したことの代償作用として捉えられるという7。つまり、喫斎が果たしていた救済の役割を、社会的活動によって埋め合わせたということである。以上の説を受けて、本論が問題として取り上げるのは、同善社が獲得したはずの、救済の手段としての社会的活動(慈善)という考えが、なぜ道院では明瞭に説かれることがなかったのかということである。
宋光宇は、近代中国の慈善を考える際、善堂・善会8と並んで民間教派も大きな役割を果たしたことを指摘し、その代表的な事例として世界紅卍字会を取り上げた。活動内容を包括的に論じる一方で、その動機づけにも意を配っており、彼らの活動がキリスト教系慈善団体への対抗意識を帯びていた点や、明清期善書にみえる応報観とくに死後の「成神」信仰に励まされたものだった点などを指摘した。また、彼らの活動が逐一、扶乩の指示に依拠していたことを詳細に論じ、乩壇(扶乩を行う壇・集団)が運営する慈善団体という世界紅卍字会の重要な側面――この点を具体的かつ明示的に説明した点は特に意義深い――を鮮やかに描き出した9。本章では、慈善論の構成要素としてその教義的動機づけにも触れるが、「成神」信仰――本章第四節に触れるが、信徒が死後に仙人になるという「昇仙」信仰のことをいう――が重要な要素であるという宋光宇の指摘を再説することになる。ただし、宋が道院・世界紅卍字会の「成神」信仰を、同団体の文書ではなく、明清期の善書等を主な根拠に説明したために、信仰の内実が不詳であるのに対し、本章は、同団体の文書により、信仰がどのようにシステムとして整備されていたかを補足している。
第二節世界紅卍字会の新規性
(一)世界紅卍字会の成立
一九二一年七月、斉河、済南、利津など山東各地で黄河の決壊があったが、特に七月一九日に起きた利津県宮家壩での決壊が最も被害が重く、利津県に隣接する西の濱県、西北の沾化県までが被災し、被災者は五〇〜六〇万人に達した10。この時、済南を本拠とする道院では、信徒から義捐金を募集し、済南で鍋餅を購入し被災地で配給した。その後、天津道院が主体となって広く義捐金を募ったところ一二万元が集まったため、被災民に衣糧を配るなどし、延べ四万人に対し救援を行ったという。同時に、済南に「貧民工作所」を設置し、被災地の児童を収容し生業を身につけるようにさせた11。
道院という宗教団体は、一九二一年二月九日に成立――正確には、前身となる乩壇(済壇)から改組――したばかりの年若い団体であった。その活動内容は、済壇から継承した扶乩と坐功という二つの実践が柱に据えられていたが、社会的な活動については未だ確たる方針は打ち出されていなかった。それが、団体の足元を襲った水災を目前にして、いわば迫られて初めての災害救援に着手したのだった。
組織形成の途上にあった――同年一月の段階で済壇(道院の前身)の信徒は四八人だけであった――にも関わらず道院にこうした活躍ができたことは、活動に必要となる資金や活動の援助者、そしてそれに相応する社会的認知を、この時、短期間に得られたことを示している12。政情不安から公的な災害救助事業が不足する中、こうした民間組織の慈善活動が、社会的に要請される状況にあったためであろう。ともあれ、道院にとって、この経験が慈善活動を恒常的任務とするはずみとなり、世界紅卍字会設立へとつながる。
道院は、慈善活動を単発的なものにとどめず、「院章」第一条に「本院は道徳を提唱し、慈善を実行することを宗旨とする」13ように定め、慈善活動を団体が常時行うべき事柄に据えた。一九二二年五月頃より、宗旨を具体的に実行するために、道院の下部組織として、紅十字会(以下、赤十字社と記す)の名前を模した慈善団体、紅卍字会の設立を計画し、同会は同年一〇月に政府内務部より許可を得て正式な成立を見た。初代会長には、元国務総理、銭能訓が就任している。
正式成立に先立つ一九二二年九月一日に済南で開かれた世界紅卍字会設立準備大会上では、会の主旨を説明する「世界紅卍字会宣言」および「世界紅卍字会大綱」が発表された。民国一一年九月五日付けの『申報』上で、「済南雑信」が伝える大綱の内容は、同会の志向を色濃く反映していた。
「一、定名、世界紅卍字会二、宗旨、世界平和を促進し災患を救済することを宗旨とする三、所在地、およそ国都に総会を設け、分会を各省県、及び繁盛区域に設ける。…七、慈業、凡そ各種慈善事業は本会が均しく力を尽くして、これを推し進める。14 」
短い引用ながら、ここには、いくつか注目すべき点が含まれているように思われる。一つには、「世界平和を促進」するとあるように、理念的課題として「世界」の「平和」が掲げられている点である。第五章において触れるが、国際主義や平和論は道院の教義的特徴であり、それは世界紅卍字会にも共有されたものだった。もう一つには、「凡そ国都に総会を設け」という一文である。これは将来国外においても世界紅卍字会が設立されることを前提とした発言であり、設立を間近に控えた同会がすでに、国際的な展開を見据えていたことを伝えるものである。会の前途に対するみなぎるようなこの自信は、道院の信仰に裏打ちされたものであるかもしれないし、あるいは会が銭能訓(元国務総理)をはじめとする有力者の参加を得ていたことに由来するのかもしれない。こうした有力会員の加入は卍字会の社会的な認知の向上に、直接的な影響を与えたと考えられる。会は発足直後から、政府の通令により「各省の軍民機関から保護を得られる」15ことになっていた。
しかし、未だ正式な成立を見ない段階で、かくも明確に国際的な展望を有している理由を考える上で欠かせないのは、赤十字社の存在である。
(二)モデルとしての赤十字社
中華民国における赤十字社は一九一二年には中国紅十字会という名称で成立しており、その前身にあたる大清紅十字会の成立は一九〇七年にまで遡る16。世界紅卍字会が成立する一九二二年まで、すでに多年に渡って赤十字社が戦時救済活動及び災害救済活動の任に当たっていたのである。世界紅卍字会は、この赤十字社に一〇年以上後発して慈善活動を開始したことになる。
道院が世界紅卍字会を発足させるにあたって強く意識されたのは、赤十字社であった。例えば「紅卍字会」という団体名称は、「この時には、人々は紅十字会しか知らなかったため、このような言葉使いにせざるを得なかったのである」17という発言に裏付けられるように、赤十字社の名を模したものである。両団体の名称の類似性から容易に推測しうるためか周知の事柄として看過されがちであるが、世界紅卍字会は、赤十字社をモデル――かつ競合団体――と目して創設されていたのである。
赤十字社の影響は名称のみにとどまらず、事業内容にも及んでいた。例えば、世界紅卍字会は創設案の段階においては、戦災地における民間人の救済を目的にする団体だったことが知られている。一九二二年、上海に道院分院が開設された際、扶乩によって世界紅卍字会設立の指示が下されたが、その内容は以下のようなものであった。
「まず世界弭兵会内に一紅卍字会を特設することについて討議すべきである。会の主旨は、世界各戦地にいる無告の生き残った良民を救うことにある18。」
「世界弭兵会」は「戦争を弭めさせる」ことを主旨とする国際的団体と考えられるが、成立には至らなかったようである。その下部団体とされる「紅卍字会」の事業内容については、世界各地における戦時救済を主旨とする点から、赤十字社をモデルとしていたことが明らかである。それはまた、理念面においても確認される。世界紅卍字会の戦時救護の理念は、赤十字社のそれと同じように「中立」を強調したものであった19。
一九二二年四月、上海において、紅卍字会創設に向けて各界の著名人の賛助を請う集いが開催された。その際、紅卍字会は「紅十字会(赤十字社)の及ばない所を補う」20団体として説明されたという。また当時、内部に向けて発された扶乩にも「およそ、十字(赤十字社)の力には不足するところがある。その範囲以外の慈善事について、卍字会は力を尽くして助けるように図るべきだ」21という旨が示された。
内外に向けて発された、赤十字社の不足を補う団体という紅卍字会のコンセプトは、必ずしも賛意のみをもって迎えられたわけではなかった。世界紅卍字会設立の創設案が提出された時点で、団体内部から「我が国にはすでに紅十字会があり、兵災について救済(活動)はすでに足りている。我が院が人の後塵を拝す必要はないではないか」22という声が上がったと伝えられる。同じ狙いを持つ新団体を立ち上げる必要があるのかという疑義が呈されたのである。
こうした反対の声は、しかし、「老祖」(道院の最高神、至聖先天老祖)の紅卍字会設立の「意志」を挫くことはなく、会は創設の運びとなった23。とはいえ、赤十字社を模倣した後発団体であるという自己認識は、紅卍字会と同社との関係性理解に後々まで一種の緊張を生じさせていたようである。世界紅卍字会は、つねに赤十字社との差別化を図ることに腐心しており、赤十字社への言及には、ほぼ必ず両者の相違点を強調する言葉が伴ったのである24。紅卍字会の特徴として、最も強調されたのは、慈善活動を支える信仰のあり方であるが、これは後節に触れる。次いで強調された点は、事業内容である。
赤十字社が主な活動内容を戦時救護とするのに対し、世界紅卍字会は平時の社会救済をも行う、という対比的な主張が展開された。戦時救済団体として構想された世界紅卍字会であったが、創設にあたって、その活動内容は臨時の災害救援から平時における社会救済まで多岐に渡る活動を自らの任としていたのである。代表的な事例として、一九三二年に発表された宣言文「世界紅卍字会宣言」の一節がある。
「卍字会の設立する百余年前に、万国紅十字会があった。その成績の結果は、久しくわれらが敬仰してきたところである。紅十字会の起源は戦時における救護にあるので、各国の十字会の組織は、大半が陸海軍の範囲に従属する。ゆえにその活動もまた戦時の救済に重きを置いている。卍字会は平時と非常時に発生する天災人禍のすべてにおける救済と安全の責を負っている。また十字会は西欧で誕生したことで中国に普及したが、卍字会は…東西各国に普及されることを期している25。」
赤十字社が社会救済事業を行わなかったというわけではなかったが、平時の救済事業よりも戦時救護に対する取り組みが充実していたということは確かだったようである。一方で、世界紅卍字会は戦地・災害救済活動といった臨時救済事業の他に、設立以来恒久的事業として教育・福祉施設を運営していた。一九三七年時の統計によれば、全国で中・小学校を八五所、工徒習芸所・貧児貧民習芸所・平民工廠(職業訓練施設)を一〇所、貸済所(無利子での貸付を行う部門)を五一所、育嬰堂・孤児院・卹養院(孤児院)を二五所、卹嫠局・卹産局(寡婦、妊産婦の援助部門)を二六所、残廃院(障がい者収容施設)を二所、医院を一六所、施診施薬所を一七五所、防疫所(伝染病等の予防施設)を一一所、施棺所(葬儀の出せないものに棺を支給する部門)を三九所設置・運営していたという26。学校教育、職業訓練施設等の積極的な運営は、確かに民国当時の赤十字社と比べた際の世界紅卍字会の特徴である。
世界紅卍字会が戦時救済のみにとどまらず、災害時の救援活動や平時における教育・福祉施設の運営など多岐に渡る活動を展開した理由の一つとして――無論、明清期の善挙内容の継承としての側面もあるだろう――、同会が赤十字社を模倣する一方で、競合相手・批判対象としてこれを乗り越えるようとしたことが挙げられるだろう。
第三節慈善の意義
(一)初期の慈善論
宗教家や宗教団体が慈善活動を行う際に、活動の理念が何らかの形で教義に裏付けられたものになることは、成り行きとして自然である。世界紅卍字会による慈善も、当初より道院の教義に組み込まれた。道院の教えでは、戦争や自然災害等の原因を人心の道義的悪化に求めており、坐功を主とした道院の修道的活動を通じて人心を挽回することによって、災害を根本的に解決できるとされた。この教えを救劫・化劫と呼ぶ。
世界紅卍字会が、慈善の意義を語るとき、常に参照されるのがこの教義であった。初めて慈善が救劫と結びつけて語られたのは、一九二二年九月の紅卍字会発足時、募金呼びかけの冒頭部分においてである。
「『真経』にはこうある。「劫は数と同じではない。数は劫を離れない」。註にはこうある。「数は天において定まるもので、劫は人から造られる」。それで人が劫を造るのであり、人がまた劫を救うことができるとわかるのである。救劫の方法は慈業にある。世界紅卍字会とは、慈業の基なのである。27 」
『真経』とは、道院の根本経典である『太乙北極真経』のことを指す。ここでいささか問題になるのは、慈善を救劫の方法として語る根拠として引用されている当の『真経』が、慈善に関して一切言及していない点である。それは『真経』が成立した一九二二年一月の段階において、道院の前身となる済壇が慈善活動に未着手であり、慈善に対する関心が薄かったためであろう。つまり、上の引用文は、『真経』成立後に取り入れられた実践である慈善を、『真経』に遡って教義の中に取り込もうとする試みであったということができる。
しかし、慈善を救劫の直接的な手段だとみなす考え28は、当初から、それとは矛盾する見解と共に説かれていたようである。それは、慈善が救済手段としては、完全性を欠いているという見解であった。後に「内外兼修」――社会と自己を救うため、修道的実践と社会的実践の両方を実行せよと説く教え――として整備される見解である。この考え方は、まずは競合団体への対抗の理論として持ち出された。会員の手による著作、あるいは乩訓(扶乩による文章)などには、赤十字社をはじめとする諸慈善団体に対する批判的な言及が度々見られるのだが、批判の主な内容は、他の慈善団体の活動――つまり慈善――は対処療法にすぎず、災害の根本的解決に至らない、というものであった。代表的な事例が、一九二二年に発表された「世界紅卍字会宣言」の一文である。
「今まさに中国・西洋に慈善団体が林立している。ただ中国が連年多難であるのみならず、先年のヨーロッパの第一次世界大戦は惨く、ロシア革命の災害は大きかった。各地の慈善家は常に協力してそこに赴いたが、具体的に根本的な〔解決〕方法を持たなかったので、一隅に偏ってしまい、その主旨を貫徹することがなかったのである。この根本的〔解決〕方法は特に霊学(道院の教え)に由来するべきである。そうしてはじめて信仰をしっかりと定め、万民の心が一つになることができるのである。…さらに霊学が盛んになることをもって、天災、戦禍を二度と発生させないようにするのだ。29 」
単なる慈善を行うだけでは、災害を根本的に解決させることはできず、「霊学」が盛んになることによってこそ、それが可能になるというのである。ここで、慈善を補うものとして言及されているのが、坐功や誦経のような内功の実践ではなく、霊学の普及――万民に行き渡るべきと考えていることから、これを教化と言い換えることができる――であるという点には、注意が必要であろう。終章において触れるが、近代スピリチュアリズムに触発され、一九一〇〜一九二〇年代に流行した乩壇系の霊学は、主に扶乩を研究対象かつ手段とした霊魂の「学的」探究の試みを指す。いくつかの乩壇がこれに取り組んだが、道院における霊学は、学的探究であると標榜されつつ、同時に、道徳的な教化手段として考えられていたのである。彼らは霊学(と扶乩)による教化が社会に受け入れられていく「理想的な」未来の訪れを期待していた。しかし、後節に見るように、それは失望に変わる。
ところで、梁其姿が『施善与教化』の中で指摘したように、明清期中国における施善・善挙は教化と密接な関わりを持っており、善堂は運営主体――「大儒」、「地方商人・士紳」、「中下層儒生」等――の価値観を発信する教化施設としての役割も担っていた30。世界紅卍字会が、単に慈善を実行するだけでなく、それに当然伴われるべきこととして教化を重視したのも、こうした伝統的な善挙の観念と無関係ではあるまい。
完全な救済のためには、慈善だけでは不十分であり、教化を伴わなければならないという図式は、これ以降の文書にも一再ならず見出される。例えば、以下のような乩文が、南京道院が編集した乩文集『道コ精華録』(一九二七年刊)に収録されている。
「思うに紅卍字会の性質と紅十字会の性質は、大いに異なる。紅十字会の性質は、戦を前にして救済をなすにすぎない。しかるに紅卍字会の性質は、上下四方をして、その救いを用いない所がない。災いの発生する以前には、道をもって霊学を回復し、人心の救済を助ける。災いが発生するに至っては、衆力を借りてその及ばざるところを救うことを助けるのである。31 」
赤十字社との対比の中で、彼らの慈善論が再説されている。些か議論の筋道からはずれるが、大前提として、慈善が災いから人を直接に救うこととして価値を認められていたという点は、確認しておきたい。人を救う行いとして、慈善は必ず行われるべきことは、道院・世界紅卍字会の文書中のそこかしこに説かれている。ただし、本論が注目しているのは、賞賛されるべき慈善が、幾度となく、批判的に言及されていることの意義なのである。
教化を伴わなければ、災害の根本的な解決に至らないという考えは、当然ながら慈善活動を布教の契機とみなす発想とも結びついたようである。同じく『道コ精華録』に収録された、老祖の乩訓にはこうある。
「今、下元〔の時代〕が終わりを告げる〔時〕、つまり道から離れてしまった時にあたり、救いの良い方法として、道を唱えるのにしくはない。…しかし、この道務(道院の活動)の萌芽の時には、必ず慈善事業を、力を尽くして推し進めることで、人々に信心を堅くさせねばならず、〔そうして〕やっと悪運を挽回することができるのだ。もし、いささかでも〔慈善事業に〕怠りがあれば、人に信仰を啓くには足りず、そのせいで嘲り謗る人を増やすことになる。32 」
(二)道院取締まりに直面して
しかし、一九二八年以降、慈善と布教を結びつけることが政治的に困難になる。同年六月、南京国民政府の北伐軍により北京が占領され、北京政府は瓦解した。北京政府時代の団体登録が無効になったため、他の社会団体と同じように、道院、世界紅卍字会の両団体も、新たに南京国民政府に対して団体登録を行う必要が生じた。
一九二八年、北京総院と世界紅卍字会中華総会は代表者らを南京へ派遣し、道院と世界紅卍字会を同時に登録しようと試みた。しかしその最中一〇月二一日、全国各省市政府に対し、道院、同善社、悟善社等「迷信機関」への取締り令が通達される。その理由には「壇を設けて扶乩をなし、迷信を宣伝し、根拠のない噂で民衆を惑わせた」ことが挙げられた33。扶乩儀礼と救劫の教義――大災害の到来という「根拠のない噂」――が国民政府による取締りの対象となったのである。
しかし一方で、一九二八年一一月二〇日の「国民政府内政部批民字第一六号」において世界紅卍字会の登録申請が批准された。国民政府は批准と同時に「各省県が一体となって世界紅卍字会を保護し、以て救済を資し進行に利する」ことも全国に通令した34。慈善団体としての長年の活動が考慮され、世界紅卍字会は存続を許されたのであった。以降、世界紅卍字会は、無認可の道院を抱え込んだ「慈善団体」世界紅卍字会として、活動を継続せざるを余儀なくされることになった。これを、道院・世界紅卍字会では「以慈護道」と呼んだ。慈善団体としての活動をもって、宗教団体としての存続を守ろうという意味である35。
しかし、さらに、認可を受けた慈善団体である世界紅卍字会への管理も強化されていく。南京国民政府が慈善団体の管理にも乗り出したためである。一九二八年には管理私立慈善機関規則が、一九二九年には監督慈善団体法、一九三〇年には監督慈善団体法施行規則、社会団体組織程序が公布施行された。いずれも慈善団体の成員、財政、活動を政府が把握・管理することを目的としたものであった。中でも監督慈善団体法は、慈善団体の宗教的な活動について以下のような制限を加えている。
「第一条、本法の称する慈善団体とは、貧困・災害の救済、身寄りのない老人・児童の保護育成及びその他の救助事業を目的とする団体を謂う。
第二条、およそ慈善団体は、その事業を宗教上の宣伝あるいは、兼ねて個人の利を謀る事業として利用することを得ず。(傍点は引用者による)
第一一条、慈善団体が、もし主管官署の検査を拒絶し、或いは二条の規定に違反した場合、主管官署はその許可を取り消し或いはこれを解散させるを得る。36 」
政府による「慈善」の定義は明瞭である。「貧困・災害の救済、身寄りのない老人・児童の保護育成及びその他の救助事業」が、慈善なのである。そして同法では、慈善と、営利・布教の手段とは峻別され、慈善団体が、「宗教上の宣伝」や営利に慈善活動を利用した場合は、団体認可の取り消し・解散という厳格な罰則が科せられるとされた。こうして、慈善団体の母体が宗教団体であった場合、それが「宗教」的な動機に端を発する活動であったとしても、活動から「宗教」色――道院・世界紅卍字会の場合であれば、霊学の普及を慈善と結びつけること――を後退させることが求められたのである。
慈善活動を、救済――宗教団体の文脈における救済―――や布教といった意義付けや活動と切り離して行うならば、宗教団体にとってその活動には、救われる者の増加・信者の獲得等といった直接的なメリットが見込まれないことになる。監督慈善団体法施行以後、慈善活動を行う多くの宗教団体が、そうしたメリットなしに慈善活動を継続させうるような新たな理念の案出に迫られたであろう37。
では、これに対して道院・世界紅卍字会はどのように応答したのであろうか。彼らが示した最初の反応は、世界紅卍字会と道院の不可分性を強調することであった。例えば、取締り令の発出される直前、一九二八年一〇月に発表された宣言文『道院紅卍字会宣言』38は、その代表的な文章であろう。
「〔道院の主張は〕また我が中山先生(孫文)の尊重する忠孝・仁愛・信義・和平を維持しようという趣旨とも一致する。だから道院は一種の学術団体とも、また一種の道徳組合ともいうべきものであって、実に寸毫も政治的な意味をもたないのである!しかし世人の通弊か、誰もが空論を弄び、実際には裨益するところがない。われらはこの轍を踏むことを深く恐れ、ゆえに国内外の同士と共同で、世界紅卍字会を発起し、災害救済・平和促進を宗旨とするのだ。〔それは〕実は道院の研究の成果を実行に移し、世界の殺戮の兆しを抑えようということなのである。39 」
孫文に対して友好的に言及し、自団体の政治性を否定するなど――第三章でも触れた通り、国民政府側は、対立する政治・軍事勢力が道院に多数加入している点を問題視していた――、国民党に向けた弁明の意図がありありと看取される。かつ、社会的な意義の不明確な道院を、世界紅卍字会の慈善活動との関わりの中で位置付けようとしている。つまり、慈善団体としての側面を強調することによって、その活動を支える道院の教えの意義を認めさせようとしていたのである。こうした主張はその後も繰り返されており、例えば道院の団体登録申請に際して提出された『道院説明書』の一節40や、後述する一九三二年に発表された『世界紅卍字会宣言』の締めくくりにおいても、類似の表現が見受けられる。
(三)慈善観の模索とその帰着
規制を受けて、世界紅卍字会は、慈善活動に対する新たな理念の付与や意義付けをも試みたようである。例えば、赤十字社が、「博愛」・「人道」という脱宗教的な「普遍的」精神に基づく価値観を活動の根拠としたように41、世界紅卍字会も人類に共通する「本性」・「道徳性」から、活動理念を説き起こした宣言文を発表している。世界紅卍字会の活動理念の一応の到達点である一九三二年の『世界紅卍字会宣言』にはこうある。
「世界上の人類は種々さまざまである。…(しかし)それぞれがその安楽と平和という幸福を望んでいるということからすれば、その本性がいったいどうして異なるということがあろうか、いや異なりはしない。…要点は道徳をもって本体として、慈善をもって働きとすることにある。万有が同じく具えている本性に従い、その相親相愛、互助互利の精神を奮い起こさせることが、人類、生物にとっての安楽、平和、幸福なのである。…卍字会は純粋な慈善団体である。その根源は道院に発生している。あるいは、その中に宗教の意味を含むのではと思うだろう。…宗教を信じるといっても、特に一宗を立てるわけではなく、一教に拘らずして各宗教の真理を融合させるのである。そして万有に均しく備わっている道徳性を取ってその主宰となす。この道徳精神を本にして、それを外に表せば慈善事業となるのである。これを内外の一致という。…これが卍字会精神の優れたところである。願わくば、世の宗教者と宗教反対論者が、…ともに相親相愛、互助互利の一途に赴かんことを。42 」
しかし無論、こうした「普遍性」を志向した表現が現れたからといって、世界紅卍字会の活動理念が、赤十字式の博愛・人道主義に切り替わったと言うことはできない。彼らの慈善に対する考えは、なおも布教・教化という意義付けなしには語れないものであった。
道院の代表的な教義書である『道慈綱要卍慈篇』(一九三二年までに成立。以下『卍慈篇』と略称する)43は、全四章・二七一頁中、二章・七〇頁を割いて慈善の意義について説明を加えている。既述のように、信徒に向けた講義録という『道慈綱要』の性格から、これらの説明は、一定程度、網羅的44・規範的45な内容だったと考えられる。
同書の中で目立つのが、慈善を「広義の慈」・「狭義の慈」(世界紅卍字会の慈善内容と、一般の慈善団体の慈善内容の対比になっている)、「無形の慈」・「有形の慈」(道院の修行・儀礼行為と世界紅卍字会の慈善活動と対比になっている)46などといった類型を用いて、論じている箇所である。実のところ、この類型化は、単なる対比にとどまらず、分類された慈善の包括関係やその優劣を明らかにする点に主眼があった。以下に、「広義の慈」・「狭義の慈」を例に確認したい。
広義の慈とは、災害の予防を目的とし、人に教育や仕事を与え、心を感化して善へ向けて非をおこなわせないことを内容とする「愛」と、災害への対処を目的とし、水害旱魃の救援、戦地の兵民救護、難民の収容を内容とする「慈」からなるとされる。『卍慈篇』の定義では、世界紅卍字会が従事しているのは、この広義の慈にあたる。これに対し、世人が専らにする狭義の慈は、広義の慈の中の「慈」のみを行うことを指しており、「愛」と「慈」の両方を実践する広義の慈と比べれば、費えが多い割に効果が薄いとされる47。明言されないものの、狭義の慈に従事している世人・団体とは、その活動内容の特徴から、特に赤十字社が想定されていると考えられる。
なるほど、単なる施しは、結局のところ救済対象者の自立に結びつかず、かえって施しに依存させてしまうという逆の結果を招きかねず、将来的な自立を可能にする就学・就業の援助こそが重要であるという反省は、近代的な慈善理念の根底にあるものである48。上記の主張における広義の慈の強調もそれにならったものであるといえよう。一見すれば、単に近代的な慈善の理念型について語り、それを体現していることへの自負を表明するだけのように思われるが、彼らの言う「災害の予防」が、現実的な防災措置だけでなく、それ以上に教化――『卍慈篇』の表現によれば、心を感化して善へ向けて非をおこなわせないこと――、あるいは道院の教義で確認したように坐功・誦経等の実践によって成し遂げられるという特徴を持っていたことを思い起こせば、この対比が、世の言う慈善には教化が伴われていないため完全な救済たりえないという、創会以来の慈善論を再説したものだと了解されるだろう。
一方で、慈善と教化が結び付けられるべきという当初の主張が、最早対外的に表明することが困難であると自覚した議論も見られる。その結果、慈善は布教手段という位置づけから一歩後退し、護教のための手段として語られるようになった。これを道院・世界紅卍字会では、「以慈護道」と呼ぶ。以下に、典型的な説明を挙げる。
「道は慈の本体である。慈は道の働きである。…慈は後天的に生じたのであり、生滅することがある。かつまた道より生じたものであり、道の一部にすぎない。…どうして、この二つを並べて論じるのだろうか。それには、わけがあるのだ。思うに人心の堕落ははなはだしいため、これを挽回するには道をもってするしかないのであるが、道が明らかならざるようになってからも久しい。にわかに道を語っても、賢い者すら大笑いして止まらないだろう。そこで、浅くて〔人に〕分かりやすく、恵みが広範囲に及びうる慈を民衆に施すことで、漸次、〔人心を道の〕方へ向けるのでなければ、道の心は功をなさないのだ。だから慈の字を高く掲げなければならないのである。…おもうに人が道を謗り修道することを肯んじず、かつみだりに掣肘を加えるのは、修道が口先だけで実行がなく、ひたすらな迷信だと誤解しているせいである。…彼が修道を迷信だと強固に認識しているとして、どうすればその頑迷を打破できるだろう。明らかな〔慈善という〕事実を表現することで、〔誤解している者が〕それを観察して感想を抱く材料にし、その心を移して知らず知らずに変化させる以外にないのだ。…慈は形而下のものであり、浅くて分かりやすい。彼らが、修道者が実際に恵みを人に及ぼし、私利を求めているのではないことを目にしさえすれば、以前の観察が完全なる誤りだったことを悟り、必ず自ずと悔悟することだろう。49 」
慈善と修道が「道慈」と並び称されるのが、実は人心の堕落の激しい末世だからこそ必要な方便であることが説明されている。「修道」が迷信として謗られ、のみならず「掣肘」すら加えられるという表現は、社会から道院に向けられた批判、とりわけ政府による取締り・規制のことを指していることだろう。世界紅卍字会の慈善は、こうした社会的状況、政府との関係性において、母体である道院を守るための手段、あるいはそれを通して道院の教えの真正性を認めさせるための手段、彼らの言葉で言うところの「以慈護道」として、実際的意義を発揮している、そう彼らは意義付けたのである。
しかし、ここに至ってさえ、慈善は護教のための手段なのであって、単独の価値が認められたとはいいがたい。総じて、世界紅卍字会の慈善論は、修道(道院の活動内容)と切り離して慈善に単独の意義を見出すことはなかったのであり、時局の影響から慈善が彼らの表看板となった後も、その傾向が根本的なところから変化することはなかったと結論づけられる。
さて、以上のように道院の教義の下でしか慈善に意義を見出さないような言説が、必ずしも道院・世界紅卍字会の慈善をめぐる考え方の全体をカバーしているとはいえないだろう。なるほど、この言説は道院・世界紅卍字会の発行した文書中に散見するものであり、かなりの程度の規範性を有していことも確かである。しかし、慈善活動従事者個々人が活動の場において、活動の中に見出したであろう情熱や情緒50のようなものが、教義として言説化される際に、十分にすくい取られたとも言い難い51。
第四節働きを支える信仰
(一)信者の死の問題
それでは、慈善は個人にとってどのような意味を持っていたのであろうか。本節では教団側が提示し、信徒の動機づけ52に少なからず寄与したと考えられる昇仙信仰に触れ、慈善――正確には慈善だけでなく、坐功のような修道の活動も含む――の個人的救済論における意義付けにも目を配ることとする。以下に見るように、この信仰は制度化されており、信徒の努力に対する報いとして提示されていた。
『道慈研究所溯源語録』に付するところの「職員修略」に、これまで度々引用してきた教義書『卍慈篇』の編著者王曽悳の略歴が示されている。
「幼少の頃、多病であった。ために曽祖父が廬邑八窖山の雨師廟で祈ってくれ、ようやく成人することを得た。長じて日本へ留学し法律を学んだ。数年官職に服した後、己巳年の冬(一九二九年)、乩訓に従い塵職を辞し、道慈(道院・世界紅卍字会の務め)に専念することになった。これに先立つ癸亥年(一九二三年)、『太乙正経午集』の伝授のおり、亡父は駆け回り、侍録(扶乩儀礼における書記役)として最後まで参加した。思うに、〔父は〕すでに道の真諦を得ていたのだろう。この年の七月朔日、第四母壇(北京)53において「老祖の先天大道はまったく迷信ではない。私はお前の母、弟らを皆入道させた。お前もまた入道し悟るべきである」との諭しを受け、この月の初五日に北京で入修(入信)した。しかし新学に染まってしまっていたため疑いと信仰とが相半ばする状態であった。その月の下旬、大病を患い危篤となり、薬も殆ど効果がなかった。亡父が毎日、壇に供えた水を求めて〔飲ませて〕くれたおかげで、病も徐々に治まり、同時に壇に侍るようになり、徐々に信仰するようになった。その年の丑月望日、父が乩訓に従い南京に伝道に赴く途中、亡くなってしまい、再び大いに惑った。しかし乩訓により、父が慈程真人に封じられたと聞き、また度々霊異を示されたことから信仰を確立させた。癸亥年(一九二三年)より今に至るまで、道慈の要職を得て、かつ八代の祖先の霊を提度(救済)され、祖先として祭祀することを得た。特別の恩恵を何度も受け、報いることがますます難しくなっている。この九年間、道慈に努めた他、北京の各壇及びこれまでの伝経で概ねすべて、侍録として付き従った。54 」
これは王自身の手になる略歴であり、本人の回顧する信仰上の重大事を記したものである。日本にも留学したことがあり、官職にあった新知識人とも言うべき多病の男性が、信徒であった父の影響、家族の入信、病気の快復、父の死といった出来事を通して信仰を確立させ、ついには教団の専従職員となった経緯が述べられている。
本人が信仰上最も大きな出来事として捉えているのは、父が死んで後、天界において真人(仙人)として封じられたことである。彼の父、王善荃(一八六九年〜一九二三年)55は、一九一二年に成立した国民党の参議を務めたほか、福建省、安徽省で行政・司法職を歴任し、亡くなる一九二三年には、安徽省会警察庁長の職にあった。官僚として活躍するかたわら、道院においては、経典編纂の侍録を務め、安慶道院統掌という指導職にあった。その父が扶乩の指示によって伝道に赴く途中、事故死した――いわば殉教である――のである。王曽悳の悲しみと信仰の動揺は計り知れないものがあったであろう。しかし、彼は父が死後、真人として封じられ、「霊異」を示されたことから、立ち直ったという。
度々示された「霊異」とは、明言されていないため推測によるしかないが、その中には、神仙となった父が扶乩に現れたことが含まれているかもしれない56。というのも、篤信の信徒の死という衝撃を乗り越える上で、扶乩は大きな役割を果たしていたからである。
その代表的な例が、道院の初代の統掌であり、道院創立・拡大に尽力した杜秉寅の場合である。杜秉寅は、一九二三年二月一九日(新暦四月四日か)に亡くなった。直後より、扶乩により彼の枢府(天界)での動向が知らされるようになる57。壇に降った張仙なる仙人は、仙会に赴く途中に杜秉寅と出会ったと語り、また老祖は杜秉寅を枢府における高位の役職に任じる心づもりを語る。ついに二月二三日(新暦四月八日か)杜秉寅自身が「黙真人」として、北京の乩壇に現れる。この日、自身が枢府において統院院監という要職を与えられたことを語り、集まった信徒たちに更に励むようにとの言葉を残している。同日、杭州道院では、呂洞賓が降壇し、杜秉寅が正宗真人大同祖師の職に封じられたことを告げており、二月二五日(新暦四月一〇日か)には、尚真人が済南道院に降壇し、杜秉寅・黙真人の神位を道院の諸神位の一つとして奉ずることを命じている。二月二八日(新暦四月一三日か)には、江寧道院に杜秉寅が降壇し、訪れた旧友「鉄老」(不明)に話しかけている。もはや贅言を要しまい。篤信の者は、死後真人となり、扶乩の場に現れる神位の一人になるのである。
信者の死に際して、扶乩が与えるこうした厚いフォローは、道院が修行の中核に坐功、すなわち一種の内丹法を掲げていることとも関わりがあるだろう。杜秉寅がなくなった日に、老祖は「修道者であっても死ぬことはある」58という乩文を信徒たちに与えている。これは、彼の訃報に接した信徒の誰もが抱いたであろう「坐功の実践者は、不死ではないのか」という疑問を反映したものであろう。その疑問に、死後神仙となったという扶乩による答えが与えられたのである。
亡くなった篤信の者が真人に封じられることは、この後常態化していき、例えば道院の儀礼について定めた『道慈綱要禮儀篇』には、神位の誕生日を祝う儀礼説明の最後に「新たに帰道して(亡くなり) 封じられた各真人については、仲春と仲秋に公祭を行い、これを紀念する」59と定められている。当然のことながら亡くなる信徒は常にいたわけであり、それは祭祀される者の数が毎年増加していくということでもある。そこで一九三三年には、杭州道院に亡くなった信者と、信者の祖先の霊を一堂に会して祀る崇善堂が付設されることとなった。祀られる帰道者の称号は整備されており、上位から真人・真君、次に真子・○子、そして使者・○者という階層があった60。こうした位階は、信者の生前の行いによって定まるものだったようである61。
(二)昇仙信仰のシステム
『道慈綱要』の他篇である『大道篇』編著者である楊承謀の略歴にも、王曽悳の場合と同じ内容が記されている。
「父が病を得たため、暇を請い湖南に帰った際、〔扶乩により父のために〕薬の処方、経典、道名を受けた。すると父から「救世の事業によく努めるように」と諭された。〔父が亡くなると、扶乩により〕父に壽化真君の号を賜った。…また〔祖先の〕提度と祭祀であるが、八代まで拡大された。62 」
こうした情報を総合すると、王曽悳が扶乩によって亡父昇仙の知らせを受け、信仰の慰藉や、活動を継続させる励みを得たという体験が、他の信徒にも敷衍しうるような体験だったことが了解される。そして、この昇仙の信仰は、修道と慈善への取り組み度合いに応じてその位階が決定するという、ある程度整備されたシステムとして存在していたのである63。以下のような乩訓から、その体系の一端を窺い知ることができる。
「甲戌一二月二七日(一九三五年一月三一日)浩然亭における老祖の乩訓。この一年の道慈事務は、日々発展をみた。有形の発展についてはどのような進歩もみていないといえども、無形の進展については、実に一日千里を行くかのようである。この度一年の終りに、各弟子を激励しないでおれようか。宗師兼宗主である徳輝(許蘭州)は、道慈の模範であり、代表的人物たるに堪える。前途を押し広げ、資金を満ちたらせ範を示しているのに、しかも言葉少なく皆と打ち解けている。特に道中第一とする。素璞(何澍)は母院を坐によって守っている。すべての手本であり、前途の模範であり、実に頼りとなる。妙通(熊希齢)は道のため慈のために、奔走して怠ることがない。病をおして公務に従事するも、さらに続けることは難しいだろう。…以上の各弟子には、均しく天霊を七度加え、枢府では一級昇進させて記名する(「加天霊七度。枢府晋一級記名也」)。それぞれ勉めるように。64 」
この「加天霊○度」、「晋○級記名」は、枢府、つまり道院の天界において、各人の仙人としての位があがることを意味している。「加霊」・「晋級」の乩訓は、信者の行いを嘉するべき時に適宜下されており65、目に見えない世界で、信者各人の修行と教団に対する貢献の度合いに応じて位階が自動的に進み、それが扶乩の報告によって明らかにされるという仕組みとして、定着していたようである
これに類する説明は、他の乩訓にも見える。一九三九年に編まれた『道慈文選』には、仙人を五つの段階――天仙、神仙、人仙、地仙、鬼仙のいわゆる五仙。天仙が最上位であり、鬼仙が最も程度が低いとされる――に分かれるものとして説明する蓮台聖(観音)の乩文がある。このうち神仙は、「大道を聞いた後、志を立てしっかりと修行し、坐功の実効を得た後は、世を益することを多く行い、内外を兼修めて神仙の位をもったもの」66と説明されているように、道院の信徒が死後なるべきものと考えられていた。さらに最高位に位置する天仙にも三段階がある。
「天仙とは、三島67(地上の仙境)に居ることを厭い、多くの修行と善行を積むことで、三十三陽天に進み、この地をも厭い更に修行と善行を積み、十一陽天に入る、この地でも修行と善行を積み、この地を厭い、ついに修行と善行が円満(完成)に至ると、三清に昇る68。これが功行円満といわれるものであり、虚無に還ることである。これが天仙の位である。69 」
修行と善行が、仙人としての位階を高めていくという説明は、上引の「加霊」・「晋級」の内容と一致する。もはやこの世での直裁な応報ではないが、信徒の苦労に見合った報いが、死後、天上での位階として与えられるという応報観を、道院・世界紅卍字会が慈善を動機づけた要素として指摘できるだろう。
いずれにせよ、こうした説明体系は、祭祀を行う施設(崇善堂)の整備までを考えれば一〇年以上かけて構築されたものであり、修道・慈善が祖先の救済に結びついたり、死後における位階昇進として報われたりするという認識を、最初期からすべての信徒が有していたというわけではないだろう。亡くなった指導者が仙人となったという扶乩の報告、少ない事例でありながら徐々に増えていったこうした乩文を一つの拠りどころにしつつ、修道・慈善に関わっていたというのが実際であったと考えられる。
言い換えれば、扶乩への信仰に基礎付けられてはじめて成り立つ昇仙信仰だったのであり、根本的に活動を動機づけうるのは、扶乩だったということである。そしてそれはまた、救済の現場においても、信徒を励まし奮い立たせたものだった。以下に、ほんの一例として、世界紅卍字会紹興分会の行った戦時救護の日記からの抜粋を示しておこう。
「申刻にまた扶乩を行った。訓示を奉じるに戦区に近接する各郷村には、焼け出された負傷者が非常に多いので、さらにわれらが柯橋近くに臨時事務所を設置し、各救済活動を処理できるようにせよ、とのことであった。訓示中に、存仁を主任に、万賛に副主任に任命し派遣する、朝八時三十分までに出発し、必ず〔事務所を〕設置せよ、引き返してはならないといった言葉があった。われらはついに決心し、翌日再び赴いて設置した。70 」
第五節おわりに
慈善は、社会・政府から認知された実践であり、道院・世界紅卍字会は重要なテーマとしてこれを幾度も取り上げた。そこで注目されるのは、慈善活動を必須の実践と定め、慈善に教義的な位置付けを与えつつ、しかし慈善の限定性を批判的に論じ続ける態度であった。
世界紅卍字会創設当初から、慈善は不完全な救済手段とみなされ、教化を伴う必要性が説かれていた。そこには、競合する慈善団体、特に赤十字社との対抗論という側面があった。慈善と教化の進展に多大な期待を込めた世界紅卍字会だったが、一九二八年以降、道院が取り締まられただけでなく、「慈善団体」は、「慈善」を専らにすべきこと、「宗教の宣伝」を行ってはならないことが法的に定められた。しかし、この慈善の脱「宗教」化こそ、道院・世界紅卍字会が一貫して批判し続けて来た、慈善の不完全性の核心だったのである。以降、世界紅卍字会は、慈善と教化の結びつきを言い募ることには慎重にならざるを得なかったし、また護教の手段として慈善の意義を認めもしたが、それでもなお、慈善が不完全な救済手段であるという認識が覆ることはなかった。
自他共に「慈善団体」と認める世界紅卍字会が、「慈善」の内容的不備について論じ続けたのは、一面的には道院を有する自団体の優位性を主張するためのレトリックだったと捉えられるが、他方では、慈善という語が人口に膾炙していく中で得られた合意内容――端的には「宗教」の排除――に対する不満の表明としても捉えられる。慈善に限らず、近代に形成されていく諸概念は、そこにカテゴライズされた当事者にとって、違和感を覚えながらも、適応すべき規範として立ち現れた。その適応が如何に困難であったかが、彼らの残した言説の中に見出されるのである。世界紅卍字会の慈善論はその一例である。
最後に、救済の手段としての社会的活動(慈善)という考えが、なぜ道院では明瞭に説かれることがなかったのかという問題についてであるが、以下のように説明することができるだろう。第一に、既述の通り、他慈善団体にたいする対抗論の中で、世界紅卍字会の優位性を主張するレトリックとして、慈善の不完全さが説かれたためである。第二に、最重要の経典である『真経』が、救劫の手段として坐功のみを提示していたため、後発の実践である慈善は、道院の本来的な救劫論の周辺に、位置づけられざるを得なかった。それが、後には、坐功と慈善に救済手段として優劣があるという認識へ展開したことは、第三章で確認した通りである。
ただし、昇仙という個人的救済論の中では、慈善は修道と並んで明瞭に救済手段として位置付けられており、そこには救劫の手段としての慈善の意義を語る際に表れた歯切れの悪さは全く見られない。
1 道院と世界紅卍字会は、一九二二年中に、北京政府に対して別々に団体登録されてはいるが、当初、世界紅卍字会の成員資格として、まずもって道院の修方(信徒)であることが定められていたため両団体のメンバーは、概ね共通していた。高鵬程、二〇一一年、五三頁。ただし、『卍慈篇』の引く所の「世界紅卍字会中華総会施行細目」では、入会について、他慈善団体の団体入会を認めているほか、個人入会者に関しても、かつてはあった「三か月の修行後、やっと入会できるという制限」は、現在(一九三二年頃)は取り消されているとされている。入会者の審査は厳格だったとはいえ、必ずしも「修方(信徒)でなければ入会できない」(高鵬程、二〇一一年、五三頁)というわけではなかったようである。
2 一九五三年二月中に、「世界紅卍字会中華総会、山東卍字会、済南卍字会」が、相次いで人民日報や地方紙上に自主的に閉会(「結束」)の声明を発し、活動は終了したという。朱式倫、一九八四年、一六八頁。
3 夫馬進は、清末に「善挙」(伝統中国における慈善の謂い)から「慈善事業」への転換があり、名称の上でも善堂・善会が、慈善団体へと変化していったことを指摘している。夫馬進、一九九七年、七四一頁。周秋光は、慈善家グループが形成され、彼らの協力体制が具体化した新型慈善団体が組織され始めた一八八〇〜一八九〇年代に、「善挙」から「慈善事業」への転換期を見ている。また、『申報』や『中外日報』等の大新聞上に、西洋式の慈善活動の倣うべきという主張と共に、「慈善」の語が現れはじめたのもこの頃(一八九五年以降)であるという。周秋光、二〇一〇年、一五四〜一五五頁、五七〜五八頁。清代には、民間の慈善活動は善挙と呼ばれ――無論「善挙」の語は、民国期以降にも残るのではあるが――、その実行を担った施設や組織を、善堂、善会と言った。つまり、伝統的な価値の体系に基づき「善」とされること一般を実践することが、善挙なのである。それは、清末〜民国期に入り、社会構造の変化に対応しながら、また新たな価値を摂取しながら、徐々に整備されていき範囲を限定される「慈善」とは、重複しつつも異なる部分を孕んだものであった。
4 活動の網羅的研究としては、高鵬程、二〇一一年、また、「満洲国」における道院・世界紅卍字会の活動については、DuBois, 2011、同会の最初の国際的救援活動については、孫江、二〇一二年が詳しい。
5 武内房司、二〇〇一年、八二頁。
6 武内房司、二〇〇一年、七七〜七八頁。
7 武内房司、二〇一一年、一〇八〜一〇九頁。
8 善会・善堂に関しては、夫馬進、一九九七年、梁其姿、一九九七年を参照した。こうした団体による慈善の活動内容や理念に生じた、それ以前には見られなかった変化が、中国の近代化の兆しや内実として示されてきた。山田賢、一九九八年、小浜正子、二〇〇〇年、吉澤誠一郎、二〇〇二年。
9 宋光宇、二〇〇二年、四八七〜六〇三頁。
10 翌年二月、四月にも浜県、利津県を襲う水災があった。王林、二〇〇四年、三八一〜三八二頁。
11 『世界紅卍字会賑救工作報告書』、一九三四年、一一頁。
12 救援活動を行うと共に伝道したところ多くの被災民が道院に参加したという。『世界紅卍字会史料匯編』、二〇〇〇年、一五二頁。また『卍慈篇』に附された一九二一〜一九三一年までの救済工作一覧表に現れた救援金の項目のみを単純に追うと、救援金の年額が十二万元を超えた年は民国十二年、十三年、二十年の三年だけである。民国十年の水害救済活動の資金的規模が、その後の数年間の活動のそれと較べても遜色がなかったことは、ひとまず指摘できるであろう。
13『大道篇』、一九三二年、一四七頁。
14 「済南雑信」『申報』民国一一年九月五日付記事。
15 一九二二年一〇月二八日付け「内務部批第七二六号」(『世界紅卍字会中華総会二十年史略』、一九四二年、頁数なし)。
16 中華人民共和国成立以前の中国赤十字社の状況に関しては以下を参照した。中国紅十字総会編、一九九三年、篠崎守利、一九九六年、九七〜一二〇頁、池子華、二〇〇四年、張建俅、二〇〇七年。
17 『卍慈篇』、一九三二年、八〇頁。
18 『卍慈篇』、一九三二年、七九頁。
19 同会が定めた「世界紅卍字会救済隊簡章」には「第二条:本会救済隊は出発に際して戦時公法に従い従軍救護するものとする。…第六条:各隊員は、…いずれの側かを問わず負傷した軍人・民間人を均しく一律に救済し、分け隔てをしないものとする」とあり、また「世界紅卍字会臨時医院簡章」でも「第二条:本院はいずれの側の負傷軍人・民間人に対しても一律に治療し、分け隔てをしないものとする」とある。『世界紅卍字会大綱及施行細目』奥付なし、内容より一九二六〜七年刊行、一七、二二頁。いずれも戦時救済において、同会が中立を原則としたことを示す内容である。中立の原則は、一九二七年の南京事件における日米英各国の民間人救出や、一九二九年の満州里での中ソ交戦時における両国軍人・民間人に対する救護・遺体埋葬に際して、外国人に対しても適用されたという。『卍慈篇』、一九三二年、二一一、二一九頁。
20 『卍慈篇』、一九三二年、七九頁。
21 『卍慈篇』、一九三二年、一二六頁。
22 『卍慈篇』、一九三二年、一二一頁。
23 「老祖」が数度乩訓を発して、紅卍字会設立案を提出し、反応の芳しくない信徒を強いて、早期の設会を促したという。高鵬程、二〇一一年、二四〜二七頁。
24 この差別化の意図は、世界紅卍字会成立初期に強烈な形で噴出している。紅卍字会設立時に下された老祖の乩訓では、赤十字社に対するあからさまな批判が行われた。「紅十字会は設立以来、ほとんど世界中に広がった。初めの頃は実に敬愛すべきであった。〔しかし〕今の紅十字会を見るに、以前のようではないところが多々ある。人々は多くの疑念を抱いている。その理由はどこにあるだろうか。それは、その中に玉石が混交していることにある。…私利を求めるやからが、あろうことか善会(の名)を護符にして、いつどことなく騙っては詐欺を行うのだ。そのせいで、救劫はかえって劫を造ることになり、悪い命数を減らすことがかえってそれを加えることになる」。『卍慈篇』、一九三二年、一三一頁。慈善を騙って詐欺を行っているという表現は、善会一般に向けられており、直接赤十字社に向けられたものではないが、文脈からしてその疑いは赤十字社も免れないと言っているに等しい。
25 世界紅卍字会編『世界紅卍字会宣言』、一九三二年頃、三頁。
26 『世界紅卍字会中華総会一覧』、一九三七年頃、序二頁。
27 『卍慈篇』、一九三二年、一三六頁。
28 多くの人が善を行うことで天を感動させ、劫数を収束さうるという説として説かれていたようである。『道徳精華録』巻三、慈愛門下巻、一九二八年、六二頁
29 『卍慈篇』、一九三二年、一三五頁。
30 梁其姿、一九九七年、三一四〜三一八頁。
31『道コ精華録』巻三、慈愛門上巻、一九二八年、九六頁。
32『道コ精華録』巻三、慈愛門上巻、一九二八年、二頁。
33 宋光宇、二〇〇二年、五三九頁。
34「世界紅卍字会中華総会證明文件」、四九頁、上海檔案館蔵、檔号:一二〇−四−二。
35 「以慈護道」の具体的な事例として、以下のようなことが挙げられる。年代不明な資料であるが、北京総院へ宛てられた当局からの公函で、同団体が「長年非常に多くの慈善事業をなしている」ことから、「設壇扶乩して迷信を提唱することは一律厳禁するが、説法講学は取締りを免ずる」(『世界紅卍字会史料彙編』二〇〇〇年、一八八頁より再引)と通達されている。慈善活動の事績が、道院の活動に対する容認に繋がったことを端的に表している。
36 『中華民国法規大全』第一冊、一九三七年、八一九〜八二〇頁。
37 こうした状況は、現代でも見られる。例えば現代日本における宗教の社会活動中にみられるジレンマを櫻井義秀は、こう説明している。日本では、宗教の社会活動が組織の発展を目的としている、つまり布教・伝道と一体の行為であるとみなされ、それが批判的に言及される傾向が強い。宗教の社会活動は、当の宗教であることが社会や他団体との連携の障碍になりかねないため、救済や布教といった活動と切り離し、時には宗教的な理念すら取り下げる必要さえ出てくるという。宗教的な動機に端を発する活動から、宗教色を後退させなければならないというジレンマを、教団に理解してもらい、新たな理念をもって活動することの難しさは、今も多くの教団にとって課題として存在するのである。櫻井義秀、二〇〇九年。
38 世界紅卍字会は、一九二二年、一九二八年、一九三二年と三度宣言文を発表している。『道院紅卍字会宣言』は一九二八年発表のものである。
39 『道院紅卍字会宣言』、一九二八年、四頁。
40 「社会慈善の事業は、惻隠愛人の真性に根差している。…世間にはただ自分を救うことだけを知り、人を救うことを知らないものがいるが、皆小乗であって大道ではない。われらが、道院の中に紅卍字会を設立したのは、ここにもとづいている。…良心にもとづいて社会の救済を欲するならば、道に帰依するべきなのだ」。『道院説明書』、一九二九年頃、一〇頁。
41 赤十字社の刊行した『人道指南』(一九一三年刊、張建俅、二〇〇七年、三〇八頁より再引)では、「世に人道を尊重しない国はなく、また人道を尊重しない人はない。人道とは人類存続のための保証(「人類之保障」)を云うのである。人類存続のための保証がなければ、あらゆる生物はほどなく絶滅の憂き目にあうだろう。そこで、上古の聖人は神道に借りて教を設け、それをもって人類の進化を助け、人類存続のための保証を強固にしたのである。儒教、仏教、キリスト教、イスラム教のごときは、その〔働きの〕大なること極めて明らかである。儒者の言には「己の欲せざるところを人に施すなかれ」とある。また「惻隠の心、人皆これ有り」とも言う。仏教者は「慈悲を発し一切の苦厄を度す」と言う。クリスチャンは「人を己のごとく愛し、敵を友のように見よ」という。イスラムのコーランの主篇には「深仁至愛」とある。総合して見るに、これらを一言で貫くものは、仁愛のみなのである。仁愛とは人道主義のおおもとである。…近世に至って科学が盛んとなり、過去にいわれた天帝や神霊は、次第に〔その存在が〕空虚であり信じられないものだと明らかになった。しかしながら、〔天帝や神霊といった説の〕言葉は微々たるものでも、その意義は深いのである。そこにはもとより磨り減ることのないものがある。それが様々な慈善団体なのである。紅十字会は博愛をもって傷病兵を救護すること(「博愛恤兵」)を旨とする。宗教家が尊重していた人道の意思をもとにしているが、宗教の範囲を抜け出ているのである」と述べられている。
42 『世界紅卍字会宣言』、一九三二年、一〜四頁。
43 『卍慈篇』は、瀋陽道院に一九三一年に付設された道慈研究所で行う講義を基にして編纂された『道慈綱要』の内の一巻である。
44 以下の構成に見るように、「慈」の意義について複数の観点から解説を加えている。
第一章:慈旨
第一節:慈之意義(一:慈字之意義、二:広義之慈、三:狭義之慈)
第二節:慈之種類(一:有形與無形、二:有力與無力)
第三節:慈之名実
第四節:慈之功用
第二章:行慈之要義
第一節:行慈之旨趣(一:行慈宜有仁、二:行慈宜有智、三:行慈宜有勇、四:行慈須戒矜、五:行慈須戒躁、六:行慈須戒偏、七:行慈須戒急)
第二節:行慈與修道之関係(一:以慈明道、二:以行慈輔助修道)
第三節:行慈與社会之関係(一:消弭無形之劫、二:救済既現之災)
45 例えば、本文で以下に触れる「有形・無形」という分類は、一人『卍慈篇』のみに見られる言説ではなく、世界紅卍字会全体で共有された。一例として、以下の世界紅卍字会幹部による講演の一節をあげる。「わが会の宗旨は大自然界の互助互愛の旨を仰いで体得することであり、有形の方面では死から〔人を〕救い傷〔ついたもの〕を助け、無形の方面では人心を挽回し劫運をひそかに消すことである」。「周重光総監理演詞」訓練総監処編印『世界紅卍字会中華東南各会聯合救済隊訓練班報告冊』、一九三七年頃、四九〜五〇頁。
46 既に、本論第三章第三節(二)で触れたとおり、救劫の手段として慈善よりも坐功等が優れていることを明らかにする内容であるため、要所のみ引用して説目に代える。「有形の慈(学校、医院、粥廠、救済隊、救援隊の運営)というものも劫を救うことができるが、こうした無形の慈(聚坐、誦経、誦咒、祈祷及び勧善)と比べれば、はるかに及ばない」。『卍慈篇』、一九三二年、一九頁。
47 『卍慈篇』、一九三二年、一一〜一六頁。
48 例えば、『申報』の記事、「対於慈善家進一言」(『申報』民国一二年一月二六日付記事)には、貧窮者への施しという応急処置ではなく、就学・就職援助による防貧という根本的対処が求められていると、述べている。
49 『卍慈篇』、一九三二年、四〇〜四一頁。
50 救済対象への共感も重要な要素であろう。『卍慈篇』の中には、救済対象に対する感情的な言及は、ほとんど見られないのであるが、一か所、被災者への同情が吐露されている部分がある。そこには、同情の究極的な根拠として、被災者も自分と同一の根源から生じた存在であるという道院の人間観が短く添えられている。「被災者を思えば、〔彼らには〕飢えても食べるものがなく、寒くても服がない。水に浸かり火に焼かれ、砲火の下を転々とする。老人弱者は溝に埋まり、年若いものは四方に逃亡する。父を喪い夫を亡くし、妻と離れ子とはぐれ、家はあっても戻ることができず、田地があっても植えることができない。金を貸してくれる場所もなく、食を乞う路もない。生きたいと思っても生きられず、死を求めても果たせない。これらの惨状が哀れでないことがあろうか。彼らは皆、一胞(万物の源である至聖先天老祖)が化したものではないか」。『卍慈篇』、一九三二年、六三〜六四頁。
51 それは、参照してきたテキストの問題でもある。教義書等、団体が共有する教義を作るテキストの著者は、扶乩・文事に携わるものが多い。前節までに度々引用した『卍慈篇』の編述者王曽悳も、侍録(扶乩の書記役)であった。一方で、慈善・救済活動に専ら従事した人物の手になる教義論は、ほとんど見られない。つまり、慈善の教義上の意義付けが、修道的実践と比べて意外なほど弱いものであるのは、著者=道院の文事担当者の立場の反映であり、慈善活動を専らの任務とする人間の慈善観は、それとは異なった可能性が考えられる。例えば、同じ宗教的背景を持っていたとしても、当人が考える活動の意義付けが個々に異なることを、現代イランにおけるボランティアに対するフィールドワークを基に述べた研究に、細谷幸子、二〇一一年がある。
52 無論、動機づけについて考える上でも、取り上げる世界観なり理念なりの代表性の問題はつきまとうだろう。慈善活動に従事した信徒を動機づけたものは、必ずしも教団が与える単一の理念や価値観、目標のみに限定されてはいなかったであろうし、そこには人によって異なる個性的な側面が存在したことは想像に難くない。
53 一九二三年、北平南長街小土地廟十四号の喬保衡宅に設置された乩壇。「丙編宗壇及各母壇壇監」『道慈職修録』第一冊、一九三〇年、一頁。
54 『道慈研究所溯源語録』一九三二年、一五頁。
55 王善荃は、字を仲薌といい。安徽廬江の人である。清末抜貢、京師巡警総庁庁丞にまでなり、中華民国成立後は、国民党参議や福建閩海道尹(一九一五〜一九二一年)を務めた。一九二一〜一九二三年(没年)まで安徽省全章警務処長・同省会警察庁長を務めていた。
56 慈程真人(王善荃)が北京の壇で下した乩文が残されている。「雑言」『道徳雑誌』第三巻第一二期、五〜六頁、一九二四年。おそらく、これは一部であり、記録されていない多くの乩文があったと推測される。
57 「専件」『道徳雑誌』第二巻第一一期、一九二三年、一〜一〇頁。
58 「専件」『道徳雑誌』第二巻第一一期、一九二三年、一頁。
59 『禮儀篇』、一九三二年、二五頁。
60 『卍慈崇善堂専刊』上編、一九三五年、五六頁。
61 院監・掌籍といった指導職に三年以上あったものに子号が、二年以上には修者号、一年以上には上人号が与えられたという乩文が残っている。「十一月十六日未正正期」『北京訓録乙丑年正―十一月・丁卯年二―三月』、一九二七年頃、四頁。
62 楊承謀は、字を孟襄といい、湖南長沙の人である。清末に京曹から県令まで勤めた。劉紹基の紹介で入修した一九二一年来の信徒である。まず道徳社の主編を勤め、二三年まで済南の道院・道徳社で文事に携わった。二七年までは北京、天津の道院で救済の諸務にあたった。それ以降、北京総院に常駐し、東北卍字新聞や道慈巡視団の創始に関わった。「職員修畧」『道慈研究所溯源語録』、一九三二年、一三頁〜一四頁。
63 祖先の救済と祭祀についても、信者各人の修道と慈善に努めた年数によって、その範囲が拡大するという規定があった。『卍慈崇善堂専刊』上編、一九三五年、二頁。
64 『甲戌年終奨訓』、一九三五年頃。
65 信徒に対して、「天霊」・「清霊」・「健霊」・「善霊」を○度加え、「天爵」を○級晋め、「天籙」を○級と記録するという乩訓が常に与えられていたことは、壇訓集『天津訓録丙子・丁丑・戌寅』、一九三八年頃、『濟南訓録戌寅年・己卯年』一九三九年頃、等の乩訓集に非常に多くみえる。
66 『道慈文選』、一九三九年、五三頁。
67 諸説あるが『雲笈七籤』巻第二十六、「十洲三島」によれば、方丈、蓬丘、崑崙という神仙の住まう海中の山を指す。
68 この乩訓では、「三島(地上)」→「三十三陽天→十一陽天→三清天(天界)」という世界の構造が示されている。計五十天にもなり、道教の代表的な天界構造(三十二天→三清→大羅天)とは異なるものの、道院の世界観が道教の影響を受けていることが了解される。
69 『道慈文選』一九三九年、五三頁。
70 王永芬選編、一九九七年第三期、十七頁。 
   
■第五章五教合一論初探:道院・世界紅卍字会の教説を例に

 

第一節はじめに
本章では、道院・世界紅卍字会における「五教合一」論の時代的特徴についての検討を通じ、それが知識人による批判的「宗教」言説の映しであることを論じる。言い換えれば、「宗教」という論争的な概念の民間教派における受容と拒絶の具体的なあり方を、五教合一論という「宗教」論を通じて把握することを目的としている。
五教合一論とは、儒教(孔教)、仏教、道教、キリスト教(天主・基督教)、イスラーム(回教)を世界の「五教」(五大「宗教」)と見なし、その一致の必要性を説く、諸「宗教」一致の主張である1。そして、それは、中華民国期に活発な動きを見せた一群の民間教派によって唱えられた2。清末までの民間教派の教義における特徴の一つが、儒・仏・道の三教合一的傾向だとすれば、五教合一論は中華民国期以降の民間教派に特徴的な教説と見なすことができる。一見して、三教から五教への漫然とした拡充に思われる教説の変化であるが、その背景では序章で述べたように伝統的な「教」と「宗教」3との接合が、ねじれを生じさせつつ進んでいたことが注目される。すなわち、伝統的に「教」は、政治的統治者による教化4の体系、典型的には儒教を意味したのに対し、五教合一論の「教」は、儒教、道教、仏教のみならずキリスト教、イスラームにも通約すると考えられた「宗教」概念を前提としていたのである。
さて、三教合一という用語が、宋代以降の中国宗教全体における三教の教説・実践における融合的あり様を意味することがあるのに対し5、五教合一がそのような意味で捉えられることは少ない。むしろ、それは民間教派が唱えた一種の標語――必ずしも内実を伴っていないという意味での――、と見なされてきたといえる。新たに包摂したとされるキリスト教やイスラームに由来する教説、儀礼や戒律がどの程度理解され、教派内で採用・実行されたか、あるいはされなかったかについて、つまり「合一」の実態がいかなるものであったかについて、これまでほとんど論じられてこなかったことが、そうした五教合一理解を暗に示している。この点はあらためて検討されるべきであろう。しかし、本章では一先ず、諸「宗教」融合のあり様としての五教合一ではなく、民間教派内の教説として確立されつつあった五教合一論を考察の対象とする。
一般に中国的シンクレティズムの典型として理解されてきた五教合一論を6、歴史的な文脈の中で捉えなおした研究として、Prasenjit Duara、武内房司のそれが挙げられる。Duaraは、五教合一論を、第一次世界大戦に衝撃を受けた民間教派が、理念上の教化・救済の範囲に中国を超えたグローバルな世界を想定するようになったことの反映とみなす7。目指す救済が世界を対象としなければ達成されないという教義は、アヘン戦争から日中戦争に至るまでの中国の経験の象徴ともいえるだろう。武内は、キリスト教に対する受容的な態度が民間教派の成員層にも広がっていたことが五教合一論登場の歴史的文脈として重要であることを指摘する。従来、対立面が強調されてきた民間教派とキリスト教の関係性であるが、すでに一九世紀後半以降、宣教師との接触から民間教派の信徒にキリスト教への改宗者が現れていたことや、両者の教義的な共通性を「罪の許しと魂の救済」として把握していた農民――彼はキリスト教徒から民間教派に改宗した――がいたように、両者の関係性には対立以外の側面が胚胎していたのである。これらの研究と同じく、本論が注目するのも五教合一論の時代的特徴、つまり近代性である。
第二節五教合一論の形成
(一)五教合一論の土壌
道院・世界紅卍字会の五教合一論を検討する前に、その背景をなす状況に触れておく必要がある。道院は設立直前の時期に、唐突に、かつ明確な指針として、五教合一を掲げたのであるが、それは言い換えれば、彼らは自らの唱える「真理」が世界大で普遍的なものであるということに、徐々に思いを致したというわけではない、ということである。彼らの五教合一論は、団体独自の着想を練り上げていったというよりも、先行して案出されていた類似の主張に倣ったものだと考えられるのである。
五教合一論が盛り上がりを見せるのは、一九一〇年代半ば以降、一九二〇年代を中心にしてのことだが、その着想の起源は、さらに遡ることができそうである。
起源の一つとして当然挙げられるべきは、三教合一論であろう。民国期を代表する民間教派であり、現在も台湾等に広がる一貫道も、五教合一論を説くことで知られているが、民国当初は三教合一論を唱えていた。それは、一貫道の第一六祖とされる劉清虚――彼が民国初年に教派の名を一貫道に改めたという――の師である王覚一が、先天道に学び、儒釈迦道三教合一を唱えていたためである8。そのため一貫道は、当初、先師の教説である三教合一論を受け継いでいたのだが9、後にこれに五教合一論を接合させるようになった。一貫道の五教合一論が、「儒・仏・道の三教の融合思想が中核をなし、これに基督教と回教の二義を加えて五教の精髄が結集されて成立した」10と説明されるのは、この経緯の反映であろう。五教合一の基礎を三教合一とする認識は孤立したものではなく、例えば、道徳学社11のように「中国の聖人の道は分かれて三教となる。教にはもともとおおくの術があるが、社会で公に認められているのは儒教、仏教、道教だけである。…その後にキリスト教、イスラム教を加えて五教となす。〔その関係は〕まるで五行のようである」12と一貫道と同様の認識を有する教派も存在する。五教合一論が民国期に多くの民間教派によって共有されたのは、明清以来の民間教派における三教合一論が下地として機能したからである。
さらに、重要な下地として見落とせないのは、キリスト教とイスラームを、伝統の三教と並置する発想である。よく知られた例として、譚嗣同が一九世紀末の天津における在理教13について述べた『仁学』中の一節が挙げられる。「天津に在理教というものがあり、〔その団体は〕最も新しく、最も小さい。その文書は浅薄であり、精細な意義が少しもなく、孔教、仏教、耶教(キリスト教)、回教の皮相な部分を剥ぎ取って作ってある」14。一時的に在理教と接触を持った譚嗣同によれば、当時の在理教は「孔教、仏教」だけでなく、「耶教、回教」の教説をも取り込んでいたというのである。そもそも儒教や仏教を、キリスト教やイスラームなどと同質のものとして並列する発想は、儒教の位置付けをめぐって議論が繰り返されるものの、早いものでは一八世紀末の文献に見られるといい15、一九世紀末から二〇世紀初めには一定程度の定着を見ていたようである。
一九一二年に英国浸礼教会派宣教師であった李提摩太(Timothy Richard)らによって上海で組織された世界宗教会は、「各教の連合」を宗旨とする。同会の簡章の前言で、「各教」は、孔教、仏教、道教、基督教、回教と具体的に呼び喚えられている16。こうした呼び換えと、「五教」という用語との距離は、もうほとんどないように見える。ともあれ、五つの「教」を一括りにし、五教という用語をもって呼び、かつその連合が志向されるようになることを、五教合一論の土壌に喩えるならば、それは民国初期に整いつつあったのである。なお、こうした動きが一部の宣教師によって推進されつつあった点は、注目に値する。
(二)『息戦論』中の五教合一論
一九一五年には五教合一論の先駆的著作とも言うべき『息戦論』が著された17。書名に見える「息戦」は第一次世界大戦を終結させるというほどの意味であり、停戦の訴えが同書最大の主張となっている。そして大戦をやめる方法として、『息戦論』は「宗教」の一致を唱えたのだった。
同書には、「宗教」一致の実現を目指す「万国道徳会」なる組織の設立計画が付されていたといい18、その計画は一九二一年に済南において同会が発足したことによって実現を見る。『息戦論』の著者は当時九歳の「神童」江希張19とされ、彼の父江鐘秀は小中学教育における読経講経の復活を民国初年に唱えた運動家であった。江父子は一九一三年、曲阜における孔教大会に参加した際に康有為とも面識を得ており、江希張は康より「今の項槖(伝説上、孔子の師とされる童子)」20と評されたという。両者の関係はその後も続き、康有為は万国道徳会発足時の副会長として名を連ね、後には会長をも務めたという。以上の経緯から、『息戦論』が、孔教運動の周縁に位置した人物の手になった著作だということが了解される。
また『息戦論』には、著名無名を問わず多くの人物が序跋文を寄せている。中でも特筆すべき一人が李佳白(Gillbert Reid, 元米国長老教会派の宣教師)である。李はキリスト教と孔教の連合を説いた人物として知られるが、主張はそれだけに留まらず、すべての「宗教」の大同をも鼓吹していた。李が創設した上海の尚賢堂21では各「宗教」界から招かれた著名人による講演会が行われ、そこにおいて各教が連合する必要性が説かれたという22。「宗教」一致論が伝播する際に、李と尚賢堂の果たした機能が注目される――なお彼は、世界紅卍字会の発起者にも名を連ねている――。彼が『息戦論』に寄せた序文は二編あり、第二の序文の冒頭は、以下のように始まる。
「万国の戦争をやめようと望むなら、まず万国を一つにさせよ。万国を一つにしようと望むなら、まず万国の人心を一つにさせよ。万国の人心を一つにさせるには、まず万国の宗教を一つにさせよ。23 」
「宗教」の連合を唱え、反戦をも主張した李の平素の問題意識が直截に述べられている。李は、自らが発行する尚賢堂の機関紙『尚賢堂紀事』にも、『息戦論』に寄せた序文を掲載し、この思想書への共鳴を示している24。このほか、序文を寄せた人物には、正一天師(道教の一大教派、正一教の教主)張元旭、同善社幹部劉声元25などがおり、『息戦論』の「宗教」一致の主張はこうした人物のネットワークによって「宗教」界に受容・共有されていったことが予想される。例えば、同善社においても、諸「宗教」融合の試みとして、「万教帰一」が唱えらたことがあったという26。
さて『息戦論』は、本文において五教の各経典の一節に解釈を加えながら五教それぞれの特徴を概説し、跋文において五教の根本義を総括するという構成をとっている。以下に多少長文であるが、江希張の「自跋」より、『息戦論』の主張が最も明瞭に読み取れる箇所を引用する。
「『易経』に、「乾道変化して、おのおの性命を正しくし、太和を保合するは、すなわち利貞なり。庶物に首出して、万国みな寧し」という。…孔子や、老子や、釈迦や、キリストや、ムハンマドは、みな庶物に首出した(衆に抜きんでた)人である。みな太和を保合し、おのおの性命を正しくする道を説明した者である。それらの典籍を揃えて、その書を読み、その言うところを実行するなら、地球上の各交戦国は、その日のうちに戦争をやめることができる。…〔しかし戦争をやめさせる立場の各教が争うのは〕諸聖人が教を立て、それぞれ〔の教〕が宗旨を有し、儀式を持っており、互いに異なるものを強いて同じであるとすることができないからである。〔宗教は〕門派ごとに分かれ、自派の主張を押し通し、他を顧みず、互いに争い合い、殺し合う。現在までの宗教紛争の歴史を調べてみれば、今もって人心を寒からしめるものがある。…どうしてなお戦争をやめさせるということができるのか。〔このように反対する者は〕各教の異なるところが形式の部分であって、その精神は異ならないことを知らないのだ。精神とは何か。おのおのが性命を正しくすることがそれである。孔教はもとより人におのおのが性命を正しくすることを教えているが、道教、仏教、耶教、回教の各教もまた人におのおのが性命を正しくすることを教えている。〔それを〕一言で言うなら、太和を保合するということにつきる。太和とは、真精のことであり、真気のことであり、真神のことである。保とは、大事に守ることであり、合とは、一つに集めることである。人々がみなその太和を大事に守り、その太和を一つに集めるなら、なんと利貞なることだろう。…〔このように〕各教の精神が、ともに性命を修養することなのだから、各教の賢者が一つところに集まり研究することには支障がない。その〔教の〕形式にはおのおのが従い、またおのおのが〔それを信徒に〕教えればよいのであって、異なるものを同じであるとする必要はない。その精神はともに一致へと向かうのだから、同じであるものを異なっているとする必要もない。互いに忠告し合い、助け合い、〔逆に〕競い合ったり攻撃し合ったりしなければ、やがて万教は一致し、万国も自ずと一致するだろう。一とは安定であり、戦争をしないことである。」
まず注目されるのは、江希張が「宗教」――上の引用文では、「宗教紛争」の一か所に見えるが、後述の引用文では多用されている――と「教」を同義語として用いている点である。「宗教」が、「教」に代わる用語として熟していく過渡的な様子が、こうしたわずかな表現の中にも見いだされる。
次に、問題となるのは、因果関係として不明瞭な「教」の一致と、戦争停止との関係である。「宗教紛争の歴史」に基づいて、「教」が戦争の原因となりうると考えていることは了解されるが、『息戦論』がテーマとする第一次世界大戦は「宗教紛争」によって引き起こされたものではなく、実情とはまったく異なる。ではなぜ、万教の一致によって戦争を止めさせられると説いているのだろうか。『息戦論』は、自明の前提として、「それらの典籍を揃えて、その書を読み、その言うところを実行するなら、地球上の各交戦国は、その日のうちに戦争をやめることができる」と述べている。上の引用文で、「教」の一致の主張が登場するのは、実のところこの前提に対する反省、つまり争いを収めることを説くはずの「宗教」同士が、実は紛争の歴史を持っているという反省に導かれてのことだったと了解される。つまり、戦争を停止させうる資格は、バラバラに存在して争いあっている「教」にはなく、この争いを乗り越えて一致した「教」にしかないということである。
以上のように、世界戦争の終結を目標とし、「万教」の一致によってそれを達成させるべきことが、『息戦論』の主張であった。一見すると「各教」が「性命を正しくし、太和を保合する」という共通の修養を実践することによって停戦が達成されるかのように読めるが、実際にはそれ以前に「宗教」間の紛争をやめるべく、何かしらの行動、例えば「各教の賢者が一つところに集まり研究すること」がなされるべきだとされている。つまり、「宗教」が個別に存在するだけでは十分でなく、一致に向けた運動が要請されているのである。その念頭には、運動を推進する組織、つまり万国道徳会の設立があったであろう。
ここで再度強調されるべきは、五教合一を説く目的が戦争の停止にあるという論点である。五教合一論の嚆矢とも言える『息戦論』は、いかにして第一次世界大戦を終結させるべきかという、時代に即した問題意識に基づいて著されたものだったのである。
(三)反「宗教」主義と『息戦論』
もう一点、『息戦論』の議論の特徴を考える上で、重要な背景をなしていたものとして、思潮となっていた反「宗教」主義が挙げられる。五教合一論には、これへの対抗論としての性質が見出される。中華民国期の反「宗教」主義は、一九一〇年代中頃、新文化運動によって提起され、一九二〇年代の初めには「非基督教」・「非宗教」(「非」は、「反対」の意)運動として大きく盛り上がる。
袁世凱が帝政の復活を試み、その死後も「軍閥」独裁的な政権が継続したように、辛亥革命を経てもなお民主的共和制度の理想は実現されなかった。一九一〇年代の半ばに生じた新文化運動は、こうした政治体制打倒のために、それを支える伝統的倫理・道徳――特に儒教――を否定し、国民個々人をそうした旧文化から脱却させようとする啓蒙を主眼とした運動であった。運動を牽引する論者ら――陳独秀、胡適、魯迅、李大サ――が、『新青年』誌上で大いに儒教批判を展開したことはよく知られている。しかし漢代以来、官学の地位にあった儒教は容易にその地位を去らず、袁世凱政権下の初期には、孔教の国教化が議論されさえした。結果として国教化は果たされなかったものの、袁世凱の号令のもと、その後も尊孔政策は推進された。そして、それは帝政・君主制復活の企図と密接に結びついていたがゆえに、革新を望む知識人から激しい批判を招いたのだった。
ただし、新文化運動の批判対象は独り儒教だけにとどまるものではなかった。「民主」と共に、運動のスローガンとして掲げられたのは「科学」だった。科学精神――そこには「科学」的思想、例えば無神論や社会進化論も含まれる――に基づく啓蒙主義は、科学と相容れぬ「迷信」である「宗教」を否定しさることと相即の関係にあったのである。新文化運動では、儒教を、その影響力の大きさから最大の批判対象としてやり玉に挙げたが、その中にはその他「宗教」への批判も含まれていた。
さて、この反「宗教」主義は、『息戦論』においても重要な背景をなしている。以下に見るように、『息戦論』は、科学の発展が戦争の激化を招いているとして、科学主義的態度を批判する部分が散見するのである。そこでは、戦争を中心的な問題として設定し、反「宗教」と「宗教」の立場を対比的に位置づけ、「宗教」の有用性を訴えるレトリックが看取される。
「物質についての学問が日に日に精緻になるようになってから、宗教の権威は日に日に衰え、形而下の学問が日一日と精密になると、戦争は日一日と激しくなる。…ゆえに、兵器の力で戦争をやめようとすればするほど戦争は激しくなるのであり、ただ宗教の残した言葉によってのみ、戦争はようやくやむのである。…ともかく今の反宗教論者は、こともあろうに宗教を迷信であり、愚か者のものだという。孔教は専制に与し、君主を尊ぶことを多く語るので、民主の時代に行われるべきではないという。…このように言うものは、地球上の万国の民をことごとく死地に置くまでやめないだろう。27
…世界の進化はすでに宗教の時代から科学の時代に入ったのであり、けっして再び退化してはならないのである、それなのに今も宗教に戻ろうとするのは大きな誤りだ、という人もいる。たしかに宗教と科学は時代によって変わるものである。昔は宗教が盛んであって、その弊害が甚だしかったが、今は科学が盛んであってその弊害も甚だしい。だから宗教をもってこれを救うのだ。28 」
科学、宗教、戦争、政治がテーマとなっている。孔教が反民主的な政治体制に与するものという批判に言及しているが、それが新文化運動における主要な議論の一つであったことは、上で見た通りである。『息戦論』は、そうした民主や科学による反「宗教」の立場を戦争と関連付け、その共犯関係を指弾することでまず反「宗教」主義の正当性を否定している。そして、「宗教」こそがそれを解決しうると主張することで、衰えた「宗教」の「権威」を取り戻そうとしている。ここに明らかなのは、第一次世界大戦という未曽有の戦災を、反「宗教」陣営が旗印とした科学の失敗として指摘し、「宗教」の正当性をあらためて叫ぶ契機として捉える『息戦論』の戦略である。このように、『息戦論』の五教合一論は、「宗教」批判言説との対抗の中で、「宗教」を擁護する側が基づくべき論理として提出されたのだった。なお、第一次世界大戦を、「科学の限界」として捉える見解は、戦後のヨーロッパの惨状を視察した梁啓超の『欧游心影録』よって、知識人の間でも取り上げられ、一九二三年の「科学と人生観(玄学)論争」(哲学者張君勱と地質学者丁文江の間に始まる論争。科学側の優勢に終わる)をピークに、大きな議論を呼んだ29。
ただし、大勢として「宗教」に対する批判が和らぐことはなく、一九二〇年代にはそれが大きな運動として結実する。それが非基督教・非宗教運動はである。一九二二年四月四日から九日まで、北京清華大学で世界基督教学生同盟第十一期大会――大会には国内外合わせて七〇〇人余りが参加し、成功裡に終了することになる――が開催されることに反対して、二つのアクションが起こされた。一つは、上海の社会主義青年団が非基督教学生同盟を組織したことである。彼らが一九二二年三月九日に発表した『非基督教学生同盟宣言』の内容から窺われるように、その主張は、反資本主義、反帝国主義を基調とする――つまりキリスト教は資本家や帝国主義の尖兵であると批判した――ものだった30。もう一つが、李大サら北京の知識人を中心として結成された非宗教大同盟であった。三月二〇日には世界基督教学生同盟大会に抗議する電報を発信しており、電報の署名には李大サ、李石曽、蕭子升ら七九人が名前を連ねていた。非宗教大同盟は同月二八日には『非宗教大同盟簡章』を発表し、四月九日には北京で第一次大会を開き、張耀翔、李石曽、李大サ、呉虞らが演説を行った31。
一九二三年には、非宗教運動論者による論文集『非宗教論』が出版された。執筆者には蕭子升、羅章龍、蔡元培、張耀翔、陳独秀、周太玄、呉虞、李璜、李石曽、李大サ、汪精衛、朱執信、王撫五らの名前が見えており、論者の陣容から非宗教運動と新文化運動との連続性が窺われる32。『非宗教論』での代表的な主張は、「宗教」教育を施すことへの反対と、科学教育の必要性を訴えることであった。反「宗教」の議論が教育問題に集中したことは、非宗教大同盟が世界基督教学生同盟開会への反対を契機に結成されたことを考えれば、得心がいくだろう。「非宗教大同盟」の宣言文では「他宗教と比べても基督教の与えた害毒はすさまじく」、「ここ数十年来基督教は中国に向って害毒を一日一日注ぎ込んできている」といい、特に「その最もおぞましい毒計は、全力を傾けて青年学生を誘惑していることである」として、特にキリスト教の青年層への布教を問題視していた33。
もう一点、本章の議論に大きくかかわる主張が、『非宗教論』中に見られる。それは新文化運動から受け継がれた科学主義的な反「宗教」論である。以下に、生物学者李石曽の発言を引用しておこう。彼の「在宗教ママ大同盟之演説」は「宗教」と科学の関係について述べたものであった。
「人類が幼稚であった時、その智識と道具の発展には限度があり、どれも様々な疑問を解決するには足らず、恐怖するか信仰するかであって、いずれにせよ相応しい意識持つことはできなかった。これがつまり宗教の由来である。学術が進歩するようになると、恐怖・信仰はそれと共に移り変わり、次第に消えていく。西哲の言い習わす、「科学と宗教の進退は、ちょうど反比例する」とは、まことに的確な議論である。…社会学(「人群之学」)34からこれを説明しよう。思想の変遷が我々に示しているのは、人類が三つの時代を経てきただろうということだ。すなわち第一が雑然として曖昧な宗教の時代、第二が練られて筋の通った宗教の時代、第三が科学実験の時代である。…第三の時代では、科学が進歩し、実験を重んじるようになることで、虚妄誤謬の宗教を打破するのである。…つまり人類が進歩すればするほど、学術はますます明らかになり、宗教はますます退いていくのだ。35 」
この後、李は、「占卜星象」、「五行煉丹」、「巫医仙方」、「神話宗教」などを挙げ、それらがすべて科学とその応用科学に代替されるとし、「宗教」をはその役割を終えた「過去の時代の遺物」だと述べている。「宗教」をいわば疑似科学に過ぎないものとみなす見解であるが、往時の反「宗教」論の激烈さを伝える内容として興味深い36。『非宗教論』に掲載された論文の中でも、李のこの議論はかなり先鋭な部類に属するのではあるが、論争の場では、往々にして突出した議論が核心的争点として議論相手に受け取られることもある。以下にみるように、当の「宗教」にカテゴライズされた集団は、争われるべきは、科学と照らした際に、「宗教」になお価値と真実性が残るか否かという問題だと理解したのである。
第三節道院の五教合一論
(一)『太乙北極真経』中の五教合一論
道院はその成立時より五教合一論を唱えていた。また一九二三年に日本の大本教との提携を行ったほか、交流の一貫として一九二五年に北京で大本教が開催した世界宗教連合会に参加し、一九二九〜三〇年には三度、「東瀛布道団」を日本に派遣するなど、合一の主張を実践に移した。中華民国期に五教合一論を唱えた団体の一つの典型と見なせる。
道院が済壇より改組して成立した一九二一年、同地、済南で、万国道徳会が発足した。済南道院は、泰安で行われた万国道徳会の開幕式に信徒郭維驍派遣して祝詞を伝えており37、万国道徳会でも道院が機関誌を創刊するのに際して幹部が連名で祝辞を送るなど38、両団体は互いを認識していた。
既に第一章で指摘した通り、済壇の乩文に「五教教主蒞壇」、つまり五教の教主が降乩したという記述が現れたのは、一九二〇年一一月一七日であった。その後、伝授された『太乙北極真経』(以下、『真経』と略称)内には五教合一を説く箇所が見られ(後述する)、更に道院では、老祖に次ぐ神位として五教教主が祭祀対象に定められた。この間の経緯は、資料の不足から詳細は不明ではあるが、残された資料は、済壇・道院における五教合一論の出現が、かなり唐突だったという印象を与える39。その唐突さは、彼らの五教合一論が、済壇の中で独自に涵養されてきた思想とみなす考え方に再考を促す40。本論は、道院のそれを、おそらく『息戦論』の主張に倣ったものだったと考えるのだが41、以下に明らかなように、両者の五教合一論には類似の主張が見いだされるのである。
さて、道院の文献で、五教合一に言及する初期の例が、『真経』である。『真経』は、一九二〇年末から一九二一年初にかけて済壇において扶乩によって編まれた。乩文を降したとされる神格は、同乩壇で最高神として信仰されていた太乙老人(至聖先天老祖)とされる。
まず『真経』冒頭に位置する「六箴」の前言部分において、「合五統六」という言葉が唐突に表れる。直後に、やはり扶乩によるのだが、注釈が施され、それが五教合一をあらわす言葉だと説明される。「五つを合わせて、六にまとめる。〈五教とは、基教・回教・儒教・釈教・道教である。一系にまとめて六とする〉。そこで六箴を作り、諸君のためにこれを告げよう」42。極めて短い一節であるが、五教を合一することで第六・六つのもの――つまり道院のこと。あるいは道院は、六院から組織されるので、「統六」を道院と考えるとする場合もある――を生じるという内容であることが了解される。最重要の経典中にあらわれた簡明な五教合一論として、この「合五統六」という言葉は、その後も同団体の文書中で頻繁に引用されるようになる43。次いで、『真経』中で最も詳細に五教合一について論じた箇所を見てみよう。
「老人はおっしゃった。先天の気は、茫洋として広がり、煌いていた。…炁(先天の気)が水を孕み、〔水を〕産んで〔両者は〕分離した。母と子(炁と水)がもたれ合い、生活するうちに、陰陽が開闢し、奥深く捉えどころがないところから、すべての物が分かれてきた44。〔例えば〕釈教(仏教)のように、道教のように、儒教のように、清教〈回教部(イスラーム)である〉のように、救教〈一万二千年前の真教である…〉45のように、約教〈耶教(キリスト教)がこれである〉のように、である。…道教、儒教、釈教、救教、および諸子百家とその諸註釈の学は、すべてが炁の一脈に源を発している。その敷衍して述べるところに異同があるに過ぎない。〔にもかかわらず、〕その教えに固定的な見解があり、善い霊はこれに縛られて、道魔(教中の悪人)が日々に争うようになった。そして争い乱れて散り散りとなった。劫は数から出ることはなく、数も劫から離れない。炁が動くのを止めないので、水が燃えてしまうのである。油のように漆のように、風に遇っていよいよ烈しく燃える。天地の真宰は〔これを〕やめさせようと、劫をもって数を削った。…清教、約教が相継いで生じるに至って、炁を分かつ水(「輪炁之水」)46が生じた。〔そのおかげで〕炁火(炁が動き、水が燃える状態)は少し止んだが、まるで薪の下に火をおいているかのようであり、紙が油に染っているかのようである。これを、真丹がまさに成就しようとしていて、鼎の火が〔それを〕まさに鎔かそうとする状態という。その器に水がなければ、性根はすべて灰となる。だから水が来て炁をたすけて、本源へと回帰するのである。47 」
宇宙生成の様子と諸「宗教」分裂から一致までの過程を、内丹の用語を用いて描写している。難解であり、かつ前後の脈絡も不確かであるが、以下のように解釈できるだろう。最初に炁があった。この炁から分かれ出た水と、炁自身との交わりによって万物が生じる。その過程で、諸「宗教」や諸学が出現した。つまり、諸「宗教」・諸学は万物と同じように、炁という同一の根源に由来するのである。しかし、源を同じくするはずの中国の諸教・諸学(「道教、儒教、釈教、救教、および諸子百家とその諸註釈の学」)は、それぞれの見解に執着し、教義の違いから相争うようになってしまう。この争乱は、水が盛んに燃える様にたとえられており、一種の異常な事態と認識されている。この状態を救うのが、イスラームとキリスト教の登場である。両者は新たに炁から生じた水(「炁を分かつ水」)であるとされる。つまり、この水は、生成論の最初の段階にある水を反復するものだと考えられる。この水が、最初の水と異なるのは、最初の水が炁と交わって万物・諸教・諸学を産んだのに対し、動き回る炁と、燃えてしまった最初の水の状態を鎮めるように作用する点である。こうして生じた水と炁の融合は、「水が来て炁をたすけて、本源へと回帰する」と表現されているように、世界が炁と水に分離する以前の始原へ回帰することをも意味している。諸「宗教」の融合が、世界の生成の過程を遡ることとして観念されているのである。
ここで注目されるべきは、諸「宗教」や諸学が分かれて存在することの非、特に互いに争うことの非が、合一の前提とされている点である。統合性を優れたものとして、教や学が百出する状況を社会の堕落として否定的に捉える見解は、例えば、朱子が「大学章句序」において嘆いたように伝統的なものであった48。こうした伝統の淵源を考える上で、K.E.Brashierの指摘は示唆に富んでいる。彼は、古代中国における学知には、それを根源的なものから分化していく構造を含意するメタファー(例えば川や木、道、家)が用いられていたという49。そこには、分裂しているものがいずれも部分的に真なるものを含んでいるとして肯定する側面と、分裂している現状を否定して根源的なものへ回帰しようとする方向性の両面があるといえる。道院の場合、教や学が争い合うこと、つまりその排他性を、問題の根源として反復的に批判していくあり方が強く見られることから、後者に傾くものであったとみなせるだろう。
(二)道院の五教合一論の特徴
『真経』の成立を契機に、済壇は名を済南道院と定めた。道院の祭る神位は、至聖先天老祖を頂点に、次いで五教教主、以下各種、神・聖人・賢人・仏が配された。礼拝対象に五教合一が具体的に反映されていると言える。このほか、政府に団体認可のために提出した「院章十二条」には、「およそ真心から道を志すものはみな道院に入り研修することができる。種族や宗教によって区別することはない」50という条項が見られる。種族や宗教による差別を行わないという主張であり、五教合一論が道院の普遍主義的主張の一翼を担っていたことを窺わせる。その後、五教合一論は道院の中心的教義として整備されていった。たとえば一九二四年に改正された「道院院綱」の第一綱一目は、以下のように定められている。
道院は至聖先天老祖、基・回・儒・釈・道の五教教主および世界歴代の神・聖人・賢人・仏を信仰し、『太乙北極真経』を悟ることをもって五教の真理を貫徹し、大道を明らかにすることを宗旨とする。51
五教合一は、道院の第一の信仰箇条として掲げられたのである。この条項は南京国民政府による取締りを経た一九三二年の院綱改正後も変化しておらず、一貫して重要な位置付けにあった。また、章程上の文言だけにとどまらず、道院は五教の教説を研究する部門として、成立初期の頃より世界宗教研究会や五教特部などの機関を設けていた。他「宗教」研究の結果が個々の信徒にどれほど還元されたかを確認することは困難であるが、例えば道院の下部団体である道徳社が発行する月刊誌『道徳月刊』(一九三三〜一九三七年)では、五教の経典に対する注解が連載されており、こうした出版物を通じて信徒に諸「宗教」に関する知識が供給された可能性は指摘できる(後述する)。
では、道院の五教合一論はいかなる展開を遂げたのだろうか。時代を追って、その特徴を見ることとする。一九二三年〜二七年までに各地の道院分院で降ろされた乩訓をまとめた『道徳精華録』中の一節に、五教合一に関する記述が見える。
「教が興れば興るほど悪くなっていく。…教も非常に多くなり、互いに排斥しあう。道を行い、教を行い、世界を済度し教化することで世界に幸福をつくるものが、逆に災いと悪い運命を造る悪魔となった。教は教と争い、人は人と争い、ついには大戦争となる。大乱、大災、大劫の世界となる。もはや挽回できない。老人(太乙老人)は再び天人一貫の真理を伝え、五教を合わせて六にまとめて、各教、各道の人心を収束させようとしている。…これが世界の真の精神である。これを存すれば人類は生き、これを失えば人類は滅ぶ。52 」
大戦争は、宗教紛争がもとになっているため、五教の合一によってそれを収束することが可能だと説く。戦争終結の方法論としての五教合一という主張は、『息戦論』と軌を同じくしているが、ここでは戦争の直接的原因を「宗教」紛争に求めるなど、明らかに「宗教」批判の様相を帯びている点が注目される。「宗教」に向けられた批判的態度は道院の五教合一論中に散見し、その基調をなすものなのである。
さらに例を挙げよう。以下においても、「宗教」紛争を収めることが五教合一の目的であると説かれ、争い合う「宗教」の現状が批判される。一九三二年および一九四〇年に刊行された道院の教義説明書よりそれぞれ一節を引用する。
「五教とは、基教、釈教、道教、回教、儒教がそれである。…道院が五教のみを重んじるのはなぜか。曰く、五教の教義は、最も綿密で行き届いており、その範囲も最大である。だから五教には万教が兼ね備わっているというのだ。信徒はこのことを察しないばかりか、五教にでたらめに差別を設けては、門戸を自ら閉ざすこともある。それは、各教がみな有している独自の優れた境地を隠し、人心に分裂の禍を招くことである。老祖と五教の教主はこのことを憂え、道を創って世を救おうと、まず教の争いをやめさせようとした。だから五教を並列して、人心の趨勢を正すのである。してみると五教教典の精確なる奥義は、道院の修方(信徒)が、これを研究して完全に理解しているではないか。53
道の一字は、道・儒・釈・基・回の五大宗教の真諦であり、また中国文化の基本でもある。…真宰(老祖)は、宗教紛争や、一神教と多神教の確執、自派の主張を押し通し、他をかえりみない考え方が、小さくみても人類の戦災の原因であり、大きくみれば必ず世界大同の障害となることを嘆いている。いったい至尊なるものにはそれより上はなく、神は二つとないことを知らないのか。各教の教主が命を奉じて従うのは、一つとしてそれより至尊無上なるものがない唯一の真宰である、真炁一胞の元始(世界の始原・本体である老祖のこと)54なのだ。ただ名称が異なっているだけで、道教、儒教、耶教、回教が共通に尊ぶ上帝は、もともと一致している。仏教の毘廬遮那とは法身仏のことだが、〔それが〕真宰の別称でないということはない。道院の聖号(至聖先天老祖という称号)は、五教の教主が公に定めたものなのである。55 」
いずれも、五教合一が必要とされる前提として、諸「宗教」が反目し争い合う状況が挙げられている。争い合う「宗教」というモチーフは、すでに『真経』中にも見えるものであるが、このようにして、その後幾度も五教合一論の中で繰り返されたのである56。ここで問題となるのが、「宗教」紛争がテーマ化した理由である。一九二〇年代の中国の現実として、「宗教」紛争が大きな問題となっていたわけではなかった。では、なぜそれがことさら取り上げられたのだろうか。
一つには、「反省」である。そもそも五教合一論は「宗教」平和論であり、「宗教」の排他性や好戦性をまずもって乗り越えるべき問題として取り上げるのは必然であろう。加えて、「宗教」紛争が、歴史的常識に属する事柄として広く認識されており、「宗教」批判の材料となっていた可能性が考えられる。例えば上述の『非宗教論』中でも、数人の論者が、排他性を、「宗教」の欠点の一つとして取り上げている。
「もしも同時代に隣り合っている宗教が、なすべきことを行って譲らず、張り合うなら、そこで戦争が始まる。我々が歴史を広く眺めるなら、遠くは十字軍や新旧教、回教徒の残した事例を目にするし、近くは白蓮教や義和団の行為を目にする。彼らの行為や手段は、なんと残酷だろうか、彼らの犠牲は、なんと無意味だろうか。人心を寒からしめずにいられるだろうか?57
……思うにいかなる宗教でも、己の教を押し広め、異教を攻撃するという要素をもたないことはない。回教のムハンマドは、左手に『コーラン』を持ち、右手に剣を持ち、その教に従わない者を殺した。キリスト教と回教は衝突して、十字軍の戦いがあり、ほとんど百年に及んだ。キリスト教の中でも新旧教が戦い、また互いに〔争って〕数十年の久しきに渡った。58
……こうした思想の害毒が充満したため、十字軍が戦いによってヨーロッパ・アジアの二つの州を血の海にしたのだし、新旧教の戦いによってヨーロッパでは人が人を食む惨劇が演じられたのだし、ユダヤ人に対する虐殺を非とも思わないのだし、植民地の人民を牛馬家畜のようにみなして済まないと思わないのだ。59 」
つまり、「宗教」紛争は、当時の中国の現実的な問題ではなかったとしても、こうした批判が寄せられる程には、「宗教」の排他性・好戦性が思想的な問題として捉えられていたということである。
二つには、五教合一論に潜在する論理の帰結である。つまり、「宗教」の一致した状態をあるべき理想として捉えることは、反対に「宗教」が個別に存在する状況を乗り越えるべき事態として、否定的に捉えることに繋がる。「宗教」紛争とは、まさしく「宗教」が分立する状況の非を証明するものであり、五教合一が要請される前提として、重要なポイントだったのである。
以上に見てきたように、道院の五教合一論は、「宗教」間紛争を戦争の原因として強く非難しており、それが時に「宗教」に対する批判にまで昂じることがあった。道院もまた一つの「宗教」であるとするなら――実際、道院は自らが「宗教」とみなされていると理解していた――、「宗教」批判は自らをも傷つけるのではないかと思われる。しかし、次節で見るように道院は自らを、五教合一を果たして、「宗教」の抱える欠点を乗り越えた存在と見なしていたのだった。そしてこの「超宗教」という自己規定は、自団体に向けられた「宗教」・迷信批判の矛先をかわすレトリックとしても用いられた。
(三)他「宗教」理解の型としての五教合一論
ここで、いささか論旨から離れるが、五教合一論の重要な一面である、他「宗教」理解の型としてのそれを確認しておきたい。道院は一九二一年に、下部団体として道徳社を設立した。道徳社は、主に教義研究や出版事業に携わっており、『道徳雑誌』、『道徳月刊』等の雑誌を刊行した。一九三三年に創刊された『道徳月刊』60は、世界紅卍字会が行った慈善事業の報告や、道院の教義について語る乩訓などを掲載した。本章にとって重要なのは、五教の教典解釈を連載している点である。
道院に限らず、中華民国期にはいくつもの団体が五教合一を説いたことが知られているが、教説や儀礼などの摂取がどのように行われていたのか、実態については不詳な点が多い。そこで、『道徳月刊』を例に、道院が独自に行った他「宗教」研究がどのような成果を生み出していたか、その一旦を見ることとしよう。以下に示す「イエス・キリスト伝」は、第二巻第一期から第二巻第十期まで「五教経旨」のコーナーで連載されたイエス・キリストの伝記である。『新約聖書』の福音書に基づき、イエスの生誕から昇天までを描いている。文章自体が五教合一論の興味深い実例だと思われるので、以下に多少長文を引用する。
「イエスはダビデ氏を姓とし、またキリストとも称する。訳せば救い主という意味である。父の名はヨセフ、母の名はマリアといい、ユダヤ国のベツレヘム城の旅籠で生まれた。時に漢の平帝の元始元年〈西暦一年〉であった。西方の各国の多くは、イエスの生年を紀元としている。その時、天使が聖母に告げて言った。上帝はあなたを聖母に選びました。生まれてくる子にイエスと名づけなさい。それは夜半であったが、突然天が大いに光りを放つのが見え、楽しげな音楽が空から降りてきた。羊飼いが数人おり、その光りを追ってそこに行き礼拝した。…
本伝を読み、教主の降誕が偶然ではないことを知った。およそ古代の聖人が降誕する際には、みな特異な兆候があるものだが、五教の教主は命を受けて世を救うのだから、とりわけ〔それが〕顕著である。孔子の時には庭に五人の老人がいたし、釈迦の時には白い象に乗っていたし、老君の時にはすでに老人のようであったし、ムハンマドの時には神が甘露をまいたといい、はっきりとしていて確認のとれないものはない。…してみると、上古の時は聖人が教をつかさどるのを待つまでもなかったが、長らくして中古となると、純朴さが失われてしまい、偽りが日に日にひどくなり、もし教主が降誕して世を救わなければ、人類に災禍を招いてしまっただろう。だから前後千年程の間に、五教の教主がそれぞれ各地に降ったのは、すべて(神の)命を奉じて来たったことなのであり、時代と地域に従ってそれぞれ教えを立てたが、教の主旨が大道に帰依することでないものはないのである。…おもうに、中古の時に、道魔(教内の悪者)が互いに争ったため、旁門外道がたびたび起こり、多くの衆生は真偽の判別がつかなかった。教主が降誕しなければ、偽りをもって真理を乱す者どもを、またどうして識別できただろうか。だから天はその使命を重んじ、その〔生誕の〕兆候を手厚くし、その前に預言をするか、その際にはっきりと示すかして、群集に慕い仰がれるようにしたのである。…それならば、〔イエスが生まれた時に〕天使がこれを聖母に告げて、光を放ち音楽を奏でたことが、どうして偶然であろうか。61 」
伝には、適宜別人の手になる解説が加えられており、そこにおいて道院の信仰に基づく解釈が展開される構成になっていた。引用文でいえば、第一段落は伝の部分であり、イエスの誕生時に起こった奇跡を述べている。第二段落は解説であり、道院の歴史観をまじえつつ誕生譚に解釈が施される。伝の部分では、解釈が極力排除されており、福音書の内容と異なる部分はさほど見られない。その一方で、解釈の部分は、イエスの誕生譚を五教合一という道院の教義を説明するための一つの材料として読んでおり、道院の信徒がどのようにキリスト教を理解したのかを示す一例として、興味深い内容になっている62。
第四節五教合一論の機能
(一)対抗言説としての五教合一論
一九二八年一〇月、南京国民政府は、道院、同善社、悟善社等を、迷信機関であるとし、これらを閉鎖した上でその財産を慈善公益の用に充てるよう全国に通令した。すでに論じたように、この通令は国民政府が同年に発動した迷信打破運動の一環であり、取締りの主な理由は扶乩を行い、迷信を流布したことであった。結局、道院に対する施設の閉鎖、財産没収という取締りは、地政学的要因からとくに黄河以北では徹底されず、道院は団体の継続認可こそ得られなかったものの、その後も存続することを得た。
一九二八年一〇月、道院への取締り令の発出に前後して、道院は「道院紅卍字会宣言」を発表する。それは慈善団体である世界紅卍字会と道院の関係を前面に押し出すことで、道院の社会的な有用性を強調する内容の宣言であった。宣言文中、道院は自団体の「宗教」性について、慎重な表現を用いて論じている。
「〔道院は〕まことに至って普通の学術団体であり、ありのままを言えば、一種の超宗教(傍点は筆者)、超政治的組織である。(中略) 〔宗教は〕それぞれの尊ぶところを尊び、それぞれの教えとするところを教えるが、また自ずから不変の道理をも有する。だから、われらは宗教について、事の道理を研究する精神をもって虚心になって考え、そこから偏った見解に対する固執を取り除き、それらを貫く道理を取り出して一つの炉で溶かす。そうして人生の本旨に適い、道に背くことのないように求めるのだ。世間の人はこれを察せず、〔道院を〕宗教、迷信であるというものもあるが、間違っている。63 」
道院は、自団体に向けられた「宗教、迷信」というレッテルに抗して、自らを「超宗教」だと規定してみせている。その根拠として用いられているのは、「〔宗教を〕貫く道理を取り出して一つの炉で溶かす」という表現から読み取れるように、五教合一論であった。道院は諸「宗教」から偏見・固執を取り去り、すべてに共通する普遍的な真理のみを取ったものなので、「宗教」を超えており、「宗教」に対して向けられる批判はあたらないというのである。この主張で興味深いのは、「宗教」批判への対抗の論理として、「宗教」の利点・美点を称揚してこれを擁護するのではなく、ある種の欠点(「固執」)を「宗教」の特性として指摘しつつ、その欠点を持たない自団体の「宗教」性を否定するという形式を取っている点である。換言するなら、宗教の融合という合一の論理は、「宗教」自体を相対化する方向に転用することが可能であったということである。つまり、「宗教」を融合することで真の「宗教」を生むという論理から、「宗教」を融合したものは「宗教」を超えたもので「宗教」ではないという論理への転換が行われているのである。
同じ主張が、一九二九年前後に著されたと考えられる『道院説明書』においても繰り返されている。やはり「宗教」批判に抗して道院の正当性を説くことに主眼が置かれているが、そこにはこれまでに見た様々なレトリックが組み合わされ展開されている。まず持ち出されるのが第一次世界大戦と社会進化論や唯物主義との共犯関係を指摘する対抗論である。
「道院は民国十年に成立したが、その理由はヨーロッパ大戦(第一次世界大戦)の後、人民の死者が幾千万人にも及んだことによる。…論者はこれを生存競争などの学説の流弊のためであったという。…かの国の学者もそこで唯物主義だけを重んじることが、平和人道の妨げとなることに気がついた。以前はわが国の儒教・釈教・道教を、わが民族を弱体化するとして、そしりからかったあやまてる論者も、みな一変して形而上の学の研究に従事し、物質と私欲にとらわれた残酷のきわみ〔にある世界〕を救うであろう。〔このことが〕世界大同のための一大転機でないということはないだろう。われらは遠い各国に悔悟の情がきざすのを見て、近い国内に紛争の苦しみがあることを恐れる。この機に乗じて立ち上がり、わが国古来の超然たる哲学を大いに発揮し、五教の真旨の精華をとることによって、各宗教信徒の宣伝する迷信や、各門・宗派のさまざまな争いのもとをすっかり除き、それらを数千年来心から心へと伝えられてきた一貫の大道にすべてまとめられるようにと願う。…そもそも天性の真理が存するところは、道なのであって、教ではない。教には宗とするところがあり、ついには争うことになる。道には宗なきがゆえに争いもない。本来これが天性の真理である。特に後世の宗教の徒は、この趣旨を理解しておらず、〔その〕弊害のいたるところが、迷信であり門戸宗派の別なのである。世界はそのせいで紛糾してしまっている。人心もこのせいで恐れ惑っている。〔そこで〕同人らは道院を設立した。教を言わずに道を言うものである。64 」
第一次世界大戦を引き合いにだすことで、「宗教」批判に反論するというのは、すでに『息戦論』の中で見たレトリックである。大戦終結後一〇年が経過していたが、同じレトリックが依然として持ち出されることがあったのである。文中「わが国の儒教・釈教・道教」という伝統の三教の有用性を主張する箇所も見られるが、直後に五教合一論が展開される際には、迷信性や排他性といった「宗教」のマイナス面に言及し、それらを排除しようと述べている点も見逃せない。それが一種のポーズでないことは既に見てきた通りである。
道院にとっては、「宗教」が世界平和に資するためには、五教合一という過程を経ることが、必須の要件だったのである。加えて、『中庸』の説65に従い、道院が、教(「宗教」)ではなく道であるという主張も行っている。伝統的な表現に借りているが、教を超えた道であるがゆえに、教の帯びる迷信性や排他性から自由だと主張していることから、これも一種の自団体の「宗教」性の否定と捉えうるだろう。
さらに、「宗教」との差異化を図ろうとする傾向は、世界紅卍字会の文書にも見出せる。一九三二年に発表された宣言文である。
「卍字会は純粋な慈善団体である。それは道院に源を発している。その中に宗教の意味を含むのではと思うこともあるだろう。それは我々が真の意味で宗教を信じていることを知らないからである。宗教を信じるといっても、特に一宗を立てるわけではなく、一教に拘らずして各宗教の真理を融合させるのである。…願わくば、世の宗教者と宗教反対論者がともに修め、ともに変化して、相親相愛、互助互利の途にともに赴かんことを。ついに人類、生物の安楽と幸福が実現し世界もまた長くその平和が保たれんことを。66 」
「宗教」批判を念頭に置き、道院がいわゆる「宗教」とは一線を画することを述べている。その根拠はここでもやはり、「各宗教の真理を融合」させたとあるように五教合一論にある。「宗教」を超えたものとして自己規定することで道院を擁護しようとする論理は、上に引いた資料のそれと共通する。
以上のことから、道院・世界紅卍字会の五教合一論が自団体に向けられた批判に対抗する言説として利用されていたことが了解される。道院・世界紅卍字会は、「宗教」批判に対しては『息戦論』と同様のレトリックをもって応じることもあったが、「宗教」を超越したものとして――それゆえ迷信でもなく、排他的でもないとして――自団体を提示することでもって、その矛先をかわすことを試みたのである。
(二)実践の場における五教合一論
一九二九年〜三〇年にかけて、道院・世界紅卍字会は中国東北地方の道院を主体として、三度布教団(東瀛布道団)を日本に派遣する。それは、関東大震災への援助を縁にして一九二三年に提携を果たしていた、日本の新宗教大本教、および二五年に成立した大本教の下部団体人類愛善会からの働きかけを受けて行われたものだった。第一次布道では、東京に日本道院の総院が開設され、第二次は大本教の開催した大宗教博覧会を参観するために行われた。この間の経緯は道院の信者である候延爽によって記された『東瀛布道日記』に詳しい。東瀛布道の顛末について、ここで詳しく論じる余力はないが、以下では道院・世界紅卍字会と大本教・人類愛善会との協調が、教義に基づいて語られる際に、五教合一論を根拠としている点を指摘しておきたい。以下に挙げるのは、一九二九年、人類愛善会の「奉天」支部が、道院・世界紅卍字会の瀋陽支部に提携を要請した際にもたらした「人類愛善会宗旨」である。
「さて人類はみなわが老祖〈天之御中主大神〉の子孫である。…しかし愛情の抱くところ、利の趣くところ、声色の変わるところ、和やかで落ち着いた様子から、略奪と混乱の世界へと変貌する。平和を求めるのに、ますます力を奮って闘い、愛善を求めるのにますます残酷な殺害がおこる。だから人と人は争い、国と国は競い合い、争えば争うほどに激しくなり、その重なりは止まるところを知らない。わが老祖は子孫がそのようであることを見るに忍びなく、儒・釈・道・耶・回教の五大聖人を出現し万民を諭したことがあった。…思いもよらないことに残忍きわまる不仁のやからが、利害の趣くところのために、こともあろうに科学の効用をとって、残虐な銃や大砲を作りあげ、同胞兄弟を殺害する利器にした。事変が内に起こり、災禍が隣国で発生し、悲惨な情景によって太陽も空も蔽われ、親愛なる同胞は、ことごとく激しい災害に遭遇した。肥沃な大陸は、やがてことごとく覆滅してしまうだろう。…わが老祖は再び人や世間を憐れみ愛する心をもって、人類を水火〔の災い〕の中から救い出そうとしている。だから聖人〈出口王仁三郎、道名尋仁〉を降して、東亜に壇〈大本すなわち道院〉を築き、西欧に教〈愛善会すなわち卍字会〉を施そうと、人々を人類愛善会に集め、五大聖人を一体としたのである。67 」
原文は、大本教側の中国語文書ではあるが、五教や五大聖人という言い回しを用いるなど、道院の五教合一論に則って、両団体の一致が謳われている。大本教の教主出口王仁三郎が、人類を救うために老祖が降した次なる聖人であると主張する点にのみ、大本教側の主張が見られる。これは、すでに大本教でも行われていた「宗教」一致の主張である万教同根の説を下地に、五教合一が重ねられたものだと言える。また老祖と大本教の主神でもある天之御中主神が同一視されているが、こうした考え方も万教同根説に基づいたものであった。
一方で、神は一つという主張は、すでに見たように道院の五教合一論にも存在していた。道院・世界紅卍字会側が、第一回東瀛布道団の途上で配布した「世界紅卍字会布道の主旨」では、上述の呼びかけに応じるかのように、神は同じであるという主張を繰り返している。
「本会(世界紅卍字会)員は神の信仰に立脚して居るが、宇宙主宰の根本神は一柱であり、之を老祖と呼んで居る。而して日本の神典では之を天之御中主大神、又は単に大神様と称して居るが、其実体は同一であることをも認めて居る。耶蘇教の神も、各宗教の神も、共に根本は同一であることを認めて居る。従って宗教宗派の門戸の見を立つることなく、又国籍種族の差によって大道に一二あること無く、大道は古今東西一貫なりとの啓示を確信して居る。…而して此の会(世界紅卍字会)の趣旨目的は日本に於ける大本・人類愛善会の宗旨と全然一致するの故を以て、両者は互に相提携して進むことになって居る。奉天では大本・人類愛善会と紅卍字会員とは互いに加入して居る者少なからず、相往復して精神的融合を計りつつある。68 (原文カナ表記を平仮名表記に改め、適宜読点を打った) 」
このように万教同根説と五教合一論という教説は、互いの信仰対象を同一のものとして受け入れる回路の役割を果たしたのである。無論、そうした教説を有していたために、両団体が接近した、あるいは団体の提携が可能になったということを主張しているわけではない。互いに異なる経緯で成立した両者の宗教一致論ではあるが、国を跨いで「宗教」団体同士が関係を取り結ぶ際に、一先ず、教義面での裏付けとして機能したと言える。なお、神は同一であるという信仰は、「満洲国」建国後に見られた至聖先天老祖と天照大神を同一視する道院の言説にも繋がっていく69。
第五節おわりに
中華民国期の五教合一論を主に道院に則して、その具体的な主張のあり方、および用いられ方を跡付けた。道院・世界紅卍字会の五教合一論は、一九二一年の山東省済南で編まれた『真経』中に登場し、その後戦争、「宗教」紛争の停止という文脈を伴う平和論として展開された。こうした主張は孤立したものではなく、たとえば、一九一五年に成立した著作『息戦論』にも認められる。第一次世界大戦の終結を訴えた『息戦論』において、五教合一論は平和へ至る手段として説かれたのであった。平和論的色彩は五教合一論が帯びた時代性と言える。
また五教合一論は、科学主義に基づく反「宗教」思潮に対抗する言説としても用いられた。つまり、世界的な戦争を中心的な問題として設定し、科学・反「宗教」/「宗教」陣営のいずれもがその解決に資することはできず、五教合一のみがそれを可能にするとし、合一の推進者あるいは理念型として自団体の有用性・正当性を主張したのである。
本論では、道院の五教合一論に見える批判的「宗教」論及び、「超宗教」――諸「宗教」に超越する普遍的真理の体現者――としての自己規定を、対抗のレトリックとして論じた。しかし、それは単なるレトリックの問題に終始するわけではない。道院にとって「宗教」とは、反「宗教」論者が、そして時の政権もが、主に科学主義に照らして、その価値を否定したものであり、言い換えれば「迷信」を指した。「宗教」を擁護する側にある道院が、「宗教」の迷信性・排他性に言及するのは、「宗教」批判を介した「宗教」概念を受容したことと無関係ではあるまい。五教合一論は、しかし一方で、なお「宗教」に共通する「普遍的意義」が存在しうることを訴え、かつそれが科学主義・反「宗教」思想をも越えた価値があることを主張した。このように、「宗教」批判的な言説を内面化させつつ、なおも自らに「普遍的意義」――批判を相対化させうる高次の意義――を見出そうとする姿勢は、道院・世界紅卍字会の教説の中で繰り返し現れるものだったことは、本論でこれまで見てきた通りである。
さて中華人民共和国建国後、中国大陸の道院・世界紅卍字会は解散を余儀なくされ70、活動の中心は香港、台湾に移ることとなった。最後に、後年における道院・世界紅卍字会の五教合一論を、一人の信徒の信仰に即して見ておきたい。以下の引用は、香港の世界紅卍字会会長であった元外交官王正廷71の回顧録中の一節である。
「これらの宗教の偉大なる創始者、教師たちは、この造物主を異なる名で呼んだのかもしれない。それを道と呼ぼうと、天、釈迦牟尼、アッラー、ゴッドと呼ぼうと、同じ造物主を意味しているのだ。かれらの教えは、「かの方」にいたる道を示している。人は、この霊的乗り物を通してのみ、「かの方」へと導かれるのだ。…今日の中国の家庭では、父親、母親、その子供たちが異なる宗教に帰依し、それぞれが自分のやり方で礼拝するということがある。その父親は道教徒あるいは儒者かもしれず、母親は仏教徒、子供たちは異なる教派のクリスチャンであるかもしれない。しかし彼らは反目することなく同じ家の中に住むことができるのだ。…宗教信仰の自由に対する信念は広く行き渡り、先ごろさらなる重要な転換を遂げている。その転換は五大宗教を信奉する人々の間で、ともに集い協調して活動することを目指そうというものである。それは世界紅卍字会という名称の組織の形態をとった。72 」
王の個人的な思想も反映されていると考えられるが、五教合一は信教の自由に関わる事柄として取り上げられており、世界紅卍字会はそのための組織として位置付けられている。自身がクリスチャンでもある王73の五教合一論は、多元主義的色彩の濃いものであり、五教合一論の現代的解釈の一つとして興味深い事例といえる。なお民国期に始まった五教合一論は現在においても、いくつかの民間教派によって維持されており74、「五教」という呼称はなお一定の効力を持った枠組みとして存在している。
1 本章では、民間教派における諸宗教一致の教説を広く五教合一論と呼ぶが、実際は「五教」・「六教」・「万教」の「合一」・「帰一」・「統一」・「合融」・「大同」など多様な表現が存在しており、共有された確固普遍の用語として「五教合一」という語があったわけではないことを断っておく。また、五教合一論としてひとまとまりにされた教説も、以下に見るように、内容面では多彩な主張を含んでいた。ただし、いずれの団体でも前提とされている見解として、自団体を五教合一の理念型として位置付ける点が指摘できるだろう。
2 例えば、一九一六年に成立した道徳学社、一九二一年に山東省済南で成立した万国道徳会、一九二三年に成立した世界宗教大同会、一九二四年に北京で成立した救世新教などがそうした教義を有する団体の代表例である。ちなみに道徳学社は、儒教を重視した「万教帰儒」を唱え(陸仲偉、二〇〇二年、一四一〜一四三頁)、世界宗教大同会は、五教にユダヤ教を加えた「六教」の合一を唱え(王見川、二〇一一年)、万国道徳会は五教・宗教と科学哲学の融合を説いており(『会員須知』、一九三四年、五四〜五六頁)、それぞれ異なる主張を含んでいた。なお、各団体の幹部や賛助者には共通の人名が見えており――例えば、江朝宗は道徳学社、道院・世界紅卍字会、救世新教の幹部であり、李佳白は、万国道徳会の名誉会長、世界紅卍字会の発起者に名を連ねている――、こうした個人が、教義が共有される回路の一つであったことが推測される。陸仲偉、二〇〇二年、また瑚エ、一九九七年、一八一〜一八二、一八八〜一八九頁。
3 religionの訳語としての「宗教」は、日本から導入されたものと考えられており、中国においては、二〇世紀初めには浸透していた。孫江、二〇一二年、四六〜四七頁。
4 池澤優、二〇〇一年、六二頁。
5 明清期民間教派における三教合一の諸相については、酒井忠夫、一九六〇年、野口鐵郎、一九六九年、荒木見悟、一九七八年、馬西沙・韓秉方、一九九二年、唐大潮、二〇〇〇年を参照した。
6 チャン,ウィンチット/福井重雅訳、一九七四年(原一九五三年)、一七六頁。
7 PrasenjitDuara, 1997, pp.1033-1034.またPrasenjitDuara, 2004,p.104.
8 李世瑜、一九四七年、三二頁、また陸仲偉、二〇〇二年、二四三〜二四四頁。
9 李世瑜、一九四七年、五八頁。また陸仲偉、二〇〇二年、二九一頁。
10 篠原壽雄、一九九三年、八八、二〇〇〜二〇一頁。そのためか相対的にキリスト教を軽視した記述も見出せる。「その(キリスト教の)教義は浅く、その宗旨は上帝を敬することと、天堂に昇るということくらいだ」。李世瑜、一九四七年、四二頁。
11 段正元が一九一六年に起こした教派。儒教を中心とした五教合一論を唱えた。段は一九一一年頃から成都で「孔孟の道」を宣揚する団体を組織していたとされ、五教合一を唱えながら、その内容は儒教を最も重んじるものだったという。道徳学社については、瑚エ、一九九七年、一六七頁、また陸仲偉、二〇〇二年、一四一〜一四三頁。范純武、二〇一一年A。
12 道徳学社の創始者である段正元の言である。段正元『周一』第一冊、北京道徳学社、一九二五年(陸仲偉、二〇〇二年、一四二頁より再引)。
13 清康熙年間(一六八一年)に楊来儒(羊来如)により創始されたとされる教派。アヘンの禁止を戒律に唱える点に特徴がある。清代以来全国的な展開を見せたが、一九三五年に中華理教会として組織されるまで、統一した系統を有しておらず各団体が独自の活動を行っていたとされる。陸仲偉、二〇〇二年、二〇九〜二三〇頁。李世瑜、二〇〇七年、二七三〜三二五頁。
14『仁学』中華書局本、一九五八年(原一八九六年)、六三頁。
15 趙翼『二十二史劄記』には、世界に行われている四大教として、「天下大教四、孔教、仏教、回回教、天主教也」が挙げられている。森紀子、二〇〇五年、一六九頁に指摘されている。
16 「世界宗教会小引付簡章」『東方雑誌』第八巻第十一号、一九一二年、二三〜二四頁。
17 ただし、江希張『息戦論』一九一九一年重刊本では、「宗教」の語は頻繁に出てくるものの、「五教」という用語自体は、「張元旭序」(一九一七年記)と、「息戦跋」(一九一九年記)の二箇所で使われるのみである。
18 「江寿峰先生略伝」『万国道徳会発起人略歴』、一九三九年再版、八頁。
19 江希張は、万国道徳会発起人江鍾秀の次男である。「江寿峰先生略伝」『万国道徳会発起人略歴』、一九三九年再版、六頁。
20 「江慕渠先生三十二年之略歴」『万国道徳会発起人略歴』、一九三九年、三頁。
21 李佳白が最初北京で起こした社交団体。故素萍によれば、尚賢堂の主要な活動は、中外の上流階層の人々の交流促進、中国西洋の文化交流の場の提供、反戦平和運動の提唱、討論・講演会の開催などが挙げられるという。故素萍、二〇〇九年、九八〜一〇〇頁。
22 胡素萍、二〇〇九年、九五〜九六頁。
23『息戦論』「李佳白序其二」、一九一九年重刊、四頁。
24 胡素萍、二〇〇九年、一二八頁。
25 劉声元が同善社の幹部であることは小武海櫻子氏(学習院大学)の指摘による。
26 武内房司、二〇一〇年、一〇四頁。
27 『息戦論』「自序」、一九一九年重刊、八頁。
28 『息戦論』「自跋」、一九一九年重刊、五二〜五三頁
29 山口榮、二〇〇二年。
30 顧長声、一九八一年、三五三〜三五五頁。
31 顧衛民、一九九六年、四〇五〜四〇六頁。非宗教運動は、反「宗教」の根拠として「宗教」の非科学性という点のみを挙げており、非基督教運動が反資本主義・反帝国主義を掲げたことと対照すると、両者の主張には明確な違いが見て取れる。石川禎浩、一九九五年、八一頁。
32 羅章龍「非宗教論序」、一九八九年(原一九二三年頃)、一頁。
33 楊天宏、一九九四年、一二七頁より再引。
34 社会学は、初期「群学」あるいは「人群学」と訳された。張琢著/星明訳、二〇〇七年(原一九九二年) 、一一八頁。
35 李石曽「在宗教(ママ)大同盟之演説」『非宗教論』、一九二三年、一三四〜一三六頁
36 北京大学学長であった蔡元培(一八六八〜一九四〇年)は、教育家としての立場から「宗教というものは、西欧各国ではすでに過去の問題となった。というのも宗教の内容は既に学者による科学的研究によって解決済みだからである」(蔡元培「以美育代宗教説」『非宗教論』、一九二三年、四八頁。もともと新青年に一九一七年に発表された論文である)という発言を残している。先鋭化した反宗教運動に同調した知識人の間で、科学主義的宗教無用論は共通の見解となっていたのだった。
37 『道徳雑誌』第一巻第一期、一九二一年、論説三頁。
38 『道徳雑誌』第一巻第三期、一九二一年、付録一〜二頁。
39 同じ唐突さが、悟善社・救世新教の五教合一論の出現にも見出される。一九二二年一二月に北京悟善社(救世新教の前身)が発刊した乩訓集『救世箴言』には中国の多数の仙仏の名は見えるが、孔子、老子、キリスト、ムハンマドの乩訓が存在しない。しかし、一九二三年に救世新教への改組に先立ち、扶乩によって著された宣言書は、内容を孔子、釈迦、老子、ムハンマド、イエスが作成し、それを呂洞賓が代宣するという形式を取った。蒋尊褘「訓言」、一九二三年頃、一〜二頁。そして一九二四年には、五教合一論を前面に押し出した救世新教が創設されるのである。彼らの五教合一論の採用には、外部――より明瞭にいうならば、悟善社と交流の深かった道院・世界紅卍字会――からの影響があったと考えるのが妥当であろう。
40 また別の表現をするならば、『息戦論』の五教合一論が、「神童」の手によるものといえども、思索の末になった思想であるのに対し、道院における五教合一論は、扶乩の場に表れた各教教祖の啓示によるものだということである。以下の表現に端的に表れているが、道院の五教合一論は思想ではなく、実践すべき「神の啓示」なのである。「老祖と五教の教主はこのことを憂え、道を創って世を救おうと、まず教の争いをやめさせようとした。だから五教を並列して、人心の趨勢を正すのである」。『道院覧要』、一九三二年、一六頁。
41 その傍証として、済南道院初代統掌(指導者)となる杜秉寅が、『息戦論』の著者江希張が、著したとされる『新註四書白話解説』(一九二〇年)に序跋を寄せていることが挙げられる。夏明玉、二〇〇二年、三〇〜三一頁。こうした人的交流を、民国期民間教派の教義や活動に共通性を付与する一因として捉えることは、不当とはいえないだろう。
42 『真経』、四八六頁。
43 一例として、「はじめに『真経』を世に伝え、大道の奥義を詳しく解き明かし、五教の原理を統合し一なる道でこれを貫くのである。経にいう「合五統六」とは、つまりこの意味である」。『道旨綱要』、一九四〇年、二頁。
44 根源的な炁から水が生じ、水と炁が寄り合うことで、天が始まり、陰陽が開闢したという、この水による創世論は古くは郭店楚簡『太一生水』(荊門市博物館編、一九九八年(郭店楚簡研究会、二〇〇二年)を参照した)に見られる。
45 『真経』独自の宗教名である。現在、台湾道院は、「先天救教道院」を名乗っている。しかし、民国期の道院が自らに救教の名を冠した文献は管見の限りない。
46「輪」字は、『真経』の術語であるため、以下の注に従い「分かつ」と訳した。「輪字を虚字として解してはならない。例えば太極図中のS線は、陰陽水火の間に関係し、それは分輪だけであり、ただ輪分のみである」。『真経』、四九一頁。
47 『真経』、四九三頁。
48 『大学』大学章句序、「自是以来、俗儒記誦詞章之習、其功倍於小学而無用、異端虚無寂滅之教、其高過於大学而無実。其他権謀術数、一切以就功名之説、與夫百家衆技之流、所以惑世誣民、充塞仁義者、又紛然雑出乎其間、使其君子不幸而不得聞大道之要、其小人不幸而不得蒙至治之沢。晦盲否塞、反覆沈痼、以及五季之衰、而壊乱極矣」。
49 K.E.Brashier,2011, Introduction.
50 『大道篇』、一九三二年、一四七頁。
51 「道院院綱」(『道徳雑誌』第三巻第五期、一九二四年、専件一頁。
52 『道徳精華録』巻一、道旨門下巻、一九二八年、一九四〜一九五頁
53 『道院覧要』、一九三二年、一五〜一六頁。
54 「老人曰、此吾未成気形之一滴小胞耳」(『真経』、二六頁)とあるように、至聖先天老祖は世界の根源と同一のものとされている。
55 『道旨綱要』、一九四〇年、一〜二頁、七頁
56 傍証として一例のみ挙げておく。「そもそも本会はとりわけ他者と公益をともにするものが多い。つまり本会においては、会員には宗教門戸を分けず、儒・釈・道・耶・回の五教信徒から組織がなっており、これを道に帰依しているのだ。いわゆる道とは、つまり唯一無二の真理である。各教の宗旨はもとは人類の争いをやめることにあるという考えがあるが、宗教は分かれ分かれになっており、自らの争いを消滅することができず、また世界の争いもやめさせることができない。そこで本会は五教を合わせて道に統一するのである」。『世界紅卍字会中華総会一覧』、一九三七年頃、二頁。
57 羅章龍「我們何故反対宗教」『非宗教論』、一九二三(原一九二一)年、二七〜二八頁。
58 孑民(蔡元培)「以美育代宗教説」『非宗教論』、一九二三年、五一頁。
59 汪精衛「社会教育応注意的問題」『非宗教論』、一九二三年、一六一〜一六二頁。
60 道徳社の発行した月刊誌である。一九三三年八月創刊、再版の第一巻第一期より一九三七年八月出版の第三巻第十二期まで、総三六冊が発行された。
61 「研経」『道徳月刊』第二巻第一期。
62 これとは対象的に、キリスト教の論理に沿って福音書に解釈を加えた研究もある。「キリスト教の教義で最も重要な原則は、信(信仰)、望(希望)、愛の三つの字である。信とは全知全能の上帝を信仰することである。人類にはみな罪悪があり救われることができないが、ただ上帝だけが人類を救うことができると信じなければならない。愛とは、人類はみな上帝の子供であり、ゆえに上帝はこの上なく人を愛するということである。われわれが上帝を信仰したからには、また人を愛するという上帝の心を体得し、人を愛さなければならない。人を愛することができてようやく神を愛せるのであり、神を愛することができて、ようやく本当に神を信じたといえるのだ。望とは、人を愛するというつとめを果たし、神を信じる心を尽くせば、自ずから自分の願望を達成することができ、霊魂が天国に上生することができるということである。この三文字は一つなぎに連なっているが、信の字が原則中の原則である。愛や望のようなものは一切が信の中から発生している」。「福音合一主義」『道徳月刊』第三巻第一二期。上に訳出した部分は、キリスト教の教義の原則を語るものであるが、それを信仰と希望と愛という言葉でまとめている。これは『新約聖書』「コリント人への手紙第一」に見られるパウロの言葉に基づくものである――ただし、パウロが愛を最も優れていると述べたのに対し、引用文では信仰が原則だと述べているように独自の主張も見られるが――。別人の手になる論説「キリスト教教義の研究」(『道徳月刊』第三巻第八期)でも、同じように信仰と希望と愛の三つをキリスト教の原則として説明しており、道院内のキリスト教研究者の間で、共通認識として流布していたようである。これらの解説は非常に詳細なものであり、いわゆるキリスト教の正統信仰の中で重視される事柄にも度々言及している。道院における他宗教研究の水準をうかがい知ることができよう。
63 『道院紅卍字会宣言』、一九二八年、二〜三頁。
64 『道院説明書』、一九二九年頃、一〜二頁。
65 『中庸』「天命之謂性、率性之謂道、修道之謂教」。
66 『世界紅卍字会宣言』、一九三二年。
67 「人類愛善会宗旨」『東瀛布道日記』、二六〜二七頁。
68 『世界紅卍字会布道の主旨』『東瀛布道日記』、四〇〜四一頁
69 小田秀人、一九四二年、一〇一頁。また済南母院統掌何素璞の言として「至聖先天老祖は御國で申せば天照大神です」と伝えられている。大山彦一、一九四四年、一七頁。
70 一九四〇年代以降の、道院・世界紅卍字会の活動については、一次資料の不足から本論では、論じることができなかったが、ここで簡単に済南母院の状況について触れておきたい。済南は、一九三七年以降、日本の占領下となる。一九三九年〜一九四五年の間、山東省省長を務めた唐仰杜が、道院成立以来の信徒であったように、この間、道院の信徒が地方行政の要職に就いた。初中池、一九八六年、二一二頁。一九四一年、済南母院の統掌何澍が亡くなると、母院統掌は、またもや複数人による輪番制となった。一九四九年六月、山東省政府による会道門の非合法化の公布の後、済南道院は九月に活動を停止した。その後、政府との活動許可の交渉を続けたが適わず、一九五〇年九月に、院監(道院の指導職)は、「本院はすでに〔活動を〕停止した。職・会員による一切の在外活動は、すべてその個人の責に帰す」と発言し、重ねて活動の停止を宣言したという。朱式倫、一九八六年、一五七〜一五九頁。一方で、済南の世界紅卍字会は、部分的に活動継続を許されていたが、一九五四年二月二二日に、「自発的」に活動停止を宣言した。こうして道院・世界紅卍字会発祥の地における、同組織の活動は終結した。
71 彼は、中華民国期を通じて外交官として名を馳せた人物である。赤十字社の会長を二期十年務めるなど、社会救済活動にも意を配っていたことでも知られる。また信仰の面では、生涯クリスチャンを自認しており、中国YMCAの創設時(一九〇六年)には幹事を務めている。完顔紹元、一九九九年、一六〜一七頁。しかし、彼が世界紅卍字会中華総会の会長をも務めたことは、あまり知られていない。強固なキリスト教信徒を自認していた彼が、新宗教の側面を有する世界紅卍字会に所属することを良しとした理由を示すのが引用文の言葉である。彼にとって五教帰一とは、他者の宗教に対して寛容であるよう促す多元主義的教えに他ならなかったのである。だからこそ、クリスチャンであると同時に世界紅卍字会会員であることが、齟齬を生じていなかったといえる。
72 Chengting T. Wang, 二〇〇八年(原一九七九年?),pp.158-162.
73 王自身が回顧録中で、「クリスチャンファミリー」に生まれた、堅信のクリスチャンであると述べている。Chengting T. Wang, 二〇〇八年(原一九七九年?),pp.174〜175.
74 中華民国期に潮州地方で起こった徳教は、その後東南アジア各国の潮州人社会に広がった後、五教合一を唱えるようになったという。吉原和男、一九九九年、黄蘊、二〇一一年、二九五〜二九六頁。120  
   
■終章

 

第一節反「宗教」主義の内面化
本論は、道院・世界紅卍字会の教義が形成・変容していく過程を、「宗教」にまつわる社会的な言説・運動――特に反「宗教」主義的なそれ――との関わりに注目して跡付けてきた。反「宗教」主義への対処が、教義や実践を動員して取り組まざるをえないほど、中心的な課題として立ち現れていたことが了解されたであろう。道院・世界紅卍字会は、様々な形で反「宗教」主義の克服に努めたが、その試みは、社会の「宗教」に対する要求に応答しつつも、「宗教」・「迷信」の枠組みに意を唱え、そこから逃れ出ようとする方向性を持ったものだった。以下では、まず本論全体をこの点を中心にあらためてまとめたい。
序章では、「民間教派」の教義の形成と変容を「近代化」――「宗教」概念の形成と、それに伴う「教」の切り分けと再定位――の一部として捉える視角について説明した。第一章と第二章においては、道院の教義の出発点を明らかにした。第一章では道院が創設に至るまでに、前身となる乩壇の信仰・実践と、交流のあった民間教派に由来する教義・実践が、どのように構成されていったかを考察し、第二章では、教義の源泉となる根本経典の救済論を検討し、同善社等に由来する伝統的教義と、どの程度連続性を有していたのかを確認した。前二章の予備的考察を踏まえ、第三章から第五章においては、道院の救済論中で重視された実践(坐功・慈善)と主張(五教合一)が、反「宗教」主義との関わりの中で、どのように意義付けられていったのかを考察した。
第三章では、南京国民政府による取締りを受けた一九二八年以降に、救劫論における坐功の役割が慈善と比較して強調されるようになったことの意味を考察した。それは、一義的には、政府により慈善事業のみが認められ、道院の活動は「迷信」として禁じられたという現実の緊張から、修道的実践に更なる意義付けが求められたためだと考えられる。また、非社会的な実践である坐功を、社会的な実践である慈善事業以上に、社会の救済に役立つと内向きの文書で強調するほどに、公益性を重視する発想が、彼らに浸透していた様子が窺えるのである。
第四章が問題にしたことは、慈善事業に注力した彼らが、一方で慈善を不完全な救済手段だとする言説を繰り返したことの意味である。それは競合する他の慈善団体、特に赤十字社への対抗の論理として持ち出されることが多かった。世界紅卍字会は、自らの優位性の根拠として道院による教化が伴うことを強調しており、慈善のみでは永続的救済には足らないと主張したのである。一九二八年の取締り後、法令により慈善活動を布教に利用することが禁止されてしまった後も、道院・世界紅卍字会は、慈善の不完全性について語ることを止めなかった。教化の必要性を訴え続ける彼らの慈善論は、「慈善」の概念内容が脱「宗教」的なものであるという合意が形成されていく過程を背景にした時に、その意味が明瞭になるのである。
第五章では、彼らが「宗教」一致論(五教合一論)の中で、「宗教」の排他性・「迷信」性を批判し、自らの「超宗教」性を主張した意図について論じた。五教合一論は、単に宗教平和論であるだけでなく、新文化運動以来の科学主義的「宗教」批判への対抗論としての性格も有していた。それは、例えば戦争(第一次大戦)と共犯関係にある科学の非を指弾し、「宗教」の一致による平和の実現をもってそれを乗り越えようとする主張に、色濃く見出される。更に、道院の五教合一論には、自らの「超宗教」性を――「迷信」性、排他性に代表される「宗教」性を乗り越えた「普遍的価値」を持つという意味である――主張することで、「宗教」批判に対抗しようとするレトリックが見られた。彼らの五教合一論は、「宗教」批判を介して受容した批判的な「宗教」概念――「迷信」的、排他的「宗教」という通念――を内面化させつつ、なおも「宗教」批判を相対化させうる高次の価値を打ち出そうとする言説と要約できる。
以上のような文脈の中で形成されていった教義には、同一の態度が通底しているように思われる。すなわち、社会的批判として、あるいは政権による取締りとして、自らに向けられた複合的な「宗教」批判に抗いつつ、その一部を教説として内面化させ、しかしそれをも超越すべく「普遍的」――批判に照らしても有意義であると、彼らがみなしうるという意味での――価値を訴える態度である。最後に、この批判の内面化、あるいは批判の根拠となる主義の内面化が、最も強烈な形で表現された、扶乩にまつわる言説を確認しておきたい。
第二節教義の中の「近代」
(一)霊学:扶乩の脱「迷信」化の試み
民国期、広範に流行した扶乩は、「迷信」の最たるものとして1、知識人による批判を浴び続け、破除迷信運動に際しては、扶乩を行い「迷信」を広める道院等の「迷信機関」が実際に取締りを受けた。
最重要の実践に対して加えられる「迷信」の批判に対して、道院は大きく二つの対処をとった。一つが、扶乩自体を廃止してしまおうという議論である。一九三二年に済南において挙行された全組織的な会議(立道大会)上で、扶乩廃止の議論が持ち上がったことがあった2。陳明華によれば、道院にとって最も重要な実践であるはずの扶乩の停止が議論されたのには、いくつかの重大な理由があったという。陳は、その理由として地方支部の纂方(乩手)が扶乩を利用して私利を得ようとしたこと、組織内でのヘゲモニー争い――劉紹基ら濱壇以来の信徒が、地位の向上を画策した――に扶乩が利用されたこと、そして扶乩を続けることが南京国民政府による再度の取締りを招きかねないことを、を挙げている3。結果的に、信徒の強い反対もあり、扶乩廃止は回避されたが、以降、扶乩の制度的な整備が推し進められることになったという4。
「迷信」批判に対する対処の二つめが、成立直後から続けられていた「霊学」研究――扶乩の「科学的」探究――の試みである。「霊学」(「霊魂学」、「心霊学」)とは、一九世紀欧米で流行した「スピリチュアリズム」・「心霊研究」5が、一九一〇年代、中国に流入した際に与えられた呼称である。周知のように一九世紀にはじまる「近代スピリチュアリズム」には、未踏の領域に切り込む「科学」を任じる「心霊研究」が生じていたのであり、中国には欧米における降霊術等の盛行という情報とともに、霊の「科学的」な探究についての消息がもたらされていた6。「霊学」の語は、こうした学的志向性を表現したものであった。
ただし、志賀市子の指摘するように、中国において「霊学」の主な担い手となったのは乩壇――上海の盛徳壇が一九一八年に上海霊学会を組織したのが、「霊学」の嚆矢とされる――だった。そのため、この「学」は、心理学、自然科学の用語や概念を援用したものの、扶乩の実践者たちが内部から扶乩を再解釈する試みにとどまり7、啓蒙的知識人の激しい批判に晒されたこともあって(『新青年』四巻五号による霊学批判が有名である)8、学問としての立場を勝ち取ることは遂になかった。そして、一九二八年の破除迷信運動の際には、主唱団体であった上海霊学会も解体された9。
しかし、扶乩の真正性を「科学的」に証明しようという試みは、一定程度の社会的なインパクトを持った。いくつかの、乩壇系の教派が、扶乩を対外的に説明する際に有効な語法として「霊学」を摂取したのである。例えば、悟善社は一九二〇年九月に、「霊学」を冠した雑誌『霊学要誌』を創刊しており10、道院においても、道徳社(道院の下部団体)発行の『道徳雑誌』創刊号(一九二一年一〇月)から、扶乩に対して科学的な説明を加える記事が掲載されはじめている。以下に、創刊号の該当記事より、冒頭の一節を引用する。
「今より七〇数年前、アメリカで「勃蘭失」〈プランシェット〉という術が見出され、近頃とくに流行している。…日本で盛行している「機転術」(こっくりさん)も占卜・問事ができるものである。……中国の扶乩は…われわれがよく目にするものである。これとアメリカ・日本の術は、ともに「自動書記術」である。次に物理・生理・心理という三分野の研究が〔自動書記について〕説明するところを紹介しよう。その科学的根拠は、もとより軽率に否定することは許されない。11 」
本文では、アメリカ、日本、中国に見られる「自動書記術」――扶乩もここに分類されている――に対する「科学的」解釈を展開しており、道院にも「霊学」的な試みが共有されていたことを窺わせる。引用文中にも見られるように、扶乩には科学的裏付けがあるということを繰り返し述べており、こうした科学的解釈の採用をもって扶乩批判に対して牽制を加えようとする意図もみとめられる。
その後、道院は、「霊学」という用語を、扶乩とその教えの対外的な表現として常用した。早期のものは、一九二二年の『世界紅卍字会宣言』――第四章で引用済み――に見える。この他、一九二九年に道院の団体登録を請願する際に、政府当局に提出したパンフレット『道院説明書』においても、「霊学」が言及されている。
「霊学はまた古今中国においても外国においてもいまだ解決できずにいる秘奥である。…〔諸宗教は、〕皆、我々の身体と心が別のものだということを示している。肉体を脱離するとしても、この心霊はなおも存在できるのである。イギリス、フランス両国の学者で、レイリー卿、ベルグソン博士、エマヌエル・スウェーデンボリ、シャルル・リシェ博士、アルフレッド・ラッセル・ウォレス、フラマリオン博士などの諸博士は皆、数学、物理学、哲学、自然科学、生理学、天文学などの大家である。霊学の実験に従事し著作が大変多い。最近ではイギリスの文学家コナン・ドイル爵士が霊学に専心しており、降神会を設立した。模型の手式を持ってそれを白蝋に浸し入れ、書画を書き出すのである。わが国の扶乩のようである。これは中国、海外の各新聞で報道された。それゆえ霊学一門は科学の中に列なり、各種科学と並んで重んじ得るものなのだ。…〔道院は、〕哲学・霊学の理を研究し、それをもって民智の高遠なること、科学の進化することを求めており、実にその他の迷信機関とは同日に語ることはできないのである。12 」
請願と共に提出された文書という『道院説明書』の性格上、「霊学」への言及も、道院に加えられた「迷信」批判に対する説得・反論が主な目的の一つであることは確かだろう。ここに見て取れるのは、霊学の名称を持ち出すことで、批判を凌ごうとする態度である。つまり、「霊学」を科学だと主張して、その研究対象である扶乩を「迷信」として斥けることの誤りを訴えているのである13。言い換えれば、「霊学」は、科学性を獲得することで扶乩の脱「迷信」化を図ろうとする試みということであり、それはある意味で、価値や真実性の根拠を「科学」であることに求めるという、科学主義的な発想に基づいている。
ここで、強調したいのが、「霊学」を動機づけた要素として、科学主義的「迷信」批判をなだめようとする苦心というやや消極的な要素以外に、当の科学主義の眼差しが道院の信徒に内面化されていたという点が考慮されるべきだということである。すでに、前章で見たように、道院は科学に対して批判的な言説を展開していたが、科学に対する評価は実際にはアンビバレントなものだったのである。一例として、科学によって真正性を証明することの重要性を説いた、以下の乩文を挙げる。
「慧聖が訓じておっしゃった、「近世以来、科学の進歩は、一日千里をゆくようである。実に人が信仰しないでおられないような道理があり、凡百の事物に及ぶまで、科学の眼光をもってすべてを考証しないものはない。思うに、およそ科学の原則をもってその理を考証できないものは、虚妄に属するのである。それで研究考証によって得られていない理は、世人の信仰を博することができないことが多いのだが、(それは)怪しむに足らない。14 」
中国が近代化を経験した清末から民国期は、多くの乩壇・乩壇系「宗教」団体が生まれた時期でもあった。科学的知識・テクノロジーの普及と、扶乩という伝統的卜占術の盛行は、遠目には新旧文化の綱の引きあい、社会の中のブレのように映る。しかし「霊学」の盛り上がりは、新文化の側だけでなく、扶乩実践者たちの内側にも、科学主義という価値観が浸透していたことを伝えている。「霊学」は、「科学」によって「迷信」から脱却しようという――その主語は「扶乩」だが――、極めて科学主義的な試みだったといえる。道院は、彼らの核心的な実践である扶乩の価値を社会に主張する上で、その科学性に根拠を求めようとしたのである。
(二)「宗教」を迂回した価値の主張
最後に、道院・世界紅卍字会の教義中に見られた特徴の時代性についてあらためて指摘して、本論を締めくくりたい。
山東の一乩壇から始まり全国的「宗教」団体としての地位を確立していった道院は、自らを世界「宗教」を超えたものであり、世界平和の実現に貢献するものとした。この超「宗教」としての自己規定は、反「宗教」主義を迂回して自らの「真実性」を訴えようという意図を含んでいた。彼らはまた慈善団体、世界紅卍字会として「慈善」事業に従事した。慈善は、直接的な形で自らの社会的な有用性、公益性を誇示できるものであった。しかし、世界紅卍字会は、世の「慈善」は脱「宗教」的――教化を欠く――であるため、不完全だと主張し、道院による教化の必要性を訴えた。加えて、道院が取り締まられると、道院における修道的実践が、「慈善」以上の社会救済、災害予防の手段だと強調した。修道的実践の価値は、社会に向けても、団体内に向けても公益性によって代表されたのである。
こうした言説は、いずれも「宗教」、「慈善」、「迷信」といった形成途上にある「近代」的な概念をめぐり、反「宗教」主義と格闘することから生まれたものであった。これらの概念を受容することで、そこに帯同する反「宗教」主義を内面化していった彼らは、自らの「真実性」の根拠を脱「宗教」的価値に訴えざるを得なかった。道院・世界紅卍字会の教義形成を、歴史社会的な文脈の中で跡付けることで、彼らの教義の特徴的主張がまぎれもなく「近代化」の産物であることが、了解されたであろう。
1 扶乩の流行は、社会問題ともいうべき「迷信」として批判を加えられていた。例えば生物学者費鴻年は、一九三三年に刊行された『迷信』の中で、以下のように嘆く。「神と鬼(無祀の霊魂・亡霊)の観念より生じて、中国社会の中でその害毒が最も酷い迷信は扶乩である。扶乩は扶鸞とも呼ばれ、その歴史は非常に古いため調査する術がない。…思いもよらないことだが、近頃は有識階級にも扶乩に同調するものが多くいる。いたるところで盛んになっており、まことに胸が痛む」。費鴻年、一九三三年、四八〜四九頁。また、評論家胡愈之は、文学者許地山の手になる『扶箕迷信底研究』(一九四一年)に寄せた序文で、同じような嘆きを発している。「扶箕(扶乩)や扶箕に似た迷信は古今国内外で行われている。しかし、西洋人は酒席の余興や食後の遊びとして行うにすぎない。しかるに我国の官僚、貴人の中には、扶乩を行って功名富貴を占い、個人の栄辱吉凶から国家のそれまでも占おうとする」。許地山、一九四一年、序一〜二頁。
2 『道院十二年立道大会議事録』一九八二年、三〜四頁。
3 陳明華、二〇〇九年、六九〜七三頁。
4 この議論の結果、道院は、扶乩のみを権威の唯一の源泉とする態度を放棄し、幹部層の合議による組織運営を認めることになった。また、乩手の育成から監督の過程、問題発生時の責任の所在などを制度化し、加えて乩手に対する給与を充実させて、金銭的な原因による問題の発生を予防するようになったという。陳明華、二〇〇九年、七七〜七八頁。こうして、実際的な必要から、道院・世界紅卍字会は、扶乩を制度として洗練させていったのであった。
5 「科学的」に霊を探究する態度をスピリチュアリズムと区別して、心霊研究と呼ぶ。津城寛文、二〇〇五年、稲垣直樹、二〇〇七年を参照。
6 中国へのスピリチュアリズム・心霊研究流入初期の状況に関しては、志賀市子、二〇〇三年、同、二〇〇六年に詳しい。なお、心霊研究は、稲垣直樹が一九世紀フランスにおける「心霊科学」の展開を事例に指摘したように、「あらゆる事象が科学に取りこめる」という素朴な「科学主義」の産物であり、当時は「科学のフロンティア」だったのである。稲垣直樹、二〇〇七年、一五頁。
7 志賀市子、二〇〇六年、七二〜七三頁。また、李欣、二〇〇八年、野村英登、二〇〇九年。
8 特に、一九一八年五月発行の『新青年』四巻五号は、論考数本をもって霊学に批判を加える霊学会批判号ともいうべき内容だった。陳大斉の「闢「霊学」」のほか、陳独秀「有鬼論質疑」、銭玄同「随感録(八)斥霊学雑誌」、「随感録(九)斥霊学雑誌」、湯爾和「三焦―丹田」が掲載されている。
9 李欣、二〇〇八年。
10 小武海櫻子、二〇一一年、三五八〜三五九頁。
11 「扶乩的学理説明」『道徳雑誌』一巻一期、一九二一年、付録一三〜一六頁。
12 『道院説明書』、一九二九年頃、八〜一一頁。
13 こうした主張が、実際に批判を和らげえたとは思われないが、道院はその後も「霊学」に対する独自の研究を重ねており、一九四〇年の時点でも「霊学研究部」という下部組織を運営していた。『道旨綱要』、一九四〇年、九頁。
14 「霊学門乩理」『道徳精華録続編』巻五、一九三三年、九八頁。 
 
 

 

 
 

 

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